拾った死神様は豆腐メンタルのヤンデレ幼女でした (針塚)
しおりを挟む

第一章
死神ラピス


 季節は冬。

 十一月も中旬を過ぎようとしていた。

 俺は――俺、夢野竜司(ゆめのりゅうじ)は今年、高校二年生になる。

 そろそろ受験やら何やらで忙しくなってくる時分だ。

 とはいえ、将来のことなど未だ何の展望も持たぬ俺は、これまでと変わらずだらだらと日々を過ごしていた。

 

 ……そう、過ごしていた(・・)のだ。

 学校帰り、特に寄り道などせず真っ直ぐに帰路についた俺は、ほどなくして自宅へたどり着く。

 

「ただいま」

 

 言っても返事がないことはわかっていたが、俺はそう言って自宅の扉を開け中に入る。

 そして二階にある自分の部屋まで戻ると、ベッドの上へ乱暴に学校カバンを放り投げた後、俺は深い溜息をついた。

 

「ふううう……」

『なんじゃなんじゃ、帰って早々物憂げな溜息なぞつきおって』

 

 すると、俺以外には誰もいないはずの自室から、なにやら耳に届く声がある。

 

「うるせえ。こちとらここ数日間、ずっと気分最悪だよ。誰かのおかげでな」

 

 振り向きざま、俺は誰もいないはずの空間に向かい、そう言い放つ。

 しかし俺の眼前には、それまで鞄しかなかった筈のベッドへ腰かける一人の少女の姿があったのである。

 

「ほおお。脆弱な人間風情が、およそ想像だにせぬ程に強大な従僕を得たというに、尚それでも足りぬと申すか。流石は我が主。我が(きみ)じゃの。一体何が我が君の気を疎ましたらしめておるのかのう?」

「お前のせいに決まってんだろうが!!」

 

 妙な喋り方をしながら、俺の一喝にも、くすくすと挑発的に笑いながら余裕の態度を崩そうとしない、この少女。

 その姿は、その喋り以上に異常なものだった。

 肌は茶……というより、小麦色と言ったほうがしっくりくる、ぱっと見健康的な肌色をしている。

 白金に輝きながら腰まで伸びる頭髪と相まったその色彩は、美しいという陳腐な表現しか出てこないほどに、ある種の神々しさを湛えてさえいた。

 

 が、しかし。それだけならば『異常』とまで形容すべきものでもない。

 問題なのはその格好である。

 何かの限界に挑戦しているかのような黒いショートパンツ、さらに上半身はこれまた黒のチューブトップ一本。

 そんな、ほとんど裸同然の格好の上にフード付きのパーカーのみを羽織っているその姿は、仮にそれが妙齢の女性がしているものならば痴女として通報されかねない過激なものだ。

 だがしかし、決定的に少女を異形たらしめているものは、側頭部から生える二本の角。

 湾曲しながら前に突き出されているそれは、山羊のそれに似ていた。

 

「大体言っとくがな、俺はお前の主人なんぞになったつもりはない。とっとと地獄にでも異世界にでも帰りやがれ!」

「ふっふーん、じゃから言っとるじゃろうに。わしに良質な魂を捧げ続け、我が力を全盛にまで戻すこと。そしてその上で、わしがそなたへの礼を十分に果たすこと。この二つを済ませさえすれば、わしはいつでも元の世界へと戻ってやるとな。何度同じことを言わすつもりじゃ、我が君よ?」

「後者はそもそも必要ないし、前者に至っては元より叶える気なんて毛頭ない。そっちこそ何度言わせるつもりだ?」

「それは困ったのう……そなたも知っておる通り、もはや我が力は殆ど残っておらぬ。これではまた例の連中が襲ってきたとき、そなたを守ってやることができぬ。困ったのう、困ったのう……あはれ若い身空で、我が君がその短い生涯を閉じてしまうことになろうとは……」

 

 よよと泣き崩れる仕草をする少女だが、先ほどから上がりっぱなしの口角を見れば、それが演技なのは丸わかりだ。

 

「てめええ……!」

「じゃーから、ほれ、な? 魂、魂」

「何がほらなのかわかんねえよ! ……はあ。ほれ、飯食いに行くぞ。とっとと着替えろ」

「またそなたの妹御(いもうとご)の部屋より拝借してくればよいのか?」

「おお。ただし前にも言ったが、絶対に痕跡を残すなよ」

「了解じゃ、我が君よ」

 

 言うや否や、バタンと大きな音を立て、少女は俺の部屋を後にした。

 そして再び、俺は大きな溜息をついたのだった。

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

「おおおおおお……! これは……!」

 

 着替えを済ませた(くだん)の少女を連れ、俺は行きつけの中華料理屋に来ている。

 俺は運ばれてきた料理に目を輝かせている少女に冷めた視線を送りながら、興奮のあまり角を隠すフードがずれ始めていることにも気づかないこの女に代わり、再び深く被り直させてやる。

 例の露出過剰な服に代わり、年相応の服に着替えた少女は、銀に光る髪の色を除けばどこにでもいる、そのへんの小学生女子に見えないこともない。

 

「何という名の料理じゃこれは!?」

「……餃子だ」

「ギョーザ! うむ、なんとも珍妙な名じゃが、この芳香を前にしては、うむぅ~……! なんとはなし高尚な響きすら感じてくるのう!」

 

 言いつつ少女は、店が気を効かせて持ってきてくれた子供向けスプーンを使い、タレにも何もつけずにそのまま餃子を口に入れる。

 

「なんという芳醇な味わいじゃあ~……! 柔らかな皮の中から流れ出でる肉汁の、なんと美味なことぉ……」

「随分とまあ、大げさなことで」

「昨日馳走してもらった『らぁめん』とやらも美味であったが、これもまた、勝るとも劣らぬ……」

 

 両頬に手を当て、まさしく恍惚といった表情である。

 

「まあ数百年も飲まず食わずだったんだ、無理もないのかもしれないけどな。しかしお前、だとしても騒ぎすぎだろう」

「ばーっかもん! これが驚かずにいられるか! いいか我が君よ、よく聞け?」

 

 声を荒げた少女は、やにわに真面目な顔つきになりながら言う。

 

「わしも元居た世界では信者どもから数多の貢物を捧げられる立場にあったがな。このような手の込んだ料理など、ついぞ見たことがない。供物のほとんどは、それこそ野菜を切っただけのもの、肉をただ焼いただけのもの、そんなものばかりじゃった。調味料といえば塩か、僅かの香辛料くらいじゃ。このような複雑な味が混じりあった料理など、時の王であっても口にしたことなどあるまいよ」

「ふぅん……そんなもんかね。ただ単にお前の信者連中が貧乏人揃いだっただけじゃないのか? 信仰の対象がお前じゃなあ。ご利益なんぞこれっぽっちも無さそうだ。むしろ恩を仇で返されるんじゃないか?」

 

 俺の嘲りに満ちた返答を耳にするや、みるみる少女の顔は真っ赤に茹で上がる。

 

「き……ききき、きっさまー! 如何に我があるじとはいえ、言ってよいことと悪いことがあるぞ!! この冥府の王にして、至高なる死神『タヒニスツァル=モルステン=サナトラピス』様を面と向かって愚弄――」

「はいはい。それで、ラピスよ」

「軽い感じで流すな、そして略すな!!」

「そういや考えてみたら俺、昼飯食ってからそんなに経ってなくてな。あんま腹減ってないんだ。よかったら俺の分も食うか?」

「たべるー!」

 

 ちょろい奴だ。

 

 ――この、笑顔満面で餃子を頬張る少女。

 名前は先ほど自身で宣っていたように、やけに長ったらしい。

 なので俺は最後の三文字だけを用い、ラピスと呼んでいた。

 それがこいつにはどうも気に食わないようで、ことあるごとに文句を言い続けているが、俺は取り合わないことにしている。

 まあそんなことはどうでもいい。

 大事なのは、こいつが叫んでいた内容、もう一つの方だ。

 自分のことを『死神』だと呼ばわるこの幼女は、実のところ本当にそうなのである。

 

「……しかし、我が君よ。……よいのか?」

 

 あっという間に全ての餃子を平らげてしまったラピスは、急にしおらしげな表情を作り、上目遣いで話しかけてきた。

 

「何がだ」

(うぬ)はそれほど裕福そうには思えぬのじゃが?」

「……お前な、何が言いたいんだ」

「いやのう……ほれ、矮小な人間であるところの汝にとってみれば、わしのような崇高たる存在を前にしては、己が全てを投げ打ってでも尽くしたいと思うこと、分からぬでもないのじゃぞ? しかしの、ここまで贅を尽くした料理を貢ぐなどして媚を売られては、逆に面はゆいというものじゃ。今や汝とわしとは一心同体、一蓮托生の身じゃ。あまり気を回しすぎずともよい。とはいえ女子(おなご)としては、尽くすべき男に逆に貢がれるというのも、そう悪い気分でもないがのう……くくっ」

「お前、何百年も眠りこけてたおかげで頭のほうがちーっとボケちまってるみたいだな?」

 

 たかが数百円の餃子やラーメンを御大層な貢物だと勘違いしてやがる。

 こんなもんで女の歓心が買えるなら、世の中はもっとお気楽なものになっているだろう。

 だいたい本人は妖艶な表情を作っているつもりなのだろうが、餃子の油で口の周りをテカテカに光らせたままでは、色気を感じるどころか滑稽にしか映らない。

 

「照れるな照れるな、愛い奴め。今でこそこんなつまらぬ体に身を(やつ)しておるが、元に戻った暁にはたっぷりと可愛がってやろうぞ。……いや、奴隷たる立場から言えば、可愛がられてやろう、というのが正解かの? 我が君、いかに思う? どちらの言い回しが好みじゃ?」

「知らねえよんなこた!! 可愛がるも可愛がられるもねえ! お前は俺たちが置かれてる立場が分かってんのか!?」

「お皿、お下げしますねー」

 

 興奮して席を立ったタイミングで、店員さんが皿を下げにやってくる。

 先のやり取りも聞こえていたのだろう。その若い女の店員と一瞬目が合った際。

 彼女の目には、俺に対するはっきりした侮蔑の色が浮かんでいた。

 

「……とにかく、だ。さっきも言ったが、俺は魂集めなんぞに協力するつもりはない。何か他の方法を考えるんだな」

 

 気持ち小さめの声量で、再び俺は話を再開する。

 

「それはまずいのう。そんなことをすれば我が君よ。汝は奴らの手にかかるまでもなく死ぬぞい?」

「……なんでそうなる?」

「汝とわしはもはや二人で一つ、霊的次元で結合しておる。わしは人間とは違うでの。このような食物はあくまで嗜好品にすぎん。命を長らえる糧とはならぬ。糧となる魂を得ぬままではいずれ汝もろとも消滅してしまうじゃろう」

「おまっ……! じゃあ俺が自腹切って食わせてるこれは全くの無駄ってことかよ!! ていうか、お前はあそこで数百年以上――」

「それは限界まで力の消費を抑えておったからじゃ。その限界までセーブし残した力ももはや、先だっての騒動であらかた使い果たしてしもうた。この姿がいい証拠じゃ」

「やっぱり死神じゃなく貧乏神じゃねえか……! 金返せこの貧乏神!!」

「あーっ! またわしを馬鹿にしたぁーっ!!」

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

「まあその問題はさて置くとしてだ」

 

 中華料理屋を出た俺たちは、家までの道のりを再度歩んでいる。

 

「さて置いてよい問題でもないと思うのじゃが……」

「やかましい。とりあえずは、家の中でお前をどう扱うかだよなぁ。姿を消すのだって力を使うんだろ?」

「うむ。まあそれほど大したものでもないがの」

「供給のアテがない以上、無駄遣いはできる限り抑えないとな。ある日いきなり突然死なんて冗談じゃねえ」

「別に、まずいと思うならそうしなければよいじゃろうに。何をそう迷っておるんじゃ」

「馬鹿野郎。何も知らない家族にお前をどう説明する?」

「正直に、奴隷を一匹どこぞで拾ってきたと言えばよかろう」

「その瞬間勘当されるわ。どころか身内の恥として殺されるわ。却下だ」

 

 幼女をかどわかしてきたなんぞと、自分の家族に面と向かって言える奴がいたら、そいつは馬鹿を通り越して勇者だ。

 

「まったく、定命(じょうみょう)の者どもときたら、どの世界でも面倒なものじゃな」

「他人事みたいに言うんじゃねえ。……仕方ねえ。何かいい案が浮かぶまではこれまで通り、お前には家族の目があるところでは消えててもらうぞ」

「ほいほい、了解じゃよ~」

 

 全く真剣味のないふわふわした返答に、俺は釘を刺す意味でも、もう一言付け加えることにした。

 

「……特に妹の前では絶対に姿を現すなよ」

「あの目つきの悪い娘っ子じゃな。一度ちらと見ただけじゃが、なるほど汝によく似ておった」

「あいつの部屋に勝手に入って、しかも服を勝手に持ち出してるなんて知れたら、ただじゃ済まねえ。お前、ちゃんとバレないようにしてきただろうな?」

「もちろんじゃ。一切の痕跡は残しておらぬぞ。それに奥の奥の方に仕舞い込んであったものじゃ。おいそれとは気づくまいよ」

「まあ借りてんのはあいつが小学生の時のもんだからな……むしろよく今まで取っておいたもんだ――っと。そろそろ家だぞ、準備しろ」

「うむ、よかろう。では後程、汝の部屋でな」

 

 言うや否や、たちまち目の前からラピスの姿が掻き消える。

 こいつのこの能力が無ければ、俺の心労が数倍になっていたところだ。

 もっとも、だからといってそのことに感謝するつもりなど毛頭ないが。

 傍目には一人きりとなった俺はほどなくして自宅まで到着すると、ドアノブを回し中に入る。

 まずはラピスに妹の服を戻させておかないとな、などと考えながら。

 

 しかし。

 その思惑は、ドアを開いた先に映る一人の人物の姿を見た瞬間、無残に塵と消えた。

 

「――兄貴。聞きたいことあんだけど」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

自宅にて

 夢野 花琳(かりん)

 俺の妹。中学三年生。

 ブリーチで染め上げた長い金髪に、校則で禁止されているはずのピアスを耳に空けたその姿を見れば、10人中が10人、いわゆるヤンキーという言葉が想起されるだろう。

 さらに吊り目がちな上、黒目の小さい、俗に言う三白眼――もっともこれは生まれつきであって意図的なものではないとはいえ――をしているとくれば、もはや何をかいわんや、である。

 その妹が今、まるで待ち構えていたかのように玄関で腕を組み、俺を睨みつけている。

 

「――お、おお。花琳……帰ってたのか」

 

 妹の機嫌を窺う意味でも、当たり障りのない会話でまずは探りを入れようとするが。

 

「――兄貴。ちょっと聞きたいことあんだけど」

 

 その目論見は一撃で粉砕された。

 

「ど、どうした?」

 

 しまった。

 つい噛んでしまった。

 益々花琳の視線が鋭くなる。

 

 このタイミングで妹が『聞きたいこと』など、思い当たる節は一つしかない。

 まさか、バレたのか。

 あの死神め、奥の方だったから大丈夫だとか抜かしてたくせに……やっぱり貧乏神だ、あいつは。

 そうだとするならば、何か言い訳を考えねば――捻り出さなければ。

 ここを穏便に切り抜けられるだけの、尤もらしい理由を。

 

「……ニンニクの匂いがする。……兄貴、どっかで晩御飯済ませてきた?」

「――は?」 

 

 が、しかし。

 妹の口から出てきたのは、思いがけない台詞。

 

「あ、ああ……いや、その、なんだか急に中華が食いたくなってな、はは……」

 

 適当な理由を口に出しつつ、俺は秘かに胸を撫で下ろす。

 どうやら服の持ち出しの件はバレていないようだ。

 

 ――が。

 ことによると、そのほうがよほどマシだったのかもしれない。

 

「そんなの言ってくれればあたしが作ってやるよ。それとも、なに? あたしの作る中華なんて食えないっての?」

 

 妹の目に、炎が宿るのが見えた。

 

「い、いいいや、決してそういうわけでは……」

 

 しまった。もっと言葉を選ぶべきだった。

 夢野家の両親は共働きで、二人そろって帰宅は夜遅く、夕食作りは妹に一任されている。

 花琳が小学生の時までは二人で外食ばかりであったが、ある時を境に、妹は急に家事に目覚め始めた。

 今では炊事洗濯、それに掃除といった家事の一切合切を全て、花琳一人で切り盛りしている。

 鈴埜の台詞ではないが、無精者の俺に代わり、花琳は本当によくやってくれている。

 俺自身、そのことについては常日頃から感謝しきりであった。

 

 ――しかし、ちょっとした問題がないでもない。

 毎日の日課になっているおかげか、花琳の料理の腕前は今やかなりものであり、俺も味についてあれこれ言うこともなかった。

 第一手伝いの一つもしない俺に文句のつけようなどあろうはずもない。

 問題というのは、妹の料理を俺が少しでも残そうものなら、それはもう烈火の如き怒りでもって俺に詰め寄ってくることだ。

 その後は数日に渡り完全無視を決め込み、俺がどんなに謝ろうと怒りが収まるまでは一切の口を利いてくれなくなる。

 またその間、家事すらしてくれなくなるので、その間俺が代わりに不慣れな家事の一切を行わざるを得なくなるのである。

 料理関係は細心の注意をもって接すること。

 この大前提を、ここ数日の騒ぎにかまけて俺はすっかり忘れてしまっていた。

 

「外で食べるにしても、なんであたしを誘わなかったの? 今までこんなこと無かったよね。ここ数日でもう二回目。一回目は見逃してあげたけど、こう立て続けにされちゃね……」

 

 畳みかけられる。

 

「あ、ああー……いや、それはだな……」

「……兄貴さ、なんか隠してない? 隠してるよね? いいよ、答えたくないなら身体に聞く」

 

 俺の視線は、花琳の身体、そのある一点に集中する。

 先ほどから気になって仕方がなかったもの。

 彼女が右手に持つ、木刀にである。

 元はといえば俺が中学の修学旅行の際、一時の気の迷いで購入してきたものだ。

 今から思えば、なんという馬鹿な真似をしたものか。

 鬼に金棒を与えるようなものではないか。

 これを花琳が持ち出すときは、決まって怒りが頂点に達している時なのだ。

 

「あ、あの……花琳さん?」

 

 俺の呼びかけにも応じず、ずるりと伸び来たる木刀の刀身が、俺の首筋に触れる。

 赤樫の冷たい感触が、心腑の底まで届いたかに感じた。

 

「お、落ち着けって。とりあえずさ、その木刀を仕舞おう、ね?」

 

 冷や汗をかきつつ必死に宥めすかす俺の言葉にも、花琳は全く取り合わない。

 

「おいおい兄貴、今木刀は関係ねーだろぉ? あたしが質問してんだからさぁ、それに集中しなよ。どうしたのかな兄貴、もしかして木刀背負わされるような、何か後ろめたいことでもあるのかな?」

「な、ないない! 後ろめたいことなんて何もない!」

 

 嘘である。

 がしかし、この上妹の怒りを買うような真似をすれば、それこそ間違いなく俺の命の弦が危うい。

 

「ふぅん……そう。そうなんだ。あたしに嘘をつくんだ?」

「だから違っ――」

 

 妹の目から光が消える。

 いよいよもって猶予はない。

 力の消失がどうとかの前に、このままでは実の家族に殺されてしまう。

 

 どうにかしなくては。

 これまでにないほど思考を高速回転させた俺は、ある一つの考えに至る。

 それが果たして事態を好転させる結果になるか。

 思慮する時間はもはやなく、考えるより先に言葉が突いて出た。

 

「お、お前ももうそろそろ受験に向けてスパートかけなきゃいけない時期だろ!? だ、だからほら、これ!」

 

 俺は手に持つビニール袋を妹の眼前に差し出す。

 

「……うん?」

 

 訝し気な視線を送る妹へ向け、俺は言葉を続ける。

 

「家事はお前に任せっきりだからな……。毎日飯の用意までしてくれて、本当に感謝してるんだ。でもそのせいでお前、なかなか勉強する時間も取れないだろ? だからほら、たまには休ませてやろうと思って、帰り際コンビニで買ってきたんだ」

 

 もちろんこれも嘘である。

 ラピスは命を長らえる糧にはならないとは言っていたが、もしかしたらということもある。

 そんな一縷の望みをかけ、帰り際に食べ物を少しばかり購入していた。

 

「……」

 

 数秒の沈黙。

 

「……でも、だったら、なんであたしを誘わなかったんだよ」

 

 気持ち声色が穏やかになった気がする。

 畳みかけるならば今である。

 

「いやほれ、あの中華料理屋けっこう遠いだろ? 少しでもお前には勉強する時間を持ってほしくてな」

 

 ……どうだ?

 ――やはり、言い訳としては苦しいか?

 こいつはそこまで思い至ってないようだが、ここでもし『それなら何故前回は買ってこなかったのか』と追及されれば、もはや俺に弁解の余地はない。

 ここは追撃の手を緩めず、さらに何かを言うべきかもしれない。

 

 ――だが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。

 

「……そ、そう。そっか。そんなに兄貴、あたしの受験のこと気にしてくれてたんだ」

 

 手ごたえあり。

 俺からふいと目を逸らした妹の頬は、僅かに桜色に染まっている。

 勉強を後押しする兄。この線で攻めるしかない。

 

「そ、そりゃあもちろん、あたりまえじゃないか! お前、俺の高校受験すんだろ? ウチの学校、中学と比べて高校からってなるとなかなか難しいからな」

「――わかったよ。そういうことなら、いい。……許したげる」

 

 助かった。

 生還した。

 九死に一生を得た。

 一時はどうなることかと思ったが、山は越えたようだ。

 

「でもな兄貴。メシがいらないなら前日のうちに言ってくれよ。食材が無駄になるだろ」

「あ、ああ。すまん。次から気を付けるよ」

 

 服は後でこいつが部屋に居ない隙を狙って戻しておけばいい。

 どうやら今夜は、なんとか何事もなく過ごせそうである。

 

「そんじゃあたし、風呂入ってくるから。兄貴も後で――」

 

 ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間。

 またも花琳の目が鋭くなる。

 

「お、おい、花琳?」

 

 先ほどと違うのは、彼女の視線が俺の方を向いていないということ。

 視線の先を追えば、俺のやや後方、何もないはずの空間に向いていることだ。

 そのまま無言で一歩踏み出し、俺の真横に立つ形になるや否や、妹は木刀を振りかぶり――

 

「……ふっ!」

 

 何を思ったか、思い切り床に叩きつけたのである。

 

「……」

「……花琳さん? ど……どうしたんですか?」

 

 思わず俺は、本日二度目の敬語になってしまう。

 またぞろ何か過失をしでかしてしまったのか。

 

「……いいや。何でもねーよ。勘違いみたいだ。あ、兄貴。その床直しといてな」

 しかし花琳はそう言い捨てるや、俺の手からビニール袋を奪うと、さっさと姿を消してしまう。

「……」

 

 去っていく妹の後ろ姿に、俺は何をも声をかけることができず、ただぽかんと立ち尽くすのみであった。

 

「一体何だったんだよ……ていうかこれ、どうやって直せってんだよ……。母さんと父さんに何て言えばいいんだ……」

 

 嵐が去った後のような玄関で、俺はそう嘆く。

 そして無残に凹んでしまったフローリングを一瞥するや、こめかみに痛みが走るのを感じる。

 

「……仮にも神様がこれかよ……」

 

 俺は頭を押さえつつ、またも深い嘆息を漏らす。

 妹が破壊した床。その周辺に、水溜まりらしきものが広がってゆくのが見えたからである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死神の誘いと恫喝

「ほれ、一応乾かしといたからな」

「うぐうぅ~……うぅぅぅ……」

「まだ泣いてんのかよ」

 

 あの後、まず俺は取り急ぎ、床に広がった液体をタオルで拭き取ることにした。

 床の修繕は後回し――というか、単なる男子高校生にどうにかできるようなものでもなかったので、応急処置として段ボールを敷くだけに留めた。

 そうした後、ようやく部屋に戻った俺は、今度は下半身をびしょびしょに濡らしたまま泣きじゃくる、情けない死神様の後始末に追われることとなったのだ。

 濡れタオルで下半身を拭いてやった後は、汚れた下着の洗浄。

 まさかそのまま洗濯機に放り込むわけにもいかず、妹が上がったタイミングを見計らい、俺は洗濯のために風呂場へと向かったのである――幼女のパンツを片手に持ちながら。

 言葉にすると非常にアレだが、替えなど持っていないと言うのだから仕方がない。

 なんとか妹に見つからずに事を終えた俺は、ドライヤーで乾かしたのち、ちょっと台所に寄り道してから部屋に戻ったのだった。

 

「いい加減泣き止めよ……。偉大なる死神様なんだろ。人間の前でそんな姿を見せ続けていいのか?」

「うぐっ……ぐすっ……あのこむすめめぇ……絶対に許さぬ……。このサナトラピス様を……よくもぉ……」

「下半身すっぽんぽんのまま恨み言吐いても情けないだけだぞ。いいから早く履け」

 

 どうやら泣いているのは恐怖心からというより、悔しさのせいもあるようだ。

 そりゃあ、分からないでもないけどな……。

 散々矮小だ、下等だと貶している人間、それも子供相手に泣かされたとあっちゃ、冥府の王様としては名折れもいいとこだ。

 ――こいつ、姿と一緒に精神まで幼児化しちまってるんじゃないのか?

 

「プリン持ってきてやったぞ。食べるか?」

「ひっく……う゛ぅ……たべるぅ……。――なにこれぇ……おいじい゛……。……えっ、えっ! な、なんじゃこれ! 超おいしい!! わ、我が君! もう無いのか!? あるんじゃろ!? ほれ、はよう!」

「……超おいしい、ですか。そりゃようござんした」

 

 女子中学生相手に失禁するほどビビらされたかと思えば、三個セット百円の安プリン一つで機嫌を直す死神。

 もはや”自称”死神と言いたい。言い切ってしまいたい。

 もういっそのこと、今からでもそう宣言してくれないだろうか?

 

「……なんて、そんなわけもねぇんだよなあ……」

 

 この姿のままではとても信じられないことだが、紛れもなくこいつは本物の死神であり、人知を超えた力を持っている――いや、持っていた。

 その力のほどは実際に目撃した俺が一番よく知っている。

 そして――ここまで落ちぶれてしまった、その顛末も。

 こうして世話を焼いているのは、ただの同情や気まぐれからというわけではない。

 俺はそんな聖人君子ではないし、信仰に厚いというわけでもない。

 神やら悪魔やら、そんな存在とお近づきになりたいなんて、これっぽっちも思わない。

 ましてや命の危険を賭してまで――見ず知らずの女、いや死神なんぞのために命を懸けるなど――冗談ではない。なかった。

 

 ――だが。

 命を、助けられた。

 命を助け(・・)助け返された(・・・・・・)

 

 こいつがこんな状態に陥った理由の一端は、間違いなく俺にある。

 ならば、責任を取らねばならないだろう。

 少なくともこいつが、元の世界に帰るまでは。

 

「おぅい……我が君よ? なにをぼうっとしておる? 聞いておるのか?」

「……ああ。聞いてるよ。悪いがおかわりはもう無い。明日また買ってやるから我慢しろ」

「うむ……そうか、無いのなら仕方がないの。しかし明日、約束じゃぞ? 絶対じゃからな!?」

「はいはい。約束は守りますとも」

「うむ、よい返事じゃ。それで我が君よ、この後はどうするのじゃ?」

「どうもしねえよ。正直疲れた。もう寝させてくれ」

 

 ここ数日はロクに眠れていない。

 こいつを家族の目から隠すために神経を使っていることもそうだし、これからどうするかを考えるだけでも相当に精神を疲弊する。

 

「うむうむ、よい睡眠は人間の健康を保つのに必須と聞くからの。――ほれ」

「……何の真似だ」

 

 床にそれまで着ていた服を雑多に脱ぎ散らかし、元の露出度の高い格好に戻ったラピスは、俺のベッドに横になりながら言う。

 そして片手で布団を持ち上げながら、何かを催促するような視線を俺に送ってきた。

 

「何だとはなかろうよ。疲れた(あるじ)を癒さんとする従僕の気持ちがわからぬか?」

「そうかおやすみ。じゃあ俺は昨日までと同じく床で寝るからな」

 

 満面の笑顔で言う死神を一瞥し、俺はさっさと予備の布団を仕舞ってある押し入れへと向かう。

 いやはや、布団の予備なんぞ使うことはないと思っていたが。

 人生万事塞翁が馬、モノは取っておくものだ。

 

「ちょちょちょーっと待たんか! なんじゃその塩対応! このわしが、他ならぬこのわしが、健気にも下等な人間相手に慰撫してやろうと言っておるのじゃぞ!? 感動に咽び泣き、その幸運を快く押し頂くのが正常な反応じゃろうが!」

「あのな、お前は俺を労わりたいのか貶したいのかどっちなんだ」

「じゃからこのわし自ら、文字通り体を張って癒してやろうというに!」

「そりゃありがとう。謹んでお断り申し上げます」

「むぐぐぐぐ……!」

 

 まるで風船かと思うほどに頬を膨らませ、顔を真っ赤にして唸るラピス。

 ……が、何を思ったか、瞬時に含みを持った笑顔に変貌する。

 

「ほーう。そうかそうか。そんな態度ならこのわしにも考えがあるぞ?」

「……なんだ? 脅そうってのか? いいのか、俺の命を奪えばお前も共倒れなんだろ?」

「何を言うておるか、愚か者が。そんなことをせずとも、汝はわしの提案を受け入れるであろうよ」

 

 自信たっぷりにそう言い放つ死神。

 こいつ、一体何を企んでやがる。

 

「……一緒に寝てくれないならば、今すぐわしは大声を張り上げるぞ」

 

 ――ッ!

 

「てっ、てめぇ!」

 

 見るからに狼狽し始めた俺をあざ笑うように、ラピスは嘲笑に満ちた表情のまま、更なる追撃を加える。

 

「汝の父君と母君も既に帰宅しておる時間じゃろう? さらにあの小生意気なこむすめにも知られるところとなるじゃろうなぁ~。あやや、大変じゃ大変じゃ」

「ぐっ……! くっ……」

 

 こいつ……帰宅途中に俺が言ったことを、こんな形で利用してくるとは。

 こんなところだけ頭が回りやがる。

 

 ――結局俺の方が折れ、今夜だけという約束で、死神と共に一つのベッドで過ごす運びとなったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死神の寂寥

「なあ」

「なんじゃ、我が君よ」

「……暑いんだが」

 

 俺に抱き着くラピスは、可能な限り身体を密着させようとするように、べったり俺にくっついている。

 その拘束ぶりときたら、寝返り一つまともに打てないほどだ。

 

「なんじゃなんじゃ、迷惑とでも言うつもりか?」

 

 俺の胸に頭を埋めるラピスが顔をこちらに向ければ、その表情には僅かに非難の色があった。

 

「いや……そっち側にもっとスペースあるだろうが」

「だからなんじゃ? 第一汝は昨日一昨日、寒い寒いと抜かしておったろうが。我慢しきれず妙な機械で温もっておったくせに。わしはな、本気であれを叩き壊してやろうかと思ったぞ」

「う~ん……いや……」

 

 そう言われると弱い。

 本格的に冬の深まりつつあるこの季節、エアコン無しで夜を明かすのは辛くなってきたところだ。

 そこへいくと、外見通りと言うべきか、子供特有の高い体温を持つこいつが抱き着いている今、布団の内部は適温を保っていて実に快適だ。

 本当にどうでもいいことばかり覚えてやがるな、こいつ。

 ていうか壊すつもりだったのかよ……

 

「むむ……」

 

 有効な反論が思い浮かばず、ただ唸ることしかできない。

 そんな俺をじっと見るラピスは、何故か段々と悲しげな表情に転じていった。

 

「……のう、我が君。本当のところ、こうしていては迷惑じゃろうか?」

 

 それまでに無いほどしおらしい声で言う。

 

「いや……んん~……」

 

 暖かさを得るという意味では何の文句もないのだが……

 いくら幼いとはいえ、女に抱き着かれて寝るというこのシチュエーションが、果たして健全な男子として正しいと言えるのだろうか。

 正直、この瞬間ばかりはこいつがこの姿になっていて助かったと思わざるを得ない。

 これが元の姿であったのなら、自我を保っていられるか自信がないところだった。

 

「……わかったわい。そこまで苦しげな顔をされては無理にとは言わん」

「お、おい?」

「すまなんだの。迷惑じゃというなら汝の言うとおり、別々に寝ることとしよう」

 

 俺の唸る姿をどう勘違いしたのか、ラピスは俺の布団から出ると、床に敷いていたもう一つの寝床に入り込む。

 彼女が出ていく際に捲れた布団の隙間から冷たい外気が入り込み、俺の肌を撫でる。

 

 ラピスはそれから何も言わず、こちらに背中を向けたまま微動だにしない。

 その背中は――見覚えがある雰囲気を(たずさ)えていた。

 最初にこいつを見た、あの時の。

 

「――おい」

「……なんじゃ?」

 

 こちらを振り向かぬまま、短い返答のみを返すラピス。

 俺は言うべきかどうか一瞬躊躇ったが、その寂しげな背中を見かね、つい口に出してしまった。

 

「あの機械を動かすのにも結構金がかかんだよ。あんまり電源入れたままにしとくと母さんがうるさいんだ。だからな、その……」

「……?」

 

 要領を得ぬ俺の言葉の真意を測りかねたのか、ラピスは顔だけをこちらに向ける。

 その瞳は、僅かに潤んでいた。

 

 ――本当に情けない死神だ。

 たかがこんなことくらいで、涙目になるほど悲しむとは。

 こんなの、とても見ちゃあいられないよな。

 俺は先ほどこいつがしたように、布団を持ち上げ、言った。

 

「……別に迷惑じゃねえよ。でもあんまりくっつくなよ。そうするなら――ほれ」

「え……」

 

 ラピスは目を丸くする。

 大きな緋色の瞳を、これ以上ないほどに見開いて。

 

「勘違いすんなよ? 迷惑じゃねえってだけで、俺はあくまで――」

 

 俺はその吸い込まれるような瞳を直視し続けることができず、つい目を逸らしながら言葉を続けてしまう。

 それが悪かった。

 

「――ぐふっ!」

 

 みぞおちに凄まじい衝撃を感じ、危うく食ったものをリバースしそうになる。

 腹にぶつかってきたものの正体は、案に違わず、頭から一直線に突っ込んできたラピスであった。

 

「まったく、悪いお人じゃのう我がご主人様は! そんないけず(・・・)なことばかり言うて、これまで何人の女を泣かしてきたんじゃ、このぉ!」

 

 瞬く間に俺の上に馬乗りになったラピスは、興奮してなにやら勝手なことを宣っている。

 

「ええいやめろ! 頭を擦り付けるな足を絡ませるな!! 人の話を聞いてたのかてめえ! ――あ痛っ! つ、ツノ、角!」

 

 胸に顔を埋めたままグリグリと頭を動かすせいで、その度に角が当たる。

 この勢いだといつかそのうちブスリといってしまいそうで恐々とする。

 

「いいかげんにしろ!」

 

 ひとつ頭をはたくと、ようやく動きが止まる。

 大人しくなったかと思ったのも束の間、今度は俺の胸に顔を埋めたまま思い切り深呼吸を始め出し、生ぬるい風が当たって気持ち悪いやら、くすぐったいやらで堪らない。

 たっぷり三つほど呼吸を続けた後、今度は多少力を入れて平手をかましてやろうかと思ったその時、やにわにラピスの顔が上がった。

 

「しかしな、我が君よ」

 

 その表情は至って真面目で、今自分が何をしていたのかまるで自覚していないような素振りである。

 

「汝がいくら女心の機微に聡いとしてもの、今後は他の女子(おなご)に色目をつこうてはならぬぞ」

「お前な、何を勝手なことをペラペラと――」

「もし汝がそんなことをすれば」

 

 緋色の瞳から光が消える。

 

「わしは、その女を殺してしまうかもしれん」

 

 またぞろ悪い冗談かと思ったが、あまりに真剣な眼差しで言うので、俺は一瞬息を吞んでしまう。

 

「殺すって、お前、しかしお前……そんなことをしたら――」

「死神としての制約を破ることになるの。じゃがな、そんなことは知ったことではない」

 

 その物言いの冷やかさは、これもまた、俺が以前のこいつに感じたものだった。

 

「汝はわしに抱き着かれて(ぬく)いと言うたな」

「ああ……」

 

 正確には『暑い』だが。

 ここでいちいちそんな事を指摘するほど、俺は愚かではない。

 

「汝にはそんなつもりはなかったのじゃろうが、わしはな、わしは……その言葉がたまらなく嬉しかった……」

 

 ラピスの表情が、自虐的な笑顔、それへと変わる。

 

「こんなわしでも、汝に温もりを与えられると分かってな。……単なる管理人として、淡々と役割をこなし続け、ただ無為に時を過ごしてきただけのわしにはな、汝との他愛のないやりとりの一つ一つが、珠玉の宝石の如く映っておる」

 

 淡々と、まるで自分に言い聞かせるかのように言葉を続けるラピス。

 

「悠久の時を生きてきたわしじゃがな、そんなものは無価値じゃ。塵芥じゃ。これまでの数千年、数万年よりも、汝と過ごしたこの二日あまりの方が余程価値がある。じゃからな、もし汝の心を奪う輩が現れたその時、わしは自分を制御できる自信がない」

「……」

「勝手な願いだとは百も承知じゃ。そも、わしは汝に救われた身。奴隷の分際で分を超えておるとは重々分かっておる。それでも、あえてわしは汝に頼みたい。いつかわしが力を取り戻し、かの地へ戻るまででよい。わしだけを見続けては貰えぬものじゃろうか……」

 

 僅かに光の戻った瞳を向け、まるで親に哀願する子供のような表情で訴えかける。

 死神としての誇りなど、今宣言したように無価値だと。

 俺と関係を持ち続けること以上に大切なことなど無いのだと。

 ――そしてその言葉が真実であると、言葉以上に、俺に向け続ける瞳が雄弁に語りかけていた。

 

 ……俺は、わざとらしく溜息を一つ吐いてみせる。

 

「……全く、ふざけたことばかり言いやがる」

「我が君よ……」

「言っとくがな、自慢じゃねえが俺は生まれてこのかた、女にモテたことがないんだ。だからお前の言う心配なんぞ、するだけ無駄ってもんだ」

 

 ラピスの目を見ながら――は、無理だった。

 俺の言葉は、彼女のそれと比べ――あまりに薄っぺらな、その場しのぎのものであったから。

 

「まあ……こうなったのは俺のせいでもあるんだ。帰るまで世話は焼いてやる。お前を見放したりはしねえよ」

 

 殆ど口から出まかせの俺の言葉を、こいつはどう受け止めているのか。

 その表情は、戸惑いとも、喜悦とも取れる、複雑な表情を見せていた。

 何故かばつの悪い思いに襲われた俺は、無理やり会話を打ち切る。

 

「もう寝るぞ。疲れてるって言っただろ、おしゃべりは終わりだ」

「うん……」

 

 ラピスは小さく、そう呟いたのみだった。

 

 

 ……元々こいつと俺とは神と人、次元そのものが違うのだ。

 凡そ力を失いすぎたせいで、未だ錯乱状態にあるのだろう。

 そう何度も自分に言い聞かせているうち、いつもより早く睡魔が襲ってくる。

 

 ラピスの言葉が熱を帯びすぎていたせいなのか。

 まどろみの中で俺は、この死神と初めて会った時のことを思い返していた……

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一夜

 

「うーっす。お、鈴埜。相変わらず早いな」

 

 授業が終わり、部活に顔を出した俺は、いつものように鈴埜の横に座ると、行きがけにコンビニで購入していた漫画を読み始める。

 

「……来て早々漫画ですか。先輩、自分の部活が何か理解してます?」

「ん~? んー……」

 

 帽子の(つば)の下からこちらを見つめる鈴埜の目を見ながら、俺は適当な相槌を返す。

 鈴埜 (めい)

 学年は中学二年生で、俺の三つ下にあたる。

 中高一貫校であるところの我が学校では、中等部も高等部も部活は一緒くたにされている。

 といっても、運動部になるとまた違うようだが。

 

 鈴埜は中一の時に入部してきたが、入部当時は俺に対してもオドオドした態度でもって接し、まるで震えるハムスターか何かのようだった。

 それが今や、毒舌を振り撒く小悪魔さながらというのだから、女の変化というものは恐ろしい。

 さらに今年部長という肩書を手に入れた鈴埜は、どうもやる気というか、使命感に燃え始めたように見える。 

 

 部長になってから被り始めた、まるでおとぎ話の魔女を彷彿とさせる三角帽は、その一環だろうか。

 お互い座った状態で向かい合うと、俺は背の低い鈴埜を見下ろす形になる。

 

「没収」

 

 俺の手から、手にした漫画が奪い去られる。

 横を向けば、見るからに不機嫌そうな鈴埜の顔があった。

 

「あ、おい、何すんだ!」

「何だじゃありませんよ。まったく、高二にもなって勉強もせず、漫画ばかり読んで……」

「お前は俺のおふくろか! 放っとけ!」

「大体どうせ読むならですね、先輩。この前渡したの、読みました?」

「え」

 

 俺は言葉に詰まってしまう。

 この話題だけは避けたいところだ。

 

「あ、ああ~……うん。よ、読んだよ?」

「私の目を見て言ってくださいよ。なんで逸らすんです?」

「……すまん。最初の数ページは読んだんだが、その、内容がさっぱりで……」

「はぁ~……」

 

 当てつけのように大きなため息をついた鈴埜は、再度俺に向き直り、言った。

 

「どうせそんなことだろうとは思ってました。ですから、今日はいつもとは違うものを用意してきました」

「いや、鈴埜……悪いが、やっぱ俺、どうもオカルト系の本はやっぱ、難しいっつうか……」

 

 こいつが渡してくる本ときたら、どれもこれも哲学めいたものばかりで、一体何を言いたいのかさっぱり分からないものばかりだ。

 その上、説明もなしに謎の固有名詞を初っ端から連発しまくってくるせいで、ただでさえ分からない内容が一切頭に入ってこない。

 これなら教科書を読んでいた方がマシとさえ言えるレベルなのだ。

 

「安心してください。これはおバカな先輩にも分かるよう、限界まで分かりやすさを追求した造りになってます」

「お前今、さらりと酷いことを言ったな!?」

「じゃあ今までの本をきちんと読んで、その内容を私に伝えてみてくださいよ」

「ぐっ……」

 

 俺はまたしても言葉に詰まってしまう。

 

「分かったよ。一応チャレンジしてみる」

「一応じゃありません。全身全霊をもって望んでください。これすら分からないようであれば、私にはもう手の施しようがないです。まったく、どれほど私が苦労したか……」

「まるで自分が書いたみたいな言い方をしやがるな」

 

 一瞬。

 鈴埜の表情が強張ったように見えたのは、俺の見間違いだったのだろうか。

 

「今まで先輩に渡した本の作者様達に申し訳が立たないだけです。――とにかく。約束ですよ」

「へいへい」

 

 ………

 ……

 …

 

「はぁ……気が重いが仕方ねえ」

 

 自宅に戻った俺は、鈴埜から押し付けられた本を机に置き向き合ったまま、気怠げに呟く。

 外見からして、見るからに固そうな内容が書かれていそうな、大仰な装丁がなされた本である。

 頁を開く前から意気消沈してしまいそうになりながらも、俺はとりあえず表紙をひとつめくってみる。

 またぞろ難解な単語の羅列が待っているとばかり思っていたのだが、目に飛び込んできたのは、ただ一枚の絵が書かれているだけの頁であった。

 難解どころか、そもそも文章自体が存在していない。

 

 ぺらぺらと頁を送ってみるも、どこどこまでも文章のない、まるで幼児向きの絵本のような内容が続いているだけだ。

 確かにこれなら俺でも読める――というか、これは『読む』と言えるのか?

 

 まあ、これなら楽勝だ。

 一気に気分が楽になった俺は、描かれている絵の一つ一つを読んで、いや、見ていく。

 

「なんつうか、意図が分からないっていうか……なんだ? もしかして、読み手にこういうのをやれっつってんのか?」

 

 絵にはすべて、一人の人間が描かれている。

 可愛らしくデフォルメされた絵柄だが、その内容が異様だ。

 階段から落ちる絵。机に頭をぶつけている絵。

 どの頁を開いてみても、ロクな目に合っていない。

 酷いものになると、手首を刃物で切っているものまであった。

 そうしたケガばかりしているせいか、描かれている人物は常に血を流している。

 

「見た目は絵本みたいでも、内容は流石オカルトってとこか。悪魔召喚の儀式でもすんのかよ……ん?」

 

 悪趣味な内容に辟易し出した俺は、自然と頁を送るスピードを速める。

 文章が無い上に、頁数そのものもたいしたことがない本だ。

 何分も経たないうちに最後の頁に到達する。

 

 最後のページに書かれていたものは、やはりそれまでと変わらず、文章のない、ただの一枚絵。

 ただし、それまでとは絵の意図しているところが違うように思える。

 というか、その意図がさっぱり意味不明なのだ。

 

 書かれているのは、渦がひとつ。

 螺旋状の渦が、1ページ全てを使って描かれている。

 そして本の中心、つまり渦の中心部にあたる部分にだけ、赤いインクでバツ印がなされてある。

 これは一体、何を意味しているのだろうか……。

 

「おーい兄貴ー、メシだぞー」

 

 階下から花琳の声が俺の耳に届く。

 おっと。

 もうそんな時間か。

 思ったより長い間、この最後の頁と向き合っていたようだ。

 最後のページだけは意味不明ではあったが、一応全部読破はしたのだ。鈴埜も文句あるまい。

 渦の意味については明日、あいつに聞いてみよう。

 

 本を閉じようとした、その瞬間。

 意図せず紙の端を撫でるように触ってしまい、指先に鋭い痛みが走る。

 

「つッ――!」

 

 突如として襲い来る痛みに、俺はつい、弾かれたように指を振ってしまう。

 一文字に切り裂かれた指先から、一滴の血が飛ぶ。

 自由落下に任せる液体を止めることなど当然叶わず、落下点にある紙へ飛沫状の染みを描く。

 

 借りた本を汚す。それも血という、考え得る最悪の液体で。

 鈴埜に何と言おう。

 なんと言い訳をしたらよいのか。弁償しようにも、こんな悪趣味な本が大手本屋に売られているとは考え辛い。

 

 それら、当然浮かぶであろう考えは全て――まるで一切、頭に上ることはなかった。

 俺の目は、血の落ちた頁に釘付けになっていたのだ。

 

 紙に書かれた『渦』が、動いている。

 まるで本物の渦のように、ゆっくりと回転運動をしている。

 黒いインクに血の赤が混じり溶け合い、不気味なツートンカラーを描く。

 やがて渦は――例えるなら風呂の栓を抜いた後のように、中心部のバツ印に吸い込まれ、消えた。

 残ったのは、小さなバツ印のみである。

 

「なん――」

 

 あまりにも衝撃的な光景に耐えられず、さりとて黙っていては余計恐怖が増しそうに感じられた俺は、何でもいいから声を上げようとする――が。

 こと(・・)はそれだけに留まらなかった。

 本から、一筋の光が走る。

 

「……ッ!」

 

 次の瞬間、俺は声にならぬ声を上げ、腰を折った前屈姿勢になる。

 それは突如として去来した、左胸の激痛によるもの。

 締め付けられるような痛みを覚えつつ、視線をそこに向ければ、俺の左胸――ちょうど心臓の位置から本までの間が、鎖によって繋がれていた。

 

「かっ……! こ、これっ……なんっ……!?」

 

 鈍い光を放つその鎖の先は、完全に俺の胸を貫通し内部に侵入している。

 俺の体内にどう入り込んでいるのか伺い知る術はないが、この息苦しさは、直接心臓を絡め捕られているかのようだ。

 呼吸が困難になり、意識が朦朧とする……

 

「おい兄貴ー! 寝てんのかー!? 開けんぞー!」

 

 その時。

 妹の声が、階下ではなくドアの向こう側から響いた。

 

「かっ……」

 

 ――いや。

 ここで助けを求めることが、果たして正しいのだろうか?

 この鎖が、花琳にまで襲い掛かからないとは限らない。

 すんでのところで思いとどまった俺は、飛びそうになっていた意識を気力でもってして押し留め、ありったけの声を振り絞る。

 

「だ、だいじょうぶっ……だっ……! 今着替えてるところだっ……からっ! 開けるな!」

「えっあっ……そう。は、早くしろよな! 下で待ってっからね!」

 

 階段を降りる妹の足音が小さくなってゆく。

 ――やはり、助けを求めるべきだったろうか?

 だが、それももう取り返せぬ後悔だ。

 いよいよもって万事休すか。そう思われたが、何か違和感がある。

 

「……? あれ……?」

 

 先ほどまで感じた息苦しさが、綺麗さっぱり消え失せている。

 どころか、胸に刺さっていた鎖すら、まるで初めから存在していなかったかのごとく、姿を消していた。

 本に目を落とすも、俺が血を落とす前の状態に戻っている。

 ……まるで訳が分からない。

 

 オカルト本だからって、なにも現実にホラーめいたことを起こさなくてもいいだろう。

 俺は手早く本を閉じ、そのまま明日鈴埜に返すため学校鞄に突っ込んだ。

 階下からまたしても妹が呼ぶ声が聞こえる。

 今すぐ行くと叫んだ後、急いで一階に降りる。

 とにかく一刻も早く、この部屋から出ていきたかった。

 

 その後夕食を済ませた後は風呂に入り、寝るまでダラダラと、リビングで何をするでもなく過ごした。

 あの場所に戻りたくなかったのである。

 睡魔に襲われ部屋に戻ったのは、時計の針が天辺を回った頃だった。

 

「……」

 

 寝床に入る前、もう一度あの本を開いて先ほどの現象が果たして本当だったのか調べようかとも思ったが、何か嫌なものを感じた俺は、そうすることなく布団に潜り込んだ。

 あれはただの幻聴、幻覚だったのだ。

 強引にそう自分を納得させ、これ以上要らぬことを考えないようさっさと寝ようと決めた。

 

 横になってから、時間にして十分も経ってないであろう。

 既に意識はぼんやりとし始めている。

 俺はあまり寝付きのいい方ではないのだが、妙な体験で神経をすり減らしたせいか、今日はすんなりと眠れそうである。

 

 明日……学校が終わったら……すぐにあの本を……返……

 

 ………

 ……

 …

 

 やけに寒い。

 布団に(くる)まっているはずなのに、まるで外に投げ出されているかのようだ。

 

「はっ……ぶしゅっ!」

 

 身震いを走らせた後、俺は大仰に咳をひとつ打った。

 今日はやけに冷えるな……。

 

 ――いや。

 いくらなんでも寒すぎる――というか、身体に何の重みも感じないのは一体……?

 

「あ……あれ? 布団……」

 

 目を開けた俺は、まず、それまであったはずの布団が無くなっていることに驚く。

 がしかし、そんなことは些細な問題であると、周りを見渡した俺は気付くことになる。

 

「なん、だ、ここ……?」

 

 ここが自分の部屋ではないことはすぐに分かった。

 明かりを消して寝ていたというのに、辺りが妙に明るい。

 それだけでなく、立ち上がるために地面に手をついた瞬間、驚きのあまり声を出してしまうほど冷たい感触に襲われた。

 地面に目を落とせば、成程それもそのはず、周囲の地面は一面氷で覆われている。

 天を見上げても、漆黒の暗闇が広がっているばかりで、見慣れた自分の部屋の面影など微塵も残っていない。

 

 改めて周囲を見渡すも、どこどこまでも氷に包まれた台地が広がっているばかり。

 ここにきて俺は、今現在自分が夢を見ているのだと自覚した。

 夢の中ではどんな荒唐無稽な出来事が起こっても夢だと気づかないことが多いと聞くが、今回ばかりは違ったようだ。

 

 そうだと分かれば、俺の心境は俄然楽になった。

 天からの光源は皆無だが、辺りは青白い光が無数に立ち込めており、それが氷塊へ乱反射を繰り返し、幻想的な風景を演出している。

 寒すぎるのが難点だが、これはいい不思議体験になりそうだ。

 

 ――が。

 楽しかったのは歩き始めた当初だけだった。

 どこまで歩いても風景は変わることなく、一様に氷の世界が広がっているのみ。

 途中真っ赤な水が流れる大河を発見したときはワクワクしたが、それきり何も目を引くものはなかった。

 

「はあ……もういいや。そろそろ目が覚めてもいいんだぞ、俺」

 

 寒さに震えながらそう独り言ちる。

 しかし残念ながら現実世界の俺が目覚めるには今しばらくの時が必要らしい。

 立ち止まっていると余計寒さが増すばかりなので、仕方なく俺は歩みを進める。

 さらに歩き続けていくうち、段々と道幅が狭くなってきたことにふと気付く。

 左右は大きな氷塊に囲まれ、狭い一本道の様相を呈している。

 いよいよ道幅が狭くなり、人ひとりがやっと通れる位になってきた頃、ようやく道の終着らしきものが見えた。

 

 それは、氷の洞穴とでも言うべきもの。

 ゲームなんかだと奥にボスやレアアイテムでも転がっていそうなシチュエーションだ。

 単調な道程に飽き飽きしていた俺は、心なし浮ついた気分で洞穴内部へと歩を進める。

 

 ……

 

 妙である。

 段々と息が苦しくなってきている。

 直接心臓を何者かに掴まれているような感じだ。

 この不快感は、洞穴内ゆえに酸素濃度が低いとか、そういった類のものが原因ではないように思われた。

 

 興味本位でここまで来たが、やはり引き返すべきか。

 そう思い始めた頃だった。

 どこまでも直線的だった細道の先に、左に曲がっている箇所がある。

 そこを曲がると、急に視界が開けた。

 

「――」

 

 俺は、その光景を前に、呼吸をすることも忘れ、ただ立ち尽くしていた。

 一見すれば、そこにはただの広い空間があるのみで、それそのものは特別何をか言うべきこともない。

 俺の目はただ一点、中央に鎮座する氷塊に注がれていた。

 

 人が、縫い付けられている(・・・・・・・・・)

 ある点を除けば、氷塊にもたれかかって座っているように見えなくもない。

 だが、縫い付けられているというのは言葉通りの意味で、身体の下腹部に、巨大な鎌が突き刺さっているのだ。

 恐らくは後ろの氷塊にまで貫通しており、その人物はピクリとも動かない。

 更に両腕を上げた姿勢の先端、その掌には、これまた巨大な杭が刺さっており、見るからに痛々しい。

 俺は、恐る恐る氷塊に近づく。

 

 ――今から思えば、何故このとき、こんな勇気を出せたのか不思議だ。

 夢の中だからという安心感が俺の背を押したのだろうか?

 

 目の前まで近づき、標本のようにされたその人物をつぶさに観察する。

 全身黒いローブに身を包んでいるうえに、フードを被った頭を項垂れさせているため、果たして男なのか女のかすら分からない。

 だが、ひとつ奇妙な点がある。

 頭部の左右から何か、角らしきものが生えているのだ。

 山羊の角に似たそれに興味を引かれ、俺はふと、触って確かめてみたい衝動に駆られる。

 

 俺が手を伸ばし始めた、その時であった。

 死んでいるとばかり思っていたその人物から、声が放たれたのである。

 

「……なんじゃ。ここまでしておきながら、まだわし様の力を削ごうてか。まったく、呆れるの……」

 

 生きていると分かった驚きで?

 

 ――いや。

 

 俺はこの時、あまりにも優艶なその声に、伸ばし始めた手のことすらすっかり忘れ、ゆっくりと頭をもたげるその様を、ただ見ていることしかできなかったのだ……。

 

 ゆっくりと頭を上げたその人物の顔が、俺の視界に入る。

 ――女性だ。

 

 それも、とんでもない美人――いや。

 そんなありきたりな表現が失礼にあたるほどの、途轍もない美しさを湛えた女だった。

 黒一色の衣装であるうえ、小麦色の地肌をしている色彩――とだけ書けば、暗い地味な印象を与えると思われるかもしれない。

 しかし、フードの下から見える白金の頭髪、そして紅玉(ルビー)を思わせる、紅く大きな瞳が、周囲の青白い光彩と相まり、目が眩むほどの輝きを発している。

 地味どころか、目を奪われるほど見事なコントラストであった。

 

 事実、俺は言葉通り目を奪われ、女の声に何をも返事を返すことができず、ただ阿呆の如く口を開けていたのだから。

 

「人間よ」

 

 黙ったままでいる俺をどう解釈したのか、女は緋色の瞳を細めさせ、抑揚のない声でもって続ける。

 

「あれからどれほど経ったのか、もはやわしには知る術もないが――恐らくは随分と(とき)が経過していることじゃろうな。じゃからわしについては話の上でしか知らぬのじゃろう。……何を言われてここまで来たのか知らぬが、()()ねよ。……焦らずとももう、わしに残された刻は少ない」

「い、いや、お、俺は――」

 

 古風な喋り方をする女の話は、ただの一つとして理解できるものがなかった。

 どう反応して良いものかわからず、みっともない狼狽を続ける俺の姿をどう解釈したのか、女は再び頭を項垂れさせると、諦めたように言った。

 

「何もせず帰れぬというなら、好きにせい」

「……は?」

 

 好きにしろとは、どういう意味だ?

 

「……随分久方ぶりじゃからな。できれば軽いもので勘弁してもらいたいものじゃが、言って聞くような貴様らでもなかろう。よう分かっておるよ」

「あんた、一体何を言って――」

「腕を()ぐか? 眼球を潰すか? いずれにせよ、はよう済ませよ」

「……」

 

 ――この女……

 

「……気が済んだら、さっさと去ぬるがよい。……わしを、静かに死なせてくれ……」

 

 言い捨て、それきり何も言葉を発しなくなった女を見下ろす俺は、それまで女に感じていた感情の一切を忘れ果てていた。

 

 がしり。

 

「ッ!?」

 

 女の体が、ビクリと痙攣したように跳ねた。

 俺は女の角を掴んだまま、強引に頭を上げさせる。

 

「……き、貴様っ! 角を掴むなこの無礼者が!!」

 

 再び視界に現れた女の表情は、それまでとは正反対に、素の感情を溢れさせている。

 

「おいこら、何を勝手なことをベラベラしゃべくってんだ?」

「なっ――」

 

 珍妙な格好をしたコスプレ女め。

 どうせ腹に刺さった鎌も、手の杭だって見せかけのトリックだろう。

 仮に本当だとして、そもそも夢の中での出来事なのだ。

 全ては見せかけ。実際に存在しているわけではない。

 そう思えば、現実の俺ならこんな美人を前にすればまともに喋ることもできないだろうが、何の遠慮もせずに思ったことを言い放つことができた。

 

「あんた、いくら夢――俺の想像だからってな、失礼すぎるだろ」

「ちょっ、き、きさっ、貴様っ! 揺らすな揺するな! こ、このわしに対しこのような――」

「俺がそんな拷問じみた真似をする人間に見えるってのか? ああん?」

 

 俺は角を掴んだまま、ぐりぐりと手を動かす。

 頭を左右に振られながら、それまでにない焦った様子で俺を()めつけ、俺に非難の声を浴びせ続ける女。

 そんなやりとりを暫く続けた後、ようやく互いに落ち着きを取り戻し始めたタイミングで、俺は掴んでいた手を放すと、言った。

 

「で、こりゃ一体どういうことなんだ」

「……貴様、本当に何も知らぬのか。如何にしてここまで来たのじゃ」

「そりゃ俺が知りたいよ。こっちこそ聞きたいことが山積みだ。……それ、本当に刺さってんのか?」

 

 俺は、女の下腹部に突き立てられている鎌に視線を落とす。

 

「うむ。このせいでわしは何処(いずこ)へも行くことが出来ぬ。……まあ、仮にこれが無かったとしても同じことなのじゃがな……」

「こうして普通に喋っててあえて聞くのもどうかと思うが……お前、なんで生きてんだ?」

「くくっ……」

 

 何かおかしいことを言っただろうか?

 女は急に破顔し、小さな笑い声をあげる。

 

「ふふ、人間。どうやら貴様、本当に何も知らぬようじゃな。いや、このわしを知らぬなど、下界ではあり得ぬことよ。となれば――さしずめ、別の次元から来た、といったところかの?」

「……?」

「こうして名乗るのもいつ以来じゃろうの。――聞け、人間。わしの名は『タヒニスツァル=モルステン=サナトラピス』。穢れの収穫者にして、冥府の王である」

 

 冥府?穢れ?

 何一つとして言葉の意味が理解できない。

 それに、とても一回で覚えられそうもない長い名前は――分かっていたことだが、日本人ではないようだ。

 ……まあ、夢だしな。

 

「下界のものはわしを『死神』とも称しておるようじゃ。人間どもにしては、なかなか良い通り名を付けたものじゃと思うておるぞ」

「……で、その冥府の王である立派な死神様が、なんでこんなことになってんだ?」

「……さての。知らぬ」

「おいおい、知らないはないだろ」

「本当に分からぬのじゃ。ある日突然、我が居城に押し入ってきた不届き者ども。そ奴らに捕らえられ、あれよあれよという間にこの有様じゃ」

「そんな奴等、神様ならどうとでもできたんじゃないのか?」

「同じ神連中が相手であれば、それも可能であったかも知れぬがの……」

 

 随分設定を盛ってるみたいだな、俺の脳内は。

 自称死神は一瞬目を伏せ、暗い表情を浮かべたかに見えたが、すぐさま元の表情に戻り、言う。

 

「――で、人間。貴様、これからどうするつもりなのじゃ」

「どうするもこうするも……」

 

 このやりとりも目が覚めるまでの話だ。

 どうせそうなれば、この一連の出来事も綺麗さっぱり忘れているに違いない。

 夢とはそういうもの。

 しかし、それを言葉に出すのはあまりに無粋に思われたので、俺は曖昧な返事を返すに止めた。

 

「恐らくわしが捕らえられておるこの場は、およそ天界の何処かであろうが、どこであれ人が長居できる場所ではない。……いや、と言うより、今貴様がこうして平気でここに立っておること自体、本来有り得ぬはずなのじゃが――む?」

「どうした?」

「汝、貴様――呪い(・・)を受けておるな? ……なるほど、そういうことか……」

「おいおい、一人で納得してないで説明してくれ」

 

 何か得心がいったような素振りを見せた死神は、俺の質問には取り合わず、こんなことを言い出した。

 

「……人間よ。汝を元の世界に返してやろう」

「え? そりゃ、そうしてくれると有り難いが……」

「ただし一つ、条件がある」

「……なんだ?」

「そう身構えるな。条件とは言っても、無理強いはせぬ。条件というか、頼みごとじゃ。例え汝が断っても元の世界には返してやろう」

「……いいだろ。聞くだけ聞こう」

 

 一瞬、女の顔が、しおらしいものへと変化したように見えたのは、俺の見間違いだったろうか。

 

 ――死神は、ゆっくりと、しかし強い意志を感じさせる声でもって、言った。

 

「この先暫く、わしの話し相手となってくれぬか?」

「――は?」

「……駄目か?」

 

 殊更柔らかな声を作り言うその様は、男ならば誰一人として断る術を持たないであろう魅力に満ちていた。

 当然、この俺も。

 

「い、いやまあ、それくらいなら……」

 

 つい俺は、無責任にもそう答えてしまう。

 そんなことは有り得ないというのに。

 

 俺の心情はつゆ知らず、女は、見てわかるほどに破顔すると、嬉々として言葉を続ける。

 

「よし、では人間。わしの掌に刺さっておる杭を抜くがよい」

「え……」

「片方だけでよい。ほれ、はようせんか。元の世界に帰りたくないのか?」

「い、いや――わ、分かったよ」

 

 俺は一瞬躊躇ったが、言われるままに女の左手に刺さっている杭に手をかける。

 氷塊深くまで達しているそれを抜くのは大変な労力を要するかに思われたが、拍子抜けするほどにあっさりと抜けた。

 

「くっ……」

 

 死神が痛みに顔を歪める。

 掌には大穴が空いていたが、不思議なことに血は一切流れ出でていなかった。

 そればかりか、俺がこうして見ている間にも、手に空いた穴が塞がり始めている。

 ……さすが、なんでもありだな。

 

「いやいや、ようやく片手が自由になったわい。礼を言うぞ」

「あ、ああ……」

「それで約束じゃが――むむ? ……人間、あれは?」

「え――」

 

 急に何かに気付いた様子の女は、俺の後方に視線を向けると、続き指を指す。

 つい俺はその指先の方向に頭を向ける――つまり、後ろを振り返る形になる。

 

「――ッ!?」

 

 頭部を鷲掴みにされる感覚に襲われたかと思うと、強引に顔を振り向かせられる。

 そのまま身体ごと凄まじい力で引き寄せられた、次の瞬間。

 

 俺の唇を、やわらかな感触が襲った。

 視界に映るは、宝石の如く輝く緋色の瞳。

 

 数十秒?

 あるいは数秒にすら満たぬ時間だったかもしれない。

 ようやく頭から手が離れ、自由になった俺は、弾かれたように飛び退く。

 尻もちをつき、今起きた出来事が信じられないといった様子の俺を、女は心底愉快そうな表情でもって迎える。

 

「……ふうむ。下界を覗き見た際、男女がこうしておったのを真似てみたのじゃが、どうも彼奴(きゃつ)らと反応が違うのう」

「な、なな……お、おまっ……!」

「――くくっ。しかしそれはそれで愉快な反応じゃの。次に汝が来るまでの間、その顔を思い出して楽しんでおくこととしよう。――ではな、人間。また会おうぞ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二夜

 体がだるい……。

 十分な睡眠時間を得たはずなのに、俺の体はまるで、完徹した後のようにくたびれ果てていた。

 そればかりか、目覚めたばかりだというのに、既に睡魔が襲ってくる始末である。

 

「はぁ……学校休みてえなあ……」

 

 などと口に出してみるものの、両親がそれを許すはずがない。

 仕方なしに俺は眠気を押して起床し、一階で朝食を済ませた後、自室に戻り学校に行く支度をする。

 鞄の中身を確認した際、何か妙な気分になった。

 

 ――はて?

 昨日、何か大事なものを中に入れていたような……?

 というか、昨晩から今までの記憶がさっぱり抜け落ちている。

 こんな若いうちから健忘症など勘弁してくれ。

 

 釈然としない気分で家を出た俺は、その後休みなく襲い来る睡魔と闘いながら一日を過ごした。

 部活ではついに耐え切れず机に突っ伏して寝てしまったが、何故かこの日は鈴埜から非難の声も無かった。

 

 ――そして、夜。

 

 

「おうおう、待ちくたびれたぞ、人間」

 

 ベッドで寝ていた俺は、見覚えのある空間にて目覚めた。

 そしてそのことに思いを巡らせる暇も与えられぬまま、耳に聞き覚えのある声が届く。

 

「えっ……あ、あっーーー!? おっ、お前!!」

 

 眼前に位置する人物は、昨日と全く同じ姿勢のまま、俺に笑顔を向けている。

 俺は驚きのあまり、頓狂な叫びを上げてしまった。

 

「なんじゃなんじゃ、大きな声を出しおって。そう驚くこともあるまい。約束したではないか」

「い、いや、そりゃそうかもしれないけどな……」

 

 まさか二日連続で同じ夢――それも、きっちり続きからとは。

 ……続き?

 

「あっ! そ、そうだ! お前な! なんだ昨日のアレは!」

「はん? あれとは……?」

 

 女は顎先に人差し指を乗せ、考え込む素振りを見せる。

 

「おお、もしや別れ際の挨拶のことかの? なにをそう興奮しておる?」

「何って、おま……」

「くっくっく……随分と初心(うぶ)なのじゃのう、汝は。可愛や、可愛や」

 

 にやにやと笑いながら言う女は、完全におれをからかって楽しんでいる風だ。

 俺は恥ずかしさに耐えきれなくなり、強引に話題を変えんとする。

 

「とっとにかく! こいつは一体どういうことなんだ? 一体何が目的だ」

「何と言われても、言葉通りの意味じゃよ。わしはただ汝と会話を楽しみたい、それだけじゃ」

「……」

 

 俺の疑心に満ちた眼差しを感じ取ったのか、女はさらに言葉を続ける。

 

「――と言われても信じられぬかの。まあ、その気持ちも分からぬでもない。しかしな、数千年以上もずっと眠り続けておったんじゃ。それを貴様が妨げおった。ならば汝よ、汝にはわしに対する責務があるとは思わぬか?」

「……数千年?」

「いや、数万年かの? 正直言って、はっきりと把握してはおらぬ」

「その間、ずっとここに?」

「最初は違ったがの。しかしそれ以降はずっとここで過ごしておるよ」

 

 ……数万年だと?

 この、氷の牢獄に――ずっと?

 いくら架空の登場人物とはいえ、流石に酷過ぎる設定だろう。

 しかもそれが他ならぬ、俺自身が作り出したものとあっては、幾許かの後ろめたさを感じざるを得ない。

 ……どうせ夢なのだ。心に思ったことをそのまま口に出そう。

 

「……おい」

「ん? どうした、神妙な顔付きをしおって」

「残った杭と、その鎌。それも抜いてやろうか?」

「……なに?」

「痛々しくて見ちゃいられないんだよ。そんなんじゃ落ち着いて話なんてできやしねえ」

 

 俺の言葉を聞いた女は目を白黒させ、あからさまに驚いた様子を見せる。

 まさかそんな提案をされるとは思ってもみなかった、とでも言いたげだ。

 ――かと思えば、やにわに顔を伏せると、小さな笑い声を上げる。

 

「くっくっく……やはり汝を選んだのは正解だったようじゃ。――いや、これは最後の最後に、運命とやらが用意してくれた、ささやかな贈り物なのじゃろうな」

「おい?」

 

 何やら独り言を呟き始めた女を訝しんだ俺が声をかけると、女は顔を再び上げ、言った。

 

「杭についての提案は有難く受け入れよう。しかしな、鎌の方はよい」

「よいってお前……それが一番痛そうじゃないか」

「そりゃあ痛いとも。文字通り、身を引き裂かれるようじゃ。しかしの、汝ではこの鎌をどうこうするのは無理なのじゃよ」

「無理って、そんなのやってみないと分からな――」

「証拠を見せよう。汝よ、まずは残った杭を抜いてくれるか?」

 

 言われるまま、とりあえず俺は、残った左手の杭を抜く。

 やはり昨日と同じく、掌に空いた穴は数十秒もすれば元に戻った。

 これならば別に、鎌の方も同じなのではないか?

 

「よし、それではまず、これを見てみるがよい」

 

 両手が自由になった女はそう言うと、おもむろにローブをたくし上げ始めた。

 膝までかかっているローブが捲れてゆくにつれ、まずは脚部分が目に入ってくる。

 もっとも、それまでも膝から下は見えていたので、何かしら脚を覆うものを身に着けていることは伺い知れたのだが。

 膝上までかかる長さの、いわゆるニーハイブーツとか、たしかそんな名前の靴である。

 

 ……しかし、そのブーツが見える部分が終わり、小麦色の地肌が姿を見せ始めたあたりで、俺は嫌な予感に囚われる。

 

「ちょーっと待った!!」

「うん? どうした?」

 

 ローブの端を掴んだままの姿勢で、女はきょとんとした顔で言う。

 俺は、頭に浮かんだ予想が外れていることを願いつつ、言った。

 

「一応聞くがな、お前……そのローブの下、何を着てるんだ?」

「何も着ておらぬよ?」

「やっぱりそうかよ!! そんなことだろうと思ってたよ!!」

 

 天を仰いで叫ぶ俺を尻目に、女は行為の続きを始めようとする。

 

「……? ん、もうよいかの? では――」

「待て! いいから待て!! いい、分かった! 鎌はそのままにする!」

「しかし、汝よ――」

「いいっつってんだろ! いいからさっさと手を放せ!」

 

 何故俺が激高しているかまるで分かっていない風で、女は釈然としない表情で手を下ろす。

 ――こんなのが俺が作り出したものだとは。

 どんだけ欲求不満なんだ、俺。

 

 自己嫌悪に陥りだした俺に、女から声がかかる。

 

「む、そろそろ頃合いじゃの。楽しい時間というのは過ぎるのが早いものじゃ」

「頃合いっ、て――」

「また明日、ということじゃ。……おっと、汝よ、あれを――」

 

 またきた。

 馬鹿め、二日連続で同じ手に引っかかるとでも思ってるのか。

 俺は鼻で笑いながら、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 

「ふっ、もうその手は食わねえよ」

「い、いや、しかしの――」

 

 しつこいやつだ。

 それならこっちにも考えがある。

 俺は一歩退き、女の手が届かない場所まで移動する。

 そうした後に、ゆっくりと後ろを振り向く。

 そしてやはり、何も無かった。

 

「ほーれ、何があるってんだ?」

 

 振り返ればきっと、悔しさに顔を歪めた女の顔があることだろう。

 純情な男子高校生を弄んだ報いだ。

 俺はゆっくりと、その様を確認すべく振り向――

 

 予想していた顔はそこにはなかった。

 何故ならば、女の顔はすべて、ローブによって隠されていたからだ。

 顔の上までたくし上げられた、そのローブの下には当然――

 

 ――くかかっ、今日のわしの楽しみはその顔に決まりじゃな!

 

 薄れゆく意識の中、女の愉悦に満ちた声だけが、高らかに響き渡っていた……

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

虚無の王

「ふっざっけっんなよ、てめぇ!!」

「くかかっ! 今日はまた、昨日にも増して激しいのう! どうしたどうした」

 

 三日目。

 俺はもはや目覚めていきなりの光景に驚くこともなく、出会い頭から自称死神に怒号を上げていた。

 それを受ける死神といえば、からからと笑い、まともに取り合う気など微塵も無さげである。

 

「どうしたじゃねえ! てめえ分かって俺をおちょくってやがるな!? 何のつもりであんな――」

「何をそう激高しておる? これも下界で人間どもの様子を窺っていて知ったことなのじゃがの。下界の男は誰もかれも女の裸体をなんとか見んとして、それはもう滑稽なまでに様々な工夫を凝らしておった。それとも何かの、汝の次元では珍しくも無いのかのう?」

「だから、俺が言ってんのはそういうことじゃ――」

「おお、ではあれか。わしの肢体が気に入らなんだか? ……いや、それはすまぬの。この世界での基準でものを考えてしもうた。汝には見苦しいものに映ったか。彼奴らの物差しからすれば、わしのそれは中々に悪くないものだと思っておったのじゃが」

 

 俺の脳裏に、昨日の記憶がフラッシュバックする。

 既に意識を失いつつあった瞬間であったので、記憶にある映像もボヤけてはいるのだが……。

 下腹部にある鎌のせいで、そこから上までは確認できなかった――いや、別にそれが残念だとか言いたいわけじゃない……本当だぞ?

 ――あの艶のある、肉感的な小麦色の肌は、忘れようったって忘れられない。

 悪くないどころか、それこそ金を払ってでも――じゃない!

 脚を閉じていたため、股の付け根(・・・)までは確認できなかったのがざんね――

 

「――って、ちっがあああう!!」

「まこと、面白い男じゃのう。……おっと、そういえば汝の名を聞いておらなんだの。汝よ、名は何という?」

 

 この状況でそんな話題を出すこいつの精神構造を疑いたくなったが、なんだかこのまま続けていても、俺がダメージを受け続ける羽目にしか(おちい)らなさそうだったので、渋々乗ってやることにする。

 

「……夢野。夢野竜司だ」

「ふむ? 姓はユメノ――でよいのかの。珍妙な名じゃな」

「お前の世界ではそうなのかもな。だけど俺のとこじゃそんな珍しくも無いぞ」

「ふむふむ。では人間よ、もそっと汝が世界のことを話すがよいぞ」

 

 聞くだけ聞いといて、俺を名前で呼ぶことはしないらしい。

 まあ、別にいいけどな。

 

「ところでお前のことは何て呼べばいいんだ」

「ん、わしは既に名乗ったはずじゃが? まさかわしの高貴なる名を忘れたとは言わぬじゃろうの?」

 

 確か――なんとか……サナトラピスだっけか。

 ……うん。

 

「じゃ、ラピスで」

「きっさまー!!」

 

 怒髪天を衝くとはこのこと。

 それまで飄々としていた死神は、目に見えて憤慨し出した。

 

「神たる我が名を略すとは、な、ななな……なんたる不埒! 無作法! なんたる傲慢!! たかが人間の分際で、そのようなことが許されるとでも――」

 

 なんだか急に早口になったな。

 これはいいチャンスかもしれない。

 この、人を舐めくさった態度の自称死神に灸を据えるまたとない機会だ。

 

「ああ、それでな、ラピス。俺の世界では――」

「☆!!%+@ーッ!!!」

 

 狂声を上げるラピスを無視し、俺はなんの面白みも無い、普段の生活について話を続けていく。

 最初のうちは俺の話など耳に入っていない様子だったが、そのうち諦めたのか、黙って俺の話に耳を傾けるようになった。

 随所で相槌なども見せ、割合興味を引かれている様子である。

 その様はあまりにも受け手として理想的であり、話す側としては、もっと話してやりたくなるものだった。

 しかし、平凡な男子高校生にできる話など、多寡が知れている。

 ついに話のタネが付きかけた俺は、そろそろ話を終わらせにかかる。

 

「……とまあ、こんなとこかな」

「え、も、もう終わりか? も、もそっと、もそっと話すがよいぞ? 遠慮するな、ほれ」

 

 主人に餌をねだる犬――。

 仮にも神と名乗る者に対して浮かばせるイメージとしては、あまりといえばあまりなものだが、それが頭に浮かんでしまったのだから仕方がない。

 しかし、いくら異世界の話だとしても、なんの面白みも無い内容だと思うのだが――

 

「――な? な? 汝よ、ほれ、はようせい」

 

 この顔を見ていると、自分の話術がとてつもなく優れているのではと勘違いしそうだ。

 とはいえ、そう急かされてもすぐに話のネタが浮かぶはずもない。

 ならばと俺は、今度は向こうにボールを投げることにした。

 

「俺ばっかじゃなくお前の話も聞かせてくれよ」

「――む? わ、わしか?」

 

 俺の言葉を受け、女は呆けたような表情を作る。

 

「おお。何だっけ、冥府の王様とかなんだろ? そりゃもう俺なんかとは比べものにならないくらい、すっげえ話がいくらでもあるだろ」

「……」

 

 何故か黙り込むラピス。

 

「おい?」

「……そんなもの、ありゃせんわい」

 

 ぶっきらぼうに、吐き捨てるように言う。

 

「おいおい、数万年以上も生きてんだろ? ――あ、いや、ずっとここに居たならまあ、その間のことはいいとしてもだ。それまでにいくらでも――」

「……何も、無いよ。わしは、単なる管理人じゃ」

 

 ラピスは。

 『冥府の王』、サナトラピスは――静かに、語り始めた。

 

「人間。わしがこれまで――それこそ言葉にできぬほどの長き刻――悠久の時を如何に過ごしてきたか、想像できるか?」

「え――そう言われても、な……。まあ、死神っつーんだから、生きてるやつらの魂を刈り取ってたんだろ? それこそ、お前に刺さってるその鎌みたいな……って、おい。まさか――」

「くく、まあその話は後ほどしてやろう。――で、汝が最初に言った方じゃがな、ハズレじゃ」

「ん、じゃあどうしてたんだよ」

「言ったであろう? 何もしておらなんだ、とな」

「何もってこたないだろ。王様って自分で言ってたじゃないか。王なら何か、やることもあんだろ?」

「そうじゃな。わしは冥府の王じゃ」

 

 ラピスは、自虐的な笑みを浮かべる。

 

「誰もおらぬ世界での、ただ一人の王じゃよ」

 

 言葉を失う俺に構わず、ラピスは続ける。

 

「驚いたか? わしは生まれてこの方、他者と関りを持ったことがない。どころか、他者と実際会ったことすらない。争う相手がおらぬのじゃ。王と名乗っても誰も文句などあろうはずがなかろうて。わしはそんな、閉じた世界で――ただ一つのことを、ひたすらこなしておった」

 

 かつての、在りし日を思い出すように。

 死神は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「『穢れ』を浄化すること――と言っても分からぬか。人の魂というものはな、常世での生を重ねるうち、大なり小なり必ず穢れる。肉の衣が朽ち、魂のみとなったものどもは皆、一度わしの元へ至る。わしはな、そのような物言わぬ魂どもの穢れを我がものとし、真っ新となったそれらを輪廻の流れに送り出す――そのようなことを、ひたすら続けておった。それがわしにできる、ただ唯一のことじゃったからな」

 

 一通り説明を終えた後、今度は自身に突き立てられた鎌へと視線を落とす。

 

「察しの通り、この鎌はわしのものじゃ。じゃがな、実際にこの鎌を振るったことなどない。何のためにあるのか、わしすら分からぬよ。……いや、もしかすると、こうすることが唯一の、こやつに与えられた役割なのかも知れぬのう。――くかかっ、これは実に笑える話じゃ。のう?」

 

 死神はそう言って笑いを促すが、とてもそんな気持ちにはなれない。

 さりとて、ただの人間である俺が、一体何を言えばよいのか。

 どう反応すればよいのか。

 俺は、ただの一言も、発することができずにいた。

 

「なんじゃなんじゃ、黙り込みおって。ここは笑うところじゃというのに。……まあ、これまで人を笑わせる機会など無かったからの。人とのやり取りなど、全て下界を覗き込んで見てきたのみに過ぎん」

 

 黙りこくる俺を尻目に、ラピスは一連の話をまとめに入る。

 

「まあ、つまりじゃの。わしは生まれてこの方、食う(・・)ことと盗み見しかしてこなかった。故に、汝を満足させるだけの話題などない。――理解したか?」

 

 言葉を向けられるも、俺は曖昧な返事すら返すことができず、ただ立ち尽くすのみだった。

 ラピスはそんな俺を黙って見ていたが――。

 やがて、諦めたように言った。

 

「……そろそろ、時間じゃの。――人間」

「……そうか」

 

 今さら確認するまでもない。

 時間とは、俺が夢から覚める時が迫っているということ。

 俺はこのとき明日、どうこいつに接するべきか――などと、呑気にも考えていた。

 しかし。

 

「汝との出会いは全くの偶然じゃったが、まこと、楽しい時間であったぞ。しかし、わしの正体を知った今、これ以上つまらぬ神とのお喋りに興じる気にもならぬじゃろう。難儀であったな」

 

 聞き捨てならぬ台詞が発せられる。

 まるで、今日が最後とでも言いたげではないか。

 俺は息巻いて、言葉の真意を問い詰めんとする。

 

「おい、お前――」

「約束は果たされた。これ以上、汝を拘束するのも気が引けるでの。汝を開放してやろうぞ。初めて他者と関わることができて、わしも満足じゃ。思い残すことも……ない」

 

 ――嘘だ。

 満足だというなら、何故――そんな顔をする?

 自分で自分が今、どんな顔をしているか、こいつは分かっているのだろうか?

 こんなもの、子供だって騙されやしない。

 俺はラピスの顔を見つめたまま、ふうと一つ、溜息を吐き。

 それ(・・)を言う覚悟を、決めた。

 

「……ま、時間だってなら仕方ないか。おい、それなら早くしろよ」

「……うむ。では――」

「おうそうだ。明日までには何か面白い話の一つも思い出してきてやるからよ。お前もんなこと言わないで、頑張って捻りだしとけよ」

「――はっ?」

 

 それまでずっと顔を伏せがちなままであった死神の頭が、ぴんと跳ねる。

 俺はそのことには触れず、いっそわざとらしいほど、普段通りの調子で続ける。

 

「下界の様子をずっと盗み見てやがったんだろ? なら下世話な話の一つや二つ、あんだろ」

「お、おい、貴様、何を言って――」

「勝手に決めんなよ。神様との話なんて、そうそうできるもんじゃない。それに、生憎俺はまだ全然飽きてねえ。それともなにか、下等な人間とのお喋りなんぞもうお断りか?」

「なっ、ばっ、そんなわけが――」

「だろ? まあ、だから、その、だからな……」

 

 くそっ。

 最後まで調子を崩すまいと決めたというのに。

 自分の言っている台詞が、何故だかとてつもなく恥ずかしいもののように思え、つい奥歯に何か物が挟まったような物言いになってしまう。

 がしかし、ここまで言ってしまった以上、撤回はできない。

 俺は死神の目を見つめ、言うと決めた――あの台詞を、言う。

 

「――また、明日だ。ラピス」

「……」

 

 ラピスは何度も瞬きをしながら、じっと俺の目を見つめ返し続ける。

 やがて二、三回ほど頭を振り、様々に表情を変えた後、ようやくいつもの雰囲気に戻った死神は破顔し、ことさら大上段に構える。 

 

「し、仕方がないのう! そこまで言われては、わしも神のはしくれ、人間の切なる願いをそう無碍にも出来ぬわ! ふふん、待っておれ、とっておきの話を披露してやろうぞ!」

 

 そうとも。

 こいつは、この調子じゃないとな。

 

「ああ、楽しみだ。――じゃ、時間なんだろ?」

 

 俺も、笑顔を返す。

 

「ああ、またの。……そう。また――」

 

 ……今までと同じように、急激に意識が薄れてゆく。

 今回、その中で最後に映りしものは。

 死神の笑顔と、(こと)の葉。

 

『――また、明日じゃ――』

 

『――リュウジ。』

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢の終わり

 その後。

 俺のことを名前で呼び始めたラピスと、ほぼ毎日――というか、本当に毎晩会い続け、様々な話をした。

 興味深かったのは、やはり互いの世界の違いについての話題だろう。

 話を聞くに、ラピスが『見てきた』世界は、丁度俺たちが想像するところの中世ファンタジーに似ているようだ。

 いわゆる、剣と魔法の世界というやつだな。

 ラピスの方も俺の世界の話に夢中――まあ、どんな話であっても食いついてくるのだが――で聞き入り、特に食事関連についてはいやに食いつきがよかった。

 

「いいのう……わしも一度は汝の次元における食物を口にしてみたいものじゃ。こちらではロクなものがないでのう」

「その口ぶり……お前、下界に行けるのか? んなに寂しかったなら適当にその辺の人間と喋れば――」

「いいや、実際に降りることはできん。直接口にせずとも、見るだけで通り一遍の情報を得ることはできるでな。これが死神の目というやつじゃ。凄いじゃろ?」

「そんな御大層な能力を、食いモンにしか使ってこなかったってのが何より驚きだよ」

 

 ――とまあ、こんな感じで、俺たちはとりとめのない話をひたすら続けていた。

 その間、ラピスの腹には例の鎌が埋まったままで、何度か抜くことを俺は提案し続けたが、その度に固辞されていた。

 あの杭のことを思うに、そんなに無茶な話じゃないと思うんだがな……

 

「――ん、ん……そろそろか」

「なに、もうか?」

 

 こいつと会い続けて、そろそろ一週間になる。

 眠気が襲ってくるのは、現実世界で俺が起床するというサインだ。

 最初こそラピスに知らせてもらっていたが、緊張が解けたおかげか、最近は俺の方から口にするようになってきていた。

 

「ふわあ……しっかし、寝たと思った瞬間に目が覚めるってのも妙な話だよな」

「リュウジ……も、もう少しよいのではないか?」

「ん……いや、別に急がなくてもいいだろ。また明日だ、また明日」

「そ、そうじゃな……。また、明日じゃ」

 

 また明日、というのは俺たちの中で別れ際に言う決まり文句になっていた。

 言うのは決まって俺から。

 この台詞を言うだけで、何がそんなに嬉しいのか、ラピスはまるで子供のような屈託のない笑顔になる。

 その様は、まるで散歩前の犬か何かのようだった。

 

 しかし、ここ数日はその笑顔にも陰りが見えてきていた。

 その原因が何なのか、俺には全く心当たりがないだが、恐らく気のせいではない。

 ……そういえば、日が経つにつれ、この夢の中で過ごせる時間が減ってきているような。

 ――関係があるのか分からないが、合わせてそのうち聞いてみよう……

 

 ………

 ……

 …

 

 それは、十五日目のことだった。

 いつものように夢の中で目が覚めた俺はすぐに、違和感に気付く。

 ラピスからの声がない。

 普段ならば、俺が声をかけるより先に喜色溢れる挨拶を飛ばしてくるはずだというのに。

 訝しげにラピスがいる氷塊に目を向ければ、なにやら塞ぎ込んだような表情をしている彼女の姿があった。

 

「よう、ラピス。なんだ、寝てたのか?」

「……」

 

 俺はあえて、普段より声量を強めて言う――が。

 ラピスは目線を伏せたまま、何をも発そうとはしない。

 

「おい。何か言――ん……あれ……おかしいな、まだ……」

 

 おかしい。

 ここに来たばかりだというのに、既に眠い。

 いや――実のところ、十日目あたりからその兆候はあった。

 睡魔が襲ってくるタイミングが日が経つにつれ、段々と早まっていることに気付いたのが、丁度そのあたりだった気がする。

 日に日に短くなる会話に、ラピスが明らかに気落ちしていたことが申し訳なかったが、自分でもどうしようもない。

 昨日などは、ラピスに悟られないよう随分無理をして話をしていた。

 ……もっとも、こいつがそんな俺の違和感に気付いていなかったかは怪しいものだが。

 

「……限界、じゃの」

 

 目を伏せたまま、ラピスは一言漏らす。

 

「限界? どういう――」

「リュウジ。汝は思い違いをしておる」

 

 言って――今日ここで初めて、彼女は俺の目を見た。

 その目には、何か覚悟を決めたような色がある。

 

「わしの前に現れた時から今までずっと、汝は夢がどうこうと、そう言い続けておったな」

「ん――いや、まあ……」

「わしとしては、その方が余計な説明もせずに済みそうじゃったしの。それに、ここまで長期間に渡るとも思わなんだ。よってつい後回しにしてしもうたがの……そろそろ汝の勘違いを正すべきじゃろう」

 

 俺の目をしかと見つめたまま、ラピスは告げる。

 

「リュウジ。これは夢などではない。れっきとした現実じゃ」

「……」

「汝の意識が今朦朧としておるのもな、話は簡単じゃ。汝はこの十五日間、殆ど寝ておらぬのじゃ。それも当然のことよ」

「い、いや、でもな……」

「おかしいとは思わなんだか? いくらなんでも、ここまで現実味があり、その上連日同じ夢を見続けるなど、あろうはずがなかろう」

 

 薄々分かってはいた。

 だが、俺は今に至るまで、そのことを口に出せなかっただけなのだ。

 もしひとたび口にしてしまえば、全てが壊れてしまうような気がしていたから。

 

「このままでは汝の体が壊れてしまう。……じゃからな、リュウジ」

 

 一呼吸おいて。

 静かに、ラピスは宣言した。

 

「――今度こそ、お別れじゃ」

 

 俺はその言葉を聞いた瞬間、殆ど半狂乱になって喚き散らす。

 これが夢かどうかなど、もはや問題ではない。

 

 ――こいつと、もう会えない?

 

「ばっ、馬鹿野郎! 結論を急ぐんじゃねえ! なら、ここに来るのは数日おきとかにすれば――」

「それができれば良かったのじゃがな。……なに、そうでなくとも、ここらが潮時ではあったのじゃ。汝にかけられている呪いじゃがな、命に関わる様なものではないが、そろそろ解呪しておかねばまずい。無理やりわしの力を追加したせいで、この先どう変化するかわしにも想像がつかぬでな」

「おい、ちゃんと説明を――」

「呪いを施したのが誰ぞか知らぬが、そやつには感謝せねばの。……では、解くとしよう」

 

 ラピスは片手を上げると、一つ指を鳴らす。

 するとたちまち、今まで感じ続けていた胸の違和感が、綺麗さっぱり取り去られた。

 

「これでわしとの繋がり(リンク)は断ち切られた。――さて、リュウジ。今日は何の話をしようかの? 眠いじゃろうが、まあこれが最後じゃと思うて我慢してくれ」

 

 ラピスは。

 見るに堪えぬほどの笑顔でもって、そう言ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さよならは二度と

 俺はなんとかラピスを思い止まらせようと、何か妙案がないかと考えを巡らせたが。

 言うまでもなく、そんな案などすぐに思いつくはずもなかった。

 そうでなくとも――ラピスの達観したような笑顔。

 この前のそれとは明らかに違う。

 止むを得ず――といった表情をしていたあの時とは違い、どうにもならぬことを素直に受け入れ、穏やかに最後の時を迎えようとしている彼女を見ていると、こうして無駄に思考の堂々巡りをさせていることが、とてつもなく不誠実なことのように思えた。

 俺は――未だ納得はせずとも、とりあえずは彼女の提案に乗ることにした。

 

「……これが最後だってなら、今まで聞けなかったこと聞いてもいいか」

「うむうむ。勿論じゃとも。なんじゃリュウジ、今まで何か遠慮しておったのか? まったく水臭いやつめ、そんな気遣いは無用じゃ」

「……お前、この先どうするつもりなんだ」

「どうもせぬよ。このままただ朽ちてゆくのみじゃ」

 

 なんでもないことのように言い放つラピス。

 だが当然、俺はそういうわけにはいかない。

 

「それでいいのか? ……お前、寂しかったっつってただろ。何万年も生きてきて、やっと話せたのが俺だけって、んなこと――」

「満足じゃよ。何も思い残すことなどない」

 

 いっそ清々しいほどに。

 はっきりと、そう言い切る。

 

「この十五日間――そう、たったの十五日間。汝にとっては取るに足らぬ、時が経てば忘れてしまうようなものであろうが……わしにとっては、至福の――そう、甘露を飲むようであった。まさにこの時のためだけに、わしは存在していたのやも知れぬとまで思うた。そう考えれば、あの冥府での無為極まる時間も、ここに幽閉されてからの長き刻も――それが汝との出会いのための必要経費であったのなら――」

 

 ラピスは、それまで見てきた中で、一番の笑顔になり――言った。

 

「――まったく惜しかったとは思わぬぞ?」

 

 その瞬間。

 俺の中で、何かが壊れた。

 感情の爆発するままに、狂乱したかの如く叫び散らす。

 

「ふざっけんな! 数千――数万年だ!? そんだけの支払いの対価が、俺みたいなただの人間との会話――それも数日間だ! たった数日! 割に合うわけがねえ! お前は――」

「いいやリュウジ。汝はただの人間などではないよ」

「そんっ――」

「まあ聞け。……そうじゃな、最後ならば話してもよかろう。わしが捕らえられし際のことじゃ」

 

 それこそは、俺もラピスも、互いに避け続けてきた話題であった。

 

「実はな、わしは汝に対し、ひとつ嘘をついた。人と会ったのは汝が初めてではない。そう――あの日。わしを捕らえようとやってきた者ども。……わしはあの時、初めて人というものと対峙した」

 

 嘘をついたことなど、何の問題もない。

 しかし果たして、何故そうする必要があったのか?

 答えは、続くラピスの言葉で明らかになる。

 

「これは笑い話なのじゃがな? わしはな、その時――なにゆえ冥府に他者、それも人間などが入り込めたのか、などとは全く頭に上らなんだ。わしは愚かにも、やっと他人と話すことができるのではという期待に胸を膨らませておったのじゃ。――しかし、な。リュウジ」

 

 自虐的な笑みを浮かべたラピスは、今にも泣きだしそうな顔になり、言う。

 

「何を言うべきか迷っておるわしに対し、奴らがまず行ったことはな……わしの体に剣を突き立てることじゃった。……いや、あれは痛かった。初めて身体を傷つけられたこともそうじゃが、それ以上に……わしの心は深い絶望に飲まれたよ。こんな……これが、こんなものが、長きに渡る地獄のような日々の、返礼なのかとな……!」

 

 ――その声は、僅かに震えていた。

 

「――お前は死神だろうが! んな奴ら、それこそブッ殺しちまえば――」

「……いやいや、そこもまた笑えるところなのじゃよ。わしもその時初めて自覚したのじゃがな。わしら超常の者どもというのはな、どうやら人に対し直接危害を加えることができぬらしいぞ」

「そん、な……んな、馬鹿なこと……」

「まあ、考えてみれば当たり前のことなのかも知れぬの。ほれ、考えてもみよ。わしのような全能の力を持った神が、ふとした気まぐれで人間を滅ぼそう、などとひとたび思い至れば、人の世などひとたまりもないわ。恐らく、そうした事態を事前に防ぐための安全装置なのじゃろうな。いやいや、創造主というのは実によく考えておるものじゃと感心したわ」

 

 まるで他人事のように話すラピスだが、その時の彼女の失望、悄然は如何ほどのものだったか。

 それは想像を絶するものであったろう。

 

「捕らえられた後は、それはもう凄まじかったぞ? 一体何度身体を切り刻まれ、擦り潰され(・・・・・)たことか。しかしまあ、どれほどわしを殺しつくそうとも、完全に息の根を止めることは適わぬと、いつしか彼奴等も理解したようでな。腹に鎌を叩き込んで逃げられぬようにし、その後は――ほれ、これこの通りじゃ。わしに残された時は、長くて後数百年といったところじゃろう」

 

 己が下腹部に視線を落としたのち、再度俺に視線を送るラピス。

 

「……わしに敵意の視線を向けず、ぬくもりをもって接してくれたのはな、リュウジ。汝が最初で最後じゃ。そればかりか、汝は己の体が既に悲鳴を上げておることを隠してまで、他人を思いやれる人間じゃ。……誇るがよいぞ。この冥府の王が保証する。汝はただの人間などではない。――世界一、優しい男よ」

 

 このとき、果たして俺がどんな顔をしていたか。

 

「――そうじゃ。そんな王のお墨付きの優しい人間に、最後に頼みがあるのじゃが、聞いてくれるか?」

 

 俺は、一言も言葉を発することができずにいた。

 それは、何をかひとたび口にすれば、その瞬間、目から溢れ(いで)るものを制御できぬと理解せしゆえ。

 そんな俺に構わず、ラピスは最後となる『お願い』を――言った。

 

「リュウジ。……最後にわしを、抱きしめてくれぬか? ――それでわしは、残された時を、幸福に包まれたまま――夢見心地で、逝くことができる」

 

 この言葉が、最後の引き金となった。

 

「断る」

「――えっ……」

 

 まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。

 呆けたような顔をするラピスのすぐそばまで俺は近づき――そして、爆発した。

 

「冗談じゃねえぞ、この――くそバカ! 冗談じゃねえ、ああ、冗談じゃねえ! これで終わりなんて誰が認めるかよ!!」

 

 ラピスは狂ったように腕を振り、がなる俺のあまりの豹変ぶりに脅えたような表情を見せるも、俺は全くそれを意に介することなく、思いのまま次の行動に出る。

 

「こいつを引っこ抜きゃ逃げられるんだろうが! なら――ぐっ!?」

「――ばっ、馬鹿者!!」

 

 俺がとった行動とは、ラピスをここに縛り付け続けている、その元凶。

 あの忌まわしい鎌を引き抜くことだった。

 ――が、両手の杭の時とは明らかにその様相が異なる。

 手に持った瞬間、まず俺を襲ったのは、強い虚脱感。

 そして、続けざまに全身が凄まじい痛みに見舞われた。

 身体だけでなく、精神までも侵すような、想像を絶する苦痛が俺を襲う。

 

「お、愚か者が! その鎌に触れればたちまち精気を吸われ――いや! 汝のようなただの人間など、たちどころに存在ごと消滅してしまう! 早く離さぬか!!」

「い……嫌だねっ……それ……だけは聞け……ねえよ……! それに……死神様のお墨付きだからな……俺は、ただの人間じゃ……ねえんだろっ! ――ならっ!」

 

 ……はっ。

 ――これしきの痛みが何だと?

 今までのこいつの境遇を思えば――所詮一時のこと。

 苦痛と呼ぶことすらおこがましい。

 

「阿呆っ! 馬鹿な真似はよさぬか! このわしを――汝まで絶望に叩き落そうてか!?」

 

 ついに俺を止めんとするラピスは、涙まで流し始めた。

 ……ああ、泣けよ。

 ――でもな、その顔を見るのも今回きりだ。

 

「はっ……! いいや……最後なんて言わせねえ……!」

 

 僅かに、手に感じる引っかかり(・・・・・)が軽くなる。

 

「なあ、ラピス……こん、な……クソ世界なんぞ……捨てちまえ……よ! 俺はもう……決めたぞ!」

「何を――何をじゃ!」

 

 俺の叫びと、鎌がラピスから離れたのは――ほぼ同時だった。

 

「……お前を……連れて帰る! 俺の世界にな!!」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

来たる嵐

 安堵から。

 そして極度の疲労から――全身から力が抜けた俺は、そのまま後ろに倒れ込む。

 

「――リュウジ! リュウジーッ!」

 

 薄ぼけた意識の中で、ラピスが叫ぶ声が聞こえる。

 ――やっと自由になれたんだ。

 これで――。

 

 安心し、意識を深く沈ませんとした、その矢先。

 

 バッチイィィィーーーッ!!

 

 頬を、凄まじい衝撃と痛みが襲った。

 俺は吃驚して跳ね起き、その犯人へ怒号を上げる。

 

「いってええええっ! なにすんだてめぇ!」

 

 平手の下手人は言うまでもなく、この女である。

 

「やかましいわ! 貴様、ここまでしておきながら……このまま気を失うなど許さぬ! 絶対に許さぬからな!」

 

 ラピスは俺の剣幕を上回る勢いで叫び散らした後、両の手で顔を覆い隠した。

 

「阿呆が……まこと、汝は阿呆じゃ……! わしの気も知らず、こんなことを……」

「……いいじゃねえか。こうして一応無事だったんだから。――な、許してくれよ」

「いいや、絶対に許さん」

 

 顔から手を離したラピスは、据わった目でもって言う。

 

「今日汝がここに来るまで、わしがどれほど迷い、葛藤したか……汝との別れを決意することが、わしにとりどれほど苦渋の選択であったか、汝は知るまい。……わしはな、汝と離れ、また一人きりに戻るくらいなら――いっそ汝を殺し、共に死んでやろうかとすら、一時は本気で思うたのじゃぞ?」

「……冗談、だろ?」

「冗談じゃと思うか? ん?」

 

 にっこりと笑顔を張り付けたラピスのそれは、言いようのない凄みを感じさせるものだった。

 俺は、恐ろしくてそれ以上の追及ができなくなってしまった。

 

「本気も本気じゃ。――リュウジ。そんなわしの覚悟を、貴様は踏み躙ったのじゃ。覚悟は出来ておるじゃろうな? ……絶対に逃がさぬ。二度と離すものか。もう遅いからな。手遅れじゃ。今になって気変わりしたなどと抜かしたら、わしは今度こそ汝をどうするか分からぬぞ? くっく……今後、例え仮に世界を敵に回すことになろうとも、絶対に貴様を離さぬからな。……く……くく……ふふうふふふ……」

「……」

 

 ――失策であったかもしれない。

 とても言葉にできない、異様な笑顔を張り付け……不気味な笑い声を上げ続ける死神を前に、俺の脳内には今頃になって『後悔』という言葉がよぎった。

 

「とはいえ、じゃ」

「――おおっ!?」

 

 ラピスは座り込むと、俺の頭を持ち上げる。

 

「自らの命を顧みずわしを助けようとした大馬鹿者をまずは労わってやらねばの?」

 

 あっという間に膝枕の形にされた俺は、恥ずかしさもありどうすれば良いかわからず、ただされるままになってしまった。

 そして。

 

「……ほんに、大馬鹿者よ。貴様は」

 

 ラピスは、手袋越しに俺の頬を撫でる。

 ヴェルヴェットのような、滑らかな感触が肌に心地よい。

 俺は、視界の半分ほどに映るラピスの顔を見上げる。

 

「――ま、確かにすげえ痛かったし、疲れたけどな。そこまで言うほどか?」

「だから汝は阿呆じゃと言うておる。本来ならばな、汝は鎌に触れた瞬間、塩の柱となって砕け散るところであったのじゃぞ」

「おいおい、物騒だな。てことはアレか? マジで俺は特別な――」

「図に乗るでない。愚か者」

 

 ぴしりと、指先で額を弾かれる。

 

「恐らくはな、長きに渡りわしの力を吸い続けておったおかげで、あの鎌は言わば、第二のわしとも言うべき存在と化しておるのじゃろう。汝を死なせたくないというわしの意思が、鎌の力を抑制したと考えるほかあるまいな」

「……そりゃ、運がよかったな。……悪かったよ。確かに考え無しだった」

 

 ……確かに、ラピスの言う通りであったとすれば、俺はとんでもない間違いを犯すところだった。

 この上更に、彼女を悲しませる羽目になるところであったのだ。

 

「……ふん、もうよいわ。――それに、わしがこの上なく汝に感謝しておるのも事実じゃ。……のう、リュウジ。そんな命を賭した功労に対し、わしは何を汝に返してやればよい?」

「……俺が勝手にやったことだ。そんな――」

「いいや、それではわしの気が済まぬ。神たるものが、人間に命を救われるなど。しかもその恩に報いぬなどと、神の名折れもいいところじゃ。……そこでじゃ、リュウジ。何か一つ願いを言え。何でも一つ、汝の願いを叶えてやろう」

 

 まるでどこぞのランプの魔人のようなことを言い出すラピス。

 

「……そんなこと、急に言われてもな……」

「すぐには思いつかぬか? なれば、わしのお勧めを聞くか?」

「おう、何だ?」

 

 ラピスは、俺のこの言葉を待ってましたとばかりな笑顔になり、言う。

 

「くっくっく……わしが貴様ならな。その一つの願いで、『願いを無限にせよ』と言うじゃろうな」

「……悪魔か、お前」

「馬鹿者、わしは神じゃ。……どうじゃ、リュウジ。言っておくが、わしは断らぬよ? 汝を手放すくらいなら、わしは何でもやるし、何にでもなってやる。それこそ――汝の奴隷になれ、と言われようとな」

「――ッ」

 

 ――しまった。

 分かりやすすぎるほどに動揺してしまった。

 益々ラピスの笑顔が深くなる。

 

「おっ、反応したな? 膝から汝の動揺が伝わってくるぞ」

「ばっ、馬鹿野郎、ど、奴隷って――」

「わしを奴隷にすれば、何でも思うがままじゃぞ? こんな機会は二度とないと思うがの――おお、そうじゃ。汝はわしの肢体に興味津々であったよの? 人間の男というのはこれ(・・)も好きなのじゃろ? 第一の願いは、これで如何か?」

 

 そう言うと、ラピスはローブ越しに、胸にある二房の膨らみを持ち上げてみせる。

 あまりにも巨大なそれは、寄せ上げるとそれはもう、とてつもない迫力だった。

 そもそも俺の視界が半分隠れているのも、それが邪魔をしていたからなのだ。

 ゆったりとしたローブ越しにすらはっきり分かるとは、一体どれほど非常識な大きさなのか?

 

「ちなみに言うておくが、わしは幾度となく人間どもによって殺され続けてきたがな、汚され(・・・)はしておらん。何度かそうされそうにはなったがの、わしに直接触れればその汚いナニが腐り落ちるぞと言うたら……くかかっ、あの腰抜けどもめ、一切の気を無くしてしもうたわ」

 

 何か頭上で言っているが、俺はもうそれどころではない。

 目の前の光景は、男にとってあまりに目の毒であった。

 しかもこの時の俺は疲労困憊かつ、意識も万全とは言えぬ状態であり、己が目の前にぶら下げられたものに抗うだけの気力も、正常な判断力すら低下していたのだ……。

 

「ほれほれ、わしの気が変わる前に早うしたほうがいいのではないか~?」

「ぐ……! ぐぐ……!」

 

 心の中の俺が警報を鳴らしている。

 それに触れれば、大事な何かを失うぞ――と。

 もしひとたび触れてしまえば、この死神は次に何を仕出かすか分からない。

 いや。まず間違いなく、男にとって大切な『何か』を失う結果になる。

 

 だがしかし、悲しいかな――そんな心の声とは裏腹に、手の動きは止まることはなかった。

 禁断の果実に指先が触れようとした、その時。

 

「おっとそうじゃ」

「おおっ!?」

 

 やにわにラピスは立ち上がり、俺は間抜けな格好でもんどり打つ羽目になる。

 

「こんなことをしておる場合ではなかったわい。早うここから立ち去らねばの――ん、どうした?」

「……悪魔……! この、悪魔め……!」

 

 ――泣きたい。

 三度。三度も、この女にしてやられた。

 分かっていたはずなのに……!

 

「くかかっ! なーに、そう慌てずとも、汝の世界に行った後に好きなだけ続きをさせてやるわい。それにな、実際のところ、一刻も早うせぬとまずいことになるでな」

 

 悔しさに身を捩る俺を見下ろすラピスから声がかかる。

 

「……まずいこと?」

「わしが自由の身になったこと、もし彼奴等に知られるところとなれば、ただではすまん。言うたように、わしは彼奴等に対処する術も持たぬしの。見つかれば一巻の終わり、元の木阿弥じゃ」

 

 確かに、それは非常にまずいことになる。

 もし武器やらを手にした者たちと対峙することとなれば、ラピスが頼れぬ以上、ただの人間である俺に抗する術があるはずもない。

 

「流石にまだ気づかれてはおらぬじゃろう。――リュウジ、行くぞ」

 

 言うと、目の前の何もない空間に『扉』が出現した。

 何らかの木材で作られ、更に多種多様な骨らしきもので飾られている、悪趣味な扉だ。

 恐ろしいことに、その中には人の頭蓋骨らしきものもあった。

 

「立てるか? 次元移動はすぐに済む。この扉をくぐれば即座に汝の世界にまで繋がるでな。しかし、汝の意識がはっきりしておらねば、移動先の座標を固定することができん。下手をすれば二人して次元の狭間に幽閉されることになるぞ」

「そりゃ、ぞっとしない話だな……。分かった」

 

 この不気味な扉をくぐることに一抹の不安が無いこともなかったが、まさかこの期に及んでラピスが俺を騙すようなことはしないだろう。

 俺はふらつく足を押して立ち上がり、ラピスの横に立つ。

 

「よし、それでは――」

 

 ラピスの手が扉に伸びる。

 

「――ッ!?」

 

 ――彼女がノブに手をかけようとした瞬間。

 彼女の手目掛け、上から『何か』が降ってきた。

 勢いままに地面の氷に突き刺さったものを確認すれば――それは、一振りの剣であった。

 白い柄には様々な装飾が(しつら)えられ、とてつもなく高価そうな代物だ。

 俺は、何ごとが起こったのか全く分からず、横のラピスをちらと見る。

 ……彼女の表情は、明らかに狼狽の呈を見せていた。

 

 そして、更に。

 俺が声を発するより先に、洞穴内に響く声。

 

『あれあれあれ~? サナトラピスちゃん、なーんで自由になってるのかナ~?』

 

 俺たちが同時に振り向けば、そこには――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

冒涜せし者、昇華せし者

 俺たちの視界の先には、一体いつ出現したのか、十数人もの人の姿があった。

 男たちは皆、全く同じ衣装に身を包み、顔は全て、これまた同じ仮面を被り隠している。

 そして、それら男たちの集団より一歩前に佇む人物――ただ一人の、その女は。

 明らかに、他者と一線を画していた。

 

 女の姿を一言で例えるならば、『天使』という言葉が相応しいだろう。

 薄い青を帯びた銀の頭髪をツインテールにしている、その部分だけを取れば、俺と同じくらいの年の少女に見えなくもない。

 だがしかし、白を基調とした衣服に身を包んだその女の背には、目に痛いほどの純白の翼が――翻っていたのである。

 更には、女の周囲――如何なる力によるものか、空中で静止している六本の剣が。

 ただの(・・・)人ではないことを、容易に理解させしめていた。

 

 しかし――何故(なにゆえ)か?

 神々しいはずのその姿が、こと俺にとり――とてつもなくおぞましいものに映るのは。

 

 女は、飄々とした態度でもって、言葉を発した。

 

「おひさしぶり、サナトラピスちゃんっ☆ 元気にしてたかナ?」

 

 わざとらしいほどに明るく、溌溂(はつらつ)な少女然とした声である。

 ラピスからの返答はない。

 俺が彼女の様子を窺えば――ラピスは、見て分かるほどに脅えていた。

 

「何万年ぶりだろうね? ずっと遊んであげたかったんだケド、ほら、わたしも色々忙しかったしさ☆ 寂しかったよねぇ~、ごめんね~?」

「……誰が、貴様などを待っておったものか」

 

 脅えを隠しきれずとも、気丈にラピスは言い放つ。

 がしかし、そのような虚勢は、対面の女にはまるで効果がなかったようだ。

 にやにやとした笑顔を張り付けながら、͡小馬鹿にしたような態度を崩そうともしない。

 

「ん~? なになに、よく聞こえなかったナ~? サナトラピスちゃん、わたしに――エデンちゃんに、いつからそんなおクチ、聞けるようになったのかな? あっ、なるほど! わたしにまた遊んで(・・・)もらえるの、待ちきれないってことだねっ☆」

「……ッ!」

 

 ラピスの顔面が蒼白に変わる。

 それでなくとも、この女――エデンというらしいこの女の、酷薄な笑顔を見れば、とても言葉通りの意味だとは到底思えなかった。

 

「ところでさ、そこの人間クン」

 

 女の視線が俺に向く。

 

「もしかして、あなたがこのコを解放したのかな? ってことは、わたしと同じ?」

「ふざけるな! こやつは――こやつを、貴様などと一緒にするでない!!」

 

 俺が答えるより先に横から割って入ったラピスの態度は、不運にも女の気分を僅かに害したようで、やや方眉を吊り上げると、声の調子を落とす。

 

「……ふぅん……随分とそのコの前では威勢がいいね? ――ねぇね人間くん。面白いお話、してあげよっか」

 

 ――かと思えば、またも口角の端を上げ、先ほどよりもさらに下卑た笑みを形作る。

 

「わたしがサナトラピスちゃんと初めて会った時のことなんだけどね――」

「だっ、黙れ! それは――」

「あっ、サナトラピスちゃんは静かにしといてね。そうしないと、そのコすぐ殺しちゃうからね」

「……!」

 

 わざとらしく片目を瞑りながら物騒な台詞を語るその姿は、いっそ冗談にも聞こえるものであったが、それが冗談などではないことは、ラピスの態度を見れば明らかである。

 

 ――そして同時に、この時、俺にはある予感があった。

 こいつは、この女は――この後、俺を間違いなく――殺す。

 確信に近いものがあった。

 

「懐かしいなぁ~、サナトラピスちゃんと初めて会った時のこと☆ 人間くん、初対面でこのコ、私たちになんて言ったと思う? サナトラピスちゃんは覚えてる? 私はしっかり覚えてるよ! 『よく来たな人間ども! わしこそは冥府の王にして至高の神、タヒニスツァル=モルステン=サナトラピスである』っ! だったよね!」

 

 ラピスが言っていた、侵入者とはこの女のことだったのか。

 だとすれば……

 

「その時のサナトラピスちゃんがあんまり偉そうだったもんだからさ、わたしちょっとカチンときちゃってね~。まだ何か言いたそうなサナトラピスちゃんのお腹に、剣を一本叩き込んであげたんだっ☆ きゃははっ、あの時のサナトラピスちゃんの顔ったら、今思い出しても笑えるよぉ~!」

「……」

 

 ラピスは……血が滲みそうなほど拳を握り締め、歯を食いしばり……侮蔑と嘲笑に満ちた女の言葉を、ただ耐えている。

 俺は、臓腑の奥より生ずる熱を必死に押し留めていた。

 ひとたび口を開けば――俺は恐らく、自分を制し切れない。

 それがどんな結果を招こうとも。

 

「ね、ね? 面白いでしょ? しかもね、連れて帰った後はわたしが暫く遊んであげてたんだけどっ! サナトラピスちゃんたら、ちょっと肌を切られただけでもう、赤ちゃんみたいに泣き叫んじゃって! 情けないよね! 偉い王様なのにさ! あははははっ!」

 

 ――自分を……制し――

 

「でもねー、あんまりやりすぎちゃってさ、最後の方はもう、全然反応してくれなくなっちゃってぇ。殺し尽くすのにもまだまだかかりそうだったし、わたしも飽きちゃったからさ、ここでゆっくり弱っていくのを待つことにしたのね。――でもでもっ! そろそろいい時期だしっ! これからはまた一緒に――」

「――やめろ!」

 

 自制を求める心の声を無視し、俺は叫び――

 そして、不快な口上を並べ立てる女に向かい、続けた。

 

「それ以上、口を開くんじゃねえ。何も喋るな」

 

 俺は怒りに満ちた目でもって睨めつけるが、女はまるで気にしない風で――いや、むしろ興味を無くしたように。

 笑顔を消し、言った。

 

「生意気ぃ~。……んじゃ、もういいや。色々聞こうと思ってたけどさ、面倒くさいしね☆ 死んじゃって☆」

 

 ……やはり、悪手であった。

 言うや、女の後方に位置する剣の一本が、俺に向かい一直線に奔り来る。

 そのスピードは、人間の反射神経を遥かに凌駕していた。

 真っ直ぐに奔るそれは、次の瞬間にも俺の胸を刺し貫くだろう。

 

「リュウッ――ぐっ!」

 

 ――が。

 すんでのところで腕を伸ばし、俺の代わりに剣の一撃を受けたラピスにより、俺は一命をとりとめた。

 彼女の二の腕に刺さる剣は、柄にかかる部分にまで深く刺し貫いている。

 しかもその傷は、杭の時のように癒える様子が見えない。

 俺は慌てて、たたらを踏むラピスの背を支える。

 

「――ラピスッ! おいっ!」

「へぇ~……そこまで大事な人間なんだ?」

「――ぐっ……くっ……!」

 

 苦しげに喘ぐラピスを、それまでとは違う、妙な目でもって眺める女は、何をかを思いついた様子である。

 

「なんだか妬けちゃうなぁ。――あっ!」

 

 女の、おぞましい笑顔が復活する。

 

「じゃあさ! サナトラピスちゃんが寂しくないように、そのコも一緒に遊んであげよっか! ただの人間じゃないなら、けっこう()つはずだよね!」

 

 この言葉を聞いた瞬間、ラピスはそれまでにないほど取り乱し、必死の懇願を始めた。

 

「まっ……待て!! それは、それだけは――」

「でもさぁ、どっちかだよ? ここで死ぬか、後で死ぬか。どっちがいいの? サナトラピスちゃんに決めさせてあげる☆」

 

 慈悲を乞うことは無意味。

 それはラピスだけでなく、事ここに至っては俺ですら、即座に理解していた。

 この女は――狂っている。

 まともな話し合いなど、到底通じる相手ではない。

 暫しの沈黙の後、ラピスが再び口を開く。

 

「……この人間を助ける代わりに――貴様があの時、ずっと言っておったこと。わしの力を、貴様に授けるというのは、どうじゃ」

 

 女はわざとらしく手を上げ、吃驚したようなポーズをとってみせる。

 

「ええ~っ! びっくり! あれだけ嫌がってたのに……。どれだけ死んでも、それだけはぁ~っ! って言ってたのに、いいの、サナトラピスちゃん? 確かにさ、こんなザコ天使なんかより、サナトラピスちゃんの方がいいけどさぁ~……」

「ああ……構わん。じゃから――」

「でも、ダメだねっ☆」

「きっ――」

 

 更にラピスが何をか言うのを待たず、女は続ける。

 

「だってさぁ、サナトラピスちゃん、もう残った力も殆どないでしょ? だったら別に、今すぐに貰わなくてもいいじゃない? それにさ、私、それはもっと遊んでからにしたいし! ――どうしよっか? なにする? 痛いことは大体やったし……まだやってないこと……人間の男の子たちは使い物にならなかったからぁ……そうだ! ワンちゃんとかと交尾させよ! 豚さんとかもいいよね!」

「いや――ま、待て! た、頼む――畜生と交わることになろうが構わぬ! どんなことでもする! じゃから、こ、この男だけは! 見逃してやってく――」

 

 この、およそ人間味のない、おぞましい台詞を受けても――この期に及んですら、ラピスは俺を庇おうとする。

 ……何故だ。

 なぜ、そこまで、お前は――

 

「もう、しつこいなぁ……はいはい、終わり終わり」

 

 ――更に、三本の剣が、俺に向かい奔る。

 そして、ラピスは――なんと、今度は俺を覆うようにして庇ったのだ。

 

「――ぐうっ! ぐっ……がはっ……」

 

 俺の肩を掴むラピスは、痛みに表情を歪ませながら膝を折る。

 共に倒れた俺たちは、仰向けに寝る俺を、四つん這いになったラピスが押し倒すような形になる。

 俺を覆う彼女の胸部からは三本の刃が突き出ており、そこから滴る鮮血が俺の肌を濡らす。

 

「ラピスッ! ば、馬鹿野郎、無茶するな!」

「くふふっ……な、何が無茶なものか……汝だけは殺させん。絶対にな……」

「おまっ……」

 

 口の端から血を吐きつつも、俺を安心させんとしてか、気丈に笑いかけるラピス――

 そしてそこに、残酷な宣言がなされた。

 

「あーもう、面倒くさいなぁ~! これ以上わたしの剣で攻撃しちゃうと、本当に死んじゃうかもしれないし……しょうがないなぁ。それじゃみんな、その人間をさっさと殺して、サナトラピスちゃんを連れてきてね」

 

 複数の足音が近づいてくる。

 いよいよもって、万事休す。

 結局、俺は――何もできなかった。

 鎌を抜いたことも、こうなってみれば、無駄にラピスに更なる酷な運命を背負わせる結果に終わっただけだ。

 俺は――この上ない、深い絶望に落ちる。

 閉じた瞼からは涙がひとりでに溢れ出し、心に浮かぶは、ただひとつの言葉のみ。

 

 ……すまない。

 すまない――ラピス――

 

「阿呆! しっかりせんか! ――泣くな、馬鹿者!」

 

 一喝され、閉じた目を開けてみれば、俺と同じく、目に涙を溜めたラピスの顔があった。

 

「お前だって……泣きそうになってんじゃないか……」

「やかましいわい! ……リュウジ。よいか、安心せよ。汝だけは何としても助けてやる。死なせるものか。この冥府の王が誓おうぞ。だが、急がねばならん。……いいか、よく聞け。汝には二つの選択肢がある」

「なん、だ……選択、って……」

「一つは――今すぐ、わしの力で汝の意識を断つ。さすれば、汝だけは即座に元の世界に戻れるじゃろう」

「そんっ――」

「黙って聞け……! そしてもう一つは――わしと汝が、共に生き永らえるやも知れぬものじゃ」

 

 ――何だと?

 

「じゃがな、ひとたびこの手段を取れば、汝は――」

「うるせえ」

 

 何が選択だ。

 一つしかないじゃないか。

 俺は馬鹿で考え無しで能無しだが――馬鹿なのはこいつも同じだな。

 結局、似た者同士ってことか。

 

「おい、まだ説明は――」

「うるせえってんだ。さっさとやらねえか!! ……俺はマジで頭に来てんだ。こんなに腹が立ったのはな、生まれて初めてだ。その手を使えば、あのクソ野郎に一泡吹かせられるんだな? ――なら、やれ! ごちゃごちゃ抜かすな、どっちにしろ最初の手段は却下だ! そうするくらいなら……ああ、一緒に死んでやる! 俺を殺せばてめえも死ぬんだろ、ならそうしろ! あんな野郎に好き勝手されるよかマシだろ!」

「リュウジ……」

 

 俺を見つめるラピスは、言葉を詰まらせるが。

 それも一瞬のこと――これまでずっと見てきた、いつもの表情に戻った死神は。

 

「……やはり、汝との出会いは運命だったようじゃな。……よかろう。過去も――未来も。我が一切その全て、汝に捧げようぞ」

 

 吹っ切れた表情でもって――言う。

 

「人間――いや、リュウジ。一言……ひとことでよい。言葉にせよ。わしの全てを受け入れ、わしを――」

 

 しかし言葉の最後は、顔を赤らめ――恥ずかしげに。

 

「我がものとする、と……」

 

 言い終わるや、ラピスは顔を背けてしまった。

 ……なんだ、勿体ぶって。そんなんでいいのかよ。

 不安そうにしやがって――俺が、断るとでも思ってんのか?

 この馬鹿は、言葉にしないと分からないんだな。

 ――仕方ねえな。

 俺も恥ずかしいが、仕方ない。

 

「――ああ、分かった。ラピ――」

 

 いいや。

 こうじゃないな。

 

「タヒニスツァル=モルステン=サナトラピス」

 

 そう。

 思えば、俺は……初めて見た時から――

 ……この死神に、魅入ってしまっていたのだ。

 

『お前は、俺のものだ』

 

 再び顔を向けたラピスの表情を、俺はこの先一生、忘れることはないだろう。

 

『もちろんじゃ、わが愛しき(あるじ)――我が(きみ)よ』

 

 そして。

 

 俺は――俺たちは。

 

 人であることを。

 

 神であることを、捨てた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

闇の衣を羽織って

 俺たちのいる場所、その地面から巨大な火柱が上がったかと思うと――そのことに気をやる(いとま)も無しに、俺の――俺たちの意識は溶け、混じり合った。

 炎に巻かれる俺の脳内に、死神の記憶が流れ込む。

 ――孤独と痛苦、そして屈辱に(まみ)れた、その一切の記憶が、雪崩のように。

 

 混沌の中で俺の内部に生まれし感情は、彼女に対する哀れみでも、同情でもなかった。

 ただ一つ……俺を取り巻いている炎の如く、心身を焼け焦がす程の怒りに、俺は支配される。

 どこからか、そんな俺を諫める――聞き覚えのある声がしたように思うが――それを確認するより先に、俺の意識は一度、完全に断ち切られた。

 

 一体どれほど意識を失っていたのかは明瞭でない。

 だが、この後のことを鑑みるに、ややもするとそれは、数秒にも満たぬ間であったのだろう。

 ――再び意識を取り戻してみれば、それまで身を包んでいた炎はすっかり立ち消えてしまっていた。

 腕に重みを感じれば、果たして気付かぬ間に――見覚えのある鎌が。

 右手に、握られていたのである。

 

 視線を落とした俺の視界に映るのは、それだけではなかった。

 まず、鎌を持つ自分の右手が、かつての自分のそれではない。

 記憶にあるよりも1.5倍ほどに膨れた手は筋骨隆々とし、指先には獣の如く尖った、長い爪が伸びている。

 更に、氷の地表に映る、全身像は。

 全身――足先まで、漆黒のローブに包まれていたのである。

 しかし、ひとつ奇妙なことがある。

 自分の顔が――全く見えないのだ。

 フードを被っているから、その陰になっているせいで――では説明にならない。

 それならば、何故?

 両目にあたる部分だけが、不気味に発光しているのか。

 まるでペンキを塗りたくったかのように、目以外の部分は全て、黒で覆い隠されている。

 

 さらに付け加えることに、自分の体が宙に浮いていること、また身体の節々からは黒い瘴気が立ち上っていることにも気付いたが――そんな些末なことは、視線を前にした瞬間、すっかり頭から抜け落ちてしまった。

 

 視界に映るは、腰を引かせたじろいで(・・・・・)いる、数人の人間たちの姿。

 さらにその奥に位置する『その人物』を視認した俺は――またも、気が触れるほどの怒りに――支配される。

 と同時に、己が成すべき使命が。

 それが何であるか、はっきりと――自覚した。

 

 俺は鎌を前に突き出すと、前方の人間たちに対し、宣告する。

 その声は、まるで自分のものとは思えぬ――いや、全く別のものであった。

 地を這うような、低く重い声。

 

 ――それは、『死』そのものであった。

 

『汝ら――』

 

 そう。

 あいつ(・・・)ならば、こう言うに違いない。

 神らしく。大上段に――居丈高に。

 まるで彼女が代弁するように、流々と言葉が流れ出でる。

 

『汝ら外道が過ぎる(ゆえ)、穢れ捧げしとて赦されぬ。そのうす汚れた禍魂(マガツヒ)ごと――滅し尽くしてくれよう』

 

 男たちは、仮面をかぶっているゆえ、その表情までは伺い知れないが――腰を引かせ、一歩下がる様子を見るに、明らかに狼狽の呈を見せている。

 がしかし、俺はそんなことには構わず――右手に持つ鎌を、一振りしてみせる。

 

 すると一陣の風が、前方に舞い――

 その緩やかな(なぎ)を受けた人間たちは皆――糸が切れた人形のように、崩れ落ちた。

 

「……ッ! ……くっ!」

 

 ――しかし、あの女だけは。

 男たちの様子から何かを察知したようで、すんでのところで空中に逃れ、事なきを得る。

 俺は同じく空中に位置する女に向け、微笑を含んだ言葉を発する。

 

『……いいぞ、いいぞ。よく避けた。元より貴様にはこの程度で済ますつもりはない。こんなもので終わってくれては拍子抜けもいいところだからな』

 

 俺は何をすべきか。

 今の俺には、何ができるのか。

 俺は今、全てを把握していた。

『こうあれ』と望めば――すべて、そのようになる。

 こんな力を持っていて……だというのに、あいつは――

 

「……お前っ……!」

 

 またも自己の世界に没入し始めた俺の意識を、女の声が引き戻す。

 それまでの小馬鹿にしたようなうすら笑いはすっかり剥げ落ち、憤怒の形相でもって俺を睨めつけている。

 だがその様は、今の俺にはまるで――脅威とは映らなかった。

 

「ふざけるな……! お前如きが死神の力を……それは、わたしのものだ!」

 

 女は残った剣を、一本を残し全て、俺に向け奔らせる。

 ……だが。

 

『……なんだ、これは?』

 

 あまりにも、遅い。

 まるでスローモーションのようだ。

 先ほどとはまるで違う。

 乱雑に剣を、手に持つ鎌にて叩き落とした俺は、この期に及んで手を抜かれているのかと思い、更なる怒りに震える。

 どこまで俺を――あいつを、愚弄すれば気が済むのか?

 

『本気で――かかって来い!』

 

 俺は言うや、空中を滑空し、女の元へと奔る。

 

「……ッ!」

 

 同時に、女はその場から飛び退き、俺から距離を取ろうとするが。

 俺は空中を奔りつつ、鎌を持たぬ腕を前に向け、掌を広げる。

 

 女が飛び退いた、その空間。

 その、既に女の姿がないその空間に向かい狙いを付けた俺は、広げた掌を握り込む。

 

「――なっ! え、そんなっ……こんな、ば、バカなこと……!」

 

 女の錯乱した声が響く。

 俺がやったこととは、見たままの通りである。

 すなわち――空間を、握り潰したのだ。

 

 凝縮された空間の位置に向け、女はこちらに引き寄せられ――俺は逆に、よりスピードを付けて接近する形になる。

 互いの距離が目の前まで縮まった時、ようやく女は残った剣を手に持ち、迫る俺に振り下ろすべく構えたが。

 その動きもまた、あまりに鈍重で、まるで勢いがない。

 いっそこのまま、隙だらけの胴を真っ二つにしてやろうかとも思ったが――思い止まった俺は、代わりに、渾身の力をもってして握り込んだ拳を、女の鳩尾(みぞおち)に叩き込む。

 

「げっ……!」

 

 女の体は面白いように後方に弾け飛び、洞窟の壁に叩きつけられる。

 俺は、殴りつけた際に女が落とした剣を拾うと――壁にまで突進し。

 

「がっ……! ――っあああああ!」

 

 剣を、女の下腹部に突き込んだ。

 その位置は――そう。

 あいつが、そうされていた箇所である。

 

 壁に磔になった女に向け、俺は言う。

 

『貴様はあいつを――あいつの叫びを、赤子のようだと抜かしたな? だがお前のそれは……まるで豚のようだぞ? ――いや、それは豚に失礼というものだな』

「てっ……てめえ……!」

『さて――お前は、これまであいつに――俺の奴隷を使って、随分と楽しい思いをしたようじゃあないか? どうかな、今から俺も、お前を使って(・・・)試してみてもいいかな?』

「……ッ」

 

 女の顔が、この時初めて――恐怖に歪んだ。

 そうだ。

 その顔だ。

 貴様には、あいつが受けた全ての苦痛と同じ――いや、それ以上の報いを受けてもらわねば。

 これからのことを思うと、自然と笑みが零れる。

 

『く……くくく……』

「……ひっ……!」

 

 嗜虐をそそる女の表情は、俺をより一層の闇へと導く。

 己が身体を包み込む漆黒に似た、深い暗黒へと堕ちそうになった俺を(とど)めたのは――

 

(――愚か者っ! 調子に乗るでないわ!)

『――ッ!?』

 

 これまで幾度となく聞いた――あの声。

 

(まったく、黙って見ておれば……残り少ない力を好き放題使ってくれよって)

 

 彼女の――声であった。

 俺は目の前の女のことなどすっかり忘れ、辺りに向かって叫ぶ。

 

『ラ――ラピス!? ……ど、どこだっ!』

(どことはないじゃろう、我が君。わしと汝とはもはや一心同体にある。汝はもはや、わしでもあり、また汝そのものでもある)

『……分からん! まるで分からん……た、頼む、ラピス……! 姿を、姿を――』

(全く、本当に……仕方のない主じゃことよ。甘えよって……まあ、この状態であればよかろう)

 

 やにわに右手の感触が軽くなる。

 不思議に思った俺が目を向ければ、それまで握っていたはずの鎌が、忽然と姿を消していた。

 

 ――代わりに、俺の目の前には。

 腕を組み、偉そうにふんぞり返る、あの死神の姿があったのである。

 ……しかし、何か違和感がある。

 どこがとははっきりとしないのだが……何というか、見た目がこう……少し幼くなっているような……?

 

「――ラピス、お前っ……」

「くかかっ! なんじゃなんじゃ、我が君。今回はまた、より愉快な面をしておるのう! その姿であれば猶更じゃ! 髪も真っ白になってしまいよって、まるで別人じゃの」

「は……?」

 

 かかと笑うラピスは、訳の分からないことを言っている。

 俺の顔は今や暗闇に閉ざされ、一切が視認できない状態であったはずだが……

 

「さて、積もる話は後にしよう。……こやつのことじゃがな」

 

 ラピスは、壁に磔にされたままの女に目を向ける。

 女は歯を食いしばり、俺たちを睨めつけていた。

 

「――そ、そうだ! お前――何故止めたんだ! こいつは――」

「……リュウジ。それ(・・)は汝がすべきことではない」

 

 尚も食い下がろうとする俺を、ラピスは手で制すると。

 

「こやつのことはいずれ、わし自身で始末をつける。それにわしは……汝に、人を殺めてほしくはない。倒れた男たちもまた、気絶しておるだけじゃ。汝は殺す気であったようじゃがの」

「……何を言ってる? こいつは人間なんぞじゃ――」

「いいや、こやつは人――正確に言えば、人であったものじゃ」

 

 この言葉を聞いた女は、より敵意を剥き出しにした目になり、言う。

 

「サナトラピス……お前……!」

「黙っておることを薦めるぞ。次に汝が我が君の機嫌を損ねることがあらば、今度こそわしは止めぬ。そこまでわしは慈悲深くはない」

 

 死神は宣告し、またそれが本気であることを女も理解したと見え、それ以上言葉を続けることはなかった。

 そしてラピスは再び、俺に向き直る。

 

「さて、我が君。話の続きじゃがな、こやつは――言うなれば我が君と同じ存在ともいえる。即ち――わしと似た存在を、その身に宿しておる」

「それは――」

「ただし、その根本は異なる。我らとは違い、こやつは強制的に――外法をもってして、神に連なる存在を取り込んだ。故に、今に至るまで生き永らえているというわけじゃ」

「……話を聞くほどクソ野郎じゃねえか。そんな奴をお前、見逃すってのか」

 

 ラピスは、悔しげに――そして同時に、悲しげに。

 目を落としつつ、言った。

 

「……こやつに取り込まれし者もまた、わしと同じであったやも知れぬ。わしは汝という幸運を得たが、こやつはそうではない。そう思うとな――わしは、このまま共に滅することに、幾許かの呵責を感じざるを得ぬのじゃ」

「しかしお前、そうはいっても、どうしようも――」

「いいや、手はある。こやつと、こやつに取り込まれしものを切り離せばよい」

「……そんなことができるのか?」

「現に、一体化したはずの我等がこうしておるではないか」

 

 ……確かに、言われてみればその通りだ。

 こいつの言う通りだとすれば、女に取り込まれたという存在を救い出す手も、もしかすると本当にあるのかもしれない。

 

「――しかし、残念ながら今はそれを試すだけの時がない。それに我が君よ、汝もそろそろ限界じゃろう」

「え……あっ……?」

 

 突如として、それまで忘れていたはずの眠気が、再び俺を襲う。

 激情によって抑えていただけのそれは、緊張が解けた今、とても我慢しきれないものであった。

 

「ほうれ見たことか。わしを置いて去ってみよ。その時はわしが汝を殺すぞ」

「……そりゃ、勘弁願いたいもんだな」

「そうじゃろうそうじゃろう。では、今度こそ行くとするか」

 

 再びラピスは、あの不気味な扉を出現させると、俺の手をしっかりと握りながら、扉に手をかける。

 

「サナトラピス……」

 

 ――その時、後方から再び、女の声が届く。

 ラピスは振り向くと、心底鬱陶しそうな表情を作った。

 

「……なんじゃ。まだ何用かあるのか。はっきり言うて、わしは二度と貴様の面など見たくないのじゃがな。……とはいえ、後一度は貴様と相まみえることになるじゃろうがの」

「あんた――これで逃げられると思ってるの? 絶対に許さない……どこに行こうと、お前は――お前らは、この世界を敵に回したお前らは――決して逃げられない。わたしを見逃したこと……絶対……必ず、後悔させてやるから!」

「くくっ……」

 

 ラピスは、不敵に笑い。

 ――そして、宣言した。

 

「――おお、構わぬとも。……何故かの? 今のわしは、力をほぼ失っておるはずじゃが――不思議と、誰にも負ける気がせぬわ。来るなら来るがいい。我が崇高なる主人とともに、如何なる嵐をも打ち倒してくれようぞ」

「おい、さりげに俺を巻き込むなよ」

「何を言うておるか。既に奥の奥まで巻き付いて、何人(なんぴと)にも解けぬほどに絡み合っておるわ」

「――ふっ……」

 

 ――そう。

 そうだな。

 

 俺たちは互いに笑いつつ扉をくぐり、俺が元居た世界へと――戻ったのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

哀しき死神様

 ……おい。

 

 ……おーい。

 

 ――うるさいな。

 こちとら本当に疲れてるんだ。

 今日はとにかく、色々ありすぎて……

 

 ………

 ……

 …

 

「――こりゃ! 起きんか!!」

「――はっ!? ――あっ、えっ、あ――」

「全く、少し目を離すとこれじゃ。もう少しじゃ、我慢せよ」

 

 完全に落ち(・・)そうになったところで、俺はラピスに一喝され、ようやく気を元に(たも)つ。

 目を開けた場所は、一面白一色の――二つ扉があるだけの、小さな部屋の中であった。

 

「いや、すまん。それでここは……えっ?」

「……? どうした、我が君よ」

「え、お前……ラピス――なの、か?」

 

 俺がこんなことを口にしたのには、もちろん理由がある。

 というのも――死神の姿が、随分と様変わりしてしまっていたからだ。

 顔はそれまでの、20代前半――といった印象から、俺と同じか、少し年上――といった程度にまで変化しており、これがもし同級生にでも居ようものならば、学校中の男子生徒の視線を一身に集めること間違いない。

 膝下まで体を覆いつくしていたローブは、襟あたりで止めるクロークのように変化しており、その下の肉体が今や、すっかり顔を見せている。

 とはいえ、この場においてはかつて言っていたように、下に何も着ていない、いわゆる全裸ではなかった事はある意味、俺にとって幸いだった。

 ……残念だとは思っていないぞ。

 

「いかにも。汝が言いたいことは分かっておるよ。何故このような姿になっておるのか、訳が知りたいのじゃろう?」

「うん――あ、いや、まあ……」

 

 ……しかし、なんだこの格好は。

 全裸でないだけマシとはいえ、今のこいつの姿は――例えるなら、白い競泳水着、とでも言おうか。

 ぴっちりとした、まるで水着のような衣装に身を包んだその姿は……一体全体、何故それを選んだ?

 と口に出したいくらいに扇情的なものであった。

 そんな俺の気を知ってか知らずか、僅かに幼くなったラピスは言葉を続ける。

 

「それはな、汝のせいじゃ」

「は?」

「わしは言うたよの? 残った力は少ないと。じゃというのに、汝はそりゃあもう、気前よく消費の大きい能力ばかり使うて……あのまま放っておけば、この次元移動に使うだけの力も残らぬところであったぞ」

 

 それを言われると、俺はぐうの音も出ない。

 確かに俺はあの時、あまりにも強大な力に――酔いしれてしまっていた。

 

「えっと、つまり……お前が今こうなってるのは、俺が死神の力を使ったせいって――ことか?」

「そうじゃと言うておる。……じゃからな、我が君よ。こんな姿になったわしを決して笑うで――」

 

 ラピスは尚も言葉を続けるが――俺は先ほどから、心ここにあらずで――彼女の肢体に目を奪われ続けていた。

 もちろん目ざとい死神がそんな隙を見逃すはずもなく。

 

「ん? 我が君、なにをそんな……ん? ……はっは~ん?」

 

 まずい。

 あまりにも分かりやすく、じろじろと見過ぎた。

 

「あっ、いや! 違うぞ! いいか、お前は何か勘違いを――」

「我が君ぃ~? わしはまだ何も言うておりませぬがの~?」

「ぐっ……!」

 

 墓穴である。

 してやったりとばかりに、にやにやと嫌らしい笑いを張り付けたラピスはここぞとばかり、俺に身体を寄せてくる。

 

「そうかそうか。我が君はこの姿も好み(・・)であらせられるか? ならばほれ、気付けに一つ、如何かの? どうぞ、この奴隷の好きなところに触ってよろしいのですぞぉ~?」

 

 腰をわずかに落とし、胸元を見せつけてくるように近づいてくるラピスに対し、俺は必死の抵抗とばかりに、尻もちをついたまま後ずさりをするほかなかった。

 だがそれも狭い部屋内のこと。たちまち追いつめられた俺は、煩悩ごと払うかの如く大声を張り上げた。

 

「――い、いやっ! ほ、ほら、急がなきゃいけないんだろ! こ、こんなことしてる暇があったら、ほれ、とっとと行こうぜ!?」

「……チッ」

「――おいお前。主人に向かって舌打ちをしたな?」

「いやいやぁ、何のことだか……ふん、小心者め」

「おい!! 聞こえてんぞコラぁ!!」

 

 とはいえ、なんとか俺の貞操は守られたようだ。

 ほっと胸を撫で下ろす俺に、ラピスは言葉をかける。

 

「さてさて、それでは改めて行くとするかの。と言っても座標はほぼ固定できたでの、次の扉をくぐったら、我が君。今度は眠っても構わぬぞ」

 

 それは有難い。

 実のところ、限界も限界、こうして何か喋っていないと、次の瞬間にも瞼が落ちてしまいそうなのだ。

 俺はラピスと共に、扉に入り――

 彼女の言葉に安心したせいもあり、その時点で俺の意識は、完全に消え失せてしまった。

 

 ………

 ……

 …

 

 ……おい。

 

 ……おーい。

 

 ――なんだ……またか。

 どうもつい先ほども、同じようなことがあった気がする。

 どうせ目を開ければ、あいつの顔があることだろう。

 ……まだ俺の世界には着かないのか?

 いい加減、うんざりしてきたぞ……

 

「――こりゃ! いつまで寝ておる!」

「……はっ!」

 

 目を覚ました俺の周囲には――今度こそ、見慣れた自分の部屋の風景が広がっていた。

 

「あっ、えっ――、あれ、ここ……俺の……」

「まったく、幸せそうに眠りこけおってからに。あのような可愛らしい寝顔を晒されて、わしがどんなに我慢を強いられたことか」

「おいお前、寝てる俺に何か――え……?」

 

 俺は、その人物を目にした瞬間、二の句を告げなくなってしまう。

 

「……なんじゃ、何ぞ言いたいことでもあるのか」

 

 ――誰だ?

 いや、声は確かに、あいつに似ている。

 服装も――もはやローブからクロークを経て、単なるフード付きのマントにまで布面積が減ってしまっているが。

 ……確かに、あいつが着ていたものだ。

 地肌を覆う布も、もはや紐と何ら変わらないレベルにまで面積が減ってしまっている。

 とはいえ、そんな過激な格好も、こんな平坦な胸にあってはちぐはぐというか、必死に背伸びしている感じがして、むしろ滑稽に映ってしまう。

 ――これが特殊な性癖の持ち主であれば、また違うのだろうが。

 

「いや、えっと、あの――」

 

 俺はどうしても信じられず――

 

「……どなたですか?」

 

 つい、そんな台詞を口にしてしまう。

 

「ば――ばばば……ばっかもーん!!!」

 

 その言葉を耳にするや、目の前の幼女は、烈火の如く怒り出した。

 

「だ……だ、誰のせいでこんなことになったと思うておるのじゃー!」

 

 ぷりぷりと怒り続ける幼女を前に、俺は未だ信じられないとばかり、確認の言葉を投げかける。

 

「や、やっぱりお前……ラ、ラピス……か?」

「決まっておるじゃろうが!!」

「え、でも、お前、あの時は……」

「最後のあれでな、もはや我が力は限界近くまで使い切ってしもうたのじゃ! わしも次元移動などは初めてであったが……まさかここまで力の消費が大きいとは。……しかしな、しかしじゃ! あの時汝がもう少し力の消費を控えておれば!! わしも……こんな情けない姿になるとは思いもよらなんだわ!!」

 

 ――なるほど、この姿が最後の最後、力を失った末の姿というわけか。

 

「あ、いや……うん。――ごめん?」

「御免で済むかああああ!!」

 

 俺の、とても気が入っているとは思えぬ謝罪を前に、今一度幼女ラピスは叫び声を上げる。

 ……いや、今日が日曜日で、しかも家族が全員出掛ける予定であって助かった。

 そんな見当違いの安堵を感じる俺を、ラピスは不満ありありの呈で睨みつける。

 

「……こうなってはな、我が君よ! 汝にも責任を取ってもらうからの!!」

「責任を取る――って、一体どうすりゃ……」

「なに、簡単な話よ。我が君。わしの力の源が何であるか、以前話したよの?」

「……確か、魂の穢れ――だったか」

「うむ。この世界にわしと同じような存在がおるかはさて置き、この世界で死した者たちの魂は当然、わしの元へは辿り着かぬ。よって、こちらから穢れを収穫する必要があるというわけじゃ」

「……つってもな、具体的にどうすりゃいいんだ? そもそも、その穢れとやらが溜まってるかどうか、一体どう判断する?」

「そのための死神の目じゃよ。半分神となった我が君にはの、我が力の殆どが譲渡されておるでな。その目をもってして人間を見れば――」

「――おい、ちょっと待て」

 

 聞き捨てならぬ言葉が聞こえた気がする。

 俺の勘違いであってほしいが……

 

「お前今、なんつった?」

「――うん? じゃから汝はもはや人間ではないと――」

「おおおおおい! なんだそりゃあ!! 聞いてねえぞ!!」

 

 まさか人を捨てる羽目になるとは。

 確かにただでは済まないという雰囲気を漂わせてはいたが。

 

「じゃからあの時、わしが説明しようとしたではないか。それを遮って、強引に事に及んだのは何処の何方(どなた)じゃったかの?」

「むぐっ……!」

「付け加えるとの、汝が半分神となったと同時に、わしもまた、半分人間の身となったでな」

「~ッ!!」

 

 更なる追撃。

 俺の選択のせいで、神を人の身に貶めてしまった。

 もはや俺は正常な判断力を失い、ただ感情のままにがなり立てることしかできない。

 

「――てめぇ! おい、それじゃこれからどうすんだよ! どうすんだまたあいつらが来たら!」

「じゃからほれ、そのためにも、じゃよ。我が力を取り戻すことは我らにとり、何にも勝り優先すべきことじゃ」

「勝手なことばかり抜かしやがって……ああくそ、やっぱ帰れ! お前、やっぱ帰っちまえ!」

「何ということを抜かしおるか! 絶対に帰ってやらん! 帰ってやらんもんねー!」

「もんねーじゃねえ! てめえ、自分のキャラをきちんと守りやがれ!」

「そんなの知らんもーん! どうしてもと言うならな、我が力を全盛にまで戻すことじゃな! そうすれば考えてやってもよいわ!」

「――!!」

 

 

 ――これが、これまでの――この死神との馴れ初め、その一切である。

 随分と長くなってしまったが……この後のことを考えるに、むしろこんなものは、一瞬のことにすら思える。

 この、どこか頼りない――死神様との長い付き合いは、まさにここから始まったのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ラピスとの入浴

 眠りから意識を覚醒させた俺がまず感じたのは、圧迫感であった。

 柔らかで(ぬく)みもあるが、明らかに布団のものではないそれの正体を確かめんと、俺は目を開ける。

 ……最初俺は、実際それを目にしてみても、正体が何であるか、すぐには分からなかった。

 これは俺の頭が未だ寝惚けていたせいもあろう。

 

「……」

 

 ……尻だ。

 

 小振りの尻が、俺の胸にでん(・・)と乗っかっている。

 腰から先の上半身は布団の中に隠れているが、すぴよすぴよと間抜けな寝息が聞こえてくるところから察するに、未だ(やつ)は夢の中なのだろう。

 

 ――つまりだ。

 現状を分かりやすく言うと、あの馬鹿(・・・・)は今――仮にも主人であるはずの人物の上に乗っかり――大股を広げた格好で。

 言葉通り足を向けて、寝ているというわけだ。

 

 俺は布団から片手のみを出すと、広げた掌に向かい、はあと息を吹きかける。

 よく漫画やなんかで見る仕草だが、この仕草が果たして本当に効果があるのかははっきりとしない。

 とはいえ、今俺が感じている怒りを形にするには、これも必要なことのように思えた。

 ――狙いはもちろん目の前にある、褐色の物体である。

 

 ただでさえ布面積が少ないローライズパンツは、寝相のせいかややずり下がっており、油断すると色んなものが零れ落ちそうになっている。

 朝っぱらからこんな下品な光景を目の当たりにさせられる人間の気持ちを、こいつに思い知らせてやらねばならない。

 

 ――冬の朝の乾いた空気の中に、小気味いい破裂音が響いた。

 

「じゃっわーーーーーッ!!!」

 

 狂声を上げて跳ね起き、勢い余ってベッドから転がり落ちるそれ(・・)に向かい、俺は優しく――そう、優しく声をかける。

 

「おはよう、ラピス」

「――はっ! わ、我が君!? ――えっ、へっ!? い、今のは……?」

「何だどうした、夢でも見てたのか?」

「へっ? ……ゆ、夢? いやしかし、今も痛みが確かに……」

 

 頭上に?マークが浮かんでいる図がありありと見えるくらい、目に見えてラピスが困惑の最中にある中、やにわにドアのノック音が響く。

 続けて聞こえてくるは、俺の妹、花琳の声であった。

 

「おい兄貴ー。 なんか兄貴の部屋から変な声聞こえたんだけど?」

「おおー、窓開けて寝てたら猫がな。脅かしたら悲鳴上げて出てったよ」

「こんなクソ寒い時期に何考えてんだよ……風邪ひいても知んないからね。 朝ごはん作るから降りてきてよー」

「おーう。……だとさ。ほれ、準備しろ」

「ううう~……どうにも納得がいかぬ……」

「うだうだ言ってないで――ん?」

 

 尻をさすりながら、まだ何か言っている死神に拳骨でも落としてやろうかと思いかけた俺の鼻に、そよと一瞬、甘い匂いが触れた気がした。

 下で花琳が蜂蜜を塗ったトーストでも焼いているのかと思ったが、あいつがここに来てから一分も経っていない。

 いくらなんでもそれは考え辛かった。

 そんな俺の様子を訝しんだラピスから声がかかる。

 

「……どうしたのじゃ、我が君よ」

「――いや、なんでもない。気のせいだったみたいだ」

 

 俺は着替えた後、手早く朝飯を済ませると、学校支度を整え家を出た。

 

 ………

 ……

 …

 

 ――やはり、まず先に片付けるべきは、この問題だろう。

 

 一限目の授業を受けながら、俺はそう思いを決めた。

 問題というのは、先日にも少し話題にした、日常生活におけるラピスの処遇である。

 透明化の能力が一体どれくらいの力を消費するのか、具体的な数値でなされない以上伺い知る術はない。

 ならば日中はラピスをどこか人の来ない場所に――それこそ家の中でもよい。

 そういった場所に放っておけばいいのでは、とは俺も最初に思いついたし、実際そう提案してもみた。

 

 ……しかし、その時のあいつの反応たるや。

 泣き叫び、喚き。とても威厳のある神とは思えぬ醜態でもって反対した。

 ついには自分を置いていったら汝を殺す、とまで言い放つ有様。

 ……たった数時間のことが、何がそんなに不安なのか。

 大体、そんな数字じゃとてもきかない位、長い間一人きりでいたんだろうに。

 それを思えば、たかが半日くらいなんだっていうんだ。

 とはいえ、そう言えば本当に俺を刺しそうな雰囲気だったので、この件についてはそれ以上言及できずにいる。

 

 ――結果が、これだ。

 俺は、少し身を引いた、妙な体勢で椅子に座し、授業を受けている。

 というのも、透明化しているラピスが膝に座っているからだ。

 ……座っているというか、抱き着いているといった方が正しい。

 透明化している故にその姿を視認することは適わないが、肌に感じる接地面積の広さから言って、まず間違いないだろうと思われた。

 

 これがこの先ずっと続くなど、勘弁してほしい。

 冬だからまだいいが、これが夏にもなればもう、暑苦しくてたまらないだろう。

 ――今日明日中にでも、対策を練らねば。

 これはただ俺の生活面だけを思ってのものではない。

 実際問題、これは俺たちの命に直結する問題でもあるのだ。

 

「……ん?」

(どうしたのじゃ、我が君)

「……馬鹿野郎、声を出すな」

 

 小さく囁くラピスの声を(とど)めた俺は、またも漂ってきた、朝にも嗅いだ記憶のある匂いの正体、その出所を探る。

 気のせいか、匂いが強くなってきている気がする。

 ――何というか、高級焼き菓子に、少々の香辛料を振りかけたような――そんな匂いだ。

 実を言うと、俺は結構な甘党である。

 特に洋菓子の類には目がない俺にとり、この匂いは暴力的とも取れる魅力をもってして、俺の鼻を襲う。

 ……隣の席の奴が鞄に隠し持ってきているのか?

 

 ――結局匂いの正体は突き止められぬまま、放課後を迎えた。

 部活にはちらと顔を出すのみに留め、体調が悪いと鈴埜に偽った俺は、ラピスを連れ急いで帰路に着く。

 花琳が帰って来てからではまた面倒ごとになりかねない。

 コアラのようにラピスを抱き着かせたまま、俺は急ぎ家へと向かったのだった。

 

 ………

 ……

 …

 

「今日は真面目な話をする」

「まるで今までは真面目ではなかったかのような物言いじゃの」

 

 かくして自宅に到着し、自室まで戻った俺たちは、面と向かって座り込んだ形になっている。

 

「やかましい。――お前はどうだ、何か案はないのか」

「何に対する案じゃ?」

「決まってんだろ。今の状態に対して――つまり、日中お前が、能力を使わずに済ませられる方法だよ」

「なんじゃ、そんなことか。それなら我が君よ、既にわしには妙案が頭にあるぞよ」

「なに? 本当か? それなら何で早く言わなかったんだ」

「聞かれなかったからの。……それに、これは汝と僅かな間とはいえ、離れ離れになってしまうでな……」

 

 しおらしい表情を作るラピスを前に、俺は若干の狼狽を見せてしまうが。

 ――がしかし、ことは急を要する。

 そんなくだらないことを懸念事項にしている場合ではない。

 

「……あのな、そんなこと言ってる場合じゃ――」

 

 ずいと身体を乗り出し、ラピスに近づいた――その時。

 ――まただ。

 またしても、例の匂いが漂ってきた。

 ……いや、実のところ、こいつが姿を現してから、ずっと気になってはいた。

 何しろ、もはや気のせいでは済まないレベルの強さでもって俺の鼻を襲い続けているのだから。

 ――となれば、可能性は一つ。

 

「……おい、ラピス」

「ん、なんじゃ?」

「お前、俺が寝ている間……台所かどっかから、菓子を盗んだだろ」

 

 この線しかない。

 意地汚いこの死神は、例のプリンに味をしめ、我慢しきれなくなって行為に及んだのだ。

 

「なっ、何を言うか! この誇り高いわしが盗みなどを――」

 

 もちろんそれをこいつが素直に認めるはずがない。

 それは予想済みだ。

 ――なら、言い逃れの出来ぬ状態にしてやればよい。

 

「言い訳はいい。……おい、そこから一歩も動くなよ」

 

 俺はラピスに顔を近づけ、匂いの出所を探る。

 ――やはり、間違いない。

 肌に密着するほどに近づいている今、匂いはこれまでにないほど強くなっている。

 

 俺はまず、一番怪しいフード辺りから探りを入れる。

 ……がしかし、逆に匂いは薄くなった。

 ならば、マントに隠れている背中側だ。

 恐らくはポケットか何かがあるはず。

 

 俺はクロークを捲りあげ、顔を寄せる――と。

 これまでで一番、匂いが強くなった。

 やはり焼き菓子の類だろうと、俺は確信を持つ。

 香辛料は――シナモンに、クローブあたりか。

 シナモンの甘い香りに交じり、少々刺激的なクローブの香りが、丁度いいエッセンスとなって見事に調和している。

 

 俺が最も好む類のものだ。

 ……そんなものを、一体どこから調達してきたのか。

 居候には過ぎた御馳走である。

 多少頭にき始めた俺は、こうなればなんとしてでも見つけてやるとばかり、目を瞑って匂いに集中する。

 

 すんすんと鼻を鳴らし、まるで犬の如く、俺は注意深く探りを入れ続ける。

 ――そして。

 

「――おい。ちょっとこれ、どけてくれ」

「え……えっ……」

「早くしろ」

「う……」

 

 頭に障害物を感じた俺は、苛立ちげに命令する。

 何やら羞恥を帯びたラピスが、ようやくそれ(・・)を除けると。

 ――ビンゴ、である。

 

「……ここだっ!」

「ひゃわあああああ!!!」

 

 勝ち誇った笑みで、俺が目を開ければ――そこには。

 顔を真っ赤にしたラピスが、目に涙を溜め、俺を見下ろしていた。

 

「……あれ? ここ……これ……へ?」

 

 俺が鼻を突っ込んでいる、その場所は。

 ……ラピスの、腋の下であった。

 

「なにを……するんじゃーーーーっ!! ばかものー!」

「――どわっ! あいって……おい、何すんだ!」

 

 首根っこを掴まれ、乱暴に放り投げられた俺は、そう抗言するが。

 ラピスは、それ以上の勢いでもってして、俺を罵倒する。

 

「こちらの台詞じゃ愚か者!! いや、この――ど変態めが!」

 

 そこまで言われ、先ほど自分がどこに鼻を突っ込んでいたかを思い出す。

 

「あ、え――あっ! あ、いやっ、これはな!?」

「何ということじゃ……我が主がこんな……特殊な趣味を持っておったとは……」

「ちっ、違う! 違うぞ! っていうか、この匂い……まさかお前のたいしゅ――」

「じゃらああああああ!!!」

 

 最後まで言わせず、ラピスは大声を張り上げ、ベッドの上の枕を手にして俺を殴打する。

 

「仕方ないじゃろうが!! わしは今や神ではない!! 代謝も、少ないとはいえ、多少はある! じゃがな、こんな辱めを受ける謂れはない!! それをこんな――あああああ!!!」

「――わ、悪かった! 俺の勘違い――いや、考え足らずだった! ゆ、許し、許してくれ!」

「許せるかああああ!!!」

 

 ……そんなわけで、ラピスの言う案を聞くのはひとまず後回しにし、まずはこの死神様を、風呂に入れてやることに――相成ったのだった。

 

「お前、服は透明化させたままにできないのか?」

「出来ぬこともないがの。しかし我が君よ、今は少しでも力の消費を抑えるべきなのではなかったのか?」

「……仕方ねえか。花琳は今日部活だし、大丈夫だろ。そんじゃ、とっとと服脱いで先に中入ってろ」

 

 俺はあの後、怒り狂うラピスをなんとか宥めすかし、風呂に湯を入れることにした。

 ちなみに、ウチの給湯器には湯が溜まったことをお知らせしてくれるブザー機能が付いている。

 約十分後、その音が届いたのを合図に、俺たちは浴室までやってきていた。

 

「入浴というものは初めて体験するでの、実に楽しみじゃ! 汝も早う来るのじゃぞー!」

「……」

 

 言うが早いか、ラピスはあっという間に全裸になる。

 まあ、もともとほぼ裸同然の格好をしているのだ。脱衣が早いのも当然なのだが。

 てちてちと足音をさせながら、真っ裸になったラピスは元気よく浴場まで走っていく。

 

「……タオルぐらい巻いていけよ……ていうか少しは隠せよ……」

 

 やはり、絶対に姿と同時に精神面も幼児化している。

 ……いや。

 そういえば、大人の姿の時からこういう節はあったっけ……

 

 俺はもう考えるのもバカバカしくなり、服を脱ぎ、腰にタオルを巻いた状態で中へと入る。

 

「むむ! 遅いぞわがき――」

 

 中へ入れば、バスタブの前に立つラピスが声をかけようとし――たのであるが、何を思ったか、言葉を途中で止め、不満そうな目でもって俺を見つめている。

 

「……」

「……なんだ、どうした」

「……何故前を隠しておる?」

「むしろ何故そこに疑問を持つのか、逆に聞きたいところだな?」

「ふん、まあよいわ。それで、どうすればよいのじゃ。このまま湯に入ってもよいのか?」

「駄目だ。それはルール違反だぞ。いいか、湯に入る前に先に身体を洗うんだ」

「そうか。ん、では――ほれ」

 

 何故かラピスは急に両手を広げ、何かを待つかのような視線で俺を見る。

 

「……何の真似だ?」

「なにではないわ。汝が言うたのじゃろうが。――ほれ、早う洗うがよい」

 

 ……こいつ。

 仮にも奴隷という身分であるくせして、主人に身体を洗わせようというのか。

 

「お前、調子に――」

「言うておくがな?」

 

 両手を広げたポーズのまま、ラピスはにっこりと笑う。

 

「わしはまだ、先ほどの狼藉を許してはおらぬからの? ――言葉には気を付けた方がよいと思うがの?」

「……」

 

 ……こういうところだけは、あの時から変わっていない。

 こちらの弱点に付け込むことにかけては天才的だ、この死神は。

 ――いやしかし、確かに、あれは完全に俺が悪かった。

 やってもいない罪で糾弾した上、女性にとって――いや、たとえ男でも恥ずかしいと思うような目に合わせたのは、他でもないこの俺だ。

 あんな勘違いさせるような匂いを放つ方が悪い、と言いたい気持ちがないではなかったが、そんなものは完全に言いがかりに過ぎない。

 立場を利用した強権で黙らせる、などということもしたくなかったので、ここは素直に折れておくことにする。

 

「……はいはい、分かりました分かりました」

 

 俺は観念し、タオルにボディソープを2プッシュ分ほど含ませ泡立てると、ラピスの体を脚の方から洗い始める。

 ……こんな体にはなっても、肌の美しさは相変わらずだ。

 肉感は大分薄れ、細っこい肉付きになってしまってはいるが、タオル越しでも分かるほどに滑らかで、艶のある小麦色の肌は、まるで作り物かと見紛う程に美しい。

 

「ん……んふっ……」

「……」

「……ひゃふっ……んぅ……」

「……おい」

「……んっ……な、なんじゃ、我が君」

 

 俺は丁度、胸付近を洗っていた手を止め、上を見上げ叫ぶ。

 

「……おかしな声を出すんじゃねえ!」

「そっ、そう言われてもじゃな――」

「それが身体を洗われてるだけの人間が出す声かよ! てめぇ、わざとやってんじゃねえだろうな!」

「そう言われても、くすぐったいんじゃよー! ……おお、そうじゃ。それならばな、我が君。その、『たおる』とやらを使うのをやめてくれい」

「――あ? お前な、それじゃどうやって洗えば――」

「決まっておる」

 

 ふんと鼻から息をひとつ吹き、自信満々な顔つきで――

 

「我が君のその手で直接――ぷあっ!? な、なにをするかー!」

「付き合ってられるか、アホ。後は自分でやれ」

 

 ――言い終わるのを待たず、俺は泡だらけのタオルをラピスの顔面に叩きつける。

 泡が口の中に入ったのだろう、苦しげにぺっぺ、と口内の異物を吐き出しながら文句を言うラピスに向け、俺はそっけない返事を返す。

 

「わ、分かった分かった、少し調子に乗ってしもうたわい。そうつむじを曲げんと、続きをしてくれぬか?」

「んっとに――ほれ、そんじゃ次は髪だ。そこ座れ」

「んむ!」

 

 元気よく返事をしたラピスは、備え付けの風呂椅子に腰を落とす。

 丁度いい位置にまで降りてきた頭に、俺はシャンプーを付けた手を置き、わしゃりとひと撫でする。

 たったひと撫でで、気持ちの良いくらいの泡が立ち上がった。

 俺の目は続いて、彼女の頭、その両側から生える二本の角に向く。

 

「――これ、やっぱ本物なんだな。何の角だ?」

「何だとはないじゃろう。このわしのもの以外にあるものか。非常に繊細なものじゃからな、丁重に扱うのじゃぞ」

「へいへい」

「――どうも真剣みが感じられぬ。……そう言えば、汝は最初に会った時もそうであったな。出会い頭に角を鷲掴みにされたことなぞ、あのエデンとか抜かす匹夫(ひっぷ)めにすらされなかったというのに……まったく……」

 

 ぶつぶつと文句を垂れ続けるラピスを適当にいなし、俺は彼女の髪を洗っていく。

 しかし、これ……本当に髪の毛なのか?

 俺のものと比べ、明らかに質感が違い過ぎる。

 まるでカシミアか、上等な絹のように、すっと指の間を滑り抜けてゆく感覚。

 それでいてふわふわと軽く、泡立ちの良さといったら言葉にならないほどだ。

 これもまた、種族の違いってやつなのかね。

 

「……うう゛~……」

 

 そのまま洗っていると、眼下のラピスから苦しげな呻き声が発せられた。

 

「どうした?」

「我が君ぃ゛~……目が、目がぁ……痛いぃ……」

「はあ゛あああ~! はいはい! 分かりましたよ! ――これでよろしゅうございますかな!?」

 

 俺は一瞬浴場から出ると、プラスチックでできた平らなそれ(・・)を手に戻り、苦しげに身を捩るラピスの頭に被せてやる。

 

「んん……? おおっ! これはよい、実に快適じゃ! なんじゃ我が君、如何な魔法をつこうたのじゃ!?」

「これはですね、シャンプーハットという魔法の器具にございますよ」

 

 元はといえば花琳が子供の頃に使っていたものだが、既に夢野家においてそれを使うものはいない。

 とっくに捨ててあってもおかしくない代物なのだが、モノがそれなりに大きいこともあり、ゴミに出そう出そうと言いつつずっとそのまま、浴室の端で埃を被りっぱなしになっていた。

 それが今になって活躍の機会が再び与えられたのだから、こいつも本望というものだろう。

 

「ほれ、これで良し。そんじゃ先に入って待ってろ」

 

 長い髪を洗いきるのに随分時間を食ってしまったが、ようやく全てを洗い終えた俺は、シャンプーハットの上から湯を流しかけ泡を落とす。

 

「ん? 二人で入ればよいではないか」

「俺がまだ体洗い終わってないんだよ。お前と違って俺は髪も短いからな、すぐ終わるから大人しく――おい、なんでお前がタオルを持ってる」

 

 一体いつの間に手に取ったのか。

 タオルを手にしたラピスは、なにやら不敵な笑みでもってして、俺をじいと見つめている。

 

「なーにを水臭いことを言っておるんじゃ、我が君よ。ほれ、そこに座るがよいぞ? この奴隷めが、全霊を込め奉仕致しますでな」

「……んん……ま、いいか。使い方はさっき見てて分かるよな?」

「うむ。じゃからほれ、前を向いておれ」

「背中と頭だけでいいからな。前は自分でやる」

「むぅ~……ま、いいじゃろ。それでは――」

 

 ――ま、少しはいいだろう。

 俺ばかりだと本当に、どっちが奴隷だかわかりゃしない。

 

 ……しかし、と思わないでもない。

 今の凹凸のない肉体でなく、元のラピスであれば――と。

 こんな風にこき使われていても、口とは裏腹に俺は絶対に舞い上がってしまうだろう。

 こればかりは仕方がない。俺だって男の子なのだ。

 ――そんな、栓のないことを考えていると。

 

「……」

 

 ――妙だ。

 たかがタオルを泡立てるだけに、何分かかっている?

 第一、タオルが擦れ合う音すら一切聞こえてこないのはどうしてだ。

 先ほどから聞こえてくるのは、んしょ、んしょ……という、ラピスの声のみ。

 俺が訝しんでいると、ようやく背中側から声がかかる。

 

「――うむ、待たせたの! それではゆくぞ!」

「お前な、どんだけ不器用なんだよ……まあいい。やるならとっとと――」

 

 言いかけて、俺の背にぞわりとした悪寒が走った。

 まさか、そんなバカらしいこと――とは思ったが、こいつのことだ、まさか(・・・)――

 

 ――その、まさかである。

 振り返れば……身体の前部にボディソープを塗りたくった死神の姿が、そこにはあった。

 

「――あっ……」

 

 間抜けな声を上げた後、悪戯の現場を押さえられた子供のような、ばつの悪い表情を浮かべる死神へ、俺は言葉をかける。

 

「――ラピスちゃんよ、渡したタオルはどうしたのかなぁ?」

「あ、いや、それはじゃな……なんというか、やはりここはわしの献身を文字通り体で示すべきじゃと――の?」

「の、じゃねえんだよ! てめぇどんだけボディソープ使いやがったんだ! ……ああもう、オラぁ!」

 

 ボディソープまみれの死神へ向かい、俺は風呂桶を手に持ち、湯舟から汲んだ湯を叩きつける。

 

「じゃわあっ!? ああ、せっかく準備したというのに! 何をするか!」

「やっかましい! いいからもうさっさと入って待ってろ!!」

 

 ……体一つ洗うのに、この騒々しさだ。

 俺はうんざりしながら、手早く体、髪と洗い終えていく。

 

 その後やっとゆっくり湯舟に浸かることになったのだが。

 狭い湯舟にあっては、例え一人は小さな子供だとしても――同時にというのは幾分か狭すぎ。

 ラピスは今、寝そべるように湯舟に浸かる俺の下腹部に腰を落とし、俺に凭れ掛かる……というか、抱き着くような形になっている。

 

「……これが入浴――風呂、というものか……。これは……たまらぬの……」

 

 俺の肩に顎を乗せながら、ご満悦な様子である。

 

「お前の見てた世界でも風呂くらいあっただろ。自分でも試してみたりしなかったのか?」

「必要なかったからの。その上僅かに付いた埃程度なら、我が力をもってすればすぐに綺麗さっぱり、無かったことにできたでな」

「ふうん、そっか――」

「いやしかしの、これほどまでに心地よいとは思わなんだわ。……いや、これは汝と一緒だからかの?」

「……はっ、なーにを言ってやがる」

 

 ――正直言って、この時の俺は心ここにあらずであった。

 いくら子供とはいえ、裸の女子が抱き着いてきている状態など、これまでの人生で一度もなかったことだ。

 返事をしつつも、俺は密着する肌の感触を忘れようと、必死に別のことを考えようとしていた。

 ……しかし。

 

「……これは冗談などではないぞ、我が君よ。わしは今、この上なく幸せじゃ……」

 

 ――耳元で、ラピスが囁く。

 

 ……駄目だ、気にするな。気にするんじゃあない。

 こいつは神。そう、人間ではないのだ。

 言ってしまえば化物なんだ。

 いいか俺、決して反応するな。

 

「……」

「……んん~? どうした、急に黙り込みおって。まさかとは思うが我が君よ、こんな幼き身体に欲情しておるなどということはあるまいな? ……いや、わしは構わぬよ? なにしろ――」

「おーっと! 長風呂は身体に悪いんだった! いやあ忘れていたなあ!」

 

 俺はわざとらしい大声を張り上げ立ち上がると、ラピスを無視し、そそくさと浴場を後にする。

 

「お、おい? わがき――」

「ほら、お前もさっさと来いよー!? 体ふいてやっから!」

「……」

 

 誤魔化せたかは怪しい。

 だが、そうであってほしい。

 これ以上、こいつに弱みを握られるわけにはいかないのだ。

 そう。

 だから。

 

 ――小さく聞こえてきたあいつの台詞も、俺は聞こえなかったことにしたのだ。

 

「……まったく、可愛いお人じゃことよ。いやはや、楽しみは尽きぬのう――くかかっ!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天国、あるいは地獄の始まり

「……よっし、こんなもんだろ」

 

 何やらにやにやと笑いながら浴場から出てきたラピスの体をバスタオルで拭き終えると、今後これに味をしめることがないよう、俺は釘を刺しておく。

 

「言っとくが次からは自分でやれよ。今回だけだぞ」

「なんじゃなんじゃケチなことを。このわしの世話を焼けるなど、世に二人とおらぬ光栄なのじゃぞ?」

「代われるもんなら代わってやりたいよ――って、おい。何やってる」

「――ん?」

 

 勝手なことを言いながら、ラピスは入る前に着ていたローライズパンツをまた履き直そうとしている。

 見咎めた俺が声をかけるも、何故止められたか当の本人は全く理解してない様子で、間抜けな顔を向けた。

 

「何じゃ? まさか我が君よ、このまま裸で過ごせと言うか? まったく、我が主の性癖には驚かされるばかりじゃの……」

 

 腹立たしいジト目になりながら、そんなことを言う。

 

「違うわ、バカ。風呂に入る前に着てたもんをまた着てどうす――」

 

 言いかけて、俺はふと思った。

 まあ、体臭に関しては仕方がないが、人間と違って排泄の概念がないこいつに、果たして下着を替えるという作業が必要なのか、という疑問だ。

 もしかしたら隠れてしている可能性もあるが、少なくとも俺が知る限り、そういうことをする素振りはなかった。

 人間ではないのだし、本当に全く必要ないのかもしれない。

 

「……んでも、なんか嫌だな。――おい、お前の力で服の替えを作ったりできないのか?」

「……出来ぬこともないが……何故そこまで拘るのかわしには理解できぬのう。まあ、命令じゃと言うなら仕方ない。そこまで力を使うわけでもないしの――ん、ほれ。これでよいか?」

 

 言うや、瞬く間にラピスの掌の上に、二着目のパンツとチューブトップが出現する。

 

「上下だけか?」

「この衣だけはそう簡単に複製できるものではないでな。やろうと思えば可能じゃが、かなりの力を失うことになるが……」

「ん、まあそれならいいや。それに直接肌に密着してるようなもんでもないしな。んじゃさっさと着替えて部屋に戻ってろ」

「了解じゃよー。……んむ、では先に戻っておるぞ!」

 

 さっさと着替えを済ませると、ぱたぱたと足音をさせその場を後にするラピス。

 

「――あ、おい! これ忘れて――」

 

 着たのは上下とマントのみで、長手袋とブーツを忘れてしまっている。

 俺がそれに気づいて声をかけるも、既に彼女は二階へ上がってしまった後であった。

 

「……これ、洗っていいもんなのか?」

 

 黒い長手袋は、何らかの滑らかな素材で出来ており、そのまま洗濯機に放り込んでいいようなものには思えない。

 それに、手首には羽飾りらしき装飾もある。

 洗濯機で洗濯してしまえばボロボロになってしまうだろう。

 そしてもう一つ、ブーツの方はといえば。

 

 他の衣服と同じく黒づくめのニーハイブーツは、これまた高級そうな素材で設えられている。

 というか、そもそもこういった靴をどうやって洗えばいいのか、俺には皆目見当がつかない。

 小学生の運動靴とはわけが違うのだ。

 そんなことを考えていると。

 

 ブーツを手に持ち考え込む俺の鼻に、クッキーのような匂いが届いてくる。

 ……今日散々嗅いだ、あの匂いだ。

 そういえば、ブーツってのは物凄くムレるという話を聞いたことがあるな。

 しかもあいつはずっと素足だ。それもこの三日ずっと履きっぱなしとくれば……

 

「……」

 

 俺の脳裏に、冒険心に似た感情が芽生える。

 

「――いや、何考えてる。そんなことしたらマジもんの変態だぞ……」

 

 ………

 ……

 …

 

「ほら、手袋はそのままにしといたが、ブーツはとりあえずファブっといたからな」

「……ふぁぶ……? ――いや、そんなことより汝よ、妙に時間がかかったのではないか?」

「――ん、ん? ああ、その、消臭剤がなかなか見つからなくてな」

「……んむぅ……汝がそう言うのならばよいのじゃが……」

「――そ、そんなことよりほれ、話の続きだ。何か案があるっつってただろ」

 

 俺はこころなしか早口になり、ラピスに話を急がせる。

 何もやましいことは無いのだ。

 妙な勘繰りはやめてほしいものだな。

 

「うむ。わしはこの三日間、何か方策がないものかと考えを巡らせておった」

「以外に殊勝じゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

「何を言うておるか。我が主の心を安んじんと、己が力のことを後回しにしてまで思慮する健気な奴隷のこと、少しは労わってやろうとは思わぬのか?」

「そりゃ、これから次第だな」

「なんとも厳しい主じゃことよ……。して、わしの案というものはな、汝よ。まず先に尋ねよう。この問題の根底にあるものは何じゃと思う?」

「何って……お前を人の目に触れさせないために隠し続ける必要がある……ってところだろ。分かり切ってることじゃないか」

「うむ、うむ。そこじゃよ。その前提が無くなれば、問題は一気に解決するのではないか?」

「……話が見えねえぞ。勿体ぶった言い方はやめろ」

「――つまりじゃな、わしの案というのは単純じゃ。汝の学び舎の一生徒となるのじゃよ。――このわし自らがな」

「……」

 

 開いた口が塞がらぬ、とはこのことだ。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 ややあって、俺は呆れたように言う。

 

「むっ! なんじゃ、何ぞ不満でもあると?」

 

 対するラピスは、明らかに不服そうである。

 こいつまさか、本気でそれが可能だとでも思ってるのか?

 

「――不満とかじゃなくてだな、そんなことできるわけないだろ。手続きやらなんやら、一体どうするつもりだ? 学校に入るとなりゃ、当然生まれや育ちも報告する必要がある。異世界の神様だって言って、んなことが通ると思うのか?」

 

 俺のそんな、当然の反論を、ラピスは一蹴する。

 

「まったく、くだらぬことを憂慮しおって。そんなことに気が回らぬわしじゃと思うのか?」

 

 ……思う。

 と言葉に出せば、どうせこいつはまた不貞腐れるんだろう。

 

「とりあえず、言葉にせなんだのは正解じゃと言うておくぞ?」

 

 ……目ざとい死神様には、俺の考えなどお見通しであったようだ。

 

「わしはな、汝が昼、食事を摂っておる間、汝が通う『学校』とやらについて色々と調べて回っておった」

 

 ――そういえば、昼休憩の時はこいつの気配がなかったな。

 俺が知らない間に、そんなことをしてたのか。

 

「この三日、調べを進めておったが、丁度今日のことじゃ。汝らに色々と偉そうに話をしておった連中が集まる場所を突き止めたのはな」

 

 こいつが言っているのは職員室のことだろう。

 いくら透明化しているとはいえ、随分と思い切ったことをする。

 

「さらに隣接された部屋には、組織の長らしき者がおった。それら二つの部屋に置かれておった書物に一通り目を通したわしは、この案を思いついたというわけじゃ」

「色々と言いたいことはあるが……お前、昼休憩はたった45分だぞ。そんな短時間で読める量なんてたかが知れてるだろう」

「はっ……」

 

 俺の言葉を受けたラピスは、完全に馬鹿にした呈で鼻で笑う。

 その顔付きはとてつもなく憎たらしいもので、俺はつい手が出そうになるのを必死で堪える。

 

「あまりわしを見くびるでないぞ? 我が死神の目にかかればな、一度見さえ(・・・)すれば、書かれておる内容を一字一句記憶することなど何でもないことじゃ。第一、そのあたりは我が君にも既に実感としてあるはずじゃがの?」

 

 ――言われてみれば、思い当たる節はある。

 俺は正直、頭の出来はそれほど良くはない。

 成績はまあ、よく言って中の下、といったところだ。

 当然記憶力だってそこまでいいわけじゃない。

 しかし、この三日間というもの、確かに俺の記憶力は目に見えて向上していた。

 具体的には、教師が話すその内容が、ノートに記さずとも全て記憶に残っている。

 さらには、開いた教科書のページの内容だって、今すぐそら(・・)で言えと言われれば可能だ。

 

「……まあ、その辺は分かった。――で、具体的にどうするつもりなんだ」

「うむ。計画というのこうじゃ。まず――」

 

 ………

 ……

 …

 

 朝の教室の中で、俺は一人、椅子に座り渋い顔をしていた。

 めっきり冬も深まった中で、まだエアコンの温風も十分に行き渡っていない室内は凍えるほど寒く――そのせいで、というわけではない。

 昨日の晩から今まで、俺は不安と緊張でロクに眠れなかった。

 だというのにあの馬鹿(・・・・)は相も変わらず熟睡していたようで、深夜になりやっと瞼が落ち、僅か三時間程の睡眠から目覚めた俺の上に、またも尻を向けた格好で上に乗っかっていた。

 なので俺も同じく、遠慮なしに奴のケツをひっぱたいてやった。

 流石に二回目ともなるとそれが俺の仕業であると気付いたようだが、文句を言いたいのはこちらの方である。

 

 とはいえ、今俺が苦い顔をしているのは、そんな些末なことを思い出しているからでもなく、もっと重要な心配事があるからなのだ。

 ――それは、ここ数日間ずっと俺の傍にくっついている、(くだん)の人物の姿が無いことに起因する。

 

「夢野。お前珍しく早いと思ったら随分暗い顔してんな、大丈夫か?」

「一ノ瀬……」

 

 仏頂面を続ける俺へ突如声をかけてきた男。

 一ノ瀬 敦(いちのせ あつし)。俺の数少ない友人の一人であり、小学校時代からの腐れ縁でもある。

 陸上部に所属する一ノ瀬は、朝練終わりなのだろう、やや汗ばんだ顔を俺に向けている。

 

「いや……なんでもない。ほら俺、朝弱いからな」

「……そうだったっけ? いや確かにお前、学校来んのいつもギリギリだけどさ。前に一回俺が聞いたらお前、家が近いからつい限界まで寝ちまうんだって言ってたじゃんか。低血圧だとかそんな話は聞いたことないぞ」

「今日突然そうなったんだよ」

「……なんだそりゃ。まあいいや、もうSHR始まるから戻るわ」

 

 そう言って、一ノ瀬は自分の席まで戻る。

 丁度そのタイミングで始業のベルが鳴り、やや遅れて担任が教室に入ってくる。

 ……つい数週間前までは、これが当たり前の光景、変わらぬ平和な日常であったはずなのに。

 

 SHRが終わり、一限目の授業が始まる。

 がしかし、俺は教師の話など全く耳に入っておらず、頭の中は別のことで一杯だった。

 

 ――話は、昨日のあの時点に遡る。

 ラピスの話というのは、以下のようなものだった。

 まず、学校が誰かしかを転校生として迎え入れる場合、まず転向前の学校からの書類――その生徒の詳細が記されたものが必要となる。

 それに市の教育総務課とのやり取りなどを通じた後、どうたらこうたら。

 このあたりは正直、何を言っているのかさっぱりだった。

 しかしラピスの方は、今まで市役所にすら行ったことがないくせに――やけに自信満々に、流暢に一連の流れを解説していた。

 何故かと問えば、一番偉い人間らしきものが部屋の中一人で居たので、軽い催眠をかけて聞き出したのだという。

 ……校長もとんだ災難だったな。

 

 粗方必要なことを聞き出した後、必要な書類を死神の力で偽造し。

 更に校長の記憶の一部を書き換えることで、本来存在するはずのない転校生を作り出した――

 

「――っておい! お前、俺が知らない間にそんなことやってやがったのか!? 校長は大丈夫なのかよ!?」

「精神操作はかなりの力の消費を伴うがの、これからずっと透明化を続けるよりはマシじゃ。言わば、先行投資というやつじゃな。――なに、操作といってもごく低級なものじゃ。その後の精神に影響などはない」

 

 まるで悪びれず様子もなくそう言い放つラピスを前に、俺は頭を押さえつつ、言った。

 

「大体お前……もう手続きは終わらせたって……俺はまだその案によしとも何とも言ってねえぞ。勝手に――」

「ほう? ならば我が君よ、汝にはわし以上の妙案があるとでも? いやいや、さすがは我が主。こんな奴隷の愚案など一蹴する、さぞ素晴らしい一手を用意しておることじゃろうな。いやぁ、これは余計な気を回してしまったようじゃ。して我が君よ、汝が考える秘策とはなんじゃろうか? ぜひ聞かせて頂けませぬかの?」

「ぐ……」

 

 こいつ……!

 もちろんそんな案などあるわけがない。

 そしてそのことはこいつも重々承知のはず。

 それを分かっていて、俺をからかっているのだ、こいつは。

 この腹立たしいニヤけ顔を見れば一目瞭然である。

 

「くっそ……それ、本当に大丈夫なんだろうな」

「わしを信じよ。事前準備に抜かりはないぞよ」

「いや、それはまあ……もういい。もうやっちまった後だからな。それ以外のことだ。生徒になるなら必要なものも結構あるぞ。パッと思い付くのは……そう、制服とか――いや、これはお前の力でどうにかなるか」

「うむ、造作もないことよ。……ほれ、どうじゃ? 帰り際に見かけた者の一人をそのまま真似てみたぞ」

「……」

 

 瞬時に身に纏う衣服を様変わりさせたラピスを見た俺は――不覚にも、息をすることすら忘れてしまう程の衝撃に見舞われる。

 深い紺色のブレザーに、緑と黒のチェック模様のスカートという、特に特筆すべき特徴などない、ありふれた制服姿。

 がしかし、元々の顔の造形が整い――いや、整いすぎているため、まるで外国の人形のような、ある種作り物めいた印象すら、学生服姿のラピスからは感じられる。

 学校指定の制服など、これまで飽きるほど見てきたはずなのに。

 着る者が違えばこれほど違うのか、と思わせるものだった。

 さらに黒いニーハイブーツではなくローファーを履いた上の、白いハイソックスを履いた腿とスカートとの間には、褐色の地肌がちらちらと見え隠れしており、何か妙に艶めかしいものを感じさせる。

 ……こいつの肌なんぞ、この数日で散々見てきたはずなのに、何故こうも惹きつけられるのだろう。

 

「……我が君? どうした、何かおかしなところでもあるかの?」

「ああいや……ゴホン! ――ま、まあいいんじゃないのか。しかしお前、角はどうにかしろよ」

 

 都合のいい勘違いをするラピスに、動揺を悟られまいとひとつ咳払いをした後、俺はとってつけたようにそう指摘する。

 

「おお、そうじゃそうじゃ忘れておった。こればかりは透明化させ続けるしかないのう。しかしこの一部分だけであれば力の消費は微々たるものじゃ」

「――はあ、覚悟を決めるしかねえか。そんじゃ、明日からはあれか、同級生として接すればいいんだな」

 

 ……となると、こいつには俺と他人のふりをするよう言い聞かせておかないとな。

 ただでさえ目立つ外見をしているんだ。

 人目のある中で、今までのようなやり取りをするわけにはいかない。

 特に衆人環視の中、『我が君』だとか『ご主人』なんぞと言われてみろ。

 もしそんなことになれば、俺は間違いなく次の日以降登校拒否となるだろう。

 

「いいや、我が君。それはまずかろうよ」

「……ん? どうしてだ?」

 

 ラピスは若干視線を落とし、少し寂しげな表情になる。

 

「……わしとしても、出来る事ならそうしたかったがの。しかし残念ながら今のわしの姿では――汝と同い年、というのは流石に無理があろう」

「……まあ、確かにな」

 

 いくらなんでも、この姿で高校生というのは無理が過ぎる。

 ギリギリ中学生といって通るかどうか――といったところだ。

 

「よって汝の学び舎における、最も年齢層の低い者らが集まる階層にと決めた。……わしが残念じゃと言うたのはこれが原因じゃ。……しかし、このままわしが力を失い続け、汝の命を危うくすることは、わしにとっても望まぬことじゃからな……」

「つまり中一か。……まあ、それならギリギリいける――かな」

 

 少し発育の遅い中学生と思えばまあ、そう不自然でもない。

 それに日本人離れした外見をしていることもあり、そこで誤魔化すことも可能だろう。

 

「なんにせよ、実際にそうなってみないと何とも言えないな……」

「なに、形の上では全く問題ないのじゃ。あとはわしのこの演技力でもってすれば容易いことよ」

「今まで俺以外とロクに喋ったことすらない引きこもりの神様が随分な自信ですな」

「言い方ぁー!」

 

 痛いところを突かれ、ムキになって糾弾するラピスの相手をしていると、やがて妹と両親が帰ってきた。

 そこからはあまり大声で話す訳にもいかなかったので、明日また昼休憩にでもどこかで待ち合わせをし、事の進展を聞き出してから改めて対策を練る、ということで、昨日のところはとりあえずそこで話を終わらせた。

 

 ――そして、一夜明けた今。

 

 俺は深い後悔の念に苛まれていた。

 ラピスとは校門のところで別れたのだが、いざ一人になってみると、もっと詳しい打ち合わせをしておくべきであったという気持ちが強く持ち上がってきたのだ。

 具体的に言えば、ひっそりと目立たず学園生活を送るための方策を、真剣に考えておくべきだった。

 なにしろ――俺はある程度慣れてしまったから自覚に薄れていたせいもあるが――ラピスの外見は、あまりにも目立ちすぎる。

 肌の色や髪色もそうだが、角という唯一の違和感を払拭した姿のあいつは……端的に言って、美少女然としすぎているのだ。

 幼すぎる外見など問題にならないほどに。

 事実、学校までの道程で、老若男女問わず振り返らぬ者はいなかったことが、それを物語っている。

 

 並んで歩く俺の肩身の狭いことといったらなかった。

 男の中には俺に殺意をもった目を向ける者までいたのだ。

 そこで道中、人目がある中ではあまり話しかけたり親しくしないようラピスに言おうとも思ったが、それに思い至った際には既に学校前で、俺は完全にタイミングを逃してしまった。

 

 ……まあ、約束の昼休憩時にでも話せばいい。

 場所は体育館裏の目立たない所だから、そこなら人の目を気にせず話せるだろう。

 

 ――だが、それが分かっていても、俺には一抹の不安があった。

 約束の時間までには4つの授業を挟む。

 そして当然、その合間合間には10分ほどの休憩時間がある。

 俺の不安とは、その僅かな時間にあいつがここにやってきやしないか、というものだ。

 

 いくら話し合っていないとはいえ、そこまで考え無しではないだろう。

 なにしろ冥府の王様であり神様なのだ。それに何万年も生きてきてもいる。

 それくらい、ただの人間である俺が言わなくても――

 心の平衡を保つため、必死にそんな慰めを自分に言い聞かせ続けていると、一時間目の授業が終わった。

 

「……」

 

 休憩時間に入り、三分が経過した。

 未だ奴の気配はない。

 ……やはり、考え過ぎか。

 最近、俺はあいつを馬鹿にし過ぎていたのかもしれない。

 後で会ったら、まあ一言謝ってやっても――

 

 ――若干緊張が緩み、そんなことを考え始めた俺の耳に、バタバタと廊下を走る音が届く。

 近付いてきた足音は、俺の教室の前で止まり。

 ……俺は、死を宣告される前の囚人とはこんな気持ちなのか、などと現実逃避を始めた。

 

 

「我が君! ただ今参りましたぞー!」

 

 

 俺はどこか達観した目で、扉を開け放ったその人物に向け、ゆっくりと振り返ったのだった。

 万に一つの可能性を信じ、恐る恐る視線を動かすも、そんな都合のいいことがそうそう起ころうわけがない。

 振り返った先には、肩で大きく息をしながらこちらを笑顔で見る、予想通りの顔があった。

 

 また、ここまで派手な登場をしておいて、それ(・・)に気を取られたのが俺だけであるはずもなく。

 教室内の視線全てがその人物に注がれるのが、雰囲気で感じられた。

 だが、当の本人はそんな周りの奇異の視線などどこ吹く風で、脇目も振らず真っ直ぐに俺の元まで駆け寄ってくる。

 

「ちょっ……待っ――ぐふっ!」

 

 慌てて椅子から立ち上がろうとした俺へ、両手を広げた姿勢になった女は軽く跳躍すると、勢いをつけたまま俺に抱き着いてくる。

 安定を欠く姿勢になっていた俺は、その勢いをいなす(・・・)こと適わず、女と共に地面に倒れ込んでしまう。

 

「我が君ぃ! 息災であったか!? わしはもう、文字通り半身が()がれたような心持ちじゃったぞ! 我が君もそうであろう……おお、久方ぶりの主のこの感触、匂い……堪らぬ……」

「……」

 

 ――終わった。

 

 俺は、胸に顔を埋め、勝手なことを喚き散らしている女に押し倒された格好のまま、諦念に達しそうになる。

 ここで言う女とはもはや念を押すまでもない――ラピスである。

 がしかし、このままされるがままになっては、いよいよ俺の学園生活は終わりを告げることとなる。

 俺は一念を奮起し起き上がると、コアラのように抱き着くラピスに向け、言う。

 

「……申し訳ないですが、人違いではありませんか?」

 

 苦しい。

 苦しすぎる。

 だが、俺のこの言葉で察してほしい。

 俺たちの関係をつまびらかにしたくないということを。

 俺は必死で、合図のつもりで片目を瞑ってみせる。

 

 ――が。

 

「なにをつまらぬ戯言を言うておるのじゃ。冗談でも笑えぬぞ? それよりほれ、久方ぶりに再開した愛すべき『奴隷』に向け、何か言うべきことがあるのではないか?」

 

 余計事態が悪化した。

 周囲の視線がラピスから俺に動いたのが感じられる。

 周りを窺えば、クラスメイトの俺を見る目は――まるで犯罪者を見るそれ(・・)であった。

 そして、その中には。

 

「……!」

 

 俺が秘かに、ちょっといいなと思っていた女子の姿が。

 彼女の目は、汚らわしい畜生か何かを見るが如き、残酷な色を携えていた。

 俺はその瞬間、全てをかなぐり捨て、叫び声を上げて暴れまわってやろうという気を起こしかけた。

 そして、そんな俺の自棄を止めたのは。

 

「……おい、夢野」

「一ノ瀬ッ――」

 

 戸惑いながらも話しかけてきたのは、俺の友人、一ノ瀬である。

 この上友人にまで絶交されようものなら、俺はいよいよ心の平衡を保つことはできないだろう。

 返事を返すより前に言葉を発したのはしかし、俺に抱き着いたままのラピスであった。

 

「なんじゃ汝は。我が君の知り合いか? 我等が逢瀬を邪魔だてしようというか? ならば――」

「――うおらぁ!」

「じゃわあ!?」

 

 俺は一喝と共に、ラピスの脳天に渾身の拳骨を叩き込む。

 短い悲鳴を上げて俺の胸から降りたラピスは、苦しげに頭を両手で(さす)り始めた。

 

「……う、うぬ? ……あーえっと……夢野。説明してくれるか? なんでお前、中学生――しかも外人の女子と知り合いなんだ?」

「一ノ瀬ぇ……!」

 

 持つべきものは友達。

 心の友という、どこかのアニメキャラが言っていた言葉が俺の胸に去来する。

 これは千載一遇のチャンスである。

 汚名を返上するならばここしかない。

 

「――あ、アレだ! この子転校生みたいでな!? 今日学校行く途中に偶然話しかけられて!」

「わ、我が君、一体何を――あじゃああ!?」

 

 ラピスの頬を思い切りつねりあげ黙らせつつ、俺の頭は高速回転を始める。

 

「そ、それで――えーっと……そ、そう! それでな、なんか日本に来てまだ日が浅いらしくてな! 言葉遣いとかも変なのはほら、そのせいみたいなんだよ!」

「そ、そっか……でもお前ら、今日会ったばかりにしちゃやけに親しげじゃないか?」

 

 俺の勢いに飲まれつつも、我が親友はなんとか会話を続かせようとしてくれる。

 これはまず間違いなく、クラスメイト達から今後ハブられることのないようにという心遣いあってのもの。

 有難くて涙が出そうだ……

 

「あーいや、それはだな。外国から来てから今まで友達が一人もいなかったらしくてな、ちょっと舞い上がってんだろ。……ははは、いやぁそれにしても外人ってのはコミュニケーションの取り方も違うよなぁ! 驚いちまうよ!」

 

 ――相変わらず苦しいが、なんとか話は繋がった。

 この話に信憑性を持たせるため、今後何か方策を練らなくてはと思っている最中、またもぞろ余計な茶々を入れようとする者がある。

 

「お、おい、我が君一体何を言って――」

「おーっと! 休み時間もそろそろ終わりだな! ほら君、そろそろ戻りなさい! 高校と中学は別の棟なんだから急がないと授業に遅れるよ! ――ほれ、さっさと行け!」

「え、ええ――えええ……? わ、わがきっ」

「それじゃあな!」

 

 俺は口早に捲し立てつつ、ラピスの背を強引に廊下まで押し移動させると、音を立てて教室の扉を閉じる。

 

「いやみんな、お騒がせしました。ほら、俺たちも次の準備しないとな? ――は、はは……」

 

 誤魔化せたかは怪しい。

 ……怪しいというか、全然ダメな気がする。

 周囲の刺すような視線の中、俺はよろよろと自分の席に向かう。

 そしてその途中、一ノ瀬が横切った俺の背に声をかけてきた。

 

「……夢野。後で詳しく話、聞かせろよ」

「……もちろんだ。助かったよ、一ノ瀬……」

 

 ……今度、こいつには飯でも奢ってやろう。

 

 ――それから休憩時間になる度、俺は教室前で奴を待ち構えることにした。

 案の定ラピスは毎回姿を見せ、その度にひと悶着起こしつつも、なんとか俺は奴を撃退し続けることに成功した。

 そんなことを三回繰り返した後、やっと昼休憩の時間がやってきた。

 約束では体育館裏に集合ということになっているが――

 

「――あっ!?」

 

 俺は、ここにきて自分がとんでもないミスを仕出かしていることに気付いた。

 ――あいつ(ラピス)に、肝心のその場所がどこかということを伝えていない。

 急に頓狂な声を出した俺を、クラスメイト達が訝しんだ目で見る中、一体この後どうすればよいか、俺は必死に思考を巡らせる。

 

 ……しかし、そんな思慮の時間は、すぐさま終わりを迎えた。

 

「我が君ーっ! ”たいいくかんうら”とは一体どこじゃろうか!? 人気のないところで話をすると言うておったが、わし一人ではとんと分からぬでな! 案内してくれい!」

 

 まだ授業が終わって数分も経っていないというのに、大声を張り上げながら教室内に入ってきたラピス。

 そして同時に、彼女の言葉を聞いたクラスメイト達の囁く声もまた、俺の耳に届く。

 

「……人気のないところでって……夢野あいつ、あの子に何するつもりなんだ?」

「何も知らない外国の子に……ていうかあの子、本当に中学生? 小学生じゃないの? ……夢野くんて、ロリコン? ……きもっ」

「……何にしろ最低だよね。死ねばいいのに」

 

 ……爆発寸前だった俺の精神は、ついに限界を迎えた。

 

「――あああああ!!」

 

 頭を抱え、叫び声を上げる俺を皆が蔑視の目でもって見つめる中、俺の肩に手を回し話しかける者が一人。

 

「――夢野。丁度いいじゃないか。ここでメシ食いながら話、聞かせてもらおうか?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

昼休み~放課後

「おい牧田、わりーけどちょっと机貸してくれるか? 三人分くっつけたいんだわ」

「ん、いいぜ」

「ありがとな。――っと。よっしゃ、じゃまあ、メシ食いながら話そうか」

 

 一ノ瀬は言いつつ、クラスにある机を三つ、T字状に並べる。

 俺がそれを手伝っている間も、周囲からの声は止むことがなかった。

 

「――朝教室に来た子だよ、ほら」

「すっごい綺麗な髪――銀髪? 染めてるわけじゃないよね?」

「クッソ可愛いなおい……目、デカっ」

「あの肌焼いてんのかな? 地肌?」

「夢野殺す」

 

 ……何か物騒な言葉が聞こえた気がする。

 

「周りのギャラリーも待ちきれないみたいだしな、はじめよっかね。――えっと、君……あー、そうかまずは名前だな。君、名前なんての? 俺は一ノ瀬っていうんだ。んで、こいつの友達」

「うむ、我が君の友人ともなれば名乗らぬわけにもゆくまい。わしの名はサナトラピスという。『タヒニスツァル=モルステン=サナトラピス』じゃ」

「――ぶっ!?」

 

 俺は落ち着くため、口に含んでいた茶を吹き出してしまう。

 ――こいつ、何考えてやがんだ!?

 

「……おい、きったねーなぁ。なんだよ夢野、どうしたんだ」

「ごほっ! ――い、いや、なんでも……」

 

 ……いや、確かにこいつの外見で山田だとか田中だとか、そういう日本人名は似合わないが……

 それにしたって、普通本名をそのまま使うか?

 そりゃ、この世界じゃこいつのことを知ってる奴なんていないだろうし、偽名も考えてたわけじゃないが。

 

「そっか。しかし舌噛みそうな名前だよな。タヒニスツァルってのはちょっと発音し辛すぎるからさ、サナトラピスちゃんって呼んでいい?」

「その呼び方には多少嫌な思い出があるのじゃが……まあ、よかろう」

「ありがとね。そんで君、どこから来たの? 日本人じゃないよね?」

「うむ、言うまでもない。わしは冥――」

「名前言われても俺たちじゃ分かんないような小さな国から来たんだってよ!」

 

 確信した。

 ――こいつ、完全に舞い上がってしまっていて、後先を考えてモノを言っていない。

 

「――なんだよ夢野、いきなり大声出すなよ……。ま、いいや。そんでさ、サナトラピスちゃん。朝こいつが言ってたのはマジなん?」

「ん? 何がかの?」

「いやほら、朝に偶然会ったって話。それにしちゃ随分仲良さそうじゃん? いきなり抱き着くなんて」

「それは当然じゃ。なにしろわしは我が君の所有物であるでな」

 

 ――ざわっ……

 

 周囲の空気が一変する。

 女子からの視線はますます侮蔑を伴ったものになり、男子たちからの殺気はより一層俺を震え上がらせる。

 

「……夢野」

「……はい。なんでしょうか」

 

 流石に一ノ瀬も、苦虫を噛み潰したような顔になっている。

 俺は、そんな友人の顔をまともに見れず、出てくる言葉も自然と敬語になってしまう。

 

「……お前よ。確かに信じらんねーくらい可愛いけどな、まさかマジでこんな小さな子を言いくるめて……だとしたらお前、友達とはいえ流石に引くぞ……」

「なわけねーだろが! 大体俺はこんなガキに――あっ……」

 

 立ち上がって抗弁しようとした俺の目に、ある女性の姿が目に入る。

 つい先ほど言ったように、俺が少し好意を寄せていたクラスメイトだ。

 彼女の目は先刻よりも更に厳しくなり、畜生どころか汚物を見るようなものにまで変貌していた。

 ……泣きたい。

 いや、今からでもまだ挽回は可能なはずだ。

 今すぐに事を起こせば、あるいは――

 

「あ、あれ? サナトラピスちゃん? どしたん、そんな怖い顔して」

「――え?」

 

 一ノ瀬の声に、俺が視線を戻すと。

 何故かそれまでの笑顔から、急に不機嫌そうな仏頂面になったラピスが、俺を睨みつけている。

 

「――おい、どうしたラピ――」

「ひっ……!」

「――は?」

 

 俺が声をかけようとすると、やにわにラピスは表情を一変させ、椅子ごと後ずさる。

 その顔には、はっきりとした恐怖の色が張り付いていた。

 

「……も、申し訳ありませぬ! (あるじ)様を差し置いて、わし如きが調子に乗って喋りすぎたこと、まこと反省の至りにてございますれば――ど、どうかお許しくだされ!」

「おまっ……おい、なにを――」

「朝に受けた痛みもまだ癒えておらぬのですじゃ……尻が腫れ上がるほどの折檻はもう……」

「ばっ……! おまっ、今それっ――」

 

 時すでに遅し。

 この上さらに俺は、暴力で幼女を従わせている最低男にまで成り下がってしまった。

 

「オイオイオイ」

「逮捕だわアイツ」

「夢野殺す」

 

 周囲の声は、もはや俺の耳に届くことを隠す素振りすら見せない。

 そして、一ノ瀬も。

 

「……おい夢野、マジなら流石に俺でもフォローしきれねえぞ?」

「お、おいおい一ノ瀬くん! そんな真剣になるなって! 冗談に決まってんだろ、ほら、外国人あるあるの過激なジョークってやつだよ! ――な、ラピスちゃん!?」

「……さて、どうですかなぁ? くすくすくす……」

 

 これ以上ないほどに頭にくるニヤけ面で、ラピスは嘲笑と共に曖昧な返事を返す。

 ――やはり、先ほどの豹変は完全に演技だったのだ。

 帰ったら覚えとけよ、こいつ……!

 

 だがしかし、そのラピスの笑いは同時に、彼女の言葉が冗談であることを一ノ瀬に分からせることに成功したようでもあった。

 一ノ瀬はやや表情を崩し、やれやれとばかりに言葉を発する。

 

「――ま、そうだろうな。今まで女の噂なんかこれっぽっちも無かったお前が、んな大それたこと出来るわけねえか」

「そ、そうだって! ほれ、話もいいけどさ、そろそろメシも食おうぜ!」

 

 これ以上ラピスを交えて話を続けても、何も事態は好転しない。

 こうなればさっさと昼飯を済ませてしまい、こいつには一刻も早くご退場願おう。

 

「……」

「――あれ? サナトラピスちゃん。君、弁当とかは?」

「あっ……!」

 

 今日何度目のミスか。

 俺は、ラピスに昼食を渡しておくことを完全に忘れていた。

 やはり、昨日の今日でというのは無理がありすぎだぞ……

 

「うむ。今日は色々と慌ただしかったからの。つい忘れてきてしもうた」

 

 ラピスはあっけらかんと言い、一ノ瀬が返答を返す。

 

「ありゃ、そりゃ悪かったね。そんじゃ今からでも学食行くか。それか購買でパンでも買って来る?」

「いいや、それには及ばぬよ。――のう、我が君よ?」

「……は?」

 

 またぞろ妙なことを始めるのかと俺が身構えると、ラピスは奇妙な真似を始めた。

 俺に顔を向けたまま目を瞑ると、何故か口を大きく開けたのだ。

 ……まさか。

 

「……おい」

「……」

 

 ラピスは片目だけを薄く開け、何か合図するような視線を向ける。

 ――言葉にしなくともわかる。

 これは、言う通りにしないとまた、俺にとって不利なことを言うぞ、という脅しだ。

 

「ぐっ……! くっ……」

 

 俺は悔しさのあまり震える手で、妹手作りの弁当からひとつ、卵焼きを箸で掴み、ラピスの口にまで運び込んでやる。

 ラピスはそれをゆっくりと咀嚼しながら、満面の笑顔になる。

 

「うむぅ~! 我が君の手みずからとなれば、美味しさもひとしおじゃのう!」

「……夢野お前、いつの間にそんなコマシ野郎になっちまったんだ……?」

「違う……! 違うんだ……!」

 

 

「夢野殺す」

「あ、俺も殺すわ」

「俺も」

 

 ………

 ……

 …

 

 ――そして、針の筵のような昼休憩が終わった。

 結局ロクに誤解が解けないどころか、逆に悪化してしまったような気さえする。

 俺はラピスとの別れ際、頼むから午後は休み時間の度に来ることのないようにと頼み込んだ。

 ラピスはなかなか首を縦に振らなかったが、ラーメンに餃子も付けると言って、やっと折れてくれた。

 仮にも主従関係にあるのに、俺が頼む立場とは一体どういう了見なのだと思わないでもないが、とにかく今日を乗り切ることが先決である。

 

 

 その後約束通り、放課後まで奴が俺の前に姿を現すことは無かった。

 このチャンスを利用し、一ノ瀬との雑談という体で俺は、クラスメイトの誤解を解くことに必死になった。

 わざとらしいほど他人に聞こえるよう大声で話し、とにかく全てはあの転入生の勘違いとおふざけであると、俺は殊更に強調して言った。

 果たしてその成果がどれほどであったかは窺い知れないが、何もやらないよりはマシであろう。

 

 そんな俺の必死な弁解の時間は過ぎ、やっと一日の終わり、放課後に至る。

 俺はやっとこの地獄のような一日から解放される安堵から、長い息を吐き出すが。

 

 ――この時の俺は気付いていなかった。

 今日の学校生活はまだ終わっておらず、最後のオオトリを控えているということに……

 

 ………

 ……

 …

 

「おい夢野。どうしたんだ、んな急いで」

「あーいや、ちょっと用事がな……」

「もしかしてあの子関連か?」

「……ああ。でも勘違いすんなよ? 別に変なことしようっていうんじゃ――」

「わかってんよ。外人さんだかんな、友達になったなら色々教えてやれよ、責任持ってな」

「重い責任もあったもんだ……」

 

 一ノ瀬と別れた俺は、教室から出ると、目的の人物を待つ。

 休憩時間には5分と待たず来たくせに、いざこちらが待とうと思っていると中々姿を現さない。

 スマホで確認すること10分少々。

 ようやく、ラピスがこちらに走ってくるのが見えた。

 

「我が君! いや申し訳ない、周りの者らがなかなか離してくれんでの」

 

 ラピスは肩で息をしながら、謝罪の言葉を述べる。

 あまりこの場に留まり続けたくなかった俺はラピスを促すと、とりあえず教室から離れるように歩き始める。

 そして階段をひとつ降りたタイミングで、俺は声をかけた。

 

「……お前には色々と言いたいことがあるが、まあそれは帰ってからにしよう。――なんだ、離してくれなかったって。早速友達でもできたか?」

「う~む……我が君も知っての通り、わしにはこれまで友人など居なかったものでな。あれがそうかと問われても判断しかねるの……」

「ばっか、友達なんつーのはそんな難しいもんじゃないんだよ。そいつらはお前に話しかけてくるとき、嫌そうな顔をしてたのか?」

「……いいや。――どころか、嬉々としてわしを質問攻めにしてきおった。やれ生まれはどこだの、肌の色は生まれつきなのかだの、今どこに住んでるのかだの――」

 

 そう言うラピスの表情は、どこか困惑した色を湛えている。

 長いこと人と関わることを夢見ていたのだから、素直に喜べばいいものを。

 だが、その前に俺は、ひとつ言及しておかねばならない点を彼女の台詞から見つける。

 

「おいちょっと待て。生まれって……それに住んでるところだと? お前、なんて答えたんだ?」

「ん? 生まれについては適当な国名をでっちあげておいたぞ? そんな国は聞いたことがないと言われたが、元々の言語ではそう言うのじゃ、この国では何というのか知らぬ、と答えたらそれ以上の追及はしてこなんだ。今の住処についても同様じゃ。ずっと遠い所であるとだけ言って誤魔化しておいたぞ」

「――てめぇ、じゃあ昼休みのアレは……」

「いやぁ、困り顔の汝がその、あまりに可愛らしかったものでな? まあちょっとした出来心というものじゃ、許せ許せ。――くかかっ!」

「くかか、じゃねえんだよ! てめえ全部わざとだったのか!」

「まあまあ、そう激高するでない。ほれ、周りの視線を集めておるぞ?」

「――くっ……てめぇ、ほんと覚えとけよ……」

 

 家に帰ったら絶対泣かす。

 俺はそう心に決めると、とりあえずは気を取り直し、話を戻す。

 

「――ま、でもよ。良かったじゃねえか」

「ん、どういう意味じゃ」

「友達ができたことがだよ。お前、ずっと人と喋りたかったんだろ? ここじゃ間違ってもお前を殺そうとかいうヤツは居ないからな。こうなったら素直に楽しめよ。俺以外ともな」

「……そういえば、そんなことも言ったの」

「……?」

 

 どうも要領を得ない返答だ。

 俺が訝しんでいると、ラピスは鼻で笑う。

 

「――はっ。今となってはそんなもの、どうでもよいことじゃ」

「おい……」

「わしにとり、もはや大事なことなど一つしかない。その他あらゆる事物は全て下らぬ、取るに足らぬことじゃ」

「なんだよ、そりゃ。何万年もずっと待ち望んでたこと以上に大事なもんなんてあんのか? それもこんないきなり」

「……本当に分からぬのか?」

 

 ラピスはジト目になり、俺に視線を送っていたが。

 やがて諦めたように溜息をつくと、やれやれとばかりに手を振りながら言う。

 

「はあぁ~……。まったく、鈍いというか、朴念仁というか……しかしそういうところも含め、わしはすっかり参ってしまっておるのじゃからな。愚かしいのはわしも同じじゃのう」

「――なんかお前、そこはかとなく俺を馬鹿にしてねえか?」

「いいええ。そんなことはありませぬよ、我が君」

 

 ……やはりなにか馬鹿にされているような、見下されてるような気がする。

 

「……ったく……んじゃ先帰ってろ。花琳はまだ帰ってないと思うが、一応玄関から部屋に戻るまでは透明化しとけよ」

「何を言うておる。一緒に帰ればよいではないか」

「部活があんだよ。もう二日も休んでっからな、いい加減顔出しとかないと鈴埜にどやされちまう」

「……」

「おい?」

 

 急に目を細め、表情を消したラピス。

 そして何を思ったか、この衆人環視の中、俺に体を預け腕を組み始めた。

 

「――おっ、おい、馬鹿お前、なにを――」

「わしも行く」

「はぁ!?」

 

 俺は恥ずかしさから腕を振り、ラピスを振りほどこうとするも、がっしと腕を絡みつかせたラピスはそれを許さない。

 

「お前、何言ってんだよ! これ以上ややこしくなるような――」

「行くったら行くのじゃ! それともなんじゃ、わしをあの女のところまで共に連れてゆくことに、何ぞ後ろめたいことでもあるのか!?」

「いや、そういうことじゃなくてだな――っていうかお前、なんでそんな必死なんだよ!?」

「必死になどなっておらぬわ! 何も問題なければよいじゃろうが! ほれ、行くならさっさとせい!」

 

 その顔があまりにも真剣なので、俺は腕を振りほどくことは諦め、こうなればとっとと目的地まで急ぐことにした。

 ラピスはそれからずっと不機嫌そうな仏頂面を続けたままで、しかし身体は俺に密着させた状態を解こうとしない。

 何なんだ、本当……結局腕も離してくれないし。

 

「……それで、具体的に何をしに行くのじゃ」

 

 俺の腕にべったりと張り付いたまま、ラピスは歩きながら、変わらず不機嫌そうな声を出す。

 周りの好奇の視線に気づいていないのか、こいつは?

 それとも気付いていてこの態度なのか。

 

「だから部活だって……」

「”ぶかつ”というのはあれか、わし以外のおなご(・・・)と二人きりで話すことを言うのか?」

「いや、あのな……」

 

 ――なんとなく、こいつが不機嫌な理由の一端が分かったような気がした。

 一昨日の夜のことが思い返される。

 まさかあれが本気だとは思わないが、それでも俺は釘を刺しておくことにした。

 大体言わなくても分かるだろうに。

 鈴埜のことはこいつも知っているはずだ。

 一日だけとはいえ、部活の間ずっとこいつは透明化して、あの場所に居たんだからな。

 

「二人だけなのは偶然だよ。それに今日は他にもやることがあるしな。ずっと返し忘れてたもんを返さなきゃなんねえ。変な勘繰りはやめろ」

「なんじゃ、やることとは」

「本だよ本。もう二週間以上も前に――」

 

 ……ん?

 

「――そうだ。あの本を読んだ晩だったな」

「ん?」

「お前に初めて会ったのがだよ。……ただ読んだだけじゃなかった気もするんだが……ううん……?」

「……我が君よ。その本とやら、わしに見せて――」

「おい、着いたぞ」

 

 何かラピスが言いかけていた気がするが、とにかくさっさと人目から逃れたかった俺は、それを無視する。

 

「いいか、タイミングを見て鈴埜に紹介すっから、とりあえず外で待っとけ」

「……まあ、よかろう」

 

 不満げながらも、渋々了承したラピスを置いて、俺は図書室の扉を開ける。

 中には、いつもの場所――図書の貸し出し受付となるカウンターの椅子に、鈴埜が鎮座していた。

 これもまた、いつものように他に誰も居ないようだ。

 となれば扉の開閉音で俺のことにも気づいているはずなのだが、鈴埜はこちらを一瞥もせず、黙々と本に目を落としている。

 俺は何か嫌な予感がしたが、努めて冷静に、そして元気よく鈴埜へ声をかける。

 

「う、うーっす、鈴埜!」

 

 少しどもってしまったが、そう違和感は無いはず。

 鈴埜は、視線だけをこちらに向けると。

 

「……どなたですか?」

 

 氷のように冷たい視線でもって、一言だけ漏らした。

 

「う゛っ……」

 

 ――ヤバイ。

 何故かは分からないが、これは相当怒っている。

 本気で怒った鈴埜はこれまで一度だけ見たことがあるが、あの時のことは思い出したくもない。

 

「……お、おいおい。冗談きついなあ鈴埜ちゃん。大事な部員のこと、忘れちゃったのかな?」

「真面目に活動もしない上、二日もサボるような部員など存じ上げませんね。それも仮病まで使って」

 

 ――バレていた。

 昨日俺が体調が悪いから休む、と伝えた時は短く「そうですか」としか言わなかったため安心していたが、恐らくあの時から既に怒っていたのだろう。

 抑揚のない、しかし憤りがはっきりと伝わる声で、鈴埜は言葉を続ける。

 

「そんなにオカ研の活動が嫌なら、どうぞ他の部活にでも移られてはいかがですか?」

「あーもう、ごめん、ごめんって鈴埜! 確かに俺が悪かった! 謝るから許してくれよ! 今度から俺、真面目にすっからさ!」

「何度目でしょうね、その言葉も」

 

 まるで勉強をサボる子供の言い訳と、それを受ける母親の構図のようだ。

 高校生である俺が、中二の女子に謝りっぱなしのこの図は非常に情けないものだが、全面的にこちらが悪いのだから仕方がない。

 言葉に詰まる俺を鈴埜はじっと見据えていたが、やがて溜息をひとつ吐き出すと、呆れたように言った。

 

「……ふう。……もういいですよ、今に始まったことでもないですし。それで、今日からは普通に出られるんですか?」

「あーうん、まあ――」

 

 一応は許してくれる気になったようだ。

 俺は安堵し、返答をしようとするが――

 

「いいや、そうはいかぬ!!」

 

 扉を乱暴に開け放ち、まるで時代劇か何かの一シーンのような担架を切って登場した人物。

 ――説明するまでもない、ラピスだ。

 ラピスは鼻息を荒くしながら、大声を張り上げる。

 その対象は俺ではなく、椅子に腰かける鈴埜にである。

 

「以前から聞いておれば、なんと無礼な女じゃ。もはや我慢ならん! この男を好きにからかっていいのはわしのみじゃ、この匹夫(ひっぷ)めが!!」

 

 ――こいつ、いきなり現れて一体何を言ってやがるんだ?

 せっかく収まりかけた矛を滅茶苦茶にされては敵わない。

 

「おい! お前俺が言ったこと――」

「我が君もなんじゃ! こんな小さな女子(おなご)なぞにへいこらしおって! 情けないとは思わんのか!」

 

 どの口が言う。

 一応設定上では鈴埜よりお前の方が年下扱いなんだぞ。

 

「……先輩。……この方は?」

 

 鈴埜は、ラピスではなく俺に向かい、質問を投げかけた。

 表情は一見変わりないように見えるが、長い付き合いの俺にはわかる。

 ……明らかに、イラついている顔だ。

 

「あーいや鈴埜、こいつは、その……」

「リュウジの奴隷じゃ!!」

「……」

 

 鈴埜の目が細まり、俺に向ける視線はますます鋭くなる。

 

「うっ……! ――こっ、このウルトラバカが!」

「じゃわーっ!!」

 

 俺は彼女の視線から逃げるように横を向くと、原因である人物の頭に、今日二度目となる拳骨を落とした。

 今回のものは一回目より強い、ほぼ本気の一撃だ。

 変わった悲鳴を上げたラピスはへたり込み、続く言葉は震えた涙声になっていた。

 

「ひぃ、ひぃ……。うう……本気で殴らずともよいではないかぁ……」

「……もう一発食らいたいようだな?」

 

 俺は、はぁと握った拳に息を吹きかける。

 ――が。

 

「――先輩」

 

 俺の背に、心腑まで凍り付くような冷たい声が浴びせられる。

 

「はいっ!」

 

 俺はつい気を付けの姿勢になり、まるでロボットのようなぎこちない動きでもってして、首だけを鈴埜の方へ向けた。

 彼女はいつのまにか立ち上がっており、鋭い目で俺を睨めつけている。

 身長で言えばラピスより少し高い程度であるはずの鈴埜はしかし、言いようのない迫力を纏っていた。

 

「そこに正座しなさい」

 

 両腕を胸の前で組み、鈴埜は命ずる。

 

「お、おいおい鈴埜ちゃん。お顔が怖いよ? それにせめて椅子に――」

「正座」

「はい……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

謎かけと横暴、そして盟約

「それで先輩、改めてお聞きしますよ。この方は一体?」

 

 鍔の広い三角帽子を被ったまま、鈴埜は俺を見下ろしつつ尋ねる。

 この視点からだと普段帽子で隠れがちな、彼女の顔の全体像がよく見える。

 鈴埜の髪形は俗にいうショートボブで、前髪は綺麗に切り揃えた、綺麗な黒髪をしている。

 そしてその揃えられた前髪の下に見える両目は、普段はいつも眠たげというか、感情の読み取れぬ色を放つものであったのだが、現在俺を見下ろす彼女のそれは、今だけは誰が見ても不機嫌だと分かるものに変貌していた。

 

 背の低い鈴埜を俺が見上げる形になっているのは、彼女の命令で床に正座しているがゆえ。

 カーペットなどもちろん敷いていないリノリウムの床は底冷えする冷たさで、俺の膝を襲い続けていた。

 

 そんな情けないポーズを俺が強制されていることに、ラピスは我慢ならないと見える。

 鈴埜ではなく、素直にされるがままになっている俺に向かい、ラピスはぎゃあぎゃあと喚き立てた。

 

「こりゃ! なにを言われるままになっておるか、情けない! こんなこむすめなどわしがもごっ!?」

「あー……説明するよ。えっとな、こいつは――こら、大人しくしろ!」

「~~~~~ッ!!」

 

 俺は素早くラピスの頭を右腕で巻き込み、胸元まで引き寄せると、そのまま頭を脇に抱えて締め上げる。

 これ以上要らぬことを喋り出さないよう、俺はそうした所謂ヘッドロックの体勢になったまま、鈴埜へ、ラピスについて放課後までに一ノ瀬にしたような説明をもう一度繰り返した。

 

 二回目ともなれば、一ノ瀬への説明の時よりも説得力のあるものであったと思う。

 もちろん奴隷云々なぞは冗談であるということは、それこそ何度も念を押して説明した。

 ……のだが。

 

「……」

 

 どう説明しようが、鈴埜の表情は一向に晴れることがなく、どころか一言も口を利くことすらない有様だ。

 いや、と言うよりも、そもそも話に耳を向けているのかすら怪しい雰囲気である。

 というのも、先ほどから鈴埜の目線は、俺がラピスを抱え込んでいる部分にのみ注がれている様子であったからだ。

 やはり、俺の言葉だけでは説得力に欠けるということだろう。

 

「――ってことだよな、ラピス」

「ぶはーっ……! い、息が……我が君よ、抱擁は嬉しいが、もそっと力加減をじゃな――ぶっ!?」

 

 仕方なしに少し力を緩めるも、ラピスはまたも要らぬことを口に出し始める。

 俺は再度この馬鹿の頭を抱え込んで黙らせると、ちらと鈴埜の様子を窺う。

 

 ……。

 

 ……やっべぇ。

 後ろにゴゴゴゴって、漫画みたいな文字が見えそうな勢いだぞ。

 それに何か、黒い瘴気みたいなものまで見えてるような気すら……。

 

 ――ん?

 

 ……いや、気がするっていうか……本当に見えてないか?

 黒い煙というか、もや(・・)というか……とにかくそんなものが、鈴埜の周囲から立ち上っているような……

 

「……先輩……」

 

 などと思っていると、やにわに鈴埜の口が開かれる。

 放たれた声はそれまでに聞いたことがない程に低く、ドス(・・)のきいたものであった。

 更に彼女の瞳からは光が消え――

 

「――ってことだよなぁ!? ラピスちゃん!?」

 

 俺は瞬間的に鈴埜から目線を外し、更にもう一度脇に抱えるラピスを開放すると、今度はラピスの目をじっと見据え、殊更に大きな声で念を押す。

 流石にただごとではない雰囲気を感じ取ったのか、ラピスはただたどしいながらも、俺の言葉に同意する。

 

「おおっ!? お、お――う、うむ? その通りじゃ、よ?」

「ほれ、本人もこう言ってるし!」

「……あのですね、先輩。そんなあからさまな――」

 

 怒りに加え、呆れの色すら湛え始めた鈴埜の声を留めるべく、俺は更なる追撃を加える。

 

「おーっと! そうそう! それに今日はお前に大事な用事もあったんだった!」

「――はい?」

「ほれ、これ! 借りてたやつ、今まで返しそびれちまってたからな」

 

 俺は鞄からその(ブツ)を出す。

 例の、彼女から借りていた本だ。

 鈴埜は、しばらく俺とラピス、それに本へと視線を動かしていたが。

 やがて目を閉じると、幾分か普段の調子に戻った声色になり、言う。

 

「……言っておきますが、この話はまたいずれ詳しく聞かせてもらいますからね」

「あ、ああ……で、その、そろそろ立ち上がっても……」

「ふぅ……。はい、もう結構ですよ」

 

 やっと許しが下りた俺は、安堵と共に立ち上がる。

 

「それで、以前部活終わりに仰っていましたよね、先輩」

「ん、いつのことだ? ていうか何をだ?」

 

 立ち上がった俺は、ズボンに付いた埃を払いつつ、鈴埜に目を向ける。

 

「この本のことに決まっているでしょう。先輩は確かに、これを読んだ、と仰いましたよね?」

「……まあ、読んだぜ? ――でもよ、それなんつーか、今までの学術書みたいな難しさは無かったけどな、それでもやっぱ意味分かんなかったぞ。趣味の悪い絵本みたいだったが、一体何について書かれてたんだ?」

「……先輩。それより、この本――最後まで(・・・・)きちんと読まれたんですよね?」

「ん? そのはずだけど……?」

「それでは最後に何が書かれていたかここで言ってみてください」

「そりゃお前――。……ん……あれ……?」

 

 ……おかしい。

 間違いなく最後まで読破した記憶はある。

 それに、忘れようもないものであったことも覚えている。

 

 ……だというのに。

 

「……どうされました?」

「……いや、確かに最後まで読んだのには間違いないんだが……いや、本当だぞ? 今度ばかりは嘘じゃない」

 

 どう記憶を探っても、具体的な内容が頭に上ってこない。

 まるでそこだけを誰かに思い出すことを邪魔されているかのような、そんな不自然さだ。

 

「……覚えておられない、と」

「おっかしいな……結構印象に残ってたはずなんだが……鈴埜、おま――」

 

 俺は、鈴埜に声をかけようとして、その言葉を飲み込んでしまう。

 俺の視界に映る鈴埜の顔――その口角が、不意にニヤリとばかり持ち上がったからだ。

 

「――仕方ありませんね。……今回だけは、その必死な顔に免じて信じてあげてもいいです。――ふひっ……」

「お、おお……そりゃ、ありがと、な……」

 

 元々鈴埜はそんなに普段笑う方ではないが、大体そういう時もごく僅かに表情を変化させるのみで、声を伴うことなど滅多にない。

 それが今回、何故こんなタイミングでもたらされたのか、俺には皆目見当がつかない。

 

 ――それも、こみ上げる愉悦を我慢しきれずとでも言いたげな、こんな引き笑いなど。

 一年以上の付き合いになるが、俺はついぞ見たことがなかった。

 

 俺の不審な視線に気付いたのか、鈴埜はわざとらしい咳払いをしてみせる。

 

「ん――こほっ。……それより、それはかなりの希少な品ですので、とりあえず一度、返して頂けますか?」

「ああ、そりゃもちろん――」

 

 それを断る理由もあるはずがなく、俺は素直にその本を鈴埜へ手渡し――

 

「ちょーっと待てーい!!」

「――ッ!」

「ラピス!?」

 

 まさにその寸前、横から手を出したラピスは俺の手から本を奪い取ると、あっという間にそのまま出入口の前にまで移動してしまう。

 そして更に鈴埜に向け人差し指を差し向けると、何やら妙なことを(のたま)い始めた。

 

「――こすむめ! 貴様の狙いが何であるか知らぬが、勝手なことは許さぬ! これはわしが預かっておくぞ!」

 

 その言葉を聞いた俺は、ついに堪忍袋の緒が切れる。

 これは流石に冗談にしても笑えない。

 

「お前、ふざけてんじゃねえぞ! 冗談で済むことと済まねえことの区別も付かねえのか、バカ!」

 

 がしかし、そんな俺の怒気を含んだ声を聞いても、ラピスは全く意に介さぬばかりか、何故か俺を可哀そうなものを見るような目でもって迎える。

 

「全く、これじゃから……何とまあ、隙だらけなお人じゃことよ。わしがおらねばどうなっておったことやら。いやしかし、おかげでことの一端が見えたわい。朧げながら、の」

「――はあ!?」

「とにかく、我が君よ! 取り戻したくばわしを追ってくるのじゃな! それではの!」

 

 言うやラピスは扉を開け放ち、この場からたちまち姿を消してしまう。

 

「ああもう、何考えてやがんだあいつは! ……すまねえ鈴埜。本は明日必ず返すから、今日のとこは勘弁してくれ! ――おい、ラピス! てめぇどこ行きやがった!」

 

 呆然として立ち尽くす鈴埜を置いて、俺は図書室から出ると、目的の人物を問い詰めんと駆け出したのだった。

 

 ………

 ……

 …

 

「おいラピス! どこだ!」

「そう激高するでない。とりあえず建物の外で落ち合おうではないか。――先に行って待っておるぞ」

 

 ごく近くからラピスの声が届くも、見渡しても姿はない。

 あいつ、さては透明化してやがるな。

 力の無駄遣いはやめろって話をしたばかりだってのに、何考えてやがるんだ?

 

 いずれにせよ、姿が見えないのではこちらとしては為す術がない。

 奴にまんまと乗せられているようで癪ではあるが、俺はとりあえず従うことにする。

 

 校舎から出た俺は、通常の帰宅ルートから一本外れた、人通りのない細道に入る。

 

「……おい、そろそろいいだろ」

「うむ、よかろう」

 

 俺が虚空に向かい口を開くと、それを合図としてラピスは姿を現す。

 

「――まったく、わしがおって命拾いしたのう? やはり汝にはわしがおらねばあじゃあああ!?」

 

 やれやれとばかりにドヤ顔で何がしか宣い始めたこの馬鹿の両頬を、俺はギリギリと捻りあげる。

 

「はじゃあああ! や、やめへ! ほ、ほれる! ほれてひまう!」

「いっそのこと本当に取れちまえばいいのかもなぁ? そうなりゃこのよく回る口も少しは大人しくなるだろ?」

 

 言いながら俺は、ばたばたと抵抗しながら許しを請う死神の言葉を無視し、暫く手を止めなかった。

 流石に最後のアレは限度が過ぎている。

 俺のものならばまだいい。初対面、それも他人の物を奪い去るとは。

 人ではないから、では言い訳にならない。これから人として共に生活するからには、最低限のルールを教え込ませておく必要がある。

 やがて大人しくなってきた頃を見計らい、やっと俺が手を離すと。

 

「ううう……ごめんなさいなのじゃよ……ごめんなさいなのじゃよ……」

 

 頬を擦りつつ、地面にへたり込みながら涙目で言うラピス。

 普段は馬鹿みたいに高圧的で居丈高のくせに、そのくせ痛みには人一倍弱いと見え、少し折檻を受けるとすぐにこうなる。

 多分、素がそもそもヘタレなのだろう。そう考えると普段のあの態度も、その隠れ蓑の意味合いが強いのかもしれない。

 ならば最初から大人しくしていればいいと思うのだが。

 やはりよく分からない死神だ。

 俺は、ぐすぐすと泣いて詫びの言葉を上げ続けるラピスの姿を凝視する。

 

「……」

 

 人形のように整った、美しい顔を歪ませてすすり上げるその表情は、やけに嗜虐心を誘うものがあった。

 あの腐れ天使も、さてはこの顔を見て加減が出来なかったのだろうか。

 ならば多少はその気持ちも分からなくも――いや、何を考えてる。

 

「で、お前……何であんなことしたんだ。一応聞いておいてやる。何か理由あってのことなら許してやらんでもないぞ」

「うっ……そ、そうじゃ! もちろん理由あってのことに決まっておる! ――そも、わしの行動は一から十まで、全て我が君のためを思ってのことじゃと分かっておろう!」

「……いやあ、それは初耳ですなあ」

 

 本当に初耳である。

 こいつには一度、今までの自分の行いを振り返ってみてほしい。

 

「こっ、この……! ――ま、まあよい。……よいか、この本のことじゃが」

 

 言って、ラピスは懐から例の本を取り出す。

 

「お前、それ! さっさと返――」

「黙って聞け。よいか、汝は気付いておらぬのじゃろうがな、全てはこの本が元凶なのじゃ」

「……なに?」

 

 元凶とは、一体何のことだ?

 まさか、ここ最近の出来事全て、この本のせいだとでも?

 続くラピスの言葉は、俺の予想を肯定するものだった。

 

「――まあ、わしとしてはこの本のお陰で汝に出会えたのじゃからな、そう思えば”元凶”と言うのは少し憚られるがの」

「話が見えねえ。なんだ、それなら何か? お前、まさか鈴埜がお前みたいな存在だとでも――」

「いいや、それは無い」

 

 はっきりと、ラピスはそう断言する。

 

「わしが見たところ、あの女はただの人間じゃ。それはまず間違いない」

「……なら、どういうことだよ」

「この本の出所を探る必要があるのう。果たして偶然か、それとも意図的に我が君を呪おうとしたのか。それは分からぬが、そこだけははっきりしておかねばなるまいよ」

「なわけねえだろ。鈴埜はそんな奴じゃ――」

「……何故そんなことが分かる?」

 

 ラピスの目が、すっと細まる。

 その瞳には、はっきりとした怒りの感情が色づいていた。

 

「――この本にかけられた呪いが何であるか、(ことわり)の違うこの世界ではわしにも分からぬが、いずれにせよあの女が汝に危害を加えようとしたことは事実じゃ。そうであろうが」

「いや、だとしてもな――」

「……なんじゃ? やけにあの女を庇い立てするではないか」

 

 どうも話を大げさにしようとし過ぎている。

 鈴埜のオカルト趣味が高じ過ぎて、大方怪しげな場所から、そうとは知らず入手してきたものだろう。

 ――が、ラピスはそうは思ってくれないようだ。

 ラピスは一歩進むと、俺を見上げつつ言う。

 俺を見るその視線はさらに鋭くなり、刺すような勢いすら感じられる。

 

「まさかとは思うが、我が君よ。汝はあのこむすめに何か異な感情でも持っておるのではあるまいな?」

 

 それまでにないような低く重い声で言うや、ラピスは――

 

「――うおっ!?」

 

 やにわに俺の襟首を掴み上げ、首を締めんが如き勢いでもって()じ上げたのだ。

 そうした姿勢のまま、ラピスは今にも食ってかかりそうな表情になり、声を荒げる。

 

「わしは言うたよな? わしがこの世界におる間、他の女子(おなご)に目を向けることは許さぬと。それがただの人間であろうと関係などない。よもや冗談だとでも思うたか?」

 

 あまりの豹変ぶりに、俺は慌てて弁解の言葉を上げるほかない。

 

「い――いや、違う! 何をんなマジになってんだよ! あいつはただの後輩だ、それ以上でもそれ以下でもないって!」

「……」

 

 俺の言葉はラピスの感情を鎮めるには不十分だったようで、赤い瞳をさらに燃え上がらせたラピスの勢いは収まる様子を見せない。

 ならばと、俺は更に言葉を続ける。

 

「――だ、大体だな、あんま言いたくねえが、俺はあいつに好かれてないんだよ。だから仮に、仮にだぞ。もし俺がそんな気持ちを持ってたとしてもだ、あいつにその気が無いんじゃ意味ねえだろが」

「……はぁ?」

 

 この言葉を聞いた途端、ラピスは気の抜けたような声を上げ、と同時に俺の首を締める手の力も僅かに緩む。

 怪訝な、しかし未だに怒りを湛えた様子のラピスは、俺を訝し気に見つめる。

 

「――我が君よ。わしがこんな幼子(おさなご)の姿だからといって、下手な冗談で煙に巻こうとして――」

「だーから! 何言ってんのか意味分かんねえって!」

 

 そもそも、何故ここまで食い下がるのか、俺には皆目見当がつかない。

 今日の一連のやり取りを見ても、鈴埜にそんな気が無いことは一目瞭然のはずだ。

 

 もはや言うべき言葉が見つからず、さぞ情けない顔をしているであろう俺の顔をじっと見つめ続けていたラピスであったが、やがて掴んだ手を離すと、長い溜息をつく。

 その顔は、明らかな呆れの表情を浮かべていた。

 

「……はぁ~……。なるほど、なるほど。わしは汝のことを買い被って――いや、ここまでくるとあれじゃな、むしろ侮っておったと言うた方が正しいの。大した大物であらせられるわ」

「……お、おい? ラピス?」

 

 呆れ顔のまま、訳の分からないことを独り言ちるラピスへ、俺が困惑した声を向けるも。

 

「とはいえ、そんな我が君であるならば、これまで以上にわしが守護してやらねばなるまいよ。いやはや、わしも大変な男に惚れてしもうたものじゃわい」

 

 視線は俺から外し、下に向けたままで、またもよく分からないことを言っている。

 

「がしかし、これではいずれわしが元の世界に帰ってしまう時、汝を一人残して行くのは危険じゃと言わざるを得んな」

「……いや、別にそんな心配してくれなくても……」

「そこでじゃ、我が君よ。わしに妙案があるのじゃが」

 

 顔を上げたラピスは、先ほどの怒りに満ちた表情はどこへやら、いつもの表情に戻っていた。

 そこはまあ、一安心と言うべきなのだが、またぞろ厄介なことを言い出すのではないかと、俺は身構える。

 

「なんだよ……」

「――のう、我が君。その時になれば、わしと共に神になってみんか? なれば神として永遠の命を――」

「断る!!」

 

 どこの魔王かと思ったぞ。

 そのうち世界の半分をやるとか言い出しそうだな。

 

「むっ、即答とは……。悪い話ではないと思うがのう。ならばもう一つの案では如何か?」

 

 驚いた顔のラピスは、断られるとは思っていなかったとでも言いたげである。

 まさか本当にそんな提案に乗るとでも思っていたのか。

 こいつの中で俺という人間は一体どういう評価なのか分からなくなってくる。

 今度はこちらが呆れ顔になる番であったが、そんなことは気にも留める素振りすらなく、ラピスは続けた。

 

「正直言ってじゃな、汝という存在を味わってしもうた今、わしはもはや冥府で再び一人きり、という立場に戻ることに耐えられそうにない。がしかし、半分神の力を得たとはいえ、命の恩人でもある汝をそこまで付き合わせることに一抹の申し訳なさが無いでもない。――そこでわしは今、ふと思いついた」

 

 ――どうせロクでもない思い付きだろう。

 何を言おうが軽く拒否してやる。

 そう事前に思い定めておけば、柔軟な対応も可能というものだ。

 ……しかし、ラピスが続けた言葉は、そんな俺の覚悟など、容易に砕くようなものであった。

 

「汝でなくとも、汝の血を引くものがおれば、わしの寂しさも幾分かは解消されるのではないかとな」

「――お前、んなことが通ると思うのか。なんだ血を引くものって、まさか花琳を連れてくとでも言うつもりか? ――お前、殺されるぞ?」

「何を馬鹿なことを抜かしおるか。あのような小憎らしいこむすめ、こちらから願い下げじゃ」

「あいつも、知らぬところで随分な言われようだな……」

 

 花琳もまさか、自分が死神に連れていかれるなどということを話題にされているとは思うまい。

 

「――そうではなくてじゃな。のう、我が君――いや、リュウジよ」

 

 何故か、例の異世界でのように俺の名を呼ぶラピスは、自らの下腹部に一度目を落とすと。

 

「……汝の子を、共に冥府へ連れて行こうと言うておるのじゃよ」

「――はっ?」

 

 とんでもないことを言い出した。

 俺は聞き間違いではないかと思うが、ラピスの目は真剣そのもので、とても冗談などとは思えない。

 ……いや、ちょっと待て。

 そもそも、俺のって、一体誰との――

 

「いや、子って、お前まさか……」

「如何かの? いずれ一人侘しく朽ちてゆくだけの哀れな死神へ、ひと(しずく)の情けをかけてやろうとは思わぬかえ?」

 

 ……考えるまでもなかったようだ。

 冗談ではない。

 こんな、見た目で言えば中学生というにも苦しいようなガキを相手にするなぞ、どんな鬼畜野郎だ。

 元の姿であればまだしも――

 

「バッカ野郎! てめえ俺を犯罪者にするつもりか! 誰が今の姿(・・・)のお前なんぞと――」

「ほ~う? ならばこの姿じゃ無ければよいと、そういうことじゃな?」

「――あっ! い、いや違――」

 

 妙なことが頭に(よぎ)ったせいか、ラピスに言葉尻を捕らえる隙を与えてしまう。

 見る間に、眼前の死神は満面の笑顔になる。

 

「なるほどなるほど! いや、これは良いことを聞いた! なれば一層のこと、全盛の力を取り戻さねばな! くかか!」

 

 ……一生の不覚!

 予感ではない、確信がある。

 これは一刻も早く訂正しておかねば、いずれ後悔する時が来る。

 

「――お、おい! あのな――」

「言うておくが」

 

 目を閉じた死神は、さらに浮かべた笑顔を強くし、言う。

 

「命あるものが口にした言葉には”力”がある。そして汝の言葉は神との約束と、わしは捉えた。破るようなことがあってみよ、汝の魂は永劫の苦しみに投げ込まれることになるやもな?」

「――こっ、この……悪魔め!」

「くかかかっ! 何度も言わすな、わしは死神じゃ!」

 

 からからと笑いつつ、死神は足取り軽く、俺に背を向け歩き始めたのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後悔、先に絶たず

 並んで家に向かう途中、俺はラピスに声をかける。

 

「……で、結局俺はどうすればいいんだ」

「どう、とは?」

「本だよ、本。意図的だとうとそうでなかろうと、このままそれを鈴埜に返すと不味いことになるんだろ?」

「いいや、それそのものは今や問題ではない。汝にかけられておった呪いは既にあの時、わしが解いておるでな」

 

 ――そうか。

 言われてみればそうだった。

『最後の会話』の前に、俺にかけられている呪いを断ち切った、なんて言ってたっけ。

 まあ、言葉の通りそれが最後、とはならなかったわけだが。

 

「……ん? ならお前、なんで横から奪うなんて真似したんだよ。もう解けてんなら問題ないだろ」

「我が君よ、少しは頭を働かせんか。そうしてしまえば今後同じようなことが起きたとして、事前に対処できるか分からぬじゃろうが。なに、(ことわり)が違おうともわしの力をもってすれば詳細を暴くことなど容易いことよ。……それに、気になることもあるでな」

 

 ラピスは随分と鈴埜のことを疑っているようだが、俺にはどうしてもあいつがそんなことをする人間とは思えない。

 大体、そんな呪いやらなんやらをかけられるほど俺はあいつに恨まれてもいないはずだ。

 それより、こいつは今、妙なことを言ったな。

 

「おい、気になることって――」

「あーっ!!」

 

 俺が聞き返そうとするや、ラピスは突然、頓狂な叫び声を上げる。

 

「そうじゃ、忘れておった!」

「何をだ!?」

「――らぁめんじゃ!」

 

 俺を見つめるラピスの顔は、まさに迫真といった呈そのものをしている。

 

「……は?」

「は、ではないわ!! 約束したじゃろうが! それに――ええと、なんという名であったか……おお、そうじゃ! 思い出した! ”ギョーザ”も付けると、わしはしかと聞いたぞ!!」

 

 ……頭が痛くなってきた。

 つい先ほどまで真面目な話をしていたかと思えば、これだ。

 俺は呆れ顔で――対照的に真剣な表情を浮かべる死神に向かい、言う。

 

「まあ俺が薦めたもんだから仕方ねえけどよ。もしかして、俺があんな匂いのキッツいもんばっか食わせたせいでお前――」

「――その先を口にすれば、どうなるか分かっておろうの?」

 

 ――俺はそろそろ、後先考えてモノを言ったり行動する、ということを心に留めておくべきなのかもしれない。

 結局、約束していたラーメンに餃子に加え、炒飯までこの死神様に馳走する羽目になった。

 

 ………

 ……

 …

 

 中華料理屋を出た時には既に日は落ちかけており、家に着いたのは六時を回るころだった。

 ラピスはすぐさま本の解読に取り掛かると言って、今は部屋でその作業中である。

 そして俺はというと、一階の台所まで降りてきていた。

 

 戸の向こう側からは、トントンという包丁の音が聞こえる。

 俺の目的はその音をさせている人物、妹の花琳であった。

 玄関に靴があったので、先に帰宅していることは分かっていた。

 丁度この時間はあいつがいつも夕食を作っている時間帯なので、俺は迷わずここに向かったというわけだ。

 

 俺の目的とは、妹にある頼みごとをすることである。

 戸を開け、台所に立つ花琳を目に捕らえた俺は、先んじて彼女に声をかける。

 

「おう花琳、ただいま」

「……」

 

 ……あれ?

 さほど広くない室内だ。俺の声が聞こえていないはずがないのだが。

 そういえば、家に帰った時点で違和感はあった。

 俺の帰宅時、あいつはいつも玄関まで出迎えてくれる。

 といっても投げやりな「おかえり」の言葉をかけてくるのみだが、それでもこれまで一度だって花琳が先に帰宅している際、妹がそれを欠かしたことはない。

 些細な違和感であったので、俺も特に気にしなかったのだが……

 

「……おかえり、兄貴」

 

 俺がたじろいでいると、ようやく彼女の口からいつもの言葉がかかる。

 ――が、まな板に乗っている人参を切る手を休めず、目線は下に落としたまま。

 ……これは嫌な予感がする。一度出直して――

 

「――なに、兄貴。どしたのさ、なんか用?」

 

 一歩遅し。退路を断たれてしまう。

 こうなれば、無視して逃げてしまえば却って事態は悪化するだろう。

 それに、花琳がまだ不機嫌だと決まったわけじゃない。

 仮にそうだとしても、俺に対してではないはずだ。

 今日ばかりは前の時と違い、俺に思いつく負い目はない。

 中華料理屋でも、メシを食っていたのはラピスのみで、俺は水しか飲んでいないからな。

 ならばと、俺は当初の目的を遂行することにした。

 

「あー、えっとな。ちょっとお前に頼みたいことがあって……」

「……なに?」

「あっその前に、ほれ。これ、今日の弁当。今日のも旨かったぜ」

「――ん。そこ置いといて」

「ああ」

 

 心なしか、俺から見える花琳の横顔が和らいだ気がする。

 今さら言うまでもないことだが、俺の毎日の昼食は全て、花琳手製の弁当である。

 ちなみに「旨かった」というのは弁当の空箱を返す際に俺が言う決まり文句であり、これを言わないと露骨に妹は不機嫌になる。

 酷いと翌日は日の丸弁当、などという日すらあった。

 

 ――話を戻す。

 頼みごとをするなら、雰囲気が若干緩くなった今であろう。

 

「で、頼みごとってのがな――ちょっとお前に余計な負担を強いることになるんだが……もちろん嫌だったら断っても全然構わないし……」

「回りくどいんだよ。今さら一つ二つ面倒が増えたって変わんないよ、何なのさ」

「いや――そのな、弁当のことなんだが。明日から余分にもう一つ、作ってもらえるわけにはいかねえかな?」

「……はぁ?」

「ああいや、もちろんずっとって訳じゃない。ただ――できれば一か月くらいは……」

 

 何故こんな突拍子もない話を俺が始めたか。

 これには勿論訳あってのこと。

 ――訳とはもちろん、ラピスに関わることだ。

 今日はあいつの昼食を用意し忘れてえらい目にあったが、よくよく考えると昼食問題は割と逼迫した問題だった。

 コンビニか何かで用意するとしても、それを購入する金の出所は当然、俺の財布からだ。

 パン一つに飲み物だけの質素なものだとして、一食200円強。

 それが一か月ともなると、俺の小遣いではかなり厳しい。

 

 ラピスはそもそも食事が必要ないのだから、用意せずともよい――とはいかない。

 そうなれば、あいつはこれからの学校生活で妙な目でもって見られることとなるだろう。

 目立つことは極力避けたいのだ。

 俺としても、今日のような羞恥プレイはもう二度と御免である。

 

 そこで俺が苦肉の策で思いついたのが、今回の頼み事であった。

 これが通れば、当座は凌ぐことができる。

 もちろんずっと妹に負担をかけるわけにもいかないので、そのうちバイトでもして金の問題はなんとかするつもりである。

 

「……理由を聞いてもいい? まさか兄貴が二人分食べるわけでもないんでしょ?」

「ああ、そりゃな。いやほれ、一ノ瀬のためにな。――お前も知ってるだろ?」

「知ってるけど、あの人がどうかしたの」

「いやぁそれがな、あいつも弁当組なんだけどよ、あいつの母さんが何かの病気で入院しちまったらしくてさ。暫くは学食かコンビニ飯らしいんだよ。可哀相だしよ、お前さえよけりゃ、退院するまではあいつにも自慢の妹の弁当を食わせてやろうかなって思ってさ」

 

 最後のは多少わざとらしかったろうか。

 それに、理由としても苦しさはどうしてもある。

 が、そもそもダメで元々のつもりなのだ。

 断られたら仕方がない、と楽観的に俺はこの時まで(・・・・・)考えていた。

 

「ふぅん……そっか。――兄貴、ところでさ」

 

 ここで初めて、花琳は俺に顔を向けた。

 続く花琳の言葉を聞いた、その時の俺の気持ちをどう例えたものか。

 一言で言えば――「やっちまった」である。

 

 ついさっき、物事はよく思慮すべしと心に誓ったばかりだというのに……

 

「私さ――帰り道、鈴埜ちゃんに会ったんだよね」

 

 ――おかしい。

 何故ここであいつの名前が出てくる?

 それも、よりによって今日、このタイミングで。

 

「す……鈴埜に?」

「途中まで一緒に帰ってね? 面白い話も聞いたよ」

 

 花琳は薄い笑顔を顔に張り付けたまま、声だけは愉快そうに続ける。

 ……しかし、何故であろうか?

 片手に持つ包丁を、未だ手放していないのは……

 

「兄貴さぁ――なんか最近、仲がいい女の子がいるんだってね?」

「……」

 

 まずい。

 まずいぞ。

 ラピスのことは折を待って妹にも伝えるつもりではあったが、今ここでとは予想もしていなかった。

 突然すぎて頭が回らず、俺の思考は空転するばかり。

 

「あ、いや、それは、えっと――」

「それも小学生みたいな小さい子なんだってね、しかも外国人だって? 鈴埜ちゃん言ってたよ。すっご~く仲良さそうだったって。やるじゃん、兄貴」

 

 ――鈴埜おぉぉぉぉ!!

 あいつ、どこまで話しやがった!

 

「いやぁ、いいんだよ別に私はさ? 全然モテなかった兄貴に彼女ができそうだなんて、妹として素直に祝福してあげるよ」

 

 素直に祝福する気があるなら、何故そんな深みのある笑顔をする!?

 

「でもさぁ……」

 

 一言呟いて、ゆっくりと花琳は俺の方向へ一歩踏み出す。

 右手には未だ包丁が握られたままである。

 その表情には微笑を浮かべているものの、目までは笑っていない。

 

「妹としてはさ、あんまり身内が恥ずかしい真似をするのは困るんだよねぇ。何も知らない外国人の子に、なんだっけ――『ご主人様』とか呼ばせるなんてのは――」

 

 さらにこちらに近づきつつ、抑揚のない声で言葉を続ける花琳。

 そしてとんでもない聞き間違いをしている。

 いや、意味としては同じようなものだが……

 

「ちっ、違う違う違う!! そんな呼ばせ方はしてな――」

「へぇ。本当のことだったんだ……?」

「あ゛っ……!」

 

 またもやってしまった。

 この場においては、そもそも鈴埜の話はまるっきりのガセだと、そう言うべきだったのだ。

 後悔先に絶たずとはよく言ったもの。

 

「うっ……」

 

 眼前にまで迫った花琳。

 その表情からは、ついに形ばかりの微笑すら消えてしまっていた。

 

「――スマホ」

「えっ……」

 

 俺の目をじっと見つめながら、花琳は一言。

 その意を即座に察せぬ俺は、戸惑いの声を上げるが、間を開けず妹は続ける。

 

「兄貴。スマホ、出して。早く」

「あっ……ああ……」

 

 なんのためだ、と聞くことはできなかった。

 俺は妹の剣幕に押され、言われるままにポケットから取り出したスマホを渡す。

 

「――あっ、花琳。ロックかかってっから指紋認証で――」

「いい。番号知ってるから」

「そ、そっか」

 

 ……ん?

 どうしてそれを知ってる?

 たとえ家族とはいえ、そこまでは伝えていないはずだが……

 

「……メール……通話記録もそれらしいのはなし、か。ふーん……」

 

 ――なるほど、合点がいった。

 花琳は今、鈴埜から聞いた女子と俺との親密度を測ろうとしているのだ。

 となれば、その点については心配することはない。

 ラピスはもちろんスマホなどは持っていないため、いくら調べようと何も出てくるはずもない。

 俺は態度には出さず、ほっと心の中で胸を撫で下ろす。

 がしかし、そんな俺の心を見通したかのように、妹は視線をスマホから俺へと戻すと、再び鋭い視線を向けた。

 

「……ま、そのあたりは今度また確認するとして――」

 

 今度は何を言うつもりだ……?

 俺が身構えていると、花琳はぐっと顔を近づけてくる。

 血筋とはいえ、黒目の小さい三白眼でもってこう迫られると、とても女とは思えぬ迫力がある。

 鼻と鼻が触れそうなほどに接近した花琳は、瞬きひとつせず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「兄貴。確認するけど、弁当って、本当に(・・・)一ノ瀬さんのためなんだよね?」

「あ、ああ……! も、もちろんだ!」

「本当に本当? もし嘘だったら――」

 

 ぴとり、と俺の首筋に冷たい何か(・・)が触れる。

 鋭い視線に射竦められている俺はその物体に視線をやることはできなかったが、この状況ならば確認せずともわかる――包丁の背部分だ。

 ……刃の方でなくて良かったと思うべきか。

 

「――ほ、本当だ!! 嘘なんかじゃない!」

 

 だからその手に持ってるものを下ろしてくれと、俺は心の中で叫ぶ。

 

「……じゃ、今から一ノ瀬さんに確認しても、大丈夫だよね?」

「あ、いや、それは……ううっ!?」

 

 ぐぐっと、首筋に押し当てられた包丁に入る力が増す。

 

「大丈夫だよね? だって兄貴、嘘なんかついてないんだもんね? まさかあたしに嘘ついて……他の女の子のために利用しようなんて、そんなことあるわけないよね?」

 

 ――万事休す。

 スマホの中には当然、一ノ瀬の番号が登録されている。

 この場で改められれば、あいつが余程機転を利かせられる男でない限り、俺の嘘は即座に露呈してしまうだろう。

 さりとて確認しようとするのを止めれば、それもまた俺の言葉が嘘だったと自ら白状するに等しい。

 

「――じゃ、電話するね」

 

 死刑宣告に等しい言葉とともに、妹の指が液晶を滑る。

 目的の番号を見つけたのだろう、人差し指を一度浮かせ、最後の引き金を引――

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

「……なんじゃ、我が君。何故そんな疲れ切った顔をしておる」

 

 戻った俺の顔を見たラピスは訝しげに言葉をかけてくるが、俺はそれどころではないとばかりに無視し、懐からスマホを取り出す。

 結局、妹が事の真偽を確認することはなかった。

 花琳の行動を止めたのは、俺ではなく、母親だった。

 まさに絶妙なタイミングで帰宅した母は、台所で密着する俺たちを見るや、ことの詳細を問いただした。

 花琳も、流石に親の前でまでは俺に強く迫れないとみえ、俺はその後母へ説明をする中、タイミングを見計らって抜け出してきたのだ。

 

「……一ノ瀬かっ!?」

 

 この九死に一生を得たチャンスを無駄にしないよう、部屋に戻った俺はすぐさま一ノ瀬へ電話をかける。

 目的はもちろん、妹への口裏合わせだ。

 迷惑げな一ノ瀬を説き伏せ、俺はなんとかその目的を果たした。

 

「――はぁ~……」

 

 俺は憔悴しきった顔で、その場にへたり込む。

 ……本当に、今後こそはマジで、絶対。

 考え無しに行動するのはやめよう。

 

「……我が君よ。何があったかは知らぬが、そろそろ話をしてよいか?」

「ああ……なんだ話って……」

 

 怪訝な顔付きをしたラピスに、俺は疲れ切った顔を向ける。

 

「何ではなかろうよ。調べは大方済んだぞ」

「随分と早いな」

 

 俺が下でひと騒動起こしている間、ラピスは本の解読を進めていたらしいが、時間にすれば20分も経っていない。

 

「だから言うたであろう。わしの智謀をもってすれば、こんなことは容易いことじゃとな。どうじゃ、見直したであろう」

 

 そういう余計な一言が無ければな。

 ふふんと得意げなラピスは、機嫌よさそうに言葉を続けた。

 

「さて我が君よ。わしは先ほど、気になることがあると言うたよの」

「ああ、俺も聞こうと思ってたんだ。なんだ、気になることって」

「うむ、順序だてて話そう。話はわしらの邂逅からになるが」

「構わねえ。分かったことは全部話してくれ」

 

 情報はできるだけ細部に渡るまで共有しておいた方がいい。

 今回のことに限らず、俺たちは命を狙われている立場だということを忘れてはならないのだ。

 

「そもそもの話になるがの。世にはそれこそ数え切れぬほどの次元が存在する。汝の次元とわしのおった世界の次元がたまたま繋がることなど、万に一つの可能性では利かぬほどの、ほとんど奇跡とすら断じてよいものじゃ。それも汝のような、そういった術に長けておるわけでもない人間となど――まず有り得ぬことよ」

「まあ……そりゃそうだろうな」

 

 そんなもの、それこそ宝くじの一等に当選するより低い確率だろう。

 

「――がしかし、特定の条件を満たさば、それでも奇跡のような確立には変わりないとはいえ――僅かに可能性を上げることはできる」

「それが、この本に関係してるってわけか」

「その通りじゃ。次元同士を繋ぐに最も手っ取り早いことは、目的とする地でもって、元の次元との繋がり(リンク)を開き、確立させること。このことは実際、汝と初めて会うた時より予想してはおった」

「おい……なら、まさかそれ……」

「あの鈴埜というこむすめにそんな力があるようには思えぬ。であるならば、じゃ。即ち――」

 

 話が嫌な方向に流れるのを俺は感じていたが、そう思っても事実は変えることはできない。

 ラピスは一度言葉を切ると、改めてはっきりと、言った。

 

「何者かが力を貸したに違いない。それも、元々わしがおった次元に属する、何者かがな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

既視の光景

「ちょっと待て。まあお前の言い分は分かるし、理屈も通ってるようには思う」

 

 しかし。

 そもそも根本的な疑問が残る。

 

「だがな、だとするとおかしいじゃないか」

「何がじゃ」

「なんで、俺なんだ?」

 

 そう。

 ――なぜ、俺なのか。

 

「まあ――仮にだ。お前の世界の住人が、お前と誰かを引き合わせる目的でその本を作ったとして、どうして俺である必要がある? 幽閉されてるお前を助けるなら、それこそ軍人でもなんでも、もっと相応しい人間がいたはずだ。しかもそれをただの人間、それも年端も行かない女学生なんぞを経由するなんていう、無駄に回りくどい方法を使う理由は何だ?」

「それは……正直言って、わしにも分からぬ。汝にかけられた呪いの仔細を暴けば、何か種のようなものでも発見できるやも知れぬが……」

「ん? お前、全部分かったんじゃなかったのか?」

「大まかなところは、の。いや、いざ本腰を上げて調べてみれば、これが驚きの連続であった。まず驚いたのは、術式の基本となる骨格が、わしのおった次元のそれに酷似しておったことじゃ。付け加えるなら、この時点でわしは先ほどの件に確信を持ったわけじゃが」

 

 そういえば、(ことわり)がどうとか言ってたな。

 こいつと以前していた話によれば、ラピスのいた次元は、いわゆる魔法とかそういったものが普通に存在する世界だったらしい。

 多分そういう、見知った魔法のようなものを発見したのだろう。

 

「大変なのはそれからじゃった。全てがその術式で構成しておればよかったのじゃが、それに加えてこの世界のものが上乗せされておるときておる。それらは随分と原始的なものであったでな、それだけであれば解読は容易かったのじゃが、こうも複雑に二つの術式が絡み合っておるとな……今のわしでは少々手に余る」

「なんだ、結局呪いの正体ってのは不明なままか」

「情けないことにな。……わしが元の姿であれば、こんなことにはなっておらぬのじゃが。誰かが景気よく使ってくれよったからのう?」

「ぐっ……」

 

 機会がある度にラピスはこの話を持ち出す。

 怒っているというよりは、俺の罪悪感を煽って楽しむことが目的なのだろう。

 その証拠に、この話をする時のこいつは決まって笑顔だ。

 ぐぬぬと唸る俺の様子を一通り堪能したラピスは、話を戻す。

 

「不安はもう一つある。あの時わしは、汝にかけられた呪いを軽んじて見ておった。それまでの汝との話の中でも全くそれらしい話が無かったものでな。どうせ取るに足らぬ、他愛もないものじゃとタカをくくっておったのじゃ。それゆえ、果たして完全に呪いが根から断てたのかどうか、わしは確認を怠ってしもうた……」

 

 つまり、呪いの残骸のようなものが、まだ俺の中に存在する可能性があるってことか。

 ……そう聞くとあまり気分のいいものじゃないな。

 

「――で、俺は結局、どうすりゃいいんだ? 正体が分からないからっつって、いつまでも返さないわけにもいかないぞ」

「ああ、それは構わぬ。明日にでも渡してやるがよかろう」

 

 思わぬ返答である。

 

「ん? いいのか?」

「うむ。応急処置ではあるが、根幹部分と思われる個所の術式を上書きしておいた。呪いの正体が何であれ、それが発現することだけはないようにの」

「そうか……それならまあ、一応安心していいのか」

 

 しかし意外だ。

 てっきり全貌を把握するまでは決して返すな、とでも言うと思ったが。

 何か考えでもあるのだろうか?

 

「――それと我が君よ。本を返すというなら、またあのこむすめに会うのじゃろう?」

「そりゃあな」

「ならば、わしもその場に立ち会おう。無論構わぬよの?」

「……今日みたいに騒ぎを起こさないってんならな」

「臣下の心を解さぬお人であられることよ。いったい誰のためじゃと思うておるのやら」

 

 こいつ、昼までの自分の行動をもう忘れたのか? あれも俺のためだったとは言わせねえぞ。

 ……ん?

 そうだ、こいつに聞こうとしていたことがあったな。

 鈴埜に会うという話で思い出した。

 

「そういえばさ、今日鈴埜に会った時、あいつの体から黒いもや(・・)みたいなのが見えたんだが。あれってお前、なんだか分かるか?」

 

 そこまで大仰な質問だとは思っていなかったのだが。

 俺の言葉を受けたラピスは一瞬顔を伏せると、やけに真剣な表情になって顔を上げる。

 

「――我が君。それはまことのことか?」

「ああ……多分見間違いじゃない、と思う」

「……ふむ。やはりわしの見立てはそう間違ってはおらぬようじゃの。とすれば――上手くことが運べば……あるいは……」

「おい、ラピス?」

 

 なにやら俺を無視し、独り言ちながら考え込む素振りを見せ始めたラピス。

 

「――ん、ああいや、すまぬ。それについてはまた後日説明しようぞ」

「おいおい、気になるじゃないか。なんかまたとんでもないことでも――」

 

 何故か話をはぐらかしたラピスを問い質そうとしたが、タイミングの悪いことに、階下から夕飯の支度が出来たとの妹の声が届いた。

 先ほどの件のこともあり、これ以上花琳の機嫌を損ねることは避けたかった俺は、渋々この件は保留とすることとした。

 

 ……ちなみに、その夕飯はサバ缶ひとつだった。

 それも俺だけ。

 母さんがそれを花琳に問うも、「兄貴は今日それがいいんだって」との花琳の言と、それに対し俺が一切反論しなかったことから、母がそれ以上の詮索をすることはなかった。

 

 実にうら寂しい食事を終えた後、俺はラピスと一緒に風呂を済ませる。

 別にお前は毎日入らずとも良いのではないかと俺は言ったが、ラピスはそれを聞き入れず、絶対に毎日入浴するのだと言って聞かなかった。

 元はと言えば全て俺のせいだとはいえ、どうもあいつは僅かでも体臭が発生することを恐れているらしい。

 ……俺としては、それはそれで寂しかったり――いや、なんでもない。ただの気の迷いだ。

 

 ともかく、そうこうしているうちに時計は23時近くなっており、他の家族が寝静まっている中での話し声は漏れる可能性もあるからと、話の続きは明日以降、ということになった。

 そして、結局なし崩し的に今日も二人同じベッドで就寝することとなった俺は、やがて眠りに落ちる。

 

 ………

 ……

 …

 

「――マジかよ、こりゃ」

 

 俺は開口一番、そう独り言ちる。

 というのも――眠りから目を覚ました俺の周囲が、いつかのように様変わりしていたからだ。

 既視感のある体験に、俺にも多少の耐性が備わっていると見え、存外冷静に俺は周囲の様子を窺う。

 

 ――どうも、この前のものとは趣が異なるようだ。

 様変わりしているとはいっても、周囲の様子はそこまで大きく変化してはいない。

 あの時のように辺り一面が氷の大地、というようなこともなく、一見それまでと変わらぬ俺の部屋のままに思える。

 違いがあるとすれば、部屋全体がなにやら桃色の霧で充満していること、部屋のドアが消え去っていること、そして隣に寝ていたはずのラピスの姿が無いことだ。

 

 俺は腰から上だけを起き上がらせたまま、暫くそのままの姿勢でいたが、特に何かが起こる様子もない。

 もしかすると、今度こそ本当に夢なのではないか。

 そのような考えが頭をもたげ始めた時。

 

『あ、あらあらあら? おかしいわねぇ、今回こそ成功したみたいだったんだけどぉ~……』

 

 俺の耳に、どこからか聞きなれぬ声が届く。

 その声は、(おおよ)そこの不気味な空間には似合わぬ――どこか気の抜けたというか、間延びしたような印象を与えるものだった。

 

 間延びした声は俺のごく近くから届いてきているように思われるが、部屋の中を見回してもそれらしき人の姿はなかった。

 霧のせいで視界が悪いことも手伝ってはいるのだろうが、それにしたって狭い部屋の中だ、目に入らぬはずがない。

 更に立ち上がって確認せんと、俺は腰を浮かしかける――が。

 

「いっ……!」

 

 右手首に激痛が走り、俺は予想だにせぬその痛みに悶絶する。

 ――見れば、俺の右手首に、なにやら刃のようなものが刺さっていた。

 湾曲したその刃は俺の手首を完全に貫通しており、釣り針を思わせる返し(・・)の付いたそれは生半可なことでは抜けそうにない。

 相当の深手に思えるのに、血の一滴も出ていないのが不気味だ。

 また刃には鎖が繋がっており、ベッド上部の金属部にまで伸び固定されている。

 改めて全身を確認すると、俺の左手首、また両足首周辺にも同じものが確認できた。

 がしかし、右手首以外のもの以外は俺の体に刺さることなく、ベッドの上に転がっている。

 

『あっ、ああ~……ごめんなさいねぇ。でも大丈夫よぉ、今だけの辛抱だからぁ。……もう、あの人ももう少しやりようがあったんじゃないかしらぁ……』

 

 またも例の、気の抜けるような声が届く。

 声の質からすると女のもののようである。

 このような出来事が起こって、普通なら慌てふためく場面なのだろうが、生憎つい最近俺は似たような事態を味わったばかりだ。

 自分でも驚くほど冷静な思考のまま俺は、まずはこの声の主が敵なのか否か、確認の意味も込めて言葉を発する。

 もしあの天使の仲間であったりすれば、今ほど落ち着いてはいられないだろう。

 下手をすると俺一人でなんとかしなくてはならない。ラピスの姿がない今、頼れるものは自分しかいない。

 

「――おいあんた、俺をどうするつもりか知らないけどな、とりあえず姿を見せちゃくれないか?」

『あら、ずいぶん落ち着いてるのねぇ? 立派だわぁ、さすがあの子(・・・)が選んだコよねぇ……それじゃ……』

 

 声とともに、周囲を覆う桃色の霧が俺の眼前に集まり始める。

 やがて濃くなった部分の全体像は、人の姿のように見えた。

 

『はぁ~いっ! じゃじゃーん!』

「……」

 

 そう、霧の塊から声が上がるも。

 元気のよいその声とは裏腹に、俺は憮然とした顔で前を見つめるのみであった。

 

『あ、あら? ちょっとセンスが古かったのかしら……?』

 

 やや当惑の色を浮かばせた声が上がり、次いで俺はその返答として、言う。

 

「いや、そういうことじゃなくてだな……俺は姿を見せてくれって言ってんだが……」

『――えっ、えっ? な、なんで!? こんな、姿を保てないなんてぇ……どうしてぇ~!?』

「どうしては俺の台詞だよ……」

 

 声の質のせいか、どうにも緊張感がない。

 脳みそが耳から流れ出しそうなこの声を聞いていると、空気すら弛緩してしまうように感じられる。

 

『ああん……やっぱり私、こういう回りくどいのは慣れてないのよぉ……。仕方ないわねぇ――まあいいわぁ、今日はちょっと確認しに来ただけだしねぇ~』

「……確認って、何をだ?」

『あなたのことよぉ? あのコったら誰に似ちゃったのかしら、引っ込み思案でね、私も心配なの。あんまり変な人だと、ちょっとねぇ……』

 

 その声の後暫くの間、続く言葉が上がることはなかった。

 次なる声が発されたのは、たっぷり30秒ほど経った後のこと。

 

『そうねぇ……うん、顔はまあ、一応合格かしら? ちょっと目つき悪いのが玉に傷だけどぉ』

 

 ――ほっとけ。

 これは血筋のせいだ。

 どうも俺の顔を凝視していたらしい影は、またも言葉を中断させ、同じように30秒ほどの時を費やした後、言った。

 

『体の方は――うん、合格! いい感じの筋肉の付き方してるわぁ。20年前会ったのがあなただったら、私も放っておかなかったかもねぇ~』

 

 相手の姿は見えないながら、舐めまわされているような視線を肌に感じる。

 ……あまり気分の良いものではない。

 

『――うん、あとは直接会ってからにしましょうか――まだ契約前だものねぇ。でも、なんだかかかり(・・・)が悪くなってるみたいだからぁ、最後にちょっと直し(・・)をさせてもらうわねぇ?』

「ちょっと待て、こっちにはまだ聞きたいことが――」

 

 勝手に話を終わらせようとする影へ向かい、俺は抗弁するが。

 俺の声をまるで無視し、濃くなった影の一部が俺の胸付近にまで伸びてくる。

 

『えっ……ひゃあっ!?』

「うっ――!?」

 

 影が俺の肌に触れた瞬間、その部位から電撃のような光が放たれた。

 驚いたのは俺だけでなく、影もまた同様のようだ。

 甲高い叫び声とともに、影が俺の元から離れるのが目に入る。

 

 ――それでまだ終わりではなかった。

 

「ん……?」

『えっ……』

 

 俺たち二人(?)は共に頭を上げ、視線を上に向ける。

 それは、突如として頭上から眩い光が差し込んできたためだ。

 いや、降り来たるのは光だけではない。

 俺の部屋――いや、今この場においては空間と言った方が正しいか――の上部を切り裂き(・・・・)、光と共に落下してくるものがある。

 

「うおっ!」

『ひゃあああ!!』

 

 俺と影は、両者の間、ベッドの中央に突き刺さったそれ(・・)に驚き、咄嗟に後方に飛び退く。

 深く俺の寝床に刺さる、巨大な刃物。

 それは、かつて見覚えのあるそれは――間違いない、あの時ラピスに刺さっていた、例の鎌であった。

 

「ふはーっはっはっは!! 待たせたのう、我が君!」

 

 またもや上部から声がすると思うや、鎌の着地点に一人、ふわりと降り来たる人物。

 黒一色のローブに身を包んだその人物は、大声で笑いながら俺に声をかけた。

 

「えっ――ラ、ラピスかっ!? お前、それ――」

 

 このタイミングでこいつが現れたことはもちろん驚きだ。

 だが、それ以上に俺を狼狽させたのは、眼前のラピス、その姿である。

 幼女と身を堕としてしまった姿ではなく、この時のラピスは彼女の言う『全盛』の時――すなわち、俺が初めて目にしたときの、大人の外見に戻っていたのだ。

 目を白黒させる俺を背にしたまま、ラピスは声を発する。

 

「くかかかっ! 説明は後じゃ! まずはこの不埒者をなんとかせねばの?」

『えっ……ええぇ~っ!? な、なんなのぉこれぇ……』

「ほぉ~う? やはり匂うぞ? この空間を包む理、それに貴様も……やはり我が次元と似たものを感じるわ」

 

 なにやら得心がいったように語るラピスは、そのまま影に向かい言葉を続けた。

 

「ふむ、少し術が強すぎたか……それで――影よ? 何用あってかような大それた真似をした? この男がわしの主であると知っての狼藉であろうな?」

『えっ……えっ、その、あのぅ……』

 

 対する影は、当然このような事態は想定していなかったのであろう。

 口に出す声はしどろもどろで、言葉の呈をなしていない。

 

「なんじゃ、答えたくないと申すか? ならばそれでもよい。何れにせよ我が君を貶めんとした貴様を、もとより許す気などない。見れば貴様、それなりの穢れをその身に宿しておるようではないか? 丁度良いわ、貴様のその禍霊(マガツヒ)全て、詫び替わりに置いてゆくがよい」

 

 言葉こそ飄々としているが、言葉の節々には烈火たる怒りの感情が見えた。

 ラピスはベッドに刺さった鎌を引き抜くと、影に向かい構えてみせる。

 そしてその効果は抜群であった。

 明らかに向けられた刃の危険性を知っている、そんな様子で――影は半狂乱になり喚き散らす。

 

『ちょ、ちょっと待ってぇ~! な、なんなのぉそれぇ、なんでそんなものがここに――あっあっ!? やめて、近づけないでぇ!?』

「ほれほれぇ、触れた瞬間貴様如き、一瞬で昇天してくれるぞ?」

『ひゃあああ~!!』

 

 影の悲鳴はあまりにも無様というか、いっそ哀れみすら感じさせるものを携えている。

 何故かいたたまれなくなった俺は、前に刃を向け続ける死神へと声をかけた。

 

「おいラピス。一応まだ俺は何もされてないんだ、話をちょっと聞き出してからでも遅くは――」

「まったく何を甘いことを抜かしておるのじゃ。こやつは不届きにも我が君のお体……を――……」

 

 やれやれとばかりに振り返ったラピスと、視線が交差する。

 凛とした微笑を浮かべていた彼女であったが、何故か俺の姿を目に入れた瞬間、顔から笑みを消す。

 ――いや、変化した表情は同じく笑顔ではあったのだが、その趣が異なるのだ。

 目尻は下がり、反対に大きく持ち上がった口角の片側からは、なにやら液体までをも垂れさせ始めた。

 

「……おい、どうした?」

「……ま、まったくぅ……まったくもって不届きなことをしてく、してくれたものじゃ……。我が主人をか、かように拘束して……な、何をするつもりであったのやら……?」

 

 不審に思った俺が声をかけるも、ラピスは振り返った瞬間の凛々しい表情などたちまち何処かへ捨て去り、だらしない顔で呟きつつこちらににじり寄ってくる。

 鎌を持たぬ左手はせわしなくわきわき(・・・・)と動き、それがまた俺の不安を掻き立てた。

 

「――お前が何をするつもりだよ! おい、近づくな!」

 

 俺はにじり寄るラピスから離れるよう後ずさり、ベッドの端にまで後退する。

 ――が、右手を拘束されている身の上にあってはそれが限界で、あっという間に距離を詰められてしまう。

 眼前まで迫ったラピスは、息を荒くして舌なめずりまでしている。

 

「な、何を申されておるやら? わしはただ、その戒めを解いてやろうとじゃな?」

「んな目をした奴の言葉が信用できるか! その手の動きを止めろ! ――おいどこ触ってんだ!?」

「ええい暴れるな! 服が脱がせ辛いじゃろうが!」

「なんで手首の拘束解くのに服を脱がせようとすんだ! んなことよりお前――って、おい!」

 

 俺は死神と揉みくちゃになりつつ、ふと彼女の肩越しに前方を見やると、咄嗟に大声を出した。

 その声に誘導され、俺に覆いかぶさろうとしていたラピスが後方に向き直ると。

 

「ん? ――は、はて? あやつは……?」

 

 呆けたような声を出すこいつに向かい、俺は言ってやった。

 

「逃げちまったんだろ……目の前のアホが散々脅すだけ脅してくれたおかげでな」

 

 気付けば辺りを覆っていた桃色の霧はすっかり立ち消えており、影もまた姿を消していた。

 ラピスは俺に覆いかぶさった姿勢のまま振り返ると、暫し出すべき言葉に迷っていた様子であったが。

 

「……い、いやいやぁ! わしのお陰で無事助かったようじゃのう、我が君よ!」

 

 やっと口を開いたかと思えば、自分の落ち度を棚に上げた発言を放つ。

 

「これを機に、普段のわしに対する態度も……へっ?」

 

 俺は腰を上げつつ、自由な左手でラピスの頭から生える角を鷲掴みにする。

 

「ああっ!? や、やめっ――」

「い・い・加・減・に・し・ろ・よ?」

 

 座り直した俺は、角を持つ手をぶんぶんと振り回しながら、怒りに満ちた声を上げる。

 

「やめっ、やめてぇ! ごめん、ごめんなさいなのじゃよ! 謝るから角を持って振るのはやめてほしいんじゃよー!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

甘き夢への誘い

「……それで? まずお前がなんで元に戻ってるのか説明してもらおうか。あの影については……まあ逃げちまったもんは今さら仕方ねえ。それに何にしろ、お前のお陰で助かったのも事実だしな」

「それなら最初から許してくれればよかろうに……」

「……何か言ったか?」

 

 小さく呟くラピスへ、俺は鋭い視線を向ける。

 

「――な、なんでもないんじゃよ!? え、ええとじゃな、その前に、まずこの空間が何なのかという説明からせねばなるまい」

「前のお前ん時と同じだろ? もう慣れちまったよ」

「いいや。確かに似てはおるが、それはちと違うぞ、我が君よ」

「……違う? でもどう考えても俺のいた世界とは違うだろ、ここ」

「うむ、それはそうなのじゃがの。以前と違うのはな、今回のものこそ、まさに前回汝が勘違いしておった『夢』の世界に他ならぬということじゃ」

「何? てことは、この鎖も……」

「然り。現実のことではない。ゆえに汝が目覚めれば、その部分に傷の一つも残っておらぬはずじゃ。例の本を解読した際、この手の術理が施されていることは分かっていたでの、汝の寝入った後様子を窺っておったというわけじゃ」

 

 どうもラピスは寝てからの俺をじっと見張っていたらしく、呪いの発動を察知してこの世界――俺の夢の中に乗り込んできた次第らしい。

 その後もう少し詳しい説明がなされ、俺はようやく事の全容を把握できた。

 ラピスの話を簡単にまとめると、これは夢の中の世界だから、どんな無茶なことでも起こすことができる、ということらしい。

 つまるところ、目の前に鎮座する元の姿のラピスは、単に俺が自分の夢で見ている幻、というわけだ。

 

「てことはアレか、ガワ(・・)だけ戻ってるように見えてるだけってことか。拍子抜けもいいとこだな」

「いいや? あくまでこの世界の中だけにおいては、わしはかつての力を有しておるよ。そのようにあれ(・・・・・・・)と念じておるゆえの」

「……ん? ならお前その気になりゃ、今からでもさっき逃げた奴を追いかけることだって出来るんじゃないのか?」

 

 幼女化してからのこいつからは想像もできないが、実際のところ、死神の力というのは凄まじいものだ。

 それはほんの一瞬とはいえ、実際に体験した俺がよく知っている。

 力が戻っているという言葉が真実であれば、先ほどの影を追跡することなど容易いことだろう。

 

「ん……んう、ま、まあ……それは、出来なくもないがの……」

 

 俺はそう思うのだが、どうもラピスは乗り気でないらしい。

 ラピスは俺から視線を外し、ごにょごにょと要領を得ぬ言葉遊びを繰り返すばかりだ。

 

「そのぅ……なんというかじゃの。……いや、例の本にかけられた呪いからして、大した相手ではないということは明らかではあるのじゃぞ? し、しかしの。万が一ということもある。あの者らのように、何がしかわしに対する切り札を有しておらぬとも限らぬし、そうした相手を想定するならば、軽挙妄動は当然慎むべきで……そう考えると、わし一人で追うというのはやはり……」

「……はぁ?」

 

 どうも無理やり俺の提案を拒否すべく理由を探そうとしているような、そんな素振りに見える。

 その証拠に目は泳ぎ、口から出てくる言葉も一貫性がない。

 

「いや、汝が共に、というならわしもやぶさかではないが……とはいえ、この世界は現在、その鎖という一点を元に成立しておる部分がある。ここでそれを解呪することは容易なことではあるが、そうすると奴を今後追う術が無くなってしまうでな……。となれば、奴を追うならば汝をここに置いてということになってしまうわけで……わしとしてはそれはそれで心配というか……守るべき主を残してなど言語道断というか……」

「お前……」

 

 薄々感じていたことだが、ここにきてようやく確信が持てたことがある。

 俺は目の前の死神へ向かい、それを言葉にしてやることにした。

 

「お前……実はすげえヘタレだろ」

 

 一瞬、俺の言葉の意味を測りかねた様子で呆けたような表情を作ったラピスであったが。

 次の瞬間には顔を真っ赤に茹で上がらせ、俺に食ってかかるような剣幕で喚き始めた。

 

「へっ……へへへ、ヘタレじゃとーーーっ!? こ、このわしを、冥府の王であるこのわしを、こともあろうにヘタレ呼ばわりとはどういう了見じゃ!? 我が君といえど言ってよいことと悪いことがじゃな――!」

「いやだってお前、なんか俺が心配だとか色々理由付けてるけどさ、つまるところ心細いだけだろ?」

「ぐむっ……! そ、そんなことは――」

 

 何のことはない。

 つまりこいつは、ただ怖がっているだけなのだ。

 まあ、それだけ酷い目に合わされてきたってことなんだろうし、そう思えば無理からぬことではあるが……。

 だが、それにしても、と思う。

 

「俺はお前の力をちょっと体験しただけだが、あの時から実はおかしいと思ってたんだよな。あんな力があるならよ、あいつらを倒すことはできないにしても、逃げることはできたと思うんだよ。俺は実際にその場面を見たわけじゃないけどな、どうせお前、予想外の事態に気が動転してたんじゃないのか?」

「う……うぐぅぅ……」

「いやまあ、そりゃ出会い頭いきなり剣を突き立てられりゃ驚くだろうし、恐ろしくもなるとは思うぜ? でもよ、あんな力があってされるがままなんて、どうにも理解できないっていうか……考えられるとすりゃ、お前があいつらにビビりまくってたせいで――って、おい?」

 

 気付けば、俺の目の前から彼女の姿が消えている。

 視線を下に動かすと、果たしてラピスはそこにいた。

 何故か両脚の膝を立て、それを両腕で覆った――俗に言う、体育座りのポーズで。

 

「お、お~い……ラピス?」

「……」

 

 顔を両腕に沈み込ませているラピスの表情は、俺からは伺い知れない。

 がしかし、俺の言葉が聞こえていないわけでもあるまいに、それでも返事を返さないところを見れば、明らかに気分を害していることは明白である。

 

「ど、どうした? ほ、ほら、そろそろこの状況をどうにか――」

「……知らぬ」

「へ?」

「――知らぬったら知らぬ! なんじゃなんじゃ、好き放題抜かしおって! そんなに言うなら汝が自分でなんとかするがよかろうよ!」

 

 顔を埋めたまま、ラピスはそう言い放つと、それきり一切何も喋らなくなってしまった。

 俺がこの突然の変化に付いていけず、暫し呆然としていると。

 

「……ぐすっ……」

 

 俺の耳に、小さく鼻をすする音が届く。

 

「ええ……」

 

 ――こいつ、泣いてやがる。

 マジかよ。打たれ弱いにも程があるだろ。

 この精神面の弱さを鑑みるに、先ほど言いかけた俺の予想は恐らく当たっている。

 そう思えば、普段のあの居丈高な態度も――もちろん元の性格もあるのだろうが、精神的な脆さを隠すためという側面もあるのだろう。

 だとするなら、先の俺の言い方はあまりに無遠慮というか、少しこいつを買い被りすぎていたものであったかもしれない。

 

「ああもう、分かった分かった。ちょっと俺も言い過ぎたよ」

「……」

 

 むっつりと黙り込んだラピスの周囲には、見て分かるほどに負のオーラが渦巻いている。

 幼女の姿ならばそうでもないが、いい大人の状態でここまで情けない姿を晒されると、見る側としてはいたたまれない気分になる。

 今や顔まで完全に覆い隠され、ただの真っ黒な塊と化したラピスに向け、俺はフォローの言葉を続ける。

 

「いやほれ、ああは言ったが、もちろん感謝してるんだぜ? わざわざ俺のためにここまで助けに来てくれたんだろ? お前がいなきゃ今頃どうなってたことか」

「……」

 

 ……むう。

 反応がない。

 やはり少々わざとらしかったか。俺は演技力がある方でもないしな……あまり回りくどい方法は逆効果かもしれない。

 ならばと、俺はもっと即物的な方向に舵を切ることにした。

 俺は中空に向かい、あたかも独り言のような風を装いつつ声を出す。

 

「こんな献身的な奴隷を持って、俺はほんと幸せ者だなぁ~。こりゃ主人としては、なんか褒美でも出すべきなのかなあ?」

「……っ」

 

 ――おっ。

 今、少し反応があった。

 この方向で舵取りを続けるのが正解のようだ。

 

「でもなぁ~。褒美ったって、誇り高き死神様が何を欲しがってるかなんて分からないしなぁ。 ……ああいや、それにそもそも、そんなの元々欲しがってないって可能性もあるよなぁ? ただの人間である俺なんかからじゃなあ?」

「――ッ!」

 

 ラピスの体が大きく跳ねた。

 俺は彼女から視線を切り、何もない空間に向かい続ける。

 あと一押しといったところだろうか。

 

「仕方ないよな。じゃあ俺一人でなんとか――」

 

 ぎしりとベッドを揺らしながら、俺の目の前に腰を下ろすものが目に入り、俺は言葉を切る。

 

「……」

 

 もちろんそれは言うまでもなくラピスであり、黙って俺を射竦める彼女の目は、やや腫れていた。

 

「……よう」

「――ふんっ」

 

 俺がとりあえずといった感じで出した声を聞くや、わざとらしくぷいと顔を背けるラピス。

 

「おーい、まだ怒ってるのかよ。悪かったって言ってるじゃんか」

「……心がこもっておらぬ、心が。そんな形ばかりの謝罪などお見通しじゃ、聞く耳持たぬ」

 

 変わらず俺から顔を背けたまま、ラピスは言う。

 聞く耳を持たないなら、何故俺の目の前に移動する、とはもちろん口には出さない。

 もしそう言えば、この面倒くさい死神はいよいよ臍を曲げてしまうことだろう。

 

 しかし、この姿のこいつを見たのは数日ぶりだが……。

 やはり、悔しいが俺はどうしても見蕩れてしまう。

 顔を背けている今、見えているのは横顔のみだが、そのすらりと伸びた鼻筋や、閉じた目から伸びる長い睫毛。

 肌には染み一つ無いばかりか、毛穴までも存在していないのではないかと思われるほどに艶のある、美しい褐色である。

 先ほどさんざ貶した俺だが、この横顔を眺めているだけでも、目の前の人物が人ではない、およそ高次の存在であることははっきりと理解できる。

 

「……なんじゃ、言い訳は終わりか?」

 

 ただ呆けて彼女を見ていただけの俺をどう勘違いしたのか、ラピスは黙る俺に辛抱を切らしたようで、自分から口を開いた。

 開かれた緋色の瞳が、再度こちらを向く。

 

「あ、いや……」

「言っておくがの、わしは本当に怒っておるぞ。まさかわざわざ助けに来て、こうまで遠慮なしに貶されようとは思いもせなんだわ」

「いや、だからな、それは――」

「じゃがの。ことによれば、先ほどの無礼を忘れてやってもよいと、わしは思うておる」

 

 それまでのむくれ面から一転、邪悪な笑みを浮かべ始めたラピス。

 その笑顔は、これからとんでもない事態を引き起こすであろうことを、十分に予感させるものだった。

 そしてその予感は果たして、次の瞬間にも現実のものとなる。

 

「くっく……まったく、汝は本当に、後先を考えぬ男よのう? わしは以前言うたよの? 人の発した言葉には力が宿る、と。わしはしかと聞いたぞ。褒美を授けるとな?」

 

 俺は、どうしようもない馬鹿だ。

 この24時間のうち、何度同じ後悔を繰り返すのか。

 ラピスの心底嬉しそうな笑顔を見ているうち、ふと学校帰りに彼女が言っていたことを思い出す。

 半ば不意打ちのような形で言質を取られた、例の約束事。

 

『力が戻った際は、わしに汝の――』

 

 背に、ぶわと冷や汗が噴き出るのを感じる。

 

「この姿に戻れた際には、どうしても汝にはしてほしいことがあった。それを今回の褒美兼、わしへの詫びとしてもらおうかの?」

「い、いやいや、待て! さすがにそれはまだ早――」

「あの時は断られたがの。今ならば汝もそう邪険にはすまい?」

「……え?」

 

 予想していたものとは違う言葉が発せられ、俺は戸惑いを含んだ声を出した。

 

「あの時、わしは汝に、抱き締めてくれと頼んだ。覚えておるか?」

「あっ……」

 

 それは、かつて俺との別れを覚悟したラピスが、最後の願いとして俺に望んだこと。

 だが、知っての通り、その願いが叶えられることはことは無かった。

 他ならぬ、俺の手によって。

 

「まったく、あの瞬間のわしの心の内といったら、見せられるものならば見せてやりたかったわ。やはりわしはまた裏切られるのかと、自棄になって汝を殺してやろうかとすら思うたぞ」

 

 おいおい、呆けた顔しておいて、内心そんなこと考えてやがったのか。

 あの時、即座に行動を起こしたのは正解だったな。

 

「……まあ、後の汝の行動を見て、結局わしは更に心を奪われてしもうたのじゃがな。まったく、罪な男よ」

 

 ラピスはそう言って小さく笑うと、再度俺の目を見ながら言葉を続けた。

 

「さて。夢の中というのが少しばかり不満ではあるが――まあ、現実に元に戻れた際には再度所望することとしよう。――ほれ」

 

 言って、ラピスは半身分、身体をこちらに寄せた。

 その様を見れば、俺にどんな行動を求めているかは明白である。

 だが、彼女の求めているものが何であるかを察しながらも、未だに踏ん切りの付かない俺に向かい、ラピスはやや悲しげな声になり、言う。

 

「……まさか、今回も断ると言うのか?」

 

 ……卑怯だ。

 そんな――目を潤ませながらの、その言葉は。

 やはりこいつは死神ではなく悪魔だなどと、心の内で小さく毒付きつつ、俺は。

 

「あっ――」

 

 自由になる左手を彼女の肩に回し、引き寄せる。

 小さく喉から声を漏らしたラピスは、そのまま抵抗することなく俺の胸に抱かれた。

 露出過剰な幼女状態とは違い、全身を衣服で覆われているおかげで、俺の肌に届く感触はローブのそれのみであったが、ローブ越しであっても、その下にある柔らかな肉の感触がしかと伝わってくる。

 更にはふわりと、それまで嗅いだことのない甘い香りまでもが俺の鼻を(くすぐ)り続け、俺はすぐさま気が気でなくなってしまう。

 俺はたまらず、何故か一言も発さないラピスへと声をかける。

 

「……おい、何か言えよ」

 

 その声に反応して、俺の肩に顎を乗せている状態のラピスから声が上がる。

 表情は見えずとも、その声は満足そうで――まさに至極の至り、とでも言いたげな色を浮かべていた。

 

「ふふっ……。わしから抱き着いたことはあれど、汝からこうして抱き寄せられるのは初めてのことじゃからの。望外の喜びに、つい声を出すのも忘れてしもうたわ」

 

 声と共に吐き出される吐息が、俺の耳に当たる。

 温かなそれは、くすぐったくもありながら、全く不快ではない。

 どころか、吐息のかかった部分がそのまま蕩け落ちそうな、そんな危険な甘ささえ(たずさ)えたものであった。

 

 声をかけたのは悪手だった。

 俺はますます身体を硬直させ、微動だにできなくなってしまった。

 形の上では彼女を抱きしめているのは俺だが、これではどちらが抱かれている方なのか分からない。

 

「くくっ……。汝はやはり初心(うぶ)よのう、こちらにまで緊張が伝わってくるぞ?」

 

 さっきまでガキみたいにすねて泣いていたくせに、ものの数分も経たぬうちに余裕たっぷりな態度に変貌している。

 悔しさが俺の心を焼くが、実際こいつの言う通りなのだから反論のしようもない。

 

「しかし、わしも人のことは言えぬかの。するのとされるのとで、こうまで違うものだとは思わなんだ。かつては果たして動いているのかすら不明瞭に感じたわしの心臓が、今や張り裂けんばかりじゃ」

 

 ……頼むから、少し顔を離してくれないか。

 このまま耳元で囁かれ続けたら、そのうち本当にどうにかなってしまいそうだ。

 だがしかし、それを口にすることは、何故か――出来なかった。

 

「――いかんの。我慢しようと思うておったが、どうにも堪え切れそうにない」

 

 硬直を続ける俺へ向かい、更に熱さを増した吐息がかかる。

 今や俺の耳は溶けて無くなっているのではないかとすら思われた。

 

「……のう、我が君――いや、リュウジ。ここは夢、所詮は仮初の世界じゃ。……なれば、二人で甘い夢に溺れてみるというのも悪くないとは思わぬか……?」

「お前、一体何言って――」

 

 やにわにラピスは、(もたれ)れかかった体をより強く密着させる。

 それと同時に、俺の胸部分に、やけに柔らかな感触が――二つ、届いた。

 いや、常識外れに大きなラピスのそれにあっては、こうされるより前から既にその存在を俺へアピールし続けていたのだが、俺はなんとか意識をそれから外そうと努力し続けていたのだ。

 しかしながら、ここまで意図的に押し付けられた今、それももはや限界である。

 一体この二つの感触の正体が何なのかは、状況を考えれば考えるまでも無きこと。

 

「汝は前々から、わしのこれ(・・)に興味津々な様子であったではないか? ――ほれ、何を固まっておるか。難しく考えずとも、汝の心の赴くままにすればよいのじゃ。……わしは一切抗わぬよ」

 

 言いながら、ラピスは俺の左手を優しく掴むと、ゆっくりとその部分(・・・・)に向かわせようとする。

 

 まずい。

 これは、まずすぎる。

 力を失ってしまった姿ならばいざ知らず、この状態のラピスにこのような態度を取られると俺は弱い。

 

 ……そして、大した抵抗も出来ないまま、俺の腕はそのまま――

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

腑に落ちぬ態度、恐れる理由

「――はっ!?」

 

 開けた視界には、見知った部屋の天井があった。

 辺りに充満していた桃色の霧の姿はすっかり立ち消えており、入口に視線をやれば、消えていた扉も復活している。

 次に右手に目をやるも、傷の一つも負っていないどころか、その痕跡さえなかった。

 

「ああああもおおおーっ!! あと少しというところでぇ!!」

「……」

 

 頓狂な声の元を確認すべく目を向けると、地団駄を踏みながら悔しがる死神の姿がある。

 無論その外見は夢でのそれとは大違いの、小さな子供に戻っていた。

 

 寝起き直後だというのに、俺の頭は冴え渡っている。

 よってこのラピスの狂態の理由も、すぐさま思い至ることができた。

 ……本当にギリギリだった。

 まさに掌がラピスの胸に触れるその瞬間、俺は夢から目覚めたらしい。

 

「い――いや、わがき――いやリュウジ! まだ遅くはないぞ!? 汝も満更でもない様子で――」

「さーて、着替えて朝飯食うかぁ」

「こりゃ! 聞こえてないふりをするでない! ほ、ほれ、汝だってあのままでは収まりが……」

「えーっと、今日の授業はっと……」

「わしを無視するなあああ!」

 

 焦って声をかけてくるラピスを無視し、鞄の中身を確認する俺に向かい、更に大きな声が浴びせられる。

 面倒くさげに振り返れば、真っ赤に顔を茹で上がらせたラピスが俺を睨みつけている。

 

「……んだよ、あんまりでかい声出すんじゃねえよ。家族に気付かれるだろ」

「なんじゃその冷静な対応は! 夢の中ではあのような醜態を晒しておったくせに――い、いや、そうじゃ。汝の弱点は既に把握しておるのじゃった。……ふふん。つ、続きじゃ。……ほーれ、好きに触れてよいのじゃぞ?」

「……」

 

 ラピスは両腕を頭の後ろに回し、チューブトップを巻いた胸を突き出すポーズを取る。

 本人は恐らく妖艶なものを演出しているつもりなのだろうが――悲しいかな、その殆ど膨らみのない胸部にあっては、強調すればするほど、滑稽さどころか、(わび)しささえ見る者に与えるものであった。

 

「はあぁぁぁ~……」

「こらあああ!! 溜め息をつくとは何事かーっ!」

 

 どうしても俺は元の姿でのそれ(・・)と比べてしまい、つい大きな溜息をついてしまう。

 この俺の態度にはラピスも憤慨しきりな様子を見せるが、どうも本人も無茶な行いだとは薄々分かっているようで、顔には僅かに羞恥の色を浮かばせている。

 

「ほれ、お前も着替えとけ。飯から戻ったら行くぞ」

「……」

 

 その後も塩対応を続ける俺にようやく諦めたらしいラピスは、俺が見ているにも関わらず服を脱ぎ、制服に着替え始める。

 こんな姿であっても一応は女なのだし、もう少し隠すなりなんなりしろと思わなくもない。

 ……まあ、一緒に風呂まで入っている仲なのだから、何を今さらと言われればその通りなのだが。

 そう思いながら俺はラピスの着替えを眺め続けていたが、どうもこの行動は俺への当てつけめいた抗議の面も含んでいるようだ。

 その証拠に、着替えながらもぶちぶちと何やら文句を垂れ続けている。

 

「……今に見ておれ。いずれ元の姿に戻った暁には……」

 

 ラピスがショーツを履くところを視界に入れつつ俺は、実際のところ何らかの対策を講じる必要があると、ひっそりと心に留めた。

 今回のことで改めて実感したが、俺のように月並みな男子高校生にとり、この状態ならば兎も角、元のラピスにあんな形で迫られては為す術がない。

 これについては俺の自制心の無さを責めるのは酷というものだろう。俺だって男の子なのだ。

 それも、ただ美人であるだけでなく、あんな胸までも備えているときては……

 

「――はっ!?」

「……どうしたのじゃ、妙な声を出しおって」

「い、いや、なんでもない」

 

 頭の中が若干ピンク色に染まり始めた矢先、俺はあることに思い至る。

 俺の持つ――いわゆるその、少々いやらしい本やらなにやらの種々諸々。

 あれらをラピスに見つかるようなことになれば――何故だか分からないが、ただ俺が恥ずかしいというだけではなく、なにやら大変なことになるような気がする。

 ……しかも、それらは大体が――あまり自分のこういう性癖めいたことを語りたくはないが――胸の大きな女性が載っているものが多い。

 今は机の最下段の引き出しに仕舞ってあるが、そのうち何かもっと巧妙な隠し場所に移動させる必要があるだろう。

 

 その後は言った通り朝食を済ませると、俺一人だけで家を出た。

 少し歩みを進め、先回りをして待っていたラピスと合流すると、俺たちは並び歩いて学校へと向かう。

 

 歩き始めてすぐ俺は、(くだん)のことで疑問に思っていたことをラピスに尋ねた。

 というのも、俺が寝ていた時間は7時間ほどだったのだが、どう考えてもあの夢の中での出来事は、体感でせいぜい数十分かそこらのことだ。

 計算が合わない。

 

 これに対するラピスの回答は単純で、ああいう次元の中では流れる時の速さが数倍以上になっているということだった。

 確かに普段見る夢でも、覚えているのは断片的だったり、ごく僅かな記憶しかないものだからな。さもありなん。

 

「いやしかし、驚いたな」

「ん?」

「ほれ、これのことだよ」

 

 俺は言いながら、左手に持つ包みを掲げてみせた。

 中身は花琳の作った弁当が入っている。

 本当に驚きだった。いつものように花琳から今日の分の弁当を受け取る際、二つ分の包みを渡された時は。

 昨夜はあれから追及されるようなことはなかったものの、昨日の妹の機嫌からすると、下手をするば今日の弁当は無し――ということすら覚悟していたのだが。

 それとなく理由を問うてみれば、妹は何食わぬ顔で「昨日兄貴が逃げた後、一ノ瀬さんに電話して確かめた」と言ってのけた。

 この時の俺の心境を、なんと例えればよいか。

 ――本当にタッチの差であったのだ。あの後、何よりも先に一ノ瀬との口裏合わせに走った俺を表彰してやりたい。

 

 とはいえ、これで当面の間、金銭的な問題は解決したことになる。

 しかし当然これをいつまでも、というわけにはいかない。いずれ何かバイトでも探さないとな。

 

「つーわけだから、今日からはこれ食っとけ」

「うむ、よかろう」

「……で、絶対にそれ持って俺の教室には来るなよ」

「何故じゃ?」

「分からねえのか? この上二人で全く同じ弁当なんぞもってた日にゃ、何言われるか……」

 

 考えただけで頭が痛くなる。

 そもそも昨日の誤解だって全然解けている節は無いのだ。

 

「一体何を案じておるのか知らぬが、それはつまり、わしに一人で食事を済ませよと、そういうことか?」

「ああそうだよ。それ以外に何があるってんだ」

「ならばお断りじゃ。絶対にな」

「てめっ――」

「授業とやらの合間の時間に汝に会いに行かぬというのは、まあ百歩譲って良しとしてやろう。時間としても僅かな間であることじゃしの。じゃが昼休みの長い間をも、というのは決して了承できぬ! 汝はわしに、一人きりで寂しく食事を済ませよと?」

 

 なぜそこまで意固地になる必要があるのか、俺にはさっぱり理解できない。

 大体、こいつには今、他に新入生としてやるべきことがあるはずだ。

 気付いていないのであれば、俺から言ってやろう。

 

「……お前な、んなのクラスの連中と一緒に食えばいいだろうが。お前は新入りなんだ、早く溶け込めるように努力しろよ」

「――はんっ! あのような他愛もない連中に媚を売る必要などありはせんわ」

「あのなぁ……」

 

 ラピスのこの態度に呆れつつも、俺は少し心配になる。

 この大上段に構えた不遜な態度を、クラスの皆の前でも崩していないとすれば、それが顰蹙(ひんしゅく)を買うという可能性は否定できない。

 まあ、何万年も生きているこいつと、小学校から上がったばかりの連中とでそりが合わない、というのは無理からぬことなのかもしれないが。

 しかしそれを言ったら俺だって同じだ。13が17になったって、万という単位から比べれば微差でしかない。

 なんとか仲良くやってくれないものだろうか――というか、そうしてくれないと俺が困る。

 せめて学校の中くらい、平穏な日常を送らせてくれよ。

 

「あーもう……なら今日はあそこ、中庭で待ってろ。お前んとこの中学棟との間の渡り廊下にあるとこだ。分かるか?」

「ん、小さな池がある場所のことか?」

「そうそう、そこだ。あそこのベンチで集合だ。いいか、絶対に教室には来るなよ」

「……まあ、そういうことならば……」

 

 一応納得はしたらしいラピスへ弁当を渡した俺は、そろそろ学校に着く頃だなと気付き、ラピスに声をかける。

 

「じゃ、先行ってろ」

「む、何故じゃ? 別れるのは別に着いてからで良かろう」

「お前な――ああもう、いいから。先に行けって」

「……?」

 

 納得がいかぬ顔をしながらも、渋々俺の言うままに歩を進めるラピス。

 歩きながら途中何度も振り返り、その度に寂しげな顔で、名残惜しそうに俺を見てくる。

 早く行けよ……。

 

 ようやく彼女の姿が視界から消えた後、念のためにもう1、2分ほどその場で待機した俺は、ようやく歩を進めると、校門の前まで到着する。

 

「……ん? あれは――」

 

 俺の視界前方には、先行したラピスの姿が見える。

 多くの生徒でごった返している中でも彼女の姿は一際目立っており、すぐにその存在を確認することができた。

 俺がつい声を漏らしたのは、目に映る彼女の様子が少しばかり変に映ったからだ。

 

 ラピスの左右には二人の同年代と思われる女子の姿があり、その二人はラピスへ話しかけているように見えた。

 それだけならば別段気に病むようなことではない。

 どころか、友達が出来たであろうことは、先ほどの俺の予想が外れたということであり、むしろ歓迎すべきことだ。

 ……なのだが、当の本人――それを受けるラピスの表情が変……というか、妙なのである。

 そのどこかぎこちない、引きつった笑顔は、俺には決して見せぬ(たぐい)のもの。

 いつものように大口を開けて笑う様子も、偉そうにふんぞり返っているような素振りも見えない。

 というか、あの必要以上にオドオドした様子は……まるで、そう――いじめられっ子のそれに似た……

 

 ………

 ……

 …

 

「……」

 

 朝のSHR、そして一時間目の授業が終わった、最初の休憩時間。

 俺は、朝に見たあの光景が忘れられず、悶々として授業も全く耳に入らなかった。

 

「おい、どうした夢野。朝からずっと難しい顔して」

 

 座ったまま腕を組み、朝から体勢を崩さぬ俺の様子を訝しんだのか、一ノ瀬が声をかけてくる。

 本来俺はいのいち(・・・・)に一ノ瀬には感謝の意を伝えるべきだったのだが、この時の俺はすっかりその事を失念してしまっていた。

 

「……悪い、一ノ瀬。ちょっと俺、行くわ。」

「はっ? 行くってお前、どこに――お、おい、夢野?」

 

 立ち上がった俺は、一ノ瀬の声にも振り返らず教室を出る。

 気付けば俺は中学棟に移動し、ラピスがいるはずの教室の前に立っていた。

 ……一体俺は何をやっているのか。これではまるで子供を心配する、お節介な母親か何かではないか。

 とはいえ、ここまで来たからにはそのまま帰るというわけにもいかない。

 俺は廊下に面した教室の窓を音をさせないよう僅かに開けると、教室の中を覗き込む。

 

「……誰だ、ありゃ」

 

 視線を教室のあちこちに移動させた俺は、ややあって目的の人物を目に入れる――が。

 俺の口から出たのは、そんな言葉だった。

 

 結論から言えば、先の悪い予感は取り越し苦労に終わった。

 ――それはいいのだが。

 俺の目の前に映る光景を見ていると、それとは別の問題が持ち上がってきたように思える。

 未だ声変わりが終わっていない一年生たちの声はよく通り、それらは廊下から覗く俺にも届いてくる。

 

「サナトラピスちゃん、昨日の朝はどこ行ってたの?」

「なぁラピス、今日は俺たちと昼飯食べようぜ!」

「ちょっと、男子は黙っててよ」

「んだよ――な、なぁなぁ! 今どこに住んで――」

 

 男女入り混じった数人が取り囲む中、ラピスは質問攻めに遭っている。

 彼らの言葉には悪意など微塵も感じられず、突如として現れた謎の新入生に興味津々といった様子である。

 

「……なんかさぁ、あの転入生、生意気じゃね?」

「わかるわかる、調子乗ってるよね」

「大峰くん……昨日からずっとあの子ばっか見てる……」

 

 ……まあ、そればかりでもないようだが。

 少し離れた場所では、2,3人の女子が何やら不穏な会話をしている。

 とはいえ、周囲の人間全員に好かれるなど土台無理なことだ。多少は仕方の無いことだろう。

 そもそも12やそこらの小僧や小娘連中など、万を越える時を生きている死神にとれば問題にもならぬはず。

 

 ――と、そう思っていたのだが。

 

「ね、ね! 今日帰りどこか寄っていこうよ! 色々案内したげる!」

 

 集団の中でも一際声の大きな女子が、元気よく声をかけるも。

 

「あ、あの……えっと……そのぅ……」

 

 机に小さくなって座るラピスらしき少女は、その女子に目を合わすこともせず、下を向いてしどろもどろな声を上げるばかり。

 敢えて俺が『らしき』と表現したのは、その様子があまりにいつものあいつの様子とは似ても似つかぬものだったゆえ。

 事実俺は一瞬、別人かと錯覚しかけた。

 がしかし、あんな特徴的な風貌をしている人物が二人といるはずもない。

 間違いなく、あの縮こまる小動物めいた女子は――ラピスに違いなかった。

 

「あ、ええと、ちょ、ちょっとそれは……わしは放課後……」

「えーっ、何でー!? ていうか『わし』って! あはは! サナトラピスちゃん、どこで日本語習ったの!?」

「あぅぅ……」

 

 いつもの威勢はどこへやら。

 ラピスの声は消え入るように小さく、耳を澄ませねば聞こえないほどだ。

 あまりの変わりように、さては猫を被っているのではとも思ったが、どうもそういう風にも見えない。

 であれば、これは一体どういうことなのだろう。

 

「うぅ……――あっ!?」

 

 ……やべぇ。

 泣きそうな顔で周囲に視線を泳がせるラピスのそれが、俺のものと交差する。

 俺は顔半分程度しか窓から覗かせていないが、それが俺であると、彼女ははっきりと理解したようだ。

 

「~~~~~っ」

 

 みるみる彼女の顔は紅潮し、褐色の肌が赤く染まる。

 ぱくぱくと口を開閉する様子は、金魚のそれを思わせた。

 幾度かその所作を見せた後ラピスは、頭を下げ、完全に俯いた姿勢になってしまう。

 ……そして、何故かいたたまれない気分になってきた俺は、そのまま教室を後にしたのだった。

 

 

「……」

 

 昼休み。

 俺は約束通り、学校の中庭にあるベンチに座りながら、彼女の到着を待っている。

 あいつの性格からして、先に着いて俺を待ち受けていると予想したが、中庭に俺以外の人影はなかった。

 

 いい機会だから説明しておくと、俺の学校は二つの棟から成り、その間を2本の渡り廊下が繋いでいる形になっている。

 分かりやすく例えるなら、アルファベットのHにおける横棒が二つある、そんな形状だ。

 俺が今いる場所は、その二つの渡り廊下に挟まれた空間であり、小さな池や木々などが植えられた、ちょっとした庭園のような様相を呈している。

 中にはいくつかのベンチもあり、食事を摂るには中々に悪くないスポットだ。

 がしかし、どういうわけかこの中庭は生徒たちにあまり人気がなく、大多数の生徒たちはもっぱら教室、または学食で昼食を済ませている。

 風流を理解するにはまだ若すぎる、ということだろうか。

 ……まあ、俺だって人のことを言えた立場ではないのだが。今回のことがなければ、俺もわざわざここで食べようなどと思い至ることはなかったであろう。

 

 そんなことを思っていると、中学棟から渡り廊下へ、一人の少女が出てくるのが目に入る。

 両手に持つ手提げ袋は、朝に俺が渡したものと同じ。

 もちろん言うまでもなく、それはラピスだったのであるが、姿を現したラピスはいつぞやのように俺に突進することもせず、足取り重く俺の元までゆっくり近づいてくる。

 顔を俯かせながらの表情は暗く、そうしていると、ただでさえ小さな体躯がさらに小さなものに映る。

 ……逆に、こうしている方が男子受けはいいかもな。

 大人しく何ごとも発さぬラピスは、全面余すところなく美少女そのものである。

 これは男なら誰でも騙されるだろうな。

 そんなことを俺が思っていると。

 

「……」

 

 黙ったまま、ラピスはすとんと、俺の横に腰を下ろす。

 そしてそのまま暫く、お互いに何も言わぬ状態が続いたが。

 しびれを切らしたのはラピスが先だった。

 

「……なぜ、何も言わぬ」

 

 前を向いたまま、俺に顔を向けることなく、ラピスは一言漏らす。

 横顔には僅かに朱が差しており、朝方の件を気にしていることが丸わかりだ。

 そんな様子を見ていると、ふと俺に、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。

 俺はあえて慇懃(いんぎん)な口調を作り、言う。

 

「……ん? どなたですかね? 私の知っているラピスという女性はもっと元気溌剌(はつらつ)とした――」

「に゛ゃああああ!! 言うなああああ!!!」

 

 ラピスは頓狂な叫びを上げつつ、わしゃわしゃと髪をかきあげる。

 

「忘れろ! 汝が見たこと全て、忘れてしまえ!」

「……いや、そういうわけにもいかねえだろ。何だよ、ありゃ。冗談じゃなく別人かと思ったぞ」

「う゛うううぅ~……!」

 

 子犬のような唸り声を上げ、またも下を向いてしまったラピスであったが、やがてその姿勢は崩さぬまま、小さく声を上げる。

 

「……仕方ないじゃろ」

「――ん?」

「あんな……大勢の人と話す機会など、わしにはこれまで一度として無かった。じゃから……」

 

 ははぁ。

 なるほど、大方そんなところではないかと、そう思わないでもなかった。

 もごもごと口を動かすばかりで、確とした言葉にしないこいつに代わり、俺が言ってやる。

 

「つまるとこ、照れてるだけか」

「はっきり言うでないわ!」

 

 やっと顔をこちらに向けたラピスは、歯を剥き、今にも食ってかかりそうな雰囲気である。

 とはいえ、あの姿を目にした今、俺の目にはそんな必死な形相も、まるで迫力あるものとは映らない。

 ……まったく、大した内弁慶ぶりである。

 

「ま、それなら安心だな」

「……何がじゃ」

「いや、俺はてっきり、お前が周りのやつらに嫌がらせでも受けてるんじゃないかと思ってたんだよ」

「……そんなことはない。どころか、皆事細かにあれこれと世話を焼こうとしおる」

「なら問題ないじゃねえか。それが分かってて、なんであんな態度なんだよ」

「わしにも分から――いや。大方見当はついておる。わしは恐らく、かつての記憶から、多くの他者の群れを前にすると……つい構えてしまうようになってしもうたのじゃろう」

「……」

 

 この言葉を受け、俺は思い出す。

 今でこそ飄々としているこいつがその実、過去にどんな仕打ちを受けてきたのか。

 言葉には出来ぬほどの苦痛と恥辱を、他ならぬ人間たちに与えられ続けた過去を持つこいつにとり、人の群れというのは恐怖の象徴と化してしまっているのだ。

 ――俺は、軽々しく茶化した先の行動を恥じた。

 

「ふん……自分でも情けないわい。汝もおかしかろうよ。さんざ汝の前では偉そうにしておるわしが、汝より年の若い連中を前に、あのような醜態を晒しておると知ってはな」

「いやでもお前、昨日の昼休みはそんなことなかったじゃないか」

「……それは、汝が傍におったからじゃ」

「――っ」

 

 迂闊。

 目を細めながらそんなことを言うラピスに、つい俺は一瞬、ドキリとしてしまう。

 いつものラピスであれば、そんな俺の様子を見逃すはずもないのだが、今回ばかりはそんなこともなく、変わらず俺をじっと見つめるのみ。

 それは、彼女の言葉が、飾り立てのない本心である証左に他ならないゆえか。

 

「……んっ……」

 

 俺は、返す言葉の代わりに片手をラピスの頭に乗せ、優しく撫でる。

 照れ隠しに他ならないこの俺の行動だが、ラピスは目を閉じ、されるがままになっている。

 

「……ま、おいおい慣れていけばいいさ」

「ふふっ、そうじゃの。それに今やわしは一人ではないしの」

「ああ。またあの手の馬鹿どもが現れたら、俺に任せとけ」

「くっく……なぁ~にを調子に乗っておるか。それも全て、わしの力あってこそじゃろうが」

「ちっ、それを言うなよ」

 

 何だろうか。

 ただ話しているだけというのに、この言葉にし辛い居心地の良さは。

 これでは、まるで……

 

「さて。では我が君よ。そろそろ食事にするとするかの?」

「お、おお。そうだな」

 

 妙な方向へ思考がぶれ始めた俺に向かい、ラピスは声を上げた。

 言葉に従い、二人して包みを開ければ、果たして全く同じ内容の弁当が姿を現す。

 しげしげと中身を眺たラピスは、うむむと唸り、言う。

 

「う~む、見事なものじゃ。あの小生意気なこむすめ、こと料理に関してはわしも認めざるを得んな」

「だろ。兄の俺もあいつのこの才能には舌を巻くよ」

「よし。では我が君よ。口を開けい」

「……は?」

 

 玉子焼きをフォークに刺し持ち上げたラピスは、それを俺に向けながら言う。

 にっこりと笑顔を浮かべながら。

 

「先日はわしのみが我が君の情愛を受けたのみであったからの。今度はわしの番じゃろ?」

「え、ええ……いやそれは……」

「あーん」

「いや、だからな……」

「……あーん」

 

 表情は変わっていないが、有無を言わせぬ雰囲気がそこにはある。

 俺は辺りを見回し、周囲に人の目が無いことを確認すると、観念したように口を開けた。

 

「……むぐ」

「どうじゃ、我が君。美味いか?」

「……まあ、な」

「そうじゃろうそうじゃろう! ほれ、次じゃ次じゃ。何がよい?」

 

 作ったのはお前じゃないけどな。

 ……まあ、機嫌が直ったようで良かったよ。

 俺はふと、視線を上に上げる。

 

「……あ゛っ……!」

 

 視線の先には、中庭に面した窓から顔を出す、多くのクラスメイトの姿があった。

 しまった。平面にばかり注意していたせいで、上までは気が回らなかった。

 クラスの面々が浮かべる表情は様々で、更に何をか周囲と話し合っている様子である。

 俺は恐ろしくて、その内容を知りたくない。

 

「――ほれ、何を呆けておるか。次はなにがよいのじゃ、我が君よ?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鈴埜の誤算

「ぐっ……! うううう……!!」

 

 俺はなんて詰めが甘い男なんだ。

 考えてみれば、あの中庭は三階にある俺の教室の丁度真下に位置する。

 少し考えれば、こうなることは予想できたはずだ。

 やはり体育館裏にしておくべきだった……

 

 ――あの後。

 俺は急いで自分の飯をかき込み、逃げるように中庭を去った。

 そのまま昼休みの終了ギリギリまで一人トイレで悶えていたのだが、教室に帰った時の空気といったら、二度と思い出したくもない。

 休憩時間の度に向けられる好奇の視線と、絶えず聞こえてくるヒソヒソ話に、俺は悶絶しっぱなしだった。

 

 そんな地獄のような時間が流れ、やがて一日の授業がやっと終了し。

 俺は手短に一ノ瀬へ昨日の礼をすると、そそくさと教室を出た。

 

 ひとつ階段を降りた俺は、二階の渡り廊下でラピスを待つ。

 時折肌を撫でてくる冷たい風が、火照った俺の精神を落ち着かせた。

 

「……よし、とりあえず昼のことは忘れよう」

 

 これから先、今日のメインイベントが控えている。

 とは言っても、鈴埜に本を返すだけなのだが。

 ラピスからの話を聞いただけでは半信半疑であったが、実際にあのような体験をすれば流石に俺も構えざるを得ない。

 鈴埜が俺を害する気であるなどとは今でも思っていないが、これはあいつには伝えないほうがいいだろう。

 どういうわけか、妙にあいつは鈴埜のことを敵視しているからな。

 

「……しかし、遅いな」

 

 そも、中学の授業は高校生である俺のものより総時間が短い。

 あいつのことだ、下手をすれば教室の前で俺を待ち受けているのではないかとも予想していたのだが。

 スマホで時間を潰しつつ更に待つこと数分。

 やっと渡り廊下の扉を開け、ラピスが姿を現した。

 

「やっと来たか。おーいラピ……ん?」

 

 ラピスに続いて、俺の視界にもう一人別の人物が目に入る。

 背丈からして、同学年の男子生徒のようだ。

 顔にまだ幼さを残しているが、中々に整った、端正な顔つきをしている。

 俗に言うイケメンってやつだな。

 

「なあなあ、だから今日は俺たちと一緒に帰ろうぜって!」

「あ、あはは……ええと、き、気持ちは嬉しいのじゃが、わ、わしはこの後……」

「なんだよー、お前シャーペンも用意してなかったじゃんか。ついでに学校の周りの店も紹介してやるって」

「うぅ……そのぉ……」

 

 口早に捲し立てるその男子の勢いに、ラピスは押されっぱなしだ。

 やんわりと断ろうとしているようだが、男はまるで聞き入れない様子である。

 その必死さを見るに、明らかにラピスに気があると顔に書いてある。

 中一から随分と積極的だな。

 俺などはその時分、女子に話しかける事さえままならなかったものだが。

 ……まあ、あいつの見た目じゃ仕方ないか。

 アイドルそこのけの美貌を持った転校生が急に現れたとなりゃ、奥手な俺だってどうなるか分からない。

 仮に彼女にでもできれば、それこそ学年でのヒエラルキー最上位待ったなしだろう。

 それでも、こと思春期の男子にとり、女子に話しかけること――それも一人でとなると、相当な覚悟がいるはずだ。

 中々に肝の座った奴である。

 

 ――が。

 

「……ちょっと、馴れ馴れしすぎんじゃねえか?」

 

 男はラピスに密着せんばかりに肉薄し、未だ諦めず誘いを続けている。

 

「い、いやぁ……でもぉ……」

 

 ……嫌がってんじゃねえか。んなことも分からねえのか?

 がっつく気持ちも分からないじゃないが、ちょっとしつこいぞ。

 ラピスもラピスだ。昼言ってたような理由があるにせよ、たった一人のガキ相手にいつまで気後れしてやがるんだ。

 

 ……何故だか、いやにイライラする。

 先ほど言ったように、男の気持ちは理解できる。

 それにあの押しの強さだって、年の若さから来るものだと、心の内では俺だって分かっているのだ。

 ならば年長者としては、笑って許してやるくらいの器量を持つべきだろう。

 第一ラピスに友人ができることは喜ぶべきことだ。

 長い間一人きりでいた、あいつのことを思えば、多少の無遠慮さくらい多めに見て……

 

 分かってる。

 分かってるさ。

 俺は冷静だ。

 

 ……だが、そんな心の声とは裏腹に、俺の足は二人の元へと向かってしまっていた。

 

「おいラピス、行くぞ」

「……えっ? ――あっ、わ、わがき……」

 

 俺は言いつつ、ラピスの手を取る。

 俺の存在にまで気が回っていなかったのだろう、ラピスは驚いたように俺を見た。

 

「今から部活なんだ。いつまでもグズグズしてると置いてくぞ」

 

 続ける俺に向かい、横の男が口を開いた。

 

「ちょっ、ちょっと……何なんだよお前? 急に現れて……ラピスは俺たちと――」

「ふぅん、そうなのか。じゃあラピス、置いてっていいんだな?」

 

 俺はそっけなく言い、握っていた手を放す――と。

 

「えっ……や、やだあぁ! 一緒に行く!!」

 

 離した手を追いかけるように身体ごとラピスは俺に追いすがり、そのまま抱き着いてくる。

 

「……いいのか? 先約があるんだろ?」

「そんなものありはせんわい! 例えあったにせよ、我が君との約束以上に大事なことなどあるものか!」

「そっか。んじゃ行くか」

「うむ!」

 

 ラピスを片腕にしがみ付かせたまま、俺は男へ向き直り、言う。

 そのラピスはといえば、もはや男の方を一瞥すらしない。

 

「――てことだ。悪いな」

 

 言葉も無く呆然とする男を後にし、俺はラピスを連れ、反対方向へと歩き出した。

 すると暫くして、後方からなにやら声が聞こえてくる。

 

「あっはは! フラれてやんのー!」

「……う、うっせ!」

「あの男の人誰だろ? 上級生っぽいよね?」

「ラピスちゃん、あんな顔で笑うんだ」

「わがきみって、そういう名前なのかな?」

「ていうかアレじゃね? もしかして、カレシってやつ……?」

「「きゃーっ!!」」

 

 黄色い声を背中に受けつつ、渡り廊下を出て部室へと向かう。

 その途中。

 

「……」

「我が君? どうしたのじゃ、先ほどから黙り込みおって」

 

 ……今になって、どうしてあんな大人げないことをしたのだと、俺は自己嫌悪に陥る。

 せっかくの友人が作れたかもしれないチャンスを潰してしまったことにより、今後ラピスに対し、果たして周りはどう接するようになるか。

 しかも潰したのは他でもない、俺自身だ。

 

 そもそも、俺は何故、あんな行動に出てしまったのか。

 あそこまでイラつく必要だってなかったはずだ。

 ……いや。

 先ほど俺を襲った感情。その名前には、ひとつ思い至るものがある。

 そのことは実際、当初から気づいてはいた。

 俺はただ、それを認めたくなかっただけなのだ。

 

「我が君~?」

 

 俺の心の内を知ってか知らずか。ラピスは俺の一歩前に出ると、ぐいと顔を近づけてくる。

 自己嫌悪に陥っている俺は、その緋色の瞳を正面から受け止められず、つい顔を逸らしてしまう。

 

「なんでもねえよ。ほら、急ぐぞ。遅れると面倒だ」

 

 ぶっきらぼうに言い捨てると、ラピスを置いて、俺は足早に先を急ぐ。

 少し遅れて不満そうな声が聞こえるが、それをも無視して。

 

「あっ……もう、なんだというんじゃ、まったく!」

 

 ………

 ……

 …

 

「うっす鈴埜」

「せんぱ――……今日もその方と一緒なんですね」

 

 定位置の受付に座る鈴埜は、ちろりと横目で見つつ挨拶を返そうとするが、後から現れたラピスの姿を目にするや、たちまちその視線は鋭くなる。

 

「う……い、いやこれはアレだよ、お前に謝らせようと思ってな。昨日のことは俺からもキツく叱っといたからよ、こいつも反省してるってさ。な?」

「……」

 

 同意を促すも、ラピスは視線を俺から外し、むっつりと黙り込んでいる。

 ――おい、コラ。

 話と違うぞ。

 ここの扉を開ける前に、絶対に鈴埜と揉め事を起こすような行動はするなと、何度も念押ししたはずだ。

 

「そのようには見えませんけど」

「ああもう……! おい、おいって、ラピス!」

「つーん」

 

 こいつ、わざわざ擬態語を言葉にして!?

 あえて鈴埜に聞こえる音量で言ったのも、意図的なものに違いない。

 穏便に事を済ませようと思っていたのに、こいつは……!

 このままだと話がまた拗れそうな予感を感じ始めた俺は、さっさと本題に入ることにする。

 俺は鞄に手を入れると、例の本を取り出しつつ、言う。

 

「とにかくだ、いい加減借りてたもん返すぞ。これ――」

「――ッ!!」

 

 俺の言葉を聞くや、鈴埜はそれまでの座した姿勢から一転、弾かれたように立ち上がった。

 勢い余って椅子が後方へ転がるも、鈴埜はそのことに気付いていないのか、はたまた気にする余裕も無いのか、息を切らして走り寄ってくる。

 目の前にまで近づいた鈴埜の視線は、俺が本を持つ片手を凝視したまま微動だにしない。

 

「えっ、えっと……鈴埜?」

「――はっ!? ……こ、こほっ。 ――で、では今日こそ返して頂きましょうか。昨日はとんだ邪魔が入りましたからね」

 

 わざとらしく咳払いをする鈴埜の顔は、やや赤らんでいる。

 いつもの冷静さから考えると、ことこの本に関しての態度は異常ともいえるものだ。

 それほど大事なものということだろうか。

 

「いやだから返すって。ほれ」

 

 俺から本を受け取った鈴埜は、感極まったように両手でその本を抱きしめている。

 我慢しきれずと言わんばかり、口からは笑みを零れさせていた。

 

「ふ、ふふふふふふ……」

「……」

 

 その様があまりに異様なので、俺はつい一歩、鈴埜から距離を離してしまう。

 

「はんっ、なーにを浮かれておるか、このこむすめは」

「おいっ!」

 

 よせばいいものを、またも鈴埜を挑発し始めたラピス。

 その顔は、俺が見ても腹が立つような、完全に小馬鹿にした表情を浮かべている。

 やはり連れてくるべきではなかった、という後悔の念が頭をもたげる。

 恐る恐る俺は鈴埜の様子を窺うも――意外なことに、彼女はそこまで不快げな表情を浮かべていなかった。

 

「……ふっ」

 

 どころか、お返しとばかりに鼻で笑い返す始末である。

 

「鈴埜?」

「……先輩」

「おっ、おう。何だ」

 

 俺に意を向けた鈴埜の顔は、何故か自信に満ち溢れた、そんな表情をしている。

 

「この方がどこのどなたかは存じ上げませんが……いずれにせよ、こんな粗暴な方と付き合うのは感心しませんね」

「う、うーん……ま、まあ……」

 

 ぐうの音も出ない。

 こう見えて実はちょっと強く出られただけで折れるヘタレなんだが。

 それを知らぬ鈴埜からしてみれば、強盗まがいの行動に出るような乱暴者と取られても仕方ない。

 そんな思いからか、俺はきっぱりと否定することもできず、曖昧に頷くと。

 

「ふふふ……」

 

 それを見る鈴埜の顔は、ますます上機嫌なものに変わってゆく。

 

「我が君よ、何故反論せぬ! 仮にも汝の所有物が貶されておるというに!」

「お前はちょっと黙ってろ、な?」

「勝手なことばかり言って……先輩が迷惑しているのが分からないんですか?」

「……なんじゃと? こむすめよ、戯れにしては口が過ぎるぞ?」

「事実を言ったまでです。だいたい貴方、何年生なんですか。私より年下なのでは? そんな方に小娘呼ばわりされる謂れはありませんね」

「ほっほ~う……いい度胸じゃなぁ? このわしに対し、その不遜な物言い。後悔することになるぞ?」

「お、おーい……君たちちょっと落ち着いて……」

 

 面と向かって火花を散らす二人を前に、俺の胃はキリキリと痛み始める。

 どうせこうなるだろうって気は薄々してたんだよ……

 というかあんなことがあったにせよ、いくらなんでも仲が悪すぎだろ、こいつら……

 

「――後悔? ふっふふ……果たしてそれはどちらが、でしょうね?」

「なんじゃと?」

「先輩」

 

 ぐるりと首を回した鈴埜が、顔を俺に向ける。

 このタイミングでとは予想していなかった俺は、返す言葉も、どこかぎこちのないものになってしまう。

 

「えっ、あ……おっ、おう。な、なんだ?」

「先輩だってそう思いますよね。このような方とは金輪際付き合いを断つべきだと」

「えっ……」

「先輩はお人よしですから、断り切れずにいるだけですもんね?」

 

 その物言いは、尋ねるというより、念押しに近いものを感じさせた。

 鈴埜の顔は、まるで俺が同意することを知っている(・・・・・)かのような、そんな自信に満ちた顔をしている。

 ――しかし。

 

「……いや、まあ昨日のアレとかはそりゃ、やりすぎだとは思うけどよ。別にそこまでは……」

 

 本当にそう思っているなら、ハナからこいつを連れて帰ったりなどしていない。

 ラピスを連れているのは押し付けなどではなく、あくまで俺の意思によるものだ。

 

「――へっ……?」

「ん? ……鈴埜?」

 

 妙な声を上げて、鈴埜はやにわに体を強張らせ硬直する。

 そのはずみで、被っていた魔女帽子がずり落ち、顔半分が覆い隠された。

 残った左目は驚きに見開かれている。

 

「ぷっくく……」

 

 少し遅れて、ラピスから声が上がる。

 片手を顔の前にやり表情を隠してはいるが、その漏れ出る笑い声からして、下でどんな表情をしているかは丸わかりだ。

 無論その声は鈴埜にも届いたと見え、硬直を解いた鈴埜は右手を上げ俺を指差すと、先ほどよりも大きな声を上げる。

 片脇に例の本を抱えながら。

 

「くっ――せっ、先輩! いいですか!? 私が(・・)聞いているんですよ!? 私が(・・)!」

 

 ずれた帽子を直すこともせず、普段の調子とは打って変わった動揺を見せる鈴埜。

 その必死さはラピスに対する対抗心だけによるものとはまた、少し違う気がする。

 

「……あ、ああ、うん。そりゃもちろん分かってるけど」

「だったら――」

「なんだよ、さっきからお前、なんか変だぞ?」

「――ッ」

 

 絶句した鈴埜はそれでも俺の目を見据えたまま、暫く動きを止めたままだったが。

 やがてゆるゆると腕を下げ、表情は明らかに気落ちしたものに転ずる。

 

「お、おい、鈴埜?」

「……」

 

 肩を項垂れせた鈴埜は、よろめきながら近くの椅子まで数歩歩くと、崩れ落ちるように腰を下ろした。

 そして座り込むと同時に頭をがっくりと落とし、今やその表情は俺からは視認できない。

 

「……先輩」

「な、なんだ?」

「私、今日は少し一人になりたくて……。今日の部活はこれまでとしたいのですが……」

「え、これまでってお前……どうすんだよ、図書委員の仕事は」

「それは私が一人でやっておきます……。平気ですよ、どうせ人も殆ど来ませんし……」

 

 ……やはり様子がおかしい。

 図書室を利用する生徒が少ないのは事実だが、それを口に出すのはいつだって俺だった。

 むしろ鈴埜は、そんなふうに言う俺をいつも窘めていたはずだ。

 

「いやそうは言ってもだな……」

「よいではないか我が君よ、こむすめの望むままにしてやろうぞ」

「ラピス?」

 

 ポンポンと俺の脇腹を叩きながら、ラピスはそんなことを言う。

 こいつはこいつで、一体どういう心境の変化だ?

 

 ――鈴埜は結局それきり一言も喋らなくなってしまい、仕方なしに俺は、何か釈然としないものを抱えつつも、今日のところは大人しく帰路に就くことにしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

糧たるもの

 校門を出たあたりで、先ほどからやけに上機嫌なラピスへと、俺は声をかけた。

 

「おい、そろそろいいだろ」

「んぅ? 何がかの?」

「トボけんじゃねえよ。さっきのこと、心当たりあんだろ」

「くっく、無論じゃとも。いやいや実に胸のすいた思いじゃ」

 

 言葉通り、晴れ晴れとした顔でラピスは言ってのける。

 

「お前なぁ、もうちょっと人当たりよくできねぇのか? どうなることかと思ったぞ」

「むっ。わしとて、誰かれ構わずかよう(・・・)な態度を見せるものか」

「どの口が言うんだか。大体それを言うなら鈴埜に強く当たるなよ」

「……我が君よ、まさかまだ、あのこむすめの事を信じておるのか? 我が君に害なすつもりなど無かったと。(くだん)のことも、偶発的に起こったものじゃと、まだそう思っておるのか?」

「当ったり前だろ。それに言っただろ、第一動機がねぇし、証拠も無いのに犯人呼ばわりできっかよ」

「はぁ~……出おった出おった、我が君の悪癖が。いっそわしより余程神らしく見えるわ。大したお方であらせられることよ。いやいやぁ、まこと敬服の至りにございますのう~?」

 

 こいっつ……――なんてムカつく面をしやがる。

 しかも顔の左右に両手をやり、ひらひらと掌を動かす動作と共にだ。

 言葉こそ丁寧なものに思えるが、それすらも煽りの一環に違いない。

 

「俺に喧嘩売ってんだな? そうなんだな、おい」

「まさかまさか。いやしかし、まったく先のこすむめの面ときたら! わしの鬱憤もいくらか晴れようというものじゃ、くかかっ! のう、我が君もそう思――」

「……」

 

 先ほどの鈴埜の顔――と言うか、態度の変化を、俺は思い出す。

 あれは、勿論自分の言に同意しなかった俺に対する失望もあろうが、どうもそれだけでない何かがあるような気がする。

 そう、そう言えば……一年前、初めて鈴埜に会った時も、あんな顔をされたような。

 

 思えば、本当に出会った当初は、鈴埜も現在のように俺に対し、今みたいに無遠慮な物言いをする奴ではなかった。

 見るからに引っ込み思案な少女然としていて、何をするにもオドオドしていたものだ。

 それが日を追うごとに、こと俺に対してだけ、物怖じせずものを言うようになっていった。

 ……物怖じせずと言うか、毒舌交じりになっていったという方が正しいか。

 

 ――初めて出会ったとき、どうしてあんな顔をされたんだっけか。

 それこそ先ほどのように、何かを尋ねられたような気がするが。

 特に記憶にないということは、それほど重要なものでもなかったのだろう。

 

 しかし、今改めてあの頃の鈴埜を思い返すと――

 

「くっ……ふふっ」

 

 今とのあまりの変わりように、自然と笑いが漏れる。

 昔の方がずっと素直で大人しかったのは事実だが、俺としては今の鈴埜の方がいいと思う。

 常に腫れ物を扱うようにして接するのは俺も疲れるし、物事ははっきり言ってくれた方がずっとやりやすい。

 それこそ、はっきり言い過ぎるくらいに言う見本が最近現れたばかりだしな。

 

「ラピ――」

 

 その人物へ、俺は声をかけようとするも。

 彼女の名前を呼び切る前に、言葉は止まった。

 と言うのも。

 

「……なんだ、その顔は」

「むぅぅぅ~……!」

 

 見れば、先ほどまでの飄々とした笑顔は姿を消し、ラピスはじっとこちらを睨みつけたまま、何ごとも発しようとはしない。

 さらには頬をパンパンに膨らませ、怒り心頭といった顔つきをしている。

 この、僅か数秒の間に何があったというのか。

 

「なあって」

「――ふんっ!」

「あ、おい!」

 

 再度俺が問いかけようとするや、ラピスはぷいと顔を逸らすと、俺を置いて歩き出してしまった。

 その足取りは荒く、ずんずんという音が聞こえてきそうなほどだ。

 

「……なんなんだよ、まったく」

 

 仕方なし、俺は遅れて後を追う。

 別に放っておいてもいいのだが、そうすると後が怖い。

 あっという間にラピスは随分先まで行ってしまっており、俺は小走りで駆け寄ると、俺の方を見もしないラピスに向け声をかける。

 

「なあ、何怒ってんだよ」

「別に怒ってなどおらぬわ!」

 

 ……怒ってんじゃねーか。

 ラピスは相変わらず視線を前に向け続けており、立ち止まるどころか横にいる俺に顔を向ける素振りすらない。

 俺は並び歩きつつ、それでも声をかけ続けた。

 

「どこ行くつもりなんだよ」

「どこでもいいじゃろうが。どうせ汝はわしとの話なぞより、あのこむすめのことを思う方が楽しいのじゃろ」

「……はぁ?」

 

 確かに鈴埜のことを考えていたのは事実だが、どういう思考でそういう結論に至ったんだ、こいつは。

 大体、俺の質問の答えになってないぞ。

 

「まったく、先程はかような行動に出おったくせに。気を抜けばすぐ他の女のことを考えおる。そりゃあわしなぞ、昨日今日会ったばかりの新参者じゃからな。無理もあるまいよ」

 

 ……なんだか分からないが、とにかく拗ねているらしいことは理解できた。

 自分から話を振ってきたくせに、勝手極まりないやつだ。

 というか、何万年も生きてきた神様がこんなことでいちいち腹立てるなよ。

 

「わしはてっきりあの時、それがわしじゃからこそ、かように優しく振る舞い、助け出してくれたものとばかり思うておったがの。どうもそれは思い違いだったようじゃ。汝は分け隔てなく、誰にでも同じようにするのじゃろうよ。たとえわしでなくともな」

「……」

 

 どうも喋り始めたら止まらなくなったらしく、まだラピスは文句らしき台詞を口にし続けている。

 助けたどうこうというのは、鎌を抜いた時のことを言っているのだろう。

 多少の文句であれば軽く聞き流しておこうと思っていた俺だが――ひとつだけ、聞き流せない言葉があった。

 

「今回のことでも、あのこむすめが何らかの作為を講じたであろうことは明らかじゃというに、まだ汝は信じようという。まったく信じがたいお人よしよ。先だっての件でもそうなのじゃろ、どうせ汝はわしが困った顔を見せておったゆえ、仕方なしにあのような――」

「おい」

 

 俺は、小指を立てて喋りたてるラピスの手首をひっつかみ、言う。

 突然の俺の行動に、ラピスは随分と慌てる素振りを見せた。

 顔は妙に赤くなり、滝のような汗を流れ出させてさえいる。

 

「なっ、ななな、なんじゃ! きゅ、急に手を握りおって……お、お驚かせるでないわ!」

「てめえ、それ本気で言ってやがんのか?」

「なっ……何のことじゃ!」

 

 どうも分かってないらしい死神へ、俺はさらに顔を近づける。

 この時の俺は多少、頭に来ていた。

 

「お前じゃなくても助けただと? 馬鹿言え、誰が好き好んで自分が死ぬかもしれねえ目にあってまで、アホな格好した得体の知れない女を助けると思うんだ? 俺はあいにく、んな聖人君子じゃねえ。俺はな、お前だから(・・・・・)助けたんだ。次もう一度似たようなセリフ吐いてみろ、尻が腫れ上がるまでひっぱたいてやるからな」

「うぐっ……」

 

 俺の勢いに飲まれたのか、ラピスは言葉に窮する。

 そして俺はそれまで掴んでいた手を離すと、続く言葉はラピスから視線を外してのものになった。

 理由は単純、照れくさいからだ。

 それに上手く言う自信がなかったこともある。

 

「渡り廊下でのことは……その、なんだ。えーと……」

「……我が君?」

 

 先ほどまでとは打って変わり、俺の言葉はしどろもどろな、場当たり的なものになる。

 

「……ん、そう。あのガキのしつこさに腹が立ってな。見ていられなかったんだ。だ、だから……別にお前が言い寄られてたのが気に入らなかったとか、そういうんじゃねえからな。勘違いするなよ」

「……」

 

 みっともない本心を悟られぬよう、きっちりと釘を刺しておくことは忘れない。

 これはこの数日間で俺が学んだことだ。

 先を考えて物事を言い、行動すること。

 ――なんだ、やればできるじゃないか、俺。

 

「――おい、何か言えよ」

 

 視線を戻すと、ラピスの表情は、疑うようなものに変化していた。

 口調は元の落ち着いたものに戻っていたが、顔の赤さはむしろ増しているように思える。

 

「……のう、我が君よ。まさかとは思うが、全て計算ずくのことではあるまいな?」

「どういう意味だよ」

「いや、まったく恐ろしい男じゃ。これまでわしは汝のことを見くびっておったのやも知れぬ……」

「???」

 

 なんだ、こいつは何を言っている?

 まさかまた、俺は失敗してしまったのか?

 

「ああもう、なんじゃ馬鹿馬鹿しくなってきたわい。――ほれ、もう帰るぞ! どこなんじゃここは!」

「いやここまで歩いてきたのお前だし……家とは反対方向だよ。それも滅茶苦茶に歩き回りやがって、俺だってこんなとこ来た事ねえよ」

 

 歩きながら会話していたこともあってか、どこかの住宅街の中らしき細道に迷い込んでしまったようだ。

 とはいえ、暫く来た道を戻ればまた見覚えのある大通りに出られるだろう。

 

「んじゃ、とりあえず戻――」

「どうした、我が君」

「……なんだ、あれ?」

 

 ラピスとの会話に夢中になっていて気付かなかったが、俺の視線の先に、何か奇妙なものが映っていた。

 距離にして10メートルほどだろうか、先にある電信柱の下から、どこか見覚えのある煙が立ち上っている。

 その黒い煙いや、黒いもや(・・)は、その電信柱の根本にある、ちょうど人ひとり分程度の大きさの、同じく黒い塊から放たれていた。

 仔細を確認しようにも、この距離からではよく分からない。

 

「おいラピス、あれって……」

「うん? あれとは?」

「いや、分かるだろ。あそこの電柱のとこだよ」

「”でんちゅう”とは、これのことかの?」

 

 電柱という名称を知らぬラピスは、近くにある同じものを指差す。

 

「ああ。――それで、ほれ。あそこ見てみろ。根元の方だ」

「んん……そう言われてもの。我が君よ、何がどう気になるのか、わしに教えてくれぬか?」

「何って……見たとおりだよ。ほれ、あそこ。電柱の下だ。真っ黒な塊があるだろ?」

 

 言わずとも異常ある場所は明らかだろうに、何をすっとぼけているのか。

 怪訝な顔をする俺に構わず、ラピスは質問を続ける。

 

「ほっほ~う……? もう少し詳しう仔細を言うてみよ」

「そう言われても……こっからじゃよく分からないな」

「つまり、それほどにあの場を覆う瘴気が濃いと、そういうことじゃな?」

「しょう……? ……ん、まあ、そういうことだ。大きさはそんなでもないみたいだが……」

 

 と、ここでラピスの顔が変化を見せ始めた。

 にやりと口角を上げたその様は、何か良からぬことでも企んでいるような、そんな悪い顔をしている。

 やにわに、ラピスは大声を上げた。

 

「くかかっ! これは思いがけぬ幸運が舞い込んできたようじゃ。いや、流石わしと言うべきかの、意図せず我等が糧に辿り着くとはな。これは呑気にしてはおれぬ、ゆくぞ我が君!」

「あっ、おいちょっと待て!」

「――くひゅぅ!?」

「あっ……すまん」

 

 走り出そうとするのを止めようと背中側から服を掴んでしまったせいで、勢いから首が締まってしまったラピスが悲鳴を上げる。

 

「――げっ、けほ、けほっ! な、何をするかー!!」

「待てって! まずは説明しろ!」

 

 咳をしつつ抗弁する彼女へ問うと、ラピスは興奮しつつも説明を始めた。

 

「ん――うむ、確かにそうじゃな。よいか我が君、以前、汝に神としての力が渡ったと伝えたことは覚えておるか?」

「ん、ああ。ここ最近の記憶力の良さもそれが原因なんだろ」

「然り。しかしながら死神の眼の力、その真価とはそんな些末なものではない。もっとも重要なことはな、その眼でもってすれば、その人間が持つ『穢れ』を一目で看破することができる能力にある」

「穢れ……お前の力の源ってアレか。んじゃ何か、先に居るのはその『穢れ』を貯めた人間ってことか」

「うむ。この場からでも視認できるとは、さぞ多くの穢れをその身に宿しておることじゃろうよ。これは捨て置く手はないぞ」

 

 だから早く、と言いたげなラピスは、逸る気持ちを抑えきれないと言った様子である。

 

「しかし、なんだって俺に言われるまで当のお前が気付かなかったんだ?」

「我が力は殆ど汝に譲り渡してしもうたでの……しかも限界近くまで力を失っておるわしは今や、元より備わっておる神としての殆どの能力を行使することができぬ。近くまで寄ればわしにも確認できるであろうがの」

「おいおい……」

「感謝するがよいぞ? 人たる身で我が力を得ることができるなぞ、どの次元を探そうと二人とお目にかかれぬであろうよ」

 

 ……ありがた迷惑もいいところだ。

 どうだと言わんばかりのドヤ顔がまた余計小憎らしい。

 

「……で、近づいて大丈夫なのか?」

「うむ……そうじゃの。見たところ単なる人間のようじゃし、大丈夫じゃろ。それもかような老体であれば、今の汝であれば万が一戦闘になっても問題なかろうよ」

「おいおい物騒だな……ん? なに? お前今なんつった? ……老人?」

「なんじゃ、それすら分からぬ程の瘴気を発しておるのか? これはますます楽しみじゃ、ほれ、そうと分かれば奴が留まっておる今を逃す手はないぞ、ほれ!」

「あっちょっ、こら、引っ張るな!」

 

 ラピスに手を引かれながら、俺は電柱の元まで駆け寄る。

 距離にして数メートルというところまで近づいたところで、ようやく俺にも詳しい造形が視認できてきた。

 

 なるほど、確かに人――それも老人だ。

 最近珍しい甚兵衛を身に纏い、履物は草履という、絵に描いたような古めかしい佇まいの老人である。

 丸メガネをかけたその男性は、電柱にもたれかかるようにしてうずくまっている。

 年の頃は、少なく見積もっても70は越えているように見えた。

 短く揃えられた頭髪は一様に真っ白で、黒髪は一本として残っていない。

 

「ぐ……うむむ……」

 

 すぐそばまで近寄った俺の耳へ、老人から発せられたであろう声が届く。

 腰を落とし電柱に寄り掛かる老人は、見るからに苦しそうな様子である。

 それだけ見れば、弱弱しい、どこにでも居そうな老人に見えなくもない。

 しかし、やはり――例の瘴気は、やはりこの人物から放たれているようで、粘ついた黒いもやが、体の至る所に纏わりついている。

 他に特別奇妙な点がないだけに、それが余計不気味に感じられた。

 

「ほれ、ほれ! 準備はよいか我が君!」

「ちょっと黙ってろ! ――おい、じいさん。大丈夫か?」

 

 興奮して何をか急かせる様子のラピスを一喝した俺は、眼下の人物へと声をかける。

 戦いがどうだと、そんな事態にはまるでなりそうもない。

 仮にそうなったとして、その図は老人虐待に他ならないだろう。

 そも、こんな苦しげな様子の老体へ危害を加えるなど、俺にはとてもできることではない。

 

「――ん……君は……」

 

 地面に視線を落として唸っていた老人は、初めて俺に目を向けた。

 皺だらけの顔を見るに、やはり相当の年配なのだろう。

 

「どうしたんだ、こんなとこにうずくまって。あんま車通りはないみたいだけど危ないぜ」

「ん……すまんな。いや、持病の腰痛がな……ぐむっ!」

「お、おいおい!」

 

 立ち上がろうとした老人は、やにわに苦し気な声を発し、横に倒れそうになる。

 咄嗟に手を出した俺が体を支える形になり、そこで俺は新たな発見をした。

 

「……ん? あれ、じいさん、これ……」

「おお……ありがとう。いや、若い頃に、ちょっとね」

 

 左半身を支える俺の身に、本来あるべきものの感触がない。

 俺に礼を言う老人の左腕は、根元から存在していなかった。

 この時まで俺がそのことに気付かなかったのは、例の瘴気がその部分により濃く漂っていたことによる。

 

「いや、ありがとう。ところで君たち、ここいらでは見ない顔だが……僕も普段、あまり出歩く方ではないけどね」

 

 痛みが収まったのか、尚も危なげではあるが、支え無しで立つことができる程には落ち着いたようだ。

 俺は一歩離れると、老人の言に答える。

 

「ああいや、この辺に来たのは偶然っていうか……」

「こりゃ! 何を悠長にしておるか! さっさとその者の――」

「やっかましい!」

「はっは、随分元気なお嬢さんだ。君の妹さん――とは違うかな。お友達かね?」

 

 言いかけて訂正したのは、ラピスの肌、そして目の色を見てのものだろう。

 

「あーまあ……そんなところです」

「うん、いや何にしろ助かったよ。やはり慣れないことはするもんじゃあ――おうっ!?」

「あー、だから! 無理すんなって!」

 

 歩き出そうとした老人は、またも痛みがぶり返したのか、がっくりと腰を落とす。

 再度彼の身体を支える形になった俺は、仕方なしに言う。

 

「ったくもう、気を付けてくれよ。じいさん、家はどこなんだ。連れてってやるよ」

「うむむ……すまないね。ではお言葉に甘えさせてもらおうかな。なに、僕の家はすぐそこだ」

「そっか。んじゃ、このまま行きますよ。――っと」

 

 このままでは抱えるべき腕がないのでやり辛い。

 右側に回った俺は、老人の右腕を肩に乗せると、彼の指示に従い歩き始める。

 

「ありがとう。しかし”じいさん”呼ばわりは止めてほしいな。僕はまだ40代なんだ」

「――えっ?」

「はっはは、見えないかね。よく言われるよ」

 

 いや、見えないってか……そりゃないだろ。

 鯖読むにしてもやりすぎだ。

 

 ラピスはといえば、見るからに不満げな顔をして後ろを付いてきている。

 ――いや、言いたいことは分かるけどな……そんなあからさまな顔をしなくてもいいだろうに。

 

 むくれるラピスを従えつつ歩くと、程なくして老人の家だという場所に着いた。

 これまた、老人の印象通りと言うか、かなりの築年齢だと思われる平屋である。

 最近珍しい、伝統的な日本建築といった様相のものだ。

 広さも結構あるようで、そこそこ裕福な人物なのかもしれない。

 

「ありがとう。そこの呼び鈴を押してもらえるかな」

 

 言われ、扉の横にあるボタンを押す。

 チリン、という音が家の中から届くも、その後他の音は聞こえてこない。

 

「ん、家にいるはずなんだが……寝ているのかな。鍵は開いているだろうから、気にせず開けてくれ」

「じゃあ……おじゃまし――」

 

 老人の言葉通り、扉に鍵はかかっていなかった。

 おいおい物騒だな。

 どうも他に人がいるような口ぶりだったが、この人の妻かなにかだろうか。

 当人の見た目を考えるに、同じくらいの年を召した婆さんだろう。

 40代だとかなんとか言っていたが、俺はそれは冗談にすぎないと決めてかかっていた。

 

 俺は扉を開け、中に入ろうとし――

 

「ぶっ!?」

「はぁ~い……あら? 何か……――え、惣一朗さん!?」

 

 何か巨大な柔らかいものに顔から衝突し、視界がその何物かで塞がれる。

 その上から耳に届く、どこか聞き覚えがある声は――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

影の正体

「惣一朗さん! どうしたんですか!?」

「なんだ、居たんじゃないか。これはさっき――」

 

 何やら声が聞こえる。

 一人はじいさんのものだ。そしてもう一つは、声の質から女性だと思われる。

 だが今の俺には、その声の主を視認することはできなかった。

 なにやら柔らかな障害物に顔面全体を覆われ、視界が暗闇に閉ざされているためである。

 直ぐに飛び退くだけで良さそうなものだが、心の中のもう一人の俺がそれを躊躇させていた。

 ……何故だか心が安らぎ、ずっとこのままで居たい気持ちになる。

 そんな感触に顔全体を包み込み込まれ、思わず俺は目を瞑ってこのまま身を委ねそうになるが――

 

「――おおっ!?」

 

 服を後ろから引っ張られ、強引に一歩引いた形にされる。

 その下手人を確認せんと振り返れば、明らかに不機嫌そうなラピスの顔があった。

 

「いつまでそうしておるんじゃ、たわけ」

「おまっ、何すんだ!」

絵里(えり)、この男の子が助けてくれたんだよ。いやまいった、すぐそこで急に腰をいわして(・・・・)しまってね」

「まぁ……そうだったんですか。もう、だからお出かけの時は私も一緒にっていつも言ってますのに……」

 

 俺の耳に届くのはじいさんの声だけではない。

 聞いているだけで脳みそが耳から流れ出ていきそうな、そんな鼻にかかったような声に俺が振り向けば。

 

「あなたが惣一朗さんを助けてくれたのねぇ。本当にありがとう~」

 

 目が点になる、とはこのことを言うのだろう。

 正面を向き直った俺の目に映るのは、にっこりと微笑む一人の女性の姿。

 見た目から想像するに、年は20代の中ほど、といったところだろうか。

 まず最初に俺を驚かせたのは、その女性の瞳だった。

 両目は左が緑、右が青とそれぞれ色が違う。オッドアイというものを実際この目で見るのは初めてだが……まるでエメラルド、そしてサファイアを想起させるが如きその美しさを前にしては、左右の色違いという違和感などどこかへ吹き飛んでしまった。

 左目の下にある泣き黒子(ほくろ)がまた、何とも言えず艶めかしい。

 大きな瞳はやや垂れ気味で、甘ったるい声と相まって殊更優しげな雰囲気を醸し出している。

 緩くウェーブのかかった髪を肩まで伸ばした先、首から下に視線を移動させたところで、俺は先ほどぶつかったものの正体を察した。

 

 巨大な双丘が、そこにはあった。

 じいさんに肩を貸していて腰を落としていたゆえ、顔から突っ込む形になったのだろう。

 縦線が入った厚めのセーターを着用しているというのに、そのあまりの大きさゆえに全く存在を隠せていない。

 ……ややもすると、ラピスのものより大きいかもしれない。無論それは言うまでもないが、元の姿での話だ。

 つい俺の視線はそこで留まり、じっと凝視してしまう形になってしまう。

 

「あ゛いっ……!!」

 

 そうしていると、突如として内腿に激痛が走った。

 頓狂な叫びを発した俺は、痛みに身体を跳ねさせながら周囲に視線をやる。

 横のじいさんも正面の女性も、何ごとかと目を丸くしている。

 であれば、犯人は一人しかいない。

 俺は怒りの形相で今一度後ろを振り向くが、俺以上に怒りを湛えている様子のラピスが目に入るや、喉まで出かかっていた糾弾の言葉は引っ込んでしまった。

 ラピスは呆れの色を交えた声色で、じとりと目を細め言う。

 

「なーにが『お前だから』じゃ。よく言うわ、大きければ誰でもよいくせに」

「うっ」

 

 ……何故後ろにいたのに、俺の視線がどこに向かっていたのかを察しているんだ、こいつは。

 先ほどの痛みの正体はおそらく、ラピスが腿を思い切りつねくったせいだろう。

 とはいえ、俺の視線が彼女……絵里さんと言ったか――の胸に向いていたのは紛れもない事実であり、途端に羞恥の念に捕らわれた俺は、じっとこちらを睨むラピスからつい目を逸らしてしまう。

 と、そこで絵里さんから声がかかる。

 

「ええっとぉ……」

「あっ、す、すいません! えっと俺、夢野っていうもので……」

 

 顎に人差し指の先を乗せたポーズで、やや戸惑った声を出す彼女に向け、俺はとってつけたような謝罪と、今さらながら自己紹介を始める。

 この絵里という女性は、じいさんの孫か何かだろうか。

 こうして改めて見ても、とんでもない美人だ。

 彫刻がそのまま人となったような、まるでこの世のものとも思えない美貌で――って、あれ?

 ……似たような印象を、つい最近誰かから受けたような。

 

「え、あら? あなた……」

「はい?」

 

 ふと何かに気付いた様子で、彼女は何か口に出そうとするが。

 

「どうした絵里、もしや君の知り合いかね?」

「――あっ! ち、違いますよぉ~惣一朗さん。 ほ、ほら、腰を悪くしたならすぐに休まないとダメですよぉ」

 

 と、先の言葉はじいさんの横槍で有耶無耶にされてしまった。

 

「さ、惣一朗さん。肩に掴まってください。早くお部屋で休みましょうね」

「うん……すまないな。そうだ絵里、彼らも入れてやってくれ。助けてもらった礼もしたい」

「えっ、いや、俺はそんな……」

「後で彼らにお茶を。――っと、おお、そうだ。君たちに紹介がまだだったね」

 

 じいさんは絵里さんに肩を借りて土間から上がると、俺たちを振り返り、言う。

 

「彼女は絵里、そして僕は惣一朗という。絵里は僕の妻だ」

「はぁ、そうで……――はっ!?」

 

 既に二人の名前を耳にしている俺は生返事を返しそうになったが、途中じいさんの言葉、その意味するところに思い至り、弾かれたように大声を出してしまう。

 

「これも何かの縁だ。彼女共々、これからよろしく頼むよ……っと、おう、いたた……」

「ほらぁ、惣一朗さん! すぐに横にならないとダメですってば! ――あっ、貴方たち、申し訳ないんだけど、お布団を敷くの手伝ってもらえるかしらぁ?」

「へっ……あ、はい……」

「ごめんなさいねぇ。さ、行きますよ惣一朗さん」

 

 そう言うと彼女は、あっという間にじいさんを連れ、奥の部屋に消えてしまう。

 そして玄関に取り残された俺は、ぽかんと口を開けて、ただその場に留まっていた。

 

「……冗談、だよな?」

 

 大人と子供どころか、孫くらいの年齢差だぞ……。

 いや、そういえばあのじいさん、さっきも自分の年が40代だとか下らない冗談を言ってたな。

 

「ったく、悪ふざけの好きなじいさんだ。ほれラピス、行くぞ――……どした?」

 

 くいくいと服を引かれる感触に釣られ、俺がラピスに視線をやれば、何か言いたげな顔をした彼女と目が合う。

 

「……我が君よ、彼奴(きゃつ)の穢れを奪うという話を忘れてはおるまいな?」

「またその話か。その話はナシだ、無し。あんな普通のじいさんに手を出せるかよ」

 

 きっぱり俺がそう言い切ると、何故かラピスはきょとんとした顔つきに変わる。

 

「んん? ……ははぁ、なるほどの」

「なんだどうした?」

「我が君。汝は見当違いをしておるな。穢れを取り除くという行為を、さもその者の命を奪うことじゃとでも思うておるのじゃろう? 今まできちんとした説明をせなんだわしも悪いがな」

 

 いやそりゃ、お前は死神だろ。そんな存在が言うことだ、俺でなくとも、誰が聞いたって同じように思うはずだろう。

 とはいえ、そう言うからには俺の予想とは違うものなのか。

 

「違うのか? ああ、お前の言う通りてっきり俺は、相手を殺してどうにかすんのかと思ってたぞ」

「場合によりけりじゃな。まあ、あの者であれば問題なかろうよ。彼奴が実は稀代の大悪党――とかでなければの」

「……いくらなんでも、そりゃないだろ」

「であろう? なれば何を思い悩むことがある、我らの命がかかっておるのじゃぞ」

「……ま、おいおい機会を見てからな」

「悠長なことを……まあよい、しかしこのこと、ゆめ忘れるでないぞ」

「へいへい。んじゃ行くぞ」

 

 そう言って、玄関の扉の所で立ち往生していた俺は、中へと一歩踏み出そうとし――

 

「――ッ!」

 

 瞬間、俺は今日この場で何度目か分からぬ、背後へ振り向く動作を行う。

 だが今回に限り、その目的はラピスではない。

 俺の視線はさらにその先――これまで通ってきた道に向かっている。

 

「む、どうしたのじゃ我が君。急に振り向いたりなぞして」

「……」

 

 ラピスの声にも反応することなく、瞬く間に流れ出でた冷汗で背な(・・)を濡らしながら、俺は表情を硬直させる。

 ――今のは……?

 俺が一歩踏み出さんとした瞬間、背中に叩きつけられたもの。

 今のは、まるで――そう、『殺気』と呼ばれるものではないか?

 不意に後ろから猛獣が襲い掛かからんが如き予感に釣られ、俺はこうして振り向いたのだが――

 果たして俺の視界には、何の変哲もない、人ひとり見当たらぬ光景が広がっているばかりだった。

 

「おい、お前。今何か感じなかったか?」

「んぅ? 何か、とは?」

 

 視線だけを動かし、ラピスもまた先ほどの気配に気付いたのかを問うが、彼女は特に何も感じなかった様子である。

 俺の勘違いか……?

 しかし、何も無いことが分かってなお身体に覚えるこの怖気(おぞけ)は……単なる気のせいだったというには印象が強すぎる。

 殺気という言葉で、俺の脳内に、あのエデンという女のことが脳裏によぎる。

 しかし奴が発していた、まるで蛇のそれを思わせる粘ついたものとは違う……今のはもっと直接的な、純粋な殺意であるように思えた。

 

「どうしたのじゃ、顔色が悪いぞ」

「……いや、なんでもない。さっさと中入ろうぜ」

 

 扉を閉めながら、俺は尚も辺りを見回したが、やはり何も変わったところを発見することはなかった。

 ……やはり、気のせいだったのだろう。

 そう半ば強引に自分に言い聞かせ、俺は中へ足を踏み入れたのだった。

 

 ………

 ……

 …

 

「うん、そうそう。そこに敷いてもらえるかしらぁ?」

「あ、はい。――よっ……と。おい、反対側持ってくれ」

「まったく、なんでわしがこんなことぉ……」

 

 押し入れの中から布団一式を取り出した俺は、じいさんを肩に抱えている絵里さんに代わり、床に布団を敷くべく動く。

 ラピスはぶつくさと文句を言いつつも、俺の言う通りに動いてくれていた。

 

「さあさあ惣一朗さん、お布団の準備ができましたよ。はい、そ~っと……」

「う、うむむ……くっ」

 

 腰を落とす際に痛むのか、苦しげな声を出しつつ、じいさんは絵里さんの手を借りて横になる。

 そのまま掛け布団を肩まで被せた後、彼女は俺たちに向き直り、言った。

 

「ふぅ、これでよし。二人とも、本当にありがとう~。助かったわぁ。それじゃあ、ちょっと待ってて頂戴ね。お茶の用意をしますからね~」

「ああ、いやホントお構いなく……」

「若いコが遠慮しないの。待ってる間惣一朗さんの話し相手になってあげてね~」

 

 そう言い残し、彼女は襖を開けて出ていってしまう。

 じいさんは寝た体勢のまま眼鏡を外すと、安心したように目を細めた。

 

「ふぅ……いや、本当にありがとう。最近は腰を悪くすることも無かったから油断してしまったかな……それにここまで手伝わせてしまって、実に申し訳ない」

「いや、まあ、別にこれくらい……」

「うんうん、最近珍しい若者だね君は。年長者に対する気遣いができている。言葉は少々ぶっきらぼうだがね」

 

 最後の言葉は余計なお世話だったが、嫌味のない素直な称賛に俺はたちまち気恥ずかしくなる。

 誤魔化すように頭をボリボリと掻きつつ、俺は視線をじいさんから逸らす。

 ……しかし、雑然とした部屋だ。

 そこそこの広さの部屋のようだが、どこに視線を向けてもそこかしこに本がうず高く積まれており、体感的にはどうも狭苦しく感じる。

 本のタイトルはついぞ聞いたことのないようなものばかりで、内容すらはっきりとしない。

 ……いずれにせよ、本を殆ど読まない俺にはどうせ分かるはずもないのだが。

 

「はは、汚いだろう? ここは僕の自室兼仕事部屋なのだが、どうも片付けが昔から苦手でね。これでも絵里のおかげで大分マシになったのだが」

 

 俺があちこちに視線をやっていることに気付いたのだろう、じいさんから声がかかる。

 そう言われてみれば、ひとつ気になっていたものがあった。

 部屋の角に鎮座する、小さな机。

 やはり部屋の様子と同じく物が所狭しと置かれているが、その上にこれまで目にしなかったものらが目に入る。

 それに目をやりつつ、俺は言った。

 

「じいさん。あんた、物書きなのか?」

 

 黒い高級そうな万年筆とそれに、何やら書きかけの原稿用紙。

 加えて部屋にひしめく図書の量と併せて考えれば、頭に上るのはそれしかなかった。

 それに、これは単なる勝手なイメージにすぎないが――確かにこのじいさん、小説家と言われれば、実にしっくりくる風貌をしている。

 俺の言葉を受け、じいさんは何故か口ごもりつつ答える。

 

「んん……まぁ、一応……そういうことになるかな。ちっとも売れてはいないがね。生活は常にカツカツだよ。君は読書は好きかい?」

「いやぁ……正直、あんまり。部活の後輩にもよく言われますよ、もっと本を読めって」

「はっはは、先輩思いじゃないか」

「そうだったらいいんすけどね……ただ単に俺をなじる口実ってだけな気も」

「ははは、ならばそうならないよう、その後輩の鼻を明かしてやればいい。僕の蔵書は少し変わったものが多いのだが……よければその中から僕のお薦めを読んでみるかい?」

「あーいや、まあ、それはまた今度……っていうか、具合悪いんだから寝てないと駄目っすよ」

 

 どうも話が面倒な方向へ行きそうな予感を感じた俺は強引にこの話を終わらせ、じいさんにそう促す。

 じいさんの方も元より本気で言っていたのでもなかったのか、特にそれ以上話を広げることもなく素直に従い、それからは三人とも口を開かぬ時間が続いた。

 やがてじいさんから寝息が聞こえてくる。やはりああ言いつつもかなり体力を消耗していたようだ。

 と、そうしてじいさんが寝入ったタイミングで、背後の襖が再度開かれる。

 現れた女は、相変わらずの微笑みを浮かべたまま間延びしたような声を出す。

 

「お茶が入りましたよぉ~……あら、惣一朗さん、寝ちゃいましたか。――よかった……」

「え?」

「あ、ううん! なんでもないのよぉ~? さあさ、お茶の準備ができたから、二人ともついてきて頂戴ね」

「あ、はい。――おい、行くぞ」

「……」

「どうしたんだよ」

 

 腰を上げた俺は、未だ横に座ったままのラピスを訝しみ視線をやる。

 どうも何かがおかしい。

 おかしいというのは、こいつがやけに静かなことだ。

 それはそれで助かるのは事実ではあったが、いつも事あるごとにぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるこいつが、今の今まで何をも発さずいたというのはなんというか――らしくない。

 意を向けられ、俺を見上げる形となったラピスは、何とも言えぬ表情をしている。

 

「……ん? いやいや、感嘆しておるのじゃよ。意外と肝が据わっておるのじゃとな。――いや、元より肝心(かなめ)なところではそうなるお方であったな、我が君は」

「……?」

 

 うんうんと頷きつつ、なにやら感心したような風で語り掛けてくるラピスだが、俺には一体何のことを言っているものか分からない。

 ――まあ、いずれにせよ、願わくばこのまま大人しくしておいてほしいものだ。

 

「なんかよく分かんねえけど……ほら、さっさとしろ」

「うむ。いざ参ろうではないか」

 

 ……こいつはなんでそんな意気込んでるんだ?

 

「はいはい、この先の部屋ですよぉ~」

「え? ここが居間じゃ……」

 

 襖を一つ隔てた隣の部屋は、大きな木製のダイニングテーブルのが鎮座する、いかにも客人をもてなすにうってつけな部屋に見えた。

 一目見て、てっきり俺はここで茶をもてなされるものとばかり思ったのだが。

 

「う~ん、そうなんだけどぉ。隣の部屋で話してたらぁ、せっかくお休みになった惣一朗さんを起こしちゃうかもしれないしねぇ~。悪いんだけど、こっちの台所まで来てもらえるかしら~」

「ああなるほど、そういうことなら……。ところで絵里さん」

「なぁに~?」

「あなたは――じいさ、いや惣一朗さんの孫か何かで?」

 

 俺たちを先導して歩いていた絵里さんは立ち止まって振り向くと、きょとんとした顔を見せる。

 

「あら? 惣一朗さんから紹介されてたわよね?」

「いやまぁ、そうなんすけど。いくらなんでもその、絵里さんが若すぎるっていうか……」

「うふふ竜司くんたら、口が上手いんだからぁ。こんなおばさんをつかまえてぇ~もぉ~!」

 

 ころころと笑いながら、絵里さんは手をひらひらとさせる。

 確かに仕草はおばさん臭いものを感じさせるが……いやいや、アンタがおばさんだったら世の妙齢の女性を皆ババア扱いしなきゃなんねえぞ。

 って――あれ?

 俺、下の名前……名乗ったっけ?

 

「惣一朗さんの言ってたことは本当よ。私は正真正銘、あの人の妻ですよ~」

「そ、そっすか……」

 

 ……あのじいさん、案外好きモノだったんだな。

 あんなヨボヨボになってもこんな絶世の美女を捕まえられるチャンスがあるとなりゃ、俺含めモテない世の男性諸君にも希望は残されてるなぁ。

 改めて俺は、眼前の女性の姿を見直す。

 髪は染めているのか、それとも地毛なのか、頭頂部は濃いブラウンだが、そこから髪先にかけて段々とピンク色が差しつつ明るくなっていく、いわゆるグラデーション模様になっている。

 髪形そのものだって、いかにも若い女性が好みそうなセミロングのボブスタイルで、これでおばさんと自称するのは無理があろうというものだ。

 加えて透き通るような白い肌、それに日本人離れした瞳の色も加味して考えるに、恐らく外人さんなのだろう。

 

「ごめんなさいねぇ、こんな台所なんかで悪いんだけど……よければ座って頂戴」

 

 言う通り、俺たちが通されたのは彼女の言葉通りの場所だった。

 ウチにあるようなシステムキッチンでない、まさに『台所』と呼ぶにふさわしい、昔ながらのものだ。

 とはいえ広さ自体はそこそこあり、中央には椅子とテーブルもある。

 部屋の内部にはおそらく俺たちに供するために準備したのだろう、(かぐわ)しいコーヒーの香りが立ち込めていた。

 薦められるままに俺はその中の一つに座り、続いてラピスも俺に倣う。

 

 ――が。

 

「絵里さん?」

 

 絵里さんは俺たちが座ったのを確認しても、それまでの直立した姿勢を崩さぬままでいる。

 そればかりか、それまでの柔らかな微笑みは姿を消し、悲しげなものへと様変わりしていた。

 この突然な変化に、俺は訝しみながら彼女へ言葉をかけようとするが、やにわに彼女は俺の前に歩み寄るや――

 

「ごめんなさ~い!!」

 

 ……言葉とともに、地に膝を付けた、平伏の姿勢を取ったのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

異なるものたち

「ちょっとちょっと! 何なんすか一体!?」

 

 地べたに正座し、腰を曲げて額を伏せるその姿勢は、まごうこと無き土下座のそれである。

 フィクションでは何度か見たこともあるが、実際に間近で見るのはこれが初めてだ。

 テレビ越しであればいっそ笑える仕草でもあるが、いざ自分がされる側になると笑えるどころか普通に――引く。

 その理由が不明とあれば猶更というものだ。

 俺は椅子から転げるように立ち上がり、やにわにこの珍妙な動作を始めた女性を止めんとする。

 

「ううう゛~……ごめんなさぁい……私にできることならなんでもしますからぁ、あの子のことは許してあげてぇ……」

「いやだから何言ってんすか!? とりあえず頭上げてくださいよ!」

「そのうちこっちから謝りに行こうとは思っていたの、本当よぉ……? でもまさか、そっちから……それもこんなに早くなんて思ってなくて……」

 

 顔を伏したまま、震える声で訳の分からぬことを(のたま)い続ける彼女を前に、俺はただ慌てふためくのみ。

 

「――はんっ」

 

 と、そんなやり取りをしていると、横から鼻で笑う声がする。

 横――すなわちラピスの方に目をやれば、俺とは違い、椅子に座った姿勢を崩していない。

 どころか、テーブルに肩肘を乗せ、頬杖までをもついている。

 ラピスはこれまで俺に見せたことのないような冷たい視線でもって、土下座する女を見下ろしていた。

 

「絵里とやら」

「……?」

 

 ラピスからの言葉は予想外であったのだろう。

 絵里さんはようやく頭を上げ、急に上げられた声の主に視線を向けた。

 不安げな様子の彼女とは対照的に、ラピスは彼女を見下ろす表情を変えぬまま、ゆっくりと口を開く。

 

「かような安い頭なぞ、いくら下げたところで何になる? 謝意を示すならばもっと相応しいやり方があろうぞ」

「うっ……」

「それとも何か? 我が君を未だ軽んじておるということか。偶然とはいえ獲物にまんまと居所を知られるような痴愚極まる匹夫(ひっぷ)めが、この期に及んでも我が(あるじ)を尚も愚弄し続けるとは、いやはや恐れ入るのう。我が君――いや我らが如何な存在か、こうして直接目にしても分からぬとは、怒りを通り越して呆れてくるぞ」

「うう゛う゛~……」

 

 声こそ荒げぬものの、ねちねちとした罵倒を続けるラピス。

 それに対して彼女は一言も言い返すことなく、ただ言われるがままになっていた。

 そして、そんな二人のやりとりを聞く俺は。

 何故ラピスがこうまで激高しているのか、絵里さんもまた初めて出会った女――それもこんな幼女に対し、一言も反論せず言われるままにしているのか、そのどちらも皆目見当がつかなかった。

 第一、絵里さんにとりラピスが言っていることはそもそもが理解不能なものであるはず。

 だというのに、彼女の様子を見ていると、全てを理解した上で――そして、だからこそ何も言わずに責めを甘んじて受けているようにさえ思える。

 

「あああ~ごめんなさあい~っ! 私がぁ、私が悪いんですぅ! 私が……ちゃんとあの子のこと見てなかったからぁ~!」

 

 絶えず続く罵倒に耐え切れなくなったのか、ついに絵里さんはわんわんと大声で泣き出してしまった。

 ここで初めて俺には、ある予想というか予感が頭に浮かび始めていた。

 思い返せば兆候のようなものは絵里さんと会った時……彼女の声を聞いた時からあったように思う。

 加えて先ほどのラピスの言葉、そして今の態度を併せ考えれば、それはすなわち――

 

「答えになっておらぬぞ。……いや、もうよい。(うぬ)の処分は我が君に決めてもらおうではないか。――さぁ我が君よ、今こそ留飲を下げし時じゃ。この下僕めに何なりと命令するがよい。この不埒者めを如何様にも料理して進ぜよう。それとも我が君が直接手を下さるか?」

 

 そんな彼女にラピスは尚も冷たく当たると、笑顔で俺に向き直る。

 俺は自分の予想が当たっていないことを祈りつつ、恐る恐る口を開いた。

 

「なぁ……っていうかよ……ラピス。もしかして、この人って……」

「ん?」

「……例の夢に出てきた、『アレ』ってことだったり――しないよな?」

 

 最後の方は自信の無さから消え入るような声になってしまった。

 が、俺のこの質問は、ラピスにとって――いや、二人にとって予想外のものであったようだ。

 

「――はっ?」

「……え?」

 

 二人はそろって目を丸くし、俺を見る。

 ラピスはそのまま2、3度瞼を(しばた)かせた後、ようやく口を開いた。

 

「……の、のう、我が君よ。まさか……まだ気づいておらなんだのか? ――今になって? は、はは、まさかの? いくら汝が鈍いとはいえ、この期に及んでかようなことがあろうはずが……」

「え……じゃ、やっぱりそうなの?」

「……!」

 

 ぱくぱくと口を開閉させた後、ラピスの表情は――たちまち呆れたっぷりなものに変わったのだった。

 

「信じられぬ……いや信じられぬ。鈍いとは思うておったが、まさかこれほどとは……」

「あ……私、もしかして、墓穴を掘っちゃった感じ……?」

 

 その後、ようやく絵里さんも椅子に座り、俺たち二人と彼女とはテーブルで向かい合う形となった。

 

「先ほどの言葉は撤回じゃ、撤回」

「もういいだろ……そう言うお前はいつから気付いてたんだよ」

「こやつを見た瞬間に気付いておったわ。だというに、汝は乳ばかりに目をやりおって……はぁ~、情けない情けない! 大体じゃの、我が君はいつもそうやってわしを――」

「ぐくっ……」

 

 ここぞとばかりに言いたい放題に言うラピスだが、俺はそれに対し抗する術を持たない。

 何故なら、それが事実に他ならないからだ。

 ここで下手な言い訳を一つでもしようものなら、即座に十の言葉で反撃されるであろうことは想像に難くない。

 

「ええとぉ……竜司くん?」

「あっ、はっはい!?」

 

 彼女に対し多少後ろめたいところのある俺は、急に話しかけられ狼狽してしまう。

 

「そのぉ~……私の正体についてはもう分かっちゃった――というより、私が自分から暴露しちゃったようなものだけど……。もちろんこのことは詳しく説明させてもらうつもり。でもその前にこちらから聞きたいことがあるのだけど……」

「あー……はい。なんでしょうか」

「……」

 

 ラピスは口を閉じたがしかし、油断なく対面の女性を見据えている。

 その視線から放たれる敵意は、まるで隠そうとする素振りすらない。

 そんなラピスの様子に気付いているのかいないのか、絵里さんは構わず続けた。

 

「その……昨日途中で現れた女の人って、やっぱり貴方のお仲間だったり……?」

「へ?」

「――はぁ?」

 

 俺とラピスは、揃って間の抜けた声を出す。

 

「すっごく怖かったわぁ~。私、泣いちゃいそうになっちゃったもの……。それで、どうなのかしらぁ……」

「貴様、何を寝惚けたことを――」

「ちょっと黙ってろ。……ええ、まあそんなとこです」

 

 ラピスが即座に口を挟もうとするが、ここは一先ずそれを押し留めておく。

 というのも、これは使えそう(・・・・)な気がしたからだ。

 先日はラピスの乱入によって事なきを得たが、実際のところあれが無かったらどうなっていたか分からない。

 本人は先ほど俺を害する気がないというような言葉を述べていたが、生憎それをそのまま信用するほど俺はおめでたい頭をしていない。

 どうも彼女は昨日の女――つまり、元の姿のラピスに恐怖を覚えているらしい様子だ。

 ならば、あれは単なる幻です、現実ではこんなもんです――と、先にネタばらしをするのは得策ではないだろう。

 事実、この俺の答えを聞き、彼女の表情は明らかに強張りを増した。

 

「うう……やっぱりそうなのねぇ~……。驚いちゃった……まさか二重の術式で作られた結界に入ってこれるなんて、思ってもみなかったわぁ。それに、あの鎌! なんなのぉあれ~!?」

「ま、それはおいおい話すとして……今度はこっちの番です。一応言っておきますが、嘘はやめてくださいね。そうなればこちらも昨日の女を――」

「はっはい! 大丈夫、絶対に嘘なんかつかないわぁ! や、約束!」

 

 最初にこうして釘を刺しておかなきゃな。

 とりあえず何よりも先に、一つだけはっきりしておかねばならぬ事がある。

 

「……信じます。それで――鈴埜にあの本を渡したのは、あなたなんですか?」

「ううん。それは違うわ」

 

 一瞬の間も置かず、彼女は答える。

 こうまで即座に返されると、かえって疑わしい。

 まるで前もって準備しておいたかのようだ。

 

「本当ですか? 実際あなたはあの本を使って俺の夢に入ってきたじゃないですか。鈴埜を利用して、俺をどうかしようとしたのでは?」

「ううん……むしろ最初あの子がしたことに気付いた当初はね、私はなんとかあの本にかけられている魔法を解こうとしたの。――でも、無理だった。それに……」

「それに?」

「命に関わるようなものではないし、あの子がそんな手段に訴えるほど本気だって思うと……親としてつい叶えてあげたくなっちゃって……。でもやっぱり、今思うとそれはルール違反よね。勇気が出ないからって魔法なんかに頼るなんて、親として恥ずかしいわぁ。もし私が子供の時に同じことをしたら、ものすっご~く怒られたでしょうねぇ……」

 

 懇々と続けた後、彼女は改めて俺に向き直り、そして深々と頭を下げた。

 

「竜司くん。今さらだと思うでしょうけど……あの子に代わって私が謝ります。本当に、ごめんなさい!」

「いや……っていうか……」

 

 今の俺にとって、謝罪の言葉などどうでもいい。

 それより、もしかしてこの人って……?

 頭に上った疑問を、恐る恐る俺は切り出す。

 

「まさか絵里さんって、鈴埜の……?」

「あら、それも知らなかったの? まぁそうよねぇ~。表札を見たなら流石に気付くはずだもの」

 

 うんうんと頷き、絵里さんははっきりと――明言した。

 

「はい、そうですよ。私は冥ちゃんの――貴方の言うところの『鈴埜』のお母さんです。この世界での名前は『鈴埜 絵里』」

「マジかよ……」

 

 この人が――鈴埜の、母親だぁ!?

 ……若すぎるだろ!

 姉妹って言われた方がまだ信憑性があるってもんだぞ!?

 いや、そんなことより。

 

「じゃ、鈴埜も――それにあのじいさ――惣一朗さんも、あの世界の住人だってことですか」

「そう言うってことは、やっぱりあなたも惣一朗さんと同じなのね~」

 

 絵里さんは頬に手を当てつつ、得心がいったと言いたげな表情を浮かべる。

 

「残念だけど、それはハズレ。惣一朗さんはれっきとしたこの世界の人間よ。冥ちゃんは――そうねぇ、ハーフってところかしら~」

「……」

 

 俺は、力なく椅子の背もたれに倒れ込む。

 ――駄目だ。

 思考回路が受け入れを拒否している。

 まさか一年以上前から、あの世界の住人と関わり合いになっていたとは。

 

「……我が君。もうよかろう。話の本題に入ろうではないか」

 

 それまで俺の言われた通り沈黙を守ってきたラピスが声を上げた。

 天を仰ぎながら、俺は投げやりに答える。

 

「本題って、なんだよ……」

「決まっておる。こやつらの穢れをいただくという本来の目的じゃ。――のう絵里とやら、まさか嫌とは言わせんぞ」

「……」

 

 絵里さんは暫くラピスの方に視線をやっていたが、やがて俺に再度向き直る。

 

「竜司君。ずっと気になっていたのだけど……この子はどなた? 話しぶりからして、私と同じ、あっちから来た子なのかしらぁ?」

「うーん……」

 

 ……まあ、とりあえず聞きたいことは聞き出せたし、これ以上隠しとく必要もないか。

 

「絵里さん、こいつが昨日の奴ですよ」

「へっ――」

 

 ……おおう。

 人が硬直するって、こういうことなんだな。

 そのまま数秒固まっていた彼女だが、程なくして顔面から冷や汗を滝のように流れ出でさせつつ、目に見えて狼狽する様子を見せ始めた。

 

「昨日のって、えっえっ……? う、嘘よね? だって――」

 

 そんな彼女を見るラピスは対照的に、愉快さここに極まれりといった風情である。

 漏れ出る笑みも隠しきれずといった様子だ。

 

「くっくく……そう、そうじゃ。こういう反応こそわしが望んでおったものじゃ。だというに、これまでわしの前に現れた連中ときたら、揃いも揃ってわしを軽んじおって……! 我が君も同じじゃぞ! まったく、この点ばかりは見習ってほしいの!」

「あー、うん」

「なんじゃその気のない返事は! ……はぁ、もうよい。始めるぞ」

「……えっ、――あっ!? お前、それ一体、いつ……!?」

 

 一体いつ、そして何処から取り出したのか。

 気付けばラピスの手には、例の巨大な鎌が握られていた。

 ただでさえ大きなそれは、今や手に持つ彼女の身長とほぼ変わりない。

 

「あーっ! そ、それぇ!?」

「ふふふ、見覚えがあろう。これで信じたか、ん? ……おっとそうじゃ、もはや隠しておく必要もないじゃろ。これから幾許か補給できるとはいえ、無駄遣いは極力避けねばの」

 

 ラピスは言うと、それまで隠していた角を出現させる。

 元の格好ならばまだしも、今のような制服姿にはいかにもアンバランスで、山羊を思わせるそれは、一層その異様さを際立たせていた。

 

「うむ。やはりこうでなくば格好がつかぬというものじゃ。それでは改めて――」

「ちょっ、ちょっと待って!! それ、ほんとに! ほんとにまずいやつだからぁ!」

「な~にを今さら命乞いなぞしておるんじゃ。それでわしが許すとでも思うておるのか? ほれほれ」

「ひゃああ、近付けないで~っ!!」

 

 ……しかし、こんな強気なラピスは初めて見たかもしれない。

 鎌の切っ先を絵里さんに突き付けながら嗜虐心たっぷりな顔付きをしているラピスは、今回の件に対する怒りに燃えているというより、心底今の状況を楽しんでいるように思える。

 まあ、無理もないことなのかもしれない。

 本人が言っていたように、これまでずっと舐められっぱなしの人生を送ってきたんだからな。

 こんな機会なんて一度もなかったのだろう。

 

 ――とはいえ。

 

「まあ待て、ラピス」

「……む?」

「ふぇぇ……?」

 

 彼女の喉元に切っ先を突き付けて弄ぶラピスを、俺は一度制する。

 哀れ、絵里さんは既に泣き声だ。

 

「実際のとこ、その鎌を人に振るうとどうなるんだ? あの時の俺みたいになるのか? まさか直接相手を真っ二つにするとか言い出さねえだろうな?」

「いっそ、そうしてくれようかとも思うがの。――が、そうした場合、我らが糧とはならぬ」

「ならどうなるんだ。前にお前が言ってたみたいに、塩の柱になって砕け散るのか?」

「ひいっ!?」

 

 絵里さんから小さく悲鳴が上がる。

 自分がそうなる未来を想像でもしたのだろう。

 

「それはわしのさじ加減一つじゃな。魂ごと穢れを全て取り込むのであれば、当然そうなる。――そして勿論、わしはそうするつもりじゃ」

「いや……まぁ、そこまでしなくてもいいんじゃないか」

「……なんじゃと?」

「その、なんだ。その人も言ってたじゃないか、命に関わるようなものじゃないって。だってのに、仕返しに命を奪うなんてのは、ちょっとな……」

 

 俺の言葉を聞いたラピスは、すっと目を細める。

 それまでの喜悦に満ちていた笑みすら消失させ、感情を消した表情を作る――と。

 

「――馬鹿者!!」

「……っ」

 

 たちどころに憤怒の形相に一変したラピスは、鎌の柄を地面に叩きつけ、俺を一喝した。

 

「汝という男は、どこまで甘いんじゃ! そんな言葉が真実であると、どうして信じられる!? 今の汝の言葉を聞き、こやつはきっと、腹の下で舌を出しておることじゃろうよ! ややもすると、今この場でわしが隙を見せたその瞬間、汝の命が絶たれるやもしれぬのじゃぞ! かような悠長なことを言うておる場合か!」

 

 ……しまった、言葉を間違えた。

 一見愉快げにも見えたその実、ラピスは彼女が俺に危害を加えようとしたことに対し、相当腹に据えかねる想いを抱いていたらしい。

 

「ラピス……でも――」

「汝のそういう甘さはわしとて嫌いではない。しかしの、時と場合を選ぶべきじゃ。――安心せい、これはわしの独断じゃ。命を奪うことに対し、汝が気に病むことはない」

 

 駄目だ、ラピスは本気だ。

 このままでは間違いなく、次の瞬間にも対面の女性に鎌を振り下ろすだろう。

 なんとか説き伏せようにも、彼女の言うことに一理あるのも確かなのだ。

 実際問題、絵里さんの言うことには何一つ証拠などない。

 だとすれば、ラピスのするままにさせてやるのが正しいのかもしれない。

 

「今すぐこの女を滅し、後顧の憂いを断つ!」

「まっ――」

 

 ラピスが鎌を振り上げると同時に、俺はとにかく一度ラピスを止めんと席を立つ。

 

「それはどうか勘弁してやってくれんかね」

 

 立ち上がった拍子に倒れた椅子が、大きな音を立てて転がる。

 その音が余韻を残し鳴り響く中、俺たち三人の視線は、一様に扉へと注がれていた。

 

「いやぁ、怒鳴り声が五月蠅くてとても眠れやしないよ。隣の家まで聞こえていたらどうするんだい」

 

 いつの間に現れたのか、部屋の入口にじいさんが姿を見せている。

 

「……なんじゃ貴様は。邪魔だてしようてか? どうせ貴様も一枚噛んでおるのじゃろうが」

「まあまあお嬢さん。とりあえずその物騒なものを仕舞ってもらえんかね」

 

 先ほどと違い、片手に杖をつきながらなのは腰を案じてのものだろう。

 そして彼の姿を見た絵里さんは、目にみえて狼狽を始めた。

 

「そっ、惣一朗さん!? あ、あああの、これは……」

「――エリザ。どうも君は僕に隠し事をしていたようだね」

「あああああ……! ちっ違っ……」

 

 相変わらずの落ち着いた口調だが、絵里さんに話しかけるその口調には責めるような色がある。

 おろおろと慌てふためく彼女を尻目に、じいさんは俺たちに視線を向けた。

 

「夢野くん。それに――おっと、そういえばそちらの子の名前は聞いていなかったね」

「……」

 

 鎌を大上段に構えたまま、ラピスは横目だけでじいさんを見る。

 返答がないと分かるや、じいさんはその巨大な大鎌にさして驚く様子もなく言葉を続けた。

 

「なにやら家内が君たちに失礼を働いたようだが……殺したいほどとは、一体また何をやらかしたのやら。……彼女の不手際は夫である僕にも責がある。命を奪うというなら僕からにしてくれ給えよ。しかしまずは君たちの口から詳しい話を伺いたいな。――エリザ、勿論君からもだよ」

「はひぃっ!?」

 

 最後の言葉は、やや強い口調で。

 絵里さんは反射的にビクリと身を竦ませた。

 まるで悪戯が露見した子供を思わせる反応である。

 

「居間に行こう。エリザ、君はお茶を」

 

 言い終わるや、じいさんはさっさと廊下に出てしまった。

 

「ふんっ……行くぞ、我が君」

 

 ラピスは構えた鎌をやっとのことで下ろす。

 結果的にじいさんの登場がラピスの行動を止める結果となり、俺は胸を撫で下ろした。

 

「やけに素直じゃないか。俺はまた、お前がじいさんにまで斬りかかるんじゃないかと気が気じゃなかったぞ」

「そうしてくれようかとも思うたがの。あの 老夫(ろうふ)の態度が少々気にかかるでな。こんな場面じゃと言うに、やけに落ち着き払っておったではないか」

 

 確かに、もっと驚いてもいい場面だったはずだ。

 やはり彼もまた、俺と似た修羅場を味わったことがあるのだろうか。それ故のあの落ち着きようなのか。

 しかしそれにしても落ち着きが過ぎる気がする。

 

「ひんひん、お二人ともぉ、先に行っててくださぁい……」

 

 両眼からぽろぽろと涙を流しつつ、しゃくりあげながら絵里さんは俺たちにそう促す。

 ……『エリザ』か。やっぱりじいさんの言ってたのが本当の名前なんだろうな。

 しかしそうなると、まあよく考えずとも当たり前だが、じいさんもあの世界の関係者ってことか。

 

「はぁ~……」

 

 暫くは平和な日常を取り戻せるかと思っていたのに、それが一週間もたたないうちにこの有様とは。

 俺は長い溜息をつき、未だ鎌を持ったまま憮然とした表情を崩さぬラピスへ声をかける。

 

「とりあえず鎌を仕舞え。一通り話が終わってからでも遅くないだろ」

「……よかろう。しかし彼奴(きゃつ)らが今後少しでも怪しい素振りを見せれば、今度こそわしは容赦せぬからの」

「そうならないよう願いたいもんだ。俺もな」

 

 ――まったく、心からそう思うよ。

 後輩の両親とあわや殺し合いなんて冗談じゃない。

 

 先ほどは通り過ぎた部屋に戻った俺たちは、じいさんと机を挟んで並び座る。

 お互い一言も喋らぬ時間がただ過ぎていったが、ややあって絵里さん――と呼んでいいものか、とにかく彼女がやってきた。

 

「お茶ですぅ……」

 

 盆に乗せた人数分のコーヒー、そして茶菓子の入った小皿を、彼女は各人の前へ置いてゆく。

 全て配り終えた時、見計らったようにじいさんが口を開いた。

 

「さて、何から話したものか……うん、しかしまあ、どうだね。まずは一杯」

「あ、はい。頂きます」

 

 俺は小皿に乗った茶菓子を手に取る。

 ……こりゃまた、随分と高そうな菓子だな。

 手触りのいい和紙で出来た包装を剥がすと、綺麗な正方形の菓子が現れる。

 そんなことを思っている場合ではないことは重々承知ながら、甘いものに目がない俺は、僅かに心躍らせながら菓子を口に運ぼうとする。

 

「ていっ」

「あっ!」

 

 ――が、口に入れようとしたその瞬間、やにわにラピスのチョップが手首に放たれる。

 手に持っていたそれは衝撃で俺の手を離れ、てんてんと机の上に転がった。

 

「お、おい!」

 

 俺が抗議の意を含んだ視線を向けるも、ラピスは心底呆れたとばかりな声色で言う。

 

「ほんに汝ときたら……まるで童そのものじゃの。危機感といったものがまるで欠けておる。毒なぞ盛られておったらどうするのじゃ、たわけ」

「あっ……」

 

 考えすぎ――とは言えない。

 今この場においてはそれくらいの危機意識でもって臨むべきなのだ。

 ラピスが言うには、俺と自分との命は直結しているらしい。

 であればこの警戒も納得というものか。

 

「丁度よい。汝らどちらでもよい、今我が君が零したものを口にしてみよ」

 

 ラピスの態度は、完全に対面の二人を端から敵と決めてかかっているものだ。

 油断など一瞬たりとてするものかという強い意志を感じる。

 いや、この状況下においてはそれこそが正しい姿勢なのだろうが……普段の姿を知っている俺からすれば、今のラピスはまるで別人のように映る。

 

「あっ、私が……」

「――いいんだ、エリザ」

 

 落ちた菓子を拾おうとする絵里さんを制し、じいさんが菓子を拾い、そして何の躊躇もなく口に入れた。

 

「うん、おいしい。やはり何度食べてもここの金鍔は絶品だねぇ。君には代わりに僕のを差し上げよう。……お嬢さんも、これで満足かな?」

「――ふんっ」

 

 ろくに返事も返さず、その代わりとばかり、ラピスはぷいと顔を逸らす。

 

「はっはは、随分と嫌われたものだ」

「あの、なんていうか……すいません」

「君が謝ることはない。それだけのことを彼女は仕出かしたのだろうからね」

 

 ううむ……。

 やはり俺だけがこの場の空気に未だ順応していない気がする。

 

「あの……じい、いや、惣一朗さん」

「なんだね急に畏まって。じいさんで構わんよ。実年齢を考えると少し悲しくもあるが、この外見では仕方ないことだ」

「あー……いや、まあ、今さら訂正するのもアレなんで。その……エリザってのは、絵里さんのことですよね?」

「その通りだよ。君たちはどうも訳知りのようだし、隠す必要もあるまい。彼女の本当の名はエリザベート。エリザベート・シュルディナーという」

 

 まーた舌噛みそうな長ったらしい名前か……あの世界の人間は早口言葉が得意技なのか?

 それでもラピスよりはマシだが。

 

「あーそれじゃこっちも。こいつはラピスって言います。本名は……えっと?」

「……こら。まさか臣下の名を失念したなどと言わぬじゃろうな」

 

 ……ぱっと思い出せなかっただけだ。

 なにしろ俺がこいつの本名を口にしたのはただの一回きりなのだからな。

 とはいえ、相当に怒り始めているらしいラピスへ、正直にそう答えられるわけもない。

 

「い、いやいや! そんな訳ないだろ!? えっと確か、タヒツ……いやタヒニツァル――ん?」

「貴様……」

 

 いよいよラピスの目が据わり始める。

 

「いや違う! そうじゃなくて……エリザさん、どうしたんですか」

「……エリザ?」

 

 俺に釣られ、じいさんもまた横の絵里さんを見る。

 彼女の顔は蒼白に変わっていた。

 

「あ……あのあのあの……も、もしかしてぇ……」

 

 震える声で、絵里さんは続ける。

 

「まさか……サナトラピス……――タヒニスツァル=モルステン=サナトラピスさん……だったり……? そっ、そういえば、昨日見たあの姿、伝説で伝えられてる姿に……」

 

 ラピスはその言葉を聞き、にやりと笑う。

 

「ほっほ~う? 我が威光は貴様のような木っ端にまで行き渡っておると見えるの」

 

 瞬間。

 絵里さんは弾かれたように机の横へ飛ぶと、先ほどと同じ土下座のポーズを取る。

 

「ひゃあああ~!! すっ、すいませんでしたぁ~っ!! し、知らぬこととはいえ! その、サナトラピス様のご配下の方に失礼を……!」

「くかかか、そうじゃそうじゃ、ひれ伏すがよい」

 

 それを見るラピスはたちまち上機嫌になり、震える彼女を嘲笑うかのような態度を見せた。

 

「おい」

「ん?」

 

 破顔するラピスに俺はそっと顔を近付けさせると、対面の二人に聞こえぬよう小さな声で耳打ちする。

 

「お前、ずっと冥府で引きこもってたんだろ? なんでこの人がお前のことを知ってるんだ?」

「う~む、何故かと問われるとわしにも答えかねるのじゃが。しかし下界の者らはわしを遥か昔より知っておった風であった。細かいところまで見れば多少の違いはあったがの。例えばわしの信者と名乗る者らが作っておった偶像などでは、わしはローブを纏った白骨死体ということになっておった」

 

 むしろそっちの方がイメージとしてはしっくりくるがな。

 あんな褐色肌で頭に角が生えた、それも女の死神なんぞ、とても言葉から連想されるイメージからは程遠いものだ。

 

「なるほど。するとお嬢さん。君はいわゆる『死神』というやつなのかな」

「勝手に奴等がそう呼んでおっただけじゃがの」

 

 俺は出来る限り小さな声を出していたつもりだが、ラピスの方が微塵も声量を抑えようともしなかったせいで、こちらの会話の内容はほぼ筒抜けだったようだ。

 じいさんは数度頷くと、今度は俺に視線をやりつつ口を開く。

 

「ふむ――ところで夢野くん。今の言葉を聞き、君はどう思った?」

「どう、って……」

「妙だとは思わないかね。まったく別の世界であるはずなのに、あちらでの『死神』のイメージとこちらのそれで大した差異がないというのは」

「それはまぁ……確かに……」

 

 実際は兎も角、ローブを纏った白骨死体というのは、まさしく俺たちの世界の死神のイメージそのままだ。

 架空の存在であり、実際に目で見た者など――あちらの世界ならいざ知らず、こっちの人間たちが目にしたことなどあるはずがない。

 だというのに、この奇妙な一致は一体どうしたことか。

 単なる偶然にしては出来過ぎている。

 

「まあ、結論から先に言おうかな。回りくどいのは苦手だ。……夢野くん」

 

 じいさんは両腕の肘を机に立て、眼鏡越しに俺を見据える。

 

「我々人類が有史以来空想・伝承上のものとしてきた事物――(あやかし)、物の怪、あるいは魔物といった非科学的な存在はね、あちらの世界に実際に存在するようなんだ。勿論その全てが、とまでは言わないまでもね」

 

 驚愕に言葉を失っている俺に構わず、じいさんから更なる追撃がなされる。

 

「そしてこのエリザは、我々の知る言葉で称するなら、いわゆるサキュバスというやつだね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

かの地よりの足音

「惣一朗さん、そこまで言っちゃうんですかぁ……?」

 

 おずおずと遠慮がちに言うエリザさんはしかし、発言の内容そのものに対しては否定する様子を見せない。

 ということはやはり、今言ったことは本当のことなのだろう。

 

「いいかいエリザ、我々の信用は地に落ちている。特にそこの彼女にとっては――いや、仮にも神と(たた)えられる方にこの物言いは失礼かな。まあとにかく、この件については君が悪いのだろう? 君の態度を見ていれば分かるよ」

「うう……はいぃ~……」

「だとすれば、我々がすべきは正直に話すことのみだ。包み隠さずにね」

 

 声を荒げることなく淡々と諭す惣一朗さんの言葉に納得したのか、エリザさんは再び(こうべ)を垂れる。

 しかし俺の方はそう言われてもやはり、今一度確認せずにはいられない。

 

「サキュバスって……あの(・・)サキュバスですか?」

「概ね君が思い浮かべるイメージに相違ないと思うね。……いや、実際はそれ以上というか、なんというか。私もエリザの本性を知っていれば、あるいは今こうして一緒になどなっていなかったやも。……君も気を付け給えよ、出会った当初のエリザもそうだった。最初は毒気のない小さな少女を思わせて……まったく騙された気持ちだよ」

「ちょっと、惣一朗さん!?」

 

 しゅんとなっていた彼女だが、今の言葉を聞くや、それは聞き捨てならぬとばかり惣一朗さんに食ってかかる。

 彼女に視線をやる惣一朗さんの目は、呆れとも諦めともどちらにも取れるような、そんな色を浮かばせていた。

 

「……今や僕は誰に会っても老人扱いされるんだぞ。現に彼だってそうだった。君がもう少し思慮深い性格であったならば、こんなことにはなっていないというのに。今回のことにしても、どうせ君の短慮から来たものなのだろう。まったく、君は昔からいつもそうやってトラブルを持ち込んで……その度に君の尻拭いをする僕の気持ちにもなってほしいよ」

「あ~っ、すぐそうやって昔の話を持ち出してぇ~っ! 今回のこととそれは関係ないですぅ! だいたい惣一朗さんだって、イヤならイヤだって言ってくれれば良かったじゃないですかぁ! 今さら何十年も前の話をねちねちとぉ!」

「断ると君が泣くからだろうが! 毎回毎回、僕が折れるまでずっとメソメソとしつこいったら……!」

「しつこいとは何ですかぁ! 自分の妻に向かってぇ!」

「それだって君にまんまと既成事実を作られたせいだろうが! なにが「種族違いだから大丈夫」だ! 今なら分かるぞ、君は初めから計算ずくで――」

 

 ヒートアップした二人は、俺たちのことを忘れたかのように痴話喧嘩を始めた。

 ……なんだろう。この二人を見ていると、何故だか既視感を覚えるな。

 まるでどこかの二人組を見ているようだ。

 俺は、その片割れである人物に目をやる。

 

「……ん?」

 

 ともすれば、また怒りの形相になっているのではと憂慮しながらのものであったが、視界に入ったラピスの横顔からは、怒りの感情は読み取れなかった。

 ……と言うより、ラピスは二人のことなど頭から抜け落ちてしまったかのように、視線を何もない中空に浮かばせつつ、呆然とした表情でもって佇んでいる。

 あれほど油断なく構えていたというのに、この変わりようは如何にしたことか。

 

「種族違い、でも……それに……いや、とするなら……あるいはこの姿であっても……」

 

 そうした様子を見せていたラピスは、ぶつぶつと何ごとかを独り言ちている。

 が、しかしその声はあまりに小さく、俺の耳にはっきりと届くことはなかった。

 

「おい、ラピス?」

「我が君……」

「うっ……」

 

 顔をこちらに向けたラピスは、俺の服を片方の手でそっと掴み、そのまま何も言わず俺をじっと見つめてくる。

 よくよく見ればその瞳は濡れ、今にも涙を溢れさせんばかりである。

 

「おっ、おいって……どうしたんだよ。なあお前、もう忘れたのか、今がどんな時か。お前が言ってたんだろうが」

 

 俺が言えた台詞ではないかもしれないが、とにかく失った舵を元に戻そうと俺は必死になる。

 何故だかは分からないが、このままラピスに口を開かせるのは危険な気がした。

 

「むぅ~……」

 

 と、ラピスはたちまち頬を膨らませ、いかにも不満げな唸り声を上げた。

 俺の言葉の何が気に障ったのか、それは定かではないが、一応俺の目的は達成できたようだ。

 ラピスはぷいと俺から視線を外すと、未だ痴話喧嘩を続ける二人に向かい叫ぶ。

 

「ふん、分かっておるわい。――こりゃ貴様等、いい加減にせぬか!」

 

 一喝され、そろそろ取っ組み合いの様相を呈し始めた二人の動きがぴたりと止まる。

 元の座る姿勢に戻った二人は、互いにばつが悪そうに目を背けさせている。

 

「――ん、んんっ……ゴホン。すまない、見苦しいところを見せてしまったね……」

「ふふん、まあよかろう。今回だけはこのわしの広い心で許してやろうぞ」

 

 ……先ほどから、どうもラピスの様子がおかしい。

 これまで可視化できるほどに彼女の身から発されていた怒りのオーラも、今やすっかり立ち消えている。

 油断するな、危機感を持てとさんざ俺に言っておいて、この変わりようは一体どうしたことだ。

 俺が訝しんでいる中、惣一朗さんが口を開いた。

 

「話を戻そう。それではサナトラピス殿――でいいかな。エリザが君に、いや君たちに何をしたのかお聞かせ願えないかね」

「話は簡単じゃ。そこな女が我が君に対し、こざかしい呪いをかけよった。故にそやつには相応の対価を支払ってもらわねばならぬ」

「呪い? 僕の知る限り、彼女にそんな力は無かったはずだが――どうなんだね、エリザ」

「……」

「エリザ、何故黙っているのかね? 僕の目を見なさい」

 

 そう促されてもエリザさんは正座したまま、視線を机の一点に落としたまま微動だにしない。

 正直言って、先の彼女の話が本当であれば、ことの元凶はエリザさんではなく鈴埜ということになる。

 であれば、素直にそう言えばこれ以上彼女が惣一朗さんに責められることも無さそうなものだが、彼女はそうしようとしない。

 彼女自身、その考えに思い至っていないはずはない。

 とするなら考えられるのはさしずめ、娘を庇って――といったところだろうか。

 ……まあ、誰が俺に、というのはことの根幹ではない。

 最も知りたいことは呪いの正体、そして完全な解除方法だ。

 そう思った俺は、ここはひとつエリザさんに助け舟を出すことにした。

 

「惣一朗さん、もう少し説明すると、どうもその呪いはとある本が原因みたいなんです。エリザさんが作ったのかと思ってたんですけど、どうも話を聞くと違うみたいで。惣一朗さんは何か知ってませんか?」

「本……?」

 

 惣一朗さんの眉がピクリと動く。

 

「まさか――……それで夢野くん、その本はどのようなものだった?」

「内容って言われても……なんていうか、いわゆる小説とかじゃなく、絵本みたいな。それに何か最後に妙なものがあったような気もするけど……すいません、それはちょっと覚えてなくて」

 

 俺の説明は詳細を欠くふわふわとしたものだったが、言葉を続けるにつれ、惣一朗さんの顔は一層険しさを増していく。

 

「……夢野くん、では外観について聞こう。それはタイトルも作者の名前もない、真っ黒な装丁のものではなかったかね?」

「え? ……ええ、確かそうだったと」

「――エリザッ!!」

「ひゃいいいいっ!」

 

 惣一朗さんは叫びながら立ち上がり、怒りを込めた目でもってしてエリザさんを上から睨みつける。

 その怒号に彼女は背筋をぴんと跳ねさせ、悲鳴にも似た返事を返す。

 

「君は勝手にあそこに立ち入ったばかりか、こともあろうに中のものを持ち出したのかっ! あれらが如何に危険な代物か、君に分からないはずがないだろう!」

「ごめんなさいいいい~っ!!」

 

 エリザさんは身をすくめ、両腕を顔の前にやりながら、脅えた姿勢でもって叫ぶ。

 惣一朗さんはそんな彼女を暫く上から睨めつけていたが、やがて肩で息をしつつ俺たちに向き直った。

 

「ふぅ……ふぅ……すまない、夢野くん。それにサナトラピス殿。少しここで待っていてもらえるかね」

「え……あ、はい」

「ありがとう。すぐに戻るよ――……君も一緒に来るんだ!」

「はいいい~……」

 

 惣一朗さんは腰の痛みも忘れたかのようにずんずんと歩き、そのままエリザさんを連れて部屋から出ていってしまった。

 杖を持つことすら忘れたようで、それは今まで彼が座っていた場所の横に一人寂しく転がっている。

 

「……なんだというのじゃ、一体」

 

 流石のラピスも、先ほどの彼の剣幕には面食らった様子である。

 すぐに扉が乱暴に開け放たれる音が届き、そして暫くの間、家の中は静寂に包まれる。

 

 時間にして5,6分だろうか。

 エリザさんを連れて戻ってきた惣一朗さんは、見覚えのある本をその手に持っていた。

 再び机を挟んで座る形になると、彼はその本を俺たちの前に差し出す。

 

「最初に改めて謝っておこう。エリザの軽率な行動、そして僕の監督不行き届きを」

 

 本を前に出した後、惣一朗さんは再び、俺たちに深く首を垂れた。

 俺は、差し出された本を見る。

 真っ黒な装丁、タイトルも何も無いその本は、一見して同じもののように思える。

 しかし、俺の記憶にあるものと比べると、厚みが随分と増しているように思え、さらに真新しい様子であった例のものに比べると、これは何十年も経っているようにボロボロだ。

 

「あの……ではこの本が、あれと同じものってことですか」

「厳密に言うと違うがね。まあ実際に見てもらった方が早かろう。夢野くんには無理だろうが、君なら読めるのではないかな」

 

 そうラピスへ言った惣一朗さんは、本を彼女に差し出す。

 黙ってそれを受け取ったラピスは、ぺらぺらと頁をめくってゆく。

 

「……ふむ、ふむふむ。確かにわしもよく知る(ことわり)でもって記載されておる。どうやら偽りではないようじゃな……ん? これは……」

 

 ロクに内容を確認しているのか怪しいほどに次々と頁をめくり続けていたラピスだったが、ある地点で指が止まる。

 そして初めて内容をじっくりと読み解く様子を見せていたが、やがて彼女の身から再び、可視化できるほどの怒りが姿を現し始めた。

 

「――あ……の、こむすめっ……! よもやとは思うておったが、やはりこのような術を……!」

 

 ラピスは紙が歪むほど強く本の両端を握り締め、額には無数の血管を浮き上がらせている。

 身体を怒りに震わせるその様子は、先ほど俺を一喝した時よりもさらに激しいものだ。

 

「おいラピス。どうした、何が書いてあったんだ」

 

 俺が一声かけるも、ラピスは俺を一瞥したのみで、質問に対する答えを返すことはなかった。

 代わりに一旦本を置き小さく息を吐くと、再び二人に視線をやる。

 

「……しかし、これだけでは辻褄が合わぬ。ざっと目を通してみるに、この本に記されておる術はどれも相当に高度なものじゃ。確かに下地は同じものを使うておるようじゃが、我が君にかけられたものはこれとは比べ物にならぬほど適当で雑なものであったぞ。これはどう説明するつもりじゃ? そもそも貴様、これを何処で手に入れたのじゃ。かようなものを、そこな女が作成できるとは思えん」

「適当で雑……か。はは、手厳しいね」

 

 ラピスから視線を外した惣一朗さんは、気恥ずかしげに頭を掻く。

 

「エリザが持ち出した本はね、その本に書かれている内容の一部を元に僕が書いた写し(・・)なんだよ」

「写し……? されば、あれは(うぬ)が書いたものと?」

「その通り。エリザがどれを持ち出したのかまでは聞いていないが、それを元に僕が書いた写本のうちの一つだろう」

「貴様はただの人であろう。如何にしてかようなことを可能とした? そこな女の助けあってのものか?」

「いいや、彼女は関係ない。確かに彼女は向こうの世界の住人ではあるが、この手の知識には疎くてね。その本はかつて僕が、エリザの前に会った女性から譲り受けたものだ」

 

 二人の会話から、またも新たな情報が飛び出してきた。

 エリザさんという存在だけでも、既に俺の頭はパンクしそうだというのに。

 はっきり言ってこれ以上は勘弁願いたいものだが、知った以上無視するわけにもいかない。

 

「……てことは惣一朗さん、他にも例の世界の奴と交流が?」

「かつての話だよ。それにその女性とはもう、会いたくても会えないからね……」

「……?」

 

 どこか遠い目で言う惣一朗さんに対し、俺はどう言葉を続けたものか一瞬迷う。

 と、俺が答えを出さぬうちにラピスが再び口を開いた。

 

「それで、当然これは頂いていくが、勿論構わぬよの?」

 

 片手に持った本を上下に振りつつ、ラピスは言う。

 

「う~ん……できればまた後日、返してもらいたいところなんだが……」

「……ふむ、まあよかろう。術式さえ分かれば解除は難しくない。一通り目を通した後に返してやろう」

「ありがとう……感謝する」

「くかか、そうじゃ感謝しろ。そして我が威光と寛大さに感涙するがよい」

 

 あっさりと申し出を受諾するラピス。

 ……やはり、何かがおかしい。

 俺でさえ、この提案に孕む危険はいくつか思いつくというのに、こいつがその考えに至っていないはずがない。

 

「なあラピス、大丈夫なのか? その本を借りるだけで、本当に俺にかけられた呪いが解けんのかよ。お前は今、力を失ってるはずだろ? 結局解除できなかった上、もし更になんか上書きなんざされたら……」

「どうした我が君、急に慎重になりおって。先ほどまでとはえらい違いじゃの。心配せずとも、呪いのあらましはほぼ把握したでな、確かにそこな女の言っておった通り、直ちに命に関わるようなものではない。……しかし我が君よ、いつもそうあってくれれば、わしの苦労も少しは減るのじゃがな?」

 

 お前が急に態度を変えたからだよ。

 

「あのぉ~……」

 

 とここで、エリザさんから遠慮がちに片手が上がった。

 

「どうしたんだい、エリザ」

「ええとぉ……竜司くん。さっきから気になっていたのだけど……あなたはサナトラピス様のご配下なのよねぇ? それにしてはお互いの呼び方が~……」

「――はんっ」

 

 この言葉をラピス聞いたラピスは鼻で笑うと、俺に代わり答える。

 

「な~にをたわけたことを抜かしおるか、この女は。――逆じゃ、逆。この男はわしの主人、そしてわしはその奴隷じゃ」

「へっ……!? で、でも、神たるお方がそんな……え、もしかして竜司くんもそうだったりするの?」

「いやいや……俺は普通の人間ですよ。俺たちの関係はその……話すと長くなるんで」

「まあまあ、誰しも触れてほしくない部分はあろうよ、エリザ。……しかし夢野くん。くれぐれも気を付け給えよ」

 

 やにわに真剣な目つきになった惣一朗さんは、じっと俺の目を見据える。

 今日一番の迫真さ、といった風なその様子に、俺も身を固くして答えた。

 

「何をです?」

 

 惣一朗さんは横の女性に一瞬視線をやり。

 感情をたっぷり声色に含ませ、言った。

 

「女というのはね、非常に恐ろしい生き物だということだよ。年長者からの忠告だ。心の隅にでも留めておいてくれ」

「え……は、はぁ……分かりました」

 

 惣一朗さんの言葉は、およそ俺が予想していたいずれでもなかった。

 俺はどう答えていいものやら分からず、曖昧な返答を返すことしかできない。

 

「惣一朗さぁん~? なんで一瞬私を見たんですかぁ~?」

「はぁ……。本当にね、気を付け給えよ……」

 

 疲れたように言うと、惣一朗さんはお茶をひとつ口に含む。

 茶を嚥下した後、彼は続けた。

 

「さて。他にも色々と聞きたいことはあるだろうが、それはまた後日、ということで一旦話を終わらせて構わないかな」

「む? なぜじゃ?」

「そろそろ娘が帰ってくる時間なんだ。彼女は自分の母親が人ならざる者だということを知らないからね……。この場で君たちと引き合わせるのは不安が残るんだ。もちろん君たちが娘に何もしないだろうことは分かっているが」

「あー……う~ん……」

 

 そうか、そういえば彼は知らないのだった。

 俺が、既に鈴埜と顔見知りだということを。

 そのことを言うべきか否か俺が判断を下しかねている中、彼は更に続ける。

 

「……それに、君たちが去った後、エリザとようく話あっておかねばならないしね」

「あ、あは、あはは……そ、惣一朗さん、目が怖いですよぉ……?」

 

 ギロリと睨みつけられたエリザさんは、動揺を誤魔化すような半笑いになり、言う。

 やはり惣一朗さんの怒りは未だ鎮火していないようだ。

 

「よかろう。わしに代わり、その女によく言い聞かせておくがよい。言っておくが二度目はないぞ。次もし同じようなことがあらば、その時は――」

「もちろん、きつく言い聞かせておくつもりだ。安心してほしい」

「ふん、ひとまず信じておいてやろう。当初は貴様等二人とも魂ごと消してやるつもりであったが、先ほどの情報で一応それは勘弁してやろうぞ」

「はて……? 何か有用な情報をお渡ししたかな? 本の所有者だった女性のことなら、あまり話せることはないが……」

 

 横で聞く俺も初耳である。

 機嫌が突如として良くなったのはそれが原因か。

 ……しかし、改めて会話の流れを遡ってみても、特別こいつが喜ぶような情報はなかったように思うが。

 

「かような目にしたこともない女のことなぞどうでもよいわ。そんなことより、もっと喜ばしい知らせを汝らから得たでな。……うむ、そうじゃの。ひとつその労に応え、わしから貴様にひとつ褒美を取らせてやろう」

「なんと、多大な迷惑をかけたというのに、実に寛大な申し出だね。正直心苦しいが、一体何をお下賜くださるつもりなのかな」

「うむ。ちと待つがよいぞ」

 

 ラピスが言うと、彼女の座る中空に、奇妙な光の輪らしきものが出現する。

 大きさは直径30cmほどだろうか。丸い円の中に、星のような図形が浮かんだ――そう、これはアレだ、漫画なんかでよく見る魔法陣ってやつだ。

 逆五芒星が描かれた魔法陣の中に手を突っ込み、ごそごそと何やら手を動かしていたラピスは、ややあって目的のものを探し当てたようである。

 

「――っと、よし。あったあった」

 

 こいつ、何をおっぱじめるつもりだ?

 俺が訝しんでいる中、ラピスは魔法陣から長い棒状のものをゆっくりと取り出す。

 

「……」

 

 なんだろう、嫌な予感がする。

 ……まさかとは思うが――いや、この流れでそんなことはないはず。

 

 ――が。

 

「ふう、この体では取り出すのも一苦労じゃ」

 

 俺の悪い予感は的中し、ラピスは一仕事終えたとばかり、呑気に汗を拭う。

 魔法陣から姿を現したのは、もはや言うまでもなかろう、例の大鎌である。

 

「うむ、それではゆくぞ。――動くなよ?」

 

 三人が呆気にとられている中、ラピスは構わず鎌を振りかぶる。

 

「サナトラピス様ーっ!?」

「おいちょっと待てー!」

 

 エリザさんの絶叫と、俺がラピスに突進したのは同時だった。

 勢いを付けて衝突した俺は、そのままラピスを押し倒す形になる。

 眼下に見えるラピスは、驚いた表情の後、何故か顔を赤らめた。

 

「わ、我が君!? ……い、いかんぞ? こんな、人前でそんな……」

「ドアホッ! そうじゃねえ、お前言ってることとやってることが滅茶苦茶だぞ! とりあえず許してやったんじゃないのかよ!?」

「うう゛~……、惣一朗さぁん……」

 

 エリザさんは惣一朗さんを庇うように抱き着き、すすり泣いている。

 惣一朗さんの方も、この突然過ぎる展開には唖然としている様子だ。

 

「……おお、なるほど。ちと性急に過ぎたかの。勘違いさせてしもうたようじゃ」

 

 ラピスはそんな二人の様子を見て、少しばかりの謝意を含ませた声を出す。

 そして俺の下から抜け出し座り直すと、未だ驚き目を見張っている惣一朗さんに対し、あることを宣言した。

 

「よいか、惣一朗とやら。まず最初に宣告しておこう、汝はそう長くもないうちに死ぬ」

 

 再び、俺たち三人は言葉を失う。

 

「今のわしでは正確な刻までは分からぬが、まあこのままでは一年と持たぬであろうな」

「サナトラピス殿……それは、本当のことかね」

「うむ、間違いない。その原因は言わずもがな、そこな女にある」

 

 ラピスはエリザさんに視線をやりつつ、続けた。

 

「サキュバスという種が如何な性質を持っておるか、わしもそこは(あずか)り知らぬが、まあ随分と景気よく力を吸わせてやったものじゃ。むしろ貴様、その様でよく今の今まで生き永らえておったの。大した精神力じゃと褒めてやりたい程よ」

「……」

「貴様の身には今、有り得ぬ程の穢れが蓄積されておる。わしの記憶にも、かようなまでの穢れをその身に有した者はそう記憶にないわ。ここで取り除いておかねば――もしこのまま死ねば貴様、死後の輪廻の輪には入れぬぞ」

 

 そういえば、かつてこいつは言っていた。

 あまりに穢れを貯め過ぎた人間は、その後の輪廻――生まれ変わることなく、存在ごと消滅すると。

 

「そんな……――そ……そういちろ、さ……あの……」

 

 そんな、無慈悲な宣告を聞いたエリザさんは顔面蒼白になり、惣一朗さんと向き合ったまま、声にならぬ声を上げる。

 そして惣一朗さんは、腕を彼女の頭に回すと、優しく彼女を抱き寄せた。

 

「……エリザ、そんな顔をするな。これまで君と共にあったのは他ならぬ僕の意思だ。……しかし、余命一年とは。流石にショックだね、これは……」

「そ゛ういぢろうざぁん……」

 

 突如としてなされた余命宣告には流石に気落ちしたのか、彼女を慰める声にもいささか張りがない。

 そんな感情の機微には彼女も聡いようで、益々彼女の声は濁り、哀れを誘うものとなっていった。

 

「たわけども、なにを揃って悲観に暮れておるか。じゃからこそ、このわしの出番というわけよ」

 

 嘆き悲しむ二人に向け、無遠慮な言葉を投げかけるラピス。

 流石にここまでくると、そろそろ俺にもこいつの目的が分かってきた。

 今までの話の流れ、そして『穢れ』を吸うというラピスの能力――その二つを併せ考えれば、いくら鈍い俺でも粗方の想像はつく。

 

「ラピス。つまり――その鎌で、惣一朗さんから問題の部分だけを取り除こうってんだな? それも、命には差し障りのない範囲で」

「流石じゃの、我が君。その通りじゃ、しかもこれはそ奴の命を長らえさせると同時にわしらの糧ともなる、まさに一石二鳥の妙案というわけよ」

 

 ふふんと得意げに言うラピスだが、俺としてはやはり一応、もう少し念押ししておく必要があるだろう。

 

「でも本当に大丈夫なんだろうな。勢い余って殺したりしたら洒落じゃ済まねえぞ」

「かような心配は無用じゃ。それともなんじゃ、このわしを信頼できぬと仰せか?」

 

 ……さっきまで思いっきりそうしようとしてただろうが。

 

「サナトラピス殿」

「うむ?」

 

 変わらずエリザさんを腕に抱く惣一朗さんから声が上がる。

 その目は未だ混乱の色を浮かばせていたが、上がった声色から判断するに、ある程度の落ち着きは取り戻したように思えた。

 

「ことの次第はよく分かった。しかしやはり僕にも不安はある。生来臆病な性分なものでね……何かあった時のため、このことはエリザとよく話し合ってからにしたいのだが」

「ふむ……我が君の意見は?」

「……ま、次でいいんじゃないか。例の本を返しに来た時に決めるってことで。いきなり今日明日にも死んじまうってわけじゃないんだろ?」

 

 かくして、とりあえずこの件は次回改めて、という次第になった。

 鈴埜とここで鉢合わせするのは俺としてもあまり望まぬ展開であり、俺たちは急ぎ帰りの準備を始める。

 

 ………

 ……

 …

 

「それでは夢野くん、また。助けてもらったというのに迷惑ばかりをかけてしまったね」

「竜司君、サナトラピス様。本当に、申し訳ありませんでした……」

 

 支度が出来た俺たちは今、玄関で二人に見送られようとしているところだ。

 

「いえいえ、こうして解除する方法も見つかったことだし、もう気にしないでください。それに……」

 

 ことを仕出かしたのは鈴埜だしな。

 しかし、明日からあいつにどう接すべきか。

 いきなり問い詰めるというのもなぁ……

 

「いや、まあ。ほんと気にしないでください。それじゃ、次の日曜日に」

 

 日曜日というのは、改めてここに来る予定の日だ。

 そこで本を返すと同時に、それまでに穢れを取り払うという件についても結論を出しておくことになっている。

 手を振る二人に送られながら、俺は玄関の扉を閉め、元の通りに出た。

 

「う~ん……はぁ、どっと疲れたなぁ……」

 

 歩きつつ、大きく伸び(・・)をした俺は、ちらと横を見る。

 

「……」

「はぐ、はむ……む? ほうひた(どうした)わはひみ(我が君)

 

 白けたような俺の視線に気付いたのか、ラピスがこちらを見上げる。

 言葉が要領を得ないのは、口いっぱいにものを頬張っているからだ。

 エリザさんが土産に持たせてくれたものは、出されはしたものの結局俺たちが口にすることがなかった菓子、それを袋一杯に詰めたものだった。

 確かこの菓子屋の商品は安いものでも一個300円くらいした覚えがある。

 それをこんな山ほどとは、流石に俺は遠慮しようとしたが、エリザさんも惣一朗さんも、いいから持っていけの一点張りで、結局俺はその勢いに負けてしまった。

 

「お前な、帰ってから食えよ。意地汚いぞ」

「はほうなほとをひっへもひゃな」

「まずは口の中のものを飲み込んでから喋れ!」

 

 で――これだ。

 扉を閉めた途端、ラピスはいそいそと袋から取り出した菓子を両手に持ち、俺が何か言う暇も与えずに食べ始めた。

 リスのように頬をパンパンに膨らませ、顔を甘味に蕩けさせて。

 ……まったく、思わず目を背けたくなるほどのアホ面である。

 これがさっきまで人ひとりを殺めようとした人間のする面だろうか。

 やっとのことで口の中のものを飲み込んだラピスは、けぷと小さく息を吐く。

 

「――ふぅ。そうは言ってもじゃな、我が君。これはたまらぬぞ。しつこすぎず、しかし濃厚な甘味が口いっぱいに広がって――いや、なんとも。人というのはずるいのう、いつもこんなものを食しておるのか」

「……」

 

 ラピスの言葉を聞き、俺は唾を飲み込む。

 元々甘味には目がない俺だ。

 俺だって食べたくてたまらないが、家に着くまでは我慢しようとしているというに、こいつはそんな俺の気も知らず、更にまた袋から新しいものを取り出そうとしている。

 

「ううむ~……! たまらぬ……!」

 

 嬉しげにパクつくラピスを見ていると、そうした俺の決心も揺らいでしまう。

 俺にも一つ分けてくれ、そう口に出そうとした。

 

 

「お――」

「確かに美味そうだなァ―……、それ」

 

 

 俺の声ではない、何者かの声が背後より届いた。

 更に、背な(・・)に感ずる、この悪寒は……真新しい記憶にあるそれ(・・)である。

 

 弾かれたように振り向いた、俺の目に映ったものは――

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夕闇の死闘

 振り返った俺の視界には、いつの間にこれほど近くに接近していたのか、一人の男の姿があった。

 年は見た感じ20中盤から30前半……といったところだろうか。背の丈2メートルに届こうかという偉丈夫である。

 僅かに紫がかった、黒い衣服に全身身を包むその男の体は、衣服越しでも分かるほどに筋骨隆々とし、今にもはち切れんばかりだ。

 毛を全て後ろに流し固める、俗に言うオールバックにした頭髪は金で染め上げており――ここで俺が、それが地毛である可能性を考慮しなかったのは、刈り上げられた側頭部が一様に黒髪であったことによる。

 立派に整えられた顎鬚を撫でつつ、男は言った。

 

「よォ……それ、オレにもひとつくれないか?」

 

 ぎょろりとした、まるで猛禽類を思わせる目でもってして、男は俺を見下ろす。

 日の落ちかけた時分、男の顔は丁度逆光になって明瞭でないが、掘りの深いその顔付きは、およそ日本人離れしたものを感じさせた。

 素直に考えれば、単なる通りがかりか、あるいは見た目通りの――それこそ、その筋(・・・)の人間が気まぐれに話しかけてきたのかと思わないでもない。

 がしかし、俺たちの立つ特殊な状況を鑑みれば、自ら接触してくるような人物には最大限の警戒をもって当たるべき。

 その思いは彼女も同様であったようで、俺が横に視線を切ると、同じような目をしたラピスと丁度視線が交差した。

 

(おい……ラピス。この男、例の連中の仲間なのか?)

(――いや、我が君。まだそれは判断できぬが、少なくとも人間には間違いない。穢れの蓄積もまるで見えぬ。彼奴等の仲間とは考え辛い)

 

 能力により、俺たちは言葉を口に出さずとも意思疎通を図ることができる。

 彼女の言葉通りだとするならば、少なくともあの連中の関係者では無さそうだ。

 であるならば、多少警戒を緩めても構わないだろう。

 

 ――と、そう思いかけた、まさにその瞬間であった。

 

「いや、しかしなんだなァー……、エデンから話だけは聞いちゃいたが、こうして近くで見てもまるで信じられねえな」

 

 不意に口に出されたその単語、いや名前は――俺たちが、この世で最も忌み嫌うもの。

 しかしここで、俺たちは二人揃って致命的な失策を仕出かしてしまった。

 若干の気の緩みを感じた矢先であった故か、動き始めるのが僅かに遅れてしまったのだ。

 その遅れは――……これ以上ない返礼として、すぐさま帰ってくることとなる。

 

「……ほぉ? その反応、どうやら間違いないみたいだな。あいつの話と比べると、随分縮んじまってるみたいだが……まァいい。――そんじゃ、いくぞ?」

 

 ……ふわと、男の左足が持ち上がる。

 

「ラピスッ!!」

「ひゃっ――!?」

 

 咄嗟に出たこの俺の行動だけは、自分で自分を褒めてやりたい。

 俺はもはや身体ごと投げ出すようにしながら、ラピスを思い切り突き飛ばした。

 結果それは功を奏したのだが――その代わり、本来彼女が受けるはずであったそれを、俺はまともに喰らうこととなる。

 

「――ぐうぁっ!」

 

 俺はラピスを突き飛ばすため、身体を半分空に浮かばせた姿勢のまま、男の鋭い蹴りを迎え打つ羽目になる。

 この時、素早く両腕をクロスさせ受ける所作が間に合ったのは、まさしく奇跡に近いものだった。

 そうでなくば、恐らくこの瞬間既に俺は絶命していただろう。

 蹴りを受けた瞬間俺の脳裏に浮かんだのは、大型バイクに正面衝突されるイメージだった。

 ……いや。ややもすると、それすら凌ぐほどの威力であったやも知れない。

 

 俺はそのまま、空中できりもみ回転をしながら後方へ弾け飛ぶ。

 地面に数回バウンドを繰り返しながら跳ね飛ぶ度、堅いアスファルトに激突した骨が悲鳴を上げる。

 数メートルほども吹き飛んだ後、俺はようやく民家のブロック塀に激突することによって、その動きを止めた。

 だがしかし、その際に背中、そして後頭部をしたたかに打ち付けてしまう。

 

「かっ――」

 

 全身を襲う激痛に、止まらない吐き気。

 特に最後に打ち付けた部分、そして蹴りを受け止めた両腕の痛みが酷い。

 熱い液体が流れ出でる感覚から見るに、骨まで砕けてしまっているのではと思われた。

 

 ……まずい。

 油断のせいも勿論あろうが、まさかこんな急にとは思わなかった。

 後悔後に絶たずとはよく言ったものと、一体ここ数日で何回思ったことか。

 しかし、こと今回ばかりは修正が利かない。

 反省はもはや意味を成さないのだ。

 

「げ――がはっ……!」

 

 地に倒れる俺は、痛みに耐えつつなんとか顔だけを起こすと、血泡の混じった反吐を吐き出した。

 意識は朦朧とし、目を開けても視界すら霧がかかって定かでない。

 ……これは、いよいよもってまずいことになった。

 力を入れようとしても、足にまるで力が入らず、その場から身じろぎ一つすることもできない。

 一旦逃げて体勢を立て直すことなど、この分では土台無理な相談だ。

 

 ――いや、そんなことより。

 ラピスは無事なのだろうか?

 彼女のことに思いを馳せ始めたその矢先――ノイズめいた轟音が響く脳内へ、(かす)かに聞こえてくる声がある。

 

 ……!

 

 ……リ……ジ……!

 

「――リュウジッ!!」

 

 霞がかかった視界に俺が捉えしは、目に涙を溜めた死神の顔であった。

 

「……ラ……ピス……」

 

 俺はやっとのこと、ただたどしくも彼女の名を呼ぶ。

 

「よしリュウジ、息はあるな!? ――よいか、そのままじっとしておるのじゃぞ! 即死でなくば、今の汝ならば直ぐに負った傷は回復する! 決して動くでない!」

 

 俺はこの瞬間、全身を襲う痛みも一瞬忘れ、深い安堵に包まれた。

 その雰囲気をラピスも察知したのか、彼女は訝しげな表情を作る。

 

「リュウジ……?」

「よ……かった……無事……だった、んだな……」

 

 ラピスは。

 俺の言葉を聞き、ついに溜めたものを目から溢れさせた。

 

「この、愚か者……阿呆、馬鹿者め……! 主たるものが、たかが一匹の奴隷なんぞを庇いおって……。その様を見てみよ、酷いものじゃぞ」

「――はっ……」

 

 上手く表情に伝えられたかは怪しいものだが、こんな時だというのに、俺はつい吹き出してしまう。

 ……馬鹿はてめえだ。

 これ以上、お前が傷つくようなことは――誰が許そうが、この俺が許さねえ。

 それまで十分すぎるほどに酷い目に遭い続けていたお前だ。これから先は……そういったことは、全部俺の役目だ。

 

 とはいえ、情けないことにこれ以上は身が持ちそうにない。

 ならば、お前だけでも。

 

「に……げろ……ラピ――」

「お断りじゃ」

 

 俺の言葉を最後まで聞くことなく。

 はっきりと、ラピスは断言した。

 

「第一じゃの、わしだけ逃げたところで同じことよ。言ったであろう? 汝が死ねばわしも死ぬとな」

「ラピス……でも……」

「リュウジよ。わしが今、どんな心持ちであるか分かるか? ……わしはの、気が狂いそうになるのを必死に留めておるのじゃぞ」

 

 ラピスの言葉、そして表情は優しげなものであるが、彼女が言葉を続けるにつれ、俺の背を冷や汗が濡らし始めた。

 その量は、恐らくはあの男であろう者の殺気に当てられた時よりも多い。

 

「誰であれ、汝を傷つけし者には然るべき報いを受けさせねばならぬ」

 

 言って、ラピスは倒れ伏せる俺の前で仁王立ちになると。

 ――やがて、彼女の全身は、余すところなく黒い炎で覆われ始めた。

 

「そこでしかと見ておれ。本当の、神の力というものをな」

 

 ラピスは、俺に背を向けたまま言うと。

 次の瞬間、彼女の体に纏わりついていた炎が衣服を燃やし、代わりに元の姿――死神としての格好へと変化する。

 右手にしっかりと例の大鎌を携えたその姿は、ラピスがこの後何をしようとしているのか、雄弁に物語るものであった。

 

「おいおい……モロすぎんだろ」

 

 男の声が届く。

 視線を眼前のラピスよりも前方に動かせば、興覚めした風に頭を掻く男の姿があった。

 俺は相当な距離を吹き飛ばされていたらしく、男までの距離はそれなりに遠く感じる。

 

「本当にてめェ、あのガキに勝ったのか? わざわざこんな別次元くんだりまで来て――おっ?」

 

 男は、少々驚いたような声を出す。

 恐らくはラピスの姿、その変貌に気が付いたのだろう。

 

「ほーお……そっちの小僧の方じゃなかったってことか。――いや、悪かったな? それで、お前には期待しても――」

「黙れ」

 

 果たして男に届いたかは怪しい。

 ラピスは一言そう呟くと、男に向かい真っ直ぐ、空中を飛んだ。

 まさしく空中を滑空するラピスのスピードは尋常でないもので、瞬く間に男との距離を詰める。

 流石にこの速さは予想外だったのか、男は驚きに目を見張る。

 

「っほぉ! いい速さだ! ……だが甘ェな!」

 

 そう。

 男の言う通り、スピードこそあるものの、ラピスの動きはあまりに愚直に過ぎた。

 頭に血が上りすぎて、冷静な判断がつかなくなっているのかもしれない。

 

 男は、ラピスを迎え撃つ形で足刀蹴りを繰り出す。

 その威力は俺が身をもって知っている。華奢な彼女の体など、まともに食わずともひとたまりもないだろう。

 ただでさえラピスは頭から突進しているのだ。

 俺は、次の瞬間にも起こるであろう結果を脳裏に浮かばせ、背筋を凍らせた。

 

 ――が。

 

「……っ!?」

 

 足を伸び切らせた姿勢のまま、男の顔が混乱の様相を呈する。

 それもそのはず、目の前まで接近していたはずのラピスが、忽然と姿を消していたからだ。

 この様子を遠めから眺める俺のみが、今この瞬間に何が起こったのかを察する。

 ラピスの姿は、男の背後、それも男の背丈よりも上空に移動していた。

 

 ――分身?

 

 ――超スピード?

 

 いや、そのどちらでもない。

 そんな小手先の誤魔化しではなく――魂を共有する俺には理解できた。

 ラピスは、衝突のその瞬間、存在ごと姿を消し、瞬時に別の場所へと再出現したのだ。

 

 背を地面に向かわせた、空中で横倒しになった姿勢で現れたラピスは、既に鎌を振りかぶっている。

 それまで突進していたスピードの残滓を回転力に変換し、未だ彼女の姿を視界に捉えぬ男に向かい振り下ろす。

 青白く光る刃の切っ先、そして彼女の目から発される赤が、二筋の円弧を描く。

 

「――死ねっ!!」

 

 間違いなく命中する。

 俺もそう信じて疑わなかったが――

 

「……ッ!!」

 

 すんでのところでラピスの存在に気付いた男は、間一髪、身を躱すことに成功する。

 目標を失った鎌はそのまま、深々とアスファルトの地面に突き刺さった。

 

「おお~……あぶねえあぶねえ。流石にヒヤっとしたぜ」

 

 男は一歩退くと、額の汗を拭う。

 

「……だがなァ、声を出したのはちっと不味かったな? 黙ってりゃそのままブッ刺せてただろうによ。駄目だぜ、倒すまで油断はしちゃいけねェ」

「……チッ!」

 

 ラピスは歯痒そうに舌打ちをすると、間髪置かず再度、男に襲い掛かった。

 鎌が呻りを上げ、男の肉を引き裂かんと振るわれる。

 ――二度、三度。

 幾度も斬撃が繰り返される中、男はそれを紙一重で避けつつ笑う。

 

「はっはァ! やるじゃねェか! こりゃ来た甲斐があるってもんだ!」

 

 飄々とした声を上げてはいるが、実際男の方もかなり本気になっていると見える。

 その証拠に、全ての攻撃を避けてはいるが、攻撃に転じてはいない。

 

「ぬぅっ……!」

 

 ラピスの方は、初激を自らの迂闊さから外してしまったこと、また今現在も攻撃をまともに喰らわすことが出来ていないことで、顔には若干の苛立ちを浮かばせている。

 先ほどのワープめいた動きも度々見せたが、それでも致命の一撃を与えられていない。

 しばらくこの攻防が続く中、俺の身にも変化の兆しが表れ始めた。

 

 それまで頭の中で響いていた耳障りな轟音は鳴りを潜め、体中の痛みも随分と落ち着いてきている。

 攻撃を直に受けた両の腕だけは未だ完治していないようで、まるで感覚がないが、それ以外は概ね回復したようだ。

 よろよろと立ち上がった俺が再び前を見れば、情勢が新たな動きを見せるところであった。

 

「――ふっ!」

「なっ……!?」

 

 ――真剣白羽取り。

 実際にこの目で見るのは無論、これが初めてである。

 振り下ろされた鎌の先端を、男は器用に両の掌で挟み込み、その動きを止めている。

 

「……惜しいねェ。速さは申し分ないが、動きが素直すぎだ。……お前、これまで実際に戦った経験がないだろう?」

 

 まさしく。

 長きに(わた)り、冥府で一人きりで過ごしていたラピスに、まともな戦闘経験などあろうはずがない。

 むしろ――にもかかわらず、よくあれほどの動きが出来たものだと驚嘆するばかりだ。

 

「まァー……そこそこ楽しかったぜ。でもま、これで終わりだな」

 

 男の勝ち名乗りにも似た宣言にも、ラピスは動じず。

 片方の口角を上げ、言った。

 

「……匹夫めが、勝ち誇るには早いわ」




アンケートの結果を受けまして、これより先は一話5000~を目安に投稿していきたいと思います。
小分け投稿だと、特に会話が多くなる展開では目に疲れるとのご指摘を頂きましたこと、この場を借りて感謝致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

決着の刻 前

 矢継ぎ早の連撃でもって男の反撃を封じ込めていたラピスにとり、今の状況は言うまでもなく最悪である。

 だというに、何故彼女は余裕の態度を崩さないのか。

 未だふらつく状態なれど、それでも彼女を助けんと駆け出そうとした時、俺の脳裏にある記憶が蘇った。

 ……あいつの、あの鎌。

 あの時(・・・)、ラピスの腹に刺さってたのを俺が抜こうとした時のことだ。

 

 ――あの時、俺はどうなった?

 答えはすぐさま現れることとなる。

 

「――ぐぅおっ!?」

 

 両の掌で白刃取りをした姿勢のまま、やにわに男が苦しげな声を上げた。

 ()いで片膝をつくも、鎌を抑える手を放そうとはしない。

 

「くかかかっ! 阿呆めが、油断しおって! まさか己自ら掴むとは、手間が省けたわ!」

「……ぬぐっ……!」

 

 ……いや。

 もしかすると、放さないのではなく、放せないのではないか?

 ラピスが次に口にした台詞から、この推察は当たっていたことが明らかになる。

 

「おっと、今さら放そうとしても無駄じゃぞ? 痴愚なる匹夫めが、己の無知を恥じて死ね!」

「ぐっ……! くっ――」

 

 恐らく何らかの方法でもってして、男の手を鎌に吸いつけているのだろう。

 また、何故(なにゆえ)男が苦しんでいるのか、俺にも実感として(・・・・・)分かってきた。

 

 俺の身に、言いようのない力が湧いてくるのを感じる。

 間違いない、ラピスは今、あの男の力――彼女の言葉を借りれば、『魂』あるいは『穢れ』を我がものとし、吸収している。

 それが、存在を同じくする俺にも伝わっているのだ。

 

 ……しかし、なんという力か。

 たった数秒にも満たぬというに、生命力が身中に駆け巡るのを感じる。

 人ひとりの魂が皆それだけのものを有しているのか、あの男の持つそれが桁外れなのか。

 

 恐らく、後者であろう。

 あの時のラピスの言葉が真実であるなら、本気で力を奪おうとしている今、男の命は即座に刈り取られ(・・・・・)、塩の柱となって砕け散っているはずだ。

 それが、もう既に十数秒は経過しているというのに、男は苦しげに片膝をつきつつも、未だそうなる気配はない。

 これには俺よりむしろ彼女の方が予想外であったようである。

 

「……貴様、本当に人間か? かように耐えようとは――それに貴様、『穢れ』が全く感じられぬのは一体――むうっ!?」

 

 ラピスが声を上げる。

 見れば男の様子、そしてラピスの様子がおかしい。

 空中で静止するラピスが、徐々に上へと持ち上がり始めているのだ。

 

「ぬくっ……おおっ……」

「なっ!?」

 

 鎌ごとラピスを持ち上げた男は、驚きのあまり声を上げる彼女に構わず。

 

「おっ……らああああっ!」

 

 渾身の力でもってして、咆哮を上げながら垂直に腕を振り下ろす。

 

「――がはっ!」

 

 まさかこの状況で動けるとは思いもしなかったのだろう、それに鎌に手を吸いつかせていたのがこの時ばかりは裏目に出た。

 地に叩きつけられたラピスは地面に背から激突し、その衝撃に声を上げる。

 

 そして、その瞬間。

 俺の足は無意識に駆け出していた。

 腕の方は未だ完全に回復しているとは言い難いが、そんなものは関係ない。

 およそ自分の足とは思えぬスピードでもって突進する俺は、瞬く間に二人との距離を詰める。

 

 ラピスから受けたダメージが深かったらしく、男が俺に気付き振り向いたのは、既に俺が目の前にまで接近した時だった。

 僅かに驚いた表情を浮かべる男は、片膝を付いたままの不安定な体勢で、迫る俺を追い払うように水平に手刀を繰り出す。

 がしかし、その攻撃は先ほどの蹴りと比べるとまるで勢いに欠けており、俺にとってはこの上ない幸運として働いた。

 

「どけええ!!」

 

 咆哮を上げつつ俺は顔面に迫る手刀を皮一枚で躱すと、すれ違いざま地に横たわるラピスを抱え、そのまま走り抜けた。

 十分距離を取ったと思われる辺りで止まった俺は、小脇にラピスを抱えたまま、男の方を振り返る。

 再度目にした男は既に立ち上がっていたが、俺を追うような素振りは見せてはいない。

 

 男は、先ほど俺に向かい繰り出した右手に一瞬目をやった後、俺を見据え――にやりと笑った。

 

「……やるなァ、小僧」

 

 心底嬉しそうな声色。

 俺は何の返答も返さず、その代わりとばかり、口からあるもの(・・・・)を吐き出した。

 ぼとりと気持ちの悪い音を立て、地に転がった二つの物体。

 ……それは、人間の指であった。

 

「いつ以来だろうなァ、傷を付けられたのはよ。そうだ、戦いってのはこうでなっくちゃァいけねぇよ……くっ……くくっ……」

 

 俺は避ける際、男の小指そして薬指の二本を食い千切っていた。

 自分でも無意識化の行動であったが、ラピスに傷を負わせた男への怒りがそうさせたのであろう。

 口の中に未だ残る感触と鉄臭い味覚の残滓が、今さらながら俺に吐き気を催させた。

 

「……ラピス。平気か?」

「うむ、問題ない。それよりリュウジ、汝の方こそ無理をするでない。まだ回復しきってはおらぬはずじゃ」

「そうも言ってられねえだろ……なんなんだよ、あいつは」

「わしもちと驚いたの。人間には違いないとは思うが……それも自信がなくなってきたわい。いや、それより……これはまずいことになったの」

 

 荷物のように俺に抱えられたまま、ラピスは言う。

 まずいこと、というのは他でもない、彼女の武器である鎌のことである。

 俺はラピスを救うことのみを考えていたせいで、鎌にまでは気が回らなかった。

 ラピスの身体能力、それに今や俺も相当な能力の向上を実感してはいるが、眼前の男には到底敵いそうもない。

 であれば、有効打を与えられる唯一の武器である鎌が今手にないことはいかにも痛い。

 

 その鎌は今、男の足元に転がっている。

 よもや男に逆に使われる、ということはないだろうが、いずれにせよ状況は悪い。

 どうしたものかと俺たち二人が考えを巡らせる中、男は思いがけない行動に出た。

 

「――ほれ、返すぜ」

 

 なんと、男は鎌の柄を足で蹴飛ばし、俺たちへと寄越したのだ。

 足元まで転がってきた鎌、次いで男へと視線をやった俺たちは、男の真意を推し量れず困惑する。

 男の、俺に食い千切られた部位からは止めどなく血が流れ出し、地に赤い水溜まりを作り出しているが、男は一切それに気を取られる様子もなく、それまでと一切変わらぬ様子で続ける。

 

「しっかし――……どうすっかね。オレとしちゃ、このまま続けても構わねえんだが……」

 

 男が周囲を見渡す。

 俺たちもそれに倣えば、いくつかの民家の窓には、俺たちを遠巻きに見る人々の姿があった。

 これだけの騒ぎを起こしているのだ、この状況も無理からぬことである。

 そうして周囲の状況を確認した後、男の方へと再度視線を戻した時、俺の目が新たにあるもの(・・・・)を視界に捉えた。

 

「このままじゃァまた邪魔が入るかもしれねぇな。弱いヤツらを殺すのは好きじゃねえんだ、気分が悪くなる」

 

 男の言葉も、今の俺にはまるで耳に届かない。

 目線をそれ(・・)に固定させたまま、俺の心臓は早鐘を打ち、頭の中はこれまでにない混乱を生じさせていた。

 

「そうだな、どっか場所を変えて――ん? どうしたよ」

 

 俺の視線が男を向いていないことに気付いたのか、釣られて男が背後へ振り向く。

 

「せ……んぱ……?」

 

 男の背後。

 俺の目に映る、驚愕に目を見開いたまま立ち尽くすその女性は――俺のよく知る後輩、鈴埜であった。

 

「あのこむすめっ……! なんという間の悪い時にっ!」

「――おいバカっ!!」

 

 小脇に抱えるラピスを一喝するも、時既に遅し。

 

「ほぉ……小僧、お前らの知り合いか」

 

 何を考えているのか、男は表情を変えずに言う。

 悪いことというのは重なるものである。

 服はボロボロ、さらに口から血を滴らせた俺を見る鈴埜にどう対処しようかと思案を巡らせる暇もなく、さらなる面倒事が降りかかった。

 

「うーむ、何の音かね人の軒先で騒がしい……」

「惣一朗さーん、杖忘れてますよぉ~!」

 

 ここ、この場所は俺たちが鈴埜家を出て僅かの距離でしかない。

 家の中にまで喧騒が伝わっていたのであろう、二人は先ほどと変わらぬ調子で玄関から顔を出してきた。

 そしてそんな平和なやり取りをしながらの二人は、眼前の光景を目にし様相を一変させる。

 

「む……夢野くんっ!? どうしたのだねその姿は!」

「はわわわ……! 竜司君、血が、血が~! どうしちゃったのぉ~!?」

 

 二人の反応は当然のものだ。

 なにしろたった数分しか経っていないというのに、もうこんな状況になっているのだからな。

 

「いよいよ面倒なことになってきやがったな……うっし、小僧。それにサナトラピスよ。静かな場所で再戦といこうや」

 

 面倒そうに頭を掻きつつ、男は言う。

 無論、俺としてはそんな提案に乗る義理などない。

 

「何を勝手なことを言ってやがる。んなもんこっちはお断りだ」

「つれないねェ……ま、そう言うとは思ってたがな。……なら仕方ねえよな」

 

 男は不敵に笑うや、その場より跳躍する。

 がしかし、豈図(あにはか)らんや、男の跳んだ先は俺たちではなかった。

 

「……よォ、嬢ちゃん。あいつらの知り合いなんだって?」

 

 およそ人のものとは思えぬ跳躍力でもってして鈴埜の真後ろに着地した男は、そのまま鈴埜へと声をかける。

 突然二メートル近い大男が自分の元へ大ジャンプをしてきたとあっては、鈴埜の驚きは如何ばかりか。

 

「えっ……あ、あの」

「悪いな」

 

 鈴埜は恐怖に震えつつも声を発しようとするが、男がそれを言い終わるのを待つことはなかった。

 遠目からは、殆ど残像が見えたのみであったが。

 いや、死神の眼であるからこそ、残像だけでも視認することができたのかもしれない。

 男は、鈴埜の首筋目掛け、鋭い手刀を見舞ったのである。

 

「かひゅっ――」

「――っとと」

 

 短く声にならぬ声を上げ、その場より崩れ落ちる鈴埜。

 男は、倒れる鈴埜を左腕で抱き留める。

 

「冥っ!!」

「えっ……冥ちゃん!?」

 

 ようやく男、そして鈴埜の存在に気付いた彼らだが、突如として行われた凶行に理解が追い付いていない様子だ。

 男は二人に一瞬だけ目をやったのみで、さして気にする様子もなく鈴埜を肩に乗せ担ぐ。

 

「よっ……と。軽いねぇ、ちゃんと飯食ってんのかこの嬢ちゃんは」

「――てめぇっ!!」

「じゃわぁっ!?」

 

 もはやこれ以上黙って見ているわけにはいかない。

 俺は再び男に向かい走り出す。

 なにやら後ろで声がしたような気がするが、怒りで頭に血が上っている俺はそれに気を回すゆとりはなかった。

 

「このクソ野郎! 鈴埜を放せ!」

「――おっとォ!」

 

 走りながら男に向かい殴りかかるも、それは興奮のあまり大振りに過ぎ、楽々男に避けられてしまう。

 そのまま男は再び跳躍すると、近くの民家の屋根にまで飛び上がり着地する。

 無論、鈴埜を肩に抱えたままで、である。

 

「小僧。お前はこの町の人間なんだろう? ならこの先に埠頭があるのも知ってるよな? そこで待ってるからよ、死神と二人で来な。続きだ」

 

 いくら身体能力の向上を感じているからとはいえ、ここから男の所まで同じように飛べるかは甚だ怪しい。

 それに、仮にそれが可能であったとしても、先ほどのように逃げられてしまうのが落ち(・・)だろう。

 俺は悔しさに歯噛みしつつ、男を見上げる。

 

「夜まで待ってやる。十分な用意をしてきて構わねぇぜ。ただしお前ら二人だけだ。余計なザコどもを引き連れてきやがったら――この女がどうなるか分からねえぞ」

 

 果たして俺はこの時、如何な表情になっていたのか。

 男は俺の様子を見て、高らかな笑い声を上げる。

 

「はははっ! じゃァな、待ってるぜ!」

 

 日がほぼ落ちかけた夕闇の中、男は笑声(しょうせい)を響かせつつ、姿を消した。

 俺は血が出るほどに拳を握り締め、男がそれまでいた場所を睨めつけていたが。

 

「夢野くんっ! どういうことだね!? 何だ今の男は!?」

 

 後ろから惣一朗さんが小走りで走り来て、そこで俺はようやく視線をその場から離させた。

 振り向いた先の惣一朗さんの顔は、焦燥を顔一面に広げさせている。

 それも無理からぬこと、いきなり自分の娘が目の前で連れ去られる場面を目にしたとあれば当然である。

 

「あいつは――向こうの世界から、ラピスの命を狙いに来た刺客……のようなもの、だと思います」

「なんだと!?」

「ええええ~!?」

 

 少し遅れ、惣一朗さんに追いついたエリザさんも、俺の言葉を聞き同じく声を上げる。

 

「鈴埜を連れてったのは、俺たちが逃げないようにするための人質のつもりでしょう」

「なんということだ……」

「――すいません! 俺のせいで、鈴埜を……」

 

 完全に俺たちの落ち度である。

 思い返せば、鈴埜が近いうちに戻ってくることは既に耳にしていたのだ。

 そのことに少しでも思い至ることができていたなら、また違う対応も取れたかも知れないというのに。

 後悔が止めどなく襲い来るが、しかし惣一朗さんはそれを責めることなく、どころか逆に俺を諭した。

 

「何を言う、君のせいではない。先ほどの男が急に襲い掛かってきたのだろう? しかし……参ったな。あの世界の連中というのは、昔から手の早い連中が多かったが……まさか私らの娘を人質にするとは」

「ど、どうしましょ~!? このままじゃ冥ちゃんが、冥ちゃんがぁ~!」

 

 エリザさんの泣き声が響き渡る中、俺は、こうなればもう腹をくくるしかないと決めた。

 

「ちっ……こうなったら仕方ねえ。惣一朗さん、エリザさん。鈴埜は俺たちが助け出します。安心してください」

「なに? いやそれは、しかし……」

「いずれにせよ、あいつの狙いは俺たちなんです。信じていいものかは分かりませんが――俺たちと戦うことができれば、鈴埜には手を出さないはずです」

 

 俺の説明を聞いても、惣一朗さんは納得できかねている様子を見せる。

 

「ううむ……しかし……。やはり君たちだけでというのは……」

「惣一朗さん、あいつは今大分力を失っています。夜まで待つと言っていましたけど――やるなら早い方がいい。それに惣一朗さんも聞いたでしょう、あいつは俺たち二人だけで来いと。約束を違えると鈴埜に何をするか……」

 

 普通に考えれば、ここは警察か何か、然るべき機関に任せるべきところ。

 しかしこれは尋常の沙汰ではない。

 まともな道理は既に逸しているのだ。

 そこへいくと、相手が惣一朗さんで助かったとも言える。

 俺たちのような存在を既に知る彼であればこそ、ここで納得してくれたところもあろう。

 

「――ふぅ……申し訳ない。頼めるかね、夢野くん」

「はい、任せてください。必ず鈴埜を助け出します」

「今日は最初から最後までずっと君に迷惑をかけっぱなしだね……まったく、20年前ならば僕もある程度の助けにもなれただろうが……己の無力さが恨めしいよ」

「何を言ってるんですか。鈴埜は俺たちのいざこざに巻き込まれただけです。ならば俺たちがその責任を取るべきでしょう」

「ほぉ……」

 

 俺の言葉に、惣一朗さんは感心したように息を吐く。

 

「君はいざという時には腹をくくるタイプのようだね。いや、若いのに実に頼もしい」

「昔の惣一朗さんを思い出しますねぇ~。……はあ、やっぱり親子なのねぇ~」

 

 目を赤く腫らせたエリザさんは、頬に手を当て、なにやら納得したような表情で俺を見ている。

 

「ん? どういう意味だね、エリザ」

「い、いえいえ~!? なんでもありませんよぉ~」

「……? ま、まあ、それじゃ急いで向かいます。おい、行くぞラピ――」

 

 ――と、俺はここでやっと、彼女の姿を再び目に入れたのだが。

 

「……やべぇ……」

 

 ラピスは、俺が元居た場所で、地に倒れ伏していた。

 両膝を地に付け、腰のみが上がった状態で寝転がった状態のラピス。

 羽織っているマントいや、今の状態ではパーカーと呼ぶべき衣服は捲り上がり、頭部分はそれで覆い隠されている。

 この状況はつまり、先ほど駆け出した際に、脇に抱えていた彼女を落としてしまった結果、ということだ。

 

 俺は恐る恐るラピスの元まで近寄ると、彼女の機嫌を窺うように、ことさら優しげに声をかける。

 

「えっと……ラピスちゃ~ん?」

「……」

 

 彼女からの返事はない。

 頭部分は完全に隠れてしまっているため、見えるのは彼女の背中とそして、高く上がった尻部分のみだ。

 果たして今彼女がどんな表情をしているのか、俺は想像しそら恐ろしくなったが、かといってこの状態のままにするわけにもいかない。

 俺は勇気を振り絞り、もう一度彼女に声をかける。

 

「ラピ――」

「わしを投げ捨てたな」

 

 倒れた状態のまま、そう言って顔を上げたラピスは――やはり想像通り、怒り憤懣といった表情を浮かばせていた。

 

「あのこむすめのため、わしを投げ捨てたな!?」

 

 瞬時に立ち上がったラピスは、そのまま怒涛の勢いで俺に食ってかかる。

 

「いやお前、でもな――」

「わしは絶対に行かぬ!! 今度という今度は頭にきたぞ!! よもやこのわしをないがしろにした挙句、他の女の元に走り寄るとは!!」

 

 俺はもはや何を言う気も起きず、ただ呆然とするほかなかった。

 ……なんちゅう度量の狭い神様なんだ。

 いや、確かに悪かったとは思うが、あの状況じゃ仕方ないだろう。

 

「サナトラピス殿、どうか機嫌を直して頂けないかね……」

「サナトラピス様ぁ~! どうかお願いですぅ!」

「――ふーん! 知らぬ知らぬ!」

 

 二人の必死の懇願にも、ラピスは全く聞く耳を持たない。

 腕を組んで地面に胡坐(あぐら)をかき、完全に不貞腐れきっている。

 

「はぁ~……分かった分かった。俺が悪かったよ、ラピス。一番大事な(・・・・・)お前を投げ出したのは確かに俺の落ち度だった」

 

 一番大事、という言葉をあえて強調して言う。

 がしかし、此度のラピスの怒りを鎮めるにはまだ不十分であったようで、僅かに反応する素振りを見せたものの、変わらず顔を逸らしたままである。

 

「……ふ、ふん。そう言うていつも誤魔化しおって。そう何度も騙されるものか」

 

 今回は随分と意固地だな。

 しかしことは一刻を争う。いつまでもこんな下らない言い合いをしている暇などない。

 よって俺は、後が大変になると知りつつも、今俺が切れる最大のカードを提示することにした。

 

「……わーったよ。じゃあこうしよう。鈴埜の救出に協力してくれたら、何でも一つお前の言うことを」

「よし行くぞリュウジ!!」

「……」

 

 この身の変わりようである。

 もはや呆れる気すら失せ、いっそ感心の念すら覚える。

 

「サナトラピス様って、こんなお方だったのねぇ~……」

「なんだか昔の自分を見ているようで頭が痛いよ、僕は。夢野くんもこの先苦労することだろうね……」

 

 何故か惣一朗さんに同情されているが、今はその意図するところを確かめている暇も惜しい。

 俺は改めて、ラピスに同行するよう促す。

 

「……まあいい。じゃあ今度こそ行くぞ」

「いや、ちと待たれよ。あやつの力は正直まだ底が知れぬ。ここは準備を万全にして行くべきじゃろう」

「準備って?」

「知れたことよ。――惣一朗よ、もはや返答を迷いはすまい。今こそ貴様の持つ力、わしらに授けるべき刻じゃ」




次回『決着の刻 後』は、明日更新予定です。
再編集作業を行い、大分スッキリしたかと。
今後はこの分量を目安に投稿を続けたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

決着の時 後

 完全に日が落ちた黄昏の中、二人の男女が空を見上げていた。

 片割れである女の名は、エリザベート・シュルディナー。

 かつてかの地よりこの世界にやってきた、人ならざる者である。

 そして彼女の隣に立つ男は、それまで頼っていた杖に頼ることなく、しかと二本の脚で直立した姿勢で声を上げた。

 

「……いやまったく、驚いたね」

「本当ですねぇ~……まさかこんなことになるなんて~」

「寿命を延ばしてくれただけで有難いことだというのに、まさしく神の御業だね……これなら老人扱いされずに済むだろうか?」

 

 言いつつ彼女に顔を向けた男――惣一朗の姿は、依然と比べれば歴然たる差を生じさせていた。

 皺だらけであった肌は年相応の張りを取り戻し、一様に真っ白であった頭髪は、多少白髪混じりではあるものの、若々しい黒髪へと変貌していたのである。

 

「はい~! もちろんですよぉ~! はあぁ~……やっぱり若い惣一朗さん、素敵すぎます~!」

「若い、とは言いすぎだろう。しかし……やはり心配だ」

 

 彼は俯きつつ、深い溜息をつく。

 

「お二人のことですね~……私も心配ですぅ……」

「確かに神と呼ばれし者が付いているとあれば、そう心配することでないのかもしれないが……やはり親である僕たちがじっとただ待っているというのもね……君はどう思う」

 

 意を向けられたエリザは、全てわかっていると言いたげな微笑を湛えながら、彼を見つめる。

 

「……惣一朗さん、もう決めちゃっているんでしょう?」

 

 彼女の微笑みに、惣一朗もまた微笑でもって返す。

 

「流石、お見通しだね。娘の同級生、それもあんな良い若者を見捨ててはおけないよ。十年以上のブランクがあるが、また頼めるかな、エリザ」

「もちろんです。初めてお会いした時から、この命は全て貴方様のものなのですから。どうかご命令を、惣一朗さん」

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

 俺は今、男が告げた埠頭へと、民家の屋根から屋根へと飛びながら、一直線に向かっている所である。

 俺の住む町は海に面しており、この町で生まれ育った俺からすれば、具体的な場所は言われずともある程度の予想はついた。

 

(――リュウジ)

 

 俺の脳内に、ラピスの声が届く。

 

『……なんだ』

 

 今の俺の声は常よりやや重く、そして低くなっている。

 

(奴と再び相(まみ)える前に、今一度説明しておくぞ)

 

『分かった。だが手短に頼むぞ』

 

(よいか。我等はあの男、そして惣一朗の二人分の糧を得てはおるが、それでもまるで十分とは言えん。かつてのように消費の大きな能力を無暗に乱発することはできぬ。今の姿がそのいい証拠じゃ)

 

 そう。

 俺は今、かつてそうしたように――ラピスと、いわば合体している。

 がしかし、いざそうした姿は、以前の記憶にあるものではなかった。

 例の黒いローブもなく、肉体も――多少筋肉質になったような気がするくらいで、殆ど何の変化も生じていない。

 唯一変わった所といえば、瞳が黒からラピスのような赤へと変化していたこと、それに髪色が所々銀に染まっていることくらいだ。

 まるでシルバーメッシュに髪を染めようとして失敗したような不格好さで、これで人目に出るのは勘弁してもらいたい。

 俺は右手に鎌を携え奔りつつ、中の(・・)ラピスに向かい返答する。

 

『……そう言われても、具体的にはどうすればいいんだ』

 

(基本は肉弾戦に徹せよ。能力の使用が必要じゃと感じたなら、わしの判断で発動する。よいか、我らの勝利条件は単純明解じゃ。どこでもよい、この鎌を奴に突き立てることさえできれば、その瞬間に勝負は決する)

 

『お前の時みたいに抵抗される恐れは?』

 

(それは有り得ぬ。安心するがよかろう)

 

『そうか……』

 

(最後に。基本的に奴の攻撃は全て避けよ。一撃たりとも貰わぬ心構えでゆくのじゃ。……まあ、恐らくは杞憂に終わるじゃろうがの。我等が一つとなった今、敵などありはせん。我等にその時(・・・)を与えたこと、十分に後悔させてやろうぞ)

 

『そう上手くいくかね……ま、出たとこ勝負だな』

 

 以前合体した時であれば、それも余裕で可能だったろうが。

 今の俺たちに、果たしてそれほどの力がまだ残っているかどうか。

 

 不安を残しつつ、やがて俺は海沿いの埠頭へと辿り着く。

 海沿いに暫く歩くと、例の男はすぐに見つかった。

 呑気に煙草を手に持ち、ぼんやりと紫煙を吐き出している。

 俺が指を食い千切った右手には雑に包帯が巻かれていた。

 奴が気付いていないならば、ここは不意打ちをすべきか――などと考えているうちに、奴に姿を捉えられてしまった。

 

「――お? ……おぉ。早かったじゃねぇか、小僧。……ん? どうした、随分風貌が変わっちまってるな。それに死神の方はどうした?」

『無駄なお喋りに興じる気はない。……貴様、鈴埜をどうした』

「あの嬢ちゃんなら、ほれ。そこの倉庫の中に放り込んであるぜ。安心しな、何もしちゃいねぇよ」

 

 男は手に持つ煙草でもってして、少し離れた場所にある倉庫を指した。

 

『信用できるものか。あの腐れ天使の仲間が言うことなど』

「――はん? おいおい、どうも勘違いしてるみてえだな。俺はあのクソガキと直接の関係はないぜ。――ま、確かにサナトラピスを連れ帰れ、とは言われてるがね。しかしんなこたどうだっていいんだ、俺は強いヤツと闘いたいだけだからな」

 

 男は煙草を足元に捨て、靴でそれを踏み消しつつ言う。

 

『……単なる戦闘狂ならば、貴様の世界で思う存分やればいいだろう。何故わざわざ俺たちを? 戦いたいなら向こうの神連中と戦え、俺たちを巻き込むな』

「あァ――……ダメだダメだ、あっちの連中はよ。一回だけ別のヤツとヤったことがあるが、まるで相手にならねぇ――いや、どうも人間相手だとまともに戦えねえみたいだったな、拍子抜けもいいとこだ」

『……』

 

 やはり、他の神と呼ばれる者たちもまたラピスと同じく、人相手に危害を加えることはできないというわけか。

 神を捨て、半分人間に堕ちた状態の彼女であればこそ、先刻のような戦いが可能であったのだろう。

 

「まっ、てなワケでよ。お前らにゃ期待してるんだぜ。やっとオレを楽しませ――っと、おお、そういやァ名を名乗ってなかったな。オレの名はナラクっつーんだ。よろしくな」

『貴様の名などどうでもいい。やるならとっとと始めよう』

「せっかちだねぇ……でもキライじゃないぜ、その意気込みはよ。おっし、そんじゃ――ほれ」

 

 男は、頭を僅かにくいと上げ、顎先を無防備に晒け出す。

 

『……何の真似だ?』

「何だじゃねえよ。お前に一発先に打たせてやるってんだ」

『貴様、馬鹿にしているのか?』

「ああ?」

 

 男は眉を(ひそ)めつつ、面倒くさげに続ける。

 その表情は、分かり切ったことを聞くな、とでも言いたげだ。

 

「違う違う。――小僧、出会い頭のアレはすまなかったな。不意打ちなんて卑怯な真似をしちまってよ。興奮しすぎてたんだな」

『……』

「勘違いするなよ小僧。俺はな、ただ勝ちたいんじゃねぇ。真剣勝負を楽しみたいだけだ。勝負の前に負い目があっちゃァいけねぇ。だからよ、ほれ、遠慮するな。おっと、その鎌ではやめてくれよ?」

『……分かった。では行くぞ』

「おう、どんと来いや!」

 

 静かに返答した俺だが――その実、臓腑は煮え上がっていた。

 勝負を楽しみたいだと?

 そんな下らないことの為に鈴埜を攫い、さらにはラピスに――あいつに危害を加えようとしたと?

 

(こっ、こりゃ! 落ち着かんか!)

 

 ……とても許すことはできない。

 然るべき報いを、この男に与えねば。

 俺は鎌を持たぬ左手を握り締め、十分に溜めたこの怒りを離すべき時を窺う。

 

(ああもう……この姿になるとすぐこうじゃ……まったく、気が短こうてかなわぬわ。仕方ない、局所的に能力を向上させるぞ!)

 

 身体ごとぶつけるように。

 自分でも信じ難いほどのスピードでもってして奔った拳が、男の左頬を貫いた。

 

「――ぐはァっ!!?」

 

 一瞬、男の巨体が宙に浮くほどの威力。

 さしもの男もたたらを踏み、たまらず片膝をついた。

 

「くっ……かはははっ、やるねェ……想像以上だ。んじゃ改めて勝負開始と――」

 

 地に膝をついた姿勢で尚も笑いつつ振り向いた男は、俺の姿を再び目にした瞬間、やにわに焦りの表情へと変わる。

 視界に捉えた俺が既に鎌を振りかぶり、振り下ろさんとしていたからだ。

 

「……おいっ!? そりゃねェだろ、ちょっと待っ……」

 

 クズめ。

 この期に及んで正々堂々と、正面切っての戦いなどを望んでいたのか?

 己が目的のため女を攫うような外道の言うことなど――

 

『聞くかバカがッ!!』

「――くっ!」

 

 間一髪、男は転がるようにしてその場から飛び退き、俺の攻撃を避けることに成功する。

 

『ちぃっ……!』

 

 今のが命中していれば、その瞬間にも終わっていただろうに。

 口惜しさに舌打ちをする間にも、俺から距離を取った男は既に体勢を立て直している。

 

「いやァ~小僧……、初めて会った時とはマジで別人だな。ド汚ぇ手も平気で使いやがるたァ、ますます期待できるってもんだ。……しかしよ、ちっと今のはムカついたぜ。――今度はこっちの番だなァ!」

 

 瞬時に距離を縮めた男は、すかさず俺に向かい回し蹴りを繰り出した。

 身を引いて避けることは不可能と判断した俺は、左腕一本でその蹴りを正面から受け止める。

 衝撃が体を突き抜ける中、この行動は悪手であったかと思いかけたが――

 

『……ッ』

「――なにっ!?」

 

 以前の俺を、遥か後方まで吹き飛ばしたその蹴りを――今の俺は、ただの左腕一本で、完全に受け止め切っていた。

 身体は僅かにも揺れること無く、更には痛みすらまるで感じない。

 男の方も、まさかこの結果は予想外であったと見え、驚きに目を見張っている。

 俺はその隙を見逃さず、返す刀で蹴りを見舞った。

 

『……ううおりゃ!!』

「ぐっ……うがはっ!!」

 

 かつてとはまるで逆。

 今度は男の方が、俺の蹴りの衝撃に耐えきれず吹き飛ばされる。

 同じように数メートルも吹き飛んだ男は、その先にあった資材置き場へと、派手な音を立てて叩き込まれた。

 

(ばっかもーんっ!!)

『おわっ!?』

 

 土煙が辺りを包む中、やにわに頭の中でラピスの怒鳴り声が響く。

 

『馬鹿、頭の中で大声を出すな!』

(わしが言うたことをもう忘れおったのかこのたわけ!! 先ほどの攻撃を無効化したせいで、優に百年は我等の寿命が縮んだぞ!!)

『そう言われてもなっ! あんなのを完璧に避けるなんて無理だ! こちとらお前みたいに身体が小さいわけでも素早いわけでもないんだよ!』

(まったくぅ……ならば早々に勝負を決めい、長引かせるな!)

『言われずともそのつもりだよ!』

 

 俺が走り出すのと、男が立ち上がったのは全くの同時だった。

 男の目は憤りに燃えており、走り来る俺に応えるように、吠えながら拳を振り上げる。

 

「く……そったれがァ!」

 

 その後、同じような展開が幾度となく続いた。

 俺は男の攻撃を全て避けるか、先ほどのように完全に無効化し――逆に俺の攻撃を男は防ぎきれず、その度に深いダメージを負い続けながらも、それでも男が攻撃を止めることはなかった。

 

「ふぅー……ふぅー……」

 

 気付けば男の方は体の至る所から血を流し、息も上がってしまっている。

 しかしながらその目に宿る光は潰えることなく、むしろその輝きを増してさえいるように思えた。

 

(まったく、つくづく驚かされるの。なんなんじゃ、あやつは)

『本当にな……タフとかそういう次元を超えてるぞ。あのクソ天使の数倍はやっかいだな、こりゃ』

 

 男に対し、俺の打撃は何度も当たっているが、肝心要、鎌の一撃は未だにかすりもしていない。

 先の経験から一撃食らえば終わりだということを、男の方も重々承知しているのだろう。

 逆に言えば、男が鎌に気を取られているおかげで、その他の攻撃が当たりやすくなっているとも言えよう。

 

(とはいえいい加減に彼奴も限界に近いはずじゃ。我等の力も結局ほぼ元通りになってしもうておるがの……そろそろ終わらせぬとまずいぞ、リュウジ)

『ああ、分かった。いい加減奴のクセも分かってきたところだ』

 

「いいやァ――……まいったね。まさかこのオレがここまで一方的にボコられるなんてな……」

 

 血の混じった唾を吐き捨てつつ、男は悔しそうに、だがどことなく楽しげに、そう口から漏らす。

 

『……俺たちに敵わないことが分かったなら、この辺りで終わりにしてはどうだ? 鈴埜を返し、元の世界に帰れ。そうするならトドメは刺さずにおいてやる』

「はっ、お断りだね。それによ……大ピンチからの逆転こそ燃えるんだろうがっ! ――いくぜ!!」

 

 そう言い、またも男は俺への突撃を敢行する。

 もはや見慣れた、右の打ち下ろしである。

 

『芸のない奴めっ!』

 

 俺は余裕からか、男の攻撃には既に目が慣れてしまっていた。

 それに加え、積み重なったダメージによるものだろう、明らかにそれまでに比べスピードがない。

 俺は突きを悠々と避けつつ、がら空きの横腹へと蹴りを放つ。

 深々と脚がめり込み、次いで感じた感触から、男の肋骨を砕いたことが知れた。

 

「ぐっ――……くっ!」

『……何っ!?』

 

 ダメージのため動きが鈍っている――というのは、男の罠であった。

 

「くっ……ははァ! 油断したなっ! ――おらァ!」

『うおおおっ!』

 

 伸びきった俺の脚を、もう一方の腕で回し掴んだ男は、そのまま俺ごと前方に倒れ込む。

 

「あー……肋骨がメチャクチャだ。随分好き勝手してくれたなァ、ええ、おい?」

『ぐっ……ぬっ……! ――ラピスッ!』

 

 しまった、油断した……ッ!

 完全に馬乗りになられている今、さしもの俺の怪力をもってしても、上に乗る男を跳ね除けることは容易なことではない。

 俺は堪らずラピスにこの場を脱するべき能力使用を求めるも。

 

(まっ、待て! 今汝の能力を――お、おいリュウジッ! あれを!)

『……?』

 

 ラピスの意に沿い、俺が視線を向かわせたのは――俺を見下ろす男でなく、その遥か先の空中にあった。

 

「おい、どこを見てやがるんだ? ふぅー……好きなだけ殴りやがって、ようやくこっちの番だな」

『……いいや、お前の番など来ないさ』

「あ……?」

『――構うなっ!! 俺ごとやれっ!!』

「なんだと? ……まさかっ!」

 

 男が何かに気付いた様子で振り向こうとするも、一瞬遅かった。

 目の前の巨体、その右肩を突き抜け、青白く光る刃が伸び来たる。

 やがて刃の切っ先は、俺の顔面のすぐ横をかすめ地に至り止まった。

 

「ぐうおおおおっ!!」

「ぬうううう……!」

 

 絶叫を上げる男の背中に剣を突き立てる彼――それは紛れもなく、ラピスの力により若返った惣一朗その人であった。

 

「くっ……おおおっ!!」

「むうっ……!」

 

 苦し紛れに繰り出した男の裏拳を避けた彼は、後ろに飛び退きそれを避ける。

 立ち上がったナラクは、突然空中から、文字通り降って湧いて出た男に向かい吠える。

 肩には剣を突き立たせたままで。

 

「……なんだ手前ェは!」

「無法者に名乗る名など無いね。僕らの娘を返してもらおうか」

『惣一朗さん、あんた……』

 

 自由になった俺は起き上がると、惣一朗さんに向かい声をかける。

 

「うん、迷惑かとは思ったが、やはりじっとしていられなくてね……上手く避けられたようだね、良かった良かった」

『いや……っていうか惣一朗さん、そもそもどうやって空から――』

「竜司くぅん、大丈夫ぅ~? ごめんなさいねぇ遅れちゃってぇ~」

『その声、エリザさ――』

 

 後ろからの声に振り向いた俺が目にしたのは、確かに予想通りの人物ではあった。

 だが――……その姿が、あまりにも強烈に過ぎ、命の奪い合いの途中だというに、俺は一瞬頭の中が真っ白になった。

 

 背に四枚の翼――巨大な蝙蝠のそれに似たものを生やした姿、それはまだいい。

 よく見れば頭からも小さめの翼を生やしているが、それもこの際どうだっていい。

 ――なんだ、この破廉恥な格好は。

 エグい食い込みのレオタード一枚のみを纏ったその姿……。

 まさかその姿でここまで来たというのか?

 

 大体一応衣服を纏っていると言っても、布面積があまりに小さすぎる。

 胸部分など、上半分は完全に丸出しだ。

 

「いや~ん竜司くん、見過ぎですぅ~! もぉーエッチなんだからぁ~。私だってこの歳でこんな格好は恥ずかしいんですからね~!」

『あっいや、その、すんませっ……』

 

(リュウジ……帰ったら話があるからの)

 

 地を這うような声が脳内に響き渡り、俺は寒気に身を震わせる。

 

「三対一か……いよいよ追いつめられたってわけだ。こいつはナメてたな、サナトラピス――それに、この世界の連中をよ」

 

 緊張感が急激に崩れ去ろうとしたのを止めたのは、再び発されたナラクの声によってであった。

 俺は気を取り直し、男に向かい言い放つ。

 

『ならば降参しろ。もはや勝ち目はないのは分かるだろう』

「はっ、そいつは御免だね。……仕方ねぇな、こいつはとっておきなんだが、出すしかねえか」

 

 言って男は、肩に刺さった剣を抜く。

 よくよく見ればその剣は、とてつもない異様さに満ちていた。

 全体的に黒い瘴気を立ち昇らせていることも勿論だが――柄の部分全体が鋭いトゲで覆われており、まともに握ることすら叶いそうにない。

 事実、剣を引き抜いた男の手はあっという間に血だらけになっていた。

 

「ぐむっ……ん? こいつァ――なんでこれ(・・)がこんなところにある? お前、こいつをどこで手に入れた?」

「……その剣の持ち主を知っているのか」

 

 惣一朗さんの目が、急激に鋭さを増す。

 ……彼は、どうやってあの剣を持っていたのだろうか?

 つい俺は彼の左手に目をやるも、特に傷ついているような様子はない。

 

「はっ……まあ、どうでもいいか。死神に加えこいつを使える奴まで居るとくりゃ、いよいよ出し惜しみしてる場合じゃねえやな」

 

 男は剣を後ろに放り投げると、左手で右手首を掴み、何をかを起こすような素振りを見せる。

 

 ……そして、それを見る俺は。

 

「まさか今夜こいつを使えるとは思ってなかったぜ! だが――……」

「すまねえが、全然興味ないわ。つーか……もういい加減にしてくれよ」

 

 うんざりした様子で言う俺の声は、元のものに戻っている。

 そのことに男の方も気付いたのであろう。

 僅かな躊躇の後、男は弾かれたように辺りに目をやろうとするが。

 

「じゃらあああああ――ッ!!」

「ぐがっ――……ああああ!!」

 

 男の胸に、今度こそまともに、死神の鎌が突き立てられる。

 俺との融合を解除したラピスは、男が俺たちに気を取られている隙に男の背後に再出現し、この一撃を叩き込んだのだ。

 

「――馬鹿めが、四対一じゃ。貴様の助言通りにしてやったぞ。これで満足か?」

「ぐううっ……!」

 

 呻き声を上げつつ、四つん這いに倒れる男に鎌を刺し貫かせたまま、ラピスは勝利宣言を行う。

 

「手間取らせおって。今度こそ貴様の魂、全て頂いてくれようぞ」

「サナトラピス殿、それは少し待ってくれないか」

「……何故(なにゆえ)じゃ」

 

 惣一朗さんの横槍に、ラピスは不快げな目線を送る。

 

「君、先ほどの質問をもう一度するとしよう。あの剣の持ち主に心当たりがあるのかね?」

「……だったら……なんだってんだ……」

 

 今この瞬間にも、男の力は吸い取られ続けているのだろう。

 男の声はそれまでになく苦しげで、こうして喋るのもやっとという様子である。

 

「答えなさい。心当たりがあるのだね?」

「――交換条件だ」

 

 この場においてもまだ笑顔を見せる余裕があるとは、その精神力にはなはだ敬服する他ない。

 

「貴様、自分の立場が分かっておるのか?」

「はっ、だからこそだよ。その質問に答えてやる代わり――情けねえが、恥を忍んで言おう。――この勝負、また後日ってことにゃならねぇか? 今度はハナから本気でやってみてえ」

 

 なんという厚顔無恥さか。

 俺も流石に苛立ちを覚え、やや声を荒げる。

 

「ふざけてんのか、てめぇ」

「いやいや、大真面目さ。それにお前らからの質問にも俺が答えられることなら答えてやる。もちろんそれだけじゃねえ、こいつは借り(・・)だ。今後何かしらの形で借りを返すまで、お前らを襲うことはしねぇ。約束する」

「……その言葉を信じるとでも?」

「――まぁ、信じられねえやな。俺も期待しちゃいねぇよ。……なら、さっさとやりな。俺の負けだ、とっておき(・・・・・)を出せなかったのは残念だが……お前らをナメた罰だな、こりゃ」

 

 ふっと息を吐き笑った男は、今度こそ観念したと見える。

 その様子はどうぞ好きにしろ、と言わんばかりだ。

 

「……夢野くん、サナトラピス殿。ここは彼の提案を呑んでやってはくれまいか」

「貴様、本気か?」

「娘さんが攫われたんですよ、惣一朗さん。そんな奴を――」

「無論分かっている。だがこれは……どうしても聞きたいことなんだ」

 

 かつてない真剣な惣一朗さんのこの態度には、俺にも若干の迷いが生じてしまう。

 

「……ラピス、どうする?」

「どうすると言われてものう……我が君はどう思うておるのじゃ」

「……鈴埜の無事を確認できれば、まあ、聞いてやってもいいんじゃないか」

「甘いのう、我が君は。はぁ……仕方ないのう。(あるじ)の言うことには逆らえぬ」

 

 一連の話を耳にした男は、俺に視線だけを向けると、微笑を湛えた表情でもってして、言った。

 

「へっ……ありがとよ、小僧」

 

 ……が。

 そうは問屋が卸さぬとばかり割って入った者がある。

 それはもちろん、我等が死神様であった。

 

「おっと貴様、安心するのはまだ早いぞ?」

「――ん?」

「折角貴様と惣一朗から奪った力、その殆どを先の無駄な戦いで消費してしもうた。この件、この詫びはどうするつもりじゃ?」

「……オレにどうしろってんだ」

 

 瞬間、ラピスは――これ以上ないほど嗜虐的な笑みを、顔に浮かび上がらせた。

 

「くっくく……――なに、簡単なことよ。殺しはせぬが、死ぬギリギリまで力を吸わせてもらえばよい。安心せい、貴様なら数か月もあれば元の力も取り戻せよう」

「なっ、数か月だと!? ちょ、おい、おまっ……! こっ、小僧! なんとか――」

 

 男の顔色が変わり、それまでになく慌てた様子で俺に泣きついてくるも。

 俺はその頼みを聞くほどには慈悲深くない。

 自分でも驚くほど無感情に男を一瞥した俺は、次いでラピスに視線をやり、言う。

 

「ちょっとは加減してやれよラピス。この後質問に答えられるくらいには抑えろ」

「ほいほーい、了解じゃよ~」

「おいおいおいおい!! ちっと待――」

 

 ――月の光の下、埠頭に男の叫び声が響き渡った。

 かくして、ようやく一連の騒動に、ここで一応の幕が下りる次第となったのである。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「この倉庫だな」

 

 俺とラピスは、鈴埜が居るという倉庫の中に足を踏み入れた。

 例の男は気絶してしまったが、一応惣一朗さんたちが見張ってくれている。

 

 そう広くもない倉庫、というかコンテナの中には物もあまり落ちておらず、すぐに俺は目的の人物を視界に捉えることができた。

 小走りで駆け寄った俺は倒れる鈴埜を抱き起し、未だ目を開けぬままの彼女に向かい声をかける。

 

「――おい鈴埜、鈴埜。大丈夫か?」

「うっ……」

 

 ぺちぺちと数度頬を軽く叩きつつ呼びかけを続けるうち、彼女の口から小さな声が漏れる。

 次いで、瞳が僅かに開いたかと思うと――……

 

「……――くん?」

「え?」

 

 鈴埜は小さく何ごとかを呟くも、あまりに小さなそれはまるで要領を得ない。

 俺は顔を鈴埜に近づけさせ、その意を確かめんとする。

 

「すず――」

「……りゅーくんっ!」

「なーーーーーっ!!?」

 

 なんと鈴埜は、俺が顔を近付けさせた瞬間、両腕を俺の首に回し、そのまま抱き着いてきたのだ。

 ラピスの声が狭いコンテナ内に木霊する中、俺の鼻腔には、鈴埜の使っているシャンプーのものであろうか、微かに花のような香りが届く。

 

「お、おいおい!? 鈴埜!?」

「きっさまーーーー!! やはり殺す、今すぐ殺してくれるわ!」

 

 興奮したラピスはいつの間にやら鎌を手に持ち、滅茶苦茶に振り回し始めている。

 

「バッカお前、鎌を収めろ! おい鈴埜! す――」

「りゅーく……ん……」

「鈴埜……」

 

 首に回された腕の力がすっと抜かれたかと思うと、再び鈴埜は身体をぐったりとさせ、開き始めていた瞳を閉じさせた。

 

「ふぎぎぎぎ……!」

「……あーもう、とにかく無事なのは分かったから、鈴埜を二人のとこまで運ぶぞ」

 

 とても言葉にできぬような凄まじい顔つきになったラピスを宥めつつ、俺は気絶した鈴埜を背に負うと、そのまま惣一朗さんに彼女を受け渡した。

 その頃には既に時計の針は二十二時を回っており、男の処遇をとりあえず彼らに任せた俺は、妹への言い訳を必死に捻り出しつつ、ようやく帰路へと着いたのであった。




シリアス展開はここで完全終了となります。
今後の話の展開上どうしても必要であったとはいえ、皆さま長らくお付き合いいただき有難うございました。
次話からはお待ちかね、怒涛のラブコメの波動に塗れた展開が続く予定にございます

ちなみに!あらすじに読者様から頂いたファンアートを掲載してあります!
まだ未見の方は是非一度ご覧になってください!
なお本来のサプライズ規格である表紙絵はまた別の方に依頼中ですので、それもまた後日の公開をお楽しみに。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章
【登場人物紹介】


 ♦夢野 竜司(ゆめの りゅうじ)

 

 当物語の主人公。

 高校二年生の冬、後述する後輩である鈴埜より渡された本を読んだことをきっかけとし、異界に幽閉された死神を救出する。

 また、その際に神としての力を半分受け渡され、超人的な能力を一部発揮できるようになる。

 性格は気が短く直情型で、しばしば考え無しに行動を起こすという悪癖あり。

 ボサボサ髪、黒目の小さい三白眼といった外見上の特徴を持つ。

 

 ♦タヒニツァル=モルステン=サナトラピス

 

【挿絵表示】

 

 別世界で死神と称されていた、人ならざる存在。

 数万年以上の時を一人きりの冥府で過ごし、他者との関りを一切持ってこなかった。

 ある時、そんな彼女だけの世界に侵入してきた人間たちにより彼女は捕縛された挙句、惨たらしい拷問を受けることに。

 その後は氷の迷宮に幽閉されたまま、再び一人きりでただ死を待っていたが、主人公により救出される。

 

 初めて自身に優しく接してくれたばかりか、彼女のため命までをも投げ打たんとした夢野に狂信的な情愛と執着を抱いており、彼が他の女と僅かでも関わろうとするだけで嫉妬心を(あらわ)にする。

 

 本来は豊満な肉体を持つ美女であるが、力の殆どを失った結果、小学生並みの体躯へと縮んでしまっている。

 元々は長いローブをその身に纏っていたが、力の消失と共に衣服も変化し、現在はパーカーに似たものへと変化した。

 おおよそ衣服と呼べるものはそれくらいで、褐色の地肌の上には他に細いチューブトップ、そしてローライズパンツのみといった露出度の高い格好をしている。

 

 神性を失ったせいで発現した人としての生理現象に戸惑い中。

 主人公曰く、彼女の体臭は焼き菓子に似た甘い香りがするらしい。

 

 ♦夢野 花琳(ゆめの かりん)

 

 竜司の妹。学年は中三。

 長いストレートの髪を金髪に染め上げ、耳にはピアスを着けた外見の、いわゆるヤンキー然とした少女。

 夢野家の血か、彼女もまた兄と同じような三白眼をしている。

 共働きの両親に代わり家事の殆どを一身に担う、見た目とは裏腹に家庭的な面を持つ。

 兄である竜司のことは実の親以上に気にかけており、時折異常ともいえる反応を示す。

 

 ♦鈴埜 冥(すずの めい)

 

 主人公と同じ学校、その中等部に通う一四歳(中二)の女子。

 中学生ながらオカルト研究部部長の肩書きを持ち、同部員である夢野にはことあるごとに持ち前の毒舌でもってして対応している。

 ちなみに、部活中は特徴的な魔女帽子を被っている。

 夢野に呪いをかけた張本人であるが、その仔細と目的は未だ不明である。

 現在自宅療養中。

 

 ♦鈴埜 惣一朗(すずの そういちろう)

 

 鈴埜冥の父親。

 実際の歳は四十四歳だが、長きに渡り穢れをその身に宿し続け、加えて己が精力を後述するエリザベートに吸われ続けた結果、老人にしか見えぬ外見となっていた。

 とある事件で死神により穢れを浄化された結果、現在は歳相応の見た目に収まっている。

 また、左腕は過去のとある事件により根元から消失した。

 サナトラピスを含む異世界の住人たちについて色々と知識があるようだ。

 

 ♦エリザベート・シュルディナー

 

 惣一朗の妻であり、普段は『絵里』という偽名を名乗っている。

 その正体はサナトラピスと同じく人ならざる存在であり、過去に彼女よりも先に主人公のいる世界にやってきていた。

 夫である惣一朗の言によれば、彼女の種族は我々のよく知る言葉で言うなればサキュバス、ということらしい。

 また、彼を老人としか見えぬ外見にしたのは他でもない彼女である。

 

 ♦エデン

 

 正式名称不明。

 かつて死神サナトラピスの居城に押し入り、その際彼女を捕縛した実行犯である。

 また、その後の拷問めいた責めの数々もまた、この人物が率先して行っていた。

 サナトラピスの力が弱まる時期を見計らい、彼女の力を我がものとすることを目論んでいたが、主人公によりその計画は頓挫することになる。

 現在の動向は依然として知れない。

 

 ♦ナラク

 

 サナトラピス、エデンらの世界から次元を超えやってきた刺客。

 人の身なれど、神に匹敵する力をその身に宿した男である。

 エデンより死神の奪還を言い渡されているとのことだが、本人的にはそれは戦う口実に過ぎないようだ。

 骨っぽい肉弾戦を何より好み、また正々堂々と戦うことを良しとする。

 そのため、先だっての戦いの際、人質を取ったことに若干の負い目を感じている様子。

 

 ♦神崎 聖(かんざき ひじり)

 

 今や寂しいシャッター街となりかけているアーケード内にて、一人喫茶店を営む女性。

 年齢は二十六歳で、夢野家とは親戚関係にある。

 店の名は『ルナ』。

 

 ♦一ノ瀬 敦(いちのせ あつし)

 主人公の同級生。

 竜司とは小学校時代からの付き合いであり、彼の無茶な要求にも応える度量の広さを持つ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ラピスとの入浴ふたたび 前

 

「はああああ~……つっかれたぁぁぁ……」

 

 部屋に戻った俺は開口一番そう言うと、部屋着に着替えることもなくベッドにダイブする。

 自宅まで帰った俺は、こっそりと音を立てず玄関を開け中に入ったのだが、すぐさま目聡い妹に見つかってしまった。

 それからは当然、花琳から延々とお説教の時間である。

 服の方はラピスの力で修繕してもらっていたのでそこに突っ込まれることはなかったが、こんな夜更けまで連絡せず出歩いていたことに妹は怒り心頭のようだった。

 俺は平身低頭謝り続け、ようやく解放されての今、というわけだ。

 

 ベッドの柔らかな感触が全身を優しく包み込む。

 ――あぁ、なんという幸福だろうか。生死のやり取りをした後ということもあり、安堵もひとしおである。

 

 

 ……ぎゅむ。

 

 

 目を閉じ、そのまま眠りに落ちようとした俺であったが、急に頬へ圧迫感を感じる。

 

「こりゃ」

 

 ぐりぐり。

 

「こりゃ、起きんか」

「……」

 

 薄目を開けた俺の目に映ったラピスの姿は、仏頂面で腕を組み、右足を俺の顔に押し付けた姿勢である。

 

「……お前な、仮にも主人の顔を踏みつけるとはどういう了見してんだ」

 

 流石に文句の一つも出ようというものだ。

 だが俺がそういう間にも、彼女は押し付ける足裏を離すことはせず、どころか余計に力を入れ、ぐりぐりと動かす始末である。

 ブーツを脱ぎ素足でいるのは、せめてもの優しさの表れであろうか。

 ……だとしても全然嬉しかないがな。

 

「我が君よ、そんな汗だらけの体で寝るつもりか」

「……もういいだろ、今日は……朝シャワー浴びるよ」

「いかん。わしをそんな汗臭い男と共に寝させようと?」

「……わかったよ、だったら俺がソファで――」

「ばっかもーん! いいから起きんか、我が主君がそんなものぐさ(・・・・)では示しがつかぬわ!」

「誰に対する示しだよ……はぁ、分かった分かった」

 

 俺はラピスの足を腕で払い、面倒くさげに起き上がる。

 

「湯は花琳が沸かしといてくれてるらしいからな、んじゃとっとと入って寝るぞ」

「うむ、よかろう!」

 

 ……妙に意気込んでるな。

 今さら一緒に風呂に入ることくらい、別に特別でも何でもないことだろうに。

 その思考に至るのもどうかと思わないでもないが、もはや疲れのせいでまともな思考が働かない。

 とにかくさっさと済ませよう……

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

「よっし、んじゃ洗うから後ろ向け」

 

 俺は泡立てたタオルを右手に持ち、いつもと同じように言う。

 こうして湯舟に浸かる前、互いの体を洗い合うのは済し崩し的に習慣になってしまっている。

 今思えば、初日にそうしてしまったのはいかにも失策であった。

 二日目からは自分で洗うように言ったが、そうした瞬間こいつは猫なで声で甘え、ねだり――それでも了承されぬと分かるや、大声で叫ぶぞと脅し始める始末。

 ……まあ、風呂の後は決まってご機嫌になって扱いやすくなるので、そういう面から言えば悪くない話ではあるのだが。

 

 しかし将来ラピスが元に戻った時のことを考えると、俺はそら恐ろしくなる。

 今でこそ彼女がこうした、ちんまりとした子供であるからこそ俺も理性を保てているのだが、まさか元に戻ってからも同じようにさせるつもりじゃあないだろうな。

 

「……」

「どした、早くしろ」

 

 何故か返事を返さず突っ立ったままのラピスに向かい、タオルを構えたまま俺はもう一度促す。

 

「我が君よ。約束を覚えておるか?」

「あん?」

「忘れたとは言わせぬぞ。(うぬ)はこむすめを助ける対価として何と言った?」

「……」

 

 俺の脳裏に、先ほどの記憶がフラッシュバックする。

 ……確かにあの時、間違いなく俺は宣言した。

『なんでも一つお前の言うことを聞く』。後先を考えず、まあなんとも軽率に言い放ったものだが、それ程逼迫した事態であったのだ。

 

「――確かに言ったが、何でこのタイミングなんだ」

「んっふふ~」

 

 声を上げ、同時に満面の笑顔となるラピス。

 見る者全てを魅了するようなその表情は――こと俺にとっては、とてつもない嵐の前触れとしか映らなかった。

 

「鈍いのう、我が君。湯舟に浸かる前のこの時であればこそよ。思い返してみよ。汝は以前この場で、わしの頼みをにべもなく断りおったじゃろう?」

 

 頼み……?

 彼女の言う言葉の意を察するため、俺は数日前のことに思いを馳せる。

 たっぷり三十秒ほどの時を費やし、ようやく俺は思い当たる節に行きつく。

 と同時に俺は、先ほどの嫌な予感が当たっていたことを思い知ることになるのだった。

 

「――……? ――あっ!? おっ、お前、まさか!?」

「よもや男に二言はあるまいな?」

 

 確かに何でもするとは言った。

 言ったが……なんって下らないことに使いやがるんだ!?

 

「いやしかしな、それはやっぱり倫理的にもだな……」

 

 その行為(・・)は、ある意味一線を越えかねないものである。

 何でも、とは確かに言ったものの、おいそれと了承するわけにもいかず、俺は言葉を濁してしまう。

 

「ほ~う? 何でも、というのは嘘であったか。この程度のささやかな願いすら受け入られぬとはの。がっかりじゃ、我が主君がその程度の男であったとは」

「ぐっ……!」

 

 了解とも否定とも即座に明言しない俺に対し、ラピスはわざとらしい挑発を始める。

 

「はぁ~……。ただの一度きり、この貧相な体を主君の手自ら洗ってほしいという、これ以上ないほどにいじらしく、そして小さな願いですら叶えられぬとはのう。器量の狭い主を持ってしもうた臣下というのは辛いものじゃなぁ~」

「ぐ……ぬぬ……」

 

 こめかみに血管が浮き上がるのを感じる。

 声色も、口から出てくる言葉そのものも、腹の立つとしか言いようのない煽り様である。

 しかし約束をした手前強く出れない俺は、悔しげに呻ることしかできない。

 それをいいことに、彼女の煽りは勢いを増していくばかりだ。

 

「いやいやぁ、どうしても無理じゃと言うならわしは構わぬよ? ならば矮小な主君にふさわしい、もっと矮小な願いに変えてやっても(・・・・・・・)――」

「――やってやろうじゃねえか!」

 

 ……挑発に負け、ついに俺はその言葉(・・・・)を口にしてしまう。

 

「ん? んん~? これこれ我が君よ、無理をせずともよいのじゃぞ?」

「やっかましい! おら、いいから後ろ向け!」

「くっくく……」

 

 今から思えば、これは俺の気の短さを利用された形に他ならない。

 加えて、今日この時にラピスが拘った理由――それは恐らく、俺が眠気と疲れでまともな思考が働いていないことに気付いたためであろう。

 

 気付けば俺はラピスの安い焚き付けにまんまと乗せられ、ボディソープのプッシュ部を乱暴に押し続けていた……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ラピスとの入浴ふたたび 後

「んじゃ……いくぞ」

 

 掌に過剰な量のボディソープを垂らした俺は、背中越しに声をかける。

 意図せず意気込んだ声になってしまっていたのか、ラピスは嘲笑を含んだ声を上げるが。

 

「くかかかっ、な~にを意気込んでおるんじゃ。かように緊張しておってはこの先たいへあひょわあああああっ!?」

 

 ぺちょりと音を立て、俺の両手が脇腹に触れた瞬間、彼女は素っ頓狂な叫び声を上げた。

 音のよく反響する浴場内にあっては、その声は必要以上によく響く。

 

「おい、でかい声出すなよ。なんだってんだ」

「ふっ……ふぅっ……な、なんでも……なんでもないわっ……」

 

 どう見てもなんでもない風には見えないぞ。

 後ろを向いてるから表情は確認できないが、こうして背中越しでもなにやら様子がおかしいのは分かる。

 つい先ほどまでは余裕たっぷりで俺を煽っていたくせに、今では言葉も途切れ途切れで、俺の手には小刻みな震えまでもが伝わってきていた。

 

「良いから続けよっ……!」

 

 震える声で、ラピスはそう促す。

 ――くすぐったいのだろうか?

 タオルであれだけくすぐったがっていたんだ、人の指だと余計にそうなのかもしれない。

 ……まあ、いいか。大人しくしてくれるならなんでも。

 脇腹のあたりから始め、続いて背中へと洗う手を動かしていく。

 

 しかし、なんと滑らかな肌であろうか。

 子供の肌だから当然なのかもしれないが、ガサつきなどは皆無で、まるで柔らかな絹を撫でているかのような触り心地だ。

 それでいて適度な弾力もあり、子供特有の体温の高さによる温みもある。

 

「……」

 

 これは……思ったよりなんというか――楽しい。

 楽しいという表現が適当であるかはともかく、いやらしさによるものとはまた別の、指が喜ぶ感触を堪能できる。

 あえて例えるならば、毛並みの良い子犬を撫でている時の気持ちに似ているか。

 また、褐色のキャンバスを白い泡でデコレートしているのだ、と強引に思い込めば、懸念したような妙な気持になどなったりはしなさそうだ。

 

「あひゅっ……ひっ……!? ふあっ……」

「……」

 

 ……この声がなければ、だが。

 俺が手を動かすたびに、ラピスは妙な声を上げ続けている。

 タオルでしていた時にもそうした声は上げていたが、その時とはまた趣が違うような感じがする。

 

「おい、妙な声を出すな。なんだ、くすぐったいのか? タオルじゃなくても変わらないじゃないか」

「やかましっ……んうぅ!?」

「ったく……苦しいならやめるか?」

「いかんっ!! 構わず続けよ! こっ、これしき……どうということもないわ」

 

 どうってことないならそう態度に出せ。

 

「……なら続けるぞ」

 

 粗方背中を洗い終えた俺は、そのまま手を下へ移動させる。

 意外とボリュームのある臀部そして、すらと伸びる脚へと順に洗っていくうち、指に感ずる感触が上半身の時とは違うことに気付いた。

 これは直接触れているが故のことであろう。

 というのも、明らかに指の沈み(・・)が違うのだ。

 

「お前ってさ」

「んっ……! ……な、なんじゃ」

「なんていうか――身体の大きさと比べてケツがでかいよな……脚もか。って言うか、もっとはっきり言うと意外と下半身デ――あいたっ!」

 

 最後まで言うことなく、俺は後ろ手にぺちりと頭をはたかれる。

 次いで振り返ったラピスの表情は笑顔ではあったが、あくまで形だけで目までは笑っていない。

 

「……いらぬお喋りなどせず続けい」

「へいへい分かりましたよ」

 

 まあ確かに、少しデリカシーに欠ける発言であったやも知れない。

 

「おし、そんじゃ次は前だ。言っとくが洗うのは上だけだからな」

「……なんじゃ、ケチじゃの」

 

 顔だけをこちらに振り向かせ、ラピスは不満げな顔を向ける。

 こいつ、本気で全部手で洗わせる気だったのか?

 

「言っとくがそれだけは譲らないからな。そんじゃ――おおっ!?」

 

 ただでさえ低い身長のラピスの下半身を洗うため、俺は胡坐をかいての姿勢を取っていた。

 ラピスに前を向かせるため、俺は彼女の肩に手をかけ立ち上がろうとしたのだが。

 石鹸の滑りによるものか、力を入れた途端、肩に乗せた手がつるりと滑ってしまったのである。

 

 滑り落ちた手はそのまま俺から反対側、ラピスの正面の何もない空間を下っていったが、その途中、何か小さなものに掌が触れたような気がする。

 

「!?――!!……!……!??? んお゛お゛~っ!?」

 

 すると、ラピスはつま先立ちになったと思うや絶叫を上げ、ビクビクと痙攣を繰り返した。

 やがてその痙攣は一応の終息を見せたものの、次の瞬間、ラピスはふらりと後方へ倒れ込んでくる。

 

「お、おいっ、どうしたんだっ!?」

 

 後ろに位置していたのが幸いし、俺は倒れ込んでくるラピスを抱き留めることに成功する。

 俺にもたれかかった彼女は、果たして意識があるのかどうかさえ怪しいほどに呆けた――というかだらしない顔つきをしており、口からは舌までもまろび出させている。

 おおよそ年頃の女の子が決して他人に見せてはならぬ顔といって間違いない。

 

「はへ……ひぃ……」

「なんなんだ一体……」

 

 もはやまともな会話が成立しなくなったラピスをなんとか湯舟に入れてやった後、俺は身体を洗うのもそこそこに浴場を後にした。

 その後、脱衣所でもまだ足取りが怪しいラピスの着替えを手伝ってやり、彼女を抱きかかえて自分の部屋に戻った俺は、とりあえずベッドに彼女を寝かしておく。

 そうした後、台所まで水を取りに行った。

 

「ほれ、とりあえずこれ飲んどけ」

「……あの甘い飲み物の方がよい……」

「贅沢言うな。寝る前にジュースはいけません」

「むぅ……けち……」

 

 俺が台所から戻ってきた頃には、彼女は大分落ち着きを取り戻していたようで、こうした減らず口も叩けるようになっていた。

 しかし、まさか湯にも入っていないうちからのぼせるとはな。

 平気なふりこそしているものの、やはり俺と同じく疲れが溜まっているということなのだろう。

 

「……また何か見当外れなことを考えておる顔じゃ」

「そんだけ言う元気があるならもう平気そうだな。そんじゃ今度こそ寝るぞ」

 

 ようやく就寝することができると思ったのも一瞬のこと。

 むくりとベッドから起き上がったラピスは、じっと俺の目を見つめ、またも何をかを口に出そうとする。

 

「いいや、まだ終わっておらぬぞ、我が君よ」

「……はぁ? この上一体何があるってんだよ」

「先ほどは途中止めになってしもうたじゃろうが。あれでは約束を守ったとは言えぬぞ」

「お前が気絶しちまったせいだろうが!」

 

 あれで俺のせいにしようとは恐れ入る。

 流石にそれについては自分に落ち度があると自覚しているのか、ラピスは一瞬俺から視線を外すも、言葉の勢いまでは萎えさせず続ける。

 

「ふん、それでのうても汝は少なくとももう一つ、わしの望みを訊く義理があるはずじゃ」

「何がだよ、心当たりなんかねえぞ」

「はぁ~……まったくおめでたいのう。あれだけの罪を犯しておいて無自覚じゃとはな。……それともわざとか、ん?」

 

 元気になったら元気になったでこれである。

 まったく面倒くさいことといったらない。

 

「だから何のことだって――」

「ならば言うてやろう。汝は……こともあろうにわしと魂を共にした状態で、他の女の肢体に目を奪われておったじゃろうが」

「うっ……!」

 

 まだ根に持っていやがったのか……もう忘れたとばかり思っていたのに。

 なんという執念深い死神なんだ、こいつは。

 

「いやいや、あそこまであからさまに浮気されるとは思わなんだわ。随分と勇気のある行いじゃ、のう? まったく恐れ入ったわ、くかかかっ」

「えーとラピスさん、違うんですよ。あれはですね……」

「言い訳は余計己が立場を悪くすると知っておいた方がよいぞ?」

「……」

「――ふん、ここに戻ったら汝をどうこらしめてくれようか、そんなことばかり考えておったものじゃが」

 

 と、ここで一瞬言葉を止めたラピスは、僅かに声のトーンを落とす。

 

「しかし、ふとわしは思い直した。わしも少し反省すべきであった、とな」

「……?」

「のう我が君よ。今回わしらが魂を一つにした際、依然と随分と様相が違ったことには勿論気付いておるじゃろ?」

「ああ、そりゃあな。でもあれは俺たちの力が足りなかったせいだろ?」

「無論それもある。しかしそれは原因の一端に過ぎぬ。最も根深い問題はの、我らの結び付き(・・・・)が弱いことにあるのじゃ」

 

 また何やらややこしいことを言い始めたな。

 もう今日はあまり込み入った話はしたくないのだが。

 あからさまに嫌そうな顔をしているであろう俺に気付いているのかいないのか、ラピスは構わず続ける。

 

「魂の融合、その根幹には精神的に強い結び付きがある。肉体的にも、精神的にもな。分かりやすく言うとの、互いを求めあう心が足りぬ、ということじゃ」

「う~ん……」

 

 なんとなく言いたいことは分かる。

 つまりアレだ、フー〇ョンで寸分違わず同じポーズと取る必要があるように、一つになりたいという心――というか意気込みをもっと上げるべきだ、とこいつは言いたいわけだな。

 

「まあ、なんとなく理解したが……だからっつって、んなのどう対策すればいいんだ?」

「一朝一夕でどうにかなる、というものでもないじゃろうの。しかしどうすれば良いのか、それはわしには分かっておる」

 

 一瞬の溜め(・・)の後、ラピスの表情が、先ほど風呂場で見せたような邪悪な笑顔へと変わる。

 

「わしは今言うたよの? 精神的そして、肉体的にも(・・・・・)強く結びつく必要があるとな?」

 

 嫌な予感がする。

 これ以上こいつの話を先に進ませるのは危険だと、俺の脳内が警報を鳴らしている。

 

「先ほどの浴場での件にしてもの。これから先同じようなことがあった時同じ轍を踏まぬよう、わしなりに対策を講じた故のことよ。決してわしの欲から言ったわけではないのじゃぞ?」

「それは嘘だよな?」

「さて、今後への備えとして、そうした行動を繰り返すことで我々の親密度を徐々に上げてゆく必要があるわけじゃが」

 

 こいつ、完全に俺の言葉を無視しやがった。

 まさか聞こえていなかった筈がない。

 

「これには日々の積み重ねが大事じゃと、わしはそう思うておる。よってわしが最終的に出した結論は」

「ちょっと待て!」

「……ん? なんじゃ我が君、大声を出しおって」

「それ以上はやめろ。俺も何か対策を考えとくから、それ以上口に出すな」

「何を悠長なことを言うておるか。こういうことは早くに手を付けるに越したことはない。よいか、わしの案というのはじゃな――」




次回、『はたらく死神様』をお楽しみに。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はたらく死神様 ①

 あれから早や一週間が過ぎた。

 そしてこの一週間というもの、俺はここ最近で一番といっていいほど平和な日常を過ごしている。

 こうなったのは、間接的にではあるが、鈴埜があれからずっと学校を休んでいることに起因する。

 別れ際惣一朗さんたちと連絡先を交換していたため、俺は数日前電話でそのあたりのことを聞いてはみたが、どうにも要領を得ない回答しか返ってこなかった。

 

 あのナラクという男はどうなったのだろうか。

 結局二人に任せたままにしてしまっているが……やはりきちんと何らかの形でケリを付けておくべきだったのだろうか。

 直接鈴埜家に出向いてもいいのだが、電話で話すエリザさんの声色からして、それはどうも避けてほしいように感じられた。

 

 ということの次第なので今の俺は、鈴埜のやつが再び登校してくるようになるまで、とりあえずは普段の生活を送るしかないという状況にある。

 

「――ま、一時的とはいえそれはそれで歓迎すべきことなんだが」

「ん? どうした夢野、何のことだ?」

 

 俺の独り言に、向かい合って座る一ノ瀬が反応して声を上げる。

 今は丁度昼休憩で、俺は教室で食事を摂っているところである。

 

「うんにゃ何でもない」

「そっか。しかし今日も人気だな」

「……」

 

 一ノ瀬の視線は、俺の隣に座るラピスへと注がれている。

 

「ラピスちゃん、私の唐揚げとウインナー交換しない?」

「むむ、なんじゃそれは!?」

「ねえねえラピスちゃん、これ食べる?」

「うむ、貰ってやってもよいぞ!」

 

 俺、一ノ瀬、そしてラピスの三人が机をくっ付けて食事を囲んでいる後ろでは、同じようにして弁当を食べる女子グループがある。

 彼女らは先ほどからラピスに積極的に絡んできており、こっそり持ってきたお菓子を彼女に差し出したり、弁当の中身の交換を持ちかけたりしている。

 ラピスの方も、俺が一緒だということもあり、物怖じせずに彼女らと会話することができていた。

 

 この一週間で、俺とラピスに対する周囲の人間の反応は若干の変化を生じさせていた。

 先の失敗で、慣れない小細工を弄してもロクなことにならないと自覚した俺は、もう開き直って昼休みはラピスを教室に入れてやることに決めた。

 一ノ瀬の協力もあり、また俺の必死の釈明が功を奏したのか、三日が過ぎるころには妙な目で見てくる奴らは大分少なくなった。

 

 最大の問題点である弁当の中身が同じことについては、ラピスが俺の分まで作ってきてくれている、ということにするほかなかった。

 もちろん一ノ瀬には口裏を合わせてくれるよう頼み込んである。

 ――本当に、そのうちこいつには何かの形で礼をしなくてはならないな。

 

 ……まあ、そうした理由にしてしまえば更に余計な誤解を生んでしまうことは避けられなかったが、事態は意外な方向に転がった。

 クラスの皆――特に女子連中は、彼女と俺との係りを追求するより、突如現れたこの転校生と積極的に絡んでいくことを選択したのだ。

 これはラピスの外見、そして一際変わった喋り方が大いに関係しているだろう。

 彼女らがラピスを見る目は、年の離れた妹か、もしくは可愛らしい小動物を見る時のそれである。

 

「我が君我が君! ほれこれ、ナツから貰ったぞ!」

「ああ、良かったな」

 

 ナツ、というのはラピスに菓子をあげた女子の名前である。

 ちなみに俺は彼女と今までほぼ会話をしたことがない。

 

「じゃ我が君、あーん!」

「まだ飯食ってんだよ、後にしろ後に」

 

 ……後ろから敵意を含んだ視線を感じる。

 その正体が何者であるか、俺には薄々分かってはいたが――しかしそれは理不尽というものだろう。

 確かに彼女はラピスに対してプレゼントしたつもりなのだろうし、それをすぐさま別人に渡されるとあっては、幾許か気分を害してもおかしくはない。

 しかし、ならその視線は俺でなく隣の空気の読めない死神にこそ向けるべきではないか。

 まったく、本当に美人っていうのは得だよ。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「我が君よ、今日はまっすぐ帰るのではないのか?」

 

 比較的平和に学校生活を終えた俺は今、ラピスと共に帰宅の途についている。

 隣を歩くラピスからの言葉は、俺がいつもの道を選択せずに歩き始めたことによるものだ。

 

「ああ。ちょっと今日は寄ってく所がある」

「ふむ……?」

 

 俺が今日こうした行動に出たのは単なる気まぐれなどではなく、れっきとした理由がある。

 昼休みのことと関連するが、俺たちが揃って同じ弁当を食べ始めて早くも一週間が経過している。正確には八日だ。

 花琳との約束では、もう一つ余計に弁当を作るのは一か月の間のみ、ということになっている。

 一週間が経過した今、残された時は二十日余り。

 そう、いつかこの生活には終わりが来るのだ。

 

 となれば、一か月が経過したその先はどうするかという問題が立ち上がってくる。

 俺の手持ちでやりくりする、というのは無理が過ぎる。

 高校生の僅かな小遣いではたとえ一食分といえど、それが毎日ときてはとても金が持たない。

 

 ならば残された選択肢は一つしかない。

 俺自ら、金を稼ぐことだ。

 しかしそれも容易なことではない。というのも、俺の学校では原則的に生徒のアルバイトは余程の理由がない限り禁止されているからだ。

 だが、俺にはある一つの考えがあった。

 僅かな可能性ではあるが、ものは試しとばかり俺は今日、その心当たりのある場所に向かうことにしたのである。

 

「随分と人気の無い通りを行くのじゃな」

「この道が一番近道だからな。地元民しか知らないから人も少なくていい」

 

 目的の場所へは少し距離がある。

 表通りを行けば何回も迂回する必要があるが、今回俺が選んだルートで行けば二十分ほどで着く。

 山道を切り開いて作られた道なので、少々足腰が疲れるのが玉に傷だが。

 最近では珍しい、街頭すら一つとしてない山道である。夜はかなりのホラースポットとなることだろう。

 

「のう我が君よ、急に冷え込んできたような気がせぬか?」

 

 山に足を踏み入れ数分経つと、ラピスが肩を震わせながらそんなことを言い出した。

 普段裸同然の格好をしているくせに何を、と思わないでもないが、そういえば例のクロークには保温機能が付いているらしいことを言っていた。

 今の学生服姿ではその機能は当然働かず、それゆえということだろう。

 

「確かにな。っていうか昔からここは他と比べて寒いんだよ」

 

 冬、そして山の中ということもあるとは思うが、実は俺もこの場所には子供の頃から同じ感想を抱いている。

 夏なんかだとちょうどいい過ごしやすさなのだが、この季節だと確かに堪えるのは確かだ。

 

「うぅ~……これは耐えられぬ。のう我が君よ、汝の人肌でこの奴隷を優しく」

「却下」

「なんじゃあ! けち!」

 

 そんだけ大声を出す元気があるなら平気だろ。

 機嫌を損ねたらしいラピスは肩を怒らせ、俺を置いてずんずんと前へ進んでゆく。

 先を行く彼女の姿がカーブで見えなくなった時、ようやく俺も小走りで追いかけることにした。

 

「あいつ、道も分からないくせに……おーい、待てって!」

 

 カーブを曲がると、意外なことにラピスの姿はすぐ近くにあった。

 道路の端に寄って立つ彼女は、地面に転がっている何か(・・)を見降ろしている。

 

「何か気になるものでも見つけたのか?」

「我が君、これはなんという種族なんじゃ?」

「種族――……?」

 

 さらにラピスの元まで近づいた俺は、至近距離でその何か(・・)を観察する。

 なるほど、確かに何らかの動物のようだ。

 少し褐色がかったオレンジ色の体毛に包まれたそれを見た俺は、一瞬犬かと思いかけたが。

 犬にしては鼻が長く、体つきもどこか細っこい。

 

「……狐か、こいつ?」

「キツネ?」

 

 自信なさげな俺の言葉を、ラピスは模倣して言う。

 疑問形になったのは、実物を見た記憶がないためだ。

 犬猫ならばいざ知らず、狐となるとそうそうお目にかかれるものではない。

 テレビや動物園なんかで見た記憶はあるが、細かいディティールまではとても思い出せない。

 

「キュウゥゥー……」

「……ん?」

 

 また、このように鳴き声を聞くのも初めてのことだ。

 童話なんかでは「コンコン」とよく形容されているが、いざ実際に聞いてみるとそんなことは全然なく、あえて言うならば猫に似ている。

 もしくは、人間の赤子の声を連想させるような声色だ。

 

 ところで、鳴き声のことはともかく、野生動物がここまで人を近付かせるというのは奇妙な話である。

 その狐は、俗に言う香箱座りのポーズで地に伏しているが、よく見ると畳んでいるのは左前脚のみで、もう片方はだらりと前に伸ばさせている。

 俺が小さく声を上げたのは、その伸びている脚に異常を発見したためである。

 

「ケガしてんのか……だから逃げないんだな」

 

 よくよく見ればその伸びた脚は、関節のあたりで妙な方向に曲がっている。

 その上、オレンジ色の体毛に混じって今まで気付かなかったが、下には黒く変色し始めた血溜まりがあった。

 脚一本であれば怪我をおして逃げ去りそうなものだが、そうしないところを見るに、相当に疲弊しているのだろうと推測される。

 俺は暫くそのまま様子を眺めた後、横で物珍しげにしているラピスに声をかけた。

 

「……なぁ、ラピス。こいつお前の力で治せないか?」

「――うむ? できぬことはないが、何故そんなことを」

「まあ、このまま見捨てて行くのも気分悪いだろ? 無理なら動物病院か……この辺あったかな?」

「はぁ~……まったく相変わらずのお人よしじゃことよ。我が君にかかればその辺の虫けらすら必死で助けるのじゃろうの」

「んなわけねえだろ。――で、どうなんだよ」

 

 ふむ、と一呼吸おいて。

 

「まあ、この程度であれば力の消費も微々たるものではある。ん――おお、そうじゃ。ならば我が君、汝がその畜生めを治癒してやっては如何か?」

「俺が?」

「前に言うたであろう? 死神としての力は我が君にも使用可能であるとな。丁度良い機会じゃ、能力に慣れる練習がてら、そやつで試してみるがよかろう」

「つっても、どうやるんだ」

「なに、簡単なことよ。そうじゃの――まずはそやつの負傷した箇所に手を触れてみよ」

「――こうか?」

 

 言われるがまま、俺はそろそろと手を近付けさせる。

 手を差し出すのには若干の躊躇があったが、その狐は噛みつくことも、また大声で威嚇するような素振りも見せず、ただ俺の手が触れた瞬間、小さく苦しげな鳴き声を上げたのみだった。

 

「うむ。さすれば次は頭の中で思い浮かべよ、こやつの脚が治った姿をな」

「そんなことだけでいいのか?」

 

 俺は半信半疑ながら、折れた部位に手を触れつつ、ラピスの言うイメージを頭に思い浮かべる。

 すると変化はすぐに表れた。

 

「……?……!……ッ」

「おおっ」

 

 骨までをも飛び出させ、見るからに痛々しかったその脚が、次の瞬間にはもう完治していたのだ。

 ケガをしていた痕跡すら残していない。

 洒落ではないが、まさにキツネにつままれたような気分だ。

 そしてそれは俺だけでなく当の本人も同様であったようで、言葉を発さずとも驚きに目を見張っているのがありありと分かる。

 

「ほほう、流石は我が主様であられる。こうも瞬時にコツ(・・)を掴んでしまいよるとは」

 

 ラピスからのお褒めの言葉と同時に、狐が立ち上がった。

 そして俺は気付いたのだが、どうもこの狐、まだ子供のようだ。

 狐の標準サイズというのが如何ほどなのか知らないが、いずれにせよ目の前のこいつは相当に小さい。

 猫と殆ど変わらないサイズだ。

 

 四本の脚で立てるようになった今も、やはり同じように逃げ出すような素振りは見せず、俺をじっと見つめている。

 確か――狐ってのは犬の仲間だっけか。

 言われてみれば確かに、その黒い大きな瞳は犬を連想させるものがあった。

 

「車かなんかに撥ねられたのか、お前。次からは気を付けろよ」

「……」

 

 俺の言葉が通じたわけでもないだろうが、そいつは俺の元まで近寄ると。

 

「――……」

 

 しゃがんだ俺の顔まで自身の顔を近付けさせると、ぺろりとひとつ、俺の頬を舐めた。

 

「おっ? はは、礼のつもりか」

 

 思った以上に人懐っこい。

 もしかするとどこかの変わり者が飼っているペット、という線もありえるだろう。

 俺の顔を舐めた後、その狐は何度かこちらを振り返りながら、やがて山の中へと消えた。

 

「この山に住んでんのかね? ま、いいか。それじゃ行くかラピ――なんだその顔」

 

 視界に入ったラピスは下唇を噛み、なにやら狐が去っていった方向を憎々しげに睨みつけている。

 

「お前……まさかとは思うが、動物にまで嫉妬して」

「そんなわけがなかろうが!! ……~ッ!」

 

 今日一番の大声で、食い気味に俺の言葉を遮るラピス。

 もしや本当に図星であったのか、顔を真っ赤にしてまたも足早に先へ進んでいってしまう。

 

「おい、だから道分かんねーだろって! おい!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はたらく死神様 ②

タイトルを試験的に変更しました。
前よりは内容に即したものになっているかと……もし読者様から他に何か案があれば、感想かメッセージを頂けると嬉しく思います。


 山を抜け暫く歩くと、『とおり町商店街』という看板が掲げられたアーケードが見えてくる。

 目的の場所は、このアーケード街の中にある店のひとつである。

 

「随分とうら寂しい場所じゃの」

「お前、これから行く先で絶対にそれ言うなよ?」

 

 あまりに正直な感想を漏らしたラピスを窘めるが、俺もそれほど強くは責められない。

 まだ日も高いというに、商店街の通りを行く人は俺たちを除けば数人しかおらず、そもそも店自体、シャッターが下りた状態であるものが多い。

 その数は、以前俺が来た時よりも増えているような気がした。

 これは俺の住む町も多分に漏れず、大手のショッピングモール建設による煽りを受けているということだろう。

 

「やっぱ期待薄かな……」

 

 改めて商店街の実情を目にした俺は、己の期待が空振りに終わる予感をひしひしと感じる。

 とはいえ、ここまで来て何もせず帰るというのもなんだ。

 ハナからダメ元で来たのだ、やるだけやってみよう。

 

「ここだ」

 

『ルナ』という店名の喫茶店の前に立つ俺は横のラピスに言うが、当の本人はガラス越しにディスプレイされた、チョコパフェのサンプルに釘付けになっている。

 俺は涎さえ垂らし始めたラピスの腕を掴むと、扉のノブに手をかけた。

 扉を開けると同時にチリンチリン、と鈴の音が鳴る。

 

「いらっしゃ――お?」

「こんにちわ、聖さん」

 

 神崎(かんざき) (ひじり)

 テーブルを拭く姿勢のまま振り向いたこの女性こそ、俺が今回会おうとやってきた目的の人物である。

 

「なんだ竜司君、久しぶりじゃないか」

「ははは……お久しぶりです」

 

 後ろ髪を一点でまとめたポニーテールを揺らしつつ、聖さんが俺の元までやってくる。

 次いで出された声は相変わらず凛としており、立派な大人の女性、という印象を聞くものに抱かせる。

 

「まあ竜司君の家からはけっこう距離があるものな。――ま、座りなさい。いつものでいいかな」

「あ、はい――ん?」

 

 袖をくいくいと引っ張られる感触に俺が振り向けば、俺の陰に隠れるように立つラピスの姿があった。

 ラピスは俺の袖を掴んだまま、小声で俺に話しかける。

 

「……我が君よ、この女は?」

「ああ、この人は母さんの親戚でな、昔からよくしてもらってるんだ」

「ん? 竜司君、今日は一人じゃな……」

 

 なにやら様子がおかしいことを察したのか、聖さんは俺の後ろを覗き込む――と。

 聖さんは口に出しかけた言葉を飲み込み――これは比喩ではなく実際に、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。

 

「うおおおおおっ!」

「じゃわああ!?」

 

 不意にけたたましい咆哮を上げた聖さんは、そのまま目にも止まらぬスピードで俺の後ろに回り込むと、隠れていたラピスを抱き上げる。

 

「なんだこの()は!? ――おおおお……信じられん、なんという可愛さだー!!」

「や、やめろ貴様! 急になにをっ……頬を擦り付けるなあああーっ!」

 

 両の腕でがっしりとホールドされているラピスは身動きが取れず、聖さんに頬擦りされるがままになっている。

 彼女との付き合いは長いが、こんな姿はついぞ見たことがない。

 俺は信じ難いものを見る目でもってして、だらしなく頬を緩める彼女に声をかけた。

 

「あ……あの、聖さん?」

「――はっ!?」

 

 かっと目が見開かれたと思うや、そのまま数秒間、そのままの姿勢で静止する聖さん。

 やがて正気に戻ったのか、彼女は少々ばつの悪い表情になりつつ、暴れるラピスを地に下ろす。

 

「……こほん。すまない竜司君、少し取り乱してしまったようだ」

「はぁ……」

 

 聖さんは咳払いをしつつ、瞬時にいつもの冷静な表情に戻る。

 今さら取り繕っても遅すぎる気もするが。

 

「う゛う゛う~っ……!」

 

 ラピスはラピスで、犬のように唸りながら彼女を威嚇している。

 しっかり立ち位置は俺の後ろを陣取って、というのがまたこすずるいというか、小心者ぶりを露呈させているというか。

 聖さんはそんなラピスをチラチラと横目で見ながらも、努めて冷静な声で俺に話しかける。

 

「久しぶりに来てくれたと思ったら、まさかデートの場所にウチを選んでくれたとはね。ふふ、光栄だな」

「あいや、こいつはそういうんじゃなくて……」

「照れるな照れるな。キミには昔から女っ気が無かったから心配していたが、しっかりやることはやっていたんじゃないか。しかし年下好きだったとは意外だったな。私はてっきり――」

「だから違いますって!」

「はは、まあそういうことにしておこう。とりあえず座って待っていなさい。話はコーヒーを飲みながらといこうじゃないか」

 

 微笑を湛えたまま、彼女はそう言って中に入るよう促す。

 俺はそれに従い中に入るついで、ちらと周囲を見渡してみる。

 

「はぁ……ていうか相変わらずお客さん少ないんですね」

 

 ラピスにああ言った手前、俺のこの言葉はどうかと思うが、目に入ったカウンター席に座る客は一人としておらず、中は俺たちの話す声、そして小さめに流れる店内BGMしか耳に入ってこない。

 この店はアーケードの中でも悪くない位置にある。だというのにこの寂れ様では、他人事ながら流石に俺も心配になってしまう。

 

「キミも相変わらずはっきりと言うね……。ま、その通りなのだから返す言葉もない。今いるのだって――ほら、お客様はそこの一人だけだよ」

 

 言って彼女が指差した先には、一人の男性客の姿があった。

 

「――あン?」

「あっ!?」

「なーっ!?」

 

 振り向いたその男の顔は、俺たちには見覚えがある。

 いや、忘れようとて忘れられないものだ。

 

「おお、小僧。それにサナトラピスもか。久しぶりだな」

 

 コーヒーカップを片手に掲げ、まるで友人に対するそれのような態度でもって俺たちに語り掛ける男。

 その男は他でもない、一週間前、俺たちの命を狙いやってきた男、ナラクであった。

 

「――てめえっ!」

 

 瞬時に俺はラピスを守るように前に立ち、男に向かい構える。

 対する男はしかし、空のカップをフラフラと揺らしつつ余裕の態度を崩さない。

 

「おいおい興奮すんなよ。お前らにゃァ手を出さないっつっただろ? ま、やりたいってんなら構わねえけどよ、こんなトコでおっぱじめるつもりか?」

「……」

「竜司君、どうしたんだ? あちらのお客様と何かあったのかい?」

 

 この男の言葉をそのまま鵜呑みにできるわけがない。

 しかし、聖さんの目があることもあり、ここはとりあえず折れておくほかないと判断した。

 少なくとも前のようにいきなり襲い掛かってくるつもりはないようだしな。

 

「……いえ、なんでもないです。人違いでした」

「ん……そうか。ならいいんだ。彼は最近よく来てくれるようになった人でね。揉め事はやめてくれよ、貴重なお得意様だ」

 

 納得した、とは言い難い表情だが、とりあえず俺が矛を収めた様子であることを確認し、彼女はキッチンへと向かう。

 俺たちは男の座る場と、ひとつ間にテーブル席を挟んだ場所に座ることにする。

 がしかし、せっかく間を開けて座ったというのに、ナラクは身を乗り出し、椅子の上に両腕を乗せた姿勢でもって俺たちに話しかけてくる。

 

「よぉ、しかしマジで偶然だなァ? やっぱ俺たちゃ互いに惹かれ合ってるってコトじゃねえか?」

「……話しかけんな」

「がはははっ! こりゃ嫌われたモンだねぇ。ま、こちとらお前らに借りのある身だ、言う通りにしてやるよ。――おーい、もう一杯頼むわ!」

 

 聖さんの返答がキッチンから届くと、ナラクは何事もなかったかのように俺たちから目線を切り、席に座り直した。

 俺は、そんな男の後頭部を憎々しげに見ながらぼそりと呟く。

 

「……あいつ、何考えてやがんだ?」

「さてのう。しかし力は失ったままのはずじゃ。現状で我等に下手な真似は打てまい」

「つってもなぁ……」

「そんなことより我が君、一体何用あってこの場に? わしとしては一刻も早く去りたいところなのじゃが……あの女はイヤじゃ。何がと言われると答えられぬが、なにやら不穏な雰囲気を醸し出しておる」

 

 先ほど出会い頭にハグされたのが余程こたえたのだろう。

 ラピスの中での聖さんのイメージはかなり悪くなってしまったようだ。

 

「ま、ちょっとした用事があってな。それが済んだら帰るよ」

 

 数分後、三つ分のカップを載せたトレーを持った聖さんが厨房から姿を現した。

 そのうち一つをナラクのテーブルへと置いた後、続いて俺たちの元まで彼女はやってくる。

 

「はいお待たせ。竜司君はいつものブレンドね。隣の彼女も同じものでよかったかな」

「ありがとうございます」

 

 目の前に置かれたコーヒーから発せられる(かぐわ)しい芳香が俺の鼻腔を満たす。

 俺はそのままミルクと砂糖、そのどちらも入れることなくコーヒーを口に流し入れる。

 

「やっぱり聖さんの淹れてくれたコーヒーは違いますね、俺、普段ブラックは飲まないんですけど、聖さんのは全然大丈夫です」

「嬉しいことを言ってくれるな。それで今日は……ん?」

「聖さん、どうし――ラピス?」

 

 顔をほころばせた彼女は、俺の隣に視線を向かわせたと思うや怪訝な顔つきになる。

 俺もそれに倣うと、彼女以上に怪訝な顔つきをして目の前に置かれたカップを凝視するラピスの姿があった。

 ラピスも俺の視線に気付いたのであろう、横目で俺を見やりつつ口を開く。

 

「……我が君よ、これは何じゃ」

「何って……ああ、お前コーヒー飲んだことないのか」

こぉひぃ(・・・・)? ……本当に飲んでよいものなのか? かように真っ黒で禍々しきもの……香りは確かによいが、毒ではないのじゃろうの」

「お前な、失礼にも程があるぞ」

「あっはっは! ラピスちゃんというのか、君は。コーヒーを飲んだことがないというのは分かるが、その様子だと見たことすらないのかい? 随分と珍しい娘だね」

 

 確かに、現代でコーヒーを見たこともない、というのは相当あり得ない話だ。

 今回聖さんは笑っただけで済ませてくれたが、今後何がきっかけとなってラピスの正体が露呈するか分からない。

 今後はそのあたりにも注意してこいつを連れ出す必要があるだろう。

 

「すいません、本当……ほれ、俺が今飲んでんだろ。毒なんかじゃねえよ」

「うむ……なら――……ぶほぁっ!?」

「どわっちゃーっ!?」

 

 疑うような視線を俺に向けつつ、一口コーヒーを口に含んだラピスは、その瞬間中のものを勢いよく吹き出した。

 熱い飛沫が俺の顔面へと降りかかり、予想だにしていなかった事態に俺は頓狂な叫び声を上げる。

 

「――てめぇ、何すんだ!」

うぞづぎ(嘘つき)ぃ~……これやっばり毒入ってるではないかぁ~……」

 

 口からコーヒーを涎のように垂らしたラピスは、泣きそうになりながら非難の言葉を口にする。

 というか、既に泣いているのだが。

 

「……なんという可愛さだ……」

「がーはっはっは!」

 

 聖さんが怪しげな目でラピスを見つめる中、この様子を見ていたのであろうナラクの笑い声が店内に響き渡る。

 

「帰ったら急いで洗うんだよ。コーヒーの染みは時間が経つと中々取れないからね」

「はい、ありがとうございます……」

 

 顔と服に飛び散った液体を、聖さんの持ってきてくれたタオルで拭きつつ俺は、こうなった元凶へと視線を向かわせる。

 

「――あまーい! なんじゃなんじゃ、最初からこれを出せばよかったものを」

「……」

 

 その張本人はと言えば、代わりに持ってきてもらった砂糖とミルクたっぷりのカフェオレ――ほとんどコーヒー牛乳と言った方がいいほどにコーヒー分を薄めたもの――にご満悦な様子である。

 その満面の笑顔を見ていると頭痛を覚え始めてきた俺は、こいつの存在を無視して話を始めることに決めた。

 

「はぁ……ええと聖さん、話を戻しますけど。実は今日来たのは、折り入って聖さんにお願いしたいことがあって」

「ん、珍しいね、キミが私に頼み事とは。一体なんだい?」

「その――この店、アルバイトとか募集してたりは……」

「……」

 

 俺の言葉を聞いた瞬間彼女は眉を(ひそ)めると、それまでの優しい口調から一変、真面目な声色となる。

 

「ここで働きたいと、そういうことかい?」

 

 俺の言葉の真意をすぐさま見抜いた彼女からの言葉に、俺は物怖じしながら答える。

 

「……はい。ぶしつけなお願いですが……」

「う~ん……」

 

 彼女は腕を組み、困ったような声を出す。

 即座に拒否されなかったことで、ある程度希望を持ってもよいのでは――と、俺は甘くもそう考えそうになったが。

 

「姉さんには昔から世話になってばかりだからね。その息子さんたっての願いとあれば叶えてあげたいのは山々だが……」

 

 ――『だが』。不穏な語尾に、俺の不安が沸き立つ。

 やはりその悪い予感は的中し、次に彼女から発された台詞は、俺が望むものとはかけ離れたものだった。

 

「見ての通り、特に手伝いは必要ない状況でね。キミもそれは分かるだろう?」

「……」

「それに、だ」

 

 聖さんは続ける。

 

「姉さんにはこのことを話しているのかい?」

「いえ……」

「だろうね。大方学校にも話していないのだろう? 確かキミのところはアルバイト禁止だったはずだからね。わざわざ私の所まで来たのは、知り合いの店ならば学校や親に黙っていて貰えるのではと、そう期待してのものだろう。――図星かな」

 

 まさしくその通りである。

 さもしい魂胆をいとも簡単に言い当てられ、ばつの悪さから俺はそれ以上の言葉を発することができなくなる。

 消沈する俺を、彼女は怒るでもなく、また責めるような素振りも見せず、優しく言い含めるように諭す。

 

「まぁ、私も学生時代は色々とヤンチャだったからね。校則がどうだとやかましく言える筋合いではないのだが。それでも最低、ご両親の了解は取らないとな。もし姉さんが良い、と言うならまた考えてあげよう」

 

 彼女の言う姉さん、とは俺の母親のこと。

 しかし……やはりと言うべきか、そう甘い話はなかったか。

 だが、考えようによってはまだ希望があるともいえる。彼女の言葉が偽りでないとするならば、俺がこの後親からの了承を取り付ければ雇ってもらえる、という風に捉えられるからだ。

 とてもじゃないがバイトなど雇える状態ではあるまいに、優しくもそう言ってくれた聖さんに対し、俺は感謝の目を向けた。

 

「はい、ありがとうございます。それではまた親と話し合ってから――」

「ちと待たれよ」

 

 と、不意に俺の言葉を遮ったものがある。

 

「ラピス?」

 

 カフェオレの甘みに酔いしれていたはずの彼女であったが、半分残ったそれに手を付けることなく俺を凝視している。

 

「聖とやら、少々席を外すぞ」

 

 席の奥に座っていたラピスは俺をぐいぐいと席から押しやると、次いで自身も席から降り、そのまま店の奥まで俺の手を引いてやってくる。

 

「なんだ一体、どうしたんだ?」

「……」

 

 俺の言葉にラピスはすぐには答えず、なにやら怒ったような眼差しを向けてくる。

 そんな眼差しを向けられる覚えなど何一つない俺は、何故彼女が怒っているのか、まるで見当がつかない。

 むしろ怒りたいのはコーヒーをぶっかけられた俺の方なのだが。

 そう思っていると、ようやくラピスが口を開いた。

 

「我が君よ。汝が急に働き出すなどと言い出したのはなんのためじゃ?」

「ん……それは」

「わしの為であろう。違うか?」

「……」

 

 俺の沈黙を肯定と捉えたのであろう、ラピスは続ける。

 

「やはりそうか。汝の妹御との約束は残り二十日余り。わしのその後を、汝は心配しておるのじゃろう」

「……ああ、そうだ」

 

 やはり、妙なところでこいつは勘が鋭い。

 そこまで見透かされているならば、もはや隠す必要もないとばかり俺が肯定の言葉を口にするや、ラピスはやにわに声を荒げ始めた。

 

「何を考えておる! 以前言うたであろうが、わしは人の食物から糧を得ることはできぬと。一切飲まず食わずでもまるで問題はない! 汝が気に病むようなことでは――」

「いいや、そいつはダメだ」

 

 今度は俺の方が、彼女の言葉を遮る形になる。

 はっきりと断言した俺に対し、やや彼女は尻込みした様子を見せたが、それでも声の勢いは落とさず俺に食ってかかる。

 

「――何故じゃ! そんな無意味なことを、わざわざ我が君自ら……!」

「……俺はな、お前がこれから送る生活でストレスを感じてほしくないんだよ。昼間周りが友達同士で仲良く飯を食いながら話す中、お前はそれをずっと横で見ておくつもりか? 俺のとこに来るにしたって、どうしたって奇異の目で見られることになるぞ。飯もロクに食べられないような貧乏人だってな」

「そんなことっ――」

「そんなことは取るに足らない、どうでもいいことか? 生憎俺にとってはどうでも良くなんてねえ。お前はこれまでずっと我慢ばかりしてきたんだろうが。それに不当に下にも見られてきた。お前が言う、下等な人間どもにな」

「……」

 

 俺の言葉に己の過去を思い出したのか、ラピスは下唇を噛み口をつぐむ。

 

「俺はな。これから先、お前がそういう目で回りに見られることに我慢ならねえんだ。それに――」

「……それに、なんじゃ」

「俺は主人で、お前は俺の奴隷なんだろ? ならできるだけ大事に扱わねえとな。自分の所有物をバカにされるってのは気分のいいもんじゃないからな」

 

 ラピスは何も言わず、そしてなにを考えているのか分からない表情でもってして俺をじっと見つめていたが。

 やがて長い溜息を吐き出すと、やれやれとばかりな身振りと共に口を開く。

 

「つくづく……つくづく救いがたいの。まったく、度し難いお人よしめが」

「ご挨拶だな。――ま、とにかくそういうことだ。俺が勝手にしたいからやってるだけ、お前が気にするようなことじゃ」

「いいや、そういうわけにはいかぬなぁ?」

「え……お、おい! どこ行くんだ!」

 

 にやりと笑ったラピスはやにわに踵を返し、つかつかと元の道を戻り始めた。

 俺がその背に声をかけるも、全く足を止める様子はない。

 

「おや、話は終わったのかい? 何か用かな、ラピスちゃん」

 

 聖さんの元まで来て歩みを止めたラピスは、彼女を見上げると。

 

「――わしを、この店で働かせてはもらえぬか?」

 

 はっきりと、そう口に出したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はたらく死神様 ③

 その場で俺は言葉を失い、ただ立ち尽くすほかなかった。

 ――あいつ、一体何考えてやがんだ!?

 

「う、んん……?」

 

 その思いは聖さんも同様であったようで、表情には戸惑いの色が見える。

 そうした顔つきになったのは、ラピスの発言が冗談だと疑ってのものだろう。

 がしかし、眼前の少女の目が真剣そのものであることに気付いたのか、彼女もまた真面目な顔に戻る。

 

「……ラピスちゃん、だったね。先ほどの話を聞いていただろう?」

「無論じゃ。じゃがそれを押して頼みたい。わしをこの場で雇ってもらいたいのじゃ」

「しかしだね、そもそも君は一体いくつなんだい? 見たところしょうがくせ――いや、それだと竜司君を後で問い詰めなければならないな。しかしいいところ中学生といったところだろう。いずれにせよ、その年でアルバイトなど時期尚早というものだよ」

 

 当然の返答である。

 俺と同じバイト禁止の学校へ通っていることも無論そうだが、実年齢はともかく、今のラピスは下手をすれば小学生にすら見える外見だ。

 しかも二人は今日が初対面である。了承されるはずがない。

 がしかし、ラピスはそうした返答を聞いて尚も折れず、彼女へ食いつくことを止めない。

 

「……頼む。なんでも、なんでもする。そなたの言うことは全て聞き入れよう。じゃから……」

 

 ――時間の無駄である。

 如何に必死の懇願をしようと、彼女が首を縦に振るはずがない。

 いたたまれなくなってきた俺は、そろそろラピスを止めんと動きにかかる。

 

「いや、あのなラピス。だからそういう問題じゃ――」

「なんっ……なんでも……!? う、う~ん……」

「おいアンタ! なんでちょっと迷ってんだ!?」

 

 つい言葉が乱暴になってしまったが、それもこの場では致し方ないことだろう。

 聖さんは不意に頭を殴られたがごとき衝撃を受けたような顔になり、次いで考え込むような素振りを見せ始めたのだ。

 

「いっ、いやっ! ち、ちがうんだよ竜司君、今のはその……」

 

 俺の声に我を取り戻したのか、彼女は元の表情に戻り、ひとつ咳払いをする。

 

「ええと……んんっ。――ラピスちゃん、キミは何故お金を稼ぎたいのかな? 普段のお小遣いでは満足できないかい? 遊びたい盛りだろうし、気持ちは分からないでもないよ。でもね――」

「さようなくだらぬ理由からではない。わしは……(おの)が大切な者のため、そうする必要があるのじゃ!」

「ほう……? その大切な人とは、もしかして?」

 

 そう言って聖さんは、視線を俺へと動かす。

 この時の俺は、どんな顔をしていたのだろうか。

 彼女は含みのある笑顔を浮かべ、少しからかったような口調で言う。

 

「……ふぅん。こんな子供にこうまで言わせるとは。大したプレイボーイぶりだね、キミは。どんな手を使ったんだい」

「い、いやいやいや。聖さん、これはこいつのちょっとした冗談でですね」

「そうは見えないけどね。うーん……しかし困ったな。こんな可憐な少女の頼みを無碍にするのは私の矜持に反する。どうしたものか……」

 

 うむむと暫く唸っていた彼女だが、やがて発された言葉はやはりと言うべきか、ラピスの期待に沿うものではなかった。

 

「……いや、やはりダメだ。いくらなんでもキミのような小さな子を――」

「聖っ!!」

「ふおあっ!?」

 

 聖さんは身を硬直させ、今まで俺が聞いたことのない声を上げた。

 そうなったのは、不意にラピスが彼女へ抱き着いたからである。

 見るからに挙動不審になる彼女をよそに、ラピスはより一層声量を上げ、今一度懇願する。

 

「頼む、聖……! 後生じゃ、わしを雇ってくれ。先の言葉は嘘ではない、汝の言うことには全て従う! いかな命令であってもじゃ!」

「ふぐっ……!」

 

 どうしたことか、聖さんは短い声を上げると、片手で鼻のあたりを覆いだした。

 聖さんに抱き着くラピスの顔は、丁度彼女の胸の下あたりに位置する。

 彼女の下から潤んだ瞳を向けつつ、ラピスはダメ押しとばかり、もう一度彼女の名を呼んだ。

 

「聖ぃ……」

 

 今や聖さんの顔は真っ赤で、汗の量はさながら滝のようである。

 顔を手で押さえつつ彼女は、荒い呼吸を吐きつつ声を出した。

 

「ふぅーっ……ふぅーっ……し、仕方ないなぁ……そこまで必死にこ、懇願されては……」

「おいおいおいおいちょっとちょっと!」

 

 たちまち俺は彼女の言葉を遮りに入る。

 このままだと本当にそのまま了承してしまいそうな流れだ。

 いつもクールで凛とした彼女が、今日に限ってはまるで別人である。

 

「いやっ、竜司君! 考えてもみたまえ。彼女の意志は見ての通り固いようだ。ここでもし断れば、その後どこか怪しげなところにまで行ってしまいかねない勢いじゃないか」

「いやそれは……」

 

 考えすぎだ、とは即座に応えられなかった。

 ラピスの性格を考えれば、本当にそうしてしまいそうな予感は確かにある。

 

「だとすれば、だ。ここは信頼のおける人間の元で、というのが落としどころではないかな?」

 

 ……信頼できる人間、ね。

 昨日までは確かにそう思っていたんですが。

 

「聖っ! それでは――」

「とはいえまだ決めたわけではないよ。まずはテストだ。色々と準備もあるし……そうだな、明日学校が終わったらまた来なさい。学校は何時に終わるのかな」

「自由になるのは一五時半からじゃ」

「よし、ではそうだな……明日の夕方四時過ぎ頃、またここへ来なさい」

「了解じゃ! ……感謝するぞ、聖よ!」

 

 ……なんということか。

 結局、こうなってしまった。

 テストだと口では言っているが、彼女の中で既に採用は決定している気がする。

 それは、より強く抱きしめられ、恍惚とした彼女の表情を見れば一目瞭然である。

 

「ふおおおおっ……!」

 

 声にならぬ声を上げた彼女は、未だ荒くなった呼吸を抑えることなく、次いで口を開いた。

 

「……ラ、ラピスちゃん。正式な試験は明日からだが、ちょっと試しにここの仕事をやってみるかい?」

「うむ、任せよ!」

「そうかい。ではまず――あっ!」

「?」

 

 と、何か重要なことに気付いたとばかりな声を出した彼女は、なにやら目を細め、怪しげな雰囲気を漂わせ始めた。

 

「……よし、ではまず制服に着替えようか。……こっちへ来なさい」

 

 そう言うと、あっという間にバックヤードまでラピスの手を引いて消えていってしまった。

 二人の姿が消えた後、俺は独り言ちる。

 

「……制服?」

 

 確かに聖さんはいつも同じ服、さながらバーテンダーのような給仕服を着ているが。

 しかし俺が知る限り、これまでこの店に他の従業員が居た記憶はない。

 バイト用の制服など用意しているとは考え辛いのだが……

 

「面白いコトになってきやがったな。こりゃここに来る楽しみが増えたぜ。あの野郎、マジで死ぬギリギリまで力を奪いやがったからな。あいつに給仕させるとなりゃ少しはその鬱憤も晴れるってもんだ」

 

 とここで、それまで事の推移を静観していたのだろうナラクから声が上がる。

 俺は僅かに躊躇したが、この男に話しかけることにした。

 

「――ナラク」

「……あン? なんだ、俺とは話したくねえんじゃなかったのかよ」

 

 ナラクは目を細め、しかしどこか楽しそうな表情で俺を見る。

 

「お前、どうしてここに居るんだ? 俺たちを付けてたのか」

「んな女々しい真似すっかよ。マジに偶然だ、偶然。ここだってよ、この世界に飛んでからフラッっと入ってみただけだ。そしたらよ、この、これ――コーヒーっつーんだろ。こいつがあんまり美味いもんでな。そっから何度も飲みに来てんだよ」

「フラッっとって、お前……金はどうしたんだよ?」

「ん? ああ、そんなことか。そんなもんお前、俺にかかりゃ楽勝よ」

 

 ……何がどう楽勝なのか、またどんな方法を使ったのか。

 なんとなく予想は付くが、俺はそこには突っ込まないことにした。

 

「……まあ、それは別にいい。それよりもっとお前には聞きたいことが――」

『じゃわーーーっ!?』

「!?」

 

 続く言葉は、バックヤードから突如として届いた大声によって中断される。

 

『な、なんじゃ貴様!? だ、大丈夫なのか!?』

『……わ……これ……!』

『――こら、やめろ! その顔で近寄るでないっ! それくらい自分でできっ……やめんかーっ!!』

 

 大声の主はラピスである。

 聖さんの声らしきものも聞こえてはくるが、壁に挟まれたここからでは明瞭でない。

 ただの着替えを行っているだけであるはずだろうに、一体どうしてこんな大声を出すような事態になるのか。

 

「……何が起こってるんだ……?」

「くっ……がーはははっ!」

 

 その答えは、彼女らが再び姿を見せるようになるまで、もう暫くの時を置く必要があった。

 今はただ、店にはナラクの笑い声が響くばかりである……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はたらく死神様 ④

「もう、何て言えばいいのかな……とりあえず――」

 

 ズキズキと痛むこめかみを指で抑えつつ、俺は眼前の二人を見る。

 そのうちの一人、聖さんは、さも大仕事をやりきったかのような満足顔をしている。

 何故か片鼻には(よじ)ったティッシュが詰め込まれているが、今はその理由は問うまい。

 

「なんでアンタ、こんな服持ってんだよ! しかも子供用をよ!?」

 

 まずはこれを言っておかねば始まらない。

 彼女の横に立つラピスは、やや恥ずかしげに身を捩らせている。

 それもそのはず、今のラピスが身に纏っているのは、それまでの学校制服姿ではない。

 給仕服、と言えば多少は聞こえが良いかもしれない。だがここではあえてはっきりと言おう。

 彼女が今着ているのは、まごうことなきメイド服であると。

 それも、いわゆるロングドレス型のヴィクトリアン・メイド調のものではない、ミニスカートを下に履くタイプだ。

 やけにスカート丈が短いその下部には褐色の地肌を挟み、白いハイソックスを履いた脚部が顔をのぞかせている。

 

 俺の叫びに対し、聖さんは表情一つ変えずに答える。

 

「何を言うか、淑女として当然のたしなみだ」

「変態の所業でしかねえよ!」

 

 どこの世界の淑女だと言わざるを得ない。

 俺はさらに食ってかかろうとしたが、不意に横のラピスから声がかかる。

 

「わ、我が君」

「……どうした、ラピス」

「これ……変じゃないじゃろうか……? かような珍妙なもの、しかも我が象徴たる色を基調としおってからに……。 まったく忸怩(じくじ)たる思いじゃ」

 

 お前の普段の服装も負けず劣らず珍妙だけどな、とは口に出さない。

 俺は、ここで今一度メイド服を纏うラピスをじっくりと観察する。

 ご丁寧にホワイトブリムまで装着してあるその姿は恐ろしいほどに似合っており、やはり元の造形が良いと何を着てもサマになるものだ、と思うほかなかった。

 俺も強く否定の言葉を口にすることはできず、奥歯に物の挟まったような言い方になってしまう。

 

「いや、まあ……変、じゃあ……ないけどよ」

「本当か? わしをからかっているのではなかろうの」

「嘘じゃねえよ。むしろ、その――似合ってる、とは思うぜ」

「それはつまり、可愛いということか?」

「え、いや……それは」

 

 答えは肯定に決まっているのだが、こう面と向かってとなると、口に出すのはどうにも恥ずかしい。

 そして俺が言い淀んでいるのを見て取ったラピスは、目に見えて消沈する様子を見せ始めた。

 

「やはり嘘であったか……見え透いた世辞など、むしろ相手を傷つけるということを知ってほしいの……」

「いや、違うって! あー……うん。……か、可愛い、と、思……」

 

 殊更に悲壮な声を出すラピス。

 こいつのことだ、狙ってやっている可能性も大いにあるが――だが悲しいかな、俺はそんな彼女の様子を見ることに耐えがたくなり、結局はその言葉を口にしてしまう。

 そして、俺の言葉が言い終わらぬうちに。

 

「――本当かっ!?」

「うおおっ!?」

 

 それまでとはまるで一変、満面の笑顔になったラピスは俺の胸へと即座にダイブしてくる。

 ……やはり、俺にそう言わせるための演技であったのだ。

 分かっていてなおこいつの罠にハマってしまう自分が情けなく、そして恨めしい。

 

「おお、オレもそう思うぜ。オレの元の世界でもよ、偉げな連中の召使いとかがよくそういうの着てたな。今のお前にゃピッタリじゃねえか? ははっ」

「貴様には聞いておらぬわ!」

「……うう、竜司君……なんと羨ましい……」

「アンタ思いっきり心の声漏れてますからね!?」

 

 茶化すナラクへラピスが怒鳴り声を上げ、心底羨むように言う聖さんには俺がツッコミを入れる。

 ……なんだか、既に疲労困憊だ。

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

「さて、本格的なものは明日以降になるが、こうして折角着替えてもらったんだ。少し接客の練習をしておこうか」

「聖さん」

 

 あれから少々間を置いて、改めて聖さんがそう言う中、俺は口を差し挟む。

 今さら確認するまでもないことかもしれないが、もしやということもある。

 

「ん、なんだね竜司君」

「本当にこいつを雇い――まあそれはひとまず置いといてですね、本気でこの格好で働かせるつもりですか?」

「何か問題でもあるかね? 給仕服ならば喫茶店で働くにふさわしいじゃないか」

 

 ”もしや”は無かった。

 単なるこの場限りの、聖さんの趣味である可能性をまだ信じたかったが、その一縷の望みはこの瞬間、塵と消えた。

 だが俺はまだ諦めきれず、しつこく食い下がる。

 

「……ちょっとスカートが短すぎませんか。俺もよく知りませんけど、本来もっと丈が長いもんじゃ」

「無粋なことを聞くのだな。そういうのも勿論ストックしてはあるが、私は今回それを使うつもりはない」

「……何故ですか」

 

 言葉にした瞬間嫌な予感が脳裏をよぎったが、そう思った時には既に口にしてしまっていた。

 そして悪いことに、その予感は的中してしまう。

 彼女は何を分かり切ったことを、と言わんばかりな呆れ顔でもって答える。

 

「せっかくのラピスちゃんの美しい脚が映えないだろう!? こんな素晴らしい褐色肌を――」

「あ、もういいです。よくわかりました」

 

 ――そう、よく分かった。

 この目の前の女性は俺の知る神崎聖ではない。

 恐らくは見た目がそっくりな双子の姉か何かだろう、そうだ、きっとそうに違いない。

 

「そうかい、では続けよう。ではラピスちゃん、さっき教えたとおりにしてみなさい。できるかな?」

「任せよ!」

 

 俺が現実逃避しようとしている中で、無情にも事態は先に進んでいく。

 元気よく返事をしたラピスはとてとてとキッチンへ向かうと、トレーに一つグラスを載せ、ピッチャーから水をそれに入れる。

 次いでトレーを片手で持ちながらこちらへと歩き戻るラピスの体躯は僅かともブレておらず、言わずもがな、グラスに入った水を零す様子など欠片としてない。

 俺の席の前まで来た彼女は、ことりという音すらさせずにお冷、続いておしぼりをテーブルに乗せる。

 そして最後に、胸元から伝票を取り出し一言。

 

「ご注文をお伺いします!」

「……」

 

 一切淀みない、完璧な一連の動きであった。

 俺があっけにとられる中、パチパチと音がする。

 その音の元は、感慨深げに拍手をする聖さん(仮)からのもの。

 

「素晴らしい。とても初めてとは思えなかったぞ」

 

 素直な称賛の言葉に気を良くしたのか、ラピスは声を弾ませて言う。

 

「どうじゃった、どうじゃった我が君!?」

「う、うん……まあ、よかったんじゃないか」

「そうかぁ~っ! よかった……!」

 

 トレーを両手で抱き締めるようにし、花咲くような笑顔となるラピス。

 だがそんな彼女の表情は、次いで横から発された声により一変することになる。

 

「おーい、こっちにも水くれや」

 

 声の主は、にやにやとこちらを見るナラクからである。

 その顔を見れば、からかい目的であることは一目瞭然であるのだが、聖さんはそれに気づいていないようで、彼女から無慈悲な宣言がなされた。

 

「うん、そうだな。知り合いでない人で練習するのも大事だからね。お客様、ご協力感謝します」

「いいってことよ。――おおい、サナトラピスよぉ、早くしてくんねぇか?」

「……」

 

 瞬間、能面のように無表情になったラピスは同じようにキッチンへと向かうが、その動きは先ほどとはまるで別人である。

 ピッチャーから水を入れれば、こちらの席からも分かるほどにドバドバと水を溢れさせ、更にはそれを拭こうともしない。

 如何にもダルそうにナラクの席までやってきたラピスは、まずはおしぼりを置き――いや、放り投げる。

 また、最後にお冷を置く段になると。

 

 ――ガツンッ!!

 

 思い切りグラスをテーブルに叩きつけた衝撃で、中の液体は殆どが四方に飛び散ってしまった。

 そして最後に、トドメの一言。

 

「――……泥水でも(すす)ってさっさと()ね」

「……ほ~お? オモシレぇぞ、てめェ……」

「こっ、こらっ! ラピスちゃん!」

 

 流石にこの態度にはナラクもカチンときたのか、顔こそ笑っているものの、こめかみには青筋を一本浮き立たせている。

 険悪に睨み合う二人、そして慌ててラピスを諫める聖さんを見ながら、俺は深い溜息を吐き出した。

 

「どうせこんなことになると思ってたんだよ……」

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

「――しかしお前ほんと、なんであんな真似したんだ?」

 

 眼下にある後頭部に向かい、俺は言う。

 あのままだと本格的に大喧嘩に発展しそうな予感がしたため、俺は手早くラピスに元の服に着替えさせるように言い、そのまま足早に店を後にした。

 本当ならあの男には色々とまだ聞いておかねばならぬことが山積みであったが、いずれにせよ聖さんの目がある中であまり突っ込んだ話ができるわけもない。

 ということの次第であるので、大人しく家に帰った俺は妹の作った夕食を食べ、そして今に至るというわけだ。

 現在はもはや日課となったラピスを連れての入浴中で、ちょうどラピスの髪を洗っている最中である。

 俺の言葉を受け、シャンプーハット越しに彼女から声が上がる。

 

「なに、とは?」

「決まってんだろ。バイトのことだ。確かに断られはしたが、親の了解さえ取れば考えてくれるっつってただろ。別にお前がやんなくたって……」

「阿呆」

 

 振り向くと同時、いきなり罵声を浴びせかけるラピス。

 その目は「まだ分からないのか」とでも言わんばかりである。

 

「我が君よ、汝は言うたな。わしがこの先、精神的負荷(ストレス)を受けるようなことは我慢ならぬと」

「ああ、言ったぞ」

「なればな、今日の汝が行動こそまさしく、わしにとって耐え難き痛苦に他ならぬわ」

「……どうしてだよ。俺はお前のためを思って――」

「だから何時は阿呆じゃと言うたのじゃ。よいか我が君よ、先の行動は全てわしのためを思ってのこと、というのはわしも重々承知しておる。しかしの、それも行き過ぎれば相手に多大な負担を与えると知るがよい」

「……」

 

 行き過ぎた気遣いは、むしろ迷惑。

 俺がよかれとばかり思ってしていた行動は、全て裏目に出ていたようだ。

 またそのことをギリギリまで言わなかったこともまた、彼女にとって腹に据えかねる行為であったに違いない。

 直接言われて俺は、やっとそのことに思い至った。

 

「……わしはな、こうして汝と共にあるというだけで十分なのじゃ。それ以外は何も望まぬ。じゃというに、汝はわしのために我が身をまたも犠牲にしようとしておる。さような真似が許せるものか。たとえ汝がよかろうと、わしは決して我慢ならん」

「犠牲って……考えすぎだろ。たかがバイトで――」

「いかん。ただでさえわしは汝から与えられてばかりじゃ。神として生まれながら、今まで何一つ汝に恩恵を与えられておらぬ。じゃからこれはいい機会じゃと思うてな。沢山金を稼げば、多少はこれまでの礼になろうというものよ。――じゃからの、もう何も言うでない」

 

 言って、ラピスは再び前を向く。

 俺は再び、彼女の顔が見えないままに声をかけた。

 

「……わかったよ。別に礼なんてしてほしいと思っちゃいないが、お前がそうしたいってんなら構わないさ」

「うむ、その通り。わしは自分がそうしたいからやるのじゃ。楽しみにしておれ」

「でもよ、お前。俺がいないとこで本当に大丈夫なのか? 店で働くとなりゃ嫌でも他人と喋んなきゃなんねえんだぞ」

 

 それまで即座に返答を返していたラピスだが、ここへきてそれが止まる。

 五秒ほどの時を経てようやく、彼女は消え入るような声で答えた。

 

「それは……がんばる」

「ふぅ……」

 

 本当に大丈夫かね……。

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 風呂から出たラピスはいつもの服に着替え、ベッドに座って水を飲んでいるところだ。

 俺はそんな彼女に向け、立ったまま喋りかける。

 

「よっし、そんじゃお前は明日テストもある身だしな。ちょっと早いがもう寝ちまうか」

「うむ。それでは我が君よ。いつものあれを」

「……今日もか?」

「当たり前じゃ。言うたであろうが、毎日の積み重ねが大事じゃとな」

「はぁ……わかったよ、わかりましたわかりました」

 

 渋々ながら、という色を隠しもしないこの俺の態度だが、ラピスにとりそれはどうでもいいようだ。

 どうせ何回か繰り返し続ければいずれ変化するとでも思っているのだろう。

 

「よかろう。では――んっ!」

「……」

 

 ベッドに腰かけたまま、目を瞑り顔をこちらに突き出すようにするラピス。

 さて、ここで今の状況を説明しておくべきだろう。

 

 一週間前、彼女が言っていたこと。俺たち二人の魂の結び付きを強めるため、精神と肉体その両面から強固にする策。

 ……それが、これだ。

 彼女のポーズを見れば、一体何を期待してのものかは説明するまでもなかろう。

 本当にこんなことで結び付きとやらが強まるのか、と疑う気持ちは勿論あるが――とはいえ反面、この程度で良かったとの思いもある。

 万一子作りが必要だ、などと宣われたら全力で回避せねばならぬところだった。

 

 強硬に反対すれば本当にそう言い出しかねない予感を感じ取った俺は、渋々ながらもこの一週間、彼女のこの策に乗り続けている。

 ……と言っても。

 

「……。ほれ、じゃあこれで今日の分は終わりな」

 

 俺は彼女に軽く唇を触れさせると、素早く顔を離れさせる。

 一瞬とはいえ、彼女の望み通りの展開であるはずだが、目を開けたラピスは明らかな不満顔である。

 

「まーた誤魔化しおってぇ!! 男子(おのこ)ならいい加減覚悟を決めぬか情けないっ!!」

 

 ついには顔だけでなく、声に出して不満を述べ始めた。

 こいつがこうして憤っているのは、俺が額へ唇を触れさせたのが原因であろう。

 間違いなく――というか言うまでもなく、突き出した口にそうするのを期待していただろうからな。

 

「大声を出すなよ、下に聞こえる。別にどこに(・・・)、とは言ってなかっただろ、お前。さっさと寝るぞ」

 

 俺は言いつつベッドに潜り込み彼女に背中を向け、もうこれ以上相手をしないとばかりな態度を取る。

 

「ぐうう~っ……! いらぬ屁理屈ばかり身に着けおってからに……今に見ておれよ……」

 

 ラピスは文句を言いつつも、もそもそと同じベッドに入り、次いで身体を密着させてくる。

 俺の背中にべったりとくっ付いた姿勢となると、彼女は改まって俺の名を呼んだ。

 

「ところでリュウジ(・・・・)。事前に一つだけ汝に言い含めておくことがある」

「なんだ」

 

 こいつが俺のことを名前で呼ぶのは、きまって真剣な時だ。

 そうであることを知る俺もまた、彼女の言葉に少々気を張った声色でもって返す。

 

「わしは明日よりかの店にて労働に勤しむわけじゃが、その間わしがおらぬのを良いことに、他の女と逢瀬を行うことのないようにするのじゃぞ」

「アホか、んなのいらん心配だ」

「まったくこの朴念仁は……自分のことをまるきり分かっておらぬ。……まあよい。しかしこのこと、ゆめ忘れぬようにな」

「へいへい」

「……信じておるからな。約束したぞ。もしこの約束を違えしときは――」

 

 ラピスの声色は後半になるにつれ低く、重くなっていった。

 果たして、この時彼女がどんな顔、どんな目をしていたのか。

 振り返ればもちろんそれは即座に分かるだろう。

 だがしかし、俺は何故かそうすることができず――そればかりか、強引に話を終わらせるのが精一杯であった。

 

「……わ、わーった、わかったよ。分かったから早く寝ろって……!」

「……」

 

 俺の声は若干の震えを浮かばせていたが、彼女はそれに気づいているのだろうか。

 特に追及の言葉もないところを見るに、そうであることを願いたいものだ。

 

 ――まあ、ラピスの言うような事態には間違ってもならないだろうし、気にすることもないか。

 

 ………

 ……

 …

 

 俺のこの判断。

 今まで俺は数え切れないほど失敗を重ねてきたが、これはその中でも一番の失策であった。

 

 ――そう。

 俺はこの時、彼女の言葉をもっと真剣に心に留めておくべきだったのだ。

 そうしておけば――彼女の俺に対する想いが如何に重いか、そのことに俺の思いが及んでいれば。

 ……あんなこと(・・・・・)にならずに済んだというのに。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

泥沼への呼び水

 次の日。

 本日最後の授業を終えた俺は、下駄箱で靴を履き替えている所である。

 いつもは言わずとも横に張り付いているあいつの姿はない。

 

 元々俺の高等部と、中一として学校に入り込んだラピスとでは授業時間割にズレがある。

 十五時台で自由になる中等部と比べると、こちらはそれより一時間ほど遅い。

 俺の方を待っていれば約束である十六時に間に合わないことから、彼女は今日、一足先に店へ向かっているはずである。

 

「……」

 

 門のところで一度足を止めた俺は、憮然とした表情で何もない横の空間に目をやる。

 教室を出てから今まで、俺はなんとも形容し難い違和感に襲われ続けていた。

 なんなのだろう、この違和感は。

 

 ――それから、無言で歩き続けること数十分。

 たまに一ノ瀬と一緒に帰る時以外、一人での帰路というのはいつもの日常風景であった。

 大体俺は、こうして一人の時間を持てるようになることを望んでいたのではなかったのか。

 

 ……だというのに、何故こうもイライラしなくてはならないのか?

 

「……大体、俺はこんな早くから店に行く必要なんてないんだよ。折角久しぶりに一人になれたってのに……どうかしてるぜ」

 

 心の内では既に気付いているのだが、しかしそれを認めれば何かに負けたような気がする。

 よって俺は、こうして一人毒づくことでそうした結論に至ることを押し留めていた。

 呪詛のような独り言を呟きつつ、俺は歩みを進めていたが。

 

「……さむっ」

 

 不意に背な(・・)に冷気を感じた俺は、ぶるりと身を震わせる。

 いつの間にか例の山道の中腹辺りまで歩いてきたようで、店まではあと二十分ほどといったところだろう。

 どうも暗い気分が抜け切れていない俺は、気分転換がてら、両の腕を上げて大きく伸びをする。

 

「ふぅ~……んっ?」

 

 ゴキゴキと音をさせつつ、ついでに何の気なしに辺りを見やると、最初からそこにいたのか――それとも今現れたのか、一匹の獣が目に入った。

 道路の端にちょこんと座ったそいつは、大きな黒い瞳で俺をずっと見つめている。

 動物の顔の判別に自信はないが、人を見てすぐに逃げ出さない様子からして、まず間違いなく昨日の狐であろうと思われる。

 

「おいお前、危ないぞ。このへん滅多に車は通らないけどよ……そんな毎回都合よく誰かに助けてもらえると思うなよ」

「――?」

 

 無論人の言葉を理解できるはずもないそいつは、目をこちらに向けたまま、軽く首をかしげてみせる。

 ……確か狐ってのはイヌ科の動物だったか。

 そう言われてみればなるほど、今の仕草ひとつ見ても、どこか似たようなものを感じさせる。

 狐は立ち上がると、ゆっくりとした動作で俺の元まで近寄ってきた。

 

 脚元をゆっくりと回りつつ、ふんふんと俺の匂いを嗅いでいる。

 こうした動作を見るに、やはり根っからの野生というわけではなさそうだ。

 俺は少し迷った後、その場にしゃがみ込み、そいつの頭へと手を伸ばす。

 噛みつかれることを警戒し、また驚かせないよう、動作はあくまでゆっくりと――などという気遣いは全くの無用であった。

 

「……おいおい。いくらなんでも無警戒すぎるぞ」

 

 そいつは俺が手を伸ばすや、なんと自分から撫でられに来た。

 キュウキュウと子猫のような、あるいは子犬のような気持ちよさげな声を上げながら、目を細めされるがままになっている。

 それだけに止まらず、次いでそれこそ犬のように地面に腹を見せて倒れ込んだのを見れば、このような台詞も口から出てこようというものだ。

 

「犬は飼ったことないけど……こうしてると、なんというかペットを飼う人の気持ちも分かるな。ほれほれ」

 

 間違っても噛みつかれることなどないと分かった俺は、今や遠慮なしにぐりぐりと胸のあたりを撫でまわしている。

 ひと撫でするたび、前足をぴこぴこと動かして反応してくれるのが何とも面白く、そのまま暫く俺は夢中になって撫で続けていた。

 そうして胸から腹にかけてを満遍なく撫でまわしている中、俺はあることに気付く。

 このことに気付けたのは、こいつが現在の腹を見せる姿勢を取っているおかげだ。

 

「おっ、お前メスだったんだな」

 

 撫でる手を止めることなく俺は、ふと目に留まった下半身部分に目をやりつつ言う。

 

「――ッ!!」

「うおっ!?」

 

 と言った瞬間、それまで大人しく撫でられていた狐は何を思ったか急に跳ね起きる。

 それも動作の途中、俺の手に噛みつくというオマケつきで、だ。

 

「いっちち……」

 

 もっとも本気のものではなかったらしく、手からは血も出ておらず、軽く二つの歯型が付いたのみである。

 とはいうものの、流石に野生動物に噛まれたとあれば一応後で病院に行く必要があるかもしれない。

 しかし、一体また何故急に態度を変えたのだろうか。俺の撫でた場所が悪かったのだろうか?

 

「おいお前、急に何を――ん?」

 

 いつの間にかそいつは、道路と山中の境となる場所に移動していた。

 それそのものは特別不思議なことでもない。

 俺が声を上げたのは、そいつの立つ場所――その背後を見てのものだ。

 この道は子供の頃から何度も通っている。何の変哲もない寂しい山道を切り開いて作られた道路で、山を下りるまで途中何物も目を引くようなものは無かったはずだ。

 だというのに。

 

「こんなとこに道なんてあったっけ?」

 

 狐の背後には、明らかに山の奥に向かい伸びる道らしきものがある。

 ただ草木を刈ったのみ、といった風貌のもので道、と呼べるかは甚だ怪しいところだが……とにかく俺の記憶にそんなものはない。

 俺が気付いたせいかは定かでないが、まるでそれを合図にしたかのように狐は山中へと歩を進める。

 そのまま姿を消すかと思いきや、そいつは三、四歩ほど歩いたところで歩みを止めると、また俺をじっと見つめてくる。

 その瞳は、まるで何かを訴えようとしているかのようであった。

 

 まさかな、とは思いつつも、俺がゆっくりと狐の元まで足を向かわせれば、それに反応して狐は山中へと進んでいく。

 そしてまた、数歩歩くと俺の方を振り返ってくるのだ。

 この不可解な動作を俺が訝しんでいると、足元からペキリと何かを踏み折ったような音がした。

 

「……なんだこれ?」

 

 足元には、木の板が一枚転がっていた。

 俺が踏んでしまったせいであろう、それは中央から真っ二つに折れてしまっている。

 その板には、なにやら文字が書き込まれてあった。

 俺はしゃがみこむと、踏み折った二枚の板を繋ぎ合わせてみる。

 

『#同…×首;%稲荷』

 

 殆ど腐りかけた木の板に書かれた文字は、もはや殆ど解読不可能なほどに薄くなってしまっている。

 それでも何とか辛うじて数個の漢字は読み取れたが、なんのことやらさっぱり分からない。

 

 と、ここで、狐から鳴き声がひとつ上がった。

 視線は一瞬板の方に向いていたようであったが、再度俺を見やると、もう一度声を上げる。

 俺にはそれがまるで「こっちに来い」と言っているように聞こえた。

 

 試しに足を踏み出せば、やはり狐は一定の距離を保ったまま、山中に歩を進める。

 この一連の流れに俺は不気味なものを感じ始めていたが、しかしここではまだ興味の方が勝った。

 仮にこいつが妖怪か何かだとしても、まさか助けてくれた人間を取って食ったりはすまい。

 

 それからどれほど歩いただろうか。

 辺りの森はいよいよもって深さを増し、歩む道もまた段々と細くなってきている。

 まだ日は高いというに、山中の鬱蒼とした木々の中にあっては光も僅かにしか届かず、俺は何度も木の根に足を取られそうになる。

 やはり引き返すべきか、との思いが頭をもたげ始めてきた頃、ようやく視界の先に開けた場所が見え始める。

 

「あっ! ――おい!」

 

 と、それまで付かず離れずの距離で俺を先導していた狐が、やにわに駆け出した。

 あっという間に見えなくなった狐を追うべく俺も足を速めると、やがて俺はその開けた場所に出る。

 そして、俺は視界に現れた”それ”を目にした途端、言葉を失う。

 

 目の前には、小さな廃墟が一つ鎮座していた。

 正確にはそれは神社である――いや、あったのだろう。

 俺があえてそういった表現を用いたのは、その神社の見た目が、目を覆わんばかりに荒廃しきっていたからだ。

 窓や入口に貼られた障子紙は全て変色しボロボロに破れており、屋根の一部は完全に崩落している。

 一つずつある”奉”と刻まれた石、それに石灯篭の存在がなくば、俺もすぐにはそれが神社の跡地であるとは分からなかったろう。

 加えることに石造りの土台らしきものも二つほど確認できるが、上には何も乗っておらず、果たして何の目的で置かれているものなのかは分からない。

 

「おいおい……こいつはちょっとシャレになんねえって……」

 

 完全にホラー映画の世界だ。

 人気の無い暗い森の中でこのシチュエーションは、流石に雰囲気がありすぎる。

 興味本位でここまで来た迂闊さをようやく後悔し始めた俺は、急いで踵を返そうとするが。

 

「――コン!」

「えっ?」

 

 それまで聞いたことのない声色の鳴き声に俺が視線をその元へとやれば、いつの間に現れたのか、神社の入り口に例の狐が座り込んでこちらを見ている。

 思えば、初めてこの狐から狐らしい声を聞いたような気がする。

 

「なんだってんだ……お前、本当に妖怪かなんかなのか? 俺を取って食おうってのか。恩知らずなヤツだな」

 

 内心この場の不気味さに冷や汗をかきっぱなしなのだが、そのことを気取られないよう、俺は精いっぱいの虚勢を張る。

 狐はそんな俺の見栄張りに気付いているのかいないのか、立ち位置を神社の前から移動させた。

 止まった場所は、先ほど俺が何だか分からないと言った二つの土台の元である。

 よくよく見れば、二つある土台、その一方の下には砕け散った石がまばらに散乱している。

 次いでもう片方へと視線をやると、妙なものが目に入った。

 灰色の、小さな固形の物体である。

 暗さゆえこの距離からでは仔細を確認できないため、俺は近づいてそれを拾い上げてみる。

 

「……人形? いや、石像か、これ」

 

 それは、掌に乗るほどの小ささの、何かを模した石像だった。

 

「これ……狐か?」

 

 四方から観察し、ようやく狐を模した石像であると俺は気付く。

 赤い前垂れを首から下げた、うす汚れきったそれを、足元の狐はじっと見つめている。

 そして気付いたが、二つある土台は、大きさに大分違いがある。

 俺の目の前にあるものは、隣のものに比べると二回りほども小さい。

 それこそ、俺の手にある石像には丁度いいサイズである。

 

「なんだ、これを戻せってのか?」

「コン!!」

 

 先ほどよりも更に大きな声で、いかにも狐らしい鳴き声でもって返事を返してくる。

 そうすることでまた妙なことになりはしないかとの思いが無いではなかったが、俺は石像を土台にちょこんと乗せる。

 

「……」

 

 ここ最近は超常現象など慣れたもの、何か不味いことが起こりそうならその瞬間逃げ出そうと俺は構えていたが。

 

「……なんだ、何もないのか?」

 

 注意深く周囲を探り続けること数分、何も起こるような気配はない。

 また狐の方はといえば、今度は元の通り建物の入り口に戻っていた。

 そしてまたも、こちらを呼ぶように声を上げる。

 

「今度は何だよ……」

 

 次にまた何かありそうなら、今度こそこいつの言うことなど無視しようと心に決めつつ、恐る恐る俺は近付く。

 入口の扉の前には、一メートル四方ほどの木箱が置かれていた。

 これもやはりボロボロの状態だが、どこかで見たことのある形状だ。

 

「なんだこりゃ? ……ああ、もしかして賽銭箱か、これ」

「――コン!」

 

 どうやら当たりらしい。

 神社にある箱、それも上部に梯子上の(さん)がかかったものといえば賽銭箱の他にないからな。

 横にいる狐は、俺と賽銭箱を交互に見比べつつ、何か期待するかのような目を向けている。

 いよいよもって妖怪の類であるとの思いが強くなってきた。

 

「ったく……分かったよ。入れてやっから俺を呪ったりしないでくれよ?」

 

 とにかくことを穏便に済ませるため、俺は財布を取り出し、一枚の五円玉を投げ入れる。

 投げ入れられた硬貨は、乾いた音を立てて中へと吸い込まれていった。

 すると。

 

「――おおっ!? ……お、おうおう、分かった分かった。よしよし」

 

 その途端、狐はぶんぶんと尻尾を振りつつ、俺の足元を犬のように回り始めた。

 どうやらお気に召したらしく、会った当初のように自ら頭を差し出し、俺が差し出した手に撫でられるままになっている。

 

「させたいことはこれで全部か? んじゃ、俺は行くからな」

 

 ひとしきり撫で終えた後、俺はそう言ってその場を後にしようとする。

 今度こそ狐の方は何をも言うことなく、戻ろうとする俺をじっと見つめているのみであった。

 

 

 

 元の道路には驚くほど早く戻れた。

 というか、どう考えても距離が短くなっている気がしたが、そこはもう気にしないことにする。

 スマホで時間を確認すると、優に一時間以上の時が経過していた。

 

「しっかし、まあでも……何も起こんなくて良かったってとこかな」

 

 ラピスが居ない今、俺一人では対処不可能な事態になっていた可能性は捨てきれない。

 実はけっこう危ない橋を渡ったのではないか、との思いがようやく浮かび上がってくる。

 ……そういえば、あの木の板で辛うじて読めた文字に”稲荷”ってのがあったな。

 もしかすると本当に狐の神様か何かだったのかもしれない。

 

「ま、あいつって存在があるからな。そりゃ、こっちでもそういうの(・・・・・)がいても不思議じゃないわな」

 

 ともあれ、一応は危害など加えられることもなくことを過ごせた。

 今日の夜にでもまた、この話をあいつにしてみよう。

 そう思い、山を背に歩き出さんとした時のこと。

 

 

『――ありがとう』

 

 

 ……気のせいだろうか。

 人の声のようなものが聞こえた気がする。

 

 

『またね、おにいさん。それと……責任、とってね』

 

 

 気のせいではない。

 澄き通ったように美しい声が、後方から届いてくる。

 

「……?」

 

 がしかし、振り向いた俺の視界には何も映ってはいなかった。

 目の前にはただ、暗い森が広がるばかりである。

 

「勘弁してくれよ、ったく……。次から道変えようかな……」

 

 俺はそう独り言ちると、喫茶店への道を再度歩み始めたのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嵐の前触れ

 それから程なくしてルナへと着いた俺は、即座に中に入るということはせず、外の窓越しに中の様子を伺うことにした。

 

「……一応、うまくやってるみたいだな」

 

 昨日よりは繁盛しているようで、中には数人の客が居るのが確認できる。

 肝心のラピスはといえば、丁度料理を運んでいるところのようだ。

 やはり体躯の小ささから来る違和感は隠し切れるものではないが、思ったよりはきちんと動けている。

 ……若干顔色が優れないようにも見えるが、これは気のせいかもしれない。

 服装はやはり、例のメイド服である。

 もしやの可能性を期待していたが、残念ながら聖さんは本気であったようだ。

 

 そういえば、その聖さんの姿はどこに――

 

「!?」

 

 思わず声を上げそうになり、慌てて手で口に蓋をする。

 キッチンへと目を向かわせた俺の視界に映った聖さんが、いつもの姿ではなく、ラピスと同じようなメイド服に身を包んでいたからだ。

 凛とした顔つき、そして女性としては比較的高身長な彼女がそれを着ていると、また違った趣がある。

 いかにも仕事のできる従者――といった感じだ。

 

 と、ここで聖さんは窓から顔半分だけ覗かせている俺の存在に気付いたようで、互いに目が合う。

 彼女はラピスに気付かれないよう右手を上げ、親指でもってして後方を指差している。

 

「……裏口から入れってことかな?」

 

 俺は店の裏に回り、飾り気のないドアを開け中に入る。

 こじんまりとした中の部屋は一時の休憩スペース兼物置として使われているようで、段ボールなどが雑多に置かれている。

 

「やあやあ、彼女の様子を見に来たのかな」

 

 と、聖さんがドアを開け中に入ってくる。

 俺は彼女の格好をしげしげと眺めつつ、疲れたような声を出した。

 

「いや、まあそうなんすけど……それより何なんですか、その格好は」

「ん? ――ああ、この格好かい? いやぁほら、最近はメイドカフェというのが流行っているらしいじゃないか。ラピスちゃんという有望な人材を得た今、ことを起こすのは今だと思い至ってね」

 

 メイドカフェが流行った、なんてのは何年も前の話だったような気がするが。

 ほんと、この二日間で一気に聖さんのイメージが崩れていくな……。

 

「……デザイン、あいつのとは違うんですね」

 

 ラピスのものと比べると、聖さんが今纏っているメイド服は随分と大人しいデザインだ。

 装飾も最低限で、スカートもロングのものを履いている。

 

「はは、私だって物の分別は弁えているつもりだよ。流石にこの歳でミニスカートというのはちょっとね」

「はぁ……まあ分かりました。で、どうなんです、あいつの様子は」

「よくやってくれているよ。ただちょっとまだ固いかな。昨日キミに見せたようにとはいかないようだ」

「……ま、そうでしょうね」

 

 小学校を出たばかりのガキどもに対してですらあのヘタレぶりだったのだ、不特定多数の大人が相手ともなればどうなるかは想像に難くない。

 むしろ、多少緊張しながらでもきちんと来客が出来ていることが驚きでさえある。

 

「聖~っ? どこじゃ~?」

 

 とここで、ホールから聞き覚えのある声が届く。

 

「おっと、お呼びがかかったようだ。キミも一緒に来るだろう? 緊張のせいか精彩を欠いているようだからね、元気付けてやってくれ」

「ええ」

 

 聖さんに続きホールへ入った俺の視界に、伝票を手にしたラピスの姿が目に入る。

 

「なんじゃなんじゃ、わし一人働かせて自分は休憩とは。また注文が入っ――」

 

 言いかけた文句は、最後まで発されることはなかった。

 まさしく目が点になったラピスは、俺の姿を目にした途端、身を硬直させる。

 

「……よう。思ったよりちゃんとやってるみたいじゃないか」

 

 とりあえず俺は挨拶がてら、そう一言だけ漏らすも。

 彼女からの返事はなく、なにやらふるふると身を震わせ始めた。

 暫くそうした後、ラピスはようやく振り絞るように声を漏らす。

 

「わ……」

 

 ……これは、あれだな。

 この展開ももはや慣れたものだ。

 

「我が君ーっ!」

「はいストーップ!!」

「へぶっ!?」

 

 やはり予想通り突進してきたラピスに向かい、俺は右手を突き出しそれを阻止する。

 間抜けな声を上げて掌に顔面をぶつけた彼女に向かい、俺は呆れた声を出す。

 

「お前な、いい加減周りを見ずに抱き着こうとするのは止めろ」

「なんじゃあ……久方ぶりに遭うたというに、随分冷たい仕打ちじゃことよ……」

「昼から数時間しか経ってねえだろうが!」

 

 俺が一喝すると、ラピスは目を伏せ、見るからに気を落としたような態度を見せ始める。

 

「わしにとってはその数時間が永遠とも感じられたのじゃがの。……我が君は違ったのか?」

「そっ、そりゃ、当たり前だろ。たかがそんくらいの時間……」

 

 濡れた瞳で見つめつつ言うラピスに対し、俺は僅かに言い淀んでしまう。

 ここに来るまで悶々としていたことを思い出してしまい、ハッキリと拒否できなくなってしまったのだ。

 ……なんとも情けないことだ。

 

「はいはいキミたち、イチャイチャするのは後にしてもらえるかな。まだ仕事中だよ」

 

 そんなやり取りをしている俺たちに向かい、聖さんはパンパンと手を叩きながらそんなことを言う。

 

「なっ!? 俺は別に――」

「まったく、どんな手練手管でラピスちゃんをそこまで夢中にさせたのか、是非その妙技をご指導願いたいものだ」

 

 あまりの恥ずかしさに、顔の温度が一気に上がっていくのを感じる。

 恥の上塗りになるだけとは薄々気付きながらも、尚も抗弁せんとする俺の横から、今度はラピスが口を出す。

 

「ふふん、聖よ。それは無理というものよ。わしは何があろうとリュウジ以外の者になびく(・・・)ことなどありはせん」

「くっく……お熱いことで。元気も戻ったようだし、今からは昨日のような働きぶりを期待してもいいのかな?」

「うむ、任せるがよいぞ!」

 

 ……もう、いっそ死んでしまいたい。

 

「――っと、その前に。聖よ、少しよいか? 我が君と話があるのじゃが」

 

 項垂れる俺をよそに、ラピスはもう一言、聖さんに付け加える。

 

「ん? まあ構わないよ」

「感謝するぞ。さて我が君よ、こちらへ」

「えっ? あっおい」

 

 ラピスは俺の腕を掴むと、俺を引きずるようにバックヤードへと向かう。

 何ごとかと問い質さんとするが、彼女の目は真っ直ぐ前のみを見ており、歩む足を止めようともしない。

 俺の腕を掴む力はやけに強く、どこからこんな膂力が出ているのだと思わずにはいられなかった。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「なんだよ話って」

 

 ロッカーを背にもたれた形になった俺は、眼前のラピスに向かい言う。

 

「うむ、まずは少し腰を落とすがよい」

「は?」

「早うせい」

「……?」

 

 訝しみながらも俺は言う通りに腰を落とし、頭の位置をラピスと同じ程度にまで下げる。

 と、その瞬間であった。

 

「――ッ!?」

 

 やにわにラピスは俺の顔、そのすぐ横へと手を突き出した。

 けたたましい音を上げながら、背にあるロッカーが揺れる。

 次いで互いに触れ合うほどに顔を近付けさせたラピスは、更に笑顔を深くする。

 そうした後、やけに楽しげな様子で口を開く。

 

「……のう、リュウジ(・・・・)。少しここへ来るのが遅かったようではないか?」

 

 声色、そして表情こそ喜色が浮かんではいるが、それが見たままでないことは流石に俺でも分かる。

 しかし何が彼女の機嫌を害しているのか、俺にはまるで見当がつかない。

 まさか、本当にここに来ることが遅れたくらいで激怒しているのだろうか?

 

「へっ? あ、ああ、ちょっと寄り道をな……」

「ほ~お、寄り道とな。それはそれは、結構なことじゃ。いやいや、無論臣下として主のすることにいちいち口を出す気など無いとも。しかしの、それも場合によりけり、じゃ」

 

 言葉が終わった途端、それまで張り付かせていた形ばかりの笑顔が消える。

 何の感情も浮かばせていないように思える表情に変わったラピス。そして加えることに、目からは光が消えていた。

 こいつのこんな表情は始めて見る。

 深淵を覗き見るかの如き視線でもってして、彼女は俺の目をじっと見据えつつ言う。

 

「先ほど嗅いだ汝の手からな、他の女の匂いがしたのじゃが?」

「はあっ!? ば、バカ! んなことあるわけ――」

 

 もちろんそんなことを言われる覚えはない。

 濡れ衣もいいところだが、彼女の勢いに飲まれてしまっている俺は、つい物がつかえたような物言いとなってしまう。

 またその俺の狼狽ぶりもまた、彼女の機嫌を一層損ねたようだ。

 

「……口より体に聞くとしようぞ。確かにわしの勘違いという可能性もなくはない」

「か、体にってお前、どうやって」

「リュウジ、もう一度手を出せ。先ほどは一瞬であったからの」

 

 言われるまま差し出した俺の右手を、ラピスはふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎだした。

 犬でもあるまいに、こんなことで何か分かろうはずもないのだが、彼女の目は真剣そのものである。

 

「……むぅ? 妙じゃの、これは人のものでは……」

 

 怪訝な表情で一言漏らした台詞から、俺はあることに思い至る。

 そして同時に、安堵と呆れの混じった感情が胸に去来した。

 ……まさか、こんな下らないことでとは。

 

「多分そりゃ狐の匂いだ」

「……キツネ?」

「ああ。ほら、昨日助けてやったあいつだよ。人懐っこいやつでな、素直に撫でさせてくれたんだ」

「……」

 

 尚もラピスは疑いの(まなこ)でもってして俺を見ていたが。

 

「……まあ、そういうことならば良かろう。汝は嘘が下手な男じゃからの。その顔を見れば真偽のほどは分かる」

「分かってくれて嬉しゅうございますよ……ほら、誤解が解けたなら仕事に戻れって」

「うむ。わしの働きぶり、その目によく焼き付けるのじゃぞ」

「はいはい……」

 

 よくやく笑顔を見せてくれたラピスは、そう言ってホールへと戻っていった。

 

「……」

 

 ……今日、山で最後に聞いたあの声。

 ホールへと戻りかけた彼女の背に向け、ついでに聞いておこうと俺は喉まで言葉が出かかったのだが。

 ――何故か、そうすることはできなかった。

 確証はないが、そうすることにより、果てしなく悪いことが起こりそうな予感がしたからだ。

 単なる気のせいであってくれと――俺は先ほどのラピスの顔を思い出し、顔から一筋の汗を流させながら、そう願ったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

看板死神ラピス

 昨日とは打って変わり、店内には活気を帯びた声が響いている。

 その中には、慌ただしく奔走するラピスのものも混じっていた。

 

「ラピスちゃーん、コーヒーおかわりねー」

「了解じゃよー」

「こっちも追加注文いいかい?」

「――こりゃ、ちと待っておれ! 順番じゃ、順番」

 

 言葉遣いに少々気になるところはあるが、それなりに上手くこなしているようだ。

 店内には合計で四人の客の姿がある。

 俺を除けば三人で、そのいずれもが見覚えのある顔である。

 理髪店、そして八百屋の主人だったか。それに奥に一人で座る老人も、全員がこのアーケードに店を構えている人たちだ。

 彼らもこの時間は仕事中だろうに、こんなところで油を売っていて良いのだろうか。

 

「うん、元気も戻ったようだ。これはやはりキミのおかげなのだろうな。彼女が仕事に慣れるまではこうして様子を見に来てくれると助かる」

「言われなくても……」

 

 コーヒーをカウンターに置きつつ声をかけてきた聖さんに対し、俺は答える。

 わざわざ念を押されずとも、先ほどのような態度を見せられて今後放っておけるわけがない。

 

「しかし聖ちゃんに子供が居たとは知らなかったな」

「おおよ、おったまげて昇天しそうになったぞ。あれかい、”デキ婚”てやつかい?」

 

 と、テーブルに掛けた二人組の男が聖さんへ揶揄めいた声をかけてきた。

 

「遠慮なく失礼なことを言ってくれるな、不良中年どもめ。親戚の子に少し店の手伝いをしてもらっているだけだ」

「がっはは、なんだそうだったのかい。いやしかし驚いたぜ、店に入ったらいきなりんな格好の聖ちゃんがお出迎えなんだからな」

「人が来なさ過ぎて聖ちゃん、ついに狂っちまったのかと思ったよな」

 

 それは同意せざるを得ない。

 思った以上に似合ってはいるが、実際俺も似たようなことを思ったのだからな。

 なんというか、彼女はもっとストイックというか、悪く言えばお堅いというか……そんなイメージを抱かせる人物だったはずだ。

 もっとも、そんなイメージはこの二日間で完全に消え去ってしまっているが。

 今でも俺は、目の前の女性が本物の聖さんであるか疑ってかかっている。

 

「閑古鳥が鳴いているのはお互い様だろう。涙ぐましい営業努力として褒めてもらいたいものだな」

「いや、実際悪くないと思うぜ。聖ちゃんだけならアレかもだが、とんだ秘密兵器を手に入れたもんだ」

 

 言いつつ片割れの男は、奥のテーブルに目を向ける。

 

「ほれ、ご老台(ろうだい)かふぇおれ(・・・・・)じゃ」

「おお……ありがとう」

 

 そこでは丁度、注文の品を奥の老人に渡すラピスの姿があった。

 

「砂糖と乳を沢山入れると美味いぞ。よいか、決してそのままで飲むでないぞ。わしはそれで以前酷い目に遭うたでな」

「はっはは、そうかいそうかい。優しいねぇ、孫を思い出すよ。……聖さんや」

「どうした、木村さん」

 

 老人の名は木村、というらしい。

 木村さんはラピスに一瞬視線を戻したのち、再度聖さんに向かい言う。

 

「もしよければこの子に何か甘いものでも食べさせてあげられんかね。もちろんお代は払うよ」

「ん……そうだな、仕事中ではあるが……まあいいかな。休憩の代わりだ」

 

 少々迷う素振りを見せたものの、彼女は存外あっさりとその申し出を受け入れた。

 

「いいんですか?」

「初日だしね、これくらいはいいだろうさ。それに売り上げ貢献にもなっている」

 

 ……やはりこの人、ラピスには妙に甘いな。

 

「ラピスちゃん、店長さんからのお許しが出たよ。何か食べたいものはあるかい?」

「よ、よいのか!?」

 

 もちろんこの話の流れはラピスも聞いている。

 明らかに浮き足立ったその様子を見れば、一応は聞き返しつつも期待に胸を膨らませているのが丸わかりだ。

 

「ああ、なんでも好きなものを頼みなさい」

「そっ、それでは――そうじゃ、あの”ちょこぱふぇ”とやらを食してみたい!」

「聖さん、それじゃパフェを一つこの子に」

「はいはーい」

 

 聖さんが返事を返すと同時に、例の二人組から文句の声が上がった。

 

「おいおい爺さん、ずるいぞ」

「んなサービスありかよ聖ちゃん! 先に言ってくれよな!」

「あんたたちは二人とも子供さんがいるだろう。自分の娘に頼みなさい」

「はっ、嫁に行っちまったきりオヤジの顔なんぞ見にも来ねーよ。まったく寂しいもんだ」

「おおよ、昔はそれこそラピスちゃんみたく、なぁ。いやまあ、ウチのはあんなに美人じゃなかったけどな」

「今度娘さんが来店されたらその言葉を伝えておくよ」

「おいおい、勘弁してくれ! まあとにかくよ、そんなわけで寂しくしてるんだ、俺たちにもラピスちゃんに御馳走させてくれよ」

 

 手を合わせ頼み込む理髪店の親父を前に、聖さんは考え込む様子を見せる。

 

「ううむ……」

「客を差別すんのかい? なぁ~聖ちゃん、頼むよ」

 

 結局彼らの熱に負けた聖さんは、渋々ながら了承した。

 その後、ラピスは老人の話し相手をしつつご満悦でチョコパフェを平らげると、次いで親父どもにアイスとホットケーキを奢られることになり、まさに歓天喜地といった様子であった。

 

「どうだいラピスちゃん、おいしいかい?」

「うむ! なんじゃなんじゃ、この世界の仕事というのは随分と楽なものじゃな!」

「ジュースのおかわりはどうだい?」

「うむ! いただくぞ!」

「よっしゃ! 聖ちゃーん、オレンジジュースおかわりな!」

 

 ちゃっかりジュースまでねだった上、おかわりまで要求する調子の乗りようである。

 いやまあ、ねだったと言うよりは親父どもが貢いだ、という方が正しいが。

 

「……いいんですか、あれ」

「……」

 

 なんだか喫茶店から怪しげな店へと変わりつつある雰囲気を感じ始めた俺は、聖さんにそう問うも。

 彼女は腕を組んだまま、黙って何をかを考え込んでいる様子である。

 

「聖さん?」

「これは……使えるな……」

「――は? なにがです?」

 

 多少語気を強めて言うと、そこでようやく彼女は気付いたようである。

 

「あっ、ああいや、何でもないんだ。ふふ……」

 

 はぐらかすように言う彼女の口角は僅かに上がっている。

 ……また何かろくでもないことを考えている顔だ。

 やはり、なんと言ってでもラピスをここで働かせるのを止めるべきだったろうか……。

 

 その後はとりたてて特別なこともなく、ラピスの働きぶりを見ながら店で過ごした。

 ちなみに彼女がここで働くのは八時まで、という取り決めになっている。

 また、帰りは俺が責任をもって送り届けること。

 それが聖さんから出された条件であった。

 

 よってその決まりを守るだけならば、ラピスが仕事からあがる(・・・)時を見計らって店に迎えにくるだけでよいのだが、そんな横着をすれば後でどんな怒りを買うか分からない。

 結局のところ、これからバイトがある日はできるだけ早くここに来なければならないだろう。

 

 なお、家に帰ったラピスは急に腹が痛いと訴え出した。

 おそらくは調子に乗ってパフェやらアイスやらを食い過ぎたのが原因だろう。

 あのおっさんどもも、もうちょっと考えろってんだ。

 脂汗を流しながら苦しがるラピスに、俺はトイレの使い方を教えてやる。

 神であったラピスは、それまで排泄の概念自体が存在していなかったらしい。

 それが半分人の身となった今になってようやく、人間として当然の生理現象が発現しているといったところか。

 しかし二週間以上の時が経過したここでやっととは、随分と燃費の良い体をしているものだ。

 

 それより以降は何事もなく、いつものように風呂に入り、例の決まり事を済ませた後に就寝した。

 ――そして、次の日。

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

「……ま、結局何も無かったしな」

 

 学校帰り、例の山の麓に立つ俺はそう独り言ちる。

 昨日あんなことがあったとはいえ、結局俺はこのルートを辿ってしまっていた。

 その理由は二つ。

 ひとつは、単純に下道を通ると時間がかかりすぎること。

 そしてもう一つは、昨日の神社へ続く山道が果たして今日もあるのか、その確認のためである。

 ちなみに、昨日ラピスを連れての帰り道は遠回りの道を選択した。

 単純に夜に街灯も無いこの道は危ないからという理由からだ。

 

 しかしあれから何度記憶を掘り起こしてみても、あんな横道があったなどという覚えはない。

 例の狐の奇妙な振る舞いといい、さては白昼夢にでも襲われたのではないかと、俺は本気で思いかけていた。

 

 ――のだが。

 

「……やっぱ、あるな」

 

 やはり夢などではなかったようだ。

 山の中腹まで来た俺の目の前には、(くだん)の場所へと続くであろう道がある。

 踏み折った木の板も、昨日の状態のまま転がっている。

 

 ……十七年間、ただ俺が見落とし続けていただけ、なのだろうか。

 それは流石に無理があるのではないか。

 

 ――と、目の前の道をじっと見つめながら考え込む俺は、背より突然声をかけられる。

 

「おにーいさんっ!」

 

 その声は、どこか聞き覚えのあるような響きで……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『ミナ』

 振り返った俺の目の前には、珍妙な格好をした一人の少女の姿があった。

 今時珍しい和服――分かりやすく伝えるなら、いわゆる巫女さんが着ているような小袖に似たもの――を上に羽織り、腰には赤い帯を巻かせている。

 そんな上半身に比べれば下の方は幾分かまともな格好で、特にコメントするようなこともない、地味なスカートを履いている。

 年の頃は十かそこら、といったところだろうか。

 

 その少女は、くりくりとした大きな黒い瞳でして俺を見つめつつ、今一度声を出した。

 

「こんにちわ、おにいさん」

 

 俺はすぐに返事を返す前に、一応周りをキョロキョロと見渡してみる。

 がしかし、やはり周囲に他の人間の姿などは確認できなかった。

 そうした後、俺はようやく口を開く。

 

「え~と……俺のこと?」

「他に誰もいないよ?」

 

 そう言って首をかしげる少女の姿は、どこか小動物めいた印象を抱かせた。

 またその動作に合わせ、結わえたショートツインテールが揺れる。

 染めているのだろうか、俺は少女の褐色がかったオレンジ色の頭髪に目をやりながら言う。

 

「……俺に何か用かい?」

「うん、そうなの! みなね(・・・)、おにいさんに頼みたいことがあるの!」

()? 友達がどっかにいるのか?」

 

 俺のこの言葉に、少女は顔を綻ばせる。

 

「あははっ! ちがうよおにいさん。わたしの名前だよ」

「ああ、そういうことか」

 

 なるほど、ミナというのは彼女の名前だったか。

 

「ん、それでミナ。俺に頼みがあるって?」

「はいなの! あのねおにいさん、ミナね、行きたいところがあるの」

「ん、んー……」

 

 またしても俺は返答に間を置く。

 もしや、この少女も例の如くまともな人間ではないのでは?との考えが頭に浮かんだためだ。

 ……可能性はゼロ、とは言えない。

 だがしかし、この目の前の少女に、エデンやナラクなどといった連中を初めて目にした時のような感じはない。

 端的に言えば、敵意や悪意といったものがかけらも伝わってこないのだ。

 

「……ダメ? おにいさん。……迷惑?」

 

 俺が返答を遅らせたことをネガティブな方向に解釈したのか、少女はそれまでの華やいだ声から一変、明らかに気落ちした風な声色になる。

 その姿はまさに年相応の、ただの一人の少女の姿でしかない。

 これには俺にも幾許かの良心の呵責が襲った。

 

「あ、いや、そういうわけじゃ」

「ううん、いいよ、おにいさん! 忙しいならだいじょうぶだから!」

「……」

 

 声色こそ戻ってはいるが、顔色までは誤魔化せておらず、それが空元気であることは明瞭である。

 これがもし奴等の仲間で、俺を言葉巧みに連れ出そうとしているならば、こんなにあっさりと引き下がるとは思えない。

 やはり、単なる迷子か何かなのだろう。

 

 しかし、だとしてももう一つ俺には懸念事項がある。

 俺はスマホを懐から取り出し時間を確認する。

 ……まあ、道案内くらいならそう時間もかからないか。

 

「……うっし」

「おにいさん?」

 

 ひとつ声を上げた俺の顔を、ミナは下から覗き込むようにして見つめてくる。

 その目には不安の色が浮かんでおり、俺がまだ気分を害している、とでも思っているのだろう。

 最初からそんなことは微塵も思っていないのだが、彼女を安心させるためにも、俺は言葉を続ける。

 

「で、どこ行きたいって? 言ってみな」

 

 この瞬間の彼女の表情の変化を、俺はどう例えたものだろう。

 陳腐な物言いではあるが、まさに花開く――とでも言おうか。

 零れんばかりの笑顔となったミナは、身体ごとぶつかるようにして抱き着いてきた。

 

「ありがとうおにいさん!」

「おっ、おいおい……」

 

 子供ってのは、どいつもこうして抱き着いてくるもんなのか?

 ……いや、あいつの方は見た目だけだったか。

 俺は面食らいつつも、彼女の頭をポンポンと撫でる。

 

「ほら、行くならさっさと行こうぜ。ここから近いのか?」

「えっと……わかんない……」

 

 抱き着いた姿勢のまま、俺の胸に顔を埋めつつ、ミナは言う。

 

「分からない?」

「あっえっと、そうじゃなくてね! えっとね、そのね……」

 

 と、何故か彼女は声を落とし始め、さらに顔面を紅潮させる。

 そして、ぽつりと一言、消え入るような声で漏らした。

 

「ミナ、おなかがすいてるの……」

「……メシ? ならコンビニでもどこでもあるだろ?」

「こんびにって?」

「――は?」

 

 今度は俺が間の抜けた声を出す番だった。

 いくら小さいとはいえ、コンビニという単語を知らないなどということが在り得るだろうか。

 どこかの金持ちのご令嬢で、外の世界に無知……という可能性が頭を一瞬頭をよぎったが、その考えはすぐさま否定される。

 もしそうなら、こんな――言葉を飾らず言えば、貧相な姿をしているわけがない。

 こうして改めて近くで見るとよく分かるが、少女が纏っている衣服は、元々は上等な代物であったのかもしれないが、所々ほつれ(・・・)や破れている箇所が散見され、現状ではお世辞にもいい状態とは言えない。

 こんなボロボロの服を平気で娘に着させているとは、親は一体何を考えているのか。

 

「……?」

 

 じろじろと見られていることを不思議がっているのか、ミナはまたも顔をかしげてみせる。

 虐待だとか、そういったネガティブな考えが脳裏に走りそうになるも、少女の顔には悲壮感だとかそういった雰囲気は漂っていない。

 ……まあ、いずれにせよただの他人である俺が詮索すべきことでもない。

 俺は気を取り直し、彼女に向かい口を開く。

 

「えーっと……腹が減ってるってのは分かった。それで、何が食いたいんだ?」

「おかし! ミナ、おかしが食べたい!」

 

 間髪入れず、彼女は答えた。

 

「菓子?」

「うん!」

「菓子……菓子ねぇ……」

 

 それこそコンビニでも良さそうなものだが、たしか一番近いところは来た道を戻らなければならない。

 あまり道草を食っているとまたあいつがうるさい。どうしたものか。

 

 ……そういえば、アーケードの中に子供の頃よく行っていた駄菓子屋があったな。

 あそこならば道の途中だし、ちょうどいいだろう。

 

「いいけど、腹減ってんならもっと腹にたまるモンの方がよかないか?」

「う~ん……ご飯も食べたいけど……甘いもの、たべたい……」

「ま、それでいいならいいんだけどよ。よし、んじゃ行くか?」

「ほんとに連れてってくれる!?」

 

 自分から言い出したことだろうに、彼女は目を見開いてそう念を押してくる。

 

「ミナが頼んだんだろ? それとも一人の方がいいか? それなら行き方だけ教えて――」

「ううん! おにいさんといっしょがいい! ――いこ、おにいさん!」

 

 言って、ミナは手を握ってきた。

 ひんやりとしたその手は、子供のものとしては冷えすぎているような気がした。

 同じようにいつもくっついてくるあいつ(・・・)と比較すると、同じ子供でも随分と差があるものだ。

 

「あっそうだ。ミナ、金は持ってるのか?」

「だいじょうぶだよ! 昨日ね、お小遣い貰ったから! おにいさんにも買ってあげるね!」

「はっはは、そんなにたくさん貰ったのか。そりゃ良かったな」

 

 ――笑いながら並び歩く中、頭の中には何故かラピスの顔が常に浮かび続けていた。

 俺は昨日、彼女がふいに見せたあの目を思い出す。

 

 ……いや、何を考えている。

 これは道すがらの、単なるついでだ。

 何もやましいことなどない。

 そう、あるわけがない。

 

 そう自分にいくら言い聞かせていても、頭に浮かぶ漠然とした不安は立ち消えることがなかった……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死神の居ぬ間に 前

「ところでミナ、お前あんなとこで何してたんだ?」

「え? どういう意味、おにいさん」

「いやだからさ、あんな山の中で一人で」

 

 山を下りながら、俺たちはとりとめのない話を続けている。

 一歩進むたび、ミナの履く下駄から発せられる、カラコロという小気味良い音が響く。

 しかし今どき下駄とは。七五三でもあるまいに。

 俺の言葉を聞き、彼女はきょとんとした顔つきになる。

 

「おにいさんだってそうだったでしょ?」

「ん、いやまあ、それはそうなんだけど。女の子が一人であんなとこうろついてんのは……やっぱ危ないぜ」

「ミナのこと心配してくれてるの? やっぱり優しいんだね、おにいさん」

「いや、別に感謝されるほどのことじゃ……」

 

 どうもやりにくい。

 見た目はラピスと同じような幼女であることから、幾分か慣れた対応も可能だと予想していたのだが。

 憎まれ口も叩かず、いちいち素直な反応を見せてくれるこの少女とでは、まるでその種類が違う。

 俺は自由な左手でボリボリと頭を掻きつつ、どこか足元が不安定な錯覚を覚えながら歩を進めた。

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

「おにいさんおにいさん! これ、これもっ!」

 

 ミナは駄菓子屋に到着した途端、所狭しと店内に溢れる菓子に釘付けになった。

 

「おいおいそんなに買って食い切れるのか?」

「だいじょうぶ!」

 

 返事を返しながらも、ミナは次々と駄菓子をカゴに入れていく。

 ミナが持つ子供が持ちやすいように作られた小さなカゴは、あっという間に満杯になった。

 しかしそんな状態になってもなお、てんこ盛りになった上に更に商品を積み上げようとしている。

 俺は流石にこの辺りで止めるべきだと判断し、彼女の頭に手を置く。

 

「そのへんにしとけ、な?」

 

 ――と、その瞬間、彼女がビクリと身を震わせたのが手から伝わってくる。

 

「あっ……。む~……わかった。でも、最後に表にあったあれ、取ってもいい?」

「表って……ああ、あれか」

 

 そういえば、店の入り口にアイスが入った冷凍ボックスが置かれていたな。

 

「しかしこんなクソ寒い時にアイスなんか食べたいかぁ?」

「うん! たべたい!」

「そっか。まあそれならいいんだけど。でも商品持ったまま外には出られないぜ。まず会計を済ませような」

「はーいっ!」

 

 良い返事だ。

 手に入った大量の菓子に完全に気を良くしているって感じだな。

 ミナと俺は、店主であろう高齢の女性が座る場所に向かう。

 

「ありゃまあ、可愛らしい子が来たもんだねえ」

「こんにちわ、おばあちゃん!」

「はいこんにちわ。あらあら、随分たくさん買うんだねぇ。お兄ちゃん、可愛いからってあまり妹を甘やかしちゃあいけないよ」

「いや、俺は……」

 

 どうもこの婆さん、俺とミナを兄妹だと勘違いしているらしい。

 まあ、この状況ではそう思うのも無理もないことだが。

 と、ミナは俺の方を向くと、やけに嬉しそうな笑顔を見せる。

 

「おにいさん聞いた!? ミナ、おにいさんの妹だって!」

 

 なんでそんなご機嫌なんだ。

 

「ほれ、んなことより払うもん払わないとな。金は持ってきてるんだろ?」

「うん! え~っと……あった、これに入れてるの!」

「……巾着?」

 

 彼女が(たもと)から取り出したのは、随分と年季が入っている小さな巾着袋だった。

 ……また随分と古風なものを持ってるもんだ。

 まあ、着てる服とは合ってると言えなくもないが……親がこういう趣味なのかね。

 

「……ま、いいや。で、いくらですか?」

「ええ~っと……ちょっと待ってねぇ。――うん、全部で六七〇円だね」

 

 量のわりには安い。

 これは、一つ一つの単価が安い駄菓子であるがゆえだろう。

 

「だってよ、ミナ」

「うん! ――はい、おばあちゃん!」

 

 ミナは巾着袋から取り出したそれを、自信満々に目の前にかざしてみせる。

 

「……」

「……」

 

 がしかし、そんな彼女のどうだと言わんばかりの表情とは裏腹に、俺と婆さんは呆気に取られた顔になる。

 それもそのはず、彼女が取り出したるは、たった一枚の五円玉のみであったからだ。

 

「え~っと……ミナ。お前が持ってる金ってもしかして……これで全部か?」

「そうだよ?」

 

 ――嘘だろ?

 今日び、たったの五円じゃそれこそ駄菓子すら買えないぞ。

 

「え……も、もしかして……た、足りないの……? おにいさん……」

 

 俺と店主の顔を交互に見て、どうやら彼女も俺たちの発する異様な雰囲気を感じ取ったのだろう。

 ミナは肩を震わせながら、不安そうな目でして俺をじっと見つめてくる。

 俺を騙し、そして奢らせるための演技――とも思えない。

 いくら小さいとはいえ、貨幣の価値くらい分かっていてもいいだろうに。

 

「……」

 

 俺は黙りこくったまま、ミナの目を見る。

 ……いや、何を考えている。

 この子はただ道すがら知り合っただけの他人だぞ。

 竜司、お前がそこまでする義理など無いはずだ。

 俺の中の理性的な部分が必死に諫めてくる。

 

「おーっとそうだ! そういやミナ、お前アイス食いたいって言ってなかったっけ?」

 

 ――が、しかし。

 口から突いて出てきたのは、そんな理性の声とは真逆のものだった。

 

「え、え? ……う、うん。言ったけど……」

「よっしゃ、後でまた払うのもアレだしな! ちょっと表から欲しいの持って来いよ! 支払いは俺がやっとくから! ミナの出してくれた金でな!」

「へ? でもさっきは――」

「そうだねぇ、お兄ちゃんの言う通りにしておきなさいな。お嬢ちゃん、ゆっくり(・・・・)選んで来なさいよ」

 

 俺の意図を察したのだろう、店主からの助太刀が入る。

 ゆっくり選べというのも、この先をミナに見せないための配慮だろう。

 ナイスだ、ばあちゃん。

 

「で……でも、お金……」

「大丈夫よぉ。これで十分足りてるからね」

「……ほんと?」

「嘘なもんかね。あたしゃ今まで一度だって嘘をついたことがないんだよ」

「は~……よかったぁ……」

 

 心底安堵したといった感じで、ミナは深い溜息をつく。

 これで安心したのか、次の瞬間には笑顔に戻ったミナは、店の軒先へと駆け出しつつ、俺に声を送ってくる。

 

「おにいさんの分も持ってくるね! おにいさん、何がいい?」

「ミナと同じやつでいいよ。慌てずにゆっくり選んできな」

「はーい!」

 

 元気のいい返事を残し、彼女が俺たちの視界から消える。

 そしてそのタイミングで、俺は感謝の言葉を述べた。

 

「……助かりました。ありがとうございます」

「いいのよ。ちょっと世間知らずみたいだけど、いい子じゃないのさ。大事にしておやりよ」

「はは……」

 

 愛想笑いを返しつつ、追加のアイス二つ分を加えた代金を、ミナが戻ってくる前に払う。

 ミナが戻ってくる前にことを済ます必要があったので大分焦りつつのものだったが、結果的にそれは杞憂に終わった。

 支払いを終えて暫く待っても、一向に彼女が姿を現さなかったからだ。

 しびれを切らした俺が様子を見に行くと、なんのことはない、どのアイスにしようか決め切れていないだけだった。

 結局当たり障りのないバニラ味のものに決めた後、俺たち二人は店先に置かれているベンチに座り、そのアイスを食べることにした。

 

「おいしーっ!」

「そりゃ良かったな……うっ」

 

 棒型のバニラアイスを、ミナは実に美味しそうに味わっている。

 この寒い中アイスなど頼まれても食べたくないところではあったが、せっかくの彼女の好意を無にするわけにもいかず、俺はいっそ一気に食べつくすことにした。

 急いで頬張ったためか、頭にキーンと頭痛が走る。

 

「どうしたのおにいさん、元気ないの?」

「いいや、そんなことないさ」

「そうなの?」

 

 とっとと食い終わった俺とは対照的に、ミナが食べる速さは実にスローなものだ。

 食べるというか、棒の先の方をちろちろと舐めているばかりで、傍目には一向に減っているように見えない。

 その遅さにあっては、流石に気温の低い中と言えども、アイスの方が先に溶け出してきてしまっていた。

 

「おいおい、垂れてきてるぞ。ったく、しょうがねえな……」

 

 溶け出したアイスの汁は、そのままミナの胸元へと滴り落ちてきている。

 俺は鞄からポケットティッシュを数枚取り出すと、それらの雫を拭き取るべく、彼女の胸元へと手をやる。

 

「――えっ、えっ!? お、おにいさん!?」

「ほれじっとしてろ。拭いてやる」

 

 体に落としたものを拭くのは慣れたものだ。

 あいつも、未だ箸を上手く使えずにポロポロ零しやがるからな。

 もちろんその度に拭いてやるのは俺の役目である。

 俺は慣れた手つきで、ミナの鎖骨から胸部にかけてを拭っていく。

 

 そこで改めて俺は気付いたのだが、この少女は、相当に痩せている。

 ゆったりとした和服を着ているし、顔の血色はそれほど悪くないことから今までそれほど気に留めていなかったが……。

 俺の手には彼女の皮膚のすぐ下、骨の感触がはっきりと伝わってくる。

 それに胸から下に視線を落とすと、ぴっちりと閉じた脚が目に入るのだが。

 もしこれがラピスであれば、太腿と太腿の間に隙間など見えないが、ミナの場合、彼女が今腰を下ろしているベンチの青色がはっきりと視界に入ってくる。

 

 ……まあ、ラピスはむしろ下半身の肉が多いんだがな。

 しかしそれを考慮に入れても、ミナは明らかに痩せ過ぎである。

 

「お、おにいさん……」

「――ん、何だ?」

「……ミナ、ちょっと……恥ずかしいな……」

 

 それまで見たことのない、顔を真っ赤にしたミナの顔が俺の視界に入る。

 ……しまった。いくらなんでもじろじろと見過ぎたか。

 

「えっあっ、ごめん。つい」

 

 言って、俺はパッと彼女の胸から手を放す。

 ラピスにいつもしていることだからといっても、今のは流石にデリカシーに欠けた行為だった。

 

「……ううん。いいよ、おにいさんなら」

 

 一発平手でもお見舞いされても文句の言えないところだったが、ミナは意外にもすぐに許してくれた。

 

「そっ、そっか。ごめんな。……はぁ~っ……」

 

 ――こういうことの積み重ねなんだろうな、きっと。

 今のことをきっかけとして、過去の種々諸々を思い出し自己嫌悪に陥った俺は、深い溜息を吐き出す。

 

「どうしたのおにいさん?」

「……いや、自分の軽率さっつうか、そういうのが今さらながら嫌になってな……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死神の居ぬ間に 後

投稿に間が空いてしまい申し訳ありませんでした。
GW前に片しておくべき仕事が文字通り死ぬほど溜まっており、それに封殺されておりました……


 聞かれたから答えたとはいえ、元々彼女に相談するつもりで発したものではない。

 案の定、ミナはぽかんとした顔つきで俺を見ていたが。

 

「ねえ、おにいさん」

 

 ややあって、彼女は静かに口を開いた。

 

「どうした」

「何か悩みごとがあるの? ミナでいいなら、聞かせてくれない?」

「いや、悩みってほどのもんじゃないんだけどな」

「言うだけ言ってみて。誰かに言うだけで楽になることもあるって、おかあさんがよく言ってたの」

「……」

 

 まさか俺とラピスとの関係、そしてこれまでの経緯(いきさつ)を、今日知り合ったばかりのこの少女につまびらかに話せるわけがない。

 適当に誤魔化してしまえばいいだけの話で、冷静に考えれば、こんなことは本来考慮にすら値しないことだ。

 

 だが。

 そんな心中の思いとは裏腹に、俺の口は独り歩きを始めた。

 

「……なんだろうな、さっきの話にも続く話なんだが。俺ってつくづく役立たずだなって、そう思うんだよ」

 

 静かに語り出した俺の言葉に、ミナは黙って耳を傾けている。

 ……俺は一体何をしようとしているのだろう。

 こんな、年端のいかぬ少女を相手に、情けない心情を吐露しようなどとしている。

 いつもの俺ならば有り得ない判断だ。

 がしかし、寒々しいこの季節に当てられたのか、それとも何か他の要因によるものか。

 溢れ出す言葉は止まることがなかった。

 

「何も知らない、できないくせに一人で突っ走って……で、結局はあいつ(・・・)の助けを借りる羽目になっちまう」

「あいつって? おにいさん」

「今日はいないんだけどな。……ま、連れ合いだ。いつも俺のことばかり気にしてるヤツでな。俺としちゃ、あいつにはもっと自分のために生きてもらいたいんだが……。今だって、やらなくてもいいっつってんのに、あいつは――自分じゃなく、俺のために必死でいやがるんだ」

 

 ラピスに関する細部はぼかしつつも、俺はそう言って言葉を続ける。

 実際、これまでなんとかなったのは運が良かったこと、それにあいつの力に頼りっきりだったためだ。

 そもそも下手をすればあの時、あいつは殺されるところだった。それも口にするのも憚られるような辱めを受けた上で、だ。

 確かにあのままでもゆっくりと死を待つだけだったのは変わらないが、それでもあのエデンという女が宣っていたことを考えれば、まだそっちの方がマシだったろう。

 結局のところ――借りを返さなければならないのは俺の方こそ、なのだ。

 だというのに、今ここに至ってもまだ、俺はあいつのために何もできないでいる。

 そんな、自分の無力さが情けなく、そしてやるせない。

 

「……あの時会ったのがもっと力のある奴だったら――俺なんかじゃなく。こんな負担掛けずに済んだだろうにな。まったく、つくづく運が無い奴だよ」

 

 いつしか俺は、横の少女に言うのではなく、ただ己の愚痴を独り吐き出しているだけになっていた。

 俺は言い終わると首を垂れ、視線を地に落とす。

 ――と、頭の上に何かが乗せられる感触がある。

 

「そんなに思い詰めないで、おにいさん」

 

 ミナの方へと目をやれば、彼女の右手が、俺の頭部に向かい伸びているのが見える。

 

「おにいさん。そのひともきっと、そんなふうにおにいさんが悩むことなんて望んでないよ」

 

 言いながら、彼女は優しく俺の頭を撫でている。

 傍から見れば実に情けないというか、恥ずかしさここに極まれりといった光景である。

 しかし俺が何か言うより先に、彼女は言葉を続ける。

 

「おにいさんはそのひとに好きなように生きてほしいって言ってたけど――たぶん、そうすること(・・・・・・)がその人にとってのしたいこと、なんだと思うよ」

「バカな……! そんな、せっかく自由になれたのに、それを……俺はもっと、あいつには――」

 

 言い捨て、俺は地に視線を戻そうとしたが、逃がさないとばかりミナは腰を曲げ、頭を俺の胸元辺りまで移動させた。

 彼女の顔が再び視界に入ってくる。

 ミナはそのまま、大きな黒い瞳を真っ直ぐに俺の目へと向けさせ、言った。

 

「ならね、おにいさん。そのひとは、おにいさんのために何かする時、嫌な顔してた? 返さなきゃいけない恩があるから、だからしょうがないからって――そんな顔、してたの?」

 

 ゆっくりと、噛み砕くように。

 相手の感情を逆撫でしないよう、注意を払いつつ。

 その声色は、まるで子供に言い聞かせる母親のそれであった。

 

「……いや……」

 

 語気が荒くなり始めていた俺の頭は、そんな声のおかげか、幾分か冷静さを取り戻していく。

 ……思い返せば、あいつが俺のために何かする時、あいつはそんな――義務感によるものとは全く違う表情をしていた。

 しょうがないからどころか、生き生きとすらしていた気がする。

 そうした過去の記憶に思いを馳せた俺の口からは、小さくも否定の言葉が零れる。

 

 そして、そんな俺の言葉を受けたミナは。

 慈愛に溢れた――そんな表現がまさにふさわしい、天使のような笑顔になり、言った。

 

「だったら……そういうことなんだよ」

 

 反論はいかようにも可能だろう。

 だが彼女の声には、とても抗うことのできない、そんな重さを感じさせた。

 

「そう……なの、かな」

「そうだよ。きっとそう。おにいさんはいいひとだもの。それに、とっても頑張ってるんだね。えらいよ、おにいさん」

 

 目を細めたミナは、言いつつ俺の頭を優しく撫でる。

 実は先ほどからずっと彼女はそうし続けているのだが――これがまた、常軌を逸した心地よさなのである。

 マイナスイオンでも手から出してるのだろうか?

 あまりに心が安らぐそれを、俺は暫く甘んじて受けるがままになっていたが。

 

「……も、もういいって、ミナ」

 

 傍から見て、それがどんなに恥ずかしい光景であるかに気付いた俺は、ようやくそう言って彼女の手から逃れる。

 ミナは「そう?」とだけ言って、ニコニコと上目遣いに俺を見つめていた。

 

 ――ややあって。

 

「いや、なんだか恥ずかしい姿を見せちまったな……」

 

 先ほどの自分の姿を鑑みた俺は、今頃湧いてきた恥ずかしさに思わず頭を掻く。

 

「ううん。全然そんなことなかったよ? それに――」

「それに?」

 

 アイスを食べ終わったミナは、今度は棒の付いた飴に手を付けながらだ。

 

「おにいさん、とってもかわいかったの!」

「うっぐ……。は、はは……そうか……」

 

 恐らくは皮肉のつもりなど一切無いのだろうが、この言葉は俺の羞恥心を更に煽る結果にしかならない。

 今俺にできることといえばそうして虚勢を張り、笑って見せることくらいである。

 がしかし、やはり気まずさに耐え切れなくなった俺は、逃げるように懐からスマホを取り出す。

 別に何か目的があったわけではないが、画面を見た瞬間、俺の背に冷たいものが流れた。

 

「――やべっ! もうこんな時間か! そろそろ行かねえと……」

「おにいさん?」

「ミナ! すまねえがちょっと俺、これから行かなきゃならない所があってな。家はどこだ? 送ってくよ」

 

 俺が慌てたのも無理もない。

 ミナと会ってから、実に一時間半以上の時が経過していたのだ。

 これ以上遅れるとあいつの機嫌がどんなに悪くなるか、想像するだけでそら恐ろしい気分になる。

 ……いや、既にアウトかもしれない。

 

「あっ、え~っと……さっきの山のところでいいよ」

「あそこ? なんだ、あそこから近いのか? それなら別に家まで送ってってやっても――」

「う、ううん! だいじょうぶ! 山の麓まででいいよ! おにいさん、急いでるんでしょ?」

 

 急に慌て始めた俺を気遣ってか、ミナはそう言って遠慮する素振りを見せたが。

 とはいえ、そろそろ日も落ち始める頃である。

 彼女をここまで案内したのは俺なのだし、やはり家まで送り届けるのが筋というものだろう。

 が、彼女は家まで送るという俺の申し出を頑なに拒み、麓まででいいと言って聞かなかった。

 彼女の意思は固く、それに麓から家までは本当にすぐの場所にある、というので、俺は申し訳なく思いつつも、彼女の好意に甘えることにした。

 

「しかし一昨日からあの山で色んなことが起こるなぁ」

「そうなの?」

 

 来た道を戻りながら俺がふと口にした独り言に、ミナは俊敏に反応する。

 

「おお。ミナ、お前知ってるか? あそこの山な、狐が出るんだぜ」

「……へ、へぇ~。そ、そうなんだ」

「オレンジ色の、ちょっと変わったヤツでな。――そうだ、ちょうどミナの髪の色に似てたな」

「ふ、ふぅ~ん……」

「……どした、ミナ。なんか顔色悪くねえか?」

 

 それまでの溌溂とした物言いから一転、妙に声のトーンが小さくなったミナを訝しみ、俺は彼女に目を向ける。

 

「う、ううん! そんなことないよ!」

 

 殊更大きな、わざとらしさすら感じさせる大声でもって彼女は答える。

 

「そ、そうか。――んでな、ちっと不気味なこともあったんだが。人懐っこい狐でな、撫でさせてくれたんだぜ」

「……おにいさん」

「ん?」

「もしその狐さんにもう一度会ったら、どうしたい?」

「――へ? どうもこうもないよ。ま、しかし……あんだけ人懐っこいんだ。それにあんだけ警戒心が無いと危なっかしいしな。親の許可次第だが、飼ってやるのもいいかもな」

 

 それと妹の許可も、だ。

 

「飼うっ!!?」

「おおっ!? な、なんだ、どうした」

 

 今度は先ほどのように演技めいたものではない、本当に感情のまま張り上げた大声である。

 特に変なことを言ったつもりはないのだが、俺の目に映る彼女の表情は、まさに困惑しきりといった様子を見せている。

 

「お、おにいさん……今言ったこと、本当?」

「え、あ、ああ、うん。まあ、そういうのもいいかなって……」

「飼われる……おにいさんに……? ……だ、だめだめ。そんなこと……おかあさんが知ったら……で、でも……」

 

 ミナは俺から視線を離すと、俯いて何やらぶつぶつと独り言ち始めた。

 

「お、お~い……ミナ?」

「――はっ!? な、なに、おにいさん!?」

「いや、着いたけど……」

「あっ……」

 

 それからもずっと独り言を言い続けていたミナは、俺に再度声をかけられるまで周りの様子すら目に入っていなかったらしい。

 

 

「――そんじゃな。気を付けて帰るんだぞ」

 

 俺はそう言って、彼女に別れを告げる。

 

「うん。おにいさん、今日はありがとう」

「いや、俺も楽しかったよ。じゃあな」

「……うん。またね(・・・)、おにいさん」

 

 幾分か寂しそうな色を湛えつつも、彼女もまた右手を上げ、別れの言葉を口にする。

 そうして彼女は俺の姿が見えなくなるまでずっと、俺に向かい手を振り続けていた。

 

「不思議な子だったな。……またね、か。あいつと出会ったときのことを思い出すな」

 

 振り向いても彼女の姿が見えなくなったところで、俺はそう一言漏らす。

 

「ま、もう会うこともないだろ。さて、さっさと店に……あっ!」

 

 短く声を上げた俺は、急いで鞄から制汗剤を取り出した。

 何故急に俺がこんな行動に出たのかといえば、一言で言うなれば……『偽装』のためである。

 昨日のラピスは、どうも俺に付いた匂いから他者の存在を嗅ぎつけていたようだった。

 単なるカマかけに俺が釣られただけ、といった線も考えられるが、念には念を入れておく方がいい。

 果たして制汗剤の匂いくらいで誤魔化しになるかは分からないが、それでもやらないよりはマシだ。

 

 とはいえ。

 

 しかし……

 

「――冷静に考えてこの姿……かなり情けなくないか?」

 

 プシュプシュとスプレーを体に吹き付けつつ、俺は自己嫌悪に陥る。

 他の女の痕跡を消すために四苦八苦しているこの姿は、まるで……

 

「……いやいや、これはそういうんじゃない。あいつがまたやらんでもいい変な勘繰りをしないためだ……うん」

 

 果たして誰に対してのものか。

 俺はそうして虚空に向かい、言い訳を垂れ流し続けていた……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ご注文をどうぞ

ゆっくりシン様より、メイド姿のラピス(大人版)を頂きました!

【挿絵表示】



「――よォ、小僧」

「お前またいんのかよ……ていうか何だ、この状況は」

「おお、そこだよ。まあ座んな」

「お前の店じゃないだろ……」

 

 店へと着いた俺は、まずそれまでと違う中の様子に気付いた。

 というのも、昨日までに比べ、明らかに人の数が多いのだ。

 打って変わって多くの人で賑う店内にあっては、聖さんはおろか、ラピスすら俺が入店したことに気付かなかったほどだ。

 慌ただしく働くラピスにこちらから声をかけようとしたところ、またも現れたナラクに声をかけられて今に至る。

 

「本当になァ。ここは静かで喧しくないところも気に入ってたんだがな」

 

 テーブルを挟んだ対面に座った俺は、そんなナラクのボヤきに返答する。

 

「まあ、客が入る分にはいいだろ。商売なんだし……しかしなんだ、やけに爺さん婆さんが多いな」

「それだけじゃないぜ。若い兄ちゃんもチラホラいんだろ」

「やっぱ、この原因って……」

「ああ、あの目立つ死神のせいよ。――お、こっちに気付いたみたいだぞ」

 

 ナラクの言葉に沿って店の奥に目をやれば、こちらを見るラピスと目が合った。

 俺は挨拶がてら、右手を上げてみせるが。

 

「……」

 

 しかし、ラピスはぷいと顔を逸らせると、キッチンの奥へと消えてしまった。

 ……あれ? 確かにこっち見てたよな?

 いつものように喜び勇んで駆け寄ってくるものとばかり思っていたが。

 

「くっくっく……ありゃ相当おかんむりみてぇだな」

 

 呆然とする俺を、ナラクは心底愉快そうに見ている。

 

「ったく……遅くなったのは悪かったけどよ……んな毎日ぴったり時間通りに来れるかっての」

「いやいやァ、あいつだってそれくらい分かってると思うぜ。しかし今日はタイミングが悪かったな」

「どういう意味だ?」

「――それは私が答えようじゃないか」

 

 いつの間に現れたのか、テーブルの前には昨日と同じメイド服に身を包んだ聖さんが立っていた。

 

「聖さん」

「やあ、竜司君。今日は少し遅かったみたいだね」

「ええ、まあ……ちょっとヤボ用が。しかしどうしたんですこの盛況ぶりは」

「私もびっくりだよ。まさか彼女の宣伝効果がこれほどとはね」

 

 そう言って店内をぐるりと見渡した後、彼女は続ける。

 

「昨日のお客様たちがね、商店街の知り合いにラピスちゃんのことを話したみたいなんだ。あの子は人当たりもいいし、なによりあの見た目だ。今日のお客様たちも、彼女を孫や娘のように見ているよ」

「はぁ……しかしそれっぽい客以外もいるみたいですけど」

「あの若者たちは店が賑わっている様子を外から見たのだろう。興味深げに入ってきて、それで今や――ほら、見てみなさい」

 

 丁度その若者たちはラピスに注文を聞かれているところで、その顔は完全に緩み切っただらしのないものだ。

 奥の方に座る男に至っては、チラチラとラピスのスカートの下あたりに目をやっている。

 本人はさりげないつもりなのだろうが、こうして傍目で見ているとあからさますぎて滑稽にすら思える。

 

「これは彼女の給料に色を付けなければならないかもな」

「なんなんだほんと……この町には特殊な性癖のヤツしかいないのか?」

「こら、そういうことを言うもんじゃない」

 

 うんざりして言う俺に、聖さんからお叱りの言葉が飛ぶ。

 次いで、後ろのテーブル席からも声が上がった。

 見れば、昨日もいた商店街の店主たちである。

 

「おうおうそうだぜ。なぁ聖ちゃん、俺たちに感謝しろよ! 宣伝してやったんだからな!」

「お前たち不良中年どももたまには役に立つじゃないか。今回だけは素直に礼を言っておこう」

「かーっ! 言うねぇ!」

 

 そう言い、おっさんどもは馬鹿笑いを上げる。

 俺はこめかみの痛みを指で押さえつつ、先ほどの件について彼女に尋ねることにした。

 

「で、聖さん。あいつのことですが」

「ああ、そうだったね。――おーいラピスちゃん! お客様にお水を出してあげなさーい!」

 

 聖さんはそう言って大声でラピスを呼ぶ。

 

「……」

 

 見るからに渋々といった感じでこちらにやってきたラピスは、不満げな顔を隠そうともしない。

 確かに遅れたのは確かだが、それでもこの態度には少々カチンとくるものがある。

 

「……お前な、いい加減にしとけよ。俺だっていつもいつも時間通りに来れるわけじゃ――」

「いやいや竜司君。今日ばかりは彼女のことを責めないでやってくれ」

 

 と、聖さんはラピスを庇う素振りを見せた。

 

「どういう意味です?」

 

 俺が問うと、聖さんは横のラピスを肘で軽くつつく。

 

「ほら、ラピスちゃん。あれ(・・)を持って来なさい。そんなに時間は経っていないから、まだ温かいはずだよ」

「……うむ」

 

 小さく返事を返したラピスはもう一度キッチンに戻ると、トレーに何かを載せて戻ってきた。

 そしてその何か(・・)は、彼女の手自ら俺の前に載せられる。

 

「……これは?」

「見て分からないかい? オムライスだよ」

 

 確かにテーブルの上に置かれたそれは、ケチャップのかかっていない、真っ黄色のオムライスだが。

 俺が言いたいのはそういうことじゃない。

 

「いや、そうじゃなくて。なんでまた急にオムライスなんです」

「……小僧、お前よ。人に鈍いって言われねェか?」

 

 そう言って俺を見るナラクの顔は、呆れ半分のものだ。

 他の誰かならばいざ知らず、こいつにだけはそんな顔をされる謂れはない。

 がしかし、次いで放たれた聖さんの声もまた、似たような色を湛えたものだった。

 

「まったくその通りだね。仕方ない、分からないなら教えてあげよう。これはね、ラピスちゃんが君のために作ってくれたものなんだよ」

「……へっ?」

 

 俺は短く、声にならぬ声を上げる。

 

「ラピスちゃんにちょっと料理を教えてみたらね、これが驚いたよ。料理は初めてと言っていたが、とてもそうは思えないほどの手際と物覚えの良さだった」

「は、はぁ……そうですか。ラピスが、これを……」

 

 そう説明されても、あまりに急なことで頭の整理が追い付かない。

 出来ることといえば、こうしてしどろもどろに相槌を打つくらいだ。

 

「こら、感動が薄いんじゃないのかい。ラピスちゃんはね、初めて作った料理は誰よりも先にキミに食べてほしいからと、君がここに来るのを今か今かとずっと待ち続けていたんだよ。まったく、その様子の可愛らしいことと言ったらもう……」

「――こ、こりゃ聖っ! 余計なことを喋るな!」

 

 それまで仏頂面で黙り込んでいたラピスは、聖さんが漏らした情報に目の色を変え食ってかかった。

 顔を赤くして詰め寄るラピスへ聖さんは微笑みと共に一言のみ返し、再度俺に意を向ける。

 

「ふっふふ、すまない。……それで、竜司君。どうだい、なんともいじらしい話だろう? ――で、そんな彼女に向け、キミからは何も無いのかい?」

「うっ……」

 

 聖さんは穏やかな微笑を湛えてはいるが、返答によっては堪えないぞと言わんばかりな圧を感じる。

 俺は暫く聖さん、そして目の前の料理へ交互に目をやっていたが、やがてラピスへと向き直ると、重々しく口を開いた。

 

「……ラピス」

「何じゃ」

 

 一応返事を返してくれはしたが、いつもの調子に比べるとあまりにそっけないものだ。

 ……確かに、これは俺が悪かった――というより、こいつには悪いことをした。

 そうした後悔の念から、俺の口からは素直な謝罪の言葉が零れる。

 

「その――すまなかった。知らなかったとはいえ……ええと、その、なんだ。……ありがとうな」

「むっ……ま、まあ、そう素直になるのであれば……むむ……」

 

 恐らくラピスは、俺がああだこうだと反論するとばかり予想していたのだろう。

 この、そうした予想とは真逆の俺の態度には彼女の方が面食らった様子であった。

 

「ほらラピスちゃん。いい加減機嫌を直してあげなさい。彼の前で仕上げを披露するのだろう?」

「――……ふ、ふふん、よかろう! 心の広いわしはこの程度のことで腹を立てたりはせぬからの!」

 

 どの口が言ってんだ、とは心の中で言うに留めておく。

 しかし、ラピスもようやく機嫌を直してくれたようである。

 

「よし、では我が君よ。ちと待っておれ。知っておるか? これはの、このまま食すものではないのじゃぞ」

 

 手にケチャップを持ちながら、ラピスは得意げな顔になって言う。

 しかしここで「知らないわけがないだろう」と言うのは流石に野暮というものだ。

 それより、ケチャップを持つ手そのものにこそ俺の注意は向けられた。

 

「……ん? お前、その指はどうしたんだ」

「あっ――!」

 

 見れば、彼女の人差し指の先には絆創膏が巻かれている。

 俺からの指摘に、何故だかラピスは目に見えて慌てだした。

 

「ああこれはね、料理の途中で誤って指を切ってしまったみたいなんだよ。これは私が目を離していたせいだ。申し訳ないことをした」

「ああ、そういうことですか。ラピス、次から気を付けろよ」

「う、うむ? もちろんじゃよ?」

 

 ……どうも挙動不審だな。

 しかしこいつの場合、傷を負ってもすぐに傷は塞がるはずだ。

 ま、恐らくは聖さんに怪しまれぬようにとの判断なのだろうな。

 そういった意味ではきちんと考えた上での行動であると言える。

 それはいいとしても、今のように慌てるような素振りを見せる理由は無いはずだが。

 

「そ、そんなことよりほれ! これをかけて仕上げなのじゃ、よく見ておれ!」

 

 半ば強引に話を断ち切ると、ラピスは器用にオムライスを赤くデコレートしていく。

 そうしてことを成した後。

 

「ふふん」

 

 無い胸を張ってドヤ顔でふんぞり返る。

 がしかし、やったことと言えばただ単にケチャップをかけただけである。

 それでどうしてここまで得意げになれるのか、一度訊いてみたいところだが。

 とはいえ、なんであれラピスが俺のためにこれを作ってくれたのは確かなことで、それはまあ……嬉しくない、と言えば嘘になる。

 ――しかし。

 

「……お前、これ……」

「聖からの助言での、男が最も喜ぶであろう図柄はこれであるとな」

 

 余計なことを……。

 テーブルの上に鎮座するオムライスの上には、ケチャップで大きくハートマークが描かれてある。

 しかもこれがまた、デジタルで作ったかのように正確なハートで、こんなところで器用さを発揮するなと言いたい。

 

「実に羨ましいぞ、竜司君。ラピスちゃんの初めてを押し戴けるとは」

「妙な言い方をしないでくださいね?」

 

 いい加減本物の聖さんを返してくれ。

 ラピスの方は、期待に満ちた目で俺をじっと見つめている。

 ……もうアレだな、こうなったらさっさと片してしまうのが吉か。

 覚悟を決めた俺は、スプーンでオムライスを口に運ぶ。

 

「……」

 

 ゆっくりとそれを咀嚼しながら、再びラピスの方へと目を向ける。

 彼女の表情はそれまでの期待に加え、若干の不安の色も見られた。

 そして俺は、口の中のものを胃に落とすと。

 

「……うまい」

 

 一言、そう呟く。

 

「――本当かっ!? の、のう、下手な世辞などは要らぬぞ? 本当に本当か?」

 

 ここで俺がマズいとでも言えば烈火の如く怒るくせに、いざこうして褒められると半信半疑で詰め寄ってくる。

 女心っていうのか、いやこの場合は神の心か。そういったものはよく分からない。

 

「……いや、マジで美味いぞ。なんだこれ……聖さん、材料はいつもこの店で出してるものと同じですよね?」

 

 形こそ聖さんが作るものに比べると多少歪ではあったが、味そのものはそれに勝るとも劣らない。

 語彙に乏しい俺には具体的にどう違うとは言えないが、あえて言うなら、出汁というのか隠し味というのか、言い得ぬまろみ(・・・)を舌に感じる。

 聖さんに聞きつつも俺は、手に持つスプーンを止めることができずにいた。

 

「うん、手順も材料も全く同じだよ。しかしあえて言うなら、一ついつもと違うものがある」

「それは?」

「決まっているだろう。君へ向けた、彼女の想いだよ」

「――ぐむっ!」

 

 突拍子もない言葉に、俺は口の中のものを喉に詰まらせる。

 

「なんっ、そんな――」

「しかしそう言うしかなかろう。事実、他には何も違わないのだからね」

「……」

 

 俺は恐る恐る、横のラピスへと視線を向かわせる。

 

「……わ、我が君ぃ~……そこまで喜ばれると、流石にわしも恥ずかしいというかぁ~……」

 

 ――やらかした。

 いくらなんでも殊更に騒ぎすぎた。

 ラピスは顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしげに身を捩らせている。

 しかしその表情には隠し切れぬ喜びが浮かんでおり、頬はだらしなく緩みっぱなしだ。

 

「じゃが、嬉しいぞ。まさかわしからの気持ちすら料理から汲み取ってくれるとは……」

 

 もはやラピスは上機嫌どころか、完全に有頂天になっている。

 

「おうおう、見せつけてくれるねェ。けどよ、人前じゃちっと自重しとけよ、小僧」

「やかましい!!」

 

 俺は横から茶々を入れてくるナラクに怒鳴り声を上げると、残った料理を急い任せに片付けた。

 再びラピスの方へ視線を送ることはしなかった。

 たとえ見ずとも、あいつがその間どういう表情をしていたかなど容易に想像がつく。

 ……結局、また俺はこうして考え無しに行動した罰を受けている。

 あの子は「がんばってる」と言ってくれたが……。

 俺のこういう性格は、本当に死ぬまで直らないのかもな……

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 俺が完食した頃を見計らってではないだろうが、そのタイミングで商店街のおっさんどもから声がかかる。

 

「聖ちゃん、次からは俺たちも注文できるんだろ?」

「ああ。――構わないな、ラピスちゃん?」

「うむ!」

 

 完全に機嫌を良くしたラピスは、聖さんへの返答も弾んだ声で返している。

 

「どういうことです? 次からっていうのは」

「いや、それがね。彼女が料理を作っていたところは彼らも見ていてね。是非自分たちに味見をさせてくれ、と言って来たのだが、当のラピスちゃんがそれを頑なに拒否してね。――理由は分かるだろう?」

「……まあ」

 

 ”最初”は俺に。

 凡そそんなところだろう。

 ……まったく、どうでもいいことに拘りやがって。

 

「よし。ではラピスちゃん、彼らにもキミの実力を見せてあげなさい」

「よかろう! 汝ら、大人しく待っておるのじゃぞ」

「楽しみにしてるぜ!」

 

 客に対してその物言いはどうかと思わないでもないが、まあ本人たちが気にしていないなら構わないのか。

 

「おっとそうだ、ラピスちゃん」

 

 キッチンへと向かおうとしたラピスの背中に向け、聖さんが声をかける。

 

「どうしたのじゃ、聖?」

「さっき言ったこと、やはり実行に移そうと思うのだが、キミはどう思う? 構わないかい?」

「わしは構わぬよ。そうすればもっと客が入るのじゃろ? しかし――となればもちろん、わしの取り分も増えるのじゃろうな?」

「もちろんだとも」

「ならば断る理由などないとも。存分にやるがよい」

 

 二人だけでとんとん拍子に話が進んでいるが、完全に俺は置いてきぼりだ。

 

「あの~……何の話です?」

「ん? ……ふふ、それはね、後のお楽しみだよ」

「……」

 

 絶対にロクなことじゃない。

 それだけは間違いないという確信がある。

 

「いやはや、まさしくラピスちゃんはこの店の救世主だな。これからもよろしく頼むよ!」




活動報告にも書きましたが、旅行のため次回更新は4日以降の投稿となります。
申し訳ありませんが、ご了承ください


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

信賞必罰

 そして一夜明けた今日は金曜日、授業のある週の終わりの曜日である。

 ラピスの仕事は学校のある日のみと決めていたので、週末はまたあのうるさいのと一日中一緒ということになる。

 まあ、土日の心配はまたその日を迎えてからすればいい。

 それより今は。

 

「なあ、悪いけど今日はあんまり構ってやれないんだ。何か用事があるなら手早く済ませてくれないか」

 

 俺は、目の前の少女に向かい言う。

 彼女は俺の声に反応し目を向けたが、すぐには返事を返さない。

 というのも、口いっぱいにものを詰め込んでいたからだ。

 

「はぐ、はむ……んっ!? ――んんん~ッ!?」

 

 早く返答せんと急いで飲み込もうとしたためであろう、彼女は口の中のものを喉に詰まらせた。

 

「あっバカ、急いで飲み込むから――ほれ、水飲め水!」

 

 むせる彼女へ、俺はペットボトルに入った水を飲ませる。

 

「んゅっ、んっく……ぷはーっ!? ……し、死ぬかと思ったの!!」

「気を付けろよほんと……」

 

 そう、昨日に続き今日も俺は、例の山道でこの少女と出会った。

 もはや名前をあえて言う必要もなかろう――ミナである。

 出会って早々彼女は昨日の礼を丁寧に言ってきたのだが、その際に彼女の腹から大きな音が鳴った。

 赤面する彼女へ俺が腹が減っているのかと問えば、恥ずかしそうにしながらもミナはこくりと頷いた。

 

 ――聞けば、昨日大量に購入したはずの駄菓子の山は、昨日のうちに全て食べてしまったのだという。

 聞いた手前、はいそうですかで終わらせるわけにもいかなくなった俺は、少し待っていろと言い残し、山を下りて近くのコンビニでおにぎりを二つほど買ってきてやり、彼女に手渡した。

 彼女は最初こそ遠慮する様子を見せていたが、結局空腹には勝てず、一度口を付けた後はすさまじい勢いで食べ進め、あっという間に完食してしまったのだ。

 

「ありがとうおにいさん! やっぱりおにいさんは命の恩人なの!」

 

 息を整えたミナは、満面の笑顔になって言う。

 

「んな大げさな……ん? やっぱり? やっぱりって?」

「あっ……! え、えへへ……ちょっと言い間違えちゃった」

 

 どうも何かを誤魔化しているような風だ。

 俺が訝しんでいるのを察知したのか、ミナは慌てた様子で話題を変えようとする。

 

「それよりおにいさん、ごはんありがとうなの! とってもおいしかった!」

「……そりゃよござんした。けどよお前、きちんと毎日メシ食ってんのか? 今の食いっぷり見るに食が細いってわけでもないんだろ?」

 

 この俺の言葉に、ミナは明らかに狼狽する様子を見せた。

 

「え……う、うん。ちゃんとごはん、食べてるよ」

「……普段何食ってんのか聞いてもいいか?」

「え、えっと……大体いつもは山にいるむしさ――じゃなくて! えっと、えっと――そ、そう! おにぎりとか!」

 

 何か言おうとして慌てて止めた風だな。

 

「おにぎり、ね……」

 

 そいつはちょうど今、俺がやったもんだな。

 喰いモンの名前なんて、それこそ星の数ほどある。

 だというのに、思案した挙句に出てきたのがその単語一つだけとは。

 難しい顔をして睨む俺を、ミナは不安げな表情でして見つめている。

 

「お、おにいさん……?」

 

 今一度、俺は彼女の全身を見回したが。

 ……やはり、どう考えても痩せすぎている。

 加えることに昨日と変わらぬボロボロの和服を羽織った姿、そしてこの一連の会話。

 これらを併せ考えれば、育児放棄(ネグレクト)という嫌な単語が脳裏に浮かぶ。

 

 とはいえ、それはあくまで疑惑に過ぎない。

 ミナの明るい表情を見ると、とてもそうした虐待など受けているようには感じられない。

 俺の勝手な想像、思い違いであればいいのだが。

 

「それに、俺がどうこうできるわけでもないしな……」

「どうしたのおにいさん。変な顔して」

 

 溜息交じりに、そうつい声に出してしまった俺へ向け、ミナは更に怪しんだ顔付きになる。

 

「ん……いや、なんでもない。それよりミナ、さっきも言ったけど今日はあんまり長いこと付き合ってやれないんだ」

「うん、大丈夫だよおにいさん! ミナも昨日のお礼が言いたかっただけなの!」

「そっか。それじゃ――」

「あっあのっ! おにいさん!」

 

 ならば俺はここいらで、そう言おうとした俺の言葉を遮って、ミナは何かしらを言いたげな素振りを見せる。

 

「ん? どうした、やっぱ何かあるのか?」

「あ、明日は……明日もここ、通る?」

「ん、んー……」

 

 先述したように、ラピスのバイトは平日のみであり、となれば俺もまたこの道を通る理由もない。

 ならば正直に「いいや、通らないよ」とでも言えば良さそうなものだが、どうにも眼前のミナの表情を見てしまうと、そう断言してしまうことに若干の躊躇いが生まれる。

 よって俺は、返事を保留する代わり、逆に彼女に質問してみることにした。

 

「……ミナはどうなんだ。明日もこの時間、ここで遊んでるのか?」

「うん。ミナはここにいるよ。この山に……ずっと」

 

 言葉の最後は目を伏せながらの――何をか思い詰めたような、そんな色を感じさせた。

 

「変な言い方するんだな。そんなにここが気に入ってんのか。……で、明日、明日ねぇ……」

「あっ……大丈夫だよおにいさん! 無理しなくてもいいの! ちょっと聞いてみただけだから!」

 

 明らかに俺に気を使っているのが丸わかりなその様子は、健気さすら感じさせるものだった。

 こんな年端も行かぬ少女にそんな気遣いをさせてしまうのはどうにも心苦しく、若干の良心の呵責を感じざるを得ない。

 俺はたっぷり十秒ほどの時間をかけ、悩みながらも言葉を発した。

 

「悪いが、約束はできないな」

 

 案の定、この俺の言葉を聞いた瞬間、ミナは明らかに気落ちした態度を見せる。

 

「そ……そう。……うん。わかったよ、おにいさ――」

「でもま、もし時間が取れるようだったら顔を見に来るよ」

 

 よくもまあこんなに素早く表情を変化させられるものだと感心する。

 打って変わって元の、いやそれ以上の笑顔へと表情を変えたミナは、たちまち声を弾まさせた。

 

「ほ、ほんとっ!? ほんとにっ!?」

「ああ。でもあんま期待すんなよ。お前も他に用事でも入ったらそっちを優先しろよ。どっちにしろ平日はここ通るしな。そっちのが確実だ」

「――うん、うん! わかったの!」

 

 ……本当に分かったのかどうか訝しむほどのはしゃぎっぷりだ。

 これで明日、やはり顔を見せられぬ羽目になってしまった時のことを思うと、やはりきっちりと断っておくべきだったかという後悔の念が押し寄せる。

 とはいえ、今さら撤回するわけにもいかない。

 仕方ない、明日のことは明日のこと。その時になってから考えよう。

 

「んじゃ今日はここまでだ。それじゃ、またな」

「あっ! ちょっと待ってほしいの!」

 

 再度踵を返そうとした俺を、またもミナが止める。

 

「どした?」

「おにいさん、これ。貰ってくれる?」

 

 そう言ってミナは、懐から小さな包みらしきものを取り出し、俺に手渡す。

 

「ん? これは……お守り?」

「はいなの!」

「縫ってある名前はこれ、買った神社の名前か? ……聞いたことないな。どこのだ?」

 

 橙色の糸でもってして全体を設えられているそのお守りは、『大道寺陽首白露稲荷御守』と茶褐色の糸で刺繍がされている。

 これは果たしてどう読むのが正解なのか。

 

「これはね、すっごくご利益があるお守りなの。本当はむやみに人にあげちゃダメって言われてるんだけど……おにいさんならいいよ! 今までのお礼!」

「そ、そうか……」

 

 たかが駄菓子とおにぎりを奢られたくらいで、そんな大層なものをホイホイ渡すのはどうなのか。

 いや、一応昨日の分はミナが払ったことにしてるんだっけか。

 

「それじゃ、もう他にはないのか? いいなら俺は行くけど」

「うん! じゃあまたね、おにいさん!」

 

 ミナは、昨日と同じく俺が視界から消えるまでずっと手を振り続けていた。

 後ろを振り返っても彼女の姿が見えなくなったあたりで、俺は先ほど渡されたものをポケットから取り出してみる。

 と同時に、先ほどの自分の行動を鑑み、己が軽率さを改めて感じる。

 

「安請け合いしちまったかなぁ……」

 

 言いながらそのお守りを観察してみれば、どうやら機械的に生産されたものではない、手作りの品のようだ。

 橙色の糸は光の当たり加減で金色に輝き、見た目も相まって神々しいまでの光を放っている。

 そうしてまじまじと見ながら、指で感触なども確かめていると、どうも指先にコリコリとした感触を感じる。

 

「……米?」

 

 紅い紐を解いて中に入っていたものを取り出してみれば、中から数粒の米がまろび出てきた。

 それも精米などなされていない、収穫直後といった様相のものだ。

 

「ま、豊穣の神様を祭ってる神社なのかもな」

 

 言いつつ俺は、他に何か入っていないかと中を探る。

 すると、今度はなにやらこそばゆい感触があった。

 柔らかいそれを次いで取り出してみると、小さく紐で纏められた毛の束が姿を現す。

 何かの動物の毛だろうか。色は褐色がかったオレンジ色で、先端は白くなっている。

 それはあえて言うなら、これを渡してくれた人物の髪色によく似ていた。

 

「……まさかな。偶然だろ」

 

 頭にふと過った考えを打ち消した俺は、今日こそはあのうるさい死神に文句を言われないよう、行く道を急いだ。

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

 それからは首尾よく歩を進め、無事ルナへと入店することができた。

 時間もそれほどは経っていない。

 

「おっ、今日は早いんだね。感心感心」

 

 中に入ってきた俺を、今日のところは聖さんもすぐに気付いたようだ。

 俺は聖さんに促され、空いているカウンター席に腰を下ろす。

 

「またあいつの機嫌を取るのに苦心したくないですから。それより、また客が多くなってません?」

 

 気のせいではない。

 昨日もいつものこの店のことを考えれば大繁盛と言って差し支えない繁盛っぷりだったが、今日はほぼ満員といった様子である。

 

「うん、噂が噂を呼んで、といった所だろうね。しかしわずか数日でここまでとは私も予想していなかったな。彼女にはいくら感謝してもし足りないよ。仕事ぶりも真面目だしで言うことはないね」

 

 その真面目っぷりを普段の態度にも出してほしいところだ。

 俺が聖さんに苦笑で答える中、ちょうどその人物が小走りにやってきた。

 

「我が君! 来てくれたのじゃな!」

「ああ。真面目にやってるみたいじゃないか」

 

 今日は初めから上機嫌なラピスの顔には、僅かに汗が滲んでいる。

 この盛況ぶりなのだ、結構な仕事量なのだろう。

 

「ふっふーん、これがわしの実力よ。どうじゃ、見直したであろう」

「そいつを言葉にしなきゃ更にいいんだけどな」

 

 たまには素直に褒めてやろうと思ったらこれである。

 

「まったく我が君ときたら、いつも一言多いの。ところで我が君よ、今日もまた聖から料理を習っての? 今日は学び舎の方が早く終わったからの、時間は多少かかったが、何とか間におうたわ」

「へぇ。今度は何だ?」

「ふっふっふ~……これじゃ!」

 

 メイド服の胸辺りに手を入れたラピスは、中からこじんまりとした白い袋を取り出した。

 ご丁寧に黒いリボンで上部を縛ってある。

 

 彼女からそれを受け取った俺は、リボンを紐解き中のものを確認してみる。

 中を覗き見れば、小さめのチョコが五個ほど入っているのが見えた。

 それらは皆揃って、またもハート形である。

 

「……とりあえずありがとうと言っておくけどな。お前、次からこの形はやめろ。あとモノをそこに仕舞うな」

「何を言っているのだ竜司くん。贅沢にも程があるというものだぞ。替われるものなら替わってやりたいくらいだ」

「むしろそうしてくれるとありがたいですよ……食べます?」

 

 この衆人環視の中ハート形のチョコを送られるなど、流石に嬉しさより羞恥が勝るというものだ。

 事実、店中の客たちの視線は俺とラピスの二人に釘付けになっている。

 中でも若い男たちの中には、俺に対し明らかな敵意の視線を送ってくるものまであった。

 そんな怨嗟の視線混じりの注視に当のラピスは気付いているのか、あるいは気付いた上で無視しているのか、俺に対しての態度を改めようとしない――どころか。

 

「あっこら、お前っ!」

 

 慌てて止めようとする俺の手を器用にかわしながら、ラピスは俺の膝の上に腰を下ろす。

 

「そなたは出会ったときからそうであったの。本心とは逆のことばかり言いおる。わしにはちゃあんと分かっておるのじゃぞ? 本当は嬉しゅうてたまらぬくせに照れおって」

 

 そして上目遣いで俺を見上げながら、くすくすという笑いと共にそんなことを言い出す。

 更には両腕を伸ばし、俺の首を下から抱くようにしながら、である。

 

「お前な……!」

 

 完全に図に乗っている。

 これは恐らく昨日俺がラピスの作った料理を過剰に褒めたこと、あれが原因だろう。

 しかし実際美味かったのは確かなわけで、こいつが調子に乗っている大元の原因を作ったのは俺である。

 そうした自覚があるゆえに俺がこいつに強く出られないこと、それをこの死神は重々承知なのだ。

 にやにやと笑う顔を見ればそれは一目瞭然である。

 

「あーキミたち、続きは帰ってからにしてくれないかな。ラピスちゃん、このままでは彼がこの店を生きて出られないぞ?」

 

 半ば呆れの色が混じった聖さんの声に、視線を周囲に向ければ。

 俺たち――いや、俺に向けられた視線は敵意を通り越して殺意までをも含んだものに変化していた。

 

「それにお客様たちをずっと待たせてもいけない。ほら、仕事に戻りなさい」

「仕方ないのう。それでは我が君、また後にな!」

「ああ……またな……ってお前、それ」

 

 膝から元気よく飛び退いたラピスは、片手を上げてその場から去ろうとするが。

 その上げた手に違和感を感じた俺は彼女を呼び止める。

 

「お前まーたケガしたのか? 気を付けろよ」

 

 いくらすぐ治るとはいえ、連日ともなると流石に一言言いたくもなる。

 ラピスの指にはまたも絆創膏が貼られていた。昨日は人差し指、そして今日は中指である。

 

「う、うむ、分かったのじゃ。いやなに、やはりまだ慣れぬことゆえ、どうも手元がの。そ、それではわしは仕事に戻るぞ」

 

 ラピスは早口で言い終えると、そそくさと他の客の元へと走っていってしまった。

 まあ、自称偉大な神様としちゃ、二日連続で包丁で指を切るなんてヘマはあまり指摘してほしくないのだろう。

 しかしそれにしても、あそこまで慌てなくてもよさそうなものだ。

 大体もっと恥ずかしいというか、情けない姿をこれまで散々晒しているくせに、何を今さら。

 

「……ん? 待てよ?」

 

 ここで俺は、ふと妙なことに気付く。

 今日あいつが作った料理はチョコレートだ。

 既成のものを溶かし固めるだけのもののはず、指を切るような場面が果たしてあるだろうか?

 まあ、実際俺は菓子作りなどしたことがないし、多分どこかで使用する場面があるのだろうな。

 俺がそうしたどうでもいいことに思いを馳せていると、聖さんから声がかけられた。

 

「しかし本当に、キミはあの子とどういう関係なんだい。彼女が君に対して向けている情愛は尋常じゃないぞ。それこそ、キミの為なら死をも厭わない、とでも言いそうなほどだ」

 

 言いそうどころか、実際に言葉にされてんだよなぁ。

 しかしどういう関係だと問われても、まさか本当のことを言うわけにもいかない。

 それにたとえ事実を言ったところで、バカな冗談と思われるのが落ちというものだろう。

 故に俺は、ここは曖昧な言葉で濁すに留める。

 

「……まあ、色々とありまして」

「ふふ、今度詳しく聞かせてもらうとしよう。……しかし、お客様が増えたことは喜ばしいことだが、これは少し心配ごとも出てきたな」

 

 店内を一望した聖さんは、やや物憂げな顔つきになる。

 

「何がです? 心配ごとって」

「単純にラピスちゃん一人ではこの先厳しいのでは、ということが一つ。無論私も彼女に負けないよう奮起するつもりではあるが、こうも急に増えるとなると……」

「……ま、確かにこれまでとは比べものになりませんもんね」

 

 俺は子供の頃からこの店を知っているが、こんな盛況ぶりは今まで一度として見たことがない。

 これが本当にラピス一人の力によるものなのだとしたら相当なものだ。

 俺はもう見慣れてしまっているから鈍くなっているのだろうが実際、ラピスの容姿はそこらのアイドル顔負けである。

 こんな田舎の寂れたアーケードの中でそんな女性店員が居るとなれば、こうして人気が出るのも当然なのかもしれない。

 

「まあ、それはおいおいまた新たにバイトでも雇えばいいのだけどね。それよりもっと心配なことがあるんだ」

「と言うと?」

「これまではこの店に来る客といったら、もっぱら同じアーケードの人たちだったのだけどね。今のように若者、特に高校生や大学生くらいの男の子などは滅多に見なかった。それが今や、見たまえ」

 

 聖さんに促されて改めて店内を見渡すと、確かにこれまでとは客層が違ってきている。

 客の半数は若い男で占められており、その誰もが見知らぬ連中だ。

 そして彼らはまた、先ほど俺に敵意の視線を向けてきた者たちでもあった。

 まあしかし、同じ男として彼らの気持ちが分からぬでもない。

 可愛い店員が一人の客とずっとくっちゃべってちゃ、そりゃいい気はしないよな。

 

「新規の客が増えるのは結構なことじゃないですか。それがどうかしたんですか?」

「うん、店の売り上げが増えるのは勿論願ったりなのだが。しかしながら、ラピスちゃんのような可愛らしい娘、それに妙齢の女性が二人だけとなると――む。……噂をすれば影だ」

「?」

 

 苦虫を噛み潰したような顔になった聖さんの視線を追うと、その先にはラピスの姿がある。

 どうやら若い男二人組への接客中のようだが、なにやら様子がおかしい。

 俺は黙り込み、先のテーブルで如何な会話が行われているのかに集中しようとしたが、男たちの声はことのほか大きく、さして気を回さずともこちらにまで話し声が届いていた。

 

「ねえねえメイドさん、写真撮っていい?」

「俺たちにもさっきの客に対してみたいにしてくんない? ていうか何渡してたの?」

「い、いやその……あれは特別な……」

 

 その二人組は、見た目は俺と同じくらいの年かさに見える。

 先ほどの俺とラピスとの様子を見ていたからこその言葉なのだろうが、やけに馴れ馴れしい。

 また当のラピス自身も、俺が少し離れた位置にいるからか、声に張りなく、しどろもどろになっている。

 

「ええーっ? なに? この店は客を差別すんの? そりゃないでしょ」

「そうだよ。いいじゃん写真くらい」

 

 そんな大人しい彼女の様子を見てか、男たちは更に調子に乗り出す。

 その光景を俺と共に見る聖さんはこめかみに指を押し当て、憎々しげに言った。

 

「見ての通りだよ。ああいった手合いが増えてしまう可能性があるんだ。なにしろ女性定員二人だけだからな、舐めた目で見られるんだろうね。……例の件、この分ではやはり中止にすべきかな……」

「……あのバカ、何を大人しくしてんだ。あんな奴等お前にかかりゃなんでもないだろうに」

 

 俺はそう毒づくも、あいつの内弁慶ぶりは俺もよく知っている。

 俺の前では大物然たらんとしちゃいるが、実際のあいつは気の弱い、それこそ見た目通りの――いや、むしろ見た目以上に精神的に脆いやつなのだ。

 

「ねーって! ほら、こっち来てよ!」

「――あっ!?」

 

 更に調子づいた男はラピスの片腕を掴み、己が(たもと)へ引っ張り込もうとする。

 ラピスは小さく悲鳴を上げ、たたらを踏む。

 

「あいつら――ッ!」

 

 気持ちは分かる――とは確かに言ったが、前言撤回だ。

 ものには限度というものがある。

 俺はガタンと音を立てて立ち上がり、連中の元へ駆け出そうとするも、聖さんがそれを止めた。

 

「待ちたまえ竜司君。ここは私の店だ、私が然るべき処置をする。あんなかよわい少女を乱暴に扱って……男の風上にも置けない連中だ。伊達に何年も女手一つで店を切り盛りしていたわけではないこと、思い知らせてくれる」

 

 酷薄な笑みを浮かべた聖さんは、指をゴキゴキと鳴らす。

 俺も相当な憤怒の表情を浮かべていたと思うが、彼女のそれは、そんな俺の激情すら消沈させてしまうほどの凄みに満ちていた。

 それにより俺は幾許か平静を取り戻したが、それでもあの連中に対する怒りは未だ冷めやらない。

 

「――む?」

 

 俺がどうすべきか悩んでいる中、聖さんが小さく声を上げた。

 彼女の目は驚きの呈を成しており、すわこれ以上あの連中が何か仕出かしたのかと彼女の視線を追うも。

 その先に展開されていた光景は、およそ予想だにしないものだった。

 

「……兄ちゃんよ、無理矢理っつーのはよくねェな?」

 

 声の主はナラクである。

 今日もまたいるのか……ことによるとあいつ、毎日来てんじゃないのか?

 しかし今はそんなことはどうでもいい。

 奴は今、ラピスにちょっかいをかけてきた男の肩を掴んでその動きを制している。

 素直にその光景を見れば、ラピスを助けようとしているように見える。

 ……が、奴のことを知る俺には、とてもそう素直に思うことはできない。

 一体何を企んでいるのか。

 俺のことには奴も気付いているはずだが、そのことには気を回す様子を見せず、続いて男たちに話しかけた。

 

「嫌がる女を無理矢理っつーのはいけねェよ、いけねェ。俺も同じ失敗をやっちまったコトがあるんだが、後で気分最悪になんぜ? しかもその後負けたとあっちゃァ、マジで死にたくなるってなもんだ」

「な……なんだあんた。あんたは関係ないだろ?」

 

 ナラクに肩を掴まれる男は気丈に言うが、声には震えが混じっている。

 それも当然のこと、急に強面の大男が現れたとなれば誰でもそうなるだろう。

 

「ま、そうなんだがね。だがよ、俺ァここの静かなところが気に入ってたんだ。なのに最近は喧しくていけねェ。ただでさえムカついてるときによ、アホな騒ぎ起こすんじゃねェよ。それに俺ァそいつにちっと借りがあってな……手ェ放しな」

 

 ナラクは男の、ラピスの手を掴んでいる方の腕をむんずと鷲掴みにして、次いで捻りあげた。

 ギリリという音がこちらまで届いてきそうな勢いである。

 これには男も堪らず悲鳴を上げた。

 

「いって……痛ぇ! 放せよ!」

「おや、反省がねェな? 俺にしちゃ随分優しくしてやってるんだけどな、そういうコトなら仕方ねえか。……おーい、店長よ!」

 

 男の腕を掴み――いや、腕ごと男をぶらりと持ち上げた姿勢でして、ナラクはこちらに向け声を上げた。

 奴の言う店長、すなわち聖さんもそれに答える。

 

「なんだね?」

「今からこいつらと話つけてくんだけどよ、もしかするとこいつら、今日はここに戻ってこれねェかもしれねェ。先に支払い済ませといてくれや」

「その心配には及ばないよ。君たち、お代は結構。その代わり、二度とこの店には来ないでくれたまえ」

 

 男たちを付けようとする素振りなど微塵も見せることなく、きっぱりと聖さんは宣告した。

 

「だってよ。タダだぜ、よかったなァ? ……それじゃ、じっくり話し合いと行こうや。……アンタもな?」

「ひっ、や、やめっ……ッ!?」

 

 ナラクは逃げ出そうとするもう一人の男の首根っこを引っ掴むと、二人を脇に抱えて店の外に出ていってしまう。

 残った店の客たちは――もちろん俺も含め、ただ呆然と出入口を見続けていた。

 

「……なんだあいつ。どういう風の吹き回しだ?」

 

 まさか本当にラピスを助けるために?

 だがしかし、奴が何故そんな気を起こすのか。

 俺たちを殺しに来た刺客ではなかったのか?

 

「ふむ……竜司君。彼はキミのと顔見知りのようだが、一体どんな手合いなのだね」

 

 聖さんも流石に奴のことが気になったのだろう、訳知り風の俺に聞いてくる。

 

「いや、どうって言われても……俺も詳しくは知りませんよ」

「そうか。ならば質問を変えよう。彼は今現在、定職にはついているのかい? ほぼ毎日のように来てくれているが」

 

 妙なことを聞く。

 奴のことが気になるのは分かるが、そんなことを知ってどうしようというのか。

 

「いやぁ……多分、何もしてないんじゃないかな……」

「そうか……うん、そうか。分かった、ありがとう」

 

 聖さんは何かに得心した様子で、うんうんと深く頷く。

 その理由が気になるところではあるが、先にあいつの様子を見に行かねば。

 

「――おいラピス、大丈夫か?」

「えっ……あっ、我が君……」

 

 ラピスはこの一連の騒動に放心してしまったようで、地面にへたり込んでしまっている。

 近付く俺にも気づかず、こうして声をかけてようやくといった感じだ。

 俺はそんなラピスの腕に努めて優しく手をかけ、ゆっくりと立たせてやる。

 

「ほれ、いつまでも地べたに座ってんなよ。立てるか――っとと。おい、本当に大丈夫か?」

 

 なんとか立たせることに成功したものの、ラピスは足の力が入らないのか、俺の胸に倒れかかった。

 ……まさか腰でも抜かしているのか?

 いくらなんでもそれは無いだろうと、胸元に位置するラピスの後頭部を眺めていると、不意にそこから笑い声が漏れ出してくる。

 

「ふ、ふふふふ……」

「何だ?」

 

 俺の胸に顔を埋めていたラピスは、面を上げてその表情を俺に見せる。

 その顔は俺の予想に反し、やけに嬉しそうなものだった。

 

「やはり何のかんのと言うても、そなたはわしが心配なのじゃなぁ? こうして優しくしてもらえるのであれば、あれらが如き匹夫の存在も一概に害とばかりというわけでも無いのかもの?」

 

 ――こいつ。

 さてはへたり込んでいたあたりからは演技だったな?

 

「ったく……平気なんだったらさっさと離れろ」

「なんじゃあ、いけず」

 

 肩を押して密着していたラピスを離れさせると、彼女は不満げに口をとがらせる。

 そうした、ある意味いつものやり取りをしている中、俺たちの元までやってきた聖さんからラピスへの謝罪の言葉が入る。

 

「ラピスちゃん、すまなかったね。怖い思いをさせてしまった。これは店長である私の責任だ」

「なに、気にするでない。あのような小物、物の数ではないわ」

「そう言ってくれるのは嬉しいが、今後このようなことが無いとも限らない。例の件だが、もう少し日を改めてということにしよう」

「む……そうか?」

「そんな残念そうな顔をするな。私に考えがあってね、首尾よくいけばまたすぐに手を付けようじゃないか」

「そういうことなら……わしは構わぬが」

「聖さん。昨日から言ってるそれですけど、一体何をする気なんです」

 

 と聞いたものの、昨日と同じく「後のお楽しみだ」とはぐらかされてしまった。

 

「どうせまたロクでもないことなんだろうよ……」

 

 再び元のカウンターに座る俺は、聖さんの淹れてくれたコーヒーを飲んでいる。

 そうして独り言ちつつ、俺はラピスの作ったチョコを一つ口に入れてみると。

 

「……やっぱあいつ、料理の才能があんのかな?」

 

 思わずそう口に出してしまうほどのものだった。

 ラピスの作ったチョコは、単なる既製品を成型しただけとはとても思えぬ、まるで高級洋菓子店のそれを思わせた。

 そして何とはなし、昨日のオムライスの時と同じような後味を口内に感じる。

 ……この店独自の出汁というか、隠し味的なものでもあるのだろうか?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

週末 ①

「じゃっわーーーッ!!」

 

 ようやく訪れた週末、土曜の朝である。

 この一週間は、まあ色々と紆余曲折あったものの、この一か月のことを思えば比較的穏やかに過ごせたと言える。

 さて、朝方から響く頓狂な叫び声を何ごとかと思われているかと思うが、まあ、それが誰かはこの特徴的な悲鳴から明らかであろう。

 

「ふわぁ……おはよう」

 

 手に残る熱を感じつつ、俺はベッドから転げ落ちたそいつに向かい声をかける。

 今日も今日とてそいつは、四つん這いの姿勢で手を尻に当てつつ悶絶していた。

 

「うぅ……なんだか込める力が日に日に強くなっておるような気がするんじゃが……」

「そう思うならいい加減俺の上で尻向けて寝るのはやめろ」

 

 そう、毎日なのだ。

 これが一回や二回ならば、俺もこうして手を上げたりなどしない。

 しかしこう毎朝ときては、いっそわざとかと勘繰ってしまいそうだ。

 

「そう言われてもぉ……寝相なのじゃから仕方ないではないかぁ~。狭量なお人じゃ」

「ほぉ~? こんな毎日毎日同じ寝相になるってのか?」

「事実なのじゃから仕方あるまい!」

 

 そう言って、いかにも自分は悪くないとでも言いたげに鼻を鳴らす。

 ならばと、俺も冷静に宣告してやることにした。

 

「なら俺の対応も継続だな」

「そんなぁ! ……そもそもじゃな! 愛しき下僕に対するものとして、かような態度は如何なものかと思うぞ! 優しく抱き起こし、おはようの接吻の一つくらい――」

「八時か、丁度いい時間に起きたな。そろそろ花琳が呼びに来る頃かな」

「わしの話を聞けーっ!!」

 

 朝っぱらから喚き散らすラピスを無視し、俺は寝間着姿のまま部屋を出ると、花琳が待つリビングへと向かった。

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

「兄貴さ~、そろそろ窓開けて寝るのやめなよ。兄貴だって寒いっしょ?」

「うん? どういうことだ?」

 

 花琳は紅茶を飲みつつ、そう声をかけてくる。

 用意された朝食は互いに食べ終わり、のんびりとした時間が流れていた。

 

「どうもこうもないよ。例の猫、毎日来てんでしょ? 今日も声聞こえてきたよ」

「ああ、そのことか。いや、いくら叱っても懲りないヤツでな。窓閉めてても器用に開けてくるんだよ」

「なにそれ……」

「それより花琳。受験勉強の方はどうなんだ。順調か?」

 

 ラピスに関する話題はなるべく避けたい俺は、やや強引ながらも話を変える。

 

「――ん? んー……ぼちぼちってとこかな。このままなら多分なんとかなりそう」

「そうか。ウチは高校からだとけっこう難しいらしいからな。頑張れよ」

「ほんとだよ。あたしも兄貴みたく中学から入れてれば楽だったのにさ」

「クジ運だからな、こればっかはどうしようもないだろ」

「まぁね~……」

 

 俺の学校が中高一貫校だという話は大分前に述べたが、まだ説明していないことがある。

 まあ、特に説明する必要もない話であったからなのだが。

 それが何かといえば、妙な受験システムを取っていることだ。

 中学受験では例え合格点を取れても、その後にあるクジで合格者の半数は落とされてしまうのである。

 これは全国的にも珍しいシステムらしいが、他の学校でも採用しているところは何校かあるようだ。

 それで俺は無事当たり(・・・)を引き当てたのだが、後に受験した花琳は残念ながら運がなかったらしく、折角合格点を取れていたというのに落ちてしまったのである。

 あの時の花琳の憤慨ぶりは未だに思い出すのも恐ろしい。

 ちなみに高校受験になるとこの馬鹿らしいシステムは捨て去られ、純粋な学力勝負となる。

 妹は今度こそという意気込みでもって中学三年の今、来たる春に向け頑張っているというわけだ。

 

 しかし、どうして花琳がウチの学校に行くことをこうまで固執するのかは謎である。

 正直、花琳の学力は見た目に反し――というと失礼だが相当に高く、望むならもっと上の学校も狙えるはずだ。

 ……ま、そこまでは詮索するべきことでもないだろう。理由は人それぞれだ。

 

「――ま、でも高校の方は完璧成績だけで取るんだ。今度こそ頑張れ」

「ん、ありがと。……あ、そだ。今日ノート買いに行かないと。そろそろ切れそうなんだよね」

「ふーん……」

 

 とりあえずの相槌を打った俺だが、妹の言葉をもう一度頭の中で反芻するに、ふとあることに思い至る。

 

「花琳、俺もついてっていいか?」

「え? ……あ、うん。そりゃ別にいいけどさ。どしたの兄貴、珍しいじゃん」

「俺も丁度買いたいもんがあってな」

 

 ノートという単語で思い出した。

 あいつに文房具の類を買い与えてやらねばならないことをだ。

 今のところは俺のお古や、もしくはクラスの連中に借りたりしているようだが、いい加減一通りのものを用意してやってもよかろう。

 

 ……それに、例の約束(・・)もあることだしな。

 花琳にはうまいこと言って、山を越えた先の文具店に行くことにしよう。

 

「で、どうすんの? 食べ終わったらすぐ行く?」

「いや、こんな早くからは店も開いてないだろ。昼食ってからにしようぜ」

「そ、そっか、そうだね。んじゃそうしよっか。お昼、何か食べたいもんある?」

 

 ――ん?

 

「リクエストしていいのか?」

「うん。何がいい?」

 

 花琳が食事の献立を聞いてくるときというのは、決まって機嫌がいい時である。

 ちなみに機嫌が悪いときは、俺に対するあてつけのように俺が苦手なメニューばかりで構成される。

 ……サバ缶ひとつきりなどというのは流石にあの時くらいだが。

 

「そうだな……ちょっと考えていいか? あとで言いに行くよ」

「いいけど早くしてよ。あんまり遅かったらこっちで勝手に決めるからね」

「はいよ、んじゃまた後でな」

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

「――てなわけだ。何か食いたいもんあるか? うまいこと言って多めに作ってもらうからさ」

「むうぅ~……」

 

 部屋に戻った俺は先ほどの件をラピスに伝えるも、なにやら彼女は呻りつつ俺を睨めつけている。

 

「なんだその不満そうな目は」

「なんだではないわっ!!」

 

 瞬間、ラピスの口から怒号が発せられる。

 

「おおっ!? ――ちょ、お前、声でかいって」

「折角の休日、ようやく一日自由になれる時間を得たというに……汝はなんじゃ、わしより他の女のためにその貴重な時を使うと申すか!?」

「他の女ってお前、妹だぞ……」

「なんでもよいわい! 下僕の忠勤に対し、この機にその労をねぎらってやろうという気遣いの一つもできぬのか貴様は!」

「あ、あぁ~……そういう……」

 

 そこまで言われ、俺はようやく得心がいった。

 ……つまるとこ、ラピスは俺に構ってほしいのだろう。

 まあ、こいつの言うことには一理ないこともない。

 生まれて初めての労働を、まがりなりにもこいつは一週間やり通したのだ。

 内弁慶なこいつにとっては、それなりのプレッシャーもあったことだろう。

 なれば、その頑張りに対して何かしらの見返りが欲しいというのは自然な欲求である。

 

「……しかし自分で言うか、それを」

「汝が鈍いからじゃろうがっ!! わしとて、こんなことを自分から言い出しとうなかったわ!」

 

 そう言うラピスの顔はやや赤い。

 できれば俺の方から、そうした誘いの言葉をかけてほしかったのだろう。

 

「――ま、そりゃたしかに悪かったよ。じゃ、明日二人でどっか遊びにでも行こうぜ」

「……まことか」

 

 期待が空振りに終わった直後ということで、俺を見るラピスの目は疑いの色が濃い。

 

「ああ、約束だ。休日は今日だけじゃないしな。どっか行きたいとこでもあるか?」

「むむ……そう言われてもの。わしはどこかに出かける、といった経験なぞしたことがない。汝に任せる」

「そうか。まあそういうことなら明日までになんか考えとくよ」

「うむ、期待しておるぞ」

 

 返答するラピスの声からは、それまであった棘が消えている。

 一応、機嫌は直ったようだ。

 

「で、言った通り今日は妹と出かけることになったんだが、お前はどうする? 家で待っとくか? ……それとも透明化して付いてくるか?」

「ふん、そんなうすらみっともない真似なぞ御免じゃ。今日のところは聖のところにでも行くとしよう」

「ルナに? でもお前、バイトは平日だけだろ?」

「聖とはまだ話すこともあるでの。ここ数日は忙しさでそれどころではなかったゆえな」

「そっか。んじゃ、ほれ。先に渡しとくぞ」

「む?」

 

 俺はそう言って、財布から一枚の千円札を取り出す。

 

「まあ聖さんのことだし金は要らないって言うだろうけど、一応な」

「変なところで律儀な男じゃの、そなたは。まあよい、貰っておこう」

「聖さんがそう言ったからって無駄遣いすんなよ?」

「わしは(わらべ)か!!」

 

 子供そのものだろうが。

 実際はともかく――いや、最近のこいつを逐一観察するに、元々精神的にやや幼いところがあるのではと思わないでもない。

 

「そんで話を戻すけどよ、昼飯は何がいいんだ?」

「ふん、そんなもの要らぬわ! 聖に言って何ぞ作ってもらうわ、この金でな! ぜーんぶ使ってやるからの!」

「……」

 

 千円札一枚がどれほどの多寡だと思っているのだろうか、こいつは。

 いや、いち高校生にとっては大金には違いないが。それでなくとも最近出費が多いしな。

 ……そういえばこいつ、まだ実際には金を見たことがないのか。

 そもそも何かを買うという経験すらしたことがないのだ、さもありなん。

 いずれルナで給料が出るだろうし、そのへんはおいおい理解していくことだろう。

 死神の服から制服に着替え直したラピスは、そのまますぐ部屋を出ていってしまった。

 

「……いずれ制服以外も用意しないとな」

 

 ラピスは気にしていないが、学校も無いのに制服姿というのはいかにも変である。

 妹の服を借りるにせよ、万が一バレたときのことを考えるとそれはあまりやりたくない。

 

「――ん? そういや、これが初めてか」

 

 ふとあることに気付いた俺は、他に誰もいなくなった部屋で一言漏らす。

 というのは、ラピスがこの世界に来てから初めて、俺は部屋で一人きりになれたことだ。

 これはまたとない機会を得た。

 俺は考えを巡らせ、この機に――あいつの目がない今、やっておくべきことを模索する。

 

「……そうだ、あれだ」

 

 俺は腰かけていたベッドから立ち上がると、机へと向かう。

 そして上から二番目の、小さな引き出しへと手をかける。

 

「おっと、忘れてた」

 

 俺はポケットから財布を取り出すと、小銭入れの中から小さな鍵を取り出す。

 もちろんそれは言うまでもなく、手をかけかけた引き出しの鍵である。

 さて、こうして鍵をかけてまで秘匿している中身についてだが、もし期待されているのならば謝らねばならない。

 ……中に入っているのは、いわゆる少しいやらしい本の類である。

 と言っても、せいぜいがグラビア程度のものばかりであり、こうまでして隠すほどのものでもないといえばその通りなのだが、思春期の男子としてはやはり恥ずかしいものだ。

 特に母親や妹などに見られでもしたら、俺は一か月は悶える羽目になるだろう。

 

 ……まあ、仮に彼女らに見つかったところで白い目で見られる程度で済むとは思うが、一人だけ例外がある。

 あの嫉妬深い死神。

 ヤツにこれらのブツを発見されるようなことがあれば、どんな惨劇を呼び込むことか分からない。

 他の女と話したくらいでぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるあいつのことだ、これは杞憂ではなかろう。

 よって、他にもっと完璧な隠し場所に移動――ことによると涙を呑んで廃棄、という線すら考慮に入れねばならないだろう。

 実に惜しいが、命には替えられない。

 俺は手に持つ鍵でもってしてロックを解除し、すっとその引き出しを開ける。

 中には、三冊ほどのそれら雑誌が入っていた。

 

「……やっぱ、もしものことを考えると捨てるしかないのかなぁ」

 

 結構お気に入りだったんだが。

 俺はその中の一冊を取り出すと、名残惜しげにひとつ頁をめくってみる。

 

「……ッ!」

 

 ばさりと、乾いた音が響いた。

 それは、俺が手に持った雑誌を取り落とし、床に落ちた音である。

 

「馬鹿な、そんなこと……!」

 

 間違いなく鍵はかかっていた。誰も開けることはできなかったはずだ。

 俺はもう一度雑誌を拾い直し、他のページにも次々と目を通していく。

 

「……」

 

 全てのページをめくり終えた俺は放心しきった顔で、(くう)を朧な顔で見つめる。

 まるで悪い夢の中にでもいるような気分だ。

 

 俺がこうして虚脱しきっている理由はひとつ。

 雑誌に載っている女性たちの顔部分(・・・)――それら全てが、乱雑に破り取られていたためである。

 これが一つや二つならばまだ、単なる偶然と強引に思い込むこともできたろう。

 がしかし全ページに渡り、そのすべてがときては、それもかなわぬこと。

 念のために残った本についても確認してみたが、やはり同じような処置がなされていた。

 

「……あいつ、気付いてたのか? いや――」

 

 そんな素振りはなかった。

 大体鍵は俺が常に持っているのだ、あいつに開けられるはずがない。

 ……いや。

 こんなチャチな鍵ひとつ、あいつの力をもってすればどうということもないだろう。

 

 俺は怖気(おぞけ)に身を震わせる。

 その理由は、これらがラピスに見つかっていたことそのものではない。

 なにより恐ろしいのは――その上であいつが、普段通り俺に接し続けていたことだ。

 これならば激怒でもしてくれたほうが余程いい。

 ……そして俺はこのとき、ラピスのとある台詞を思い出した。

 

『わしは、その女を殺してしまうやもしれぬ』

 

 あの時も言い知れぬ凄みを感じたものだが――ことここに至り、それ以上の重みをもってして、俺の脳内に木霊し続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

週末 ②

またしても読者様より支援絵を頂きました。
今回は幼女バージョンのラピスです。

【挿絵表示】



「はー、せっかくなんでも作ってあげるって言ったのにさ」

「なんだ、不満だったか?」

「そうじゃないけど」

 

 俺と並び歩く花琳は先ほどからこのような、文句とまでは言わないまでも、俺に対する不満めいたことを言い続けている。

 今、俺たちは昼食を終え、目的のショッピングモールへと向かう最中だ。

 

「でもさぁ、よりによってうどんだなんて。おじいちゃんかっての」

「いや、ちょっと食欲が失せる出来事がな……」

 

 あんな物を見た後では、とても食欲など湧いてくるものではなかった。

 結局俺は、それでなんとか入りそうなものとして、素うどんを花琳にリクエストしたのだ。

 これには妹も随分な肩透かしを食らったようで、昼食を食べている間、ずっと仏頂面を崩すことはなかった。

 

「なにそれ。――ま、いいや。それより、なんでまたあんな遠いとこまで行こうっての? 別に学校の近くにある店でいいじゃん」

「あの店小さいからな、品揃えがイマイチなんだよ。あそこのモールの中にある店ならデカいしな。それにせっかくの休日なんだ、他の店も色々見て回ろうぜ。それともなにか、勉強が忙しくてんなことしてる暇なんかないか?」

「んっ……そんなこと、ないけど」

「なら――ん? お前、まだそのバッジ付けてんのか」

「えっ? あ、うん……まぁね」

 

 妹が肩から下げている鞄を見つつ、俺は言う。

 彼女の鞄には、大小様々なバッジが取り付けられている。

 その量ときたら、下の生地が見えないほどだ。

 俺が目を止めたのは、その中の一つ――大量のそれらの中で、一際異彩を放っているものに対してだ。

 表面に描かれている塗料が所々剥げ落ちた、一目で古いものと分かるそれは、俺がその昔、何かがきっかけで妹にやったものである。

 もはやそれがいつだったか、やった本人でさえ記憶にない。

 

「ていうかお前、どんだけ鞄にバッジ付けてんだよ」

「しょーがないっしょ、今どきの女子中学生の間で流行ってんだよ。それに、あたしはほとんど買ってないし。後輩の子たちがやたらくれるんだよ……断るのも悪いしさぁ」

「そりゃあなんとまあ、随分とおモテになることで」

「うっさい!」

 

 ヤンキー然とした外見とは裏腹に、花琳は勉学、そして部活動にも真面目に邁進するタイプである。

 その才は、二年の時点で所属する女子陸上部の部長という肩書きを得たほどだ。

 三年生の今、既にその部活の方は引退しているが、にもかかわらず学校内での花琳の人気は高いようである。

 告白された経験は両の指では足りないほどだそうだ。

 しかし、にも関わずこれまで妹に彼氏が居たなどという話は聞かない。

 詳しく聞いてみると、どうやら告白してきた者たちというのは殆どが女子生徒であったらしい。

 

「ほんっとにさー……何考えてんだろうね。同性同士でどうしようっての」

「俺にはとんと分からない話だな」

「兄貴はぜんぜんモテないもんね~」

「やかましいわ! 俺だって――……」

 

 彼女はいないが、仲のいい女子くらい居る。

 俺はそう言いかけたが、すんでのところで思いとどまった。

 それら女子が誰かと言えば、鈴埜――はそう言うには微妙だし、だとすると残ったのはラピス、それにミナの二人しかいない。

 

 ……たった二人、それも幼女が。

 自信満々に口にするにはあまりにも情けないというか、言うだけ自分の恥にしかならぬような情報である。

 

「どしたの、兄貴。なんか言いかけた?」

「……いや、なんでもない。そうだ、それより花琳、この山ん中に神社があるの知ってたか?」

 

 若干自分の情けなさに気落ちしかけたが、俺は気持ちを切り替えて話題を逸らす。

 ちょうどタイミングのいいことに、例の場所に差し掛かったこともある。

 果たして俺がど忘れしてるだけなのか、妹にも聞いておきたかったところだ。

 

「――へ? いやいや、そんなのなかったっしょ」

「……だよなぁ、お前もそう思うよな。けどほれ。見ろよ、これ」

 

 がしかし、やはり花琳の記憶にも無いらしい。

 俺は例の神社へと続く山道を指差すと、花琳は驚いた風でそこを見た。

 

「あれ、こんなとこに道なんてあった?」

「だろ? 俺も同じこと思ったよ」

「ええ~……なんなんだか気持ち悪いなぁ。どこに繋がってるんだろ? 兄貴、確認してみた?」

 

 俺は数日前に見たことについて、その凡そを語る。

 

「マジなの、それ……? 怖すぎるでしょ。どこのホラー映画だっての」

「ああ、正直俺も二度と行きたくないな」

「ていうかさあ! そんなことがあったのになんでまたここ通るのさ!? 下道行けばいいじゃんか!」

「いやぁ、まあ下道だと遠いし――それに」

「それに?」

 

 俺がわざわざこの道を選択したのは、ミナの存在の有無を確認することにあった。

 いつもここを通る時間帯からは大分早いが、何故だか俺には、あの少女が今この瞬間でもここで待っているような気がしたからだ。

 とはいえそれは流石に杞憂に終わったようである。

 俺はそのことを確認し、つい花琳にミナのことを口に出しそうになってしまった誤魔化しをしようと、更にきょろきょろと辺りを見回す。

 

「……あーいや、えーっと……おっ?」

「どしたの兄貴?」

「なんだお前、まーた降りてきたのか」

 

 例の神社へ続く道、その奥から、一匹の獣が姿を現す。

 もちろんそれは言うまでもなく、例の狐である。

 歩みに若干の躊躇が感じられるのは、隣に花琳がいるためだろう。

 だが結局、狐は俺の足元にまでやってきた。

 

「ほーれほれ、いい子だいい子だ」

 

 俺は先日のように、そいつの頭をぐりぐりと撫でる。

 狐の方ももちろん拒否するような素振りなど見せず、されるがままになっている。

 そして、そんな俺たちの様子を見る花琳は。

 

「あ……兄貴。なんなのそれ」

 

 一歩足を引かせ、当惑した声を出した。

 

「この山に住み着いてるみたいでな。やけに人懐っこいんだ、お前も触ってみるか?」

「ええ~……噛まない? てか大丈夫なの、病気とかさぁ」

「ちゃんと手を洗やへーきだろきっと」

「適当だなぁ……でも、確かにちょっとカワイイかも」

 

 先日のように腹を見せて、とまではいかないまでも、狐は目を閉じながら喉を鳴らし、いかにも気持ちよさげにしている。

 その様子を見た花琳も、少なくとも噛まれるといった危険はないと判断したのだろう。

 花琳は恐る恐る手を伸ばす。

 すると、狐は一瞬ビクリと身を竦ませると、こちらに伸び来たる指に視線を向けた。

 この素早い動作に、花琳も伸ばしかけた手を止める。

 

「ちょっ、ホント大丈夫なの?」

「うーん……ほら、こいつは俺の妹なんだ。噛みついたりすんなよ」

 

 言葉が通じるはずもないが、俺はそう口に出す。

 狐は中空で留まったままの花琳の指先まで鼻先を持っていくと、ふんふんと匂いを嗅ぎだした。

 この次の瞬間にも、いきなり噛みついたりはしないだろうか。

 俺も花琳も、同じような心境であったろう。

 ――が、しかし。

 

「ひゃっ」

 

 そのような悪い予感は見事に外れた。

 狐は舌を出し、軽く彼女の指を舐めたのである。

 この行動に花琳は軽く声を上げたが、そのまま指をぺろぺろと舐め続けている狐の様子に警戒心も薄れたようだ。

 

「なんなのこいつ~、超人懐っこいじゃん!」

「だろ?」

 

 打って変わって黄色い声を上げる妹は、先ほどの俺のように狐を撫でている。

 狐の方もやはり先ほどと同じように、喉までも鳴らしつつされるがままになっていた。

 そしてそのまま暫く、俺と花琳はこのオレンジ色の毛玉を撫でることに熱中していたが、この途中あることを思い出した俺は、気を見計らい花琳にそれを聞いてみることにする。

 

「なぁ花琳、お前さ、こいつを俺が飼ってみたいっつったらどうする?」

「えっ? う~ん……あたしがどうこうっていうか、母さんたちが何て言うかじゃない? あたしは別にいいよ?」

「だってよ。聞いたか? どうなんだお前の方は?」

 

 そう悪くない返答を貰った俺は、次いで本人の方に聞いてみる。

 言葉をかけられた狐は顔を上げ、俺をじっと見つめていたが。

 

「あっ、おい」

 

 不意に狐は踵を返すと、山の中に戻っていってしまった。

 

「お気に召さなかったみたいだね」

「単に飽きたんだろ。あいつに俺たちの言ってることがわかるわけもねえ」

 

 ま、別に俺も無理強いする気はない。

 ただあいつ、いつもこうして頻繁に山から道路まで降りているとなると、またいつ以前のように怪我をすることやら。

 そうした心配からきた俺のこの考えであったのだが、本人がお気に召さないのならば、それは仕方がないことだ。

 野良としての矜持か何か知らないが、まあ何かあいつにも考えがあるのだろう。

 俺たち二人は、元の歩みを再開することにした。

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

「はー、久々に来たけどやっぱ人多いね」

「そりゃ土日だしなぁ」

 

 モールに付いた俺たちは、ごった返す人の多さに若干の辟易を覚える。

 俺たちの住む町は田舎――とまでは言わないまでも、決して都会と言えるほどの規模ではない。

 そのような中堅都市にあっては、こうした巨大ショッピングモールというのは、休日に出かけるには絶好の施設なのだ。

 ……まあ、地元の商店街が寂れる原因にもなっているのだが。この辺は全国共通だな。

 

「しかしほんと、気が早いよな。まだ12月に入ったばかりだってのに」

 

 俺は通りがかった店の軒先にある装飾を見ながら、花琳に水を向ける。

 

「ん? ああ、クリスマスね。そういうもんでしょ、こういうとこはさ」

 

 気が早いもので、まだ二週間以上先だというのに、もうクリスマスイルミネーションがなされている。

 見れば、それはその店だけの話ではなく、モール全体がそれらしい装飾で満ちていた。

 そうした明るい装飾を見つつ、俺はぽつりと呟く。

 

「……あいつの世界にもあったのかね、こういうイベント」

 

 全く同じものはなかっただろうが、似たようなものはあっただろう。

 下界を覗き見れるあいつも、そうしたイベントの存在自体は知っていたはずだ。

 だがそれらの楽しげな催しを、ただ見ていることしかできないというのは、一体どんな気分なのだろう。

 ……それも、ただの一人でだ。

 愚痴を言い合う相手すらおらず、指を咥えて見ていることしかできないというのは――

 

「なに兄貴、なんか言った?」

「……いいや別に。それよりほら、着いたぞ」

 

 妹の言葉に我に返った時、ちょうど目的の文房具屋に到着したところだった。

 ……ま、あいつも最近はそれなりに頑張ってるみたいだし、クリスマスに何かしてやるかね。

 

「なぁ花琳。最近の中学生ってよ、どんな文房具使ってんだ?」

「へ? 別にてきとーじゃない? なんで?」

「そうか。いや別に、ちょっと聞いてみただけだ」

 

 ノートを見に行った花琳とは一旦別れ、俺は筆箱やシャーペン等が陳列されているコーナーへと向かった。

 

「……こういうのじゃないよなあ。あいつっぽくない」

 

 キラキラとした星が描かれている筆箱を、俺は陳列棚に戻す。

 あまり変なものや派手すぎるものを選ぶと、あいつが学校で馬鹿にされたりするハメになるかもしれない。

 世のお父さん達はこうした悩みを抱えているのかと思いつつ、俺は次々と商品を手に取っていく。

 長いこと悩んだ挙句、結局俺は合皮製の、どこにでもありそうなペンケースを選んだ。

 

「まあ別になんでもいいか。シンプルで使いやすそうなので――……ん?」

 

 ふと横を見ると、今いるペンケース売り場の横は、ワッペンなどをはじめとした多種多様な雑貨売り場になっている。

 そしてやはり、こういうものは専ら女子が買うものなのだろう。

 売られている物々のデザインは、如何にも女子ウケがしそうなものばかりだ。

 俺はそんなファンシーな雑貨の中で、あるものを発見した。

 

「まだあるのか、このアニメ」

 

 俺はその中から、一つのキーホルダーを手に取る。

 チェーンの先には、動物のようなキャラクターが描かれたアクリルが繋がっている。

 そのキャラクターは、昔俺が花琳にやったバッジ、それに描かれているものと同じものだ。

 恐らくシリーズ化して今の今まで続いているのだろう。

 

「……」

 

 その後、取り急ぎ必要になりそうなものをまとめて購入した俺に少し遅れて、花琳もまた会計を済ませた。

 一応の目的を終わらせた俺たちはそれから、特に目的もなくモール内を見て回っていたが、それもひと段落した今、フードコートで小休止をしている。

 花琳はそこで買ったコーヒーを口にしつつ、俺に声をかけてきた。

 

「それにしても兄貴、随分一杯買ったんだね」

「ああ、いい機会だったからな。お前は結局ノートだけか? それにしちゃ時間かかってたじゃないか」

「いやー、あたしもさ、せっかくいつもと違う店にきたんだからいつものとは違うのにしよっかなー、とか思ったんだけどね。でもやっぱり同じのにしたよ。どうせノートなんてどれも大して違わないしさ」

「ま、それもそうだな。しかし俺に付き合わせてこんな遠いとこまで、悪かったな」

「ん? 別にいいよ。どうせ他に予定もなかったし、それに……」

「それに?」

「……ん、なんでもない」

 

 花琳は何か言い淀んだ様子を見せたが、俺も別にしつこく食い下がるつもりはない。

 

「そっか。……で、まあ、それの礼ってわけじゃないんだけどな。――ほれ、これやるよ」

「へっ……? え、これ……」

「お前好きなんだろそれ。まだ俺がやったの付けてるくらいだもんな」

 

 俺はラピスのものとは別に、例のキーホルダーも一緒に購入していた。

 無理を言ってここまで付き合わせたのだ、これくらいはしてやって然るべきだろう。

 それにどんなものであれ、あげたものを長いこと大事にしてくれているというのは、それをやった者にとり気分のいいものだ。

 

「……やっぱバカだよね、兄貴って」

 

 が、礼の代わりに花琳は、微笑と共にそんなことを言い出す。

 その笑いがどんな意味を持つのかは謎ではあるが、喜ばれるとばかり思っていた予想が空振りに終わり、俺はむっとする。

 

「ああ? なんだよ、いらなかったのか」

「ううん、貰うよ。ありがとね」

「え……お、おう」

 

 てっきり挑発的な返しが来るとばかり思っていた俺は、今度こそ素直に感謝の礼を述べた花琳を前に、少々戸惑ってしまう。

 

「あれ? 部長?」

 

 と、どうも気まずいような、面はゆいような、そんな気分になってしまった俺の耳へ、聞きなれぬ声が届いた。

 

「ん」

「へ?」

「あー! やっぱ部長じゃないですかー!」

 

 未だ声変わりが終わっていない、子供特有の甲高い色を残す声。

 その音の主へと目を向ければ、そこには一人の女子の姿があった。

 ショートカットの髪そして、日に焼けた健康的な肌色をしたその女子は、俺ではなく花琳の方を見ているようだ。

 

「あれ、杏奈じゃん。なに、家この辺だったっけ?」

「そうですよー! もう、忘れちゃったんですか?」

 

 どうもこの二人は顔見知りらしい。

 俺は訳知りらしい花琳に、突如として現れた彼女の仔細を問う。

 

「……花琳、この子は?」

「ああ、ウチの部――ま、あたしはもう引退してるけど。そこの後輩だよ。あ、杏奈これ、ウチの兄貴ね」

「あーっ! この人が部長がいつも言ってたお兄さんですねっ!」

 

 ……声がでかい。

 目の前にいるのだから、なにもそこまで大声を張り上げなくてもよさそうなものだ。

 それともこれが地の声量なのだろうか。

 

「あー……うん、こんにちわ。……って、ん? いつも?」

「はい! 部長ってば、学校では何かあったらすぐお兄さんの――」

「杏奈ちょっ、ストップ! ストーップ!!」

「もがっ!?」

 

 目に追えぬほどの速さでもってして、花琳は椅子から立ち上がり彼女の口を塞ぐ。

 花琳の顔には、いつの間にやら脂汗がじっとりと滲んでいた。

 

「……ちょっと兄貴、そこで待ってて」

「お、おお……」

 

 そう言うと、花琳は杏奈というらしい後輩女子を、文字通り引っ張ってどこかに消えてしまう。

 俺はといえば呆気に取られ、どうするでもなく手元の飲み物を飲んでいることしかできないでいた。

 彼女らが戻ったのは、時間にして優に十分を越えたあたりであった。

 そうして戻ってきた花琳の顔は優れず、代わりに後輩の顔は眩いほどに明るい。

 

「なんだ、随分長かったな」

「……あーうん、ちょっとね。それより兄貴、あたしこの後ちょっとこの子に付き合ってやんなきゃなんなくなってさ」

「うん?」

「部活で使う備品についてアドバイスが欲しくて! 丁度この中に店もありますしっ!」

「ああ、そういうことか。別にいいんじゃないか? 俺たちの用事も終わったしさ」

「ありがとうございます!」

 

 この大声にも耳が慣れてきた。

 きちんと礼が言えるあたり、どこぞの年だけ重ねた死神なんぞよりよほど上等である。

 

「ったくほんとに……。で、兄貴はどうする? 一緒に来る?」

「う~ん……長くなりそうか?」

「どうだろ……ちょっとどうなるか分かんないかな」

「そうか。だったらとりあえず俺は先に帰っとくよ。俺じゃ何の役にも立たないし、あんま俺を待たせるような形だとその子も気まずくなんだろ」

 

 そう言い、俺と花琳はここから別行動を取ることになった。

 別に彼女らに付き合ってもよかったのだが、俺にはこの後一つやることがある。

 一度家に帰ってからにしようかと思っていたが、こうなってみれば、あの後輩ちゃんはいい機会を作ってくれたと言える。

 

「さって――と……」

 

 時間は一六時ちょうど。

 いつもの時間よりは少々早いが、一応俺は様子を見に行くことにする。

 昼間は姿が見えなかったし、他に用事でもできたのかもしれない。

 それならそれで構わないと思いつつ、例の山道へと再び顔を出してみれば。

 なんとなくそんな気はしていたが、やはりそこにはミナの姿があったのである。




食当たりで二日ほど入院しておりました。
皆様もこれからの季節、よくよくご用心してください……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迂闊な約定

「おにいさん、こっちこっち!」

「おい、ホントにいいのか?」

「だいじょうぶだよっ!」

 

 嬉しそうに声を弾ませるミナは、俺の手を引き先へと誘う。

 いつものように顔を合わせた後、前のようにどこかに出かけるかと俺は提案したが、ミナには他に案があるのだという。

 彼女曰く「今日は他に誰もいないところでおにいさんと遊びたいのっ!」とのことである。

 

 まあ別に、それはそれで構わない。

 駄菓子屋程度であれば出ていく金は微々たるものだが、それでもここ最近の出費を考えると、あまり金を使うことはしたくない。

 ミナが自分の分は自分で払うなら別なのだが、あのことを思い出すにどうもそれはありそうにない。

 もっとも、彼女自身はそうするつもりではあるのだろうが。

 

「ミナお前知ってるのか? この先に何があるか」

「うん! いつもそこで遊んでるの!」

「……マジか」

 

 俺がそう言って息を吞んだのも無理からぬこと。

 ミナと俺は今、例の神社へと続く山道を歩んでいるのである。

 俺が彼女くらいの年なら、あんな場所を見つけたら夜も眠れなくなること請け合いだ。

 それを遊び場にしているとは、意外と肝が据わっている。

 ……いや、逆にこのくらいの年のほうがワクワクするものなのかもしれない。秘密基地的な。

 

「着いたよー!」

 

 随分と早く着いた気がするな。

 前はもっと長く歩いていたように思うが。

 俺の目の前には、例の朽ち果てた神社がある。

 相変わらずまだ日は高いというのに辺りは薄暗く、まるでこの空間のみが隔離されているかのようだ。

 正直あまり長居したくないと言わざるを得ないが、期待と興奮に満ちた様子のミナを見ていると、とてもそんなことは言い出せない。

 

「ああそうだな。でもよ、遊ぶったってどうすんだ? 鬼ごっこでもやんのか」

「それもいいけどね、まずは中で遊ぼっ!」

「は? 中ってお前、どういう――おいっ!?」

 

 からころと足音をさせ、ミナは神社に走り寄っていく。

 どうするつもりなのかと様子を伺えば、なんとミナは建物の入り口――小さな神社だ、恐らく本殿に当たる場所だろう――に手をかけ始めたのだ。

 いくらこんなボロボロの状態とはいえ、罰当たりにもほどがある。

 

「ミナ、おまっ」

「おにいさんもはやくー!」

 

 止めようとするも既にミナは入ってしまっており、中から俺を呼ぶ声がする。

 仕方なし、俺も彼女に続き中に入らんと、立て付けの悪くなった扉を左右に開いて中を一瞥する。

 

「おうっ……」

 

 短く一言、俺はくぐもった声を上げる。

 中は六畳ほどの広さで、この部屋がひとつだけという構造のようである。

 薄暗い中で、祭壇らしきものがまず俺の目を引いた。

 何らかの木でできたそれは簡素な三段重ねの構造になっており、一段目二段目共に草花が備えられている。

 そして三段目には、黒い桐箱がひとつ置かれていた。

 

「……ミナ、やっぱ外にしとかないか?」

 

 声が若干震えてしまったことを責めないでほしい。

 内部も外観に負けず劣らず――いや、それ以上に不気味過ぎだ。

 俺は幽霊やなんかを信じていなかったクチだが……なにしろ死神という超常の存在を目にした俺だ、考えを改めざるを得ない。

 そうして明らかに狼狽する俺に対し、ミナはきょとんとした顔を見せた。

 

「どうして?」

「どうしてもこうしても……こんなうすらおっそろしい場所じゃなくてさ、それこそどっかの公園とかでも――……ミナ?」

「むううう~っ」

 

 何故かミナは頬を膨らませ、これまで見せたことのない拗ねた表情をする。

 ……なんだか、朝にもこれと似たような顔を見た気がするな。

 

「どうしてそんなこと言うのおにいさん! ここはね、わた……じゃなくて、すっごく偉い神様が守ってくれてる場所なんだから! 全然こわくなんてないのっ!」

「え、ええと……う~ん……」

 

 途中どもることはあれど、ミナは口早に捲し立て続ける。

 

「確かに今は(・・)こんなだけどっ! ずっと昔の――……ええと、なんとかしょき? っていう有名な本にも書かれてたって聞いたもん! ……端っこのほうにちょっとだけだけど!」

「わ、分かった分かった……けどミナ、なんだお前がそんな必死でここを庇うんだ。なんかあんのか?」

「んっ……、う、ううん。そういうわけじゃないけど……」

 

 俺のこの質問に、何故か急に彼女の勢いがトーンダウンする。

 こうまであからさまにしょげ返られると、まるで俺が虐めているようで気分の収まりが悪い。

 仕方なし、俺は覚悟を決めた。

 

「はー……しゃーねーな。まあ子供が平気にしてんのに高校生の俺がいつまでもビビってるわけにもいかないか」

「!」

「よ――……っと。なんかギシギシいってるけど、ここの床大丈夫なのか、ほんとに」

 

 二歩ほど中に足を踏み入れた俺は、木張りの床へと腰を下ろす。

 すると、次いで俺の目の前に同じように座ったミナが、元気一杯に歓迎の言葉を述べてくれた。

 

「ようこそおにいさんっ! ゆっくりしていってね!」

「へいへい、どうもお邪魔しますよ」

 

 適当に返事を返した俺は、改めて辺りを見回す。

 光源が一切無い内部は薄暗く見通しが悪いが、それでもおおよその様子くらいは分かる。

 随分と殺風景な本殿だ。あの祭壇以外、あるのは目の前にある小振りな机くらいだ。

 

「しかしあの祭壇の他に何も無いぞ、ここ。 一体何して遊ぶつもりなんだ」

「待ってておにいさん。今持ってくるの!」

 

 言って、ミナは立ち上がり祭壇の方へ足を向かわせる。

 そして手慣れた所作で祭壇に置かれた桐箱の蓋を開け、なにやら中をごそごそとやりだした。

 

「ええとぉ、確か奥の方にあったはずなの……これじゃなくて……」

「……ん?」

 

 箱を探っているミナから一旦視線を外すと、部屋の隅に何か白っぽいものが見えた。

 丁度そこは机の陰になっており、我ながらよく気付けたものだと感心する。

 腰を移動させ近付いてみれば、それは平坦な白い皿であった。

 

 皿の上には草や木の実、それに何らかの虫の破片らしきものが混ざった残骸が載っていた。

 最大限良く言えばおままごとの後、正直に見た目通りの感想を述べれば単なるゴミの山である。

 それだけならば、俺もそこまで興味を引かれることもなかったかもしれない。

 それらゴミの中には、いくつか人工物らしきものが混じっていた。

 

「あれ、これ……」

 

 俺はその中の一つを拾い上げる。

 それは何かの包装紙――駄菓子の袋だった。

 この袋には見覚えがある。

 そう、これはついこの間、彼女が買っていたものと同じ――

 

「あーっ!!?」

 

 背後から絶叫が響く。

 振り向けば、何かを手に持ったミナが驚きの表情と共に立っていた。

 

「おっ……おにいさっ、こっ、これは違うのっ!」

「おおっ!?」

 

 手に持っていた袋を投げ出したミナは、俺の手に持っていたもの、次いでゴミの乗った皿をひったくる。

 彼女の顔は真っ赤に上気させ、汗をダラダラと流したその姿は、まるで隠し持っていた物を親に発見された子供のようだ。

 

「ミナ、えーっと……」

「これはなんでもないのっ! 偶然落ちてただけなの! おにいさんも忘れてほしいのね!」

「え……あ、ああ、うん」

 

 互いの鼻先が触れるほどにぐいと迫って捲し立てる彼女の勢いに飲まれ、俺はつい首を縦に振ってしまう。

 ミナはそれを持って一旦部屋から出ていった後、暫くしてまた戻ってくる。

 

「はい、じゃあ今度こそ遊ぼうなの!」

「おお……」

 

 笑顔を作ってはいるが、彼女の顔には少しばかりの焦りの色が混じっているようにも思えた。

 殊更に大声を出しているのも、どうもいつもの調子に比べると少し演技めいて聞こえなくもない。

 しかしそんな俺の疑心を知ってか、あるいは知っていて無視しているのか、ミナは先ほど放り投げた袋を再度手に取る。

 唐草模様の袋が彼女の手によって開けられると、いくつかの雑貨らしきものが姿を現す。

 

「これなら部屋の中でも一緒に遊べるの!」

 

 と、ミナはその中の一つを手に取りながら言う。

 彼女が手に持っているのは、小石程度の大きさに丸められた布製の球。

 俗に言う、お手玉というやつである。

 

「おにいさん、これは嫌い? ほかのにする?」

 

 改めて確認すれば、袋の中に入っていたものはすべて、子供用の玩具の類である。

 それらは総じて古めかしく、相当の年月が経っているであろうと思われる代物ばかりだ。

 第一、おおよそ今どきの子供が遊びそうなものではない。

 おはじきや千代紙、あやとりに加え、あの日本人形は人形遊びにでも使うのだろうか。

 カードらしきものは、どうやら花札のようだ。

 携帯ゲームの類など一切見受けられない。

 

「そこまで服の印象と揃えなくてもよさそうなもんだ……」

 

 和服に下駄といういで立ちの彼女には、ゲームなどより余程しっくり来るのは確かだが。

 

「へ? どうしたのおにいさん?」

「いいやなんでもない。それでいいぜ。でも俺はお手玉なんてやったことなくてな、ミナは上手いのか?」

「もちろんなの! ずっと一人で遊んでたからすごく上手なの! ミナがおにいさんに教えてあげるね!」

 

 ずっと一人で、という言葉が妙に引っかかったが――ともあれ。

 俺はそれからミナと、それら様々な玩具を使って遊んだ。

 言うだけあって実際ミナの腕は確かなもので、あやとりなどは某国民的アニメの主人公を思わせるほどだった。

 

 そうして遊び続けて約一時間半ほど。

 小休止がてら俺とミナは部屋から出て、神社の軒先に腰かけている。

 

「たのしかったーっ!」

「俺もだよ。意外と面白いもんだな、ああいうのも」

 

 人間慣れというのは恐ろしいもので、ミナと遊び続けているうち、中の不気味さもそう気にならなくなっていった。

 なにより、彼女がまるで恐れないのだ。俺にもそれが伝播したのだろう。

 

「しかしよ、お前いつからここで遊んでんだ? あのおもちゃも、あそこにあったのか?」

「うん、そうだよ」

「そうか」

 

 勝手に落ちてるものを使うのはどうなんだとか、そういった説教くさいことを抜かす気はない。

 が、これだけは年長者として言っておかねばならないだろう。

 

「けどな、やっぱ女の子が一人でこんな深い森の中でってのはやっぱダメだと思うぜ。来るにしても次からは誰か友達でも誘えよ」

「……」

 

 そこまで言ったところで、ミナからの返事が途絶える。

 視界に映る彼女の表情には、それまでになかった影が足を下ろしていた。

 

「ミナ?」

「いないの」

「……え?」

「仲のよかった子たちはみんな、遠い所にいっちゃったから」

 

 ……どういう意味だ?

 学校でハブられてるとか、虐められているとか、そういう風ではない。

 仮にそうであるならば、『遠い所へ行った』などという言い回しはしないはずだ。

 

「それよりおにいさん、ミナもいっこ、聞いてもいい?」

「うん? なんだどうした」

「おにいさん、前にこの山で狐に会ったって言ってたよね」

「ああ」

「それに、飼ってあげようかなって」

「ああ、言ったな」

「……」

 

 再びの沈黙を挟んで。

 

「おにいさん」

「なんだ」

「もしその子を飼うことになったら、おにいさんは大事にしてくれる?」

「そりゃ――まぁな。一度飼うってなりゃ、もちろん責任ってもんがある」

「……途中で飽きて、捨てたりしない? その子を置いて、どこかへ行ったりしない?」

 

 彼女の目は真剣そのもので、場合によると今にも泣き出してしまいそうな雰囲気すら漂う。

 単なる話のタネのひとつ――という雰囲気ではない。

 不思議に思いつつも、俺もまた真剣な表情になり彼女に応える。

 

「ミナ、俺がそんな奴に見えるか?」

「……ううん、見えないよ。けど、その子も不安だと思うの。せっかく寂しさに慣れたのに、もし、また……」

「安心しろって。まあまだ親の了解も取ってねえけど、そうなったら死ぬまで面倒見てやるさ」

「……ほんと? ほんとに? 死ぬまで(・・・・)? 嘘じゃない?」

「随分疑うんだな、そんなに信用ないか」

「じゃあ、ミナと約束しよ? その子と一生ずっと(・・・・・)、一緒にいてあげるって」

 

 どうしてここまで必死になるのか。

 実は無類の動物好きだとか、そういうことだろうか。

 ミナは片手を上げ、小指を一本立ててみせた。

 

「約束。指きり」

「……おう」

 

 ――まあ、そんな気にするほどのことでもないか。

 互いに小指を絡ませ、俺たちは約束を交わす。

 すると、ミナは小さく笑い声を上げる。

 

「……ふふっ」

「どうした」

「なんでもないよ、おにいさん。じゃ……戻って続き、しよ?」

「いいけど、もう遅くなるしあとちょっとだけだぞ」

 

 ミナは、今日一番の喜色に満ちた声で。

 

「はいなの!」

 

 聞きなれた返事を返したのだった。




今回の話には出てきませんが、またも読者様より支援絵を頂きました。
こちらからご覧ください

【挿絵表示】


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迂闊な約定おかわり

「も、もう一回だ!」

「んふふ~、いいよー」

 

 屋内に戻り暫くして。

 あと少しという約束であったが、もう既に30分程の時間が経過していた。

 それを言ったのは他ならぬ俺自身であったのだが、当の本人がいつまでも時間を引き延ばすという訳の分からないことになっている。

 というのも。

 

「よし……勝負! 猪鹿蝶だ!」

「ざんねん! ミナは四光だよ!」

「くっそおお!」

 

 一戦が早く終わるということ、それに今まであまり経験した覚えがないゲームということで、最後に花札を少しやって終わることにしたのだが。

 ミナはこのゲームにおいても強者ぶりを発揮し、今のを含め俺は全戦全敗を喫していた。

 単なる運のゲームのはずだ。一回くらい勝ててもよさそうなもんじゃないのか?

 俺は連敗の悔しさから再戦を挑み続けている。

 とはいえ、いい加減に時間が限界だ。腕時計の針はもう18時を指そうとしていた。

 しかし諦めきれない俺は、往生際悪く最後の勝負を乞う。

 

「ミナ、さ、最後にもう一回……!」

「うん! ミナは何回でもいいよ!」

「いや、流石にもう時間的にな……ミナもあんまり遅いと親御さんに心配されるだろ」

 

 熱くなってはいるが、そこに気が回らないほどではない。

 そうした俺の言葉に、ミナは一瞬寂しげな表情を見せた。

 

「……そうだね。それじゃあおにいさん。最後だし、何か賭けない?」

「ほお?」

「勝った方が相手に何か命令できるっていうのはどう?」

「……」

 

 俺はしばし、顎に手を置き思案する。

 ……ミナのこの提案は、これまでの攻勢を踏まえてのものだろう。

 今のツキの流れならば負けない――そうした思惑が透けて見える。

 意外にしたたかなやつだ。

 普通に考えれば、ここは受け入れぬべき。負け続けの流れの今、俺の分は悪い。

 ……がしかし、そろそろ運の反転が来てもいい頃だ。

 それに何かを賭けるという変化をさせることで、彼女の心中に動揺が生まれるかもしれない。

 それに付け込めれば勝ちの目もある!

 

「よし……乗った!」

 

 年長者がこのまま無様に負けっぱなしで終われるか!

 

 ………

 ……

 …

 

 ――そして、結果。

 

「ごめんねおにいさん。五光なの」

「んなのありかよぉ!?」

 

 ある意味予想通りと言うべきか。ここにきて俺は完膚なきまでの敗北を喫する。

 ちなみに俺の手札はといえば、未だ何の役も成立していないという惨状であった。

 ……賭け事は二度とすまい、そう俺は心に決める。

 

「はぁ……参りました。完敗です」

「また今度だねおにいさん! 次はきっと勝てるよ!」

「いや……もうギャンブルはするなって神様のお告げだな、これは」

「んーん、そんなことないよ」

「慰めてくれなくていいって。で、賭けに勝ったんだ。命令しな」

 

 これほど軽く賭けに乗ったのも、しょせん小さな子との約束、大したことは命令されぬと読んだゆえのこと。

 もしこれが――そう、もしこの提案が、仮にあの死神が言ったものであったならば、俺はこうまでホイホイと受けなかっただろう。

 そうした打算的な思考の上での勝負、俺は大して緊張もせずミナの命令を待っていた。

 

「はいなの! それじゃ……」

 

 ミナは一度立ち上がり、そして俺のすぐ前に移動する。

 そうした後にくるりと回り俺に背中を見せたミナは、そのまま胡坐をかいた姿勢の俺の元へと腰を下ろした。

 自然、俺は彼女を抱きかかえるような形になる。

 

「んふふふ~」

 

 ミナは背中を俺にぴったりとくっ付け、満足げな声を上げている。

 

「なんだミナ、命令はどうした?」

「これからだよおにいさん。――じゃ、命令ね……おにいさん、ミナの頭を撫でてほしいの」

「ん? そんなんでいいのか? 別に遠慮しなくていいんだぞ、賭けに勝ったんだから好きな菓子でもなんでも」

「んーん。こっちのほうがいいの」

「そうか……?」

 

 若干拍子抜けだが、それくらいお安い御用とばかり、俺は胸元に位置するミナの頭を撫でる。

 そのふわふわとした髪の質感は絹糸のようで、彼女の着る擦り切れた衣服を思えば些か意外にも思える。

 彼女の服は何か思い入れがあってわざと、というセンもあり得るのやもしれない。

 

 と、暫く気持ちよさそうにされるがままになっていたミナだが、不意に撫でられている頭を後方――すなわち俺の胸へ密着させると、そのままぐりぐりと擦り付け始めた。

 

「おいおい撫でにくいぞ。なんだどうした」

「ん~……においつけ」

「は?」

「おにいさんにね、ミナの匂いを付けてるの」

 

 まるで犬のようなことを言い始めるミナ。

 そう思ってみれば、彼女の雰囲気はどこか動物めいたものがある。

 しかし随分と懐かれたものだ。俺はあまり子供に好かれる方ではないのだが。

 別に悪い気はしない。こんないい子にならば、俺のできる範囲で色々と応援してやろうという気にすらなる。

 とはいえ先ほども言ったが、そろそろいい時間である。

 

「よしミナ、もう夕方だ。そろそろ帰らないとな」

「ん~……もうなの? もうちょっと……」

 

 頭頂部を俺の胸に付けたまま、ミナは顔を上向かせる。

 その目は、明らかに後ろ髪引かれる感情を見せていた。

 そんな甘えたような、愛くるしい表情を見ると俺もつい前言を撤回しそうになるが、ここは心を鬼にする。

 

「だーめだ。また今度だ、また今度」

「ん……わかったの、おにいさん。それじゃ、また、今度……ね」

 

 ……どうも既視感がある。

 短時間だけの逢瀬、別れる際に見せる相手の表情、それに最後の言葉。

 これらは全て、あいつの時と同じ――

 

「どうしたのおにいさん?」

 

 ぼうっとしている俺に対し、ミナが声をかけてくる。

 

「いいやなんでもない。んじゃまた途中まで送るよ。麓まででいいんだよな」

「うん――あっ! そうだ、おにいさん!」

「どうした?」

「これっ! 手出して!」

 

 そう言って、ミナは袂から何かを取り出すと、言われるままにする俺の掌に何かを乗せる。

 見れば、それは三粒の種籾であった。

 これには見覚えがある。以前彼女に貰った御守りの中に入っていたものだ。

 

「ん、これがどうしたんだ?」

「おにいさんにはこれをね、これから一日ひとつぶずつ飲んでほしいのね!」

「……は?」

 

 俺はつい呆気に取られたような声を出してしまう。

 あまりといえばあまりに奇妙な願い事である。

 

「どうしてか聞いてもいいか?」

「おまじないなのね! ――えっと、この前渡した御守り、覚えてる?」

「おう、覚えてるけど」

「そうしたらそこの神様のご加護が受けられるって――えっとその、あの、えっと……そう! おかあさんが言ってたのね!」

 

 ……どうにも怪しい。

 後半は明らかに今思いついたと言わんばかりの慌てようだった。

 しかし――まあ、なんにせよ。

 

「今さらそんなの――って感じだよなぁ」

 

 わけのわからん呪いをかけられたと思えば、異世界で死神と知り合いになり、それから今日まで死ぬか生きるかという目にまで逢ってきたのだ。

 今さら子供のおまじないなど、ものの数ではなかろう。

 それになにより、ここで彼女の願いを無下に突っぱねると、その瞬間にも泣き出しそうな雰囲気をミナは漂わせている。

 

「いいぜ。一日一粒だな?」

 

 ――何故であろうか?

 俺は、またも自分が取り返しのつかない失敗をした――そんな予感を感じたのは。

 それは恐らく、俺の返事を聞いた眼前の少女――彼女が垣間見せた表情を目にしてのこと。

 

「……ふふ。ありがとう、おにいさん」

 

 薄く笑ったその表情は少女とは思えぬほどに妖艶で、かつ言い知れぬ不気味さをも携えていた。

 が、その表情は一瞬で元の無垢な少女のそれへと戻り、そう見えたのは単なる俺の気のせいか、または薄暗い室内のせいだろうと思い直す。

 

 ――そして。

 

 ミナを麓まで送り、そのまま俺は帰宅の途についている。

 もう花琳は家に戻っているだろうか。

 それにラピスは――流石にもう部屋に帰っているだろう。そういえば、明日はどこかに連れて行くと約束したのだったか。

 そんな、とりとめのないことを考えながらの道すがら、俺は例の約束事を思い出す。

 

「妙なおまじないもあったもんだ」

 

 俺はポケットから先ほどミナから貰った種籾を取り出すと、しげしげとそれを眺める。

 別に何の変哲もない、単なる種籾である。

 若干の不気味さを感じなくはない。それこそ俺が約束を守ったかどうかなど、彼女には知る由もないだろう。

 このままどこかに捨てて、ミナには飲んだよと嘘をついてもいいのだが――。

 

「……流石に、それはな」

 

 それは俺の良心が耐えられそうもない。

 なに、しょせん単なる米粒ひとつ。意識しなければ別段どうということもない。

 俺は一つの種籾を摘まみあげると口の中に放り込み、一息で飲み込んだ。

 

「……」

 

 別にどうということもない。

 当たり前といえば当たり前のこと、ここ最近の何やかんやが異常であっただけだ。

 そんな何度も、俺の身の回りでばかりおかしなことが起こってたまるか。

 

「ま、子供の遊びなんてそんなもんだよな。ワケわからんことが面白かったり――」

 

 安心し、そう独り言ちる途中のことであった。

 

「ぐっ……!?」

 

 俺は胸のあたりを押さえ、体勢を崩しつつ民家の塀に手をつく。

 

「おえっ……ぐっ……!」

 

 そうして、俺は地に向かいえずく(・・・)

 胃の内容物がせり上がってきているのを感じる。

 止まらない吐き気に、俺は周囲の目も気にせずそれをぶちまけんとするが、何故かそれができない。

 まるで俺の中で今、異物を排除しようとする者、それに対し強引に侵入しようとする者の二者が鍔迫り合いをしているかのようだ。

 そうした、食道のあたりでモノが留まり続けている感覚が続く。

 

「ふーっ……ふっ――……あれ?」

 

 がしかし、そうした苦しみはある瞬間、綺麗さっぱり立ち消える。

 喉奥の異物感も、胃のむかつきも消えている。

 まるで最初からそんなことなど起こらなかったかのようだ。

 それどころか、先ほどよりむしろ気分がスッキリしている気さえする。

 

「……」

 

 立ち尽くす俺の頭の片隅では、俺でない誰かが警報を鳴らしている。

 そして、それを強引に抑え込もうとする何者かの存在もまた同時に感じる。

 

 しかし妙に爽快で、そして晴れ渡った気分の中にあっては、あまり深く考えることはできそうになかった。

 若干の違和感を覚えつつも、俺は帰路を再び歩み始めた……




このたび読者様の数が2000人を突破しました。
まさかここまで読まれるとは思ってもみなかったもので、嬉しくも驚きが隠せない状態です。
よろしければ今後も引き続きご贔屓いただけると幸いです。
面白いと思って頂けたら、ぜひ評価などしていただけるとたいへん励みになります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

贖罪の機会は……

 玄関で時間を確認すれば、もう一九時になろうかという時分だった。

 随分と長いことミナと遊んでいたようだ。

 これはラピスへの言い訳が面倒なことになるな、と思いつつ俺は戸を開ける。

 中に入った俺を、まずは妹の怒号が出迎えてくれた。

 

「兄貴おっそい! あたしより早く出たくせになにやってたのさ?」

「いやすまん、ちょっと長引いてな」

「もう……晩ご飯もう出来るからね!」

 

 肩を怒らせて台所へと戻る花琳を見送った後、俺は階段を上がり自室へと戻る。

 

「戻ったぞー。ちょっと遅くなったけど、これには訳が――……」

 

 言葉は途中で途切れる。

 部屋の中には、何者の姿も確認できなかった。

 

「あれ……? おーい、ラピスー?」

 

 名を呼んでみるも、やはり返事はない。

 分かり切っていたことだ。

 もしあいつが居るのなら、そもそも俺がドアを開けた瞬間にも飛びついてくるはずだからな。

 

「しかし、部屋にいないとなると……」

 

 まさか、まだ帰ってないというのか?

 あいつが出たのは朝方だ。

 ルナに行くと言っていたが……バイトも無いのにこんな時間までずっととは考え辛い。

 

 ふと、俺の背にぞわりとした悪寒が走る。

 もし――もし、あいつが一人でいるところに、偶然例の世界の追手と出くわしたのだとしたら?

 俺の脳内は高速回転を始め、考え得る最悪の事態を思い描く。

 仮に、仮にそうだったとして、あいつがその追手に掴まりでもしていたら――

 

「花琳っ! ちょっとまた出てくる!」

「はぁ!? ちょっ、ごはんごうすんの! ていうかこんな時間にどこ行くの!」

「忘れもんだ! メシは取っといてくれ!」

 

 後ろから尚も花琳の怒鳴り声が届いていたが、俺は振り返りもせず夜道を駆け出す。

 ここ一週間は平和に過ごしていたからか、俺もラピスも油断をしすぎていた。

 ナラク一人をなんとか撃退することができたとはいえ、それで後続を断ったというわけではない。

 状況はなにも好転などしていないのだ。未だ命を狙われているという状況に、何も変わりはしない。

 やはり遅くとも日が落ちかける前には戻るべきだった……くそっ!

 

 ルナへの道を辿る最中、俺は周囲に気を払うことも忘れない。

 あいつの手がかりとなるものがあらば、ただの一つも見落とすことがないようにだ。

 がしかし、今までそれらしい痕跡は一切発見できていない。

 ――いや、正確に言えば少しばかり気を取られたものはあった。

 俺は今、例の山を越えてアーケードの入り口に差し掛かろうとしているところだが、山道の中腹あたりを走っている時、何者かの視線を感じた気がしたのだ。

 しかし街頭もない山の中は真っ暗闇で、仮にそうだとして俺に確認の術はなかった。

 その際とある少女のことが頭を過ったが……そんな有り得ないことを何故想像してしまったのか、それは俺にも分からない。

 

 アーケードには店からの明かりは少なく、昼よりも夜の方がよりうら寂しい雰囲気を漂わせている。

 俺はそんなシャッター街寸前の商店街を走り続け、ルナへと到着した。

 

「はーっ……はーっ……」

 

 店の前で、俺は両膝に手をつき荒い息を吐き出す。

 三十分以上ずっと走り続けてきたため、俺の息はすっかり上がってしまっていた。

 それでも、常日頃から運動不足を実感している俺にしてはよく体力が持った方である。

 おそらくはこれもラピスの言うところの能力向上の賜物なのだろう。

 

「――あれ?」

 

 ふと見れば、店の扉には『Closed』の札がかかっている。

 確か閉店時間はまだ先だったはずだが……店には光が灯っており、まだ中に誰かいるのは間違いないが。

 ともあれ、俺は果たしてラピスがいるかどうか、ガラス越しに中を窺おうとした。

 ――が、そうするより先に俺の目に止まったものがある。

 

「……?」

 

 店の前に、立て看板が立っている。

 昨日までこんなものは無かったはずだ。

 こんなことをしている暇はないと知りつつも、興味を引かれた俺はその立て看板に掛かてれいる内容に目を通す――と。

 

 次の瞬間、俺は店の扉を蹴破るようにして乱暴に中へと押し入った。

 そして、そんな俺の目の前に広がる光景は。

 

「「「――かんぱーい!」」」

 

 他に客の居ない店の中で、三人の男女が陽気な声を上げている。

 ……そしてその中には、俺の意図する人物の姿もあった。

 相当大きな音を立てたはずだが、彼女らは俺の侵入に気付いた様子もない。

 俺は、一度大きく深呼吸をし――あらん限りの声を張り上げた。

 

「くぉらあああああっ!!!!」

 

 その声でようやく中の三人は気付いたようである。

 最初に声をかけてきたのは聖さんだった。

 彼女の手にはビールの入ったグラスが握られている。

 

「おお竜司くん。なんだ今日は遅かったじゃないか」

「遅かったじゃないか――じゃない! なんなんだ表のアレは!?」

 

 俺は敬語をも忘れ乱暴な物言いになってしまうが、それもこの場では致し方ないこと。

 

 ~~~~~~~~~~

 

 メイドカフェ Luna オプションサービス

 

 メイドさんと写真撮影 500円

 

 お客様の呼び方変更  100円

 

 別の衣装にお着換え 1000円(準備中)

 

 ラピスちゃんの食べたいものを注文……ラピスちゃんが食べ終わるまで横でお話しできます。

 〇延長するには?

 平日 オーダー追加毎/最低10分

 土日祝は店内の混み様により変動あり

 

 *呼び名変更サービスにおいては、『ご主人(様)』『我が君』『あるじ(様)』は本人の希望によりNGとなっております。

 *メイドさんに手を触れる行為は禁止。お聞き入れになられない場合は出禁など厳しい措置を取らせて頂きます。

 

 ~~~~~~~~~~

 

 以上が表の看板に書かれていた内容である。

 俺の激高も理解して頂けたろうか?

 

「どっかの怪しげな夜の店かここはよぉ!?」

「こらこら、失礼なことを言わないでほしいな。たゆまぬ営業努力というやつだよ」

「どの口がっ……! あー、もう……ラピス!」

「――んむ?」

 

 声をかけられたラピスは、パスタを頬張りつつ間の抜けた返事を返す。

 今まで俺がしていた心配など、どこ吹く風である。

 

「どうしたのじゃ我が君」

「どうしたもこうしたもねぇ! お前は何とも思わねえのか!?」

「どう思う、と言われてもの。実際相当の売り上げに繋がったようじゃぞ――のう?」

「うんうん。一日でこれほどの利益を叩き出したのは初めてだよ。たまたま今日ラピスちゃんが来てくれてよかった。本当は週明けからと考えていたんだが」

 

 実にのほほんとした二人のやり取り。

 がしかし、俺が言いたいのはそういうことではない。

 

「そうじゃなくてだなっ! お前、ただでさえ人見知りするってのに……いいのかよ!?」

 

 そう。

 こいつは俺が傍にいる時こそ誰に対してもふてぶてしい、ともすれば無作法とも取れるほどに尊大な態度を示すが、いざ一人になれば別人のように気弱になる奴なのだ。

 ここまで一人で――聖さんが居るとはいえ、こうして接客業を続けられてきたこと自体が奇跡に近い。

 だが、それもいつまで続くか分かったものではない。

 こいつが想像以上に打たれ弱い奴だということを、俺は誰よりもよく知っている。

 

「……ははあ、なるほどの」

 

 口の周りをトマトソースで汚したまま、ラピスはにやりと俺に笑いかける。

 

「我が君よ。そなたの心中、そのおおよそはわしにも分かるぞ。端的に言って、わしが心配じゃと言いたいのじゃろ?」

「んっ……む……ま、まあ、えっと……」

 

 その通りではあるが、それを素直に認めるのはどうも気恥ずかしい。

 俺はつい言葉を言い淀んでしまった。

 そんな俺の姿を見て、ラピスの笑顔はより深くなる。

 

「くっく……やはり何のかんのと言うても、わしのことが大切で仕方がないと見える。いやまったく、ほんに喜ばしいことじゃ。照れておる姿もたまらなく愛おしいぞ?」

「ちっ、違っ……」

「まったく、隙を見せるとすぐにイチャイチャしだすんだな君たちは。羨ましさでどうにかなってしまいそうだ」

 

 グラスに入っている液体をぐびりと飲みつつ、聖さんが茶々を入れてくる。

 

「ていうかですね! 聖さんも言ってたじゃないですか、変な客を呼び込む恐れがあるって! 実際この前みたいなことがまたあったらどうすんですか!?」

「安心したまえ。そこは既に手は打ってある」

「はぁ!?」

「――そこで俺の出番ってワケよ、小僧」

 

 とここで、三人のうち最後の一人――何故か閉店後も居座っているナラクから声が上がる。

 見れば、身に纏っている服装もいつもとは違う。

 小奇麗な、おおよそこいつが所持しているものだとは思えぬタキシード姿である。

 

「ナラク、お前……」

 

 この珍妙な取り合わせに俺が質問しようとするのを、続く聖さんの言葉が止める。

 

「昨日の一件、実に見事な手際だった。そこで私はこのナラク氏に、もし職を探しているならこの店で一緒にと持ち掛けたんだ。ウェイター兼用心棒(バウンサー)としてね」

「なんっ……」

「いやいやァ、この姉ちゃんから話を振られた時ァ、俺も半信半疑だったがね。ただ、いい加減あのオッサンどもに世話になりっぱなしってのも悪ィって思ってたとこだったからよ。それにいざやってみりゃァ楽なモンよ、ただその辺に座ってタダ飲みしときゃいいんだからな」

「キミの主だった役割はさっき言った後者の方だからな。お客様もラピスちゃんに接客されることを望んでいるはずだしね。しかしコーヒー代はしっかり給料から引かせてもらうよ?」

「なんだなんだ、ケチくせェな」

 

 嫌な予感が的中した。これ以上ないほどに。

 しかし……しかし、まさかこんなことになろうとは。

 

「――というわけだ、理解して頂けたかな?」

「……」

 

 もはや俺は言葉を失ってしまう。

 そして、愕然として肩を落とす俺を尻目に、ラピスは。

 

「聖っ! おかわりじゃ!」

 

 呑気に料理のおかわりを要求していた。

 

「じゃんじゃん食べてくれたまえ。ラピスちゃんはこの店の救世主なのだからね――っと、おおそうだ。その前に」

 

 聖さんはカウンターから茶封筒を持ってくると、それをラピスに手渡す。

 

「これは?」

「今週分のお給料だよ。本当は一か月経ってからにしようと思っていたんだが、いい機会だからね」

「おおっ! 報酬というわけじゃな!?」

「そうだとも。ただ思いがけず大金になってしまったから使い道にはよく気を――ラピスちゃん?」

 

 聖さんが言い終わるのを待たず、ラピスはとてとてと足音をさせながら俺の元まで駆け寄ってきた。

 

「我が君、我が君っ! ――ほれ、貰ったぞ! どうじゃ!」

 

 ラピスは封筒を掲げ、ぴょんぴょんと跳ねつつ俺にアピールしてくる。

 

「……ん、おめでとう。確かに頑張ってたからな」

 

 今後のことを考えると不安だらけだが、この点は素直に褒めるべきだろう。

 内弁慶なこいつが、まがりなりにも一週間しっかりと勤めを果たした結果なのだから。

 

「そうか、我が君も嬉しく思うてくれるのじゃな! わしも甲斐があったというものじゃ。よし、では――はいっ!」

「――は? はいって?」

 

 何を思ったか、ラピスは手に持つ封筒を俺に差し出してきた。

 意図を察せぬ俺は、小さく声を上げたのみである。

 

「は、ではないわ。ほれ、さっさと受け取らぬか」

「……預かっといてくれってことか?」

「なーにをとぼけたことを抜かしおるんじゃ。言葉の通り、汝に献上しようというのじゃ。それくらい分かっておろうが?」

「ばっ……お前、何を――」

 

 ラピスのとんだ発言に、俺は奥の二人に目をやる。

 案の定、白い目をした二人の視線が俺に突き刺さった。

 

「竜司くん……」

「小僧……流石の俺でもちっと引くぜ、そいつァ……」

「いやっちっ、違うんです! 俺はそんなつもりじゃ――……ていうかお前も何考えてやがんだよ!? お前の稼いだ金だろうが!」

 

 二人の白眼視に耐え切れず、俺は慌ててラピスに訂正させようとするも。

 当のラピスは何食わぬ顔で、あっさりと次の台詞を言ってのける。

 

「だから何じゃ?」

「いやだから、何も全部俺に渡さなくたってだな。お前だってこれからいろいろ欲しいものとか出てくるだろうし、そのために――」

「そんなものは有りはせぬ。欠片もな」

「いや、今はそうかもしれねえけど、今後のことを考えてだな」

「リュウジよ」

 

 封筒をぎゅっと両の手で握り締め、ラピスは俺の名を呼ぶ。

 

「何度でも言うがの。わしはな、汝と共にいられる――それだけで十分なのじゃ。これ以上ないほどの幸福を、わしは常日頃から汝より受け取っておる。じゃというに、わしはそれをただ甘んじて享受しておるばかりじゃった。それを思えば、わしは嬉しさの反面、心苦しいことこの上なかった」

「……だから……んなこと考える必要なんて無いって言っただろ」

「そうはいかん。そんなことはわしという存在の名折れじゃ。よってわしは、どうにかして汝に感謝を形として渡したいと思い続けておった。そんな折にての、これじゃ。あまりに即物的ではあるが――のう、リュウジ。優しいそなたのことじゃ。もしただ受け取るのが心苦しいというのなら、これはわしの為だと思って受け取ってはくれぬか?」

「うっ……」

 

 ラピスの真っ直ぐな視線、そして言葉に当てられ、俺は胃のあたりに鈍痛を感じる。

 その痛みの正体は、ラピスに対する後ろめたさによるものだろう。

 

 一見楽しげに働いていたように見えるが、先ほども述べたこいつの性格を顧みるに、その実かなり精神を擦り減らしていたはずだ。

 そんな、不慣れな仕事を懸命にこなしていたのは、他の誰でもない、この俺のためだけなのだと――こいつは言った。

 

 だというに、当の本人はどうだ?

 そんな献身的な者を差し置いて、そこらで見かけた少女と連日遊び惚けている始末。

 とてもそんな献身を受け取れる立場にはない。あまりに不釣り合い、分不相応だ。

 ここにきて、俺はようやくその愚に気付く。

 

「――わかったよ。けど、こいつはお前の稼いだ金なんだ。預かっとくだけにしとくからな」

 

 心中で己を罵倒しつつ、俺は差し出された給料袋を受け取る。

 ……受け取ってみて分かったが、封筒はかなりの厚みがあった。

 仮に入っているのが全て千円札だとしても相当な額になるだろう。

 あの人、一体いくら包んだんだ?

 

 そう思い袋の中身を改めようとする行為は、合図もなく抱き着いてきたラピスによって中断される。

 

「――うおっと!? ……お前な、いい加減何も言わず突っ込んでくるのはやめろよ」

「ふふふ、そう言うな。わしは今、これ以上なく嬉しいのじゃ。まだまだ今まで受けた恩に報いるにはまるで足りぬが、こうして汝に尽くすことができてな……」

「お前……」

 

 ラピスの温かい体温を感じながら、俺はまたしても良心の呵責を感じる。

 ……ミナのことは、いずれ正直に話そう。

 相当な折檻を喰らうことになるだろうが、それは仕方がない。

 問題はタイミングだ。

 どの折に言うか――……

 

「……ん? おい、ラピス?」

「……」

 

 俺の胸に顔を埋めたまま一言も喋らないラピスを訝しみ声をかけるも、彼女からの返答はない。

 

「おーい? ラピ――」

「さて! 我が君が迎えに来てくれたことじゃし、そろそろわしはお暇しようかのう!」

 

 もう一度呼びかけようとしたところで、ラピスはぱっと俺の胸から顔を離すとそのまま振り返り、聖さんへ声をかけた。

 

「うん、確かにもう今日は遅い。親御さんも心配していることだろう。竜司君、送っていってあげなさい」

「は、はあ……それじゃ行くか、ラピス」

「うむ」

 

 そうして振り返ったラピスの表情は、ぱっと見いつもと変わらないものに思える。

 だがしかし、何故であろうか。

 笑顔を浮かべる彼女の様子が、つい先ほどと比べ、何か(・・)が違うように思えたのは。

 

「おっとそうだ、竜司君」

「はい?」

「若いうちから女性に貢がせて生活するような男を目指すなどというのは感心しないよ」

「そんなんじゃありません! ったく――行くぞラピス」

 

 俺が感じたちょっとした違和感は、そのような聖さんとのやり取りの中で雲散してしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

罪、償いし刻

 今から思えば、この時から既に異変の兆候はあった。

 

「……ふぁっ――……ん?」

 

 眠りから覚めた俺は、いつもとは違う体の軽さに気付く。

 目の前の視界に、ラピスの尻がない――と言うとどうも怪しげな感じというか、それがそもそもおかしなことなのだが。

 なにしろ毎日のことなのだ。

 どういう寝相なのかラピスは俺が目を覚ます時、毎回どっかりと俺の上に乗った姿勢で寝ている。

 その度目の前に鎮座する尻を(はた)いて無理矢理起こす、というのが毎朝の恒例行事と化していたのだが、今日はそれがない。

 

「起きたようじゃの」

 

 と、横から声がする。

 頭を声のする方向へと回してみれば、俺の腕を枕にした姿勢で横になっている彼女の姿があった。

 

「ん、おお。おはよう。どうしたんだ今日は」

 

 同じ布団に入ったまま、俺は尋ねる。

 殆ど密着状態にあっては、お互いの顔は触れそうなほどに近い。

 

「どうしたとは何じゃ」

「いや、今日はいやに寝相がいいじゃないか。いつもそうだと助かるんだがな」

「……ふん」

 

 布団の中から、ラピスから発される甘い匂いが漏れだし、俺の鼻をくすぐる。

 いつもの騒動もあれだが、これはこれで妙な感じだ。

 どうも気もそぞろになりつつあった俺は体を起こし、もう一度大きな欠伸をする。

 

「ふわぁ……ん、そうだ。今日は一緒にどっか行くって約束だったな」

 

 昨日俺はあの後結局、怒り心頭な妹への対処に疲れ切ってしまい、直ぐに寝てしまった。

 よって今日の予定も立てられずじまいに終わってしまっていたため、その話題のとっかかりとばかり俺はラピスに話を振る。

 ラピスは布団に横になった姿勢のまま、視線だけを俺に向けた。

 

「それなのじゃがの。その前にそなたに一つ頼みたいことがある」

「なんだ?」

「実は昨日、聖のところにうっかり忘れものをしての。まずそれを取りに行ってはくれぬか?」

「ん? 別に構わないけどよ、それなら一緒に行けばいいじゃないか」

「……ちと、体調が優れぬでな」

 

 予想だにしない台詞である。

 神様でも体調を崩すなどということがあるのか。

 それとも、これも力を失った影響の一つということだろうか。

 

「おいおい大丈夫なのか? まさかお前、力が尽きかけてるとか――」

「なに、単なる疲労によるものじゃろう。何だかんだでわしもこの一週間は慣れぬ経験続きであったでな、そのせいじゃろうよ」

「それならいいんだが……」

「なに、汝が帰ってくるまでには快復しておるよ。共に出かけるのはその後でよかろう」

「そうか。それじゃ大人しく待ってろよ」

 

 そう言って俺は、横たわるラピスの前髪をくしゃりと撫でた。

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

 どうも妙な塩梅だ。

 家から出て、こうして例の山道を歩んでいる今まで、俺はずっと思案を続けていた。

 あいつが体調を崩すなど、これまでなかったことだ。

 それほど心身ともに疲弊していた、ということだろうか。

 そう思うと、昨日も感じた胃の痛みが再度襲ってくる。

 

 結局、ミナのことはまだあいつに話していない。

 俺は話を切り出すタイミングを計りかねていた。

 恐らくは相当な怒りを買うことだろうし、それはもう俺も覚悟の上である。

 問題は俺自身のことではなく、彼女――ミナのことだ。

 ラピスの怒りが俺一人に向かうのならばいい。

 心配なのは、あいつはミナにもその矛先を向かわせやしないか、ということだ。

 ……ありえない話ではない。

 

「今日一緒に出掛けて、機嫌が良くなった時を狙うか……」

 

 ここに至ってもまだ打算的な計算をする自分が嫌になるが、彼女の身にまで危険が及ばぬようにだ。

 罰を受けるのは俺一人でいい。

 

「……命だけは助けてほしいもんだ。……ん、あれ?」

 

 ルナへと向かう俺の視界の先に、思いがけぬ人物の姿が映る。

 今日は来ない、と言っておいたはずだが。

 彼女は俺が発見するより先に俺の姿を視認していたようで、遠くからぶんぶんと手を振っているのが見える。

 俺は小走りで近付くと、やや面食らった声で彼女に話しかけた。

 

「おい、どうしたんだ? 今日は来ないって言っただろ?」

「おはようおにいさんっ! うん、聞いたよ。でもミナはここでいつも遊んでるから」

「今日も一人でか?」

「そうだよ。でも嬉しいなっ! 今日もおにいさんと遊べるの!」

 

 嬉しそうに興奮した様子を見せるミナだが、生憎今日は彼女に構っている暇はない。

 

「あーいや……すまんが今日は他に用事があるんだ」

「えっ……そ、そうなの? 一緒にあそべない?」

 

 見る間に意気消沈しだした彼女を見ていると、実に心が痛む。

 こんなことなら遠回りになっても下道を行くべきだった。

 

「……悪いな」

「ん……う、うんっ! 大丈夫だよ! ミナは一人でもへーきだから!」

「……」

 

 気丈な態度を取ってはいるが、明らかに気落ちしているのがありありと分かる。

 俺にそれを悟られまいと殊更に元気なフリをしているのだろう。

 それが分かるだけに、余計にいたたまれない。

 俺はつい「少しだけなら」と喉まで出かかったが、すんでのところでそれは思い止まった。

 

「また今度な、また今度」

 

 その代わりとばかり、俺はミナの頭をポンポンと軽く叩くようにして撫でた。

 たったそれだけのことで、彼女の表情が晴れやかなものへと変わる。

 

「……うん! また今度、いつもの(・・・・)時間にね!」

「あいや、それも――……ん?」

「どうしたのおにいさん」

「いや、なんか急に後ろから温かい風が吹いてきてな。ちょっとびっくりしただけだ」

 

 この季節にしては珍しい、温かな――というより熱い、と形容した方が適切なほどの風が背より当たり、俺は少々驚いてしまった。

 しかし本当に珍しい。

 特にこの山の中ではひっきりなしに乾いた冷たい風が吹き付けており、事実昨日ミナと遊んでいた最中も、俺は何度か寒さに身を震わせていたものだが。

 

「ていうかミナは平気なのか? いつもそんな短いスカート履いてるけど、寒くないか? 特にここらはやけに冷えるしな」

「ううん、ミナは平気だよっ!」

「そうか……」

 

 脂肪の殆どついていないように見える足はいかにも寒そうだが、そこは子供の無尽蔵のパワーとでも言おうか、考えてみりゃ小学生男子なんかだって真冬でも半ズボンだしな。

 それから、手を振りながら俺を見送るミナの姿に後ろ髪を引かれる思いをしつつも俺は再度歩みを再開し、ほどなくして俺はルナへ到着した。

 

「おはようございます」

「おお? どうしたんだい。今日はラピスちゃんは来ていないよ?」

 

 店に入って早速、聖さんからの声がかかる。

 そろそろ俺も、この彼女のメイド服姿にも慣れ始めていた。

 

「あーいや、なんか昨日あいつ、ここに忘れ物したらしくて。それを取りに来たんですよ」

「はて、掃除の際にそんなものは見なかったが……何なんだい、その忘れものというのは」

「えっと――……あっ!?」

 

 ……アホか俺は。

 何を取りに行けばいいのか、その具体的な内容を聞きそびれていた。

 というかあいつも言っとけよ、それくらい!

 

「……すんません。聞いてからもう一回来ます」

「はっはは、随分そそっかしいな。しかし折角来てもらったんだ、どうだね、一杯飲んでいっては」

「んー……じゃ、そうさせてもらいます」

 

 乾いた空気の中を歩き続けていたせいで、言われてみれば喉がカラカラだ。

 聖さんは俺の返答を受け、キッチンへコーヒーを淹れに向かった。

 そうして次に俺は、横目でとある人物を視野に入れる。

 

「――しかし……」

「おお、どうしたい小僧」

 

 その人物とは、律儀に今日も働いているこの男、ナラクだ。

 もっとも、働いていると言ってもそれは服装の話だけで、実際はテーブル席を一人で占拠しつつコーヒーをのんびりと啜っている。

 奴も俺の視線に気付いたようで、わざわざ俺の隣のカウンター席まで移動してきた。

 

「どうしたじゃねーよ。お前ホント、どういうつもりなんだ。何かまた企んでんじゃないだろうな?」

「はっ、んなまだるっこしい真似なんざするかよ。それに言っただろ? とりあえずお前らに借りを返すまでは手を出さねェよ、安心しな」

「どうだか……言っとくが、俺はまだ全然お前のことを信用しちゃいないからな」

「当然だな。そういう危機感を常に持っとくってのは大事だぜ。特に小僧、お前さんはな」

 

 どうも含みのある言い方である。

 

「どういう意味だ?」

「どうもこうもねェよ、言葉通りの意味さ。聞いた話だとお前、あの死神と半分同化してんだってな? そうすっと色々と気を付けにゃならんぜ。お前みてェに半分化けモンになっちまった連中ってのはよ、普通の人間にゃ見えないモンが見えるようになったり、同じ化けモン連中と惹かれ合ったりするもんだからな」

「化物はお前の方だろ? そういえばずっと聞こうと思ってたんだが、お前は何を取り込んでんだ? 無理矢理そうしてるってんなら――」

「ああん? おいおい、俺をあのクソガキどもと一緒にすんじゃねェよ。俺は正真正銘、ただの人間さ」

「お前な、そんなわけ……」

「どうした二人とも、何の話だい?」

 

 俺たち二人が話し込んでいるそこに、注文のコーヒーを手に持った聖さんが現れる。

 彼女の耳に入るところではこの話を続けるわけにもいかない。

 とここで俺は、彼女にも聞いておきたいことがあったのを思い出す。

 

「あー……えっと。ああ、そうだ聖さん。ちょっと聞いてもいいですか?」

「なにかな?」

「俺の家方向からこっちに来る途中、山がありますよね」

「うん、あるね」

「あの山の中にボロボロの神社があること、聖さん知ってます?」

 

 俺の言葉を受け、聖さんは首を捻る。

 

「神社……? いや、そんなものがあったようには記憶していないが……」

「やっぱりそうですか……」

「というよりキミ、あの山を通ってここに来ているのかい? まさか彼女も?」

「ええ、そうですけど」

「う~ん……あまり感心しないな。あの道は街頭も無いし、それにあまりいい噂も聞かないしね」

「なんです、噂って」

「私も詳しいことは知らないがね。あの通りは私が子供の頃は『首狩り峠』といって、随分親に脅かされたものだよ。なんでもずっと昔、あそこは処刑場として使われていたのだとか……」

 

 おいおい……物騒な名前だな。

 ていうかそんな曰くつきの場所だったのかよ。

 

「聖ちゃん、そりゃ違うぜ」

 

 と、俺たちの話に割り込んできたものがある。

 前々から何度か目にしていた、ここの常連客の一人だ。

 

「おいらがガキの時分に爺さんに聞いた話じゃ、あっこは江戸時代にタチの悪い山賊が根城にしてたとこで、そっから名前が付いたって話だったけどな」

「おい待てよ。俺ぁあそこはなんかデカい合戦があったとこだって聞いたぞ?」

「いや待て俺は――」

 

 そうこうするうちに話に参加する連中が次々と増えてしまい、収集がつかない事態になってきた。

 いずれにせよ、あそこはあまり良い言い伝えが残る場所ではなさそうである。

 そしてやはり彼らの中にも、あの神社について知っている者はいなかった。

 

 果たしてそんなことがあり得るのだろうか?

 ごく最近あの横道、そして神社が作られたというセンは無いだろう。

 だとすればあの朽ち果て様の説明がつかない。明らかに何十年――いや、ことによると何百年も経っているような風貌だった。

 先ほどナラクが言っていたことが思い出される。

 人でなくなってしまったものは、普通の人間では見えないものが見えるようになるのだと――。

 ……しかし、仮にそうであるならばひとつ道理に合わぬことがある。

 

『彼女』は普段からあの山、そして例の神社で遊んでいると言っていた。

 その言葉通りに信じるなら、やはり昔から存在していたと考えるほかない。

 しかし。

 もしそうでないなら、あの少女は――……

 

「竜司君?」

「――はっ。あ、ああ、なんですか?」

「いや、なにやら物思いに耽っていたようだったからね。どうしたのかな」

「いや、なんでもないんです。えっとそれじゃ、一回帰ってからまた来ます。――これ、お代です」

「なにを水臭いことを。キミが彼女を紹介してくれた恩はとてもこんなことで返せるようなものではない。つまらない気遣いは無用だよ」

「いえ、俺自身は何もしてないです。全部あいつが頑張ったからですから……ここはきっちり払わせてください」

「ん……そうかい」

 

 コーヒー代を支払い、俺は元の道をもう一度辿る。

 本当は下道を通ろうかとも思っていたが、一度気にしてしまってはどうも収まりが悪い。

 まあ、それもこれもまだ彼女があの場所に居れば――の話だが。

 今日は俺が付き合ってやれないと分かり、もう家に帰っているかもしれない。

 ……いやむしろそうであってほしい。

 そうであるなら今しがた胸に去来した予感も、ただの気の迷いで済ますことができる。

 

「おにーさんっ!」

「……ミナ。まだいたんだな」

 

 がしかし、そうした僅かな期待は見事空振りに終わる。

 やはり例の場所で一人、彼女は立っていた。

 

「ごようじは終わったの?」

「いや、ポカやらかしちまってな。出戻りだ。それよりミナ。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ、いいか?」

「なぁに、おにいさん?」

「その……」

 

 俺は一瞬迷った後、多少回り道で切り出すことにした。

 

「……あの俺たちが一緒に遊んだ神社のことなんだけどな」

「うん」

「お前、あそこを遊び場にしてるっつってたけど、それはいつからだ?」

「うーん……いつだろ。いっぱい前からだよ」

 

 可愛らしく首をかしげてみせるが、これは俺があらぬ疑いを彼女に抱いているせいだろうか。

 その所作が今、やけに白々しく思えるのは。

 具体的な数字として表さないのも、今この場にあっては殊更に怪しく思える。

 俺は話を続けた。

 

「実はな。あの場所、俺たち以外に誰も今まで見たことが無かったらしい。実際俺だって数日前に初めて気が付いたんだ。子供の頃から何度も通ってるってのに」

「……」

「それにな。ここいらはどうも悪い噂がけっこうあるみたいでな……んなとこをお前、いつも一人でってのは……」

「……」

 

 ミナからの返答が途絶える。

 彼女の顔からは笑顔が消え、何の感情も浮かべてはいない。

 ややあって、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「……それで、おにいさんはなにがいいたいの?」

「いや~……ええと……そのな……」

 

 何と切り出したものか。

 いざとなるとこの場に相応しい言葉に迷ってしまう。

 もし仮にミナがそう(・・)だとして、ここで下手なことを言うと取り返しのつかない事態に発展する可能性は大いにある。

 やはりラピスに相談してからにすべきだったか……?

 

「おにいさん。ミナのこと、おばけさんだと思ってるの?」

「う……」

 

 当たらずとも遠からずといったところだ。

 俺が返答に迷っている中、彼女は若干の笑顔をその顔に浮かべ、言った。

 

「ふぅん……おにいさん。ちょっとそこにしゃがんでくれる?」

「え?」

「はやく――ね?」

 

 有無を言わさぬ迫力を感じさせる。

 促され、俺は一応は彼女の指示に従う。

 しかしいつでも逃げ出せるよう、足は残してだ。

 

「……これでいいのか?」

「うん。それでいいよ。それじゃ……あれ? おにいさん、あそこ……」

 

 なぜかミナは言いながら明後日の方向に視線を向かわせる。

 そんな彼女の様子に釣られ、俺もその視線の先を追う。

 

「あそこってどこに――あいたっ!?」

 

 彼女から視線を外したその刹那、首筋にちくりとした軽い痛みが襲う。

 痛みだけではなく、生暖かい柔らかな感触も共にくっ付いてきた。

 急いで視線を戻すと、いつの間にか彼女の頭部が俺の肩付近に密着している。

 ――いや、密着しているというより、これは。

 

 ここでようやく俺は事態を飲み込む。

 俺は今、彼女に噛みつかれているのだ。

 

「お前、何やって……」

「――ぷはっ! んっふふふふ~……」

 

 顔を俺から離したミナは、さも愉快そうに笑い声を上げる。

 そして次に腕を組み、偉そうにふんぞり返ると。

 

「そうだよおにいさん! ミナはこうしておにいさんを食べちゃう悪いおばけさんだったのだ~!」

 

 仁王立ちの姿勢で、ミナは笑顔のまま言い放つ。

 そんな彼女を見て、俺は。

 

「……ふっ。くっくく……」

 

 つい自然に笑いが漏れ出た。

 やはり考えすぎだったようだ。

 仮に彼女が俺に害なす存在であったなら、先ほど喉元を食い破っていたはず。

 俺も大概どうかしていた。こんな人懐っこい少女を一瞬とはいえ疑うなど。

 

 彼女に甘噛みされた後を指でなぞると、軽く噛み跡がついているようで若干の違和感がある。

 とはいえ痛みなどは一切ありはしなかった。

 それも当然のこと。彼女はただ、俺にじゃれついてきただけなのだから。

 

「どうおにいさん、こわかった?」

「ああ怖いな。食われちまうかと思ったよ」

「んふふふ~!」

 

 イタズラが成功に終わり、してやったりという表情である。

 俺はこんな無垢な少女を疑ってしまいかけた後ろめたさを払拭する意味も兼ね、過剰なオーバーアクションでもってそれに応える。

 

「そんな悪いヤツは退治してやらねーとな。――ほれっ!」

 

 俺は彼女を両の腕で抱きかかえると、彼女の腋の下のあたりをくすぐる。

 

「えっ、あっ!? ――きゃはははっ! おにいさっ、くすぐったいよ!」

「ほれほれどうだ、参ったか」

「あはははっ! こ、降参! 降参っ!」

 

 足をバタつかせ観念するミナを地に下ろし、次いで俺も腰を落とす。

 

「ふぅー……よいしょと」

 

 ……なんとかの考え休むに似たりってやつだな。

 ま、悪い予感は外れるに越したことはない。

 

「いや、変なこと言い出して悪かったな。それで話は変わるけど、実は明日からは俺――……ミナ?」

 

 ふたたび話しかけようとミナに視線を向けるも、なにやら彼女の様子がおかしい。

 顔はやや青ざめ、それこそ化け物でも見るかのような目つきをしている。

 

 いや、妙なのは彼女の様子だけではない。

 いつの間にやら俺の背後からは、またも感じた熱を帯びた風が吹いてきていた。

 

「お、おにいさん……う、後ろ……」

 

 ミナは震える手で、俺の背後を指差す。

 

「へ?」

「そ、そのひとって……」

「後ろ? 後ろがどうかし――」

 

 振り向こうと首を動かしたその瞬間、鋭い痛み、そして衝撃が俺の頭部を襲う。

 すぐさま俺の意識は絶たれ、深い闇へと埋没していった……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

生死と貞操を賭けた駆け引き

「う……」

 

 呻き声と共に、俺は僅かに意識を取り戻す。

 頭の中では残響の残る異音が繰り返され、まるで耳元で鐘を突かれているかのような不快さだ。

 ……なぜ、こんなことになっていたのだったか。

 意識を失う前、俺はどうしていただろうか。

 

 ………

 ……

 …

 

 時が経つにつれ、耳元で響いていた音は鳴りを潜めはじめた。

 もともとそんな音など鳴っておらず、混乱した俺の脳内が作り出した幻聴であったのだろう。

 そうして冷静な思考が戻って来るに従い、同時に記憶も段々と鮮明になってくる。

 そうだ。

 俺は確か、あの少女と話していて、そして……。

 そうだ。俺はあの時、気を失って――……彼女は? 彼女はどうした?

 

「……ミ――うおおおおおっ!?」

 

 目を開け、あの少女の名を呟こうとした瞬間、俺は頓狂な叫び声を上げた。

 同時に身体ごと後ろに跳ね飛ぼうともしたが、何故か身体が思うように動かずそれは叶わなかった。

 

「おはよう、リュウジ」

 

 叫び声を上げたのは、開けた視界一杯にラピスの顔が飛び込んできたためである。

 彼女の顔など既に見慣れたものだが、この時ばかりはまるで別人のように映った。

 元々大きな瞳を尚も大きくし、俺の瞳を一直線に見つめている。

 まばたき一つしていないのが、また尚のこと異様さを際立たせる。

 そして彼女は笑顔でも怒りの表情でもない、何の感情も伺い知れぬ表情を、ただ張り付けていた。

 明らかに普段とは様相が異なる彼女に対し、俺は恐る恐る口を開く。

 

「ラ、ラピス……? お前……」

「んん~? なんじゃ、どうかしたかの?」

 

 声色も一見いつもと変わらぬ平易なものに思えるが、これまで僅かな間ながら一緒に過ごしてきた俺には分かる。

 どう考えても様子がおかしい。

 そして今、俺は今椅子か何かに座らされている状態らしく、微動だに出来ぬところから察するに、四肢を椅子に縛り付けられているようだ。

 両の腕は椅子の後ろに回され、手首のあたりを紐で固定されているらしい。

 足首も同様だ。

 その下手人は明らかである。

 

「え、ええと、その、な……」

 

 いつもの俺であればすぐさま彼女に対し今すぐ放せと喚き散らすところだが、この場においてはひとつの対応ミスが命取り――そんな確信めいた予感があった。

 それでなくとも今現在がただならぬ事態にあることは、ラピスが俺のことを下の名前で呼んでいることからも十分に察せられる。

 よって俺はそうすることはせず、普段より声のトーンを落とし、努めて優しげに彼女へ問いかける。

 

「……その、俺はどうしてこんなことになっているのかな?」

 

 俺の問いに対し、ラピスは首をちょいと傾け、次いでにっこりと笑う。

 

「もちろん、そなたのためじゃよ」

 

 何が”勿論”なのか。

 問い質したい気は山々であったが、その理由を問うことは躊躇われる。

 とんでもない返答が返ってきそうな予感がしたからである。

 俺の予感は悪い方ばかり良く当たる。

 

「そなたを(たぶら)かさんとする泥棒猫、いや女狐めもここならば手を出せぬゆえな」

 

 そして、それは今回も例外ではなかったようだ。

 俺の心臓が早鐘を打ち始める。

 そのことを彼女に悟られぬよう、俺は声の震えを隠しつつ、無駄とは薄々感じつつもとぼけてみせることにする。

 

「め、女狐って……はは、ラピス。お前は何か勘違いしてるんだよ」

「うむうむ、わかっておるよ。そなたは優しいからの。その優しさを勘違いする阿呆が現れたとして、そのことはそれほど不思議なことではない。たとえそれが、年端のいかぬ女児であったとしてもな」

 

 その言葉で俺の体は硬直し、そしてその緊張は間違いなくラピスにも届いたはずだ。

 なにしろ今ラピスは座っている俺の膝に腰を落とし、両腕を俺の首に回した、半分抱き着いているような格好で俺を尋問しているのである。

 そんな状態で、俺がついビクリと反応してしまったことに気付かないわけがない。

 

「リュウジよ。先ほど眠りから覚めた際、そなたは何ぞ言葉を発しようとしておったよの? それは誰かの名か? 非常に興味が湧くのう。そなたが起きて早々、汝が誰の名を呼ぼうとしておったのかをな? いやいや、もちろんわしは信じておるがの? まさか我が君、我が主君――我が半身が、わしを差し置いて他の女の名を呼ぶなどとは思うておらぬとも。しかし一応、そなたの口から聞いておきたいのう? ……誰の名を呼んだ(・・・・・・・)?」

 

 俺の背を冷たい汗が濡らす。

 ラピスの言葉は終わりに近づくにつれその重さを増し続け、今まで聞いたことのない圧力をもってして俺に襲い掛かった。

 彼女の質問に答えること、それ自体は容易い。

 がしかし、馬鹿正直に答えることはすなわち、俺――そして彼女の死を意味するだろう。

 

「あぐっ……!」

 

 返答にもたつく俺に対しラピスは業を煮やしたのか、俺の首に回した手、その指を立てる。

 突き立てられた爪が肌に食い込み、鋭い痛みが俺を襲う。

 

「おっと……すまぬの。つい力が入ってしもうた」

 

 言って、ラピスは右手だけを自分の顔の前に移動させた。

 彼女と俺、両者の間にあるその手は俺の視界にも入ることとなる。

 ラピスの人差し指の爪からは俺のものと思しき赤い液体が付着しており、彼女は第二関節あたりまで垂れてきているそれをうっとりと眺め――……そして。

 

「しかしそなたも悪いのじゃぞ? あまり焦らすでないわ……ふふっ……」

 

 俺の血を、愛おしげに。

 自らの舌でもってして舐めとったのだ。

 

「――……っ。んっ……ふぅ……」

 

 ゆっくりと、味わうように。

 口の中で遊ばせた後、ようやくラピスはそれを嚥下する。

 

「あー……」

 

 そして、俺に見せ付けるように大きく口を開けて見せた。

 彼女の頬には僅かに朱が差しており、また体温が上昇しつつあることも、密着状態にある俺にはよく伝わってくる。

 また目はやや蕩けているようにも見え、こんな状況だというのに俺は、その様がやけに淫靡なものとして思えた。

 

「……実に甘美であったぞ。こんなものを味わってしまうと、これより先、他のものなど受け付けなくなってしまいそうじゃ」

 

 周囲は薄暗く、今いるここがどこなのか詳細は分からないが、人気といったものはまるで感じられない。

 どこからの光源によるものか、まばらに青色の光が灯っているのが確認できるのみである。

 それらの光は彼女の姿を格別怪しく――そして美しく浮かび上がらせている。

 中でも彼女の瞳はとりわけ妙な光の反射を成しているようで、彼女の瞳孔は今、例えるならばハートに近い形に歪んで見えていた。

 

「やはり我等は心も……そして身体も。余すところなく欲するように運命づけられておるようじゃの。 ……リュウジ、そなたもそう思うであろう? わしの一部が入った料理を、そなたは実にうまそうに賞味しておったものな……」

「料理……? ……――ッ!」

 

 電流が走ったが如き衝撃が俺の身を貫く。

 ……まさか、一連のあの料理。

 あれはまさか――

 

「……ところで、どうも妙な塩梅なのじゃ。今しがたそなたの血を賞味してからというもの、下腹部が妙にうずいて仕方がない。こういったことは今までになかったことじゃ。冥府でずっと一人きりで過ごしてきた世間知らずじゃからな、わしには皆目見当がつかぬ。そなたは何か思い当たることはないか? のう、リュウジよ……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

闇、あるいは病みの追撃

 まずい。

 

 まずいぞ。

 

 今までの比でなくまずい。

 

 なにより身動きが取れない状態だということがヤバい。

 ラピスの頬の赤みは益々発色を増し、腰をもじもじと小刻みに揺らせている。

 瞳孔はもはや完全にハート形に変貌しており、明らかに尋常の状態ではない。

 

「リュウジよ。なにゆえ黙っておる? わしの質問に答えてくれ。この身体の昂ぶりの正体を教えてほしい……」

「待て、落ち着け! とりあえず股を擦り付けるのを止めろっ!」

 

 俺の言葉は、ほとんど悲鳴に近いものになってしまった。

 とにかくラピスを一度落ち着かせないと話にならない。

 こうなると、周囲に人の気配がないことはある意味幸いだ。

 実際のところはともかく、こんなところを誰かに見られでもしたら、その瞬間に人生終了である。

 ……いや、そうでなくともこのままだと男として大事なものを無くすことになりそうだ。

 

「むぅ~……」

 

 俺の必死の懇願が一応の効果を奏したのか、ラピスは不満げな顔付きをしつつも一旦体の動きを止める。

 この機を逃してはならない。まずは話を逸らすことだ。

 と言うより今は何よりもまず、先ほどのラピスの台詞に言及せずにはいられない。

 

「ラピスお前……この前のオムライス。それにあのチョコもか。一体何を入れた?」

「なに、毒など入れておりはせんよ。安心するがよい」

「何を入れたんだっ!? ――はっ。そうだ、あの時の指――自分で切ったんだな。入れたのは血か!?」

 

 ラピスの返答は、何故か暫しの間をおいてのものだった。

 

「ん……うむ。そうとも。入れたのはわしの血と――……あいや、それだけじゃよ」

「おいお前っ! 何か他に言おうとしただろ!? 何だ、何を入れやがったんだっ!」

「まあまあよいではないか、そんな細かいことはどうでも」

「くっ……」

 

 一体他に何を入れて俺に食わせたのか。

 様々な想像が沸き立ってくるが、あまりこのことを深く突っ込むと俺の精神が爆発してしまいそうな気がする。

 むしろ詳細を言われなかったことは俺にとり幸いなことであったのかもしれない……。

 

「それに、そのことにはむしろ感謝してほしいくらいなのじゃがな」

「どういう意味だ?」

「わしの一部を取り込んだことにより、汝の身に何か異常が起こりし際は僅かながらわしにも伝わるでの。察するにリュウジ、あの女狐めから何ぞ体に入れられたのであろう? 不快な匂いを体にこびりつかせてきおってからに。もっとも、そのおかげでわしも確信が持てたのじゃがな。あのこむすめも愚かしい真似をしてくれたものじゃ」

「……は? そんなこと――」

 

 いや、待て。

『体内に入れた』というラピスの言葉により、俺にはあることを思い出す。

 ……まさか、あの米のことか?

 しかし、結局あの後、俺の体調には何ら変調は起きなかった。

 第一俺をどうこうしようというのならば、そんな回りくどい方法を使う理由がない。

 それに今日のこともある。ミナがただの人間であり、俺に危害を加えようなどという気がないことは明らかだ。

 

 だが、今のラピスにそんな道理は通用しそうにない。

 それに彼女の台詞を鑑みるに、どうやら昨日の晩あたりから当たり(・・・)を付けられていたようだ。

 彼女のことも完全にバレている。

 もはや事ここに至っては、素直に謝意を伝えるほかない。

 俺は覚悟を決めた。

 

「……その、悪かった」

「ん? 何がじゃ?」

「お前、姿を消して付いてきてたんだろ、今日」

「……」

 

 沈黙を肯定と受け取った俺は、そのまま話を続ける。

 

「それであの子と俺が仲良さげにしてるのを見たから、俺に怒ってこんなことをしてるんだろ?」

「いいや。それは少し違うの」

「え?」

「先ほども言うたが、これはあくまでそなたを守るためのものよ。……それに、考えてみればわしにも落ち度はあった」

「何言ってる。お前に何の咎があるっていうんだ」

「そなたほどの男、わしでなくとも他の雑多な女子(おなご)どもが放っておくはずがない。なに、分かっておるよ。あのこむすめに無理に言い寄られ、仕方なく付き合うてやっておったのであろう?」

 

 ラピスの言葉には、間違いないという断定の色が浮かんでいる。

 無論実際のところはそんなことはないのだが、恐らくどんな言葉も今の彼女には伝わらないだろう。

 それほど、今のラピスの様子は有無を言わさぬ迫力に満ちていたのである。

 

「そなたは誰にでも優しい。それは美徳でもあるが、同時に短所でもある。もちろんわしがそうであるように、そなたもわしのことを第一に思うておることであろう。しかしの、そうと分かっておっても不安なのじゃ。わしは以前に言うたよの? 汝に必要以上に近付く女がもしおれば、わしはその女をどうするか分からぬとな」

 

 言って、ラピスはにやりと笑う。

 鋭い犬歯をちらりと見せながらのその台詞は、幼女とは思えない恐ろしさを演出していた。

 

「――じゃが、そんな心配はもはや無用。この空間はの、わしの力で急遽作り上げた密閉次元となっておる。他の何人たりとも侵入することはできぬ」

「別次元ってお前……これからどうする気なんだよ、そんなとこで」

「決まっておる」

 

 ラピスは宣言する。

 俺をこの場に連れてきた、その理由を。

 

「そなたはこの先、ここで永劫の時を過ごすのじゃよ」

「なっ!? ば、バカっ! 冗談だろおい!」

「何をそんなに慌てておる? ……あああるほど、心配せずともよい。無論このわしと共に、じゃ。安心するがよいぞ?」

 

 何をどう安心しろというのか。

 無駄に終わる予感をひしひしと感じつつも、こうなれば必死で彼女に慈悲を乞うほかない。

 

「反省してる! 本当に反省してるから! もう二度とお前に隠れてあんなことはしないと誓う! だからちょっと一度落ち着こう、な!」

 

 ほとんど浮気がバレたダメ男の言い訳になってしまったが――いや、この状況はまさにその通りなのかもしれない。

 

「わしは落ち着いておるよ? むしろこの上なく心穏やかじゃ。これからのことを思うと胸が高鳴ってたまらぬよ」

「だ、大体だな! 俺には家族がいるんだ。いきなり居なくなったらどんなに心配するか……」

「ふぅむ……確かに、そなたの血筋の者をおざなりにするのは多少心が痛まぬでもないの」

「だ、だろ? だから――」

「そうじゃの……うむ。ではこうしよう。人というのは大体……一年ほどであったかの? その頃になれば一度わしと共に元の次元へと戻ることとしようではないか」

 

 譲歩を引き出したのは喜ぶべきことだが、その安堵も一瞬のこと。

 俺は再び嫌な予感に囚われることとなる。

 ……なぜ、期限付きなのか。

 それにすぐさま口に出したあたり、どうもラピスの中では事前に予定していたことのように思える。

 

「……どうして一年なんだ?」

「神とはいえ、今やわしは半分人の身じゃ。そう大して違いは無いであろうからの。そなたの家族も喜ぶことじゃろうて。世継ぎが生まれることはこの上ない朗報であろう。ましてやそれが神とのものであれば猶更じゃ」

「ちょ、おい! お前、まさか!?」

 

 ラピスが言わんとしていること、その凡そを理解した俺は声を上げる。

 そして、俺はあの帰り道での彼女の台詞を思い出す。

 

『汝の子を、共に――』

 

 ラピスは可愛らしく頭を斜めに傾けつつ、満面の笑みで次の台詞を口にしたが。

 俺の目にはその姿は、獲物を前にして舌なめずりする獣としか映らなかった。

 

「あの時の約定、これから果たしてもらおうではないか? 実際はわしが元の姿に戻った際に、というものであったがの」

「そ、そうだろ? 神様が約束を破るのか?」

「……しかしな?」

 

 ラピスはさらに顔をぐいと近付け、言った。

 

「先にわしを裏切り、他の女にうつつ(・・・)を抜かしておったのは誰であったかのう?」

「……うぐっ!」

 

 これまでの口ぶりから、ラピスの怒りはミナにばかり向かっていると思われたが。

 ……やはり、俺に対しても怒ってはいるようだ。

 どう言い訳をしようとも、彼女に隠し事をしていたという事実を覆すことはできない。

 こんなことになるのならば昨日思い立った時点で即座に全てをつまびらかに話し、平身低頭謝るべきだった。

 俺が後悔の念に苛まれている中、ラピスはさらに驚愕の事実を告げる。

 

「それに、今さらであろう? 仕込む回数は多いに越したことがないというだけの話よ」

「――は?」

「忘れたのか? 我等はすでに一度交わっておるではないか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

仕置きの時間

「馬鹿なこと抜かすなっ! 俺はお前と――……その、そんなこと(・・・・・)した覚えはねえぞっ!!」

 

 純情な男子高校生である俺は行為の名をはっきりと口にすることに抵抗を感じ、多少濁した言い方になる。

 それに実際に言葉にしてしまえば、どうしても生々しい想像が大なり小なり俺の心中に発生してしまうことだろう。

 そうなれば猶のこと、俺は心の平衡を保つことができそうにない。

 

「おやおや、なんとも不義理なことを。いくら汝が否定しようとも、事実は事実。覆すことはできぬというに」

 

 動揺しきりな俺とは対照的に、ラピスは余裕たっぷりな態度を保ち続けている。

 その様子は、自分の嘘がバレるわけがない――というより、俺が事実を認めたがらないことを嘲笑っている様子だ。

 となれば、彼女には確信があるのだろう。

 しかし。

 いくら記憶の底を突っついてみても、当然のことながら俺に心当たりなどない。

 とするなら……俺の意識がない時?

 そこまで思い至ったところで、俺は瞬発的に声を出す。

 

「お前まさかっ! 俺が寝てるときとかにこっそり――」

「阿呆」

「あだっ」

 

 ラピスの手刀がこめかみの中心にヒットし、俺はくぐもった声を上げる。

 

「仮にも神たる存在であるわしが、かくの如き下衆な真似を仕出かすと思うてか?」

 

 ……やらないとも限らないだろう、とはもちろん口に出さない。

 これ以上、僅かでも彼女の機嫌を損ねる事態だけは避けねばならない。

 

「……なら、一体いつの話をしてるんだ。言っとくがマジで俺には身に覚えがないからな」

「この期に及んでまだしらを切るとは、まったく呆れ果てるの。ならば思い出させてやろう。ほれ、我等が初めて出会った際のことを思い出してみるがよい」

「……最初? それって、お前がまだ元の姿だった時のことか?」

「んむ。そなたが幽閉されておるわしを発見した日のことじゃよ」

「……?」

 

 妙なことを言う。

 それこそ思い当たる節などあろうはずがない。

 しかしラピスがあまりに自信たっぷりなので、俺は一応あの時のことを詳細に思い出してみることにする。

 

「……確か、あの時俺はお前を見つけて――そう、お前から話しかけられたんだったな」

「そうであったな。いきなり角を掴みおってからに。あれほどの無礼をなされるとは思いもせなんだわ」

「お前がアホなこと言い出すからだろ。……で、その後俺はお前と約束をしてから……そうだ、杭を抜いてやったんだったな。それで――」

 

 ……。

 終わりである。

 初日はただ約束を交わしたのみで、続きは次の日に持ち越しになったはずだ。

 やはり思い返してみても、ラピスの言うようないかがわしい行為をした記憶などない。

 ……というか、改めて考えなくとも当然の話である。

 今まで異性と付き合ったこともない俺が初対面の女に対し、そんな大それた行為に及べるはずもない。

 

「……やっぱ無いじゃねえか。お前、一体どうしちまったんだ? 頭のネジが何本か外れちまったんじゃないのか」

「愚か者っ!」

「あいだっ!?」

 

 先ほどと寸分違わぬ位置に、再度ラピスの手刀が叩き込まれる。

 今度は割合本気のものであったようで、結構な衝撃を伴うものだった。

 俺の目に映る表情もまた、幾分か不機嫌なものへと様変わりしている。

「ここまで言ってやってもまだ分からないのか」とでも言いたげだ。

 しかしそうはいっても、やはり心当たりがないのだ。

 俺はラピスの真意が分からず、ただ困惑するばかり。

 

「はぁ~っ……。なるほどの。合点がいったわ」

 

 そんな困惑した俺の様子を受け、ラピスは深い溜息を吐き出す。

 

「よくよく考えてみればそなたはまだ人としても若輩も若輩。如何にして子ができるのか、そこから話してやらねばならぬのか」

「はぁ?」

 

 やれやれ仕方がないとばかり、ラピスは首を振りつつ言う。

 明らかにこちらを小馬鹿にしているというか、下に見ている態度である。

 これには俺としても若干腹が立たないこともなかった。

 流石にそんなことくらい知っている。

 知っているからこそ、身に覚えがないと言い続けているのだ。

 

 と同時に、この時から俺にはある予感が湧いてきつつあった。

 がしかし、それはあまりといえばあまりな推察であり、数万年の時を生きてきた神に対する思いとしては、それこそ不敬極まりない疑惑であったからだ。

 

「……しかし、そう思ってみると妙な興奮を覚えてしまうのう。無垢な童であったそなたを、そうとは知らぬまま汚したという事実は……なんとも背徳的というかなんというか……ふ、ふふ、ふふふふふ……」

「おいコラ、何を自分の世界に没入してやがる。いいから話してみろ」

 

 不気味な笑い声を上げつつ悦に至るラピス。

 その様があまりに見るに堪えないものであったたため、俺は即座に突っ込みを入れる。

 

「ふふふ……よかろう。では言ってやろう。あの日、わしらが分かれる際のことを思い出せ。よぉ~く思い出すのじゃ」

「別れ際……? ――ああ、お前が俺をからかうためにやった、アレか」

 

 そう。

 あの日、こいつは俺をからかうためだけに――別れ際、俺の唇を奪ったのだ。

 思い返すと今さらながら気恥ずかしさが襲ってくるが、そんな羞恥の感情に俺が支配されるより先、ラピスはそのことに言及する。

 そしてそれは、俺の疑惑を更に後押しするものだった。

 

「ほれ、やはり覚えておるではないか。それともこれ以上は誤魔化せぬと観念したのか? いずれにせよ、これでもはや言い訳もできまい。既に我等はことを成しておる。となればこれより先に何度行為を重ねようと、そう変わりはせぬじゃろう?」

「……なあ」

「うん?」

「俺をからかってんじゃないよな?」

「どういう意味じゃ」

「……」

 

 疑惑が確信に変わる。

 だがしかし、それでもまだ信じ難い俺は、一応最終確認をすることにする。

 

「……ひとつ聞いていいか」

「なにかの」

「お前、どこでその――そういう(・・・・)知識を得たんだ」

「なに、わしは時間だけは無限にあったからの。暇さえあれば下界の人間どもの様子を覗き見ておったものじゃ。その見てきた経験によればの、人間の男女というものは口と口を互いに接合させることにより子を成すことができるらしい。何度も確認済みじゃ。行為の後、ちょうど一年弱といった周期とも決まっておるようじゃ」

 

 ――こいつ、マジか?

 どうしたら子供が作れるのかくらい今日び中学生――いや、小学生だって知ってるぞ。

 呆然とする俺を尻目に、ラピスはうきうきとした様子で間違いだらけの講釈を垂れ流し続ける。

 

「よう考えてみれば、わしも大胆なことをしたものじゃて。今から思い返してみると、あの時から既にわしは汝との運命の糸を感じておったのやも知れぬの。とはいえあの場においてはまだわしは神性を保っておったゆえな、残念ながら仕込み(・・・)は失敗に終わったようじゃ。今の今までそれらしい兆候も無いしの」

「……」

 

 俺はもう、何をか言う気すら失せてしまう。

 世間知らずとかなんだとか、もはやそういうレベルを超えてるぞ。

 俺はもう何もかもが嫌になりつつあったが、脱力しながらもラピスに問うた。

 

「……あのなぁお前……人間たちのそういう場面を見てきたって言ってたけどよ。その後そいつらは何かしてなかったか?その……なんて言うか、服をその、脱いだり……」

「ふむ? 存外よく知っておるではないか。これが耳年増というやつか?」

 

 どっちがだ。

 俺は心の中でそう吐き捨てる。

 

「確かにそなたの言う通り、何かしら行為の続きに及ぶ所作を見せてはおったがの。わしはそれ以降見るのを止めてしもうておったでな」

「なんでだよ?」

「……なんというか、そ奴らを見ているとやたらに胸がムカムカしてきての。あまりにも腹立たしいので毎回そこで覗き見を打ち切ってしもうておったのじゃ。何故だかは分からぬが、自分がとてもみじめなものに思えてきてしまっての……」

 

 なるほど、つまりはひがみ(・・・)か。

 幸せそうに愛し合う男女の姿と、一人それを覗き見る自分。

 ふと冷静に両者の姿を客観視した時、そのあまりの境遇の違いに心が耐えられなくなったのだろう。

 ……モテなすぎてこじらせた(・・・・・)男と思考回路が同じだな。

 

 これまでの話を整理し考えてみると、ラピスがああまでしつこく迫ってきた理由も今ならば分かる。

 唇ではなく額へのキスで露骨に不機嫌になっていた、その理由も。

 

「なるほど、な……」

 

 この死神が想像以上に物知らずで、かつ豆腐メンタルなのはさておき、この勘違いは俺がこの場で持てる唯一といっていい利点だ。

 ことの真相を俺が明らかにしなければ、とりあえず貞操だけは守り通すことができそうである。

 

 ……いや、待て。

 確かにその点ではいいかもしれないが、そうなるとまた別の問題がある。

 どうやらラピスは俺との間に子供を成し、その既成事実をもってして今後俺が浮気をしないように縛るつもりのようだ。

 しかし、当たり前のことだがこのままでは一年どころか百年経ってもそんな事態にはなりはしない。

 

 そうなるとどうなる?

 本当に――このまま永遠の時を、死ぬまでここに幽閉されたままになるのでは?

 正直に話せば貞操を奪われ、かといって隠したままでは永遠に監禁されたまま。

 まさしく行くも地獄、行かぬも地獄の袋小路である。

 

「――おっとそうじゃ。その前に片付けねばならぬ仕事が残っておった」

 

 俺がそうした思考の袋小路に悩まされている中、不意にラピスは声を上げると、俺の膝からぴょいと飛び降りる。

 

「リュウジ、ちとわしは出かけてくるでな。大人しく待っておるのじゃぞ」

「へ? 出かけるってお前、どこに?」

「決まっておる。あのこむすめを成敗しに、じゃよ」

「なっ!?」

 

 ちょっとそこまで――。

 そんな軽いノリで、とんでもないことをラピスは言い放つ。

 ラピスの言う成敗とは、ちょっと痛い目に合わせるだとか、そんな軽い意味ではないだろう。

 そのことを察した俺は、慌ててラピスを止める。

 

「ちょちょ、ちょっと待て! ど、どうして――」

「どうしてとはまた妙なことを言うのじゃな。そなたも随分と困らされたことであろうに。一刻も早くわしと会いたいと思うておったというに、あれなる女狐に無理矢理引き止められておったのじゃろ? そなたも内心、怒り心頭であったことじゃろうよ。……無論、このわしもじゃ。彼奴(きゃつ)にはその報いを受けてもらわねばならぬ」

「いや、ミナはそんな子じゃな――もがっ!?」

 

 瞬間、ラピスは再度俺の膝の上に飛び乗ると、そのまま右掌を俺の口元に覆い被せる。

 次いで出された彼女の声はとてつもなく重いもので、据わったその目からは、再び先ほどまでの圧力が舞い戻ってきていた。

 

「……ほっほ~う。かくの如き卑しき匹夫の名を、汝はしっかりと覚えておるのじゃなあ? そういえば、そなたらをこっそり覗き見ておった際にも思うたが、やけに仲睦まじき様子を見せてくれておったな。わしには普段つっけんどんな態度を取るくせにのう? そなたのあの態度、あれはあの女めに強要されしゆえのものかと思うておったが……まさかとは思うが、リュウジよ? そなた、あの女狐に多少なりとも気を惹かれておったわけではあるまいな?」

「――……!!」

 

 口を覆われ、何をも口に出すことのできない俺は、彼女の問いに対し必死で首を振ることしかできない。

 

「そうであれば話は変わってくるのう。せいぜい寿命の八割方を奪って、それなるをもって仕置きとせんと思うておったがの、気が変わった。後腐れの無きよう、完全に息の根を止めてくれるわ」

「――ぶはっ!! ……ちっ、違う! お前の思ってるようなことは何もない! だからそれだけは止めてやってくれ!」

 

 一瞬拘束が緩んだその隙を逃さず、顔を捩ってようやく掌の束縛から逃れた俺は、殆ど悲鳴めいた叫び声を上げる。

 ラピスは本気だ。

 本気で、ミナを殺そうとしている。

 

「まったく、そなたはどこまで甘いのやら。しかしそんな男であればこそ、わしはこうまで参ってしもうておるのやもしれぬ。……安心せい。そなたが案じる必要はない。これより先はわしが共におる……そう、全てこのわしに任せればよいのじゃ」

「いやだからっ……! ――うっ……?」

 

 ……どうしてこんな時に!?

 俺は突如として感じた、とある体の変調に身体を硬直させる。

 そんな俺の様子にはラピスも気付いたようで、やや心配げな声をかけてきた。

 

「ん? どうしたリュウジ。顔が青いぞ?」

「……ラピス。この話の続きは後にしてもらっていいか。一度この拘束を解いてくれ」

「んんん? 何故じゃ?」

「……」

 

 この緊迫した状況にあっては、あまりに間の抜けた事態である。

 がしかし、そうはいっても俺も生物である以上、これは避けては通れぬ生理現象だ。

 先延ばしにしても結局は同じこと。

 よって俺は、渋々ながらも正直に答える。

 

「……トイレだ」

 

 一瞬、ラピスは俺の言葉の意味を解さぬかの如く、目をぱちくりとさせていたが。

 何度かそうして瞬きをした後、どういうわけか彼女は先ほどとは打って変わって笑顔になる。

 

「ん……おお、そうかそうか。そういうことであったか。くっふふ……なるほど、なるほど。よかろう、話の続きは後じゃ」

「……分かってくれて嬉しいよ。それじゃ早く――っておい、何してんだ?」

「仕方ない、なるほどそれは仕方ない……よしよし、それでは準備をしてやらねばの……」

 

 俺の腰付近あたりから、ガチャガチャという金属音がする。

 その正体は、ラピスが俺のベルト、そのバックル部分を弄っている音であった。

 

「何してんだって聞いてんだっ! ――ちょ、こら! 何でお前がベルトを脱がす!?」

「これ、暴れるな。そなたが用を足したいと言い出したのであろうが」

「それと今のお前の行動に何の関係があるってんだ!?」

「鈍い男じゃのう……わし自ら、その世話を焼いてやろうというのじゃ」

「だから――……は、はあっ!?」

「わしも反省しての。そなたが他の女に目を奪われるのは、わしに対する依存が未だ足りぬゆえと気付いたのよ。……なぁに、時間はたっぷりとある。これからゆっくりと時間をかけて、わし無しではもはや生きてはおれぬ――そう思わせるまでじっくりと躾てやるからの?」

 

 躾って――……いや、それより『世話を焼く』だと?

 ……こいつ、まさか!?

 

「――ば、バカ野郎っ! 冗談はよせって! 汚いだろうが!」

「なにが汚いことなどあるものか。なに、恥ずかしがることなどない。我等は二人で一つなのじゃ、己が分身の分泌物を、誰が汚れておるなどと見做すものか。それにの、わしは汝のものであれば、それがどんなものでも受け入れる覚悟は出来ておるぞ? ……じゃからな――ほれ、観念せい!」

 

 留め具を外し終えたラピスは勢いよくベルトを引き抜き放り投げると、今度はジッパー部分に手をかける。

 

「ちょっ、ま、待て、待ってくれ! た、頼む! それだけはやめろ! お願いやめてえええ!!」

 

 今度ばかりは本気の絶叫である。

 助けなど望むべくもないことは分かりつつも、それでも叫ばずにはいられない。

 

 そんな半狂乱状態、加えて自分の叫び声に覆い隠され、俺はこの時はまだ気付くことはなかった。

 何処からか――そう。歌のようなものが聞こえてきていることに……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見(まみ)えし神々

「おいっ! いいから落ち着けって、おいっ!?」

 

 叫び、喚き、今なお俺はラピスに思い止まらせようと説得を続けている。

 ……いや、この状況ではもはや慈悲を乞うていると言った方が正しいか。

 

「なになに、恥ずかしがることはない。言ったであろう? 我等はもはや二人で一つ。なればむしろ隠しごとをすること、すべてを曝け出さぬことの方が不誠実であるというものよ」

 

 俺が動けぬことをいいことに、ラピスはにやにやとした笑いを張り付けたまま、思うさま勝手なことを宣い続けている。

 片手の指先は変わらず俺のズボン、そのジッパー部分に添えられたままで、今にもひと息にずり下げそうな様子である。

 

「そういう問題じゃねえっ! 例えそうだとしてもな、人として最低限のプライバシーは守れってんだ!」

「……ほぉ~? ぷらいばしい(・・・・・・)、と抜かしたな?」

 

 彼女の手がジッパーから離れる。

 それそのものは喜ぶべきことだが、ラピスの笑顔がより深いものに変化したことが別の不安を呼ぶ。

 俺はおずおずとラピスに問いかけた。

 

「なっ……なんだ、それがどうかしたのか」

「なるほど、確かに誰でも他者に触れてほしくない私事の一つや二つはあろうことじゃろうなぁ」

「だ、だろ? だから……」

「しかしの? 我が君にそれを言う権利は無いと、わしは思うのじゃが?」

「なんでだよっ!?」

 

 ラピスは「ふふん」と一笑し、腕を組む。

 

「汝はもう忘れてしもうたのであろうがの。わしはずうっと覚えておるよ。……忘れもせぬ。貴様(・・)に辱められた、あの屈辱はな」

「……えっ?」

 

 俺が呆けたような声を出した瞬間、ラピスのこめかみに一本の青筋が立つ。

 まずい。

 一体何の話を持ち出そうとしているのかは分からないが、この上更に機嫌を損ねるようなことだけは絶対に避けねばならぬというのに。

 二人称が『貴様』になったということは、これは相当激怒している証拠だ。

 

「……やはり忘れておったか。わしとて、神とはいえ一角の女子(おなご)じゃ。それこそ人並みの羞恥心くらいは持ち合わせておる。……じゃというに、こともあろうに、貴様は……わしの体の隅々を嗅ぎ回った上、その匂いにまで言及しおった。――あれほどの屈辱、ついぞ味わったこともなかったわっ!」

 

 激情を抑えきれなくなったのか、最後の方は殆ど怒鳴り声に近いものになっている。

 そして俺の方もそこまで言われてようやく、彼女の言っている過去の出来事に思い至った。

 

「いっ……いや待て、あれには訳があってだな。それに隅々までなんて――ん?」

 

 言い訳の途中だったが、俺は一度言葉を切る。

 気のせいか、どこかから妙な音――というか、声のようなものが聞こえてきた気がしたのだ。

 果たしてそれが気のせいなのかどうか確かめんと、俺は辺りに耳を立てようとするも、それは間髪入れず続けて発されたラピスの怒号により遮られることになる。

 

「大体じゃなっ! 貴様もいい年をした男子なれば、もし仮にわしが――その、そう(・・)であったとしてっ! 相手にそれを気付かせぬよう上手いこと誤魔化しつつ入浴に導く位の機転を利かせてはどうじゃ!! それを――……くっ……!」

 

 ラピスは顔を真っ赤に茹で上がらせると、恥ずかしさと怒りの入り混じった表情になりつつ呻る。

 ……しかし、何週間も前のことをまだ根に持っているとは。

 確かにあれは俺が悪かったが、しかし俺はあの時嗅いだラピスの体臭――というか汗の匂いだろうか――に格別酷い言葉で指摘したつもりはない。

 こいつには直接言ってはいないし、言葉にするとどうも変態くさくなるので口に出してはいないが、むしろいい匂い……とさえ言えるものだったのだ。

 世の人々が全員、あのような甘い焼き菓子を思わせる体臭を発するならば、制汗剤などは完全に不要のものとなろう。

 

「ま、待てよ落ち着けって。俺はあのとき、何もお前が臭いなんて――」

「じゃらあああああっ!!」

「――ぶはっ!」

 

 狂声と共に放たれたラピス渾身のビンタが俺の頬へと叩き込まれる。

 グーでなかったのはせめてもの情けだろうか。

 そしてラピスは即座に俺の胸ぐらを掴むと、幼女とは思えぬほどドスを効かせた声を出した。

 

「……命が惜しくば、下手なことは言わぬことじゃ――のう?」

「はい……」

 

 迫る彼女の迫力に、俺は情けない返事を返すことしかできなかった……。

 俺が意気消沈したのをこれ幸いと、ラピスは再び俺に身を寄せてくる。

 

「と、いうわけでの。わしには大義名分があるというわけよ。それも二つな。一つは今回のこと。さらにもう一つは今しがた言った件じゃ。そなたにわしはふたつも貸し付けておるのじゃ。今さら四の五の言うでないわ」

「い、いやしかし……それとこれとは……」

「まったく往生際の悪い。いい加減観念すればいいものを。……まあ、どちらにせよその状態では何も出来ぬかの。……なに、暫くたてばその羞恥心も悦楽へと変わろうぞ。……楽しみじゃ。実に楽しみじゃ」

 

 言葉こそ普段とそう変わらぬゆえ誤解していたが……ギラギラと輝く彼女の目を見て、今はっきりと分かった。

 ラピスは今、完全に正気ではない。

 いや仮にこれが正気の状態だとして、そうとは信じたくない。

 今の彼女の立ち振る舞いは、まさしく恐ろしい死神のそれである。

 ……もっとも、刈り取られるのが果たして魂であるか、それは分からないが。

 いや、むしろ被捕食者を前にした肉食獣か。

 

「さて、それではいい加減始めるとするかの。そなたもいつまでも我慢し続けるのは辛かろうて」

 

 言って、ラピスは俺に抱き着いたまま、するすると身体を下に降ろさせ始めた。

 既に俺が腰に巻いていたベルトは取り外されている。

 俺の腰付近にまで頭部を下げたラピスは、そこで一度顔を上げた。

 彼女の顔は、これからのことが楽しみでならぬと言わんばかりの笑顔であった。

 

「そなたはわしと一緒に入浴する際も、頑なにここ(・・)を隠しておったからのう。さてさて、何が出てくるやら……」

「何が出てくるもクソもねぇだろが! ――おっおい!」

「くっくく……はむっ」

 

 なんと彼女はジッパーの先端に付いている金具を口で加えるや、そのままゆっくりと顔を下げ始めた。

 そんな彼女の動きに合わせ、ジジジ……という音と共にズボンの前部が徐々に開かれてゆく。

 わざわざ手を使ってでないのは、そうすれば俺が余計に混乱すると知っての上でだろうか?

 

 ……恐らくそうなのだろう。

 そのテの知識においてはまさに今の見た目通りいや、それ以下でしかないと判明したものの、こいつは生まれ持っての本能で察しているのだ。

 どうすれば俺の動揺を誘えるか……そして自分が妖艶に映るのかを。

 このままされるがままになっていれば、ラピスが真相に辿り着くのもそう遠くない未来のように思える。

 

 ――とはいえどうする?

 叫んだとて、ここはラピスの作った閉鎖空間だ。

 更に四肢は自由に動かせず、ろくに抵抗も出来ない状態だ。

 まさしく万事休す。

 己が身から出た錆とはいえ、もはや一切の手立てはないのかと、俺は天を仰ぐ――と。

 

「……?」

 

 俺は左、右と首を振らせ、周囲に目をやる。

 そして下に視線を移動させると、ジッパーの先を咥えたままの姿で静止するラピスの顔が目に入る。

 彼女もまた、聞こえた(・・・・)ようだ。

 

 今度は気のせいではない。

 先ほどよりも大きくなっている。

 

 

『……さてふるべ たつはるあきかぜ つうきじざいの いさほしや』

 

 

 数メートル先も見渡せぬ暗闇の中にあっては、この声――いや歌がどこから聞こえてくるものかは分からない。

 

「ラピス――これ、お前も聞こえ……」

「――しっ! 黙っておれ!」

 

 ラピスの顔には焦りが浮かんでいる。

 それも当然のことだろう。この場において、他に侵入できるものなど居ようはずがないのだ。

 もしそれが可能な何者かがいるとすれば、それはラピスと同じ――……

 

 

『あかやすせいかの すみによきかぜ』

 

 

 声は益々大きく、はっきりと聞こえてきている。

 

「――何者じゃっ! 姿を現せっ!!」

 

 叫び声を上げるラピスを尻目に、俺は別の思いに気をやっていた。

 ……この声は。

 いや、まさか(・・・・・・)

 ありえない(・・・・・)

 これは、この声は(・・・・)――……

 

 

『あきのかみみちに いでまつり ひかり みな――』

 

 

 風を切るような音が聞こえ、俺は音が聞こえた方向である上空へと視線を向かわせる。

 すると、それまで漆黒の闇に覆われていたはずの天に変化が生じている。

 いつの間にやら無数の光が闇夜を照らしているのだ。

 

 そして、その光が星によるものではないと知ったのは、僅か数秒後のこと。

 まずは一つが、俺の足元へと降り来たり、そして。

 

「――くっ!」

 

 ラピスは身を翻し、降り注ぐそれ(・・)から間一髪逃れることに成功する。

 まるで彼女を狙ったかのような位置に、それは降ってきた。

 円錐の形をしたそれは――氷でできた柱、いわゆる氷柱(つらら)と呼ばれるものであった。

 

 ラピスの能力によるものではあり得ない。

 今この場でそんなことをする意味など無いし、なにより彼女の顔がそれを物語っている。

 

 そうしている間にも氷柱は天より次々と降り注ぎ、その様子はまるで雨のようであった。

 しかし不思議なことには、その中の一本たりとも、俺の身の上には落ちてこなかったのである。

 いやむしろ、もう一人(・・・・)の方をこそ狙っているように思える。

 事実、ラピスは降り注ぐ氷柱を避けるのに必死になっていた。

 

 そして俺の目の前に、一際大きな――数メートルはありそうな強大な氷柱が、地響きを立てて俺の目の前に突き刺さった。

 訳の分からぬ事態に目を白黒とさせている俺の前に、ある人物が、ゆっくりとその巨大な氷柱に降り立った。

 その人物――いや少女は、青白い光を纏いつつ、こちらに手を差し伸べ――言った。

 

「おにいさん、迎えに来たよ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その約定、違うこと能わず

 四肢を椅子に縛り付けられている俺は、その差し出された手に応じて腕を伸ばすことはできない。

 たとえ身体が自由になっていたとしても、何メートルも上にいる彼女とでは距離的に叶わぬことではあるのだが――しかし問題はそんなことではない。

 

 なぜ、彼女がここに居るのか。

 ……いや。

 そもそも、本当に彼女なのだろうか(・・・・・・・・)

 

 確かに服装、それに顔付きは見紛うことなく彼女のそれであるが――二点、俺の記憶にない要素が今の彼女にはあった。

 僅か二点ではあるが、あまりに大きすぎる違和感である。

 まず下半身だ。

 彼女の背後、腰からは尻尾――そう形容するほかないものが生えている。

 それも一つや二つではない。

 ボリュームのある赤い毛で覆われ、先端のみが白くなっているそれらは、合計で五本にもなる。

 さらには頭。

 彼女の頭頂部、その左右には獣の耳らしきものが鎮座している。

 これら二つの要素を視認した俺が真っ先に頭に思い浮かべしは、先日怪我を治してやったあの狐のこと。

 

 そうした思いを俺が馳せている中彼女は、立っていた巨大な氷柱から飛び降りる。

 まるで空中を浮遊するかのようにゆっくりと降り来たる彼女は、キラキラと輝く氷晶(ひょうしょう)をその身の周りに纏わせている。

 その様子は幻想的で、こんな事態だというに俺はすっかり目を奪われてしまう。

 

「おにいさん……」

 

 俺の目の前にまで降り立った彼女の声は、やや悲しげな色を湛えている。

 

「……お前、ミナか。ミナなのか?」

「……うん。そうだよおにいさん」

 

 それから数秒、互いに口を開かぬ静寂が訪れる。

 先に口を開いたのは俺からだった。

 

「お前……あの時の狐か。……そうなんだろ?」

「……やっぱり気付いてたんだね。誤魔化せたかなって思ったけど」

「いいや、信じてたさ。けどまあ、今のお前を見ちまったらな」

「んふふ、そうだね。嘘ついてごめんなさい、おにいさん」

 

 笑って言う彼女の声は、やはりミナのものに相違ない。

 

「それで、何で自分からそれをバラすようなことしたんだ」

「こうしないとおにいさんを助けられないから。……気持ち悪いよね。安心していいよ、ここから連れ出したら、二度と姿を見せないから。だからちょっとの間がまん――」

「ばっかお前、何言ってる」

「え?」

 

 俺がそう言うと、ミナは短く声を上げた。

 しかしながら彼女の勘違いは、口上を遮ってでも訂正しておかねばならないことだ。

 

「実際俺はとんでもねえピンチだったんだ。俺を助けに来てくれたんだろ? いやほんと、感謝してるぜ」

「……おっ、おにいさん。ミナのこと、気持ち悪いって思わないの?」

「まあ、確かに驚きはしたけどな。なんていうのかな、もう慣れちまったよ。……むしろ『ああ、やっぱこうなるか』って感じだ」

「???」

 

 ミナは明らかに動揺した素振りを見せている。

 耳はぴこぴことせわしなく動き、尻尾もまた彼女の心の乱れを表すかの如く、不規則に揺れ動いていた。

 そのような動きを見て、俺は素直な感想を口にする。

 

「それにどこが気持ち悪いって? 可愛いじゃないか、その耳と尻尾も」

「……ッ」

 

 彼女の肌色は白く、それこそ雪を思わせるものだ。

 そんな顔色が、瞬時に真っ赤なものへと変わる。

 

「……おにいさんって、わるいひと(・・・・・)だね」

「は?」

「ううん、なんでもないの。それじゃ、まずはおにいさんを自由にしてあげるね」

 

 ミナがそう言うや否や、それまで四肢に感じていた違和感が瞬時に掻き消える。

 

「――よっと。さて……」

 

 やっと自由になった俺は椅子から立ち上がると、改めて辺りを見回してみる。

 周囲にはミナが落としたとみられる氷柱がそこかしこに見られ、それこそ俺のいるこの場を除き、視界に映る限りあらゆる場所に突き刺さっている。

 と同時に、そうした氷柱は全て淡い光を周囲に放っており、ようやくこの場所が果たしていかなる地であるか、そのおおよそを察することができるようになっていた。

 と言っても、特別何かがあるわけではない。

 どうやらこの場は一面全て荒い砂地であるようで、どこどこまでも変わらぬ光景が続いていた。

 

 しかし今の俺にとり、風景のことなど二の次。

 俺は全方位を見回しラピスを探すも、現状見渡す限り彼女の影も形も見えない。

 どうやら相当遠くまで行ってしまったとみえる。

 あいつのことだ、氷柱程度でどうにかなるとも思えないが……

 

「おにいさん、ほら。いくよ」

 

 ミナは言って、俺の袖をくいくいと引っ張る。

 

「はやくしないと、あの女のひとが戻ってきちゃうよ! ほら急いで!」

「いや……」

 

 短期的に見れば、ここはミナの言葉に従うのが正しい。

 しかし後のことを考えると、それは果たして正解と呼べる行動なのかどうか。

 仮に今首尾よく逃げおおせたとして、それから先はどうなる?

 俺は結局この後家に帰らなければならないわけで、そうすると当然、あいつともまた相見えることになる。

 

 第一、今回のことは俺が不義理を働いたせいなのだ。

 ここであいつを置いてただ逃げ出すというのは、いかにも道理が立たぬ話。

 ラピスの怒りをさらに根深いものにするだけだ。

 

「……ミナ。悪いが俺はここに残るよ」

「何言ってるのおにいさん!」

 

 ミナが声を荒げるのを、俺は努めて落ち着いた声でもって応える。

 

「……悪いのは俺なんだよ。だからミナは先に帰っててくれ。このままだとあいつ、また妙な勘繰りをしかねないからな」

 

 もう手遅れだとは思うが、それもまた甘んじて受ける必要があろう。

 身体の自由は効くようになったことで最悪の事態は回避した。

 あとはまた拘束されぬよう気を付けつつ、なんとか彼女を説き伏せるほかない。

 それは俺の責任である。

 

「拘束を解いてくれてありがとうな。無事に帰れたらまた改めて、お礼を言いに行くよ」

「……」

 

 ミナは何をも答えない。

 

「だから」

「それじゃ、ミナも残る。一緒にあやまろ?」

 

 何を言いだすのか。

 俺は仰天し、必死で彼女を説き伏せようとする。

 

「おっおい! 人の話聞いてたか!? ……ていうか残ってると本気でヤバいんだって! お前が知らないのも当然だけどな、あいつは――」

「そんな危ない人なら、なおさらおにいさんを放っておくなんでできないの。もし死んじゃったら絶対にミナ、おにいさんを許さないからね」

 

 にこりと彼女は微笑み、静かにそう宣言する。

 穏やかな口調とは裏腹に、彼女の顔には揺り動かぬ決意の色がある。

 

「なんでお前、そこまで……。あの時助けてやった礼のつもりならな、さっきので十分だよ」

「ううん。そんなのじゃないよ。約束(・・)を破ったら許さないって、ミナは言ってるの」

「約束?」

 

 俺が問うと同時、ミナの笑顔はより深いものとなった。

 

「はいなの。おにいさんはミナと約束したもんね。死ぬまでずっと、ミナを飼ってくれる(・・・・・・)って。可愛がってくれる(・・・・・・・・)って」

 

 俺は落ち着きを失いつつも、必死で記憶を手繰る。

 次いで俺が間抜けな声を上げたのは、ある出来事を思い返してのこと。

 

「……あっ!?」

「だから。おにいさんが(・・・・・・)死んじゃうまでね、ミナは絶対におにいさんの――ううん。『ご主人』のこと、守ってあげるの」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

開幕

 恥ずかしさからか顔を赤らめつつ、しかし同時にそう口に出したことを嬉しくも思っている様子で、ミナは流し目で俺を見ている。

 

「いやミナ……あれは俺がってより、あの狐――まあつまりお前が死んじまうまでって意味だったんだけどな」

「そうなの? でもどっちでもあんまり変わらないのね。ミナを見てもへーきってことはご主人、ご主人もミナみたいに人じゃないってことでしょ?」

「うーん……まあ、そういうことに、なる、の……かな?」

 

 俺は半分死神の力を得てはいるらしいが、具体的にどう変わったのかまでははっきりとしない。

 現状実感する上では、少々身体能力が上がっていることくらいか。

 しかしもしかすると、寿命などといった点も変化が起きているのやも知れない。

 

「ならやっぱり同じなの。――ううん、むしろそっちの方がいい! 嬉しいな、ご主人といっぱい一緒に暮らせるの!」

「ま、まあそれは置いといてだな。やっぱその『ご主人』ってのは止めないか? こっぱずかしいよ」

 

 それに、似たような呼ばわれ方は既にしていることだしな。

 これ以上妙な呼称を付けさせるわけにはいかない。更にそれが年端の行かぬ幼女――実際のところはともかくとして――からとなれば猶更である。

 ……俺はノーマルなんだ。そんな趣味はない。

 

「そう? ううん……わかったの。おにいさんがイヤならそうする」

「ああ是非そうしてくれ。そっちの方がいい。それで、お前も残るならこれからのことについて一緒に話しとかないとな。どこまで行っちまったのか知らんが、いい加減あいつも戻って――……」

 

 ミナから視線を外し、なんとはなしに視線を向けたその先。

 先ほど言った身体能力の向上を、今この時こそ俺は実感し感謝した。

 

「――ミナッ!!」

「へっ……うわわわっ!?」

 

 説明する(いとま)も待たず、俺は瞬時にミナを抱きかかえながら倒れ込む。

 折り重なって倒れた二人の上、それまでミナが立っていた場所を、風を切りつつ何物かが通過する。

 まさに間一髪のことであった。

 俺がミナもろとも倒れ込まねば、今しがた通り過ぎた物体はミナの体にまともにぶつかっていただろう。

 

「ミナ。大丈夫か?」

「お……おにいさん。だ、だめだよ……こんなところで……。ま、まだ早いと思うのね……?」

「……へ?」

 

 何をどう勘違いしているのか、ミナは何故か顔を先ほどよりさらに赤らめている。

 頭部の耳も、ぺたりと伏せている様子である。

 どうもまたややこしい勘違いが生まれそうな予感を感じた俺は、彼女を押し倒した姿勢のまま、何をか言わんと口を開こうとしたが。

 

 まさにその時である。

 あたかも地の底から響くかのような重い圧のある声が、俺の耳へと届いたのは。

 

 

「――なにを……しておるのかの?」

 

 

 瞬時に全身から、冷たい汗がぶわと吹き出す。

 冷や汗を止めどなく流しながら、俺は緩慢な所作でもってして、頭をその声がする方へと向けた。

 そしてこちらへに向けゆっくりと歩み寄る彼女の姿を目にし、俺は確信する。

 ……話し合いなどという甘い展開は、到底望むべくもないことを。

 

「やはり何らかの術をかけられておるようじゃの? 汝が庇わねば、そこな匹夫を真っ二つにしてやれておったものを」

 

 そう言い終わると同時、彼女の元へと回転しながら飛来するものがあった。

 それは彼女――ラピスの所有物である大鎌である。

 先ほど俺たちを襲ったのも同じだろう。

 まるでブーメランのように旋回し戻ってきたそれを、ラピスは器用に片手で掴み取る。

 

「……まあしかし、わざわざ出向く手間が省けたと考えるとしようかの。いずれにせよそ奴(・・)はわし自ら始末するつもりであったゆえな」

 

 大鎌の切っ先を俺に向けつつ――いや、彼女の意は俺ではなく、明らかにミナへと向けられている。

 そう俺が確信できたのは、彼女の目を見てのこと。

 明らかに普段俺に向けているのとは違う、ひと目見ただけで分かる冷酷さ、そして御しきれぬほどの怒りを湛えたものがその目にはあった。

 

 彼女の周囲は、空気が歪んでいるようにすら見える。

 いや事実、そうなのかもしれない。彼女の怒りが、今まさに具現化して目にすることができるほどだということか。

 羽織るマントは吹き上がる怒りの熱気により空を舞い、服までもが憤怒の意思を持っているかのようであった。

 

「……おにいさん、どいて」

「ミナ?」

「はやく、おにいさん」

 

 ミナに急かされ、俺は彼女の上から身体を移動させる。

 そして立ちあがったミナは、間髪入れず対峙したラピスに向かい声を上げた。

 

「あなたがおにいさんを攫った悪いひとなのね?」

「……」

 

 ラピスは答えない。

 その目は、この半獣の少女が果たしていかなる存在か、それを推し量っているように見えた。

 構わずミナは続ける。

 

「あの時おにいさんと一緒にいたから、ミナはあなたもいいひとかと思ってたの。……残念なの、あなたともお友達になれると思ってたのに」

「……その物言い、どこぞで出会ったことでもある風な口振りじゃな」

 

 やっと口を開いたラピスへ向け、俺はミナの代わりに答える。

 

「ラピス。この娘はな、俺たちが助けた、あの狐なんだ」

 

 ラピスは一瞬俺へ視線を向けた後、すぐにミナへと向き直った。

 

「……なるほどの。たかが畜生の分際で我が半身をたぶらかそう(・・・・・・)てか。身の程を知るがよいわ」

 

 元動物であると知ったせいか、ラピスの言葉は完全に相手を下に見ている風である。

 それは恐らくミナも感じていることだろうが、構わずミナは続ける。

 

「あなた……ラピスさん、っていうんだね。あなたはおにいさんのなんなの?」

「……なに?」

「どういう理由があって、こんな酷いことをするの? おにいさんがかわいそうだとは思わないの? それにミナも始末するって――殺すってことだよね。どうして?」

 

 ミナの言葉には、相手を責めるような色を含んでいる。

 対するラピスはそれに動じることなく、あくまで落ち着いた風で言葉を返した。

 

「黙って聞いておれば勝手な熱を吹きおって……ふん、よかろう。まずは後者から答えてやろう。そこな男はの、わしの所有物じゃ。そしてわしもまた同様。貴様は不埒にも、人の男をたぶらかそうとしおったのじゃ。その罪は当然償ってもらう。……貴様の命をもってしてな」

「……」

「そしてそこな男も、何度わしが治めようと軽挙妄動を繰り返す悪癖を改めようとせぬ。あれほど忠告したにも拘わらず……いい加減わしも堪忍袋の緒が切れようというものよ。ここで一度、しっかりと教育しておかねばならん」

 

 ……後半部分は、実に耳が痛いものだった。

 心当たりがありすぎる。

 ――と、ミナへ向けたはずの言葉で俺がダメージを負っている中、不意に横から笑い声が聞こえてくる。

 

「くすくす……」

「ミナ?」

 

 笑い声の主はミナであった。

 片手で口を覆いつつも、我慢し切れぬといった様子で笑い声を上げている。

 その様はラピスも疑問に思ったようである。

 

「なんじゃこむすめ。なにが可笑しい。恐れのあまり気でも触れたか?」

「ううん、そうじゃないよ。あなたが勘違いしてるのがおかしくて、つい笑っちゃったの」

 

 俺は、眼前に立つこの人物が、果たして本当に俺が知る少女であるか。その自信が持てなくなってしまった。

 今、ラピスを見ている彼女の横顔。

 その表情には明らかな侮蔑、あるいは嘲りの色が浮かんでいたからである。

 それまで俺が彼女に持っていたイメージとは全く違うその様子に、俺はこの先、ますますことが拗れるであろう予感をひしひしと感じざるを得なかった……



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

初戦

 彼女の口調からはからかうというより、嘲笑の意があることは傍目にも明らかである。

 無論ラピスもそれは察知しているようで、不快げに顔を歪ませた。

 

「……勘違い、じゃと? どういう意味じゃ」

「ふふっ……」

 

 ミナは更にもう一度笑うと、ラピスを見る目を細める。

 

「あなた、おにいさんは自分のものだ、って言ってたよね?」

「それが何じゃと?」

「くすくす……残念でした。このおにいさんはねー……」

 

 ミナは言いつつ、俺の背後へと立ち位置を移動させた。

 

「……?」

 

 俺は先ほどから姿勢を変えておらず、地に腰を下ろしている状態にある。

 そのような状態にあっては、俺の頭の位置はちょうど、ミナの胸辺りだ。

 彼女の行動、その意図するところが分からず、俺は戸惑いを隠せぬまま顔を上げ彼女を見上げる。

 

「もうミナの『ご主人』なのね! ――ね、ご主人さまっ!」

 

 なんとミナは、俺の頭を両腕で抱えるように上から抱き着いてきたのだ。

 現状を理解した上でやっているのだろうか?

 そうだとすれば、これは明らかにラピスへの挑発行為に他ならない。

 

「ちょ、ちょちょちょっと待て! お前こんな状態で何言いだすんだ!」

 

 俺はミナに頭を抱きかかえられたまま、慌ててラピスに向け弁明する。

 

「……ラ、ラピス! 違うんだ、これは――」

リュウジ(・・・・)

 

 ラピスが発した、そのたった一言で俺は二の句を告げなくなってしまう。

 それほどの迫力であったのだ。

 にっこりと笑顔を顔に張り付けてはいるが、そのまま受け取っていいはずがない。

 ……第一、目が笑っていない。

 

「ラピス……ま、待てって……な? お、落ち着けよ……?」

「わしは冷静じゃよ? かようなくだらぬ嘘に惑わされるものか。……のう、リュウジ。その女の狂言であるよの? ……のう?」

 

 肯定以外の返答は許さない。

 彼女の言葉の端々から、その意は嫌というほど伝わってくる。

 だというのに、やはりミナは空気を読もうとはしない。

 

「ううん、ちがうよー。ご主人は言ってくれたの。死ぬまで、ずっと可愛がってくれるって! ミナの飼い主って――ミナのためならなんでもしてくれるって!」

「そこまで言ってな――はっ!?」

 

 ……しまった、言い方を間違えた!

 これでは前半部を認めたも同然ではないか。

 

 

 ”ぶちん”

 

 

 ……幻聴か?

 何か、糸のようなものが勢いよく千切れたような音がした気が……。

 

「ほっ……ほほおおぉ~……? かようなことを、そのこ、こむすめに……のう……? リュウジよ、わしをからかって楽しもうてか。いい度胸じゃの? 一度貴様には勇気と無謀の違いを教えてやらねばならぬようじゃなぁ……?」

 

 まずい。

 ラピスの怒りは今、間違いなく沸点に達しようとしている。

 なんとかして一度彼女を落ち着かせる必要があるが、ミナはこの様子を俺が責められていると受け取ったようで、勢いよくラピスに食って掛かった。

 

「あーっ! またご主人をいじめて! だいたいあなた、いくつなの? ミナと同じくらいに見えるけど……なんだか変な喋り方だし」

 

 そう言うミナも若干語尾が変な時があるように思うが――とはいえ今はそこに言及しているような場合ではない。

 しかし、ことによるとこれは悪くないかもしれない。

 とにかく今は話題を一度逸らすことだ。

 その間になんとかこの場を乗り切る妙案を捻り出して……という考えはこの上なく甘かったと、俺はすぐに思い知ることになる。

 

「……こむすめ。言葉遣いには気を付けるがよかろうぞ。貴様のようなこむすめと違い、わしは数千、数万年以上の時を生きた――」

「ええっ、そうなんだ! すっごいおばあちゃん(・・・・・・)なんだね!」

 

 ミナは驚きに目を見張り……そして。

 ”ぶち、ぶちん”と、先ほど聞こえた破裂音がまたも俺の耳に届く。

 

「――あっ……」

 

 その音の出所を察した俺は、声にならぬ声をひとつ上げる。

 ラピスの顔を見れば、未だ笑顔を保ってはいるものの、頬をピクピクと引きつらせ、こめかみには幾筋もの青筋を立たせてさえいた。

 

「そんなおばあちゃん(・・・・・・)のくせに、こんな若いおにいさんに執着するなんて、恥ずかしいとは思わないの? ――ね、ご主人。ご主人もそう思うのね?」

「おいっ! これ以上挑発するなっ! これ以上あいつを怒らせると本気で……!」

 

 もはやラピスの怒りは、例えるならコップになみなみ(・・・・)と溜まった水に等しい。

 あとほんの僅かにでも振動を加えることあらば、たちまち溢れ出てしまうことは確定的だ。

 ミナを制止せんと俺が慌てる中、不意に笑い声が俺の耳へ届く。

 

「く、くっくく……」

 

 笑い声を上げたのは当然、ラピスである。

 次いで発した彼女の言葉は、余裕たっぷりな様子を見せんとする意図があると思われたものの。

 残念ながらそれらは隠し切れぬ怒りのせいか、随所が途切れ途切れなものとなってしまっていた。

 

「……く……くく……。しょ、所詮下等な畜生よな。そ、そんな安い挑発に……わし、わしが……乗せられるとでも……?」

 

 とんでもなく効いているように見えるが。

 そして、ミナよりトドメの一撃が放たれる。

 

「ご主人のことは諦めて、もっとお似合いのひとを見つけたらいいと思うのね! お・ば・あ・ちゃんっ☆」

 

 ……この少女は本当に”あの”ミナなのか?

 俺は阿呆の如くぽかんと口を開け、ラピスを煽り倒す彼女を見上げ続けていたが。

 ややあって、悠長にそんなことをしている場合ではないと思い直す――……が、もはや遅すぎたようである。

 

「そうかそうか……そんなに死に急ぐか……。 ……よかろう、望み通りにしてやろう」

 

 ラピスは声を震わせながら言うと、鎌を持たぬ方の腕を前に出し、こちらに向かい掌を開く。

 するとその中の一本、人差し指の先から、赤黒いなにか(・・・)が出現する。

 どうやらそれは、球状の炎らしかった。

 

「……ッ!」

 

 俺は息を吞む。

 ラピスと精神的に繋がっているせいか、俺には瞬時に察せられたのだ。

 大きさこそ数センチの小石程度ではあったが、あの炎がいかに危険な代物であるかを。

 

「くっく……貴様は絶対に許さぬ。許さぬぞ。身の丈を弁えぬ匹婦めが。貴様には考え得る限り、最も醜い死をくれてやろう。見る影もないほど焼け爛れた顔を見れば、リュウジにかけられた術も霧散しようというものよ」

 

 横のミナに視線をやれば、彼女の表情もまた、若干の緊張した様子を見せている。

 人ではないゆえか、俺とは違った形であの炎の危険さを感じ取っているのだろう。

 

「くかかっ……光栄に思うがいい。貴様の無謀なる勇気に敬意を払い、おまけ(・・・)も付けてやろうぞ」

 

 そう言い終わると同時、彼女が広げた五指、残りの四本にも変化が起こった。

 まずは小指、次いで薬指。

 そうして次々と各指先から、同じように球状の炎が出現する。

 

 なんだろうか。昔読んだ漫画か何かに、似たようなものがあった気が。

 ――いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

 

「おいラピスっ! それはマジでヤバいやつだろっ!? ていうかお前、俺ごと殺す気かよ!?」

「安心せい。そこは上手く操縦するでの。……しかし一応、その女から離れておることを薦めるぞ?」

「ちょっ……まっ」

「――死ぬがいいっ!!」

 

 俺の制止を聞くことなく、ラピスは五指より発生した火球をこちらに向かい飛ばす。

 彼女の指先から放れた火球は見る間にそのサイズを増し続け、あっという間にバスケットボール程の大きさにまで成長する。

 そして左右に二つずつ、そしてやや上方から一つと、異なる方向からこちらに向かい襲い掛かってきた。

 それらの目標は言うまでもなくミナであろうが、彼女と同じ位置にいる俺もまた危ない。

 ラピスは離れていろと言ったが、こんな瞬時にではそんな暇などあろうはずがない。

 

 ――やはりあいつは今、怒りによって我を忘れているのだ。

 

「ご主人、そのまま。動いちゃダメだよ?」

 

 慌てふためく俺とは裏腹に、ミナが放った言葉はひどく落ち着いたものだ。

 彼女は庇うように俺の前に立つと、先ほどと同様に――奇妙な、歌めいた言葉を紡ぎ始めた。




例の技名は出してないのでセーフ……!実際セーフ……!

そして本編の内容とは関係ないですが、この度総合ポイントが3000を突破致しました。
これも独笹間の皆々様方のおかげです。ありがとうございます。
よろしければ、評価の方なども引き続きお暇であればお願いしたく存じます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

至誠たる覚悟

「いとやすすめ いざやすすめ すすめたまへ  いえかどたかく ふきおこさしめたまひ……」

 

ラピスとの間に距離はそこそこあるとはいえ、炎は刻一刻と目の前に迫ってきていた。

だというのに、ミナは目を閉じ、未だ謎の言葉を紡ぎ続けている。

俺はたまらず、目の前にある彼女の背中に向かい叫ぶ。

 

「ミナっ! お前どうするつもり……ってか早く逃げるんだ!」

「よのまもり ひのまもり おおいなるかな けんなるかな……」

「お――」

 

更に言葉を放つ余裕はなかった。

もはや時すでに遅く、炎は眼前まで迫ってきている。

 

「……さりや、みなやみまもりて みつべくならひぞ!」

 

ミナから一際大きな声が発されたかと思うや、彼女を中心とし、冷気を伴った波動がぶわ(・・)と放たれる。

驚いたことに、その波動に触れた瞬間、向かい来ていた炎がすべて掻き消えたのだ。

彼女はゆっくりと振り向くと、

 

「ご主人、だいじょうぶ? ケガはない?」

 

それまでと変わらぬ笑顔でもって、そう言うのである。

 

「あ、ああ……」

 

俺はもはや、それだけやっと答えるのが精一杯だった。

 

「ほほお、やるではないか。リュウジがおるゆえ多少手加減したとはいえ、まさか今のを防ぎよるとは思わなんだ」

 

ラピスは多少感心したような風であるが、あくまで尊大な態度を崩してはいない。

ミナは俺から視線を移し、言った。

 

「……あなたもね。なんの準備もなしに、あんな力を振るえるなんて」

「――ん? ……おお、なんのことかと思うたが、そんなことか。確かに下界の人間どもは術を用いる際、大仰な言葉やら儀式を併用しておったな。何故あのような無駄で手間のかかることをするのかと、常々訝しんでおったが……なるほど、低位の者らはそうした下準備なくば自由に力を行使することもできぬのか。どうやら貴様も同じようじゃが、なんとも骨の折れることよな」

 

最後の言葉には、嘲笑の意が乗せられていた。

あくまでラピスにとりミナは、単なる動物が変化したものとしか映っていないのだろう。

続く言葉からしても、完全に下に見ていることは明らかだった。

 

「……さて、彼我の実力差は理解できたことであろう? 下手に抵抗せぬというなら、幾許かの慈悲をかけてやらぬでもない。――どうする?」

 

ラピスのこの過剰なまでの尊大な物言いは、先ほどいいように煽られた意趣返しのつもりもあるのだろう。

――が、ミナもまた負けじと、今度は文字通り舌を出してまでラピスを挑発する。

 

「べーっ! お断りなのね! ミナはこれからずっとご主人と一緒に居るんだから! あなたなんかに殺されてなんかやらないの!」

「ミナ……! お前があいつのこと知らないのも当たり前だけどな、今はあんなナリ(・・)だが、怒らせると本気でヤバい存在なんだ。ここはこれ以上挑発せず下手に出てだな――」

 

俺はたまらずミナを諫めようとするが、

 

「わかってるよ、ご主人」

 

再びこちらへ振り向いた彼女は落ち着き払った様子で、俺の目をじっと見つめた。

 

「あのひとがすっごく強いってことも、ちゃんとわかってるの。……でもね、負けないよ」

 

一呼吸おいて、彼女は続ける。

 

「ミナが出来損ない(・・・・・)なせいで、信奉(・・)も全然集まらなくなっちゃって……だから、しょうがないかなって、諦めてた。……出来損ないだから、仕方ないって。……けど、そんなミナを、ご主人は見つけて(・・・・)くれた。……一緒に居てくれるって、言ってくれた」

 

滔々と語るミナの言葉には、俺には理解できない部分も含まれている。

そんな彼女の様子からは、俺に対してというより、自己の内情を吐露している風にも思えた。

 

「もうミナは失敗しない。大事なひとを、なくしたくない。だから――」

 

続けながら、ミナは両手を、腰に巻く帯の中へ入れる。

次いでそこから取り出したるは、二本の木の棒らしきもの。

そんなもので一体どうするつもりなのか。俺が訝しんでいる中、

 

「あんなひとなんかに、ご主人は渡さない!」

 

ミナがそう叫ぶと同時、彼女の両手に握られていた二つの棒、その先に変化が生じた。

彼女の周囲を覆う粒子の一部が棒の先に集まり始めたと思うや、瞬く間にそれらは凝縮し定型を成す。

実体となったそれを見たままに言えば、あたかも氷で出来た(なた)のようであった。

透き通った刃先はまるで水に濡れたように怪しい光を放っており、それは美しくも同時、どこか禍々しい印象を見る者に与えた。

 

「はっ……」

 

しかし、ラピスは軽くそれを嘲笑う。

 

「なにを始める気かと思えば……かような玩具で一体どうしようと? ままごと(・・・・)でも始める気か?」

 

明らかな侮蔑の言葉にも、ミナは動じる様子を見せない。

彼女は返答の代わりとばかり、薄く微笑を浮かべると。

右手に持つ方の鉈を、軽く前方に一振りしてみせた。

本当に軽く振ったようにしか見えなかったが、彼女のその所作に合わせ、前方に一陣の風が凪いだかと思うや。

 

「!」

 

ラピスの顔色が変わる。

その理由は、ちょうど彼女と俺たちの間、中間に位置する空間に、突如として新たなる氷の刃が現れたゆえ。

今しがた発生した風に乗せられるように、半月状のそれがラピスに向かい疾走する。

 

「――むうっ!」

 

信じ難い速度で襲い来るそれを、ラピスは間一髪、身を翻し回避することに成功する。

がしかし、あまりに急なことであったがため、完全に避けきれはしなかったらしい。

改めてミナを睨むラピスの頬には、薄く一本の筋が見える。

持ち前の回復力で傷は瞬く間に塞がったが、彼女のプライドを傷付けるには十分であったようだ。

 

「貴様……!」

 

それまで完全に格下とばかり見ていた存在に、僅かながらも傷を付けられたことはラピスにとり、相当な屈辱であったとみえる。

ギリギリと歯を鳴らしつつミナを睨めつける彼女の瞳には、それまでにも増して激怒の炎が渦巻いていた。

そんなラピスに臆することなく、ミナは流々として宣する。

 

「あなたがその気なら、ミナも容赦しない! いくよ!」

「こむすめがっ……図に乗りおって!」

 

この二人の言葉を合図に、彼女らの戦闘の火蓋が切って落とされる。

そしてただ、座してそれを見る俺は。

情けなくも、この窮状を収める妙手は果たしてありやと、ただ頭の中で苦心惨憺するばかりであった……。




仕事が忙しく執筆の時間がなかなかありませんでしたが、今日明日はまとまった時間が取れそうなので次話の更新もできるかと思われます。
楽しみに待っておられる読者様には、お待たせして申し訳ございません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

趨勢(すうせい)の行く末、意外な弱点

両者の戦いは始まった段階で既に、俺にどうこうできる領域にはなかった。

ミナが駆け出すと同時、ラピスもそれに呼応し、数合ほど刃を打ち合わせたが、地上での地味な攻防はその一瞬のみで、その後は空中へと舞台を変えた。

ある時は接近戦、またある時は遠距離での飛び道具を用いての攻防と、目まぐるしく空を移動しつつ戦闘を続けている。

いかなる原理か――というのは考えるだけ無駄だろう。

そしてもちろん、身体能力が上がっているとはいえ空を飛ぶなどという芸当ができるはずもない俺は、そんな二人の戦いを地上で見ていることしかできないでいる。

 

これまでのことから二人の相性が最悪だということは十分に察することができたが、こと戦闘においても二人の得意とするところは真逆のようである。

 

「あめにつくたま くもにつくたま かんながらたまち はえませ」

 

距離を取り、雨のように氷柱(つらら)を射出するミナ。

受けるラピスは、炎を纏わせた鎌でそれらを払い、蒸発させつつミナへと迫る。

 

「――ふっ!」

「……ッ」

 

ミナは二本の鉈にてそれを受ける。

瞬間、氷で出来た鉈は粉々に砕け散るが。

 

「はなれてっ!」

「……ちっ!」

 

間髪入れず、ミナは超至近距離から一本の氷柱を放つ。

ラピスはそれを避けるも、一瞬の隙を突いてミナは再び彼女と距離を空ける。

このような攻防が、既に何度も繰り返されていた。

 

ミナが人でないことは既に十分に察せられたところ。

それに先ほどから見せている超常的な力の数々を見れば、たとい外見上が幼い女の子であろうが、相手が人間であれば問題にもならないことだろう。

しかし相手が神では流石に分が悪い……そう思っていたのだが。

この俺の予想は、どうやら外れていたらしい。

こうして見ていても、ミナは予想をはるかに超えた奮闘を見せている。

まともに攻撃が当たったことは両者とも、今に至るまで一切なかった。

 

 

――が。

 

 

時間が経つにつれ、均衡が破れつつあることが俺の目にもはっきりと映るようになってきた。

優勢なのは……ラピスの方である。

その理由をいささかゲーム的な単語で言うならば、両者のタフネス(・・・・)の差によるもの。

 

素人目に見て、二人の素での実力はほぼ互角とみていい。

決定的な一打こそないものの、ラピスの鎌は何度もミナの体に傷を付けていたし、ミナの方もまた同じくである。

その回数を数えたわけではないが、ほぼ同程度だろう。

……が、ラピスの回復力にかかれば、僅かな傷ならその次の瞬間にも完全に治癒してしまうのだ。

対してミナの方はそうした能力は持ち合わせていないようで、徐々にだがしかし、確実にダメージは蓄積し続けている。

かすり傷程度とはいえラピスの鎌を食らって平気でいること事態、驚嘆すべきことではあるが……。

 

ミナの衣服は所々が焼け焦げ、切り刻まれてすでにボロボロだ。

肌にはいくつもの切創が作られ、赤い血が滲み出でているのが見える。

 

「く……」

 

痛々しいその様子から俺はつい目を逸らし、地を睨む。

口からは、自然と苦しげな声が漏れ出でた。

そもそも、ことの発端は俺にある。

俺がミナのことを、出会ったその日のうちに――いや、最悪でも昨日までに素直にラピスに伝えていれば、こんな事態にはならなかったかもしれないのだ。

俺が連れ去られた場面を目撃してしまったがゆえに、彼女は今ここにいる。

俺だけが裁きを受けるのならばいざ知らず、彼女にこんな死闘を演じさせる理由などひとつとして無いのだ。

 

こうなれば自身がどうなろうと構わないと覚悟し、二人の間に割って入ってでも事態を収めたいところだが。

しかしそれも空中では手が出しようもない。

……俺は、あまりにも無力だ。

 

「……どうすればいい。どうす――……?」

 

自問する俺の目の前に、ふいに俺のものではない黒い影が映る。

なんとはなし空を見上げると、真っ逆さまに俺の元へ向かい落ちてくるものがあった。

そして、それがミナであることを確認した俺は、迷うことなく自らの体で受け止める。

 

「――うおおおっ!?」

 

相当な速度であったとはいえ、柔らかでしかも小ぶりなミナが与えた衝撃は、俺もろとも後ろへ倒れ込む程度で済んだ。

俺の上に乗っかった形になったミナは、緩慢な仕草で起き上がると。

 

「……あっ! ご、ご主人! だいじょうぶ!?」

 

ようやく尻の下にひいた俺の存在に気付いたのだろう、心配そうな声をかけてきた。

だが真に憂うべきは自分自身だろう。

こうして間近で彼女の顔を確認すれば、相当に疲弊した様子が見て取れる。

先ほども言ったように既に衣服もボロボロで、かなり悲壮感のあるいで立ちになっている。

それでなくとも幸薄そうな顔なのだ。

 

「あ、ああ……俺は大丈夫だけど……」

「よかった……」

 

顔には無数の切り傷、それに髪を所々焼け焦がせた姿であって尚、ミナは俺のことを案じてくれている。

心底安堵したといった態度を見せるミナに対して、俺はもどかしさに襲われるばかりだ。

そうして俺がどうしようもない焦燥に胸を焼かれている中、ミナに次ぎ空中から降りてきたラピスが俺たちの前に姿を現す。

 

「ふん……またもリュウジを盾にしようてか。まったく見下げ果てるわ」

 

ラピスはミナを一瞥し、そう吐き捨てると、

 

「すまぬなリュウジ。わしも先ほどは頭に血が上っておったでな。やはりそなたを巻き込むような真似はよすとしよう。それより確実に、この手で始末をつけてくれようぞ。それに、その方がわしの気もより晴れるというものじゃ」

 

もはや自分の勝ちは動かぬと判断したのだろう、俺に言葉をかける余裕すら見せた。

 

「ラピス……」

 

今ほど残酷な顔つきになった彼女は、これまで見たことがない。

あのナラクとの戦いの際だって、これほどではなかった。

それほどのことを仕出かした、ということなのだろう。

 

「ご主人。そんなに心配そうな顔をしないでほしいの。なにがあっても、ご主人は守ってみせるから」

「違うんだミナ。これは――」

「ご主人はそこでまってて。それで、二人で帰ったら……」

 

立ち上がったミナは、悲壮な覚悟を感じさせる瞳と共に、言った。

 

「また、頭を撫でてね」

 

その言葉は、俺の脳裏にある記憶(・・・・)をフラッシュバックさせる。

そして俺はあの時と同様、大声を張り上げ行動に移す。

言葉を残し、またもラピスに立ち向かわんと動き出すミナを止めんと。

彼女の腰から生えている五本の尻尾、その一つを俺は、ぎゅうと強く握った。

 

「――ミナッ!!」

「にゃあ゛あ゛あああああ~っ!!?」

 

その瞬間。

ミナはそれまで聞いたこともないような、甲高い絶叫を張り上げる。

残りの尻尾もみな毛を逆立てさせ、姿勢は足先を垂直に立たせたつま先立ちである。

更には耳までもピンと立たせ、ふるふると小刻みに身体を震わせながら、つま先立ちのまま身体を硬直させている。

 

「……お、おい? ミナ……?」

 

驚いたのは彼女だけではない。

彼女が見せた過剰なまでのこの反応に、俺もまた度肝を抜かれる――彼女の尻尾を握ったままで。

 

「ご……ごひゅじん……し、しっぽは……やめてほしいのね……」

 

頭だけこちらを振り向かせた彼女の顔は、なんとも形容し難い表情をしていた。

顔を真っ赤に染め上がらせ、目には涙を溜めながら、怒っているとも笑っているとも取れる、そんな味わい(・・・)のある顔つきをしている。

 

「え……尻尾って、これ……」

 

俺は言いつつ、握ったままの尻尾をもう2,3度、軽く握り直す。

 

「――ふに゛ゃわああああっ!?」

「あっ!? ……そっ、そういうことか――っておい、ミナ! 大丈夫か、おいっ!?」

 

絶叫の後、ついにミナはその場に腰砕けになってへたりこんでしまう。

四つん這いになった彼女の口からは、だらしなく涎が垂れてさえいる。

そして。

 

「らっ、らからぁ……だめって……いってるのにぃ……」

 

先ほどまでの凛々しい姿はどこへやら、惚けた顔で彼女は、弱弱しく非難の言葉を口にしたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後の手段

「ふーっ……ふう……」

 

 ミナは四つん這いの姿勢で地に伏したまま、荒い息を繰り返し吐き出している。

 

「ほっほーう。流石はリュウジ。そ奴めの弱点をこうも早く発見するとはの。そのまま大人しくさせておれ」

 

 何か聞こえてきた気がしたが、このとき俺は、声などに気を回す余裕はなかった。

 理由は二つある。

 まず、未だ手に持った尻尾の存在。

 そのボリュームのある赤毛は実に触り心地が良く、ひと撫でするごとに適度にこちらの肌に気持ちのよい刺激を与えてくる。

 ラピスの髪はまるでシルクのそれを思わせたが、比べるとミナの尻尾は上等な羽毛のようで、実に甲乙付け難い。

 どちらも永遠に感触を楽しんでいたくなる、そんな抗いがたい磁力を有しているのだ。

 さらに加えることに、もう一つの理由とは、

 

「ふわあっ…… うっ、んんっ……!」

 

 ……ミナがこのような反応を見せることだ。

 こんなことに気を取られている場合ではないことは無論、頭では理解している。

 しかし。

 こちらが僅かに手を動かす度、彼女はピクピクと身体を跳ねさせ、小さく声を上げる。

 その声を聞くたび、何故だか胸にむらり(・・・)とした形容し難い感情が押し寄せ、俺は冷静な判断に至ることができない。

 

「ご、ごしゅじん……がまん……できないの……? で、でも……帰ってからにしよ……? ……ね、ね? とりあえず一旦休憩して――」

 

 ミナは喘ぎつつ口を開く。口元の地面は彼女の涎でじとりと濡れている。

 上唇の下からは、大きめな犬歯がちらりと見えており、何故だか今はそれすらも艶めかしく映った。

 懇願するミナの表情は、様々な感情が入り混じったものだ。

 もちろん本人は狙っているわけでもないのだろうが……涙を貯め許しを乞いつつも、しかしどこか期待する気持ちを含んだその目は、強烈に対するものの嗜虐心を煽った。

 

「……」

「あっ……!?」

 

 俺は無言で、かつ無心で手の動きを速める。

 

「あ゛あ゛あまたあっ! なっ、なんでぇっ!? ごしゅじっ、なんでもっと激しっ……!? ――あっ、あっあっあっ!」

 

 もはや彼女の喘ぎは叫びに近いものへと変貌している。

 が、その声には隠し切れぬ喜悦の色があり、そのことが一層俺の欲望を燃え上がらせた。

 ……熱中のあまり周囲のことなど忘れかけた、その時。

 

「いつまでやっておるか貴様らーーッ!!!」

「――はっ!?」

 

 怒号が飛んだ。

 そこでようやく俺は心の平衡を取り戻し、改めてミナを見る。

 

「……♡ ……♡♡♡」

 

 ミナはぐったりとし、何をか言う気力すらも無くなってしまっているようである。

 そんな彼女の状態を確認したことと、ラピスの一喝によりようやく冷静になった俺は、慌ててラピスに釈明する。

 

「あっいや、これは……ま、まあ落ち着けって、な?」

「やかましいわーっ!!」

 

 比喩ではなく、ラピスの背後で大爆発が起こった。

 加えて彼女は、まるで幼稚園児くらいの子供のように、その場で地団駄を踏みつつ叫ぶ。

 ……その様子は、もちろん怒ってはいるのだが、先ほどまでの黒い殺意に塗れたものとはまた違うような気がした。

 あえて言うならば、少しばかり『いつものラピス』が戻ってきたとでも言おうか。

 

「ぐぎぎ……もう本当絶対なにがあっても二度と金輪際許さん! 許さんからな!!」

「……えっと、許さないってのはミナのこと?」

「貴様もじゃたわけーっ!!」

 

 叫びと同時、もう一度爆発が起こる。

 

「子を成した後でなくとも、貴様の態度によっては何度か元の次元に帰してやろうかと思うておったがの! もう堪忍袋の緒が切れたっ! 二度と元の世界になど帰さん!」

「えっ……」

 

 なんということか。

 やはり実際の心根(こころね)は優しいラピスのこと、ああして激怒しつつも手心を加えてくれる気はあったようだ。

 ……そして今、その最後の慈悲も他ならぬ俺自身が潰してしまったということか。

 

「……そ、そう言うなって。ほれ、機嫌直してくれよ。な?」

「ええいうるさいうるさいうるさーいっ! 大体何なんじゃリュウジ、貴様も! いくら術で操られておるとはいえ、かくの如きうらやまし――もといっ! 望まぬ行為を行うとはっ! 貴様も半分神の身となったからには、こむすめの稚拙な術程度跳ね返してみせぬか馬鹿者がーッ!」

 

 地団駄を踏みつつ、鎌を振り回しながら叫び散らすラピス。

 あまりに滅茶苦茶に振り回すもので、俺が止めに入ることもできない有様だ。

 

「ふーっ……ふーっ……」

 

 ひとしきりその場で暴れ、ようやく一旦落ち着いたのか、ラピスは肩で大きく息をしつつようやく動きを止める。

 そしてギロリと鋭い視線をこちらに向けると、

 

「……とにかく。ことの発端は全てこの女狐にある。貴様にはこの後ゆっくり『教育』を行うとして……まずはこやつの始末じゃ」

 

 言って、鎌を大上段に振りかぶった。

 

「待てっ! 待ってくれラピス!」

「ならぬっ! 言うたであろう、堪忍袋の緒が切れたとなっ!! こやつを滅しさえすれば、貴様にかけられておるであろう術も解けることであろうよ!」

 

 息巻くラピスは俺の制止を振り切り、ついにミナに向け鎌を振り下ろす。

 ことがこうまで煮詰まれば、俺も覚悟を決める必要があった。

 そも、俺一人傷一つ負わずに終わろうなど、土台筋の通らぬ話。

 そう思い立った俺は、鎌の軌道へ腕を瞬時に伸ばした。

 

「――なっ!?」

 

 俺のこの行動にラピスは驚いた素振りを見せたが、既に十分にスピードの乗った鎌の動きを止めることは適わなかった。

 ……まるでスローモーションのように、切っ先が腕の中に吸い込まれていく様子が俺の目に映る。

 そして。

 

「くっ――ぐうっ……!」

「ば、馬鹿者っ!」

 

 腕にずぶりと刺さった傷口からは止めどなく血が流れ出で、俺はその激痛にくぐもった声を上げる。

 しかし同時、俺は安堵してもいた。

 というのも、確かに尋常でない痛みこそあるものの、あの時のように力を吸い上げられていくような感覚には襲われていないからだ。

 今や俺はラピスの半身となった――というのは本当のことらしい。恐らくはこのことにより、ある程度鎌の力を打ち消しているのだろう。

 であれば、今この場においては、単に刃物に刺されたというだけに過ぎない。

 これがもしミナに対してであったなら、こうはなっていなかったことだろう。

 俺の安堵はそれ故のものであった。

 

 ――とはいえ。

 

「う……くっ……」

 

 痛いものは痛い。

 なんとも情けないが、どうしても俺の口からは痛苦による声が漏れ出でてしまう。

 

「あ……あ……」

 

 ラピスは鎌の柄を握ったまま、声にならぬ声を上げている。

 その目からはそれまであった殺意も怒りも、そのいずれもが完全に消え失せており、見えるのはただ、狼狽の呈のみ。

『とんでもないことをしてしまった』とばかり、後悔の念に囚われている風ですらある。

 

「……」

 

 ついにラピスは眼の縁に涙すら溜めはじめる。

 そんな彼女を見る俺は、逆にこちらこそが悔恨の念に襲われることしきりであった。

 ……二度と泣かすまいと誓ったというに、この体たらく。

 己のこれまでの軽率を恥じ、自分を責めることは後でいくらでもできる。

 それより、まずは――

 

「ラピス」

 

 俺は一言、彼女の名を呼び。

 

「……リ、リュウジ……? ――え、えっ……!?」

 

 痺れ動かぬ右腕はそのままに。俺は残った左腕でもって、彼女を抱き寄せる。

 俺の半分ほどの体躯でしかない彼女はとても軽く、俺は抱き寄せた彼女を持ち上げ、更に抱擁を強めた。

 ――同時、彼女の手から鎌が取り落とされ、少し置いて、乾いた音が響いた。

 それに従い俺の腕からも鎌の切っ先が抜け落ち、その際に鋭い痛みが俺を襲ったが、俺はそれをおくびにも態度には出さず、彼女に言葉を向ける。

 

「……ごめん、ラピス」

「ひゃっ!? ……なっ、何を……っ」

 

 今、俺の口は丁度彼女の耳元あたりに位置しており、言葉と同時、彼女はビクリとその身を震わせた。

 

「今回のことは悪かった。間違いなく全部俺のせいだ」

「……」

 

 ラピスからの返答はない。

 しかし俺は構わず続ける。

 

「お前が怒るのも当然だし、確かに俺は責任を取らなきゃいけないよな。グダグダ言い訳を言ってすまなかった。だけど……」

「……”だけど”、なんじゃ?」

 

 ようやく返事を返したラピスの声色には、再び影が差している。

 この先俺が何を言うか、ある程度察してのことだろう。

 

「あの子は本当に無関係なんだ。……いや、100%無関係ってわけじゃあないが、彼女に咎はない。……だから、許してやっちゃくれないか?」

「……ならぬっ! やはりそなたは彼奴に操られておるのじゃっ! かようなことを言い出すのもそのせいに他ならぬっ! わしは絶対に許さぬぞ!」

「ラピス……」

 

 俺は少し頭を引き、彼女の顔を真正面から見据える。

 そんな俺から、何故だかラピスは俺から視線を外し、更には顔を赤くした。

 

「なっ……なんじゃ。――ふ、ふん。そんな顔をしても無駄じゃからな? そ、そんな……困ったような顔をしても……」

 

 やはり彼女の決意を変えるには言葉だけでは足りぬようだ。

 ……しかし、どうする?

 力づくで――というのは、最も愚かしい手段だ。

 そもそもそれが可能かというのは兎も角、それはあまりに道理が通らぬ話。

 彼女の体、そして心を傷付けることなく、ここで場を収める妙案を捻り出さねば、ミナとラピスは再び戦いを始めることだろう。

 そうなれば今度こそミナの命はない。

 

 俺の頭は今までにない高速回転を始める。

 ことここに及べば、もはや言葉でどうこうするのは無理。

 であれば、行動で示すほかない。

 しかし、さりとてどうする?

 仮に俺が地に頭を擦り付け土下座をしようが、そんなものはただ形だけ。ラピスの考えを変えさせることは到底無理だろう。

 それどころか、より一層ミナへの怒りを増幅させることにもなりかねない。

 

 ――待て、考え方を変えろ。一回この場を整理しよう。

 まず、彼女の怒りはミナに向かっていることは確かだ。

 その理由は、俺が彼女に何らかの術でもって篭絡されているという、ラピスの勘違いによるもの。

 ……では、その勘違いを正すことができれば、あるいは?

 言葉でなく、それを行動でもって示すには――。

 

「ラピス」

「な、なんじゃ。妙にあらたまりおって」

「……」

 

 俺の頭にはある考えがあった。

 もはや俺の乏しい頭では、これ以外の策など考え付かない。

 ……つまりは、ラピスこそが一番である、他の女に誘惑されているなど有り得ぬと、それを分からせればいいのだ。

 これから俺が行う行動は、普通に考えればあまりに単純で、その程度で普通どうにかなるようなものではないが。

 ラピスがある(・・)とてつもない誤解をしていること。

 そのことを考慮に入れれば、勝算はある。

 

「……なんじゃ、黙り込んでしまいよって」

「ラピス。俺が騙されてなんかないってこと、その証拠を見せよう」

「はぁ? 何をするつもっ――」

 

 俺は、彼女の言葉を最後まで言わせなかった。

 完全な不意打ちではあったが、お互い様だ。

 ……考えてみれば、俺だって最初、こいつに同じことをされたのだからな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

篭絡の道しるべ

 まよとばかり、俺は勢いに任せ彼女の唇を奪った。

 

「!!?」

 

 ラピスはこれでもかという位に目を見開き、身体は石の如く硬直させている。

 今、自分の身に何が起こったのか、驚きのあまり把握し切れていない様子だ。

 気持ちは分かる。俺もまた、そうであったのだから。

 そこへいくと、今回俺はされる(・・・)方ではなく、する(・・)方に回っていたため、あの時に比べれば大分冷静になれた。

 ラピスの唇はまるでマシュマロのような柔らかさで、果たしてこれが同じ人間のものなのかと思わずにはいられない。

 

「――!」

 

 ようやくことの状況を把握したらしい彼女は一転、頭を後ろにやることで互いに繋がった状態から脱する。

 

「ぷはあっ!?」

 

 再び目にしたラピスの表情は、怒りとも困惑とも取れる、実に複雑な表情を浮かべていた。

 そして一瞬の間を置き、

 

「なっ……なにをするんじゃーっ!」

 

 ――絶叫を上げる。

 その声色には、どうも怒りだけでなく、羞恥の心を隠そうとする意があるように思われた。

 

「何ってお前……お前が言ってたんだろ、こうしてほしいって。ていうか俺があのままだったらお前、無理矢理にでもする気だったんだろーが」

 

 努めて冷静に言葉を発したつもりだが、実際は俺も相当に狼狽していた。

 俺にとっては、とてつもなく勇気を振り絞った末の行動であったのだ。

 ……ある意味、彼女の姿が今のようであって助かったと言えなくもない。

 これが元の姿であったら、果たして俺は同じことができたかどうか。

 

 俺の言葉を受け、ラピスはふるふると身体を震わせ始める。

 そして顔を真っ赤に染め上げながら、

 

「たわけ――ッ!!」

 

 咆哮と共に、渾身の平手を俺に見舞った。

 

「いってぇっ!? 今本気で殴ったろ!?」

「だっ、黙れこの……くそたわけめがっ!! なにをいきなり……この馬鹿ッ、あほーっ!」

 

 錯乱しているせいか、罵倒の言葉もなんというか程度の低いものになってしまっている。

 とはいえ、それでも売り言葉には買い言葉。あれだけの勇気を振り絞った結果がこれとは、俺も少しカチンとくる。

 

「言いすぎだろっ! 大体お前、頬にするとあんだけ不機嫌になってたくせに……ちったあ素直に喜んだらどうなんだよっ!?」

「抜かすなっ! それもこれも時と場所ありけりじゃっ!」

「時と場所だぁっ!?」

「そうじゃっ! こっ……こんなっ……こむすめの目もあるというに……。二人きりの時ならいざ知らず……」

「……」

 

 そう言うと、ラピスはふい(・・)と俺から目を逸らす。

 まだ何か言いたげな様子ではあったが、もごもごと口を動かすばかりで言葉には出さない。

 顔は益々紅潮し、恥ずかしさに耐え切れぬとでも言わんばかりだ。

 そんな彼女の様子をつぶさに観察した俺は、素直な感想を口にする。

 

「お前、本当に……何万年も生きてきたくせに、これっぽっちもこの手の経験、無かったんだな……」

「当たり前じゃっ! わしは冥府の王じゃぞ! こ、婚前交渉なぞ……そ、そんな、はしたない……っ」

「婚前交渉って……お前……ふっ」

 

 大仰すぎる物言いに、つい俺は笑ってしまう。

 第一先ほどのキスだって、唇が触れたのはほんの一瞬のこと。

 ――いや。

 彼女にとってはあれこそがまさに、子を成すための儀式なのだ。

 実際のところはどうあれ、ともかくラピスはそういう勘違いをしている。

 ……であるからこそ。

 

「きっさまーッ!! なにを笑いおるかーーーーッ!!!」

 

 これほどの怒りを見せるのだろう。

 まさに怒髪冠を衝くといった感じで、神聖な行為を侮辱されたと受け取ったらしいラピスは、これ以上ないほど怒りを爆発させている。

 そしてその怒りは、更なる勘違までをも引き起こしたようだ。

 

「この助平っ! 色情狂っ!! あれだけ奥手に見せかけておいて……よもやかくの如き不埒者であったとはっ! これで合点がいったわっ! 貴様はこむすめに篭絡されておったのではなく、その逆であったのじゃとな!」

「へ? いや、なにを話を飛躍させて」

「やかましいうるさーいっ!!」

 

 ラピスは俺に抱かれた姿勢のまま、またしても駄々っ子のように腕を振り回す。

 

「ならば尚のこと許せぬっ! わしのみでは不服であると、貴様はそう申すのじゃなっ! まだまだ自分のはぁれむ(・・・・)女子(おなご)を迎え入れねば気が済まぬとっ! なんと恐ろしい男じゃっ!」

「お、おいおい勘違いするなよ、俺は」

「何が勘違いなものかっ! こむすめを始末した後、貴様にもたっぷりと灸を据えてやるっ! その煩悩に(まみ)れた頭を矯正してくれるわ、たとえ何万年かかろうとな! ――ええい離せ、離さぬかぁっ!」

「い、いたっ、痛ぇって、こらっ!」

 

 ラピスは腕をバタつかせ、ぽかぽかと俺を殴りつけてくる。

 膂力そのものは外見相応のようでそれほどでもないが、いつまでもこのままというわけにはいかないだろう。

 第一、このままでは何の解決にもならない。

 抱き止めているこの腕をひとたび解けば、すぐにでもミナへの攻撃を再開するはずだ。

 個人的にはかなり勇気を出した行動であったのだが、彼女の怒りを収めるどころか、まるで逆効果になってしまった。

 やはり、俺のなすことは全て裏目に出てしまうらしい。

 

 ……いや、待て。軽々に判断するな。

 確かに新たな彼女の怒りを買いはしたが、その原因はとどのつまり、俺が本気だということが十分伝わっていないところにある。

 であるからこそ、ラピスに今しがたのような勘違いを生ませてしまったのだ。

 

 ――つまり。

 他の女などにうつつ(・・・)を抜かすというようなことは有り得ず、ラピスこそが俺にとり絶対的に一番であると、そう思わせられなかったところが問題なのだ。

 逆に言えば、俺の行動にそれだけの説得力を持たせることができれば、彼女の怒りを鎮めることができるやもしれない。

 だが、先ほどの行動では期待していただけの効果は得られなかった。

 ならば、どうするか?

 ……やはり、真摯に言葉を尽くすほかない。

 嘘偽りのない、心からの言葉でもってすれば、あるいは。

 

「……ラピス、お前は勘違いしてる」

「はなっ……なに?」

 

 静かにそう切り出す俺の様子が妙なことに気付いたのか、ラピスは振り上げた拳をぴたりと静止させる。

 

「俺にはそんな考えなんて一切ない。その……俺は……」

 

 今から自分がどれほどクサい台詞を言うのかと思うと、つい言い淀んでしまう。

 ――馬鹿野郎。ここまできて躊躇するな。

 

「お前が一番大事なんだ。お前だけで不服だなんて、んなことあるわけない。そんなの言わなくても分かってるだろ?」

「む……」

 

 自分でも実に恥ずかしい台詞だと思うが、しかし嘘は含まれていない。

 また、本心からの言葉であるということはラピスにも多少は伝わったものと見える。

 それまで必死に身をよじり、拘束から逃れようとしていた彼女の動きが止まったことが、その証拠だ。

 俺は彼女の紅い瞳をじっと見据え、言葉を続けた。

 

「確かに今回のことは俺が悪かった。お前にそんな勘違いさせて、こんな行動までさせることになってな。本当に悪かったと思ってる。もう俺も覚悟したよ、いくらでも罰を受けてやる。……だけど」

「……じゃが、なんじゃ」

「あの子だけは見逃してやって――」

「ならぬっ!」

 

 一時は態度の軟化を見せたラピスだったが、ミナのことに言葉が及んだ瞬間、再び怒りを再燃させる。

 

「何と言おうと、彼奴の助命だけはまかりならんっ! 第一、かようなことを申すということ自体、少なからず彼奴めに心惹かれておるいい証左であろうが!」

「違う! それはお前の思い違いだ!」

「いいや信じられぬ、口先だけならば何とでも言えよう。……大体なんじゃ先ほどの貴様らのやり取りはっ! 普段わしがどう誘惑しようが迷惑そうにばかりしよるくせに……――じゃというのに、なんじゃっ! あのこむすめに対しては汝自らあんな……ふしだらな真似をっ! あんな女狐の何が良いというんじゃっ! 耳か尻尾か、それとも肌かっ!? 白い肌がそんなにいいのか、ばかーっ!!」

 

 最後におまけのように罵倒の言葉を付け加え、改めてラピスは怒りを発露させる。

 どうもこのラピスの怒りには嫉妬の感情が多分に含まれているらしい。

 先ほどの俺の行動が、それを更に煽ってしまったようだ。

 それこそ軽いキス程度では、全く鎮火できぬほどに。

 

 ……ますます俺の中で、彼女に対する自責の念が深まる。

 彼女にこれほどの不信感を与えてしまった責任は、生半可なことでは償えそうにない。

 事ここに至りて、俺はさらなる覚悟を決めた。

 

「……分かった、ラピス」

 

 誤魔化しのような口づけなどでは、とても信用を勝ち取ることはできない。

 ……当然だ。

 俺にはまだ、先ほどの行為の際に恥ずかしさや後ろめたさ、そういった不純物が心の中にあった。

 もっと純粋な心持ちなくして、どうして想いが伝えられよう?

 

「分かった……? ふん、何がわかったと言うのじゃ」

 

 完全に機嫌を損ねているらしいラピスは、ジト目で俺を睨みつつ言う。

 

「言うておくがな、先ほどのようなその場逃れで――んんッ!?」

 

 またしても言葉を最後まで言わせず、俺は再び彼女の唇を奪う。

 

「んっ……んむううぅっ!?」

 

 今度は頭を振って逃れられぬよう、右腕で彼女の頭をがっちりとホールドしつつのもの。

 

「むーッ!!!」

 

 しかしそれでも尚、ラピスは暴れ逃げようとする。

 ……しかし俺にはもはやこれしか手が残っていない。

 流石に三回目のチャンスはもう無いだろう。

 しかしこれ以上、果たしてどんな手段が残っているというのか。

 考えるより先、俺の体は行動を起こした。

 

「――ん゛ん゛~~~ッ???」

 

 と同時、ラピスの体がビクンと跳ねる。

 俺の舌はほのかに甘い味を覚え、そして断続的な水音が、静かな閉鎖空間に響き始めた。

 

「んっ……ふあっ……んむぅっ……」

 

 声の質までをも変化させたラピスは、もはや身じろぎ一つしない。

 その代わり、時折ピクピクと身体を痙攣させていた。

 

 もはや改めて説明するまでもあるまい。

 ――そう。俺は己が舌を、彼女の口内に侵入させたのである。

 

 逃れた瞬間にも叫ぼうとしていたのだろう、ラピスの口が完全に閉じられていなかったことも幸いした。

 それでも、だからといってそれで安心というわけではない。

 仮にラピスが本気で拒否する気あらば、俺の舌はすぐさま噛みつかれていたであろう。

 更には衝動的にこんな行為に及んでしまったものの、俺は自分の仕出かしたことに気付いた瞬間、情けなくも完全にフリーズしてしまったのだ。

 

 ――が。

 

「んっ……んむっ……」

 

 俺の方は前述の通り、口内の舌さえも全く微動だにしていないのだが、尚も水音とラピスの声は続いていた。

 それが何故かといえば、俺が動かずとも、彼女の方から激しく舌を動かしてきたがため。

 返す返すも情けないことだが、今度は俺の方が完全にされる(・・・)側に回ってしまう。

 

「っ……♡ んんっ♡」

 

 姿勢も、それまでは俺がラピスを抱いていた形だったものが、今は全くの逆だ。

 彼女は両足、そして両腕を俺の背に回し、ぴったりと身を張り付かせている。

 舌全体に感じるなんとも言えぬ感触そして、纏わりつくような甘みにより、俺の脳内は大混乱に陥っていた。

 完全に彼女にされるがままになって暫くして。

 ラピスは更に大胆な行動に出る。

 

「んーっ♡♡」

 

 なんと、今度は彼女の方から俺の口内へと舌を侵入させようとしてきたのだ。

 これには茫然自失な状態であった俺もやっと平静を取り戻す。

 

「――ッ!!! ――ぷはあっ!?」

 

 ……いや、取り戻さざるを得なかった。

 まさにこれが分岐路であったという気さえする。

 これ以上ことが進めば、本当に取り返しのつかぬ事態に発展したやも知れない。

 そして、互いの唇を繋いでいた細い液体がゆっくりと下に落ちた後。

 

「はーっ……♡ はーっ……♡♡」

 

 再び目の前に現れたラピスの顔は、それまでのどの表情とも異なる。

 蒸気が見えるほどに肌を火照らせたラピスの目は焦点が合っておらず、口はだらしなく開け放っている。

 そればかりか、それまで絡み合わせていた舌までも口からまろび出させたその顔は、あまりにもだらしないものである。

 

「ああっ……なんでぇ……? なんでやめてしまうのじゃぁ……」

 

 これまでの怒気を多分に含んだものから一変、彼女の声色は完全なる甘え声へと変貌してしまっている。

 本当に同一人物かと錯覚してしまうほどの変貌ぶりである。

 

「りゅうじぃ……」

「――ッ」

 

 再び顔を近付けさせてくるラピス。

 そんな彼女に向け、俺は焦りつつ声をかける。

 

「――まっ、待てっ!」

「んん~っ……?」

 

 冗談ではない。

 いや、本当に冗談じゃないぞ。

 この上さらにおかわりとくれば、俺の方が正気を保っていられるかどうか自身がない。

 ……それほどの悦楽が、先ほどの行為の中にはあった。

 自分から始めておいてとんだヘタレ野郎だと言わざるを得ないが、そもそもの目的は別のところにある。

 ラピスの様子が変化した今、試すならばここしかない。

 

「交換条件だっ!」

「……なんじゃぁ。はよう言え……」

「続きは必ずしてやるっ! だから俺がさっき言ったこと、叶えてくれっ!」

 

 実に三度目となる、ミナの助命願い。

 これでダメならばもはや手立てはない。

 

「んんぅ……? それはぁ……しかし……」

 

 やはりラピスは渋る様子を見せたが、先ほどまでの有無を言わさぬ強硬な姿勢は影を潜めていた。

 俺は、まさにここが押しどころとばかり、半ば脅迫めいた説得をする。

 

「もっ、もしダメなら続きは今後一切なしだぞ」

 

 そして、この言葉の効力は絶大であった。

 

「えっ――……いやじゃっ! いやーっ! やだやだやだぁーーっ!」

「……」

 

 これが本当に、何千、いや何万年も生きてきた神の姿だろうか。

 首が取れそうなほどにぶんぶんと頭を振り回すその姿は、駄々をこねる子供と何ら変わりがない。

 

「な、なら――」

「ううう……わかった」

 

 ――やった!

 ついにこの言葉を引き出した。

 瞬間、俺の全身は安堵と疲労感による重みに襲われる。

 

 ……馬鹿、まだ安心するには早い。

 安心するのはこの空間から無事に脱出してからだ。

 ――そういえば、ミナはどうしたろうか?

 まだ意識を朦朧とさせているのだろうか。

 

「りゅうじ、りゅうじ。もうよいか? よいじゃろ? はよう、はよう続きを」

「ばっバカ、それはまた今度って……ん?」

 

 とここで、俺の腰あたりをトントンと叩くものがある。

 その正体を探るべく、俺は振り向――

 

「――うおっ!?」

 

 反射的に、俺は頓狂な叫び声を上げてしまう。

 実のところ、心当たりはあった。

 俺たち以外にはあと一人しかいないのだからな。

 

 振り向いた先には、予想通りと言うべきか、こちらを見上げるミナの顔があった。

 ならばなぜ、俺が先ほどのような叫びを上げてしまったか。

 それは、彼女の顔が目に入った一瞬、まるで別人のように映ったがため。

 

 それが一体何ゆえのものか、俺がそのことに思いを馳せるより早く、眼下のミナは口を開いた。

 

「ごーしゅじんっ」

 

 明るく声を出す彼女の顔は笑顔で――そう、どこか違和感を感じるほどに、この上もない笑顔であった。

 

「ちょっとね、ミナね、ご主人にお話があるのね?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

似た者同士の白と黒

「んっふふ~」

「……」

 

笑顔でこちらをじっと見つめるミナ。

頭頂部にある耳をぴこぴこと小刻みに動かしながらのそれは、とても愛くるしい仕草に思えるはずであったが。

俺もそろそろ学習し始めていた。

……このテの違和感は、確実に悪いことが起こる予兆であると。

 

「な、なんだミナ。聞きたいことって……あっそうだ! そうそう、こいつもやっと分かってくれたみたいでな。どうやら俺たちここから無事に出られ――」

「そんなことはどうでもいいのね?」

 

開かれたミナの口からは鋭い犬歯が覗いている。

先ほどは艶めかしさすら感じたというに、こと今回に至り、全く逆の印象を受けるのはどうしたことか。

 

「ご主人? そのひとはさ、ミナだけじゃなくて、ご主人にもひどいことをしようとしてたんだよね? なのになんで、今みたいな(・・・・・)ことをしてたのかな? しかもご主人からだったよね? ミナはね、とっても不思議なのね? 説明してほしいのね?」

 

……どうやらミナはここまでの一部始終をすっかり見ていたようだ。

意識も朦朧としていたはずだが、目を離したすぐ後にでも回復したということか。

 

「そ、それはだな、ミナ。もちろんこれにはのっぴきならない理由があって」

「ふぅ~ん? そうなの。どういう理由があったらいきなりちゅーするなんてことになるのかなぁ?」

 

俺は底冷えするような冷気に身を震わせる。

おそらくこの寒さは、ミナから発されているものだろう。

 

「あ、いやその……お、おいラピスッ! お前からも何か――」

 

ミナからの圧に耐え切れなくなった俺はラピスに話を振ろうとしたが。

 

「ご主人?」

「は、はいっ!」

 

その試みはあえなく中断される。

まるで臓腑までも凍り付かせるような、絶対零度の冷たさを持った声だ。

 

「ミナはね、ご主人に聞いてるの。……あれれ、どうしたのご主人。お顔がとっても青いのね? 大丈夫?」

 

……一体、どういう塩梅なのだろう。

こうした心配の言葉すら、不穏なものを伴って伝わってくるのは。

 

「く……くっふふ……」

「「?」」

 

――と。

俺がそうして窮地に陥っている中、不意に笑い声が聞こえてくる。

その発信源は、言うまでもなくラピスである。

先ほどまでの蕩けきった表情はどこへやら、別人のように小憎らしい笑顔を張り付けたラピスが口を開く。

 

「いやいやぁ、残念じゃったのうこむすめぇ~? 貴様の思う通りにことが運ばずにのう?」

「……」

 

言葉をかけられたミナもまた、表情を一変させる。

目を細め、眉を寄せたその顔付きは、明らかにイラつきを隠し切れない様子だ。

そしてそんな彼女の表情の変化は、更にラピスを調子に乗らせる結果となったようである。

 

「くふふふ、貴様如きこむすめがわしと張り合おうなど、土台無理な話というものよ。貴様の小賢しい術も、どうやらわしとこの男を結ぶ糸を切ることは適わなかったようじゃな? なんとも残念なことよのう~?」

 

コアラのように身体ごと抱き着かせている今、ラピスの顔は俺のすぐ目の前にある。

よって、こうしてミナを思うさま煽りたてている彼女の表情もまた、非常によく見えた。

 

そして思う。

なんという腹の立つ顔をするのか、この死神は――と。

自分に向けてのものでないと分かっていてもそう思うのだ。ミナの憤りたるや、如何ばかりか。

 

「そんな貴様に対し、多少の哀れさを感じぬこともない。加えて慈悲深き我が君の意向により、命だけは助けてやるゆえ、さっさと去ぬるがよいぞ? 負け犬らしく――いや、狐であったか? まあどちらでもよいわ。さっさとせい、ほれほれ」

 

実際は豆腐メンタルのくせに、人を煽ることにかけては一丁前である。

そうした嘲りに満ちたラピスの言葉を、ミナはじっと黙って聞いていたが。

 

「――うおっ!?」

 

突然シャツを引っ張られ、俺は危うく後ろに倒れ込みそうになる。

俺は首だけを後ろに回した姿勢でミナと対峙していたため、彼女に背を向けた形になっていたのである。

なんとか踏み止まり、空気椅子のような苦しい状態で静止する俺の顔の上へ、ぬっとミナの顔が覆い被さる。

 

「ご主人」

 

もはやミナは笑顔すらも消し、何の感情も浮かべぬ真顔となっていた。

 

「ご主人。ご主人は言ってくれたのね? ミナを飼ってくれるって。ずっと一緒だって。あの言葉は嘘じゃないのね?」

「あっ、いや、それはもちろん」

「じゃあ聞くのね。――ミナとそのひと、どっちが大事?」

「え゛っ……」

 

俺は言葉に詰まってしまう。

是と答えても、また非と答えても、いずれにせよ大火を被ることは確定的な質問であったからだ。

答えに窮していると、またもラピスからの横槍が入る。

 

「まったく往生際の悪いことよ。ほれ、優しい我が君が困っておるではないか。素直に答えれば貴様が立ち直れぬと分かっておるゆえな。いい加減諦めい」

「……あなたには聞いてないのね?」

「ほぉ~う? まだそんな目が出来るとは見上げた根性じゃ。あれほどこてんぱんにされておいて」

「ミナは負けてなんかないよ? おばあちゃん、年の取りすぎでボケちゃってるんじゃない?」

「お、おいお前ら……」

 

俺の頭上で、二人の交差した視線が火花を上げるのが見える。

二人の性格は真反対とばかり思っていたが、ある意味ではこの両者、似た者同士ではないのかという考えが頭をもたげてくる。

……勘弁してくれ。

声にならぬ俺の絶望などいざ知らず、二人の言い争いは尚も続く。

 

「くかか、何を言おうが我が君の心はもはや定まっておる。貴様も見たであろう? 人目も憚らずわしとの子作りに励むリュウジの姿をな。あれこそ言葉以上にモノを言う証左というものよ。どうじゃ、ぐうの音も出るまいが」

「……」

 

とここで、ミナの表情がまたも変化を見せた。

それまでの敵愾心の塊といった様相から、若干だが呆けたような顔つきになっている。

 

「……ミナを馬鹿にしてるの? からかってる?」

「はん? 何を言うておるのじゃ貴様は。ショックのあまりここ(・・)がいかれたか?」

「……」

 

再びの沈黙を挟んで。

 

「ふぅん、そう……。からかってるわけじゃ、ないんだ……ふふ……」

「……なんじゃ貴様、なにが可笑しい?」

「ううん、なんでもないの。――ご主人っ」

「え?」

 

再び俺へと目を向けたミナの顔は、いつもの屈託のない笑顔に戻っていた。

 

「じゃあ、そろそろ帰らない?」

「え、へっ……?」

「あなたもね。今回は引き分けってことにしようなの」

「貴様、何故貴様が仕切って――」

 

どういう風の吹き回しか?

まるで悪い憑き物が落ちたかのように、ミナは声までも明るく転じさせている。

しかしいずれにせよ、これはまたとない機会である。

ミナかラピス、両者のうちどちらかが折れねば、二人の言い争いは永遠に終わりが見えないところだった。

また妙な空気になる前に、このまま良い流れを持っていきたい。

よって俺は、ラピスの言葉を遮る形で二人の会話に割り込む。

 

「いい加減にしろお前らっ! この姿勢、マジで辛いんだぞ! それに言っただろラピス、もう本格的に膀胱が限界なんだよっ!」

「む……」

「ほらほら、ご主人もこう言ってるの。それともあなたの代わりにミナがご主人を連れて帰ろうか?」

「なっ……その必要はないっ!」

 

ミナの言葉が最後の押しになったのか、ラピスは俺からやっと離れると、いつしか見た例の扉を出現させる。

 

「この扉をくぐれば元の山道に出るでな。ただこうして出現させておるだけでもかなりの力を使う。さっさと通るがよい」

 

言うや否や、扉の向こうへと消えていってしまう。

そして、俺もラピスに続かんと足を踏み入れた、その時。

 

「ご主人」

「――ん?」

 

ミナの声に振り向けば、この上もない笑顔を浮かべた彼女の姿が目に入った。

俺はもう、ほとんど扉を完全にくぐる直前であったが。

彼女の続く言葉はしかし、この上ない明瞭たる響きをもって俺の耳へと届いた。

 

 

「ミナはね、ほんとのこと(・・・・・・)、知ってるからね。続きはミナと――……ね?」

 

 

扉から出た際、ラピスに怪訝な顔でもって迎えられたことは言うまでもないだろう……。




まさかラピスとミナの人気投票がほぼ真っ二つに割れる結果になろうとは、作者自身思ってもみませんでした……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

種明かしと説得

 扉をくぐれば、果たして元の山道に出ることができた。

 先に到着していたラピスは、俺が妙な顔をしていることに言及しようとしたが、俺は膀胱の限界を理由になんとかその追求から逃れた。

 山を下り、最も近いコンビニで用を足した後、俺は元の場所へと足を急がせる。

 生理現象ゆえ仕方がないとはいえ、あれらを二人だけにしておくのはまずい。

 

 ……そして案の定。二人の間には険悪な雰囲気が漂っていた。

 俺は二人に見つからないよう山へ一歩入り、手頃な木の後ろから遠巻きに様子を伺う。

 

「こむすめ。扉から出てきた我が君の表情が優れなかったように思えたが。まさか貴様、またぞろ小賢しい真似を仕出かしたのではなかろうな?」

「ええ~? ふふ……なんのことだか分からないのね?」

「……言うておくがな、わしは貴様を許したわけではない。我が君の天より高き慈悲の心あってこそ、今貴様は生き永らえていることを忘れるな。態度には気を付けるがよかろうぞ」

「ふぅん、随分と上から目線なの。ミナよりずっとお子様のくせに……くすくす」

「なっ……! 貴様、いい加減に――」

「はいはいそこまでそこまで!!」

 

 たまらず俺は二人の間に割って入り、今にも戦闘を再開しそうな両者を止める。

 ……ちょっと目を離しただけでこれである。

 この分では、この先も随分と気を揉むことになりそうだ。

 

「ミナ、お前もこいつを煽るのは止めとけ」

「う~ん……分かったの。ご主人の言うことだもんね! ミナはおりこうさんだから!」

「よしよし、いい子だぞ」

 

 頭を撫でられ、ミナはご満悦の様子である。自分からもぐりぐりと頭を擦り付けるその様子は、まるで犬のようだ。

 さらには猫のように、ぐうぐうと喉までも鳴らさせている。

 全く、犬なのか猫なのか、それとも狐なのか……。

 もっとも神様なのだ、そういった括りにすらないのかもしれない。

 

「むむむ……!」

 

 ラピスは一人、面白くもなさそうな顔をしていた。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 その後、俺たちは例の神社へと到る。

 

「なるほど、ここで汝はわしに隠れてこむすめと密通しておったというわけじゃ」

 

 手始めに俺に対する嫌味から入るラピス。

 しかし返す言葉もなく、俺はただ黙っているほかない。

 

「しかし解せぬの。確かにこの場には人ならざる者が発する力が漂っておる。わしともあろう者がこれまで気付かなかったとは……」

「やっぱそうだよな。お前もあの時、この場所どころかここへの入口すら気付かなかったもんな」

「うむ。いくら我が力が弱まっておるとはいえ、かようなことがあろうはずがない」

「ミナもね、それはずっと不思議に思ってたの」

 

 ミナが言う。

 

「いままでずっと、ここは他の人の目には映らないようになってたはずなのに……。この場所だけじゃないよ。ミナ自身だってそう。だからあの時ご主人がミナを見つけてくれたこと、本当に驚いたの」

「見つけて?」

「うん。ミナはね、人間さんたちの目には映らないの。おかあさんが最後に(・・・)ミナのためにそうしてくれたんだけど……でもそのせいでね、ケガしても誰にも助けてもらえなかったの……」

 

 俺は彼女からこれまで何度か、母という言葉を耳にしていた。

 どうも口ぶりからするとかなりの力を持っていたようだが、当の本人は今どこにいるのか。

 彼女がこうもみすぼらしい格好をしているところから察するに、今はここに居ないだけのか、あるいは……。

 

「ふぅむ、なるほどの」

 

 とここで、ラピスが口を開く。

 

「ラピス? 何か気付いたのか?」

「憶測に過ぎぬがの、まあ凡そは外してはおるまい。恐らくはそれもまた術者の細工の一つであろうな。こむすめの命が危機に瀕しておったことが引き金となり、この場を覆っておった結界が薄れたのであろう。誰ぞがこむすめを助けることを期待して、の」

「そんなタイミングで俺たちが通りかかったってわけか。えらい偶然もあったもんだな……」

「しかしそうだとするなら、あの時より結界は既に破られておるはず。わしもここのところ何度もこの場を往復したが、ついぞ気付かなかった。じゃというに、我が君には視認出来ておったという。こは如何なることじゃ?」

「それはね、ご主人覚えてる? ミナがご主人に渡したお米のこと」

「――ん? ああ、あれか」

 

 もちろん覚えている。

 飲んだ瞬間、とてつもない吐き気に襲われたことも。

 

「あのお米にはね、ミナとの繋がりを強くするおまじないがかけてあったの。全部食べてくれた?」

「ああいや、まだ一粒しか……」

「やっぱり。だめだよご主人。そのせいで助けに行くのが遅れちゃったんだから。強めのおまじないだから一日ひとつぶって言ったけど、ご主人は普通の人間さんじゃないっぽいし、大丈夫かな。後で残りも全部食べるのね」

「あー……うん、いや、それは……」

 

 またあのような体験をする羽目になると思うと、返事も濁したものになってしまう。

 

「ほっほぉ~う……?」

 

 そしてまたもラピスは口を開くと、俺をジロリと睨み付けた。

 

「何処の誰とも知らぬこむすめに出されたものをホイホイと口に入れたと。そういうことじゃな?」

「あ、いやでもだな、あの時はまさかミナが――」

 

 俺が言い訳を口にしようとした瞬間、ラピスは嚇怒(かくど)し怒鳴りたてる。

 

「愚か者っ!! そういうことを言うておるのではないわっ! そなたは何度軽率な行いを繰り返すつもりじゃっ!! 今やそなたは人ならざる存在。幽世(かくりよ)の者らとの距離も近うなっておる! じゃというに、なんと危機感のない……! ましてや我等は未だ追われる身、何事にも注意を払って払いすぎるということはない! 得体の知れぬものを体内に入れるなどもってのほかじゃ馬鹿者がぁ!」

「……」

 

 一言一句、ぐうの音も出ない正論である。

 俺は身を低くしてラピスの叱咤を甘んじて受けるほかなかった。

 

 そして、たっぷり五分ほどもお叱りの言葉を受けた後に。

 まだラピスは言い足りぬ様子を見せていたが、

 

「はぁ……はぁ……まあよい。続きは帰ってからじゃ。ほれ、さっさと去ぬるぞ」

 

 言って、俺の手を取り引き返そうとする。

 

 ――が。

 

「……なぜ貴様も付いてきておる」

 

 俺のもう片方の手はミナがしっかと掴んでおり、ラピスは忌々しげに彼女を見た。

 

「ん? 帰るんでしょ?」

 

 ミナはさも当然とばかりな顔をして言う。

 

「……リュウジ(・・・・)

「な、なにかな?」

 

 ラピスはミナから視線を外し、じろりと俺へ視線を向ける。

 

「そなたから言ってやれ。わしらの愛の巣に畜生など不要とな」

 

 彼女の視線には甚だしい圧があり、ここで下手なことを言えば、全てはご破算になる予感をひしひしと感じる。

 しかし、そうと分かっていても俺はこの言葉に素直に応じることはできない。

 仮にそうしてしまえば、また違う方面での面倒が起こるであろうことは想像に難くないからだ。

 それに、俺は既に約束をしてしまっている。

 

「えーっと、その……なんだ……。その、確かに飼うって言っちまった以上、それを反故にするってのは……」

「リュウジ?」

 

 言い終わるのを待たず、ラピスは俺の名を呼ぶ。

 

「わしが今、どう思うておるか当ててみよ」

 

 俺に問う彼女の表情は、深みのある笑顔を浮かべていた。

 

「……怒ってる」

「うむ、当たりじゃ」

 

 さらに笑顔が深くなる。

 

「ならばこれ以上わしの機嫌を損ねることは双方にとり得策ではない。それも分かるな?」

「う……その、なんだ……」

 

 言葉を濁しつつ、俺はうまい躱し手を模索する。

 そして俺にしては珍しく、すぐにある言い訳が頭に上った。

 

「……ラピス。俺たちは例の連中に追われてる身なんだよな」

「……そうじゃが?」

「加えて、お前の力もまだまだ元に戻ってない。そうだよな」

「う、うむ?」

「そこでだ。さっきの戦いを見てても思ったが、そんな状態の俺たち的に考えると、ミナはいい助けになりそうじゃないか?」

「む、むむむ……」

 

 即座に否定しないのは、ラピスも内心、ミナの力を認めているということだろう。

 

「それにずっとって訳じゃない。あくまで力が戻るまで、だ」

「……ご主人?」

 

 この俺の言葉にミナは反応するが、俺は目でそれを諫める。

 ミナは見た目から受けるイメージよりもずっと聡いようで、俺の意図するところを察したのだろう、それ以上口を開くことはしなかった。

 

「な、ラピス。これは俺たちの――いや、お前のことを案じてのことでもあるんだ。不満もあるかもしれないが、そこはなんとか我慢してくれないか?」

「……わしのことを思ってのことじゃと、そう申すのじゃな」

「ああ」

「……」

 

 ラピスは無言で熟考する様子を見せる。

 その間途中何度か頭を抱えたり、うんうん呻ったりと、様々な反応を見せていたが。

 再び顔を上げたラピスは、達観したような顔になりつつ、いかにも渋々といった感じで口を開いた。

 

「ふぅ……仕方あるまい。確かにわしの力は未だ脆弱じゃ。こむすめ一人瞬時に滅せぬほどにな。……よかろう。――ただしっ!!」

 

 語気を上げつつ、ラピスは続ける。

 

「そうするならば、いくつか規約を定めておく!」

 

 びしりとミナを指差すと、ラピスは宣言する。

 

「こむすめ、貴様に対してじゃぞ! よいか、たとえこれより先共に暮らすことになろうと、序列はわしが上、貴様は下じゃっ! 自分の立場を弁えた上で振る舞うと誓うならば……本意ではないが、共に行動することを許そうぞ」

「んふふ、わかったの。ミナはおりこうさんだから、ちゃんと守ってあげる(・・・・・・)

「……」

 

 どうも彼女の返答には、言外に含みがあった。

 そのことはラピスも感じているのだろう、苦虫を噛み潰したような顔でミナを睨んでいる。

 とはいえ、なんとかラピスの許しを得ることには成功したのだ。

 ここは彼女の気が変わる前に行動を起こすべきだろう。

 俺は二人を促し、帰路に付こうとするが。

 

「あ、ちょっと待ってなの! このままじゃミナ、山を下りられないのね。だから準備しないとなの」

「準備?」

「うん。それにおかあさんも(・・・・・・)一緒じゃないと。二人ともこっちに来て手伝ってほしいのね」

「……?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

力の源

「ミナ」

「なぁにご主人」

「その……今まで聞いていいかどうか迷ってたんだが……。……ミナの母さんて今どこに居るんだ?」

 

 俺が今までこのことに言及してこなかったのは、恐らく、彼女の母は既に存命ではないのだと察してのこと。

 小さな神社だ。これまでもこの場に居たのならば、一度くらいは会っていてもいい。

 第一、もし彼女と一緒であったなら、彼女が怪我をした際にも何か他の手段を講じたはずだ。

 わざわざあんな回りくどい手段を取る必要などない。

 

「……」

 

 ミナは黙って、俺の目をじっと見つめる。

 ややあって、

 

「おかあさんはね、ここにいるの。ここで、ずっとミナと一緒。……こっちだよ、ご主人」

 

 言いいながら、彼女は神社の堂内へと入っていく。

 困惑しつつも彼女に続いて中に入れば、例の桐箱を両手に抱える彼女の姿があった。

 

「お話したりはできないけどね……よいしょっと」

 

 ミナは一旦箱を地面に置き、上蓋を外す。

 俺だけでなくラピスもまた、興味深げに中を覗き込んだ。

 予想通りと言うべきか、雑多な玩具の類がごちゃごちゃとすし詰めに入っている。

 また、それら全てはやはり、この前見たものと同様に一様にボロボロの状態でもあった。

 そんな古めかしい玩具の山の中にあって異彩を放つ、小さな籠がある。

 (わら)作りの小さな籠だ。

 周囲の玩具類に比べ、それだけは小奇麗に整えられており、十字に縛っている紐も汚れ一つない。

 ミナはその籠を取り出し、ゆっくりと紐を解く。

 次いで蓋が開けられたその中には、一本の稲穂が鎮座していた。

 

「ミナ、これは?」

 

 中にあったのは正真正銘、それだけである。

 俺は意図するところが掴めず、困惑気味に彼女に問う。

 彼女は、まるで壊れやすい宝物を扱うかのごとき繊細な手つきでその稲穂を持ち上げ、掌に載せる。

 

「……ご主人。ご主人はお母さんが死んじゃってるんだって、そう思ってたんでしょ?」

「……」

「ふふっ。だからずっと、ミナにこのことを聞いてこなかったんだよね」

 

 ……全てお見通しか。

 

「おかあさんはね、死んでなんかいないよ。でも今は体を保つこともできなくて、仕方なくこんな状態でいるの」

「ミナ……」

 

 俺は困惑した声を上げる。

 長きに渡る孤独な日々が、彼女の精神をこのような妄想に至らしめたのか。

 ……無理もない話だ。こんな朽ち果てた場所でただ一人。俺だって気が変になることだろう。

 

「ふーむ、なるほどの」

 

 彼女を心の内で哀れんでいるなか、ラピスが声を上げる。

 ラピスは俺を横目で見つつ、

 

「そう驚くこともあるまいよ。こむすめの言うておることはおそらく本当じゃ。気が違っているわけでもない」

 

 まるで俺の心を見透かしたようなことを言う。

 俺はそこまで考えていることが顔に出る男なのだろうか?

 

「ええっ!? なにご主人、ミナがおかしな子だって思ってたの!? ひどいの!」

「あ、いや、その……」

 

 ミナは心外とばかり口を尖らせる。

 しかし仕方ないじゃないか。さすがに単なる稲穂を自分の母だ、などと言われては。

 

「つまりの我が君、こやつの母は言うなれば、わしと同じ境遇であるということじゃ」

「……?」

「……どうもまだ分かっておらぬ顔じゃな。よいか、そもそもわしをはじめとした神たる存在における死とはな、人のいうそれとは異なる。たとえ肉の体が朽ち果てようと、存在そのものが滅するわけではない。……わしがいい例であろう? わしは以前あやつらに何百回も殺されてきたが、しかし今、こうしてそなたの傍に立っておるではないか」

 

 ……確かに。

 しかし自分が殺されたことをこうも飄々と言葉にできるとは、これもある種の達観によるものか。

 いわばこれも含め、”死”そのものの概念が違うということなのだろう。

 

「流石に核となるものまで破壊されればその限りではないがの。そしてこむすめの母の核――いわば本体が、今こむすめが手にしておるものであるというわけじゃ。確かに微弱ながら力を感じるぞ」

「待てよラピス」

「む?」

「じゃあなんだ、ミナの母さんもお前と同じく、力が戻ればその――元の姿に戻れるってことか?」

「ふむ、そういうことになるの。こやつらの力の源泉が何であるかは知らぬがな」

 

 この言葉を受け、俺はミナへ向き直る。

 

「ミナ、そうなのか?」

「うん。そのひとの言うとおりだよ。ミナたちの力の源はね、人間さんたちからの信仰心なの」

「……信仰?」

「うん。……覚えてる? ご主人、前にお賽銭箱にお金を入れてくれたでしょ。それに、石像も元に戻してくれた。あれはね、別にお金が欲しかったわけじゃないの。……目に見える形として、そうしてくれることが重要だった」

 

 なるほど。

 あの時は訳も分からず行動したが、そうした意図があったのか。

 

「無理矢理あんなことさせちゃってごめんなさい。……でも、どうしてもミナ、ご主人とお話がしたかったの。あのままだとそれもできなかったから……」

 

 これで合点がいった。

 つまり、あの時の俺の行動がきっかけとなり、彼女は今の姿を保てるようになったということか。

 しかし、賽銭を入れた時にしろ石像を元に戻した時にしろ、俺は信仰などというにはほど遠い心境であったはずだが。

 それこそ、ただ何の気なしに行動しただけに過ぎない。いわば気まぐれだ。

 まあしかし、今はそんなことを深く考えても詮無きこと。

 それよりも。

 

「いや、そんなことは別に気にしてねえよ。それより聞きたいことがあるんだが」

「……なぁに?」

「いや、人からの信仰心が力の源だってんならよ、なんでまた結界なんぞ貼ってたんだ? 気付かれないんじゃ拝むもなにもないだろ?」

「それは……」

「ミナもあんだけの力があるんだしさ。この神社も……まあ、もうちょい小奇麗にしとけば物好きが賽銭くらい入れてくれただろうに」

「……ミナも、そうしたかったよ」

 

 途端、ミナの声は影を落としたものとなる。

 

「だけど、おかあさんは……ミナができそこないだってこと、分かってたから」

 

 ……またか。

 ”出来損ない”とは、一体どうした意味なのだろうか?

 

「……だ、だからっ……」

 

 見る間にミナは両目から涙を溢れ出させ、感情のコントロールを無くし叫ぶ。

 

「ミ……ミナが……できそこない、だから……。――だから、おかあさんは……おかあさんもっ……!」

「おっおい!? どうしたんだ急に、おいっ!?」

「う゛う゛う~……」

「ああほら、泣くなって。わかったわかった、言いたくないなら言わなくていい。ほれ、よしよし……」

 

 どうもこのあたりは触れるとまずい領域のようだ。

 いずれまた問うにしろ、また期を見てのこととしよう。

 ……ちなみに彼女を泣き止ますため頭を撫でている途中、俺は背後からの熱を感じたのだが。

 俺は恐ろしくて後ろを振り返ることができなかった。

 

「――落ち着いたか?」

「……うん。ごめんさない。急に……」

「いやいや気にするな。俺が無神経だったよ」

 

 いまだぐずってはいるが、ある程度の落ち着きは取り戻したようだ。

 

「ま、それはいいとしてだ。一応最後に念押ししとくが、本当に俺のとこに来るのか?」

「……ご主人は、迷惑?」

「いいやそういうことじゃない。だけど、ここはいうならお前の家なんだろ? 未練とかはないのか」

「うん。全然そんなことないよ。それにおかあさんも一緒だもの」

「そうか……」

 

 まあ確かに、こんな荒廃し切った神社に一人というのは、想像を絶する孤独だろう。

 いつからミナがここに住んでいたのかは定かでないが、口振りからすると数年どころではなさそうだ。

 そうと知った今、俺としても彼女をこのまま無下に見捨てるというのはとてもできそうにないが。

 ――それにしても、と思う。

 随分と割り切りが早いというか、確かに約束しはしたが、会って数日の人間にホイホイ付いていく気になるものだろうか。

 

「それに……」

「なんだ、まだ理由があるのか」

「ご主人に体まで好きにされちゃったし……。あんなことまでされたら、ミナ……ご主人のものになるしかないの……」

「……はっ?」

 

 またこの娘はとんでもないことを言い出す。

 いや、もしかすると俺が思っているような意味ではないのかもしれないが、この言い方はあらぬ誤解を呼ぶ。

 だというに、後ろの死神が無反応なのがまた、逆に恐ろしくさえある。

 

「お、おいおい、妙な言い方は止めろって」

「覚えてないのっ!? ご主人ひどいのねっ! 二回目に会った時のことなのっ!」

「に、二回目……?」

 

 初めて会ったのは、道路でケガをしている彼女を見かけた時。

 二回目といえば――そう。この神社まで案内された時か。

 今やもはや遠い昔のことのようだ。

 俺がそこまで思い出したタイミングで、ミナが続けた。

 

「最初は頭を撫でてくれて……それはとっても嬉しかったけど……」

 

 ミナは顔を伏せ、いかにも恥ずかしそうに言葉を続ける。

 顔は羞恥で真っ赤に染め上がっており、白い地肌は今や完全に隠されてしまっている。

 

「いきなりミナを押し倒して、乱暴に体を隅々まで撫でまわして……ミナ、すっごく恥ずかしかったんだから!」

「い、いやいや! それはお前が狐の姿だったから――」

 

 俺が抗弁しようとするも、感情を高ぶらせた彼女の耳には届かない。

 

「……し、しかもっ! さ、さいごは……恥ずかしがるミナの、その……大事なところまで……! あんなことされたら、もう他の人のところにお嫁になんか行けないのっ! 責任とってほしいのねっ!」

 

 彼女は最後には目をぎゅっと閉じさせ、声は狭い室内が揺れるほどの大きなものであった。

 俺は尚もなんとか彼女がしている誤解を解こうとするが。

 

「え……?」

 

 俺の顎下に、見覚えのあるものがずるり(・・・)と差し込まれた。

 それがなんであるか認識した俺は、滝のような汗を流しつつ、恐る恐る後ろを振り向く。

 

「ラピス……お、落ち着けよ? こ、これはな……?」

 

 振り向いた俺の視界には、再び鎌を構えた死神の姿が。

 彼女の顔にはもはやかつてのような取り繕った笑顔さえなく、いかなる感情をも無くした風であった……。

 

 ………

 ……

 …

 

「おい待てっ! ちょっ、本当に死ぬ、死んじまうってマジで! 誤解だっ、誤解なんだっ!」

「やかましいわーーーっ!! もう今度という今度は我慢ならんっ! そこへなおれっ! その不埒な助平心ごと切り伏せてくれるっ!!」

「あーっ、またご主人をいじめてっ!! やめるのねっ!! こらーっ!」

 

 その後、こうしてまた始まった騒動が収まるまで、またも小一時間ほどの時間を要した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新たな家族として

 三度目の土下座をしたあたりで、ようやく俺はラピスからの慈悲を得ることに成功した。

 情けないと言うならば言うがいい。命あっての物種である。

 

「こんなことばっかしてたら日が暮れちまう。ミナ、持ってくものはそのお母さんが入った籠だけでいいんだな」

「あっ……えっとえっと、も、もうひとつあるの」

「何だ? 玩具の山はまた今度にしとけよ」

 

 ミナはぷくぅと頬を膨らませる。

 

「むーっ! ちがうのっ! そうじゃなくて、お賽銭箱も一緒に持って行ってほしいのね!」

「賽銭箱ぉ? また何でそんなもんを……」

「あのね、ミナはね、おかあさんを元に戻してあげたいの」

「うんまあ、そりゃ分からないでもないが」

 

 俺の同意をこれ幸いとばかり、彼女の声に弾みが増す。

 

「でねでね、そのためにはたくさんの人間さんからの信仰心が必要なのね。ここじゃそんなの絶対無理だし、それにミナはこれからご主人のおうちで飼われることになるでしょ? だったらね、いっそのこと、ご主人のおうちを拝殿(はいでん)にしちゃおうって思うの! うん、これは名案なの!」

「……へ?」

「ご主人はミナの飼い主で、しかもえらーい神主さんにもなれるのね! で、ミナはそこに奉られる神様ってことになるの! ――あ、もちろんそれは隠して巫女さんとしてご主人のお手伝いもするよ! それにお賽銭もご主人のものにしていいから!」

「い、いやいやちょっと待てよ。それは……」

「それにねそれにね。ご主人たちは悪いひとたちから狙われてるんだよね。あのね、おかあさんはね、ミナなんかよりずーっと強いんだよ! 元に戻ったらおかあさんもきっと協力してくれるの! そしたら怖いものなんてないよっ!」

 

 口早に捲し立てるミナ。

 彼女の言うことが確かならば、確かに心強い味方となることだろう。

 しかし、そもそもの問題がある。

 

 ――俺の家を拝殿にする?

 冗談にすらならない。あまりにも突拍子もない話だ。

 うちはただの一軒家なんだぞ。

 

「……なぁラピス。お前はどう思う?」

 

 ラピスはちらとこちらを横目で見たのち、

 

「ふん、わしは知らぬ。興味もない。こむすめのことは汝がなんとかするのじゃな」

 

 冷たい言葉を置き捨てたのみである。

 まだラピスの機嫌は完全に治っていないようだ。

 俺は改めてミナに目を向ける。

 

「ご主人……」

 

 そんな目で見るのは反則ではないか?

 ここで否と答えられるほど、俺は鉄のハートを持ち合わせてはいない。

 

「……わかった、わかったよ。けどな、あんま期待すんなよ。うちはそんなデカい家じゃないし、大々的に宣伝なんてのも無理だからな」

「……っ!」

 

 諦めたように言う俺に対し、ミナは感極まったように顔を綻ばせると、

 

「ありがとうご主人っ! 大好きっ!」

 

 弾かれたように抱き着いてくる。

 ……ちらと横を見れば、ラピスがこちらを物凄い目で睨んでいるのが見えた。

 また不毛な争いが再発することを予感した俺は、即座にミナを引きはがすと、今度こそ帰り支度をする。

 

 ミナを連れて帰るにしろ、このままの姿というわけにはいかない。

 名目上はペットとして住まわせることになるのだし、とりあえず彼女には狐の姿に戻ってもらうことにした。

 ミナの母が入っているという籠は俺が持ち、賽銭箱の方は――流石に抱えて帰るわけにもいかず、ラピスに頼み込んで異次元に放り込んでもらうことにした。

 部屋に帰った後にでも取り出してもらおう。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「ただいまー」

 

 言いながら家の扉を開けると、すぐに居間より花琳が迎え出てくる。

 俺の姿を確認した妹は、迎えの言葉を発しようとしたが、

 

「おかえ―……って、兄貴。それ……!」

 

 俺が抱えているものに気付いたのだろう、なぜか妹は俄然目を輝かせ始める。

 

「ああ、帰り道でまた会ってな。今度は自分から素直に抱かれに来て――おわっ!?」

 

 そしてずかずかと近寄ってきた妹はさっと手を伸ばし、俺が抱いていたものを奪い去ってしまう。

 

「なんだよお前ーっ! 前は急にどっか行っちゃって、心配したんだぞーっ、このお!」

「……ッ!? ……!」

 

 瞬く間に妹の胸に抱かれる狐――すなわちミナは、動物の姿であってもはっきりと分かるほどに動揺した姿を見せている。

 ……花琳がここまでだらけた表情を見せるのはちょっと記憶にない。

 胸に埋めたミナの全身をわしわしと撫でながら、実にご満悦な様子だ。

 

「なんだ花琳、随分可愛がるじゃないか。前会った時はそっけなかったくせに」

「いやー……兄貴が悪いんだよ。あんな人懐っこいの見せられたら、マロンのこと思い出しちゃって……」

 

 マロンというのは以前飼っていた犬の名前だ。

 俺が三つかそこらのとき、親父がどこからか拾ってきたらしい。

 ゴールデンと何かの雑種だったマロンは、俺が物心ついた頃には既に老犬だった。

 そして、そんなマロンが亡くなったのは五年前のこと。

 あの時は俺も花琳も、揃って大泣きしたものだ。

 

「ほら、よく見たら似てない? 目元とか」

 

 ミナに顔を擦り付けながら、花琳は言う。

 野良は病気がどうたらと抜かしていたくせに……。

 俺はぼりぼりと頭を掻く。

 

「……いやいや、マロンはオスだったろ。こいつはメスだぞ」

「そんなの関係ないよなーっ」

「コン!」

「よーしよしよし! きちんとお返事もできてえらいぞぉ!」

 

 ……ダメだこりゃ。

 完全に篭絡されている。

 それどころかミナも、最初こそ驚いた風であったが、今は素直に花琳に身を任せていた。

 妹の言葉に素直に返事をするほどの打ち解けぶりである。

 

 ……ま、考えようによっちゃラッキーか。

 とりあえず妹の方はOkと。

 

「それで兄貴、こいつ飼うんだろ!? なっ!?」

「ああ、でも俺たちだけじゃな。オヤジたちにも――」

「何言ってんだよ! オッケーするに決まってるって! こんなにカワイイんだもんなーっ!」

「コーン!」

「……いい気なもんだ。そう上手くいくかね……」

 

 だが。

 実際は俺の予想をはるかに超えて、すんなりとことが運ぶこととなった。

 休日ゆえ今の時分でも両親は在宅であり、俺たちがはしゃいでいる様子が気になったのか、少しして二人とも居間から様子を除きに来た。

 そこでミナのことについて俺は――いや、俺と妹は揃って両親に頼み込んだ。

 両親は、最初こそ渋る様子を見せたが。

 呻る二人の首を縦に振らせた一番の立役者は、他ならぬミナ本人の手柄によるものだった。

 

 狐の姿であるミナは、妹の胸から降りると、まずは俺の父。次いで母へと、自分から抱かれに行ったのである。

 恐らくは計算ずくなのだろうが、その時のミナの愛嬌のふりまき方ときたら……とても言葉では言い表せない。

 これで落ちない動物好きは皆無だろうと言わざるを得ないほどのものだった。

 そもそもが揃って動物好きであったこともあり、そんなこんなでミナを飼う許可は大して時間もかけることなく得られた。

 

「で、マロンみたいに外で飼うの?」

「いや、最近は物騒だしな。室内飼いのほうがいいだろ」

「そうだね。じゃあリビングかどっかにケージ置いて……」

「ああいや、ケージは必要ないと思うぜ。こいつは思ったより利口みたいでな。トイレなんかもしつけ済みみたいなんだ。元々どっかで飼われてたのかもな」

「ふーん……」

「てなわけで、こいつは俺の部屋で飼うことに――」

「えーっ!!」

 

 花琳が急に声を上げる。

 

「なんだどうした」

「なんだよそれっ! ずるいぞ兄貴っ!」

「ずるいってなんだよ……」

「あたしだってそいつと――あ、そういえば名前はどうする?」

「ああ、名前はもう決めてある。ミナだ」

「ふーん。ま、いいんじゃない? 兄貴が見つけたんだし。――だけどっ! 兄貴の部屋で飼うってのはずるいっ! あたしだって権利があるっしょ!」

 

 なるほど。

 どうやら花琳は、自分の部屋で飼うことにしたいわけだ。

 ……そういえば。マロンが死んだとき、一番泣いてたのは花琳だったな。

 また動物が飼えるとなって、俺が思う以上に気が高ぶっているのかもしれない。

 

「ね。えっと……ミナだってそう思うよね。 あたしと一緒がいいよなーっ?」

 

 妹はしゃがみ込むと、足元の狐に目線を合わせつつ言うが。

 しかし彼女の期待とは裏腹に、ミナは彼女に背を向けると、俺の元まで歩み寄り、そして勢いよく胸元に飛びついてきた。

 

「……ま、これが答えってことかな」

「ぐ……くぅううう……! くっそおぉぉぉ……!」

 

 ……やれやれ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

従属の証

 尚も花琳は食い下がる様子を見せたが、肝心要のミナが俺の傍を離れない様子を見て諦めたのか、ようやく矛を収めた。

 

「……いいよ。兄貴の方が先に見つけたんだもん、そりゃ今は懐いてるよね。くそぉ、見てろよぉ……」

 

 しかしここまで悔しさを態度に出されると、どうもこちらの方が悪いことをしているような錯覚に陥ってしまう。

 俺は溜息をつきつつ、彼女を諭す。

 

「同じ家に住むんだから別にそう変わりゃしないだろ……」

「ふん、余裕ぶっちゃって……。ま、で話変えるけどさ、ウチで飼うなら色々準備もしないとね」

「準備?」

「エサとか――はどうなんだろ。ドッグフードってんじゃないし、狐用の餌とか売ってんのかな?」

「うーん……ペットショップじゃ見た覚えないな」

「だよねぇ。んじゃしょうがない、あたしが作るよ」

 

 やはり花琳はミナを飼うことに対し、随分と乗り気な様子である。

 自分からあれやこれやと提案を起こしていることからも、それは十分に察せられるところだ。

 

「それと観察札と……ワクチン接種もか。あっそれと首輪もだね。それはネコか犬用のでいけるでしょ」

「くっ、首輪? いやまあ、家で飼うんだしそれは要らないんじゃ……」

 

 遠慮がちに言うと、彼女にギロリと睨まれる。

 

「……何言ってんだよ兄貴。家から出ちゃったとき、保健所に連れてかれて殺されちゃったらどうすんの? 首輪と観察札は絶対必要だっての。マロンだってそうだったろ」

「ん……んん……」

 

 ミナの正体を知らぬ妹からすれば当然の主張ではある。

 俺もそれ以上強くは否定できず、曖昧に呻ることしかできなかった。

 

「んじゃ兄貴、よろしく」

「は? よろしくって何をだよ」

「だーかーらー。首輪を買ってきてっつってんだよ。今言ったっしょ?」

「いやまあ、それは分かってるけど。……お前は? 付いてこないのか――って、おい」

 

 花琳はまたもミナを俺から奪うと、

 

「あたし? あたしはこれからこいつを風呂に入れてやんなきゃだからさ」

 

 そ知らぬ顔で言う。

 

「ほら見てよ。野良だったからだろうね、随分汚れてんじゃん。掃除すんのはあたしなんだから、このまんまじゃ家の中を歩かせらんないって」

「……」

 

 どうもうまく誘導されている気がする。

 しかしここで頑なになるのも変な話なので、俺は渋々ながら、妹の言う通りにすることにしたのだった。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「……ま、大丈夫だろ」

 

 ペットショップの中で、自分へ言い聞かせるように独り言ちる。

 まさか妹の見ている前で姿を変えたりはしないはずだ。

 ……そう信じたい。

 

「いやいやあ、どうじゃろうなぁ~? しょせんは畜生のこと、何も考えず阿呆な真似をしでかすやも知れぬぞぉ?」

「……」

 

 ようやく安心しかけたというに、それを邪魔するが如く横槍が入る。

 そうした茶々を入れるのは、今は制服姿に着替えたラピスからだ。

 

「お前な、不吉なこと言うなよ。妹にバレたらどう言い訳しろってんだ」

「ふん、そもそも彼奴(きゃつ)を連れ帰らねばかような手間をかける必要など無かったのじゃ」

「もうそれは言うなって」

「いーや、言い足らぬ」

 

 ラピスは口を尖らせ、

 

「本来今日という日はわしと汝とで出かける日であったはずじゃというに。……これでは、今日という日を今か今かと待ちわびておったわしがまるで阿呆のようではないか」

 

 最後は声のトーンを落としながら、そんなことを言う。

 これには俺も彼女に対し引け目を感じざるを得ない。

 

「……まあ、それは確かに悪かったよ。だったら帰りにどっか寄っていくか?」

「ふん、そんな取ってつけたような形でなぞ御免じゃ」

 

 言って、ぷいと顔を逸らすラピス。

 

「そう言うなって。この埋め合わせはいつか必ずするから。なあ、機嫌直してくれよ」

 

 ふと気付くと、周囲からくすくすと笑い声が聞こえてきていた。

 周りを見渡せば、どうも彼らは俺たちを見て笑っているようである。

 ……そりゃ面白いだろうな。

 大の高校生が、小学生くらいの女子を相手にあたふたしてるのだから。

 とんだ見世物もあったもんだ。

 

「……はあ。とにかく買うもん買ってさっさと帰るぞ。ええと、首輪だったな」

 

 俺が言っても、ラピスはそっぽを向いたままである。

 彼女の機嫌を直すのはとりあえず後回しにし、俺は壁に並ぶ商品を一瞥する。

 

「……人に戻った時に首が締まったりしないだろうな?」

 

 変身したら窒息した、なんぞ冗談にもならないぞ。

 まあそのあたりはミナに直接聞くこととしよう。

 手間だが、もしそうでもその度に首輪を外せば済むことだしな。

 

「ま、ならなんでもいいか。適当な安いやつで――」

 

 と、商品を手に取ろうとしたその時、服をちょいちょいと引っ張られる。

 

「……ん、どうした?」

 

 見れば、ラピスは俺の服の端を掴んだまま、何をか言いたげな目で俺を見上げている。

 今しがたはロクに返事もしなかったくせに、どういうつもりだろうか。

 

「……その首枷はあのこむすめに付けるつもりなのであろう?」

「ああ、そりゃそうだ」

 

 なにを今さら。

 透明化した状態ではあったが、俺と妹の会話はこいつも聴いていたはずだろうに。

 

「……」

 

 一瞬の間をおいて。

 

「……わしにも」

「――へ?」

「わしにもじゃっ!」

 

 最初は消え入るような声であったが、俺が聞き返した途端、ラピスは大声を張り上げる。

 

「え、どういう意味だ?」

「どういう意味も何もないわっ! わしを差し置いてあのこむすめに贈り物を授けるなど、断じて我慢ならぬっ! どうしてもと言うなら……わしが先じゃっ!」

 

 何を言いだすのか。

 

「いやいやちょっと待てって。落ち着け。贈り物ってお前……首輪だぞ?」

「なおのこと許せぬわっ! 首輪が如き従属の証たるものを、こともあろうに畜生めに先を越されるなど!」

「……」

 

 俺は言葉を失ってしまった。

 仮に嫉妬するにしても、もうちょっとなんと言うか、こう……常識というものがあるだろうに。

 首輪なんぞ、頼まれても欲しくないようなものを欲しがるとは。

 しかしここで即座に突っぱねれば、益々彼女の機嫌は悪くなることだろう。

 

 そこで俺は熟考する。

 ……まあ、別にどうしても欲しいというなら断る理由も無いのではあるが。

 しかし仮にそうするなら一点、聞いておかねばらなぬことがある。

 

「一応聞いとくがな……お前、もしそうしたら学校にも着けてく気じゃないだろうな?」

「無論そうするに決まっておろう。わしが誰のものであるか、周囲の者にも見せ付けてやるのじゃ」

 

 さも当然の如く、ラピスは言い切った。

 俺は今日二度目となる溜息をつく。

 

「お前な……ならダメだ。プレゼントなら別に首輪なんかじゃなくて、もっといいもんをやっから。今のとこは我慢しろ」

「……ゃ」

「え?」

 

 ラピスは顔を伏せると、消え入るような声を出す。

 そして、一体何を言わんとしたか俺が聞き返そうとした途端。

 

「いーやーじゃーーーーっ!!!」

 

 ラピスはバタンと音を立て、自分から仰向けに寝転がる。

 そして両手両脚をバタつかせながら、まさしく駄々をこね始めた。

 

「なんじゃーっ!! あのこむすめばかりに気を使いおってぇ!! なのにわしにはあれもダメ、これもダメっ! 先に契約を交わしたはわしじゃというに、なんなんじゃもおおおおーっ!!」

「……」

 

 俺はもはや呆れるどころか、絶句してしまう。

 大の字に寝転がり駄々をこねるその姿は、もはや小学生ですらない、幼稚園児かと見間違わんばかりの見苦しさだ。

 これが、この姿が、仮にも神と言われる者がする態度であろうか?

 見るに堪えぬ醜態を晒す死神を前にして、俺はズキズキと痛みを覚えるこめかみを押さえつつ、ただ見下ろすばかりであった……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

板挟み

 しばらく俺は、子供のように駄々をこねるラピスを虚ろな目で見ていた。

 いや、そうするほかなかった、と言った方が正しい。

 プライドだけは高いこいつが、まさか衆人環視の元このような行動に出るとは思わなかったのだ。

 この情けない姿を見れば見るほど、いいかげん冥府の王なんぞと名乗るのは止めろと言いたくなる。

 

「……」

 

 ラピスは一旦動きを止め、ちらと俺の様子を窺う。

 ……そしてこの行動により、俺も彼女の意図を察した。

 なんだかんだ言いつつも、こうして駄々をこね続けていれば結局は頼みを聞くに違いないと、そうラピスは値踏みしているのだ。

 事実もう少しで折れてしまいそうだったあたり、こいつは俺のことをよく理解している。

 しかしそうと分かれば話は別である。

 俺はあえて視線を外し、付き合わない風を装った。

 

「!」

 

 姿は見えずとも、ラピスの動揺がこちらにも伝わってくる。

 まさか無視されようなどとは思ってもみなかったのだろう。

 そうだ。これを機に自分という存在を思い出せ。出会った当初の、あの立ち振る舞いを。

 俺が甘やかしてきたのも悪いが、ここのところ本当に子供じみた行動ばかり目立つようになってきたからな。

 

 再び視線を戻すと、いつの間にか立ち上がっている彼女と目が合う。

 そしてラピスは、

 

「……ふん、そうかそうか。わかった」

 

 通常より少し低いトーンの声を出す。

 続いて商品棚からひとつの首輪を手に取ると、俺に恨みがましげな顔を向けつつ、言った。

 

「昨日そなたから受け取った金には手を付けておらぬでの。買ってくれぬというなら、自分で買うまでじゃ」

「えっ……?」

 

 こいつ正気か?

 自身を縛る首輪を自分で買うなど、冗談としか言えないようなバカげた行為である。

 まさか俺からとかそういうのは関係なく、本当に首輪が欲しいと……?

 

 ――いや、違う。

 すぐにそう思い直したのは、続くラピスの行動を目にしてのこと。

 レジに向かう彼女の足取りはまるで亀のように遅く、しかも、

 

「……」

 

 途中何度も振り返り、いかにも無念そうな目でして俺を見てくる。

 ここまであからさまだと、流石に演技だということがバレるとあいつも分かりそうなものだが。

 おそらくだが、見破られても構わないと思っているのだろう。

 狡猾な死神はこうすることにより、俺の良心に訴えかけるのが目的なのだ。

 

 そう。

 確かに演技なのだろうが、だと知りつつも騙されてやりたくなるような雰囲気が彼女にはあった。

 このように大人しくしていると、まさしくラピスは美少女そのものといった風情なのである。

 ましてやそんな絶世の美少女に、これ見よがしにこんな態度を取られれば……

 

「――ああもう、わかったわかった! 分かったからそんな当てつけみたいな真似はやめろ!」

 

 九分九厘演技だと看破していようが、釣られてしまうのが男という生き物の悲しい(さが)である。

 そして。

 

「本当かっ!? 我が君、のう、買ってくれるんじゃなっ!? そうじゃな!」

「……」

 

 一秒後、もう俺は後悔し始めていた。

 それまでの意気消沈した顔はどこへやら、うきうきとした様子でこちらに駆け寄ってきたラピスは、早く早くとせっついてくる。

 

「はあああ~……」

 

 俺は大きく溜息をつく。

 わかってはいたんだ。分かっていたのに……。

 自分の心の弱さに打ちひしがれるが、言葉にしてしまった以上もはや撤回はできない。

 とりあえず、ラピスが手にしていたものは棚に戻させた。

 なにしろ彼女が手にしていたのは超小型犬用と思われる極小のもので、いくら細っこいラピスの首とはいえ、明らかなサイズ違いであったのだ。

 そうした適当な商品選びからも、ラピスはハナッからこの展開を読んでいたのであろうことが十分察せられる。

 ……いや、これ以上考えても惨めになるだけだ。

 

「……はぁ、まあとりあえず適当なところで……こんなもんでいいか?」

 

 言いつつ俺が手に取ったのは、黒い革製の首輪だ。

 疲れ切った俺とは対照的に、ラピスは声を弾ませて答える。

 

「うむ、うむ! なに、モノは何でもいいのじゃ。我が君がわしに着けさせたいと思うものでよいぞ!」

「……そういうことなら『何も着けない』ってのは」

「却下じゃ」

 

 即答であった。

 観念した俺は、ミナ用の首輪と共に会計を済ませる。

 財布から金を出しつつ、俺は横の死神に言った。

 

「いいか。買ってはやるがな、首に着けるのはやめろ」

「ん? ならばどうせよというのじゃ」

「そうだな……。ま、手首にでも巻いとけ」

 

 俺がこの先、学校で変態の烙印を押されないための苦肉の策である。

 

「ふむ……まあいいじゃろ。これ以上わがままを言うのも気が引けるでな」

「そりゃどうも。感謝至極にございますね」

 

 ……まあ、よく考えたら中学時代にもクラスに一人か二人、こういう首輪とかを付けてた女子とか居たしな。

 無論こうした経緯からではなく、彼女らのは単にファッションの一部だったのだろうけども。

 パンクとかゴスロリとか、そんなやつなのかね。女子のことは分からん。

 そういえば、彼女らは高校に上がってからはめっきりそうした服装をすることはなくなっていたな。

 ま、こいつもいずれ飽きることだろう。

 ………

 ……

 …

 そう信じたい。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 家に戻ると、妹からの出迎えはなかった。

 代わりにリビングに居た両親から話を聞くと、ミナを連れて自分の部屋に行ったとのことだ。

 俺はラピスに自室で待機するよう言った後、妹の部屋に向かう。

 中には確かに人の居る気配があるのだが、戸を叩いてみても返事がない。

 

「おーい花琳。いるなら返事し……」

 

 しびれを切らして中に踏み込んだ俺だったが、目の前に飛び込んできた光景を目にした途端、口にしようとした言葉も尻すぼみになってしまう。

 部屋の中には確かに、目的の二人――いや、一人と一匹がいたのだが。

 

「よ~しよしよしよしぃ~! ほれほれ、どうだ~?」

 

 中には、俺の記憶にないほどの猫撫で声を出す妹。

 そして彼女に仰向けに寝かされ、好き放題体中を撫でまわされているミナの姿があった。

 

「花琳っ! おいっ!」

「――はっ!? ……え、えっ!? 兄貴!?」

 

 妹の後ろに立った俺は、背中越しに大声を浴びせる。

 そこでようやく気付いたらしく、振り返った妹は明らかな狼狽を見せた後、

 

「な……ば、バカ! ノックくらいしろっての! 勝手に部屋に入るとか信じらんない!」

 

 顔を真っ赤にしながら怒り出した。

 

「したわい。お前が気付かなかっただけだ」

 

 やれやれとばかりに俺が言うと、妹はとってつけたように平静を装いつつ話題を変える。

 

「ったくもう……それで? ちゃんと買ってきたの?」

「ああ。おいミナ、こっちこい」

 

 ミナの方も声がかかった瞬間、寝転んだ状態から瞬時に飛び起きていた。

 俺はとことこと近寄ってきたミナの首に、買ってきた首輪を着けてやる。

 

「よっ……っと。うん、大丈夫そうだな」

「へー。兄貴にしちゃセンスいいの選んだじゃん。こいつ赤毛だからな、青い首輪はワンポイントで目立っていいね」

 

 花琳からお褒めの言葉をもらう。

 本当に適当に選んだだけなのだが、首輪を着けたミナの姿を見ると、なるほどこれは確かに悪くない。

 それに身体を洗ってもらったせいもあるのだろう、くすんでいた色合いも光沢ある綺麗なものになっている。

 毛並みも、これまでは少しゴワゴワしていそうな感じがしたが、今では全くそんなこともない。

 

「どうだミナ、お前の方は。苦しくないか」

 

 言いながらミナの様子を伺うが、特に苦しげにしているような素振りはない。

 うん、大丈夫そうだな。

 

「それじゃ花琳。ちょっとこいつ連れて部屋に戻るわ」

「えーっ……」

 

 不満そうな花琳をなんとか宥めすかした俺は、ミナを連れて自室へと戻る。

 

「よしっ……と。ミナ、そのままで戻っても平気か?」

 

 部屋に戻った俺が言うや否や、ミナの体から光が漏れ出し、そして瞬く間に人の姿へと変貌した。

 半人半獣の見た目となった彼女。その首筋を俺は確認する。

 

「見た感じ大丈夫そうだが……苦しかったりしないか。もうちょい緩めるか?」

「う、ううん……へーきだよ、ご主人」

 

 ……確かに肌に食い込んでいる様子も無さそうだ。

 というか、体の変化に合わせて首輪の方も同じくサイズが若干変わっているようにも見える。

 まあこの辺はもう突っ込むのも面倒だ。そういうものなのだろう。

 しかし、それとはまた別の違和感が俺には感じられた。

 

「ミナ、お前なんか様子がおかしくないか?」

 

 様子がおかしいというのは、衣服とか毛並みだとか、そういうことではない。

 確かに毛ツヤは良くなっているようだし、何故だか衣服の方まで若干の修復がなされているように見える。

 以前のような見すぼらしい外見から比べれば相当な変化ではある。

 だが、俺が指摘したのは彼女の表情、そして態度のことだ。

 もじもじと体をよじらせている上、顔は真っ赤に染め上がっている。

 ……まさか。

 

「なあミナ。……まあ、花琳に限ってんなことないと思うが、なんか妹に気に障るようなことでもされたか?」

「う、ううんっ! ぜんぜんそんなことないのっ! お姉さま(・・・・)、すっごく優しくて……」

「ん、そうか……っておい、なんだって?」

 

 危うく聞き流しそうになったが、慌てて俺は彼女に聞き直す。

 

「なんだそりゃ、妹のことか?」

 

 するとミナは両手を頬に当て、ますます顔を火照らせる様子を見せる。

 

「うん……。やっぱりご主人の家族だね。ちょっと強引なところもそっくり。体の隅々までていねいに洗ってくれたし、それにその後も。まるでご主人みたいに、ミナを仰向けにさせて――」

「おい、妙な言い方はよせ」

 

 死神からの殺気を察知した俺は、慌てて彼女の言葉を中断させる。

 ……まあ、呼び方なんぞはどうだっていいか。

 ミナのこの姿は家族には秘密だからな。

 

「……ま、上手くやれそうで良かったよ。んじゃま、これからよろしくな」

「うんっ! ご主人、本当にありがとうなの! ミナも改めてお礼を言わせてもらうのね!」

 

 耳をぴんと立たせ、花咲くような笑顔で言うミナ。

 こうも素直に喜びを表現されると、軽率からとはいえ自分のやったことは正しかったのだと思えてくる。

 

「それに、この首輪も。ミナの宝物にするっ!」

「おいおい、そんな感謝されるほどのモンじゃないぞ。それに値段だって」

「ううん。高いとか安いとか、そんなこと関係ないの。だって、これはご主人がミナにくれた最初の――……」

 

 ……と、続く言葉は何故かそこで打ち切られた。

 俺がミナの様子を伺うも、どうも視線が俺を向いていない。

 むしろ、俺の背中越しの背後を見ているような。

 この推察を確かめるため、俺は首を後ろに回す――と。

 

「んん~? どうしたのじゃこむすめぇ? 妙な顔をしおって。くっくく……」

 

 そこには、ニヤニヤと意地の悪そうな笑いを貼り付けたラピスの姿が。

 いつの間に嵌めたのか、彼女の手首には例の首輪が既に巻かれていた。

 それを、ラピスはミナに見せつけるようにしている。

 

「……ご主人」

 

 それまでとトーンの違うミナの声に、俺は慌てて視線を戻す。

 

「な、なにかな?」

「どうしてあのひとも、なのかな? ご主人はミナにくれるためにお出かけしたんだよね? とっても不思議。なんでなのかな? ミナはね、ご主人から説明してほしいのね?」

 

 彼女の持つ五本の尻尾が、わさわさと逆立つ音がする。

 ラピスといいミナといい、こうして笑顔のまま圧力をかけてくるのは頼むから止めてほしい。

 

「くかかかっ! これこれこむすめよ? あまり我が君を困らせるものではないぞ。いくらわしが先(・・・・)であったとはいえ、のう?」

「……」

 

 嘲りに満ちた言葉を耳にしたミナは眉に皺を寄せ、目を苛立たしげに細めてラピスの元へと向かう。

 そうして彼女が目の前に立っても、ラピスは煽るのを止めない。

 二人の間に険悪な空気が流れる。

 

「くっくく……まあ諦めることじゃな。我が君はいささか火遊びが過ぎるところがあるが、結局はわしが一番というわけよ。貴様なぞは一時の戯れに過ぎぬ」

「ふぅ~ん、随分上からなの。えらそうに……ミナよりずっと子供じみてるくせして、笑っちゃうのね」

「こむすめよ、悔しいのは分かるがの。口の利き方には気を付けるがよかろうぞ?」

 

 ミナの鋭い返しに、ラピスも若干不愉快そうに顔を歪めた。

 しかしながら、まだ精神的なアドバンテージは自分にあると思っているのだろう。尚も居丈高な態度を崩そうとはしない。

 

「……ふん、大体なんじゃその首輪は。その色、まるで病人の顔のようではないか。わしのものに比べればまったく、雲泥の差と言わざるを得んの。この気品ある黒を見よ」

「はんっ。それはこっちのセリフなの。あなたの服ってば、ぜーんぶ黒ばっかり。お年の取りすぎで色々考えることもできなくなっちゃてるのかな? この綺麗な青色の良さもわからないなんて、とってもかわいそうなの。同情しちゃうのね」

「ほおお~……? 言うたな、こむすめ」

「うん、言ったよ?」

 

 蚊帳の外にいるはずの俺の心臓が、キリキリと痛み出した。

 二人の間に流れる空気は、確かに人では出せないような雰囲気を纏わせている。

 ……しかし、あまりに理由がしょうもなさすぎるだろう。

 たかが首輪の色を巡って、神たる存在が言い争うとは。

 

「お前らなぁっ……いい加減にしろっ!」

 

 隣の部屋にいる妹に聞こえない程度に声を押さえ、俺は二人を一喝する。

 

「いいか、家の中では喧嘩は禁止だ! わかったな!」

 

 二人は俺のこの言葉で、渋々ながら矛を下ろす。

 

「ああもう……ほんと、先が思いやられ――ん?」

 

 と、ここで懐に入れていたスマホから着信音が鳴る。

 取り出して画面を確認すると、液晶には『惣一朗さん』との文字が表示されていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終わりとはじまり

「はい、もしもし」

『あぁ~っ。竜司くん、おしさしぶり~』

「は――え? あれ? 絵里さ……いや、エリザさんですか?」

『はいはい、そうですよぉ~。エリザです~』

 

 この間延びした声は間違いない。

 しかし何故、エリザさんが?

 

「どうしたんですか?」

『ええとねぇ~……あのね、ちょっと竜司くんに伝えとかないといけないことがあってぇ……』

「はぁ」

『冥ちゃんのことなんだけどぉ。あの子、明日からまた学校に行くことになったの』

「そうなんですか。休んでたから心配してたんですよ。結構長いことかかりましたね。どっかケガでもしてたんですか?」

『うん、そのぉ……傷とかはなかったんだけどぉ……ええと……』

 

 何故かまごついている様子だ。

 ひとつ間を置き、エリザさんは意を決したような声を出す。

 

『……ごめんなさぁい! 私たちのこと、あの子にバレちゃったあ~っ!』

「はぁっ!?」

 

 これには俺も頓狂な声を出さざるを得ない。

 やっとミナ関連のゴタゴタが済みそうだと思った矢先に、これだ。

 

「ちょ、ちょちょちょっと待って下さいよ! え、私たち(・・・)って、俺たちのことも含めてですか!?」

『ひぅっ! え、ええと、そのお~……それはぁ……え、あ、あら? そ、そういちろうさっ』

『――すまないね竜司君』

 

 慌てる様子のエリザさんに替わり、年配の男性らしき声が聞こえてくる。

 

「あ、惣一朗さんですか?」

『ああ。このことは僕から直接、君に伝えようと思っていたのだけどね。電話などではなく。エリザは君たち……特にサナトラピス殿に叱られるのを恐れてこんな手段に出たようだ。まったく子供じみたことを……』

 

 なるほど。俺と惣一朗さんは日別れる際、お互いの連絡先を交換していた。

 それを見ていたエリザさんは、やむなく惣一朗さんの携帯を使うことにしたのだろう。

 いつぞやのように、夢に勝手に入り込んでこなかったのは助かるが。

 

「それよりエリザさんが言ってたことは本当なんですか? やっぱり鈴埜のやつ、あの時のこと覚えてたってことですか」

『いいや、そういうことではないんだ。ただ……』

 

 電話越しの声がばつの悪そうなものになる。

 

『自分の父親が急に若返ったりしたら、そりゃあ疑うだろうという話でね……』

「あ、ああ~……」

 

 ……確かに、よぼよぼの老人だった人間が一瞬で若々しい姿に変化したとあらば、妙に思わないわけもない。

 ましてやそれが自分の父とあらば猶更だ。

 となれば、これは俺たちの落ち度でもある。

 

『しかもあのナラクという男ときたら、あの後毎日のように家に押しかけてきてね……。またどこぞで暴れられても困るし、彼には聞きたいこともあるしで、なし崩し的に家に入れていたのだが……ある時、彼と娘とが鉢合わせになってしまって。そりゃあもうベラベラと気前よく喋ってくれたよ。それで娘の疑惑は決定的なものになってしまった』

「あんのクソ野郎……」

 

 俺はこの場に居ないナラクに向け、呪詛の言葉を吐き出す。

 

『サナトラピス殿が異世界の住人であるということはバレてしまったが、それ以上のことは娘には話していない。気休めにもならないだろうがね……。とにかく、今日はもう遅いし、今は娘も居るしね。明日私の元まで来てくれ。直接会って話がしたい』

「はい、分かりました。学校が終わったらすぐに向かいます」

 

 通話を終わらせた俺は、明日のことを思うと早くも気が滅入りはじめる。

 

「はぁ~……。マジかよ……」

「どうしたのじゃ我が君よ。顔色が優れぬようじゃが。要件は何であったのじゃ?」

 

 ラピスに先ほどの内容をかいつまんで話す。

 

「ふーむ……。なるほどのう。あやつ、余計なことをしてくれたものよな」

「本当にな。あの野郎、少しは後先のこと考えろってんだ」

「それを汝が言うかの? 鏡を見てみるとよいぞ」

「やかましい」

 

 死神はこんな時でも嫌味を付け加えることを忘れない。

 

「ねぇねぇご主人。そのすずの(・・・)って人は誰なの? ご主人のおともだち?」

「ああ、説明すると長くなるんだが――……」

「兄貴―、入るぞー」

 

 ミナへの説明を始めようとした瞬間、ドアの向こうから妹の声が届く。

 

「……やべっ! おいミナ、元に戻るんだ! ラピスも!」

 

 俺は慌てて二人に指示を飛ばす。

 ラピスの透明化、そしてミナも狐の姿に戻ったことを確認した後、俺は部屋のドアを開ける。

 

「ど、どうした花琳。何か用か?」

「兄貴、なんか慌ててない? ……ま、いいや。はいこれ」

 

 妹は言って、なにやら白いタオルのようなものを手渡してくる。

 

「なんだこれ?」

「何だじゃないっしょ。ペットシーツだよペットシーツ。さっきのおつかいで言い忘れてたけど、マロン用のが押し入れにちょっと余ってたからさ。ラッキーだったよ」

「ペットシーツ? いや、別にこれは」

「何言ってんの。室内飼いなんだから絶対必要でしょーが。しつけはできてんだよね? もし粗相しちゃったら兄貴がきちんと片してよ。んじゃね」

 

 伝えることはそれだけだとばかり、妹はさっさとドアを閉めて去ってしまった。

 俺はしばらく、手渡された数枚のペットシーツを抱えたまま唖然としていたが。

 

「……ま、そのへんに敷いとけばいいか。どうせ形だけだしな……よっと」

 

 一枚を広げ、適当に部屋の一角へと敷く。

 設置が完了し、ふと振り返ると。

 

「「……」」

 

 元の姿に戻った二人が、妙な目でもって俺を見つめている。

 ラピスの方は細めたジト目で。そしてミナの方は、困惑と羞恥の色を湛えていた。

 

「なんだお前らその目は」

 

 俺の質問は無視し、ラピスは彼女の横に立つミナに耳打ちする。

 

「……こむすめよ。見たか? これが我が君の恐ろしいところよ。流石は超常たる存在を下僕にするだけのことはある。その性癖もまさしく常軌を逸しておるわ」

「ご、ご主人。ミ、ミナは……そこでその、すれば(・・・)いいの?」

「おいこらお前ら。妙な勘違いするなよ」

「だっ、大丈夫だよご主人っ!」

 

 ミナはおずおずと歩いてきて、今しがた広げたペットシーツの上に立つと。

 

「すっごく恥ずかしいけど、ご主人の命令なら……」

 

 おもむろにスカートの下に両手を入れ、下着を脱ぎ始めた。

 

「ちっがーうっ!! おいラピスっ! トイレの使い方はお前がついてって教えてやれ!」

 

 家に戻ってもこれだ。

 一体、俺が平穏な時間を得られるのはいつのことになるのだろうか?

 

 ……そして、なんやかんやで時間は過ぎ。

 ようやく一日が終わろうかという時分になった。

 

「……おいこむすめ。これでは窮屈じゃろうが。貴様は床で寝るがよい」

「お断りなのね。ご主人に聞いてみるといいの。ねぇねご主人。ご主人はミナと一緒のほうがいいのね?」

 

 左右それぞれから声がする。

 こうして寝る段になっても、まだ争いは続いていた。

 中央に寝る俺を挟み、二人は左右に分かれて俺に抱き着いてきている。

 

「……」

 

 疲れ切った俺はもう、二人の言葉に返事をする気力すら失っていた。

 それよりも今頭に上るのは、寝て起きた明日のこと。

 惣一朗さんと上手く話を合わせる算段は上手くいくのだろうか。

 いやそれより先に、明日の部活をどうするかという問題もある。

 いくつもの不安が絶えることなく想起されるも、やがて襲い来た睡魔により形となることはなかった。




次回更新時にちょっとだけタイトルを変更いたします。
ただし本当に一部だけなので、「なんだこれ、こんなのお気に入りに入れたっけ」とはならないと思いますのでご安心ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章
新たなる朝を迎えて


 朝である。

 目覚めた俺は、目の前に昨日は目にしなかったいつもの(・・・・)光景があることを確認し、気力が失せると共に若干の安堵を得た。

 目の前に尻があることに安心するというのは言葉にすると俄然変態っぽさが増すが、死神の怒りが落ち着いた証左でもある。

 さて、ならばと俺もいつもの如く、眼前の茶饅頭に平手を打ち下ろすべく腕を上げようとするも。

 

「……ん?」

 

 腕を上げようとしたところで、あることに気付く。

 俺の右側で寝ていたはずのミナの姿がないのだ。

 落ち着いて耳を澄ませると、確かに彼女の寝息は聞こえる。

 と同時、下腹部に感じる重みにも気付いた。

 

「……おい、ラピス。起きろ。おい」

 

 臀部ではなく、太腿をぺちぺちと叩いてラピスを起こす。

 

「ん~……んむぅ……? なんじゃ、今日は随分と平和に起きれられたのう……」

「はいおはよう。いいからちょっと降りてくれ」

 

 寝惚け(まなこ)のラピスをベッドから降ろし、布団を上げて中を確認する。

 

「すぅー……。すぅー……」

 

 可愛らしい寝息を立てながら、果たしてミナは中にいた。

 丁度俺の両脚の間にすっぽりと収まって、動物を思わせる丸くなった姿勢で寝ている。

 そして俺が下腹部に重みを感じているのは、彼女が顎を丁度俺の股の付け根部分に乗せているからと判明した。

 

「なんだかマロンを思い出すな……」

 

 今は亡き愛犬であるマロンも、よくこのような姿勢で寝ていた。

 しかしそれは犬だったからこそ微笑ましく思えたことであって、これが人であれば話は違う。

 

「おーいミナー。起きろー」

 

 俺は上体を起こし、ミナの頬を数度軽く叩く。

 それを2,3度繰り返し、ようやく彼女の瞼が開いた。

 

「ん……あっ。ご主人、おはようなの」

「……はい、おはよう。とりあえずそこで喋るのは止めてくれるかな」

 

 こいつらの寝相の悪さは何なんだ。

 神ってのはどいつもこうなのか?

 

 花琳は既に家を出たようで、リビングのテーブルには一人分の朝食のみが置かれていた。

 朝食を済ませた俺はラピスと共に制服に着替え、家を出る。

 

「……」

「どうしたのじゃ。物憂げな顔をしおって」

 

 並んで歩いている途中、俺が浮かばぬ顔をしていることに気付いたラピスが声をかけてくる。

 

「……いや、一人で大丈夫かなってな」

「なにを言うておるか。彼奴は年齢だけとれば我が君よりずっと年配じゃ。たかが数時間のこと、なんの心配をすることがあろうよ。それにこむすめ自身も言うておったではないか。一人でも平気であるとな」

「……まあ、な」

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 家を出る前。

 見送りに玄関に立つミナに向け、俺は言う。

 

「それじゃミナ。夕方には帰るからな」

「はいなの。いい子でお留守番しますのね!」

「一人でずっと家に居ちゃ退屈だろ。さっき教えたテレビの使い方、覚えたよな? 家の中のもんは好きに使っていいからな。ただきちんと後片付けはするんだぞ。留守中に誰か来ても出なくていいからな」

 

 俺は矢継ぎ早に言うべきことを言っておく。いくら言っても心配の種は尽きない。

 娘に一人留守番をさせることになった親とは、こんな心持ちなのだろうか。

 

「昼飯は花琳が作ってくれてっから。冷蔵庫に入れてるから腹が減ったらチンして食えよ。電子レンジの使い方も覚えたか?」

「だいじょうぶだよっ! てれびも、れんじもばっちりなの!」

「そうか。それじゃ――ま、できるだけ早く帰ってくるからな」

 

 言って、俺はミナの頭をくしゃりと撫でる。

 頭頂部にある耳の感触が掌に心地よい。

 ミナは目を閉じ、頭にあった俺の手を取り自分の頬に当てつつ、言った。

 

「うん。いってらっしゃい、ご主人。……絶対に、帰ってきてね」

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 ……別れ際に見せた彼女の顔。

 言葉でこそ平気だと口にしてはいたが、慣れない場所でのこと、やはり不安もあるのだろう。

 誰もいない家で一人きりというのはやはり寂しさもあろう。さりとて彼女を外に出す訳にもいかない。

 彼女がラピスのように、何がしか外見を隠す手段でもあればまた違ってくるのだが。

 ……いや、そうだ。それこそラピスに協力してもらうというのはどうだろう?

 彼女の力なら、ミナの耳や尻尾を見えなくすることも――……。

 

「なあ、ラピ――うおっと」

 

 話しかけようとした途端、ラピスは俺の腕に身を寄せてきた。

 まあ、腕を組んでくるのは毎日のことなのだが、どうもいつもより力を入れている気がする。

 どうした、と問おうとするも、

 

「……わしの前で他の女のことを考えるでないわ」

 

 と釘を刺されてしまう。

 あまりしつこくするとまたへそを曲げてしまいそうな予感がしたので、この件についてはまた今度考えることとしよう。

 今日は他にもっと考えるべきこともあることだしな。

 

 ………

 ……

 …

 

 さて。

 それからは特筆すべきこともなく、つつがなく学校での一日は終わろうとしていた。

 HRの終了に伴い、教師から「それではまた明日」との言葉が発される――と同時。

 

「我が君―っ! もう終わったのであろー、入るぞー!」

 

 扉を勢いよく開け放ち、回りの目も気にせず大声を上げて中へ入ってくる死神。

 当然、クラス中の視線がその一点に集まる。

 出て行こうとしていた担任もまた、足を一歩踏み出した姿勢のまま固まっている。

 

「……」

「おい夢野、ほどほどにしとけよ」

 

 プルプルと震える俺の様子を見た一ノ瀬から声がかかる。

 さすが長い付き合いだけあって、次に俺が何をするか分かっているようだ。

 俺はすぐさま立ち上がり、ラピスの元まで早足で歩み寄ると。

 

「――ふぎゅっ!?」

 

 ゆっくりとした動きで両掌をラピスの頬に当て、そのままぎゅうと押し込む。

 

「……どうして目立つやり方しかできないんだお前は?」

「は……はっへ、ははひみはほうはほにほいといっふぁのへはないは!(だ……だって、我が君が放課後に来いと言ったのではないかぁ!)」

 

 抗弁するラピスは両側から頬を押され、タコのような顔になっている。

 

「そりゃ確かに言ったけどなっ! 入るタイミングとか色々考えろってんだよ!」

「ちょっと夢野くん」

「あっ……?」

 

 と、ここで一部始終を見ていた一人の女子が横からラピスを掻っ攫う。

 彼女はラピスを、まるでぬいぐるみのように胸に抱き抱えた。

 

「ラピスちゃんをいじめないでよ! かわいそーでしょ!?」

「い、いや、別にいじめてるわけじゃ」

「そーじゃそーじゃ。わしに対する気遣いが足りぬぞー」

「ぐくっ……!」

 

 後ろ盾があるのをこれ幸いとばかり、ラピスは好き勝手なことを言っている。

 このわずか数週間で彼女はクラスの人間、男女の区別なくほぼ全員の信望を集めることに成功していた。

 こいつは持ち前の美貌、そして演技力を使ってクラス中に愛嬌を振り撒き続けていたのだ。

 自分のとこでも同じことをしろと言いたくなるが、これは俺が共に居たからこそ、そのような大胆な行動に出られたという面もあろう。

 とにかくそんなわけで、最近は俺が少しでもラピスに苦言を呈そうものなら、逆にその瞬間、周囲からの誹謗が俺に飛んでくるといった状況に陥っていた。

 

 悔しげに唇を噛んでいる中、俺の目にあるものが映る。

 その正体に気付いた瞬間、俺はあっと声を出す。

 

「――お前、それっ!?」

 

 声を受けるや、待ってましたとばかりラピスは笑顔となる。

 

「んん~っ? どうしたのじゃ? わしの顔に何か付いておるのかの? いや、むしろそなたの視線から言えば……これかの?」

 

 にやにやと笑いつつ、ラピスは首に着けているそれ(・・)を手で弄る。

 言うまでもなくそれは、昨日俺がこいつに買ってやった首輪であった。

 しかし、朝の時点では確かに手首にしていたはず。

 ……こいつ、まさかこのタイミングでわざと――

 

「ん? ラピスちゃん、それなに?」

「!」

 

 ラピスを抱きかかえる女子も、首輪の存在に気付いたようだ。

 俺の全身から冷たいものが噴き出る。

 

「んふっふ~……。気になるか? 仕方ないのう、ならば教えてやろう。これはの、そこなリュウジがわしに買い与えたものなのじゃ。わしを我が物であると主張せんとしてのう。いやいやぁ、流石のわしも恥ずかしかったが、命令とあらば従わぬわけにもいかぬではないか? まこと独占欲の強い(あるじ)であられることよ――くかかっ!」

「おっ……おまっ……」

 

 怒りのあまり、俺はもはや言葉すらまともに発することができなくなる。

 一刻も早く誤解を解かねばならないというのに……!

 

「――失礼します」

 

 と、俺が焦燥で焼かれている中、静謐(せいひつ)な声が辺りに響く。

 

「こちらのクラスに夢野という――……ああ、見つけました」

 

 その人物はきょろきょろと周囲に目線をやった後、すぐにその視線を一点に留める。

 丁度一週間ぶりに聞く、その声の持ち主は。

 

「す、鈴埜……」

 

 おずおずと声を出した俺に対し、その人物――鈴埜は。

 いつも通りの抑揚のない口調でして、言った。

 

「先輩、お久しぶりです。さ、行きましょうか」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鈴埜の提案

 虚を突かれる、とはまさにこのこと。

 俺がわざわざラピスを今日に限り呼び出していたのも、鈴埜を避けて素早く学校を出る目論見からだった。

 それを果たして彼女は読んでいたのだろうか。

 直接会ってしまえばもはや断ることもできず、俺たちは部室へと連行されていき、そして今に至る。

 

 部室代わりに使っている図書室にて、三者はそれぞれ椅子に座り向かい合ったまま、皆一様に押し黙っている。

 俺とラピスは隣同士、そして鈴埜は対面に、という状態だ。

 鈴埜は俺とラピスの二人へ視線を行き来させながら何をか考えている様子だが、元々表情の変化に乏しい彼女である。

 何を考えているのかを彼女の表情から伺い知ることはできない。

 さりとてこのまま重苦しい空気に晒され続けるのは耐え難く、俺から口火を切ることにした。

 

「ええと、その……鈴埜。もう体調はいいのか?」

「ええ、おかげさまで」

「……」

 

 返ってきたのは一言のみ。

 再びの沈黙が訪れる。

 いつもはやかましいくらいのラピスも、何故かこんな時に限って一言も発しようとはしない。

 

「ふう……そうですね。なにはともあれ――」

 

 ようやく鈴埜から口を開いた。

 座っていた椅子から立ち上がると彼女は、

 

「先輩。それにサナトラピスさん。お二人とも私を助けて頂きありがとうございました。それに……父のことも」

 

 言って、深々と首を垂れる。

 

「鈴埜……やっぱりお前、覚えてたのか」

「ええ。本当に驚きました。自宅の前で先輩が血を流しながら大きな男の人と向かい合っていたんですから」

 

 ……まあ、そりゃそうだよな。

 あの時彼女はナラクによってすぐさま気絶させられたとはいえ、それまで見たものを忘れているはずがない。

 こちらに都合のいい記憶だけ忘れていると期待するなど、そもそもが甘い考えだ。

 

「ナラクという名前でしたね、あの方は」

「ああ。あのアホのせいで俺たちもお前も随分迷惑かけられたよな」

「そうですね。でもですね先輩。私としてはあの方には感謝もしているんですよ」

「へ?」

 

 と、俺は間抜けな声を上げる。

 拉致監禁されて感謝とは、いったいどういうことか。

 

「彼から聞きました。先輩とあなたの関係も」

 

 鈴埜はラピスを見る。

 ……あの野郎、一体どこまで話しやがったんだ!?

 意を向けられたラピスは仏頂面のまま返答する。

 

「……それで? 話をどう持って行くつもりなのじゃ。まさか礼を言ってお終い、などと言うつもりもあるまい」

「もちろん。彼から聞いたところによると、あなたは持てる力の殆どを失っているとか。そのために元の世界に帰ることもできずにいる――と。違いありませんか?」

「うむ。おおまかなところではその通りじゃの」

「そこで先輩は、サナトラピスさんの力を取り戻すお手伝いをしていると」

「うーんまあ……そういうことに、なる、のかな?」

 

 正直言って形ばかりの約束だ。

 力を取り戻した暁には大人しく元の世界に帰るなどと、どう考えてもラピスは言いそうにない。

 とはいえ否定するほどの大嘘というわけでもなく、俺は曖昧に頷く――と。

 

「わかりました。では私もそれに協力しようと思います」

「はあっ!?」

「……ほほう?」

 

 この言葉にラピスは興味を引かれたのか、やや身体を前に乗り出した。

 しかし俺はそう安穏とはしていられない。

 

「い、いやいや鈴埜。手伝うったって、どうするつもりなんだよお前」

「それはお聞きしないと何とも。ナサトラピスさん、あなたの力を取り戻すには具体的にどうすれば?」

「なに、簡単なことよ。わしの糧となるに相応しい魂を持つ人間を用意すればよい。こむすめよ、貴様にそれが可能か?」

「それはつまり、父のような方を探せということですか?」

「無論それが一番よい。しかし汝の父などは例外中の例外よ。あれほどの穢れを身に有する者を探すのはちと現実的ではないの」

 

 確かに。

 この力を得てから色々な人間を目にしてきたが、ひと目でそれと分かったのは惣一朗さんだけだった。

 そういえば鈴埜の周囲にも見えていたはずだが、今はもう消えているな。

 

「そもそも穢れ(・・)とは一体どのようなものなのですか」

「一言で表せるようなものでもないが……そうじゃの。ひとつは汝の父の如く人ならざる者と関りを持った人間であること。しかしこれは先に言ったように容易に見つかるものでもない。そこでじゃ、代案は二つある。まずひとつめ。これは己が生を軽んじておる者」

「どういう意味だ? ラピス」

「簡単に言えばな、自殺を試みんと思うておる人間じゃ」

「……」

 

 さらりとラピスは言ってのけるが、この発言には流石に鈴埜も押し黙ってしまう。

 

「己が生を切り捨てようとまで思う者ならば、相当な量の穢れを得ることができようぞ。もしこれも難しいとあらば、二つめじゃな。神に近しき者――いわゆる聖職者と呼ばれるような連中でもよい。その種類は問わぬぞ」

「おい鈴埜、本気にするなよ。他にきっと何か」

「わかりました」

「おい!?」

 

 確かに前者に比べれば可能性はありそうだが、それにしても即答とは。

 だいたい、鈴埜にはそんな義理など無いはずだ。

 困惑する俺をよそに鈴埜は続ける。

 

「しかしですね、もしそうしたお眼鏡に叶う人を連れてきた場合、どうするつもりなんですか? まさか……」

「安心するがよい、殺しはせぬ。この世界にもわしと同じような神がおるのかは知らぬが、勝手に定命の者どもの生死を弄んだとあらば、そ奴もいい顔はせぬじゃろうからの」

「……本当に、神様なんですね。あなたは」

「そうじゃとも。ほれ、我が威光にひれ伏せひれ伏せ」

「ところで先輩」

 

 すぐ調子に乗り出すのがこいつの悪いところである。

 しかし鈴埜はあっさりとそんなラピスをスルーすると、今度は俺に話しかけてきた。

 

「ん、なんだ」

「これもあの方から聞いたのですが、先輩たちは今や命を狙われる立場だとか。これも本当のことですか?」

「……ああ、本当だ」

「なら先輩。そちらの方も私がお手伝いしますよ」

「は? どういう意味だ?」

「言葉の通りですが」

 

 相変わらず鈴埜の表情に変化はない。それこそ微塵ともだ。

 俺はそんな彼女に対し、頭を掻きつつ言った。

 

「……なぁ、遊びじゃねーんだぞ。俺は既に二回くらい死にかけてんだ。大体……こう言っちゃなんだが、お前じゃ」

「――役に立てないと? お忘れですか先輩。私の母が人ではないことを。……なかなかにショックな出来事ではありますが、とすれば私もまた、人間ではないということ。そんな私だからこそ出来ることもあるはずです」

「そうは言ってもな……具体的にどうするつもりなんだ」

「それはまだなんとも。しかしアテ(・・)はありますので。首尾よくいけばまたその時に」

 

 その後もなんとか思い止まらせようと彼女を説得したが、結局鈴埜の首を縦に振らせることはできなかった。

 

「というわけなので。その心当たりの件で私は今日のところはこれで」

 

 話はひとまずこれで終わりだとばかり、彼女はさっさと荷物をまとめて帰り支度をし始めた。

 そして扉に手をかけた彼女の背に向け、俺は最期にもう一つ質問をする。

 

「なあおい、鈴埜。最後にひとついいか」

「なんですか」

「あの時のこと隠しとく必要も無くなったし、ちょっと聞くんだけどよ。お前、俺が倉庫でお前を見つけた時さ、俺のこと変な呼び方してなかったか? 確か、りゅ――」

 

 この瞬間の彼女の様子をどう例えたものか。

 ボンと音がしそうな勢いで顔を真っ赤に染め上げた鈴埜は、つかつかと俺の座る机まで歩み寄ると。

 彼女は俺の目の前で、両手で思い切り机を殴打した。

 ドンという音と共に机が大きく揺れる。

 

「おおっ!?」

「――それは先輩の気のせいです」

 

 彼女の目は完全に据わっている。

 人殺しのそれだと言われれば、この時ばかりは俺も信じてしまったことだろう。

 

「い、いやでも」

「気のせいです。幻聴です。思い過ごしです。気の迷いです。……いいですね?」

「……」

 

 俺は勢いに飲まれ、強引に首を縦に振らされてしまう。

 そして、彼女は心なしか早足気味で部室を出て行ってしまった。

 取り残された俺は、苦々しげに横のラピスを見る。

 

「……なあおい、何でお前も一緒に止めてくれなかったんだよ」

「どうしてそんなことをする必要があるのじゃ。こむすめはわしらのために働くと言うておったではないか。確かにわしの力はまだまだ少ないでな。協力するというなら願ったりというやつじゃろ」

「そっちのことじゃねえ。……いやそっちもだが。鈴埜は俺たちみたいに何か特別な力を持ってるわけじゃないんだぞ。危険すぎる」

「……いやいやぁ? それはどうじゃろうなぁ?」

 

 どうも何か含みを持たせた言い方だ。

 何か、俺が気付いていないことをラピスは察知しているのだろうか。

 

「はぁ……まあいい。このことはまた明日鈴埜と話をしよう。んじゃ行くぞ」

「行く? どこにじゃ?」

「本当は惣一朗さんのとこの予定だったけどな。鈴埜が先に行っちまってるから中止だ」

 

 そう言って、俺は惣一朗さんにスマホで連絡を取る。

 ことの次第を話すと、また明日以降でよいとの返事をもらった。

 そして俺は、ラピスを連れ目的の人物と会うためルナへ足を向ける。

 聖さんにではない。

 ……要らぬことまで鈴埜に喋りやがった、あの男に一言申すためである。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 校門を出た俺をラピスが呼び止める。

 

「我が君よ。そっちは我等が家の方向じゃぞ。どこぞへ用があるのではなかったのか?」

「ああ、そうなんだけどな。もし遅くなるとミナが心配すんだろ。一回戻ってあいつに伝えてからだ」

 

 そう遅くなるとは思っていないが、もしもということもある。

 それにミナは今日が初めての留守番なのだ。少しは気を回してやらねば。

 ……ま、10年20年じゃきかないくらい一人でいたんだ、たった数時間くらい彼女にとってはなんでもないかもしれないが。

 

 家に到着した俺は、玄関の扉を開ける。

 てっきり出迎えに飛び出てくると予想していたが、そのようなことはなかった。

 

「おーいミナ―。帰ったぞー」

 

 少し大きな声で彼女を呼ぶも、やはり出てくる様子はない。

 

「……おかしいな」

「どこぞの変質者に飴玉あたりで釣られていったのではないか?」

「縁起でもないこと言うな」

 

 茶々を入れてくるラピスに苦言を呈しつつ、一階を隅々まで探すも彼女の姿はない。

 俺の背に嫌な汗が流れ始める。

 足早に階段を駆け上がり、自室の扉を開ける――と。

 果たして彼女はそこにいた。

 

「すぅ……すぅ……」

 

 ベッドの上で、朝と同じように背を丸めた姿勢で寝ているミナ。

 

「はあああ~……」

 

 安堵から、俺は大きく息を吐き出す。

 

「なんと無礼な奴じゃ。仮にも己が主人と呼ぶものを出迎えもせず眠りこけておるとは」

 

 ラピスはそう言って彼女に白眼視を向けるが、俺はそれに付き合わずミナの元へ歩み寄る。

 と、近づいてよく見てみると、彼女は体の下に何かを敷いているようだった。

 布団でもなく、それは――俺が朝方脱いだ衣服であった。

 洗濯機の中に放り込んでいたはずなのに、何故ここにあるのか。

 よくよく見れば、その中には下着までもある。

 

「ミナ。……おい、ミナ」

「ん……」

 

 ぺちぺちと彼女の頬を叩きながら俺が言うと、ミナの双眸がゆっくりと開き始める。

 

「……――あっ!?」

 

 最初こそまだ意識が覚醒し切っていないのか、眠そうな目で俺を見ていたミナだったが。

 ようやく目の前の人物を俺だと認識したようである。

 飛び起きたミナは、怒涛の勢いで謝罪を始めた。

 

「ごっ、ご主人っ!? えっ、あっ! ご、ごめんなさいなの! ミナ、ちょうど今寝ちゃったところで……!」

「いや別にそりゃいいんだが。それより何だ、その……お前の足元にあるもんは」

「え……えっと。……怒らない?」

 

 ミナはバツが悪そうに俺を上目遣いで見る。

 耳もぺたりと座ってしまっており、心から悔いているようだ。

 

「別に叱ろうってわけじゃない。なんでか聞きたいだけだ」

「あ……あのね。ミナ、最初は玄関のところでご主人の帰りを待ってたんだけど」

「玄関でってお前、俺が出て行った後からずっとか?」

「うん。……でも、そのうちにお腹がすいてきちゃって。お姉さまの作ってくれたご飯を食べたの。でも、お腹がいっぱいになったら……もしかしたらご主人、このまま帰ってこないんじゃないかって思い始めてきちゃって……」

 

 彼女は俯きながら続ける。

 

「そう考え始めたらどんどん怖くなっちゃったの。だけど、ご主人の匂いがするものが近くにあったら少しは安心できて、それで……」

「そのまま寝ちまったってワケか」

「うん。……ごめんなさい」

 

 頭を垂れる彼女を前に、俺は頬を掻きつつ言う。

 

「……ま、別にいいんだけどな。でもな、下着はやめろ下着は」

「でもでも、これが一番ご主人の匂いが強くて」

「やめろ言うな!」

 

 俺は最後まで言わせず、彼女の前に片手を突き出し制止する。

 そんな俺たちの元に、ラピスから声がかかった。

 

「ふん、なんとも情けない。たかだか数時間程度、なんだというのじゃ」

 

 あからさまに見下した顔をしているラピスに対し、俺はやや呆れながら、

 

「ほほお? それをお前がよく言えたもんだな?」

 

 小馬鹿にした感じで言う。

 

「置いていったら俺を殺すとかなんとか抜かして無理やり付いてきたのはどこのどなたでしたかねぇ?」

「わしはいいのじゃ」

 

 別段悪びれもせず、ラピスは言ってのける。

 こいつの面の厚さは一体どこから来ているのか。

 

「それでそれでご主人! 今日はもうずっとおうちに居るんだよね!」

「あーいや……実はまたこれから用事が」

「え……」

 

 一瞬明るくなったミナの表情が瞬時に曇る。

 

「……そ、そうなんだ。わかったの。ミナはいい子で待ってるから、行ってきていいよ?」

「……」

 

 俺に余計な気を回させまいとしているのか、ミナは平気な風を取り繕うが。

 それが空元気であることは明白である。

 なにより耳がまた座ってしまっており、それが言葉以上に彼女の落胆ぶりを物語っていた。

 俺は暫く考え込むと。

 

「……はぁ。仕方ねえか。……ミナ、お前も一緒に来るか?」

「えっ!? い、いいのっ!? うん、行く行くっ!!」

 

 そしてこの豹変ぶりである。

 耳をせわしなく動かし、尻尾もまたわさわさと揺れさせている。

 

「でもな、もちろんそのままってワケにゃいかないぞ。狐の姿だと……飲食店だしまずいよな。しょうがねえ、ラピス。頼めるか?」

「こむすめの耳と尻尾を隠せばよいのか?」

「ああ。できるか?」

「ご主人ご主人。それなら別に頼まなくても、ミナできるよ」

 

 俺の袖をくいくいと引きつつ、ミナは言う。

 

「へ? そうなのか?」

「驚いちゃったりしたらその拍子に出てきちゃうかもだけど」

「んー……。まあ、それならそれでいいか。ラピスの力だって安定した供給元があるわけじゃないしな」

「あのこむすめに期待、というところかの」

「あんまそれ頼りにはしたくねえもんだがな……」

 

 とまあそんな塩梅で、俺はミナとラピスの二人を引き連れ、改めてルナへと向かうことになったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

道標

「……竜司君。私は君が羨ましい。いやもはや疎ましいよ」

 

 ルナへ入った俺を一目見るや、聖さんはこんな言葉をかけてきた。

 

「なんなんだい君は。少女に好かれる得能いや能力でも持っているのかい? 少しはその才能を他の人間にも分けてやろうとは考えないのか。例えば私とか」

「すいません何言ってるのかさっぱり分からないです」

 

 本当にこの人は……。

 黙っていれば清廉なクール美女だというのに台無しだ。

 彼女は俺に言葉は向けつつも、視線はラピス、そしてミナの二人に釘付けである。

 

「え……えっと……?」

「あー……ええとなミナ。この人は聖さん。この店のオーナーだ。俺もラピスも世話になってる」

「うむ、こやつはいいやつじゃ。いつも甘いものをくれるぞ」

 

 俺とラピスの説明で危険な人物ではないとミナは判断したらしく、

 

「あっ、そうなのね! なら悪いひとのはずないの! こんにちわ聖さん! ミナだよ、よろしくね!」

 

 元気よく挨拶をする――と。

 

「……ん゛がっわいいいい~っ!!」

「ひわっ!?」

 

 突如として聖さんが謎の咆哮を上げ、ミナが驚きに身を竦める。

 

「ハァ……ハァ……竜司君。君は本当に末恐ろしい男だな。美少女二人からご主人さま呼ばわりだと? いい加減にしたまえよ。贅沢にも程があろうというものだ」

「俺がさせてるわけじゃないですよ……」

「???」

「ああミナ気にするな。これはこの人のいつもの発作で――っておいミナ!? 頭、頭っ!」

「へ――あっ!?」

 

 ミナもようやく気付いたようで、はっとした顔で両手を頭に乗せる。

 そう。今驚いてしまったことでミナの耳が発露されてまったのである。

 俺は慌てて聖さんに弁明を試みる。

 

「い、いや聖さんこれはですね」

「なるほど猫耳、いや犬耳とはね。全くどこまで私を驚かせてくれるんだい君は」

「えっ?」

「中学生の頃はあまりここに来ることも無かったから知らなかったが……まさかここまで成長しているとはね。……見直したよ」

「多分ですけど、すごい勘違いしてますよ。あと全然嬉しくないです」

 

 ……おそらく聖さんはミナの耳をアクセサリーか何かだと思っているんだろう。

 まあ当然の話か。まさか自前だとは思うまい。

 ちなみに犬でも猫でもなく狐なんだが――ともかく。

 こちらに都合のいい勘違いをしてくれているならラッキーである。

 

「ええとですね……話が進まないので要件を言っていいですか」

「ん? どうした、何か私に用だったのかい?」

「いえ、聖さんではなくて。今日はナラクのやつ来てます?」

「ああ、今日はラピスちゃんがお休みだからね。彼も今日は自由にしてもらっているよ」

 

 ちなみに今日の彼女はメイド服姿ではなく、普通の給仕服である。

 どうもラピスが働かない日は前と同じスタンスでやっていくことにしたらしく、俺が朝方にその旨の連絡を入れていた。

 

「ほら、彼ならそこに」

 

 聖さんが指差した先で、のんびりとコーヒーを片手にくつろいでいる奴の姿が映った。

 俺と目線が合ったナラクは片手を上げ、気安く話しかけてくる。

 

「おォ、どうした小僧。んな血相変えて」

「……すいません聖さん。ちょっとこいつと話があるんで。ちょっと席を外してもらっても大丈夫ですか」

「ん? まぁ他に客もいないし、別に構わないが。それじゃ私は少し奥に行っていよう」

「すいません。ありがとうございます」

「後でミナちゃんのことをよく教えてくれよ」

 

 言い残し、聖さんはバックヤードへ消える。

 その瞬間。

 

「――てめぇ、どういうつもりだ!」

「くっくく……どうしたよ小僧。随分楽しそうじゃねェか。なんかいいコトでもあったのかよ?」

 

 俺が歩み寄って胸元を捻り上げるも、ナラクは全く動じることなく言う。

 

「その逆だっ! お前、なんで鈴埜のやつに話しやがった!」

「はん? ……おォ、オッサンじゃなくてあの嬢ちゃんな。なんでってお前そりゃ聞かれたからだよ」

「聞かれたからだ、じゃねぇ! なんだって俺とラピスのことまで喋ったんだ! そのせいであいつは――」

「落ち着けって。それによ、俺が言わなくてもあの嬢ちゃん、大方の検討は付いてたみたいだぜ?」

 

 その言葉に、俺は続く言葉を(つぐ)んでしまう。

 

「それによ、あの嬢ちゃんもお前と同じでバケモンどもを引き寄せやすい体質になっちまってるからな。いっそ知るべきことは知っといた方がいいだろ? まあ親がアレだからな、むしろ今まで何も無かったのが不思議なくらいだぜ」

「ふむ、一理あるの」

「ラピス?」

「ほれ、サナトラピスもこう言ってんじゃねェか」

 

 俺は恨みがましげな顔でラピスを見る。

 

「ラピス、なんだってお前まで……」

「我が君よ。そなたは何もかも自分で背負いこもうとし過ぎる。最初出会ったときも、この阿呆めに襲われた際もそうじゃった。そろそろ頼れるもの、使えるものは何でも利用するということも学ばねばの。世の理というのはの、およそ自分一人では解決せぬことばかりじゃ。それはわしとて例外ではない。我が君もよく分かっておろう?」

「……」

 

 ……確かにその通りだ。

 最初にこいつと出会ったときだって、結局は彼女の力を分け与えてもらい、それでなんとか危機を脱することができた。

 ナラクに襲われた時も同じだ。……それに、ついこないだだってミナの助けがなければどうなっていたか分からない。

 かつては全能の存在であったはずのラピスでさえあんな屈辱的な目に遭うのだ、俺一人でできることなど高が知れている。

 

「あのこむすめが実際に使える者かどうかは、それこそ一度試してから判断すればよい。大体、一人でも戦力は多い方がよいと言っておったのはそなたではないか」

「くっくく……話が分かる死神だな」

「黙れ。貴様を庇ったわけではない」

 

 調子のいいことを言うナラクへ、ラピスは鋭い目を向ける。

 俺はひとまずナラクへこのことを糾弾するのは止めにし、今まで聞こうと思っていたがキッカケを掴めずにいたことを聞く。

 

「はぁ~……わかったよ。とりあえずその話はいい。じゃあモノのついでだ。お前にゃ他にも聞きたいことがある」

「おう、何だ言ってみな」

「この先、お前みたいな連中が来ることはあるのか? もしあるならそれはいつだ」

「来るか来ないかって話なら、そりゃ来るだろうな。あのガキはサナトラピスの力に相当ご執心みたいだからよ」

 

 ……エデンか。

 脳裏に浮かばせるのも嫌になる名だ。

 できれば二度と相見えたくないものだが。

 

「しかしな、来るにしてもかなり先のことになると思うぜ」

「ほほう、それは何故じゃ」

「次元移動ってのは相当な力の消費を伴うからな。それに送る人間の強さにも比例するらしい。まあ俺は話に聞いただけでよく分かんねェけどな。俺はよ、当初送られるはずだった野郎に代わって無理やり来たんだ。俺でラッキーだっただろ? 話が分かるヤツでよ」

 

 自分で言うな、と俺は心の内で吐き捨てる。

 

「ま、数ヶ月は大丈夫だと思うぜ? もしすぐ送られてきてもそいつは話にならんザコだろうさ」

「……まあ、それなら一応は安心だけどな。ていうかお前、送られてきたって、この世界の一体どこにだよ?」

「ん……おお、そうだな。その辺も言っとくか。つーか案内してやるよ。座標は同じはずだからな、この先もあの辺りに送られるはずだ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ミナの怒り

 ルナを出た俺たちは、ナラクを先頭に並び歩いている。

 

「で、その場所ってのはこの町中なのか?」

「ああ。そんな遠くもないぜ」

「罠じゃないだろうな。俺たちがそこに行ったらお前らの仲間が……」

「おいおい疑り深ェな。俺がんなことするヤツに見えんのかよ?」

「女の子を人質にするような奴を信用できるか」

 

 こいつ、自分がしたことを覚えていないのか?

 あんな真似をされて信用しろと言う方がおかしい。

 俺が言うと、ナラクは意外にもすまなそうな顔をして頭を掻く。

 

「それを言われると辛ぇとこだが、ありゃ俺も反省してんだぜ。それに嬢ちゃんにも謝ってる。その際一発お見舞いされたがね」

「一発お見舞いって……鈴埜が、お前にか?」

「おおよ、俺も驚いたぜ。ほれ、ここにバチンとよ」

 

 言って、ナラクは自分の頬を指差す。

 

「よっぽど怒ってたんだな。まあそりゃ自分を攫った奴がのこのこ自分ちに来りゃ腹も立つか」

「いやいやァ、嬢ちゃんが怒ってたのはそこじゃねぇみたいだったぜ。俺がサナトラピスと……ついでにお前さんも殺すつもりだったっつった瞬間、平手を一閃よ」

「え……あいつ、俺のために怒ってくれたのか」

 

 驚いた。

 まさかあの鈴埜が……。

 

「いつも無表情だし、顔を見りゃすぐ毒舌ばかりだしで誤解してたが、あいつそんな先輩思いのいいヤツだったんだな……ん?」

「……」

「……」

 

 横を見ると、ナラク、そして何故かラピスまでが似たような目つきで俺を見ている。

 その視線は哀れんでいるというか、呆れているというか……とにかく好意的なそれではないことは確かだ。

 

「なんだよ。ラピスまで似たような目で見やがって」

「なぁ小僧。お前、それわざとやってやがんのか?」

 

 どうも後者の方だったらしい。

 ナラクの声色は呆れの色をたっぷりと含んでいた。

 続くラピスも、

 

「いいやナラクよ。こやつはこういう男なのじゃ」

 

 同じような口調でして言う。

 

「たまげたな……俺もそういう機微にゃ疎いほうだが、こいつのはちと度が過ぎてんぞ。あの嬢ちゃんも不憫なこった」

「もし分かった上で振る舞っておるならわしが許しておらぬところじゃ。……まったく、無自覚というのがまたタチの悪い」

「???」

 

 一体この二人は何を言っているのか。

 俺が怪訝な顔をしていると、つんつんと背をつつかれた。

 振り返った先には不安げな顔をしたミナの顔がある。

 

「ん、どうしたミナ」

「……ご主人。この人、だれ? なんだか怖い雰囲気があるの……」

 

 おずおずと言うミナ。

 耳はぺたりと座ってしまっており、相当にビビッている様子である。

 動物の感なのか、ナラクの危険性を本能で察知しているようだ。

 

「ああそうか。お前は初対面だったな。こいつは前に俺とラピスを殺しに来た奴でな。まあでも、一応今は」

「――ッ!!」

「うおっとぉ!」

 

 それは、まさに一瞬の出来事であった。

 ミナはあっという間に俺の目の前から消えたかと思うや、いつの間にか手にした鉈でナラクに斬りかかったのだ。

 それを避けた奴も流石といったところだが――ともあれ。

 

「ちょ、おいミナッ!」

 

 まずは凶行に及んだミナを止めねばならない。

 

「……ま、大方そんなとこじゃねェかとは思ってたがよ。随分喧嘩っ早いじゃねェか。好きだぜ、そういうの」

「フーッ……!!」

 

 身一つ分後ろに飛び下がったナラクは、愉快そうに言う。

 対するミナは耳、そして今しがた発現した五本の尻尾その両方の毛を逆立て、ナラクに向かい唸り声を上げている。

 俺は慌ててミナを後ろから羽交い絞めにする。

 

「待て待てミナっ! 落ち着け!」

「どうして止めるのご主人っ! ご主人を殺そうだなんて絶対許さないっ……バラバラにしてやるっ!」

「いいから話を聞けって! つーか台詞が怖すぎるぞ!」

 

 その後の必死の説得により、ようやくミナは矛を収める。

 

「――てなわけだ。俺も完全に信用しちゃいないが、今んとこは危害を加える気はないらしい」

「それにこやつはわしの力である穢れの供給元でもあるからの。勝手に殺されては困る」

「まったく、人を勝手にメシ扱いとはねェ。ま、こちとら負けた身だ。暫くは言うとおりにしてやるさ」

 

 言葉を聞いても、ミナは敵意の視線を向け続けていたが。

 しかしとりあえず争うことは止めにしたようで、手にしていた鉈を懐に仕舞い込む。

 

「……ご主人がそう言うなら、我慢する。けど、もしまた同じことをしようとしたら――」

「安心しなよお嬢ちゃん。第一俺の元々の狙いはそこの死神だったんだ。小僧はついでさ」

「へ? そうなの? それなら好きにするといいの。むしろ今すぐでもいいよ?」

「くおらぁー!! なんじゃその言い草はーっ!!」

 

 先ほどまでとはまるで打って変わり、きょとんとした顔で言い放つミナ。

 そして反射的に今度はラピスが叫ぶ。

 

「くっくく……まったく面白い連中だな。しかし獣人とはねェ。こっちの世界にも存在してんだな」

「こっちにもって、お前んとこにも居るのか?」

「おおよ。こっちじゃんな珍しくもねェな。パッと思い付くだけでも――……」

 

 何故かナラクは急に苦虫を噛み潰したような顔になり、言いかけた言葉を途中で止める。

 

「どうした?」

「……いや、ちっとウゼェ奴のことを思い出しちまってな。……ま、そっちの嬢ちゃんもなかなかの力を持ってるみたいだな。お前とその嬢ちゃんらが一緒に居ればそのへんのカスどもにはそうそう負けないだろうさ」

 

 どうも話をはぐらかされた気がする。

 それからは特筆すべき会話もなく、ただ歩き続けること数十分。

 地元でありながら、一度も足を踏み入れたことのない地域に差し掛かってきた。

 随分とうら寂しい場所で、辺りには放棄された商店やビルが立ち並んでいる。

 

「おう、ここだ」

 

 ナラクは、そんな立ち並んだ廃ビルの一つの前で立ち止まる。

 

「ここって、この中ってことか? またなんでこんな場所に」

「俺が知るかよ。座標を合わせた奴に聞きな。んじゃ行くぞ」

 

 言って、ナラクはさっさと中に入っていってしまう。

 仕方なく俺たちも続くと、湿ったコンクリートの匂いが鼻をつく。

 同時に漂うカビくささは、このビルが放棄されて相当になることを思わせた。

 ミナなどは動物ゆえ嗅覚が鋭いのか、不快げに顔をしかめている。

 

「暫くはそのまま寝床にしてたんだがな。最近はもうちっとマシなとこを見つけたんでね。ここは久しぶりだよ」

 

 蜘蛛の巣が張った階段を登り、4階に到達した時点でナラクは横の廊下へと出る。

 

「この階なのか?」

「ああ。ここの部屋だ」

「ふぅむ。確かにこの先から僅かな力の残滓を感じるぞ」

 

 ラピスが言う。

 そしてナラクは並ぶドアのうち一つに手をかけ、開けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

侵入

 ナラクに続き中へ入ってみると、カビ臭さを伴った空気が鼻孔に触れた。

 部屋自体は普通の雑居ビルの一室といった様相で、埃の被ったロッカーやデスクなどが雑然と置かれている。

 別段特別なものは一見無さそうにも見えたが、部屋の中央部になにやら見慣れぬものがあった。

 

「おお、まだ残ってんな。これなら話が早いぜ」

「ナラク、これは?」

 

 俺が指差したのは地面だ。

 丁度二メートル四方ほどの範囲に、白いチョーク?のようなもので描かれた、なにやら落書きのようなものがある。

 謎の幾何学模様の集合それに大きく描かれた五芒星を見るに、俺の脳裏には『魔法陣』という言葉が連想された。

 これが今でなければ、忍び込んだ子供あたりが描いた落書きだと思ったろうが……。

 

「大方お前にも想像ついてンだろ? こいつで俺はこっちに転送されてきたってワケさ」

 

 ……ま、そうだろうな。

 今さらこの程度、驚くには値しない。

 

「嘘ではないようじゃの。……しかしなんじゃこの無駄の多い術式は。随分と程度の低い者が作成したようじゃな」

「くっくく……手厳しいねぇ。一応こいつァ最高の魔術師連中がこしらえたモンらしいのによ。お前じゃない他の神から得たとかなんとか言ってたぜ?」

「はっ。神たるものの力を利用してこのザマか。その利用された同胞も浮かばれぬわ。所詮矮小な人間のすることよな」

「ま、そのしょぼい人間どもに何万年も捕まってたヤツも――いてっ!」

 

 軽口を叩こうとしたその矢先、ラピスに腿をつねられる。

 

「おまっ……」

「要らぬことは口にせぬことじゃ」

 

 文句を言いたげに睨むも、当の本人はそっぽを向いてそう言い放つのみ。

 俺はつねられた腿を撫でながら、今一度地面の魔法陣に目を向けた。

 

「ったく……。それで、これはまだ使えるのか?ならとっととぶっ壊しちまおうぜ」

「いーや、こいつは今はただの模様さ。魔力をどんどこ突っ込めばまた使えるらしいがね。俺にゃそういうのは全くできねぇからな」

「お前、それじゃどうやって元の世界に戻るつもりだったんだ?」

「なーに、そのうち後続が来るだろうからな。そいつになんとかしてもらうつもりだったんだよ」

 

 なんて適当な奴なんだ。

 もしその後続とやらが来なかったらどうするつもりだったのか。

 

「ねーねーご主人。こっちにも似てるのあるよ?」

「え?」

 

 ミナの視線を追い部屋の奥に目を向けると、確かにもう一つ魔法陣があった。

 最初のに比べると一回りほど小さい。

 

「おいナラク、ありゃなんだ?」

「んん……? いや、俺が来た時にゃ無かったな」

「ホントかよ。お前何か隠してんじゃ――」

「これ、ちと見せてみよ」

 

 ラピスは俺たちを押しのけその魔法陣まで行きしゃがみ込むと、手をかざしながら何やら独り言ち始めた。

 

「術式としては先ほどのものと全く同じじゃの。そして――……ふむ、まだ微かな魔力の残滓を感じるぞ」

「つまりどういうことだ、ラピス?」

 

 俺の問いに、若干眉をひそめつつ彼女は答える。

 

「素直に予想するなら、既にそのたわけの言うところの『後続』とやらがこの地に来ておる、ということじゃろうな」

「……やっぱもう来てんじゃねーかっ! 何が”あと数ヶ月は大丈夫”なんだよ!?」

「おいおい、そう俺に突っかかられても困るぜ。それに考えようによっちゃ良かったじゃねェか。事前に知っとけば準備もできるってモンだろ?」

「調子いいことばっか言いやがって……この先もこんなペースで来られちゃ命がいくつあっても足りないぞ」

「だいじょうぶだよご主人っ! もうご主人にはミナがいるからね! もしご主人の命を狙うようなやつが現れたら……」

 

 それまでの溌溂(はつらつ)とした様子から一転。

 彼女は目を細めると、臓腑までも凍えそうな声色になり、言う。

 

「氷漬けにした後、バラバラに砕いてやるのね。で、海にでも捨てよ?」

「なあミナ。怖いから真顔でそういうこと言うのは止めような?」

 

 薄々気付いてはいたが、どうもミナは見た目通りの性格というわけではないようだ。

 しかしその全容を知ることはなにかとてつもなく嫌な予感がする。

 

「頼りになる嬢ちゃんじゃねェか。なーに、その時は俺だって協力してやるさ。俺の代わりにそいつをサナトラピスに差し出してやりゃいい。小僧、お前も大将ならドーンと構えてろって」

「はぁ……もういい。しかしミナ、よくこっから見えたな。言われなきゃ気付かなかったぞ」

 

 廃墟と化したビルの内部は当然電機など通っているはずもなく、この部屋も相当に暗い。

 入口付近からでは奥の方は殆ど見えないほどだ。

 

「やっぱ動物だけあってそのテの能力が高いとかなのかね」

「うーん……自分じゃ気にしたことないけど」

「まあ何にせよよく見つけたぞ。えらいえらい」

「んっ……」

 

 ぐりぐりと頭を撫でると、ミナも気持ちよさそうな声を出しながら頭を掌に押し付けてくる。

 今は人間の姿とはいえ、こうした態度を見ていると、やはり元は動物なのだなと思う。

 

「――んっ、ごほん」

 

 と、わざとらしい咳払いのした方向へ目を向けると、ラピスがなにやら言いたげな目でこちらを見ていた。

 彼女は「ふぅ」と、これまたわざとらしい溜息をつき、

 

「わしも色々と役に立ったはずなんじゃがなぁ~? いやいや、分かっておるよ? そこなこむすめと違いわしは崇高なる神、遥かな高みに属す存在じゃ。そのような者のなすこととしては、この程度褒めるに値せぬと。我が君はそう言いたいわけよの? まったく辛いところじゃなぁ~、それほどの多大な期待を寄せられておるとは。わしは果報者じゃ。感謝感謝じゃの」

 

 ……言葉通りに受け止めるほど俺はおめでたい頭をしていない。

 彼女は最後にくかかといつもの笑いを発するも、明らかに気分を害していることは確実である。

 そしてここまであからさまな態度を取られれば、いくら鈍い俺とてその理由に気付く。

 俺はミナの頭を撫でるのを止めてラピスの元まで行き、

 

「分かってる分かってる。お前のおかげで色々と知ることができたんだ。今日の殊勲賞はもちろんお前だよ」

 

 少しわざとらしい言い方になってしまったが、俺はそう言ってミナにしたようにラピスの頭を撫でる。

 

「うむ、それでよい。そなたも多少は心の機微というものが分かってきたようじゃな」

 

 両腕を組んだ仁王立ちの姿勢で、ラピスは頭を撫でられ続けている。

 ……まあ、こいつが機嫌を損ねる直前で止められたのは幸いだ。俺も少しは成長しているということだろうか。

 暫くそうした後、俺は手を放そうとするが、

 

「こら、手を休めるでない。……む、そうじゃ。よいぞ」

 

 即座に咎められ、俺は仕方なく手を動かし続ける。

 俺は後ろから彼女の頭を撫でているため今ラピスがどんな表情をしているのか伺い知ることはできないが、時折ふんふんと発される鼻息の音が聞こえてくるあたり、だいたいの想像は付く。

 

「むむぅ~っ……」

 

 後ろからはミナのものと思しき唸り声がする。

 ……勘弁してくれ。俺は一人しかいないんだ。

 そのうち二人の仲をなんとか改善しないと、いずれトラブルが起きそうな予感をひしひしと感じる。

 

「くくく……モテる男は辛いねェ。よっ、色男」

「やかましい!」

 

 どうもこいつの馴れ馴れしさもどんどん上がってきている気がする。

 人を殺そうとしといて、どんな精神構造をしているんだ。

 

「……ん、あれ? ご主人、こっちにも何かあるよ」

 

 そう言って何かを見つけたのは、またしてもミナである。

 これまた気付きにくい机の陰に、小さなリュックが置かれていた。




9月は仕事に忙殺されており、殆ど執筆の時間が取れておりません。
来月より元のペースでの更新に戻れますので、今しばらくお待ちを。

捨て猫を拾いました。詳しくはTwitterにて。
ワクチンや去勢手術などでもまた時間を取られ、これもまた執筆ができない要因ともなっておりました……が、こちらはご容赦いただきたく


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

約束の行方

 そのリュック……というかザックは、無骨な机にもたれるようにして置いてあった。

 先ほどの魔法陣と同じく、これまたミナでなければ見つけられなかったであろうと思われるほどに小ぶりなものだ。

 しかし夜目が利く彼女とは違い、部屋の端々では辛うじてそれがザックであろうという風に見えるのみだったので、俺は近づいて確認してみることにする。

 

「……見た感じ普通だな」

 

 緑色のそれは、一見したところ妙な部分はない。

 しかし長らく人の出入りも無かったであろうこのビルの中にあって、それは全く埃を被っていない綺麗な状態だ。

 やはり最近ここに入った人間の持ち物なのだろう。

 ……いや、と言うか。

 

「おいナラク。これまさかお前のじゃ――なんだよその顔は」

 

 人をからかうのが好きなこの男のこと、さてはと思い俺は振り返って奴の顔を見たのだが、ナラクはおよそ俺が想像していたのとは全く違う表情をしていた。

 眉間に皺を寄せ、口角の片方を斜めに落としたその顔は、いかにも面白くなさそうなものだ。

 俺に声をかけられたことに気付いたナラクは取り繕うように言う。

 

「んっ……あ、ああ。いや、俺んじゃァねえよ。大体明らかに俺の体のサイズと合ってねぇだろが」

「まあ、そりゃそうだけどな」

 

 どうも怪しい。

 もう少し探りを入れてみる必要がありそうだ。

 

「でもお前、なんか心当たりはあるんじゃないのか?」

「……」

「おい」

 

 ナラクは俺の追及から逃れるように目を逸らす。

 どう考えてもおかしい。こいつのこんな態度はついぞ見たことがない。

 

「ねぇねご主人。なんだかその中からいい匂いがするよ?」

 

 いつの間にか俺の横に来ていたミナは、鼻をふんふんと鳴らしつつ言った。

 

「匂い?」

 

 ビル内のカビ臭さしか俺の鼻には届いてこないが。

 

「じれったいの。とにかく中を(あらた)めてみればよかろうよ」

「あっ、おいラピス! お前な、そんな考え無しに……」

 

 俺が制止しようとするのを尻目に、既にラピスはザックを開け始めている。

 そのままラピスはがさごそと中を物色していたが、やがて気落ちしたような声が聞こえてきた。

 

「……なんじゃ、少しは期待していたのじゃがな」

「おいラピス、どうしたんだ。何かあったのか」

「有るといえば有るし、無いといえば無いの」

「なぞなぞかよ。いいから見せてみろ」

「ん、よいぞ。ほれ」

 

 言うや否やラピスはザックを逆さまにし、中のものを地面に乱暴に投げ落とす。

 その乱暴なやり方に俺は閉口するが、とりあえずは確認が先だと目を地面にやるも。

 

「……なんだこりゃ?」

「そうじゃろ。わしもそう言う他ないわい」

 

 俺が気の抜けたような声を出したのも無理のないこと。

 出てきたのはコンビニのパンが大量に、それに少しばかりの缶詰といった具合で、未知の物体など一切目に入らなかった。

 

「ごはんがいっぱいなの! ご主人、ねえこれ食べていい? 食べていい?」

 

 俺とラピスが揃って似たような顔をする中、一人ミナだけがはしゃいでいる。

 

「いや、これは人のモンだからダメだ。あの連中のなら好きにしていいけど、どうも違うっぽいしな」

「ええ~……」

「メシは帰ったら花琳が作ってくれるから我慢しろ、な」

「はぁい。ところでこれなんなの? 見たことないのね。おさかなさんが書かれてるけど」

 

 ミナはサバ缶を手に取りながら言う。

 

「なんだ知らないのか。こりゃ缶詰っつってな。この中に……ってなんだ、やけにボコボコだな」

 

 言うように、彼女が手に持った缶詰は所々歪に凹んでいた。

 よく見ると他の缶詰もそうだ。

 

「まあそれはいいか。……というかこの辺、よく見たら似たようなのが転がってるな」

 

 ようやく暗闇に目が慣れて辺りの地面を見渡せば、そこら中にパンの包装袋が乱雑に投げ捨てられている。

 それも菓子パンばかりなところを見るに、大方近くの子供でも入り込んでいるというセンが濃厚だろう。

 しかし。

 

「ならあの魔法陣は何だっつー話だよな」

 

 話を聞くに、何者かが来ていること自体は確実なのだろうが。

 

「なあ、お前はどう思――ラピス?」

 

 緊張感を失いつつラピスに話を向けようとするが、彼女は未だザックのある場所に座り込んだままだ。

 ミナと同じく勝手に食べようとしているのではないかと思い注意しかけるが、それは俺の思い違いだった。

 

「我が君。横にあるポケットからこんなものが出てきたのじゃが」

 

 言って、手に取ったものを俺に見せるラピス。

 彼女の掌に収まるほどの大きさのそれは、長方形の形をした木箱のようだ。

 

「なんだそれ?」

「わしにも分からぬが……しかしこれだけは多少の力を感じるぞ――どれ」

 

 ラピスは躊躇なく木箱の蓋を開けると、俺にも見えるよう中の物を取り出し掲げる。

 

「むう、これは?」

 

 ラピスは取り出したそれを不思議なものを見るような顔でして見つめていたが、俺はその物体について見覚えがないこともなかった。

 頭の中に浮かんだ名前を、俺は口に出す。

 

「……爪楊枝?」

 

 そうとしか形容のしようがない。

 いや、爪楊枝にしては若干長いような気もするが。

 他に変わったところといえば、先の方が赤い染料で塗られていることくらいか。

 

つまようじ(・・・・・)?」

 

 ぽかんとした顔でオウム返しするラピスのことはひとまず置いておき、俺も手に持ってまじまじと見つめてみる――が、特に別段変わったようなところもない。

 木箱の中には同じものが更に10本程度収まっている。

 

「いやでも、力を感じるとか言ってたよな」

「うむ。非常に微弱なものではあるがの」

「これが楊枝じゃないってんなら……どうなんだ、何か思い当たることはあるか?」

「現時点では何も無いの。持ち帰って詳しく調べてみれば何ぞ分かるやも知れぬが」

「うーん……」

 

 このまま素直にこれを持ち帰ってもいいものだろうか。

 ラピスの言うことが真実なら、やはりこのザックは例の世界の住人の物ではあるのだろう。

 だとすれば、これが罠ではないとは言い切れない。

 わざと目立つ場所に置いておき、持ち帰らせることそのものが目的という可能性も十分にあり得る。

 

「いや、それは止めておこうぜ。どんな仕掛けがしてあるか分かったもんじゃない」

「左様か。我が君がそう言うなら、わしとしてはどちらでも構わ――」

「いや、そいつは持って帰っとけ」

 

 触らぬ神に祟りなしとばかり放置を決めようとしたその矢先、無口になっていたはずのナラクから声がかかる。

 俺はナラクを睨めつけ、言った。

 

「お前、やっぱ何か知ってるんじゃないか。こいつの持ち主のことも知ってるんじゃないのか? なんで隠してたんだ」

 

 憎々しげに俺が言うと、ナラクはばつの悪そうな顔をする。

 こいつのこんな顔も初めて見たかもしれない。

 

「ちっ……隠してたワケじゃねぇよ。思い出したくなかっただけだ」

「なんでもいい。またお前みたいな奴なのか?」

 

 言葉を受け、奴は明らかに不快そうに顔を歪める。

 

「冗談はよせよ。あんな奴と一緒にされちゃいくら俺でも不愉快ってなもんだぜ。しっかし分かんねェな……なんでまたあのガキはよりによってあいつを送ったりしたんだ。お飾り(・・・)だってこたァ分かってるだろうによ」

「やっぱ知ってんじゃねえか。で、どんな奴なんだそいつは」

「ふん。……ま、安心しろ。そいつが俺が思った通りの奴ならな、単純な強さなら話にならねぇ。クソザコもいいとこだ」

「そんな奴ならなんでお前、さっきから変な顔してたんだよ」

「ただ単に嫌いなんだよ。……いや違うな。ムカつくっつった方が正しいか。ああいう手合いは駄目だ。見てるだけでイライラしちまう」

 

 嘘を言ってるような口ぶりでもなさそうだが、どうも要領を得ない。

 次にどう言うべきか俺が逡巡(しゅんじゅん)していると、ナラクはダルそうに肩をゴキゴキと鳴らし始める。

 

「あーあ、ったくよ。まったく興覚めもいいとこだぜ。――ま、とりあえずよ、俺の言った通りにしとけ。そうしときゃお前ら三人なら――いや、その嬢ちゃん一人でも楽勝だろうさ」

「ふえ?」

 

 急に意を向けられたミナは間の抜けた顔をした。

 

「ミナのこと? おじさん」

「今度はお前とも遊んでみてェもんだ。俺の力が戻った時にでもな」

「???」

「……呑気な顔だねェ。嬢ちゃんよ、そこの小僧のことを気に入ってんのかい?」

「うん! 大好きだよ!」

 

 それまでどう返事をしたものか迷っていた様子のミナだったが、この質問には即座に返答した。

 それこそ、聞いている俺が恥ずかしくなるくらいの大声でだ。

 そしてナラクの方はといえば、このミナの言葉を聞いて何故か屈託のない笑顔を浮かべる。

 

「くっくく……そうそう。人間だろうが神だろうが、そうじゃなくっちゃァいけねぇよ。自分のやりたいことのために生きなきゃな。ったく、あいつ(・・・)とは大違いだぜ。……それじゃあな。萎えちまったから俺は帰るぜ」

「あ、おい! まだ聞きたいことが――」

 

 言い終わる前に、ナラクはビルの窓から外に飛び出してしまった。

 慌てて窓に駆け寄り外を窺うも、既に奴の姿は視界のどこにもない。

 

「……消えちゃった。あのひと、ミナと遊びたいって言ってたね」

「多分ミナの思ってるような意味じゃないぞ」

 

 俺は溜息をつきながら、呑気な顔をしているミナに言う。

 あの戦闘狂め。

 こっちはそれどころじゃないってのに。

 

「で、結局どうするつもりなのじゃ」

「……ま、一応言うとおりにしてみるか。嘘を言ってるようにも見えなかったしな」

 

 気付けばもう日も随分と傾いてしまっている。

 ザックそのものは全く力など感じられないとのことだったのでそのままにし、件の木箱だけを持ち、俺たちは帰宅の途についた。

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

「で、どうなんだ。何か分かったのか、それ」

「うう~む……」

 

 例の爪楊枝に似た何かを手に持ったまま、ラピスは呻る。

 帰ってからすぐに彼女は詳細を知るべく色々としていたようだったが、どうもこの態度を見るに経過は芳しくないようだ。

 そしてこの俺の予想は正しかったらしい。

 

「正味なところ詳細は分からぬの」

 

 ラピスは疲れたように言うと、机の上に手に持っていた物を雑に投げ捨てる。

 

「なんだ、お前でも分かんないくらいのすげえモンってことか? でもそれを見つけた時は……」

「いやいや逆じゃ、逆。内包されておる力があまりにも貧弱すぎるのじゃ」

「ん? なら楽勝じゃないのか?」

 

 よく分からないことを言うラピスに素直な疑問をぶつけると、彼女はいかにも『ものの分からぬ奴だ』と言わんばかりの目をする。

 

「はぁ~……やれやれじゃ」

 

 そう言って、溜め息をつきつつ両手を肩の上で振る。

 ……なんだろう、とてつもなく馬鹿にされているような気がするぞ。

 

「分かりやすく言うとの、ものさし(・・・・)の単位が違うのじゃよ。今でこそかような姿に身をやつしてはおるが、汝も知っておるようにわしは元冥府の王にして至高の神たる存在じゃぞ? 人の持ついじましき魔力の多寡など、このわしにとってみれば違いなどあってないようなものよ。ましてやこの棒きれに込められた力のなんと小さきことぉ……これならあの鈴埜というこむすめが汝にかけようとしたものの方がまだマシというものじゃな」

 

 説明しつつも自分を上げることは欠かさない。まったくその点だけは一貫してる奴だよ。

 まあしかし言いたいことはなんとなく分かった。

 

「デカけりゃいいってもんじゃないだろ、ものごとはよ」

「ほほぉ~? 汝がそれを言うかの。いやいや、確かにその通りではあるがな?」

 

 にやりと嫌な笑いを浮かべるラピス。

 こいつがこの顔をする時は決まってロクなことがない。

 そして今回もそれは同じようだった。

 ラピスはにやけ顔のまま愉快そうに口を開く。

 

「わしはしっかりと気付いておったぞ? 最初に出会ったあの時、汝の視線がわしの体の一部に釘付けであったことをな」

 

 一瞬何のことか分からなかったが、その意味に気付いた瞬間、俺の体温は急上昇する。

 

「おまっ、それとこれとは話がっ……!」

「否定はせぬのじゃな」

「ぐっ……!」

 

 気恥ずかしさのあまり出すべき言葉を間違えた俺の言葉じりを捉えたことに気をよくし、ますますラピスの笑顔は深いものとなる。

 そしてチューブトップに手をかけつつ、

 

「”大きいことばかりが良いわけではない”と言うなら、何故今のわしのそれに興味を持たぬのじゃ。わしは一向に構わぬと言っておろうに。小さいながらも多少は、ほれ」

 

 それを捲り上げようとする。

 

「やかまっしい! 大きなお世話だ! しまえ胸を!」

「くかかかっ! ……まあそれはそれとして、じゃ。たしかにあの男の言うとおり、これしきの力しか持たぬのであればしょせん我等の敵ではないの」

 

 ひとしきり俺をからかって満足したのか、ラピスは話を元に戻す。

 

「とはいっても気を抜くわけにもいかないだろ。もうちょいあいつから詳しい話を聞き出しとこうぜ」

「うむ。備えあればなんとやらじゃ」

「お前いつの間にそんな言葉を覚えて――っていうか、そうだ。お前もナラクもそうだけどさ、何ですんなり話が通じてんだ?」

 

 あまりに自然にことが推移していたために疑問に思わなかったことだが。

 よくよく考えるとおかしな点があることに、今になって俺は思い当たる。

 

「どういう意味じゃ?」

「いや今さらなんだけどな。ほら、俺とお前って出会ったときから普通にその、日本語で会話できてたじゃん? それっておかしくねえか?」

 

 俺の言葉に若干呆れた様子でラピスは答える。

 

「本当に今さらじゃの。……まあわしの場合ならばな、以前の姿であれば対象を見ただけで凡その意思疎通を確立することができた。言語など言うに及ばずの。今の姿だとそう容易にとはいかぬのが面倒なことじゃ。しかし楽しくもあるぞ。今学校では英語とやらを学んでおるが、あれは簡単すぎて飽きてしもうた。のう我が君、そなたはあの学び舎ではわしより数年先の内容を学んでおるのじゃろ? 他の言語を学べるのはいつじゃ。できればもっと難しいものがよいのじゃが」

「……知らねえよ。大学にでも行ったら分かんじゃねえのか」

「??? なんじゃ我が君、なにか気分を害しておるようじゃが」

 

 不思議そうな顔をするラピスに対し、俺は苦い顔になるのを隠し切れない。

 魔術やらなんやらに関してならば今まで俺の人生に全く関わり合いの無かったものなのでどうということもないが、俺もよく知るところの分野でこうも差を見せ付けられると……自分でも狭量だとは思うが、やはり面白くない。

 

「気のせいだ気のせい」

「そうか。それで他の連中――あのナラクなどが同様である理由じゃが、これはまあ本人に聞くがよかろう。わしもそこまでは知らぬよ」

 

 にべもなく言い放つ。

 

「まあ神だの魔法だのが当たり前になりつつあるからな。今さらその程度どうでもいいっちゃどうでもいいか」

「それより我が君よ」

「うん、なんだ」

「今宵は久しい二人きりの夜じゃというに、かような色気のない話は止めにせぬか」

「久しいってお前な……」

 

 ところでお気付きだろうか。

 先ほどから会話をしているのが俺とラピスの二人のみであるということに。

 俺はミナのことに思いを馳せると、自然と表情が強張ってしまう。

 

「しっかし、本当に大丈夫なのかね……」

「なに、風呂のときも正体は隠し通したのじゃろ。そこまでたわけた娘でもあるまい」

「そりゃそうかもしれんけどな」

 

 俺がこうして気を揉んでいる理由は、ミナが現在花琳と一緒に居ることにある。

 これが一時のことならまだよかったのだが。

 

「あいつの動物好きを軽く見てたな。今から思えばマロンのこともあいつが一番可愛がってたような気がする」

 

 ことの発端はちょうど夕食を食べ終わった時だった。

 部屋に戻ろうとする俺を止めた花琳は、今日は自分がミナと一緒に寝るのだと主張し始めたのだ。

 

『兄貴は昨日一緒に寝ただろ! 自分だけ一人占めなんてずるいじゃん! 交代々々にすべき!』

 

 とは彼女の言である。

 その場では曖昧に茶を濁した俺は部屋に戻ってミナ本人の意向を聞くと、『ご主人と一緒じゃないのは寂しいけど……お姉さまとならいいよ』とのことであった。

 そうして今に至るというわけだ。

 

「ミナのやつ、花琳のこと妙な呼び方してたよな。昨日風呂でなんかあったのかね?」

「さての、知らぬ。……そんなことよりっ!」

「どわっ!?」

 

 ラピスはベッドに腰かける俺に近寄ってきたかと思うと、身体ごと体当たりをかまして俺を押し倒す。

 

「お前な、そうやって身体ごと突撃すんのは止めろっつってんだろ。角が刺さったらどうす……」

 

 しかし俺の苦言は、俺に馬乗りになる彼女の言葉で遮られた。

 

「――まったく汝ときたら、隙を見せれば他の女の話ばかり。先日のことをもう忘れたとみえるの」

 

 先ほどと似たような笑顔を貼り付けてはいるが、若干そのニュアンスが異なっているように見える。

 ほんのわずかな差でしかないのだが、俺も彼女のそうした微妙な差異を見て取れるようになってきたようだ。

 とはいえ彼女の言葉はあまりに深読みが過ぎる。

 

「いやそりゃ考えすぎだろ……ってか穿ちすぎだ」

 

 しかしラピスは納得しかねるようで、ふんとひとつ鼻から息を吐くと、俺の胸に腰を下ろしたまま腕を組んで見下ろしてくる。

 

「いーや。ここらでひとつ、我が君には念を押しておく必要があるとみた。……よいか。たしかに一応許可はしたがな、わしは今でもあのこむすめが汝と共におることが腹に据えかねておるのじゃぞ」

「……」

 

 ……まあ、そうだろうことは俺にも分かっていた。

 説得の時だって不満がありありな様子だったからな。

 むしろよく了承してくれたものだと思う。そこは素直に感謝せねばならないだろう。

 

「わしも神であった者、一度口にした約束を反故にしたりはせぬ。汝の言うことならどんなことでも従うつもりでもおる。……しかしじゃ。それでもわしばかりが我慢をせねばならんというのはあまりに不公平が過ぎるとは思わぬか?」

「……どうしろってんだよ」

「贅沢を言うつもりはない。こうして二人だけの時くらい、他の女の話はしないでほしいのじゃ。つまりその……」

 

 ラピスは急にしおらしい態度になり、目線を俺から外す。

 気恥ずかしげにしたその顔には、若干の赤みが差していた。

 

「こむすめのことは……我慢する。でも、今みたいなときは……わしだけを、見てほしい」

 

 最期の方は殆ど聞き取れないくらいに小さいものになっていた。

 同時に俺は、今さら何を恥ずかしがることがあるのかという気持ちと、彼女にここまで言わせてしまったこと――いや、こうして直接的に言われねば気付かない己の鈍さに対する苛立ちの両方を感じる。

 自分をことさらに尊大に見せたがるこいつにとっては、俺が思う以上に気恥ずかしい台詞だったのだろう。

 ならばせめて、今からでも俺もそれなりの態度を見せねばなるまい。

 

「……わかったわかった。ほれ」

「あっ……」

 

 ラピスの背に手を回し、自分の胸元にまで抱き寄せる。

 彼女の体はまるで抵抗を感じることなく倒れ込んできた。

 俺はそのまま背に回していた手でラピスの頭をポンポンと叩きながら言う。

 

「確かにお前にゃ借りが山ほどあるもんな。悪かったよ」

「……別に、借りなどと……」

 

 こういうことに関してだけは妙に遠慮をするのが分からないところだ。

 

「お互い様だ。俺だってあの時お前を助けたことを笠に着るつもりもないしな。ま、そういうことにしとけ」

「うん……」

 

 言葉すらもしおらしくなるラピス。

 そんな彼女の態度に気を緩めてしまったのもあろう、俺はつい考え無しに思いついたことを口にしてしまう。

 

「明日も色々やることがあるんだし、さっさと寝ようぜ。そういえば結局鈴埜は――……あっ」

「……」

 

 口を滑らせてしまったことに気付くも、時すでに遅し。

 約束をした矢先からこれである。つくづく自分の短慮さが嫌になる。

 恐る恐る視線を胸元のラピスに剥ければ、案の定こちらを責めるようなジト目の彼女と目が合った。

 

「い、いやラピス。今のはつい、その」

「はぁ~……。もうよいわ。まったくしょうがないお人じゃことよ」

 

 烈火の如く怒りだすかと思いきや、意外にもラピスは溜息を一つついたのみで、俺を強く責めようという気はないらしかった。

 ラピスは俺の胸の上から移動し、横にぴったりとくっつく形になる。

 次いで顔をぐいと近付けたラピスから発される甘い芳香が俺の鼻腔をくすぐる。

 

「……これで貸しがまた一つ増えたの。大変じゃな、このままでは一生かかっても払い切れぬほどの負債を抱えることになるぞ?」

「そうとは思ってないんじゃなかったのかよ」

「気が変わった」

「なんだそりゃ」

「くふふ……女心と秋の空、というやつじゃ。言っておくが一銭も負けるつもりはないからの。それこそ死しても払い続けてもらうゆえ覚悟するのじゃな」

 

 妙に語彙まで堪能になりやがって。

 やはりこの死神との付き合いは相当長い期間に渡ってのものになりそうだ。

 いやむしろ終わりなどあるのだろうか。

 それならそれで構わないか――などと馬鹿なことを頭に思い浮かべつつ、俺は傍らの熱いくらいのぬくもりと共に眠りに落ちていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縷々転々

「しっかしよく食べるよね」

 

 翌朝。

 共に朝食を摂っている花琳が視線を下に向けつつ言う。

 

「今までが今までだったろうからな」

「やっぱ野良ってのはキツいんだろね。ほれ、もっと食べるかー?」

 

 顔を綻ばせつつ、花琳はミナをわしわしと撫でる。

 言うまでもないことだが、彼女は現在狐の姿だ。

 妹の愛撫に応えるように、ミナは顔を上げ花琳に向かい頷いてみせる。

 

「あ~っもう、カワイイなお前はー! よしよし、おかわりもってきてやっからなー」

 

 そうして花琳は、ここ数年俺にすら見せたことのない慈愛に満ち溢れた表情で台所に消えていった。

 ……なんとも釈然としない気分だ。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「実際どうなんだミナ。花琳のメシは」

 

 ミナと共に部屋に戻った俺は、部屋に入ってすぐ人の姿へと戻った彼女に質問してみる。

 

「お姉さまのごはんすっごくおいしいよ! ミナあんなおいしいの、もう何十年も食べたことないのね!」

「ん……ま、それならいいんだが」

 

 何十年というスケールのでかさに一瞬たじろぐも、俺はまだ疑念を拭えずにいる。

 手前味噌になるが、花琳の料理の腕は確かに相当なものだと、そこは俺も認めるところではある。

 しかしそれでも、彼女は花琳と俺に気を使ってこんなことを言っているのではないか──そう勘繰ってしまう。

 というのも、妹はミナのために特別な食事を用意しているのだが、その内容というのが問題なのだ。

 動物に濃い味付けは体に毒だという花琳の用意するそれは、端的に言って凄まじく味が薄い。

 これは俺も実際に味見して確認済みである。

 滋味を感じられる……だのと(のたま)えなくもないが、ミナのような子供にとってはとてもじゃないが物足りないものではないのかと思うシロモノだ。

 

「まあなんだ、もし味付けに注文でもあったら言えよ。俺からそれとなく花琳に伝えとくから」

「はいなの!」

 

 まったく元気のいいことだ。

 ──ま、元気なのは喜ぶべきことなのだが。

 心なしか顔色も若干良くなってきたような気もするが、それでもやはりまだ彼女は痩せ過ぎのきらいがある。

 

「ひゃっ!? ご、ご主人っ!?」

「うーむ……やっぱもうちょっと太らねえとダメだぞ。不健康に見えちまう」

 

 脇腹のあたりをポンポンと触りつつ俺は言う。

 軽く触っただけで皮下の肋骨に触れることができるほどの痩せようである。それも服の上からだというのにだ。

 ラピスとは違い、ミナは普通に食事を摂る必要がある。

 これでよく何十年もあんな人気の無い山の中で生きていけたものだと感心するほかない。

 比べると彼女の腰から生えている五本の尻尾は毛量豊富であり、それがまた本体の華奢さを強調しているかのようだ。

 

「お前さ、俺と会うまでは普段何食ってたんだ?」

「へっ……? え~っとね、木の実とかが多かったかな」

「ああ、まあ山ん中だしな。そりゃそうか」

 

 文字通りの野生児といったところだな。

 

「あとは虫さんとか」

「ふんふん……──えっ?」

 

 しれっと飛び出た台詞に、俺はミナを二度見してしまう。

 いや、狐なんだし不思議じゃない……のか? 

 というか考えてみれば今の姿と獣の姿、どちらが彼女の本体と言うべき形態なのだろう。

 人の状態で虫をバリバリと食べているところは正直、想像したくない。

 

「あとは山道を通った誰かが捨ててった食べ残しとかなの。やっぱり人間さんたちが食べてるものは山の中にあるものよりおいしかったのね」

「お前……ずっとそんな暮らししてたのか?」

「おかあさんと一緒に暮らしてた時は違ったよ。山の外にも出ていけたし……でも、ミナ一人じゃなんにもできないから。えへへ……」

 

 そう言って自虐的な笑顔を作るミナ。

 どうも彼女は自分を卑下しがちな節がある──特に自分の母親と比べて。

 元気そうに振舞ってはいるものの、ことによれば人ひとりの一生分以上にもなろうかという年月を一人で過ごしてきたのだ。

 それを鑑みれば、彼女の精神的消耗は測りがたい。

 俺ならとうにどうにかなってしまっていることだろう。

 

「だからね! 今はミナ、とっても幸せだよ! あったかくておいしいご飯もそうだし、それにそれに! お湯で身体を洗えるだなんて夢みたいなの! ミナ、寒いのには強いほうだけど、やっぱり冬に川の水に入るのはキライだったのね。夜寝る時だってもう一人ぼっちじゃないって思うと──」

「……頼むミナ、そこまでにしてくれ」

 

 俺は目頭を押さえつつ彼女を制止する。

 危うく声が震えてしまいそうになった。

 朝っぱらからなんて重い身の上話をするんだこいつは。……いや聞いたのは俺だが。

 

「どうしたのご主人。お体悪いの?」

「いいや、なんでもない。なんでもないさ」

 

 かぶりを振って誤魔化した後、彼女の頭を優しく撫でる。

 単純に重ねてきた年月で言えば俺なんぞ比べ物にならないくらいの年上なのだろうが、そんなことは関係ない。

 この少女にはこの先そんな思いをさせるわけにはいかないと、俺は思いを新たにした。

 ……しかしそうなるとまた先ほどの疑問が再燃してくる。

 すなわち、先の件はただ単に彼女の味覚のハードルが低いだけではないのかという疑念だ。

 今までロクな食べ物を食べていなかったゆえ、酷く不味いものでもなければなんでも美味しく感じてしまうだけなのやも知れない。

 

「まあなんだ。一緒に暮らす以上遠慮はすんなよ。喰いもんのことにしろ、他のことにしろな」

「はいなのね!」

「よしよし……ん?」

 

 彼女の頭を撫でていないもう片方の腕を引かれる感覚がある。

 振り返ると、なにか言いたげな表情のラピスと目が合った。

 

「なんだラピス。どうした」

「……」

 

 問うも、口を引き結んだ彼女は何をも発しない。

 目の色からして何かを訴えたがっていることは分かるが。

 解せぬ俺は俺はもう一度問い直す。

 

「おい」

「……わしも」

「え?」

 

 ようやく口を開いたラピスは、むっつりとした表情で語気を荒くする。

 

「わしだってこむすめに負けず劣らずの境遇だったはずなのじゃがなっ!」

「ばっ、馬鹿! 急にでかい声出すなって! 下に聞こえたらどうすんだ」

「むうう~っ……」

 

 慌てて俺は、どうどうと動物を落ち着かせる時に似た仕草でラピスを宥める。

 妹が階段を登ってくる音がしないことを確認し。

 

「……ったく、一体何が言いたいんだお前は」

 

 俺は気持ち声を押さえつつ、少々咎めるような声を出す。

 

「”何が”ではないわ。今言うた通りよ。こむすめに負けず劣らず──いや、もっと長い間わしは辛酸をなめ尽くす立場にあったのじゃぞ。単純な期間の多寡は言うに及ばず……それに比べればこむすめのそれなど比較するのもおこがましいわ」

「いやそりゃ知ってるよ。最初に会った時に話してくれたじゃないか」

「そういうことを言っておるのではないわっ! まったく察しの悪いことときたら……よいか?」

 

 ラピスは鼻息荒く言葉を続ける。

 

「あの氷穴で封印されておったこと自体はそう苦痛でもなかった。一人きりというのは慣れたものであったゆえの。いかんせん腹が減るのが困りものではあったがな。もっとも辛かったのは、彼奴(きゃつ)に捕らえられた最初の数年のことじゃ。正直思い返したくもないが……汝が聞きたいというなら仔細を話してやるぞ」

「思い出したくもないなら言う必要ないだろ……ていうか何でこのタイミングなんだよ」

「汝が何から何まで言ってやらねば分からぬ朴念仁だからじゃっ!!」

 

 彼女は激高し叫ぶも、俺は彼女の怒りがどこに根差しているのか皆目見当がつかない。

 またぞろ俺の思慮足らずのせいであろうとは思うが。

 

「いや、だから大声を──」

「聞き捨てならないのねっ!」

「ああ、もう……」

 

 だしぬけに大声を出したのはラピスではなく、今度はミナの方だ。

 自体が収束するどころかますます混迷を呈し始めている様に、俺は頭を抱えてしまう。

 

「あなたが過去にどうだったかは知らないけど、ミナだってとっても辛かったんだから! あなたになにが分かるのね!」

「はっ、ぬかしおるわ。たかだか数十年だか数百年程度で喚きおって。そもそも汝には母も父も居たのであろうが。この贅沢者め、そんな汝に、存在して以来永々と一人でおったわしの気持ちなど分かるまい。下界を覗き、手の届かぬ温もりを盗み見ることしかできなかったわしの気持ちなどな」

「そっちこそ。あなたはずっと一人だったんだから、大好きな人を無くす気持ちなんて分からないでしょ? だいたいあれくらい凄い力があるならその力でどうにでもできたんじゃないのね? なのにただ誰かが会いに来るのを待ってただけなんて、甘えてただけなんじゃないのね?」

「きっ、貴様っ! もう一度言ってみ──」

「いい加減にしろ!」

 

 階下に声が漏れてしまうことを危惧していたが、このまま放っておけばいよいよ収拾がつかなくなる。

 そう判断した俺は、二人を一喝したのだが、一応の効果はあったようである。

 とはいえ二人はひとまず罵り合いを中断したものの、未だ険悪な目つきで睨み合っているままだ。

 

「朝っぱらからお互い不幸自慢なんぞやって虚しくならねえのかお前ら! ……ラピス。一旦落ち着け」

「むむむ……」

 

 未だ矛を抑えきれないといった様子だが、今回の件では彼女の気持ちも分からないでもない。

 俺はミナに向き直り、やや厳しい態度でもって言う。

 

「ミナ。今のはお前が言い過ぎだ。ほれ、ラピスに謝るんだ」

「……わかったの」

 

 不満はありありといった体だが、その後ミナが謝罪の言葉を述べたことで一応はここで落着となった。

 

「ったくもう……」

 

 ほんと、どうしたもんかな……。

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

「──んぱい。先輩」

「……ん、ああ。どうした鈴埜」

 

 時は変わって、放課後の部室でのこと。

 話しかけてきた鈴埜に対し、俺は視線は向けず声だけで答える。

 

「どうしたじゃありませんよ。ここにきてからずーっと心ここにあらずって様子じゃないですか」

「……そう見えるか。……いや、そうだな……」

「何かあったんですか?」

「ううん……どう言ったもんかな……」

 

 鈴埜の指摘は的を射ている。

 結局あの後、登校中から下駄箱で別れるまでずっと、ラピスは不機嫌なままだった。

 これから一緒に暮らしていくのだから、なんとか二人の仲をもうちょっと良いものにする必要がある。

 第一、このままだと俺の精神が持たない。

 しかし考えたところですぐさま有効な対策が思い浮かぶわけもなく、今日ここに至るまでずっと俺はそのことばかりを考えていた。

 

「鈴埜。お前は姉妹とかいるのか?」

「……? いいえ、私は一人っ子ですが。それがなにか?」

 

 俺の言葉は相当意外なものだったようだ。

 無表情な鈴埜にしては珍しく、わかりやすく驚いた顔をしている。

 

「いや、ただ何となく聞いてみただけだ」

 

 しかしすぐに落ち着きを取り戻した鈴埜は、瞬時に元の無表情に戻る。

 

「気持ちに余裕があるようで何よりです。死神に憑りつかれている身の上だというのに」

「おいおい、憑りつかれてるって言い方は随分じゃないか」

「はぁ……まったく大物というか、危機感が欠如しているというか……」

「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」

「お好きに。ところで当の人物が見当たりませんが?」

「ああ、あいつは今日バイトに行ってるよ」

「バ、バイト!?」

 

 と思えば、またしても驚愕した表情へと戻った。

 しかも先ほどより感情の振れ幅は大きかったようで、目をかっと見開いてさえいる。

 まあ、無理もないことだが。

『冥界の死神が人間界でバイト』だのと、一体どこの三文小説か漫画かというものだ。

 

「よくそんなことが可能でしたね。雇い主は閻魔大王か何かですか」

「いくらなんでもそりゃないだろ……」

「冗談ですよ」

「お前のはどっちか判断しにくいんだよ」

 

 冗談なら笑いながら言うとかしろってんだ。

 

「しかし困りましたね。先日の件で話すことがあったのですが」

「先日……? え、お前まさか」

「ご安心を。自殺幇助をする気はありませんので。もう一つの可能性の方です」

「ああ、それなら……。いや、でもどっちにしろよく見つけられたな。昨日の今日で」

「こればかりは運が良かったと言う他ありませんね。とはいえ当人がいらっしゃらないのであれば詳細は次回としましょうか」

「そうすっか。後言うことっつったら……いや、これは言ってもしょうがないな」

「なんですか。そんな言い方をされると気になるじゃないですか。言うだけ言ってみてくださいよ」

 

 妙に食いついてきた鈴埜に負け、つい学校にまで持ってきていた例の拾った箱を彼女に渡す。

 鈴埜は外箱の様子や、中に入っている謎の板を数本取り出してしげしげと眺めていたが。

 

「ふーん……確かに見たところ、特別妙なところはありませんね」

 

 当然と言うべきか、やはり思った通りの反応をした。

 

「だろ。でもラピスが言うには若干の魔力が込められてるらしいんだ。それにナラクの奴も思わせぶりなことを言ってたしな」

「……」

「……あ、悪い」

 

 これは明らかに失策だった。

 鈴埜に対し、ナラクの名前を出すのどう考えても配慮に欠けることだ。

 しかしばつの悪そうな顔をする俺とは裏腹に、鈴埜は一瞬眉を寄せたのみで、ひどく平然とした様子で言葉を発する。

 

「いえ、おそらく先輩が思っているほどではありませんよ。とはいえ流石にあの方に対して好感を持つというのは難しいですけど」

「そりゃそうだろ……むしろボコボコにしてやりたいくらいだろ」

「流石にそこまでは。──ところで先輩。込められている力が小さすぎてラピスさんに分からないというなら、ここは一度私の母に見せてみては?」

「へ? エリザさんに?」

 

 これはまた思ってもみない提案だ。

 

「ええ。もしかすると父もお役に立てるかも知れませんし」

「なるほど……それは考えになかったけど、確かに考えて見りゃエリザさんは元々向こうの人だし、惣一朗さんもああいう手合いとの付き合いは俺なんかよりずっと長いだろうしな」

「決まりですね。それでは部活が終わり次第向かいますか」

「そうすっか。ついでにちょっと遠回りになるけどラピスも拾っていこう。いやでもどうせなら……」

「?」

 

 俺は一瞬迷ったが、どうせラピスのことも知られてしまった今なら対して問題にもならぬだろうと判断した。

 これから俺たちに関わっていくと宣言した以上、隠していたところでいずれ知られてしまうことだろうしな。

 

「なあ鈴埜。連れて行くの、もう一人増えてもいいか?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鈴埜とミナ

 部活といっても単なる図書室での雑務でしかないそれは何事もなく終わり、俺と鈴埜は共に校門を出る。

 

「どうすっかな……遠回りになるけどとりあえず家に寄って、それからラピスを迎えに行けばあいつのバイト時間的にも丁度終わるくらいになるか」

「先輩。もしかしてもう一人というのは花琳さんですか?」

「ん、いや? なんでそう思うんだ?」

「だって先輩の家にいらっしゃるのでしょうその方は。今の言い方だと。まさかご両親でもないでしょう」

「あーいや……そうか、確かにそう思わな。まあ着いてから説明するよ。話すと長いからな」

「……?」

 

 怪訝な顔をする鈴埜を従え、俺は自宅へと向かう。

 もちろん言うまでもないことだが、この時には既に鈴埜は例の帽子を外していた。

 流石に往来では恥ずかしいということなのだろうが、しかし部室は図書室なわけで、そうすると当然他の生徒たちにも魔女帽を被っている姿を見られることになる。

 実際一年坊主と思しき輩や、初めて鈴埜を見たであろう生徒たちは訝しげな顔をするのが通例である。

 がしかし、どうも当の本人は全く意に介していない様子で、このあたりの機微が正直俺にはよく分からない。

 ……と、そんなことを考えながら歩いていると、気付けば目の前に我が家の姿が鎮座していた。

 

「ここだ」

「先輩のご自宅に来るのは久方ぶりですね」

「えっ?」

「えっ──……あっ」

 

 オウム返しに短い声を上げた後、鈴埜は手で口を押さえ、しまったと言わんばかりの表情をする。

 

「あれ? お前ウチ来たことあったっけ?」

「いいえ勘違いです。忘れてください」

「……? まあいいけど、んじゃ呼んでくっからちょっと待っててくれ」

 

 やけに早口になっている彼女を軒先に待たせ、少し進んで玄関のノブに手をかけようとしたその時。

 家の中からドタドタという音が近付いてきたと思うや、バタンと大きな音をたてて扉が開け放たれる。

 次の瞬間、俺の目の前に文字通り飛び込んできた(・・・・・・・)人物はもちろん。

 

「ご主人っ!! おかえりーっ!!」

「どぉわっ!?」

 

 軽快にジャンプしながら抱き着いてきたミナの勢いを抱き留めることで殺すこと叶わず、俺は彼女によって地面に押し倒される形となった。

 

「今日は早かったのね! ミナも今日は眠っちゃわないでずっとご主人のこと待ってたのね! えらい? ね、ね、ミナえらいっ!?」

 

 俺の上に乗っかった姿勢のまま、満面の笑顔で捲し立てるミナ。

 

「おっ……」

 

 喉より出かかった言葉は、彼女の背中側、そして頭上に見えるものを視界に入れたことで中断された。

 狐耳そして、五本の尻尾も。全く隠すことなく顕現(けんげん)していたのだ。

 急いで首を回し後ろを振り返ると、なんとも例えようのない表情をした鈴埜と目が合う。

 驚きはもちろんのことだが──その表情には、何故だか怒りの色が多分に含まれているようでもあった。

 ……まずい。何故だか分からんがこれはまずいことになりそうな気がする。

 

「──ミ、ミナっ!! お前、その姿で外にいきなり出てくるんじゃねえっ! 俺じゃなかったら──それこそ花琳やオヤジたちだったらどうするつもりだったんだっ!」

「? なにいってるのご主人。ミナがご主人の匂いを間違えるわけないのね」

 

 慌てふためく俺の気を知ってか知らずか、ミナはいつも通りの調子である。

 

「……先輩」

 

 呪詛のような声色で呼ばわれ、自分の体が瞬時に硬直するのを感じる。

 俺は恐る恐る再び後ろを振り返る。

 ……予想に反し、彼女は笑顔だった。

 

「え、えっと……な、何かな?」

「この方は? ご紹介頂いてもよろしいでしょうか?」

 

 表情こそそのままだが、発される声はあまりに低く冷たいもので、そのギャップは言いようのないそら恐ろしさを聴くものに感じさせる。

 とはいえそのことを悟られると尚のこと不味いことになりそうな予感がし、俺は努めて平静を装わんとした。

 

「あ……ああ。も、もちろんだ。ええとな──」

「あれっ? ご主人、このひとは誰なのね?」

 

 と、ようやくここでミナの方も眼前の人物の存在に気付いたようである。

 

「こんにちわ。私はこの方の後輩で鈴埜といいます。あなたは?」

 

 俺に対してのものと比べると遥かに優しげな声で鈴埜は問う。

 

「こうはい? なんだかよくわからないけど、ご主人のおともだちなのね? わるいひとじゃない?」

「ええ、そうですよ」

 

 ……若干空気が弛緩した気がする。

 いいぞミナ。その調子だ──と俺が思ったのも一瞬のこと。

 

「そうなの! ならミナとも仲良くなれると思うのね! えっとね、ミナはご主人に飼われてるペットなの!」

「──!!」

「……そうですか」

 

 ミナへの返事もそこそこに、鈴埜は懐からスマホを取り出しなにやら操作し始めた。

 

「お、おい鈴埜。お前何してんだ?」

「いえ少し電話を──いや通報をと思いまして」

「おいおいおいおい!! ちょっ、待て!」

「きゃっ」

 

 俺はミナを跳ね除けつつ飛び起き、必死の形相で彼女に食って掛かる。

 

「……なんですか。申し訳ありませんがあまり近寄らないでいただけますか」

 

 無表情なのはいつも通りだが、発される声はこのうえなく冷たいもので、俺を見る目つきはまるで生ゴミを見るそれである。

 

「いやいや! お前は何か勘違いしてるぞ! ちょっ……いいからスマホを離して聞けって!」

「……」

 

 無理やり彼女の手からスマホを奪い取り、俺はなんとか誤解を解こうとミナについての説明を始めた。

 慌てていたため所々支離滅裂なものになってしまったが、兎にも角にもまずは鈴埜の誤解を解くことが先決であった。

 馴れ初めに始まり、彼女がラピスと同じく人でないこと、そして敵ではなく味方であることなどをかいつまんで話す。

 

「──というわけだ。……おい、なんでそこで溜息をつく」

 

 粗方説明が終わると、鈴埜は一際大きな溜息をついた。

 そればかりか、彼女は呆れてものが言えないとばかりな表情になる。

 

「……あのですね先輩。私が言うのも何ですが貴方、ご自分が今どんな状況に置かれているのか理解なさってますか?」

「どういう意味だよ」

「文字通りの意味ですが。私はそれなりに先輩のことを思ってここ数日色々と考えを巡らせていたのですけど。それが当の本人はこの様なのですから溜め息のひとつも出ようというものです。なんなんですか、先輩には危機意識とかリスク管理とか、そういった言葉をご存じないので? いや無いんでしょうね。今はっきり理解しました」

「相変わらずお前は人の心を的確に抉ってくるなあ! すっかり元気になったみたいで俺も安心したよ!」

「それはどうも」

 

 俺の精いっぱいの嫌味にも、鈴埜は全く動じることなく受け流す。

 ……一応俺は先輩という立場なんだがな? 

 

「で、先輩。このミナさんも連れて行くと?」

「ああそうだよ」

「それは構いませんが、そのまま往来を行き来なさるおつもりですか? なら私は100メートルほど後ろを付いていくことにしますね。幼女にコスプレをさせて連れ歩いている変態のお仲間とは思われたくないので」

「いつもにも増して言い様が酷いぞお前っ!? 言われなくてもこのままで連れて行こうなんて思っちゃいねぇよっ!」

 

 叫び続けて喉の調子が妙な塩梅になってきたぞ……。

 

「ねぇねご主人。お出かけ? お出かけするのね?」

「……ああそうだ。だからミナ、ちょっとその耳と尻尾は仕舞っておいてくれるか」

「はいなのっ! やった、ご主人とまたお出かけなのねっ!」

 

 ……お前が幸せそうでなによりだよ。

 まだ鈴埜邸に付いていないばかりか、ラピスを迎えに行ってもいないうちからこれである。

 俺はこれより先に何が起こるのかを想像しようとしたが、そうすると心が折れそうになったのでやめた。




新たにミナの支援絵を頂きました!


【挿絵表示】



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

千変万化

「ねえねえ、すずのさんはさ、ご主人のこうはい(・・・・)って言ってたけど。こうはいってなんなのね?」

「それはですね──」

 

 ミナを加えた俺たち三人は今度はラピスを迎えに歩を進めているところだ。

 ひと騒動あったものの、あれから鈴埜とミナの二人は朗らかに会話をしながら並び歩いており、険悪な雰囲気などにはなっていない。

 ラピスの時と比べると雲泥の差だ。

 ……ま、あいつは最初から喧嘩腰だったからな。まあ、あれはあれで理由あってのことでもあったし、今さら責める気もないが。

 

「そうなの! そんなにいっぱい人間さんがいるのね!? ならミナの信者になってくれそうな人もいるかもなのね!」

「信者とは?」

「ああ、どうもミナの力は人間の信心──だっけか? に依るらしくてな。そうだったよな?」

「はいなの! ミナ自身はもちろんご主人だけで十分満足だけど、やっぱりご主人を守るにはもっといっぱい信心が欲しいのね。……それに」

「それに?」

 

 鈴埜は気付かなかったようだが、瞬時にミナの笑顔の質が変わったのが俺には分かった。

 

「そうすればきっと、あのひとにも今度は勝てると思うのね。色々考えてたんだ、ちょっとの傷だとすぐに元通りにされちゃうから、次は修復ができないくらい一気に──」

「だっからそういう発想を止めろっつってんだろが!」

「む~……」

 

 意外に武闘派というか、大胆なんだよなぁ、こいつ……。

 この発言には流石に鈴埜のやつも面食らった様子を隠せない。

 

「先輩あの、確認しますけど……仲間、なんですよね?」

「ああ、そうなんだがな……ラピスとの関係そのものはまあ、聞いての通りだよ」

「大丈夫なんですかそれで」

「そう見えるか?」

「どうせ何もかも先輩が始めたことなんでしょう。ならそのあたりのケアもきちんとしてくださいよ。私もそこまでサポートし切れませんから」

 

 無情にも言い切られ、俺は口をつぐむほかない。

 ……まあしかし、鈴埜とミナの二人は思ったよりうまくやれそうだな。これは良い兆候だろう。

 それからはまた鈴埜とミナが色々と話しているのを聞きつつ、更に二十分ほど歩いた。

 

「やっぱ下道通るとけっこう歩くな。ミナ、疲れてないか?」

「ううん。大丈夫だよっ」

「そっか。もうちょっとだからな。着いたらジュースの一杯でも貰おうか」

「はいなの! ……あ、でもご主人、それより」

「ん?」

 

 くいくいと俺の服を引きつつミナが指差した先には、いつか彼女と共に行ったことのある駄菓子屋が見えている。

 そうか。そういえばあの店は丁度麓を下りたところだったな。

 

「我慢できないか?」

「ううん、でもあそこはご主人との思い出の場所だから……あ、ダメならいいよっ! ミナはおりこうさんだから! わがままなんて言わないのね!」

 

 まったく、子供のくせに聞き訳がいいことだ。

 いや、実年齢で言えば俺なんかより遥かに年上なのだが。

 

「んー……鈴埜、ちょっと遅くなるけどいいか?」

「私は構いませんが。……しかし先輩。そういうところなんじゃないですか? 私は早くも分かってきましたよ」

「え? 何が言いたいんだよ」

「いいえ。どうせ言っても無駄なので。昔から(・・・)そうですもんね」

「……?」

 

 相変わらずの無表情で、しかし皮肉たっぷりな声色でして言う鈴埜。

 普段通りの彼女が戻りつつあることに安堵するべき……なんだろうなぁ。

 

「──で、またアイスなのか。腹壊しても知らないぞ?」

「大丈夫なのねっ! えーっと……どれにしようかな……」

 

 駄菓子屋に着くなりミナは他のものには目もくれず、すぐさま冷凍ボックスに飛びつきアイスを吟味し始めた。

 これがせめて秋ならまだいいのだが、12月という冬真っ盛りの今となると……。

 

「ね、ね! ご主人は何にするのっ?」

「あ、ああ……んじゃ、このへんにしようかな……」

「なにそれっ!? キレイな緑色でとってもおいしそうなの! えーっとじゃあミナはね、こっちの茶色のやつにするの!」

 

 渋々といった感じで俺が適当に抹茶ソフトクリームを選ぶと、ミナは嬉々として同じ種類のもののチョコ味を選び取る。

 

「それでは私はこれを」

 

 と、何故か鈴埜までもがアイスを手に取りつつ言う。

 

「鈴埜、お前は付き合わなくていいんだぞ?」

「別にそういうわけでは。しかし折角の先輩のお気持ちを無下にするわけにも」

「そんなこと言いましたっけねえ!?」

 

 結局俺は鈴埜の分──わざわざお高めなプレミアムアイスだ──をも一緒に会計し、外のベンチに腰掛けながら三人並んで食べることになった。

 

「……やはり冷えますね。しかし本当にご馳走して頂けるとは意外でした。冗談でしたのに」

「お前なっ!? ……ああもう、言い出した以上残すんじゃねえぞ」

 

 買った後で言うんだもんなぁコイツは。

 

「おいしいっ! 前のもおいしかったけどっ! 今日のもすっごくおいしいのね!」

 

 のろのろと食べ進む俺たちとは対照的に、ミナは満面の笑顔でソフトクリームを舐めている。

 確か前に食べてたのはバニラ味だったかな。

 

「そりゃ良かったな。チョコ味は好きか?」

「うん! ご主人のそれは何なの?」

「ああ、こりゃ抹茶っつって──なんだ、気になるのか」

 

 返答を待つまでもない。

 キラキラと輝いたその目を見れば、期待に満ち満ちているのがよく分かる。

 

「一口いるか?」

「うんっ! ──はむっ……あまーいっ!」

 

 お気に召したようだ。

 一口どころか全部食べてくれてもいいくらいだが、それこそ腹を壊す結果になると思い口に出すのは控えた。

 しかしわざわざ俺が口をつけたところから頬張らなくてもよかろうに。まあそんなことは一々気にしないってことかな。

 

「じゃあミナのも、はいっ!」

「ああいや、俺は……」

「ダーメっ! ミナひとりがいい思いするなんて嫌なのね! ご主人も!」

 

 別に遠慮しているわけでもないんでもないのだが、押し切られる形で俺はミナが差し出すそれを一口もらう。

 無論彼女が口を付けていない部分をだ。

 ……何故かミナの顔が一瞬不満げな顔になったような気がしたが、文字通り気のせいだろう。

 そんなやり取りをしていると。

 

「先輩」

 

 不意に鈴埜から呼ばわれ、俺は彼女の方へ向き直る。

 

「ん、どした鈴埜」

「……」

「おい?」

 

 彼女の目はこちらを見ていない。

 ひと掬いのアイスを載せたスプーンを自身の胸の前に掲げたまま、それをじっと凝視している。

 そしてその顔は、やや赤みがかっているように思えた。

 

「……そ、その」

 

 何故か息まで荒い。

 やはりこの寒空の中冷たいものを食したことで体調でも崩したのだろうか。

 そう俺が訝しんでいる中、ようやく彼女の唇が僅かに動く。

 

「……私のも」

「あっご主人、ほっぺにアイスついてるのね」

「──へ?」

 

 やけに近くから声がした気がして振り返れば、いつの間にか胸あたりまで顔を寄せてきていたミナと目が合う。

 

「え、どこだ、ここか?」

「反対反対」

「んん?」

 

 指でそれらしいところを擦るが、どこも違うらしい。

 

「くすくす……じれったいのね。ここだよ」

 

 やにわにミナが顔を近付けてきたと思うや。

 

「っ!?」

 

 それ(・・)が頬を這った際、俺は一瞬ぴくりと身を硬直させてしまう。

 

「ミ……ミナッ! お前……!」

 

 ……不覚。つい声が震えてしまった。

 先ほどの感触はすなわち、ミナの舌が俺の頬を掻いたものであった。

 

「ん~? んふふ、どうしたのご主人。お顔が赤いのね?」

「……ッ」

 

 言葉にされるとますます顔が紅潮してしまうのを感じる。

 その理由は恥ずかしさが半分、そしてこんな子供相手にそんな慌てきった様子を隠せない自分への怒りが半分である。

 

「くすくす……。ねぇねご主人。どうして黙っちゃうの? ミナ、ご主人に褒めてもらいたいのね?」

 

 ……俺は一瞬、目の前の少女が別人のように思えた。

 そんなことを思っている間にも、挑発するような目つきになった彼女は妖艶に口角を上げつつ俺の首に手を回してくる。

 更には片足を俺の膝の上に乗せてきつつ、だ。

 見る間に彼女の瞳は細く収縮し、まるでその様は獲物を狙う肉食獣のそれだ。

 ──いや! 

 

「あっ、ありがとうなミナ! えらいぞ! えらいえらい!」

「きゃっ」

 

 あること(・・・・)に思い至った俺は、すんでのところで正気に立ち返り、慌ててミナの両肩を押して距離を離す。

 そのあることとはつまり。

 

「で……で! す、鈴埜! 何の用──……」

 

 そう。この場にはもう一人いたのである。

 いくらなんでも他人の目が──それも後輩の目の前で醜態を晒す訳にはいかない。

 今回ばかりは鈴埜がいたことが救いとなった。

 ……のだが。

 

「……え、あの……鈴埜?」

「──は? 何です?」

 

 底冷えのするような低音でして返ってきたのは、あまりにも素っ気ない返答。

 いや声色ばかりでなく、俺を横目だけで見る鈴埜の目には明らかな侮蔑……いや怒りの色があった。

 

「い……いや、そのな」

「もう私は食べ終わりましたよ。グズグズせずにさっさと行きませんか?」

「う……」

 

 取り付く島すらない。

 

「ちぇー……まあいいの。邪魔はできたし」

「ん? ミナ、今何か言ったか?」

「ううん? 何も言ってないのね?」

 

 きょとんとした顔で答える彼女の顔には、とても他意を隠しているような素振はない。

 俺の聞き間違いか。

 

「……先輩。やはり私、人ならぬ方々とは仲良くやれそうにありません」

「いやお前な、自分の母親がそうだろうが」

 

 妙な塩梅になってきたな……さっきまでは仲良くやれそうな空気だったってのに。

 一体どうしてこんな空気になっちまったんだ? 

 

「あれ。ご主人、あの人なにやってるんだろ?」

「ん?」

「ほら、あそこあそこ」

 

 剣呑とした空気の中、ミナが何やら妙なことを言い出した。

 彼女が指で指し示す方向を見ると、確かに遠目に何かもぞもぞと動く人影らしきものが見える。

 

「……確かにいるな。けどそれがどうかしたのか?」

「あのひと、泣いてるみたいなのね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ニアミス?

「本当に目がいいなお前は」

「あんな道の端でうずくまって何をしているんでしょう。まさか遊んでいるわけでもないでしょうし」

 

 掌を目の上に掲げながら同じ方向を見る鈴埜も、その人物を視界に入れたようだ。

 言われてから改めて観察すると、確かに少し気になる妙な動きをしている。

 道路脇にある溝の蓋を外し、中を覗き込んでいるようなのだが、そんな行動を何回も続けているのである。

 

「何か落としちゃったんじゃないかな? ミナ、ちょっと見に行ってくるのね」

「あ、おいミナ」

 

 言うより早く、ミナは駆け出して行ってしまった。

 俺は仕方なし、彼女の後を追う。ちょうど食い終わったところでよかった。

 

「……?」

 

 ドタドタと音を立てて走り寄る俺たちの気配に気付いたのだろう。ここでようやくその人物がこちらを振り向いた。

 視界に映ったのは、端正な顔付きをした女性のそれである。

 一瞬その女性の目には驚きの色があったように見えたが、すぐさま警戒に満ちたものへと変わった。

 とても友好的な態度とは思われなかったが、俺に先んじて彼女のすぐそばに近寄ったミナはそのことに気付いているのか、

 

「こんにちわなのっ!」

 

 いつもの調子で挨拶をする。

 

「……」

 

 ──が、しかし返答はなく、返ってきたのは鋭い視線のみ。

 続いて到着した俺からも彼女に何をか言うべきかとも思ったが、俺はこのとき、この人物の格好にばかり目が取られてしまっていた。

 身体は大きな外套ですっぽり覆い隠されているのだが、どうも一般的に見るコートとは趣がちがう。

 形容するのは難しいが、形だけで言うなら雨の日に着るレインポンチョに似ている。

 しかしあのような安っぽいものではなく、素材には上等な皮を使っているだろうことが傍から見ても分かった。

 

「……なに? じろじろ見ないでほしい」

 

 俺の視線に気付いたのだろう。彼女はすっくと立ちあがり、ミナから俺へと視線を移しつつ言う。

 立ち上がった姿を見ると、思ったよりも小柄だ。鈴埜と同じか、やや低いくらいか。

 目元付近にまで深いフードを被っているうえ、染めているのかグレーの色をした前髪に半分隠れた少女の表情は読み取り辛いが、その黄金色の瞳からははっきりした警戒が見て取れた。

 サイドからも同じく灰色の髪が伸びており、その長さは腰付近にまで達している。

 

「あーいや、俺──いや俺たちは……」

「あのね、あなたが何か探してるみたいだったから! だからミナ手伝おうと思ったの!」

「……要らない。どこかに行って」

 

 殆ど聞き取れぬほどのか細い声であったが、ぶっきらぼうなその言い方には取り付く島もない。

 よくよく見ると少女の目元はやや赤く腫れている。

 そう言えば、さっきミナが泣いているとか言ってたな……。

 彼女はそれきり俺たちに興味を無くしてしまったのか、またこちらに背を向け地面にしゃがみ込み、次の蓋を外し始めた。

 

「え、えっと……」

 

 見事なまでに振られたミナは、困ったように俺と謎の人物へ交互に視線を泳がせている。

 流石にここまで冷たくあしらわれるとは思っていなかったのだろう。

 

「ミナさん。こう仰られているのですから無理に首を突っ込む必要もないかと」

「そうだぜ。ありがた迷惑って言葉もあるしな」

「うん……」

 

 俺と鈴埜に諭され、ミナは悲しげに俯く。

 彼女を慰めるため、もう一言くらいかけようかと思っていると。

 

「──つっ……!」

 

 件の人物から小さく悲鳴らしきものが上がる。

 その声を聞くや、先ほどあんな冷たい態度を取られたというのにすぐさまミナは彼女の様子を伺う。

 

「どうしたの? ……あっ!?」

 

 今度は彼女の前に回り込んだミナの方が声を上げる。

 

「どうした?」

「ご、ご主人っ! こ、このひとっ、このひとの手から血が出てるの……!」

 

 彼女の言葉に促され俺も様子を伺うと、少女の人差し指から赤いものが流れ出でているのが見える。

 恐らくは蓋を持ち上げた拍子に切ったのだろう。

 切り傷の大きさそのものはそれほどでもないが、流れ出ている血の量から察するに、それなりに深く傷を負ったとみえる。

 

「……平気。気にしないで。どこかに行って」

 

 若干震える声でしかし、尚も少女は拒絶の言葉を発した。

 ミナだけでなく鈴埜までもが心配げな様子で、しかし未だ排他的な態度を取り続ける少女にどう対応したものか図りかねている。

 

「はぁ~っ……」

 

 俺は大きく溜息をつくと、今しがた来た道程を引き返す。

 このままじゃ俺はともかく、二人が後に引きずりそうだからな……。

 戻ってきた俺は、不思議そうな顔をする二人は無視し、ぶっきらぼうに少女へ言った。

 

「おい。手、出せ」

「え……?」

「いいから。ほれ」

 

 困惑する少女に構わず俺は彼女の手を取ると、怪我をした指先に絆創膏を巻いていく。

 無論そんなものを常時携帯しているほど俺の備えがいいわけもなく、これは今しがた駄菓子屋のばあちゃんに頼んで貰ったものだ。

 ああいう年寄りってのは常備薬とかといったものを揃えているだろうと思っての行動だったが、ズバリといったところだ。

 少女は手を取った瞬間こそ咄嗟に手を引く素振りを見せたが、俺がそうさせないよう力を入れて掴むと、諦めたようにされるがままになった。

 

「……」

「これも迷惑って言うのかもしれないけどな──ほら」

 

 無言を貫く少女を脇目に絆創膏を巻き終えた俺が中腰から起立姿勢に戻ると、またもか細い声が発される。

 

「……べつに、頼んでない」

「ああそうだな。だからこれ以上は首を突っ込まねえよ」

 

 相変わらずの調子だったが、先ほどよりは幾分か柔らかな声色に変化している気がする。

 もっともただの気のせいかもしれないが。

 

「お優しいことで。普段でもそれくらい気の利くようであってほしいところですが」

「うるせえよ」

 

 茶化してくる鈴埜を軽くあしらっていると。

 

「……あの」

 

 いつの間にか立ち上がっていた少女が俯きがちに話しかけてきた。

 表情はフードに、両手を含め身体はコートの中に隠れており、一見してどんな様子なのかを伺うことはできなかったが。

 

「……いちおう、感謝。……する」

 

 思いがけず発されたのは、感謝の言葉だった。

 今回のものはそれまで以上に小さいものだったが、確かにそう聞こえた。

 これには少々面食らってしまい、俺の返答もやや歯切れの悪いものとなってしまう。

 

「え。あ、ああ。気にすんなよ。邪魔して悪かったな」

「……」

 

 そしてまた無言に戻ってしまう。

 

「えーっと……手伝いはいらないんだよな? ならもう俺たちは行くけど」

「待って」

 

 少し声のトーンを上げて去ろうとする俺を呼び止めた少女は、なにやらコートの中でごそごそと探る様子を見せる。

 ややあって、中から何かを携えた手が差し出された。

 その手は、先ほど俺が絆創膏を巻いてやった右手である。

 

「……これ、あげる。お礼」

 

 差し出されたのは、少女の掌よりもやや大きな缶詰であった。

 缶の表面には瑞々しいパイナップルの絵が描かれている。

 

「いや、別に礼なんて……」

 

 俺はややしどろもどろになりつつも、その申し入れを断ろうとする。

 ……というか、そもそもなんで缶詰なんだ。

 

「……いいの。それ、開けられなくてイライラするから、いらない。……あなたはどうなの? あなたも無理なら別の──」

「いやまあ、そりゃ俺だって素手じゃ無理だけども。缶切りがありゃ開けられるだろこんなの」

「缶切り……」

 

 俺の言葉を反芻しつつ、少女はなにやら深く考え込むような素振りを見せる。

 そうした様子を見た俺は、なぜか背に妙な悪寒が走るのを覚えた。

 いや。実際のところ、この悪寒はこの人物を近くで見たその瞬間からあったものだ。

 ……珍妙な格好に、どこか噛み合わないやり取り。

 

「ん? どうしたのご主人?」

 

 俺の視線に気付いたのだろうミナは、きょとんとした顔でこちらを見上げてくる。

 まさかそんな都合のいい偶然があるわけがないとは思いつつも、つい先日ミナ関連の出来事があったばかりだ。

 

「……ま、くれるってんなら有難く貰っとくよ。おい二人とも、もういいだろ。行こうぜ」

「えっあっ、待ってご主人」

「先輩?」

 

 俺は言葉もそこそこにその場を後にする。

 早足で追いついてきた二人は当然のごとく、急な行動に出た俺を訝しげに見ていた。

 並び歩く形になって暫く後、先に声をかけてきたのは鈴埜の方だ。

 

「どうしたんです。妙に焦っていたように見えましたが」

「……万が一のためってやつだよ。お前の台詞じゃないが、俺にはどうも今まで危機感ってもんが欠けてたみたいだからな。あいつにもまたどやされないように、少しは俺も成長したってところを見せないとな」

「どういうことー?」

 

 ミナと鈴埜の声を聞きつつ、俺は先ほど貰ったパイン缶を眺めながら歩みを進めた。

 

「……なんでこんなベコベコなんだ。古いわけでもなさそうなのにな」

 

 

 

 ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

「──てなことがあったんだが」

「ほほう」

 

 ルナに着いた俺は、早速ラピスに先ほどの経緯を話した。

 

「お前はどう思う?」

「そうじゃの。ようやく我が君が多少なりとも警戒心という言葉を知ったようじゃからな。そこは素直に喜ぶべきといえるの」

「そういうことじゃねえ! どう思うってのはあの女が例の箱の持ち主なんじゃねえかって話をしてんだよ!」

 

 いちいち一言多いやつだ。

 毎回店に顔を出した瞬間だけは素直に喜びを露にするくせに、少し時間が経つといつもの調子に戻ってしまう。

 

「なんじゃそんなことか。それならばわしに聞くまでもなかろうよ。ほれ、惣一朗の時を思い出してみるがよい」

「惣一朗さん? なんで今あの人の話になるんだ?」

「まったく鈍いのう。汝には死神の眼があるではないかと言えばピンとくるか?」

「……あっ」

 

 表情に出してしまったのは失敗だった。

 してやったりといった風なラピスは、やれやれとばかりに言葉を続けた。

 

「人間そう簡単には変われぬということかの。で、そのことに思い至った今、もう一度そ奴のことを思い出してみるがよい。穢れ(・・)は見えたか?」

 

『穢れ』。

 詳しいことは未だあやふやだが、ラピスやエリザさんのような人ならぬものと長いこと接し続けた人間の身に蓄積されるというもの。

 俺の目には黒いオーラのようなものとして映るものだ。

 

「……いや。そこに注意してなかったから断言はできないけど、それらしいものは見えなかった……と思う」

「ならばそれが答えなのであろうよ」

「いや、でもナラクのパターンだったらどうなんだ?」

「……ふむ」

 

 ラピスは顎に手をやり、少し考え込む素振りを見せる。

 

「確かにそれは考慮に入れねばなるまい。あやつだけが特別じゃと思うておったが、それもどうか分からぬしの」

「おっ。なら今回は俺の勝ちってことだな」

 

 初めてこいつの言葉にツッコミを入れることができた気がする。

 我ながらみみっちいとは思うが、これまでさんざ上から目線で見られてきたのだ。少しくらいいい気になってもいいだろう。

 だがしかし、そんな俺の心中を目ざとい死神は即座に察知したようで、不満げに頬を膨らませる。

 

「……こんな幼女相手にかように嬉々として勝ち誇りおって。ちと大人げがないのではないか?」

「都合のいい時だけその設定を持ち出すんじゃねえ。数万歳以上のくせしやがって、なにが幼女だ」

「ふん。それで、今日はこの後こむすめの家に行くのじゃろう?」

「ああ。バイトの時間は大丈夫か?」

「終了の時刻まではあともう少しあるが──おい聖……聖ーっ?」

 

 ラピスが大声で聖さんの名を呼ぶも、彼女からの返答はない。

 続いて俺も店内をぐるりと見回してみれば、狭い店内のこと、すぐにその姿が視界に入ってくる。

 

「そうなの! ここは『めいどかふぇ』っていうのね!? ごはんもおいしいし、とっても素敵なところなの! でも大丈夫なの? おねえさん、どこか身体悪くしてるのね?」

「なに、気にしないでくれ給えよ。ところでミナちゃん、キミも一度ウチの制服を着てみたくはないかい? 丁度キミに合いそうなサイズが──」

 

 ……ミナとセットで、だ。

 ミナの姿を一目見るや、それから聖さんは彼女にかかりっきりになっていた。

 だらしなく顔を綻ばせ──どころか、緩みきった鼻から血を流しているほどだ。

 黙っていれば美人なんだがなぁ……。

 

「メイド服が嫌なら他にも色々とあるぞ!? そうだ、いっそのことラピスちゃんとセットで──」

「あんたね、ここに来るたびに過去のイメージ壊すのもいい加減にしてくれませんか?」

「む、どうした竜司君。渋い顔をして。今大事なところなのだが」

 

 大声で捲し立てる聖さんの背後から俺が声をかけると、大真面目な顔でこんなことを言い出す。

 本当に、いい加減本物の聖さんは帰ってこないのだろうか? 

 

「頭の先から爪の先までどうでもいい内容に聞こえましたけどねっ!? 大体いつからここは喫茶店からメイドカフェになったんですか!」

「カフェには違いないだろうに。以外に細かいところを気にするのだな」

 

 もはやいちいち突っ込む気すら失った俺は、手短にことの経緯を彼女へ伝える。

 

「ふむ、大事な用事と言うならば構わないよ。店のピークも過ぎたしね」

「ありがとうございます」

「いやいや。言っておくが私はキミとラピスちゃんからの願いならば大抵のことは聞くつもりでいるからな。遠慮などする必要はないよ」

 

 色々と心の内で言ったものの、こういうところには感謝するしかない。

 これも彼女の生来の大らかさによるものか。

 

「……ところで話は変わるのだが」

「はい?」

「大事な用なのだ。……しかしあまり声高にはしたくない。耳を貸してくれないか」

 

 声色からただごとではなさそうな雰囲気が伝わってくる。

 メイド服に身を包んでいても、元の素材が素材なだけに、キリっとした表情の聖さんはとても美人だ。

 不覚にも俺は、顔を近付けてくる彼女に一瞬ドキリとしてしまった。

 ……が、それも一瞬のこと。

 

「……キミは一体どうやってあのような可愛い娘を見つけてくるのだい? いや見つけるだけならばまだしも、あそこまで懐かせるとは。それにあの鈴埜ちゃんといったか、あの子も相当なレベルだぞ。ラピスちゃんの時給を三倍にしてもいい。今後店が潰れるまでキミとその連れたちの代金をタダにしてやってもいいぞ。その秘訣を教えてくれないか? 頼む!」

「おーい。聖さんからの許しが出たぞー。ミナも鈴埜も準備しろー」

 

 何も聞こえなかった。そういうことにしておこう。

 

「ちょっ竜司君! まだ話は終わっては──」

「なんじゃそうか。それではこの品だけ出してからにするでの。ちと待っておれ」

 

 言いつつ、ラピスは盆に乗せたアイスコーヒーを常連のおっさんの元まで持って行く。

 

「ラピスちゃん今日はもう帰っちまうのかい?」

「んむ。……馬鹿者、そのように悲しげな顔をするでないわ」

「なんだい、この後パフェでもごちそうしようと思ってたのによ」

「くかか、次の機会にな。我があるじの命には逆らえぬでの」

「まったくあの兄ちゃんが羨ましいぜ。あーあ、ウチの娘もラピスちゃんみたいないい子だったらなぁ……」

 

 勝手なことばかり言いやがる。

 外面だけはいいラピスのことだ、この短期間に相当な地位を固めているとみえる。

 

「ところでさっき話してたこと、ちっと耳に入っちまったんだがよ。いや別に聞く気はなかったんだけどな」

「ふむ?」

 

 と、商店街で雑貨店を経営するそのおっさんは俺の方へと向き直る。

 やけに神妙な顔付きだ。

 

「兄ちゃん、そのフードを被った女ってのはこんくらいの小さいガキだったか?」

「子供……っていうほど幼い印象は受けませんでしたけど、確かにそれくらいでしたね」

「……なあ兄ちゃん、そいつはバアさんのとこにいたんだよな?」

「え、ええ。そうですけど。知ってるんですか?」

 

 何だか雲行きが怪しい。

 おっさんの声色も、先ほどラピスと相対していた時のようなものとはまるで違う、ドスの効いたものへと変貌していた。

 

「知ってるも何もねえよ。ここあのガキは最近この商店街によく現れる万引き常習犯なんだ」

「……え?」

「ウチだけじゃねえ、ゲンさんのとこもウメさんのこともやられたらしい。やたら逃げ足が速くて逃がし続けてたんだが……。──聖ちゃん! 今日はここで帰るぜ、急ぎの用事が出来ちまったからな。会計頼むわ!」

 

 

 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦

 

 

 そして、ラピスを加えた四人組となった俺たちは、ようやく最後の目的地へと歩を進める。

 

「……随分と騒がしいお店でしたね。少し疲れました」

「お前は遠くの席でまったりコーヒー飲んでただけだろうが」

「あまり詳しくはないのですが、今まで飲んできた中で一番といっていいほどの味でしたね。……しかし何故あのような格好を?」

「そこが焦点じゃなくてだなぁ……いや、もういい」

 

 ……しかし、あの子が万引きの常習犯とは。とてもそんな感じには見えなかったけどな。

 ま、確定したってわけでなし。それに例の連中でないのならばもう会うこともないだろう。

 今日はこれからが本番なのだ。




新キャラを出すときは毎回心臓が破裂しそうになります……


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。