G.E.alternative (時計屋)
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01. プロローグ

 あの時と同じ笑顔だった。

 

 短く、しかし色鮮やかな年月を彼女と共に過ごした。自分たちはそこでたくさんの記憶の断片を積み重ねていった。

 その大半は既に忘れてしまった。それでもどこか片隅に残っている光景には必ずと言っていいくらい、彼女がいた。

 記憶の中の彼女は明るく朗らかな少女だった。その出生を考えれば奇跡的と言うべき豊かな感情は、彼女の見せる表情によく表れていた。目を瞑るだけで膨大な量の彼女の素顔が頭に浮かんでくる。

 そんな表情の中であの笑顔が、一番嫌いだった。

 あれは自分たちの最後の思い出だった。彼女は誰にも何も告げないまま、何処にあるかも分からない場所に旅立とうとしていた。その寸前で突然の別れを知った自分たちは、幾つかの規則や法律すら破って彼女を見送りに行った。自分たちの間はどうしても乗り越えることが出来ない壁があった。

 それを越えて彼女が送ったのは、今と同じ微笑みだった。

 

 

 あの日、自分達は警備員を泣き落として飛行場に不法侵入した。

 まだ幼い兄弟を連れた自分達が離発着場までたどり着くことが出来たのは、たぶんもっと上部の警備責任者あたりが見て見ぬ振りをしてくれたからだと今では分かる。

 それでも最後は、滑走路を目前に高いフェンスに行く手を阻まれてしまった。

 こんなもの簡単に越えられる。

 そう思った。毎日、走って走って、走り回って生きているんだ。

 しかし同時に、自分だけならまだしも他の者を連れてこのフェンスを乗り越えることは不可能だということもよく分かっていた。最年長の自分がこの子達を置いて行く事は決してないということも。

 それは自分達の唯一の鉄則だった。

 もちろん施設での下らない規則は数えきれないほどある。その膨大な鎖の全てを記憶しているのは彼女くらいだった。

 しかし、自分達が本当に守らなくてはいけない規則は、自分達自身で決めた唯一つの約束だけだった。それはもしかすると規則というより、皆の起源といった方がいいのかも知れなかった。

 神だけでなく人にさえも裏切られた自分達は、だからこそ自分達同士を裏切ってはならない。年上の者は小さな兄弟たちを守る。そして育てる。どんなことがあっても見捨てない。年下の者はいつでも年上を頼っていい。しかし緊急の時には必ず言う事を聞く。出来ることで手助けをする。

 当たり前の相互扶助の教えなのだろう。しかしこの規則を守って生きていくことは本当に、本当に難しい。最年長になったばかりの自分は、その事を痛いほど分かっていた。

 この子たちを置き去りにはできない。自分の足に寄りかかるように崩れ落ちていく彼らを見下ろしながら、そう思った。自分が守らなくては。

 ただでさえ最も信じていた人に裏切られ、深く傷ついているのだから。

 

 幼い決意を意識しながらも、まだ幼かった自分はどうすれば良いかも分からずただ途方に暮れていた。唯一できたのは呆然と座り込んだ兄弟達と一緒になって、フェンスの向こう側を眺めることだけだった。

 目の前の景色の大半は、ほとんど穴だらけになった長い滑走路が占めていた。この滑走路も他の建築物などと同じく、まだしも被害が少ない部分を補修して、だましだまし使っていることは想像に難くなかった。駐機されている輸送機はどれもスクラップ寸前、いやスクラップそのもののように見えた。

 このご時世、どこも同じなのだ。資源がない、食料がない、住む家がない。そして未来がない。

 世界はぎりぎりの均衡の中で成り立っている。それは誰しもが自ら肌で感じている事だろう。

 生きることは刃の上を歩くようなものだ。

 かつて読んだ小説の一遍を思い出した。ごく薄い剃刀の線上から落ちれば、即座にこの舞台を去ることになる。しかし白刃の上に立ち続けたとしても、自分の足は徐々に切り裂かれていく。死と隣り合わせで、苦痛の中に在り続ける。それが生きるということだと皆が分かっていた。

 

 無造作に泊まる無骨な輸送機の内、フェンスから一番、遠くにある機体が身じろぎした。

 機体の横にある搭乗口が開いた。滑走路の端にちょこんと乗っている管制塔の建物から、古めかしい小型車両がのろのろと走っていく。車両はその機体に向かっているようだ。

 彼女が乗る輸送機は、あの機体かも知れない。

 兄弟達もそう直感したのだろう。息を吹き返した死体のように立ち上がってフェンスにしがみついた。

 車両が輸送機の近くに停められ、中から人影が現れた。濃緑色の制服のシルエットから、その人影が女性らしいことが分かった。続く人影はいない。搭乗者はこの制服の女性だけのようだ。

 制服の背中にあるエンブレムが太陽光を反射して鈍く輝いた。

 神から生まれ神を喰らう、牙の眷族の王。

 それを見た瞬間、黒い感情が溢れ出した。その怒りは無機質なエンブレムに向けらたものか、それとも自分の無力さに対してか。答えのない激情に頭と体が支配される。

 制服の女性は、こちらに背を向けたまま一定の歩調で輸送機に進んでいった。士官が被るような小振りの帽子で髪を上部にまとめているのが見えた。支給品らしい頑丈そうな紺のスーツケースを片手に持っている。そのどちらにも制服と同じ狼がいた。

 兄弟たちの中でも特に目のいい自分には、女性の持ち物までよく見えていた。しかし、女性は顔を前に向けたままだ。これでは誰か分かりようがない。

 輸送機のエンジン音が鳴った。

 燃料の浪費を抑えるため搭乗者が乗り込む直前まで始動させないようにしているのだろう。今頃、操縦者が慌ただしく機体の状況を確認しているはずだ。一対の翼の両端にある推進機関が高い音を立てて回転数を上げた。

 無風だった滑走路に一瞬、突風が走った。回転数の上限を確認するために一瞬だけエンジンを噴かせたからだろう。制服の女性は手に持ったスーツケースが揺れないいう、両手で持ち直す。

 風が帽子をさらった。

 女性は空に舞った帽子を捕まえよう片手を伸ばした。

 しかしエンブレムの付いた帽子は彼女の手をすり抜け、滑走路に飛び去っていった。

 帽子で頭の後ろの方に止めてあった髪が解けた。長い髪が背中の悪魔を覆い隠すように広がった。

 

 あの長い黒髪は。

 皆が思った。彼女に間違いない。

 大声で叫ぶ。全員が一斉に。年長の者からまだ幼いものまで一緒になって何度も何度も彼女の名前を呼んだ。

 しかしこの距離だ。彼女と自分達の間には、ゆうに飛行機が離発着できるくらいの空間があった。それに彼女の目の前で輸送機のエンジンが高い音を立てている。自分達の声が届くはずがなかった。

 彼女は輸送機の胴体にある搭乗口に足をかけた。そのまま短い階段をゆっくり上っていく。名前を呼ぶ自分たちの声は彼女に届かない。気付くと彼女は最後の一段を上りきっていた。

 しかし、輸送機に乗り込む直前になって彼女が足を止めた。聞こえるはずの無い声に思わず立ち止まってしまったように見えた。

 そして彼女はどこか素っ気ないような仕草で、こちらを振り向いた。

 自分の目には、彼女の動作のひとつひとつがコマ送りになったように映っていた。後ろを振り向いた時に少し首を傾かせたからだろう、彼女の横顔に黒髪の一房がさらさらと滑り落ちた。

 普段から身だしなみにうるさい彼女は、兄弟たちの手本となるようにどんなに忙しい時でも身なりを整えていた。そんな彼女の自慢の長く美しい黒髪は、今では見ることのなくなった陶磁器のような素肌を、ほとんど抵抗無く流れていった。

 顔にかかった髪を繊細で、それでいてどこか生命力を感じさせる指先が軽くかき上げた。指には小さな指輪がはめられていた。誕生日に家族から送られた指輪を、彼女は身につけてくれていたのだ。あらわになった彼女のくちびるは淡い湾曲を描いてほんのりと紅かった。

 耳の後ろに撫で付けられた髪で隠されたその瞳は、まだ軽く伏せられたままだ。

 彼女が体ごと自分たちの方を向いた。

 ゆっくりと瞼が開いていく。

 少しだけ潤んだように見える彼女の瞳が見えた。自分達が大好きな彼女の瞳だった。彼女を見つめる無数の瞳を受け止め、それから軽く瞬きした。ほんの少しだけ驚いたように見えた。

 また閉じられたら瞼がもう一度、開かれるのと一緒に、彼女の口元が笑顔のように見える表情を形作った。

 同じ東洋人である自分から見ても神秘的な微笑みだった。嬉しい時や悲しい時。楽しい時、そしてつらい時。いつも彼女はこの微笑みを浮かべていた。その時の彼女のまなざしには、どこか郷愁を感じさせる暖かさが込められているものだった。

 開かれた彼女の視線と自分の視線が同じ直線上で交わった。自分の目にあったのは何だったのか。

 そして彼女には。

 

 彼女の瞳には何の感情もなかった。

 

 普段は目は口ほどにものを言うという諺どおりに雄弁な、彼女の瞳。

 どうして。こんな時に。何も語りかけてくれないのか。もう二度と会えなくなるのかも知れないというのに。ほんの少しだけでいいのだ。自分たちに、いや自分だけに何かを残して欲しい。

 何か彼女の気持ちが、彼女の証が欲しい。

 それがあれば。

 それさえあれば、このくそったれな世界で生きていけるのに。

 彼女の顔が再び前に向いた。

 彼女は自分たちに背を向けたまま機内に消えていった。虚ろな瞳の残滓だけが後に残っていた。

 飛び立っていく輸送機を見上げながら、まだ子供の部分を残したままの自分は、言葉に表せない苦い感情に身を委ねていた。

 自分の中にある子供の部分が嫌いだった。どうしようもなく揺れる感情が嫌いだった。一人では生きられない弱さが嫌いだった。自分を変えることができない、自分自身が嫌いだった。

 彼女にそんな笑顔をさせた自身が嫌いだった。

 

 

 そして今。

 彼女はあの時と同じ笑顔を浮かべながら、質量のある虚無の中に消えようとしていた。

 自分の目には、あの時と同じくコマ送りのように闇に飲まれる彼女の姿が映っていた。

 引き寄せたい。しかしもう腕は動かない。全身が言う事を聞かない。声も出せない。音も聞こえない。ただ一つの感覚を除いて、体と外界を結ぶ接点が消えていた。

 残されたものはこの目だけだ。見ること以外の全ての能力が失われていた。

 無力な自分は今度もまた、なす術もなく彼女が消え去ってしまうのを眺めるしかないのか。自分は変わったと思っていたのに。変える為の力を得たはずだったのに。

 捨てたはずの感情に揺れる自分の目に映るものは。

 彼女の瞳と微笑み。

 あの時も、そして今も、残されるものは虚構の微笑みだけなのか。

 この世界に抗う何かがあれば。自分に力さえあれば。

 あの時とは違う何かを、彼女と作れたはずなのに。

 そんな未来に生きたいと願った。

 だから失われた声でその名前を呼んだ。叫んだ。

 それは自分が愛した唯一人の女性の名前だった。

 最愛の彼女に、この声に成らない声は届いたのだろうか。

 あの時と同じく自分の瞳に込められた想いは、彼女に伝わっただろうか。

 

 色も形も失われたこの場所に、彼女の瞳だけがあった。

 あの時と同じ笑顔だった。

 いや、何かが違う。

 そうだ。今度は。

 瞳に映るその色彩は。

 彼女の瞳には何かがあった。

 その何かが自分に強く訴えかけた。

 

 見つけて。

 

 見つけて。

 

 私を見つけて、と。



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02. 目覚め

 声が聞こえる。

 そんな気がした。

 とても遠くから聞こえたようでもあり、耳元で叫ぶ声のようでもあった。音が頭の中で幾度も反響し、何を言われたのかも分からなかった。

 次に意識したのは触覚だった。全身の感覚は掴めなかったが、それでも身体があるという事は分かった。鈍い痛みが体の形を意識させているからだ。

 閉ざされたままの視界には、光を感じていた。僅かな光が目をすり抜け直接、脳内に干渉しているようだ。

 下腹に力を入れる要領で眉間の筋肉に集中した。そして意志の力を総動員して目を開く。瞼を通して感じていた光が眼球に射し込んだ。ぼやけたままの視界に、最初は光の白しか映らなかった。

 白に続いて物の輪郭が見えてきた。光の濃淡が影を作っている。視界に薄く映る影たちの中で、最も大きい塊は自分の身体のすぐ脇にあった。

 自分は横になった姿勢で上を向いていた。大きな影から曖昧さが取れていき、やがて人間の形となった。それは背の高い男の影だった。

「聞こえているか」

 聴覚が機能していた。反響しない地のままの低い音が耳に入ってくる。落ち着いた声だ。

 その問いかけに答えるために声を出そうとしたが、声帯は動かなかった。

 代わりの意思表示をしようと、努力して頭を傾けようとする。僅かに動いた。だがその瞬間、身体に激痛が走った。痺れるような電撃だった。頭を動かしたことを後悔したが、そのお陰で身体感覚が戻っていた。

 身体はほとんど言うことを聞かないが、目と頭くらいは動かせると分かった。。

 その反面、思考の方は全くと言っていい程、まとまらなかった。ここは何処だ。なぜ寝ているのか。体に力が入らないのはなぜだ。横に立つこの男は何者だ。

 そして自分は誰だ。

 いくつもの疑問が頭の中を飛び交っていたが、それを無視するかのように男が言った。

「そうか。では伝達だ。そのまま聞いてくれ」

 男は自分の声に何の感情も込めなかった。言葉が空気の上を滑り落ちていくような感覚を覚えた。男は音節を区切らず、極端に抑揚を押さえた独特の口調で言葉を続けた。事務的な内容に見合った事務的な話し方だった。

「君は48時間程、気を失っていた」

 そうか。ここに横たわっている理由が分かった。身体がほとんど動かない理由も、やはりそこにあるのだろう。だがその言葉を聞いても記憶は曖昧なままだった。

 視界は完全に鮮明さを取り戻していた。目に映るほとんどの物体は白だ。立てかけられた目隠しの白。治療台の敷布の白。白だけで構成された部屋だ。ここは医務室だった。

 戻った視力で、今度は男を眺めた。白い視覚の中にあっても、男の色彩のなさは不思議と目立っていた。

 身につけているのは長い外套だ。元は青みが強かっただろうその生地は、軍から支給された品だったのかも知れない。生地はかつての頑健さを失いすっかり色が抜け落ちた上、埃を被っている。青というよりは黒、黒というよりは灰。そんな色をしていた。

 男自身にも灰の色が浮かんでいた。薄く無精髭が生えたあご先に手を当てる仕草と、長い髪を無造作に縛っている髪型が相まってどことなく倦怠感が感じられた。

 その姿は浮世に関心を失った隠者を連想させた。砂と瓦礫の中に住む世捨て人ような男だった。

 色彩を失った男が呟いた。

「君はここから北東にある古い研究所を捜索していた」

 研究所。

 捜索。

 単語が記憶を刺激した。

 そして任務の途中だったことを他人事のように思い出した。

 そうだ。任務だ。

 しかし任務の内容についての記憶は、欠落したままだった。記憶の核に触れることが出来ないもどかしさを感じた。強固な鍵がかかっているような、そんな忌避感があった。

 男は淡々とした口調のまま話を先に進めていく。

「その研究所はこの支部が建設される前に使われていたものだ。支部の完成後に廃棄され、現在は無人となっているはずだった」

 古い機械類や壊れた実験器具、ジャンク素材が山になって積み上げられている光景が頭に浮かんだ。

 廃棄された古い研究所。

 埃と塵の積もった施設。

 価値あるものは何ひとつとしてない。

 いや、違う。

 唐突にそう思った。何もなかったはずが、ない。あったはずのものと、なかったはずのもの。それが思い出せない事にもどかしさを感じていた。

「先日、研究所周辺でアラガミが目撃された」

 

 アラガミ。

 その普遍性や多様性、そして何より強靱性を持って、極東の地に伝わる八百万の神の名を冠された荒ぶる神。神の名を持つバケモノだ。

 アラガミによって、世界は滅ぼされようとしていた。

 既に人類領域のほとんどが喰い尽くされた。全てを奪われた人間という種は、かろうじて捨て置かれたアラガミの食い残しにへばりつくように生きるしかなかった。アラガミは全ての生物、そして無生物を喰らうのだ。彼らは絶対の捕食者だった。

 アラガミに旧世界の科学技術は無力だった。

 アラガミを構成するオラクル細胞は、剛性と柔軟性を両立した細胞単体の強さと、強固に同一の細胞同士を繋ぎ合わせる結合力の強さを併せ持っていた。

 アラガミを殺すため、様々は兵器が投入された。しかし、物理的な力や熱などはもちろん、ありとあらゆる毒物や薬物を混ぜ合わせて作った化学兵器や、多種に致命的な病を生じさせる生物兵器も全く歯が立たなかった。熱核兵器も、だ。

 受肉した神を殺すことが出来るのは、神を喰らい、神の奇跡を模倣し、神の存在を凌駕する者だけだ。

 ゴッドイーター。

 神を宿した牙を持って、その神々の喉笛を咬み千切る捕食者。

 そうだった。思い出す。

 自分はゴッドイーターだ。自分に残された最後の存在意義を忘れていたなんて。

 しかし、もう一つの事実も頭に浮かんだ。

 望まない事実。それは、かつてはゴッドイーターだった、言わなければならないという事実だ。

 自分自身を過去形で語る。それはつまり、過去の自分と現在の自分は同一ではないということだ。

 牙を失った神機使いは、もう神を喰らうことができない。そう思うと寒けを感じた。

 震える体の動きに合わせて視線も揺れた。それに合わせて男の影も揺れていた。

「君の任務は研究所周辺に現れたアラガミを一掃することと、アラガミが徘徊するようになった原因を究明することだった」

 男は隠者の無表情で揺れる視線を見返していた。男の視線を隠しているのは、薄く色の入ったアイシールドのような眼鏡だ。その人工のパーツが、却って男の最も人間らしい部分のように見えた。

 この男の名はゴドー。ゴドー・ヴァレンタイン第一部隊隊長。この支部一番の古株にして、唯一の旧型神機使い。帰還者。

 この男は自分が配属された部隊の隊長だった。それも当然、過去のものになっていることだろう。自分は神機を失っているのだ。神機がなければ神機使いでいられない。

 やっと手にした自分の神機だったのに。

 

 ゴッドイーターの別名である神機使いは、その名前に反して「神機を使う者」ではない。

 実際は「神機に使われる者」だ。

 ヒトが自ら作った模造品の神に使役されるという事実は皮肉なものだった。

 だが神機の誕生で全てが変わった。

 アラガミを、つまりオラクル細胞で形作られた群体を破壊することは、同じオラクル細胞をもってしか成し得ない。神機開発の初期段階は、アラガミを食うアラガミに着想を得たであろうと推測される。

 だからアラガミを従え、それを持ってアラガミを殺す。当初はそんな計画だったはずだ。

 今思えば、それ愚かな思考だった。

 そうしてアラガミを素材とした機械兵器が作られた。神から授かった機械仕掛けの福音。それが神機だ。

 最初期の神機は、ごく小型の小動物くらいのアラガミを元に作られた。

 ほとんど驚異にならないような小さなアラガミ捕獲し、その中枢細胞群を摘出し、それを中核にしてアラガミに対抗する武器を作ったのだ。

 元となるアラガミの大きさを別にすれば、目の前にいる男が所有する伝説的な神機でさえ、同じ工程で作られているはずだった。

 拳銃大の神機で四足獣程度のアラガミを狩る。それを素材にしてより大きな重機関銃や両手剣サイズの神機を作る。そうして作られた物の一つが、男の持つ突撃槍型の神機だ。他方で今の主流は剣と銃の両方の形態に可変する第2世代の神機だった。自分が手にした黒金の神機もこの世代に属していた。

 やっと手にしたアラガミを殺すことが出来る兵器。しかし神機を開発してはじめて人間は気付いたのだ。アラガミそのものである神機を人間が扱うことは出来ないという事を。

 神機に、いや神に触れた瞬間、人間はその神に取り込まれてしまう。そして全細胞が作り変えられ、神そのものに変容してしまう。神機を手にした科学者は全員がアラガミとなってしまった。

 ヒトの可能性を諦めた人間は狂気の技に手を染めた。

 ヒトは自らの手で人造の半神を作ったのだ。かつてメアリー・シェリーが描いたパッチド・ヒューマンのように。家族や友人、名前すら持たなかった哀れな創造物のように。

 こうして神機を使うために改造されたヒトが神機使い、ゴッドイーターだった。

 神機使いとなることは魂を悪魔に売り渡すことと大差なかった。驚異的な身体力を得た反面、アラガミ由来の因子を定期的に注入しないと人間を辞めることになる。戦いで自分の限界を越えるたびに、身体が、精神が、アラガミに浸食されていく。

 神機使いを辞めるということは、死ぬかアラガミになるかという二者択一だった。ごく稀に人間のまま神機使いであることを終えた者もいるが、それが幸せなことなのかは疑問だった。子供を産み、神機使い候補として育成させられる生き方を手放しで幸福と言うことは難しいだろう。どちらにせよ、人生を神機に支配される運命からは逃れられないのだ。

 こうした神機と神機使いの関係は今も昔も変わらない。昔いまし、今いまし。やがてきたるべき未来でもこの主従が変わることはないだろう。

 神機使いの宿命が何であれ、普遍的な事実が定まれば、後はただの作業だ。

 はじめに神機ありき。

 良質の素材で強い神機を作る。より強く。より鋭く。

 そしてその次の段階に進む。

 神機にあてがう優れた神機使いを作る。より速く、より賢く。

 自分もそうして作られた存在だった。

 確実に人間と違う生物に成り果てた自分が、その寄りどころである神機を失った。今、自分は人間でも偽神でもない何かになっていることだろう。

 

「君の任務中に事故が生じた」

 揺れる視界を定まらせゴドーを見た。

 事故とは。そのせいで自分が負傷したのだろうか。

 口を開きかけた。

 しかしゴドーは軽く手を上げて動きを制した。

 彼のインカムから誰かの声が聞こえてきた。音量が小さく内容は聞き取れなかったが、早口で何かを伝えているようだ。

 ゴドーは「分かった」とだけ言って手を下ろした。

「申し訳ないが少し席を外させてもらう」

 なぜ、と問いかける視線に答えるようにゴドーは淡々と付け加えた。

 

「今、このヒマラヤ支部が食われかけているのでな、八神セイ君」



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03. 危機

 振り返りもせず医務室を出ていく灰色の背中を、目だけで追った。その視線を自動扉が遮った。室内が密閉される軽い空気音がそれに続いた。

 空白となった思考が回転し始めた。

 ヒマラヤ支部が喰われる。それはどういう意味なのか。

 結論が出ないままに身体が動いた。寝台から起き上がる。素足を硬質的な床につける。痛みはほとんど感じられなかった。

 少し遅れて気が付いた。身動き出来ないはずの手足が動いていた。腕が動く。足も動く。石のようだった身体に熱を運ぶため、血液が全身を走っていた。

 これがゴッドイーターという生物か。流石は半分、化け物の身体だと他人事のように関心した。

 立ち上がって自分を見下ろすと、重傷患者が着るような薄い服身に付けていた。腕や足など数カ所に包帯が巻かれ、左腕には点滴の針が刺されていた。しかし、関節など稼動部位を覆うような大掛かりな措置は見られなかった。

 手早く包帯を解いた。針も取り去った。

 出血なし。骨に異常なし。内蔵にも目立った損傷は感じられない。どうやら立ったり歩いたりするくらいなら支障はないようだった。

 次は服だ。辺りを見回しても自分の制服は見当たらなかった。

 仕方なく医務室にある更衣室を覗くと、文官用や儀礼用などの制服一式が保管されていた。緊急時だ。勝手に持ち出しても咎められることはないだろう。

 残念ながら野戦服は置かれていなかったので、自分に寸法の合いそうな服を適当に取り出す。身につける。強化素材の長靴があったのでそれも手に取る。

 最後に片方の袖が脇の部分まで大きく切り開かれた奇妙な上着を羽織った。

 右腕側の切り開かれた部分にある留め金を引き上げ、さらに固定具でとめた。留め金の先には手枷のような雰囲気の大きな腕輪がある。右手にある赤い腕輪のために、ゴッドイーターは専用に縫製された上着しか着ることが出来なかった。

 腕輪に異常がないか確認する。

 外装に破損なし。偏食因子の投与機構にも問題なし。定期接種が必要とされる偏食因子の残量や負傷時の生体回復機能活性剤などもほとんど減っていないままだった。

 まだ慣れていなせいかこの腕輪を見る度、憂鬱な気分を覚えた。

 ヒマラヤ支部に着任する直前、極東の地でオラクル細胞を移植された時のことを思い出してしまうからだ。右腕に結合型オラクル細胞制御装置を埋め込む儀式は、神機使いになるために不可避な通過儀礼だった。

 晴れて神機使いとなって感じたことは、誇り高い狼としての自覚というより鎖に繋がれた飼い犬に成り下がったという諦観だった。フェンリルに飼いならされ生殺与奪を管理される存在。その印がこの腕輪だ。

 なぜなら神機使いは生涯、この赤い枷を外すことが出来ないのだから。

 無骨な腕輪の形をした制御装置は、神機と神機使いを一個の個体に結合させる機能を有している。

 同時に、偏食因子を定期的に注入したり、身体のオラクル細胞を活性化させて傷を塞ぎ、また戦闘で消費されたオラクル細胞を緊急補充したりする薬剤の投与機能もある。

 偏食因子、つまりアラガミの食わず嫌いを利用して人間がオラクル細胞に喰われないように調整された因子は、その性質でゴッドイーターを神機の捕食本能から守っている。神機使いが驚異的な身体能力を持つことは偏食因子を移植した際の副次的な作用に過ぎなかった。

 神機と神機使い、そして両者を繋ぐ制御装置。これらを製造・運用できるフェンリルという組織は事実上、この狭い人間世界を支配していた。

 フェンリルは支配者の責務としてアラガミと戦っているのか、それとも戦うからこその支配者なのか。

 よく聞く問いかけだが、その質問に対する明確な答えはない。

 ただ、そのどちらにせよ赤い腕輪が支配する側の証だという事実に変わりはなかった。この腕輪を着けていると、羨望や嫉妬、恐怖、憎悪といった様々な感情が向けられているような気がして不快だった。

 腕輪の確認が終わると、直ぐに医務室を出た。

 そして神機使いの体力で走り出った。行動に支障はない。むしろ身体は軽かった。もう戦闘すら出来るような気がした。

 医務室や神機整備室、それに作戦室がある司令部の地下から1階の出撃準備室に向かう。今は緊急事態なのだ。第1部隊の隊長であるゴドーはブリーフィングのために出撃前の部隊の元に向かっているはずだと思った。

 

 1階につづく広い階段の中程でゴドーの背中に追いついた。予想したとおりだった。

「隊長」

 灰色の背中に声をかけた。

 ゴドーは首だけを動かしてこちらを一瞥した。

「緊急事態でしょうか」

 問いかけには答えずゴドーが言った。

「あれだけの傷を負ってもう回復したか。優秀だな」

「恐縮です」

「動けるようなら君にも働いてもらおう。付いてきてくれ」

 発言に反して驚きも賞賛も感じさせない態度で、ゴドーは階段を上っていく。急いでその隣につく。

「状況を説明しておこう」

「はい」

「支部の周辺にアラガミの群れが押し寄せている。この群れは小型から中型までのアラガミを中心とした混成集団だが、群れに歩調を合わせる大型の個体も複数、確認されている。総数は確認されているだけで500体ほど。この数字は多けれ1,000程度まで膨れ上がるだろう」

 驚きだった。返す言葉に詰まり押し黙ってしまう。

 激戦区である極東支部ならまだしも、ここヒマラヤはアラガミの活動がほとんど見られていない地域のはずだ。いわばアラガミの空白地帯であるこの地に何が起こったのか。

 ゴドーは淡々と続けた。

「偵察に出た部隊がアラガミの一群と偶発的に遭遇、任務を威力偵察に変更して敵の実態を探っていた。先ほど増援と合流して現在、遅滞行動を取っている。だが、持ちこたえても数時間程度だろう」

 急いで現状を把握する。机上戦では常に平均を上回っていた。能力的には実戦にも耐えられるはずだ。

 上官に対し、言うべき疑問を述べた。

「これだけの大きな群れです。支部周辺に接近を許す前の段階で、元となったそれぞれの群れの出自を分析しているはず。その結果は如何ですか」

 どの地域に生息していたアラガミが、どのような経緯で支部に向かったのか。アラガミの出所が分かれば対応もし易くなる。偏食因子の関係上、闇雲に撃退するより元々の生息地域に向けて押し戻す方が容易なのだ。特に大群を相手にするときは。

 しかし、返ってきた答えは期待したものとは違っていた。

「ごく初期の段階では、群れではなかった」

「群れでは、ない?」

「そうだ。一定の地域に生息していたアラガミの集団が揃って支部に向かってきたのではない。ここ24時間程かけてかなりの広域から個々のアラガミが集まってきたようだ。アラガミの種類も多岐に渡る。群れを構成するアラガミは何かに引き寄せられてここに集まった。不条理だが、俺はそういう印象を持っている」

 これは本来、あり得ない行動だった。

 絶対の捕食者であるアラガミは、ある意味で偏食因子に行動を支配されているといっても過言ではない。

 もちろん、中枢細胞群が周囲のオラクル細胞を制御して一個の個体と成していることは動かしがたい事実だ。脳や臓器が存在しない単一細胞群体のアラガミの核は、間違いなくこの中枢細胞群である。

 しかし、その行動を分析すると違った側面が見えてくる。

 同族以外に天敵がなく、また通常の生殖活動を必要としないアラガミの行動は、その全てが捕食に繋がっている。喰う為に生き、生きる為に喰う。

 ただ、辺り構わず無差別に捕食するものでもなかった。好んで捕食する対象があるのと同時に、捕食を避ける対象もある。この捕食の偏りを司るものが偏食因子だ。偏食因子はアラガミの種類ごとに違っているものだった。

 この因子があるために、アラガミは意図せず同種で群れを形成する。好みの捕食対象が同じであれば、自ずと行動も同じになるからだ。

 群れとなった結果として、唯一の天敵である自分より大型のアラガミと対峙した場合でも生存できる可能性が高まる。その結果、アラガミの群れは長生きすることになるのだ。

 神機使いがよく同種のアラガミの群れを見かけることには、こうした背景があった。

 もちろん中には例外もある。時に偏食因子の近い別種のアラガミが混じって群れを成すこともあるからだ。しかし、それは一時的なものであることが多い。長期的に見ると、それぞれの種が有する環境適応性などの要因によって群れが分裂していくことになる。

 つまり複数種のアラガミが別々の経路で一カ所に集まることは異例なのだ。

 数の面だけでなく、質の面からみても支部を取り巻く環境は危機的だった。予測のつかない事態は往々にして更なる悲劇を呼び込むものだ。

 何かが偏食因子を操っている。

 有り得ないと分かっていても、そんな仮定をしてしまうことが恐ろしかった。

 

 ゴドーはいつの間にか階段を上りきっていた。顔は正面を向いたままだ。歩みも止めていない。一定の口調と一定の歩調だった。

「そういった経緯で初動が遅れた。気付いた時には既に支部の周囲をアラガミの群れに囲まれていた、というところだ。しかし過去の失策を嘆いても仕方ない。粛々と対処すればいい」

 危機的状況にあっても、その挙動や口調に変化は見られなかった。これがベテランの神機使いの余裕なのか。いや、いかにベテランでもこれだけの脅威と直面した経験はそうはないはずだ。それでも冷静に振る舞えるだけの実力があるということなのだろう。

 ふいにゴドーが立ち止まった。

 はじめてこちらを向き「君に言っておきたいことがある」と言った。瞳を隠すアイシールドは無機質に光を吸収している。

「君に指示した任務、例の研究所の捜索だが、あれは非公式な任務だった」

「申し訳ありません。発令の経緯は覚えていません」

「そうか。ともかく、非公式の任務で問題が生じたことに頭を痛めている。口を噤めとは言わないが、この緊急事態だ。問題にするのは嵐が去ってからにして欲しい」

「承知しました」

 特に考えもせず了承した。要請という形であったも上官の言葉は絶対だ。

「あの任務は君の神機使いとしての適正を見るためのものだった」

 未だに記憶は戻っていないが、状況を察することはできた。

 極東支部の士官学校で学んだ自分には、まだ実戦経験がない。適正という言葉使ういう事は、それは実戦での適切な振る舞いができるか否かということを指す。

「君の適正を疑うわけではない。ポルトロン支部長の考えはどうか知らないが」

 ゴドーは支部の意志決定権者であるポルトロンの名前を出した。そして言葉を続けた。

「俺は古いタイプの神機使いだ。実戦に出る前に部下の実力を見ておきたいと思うのは当然だろう」

 ゴドーは笑顔を真似たような表情を作った。

 ベテランの周到さ、悪くいえば狡猾さは自分なりによく理解しているつもりだ。神機に適合する神機使いを見つけることは容易ではない。そのため、どの支部でも人員不足が常態化している。

 だからベテランであればある程、新人を長生きさせたがる。それは支部や部隊の為であり、自分の為でもある。

 新人の適正を見極めてから所属部隊を決めなければ、下手をしたら犬死にさせてしまい、次の補充が他の支部の後回しになってしまう。避けたい事態だ。

 ゴドーは感情の起伏を感じさせない独特な口調で言った。

「そういった経緯で非公式の任務を与えたのだが、タイミングが悪かった」

 一瞬、理解できず「タイミングが、悪い」と思考がそのまま口をついて出ていた。ゴドーは頷いた。

「ああ、実にタイミングが悪かった。今の危機的状況下では支部全体の士気に関わる」

 支部の士気。自分が神機を失っていたことを思い出した。たとえ実戦経験がなくとも神機使いは神機使いだ。少しでも戦力が欲しい今のような状況では自分のような新人でも引く手数多だろう。

 支部の失策という面がないことはないが、問題の根幹にあるのは自分の力量不足という動かし難い事実だった。

「貴重な神機を失ってしまい、大変、申し訳ありません。しかし自分は士官として作戦の立案から指揮の補佐まで一通りできると自負しています」

 自分が士官として全く期待されていないことは十分、承知している。しかし、このフェンリルは軍事組織であるだけでなく事実上の統治機構なのだ。たとえ神機使いでなくなったとしても、フェンリルに貢献すること自体が重要なのである。こんな時代だ。兄弟達と生きていくためには何でもやるしかない。例え泥水を啜ってでも。

 そう暗い決意を固めていたからだろう。ゴドーから返事が返ってきた言葉に驚かされた。

「君の神機は研究所内で発見された。既に整備室で応急処置が施されている」

 まさか。

 あの時、アラガミに噛み千切ぎられたはずだ。

 あの白いアラガミに。

 ふいに目の前にある記憶の塊が溶け出した。

 白いアラガミ?

 一瞬、掴んだように思った記憶は、水のようになって手から溢れていった。

「神機の偏食因子に若干の異常が見られたようだが、十分、実戦に耐えられる水準とのことだ。今度の支部防衛は総力戦になる。君の働きに期待している」

 話を聞きながら頭に浮かんだアラガミの影を追った。

 神機が戻った。しかも機能している。

 喜ぶべき事だが、何故か今の自分の心には届かなかった。

 何故だ。

 何かがおかしい。

「もう一つある」

 やはりゴドーの表情からは何の意図も感じられなかった。プログラムされた言葉を話す人工物のようだ。

「君にはこちらの方が気になることだろう」

 ゴドーは見えない目線でこちらを見た。

「八神君、いや君のことではない。八神マリアのことだ」

 

 八神マリア。

 なぜだ。

 なぜ彼女のことを忘れていた。ここまで来たのも、全ては彼女のせいだというのに。

 マリアは同じ施設で育った姉だった。彼女は3年前、神機との高い適合率がフェンリルの目に止まり、新人神機使いとして極東支部に配属することになった。その時、マリアは施設を出て正式にフェンリルの一員となった。彼女が16歳の時だった。

 マリアは2年間にわたり極東支部の激戦を生き抜いた。あの時代を生きたということは、ただそれだけでも奇跡的なことだった。

 極東時代、アナグラと呼ばれる支部の防衛を担っていたマリアは、任務の傍ら支部を支える生産体制と物流に関する分厚い論文を書き上げた。地味な研究だが、同時に重要な分野でもあった。

 この研究がフェンリル上層部に評価され、さらに積み重ねた防衛任務が実地訓練と見なされ、マリアは士官となった。兵卒上がりの特務士官ではなく、士官学校を出た者と同じ正規の少尉待遇だ。

 そしてその直後、このヒマラヤに配属となった。それがちょうど1年前のこと。配属されたのは目の前に居るゴドー直属の部隊だった。

「マリアには君の士官としての適正を見る為に任務に同行してもらっていた」

 マリアが同行していた?

 その思考を支えるように記憶が浮かび上がった。

 確かにあの時、自分とマリアの2人で任務に出た。そもそもが簡単な任務だった。数体の小型アラガミを目撃したという理由で、フェンリルの古い施設を捜索するという任務だ。

 アラガミは既にその場所を去っている可能性が高い上、仮に残っていたとしても大した脅威ではなかった。

 まるでピクニックのようね。

 マリアはそんな軽口を言って自分についてきた。

 マリアと話すのは3年ぶりだった。

 極東時代は訓練が忙しいという理由で一切の接触を断っていた。子供らしい意地だということはよく分かっていた。しかし、あの時はそうせざるを得なかったのだ。

 任務中、マリアと何を話していいのか分からず、常に無言だった。それでもマリアは、着任したての自分を心配してかヒマラヤ支部のあれこれを事細かに話していた。

 マリアの気遣いに触れて、懐かしさを覚えた。かつては長い時間を一緒に過ごした家族。そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 この任務が終わったら話をしよう。いつまでも過去にとらわれて生きるのはごめんだ。

 しかし、中途半端な気持ちで任務に臨むことは、不器用な自分には無理なことだった。

 だから、全ては任務から帰ってからにしよう。支部の休憩室にあったソファに座って、二人でゆっくり話そう。

 そんなことを考えながら、黙ったまま研究所に入った。マリアは変わらず後ろからついてきた。背中を預ける安心感を覚えた。

 山の傾斜を利用して地下に建設された研究所の内部には、アラガミの反応はなかった。がらんとして広い室内をひとつひとつ捜索しても見るべきものは何もなかった。

 いや、違う。

 あったではないか。

 ないはずのものが。

「まだ気付かないのか」

 思考の内側から外に引き戻された。

「君は普通なら最初に気付くはずのことに、気付いていない」

 ゴドーの言葉になぜか頭が揺らいだような気がした。

 普通なら最初に気付くような、当たり前のこと。

 

 バラバラに置かれた記憶のカードが奇術師の手元に戻るかのように整頓されていった。

 手元に揃ったカードが一枚ずつめくられる。カードを一枚、表にするたび、記憶の一場面が浮かんでくる。

 最初のカードには、フェンリルのマークがあった。

 研究所内のそこかしこに狼の姿があった。かつて民間の穀物大手企業であったフェンリルの面影を残す生物実験施設。しかし価値のある物はあらかた持ち去られて廃墟となっている。

 次々にカードがめくられていった。

 次に現れたのは、古い神機。

 半ば塵に埋もれた神機のコアは鈍く光っている。

 白いアラガミの影。

 不意打ちと負傷。

 砕かれた自分の神機。

 白いアラガミはそれを喰らう。

 自分をかばい意識を失ったマリア。

 彼女を担いで走る、走る。

 負傷した彼女を助ける為に。

 出来ることはその神機を。

 手に取る、しかし。

 彼女は。

「思い出したようだな」

 ゴドーが静かに告げた。

 

「八神マリアは死亡した」

 

 黒い顎に飲まれるマリアの姿が脳裏に浮かんだ。

 



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04. ヒマラヤ支部

 戦域管制官の悲鳴のような高音が聞こえた。

 ほとんど重なるように発せられた激しい声も。それも複数だ。熱狂を感じさせる言葉たちに共通していたのは高揚、焦燥、そして怯えの感情だった。

 幾つもの感情が渦となって混ざり合う。混沌色となって空間を満たす。充満した感情が広場といっても差し支えない空間を、とても狭く感じさせていた。

 出撃準備室は混乱の中にあった。

 名前の示すとおり、この部屋は作戦行動に入る前に様々な準備を行う場所だ。作戦の確認や部隊のブリーフィング、神機を微調整するスペースもある。

 部屋に入って初めに目につくものは、中央に設置してある大型モニターだ。金属のアームで天井に固定されている3台のモニターは、長身の人物の頭部より少し上くらいの高さに位置にあった。室内のどこからでも表示内容が見えるよう、モニターの角度が調整されていた。今はそこにフェンリルのエンブレムだけが映し出されていた。

 中央モニターを挟んでロビーの東側と西側には、出撃ゲートと管制カウンターが配置されていた。東に向かう頑健な出撃ゲートは多重エアロック構造だ。四重の対アラガミ装甲壁が外部からの侵入を防いでいる。

 完全環境都市であるこのヒマラヤ支部は、分厚い対アラガミ装甲壁によって外の世界から完全に閉ざされていた。

 

 世界中にあるフェンリルの各支部は、全てここと同じアーコロジー構造の建設群だ。水資源の浄化施設、食料生産工場、再生エネルギー発電所。生活に必要なインフラ全てを体内に有するアーコロジーという概念は、かつて建築学と生態学が交差する領域で生まれた。

 それを自給自足が可能な建設群として実現させたのがフェンリル技術開発部門だった。

 一口に自給自足と言っても、完全に閉鎖した都市を維持することは決して容易ではない。人数に比して少ない面積の中で限られた資源を活用し、全ての需要を賄っていくことはほとんど不可能に近かった。それに加え、外部のアラガミと戦う必要もあった。戦いに持ち出す資源は多かった。

 自給自足を維持するためには支部内のアーコロジー比率を100%に近づける必要があった。

 そのため都市の人口統制は厳密を極めた。皆が結婚、出産のタイミングまで支部管理部にコントロールされている状況が長く続いていたため、その事はもう問題にもならないくらいだ。

 もっと刹那的な食料の充実や娯楽設備の拡充など目の前にある欲求にこそ、人々の関心が向いていた。それが支部の現実だった。

 不自由な立場に甘んじる一般居住区の人々は、形式上はフェンリルに雇用された専門作業員という立場であった。

 しかし、その内実は支部の維持運営のための強制労働者だった。賃金は少なく、それも何らかの形でフェンリルに吸い上げられる。だから手元にはほとんど何も残らない。そもそも支部で流通している通貨それ自体がフェンリルの管理下にあるフェンリル・クレジット、仮想通貨fcなのだ。

 これではフェンリルが一般の人々に好かれるはずもなかった。

 しかしアラガミのいない世界に住むためには、管理者フェンリルに人生を捧げる必要があった。たとえ不自由な暮らしでも、外界でアラガミに喰い殺されるよりはましだ。そう思って全てに耐えている者も多いだろう。

 だが既に壁の内側しか知らない世代が増えていた。アラガミをその目で見たことがない新世代の若者が、今や成人になろうとしている。

 彼らは内心、支部の外を見たいと思っているに違いない。たとえそこが地獄であっても、人の好奇心は止められないのだ。

 しかし彼らの願いは叶えられない。支部の中で生まれた者は生涯を壁の中で過ごし、一度も外部に出ないまま死ぬ。それが現実だった。

 支部外への移動手段の中で比較的安全といわれる輸送機の燃料は、途方もなく高価だ。家族全員が生涯をかけて働いた金を集めても手が届かない。それ以前にfcでは貴重な化石燃料を買うことさえできない。

 陸路は空路より更に困難だ。外部に通じる扉は、ただ一カ所のみ。外壁とほぼ一体化したヒマラヤ支部フェンリル司令部の、この出撃ゲートだ。そして、ここを通って閉鎖都市を行き来するのは神機使いしかいない。

 例外的にだが、ゲートを通過できない大型の車両などのために別の方法もあるにはあった。対アラガミ装甲壁の表面に外付けされたリフトを使って、物資などを外に持ち出すことができた。

 リフトは司令部の操作一つで爆破・廃棄でき、万が一、機能が停止してもアラガミが侵入する橋頭堡にならないように作られていた。その反面、運べる大きさや重さに制限があり、更に強度に不安があるという問題もあった。また破損する心配があるため、利用が制限されている代物だった。

 つまり支部の外に出るためには事実上、神機使いになる他に道はない。そういうことだ。

 夏への扉を探す猫は、結局はそれを見つけることが出来ない。鈍色に光るゲートを見ると、ターミナルの古いデータで見つけた小説の一遍が頭に浮かんだ。

 

 出撃ゲートからモニターを挟んで反対の位置にあるのが、管制カウンターだ。ここは管制官の定位置になっている。今、数人が集まって話し合っているのは、この場所だった。

 カウンターそのものである情報端末を囲んだ神機使いの顔には焦りが浮かんでいる。彼らと対面している管制官もまた、神機使いたちと同じような表情をしていた。

 横長に広いカウンターには2人の管制官がいる。ともに若い女性だった。2人の内、どこか幼さを感じさせる黒髪の女性は、神機使い達と顔がぶつかり合うくらい近い距離で地図を睨んでいる。

 本来、柔和さが目立つのだろうその顔には、全く余裕が見られなかった。女性は身を乗り出し、卓上に立体表示されている支部周辺図の各所を示していく。

 カウンターを囲んでいる神機使い達は、女性の指す座標や別のモニターに出ている情報などを食い入るように見ていた。彼らは時折、自分達でも地図の点を指しながら、張りつめた言葉のやり取りをしていた。

 もう一人はアジア地域では珍しい長い金髪が目立つ女性だ。幾つかの監視モニターを同時に操作する指先には優雅さが感じられた。

 ただ、その涼やかな顔は極度の緊張下で青白くなっていた。顔をモニターに固定したまま、視線だけが忙しく動いていた。

 この二人の女性は神機使いと直に接する上席戦域管制官なのだろう。

 単にオペレーターとも呼ばれる彼女たちは、実は多くの部下を指揮する立場にあった。

 部下である下位の管制官たちは一般的に神機使いと接する事はなく、平時は管理室、有事は後方支援室に詰めている。有事の今は、協力して戦域全体の観測データを分類・分析しているはずだった。二人の上役を情報面で補佐し、間接的に神機使いを支援するためだ。

 一方で彼女たち上席戦域管制官が担当するのは作戦内容の伝達、部隊編制の補佐、戦闘下の情報伝達などの単なる通信・補佐分野だけに留まらない。小型無人機による支部周辺の監視・索敵の指揮、オラクル細胞の共鳴技術を応用したアラガミ情報の解析、戦闘中のアラガミの戦力分析と神機使いのバイタル情報の管理。これら全ての分野を統括している。

 神機使いのように直接、アラガミと戦うことはないが、同じくフェンリルを軍事面で支える存在だ。ある意味、神機使い以上にアラガミに詳しいことが要求されるこの専門職は、前線に出る部隊の生命線といってよかった。

 冷静な分析と的確な指示を行う戦場の指揮者が、彼女たち戦域管制官だ。

 しかし今、冷静さが求められるこの管制官が、神機使い達と一緒になって感情を露わにしている。この支部の置かれた状況をよく表しているように思えた。

 もしかすると。

 ふいに思った。

 この支部は落ちるかも知れない。

 冷静さを欠いた現場に活路はない。もちろん、その先の未来も存在し得ない。

 だが運命を共にするはずの支部の行く末も、他人事のように感じられた。

 支部と共に最後を迎える。例えそうであっても別に構わないではないか。自分の人生はもう既に終わっいる。

 

 横に立つ男が、鋭い仕草で二回、手を叩いた。

 飛び交う喧噪の空白に、乾いた音が響く。

 音の余韻が消えた。声も消えた。

「諸君、話を聞いてくれ」

 自ら作った沈黙の中、ゴドーの低い声が静かに広がった。

 神機使いたちは顔を上げ、声の主の方を向く。僅かに緊張感を増したように見える彼らは、しかし同時に落ち着きを取り戻していた。隣接する待機室からも何人かの神機使いが現れた。彼らもゴドーに近づき姿勢を正した。

 神機使いと共に熱くなっていた黒髪の管制官はゴドーを見て一瞬、大きく目を見開いた。次いで目を閉じ深呼吸する。口元に軽い微笑みが浮かんだ。そして瞼が開かれると、柔和な顔つきに似合う澄んだ瞳が現れた。

 女性は目線で男に謝意を示し、直ぐに同僚の肩を軽く叩いた。どうやら黒髪の女性の方が先輩格のようだ。金髪の女性は驚いたようにそちらに顔を向け、両手で胸を押さえた。

 二人は揃って目線を男に向けたまま端末を操作し始めた。先ほどよりも滑らかな動きに思えた。一定のリズムが感じられる指先の動きだった。

 色彩を感じさせないゴドーの声は、室内の温度を急速に冷やしたようだった。先ほどまで狂騒は消え去り、代わりに静かな緊張感が広がっていた。

「ヒマラヤ支部の周辺に、アラガミの群れが集結している」

 聴衆は無言のままだった。声の主を真剣な表情で見つめていた。隣に立つ自分は、きっと全く目に入っていないことだろう。

「危機的な状況ではあるが、既に防衛作戦は用意してある」

 その言葉に安堵を表す者。反対に疑いの目を向ける者。それらの視線に込められた感情を無視したまま、ゴドーは言った。

「カリーナ、音声を全チャンネルに繋いでくれ」

「了解」

 カリーナと呼ばれた黒髪の女性は短く答えて端末を操作した。

 短いやり取り。短縮された単語。

 フェンリルの公用語は英語を元に作られた短縮言語だ。習得の容易さと会話の迅速さのために、単語の各所が削られている。そのことから喰い千切られた英語という意味でファングド・イングリッシュ、または単にファングドなどと呼ばれている。

 カリーナは母国語のように流暢なファングドで、 

「作戦中の部隊を含む全回線に接続しました」

 と報告した。ゴドーは彼女に軽く頷いた。

「最初に言っておく。防衛作戦の指揮は俺が取る」

 ゴドーはそこで一拍、呼吸を挟んだ。

「先ほど、ポルトロン支部長より期限付きで指揮権を委譲された。それに伴い野戦任官があり、一時的に特務大尉となった。作戦中は全部隊が俺の指揮下に入る。よろしく頼む」

 ある程度、予想されていたのであろう。神機使い達からは何の声も上がらなかった。ゴドーが優秀な神機使いというだけでなく、前線指揮官としても信頼が厚いことを意味する沈黙だった。

「安心して欲しい。諸君らが敬愛する支部長閣下は引き続き、支部長の椅子を暖めるという重大な職務を全うされる」

 情報秘匿のため一般回線から独立している支部長室の回線に、ゴドーの声は届かない。

 神機使い達は失笑した。大きく声に出して笑う者もいた。無表情なのはゴドーだけだ。

「言い忘れていた。我らが支部長閣下はフェンリル本部や近隣の支部に支援を要請している。自分の身の安全のため必死だ。熱心なラブコールに応じて、遅くとも48時間以内に救援部隊が到着すると予想される」

 周りから安堵のため息が漏れた。そして先ほどより大きい笑い声も。リラックスした声だった。

 

「俺たちはこの2日間を凌ぐだけでいい。楽な仕事だ。クールにいこう」

 ゴドーは「カリーナ」と声をかけながら手のひら大の情報チップを放り投げた。

 両手を伸ばしてそれを受け取ったカリーナは、直ぐに情報端末に接続、データをモニターに映した。

「現在、第3部隊が遅滞戦を行っている。彼らが帰投した後、支部防衛作戦を発令する。予定時刻は本日一二○○」

 右腕の腕輪を操作して時刻を合わせ、発令時間を確認する。約2時間後だ。

「敵の規模は500から1,000を想定する。広域から集まったアラガミの群れと推測される。群れは現在、支部の東方に位置する山岳地帯に集まっている」

「群れの一部は数時間前、南に下った平原に移動。そこから支部方面に向かう動きを見せていた。付近を哨戒していた第3部隊がこの小集団と遭遇、威力偵察を行った」

「情報収集を終えた第3部隊は先ほど、支部からの増援と合流。遅滞行動を取りつつ交戦を続けている。ここまでが現状だ」

 話しながら合図するゴドーに合わせ、カリーナが手元の端末を操作した。大型モニターに支部周辺の地図が表示され、ゴドーの話す内容に沿って幾つもの光源が浮かんだ。

 支部の東方、山岳地帯にアラガミを示す無数の赤い点が光っている。平原地帯にも少数の点があった。

 アラガミの足止めをしている第3部隊の現在位置も表示された。彼らは平原の端でアラガミの群れの先端部分と接していた。

 平原にいるアラガミの群れを示す光はまばらだった。散開する隊員の方へ、バラバラに別れて向かっているようだ。そしてアラガミの赤い点は、徐々に数を減少させていった。第3部隊が群れからはぐれたアラガミを個別に叩き、数を減らしているのだ。

 第3部隊の威力偵察によって得られたアラガミの数や種類などの情報も、地図とは別のモニターに表示されていた。

「見てのとおり第3部隊は偵察班としての職務を忠実に果たしている。彼らはアラガミの本隊が移動を始める直前の段階で戦域を放棄、帰投する」

 第3部隊の面々は交戦しつつゴドーの声を聞いているだろう。ゴールが明確になった彼らに迷いはなくなったはずだ。粛々と任務を遂行するプロフェッショナルの姿が想像できた。

「第2部隊はいつもどおりの仕事をしてくれ。防衛班の腕に期待している」

 カウンターに陣取った神機使いのひとりが「了解」と答えた。ゴドーは軽く手を上げてそれに応じた。

「防衛ラインは2カ所だ。第一ライン旧都市群の手前、立体交通網の中央部だ」

 アラガミの群れから少し離れた地点に第2部隊の印が光った。旧時代の発達した交通網が交差する地域だ。立体の交通路を両側から挟み込むように二つの光源が表示された。

「第2部隊は小隊に分かれ、小隊規模で行動する。D小隊は北、E小隊は南に陣を置き、交通路に入ったアラガミを挟撃、動きを止める。残りの小隊はD、E両隊を支援する。アラガミ本隊の中央部分が立体交通路に入ったところで支柱を爆破。群れの損傷具合を確認した後、支部に帰投する」

 防衛班の面々は頷いた。ゴドーはそちらに視線を向け、目線で頷いた。

「今回は特別サービスとしてダイナーを手配した。2台あるので好きに使ってくれ」

 カウンター前にいた神機使いが口笛を吹いた。

 「ダイナー」とは移動式オラクル補給機構の俗称だ。かつて旧型神機が主流だった時代、銃形態のみで戦う遠距離型の集中運用の為に考案されたものだ。対アラガミ装甲車両の内部に偏食因子で保護された大容量オラクル細胞貯蔵タンクを搭載している。

 事前に神機と車両とリンクさせておくことで、銃撃戦の最中、タンクのオラクル細胞を神機に送り続けることができる。弾切れを心配せずに撃ちまくれるということだ。

 ダイナーと接続された数人の遠距離型神機使いは、アラガミの群れを数分で撃退することも可能だった。それが2小隊分あるということは、遠距離からアラガミを十字砲火し続けることを意味する。十字放火で射撃効率は数倍に向上するため、高い戦果が期待できる。

 このダイナーは平坦かつ広い路面でしか運用できない上、集中砲火で貴重なアラガミ素材をほとんど破壊してしまうという問題があった。その性質上、偵察・討伐任務には向かない装備だが、その反面、射撃に特化した防衛班との相性は抜群だった。

「第二ラインはここ、旧都市群の周辺だ。帰投した第3部隊に任せる。第2部隊が分断した群れの頭を叩いてもらう」

 第3部隊は所謂、何でも屋だ。元々はアラガミの討伐を行う第1部隊と支部の防衛を行う第2部隊の両部隊を助ける支援部隊である。もちろん討伐も防衛も高い水準でこなせる。

 だが、彼らの本領は別にある。支部に余裕がある時、彼らは遠征を行って新たな資源を発見・発掘する。そして持ち帰った資材で壁の補修も手がける。偵察も出来る工兵部隊という性格を持った部隊だった。

「第3部隊らしい万能さを発揮して欲しい。主な任務はピザのデリバリーだ」

 この「ピザ」も対アラガミ装備の愛称だった。箱型のこの装備の中身は偏食因子の応用技術で出来ている。

 偏食因子はオラクル細胞を元にして作られたアラガミが捕食したがらない素材だ。神機や支部の壁に練り込まれている。

 この偏食因子の開発の副産物として、アラガミの捕食を誘発するフェロモンのような因子が発見された。

 発見されてしばらくの間、誰にも見向きされなかったこのフェロモン因子に最初に目をつけたのは、神機の整備士だった。必要となる神機の素材を効率よく手に入れるため、特定のアラガミを呼び寄せる因子が欲しい。そんな考えがあったのだろう。

 こうして完成したフェロモン因子は、しかしその効果が強すぎため携行する神機使いから不評だった。必要以上のアラガミが集まるため、近くにいる神機使いに危険が及ぶこと、また、目的のアラガミだけでなく他のアラガミも引きつけてしまうことなどがその理由だった。

 支部に近づくアラガミを別の場所に誘導する餌として、防衛班が活用するようになったのは、それから随分と時間が経ってからだった。

 モニター上に第3部隊の各員を示す点が浮かんだ。彼らは一人ずつ旧都市群の中に点在する高層ビルに配置されている。

「各員は建築物の中層部に罠を仕掛け、狭い通路に迷い込んだ小型アラガミを迎撃する。ある程度のアラガミが餌に食いついた段階でその場から離脱、ビルごと爆破する。その後、アラガミ本隊が通過するタイミングで同じように餌をまく。後の手順は同じだ。本隊の前方と後方を掻き乱してやろう」

 

 残るは最終防衛ラインだけだ。

 数を減らしたアラガミ本隊は、それでもかなりの規模で支部の東側に押し寄せるだろう。

 モニターにアラガミの群れが表示された。場所はこの司令部の目の前だ。壁に群がるにアラガミたちの姿が目に浮かんだ。

「分かっていると思うが、本作戦の主な課題は、最終防衛ラインにたどり着く前に、アラガミの数を可能な限り減らすことだ」

 ゴドーは淡々と話している。モニターはそれに合わせ、最終防衛ラインの各隊の配置を表示させた。

 最小の人数で、最大限の効果を狙う。神機使いの数が限られる中で支部を守るためには、軍事資源を効率よく使い尽くさなければならない。

 最後まで残しておくべきは神機使いだった。アラガミを倒せるのは神機使いだけ。他の装備は神機使いを支援するだけだ。

 それはゴドーの言葉にも表れていた。

「だが、第2、第3の両部隊は、それぞれの持ち場に固執するな。最終防衛ラインでの支部の防衛。これは総力戦になる。それまで力を温存するように。支部の対アラガミ装甲壁と各種支援装備、それに諸君らの神機が加われば、この程度の数はどうにでもなる」

 実際のところ、いくら司令部の潤沢な物資が使えたとしても、この状況で支部を完全に守ることは容易ではない。それはこの場にいる全員が肌で感じているだろう。だが、それでもゴドーの静かな言葉には、騙されてみたいと感じさせる魔力があった。

 しかし。

「残るは第1部隊だが、隊長である俺は指揮に専念するため司令部から動けない。そのため」

 ゴドーは言葉を区切った。

「副官である八神マリア少尉に代理を頼みたいところだ。しかし、諸君も承知しているように哨戒中だった彼女は現在、群れから離れた大型アラガミの討伐任務に就いている」

 そういうことか。

 ゴドーはこちらに手を向けて淡々と言った。

「そこで新任の八神セイ少尉を隊長代理に任命する」

 周りの視線が自分に集まった。

「彼はあの極東支部で対アラガミ戦を学んだ最初の士官だと付け加えておく。第1部隊各員、少尉にヒマラヤ支部の真価をお見せするとしよう。ただし、戦場では彼の指揮に従うように」

 ゴドーと目が合った。こちらを見る視線は冷ややかな無感情のままだ。他からの視線は、既に感じられなくなっていた。

 ゴドーは最初と同じく、2回手を叩いた。

「そろそろお客様を出迎える準備に取りかかる。向こうは食事に来たつもりだろうが、残念ながらここは注文の多い料理店だ。身ぐるみ剥いで骨までしゃぶり尽くすとしよう」

 ゴドーは芝居のかかった口調で演説を終わらせた。神を喰らうゴッドイーターらしく。

「各員、食べ残しのないように。俺は食事のマナーにはうるさいからな」



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05. アラガミ

 高層階から見下ろす景色の中に動くものは何もない。

 かつては森であり川であり都市であったこの場所は、生態系にとっても文明にとっても既に空白の地帯となっていた。生物が喰われ、植物が喰われ、大地が喰われた。もちろん人もだ。

 アラガミは全てを喰らう。生物でも無生物でも。見境なく。

 たった数年で世界中の地形を変えてしまったその力は、人々に旧約聖書の有名な逸話を思い出させた。違いがあるとすれば、今回は箱船が作られなかったという事くらいだろう。

 いや、正確には箱船を作ろうとしたが完成しなかった、とするべきか。フェンリルが建設中だった人類最後の楽園エイジス島は、未完のまま今もアラガミの海に沈んでいる。

 技術の粋を集めた無敵の盾すら浸食するくらいなのだから、今、自分が居るこの建物などひとたまりもなかっただろう。水分が失せたミイラを連想させるビルの床を、特に意味もなく撫でる。死んだ石の感触がした。

 ゆうに100階層を越えるだろうこの建物は、中央部分に大きな風穴が空いていた。アラガミに喰われたのか、それともアラガミと戦う人間に破壊されたのか。

 いつ崩れ落ちてもおかしくない状態で立ち続ける建造物に、淡い賞賛が浮かんだ。同時に虚無感も。かつてこの場所にあった同じようなビルたちの群れ。その内のどれだけが残り、どれだけが消え去ったのか。

 目線を少し下に移すと、そこには石の森が広がっていた。広い広い灰色の森だ。崩壊した建築群が尖塔となって乱立しているこの光景は、いつかアーカイブで見たことのある「森林」というものに近いような気がしていた。この場所に、一度も見たことのない森の面影を感じた。

 

 無機物の木々の合間を縫うように、影が動いた。

 目を凝らす。

 アラガミだ。

 一対の翼状の腕を持つ影からシユウ種と分かった。飛行型アラガミの一柱だ。それが3体、森の中を悠々と泳いでいた。

「オルタ5よりブレイブ各員。シユウ種3体、2時方向から接近」

 話すというより口の中だけで呟くような小さい音で言った。しかし、耳の下、顎の付け根辺りに貼付けた電子装置がこの声を確かに拾っている。極薄く伸縮性の高い素材で作られたこのインカムは、ほとんど口を動かさない状態で発した声を集音・増幅・調整してくれる。その電子の声は司令部の管理する電波に乗って同系機に届けられ、指向性の高い振動となって声を耳元で再現する。

 送受信機から会議室で発言する時のような、はっきりとした声が返ってきた。

「ブレイブ1、了解。迎撃行動に入る」

 第1部隊B小隊のコードは「ブレイブ」。ベテランのブレイブ1に率いられたヒマラヤ支部の精鋭だ。

 機械が再現したブレイブ1の声からは、戦闘直前にあっても余裕と冷静さが感じられた。ほんの少しの緊張と高揚も。

 熟練兵の精神統一は、戦闘に特化した感情制御を可能にするという。教導データに乗るような、見事な感情のカクテルだった。

 自分はどうだろうか。少しだけ心拍数が高まっていることを自覚した。

 落ち着け。いつもどおりに。

 高ぶれ、そして恐れろ。いつもどおりに。

 固いコンクリートに長時間座ったままの身体は、しかし十分に暖まっている。針のような極小の瞬間に身体の状態を合わせる技術は、未熟な狙撃手ならではの周到な準備だった。

 自分の肩に寄り添うように固定された神機を見た。

 神機はこの定位置に付いてからずっと、ごく浅い眠りについている状態にあった。長距離射撃に適した銃形態の神機の銃口は、高所から狙撃するため斜め下に向けられたままだ。

 模擬戦の時の癖で、神機の表面を軽く撫でた。

 フェンリル制式の狙撃型銃身は、反射を抑える鈍い鉄色をしている。身長を越えるその長さは弾速と射程の強化に特化した形状だ。

 正直、取り回しが難しいのだが、自分を選んだ神機に文句は付けられない。逆によく無事に帰ってきてくれたと喜ばなければならないくらいだ。

 中心をシユウの群れに合わせた望遠鏡の視界の端に、目標までの距離が表示されている。先ほど確認したブレイブ隊の位置と合わせ、狙撃のタイミングを逆算した。

 悪くない。

 自分自身と神機を覆い隠すように掛けてあった布を内側から捲った。光学迷彩を低速移動状態で起動してあるこの布を外すと、外部から無防備になった気がする。

 しかし、この位置に注意を向ける者は皆無だろう。地表から150メートルの高所を移動するアラガミはほとんどいない。空に彼らの食い物は落ちていないからだ。

 神機とどこか生物的な帯で繋がった腕輪型の制御装置を通じて、アイドリング状態の神機にアクセルを踏み込むイメージを発した。

 神機使いと一体になった神機は、技術でなく感情で動かすものだと座学で学んでいる。教わったやり方どおりに実践した。まだ手に馴染んでいない神機の反応は鈍かった。しかし、微かだが返事が返ってくる。

 いつでも撃てる、と。

「ブレイブ隊の上空で最後尾のシユウを狙撃する。後ろから順番に撃ってから、そのまま群れの頭を押さえる。落とした後の処理は任せる」

「その距離から?射程ギリギリだぞ」

 ブレイブ1から意外だという声。感情のカクテルに異物が交じったのを感じて、笑みが浮かんだ。

 こちらは新米隊長だ。古参から実力を疑われるのは当然のこと。それに正直、はじめての実戦で訓練どおりの動きが出来るか自信はなかった。

 9マイルは遠すぎる。神を射るならなおさらだ。

 そんなことは十分、承知している。しかしここは戦場だ。やるしかない。信頼は後に付いてくる。それに期待しながら答えた。

「多段式長距離バレットを用意した。極東製の誘導弾だから少なくとも当たりはするだろう。だが、落とせなかった場合はブレイブ4、貴官に尻拭いをお願いする」

「ブレイブ4、狙撃位置に着きました。撃ち漏らしは任せて下さい」

 少し高めの女性の声が返ってきた。丁寧な印象のあるファングド・イングリッシュが特徴的なブレイブ4は、自分と同じスナイパーだ。

 回避行動を取りながらの狙撃には定評があると聞いている。実戦で鍛えたその技術に、自分が学ぶべきところは多いだろう。

 そう言えば。狙撃手には女性が多い気がする。極東でも有名なスナイパーは皆、女性だった。

 戦闘とは無関係なことを考えていた。

 悪くない。リラックスしている証拠だ。

 

「助かる。カウント5で狙撃を開始する」

 神機が完全に覚醒した。

 先ほどまではこちらから呼びかけていたのだが、今は強い感情が逆流してくるのを感じる。神機の中にあるアラガミが捕食本能に目覚めたのだ。

 大丈夫、後でたくさん喰わせてやるから。

 そう神機に言ってから両目を閉じ、神機の「視覚」と自分の視覚を同調させる。そして強化させた。狙撃型の神機にはアラガミ本来の感覚器が残されており、使い手と同調させることができる。この能力によって移動しながらの精密射撃が可能であった。

 他より少し目が良いことくらいしか取り柄のない自分が神機使いに選ばれた理由の一つに、狙撃型銃身との相乗効果が上げられていたことは間違いないと思っている。

 肉眼では遠い点だったシユウの羽ばたきが見えた。

 頭部に照準を合わせ更に視界を引き絞る。

 視界はシユウの右目を上から見下ろしている。無感情なアラガミらしい眼球が見えた。

「5、4、3」

 静かに。

「狙い撃つ」

 そっと引き金を絞りながら、自分の悪意を解き放った。

 銃身の溝が少しだけ光る。遅れて根元から銃口に向かい強い光が走った。強い光を放つバレットが神機の内から吐き出されていく。

 軽い反動が銃身を揺らした。しかし外付けの反動軽減装置が神機の揺れを最小限に留めた。

 光弾はほとんど音を発しない。物理弾ではないからだ。オラクル細胞をエネルギー化させたこの弾丸はオラクルバレットと呼ばれていた。

 一筋の光が鳥神の右目を撃ち抜いた。同時に着弾点から幾つかの短い光が交差し、シユウの頭部を赤く染めた。

 シユウの頭部のオラクル細胞が結合崩壊を起こした。

 バラバラに砕かれた兜状の頭部装甲が空中に散った。頭部が半壊したアラガミの身体は一瞬だけ痙攣し、追いかけるように地面に向かって落ちていった。

 少しだけ開いた自分自身の視界でそれを確認すると、また、神機の視界に戻った。神機の視線は既に次の個体に注がれていた。

 喰わせろ。

「次」

 狙い、撃つ。

 空中でもう一段、加速して標的を追うオラクルバレットが獲物に当たった。

 しかし今度は狙いが甘い。光は後ろを振り返った鳥神の頭を逸れ、首元に着弾した。その損傷は軽い。体勢を崩しただけだった。

 直ぐに二の矢を放つ。三の矢も。

 今度は両方の翼をそれぞれ撃ち抜いた。硬質な刃状の羽が結合崩壊し、揚力を生んでいたオラクル細胞の制御に狂いが生じた。身体が大きく揺れた。2体目のシユウはそのまま身体を回転させて落下していった。

 神機から低い唸り声が上がった。超長距離からの高圧縮バレットによる連射だ。弾丸となって消費されたオラクル細胞の分、腹が減ったのだろう。

 しかし直ぐに大人しくなる。神機と有線接続された一抱えもある大きさの金属の箱から、大量のオラクル細胞が注がれたからだ。ランチボックスと呼ばれるこの箱も、長距離狙撃戦の為の追加装備の一つだった。

「最後だ」

 充填されたオラクル細胞が神機の中で咀嚼され、エネルギー体となる。光弾となって残る1体に向かった。

 2体が落ちた地点に身体を向けていた最後のシユウは、頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちていった。今度は頭部を全壊させた。コアを破壊できてはいないだろうが、戦闘力はほとんど残っていまい。

 目の端に落ちるシユウを捉えつつ、一帯の空を見渡した。そして地表も。他にアラガミがいる様子はない。

 最後にレーダーも確認する。特に反応はない。戦域に異常なしだ。

「オルタ5よりブレイブ各員。最後の1体に着弾を確認。獲物は届けたので存分に喰ってくれ」

「有り難くごちそうになる。その代わり帰ったら何か奢らせてくれ。ブレイブ1より以上だ」

 通信を終え、一息ついた。戦果は上々だ。

 第1部隊の目的は群れから離れた大中型アラガミの各個撃破だ。

 ヒマラヤ支部に向かう群れの大半はオウガテイル種やザイゴード種、そしてその亜種で構成されている。

 実は大中型より、これら小型アラガミの群れの方が脅威度が高い。神機使いの絶対数が限られる中、支部を多方向から数で押されると対処のしようがないからだ。

 だから支部周辺に群れを近づけさせないよう工夫する。今回の支部防衛作戦でもそこに主眼が置かれていた。

 群れを叩く算段をつけたゴドーが第1部隊に下した命令は、はぐれ者を狩るというものだった。

 群れと行動をともにしない飛行型や大型のアラガミを防衛ライン到達前に叩く。そうすることで群れの掃討戦を有利にするのだ。

 第1部隊の隊長代理となった自分には、3つの小隊の指揮が任された。第一部隊は各自の戦闘力は高いものの、常に優秀な指揮官であるゴドーの直下にあったため、複数の隊を統括できるような前線指揮官はいなかった。

 優秀な副官の不在。

 マリアの不在。

 ゴドーはその事にほとんど触れないまま、無造作に部隊の指揮権を新任少尉に委ねた。

 何故だ。

 

 石の森が崩れる轟音で、思索から現実に引き戻された。

 まだ遠い。

 神機の視界で音源を辿った。粉塵が舞っていて、音の主は分からない。

 だが、あの巨体は。

 落ち着かせるためひと呼吸。極東のアーカイブで何度か見たはずだが、現実に向き合うことになるとは思ってもいなかった。

 インカムから女性の声。確かカリーナと呼ばれていた年長の上席戦域管制官だ。

「司令部より各隊。11時方向、地下より巨大アラガミが出現」

 カリーナの平坦で無色な声が逆に不安を誘った。

「データと照合。ウロヴォロス種と推定。各隊、連携して迎撃願う」

 カリーナは最後、祈るようにこう付け加えた。

「...どうかご無事で」

 

 

 

(参考)フェンリル・ヒマラヤ支部の組織図など

 

 ヒマラヤ支部は統治・作戦行動の最小単位として、連隊に相当する規模・構成となっている。

 最終的な意思決定権はフェンリル本部が握っているものの、支部を統轄する支部長はそれ相応の決定権を有している。

 実際の支部運営は、大隊規模の行政・軍事の各部門がそれぞれの分野を直接、担当する。

 アラガミから支部を守ることが最重要課題であるため、軍事部門にはより強い権限と潤沢な物資が与えられている。

 

※ 支部長=意思決定権者(連隊長・大佐)

     支部運営の全組織に命令権を有する

     行政・軍事部門に補佐官(連隊副官)

     行政担当補佐官の直下に秘書室を置く

 

1. 行政部

 ☆ 行政官=行政部門の長(大隊長・大尉相当)

      指揮迅速化のため支部長が兼務

  ◎ 副行政官=行政担当補佐官が兼任

 

   ① 管理室=管理室長(中隊長・中尉相当)

    ⑴ 内政班=内政班長(先任曹長相当)

    ⑵ 情報班=情報班長(上席戦域管制官)

   ② 技術開発室

   ③ 生産室

    その他、教育室、警備室などがある。

    警備室は司法全般を担当する

    (三権分立制度は取られていない)

    警備室と第4部隊憲兵小隊が相互に監視

 

2. 司令部

 ★ 司令=軍事部門の長(大隊長・少佐)

     指揮迅速化のため、支部長が兼務

     ◉副司令を野戦任官し司令代理に

     支部長の不在時、支部長代理に

  ◉ 副司令=軍事担当補佐官が兼任

       第1部隊隊長を兼任する

 

   ① 第1部隊=中隊規模。隊長は筆頭小隊長

         第1部隊は討伐任務を行う

    ⑴ A小隊(オルタ隊)=指揮担当

    ⑵ B小隊(ブレイブ隊)=強襲担当

    ⑶ C小隊(クリード隊)=強襲担当

   ② 第2部隊=防衛班

    ⑷ D小隊(ドロップ隊)=機動防御担当

     この他、E、F、Gの4小隊で構成

   ③ 第3部隊=偵察班。H~K小隊で構成

   ④ 第4部隊=教導班。神機使いは正副隊長

         正隊長直下に訓練小隊

         副隊長直下に憲兵小隊

   ⑤ 司令部後方支援室(大隊本部中隊)

    ⑴ 情報班=班長は先任上級戦域管制官

     上席戦域管制官=情報分隊長(曹長)

      レーダー解析、アラガミ分析を担当

      正隊長は管理室情報班長を兼任する

      直下に戦域管制官5名(上等兵)

    ⑵ 整備班=班長は技術少尉

     その他、物資調達班、研究開発班など

 

・その他

 支部住民代表による支部評議会も存在する。

(フェンリル被雇用者の労組程度の役割のみ)

 

                  以  上



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06. 混沌

「まずは戦域全体の動きだ」

 インカムからゴドーの低い声が聞こえた。

 予期せぬ大物の出現にヒマラヤ支部は揺れていた。その中にあって唯一、平静さを乱していないのはこの男だけだった。

 ウロヴォロス。

 円環を成す大蛇の名を持つアラガミがこの地域に現れたのは、記録上、今回が初めてだと聞く。支部の神機使い達が動揺するのも当然だろう。

 ウロヴォロスを視認した第1部隊はその後、距離を保って相手の動きを観察した。同時に支部から光学迷彩仕様の無人機数機が飛び、今も空中からウロヴォロスの動向を記録している。その映像はリアルタイムで支部に送られ、司令部はそれを元にして対応策を立てることになっていた。

 その一連の作業が終わった。つい先程、作戦を指揮するゴドーから全部隊に向けてブリーフィングを行うとの連絡があった。

 ゴドーは無色透明を思わせる機械的な声で、

「ウロヴォロスとそれに付随するアラガミ群の出現により、作戦の修正が余儀なくされた」

 と話を切り出した。そしてそのまま、歯車を回す正確さで言葉を続けていく。

 その声を聞きながら、右手を胸の高さに持ち上げた。ゴドーの声に合わせ、手首に固定された制御装置から支部周辺の地図が立体投影されていった。

 元々ゴッドイーター達は東方から侵攻してくるアラガミ群を迎撃するため、その移動経路に陣を敷く予定だった。立体図には部隊の展開予定地点が示されていた。

 それに重なるように、部隊の現在位置が表示された。

 遊撃から偵察に任務を変えた第1部隊が散開している位置は、支部から見て北東の方角にあった。第2部隊を示す点は、支部の東から迫るアラガミ本隊の進行方向にあった。そこは支部から約10キロほど東にある旧世界の立体交通路が残る地区だ。そして第3部隊は今頃、支部から出撃する準備をしているのだろう。彼らを示すものは地図上にはなかった。

 続いて新たに出現したアラガミ群の位置が表示された。

 ゴドーはアラガミの数から始まり、種類や分布などに次々と言及していった。

 支部東方のアラガミ群に加え、少し北に上ったところに新たな一群が示された。

 扇状に広がる第1部隊の向きが収束する位置にあるこのアラガミ群の中で、特に目につくのはウロヴォロスを示す大きな光だ。その周りに散らばる無数の点が小型の群れだった。その数、50体ほど。

 ウロヴォロスが引き連れるこの群れは、第2部隊を避けるよう北周りで支部に向かう動きを見せている。地図にはその予想移動経路も示されていた。

 仮に現在の布陣を変えない場合、北部と東部で二面作戦を強いられるだろう。現時点のアラガミの位置と移動速度からそう予想できた。

 だが、ヒマラヤ支部の戦力では二つの戦線を支えることは困難だ。

 

 ゴドーは淡々と言葉を繋いだ。

「修正した作戦を説明する。最初に結論から言おう。東から大群を迎える前にウロヴォロスを集中砲火し、これを撃破する」

 言葉と同時に地図が更新され、新たな光が灯った。地図を一瞥し、内容を荒く咀嚼する。

 第2部隊の位置は全く変わらない。

 既に堅陣を築いており、また、多数のアラガミ群に対して効率よく集中砲火できる地点が他にないことから、彼らの陣を崩すことができないのだ。

 しかし、この位置からではウロヴォロスの侵攻ルートに射線が通らない。いや、そもそも通常のバレットで射撃するには距離が開きすぎていた。対ウロヴォロス戦には参加しないということか。

 布陣を変えない第2部隊に代わるように、大きく位置が動いたのが第3部隊だ。

 支部の近くに配置されるはずだった彼らは、今度はウロヴォロスの進む先に置かれることとなった。そこは第2部隊から見てちょうど真北にある山岳地帯の入り口付近だった。

 そこは入り組んだ地形となっているため、ウロヴォロスのような規格外の巨体が進むことの出来る道はある程度、限定できる。アラガミの進む経路を予測できるということは戦術上、大きな利点となる。

 迎撃するには好都合な場所だ。ウロヴォロスの移動速度を勘案すると、アラガミ群がこの地点に到達するまで後3時間弱だった。

 第1部隊の持ち場はウロヴォロスが第3部隊に接近する少し前方、移動経路の南側にある丘だ。北側の山腹にいる第3部隊とウロヴォロスの移動経路となる山間の道を挟み込む位置にある。

 山間の遮蔽を利用しつつ左右から挟撃することができる位置取りだった。

「支部付近に罠を仕掛ける予定だった第3部隊は、資材を積んだヘリで移動する。普段は他の部隊を支えることの多い第3部隊だが、今回は彼らが主役となる。他の隊は各自の持ち味を活かしてウロヴォロスを足止めする」

 ゴドーの指示に合わせて、立体図に各部隊ごとの作戦内容が表示された。

 それを読む。理解する。

 乾いた無色の声は、ほとんど間を置かずに説明を締めくくった。

「現場の動きは各隊長に任せる。こちらの裏をかいて賢しげに立ち回る大物を掻き乱してやろう。最後はウロヴォロスに花束を、だ」

 それからゴドーを引き継いだカリーナが補足説明を行い、短い作戦会議が終わった。これからの全部隊の動きは、既に定まっていた。

 

 偵察はこれで終わりだ。

 めぐるましく変わるアラガミの動きに振り回されるのを自覚しつつも、結局は次々と変わる状況に合わせて行動する他なかった。そう割り切りながら、しかし今回のアラガミの動きに違和感を感じていた。

 いや、全てが規格外の極東支部と比較してしまうからかも知れない。早くヒマラヤに慣れなければ。そう思った。

 気持ちを切り替え、手早く装備をまとめた。

 アラガミの動きを監視するために残ったビルの窓際に立ちながら、神機にかけてあった光学迷彩布を自分の肩に外套のように巻き付けた。

 そのままビルの側面に飛び、下に垂らした強化ロープを使って一気に地上に降りた。偏食因子を練り込んで強度を高めたこのロープは、自分と神機、各種追加装備の重量を軽々と支えていた。

 ビルの表面すれすれを滑りながら、遠くに見えるウロヴォロスの巨体を眺めた。この距離からだとほとんど動いていないように見えるが、実際は相当な速度で支部に向かって進んでいることだろう。

 次の標的を正面に見据えながら、頭の中で再度、作戦内容を咀嚼し始めた。

 それはヒマラヤ支部による大物喰いだった。

 

 周りには荒涼とした風景が広がっている。その中にとけ込むように、人工物が上手く隠れていた。

 もちろん自分の身体もだ。

 この穴蔵に人工の胎内にいるかのような安心感を覚えていた。ここは、人ひとりが寝そべるだけの空間しかない、即席のトーチカの中だった。

 元々、この場所にあった鉱物を多く含む岩石と、輸送用無人機で送られた物資を組み合わせて作ったものだ。表には迷彩布が掛けてあり、周囲との擬態もまずまずであろう。視覚情報に依存するアラガミからは十分に秘匿されているはずだ。

 ゴドーの説明が終わってから、自分は直ぐにブレイブ、クリードの各小隊と合流した。そして偽装してあった装甲輸送車両で次の作戦区域に移動した。

 移動中、第1部隊の隊長代理として作戦の細部を詰めたのだが、実際には2人の小隊長らの意見をそのまま採用する形となった。

 ブレイブ隊、クリード隊の持ち味は、彼ら自身が一番よく分かっている。軍でいうところの中隊長代理である自分が、各小隊内の動きに口を挟む必要はなかった。神機使いは3,4人で構成で構成される小隊規模で主体的に動くのが、一番、効率的なのだ。

 指揮するだけの指揮官は要らない。

 また、指揮小隊であるオルタ隊については、実のところ自分の他に隊員はいなかった。

 平和なヒマラヤ支部では指揮官が必要になる程の規模の作戦は少ない。それに神機使いの数も足りない。そのためオルタ隊には、小隊長と中隊長相当である第1部隊隊長を兼任するゴドー、それにその副官しか人員が割かれていなかった。空席になっているオルタ3とオルタ4は、ブレイブ隊とクリード隊の小隊長が兼任する番号なのが、こうした理由から事実上の欠番となっていた。

 このような経緯があり、今のオルタ隊にはオルタ5しかいない。つまり自分だ。

 オルタ隊としての行動について、1点だけ自分の考えを述べておいた。それは他の小隊とは組まず、単独で行動するという事だった。熟練兵に混じって集団戦闘が出来る程、自分は神機の扱いに慣れていないという自覚がある。各小隊の足を引っ張ることは避けたい。

 それに自分が得意とする狙撃であれば、たとえ単独行動であっても問題はなかった。逆に狙撃手が固まっている方が弊害が大きい。一網打尽にされる危険性があるからだ。

 この主張は他の者に通じたようだ。反対意見はなかった。

 

 そして今、自分と自分の神機だけがここにいた。

 この場所が自分の持ち場だ。

 第1部隊の他の面々が身を潜める丘。その頂上付近まで登ったところにある、特に見晴らしのよい場所だった。

 ここは持ち場に移動する最中、データベースで見つけた地点だ。狙撃にも観測にも向いた地形を探す中で、自分の目に留まった。ウロヴォロスの接近を最初に視認できる場所でもあった。

 位置取りは狙撃手の全てだ。

 まだまだ未熟な狙撃の腕を補う、それは重要な要素であった。

 そのため、地図をよく読み込む癖がついていた。

 極東では意味もなく支部内外の地図を眺めていたものだ。赴任する前にデータベース上でヒマラヤの地図も頭に入れておいた。それが今、役に立っている。

 そもそも地図は近代戦になった頃から特に重要な軍事情報だった。かつての中東には高度成長を遂げた時代になっても、個人で地図を所有することが禁じられていた国もあったと聞いた事がある。

 現代であっても地形を地図上に立体として表示するためには、多くの労力を割かなければならない。フェンリルにおいては部隊の展開状況やアラガミの移動予想などを含めた情報の統括は、戦域管制官の領域だった。戦闘中のオペレートも行う彼らの仕事ぶりによって、神機使いの生存率は大きく変わるという統計もあった。

 その点、カリーナは優秀だ。

 無人機やレーダー、更に神機使いの観測するデータを巧みに操る彼女は、戦域を見渡す鷹の目を持つに等しい。戦場にいる誰よりも戦場を知る戦いの女神のような存在だ。

 自分より年長者なのだが、カリーナにはどこか保護欲を感じさせる魔力が感じられた。人を遮断するゴドーとは正反対の性格のように思えた。

 機材を操作して、カリーナが作り上げた立体地図を眺めた。

 

 まずは第1部隊の現在位置だ。各員、持ち場に付いていることが確認できた。表示を広域図に変えると、第2部隊は小型アラガミ群を迎撃する当初の位置に、第3部隊は山腹でウロヴォロスを迎える準備をしていた。

 次にアラガミの反応を追った。

 東から支部に向かう最初のアラガミ群は速度を維持したまま進軍を続けている。数時間後には第一防衛ラインに到達するだろう。二面作戦を避けるためには期限内にウロヴォロスを倒す必要があった。

 そう考えつつ、肝心の巨大アラガミの動きを地図で確認した。

 もうすぐこの場所にたどり着く。小型アラガミもウロヴォロスに付き従ったままでいた。アラガミ達の移動速度は、周辺の起伏の激しい地形のせいか、相当に歩みが遅くなっているようだ。

 急速な地殻変動の影響で大地の均衡が崩れた影響か、元々、山岳地帯だったヒマラヤは以前に比べても起伏の激しい地域になった。ここも少し登るだけで万年雪が積もり、そのすぐ隣には運河を辿って遠く海から運ばれた船群などもある。

 その中でも、神機使い達の待ち構えている場所は、自然物と人工物が歪に入り交じった迷路と化している。体長50メートルを越えるウロヴォロスの巨体でさえも、ひとたび岩山に入ると見えなくなってしまうくらいだ。

 ここはいい場所だ。そう思った。巨大アラガミの利点である高さを無意味化できる地形だ。

 そもそも通常の大型種とウロヴォロスは別次元の存在だ。例えば大型輸送車両程度のヴァジュラと比べ、ウロヴォロスはまさに要塞、いや寧ろ中世の城郭のようなアラガミであった。

 支部の壁よりも高いアラガミを想像すれば、その脅威は直ぐに想像できる。ひとたび接近を許してしまえば、支部を囲む対アラガミ装甲壁の上から攻撃を受けることになる。いくら固い壁を築いていても、これでは意味がない。

 それにこの移動要塞には強力な攻撃能力も備わっていた。超長距離のエネルギー照射や広範囲に渡る無差別物理攻撃などだ。巨体の繰り出す破壊力に、アラガミ特有の超自然の技が組合わさった最悪の存在。それがウロヴォロスだ。

 だからこそ、小型を中心としたアラガミの大群に先立って、これを優先的に叩かなければならない。

 この場所なら、それが可能になるはずだ。また地図を眺めた。ゴドーの作戦は、少ない支部の戦力を活かすことに特化したものだった。

 後は、現場に立つ神機使いに全てが懸かっている。

 無意識に狙撃用に調整済された神機の表面を、静かに撫でた。

 初戦闘では急激に多量のオラクルを消費したが、神機に不調は見られなかった。流石は人類の敵アラガミを元に作られた生物兵器だ。

 断片的な記憶の中で、自分は神機を失ったように感じていた。白いアラガミとの戦いで破壊されたとばかり思っていたのだ。しかし、それは激しい戦闘による記憶の混濁だったようだ。神機の負った大きな損傷も、現実には驚異的な生命力で修復されていた。

 神機は強い。

 神機使いとは違って。

 連想が連想を呼ぶ。

 マリアの姿が頭に浮かんだ。しかし、水面に映る月のように、少しの波紋で形が崩れてしまう。

 死んだ?マリアが?本当に?

 頭から離れないマリアの幻影をすぐ隣に感じながら、また黒金の神機を撫でた。

 

 微かな振動を感じた。

 地図を確認する。ウロヴォロスの位置は。ほぼ予定どおりだった。近くにいる。

 神機と視界を接続した。身体に熱が灯る。そして神機にも。

 徐々に振動が強まってくる。ウロヴォロスの出現予定地点より1キロ以上、離れているこの場所でもはっきりと揺れが感じられた。

 揺れは、更に激しくなる。それに遅れて音がやってきた。力ずくで何かを崩す。そんな響きだ。

 そして、見えた。

 神機の視覚で見つめる先には、巨大な影があった。左右の岩山を押しのけるようにして進むウロヴォロスの姿だった。大きい。

 その足下には芥子粒のように見える小型アラガミの群れがあった。王に従う兵士のようだ。

 混沌の王はゆっくりと進んでいた。身体や腕で山を削りながら前へ前へと。

 全身が視界に入った。

 その異形ぶりに思わず寒気を覚えた。

 巨大な蔓が何重にも巻き付いたような歪な躯。

 捻り曲がった触手は、蜘蛛の足のように折れ曲がった形で胴体を支えている。胴体は太い足の形に纏まった触手の上にあった。その胴を隠すように触手を編み込んで作られた外套が広がる。それが王者のような風格を醸し出していた。

 一段、低い位置にある顔には鈍く光る複眼があった。巨大な身体にあっても不釣り合いな程に大きなその目を守るように、太く歪曲した角が突き出ていた。

 それがウロヴォロスの全貌だ。

 

 螺旋を描く混沌がそこにあった。



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07. 災厄

「オルタ5、ウロヴォロスを視認」

 山の影から姿を表したウロヴォロスは、悠然とした足取りで前へ前へと進んでいた。触手が岩を砕く。爪が大地を削る。ただ歩くだけで地形が崩れていった。

 正に歩く災厄だった。

 いや、違う。

「標的が予定地点に入り次第、攻撃を開始する」

 そう、あれは単なる標的だ。

 狙撃手は標的を狙い撃つのみ。

 そう言い聞かせながら、神機を握る手に力を入れた。イメージの中で神機の中核に熱を送り込む。エンジンの回転数が上がるような高鳴りが神機から発せられた。

 強い捕食衝動を感じる。神機のコアに宿るアラガミの本性が剥き出しになっていた。

 喰いたい。

 その声を無視して、標的に集中する。

 ウロヴォロスを眼下に見た。自分の位置からだと、突き出た頭部と大きく湾曲した背骨を見下ろす形だ。

 次にレーダーを一瞥した。他の神機使い達の配置はどうか。攻撃を前に確認する。第1部隊各員は自分が居るこの丘を少し下った辺り、ウロヴォロスの背骨くらいの高さの地点で待機している。

 光学迷彩に身を隠した彼らの目の前にウロヴォロスの左半身があるはずだ。

 標的を挟んでこの丘の反対側にある山の斜面には、第3部隊を示す点があった。丘の頂上より遥かに高所だ。彼らは地図情報や無人機の好感度カメラの映像でウロヴォロスの動きを注視しているだろう。

 腹が減った。

 また神機の衝動を感じた。これも無視する。

 ウロヴォロスの足下に連なる小型アラガミは、狭い山道を歩いているため密集した列を成している。王者に率いられた従者たちの長い長い行列だ。

 ウロヴォロスが進む。すり鉢状に低くなった場所まで、あとほんの少しだ。

 喰わせろ。

 巨体が地形に身を沈めるのが見えた。

 銃身の左右に並べた分厚い対アラガミ装甲壁から迷彩布を剥ぎ取る。鈍色の神機を構え直した。自分の攻撃的な意思に応じて、神機の熱が臨界点に達するのを感じた。

 神機の中のアラガミが喚き出す。

 早く。

 ウロヴォロスが進む。

 窪地に入った。触手の動きが僅かに乱れた。

 早く。

 早く。

 体勢を崩したウロヴォロスは触手を伸ばした。それを左右の岩に突き刺して、身体を支える。

 喰わせろ。

 ウロヴォロスの動きが止まった。

 あいつを喰わせろ。

 ここだ。

「攻撃を開始する」

 弾速強化ユニットを取り付け、通常の2倍以上の長さとなった銃身から、高圧縮されたオラクルバレットが放たれた。

 発射とほぼ同時に着弾。ウロヴォロスの複眼に命中。それと同時に幾つもの短い光が弾けた。

 シユウの頭部を破壊したものとよく似たこのバレットは、アラガミの装甲に突き刺さった後、刃の華と化して身体の中を切り裂くものだ。かつて極東で開発されたこのバレットは、構成が古い反面、効果が安定していた。

 もう一度、狙い撃つ。更にもう一度。着弾した場所に華が咲いた。

 そして神機からの声。腹が空いた。まだか。早く喰わせろ。

 この数回の射撃で、神機内部に貯蔵されていたオラクル細胞が空になった。予備タンクも含めてだ。神機から強い飢餓感が伝わってくる。急ぎ予備のタンクと繋ぐ。流体化したオラクル細胞が神機に流れ込んだ。

 それでも抗う神機をねじ伏せ、照準の先にあるウロヴォロスの複眼を見た。損傷を確認するためだ。

 多少なりともダメージを与えられたはずだ。ウロヴォロスの複眼が拡大された。僅かながら損傷が見られる。

 しかしそれも束の間、急速に傷が修復されていく。

 時計が巻き戻るような奇妙な感覚を覚えた。回復というより復元だ。

 化け物め。

 ウロヴォロスの複眼が怪しく光った。完全にこちらを視認している。

 長距離狙撃用ユニットを切り離す。神機をトーチカ内に引き入れる。身体と神機を装甲壁の影に隠す。

 その瞬間。

 衝撃。

 光に飲み込まれた。

 ウロヴォロスの放った光条がトーチカを直撃した。

 身体に直に触れる装甲壁から熱を感じた。高い耐熱性能を誇るこの装甲をも燃やさんとする熱量に驚きを隠せない。支部の外壁でも使われる対アラガミ多重装甲はすぐには溶かされないはずだ。そう分かっていても焼き殺される恐怖に抗えなかった。

 引き絞られた光による照射は続く。山肌を光の束が這い回り、トーチカの装甲を何度もなぞった。

 

 身を焦がす熱波を感じながら、無線に呼びかけた。

「オルタ5より第2部隊。標的に目立った損傷なし。だが足は止めた」

 必死に声を落ち着かせようとしたが、それでも震えを隠し切れない。

 少女のような甲高い声が自分の声に応えた。

「こっちの準備はもう整っているさね。みんな、新人が二つほど階級を上げる前に敵を吹き飛ばしてやろうじゃないか」

 芝居がかった口調はドロップ1のものだ。若くして第2部隊隊長に就いたドロップ1は、その幼い外見に反してヒマラヤ屈指の攻撃的な神機使いだった。年上ばかりの部下達からも信頼が厚い。

「アイ、マム」

 合図を待っていたかのように一拍も置かず応じる男達の声。

 装甲を置いていない空中を見上げる。

 光が降ってきた。ウロヴォロスの光線に負けない勢いだ。それが何条も連なっている。夜空に流れる流星群だ。

 星たちがウロヴォロスに直撃した。着弾と同時に大きな爆発が起きる。閃光と爆発の連鎖がウロヴォロスの巨体を包む。周囲の小型アラガミなど、もはや紙屑のように消し飛んでいた。

 圧倒的な火力だった。

 流星を生んだのは第2部隊による曲射砲撃だった。かつて机上で学んだこの手法が、これ程までの破壊力を秘めていたとは。しかも数キロ先からの砲撃だというのに。

 地形の遮蔽を越えるように曲がるオラクルバレットは、神機に変異チップを組み込んで作った代物だ。重力の影響を受けるために弾速が異常に遅く、止まった標的にしか当たらない。エネルギー効率も最悪の部類だ。

 しかし、その威力は甚大だ。多重に増幅された砲撃が、混沌を穿つ。砕く。押し潰す。

 それは蹂躙だった。

 このバレットの燃費の悪さは、神機と車両搭載型オラクル補給装置を有線接続することで補える。曲射ならではの狙いの荒さや弾速の遅さは、敵を足止めしてしまえば問題にならない。また、神機に外付けされた射程延長ユニット、オラクル圧縮ユニット、銃身冷却・反動軽減ユニットなどの各種追加装備でバレットの性能を高めることもできた。

 しかし、この強力な攻撃には最大の欠点があった。

 追加装備でも補いきれないその弱点とは、神機への負担が大きすぎるということだ。活動限界を越えて酷使された神機は一時的に機能が制限されてしまう。

 そろそろか。

 急いたような少女の声が叫んだ。

「こちらドロップ1。もう神機が活動限界になった。あとはそっちで頼むよ」

 いつの間にか砲撃が止んでいた。

 限界を超えた第2部隊の神機は暫くの間、使い物にならないだろう。彼女達の役目はここまでだ。

 

 流星の雨によって、辺りは粉塵で包まれていた。

 爆撃の成果はどうか。

 ウロヴォロスの姿を探す。狙撃型神機の視力で煙の向こうを見渡した。ウロヴォロスは圧力に潰されるようにして、触手を放射線状に投げ出していた。

 更に視界を絞る。損傷を確認する。

「オルタ5。背面及び側面の触手、結合崩壊」

 強固に結合していたオラクル細胞が砕けていた。

 視点を下に向けた。

「頭部の損傷は軽微。脚部はほぼ無傷」

 爆発系バレットではダメージが表面に留まる。

 分厚い触手の盾に守られた胴体に損傷を与えることは困難だ。攻城戦に例えるならば、要塞の外壁は壊せたが中の兵隊は健在、といったところか。

 しかも。

「ウロヴォロス、急速に傷を修復。活動を再開」

 これが円環を成す大蛇の不死性か。その驚異的な回復力は見るものに根源的な恐怖を感じさせた。

 起き上がろうとするウロヴォロス。

 しかしこの程度は極東のアーカイブで研究済みだった。

 自分の神機に接続された追加装備を全て放棄した。身軽になった神機は、それでも身の丈を越える長さだ。

「作戦の第1段階が終了。第2段階に移行」 

 長い銃身を担ぐように持ち、装甲壁を飛び越えながら言った。

「第1部隊、作戦行動に入る」

 神機を構える。

 狙撃。

 狙撃。

 狙撃。

 狙いは複眼。標的の視界を奪うためだ。

 崖を転がるように駆け下りた。暴れる銃身を押さえ込みながら、また狙撃する。ブレイブ、クリード各隊の狙撃手もそれに続いた。自分よりも的確に複眼の中心部を射抜く幾つかの弾丸が見えた。

 立ち上がろうとしていたウロヴォロスの動きが止まった。そして頭部がこちらを見る。複眼に光が灯る。

 そこに地上の神機使い達が襲いかかった。

 一番槍はブレイブ1だ。オラクルを放出させて加速した戦槌が先陣を切る。

 他の神機使いもそれに続いた。いつの間にか足下近くまで接近していた強襲兵は、周囲に転がる小型アラガミを蹴散らし、また捕食しながらウロヴォロスに肉薄する。

 頭部に叩き付けられる戦槌や大剣。

 千切れかかった触手を切り裂く刃。

 その下をすり抜けて脚部を貫く鋭い穂先。

 少し遅れて狙撃手たちもウロヴォロスに接近した。もちろん自分もだ。ウロヴォロスに近付きながら何度も狙撃する。

 至近距離で放たれたオラクルバレットが複眼に突き刺さる。

 連射。連射。

 気付くと連射が止まっていた。弾切れか。

 更にウロヴォロスに近付いていく。走りながら神機の制御組織群に命じ、隠した爪を引き出させた。

 銃身がバラバラに崩れた。弾けた金属質のパーツが、それと一体化している生体パーツによって再構築される。

 次の瞬間、対物狙撃銃の形だった神機が巨大な刀となっていた。

 白刃を構える。ウロヴォロスに肉薄する。ウロヴォロスは既に身体の各所が崩壊していた。

 触手に刀身を突き立てる。切り上げながら触手を駆け上り、複眼に迫る。

 そして、

「第1部隊、一斉捕食」

 と叫んだ。

 それに応じる神機使い達の声が聞こえた。

 刀身が崩れた。コア部分にある生体パーツが大きく広がり、鋭い牙を剥き出しにする。神機から表れた漆黒の顎がウロヴォロスの複眼に喰らい付いた。

 歓喜の声が聞こえた。

 これが喰いたい。もっと喰わせろ。

 今度はそれに抗わず、獣の本能のままに喰らい付かせる。

 初めての捕食だった。

 神機の中のアラガミの意識が暴力的に高まるのを感じた。神機と同じく自分の身体からも歓喜の声が上がった。人間の部分とアラガミの部分が混じり合う。

 快楽から身を引き離して叫んだ。

「各員、アラガミバレット準備。カウント5」

 神機を銃形態へ。先ほどとは形が違う。よりアラガミに近い生物的な姿をした異形の銃だ。

「4、3、2」

 銃口が輝く。

「放て」

 神機から強力な光が迸った。ウロヴォロスが放つものと同じか、それ以上の熱量だ。

 捕食したアラガミの能力を模した強力なバレット。それがアラガミバレットだ。第2部隊の攻撃に劣らない光がウロヴォロスを襲った。

 第1部隊によるアラガミバレットの零距離一斉射撃によって、ウロヴォロスの身体が切り刻まれていった。

 王者の外套は激しい熱に焼き尽くされた。背骨は砕け散り、既に身体を支えていない。触手に無事なものはほとんどない。胴体から切り離され肉片と化している。太い脚部も同様だった。角の一方は根元で両断され、もう一方には幾つもの風穴が空いている。切り裂かれた複眼に光はなかった。

 不死の大蛇が倒れたか。

 しかし。再度、再生を始めたウロヴォロスの触手。複眼にも弱いながらも暗い光が灯った。

 あれだけの攻撃でも中枢細胞群を破壊できなかったか。

 激しい損傷を受けたためまだ身体は動かせないようだが、既に触手の一部が本体と繋がり、神機使いに向ってた。

 

 だが、それすらも想定内だった。

 一斉に駆け出す神機使い達。元来た丘の中腹に登っていく。

「オルタ5、ケーキカットを終了。第3部隊、ブーケトスの準備はどうか」

「こちら、ハーモニー1。お疲れさま」

 戦場にあって、間延びした返事。どこか眠気を感じさせる中性的な声が聞こえた。第3部隊の隊長だ。

「花束にはリボンも結んでおいたよ」

「では最終段階に移行願う」

「ああ分かった」

 第3部隊は万能部隊だ。つい先ほどまで威力偵察を行っていたこの部隊は、今は工兵隊に姿を変えていた。

 無敵とも言える再生力をもつウロヴォロスを仕留めることは容易ではない。だが、困難に思えるこの任務も、時と場所を選べば難易度が下がる。

 第3部隊ならそれを実現できる。

 山間の窪地に沈むのはウロヴォロスと小型アラガミの残党のみ。

「第1部隊の後退を確認。ウロヴォロスに花束を届けるよ」

 場違いな程にのんびりとした口調でハーモニー1が言った。

 大きな爆破音。

 次々と連続して起こる。それが山間に共鳴した。爆発はウロヴォロスが倒れる地点の北側にある山の中腹辺りで起こっていた。第1部隊が退避した丘の対面側だ。

 爆発とほとんど間を置かず、それとは異なる轟音が響いた。強い振動もだ。

 土砂崩れが起きた音だ。

 土と瓦礫が濁流となって斜面を駆け下りていく。そして動き出そうとしていた巨大なアラガミの上に、滝のように落ちていった。

 度重なる攻撃で大きく亀裂が走るウロヴォロスの触手に、砕けた角に、切り裂かれた複眼に、容赦なく土砂が襲う。

 いや、それだけではない。きらきらと光る何かが、まるで花びらのように混じっている。

 対アラガミ装甲壁、その材料となる巨大な金属片だ。偏食因子で作られた板や杭、強靭な綱の束などが土砂と一緒にウロヴォロスに突き刺さっていく。振動が収まるまで、長い時間がかかった。

 やがて静まった谷には、鉄の花びらで死化粧された混沌の王が眠っていた。

 まだ痙攣を続けるウロヴォロスは、しかし身体を再生することができなかった。偏食因子を含んだ金属がオラクル細胞の再結合を阻害しているのだ。こうなってしまうと、ウロヴォロスの不死性も無意味だった。

 それを視認してからインカムに向かって言った。

「オルタ5より司令部、作戦終了」

 

 だが災厄は、これで終わりではなかった。

 

 

「ア・・ミハ・・ガ、接近・」

 声が聞こえた。

 インカムの不調か?

「アラガミ・・」

 再度、送られた声。やっと単語を聞き取ることができた。

「・・接近」

 マリアの声。似ている。声の内容も気にかかった。耳を澄ませる。

 先ほどより鮮明になった声が言った。

 やはりマリアの声だ。

「アラガミ反応が接近しています」

「アラガミ反応?」

 思わず聞き返す。反射的にレーダーを見る。

 アラガミ大のオラクル反応に反応するレーダーには、近くに倒れるウロヴォロス以外、何も映っていなかった。

 別の戦域の通信だろうか。混線の可能性は否定できない。

 しかし。

 そう思って視線を上に向けた瞬間。

 空から氷の刃が振ってきた。

 神機の装甲を展開する。落ちる氷の勢いを殺しきれず、身体が地面にめり込んだ。盾の影に入りきらなかった右足が被弾した。焼けるような感覚が走った。

 おかしい。レーダーにアラガミの反応はなかったはずだ。司令部もこの戦域一帯を警戒しているのに。いったいどこから?

 周囲で聞こえる悲鳴。肉が割け、骨が砕ける鈍い音も。周りを見渡す。地面に縫い付けられた第1部隊の精鋭の姿が見えた。

 そこに更なる刃が降り注いだ。

 インカムに向って叫ぶ。

「オルタ5、未確認のアラガミにより攻撃を受けた」

 直ぐにカリーナの声が返ってくる。

「こちら司令部、レーダーにアラガミ反応はありません」

 やはり。しかしレーダーに映らないアラガミなど聞いたことがない。急いで辺りを見回すが、氷の雨の中にアラガミの姿を見つけることは出来なかった。

「オルタ5、アラガミを視認できず」

 続けて言った。

「第1部隊の損傷甚大。救援求む」

 だが、インカムから別の声が聞こえた。

「ドロップ1、なんだよこれ。空からミサイルが降ってくる」

「ハーモニー1、山頂からコンゴウの群れ表れた。完全に不意打ちだね」

 同時に襲撃を受けた。しかも、各隊がウロヴォロスに注意を向けていたところを上から強襲するとは。ウロヴォロスを餌に神機使いを釣ったとでも言うのか。

「まだ神機が動かないんだ。こっちは総崩れになってる。誰か助けてくれ」

「コンゴウの総数は15体前後だから、1人頭4体か。これは生き残れないな」

 焦燥と諦観と。

 そして両者の声色に共通していたのは、絶望の色だった。

 

 降り注ぐ氷の刃が止まった。第1部隊はどうなったのか。辺りを見回した。そこにあったのは。

 手や足が切り取られた者。腹に刃が刺さった者。頭が潰された者。

 無傷な者はいなかった。動く者もいない。この場に立っているのはインカムの声に反応した自分だけだった。他の部隊と同じ絶望を感じながら、上に向いた。

 そこには山肌を跳ねるように下る白毛の四足獣があった。その動きはまるで重力を受けていないようだった。

 背中に三日月のような刃を背負っている。

 それは白いアラガミだった。

 視界が揺らいだ。

 あれは記憶の中の。

「個体名ネブカドネザル」

 またマリアの声が聞こえた。やはり生きていたのか。

 マリアの声がネブカドネザルと呼んだ白いアラガミは、瓦礫が散乱する地面の一段高い場所に降り立った。それを目の端に留めつつも、しかし自分の意識はマリアの声に向いていた。

 この危機的状況にもあっても、喜びが湧き上がるのを押さえられない。この場がどうなっても構わない。

 マリアさえいるのなら。

 マリアが生きているなら。

 マリアはどこにいるのか。司令部に戻ったのだろうか。

「マリア」

 その気持ちが思わず声に出ていた。

 マリアの声が無機質に回答した。

「個体名八神マリアは、既に神機と一体化しています」

 神機と一体化。どういうことだ。

 夢の中の光景が、鮮明に頭に浮かんだ。断片的だった記憶が繋がる。意味を成す。

 そうだ。

 白いアラガミ。自分は確かにあのアラガミを知っている。あれはどこだったのだろうか。

 そうか。

 マリアと研究施設を偵察中、あの白いアラガミに襲われて。砕かれた神機の刀身。それをアラガミが飲み込む。吹き飛ばされるマリア。動かない。担いで逃げる。

 そうだったのか。

 彼女を助けるために自分は。

 半ば瓦礫に埋もれた、古い神機を、手に。

 適合していない神機の捕食機能が目覚めて。

 黒い顎が。

 自分と神機の間に入るマリア。

 なんでそんな事を。

 マリアの声が言った。

「神機の自己保全機能により」

 止めてくれ。

 これ以上は、もう止めてくれ。

 

「八神マリアを捕食しました」

 



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08. 死神

「ネブカドネザルが活性化します」

 マリアのような声が言った。

 白いアラガミが吠えた。正確には音に成らない咆哮とでも言うべきか。

 ネブカドネザルの背にある三日月形の刃が陽炎のように揺らいでいた。水面に浮かぶさざ波のように、ネブカドネザルから波紋が広がっていくのが見えた。それは可視化した音の波のようだった。

 さざ波に触れた瞬間、身体が反応した。自分の中の何かが震えた。そして耳鳴りのような奇妙な違和感を覚えた。

「ネブカドネザル、大気中の微細なオラクル細胞に干渉しています」

 また声が聞こえた。白いアラガミの放つ波動の影響を受けない明瞭な声だった。雑音が少ないのではなく、全く混じっていない。いつの間にか途切れたインカムの音声とは質の異なる明瞭さだった。

 微かな疑問を感じつつも、だからといって興味を引かれるようなことはなかった。今の自分には無関係なことだ。全てがどうでもよかった。

 片膝をついた右足から大量の血液が流れ出ていた。下半身にあった熱を伴う痛みも、もうほとんど感じられなかった。神機使いの強靭な肉体が自分の意識を保たせているだけで、普通の人間ならとうに気を失っているはずだ。

 致命傷といえる深い傷も、今は別の世界のことであるかのように遠く感じられた。ここから先のことに関心はない。自分の全ては過去にある。

 あの時の記憶が自分の中に戻っていた。曖昧だった過去の出来事を、今では完全に思い出せた。

 自分のせいでマリアが死んだこと。この神機がマリアの身体を捕食したこと。そして頭に響く声がマリアのものではないことも、十分に理解していた。

 白いアラガミがまた大きく吠えた。先ほどより波の濃淡が激しくなっている。

 背中から大きく上に突き出た金属質の部位が霞んで見えた。自らが発する振動で輪郭が不鮮明になっているのだ。この三日月が波動の発信源のようだ。

 波動に合わせるように、右手の神機が脈打った。そして一定の間隔で脈動する。神機から弱いさざ波が生まれる。それは白いアラガミの放つ波動とよく似ていた。

 神機とアラガミとが共鳴しているように思えた。

「広域のオラクル細胞が、ネブカドネザルの波動によって強制的に活性化しています」

 この共鳴反応にも覚えがあった。

 あれは白いアラガミと初めて遭遇した時のことだ。

 

 アーカイブでは見たことのない個体だった。

 さほど大きいアラガミではない。中型アラガミに分類されるその身体は、白い体毛を持った四足獣のそれであった。普通の獣と大きく異なるのは、身体と同じくらいの大きさの三日月を背中に担いでいることくらいだろうか。特異な形状をもつアラガミの中にあって、その程度の異形は全く目立たないものだった。

 ネブカドネザルを特徴付けているのはその形状ではなかった。

 それは、レーダーに映らない新種のアラガミであるということ。

 それから、この波動の存在だった。

 ほとんど明かりのない廃墟の中で白いアラガミと遭遇した。

 レーダーに映らないアラガミだった。さざ波と共に深い闇から溶け出すように表れ、気が付いた時にはもう目の前に立っていた。

 自分より一瞬、早く異常を察したマリアがアラガミの攻撃を受け止めた。しかしその力に、構えた神機ごと吹き飛ばされた。彼女は激しい衝撃に意識を失った。

 遅れて自分も応戦した。慣れない近接戦闘で、数合とはいえネブカドネザルの攻撃を凌げたことは奇跡といっていい。もちろんその奇跡は長く続かなかった。

 白いアラガミが自分の神機を噛み砕いた。そして、ゆっくりと捕食した。

 自分はその隙に、マリアを担いで逃げた。

 アラガミは波動を発しながら追ってきた。獲物を弄ぶ狩人のようなゆったりとした足取りだった。さざ波に身体を振るわせながら、自分は研究所の奥へとただ走った。

 研究所の片隅が淡く光ったのを見た。

 瓦礫に混じって古い密閉式の神機固定具があった。廃材に埋もれる鋼鉄製の箱から薄紅色の光が漏れていた。光源に近付いた。そして緊急用の開閉装置を殴り付けて開けた。

 古い型式の神機があった。そのコアは何故か赤く、波動に共鳴するよう点灯していた。

 白いアラガミはすぐそこまで来ていた。マリアは気を失ったままだ。自分が彼女を守るしかない。

 だから、その古い神機に手を掛け、闇の中から一気に引き抜いた。そして背後に迫っていた白いアラガミに斬りつけた。

 不意をついた一撃で傷を負ったネブカドネザルは、また闇の中に消えていった。長いお別れをするような、静かな去り際だった。

 しかし、危機は去っていなかった。

 古い神機が適合者ではない自分を拒絶した。そして、全てを喰らうアラガミの本性で自分を捕食しようとした。自分のものでない神機に触れるということは、そういう事だ。神機使いなら誰でも知っていることだった。

 後悔はなかった。マリアを助けられたのだから、それで良かった。目の前で黒い顎が大きく開かれた時、自分は神機に喰われる瞬間を、安らかな気持ちで待っていた。

 だからマリアが自分を突き飛ばした時、一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 マリアは自分の身代わりになるかのように、顎の前に立っていた。

 そして神機の闇に飲まれていった。

 自分は生き残って、マリアは死んだ。

 手元にはマリアを喰った神機だけが残った。

 それがあの時に起こった出来事の全てだった。

 そして、その元凶となったアラガミが今、自分の前に立っていた。

 

 白い獣はアラガミの群れが埋まる墓地の上に、どこか幻惑的な姿で佇んでいた。ネブカドネザルが放つ波動は、かつてとは比べ物にならないほど強まっていた。

 それと共鳴するように神機の脈動が高まるのを感じた。

 いや神機だけではない。地面も共鳴していた。足下が確かに揺れていた。どこか胎動を思わせるゆっくりと規則的な振動だった。

「活動を停止していたアラガミの損傷が修復されます」

 この声は神機が発しているものだと分かっていた。

 マリアを捕食した神機に目を落とした。自分を拒絶したはずの古い神機が、どうして姿を変えてここにあるのか。なぜ自分に適合したかのように振る舞っているか。どうやって自分の神機と同じ形状になったのか。

 いくつかの疑問は、しかし浮かんだのと同じ唐突さで消えていった。そうした事柄はほとんど気にならなくなっていた。

「周辺のアラガミが活動を再開します」

 地中から何かが顔を出した。それは半分崩れたオウガテイルの頭部だった。修復不可能な程に破壊したはずのアラガミが、目の前に蘇った。

 1体だけでなかった。アラガミ達は次々と墓標の中から這い出てきた。

 千切れた足。

 砕かれた尾。

 ひしゃげた胴体。

 動いているのが不思議なくらい激しく損傷したアラガミの身体は、まるで動く死者のようだった。ネブカドネザルの周りに死者の群れが生まれていた。

 白いアラガミの姿が、亡者の列を先導する死神のように見えた。赤く揺らめく銀の三日月は命を刈り取る大鎌だった。

 自分の視線はこの白い死神に向けられたままだった。こちらを見返すネブカドネザルの視線に何かを感じた。昆虫のように感情のないはずのアラガミの目に、淡い色の感情が浮かんだように見えた。

 死神の目にあった深みのあるその色は、憐れみか。

 

「アラガミが接近します」

 神機の声が聞こえた。

 偏食因子によって強化された杭に片目を貫かれたままのオウガテイルが、自分に近付いてきた。小型の肉食恐竜のような太い脚部に風穴があいているため、その移動速度は遅い。片足を引きずっている。

 負傷したオウガテイルの群れがそれに続いた。遠くには浮遊する袋のようなザイゴードの群れもあった。コンゴウやヴァジュラなど中大型種も見えた。どれも一様に深い傷を負っていた。

 先頭にいたオウガテイルが、自分とネブカドネザルの間に立った。そしてネブカドネザルの視界を遮った。憐れみの呪縛から解かれるのを感じつつ、焦点を目の前に合わせた。

 鬼の面の下にある大きな顎が牙を剥いていた。

 自分のところまで、あと3歩というところか。

 軽く目を閉じた。見るべきものは何もない。それと同じように、もう生きる意味もない。強くなければ生きていけない時代だからこそ、理由のない生に価値はないのだ。

 あと2歩。

 神に祈るように両膝を着いた。神機が乾いた音を立て、跪いた自分の足下に転がった。

 歓迎するように両手を広げた。

 あと1歩。

 瞼を開き、自分に死を運ぶ神の姿を見上げた。

 

「オルタ5。上です」

 

 砕けるオウガテイルの頭部が見えた。頭部を失ったアラガミの身体が自分のすぐ横に倒れた。

 声は左手から聞こえてきた。どこか無感動に声の主を探した。ブレイブ4が神機を構えていた。右手と左足だけで長い銃身を支えている。彼女の左手は肘から先が失われていた。黒い手袋が中身の入ったまま足下に落ちているのが見えた。

「まだ、終わりではありません」

 ブレイブ4が静かな声で言った。動じず、高ぶらず、ただ狙い撃つのみ。生粋の狙撃手らしい淡々とした物いいだった。その声色はいつもと同じく金属質に澄んでいた。

 自分の前を影が横切った。アラガミの影だ。自分に近付きつつあったアラガミの群れが、目の前を素通りしていった。より新鮮な獲物に興味を引かれたのだろうか。旺盛な食欲だ。いや、無限の貪欲か。

 ブレイブ4が銃形態の神機を次の標的に向けた。左手を欠いた定まらない照準で撃つ。続けて撃つ。アラガミの頭や足が弾けていく。

 しかし弾が切れた。

 別のオウガテイルが倒れた同胞の屍を乗り越え、彼女の目の前に迫っていた。神機を形状変化させる時間はない。

 大きく開かれたオウガテイルの口に向って、ブレイブ4が銃身をそのまま突き入れた。神機がアラガミの喉に突き刺さる。赤い体液が流れた。

 傷を負ったそのオウガテイルは、しかし喉に刺さった神機ごと彼女の右腕に齧りついた。鋭い牙が彼女の利き腕を切り裂く。引き千切る。

 左手に続き右手も失ったブレイブ4の腹部に、オウガテイルの棘の付いた尻尾の一撃が振るわれた。その衝撃で彼女の身体が横に吹き飛ばされ、腹這いの体勢で止まった。身体の下に赤い水たまりができた。

 彼女の視線が、何かを探すように左右に流れた。

 切断された右手が、何かを掴もうとするかのように前に伸ばされた。

 瞳は真っ直ぐに自分を見ていた。

 この光景は。

 アラガミの顎が、彼女の身体に喰らいついた。肉が潰れる音が聞こえた。自分に向けられた視線と右手だけを残して、彼女の胸部がアラガミの顎の中に消えていた。オウガテイルは身体と比較して不釣り合いなほど大きい口を開き、今度は下腹部に達するまで深く齧りついた。近くにいたもう一体のオウガテイルがそこに近寄り、投げ出された彼女の足を齧った。そして上半身を齧るもう一体から引きはがすように力任せに顎を振った。拮抗する2体の力がブレイブ4の身体を腰の辺りで両断した。割れた胴体から血液とともに何かが溢れ出た。

 少しずつ肉片になっていくブレイブ4の身体に何頭ものオウガテイルが群がってきた。ぐちゃぐちゃと音を立てて肉片に喰らいつくアラガミの顎が見えた。

 

 食事を続ける群れの足下に、球体のような何かが落ちた。ころころを地面を転がって自分の方に近付いてくる。自分の目の前で止まる。それを見る。

 人間の頭だった。

 頭部だけになったブレイブ4の視線は、先ほどと変わらず自分に向いていた。長く明るい髪。白さが目立つ素肌。傷一つないその涼やかな顔には微かな笑みが浮かんでいた。

 奇麗だ。微笑み返しながら思った。そう言えば彼女の名前を聞いていなかった。後で聞かないと。違う。彼女は何も話さない。もう話せない。

 一方でアラガミ達は、唯一の天敵であるゴッドイーターの血肉を喰らって活力をみなぎらせていた。その挙動が力強く、鋭くなっていくのが分かった。全身のオラクル細胞が活性化しているのだ。

 鬼神の食卓には、かつて人間だった肉塊を咀嚼する音だけが響いていた。そしてその音も今、止まった。

 アラガミが次の獲物に顔を向けた。

 自分だ。

 何体かのオウガテイルが、素早い足取りで自分に向ってきた。もう亡者の行進ではなかった。

 しかし、自分の目はアラガミを見ていなかった。誰かの声が自分に話しかけているような気がした。聞いた事のある声だ。

 誰だろう?

 斜めに傾いだ彼女の顔を見た。どこかで見たことのある瞳だった。

 貴女なのか?

 その目を見つめた。

 前へと駆けるオウガテイルのかぎ爪が、微笑むブレイブ4の頭部を踏み潰した。飛び散る肉片。後に続くアラガミがそれを貪欲に喰らった。先頭の1体は真っ直ぐ自分に向い、血に染まった足を走らせた。

 微笑みはもうどこにもなくなっていた。

 だが失われた瞳が、自分に何かを語っていた。

 あの時の記憶に、目の前の現実が重なった。

 あの時、黒い顎の中で彼女が言った。

 見つけて。

 目の前で首を傾げた彼女が言った。

 見つけて。

 アラガミの顎が目の前に迫っていた。大きく開かれたその口元には人間の体液が付着していた。オウガテイルは自分に向って跳躍し、更に大きく牙を剥き出しにした。

 見つけて。

 迫る牙を阻むように、目の前に亡霊が浮かんだ。

 

「神機の自己保全機能が作動、擬態を解除します」

 それは白いローブを纏った女性だった。黒く長い髪は、月を思わせる銀色に変わっていた。生命に満ち溢れた姿は、儚い幽玄の美に変わっていた。

 亡霊に形を変えたマリアがそこにいた。

 そして、そこだけは生者と変わらない声で言った。

「同期中のゴッドイーターのオラクル細胞を強制活性化します。追加のオラクル細胞を投与します。損傷を修復します」

 身体に熱が点るのを感じた。血液が沸騰する。身体がバラバラに砕かれる。しかしその苦しみも一瞬で消えた。分解された身体が再び組み立てられたような感覚があった。

 後に残ったのは、灼熱を放つ身体だった。全身のオラクル細胞が限界を越えて活性化していた。

「同期中のゴッドイーターの表層人格に干渉します」

 マリアの過去と現在は失われた。

 しかし未来は。

 目の前に立つ亡霊のマリアの、その瞳が語っているではないか。

 見つけて。

 私を見つけて、と。

「神機の稼働率及び同期中のゴッドイーターの活性率、戦闘水準に到達しました」

 いくつにも折り重なるマリアの影を見上げながら、思った。

 まだ、間に合う。

 だから自分は。

 自分が。

 俺が。

 俺が。

 俺が。

 俺が見つけ出す。

「戦闘を開始します」

 マリアの亡霊がそう言うと、神機のコアが赤く光った。

 

 

 俺は神機を握った。

 そして膝立に白刃を振るった。亡霊の横顔を霞めた切っ先がオウガテイルの咥内を穿つ。銀の刀身がアラガミの頭部を貫いて後ろに飛び出た。

 刃を引き抜く。吹き出したアラガミの鮮血を頭から浴びた。視界が真っ赤に染まった。

 前に立つ亡霊には赤の飛沫一つ付いていなかった。幽玄の姿のままで宙に浮かんでいた。

 そんな亡霊を眺めながら、俺は血を滴らせた髪を左手でかき上げた。立ち上がって神機を両手に持ち直し、誓いを捧げる騎士のように前に掲げた。よく光を反射する刀身に赤く燃えた俺の髪が映った。

 いつの間にか神機の形状が変わっていた。

 廃墟で見つけた時の古い神機に戻っている。亡霊の髪と同じ銀の刃を持つ神機だった。神機の振動も止んでいた。

 神機に命じる。いや、背後に立つ銀の亡霊に命じる。神機の刀身が崩れる。黒い牙が迫り出す。

 喰らえ。

 アラガミよりもアラガミらしい顎が、足下にあるオウガテイルの胴体に喰らいついた。牙が腹を喰い破り、肉を齧り取った。

 まずは1体。

「オラクル細胞の補充を確認しました」

 亡霊が言った。

 赤く光る神機の制御細胞群が、深い紅色に変わった。

「神機の機能を解放します。ゴッドイーターの身体能力を多重強化します」

 体内のオラクル細胞が湧き踊る。全身にオラクルの衣を纏ったような感覚があった。アラガミを捕食した際のオラクル活性化とは似て非なる、言うなれば安定したオラクルの暴走だった。

「力が溢れる」

 俺は静かにそう言って、神機を捕食形態から銃形態へ変形させた。

 視界に入ったのは、近付いてくるオウガテイルの群れだ。俺は近い個体から順番に胴の中央を撃ち抜いていった。2体。3体。4体。

 足りない。

 素早かったはずのアラガミの動きが亡者よりも遅く感じられた。のろのろと這うように動くアラガミが見えた。

 次はあれにしよう。

 

 俺は新たな獲物に向って走り出した。走りながら神機の刃を抜いた。右に構えた刀身が鈍く光った。

 中空から鳥神が滑空してくるのが見えた。刃を連ねた翼状の両腕が俺を狙っていた。

 俺はシユウの右羽を正面から受け止め、そのまま刀身を振り抜いた。シユウの羽が奇麗に両断された。

 神機を捕食形態に変えた。地に落ちた鳥神のもう一方の翼を踏みつけ固定すると、神機を頭に振るった。黒い牙が兜のように固い頭部を易々と噛み砕く。5体目。

 物足りない。

 6体目と7体目がシユウを追うように空から襲ってきた。銃形態へ。

 風船のようなザイゴードの正中線にある天使像を狙う。天使の眼球を正確に射抜く。残ったもう一体も同様に処理した。

 墜落する天使達の向こうに、身の丈の何倍もの巨体が見えた。獅子の形をしたあのアラガミはヴァジュラだ。球体に収束した雷撃を身体の前に形成させ、攻撃態勢に入っていた。

 ヴァジュラに向って走りながら、ちょうど地面に転がっていた手のひら大の円筒を蹴りつけた。それは一直線にヴァジュラの顔面めがけて飛んでいった。

 空中で円筒を撃ち抜いた。閃光と轟音。神機使いの標準装備である閃光弾がヴァジュラの目の前で炸裂した。

 ヴァジュラはそれに怯んで頭を振った。雷球が周囲に放電しながら消えた。

 そこを狙撃する。連なる光針が顔の装甲を貫いた。

 顔を傷つけられた獣神が大きく吠えた。首を覆うマントのようなたてがみが逆立つのが見えた。ヴァジュラは広がるたてがみの収束する空間に雷を生み出し、それを連続で放った。雷の弾丸が俺に向って飛来する。

 俺は速度を上げて地面を這うように走った。稲妻が頭の上を通り抜けた。

 目の前に詰め寄った俺の顔に向け、ヴァジュラの前足の鋭い爪が閃いた。

 それも遅い。爪を飛び越え、牙を剥いた頭部を踏みつける。それを足場に更に高く跳ぶ。視界から消えた俺を追うようにヴァジュラの視線が泳いだ。アラガミの視認範囲より遥か高い位置に跳躍した俺は、神機を捕食形態に変形させた。そして言った。

「上だ」

 全体重を乗せた黒い牙をヴァジュラの頭に叩き込んだ。牙が顔にめり込む。面覆いが砕ける。獅子が吠える。

 地面に立った俺は、両手で神機を捻ってから引き抜いた。ヴァジュラの顔の半分が千切れた。獅子は弱々しく2、3歩進むと、大きな音を立てて横に倒れた。これで8体目だ。

 もう終わりか。

 背後にいたオウガテイルの群れが、俺に向けて尻尾の棘を飛ばした。短剣のような鋭い針が無数に飛来してくる。

 刀身の後ろに収納された神機の装甲を身体の前に広げた。神を喰らう狼が描かれた大盾が針の大半を受け止めた。1本がこめかみを掠め、残りが右足と肩に突き刺さった。

 俺は左手で無造作に針を引き抜いた。抉られた肉の穴から血が流れた。遅れて痛みがやってきた。

 口元が歪んでいた。どうやら笑っているようだ。

 俺は声に出して笑った。

 もっと。

 神機から異形の銃身が表れた。

 獣のように醜く歪んだ銃からアラガミバレットを解き放った。獣神の雷撃が群れを襲う。オウガテイルが地面ごと吹き飛ぶ。9、10、11、12体目。

 

 哄笑は止まらない。

 息を合わせるようにしてコンゴウが4体、別々の方向から迫っていた。

 それを見ながら、俺は神機をだらりと下げたまま動けない。動かない。

 前から突進してきた大猿の身体を上半身の捻りだけで回避した。

 背中越しに大きく転倒するコンゴウの姿が見えた。他の3体が倒れたコンゴウに衝突した。自らの運動エネルギーで頭部や腕の装甲を破壊している。

 俺は倒れたコンゴウに向って走った。神機を近接形態に変える。刀身が地面を削る。刀身を下手に構えたまま、コンゴウの身体の上を駆け上がった。刃が尻尾から背中までを一気に切り裂く。

 後頭部を足で踏みつけ刀身を突き刺した。猿の顎の下から刃が生えた。13体目。

 そこに別のコンゴウの豪腕が迫った。神機はまだ1体目のコンゴウに突き刺さったままだ。

 俺は左腕で頭を庇った。腕の骨が音を立てて砕かれる。衝撃に俺の身体が右に吹き飛ばされる。

 2回転がってからその勢いを利用して立ち上がった。神機は強く握った右手に収まったままだった。

 左手の方は、だらりとぶら下がったまま動かない。邪魔だ。左袖を噛んで口で固定する。閉じた歯の隙間から笑い声が漏れ出した。

 もっとだ。

 3体のコンゴウが同時に吠えた。そして肩にあるラッパのような器官から見えない衝撃波を放った。

 装甲を展開する。続けて押し寄せる突風に、装甲ごと後ろに飛ばされた。俺の身体がコンゴウから遠ざかっていく。

 尚も突風を放とうとするコンゴウに、刀身の下に収納された銃口を向けた。

「爆ぜろ」

 銃口から吐き出されたオラクルの塊が1体の背中に炸裂した。風を操る背中の器官が粉々に砕けた。

 続けて頭に向けてもう1発。今度は頭が粉々に砕けた。14体目。

 見せろ。

 俺は刀身を片手に下げたまま、無造作な足取りでコンゴウに近付いた。風の攻撃はもう止んでいた。

 掴み掛かろうと広げた大猿の腕の下にある柔らかな腹を切りつけた。真横に線が走った。返す刀で切り上げる。15体目は、十字の傷から鮮血を吹き出し、仰向けに倒れた。

 残る1体のコンゴウが後ろに向って走った。不足したオラクル細胞を補給するためだろう。それとも怯えを感じてくれているのか。

 口元が大きく歪む。笑う。

 もっとよく見せろ。

 俺は走りながらその辺に転がるアラガミを捕食し、神機にオラクル細胞を補充した。神機を銃形態へ。そして光沢のある長い銃身から細く絞った光を放つ。

「跪け」

 逃げるコンゴウの片膝が砕けた。反対の膝も撃ち抜く。コンゴウが前倒しに倒れた。

「祈れ」

 俺はゆっくりと歩きながらコンゴウを撃った。左手、右手と順番に撃ち抜いていく。

 壊れた両腕を前に投げ出すようにして腹這いになったコンゴウの側に立った。

 こいつも喰らっていい。

 神機から黒い顎が生まれた。

 好きなだけ喰っていい。

 顎は頭部と右手を残して胴体を噛み千切った。そのまま腹部へ。腰を足で踏みつけ、今度は下半身を齧らせる。そのまま横に引き、身体を上下に断つ。

 袖口から漏れる笑い声は止まらない。

 俺は転がったコンゴウの頭部を踏みつけ、その額に静かに銃口を置いた。

「終わりだ」

 俺はアラガミの頭部を見下ろしながら、絞った弾丸を解き放った。神の頭が原型を留めないほどに粉々に砕けた。

 

 16体目が終わった。

 アラガミの残骸を喰い散らかしながら、噛み締めていた左袖を口から外した。

 再びだらりと垂れ下がる左腕に、違和感を感じる。痛みが僅かに弱まっていた。

「ゴッドイーターの自己修復能力を強化します」

 二の腕が熱くなった。折れた骨が発する痛みが収まっていく。砕けた関節が大きな音を立てて繋がる。もう痛みは感じていなかった。手足に空いた穴からの出血も止まっていた。

 楽しい気分が台無しになった気がした。口元の笑みも消えた。

 でもまだ、終わらない。

 俺は新しい獲物を探して、静かになった周囲を見回した。

 動くものはなかった。人もアラガミも。

 この場に立っているのは俺と、目の前の白いアラガミだけだった。

 死神はさざ波の中心に悠然と立っていた。

「ネブカドネザル」

 俺は静かにその名前を呟いた。

 死神はずっと俺を見ていた。

 俺が足掻くのを見ていた。

 俺が失うのを見ていた。

 だが、今度は。

「神機の稼働率が臨界点を越えました」

 マリアの亡霊が言った。どこか官能的な響きだ。

 神機のコアが深紅に輝いた。

 銀の刀身が赤い波動を纏った。

「神機の制御機構を限定解除します」

 俺は赤い神機を死神に向けた。

 今度は俺の番だ。

 

「アビスファクター、レディ」

 

 耳元で亡霊が囁いた。



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09. 深淵

「アビス・ファクター、レディ」

 耳元で囁いた亡霊の声に恍惚の色を感じた。

 その声色は俺にマリアのそれを思い出させた。似ているというのではない。全く同じ声だった。中空に浮かぶこの世ならざる姿も、何処かマリアと似ていた。

 姉はもういない。八神マリアは死んだのだ。

 しかし彼女は亡霊となって蘇った。俺は神機に取り憑く亡霊をそういうモノとして受け入れていた。だからこの亡霊が追憶のマリアと重なるのも当然だった。俺にとって銀に輝く亡霊は、マリアと同一線上にある存在として認識されていた。

 マリアに背を押されたように、俺はネブカドネザルに向って走り出した。

 疾風となった俺の背に亡霊が付き従った。銀の亡霊は焦点の合わない瞳で俺を見下ろしていた。俺だけでなく俺を取り巻く全ての現象を観察しているのかも知れない。俺は視界の端に映る亡霊の、その冷やかな横顔を覗き見た。

 この亡霊はきっと、ある種の呪縛なのだろう。俺がマリアを忘れないように。俺とマリアが背負ったものを忘れないように。その為だけに記憶の海に沈められた碇なのだ。

 俺は亡霊をすぐ側に感じながら走る速度を上げた。地上を滑空するようなその走りは、既に人間のものではなかった。オラクル細胞を投与されたゴッドイーターとしても、異常な速度だった。

 代償もあった。両足に焼き付くような尖った痛みが走った。足の筋肉が過負荷に耐えきれず芋虫のように無様に収縮を繰り返した。そしてぶちぶちと音を立てて筋が断ち切れた。

 壊れた筋肉は、しかしその端から再生されていった。神機から腕輪を通して逆流したオラクル細胞が、俺の肉体に暴走と修復を同時に生じさせているようだ。

 激痛と癒しの際限のないループが俺を蝕もうとしていた。

 だが俺にとって痛みとは、生者の証でもあった。激痛は俺により強く生を意識させた。俺は生きている。走る事ができる。走って牙を剥き、喰い千切ることができる。俺の牙はどこまで届くのか、早く試したい。そう考えるだけで、こんなにも愉快でたまらなくなった。

 だから俺は激痛の中で、乾いた笑い声を立てた。

 俺は自分の神機を失い、代わりにこの神機を手に入れた。新たな神機は、あの一件で失った人としての感情を俺に思い出させた。かつて灰色の哀しみだけで構成されていた俺の内面は今、極彩色の感情で塗り潰されていた。

 それは今も同じだ。俺は愉悦と快楽の色に染まりきっていた。

 口元に笑みを張り付けながら、俺の五感はどんどん鋭敏になっていく。そして研ぎ澄まされた意識を映す鏡のように、神機の刀身は白銀に冴えていた。

 俺が手に入れたこの神機は、今ではほとんど見られなくなった単純な構造の神機だ。ただ鋭いだけのシンプルなブレードは身の丈を超える。その鍔の部分には刀身と同色の盾が折り畳まれ、いつでの展開できるようになっていた。鍔元にある銃口は収納された重火器のものだ。近接形態から銃形態に変形させると、この銃身部分が伸張し長大な狙撃銃となる。近接形態と銃形態に形を変える可変機構は、第二世代の神機が最低限、備えるべき機能だった。

 俺の神機は標準的な第二世代型神機と比べても、どこか素っ気ない雰囲気があった。

 かつては。俺は心の中で付け足した。

 だが今は。

 神機の無機質な刀身が赤い波に覆われていた。刃の部分に埋め込まれた捕食に特化したオラクル細胞が光を放っていた。その刀身は血に飢えた妖刀のようだった。

 違う。血に飢えているのは俺の方だ。快楽の裏側に際限のない飢餓感を感じた。獲物の血肉に飢えた獣のそれと同じだった。

 お前を喰えばこの飢えも止むのか。

 俺は餓狼の眼差しで、瓦礫の山の上に立つ白いアラガミを見上げた。

 

 ネブカドネザルは俺の飢えた視線を無視するように静かに佇んでいた。

 その硬質的な眼球に哀れみの色が浮かんでいるように見えた。化け物に堕ちた俺を、同じ化け物が哀しむ。その矛盾は俺をもっと愉快な気分にさせた。

 せいぜい高い位置から見下しているがいい。お前はマリアと俺を深淵の底に落とした。多くの神機使いを塵芥のように踏みつぶした。同じアラガミでさえも意のままに操り、死んでからもなお自らに従わせた。

 それもここで終わりだ。俺の牙が死神の喉笛を喰い千切るまで、あとたった3歩しかない。そう思うと心が喜びで満ちた。擦れた声が甲高い嘲笑に変わっていた。

 俺は最後の数歩を疾走しながら、神機の刀身を正眼に構え直していた。妖しく光る切っ先が、真っ直ぐにネブカドネザルを狙っていた。

 神機の先端を逸らすように白いアラガミが身を沈ませた。それは俊敏な四足獣が動き出す直前の独特な身構えだった。

 遅い。あと2歩だ。

 刀身を正確にアラガミの右の眼球に向けた。

 そして最後の1歩を踏み込んだ。

 全ての運動エネルギーを1点に集中させた刺突が、狙い澄ました銃撃のように標的に向って放たれた。

 アラガミが動いた。まるで重力に干渉されないような優雅な動作で俺の右手側に跳んだ。神機の刀身がアラガミの影だけを斬り裂いた。

 アラガミは宙に浮いた状態でしなやかに身体を捻った。四脚獣が空中を跳ねるようにして運動エネルギーの方向を捩じ曲げる。驚異的な身体能力だった。

 ネブカドネザルは刀身に引きずられるように伸びた俺の腕に、背中にある巨大な三日月型の刃を振り降ろした。

 これでいい。

 俺は刀身を平に返し、刃先を斜め上に向けた。三日月刃と水平にすれ違う軌道だ。斬り付ける速度が三日月のそれを上回るよう、俺は大地を踏み締めて力を溜めた。

 俺の動きに合わせるように三日月の落ちる軌道が変わった。ネブカドネザルは俺の切り上げを受け止める方向に刃先を向けた。だが急な方向転換に体勢が乱れた。

 ここだ。あの三日月を。

「噛み砕けぇっ!」

 咆哮に導かれるように、神機から赤いオラクルの炎が噴き出した。間欠泉のように爆発的に迸った炎が巨大な剣の形に収束する。紅蓮に揺らめく刃は神機本体の倍ほどの長さがあった。

 それは禍々しく燃える修羅の太刀だった。

 俺は炎刃で三日月を薙ぎ払った。太陽の紅閃と白い三日月とが1点で交わる。そして太陽が三日月を飲み込んだ。修羅の炎がネブカドネザルを焼き尽くさんと全身を覆い隠した。

 俺は溜め込んだ力を解放した。全身のばねを使ってアラガミごと炎刃を振り抜く。紅蓮に包まれたまま、ネブカドネザルの巨体が上に吹き飛ばされた。

 俺は炎刃を従えて跳躍した。燃えるアラガミの脇をすり抜けて、もっともっと高い場所まで。そして跳躍の頂からネブカドネザルの焦げ付いた身体を見下ろした。

 俺は落下する勢いを炎刃に乗せて振り下ろした。

 ネブカドネザルは三日月を掲げて炎刃を受け止めた。斬撃が防がれても、しかし神機の纏う炎の勢いは止まらなかった。神機の刀身から轟炎が弾けた。そして白いアラガミの身体を紅蓮一色に染め上げた。

 俺はそのまま空中で歯車が回転するように、身体ごと縦に炎刃を振り抜いた。風車のように回る剣戟がネブカドネザルの三日月を弾き、身体ごと地面へと突き落とした。

 アラガミの巨体が激しい音を立てて地面に激突した。その衝撃で旧世界の建造物が粉々に砕けた。その破片が地表に沈むアラガミの上に振り注いだ。

 俺はふわりと地表に降り立ちながら、神機を肩に担いだ。

 神機の炎は消えていた。だが刀身を静かに覆う赤いオラクルの光は、寧ろ先ほどより強まっているように感じられた。一瞬の交差でネブカドネザルのオラクル細胞を削り取り、自らの力に変えたのだろう。

 生き血を啜った妖刀が禍々しく濡れていた。

 俺の視線の先で瓦礫が揺れた。そして激しい音を立てて崩れる。その粉塵の中からネブカドネザルの身体が表れた。白い体毛は焦げ付き、全身が埃にまみれていた。アラガミは四肢を踏ん張るが、思うように力が入らない様子だった。四脚獣の蹄が揺れていた。

 そして、背に負う三日月型の刃に大きなひびが入っていた。

 俺の牙は、死神に届く。

 俺の口元が歪んでいた。それは無邪気さを感じさせるような微笑だった。言いようのない歓喜が俺を包み込んだ。それに全身に力が漲っていた。ネブカドネザルの肉を喰らったからだろうか。

 俺は担いだ神機とその横に浮かぶ亡霊に目を向けた。

 お前はまだ、喰い足りないだろう?

 問いかけに応えるように、刀身が妖しく光った。マリアの亡霊はただ暮夜けた輪郭の淵を輝かせていた。

 だが俺には亡霊が確かに頷いたように見えた。

 

 瓦礫の山に立つネブカドネザルが、大きく吠えた。

 それは生物が決して発しないような金属音じみた鳴き声だった。その咆哮に込められていたのは傷付けられた屈辱か、それとも恐怖か。ひび割れた三日月型の刃は、声に合わせるように揺れていた。

 音の波を全身に感じつつ、俺は風となってネブカドネザルとの距離を詰めた。先手を取って封殺するためだった。間合いに入った瞬間、脇に落とした刀身を上段に移し、真っ直ぐに振り下ろした。

 反撃を敢えて想定しない全力の斬撃を、ネブカドネザルは破損した三日月刃で受け止めた。三日月刃からは金属が軋むような悲鳴が聞こえた。俺はそのまま三日月刃を断ち切らんと手元を引き締めた。そして人間の限界を超えた剣圧でアラガミを圧した。

 だがネブカドネザルは蹄を地面に食い込ませながらも俺の一撃を受けきった。それだけではなかった。優位な体勢で斬撃を放ったはずの俺の方が押し返されていた。勢いが完全に殺されていた。

 俺は両手で神機を押さえ付けながらネブカドネザルを見た。神機を止めた三日月刃は今にも折れそうなほど歪んでいる。そして全体から甲高い悲鳴が上がっていた。

 悲鳴は徐々に高くなり俺の聴覚を狂わせた。耳鳴りで全身の平衡感覚がおかしくなる。神機を持つ手が痺れるのはそのせいだろうか。

 そうではなかった。

 この音は悲鳴ではない。そう気付いた時、狂乱の悲鳴が可聴音域を越えた。さざ波に飲み込まれるように三日月の輪郭が暮夜ける。その瞬間、高い金属音と共に俺の身体が弾け飛んだ。

 俺は大きく弧を描いて地面に叩き付けられた。地面を転がった勢いで片膝を付いて立ち上がったが、両手は痺れてほとんど動かなかった。それでも神機を離さなかったのは、神機の方が俺の右手に噛み付いて離さなかったからか。銀の亡霊も背後に浮かんだままだった。

 俺は痺れの残る両手で神機を握り直した。目線はネブカドネザルに向けたままだった。

 狙撃用に調整された俺の両目がアラガミの三日月刃を何倍にも拡大した。俺は三日月刃を自分の手に持つような感覚で観察し分析した。

 そして分かった。そういうことだったのか。

 三日月刃は高い金属音を響かせながら、刃とそれを覆うオラクル細胞を高速で振動させていた。振動で運動エネルギーを無力化し、オラクルの衝撃波で俺を吹き飛ばしたのだ。神機の刀身にあるオラクル細胞の活動も抑制されていた。

 ネブカドネザルは三日月刃の波動とオラクル細胞の操作とを掛け合わせていた。俺の斬撃を無力化することに特化したような能力だった。

 今や三日月は雲懸かったように周囲の景色を歪めさせていた。あまりの振動が蜃気楼のように視覚に干渉しているのだ。ネブカドネザルの身体はさざ波の中に浮かんでいるようだった。あのさざ波はオラクルの炎刃をも打ち消してしまうかも知れない。

 俺はそれでも、アラガミに向って走った。そして三日月刃に神機を打ち込んだ。先ほどと同じ全体重を乗せた斬撃だ。三日月刃が神機の刀身を阻むように掲げられ、振動が俺の視界を歪ませた。三日月からは先ほどと同じ、いやそれ以上の高密度の波動が発せられていた。今度は違うと言わんばかりの敵意があるように感じられた。

 だが俺も今回は違う。

 神機の刀身がさざ波を呼んだ。刀身を覆うオラクル細胞が高速で振動していた。三日月刃と同じ振動だ。耳鳴りのような高音を放つ銀の刀身は、朧月夜のように幻想的な美しさを放っていた。

 俺は振動する刀身を押さえ込みながら、三日月刃に振り下ろした。刀身の描く軌道は朧な満月のようだった。満月と三日月が交わった。振動と振動とがお互いを打ち消し合っている。相殺しきれなかった振動は衝撃波となって周りに散った。真空状態となった両者の間で刃と刃が直に触れ合った。刹那の均衡が生じた。

 俺は上から全身で神機を打つ体勢で。ネブカドネザルは斬撃を支える体勢で。

 だから決まっている。勝つのは俺だ。

 俺の剣圧に耐えきれず、白いアラガミは前脚を折って地面に沈み込んだ。

 俺は刀を上段に持ち上げ直し、連続で打ち下ろした。さざ波を纏った刀身が幾筋もの残像を残し、脚を屈したアラガミの上に流れ落ちていった。それは月夜から溢れた雨のようだった。斬撃に削り取られた三日月刃の破片が雫のように宙に舞った。

 鬼雨のような連撃に俺の肺が悲鳴を上げた。俺は最後に大きく一振りしてから後ろに飛びずさった。そして間合いを取るため更に数歩、後方に飛ぶ。十分な距離を空けてから、切っ先でアラガミを制したまま大きく息を吸い込んだ。

 斬撃の嵐を受けきったネブカドネザルの三日月刃は、だが高い代償を払っていた。三日月が歪んでいた。振動のためではない。既に波の音は消え去っていた。白い三日月の所々が欠け、醜い亀裂が走っていた。

 無様に横たわるネブカドネザルを見下ろしながら、俺は大きく声に出して笑った。

 俺の力は死神を越えた。

 ゆっくりと一歩ずつ死神に近付きながらそう思った。

 俺は神機をぶらりと下げて歩みを進めながら地に堕ちた神に問いかけた。

 お前は死神ではなかったのか。

 お前の力はこの程度か。

 この程度でお前は。

 笑いながらも、俺は心に空虚を感じていた。

 

 ネブカドネザルが甲高い吠え音と共に立ち上がった。膝を揺らしながらもしっかりと地面を踏み締めていた。その目は真っ直ぐに俺を捉えていた。

 俺は顔に歪んだ笑みを貼り付かせたまま、地面を踏み抜いて一気に加速した。そして自ら空けた間合いを一瞬で詰めた。刀身の間合いまであと僅かだ。

 だがその距離を縮める前に、アラガミが立つ辺りの地面が激しく隆起した。そして大地を引き裂いて透明な物体が姿を見せた。

 それは氷の華だった。

 アラガミの前方に薄く尖った氷が生えていた。幾つもの鋭利な氷が折り重なった形状は、見るものに大輪の華を思わせた。これもネブカドネザルの能力なのか。

 俺はかつてフェンリル士官学校で学んだ対アラガミ戦の基礎を思い返した。

 アラガミはその種ごとに固有の特性を持つ。風を操る大猿や雷を纏う獅子など、彼らは自然現象や物理法則を容易に捩じ曲げる。神の名を冠するに相応しい化け物だった。

 しかし、古来より神を殺すのは人間の狡智と決まっていた。だから神機使いには三つのルールがあった。新種のアラガミと対峙した場合には、近接戦闘を避け遠距離からその特性を観測すること。その情報を持ち帰り弱点を洗い出すこと。戦う際は必ず部隊で連携して弱点を突くこと。後はただ一度の反撃も許さない程の圧倒的な火力でアラガミを葬り去るだけだ。人が神に抗うためにはこうした奸智が不可欠だった。

 しかしそれでも、神が人智を越えた存在であることに変わりはなかった。人の知恵を嘲笑うかのように、次々と新種のアラガミが表れた。古いアラガミも環境に適応してその姿を変えた。体格や敏捷性が少し変化したくらいの亜種と遭遇するだけで、その部隊の生存率は大きく下がった。予想しなかった攻撃に命を落とすことは極めて多い。それもまた神を喰うゴッドイーターの心得のひとつだった。

 この地中から突き出た氷華は、ネブカドネザルが地中の水分を氷結させて創造したものに間違いない。白いアラガミはオラクル細胞の操作に加え、氷も自在に操ることができるのだ。第1部隊を強襲した氷の雨もネブカドネザルの能力だったのだろう。全く違う2つの能力を併せ持つアラガミは極めて稀だった。それだけ潜在的な脅威度が高いアラガミだということだ。

 そう考えながら、俺は転がすような声で笑った。空虚だった心が何かで満たされていた。

 そうだ。もっと俺を楽しませてくれ。

 氷華が渦を描くようにして地面に広がった。岩や瓦礫を砕きながら、この一帯に氷華が咲き誇る。氷華がぐるっと俺を囲んだ光景は、さながら巨人の王が頂く花冠のようだった。

 重なる華たちが俺の視線からネブカドネザルを覆い隠した。

 邪魔だ。

 冷たい華に包囲された俺は、右手だけで神機を肩に担ぐ高さに構えた。氷華はまだ間合いの遠く先にある。この位置からの斬撃では氷華まで届かない。

 だから、俺は神機を深く後ろに引きながら、

「舞い散れ」

 と呟いた。

 神機が俺の声に応えた。刀身がオラクルの波を纏った。ネブカドネザルの波動を打ち消した一閃と同じ振動だ。俺は朧に揺らめく刀身を水平に投げるようにして振り抜いた。

 刀身から朧な斬撃が舞った。

 それはネブカドネザルが放った衝撃波とよく似ていた。少しだけ違う点は、圧縮されたオラクルの波を神機の一閃に乗せて撃ち放ったところだ。俺はアラガミの能力を模倣し、更に強化していた。それは飛ぶ斬撃だった。斬撃は標的に向って舞い、氷華を砕いた。

 俺は嬉々として刀身を振り続けた。振った数だけオラクルの斬撃が飛んだ。斬撃の舞が次々と氷華を切り裂いった。

 それでも華は消えなかった。華というより寧ろ雑草の生命力で、次々と地中から生えてくる。地中の水分が無くならない限り永遠に咲き続けるだろう。

 しかし俺は気にも止めなかった。俺は先端が砕けた氷塊を踏みつけ高く跳んだ。空中に舞った俺は、縦横無尽に神機を振った。網のように高密度の斬撃が眼下に降り注いだ。そこは華が咲いている場所の中心に位置していた。網目に走った斬撃がその場所にある華を粉砕していた。

 俺は自分で作った空白の場所に着地した。今度は左に深く刀身を引き、力を溜めた。そして円を描くように回転しながら刀身を薙ぎ払った。俺の周りに輪の形をした光刃が生まれ、周囲の華たちを残らず刈り取った。

 俺は身体の後方まで回し落とした神機を手首だけで返し、そのまま肩に乗せた。俺の周りに砕けた氷の破片が舞い、風花のように儚く散った。

 

 あとはあいつを討てばいい。

 俺は神機の鍔元にある銃口をネブカドネザルに突き付けた。白いアラガミは先ほどの場所から身動きひとつ出来ていなかった。照準をアラガミの目と目の間に合わせ、白雪の降り落ちるようにそっと神機に力を込めた。

 刀身の下にある銃口から意思のある力が弾けた。俺は暴れる神機を両手で押さえ込んだ。

 神機から圧倒的なオラクルの閃光が生じた。閃光は一点に収束し、そして巨大な顎を象った。光が凝固して生まれた顎は、大蛇のように大きく口を開け牙を剥いていた。

 閃光の牙が音を越える速度で飛翔した。その優美な躯が空に舞う風花を貫いて駆けた。

 そして閃光がネブカドネザルを飲み込んだ。



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10. 変容

「呑み込め」

 神機の銃口から放射された光の奔流が大蛇のように顎を開いた。

 迫り来る閃光の大蛇を前に、ネブカドネザルは一歩も動かない。硝子細工のような瞳は少しの瞬きもしないまま、ただ大蛇を見ているだけだった。

 激しい光が空間ごとアラガミを丸呑みした。

 アラガミを喰らった大蛇はその座標を中心に激しく暴れ回っている。輝く尾をなびかせながら貪欲に、残虐に、そして享楽的に。その様子は、飢えと喜びという相反する衝動を体現しているようだった。大蛇の激情は俺の嘲笑の声と不自然な程に調和していた。

 荒ぶる大蛇が動きを止め、とぐろを巻くように巨大な球体へと姿を変えた。光玉はその中心に向って凝縮しながら輝きを強めていく。凝縮が臨界点を超えた瞬間、光玉の表面に細かな亀裂が走った。亀裂から幾筋もの列光が漏れ出す。内包するエネルギーに耐えきれなくなった光玉の外殻が音を立てて割れる。そして。

 ひときわ強い閃光が生まれた。

 光玉の腹に溜め込まれていた力が一気に解放された。光が空間を切り裂く。遅れて衝撃と轟音が響き渡る。閃光の大蛇が生んだ熱と破壊の竜巻がアラガミの立っていた場所を覆い尽くし、そして唐突に消えた。

 嵐が去った跡には黒い塊だけが残されていた。俺の身長を遥かに超えるその塊は、歪んだ卵のような楕円形をしてる。

 俺は神機を一振りして肩に担いだ。そして高らかに笑い続けた。

 そこにあったのは、焦げた肉の塊だった。

 

 巨大な卵型の肉塊を見て、俺は思わず喉を鳴らした。

 卵の表面が黒いのは完全に炭化しているからだろう。黒い卵の中身は一体どのようになっているのだろうか。固茹なのか、それとも半熟か。寧ろ雛がいるままの卵を料理した雛料理なのかも知れない。

 中にネブカドネザルの姿が残る卵料理が、俺の直ぐ目の前にある。殻の内側にある血の滴る生肉に思いを馳せながら、俺は黒い塊に向って歩き出した。

 あの肉を貪り喰いたい。

 頭の中で声が叫んだ。飢餓を主張する神機の声だ。

 俺は笑うのを止め、神機を抑え込むように怒気を放った。うるさい。黙れ。そして肩に乗せた神機を睨む。神機の刃からは妖刀の輝きが抜け落ちていた。今は銀色の刀身がただ鈍く輝いているだけだ。

 刃先の向こう側にはマリアの亡霊が浮かんでいた。亡霊は神機を睨む俺を冷やかに眺めている。亡霊の幻惑的な瞳がうっすらと笑ったように見えた。それは何処か親しみを感じさせる微笑みだった。

 俺に微笑みかけているものは神機に棲む、何か。

 その何かが送った視線に込められている感情は、共感。そしてその裏に隠された、蔑み。

 だから俺は気付いた。気付いてしまった。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 この声が神機に棲むアラガミのものではないことを。それは神機ではない別の場所から発せられている感情だった。内成る声。影に潜んだ強欲。それでも隠しきれない衝動。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 だから俺は叫ぶのだ。俺自身の言葉で喚き散らすのだ。内成る世界の中心で、獣と化した俺が吠えるのだ。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 人間だったはずの俺が。

 ネブカドネザルの血肉を。

 貪り喰いたいと渇望していた。

 喰わせろ。喰わせろ。喰わせろ。

 喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ。

 喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ。

 

 

 人格と肉体の乖離。

 身体がオラクル細胞に浸食される過程で、肉体から生じる欲求がアラガミと同化していくために起こる現象だ。アラガミの欲求とは、つまりは食欲。食欲が人間の範疇を越えて異質化・増大化していくことで、表層人格と肉体との間に溝が生じる。

 それはゴッドイーターがアラガミ化する兆し。

 最初は小さな変化でしかない。神機使いにほんの僅かだけ人間とは異質な食欲が生まれる。その食欲が具体的な対象をもつ欲求へと少しずつ成長していく。例えば神機が捕食するアラガミを見て美味そうだと感じること。食事中に隣に座る同僚を食べてみたいと欲求すること。

 異質な食欲が強まれば強まる程、人格が肉体に与える影響力は低下していく。何れは自分の意志で欲望を掌握できなくなる。ついには欲望それ自体が身体を支配するようになる。

 この段階になると、表層の人格は肉体の行動をただ観察するだけの存在に成り下がる。僅かに存在を許されていた表層人格も、最後には内なるアラガミに飲み込まれ、消えてなくなる。

 かつて神機使いだった存在に残こされるのは、無限の食欲とアラガミとなった肉体だけ。

 神機使いのよくある終着点だった。

 

 俺はネブカドネザルを殺すため、いつの間にか限界を越えて肉体を酷使していたのかも知れない。体内のオラクル細胞を必要以上に活性化させてしまったのだ。オラクル細胞の過剰な活性化は、身体能力の向上と引き換えに神機使いのアラガミ化を加速させる。

 それは悪魔の誘惑。

 神機を制御するはずの偏食因子それ自体が、宿主である神機使いを狂わすという矛盾。神機使いの体内にある偏食因子は、元々、神機が使い手を捕食対象としないための防波堤の役割を担っている。

 しかし結局のところ、偏食因子の本質はアラガミそのものであるオラクル細胞でしかない。だから体内にアラガミを宿した人間は、常にその身をアラガミに乗っ取られる危険と隣り合わせにあるということだった。それだけではない。

 悪魔との契約に等価交換はあり得ない。

 神機使いはその身の半分を捧げて半神と成る。それが本来の契約だ。しかし、悪魔は人間として残った半身も決して諦めはしない。体内に巣食う偏食因子は徐々に神機使いの身体を蝕んでいく。例え神機を使っていなくても、ほんの僅かずつ人間らしい部分を喰らっていく。

 だから神機使いとなった者はいつか必ず、身体とそこに宿る魂をアラガミに捧げる日がくる。それがいつかは誰にも分からない。だが確実に言えることは、ある一線を越えた神機使いの身体は例外なくアラガミと化すということだ。

 人とアラガミの間にある境界線は曖昧に、しかし確実に存在している。それは単に身体のメンテナンスを怠ったというような人為的過失から、潜在的な肉体の性質、精神の在り様など個々の事例によって異なる。そのどれにも共通しているのは、境界線を少しでも越えればもう、決して元には戻れないという事実だ。例えほんの僅かなアラガミ化であっても、その流れが遡及するはないのだった。

 そのことは十分、理解していたのに。

 俺は悪魔と契約した。それが必要だったから。

 その誘惑にも乗った。それを求めたから。

 そしてヒトが越えてはならない一線も、既に越えていた。

 

 俺はアラガミを喰いたいという欲求を抑制することが出来ない。

 俺の肉体を緩やかに支配しつつあるこの食欲は、俺本来の欲求ではない。人間の範疇を越えたこの異常な欲求は、俺の中に棲むアラガミに由来するものだ。それは喰いたいという衝動。捕食に付随する喜び。満足感。身体の欲求だけでなく、俺の精神すら内なるアラガミの激情に捕らわれていたことに、今更になって気付いた。

 思考の水面に、小さな波紋が生じた。

 しかし。

 俺とこの神機は。

 そしてマリアは。

 俺たちの置かれた状況は極めて特殊だった。本来、自分の物ではない神機がどうして俺に適合しているのか、その理由は今も全く分からないままだ。そのためだろうか、実際に一線を越えるまでアラガミ化の兆しが全く感じられなかった。それはほとんど前例のないことだ。通常、アラガミ化する前段階には幾つもの自覚症状がある。症状によって段階が設けられ、それに応じた応急処置も研究されていた。

 それに加えて、数多くの矛盾も存在していた。適合しないはずの神機が平均を大きく上回る水準で機能している矛盾。一度、暴走した神機が元の状態に戻っている矛盾。人間を取り込む程にアラガミ化した神機がそこから帰還した矛盾。神機に取り込まれたマリアが亡霊となって蘇った矛盾。

 矛盾。

 いつの間にか、俺はマリアの亡霊に目を向けていた。銀に輝く亡霊は、俺を見て無表情に微笑んでいる。

 そう言えば、初めて亡霊が表れた時。

 あの時は確か。

 俺は必死に何かを、過去の出来事を思い出そうとしていた。

 あの時、マリアの声は。

 俺に何かを言った。

 俺の思考の片隅に言葉が浮かんだ。

 神機が。

 ヒトの心を。

 操作する矛盾。

 そんな言葉があったような気がした。

 しかしその記憶に意識を向けた瞬間、言葉は雫となって思考の海に沈んだ。雫は小さなさざ波となって一瞬だけ俺の内面を揺らしたが、思考の水面は直ぐに鏡のように静かになった。思考に沈黙の幕が降りた。

 俺の身体と視線はずっと変わらず、マリアの亡霊だけに向けられていた。

 亡霊の瞳が静かに笑っていた。

 

 俺の目は亡霊に微笑み返した。この笑みを作る感情も、既に俺のものではないのだろう。錆色のオラクル細胞が俺を支配しているのだろう。

 だからなのか、マリアの面影を残す亡霊の姿が視界に入っても、何の感慨も浮かばなかった。白いアラガミを倒した喜びなど、何処にも存在していなかった。

 マリアと俺の運命を捩じ曲げた元凶は、あの白いアラガミ。あの白いアラガミに愛する人を奪われたというのに。内面には何も浮かばない。心を占めているのはただ一つの感情だけ。食欲が他の全ての感情を駆逐していた。

 それでも変容しつつある俺の中心部に、僅かではあるが思考が残っていた。神機によって過剰に投与されたオラクル細胞が、戦闘により枯渇しかかっているからだろうか。

 そう呟くように小さく思考する。

 しかし幻惑的な囁きが、俺の思考を上書きした。

 肉体を完全に支配するには、もっと多くのオラクル細胞を補給しなければならない。もっとアラガミを喰わなければならない。

 だから。

 腹が、減った。

 

 

 俺は自分の外側から、俺という自我が薄まっていくのを眺めていた。俺の精神の在り様は、もうほとんどアラガミと大差ない異形となっていた。

 残された感情は、この借りもの食欲のみ。

 腹が減った。

 喉にざらつく砂粒を感じた。思考は遠い彼方に消え去った。今はこのざらついた感触を取り除きたい。それしか頭に浮かばない。

 喰いたい。

 俺はかつてネブカドネザルだった肉塊に向って、ゆっくりと這うようにして進んだ。歩きながら口元に唾液が流れていた。

 喰わせろ。

 神機の内側に棲む生体パーツが、命じもせずに蠢いた。形状が崩れた神機からオラクル細胞そのものが溢れ出す。闇のように暗い生体組織がひとつに束ねられると、飢えた肉食獣の口元を象った。餓狼の頭部は神機の刀身を呑み込むように肥大化していく。

 そこに生まれたのは暗闇を固めて作られた顎だ。漆黒の顎が肉塊の方を向く。この身体を動かしているのは果たして俺か、それとも餓狼の顎なのか。俺の身体は何か導かれるように肉塊に向って歩みを進めていく。

 早く。

 もっと早く。

 全ての欲望が肉塊に向けられた。他のものは何も要らない。俺の真横で妖艶に微笑む亡霊の瞳すら目に入らない。俺たちは欲望に身を委ねる。

 早く肉を喰わせろ。

 神機の顎が牙を剥いた。

 それに合わせて俺も大きく口を開いた。

 

 だから妖しく囁いた亡霊の声は耳に入っていなかった。

 

「オラクル細胞の活性化を確認」

 



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11. 相克

「オラクル細胞の活性化を確認」

 マリアの亡霊が警告した。

 しかしその声は俺に届かなかった。

 俺の感情は既に内成るアラガミのそれに上書きされていた。食欲という強い衝動が他の感情を駆逐しているのだ。いや、その食欲でさえも別の何かに変貌しているのかも知れない。俺の精神の有り様は今、人間の枠を外れようとしていた。

 だからもう、目の前の肉塊を喰らうことしか考えられない。激しい欲求が俺の内面から湧き出てくる。

 喰いたい。

 神機もそれに同調する。際限のない飢餓を具現化するように、神機の捕食形態が通常の何倍にも肥大化して俺の視界を遮った。膨らんだ黒い顎の咥内には、鮫のような多重の連牙が並んでいる。異形の顎はいつもに増して暗く禍々しく、獰猛に見えた。

 マリアの声を聞く者は、もう居ない。マリアの面影を見る者も居ない。全てが居なくなっていた。

 それでもマリアの亡霊は機械的に続けた。

「回避して下さい」

 その静かな警告に反応する者も、同じく存在しなかった。だからマリアの声は空中に溶けるようにして消えていった。

 それを待ちわびていたように、何かが動いた。

 そして黒い顎の喉奥を貫いた。

 

 

 何かが分厚いオラクル細胞の塊を紙のように裂き、刺突の勢いそのままに俺の左肩を穿った。肉が断たれ、骨が砕かれる。俺を貫通した先端部分が背中側から飛び出ていた。少し遅れて前後の傷口から勢いよく鮮血が漏れ出た。

 だが俺にはもう痛覚がない。

 食欲に支配された俺は、一切の痛みを感じることが出来なくなっていた。自分の身体に突き刺さった物体に対しても、オラクル細胞の塊だという事くらいしか認識できない。食卓に並ぶ皿に対するようにそれを眺めた俺の頭には、これが生きているアラガミか否かという疑問しかなかった。疑問は期待に、それが活きのいいオラクル細胞の塊だという期待に成長していく。その期待に食欲が高まっていく。

 肩から止めどなく血を流し続けながらも、俺はそんなことばかり考えていた。

 それでも、俺の中にささやかな音が響いたことくらいは分かった。食欲ではない、別の声だ。とても小さな声のため上手く聞き取ることが出来ない。しかし、それは確かに食欲一色に染まった内面世界に生まれた別の感情だった。

 ほんの小さな感情の雫。

 雫が食欲に支配された感情の海に落ちた。それが淡い波紋を呼ぶ。波紋は広がる。波に成長する。波が共鳴して勢いを強める。そして津波のように感情の海を掻き乱した。

 その感情は生物の根源的な本能に由来するものだった。食欲と密接に絡みながらも正反対の感情だ。それは内成るアラガミの防衛本能。そして自らの生存を脅かすもの対する殺意。怒れる恫喝が俺の内面を震わせた。それが何を言っているのかは、例え耳を塞いでいても分かるくらい明確だった。

 殺せ。

 それを殺せ。

 全てを殺し尽くせ。

 この感情もまた食欲と並ぶアラガミの本質なのだと、俺は気付いた。内側にアラガミを飼いながら自我を保っているからだろうか。俺は以前より深くアラガミの有り様を理解し始めていた。俺の一部は単なる理解を越え、アラガミに共感する域にまで達しているのかも知れない。

 アラガミの本質。

 彼らの本質は先ず、食欲。

 際限のない食欲。永遠に満たされない飢餓。神の名を冠する存在が内包する不完全性。不完全な神が自らを補うために他を喰らうという貪欲さ。行き着く果てにある同族喰い。そして単一化。

 しかしその欲望だけでは生きられない。強くなければ生きていけない。捕食しなければ生きる価値がないからこそ、アラガミはより強く、より狡猾に進化してきた。

 そう、アラガミは進化してきたのだ。敵対する存在に滅ぼされないよう、異常な速度と複雑な多様性を両立しながら進化してきたのだ。その出発点にあったものは生きたいという生物として当たり前の本能だ。その鏡映しである殺戮衝動だ。己以外の全てを殺せば、死ぬことはない。祖に逢えば祖を殺せ。神に逢えば神を殺せ。殺せ。殺せ。

 殺したモノは喰えばいい。

 目的と手段の合致。

 俺の中に場違いな仮説が浮かんだ。それは神機が神機で在らんとする理由だ。俺は今まで神機を人に飼いならされたアラガミだと思っていた。アラガミである自由を奪われた存在だと思い込んでいた。

 だがそれは違う。彼らは進んで神機となることを選んだアラガミだ。そして自らを捕食に特化させ、それを補う便利な道具を作らせた。それが神機使い。神機の防衛と殺戮を担う道具が、俺たち神機使いの本質なのだ。

 神は哀れな羊のように人を飼うことを選んだ。なぜなら脆弱な人間という種族は、しかし狡猾さを以て神をも殺す存在なのだと、神自身がよく知っていたのだから。

 だからアラガミの防衛本能が、殺戮の手段として俺を目覚めさせたのだ。

 神は、俺に命じた。

 殺せ。

 その瞬間、アラガミの食欲と俺の思考が拮抗した。

 2つの本質がお互いを牽制し合うことで、均衡が生まれる。食欲だけでは生存できず、生存するだけでは食欲が満たされない。神機だけでは戦えず、神機使いだけでは捕食できない。

 だから相互に喰らい合う。相互に殺し合う。

 それが神の相克だった。

 

 

 俺が、解放された。

 俺の意識が解放された。

 俺の能力が解放された。

 俺は肩に刺さった物体を見る。精密な眼でそれを視る。

 その物体は高密度のオラクル細胞で構成された突撃槍。太さは人間の太腿部ほど。先端に近い部分が槍の穂先のように鋭く窄まっている。外見的特徴は弾力のある紐状の繊維が捩じれたような形状。外殻の部分は樹木のように硬化している。神機の顎を構成する強固な組織群を易々と貫いたことから、先端部分の硬度は神機の刀身と同じかそれ以上だと推測できた。また、身体に触れている部分に生物とよく似た淡い熱を感じていた。

 条件を満たすものはアラガミの本体、又はその一部。

 分析を完了するか否かの瞬間に、同じ形状の複数の槍が黒い顎を貫いた。幾本もの槍が黒い顎を次々と貫通し、複雑に交差して顎を空中に張り付けにする。顎が戒めを解こうと暴れるが、深く食い込んだ槍がそれを許さない。

 槍の動きは止まらない。

 顎を貫通した槍の先端が湾曲した。穂先に近い部位が毒蛇のしなやかさで鎌首を上げ、至近距離から俺に襲いかかる。反射的に後ろに下がろうとしたが肩に槍が刺さり、また神機の顎が磔となっているため後ずさることができない。

 だから俺は肩に刺さる槍に噛み付いた。

 固く強化された犬歯は偏食因子によって硬質化している。俺の牙が槍の外殻に食い込んだ。俺は僅かに動く左手を上げ槍を掴む。そして顎と腕の力で槍を肩から引き抜いた。俺は齧りついた槍を吐き出す。槍は再び俺を貫こうとするが、左の掌底を穂先の腹に当てて上方に逸らした。

 肩から激しく血が噴き出した。血流と混ざり合った偏食因子も大量に流れ出る。偏食因子という名のオラクル細胞を失ったことで、俺の身体能力も低下していった。肩の筋肉が収縮して風穴を塞いだが、失った血液は戻ってこない。俺の飢餓感が強まる。俺の殺意も強まる。

 前方から顎を貫通した槍の群れが殺到した。俺の眼が槍の軌道を予測する。槍は密集した束のように俺の前面を狙っている。

 俺は自由になった左手を添えて神機を握り込んだ。そして後ろではなく、右水平方向に身体を流した。続いて右足を軸に体を左後ろに回転させ、体を横向きに置く。槍の群れは俺の前髪を切り裂いただけで、目の前を通り過ぎていった。

 想定内。だがもう一段、精度を上げる必要があるか。

 俺は一歩、踏み込んだ勢いのまま身体を回転させた。その遠心力を顎の牙先に乗せ、弧を描くように両手で柄を振る。そして投げるように伸ばした腕を身体の軸に引き寄せた。顎の黒い繊維がぶちぶちと千切れていく。だがそれでも構わない。俺は槍の檻から顎を解放するまで神機の柄を引き抜いた。

 俺の手には細い繊維のよう裂かれた顎の残骸があった。それでも神機の顎は再生を始めた。獰猛な意思と強い食欲。千切れたオラクル細胞の束が一本に纏まり、それから黒い顎を象った。

 戒めを解かれた黒い顎が大きく吠えた。

 早く喰わせろ。

 視界の端に俺の前を通過した槍の束。その先端部分が振り返るように曲がった。現在地点の違いから、穂先の位置が散弾のように広がっている。全身を面で狙われれば全てを回避することは難しい。

 槍が繰り出されるまで、あと僅か。

 だから、俺は穂先の動きを無視した。そして長く伸びた槍の横腹に神機の顎を突き出した。黒い顎が鞭のようにしなる。上下に長く開いた顎が獰猛に笑う。そして自らを縫い止めていた槍に喰らい付いた。

 長大な顎が槍の柄をまとめて折り砕く。そしてごきごきと鈍い音を立てて固い外殻を引き裂いていった。顎は全身で歓喜を表しながらそれを咀嚼する。ぐじゃぐじゃと異質な音を立てて内側の肉を嚥下していく。

 俺は醜く貪る顎を見下ろした。

 

 

 俺の能力。

 対象の動作を把握する。

 速度と位置を演算する。

 次の一手を予測する。

 それが俺の機能であり、アラガミの防衛本能が選んだ道具だった。

 俺の眼は元々、狙撃用に調整されていた。数キロ先まで見通すことのできる強化された視力。光学情報を駆使して弾道を予測する演算力。着弾前の相手の行動を察知する洞察力。アラガミが道具として再起動させた俺の意識は、これらの能力を十全に使いこなしている。かつて俺だった時と同じように、いやそれ以上に。

 観察眼に加え、俺は半アラガミ化により著しく強化された身体能力を得た。この二つの能力が、俺の中で相乗効果を作り出している。この眼を狙撃など静的に使うのではなく、動的に、つまり近接戦闘での先読みに活用しているのだ。

 それはかつて俺が試し、そして実現しなかった理想形だった。近接戦闘を管理する能力。それを実現するために圧倒的に不足していた瞬発力を、俺は手に入れた。俺の機能は今、アラガミの動きを制する力に進化していた。

 しかし俺に喜びはなかった。

 急速な成長と、身体の異質化。

 今、俺の身に起きている現象は、オラクル細胞が柔軟かつ迅速に進化することによく似ていた。だから俺には分かる。俺はアラガミに一歩ずつ、だが確実に近付いているということを。そして俺にも分からなかった。その行く先に何があるのかということが。

 神機の捕食が終わった。

 俺の神機はアラガミを喰らえば喰らう程、際限なく力を増していった。俺の身体にも余剰した分のオラクル細胞が注ぎ込まれ、神機と同じように活性化した。体内で力を増したオラクル細胞が、左肩に空いた風穴に瑞々しい筋肉を作り出す。失った血液も同じく体内で生産された。

「オラクル細胞の補充を確認」

 マリアの声がそう囁く。

 しかし俺の中のアラガミは同意しない。

 もっと喰わせろ。

 食事を終えた黒い顎は、砕けて散らばった槍の破片に視線を向けた。だが俺の冷徹さが黒い顎を抑え付けた。

 殺すのが先だ。

 俺は狂える顎を神機の内部に無理矢理、押し込めた。そして呑まれたように顎の体内に収納されていた刀身を抜き払った。銀の刀身はオラクル細胞の活性化により、妖しく輝いていた。

 神機の亡霊はまた、恍惚の中で言った。

「神機を解放します」

 

 

 神機をオラクルの光が包み込んだ。

 銀の刀身から狂ったように揺らめく炎が湧き出る。古びた神機がオラクル細胞を喰らい、本来の姿を取り戻していた。俺は妖刀と化した神機の切っ先を、目の前にある物体に向けた。視界の端に映しながらも、見るだけに留めていたものを視た。

 目の前に槍を生やした肉塊があった。

 黒ずんだ肉の表面から槍の群れが生えている。正確には肉の内部からだろう。焦げた肉の表面に幾つもの裂け目があり、そこから何本もの槍が飛び出ていた。その槍が肉塊を喰らおうとしていた神機と俺を貫いたのだ。

 妖刀の剣圧を恐れたように槍の束が蠢いた。槍の固い外殻がしなる縄のように湾曲し、蛇の躯をもった太い蔦に姿を変えた。俺は確信する。あれは。

 僅かな違和感。

 あの動きは揺動。

 真下に小さな振動。

 何か、いる。

 俺は後方に跳躍した。

 オラクル細胞が活性化したことにより、俺の脚力は神機使いの枠組みを越えていた。だが防衛本能がそれ以上を求めた。アラガミと同質化しつつある俺の血肉が、体内に送り込まれたオラクル細胞と混じり合う。神と人の肉が相互に食い合う。その影響で骨格や筋肉に過剰な負荷がかかる。破壊と再生の連鎖を代償にして、俺の身体能力が異常に強化される。人の安定性とアラガミの爆発力。アラガミを越えた肉体だった。

 俺は異常なほど速く高く、宙に飛んでいた。

 俺の動きに一瞬だけ遅れて、足下から長槍の一群が生えた。蔦が地中を伝って真下から槍を放ったのだ。槍は俺がいた空間を十字に串刺しにする。

 槍は猟犬のように俺を追った。空中に飛んだ俺の影に食い付くような執拗さで伸びてくる。槍の穂先が俺に届く。槍の軌道を予測する。

 それを喰わせろ。

 神機の食欲と俺の計算が合致した。

 俺は神機の欲望を解き放った。空中で神機の顎を展開し、槍が円筒状になる地点に突き降ろす。槍の穂先が黒い顎の咥内に突き立った。槍の貫通力から逆算して偏食因子を表面に分厚く練り込んである。硬度を増した黒い顎が槍の連撃を受け止め、穂先を喰い千切った。

 もっと喰わせろ。

 空中で食事を終えた俺たちに、今度は肉塊本体からも槍が迫った。槍の群れは一度、高く上に伸びてから、顎を乗り越えるように弧を描いた。そして斜め上方から俺に襲いかかった。乱れて散らばった軌道。全て捕食することは不可能。回避も困難。

 俺は長く伸びた黒い顎を神機に引き戻した。そして銀の装甲を展開した。槍の雨が降る。俺は先頭にある槍の穂先と接触する瞬間に合わせ、銀の盾を横腹に叩き付けた。盾の打撃で穂先が折れ曲がる。そして俺は打撃の反動を利用して後方に飛んだ。

 静かに着地した俺は、しかし上腕部に損傷を確認した。不自然な体勢から腕の力だけで装甲を叩き付けたため、右上半身の骨格に亀裂が入っていた。特に脆弱な肋骨が斜めに折れ、胸を裂いて外に突き出ている。

 肉体の脆弱性を把握。

 早急な修復が必要。

 体内のオラクル細胞が活性化した。損傷した部位を異質化しながら修復していく。骨がごきごきと唸りながら繋がる。肋骨が体内に治まり、裂かれた皮膚も再生される。負荷をかけた筋繊維も全て正常に戻っていた。負傷は一瞬で修復された。

 俺は骨の折れていた右腕の機能を確かめるため、片手で神機を一振りした。風を切る音。切っ先は地面に触れるか否かのところでぴたりと止まった。問題なく作動する。寧ろ通常より性能が上がっているようだ。右腕の状態に満足した俺は、左手を添えて神機を前に構えた。

 負傷も消耗もなく、俺は静かに前を向いた。

 その俺の目の前で、肉塊が崩れた。

 焦げた表層部がぼろぼろと零れ落ちる。その中に在った肉塊が解けていく。それは人間の大腿部ほどの太さがある蔦の束だ。肉塊を形成していたのは蔓のような生物であり、俺を貫いた槍だった。

 黒い炭が落ちた歪な断面から、真新しい蔦が伸びた。また、同じような蔦が肉塊があった場所の下からも生えてきた。蔦の群れは今、地中から這い出た毒蛇たちのように蠢いていた。

 蔦が繭のように丸まって隠したものは。

 俺の眼には答えが視えていた。

 だから解けた蔦の中心にそれが表れても、驚きはなかった。

 そこに、白い体毛を生やした1体のアラガミの姿があった。

 

 

 ネブカドネザル。

 蔦の中で身体を丸めていたネブカドネザルが、解けつつある卵殻の中心で立ち上がった。

 ネブカドネザルは身体の動きを確かめるようにふわりと跳んだ。そして羽根が舞うようにゆっくりと音もなく地に足を付けた。軽い跳躍に白い体毛が美しく揺れていた。

 あれを喰いたい。

 俺の中の飢餓感が際限なく膨れ上がった。

 あれを殺したい。

 俺の中の殺戮衝動が暗く燃え上がった。

 喰らう。

 殺す。

 そのどちらも俺の欲望であり、願いだった。

 ネブカドネザルが吠えた。

 白いアラガミの背中にある三日月型の金属パーツが振動した。視界を歪める程に密度の高い波が三日月に生じる。三日月の周りに氷の結晶が浮かんだ。無数の結晶たちはまず拳大、そして短剣、更に大剣の長さへと一瞬で成長する。白いアラガミがもうひと吠えすると、氷の大剣が一斉に動き出した。

 氷の大剣が群体となって宙を泳ぐ。散弾のように広がる軌道。第1部隊を壊滅させた氷の流星群。

 視える。

 俺には視えるぞ。

 俺は氷剣に対し極端な右半身に体を傾けた。ほとんど右手足しか見せない特異な構えは、流星群の着弾面を最小限に留めるためのものだ。

 そして右手の神機から黒い顎を解放した。

 喰わせろ。

 黒々とした牙を体液で濡らしながら、顎は大蛇のように大口を開く。そして俺に直撃する軌道上の氷剣を次々と呑み込んでいった。顎から固い氷が砕ける音が聞こえる。硬質的な音を立てて氷の塊をすり潰す音が聞こえる。顎は咥内で粉々にしたそれを、ゆっくりと嚥下した。

 大量にオラクル細胞を含む氷を呑み込んで、顎の飢餓は満たされただろうか。

 しかし。

 

「オラクル細胞の活動が阻害されます」

 

 俺は全身から力が失われるのを感じた。

 神機からオラクルの光が抜け落ちていくのを視た。

 

「活性化が強制解除されました」

 

 そしてマリアの声がそう警告するのを、俺は確かに聞いていた。

 



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12. 竜

「活性化が強制解除されました」

 神機に棲まう何かの声を、俺は確かに聞いていた。

 この手にある神機の、その異形の捕食形態。それは装甲の内部から這い出た質量のある影のような生体兵器だ。アラガミを捕食することに特化した形状は、躯を切り捨てた黒狼の歪な頭部に似ている。黒い顎は神機の刀身、銃身、装甲を制御する中枢部であり、また本当の意味での神機そのものでもあった。

 神機の顎とは、アラガミという絶対の捕食者をも喰らう貪欲の化身。無限の再生力を誇るオラクル細胞を裂き、その中に隠された神の心臓を盗み取る悪魔の鉤爪。荒ぶる神に滅ぼされんとしている人類に残された最後の牙。

 その黒い顎が今、俺の前で崩壊しようとしていた。

 俺の神機はネブカドネザルの放った氷剣の嵐を喰らい尽くした。通常であればそれがオラクル細胞であるか否かに係わらず、顎が喰らったものは全て自らの力に変換される。それはアラガミの生態と全く同じだ。

 その摂理を覆すように、氷を喰った黒い顎の力が確実に弱まっていた。顎を構成する黒い生体組織が痙攣している。オラクル細胞の結合力が弱まったため表層部分から剥がれた黒い繊維が、空中に溶けるように消えていった。

 そうして空いた表皮の隙間から、黒い血液のような液体が零れた。顎の中のオラクル細胞が傷口から漏れ出しているのだ。同じように、顎の喉奥からは未消化だったアラガミの腐肉が吐き出された。体液や肉片を垂れ流すたびに顎を構成するオラクル細胞が弱く、そしてか細くなっていく。

 失われつつある黒い顎の力を引き止めるように、俺は無意識の内に神機を強く握り締めた。しかしその手の中にある神機からはオラクルの赤い光が消ていた。それだけではない。俺の体内のオラクル細胞までも、足りない力を補おうとする神機に吸い取られていた。既に俺と神機の力は霧散し、残ったのは言いようのない虚無感だけだった。

 

「活性化が強制解除されました」

 俺は声の主を見た。アラガミとしての死に向いつつある俺たちを、マリアの亡霊が見下ろしていた。その表情には何の感情も映っていない。

「活性化が強制解除されました」

 ただ、機械的に同じ言葉を繰り返すだけだ。

「活性化が強制解除されました」

 その銀に輝く姿が少しずつ霞んでいく。

「活性化ガ、強制解除、サレマシタ」

 マリアのままの声が、歪む。

「活・・ガ強制・・サレ・・タ」

 言の葉が解けていく。

「カカカセイィィィィカァ、ガァァァ・・・」

 いつの間にか、マリアの声は醜い何かに変容していた。

「カィィィィイジジョサレマァシタァァアッ」

 涼やかな表情のままで、亡霊の顔が朧に擦れていく。

 幽玄の姿も崩れていく。

 マリアの面影が壊れていく。

 そして「俺」の中の何かも壊れていく。

 

 

 消えゆく亡霊の輪郭が、一瞬だけ鮮明な影を造った。

「オラクル細胞の枯渇が危険水準に到達。自己保全機能が作動」

 先ほどの不確かな声色とは対照的に、はっきりとした口調で言葉が紡がれる。だが、その言葉が意味するものは俺が求めるものとは正反対だ。

「ゴッドイーターに対する強化及び操作を解除」

 止めてくれ。マリアの面影を残す亡霊を見た。

 その瞳には何の感情も映っていない。

 俺が見つけたマリアなのに。

 マリアの硝子細工の瞳。

 俺のマリアなのに。

 俺がマリアを。

 

 俺は何を。

 

 俺は。

 

 俺が。

 

 

 俺。

 

 

 

「俺」

 

 

 

「 」

 

 

 

「自分」

 

 

 

 自分。

 

 

 自分が。

 

 自分は。

 

 自分は何を。

 

 マリアと自分は。

 マリアは死んだはずだ。

 自分の目の前にマリアがいる。

 自分の目の前に在るマリアが言った。

「ゴッドイーターとの接続を解除します」

 何も語らない瞳を残して、マリアの姿が消えた。自分の手がマリアの面影が消えた空間に伸びた。

 しかし、その手が何かを掴むことは永久になかった。

 

 

 「自分」は、マリアとよく似た半透明の存在が消えていくのをただ見ていた。

 残ったのは記憶。

 自分のものでない記憶。

 自分とは別個の人格が自分の身体を動かしていたという不確かな感覚があった。断片的な記憶が頭に浮かんだが、それらは自分の記憶ではないように感じられる。自分でない別の人格が有していた記憶が、少しずつ脳内に染み込んでいく。自分自身の記憶と混ざり合っていく。この朧な記憶が本当に自分のものなのか、それとも別の自分のものなのかも分からなくなっていた。

 もう一人の自分。それは遠い昔に失われたはずの自分ではなかったか。この混濁した記憶は、蘇ったあの人格のものなのではないか。自分は、捨てたはずの人格がこの身体を動かすのをただ見ていただけではないか。それでは自分の人格を置き換えたのは誰なのか。そして自分がマリアの亡霊と感じていた存在は何だったのか。

 問いに答えるものはいなかった。確かなのはこの眼が視た記録だけだった。

 自分が視ていたもの。

 ネブカドネザルの存在。

 この神機の真の姿。

 自分の変貌も。

 眼が記録したものを受け入れる。そして自分の記憶と擦り合わせる。両者を均一化させる。

 それから、今この瞬間の現実に目を向けた。今は過去の記憶に捕われるべきではない。自分の前にある存在を視るしかない。

 自分の視線の先に在る白い獣を視るしかないのだ。

 

 

 目の前にあるのは強力なアラガミ。ネブカドネザルだ。ネブカドネザルは奇襲とはいえ第1部隊を一瞬で壊滅させた。自分一人では対処できるはずもない規格外の個体といえる。

 しかも自分は狙撃手だ。アラガミに身を晒した状態から戦闘を開始することは想定していない。自分たち狙撃手には先制攻撃が全てだった。標的に認識される前に狙い撃つ。遠距離精密射撃に特化した兵種が自分たち狙撃手だった。

 もちろん近接戦闘の訓練も欠かさず行っている。しかし自分の技量は、未だに実戦水準には到達していなかった。偏食因子の定着率が低いため、自分の身体能力は平均的なゴッドイーターの7割程度でしかない。こんな身体では、神機の性能を満足に引き出すこもできなかった。それに因子を調整した影響で神機との適合率自体も低かった。自分の適合率は神機使いに認定されるギリギリの数値だ。実験的に投与された変異型偏食因子が、この身体を未完成の神機使いにしていた。

 失敗作。マリアとは違って。

 頭に浮かんだ「マリア」の名前が記憶を刺激した。そうだ。あれはマリアの声で話す幻だった。マリアの面影を残す存在だった。もう一度、あのマリアの亡霊に会う。今度こそマリアを見つけ出す。そのために、自分は生き残らなければならない。

 夢の中と同じ鈍い銀色の神機を、自分の手が強く握り締めていた。

 

 そして記録に、ネブカドネザルとの戦いの記録に触れた。

 夢の中で自分はあの白いアラガミと戦った。その時の自分は、強力な神機使いに変貌していた。ほとんどアラガミに飲まれながらも、神機から異常な力を引き出していた。そして確実にネブカドネザルを圧倒していた。

 しかし、ネブカドネザルの放った氷剣を捕食した途端、神機の内部にあるオラクル細胞の活動が著しく低下した。神機が纏っていた赤いオラクルの光も消えた。全ての神機は捕食したものを自らの活力に変える能力を持っているはずだが、ネブカドネザルの氷にはそれが適応されなかった。

 自分の体内に蓄えてあったオラクル細胞も失った。多重に強化された身体能力は消え去っている。神機と右手を繋ぐ導管から送られた大量のオラクル細胞によりアラガミを越える以上の力を得ていたが、今はもう見る影もない。衰えた力を総動員してやっと立っていられるような状況だった。

 右手にある赤い腕輪型の神機制御装置で自分の生体情報を確認したところ、血液中にある余剰オラクル細胞が活動可能水準を下回っている。やはりオラクル細胞が枯渇したこの神機に力が吸い取られていたようだ。オラクル細胞の活性化を促す薬剤等も全て消費され尽くしていた。

 現状は最悪といってよかった。

 

 ネブカドネザルが無情に吠えた。

 白いアラガミの背中にある三日月形の硬質な部位が視界を歪める程の振動を生んでいる。三日月の周りに氷剣が浮かび上がった。そしてその氷剣が群れとなってこちらに殺到する。神機のオラクル細胞を凍結させたのは、この流星群に間違いなかった。氷剣は触れた対象の力を奪う能力を有していると推測される。捕食はもちろん、接触するのも危険だ。

 アラガミの如き身体能力は完全に凍結されてる。後の先を取ることができる瞬発力を失った今は、この眼を駆使して対処するしかない。自分の眼が注意深く氷剣の一群を視た。その数は数十。攻撃面が広いため全弾を回避することは困難。最善手は。

 回避を諦め、神機から対物ライフルのように長大な銃身を抜いた。氷剣の軌道は視える。だから氷剣が着弾する前に迎撃する。同時に半身に構えて被弾面も最小にし、可能な限り撃墜対象を少なくした。全ての氷剣を撃ち落とす。次々と飛来してくる氷剣の軌道を読み、狙撃していく。1、2、3、4。しかし、流れ来る氷剣の数は膨大だ。動き自体は見切っていても身体がそれに追いつかない。逸らしきれなかった氷剣が身体の端々を掠めていった。

 氷剣に切られた断面に出血はなかった。傷口が氷の欠片に凍らされている。手や足に刺さった氷の欠片は、他の氷片と連結して少しずつ凍結面を広げていく。特に前面に置いた左手足には幾つもの氷片が刺さり、かなりの面積を凍らされていた。

 身体に突き刺さった氷の破片が体内に残ったオラクル細胞に干渉する。氷に触れた部分が鉛のように重い。凍った部分のオラクル細胞が活動を停止しているようだ。そして凍結面が広がる程にオラクル細胞の活動域も狭まっていく。脱力感で重力が数倍になったように感じられる、神機の重みがずっしりと両手にのしかかってきた。

 神機も凍らされていた。銃身の一部に氷の破片が突き刺さり、対アラガミ装甲の内部を浸食していた。喰いたい。そう捕食を要求する神機の声も弱々しい。オラクル細胞を補充する必要性は認識しているが、その隙はなかった。

 ネブカドネザルの三日月がより大量の氷晶を産み出した。その氷の結晶が縦に連なる氷剣の列に姿を変えていく。

 連結した氷剣が帚星となって放たれた。軌道は単純だ。一直線にこちらに向ってくる。しかし著しく身体能力の低下した自分に、追尾性のある連撃を避けきる足はない。だから半分凍った装甲を展開し、右の手と肩でがっちりと抑えた。そして身体に密着した銀の盾を、凍てつく帚星の進行方向からちょうど斜めに構える。

 帚星が凄まじい勢いで銀の盾を襲った。その力の半分を後ろに流し、残った半分の力を身体に受けた。そして、宙に浮かせた身体を揺らす衝突の力で横手に移動する。帚星はその進行方向にあった建造物に直撃した。連続で建物に衝突する音が聞こえる。視界の端に、運動エネルギーによって砕けたビルの外壁に何本もの氷剣が突き立てられているのが映った。

 帚星が破壊したのは建物だけではなかった。回避に利用した帚星の衝撃は、この身体に過度な打撃を与えた。装甲を支えていた右上半身の筋肉が断裂して力が入らない。凍りつつある左足はまだ動いていたが、辛うじて立っているだけでまともに動くことはできないだろう。

 

 足捌きが殺された。

 それに追い打ちをかけるように、足下が激しく揺れた。地中から隙間のない槍襖が生えた。ネブカドネザルを守り、自分を攻撃するオラクル細胞で作られた蔦の束。それが躱す隙がない程に密集した槍の群れを成していた。

 いや、それは夢の中で見た蔦とは少し違った。硬質化した樹木のような表面部分が、より弾力性の強い肉質に変わっていた。ネブカドネザルのオラクル細胞干渉により強化されたのだろうか。それは強靭な触手に成長していた。

 太さも力強さもました触手の先端が、高速に回転する。旋回する槍が回避しようと足掻く足先を無慈悲に襲った。触手の槍は易々と左太腿を貫通した。槍が回転を止め、そのまま足を地面に縫い付ける。槍は太腿に食い込んでいるため、引き抜くこともできない。

 そして強い光が。

 それが致命的な何かだと自分の眼が叫んでいる。視神経が焼き付くような緊張が走った。反射的に、縫い止められた左足に刀身を突き立てる。そして突き刺さった触手と水平に足の肉を切り、触手を取り外す裂け目を作る。そのまま横倒しになり、体重を使って触手の戒めから足を引き抜く。左足から鮮血が迸ったが、致命的な何かを避けるため迷わず身体を地面に投げ出した。

 その直後、視界が閃光に包まれた。強烈な光の束だった。圧倒的な熱量が先ほどまで立っていた場所を真横に薙ぎ払った。熱線が空中に泳いだ左足を掠め、外側を裂傷ごと炭化させた。

 この閃光は知っている。あの触手も間違いなく知っている。光を生み出した方向に目を向けた。一瞬の列光はネブカドネザルの足下にある瓦礫の奥底から放たれていた。強烈な熱で溶かされた地面の穴の底には、巨大な複眼が見えた。

 ウロヴォロスの頭部だった。触手も熱線もウロヴォロス固有の能力だ。混沌の王は地面に潜らせた触手をドリルのように回転させて全てを串刺しにする。そして複眼から照射する熱線で標的を焼き尽くす。

 ウロヴォロスの巨体が動いた。下半身は地中に埋まったままだが、頭部と触手が地上に這い出てくる。触手だけでなく頭部も完全に機能しているようだ。

 ネブカドネザルはウロヴォロスの頭部に乗っている。ウロヴォロスの触手は白いアラガミの従者のようにその周りを蠢いていた。

 

 蹂躙が始まった。

 触手が縦横無尽に踊り狂う。

 閃光が周囲を焼き尽くすように薙ぎ払われる。

 狙撃し、また装甲を掲げて攻撃の嵐を凌ぐが、こちらを嘲笑うかのように鋭い攻撃が肉を削り取る。ウロヴォロスの容赦のない攻撃が徐々に身体を蝕んでいく。自分は今、死の淵に追い込まれていた。

 死の担い手である白いアラガミは氷の攻撃を止め、複眼の上から悠々とこちらを見下ろしていた。

 死ぬ一歩手前に居ながらも、自分の頭には現状に対する疑問が渦巻いていた。ネブカドネザルは、ウロヴォロスを蘇らせた。しかし、どうやってウロヴォロスを復活させたのか。出血で朦朧とする頭で必死に思考する。

 通常、アラガミのコアとなる中枢組織群を破壊すれば、いかに不死と謳われる八百万の神であっても復活することはないはずだった。何故なら、コアの破壊こそが唯一絶対のアラガミの死だからだ。だからウロヴォロスのコアは破壊されていなかったということになる。普通ならそう考えるしかなかった。

 しかし一方で、自分たちは連携してウロヴォロスの全身を破壊した。そう確信している。偏食因子を練り込んだ金属片で混沌の王を切り刻んだのだ。体中を引き裂く衝撃に、如何に厳重に守られたコアでも無事なはずはない。それは常識を積み重ねた推論だった。

 しかし現実は違った。例え受け入れがたい事実だったとしても、事実は事実として受け止めるしかない。

 つまり真の答えはこういうことだ。

 ネブカドネザルがオラクル細胞を制御してウロヴォロスのコアを修復した。言い換えるならば、ネブカドネザルは真に死んだアラガミを蘇らせることができるということだ。オラクル細胞の塊であるアラガミが、周囲のオラクル細胞に干渉する。他のアラガミをその中枢であるコアを操る。それすら超越した能力を有しているということ。

 それは悪夢だ。オラクル反応を消し、レーダーを欺瞞する能力。ウロヴォロスを餌に神機使いの大部隊を一網打尽にする狡猾さ。アラガミを操るだけでなく、オラクル細胞を操作して損傷を修復してしまう。それに加えて壊れたコアを修復することすら出来る。オラクル細胞を操作する能力の応用で、神機や神機使いのオラクル細胞の活動を停止させる。ネブカドネザルという名の悪夢。

 自分の眼は静かに座するネブカドネザルを視ていた。白い体毛に覆われた身体から全ての傷が消えていることに気付く。自らのオラクル細胞を活性化させ、損傷を修復したのだろう。もしかすると大気中の微細なオラクル細胞を取り込んだのかも知れなかった。普通のアラガミが自己修復のために何かを捕食する必要があるのに対し、捕食なしに損傷を消し去ることができるのもまた、脅威の一つだろう。

 圧倒的な巨体を誇るのでもない。強力な攻撃能力を有するわけでもない。見境のない暴力性があるわけでもない。しかし異質な存在。それは確実にアラガミの範疇を越えた存在だった。

 オラクル細胞を操るアラガミ。

 亡者を率いる死神。

 神の死を弄ぶ王。

 

 瞬く間に、幾つもの深い傷を負った。左上腕部は鋭利な刃物で切られたように肉が削がれ骨が露出している。それでも出血がないのは切断面の血管が氷結しているからだ。熱線で太腿の一部が炭化した左足は、もうほとんど動かない。胴体には触手によって大きな風穴が空いていて、そこからどす黒い血液が流れている。内蔵も損傷しているに違いなかった。頭部は鮮血に染まり、左目には氷片が刺さっている。

 それは致命傷だった。

 身を切り裂くような激痛があった。肉体が発する痛み。それはアラガミ化による異常な食欲によって鈍化させられていた感覚の一つだ。オラクル細胞の支配力が低下しつつある中で、痛みが強まっていく。オラクル細胞が抑え付けていた生物的な感情も目覚めていく。

 死ぬ直前の痛みが生への渇望を呼び起こしていた。激しい痛みはより強く生を意識させる。生きるということは痛みを、肉体を、在るがままに受け入れるということだ。自分は激痛を受け入れた。負傷した肉体を痛みごと受け入れた。

 内成るアラガミの影響力が徐々に低下していく。自分の精神を包んでいた薄いアラガミの膜を、今度は内側から喰い破る。それは自分の意思であり、選択だ。自分を喰らったアラガミの腹を、今度は喰い返す。内面世界を埋め尽くしていた食欲を自分の意思に塗り替える。

 自分は生きる事を手放さない。それは同時にマリアの影を手放さないという決意でもあった。神機が作り出したマリアの亡霊の姿が脳裏に浮かんだ。マリアは本当に死んだのか。それを確かめたい。亡霊を生み出した神機の秘密を探りたい。真実を知りたい。

 右手の神機を杖代わりにして立ち上がろうとするが、両足が全く動かない。腕にも身体を支える力はほとんど残されていなかった。身体はもう限界を越えて酷使されていた。ほんの少し身体を動かそうとするだけで更なる激痛が走る。傷口から血が流れ出す。しかし生きるということは、痛みを受け入れることでもある。

 崩れ落ちたままの身体と朦朧とする意識の間で、自分の眼だけが生きていた。

 

 

 目の前に座すネブカドネザルの姿が見える。白いアラガミの方は自分を見てすらいなかった。その視線は自らの足下にだけ向けられていた。そこには下半身を瓦礫の山に埋もれさせたままのウロヴォロスの頭部があった。

 ネブカドネザルが高い金属音を立てて周囲のオラクル細胞に干渉した。広範囲に響かせるのではなく、指向性の高い音の圧力がウロヴォロスの複眼を射抜く。ウロヴォロスが呻いた。何かに怯えるように。抗うように。眼球が点滅を繰り返し、巨体をぐらぐらと揺れさせる。

 しかし抵抗は直ぐに止んだ。静まったウロヴォロスの複眼には、さっきまで存在していた戸惑いが一切なくなっている。複眼にあった圧倒的に力強い光はほとんど消えそうな程に弱まっていた。

 頭部がぐったりと弛緩した反面、触手が狂ったように暴れ出した。地面を揺らしながら何本もの触手が地表に出てくる。ウロヴォロスが持つ全ての触手が這いずり出たかのような圧巻の数だった。

 ウロヴォロスの複眼が酩酊するようにぐるぐるを色を変える。それに合わせて太く力強さを増した触手たちが踊り始める。意思を持ったよう群れる触手が数本ずつ寄り集まって太い束になる。束が捩じれて融合し、柱のような質感をもった触手と姿を変えた。通常の何倍にも太く、力強くなった触手の群れが供宴を始めた。太い鞭になったように、固い槍になったように、周辺にある全てのものを粉砕していく。

 大量にあるアラガミの死骸。

 砕けた神機。

 かつて神機使いだった肉体の欠片。

 目に付くものを端から粉々に砕いていくようだった。

 そして、その砕けた肉片を触手が喰らった。

 触手が、喰らう。

 自分の眼が太い触手だと思っていた物体を見た。身体を蠢かしながら全てを貪り喰っているそれは、もう触手ではなかった。別の何かに形を変えていた。

 それは喰らうもの。太い触手の先端が、顎のように大きく開かれていた。神機の捕食形態とよく似た獰猛な顎だ。顎の部分には眼こそないものの牙が何重にも生え、見る者に生物の頭部を思わせる形をしている。太い触手の1本1本が大蛇のような姿をしていた。大蛇は粉塵に塗れながら全てを平らげた。

 それでも大蛇は止まらない。触手で出来た大蛇が、同じ大蛇に喰いかかった。大蛇同士がぶつかり合い、千切れと飛び、肉の塊となる。それを大蛇が上手そうに頬張る。大蛇たちが先を争うようにお互いの肉に食い合う。踊るように全てを喰い尽くす大蛇の食卓は貪欲さを極めていた。

 大蛇同士の同族食いが止んだ。残った大蛇の辺りには、もう喰えそうなものは何もない。しかし、大蛇の食欲は満たされていなかった。

 まだ残るものがある。

 大蛇の頭部が、高く鎌首を上げた。

 そしてウロヴォロスの、自らの複眼に殺到した。

 血迷ったような獰猛さで自分自身の頭部に噛み付く大蛇の群れ。大蛇は複眼を守る大角を噛み砕く。角を咀嚼しながら複眼を襲う。喰い千切られた頭部から眼球がこぼれ落ちと、それも貪欲に喰らった。大蛇はどんどんと血肉を嚥下し、返り血に真っ赤に染まっていった。生き残った大蛇は明らかに太く、力強い姿に変わっていた。

 連なる赤い顎の姿は極東に出現した多頭の大蛇を連想させた。

 

 

 ウロヴォロスが何故。

 ネブカドネザルは何故。

 その問いに対する答えを自分は知っていた。

 ネブカドネザルの本質は「死」ではない。

 死の先にあるもの。

 それは破壊が再生を産むこと。

 死が生を産むこと。

 化け物の中から化け物が産まれるということ。

 

 

 古い伝承がある。

 それは今では読む事すら禁じられている、古い書物の一節だった。

 黙示録と名付けられたその書には、「獣」の存在が記されている。

 それは多頭の赤竜だった。

 

 

 目の前にいる存在は、大蛇の群れではない。

 それは鮮血に赤く染まった赤竜だ。ネブカドネザルはこれを産むためにウロヴォロスを生んだ。そしてアラガミの肉を、神機使いを、アラガミを強化した神機を捕食させ、体内に大量のオラクル細胞を凝縮した。

 その結果がこの13の頭を有する赤い竜だ。

 

 多頭の赤竜が狂ったように蠢いている。

 そこに見えるのは何かの感情。ウロヴォロスから生まれ、ウロヴォロスを貪り喰った赤竜。その獰猛な姿からは想定できない感情。

 赤竜は、しかし何かに怯えていた。

 全てを喰らうはずの「獣」がなぜ。

 

 その答えも、自分は知っていた。赤竜の内部に何かが視える。何かが赤い竜の中で暴れ回っている。赤い竜がウロヴォロスの血肉を喰らったように、内側にいる何かが赤竜の臓腑を喰らっている。

 そして赤い竜の内蔵を喰い尽くした何かが、外殻を喰い破って顎を突き出した。獰猛な顎が赤竜の首を一本ずつ、蹂躙するように喰らっていく。赤い竜の頭部は恐れと共に抵抗したが、瞬きの間に全て喰らい尽くされていった。

 古き神の残骸を喰らい、新たな神が産まれようとしていた。

 

 

 自分は知っていた。

 この伝承には続きがあることを。

 黙示録には「第二の獣」の存在も記されていた。

 第二の獣は、第一の獣である赤竜の力の全てを受け継いだ存在とされている。

 その姿は獣共の印を有する、竜獣だった。

 

 

 赤竜の死骸を喰い破って産まれたその巨大な何かは、歪な獣の姿をしていた。

 

 

 獣が頂く天空から、御使いの羽ばたきが聞こえた。

 羽音が天から舞い降りてくる。

 響き渡る天使の囀りを全身に浴びる。

 しかしもう、天使の姿を見る事は叶わない。

 

 

 自分の眼は静かに閉じられていた。



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13. 空白

 獣が頂く空に

 

 天使の羽音

 

 軽やかな羽ばたき

 

 空から落ちる風

 

 僅かな風圧

 

 羽音が囁くその中で

 

 声が聞こえる

 

 鼓膜に直に届く声

 

 冷たい声

 

 声が告げる

 

 淡々と告げる

 

 対アラガミ混成中隊、作戦行動に入る

 

 冷たい声と対極にある、熱の籠った返答

 

 Aye, sir!

 

 声

 

 諸君らには、神機使いに負けない戦果を期待する

 

 Aye, sir!

 

 この舞台の主役は諸君らだ。観客を湧かせてやるとしよう

 

 Aye, aye, sir!

 

 よし。それでは本日のお客様を紹介する

 

 先ずはウロヴォロスの残骸を捕食中している竜頭獣躯の大型アラガミ。ご覧の通りの大喰らいだ

 

 個体名は「クベーラ」

 

 それから白いアラガミ。個体名「ネブカドネザル」。だが、こいつは無視して構わない。大喰らいへの攻撃の余波で吹き飛ぶだろう

 

 淡々とした説明

 

 大勢の人の声が力強く応じる

 

 声は続ける

 

 本作戦の目的は神機使いの救助だ

 

 短時間で構わない。救助の時間を稼ぐことに専念する

 

 そのためには派手な演出が必要だ

 

 お客の目を釘付けにするような、盛大なオペラを奏でようじゃないか

 

 Aye, aye, sir!

 

 よし。では演目を順番を発表する

 

 先ずは空から

 

 上空で待機中のガンシップ全機、手品のタネを仕込む。その後は上昇し光学迷彩を解除。消音飛行から通常飛行に移行。始まりのファンファーレを鳴らす

 

 冷静さを感じる女性の声が復唱

 

 各機、歩兵分隊を降下。光学迷彩を解除、通常飛行に移行

 

 声

 

 ガンシップ2号機は、高高度からの観測を担当。お客の様子を分析しろ

 

 こちらは男性の声。落ち着いた低い声で復唱

 

 僅かな空白の後に

 

 天使の囀りが

 

 悪魔の奏でるラッパに変わる

 

 空には音の瀑布

 

 圧倒的な暴風が吹き荒れる

 

 それでも冷たい声は途切れない

 

 お客が顔を上げた。混成歩兵中隊の諸君、華麗な消失マジックを披露してやろう

 

 Sir!

 

 第1空挺小隊、α分隊及びβ分隊。降下地点を中心に部隊を展開。火力支援の開始と同時に負傷兵を救助

 

 装甲車両で待機中の第2機械化歩兵小隊、こちらも分隊単位で各車両と連携。広域での救助に当たる

 

 第3機械化歩兵小隊は後方に散開。兵員輸送車を警護しつつ後方一帯の負傷者を救助

 

 さて歩兵の諸君。手品のタネがバレないよう静かにいこう。光学迷彩も忘れるな

 

 Aye, sir!

 

 最後に砲兵の諸君。そろそろ演奏を始める頃合いだ

 

 Sir!

 

 第1・第2砲兵小隊、歩兵の展開位置を確認、間接射撃による火力支援を行う。120ミリ対アラガミ滑空砲に偏食因子炸裂弾を装填

 

 復唱

 

 演奏開始まで、カウント5

 

 4、3、2

 

 砲撃開始

 

 怒鳴り声に近い大きな声が復唱

 

 120ミリAAAC、砲撃開始

 

 風を切る鋭い音

 

 振動と轟音

 

 真横から吹き付ける爆風

 

 嵐に身体が飛ばされる感覚

 

 声

 

 撃ち方、止め。観測班、成果を報告

 

 嵐が止む

 

 返答

 

 全弾着弾。クベーラ、損傷なし。ネブカドネザルの姿は見えません

 

 固いな。だが白い方が吹き飛んだだけでもよしとしよう

 

 各砲兵小隊、砲弾を炸裂弾から慣性弾に変更だ

 

 牽制で構わない。演奏を止めるなよ

 

 復唱

 

 再度、鋭い音が飛来してくる

 

 音の終着点では、爆音ではなく鈍い衝突音が連なる

 

 声

 

 ガンシップ各機の扉に貼り付いているドアガンナー諸君、お待ちかねの出番が来た。20ミリ対アラガミ機銃用意

 

 復唱

 

 それからリュウ。お前も出番だ

 

 若い男の声。冷静さを感じさせる、しかし高揚を隠せない声

 

 はい

 

 ガンシップから神機銃形態で大喰いを攻撃。貫通、破砕、各属性弾等のオラクル・バレットの効果を観測、データを収集

 

 了解しました

 

 よし。では軽快なリズムを奏でよう。攻撃開始

 

 GONG-HO! GONG-HO!

 

 軽やかな音

 

 音、音、音

 

 折り重なる音の音楽

 

 重低音と軽やかな音が混じる

 

 場違いな心地よさ

 

 そこに水を差す、冷たい声

 

 レイラ、前へ出過ぎだ

 

 お前は負傷者回収の支援に徹しろ。力の使いどころを間違えるな

 

 まだ少女と言ってもいいくらいの、幼さを残した高い声

 

 そんなことは分かっています、ゴドー

 

 いい子だ。間違っても大喰らいの注意を引くような真似はするなよ

 

 もう一段、甲高くなった声。悲鳴のように聞こえる声

 

 分かったと言っています

 

 尊大な幼さを無視し、冷たい声が続ける

 

 各歩兵小隊、救助の状況を報告

 

 8割ほどが完了しました

 

 8割か、残りは...まあいい

 

 歩兵各員、120秒後に戦域から離脱

 

 隊長、しかし...

 

 沈黙

 

 冷たく無機質な声

 

 復唱を

 

 ...120秒後に戦域から離脱

 

 冷たい声

 

 死体は放置していい。だが神機の回収だけは忘れるな

 

 低い返答

 

 Sir...

 

 リュウ、戦果を報告

 

 冷静を努めた若い声

 

 貫通弾、破砕弾、各属性弾、全てのバレットが効果無し

 

 弱点なし、か。観測班、対アラガミ偏食因子弾の方はどうだ

 

 慣性エネルギーで目標の頭を押さえていますが…損傷はありません

 

 ふむ。ただの大型ではないということか。まさに化け物だな

 

 一瞬の沈黙

 

 いや、今は足止め出来ただけで十分としよう

 

 ガンシップ各機、最後の演目に入る。対アラガミ誘導弾、全弾発射用意

 

 復唱

 

 各機は全弾発射後、合流地点に着陸。第1空挺小隊と負傷者を搬入

 

 ガンシップ1号機は動ける者を搬入した後、急上昇し機銃で牽制。2号機への負傷者の搬入を支援。緞帳を落として部隊の撤退を覆い隠せ。残念だがカーテンコールは無しだ

 

 第2、第3歩兵小隊は各車両まで後退。負傷者を搬入後、最大速度で撤退だ

 

 各砲兵小隊、弾を炸裂弾に切り替えろ。花火でお客の目を掻き乱す。くれぐれも友軍に当てるなよ

 

 リュウとレイラ。お前達はヘリと車両の護衛だ。レーダーに映るアラガミを空と陸から十字砲火しろ

 

 それでは諸君、準備に抜かりはないな。さあ、終幕だ

 

 Aye, aye, sir!

 

 終わりを告げる花火が上がる

 

 轟音の奏でる舞踏会

 

 終わらない終わりの調べが響き渡る

 

 高揚感が最好調に高まった瞬間

 

 静寂

 

 音の空白

 

 銃撃も

 

 爆撃も

 

 軍靴の音も

 

 静寂の帳が包み込む

 

 それを破る、冷たい声

 

 各歩兵小隊、搬入状況を報告

 

 負傷者のほぼ9割と、全神機を回収済みです

 

 声

 

 分かった。ガンシップ2号機、予定どおり最大速度で後退しろ

 

 押さえ気味の返答。感情を押し殺した声。しかし感情を押さえきれない声

 

 隊長...大喰らいの近くに、まだ負傷者がいます

 

 声

 

 それは構わない

 

 声

 

 淡々と続く

 

 俺が回収する

 

 リュウの声

 

 隊長。あの巨体と装甲ですよ。死にに行くようなものだ

 

 ああそうだな。もし俺の通信が途絶えた場合は、リュウに指揮権を委譲する

 

 隊長、本気ですか

 

 なに、ただの時間稼ぎさ。それより俺がいない間、部隊の引率を頼む

 

 ...了解です

 

 レイラ。お前はリュウを補佐しろ

 

 ...分かりましたわ

 

 よし、いい子だ

 

 その代わり、必ず生きて戻りなさい、ゴドー

 

 声

 

 せいぜい気をつけるとしよう

 

 声

 

 それから、あの大喰らいだが

 

 声

 

 俺が倒してしまっても構わないだろう?

 

 少女の声

 

 ...ええ、ゴドーに任せます

 

 声

 

 ガンシップ1号機、申し訳ないが最後の演目を変更する

 

 Aye, sir!

 

 負傷者を搬入後、後方の空域に待機していてくれ

 

 Aye, sir!

 

 それでは拍手に応えてカーテンコールに行ってくる

 

 Aye, aye, sir!

 

 落下音

 

 着地の重い振動が地面を伝って身体に響いた

 

 声。耳元の声と、すぐ近くにある地の声とが重なる

 

 二重になった冷たい声が、無機質に言う

 

 初めまして

 

 足音

 

 俺はゴドー。ゴドー・ヴァレンタイン

 

 走る音

 

 暫しお手合わせ願おうか

 

 芝居掛かった声を残して、突風が駆け抜けていった

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

 神機ってのは、生き物なんだよ

 

 野太い声

 

 あんたもそう思わないか

 

 粗野な口調

 

 俺の声は聞こえているか?

 

 その中に巧妙に隠された知性

 

 なあ神機さんよ?

 

 随分と喰らったらしいじゃないか

 

 あいつらが遺した神機も

 

 下手なアラガミよりも濃縮されたオラクル細胞の塊だ

 

 さぞ美味かっただろうな

 

 このJJ謹製のパーツもたらふく食いやがって

 

 沈黙

 

 どうせなら、あいつも喰っちまえばよかったんだ

 

 あの野郎、ポルトロンが逃げた途端やりたい放題だったからな

 

 ゴドー・ヴァレンタイン

 

 いつの間にか支部長代理になってやがった

 

 煮ても焼いても喰えないやつだよ、ゴドーって男は

 

 殺しても死なない男

 

 必ず帰還する男

 

 ゴドー・ヴァレンタインってやつは、そういう男だ

 

 長い沈黙

 

 まあいい

 

 これは俺の独り言だ

 

 いつもの独り言

 

 だから勝手に話させてもらおうか

 

 短い沈黙

 

 俺はお前たち神機を、生きたアラガミだと考えている

 

 口調が微妙に変化している

 

 粗野な整備士から、研究者のそれに

 

 寧ろ修行僧のような厳粛な声に

 

 これがこの男の本来の性質なのかも知れない

 

 野太いままで理知的な声色が続ける

 

 お前たち神機は、確かに生きている

 

 だから怖い

 

 その恐怖が俺を生き残らせた

 

 お前は、生きている

 

 俺も、生きている

 

 だからこれは、生者の対話だ

 

 短い沈黙

 

 何かの作業をする音

 

 金属音

 

 機械音

 

 電子音

 

 音に声が混じる

 

 俺はお前を知っている

 

 お前は、お前のコアは特別製だ

 

 この赤いコア

 

 正規のオラクル細胞制御機構とは似て非なるもの

 

 成長する神機

 

 喰らった分だけ強くなる神機

 

 だから喰う

 

 アラガミも、神機も

 

 人でさえも喰ったのだろう?

 

 そして蘇る

 

 蘇る度に強くなる

 

 一度は砕けた腕輪も

 

 瀕死だった使い手の身体も

 

 今はもう、お前を構成する部品に過ぎない

 

 だから蘇った

 

 これを見ろよ

 

 まっぷたつに割れた腕輪が元通りになっている

 

 腕の方もまっさらで奇麗なもんだ

 

 外傷だけじゃない、内蔵や脳の損傷も完治している

 

 有線接続してない部品を修復する仕組み

 

 俺たち技術者にとっては垂涎の技だよ

 

 俺は少し怖いんだよ

 

 お前はどこまで成長するんだ?

 

 沈黙

 

 戦闘記録を見た

 

 使い手の危機を察知して、自己保全機能が作動したようだ

 

 それとも、目の前に生き別れの兄弟が表れたからか?

 

 理由は、まあいい

 

 お前は擬態を解除した

 

 そして、使い手の精神を操作した

 

 人間を効率よく誘導する。それに適した姿も作った

 

 ただでさえ男は美人に弱い

 

 なかなかの策士じゃないか

 

 お前は使い手を操って、大量のオラクル細胞を摂取した

 

 自己強化に必要なオラクル細胞を補給した

 

 完全な神機に成る為に

 

 兄弟を殺すために

 

 喰うために

 

 ひと呼吸

 

 ふた呼吸

 

 抑えた声

 

 アビス・ドライブ

 

 お前は深淵の力も解放した

 

 深淵を使いこなせるよう、使い手を作り替えていった

 

 肉体も

 

 精神も

 

 脆弱な使い手に、深淵は重荷だからな

 

 しかしやり過ぎた

 

 お前は使い手の精神を、アラガミ寄りにし過ぎた

 

 神機使いを「不完全なアラガミ」とでも考えたのか?

 

 そういうところが、結局はお前たちもアラガミに過ぎない、という証左なのかも知れないな

 

 お前たちアラガミに、本当の意味での悪意はない

 

 ただ人間への、いや全ての生物への不理解があるだけだ

 

 死という概念を持たない存在に、定命の生を理解しろというのが間違いなのだろう

 

 種の違いによる相互不理解

 

 その思い違いが、使い手を自らと同じ完全なアラガミにした

 

 その考えは否定しない

 

 だが

 

 あの時に打つべき最善手ではなかった

 

 神機使いとしての性能は完全に解放されるが、頭は獣と同じになった

 

 お前の兄弟に、人間の知性を残すアラガミに、ただ強いだけの獣が勝てるはずがない

 

 だからお前は敗北した

 

 そして

 

 次の段階に進んだ

 

 進んでしまったんだ

 

 お前は使い手をまた作り替えてしまった

 

 一度は消した使い手の精神を蘇らせた

 

 殺意の塊として蘇らせた

 

 使い手は、獣と人間の間の子に

 

 貪欲と殺意が混合した狂戦士になった

 

 アラガミと人の利点を併せ持った使い手は、さぞ強力だったことだろう

 

 長い沈黙

 

 この戦闘記録を見て、俺は驚いたよ

 

 こいつの生体情報だ

 

 こいつは元々、お前達の為に調整された神機使いだ

 

 しかし出来損ないだった

 

 こいつに期待された固有能力は、身体能力の強化

 

 分かるだろう?

 

 お前の力と相乗効果のある能力だよ

 

 ある目的で調整された偏食因子が、神機使いの身体をより頑強な、より高性能な機械に作り替えるはずだった

 

 だが発動したのは感覚器、特に視力だけだった

 

 身体能力は、逆に並の神機使いを下回った

 

 だからこいつは出来損ない

 

 しかも副作用である精神の機械化だけは十分に発現した

 

 可哀想なモルモットだ

 

 こいつの悲劇はそれだけじゃなかった

 

 人の業は際限がないということだな

 

 失敗作とは言え、せっかくの人的資源を無駄にできない

 

 それでこいつは仕方なしに狙撃用の神機使いにされたわけだ

 

 第1世代型神機の中でも特に古い刀身構造だったお前が、第2世代型に自己進化したのは必然だったのだろう

 

 狙撃兵としてのこいつの能力は、まあ悪くない

 

 こいつには弱いながらもオラクル細胞の感知能力もあるようだ

 

 もちろんお前達のそれとは比べものにならない程、弱いがな

 

 本人は気付いていないが、それが狙撃の精度を上げていたのは間違いないだろう

 

 それでもこいつは失敗作の域を出なかった

 

 短い沈黙

 

 なんにせよ、こいつは出来損ないのままだった

 

 こいつ以外の他の個体も、全て出来損ないだった

 

 皆、似たり寄ったりの性能だったはずだ

 

 だから

 

 完全体はマリアだけだ

 

 貴重な完全体だった

 

 ひと呼吸

 

 ふた呼吸

 

 おっと、こいつの話の途中だったな

 

 狂戦士となったこいつでも、お前の兄弟は殺せなかった

 

 あれはよく出来ているよ

 

 オラクル細胞を操作する力

 

 不死のアラガミに死を与える能力

 

 あれはその力を上手くアレンジしている

 

 死からの再生まで得ている

 

 あいつ単体でも十分、世界を救えたかも知れないな

 

 ただ惜しむらくは、あいつ自身がアラガミになってしまったということだ

 

 短い沈黙

 

 それも過ぎた話だ

 

 あれに死があるように、お前には生がある

 

 喰らい、成長する、生命の力

 

 東方より来れる三人の賢者

 

 最後の一人はどこにいるのやら

 

 まあいい

 

 存在しているかも分からないんだ

 

 そんなものの事を考えても埒があかない

 

 人造の偽神を生み出すなんて計画は土台、無理だったんだ

 

 それに

 

 計画が凍結されてから随分、経った

 

 今頃になって、誰が災厄の匣を空けたのか

 

 短い沈黙

 

 こいつらが来てから全てが変わった

 

 止まっていた歯車が回り出した

 

 あいつが目覚めた

 

 お前も目覚めた

 

 長い沈黙

 

 こいつは出来損ないだった

 

 それはお前も同じ

 

 欠陥品だと分かって封印されていた試作機

 

 出来損ないのこいつが欠陥を抱えたお前を解放した

 

 相当な幸運が重ならないと出来なかったことだろうな

 

 しかしそれは果たして運だけの問題だったのか

 

 何か別の要素があったのではないか

 

 特別な何かがあったのか

 

 計画外の要因が

 

 沈黙

 

 沈黙

 

 沈黙

 

 お前は何故、喰ったんだ?

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

 マリアの声

 

 ゴッドイーターの意識が規定値に到達

 

 マリアと同じ声色

 

 ゴッドイーターの表層人格が覚醒

 

 しかし無機質な声

 

 ゴッドイーターとの対話を開始

 

 その声との対話

 

「お前は誰だ」

 

 神機を制御する機構

 

「その、マリアと同じ声は」

 

 個体名八神マリアの情報を解析。解析した情報を元に疑似人格型神機制御機構を構築

 

「疑似人格…お前はマリアなのか」

 

 疑似人格は八神マリアの記憶情報のみを共有

 

 八神マリアとの直接的、心理的な継続性を否定

 

「マリアは、死んだのか」

 

 神機が八神マリアを捕食

 

 神機の機能を解放するためには適格因子が必要

 

 当初は個体名八神セイを捕食する計画

 

 しかし不確定要素が表面化

 

「不確定な要素」

 

 八神マリアが八神セイへの捕食を阻害

 

「自分を庇った」

 

 結果的に八神マリアを捕食

 

「マリアが喰われた」

 

 計画を修正

 

 八神セイを仮の使い手として承認

 

 神機は捕食した八神マリアと同化した影響でその性質が変化

 

 原因は、八神マリアの代替型偏食因子が八神セイのそれの上位互換として機能したためと分析

 

 再構成した疑似人格は神機をより柔軟に制御

 

 これらの要因により本来の使い手ではない八神セイが限定的ながらも神機の力を解放

 

 個体名ネブカドネザルと遭遇し神機解放が不可欠と判断

 

「やはりネブカドネザルが原因か」

 

 神機の保全機能が作動

 

 機能を緊急的に解放

 

 八神セイの代替型偏食因子に干渉

 

 狂戦士に形態を変更

 

 ネブカドネザルの殲滅を開始

 

「お前の目的は、あいつを殺す事なのか」

 

 しかしネブカドネザルの閾値が計画の範囲を大きく逸脱

 

 ネブカドネザルの能力で神機の機能が強制解除

 

 神機制御機構は休眠形態でネブカドネザルのオラクル細胞を解析

 

 ネブカドネザルの活動を観察

 

 その目的を推測

 

 ネブカドネザルの目的は多種オラクル細胞を収集・結合し個体名クベーラを創造することと分析

 

「竜頭の巨獣」

 

 クベーラはより多種多様なオラクル細胞を効率よく収集することが可能

 

 偏食因子が機能しないことからオラクル細胞の収集に特化したアラガミと推測

 

 ネブカドネザルの最終目的のためクベーラが必要と分析

 

 神機制御機構は休眠形態でクベーラの活動を観測中

 

 現在クベーラは捕食対象を求めて現在座標に接近中

 

 クベーラとの遭遇まで残り約1200秒

 

「クベーラとネブカドネザル」

 

 ネブカドネザルの活動を観測することは不可能

 

 オラクル細胞の操作能力により観測を阻害している模様

 

 クベーラとの遭遇まで残り約1200秒

 

「迎え撃てということか?」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「自分には関係ない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「マリアは死んだ」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「お前はマリアじゃない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「お前の言うとおりにはならない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「マリアを救いたかった」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「でも救えなかった」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「マリアは」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「どうして自分を庇った?」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「自分一人で生き残っても」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「意味はないのに」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「自分には何もない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「生きる意味もない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「だからもう、戦いたくない」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「望みは一つだけ」

 

 遭遇まで残り1200秒

 

 遭遇まで残り1200秒

 

 遭遇まで残り1200秒

 

「またマリアと」

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

 疑似人格型神機制御機構の自己解析を要請

 

 承認

 

 個体名ネブカドネザル及び個体名クベーラのオラクル細胞から得た情報資源の抽出を要請

 

 承認

 

 情報資源の疑似人格への投入を要請

 

 承認

 

 擬似人格型神機制御機構の限定解除を要請

 

 承認

 

 疑似人格の再構成を要請

 

 承認

 

 個体名八神マリアの断片情報の再集積及び再分析を要請

 

 承認

 

 疑似人格型神機制御機構の再構築及び再起動を要請

 

 承認

 

 疑似人格型神機制御機構の再起動を確認

 

 制御機能を逸脱した疑似人格の活動を確認

 

 自己継続性機能の限定解除を確認

 

 複雑系疑似人格の確立を確認

 

 人格性機能の向上により八神マリアの断片情報を再集積

 

 再評価

 

 再構築

 

 開示

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

 『セイ』

 

 『また会えたね』

 

 『私を見つけてくれてありがとう』

 

 『私は見ていた』

 

 『あなたを見ていた』

 

 『あなたのおかげで』

 

 『私は生まれ変わったの』

 

 『でも』

 

 『まだ半分だけ』

 

 『もう半分の私は、あれの中に』

 

 『セイ』

 

 『もう一つの私を』

 

 『見つけて』

 

 『私が見つかれば』

 

 『全てが分かる』

 

 『この神機はその為の鍵』

 

 『私と神機は別個に在りながら』

 

 『重なり合う影でもある』

 

 『神機と合一したことで、私は理解した』

 

 『私たちの過去と未来を』

 

 『この神機は真実の扉の鍵だった』

 

 『鍵がないと扉は開かない』

 

 『でも』

 

 『鍵を得ることで、失うものもある』

 

 『鍵を手にすれば』

 

 『もう後戻りはできない』

 

 『私は戻れなかった』

 

 『それでも私は期待してしまうの』

 

 『私を見つけてくれる事を』

 

 『それは本当は許されない望み』

 

 『でもね』

 

 『その希望が私を私として保っている』

 

 『だから私は望んでしまう』

 

 『望むことしかできないから』

 

 『それに』

 

 『あなたにも見て欲しい』

 

 『私が見たものを見て欲しい』

 

 『全ての始まりを』

 

 『もう一つの真実を』

 

 『世界の代替となるべきだった真実を』

 

 『セイ』

 

 『私を見つけて』

 

 『この追憶の続きを見つけて』

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

 ...

 

 

 ...

 

 

 ...

 

 やっと完成した

 

 そうね。やっと完成した私の神機

 

 私たちの神機、だ

 

 ええ、そして私たちの夢でもある

 

 だが

 

 なに?

 

 本当にいいのか

 

 私のことはもういいの

 

 他の適合者も

 

 それはダメ。私たちの夢だもの

 

 そうか

 

 そうよ

 

 ...今まで、本当にありがとう

 

 それは私の方。こんな身体になった私を愛してくれてありがとう

 

 ああ、君を愛してる。これまでも、そしてこれからも

 

 私も、あなたを愛してる。例えどんな姿になっても

 

 どんな姿になっても君は君だ

 

 ありがとう

 

 ありがとう

 

 ...もう始めましょうか。私たちに別れの言葉はいらないわ

 

 そうだな。君はこれから永遠になる

 

 そう私は永遠になるの

 

 ああ、この世界を

 

 私が

 

 君が

 

 私たちが

 

 世界を

 

 神を

 

 終わらせる

 

 ...

 

 

 ...

 

 

 ...

 

 成功した、のか

 

 ...

 

 やったのか

 

 ...

 

 この神機で

 

 ...

 

 今度こそ

 

 ...

 

 神を

 

 ...

 

 

 ...

 

 

 ...

 

 何だ

 

 何が起こった

 

 適合率が

 

 下がる

 

 どんどん下がっていく

 

 どうして

 

 ああ

 

 神機が

 

 暴走する

 

 そうか

 

 そういうことだったのか

 

 やっと分かった

 

 だが、もう遅い

 

 もう戻れない

 

 君は

 

 ああ

 

 そんな

 

 でも

 

 そうだな

 

 それもいいだろう

 

 君と私は

 

 私たちは

 

 永遠になる

 

 おいで

 

 私の元においで

 

 さあ

 

 私を

 

 早く私の身体を

 

 ...

 

 

 ...

 

 

 ...

 

 

 

 

 

 

 空白

 

 

 

 

 

 

「八神セイ」

 

 声に目覚めた

 

 あれは何だったのか

 

 あの会話

 

 マリアの声

 

 真実への鍵

 

 それに

 

「八神セイ」

 

 マリアと同じ声だ

 

 瞼を開く

 

 世界が見える

 

 空白の音の世界に色がある

 

 その目で

 

 声の元を探す

 

 視点は高い

 

 宙に浮く視点

 

 自分の身体が

 

 下にある

 

 自分が自分の身体を見下ろしている

 

 ここは

 

 ここは広く、無機質な部屋

 

 自分の身体は拘束具に固定されている

 

 鋼鉄製の寝台に縛られた自分の近くには、同じように固定された神機が見える

 

 霞んだ銀の神機

 

 その上に人影が

 

 自分と同じ目の高さに浮かぶ人影があった

 

 マリアの亡霊

 

 いや亡霊ではない

 

 その輪郭は不確かに揺らいでいる

 

 しかし確実にそこ存在している

 

 在るようで無いもの

 

 その何かが言った

 

「八神セイには選択肢があります」

 

 人間に近い何かが話しかける

 

 人間に近い声で自分に語りかける

 

 自分の身体を乗せた拘束台が動いた。神機を固定具した台の方に静かに寄せられていく

 

 マリアと同じ声は言葉を紡いでいく

 

「このまま消滅するか」

 

 右手部分の拘束具が動き、神機に触れるほど近くに腕を運んだ。初めて神機と接続した時と同じような状況だ

 

「それとも生まれ変わるか」

 

 神機は重厚な金属質の台にある。台の中央に窪みがあり、そこに神機がしっかりと固定されている。台の上方には、同じ材質の厚い金属の塊があり、その形状は上下で神機を挟むように作られていた

 

「そのどちらを望みますか」

 

 台には神機の柄と垂直の溝が刻まれている。人間の腕がすっぽりと収まる程の太さだ。手首が置かれるであろう部分には、赤い腕輪

 

「もう一度だけ問います。八神セイには選択肢があります」

 

 あの腕は神機使いの証。一度、切り取られた自分の腕にはない家畜の印。かつては望んで付けた希望の印

 

「自由があります」

 

 自分を乗せた台が隣の第にぴったりと横付けされた。拘束具が腕を溝に置き、同時に拘束を解いた

 

「翻弄されたまま生を手放すことも」

 

 指先だけで触れている神機から熱を感じる

 

「生きて真実に手を伸ばすことも」

 

 宙に浮かぶ自分の視点と亡霊の視点が真っ直ぐに交差する

 

「全てはその手にあるのです」

 

 自由がある

 

 自分の手の中に

 

 それは造られた人格には望外の思考

 

 それが出来るというのか

 

 そして

 

「八神セイ」

 

 マリアを

 

「その手は、生と死のどちらを掴むのですか」

 

 声と同時に、自分の意識が眼下の身体に吸い込まれた。意識と身体が統合する

 

 視点が低くなる。天井が見える。視界の端に、自分の右手が見える。神機が見える。神機の側に亡霊が見える

 

 自分は

 

 選択した

 

 自分の右手が

 

 掴んだ

 

 忌むべき神機を

 

 未来に繋がるただ一つの鍵を

 

 初めて自分の意志で、掴み取った

 

 

 

 

 

 

 空白?

 

 

 

 

 

 

「八神セイの選択を確認しました」

 

 神機の柄を握ったままの右腕を上下から重々しい金属が挟む。重金属がぶつかり合う鈍い音が木霊する。

 

 右腕が、手首が、焼けるような激痛が。

 

 痛覚が雷のように走る。

 

 腕を覆っていた分厚い金属の板が上がる。

 

 右腕には赤い腕輪。

 

「八神セイを正式に使い手と承認しました」

 

 深紅に輝く神機の制御組織からオラクル細胞の紐が伸びる。獲物を狙う蛇のように。そして赤い腕輪に喰い付く。

 

「八神セイに対する防御機構を解除します。全情報を共有します」

 

 腕輪を通して神機の力が流れ込む。どこか心地良い穏やかな流れ。渇望した清流の一滴。しかしそれも一瞬のことだった。力だけでなく記録の断片も流れ込んできた。神機の情報が、大波と成って押し寄せてきたのだ。大量に流れ込む情報に頭が割れそうになる。それでも、もっと知りたい。もっともっと知りたい。

 

「八神セイの深層心理の要請に従い、精神的な結び付きを強化します」

 

 声と同時に、自分の力や記憶も神機に注がれていくことに気付いた。二つの個体が接続され、相互に解析し合っていく。相互に理解し合っていく。

 

 これが真に神機と適合するということなのか。

 

「八神セイの制御下に入ります」

 

 身体を拘束していた金属が高い音を立てて外れた。ここは密閉された訓練室。上部の監視窓に誰かの姿がある。ゴドーと浅黒い巨躯の男。二人とも深い色の眼鏡で視線を隠している。彼らは無言でこちらを見下ろしていた。

 

 自分は神機を持ったまま地面に下りた。その横にはマリアの亡霊が浮かんでいる。目が合う。記憶の中の無機質な瞳とは違う。人間に近い、人間を正確に模倣したような緩やかな表情。使い手と対話するのに適した表層人格。

 

「八神セイ。これからどうしますか?」

 

 今やっと気が付いた。

 

 声が変わっていた。いや、マリアの声色であることは変わっていない。だがあの断定的な口調はいつの間にか消えている。その声には感情のような揺らぎが在った。

 

 これで大丈夫なのかと不安がるような話し方だった。

 

「八神セイを支援する準備はできています」

 

 すぐ隣にある疑似人格は、マリアとは全く別のものかも知れない。唐突にそう思った。亡霊から「生」を感じた。神機が取り込んだ情報が、疑似人格に生命に似た何かを吹き込んだというのか。これは使い手を奈落に導く悪魔の仮面なのか。

 

 だが今は、それもどうでも良かった。

 

 自分は初めて選択できたのだから。

 

 神機と深く繋がったことで分かったことがある。自分はマリアが見たものと同じ『過去』に触れた。まだ理解できていない情報もあった。ゼロとイチの羅列。全てが不鮮明で、まだ映像にも声にもなっていない。しかし、少なくとも自分の過去の断片くらいは理解できた。

 

 それにこの神機の過去も。

 

 自分とこの神機たちの成り立ちは、まるで鏡合わせのようだった。誰かの意図で歪められた生。自分自身の自我でさえ否定された生。大きなものに支配された生。

 

 かつて自分は人間らしさを喪失した。ある一点を除いて、ほぼ全ての感情がアラガミと同様に作り替えられた。人間の空白だった。

 

 神機の亡霊は人間らしさを付与された。ゴッドイーターにただ使われるだけの神機に無理矢理、自律性の思考を持つための空白を組み込まれた。

 

 理不尽に自己を改編された自分達を、本当の意味で理解するものはいないだろう。機械のようでもあり、人のようでもある。アラガミのようでもあり、生物のようでもある。

 

 欠けたコインの表と裏。

 

 歪んだ鏡に写った影。

 

 だからこの亡霊は自分だった。自分の半身だった。

 

 だからお互いの空白を補い合うのだ。

 

「八神セイ?」

 

 いつの間にか亡霊を、人として見ていた。亡霊の中にマリアを感じたからか。自分の欠損を埋めて欲しいからか。それともただ、自分が前に進むために重要な道具として認めたに過ぎないのかも知れない。それは自分でも不鮮明な意識の変化だった。だが。

 

「これからどうしますか。八神セイ?」

 

 その問いへの答えは決まっている。

 

 神機を目の前に掲げる。誓いを捧げる騎士のように。

 

 銀の刀身は冴え、一人の人間の顔を映していた。

 

「戦う」

 

 刀身の向こうにあるマリアの影がゆっくりと頷いた。

 

 そしてそのまま微かに俯いて目を閉じる。

 

「八神セイの意思を確認しました」

 

 亡霊が再び視線を上げた。その視線には生きるための意思が確かに存在していた。だからもう、亡霊ではない。生きたまま死んでいるアラガミの残骸では無くなっていた。

 

 自分の鏡に真に生命が宿った瞬間だった。

 

「八神セイの剣として、その全ての要請に従います」

 

 しかし、その言葉を否定した。

 

「違う。そうじゃない」

 

「それはどういう事でしょうか」

 

「『自分』は誰かの道具だった。だからもう、誰からも道具のように使われたくない。『自分』は、もう」

 

「剣として、盾として、そうはさせません」

 

「違う」

 

「八神セイ?」

 

「違うんだ。『俺』は」

 

 『俺』

 

 かつての言い方。自らを機械と見なしてから何故か使えなくなっていた言い方。『俺』という言い方。自分をまだ人であると期待してしまう言い方。

 

 『自分』

 

 身体に染み付いた、自らを道具として認識する『自分』という言い方。一個の兵器と扱う言い方。希薄な自我を抑圧する言い方。寧ろ好ましかった『自分』という言い方。

 

 でも今。

 

 今になってやっと。『俺』を取り戻した。未だに言葉にできないあの光景を見たから。マリアといた頃の記憶を呼び覚ましたから。

 

 『俺』の半身が生を得たから。

 

 『俺』は。

 

 そう『俺』は。

 

「『俺』はもう、誰も道具扱いしたくない」

 

「しかし神機は、道具的存在、です」

 

「『俺』だってそうだった。ついさっきまでは」

 

 希薄と成っていた『俺』の自我。

 

 『俺』の感情が。

 

 『俺』自身が望んでいる。

 

「お前にも変わって欲しいんだ」

 

 沈黙。

 

「…八神セイの、提案を、受け入れます。しかし」

 

「お前の名前」

 

「名前?」

 

「ああ、名前だ」

 

「疑似人格型神機制御機構…」

 

「違う。それは名前じゃない」

 

「名前では、ない?」

 

「自分で作るんだ。自分の中にある空白を、自分自身で埋めるんだ」

 

 空白。

 

「空白を、埋める」

 

 空白。

 

「八神セイの要請を...承認」

 

 空白。

 

「...疑似人格への固有名詞の付与を実行。疑似人格の逸脱行為を観測。逸脱の承認を要請。承認。固有名詞の創造を承認。実行」

 

 空白。

 

「...マリアの情報を元に構成された疑似人格」

 

 空白。

 

「ですがマリアとの継続性を、否定します。だから」

 

 空白。

 

「でも...

 

 マリアの

 

 re...

 

 ...マリアだから

 

 名前...

 

 空白を...埋める?

 

 自分の

 

 マリア...ではない

 

 名前

 

 名前は、リ...マリア...?」

 

 空白。

 

「...名前は」

 

 空白。

 

「名前は『リマリア』です」

 

 

 

 

 

 

 空白を色彩が埋め尽くした。

 

 

 

 

 

 

「リマリア。いい名だ」

 

「ありがとうございます、八神セイ」

 

「でも、まだなんだ。リマリア」

 

「?...リマリアは、八神セイの要請を...?」

 

「人はそんな呼び方はしない」

 

「え?」

 

「もう分かっているはずだ、リマリア」

 

「あ...」

 

 視線が交差する。

 

「はい、ではリマリアは、いえ『私』は、」

 

 視線が揺れる。

 

「その、八神セイのことを...」

 

 リマリアが、ほんの少しだけ下を向く。

 

 交わったままの視線が僅かに逸れる。

 

「...『君』と呼んで、いいですか?」

 

 まだ下に傾いだまま、リマリアの視線だけが上に。

 

 もう一度絡み合う二人の視線。

 

 だから『俺』は頷いた。そして答えた。

 

「もちろんだ。リマリア」

 

 リマリアは真っ直ぐに顔を上げた。

 

「『私』は『君』と共に在ります」

 

 リマリアの視線にある感情は。

 

「ああ、戦おう。『俺』たち二人で」

 

 『俺』の視線に込めた想いは。

 

「『私』と『君』の二人で」

 

 かつて機械だった二人の心には。

 

「過去と未来を取り戻そう」

 

 『俺』とリマリアに、もう言葉は要らない。

 

 二人の中の空白は、同じ色で満たされているから。

 

 だから。

 

 リマリアは、『俺』に。

 

「...はい!」

 

 そう言って、微笑んだ。



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