丹波戦国年代記 (盤坂万)
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攻囲戦

 西の山間に黒井城を遠く見やった秀香は、肺で温めた息を全部吐き出して長い溜息をついた。吐く息は白く立ちのぼってやがて霧散する。ここのところ気候はますます寒くなる一方で、三日前に降った雪は秀香の心中に降り積もったわだかまりと一緒に、このまま年を越す根雪となるに違いなかった。

 京から西に真っ直ぐ伸びてきた西京街道が篠山川にぶつかると、山陰道を目指す道は二つに分かれる。その二道は比較的なだらかで開けた道を往ける玉巻方面へ迂回する道と、金山を越える狭矮で険しい山道で、これらが再び出会う小野寺山を頂とする連山の先に黒井城は佇立する。その城を西に見通す高台に秀香は陣を張ってもう三ヶ月にもなる。陣を出れば黒井城の麓まで見渡す限り明智勢の旗指物ばかり。水をも漏らさぬとばかりにそこかしこが明智の兵で覆われていた。このあたり一帯を支配していた赤井氏の軍兵は残らず黒井城に収容されており、低地にある国領館や朝日城砦といった赤井勢の居館は明智軍に接収されている。秀香の居城である大路城砦にも明智勢の兵卒が我が物顔で闊歩しており、すっかり最前線の兵站基地と化している。

 秀香が見るともなしに眼下の光景に呆けていると、背後から近寄るものの足音がした。小瓜だろうか、と瓜実顔の女武士を思い浮かべて振り向いたが、身の丈七尺はくだらない大男がいつも通りの無精髭で、あきれるくらい銃身の長い種子島を、天秤の支柱のように肩に引っ掛けて立っていた。

「なんだ、弥十郎か」

「利とでも思ったか」

 つまらなさそうに言う主人に、鉄砲を担いだ弥十郎は無遠慮に言った。年齢は弥十郎の方が五つ六つかさんでいるだろう。不機嫌そうに腕を組んだ秀香は二十四、五といったところか。それなりに大人びてはいたが少年とも青年とも言えぬあどけなさが面に残っている。

「利坊は福住まで後詰の要請に出だぞ。綱重の親父殿がまるで動かんからな。病だかなんだか知らんが出られんのなら弟の綱正を出せばいいと言ってな」

「小瓜に発破をかけられれば綱正も動かんわけにはいかんかな。どこも弟の身は姉を前に弱いものだ」

「御三人衆の職にあるおぬしも結を前にしては形無しだからな」

 そう言って大嗤いする手下の男に秀香は腕を組んだままふんと鼻を鳴らした。弥十郎は秀香の手下ではあるが姉の夫でもある。血のつながらぬ義理の兄弟だったが、腕の立つ密偵であるこの義兄を言葉以上に秀香は頼りにしていた。

「しかし巧く運ぶだろうか」

「何がだ」

「この策謀がだな」

「おぬしの危惧はどこにある?」

 義理の弟の焦りを察せられない弥十郎ではない。この一隊の将である秀香が何に焦れて何を待ち侘びているかは問わずとも判る。だが今はこの義弟の無聊を慰めてやろうという、弥十郎としては珍しく殊勝な気分であるようだった。それに気付いたか不貞腐れたようだった秀香の表情は少し和らぎを取り戻した。

「弾正忠の野郎は本当に来るのか、ということだ」

 これまで三ヶ月の間、何度となく問われた言葉だ。それでも口にせずにはいられない、というのもよくわかる話である。しかし秀香は否定してほしいのだろうか。織田弾正忠は来ない、と。来ない方がよいと考えているのだろうか。誰のためにそれを思うのだろうか。

 担いでいた種子島の銃底をどんと足元に落として弥十郎もため息をついた。巨大な煙のような蒸気がもくもくと上がる。それが消え散るのを目で追いながら弥十郎は口を開いた。

「さてなあ。しかし直正の旦那はそれをこそ待っておられるのだろう? そもそもあの御仁が城に引き籠る戦をするなんてことが妙ちくりんな話だからな」

「…………」

「直正の旦那と義兄上が、どれほど待つ必要があると言われたか忘れたわけでもあるまい」

 弥十郎が義兄上と言ったことで、秀香の脳裏に長兄の秀治の顔が思い浮かんだ。まだ九月の末、明智勢が口丹波の亀山城に一万の兵を結集したと弥十郎が報せてきた夜のことを思い出す。秋の終わりにしてはひどく冷え込む夜で、寒がりの秀治がさっそくとばかりに火鉢を出させていたのを憶えている。秀治は火鉢の炭と灰をかき回しながらぼんやりとした目で言った。

 

「弾正忠殿を黒井で討つ」

 それはまったく決意めいた一言ではなかった。うすぼんやりと、秀治にしては鈍い口調で言ったものだった。それもそのはずで、秀治は織田信長と言う人物を好ましく思っていたはずだ。稀代の政略家だと日頃から誉めそやしていたくらいで、当時思うところのあったらしい直正を説得して、丹波衆一同の臣従をまとめたのも秀治たってのことだった。

「直正様のご指示でありましょうや?」

 淡々とした声音で口を挟んだのは姉の結だった。その言葉を機に弄んでいた火箸を灰に突き立てるなり、秀治はぐっと背を伸ばして眠たげな眼を公家言葉の抜けない妹に向けた。

「そうだ。直正様のご意向だ」

「しかし兄上は反対のご様子じゃ」

「反対などせぬ。義昭公を放逐したのだ。今の弾正忠殿に大義はない」

 信長が足利将軍を庇護しているというのは、彼らが臣従をする第一の根拠だった。それが反故になった今、弾正忠の指図に従ういわれはないのだ。だからこそ挑発と蠢動を繰り返す山名氏に対して直正は軍事行動を起こした。丹波衆よりも信長に誼の深い山名を攻撃すれば、遠からず征伐の理由になることは明らかだったにも関わらず。そしてそれは現実のものとなりつつあった。

 昨年の三月、但馬守護の山名祐豊は、赤井氏の傘下にある国人衆の一人足立基助が拠る山垣城を再三に渡って攻撃した。理由はいろいろあったようだが到底開戦理由として容認できるものではなく、直正は即刻援兵を出し、これを撃退すると兵を退くことなく山名勢の後を追った。そしてその勢いで但馬竹田城を一夜で陥落せしめたのだ。それで山名が詫びれば直正は兵を退いただろう。詫び方によっては竹田城をも返還したかもしれない。しかし祐豊は詫びるどころか織田弾正忠に直正の横暴を訴えたのだ。そのことを直正は弾正忠からの書状で知った。すなわち山名と和解し竹田城の返還と戦後の補償をせよと。

 直正の怒りは頂点に達した。何より山名祐豊に。そして織田弾正忠に。直正は兵を収めることなく、一躍し此隅城を包囲、支城である出石城を瞬く間に落としてしまった。このことにより信長の赤井氏討伐の意思は決定的になったのだった。

 その当時秀治は、推移していくことの次第をただ見守ることしかできなかった。安寧と調和、発展の時は終わって、再び戦火に領民をさらすことになるのだ。もはや織田氏との対決は避け得ぬ。影の盟主たる直正が決戦を望むのだ。いかに表向き丹波衆の領袖であろうと秀治の取るべき道は他にはない。何より、一族の安寧を望んで直正を見殺しになどしては、おのれのよって立つ名分すら失う。

 だが……、とわだかまるものの正体は何であるのだろうか。それを見極めようと秀治が視線を伏せたとき、低く落ち着いた結の声が秀治の鼓膜に触れた。

「いかに兄上の仰せでも、世迷言に命を賭すわけにはいきませぬわえ。ご決意をお聞かせくりゃれませ」

 秀治は妹の言葉にふっとだけ息を漏らした。嗤ったようだ、とその場にいた秀香は思った。そして秀治は持ち前の人を食ったような柔らかい表情になって顔を上げた。

「そうだな。どうせ生きて在ってもいずれ我らは弾正忠殿の邪魔になろう。ここで直正様を見殺しにしては二重三重の罪を背負うことになるだけだしな。いっちょうやるか」

 そう決意すると波多野家の頭領は手元の書状をぱっと広げた。それまで黙っていた次兄の秀尚が絵地図を広げたので簡単な評定となった。

「実は今回のことは既に直正様と相談済みでな。直正様が山名領を侵せば、いずれ弾正忠殿が討伐軍を出すだろうと」

「竹田城出兵の時分にでしょうか」

 秀香が緊張して口にすると、それに答えたのは次兄の秀尚だった。

「その頃にはこたびの計略は定まっていた。ご慧眼……と言うよりは願望、でしょうなぁ」

 後ろ半分は秀治に同意を求めたもので、一族の頭目である長兄は不敵な微笑を浮かべ、その様子に結が楽し気に喉元で嗤う。兄妹で何やら悪企みをしているような気分になるから度し難い。

「織田勢が侵攻の予兆を見せたなら、これをいち早く直正様に報せ、赤井一族を除く丹波衆は一旦弾正忠殿の侵攻軍に与力として参陣する」

「なるほど。機を見て城方と呼応し、侵攻軍を覆滅するわけですね。なんと大胆な」

 秀香は緊張の面持ちのまま感嘆を口にした。精神の昂ぶりが理性を凌駕しそうな興奮だった。思わず立ち上がりかけたとき、秀香は膝立ちになった右足を隣席の結にしたたかに打たれた。見ると鞘ごと小柄で打たれている。

「たわけ、このうろたえものが。まだ続きがあろうわえ」

「あ、姉上、それで打っては骨が折れます……」

 激痛に秀香は打たれた部分をさする。幸い折れてはいないようだ。

「秀香、黒井で誰を討つと言ったか」

「……では、機と言うのは」

「弾正忠殿が黒井の攻囲陣に着陣した時だな」

 絵地図の黒井城を火箸で指し示して秀治は「まずは三ヶ月」と言った。秀香はその時、自分の喉元がごくりと鳴ったのを思い出して、そっと喉ぼとけに触れた。

 

「そうだ。三ヶ月と申された。年を越せば弾正忠が黒井まで出張るだろうと」

「年を越せばねえ。そいつにはどんな根拠があるんだ?」

「さて判らぬ。だが兄上には根拠というより確信がおありのようだった」

 腕組みを解いて秀香は顎に手をやった。兄妹四人、いや五人、みなよく似た尖った顎をしている。そう思いながら弥十郎は口元だけで嗤った。

「あと三日ばかりで今年も終わるが……」

 手下の言葉に秀香は軽く頷いた。身震い一つ。寒い寒いと言って手をこすり合わせると、彼は火の近くに寄って行った。取り残された弥十郎は、さっきまで秀香が眺めていた黒井城に視線を投げた。夕暮れの雲間から薄い月がのぞいていた。

 



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天正三年十二月 丹波

 この章の舞台は丹波氷上郡の黒井城です。明智光秀を知る人にとって、「赤井の呼び込み戦法」と言う文字列は何かしら感慨を呼び起こすワードではないでしょうか。信長麾下にあって随一の出来人であった光秀が土をつけられ、ほうほうの体で命からがら逃げ延びた、と描写される珍しい事件、それが「赤井の呼び込み戦法」です。

 織田氏に臣従の方針をとった丹波国人衆の中にあって、最大勢力の赤井直正は奥丹波三郡を支配する実力大名でした。しかし丹波国主、というには少し名分が立ちませんが、一般に丹波国人衆の領袖と言えば波多野秀治が上がります。ただ、秀治は多紀郡一群と、傘下にある国人衆が割拠する船井郡の半分ほどを支配している程度の勢力しか有しません。国力で言えば直正の約半分で、普通に考えれば赤井氏が波多野氏の後塵を拝する、というのは実力から言って難しい話です。

 考察できる事情としては幾つかあるのですが、まず一つ目として、直正は秀治の伯父(養父とする説もあります)である波多野元秀の娘を最初の正室として迎えています。この女性は病没してしまうのですが、直正が波多野氏の一門であったことがあげられます。後述しますがその当時赤井氏、並びに直正が養子に入った荻野氏は度々波多野氏に脅かされる存在でした。それが関係しての政略的な意図のある婚姻だったのではないでしょうか。よって実力あれど従属に近い関係があったのではないかという点です。

 二つ目は官位、序列です。秀治は正親町天皇の即位礼に献金と参内をしており、その際に任官したのかどうかは不明ですが、左衛門大夫だか侍従だか(資料によって官位が違うため、順に任官したのではないかとの推察もできます)を賜っています。翻って直正は無位無官。朝廷への貢献度や足利幕府への影響力などから位階が適用された可能性があるのではないか、ということ。

 三つ目は秀治の祖父にあたる波多野稙通の威光の残り香です。戦国時代に至る応仁の乱で有名な京兆細川家、この有力被官が波多野稙通です。細川家において稙通の時代の波多野氏は、同じく有力被官であった三好氏と肩を並べるほどの権勢を誇っていました。特に稙通を筆頭に三兄弟の香西氏、柳本氏の連携がほとんど悪辣域にまで達しており、かなり大きな存在になっていたようです。結局権力争いに敗れてしまうのですが、波多野氏は有名な大物崩れなどにも関係する歴史上の重要一族でした。足利政権において、実力はともかく家格としては波多野氏が赤野氏の数段上だったことが、後年波多野氏の支配を受けていたかのような認識をさせてしまったのかもしれません。

 とにかくどうであれ、直正が秀治をはじめ丹波国人の意図に反して、織田氏に臣従している者同士である隣国の山名氏と、いわゆる私戦を始めてしまうのが国人衆滅亡のはじまりでした。

 手に取る資料にもよりますが、まず手出しをしたのはどちらかという話。初手は山名祐豊、祐豊が国境を侵犯し、丹波国人衆である足立氏の山垣城を攻めたことが発端であるとする説があります。ただ祐豊の開戦理由の中に、直正が羽柴秀吉の与力として山名氏を攻めた際の意趣返しであるかのような記述の残る資料があるのですが、祐豊が開戦に踏み切る理由とされた戦いそれ自体が実際にあったのかどうか不明であるとのことです。このように信憑性自体を量らねばならない記録がたくさん存在しています。

 さて、足立氏は独立勢力ではありましたが赤井氏の庇護を受けていたとされます。その関係性から直正は山垣城に援軍を出し程なく撃退するのですが、逃亡する山名兵を追って今度は直正軍が国境を侵犯。一気呵成に但馬竹田城を奪取してしまいます。そこで終わればまだ事後に影響が少なかったのかもしれませんが、直正はそのまま山名氏の本拠である此隅城まで押し寄せました。此隅を囲む一方で別動隊をもって支城のひとつである出石城まで落としてしまいます。これに困った祐豊は信長に援けを求めたのです。

 これに関しても時系列の矛盾する資料が存在します。まず直正が攻め込み、織田氏の支援を受けた祐豊が氷上郡(山垣城)に攻め入ったとするものですが、援軍を受けたのならまずは失地回復をめざすのではないだろうか、という憶測が残り大いに疑問が生じるのです。ただ辻褄を合わせに行くと大きな見落としをすることがあるのは、歴史研究に関わらず一般に起こりうることなのは周知のこと。歴然たる事実のみがあり、私たちができるのはせいぜい想像することよりほかにありません。

 話を戻しますと、その頃丹波国人衆の総意として信長に直正を討伐してほしいという申し入れがされたという資料があります。山名氏との紛争と同時だったのか、関係のない話なのか、それには研究の結果をまたねばなりませんが、隣国山名氏とのいざこざが信長に赤井氏討伐を決意させたのは真実味の強い説であるようです。

 かくして信長は丹波侵攻を決定します。後年、このことをきっかけに織田氏が丹波を平定してしまうことから丹波経略などと呼称されていますが、当時においてはただ直正の討伐のために軍が起こされたようです。征伐郡の総大将は明智光秀。家中の与力は細川藤孝・忠興親子で、動員数は一万前後ではなかったでしょうか。実はこれについては詳しい資料が残っていません。おそらく丹波国人衆の加勢を入れて、二万余といったところが最大限なのではないかと憶測をしています。

 光秀が黒井城への進軍を開始すると、直正は即座に黒井城へ引き返し籠城してしまいます。まるで待っていたかのような行動に思えてならないのは、知識の不足が影響しているのかもしれませんが、この時期この戦況で城に籠る理由が見いだせないと感じています。一般に籠城戦とは援軍のあてがあってこそ有効な手段です。敵兵力を分散させ引き付ける効果もありますが、この頃織田氏が大規模展開している地域は、北陸の一向一揆くらいで、大勢に影響を与えるほどの戦略点ではないと思われます。

 では、直正はなぜ黒井城に引き籠ったのか。劇的かつ歴史ロマンを満たすキーワードが「赤井の呼び込み戦法」です。通説の中に否定の色合いが強いのは実際。物事は大きな視点で視野を広く持つことが重要とはよく言われることですが、その目をもってしても事実に近寄れないのであれば、今度は狭い範囲のみで考えてみるのもありではないでしょうか。この事象を考察するときに持つべき視点は、事件の中心にいる赤井直正の視点。直正の最大限の視野で物事を考えることが、大局において見落とされている事実を拾うことのできる方法なのではないかと考えます。

 

 この舞台で考えたい疑問点は二つ。

 ひとつ目は、なぜ直正は籠城したのか。

 ふたつ目は、秀治が攻囲三ヶ月目に寝返った理由は何か。

 

 直正は何を考え、何を目指して戦うことを選んだのでしょうか。秀治や波多野一族の視点から、薄暗い歴史の不明を探りたいと考えています。

 



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遠謀

 陣外に物々しさを感じて視線を上げた秀治の目に、汗みずくで湯気を立てながら向かってくる弟の姿が映った。ずいぶんかっかとしている様子に笑いが漏れる。

「兄上いま戻った。……何か可笑しなことでもありましたか」

「何やらいらいらしている様子だったのでな」

「苛々もしますよ。戦況は埒が明かないわ基助どのはやる気がないわ、この戦の重要さがまるで判っていない」

「基助は猪武者だ。こういう策謀めいたことは向いていないから仕方がないだろう」

 秀治が言うと、鉄兜の緒をほどきながら秀尚は盛大にため息をついた。この弟は今年二十五になる。美少年と謳われた頃の面影を充分に残した端正な細面を歪ませて、秀尚は皮肉たっぷりに声を搾った。

「仕方がないでは済みませぬぞ。直正様も少し人選についてお考えくださってよさそうなものじゃ」

「そう言い立てるものではないよ。そもそも赤井衆は猛者ばかりで、城に籠っての戦など誰もやりつけていないのだからね」

「ではせめて光永どのあたりを擬態にあたらせればよいのに、よりによって基助どのとは。こんな拙いことをやっていては惟任殿に知れるのも時間の問題ではありませんか」

「直正様は常に最善手を打つお方だ。光永には別な務めがあって、こちらには基助が最善だというだけのことだな」

「煎じ詰めるような話ではないと思いますがね」

 秀尚が言い捨てたところで秀治は組んでいた腕をほどいた。いつまでも弟の愚痴ばかり聞いているわけにもいかず、戦果を訊ねると秀尚は憮然としたままだが「上々」と答えた。脱いだ鉄兜を両手で弄びながら視線だけ兄に向ける。

「国住どのが小室から討って出て、明智秀満殿の部隊と小競り合いを始めたのと同時に、北側から基助どのが侵入、いつもの手筈通り戦闘の痕跡を残して城へ糧秣を運び込ませた。惟任殿の陣には撃退したと報せてあります」

「ご苦労。これであわせて二百石ほどは運び込めたか」

「城兵は二千余です。籠城前からの蓄えを合わせればト月ほどは持ちましょう」

「もう少し運び入れたいところだな。あと百石ほども入れればさらに半年もつだろう。越年すれば弾正忠殿の来援も現実味が濃くなるが、やはり余裕はあるにこしたことがない。じっくりやれる算段がほしい」

「……来ますかな。弾正忠殿が、この丹波に」

 じっとりとした目つきになった秀尚を、彼の兄は心情の読めない表情で見返す。

「弾正忠殿は柔軟な御方と聞く。こうして膠着していれば必ず一軍をもって来援するだろうとな」

「直正様のお考えでしょう」

「俺も直正様に同意だよ」

 無表情に応えた兄の眼差しを見つめて、秀尚はついつい舌打ちを漏らしてしまった。聞き咎められはしなかったが、兄の心情を慮ってか弟は取り繕うように視線を外す。

「それにしても一年とは。大いに領地が荒れましょうな。せめて天候にだけは恵まれてほしいところじゃ」

 秀尚は嘆くように言って右手を汗のひき始めた額にあてた。せっかく進めてきた農地の改良や治水の工事なども領内が平和であればこそ完成に向かうのだ。秀尚が丹精してきた農政はこの一年停滞を余儀なくされるだろう。もともと戦働きが苦手なこの弟は、この仕事が中断されることに大変な憤りを感じている。このまま丹波が戦場になるのであれば、来年の収穫は最低限を見積もらねばならないだろう。

「戦がはよう終わればよろしいですな」

「さて……」

 弟の実直な呟きに秀治は言葉を濁した。弾正忠を仕留め損ねれば波多野一族には破滅の未来しかない。だが、この策略がうまく運びこの地で信長を斃せたとして、そののちに平和が到来するとは彼には到底思えぬ。時代は担い手を失って混迷を極めるだろう。

 強者とはいえ毛利や武田、上杉がいかほどのものか。秀治の目に彼らは旧弊としか映らない。新しい意志と同じく新しい手法によってこそ世の中はささやかな平和へと向かう。これまでの世とは違った新しい平和が到来する。信長のする戦は旧弊を打倒するものであり、戦いによって流される血はこの国を治癒するため外科手術で吐き出される膿だ。その彼に挑むということは膿として切り捨てられることに他ならない。

 ここで直正に従って信長を討つことは、収束へと向かいつつある乱世を確実に逆行させるものになるだろう。己の小さな正義を満足させて、得られるものの小ささに秀治は戦慄すら感じるのだ。

 後戻りをするにはもういくらも猶予はなかった。より甘美な味わいはいずれにあるか。表向き決していたはずの秀治の意思は、彼の気付かぬところで未だ揺れ続けていた。

 



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病巣

 けぶったような粒の細かい雲が、山頂をほんのわずかな間握りしめたあと、冬の風に霧散させられ空にまぶされていく様を、城兵たちはおのおのの持ち場でぼんやり眺めていた。冴えたような上空では、トンビが高い声で啼きながら、ぐるぐるといつまでも旋回している一方で、黒井城の麓には山裾を埋める人の群れがあった。

 時折起こる鬨の声や散発的な銃声が氷上の山々にこだまするのだが、最初の頃こそ緊張していた城兵らも、山道を詰められて二ヶ月も経つ今どきではいちいち怯えるようなこともなく、時を報せる程度にしか感じなくなっている。戦況は膠着しているというよりは弛緩していると言った方がいいだろう。

 裾野をぐるりと包囲された山砦から下界を見下ろせば、木立の隙間からそこかしこに敵兵がひしめいている様子が見えるが、城に籠った兵たちは色とりどりの旗指物を指さしては、やあアレは波多野の丸十字だ、明智の桔梗紋だなどと物見遊山気分で騒ぐ始末である。他にも寄せ手に与する荒木、籾井、塩見ら名だたる国人衆のものがちらほら見え、農兵たちは敵兵の数を数えては賭けまでしていた。

 物見が数えたところ、麓に集まった攻囲軍兵は一万五千を超え、いまも続々と増えているという。朝夕は麓の布陣からたち昇る煮炊きの煙で人工の雲が湧き立つくらいだった。幸い城側の糧秣の蓄えは潤沢で、城外からの秘匿した補給線もなんとか機能しており、向こう一年ほどの抗戦は可能との見通しで、それが気楽さの理由のひとつなのだろう。

 場内の方針は籠城の一手のみで、猛将と名高い悪右衛門直正が一見消極先に見えるこの方策を採ったとき、居並んだ諸将は唖然としたものだ。緊急的に出石から舞い戻った直正は、但馬に一切守兵を残さず、奪い取った城砦をすべてほっぽりだして帰って来たのだ。子細を知らされていない大半の者はそのあまりの早さと思い切りのよさに驚嘆したが、籠城の下知に今度は空けた口が塞がらなくなった、というのは誇張があるだろうが実際のことだった。誰もが一気呵成の決戦を想像していたからである。

「直正様はどうかしておしまいになったのではないか」

 波多野兄弟が猪と揶揄する足立基助は、後日主だった配下の者に漏らした。彼の知る悪右衛門直正は戦陣において待つことをせず、常に先の先を獲る戦巧者である。無論、直正も待つ必要があれば待つ法を獲る。単にそうする必要が少なかっただけのことだろうが、直正の疾風が如き戦ぶりは支配下にある国人衆たちには余りに苛烈、あまりに豪放だったため、その実にある柔軟さや繊細さに目が向かないのも仕方のないことだったろう。

 

 散発的にぱらぱらと響く銃声を眼下にしながら、直正は大儀そうに首筋をひとなでした。少し前から妙に首が痛む。何か小さな石榑のようなものが首筋の中にあって指で触ると鈍い痛みを発する。寝違えかと思い数日様子を見ていたが一向におさまる気配がない。四十の坂も下り始めて半ば。若いころからそこそこ無理をしてきた身体だから、いたみがきていてもおかしくはないだろう。同じ年頃のものに比べるとはるかに頑強な直正であるが、それでも二十や三十の頃のことを思えばさすがにその差は歴然としていた。

「元秀殿、用があるとか」

 家老の吉見に呼ばれて表に出たところで、直正は初めの妻の父にあたる初老の男の出迎えにあった。その妻とは死別して暫くたっていたが、元秀は間にできた娘の面倒をよく見てくれる好々爺である。妻と死別したことでかえってこの人物との関係性は深まったように思えるから人と人とのことは往々にして判らないものだ。

 年はとっくに五十を過ぎているにも関わらず、この義父の健康そうな色つやはさながら三十代のもので、足腰は驚くほど達者であった。恰幅よく張り出した腹をしているが、山野を駆ける様は俊敏で、声はふた山を越えるほどに響く。酒を呑めばうわばみで、その底なし加減はそのまま大蛇か何かのようだった。

「これは悪殿」

 元秀の姓は波多野という。麓で明智の陣中に与力している秀治・秀尚兄弟の伯父にあたる。その元秀が困り果てた様子で直正が出てくるのを待ち構えていた。

「基助のあほうが国住を唆して霧山方面に出張りおった」

「さようですか。光永らも?」

「なんじゃ落ち着いておられるの。光永はさすがに分別がある。知らせて寄越したのも彼の者じゃ。今は下に控えて追う準備をしている」

「忠家へは?」

「無論お伝えした。そのうえで悪殿に相談するようにと」

「まあ、放っておいてよいだろう」

 さして深刻ぶるでもなく言ってのけた直正に、元秀は「悠長な」と唾を飛ばした。

「たった二百ばかりじゃ蹴散らされるのがオチぞ。光永らはもうでられる頃合いじゃが」

「いかに基助が猪武者と言えどただでは負けて帰らぬだろうし、少しは憂さを晴らさせてやるのも必要な頃合いではないかな」

 それはそうだがと二の句を呑んだものの、苦労人の舅としては一言口を挟まずにはいられないようでなおも食い下がる。

「しかし守兵が乏しいのは事実じゃ。決戦を前に無駄死には出しとうない」

「そうは言っても扇動されて好きでついて行った者どもだ。それに増援を出せば損害はそれだけ増える」

「ふん。少しは痛い目に遭えとでも言うことかね」

 そう言うわけでもないが、と言葉を濁らせた直正は思い出したように顔をあげる。

「霧山方面の敵将は誰だったか」

「あっちは細川じゃな。幽斎の倅で何たらと言ったはずじゃ」

「ははあ忠興か。忠興の女房は惟任殿の娘と聞く。何とはなく親近感を感じますな舅殿」

 ははは、と嗤うのに元秀は困ったような顔を更に歪ませた。普段能天気な老人が、いつもは無表情の主人の崩した相好に辟易している妙な図が現れていた。元秀の娘を娶った自分と重ねたのだろうが何やら突拍子もない。最近の直正が妙に浮ついて見えるのはなにも元秀の目に映るばかりではなかった。主だった重臣たちもひそひそとその様子を噂しているほどだ。

「せっかくの機会だ。少し小細工でもしておくとするか」

 言うや直正は書院に引き返し、小机っで紙を広げると筆を湿らせ黒々とした達筆で文を書き始めた。すぐさま書状を書き終えた直正は、まだ乾ききらぬそれを乱雑に畳んだかと思うとひょいと元秀に寄越した。

「基助らの戦ぶりを督戦してきてくだされ。そのついでにこれを幽斎の子倅の目につくところへ」

「これは?」

 受け取った書状を陽に透かすようにしたり裏返したりして元秀は首をかしげた。

「言うた通りの小細工じゃ」

「中身を聞かせてもらおうか」

「なに、毛利に宛てた書状だ。城内物資乏しく至急来援を頼む、とまあそんな内容だ」

「……心得た」

 では行って参る。と言い残して駆け去る元秀を見送りながら無意識に首に手をやる。ちょっとずつ大きくなっているように思えるそのしこりは、直正の心のうちに巣食った自覚ある野心のようにも思える。織田弾正忠をここ黒井で討つ。その思いは日々肥大する病巣のように、彼自身にも手に負えないほど育っていた。そしてそれに伴う痛みを和らげるには、やはり野心を成就させるしかないのだろう。

 



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赤井悪右衛門尉直正

 赤井直正と言う人物はなかなかつかみどころのない歴史上の人物であるように思います。

 そもそも正確性に欠ける歴史資料の中にあって、誰がつかみどころのある人物かと言えばむしろそうした人は皆無に近いようにも思うのですが……。

 

 さて、件の人物は丹波国氷上郡の朝日城に生を受け幼名は才丸と言いました。赤井氏は荻野氏の一族とされており、次男に生まれた才丸(直正)は本家であり主家の荻野氏へ養子に出されます。実際に当時の両家の関係性は不詳です。荻野氏が赤井氏を支配下に置いていたような節もあり、逆転が興っていたとする説があり。ただ共闘する関係ではあったようで盟主としての荻野氏の立場は守られていたようです。

 この時の荻野氏当主は荻野秋清。氷上郡を本拠とする国人衆です。この頃はお隣多紀郡の領主である波多野稙通がかなりの隆盛で、荻野氏は一時期波多野氏に押されて播磨に逃げていた時期があると、一部資料では示されています。

 丹波は京に近いこともあって、たびたび政争戦乱の地となります。秋清がどういった人物だったか、詳細を伝える資料は乏しいですが、厭戦家であったような振る舞いが見られます。というのも、波多野氏に侵された自勢力の国人を見捨てるようなことがあり、それが一度限りだったか何度かあったのかはやはり不明ですが、配下の国人衆たちの信望を失っていくのです。

 そんな中注目されたのが養子に入った才丸です。後々多くの逸話の残る才丸ですから、幼少青年の頃から人の上に立つ器はその片鱗を見せていたのでしょう。家中に押されるように養父である秋清を排する行動に出ます。この事件により秋清は排され、才丸は悪右衛門の通名をとどろかせることになりました。甲斐武田家に伝わる甲陽軍艦に「名高キ武士」と称され、徳川家康、長曾我部元親、松永久秀らとともに評価されるようになります。

 1554年(天文23)城を乗っ取ると、直正は瞬く間に家中を取りまとめます。そして結束力を手にした荻野氏は黒井城のある氷上郡だけではなく、近隣に支配の手を伸ばし始め、五年ほどの短期間で天田郡、何鹿郡を手中に収めていくのでした。

 

 余談ではありますが、直正の通り名である悪右衛門について。もともと直正は右衛門尉を名乗っていたとする資料があります。これをもとににくらしいほど強い、というような意味から悪右衛門と呼ばれるようになったようです。逸話のひとつには、七つの頃に妖怪退治をした(妖怪騒ぎを暴き鎮めた)というものがあります。これによって、悪右衛門と、とする話もありますが七歳ではおそらく元服前。官途名を称することも先のことのはずで、いろいろと話が前後するのではないかと想像できます。いずれにしろ、子供時分から剛勇豪胆を備えた人物であったようです。

 

 これだけの手腕を見せた直正ですが、彼がいったいどこまでの野心を持っていたのか、それが大きな疑問です。応仁の乱以降、足利幕府は確実に滅亡へと向かっています。十三代義輝がわずかばかり持ち直す風を見せますが、当時多くの大名家が戦乱にかこつけて自領を押し広げにかかっていました。直正も同様に支配地を増やしていきますが、他の大名が幕府要職に着いたり朝廷に官途されたりする中、直正が任官や叙勲した記録が出てこないのです。波多野氏最後の当主である秀治も左衛門大夫(尉)だとか侍従だとかに叙勲された記録があるにも関わらず、丹波国において随一の実力者である直正にはそうした話が見つけられません。右衛門尉を名乗ったという資料はあるようですが、朝廷や幕府との接触はどの程度かあったのでしょうか。各地へ勢力を伸長させていた様子から、領地としての支配意識は非常に顕著です。ところが政治的野心に結び付く行動が見られません。いったい直正は何のために戦を繰り返したのでしょうか。単なる自衛だったのでしょうか。かの人物に対する謎は深まります。

 

 話は少し戻りますが、1557年(弘治3)に直正は生家赤井氏の当主だった長兄の家清を、当時の丹波守護代だった内藤宗勝(松永長頼)との戦いで失います。家清の子である忠家を赤井氏当主に立て、自身は後見に着くのですが、この頃に荻野姓を赤井姓に改めた気配があるようです。これについて資料を確認できていませんので憶測ではありますが、直正は実際に家清亡き後幼少の忠家を名実ともに立て、形式上だけにせよその配下に収まったことは間違いないようです。

 かつて養父を斃してまで当主の座を得た直正が、こうした行動をとる理由は何でしょう。もちろんどのようにも解釈でき、整合性を感じることができるのですが、直正の野心のサイズが垣間見られる一事ではないかと考えています。

 

 そうした直正の行動ですが、隣国の領主波多野秀治に説かれた上でなのかどうか、定かな資料には出遭っていませんが、波多野氏をとりまとめとし赤井氏を含めた丹波国人衆の臣従が織田信長に申し入れられたのは1570年(永禄13)のこととされています。この時赤井氏は奥丹波の三郡安堵を受けています。波多野氏が多紀郡ひとつの安堵なので、実としては赤井氏の方が格上です。ところが後世において、赤井氏は波多野氏の風下に立てられる風があります。先の叙勲が関係しているのか、より協力的で他の国人衆に影響力を持っていたのが秀治だからなのか、いろいろと想像の余地を残します。

 結局、最終的に直正は信長に反旗を翻します。ただ、錯綜する資料を探っていくと、積極的に反攻したのではなく、そうなるように仕向けられた、もしくは直正の性向を利用されたかのような印象を持ちます。

 丹波侵攻を招くのは但馬守護にある山名氏との小競り合いからです。どちらが先に手を出したか、何を発端とするかは判断に難しいところですが、直正は山名氏の挑戦を真っ向から受け叩き伏せました。山名当主の祐豊は本拠である此隅山城まで直正に押し込まれると、とうとう信長に泣きつきます。また当時丹波国人衆連名の訴状が信長に上奏されていたことが事態を決定づけました。実際この訴状があったのかどうか、あったとして事実に即していたのか、何らかの策謀の材料なのかわかりません。訴状の内容は、直正が丹波国人衆の足並みを乱すので成敗してほしい、といった内容だったとされているのです。

 信長は明智光秀を総大将に、ついに丹波侵攻を開始します。この動きを見て直正は、侵攻していた但馬の城や砦を全部放り出して黒井城に戻ると、一転して城に籠ってしまいます。この時を待っていたかのような展開ではないでしょうか。

 

 赤井直正の野心がどこを向いていたのか。丹波国人衆が滅亡へと向かうこのエピソードに、どんな思惑があったのか。読み解けるのであれば、この命題の回答を目指したいと思います。

 



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