夜想令嬢~放浪の女騎士アレクサンドラ (平沢ヒラリー)
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第一話・旅の始まり
序文~プロローグ


これは人に触れる事も、人から触れられる事も出来ない女騎士・アレクサンドラの物語。

 

これは失った愛を求めて旅をする女騎士・アレクサンドラの物語。

 

失った愛を求め旅する者、失われる事の無い愛を持ち旅する者、永遠に失われた愛を忘れず旅する者。三つの者達が時に交わり、時に離れ旅を続ける物語。

 

その旅の行き着く先が『約束の地』なのか、それとも全く違う場所であるのか。その答えは誰も知らない。

 

物語はアレクサンドラがヴァンパイアであった辺境伯婦人・エレオノーラを討ち倒し、エレオノーラの手によってヴァンパイアとなっていたアレクサンドラの妹、ノエルが目覚めた所から始まる。

 

 

 

 

〜プロローグ~

 

「私が、ヴァンパイア。あの伝説に出てくる吸血鬼?」

 

「そうだ。お前はエレオノーラの手でヴァンパイアにされたまま、ずっと眠っていたのだ。あの忌まわしき香の力によって」

 

「そうだったの。私は、人の血を吸う化け物なのね。そして、お父さまとお母さまをこの手で…」

 

「それは違う!ノエル、お前は断じて化け物などではない。お前は私の大切な妹だ。今までも、ずっとこれからも」

 

「お姉さま。でも…」

 

「私に真実を教えてくれたヴァンパイア達は約束してくれた、決して人の血は吸わないと。私はそれを信じようと思う。そんなヴァンパイアもいるのだ。だからノエル、お前にも誓ってほしい。決して人を襲わない、人の血は吸わないと。その代わりお前の事は私がきっと守ってみせる。だから、ずっと変わらないでくれ。私の愛するノエルのままでいてくれ」

 

「お姉さま……分かったわ、約束する。その代わり、私からもお願いがあるの」

 

「何だ?」

 

「ずっと、ずっと一緒にいてくれるって、お願いしてもいい?」

 

「…分かった。約束する、私はいつまでもずっと、お前と一緒だ」

 

「嬉しい。ありがとうお姉さま、大好きよ?」

 

「ああ、私もだノエル。いつまでも大切な、私の妹。お前の事は、必ず守ってやるからな…」

 

「お姉さま?泣かないで。大丈夫、私は大丈夫だから……」

 

 

 

こうして私の全てが始まった。私はこの時、自分がノエルに何を誓わせたのかも分からずただただノエルに課せられた運命を憐れんで、ひたすら涙を流すだけだった。

 

しかし私は後に思い知らされることになる。この誓いで自分が最愛の妹にどれほど重い荷を背負わせる事になったか。そしてそれが果てしなく長い旅を続けるきっかけになったという事を。

 

だがこの時の私はそのような不吉な影を感じる事など無く、ただノエルの手を握り泣くだけであった。後にその温もりを、果てしなく求める事になるとも知らず。

 

 

 

 



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第一章・旅立ち

エレオノーラを倒し目覚めたあとに私から全てを聞いたノエルは、口に出すのも辛いその真実を嘆く事も泣きわめく事もせず、しっかり受け止めようとしていた。この世でただ一人私に触れる事の出来る、かけがえのない妹。彼女をこのような目に遭わせたエレオノーラには、その罪に相応しい裁きを与えた。これから私の為すべきは、エレオノーラの企みを見抜けずノエルに重い運命を背負わせた罪の償いである。ノエルは何としても幸せにならなければいけないし、その為であればどんなことでもする。それが私の贖罪であり、生き甲斐となるであろう。

 

今後の身の振り方を考える為、私達は昔の従僕の家に身を寄せる事にした。彼らはかつて我が家に仕えていたが、ノエルがあの事件を起こす少し前に職を辞して王都に移り住んでいる。私が騎士として叙勲を受けた時に再会を果たして以来何度か顔を出していたし、ノエルが眠ったままである事も知っている(むろんヴァンパイアである事は秘しておいたが)。とりあえずの隠れ家として、これほど都合のいい場所は無いであろう。

老夫婦は私達の急な到来を驚きつつもノエルが目覚めた事と、私が自分達を頼ってくれたことを喜び事情も聞かず丁寧にもてなしてくれたので、私は安心して目覚めたノエルの体力の回復を待つことが出来た。

 

エレオノーラがいなくなった事はすぐにでも王国全土に広まるはずだ。彼女を殺した痕跡は無くとも私が彼女の邸に入り、ノエルを連れて邸から出た後いなくなったのである。その状況からいずれ私は辺境伯夫人の殺人犯として、国から追われる身となるだろう。

もっとも。王室からすれば強大な軍事力と財産を持つ辺境伯は厄介な存在であり、目の上の瘤だったはずだ。その事実上の統治者として王室内で暗躍していた彼女が死ねば、残された辺境伯はどうにでもなる。これをまたとない好機として、王室は辺境伯の財産や領地の没収にかかるだろうし、周辺の地方貴族達もそのおこぼれにあずかろうと躍起になるに違いない。辺境伯は犯人探しの令を下すだろうが、周りはそんな物などおざなりに引き受けるだけだろう、身を隠す機会は十分にある。

私のこうした考えはあまりにも楽観的、あるいは世間知らずのそれだった。

 

エレオノーラはたしかに王室内ではやっかいな存在だったかもしれないが、一方で夫の辺境伯という地位と肩書きは、地位の低い貴族や土着の豪農達が多く集まる辺境の地の平定に重要な役割を果たしている。もしもその存在がなくなれば、辺境一帯はたちまち小規模な勢力同士による小競り合いの絶えない混沌とした土地と化してしまうおそれがある以上、絶対に保持しておかねばならない。またその軍事力は辺境一帯だけでなく、他国への牽制の意味でも王国にとって必要不可欠な存在だった。

つまり、辺境伯の地位は王室の目の上の瘤であったエレオノーラの存在以上に重要であり、この国にとって無くてはならないものである。私はそんな国の最重要人物の夫人を殺害したのだ、何としても捕らえて処刑しなければ辺境伯より王室の威信を問われてしまう事になりかねない。

またヴァンパイアである彼女に子供はなかったが夫の辺境伯には大勢の親族がいたし、その中には辺境伯の後釜を狙う者もいる。そうした者達が辺境伯から後継者として認められる為、私の首を彼の前にささげようと考えるのは、ごく自然な成り行きであろう。そして、人々から英雄視されていた若き女騎士が恐ろしい犯罪者であったという事件は、王室の圧政に対する民の不満を逸らすにはまたとない好材料である。

 

こうして私は、かつての人々を吸血鬼から守るヴァンパイアハンターという作られた英雄像から一転して、国と民とを挙げてその首級を狙うべき稀代の兇賊であると大々的に喧伝される身になってしまったのだ。

 

城下町は私にかけられた多額の懸賞金の話や、私に対する怒り恨みで持ちきりだ、ここに留まる事は危険極まりない。事情がどうであれとても通じるような雰囲気ではない以上、一日でも早くこの国を脱出するしかないでしょう─城下町で情報を仕入れてきた爺やからの忠告を受けた後、私はこの事をノエルに伝えた。この国を出なくてはならなくなった、辛い旅になるだろうが許して欲しいと。

目覚めた時と同じように静かなまま少し考えていたノエルは私の方を向くと「お姉さまについて行くわ」とだけ答え、また口を閉ざした。

ようやく落ち着いてきた所にまたこのような災難がかかってきた事は何としても済まない、この償いはいずれ必ず。そう詫びた後、私は大急ぎで旅の支度を始めた。と言っても剣を除けば私物と呼べるようなものはほとんど何も無い。じいやが用意してくれた地図や道中の食料に着替え、僅かながらの路銀等をまとめてしまえばそれで終わりだ。支度が済むと私たちは、婆やが拵えてくれたささやかながら真心のこもった別れの晩餐の席についた。

貧しい暮らしを送っている二人にとって、これだけの出費はかなりの痛手であろう。せめてものお礼にと私は剣の鞘に嵌まっている宝石を外して渡そうとしたが、じいやもばあやも頑として受け取らなかった。長い旅になるのに旅費の事を考えなくてどうします、これからお嬢様はそういった事も考えながら生きていかねばならないのですよ-じいやに叱られたのは何年ぶりだっただろう。

その夜の食卓で私は珍しく饒舌に振る舞い、下手な冗談を飛ばしたりして、ともすれば湿りがちになろうとする席を何とか明るくしようとする事に務めた。追っ手を振り切りながらの逃走劇は間違いなく命がけの危険なものだ。だからせめて旅立ちの前の今夜ぐらい、ノエルにとって楽しい思い出になるような物にしたい。

私のそんな考えを見抜いたのだろう。じいやは私達にわざと酒をすすめ、私がそれを断ると大仰に嘆いてみせたり酔ったフリをしておどけてみせたし、夫の醜態にばあやがあきれ返るさまもまたわざとらしい大袈裟なもので、そのやり取りのおかしさに私もノエルも思わず笑ってしまった。ノエルの笑顔を見たのはいつ以来の事だろう。一日も早く、また二人で笑える日が来ますように。そう思いながら、私は寝床に着いた。

 

 

「起きたかノエル。すぐ出発するぞ、支度は出来ているか?」

 

「おはよう。お姉さま、じいやとばあやを見なかった?二人ともいないのよ、こんな朝早くにどこへ行ったのかしら」

 

「…二人なら夜明け前にここを出ていった。お前にくれぐれもよろしくとの事だ」

 

「嘘!?そんな、どうして」

 

「ここもいずれ追っ手が来る、追っ手の連中は私達の事を聞き出そうとするに違いない。私達に迷惑をかけるわけにはいかないから今のうちに姿を消す、との事だった」

 

「そんな。それならせめて、ちゃんとお別れの挨拶をしたかったのに」

 

「ばあやが言っていたよ。もしお前に会って別れを告げれば、私達について行きたくなるかもしれない。だが自分達が行けば、必ず足でまといになる。そんな訳にはいかない、とな」

 

「ばあや、じいや…」

 

「行こう。二人の為にも、私達は何としても生きなくてはならない」

 

「…………分かったわ」

 

 

じいやの家から近い城門は既に開いており、さいわい私達は何者にも阻まれず街を出る事が出来た。私の少し前を行くノエルは何も言わず、黙々と歩いている。時折聞こえる鼻をすするような音でノエルが泣いているのは分かっていたが、私は何も言わなかった。口を開けば私だって涙が出そうになる。

人に触れられない私の特異体質を知っても気味悪がらず、だからこそあなたは強く生きなければなりませんと励まし、武芸や学問の手ほどきをしてくれたじいや。身体に触れないなりに何とか私の身の回りの世話をしようとあれこれやり方を考え、お嬢様に平穏な幸せが訪れますようにと朝晩神への祈りを欠かさなかったばあや。

 

 

 

だからこそ。

 

 

 

「抜かりはないだろうな、あの女とまともにやり合うつもりはないぜ」

「大丈夫ですよ、今頃は姉妹仲良く夢の中でさ」

「あの女酒は飲めませんからね。料理に薬を仕込んでおいたんですよ、朝まで目を覚ます心配がないぐらいのね」

「よし。しかしお前らも大した悪党だな、長年仕えてきたご主人様だろう?」

「冗談じゃない。散々化け物の世話をさせておいて、歳とったらあっさりクビですよ。これぐらいの見返りは貰わにゃ割に合いませんや」

「まったくですよ、おまけにお尋ね者になったくせにでかい顔して乗り込んできて。図々しいったらありゃしない」

「それはそれは。ま、せいぜい主を売った金で楽隠居でもするんだな」

「ええ、これでやっと長年の苦労が報われますよ。約束の金は大丈夫なんでしょうね」

「心配すんな、お上から報酬が出たら間違いなく払ってやるよ。さて、無駄話はここまでにしとくか」

「殺る時はひと思いに頼みますよ、せめて苦しまないようにしてやらなきゃかわいそうですからね」

「お優しいこって。任せときな、二人まとめて仲良くあの世に送ってやるよ」

 

 

 

……最後まで、信じていたかった。

 

 

 

賞金稼ぎとじいや達を斬り捨てた時、弾みでその身体が家の裏にある川へ落ちていったのは幸運だった。私は人間に触れる事が出来ない。もし地面に崩れ落ちていたなら、ノエルに辛い真相を説明しなくてはならなかっただろう。

 

ばあや、忘れたのか。私に薬は効かない。私が子どもの頃に熱を出して苦しんだ時、ずっと心配して神に祈り続けてくれたではないか。じいや。剣士は熟睡してはならない、どこに敵が潜んでいるか分からない。どんなに親しい仲であっても気を抜くな、たとえそれが私達であっても。そう教えてくれたのはお前だったではないか。

あのまま殺されていた方が幸せだっただろうか。いや、私はともかくノエルは死ねない体なのだ。ヴァンパイアである事が分かればどんな悲惨な目に遭うか、想像もしたくない。

生きてやる。何としても、どんな事をしても。私はノエルの為に。

 

 

空は雲に覆われて、太陽は見えない。一方でそれほど厚くもないためか、少し光が差し込んできてぼんやりと明るい。その曇りとも晴れともつかない奇妙な天気は、まるで行く末がどうなるかわからない私達の旅を暗示しているかのようだった。

 



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第二章・道中

覚悟していた以上に私達の旅は困難を極めた。

私は徒歩での旅によるノエルの身体の疲労を案じていたが、それは意外にも平気であるらしく、一日中歩き通しでも疲れた様子も見せず身体に異常も見受けられない。どうやらヴァンパイアとなった事で身体そのものが頑強になったらしい。元気になって外を駆け回りたい、と願っていたノエルの夢がこんな形で叶うのは皮肉な話であったが。

最大の悩みはやはりノエルの『渇き』をどう癒すか、という事だった。あの時出会ったヴァンパイア達に誓わせた以上、ノエルにも人の血を吸わせる訳には断じていかない。鶏や豚、牛馬などの家畜を手に入れるのが一番いいのだが、そうしたものを求める為にには当然農場などに金を払って購う必要があり、となればどうしても人里のある場所を選んで旅をする事になる。そしてそれは、私達の行方を血眼になって探し求める追っ手たちにとってまたとない痕跡となった。

 

顔に煤を塗り髪型を変え、偽名を用いる事で私同様世間慣れしていない騎士団の目はたいてい欺ける。しかし、犯罪者の追跡に長けた海千山千の賞金稼ぎ共達が相手ではその程度のごまかしではどうにもならない。私達は何度となく襲撃を受ける羽目になり、その度私は剣を抜き立ち向かっていった。

王国随一と謳われた剣の使い手である私だ、一対一の戦いなら誰であれまず遅れをとることはない。だがこれは尋常な決まりの中で行われる果し合いではない、私を捕らえるか殺すかすれば勝ちという事だけがルールの命を景品にしたゲームである。そして、そうした戦いに関しては私より賞金稼ぎや傭兵達に一日の長があった。

日中の街道等でまともに襲撃を受ける事はほとんどない。休息の為旅装を解いた時や眠ろうとしていた時に不穏な空気を感じてそこから離れた事は何度もあるし、それは殆どの場合正解だった。ノエルの為に家畜を求めて人里を訪ねた際にそこに網を貼って待ち構えていた連中に襲われた事もあれば、村人から笑顔ですすめられた飲み物や食事に毒が仕込まれていた事も、ここならば安全だろうと思った場所に予想もしないようなやり方で敵が襲い掛かってきた事もある。私は何度、思わぬ場所で彼等と渡り合っただろう。

剣をもって危機を乗り越えるという事は、すなわち人を斬る事に他ならない。何人もの騎士や賞金稼ぎ、傭兵達が私と刃を交え傷付き倒れていった。ヴァンパイアから人々を守ると誓った私が、そのヴァンパイアであるノエルを守る為に人を斬る事になるとはなんという皮肉だろう。だが今更後に引くことは出来ない。それに先に私達の命を狙ったのは彼等の方なのだ、私はただ身を守っているに過ぎない。そうだ、私はどんな事をしてもノエルを守らなくてはいけない。たとえその為に、どれだけの人間を殺す事になろうとも。

 

旅に出て以来ノエルは今まで以上に寡黙になり、必要がある時以外ほとんど口をきくことはなくなった。慣れない長旅と渇きの苦しみ、そして突然に訪れる戦いを何度も目の当たりにした緊張で、心身ともに疲れ切ってしまったのだろう。私もまた疲れていた。しかし、弱音を吐いても何にもならない。私は自分を奮い立たせてはノエルに声を掛け、僅かな時間を見つけては休息を取らせて、日に日に増える追っ手の襲撃を切り抜けながら何とか旅を続けた。

そしてとうとう、国境付近の森まで辿り着いたのである。

 

この森を抜けた先は王国と敵対する帝国の領地であり、そこに入ってしまえば少なくとも王国の軍勢は足を踏み入れる事が出来ない。帝国は近年王国からの難民の受け入れに積極的であると聞いている。ならば、私達が潜り込める隙はあるに違いない。だからこそ私はこの地を目指したのだ。

もう少しだ。もう少しで、この長く苦しい旅も終わる。

その思いが私の油断を招いた事は否定出来ない。ここが先回りして待ち受けるのに絶好の地である事ぐらい、それまでの私ならすぐに気付いたはずだというのに。

森に入って受けた襲撃は、これまでにないほど苛烈なものだった。

 

 

─逆賊アレクサンドラを捕らえよ、何としてもここを越えさせてはならない。

 

─辺境伯夫人の仇を逃すな。名を上げる絶好の機会と思え、討ち取ってその首と名誉を手に入れろ。

─行け、命を惜しむな。大金かあの世行きかのどちらかだぞ。

 

 

押し寄せて来る敵意と憎悪の群れに向かって、私は無我夢中で剣を振るい続けた。押し潰されてはならない、生きるのだ。ここで私が倒れてしまえばノエルはどうなる。命を懸けて守ると誓った、私の大切な妹。両親を失い、信頼していたじいやとばあやに裏切られ、守ろうとしていた民からも憎まれ。そんな私にたった一つ残された、かけがえのないもの。それまで失ってしまえば、私は。

 

 

 

「切り抜けた、のか………?」

 

 

 

 

どのように剣を振るいどう戦ったのか。気がつくと私を目指して襲ってくる敵の群れは姿を消しており、辺りには大量の死体だけが転がっていた。身体中至る所に返り血がこびり付き、剣を握った指は固まったまま伸ばす事が出来ない。手を口元に持っていって指を口で咥えて伸ばし、それでどうにか手から剣を引き剥がす事が出来た。よくぞもってくれたものだ、王室に代々伝わる秘蔵の名剣でなければとっくに折れていただろう。

 

「………ノエル?」

「ここよ、奥にいるわ」

 

返事がかえってきた事に、私は胸を撫で下ろした。

 

「無事だったか、良かった。さあこちらへ来るがいい。あと少しだ、この森さえ抜けてしまえば」

「お姉さま、ひどい匂いよ。どこかで身体を洗った方がいいんじゃない?」

 

その言葉に私はハッとなった。この夥しい血はヴァンパイアであるノエルにとって、とてつもなく魅力的に映るのではないか。もしそれを堪えているのだとすれば、今この場に出て来いというのは酷な話というものだろう。

 

「すまない。入ってすぐの所に泉があったな、あそこで洗い流してくるとしよう。だがノエル、お前は大丈夫なのか?その…」

「心配いらないわ、大丈夫よ」

「そうか。なら、泉の近くで待っていてくれ」

「…………ええ」

 

 

すぐ近くであれほどの激戦があったとは思えないほど、泉の周りは穏やかで落ち着いていた。返り血で赤く染った衣服を脱ぎ捨て、身体を浸す。冷たい水が受けた傷に染み込んでくるが、我慢出来ない程ではない。我ながらよくこの程度の怪我で済んだものだ。

 

「ふうっ…」

 

こびりついた返り血や泥を手で拭い落とす。旅に出て以来入浴はおろかまともに身体を拭く時間さえろくに作れなかっただけに、久々の感覚が肌に心地よい。水の中でこわばった身体をほぐしながら、私は今後の事に思いを巡らせていた。

 

帝国に入れば、少なくとも王国軍の追っ手を心配する必要は無い。帝国は王国ほど領地は広くないが栄えた国で、王都並の規模の都市が幾つかあるという。これまでのやり取りで手持ちの路銀はほとんど底をついてしまっていたが、まだ剣の鞘に嵌め込まれた宝石がある。いずれもそれ一つでひと財産になるほどの値打ち物ばかりだ、これを売れば先立つものを心配する必要はまず無いだろう。エレオノーラが英雄らしく華美な物を身に帯びなさい、とこれを押し付けてきた時にはなんという無駄な浪費をと恨んだものだが、今となっては感謝しなくてはなるまい。

厄介なのは引き続き追ってくるであろう賞金稼ぎ共だ。私がここでこれだけの活躍を見せたと分かればまともに攻めてくる事はもうあるまい、恐らくは奇襲や奸計にかけようとするだろう。その手口に気を遣いながらの旅がどれだけ神経を消耗するか、これまでの旅で嫌というほど身に染みている。これを何とかしなくてはならない。

あちこち動き回ればどうしても隙が出来るし受け身にもなる。いっその事、どこかに定着して敵が来るのに備えながら生活するというのはどうだろう。富栄えた豊かな国ならば、落ち着ける場所はきっとある。このままあてのない放浪の旅を続けるより一箇所に留まった方が、ノエルの為にもいいはずだ。

となれば何をするのがいいだろうか、出来れば家畜を手に入れやすい環境に身を置いておきたい。農場でもかまえるか。いや、私に鶏や豚の世話など出来そうもないし、ノエルは優しい子だ。育てた動物達に愛着が湧いて、殺す事が辛くなってしまうという事にでもなれば本末転倒である。

ならば家畜の肉を売り買いするのはどうだろう。これまでノエルが生き血を啜った動物たちの死骸はそこから足がつかないように埋めて処分していたが、街中で同じようにしていては不審に思われる恐れがある。だったらそれを売り捌いてしまえばいいのだ。

そうだ。私は肉を受け付けないが、普通の人間には必ず需要がある。動物の世話は無理でも、肉を切るぐらいなら私にも出来るだろう。その肉を売った金でまた新たな動物を仕入れる、これを繰り返せばいいのだ。店を開いたらノエルにも手伝ってもらおう。ノエルは美人だ、売り子に立てば人気が出るに違いない。私達の店はきっと繁盛するだろう。

 

泉から上がって身体を拭き、比較的汚れていない着替えを選んで身にまといながら、私はこの考えに夢中になっていた。この森を出たらノエルに話してみよう。私が肉屋を開きたいと言ったら、ノエルはどんな顔をするだろうか。

むろん、そんなに都合良くは行かない事ぐらい承知している。だが、いいではないか。長い間戦い続けてきたのだ、少しぐらい夢を見たって-

 

 

「ぎゃああああっ!?」

 

 

楽しい夢で緩んでいた私の頭と身体は、野太い悲鳴で現実に引き戻された。素早く傍に置いていた剣を手に取り辺りを見回す。そして、悲鳴が聞こえてきた方へと足を向けた。

先程の悲鳴は男のものだ、恐らくは追っ手の生き残 りに違いない。だが何故悲鳴を上げる必要があったのだろう。この森には熊や狼のような獣はいないはずだ。死体漁りの烏にでも襲われたのか、それとも仲間割れか。あるいは。

 

もっとも恐れていて、もっとも可能性が高いその事を、私はつとめて考えないようにした。そんな真似をするはずがない。大丈夫だ、心配要らないと言っていたではないか。そうとも、これまでだって堪えてきたのだ。だから、絶対にそのような事は-

 

 

 

 

「ノエル…………?」

 

 

 

 

男の死体が転がっている。石か何かで頭を割られたのだろう、その体は血塗れだった。そして。

 

 

 

「あらお姉さま、おかえりなさい。水浴びは気持ちよかった?」

 

 

 

返り血で赤く染った私の妹が、そこに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 



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第三章・別れ

陽はそろそろ沈もうとしている。陽差しのあまり差し込まないこの森は、暗くなるのが早い。

 

「どうしたノエル、何があった?」

「この男、お姉さまが水浴びしてる所を覗き見してたのよ、その上お姉さまの命まで取ろうとして。だから私、ついカッとなっちゃった」

 

淡々と語る口調はいつものノエルのそれだ。しかしその内容は。そして、その口元は。

 

「どうしたのお姉さま?疲れてるのね、無理もないわ、あれほどの戦いだったんですもの。どこかでゆっくり休みましょう。そしてまた…」

「顔をよく見せてくれ、ノエル」

「なあに、どうかなさって?」

 

急いでノエルの口元を見る。赤く濡れているのは、やはり。

 

「嫌だわお姉さまったら、そんな目で見て。一体何よ?」

 

違う。そんなはずはない。ノエルは約束してくれたのだ、決して人の血は吸わないと。

 

「……何故だ、ノエル。何故、人の血を吸った」

「そんな怖いお顔なさっちゃ嫌よ、お姉さま。心配しないで、これはほんの偶然だから」

 

無邪気な笑み。だが私は知っている、かつてこんな笑顔を浮かべていた女を。

嘘だ、そんなはずはない。ここまでずっと、堪えてきたではないか。

 

「でも、何だかとってもいい気分よ。これならきっと、私だって戦えるわ。今度は私がお姉さまを守る番ね」

 

 

駄目だ。お前には、お前にだけは、そんな真似をさせられない。その手を、この世界で唯一私に触れられるお前の手を、血に染めさせるような事は。

 

そんな事をさせるくらいなら、いっそのことー

 

「何をなさるおつもりなのお姉さま。その手はなあに?」

 

自分が剣を手にしようとしている事に気付き、私は愕然とした。馬鹿な、一体何をしようとしていた。そんなはずはない。この世で何よりも大切なノエルに、そんな事など。

 

「違う!今のはなんでもない。ノエル、私は…ぐっ!?」

 

駆け寄ろうとした私の前で、ノエルの眼が大きく見開かれる。それを見た私の身体は突然全く動かなくなった。

 

「金縛りの術よ、ヴァンパイアにはこんな事も出来るの。お姉さまに通じるか不安だったけど、上手くいったみたいね」

 

何故だ、ノエル。何故こんな真似を。そう叫びたかったが、指一本動かせない。必死でもがこうとする私に、ノエルがゆっくりと近づいてきた。

 

「ありがとう、お姉さま。今までずっと、私を守ってくれて。でも」

 

ノエルの手がゆっくりと私に伸びる。まさか。いや、そんなはずはない。

 

 

「ここで、お別れしましょう?」

 

 

 

何を、言っている。

 

 

 

「お姉さまは私をとっても大切にしてくれたわ。ずっと一緒にいてくれて、いつも私を守ってくれた。本当に嬉しかったわ」

 

当然だ、私にお前以上に大切な物など存在しない。私の人生は全てお前に捧げる。そう誓ったではないか。

 

「だけどお姉さまは私の事を見てくれなかった。私を通して、別の私を見ていたのよ。その私に戻ってあげたいって、ずっと頑張ってきたわ。でも」

 

違う。私はずっとお前を、お前だけを見ていた。どうしてそんな事を言う?

 

「ごめんなさい。私はきっと、あのまま眠っていた方が良かったのよ。そうすればずっと、お姉さまの好きな私でいられたのに」

 

そんな悲しい事を言わないでくれ、ノエル。お前がそばにいて、話をしてくれる。私にそれ以上の喜びはない。

 

「このまま一緒にいても、お姉さまは私を守ってくれる、それでもいいのかもしれない。でもお姉さまは。そして、私も」

 

そうだ、お前は私が守ってみせる。どんな事からも、どんな相手からも。いつまでもずっと、私が。だから。

 

「……さようなら、お姉さま。でもね?信じてちょうだい。私はこの先も決して人を襲ったりしない。お姉さまとの約束は必ず守るわ。わがままを言ってごめんなさい」

 

嫌だ、行かないでくれ。お前まで失ってしまえば、もう私には何も残らないではないか。

頼む。お願いだ。

 

 

「大好きよ。今までも、これからもずっとー」

 

 

ノエルの手が私の顔に触れる。私がこの世で唯一知る、あたたかく柔らかな人の感触。

ノエルがヴァンパイアとなった今でも、それは昔と変わらないままで。

 

 

 

「あ……」

 

 

その感触が消えると同時に、痺れたような感覚は残りながらも私は動けるようになった。そして。

 

 

「ノエル……?」

 

 

 

 

ノエルの姿も、消えてしまっていた。

 

 

 

 

「ノエル。どこだ、どこに行った?」

 

辺りはすっかり暗くなっている。夜の闇に紛れたヴァンパイアは、人の目には映らない。

 

「ノエル。お願いだ、出て来てくれ」

 

自分から、姿を現そうとしない限り。古い書物で読んだ知識は記憶として残っていたが、私にそんな事を思い出す余裕など無い。

 

 

頼む、もう一度姿を見せてくれ。もう一度声を聞かせてくれ。もう一度私に触れて。

 

 

私を、一人にしないで。

 

 

「ノエル…ノエル……」

 

熱いものが目に込み上げ、視界が不明瞭になる。それを拭う事も思いつかず、私は痺れの残る身体のまま暗い森をさ迷い続けた。

 

どこだ、ノエル。長い旅がやっと終わるというのに。私とお前は、これからではないか。新しい土地に着いたら、二人で穏やかに暮らそう。そうだ、さっき素晴らしい事を思い付いたのだ。聞けばきっとお前も気に入ってくれるはずだ。なあ、興味があるだろう。だから出て来てくれ、ノエル。

 

 

いつしか私は、先程死闘を繰り広げた場所に足を運んでいた。そこには私が斬って捨てた、無数の死骸が転がっている。

そうだ。ノエルはきっと、人の血を吸いたがっているに違いない。ここにいれば姿を見せるはずだ。こんなにも、ノエルの欲している物が落ちているのだから。

そう思い私は死体の山に目を向ける。だがどの死体も烏についばまれていて、充分な量の血が入っていそうにもない。おのれ、腐肉漁りどもめ。怒りを覚えた私の目にまだ死体に群がっている鳥達が飛び込んできた。

 

離れろ、これはノエルの物だ。お前達などに渡してなるものか。

まだまともに動けない身体のまま、私は剣を抜き烏達の群れに向かっていく。鳥達は急な乱入者に驚いて一度は飛んでその場を離れようとする素振りを見せていたが、やがて食事の邪魔をした私に襲い掛かってきた。

こんな鳥でさえ私に敵意と憎しみを向けるのか。いいだろう、そんなに私をこの世界から取り除きたいというのなら、かかってくるがいい。お前達もこの死体と同じ運命を辿らせてやる。

 

剣を振り回し鳥達を斬ろうとしたが、先程の戦闘とノエルの術で私の身体は限界に達していた。剣がいつもより遥かに重く感じられ、足も思うように動かない。思わずその場に膝をついて座り込んでしまうと、鳥達が待ち構えていたかのように群がってきた。振り払おうと手を動かすものの、既に腕が上がらない。立ち上がろうにも今はわずかな重みでさえとてつもなく重たい物に感じる。その間にも鳥達は私の身体の剥き出しになった部分を狙ってついばみ始め、激しい痛みが身体中を襲う。必死で目を閉じ頭を振って何とかここから脱出しようとするが、もはや全く身動きが取れなくなってしまっていた。

 

こんな形で私は終わるのか。死は恐れていなかったが、まさかこのように惨めで哀れな死に方を考えたことは一度も無かった。だがそれもいいだろう。数多くの命を奪い、ありとあらゆる物に否定され、ノエルからも見捨てられた私には、こんな死に方が相応しいのかもしれない。

鳥達の動きはますます激しくなり、息をする事さえ難しくなってきた。

おしまいだ。生きる意味も目的も何もかも無くして、全てが終わる。人に触れられない私が生き物の体温を感じながら死ねるのが、せめてもの救いだろう。

 

 

「こら、あっち行け!おい、お前もじゃんじゃん石を投げろ!」

「それより火ですよ、火で追い払いましょう。何か持っていませんか?」

「そんな物探してる場合かよ。とにかく急げ!」

 

 

何か、声が聞こえる。新手の賞金稼ぎ達だろうか。だとすれば、戦わなくては。私はノエルを守らなくてはならないのだから。

 

……ああ。ノエルはもういないのだった。ならば、このまま眠ってしまってもかまわないだろう。

 

「おいあんた、しっかりしろ。って、こいつは!」

「どうやら間に合いましたね。おや、この方は」

 

驚いたようなその声は、たしかにどこかで聞いた事がある。だが、もうどうだっていい。私の命が欲しければくれてやる、好きに使え。

 

「おい!あんた、アレクサンドラだろ。俺達だよ、分からないか?」

「落ち着いて下さい。アレクサンドラ?お久しぶりですね、妹さんはどちらに行かれたのですか?」

 

ノエルを知っているのか、この賞金稼ぎ達はいったい。

 

「お前、達は……」

 

ずっと閉じていた瞼を開いて見やったそこには、見覚えのある二人のヴァンパイア達が立っていた。

 



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第四章・再会

「そうだよ。覚えててくれたんだな、久しぶり。元気してたか?っと、悪い。襲われて死にかけてたのに言うセリフじゃなかったな。でも驚いたぜ、まさかアンタだとは思わなかったからさ。ところであちこちで大勢死んでるけど何があったんだ?まさか、アンタがやったわけじゃ」

「落ち着きなさいエドガー、そう一気にまくし立てるものではありませんよ」

 

エドガー、そしてクリス。私に真相を教えてくれた、全ての始まりのきっかけをもたらしてくれたヴァンパイア達と共に、私は先ほどの泉のある場所へと移動した。

 

「どうやらだいぶ酷い目に遭われたようですね。事情をおたずねする前に、まずはその傷の手当をいたしましょうか?」

「…けっこうだ、お前達の手は借りぬ。強がりではない、借りたくとも出来ないのだ」

「はあ?何言ってんだよ」

「どこか、その辺りに私の荷物があるはずだ。それを持ってきてくれればいい。後は自分でやる」

「おいおい無理するなって。大丈夫、アンタとの約束はちゃんと守ってるよ。アンタの血を吸うような真似はしないから…」

「寄るなっ!」

 

手を伸ばそうとしたエドガーに思わず声を荒らげる。私に触れられるのは、いや、触れていいのはノエルだけだ。

 

「なんだよ、信用出来ないってのか?せっかく親切で言ってやってるのに」

「彼女の言う通りにしましょう、エドガー。人には色々事情があるのですから。それともこのまま放っておいた方がいいと?」

「そういう訳じゃないけどさあ…」

 

どうやらこのエドガーという少年は、クリスという少女に頭が上がらないようだ。男のくせに尻に敷かれるとは情けないが、それも無理はない。この少女を見ていると不思議な気持ちになる。まるで全てを見透かしているかのような、こちらの気持ちを見抜いているような。これもまた、ヴァンパイアの持つ力の一つなのだろうか。

 

「さあ、どうなのでしょうか。私にもよく分からないのです」

「!?」

「そんなに驚くと傷に障りますよ。あ、それともうひとつ。あなた、私達の事を勘違いなさっておいでですから、念のため」

 

…勘違いというのが何なのかはさておき、油断がならないのは間違いなさそうだ。

エドガーが見つけてくれた荷物の中から取り出した綿で傷口を抑え、包帯でそこを縛り付ける。自分での手当てはもう馴れたものだ。私の身体は薬も毒も効かないかわりに治りも早い、こうしておけばまず大丈夫だろう。もっとも、治ったところでもはやなんの意味もないのだが。

 

「さてと。手当ても済んだ事ですし、今度こそ話していただけますね?」

「そうだぜ、オレ達心配してたんだからな?道中のあちこちでアンタ達みたいな連中の話を聞いてよ、それでもしかしたら大変な思いをしてるんじゃないかって。妹さんはどうしたんだ、一緒にいたんだろ。まさか…」

「落ち着きなさいと言ったはずですよ、エドガー。彼女が話せないではありませんか」

「あ、悪い。それで?」

「……」

 

先を促しているエドガーには悪いが、話せるような内容ではない。それに話したところで一体何になるだろう。だが。

「いいんですよ、無理に聞こうとは思いません。ですが、口にした方が楽になる場合だってあるのですよ。たとえ、それ自体に意味がなくとも」

 

 

この少女相手に、隠し事は難しい。気づけば私はエレオノーラを倒してからの全ての事を彼女達に話していた。旅に出た理由、道中の苦労、森の中での死闘。そして。

 

ノエルの事を話すのは苦しかったが、ここまで話しておいて話さないわけにはいかない。口に出すとあの時の悲しみと絶望感が込み上げてきて、叱られた子供のように声が震える。感情が昂り過ぎて涙混じりになりながらも、何とか全てを話し終えた。

 

 

「…大体の話は分かったけどさ。なんでそのノエルって妹は急にそんな風になったりヘンな力を使えるようになったんだ。ずっと大人しかったんだろ、隠してたのかな?」

「いいえ。ヴァンパイアにとって、人の血は何物にも代えがたい物なのです。鶏や他の生き物の血でも渇きを癒す事は出来ます。けれど人の血はそれだけでない、ヴァンパイアの中に眠っている特別な力を呼び覚ます不思議な効力があるのです」

「では、ノエルはやはり」

「ええ。おそらく本当に偶然だったのでしょう。ですが、それで充分だった」

「…そうか。ではノエルが私から離れていったのは、人の血を吸う喜びを覚えてしまったからなのだな。私と一緒にいれば、それが出来ないから」

「そうでしょうか?私は違うと思いますよ」

「何?」

 

思わず身を乗り出し、クリスに迫る。この少女は何もかも分かっているというのか、私も知らないノエルの何かを。

 

「落ち着いて下さい、私はノエルさんではないのですよ。ですが、そうですね」

「何だ?」

「ちょっと、答えにくい事をお聞きします。ノエルさんが人の血を吸った時、あなたはどのように感じられましたでしょう。たとえば、恐怖を覚えましたか?」

「…………分からない。よく覚えていない」

 

偽りや誤魔化しではなく、それが本心だった。ただひたすらこれは夢だ、夢であって欲しいと思っていたような気がする。

 

「そうですか。ですがきっと、ノエルさんからはあなたが怯えているように見えていたのでしょう」

 

そう、なのだろうか。

 

「あなたにとって、ノエルさんはかけがえのない存在だった。だから辛い思いはさせたくなかった。そして、そんなノエルさんが変わっていくのを見る事には耐えられなかった。違いますか?」

 

違う、そんな事はない。どうなろうとノエルはノエルだ。

 

…いや。私はノエルが血を啜っている姿を見た事があっただろうか。渇きにうなされ血を欲する度、あらかじめ或いは急いで調達した生き物を渡し、その後亡骸を処分したりはしていた。しかし。

 

 

「そう、かもしれない。私はあの時、ノエルがあのような存在になった事に怯えていたのだろう」

 

だから、剣を抜こうとしていたのか。ノエルが変わった事を、受け入れたくなくて。

 

「仕方がありませんよ。誰だって、好きな物が変わるのを見るのは辛いものです。ましてや、それが恐ろしいヴァンパイアになったとあれば」

「ちょっと待てよ。そりゃノエルからすればショックだろうさ、姉さんが自分を怖がったんだから。けどそれはいきなりだったからじゃないか。そのうち慣れるはずだろ?それだけで姿を消すほどの事でもないんじゃないか」

 

そうだ、いつかは受け入れられるはずだ。そうするしかないと、理解さえすれば。なのにどうして。

 

「エドガー?何度も言いますが、私はノエルさんではありませんよ。本当の事はノエルさんにしか分からないのです。でもそうですね、たとえばですけど」

「何だよ?」

「ノエルさんもまた、自分が変わり果てた姿になった事に苦しんでいたのではないでしょうか」

「それは…あるかもしれないな。オレだって、最初は自分がヴァンパイアになった事は少しだけ辛かったから。クリスのおかげですぐ慣れたけど」

「うふふ。そのように言ってもらえて嬉しいですよ、エドガー。でもノエルさんには、その苦しみを打ち明ける場所が無かったのです」

まさか。そんなはずはない、私が側にいたのだ。ずっとお前を守る。そう誓った、この私が。

 

「え?でも、アレクサンドラがいたじゃないか」

 

「ええ、そうですね。ですがアレクサンドラにとってノエルさんは、特別な存在でした。いえ、特別過ぎたのです。少しの変化も受け入れたくないほど」

 

違う、私はそんな目でノエルを見た事など。

 

「だけど仕方ないだろう。もうヴァンパイアになっちまったんだから。どうしようも無いじゃないか」

「ええ、アレクサンドラにはそうです。今は無理でもいずれ受け入れられる日が来るかもしれない。ですがノエルさんはどうでしょう。彼女はきっと、受け入れたくなかったのです。自分がアレクサンドラの思い描く存在で無くなってしまったことに」

 

そんな。では、ノエルが立ち去ったのは。

 

「ややこしいな…結局、ノエルはどうして立ち去ったんだ?」

 

ああ、そんな。

 

「そうですね。私が想像した限りですが、おそらくノエルさんは」

 

ノエルは。ノエルは、私の為に。

 

 

「自分がアレクサンドラの理想像で無くなってしまった事を許せなかった。あるいは、これ以上アレクサンドラの思い描く存在からかけ離れていく姿を、見せたくなかったのです」

 

 

 

-お姉さまは私を見てくれなかった。私を通して、違う私を見ていたのよ。その私に戻りたいって、ずっと頑張ってきたわ。だけど。

 

-ごめんなさいお姉さま。私はきっと、あのまま眠っていた方が良かったんだわ。そうすればずっと、お姉さまの好きな私でいられたのに。

 

-このまま一緒にいても、お姉さまは私の事を守ってくれる、私はそれでもいいわ。だけどお姉さまは。

 

立ち去る前にノエルが言っていた言葉が頭をよぎる。あれは私を責めていたのではない、自分自身を責めていたのだ。私の中にあった、思い描いていたノエルではなくなってしまった自分を。

 

私はずっと孤独だった。誰からも触れられず、誰にも触れないという自分が恐ろしい化け物のように思え、周囲もまた私を人間扱いしなかった。口では神の御使いだ、天使のようだと言いながら、その実腫れ物を触るかのように扱われることは、どうしようもなく辛かった。両親から愛を受ける事も友に悩みを打ち明ける事も人に想いを寄せる事も出来ず、ただ剣の技や退魔の知識を磨き、災いに備えているだけの存在だった。

 

だから私はノエルにすがった。この世でたった一人、私に触れる事が出来る妹に。ノエルだけが私を人間扱いしてくれた。ノエルといる時だけが、自分を人間だと思えた。

けれど、ノエルはヴァンパイアになってしまった。人の血を求める忌まわしき存在。人間に仇をなす、私が討ち滅ぼすべき怪物に。

私はそれを受け入れられず、ノエルを人間に戻す方法を探し求めた。エレオノーラの言うがままに動いていたのは彼女を信じていたからではない。向き合いくなかったのだ、ノエルがヴァンパイアであるという事実に。エレオノーラを討ち滅ぼしノエルが目覚めてからもずっと、私は受け入れられないままだった。

そんな私を、ノエルは変わらず好きでいてくれた。私がヴァンパイアである妹が認められず苦しんでいる事に気づいて、私の求め思い描く妹のままでいようとしてくれたのだ。けれども。

 

「あ、ああ……」

 

後悔の念が私を襲い、涙が頬を伝う。私は間違っていたのだ。旅に出た事でもノエルに人の血を吸わせてしまった事でもない、ノエルがヴァンパイアになった時からずっと。あの時私は人間に戻す方法を探すのではなく、ヴァンパイアになったノエルに向き合うべきだったのだ。

 

目の前の大切なものを見ずに思い出の中だけにしかない理想を探し求めていたとは、なんという愚かな話だろう。私がそれを探していた間も、ノエルはずっと悩み苦しみ悲しんでいたというのに。

 

こんな愚かな私をどうか許して欲しい。いや、そう思う事さえ私には相応しくない。もう私には、ノエルの事を思うことさえ。

 

「ちょっと待て!違う、そんなのおかしい。絶対間違ってるよ」

 

怒気を含んだエドガーの叫び声が、私を思考の海から引きずり出した。何が間違っているというのだ、ノエルは何一つ、悪い事などしていなかったというのに。

 

「なんでノエルは何も言わなかったんだよ。一緒にいる相手に何も言わないでじっとガマンしてて、ある日突然さよならだなんて、ただのワガママじゃないか」

「私に言われても困りますよ、エドガー。でもそうですね、ノエルさんはきっと口に出せばアレクサンドラが自分の事で苦しむ。それさえ許せなくて」

「なんだよそれ。そんなの自己満足じゃないか、勝手すぎるよ。自分を許せるとか許せないとかじゃなくて、相手に受け入れてもらえるかどうかだろう」

 

違う。悪いのは私なのだ。私さえ、そこにいたノエルを見てあげていれば。

 

「言わなきゃ分からない事なんて、沢山あるだろ?さっきクリスだってこいつにそう言ってたじゃないか。口に出すだけでもいい時があるって」

「それは少々、意味が違う気もしますね〜。逆に、口に出すのも辛いという事だって、あるのではありませんか?」

「何も言わないで察しろってのか。ずっと一緒にいれば伝わるはずだから、言うのは辛いからそっちから気付いてくれって?」

 

ああ、そうとも。そうあるべきだったのだ。苦しんでいるノエルの事を思えば。

 

「エドガー。私を責めても仕方がありませんよ?」

「分かってるよ。でもやっぱ、おかしいと思う。側にいたのに相手に悪いから、言うのは辛いからって遠慮して、ずっと黙ってただなんて。何で、ちゃんと伝えなかったんだ。何故一人で勝手にもうどうしようもないって決め付けるんだ。やり直したい、思い切って言ってみようって、何で思えなかったんだ。身勝手すぎるよ、どうして」

 

エドガーという少年はよほど直情的、いや純粋なのだろう。顔も知らない存在の事を、ここまで激しく言えるだなんて。

エドガーの言う事はわかる気もする。だが今それを言ってどうなるだろう。全ては遅すぎたのだ、ノエルはもう。

 

 

「どうしてそんな簡単に、諦めようとするんだ!」

 

 

その言葉は激しく私の胸に響いた。どれほど知識のある賢人の言葉でも、徳を積んだ敬虔な僧侶の教えであっても、この時の少年の単純な言葉ほど、私の心を揺さぶる事はなかっただろう 。

 

諦めていたのはノエルではない、私の方だ。私はずっと諦めていた、他の人と同じような物は私の手には入らないと。だが本当にそうだったのだろうか。両親に愛していると伝えた事は一度でもあったか。友が欲しいと思う気持ちを誰かに訴えた事はあったか。想いを寄せるような相手を見つけもせず、ただ周囲を羨んでいただけではなかったのか。そして今また、ノエルの事も。

 

「落ち着いて下さいと言っているでしょう、エドガー?あなたが怒っても仕方がありませんよ」

「あ、そうだよな。悪い、アレクサンドラ」

「いや…少し疲れた。悪いが、そろそろ」

「そうだよな、もう遅いし。オレ達で見張っててやるから安心して休みなよ」

「すまない、そうさせてもらう…ありがとう」

「気にすんなって」

 

そうだ。一度手に入らなかっただけで、簡単に諦める必要がどこにある。やり直せばいいのだ。私も、ノエルも。

まだ間に合うだろうか。いや、そんな事は考えない。大丈夫、必ずやり直してみせる。そう思いながら私はその場に横たわり目を閉じた。

 



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第五章・決意

どれぐらい眠っていただろう。何かの気配に目を覚ますと、目の前に美しい笑みを浮かべた少女の顔があった。

 

「何のつもりだ?」

「うふふ、ごめんなさい。あんまり綺麗な寝顔でしたから、つい間近で見てしまいたくなってしまいまして」

「…エドガーに嫌われても知らぬぞ」

「おやまあ。ご心配なく、私達の仲はこれぐらいではびくともしませんから。でもあなたの方は、ノエルさんにヤキモチを妬かれてしまうかもしれませんね〜?」

「それはありがたいな、探す手間が省ける」

「おや。では、決めたのですね?」

 

相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままのクリスに頷いてみせる。ノエルを探す。探し出して、彼女に今までずっと苦しめていた事や気づいてやれなかった事。それらの全てを詫びて、今度こそ一緒に歩いていこうと伝えるのだ。

もしかしたら、ノエルは私の申し出を拒否して再び立ち去るかもしれない。だが構わない。その時はまた探し出して、同じ事を伝えればいい。何度失敗しても、どこへ行こうと必ず見つけ出してみせる。ノエルは私のかけがえのない妹だ、絶対に諦めない。

「いやー参ったぜ。これだけ広い森なら木の実やキノコぐらい見つかるだろうと思ったのに、どこにも無いんだもんな。ああ腹減った」

 

心の中でそう呟いているうちに、エドガーも戻ってきていた。

 

「おはよう。食料なら持っているぞ、よかったら食べるといい」

「ホントか?サンキュー、助かるよ。昨日の夜からなんにも食べてなくてさ」

「ありがとうございます。私もご馳走になって良いのですか?」

「ああ。その代わり期待はしないでくれ」

 

 

「……そりゃ、贅沢言うつもりはなかったけどさあ。いくら何でもこれは」

「なんとまあ。ダイエットにはいいのかもしれませんけどね〜」

「すまない、ノエルの食事には気を使っていたのだが…」

 

木の実を挽いた粉と、乾燥させた薬草を水で戻したもの。どちらも普段私が食べている物だが、それを見て二人は苦い顔をした。

食事は私の人間らしからぬ点のひとつだ。肉や魚の類は一切受け付けない。野菜なら食べられない事もないが、そもそも私は空腹というものを感じたことがない。これらは滋養があるから摂っているだけで、その気になれば少量の水だけでも特に不都合はないのである。エレオノーラは私の食事を見ていつからここは鶏小屋になったのかしら、などと嘲ったものだし、ノエルでさえお姉さまは不思議な人ね、と呆れて私の食べる物は口にしようとしなかった。

私のもてなしは大いに不評だったが、さいわいノエルの為にとっておいたクッキーがあったのを思い出したので、それでどうやら二人の空腹は満たすことが出来た。

「やれやれ。あんた、よくこんなのでまともに動けるな」

「すまぬ…ところで、少し気になったのだが。お前達は血を吸った後の動物の肉はどうしている、やはり食べるのか?」

「え、何だよ急に。まあ、食べる事もあるよ。乾いてるからあんまり美味くないけど」

「鶏の場合は血を吸ってからだと干からびてしまっていて羽を毟りにくいですから、あまり食べませんね。けどそれがどうかしましたか?」

「なるほど。何、将来に備えての参考だ」

「??」

 

泉を離れ、死体の山のある場所を避けて森の奥に進んでいく。森を抜けると崖があり、そこを降りると街道のある場所へぶつかるはずだ。西へ向かえば帝国領へ、東に向かえば王都の北側に出る。

 

「この辺りで別れよう。すっかり世話になった、礼を言う」

「なあ、良かったらこのまま一緒に旅をしないか。ノエルを探すにしても、皆で探した方が見つけやすいと思うし。それにあんた、追われてるんだろ。一人旅は危険だぜ、オレ達といた方がいいよ」

「……」

 

エドガーと一緒にいるクリスが少しだけ羨ましくなる。純粋で真っ直ぐで、自分より他人の事を思いやれる優しさ。もしも最初から彼と旅立っていたら、私は今もノエルと旅を続けられていただろう。だが。

 

「ありがたい申し出だがそれは出来ない。お前の言う通り私はお尋ね者だ、一緒にいては迷惑がかかる」

「そんなの気にするなって。大丈夫、オレ達だってけっこう危ない目に遭ってきたけど、その度切り抜けてこれたんだぜ。あんたがいたって何とかなるよ」

「あの死体の山を見ただろう、私といればああいう事に巻き込まれるのだ。それでもいいと言うのか?」

エドガーも彼なりのやり方で危機を乗りこえて来たのだろうが、私は剣で切り抜ける以外の方法を知らない。そのようなやり方は彼の好むことではないだろう。それは、とエドガーが言いよどんだその場をどうぞお気をつけて、とクリスが引き取った。こうやって、この二人は生きてきたのだろう。私とノエルもまた、いつか同じように。

 

「ところで、どちらへ向かわれるのですか?」

「帝国領へ行こうと思う。当初からの目的だったし、それにノエルは見知らぬ土地を目指している気がするからな」

「そうですか。私達はもう少しこの国に留まろうと思います。国内をまだ、探しきっていませんからね」

「探す?そういえば尋ねなかったが、お前達も目的のある旅なのか?」

「ああ。オレ達は『約束の地』を目指しているんだ」

そう言ってエドガーが胸を張る。彼の胸元が少し膨らんで見えたが、護身用に石でもしまっているのだろうか。

 

「何だ、それは?」

「どこかにあるという場所さ。飢えも貧しさも存在ない、誰もが幸せに暮らしていける夢のような所だよ。オレ達はいつかきっと、そこへ辿り着いてみせる」

そう語るエドガーの口調は、夢を信じる者特有の力強いそれだった。彼からすれば、私達が何もせず簡単に諦めてしまうように見えたとしても無理はない。

 

「そうか…私もノエルを見つけたら、そこへ向かうのもいいかもしれないな」

「お、本当か?そうしなよ、先に見つけて待っててやるからさ。オレ達とあんた達、四人で一緒に暮らそうぜ」

「そうだな、そこでお前達に私のやりたい事を手伝ってもらうのもいいかもしれん」

「やりたいこと?」

「ああ。肉屋をやる」

「……は?」

 

その言葉をエドガーは理解できなかったのか、ポカンとなってしまった。クリスでさえ、驚き呆れたような顔をしている。この少女にそんな顔をさせてやった事は私に妙な満足感を与えた。そのまま二人に背を向ける。

 

「それではな…エドガー、尻に敷かれるのもいいがたまには男の威厳を見せておけ。エレオノーラと辺境伯のようにはなるなよ」

「あ、待てよ。肉屋って何の話だ?っておい!あのなあ、オレ達は」

「達者でな!」

 

別れを告げた後、私は道を降っていった。昨日受けた傷はほとんど塞がっていて、痛みは全くない。大丈夫だ、私はまだ動ける、まだ戦える。まだ私は、生きている。諦める必要はどこにもない。

 

「約束の地、か」

エドガーの言っていた事が頭をよぎる。彼には悪いが王国内を旅して来た限り、とてもそんな場所があるようには思えない。どんな人間でも悩むことなく幸せに暮らしていける理想郷など、この世にあるわけがない。

だが、クリスは何故旅をしているのだろう。聡明な彼女がエドガーの夢物語を信じているとは思えないのだが。

 

「…ああ。そういう事か」

そこまで考えた時、クリスの表情が頭に浮かんだ。エドガーの隣で幸せそうに微笑んでいるあの表情。つまりクリスにとって、エドガーと共にいる場所こそが。

ならば私にも約束の地はあるはずだ。そう。ノエルと一緒にいられるのならそこが、私にとっての-

 

 

 

「行っちまった。あいつ、最後までオレ達の事勘違いしたままだったな」

「うふふ。少々世間知らずのご様子でしたね〜」

「クリスが言うかそれ…けど見つかるのかな、あいつの妹。どこにいるかも分からないんだろ?」

「エドガー。あなた、約束の地が本当にあると、今でも信じておいでですか?」

「え?おい、何言い出すんだ、当たり前だろ。オレ達は絶対にそこに…あ。そういう事か」

「ええ。信じてあげましょう、彼女なら必ず見つけ出せると」

「そうだな。さて、オレ達もそろそろ行こうか」

「はい♪」

 

 

「…なあ、クリス」

「どうしました?」

「オレに隠し事は無しにしろよ?」

「まあ。うふふ、もちろんですよ。そういうエドガーの方こそ、私にまだ話してない事があるんじゃありませんか?」

「オレに?まさか、そんなものあるはずないだろ」

「そうでしたか。ところで…私のカバンに入れておいたチョコレートが無くなっているのですが、ご存知ありませんか?」

「え?さ、さあ。ネズミにでも食べられたんじゃないか」

「エドガー。隠し事はなしだって、さっき仰ったばかりですよね?」

「う、その…ゴメン!ほら、昨夜はメシ抜きだったろ。だから腹減ってしまって、つい」

「酷いですね〜、せっかく二人で食べるのを楽しみに取っておいたのに」

「悪かったってば。謝る、次の街に着いたらちゃんと弁償するから」

「それだけじゃ黙っていた事のお詫びには足りません。これはお仕置きが必要ですね〜」

「お仕置きって。まさか、おい」

「ふふっ。次の街に可愛いドレスが売っているといいのですけど」

「い、イヤだぞ。もう二度と着ないからな。だいたいそんな無駄遣いしてる余裕なんて…おい、ちゃんと聞けってば。ああもう、待てよクリス!」

 



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エピローグ

「帝国領はどうだった、賑わってたんだろう」

「ああ、例の条約のおかげでお祭り騒ぎだったよ。おかげで随分稼がせてもらえたぜ」

「羨ましい話だな、俺も行っとくんだった。しかしまさか帝国と友好条約を結ぶとはな」

「帝国の連中も言ってたよ、何回戦争したか分からないぐらいなのにな。これも全部辺境伯様のおかげってわけだ」

「辺境伯がなあ。信じられんぜ、殺された奥方の言いなりになってるだけの人だってもっぱらの評判だったのによ」

「それよ。例の奥方があのアレクサンドラに殺されたって事件。あれが理由らしいぜ」

「へぇ、どういう事だ?」

「ここだけの話だぜ。俺の昔馴染みが辺境伯様の召使いなんだがよ、そいつの話じゃ、この条約はアレクサンドラを見つけ出す為の辺境伯様の計画なんだそうだ」

「なんだそりゃ。辺境伯は領地を帝国に荒らされたくないから国王陛下に友好条約を結ぶよう申し出たんじゃなかったのか」

「その程度の事は辺境伯様には痛くも痒くもないさ、本当の狙いはアレクサンドラよ。ほれ、あの女奥方を殺したあと帝国領へ逃げ込んだっていうじゃねえか。今までならそれでもう手出し出来くなるわけだが、友好国相手なら話は別よ。帝国内でアレクサンドラが見つかったら、捕らえてこちらに引き渡してくれって堂々頼めるという事になるじゃねえか」

「はぁー、なるほど。しかしそんな理由でよく帝国側が条約を承知したもんだな」

「まさか、表向きそんな事言うはずないさ。そこかいらが辺境伯様の腕、いや舌の見せ所よ。まず国王陛下をあの手この手で説得してその気にさせてから返す刀で帝国領へ乗り込み、今度は帝国のお偉方相手に一世一代の大口上をふるったってわけさ。同行してたそいつの話じゃ、そりゃあもう感動的な内容だったらしい。国王陛下も帝国の皇帝もその話にコロっと参っちまって、友好条約はめでたく成立ってわけだ」

「へえー、奥方の仇討ちの為にそこまでするとはねえ。あれ、けどアレクサンドラの指名手配は取り下げられたじゃねえか、もし見かけても手出しは厳禁だって」

「ああ。これもそいつの話だがな、辺境伯様はアレクサンドラが奥方を殺した理由を知りたがってるんだそうだ。それに例の奥方の遺体が見つかってないって噂、あれはどうも本当らしい。その辺の事も知りたいんだろう」

「ふーん。それで賞金稼ぎ共に殺させないように懸賞金は出さないって事にしたわけか」

「ああ、ついでに親戚一同が雇ってアレクサンドラを追わせていた傭兵たちも全部引き上げさせたとよ。その代わり自分の配下の騎士団からよりすぐりの連中に命じて、大捜索を始めたそうだ」

「自分の配下なら殺すなという命令は守るってわけか、なるほど。しかし、死んだ奥方の為にそこまでするとはね」

「それだけ奥方様に惚れてたって事よ。ダチの話じゃ死んでから何日も食事もとらずじっと考え込んでたそうだぜ。後を追って死ぬつもりなんじゃないかって心配してたけど、あの時は計画をずっと練ってたんだろうって感心してたよ。こんな立派な方とは思わなかったとな」

「お偉方の考える事は分からんな。しかしこれで、帝国との戦争への備えって名目で巻き上げられてた税金がなくなるといいんだが」

「なくなるだろうよ、税金を減らすってのは条約の表向きの理由の一つだからな。それに、他の国への備えの分も。辺境伯様は東の教皇国や南の自由都市連合とも条約を結ぼうと計画してるらしい。それでアレクサンドラの逃げ場をなくそうってんだろう」

「よくやるな。けど自由都市連合と友好関係を結ぶのには大賛成だぜ、あそこと普通に取り引き出来るようになればこちらも大助かりだ」

「ああ。それに教皇国が攻めてこなくなれば戦争の心配もほとんどなくなるだろうよ、周辺の国は大抵あそこのイカれた司祭様の呼び掛けで攻めてきてたんだからな」

「なんか、すげえ話になってきたな。もし全部上手く行きゃ、この国もかなり良くなるんじゃないか?」

「上手く行けばな。けどそうなったら辺境伯さまさまだぜ」

「ああ。けどこれ、どこまで感謝したらいいのかね。辺境伯はもちろんだけどきっかけは死んだ奥方だろ。いや、いっそ元凶のアレクサンドラか?」

「おいおい、変な事言うと辺境伯様にぶち殺されるぞ」

「おっと。しかしいくら美人とはいえもう死んだ奥方の為にここまでするとは大したもんじゃねえか。俺なんざ女房が誰かに殺されてもよ、そいつにありがとうって言うぐらいが関の山だぜ」

「はは、ちげえねえ」

 

 

国境間近の街道で休んでいた行商人達をやり過ごそうと、草むらの茂みに潜んだ私の耳に飛び込んで来た彼らの会話は、すぐには信じられないものだった。帝国領がもはや私にとって安全とは言えなくなった事も勿論だが、それ以上に驚いたのは辺境伯の変貌ぶりである。

辺境伯とはどんな人物か、と聞かれても正直何も答えられない。私に命令を下し、領地の政治を取り仕切っていたのはエレオノーラであり、彼はただそこにいただけの無気力な存在に過ぎなかった。奥方の傀儡、エレオノーラの生きたあやつり人形、一人では何も出来ない哀れな大貴族。王国内での彼の評判はさんざんなもので、およそ何かを成し得るような人物だとは誰も思っていなかった。そんな辺境伯が百年以上敵対関係にあった帝国と友好条約を結ぶ立て役者となり、周辺諸国との関係を改善させ、果ては民の暮らしを良くしようと考えているという。それらが全て、私を捕らえる為の計画だというのだ。。

彼らの言う通りだとしたら、辺境伯とはなんという男だろう。それほどの政治手腕を持ちながら、エレオノーラの傀儡である事に満足して何もしなかったのか、或いはその死が彼を目覚めさせたのか。どちらにせよ、それほどにまで彼はエレオノーラを愛していたという事になる。

 

「エレオノーラ。お前は、どうして」

 

かつて打ち倒したヴァンパイアに思いを馳せる。彼女は何故仲間を集める事に夢中になっていたのだろう、これほど深く愛した者が側にいたというのに。

それだけでは不十分だったのか、人間の愛など不要と無視していたのか、あるいは何か別の理由があっての事か。今となっては知る由もない。

辺境伯の差し金により私の旅はますます困難になったわけだが、立ち止まるわけにはいかない。彼が真実を求めるように私にもまた、見つけなくてはならないものがあるからだ。

行商人達の姿が見えなくなったのを確認し、先を進む。そこを後にするとひたすらに街道が伸びているだけの、何も無い平野だ。

 

「うん?」

 

常人より鋭いと言われる私の目に、はるか遠くからやってくる馬に乗った集団の姿が映る。まだはっきりとは見えないが早駆けではない以上伝令では無さそうだ、おそらくは軽装騎兵だろう。馬車を引いている様子はないから商人や貴族の護衛でもあるまい。となると。

 

「追っ手、か」

 

良い場所で出くわしたとは言えない。周囲に身を隠せるような物は無いし、街道から逸れて逃げたところで馬相手では追い付かれるのが落ちだ。戦って切り抜けるより他にあるまい。

 

私はまだ辺境伯の事を考えていた。辺境伯ほどの財産があれば、私をなんとしても捕らえるべく、金にものを言わせて大勢の傭兵や賞金稼ぎ達を大陸中に差し向ける事などたやすいはずだ。しかし、彼は外交によって行く手を塞ぎ私を炙りだそうとしている。このような回りくどい方法を取ったのは何故だろう。人の血をあまり流したくないのか、それとも私やエレオノーラの件はついでであり、本心はあくまでも孤立している王国の外交を立て直すことにあるのか。

 

騎馬の一団が迫ってくる。見たところ飛び道具の用意は無さそうだ。彼等がもし先程の行商人達の話に出て来た辺境伯の差し向けた部隊なら私を殺さぬよう厳命を受けているだろう。そこに付けこむ隙があるとはいえ、油断は禁物だ。

不利な戦いを前にしていたが、心は落ち着いていた。辺境伯の狙いは何なのだろう。このまま逃げ続ければ、次はどんな手段をとってくるのか。それを知りたいという気持ちが私の中で強くなりつつある。

いいだろう、こうなれば辺境伯と意地の比べ合いだ。私を捕らえたい為にここまでの計画を立てた彼を見習って、私もどこまでも追いかけてみせようではないか。

 

太陽を背にしようと空を見上げて陽の位置を確認する。よく晴れた青空には雲ひとつなく、どこまでも美しく広がっている。彼女もまた、同じ空の下にいる。今はそれで充分だ。

 

いよいよ近付いて来た騎兵達に目線を戻す。彼等には少々気の毒だが、私と辺境伯に付き合わされる事になったのが不運だったとでも考えてもらうより仕方あるまい。

 

「ノエル」

 

声に出してはっきりと、最愛の妹の名をつぶやく。心の中に勇気が、生きようという意思が強く湧き上がる。

騎士達はもう目の前にいて、隊列を整え始めている。来るがいい、私は決して諦めぬ。

 

いつか必ず、お前に辿り着く。また二人で生きていく為に。

 

最後にそう呟くと、私は敵に立ち向かうべく剣の鞘を払った。

 

(第一話完)

 

 

 

 




とりあえず公式ストーリーをベースにしたお話はここまで。次話以降オリジナル展開となります。


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第二話・夢を見る香
第一章・遭遇


道を歩いている。目の前は鼻をつままれても分からないほど真っ暗だが、気にせずそのまま進んでいく。

私はお気に入りの服装をしていた。羽飾りのついた帽子に赤い上着と黒く染めた皮の胴着、裾の広いズボンにやや黒が入った膝までのブーツ。素敵だわ、まるで吟遊詩人の詩に出てくる女丈夫みたい。ノエルがそう褒めてくれて以来、機会があればこの装いでいることが多くなった。腰には国王より賜った愛用の大剣も履いている。

だがおかしい。この服はあまりにも目立つという事で王都を出る際にまとめて処分したはずだ。何故いま身にまとっているのだろう。

 

「ああ…またか」

理由はすぐに分かった。と同時に遠くから笑い声が聞こえてきた。美しい声だが、人を嘲るようなその笑いは酷く私の神経を苛立たせる。

「おのれ。よくも、よくも!」

怒りと苛立ち、悔しさと屈辱感。ありとあらゆる負の感情が湧き上がり、それをどこかへぶつけたいという衝動に駆られる。

笑い声はこちらへ近付いてくるようだ。剣を抜いて走り出す。あの声の主は、あの女だけは生かしてはおけない。

笑い声が大きくなってくる。しかし、いつまで走っても辿り着けない。私の怒りはますます高まっていき、思わずその場で闇雲に剣を振るうが、当然何の手応えもない。

「滅びよ!ヴァンパイアめ、滅びるがいい!」

そんな私の叫びを掻き消すかのように、笑い声はいつまでも響いていた。

 

 

この夢はいつから見るようになっただろう。元々あまり夢を見る方ではなかったが、気がつくと何度も同じ夢を見るようになっていた。

笑い声の主が誰であるかは分かっている。彼女のあのからかうような嘲るような笑い声は、私にとって不愉快さの象徴のようなものだった。その記憶が、私にこんな嫌な夢を見させるのだろうか。

この夢から目を覚ますたび、あの時の怒りとやるせなさが込み上げてくる。が、今はそれをぶつける相手も慰めをもたらしてくれる相手もいない。

のろのろと立ち上がり支度を整える。再びノエルと出会えれば、この夢も見なくなるのだろうか。

 

 

 

 

帝国に入った私はまず、馬を求める事にした。長旅にはその方が都合がいいし、まだ追っ手が完全になくなった訳ではない。国境付近では切り抜ける事が出来たとはいえ、何度も徒歩で騎馬に囲まれてしまうような目には遭いたくない。

その為に必要なものは金である。かねてからの計画通り剣の鞘にはめ込まれていた宝石を売ろうと国境にほど近い街に入り店を探したが、これが予想以上に難航した。

いかに高価な宝石といえど、いや高額な物だからこそ、出処の分からない怪しい品をみすぼらしい装いの旅人から買おうとする宝石商などまずいない。

街の大通りにある商店に軒並み断られ、仕方なくあちこちの酒場や傭兵の溜まり場などで聞いて回りようやく盗品を買い取るという胡乱な商人を見つけ出したが、足元を見られてしまい捨て値同然の額で手放さざるを得なかった。それでもどうにか数十枚の金貨を手にする事が出来たが、すぐにそれを手放す羽目に陥ったのである。

 

「アレクサンドラ!探したぜ、ようやく出会えたな」

「遅かったわね、待ちくたびれたわよ」

金貨を懐にしまい馬を扱う店を探そうと街の大通りに出た私の前を、一組の男女が立ち塞いだ。燃えるような赤い髪の少年と、冷たい雰囲気を漂わせた長い髪の少女。その容貌には確かに見覚えがある。

 

エレオノーラはよく貧しい農家や貧民街などから子供達を買っていた。人身売買が普通の商売として成り立っていた王都では普通の事だが、それにしてもその回数や人数が多い事を訝しく思った私の問いに「私の領内に孤児院を作っているわ、そこで受け入れる為よ」などと答えていたが、実際にはもちろん「食料」として仕入れていたのだろう。ただ全ての子供達が姿を消したわけではなく、中には見込みのありそうな子を手元に置いて養育し、自らの私兵として使う事もあった(今思えば私もその一人だったのだろうが)。この二人もエレオノーラに見出された者達で、何人かいた私兵のうちでも彼女の特にお気に入りであり、非常に優秀な才能の持ち主だと褒めそやしていたものだ─諜報や暗殺等の。

 

「久しいな、『山猫』に『狂犬』。私を探していたとはどういう意味だ?」

彼等にも勿論名前はあるのだろうが、私はそれを知らない。仕方なく通り名として呼ばれていた符牒で声をかける。

「とぼけるつもりか?エレオノーラ様の仇だ、来い」

「とうとう待ち望んでいた日が来たのね。言葉は要らないわ、かかってきなさい。それともこちらから仕掛けましょうか」

『山猫』が話しかけ『狂犬』が合いの手を入れる。この二人は何故かこうした話し方を好むようで、立場が逆になる事やどちらか一人だけが話をする事は滅多にない。

「辺境伯は私を生かしたまま捕らえろと命じたのではなかったのか、今ここで私を討てば」

「なんだそりゃ?知らないね、オレ達は自分の意思で追ってきたんだ。お前が姿を消してすぐにな」

「あなたの首は何としても私たちの手であげたかったからね。私達の生きる目的を無くしてくれたんですもの、それ相応のお礼をしなきゃいけないでしょう?」

「……そうか」

彼等が少し哀れに思えてきた。貧民街から取り上げられたこの二人が崇拝とも言うべき熱心さでエレオノーラを慕っていた事は私もよく知っている。しかし、エレオノーラはそれほどまでに忠誠を誓った相手をヴァンパイアに変えようとしなかった、つまり本心を打ち明けていなかったのだ。彼等の事は役に立つ道具ぐらいにしか思っていなかったのか、それともお気に入りのペットを可愛がるような感覚で接していたのか。

 

「さあ始めようか騎士様、それとも河岸を変えるかい。ウチらは闇討ちの方が得意だがこういう戦いだ、正々堂々正面からぶつかってやるよ」

「逃げようだなんて思わない事ね。剣を抜いてあなたを追ってもいいのよ、でもそうしたら周囲の人間達は無事では済まないわ。騎士たるものが無関係な人間を巻き込んでもいいの?」

かなりまずい状況だ。エレオノーラの命により稽古の名目で座興程度に彼等と立ち会った事があるが、山猫の繰り出す一撃は息をつかせぬほど鋭く力強いものであったし、狂犬の防御を顧みずひたすら打ち込んで来る様も通り名に相応しく凄まじいもので、大いに手を焼かされたものだ。一対一ではともかく二対一、もしくは二人を続けて相手にしてではまず勝ち目は無い。となると、取るべき道はこれしかないだろう。

「いいだろう。だがここではまずい、後ろを見ろ。警備兵がこっちに来る…」

つられて二人が後ろを振り返ったのを確認すると、私は全力で走り出した。

「おっと。逃がすかよ、待ちな!」

「やっぱり逃げたわね。いいわ、どこまでも追ってあげる」

人混みに紛れてしまえば何とかなるかと思ったが、軽装でしかも街中での移動や追跡に慣れている二人に対し、私は旅の荷物や先程手に入れた金貨が邪魔をして上手く走れない。虚をついていくらか距離を離せたとはいえ、追いつかれるのは時間の問題だ。私は懐の金貨を掴みだし、後ろに向かってばら撒きながら思い切り叫んだ。

「金だ、金をやるぞ」

 

 

「なっ!?おい邪魔だ、そこをどけ!」

「くっ!ちょっと、通しなさい…きゃっ、どこ触ってるのよ!?」

咄嗟のこの閃きは上手くいった。周囲はたちまち金貨を拾おうとする者や何が起きたのかと立ち止まる者でごった返し、通りは大混乱に陥った。予想外の騒ぎに巻き込まれ焦る二人を尻目に急いでそこから離れ、街の門へ向かっていると後方で悲鳴と怒号が聞こえてきた。狂犬が人々に剣でも振るったのだろうか。街の住民には申し訳ないがこちらにとってはありがたい、警備兵と一戦を交える事にでもなれば更に時間を稼げるだろう。

大騒ぎの街から抜け出し、外にある森の中で息を整える。追ってくる者はいない、どうやら逃げ切れたようだ。だが帝国に入ってすぐにこの騒動である。あの二人とは必ずまたどこかで会うことになるだろうし、辺境伯もいずれ再度追っ手を差し向けてくるに違いない。まだまだ落ち着いて旅が出来るという訳にはいかないようだ。こうなれば一刻も早く馬を手に入れておくに越したことはないだろう。

 

エレオノーラから貰った物に頼ろうとした報いかもしれぬな。自嘲気味にそう独りごちて、私はその場を後にした。

 

 

 

 

 

 




オリキャラを出してしまいました。一応アイドルがモデルです。


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第二章・駄馬

「もっとマシな馬はないか?金ならもう少しは出せるが」

「いやあ、こちらとしても馬はそうそう手放せなくてねぇ。何、こいつだって決して悪くは無いですよ。荷車を轢かせてましたから頑強そのものですぜ」

「そうは見えないがな…」

 

街を離れた後、馬を求める為私は近くにあった農村を訪れた。あんな騒ぎがあった後ではもう先程の街へは戻れないし、別の街まで移動していては道中でまた山猫達に出くわさないとも限らない。出来ることならここですぐにでも馬を手に入れたかったが、これなら譲ってもいいとその村の農夫が見せてくれた馬にはさすがに閉口させられた。

子馬とも見紛うほど小柄なのはまだいいとして、問題はその体つきである。余程餌の具合が良かったのか、あるいはそういう性質なのか丸々と太っていて、とても人を乗せて早駆けなど出来そうもない。

「ご心配なく。 せがれのやつがこいつに乗って遠出したりもしてましたからね、人を乗せて走るのにも慣れてますよ。それに人懐っこいですから乗るのも楽ですぜ」

私の顔色を見抜いたのか、農夫はしきりに馬を褒めそやしてくる。商売熱心というよりやっかい払い出来るまたとない好機を逃すまいという気持ちなのだろう。

とんだ安物買いの銭失いになりそうではあったが、遠くへ向かう為にはどうしても馬は欲しいし、それに今の懐具合からすれば他の馬を探したところでたいして違いはあるまい。そう思い買う旨を伝えると、農夫は満面の笑みを浮かべた。

「そうですか、へへ。ではすぐに鞍を取り付けますんで。おいロッコ、今日からこの方がお前のご主人様だ。可愛がってもらうんだぞ」

「ロッコ?」

「せがれが付けたこいつの名前でさ。お気に召さないようでしたらご自由に呼んでかまいませんぜ、賢いやつだから自分がなんと呼ばれているかすぐに理解しますよ」

「それは賢いとは言えないのではないか?」

街でばら撒いた金貨の残りから代金を支払い馬を受け取ったあと、あらためてその顔を眺めてみる。やけに量のある縮れた薄い黄色のたてがみに、大きな瞳と馬特有の素直そうな目付きはなるほど賢いと言われればそうかもしれない。とはいえ王都にいた頃は駿馬に乗りつけていた私からすれば、やはりこの体躯は酷く頼りなさげである。

「…コロとでも呼ぶか。コロコロ太っているしな」

私の言葉を理解したのかどうか、太った馬は不服そうにいななきをあげた。

 

 

こうして手に入れた馬に乗って私は旅を続ける事にしたのだが、このロッコあらためコロには手を焼かされた。

何しろ全く言うことを聞かない。乗馬は得意な方でどんな暴れ馬でも乗りこなす自信があったのだが、いくら手綱を引こうとも拍車をくれようとも我関せずとばかりに勝手な方向へ行きたがる。派手な色が好きなのか、道中で濃い色の石や木を見るとすぐそちらに向かおうとするし、変わった形をした岩でもあればその前で立ち止まって動かなくなってしまったりもする。こんな奇妙な馬は初めてだ。これならあの農夫がやたら熱心に売りつけようとしていたのも納得出来る。さいわいあれ以来山猫達にも辺境伯の追っ手にも合わずに済んでいるが、もし出会ってもこんな馬では逃げるのに何の役にも立たないだろう。相変わらず夜は悪夢にうなされ通しの上に、日中もこの馬に手を焼かされるようではとてもたまらない。腹立ち紛れによほど殺してしまおうかとも思ったが、呑気そうな顔を見ているとそういう気も失せてくる。

 

「コロ、もうお前の好きにするがいい。どこへなりと私を連れて行け」

いくら怒鳴ろうが手綱や鞭で叩こうがまるで反応しない駄馬に根負けしてとうとうある日、鞍の上でこんなふうに呼びかけた。いちおう帝都を目指してはいたものの、この調子では一年かかっても辿り着けそうにない。そもそも目的地があるような旅でもないのだ、当てずっぽうでどこかへ向かってもかまわないだろう。

そう言って拍車を入れると、コロは今までのんびり歩いていたのが嘘のように、勢いよく走り出した。と言っても、その足は正直お世辞にも速いとは言えないほどだったが。

遅いとはいえ、馬上で風を受けながら進んでいくのはやはりいいものだ。久しぶりに味わう爽快感に、私の心も浮き足立つような気分になる。

そうだ、どこまでもゆくがいい。誰かに命令されたり縛られたりするような生き方はお前には向かぬ。進め、ひたすらに己の信じた道を。どこまでも自由に、自分の意思で。

いつの間にか私はすっかりこの馬に夢中になっていた。つい先程までこの馬に苛立ち、言うことを聞かせようとしていた自分が馬鹿らしく思える。この馬は、いやこの子は自由に進ませるべきなのだ。そうすればきっと、素晴らしい事をやるに違いない。私には分かる。今はまだ無名でも、いずれ必ず大輪の花を咲かせるはずだ。だって、こんなにも夢中になって自分の好きな事に取り組んでいるんですもの。とってもステキですわ、あなたもそう思いませんこと?ねえ、プロデ-

 

 

 

馬上で我に返り、あたりを見回す。ほんの一瞬、奇妙な感覚に囚われていたような気がするが思い出せない。いつもの悪夢とはまた違う夢でも見ていたような気分だ。眠っていたのだろうか、こんな不安定に揺れている中で。

コロはまだ走り続けている。どこかの斜面を降っているようだが、ここは一体どこなのだろう。辺りからは今までに嗅いだことのない不思議な香りが漂ってくる。植物や動物の発するものではなさそうだ。何となくだが水から発しているような気がする。池や沼でも近くにあるのか。いや。

 

さすがに疲れたのだろう、馬の足はだんだん遅くなっていく。走るというよりも歩くような速さへ変わり、斜面が終わる所で完全に止まった。しかし私はその間ずっと、馬の足取りよりも目の前に広がっている光景に釘付けになっていた。広大な砂浜と、点在する巨大な岩石。そして、どこまでも果てしなく広がっている水面。

 

「これは…」

 

帝国は大陸の西側にあるからその最西部にはこうした場所もあると聞いてはいたが、実際に目にする事になるとは思わなかった。いつの間にこんな場所まで来ていたのかはともかく、ここまで連れてきた馬に思わず感謝したい気分になる。

 

これが、海か。

 

先程からの香りはますます強まってくる。もっと近くで見ようと、私はコロの背から降りて砂浜の方へ歩き出した。

 



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番外編
ある少年の話


本編と無関係エピソード。エドガーとルカのお話です。


着いた、ここだよ。え?…間違いないよ。そりゃあそうさ、貧民街の人間がまともな墓場に葬られるわけないだろ。ほっといて腐ったら困るからここにまとめて埋めてるだけさ。もっともアイツの死体は干からびてたから、腐りはしないだろうけど………ああごめん、責めてるわけじゃないよ。こうして今生きてるのはお前のおかげだもんな、感謝してる。本当だぜ?

ここに来たのはそんな理由じゃない。まあ何だろうな、最後の挨拶ってやつ?アイツとは色々あったからさ……え、聞きたいって?参ったな、そういうつもりでもなかったんだけど。

いや、そうだな。その方がいいのかもしれない。こんな所に埋まっちまったら、もう誰もアイツのことなんて、思い出さないだろうしな……

 

 

「おいそこのお前、何してんだ」

「何って。井戸の水を汲みに…」

「誰が勝手に使っていいと言った。ここの水を汲みたきゃ俺様にショバ代を払うきまりになってんだ。ほれ、さっさと出しな」

「え、そんな決まり聞いてないよ。大家さんは水を汲むならここに行けとしか」

「だったら何だってんだよ。痛い目に逢いたいってか?」

「そんな…」

 

「バノッサ。お前まだこんな事してんのかよ」

 

「げ、ルカ…」

「げ、とはご挨拶だな。ガキいじめて小銭でも巻き上げようってか。大した悪党だな、ええ?」

「よ、よせよ。そんなつもりじゃねえって。ほんの冗談だよ冗談。じゃあな…」

 

「けっ、しょうもない事しやがるぜ、まったく。情けない野郎だ」

「あ、あの。どうもありがとう、助かったよ」

「ん?ああ。お前ももう少しシャキッとしろよ、この辺りでそんな風にオドオドしてたらあっという間に金巻き上げられてあの世行きだぜ」

「そ、そうなんだ。話には聞いてたけどやっぱりここは大変な所なんだな…」

「お前、見かけない顔だな」

「ああ、最近引っ越してきたんだ」

「ふーん。ま、せいぜいなめられないよう気を付けろよ、おぼっちゃま?」

「なっ!?私…じゃなかった、オレは坊ちゃんなんかじゃない!エドガーって名前があるんだからな」

「エドガーねえ。俺はルカだ、よろしくな」

 

 

……まあ、そんな感じで知り合ってさ。最初の頃は、何かと教えてもらったり助けてくれたりしてたんだよ。その中でもあれは忘れられないな。

 

「よう、エドガーじゃねえか。どこ行くんだ」

「ルカ。食料品の買い出しだよ」

「え、買い出しって。お前まさか、市場で食い物買うつもりなのか?」

「そりゃ、買い物なら当然あそこに…」

「バカ。あんな所で買い物なんかしたら高くつくぜ、ついてきな」

「え、どこ行くんだよ」

「食い物仕入れるんならもっといい所があるよ、教えてやる」

 

………その時かなあ。オレがここで暮らす事がどんなに大変でどんなに辛いかって事を、本当の意味で理解したのは。

 

 

「着いたぜ、ここだ。お、ちょうど来てるな」

「なんだい、あの人は?」

「残飯屋だよ。あいつからなら市場なんかよりずっと安く買えるぜ」

「ざ、残飯!?残飯って、誰かの食べ残し?」

「そりゃそうだろ、他に何があるってんだ」

「じ、冗談じゃないよ。残飯なんてオレはともかく母さんに食べさせる訳には」

「……おい。お前がいくら金持ってるか知らないけどな。こんな場所に住もうってんだ、大した額じゃないんだろ。それを無駄遣いしようってのか?」

「む、無駄遣いって。食べ物を買うんだから」

「食い物は毎日いるもんだ。つまり、毎日必ず金がいる。だったら少しでも安く済ませた方がいいだろ。それとも何か、お前金を稼ぐ方法でもあるってのか?」

「それは。でも、頑張って仕事を探せば」

「はっ、ガキにロクな仕事なんて回ってこねえよ。それを探してる間にも腹は減るんだぜ?」

「………」

「ほれ。ぼやぼやしてたら無くなっちまうぞ、さっさと買ってこい」

 

 

………酷い味だった。あの時母さんと二人で食べた残飯の味は、いつまでも忘れられないと思う。こんな思いさせてごめんなさいって、母さんずっと泣いててさ。

でも、人間って不思議なものだよ。そんな酷い味にもいつの間にか慣れてしまって。ルカに感謝したよ、あの時普通に市場で食べ物を買ってたら、手持ちの金はすぐ底を着いてただろうから。あいつの言う通り、仕事なんて滅多になかった。母さんと二人で足を棒にして探し回っても、何ひとつ見つからない。やっと貰えた日雇いの仕事も、ちょっと失敗したらあれこれ難癖つけられて、貰えるはずの額を減らされたり、タダ働きさせられたり。毎日本当に辛くて。

ルカにはそれからも、ちょくちょく助けられた。街の外で薪に使えそうな木を拾える場所のあるところを教えてもらったり、使い道のないボロ布や鉄屑とかでも集めておけば買い取ってくれる人がいるなんてのも教わったし。 それから……母さんが、死んだ時も。

 

 

-物盗りに抵抗して殺されたんですってよ。大人しく金を渡しておけば良かったのにねえ。

-下手に金を貯めたりするから狙われるんだよ、馬鹿な人さね。

-ああ、死んだら何にもならないってのによ。ま、よくある話さ。

 

「………」

「ようエドガー、大変だったな」

「ルカ……」

「近所の連中が言ってた事は気にすんな。似たような経験をしてるやつはいくらでもいる。ここに住んでたら、皆もう慣れっこになっちまうんだよ」

「……オレのせいなんだ」

「ん?」

「物盗りが奪ってった金は、母さんがオレの為に貯めてたやつなんだ。あと少しでオレの誕生日だから、そしたらこれでお祝いしようって。母さんずっと、それを楽しみにしてて。だから……」

「そうか。多分、お前らが話してるのを聞いてたやつがいたんだろ。この辺の家はみんな壁が薄いし。それで盗みに入ったんだろうな」

「……っ!!」

「おい、どこ行くんだ」

「決まってるだろ、犯人が近くにいるんなら軍に通報して」

「無駄だよ。貧民街の住人同士の事件なんて軍の連中がまともに取り合うもんか」

「じ、じゃあオレの手で捕まえてやる。見たやつだっているかもしれないんだろ、誰かに聞けば」

「止めとけ。誰に何聞いたってまともに答えやしねえよ。たとえ何か知ってたってすっとぼけるに決まってる、皆揉め事に巻き込まれるような事はしたくないからな」

「でも、それじゃあ母さんは」

「運が悪かったんだよ、この街に住んでりゃ誰にだって有り得たんだ」

「……本当に酷い街だな、ここは」

「ああ、とんでもない所さ。ろくでなしばっかりが集まる最低な街だよ。ここより酷い所なんてそうはない、いや、もしかしたらこの世で一番酷い所かもしれないぜ」

「……」

「けどな。そんな最低な場所でもオレの生まれた街で、故郷でもある。オレの居場所はここだけなんだ。お前だってもうそうだろう。違うか?」

「ルカ……」

「だったらここで強く生きていく方法を考えろ。嫌なことや辛い事は忘れて、いい事や楽しかったことだけ覚えてればいい。皆、そうやって生きてんだ。じゃあな」

「………」

 

 

「母さん。うう……」

 

 

 

………オレが立ち直れたのは、ルカのおかげだったと思う。あの時ルカにああ言われなかったら、オレはきっと。

でもさ。そんなルカでもいつまでもずっと強くは生きられなかった。そんな街なんだよ、ここは。

 

 

「じゃあなルカ、抜かるんじゃねえぞ」

「ああ、任せておけよ」

 

「ルカ?何してんだよ」

「エドガー。お前には関係ないよ、ほっといてくれ」

「さっきの男、盗賊団の一味だろ?あいつらだけは絶対に関わるなって教えてくれたじゃないか。そんなヤツと何を……まさか」

「うるせえな、ほっとけって言ってるだろうが」

「だ、ダメだ!そんな事やったら本物の犯罪者になるんだぞ、そしたらお前」

「うるせえ!でかい口叩くんじゃねえよ、お坊ちゃん」

「ルカ!どうしてだよ、オレに強く生きてけって言ったじゃないか。辛い事なんか忘れて生きろって」

「ああそうだよ、だからオレは忘れる事にしたんだ。辛い事も、今までのことも全部な!」

「ルカ、待って!」

 

 

 

……ルカにはさ、父さんがいたんだ。それから兄さん達も何人か。やっぱり貧乏だったから負担をかけたくないって、ルカは家を出て一人で暮らしてたんだけど。

その人達が捕まったんだ、ある貴族の屋敷に泥棒が入った時、たまたま近くにいたってだけでな。

ルカは毎日役所に行ってた。そんなはずはない、ちゃんと調べてくれって訴えるつもりで。けど、相手にされなかった。貧民街の連中の言うことなんて当てになるかって毎日追い返されて。オレが迎えに行くまでずっと、役所の入り口に座ってたっけな。ルカの家族はそれっきりだよ、ある日犯人だって事になって処刑されておしまい。遺体さえ渡してくれなかった。おおかた処刑したやつらがルカの事忘れてさっさと埋葬しちまったんだろう、酷い話だぜ。

それを聞かされた時のルカの様子は今でも覚えてるよ。泣いたり叫んだりせずに、じっと無表情で立ってただけだったけど。なんか、忘れられなかった。

お前ら、オレから何もかも奪いやがったな。だったらオレも。二人で帰ってる途中にポツリとそう言ったきり、あとは何も言わなかった……今でも後悔してるよ、どうしてあの時何も言ってやらなかったんだってな。

あとは大体察しつくだろ。ルカは家から出てって、街でたまに見掛けても逃げるように立ち去ってった。そういう時期が続いて、気付いたらルカはいっぱしの盗賊団の一員になってた。そしてあそこでオレ達と会ったってわけさ。

 

……オレのせいじゃない?ああ、そうだな。分かってる、結局はあいつが選んだ道だよ。

だけど。オレはあいつに助けてもらって、それからクリスにも助けられた。なのにあいつに、オレはなにも。

でもそうか。オレがあいつを助けてたら、クリスと出会わなかったかもしれないんだよな。そしたら今こうして話したりもしてないわけだし……難しいな。どっちがいいとか悪いとかじゃないんだろう、多分。

 

……なあ。クリスはオレをヴァンパイアにする為に、ルカの血を吸ったんだよな。ヴァンパイアが人の血を吸って、その血を自分の血と混ぜてから別の人間に吹き込むとそいつがヴァンパイアになる、だったっけ?どうやって混ぜるのかはよく分かんないけど。

それで合ってる…そうか。なら、オレの身体にはルカの血が入ってるんだな。最後の最後まで、あいつに助けられっぱなしだったってわけだ……え?なんだよヤケルって。は?ヤキモチを妬きたくなる?

 

 

……ち、違う違うちがーう!べべ、別にあいつをそんなふうに思った事なんてねえよ。あいつとはその、ほら。し、親友だよ親友。うん、間違いない。そりゃ、かっこいいなって思った事ぐらいならちょっとは…って、何言わせるんだよ!

え、じゃあ私は?あ、あのなあ!からかうなよ、こんな所で。ほら、そろそろ行こうぜ。先行って待っててくれよ、最後に挨拶してくるから。

 

 

 

……ごめんな、ルカ。お前はオレを助けてくれたのに、オレはお前を助けてやれなかった。二人で役所から帰ったあの時、お前に声掛けてやれなかったこと、今でもずっと後悔してる。

そっちは、どうなんだ。家族にはちゃんと会えたか?もし会えたんならよろしく言っておいてくれ。それから、余裕があったらオレの母さんにも。オレはもう、そっちには行けなくなったからさ。

オレ、旅に出るんだ。あそこで待ってるクリスってやつと。約束の地ってとこを目指すんだ。誰もが幸せに暮らせて、辛い事も悲しい事もない、オレ達の住んでた街とは正反対みたいな場所だよ。どこかに必ずあるはずなんだ。

お前もそこに連れてってやるよ、オレの身体にはお前の血が入ってるんだからな。二人じゃなくて三人で旅をするんだ。クリスはちょっと変わってるけどいいやつだぜ…って、お前に言っても信じないよな。

 

……忘れないよ、絶対。お前ってやつが、ここにいたこと。オレを助けてくれて、オレのせいで死んだ事を。

じゃあ、向こうで家族と幸せにな。オレ達も必ず、約束の地で幸せになってみせるから。そこに着くのを待っててくれよ。

 

 

さようなら、ルカ。オレのー

 

 

…お待たせクリス。ああ、済んだよ。それじゃあ行こうか?

 

 

 

私の、大好きだった人。

 

 

 

 

 



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