カラン、コロン。
薄っぺらい化成品の筒に押しのけられて、氷山の一角をさらに細切れにしたモノがぶつかり合う。からん、ころん。ずごーっ。
筒の中を茶色の液体が駆け上る。空気を巻き込んだ、少々上品とは言えないその音は、しかし窘める人間がいなかった。
今は夏。猛暑。サンサンと降り注ぐ日光が地上を地獄に変えている。あの輝かしい光の球が恨めしい。命の雫が肌を伝い、服の中に不快な汗を発生させる。多少は涼しい格好をしているとはいえ、ほとんど無風のコンクリートジャングルでは砂漠も同然。露出した肌はむしろ弱点だ。暑い。熱い。
なんだって冷房をつけていないのか。なんだって窓が開け放たれているのか。なんだってこの席だけ、日差しが当たる位置にあってしまったのか。
万物には寿命がある。当然、夏にだってある。あと一、二か月もすれば、このうだるような暑さはカラっとした涼しさへと顔を変えることだろう。
もっとも、それが寿命なのか、成長なのかは、わからないけれど。
なんて。
珍しく名前の短いロイヤルミルクティーの氷をストローでカラカラやりながら、大学時代に感じていた些細な悩みみたいなものを思い出してみる。
待ち人、来ず。今
からん、ころん。
そろそろ氷も解けて、ロイヤルミルクティーの水割りが完成してしまう。大学を出てから多少お酒を嗜むようになったけれど、あれはいけない。楽し気にこっちを見つめてくる相席者が、一口を飲むたびにずずいと近づいてくる。あれは、いけない。
今日は土曜日なのだ。
土曜日ということは、彼との待ち合わせのある日である。
具体的な時間こそ決めていないモノの、もう十年くらいは習慣として行っている待ち合わせなので、体感、どのくらいの時間に行けばいいかわかる。わかる、はず。
でも来ない。
高校時代や、大学時代は……確かに一時期、そういうことがあったけれど。
結局予想通りの所へ腰を落ち着けてからは、とんと、無縁になったと思っていたんだけどなぁ。
からん、ころん。
カランカラン。
「ミツルさん、ミツルさん。どうしてこの喫茶店に立ち寄ったの? 初めて来る場所だと思うのだけれど。今回の仕事に関係があるのかしら? それとも息抜き?」
「仕事には関係ないし、息抜きでもない。初めて来る場所であるのは間違いないが、初めて会う人間ではない」
喫茶店の扉が来訪者を告げるベルを鳴らした。
二人組。まだ小学生くらいの少女と、青年と中年の間くらいの男性。
事案かな?
というか、なんだろ。
あの小さい子。すごく……見覚えというか、既視感というか。
私の知っている友人張りに死ななそう、というか。
うわ、なんかこっちに近づいてきた。
「……水野良空。
十年前、自ら『観布子の母の再来』なんぞという仰々しい看板を掲げておいて、一年後には『あんまり楽しくなかった』とその看板を取り下げた……まぁ、この界隈ではそれなりに有名な占い師の一人だ」
「お姉さんも占い師なの? すごい、沢山いるのね、占い師って」
「既に私は占い師じゃないし、そもそも占いをしているわけじゃないし、そんな不名誉な名前の売れ方をしていると思っていなかったので私は帰らせていただきます」
伝票を手に取って――……あっ。
したり顔で伝票を奪い取った少女が、こちらを楽し気に見つめている。既視感。こんな楽しそうな顔は見たことがないけれど、あの友人にすごぉく似ている。
「はぁ。それで何用? さっき仕事ではないって言ってたけど、見知った顔だから挨拶しに来たとかなら――ソイだね、と言ってあげるけど」
「ソイ?」
「マナお嬢様。相手にしなくていい。
水野良空。良い具体例の一つだから、見せに来たというだけだ」
そう言って――男、倉密メルカはマナお嬢様と呼ばれた少女の背を押した。
爆弾魔・倉密メルカ。
紛う方なき犯罪者。数々の建物を爆破した、殺人者一歩手前の狂いビト。
一歩手前なのは、彼がひとりたりとて人間を殺していないからであり。
ついでに言うと、もう、彼は爆弾魔ではなくなっているようだから、というのも付け足しておくとしよう。
「良い具体例?」
「あぁ。
たいていの未来視は偽物といっただろう。測定も予測も、未来が見えているわけではない。大半の占い師は万人に当てはまる事を勿体ぶって言う詐欺師で、ごく一部にそういった測定と予測の占い師がいる。予測はただ見守るだけ。測定は見定めるだけ。そこに違いがあるとしたら、悪意があるかないかくらいだろう」
「それで、これから会いに行く観布子の母さんは、本物なのよね?」
「そうだ。そして目の前にいるコイツも本物だ。もっとも、出来ることは未来視だけじゃあ、ないようだが」
メルカの言葉に、マナお嬢様ちゃんが目を輝かせる。
喫茶店内を泳ぐ群青たちが、その明るさに辟易するように近づいてこない。元気に泳いでいる。やっぱり、あの友人を彷彿とさせる群青だ。
というか、ほとんど確信。だって生まれた子の名前、彼から聞いていたし。
「……何かを期待しているところ悪いんだけど、私が出来る占いは寿命に関する事だけ。そんなもの、聞きたくはないでしょ?」
「寿命……? お姉さん、人の寿命が見えるの?」
「水野良空は観布子の母の再来という看板を掲げたが――その実、観布子の母がやっていた『少女たちの不幸を回避させる占い』ではなく、『占われた人間がいつ死ぬかを確実に言い当てる』という、万人受けし難い内容だった。観布子の母と同じ本物と称したが、本物の種類が違う。あのバァさんは聖人染みたそれだが、コイツは浅いのさ」
……だから私は一年で占い師を辞めた。自分の寿命を聞いても、誰も感謝してくれないし。
感謝と親愛の違いは理解したけれど、それでも感謝されてイヤなことはない。だから人助けに――残りの余生を過不足なく使ってほしいという思いを込めて――辻占い師を始めたのだ。目的が果たせないのなら、続ける意味もない。
「あ、それならミツルさんの寿命を占ってくださらない? ミツルさん、放っておいたらすぐにでも死んでしまいそうなほど線が細いし……食生活も不健康だし」
「余計なお世話だ」
先ほどから。
倉密メルカを、ミツルさんと呼んでいる。
名前を変えたのか。まぁ、爆弾魔としての名前など、捨てるに越したことはないだろうし。
「……具体的な数字と、あいまいな答え。どっちがいい?」
この十年で、私は群青の在り方をさらに理解した。と思う。
どれほど元気でも、当分の間、とか、なかなか、とか、そういう曖昧な言葉じゃなくて、体感的に、大体このくらいの年数だろう、という所までわかるようになったのだ。
もっともそれは、この十年で、私が占った八割のヒトが、死んでしまったからなのだけれど。
「……曖昧なほうが、未来は確定しない。お前は寿命を退ける事もできると謳っていた記憶があるが……」
「できる。望まれない限りはやらないけど。曖昧なほうでいい?」
我欲に忠実であるほうが長生きをする。
私に寿命を占われ、しっかり私を信じて、なんとかならないのかと縋り付いてきた人の群青は、動かしてあげた。八割からこぼれた一割のヒト。残り一割は、寿命が十年以内じゃなかった、というだけの話。
信じることなく、私を馬鹿にして、死んでいった人達には、手を合わせるくらいしかしてやれない。
「具体的な数字でいい。そのほうが、気楽だ」
「へぇ。正解。五十年。今日からきっちり、五十年」
「そうか」
死の宣告は具体的なほうが絶対にいいと思う。
曖昧な恐怖など、群青の魅入りを早めるに過ぎない。
余生を、心行くまで。
そう思って辻占い師をやっていたけれど……ううん、なかなか。
「ミツルさん、案外長生きね。私がお婆さんになるまで生きているなんて。その時にはミツルさんの絵本も多少は売れているかしら? あ、でも、たとえ売れていなかったとしても、私は読み続けるから落ち込まないで?」
「待て。マナお嬢様は私が定年を迎えた後も付きまとうつもりなのか?」
「組に定年なんてないわよ?」
なんたることだ……と頭を抱えるメルカ。それより組って何。ヤのつくお仕事?
やっぱり犯罪者じゃないか。
「ねぇ、占い師さん」
「なにかな、私は占い師じゃないけれど」
「お母様の寿命は占える?」
「あなたの名前を教えてくれれば」
本当はそんなこと出来ないけれど。
居場所の分からない誰かの群青なんて、私には見えないけれど。
「すごい! それでわかるのね。
「ん。
じゃあ、言うけど。式の寿命は――」
それは多分、来たるべくして来た、一つの結果なのだろう。
引き合わせるのが爆弾魔・倉密メルカであろうと、絵本作家・瓶倉光溜であろうと、はたまた私の知らない誰かであろうと。
その少女と私が出会うのは、必然で。
彼女たちが去った後に、なんでもない顔をして現れた、大遅刻の全身真黒眼鏡は――。
「良空? 珍しく上機嫌だね、何かあったのかい?」
「友達の子供がね。私に会いに来てくれたんだ。ちょっと嬉しかった。
「へぇ。それって僕の知ってる人?」
「――うん」
なんとも、とぼけた事を言いながら。
幸せそうな笑みで、おかしく笑っているのだった。
……見せつけてくれるよね。
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