ゼロカラアイスルイセカイセイカツ (水夫)
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賢者の罪障

第五章からの分岐ルート。レグルスの台詞は普通に読み飛ばしても何ら支障はありません。


 これからどうなるんだろう、とエミリアはふと思った。

 それは先ほどから頭の中で絶えず繰り返されていた問いだ。ただ、どれだけ自問しても、確信に足るほどの答えは見つけられずにいた。単純に推論を広げるだけの経験と判断材料が不足しているという事もあるが、それ以上に影響しているものがある。

 

 少し神経を澄ませれば判る、張り詰めた空気。初めて着る衣装で、慣れていないウェディングドレスとやらの違和感とは僅かに違う。露出した腕や背中のみならず全身に感じるそれは緊張感だ。

 未だに呑み込めていない状況、確かめなければいけない不安要素が立ち込める事態。出来ることなら今すぐにこの式場を出て皆と合流したいところだが、そうもいかない。今は、目の前の問題を解決するのが一番だ。

 

 この一言一言が、これからの推移に大きな影響を及ぼす。けれど考えている暇はない。ならば、自分の気持ちに正直に、思ったままを語るべきだ。

 

 男の前で喋るな、不満を口にするなと言われた。

 自分の為を想って注意してくれた彼女たちに、心の中で礼を告げる。そして、一緒に謝罪も。

 せっかくの配慮を破ってしまって申し訳ない。それでも、こればかりは言わずにはいられなかったから。

 どうにかしてこの状況を打ち破る。彼女たちのことも助ける。その動機さえあれば、十分だった。

 

「私は、あなたのものにはならないわ」

 

 眦を決し、言い放った。

 

「──っ! ああそうかい! 僕も、君みたいな勝手な浮気女を妻にするつもりなんてなくなったよ! せいせいするなぁ!!」

 

 吹っ切れたような怒鳴り声。感情に引っ張られて真っ赤に茹で上がる男の顔。肌に纏わりついていた緊張感が、ついに爆発した。

 その反応も、浮気女と罵られる謂れも、エミリアには理解出来ていない。ただ相対した男とは根の部分がずれている、故に相容れないと。

 レグルス・コルニアスは自分の敵だと、知っていた。

 

「君なんかもういい! 目障りだ! 僕の期待を裏切ったばかりか、男としての純粋な気持ちまで踏みにじった売女がぁ! 媚さえ売れば、男が自分の言いなりにでもなると思ったか? そういうのさあ、本当にわからない。分からないんだよ。どうして人の心を、そんな軽い思いで弄ぶことが出来るんだろう? 善良で妻思いの僕には、到底、理解できない下劣な──」

「──ぁ」

 

 激昂してそう喚き散らしながら、詰め寄るレグルスにエミリアは小さく吐息をこぼした。いや、レグルスに、ではない。彼女の目線が向かう先、見えるのは変哲のない扉だ。

 自分の言葉が遮られた。意思が無視された。それもただの扉に。気付き、レグルスの怒りはいよいよ限界に達する。

 しかし、それが発されるよりエミリアの感じた異変の方が、僅かに早かった。

 

 コン、コン。物を軽く叩く音が、広い部屋に二、三度反響する。腕を振り上げたレグルスも音を聞き取り、動きを止めた。

 音の発生源は考えるまでもない。エミリアの見つめる、あの扉だ。

 そして扉を叩く音、それはノックに他ならない。来客の知らせだ。だがレグルスには心当たりがあるまい。

 

「────」

 

 少しの間流れた沈黙をも、無遠慮なノックの音が破る。コンコン。コンコン。レグルス側の対応を催促しながらも、急かすわけでもない絶妙な間隙での反復。それでも、気の短い相手によっては割と不快にさせかねない態度だ。

 まさに、この男がそうだった。

 

「誰だ、そこにいるのは! 僕の神聖な結婚式に、空気も読めない客を招待した覚えなんかないぞ! ああ、誰も彼も、みんな僕を邪魔する。まるで息を合わせたように馬鹿にしやがってぇ……! 許さない。許せない。僕は本気だ。やるといったらやる。いくら寛大で満たされている僕でも、こんなに、嫌というほど心の平穏を侵されたことは無かった。君たちがはじめてだよ、ここまで怒らせたのは。せめてもの栄光に思うがいい。僕の手で死ねるんだ。そうだろ? 間抜け面さらして、呆気ない死に様を見せてくれよ。そうじゃないと気が収まらない。二回殺すまでは望まない、僕のちっぽけな欲望と、親切心に感謝するんだな。ああ、考えるほど忌々しい下郎共が。僕の事をコケにする売女も誰だか分からないそこのお前も、その無礼を悔いて死んでしまえ!!」

 

 案の定、怒髪天を衝いたレグルスは散々言い散らし、扉の方向に向かって腕を振るう。仕草だけを見るならば何でもない動作だ。だが現実は違う。彼の意思が反映されたかのようにふと空気が震え、音も形もないままに何かが式場を駆け抜けた。

 

「危ない!!」

 

 数分前にも目にしたその脅威を思い出し、ノックをした誰かの身を案じてエミリアが叫ぶ。あれは人を殺すものだ。当たればただでは済まない。しかし残念ながら、反応速度が圧倒的に遅かった。危険を察知して踏み出した頃には既に、脆い扉は粉々に砕け散っている。もっとも、レグルスの攻撃を前にして強度など全く意味を成さないのだが、エミリアには知るよしもない。

 

 入り口付近が盛大に弾け飛び、土埃と破片が舞った。抉ったようにも壊したようにも聞こえた破砕音は飾りじゃない。もしさっきの誰かがノックをした姿勢のまま扉の前にいたのなら、明らかに死は免れないであろう、容赦なき一撃。実際そこに人がいたのかどうか、如何はすぐに判明した。

 

「そんな……」

 

 呟くエミリアの凍りついた表情が、その凄惨さを語っている。

 まず見えるのは血痕。人間一人の量とは思えないおびただしさを、一面に撒き散らした深紅。綺麗に二分された骨と肉、そして今も止めどなく亡骸を浸している血液に混じる物体はおそらく内臓だ。輪郭もまともに残っていないから脳漿かもしれない。風もないのに、不意に死臭が鼻の奥を貫く感覚にエミリアは眉をしかめた。

 

 しかし何よりエミリアの目を引くのは、今や肉塊でしかない死体を包んでいたであろう服装だ。断面から色鮮やかな中身がボトリとこぼれ落ちるなか、外側には見覚えのある白黒ベースの上着とズボン。ボロボロに破れた包帯。手元には鞭らしき細長い物体。

 これらの特徴に該当する存在を、エミリアは一人だけ知っている。

 

「うそ……そんな、わけ…………が」

 

 大きく開いた瞳孔と口から、発せられる動揺。驚愕。次に芽生えるは絶望。

 全身がわなわなと震動し、詰まった息に言葉は途切れる。思わず座り込み、手で顔を覆って、感情を吐き出すエミリア。その目は半分、闇に濁っていた。

 

「スバル…………? なんで、なんでこんな、事に……」

「まったく、あれこそ因果応報、自業自得ってやつだよね。うん。僕の邪魔をして無事でいられると思ったのかな? 馬鹿にも程があるよね。でも世の中にはそういう、救いようもなくて、王たる僕が寛大に慈悲を与えてやらなきゃ生きられない愚図がいるもんなんだよ。そういう奴らに限って、自分がどれだけ慈悲をかけられているのかにも気付けない。僕がわざわざ気にかけて、配慮して、時間を割ってやってるというのに。ほとほと呆れちゃうよ。なにも知らずに図に乗って僕に、そう、あろうことか王である僕にだ! 下賤な民なんかが、完璧で無欲な僕に歯向かうなんて、それこそ愚の骨頂だ。僕でさえ今のこの生活に満足しているというのに、どうしてそう自分勝手になれるのか、不思議でならないよ。……ああ、それとも君には、図星で息苦しい言葉だったかな?」

 

 独りペチャクチャと自分を語るレグルスに、答える声は無い。数十人いる彼の嫁らも、言葉を発する機会を失っているようだ。困惑と恐怖のみがひっそりと漂う。

 

「あのさぁ。さっきから何してるわけ? 僕の話、聞いてた? 聞いてないよね? 僕がいま喋ってたじゃん。なのに、何? スバルって言ったっけ? あそこに汚物撒き散らして死んでる彼のことかい? 君さあ、この期に及んでまだあの男の名前を呼ぶって、人としてどうなのかなぁ。うん? 君が男を道具としか思ってない卑しい女だとは知ってるさ。最初から、僕をからかうつもりだったってこともね。知ってるとも。だからさ、まずあの男を処理して僕の力を思い知らせたわけじゃん。君がまだ生きてるのは僕のおかげなんだ。命の恩人。僕があとほんの少しでも短慮で気が早い人間だったら、君は既にぐちゃぐちゃの肉片になってただろうね。そこらへん、分かってるよね? 分かってないなら、君は、どうしようもないアバズレだ」

「…………っ」

「まただ。人の話を聞かない。聞こうともしない。別に僕は、君の全てを無条件で否定するつもりはないよ。嫌な人の言葉は聞きたくない、そうだね、その通りだ。それには同意するよ。でもさ、嫌な相手でもさぁ、せめて聞いてる姿勢ぐらいは取るもんなんじゃないの、普通。間違ってるかい? 間違ってないよね。ほら、今もそうだ。弱ったらしい女らしく泣きじゃくるばかりで目も合わせない。姿勢がなってない。君みたいなアバズレとは会話が成り立たないや。いくら僕が思いやりのあって人情深い性格とはいえ、この仕打ちはあんまりじゃないか。人の関心を無視するなんてことは、それは、意思の凌辱だ。権利の侵害だ。話す権利とまでは言わないけど、最低限の礼儀ってものがあるだろ。君はそれもしない。だんまり。そうやって、自分の態度と立場は棚に上げて、そのくせ相手には自分の身勝手な考えを押し付けるんだ。僕が一番嫌いな輩のタイプなんだよね」論点の定まらない話ばかりを垂れ流し、それでも反応を得られないレグルスはふと口を閉じてエミリアを見下ろす。「うんざりだ。鬱陶しい。お前みたいなアバズレにかまってやる時間も、労力も惜しいんだ。やっぱり死ね。今すぐにだ。一度でもお前を欠番の席に座らせようとした、過去の僕はどうかしている。もう騙されないぞ。顔が良いだけの売女が。一生悔やんでも悔やみきれないほどの過ちを、その身で味わえ」

 

 自己完結で支離滅裂。語るだけ語って一切を放棄したのか、彼はおもむろに腕を掲げる。いつからか動かなくなったエミリアの真上に標準を合わせ、必殺の一撃を繰り出す瞬間。

 

「私は、あなたになんか殺されてやらないわ」

「そこまでにして、一度心を落ち着かせたらどうです? レグルス司教」

 

 二つの、女性の声音が同時に響いた。片方はエミリアに違いないが、もう片方はレグルスの嫁ではない。第三者、新たな人物だ。

 咄嗟に首を扉の方へと向けるレグルス、しかし怪訝な表情は変わらない。すぐに声の方向が逆だったと気付き、振り返った時には不審から困惑に変わっていた。

 エミリアとレグルスのあいだ、どこからともなく出現した少女が両手を肩の高さに掲げて目を細める。

 

「あなたの怒り、言い分、全て理解します。腹立たしかったでしょう、悔しかったでしょう。ですが、そう判断を性急に下してはなりませんよ。安静を取り戻せば、レグルス司教も分かっていただけると思っています」

 

 激情に駆られていたレグルス、絶望を強い意志に変えて顔を上げたエミリア、その両方を黙らせる魔性の声色だ。纏ったのは簡易な白衣に、触れる艶々しい白金の髪。唐突にも程があるはずの乱入にも関わらず、そこににいると──いたと認知すれば、ひどく自然に馴染んでしまう堂々たる佇まい。

 不自然を不自然と思わせない、文字通り魔の宿った性質。恐らく故意ではない。存在そのものが矛盾を抱えながらも、それこそが自然体。かの偉容は、取りも直さず筆舌に尽くし難い天衣無縫の体現だ。

 どれだけ大層で簡勁な表現を並べても過分に到らないばかりか、なおも描破しきれない無際限をその身に内包した女性。

 ただしその異質感も威圧感も、通じる相手と通じない相手がいる。

 

「何かと思えば──」戸惑いを見せたのも一瞬、すぐに気を取り戻してレグルスは肩をすくめた。「──どうしてパンドラ様がこんな所に? いま僕は忙しいんだ。この売女を懲らしめてやらなきゃならない。見れば分かるでしょう? 分かったなら、下がってろよ。これ以上僕の権利を無視しようっていうのなら、いくらパンドラ様でも、容赦しないぞ……!」

「あら、どうやらまだ頭が熱くなっている様子で。いけませんよ。レグルス司教に、私はなにも無理強いをしているのではありません。ここにいる彼女の価値を……」

「容赦しないと言ったぞ、女」

 

 良くも悪くも自分の感情に正直な男は、状況や立場に意を介さず再度腕を振り抜く。まさに手を伸ばせば届くような至近距離、動作の完了と攻撃の影響がほぼ同時に訪れる。

 

「きゃあぁっ!」

 

 眼前で爆発が起きたかのように吹き飛ばされたエミリアの衝撃は錯覚ではない。式場の壇が、パンドラ諸とも消し飛んだのだ。鮮血までもが華々しく迸る傍ら、直線上の一切合切を不可視の刃が穿つ。勢いが衰える事もなく、空気や衝突の抵抗などお構い無しに、レグルスの憤怒を湛えて吹き荒ぶ暴威。範囲内にいた何人かの嫁も避けきれずに呑まれる。

 白衣の少女の体が木っ端微塵に切り刻まれる光景を、エミリアは確かに見た。

 正面からの敵対をかたく覚悟してもなお臓腑を震わせる、圧倒的な惨状を目にしたはずだった。

 

 動きを制限するドレスを破り、空中で身を翻して着地した彼女はゆえに瞠目する。

 

「何度やっても何年経っても、案外変わらないものですね。初志貫徹こそレグルス司教の長点でもありますが、今回は少しばかり、抑えていただきますよう」

「……ぇ?」

 

 エミリアの背後から聞こえた声に、応じることの出来る者はいない。まさに見てはならないものを見るような目で、この場の全員が、本来ならば死者であるはずの彼女に視線を送る。ホロゥと勘違いする余裕すら彼らには無かった。

 誰もが死を確信して疑わなかった現実を、不条理に終わりを迎えるはずだった運命を、パンドラは飄々と破ってみせたのだ。当のレグルスさえ顔を歪め、舌打ちをこぼす。

 

「這い上がるなよ、小賢しいクズ共が! よってたかって僕を愚弄しやがってぇ……何回僕を、王を、コケにしたら気が済むんだよ! いい加減にしろよ!? お前らなんか、個としての完成形であるこのレグルス・コルニアスの足下にも及ばない──」

 

 どしどしと床を踏み締めながら迫るレグルス。何か一つに考えが纏まりにくい上に、そうと決めたら即、他の部分が甘くなる男だ。

 

「おい、足元注意して歩いた方がいいぞ」

 

 謎の声に向き直る暇もなく足が虚空を泳ぎ、力を入れていた分だけ体勢が崩れる。先ほど自分で行った攻撃の余波で床の一部が壊れていたのだ。しかしレグルスは、この期に及んで驚きや戸惑いよりも怒りが先行し、とりあえず悪態をつこうとして──二の句が継げない。

 弧を描いて旋回した靴底が、狙い違わずレグルスの顔面を直撃した。

 

「が──ぅ、ぁ!?」

 

 悲鳴も密着する靴底に埋もれて届かない。呻き声を残しながら、受け身も取れずにたたらを踏む。そのまま段差に躓き、背中から転倒。思わず目を塞ぎたくなるような痛々しい流れだった。

 

「くっ、そがぁぁぁ!! おい、百八十四番! どこだ! どこにいる!」

「────………………ぇ? あ、はい! ひゃ、百八十四番は、先ほどの旦那様の腕で、その……」

「もっとはっきり言えよ、人としての礼儀だろ! あれだけ言いつけたのに、これっぽっちも改善してないじゃないか。お前も百八十四番も、後で覚悟してろよ。……それはそうと、他の奴らは何してるんだ! さっさと僕を助けろよ! 嫁が夫を助けるのは当たり前だろ!? 常識だろぉ!? そんなことも出来ないなんてどうなんだよ、なあ? まさかお前らも僕を馬鹿にするのか? どいつもこいつも、突っ立ってばかりで使えない女だなぁ!」

 

 何が起きたのか考えるのに数秒、レグルスの嫁は結局分からないまま返答を優先したが、彼の八つ当たりの餌食となるだけだった。誰一人として状況を呑み込めず、渦中のレグルスを助けるなど頭の隅にも無かった嫁たちがびくりと肩を震わせる。

 彼女らの態度、視線の先、発言中に空いた僅かな間──不自然な点をしっかり観察していれば異変が見えたはずだが、自分の事しか頭にないレグルスが気付かないのは論を俟たない。

 

「なあ、お前さ。どれだけ馬鹿正直に間抜け面晒せば気が済むんだよ。さすがに百年の恋も駄々下がりっていうか、そんなの元々無かったっていうか、醜態で俺を引かせるなんて相当なもんだぞ。自分で言うのもなんだけど」

「……今、僕を、僕のことを、なんて、」

「いや、そういうのもう良いから。いい加減気づけよ。処女厨のイカれた鈍感キャラとか、マジで誰得だよって話」先ほど蹴りを入れた男は、つまらなそうに言いながらレグルスを指さす。「その服、汚れてんぞ」

「は?」

 

 恐らく、今の今まで自分が誰に蹴られたのかも分かっていなかったであろうレグルスは、ようやく相手を認識し、散々な言われように目を剥いた。

 せめてもの弁解の余地があるとすれば、この状況はレグルスにとって余りにも予想外の展開だったのだ。結婚式は断られ、邪魔されて、壊された。挙げ句には意味不明の攻撃まで受けて、まるで夢にでもいるような気分だろう。

 夢見心地。無論それは悪夢の方だが、ともかく彼は、頭に血が上ったこともあって意識が曖昧だった。普段から他を見下すしか能が無かったレグルス・コルニアスは突然乱入した男の傲慢さに煽られ、ようやっと目を覚ましたのだ。

 

「なぁ──っ!?」

 

 明瞭になった視界。遅すぎる自覚に驚愕の声を上げるのも無理はない。彼はこれまで、純白の髪が土に汚れたことも、清潔だった服が大きく破れたことも、前歯が血にまみれて抜けそうなことも、その一切を経験してこなかったのだから。少なくとも『強欲』と呼ばれるようになってからは、彼に完璧以外有り得なかった。完全で完璧で完成された存在であるがゆえに、身体が直接的な被害を被ることは無かった。

 

 鼻の骨が潰れて捻れ、頬が抉られた痛みなどなおさらのこと。よく、怪我をしても本人が気付くまでは痛みも感じない場合があるが、まさに彼がそうだった。

 良くも悪くも、夢はいつか必ず覚めるものだ。

 ご愁傷様。

 

「あぁ、ああぁぁぁぁあああ──アアアアァっ、あ、ォあ、ぁ、ぁ、ぉ、ぉおぉ、ぉおおおおああああああ!?」

 

 レグルスは壊れた顔面から粘液と血液を一緒くたに垂れ流しながら、遅れて貫いた激痛にのたうち回る。左に右に体を捩らせ、物にぶつかっては歯が数本折れ散っている。

 それでも根は折れないのがレグルスだ。自分の身に起きた異常をどうにかするのでなく、ただひたすらに目の前の敵を睨み付ける。

 

「もう、許へないっ……売女もパゥドラだまも、お前もだ! グルがったんだろ! 僕には分かるぞ、ふらじ者共め……さ、さいそから僕を、こうやって侮辱するつもりだったんだ! 全員、一人残らぶ、ぶっ殺してやる! 裏切った僕の嫁たちも同じがよ! あれだけ恩恵を施してやった、って、のに、恩知らぐめ。……仇で返ずなんて嫁失格だよ、もうようじゃしないぞ! ああ、ぢなみに、僕に歯向かったことを後悔ぎてももう手遅れだからな。夫に迷惑ばかりかける嫁が、側にいていいわけ無いじゃないか。当然の、仕打ちだ。むしろ一思いにごろじてやるんだからぁ、お、王としての寛大な器に感謝すべきだろ! ほら、そうと分がっだら、ぜいいんひざまずいてこうべを垂れろ!! 不敬を泣いてわびて、惨めにおどなしく、僕の手で殺ざれろよ!!」

 

 顔が潰れても、その口だけは達者に回る。方向性さえ真逆だったのなら尊敬されるに違いない執念を以て、血を吐くレグルス。

 顎を滴り落ちる鮮血を見てその表情が更に険しさを増す。憤怒か流血か見分けのつかない、真っ赤な顔で恨み言を並べる凄惨な姿は、生憎と滑舌の悪さのせいで滑稽に映るだけだ。

 

「声震えてやんの。権利だの礼儀だの、馬鹿の一つ覚えみたいにピーチクパーチク騒ぐんじゃねぇよ。カッコいい単語覚えたての中二かっての」

「お前ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

「大罪司教って、チート能力持ってるくせして馬鹿に感情的だよな」

 

 普通ならば誰もが発言するのを憚るような言葉を男は直球でぶん投げ、迎え撃つ。案の定、堪忍袋の緒が切れたレグルスは叫び狂い、真っ直ぐに目標を定めた。足下に転がった破片を一掴みしてよろよろと立ち上がる。

 何気なく、男が己の後ろを確認した時、思わず視線がぶつかった。

 

「ぅ……す、スバル…………?」

 

 エミリアだ。

 度重なる横槍で蚊帳の外に置かれていたエミリアは、レグルスの嫁ら同様その場から動けずにいた。数知れない感情滂沱として過らせ、涙目になったその紫紺の瞳を、瞬きすら惜しいとばかりに男に向ける。目一杯に見詰める彼女に、男は、スバルは口端を上げた。

 

「今度こそ、君を守ってみせる。絶対だ」

「わ、私はいつもスバルに……」言いさしてエミリアは急に顔色を変えた。「ううん、違うの。そうじゃなくて、スバル、うしろ──」

「好きだよ、エミリア」

 

 その告白を最後に、スバルの身体が弾け飛ぶ。

 笑顔が切り裂かれ、引き千切られた皮膚と血管が空に散る。一瞬にして消失した輪郭、人としての形が溶けるように爆ぜた。皮を肉を血を骨を命を、満遍なく撒き散らしながら吹き飛び、壁に激突し、ずるりと落ちて転がる。篠突く赤い雨を全身に浴びたエミリアは、伸ばしかけた右腕が半ばからもがれた事に気付いた素振りもなく、愕然と目を見張っている。

 

 ドバドバと溢れ出す新鮮な血液、銀髪を濡らすそれが自分のものかスバルのものかも最早分からない。流す紅涙が絶望の表れか染められたのかも分からない。

 

 ただ、目の前のそれは。

 既視感のある光景、だった。

 

「いや……」

 

 既視感があったはずの、光景だ。しかし、どうも引っ掛かる。

 

「どうかされましたか? なにか、『見間違えた』ので?」

 

 振り返った背後、首を傾げるパンドラに、散らかった生命の残骸に、壊れた扉。一番最初に殺されてしまったあの死体が、どこにも見当たらない。深く染み付いていた血痕すらも消え去った。巻き込まれた誰かの死だけが、跡形もなく、消された。

 訳も分からず姿勢を正すと、今さっきスバルに破片を投げつけたレグルスが血濡れの口で「ふぅ」と一息吐き、直後には叫んでいた。

 

「ははっ、だまあみろ! 一人気取ってるからざぅなるんだ馬鹿め。僕に楯づいて、生きで帰れると思うなよぉ! ああ清々しい! そうだ、そうだよ! 愚かしくも僕の前で、よ、よそ見じやがっで。愚か者の末路はこうじゃなきゃ! 僕の、僕の手で全員死ぬんだよ! 反ぎゃぐじゃには、ごぶ、お似合いの結果じゃないがっ!!」

 

 相変わらず歯切れの悪い口調で喜悦の声を上げるレグルス。喋る度に吐血して喉を詰まらせながらも、欲求が苦痛を上回るのかひどく愉しげだ。

 そういった感情に疎いエミリアでも、それが彼にとって異常だと十分に理解出来る狂乱具合。

 

 現在、レグルスが感付いていない事は二つ。一つはエミリアが疑問に思った死体の消失で、一つは彼の嫁たちの減少だ。

 間違い探しにさらさら興味を持たないレグルスは、己の民たる嫁が少しずつ数を減らしていっていることなど、到底知り得ないだろう。

 そしてこの瞬間、謎はもう一つ追加される。

 

「ちっ……パンドラ、まだかよ」

「申し訳ありません、ハズレを引いてしまいました。ですが、あと少しで完了です。しばしお待ちを」

「……頼んだぞ」

「え──?」

 

 服の裾を払いながら愚痴をこぼすスバルに、パンドラが微笑んだ。──エミリアの隣で、だ。

 これにはレグルスも驚いたのか、見るに堪えない表情が笑ったままに固まった。

 

「なんで、なんでまだ生ぎでんだよ! 僕のごう撃喰らって、ボロ雑巾みだいにぶき飛んだはずだろ! ふ、ふざけるな、ふがけるなぁ! 誰が生きてでいいなんで言った!? 今ずぐ死ねよぉ……!」

「はあ? 何言ってんだお前。処女に拘る上に歯茎ガタガタでボケまで来たとか、ただのエロジジイじゃねぇか。ここは老人ホームでもパチンコ屋でもねぇから、さっさと帰って寝ろよ。帰る家が無いなら死ね」

 

 言葉に殺意の滲み出る声が聞こえたのはレグルスの背後。

 

「死んで、消えて、いなくなって、せめて遺族の為の肥やしにでもなれ。それがお前のちっぽけな存在価値だ」

「残念ながら、レグルス司教の家族は彼自身が全員殺してしまったので、もういませんよ」

「そうなのか。──空っぽだな、お前」

「────っ」

 

 振り返ったレグルスが見たのは、先ほどまで死体を晒していた男が突きだした拳。腰もまもとに入っていない、素人感丸出しの一撃。

 それでも、既にぐちゃぐちゃの顔に追撃を加えるのはそれこそ傷口に塩を塗るようなものだ。ましてや慢心して強者然としていただけのレグルスには十分有効打になりうる。

 右ストレートを派手に喰らい、残り少ない歯が更に欠ける。もうまともに食事は出来ないだろうと思う反面、スバルはそもそも彼を生かしておく理由など無い事を思い出す。しかし、一つ問題があった。

 まことに情けない話だが、スバルの力ではレグルス一人を殺すにしてもかなりの労力が要る。単に首を絞めたり心臓を圧迫するという選択肢もあるにはある。ただ、好きな女の前でそんな見苦しいやり方は出来ない。今のために未来を捨てるわけにはいかないのだ。

 

「……エミリア。こいつの体、凍らせられるか? その、気が咎めるのは分かるけど、生け捕りにしてもしもの事があったら……みたいな」

「えっと……ごめん、ちょっと、待って」

「さっきのこととか、パンドラについても説明する。後で全部話すから、今はこいつを倒すことに協力してほしいんだ。こいつは危ない。生かしてちゃ駄目なんだよ」

「スバル……」

 

 急変する状況に追いつけていないエミリアは、やけに冷静で沈着したスバルに返答を躊躇う。当然といえば当然だった。たった十分にも満たない一幕だったが、エミリアの知る常識を覆すには十二分の役割を果たしたのだ。

 額に汗が滲み出るのを感じながら、エミリアは己の右腕を見下ろす。何事も無かったかのように元通りになっていた。いや、元通りになったのではなく、最初から右腕には何もなかった。それはそう、ただの勘違いだ。広い式場に、エミリアを含む四人しか姿が見えない事もそう。

 脳裏にこびりついた違和感を払拭しきれないまま、スバルを見返す。すこしシワがついただけの服装と、傷一つない肌。

 おかしいと思ったのは、それら以外にもある。

 

「……本当に、それだけ?」

「え?」

「あの時のスバル、なんだか苦しそうだった。見たことのない顔だったの。私を守る為に、レグルスが敵だからそうしたってことは分かってる。でも、それだけじゃない気がした。何も手伝えず助けられた私に言えたことじゃないかも知れないけど……怖かった」若干俯いて、視線を避けてしまったことに気付いたエミリアはすぐに顔を上げる。「変よね。スバルはスバルなのに。私、混乱しすぎてちょっと頭がぼうっと──」

 

 ゴン、と固いものを叩く音に、エミリアの言葉が遮られた。

 パラパラと欠け落ちる破片。レグルスが暴れて脆くなっていた壁の、スバルが殴りつけた部分の塗装が剥がれる。

 

「あ……悪い。何でもないよ、エミリアたん。ちょっと、何言ってるのかよく分かんなくて……つい、無意識に」

「──すば」

「大丈夫だって! いやマジで。ほら、別に手怪我してないし、元気一杯フルパワーだし、それに、」

「もう止めて、スバル!」

 

 限界だった。

 もう見てられない。彼はまた一人で沢山のことを背負って、両手から溢れそうなものを抱えて、一人で解決しようとしている。彼の、尊くも悪い癖だ。しかもその沢山の中にエミリアがいるわけで、レグルスに捕まったからこそ彼の負担を増やしてしまったのだ。

 彼が孤独に責任を問われる謂れなんてありやしない。何も間違っていないのに。よく笑ってよく泣いて、人一倍頑張ろうとする普通の男の子なのに。なぜいつも、エミリアの知らない所でスバルが苦しまなければならない?

 苦しいのなら共有して欲しい。楽しいことも悲しいことも、全部一緒に味わって、分け合いたい。大丈夫だと、傍にいると伝えてあげたい。自分で迷惑をかけておいて身勝手かもしれないけれど、それがエミリアの本心だ。彼の救いになりたい。心の支えになってあげたい。

 何よりもまず、自分のことを大切にして。それから二人で、皆で立ち向かえばいい。

 

 抑えきれない胸の高鳴りと衝動に駆られてエミリアはスバルの下へと走り出す。

 

「やっぱりスバル、どこかおかしいわ。また、一人で無理して」

 

 そして、途切れた。

 

「あ?」

 

 あと数歩、本当に一メートル足らずの距離。駆け寄るエミリアの首が、不意に上を向いた。スバルも釣られて頭上を見上げる。何も無い。ただ天井が見えるだけだ。

 視線を戻すと、エミリアは未だに首を直角に傾けていた。どうしたのかと近付こうとして、その首筋に極細の線がすっと、引かれているのを発見した。怪訝に思い、恐る恐る近寄ってみる。少しずつ見えてくる一線。赤く、彼女の細い首を横断するように引かれていた。そっと手をかざす。

 

 それからの出来事は、スバルにとってまるで夢の如く曖昧で儚い記憶として残っている。

 

 白皙の喉に触れた途端、首が可働域を超えて後ろに反れた。しかし骨の折れる音も呻き声も無いままに、ガクリと支えを失って崩れ落ちる。

 すると赤線が引っ張られるようにして、縦に裂けた。視界を塗り潰すほどの血が噴出し、勢い良く迸った。か細い身体が一切の抵抗もなく頽れた。そしたらまあ大変、あっという間に死体の完成だ。

 頭と身体が文字通り首の皮一枚で繋がっており、純白だったウェディングドレスは鮮血に濡れて華やかに紅色を彩っている。鮮烈で凄惨な死の色香に傾国の美貌がより際立ち、いっそ雅趣に富んだ美しさを醸し出す。これ以上ない嬋娟と妖艶を湛えた肢体、それは皮肉にも女性としての究極体だ。死んでこそ輝くものが、エミリアにはあったのだろう。

 

 対してスバルは一言も発さなかった。瞬きも言葉も忘れた様子で、真っ赤に染め上げられた花嫁姿のエミリアの上体を抱える。止めどなく溢れる血流、せめて溺れないようにしてやるのが精一杯だ。

 ビクン、ビクンと微かに痙攣して震える彼女の手を掴む。握り返す力は勿論のこと、そのような意思も残っていない。やがて身体中の血液を外に出したのか、肌は蒼白を通り越した無色に変わり、空になった心臓のため胸部がへこむ。

 

 それら全ての一部始終を、ナツキ・スバルは黙って、ただ静かに見守っていた。

 

「……はは、ばがな女だ。そこはさっき、僕が息を吐い」

 

 ぐちゃり。

 もう一つの命が潰える音が、スバルの靴底に鳴った。しかし彼には何も聞こえなかったようだ。再度足を上げ、振り下ろす。今度はひび割れるような硬い音だった。もう一回。振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。その動作を繰り返すだけの単純な作業。叩く音が段々と粘着性を帯びてきた頃、ようやく動きを止めた。

 

「お前に死の味を一度しか味あわせてやれないのが心底残念でならねぇ。ゾンビみたいに何度でも復活する系の無敵だったら良かったのにな」見下ろし、顔の無い死に様がエミリアと似ている気がして、胴体もひき肉にしようかと一瞬悩んだ。だが、まったくの無意味だと判断し、パンドラのいる方へ向き直る。「また失敗した。今回は惜しかったんだけどな……でも、レグルスの嫁を一人ずつ転移させて心臓が移る瞬間に殴るのは通じたし、次はもう少し巧く誘導して、」

「スバル」

 

 微笑を貼り付けて傍観していたパンドラの代わりに、目が合ったのは第三者だった。

 爛然たる赤髪の下から、澄んだ双眸が覗きこむようにスバルを射抜く。戦場と化したこの都市で、最も死と遠い空気を纏っていながら最も運命の征路を見据えている存在。

 正義の権化。世界の意思が形を成した超越者。

 レグルス・コルニアスが口先だけの偽善者だとすれば、それを嘘偽り抜きに実現してみせたのが彼、ラインハルト・ヴァン・アストレアといえる。

 

 しかし、救世主であるはずのラインハルトの登場にスバルはひどく混乱した様子を見せる。

 

「……ライン、ハルト? 何でお前がここに……いや待て、パンドラはどこいった。ラインハルトは別の場所に行かせたんじゃなかったのかよ、おい! どこにいるんだ、パンドラァッ!?」

「ごめんよ。スバルの言っている言葉の意味が、僕にはよく分からない。パンドラという名前の人もそうだけど……わからないことが多すぎる。お願いだよ、スバル。話を、してくれないか」ラインハルトは目線を合わせ、慎重に話を催促する。「これは一体どういう状況なんだ? ここで何があった? 君は、何を──?」

 

 人としての、あるいは生き物としての限界を素で跳び越えた彼だが、なにも全知全能とまではいかない。人の内心を一瞥で見透かしたり、都合の良いように思考を操るなどの力は無いのだ。

 支配でなく誘導。あくまで一介の友人として、ラインハルトはスバルに接近を試みる。

 変わり果てた彼の下へと。

 

 「言ったら」目を歪に細め、嘲笑にも似た顔で睨め返すスバル。「信じてもらえるのか?」

「さすがに内容によるかな。……ん、すまない、一旦ここを離れよう。他の場所が危ないようだ。君の話が聞きたかったんだが……まずは事態が落ち着いてから、もう一度訊くことになるだろう」

「じゃあ、俺はここにいるから好きに行ってこいよ。大人しく待ってるから」

「残念だが、それは出来ない。安全の為にも、ついてきてもらうよ」

「監視、じゃなくてか?」

 

 故意に心を抉るような言葉に、ラインハルトは悲痛な表情を浮かべる。その目はエミリアを一瞥したが、すぐにスバルへ戻ってくる。

 

「スバル。余計な真似はしないでほしい。一緒に、行こう」

「嘘嘘。冗談だって。今行くよ」

 

 手を振って直前の発言を否定するスバル。何事も無かったかのように、エミリアの死体を避けてラインハルトの方へと近づいていく。怪しまれないようにか、両手を肩の高さまで上げた状態だ。

 

「……インビジブル、プロヴィデンス」

 

 呟いた声は、口の中にだけ響いた。少なくとも隣のラインハルトにまで届かないほど小さかったはずだ。それでも、刹那。良くない気配を感じ取ったラインハルトが、咄嗟に振り向く。

 しかしながら、動作を察知した後に反応した時点で、既に手遅れだ。その行動を止めるには、最初から彼の自由を完全に拘束して周囲を固めておく必要があっただろう。  スバルの姿勢は変わらない。ただじっとしているだけにも関わらず、ラインハルトは得体の知れない悪寒が己の背を這い上る感覚を味わった。これは、死の気配だ。

 

「──!? 待て、スバル! やめるんだ!」

「驕るなよ英雄。死ぬ事に関してなら、俺が世界最強だ」

 

 有言実行。

 見えざる一本の手で小さな瓦礫を掴み取り、尖った方を向けて喉に押し付ける。さほど勢いが衰えることなく矛先は皮膚を突き破り、血管を断ち切り、肉を抉った。ついでに鍵を回す要領でぐいと捻れば、脆い喉笛など簡単に掻き切れる。

 傷口に冷たい空気が流れ込んでくる。ヒュー……と風音を鳴らす喉の穴を、やがて逆流した血が通って強引に塞ぐ。流れ出る様はじょうろのようだった。

 

「なんてことを……っ! 駄目だ、駄目だよスバル! ここで死んじゃいけない!」

 

 ラインハルトの応急処置も虚しく、出血量が傷口からの排出量を上回ったのか、スバルは返事の代わりに喉を詰まらせるようにして喀血した。上下に溢れ出る命の滝を止める術が、ラインハルトにはない。

 何をするにしても万能で最強とされるラインハルトでも、唯一人並み未満の事柄がある。それは魔法だ。常に周囲のマナを取り込むだけ取り込み、体内に循環させるはいいが排出する機能を兼ね揃えていない。一方的に吸うばかりで出す道が塞がれているため、彼はどんな下位魔法すらも使いこなせないのだ。瀕死のスバルを救うだけの治癒魔法など以ての他。もし『青』が側にいたならば可能性はあったかも知れないが、今となってはもう呼ぶにも遅すぎた。

 

 ただでさえ、こと死ぬという一点に関して、スバルは他の追従を許さないエキスパートだ。誰も彼の右に出ることは叶わない。

 いや、こんなロクでもない世界なのだから、一人や二人、死に慣れた変わり者がどこかにいてもおかしくないだろう。だがどちらにしろ、ラインハルトが生と死においてド素人であることに違いはない。

 自分の死も理解していない者が、どうして他人の死を扱えられようか。

 おこがましい。

 

「スバル、スバル! 待ってくれ! どうして、こんな、っ…………スバル──」

 

 誰かに名前を呼ばれながら死ぬのは、どこか懐かしい気がした。

 ラインハルトは良い奴だ。恐らく世界で一番正義の味方に近い存在で、実力だって申し分ない。彼が悪の組織に属していないだけで、世界は最大級の賭けに勝ったようなものだ。そうでなければとっくに破滅していたかもしれない。

 ──けどな、ラインハルト。

 俺とお前は真逆、両極端にいる。そしていつか、対立する運命に置かれてもいる。俺が賢者として在る限り、お前は必ず英雄として俺の前に現れるだろう。

 それでも、負けられない。無限の選択肢から正解を選び抜いてみせる。それまでの旅路に付き合ってくれるのなら、全力で無視してやろう。

 勝利必須の無理ゲー。ただ正面突破でなくても、ゲームには裏技があるものだ。

 

 次こそは。

 

 絶対に。

 

 意識と身体が別に落ちていくような浮遊感。音と光が不可逆の彼方へ遠ざかり、ぽっかりと大口を開けた深淵が間近に肉薄する。ナツキ・スバルという概念が分解され、溶けていく。死に沈み、没するのだ。

 しかし直後、伸びた幾千もの手がそれを否定するようにスバルを引き上げる。まだ終わっていないと、始まったばかりだと。意識は愛の囁きと共に浮上し、再臨する。

 暗転は一瞬よりも短い。

 

「スバル。余計な真似はしないでほしい。一緒に、行こう」

 

『死に戻り』が成功して過去に舞い戻り、足元に転がった二つの死体と、立ち塞がる赤毛の剣聖が賢者を迎えた。

 

「──俺の負けだよ、英雄」

 

 運命はどこまでも、ナツキ・スバルを絶望させる事に余念がない。

 

 

 

 ‡

 

 

 

 今でも時たま、夢に見る。

 無知と無垢に飾られていた在りし日の追憶を。自分の知る世界は平和に満ちていて、それが普通だと信じて疑わなかった頃の記憶を。

 過去のことをずるずると引きずるのは女の性だというが、あの日々を鮮明に思い出せるのもそのせいだと割り切ってしまえば、むしろ好都合だと思える。ただ、そうした世の中に対する屁理屈を覚える度に、少女は、自分がどうしようもなく変わってしまったのだと如実に実感しては複雑な心情になるのだ。二度と戻れない過去を嘆くほど子供でもないがバッサリと切り捨てられるほど大人でもない。

 

 世界なんてもっと単純でいいのに。小難しい事情も何も知らないふりして、もっと気楽に生きれたらどれだけいいだろうか。そんな呑気な考え方こそ子供の特権だって、姉様は慰めてくれたけれど。

 自分がいまどこに立っているのか分からなくなる時があって、それがとても苦しい。胸の奥で何かが燻るような不快感。こんな痛みを抱えて生きていかなければならないのなら、一生、大人にはなりたくない。無知のままで良かった。何も知らない、可愛いだけだったあの頃に──。

 

 「…………また、昔のことばっかり考えてた」

 

 最近、よくぼうっとしていると言われる。自覚はあって直そうと頑張ってもいるのだが、ふとした瞬間に自制が効かなくなるのだ。使用人としての仕事は要領よく覚えられるのに、以外なところで弱さが表れる。

 

 「気をしっかりしなきゃ、ダメじゃない。──よしっ」

 

 ぺちん、と頬を両手で強く叩いて荒療治。ベッドから立ち上がり、服を着替えて姿見の前で一回転する。スカートが柔らかく舞い上がり、おかしな所がないか入念に確認してから、鏡面に映った自分へ向かって首肯する。うん。準備万端、ばっちりだ。

 すぐ隣に化粧台があるが、まだまだ学ぶべきことがいっぱいあるので保留にしている。いつかきちんとおめかしできるようになったら、あの人を驚かせてやりたい。きっとビックリして、大きくなったなと褒めてくれるに違いない。そう思うと無意識に笑みが零れた。乾いた微笑だった。

 妄想に入り込む直前にはっと気を取り直し、彼女は急いで部屋を出る。いけない。しっかりしようと自戒した途端にこうだ。これからが危ぶまれる。

 

 朝起きて仕度を終えたら、まず第一にやるべき日課がある。大して難しくもなく、他の仕事と比べて重要度も劣るのだが、彼女にとっては最も欠かせない必須任務として力を入れていることだ。

 向かった先は同じ屋敷内のとある一室。目を閉じても問題なく辿り着ける程度には、毎日のように何度も足を運んだ場所だ。道すがらに窓の外を見上げ、口許を緩める。晴天。これ以上ない散歩日和だ。

 扉の前で一息吐いて深呼吸。二度ノックをした後、返事も待たないままドアノブに手を伸ばした。鍵はかかっていない。

 

 「失礼いたします」

 

 言いながら入室し、部屋の内部を眺める。これといった特徴もない普通の部屋模様だ。ベッドやテーブルなどといった家具に、白い塗装の壁。奥には閉め切ったカーテンがある。彼女はそれを、左右に思いっきり引っ張った。

 両開きのカーテンが開け放たれて、暗かった一室は唐突に朝を迎える。波のように押し寄せた陽光が部屋中を覆い、見えにくかった部分が色彩を取り戻す咲き誇った向日葵のような笑顔を作り、彼女は後ろ手に上半身を屈めてベッドに向き直る。

 

 今の今まで、そこにいたのかも曖昧なほどに、存在感の薄い男が横たわっていた。

 似た光景を見た覚えのある彼女だが、それとは違う感慨を持って顔を覗きこむ。この辺りでは珍しい黒一色の髪と瞳──目を閉じているので今は見えないが──に、高くも低くもない鼻筋。一文字に結ばれた口。表情は比較的穏やかに見える。

 

「朝ですよ。今日は良い天気なので、外に出て散歩しましょう?」

 

 部屋の隅に置かれていた車椅子を引き、眠ったままの彼に語りかける。意識がないため当然返事もない。身体を起こすのだって、彼女の体格では一苦労だ。それでも何とか上体を起こして数分後、無事に車椅子に座らせる事に成功する。

 そこまでやっても、男が目を覚ます気配はゼロだ。まるで死んだか凍りついたかのように、されるがままの無意識状態。

 こういった状態に陥った者を、少女は何人か知っている。特に最近になってよく聞くのが、『暴食』という魔女教徒による名前や意識の消失だ。しかし彼の場合、そのどちらでもなかった。かといって目立った外傷も、龍の血とやらで気味の悪い模様が浮き出る右脚くらいだ。命に関わる呪い、病なども特には無い。

 彼自身の、心の問題なのだ。

 

「スバル様……行きますよ」

 

 じっと動かない彼の膝に毛布を掛け、車椅子ごと部屋を出ながら言う。出入りが楽に出来るよう部屋は一階に設けてあるので、廊下を少し行けば直ぐそこが玄関だ。以前はベアトリスとガーフィールが階段の上り下りを自任していた。だが、部屋を移してからは各自出来る範囲を尽くして看護しようとの事で、役割を一部分担したのだ。

 ベアトリスは、精神に干渉し何らかの作用を与える魔法の開発、及び関連文献の調査。ガーフィールは、労力が多く要求される力仕事を率先して使用人たちの負担軽減をしたり、時間が余った場合にはオットーと一緒に国中を飛び回って解決案の模索、及び特効薬などの商談に携わっている。他にもロズワール邸の全員が、何かしら解決に到る糸口を探しているところだ。

 『暴食』の被害者に比べて良い点は時間経過による自然治癒や、外部衝撃などといった様々な要因で改善する見込みがあること。悪い点は確立した原因と治療法が明らかになっていないため、どこに焦点を当てるべきかが不明であること。

 ともかく、スバルにしろレムにしろ手掛かりは未だに掴めていない状況だ。ベアトリスたちも焦りと苛立ちを覚えはじめた様子で、危うげな雰囲気が最近は色濃い。

 

「今日もお散歩ですの、ペトラ?」

「あ、フレデリカ姉様」

 

 玄関を通ろうとした時、背後から声が聞こえてペトラは振り向いた。揃いのメイド服を男勝りの体格で別物にしている、ペトラの指導役フレデリカ・バウマンだ。初めて見た頃のインパクトをそのまま愛嬌に変えて、フレデリカは妹分に近い感覚でペトラを可愛がっている。

 

「今日はすごく晴れていて風も心地よいので、丁度良いかなって思いました。駄目、でしたか?」

「ああ、違いますの! 全然ダメなんかじゃなくて……むしろ、毎日ご苦労様と言いたいくらいですわ。ベアトリス様やガーフィールが、忙しいのに無理して体を壊したりするのを見てると、こちらまで胸が苦しくなりますから。きっと皆、ペトラに感謝していますわよ」

「いいえ。そんなこと、ありませんよ。私に手伝えることは、これぐらいしか無いので。私の方こそ、大した仕事もできず、全部フレデリカ姉様たちに任せてばかりで……もっと、スバル様のお役に立ちたいのに」

 

 双方、謙遜でも建前でもない心からの本音だ。相手の言葉が痛いほど解るし、だからこそ譲れない。そしてそれは、彼女らに限った話ではないのだ。誰もが真剣に取り組んでいるのに誰もが不足を感じる。見えない中で不安が募り、焦燥に急かされて結果疎かになる。その悪循環。

 根本的な原因、悪は他にあるにも関わらず、問題に対して自らの責任を負わずにはいられないのが彼らの人となりであり欠点だ。それらを克服するにはまだ、平穏への距離が遠すぎる。

 

「それじゃあ、行ってきます。昼までには帰りますね」

「ええ。いってらっしゃいまし」

 

 幼いながらも現実の苦味を知ってしまった小さな後ろ姿を、静かに見送るフレデリカ。目尻に滲んだ涙を指先で拭き、しばし思いに浸る。

 

「本当に、大人びましたね……ペトラ」

「それには肯定しかねるな」その第一声は、脈略や流れを一切無視した。「彼女は大人に近付いたのではなく、子供から遠ざかったという方が正しいかと。差異」

「ひゃっ!? く、クリンドですの!? 急に出てこないでくださいまし! 驚いて殴るところでしたわよ!」

「先ほどからずっといたのだが。どうにも君は人を無条件に見下す癖を持っている。一方的で短絡的な思考は、受けとる側からしたら単なる暴挙でしかない。でかいのはせめても図体だけにして欲しいな。不格好」

「わたくしが態度をでかくする相手は、敵以外だとクリンドだけですから気にすること無いですわ!」

 

 言いつつさりげなく後ずさりするフレデリカを尻目に、クリンドは無視してモノクルを拭く。しばし沈黙が生まれ、この場を去るつもりのなさそうな彼にフレデリカは頭の上に疑問符を浮かべた。

 

「それで、何の用ですの? さっき旦那様に呼ばれて上がってませんこと?」

「後程、こちらにお客様がいらっしゃるようだ。準備。旦那様には断りを入れ、優先して来ただけのこと。中断」

「ということは、予定になかった方が訪問なさるので……?」

「恐らくは。簡素な身なりと慌てた様子を見たところ、急用の使いではないかと。使者」

「急用って、何が……」

 

 フレデリカは思わず、玄関の見えない向こう側へと視線を移す。クリンドが一体どうやって使者の到来と急用らしい事情を知り得たのか不思議でならないが、彼の異常性についてはいつもの事なのでスルーだ。

 すると、クリンドは変化の乏しい顔で首を傾げる。

 

「何やら私の与り知らぬ所で不当な扱いを受けている気が。理不尽」

「本当に与り知らないなら、そもそもそんな気もしませんでしょうに。相変わらず訳の分からない……あら」

 

 肩を震わせてまた一歩距離を置こうとしたフレデリカが、ふと何かを悟った様子で声を上げる。その数秒前から感付いていたクリンドは既に扉を開け、急用の使者とやらを迎え入れていた。

 彼の予告通り、姿を見せたのは訪問者として最低限の礼儀だけを守った軽装の男だ。息を切らしながら転がり込むようにして玄関先へと入ってきたどこぞの使者は、目の前の二人が使用人だと理解したのか、持っていたものを素早く差し出した。

 

「緊急事態、王都からの伝言です! 一刻も、早く、……これをメイザース辺境伯と、近郊の町に知らせてください! そして準備が整い次第、メイザース辺境伯には上級会議に参加していただきたく──」

 

 どうにも只事では済まなさそうな物騒な言葉を待ちきれず、フレデリカは使者から書物を取って中身を確認する。一介の使用人が、主人より先に許可もなく閲覧した事の非礼などこの際お構い無しだ。

 使者の方もよほど焦っているのか、書の伝達完了を確認してはすぐに屋敷を出て行った。そのまま休むことなく竜車に乗り込んで走り去っていくのを見るに、ここ以外にも事態を伝えるべき場所があるようだ。恐らくは、ロズワールなどの早急な対応が求められる領主を優先的に訪ねて情報を渡し、領地並びに下町への拡散は後回しにしているのだろう。

 

 「そんな……嘘、ですわよね?」

 

 真っ先に内容を確認したフレデリカでさえ、帰り際に使者が改めて口にした言葉には、耳を疑った。

 

 

『憤怒』の大罪司教が、王都の警備網を脱してルグニカのどこかで逃亡中にある──などと。

 

 「まさか、ペトラ……」

 

 無意識に発した声が、遅れて自覚するもあながち早とちりだと思えなくて身震いする。いいや、それこそまさかだ。たった今、こちらに情報が届いたばかりなのだ。少なくとも数時間、考えて備えるだけの余裕はあるはず。

 しかし同時にこうも思う。使者だって人間だ。事件発生後すぐに把握して動けるものではないし、あまつさえ王都が発信源ならばここに来るまでも何箇所か寄って、かなりの時間を費やしただろう。ましてや相手は魔女教の幹部とでもいうべき大罪司教だ。臆測だけをもとに侮るなど、間違いなく愚行の極致。

 

 フレデリカは憂いの宿った目でペトラを思い浮かべる。胸中にざわめき、こびりつく嫌な予感。

 それが俗にいう女の勘なのか、あるいは半獣としての本能的な直感によるものなのか、自分でもわからないままに。

 

 ──奇しくも時を同じくして、当のペトラ・レイテは屋敷を大急ぎで出て行く使者の姿を、その大きな瞳で目撃していた。

 

「……何か、あったのでしょうか」

 

 事情を知らない彼女は、これといった危険を感じず精々緊張に留める。

 水門都市プリステラで魔女教の騒動があったのは数ヵ月前だ。一日に満たなかった大規模攻防戦の終結からそれなりの時間が経ったとはいえ、消息を掴みきれていない大罪司教が数名、今もどこかで身を潜めて虎視眈々と狙っているかもしれない。気の緩んだペトラたちを、再び悪意の檻に閉じ込める為に。

 しかし、そんな可能性に怯えているようでは何も出来やしない。そもそも魔女教は神出鬼没、一年以上も前から世話になっている憎き宿敵だ。奴らの脅威に怖じ気づいている暇など無く、注意を怠った事だって一度たりとも無い。むしろ対魔女教戦において、ここは王国内でも屈指の対応力を誇る防衛陣営。そう簡単にやられるようであってはとっくに滅びている。

 

 ペトラは己の中の警戒度を一段階だけ上げ、散策ルートの変更を行う。本来ならば下町まで行ってぐるっと遠回りしてくるつもりだったが、有事の場合を考慮して屋敷の近くを一周する程度が良いだろう。せっかくの晴天下だが用心するに越したことはない。それだけの相手を敵に回しているのだ。一年前から、覚悟は決している。

 しかしながら。

 覚悟の強さと現実の非情さが半比例するのなら、世界は今よりずっと単純で平和にできていたはずだ。

 それこそ車椅子を押すペトラの前に、彼女が現れることなど、無いほどに。

 

「ああ、やっと……やっと、見つけました。この百年間、ずっと探してきた努力が、狂おしい愛の報いが、ようやく実ったのです」

「——っ、だれ!?」

 

 ペトラが歩いていた街道、その脇から降って湧いたように出現した一人の女が、行く先に立ち塞がる。

 見る者の精神を強引に揺さぶる狂気。その身に纏う異常性を有り体に表してみせた異形に、同調するよう汚染される空気。

 鼻腔を突くのは、隠しきれない死と抑えきれない愛の混じった匂いだ。激情ゆえに自らをも焼き焦がし、歪曲して狂乱した在り方が彼女を咎人たらしめる──その名を、大罪司教シリウス・ロマネコンティという。

 

 スバルの前に出て両手を広げたペトラには見えない。

 ただひたすらに世の中との隔絶を湛えていたナツキ・スバルの双眸が、僅かに開いた目蓋の隙間から、シリウスのそれと同じ光を宿したことに。

 それをペトラの小柄な体躯越しに見透かしたシリウスが、身も心も蕩けてしまう熱量の、獰猛な貪愛に濡れた声音で囁く。

 

「さあ、今こそ目覚める時ですよ。──私の愛しい人、ペテルギウス」



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罪人の饗宴

前回が前編、今回が中編なので、次回の後編で終わる予定です。ただ、ここからは書き溜めた分がないため二週間ほどかかるかと。


 見上げる限りを覆い尽くした清澄な青空、起きたばかりの朝の空気は薄着だと少し肌寒い。だから念のためにと、ペトラはメイド服の上にも一つ上着を重ねてきた。

 しかし、風に吹かれて彼女を撫でるのは、吸うたびに喉を焼く熱気と肌にまとわりつく邪悪な凄み。同じ場所にいながらも異なるものを見詰めるかのような視線。

 早朝の爽やかな散策が壊されるには十分すぎる悪意だ。

 

「誰……!? 何をしに来たの!」

 

 危険を素早く察知し、悲鳴にも似た問いを投げ掛けるペトラ。相対する罪人は、あっけらかんと首を傾げながら一歩ずつ近付く。ひたりひたりと。将来は衣服を扱う仕事柄に就きたいと思っていた少女の目には冒涜にしか見えない風貌で。

 頑是無い子供の悪戯のように、太陽を嫌う空想上の怪物のように、身体中のみならず顔にまで巻かれた包帯。しかし本来なら感じさせたはずの病人という印象を、隙間から覗く鋭利な眼光が無造作に塗り替え、殊更に異様を炙り出している。それを前にして逃げ出さないだけ、ペトラは勇敢な方だ。

 

「おや? まだ小さいのに律儀なこと。ええ、大丈夫ですよ、そんなに警戒しなくても。私はその人さえ譲ってもらえれば良いのです。簡単なことでしょう?」

「その人って、スバル様のこと!? 誰かもわからないのに、駄目に決まってるでしょ! 譲る訳ないんだから!」

「あらま、何をそんなに怒っているのでしょうか。私が私の夫を望む事に、一体何の問題が?」

 

 決死の顔で強く否定するも、シリウスは本気で疑問だとばかりに問い返した。ゆえにペトラもまた立ち下がる気配を見せず対抗。膠着状態に陥る。

 この状況、そもそもの会話が成り立っておらず、言葉の裏にある前提自体が大きくずれている。それは二人の決定的な差だ。心の奥底に根付いた価値観と方向性の違い。決して交ざることなく、相容れようのない認識の相克が双方の意思疎通に齟齬をきたす。一生かけても、互いの心中を分かり合うことなど出来まい。

 見ている、見えている世界が違うのだ。

 

「意味分かんない! スバル様はあなたの、お、夫なんかじゃないし、譲れないもん! いいから早くどっか行って!」

「自分勝手な子ですね。困りました。丁度良い機会だと思って来たのですが、こんなに頑固だとは。……まあいいでしょう。どうせこうなるとは大方予想していましたから。――その感情、私に見せろ」

 

 この場合状況をどちらかに傾かせるためには、言葉以外の手段が必要となってくる。原始的な肉体の力を始めに、知力、財力、権力など、力の示し方は用途によって多岐に渡る。そしてどれもペトラ一人には劣るものばかりだ。

 ならば混沌を是とする魔女教徒、その大罪人が少女の意思を折るために選ぶのは何か。ルグニカ全土で指名手配され逃亡中の身であるシリウスだが、そんなまともな理由で無用の騒ぎを避ける、などといった思考に辿り着くわけがない。端から公の場には立てない存在であったことを抜きにしても、彼女については常識をもとに考えた方がむしろ負けだ。

 言うなればシリウスはひたすら、己の信じる愛に生きている。

 

「ひっ……!?」

 

 シリウスの顔、鼻、口、そして目が、ペトラの正面に迫った。至近距離で狂気に煽られたペトラは悲鳴を漏らし、後退りを試みるが後ろの車椅子に塞がれた。足が引っかかって不意にハッとする。これ以上下がったら、スバルがシリウスの手に渡ってしまう。彼を、守れなくなる。

 いまこの場においてペトラに有利な点といっても、せいぜいスバルが自分の後ろにいるという事くらいだ。相手が身柄を掌握できていないことだけが、ペトラの持ちうる唯一のアドバンテージ。それを手放してしまってはペトラに価値はなくなる。 

 幼い少女を勇気づけたのは、いっそ明快な動機だった。

 そしてそれを、シリウスは炯々とした眼差しで穿ち、見透す。

 

「なるほどなるほど。あなたの根源、頑なな心の所以はそれでしたか」

「……っ、何を」

「良いじゃないですか。愛こそ、最も純粋な感情で最も単純な行動原理。あなた、彼のことが好きなのでしょう? 愛を向けているのでしょう? ありがと。でも残念です。この人はもう、あなたの知る彼ではありません」両手を広げて語る声に、ふと金属の音が交じる。「なので、私がいただきます。ごめんね?」

 

 言い切ったが否か、シリウスの顔色が変わった。愛を論じていた口に嘲笑を、憫笑を、冷笑を、繰り出した鎖と共に刻む。

 行為の善し悪しを無視してみるならば、それはものの見事な手捌きだった。いつのまにか足下に忍ばせていた鎖を前方に投げつけ、ペトラを飛び越えて車椅子を絡めとると同時、巻き戻す反動で宙へと放る。完璧な奇襲に、当然微動もしないスバルはされるがままだ。

 ペトラがようやく動きを追い始めた頃には、既に別の軌道を辿った鎖がスバルの身体のみを巧みに掬い取っている。シリウスはそのまま背負うようにスバルを背後に括って後退、街路樹の上を足場にして器用に立ち去ってゆく。一秒にも満たない誘拐劇が、即興で披露された。

 

「ま、……きゃぁっ!」

 

 追いかけようとしたペトラの頭上に落ちる影。投げ出された車椅子だ。それは座るのみならず楽な移動をも想定した物で、いくら竜車ほどでないにしても、少女にとってはかなりの重量を誇る。ましてや自由落下による加速度までついたなら尚のこと。利用者を配慮した工夫の重さが、そのまま脅威に変換される。

 

「よォくやったぜ、ペトラ。後は全ッ部俺様に任せろ」

 

 だが、その重さをまったく意に介さない者も、また。

 静謐な怒りの滲んだ横顔で牙を鳴らし、脅威を握り潰した金髪の男がちらと一瞥。頭を撫でられたかと思うと、傍を疾風が駆け抜けた。

 

「わ、あっ」

「その気味悪ィ阿呆面ァ、二度と包帯も巻けねェようにしてやらァ」

 

 地の陥没する音と揺れ動く空気。声を引きずって見えないバトンが男に託された。

 遠ざかるシリウスの背に、凄まじい勢いで追い縋るのはまるで金色の獣。一歩の踏み込みで距離を消し、一度の跳躍で肉薄、腕を振り上げればそれだけで彼の攻撃は秒読み段階に突入する。

 人間離れした運動神経を持つ彼は、其の実、一部が人間からはみ出ている。

 

 ガーフィール・ティンゼル。

 最強の盾を自称する、ワータイガーとのクォーターだ。

 

 その力を遺憾なく発揮した、有無を言わせない強引な飛び入り。そこから振り下ろされる一撃に対し、シリウスはようやく気付いたといった様子で片手を振るう。左腕と連動してスバルを巻き付けているのとは反対、じゃらりと垂れ下がった右腕の鎖だ。しかしすでに巻かれた状態とは違い、解かれた鎖は攻撃にしろ防御にしろ、腕の動きに遅れて放たれるため完了までにワンアクションが余計に入る。

 近接戦闘においてガーフィールが有利なのは火を見るより明らかだった。

 

 場所が空中でさえなければ。

 

 ガーフィールの鉄拳、それがシリウスの右腕ごと顔面を殴り潰す寸前でピタリと止まる。容赦をしたのでも、戸惑ったのでもない。

 逆さのアーチ型に伸びた鎖がガーフィールの足首を掴んで引っ張ったことで、攻撃範囲から逃れたのだ。消したはずの距離が再び開いて物理的に届きようがない。足の付いた場所であったのなら、まだ弾きかえす術があっただろう。曲芸を連想させる空中での鎖さばき。完全な不意討ちが、不発に終わった。

 零れた舌打ちに続いて自由な方の脚を振り上げるもなお不足。波打つ鎖の慣性に従って彼の身体が虚空を舞い、金属音を浴びながら急降下、そのまま地面に墜落する。

 

 先ほどの車椅子とは比べ物にならない落下速度に、受け身を取る暇も与えられない。

 衝突、次いで激震。

 道の舗装と骨の砕ける音が響き、打ち消すように破片が一斉に飛散した。塵芥と風が押し寄せてペトラは目を瞑る。思わず吸い込んだ埃をゴホゴホと吐き捨て、しかし見逃せまいと涙ぐんだ目で落下地点を注視する。砂埃も徐々に収まり、濛々と巻き上がって遮られていた視界の中、浮かび上がる一つのシルエット。

 

 「よォし、捕まえたッぜェ」

 

 燃え盛る闘志の呟きが、静まり返った散策路を公演会場でなく戦場に変える。

 片足で体重を支え、抉られたクレーターの中心に佇むのはガーフィールだ。あろうことか骨の折れた脚で固く踏み堪えた姿勢のまま、野性味を宿した獰猛な笑みと眼差し。

 シリウスの扱う鎖に弱点がもう一つあるとしたら、それは使用者と対象者がどうしても一線上に並ぶこと。する側とされる側の差はあれど、攻撃を行う瞬間だけはどちらとも鎖で結ばれるのだ。シリウスが鎖を引いて落とし、けれどガーフィールが耐え切ったのならば彼にも同じことが出来よう。

 もっともシリウスに知る由などないが、地上が舞台である場合は『地霊の加護』を持ったガーフィールに優位性がある。それが着地時の衝撃緩和、そして損傷部位の治癒に続き、いまや純粋な戦闘力増加にまで繋がる。

 

「てめェも下りてきやがれ、クソ女。大将には掠り傷一つ付けねェようにな」

 配慮を求めた言葉と裏腹に、ガーフィールの動作は強烈を極めた。

 結ばれた足を振り下ろして鎖を強く握り締める。ガクンと姿勢を崩したシリウスを横目に、ガーフィールは地盤をも全て踏み抜かんとばかりに重点の入れ替え。上体が大きく前方に傾き、そのままの勢いでひねって引き張った。

 額に血筋が浮かぶ。食いしばった歯が擦れ合う。無骨な鎖を握る手の皮はめくれて、足も治りきっていないために痛む。

 しかし、仲間を傷付けた女一人引き摺り下ろすことなど、さしたる苦でもなかった。

 シリウスは鎖が両方とも自由の利かなくなった状態に焦るでもなく、引き寄せられるまま素直に下りてくる。先ほどの再現のように彼女の身体が無防備に落下。土埃を起こして舞台が地上へ戻った。

 

 座り込んで一部始終を眺めていたペトラに、ガーフィールがシリウスの動向に注意を向けながら、意識だけ振り返って言う。 

 

「ペトラは屋敷に避難してろ。それから、すぐにロズワールの野郎を呼べ。緊急事態だってェなァ」

「わ、わかった! 今すぐ……、」気を取り戻し、屋敷へ向かおうと立ち上がったペトラが目を瞬かせる。「あ、あれ、ご領主……様? いつの間に!?」

「おやおやおーぉや、驚いたよ。まさか君からの指名が入ってくるとはねーぇ。これはこれは、私も少しは認められたと思っていいのかーぁな? 一つ屋根の下に住んでみるものだ」

 

 言うが早いか足音も気配も無く飄々と登場し、軽口を叩いてみせた人影。二人の顔を見下ろす高さから、真剣さを宿したオッドアイで俯瞰する長躯、その余裕ぶった姿をガーフィールは睨む。怪訝な表情を浮かべたあと、眉をひそめて舌打ちした。

 

「気色悪ィことばっかほざいてんじゃァねェよ。いっつも肝心な時にいやがらねェてめェが、またてめェの部屋に閉じこもらねェよう引っ張りだそうとしたッだけだろうが。この期に及んでまだふざっけるってんならァ、その首噛み千切るぞ、オラ」

「せっかく呼ばれたから来たというのに、冷たい反応をしてくれる。心外……だとはいえないのがなんとも情けない話だ。それじゃーぁ名誉挽回といこうか」

「口先だけじゃァねェ、行動で証明してみろや」

「つまり、こういうことだね?」

 

 端からそうするつもりだったのか、準備したようにパチンと指を鳴らしたロズワール。何事かと眉をひそめ、ふと髪先を靡かせた空気の、マナの振動にガーフィールは目を見開く。そして、目撃する。

 激しく大渦を巻き、互いが引き寄せられるようにしてぶつかり合っている二つの赤熱した旋風。瓦礫や破片が捲き込まれて礫となり、そうでないものも表面から砕けて混じっていく。街路全体を引き剥がして一緒くたに吹き荒ぶ熱の奔流。

 ガーフィールを挟んで激突するその脅威に、狂乱した叫びが割り込んでくる。

 

「ああ、ああああ、忌まわしい者共め! やっとあの人と愛を交わして一つになろうというのにぃ……それを邪魔するか、クソがぁ! 私を、私たちを、二人の愛を部外者ごときが遮るな!」

「部外者だなんて薄情な。先に仕掛けてきたのはそっちだろう? 悪いけど、そういうのを確か……ああそう、『逆ギレ』っていうんだよ。合ってるかな、スバルくん?」

「そんな奴はもういないと、言ってるだろうがぁぁぁっ!!」

 

 猛々しい熱風を纏って渦の中に現れるシリウス。対峙するロズワールの圧力に押し負けることなく、拮抗した鬩ぎ合いを可能とするのは彼女の全身から怒気の滾るままに巻き上がる炎だ。百八十度裏返った顔が憤怒を象り、不気味な目付きを憎悪に近い激情で燃え上がらせる。

 十分なほど注意していたはずなのに、ガーフィールはその攻撃に気付けなかった。ロズワールにつまらないプライドで悪態を吐いて油断し、挙げ句にはそのロズワールに助けられるとは、これ以上の屈辱はないだろう。熱気にあてられたように、怒りが沸き上がってくる。

 

「ちょおーぉっと、怒る相手を間違えてないかーぁい?」

「オイ、ロズワール! てめェ勝てんだろうォなァ!?」

「無視は寂しいね。……確かに私は以前から直接手を加えた事は無かったが、庭先に転がり込んできた大罪司教をみすみす逃す理由もないのでね。エミリア様が亡くなられた今、スバル君が奪われるのは私としても望まないのだよ」シリウスの権能を相手に、詠唱も姿勢もまともに取らずとも抗っているロズワールが、しかし道化た顔を歪める。ガーフィールにはそれが、征くべき道が分かっていながらも目先の崩壊を恐れているように見えた。「彼が彼である以上は協力する。それが契約の内容でもあるしねーぇ」

 

 それでも彼らしからない葛藤は刹那、「ふ」と笑いとも吐息ともとれる声を漏らしたかと思うと、突として右腕を上空へ振りかざした。

 今回はさすがに何か起きると予期できたガーフィールが、ペトラを脇に抱いて場を離れる。少女はロズワールの後ろにいたため熱風の影響を受けていないが、これからも安全であるという保証はないのだ。恐らくはロズワールもそれを知っているからこそ、わざわざ大げさな動作でガーフィールを促したのだろう。

 するとそこに、屋敷の方から近付いてくる影が一つ。その顔を見たガーフィールは、ロズワールは最初からこうするつもりだったのかと嫌な気分になる。

 

「俺様はてめェの助手でもなんでもねェんだがなァ、ロズワールの野郎」

「――ガーフ! 大丈夫ですの!? それと、ペトラは……」

「いいッとこに来た、姉貴。ちょいとペトラを屋敷まで運んでッくれや」

「は、運んでくれって……ガーフは戦う気ですの!? 相手は大罪司教ですのよ!? せめて、もう少し様子を見てから、」

「そんな暇ァ無ェんだ。大将を、必ず取り返す。大罪司教だからなんだってんだ、一度は捕まえられたじゃァねェかよ。だから今度は俺様が、この手で、やるんだ……ッ!!」

 

 ガーフィールの心中に去来するのは、数多の感情を糧に今なお燃え続けている熱意。単なる復讐とは毛色が違う闘志だ。激情の中にしかと理性を宿した、彼こそ最強最硬の盾に相応しい。

 彼に抱き上げられたペトラも目を伏せ、つとフレデリカを見上げる。

 

「フレデリカ姉様。ここはガーフさんに任せて、私たちは戻りましょう」

「ペトラまで……」

「これがガーフさんと領主様に出来ることだから。だから、任せる。私たちは、私たちに出来ることをしなきゃ」

 

 ロズワールを言及した瞬間に瞳を過った光、それを見ぬふりしてフレデリカはペトラを譲り受ける。見た目通りに軽く、か細い少女の体。フレデリカに亜人の血が流れている事を抜きにしてもその軽さは変わらない。本来ならばこんな所にいていいはずのない、普通の女の子だ。

 彼女は戦う術も逃げ延びる術も持たなければ、特別に頭が回る訳ですらない。使用人として多少要領が良いだけで、一般人と何ら変わりのない少女。裏切ったロズワールを許すつもりはなく、救ってくれたスバルを諦めるつもりもないただの少女。しかし平凡な少女には過酷すぎる環境で、気持ちの矛盾と無力感を味わっているのだ。

 

 ペトラはこれまで、世間一般とは一風変わった環境で成長してきたと自覚している。今は目を覚まさないナツキ・スバルが姿を現すようになってからは、異常だと思っていたことが日常面をして彼女らの生活に舞い込んできた。それは未知の恐怖よりも、新鮮な刺激という方が強かった。だから彼を追ってメイドにまでなった。

 一介の村娘がいうようなことでもないが、それなりの死線は経験してきたつもりだ。生か死かを賭けた鉄火場で、そばにはいつもスバルがいた。だから頑張れた。だから我慢できた。だから好きになった。

 

 今日、そのスバルを失う事になるかも知れない。

 それが恐ろしくて、不安で、本当はずっとそばにいたい。離れたくない。

 生憎と、そのスバルを救えるのは自分ではない。

 それが悔しくて、心残りで、本当は皆と一緒に戦いたい。逃げたくない。

 しかし、ペトラは無力だ。ガーフィールやロズワールが前線にいるならばお荷物にしかならない。いるだけで皆の邪魔になる。フレデリカも、クリンドも、あのオットーですら、今のペトラでは彼らの足手まといになってしまう。

 

 ゆえに、今は諦める。ガーフさんに、そしてご領主様に任せよう。だが、未来は違う。

 いつか、いつか必ずだ。武力でなくとも知力で、あるいは他に培った力で、必ず役に立ってみせる。頼もしいという言葉が聞けるようになるまで、みんながあっと驚くぐらい頑張ってやる。

 未来のスバルを救うのはペトラなのだから、今のスバルまで救おうとするのは無粋だ。欲張りだ。

 

「うっ……ぅう」

「大丈夫ですわよ……ガーフと主様がきっとスバル様を取り返しますから、安心してくださいまし」ペトラを抱いて走りながら、フレデリカはあやすように優しく言葉をかける。「よく頑張りましたわね、ペトラ。泣いて叫んでも誰も見ていませんわよ」

「……っ、ぅぁああ、ぁぁぁあああああぁあああ…………!」

 

  つまりこの涙は、未来への誓い。いつか強くなって大きくなった自分へ向けた約束だ。

 今だけは、頬を流れる涙に、心を包み込む気持ちに、胸の中の温もりに甘えよう。

 溜め込んでいた恐怖と不安の堤防が決壊し、溢れだした『愛』を受け入れて、ペトラは思い切り泣き叫んだ。覚えている限り、生きてきた中でも一番大きい声で泣いた。喉が嗄れて目元が赤くなるまで。フレデリカがよしよしと頭を撫でるのを止めるまで。

 

 自分の、そしてみんなの居場所が、無慈悲な炎に包まれて焼け落ちている光景を、見るまで。

 

「うそですわ…………屋敷が……燃え、てる」

 

 呆然と、フレデリカが脱力した声音で呟く。抱き上げられたペトラからもよく見える炎は既に八割方をその腹の中に呑み込んでおり、今から消火を試みたとて全焼は免れまい。そもそもこれだけの炎を消す手段を二人は持っていない。屋敷一つが丸々火の手に侵された様は、二度目ながらいっそ壮観でかつての悪夢を否応なしに彷彿とさせた。

 シリウスの襲撃、及びスバルの拉致に屋敷の炎上。雪上霜を加える圧倒的な脅威を前に、メイド二人はあまりにも無力だ。

 

「フレデリカ! それに、ペトラもいるかしら」

「っ! ベアトリス様ですの!?」

 

 そんな時に屋敷の正面からみて左側、厩舎の方から聞こえた複数の足音。見れば両の髪とドレスを揺らしながら走ってくるベアトリスと、その後ろをオットー、更にはパトラッシュとフルフーが付いてきている。その慌てぶりから、予想を違わず事態は深刻、解決の目処は立っていないことが見受けられる。

 一足先に合流したベアトリスが、呼吸を整えて事情を話す。

 

「時間が無いから手短に説明するのよ。これは魔女教徒の仕業かしら。おそらくは脱走した『憤怒』の権能、あるいは……」

「——『暴食』、そのどちらかです。襲ってきたのは、『憤怒』だけじゃありません」

「なんですって!? それじゃあ、大罪司教が二人も来たんですの!?」

「そ、そんな……」

 

 数秒遅れて追い付いたオットー引き継いだ説明に、フレデリカとペトラが驚愕の色を浮かべた。当然の反応だ。やたらと魔女教に狙われる機会が多いエミリア陣営だが、これほどまでに直接、幹部級の大罪司教が二人して襲ってきた前例はない。発端ともいえる『強欲』と『暴食』にレムの名前が奪われたのもそもそもの被害はクルシュ率いる白鯨討伐隊が主であったし、プリステラ攻防戦においては各陣営が集結している場合だったのだ。エミリアの死亡が確認されて以降、魔女教がその本拠地を叩きに来るなど全く予想だにしていなかった。

 

 オットーの隣に並ぶフルフーの広い背にはアンネローゼがぐったりと横たわっている。十中八九、欠片の容赦もない悪意の襲来に衝撃を受けたのだろう。一方でパトラッシュは主であるスバルの姿が見えない事に焦りを覚えているのか、鼻息を荒くして今にも飛び出していきそうだ。

 そんな地竜の喉をさすってやりながら、ベアトリスが説明を再開する。

 

「今ここは二人の大罪司教に襲われているのよ。『暴食』はクリンドが足止めしているけど、さすがに一人に任せるのは危険かしら。皆の安全が確認出来たら加勢に行くのよ」

「ええ、クリンドに頼りきりにしていては屋敷直属のメイドとして面目ありませんわ。皆……ガーフと旦那様は『憤怒』と交戦中ですので、あとは」

「ラム姉様とレムさん……と、メィリィちゃんも」

 

 ミロード家に仕えているクリンドは、時たまアンネローゼに同行してロズワール邸を訪問することがある。よりにもよってその滞在期間にシリウスが襲来したわけで、ロズワールの分家にあたる執事とはいえ実質顧客にも等しい相手に、言うなれば自分たちの問題を押し付けているようなものだ。本人がどう思うかは考えるまでもないが、フレデリカ達にだって相応のプライドというものがある。

 

「姉妹の姉は妹の方を助けにいったかしら。『暴食』が現れたのは東棟だから、クリンドさえやられなければ多分、割と大丈夫なのよ……それより、問題なのはメィリィの方かしら」

「確か、座敷牢……それも場所は東棟の地下でしたわよね」

「えーと……その座敷牢なんですが、地下への階段が火炎で完全に遮られているんです。遠目でもとても人の通れる状態には見えませんでした。中にまで火の手が及んでいるかは不明ですが、それも結局は時間の問題かと」

「ではメィリィ以外の安全は確認できたので、彼女の救出には私が向かいますわ。ただ、それだとクリンドが……」

 

 ガーフィール同様亜人の血を引くフレデリカは、その力を発揮して女豹の形態へと変身することが可能だ。声を大にして言うことでもないが、クリンドに仕込まれたおかげで制御が利く彼女の獣化は、普通の人間には困難を極める事柄でも容易くこなせるようになる。それが火勢の盛んな屋敷の中であっても、僅かに残った足場を器用に辿って地下へ下り、少女一人を連れてくるに足るだけの力は十分にあるだろう。

 しかしそうすると、今現在も『暴食』と相見えているというクリンドへの応援が手薄になる。常日頃から並外れた万能さを見せている彼が苦戦する様子は想像し難いが、かといってあの『暴食』相手にすら余裕でいられるだろうかと考えれば、正直曖昧なところがある。両方とも底の知れない不気味さと、いざという時のポテンシャル――というよりは本気を出した力――が未知数であるためだ。

 レムを助けに行ったラムも未だに戻ってきておらず、クリンドへ向かうのはベアトリス一人ということになる。

 

「……べティーは一応、『暴食』と戦った事があるのよ。マナはあまり貯まってないけど手助けくらいなら出来るかしら。それに、隙を見て逃げる選択肢もあるにはあるのよ。それじゃあ、残ったこの場はオットーに任せたかしら」

「分かりました。どうやら今回は僕が体を張る必要が無さそうなので、内心ほっとしているところですよ」

「武闘派内政官の名が泣くのよ」

「その称号、あんたらが勝手に付けただけなんですけどねえ!?」

 

『暴食』はこの一年強で被害範囲を急激に増やした迷惑者であり、多くの被害者やその関係者が躍起になって解決法を探っているのだ。今のところ確立された方法はないため、『暴食』本人に訊くか討伐でもしなければ手の施しようがない、という最終手段の考慮が色濃くなりつつある。

 そんな人物が目の前に現れたのなら、せめて小さな手掛かりでも欲しくなるのが道理だ。危機と共に降ってわいた、まさに千載一遇の機会。劣勢でさえなければ是非とも捕まえたい相手。

 しかし、状況がそれを許さないのならば大人しく断念するだけの冷静さを、ベアトリス達はまだ保っている。目先の欲望を優先してがむしゃらに挑んではかえって痛い目に会う事を知っているのだ。

 

 フレデリカとベアトリスが各々の役目を果たしに屋敷へ飛び込み、オットーはペトラをパトラッシュに乗せて周囲を警戒する。こんな火事場では野生動物もほとんどが逃げてしまい、『言霊の加護』を持ってしても情報収集がままならない。せいぜいオットー自身と、二匹の地竜が防衛の全てだ。

 それでもやらないよりはマシだろうとしばらくの間加護を発動していた彼は、背後から物音がしたのにふと気付いた。

 

「……?」

 

 最初は枝か何かが落ちた音に聞こえた。だがそれが一度でなく二度、そして三度四度と次第に増え、更には近付いてきたなら話が変わる。行進のように、いやもっと無秩序な雑踏のように何重にも反響しながら接近してくる音──違う、これは声だ。物音でも足音でもない。『言霊の加護』が、なにものかの声を捉えたのだ。

 しかし、そうとなると方向がどうにも不可解だった。オットーが待機しているのは現在進行形で燃え落ちている最中の屋敷の前だ。本能的に火を避けるはずの動物が、火災の震源地に自ずから近寄る。それも恐らくは複数が。もはや懐かしくも思える嫌な予感が脳裏を過った。

 人ではない何かが束でやってき──

 

「きゃぁっ!?」

「ペトラちゃん!?」

 

 ──遅きに、失した。

 危険を察知したまでは良かったものの、考察にばかり没頭していたオットー。警戒を行動に移すより早くそれはやってきた。

 悲鳴の上がった方、パトラッシュに乗っていたペトラへ慌てて振り向く。両手をぶんぶんと蚊でも払うように振っているのが見えた。パトラッシュも彼女の異変に気付いたようで、即座にその場から離れる。両方とも外傷は無さそうだ。だが、安心には至らない。

 

「どうしたんですか!? パトラッシュちゃんが気付けなかったなんて、何が……」フルフーの手綱を掴んで歩み寄り、恐る恐るそれを覗き込む。「白い、ウサギ? なんでこんな所に……いや、いやいやいやいや! この角は、……お、多兎じゃあないですか!」

「おおと?」

 

 姿を現したのは白い毛を生やした丸っこいウサギ。これだけ小柄ならパトラッシュに見えなかったのも納得、混乱して迷い込んだのかとも思ったが、額に小さく突出した角がその考えを放棄させた。

 多兎。強大な力を持つ三大魔獣の一角として知られている生きる災害、魔女の生み出した負の遺産だ。

 

「でもたしか、多兎はスバル様とベアトリスちゃんが魔法でやっつけたんじゃ……」

「ええ。僕もそう聞いていますが」

 

 一年ほど前、聖域での話だ。絶えない食欲を満たすため多兎は聖域に出現し、その際スバルと契約したベアトリスが陰魔法の最高峰、アル・シャマクを放ち別次元へと強制的に送り込んだはずなのだ。まとめて処理したので証拠が残らず公には認められなかったが、むしろそれこそが唯一の証拠でもある。あれ以来、多兎の出現はどの国でも目撃されていない。間違いなく多兎は全滅したはずだった。

 

「まさか一部だけ取り逃がした? 一匹でも生きていれば、増殖して元通りになるらしいですけど……いや、だとしてもなんで、よりによってこんな時に……」

「ど、どうしたらいいの、オットーさん?」

「それは、その……っ、とりあえず逃げますよ!」

 

 倒したはずの脅威が復活し、あまつさえこの最悪のタイミングで現れる。これが災難でなくてなんだというのか。

 辟易するほどの己の悪運に背を向け、フルフーとパトラッシュを連れて逃げ出す。屋敷にいる面々に伝えなければならないが、オットーの非力な身体では方法が思い浮かばない。危険を承知して屋敷に飛び込むか、当面の安全を優先して自分たちだけでも逃げるか、選択を迫られる。

 

「ええい儘よ! こうなったら一か八か、『暴食』に押し付けてやりますよお!!」

 

 魔獣は基本的に誰にでも仇なす悪質な存在だ。なかんずく産みの親である魔女を目の敵にしているらしく、現代ではそれを信仰する団体である魔女教徒に対しても非常に攻撃的な態度を見せる。三大と呼ばれる特殊枠でも、それは共通した性質だ。ならば多兎を『暴食』のいる所まで誘導し、ターゲットをそちらに移す事が出来れば、最低でも逃げ延びるだけの時間稼ぎにはなるだろう。

 そうと決めたら一直線、扉の焼け落ちて口をぽっかりと開けた玄関に二匹の地竜ごと突っ込む。しかしその直前にまたもや待ったが掛かった。

 

「ラム姉様!」

 

 玄関の奥、本棟からラムがレムを背負って出てきたのだ。オットーは慌ててフルフーを停止させ、後ろの様子を確かめながら一息吐く。 

 

「ラムさん、大丈夫ですか! いま、多兎があらわ、れ、……」

「……」

「あ、あれ──ラムさん……じゃなくて、レムさん? え?」

 

 現状を伝えようとした直後、『ラムとラムの妹に気安く近づかないでちょうだい』とでも払われることを覚悟していたところ、予想外の展開にオットーは意表を突かれた。煌々と熱と光を放つ炎に紛れて分からなかったが、近寄ってよく見ると二人の位置が逆転していたのだ。思わず間の抜けた声を漏らし、瞬きを繰り返して二度見、三度見する。

 意識が無い状態で肩に頭を預けているのは薄紅の髪をしたラム。そんな彼女を背負い、焼け落ちつつある屋敷から歩いて出てきたのが青髪の少女、レムだ。

『暴食』の被害に遭い寝たきり状態のまま動けないレムを、ラムが救出しに行ったのが数分前のこと。しかし今は、助けられるべき存在であるレムが、本来ならば助ける側だったはずのラムを背負って火災現場を脱出してきた。多兎といいオットーは夢でも見ているのだろうか。

 

「レムさん……ですよね? その、一体なにが、」

「……オットー?」言葉を遮り、低く冷たい声音で割り込むレム。「他のみんなはどこ?」

「ええ?」

 

 ピシャリと撥ね付けるレムの言い草に、オットーは答えにつっかえる。

 

「ベアトリスと、フレデリカよ。どこに行ったの?」

「えっと、屋敷に入っていきました。ベアトリスさんはクリンドさんに加勢をしに。フレデリカさんはメィリィちゃんを助けに行きました、けど……」

「ふうん、ならいいわ。……ところで、あなたは私のことどう思ってるの?」

「僕がレムさんを、ですか? い、いや、ナツキさんにとって大切な女の子、ぐらいでしょうか。僕はそもそもレムさんにあった事がないので」

「そう」

 

 訊いたから答えたというのに乾いた反応を見せられ、オットーの胸中には疑問が増すばかりだ。

 まず一つ目に、存在が忘却されたはずのレムがどうして意識を取り戻したのか。まさかクリンドとベアトリスが二人掛かりで『暴食』を倒し、権能が解除されたとでもいうのか。だとしてもレムが起きてラムが意識を失った理由が分からない。

 そして二つ目は、レムの言動に違和感を覚えたこと。この場にいない二人の行方を訊いたのはともかく、オットーの言葉を遮ってここまで孤高を持する性格だったのは予想外だ。唯一記憶を維持していたスバルによると、レムは多少の刺こそあれどラムと比べれば全体的に明るい女の子で、姉妹ながらも接し方に差異があったと聞く。ところが今さっきの発言を聞いた限り、むしろ彼女はラムの雰囲気にそっくりだった。

 

「何がどうなっているんだか、頭がついていけませんよ……。でもレムさん、とりあえずここは危ないので、いったん屋敷の中に、」

「――――!」

「パトラッシュちゃん? フルフーも、急に叫んでどう、――ぐはっ!?」

 

 オットーがレムに避難を促そうとしたその時、突如地竜が体当たりをかました。特に受け身も取れずに吹っ飛び、数メートル先の地面を転がった。お腹をさすりながら起き上がる。

 そして目の当たりにしたのは、目を疑う光景だ。パトラッシュがペトラを落とさないよう器用に身を翻し、レムに向かって突進している。一方オットーを突き飛ばしたフルフーは、更に背に横たわっていたアンネローゼを振るい落とした。

 瞬間、その巨躯は二つに分かたれている。

 

「ぅ、きゃああっ!?」

「アンネローゼちゃん……フルフー──ッ!!」

 

 急な衝撃にアンネローゼが目を覚まし、ようやく状況を理解したオットーがフルフーへ駆け寄る。鋭利な刃に裂かれたような傷口を晒して頭部の欠けた地竜の元へと。

 人間となんら変わらない紅色の血が、オットーの足と落とされたアンネローゼの体を浸していく。呼吸器を刺す黒煙が薄く立ち込めた中でも死臭は強烈に漂う。息を吸う度に、鼻腔に流れ込む命の残滓。死んでしまえば人も地竜も同じだ。

 目と鼻に続いて今度は耳が痛い。後ろからは百を下らない、おおかた聴覚の限界だろう、実際は千を軽く凌駕した兎の歯軋りと飢えた鳴き声が響き渡る。鉄の臭いが近くでするなと思ったらオットー自身の血だった。彼の顔ももう血まみれだ。

 加護の副作用か精神的な負担か、頭が重くて痛くて冷たくて苦しくて邪魔で仕方なかった。脳が丸ごと消えて鉛でも詰め込まれた気分だった。

 そういえばパトラッシュとペトラはどうなったのかと目を向ける。

 

 視界が真っ赤に染まっていてよく見えなかった。

 レムが一人佇立し、足下に何か肉の塊みたいな物が二つほど転がっているだけだった。

 

「あーあ、バレちまいましたか」

「………………は?」

「そこの鈍感クズ肉はまだ分かっていやがらねーんですか? それとも、知らない振りをしてオス肉らしくアタクシでイケナイこと妄想してやがる……ようなナリじゃあねーみたいですが」レムの青髪が光沢のある金に、簡素な服が剥き出しの肌に、溶けるようにして色を変えていく。「まあいいや。今日は残念ですが時間ないんで、さっさと片付けてやりますよ」

 

 ルグニカでは王都付近でよく見られる金髪。悪意と欲望に陰った赤い瞳。貧相な体つきでありながら大胆に露出した痩躯と、不自然にそこだけが人と違う刃状の歪な腕。

 その姿を見て全ての謎が解けた。オットーは半ば呆然とした意識で考える。

 もはや、『憤怒』と『暴食』が奇しくも同じタイミングに奇襲を行ったと知りながら、こうなる事を予見できなかったのも滑稽に思えた。フレデリカに大罪司教は一人じゃないと説明口調で言ったくせに、二人でもないとどうして分からなかったのだ。

 馬鹿な自分を省みるオットー。作為的に仕掛けられた絶望を、悪運とは呼ばない。

『色欲』の背負っていたラムに見えたそれは、今はメィリィの姿をして倒れている。

 

「まだ、何か忘れてやがりませんかね」

 

 レムは――否、『色欲』は、大罪司教は、カペラ・エメラダ・ルグニカは、崩れ落ちたオットーを嘲り笑いながら呟いた。

 それと同時、数え切れないほどの多兎が怒涛の如く押し寄せてくる。オットーは加護が無くとも肌で感じ取った。

 感じ取ったところで、彼に出来ることはない。多兎は自身の体で瞬く間に場を埋め、オットーのみならずカペラとメィリィ以外の全てを隙間なく包み込む。炎が燃え移った仲間を食い殺し、先を塞ぐ仲間を食い千切り、偶然に歯が当たった仲間を食い散らかした。

 

「きゃははっ! なになに、もう諦めやがったんで? 悔しくないんですか? これだけの美少女を前にして、さっきは『誰かさんの大切な人』とか青くせー余裕かましやがって、それどこの台詞? もしかして狙ってたメス肉の前でカッコつけよーと準備してた? それならゴメン、聞いてるのアタクシだけでこれっぽっちも嬉しくねーし気持ちわりーから死ね。大切な女の子だぁ? 会った事がないだぁ? きゃはははは、善人気取ってんじゃねーよ! 顔さえ良ければ、体さえテメーの肉に合えばイイんじゃねーですか。友達いねー時に頂いちまえってんですよ。両方寝てるからテメーがどれだけ汁零しても気付きやしやがらねーだろ? 経験もねーくせに罪悪感だの正義感だのクソほどの意味もねーんだよ! 本当は羨ましいんだろーが、あのメス肉ともそのメス肉とも一つになりたくて仕方なくて一人で汚ねー汁垂れ流してんだろーが。クソにも満たねー小洒落た言い訳ほざいてねーでそんなに綺麗事がお好きなら童貞のまま死ねクソ肉! メス肉の事しか入ってねー腐った頭で一生懸命考えて、欲情する時の道具でしかねー下半身だけの体動かして、汁ドバドバ出しながら愛するしかねーアタクシに一矢報いてみやがれってんですよ! 出来ねーだろ!? お仲間ぜーんぶ死んで悲劇の脇役みてーに悲しみに暮れて、後は任せたとか言って綺麗に去ろうってか? ざけんじゃねーですよ、アタクシを愛せねー性欲まみれの腐れオス肉は、せめてアタクシの大好きなグチョグチョの肉になりやがって少しは女を喜ばせてみろや!!」

「……どいてください」

「ぎぃ、い、ぃぃぃィィィィィィ」

「あらら、もしかしてそっちの趣味でいやがりましたか? やだ、魔獣好きなんて変態! 馬鹿! アタクシそんなの聞いてなーい、アナタなんてもう知らないプンプン、ってか? きゃは、きゃははは! 最高じゃねーか! 傑作じゃねーですか! そりゃこのメス肉共に靡かねーわけですよ。アタクシが相手の好みを間違えるなんて、なかなかの曲者でやがりますね。じゃあちょっと目瞑っててね、いま着替えるから。覗いちゃダメだよ? だってギチギチでヌルヌルの魔獣の裸見て発情しちゃうんでしょ? きゃあ、もうアナタったら、困ったクズ肉なんだから!」

「そこを、どけって、言ってんだろうがぁ!!」

 

 罵倒交じりの嬌声を上げるカペラと、際限を知らずに集る多兎を振りほどき、オットーは喉をも潰す気で叫んだ。

 ただ、振るった腕が既に肩から消失していて、そもそも多兎の群れはもういなくて、代わりに完全な暗闇が自身を包んでいたのがその直後。そして、あれだけ耳障りで重なっていた声が、少しずつクリアになっていく。

 これも考えてみれば何の事はない。多兎なんて最初からいなかった。他の魔獣が変異させられていただけで、囲むタイミングを計って元の姿に戻したのだろう。結果オットーはそのまま魔獣の口内に放り込まれた。多兎の数がやけに多かった理由も、この魔獣の大きさを考慮すれば納得がいった。

 

「あー、面白かった。久々に興奮しちまいましたよ。……そうそう、多兎ほどじゃないにしても、そいつら雑食らしいんで。食べっぷりは保証しますよ?」

「っ──……」

「愛しくて愛らしい魔獣に身も心も食われるんですから、もっと喜びやがったらどうですか? それとも食う方が良かった? そりゃ残念なことで、きゃははは!!」

 

 魔獣の口越しに遠く響くカペラの声。彼女の存在は、プリステラ攻防戦の際に聞き及んでいた。

 その能力や特徴も、激闘の代価としてスバルたちが情報を持ち帰ってくれたおかげで、念のためにと頭に入れておいた。ものの見事に失念して為す術もなくやられたのだが。

 

 迫る、迫る。何も見えない闇の中、確かに死が迫ってくる。

 オットーを案じて待機させてくれた皆に申し訳ない。オットーを信じて少女二人と地竜を任せてくれた皆に申し訳ない。誰も守れず、最後まで役に立てなかった。皆へ、スバルへ、そして家族へ。この想いが、届くのならば。

 自分が何を考えているかも分からないまま、オットーの命はおやつ感覚で砕かれた。

 

 百聞は一見に如かず、とは誰もが一度は耳にしたであろう。

 しかしどれだけ有名で知れ渡った言葉でも、まさに言葉通り、いざその真意となると実際に経験するまでは分からないものだ。

 

『憤怒』の出現から数十分。阿鼻叫喚の切っ掛けとなった最初の戦場に戻っても、状況はほとんど大差無かった。

 

 魔女教大罪司教、『憤怒』を称するシリウス・ロマネコンティ。彼女の能力についてはプリステラ攻防戦の際、目撃者や被害者などによって多数の報告が挙がっている。

 一つは自由自在な炎の操作。そして一定範囲内で感情や感覚の共有と増幅、及び集団洗脳。

 間近で戦闘を行った吟遊詩人からは、理屈は解らないが一切の挙動も無しに相手の動きを止める、といった証言まであるという。これらの報告のみでさえ、多彩で広範囲な能力の持ち主であることが十分に窺えるはずだ。

 特に目立つのは感情の共有。何百何千と際限を知らない大人数の精神を一斉に支配し、全て同じ感情に染め上げて己の傀儡とする。一部その影響を受けない者もいるとのことだが、それもほんの例外に過ぎず、ほとんどの場合は抗う余地も無い。

 

「あああぁぁああああ、ら、ぅ……ッ」

「深く深く沈んで、熱く熱く燃えたぎって、この身を焦がすそれは『愛』! ああ、ああ! ああああ! 良いです! 良いですよ、最高じゃないですか素晴らしいじゃないですか! 天真! 無垢! 誠実! なんて雑じり気のない、純粋な『愛』なのでしょう!」

 

 頭を抱え、愛する者の名を口にしながら涙を流す男がいた。

 瞳の光沢は霞み、焦点を失い、ここでない何かを目の前に浮かべているようだ。見るからにまともではない。絶えず治まらない全身の震えが伝播したように、しかしどこか違う身震いをシリウスは己の両肩を抱いて行う。

 前者が愛情の暴走だとしたら、後者は感化された興奮の類だ。

 

「ガーフィール・ティンゼル君。あなたの『愛』は誰へ向けたものですか? 怒らないで答えてくれたら嬉しいです。ありがと。ごめんね? でも、私はあなたの綺麗な『愛』をもっと知りたいのです。だって、『愛』は優しいものだから。怒りも悲しみも要らない、ただただ愛してるという心だけが残れば、人は限りなく素直になれるのです。美しい。眩しい。そうでしょう? ほら、あなたの声を聞かせて頂戴?」

「う、が、ぁむ…………ラムッ、ラム、ラム、ラムラムゥッ……!」

「ああ、素晴らしい! 感動しました! 一途な純愛! ただ一人にだけ向けられた、至高の感情ぅっ! 他を見もしない盲目的な『愛』、それもまた良いものです! さあ恥ずかしがることありません。大丈夫、全部さらけ出しちゃってください。『愛』を恐れないで。遠ざけないで。放さないで。『愛』を信じていれば、諦めなければ、あなたは必ず報われます! 『愛』は裏切らない! それが道理! 真実! ああやっぱり堪りません我慢できません素敵ですなんて良いものなんでしょうか!!」

 

 向けるのは一方的な主張。聞くに値しない戯れ言を垂れ流し、シリウスはガーフィールに顔を寄せる。妖しげな光を灯した双眸が向かい合って彼の瞳孔は更なる暗闇へと沈んで行く。

 

「あらま、愛する相手が自分に振り向いてくれない? ああ、なんということ! それは残念です。聞いてるだけでも悲しくなっちゃう。悔しいですよね。時に腹立たしい事もあるでしょう。分かります。その気持ちが痛いほどに分かります! ありがと。きちんと話してくれると信じていました。ごめんね。でも心配しないで。たとえそれが叶わないようなものでも、『愛』さえあればどんな障害物をも乗り越えられるのです! 無理に見えるのは一時だけ、そうたった一瞬だけ。後に結ばれて一つになればそれは瞬きに過ぎなかったと気付けます。少し待てば、永遠にも思える至福の時間が待っているのです! 私とあなたの『愛』にはこれっぽっちの失敗も間違いもない! 俯くことはないのです!」

 

 極端に片寄っていて都合良く作り出した考えを、そうとは微塵も疑っていない素振りで語り続ける。利己的というには相手の心情を伺い、けれど自己中心的な歪曲を交えて身勝手に解釈した挙げ句、支離滅裂な主観を一般論に無理やり当てはめている。

 そんな暴論を飽きもせずに言いながら、ガーフィールとは反対の方向を見やるシリウス。そこには『愛』に溺れた、もう一人の男がいた。

 男は地に膝を突き、項垂れたまま動きがない。長い藍色の髪に隠れて表情は見えず、魂だけが抜かれたような、茫然自失といった様子で佇んでいるだけだ。耳を済ませば「先生」と繰り返し呟いている声が聞こえるが、そこに彼の自我があるかは疑わしい。

 

 シリウスはそんな彼をも見下ろして自論を喚き散らす。よく見ればその体はボロボロだ。隙間なく包んでいた包帯は半分以上が焼け落ち、内側の皮膚も所々が爛れて表面が化膿している。足元には粉砕されて鉄屑となった鎖と、常軌外の激闘を物語る不毛の地。そしてもはや原形の影もない戦場にぶちまけられた血痕。最も出血量が多いのはシリウスに違いないが、それと勝者は別のようだった。

 致死に近い傷を負ったにも関わらず尚も彼女は『愛』を語るのだ。

 

「『愛』の前には一切の壁がありません。種族も性別も年齢も外見も性格も環境も全て、全て全て、どんなものであろうと『愛』の前では均しく平等! そして公平! なので、後ろを振り向いてはいけないのです。一生懸命走って縋って追い掛けて捕まえなさい! 今は遠くても、必ず届くから! 異なる二人が一緒になって『愛』を分かち合う、これほどの祝福が他にあるでしょうかっ!? ああ、世界はこんなにも華々しい感情に満ちているのですね! なんという幸福! なんと美しき、」

「……愛」

「『あぃ――……ぃ、ぃぁぃ…………あ?」

 

 愛の真価を知った二人の男、そのどちらでもない声にシリウスの語りはふいに空振りした。数秒だけ時が止まったかのような静寂から一転、首がもげる勢いで振り向いて目を見開く。勘違いでなければ、今の声はスバルの方から聞こえた。聞き違いでなければ、今の声は愛を発していた。思い違いでなければ、今の声はあの人の声だった。

 

「愛。愛。愛。愛。愛、愛、愛、愛、愛、あい、あい、あい、い、あ、あいあ、あい、いあい、いたい、いたい、痛い、痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。あぁ、身体中をくまなく包む激痛、これこそが生きている証明、そしてその痛みをも霞めるほどに……迸る、愛」

「あぁぁ……あなた、あなたぁっ、あなたなたなたなたああああ!? ああ、ああああ、あ、あああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」たがが外れた音量と激情で泣き叫ぶシリウス。「そんなまさかやはりそうでしたか私の目は狂ってなかった――ペテルギウス!!」

「ペテル、ギウス? ペテル、ぎ、ぁあ……そう、デス。そうデス。そうなのデス! 長い長い、深い深い夢から抜け出して、ようやくワタシは舞い戻った! 魔女の、魔女の魔女の魔女の魔女の魔女のぉぉ……愛を、果てなき愛を成してみせるために! 嗚呼、なんということデスか! 一年、いいやそれ以上もの間、殻に閉じ籠り惰眠を貪っていたとは! 極まりし無精! 赦されざる大罪! それ即ち怠惰ぁっ!! 四百年間、この身に余るほど有り難き寵愛と使命を受け、何度体が朽ち果てようと心だけは常に魔女へと惜し気なく向けていたというのにのにのににににににに……駄目、なのデス。いけないのデス。あってはならないのデス。尽きる事なき勤勉をもってすれば、我々の悲願の達成は目前にあるも同然だった! 生き馬の目を抜く数多の試練を乗り越え、変わらぬ愛を貫き通した先にこそ、ワタシの望んだ魔女の再臨があったハズなのデス! しかし従事は絶たれ、愛は虚空をさ迷い、魔女は遠ざかってしまった……あろうことか魔女を、こともあろうにワタシが、裏切って、しまったの、デス!!」

 

 渦中にありながらも、状況が戦闘へ移行してからはただの置物となっていたスバル。心身喪失の彼は目の前で殺し合いが起きても何ら反応を見せなかった。そのためロズワールたちも彼に攻撃が当たらないよう手加減を迫られ、結果として、スバル自身には余波の火傷や擦り傷が一部に付いた程度で済んだ。

 そんなスバルが今や狂人の振る舞いを――否、そこにいるのはナツキ・スバルの皮を被った狂人に他ならない。驚くべきことに、彼はシリウスの愛が込められた横説竪説に刺激を受けて起き上がったのだ。

 しかし、いざ狂人が覚醒すると、シリウスは顔に戸惑いを浮かべる。

 

「落ち着いて、ペテルギウス。私の最愛の人。『愛』は確かに大切です。素晴らしいものです。うん、ありがと。でも、魔女はこの世に要らない存在なのです。あなたの心を蝕む悪女なのですよ。ごめんね。私の話をどうか聞いて欲しいの。私には、あなたさえいれば、」

「何を言っているのデスか! まさに一生の失態、否、何百何千何万この命を捧げようとも、決して拭いきれない失敗を犯してしまったのデス! そう、サテラは悪女などと、あなた如きが蔑視していいような存在ではないのデス! 魔女より寵愛を授かりし者は皆、彼女を敬い、仰ぎ、拝み、さしずめ報えるべき愛を奉るのが至上の命題! あぁ、未だかつてないほどに濃密な愛が卑賤な我が身を満たす……然れども福音書を持たず、里程標すら見失った愚かしいワタシに、愛を実現し損ねて罪深き咎人と成り果てたワタシに、願わくは然るべき罰をおぉっ!!」

「罪なんてとんでもない! やっとあなたを取り戻したというのに、どうして!」

「――罰。素晴らしい覚悟です。あなたが望むのなら、私は喜んでそれを差し上げるでしょう。ペテルギウス・ロマネコンティ司教」

 

 反応する暇も無かった。シリウスが狂人を振り向かせるのに熱中していたのとは別に、女は何の予兆もなく現れたのだ。

 動きの止まった二人の見つめる先、相変わらず簡素な装いで炎の中を平然と歩む少女が口の端を上げる。嘲りでも憐れみでもない至極純粋な称賛。彼女の心からの言葉に、狂人は涙を流し始める。

 

「ああぁぁぁぁ、ああああああぁあああ、パン、ドラ様ぁ……! ええ、その通り、まさにそれこそワタシの望み! 罰を、我が怠惰に相応しい絶対的な罰を望むのデス! でなくてはワタシは、永遠に果たしきれぬ罪を残したまま、魔女の目を鼻を口を耳を髪を手を足を体を愛をおおお! この目に映す資格も与えられず酔生夢死に朽ちてしまうのデス……!」

 

 膝を屈して声の限り泣き喚く狂人を、パンドラはただただ慈愛に満ちた微笑で見下ろす。一方シリウスはというと、パンドラへ向けた目をじっと離せずにいた。灼熱の愛に取り憑かれた両の瞳は瞬きを忘れ、半ばで骨の折れた鼻が焼け焦げた空気をいっぱいに吸い込む。

 

「……この、匂い。まさか」

「あら、お気付きになられたのですか、シリウス司教? 隠していたつもりだったのですが、仕方ありませんね――どうぞ、前へ」

 

 パンドラに促されてその人物が躍り出た時、明らかにこの場の空気が変わった。熱が殺気を帯び、涙が歓喜を発し、微笑みが影を深めた。

 立ち上がる黒煙に遮られた陽光の代わりに、照らすのは赤黒い光焔だ。それでもなお艶を失わない銀の髪筋。同じく輝きの欠けない紫紺の瞳は、けれどやや陰った瞳孔が世界を虚ろに見据える。

 そんな相貌と対照的に、血気の衰えた肌には木灰が張り付いている。故に輪郭は不確かだが見間違える事のない尖った耳。エルフの血を象徴する、二つとない証左。

 ペテルギウスと呼ばれた狂人は、胸が不意に疼くのを感じた。

 

「――っ! クソ半魔がぁ! 私のペテルギウスに近付くなぁっ!!」

「シリウス」

「ああ、忌々しい! ああ、憎々しい! 私のペテルギウスが起きた途端に、ここぞとばかりにでしゃばりやがって! 汚らわしい売女め、卑しい半魔め、そんなに私から彼を奪いたいのか!? 所構わず男をその淫猥な態度で誘惑し、さりげなく色気を覗かせて、私の愛を凌辱するつもりかぁぁ!? 大概にしろいい加減にしろふざけるなペテルギウスは私のものだ、クソ半魔ごときにくれてたまるか、地面に這いつくばって鼻水垂らして泣き叫んで許しを乞いながら焼き死ねぇぇっ!!」

「……シリウス、待つのデス」

「ペテルギウス! あなたはあの売女に弄ばれています! 男を惑わしてしか生きられないクソ半魔なの! でも安心してね、私が今すぐ、消し炭になるまで焼き払って」

 

 嬉々として殺意を煮えたぎらせるシリウスに、ペテルギウスが背後から一言。

 

「待てって言ってんだろうが」

 

 肉を突き破る鈍い音が、シリウスの胸元を穿つ。体にぽっかりと穴の空いた彼女は咳き込むと同時に血を吐き出し、ぎこちない動きでそれを見下ろす。残り少ない血が陽炎のごとく漂っていた。

 心臓を貫いたが目には見えないそれ。やがてゆっくりと抜かれる感覚に、熱された喉からうめき声を漏らす。

 

「ああ……やっと、あなたと一つになれた………………温かくて、優しい手――……」

「黙って死ねよ。インビジブル・プロヴィデンス」

「が、はっ」

 

 死に際だというのに恍惚な表情を浮かべ、くずおれるシリウス。その様子を直前までペテルギウスだった男は嫌悪感たっぷりの声で突き放す。元より激戦を経て重篤な状態だった彼女だ。息を引き取るのに大して時間はかからず、自分で仕留めておいて男の顔は浮かばれない。

 むしろ、胸中に異物でも紛れ込んだかのように服の上から強く握り締めては、苦虫を噛み潰したとばかりに舌打ちする。

 向き直る相手は、超然として落ち着き払っているパンドラ。

 

「どうやって俺を起こしたのかは後で聞くとして……パンドラ。あれから、どれくらい寝てたんだ?」

「ご心配には及びません。ほんの数ヶ月ですよ」

「そうか。……それで、この状況は?」

「賢者に捧げる饗宴、です。最後の準備に必要な欠片を全て一ヶ所に集めておきました。屋敷の方へ行かれればもう二つ、回収していただきますよ」

「なるほど。それじゃあ、そこにいるエミリア……ハーフエルフは?」

「ふふ。ああ、すみません。可笑しくて笑ったのではないのですが、逸る気持ちを抑えることが出来なくて、つい。見苦しい所をお見せしてしまいましたね」

 

 相好を崩した彼女は心底から嬉しそうで、見ている方が微笑ましくて幸せな気持ちになってしまう。

 男は『憤怒』の没した今でもそうした幸福を感じることより、一点の曇りもないパンドラの破顔一笑、その無垢な狂気に慄然とする。

 

「『嫉妬の魔女』の復活に、魔女の娘が不可欠なのはご存知でしょう。違いますか、ナツキ・スバル司教?」

「ああ、よく分かった。いや分かってたよ。いま思い出した。お前ら魔女は、マジで全員がクソだったってことをな」



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魔女の情愛

後編、完結です。
いろんな考察のごちゃまぜみたいな感じになりました。


 生活感の漂う場所から人の気配だけが綺麗に消えると、その落差があるだけ空しさも幾分か増して感じるものだ。

 つい最近まで使われていたのだろう、あちこちに放り出されたまま、主の帰りを待っているかのように光沢を放つ家具や作業道具の数々。いかにも職人部屋といわんばかりの作業場に中途半端な痕跡だけを遺して、停滞した時の中で朽ちるのを待つほかなく、もう人の手に触れることも、陽の光を浴びることもないガラクタ。

 散在したそれらから目を外し、部屋の外へ向かう通路の途中、冷めた死体が一つ転がっていた。日常から欠如した一欠片、けれど風景に溶け込むようにして息絶えたその男を見下ろしながら囲むのは三人の男女。

 

「……とうとう、何の罪もない人殺しちゃったな」

「無関係の人が不本意に貢献なさったのは、私としても心が痛いです」

「色々突っ込みたいけど、お前のその、犠牲じゃなくて貢献っていえるのスゲェと思うよ」

「それが悲願を成すに必要なのであれば、私はどんな罪を背負ってでも進みますよ。いずれ全ての人が救われるのです。ナツキ・スバル司教が気に病むことはありません」

「いや、別に殺した事に罪悪感とかはないんだが……エミリア以外からは興味を失くしたつもりだったけど、実際にただの人を殺したのは初めてだったんだよ。こうして振り返ってみると、俺はただ、成れたつもりでいただけなのかも知れない。いや、間違いなく賢人の出来損ないだ」

「そんなことありませんよ。まだ、準備が出来ていないだけです」

 

 黒髪黒目の青年と、白金の長髪を後ろに伸ばした少女が言葉を交わしている。人を殺めた後の会話とは思えないほど沈着で、慣れとは違う温度の口振りだ。そしてその二人を眺めるのがマネキンのような少女。上下共に黒い装束を身に纏い、僅かな隙間から覗く長い髪と、静謐に佇む双眸の持ち主だ。

 彼女は話に割り込むわけでもなく、ただ静かに二人を付いていくだけの無言。ひっそりと、機械的に、影法師の如く追随する。

 

「まあいいや。それで、ダーツさん……だっけ? その人が復元した福音書もこうして手に入ったわけだが」青年は、手に持った本を目線の高さまで掲げて誰ともなしに言う。「おい、聞いてるかペテルギウス。お前の話だよ」

「耳元……というか頭ん中で騒ぐな。お前が自分で納得しねぇから、わざわざこんな所まで寄り道してむこの人を殺したんだろうが」

「急ぐ必要はありません。ゆっくりと、着実に歩んでいきましょう。焦りは禁物ですよ、ナツキ・スバル司教、そして『怠惰』の因子……ペテルギウス・ロマネコンティ司教も」

「お前はお前で甘やかしすぎなんだよ」

 

 三人──いや、二人の会話が通路に響き渡る。

 このやり取り、第三者からしたらさぞかし奇怪に見えるだろう。明らかに一部が抜け落ちているにも関わらず、会話自体は成立しているのだ。この場にいない誰かの声を二人だけが聞いている、そんな違和感を、見る者に与える。種といったらなんだが、そのカラクリはスバルにあった。より正確に言うならばスバルの頭の中だ。

 彼は側頭部を軽く叩き、独り言に似て異なる言葉を再度発する。

 

「シリウスの権能で目を覚ましたはいいが……余計な奴まで起きやがって、しかもよりによってそれがお前って、ほんと最悪だな。お前のせいでどんだけ苦労したと思ってる」

「いい加減、その怠惰だの贖罪だの喚くの止めろよ。お前みたいなストーカーがちょっと寝てたからって魔女も怒らねぇだろうし、むしろホッとしてたと思うぜ。だからさっさと元に戻って寝てろ。そして一生起きるな」

「お前、俺の話聞いてた? その福音書をこうやって取り返したから大人しく引っ込んでろっつってんだよ。この体はそもそも俺のもんだ。お前なんかに貸してやる義理もクソもねぇよ」

 

 全て、一人で立て続けに喋っている。

 憑依とは少し毛色の違う精神状態だ。体は一つなのに意識は二つ。その優劣こそスバルの方が強いももの、自分の中に他人が混じった異質感はそうそう消えないことだろう。耳を塞いでも構いなく聞こえる声は、ただそれだけでも正気を少しずつ蝕む。狂気が重なれば尚の事。

 まるで多重の人格同士が内紛を起こしているようにも見える光景を、パンドラは感慨深く、そして満足げに眺めては頷く。

 

「七つの欠片……魔女因子は彼の中にあります」少し離れた所でちらと後ろを見やれば、相変わらず立ち尽くしたままの少女。「それに器と鍵、全ての条件が整いました。悲願はそれこそ目の前にまで近付いています。再臨の時は、近い」

 

 説明調で話し掛けても、少女の返答はやはりない。感情の欠けた顔で佇立したきり動きを止めている。

 その顔が不意に微動し、見つめる先に怠そうな声が一つ。

 

「なあパンドラ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか。……『嫉妬の魔女』を復活させると、あの子が戻ってくるって、本当なのか」

 

 パンドラが彼を連れに訪れる前まで、エミリアの死というあってはならない現実に致命的なショックを受け、外界からの情報を全て遮断していたスバル。その際、自意識の消失だけに留まらず、記憶の領域に多大な影響を残していった。

 その中でも特に、頭に穴を穿ったのではないかと思うほどの虚無感を与えた人物がいる。かつてはエミリアと同等に大切だと感じていた青髪の少女だ。世界に忘れられ、唯一スバルだけが覚えていたはずの、孤独な女の子。今や存在そのものや大切さのみを心の穴と共に抱えたまま、愚かにも救いたいと願う対象の一つだ。

 名前も、もう、深く沈んでいて、取り出せない。

 

 スバルの問いに、浮かべるのはいつもの微笑。パンドラは少女の手を引きながら出口へ向かい歩み出す。

 これで最後、最終段階だ。影に隠れて暗躍するのも、もうじき終わる。この一件をやり遂げた暁には、果たして日の下を堂々と出歩ける、新たな時代が幕を挙げるだろう。

 今までの時間は無駄ではなかったが、かといって理想の舞台には程遠かった。決して届かない領域でもないが、手を伸ばすことが出来なかった。しかしそれもあと僅かで過去の話になるはずだ。夢の実現は目前、これを逃す道は無い。

 四百年に渡る虚飾の日々に終止符を。待ち望んだ真なる世界への一歩に希望を。

 愛するこの世に、心からの、祝福を。

 

 通り過ぎざまに、一層笑みを深めてから弾んだ声で言い放つ。

 

「そうですね。では、最後の旅路の暇潰しに、お話致しましょう。——大瀑布の、向こう側について」

 

 

 ‡

 

 

「これは酷い……」

 

 嫌悪感を抑えきれていない声が、沈黙を破った。

 広大な西方辺境伯領内、宮廷魔導師ロズワールの本拠地とするとある敷地に大勢の人だかりが出来ていた。

 その場に集まったのは、呟きの主を筆頭に、数十人に及ぶ中規模の隊伍。王都ルグニカから派遣され急遽駆けつけてきた精鋭部隊だ。『憤怒』の大罪司教の逃亡から数時間、早くも異変が起きたとのことで来てみたら、その有り様は想像を遥かに越える激戦の様相を呈していた。

 

「ここが、ロズワール辺境伯の屋敷で合っているのだな?」

「はい。我々の管理している地図によれば、場所はここで間違いありません。一年ほど前に別邸が全焼したため、こちらに移ったとの報告が記録されています」

「そうか。ならいい」

 

 低く沈んだ声で問う影は屈強の巨躯。人一倍頑丈な身を鎧で包み、彫りの深い顔により一層深々とシワを寄せる厳つい顔貌。彼は王国近衛騎士団にて長の座を担う、マーコス・ギルダークだ。

 住所の正誤を衛士に確認させた彼だが、なにも地理に疎いという訳ではない。むしろ王都周辺の情勢や地理に関してならば、騎士団でも彼の情報網を上回る者などいまい。ただ、熟知しているからこそ記憶の中と現在との決定的な差異に驚きを隠せないのだろう。

 

 まず第一に、ランドマークとも言える屋敷の消失──否、焼失。遠くからでもその巨大なる偉容を惜し気なく披露していた屋敷自体が、瓦礫の山だけを残して烏有に帰した。原形どころか辺りの地形をも甚だしく変貌させた脅威、『憤怒』の仕業と見受けられる痕跡が痛々しく刻まれた不毛の地。

 マーコスが情報を掴んだ時点で既に手遅れの損傷が確認され、精鋭部隊を引き連れてようやく到着した頃には、先に送った部隊によって消化作業も終わりを迎えていた。

 しばらく跡地を眺めていると、一人の衛士が駆け寄ってきた。

 

「ギルダーク団長。屋敷を中心に目で見える範囲を捜索してみましたが、『憤怒』や住人などの生死は確認する事が出来ませんでした。瓦礫と木に埋もれている可能性も考えられるので、是非ともご協力をお願いします」

「ああ、勿論だ。障害物の除去なら俺の担当だからな」

「感謝します。ただ、崩壊の規模があまりに大きいものでして、思っていた以上の時間と労力が費やされるかと。捜査網を更に広げるべきだと判断したので、出来れば、王都へ増援の要請を……」

「私の出番、ということなら喜んで力を添えよう。生憎と蕾たちの援護は無いが、かといってお荷物になるつもりも無いのでね。……如何でしょうか、団長殿」

「お前は……」

 

 想定していたレベルを上回る被害範囲が報告され、更なる人員を必要としていた所に、自ら役目を買って出た声。振り返ると、見覚えのあるようでないような優男が紫の髪をそよ風に揺らしていた。彼は軽やかな動作で姿勢を低くし、頭を垂れたまま再度口を開く。

 

「アナスタシア・ホーシン様より騎士の資格をお預り頂きました、私ユリウス・ユークリウスと申します。今は名も無きただの剣士……しかし、たとえ存在が忘れられようと、王国への忠誠心と騎士道だけは曲げませんゆえ」

「お前の話は聞いている。『最優の騎士』、とまで呼ばれていたそうではないか。すまないな、覚えてやれなくて。では頼むとしよう」

「恐縮ながら、その称号は今の私には荷が重く、なんとも複雑な、……忸怩として過去の失態を悔やむばかりです」

 

 言い終えて立ち上がると、青みがかった肌の地竜が側に近付いてきた。流れるようにその背に乗ったユリウスが、衛士から現状における調査結果の書簡を受け取ってマーコスに一礼。マントを大きく翻しながら踵を返す。洗練された一連の動作に、無駄も迷いも見受けられない。

 しかしその後ろ姿が、何故だかひどく孤独なものに見えてマーコスは息を吐く。後輩の管理も上司の仕事の内だ。

 

「ラインハルト、お前も増援要請だ。ユリウスについていけ」

 

 今回の騒動に思う所があるのか、ただ黙々と作業を続けていた赤毛の騎士に、振り向かないまま言った。

 

「僕も、ですか? しかし、そうすると余計に時間が掛かるのでは……」

「『最優の騎士』を任せたと言っているのだ、『剣聖』。責任を感じることも仕事に励むことも道理だが、友と話し合うことだって時には必要だぞ。一息抜いてこい」

「は、承りました」

 

 苦笑を浮かべ、命令を受けてすぐに自分の地竜へ駆け寄るラインハルト。そして、マーコスに目礼だけ残してその場を去る。

 マーコスは下手な励ましよりも真っ直ぐに考えを伝えるのを好む人だ。その性格を特に気にした事はなかったが、今は何となく、ささやかな有り難みが感じられた。彼の人間性の片鱗とでもいうべき部分が、まさにそこにあったのかもしれない。

 前方、まだ見慣れない紫髪の騎士の背を追い、ラインハルトはぐっと手綱を握る。地竜の足取りを並べるのはそう難しくなかった。

 

 

「やあ、ユリウス」

「……君か」ラインハルトを見たユリウスは驚いたように瞠目し、当然の疑問を投げてくる。「どうした? 跡地の調査はいいのか」

「団長に行けと言われたんでね。君さえ良ければ、同行させてもらうよ」

「それは心強いな。断る理由もない」

 

 爽やかに整った顔立ち、文句の付け所がない腕前、それに真っ直ぐな倫理観。どことなく似た雰囲気を醸し出す精鋭の中の精鋭二人だ。

 しかし、その間に流れるのはよそよそしい空気と曖昧な距離感。突き放すでもなく、かといって親しげに迎え入れるでもない微妙な態度で互いに接している。先に会話の蓋を開けるのは、ラインハルトの方だ。

 

 

「僕は今、どうすればいいのか分からないんだ」

「——。君がそんな弱音を吐くとは、中々に珍しいものが見れたな」

「ということは、これまで君の前での僕は常に強く在れていたわけだ。安心したよ」

「その言い方だと、内心は不安を感じていたというふうに受け取れるのだが。君に限ってそんな事が……あったのか?」

「それは僕も一応人間だからね。まあ、確かに態度に出るほど落ち込んだ経験はあまり無かったと思うよ。周りに心配かけるのも悪いし」

 

 

 普通ならば、そのあまりというのも大層なものなのだが、相手が相手なだけに自然と腑に落ちた。

 

「だから、ここまで心に迷いを覚えるのも、慣れてないんだ。情けないことにね」

「迷い」

「今回、国中を大きく騒がせた『憤怒』の脱走……そもそも大罪司教の監視には僕が付いていた」

 

『憤怒』の大罪司教、シリウス。プリステラにて勃発した攻防戦の末に、彼女の身柄を拘束したラインハルトは王都までの護送を担当した。凶悪極まりない大罪人、それも並外れた力を持つ存在だ。貴重戦力を投じて厳重な警戒態勢を敷くに越したことはなく、ラインハルトとしても彼女を放すつもりなどなかったため、王都へ送り届けた後も彼が監視役を任されていた。

 それは、特別に隠すような事柄でもないのでユリウスや他の騎士たちも当然知っている内容だ。くいと顎を引き、ユリウスは続きを促す。

 

「けど、たった一日。いや数時間だ。その間、僕は用があって『憤怒』の動向が分からなくなる程度に離れた場所へ行っていたんだ。何か連絡があればすぐに駆けつけることが出来るけど、第一目撃者として対処するには少しだけ遠いところに」言いながら、長く伸びた街道の先へ視線を移す。「フェルト様のいる、アストレア邸だよ」

「なるほど。そして、ちょうどその時に脱獄が行われたと」

「そういうことになるね」

 

 王都ルグニカの王城、その真横に位置する監獄塔から、上層のアストレア邸までは遠くもなければ近くもない距離だ。いくら『剣聖』といえど、目に見えもしない範囲の問題は察しにくい。他のことに気を取られていた上に、得体の知れない大罪司教が相手であれば彼に非はないと言える。

 これはどうしようもないタイミングの問題だ。

 

「事情は分かったが、仕方のない事だったのではないか? 四六時中『憤怒』の側で監視を続ける訳にもいかないし、何より用件が理由で場を離れたのならそれは不可抗力といえる」

「うん、ありがとう。騎士団や知り合いの皆も、そう言って励ましてくれたよ。『憤怒』から情報を引き出すのに手こずっている尋問官が悪いってね。でも、もしそうだとしても、だよ。僕が迂闊に監視を怠った責任が消える訳じゃない。大罪司教がそれを狙ったのかは定かでないが、僕が席を外した隙に脱獄したのは紛れもない事実なんだ」

 

 唇を噛み、悔しさを表すラインハルト。ただユリウスは、その顔に混在する感情に何か、別のものが含まれている気がした。

 

「アストレア邸には、何の用で向かったのか訊いてもいいかな」

「そうだね。もしかしたら、マーコス団長もこのことで僕を同行させたのかもしれない」

 

 興味本位で問うた言葉に、真剣な返し。

 このこと、とは何を指すのか。頭上に疑問符を浮かべたユリウスに、ラインハルトは僅かな逡巡の後、笑い顔にも困り顔にも見える表情で言う。

 

 

「親友である君にこそ話そう。──フェルト様が、病床に伏した。なんの予兆もなく、原因も不明。数日前から調子が良くないと仰っていたらしいが、今朝になって急に悪化した。意識を失ったそうだ」

「は」

 

 理解の及ばない内容にユリウスは息が詰まり、まともな反応も出来ずに吐息するのがやっとだった。

 王選候補者の一人で、他でもないラインハルトの仕える主君、そして龍に選ばれた少女──フェルトが倒れた。自分の話でもないのに、頭が大きく揺さぶられる感覚をユリウスは味わう。

「ちょっと待ってくれ。それは……」

「ああ。一、二年前に王族の方々が突如として病魔に襲われ、お倒れになったのと状況が似ている。ここまで来たらまったく同じと言ってもいいだろう」

「それじゃあ君は……過去の脅威が、惨事が再来したと、そう言いたいのか」

「いいや、それは少し違うよユリウス。脅威でも惨事でもない。これは、『試練』なんだ」

「試練、だと? ……すまないが、私には君が何を言おうとしているのか分からない」

 

 突拍子の無い言葉を放ったラインハルト。聞き慣れない、いやそれ以上に、彼の口から出てくるとは思いもよらなかった単語に、ユリウスは戸惑いを覚えた。

 試練。

 まったく聞き覚えのない単語でもない。約一年前にも、魔女教の大罪司教『怠惰』という狂人が口走っていた言葉の中に、それがあった。ハーフエルフを器に魔女を降ろすという荒唐無稽な内容だったため真に受ける事は無かったが、他でもない『剣聖』が言及したのだ。そうなると、ユリウスとしては嫌でもそれらの関連性を考えてしまうし、そこにフェルト──王族の末裔と疑われる存在まで加わるのだとしたら、なおさら気にせざるを得ない。

 

 

「ラインハルト。君は一体、何をどこまで知っている?」

 

 どことなくいつもと違う雰囲気を纏った友の横顔を見、そう問い掛けた。

 ラインハルトにとってユリウスは数ヶ月前に知ったばかりで、騎士の仲間である事こそ認めてくれたが、『暴食』の被害によって記憶が消えたことに変わりはない。知り合って間もない、素性不明の男に果たして重要な私情を打ち明けてくれるのだろうか。

 細めた紫の目に不安が過ったのも束の間、思いがけない返事が返ってくる。

 

「僕は今から、この世界の真実を話す。君とも無関係じゃないことだよ、ユリウス・ユークリウス」

 

 思わず耳を疑った。

 フェルトに関わる事情が、どうしたら世界そのものの真実とやらに繋がるのか。何故そのようなことを知っているのか、という疑問より、大きく飛躍した話題にユリウスは驚きを隠せなかった。

 頭が目まぐるしく回転する。試練、フェルト、世界、真実。無関係でないとの決定打が、彼を黙らせる。

 

「『試練』というのは簡単に、器があるかどうかを見極める段階のことをいう。ここでいう器は受け皿じゃなくて器量の意味だよ。つまり彼らは、フェルト様が相応しいか試してるんだ」

「何に対してだ?」

「理想と現実の二つを結ぶ、架け橋だよ。この世界は大瀑布を四隅に置いて孤立している。でもそれは、一部間違った情報だ。確かに大瀑布の向こう側には何も無い。龍の背に乗って飛んでいこうが、なんなら世界丸ごとひっくり返したとしても、これ以上新しいものは出てこないさ。ただ、それが全てってわけでもない」

 

 ラインハルトは、日常の話でもしているかのように淡々と語る。世界の真実、真理というものを。友への相談や告白というよりは、独り言に近い語調で。

 途中、ふと王都とは僅かに違う方向を見据えた彼の視線を追って首を回す。遠く、霞んで見える彼方の上空を、何か黒い雷のようなものが迸ってるのが見えた。いや、遥かなる天へと勢いよく昇る、それは黒龍が如く。やがて雲を貫き、四方へと爆ぜて洪水と見紛うほどの夥しい影が広がっている。

 ユリウスの記憶が間違っていなければ、あの先にはアウグリア砂丘と呼ばれる魔境があるはずだ。

 

「それは、つまり」

「あるんだよ。裏側の世界が」ラインハルトの視線は、黒い影にくっついて離れない。「僕らの生きてるこことは違う、理想の叶う場所がね」

 

 

 ‡

 

 

「平たく言ってしまえば、そこは影に呑まれなかった半分の世界です」

 

 振り返ったパンドラが前方を指差しながら言った。

 

「影? それって、『嫉妬の魔女』の影か?」

「ええ、その通りですよ、ナツキ・スバル司教。四百年ほど前、彼女によって実に世界の半分が光を失いました。そして三英傑が立ち上がり、彼女を封印して平穏を取り戻した。だれもが知っている有名な話ですが、恐らく誰に訊いてもその時に起こったより具体的な状況を、正確に答えられる人は殆どいないでしょう。いま、私たちの立っているこの世界は言うなれば日陰です」

 

 暗い場所だ。光の通り道が無く、外側から完全に遮蔽された空間を一行は歩いていた。スバルの目に二歩先を進むパンドラの表情は見えないが、ここに来てからというもの比較的饒舌になっている気がする。ちらと背後を振り向けば、暗闇と同化した黒一色の衣装の合間、神秘的に輝く銀の艶がエミリアの位置を教えてくれる。

 握った手は、驚くほど冷たい。

 

「影に覆い隠されてるってことか。で、そこにお前ら魔女教はどう関わってくるんだ?」

「今の話は半分、比喩として受け取ってください。影に呑まれたといってもその中が真っ暗にはなりません。そうですね……見えない檻に閉じ込められた、と表す方が分かりやすいでしょうか。しかし正しい歴史から弾かれ、人為的な舞台に放り出された人々は当然、外界の存在など知り得ません。そう出来ていますから。ですが、鳥籠の中の鳥も、時には自ら扉を開けて飛び立つ事が可能ですよね。私たちの場合、そこに一役買うのがまさに、魔女因子に他ならないのです」両腕を広げ、歩きながら熱弁を振るうパンドラ。「魔女因子は日陰の理から逸脱し、外の世界とを繋げるための鍵。改革に不可欠な必須要素です」

 

 歩みを進めるにつれ空間は不気味さを増していく。狭隘な一本道を塗り潰した深黒、その奥から微かな臭いが漂う。スバルの中の本能的な何かを扇ぎ、引き寄せる安らぎの臭い。詳しいことは何も知らずにパンドラの後を付いてきただけだったが、今となってはある種の使命感さえ感じていた。

 行かなければならない。ナツキ・スバルとして、一度は賢人を成そうとした身として、七つもの原罪を宿した者として。

 そこに待ち受ける運命がどうであろうと、自分が自分である限り、そこを目指して歩まねば。いっそ焦燥感にも似た衝動が、スバルの足を動かす。

 

 この幽々たる空間に来てからどれくらいの時間が経っただろうか。

 途中に一度だけ分かれ道があったきり、迷いようもない道をひたすらに進んでいた。方向感覚以外の体感はすでに混乱を示しており、握った手と動かす足だけに集中して、曖昧な意識をかろうじて保つ。時間も距離も分からない。ただ、身体の動くがままに任せる。

 所々を聞き逃していたパンドラの語りが、スバルの意識を思い起こさせるように流れ込んでくる。臭いは最初に比べて一層強く、目的地がかなり近いと認識した。

 

「──以上の理由から、魔女教は方向性をおいて大きく二分されています。定められた運命に抗い、天上の観覧者を欺いて世界の解放を望む者たち。もう一つは、無知の安寧と未知の恐怖に溺れ、虚飾に塗れた平穏な日々の継続を望む者たち。私はいわば新世界へ臨む解放派ですが、多くの魔女教徒の方々からは反対されてしまいました。創設当初に比べれば驚くべき変わり様です。なので、私は少数でも闘うことを決めました。そこで見つけ出したのが、ナツキ・スバル司教、あなたなのです。私は、あなたに賢人で在っていただきたい」

 

 果てしないと思われた暗闇の中から一縷の曙光を掴み取った冒険家が如く、パンドラは希望に目を輝かせる。純粋な、本当に純粋で汚れのない、透徹した瞳を炯々と見開いてスバルに微笑みかける。

 返す無言。それを受け取り、彼女の視線が前を向く。

 

「自分が特別な存在であることを、あなたはもっと誇ってもいいですよ。賢者でなくして世界の真実にたどり着けるのは王の血族くらいです。ご存知ないですか? つい先日、ルグニカ王家の皆様方が突然病没なさりました。実に残念ですが、試練に打ち勝つことが出来なかったのでしょう。真理へ至るには一時的な死の克服──あまねく魂の往き着く場所、オド・ラグナへの接触が不可欠ですから」話題の転換のため、一泊を置く。「さて。もうすぐ出てくる『魔女の祠』ですが、伝承通り件の魔女が封印されています。四百年、その年月を経てもなお朽ちず、障気を道標に賢者が辿り着くのを待っているのですよ」

「道標……なり損ねた俺でもいいのか」

「最終的に、彼女一人を愛していただけるのであれば」

 

 愛。

 あい。

 辟易するほど、耳どころか脳にタコが出来るほど聞き古した言葉だ。とある狂人が暇さえあれば連呼していた言葉だ。けれど、それを本気で飽きたと思った事は一度たりともない。

 愛は簡単に言い表せないものだ。行動で示しがたいものだ。ありとあらゆる方向から接近し、考えうる全ての術を講じて初めて為せるものだ。魔女はそれを、たった一人の賢者に愛を求めるらしい。

 

 一人だけに向けた絶対的な愛。それが賢明たる者としての在り方で、嫉妬の化身への唯一といえる到達手段。知らなかった、訳ではない。思い出した。パンドラの返事を聞いた瞬間、閃くようにして感覚が甦ったのだ。

 だが、深く考え込む前に思考は途切れる。

 

「着きましたよ」

 

 言われる前から気付いてはいた。むしろ、これほどまでに巨大で、視覚的にも嗅覚的にも目立つものを見逃すはずもない。

 ようやく立ち止まったパンドラの見つめる先、静寂と厳威を湛えて佇むのは両開きの扉。よく見ればいくつかの宝玉が嵌められており、それがただの装飾でないことはすぐに理解した。見覚えも無いくせに、スバルはその扉が自分にこそ相応しい代物だと傲然と思い至った。理由も経緯も知った事ではない。ただ、そう思った。

 

 息が荒くなる。瞬きの回数が小刻みに増える。唇をペロリと舐め、軽く噛んで唾を飲み込む。鼓動がうるさいのは息遣い一つ聞こえない静謐さゆえか、はたまた心臓が張り裂ける前兆だとでもいうのか。頭が真っ白になって今なにをしているのか分からなくなる。

 どうだっていい。

 逸る気持ちと裏腹に、近寄る足取りは慎重を極める。ゆっくりと、恐る恐る片足ずつ踏み出す。

 

「扉に、手を」

「……あぁ」

 

 背後の声に促されるまでもなく、スバルの右手は扉へと伸びていた。

 触れた指先から掌に、そして腕と首を伝って果てには頭へ何かが流れる。痺れ、悪寒、あるいは爽快感。そのどれでもなく、どれでもあるような味わった事のない感覚が身体中を駆け巡っている。

 それらが意味するところは境界の消失。ナツキ・スバルという存在が一時ばかり俗世を逸し、輪郭を失った領域に導かれる。現実と理想の狭間、在りうべからざる世界へ。

 似たような経験をどこかでした気がして、とある墓所での追憶が思い浮かんだ。次いで、スイッチを切り替えたかのような暗転。いつの間にか発光していた七つの宝玉の輝きが、瞼の裏に残留する。

 

『「真なる愛を、世界から影を取り除く愛を、その身とその心に為すために。最期の候補である貴方に、最後の試練を。——では、いってらっしゃい」

「おかえりなさい、あなた」』

 

 意識が溶け込む直前と直後に耳朶を打った声が重なって、スバルはつと顔を上げた。

 上げたはいいが、何も見えない。手を振っても足を動かしても空を切るばかり。目を思い切り瞑ったような、闇を闇と認識できない感覚。不思議と恐怖はない不可視の空間に、柔らかい声音だけが響く。

 

「ぁ、ごめんなさい。ちょっと魔が差して、言ってみたかっただけです……怒らないで、ください」

 

 不安の宿った言葉に耳を傾けると、得体の知れない既知感が胸中を過った。

 知っている。スバルはこの声を、声の主を知っている。けれど思い出せないのだ。喉につっかえたのでもなく、そもそも自身の中にあったのかも疑わしい、ぼやけて曖昧な記憶。

 口という概念を忘れて考えに耽っているスバルに、再三その声が掛かる。

 

「ここがどこだか、分かりますか? とても限定的な空間です。一度来たらそれ以降、二度と機会は訪れません。だからこうしてお話が出来るのも、今だけ」

「ぁ、あ──……、君、は」

「無理しなくていいですよ。急ぐ必要も、慌てる必要もないですから」

 

 発声方法は理解した。しかし、未だに相手の名前が出てこない。むやみに手を伸ばし、前後左右に振るいながら、聴覚だけを頼りに声の主を探す。

 反応は、思ったよりもずっと早かった。

 文字通り闇の中を彷徨っていた指がふと温もりに触れた。はっとしてもう片方の手も伸ばすと、共に包まれた。手だ。相手もスバルと同様に、手を伸ばして握ってくれている。

 

「温かいですね。ずっと、こうしていたいぐらい」その声調に込められた空しさが、スバルの心を強く刺激する。「でも、駄目。あなたには、この温もりを忘れてもらわなきゃいけない」

「どう、して……?」

「知らない、なんて言わせませんよ。ただ一つの愛。果たすべきはそれのみ」

「ぁ、……」

 

 そうだ。そうだった。スバルは愛を求められて、ここまで来たのだ。一途な愛を、盲目的な愛を知るために。

 スバルの意思に僅かな油断が生じた。見えない影はここぞとばかりに、追撃を放つ。

 

「大切なもの一つだけを抱え、それ以外の一切合財は切り捨てる。賢明な生き方です」

「やめろ。俺は、そんなの望まない。無理だって分かったんだ。一人しか見れなくなると、視界が途端に狭くなる。世界に二人しかいなくて、他は与太なものに思えて、……そのたった一人を失いでもしたら、全部が覆る。何も見えなくなるんだ。直接、この身をもって経験した。二度と立ち直れなくなるかもしれない衝撃が、胸を抉るんだよ」

「身の丈に合った手段を選んでこそ、本当の幸せ、つまり愛を掴み取れます。欲張って得られるものはありません。あれもこれもと抱えるだけ抱えた後は結局、支えきれずに崩れてしまうでしょう」

「やめ、ろって……」

「一人の手で掴める希望は決まっています。一人の背で負える絶望は決まっています。限界がすぐそこにあると知りながら、どうしてわざわざ破滅の道を選ぶのですか? 一人の愛は一人の為に。理想の道は一筋だけ」

 

 賢人で在ることを不定するスバルに、影は容赦なく現実を叩きつける。現実という名の脅迫を。選好という建前の強要を。

 救えなかった記憶。取りこぼした過去。数え切れない絶望と忘れられない後悔を経てスバルはいまも立っている。繰り返し挑んで惨めたらしく泣きわめき、決して少なくない失敗を残しながら生きてきた。正論の刃は、スバルの心にはいささか鋭く効きすぎる。

 刺され、破れ、貫かれ、零れ、崩れてぐちゃぐちゃになる。けれど、無くなりはしない。

 一度全てを失ったから。愛で継ぎ接ぎの心は、ボロボロでももう放さない。穴が空いたら塞いで、壊れても押さえて、飛び散れば拾い集める。それが愚者なりの生き方だ。

 

「破滅じゃ、ねぇよ。俺一人の手に収まりきらなかったら、他の手も借りる。背負えなくなるほど重かったら、後ろを支えてもらう。皆で皆を守ることは身の丈に合ってるだろ。そうして全部を持っていく。絶対にだ。今度こそ、何一つ置いてはいかねぇ。だから君も、いつか、きっと」

「いつか、きっと? 根拠も何もない約束を結んで、残酷な現実に投げ捨てられて、また駄目だったと破りますか?」

「舐めんな。俺くらい現実とタイマンしてる奴なんてそうそういないぜ。そいつの口からゲロ吐かせるまで糞みたいに付きまとって、次の日には友達になってやるよ」

 

 訳もわからない闇の中で、スバルは引き攣った笑いを見せながら親指を立ててみせた。

 失ってしまった愛、愚かなる覚悟を固める礎としてとある少女を想って。

 

「——本当に、困った人です」

 

 ふ、と呆れの混じった笑みと吐息。

 

「いつもそうです。一番危なっかしいのは自分なのに、他人にばかり気を遣って無茶をする。優しいくせに無駄に頑固で意地っ張りで言うことを聞かなくて、賢くなんか、全然、ない」

「え?」

「無理して足掻いて、抗って、誰もが諦めるようなことを最後まで諦めない。そんなスバルくんが、好きです」

 

 影が晴れる。闇だけを取り払う突風が繋いだ手を中心に吹き抜け、満ち溢れる光にスバルは目を細めた。

 露になる素肌。腕から肩、下に胸、腰、脚と続いて上に顔貌が表れる。清冽な瞳を縁取る睫毛に雫が溜まり、微笑みに緩んだ口元は柔らかく弧を描く。肢体を包むのは玲瓏な光の衣。吹き付ける風に青い髪と共にふわりと舞い、落ちた逆光で涙を煌めかせていた。

 

 名前は知らない、けれども大切な少女がそこにいた。

 

「……お前、は」

「よく、試練に打ち勝ってくれました」

「打ち勝つって……でも、これは賢人になるための試練で、これじゃあ俺は失敗したんじゃ……」

 

『魔女の祠』とやらへ向かい、怪しげな扉に触れて始まった試練だ。今さら誰が出てきても不思議ではないはずだが、先ほどの会話の相手が彼女だったと言われると、どこか腑に落ちないところがあるのも否めなかった。

 試練の内容をとっても疑問は尽きない。賢人になり損ねたスバルを改めて完成させ、世界の解放を是としたのがパンドラだ。スバルとしては失った大切な人を救えるのならばと協力態勢を取っていたが、それでも愚者であることに縋って、望まれた愛を捨てた。これでは当初の目的と違うのではないか。

 

「ここの試験官は、——です。達成条件は、自分の在り方を見出だすこと。賢人も愚者も関係ありません」

「答えを出せれば、どっちでも良かったのか。だとしたら、パンドラは」

「スバルくんが理想を追いかけ、賢人へ堕ちることを狙っていたのでしょうね」

 

 現実の厳しさをぶつけ、理想へ誘った。試験官ではないので直接干渉する事が出来ず、最終的な決断を誘導しようとしたのだ。

 恐らくはそれこそが、唯一にして決定的な錯誤。

 

「スバルくんは愚者を望んだ。それは立派な答えであり、彼女への矛にもなりえる」

「パンドラへの、矛」

 

 これ以上賢人の在り方を受け入れられないスバルにとって、パンドラは味方か。協力する価値のある、仲間だろうか。

 反旗を翻して勝てる相手とは思えない。今さら真意を悟ったところでもう遅い気もする。必要とあらば、彼女はもう一度スバルを絶望の底に沈める覚悟があるだろう。

 

「俺は、愚かなままでいたい。お前を救って、サテラもきっと救って、取り逃がした希望を出来るだけ掴んでみせる。失ったものは戻ってこないけど……それでも、いい。踏み違えた世界でも、今ある幸せを噛み締めて生きていくよ」

「はい」

「パンドラは多分、エミリアの体にサテラを降ろすつもりだろうが、そうはさせたくない。頼ってばかりで身勝手だけど、どうすればいいと思う? 神様仏様に祈っとくか?」

「スバルくんは、スバルくんのままでいてください。それで十分ですから」彼女は目を閉じ、溶けそうな声で囁く。「——お願いをするために祈るのは傲慢だと思うんです。祈るのは、許しを得るとき」

「——。俺は傲慢なんだ。欲張りなんだ。だから、叶うならいくらでも祈るよ」

「……もう」

 

 軽口を交ぜた言葉に彼女が唇を曲げた。それを見てはにかみ、スバルは握った手に力を込める。世界の輪郭が、ぼやけてきたのだ。

 試練は終わった。行き先を見失っていたスバルの、再開の切っ掛けに。そして虚を飾った魔女への、反撃の狼煙に。

 視界が歪む。足場が不安定になる。嗅覚も聴覚も段々と消えてゆき、けれども目の前の笑顔だけはくっきり残っていた。忘れない。忘れるものか。スバルは形のない手を強く握って、薄れていく印象を魂にしかと刻みつける。

 やがて色すらも消え、しかし意志のみが陽炎のようにたゆたい、何もかもが崩れる音と降り注ぐ光に満たされる。

 

 

 ‡

 

 

「おかえりなさいませ。賢者、ナツキ・スバル」

「……こんなにドキドキしないおかえりは始めてだな」

 

 一瞬で空気の質と圧迫感が変わり、スバルは味気ない歓迎の声を余所に呼吸を整える。どれだけの時間が経過したのかは判断基準がないため不明だが、恐らくは『聖域』のそれと同一視して良いだろう。長くも短くもない間だったはずだ。

 妖しげな光を灯した扉の宝玉に照らされ、こちらを覗き込むパンドラの顔に影が落ちる。吊り上った口端が余計に歪に見えた。

 

「誠にご苦労様でした。見たところ試練は突破されたようですね。因子のほうも、無事、七つとも扉に刻印されています」

 

 言われ、見上げるスバルの頭上。七つの燐光が仰々しく輝く一方、スバルは道中胸の奥で蠢いていた何かがすっぽりと抜け落ちたような、妙な空虚感を覚えていた。最初に『怠惰』を倒した際の異質な感じより、七つが同時に消えた喪失感のほうがずっと強く蟠る。なんだかんだ言って、割と馴染んでいたのかもしれない。

 そして因子がスバルにない今、『死に戻り』の権能ももう消えたはずだ。真にやり直しなど許されない状況、一度過てばそれで終わりの一番勝負というわけだ。安堵とも不安ともつかない鳥肌が立つ。

 そうして伝播する寒気を、どこか懐かしい温もりが打ち消した。扉に触れた右手、エミリアと握り合った左手。両方冷たかったのに、今は片方が温かく感じられた。

 

「エミリア」

「…………」

 

 スバルの前で一度は死んだエミリアは、何の反応も見せてくれない。相変わらず命令を待つロボットのようにじっと佇むだけ。形だけの動く死体に他ならない。エミリアの場合、『嫉妬の魔女』の器に過ぎないのだろう。

 この熱を、僅かに残った手の余熱を努々忘れないようにしよう。これ以上心は揺るがない。

 

 長いこと手入れを怠い無造作に伸びた髪が靡く。無意識に息を呑む手前、扉が見た目にそぐわない無音と微風を伴って動き始めた。数百年もの間陰気な空間に放置されていたとは思えない。だが、これも真理とやらの一端なのだろう。

 その腹に無際限の深淵を孕んだ扉は、ついに雑音一つ立てることなく開かれた。見ている方が吸い込まれそうな深い闇の大口に嫌でも目がいく。

 そして、解き放たれる。

 

 スバルは最初、それが波紋に見えた。黒染めの鏡面に広がる波紋といえばファンタジーな心が擽られるものがあるが、徐々にバネのような弾力を帯びて波打ち変形しながら、得体のしれない巨大な影が這い出てきたともなればただ眺めている余裕もない。四方に柱状の影が伸びて壁は壊れ、気付くのが遅すぎた波擣に為すべもなく押し流された。

 

「くっ……えみ、りぁ」

 

 繋いだ手が解かれたのを傍目にそれは一気に膨れ上がる。一片の慈悲もかけずに空間そのものを破壊し渦巻く影。地響きを引き連れて天井に亀裂を入れたかと思うと、すぐに抉じ開けるようにして侵食し始めた。考えるまでもない耳障りな音が地下を埋め尽くす。倒壊というのもおこがましい暴力的な災いを見せつけられながら、スバルは半ば気を失って瞑目する。

 

 吐き気を催す浮遊感に目を開けた時、瞳孔に映ったのは一面の橙と透き通る青だ。前者が砂丘で後者が空だと気付くのに二秒かかる。地下から押し出されたのみならず、勢い剰って上空に投げ飛ばされたのだ。もう着地まで一秒の猶予もない。上下反転した視界は、影が飛び出すと同時に真っ暗になった。

 打ち付けられる衝撃とざらついた感触。口内に入った微粒を唾と一緒に吐き出し、ようやく自由の利くようになった体を動かしてみる。

 砂が緩衝材の役割を果たしてくれなかったら、ただの人間に成り下がったスバルは死んでいただろう。しかし、生きた心地のしないスバルに追い撃ちをかけるように、影の暴走は留まることを知らない。一直線に中天に浮かぶ太陽を貫き、挙句には蒼穹にまで喰らいつく。蓋い尽くされた頭上に現るのは、夜空だ。

 

 かつての『大災害』を経験していないスバルですら、彼の悪夢に限りなく近い惨状が再び繰り広げられているのだと理解した。それこそまさに、この世界が丸ごと呑み込まれていくようだ。『聖域』で垣間見た憑依とは規模が違う。

 そこまで考えたところで、ふと思い至った。この災いの中心にはエミリア──を器にして降臨した『嫉妬の魔女』──がいる。

 

「ご心配なく。封印を解いたことで溜まっていた影と瘴気が溢れ出ただけです。嵐はじきに、止むでしょう」平然と、白金に艶めく髪が乱れないよう手で押さえながらパンドラが並び立つ。

 スバルは立ち上がり、暗幕の向こうを睨む。「どうやって……分かるんだ?」

「そもそも『嫉妬の魔女』の再臨を可能としたのは七つの魔女因子です。怠惰、憤怒、暴食、色欲、強欲、傲慢、嫉妬……全ての欲望をその身に宿したならば、収束する結果は一つ」

「どう、なるんだよ」

「──人と、成る」

 

 二人の見つめる前方に、影を纏った少女が立っている。夜の帳を落とした空の下、吹き荒れる黒砂と押し寄せる影の波を浴びて色づいた瞳を、二人へ向けた。冷めきったその眼差しに、期待した優しさはない。

 

「『賢者』、ナツキ・スバル。人に成り下がった『嫉妬の魔女』を殺して、新たな世界を切り拓く先駆者となってください」

「パンドラ」

「はい」呼ぶ声に、彼女の視線が僅かな間少女から離れた。

 刹那、少女の口許が不適な笑みに歪む。「俺は、お前の言うことはもう聞けない」

 

 おびただしい程の障気が舞い上がり、スバルとパンドラを一息に包んだ。空気中のマナが枯れ、穢れていくのが皮膚で感じとれる濃密さ。すぐにでも正気を手放してしまいそうな狂乱が襲い来る。

 予測していない展開にパンドラは首を傾げ、脱出を試みる。しかし、物理を絶つ漆黒の壁は彼女の手を拒んだ。治まるはずの影の奔流が治まらない。

 さすがにこれはおかしい。何か自分の知らないところで別の意思が働いているとパンドラは悟った。

 

「お前さ、俺が気付いてないと思ったか? エミリアやあの子を餌に出しときゃ俺が馬鹿正直に何でも従ってくれるだろうって? まあ、否定はしねぇよ。最初は本気で騙されてたんだからな」

「……何の、真似ですか? 何を仰っているので? 魔女因子を全て失ったあなたは今やただの人間。私はともかく、あなたは死にますよ」

「見て分かんねぇのか。騙してた奴に仕返しするのを裏切りって言っていいかは知らんが、まあ似たようなものだ。──カーミラ、お前だろ。エキドナにかわれ。俺に『傲慢』を寄越せってな」掛ける声は前方、エミリアの姿をしていた少女だ。

「ひっ、わかっ、た、から……え、エキドナちゃんなら、ちょっと、待って……待ってて、ね」

 

 薄赤色の髪を伸ばした少女が、そこにいた。エミリアの姿は跡形もない。そんな光景を目の当たりにして、けれどスバルは予想通りという顔をしていた。

 

「大正解だよ、『賢者』ナツキ・スバル。いいさ、君に、『傲慢』の座を授けよう。僕の好意と親しみを込めてね」

「変なもん混ぜてんじゃねぇよ。言っとくが、お前がカーミラの能力でエミリアに変身してたことを、俺はまだ許してねぇからな? そもそもどうやって復活したのかも聞いてねぇし」鋭い目付きを、今度はパンドラに向けて放つ。「お前もだよパンドラ。よくも、こんなくだらねぇことをしてくれたもんだ」

「な……、いつから気付いて──いつから、手を組んでいたのですか!?」

「似たようなことが前にもあったんだよ。それと、これだ」

 

 首が弾けて死んだエミリアが、目を覚ましたスバルの目の前に現れた時に全身を揺るがした動揺は忘れ難い。まさか生きていたのかという歓喜と、後にそれが偽物だと気付いた落胆で取り乱さなかっただけ上等だと思う。もっともその偽物という認識も、当初はプリステラにおいて行く手を阻んだ先代『剣聖』と同じ魔女教の傀儡だとばかり思っていた。

 しかし、共に行動をする度に言い表せない違和感は募っていき、過去の記憶と、試練での出来事が重なってようやく思い至ったのだ。『色欲の魔女』カーミラの権能、『無貌の花嫁』に。

 なにより決定打として、試練を終えて目覚めた時、生きていないはずのエミリアから温もりを受け取った。正確に言うならば、熱を放つ魔鉱石が装着された道具──ミーティアだ。

 

「一応謝意を贈っておくよパンドラ。僕の手にかかれば、君を封じる術式を組む事も不可能じゃない。こうして全ての魔女因子が僕の手に入ることを織り込めば、ね」

「悪いな。最後の最後で裏切るのは悪役の定石だが、なんなら魔女教は今日から俺が引き継いでやるよ。安心しろ」

「そのような、わけには……私には、世界を解放するという使命が……、」

「散々人を騙し殺しておいてまだ言うか。バチが当たったんだと思っとけよ、お前自身が積み上げてきた『虚飾』の代償としてな」

 

 魔女を倒すことは、今のスバルには出来ない。だが、それは四百年前においても同じだった。

『剣聖』、『神龍』、『賢者』。英傑とまで称される逸材が束になっても、彼の災厄を止めることは叶わなかった。だからこそ彼らは、討伐ではなく封印を選んだのだ。

 詳細までは知る由もないためスバルの想像でしかないが、かつての彼らは、未来の英雄が意志を受け継いで解決してくれるのを信じていたのではないだろうか。倒すなり何なりして、彼女の呪縛を解くことを後世に委託するために。

 

「いつか、何もかも全部うまくいって、めでたしめでたしのハッピーエンドになったら……その時は、お前を終わらせる方法が見つかってるといいな。俺は四百年の孤独がどれだけ辛いかは知ってるから、せめてそれまでには出してやるよ。出して、殺す」

「――――」

「エキドナも正直いうと気に食わねぇが、お前をどうにかするのが先決だと思った。その力は厄介すぎる。それこそ出来るだけ油断させて、大罪の魔女を引っ張り出さねぇと、まともとチャンスがやってこねぇくらいだ。一番手こずったよマジで」

 

 嘘一つ無い心情を吐露し、エキドナに渡されたミーティアをパンドラ目掛けて掲げる。スバルの記憶の中、俗に『賢者』と呼ばれるキャラクターが持つ杖に奇しくも酷似したデザインだ。魔女らしいといえば確かに魔女らしい趣向が凝らされたそれを、悪趣味だと舌打ちする余裕がスバルにはある。もちろん、最悪の魔女と手を組んだことへの不安や後悔も、無い訳ではない。

 しかし、目の前の虚飾に一矢報いることに関しては、一片の迷いも感じなかった。

 

「俺は魔女が嫌いだ。大嫌いだ。お前も、俺のことを嫌いになってくれたら嬉しい」

「ナツキ、スバル……あなたは、」

 

 スバルの手でも発動するよう細工されたミーティアは、その力を残すことなく叩きつける。

 パンドラが最後に目にしたのは七つに瞬く夜空の星々。スバルのもとへ、その内の一つが落ちてくる。

 

「あなたはとても、身勝手だ」

 

 

 ‡

 

 

 頭がどうにかなってしまいそうだった。

 世界が自分を置き去りにして通り過ぎていく。自分の知らないところで知らない誰かが時代を動かしている。もはやどこに立っているのか、どちらへ向かえばいいのか、何もかもが分からず薄れて沈む。

 名前は忘れられた。唯一の友は去った。築き直した関係は、訳の分からない真理とやらにいとも容易くぶち壊された。

 

「ユリウス。僕たちはもしかしたら、歴史的な光景を見ることになるかもしれない」

 

 王都へ向かい地竜を走らせていた際、東方の最果てに轟いた邪悪なる異変。本来の増援要請は霧散、王都への帰還と同時に二人を含んだ新たな部隊が組まれ、報告にあったアウグリア砂丘を目指して進むことおよそ三週間。すでに影の氾濫は消えており、一刻も早く状況を把握することが求められていた。

 住民の避難が完了した最寄りの町、ミルーラを素通りして数日が経った。進めど進めど距離が縮まらないプレアデス監視塔を目印に行進は続いている。しかし収穫の得られない長期任務と元来の過酷な環境は騎士団の志を一つ一つ着実に折り、その大半を振るい落とした。

 結果残ったのは魔獣を自力で退けられるラインハルトとユリウスのみ。そんな彼らも遠からず底を突くだろう食糧難に見舞われ、あと数日経っても進捗が見られない場合は撤退を余儀なくされる状況にまで陥った。

 

「歴史的光景か。ぜひ、そうであって欲しいものだ。これ以上何も出来ないよりは、まだマシかもしれないな」

「ちょっとこれは困ったね……数年前に来た時より、妨害が固くなっている気がするんだ。どうにかして近付きたいところだけど」

 

 代わり映えの乏しい日々。立て続けに起こる異常事態が国民の不安を煽り、血眼になって成果を獲んとする騎士団は上下からのプレッシャーに押し潰される直前だ。何としても手掛かりを持ち帰りたい一心で乾いた砂の上を進む。

 昨日とは何かが違う。そう気付いたのは、実に任務開始から二十五日目。軽い昼食を済ませ調査を再開してから数十分後のことだった。

 

「気のせいだったら悪いけど、あの塔、大きくなってないかい?」

 

 言われて見上げると、砂が舞う幕の向こう、プレアデス監視塔の偉容が確かに少しだけ大きくなったように感じられた。ただ、数週間にも亘って同じ景色を見続けているのだ。感覚が狂ってきたとしてもおかしくない頃。安易に希望を抱くのは正直躊躇われる。

 

「……この期に及んで進展が見られたとなると、誘われている気がしないでもないがね。確証はない。慎重に行こう」

「そうだね」

 

 ユリウスの言葉に頷き、先を注視するラインハルト。二人はいつにもまして警戒しながら任務を続行する。

 そして、ふいに視界が晴れた。

 

「ようこそ、お待ちしておりました。叡知を求め困難を越えたあなた方に、是非ともご褒美を差し上げましょう」

 

 迎えたのは、黒色の髪を後ろに結んだ妙齢の美女。砂嵐に隠れて見えなかったとしても不自然なほど唐突に過ぎる登場だ。薄い布を何重にも重ね着した独特な衣装をひらめかせ、ユリウスたちに歓迎の姿勢を見せる。

 あれだけ慎重に警戒していたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい堂々とした出現、場違いな印象につい返事を戸惑う。だが、先ほどの発言を聞き逃す間抜けではない。

 まして、彼女が鮮明に目視が可能な巨塔を背にしているとなれば疑わないわけにもいかないだろう。

 

「あなたは一体……いや、もしかして」

「ええ、お察しの通りでございます。ここは大図書館『プレイアデス』。世界の何たるかを知り尽くし、過去と未来、ありとあらゆる情勢を網羅した大賢人によって再構築された象牙の塔――あだっ」

「シャウラお前、勝手に謳い文句変えるなって何回言えば分かるんだ! その口調もどっから来たんだよ。完全にキャラ崩壊してんじゃねぇか!」

「ぶーッス。お師様が、古来より受け継がれてきた伝説の武器が眠ってる、神秘的な場所の案内役っぽく振る舞えって、散々言ってたじゃないッスか~。言われた通りにやってちゃんとアドリブまで加えたのになんで怒るッスか! 理不尽ッス! ブラック企業ッス! 労働環境の改善を申し出るッスよ~! あ、でも怒るお師様もあーしの好みどストライクなんで、もっと怒っても良かったりするッス!」

「アホ、俺はラストダンジョンの直前に訪れたら全部分かったふうの意味深な雰囲気残して、待ち受けていたのはまさかあの伝説の偉人!? ってなるように俺に会わせろっつったんだろうが。無駄なアドリブ入れて、しかも大賢人って思いっきりネタバレぶちこんでんじゃねぇよ!」

 

 彼女の背後から現れたまた別の人物が介入し、状況は更に複雑な様相を呈した。双方とも立場の差はあれど、端からだと兄妹の喧嘩を彷彿とさせるやり取りだ。しかしながら、ローブを被ったその男の横顔が垣間見えた瞬間、ユリウスは遠目に目撃した影の調査という本来の目的を忘れた。

 ああして雰囲気お構いなしに軽口を叩く黒髪の少年には、見覚えがあったためだ。

 

「ちょっと、待て……待って、くれ」驚愕を隠せず、頭が混乱している。「そこの、……シャウラ女史、で良いかな? 私はユリウス・ユークリウス。君の後ろにいる男が誰なのか、教えてもらえないだろうか」

「んー? 女史ってきょうび聞かねーッスけど、別にどうでも良いッスよ~。あーし、お師様が愛してくれさえすれば他は何にも要らないんで。でもそうッスね~、あーしのお師様が誰かって訊かれると、これは真面目に答えねばならないッス。マジ責任重大ッス!」

「僕からも頼もう。僕の名前はラインハルト・ヴァン・アストレアという。ユリウスの親友だ。そして、見間違いでなければ、そっちの彼も友だと思うのだけれどどうかな。それとも、一方的な僕の勘違いだったかな?」男の正体に遅れて気付いたラインハルトも、名乗り出て反応を窺った。

「うげえッス。あのレイドの子孫ッスか。やけに雰囲気クリソツだと思ったら……いや、こっちは割と礼儀正しいし、何よりお師様の前なんでまあ良しとするッスよ。もっとヤバイ気がするのは気のせいとして……でも出来れば近寄らないで欲しいッスね」

 

 アストレアという家名を聞いた途端に顔を青くして数歩下がったシャウラは、ぶつぶつと呟きながら物理的にも心理的にも距離を置く。

 

「とと、話題がズレたッス。あーしのお師様の偉大なるご尊名、とくと胸に刻むがいいッスよ~! この方こそ森羅万象を見極め、真理の扉を司る大賢人──」

 

 すると彼女の語りを手で制し、渦中の男が三者の間に進み出る。片手に本を、全身に黒い装束を纏った男はフードを取りながら吐息する。

 

「お前らと話すことはねぇよ。今はちょっと図書館漁るのに忙しいんでな。そこで、だ。悪いが今日はお家戻って、王都の掲示板でもなんでもいいから見えやすいとこにこれ貼っとけ。新生魔女教爆誕、志願者募集中──」

 

 持っていた黒い表紙の本を開き、何かを書き始める男。ペンをしまったかと思うとその頁を無造作に破り、指で弾いた。

 紙は宙をひらひらと漂ったのちにゆっくりとユリウスの足元に落ちる。その紙切れには、ただ一つの文章が荒々しく書きとどめられていた。

 

 「——『フリューゲル参上』、ってな」




魔女因子を七つ宿して人に成る下りは、原作者のASKを元ネタとしています。

Q.魔女因子って一個しか取り込めないのですか?複数可なら「スバル×すべての魔女因子=?」とした場合、?には何が入るのですか?
A.怠惰、憤怒、暴食、色欲、強欲、傲慢、嫉妬の全ての因子を取り込み、ナツキ・スバルはあらゆる欲望を内包した存在――すなわち、『人間』になる!!ヒトヒトの実を人が食べたみたいな結果に落ち着きそう。


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