グラン・ミラオス迎撃戦記 (Senritsu)
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序節 遥か古きおとぎ話
> 遥か古きおとぎ話(1)



 ───まるで、整えられた舞台の上に立っているかのようだった。
 目前に立つは原初の星。手にするは己の得物。そこに至るまでの過去と今の光景を見通して、そう捉えてしまう自分がいる。
 それはきっと、とても幸運で、恵まれていることなのだ。だからこそ、やり遂げなくてはならない。

 導きはあった。気付きは得た。行先は決まっている。
 ならば、あとは駆け抜けるのみ。

 人の歴史、龍の生涯から見れば、ほんの瞬きに過ぎなかったとしても。
 走り続けた先に、何かを掴み取れるなら。





 

 

「……」

 

 朝霧が立ち込めている。

 

 年中を雪で覆われた山々とその麓に広がる大森林。風はなく、獣の鳴き声もしない。そこは静謐な空気に満たされていた。

 そんな森の一画。木々の枝葉が隙間なく空を埋める中で、一本分だけ開いた隙間の下にその少女は立っていた。

 

 肩から膝下までをひとつの布で包んだかのような真っ白な服。その他には何も身に着けていない。背中に届くほどの長い髪もまた白く、毛先だけがほんの少し赤みを帯びている。

 獣も出てくる森の中でその姿はあまりにも異質だが、不思議と霧の中に溶け込むような自然な雰囲気をその少女は纏っていた。

 

「──? あなたは」

 

 少女の視線が、その姿を見ていた少年へと向けられる。その瞳の色は血のように赤い。

 まだ年端もいかない風貌の少年は、はっとし狼狽えたのもつかの間、小さく息を吸って、すっと両膝をついて深く頭を下げた。

 

「ここの近くの村に住む者です。フラヒヤの女神さま、あなたさまのお姿を目にしてしまった対価に、僕の命を差し上げます。ですのでどうか、村への裁きはお許しください」

「…………ふふ、そういうこと」

 

 少女は少しの間首を傾げていたが、やがてくすくすと笑って、芝居がかった口調で言った。

 

「ええ、あなたのその殊勝な行いに免じて、今回は許してあげましょう。──顔を上げなさい」

 

 恐る恐るといった様子で少年は顔を上げる。少女は微笑みを湛えたまま、諭すように少年へ告げる。

 

「自分の命と村人の命を天秤にかける、その判断の速さは優秀ね。でも、その自己の在り方はあまり褒められたものでもないわ」

「……」

「いくつか、あなたのことを教えてもらうとしましょう。あなた、どうやってここまで来たの? さっきあなたは近くの村から来たと言ったけれど、この辺りに人の気配は感じなかったわ」

「……夕方のうちに村を出て、夜は山小屋に泊まったんです。空が明るくなってきたころが、一番獣たちが静かだから……」

「なるほど、ね。そこまでして何をしに来ているのかしら?」

「……落陽草を採りに」

「ああ、あの良い香りがする草ね。この辺りにも生えているのかしら」

「はい」

 

 二人は言葉を交わす。似通っているのは背丈と顔の幼さくらい。容姿はほとんど真逆であり、互いの認識にも大きな隔たりがあった。

 それでも少女は楽しそうに笑う。腕を背中に回して少しだけ前屈みになって、少年へと言った。

 

「ねえ。あなた、明日も落陽草を採りに来るのかしら」

「はい。そのつもりです」

「なら、また私に会いに来て。お話ししましょう。あなたのこと、気に入ったわ」

「……恐れ多いです。人間の僕が二度も女神さまにお会いするなんて」

「そんなこと言わないの。明日の朝、またここに来てちょうだい。あっ、村の人には話しちゃだめよ。そうしたら……ね?」

「……はい」

 

 目配せする少女に対して、少年は首を縦に振るしかなかった。もともと拒否なんて決してできない。相手はフラヒヤの女神様なのだから。彼は至って真面目にそう考えていた。

 

 

 

「──とても高い場所にあった街なら、マチュピがあったわね。もう滅びてしまったけれど、今はどんな風に呼ばれているのかしら?」

「そんな高い場所にも、獣や竜はいるんですか?」

「もちろん。たくさん住んでいるわ。マチュピの遺跡の頂上は古龍が寝床にしているの」

「高い場所が好きなのかな……」

「ふふ、そうかもしれないわね。その龍はこの星で誰よりも高いところまで飛べるから……この宙の向こうに、一番近い龍なのでしょうね」

 

 二人が最初に出会った日から数日が過ぎていた。少年は天気が悪い日を除いては毎朝森へと入り、少女と言葉を交わしている。

 心なしか、村からここへ来るまでの道中で獣や竜の気配を感じなくなっているような気がした。きっと女神の加護だろうと思った彼は少女にお礼を言ったが、少女は微笑むだけだった。

 少女は物語を語り聞かせるように、少年に様々なことを話した。中でも少年の見識では伝説の存在だった古龍について、少女はよく知っていた。

 

「国ひとつを一夜にして氷漬けに……すごい」

「ちょっとだけ大げさなお話かもしれないわね。でも、彼の持つ氷の力は本物よ。周りの空気を凍てつかせて、結晶化させるの。彼が足を踏みしめた跡には小さな氷の結晶が生えるのよ。とても美しかったわ」

 

 まるでその目で見てきたかのように少女は話し、少年はそれを疑わなかった。外の世界を全くと言っていいほどに知らなかった彼にとって、少女の話は至宝の物語だった。それはまた、その道の専門家さえ知り得ないような価値を秘めていたが、そんなことは知る由もなかった。

 いつしか彼は少女への畏怖も和らぎ、少女の語りを聞くために勇んで森へと向かうようになった。村での仕事が終わるや否や籠を持って村の外へと駆け出していき、次の日に寝ぼけまなこで戻ってくる少年の姿を見て村人たちは訝しんだが、落陽草がなかなか手に入らないのだという彼の弁を疑うまではしなかった。

 少年は少女の言いつけをきっちりと守って、このことを他の誰にも話さなかった。それは始めこそ純粋な畏れから来るものであったが、数日後には少女の話をもっと聞きたいからという理由も加えられていた。

 

 ある日は、天候を荒れさせる古龍について。

 

「風翔けの龍と嵐の龍。お互いの力は似てるけれど、同じなんて言ったら彼らに失礼ね。風で空が掻き乱されるから天気が悪くなるし、嵐の中では風は勝手に強まるものなの」

「……?」

「ああ、あなたにはちょっと難しいかもしれなかったわね。ただ、同じ力なんて言わないであげて」

「うん……はい」

「あははっ。うん、でいいのに律儀なことね」

 

 ある日は、地面の下を伝うという龍脈について。

 

「ここの下にも、龍脈が通ってる……?」

「ええ。ほんの少しだけれどね。前に話したマチュピという遺跡とか、ここからずっと南にある火の山にはたくさん通っているわ。あとは……導きの星が眠ってる場所も、とても大きな龍脈の湧き出しがあるわね」

「導きの星?」

「そうよ。古龍たちを導く青い星。星に駆られて海を渡る古龍と人間たち。大いなる命が集って育つ龍脈の、その内に眠るのは……ふふふっ、あとは秘密にしましょうか」

 

 自然の脅威、または神秘とも言うべき存在の数々に、少年はただ感嘆した。少女の話を聞く度に、否応なく外の世界への関心は高まっていった。

 

 しかし、そんな非日常の日々もそう長くは続かなかった。

 もともと少女は気まぐれのようにここを訪れただけであり、数日もすればいなくなることを彼に告げていた。少年はそれを残念に思ったが、人間の自分には過ぎた願いであり、またいつもの村の生活に戻らなくてはならないことも十分に分かっていた。

 今日で最後、と少女が彼に告げても、彼は動揺を見せることはなかった。そのどこか達観した潔さを少女は気に入ったのかもしれなかった。

 

 その日もまた、森には霧が深くかかっていた。今まで暇潰しに付き合ってくれたお礼に、少し特別なお話をしてあげる、と彼女は言った。

 

 

 

「──むかしむかし、広い海の片隅で、一匹の龍と生き物たちが暮らしていました。

 そこには陸もありましたが、生き物たちはあまり近寄ろうとしませんでした。

 みんなが生きていくには、その陸はあまりにも狭くて貧しかったのです。

 

 ある日、陸に上がって空を見ていた龍はあることを思いついて、この星に話しかけました。

『星よ。海ばかり栄えて陸が貧しいままでは陸が可哀想だ。陸をもっと広げれば生き物が集まるのではないか?』

『龍よ。それは難しい。仔の願いは聞き届けてやりたいが、(わたし)はまだ若く、そこまで手が回らないのだ』

『ならば、この我に力を授けてはくれないか。我はあなたの手足になろう』

 星は龍の願いを聞き入れて、龍に力を譲り渡しました。年老いた大地を海に沈め、新たな大地を創り出す力を」

 

 少女は苔むした倒木に腰掛けて、物静かに語る。

 それは今までの話とは毛色の違う、御伽噺(おとぎばなし)のような物語だった。

 

「龍は譲り受けた力を使って、さっそく大地を創りはじめました。

 もとあった小さく貧しい陸を砕いて海に沈めて、代わりに自分の身体からどろどろに溶けた大地のもとを噴き出させ、それを固めて新しい陸にしました。

 それをずっと繰り返して、千回の朝が訪れ、千回の夜が去ったころには、海の広さに負けないくらいの陸ができあがっていたのでした。

 それまでの狭く貧しい陸に比べて、その陸には龍の血が染みわたり、荒々しくも豊かな力が満ちていました。

 そんな大地を見て、海の生き物たちはやっと陸を目指し始めました。恐る恐る陸に上がって空を見上げる小さな生き物たち。その姿を見た龍は、自分の役目はひとまず終わりだ、と海の底に眠りにつきました」

 

 少年は不思議そうに地面を見つめながら呟いた。

 

「……僕が立ってるこの地面も、その龍がつくってくれたもの?」

「さて、どうでしょうね。この世界の片隅の、とても古いお話だから。でも、そうやってできた陸がこの世界のどこかにはある、というのは確かかもしれないわね」

「その龍は死んじゃったのかな……」

「ふふっ、そう先を急がないの。

 

 ──それから百万回の朝が訪れて、百万回の夜が去ったころ。再び龍は目を覚ましました。

 これはいけない。長い間眠りすぎてしまった、また大地を創り直さなければ。と龍は海の底から陸を目指しました。

 しかし、辿り着いた先には龍が今まで見たこともない生き物が居座っていたのです。その名前を──人、といいました。

 

 身体から溶けた大地のもとを噴き出しながら迫り来る龍に向かって、人は戦いを挑みました。

 これからの時代に、大地を新たに塗り替えてやり直しをさせる神なんていらない。人は自らの住む場所を守るために、父なる大地を創った龍と決別する道を選んだのです。

 大地に立つものでありながら、星の意思に従わないとは何事か。龍は怒り、たくさんの火の玉を降り注がせました。

 人と龍の争いは七日間にも渡りました。大地は見渡す限り燃え上がり、海は滾って赤く染まりました。いくつもの島が沈められて、たくさんの人が死んでいきました。

 それでも人々は龍に挑み続けました。知恵を絞って、勇気を奮い立てて。龍殺しの稲妻が数え切れないほどに空へ散っていきました。

 

 ……七日間の果てに、戦いを制したのは人でした。

 戦いに敗れた龍は、大地を創り変えることができないまま、再び海の底へと沈んでいったのでした──」

 

 少女はそこで一度口を閉ざした。

 物語の行く末を、固唾をのんで聞き入っていた少年は、ほっとため息をついた。それからとても難しそうな顔をして呟く。

 

「ものすごく長生きをした龍だったんだ」

「そうね。まだ人って生き物が世界にいなかったころから生きてるのだもの。ひょっとしたら、寿命なんてあってないようなものなのかもしれないわね」

「……よく分からないけど、なんだかちょっと悲しくなる……」

「そうかしら? それが摂理というものだと思うけれど」

 

 首を傾げる少女に対して、少年は何度か目を瞬かせて、純粋な疑問を口にした。

 

「……その話には、まだ続きがある?」

「あら、どうしてそう思うの?」

「いつもなら「お話はこれでおしまい」って言うはずなのに、今日はそれがないから……」

 

 戸惑いがちにそう答えた彼を見て、少女は笑みを深めた。

 

「うふふ。あなた、やっぱり面白いわね。気付かなかったらここまででお終いのつもりだったけど、ちゃんと気付いてくれるなんて」

「…………!」

 

 少女の顔を見た少年は、背筋がぞっとするのを感じた。腰を抜かしてしまわなかったのは幸運なことだったのかもしれない。

 少女の真紅の眼は怪しい光を宿し、白い髪はぼうっと淡く発光していた。ぱちぱちと火花が散るような音が混じる。少年の目には少女が舌なめずりをしたように見えた。

 

「そう。この話は終わっていない。だって、その龍は深い海に沈んでいっただけ。それで死んだなんて思うのは、浅はかよ。あなたたちらしいけれど」

「で、でも、龍は人に負けたって……」

「そうよ。そのときに死ぬほどの怪我もしたのでしょう。でも、彼の心臓はそんなことでは止まらない」

「心臓……?」

「ええ。それこそが、龍が星から受け取った力の源。溶けた大地のもとを永久に生み出し続ける機関。それを止めない限りは、龍が死ぬことはないでしょうね」

 

 今まで空想の上で話を聞いていた少年は、それが急に現実味を帯び始めたことにただ困惑していた。

 しかし、これまで少女と話をする中で、話の要点を捉える技能が育っていたのだろう。少女の雰囲気に怯えながらも恐る恐る口を開く。

 

「だから、今のお話は終わってない……?」

「そういうこと。このお話の『続き』はあなたたちが作るの」

「ぼくたちが……」

「そう。あなたではなくとも、きっとこの世界の誰かが。それを見るのを楽しみにしているわ。……あら、怖がらせてしまったかしら。ごめんなさい」

 

 少年が僅かに体を震わせているのに気付いて、少女は自らの纏う雰囲気をいつも通りに戻した。

 少年はほっと息を吐く。獣に射竦められたときとは違う、圧されるような息苦しさがやっと解かれた。

 

「さて、そろそろお別れしましょう。この数日間、久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ」

「こ、こちらこそ。たくさんのお話を聞かせてくれて、ありがとうございました。フラヒヤの女神さま」

「ふふっ。あ、さっきの話はあまり人には話さないようにね。未来の話は本当はしてはいけないから……」

「は、はい」

「それじゃあ、さようなら。もう会うことはないでしょうけど、また会えたら話をしましょう───」

 

 彼女はそう言って森の奥、朝霧の向こう側へと歩いていく。急に煙を焚いたかのように霧が深くなり、それが晴れたときにはもう少女の姿は見えなかった。

 少年はそれを見送るようにしばらくその場でぼうっと立ち尽くしていたが、しばらくしてから慌てて村へ続く方へと歩き出した。

 日が昇り出す前には森を抜けなくてはならない。獣や小竜に気取られないように、なるべく音を消しつつ木々の間を抜けていく。

 

 右手を心臓の部分にそっと添えて、拳をぎゅっと握りしめた。

 

 ここでの数日間を、決して忘れることのないように。

 

 

 

 

 






 お久しぶりです。はじめましての方は初めまして。Senritsuです。性懲りもなくまたモンハン小説に戻ってきました。
 本作のメインは思いっきりタイトルに書いてありますね。登場をお楽しみに。


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第1節 前哨戦 
> 前哨戦(1)



今はまだ、微睡みの中。
その(とき)を待ち続ける。



 

 かなり大きな港だ。

 商船の船室から甲板に出た青年が、目の前に広がる景色を見て最初に抱いた感想はその一言だった。

 海岸線に沿って広がる街並み。ざっと数キロメートルはあるだろうか。決して緩やかではなさそうな山の斜面にも風車や建物が立ち並んでいる。手前にある巨大な倉庫のような建物は市場なのだろう。

 さらに目を引くのは泊まっている船の多さだ。浮桟橋に並ぶ漁船と思わしき小船の数は、ざっと百を超えるかというほどだ。沖に出ている漁船も含めればさらに増えるのだろう。大型船も専用の波止場に数隻停泊していた。

 流石はこの地方で随一の港町というだけのことはある、と青年は嘆息した。

 

 青年の乗る船はゆっくりと波止場に近づいていき、やがて軽い振動と共に接岸した。錨が降ろされると共に岸への板橋が架けられ、船員たちが慌ただしく動き始める。

 

「──お前さんの仕事はこれで終わりだ。ご苦労さん!」

 

 そう青年に声をかけたのは、商船の船長だ。日焼けした顔を白日の下に晒し、快活に笑う。

 青年の職業はハンターである。彼はこの商船の航海中の護衛依頼を請けていた。船長はその依頼が完遂されたことを伝えに来たのだ。

 

「結局お前さんが酔う姿を見ることはなかったな。船に強いねえ!」

「……自分でも、驚きました」

「この航海が無事に終わったのも、お前さんがガブラスを気張って倒してくれたおかげさ。まさかそれで甲板に穴が開くとは思わなかったがな!」

「……すいません……」

「いいさいいさ。ガブラスに毒液引っ掛けられるよりゃ百倍マシってもんよ。面白いものもみせてもらったし、お前さんを雇ってよかったぜ」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 船旅はそれなりに長かった。船長はその間に青年の人となりをある程度把握していた。彼はやや引っ込み思案すぎるきらいがあって会話のテンポが遅れがちだが、頭の回転が遅いわけではない。

 船がガブラスという小型の飛竜種モンスターに襲われたときの彼の対応は見事なものだった。船長は彼のハンターとしての実力の高さを認め、こうして対等な立場で話している。

 

「報酬はこの街のハンターズギルドに渡しておく。クエスト達成の報告をするときに受け取ってくれ」

「……はい」

「それじゃあ、俺は荷下ろしの監督をするからここでお別れだな。……最後にひとつだけ、話しておきたいことがある」

 

 それまで笑みを浮かべていた船長が、少し真剣な顔をして声のトーンを落とす。

 二人の声が聞こえる範囲に人がいないことを確かめてから、船長は改めて口を開いた。

 

「今まで船旅の間にガブラスに襲われたことは何度かある。やつらも商人に取っちゃ不吉の象徴で会いたくない存在なんだが、それよりか心配なのはこの異様な海の静けさだ」

「……」

「ラギアクルス、ガノトトスはともかくとして、エピオスやルドロスの一匹も見かけなかったのは流石に初めてだ。しかもここ何日かは異様なくらい海が凪ぎてやがった。……いやな雰囲気だぜ。お前さんも気をつけろよ」

「……忠告、ありがとうございます。……ですが」

 

 おぉ? と、船長は内心で反応を示さずにはいられなかった。この手の話で青年が言葉を続けようとしたのは初めてだったからだ。

 少しの間目を逸らして逡巡するそぶりを見せた彼は、しかし意を決したように船長にまっすぐ向き合った。

 

「僕は、その忠告を活かすことはきっとできないと思います」

「……なるほどな。お前さん、知ってて黙ってたな?」

「……すいません」

「……くっ、はははは! なに、構わんさ! どのみちこの街には来ないといけなかったんだ。お前さんへの恩はその程度で無くしたりはせんよ」

 

 船長は今日一番の笑い声をあげる。今の青年の返答を聞いて、その心意気に彼のことをさらに気に入るまであった。それくらい懐が広くなければ、海の商人は務まらないのかもしれない。

 

「ただ、それを聞いていよいよまずい気がしてきたな。よし、俺はさっさと積み荷を降ろして次の航海に出るぜ。ここでの商いは止めておくとしよう」

「どうか、気を付けて」

「おうよ。お前さんも何やら覚悟してる様子だが、死に急ぐなよ? また護衛依頼を頼むかもしれないからな!」

 

 船長と別れて下船した青年は、ひとまず真っ直ぐにハンターズギルドの施設を目指すことにした。道中で資材を運ぶアイルーに道を聞いたりなどしつつ、街中へと入っていく。

 昼下がりなのもあってか、商店通りは活気づいていた。道に沿って大小さまざまなテントが立ち並び、あちこちから青年のもとへ喧騒が聞こえてくる。魚の焼ける香ばしい匂いも漂っていた。

 道を行く人々の着る服も多種多様だ。砂漠でよく見られるガラベーヤという服を身に纏っている者もいれば、簡素な洋服を着ている者もいる。現地の人々は日に焼けていてかなりの軽装なので分かりやすい。

 ハンターは別に珍しくもないらしく、青年が変に目立つことはなかった。背中に担いだ武器を布で覆っていたのもあるのだろう。人混みがやや苦手な青年は足早に通りを歩いて行った。

 

 ハンターズギルド支部は青年が降り立った波止場とはちょうど反対側の方に位置していた。周辺では鍛冶場や狩猟道具を売る店が主体になり、一般客は減って、ハンターが往来し始める。

 中心部は広場になっていて、ギルドの受付も設置されていた。受付の向こう側は料理屋になっているらしく、こういった集会場にはお決まりの酒盛りの場も兼ね備えているようだ。

 

 しかし、そういった開放的な光景に反して、集会場の雰囲気は僅かな緊張が混じっていることを青年は目敏く感じ取った。

 ハンターの数は少なめで、ギルドの職員が通路をやや小走りで走っていく姿も見える。少なくともいつもの日常といった様子ではなさそうだった。

 受付に向かった青年を出迎えたのは、金髪を三つ編みにして青が基調のセイラーシリーズを着た受付嬢だった。

 

「こんにちは! ここのギルドは初めてでしょうか?」

「……はい」

「分かりました。では、ギルドカードの提示をお願いします!」

 

 青年は腰の防具に提げたポーチからギルドカードを取り出して受付嬢に手渡した。

 少女はそれを受け取ると軽く目を通し、そしてにっこりと微笑む。

 

「確認しました。ようこそタンジアへ! 私はクエスト受付嬢のキャシーです。私たちタンジアハンターズギルドは貴方を歓迎しますっ!」

「……エルタ・ミストウォーカーです。よろしくお願いします」

「本日はギルドカードの登録のみのご用件でしょうか?」

「……商船の護衛依頼を請けてきたので、その報酬を受け取りに」

「そうだったんですね! 少しお待ちください。確認してきます!」

 

 キャシーは机から依頼書を束ねたものを取り出し、船の名前、依頼者名などを聞いて達成状況を照らし合わせる。

 

「ええっと、ガブラス十五頭の討伐、商船の護衛依頼は十分達成していると船長さんから報告をいただいています。お疲れさまでした!」

「……報酬はギルドの倉庫に預けておいてください」

「分かりました! 船旅はどうでしたか? 酔いませんでしたか?」

「……あまり。それよりも、何かいいクエストはありますか。受けます」

「えっ、休憩されなくてもいいんですか? ギルドからハンターさん向けの宿を斡旋できますけど……」

 

 心配そうに言うキャシーに対して、青年は小さくかぶりを振った。

 

「船の中で休んだので十分です。今のタンジアはそれどころではないはずなので」

「むむっ……目敏いですね。街の雰囲気で気付いたか、それとも噂を聞きましたか?」

「……そのどちらもです。モンスターの動きが活発化している今なら、稼ぎ時かと思って」

 

 キャシーから目を逸らしつつ、青年はもごもごと街に来た理由を話した。青年が事情を知っていることを理解したキャシーは、やや不謹慎にも受け取れるその理由を聞いてもにっこりと笑う。

 

「ハンターさんらしい理由でいいですね! どうであれ、タンジアのピンチに駆けつけてくれたことに変わりはないので感謝します! それでは、要望通りクエストを紹介しますね」

 

 少女は商船の護衛依頼の報告書にぽんっと大きなスタンプをして脇に寄せ、机からまだ受注されていないクエストの依頼書の束を引っ張り出した。

 

「今、タンジア近郊は海のモンスターたちがみんなどこかにいってしまって、逆に地上のモンスターは気が立って大暴れ、という状況です」

 

 話しながらキャシーは依頼書の束から緊急性の高いものを抜き取って青年に示す。

 

「モガの森、ここから船で数日かかる狩場なんですが、そこの生態系が大きく乱れているそうなんです。近くの村の専属ハンターさんが頑張っているそうなんですけど、ハンターズギルドとしても状況が気になるところでして……」

 

 クエスト依頼文に狩猟対象は示されておらず、狩猟環境不安定とだけ書かれている。さらに成果報酬の形式をとっているらしい。狩猟したモンスターに応じて報酬が支払われる仕組みだ。リスクが読めないのも相まってなかなか受けるハンターがいないクエストだった。

 しかし、青年はそんな背景を全く気にすることもない様子で頷いた。

 

「請けます」

「……本当ですか?」

「ハンターランク的には問題ないはずです」

「そうですけど……いや、この際細かいことは気にしません。あなたの気持ちが変わらないうちにサインをお願いします!」

 

 ギルドカードに示された青年のハンターランクは5。タンジアでも珍しい高いランクだ。

 この数字が嘘でなければ、彼は飛竜種などの危険度の高いモンスターの連続狩猟すらやってのける実力を持つことになる。今回のような依頼にはうってつけの人物ではあった。

 キャシーから渡されたペンを手に取って、青年はさらさらと依頼書にサインする。

 

「その依頼を請けたらまずはモガの村に行ってください。モガの森のすぐ近くにある村です。もしかしたら村の専属ハンターさんとすれ違いになってしまうかもしれませんが……そのときは、村の受付嬢さんに事情を説明すれば対応してくれると思います」

「分かりました。……もうひとつ、武器を持ってきているのでそれをギルドの武器庫に保管させてください。それが済んだら出発します」

「了解です。ちょっと手続きに時間がかかるので、少々お待ちください」

 

 そう言ってキャシーは別の書類を取り出して文書を書き始める。ハンターの荷物の中でも武器は厳しめに取り締まられている。青年のように二種類の武器を別々に持ち込んできた場合、保管に色々と手続きが必要になるのだ。

 受付に訪れる他のハンターたちの相手は他のギルド職員たちがやってくれている。手持ち無沙汰になった青年はふと振り返ってあるものを見上げた。

 

 それは、空高く屹立する巨大な灯台だ。一周百メートルは優に超えるだろう。階層構造になっているようで、側面に櫓が建っていたり空洞が覗いていたりしている。

 そして、灯台という名の通り頂上には火がくべられていた。地上からでも容易に確認できる炎の揺らぎ。漁船程度ならあの中に軽く入ってしまいそうだ。燃料は恐らく薪ではなく、一度火が付くと延々と燃え続ける強燃石炭などを使っているのだろうとエルタは思案する。

 驚くべきは、そんな世界でも類を見ないほどの巨大な灯台が沖合に向かって幾つも聳え立っていることだった。それらにも同じように火が焚かれている。まるで、海に向かって楔を打っているかのように。

 

「あの灯台が気になりますか?」

 

 ペンを走らせながら、キャシーが青年に向かって話しかけた。青年が灯台を見上げているのに気付いたのだろう。

 

「あれは、黒龍祓いの灯台っていうんです。一度くらいは名前を聞いたことがあるかもしれませんね」

「……名前だけは聞いてました。ただ、こんなに大きいとは思わなくて」

「ふふっ、皆さんよくそれでびっくりしてます。あの灯台の頂上まで登って見る外の景色はすっごく壮観なので、このクエストから帰ってきたときにでも行ってみるといいかもしれません」

「……そうですね。そうしてみます」

 

 当たり障りのない返事をしながら青年はもう一度その大灯台を仰ぎ見た。

 青い空の元でも焚かれ続ける炎。その高さ、明るさも相まって、タンジアへの目印として船乗りたちは大いに助けられているのだろう。

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 そんなことを考えながら、青年は大灯台を見上げていた。

 

 



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>> 前哨戦(2)

 

 

 モガの村に着くまでの船旅も実に平穏なものだった。村の狩猟船団の団長を名乗る人物がタンジアに立ち寄っていたため、青年もといエルタは村への帰路に付き添うかたちで狩猟船に乗せてもらった。

 ルドロスの一匹も見かけないのは本当に珍しいと団長は語る。魚も同様に姿を見せなくなっているらしく、おかげで漁が全く捗らないと嘆いていた。

 

 四日ほどをかけて狩猟船はモガの村に到着した。凪だったため早く着くことができたらしい。

 モガの村は戸数が百件あるだろうかという程度の比較的小さな村で、大きな陸地から少し離れた小島のような場所につくられている。陸上のモンスターの脅威から身を守るための工夫だろう。

 周囲は古代文明の遺跡だったようで、明らかに自然の手によるものではない柱や巨大なアーチのようなものがちらほらと見受けられる。海から顔を出すそれらを橋渡しするように足場が張られ、その上に建っている建物もあった。潮の満ち引きの影響を受けにくい土地なのだろうなとエルタは思った。

 

 タンジアに来たときとは違って、狩猟船が停泊した桟橋のすぐ近くにハンターズギルドの紋章が看板に標された小さな建物を見つけることができた。物珍しそうに彼を見てくる村人たちに会釈をしながらそこへと向かう。

 カウンターでは赤いベレー帽のような帽子を被った若い女性が、何か物書きをしていた。やがてエルタが歩いてくる気配に気づいたのか顔を上げて、慌ててカウンターの上に置かれていた本などを仕舞って居住まいを正す。

 

「ようこそ! モガの村へ。初めまして、ですよね?」

「……はい」

「ほっ、よかった~。こっちに向かって黙々と歩いてくる人がいるものですから、ひょっとしてここを知ってる私の知らない人かと思っちゃいましたよ。

 それはさておき、まずは自己紹介からですね。私はハンターズギルドの仲介役を務めています、アイシャです。どうぞよろしくお願いしますね!」

「……エルタ・ミストウォーカーです。よろしくお願いします。……これ、ギルドカードとクエストの依頼書です」

 

 にこにこと話す彼女に対して最低限の返答で済ませたエルタは、ポーチからギルドカードと依頼書を取り出してカウンターに置いた。

 これはどうも、とふたつを手に取って軽く目を通したアイシャは、その目を大きく見開かせる。

 

「ひえーっ! ここの村の専属ハンターさんに匹敵するくらいの高ランクじゃないですか! 頼もしすぎる援軍、タンジアハンターズギルドさんに何が!?」

「……この村の近くの狩場が荒れているのを、あちらも憂慮しているみたいです」

「そうだったんですね……。こっそり依頼を出してからしばらく全く音沙汰がなかったので、黙殺されちゃったのかなとか思っちゃいましたよ。まあそれどころじゃなかったっていうのがあちらの本音でしょうけど」

 

 アイシャもタンジアの事情は察知しているようだった。こっそり、などという不穏な言葉にエルタは若干の不安を覚えたが、それに触れることなく話を進める。

 

「この村の専属ハンターと合流するように言われているのですが」

「あー、今狩りに出ているんですよね……最近は村にいることの方が少ないくらいで。でも、そろそろ戻ってくる頃合いのはずです。すれ違いはよくないですから、少しお待ちください」

「……分かりました」

「立ち話もなんですから、座って待ちましょう。椅子を持ってくるので──」

「──ほう、風牙竜の防具か。身のこなしが行いやすい、良い装備だな」

 

 突然背後から声をかけられて、エルタは振り返った。アイシャが「村長!」と声を上げる。

 立っていたのは初老の男性だ。上半身は裸で、肩から羽織のようなものを被せている。白い髪を頭の後ろで束ねているのが特徴的だ。彼がこの村の村長らしい。

 

「お前さんがアイシャの言っていた助っ人かね」

「はい」

「うんむ。風牙竜を倒せるほどの実力であれば不足はなかろうて。あの砂の海の捕食者を狩れるものは限られておるからの」

 

 エルタの着ている防具を見てすぐにその素材になった竜を言い当て、さらにそれでハンターの技量をも推し量っている。加工屋や同業の者でもなかなかできる者はいない。過去にハンターをしていたのだろうかとエルタは思った。

 三人はそれから専属ハンターが帰ってくるのを話しながら待つことにした。その間、エルタは村長から様々な話を聞いた。

 

 

 

 ──モガの村は「海の民」と呼ばれる種族と人間が助け合いながら暮らす村だ。温暖な気候と豊かな自然に支えられて成り立っている。ここで獲れた魚や特産品はタンジアから各地方へと運ばれ、人気も高いのだという。

 

 そんな村が原因不明の地鳴りに悩まされ始めたのは数年前のこと。

 最初のうちはこれを海の生態系の頂点に立つ海竜ラギアクルスの仕業であると村長は予想していた。しかし、専属ハンターの奮闘により海竜が倒されてからも地鳴りは収まらなかった。

 

 その後に判明した地鳴りの原因は、なんと古龍の仕業だった。大海龍ナバルデウス。深海に住まうとされる超大型の古龍だ。

 片角が育ち過ぎた個体が、海底の岩盤に角を打ち付けていたらしい。村には避難指示が出て、あわや村解体の危機だったそうだ。

 

「そこで、ならばナバルデウスの方を撃退してしまおうと立ち上がったのがこの村のハンターさんだったわけですよ!」

「……ひょっとして、ひとりで?」

「うんむ。持てるだけの酸素玉と回復薬を持って、な。そして、見事撃退して村に戻ってきた」

「……すごい。それは、本当に」

 

 エルタは素直に感嘆した。タンジアの近隣の村で大海龍が出現したという噂話は聞いていたが、まさかそんな背景があったとは。

 古龍を、それも超大型種を一人で撃退するなど尋常ではない。エルタはその話を聞いて、ある決意を胸の内で固めた。

 

「おかげでわしらはまた平穏な日々を取り戻すことができた。いくつか不思議なこともあったが、あの災難に比べればささやかなものよ。……だがしかし、最近になって森や海がまた不穏なことになってきおる」

「向こうに大きな陸地が見えますよね。私たちはモガの森って呼んでるんですが、荒れている狩場というのはあちらのことなんです」

「……具体的には、どのように」

「それは()()()に直接聞いた方が良かろうて。不和をじかに感じておるはずだ。ここ数日彼女らの姿を見かけんということが、状況を何よりも雄弁に語っているのかもしれんが……」

「あの人たちは戻ってこなさすぎなんです! あの人たちが森のモンスターたちの動向を見張ってくれているおかげでこの村に被害が出ていないというのも分かりますが、心配する私たちの身にもなってもらいたいものですっ」

 

 アイシャはカウンターから身を乗り出してまくしたてるように言った。

 

「それとなくあの人に注意しても、ぜんぜん聞き入れてくれませんし……。とうとう堪忍袋の緒が切れた私は、同じくあの人を心配する村人さんたちと結託して、こっそりタンジアからの応援を依頼したというわけです!」

 

「──なるほどね。私が知らない間に、そんな話が進んでたんだ」

 

 不意に話に割って入られて、アイシャは「うわぉう!?」と素っ頓狂な声を上げた。ちなみにエルタと村長はアイシャより先に気付いていた。その者が口元に人指し指を当てていたため、あえて黙っていたのだ。

 纏う防具は海竜ラギアクルスのもの。海の中では保護色となる蒼と橙のコントラストが映える。頭装備は腕に抱えられていて、ショートカットの黒みがかった銀髪が海風に揺れていた。

 

「は、ハンターさん! 戻ってきていたんですか!?」

「うん。少し前にね。さっきまでは村長の息子さんと話してたんだ」

「忍び歩きで来ましたよね! 盗み聞きなんて趣味が悪いです!」

「あれー私、さっき私に秘密で狩猟依頼出したなんて話を聞いちゃったんだけどなー。あれはどういうことなのかなー?」

 

 ラギアクルス装備の女性にいたずらっぽい笑みでそう言われてアイシャはたじたじとしている。どうやらかなり仲がいいようだ。エルタは黙ってその様子を見ていたが、そのハンターの方から目を合わせられる。

 

「ええと、今の流れだとあなたが助っ人に来てくれたハンターさんだよね。私の名前はソナタ。この村の専属ハンターです。よろしくね」

「……エルタ、です。こちらこそ」

「それであそこにいるのが……って、まだあんなところにいる。おーい! チャチャンバー! アスティー!」

 

 相変わらずアイシャに抱き着かれながら、ソナタは背後を振り返って遠くにいた三人を呼んだ。

 いや、一人と二体と言うべきかもしれない。歩いてくる彼らの姿を見てエルタはそう思った。

 

「これだからカヤンバはお子チャまなのチャ! おれチャまのドングリのお面の方がイケイケでノリノリ、着け心地も最高っチャ!」

「ンバダ~! チャチャの方こそお子ちゃまっンバ! ワガハイのカニ爪のお面は海原の香る素敵なお面! こっちの方がギンギンでドンドンッンバ~!」

「ふたりともかっこいいお面だとおもう。わたしも、そういうのを作れるようになりたい」

「ブッブッブ。いい心掛けっチャ~! おれチャまがしっかりレクチャーしてイケイケなお面を作らせてやるっチャ!」

「何を言ってるンバ~! ワガハイに弟子入りした方がグッドデザインなお面を作れるに決まってるっンバ~!」

 

 ……いや、やはり三人と言うべきなのだろうか。割と真剣に悩んだエルタである。

 

「もう……ええと、真ん中にいるのが竜人族のアストレア。ドングリのお面を被っているのがチャチャで、二本角のお面を被ってるのがカヤンバ。ふたりは奇面族なんだよ」

「……奇面族は人に好戦的なモンスターだったような」

「少なくとも彼らは違うみたいだよ。狩りについてきてくれるんだけど、けっこう頼もしんだ」

 

 人と共に狩りをする奇面族の話は初めて聞いた。エルタが彼らを見ていると、彼らの方もエルタに気付いたようだ。奇面族たちは率先して駆け寄ってくるが、アストレアという竜人族の少女は警戒しているのかその場で足を止めてしまう。

 

「コイツ何者っチャ? はっ、ひょっとして弟子入り候補っチャ!? ブッブッブ、おれチャまの人気は留まることを知らないっチャ……」

「ダッダー! そんなわけあるかンバ! ワガハイのレジェンドな噂を聞いてサインを貰いに来たに決まってるンバ!」

「こーら! 失礼でしょうが!」

 

 ソナタが奇面族たちを窘める。エルタが戸惑いつつも村に来た事情を話すと、少し残念がっていた。

 彼らの声を聞きつけてきたのか村の子どもたちが何人か集まってきた。彼らは子どもたちと仲がいいらしく、すぐに子どもたちの輪の中へと飛び込んでいく。

 

 少し遠巻きにこちらを見ている竜人族の少女にエルタは視線を向けた。白いワンピースのような服を着ている。ぱっと見では防具のように見えない。

 また、右袖はあるものの、そこから腕が伸びていないことに気付いた。怪我の多いハンター業界においては隻腕もそこまで珍しいことではないが、印象的ではあった。

 

 視線に気付いてぴくっと肩を動かした彼女はしかし、エルタの目を見てやや不思議そうな顔をする。それは彼女の目を見たエルタと同じ反応だった。

 ──人が持つそれとは思えないような静かな迫力を放っている。それは例えるなら竜の眼光に等しい。

 人のかたちでありながら人ならざる気配を放つもの。覚えのある感覚だった。

 

 しばらく視線のやり取りが続いて、やがて少女の方がエルタに歩み寄ってきた。頭一つ分ほどの身長差があり、少女がエルタを見上げるかたちとなる。

 

「……わたしはアストレア。アスティでいい」

「……エルタだ。好きに呼んでくれて構わない」

 

 近くで見てもやはりそれは見間違いではなかった。少女の瞳の色は翡翠に似た深緑で、人間と全く変わらないはずなのに、竜と相対するときの印象が混じる。

 少女は何かエルタに言いかけたようだったが、思いとどまったのか首を振った。

 

 二人がそんな様子でぎこちないながらも挨拶を交わしていた間に、ソナタと村長、アイシャはモガの森の近況について話し合っていた。

 

「なんと、リオレウスまでもやってきおったか」

「森の方にいたドボルベルクはどうなったんでしょう?」

「たぶんリオレウスが追い払ったんだと思う。ドボルベルクの痕跡を見かけなくなってたから……」

「ふうむ、一難去ってまた一難か。ドボルベルクが森に居座っていたなら、わしらが森に深く立ち入らんように気を遣うだけでいいが、リオレウスは見過ごせんな」

「ギルドからの報告もなかったので、ほとんど乱入に近いかたちですね。強引に他の竜の縄張りを奪いに来るなんて、かなり気が立っているのかもです」

「私もアイシャと同じ意見。これはさすがに放っておけない。森にいるアプトノスたちの数もかなり少なくなってるから、活動範囲をこの辺りまで広げてきてもおかしくないよ。ここに戻ってきたのは、あの竜と相手する前に補給しておこうと思ったからなんだ」

「う~ん……、ハンターさんたちにはしばらく村でゆっくりしてほしいですけど、そこまで状況が切迫してるとなると強いことは言えませんね……」

 

 難しそうな顔をする村長と腕組をするアイシャを傍目に見ながら、エルタはアストレアにだけ聞こえるように話した。

 

「……大変だったんだな」

「みんながしんぱいするほどじゃない。こういうのにはなれてる。でも、道具をそろえたりぶきを直してもらったりするのは大事なことだから」

 

 アストレアの話し方は若干たどたどしい。しかし、エルタはあまり気にしなかった。そういう人もいるのだろう程度だ。普通に会話する分にはほとんど支障はないので気に留める理由もない。

 ソナタたちの話によれば、加工屋にお願いした武具の整備が終わり、狩猟用の道具が補給できたらすぐに村を発つそうだ。見込み日は明後日とのこと。その話題になって、エルタに声がかかってきた。

 

「気が立っているリオレウスはかなり手強い。お前さんとて一筋縄ではいかんだろう。そこにいる彼の手を借りるべきではないか?」

「うん。さっきまではチャチャンバたちと一緒に慎重に立ち回るしかないかなと思ったけど。ええと、好きに呼んでくれって言ってたし……エル君、でいいかな?」

 

 その呼び名を聞いて、エルタは少しだけ懐かしさを覚えた。しかし、それを表情に出すことなくソナタに頷きを返す。

 

「どうだろう。いきなり厄介な相手だけど手伝ってくれる?」

「いけます」

「即決! ギルドカードを見せてもらいましたけど、リオレウスの狩猟経験も何度かあるみたいですね。頼もしい限りですよー!」

「じゃあ、私とアスティ、エル君でリオレウスに集中して、もしものときのためにチャチャンバを村にいさせてあげられるね。かなり即席のパーティだけど……なんとかなるんじゃないかな。何はともあれ、よろしくね!」

 

 ソナタは笑って右手を差し出してきた。エルタもぎこちないながらその手を取り、二人の間で握手が交わされる。かなりがっしりとした手だ。強いハンターなのだろう、というのがそれだけで察せられる。

 その後の話題がエルタの泊まる場所や村の案内に移ろうのを見計らったのか、今度はアストレアの方からエルタに話しかけてきた。

 

「いっしょに狩りに行くことになったのか?」

「……ああ。リオレウスとの戦いに同行することになった」

「わかった。あなたならきっとだいじょうぶだと思う。背中にかついでるぶき、今は布でおおわれてるけど、たぶんリオレウスによくきくはずだから」

 

 そう言って口を閉ざしソナタたちの話を見守るアストレアを見て、やはり不思議な少女だとエルタは思った。

 

 






主人公の纏う防具が判明しました。べリオUシリーズ、自分も3Gでは愛用していましたね。

下図は私の作品群におけるハンターランクの基準です。G級という概念が存在しないのが特徴かもしれません。あの辺りのモンスターは歴戦個体として扱われていますね。
エルタのハンターランクは5となります。この世界においてはかなり珍しい高ランクです。

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>>> 前哨戦(3)

 

 火竜リオレウス。この世界において最も高い知名度を誇るだろう飛竜の名だ。

 草木の生える温暖な気候の土地であれば、ほぼ全世界に進出している。セルレギオスやライゼクスといったライバルも多いが、個体数では群を抜いているだろう。

 熱気に対して強い耐性を持っていて、火山地帯にまで姿を現すことがある。対して寒気は苦手なようで、亜寒帯より北に姿を見せることはほとんどない。

 

 ある土地にリオレウスが現れると、ほぼ間違いなくそこの生態系の頂点に立つ。非常に高い攻撃性を持った竜だ。雌個体としてリオレイアがいるが、リオレウスよりも若干ながら危険度が下がるとされている。

 人々や家畜への被害も多く、狩猟依頼もよくギルドに届けられる。しかし、かの竜を狩れるハンターは一握りだ。それ故にリオレウスを狩猟することは多くのハンターたちの狩猟人生における目標であった。

 

 そんな強敵に挑むのはソナタ、アストレア、エルタの三人のハンターである。三人共にリオレウスの狩猟経験を有しているので精神的な余裕はあるが、油断はできない。

 チャチャとカヤンバもついて行こうとしていたのだが、村にもしものことがあったときのために残っていてほしい、というソナタのお願いに渋々と引き下がった。

 

 モガの森、一般のハンターには「孤島」と呼ばれるフィールドのベースキャンプへと辿り着いた彼らは、地図を囲みながら簡単な作戦会議をしていた。

 

「やっぱりムーファやアプトノスはいないみたい。彼らを追ってリオレウスも移動してくれたらいいんだけどね」

「いいねどこがあるから、えものが少なくてもそこを手ばなしたくないんだと思う」

「私も同じ意見。このベースキャンプから北西にずっと進んで、森と洞窟を抜けた先の海へ続く崖に大きな窪みができててね。モガの森を縄張りにした竜がよく巣を作るんだ」

「……交戦する場所は」

「いろいろ考えてたけど、ここから出て平野を登った先かな。天然のトンネルがあって、その先はちょっとした窪地になってるんだ。リオレウスと戦うには狭いけど、空から襲われる機会をできるだけ減らしたいから」

「この前、リオレウスの爪あとを見つけた場所。あれはなわばりを示すためにやってる。だから、昼にまたくるはず」

「いろんなモンスターが通る場所だから、マーキングにちょうどいいんだろうね。この夜のうちに移動しておいて来るのを待とう。先制は……アスティの投げナイフでいいかな?」

 

 ソナタがエルタの方を見る。エルタが弓使いやボウガン使い、あるいは猟虫を駆使する操虫棍使いであった場合、別の提案ができるのだろう。爆弾や罠の扱いに長けていて、今回のように相手が通るだろう場所が分かっているならば、先んじてそれらを設置しておくというトリッキーな奇襲も可能だ。

 しかし、エルタはそういう技術は持ち合わせていない。ソナタの提案に頷きを返す。

 

「投げナイフで順当に狩りに入らせてくれるなら、それに越したことはない」

「エル君のその武器、奇襲向けではなさそうだしね」

 

 ソナタの言葉にエルタは再び頷いた。

 人々を怖がらせないために布で包んでいたエルタの得物は、今それらを解かれて背中に担がれていた。

 黒を基調とした二対の武器。両手に持って戦う部類だ。双剣と同じように互いの形状は似通っているが、肝心の刃が存在しない。どちらかと言えば小型のガンランスのような、筒状の形状をしている。取手は側面から伸びていて、剣とは運用法が違うことは明らかだった。

 

「穿龍棍、だっけ? 名前は聞いたことあるんだけど、実際に使ってる人を見るのは初めてだよ」

「……メゼポルタで独自開発されてるから、使い手がいないのは仕方がない。ドンドルマとバルバレに少しいるくらいだ」

「ハンマーと同じように、なぐってこうげきするぶき、なのか?」

「ああ。……だがそれよりも、弓やランスのように『穿つ』ことが多い。実際に狩りで動きを見せられればと思う」

「楽しみにしておくよ。私は大剣使い、アスティは双剣使いだから、近接武器三人になるね。互いの立ち回りに気を付けていこう」

 

 ソナタの言葉に各々頷いて、三人は焚火などを消してベースキャンプを後にした。

 暗視や索敵が得意らしいアストレアが先行し、ソナタとエルタは彼女を追いかけていく。エルタは先ほどから気になっていたことをソナタに尋ねてみた。

 

「……ソナタ、アストレアが右腕に着けているのは、義手なのか」

「あれっアスティから聞いてなかった? うん。義手だよ。簡単なつくりだけど、その分頑丈なんだ」

「剥ぎ取りナイフを除けば一本しか剣を持っていなかった。それでいて双剣使いということは……仕込み刃か」

「ご名答。だから厳密には双剣とは言えないかも。動きも普通の双剣使いとはけっこう違うね。まあ、君と同じく狩りのときに動きを見てみるといいよ」

「そうさせてもらう」

「そう言えば、アスティと村でよく話してたよね。アスティが初めて会う人にあそこまで親身にしてるのを見たのは初めてだよ。何かあったの?」

「……特に何も思いつかない。ただ、なぜか放っておけないと言われた」

 

 よく分からないと言った風に首を傾げるエルタを見て、ソナタはくすっと笑った。

 

「ふふっ、その気持ちは分からなくもないかも。どことなくだけど、アスティに似た雰囲気を感じるもの」

「……そうなのか?」

「うん。アスティはその辺りの感性がかなり鋭いからね。さて、あんまり話してると怒られちゃう。先を急ごう」

 

 そう言って走っていくソナタの背中には、白く長大な剣が担がれていた。かの大海龍ナバルデウスの角を一本まるまる削り出して作られたという唯一無二の大剣だ。彼女が古龍を退けた本人であるということの何よりの証でもある。

 一枚岩のような月白の刀身は、夜の暗闇の中にありながら仄かな光を放っている。錨のような柄のデザインも相成って、美しさと荒々しさを共に感じさせた。

 

 彼女自身はまったく執着していないようであるが、古龍と相対した狩人と共に狩りができる機会などほとんどない。そのことをしっかり胸に刻みながら、エルタはソナタの後を追った。

 

 

 

 海水の浸る浅瀬の砂利道を走り抜け、やや急勾配の坂道を朝方まで時間をかけて登りきると、ソナタの言っていた三番地に辿り着いた。

 そこにあった自然のトンネルとはまさに言い得て妙であり、アーチ状の岩の下を小川が通っている。流水によって削れやすい岩質だったのかもしれない。

 トンネルを通った先は森への入り口となっていて、やや開けてはいるが大型モンスターと戦うには狭さを感じる。しかし、周囲は木々と岩壁に囲まれていて、ここではあのリオレウスも思うように飛べないだろう。

 開けた逃げ道は三方向ほどあり、小川も深さは踝程度までで気にはならない。地面の状態も苔の滑りに気をつければいい程度だ。悪くないコンディションと言えた。

 リオレウスはまだ来る気配がない。アストレアはある岩壁に歩み寄って、そこに刻まれた三本の抉られた傷を指でなぞった。

 

「リオレウスのつめあとだ。この前のより深くなってる。今日もきっとくるはず」

「うん。じゃあこの辺りに隠れよう。三方向に散って……アスティは森の中、私とエル君は迷彩布を被ってそれぞれトンネルの縁と洞窟の入り口で待機かな」

 

 ソナタの指示に従って三人は配置につき、リオレウスが来るのを待った。

 日が登り始める。三人は黙して語らず待ち続けた。ハンターの狩りはこうやって待ち伏せしている時間がかなりの割合を占める。下手に動いて小型モンスターなどに気付かれて戦闘になり、血の匂いがまき散らされたりなどしたら目も当てられない。

 

 

 

 待ち始めて数時間が経ったころ、そのときは訪れた。

 上空から強風が吹き込んでくるような羽ばたきの音を立てて、大きな影を地面に落としながら火竜リオレウスが舞い降りてくる。風に煽られて川の水が波立った。

 大きさは標準程度か。やや若い個体なのだろう。鱗の赤はくすんでおらず鮮やかで、脚もそこまで赤黒く血に濡れていない。

 地面に降り立つつもりはないようだ。マーキングのために立ち寄っただけなのだろう。ホバリングしつつ岩壁に近付き、以前の爪痕に重ねるように爪で引っ掻いていく。

 

 マーキングをしている間、リオレウスはその場から動かない。遠くから狙いを定めるには最適なタイミングだった。

 リオレウスが再び上空へ飛び立とうとする直前、アストレアのナイフが投擲された。刀身に陽光が反射して一瞬だけ輝きを放つ。

 リオレウスの翼の付け根を狙ったのだろうその投擲は、少し逸れて背中の甲殻にぶつかってしまう。かん、と硬質な音を立てて弾かれたナイフが地面に転がった。

 しかし、彼女の果たすべき役割としてはそれで十分だ。背後から攻撃を受けたことに気付いたリオレウスはひときわ大きく羽ばたいて身を翻す。既に姿を現していたアストレアを、その蒼い瞳が捉えた。

 

 モガの森に火竜の咆哮が響き渡る。それは空の王者と敵対した証拠であり、本能的な畏怖を引き出すものだ。ある程度距離が離れているはずのエルタですら顔を顰める程の大咆哮だった。

 しかし、エルタよりも近い距離にいるはずのアストレアは、耳を塞ぎこそすれどたじろぐことはなかった。胆力を鍛える程度ではどうしようもないはずなのに、毅然と立ち続けている。

 

 リオレウスが滞空しつつ首をもたげた。口元から火が漏れ出る──火球(ブレス)だ。リオレウスが火竜と呼ばれる所以である。

 撃ち出すように放たれたそれは赤々と燃え盛っていた。当たればただでは済まない。

 駆け出しのハンターは見てから回避をしようとするため、判断に遅れが生じて致命傷を負うことがままある。しかし、その点においてアストレアは先発を任されるだけのことはあった。ブレスが放たれる前には既に回避行動に入っており、危なげなくやり過ごす。

 アストレアを捉え損ねた火球は彼女の背後の木々に当たり、幹を黒く炭化させた。その光景を見る間もなく、二発目の火球がアストレアに向かって放たれる。これも来ることが分かっていたのか、反復横跳びの要領で避け切ってみせた。

 

 ならばとリオレウスは三撃目を放とうとする。いくら彼女が上手に避けると言ってもそう何度もは成功できないはずだと見込んだのだろう。

 空中に留まっている限り一方的に攻撃ができる、リオレウスはそう考えているのかもしれない。しかし、それは早計というものだった。

 ブレスを放つたびに反作用で自らが後退していくのはかの竜も分かっているはずだ。しかしその二回の後退により、隠れ潜んでいたハンターの傍に自身の尻尾が来ていることには気が付いていなかった。

 

「──ッ!」

 

 ぐしゃり、と。

 迷彩布が羽ばたきの風で飛ばされるのに構うことなく、力を籠め続けたソナタの大剣の一撃が尻尾に叩き込まれる。

 比喩でも何でもなく、リオレウスの尻尾が地面にめり込んだ。大剣そのものの重量を存分に活かした一撃。切断までは至らなかったようだが、甲殻が砕けて血が噴き出す。

 これにはリオレウスも悲鳴を上げて地に足をつけざるを得なかった。リオレウスがあの低滞空を行うのには繊細な翼の操り方をしなければならないという。それが例えば痛みなどに気を取られて維持できないとなれば、着地するしかないのだ。

 

 リオレウスが尻尾を持ち上げるのに巻き込まれないように、ソナタは大剣を引きずり出す。かと思えば、切先を地面につけたまま、柄だけを持ち上げて膝立ちでガードの構えを取る。

 直後、リオレウスの尻尾が大剣の腹を滑っていった。背後にソナタがいることに気付いたリオレウスが尻尾をしならせて振るったのだ。

 衝突の瞬間、刀身から水が湧き出していた。それが尻尾を滑らかにいなしたのだろう。あれが大いなる海の古龍の武器か。ガードの様子を見ていたエルタは驚くと共に、その武器の特徴を使いこなしてダメージをほぼゼロに抑えたソナタの技量にただ感嘆した。

 

 そしてまた、エルタも黙って二人の狩りを見ていたわけではない。リオレウスが尻尾を振るって身体の向きを変えたことにより、明らかな死角がエルタの正面にできあがる。

 その隙を見出したと同時に、エルタは迷彩布を脱ぎ取って駆け出していた。リオレウスとの距離を目で測りながら疾走する。走りながら腰に担いだ穿龍棍を掴み取り、一歩一歩を大きく強く踏み出していく。

 リオレウスがソナタを見て威嚇するように唸り声をあげ、突進を仕掛けようとする直前、エルタはリオレウスに肉薄した。

 

 一歩。走ってきた勢いを殺さぬように左足を軽く踏み込み、それを軸として身体を右方向へと捻る。

 二歩。左足を放し、右足でステップを踏んでくるりと躰を回転させる。穿龍棍を持った左手を広げてバランスを保ち、右手を大きく振りかぶった。

 再び正面を向いた時には、眼前にリオレウスの脚があった。

 

 三歩。撃ち抜く。

 助走の速度に回転の勢いをも重ね、右手に渾身の力を籠めて、その一撃を叩き込む──!

 

 どっ、と。リオレウスの後ろ足に穿龍棍の先端が深く突き刺さった。それとほとんど同じくして、エルタは取手のグリップを強く握り込む。

 がん、と続けざまに射出音が響く。穿龍棍の内部に内蔵された杭が、ガンランスの竜杭弾のように撃ち出されたのだ。その反動でエルタの踏み込んだ左足が大きく土を抉る。

 赤黒い(いかづち)が迸り、穿たれた傷口から盛大に鮮血が流れ出た。雷に触れた血は蒸発したかのように霧散していく。傷跡もまた赤い放電痕のような模様が染み、黒く変色していく。

 

 エルタの担ぐ武器の名は狼牙棍【滅獄】という。ジンオウガ亜種の素材を用いた穿龍棍だ。強力な龍属性を宿しており、リオレウスなどの龍属性に弱いモンスターには壊死毒に近しいほどの影響を与える。

 厚い表皮、さらに筋肉すら突き抜け、骨まで届いたその一撃にリオレウスは振り返るよりも先にがくりと体勢を崩した。

 右手の一撃の反動で仰け反ったエルタは、左手に持った穿龍棍の杭を肘から後ろの方向へと伸ばし、逆手に持った双剣を振るうように傷口へと叩きつけた。再び赤黒い雷が弾けて浸食を広げていく。

 

 その追撃によって背中から地面に倒れかけたエルタだが、右手を地面につけてその身を翻し、その場から離れる。

 助走をつけた一撃は条件が揃えば今のように大きな傷を負わせられる。しかし、他の武器とは違って衝撃が直に肩や腕に伝わるため、負担もかなり大きい。現にエルタの右腕は剣が弾かれたときのように痺れていた。

 

 後方に下がったエルタとすれ違うようにして、アストレアが駆けていく。左手に持ったのは白い両刃の片手剣。そして、右手に装着していた義手は先ほど見たときよりも細く、鋭利に。一枚の刃となって双剣の体を成していた。

 エルタが攻撃している間に義手の内側の仕込み刃を展開したのだろう。アストレアはその小柄な体格を活かしてリオレウスの足元へと潜り込み、エルタに向けて振り返るリオレウスの足捌きに対処しつつ、その腹に斬撃を叩き込んでいく。

 

 左手の片手剣は雷属性か。狼牙棍のそれとは真逆の青白い雷光がエルタの目に映る。右手の義手の仕込み刃の方は無属性のようだ。身体に直接装着されているのを考慮してのことだろう。しかしそれは左手に持った剣に劣るということは決してなく、むしろ切れ味は仕込み刃の方が勝っているようだった。

 仕込み刃の間合いが短いのもあってか、かなり変則的な動きをする。よく舞踏に例えられる双剣使いの剣捌きだが、アストレアの動きはまさにそれだ。手だけでなく胴体も使って仕込み刃をより深く切り込ませる。全身を駆使したその動きは、何故か血に汚れない白い防具も相まって見るものを惹きつけた。

 

 懐の内で暴れるアストレアのことは当然リオレウスも把握しているはずだ。しかし、かの竜はそれでもエルタを強く睨み付けた。脚に受けた一撃が相当こたえたらしい。

 エルタに向き合うな否や、リオレウスは突進を仕掛けてきた。足元のアストレアを巻き込むつもりだったのかもしれないが、一通り舞ったアストレアはその場から既に離れていた。

 むしろ危険なのはエルタの方だった。避ける行き先が既に塞がれていたのだ。

 リオレウスが足に怪我を負っていたのが仇になった。翼を大きく広げ、半ば倒れ込むように迫ってくる巨体。立ち続けたままの突進ならば潜り抜けようもあるが、これは逃げられない──。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()。しかし、今はまだそれを使うべきときではない。エルタは覚悟を決めた。

 穿龍棍を両手に抱いて、エルタは横っ飛びしてリオレウスの正面方向から軸をずらす。さらに着地後、今度は後方へと大きく飛び退き、そして衝撃に備えた。

 

 衝突。エルタの視界がぶれる。翼の根元の部分にぶつかったようだ。エルタは身体の真横からその衝撃を全身で受け、大きく吹っ飛ばされる。背中から地面に激突して穿龍棍を抱えたまま二転三転し、岩壁の傍に生えた茂みに突っ込んでようやく止まった。

 派手に吹き飛ばされたが、その割にはダメージを抑えられたか。今起き上がろうとしてそれが困難なほどの激痛や眩暈がないのが何よりの証拠だ。全身の痛みと頭を揺さぶられたことによるふらつきはある程度時間が経てば引く、とエルタは自身を落ち着かせる。

 

「エル君!」

「大丈夫だ!」

 

 ソナタの声に応えてエルタは立ち上がる。リオレウスはエルタへの突進後に倒れ込み、その隙に駆け付けたアストレアとソナタによって足止めされていた。

 ソナタとエルタの渾身の一撃、さらにアストレアの乱舞を受けて少なくない血を流したというのに、リオレウスはまだ十分な体力を残していると言わんばかりに暴れ続ける。それが大型の竜との戦いというものだ。

 これまでの狩猟経験で思い知っている通り、まだまだこれからだ。エルタは気を引き締めて手に持った穿龍棍を握りしめた。

 

 

 

 穿龍棍というのはその見た目に反して複雑な内部機構を持つ武器のようだ。エルタの立ち回りを垣間見ながらソナタはそんな感想を抱く。

 柄を持つ手から先は打撃というよりもその名の通り穿つことを念頭に置いているようで、先端部分は鋭く尖り、撃龍槍のように撃ち出したり引っ込めたりできる。

 その逆側、肘から後ろもリーチを延ばせる仕様となっていた。どうやら先端部分の杭を引っ込めて後方に押し出すことでそれを実現しているようだ。こちらは遠心力を活かしてその杭の腹の部分を叩きつけるという使われ方をする。

 さらにその杭を内蔵する武器本体も長さの変更ができるようで、これまでの話は武器本体が長い形態に該当する。短い形態にすると後方に杭が伸びなくなり、ほとんど腕の伸びる範囲程度までリーチが短くなる代わりに、深く懐に入り込む立ち回りができるようだった。

 

 複数の形態と杭の出し入れを、状況に応じて完全に使いこなしているのだから恐れ入る。修練も積んでいるだろうが、才能が必要とされる域に思えた。

 今のエルタは武器を短い形態にして、アストレアと入れ替わったり向かいの位置に立ったりしつつ彼女と似たような立ち回りをしている。リオレウスが短く跳んで踏み潰そうとしたり、突進で蹴飛ばそうとするのをステップや回転回避でひらりひらりと避けていく様は明らかに場慣れした者の動きだった。

 しかし、とソナタは思う。

 最初に見せた一撃の威力と比べると、かなり控えめな攻撃力に落ち着いている。甲殻を殴りつけて鱗を弾き飛ばし、表皮が露出すると杭を打ち付ける。先ほどのように追撃で杭を撃ち出すことはしないため、そこまで深い傷にはならない。

 

 それを攻撃力不足だと咎めるつもりなど全くない。かの竜の自然治癒力を上回ることはできている。もとより三人パーティなのだから、堅実にダメージを重ねていく手法でも十分に通用するのだ。

 一撃でリオレウスの体勢を崩したあの攻撃の印象が強すぎるだけだ。そのせいで大剣のような一撃重視の武器と勘違いしてしまっていた。手数による攻撃を主体とし、その上で性質としてはチャージアックスに似ているのだろうとソナタは推測する。

 チャージアックスは斬撃の反動をエネルギーとして内蔵された瓶に充填し、剣の強化や楯の強化に用いる武器だ。特に充填したエネルギーを一気に開放して放つ属性開放切りの威力は凄まじく高い。それと似たような機構が穿龍棍にも組み込まれているとするなら、今はその準備段階と言える。

 

 いずれ何かしらのアクションを起こすはず。そうソナタが考えていた矢先で、リオレウスの口元から赤い炎がぶわりと溢れ出した。次いで、これまで以上の殺気と威圧感を放つ咆哮が三人のハンターの足を止める。

 いよいよ怒った。このリオレウスはかなり怒りにくい個体だと思っていたが、幾度もの傷を受けて流石に命の危険を感じたのだろう。

 咆哮を放った直後、リオレウスは大きく翼を広げ、やや仰け反るような構えをする。口元からさらに炎が零れるのを見て、ソナタは大声で警戒を呼び掛けた。

 

「足元にブレスが来る! 気を付けてっ!」

 

 リオレウスと近接武器で戦っていたときに注意しなければならない攻撃の一つが、今ソナタがいったバックジャンプブレスだった。その危険性はひとえに避けにくさにある。足元にいたハンターはリオレウスの全体の動きが見えにくいので、急に後方に飛び立たれながらさっきまでかの竜がいた場所にブレスを放たれると対応しにくいのだ。

 今、リオレウスの足元に立っていたのは──エルタだ。ソナタの声は届いているはず。しかし、彼はリオレウスの腹の真下から一歩分だけ飛び退くに留まっていた。

 いけない。口元から離れてすぐに地面に着弾するバックジャンプブレスは広い範囲に炎を撒き散らす。あの位置では爆発から逃れられない。ただ、それは彼も分かっているはずだ。

 何かしらの考えがある。もしもの時のために腰に提げた閃光玉に手をかけながら、ソナタはエルタの動きを注視した。

 

 がしゅっ、と。ボウガンから拡散弾が放たれたときのような音が響いた。

 直後にリオレウスがブレスを放ちながら飛び立つ。直後の爆発によって土が捲れて周囲に飛び散る。広範囲にわたって炭化した地面がその威力の高さを物語っていた。

 リオレウスはその光景を見渡して、訝しげに唸る。つい数秒前までそこに居たはずのハンターの姿がないのだ。確実に一人は屠ったと踏んでいたのだが、いったいどこに行ったのか。

 

 そんな風に地面を見下ろしていたリオレウスの()()()、左手に持った穿龍棍を振りかぶるエルタの姿があった。

 

「飛んだ……!」

 

 ソナタとアストレアが思わずそう口にしたと同時に、リオレウスの顔面に向かってエルタの穿龍棍の一撃が真上から撃ち込まれた。

 鈍い音が響き、リオレウスの首が強制的に沈む。高所からの自重の落下のエネルギーすら利用したそれは、殴りつけるだけでも十分な威力を生み出す。

 恐らく眉間に直撃した。しかも完全な不意打ちだ。意識を奪われて落下してもおかしくはないが、リオレウスは何とか滞空姿勢を維持し続ける。

 

 まさか頭上からの攻撃を受けるなど予想だにしていなかったのだろう。大きく羽ばたいてさらに後退し憎々しげに空を見上げたリオレウスは、直上から少しだけ傾いた太陽の光をもろに見てしまい目を細める。

 それが致命的な隙となった。

 

 ──エルタの空中での攻撃を最初から追っていくと、次のようになる。

 リオレウスが飛び立つ寸前、両腕を地面に打ち下ろすようにして屈伸し、穿龍棍の杭を地面に向けて撃ち出した。その反動でエルタの身体は空中へと弾き出される。がしゅっという音はそのときのものだ。

 リオレウスのブレスの爆発を背後から受けてさらに浮き上がったエルタは、手足を広げてアイルーのように空中で姿勢を制御し、リオレウスの頭めがけて飛び込むようなかたちで左手に持った穿龍棍の一撃を見舞った。

 

 その打撃を受けて頭を沈み込ませたリオレウスの、その首元にあろうことかエルタは足をかけたのだ。足場とも呼べない、羽ばたきに合わせて揺れ動く首に確かにエルタは立ってみせていた。

 その場に留まったのは一秒にも満たない短い時間。しかし、リオレウスが頭を持ち上げる仕草をも利用してエルタは跳躍し、再びリオレウスの頭上を取った。

 

 そして今、エルタは膝を丸めて両脇を閉じ、双方の穿龍棍の切先を揃えた。標準は先ほどと同じくリオレウスの眉間。自由落下に身を委ね、その構えを保ち続ける。

 とん、とエルタの両足と穿龍棍の切先がリオレウスの頭に触れた。刹那の空白。弾かれたように反応したリオレウスが頭を振り回そうとして──先手を取ってみせたのはエルタだった。

 

 龍気穿撃(穿龍棍が吼えた)

 ドゴッ!! と今までにないほどの破砕音が響き渡る。赤黒い雷が衝撃波のように空中を伝播し、その反動によってエルタの身体が空中へと投げ出される。

 穿龍棍内部に溜め込まれていたエネルギーを一気に開放させ、杭を射出させたのか。これを成すための回避主体の堅実な立ち回り。最初の一撃に勝るとも劣らない威力が両手分となれば、エルタが反動で吹飛ぶのも頷ける。

 

 リオレウスが頭から血が噴き出させながら墜落する。眉間の最も甲殻が分厚い部位を撃ち抜き、貫いて頭蓋骨にその衝撃を届かせたのだろう。打撃武器や徹甲榴弾使いの間で言うところの脳震盪(スタン)を一撃で取ってみせたということになる。

 無論、この好機をソナタとアストレアが逃す手はない。アストレアはその脚部へと切り込んでいき、ソナタは普段は攻撃のできない翼膜を切り裂いていく。

 

 空中でくるりと宙返りし、ふわりと地面に降り立ったエルタを傍目に見て、ソナタはある想いを感じずにはいられなかった。

 空中へと飛び立つことのできる武器種を見るのはこれが初めてではない。この地方にはほとんどいないが、操虫棍という武器の使い手は高跳びの要領で空中にその身を躍らせる。

 しかし、あれはある辺境の民族の伝統を受け継いで狩猟武器へと落とし込んだものだ。そのデザインや猟虫を操る様は、狩りに生きるものとしての矜持がある。

 ならば、穿龍棍は。工房の技術の粋を集めているのは間違いない。ただ、その目標はきっと狩猟や採集、探索といった広義での狩人(ハンター)のためではないのだろう。

 

 その名の通りだ。龍を穿つ。立ちはだかるモンスターを真っ向から迎え撃ち、その苛烈な攻撃力でもって打ち倒し、次の戦いへと歩ませていく。そこに隠密や探索といった要素はいらない。強大な龍を正面から相手取ることだけを考える。ただただ、闘う者(ハンター)のために。

 

 エルタはどのような想いでこの武器を担ぎ、この街に来たのだろうか。斬撃による血飛沫を浴びながら、ソナタは心の片隅にその想いを留めた。

 

 






・龍気穿撃について
本作ではモンスターハンターフロンティアより穿龍棍が登場します。
これに関して、ゲームから大きな仕様変更がありますので記載します。

本作では穿龍棍の独自要素である龍気が、チャージアックスの瓶エネルギーのような蓄積に変更になっています。
これに伴い、龍気穿撃による攻撃自体に強い衝撃が発生する(ゲームにおけるモーション値が高いことと同義)ようになっています。

ゲームでは攻撃後の龍気の爆発に高いモーション値が入っている仕様でしたが、ご了承をよろしくお願いいたします。


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>>>> 前哨戦(4)

 

 

 エルタたちがリオレウスと邂逅してから数時間が経過した頃。狩りは大詰めを迎えていた。

 かの竜はあれから窪地を飛び去って浅瀬の広がる見晴らしのいい平地へと移動し、彼らは今そこで戦っている。浅瀬は夕焼け空の赤色を映し出し、そこに空を飛ぶリオレウスと三人のハンターの長い影が落ちていた。

 

「──ッ!」

 

 リオレウスが空へ飛び立つ直前まで剣を振るっていたソナタとアストレアに向かって、ブレスが薙ぎ払われた。普段の炎ブレスとは異なる、地面の広い範囲へと火炎の吐息を吹き付けるブレスだ。

 見てからの回避はできない。そのブレスを浴びてしまった二人のうち、ソナタはあえて大げさに吹き飛ばされることで全身から浅瀬に飛び込む。水飛沫と共に二転三転、ソナタの身体に纏わりついていた炎は蒸気を上げて掻き消された。

 対してアストレアは、熱気を吸い込んでしまわないように息を止めてその場から離脱はしたものの、特にアクションは起こさない。炎が纏わりついていないのだ。防具の特性によるものか。

 

 大きく後退したソナタと側面方向に移動しただけのアストレアを見比べて、リオレウスはアストレアに追撃の狙いを定めたようだった。

 翼膜は大きく斬り裂かれているものの、その飛行能力は完全には失われていない。何度も羽ばたいてその身を空高く持ち上げたリオレウスは、アストレアに対して太く鋭い爪を生やした両足を向けた──急降下攻撃。

 狙いは正確無比。目標を目で追いつつ翼で姿勢を制御する。自由落下に等しい速度で迫るそれは、その爪の持つ猛毒も相成って凶悪な殺傷力を持つ。

 

 アストレアはリオレウスが自らを捕捉していると気付いたと同時に駆け出した。リオレウスから見て時計回りとなる方向にじぐざぐに、狙いがつけにくくなるように。

 さらに、リオレウスの空中での動きを見定める。そのときを待って──リオレウスが急降下に入るべく、身体を強張らせたその瞬間に。

 

 毒爪が襲い掛かる。後方に逃げても追いかけられ、左右に避けようにもリオレウスの両足のどちらかに捉えられてしまう。

 だから思い切って前方への回避を選ぶ。毒爪と尻尾の間にある僅かな空間。その空間へと素早く針を通すイメージでその身を滑り込ませる。

 瞬きの間に、リオレウスは地上すれすれまで舞い降りた。身体構造的に先んじて尻尾が地面に叩きつけられる。次いで毒爪を握りこむように脚を動かすものの、そこに在るはずの手ごたえはない。アストレアは背中に爪を掠めさせつつもその脅威を避け切ったのだ。

 

 地上や海上の獲物を捕らえるべく鍛え上げられた急降下攻撃をも避けられて、リオレウスは息を切らしながら憎々しげに唸る。再び空へと舞い上がろうとして──その背後に人影が踊った。

 ごっ、という鈍い音と共に、背中の甲殻が弾け飛ぶ。脊髄に走った痛みにリオレウスは怯み、すぐさまその身を翻して()()()を仕掛けてきた相手を見やった。

 橙と赤の色合いの衣を纏った小さきもの。両の腕に穿龍棍(つばさ)を持ち、空の領域へと躍り出る。急降下攻撃の間は標的のみに注意が集中する。その隙を狙われたのだ。

 

 リオレウスは大きく後退し、その者が地上へと降り立つ間際を見計らって炎ブレスを放った。炎ブレスは一秒と経たずに地面へと着弾するが、そこに彼の姿はない。

 立て続けに二度目の跳躍。以前と同じく爆風を背中に受けてさらに大きく飛び立ち、彼は一気にリオレウスへと肉薄する。右手の穿龍棍を大きく振りかぶった。

 リオレウスは今度こそ彼の動きをよく見ていた。眼差しは自らと同じ飛竜種と戦うときのそれだ。

 

 大きく羽ばたいて高度を上げ、彼の軌道上から自らを逃がす。さらに上方から毒爪で以て彼を掴みにかかった。

 彼もまたこの反撃に冷静に対応する。毒爪の一本に右手の穿龍棍の一撃を叩きつけ、空中での位置をずらして掴みを掠らせるのみに留めた。さらにもう片方で追撃を放とうとするが、それを察知したリオレウスが尻尾で打ち払って牽制、尻尾のブレードへのガードを片腕で行った彼は、大きく弾き飛ばされつつも受け身を取って着地する。

 まさに空中での肉弾戦だ。本格的にリオレウスが対処しにかかれば彼も空中での行動が制限されてくるようであるが、他二人の地上にいる狩人たちから見てみれば、地に足をつけずにモンスターとやり合っている時点で十分な衝撃だった。

 

 エルタを追い払って地上に降り立ったリオレウスは、視界にいる三人の狩人を見て苦しげに吼えた。

 もう空を飛び続ける体力もあまり残されていない。肉を喰らって疲労を和らげたいが、手ごろな草食竜はいなくなってしまっている。このままでは……

 

 リオレウスが見せた後ずさるような動き。それを察知したアストレアがソナタに目配せをした。ソナタは頷きを返し、ポーチから拳大の手投げ弾を取り出す。

 

「閃光玉を────」

 

 そのときだった。

 

 ──ぴん、と空気が張り詰める。

 

 それは遥か彼方から運ばれてきた、さざ波のような微かな波動だった。

 リオレウスは冷水をかけられたかのように落ち着きを取り戻し、彼方の空を見る。その様子を見てエルタとソナタは首を傾げた。

 三人の中でただ一人、アストレアだけはリオレウスと同じくその波動を感じ取っていた。夕焼け色に染まる空を眺めるように、遥か遠方へと目を向ける。

 

 時間で言えば数秒にも満たない短い時間。しかし、その沈黙はかの竜のその後の行動を大きく変えた。

 再び翼をはためかせ、助走をつけて空へと飛び立つ。低空に留まるようなことはせずに上空へ。夜空の彼方へと飛び去って行く。

 

 あの先で休息をとるつもりか。次こそは止めを刺す。後を追って駆け出そうとしたエルタをアストレアが引き止めた。振り返ってみれば、その場に佇んでやや怪訝な顔をしたソナタの姿が目に入る。

 

「……逃げた……?」

 

 その一言が、この四半日に渡る狩りの唐突な終わりを示していた。

 

 

 

 

 

 日が落ちて、夜になった。ソナタたちはベースキャンプへと戻り、焚火を囲んで狩りの後始末に勤しむ。

 

「ホットミルク、飲む? ミルクって言っても豆乳だけどね」

「……いただこう」

 

 ソナタから手渡された陶器のコップに、鍋から仄かに湯気を立てる豆乳が注がれる。

 エルタは舌を火傷しないように気をつけながら豆乳に口をつけ、少し目を見開いた。

 

「……美味しい」

「そう? 外から来た人にそう言ってもらえると嬉しいな。農場長さんが喜ぶよ」

 

 ソナタは穏やかに笑って、傍に座るアストレアにも声をかけに行った。

 彼らは頭以外の防具を身に纏ったままだが、返り血の匂いは特にしない。消臭玉で血の匂いを消しているのだ。

 大怪我をしたり悪臭を浴びたときはともかく、ベースキャンプとは言えど狩場で防具を脱ぎ取るわけにもいかない。近くの水辺から水を汲み取り、布巾を浸して自らの防具と身体を拭いていく。そんな程度だ。

 

 エルタは豆乳を少しずつ飲みながら、胴だけ防具を脱いで怪我の手当てをする。

 腫れている部分の多くがリオレウスの突進を受けて吹き飛ばされたときのものだ。揉み解した薬草を張り付けて、上から布包帯を巻いていく。これで一日もすれば腫れはだいぶ収まっているだろう。骨折をしていなかったことが何よりの幸いだった。

 

 身体のあちこちにあった打撲もあらかた手当てを終えたか、というところでエルタはアストレアへと目を向けた。

 彼女は背中に担いでいた大きな巾着袋から、大人の腕程の大きさの肉の塊を取り出してそれを血抜き、解体していた。その先の部分には黒光りする大きな突起が生えている。それはリオレウスの四本の指の内の一本だった。

 これまでの戦いの間に一本を切り落としていたらしい。そう言えばかの竜とやりあったときに片足の毒爪が少なかったなとエルタは思い返す。

 

 慎重に爪の周りの義手の仕込み刃で削ぎ落していく。肘から先に取り付けられているだけのような刃なので小回りは利かないはずだが、かなり器用にそれを扱って両腕がある人とほとんど変わらない手捌きができていた。

 そうやって爪の根元まで切り込んでいった末に現れたのは、太く白い骨とそれにくっついた内臓のような管。リオレウスの毒腺だ。

 アストレアはその管の口を押さえつけてその口を切り、中に入っていた毒液を置いてあった瓶の中へと注いだ。それなりに大きな瓶がその管に入っていた毒液でいっぱいになる。

 

「……その毒液は、狩りで使うのか」

「うん。リオレウスのこのどくは血を流しつづけられる。ふつうに使ってもいいけど、血のあとを追いかけるときとか、使える」

 

 アストレアの言う通り、リオレウスの毒爪に含まれる毒は強力な出血毒だ。もしこの毒を傷に打ち込まれると、血が止まらなくなる。下手をせずとも出血多量で死に至るため、リオレウスの狩りに赴くときは止血に特化した解毒薬が欠かせない。エルタたち三人ももちろん携帯していた。

 彼女曰くあまり日持ちはしないようだが、確かにかなり有用だ。ペイントボールよりも隠密に向く。ただ、エルタは今まで狩りをしてきて、こうやってリオレウスの爪から毒腺を直に抜きとる光景を見たことがなかった。それを素直に彼女に伝える。

 

「……僕はその捌き方を知らない。せいぜいゲリョスやドスイーオスから毒袋を取り出す程度だ。……なんというか、狩りが暮らしに根付いているんだな」

「……よくわからないけど、わたしはこれがふつうのことだ」

 

 アストレアはやや不愛想にそう答えた。何かおかしなことを言っただろうかとエルタは頬をかく。大剣を研ぎながらその様子を見ていたソナタがくすりと笑った。

 

「アスティはちょっと返事に困っちゃったみたい。ところでエル君ってさ、フリーのソロハンターだよね」

「……ああ」

「ずっとソロでやってるの?」

「……いいや。バルバレにいたころは仲間がいた。今は離れ離れだが」

「そうなんだ……。ハンターになってからずっと狩猟とか討伐のクエスト一筋なのかな」

「ああ。よく分かったな」

 

 エルタは少しばかり驚いた顔でソナタを見やる。ソナタは少しだけ迷うようなそぶりを見せて、しかし穏やかな口調のまま話を続けた。

 

「ええとね、気に障ったら申し訳ないんだけど、エル君の狩りの仕方がすごく前のめりに見えたんだ。無謀って意味じゃないんだよ。ちゃんと技術が伴ってるから、逃げ腰よりも命の危険はずっと少ないと思う」

「……」

「でも、ちょっと不思議に思ったんだ。エル君みたいな人がよくこんなクエストを受けてくれたなって。標的も特に決まってないし、見返りも少ないと思う。タンジアだったらもっとちゃんとしたクエストがあったと思うんだ」

 

 ソナタは大剣を傍に置いて、焚火を挟んで向こう側のエルタの方を見る。アストレアは口を閉ざして聞きに徹していた。エルタは少しの間考え込んで、やがて小さく息を吐いて口を開く。

 

「……このクエストを受けたときは、特に何も考えてはいなかった。ただ手ごろなクエストが受けられればいいと。今の話を聞いて、自分の中でも疑問が生じたくらいだ」

 

 自らの手の平を見る。風牙竜の皮で編まれた手袋は着始めたばかりのころよりも色褪せて、日々穿龍棍の柄を握り込んでいることがよくわかる擦り切れ具合になっている。

 

「成し遂げたいことが、ひとつだけある。()()()()()()()は、実は分かっていない。それでも、ハンターとしての実力を高めていく理由としては十分足りえるものだった。

 ……その成し遂げたいことが、もうすぐ分かる予感がしている。あとはそれを待つだけだ。だから、それまでの間は……強くなることよりも、ここで起こっていることを知れたらいい」

 

 エルタはそう締めくくった。焚火の炎が彼の背後にゆらめく影をつくっている。その揺らめきはまるで、彼の内にある静かな気迫を浮かび上がらせているようだった。

 

「なるほどね。エル君にとって、今は強くなるために頑張るときを過ぎて、実力を発揮するのを待っているときなんだ」

 

 ソナタの言葉にエルタは頷きを返す。

 

「成し遂げたいこと、それが分かるとき。それで君がここに来たってことは、何かがここで起こるってことだよね。……うん、それはその通りかもしれない」

 

 ソナタは少し険しい顔をして呟いた。もはやその不穏な雰囲気を感じ取っていない者はいないのだろう。海の商人、タンジアやモガに住まう人々、この地を拠点とする狩人たち。誰もが違和感に気付いている。

 

「あのリオレウス、たぶん上位以上の個体だった。ハンターとやりあったことはなさそうだったけど、かなり体力と力に恵まれてたんだろうね。それが寝床にも戻らず縄張りを捨てて逃げ出すなんて……まだ早計かもしれないけど、滅多に起こらないよ。彼らの縄張り意識はそんなにやわじゃないはずなんだ。

 アスティ、リオレウスが急に逃げ出したあのとき、何か気付いたことはあった?」

 

 ソナタは黙していたアストレアに向けてそう問いかける。彼女は頷きはしたものの、どう言葉にしたものかと悩んでいる様子だった。ややあって訥々と語りだした。

 

「とても遠くからだとおもう。風でも音でもない。でも、地面をつたわってきた。むねに手を当てたら、しんぞうが動いているのが手につたわるみたいに。()()()()の地鳴りとは違う。なんて言えばいい……。……とうさんの声にちょっと似てた」

「……それは、リオレウスが逃げ出すのも納得かもしれないね。アスティのお父さんの声に近いものだったら、私やエル君が気付けなくても仕方ないよ」

 

 ソナタの顔の険しさが増す。対してエルタは頭の上に疑問符を浮かべていた。彼女たちが何を言っているのか分からなかったのだ。ただ、それはとても大事なことのように思えて、聞き流すことなく疑問を口にする。

 

「父さんの声、とは? アスティの父親は竜人族じゃないのか」

「ああ、それについては……話してもいい? アスティ」

 

 ソナタがアストレアに向けて問いかけると、彼女は唇をきゅっと結んで、それから「わたしが話す」と言って、エルタの方は向かずに、焚火を見ながら話しだした。

 

「わたしのとうさんは、昔この森の主だった竜、ラギアクルスだ。わたしはとうさんに守られて生きてきた。ソナタと出会うまではずっとこの森で、とうさんといっしょにくらしてきた。とうさんはすごく長く生きた竜だったから、人の言葉を話せたんだ」

「それは……僕たちのような人と会話ができたということか」

「ううん。ふつうの人はこわがるから話せない。ちゃんと森の主に向き合える人にだけ、とうさんの言葉は聞こえる。音じゃなくて、心につたえる。そんな声だった」

 

 それは彼女にとってとても大切な記憶なのだろう。アストレアの瞳に穏やかな光が宿る。

 永い時を生きた竜は、人の言葉を解する。それは書物でこそ多く語られた事柄ではあったが、実際にそれを成したという話を聞くのは初めてだった。

 人によっては、そんなことがあり得るわけがない、と一笑に付すだろう。しかし、エルタはアストレアの言葉をすんなりと受け入れた。

 

「そうか。君はドラゴンコミュニアなんだな」

 

 龍と交信する者(ドラゴンコミュニア)。伝承やおとぎ話において、竜や龍と意思疎通を行う者たちの総称だ。モンスターが身近にいるのもあり、このような話や人物には事欠くことがない。

 ドラゴンとは本来古龍を表す言葉だが、ここでは竜の場合でも一括りにされている。

 

「……()()()()。あなたはふしぎに思わない気がしてた」

「むしろそちらの方が気になるんだが。ソナタもだ、二人とも初対面なのに勘が優れすぎる」

 

 エルタのやや困り気な言い方にソナタは吹き出してしまった。ますます居心地の悪そうな顔をするエルタに謝りながら、ソナタはアストレアに代わって話す。

 

「ごめんごめん。狩場ではあんなに勇ましかったエル君がたじたじなのを見るとつい。ところで、どうしてそんなにあっさり信じてくれたの?」

「そういうこともあるだろう。アスティの話し方が独特なのも、リオレウスが逃げた原因に気付けたのも彼女の経歴がそれなら納得がいく」

 

 感性の違いというやつだ。とエルタは語る。普段は相容れることなどありえないはずの竜と共に暮らしたのであれば、人でありつつも竜の側に感覚が研ぎ澄まされていってもおかしくはない。人に飼いならされた竜が竜としての威厳を失うのと同じように。

 それと、とエルタは付け加えた。

 

「アスティと初めて挨拶を交わしたとき、まるで竜に瞳を覗かれているような感覚があった。あれはラギアクルスと共に生きたことによって培われたものだったんだな」

 

 少なくとも人として生きたならば、たとえハンターであったとしてもあのような眼光を宿すことはできないはずだ。

 きっとアストレアは竜の在り方に近いのだ。右腕がないにもかかわらずハンターを続けているのも、この職がモンスターたちの世界に近しいからなのだろう。

 

「なるほどね。何はともあれ、エル君がこの話を信じてくれて本当によかったよ。きっと受け入れてくれる人の方が少ないからね……」

 

 ソナタはしんみりと話す。エルタもまた、自らのような受け取り方をする人はごく少数だろうと思った。アストレアはそれだけ特異な少女なのだ。

 少しの間沈黙が続いて、やがてソナタが咳払いでその沈黙を打ち切った。

 

「さて、話を戻そうか。アスティが感じた気配の話だよね。

 ひょっとしたらあの龍が戻ってきたのかもしれないって思ってたけど、地鳴りじゃないっていうアスティの話からすると微妙な感じかな……それでも一度、海底遺跡には行ってみるべきかもしれない」

「……あの龍といえば、ナバルデウスか」

「うん。そういえば、アイシャと村長さんから話を聞いてたんだったね。海底遺跡はナバルデウスの縄張りだった場所なんだ。ところでエル君って泳げるんだっけ?」

「ああ。水中での狩りも一通り訓練を受けている」

「それなら、調査を手伝ってもらっていいかな。あそこすごく広いからアスティと私でも調査が大変だし、もしナバルデウスがいたらまた追い出さないといけないしね」

「それは構わないが、明日以降はどうするんだ」

「そうだねー。リオレウスが戻ってこないとも限らないし、また厄介なモンスターがやってくるかもしれない。だから数日はこの狩場を見て回って、海底遺跡の調査はそのあとから──」

 

 エルタとソナタは焚火を挟んで話し合いを続けていく。いつの間にか夜も更けて、月は空高く昇り、空の雲間からは星が瞬いていた。

 アストレアは黙って二人のやり取りを聞いている。ただ、その内心では別のことを考えていた。

 

 エルタがアストレアの話をあっさりと信じた理由は、きっと今話したことだけではない。むしろその話していないことの方が大きな要因だ。そしてそれは、アストレアがエルタを見て感じ取るものと密接にかかわっている。

 きっと話したくないことなのだろう。ソナタも流石に気付けていない。それくらい彼の内の深くに隠されていて、なぜか自分だけは見透かしてしまえている。

 

 やはり彼とはもう少し話してみたい。そう感じてしまう自分の気持ちが、アストレアは自分でもよく分からなかった。

 

 



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第2節 少女と竜の物語
> 少女と竜の物語(1)


 

 

 あの戦いから数日後、リオレウスが森へ戻ってくる気配がないことを確認した三人はモガの森へと帰還した。

 

 エルタの請けた依頼はこれで終わりではない。成果報酬の形式に則った長期依頼だ。エルタの意志か、村長と受付嬢のアイシャが状況の鎮静化を判断するまで、この村を拠点として狩猟、探索を続けることとなる。

 リオレウス撃退のタンジアへの報告は、モガの村とタンジアを行き来する連絡船が請け負った。受付嬢と村長のサインがあれば成果を疑われることはない。

 

 リオレウスの逃亡の報告を受けたモガの村の村長は、険しい顔をして彼の息子とソナタを交えて話し合っていた。それだけ異例のことだったのだ。

 やがて、ソナタとエルタに海底遺跡の調査が依頼された。アストレアはチャチャとカヤンバと共にモガの森へ再び出向くことになった。今のモガの森はそれだけ注意を払わなければならなかった。

 

 三人は休息を取りつつ、再び村の外へ出向くための準備をしていく。

 村の加工屋の爺はエルタの持つ穿龍棍という武器の整備をしたことがなかったが、エルタはこの地方ではそれが当たり前であることが分かっていたため、予めメゼポルタの加工屋から基本的な技術書を持ってきていた。さらに加工屋の爺が目新しい武器にやる気となり、問題なく整備は進められた。

 

 そして数日後。エルタはソナタと共に、かつて大海龍ナバルデウスが根城にしていたという海底遺跡へと赴いた。

 

 

 

 

 

 ごぽり、と。

 口から吐き出された空気が、泡となってゆらゆらと浮き上がっていく。体に纏わりつくひんやりと冷たい水の感触と、全身にかかる圧。それらにはもう慣れてしまった。

 

 エルタは今、海底遺跡の最終地点へと来ていた。

 ここへと辿り着くまでは、まるでドンドルマの砦のような広大な縦長の水中通路がずっと続いていた。

 しかし、この場所はそれらとは一線を画する、巨大な円筒形の空間が広がっている。その壁面には画一的に配置された横穴や建造物らしきものが見える。海底遺跡と言うくらいだから何らかの人工物はあるだろうとエルタは考えていたが、まさかこれだけの規模のものに出迎えられることになろうとは思ってもいなかった。

 

 見上げてみれば、遥か上の方に小さく水面の光が見えた。全身を圧迫されているように感じるのも頷ける話だ。きっとかなり水圧が高いのだろう。ここで武器を振るうのはなかなか難儀しそうだった。

 

 しかし、とエルタは水の中を漂いながら思う。ここでの戦いを心配する必要はなさそうだ。

 海底遺跡に大型モンスターの姿は見当たらなかった。今までに痕跡らしきものも見つかっていない。遭遇することはないだろうとエルタは見積もっていた。

 

 と、エルタは空間の底の方でソナタが手を振っていることに気付いた。水中では人の声は届きにくく、口の中のイキツギ藻も無駄に消費してしまう。二人で情報を伝え合うには金属を打ち付けて音を鳴らすか、視認しかない。

 「上の方を調べながら水面を目指して、村に戻ろう」ソナタはそういった旨のことをハンドサインでエルタに伝えた。エルタは片手を上げてそれに応え、ゆっくりと上の方の壁面へと泳いでいった。

 

 

 

「エル君って泳ぐの上手いね。長い間水中にいても疲れないみたいだし……訓練を受けてるって言ってたけど、どこで教えてもらったの?」

「……ドンドルマにいたとき、偶然タンジアで教官をしているという人物と知り合った。彼に金を払ってドンドルマの水上闘技場で指導してもらったんだ」

「うん? タンジアの教官ってひょっとして……エル君、その指導にいくら請求された?」

「十万ゼニーほどだが」

「……ああ、あの人だ……。相変わらずあくどいなあ。でもエル君がここまで泳げるようになってるからいいのかな……?」

 

 海底遺跡のベースキャンプに接岸させておいた小舟の上で、ソナタは額に手を当てて空を仰いだ。その後ろで櫂を持ったエルタは首を傾げている。

 海底遺跡からモガの村まではそう離れていない。帆船で半日ほど海を渡れば辿り着けてしまう。だからこそ過去に海底遺跡に棲みついたナバルデウスの影響が深刻だったのだ。

 

 今は朝方。防具は既に乾いているので寒いということはない。

 武器を振るうようなことはなかったので、風を見て帆の角度を調整し、櫂で方向転換する以外に特にすることがない。エルタとソナタは二人で雑談をしていた。

 

 これまで狩り一筋だったエルタはどうやら金銭感覚が身についていないようだ。恐らく言い値で指導料を払ったのだろう。払いすぎだとソナタが言ってもあまり気にしていない様子だった。

 タンジアの教官と言えば、以前達人ビールという酒の事業で成り上がって、調子に乗りすぎて大転落したという経歴である意味有名だ。教官になっただけあって指導力は確かなので、真面目に仕事をすればまっとうな生活を送れるのに、と周囲では囁かれていた。

 

「……ソナタはどうなんだ。ハンターを志す前から泳ぎは身に着けていたのか」

「ううん。私はモガの村の人たちに泳ぎを教えてもらったんだ。ここに来る前はぜんぜん泳げなかったよ」

「……ソナタはこの辺りの出身ではないのか?」

 

 エルタはやや驚いた。ソナタは村の人々と同じくらい日に焼けているし、細身ながら逞しい体躯をしている。泳ぎの技術もかなりのもので、水中での行動がしやすいラギアシリーズを着ていることもあって、エルタはついていくだけで苦労した。

 そんな彼女はてっきりこの辺りの出身なのだろうと思っていたし、ハンターになる前は泳げなかったというのもなかなか信じがたい話だった。

 

「うん。私の出身はここから遠く離れた場所だよ。なんて言えば人に伝わるかな……そうだ。大砂漠って知ってる?」

「……ああ。峯山龍の」

「そうそう。ジエン・モーランで有名だよね。私はあの大砂漠の近く……ってほどでもないんだけど、あの地方にある集落の出身なんだ」

 

 もとは遊牧の民の子どもだったのだとソナタは語った。そこでは家族の繋がりがそこまで重要視されないらしく、ハンターを志すことも難しくなかったらしい。

 

「砂上船でロックラックまで行ってね。そこでモガの村の専属ハンター募集の張り紙を見つけたんだ。そこから竜車と船を乗り継いでここに来たんだよ」

 

 なるほど、とエルタは頷く。エルタはその辺りの地方のことはよく分かっていないが、水中での狩りはロックラックギルドとタンジアギルドの十八番というのはハンター界隈では通説だった。モガの村はその点でロックラックと繋がりがあったのだろう。

 やがて二人の話題は互いの経歴の話に移ろっていく。過去の事情でこういった話をしたがらない者もいるが、その枷がない人々にとっては定番のようなものだった。

 

「私の名前、ソナタ・リサストラトって言うんだ」

「リサストラト……『巨人』の意味か」

「あれっよく知ってるね。ひょっとしてエル君って凍土地方の出身?」

「いや、出身はフラヒヤだが……同じ民族言語が使われているらしい」

「うーん、フラヒヤと凍土は海を跨がないといけないくらい遠いのに、不思議だね。それで、私の父親は凍土地方の人種の血が流れてるらしくて、とっても背が高かったんだよ。私も若干だけどそれを引き継いでるみたい」

 

 確かに、ソナタは女性にしては背が高い方だった。顔つきもこの辺りの人々とはどことなく違う。大剣使いにしてはやや細身だと感じていたが、筋肉の質も異なるのかもしれない。

 その話も興味深かったが、エルタはソナタにひとつ訪ねたいことがあった。

 

「さっきの海底遺跡の最終地点で、ソナタはナバルデウスと相対したのだったな」

「うん」

「……たった一人で」

「そうだね。すごく大変だったけど、なんとか撃退できたよ。あのあとは一週間くらい身体が動かせなかったなあ」

 

 懐かしそうにソナタは笑う。まるでそれは何気ない過去を思い出しているかのようだ。

 実際に彼女がやったことは、この世界にも数えるほどにしかいないだろう偉業、古龍の完全単独での撃退だ。いくら誇っても足りないくらいなのに、ソナタは全くその雰囲気を感じさせない。エルタはその在り方がどこから来るものなのか知りたかった。

 

「こういう言い方は褒められたものではないのかもしれないが、ソナタとモガの村の繋がりはほとんどないところから始まったはずだ。さっきの話だと、人種も彼らとは違う。それなのにどうして、そこまでのことをやり遂げることができたんだ。もしよければ教えてほしい」

 

 エルタの目は真剣そのものだった。ソナタはやや照れたように頬をかいて「そんな大層な信念とか持ってないよ……?」と前置きをしつつ、吹いてくる風の音に負けないように少し大きな声で話し始めた。

 

「さっき家族の繋がりが薄かったって話したよね。それのせいかもしれないんだけど、私は人が助け合って暮らしていたりだとか、みんなで笑ったりしているのがとても眩しく見えるんだ」

「憧れ、のようなものだろうか」

「うん。そうかもしれない。その憧れはハンターになりたての頃はあまり自覚していなかったんだけど、だからこそ、どこかの村の専属ハンターっていう職に惹かれたんだ。もしかしたら私も、頑張ればそこにいる人たちの一員になれるかなって」

「……それが、モガの村に来た理由」

「うん。そこから結果だけ話すと……ううん、エル君も村にしばらくいたからわかるかな。村の人たち、すごく温かいでしょ?」

 

 ソナタの言葉にエルタは頷いた。規模こそ小さいものの、ソナタが憧れたという人々の助け合いを実践している村だ。辺境の村によくある排他的な雰囲気も感じさせない。それはきっと、村人たちがその努力をしているからなのだろう。

 

「いい人たちばかりじゃないっていうのは当たり前の話なんだ。生活が苦しい人だっているし、素行が悪い人もいる。でも、生きづらさを感じている人は少ないんじゃないかなって、私はそう思ってる」

「……」

「私がここに来たときは、村は地鳴りにずっと悩まされてて大変だったはずなんだ。沖合の方に棲みついたラギアクルスが漁船を襲って壊したりして、魚もあまりとれなかった。苦しい生活だったはずなのに、それでもあの人たちは私に泳ぎを教えてくれたんだよ。ジャギィやルドロスを一苦労して狩ってきたら、ありがとうって言ってくれた」

 

 朝の陽光が彼女の瞳に反射する。黒色の髪とは対照的な、銀色の瞳。灰色に光が宿って、銀色に見えるのだ。

 エルタはソナタの言いたいことを感覚的に捉えることに努めた。ハンターは文学者ではない。言葉で伝えきれないことも多くあるだろう。だからこそ、その情景を掴もうとする。

 

「エル君は気付いていたかな? この村の人たちはみんな同じ人種ってわけじゃないんだよ。海の民って人たちとそうでない人たちが半々くらいなんだ」

「……手にヒレがついている人々だな。それと、彼らは大人になると体に紋様を施しているようだ」

「流石、よく見てるね。私に泳ぎを教えてくれたのはその人たちなんだ。海の民って呼ばれてるだけあって、本当に泳ぎが上手いんだよ」

 

 竜人族、土竜族、海の民。人間にもソナタとモガの村の人々といった細かな人種の違いはあるが、身体的特徴も大きく異なるような人種もこの世界には数多く存在している。

 彼らは種族単位で固まって集落を立てていることが多い。竜人族は人間社会にも溶け込んでいるが、それは村の指導者や研究者といった、人間社会のある役職に就いているという意味での繋がりだ。この村のように、それぞれの種族がほとんど同数で、互いに手を取り合っているというのはかなり稀なことだった。

 

「人間と海の民が助け合って暮らしてる。それに私も加えさせてくれた。それは私にとってとてもかけがえのないものだったんだ。そうやって好意的になれたから、この村の好きなところをどんどん見つけていける。語り出したら一晩だって足りないくらい」

 

 ソナタはおどけたように笑った。エルタは笑うのが苦手で、少し顔をこわばらせる。

 ただ、ソナタはエルタがここにきてから一度も笑っておらず、それが不機嫌から来るものではないことを知っていた。だから気にすることなく話を続ける。

 

「だから私は、私のできることを精いっぱいやろうって思ったんだ。この村の人たちにお返しをしていこうって。私にとって、それは狩りを頑張ること以外に他ならないんだよ」

「……それが、ナバルデウスを倒せた理由に繋がる、と」

「そうなるね。狩りの秘訣とかそういうのなくてごめんね? ただただ定石の通り。そんなに強い力がなくても大剣を振るい続ける工夫をしてるくらい。それを続けていったら、地鳴りの原因だったナバルデウスにも挑めちゃった。割と気合で何とかしちゃってることが多いかも」

 

 苦笑しつつもソナタはそう言って締めくくる。しかし、エルタが知りたかったのはその気合の出どころだった。

 ソナタの狩りの技術が完成されているといっても過言ではないほどに高いことは実績から分かる。そうでなければ古龍と相対した段階で死んでいるはずだ。

 きっと才能というものはあるのだろう。ただ、古龍の圧倒的な体力の前には技術に上積みして、自らの体力を持続させること、そして精神の要素がどうしても絡んでくる。

 

「『帰る場所がある者は強い』そんな格言があるが、ソナタはそれを実践しているんだな」

「そう、だね。一言でまとめたらそれが一番すっきりするかも」

「専属ハンターらしい理由だと思う」

「ふふ、ありがとね」

 

 それはエルタにはない強さだ。ただただ前に進んでいくためだけの人生を歩んできたエルタは「帰る場所」を強く意識できない。

 それ故にソナタの在り方から何かを学ぶことはできないが、それでもエルタはソナタの話を聞けてよかったと思った。これから先、誰かの助けが必要になったとき、ソナタは信頼ができる。なぜなら彼女は強いからだ。

 そのときのための布石は打てた。しかし、ソナタの話を聞くうちにエルタはもう一つの疑問を生じさせていた。

 

「……彼女とはいつ頃知り合ったんだ?」

「彼女って、アスティのこと?」

「ああ。さっきまでの話に彼女が出てきていなかったのが気になってしまった。彼女とは最近知り合ったのだろうか」

 

 エルタがそう問いかけると、ソナタは頬に指を当てて、んーと考え込む。それは記憶を探っているというよりも、どこまで話してもいいのかと悩んでいる様子だった。

 

「うーん。この話はきっとアスティと二人でするのがいいよ。今はアスティとの関係だけ教えるね。

 アスティと私が出会ったのは、私がナバルデウスを撃退したあと。モガの森の奥の入り江で出会ったんだ。

 この前話した通り、アスティは森の中で竜に守られながら生きていたからね。そのときにいろんなことがあったんだけど、長くなるから省くよ。でも、アスティは森から出て村に来ることを選んでくれた」

 

 つまるところ、エルタの予想通り、ソナタとアストレアが出会ったのは最近だったようだ。ソナタの話によれば、チャチャとカヤンバと出会ったのもそのころだったらしい。

 何とも不思議な出会いだとエルタは思う。突然おとぎ話の世界に飛び込んだかのようだ。「長くなるから省くよ」の間に何があったのかを聞いてみたさはあったが、本当に長くなるのだろうと思ってエルタはそのまま流すことにした。

 

「ところで、エル君にちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」

「……なんだろうか」

「実はアスティってけっこう前から悩み事があるみたいなんだ。二人きりのときにそれを聞いてあげてほしいんだよ」

「……それは、ソナタがやるべきことではないのか」

 

 思いがけない要望にエルタは戸惑う。

 ソナタとアストレアの仲がとても良いことは普段の様子を見ていれば分かることだった。その間に入ってしまってもいいのだろうか。

 

「なんだか私には話したくない事情があるみたいなんだよね。それっぽいことも言われちゃったから、強くは言えないし……外から来て、アスティが懐いてるエル君になら話してくれるかもって思ったんだよ」

 

 身近にいるソナタには話したくない悩みとはいったい何なのか。エルタには皆目見当がつかなかったし、その悩みを解消してやれる自信もなかった。

 しかし、ソナタにはモガ村に来てからいろいろとお世話になっている。彼女のお願いを無下にもできない。しばらくの間迷ったエルタは重々しく口を開いた。

 

「……分かった。やれるだけやってみよう」

「ありがとう! 私には内容を話さなくてもいいよ。内通者みたいなことはしてほしくないし、アスティもそれを望んでるはずだから。狩り以外のことで申し訳ないけど、よろしくね」

 

 そうソナタが言ったすぐあとに、少し強い風が帆に当たった。「おっとと」と言いながら立ち上がって帆を支えるソナタと、その向こうの水平線を見やる。

 海の向こうで何かが起こっていることをいち早く察したアストレアは、今何を思っているのだろうか。

 彼女もまた、今、海と空の狭間を見ている。なんの理由もないが、そんな気がした。

 

 



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>> 少女と竜の物語(2)

 

 

 エルタたちが村へ戻ると村長とアイシャ、そしてアストレアが出迎えてくれた。

 

「アスティさんの話によれば、ルドロスの群れとロアルドロス、見慣れない黒い翼竜たちが新たに森に現れたらしいです。けれど、二日程度でどこかへと行ってしまったとか。今の森は誰もいないっぽいですね」

「恐らく見慣れない黒い翼竜とはガブラスのことだろうよ。ソナタは見たことがあるか?」

「一度か二度なら。ただ、ガブラスはこの辺りには住んでいないと思っていたんですけどね」

「……僕が船でタンジアへ来るときも、ガブラスと遭遇した。ひょっとしたらその一群かもしれない」

 

 そんなモンスターたちが数日もしないうちにどこかへ行った、というのが問題だった。ナバルデウスが現れたときもこのようなことにはならなかった。何か尋常でないことが起ころうとしている。

 相変わらず魚は獲れず、村の収入は貝や海藻などへと偏っていた。そしてそれもまた、徐々に上昇しているらしい海水温によって環境が変化し獲れなくなってきているらしい。

 

「なに、それくらいでへこたれるほどこの村はやわではない。皆、かの大海龍による苦難を乗り越えてきたのだ。もしものときの備えはしっかりしておる」

 

 そう言ってのけるのは村長とその息子だ。状況としてはその頃の方がまだずっと酷かったらしい。確かにエルタの見る限りでは、村人たちは不安がっているものの、まだ限界には程遠い様子だった。

 不幸中の幸いというべきか、彼らは災害慣れしているのだ。こういうときには避難準備などを入念に進めつつ、いつも通りの日常を続けるべきであるということを知っている。

 

 エルタたちが返ってきた次の日は、村の広場で宴が催されることとなった。毎月恒例のことだそうで、こんなときでも欠かすことはしない。

 不足している魚は乾物や貝で補いつつ、酒樽を用意する。エルタたちも準備を手伝った。村人の指示に従って篝火を焚くための薪を運ぶ。

 

 夜になると村の広場には村人たちが集まり、宴が始まった。

 海の民の男女が対になって焚火を囲んで舞い踊る。琵琶という弦楽器の音色がそれを惹き立てた。チャチャとカヤンバも飛び入り参加しているが、どうやら温かく迎え入れられているようだ。「波の舞」というらしいその踊りを中心として宴は盛り上がっていく。

 

 ソナタは村の女たちに言い寄られて、その舞に引きずり込まれていた。「筋肉が見えるから恥ずかしい!」とソナタは顔を赤くして言うが、どうやらお構いなしのようだ。

 しかしどうやらそれはいつものことらしく、防具を脱いで踊り子の衣装を着たソナタはそれなりの舞を見せていた。なぜか村の女たちの声が集まっている。

 

 アストレアはその光景を遠くからじっと見ていた。そこに表情というものはあまりなく、ただ見ているだけ、といった様子だ。

 

「アスティはあの舞に加わらないのか」

「……」

「苦手、なのか?」

「……苦手じゃない。おどりをささげるのは好きだ。でも、まだわたしが入るときじゃない」

 

 それはどういう意味なのか、エルタが尋ねようとする前に、その手を引かれた。宴が行われている広場の先の桟橋をアストレアが指さしている。あそこで話そうということか。エルタは手を引かれるままに桟橋へと歩いていった。

 

 夜の海は暗く透き通った青色だ。ラギアクルスが現れたときは遠方からでも水面が青白く光っているのが見えるというが、そういった光も特に見当たらず、ただ月明かりを透かせている。

 木組みの桟橋のやや低い場所、海水に浸かる間際のところでアストレアは腰を下ろした。エルタもその隣にすこし距離を取って座る。履き物を脱いだ彼女の素足にちゃぷちゃぷと海水が浸る。

 

 広場からはそこまで離れてはいないが、宴の喧騒はいくらか遠ざかっていた。風も穏やかで、互いの声が聞こえないということはなさそうだ。

 

「それで、僕に何を話したいんだ」

「……」

 

 アストレアはエルタの質問にしばらく答えず、星空と海の狭間、水平線を見ていた。

月明かりに照らされた銀髪が穏やかな風に吹かれて揺れている。

 

「……あなたは、人とくらしてていづらく感じたことはある?」

 

 ややあってアストレアが投げかけたのはそんな問いかけだった。エルタは少しの間考えて、正直な答えを告げる。

 

「大きな町で、人が多すぎて窮屈に感じたことはある。だが、日常的に人と接していて息苦しいと思ったことはないな」

「そうか……。あなたも人の社会を受け入れている。それがわたしは少しうらやましい」

「……アスティはこの村にいて生きづらさを感じているのか?」

 

 エルタがそう尋ねると、アストレアは首を振った。

 

「この村の人たちはやさしい。森から来たわたしともちゃんと話してくれるし、狩りからもどってきたらお礼を言ってくれる」

「ソナタも同じことを言っていたな。来る人を拒まないと」

「……だけど、わたしは村の人たちとうまく話せない。いつもよくしてもらっているのに。だから生きづらくはなくて、ただ息苦しい」

 

 彼女特有のたどたどしい言葉遣い。それは数年前までずっと人と関わらず暮らしていたことに起因するのだろう。うまく言葉で表現できない歯痒さもありそうだ。

 

「人と接するのにまだ慣れていないのか」

「……さいしょはそう思ってた。けど、もうこの村にきてから三年くらいたってる。わたしが人の社会を受け入れられていないのには、もっと別の理由がある」

「……僕とアスティはまだ出会って日も浅い。話してもいいのか?」

「あなたは、わたしの目を見てもこわがらなかったし、わたしが森で育ったという話も信じてくれた。わたしは、あなたになら話してもいいと思ってる」

 

 エルタの方を見ずに、アストレアはそう言った。彼女がそう思っているのなら、エルタにそれを過度に咎める筋合いはない。

 エルタも拒むつもりはなかった。ソナタに頼まれていたからというのもあるが、単純に、この少女の悩みが誰かに話すことでいくらかでも和らぐのならそれでいい。

 

「あなたは火の国を知っている?」

「……ああ。実際に行ったことはないが、たまに狩りの依頼を出しているから名前と評判くらいは」

「わたしはたぶん、あれと同じような国の出身。火山で生まれた」

 

 急に始まったアストレアの過去の話にエルタは少々戸惑うが、それが彼女の悩みに繋がるならばと聞き役に努める。

 しかし、アストレアが火山地帯の出身だったというのには驚いた。彼女が幼い頃を覚えていることにも。

 

「わたしの肌を見て、あなたは何か思う?」

「……白い。どうして日焼けをしないのか不思議なくらいだ」

「うん。わたしもそう思う。よく日に当たっているのに、わたしの肌は黒くならない。けがとかやけどをしても、ずっと白いままだ」

 

 白い肌、銀髪と白い防具。比喩でもなんでもなく、南国で雪の妖精でも見ているかのような印象を彼女は抱かせる。

 生まれ持った体質というものだろうかとエルタは考えた。例えばドンドルマにいる大長老は、人の身をはるかに超える巨体であることで有名だ。対して古龍観測隊の爺のように、人の腰ほどしか背丈がない者もいる。アストレアのような竜人族はそういった特徴的な外見が現れやすいのかもしれない。

 

「わたしのいた国のひとたちは、わたしを見ておかしいと言った。ここもそうだけど、白い肌の人なんていなかったから」

「火山地帯であれば、そうなのだろうな」

 

 エルタの出身であるフラヒヤ地方はむしろ白い肌の者が多い。しかしそれはそこの気候に起因するものだ。北にある火山地帯ならともかく、ふつうなら黄色か黒い肌の者が占めるだろう。

 

「わたしを神さまだって祀ろうとする人たちがいた。わざわいを呼ぶあくまだって焼こうとするひとがいた。わたしはどちらでもないのに」

「……火の国の系譜だな」

「ある日は、神さまにささげる舞を教えてもらった。ある日は、わざわいを外に出すなっていすに縛り付けられて部屋に閉じ込められた。わたしはどっちなのか分からなかった」

「……そうか」

 

 エルタはそう返すことしかできなかった。淡々と話すアストレアは、同情を求めてはいない。ただ今抱えている悩みの理由としてそれを話しているだけだ。

 閉鎖的な集落の下で生まれた異端児だ。さらに独特な宗教の根強い強い火の国の系譜とあっては、そのような扱いを受けるのはむしろ当たり前のことだったのだろう。

 つまり、アストレアは、宗教的な論争の矢面に立たされたのだ。

 

「そして、わたしはこっそりと海に捨てられた」

「……」

「たぶん、わたしはころされようとしてたんだと思う。それを誰かが海に逃がしてくれた。少しだけの水と食べ物を入れて、風の強い日に」

「それで、ここまで運ばれてきたのか」

「うん。何日かも分からないくらい船の上にいて、くたくたになったころに、あらしが来た。船はそのときに砕けて、それでも木の板にしがみついて、気が付いたときには、この森の入り江に流れついてた」

 

 くたくたになったころ、と彼女は言うが、それはすなわち死にかけていたのだろう。流刑よりもたちが悪いが、彼女が殺されるのを防ぐにはそれしかなかったのかもしれない。

 

「そこで助けてくれたのがとうさんだった。木の板が突き刺さって、もう動かなかったうでを食べて、それからそのきずを舐めてくれた。あいるーたちも食べ物をくれた」

 

 ……それこそ、まるでおとぎ噺のような話だ。

 しかし、現に今右腕のない彼女がここにいる。あれはラギアクルスに喰われ、そして癒されたものだったのか。まさしく、森に住まう生き物たちにアストレアは生かされたのだ。

 

「それから、ソナタが来てくれるまではずっと森で生きてきた。わたしがこの村にいた時間よりも、ずっと長く」

「……ああ、ようやく分かってきた。アスティが村に馴染めないのはそれが理由か」

 

 エルタの呟きは要領を得ないものであったが、アストレアはそれにこくりと頷いた。

 アストレアが初めに投げかけた「人と暮らすことの息苦しさ」についての問い。そこから自らの過去の話に繋げたのには確かに意味があった。

 

 アストレアは人々の集団での寄り添いというものの本質的な理解が難しいのだ。

 火山の集落にいたころにそれを実感することができず、むしろその頃の記憶が不信感となって足を引っ張っている。そして、モンスターたちが生きる世界にそういう概念はそもそも存在しない。

 いや、群れや番、親子という関係はモンスターの中にもある。しかし、人間社会というのは良くも悪くもそれよりもっと複雑だ。龍と交信する者(ドラゴンコミュニア)でラギアクルスの庇護下にありつつも、基本的に一人で生きていたというアストレアは、その複雑さを前に難儀しているのだろう。それが息苦しさに繋がっている。

 

「それとな、アスティ。もし君があの眼で村人たちと話していたとするなら、それは怖がられると思うぞ」

「……それはわかってる」

 

 アストレアはため息をつく。自覚はあったのだろう。

 竜に等しい眼光を持つのが彼女だ。エルタやソナタは狩人であるが故に怖気つくことなくその目を見ることができるが、一般人はそうもいかないはずだ。

 アストレアは村人たちに対して戸惑いを持っていて、村人たちからアストレアを見るとその眼光が怖く見える。それが三年だ。悩みもするだろう、というのはなんとかエルタにも察せることだった。

 

「……わたしは、森にいたころはとうさんに守られていた。村にいるときはソナタに守られてる。ひとりぼっちにならないのはソナタがいてくれるから。わたしは居場所を自分で見つけられない」

 

 アストレアの声色に少しだけ陰が混じる。それは焦りというよりも、抜け出す方法が分からないことへの困惑からきているものだ。

 

「どうしたら、ちゃんとひとり立ちできるのか。あなたがそれを少しでも知っているなら、教えてほしい」

「……僕は君と境遇が違う。的外れなことを言うかもしれないが、それでもいいのか?」

「うん。あなたの話を聞きたい。ソナタには話しにくくて、でもあっちのことを知ってる人じゃないと伝わりにくいから」

 

 村にハンターがやってくることは滅多にないのだとアイシャは話していた。村の漁師とソナタたちで間に合っていると。

 ソナタはタンジアやロックラックの依頼で遠出することがたまにあるらしいが、そのときはアストレアは村に留まっているそうだ。つまり彼女はソナタ以外のハンターと交流を持ったことがほぼない。

 ソナタに話しにくいというのもなんとかエルタは理解できた。守られている意識があって、そこから抜け出したい当の本人だ。いや、ソナタであればその辺りを気にせずとも真剣に取り合ってくれそうだが、アストレアも思うところがあるのだろう。

 

 エルタはしばらく黙考した。一人立ちか。何を以てそれとみなされるのかはっきりしていないが、少なくともエルタは今誰かの庇護下にあるような感覚は抱いていない。

 導きはあった。ここに来るまでのエルタを支えてくれた仲間もいた。それらを踏み台にして、エルタは今自らの意志でここに来ている。

 

「……さっき、君にその眼光は村人に怖がられると言ったな」

「うん」

「ただ、僕自身としてはその眼はそのままであった方がいい。身勝手なわがままだが」

「……」

「一人立ちの方法については何とも言えないが、僕と君の違いを考えたとき、それは自らの記憶に踏み台にするものがあるか否か、それに気付けているか否かだと思う。

 君は、僕のような他人にこのことを相談するのは初めてなのだろう?」

「……うん」

「それなら恐らく、最初の一歩は踏み出せている。アスティの眼は誇り高い。芯の強さが顕れている証拠だ。きっとその悩みは自分で解決していけるはず。そのためにはその眼で学び取るのが一番だと思う」

 

 アストレアは特異な過去を持っているが、それに縛られたり囚われたりはしていない。何よりも今、「これからどうするか」を考え続けている。一人立ちすることはできるはずなのに、そこで足踏みをしているのだ。

 だから、あとは前へ進む方法を見つけるだけ。

 

「……わたしの、竜の瞳で」

「ああ。きっと近いうちにこの地で何かが起こる。そしてそれが、僕の生き様を証明するときだと思っている」

 

 エルタは淡々と話す。広場の宴の音と、桟橋に打ち寄せる小波の音が混じり合う。

 

「そのときの僕を見ていてほしい。ただ一人の狩人の生き様だ。役立てるには足りないかもしれないが……少しでも君の悩みの解決のための指標になれたらと思う」

 

 ああ、とアストレアは胸の内で呟いた。

 やはり彼は自らの命運に向き合い、そして答えを出している。だからこそ落ち着いていられるのだ。

 そこに至るまでの考え方をアストレアは知りたかったのだが、エルタはそれを見て学べという。それもその通りだ。きっと言葉では伝えにくいものなのだろう。

 数年前のソナタも自らの行動で理想を成して見せた。だからこそアストレアは森を出てこの村へと来る決意をすることができたのだ。

 

「わかった。でも、もしその予感が的外れだったら、またわたしのそうだんに付き合ってもらう」

「……そうだな。君の過去を知ってしまった責任は果たそう」

「ソナタにも話していないから、本当にあなたしか知らない」

「……責任は果たそう」

 

 アストレアは小さく笑って、そして立ち上がった。

 

「すこし長く話しすぎた。みんなが気づく前にもどろう」

「……ああ。ところでひとつ、気になったことがある」

「歩きながらでいいなら、聞く」

「ありがとう。……アスティを守っていたという森の王、ラギアクルスはソナタに倒されたのか」

「いいや。とうさんはソナタが村に来るよりも先に死んでいた。かなり長生きをしていたらしかったから」

「そう、だったのか。てっきり、ソナタが狩ったのかと」

「父さんは強かったから、ソナタでも勝てていたかどうか。でもとうさんとソナタはたたかうことはなかったと思う。そうならないように、とうさんは人をさけてたから」

「……賢明だったんだな」

「とても。森で生きる方法もたくさん教えてもらった。この服も、とうさんのうろこと皮をあんだもの。すごく丈夫だし、きごこちもいい」

「なるほど。それならあの防御力も納得だ。しかし、ラギアクルスの素材を使っているにしてはとても白いな」

「わたしのとうさんは白いラギアクルスだった。あしゅ?とソナタは言っていたけど」

「……ラギアクルスの亜種は白いのか。知らなかったな……」

「骨はまだ森のおくに残ってる。あなたがしんらいできたら、見せに行ってもいい」

「……楽しみにさせてもらおう」

 

 そうやって話しながら桟橋を歩いて広場に戻ると、ちょうど踊り子衣装のソナタがアストレアを探し始めていた頃合いだった。宴も大詰めで、アストレアの舞で〆たいそうだ。

 「私よりもアスティの方が上手いから、早く……!」と恥ずかしさで頬を赤くしたソナタがアストレアに衣装を託す。こういった場で注目を浴びるのが苦手なようだ。エルタは何かを言おうとしたが、自分が不器用であることを思い出して黙っていた。

 

 やがて、着替えたアストレアが琵琶の音と共に踊り始める。

 その舞は宴の〆を務めるに相応しい、とても洗練されたものだった。村に来てからまだ数年で、踊りを見た回数も少ないはずだというのに、その舞は見る人を惹き付ける。

 故郷で教えてもらったらしい神へと捧げる舞の技術が活かされているのかもしれない。アストレアの姿を見ながらエルタはそんなことを思った。

 

 

 

 宴を終えて、村人たちはいつもの生活へと戻っていく。魚が獲れずともそれは変わらない。森や海での採集の機会を増やし、足りない分はロックラックから融通してもらう。モガハニーという蜂蜜のブランドが功を奏したと村長の息子が笑っていた。

 エルタたちも探索の範囲を広げてタンジアハンターズギルドからの調査依頼に協力した。たびたび訪れるこの地域に不相応のモンスターを追い払いつつ、モンスターの動向を探っていく。

 

 タンジアからの情報も含めてこの地域に起こっていることを俯瞰すると、どうやらタンジアを中心にしてモンスターたちが大移動を行っているようだった。モガの森はその移動先にあって、そのせいで狩猟環境不安定な状況が続いているらしかった。

 原因は分からない。しかし、モンスターが移動した先で縄張り争いや生態系の乱れが起こっている。タンジアのハンターたちはこれの対処に追われているらしい。

 

 エルタも相応に忙しかったが、それでもモガの村での生活というものに馴染み始めていた。エルタが今まで拠点にしていたのはバルバレとドンドルマだ。どちらも人が行き交う場であり、こういった村での生活など故郷にいたころ以来だった。

 次の狩りに赴くまでの間は農場の手伝いに精を出し、人付き合いは苦手ながらも村人たちと言葉を交わす。夜はさざ波の音を子守歌にしながら眠る。そこには確かに温かさがあって、心が落ち着くのをエルタは実感することができた。

 

 

 

 

 

 ────そうして、ひと月が経ったころ。穏やかな日々は終わりを迎える。

 

 タンジアから訪れた連絡船。手渡された文書に書かれていたのはタンジアハンターズギルドからの緊急クエストの告知だ。

 強制招集。エルタの請けていた依頼は打ち切られ、ソナタやアストレアも例外なく、孤島地方の実力の高いハンターは皆タンジアへと向かうこととなる。

 

 緊急クエストの銘は「厄海:古龍迎撃作戦」。

 

 

 

 太古の龍との戦いの幕が、切って落とされようとしていた。

 

 

 






《以下は過去作の『こころの狭間』の裏設定です。この作品を読んでいないことによる不利はありませんので、知らない方はスルーしてくださって結構です》



・ヒノとアストレアの関係について

 ヒノの正体はアストレアと似たような境遇の人間であった。
 幼いころに両親の手によって海に流されたヒノは、潮流によってモガの森近郊まで運ばれる。
 そこで通りかかった嵐の龍(森の王ラギアクルスが戦いを挑んだ相手である)が引き起こした暴風雨に巻き込まれ、モガの森へと流れ着く。
 それからの流れは『こころの狭間』の昔語りに従う。ヒノは傷ついた森の王に出会い、共に生きる道を選んだ。

 ヒノは自分と同じような道を歩む者が現れるだろうことを何となく予感していた(この世界において捨て子はそこまで珍しくない)。
 大抵はそのままモンスターの餌食になって終わりだが、この森の王であれば、もうひとりくらいは救うことができるかもしれないと思った。
 そのため、自分が死ぬ間際になっても森の王が心を自覚できるように語りかけ続けた。

 そのことを森の王はずっと覚えていて、自らも老いて死ぬまであと幾年かというところで出会ったのがアストレアである。



・嵐の龍について

 名前はあえて語らず。嵐の龍は霊峰を住処とするが、数十年から百年周期で各地方の空を泳いで渡る。さながらそれは意志を持った台風である。
 ヒノのときはもちろん、アストレアがモガの森に流れ着いたときも上空にいた。ある意味主犯である。森の王はかの龍には敵わないことを既に知っていたので、大人しくしていた。
 この嵐の龍はモガの森を通り過ぎたあとに、霊峰へと戻っている。


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第3節 目覚め
> 目覚め(1)


かくして目覚める。
海は赤く染まりゆく。




 

 

 約一月の間を開けて再び訪れたタンジアの街は、大きく様変わりしていた。

 

「うわ、すっごい人の数だね。こんなタンジアは見たことないかも」

 

 モガの村からの連絡船の甲板に立ったソナタは、船着き場を往来するたくさんの人々を見ながらそう言った。

 エルタも同感だった。一月前はここまで人通りは多くなかったはずだ。それに、更地だったはずの場所に櫓のような建物がいくつも立っている。

 

「……」

「大丈夫か、アスティ」

「……うん。目立たないように気を付ける」

 

 エルタの声掛けに対してアストレアは苦い顔をして答え、防具越しに灰色のフード付きの外套を被る。委縮しているということはないのだろうが、やはり苦手意識が強いようだ。

 

 変化があったのは人の多さだけではない。停泊している船もただの商船とは違っていた。商船がいなくなったというわけではなく、それらを船着き場の隅に追いやって中心部に物々しい船が居座っているのだ。

 エルタはその船の出で立ちに見覚えがあった。バルバレにいたころ、大砂漠である古龍を迎撃するために造られた船。結局その古龍とエルタが相見えることはなかったが、その船のことは印象に残っていた。

 

「……撃龍船……」

「三、四……すごいね。ここに泊まってるだけで六隻あるよ」

 

 モンスターとの戦いを想定して造られた船がここまで揃っていると流石に壮観だった。大きさはまちまちだが、一番小さな船でも今ソナタたちが乗っている船よりも二回り以上大きい。

 竜骨部分は太く頑丈そうだ。恐らくモンスターの重竜骨を使っているのだろう。外装に使われている木の板も厚くがっしりとしている。ちょっとやそっとモンスターから体当たりを受けたところでびくともしなさそうな貫禄があった。

 

 連絡船はそんな撃龍船の停泊所を通り過ぎ、隅の方の船着き場へと泊まった。

 簡素な木の板のタラップを渡り、波止場へと降り立ってハンターズギルドを目指す。招集されたからには三人とも真っ先に顔を出しに行かなければならない。寄り道をすることはなかった。

 道中の商店通りも雰囲気を大きく変えていた。より煩雑になったというべきか。撃龍船に運び入れるのだろう大砲の玉や材木を運んでいる人々が至る所にいるかと思えば、商人たちは全く立ち退くことなく商いを続けている。商魂逞しいとはこのことか。

 

「……作業をしている人々は皆、同じ服を身に着けているな」

「うーん、何となく貴族お抱えの兵隊っぽい……けど、ギルドの紋章があるね。ハンターズギルドってあんな軍隊みたいな組織持ってたっけ?」

 

 ソナタは首を傾げた。エルタも同感だ。ハンターズギルドはあくまでその地域のハンターたちを統括する組織だったはず。しかし、彼らがハンターという雰囲気でもなさそうだ。

 そもそも、あの数の撃龍船が集まること自体が異例なのだ。何か特例のような措置が取られているのかもしれない。

 

 商店通りを抜けると、このタンジアの港に一番近い大灯台とそこへと繋がる広場に出る。撃龍船に乗ってきた人々の本拠地はどうやらそこのようで、巨大なテントが張られ、多くの人々が出入りしていた。

 アストレアはタンジアに数回しか訪れていないからか、大灯台が物珍しいようだった。フードが頭からずり落ちないように手で押さえながらそれを見上げている。

 エルタもまたそれを仰ぎ見たが、やはり巨大の一言に尽きる。この港の顔といっても過言ではないだろう。

 

 その広場には立ち入ることなく通り過ぎれば、タンジアハンターズギルドはすぐそこだ。ここの装いは今までと違ってあまり代わり映えしているところは見られないが、エルタたちが驚いたのはそこに集っている人々だった。

 

「あれはアグナコトルの装備……あの人はディアブロシリーズで……。すごい。みんなかなりの高ランクハンターだよ」

「……ざっと四、五十人と言ったところか」

「見たことない装備の人も多いし、本拠地がタンジアじゃない人たちもたくさんいるみたいだね。とにかく受付へ行ってみよう」

 

 身に着けた装備から自然と知れるハンターとしての実力の高さ。ソナタはそれに全く物怖じすることなく立ち入っていく。エルタやアストレアもそれは同じだ。ここで怯むようであれば、そもそもギルドから呼ばれたりはしないだろう。

 

 カウンターにはタンジアの受付嬢のキャシーが相変わらず座っていた。ただかなり忙しいようで、書類に向き合ったまま顔を上げず、エルタたちが目の前に立ってようやく気が付いたようだった。

 

「あっ、ソナタさん! お久しぶりです~!」

「こっちこそ久しぶり! それにしても忙しそうだね」

「もうほんとに。てんやわんやで目が回りそうです」

 

 そう言うキャシーの眼の下には隠し切れないくまができていた。あまり休みも取れていないのだろう。それでも笑顔を欠かさないところは流石のギルド受付嬢だった。

 

「後ろにいるのはエルタさんとアスティちゃんですね。エルタさんは長期依頼の完遂の報告を受け取っています。おつかれさまでした!」

「……よく覚えてましたね」

「わたしのことも」

「それはもちろん。ちょっと変わったひとたちでしたからね。印象に残っちゃいます」

 

 エルタとアストレアは顔を見合わせた。思うところがなくもなかったが、カウンターでそう無駄話もしていられない。深くは尋ねないことにした。

 顔合わせを済ませたところで、キャシーは真剣な顔で事情を話し始めた。

 

「さて、ソナタさんたちをお呼びしたのは他でもありません。緊急事態のお知らせです。……私たちの大切なこの港が、古龍の脅威にさらされようとしていることが明らかになりました」

 

 キャシーの話によれば、それは数か月前から予測されていたことではあったらしい。

 海と陸のモンスターたちの不自然な大移動と、海水温の上昇。タンジアハンターズギルド所蔵の史書には、過去にもこの現象があったことを示す記述が残されていた。それがある古龍の仕業であったということも。

 

 タンジアハンターズギルドはこれを受けて事前に準備を始めた。各地方のハンターズギルドに根回しをして撃龍船を集め『海上調査隊』を編成。さらに緊急クエストを発令し、ロックラックやドンドルマなどからハンターを募った。

 ここにいるハンターの多くはそうやって遠方から来たらしい。見たことのない装備のものが多いのも頷ける話だった。

 

「詳しいお話はこれから来られる海上調査隊の総司令がしてくれると思います。ちょうどよかったです。今人が集まっているのはその方のお話を聞くためなんですよ」

「なるほど。私たちは最後に呼ばれた感じかな?」

「そうですね。モガの村周辺は狩猟環境不安定な状況がずっと続いてて、専属ハンターさんも手が離せないだろうとギルドマスターも仰っていました」

 

 モガの村の状況が落ち着き始めたのはつい最近のことだ。落ち着いたとはいってもモンスターがいよいよ現れなくなったという方が正しいが。タンジアから船で数日かかるモガ周辺でこれなのだから、この辺りはもっと顕著なのだろう。

 

 つまり、エルタたちはしばらくここに留まって海上調査隊という組織の総司令から話を聞かなければならない。すべてはそこからだ。役割もそこで割り振られるだろうとのことだった。

 とにかく、ギルドへの顔出しは済んだ。エルタが長期依頼の達成の手続きを済ませ、カウンターから立ち去ろうとしたところで、今まで黙っていたアスティがキャシーに話しかける。

 

「キャシー」

「何でしょう? アスティちゃん」

「ちゃんはやめて……。すごく大変そうだけど、わたしたちもがんばる。安心してほしい」

 

 その言葉を聞いてキャシーは言葉を詰まらせ、次いでまた笑ってみせた。

 アストレアは人の内面をよく見る。それでいて言葉が真っすぐだ。こんな状況に置かれているキャシーが不安でないはずがない。それでも彼女が頑張らねばハンターたちの取りまとめに支障が出る。アストレアはそれを感じ取ってそう声をかけたのだ。

 

「私にできることはこれくらいですから。私たちの港に脅威が迫っている今、私は私の役目を果たします! ……でも、すごく励みになります。アスティちゃん、ありがとう!」

「だからちゃんはやめて……」

 

 アストレアはフードで顔を隠すようにしながらそう言った。どうやら恥ずかしいようだ。

 アストレアに次いでソナタも二言三言言葉を交わしていた。しかしそのやり取りは途中で打ち切られる。カウンターの奥から三人の男が現れたのだ。

 

 一人が着ているのは格調高さを感じさせる軍服。胸元にはハンターズギルドの紋章。そこに描かれた火竜夫婦の頭部の意匠は、彼がドンドルマハンターズギルドの所属であることを示している。

 そんな彼に付き添っているもう一人の男は、黒い鎧を身に纏い、身の丈ほどもある銃槍を携えていた。エルタはガンランスには明るくないので武器の名称は分からないが、その鈍い銀色の光沢はかなりの業物であることを感じさせる。

 

 最後に出てきた人物は二人に比べるとかなり背丈が小さい。その容姿と長く尖った耳で彼が竜人族であることは一目瞭然だった。

 彼は積まれた木箱を伝ってカウンター台へと登るとそこにどっかりと座り込む。他の地方の集会場でもそうだが、ギルドマスターの定位置は基本的にそこだ。彼がギルドマスターと見て間違いないだろう。

 

 軍服の男の指示でキャシーは席を立つ。さらにカウンターの後ろの方にある大銅鑼の前に立っていた少女にも指示を出した。彼女はカウンターに座るギルドマスターに目配せし、ギルドマスターが頷いたのを見てその手に持った大槌を振りかぶる。

 

 直後、があぁぁんっと銅鑼を打ち鳴らす音が盛大に響き渡った。

 広場で思い思いに雑談や腕相撲に興じたりテラスで食事をしたりしていたハンターたちが一斉に目線を向ける。ようやくか、という声もどこからか聞こえてきた。

 大銅鑼を鳴らした少女は踏み台を降りて、代わりに軍服の男がそこへと立った。あれならば後方からでも彼の姿はよく見えるだろう。すっと息を吸って声を張る。

 

「ハンターの諸君! よくぞこのタンジアの港へと集ってくれた。君たちが緊急クエストを辞退することなく駆けつけてくれたことに感謝する。

 私の名はシェーレイ。シェーレイ・アスカルドだ。今回のグラン・ミラオス迎撃作戦の総司令を務めている」

 

 こうして見ると男の顔はまだ若く、それにやや細身だ。しかし、彼は数多くのハンターたちの視線を浴びながら、それにまったく怖気づくことなく堂々と話している。総司令に抜擢されるだけのことはあるということか。

 ただ、エルタはそんなことよりも彼の告げた作戦名の方に興味を注いでいた。

 

 

 グラン・ミラオス。

 

 

 それが、自らが追い続けた存在の名か。

 

 

「当古龍は我々の本拠地(ドンドルマ)において厄災の象徴として名高い『黒龍』に連なる存在であるとの知らせがあった。この予言が真実であった場合、当古龍は極めて危険度の高い存在であることが予想される。そのため、今回のような大規模作戦が決行されるに至った」

 

 黒龍という言葉に反応を示したのはドンドルマやバレバレから駆け付けたハンターだろう。エルタも以前本拠地だったこともあって『黒龍伝説』はよく覚えている。

 タンジアのハンターたちもざわついているが、彼らもその言葉は聞き覚えがあるはずだ。沖合に向かって何本も屹立する大灯台の名前がまさにそれだったのだから。

 

「グラン・ミラオス……その名前はちょっと聞き覚えがないな」

 

 ソナタが訝しげに呟く。現地に近いハンターですらこれなのだから、ほとんど伝説上の存在に近いものだったのか。

 ざわついた雰囲気を糾すかのようにシェーレイという男は言葉を続ける。

 

「今回諸君らのような優秀な狩人を招集したのは他でもない。この迎撃作戦に参加してもらう。なお、非常事態につき人数制限は限定的に撤廃する」

 

 これに対する動揺の声はほとんどなかった。人数制限の解除はそこまで珍しい話ではないからだ。

 今回のように街や都市に古龍が現れたときなどは大抵そうなる。表立って古龍と戦うのは数人のハンターのみかもしれないが、裏方として多くのハンターが参加しているのだ。

 

「これより、作戦の説明を行う!」

 

 シェーレイがそう言うと、裏方で準備をしていたらしいギルド職員がシェーレイの背後にある大銅鑼にかぶせるようにして、人の身の丈を優に超える大きさの地図を広げた。

 描かれていたのはこの地域一帯の地図だ。タンジアの街は地図の北の端の方にあり、拡大図も用意されている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

 シェーレイは指し棒を持ち、地図の下の端の方を指し示した。

 

「グラン・ミラオスの出現予測地点はここだ。住民からは『厄海』と呼ばれているため、我々もそう呼称する。かの古龍は現在、この厄海の海中に姿を隠しているものと思われる。

 過去の文献から、かの古龍は水中と陸上の両方に適応していると我々は見ている。よって、交戦場所は水中、水上、陸上と多岐に渡ることとなるだろう」

 

 距離的にはここから船で半日ほどといったところか。近いように感じるが、ドンドルマやバルバレは砦や迎撃拠点を街のすぐ近くに構えている。恐らく補給線を伸ばさないためだろう。それを考えるとこれは遠い方かもしれない。

 そして、水中戦の可能性が高いようだ。泳ぎの訓練をしていてよかったとエルタは思った。

 

 続けてシェーレイは地図の下端から少し上の『∩』型の島を指し示す。

 

「我々の作戦の要は、現れたグラン・ミラオスをこの島の内海、迎撃拠点へと誘導することにある。内海の水深は浅く、陸地も広がっている。水上に姿を現すか、陸地に上がったところを大砲やバリスタ、撃龍槍といった火器で集中的に叩き、撃退または討伐を目指すのだ。

 そして、本作戦で最も威力を発揮するのが、現在迎撃拠点で組み立て中の試作型巨龍砲だろう。これをぶつけることができるか否かが作戦の明暗を分ける」

 

 巨龍砲! エルタは驚きを隠せなかった。

 エルタの反応を見たアストレアがエルタの袖を引っ張り、小さな声で話しかける。

 

「きょりゅうほうって?」

「……ドンドルマで考案されていた対龍兵器だ。巨大な大砲と思えばいい」

 

 数年前、エルタがドンドルマにいたころは開発段階だったはずだが、完成していたのか。ひょっとすると出来立ての試作機を持ち込んできたのかもしれない。

 巨龍砲は一撃で古龍種に大ダメージを負わせることができるポテンシャルを秘めた兵器だとエルタは聞いていた。これをうまく当てれば、もしかするとハンターが直に戦う機会はないかもしれない。

 

 ここでシェーレイは一度差し棒を下ろした。そしてこの広場にいるハンターたちを見渡す。

 

「ここにいるハンターの諸君には、三人または四人のパーティを作ってそれぞれ撃龍船に乗り込んでもらう。そして厄海へと乗り込み、グラン・ミラオスの水中での誘導を行ってもらいたい」

 

 ハンターたちは再びざわついた。指示の内容が特殊だったからだ。

 今の言い方は、ハンターたちの武器によってモンスターの体力を減らすことを考えていない。これだけの数の高ランクハンターを集めておきながら、指示されたのは誘導のみだ。

 ハンターたちの内の一人が不満げな声を上げた。

 

「俺たちに羊飼いの役をしろってか」

「否定はすまい。しかし、諸君らにしかできない役割だ。

 もしかの古龍が海中を自由に泳ぎ回り、撃龍船を率先して攻撃するような存在だったならば、ハンターでない兵たちは無力でしかない。彼らは目標が海中から姿を現し、大砲やバリスタの弾が届くようになって初めて十全に動くことができるのだ」

 

 もちろん、ハンターの仕事はこれだけではない、と彼は語る。龍の攻撃を受けて船が倒れたり沈んだりした場合、泳げるハンターはグラン・ミラオスを引き付けなくてはならない。迎撃拠点で不測の事態があったときも同様だ。

 決して雑用などということはないという彼の力強い言葉に、不満を言ったハンターも押し黙るしかないようだった。

 

「また、一部の者は作戦区域に存在する黒龍祓いの灯台に守護役としてついてもらう。迎撃拠点へ誘い込む過程や、万が一迎撃拠点が突破されたときのために各灯台を小砦として用いるのだ。これには、ここにいない中程度のハンターランクのハンターも多数参加する予定だ」

 

 タンジアを中心にして放射状に広がる灯台群のうち、厄海からタンジアの経路にあるものは約十個ほどだ。これらにも火器と人員を配置するらしい。今は使っていなかった灯台も再利用するようだ。

 確かに、横穴からの砲撃にはとても適した構造だ。グラン・ミラオスと直接対峙するよりも危険は少ないと言えるため、実力が十分とは言い切れないハンターでも戦力になれるということか。

 

「我々海上調査隊の総数は千を超す。数こそ国の軍隊に及ばないが、大型モンスターとやり合った場数、質の高さで十分以上に補えると自負している。ハンターの数もタンジアのハンターを中心として百人以上になるだろう。

 それだけの物量を投入しなければならないほどの戦いが予想される強大な相手だが、故にこそ、見事作戦を完遂した暁には相応の富と名声が約束されている」

 

 それは確かな話だった。クエスト達成時の報酬金額を見てエルタは驚いたものだ。今までに請けたどのクエストよりも高い。それをここにいる全員に渡すとなれば凄まじい額になるはずだった。

 カウンターに座ったギルドマスターは酒が入っているらしいジョッキを手に持ったまま黙して語らない。背に腹は代えられないということか。

 エルタは報酬金に興味などほとんどないが、そんな者は少数派だろう。さらにこのクエストで活躍すればハンターランクも一気に上げることができるかもしれない。まさに富と名声を同時に手に入れるチャンスということだ。

 

「『黒龍』と聞いて二の足を踏んでしまう者もいるはずだ。それは仕方がない。我々の属するシュレイド地方ではその名前そのものが禁忌とされるほどの存在だ。

 しかし、不安に思うことはない。なぜならば、過去のタンジアの文献によれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。決して倒せない相手ではないことが、過去の勇敢な者たちによって証明されているのだ!

 我々は先人たちの跡を継ぎ、かの龍に打ち勝ち、タンジアの街を護る。そのためにも、諸君らの力を貸してほしい!」

 

 拳を握り締めてシェーレイは力説した。その眼差しは自信と責任感に溢れている。

 演説に慣れているようだ。エルタ自身も胸の内で昂りのようなものが芽生えていることを自覚する。少なからずこの男の影響を受けたということだ。

 

 それはこの場全体にも言えることだった。ハンターたちの間に広がっていた負の緊張感が正の方向へと向かっていく感覚を覚える。

 「過去に倒したことがある」という事実はそれだけで心の支えになる。それを積み重ねて人という種族は栄えてきたのだから当然か。そしてまた、過去の人々に負けるわけにはいかないという競争心も生み出すことができる。

 

 しかし。エルタは盛り上がりつつある雰囲気に抗うように冷えたため息をついた。その興奮はまだ早い。

 

 自らが成し遂げたいこと。そのために邁進した日々。今しがた名が判ったが、それでも明瞭な答えは出てこない。高揚は判断を急かしてしまう。だからこそ、落ち着いて。

 

「作戦決行は二日後だ。それまでに準備を整えておくように。何か質問はあるか」

 

 シェーレイは辺りを見渡した。作戦内容についての質問がちらほらと飛び交う。シェーレイはその全てに簡潔かつ分かりやすく答えてみせた。

 声を飛ばす者がいなくなったことを確認すると、彼は締めくくりの言葉を口にした。

 

「では、私からは以上だ。諸君らが一人も欠けることなく、作戦決行の日を迎えてくれることを願っている」

 

 最後はハンターたちに向けての発破だった。まさか逃げる者はいないだろうという牽制といえるか。

 ハンターには負けず嫌いが多い。ああ言われて後に引けなくなった者もいるはずだ。人心掌握が本当に上手いなとエルタは思った。

 

 

 

 作戦の説明が終わり、集会所に集まったハンターは解散の流れとなった。

 その場に併設されている酒場で酒盛りに移るもの、加工屋へと向かうもの、宿へと戻るもの、パーティメンバーを募るもの。さまざまだ。

 

「私とアスティは連絡船に戻ろうかな。エル君はどうする?」

「……ここのギルド倉庫にもう一つ武器を預けている。それの確認に行こうと思う」

「ん、了解。それじゃあまた後でね……っとと?」

 

 三人が別れようとしたところで、ソナタの前に人影が立った。先ほど演説をした男、シェーレイだ。背はソナタの目の位置くらいで、やや低い。その後ろにはやはり銀色の銃槍を担いだ男が立っている。彼の護衛なのかもしれない。

 

「君がかのモガの村の専属ハンター、ソナタ・リサストラトか」

「はい。よく分かりましたね」

 

 ソナタは若干固い声でそう返した。改めてフードを深く被ったアストレアがさりげなくソナタの後ろに下がる。が、離れはしない。しっかり寄り添っている。

 それはどちらかといえばソナタがアストレアを庇ったというよりも、アストレアが自らの意志でソナタを一人にさせまいとしているようだった。後ろに下がったのは下手に存在を主張しないためだろう。

 

「なに。本作戦に当たって現地の実力者は一通り調べ上げている。聞けば、海の巨人と呼ばれる古龍ナバルデウスを一人で撃退してのけたそうではないか」

 

 シェーレイの言葉には純粋な賛辞があった。嫌味や皮肉という雰囲気はない。

 

「私の後ろに控えるガルム氏も単身古龍撃退経験を持つ者だが、海の古龍との戦いという点に限定すれば君以上の適任はいないということになる。もしハンターの手による誘導が必要になった場合は、君の働きに大きく期待させてもらおう」

 

 シェーレイの後ろに立つ男の名はガルムというらしい。どうやら実直な人物のようで、エルタと目が合うと目礼されたのでこちらも同じく目礼で返す。

 彼もまた相当に優秀なハンターのようだ。単身古龍撃退経験を持つハンターが同じ場に二人も揃うなどそうそうない。そんな彼を傍においてなお、シェーレイはソナタに大きな期待を寄せているようだった。

 

「期待に沿えるかは分からないですけど、できる限りのことはやります」

「なに、そう固くなることはない。迎撃拠点にさえ誘導してもらえれば、君たちの手は煩わせない。ときに、君たちは熔山龍ゾラ・マグダラオスを知っているかね?」

 

 突然の問いかけにソナタはやや面食らったようだったが、ひと呼吸おいて「……名前だけは」と返した。エルタも同じだ。古龍の一種として名前は知っているが、その姿や資料を見たことはない。

 

「そうか、まあ仕方あるまい。生息域がこことは大きく外れているからな。

 ゾラ・マグダラオスは老山龍すら凌駕するほどの巨大さを持ち、さながら火山の岩盤そのもののような外殻を持つ。その大きさが脅威となる古龍だ。

 そして我々海上調査隊は、遠方の海に出没したかの龍の撃退に成功している。本作戦のときよりも少ない兵力でね」

 

 そのときの総司令も彼が務めたらしい。なるほど、先ほどの堂々とした演説は実績に裏打ちされたものだったのだ。巨大古龍迎撃のノウハウは積んでいるということか。

 

「対巨龍迎撃戦においては、兵器の数と運用法がものをいう。ハンターの諸君には癪かもしれないが、それは抗いがたい事実だ」

 

 彼はきっぱりとそう言い放った。それが熔山龍の撃退によって学んだ事実なのだろう。

 エルタもそれは頷きざるを得なかった。大砲の威力にハンターは勝てない。それでもハンターがこうやって席巻しているのは、大砲の標準の調整がとても難しく、命中率がかなり低いからだ。

 ただ、相手が超巨大種となれば事情は一変する。的が大きければ標準にそこまで気を遣う必要もなく砲弾を撃ちこめる。対してハンターの扱う武器による攻撃はせいぜい表皮を削るくらいしかできない。大砲は遠方から攻撃できるということもあり、効率の差は歴然だった。

 

「高ランクハンターというのはそれだけで街の財産だ。君の双肩にも所属している村の平和がかかっているのだろう。君たちのような貴重な命が失われないよう、我々も全力を尽くす。決して君たちを使い潰しなどしない。君たちはできる限りの全力を果たしてくれ」

 

 シェーレイはそういって右手を差し出した。最初は警戒していたソナタも彼の誠意を受け入れてその手を取る。互いに握手が交わされて、シェーレイはその場から去っていった。

 圧倒的な量の火器による砲撃戦か。それで相手が倒せるならば、それに越したことはない。最も人的被害が少なくなるのだから。

 

 エルタは厄海のある方向の空を仰ぎ見た。沖合の大灯台がやや霞んで見える。

 

 空の色はまだ、青い。

 

 





今回挿絵として投稿した地図ですが、かなり粗い出来なので細かな改変を加えるかもしれません……


1/29追記

メッセージで「挿絵の地図を見たけど、黒龍祓いの灯台多すぎない? あれって一本だけでは?」という意見をいただきました。

 この意見についての回答ですが「実は黒龍祓いの灯台はたくさん建っています」です。タンジアの港をいろいろなカメラアングルから観察してみてください。実は沖の方に二基建っています。地図で描いたタンジアの港の構造も、この観察の結果によるものです。意外と閉じた湾なんですよね。
 さらに分かりやすいのは原作でグラン・ミラオスと実際に戦うときのムービーでしょうか。背景に何本も灯台が建っていて、さらに火が焚かれているのが確認できます。

 以上のことから、黒龍祓いの灯台はタンジアから厄海にかけてたくさん建っているのだろうと推測した結果、あの地図のような分布になりました。


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>> 目覚め(2)

1/29 海上調査隊の進行状況を示した地図を追加

【挿絵表示】



 

 

 夜闇が晴れて、東の空が白み始めようかというころ。

 

 ざざあっと、巨大な撃龍槍を掲げた船首が水面を切り裂くようにして後方へと波紋を広げていく。

 帆を広げ、風を受けて海を渡っていく撃龍船。それが五隻連なって一本の線を描く。エルタたちを含む熟練のハンターを乗せた船隊は、粛々とかの地へと向かっていた。

 

 獄狼竜の穿龍棍を担ぎ、ベリオロス亜種の防具を着たエルタは甲板に立って黙って遠くの海を見つめていた。白波のない穏やかな海、モンスターの襲撃もなく、航海は順調に進んでいる。

 問題点を強いて挙げるとすれば、風すらも静まっていて帆船が進みづらいことか。しかし、そこは熟練の船乗りたちの手によって凌がれていた。

 と、波の音に交じって背後からの足音を拾い、エルタは振り返る。

 

「おつかれさま。特に何も変わったことは起こってないみたいだね」

 

 歩み寄ってきたのはソナタとアストレアだ。二人ともエルタと同じく完全武装である。三人はひとつのパーティとして今乗っている撃龍船を担当することになっていた。

 エルタたちの乗る船の配置は西側の前から三番目。前に二隻先行しているかたちだ。

 

「……ああ。かえって不気味なくらいだ」

「むしろそのことが、この辺りに本当に古龍がいるっていう証拠になっちゃってるんだけどね。他の船に乗ってる人たちもそれに気付いてたらいいんだけど」

「ここまで何もきこえないのは、はじめてかもしれない」

 

 ソナタは物憂げに、アストレアは目を閉じて耳を澄ませるようにして呟く。

 森育ちでモンスター並みの察知能力を持つアストレアでこれなのだから、件の古龍はほぼ確実にいるはずなのにひたすらに沈黙を保ち続けているということになる。

 比較的名の知れた古龍であるクシャルダオラやジエン・モーランは暴風雨や大規模な砂嵐を引き連れてくるため、古龍と聞けば轟音や騒乱を連想する人々も少なくない。いや、実際その通りになることが多い。それ故に、この静穏に安心してしまう。それをソナタは懸念しているのだ。

 

「まあ、だからってずっと気を張ってたら疲れちゃうから、ちょうどいいくらいの緊張を保ちながら余分はほぐいていこう。……なかなか難しいんだけどね」

 

 そう言ってソナタは苦笑した。確かに、古龍と相対したことのあるハンターにとってこの沈黙は消耗を誘う。龍と自分しかその場にいない、というあの忘れがたい経験を彷彿とさせるものがある。

 例えるならば、深い森の中で迅竜が木々を飛び交う微かな音だけが聞こえてくるような、そんな感覚だ。知らない者はただの葉擦れの音にしか聞こえず、なにも警戒などしないままに、いつの間にか命を奪われている。

 

 アストレアがエルタに麻袋を差し出してきた。中に入っていたのはタンジア名物らしい菓子のタンジアチップスだ。

 やや拍子抜けしてしまったが、今はそれくらいの心意気の方がいいのかもしれない。何枚か手に取って口に運ぶと、芳醇なシーフードの味が口の中に広がった。

 

 それからアストレアたちと他愛もない言葉を交わす。意図してそうしてくれているのだろう彼女らに感謝しつつ、エルタはつい数日前のタンジアギルド集会場での出来事を思い返していた。

 

 

 

 

 

「海上調査隊には、ワシらからも口出しがしにくいんじゃよ」

 

 竜人族の老人、タンジアのギルドマスターはカウンターの上に座って嘆息した。

 上半身裸で青いマントを羽織り、頭にはキャプテンハット。右手に持ったタンジアビールのジョッキは片時も手放されることはないらしい。

 

「でも、呼んだのはギルドマスターさんなのでは?」

「その通りじゃ。じゃが、海上調査隊は各ギルドから編成された組織。総司令もワシが任命した者ではないんじゃ」

 

 ソナタの問いに対し、ジョッキを呷りながらギルドマスターは答える。一見すればかなり奇異な光景だが、それがいつものことなのかソナタや受付嬢は指摘するそぶりすら見せない。エルタとアストレアは顔を見合わせた。

 

 聞いた話によれば、海上調査隊という組織は普段は全国各地に散っている。

 運営はドンドルマ、ミナガルデ、タンジアなどの各地のハンターズギルドの出資によってなされていて、正式にどの街が統括しているというわけではない。

 確かにあれだけの規模の船団を常に一つの場所に集めさせておくというのは戦力的にもったいないし、維持費も相当なものがかかるだろう。そう考えると理に適った運営方法だ。

 

「そういう点では、新大陸古龍調査団に近いかもしれんのぅ。実際、彼らとの関りも深い」

「しんたいりく、こりゅう……?」

「……新大陸古龍調査団、だ。ここからずっと遠くにある新大陸を調べに行っているんだ」

 

 首を傾げるアストレアに耳打ちしつつ、エルタはその名を聞いて少しだけ懐かしさを覚えた。

 さて、そんないくつものハンターズギルドが連携して構成される海上調査隊は、どこかの街や国が出動要請を出せば、その金額に応じて各地から撃龍船を集合させ、ひとつの作戦組織を立てる。そのときに初めて総司令が選抜されるそうだ。

 ちなみに、今回は過去最大規模らしい。つまり、とソナタはごくりと唾をのむ。

 

「じゃあ、今のタンジアギルドの資金は……」

「……ほとんどすっからかんじゃ。ワシのへそくりも根こそぎ持っていかれおった……」

 

 彼はがっくりと肩を落とした。この地域一帯のハンター業の長を務め、港の安全に関わる者としても流石に堪えるものがあったのだろう。

 けれど、そこは流石にギルドマスターといったところか。すぐに顔を挙げるとにかっと笑ってみせた。

 

「じゃが、後悔などしとらんよ。何せ相手はあの『黒龍』じゃ。それに挑もうというのなら、この街のすべてを賭けるくらいはせにゃならん。後になって悔いても何にもならんからのぅ」

 

 その笑みは快活だ。ギルドの資金のほぼ全てを投げ打ったと言うが、それには相当な反対意見があったはず。それを押しのけ、自らの判断を押し通す豪胆さ。そして、彼にそこまでの決断をさせるのがかの龍ということか。

 

「これだけやって作戦の指揮が取れんというのもちょっとばかし悔しい話じゃが、総司令のシェーレイ殿もなかなかの敏腕じゃ。ワシはここにどっしり構えて皆の凱旋を待つと決めた。狩場では彼の言うことをしっかり聞くんじゃぞ」

「……はい」

 

 ギルドマスターにそう言われたならば、エルタたちは頷くしかない。

 その後に三人パーティを形式的に登録し、海上調査隊もその旨を伝えてから、エルタたちはこの街での仮拠点である連絡船へと戻って夜を明かすのだった。

 

 タンジアから船隊が出港した日には、街に住む人々から盛大な見送りを受けた。流石は人口数万の港町と言ったところか。

 有志の音楽隊が結成されて「英雄の証」が鳴り響き、幾千もの人々の歓声と共に見送られる様子はなかなかお目にかかれるものではないだろう。

 海上調査隊の人々も、ハンターたちも一様に誇らしげにしていた。この見送りを受けてこの街を護ろうとする決意を固めたという者もいるはずだ。

 そんな中で、エルタたちは少し浮いて見えたかもしれない。ソナタはやや困り気味の笑みを浮かべていたし、アストレアに至ってはフードを被って居心地悪そうにしていた。エルタはそもそも笑顔を浮かべるのが苦手なので、かの龍のことを考えながら佇んでいたらいつの間にか式典が終わっていた、という具合だ。

 

 

 

 

 

 あれから数日。迎撃拠点での補給も済ませ、船隊はいよいよ厄海の目標地点に辿り着こうとしている。

 

 ここに来るまでの間に、いくつもの島と黒龍祓いの灯台を見かけた。大きさはまちまちだったが、どれも頂上で火が焚ける仕組みになっているようだった。

 普段使いされていないものも多いようだったが、それもそのはず、明らかに商船が通らないような海域にも建っている。つまり、単純に灯台としての用途以外の目的があって、遥かな過去の人々は灯台を建設したということだ。

 きっとそれは、二度とこのような厄災が起こらないように、かの龍が訪れることがないようにという祈りなのだろう。だからこそのあの灯台の名前。もはや年月が測れないほどの時が過ぎて、おとぎ話にも伝えられなくなった今でも、名前だけは証拠として残り続けていた。

 

 それらの灯台群は、今もなお急ピッチで要塞化が行われている。万が一迎撃拠点が突破されたときのため。あるいは、迎撃拠点よりもタンジアの港に近い側でかの龍が姿を現したときに、迎撃拠点側へと誘導を行うために。

 実働部隊は千人を超す程度に収まらず数千、ひょっとしたら万の単位で動いているのではないか。そう感じるほどの用意周到さだった。

 

 

 

 白んでいた空が赤みを帯び始めた。朝焼けだ。

 先頭の旗艦、総司令のシェーレイが乗っている撃龍船からしゅうっと信号弾が発射された。

 

「……ん」

「着いたかな。船員さんたちが帆を畳んでる」

 

 周囲がやや騒がしくなったのを感じ取って、エルタたちは辺りを見渡した。静かな風を受け止めるために目いっぱい張られていた帆のいくつかが畳まれていく。

 前方や後方にいた船も同じことをしているのが見て取れた。到着とみて間違いないだろう。

 だだっ広い大海原。迎撃拠点のある島も水平線の向こうに隠れてしまっている。古龍観測隊たちが出現を予測した海域であり、海上調査隊はここでかの龍を待ち受けることとなる。

 

「……よし、じゃあ私とアスティは持ち場に行こうか」

「うん」

 

 ソナタとアストレアは互いに頷いて、エルタに一声かけてから甲板を歩いていった。

 海上調査隊はここでじっと待ち続けることはしない。こちらから積極的に出現を促す手はずだ。

 今から行おうとしているのは、海上での砲撃訓練だ。標的用のブイを海上に浮かべ、そこへ向けて各船が砲撃を行う。砲弾を余分に使うことになるが、実際の立ち回りを想定しての訓練は欠かせない。

 

 バリスタと大砲の射程距離はせいぜい二百メートルといったところだ。これくらいの半径で標的を円弧状に囲むようにして砲撃を行うことになる。

 かの龍がこの弾幕に対して立ち向かうような動きを取るか、逃げるような動きを取るかで船の立ち回りは大きく変わる。迎撃拠点へとうまく誘導するために、前者であれば逃げるような、後者であれば追い立てるような立ち回りをしなくてはならない。

 撃龍船の全長は大きいもので五十メートル程度。これらが四隻並んで砲撃に集中し、残りの二隻は遊撃に徹する。ここまでの数の船を揃えたからこその贅沢な使い方だが、だからこそフレンドリーファイアには気を付ける必要がある。

 

 エルタたちの役目は基本的に船員たちの手伝いになる。バリスタや大砲の弾を運び、装填する。砲撃は専ら訓練された船員たちが行う手はずになっている。

 もし、かの龍が甲板にいる人々や船そのものに攻撃を仕掛けてくるような個体であれば、ハンターたちの出番ということになるだろう。船員たちはそのような状況では船の守りに徹さなければならなくなるからだ。

 エルタたちが持ち場についたのはそういうことだ。船の上の各場所に配置された火器の近くに構えておいて、臨機応変に動く。エルタは船首付近、ソナタはアストレアと共に船尾付近につくことにしていた。

 

「ハンターの兄ちゃん! 大砲の射角をよく見ておいてくれ。いざというとき、大砲を任せるかもしれない」

「……ああ。分かった」

 

 エルタに話しかけたのはこの撃龍船の船長だ。着ているのは砂漠の都市ロックラックの正式な防具である城塞遊撃隊一式である。砂地での行動に適した装備であり、水気の多いここでの活動にはやや適していないが、それを補って余りあるほどの耐久力を持つ防具だ。

 彼は砂の海の海上調査隊の一員。ロックラックから訪れた撃龍船乗りだった。峯山龍迎撃戦にも何度か参加しているという実戦のプロだ。

 

「砂の海からやつが姿を現すときにはデルクスが湧くからそこを目指せたが……ここまで静かだと気味が悪い。いつ現れてもおかしくないくらいの心意気でやるしかないか」

 

 神妙な顔で彼は呟く。ハンターではないのに訓練だからと気を抜いていないのは流石と言ったところか。

 彼は部下の船員たちに次々と指示を出し、砲撃の準備を整えていく。船を指定の位置に動かし、甲板の縁に設置された砲台の角度を調整しつつ、旗艦からの指示を待つ。

 

 遊撃を担当する船が標的用のブイを海上に浮かべ、砲撃用の船が配置についた。準備完了だ。

 ややあって、再び信号弾が打ち上げられた。砲撃開始の合図。

 

()ぇ!」

 

 船長が檄を飛ばす。装填されていた砲弾が人力で押し出され、砲身内部で点火されて轟音と共に勢いよく撃ち出された。

 胸を打つような衝撃音、どっと砲塔が僅かに後退するほど反動を以て放たれた砲弾は、放物線を描いて慣性のままに飛んでいく。そして、標的のブイの数メートル左へ着水し水柱を上げた。

 それを皮切りに次々と水柱が上がる。撃龍船一隻につき片側に二門か三門設置されているため、合計で十近くの大砲が一斉に発射されたということになる。重なり合った砲撃音は海の底まで鳴り響いただろう。

 

 次いで、ばしゅばしゅと先ほどよりは軽快な音を立てて雨のように水飛沫が上がった。バリスタの一斉射撃だ。

 先ほどよりも小さい音とはいえ、バリスタの弾も人程度なら悠々と貫ける大きさの鉄杭だ。返しがついていることもあり、引き抜くことも容易ではない。

 バリスタはスコープがついているため大砲よりも標準がつけやすい。いくつかの弾が正確に標的を射抜き、その衝撃で標的が大きく仰け反るのが見て取れた。

 

 そして、沈黙。訓練故にそれぞれ一発ずつという制約はあるが、それでも結果は一目瞭然だった。

 周囲の大砲の着弾によって軋み、いくつものバリスタの弾の直撃を受けた標的は見事に木っ端みじんになっていた。飛竜程度の大きさがあり、頑丈な堅竜骨によって組まれたと聞いていたが、このざまだ。実際に海竜種一匹程度であれば、今の砲撃でまともな死体が残るかも怪しい。

 

 アストレアは衝撃を受けているのではないか。これは彼女には想像もできなかった光景のはずだ。ボウガンなど比較にもならない。これが火器の威力というものだ。

 無論、このようなことがいつでもできるわけではない。コストを度外視した戦法だ。ただ、ハンターという存在では決して手の届かない破壊がそこにはあった。

 

「さて、これで件の龍がおびき寄せられていればいいが……」

 

 海底に沈みゆく鉄片たち。掻き立てられていた海が静まっていくのを見ながら、船長がひとりごちた。

 

 そう、真に警戒しなければいけないのはここからだ。砲撃音によってこちらの居場所は自ら明かした。あとはこの挑発まがいの行為にかの龍が乗ってくるかということのみだ。

 ジエン・モーランのように自らの身体を海上に浮かべて迫ってくるようなことがあれば、定石どおりに事を進められる。最も望ましい出現の仕方だ。

 ナバルデウスのように海中に留まり続けて遠距離攻撃も行ってくる手合いであれば、ここでの応戦は忙しい。海底の浅い迎撃拠点に誘導するまで苦戦を強いられるだろう。

 ゾラ・マグダラオスのように海底から立って船を突き上げてくるようなことがあれば……いや、この一帯の海はとても深い。水深は二百メートルを超えていると船長が言っていた。それでいて海底から直立して海面に届きうるとなれば、地上最大級と言われるゾラ・マグダラオスやジエン・モーランすら超える超巨大モンスターということになる。

 

 ……そう、かの龍の姿が分からないのが現状最大の難点だ。

 遥かな過去に一度討伐されたという記録が残されているのみで、姿かたちについての資料はない。『黒龍』繋がりでシュレイドの伝説の龍の造形が参考になるかもしれないが、その情報は極めて厳重に秘匿されている。翼があるのかどうかすら、エルタたちには分からないのだ。

 

「……」

 

 誰もが口を閉ざしている。こちらから仕掛けたという緊張を共有している。かの龍が現れるような兆候が少しでもあれば、それに気付けるように。

 心臓の音が聞こえる、というほどではないが、エルタも僅かに手汗をにじませていた。

 

 さあ、どう来る。

 

 

 

 ……

 

 

 

 …………

 

 

 

 陽光が顔を見せるまで待った。

 海の様子に変化は、ない。

 

「当てが外れたか……?」

 

 船長がぼそりと呟くとともに、緊張の面持ちで立っていた船員たちも互いの顔を見合わせて喋り出した。船の見張り台で周囲の様子をうかがっていた船員も、なにも変わったものはないというハンドサインをこちらに向けて送っている。

 かの龍はここにはいない。あるいはこちらの挑発に応えなかった。

 

 海を泳ぐ龍であれ、海底を歩く龍であれ、あるいは空を飛ぶ龍であれど。こちらから仕掛けておきながら、これだけ待って何もなければそう考えるのが妥当か。ハンターであればもう少し待つかもしれないが、誤差の範囲だ。

 旗艦が三度信号弾を上げた。『移動』の合図。これよりさらに沖へと向かい、同じような手段で接触を図る。

 

「帆を下ろせ。砲弾は……その場に残しておけ。扱いに気をつけろ。決して濡らすなよ」

 

 船長がそう指示を出し、船員たちが動き出す。ソナタたちのいる後方、そして船内にもその指示は伝えられ、訓練が始まる前のように騒がしくなった。

 念のため警戒を続けていてほしいと頼まれたエルタはその場に残り、陽光に照らされる海を見つめる。

 

 かの龍が現れそうな兆候は確かに見られない。朝日が邪魔をして東方面は怪しいかもしれないが、少なくとも海面は穏やかだ。

 ソナタに聞いた話によれば、海竜ラギアクルスが現れるとき、海の一か所が青白く光るのだという。夜であればさらに顕著で、渦潮のようなものが見れることもあるそうだ。漁師がそれを見かけたときは、一目散に陸に向かって逃げるとのこと。

 

 少なくとも、そういった局所的な現象は起こっていない。それと、とエルタは空に目を向けた。もしかの龍が付近にいたとすれば、天候を操るような能力は持っていないようだ。今もなお、多少の雲はあれど空は晴れている。

 盛大な号砲が鳴り響いただけの、いつもの夜明け。

 

「よし、他の船の準備ができ次第出るぞ。間違っても他の船にぶつからないように舵取りを────」

 

 

 

 

 

「──かじを切って!! はやく!」

 

 

 

 悲鳴にも似た声が届いた。

 

 フードを脱ぎ、白い防具と身体を晒したアストレアが血相を変えて駆けてくる。エルタは船長と舵取りのいる方を振り返った。舵取りは突然のことに驚いたのか手を止めている。

 

「さっさと右に舵とれぇっ!! ぼうっとすんな急げ!!」

 

 船長が檄を飛ばし、そこでやっと我に返ったのか舵取りが舵輪を全力で回し始めた。

 

「嬢ちゃん! いつ来る!」

()()()()()!!」

「──ッ、総員、衝撃に備えろ!」

 

 そう言いながら船長は船の柱に捕まって防御姿勢を取った。指示は瞬く間に伝播し、船員たちはわけも分からないままに周囲の壁や柱に掴まる。

 船長とアストレアはほとんど面識はなかったはず。恐らく船長は、直感でハンターの勘というものを信じたのだ。

 

 一気に限界まで方向転換しようとしたためか、軋む音を立てながら船が進路を右へと逸らしていく。

 エルタは飛び込むように駆けてきたアストレアを抱き寄せて、彼女を庇うように姿勢を低くして船内に入るための手すりを掴んだ。

 

「龍の声が聞こえたのか」

「それも……ある。けど、きざしはあった。気づくのがおくれた……!」

 

 もともと少したどたどしかった口調が、いつも以上におぼつかない。

 アストレアが震えている。リオレウスの咆哮を真っ向から受けても怯まなかった彼女が。とてつもないものがくる、エルタは確信し、手すりを握る力を強めた。

 そして、今は酷かもしれないと思いつつも問いかける。

 

「兆しは、なんだったんだ」

 

()()()()()()()!」

 

 エルタは弾かれるように顔を上げ、垣間見える海を眇めた。

 

 そして悟る。

 

 

 

 運が悪かったとしか言いようがない。

 明るい日中に作戦に集中できるように、朝早くから仕掛けるのは道理だ。けれどそれが、最大の誤算だった。

 

 

 

 朝焼けの空が、海の色を見誤らせたのだ。

 

 

 

 

 

 エルタがそこまで思い至った直後に、その衝撃はやってきた。

 どごぉっ、という火薬が炸裂するような爆破音と共に、船が比喩なく跳ねた。そして、甲板が一気に三十度近くまで傾いた。次いで大量の海水が降り注ぐ。

 船員たちが悲鳴を上げ、呻く。斜め下から打ち上げられたのか。これは、船が転覆するのではないか──。

 

 そんな中で、エルタは薄目を開けて海を見続けていた。他の船の動きを見続けていた。

 

 突如として隊列から外れようとしたエルタたちの撃龍船の様子を戸惑うように見送っていた船隊。

 

 

 

 エルタたちのひとつまえにあった撃龍船の腹に、今、火柱が立った。

 

 

 



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>>> 目覚め(3)

 

 

「おい見ろ。後ろの船、急に方向転換しだしたぞ」

 

 標的に沿って一列に並んで砲撃訓練。その前から二番目、旗艦の後続を担っていた撃龍船の乗組員は、船尾の向こう側を指差しながら隣にいた同僚に話しかけた。

 

「本当だ。急にどうした? まさか敵襲かっ?」

「いや、いやそんなまさか……だって、空も海もさっきから静かなままで何も変わってないじゃないか。何かがあの船にぶつかってきたなら、音くらいは聞こえるはずだろ」

「……確かに。朝日のせいで海はちと見づらいが……魚影みたいなのもなさそうだ」

「だろ。いったいどうしちまったんだ。あの船」

 

 乗組員は首を傾げた。そうしている間にも、かの船は隊列からどんどん外れていく。急な方向転換によってかかる負荷のせいか、軋むような音が響く。

 他の五隻はただその様子を困惑しながら見つめていた。海からの襲撃は基本後手に回る。接触されるまでその姿が見当たらないからだ。だからこそ、なにも被害を受けていないはずのかの船の取った行動は異様に映った。

 

「ひょっとして、舵がいかれちまったか? 金具が外れたとか」

「こんなときに? だが、ありえない話じゃあないな……」

 

 同僚の口にする雑な推測をも吟味しつつ、彼は念のため、かの船の周囲をもう一度眇める。

 水平線から浮き上がった朝日と、燃えるような朝焼けに照らし出されているためか、()()()()()()見づらい。しかし、相変わらず波は穏やかで数日前から変わらない静けさを保っている。

 

「……まあ、旗艦が何か指示を出すだろうさ。あの船の穴埋めは遊撃の二隻に任せればいい。俺たちは今できる仕事を────」

 

 

 

 どっ、と。

 

 

 

 何もないとついさっき言ってのけたはずの海面が、突如として爆発した。

 

「なっ──」

「敵襲……!? お、おい! 警笛を、警笛を鳴らせ……!」

 

 船内は一気に騒然となった。誰も彼もが爆発のあった方向に注目する。

 

「直撃は避けたみたいだぞ!」

「さっきのはあれを避けるための動きだったんだ。だが、どうやってそれをさっ────」

 

 彼の言葉は途中で遮られた。

 爆発音とともに船ごと打ち上げられ、さらに吹き飛んできた木々の破片、誘発した砲弾に全身を打ちのめされ、同時にやってきた()()に肺を焼かれて。

 あっけなく、その命を散らした。

 悲鳴を上げる暇すらなく。看取る者など誰もいないままに。

 彼は、この戦いの一人目の死亡者となった。

 

 

 

 

 

 エルタたちの乗っていた船は、何とか転覆を免れた。衝撃から身を守ったあと、咄嗟の機転を利かせた船員たちが船の傾く方向とは逆側に移動することによって、重心を安定させたのだ。

 だが、それで安心しているような状況では一切ないことなど、誰もが分かりきっていることだった。

 

「おいお前無事か!? 無事だな! 被害状況を確認しろ! 人的被害と船の損傷を正確に把握してこい!」

「りょ、了解!」

「嬢ちゃん、次は予測できるか!?」

「できない! ここはもう、りゅうのけはいでいっぱいになってる!」

「──ッ、撤退提案の信号弾を上げろ! 船を止めるな。また標的になるぞ!」

 

 船の上は大騒ぎとなっていた。しかし、阿鼻叫喚の類ではないのは不幸中の幸いか。怒涛の指示を出しているのは船長のみで、船員たちはパニックに陥る一歩手前でその指示を聞いて動いている。

 直前にアストレアが動き、その言葉を信じた船長が回避と耐衝撃の指示を出していなければどうなっていたか。それを皮肉る余裕もなく、ただ目の前にその光景が広がっていた。

 

「船長! 前方の撃龍船はもうだめです……! 船底が破壊されて沈み始めています!」

 

 二発目の爆発の直撃を受けた先行の撃龍船。その様子を観察していた船員が、悲痛な声で報告する。

 衝撃で着火した火薬によるものか、それとも爆発そのものが炎を纏っていたのか、船は炎上しながら徐々に海中に没しようとしていた。

 

「ラギアクルスの突進に耐える装甲を、一撃で破ってくるか……」

 

 ぎりっと船長は歯噛みした。これまでに経験したことのない破壊力だ。あの爆発の前では、船底の厚い木板と堅竜骨の骨組みなど意味をなさないらしい。

 沈みゆく撃龍船から零れるようにして人が落ちていく。アストレアもそれを見たのか、言葉を失っている。無理もない。あまりにも唐突に事が進みすぎている。

 

 あの船に乗っていたハンターは無事だろうか。ほとんど不意打ちに近いかたちだったはずだ。彼らが動かなければ救助もままならない。

 手助けに行くべきか。エルタが船長に提案しようとしたところに、どたどたとこちらへ走ってくる音が聞こえた。現れたのは、大剣を担いでラギアシリーズを着込んだソナタだ。

 

「船長。私を海に出させてください」

「……目的は」

「今の攻撃の正体を探ってきます。できるなら、注意を引き付けます」

 

 船長とソナタの視線が交錯する。判断は迅速だった。

 

「頼んだ。正体を確かめてきてくれ」

 

 ソナタはこの海域での最高戦力と言っても過言ではない。そんな彼女をこの船の守り人として留まらせずに索敵に向かわせるのは、勇気のいる行動だったはずだ。

 事前の打ち合わせで彼女が潜水を得意とすることを船長は知っていたのだろう。深くまで潜っての活動は海のハンターでも難しい。今回の状況にソナタは適している。

 

「ありがとうございます。十分以上分経ってこの攻撃が止まずに私が戻ってこなかったら、そのときは私に構わず撤退してください」

 

 ソナタはそう言って踵を返し、船の縁からそのまま海に飛び込んだ。この状況下でもお手本のような飛び込みだ。

 そのまま潜っていくかと思いきや、彼女はすぐに海面から顔を出して「エル君!」と大声で言った。船の縁に駆け寄ったエルタは聞こえている、と合図を送る。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()……! みんなにそれを伝えて!」

 

 ソナタはそれだけをエルタに言うと、とぷんと海中に姿を消した。このまま一気に自らのいけるところまで潜っていくのだろう。命綱などつけようとする素振りすらなかった。もしこの攻撃の主を見つけたなら、本当にその場で注意を引き付けるつもりか。

 そして、彼女の言っていた海の異変。エルタは船長にそのままを伝えた。ほとんどなかったらしいこの船の被害報告を受けていた船長は、その言葉に唸る。

 

「ついさっき、嬢ちゃんから海の色が赤くなっていたことを聞いた。それと関係がありそうだな……」

「……この古龍が、操る力」

「そう考えるのが妥当か。ちっ、相変わらず規格外な生き物だ」

 

 どうっ、と。今度は音の衝撃のみが響いた。それだけでもびりびりと肌を打つほどの振動だ。

 次いで大波が押し寄せる。船が転覆するほどではないにしろ、ぐらりと船体が上下に揺らいだ。

 三撃目。位置は遠い。ここからでは確認しづらいが、標的は先頭の旗艦か。どうやら直撃はしていないようだ。先の被害を受けて、各々の船は独自に回避行動を取り始めていた。

 しかし、目の前の沈もうとしている撃龍船は、今の大波を受けてその勢いを加速させた。いよいよその腹部が裂けて、へし折れようとしている。

 

「……船長、この船には小型船がいくつか用意されていたはず。あの船の乗組員たちの救助に行かせてください」

「…………」

 

 エルタに請われ、彼は沈黙する。

 

「彼らはここで捨て置くには惜しい人材だ。回収する価値はあります」

「──ッ」

 

 エルタは損得で話を進める。隣にいたアストレアがエルタの方を見て何か言いたげにしたが、見損なうならそれで構わないと思った。実際にエルタはそうとしか思っていないのだから。

 言っている間に四つ目の爆発が、再び旗艦を狙った位置で起こる。今のところどうにか逃れられているようだが、このままでは直撃を受けるのも時間の問題だろう。

 

「……わかった。行ってこい。だが、この船は止めない。あの船を中心に一回り円を描く。その間にできるだけ無事なやつを拾ってこい」

 

 この船の撤退提案の信号弾は彼らも見たはずだ。一方的な攻撃を受けているこの状況で下手にここに留まるほど愚かではないはず。

 だが、先ほどのソナタの行動で、この船は少なくとも十数分この海域から離れることはできない。逃げ惑うようにしつつ、彼女が帰還するか否かを確かめなければならない。故にこその船長の指示だと言えた。

 

「了解」

 

 エルタはそう短く返してその場で軽く屈伸し、異変が起こっているらしい海に飛び込む覚悟をした。

 

「エル!」

 

 その傍で名前を呼ばれる。エルタに声をかけた少女はほんの少し逡巡しつつもエルタの瞳を見た。

 

「わたしも、ついていく」

「……重傷者は助けない。見捨てる。それでもいいのなら」

「……!」

 

 エルタが淡々と放った言葉にぐっと言葉を詰まらせる彼女は、しかしその言葉にも頷いてみせた。恐らく、自分が何もせずに船に留まっていることを恐れたのだろう。

 エルタは船長の方に視線を向ける。彼は僅かに頷きを返した。

 

「……わかった。行こう」

 

 エルタの返答に対してアストレアはぐっと唇を結んで顔を上げた。

 それから彼らはすぐに海へと飛び込む。今は問答している時間すら惜しい。

 

「!?」

「これは……」

 

 どぼんと海に飛び込んだエルタとアストレアが即座に実感したのは、「海が熱くなっている」というソナタの言葉だった。

 まるで温泉に浸かってでもいるかのような、明らかに異常な熱さだ。海面からは湯気が立ち昇っているのを見て、その感覚が錯覚でないことを悟った。

 ラギアクルスが海面近くで放電したときには周囲の海水が沸騰するらしいが、明らかにそういった現象とは異質の、この大海そのものが熱せられているような底の知れなさがある。

 

 ああ、とエルタは心のどこかで納得した。

 相手は古龍だ。間違いない。この類はそれ以外にありえない。

 

 次いで、ざぱんっという音と共に小型船が海に投げ入れられる。撃龍船のお供として定番の二人乗り程度の船だ。

 小型船へと乗り込んだエルタとアストレアは互いの顔を見て頷き合い、炎上する撃龍船の方へ向けて漕ぎ出した

 

 

 

 

 

「……こちら、三番船のハンターだ! 助けに来た!」

 

 沈みゆく撃龍船の近くまで辿り着いたエルタは船の上に立ち上がって大声を上げた。

 周囲は惨状と言っても差し支えない。炎上する船が肌をちりちりと焼き、砕けた木の破片や布が周囲に漂っている。

 おーいという声のした方向を見れば、波間からエルタたちの乗っている小型船とそれに乗り込んだ人々が見えた。四人が乗り込んでいて明らかに定員を超えているが、先の大波にも何とか持ちこたえているらしい。

 

「救難感謝する……!」

「ほかにぶじなひとは!?」

「木板にしがみついているやつがまだ何人かいる。これしか船を出せなくて、これ以上は救出できない……!」

 

 白い身体と防具を晒したアストレアの姿に若干驚いた様子の彼らは、しかしすぐに現状を説明する。

 四人とも頭部や腹部から無視できない量の血を流していたが、手持ちの回復薬などで応急処置に努めているようだった。あれでも軽症の方なのだろう。

 

「ハンターたちは!」

「一人を除いては無事だ! 俺らの後ろにいる」

 

 彼らの指さす方向を見れば、防具を身に纏ったハンターたち三人が水面から顔を出しながら手を振った。船は彼らに譲ったということか。

 ひとりは行方不明のままだという。アストレアはそれを聞いて悲痛な顔をし海に潜ろうとするが、エルタはそれを諫めた。

 

「恐らく撃龍船の中だ。何らかの理由で脱出できなかった。それを助け出す余裕はない」

 

 エルタは冷酷に接し続けた。実際にその通りだ。つい先ほど船腹が二つに裂け、五割近くが沈んだ船に近寄ることなどできない。周囲の海水もかき混ぜられて濁っている。

 アストレアはあまり他人に興味を抱く性質ではなかったはず。けれど、この状況下で見捨てるという判断を冷静に下せるほど無関心ではない。ぎゅっと目をつむり、首を振って、それでも毅然とエルタの方を見た。

 

「エル、まだたすけられてない人たちをさがして。わたしが泳いでつれてくる」

「分かった」

 

 エルタは今のアストレアの言葉をそのまま船員たちに伝え、固まってこの場に留まっているように指示を出して船を漕ぎ出した。

 立ち泳ぎで凌いでいたり、こちらへと助けを求めている人を、身長の高いエルタが見つけ出す。アストレアがその人を誘導し、船に乗せる。十分という限られた時間の中で、それを何度も繰り返した。

 途中、血まみれで木の切れ端にしがみついたまま意識を失っている船員もいた。エルタたちはそれを見捨てた。アストレアが辛そうな表情をしているのを見て、心に傷を負ってしまっているのではないかとエルタは連れてきたことを少しだけ後悔し、けれどそれは彼女の決断によるものだ。少しでも可能性のある命を救い出すことに努めた。

 

 

 

 

 

 十人。それが集められた人々の数だ。もともと乗っていた人の数をアストレアは知らないが、エルタは知っている。()()()()()()()()()()()。しかし、エルタはそれを彼女に告げなかった。

 海の向こうを見やる。彼らの撃龍船はもうほとんど沈んでしまった。そこから右を見ればこちらに腹を向けて航行するエルタたちの乗っていた船が見えた。

 

 救出活動を始めてすぐに、橙色の信号弾を旗艦が打ち上げるのをエルタたちは見ていた。

 撤退指示。未だにこの攻撃の主の姿は見えず、このままでは一方的に消耗してしまう。そう判断した作戦司令の人々が、全船に迎撃拠点への退避を命令する。

 エルタたちの船は実質的に殿の役となっていた。エルタたちとソナタの帰還を待っているのだ。他の船は既に帆を張って退避を始めている。

 

 エルタたちを待っていた小型船に並び、エルタは帰還に向けて指示を出す。

 

「これから、こちらに付いて北に進んでくれ。撃龍船は止まることなくすれ違ったときに引き上げをする────」

 

 

 

 背後で轟音が響いて、その数秒後にエルタたちは巨大な波に飲まれていた。

 

「────ッ!」

 

 湯気立つ海水が覆い被さる。()()。ひっくり返って平衡感覚が狂う中、口を閉じて防御の体制を取る。

 激しく身体が揺さぶられる感覚は長く続かなかった。目を開けても赤い濁りが視界を覆うのみで、その中で垣間見える水面のきらめきを目指して泳ぎ、顔を出す。

 

 大波によってうねる海。

 小型船は一隻が転覆してしまっていた。もう一隻も一回転したのか浸水が酷い。

 間を置かずしてアストレアを含めたハンターたち、船員たちが水面に顔を出した。そして辺りを見渡し、その表情を歪める。

 

「くそっ……!」

 

 嘆きにも似た悪態が誰かの口から漏れ出た。

 

 撃龍船にとどめを刺された。かろうじてかたちが見えていたはずのそこは火の海になってしまっている。

 その次の爆発が、逃げようとしていた遊撃役の撃龍船に直撃してしまっていた。船尾部分が燃え立ち、ゆっくりとその身を傾かせていく。エルタたちに救出しに行く余裕はもうない。どうしようもなく、彼らは見捨てられる。

 

 もう議論の余地はない。あれは火属性の攻撃だ。あの爆発そのものが火を熾す。だが、この海中からどうやって。

 何よりも、ソナタは。未だこうやって爆発が起こり続けているということは、相手は恐らく彼女の相手をしていない。つまり彼女は、この攻撃の主を見つけられていないのか、それとも──。

 

 

 

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今回かの龍が繰り出している技はオリジナルのものです。爆発性の泡。海底火山のようなものですね。


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>>>> 目覚め(4)

 

 エルタたちの乗る撃龍船へと避難しようとしていた十人のうち、先の大波で二人の姿が見えなくなっていた。もみくちゃにされた際に海水を飲み込んでしまったか、小型船が転覆したときに頭を打ってしまったのか。

 

 傷が開いたのか呻いている者もいる。しかし、もたもたしている時間はない。

 エルタは生き残った八人のうちの五人を一艘の小型船に乗せ、自分を含むハンターたちを泳がせて、撃龍船の進路上を目指した。

 いざ泳ぎ始めようというところで、沈没した撃龍船に乗っていたハンマー使いのハンターが他のハンターたちを呼び止める。彼が水中用のポーチから取り出したのは、瓶入りの黄色の薬品だった。

 

「強走薬だ。本当は戦闘用に取っておきたかったんだが……今はそうも言ってられないからな」

 

 それが五本。ちょうど泳ぐ予定だった五人のハンターに一本ずつ配れる。エルタとアストレアは有難くそれを受け取って、水面から顔を出して海水を一緒に飲まないようにしながらそれを一息に煽る。

 強走薬は単純に疲れにくくなる薬だ。息が切れるまでの時間に余裕ができる。疲れをごまかしているのではなく、特定のモンスターから取れる狂走エキスに疲れを肩代わりしてもらっているというべきだろう。

 

 散発的な爆発とそれに伴う大波に苦戦しながらも、エルタたちは小型船に追随してどうにか自分たちの乗っていた撃龍船が通りかかる地点まで一息に泳ぎ切った。

 すると、ちょうど彼らの傍でぷはっという音と共に何者かが水面から顔を出す。

 

「ソナタ!」

「エル君、それにアスティ! やっぱりあなたたちだったんだね」

 

 青色の兜に橙色が縁取るラギアヘルム。潜水から戻ってきたらしいソナタにアストレアが抱き着いた。相当心配していたようだ。

 波間に漂いながらも、お互いの安否を確認する。ソナタは沈んでいく撃龍船と小型船の影を目印にここまで戻ってきたらしい。

 

「戻ってきたということは、接触できなかったのか」

「うん。やっぱりかなり深くて。わぷ。あと、ちょっと本格的に対策が必要な気がしたから戻ってきたよ」

「対策?」

「詳しい話はあとから! 船が来るよ!」

 

 振り向けば撃龍船が迫っていた。それなりの速さで進んではいるが、小型船に乗った人々が必死に手を振っているおかげで気付いてくれているようだ。

 すれ違いざまに投げ渡されるいくつもの浮き輪付きのロープ。それらをしっかりと手に取り、エルタは甲板までよじ登った。他のハンターや船員たちも自ら登ってくるなり引き上げられるなりして船に乗り込む。

 

 甲板に足をつけるや否や座り込んでしまう者もいたが、エルタはすぐに海の様子を見た。水面から顔を出すのと、船の上から見るのとでは視点の高さ、手に入る情報量が違う。

 

 海の赤色がより深くなっている。これ程であれば朝焼けと見間違うことはないが、水面から立ち昇る湯気が朝霧のようにも見えた。単純に海が熱くなっているからであり、本来朝霧が立ち込めるような静謐さなどどこにもない。

 少し視点を放せば今エルタたちが救出しに行った人々の乗っていた撃龍船、二番船の残骸が見えた。空へと立ち昇る煙は徐々に薄く弱くなりつつある。

 そして、そこから左方向のさらに遠くに視線を向ければ、今まさに黒煙を立ち昇らせて沈没していく遊撃役の撃龍船、五番船の姿がある。旗艦の出した撤退指示を受けて、進路を変更し退避しようとしたところで爆発の直撃を受けたのだ。

 

 今この瞬間に、この船があれと同じ結末を迎えないとも限らない。救出に行けば、さらにその確率は跳ね上がるだろう。二番船が二度の攻撃を受けたことを考えれば、あの船にも同じような制裁が下されるはず。

 二次被害だけは絶対にあってはならない。これ以上撃龍船を失うわけにはいかない。故に五番船は見捨てる。一刻も早くこの海域から離脱する。この船の進み方を見れば、船長のそんな意思は聞かずとも分かった。

 彼らが小型船を死守し、近くの島や迎撃拠点まで辿り着くことを願うしかない。エルタと同じように五番船の様子を見ていた船員たちが「くそぉっ……!」と歯ぎしりをするように呟くのを傍目に、エルタはソナタの話を聞くために踵を返した。

 

 

 

 

 

「前回爆発地点との距離、現在約五百メートル!」

「順調に離れてるな……よし、舵を真っすぐに取れ! 帆を全開で張れ! 一気に旗艦に追いつくぞ!」

 

 波に揺れる船の上で、船員の一人が測距計を必死に操っている。彼からの知らせを受けた船長は舵取りと船員たちに指示を出し、しばらくしてふぅっと息を吐いた。

 

「油断はまだできんが……ソナタ嬢の言うことを信じるなら、これでいくらか余裕はできるはずだ。空気があったまってでたらめな風が吹き始めてるが、なんとかそれを利用して離脱するしかないな」

 

 その言葉にソナタが頷く。エルタとアストレアもその場にいた。他のハンターたちは助け出せなかった仲間のことを涙ながらに悔やんでいたが、その悲しみを紛らわすためかもしれない。船員たちの手伝いに精を出していた。

 

「それで、だ。詳しい話を聞かせてくれ」

「はい、私たちの船を襲った爆発ですが、これは、ざっくりと言えば泡です」

「あわ……?」

 

 アストレアが怪訝な顔で首を傾げる。エルタもそれだけではよく分からなかった。

 

「うん。おっきな泡。人くらいならすっぽり入るくらいの。でも、その中にあったのはどろどろに渦巻いて水みたいになった……赤い空気だったよ」

 

 それは、暗い深海にあっても薄ぼんやりと光っていたのだという。それがゆらゆらと海面へと昇っていくのをソナタは何度か見たらしい。

 

「どこかで聞いたことがあるな。んーと、タマミツネの……二つ名、だったか? 燃え盛る泡を吐くという……」

「タマミツネは知ってるけど、二つ名は知らないな……エル君は?」

 

 ソナタの問いにエルタも首を横に振る。名前こそ聞いたことはあるが、泡狐竜は渓流を住処としている。エルタとソナタたちとはやや関りが薄い存在だった。

 ただ、そういう前例があったとしてもだ。アストレアが小さく呟く。

 

「海の中で、きえない火……」

「にわかには信じがたい。が、それが古龍だな。船が燃え上がるのも頷ける話だ」

「……ひょっとしたら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のかもしれませんね」

「……はは、流石にそれはありえんと言ってしまいたいがな……」

 

 ソナタの零した言葉に、船長は乾いた笑いを返した。

 常識の範囲外のことをやってのける。それが古龍。エルタたちは学者ではない。今起こっている事態を飲み込まないことには話が前へと進まない。

 エルタはグラビモスの火炎ガスのような、あれが凶悪なものとなり、さらに強引に密閉されて人間ほどの大きさの泡となって海中に浮かぶ光景を想像した。

 

 アストレアの海の中で消えない火とは言い得て妙だ。それが現状起こりえているとして、それが昇っていった果てに、海面から急に解き放たれたとしたら。

 水蒸気爆発という現象をエルタは思い出した。火山から噴き出た溶岩が海に一気に流れ込んだときなどに起こる激しい爆発だ。凄まじく高温かつ高威力で、ハンターであってももろに受けては命の保証はない。

 

 そのとき、後方から轟音が響いた。天高く水柱と水蒸気が立ち上がる。

 爆発は確実に遠ざかっている。だが、明確に追ってきている。船員たちは身を竦め、震えで手に持ったものを落としてしまう者もいた。

 

「完全に捕捉されてるな。振り切れるとは思っておかない方がよさそうだ」

「たぶん、あっちの方が遅いです。このまま速度を緩めなければ、迎撃拠点で待ち構えるくらいのことはきっと」

「見失うよりはまし、か。生きた心地はしないが、それも成し遂げねばならんことの一つだ」

 

 これ以上の損害を出さずに迎撃拠点まで逃げ切ること。さらにかの龍を迎撃拠点まで誘導しきること。殿(しんがり)のこの船が双方に大きな役割を担っている。

 

「……ソナタ、他に分かったことはあるか」

「うん。おおまかにあとふたつ。ひとつは、()()()()()()()()()()()。鈍い地響きみたいな音が海の底から聞こえてきたから間違いないと思う」

「その規模の地響きが聞こえるってことは、少なくとも老山龍(ラオシャンロン)クラスか。でかいな……」

「それともうひとつ。たぶん、あれに近づけは近づくほど海が熱くなる。私が引き返してきたのは、あのまま進んで鉢合わせても、熱さにやられてすぐに死んでいただろうから」

 

 ソナタは困ったような笑みを浮かべた。歴戦の狩人が、その自らの経験をも凌駕する存在について語るときのような、そんな面持ちだ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この赤い海は、まだまだ序の口に過ぎないと。そう告げられたかのようだった。

 

「人間が近づけるのか、それは……?」

「分かりません。十分な熱対策をして、実際に相対してみるまでは」

 

 船長の呟きももっともだ。それは、人が立ち向かう以前の問題のように思えるだろう。

 けれど、エルタもソナタと同感だった。まだ誰もその姿を拝んでもいない。実際に肉薄したときにどのようなことが起こるかはまだ何も分からない。その前に十分に有益な情報を手に入れてきたソナタを称えるべきだ。

 

「ひとまずは、船隊への合流と撤退を優先しましょう。そのうち水深も浅くなってくるはず。油断だけは決してしないで」

「おうよ。こちとらさんざん肝を冷やしたんだ。爆発が引っ込んでも油断なんてできるもんか」

 

 ソナタが明かした爆発の正体が正真正銘の泡ならば、斜め方向に放つ、といったことができないはずだ。エルタたちの知る限り、水中の泡は真っすぐに昇っていくことしかできない。つまり、かの爆発で相手の居場所をおおよそ把握することができる。

 あちらが全速力を出しているかはともかく、爆発が遠ざかっているということは、こちらの進む速さがあちらを上回っているということだ。

 やがてかの龍もそのことに気付くだろう。これ以上かく乱することはできないと悟ったとき、爆発は止むはずだ。

 それでも、かの龍は追ってくるか。それに答えたのがアストレアだった。

 

「追いかけてくる。もうめざめてしまったから。またねむろうだなんて、思ってない」

「ふうむ……。一発目を察知した嬢ちゃんの言とあれば、信じるに値する。千里眼の薬とやらを飲めばその辺りの感覚が鋭くなると聞くが……嬢ちゃんの持つ天性の才能かね」

 

 船長の信頼にアストレアはやや戸惑っているようだったが、彼はそんな彼女の返事を待たずして船の指揮に戻った。

 

 現状、平穏など一切ない。不気味に赤く染まる海が人々の不安を増長させる。

 爆発が止んだとしても、かの龍が他に遠距離攻撃手段を持っていないとは限らない。いや、エルタとソナタは経験則的に断言できるが、ここまでの影響力を持つ古龍の遠距離攻撃手段がこれだけのはずがない。未知の攻撃への警戒はずっと張り続けなければならない。

 

 エルタたちは各自の持ち場に戻り、精神的な疲労が見える二番船のハンターたちに休息を促して船員たちの手伝いを引き継いだ。

 

 

 

 しばらくして、爆発は収まった。

 海の赤色化は拡大の一途を辿っている。帆柱に備え付けられた見張り台から見渡しても、水平線がかろうじて青みが残っているか、という程度になりつつあった。

 さらに、水面からの湯気も立ち昇り続けている。まるで、赤い霧の上を船が走っているかのようだった。

 それに伴って晴れていたはずの空に厚い雲が立ち込め始めている。太陽が隠され、雨が降り始めるのも時間の問題だろう。

 

 エルタはアストレアが水平線の向こうに視線をやって佇んでいるのを見つけた。

 

「アスティ」

「もうひとつの、しずんでた船……見えなくなった」

「……」

「たすけには行けなかったから……にげられるように、いのってる」

「……ああ」

 

 立ち上る煙すらも見えなくなった、二隻の船。

 初めての集団戦がこの結果だ。割り切れないことの方が多いはず。しかしアストレアはその割り切れなさをも飲み込んで小さな祈りを贈る。人の死への感性が薄れてしまったエルタとは違う、強かな立ち向かい方だ。

 

 二言三言言葉を交わし、エルタはその場を離れる。先ほどソナタも彼女と話していた。付き合いの長いソナタの方が彼女を落ち着かせるのには向くだろう。多く言葉を交わす必要はない。

 だが、その心意気で今からの戦いを直視することはできるのか。

 

 いや、それこそ願うべきことか、と思い返す。

 戦いの趨勢(すうせい)など、まだ誰も分からないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 迎撃拠点へと辿り着いた撃龍船は、四隻。

 海の異常は船隊が戻ってくる前から確認されていて、作戦開始に向けての準備は整っていた。

 ソナタは作戦総司令のシェーレイに自らが見てきたことを伝え、それをもとに急ピッチで部隊編成が整えられていく。

 あとは試作型巨龍砲の完成を待つのみ。しかし、想定以上に組み立てに時間がかかっているらしく、その前にかの龍が現れるだろうことは明らかだった。

 

 つまり、迎撃拠点にいるハンターや砲兵たちの使命は、巨龍砲を守り通しながらその完成までここでかの龍を足止めすることとなる。

 前線の緊張は、否が応にも高まりつつあった。

 

 

 

「あ、雨だ」

 

 そう言ってソナタが顔を拭い、手のひらを広げてみればぽつぽつと水滴が撥ねた。やがて、さあっと空から線のような細い雨が降ってくる。

 

「これで、海の水が少しでも温くなればいいがな」

「気休めにもならなさそうだぞ。この湯気が和らぐ気配もない」

 

 見知らぬハンターたちが軽口を交わしている。しかしそれは、この場にいる数多くの人々の言葉の代弁でもあった。

 彼らが立っているのは湾岸部の波打ち際。いつもであれば何の変哲もない海であろうそこは、今は火山地帯のような光景を成していた。

 

 海面は至る所でこぽ、こぽと不気味な泡音を立てている。

 立ち昇る湯気は留まることを知らず、視界が悪い。濃霧の中にいるのとほとんど変わりない状況だった。

 もはや青い風景などどこにもない。空は雲に覆われ、その雲は海の赤色を写し取って夕焼けのように赤みを宿す。雲間からいくつもの光芒が射し込む様はある意味、幻想的ですらあった。

 ここより沖合に建つ灯台にも火が灯されている。それはまるで、祭壇に捧げられた炎のように映った。

 

 そして遥か彼方から、少しずつ大きくなり始めていた地響き。もう気配を隠すこともしない。

 それが、迫る。

 

「……ソナタ、エル」

「……ああ。分かっている」

「来るね」

 

 角笛の音が鳴り響いた。

 高台から、海面に変化があったことを知らせるもの。

 ハンターたちは多方面に散って岩陰に隠れながら、いざというときに備える。

 

 ここにいる人々が誰一人として見たことのない古龍。伝説の黒龍。

 これ以上ないというほどの物量を前に、どのような出方を見せるのか。

 

 

 

 雨音、波音、地響き。

 異音を聞き逃すまいと誰もが手を止め、口を閉じ、痛いほどの沈黙を経て。

 

 

 

 さばぁっ、と。ソレは湯気の中から姿を現した。

 否、()()()()()()

 

 いち早くその姿を拝んだのは、高所で双眼鏡を構えていた兵員たちだ。

 

「でた……! これは、大きい!」

「湯気で全体像がよく見えない! 湯気の範囲外で目視できるのは……できる、のは」

 

 いち早くその姿かたちを伝えようとした彼は、そこで言葉を失った。

 

 数十メートルはあるだろう湯気の濃霧から抜き出た三本の塔。

 中心のそれは頭部か。岩石そのもののように黒く、不気味な紅い腺が走る。

 それはまだ、いい。許容できる。ただ、その両隣の塔は。

 

 ぼご、と真っ赤な液体が零れ出た。それが海面に落ちた瞬間、激しい爆発音とともに大量の蒸気を発する。

 それがいくつも、いくつも、途切れることなく。それが呼吸であるかのように。生物の範疇かと思われた頭部も、その頂部……角のような部位から絶え間なく零れ落ちる。

 水蒸気爆発に伴う蒸気が、再びその姿を包み込んでいく。

 

「あ、あぁ…………? ()()()……()()()?」

 

 

 

 煉黒龍グラン・ミラオス。

 

 それはかつて、人に敗れた。

 旧き古き、神のかたち。

 

 

 

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※ 本作のグラン・ミラオスは原作より二回り程大きいものとする。


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第4節 古きカミのカタチ
> 古きカミのカタチ(1)


 

 

 物見櫓から降りてきたその兵士は、真っ青にした顔を両手で覆い、尋常でないほどに震えていた。

 

「どうした、しっかりしろ! 何を見たんだ!?」

「さ、三本の塔……燃え盛る塔を、見ました」

「誰が妄想を語れと言った! もっと的確に話せ!」

「み、見ればわかる! 見ればわかります! あれは生物なんかじゃない!! あれは、あれは化け物だ……!」

 

 半ば正気を失っている。話を聞いていた彼の上官は舌打ちした。

 ここはかの恐ろしきシュレイドではない。黒龍伝説でもあるまいに、その類の恐怖を増長させてしまったのだろう。

 

「他にやつの姿を目視できたものは!」

「それが、なぜか蒸気に覆われて姿が隠されていて……」

「それでも影ぐらいは見えるだろう! 出現の知らせだけ先に出しておけ。砲兵たちが混乱しかねん!」

 

 物見櫓担当の兵士たちが慌ただしく走り回る。地響きのような足音だけが断続的に伝っていた。

 

 そんな中、作戦総司令のシェーレイは、また別の高台から双眼鏡を持って海の様子を見ていた。傍らに立つ護衛役のハンター、ガルムに話しかける。

 

「お前はあの姿が見えたか?」

「はい」

「どことなく熔山龍を彷彿とさせる外殻だ。やはり砲撃を主体に攻めるべきだろう。……ただ、問題はこの湿度だ」

 

 彼は自らの手を握った。ぐっと握りしめれば感じられる水気。緊張による手汗も否定できないが、その多くはこの湿気によるものだ。

 

「雨季の密林でもこうはならん。火薬類も早々に使っていかねば……砲撃開始の信号弾を。こちらから見えないのであれば、あちらからも見えんはずだからな」

「……かしこまりました」

 

 シェーレイの身の丈を優に超える大男のガルムは、わずかな沈黙のあと、恭しく礼を返した。

 

 

 

 しゅうっと空に信号弾が上がる。上空で弾けた光の色を見て、エルタが呟いた。

 

「……砲撃開始、それ以外の者は待機」

「順当かな。今小船で近づいても誤射されるかもしれないし」

「…………」

 

 岩陰に身を潜めるエルタとソナタ、アストレアの三人。そのうちの二人はいくらか冷静を保てているが、一人はやや息を浅くしていた。

 

「……落ち着いて、って言っても無理があるよね。私も最初はそうだったから、慣れるしかないかも。深呼吸を心がけて」

 

 ソナタがアストレアの身体をそっと抱きしめる。

 地響きは既に地震としてはっきり感じられる程になっている。周囲は温泉の如く湯気に覆われ、そして何より、聞こえるのだ。異様な音が。

 溶岩が零れ、海に落ち、大量の湯気を吐き出させる音。それが、本当にかの龍がすぐ近くに存在しているのだと。その気配で踏み潰すようにして伝えてくる。

 

 圧倒的な存在感。アストレアはそれに当てられてしまっているのだ。

 並のハンターでは過呼吸に陥るか、腰を抜かしてもおかしくはない。アストレアは古龍と直接相対したことがないらしいが、だとすれば驚嘆すべき胆力だった。

 

 エルタはそんな二人を傍目に見つつ、岩陰から海の様子をうかがう。

 湯気の濃霧の中にかろうじて見える黒い影。あれがグラン・ミラオスなのか。距離感すらもはや定かではないが、数百メートルは離れているはず。それでいてこの威圧力ならば……エルタは一般の兵士たちがまともに立っていられるのか心配だった。

 

「海上調査隊の人たちは何とか大丈夫……なんじゃないかな。ゾラ・マグダラオスの撃退経験があるって言ってたから。そろそろ、砲撃が始まるはず」

 

 エルタと同じ考えを抱いたらしいソナタがそう言うや否や、沿岸部から立て続けに砲撃音が響いてきた。

 その豪速を示すかのように、濃霧に孔をあけて飛んでゆく砲弾。距離がまともに測れていないためだろう。その多くは水柱を立てるのみとなったが……。

 そのうちの一つが、霧の中の影に紅の花を咲かせた。

 

 湾に沿って散っていた砲台場のひとつが歓声に沸く。

 兵士たちは緊張で強張った顔を見合わせて喜色を浮かべた。

 

「あ、当たった!」

「今当たった大砲をもとに照準をやり直せ! 龍の気に当てられていないやつだけでいい。手早く次弾を撃ち込め……!」

 

 数十秒の間をおいて、二度目の一斉砲撃が始まった。火薬が炸裂する音と共に、空を駆ける砲弾。射程はせいぜい数百メートルといったところだが、その威力は十数発で大型モンスターすらも沈め得るほどに強力だ。

 どん、どどん、と次々と紅が踊る。命中率は相変わらず低いが、数撃てば当たる戦法を取っているらしい。牽制のためとはいえ、潤沢な物資が揃っているからこそできる芸当だ。

 

 そんな中で、霧の中から低い呻き声が響いたのを、勘の鋭いものは聞き逃さなかった。

 

「怯んだ! 効いている!」

「老山龍と同じでただ歩くだけの龍なのか……?」

「ただ、この地震はかなり厄介だな。いつ地崩れが起こってもおかしくないぞ。気をつけ────ごはっ」

 

 その瞬間。

 

 言葉を交わしていた兵士たちの身体が多量のつぶてと共に拉げる。

 次々と砲弾を撃ち込んでいた砲撃場の一部が、地面を抉るほどの衝撃と共に吹き飛んだ。

 周囲にあった砲弾や爆弾の火薬が引火して、大爆発を引き起こしたのだ。

 

「あ、ああぁぁ……!?」

「た、退避! たい────」

 

 そして、それが立て続けに二度、三度と繰り返された。

 

 十門近くあった砲台とバリスタは、ほぼ全てが残骸になった。

 爆心地にいた十数名の亡骸は見るも無残で。その周囲にいた人々も、腹や千切れた四肢から夥しい量の血を流して、断末魔のような悲鳴と共に倒れ伏す。

 

 そしてやがて、何かが崩れる音と焼ける音だけがその場に残った。

 たったの十数秒で砲撃場のひとつを壊滅させた主犯は、再び進行を開始したのだった。

 

 

 

 件の砲撃場に近い、エルタとはまた別の持ち場にいたハンターたちが呻く。

 

()()()()()()()()()()……! あの、図体で!」

「ああいうやつは歩くだけで精一杯なんじゃなかったのか!?」

「バカが。調査船団の有様を見りゃ分かんだろうか! あれはとんでもないブレスをもっていやがる!」

「ダメだ、砲撃場の連中、ほとんど死んでる……!」

「ちっ…………総司令官様よ。今の見てたか? こりゃあ、ハンターの領分だぜ……!」

 

 玄武岩の崖の岩棚に構えられた作戦本部を見やって、憎々しげにそう呟いたそのハンターはしかし、対岸から砲撃音が響いたのを見て目を剥いた。

 

「んなっ……バカか!? ここの有様を見てないのか!?」

「いや……! 見えてないんだ! 対岸の方はこっちに気付いてない!」

 

 かの龍はブレスを放った反動か、対岸側に向かって数歩動いたらしい。それで射程圏内に入ったと判断した対岸の砲台場が、一斉に砲撃をしているのだ。

 

 そして、かの龍の次の反撃は早かった。今度は自らにぶち当たる砲弾に構うこともしない。

 砲弾が着弾したときとは異なる紅蓮の炎。それを纏った溶岩の塊のようなブレスが、かの龍の口らしき部分から放たれる。

 その数秒後に響き渡った轟音を聞けば、対岸の惨状は見えずとも分かった。

 

 その後に訪れた沈黙を待つことなく、蒸気に包まれたかの龍は歩き続ける。大地を揺らがせるその一歩は立つものの足を竦ませ、やや鮮明になった影の姿は、人々から徐々に正気を奪い去っていく。

 

 

 

 

 

 二回目の反撃を受けた砲撃場、エルタたちはそのほぼ真下に構えていた。

 爆発で地形が崩れたのか、がらがらと音を立てて頭上から砲筒やバリスタの弾、丸太や大岩までもが落ちてくる。

 

「走って! 足を止めたらだめだよ!」

「でも、あそこにいたひとたちが……!」

「それは分かるけど、今は近寄れない! ──アスティッ!!」

 

 切迫したソナタの声。後ろを振り返っていたアストレアは坂道を転がってきた岩に気付かない。

 ソナタがアストレアに飛び掛かり、咄嗟に大剣を構える。直後に衝突した岩はしかし、ソナタの右肩を鎧越しに激しく打ち据えた。

 

「ぐっ……づぅ……!」

 

 ソナタの右手の力が抜け、大剣を取り落としかる。それでも肩ごとタックルする勢いで岩を押しのけて、しかしそれで一安心とはいかなかった。

 立て続けにいくつもの丸太が転がり落ちてくる。ソナタは再度身構えて──エルタがその前に立った。

 

 穿龍棍は手に持ったまま駆けることができる。武器出しの手間を省き、最短の足取りでソナタたちと丸太との間に割って入ったエルタは、迫りくる丸太の底に穿龍棍を滑り込ませ、そして跳ね上げる。

 あれほどの勢いと重量のある物体に、真正面から拮抗を選んではいけない。力の方向を逸らし、受け流す。跳ね上がった勢いでエルタの頭上すれすれを飛び越えていった数本の丸太は、そのまま海中へと飛び込んでいった。

 

「ソナタ! ごめん……!」

「つぅ……だいじょーぶ! 今は、走ろう……!」

 

 右肩を押さえて若干表情を歪めながらも、ソナタはアストレアに笑いかける。

 

「エル君もありがと!」

「ああ。……脱臼ではないな。ただの打ち身か」

「うん。回復薬飲めば、ある程度は治るはず」

 

 そうして言葉を交わしている間にも、霧の中の影は砲撃場へブレスを放ちながら歩みを進めている。エルタは海を垣間見た。ちょうどかの龍と並走しているかたちだ。

 砲撃音は止んでいる、流石に事態を把握したか。しかし、このまま手をこまねいていればかの龍はすぐにシェーレイのいる本部の高台、そして切り札の巨龍砲の間際まで辿り着いてしまう。

 

 そのとき、しゅるしゅると再び信号弾が上がる。煙の色で広範囲に指示を伝える信号弾が指し示したのは。

 

「『ハンター出撃。対象の足止めをせよ』!」

 

 空を見上げたソナタが、指示を的確に読み上げる。

 三人はその後しばらく走り続けて、ようやく足を止めた。崩壊に巻き込まれる心配がほとんどないところまで走り抜けたのだ。

 振り返ってみれば、土煙と炎が立ち込めている。かの龍を集中砲撃する予定だった砲撃場のひとつは、皮肉にもその龍のブレスによって完全に崩れ去っていた。

 あそこには数十人の兵士たちがいたはずだが……その生存は絶望的だろう。もはや、それを弔う余裕すらない。

 

「波打ち際に小型船がいくつかあったはず……あれだね。あれに乗って海に出て、バリスタ用拘束弾で足止めするんだ」

 

 ソナタが目を向けた先には、先日の撃龍船に備え付けてあったような小型船が岸に上げられていた。海に置かなかったのは、高波などで破壊される恐れがあったからか。

 見れば、近くの岸から同じような小舟が沖に向かって出ていっている。エルタたちと同じように待ち伏せしていたハンターたちだろう。霧で視界が悪いが、入り江状の岸から次々と小型船が出ているはずだ。

 

「たしか二人乗りなんだけど、三人でもたぶん大丈夫だと思う。私たちも出遅れないように乗り込もう」

 

 右手を庇うように抑えつつも、ソナタは自身も船に乗り込むつもりのようだった。アストレアが戸惑いがちに声をかける。

 

「でも、ソナタはかたのケガが……」

「……うん。それでも、()()()()()()()

 

 ソナタは霧に覆われた空を見上げた。

 かの龍が一歩を踏み出すたびに、視界がぶれるほどの地揺れが起こる。この様子では巨龍砲の装填も思うようには進まないだろう。それまで何とかこの迎撃拠点で持ちこたえなくてはならない。

 ソナタは決して自らの功績を自慢したりはしない。ただ、自覚はしている。多少無理をしてでも彼女は動かなければならない。この場では、ソナタが恐らく最も場慣れしているハンターだから。

 

「……行こう。霧の中へ」

 

 ソナタの呟きに、アストレアとエルタは頷きを返した。

 そうと決まれば手早く行動に移す。既に出遅れているのだ。先に海に出たハンターたちにできるだけ追いつかなくてはならない。

 

 

 

 

 

 櫂を漕ぐ役はエルタが、帆を動かす役はアストレアが受け持ち、一人が入れるほどの船室でソナタが怪我の治療に専念する。

 胴の防具を脱いだ彼女の右肩は赤く腫れあがっていたが、回復薬を浸した布を巻いてしばらくすれば問題なく動かせそうだった。

 

 陸風でも海風でもないでたらめな風が吹く中で、アストレアが必死に帆を操る。

 多少蛇行しながらも前に進めているのだから、彼女の操縦技術も相当なものだ。面積の大きい帆はかの龍に近づくには危険すぎるように思われたが、今は使わせてもらう他ない。

 

「…………」

 

 櫂で船の方向を微調整しつつ、エルタは防具のグローブを外して手を伸ばし、海面に触れる。

 

 ──熱い。これまでとは比較にならないほどに。しかし、触れただけで火傷をするぎりぎり手前だ。沸騰するまでは至っていないのは不幸中の幸いと言うべきか。

 もし水中戦を繰り広げるとなったとき、この熱さはどれだけの影響を及ぼすのか。エルタに限らず、この場の全てのハンターにとってそこは未知の領域だった。

 

 やがて、かの龍の身体の一部から零れているらしき、溶岩のようなものが起こしている水蒸気爆発の音が鮮明になり始めた。蒸気の中のシルエットも見上げるほどになっている。

 

「……アスティ。帆を下ろしてくれ。もう姿が見える」

 

 アストレアに指示を出し、帆と柱を畳ませる。あとは二人で櫂を漕ぐ。ソナタも治療を終えたのか、船室から出てきた。

 よくよく目を逸らせば、周囲に二、三艘の船がいるのが見える。どうやら接触前に追いつくことができたようだ。

 かの龍はいったん歩くのを止めている。周囲の小型船に勘づいて警戒しているのか。これだけの威圧感を放っておきながら、こんなちっぽけなものに気を引かれるというのもおかしな話だが……。

 

 

 

 そして、そのとき。

 頭上の空から一気に吹き降ろすように。一際強い風が吹いた。

 

「霧が晴れる! ……見えるぞ!」

 

 別の船に乗った誰かが緊張を隠せない声で言う。その場にいた数十人のハンターの視線がその巨大なシルエットに注がれる。

 

 蒸気が薙ぎ払われ、互いを覆い隠すものが今、なくなった。

 

 

 

 まるで、燃え盛る火山そのものを間近で見上げているような。

 

 黒い岩石のような外殻。浮き出た血管のように、紅の筋が張り巡らされている。今肌に感じている熱は、あるいはあれの放射熱によるものなのか。

 海面から出ているのは上半身だけのようだ。今もなお溶岩のような体液を吐き出し続ける、火口にも砲塔にも見える両翼。黒鎧竜の背中をさらに巨大に、凶悪にしたかのような首筋。そして頭部。それらの中心部となる胸部には拍動する、煌々とした光核が渦巻いていた。

 

 これだけでも優に見上げる程だというのに、海中にはさらに下半身が沈んでいるというのか。かの峯山龍もかくやという巨大さだ。

 まさに巨大龍。これが煉黒龍グラン・ミラオス。

 

 その黄金の瞳が、かの龍の周囲に散った数々の船を捉える。そして、牙というよりもむしろ岩石そのもののような、大地の裂け目にも見える口を広げ──かの龍は、()()咆哮した。

 

「────ッ!!」

 

 こ、れは。

 

 これは、まさに。本能に訴えかけてくる類の咆哮だ。

 エルタも、ソナタも。火竜の咆哮を真正面から浴びても怯まなかったアストレアですらも、両手で強く耳を抑えて身体を硬直させる。存在の格の違いというものを叩きつけられる。耳栓の特殊加工を施した防具を身に着けたハンターでも、今のは防げたかどうか。

 

 そしてかの龍は、恐ろしい構えに出た──右斜め前方にいた小型船を明らかに狙う挙動で、口元からどろりと赤い液体を零れさせる。

 硬直から立ち直れている者はまだほとんどいないはず。まともに回避などできるはずがない。……まさか、かの龍はそれを知っているのか。

 

 そして、その重量感溢れる頭部を反動で跳ね上げさせるほどの威力で放たれたブレスは、寸分違うことなくその小型船を撃ち抜いた。

 どおっ、と。撃龍船を一発で沈めたあの爆発に匹敵するほどの水柱が上がる。海面がうねり、波動のように波が伝播する。

 そして、そのあとには、船の残骸どころか何も残されていなかった。泡立つ海面が残るのみだ。

 

「────」

 

 あれは直撃すれば死ぬ。防具越しでもほぼ間違いなく。その場にいた誰もがそう思った。竜のブレスとは比較にならない。

 ただ、そのブレスが直撃する直前、船に乗ってハンター二人は身を投げ出すようにして海に飛び込んでいた。避けられないと悟って海に身を投げ出したのだろう。

 それでも猛烈な衝撃が襲ったはずだが、それで気を失っていなければ、なんとか岸まで泳いで生還できるはずだ。判断が迅速だったのは、この迎撃戦に参加するだけの実力の賜物か。

 

 そして、その様子を黙って見ているほど、その場にいたハンターたちは愚か者ではなかった。

 これだけ巨大な龍でありながら、こちらに明確な敵対反応を示すこと。精度の高く、凄まじい威力のブレスを放つことができること。様々な情報を汲み取って、小型船を走らせる。

 

 かの龍の前方に居座るのは危険すぎる。なるべく側面、あるいは後方へ。

 翼から零れ落ちる赤熱した排出物とそれによって放たれる蒸気を潜り抜けて、十艘近い船がかの龍の背の後ろ側に集った。

 

 こうして見れば、峯山龍の迎撃戦を思い出す。危険度は桁違いだが、これからすることも同じだ。

 かの龍は振り返ることはしなかった。逃げたと思ったか。この先にあるものに意識を割いているのか。それを阻止しなければならない。

 小型船に備え付けられていた唯一の兵器、バリスタをソナタが操る。そこに繋がれているのは幾重にも束ねられた鋼糸のロープだ。

 

 号砲替わりか。別の船に乗っていたガンランス使いのハンターが空砲を撃った。

 

「こういうのはあまり得意じゃないんだけど、ねっ!」

 

 バリスタに備え付けられたスコープを覗き見ながら、ソナタがバリスタの引き金を引く。

 ばしゅっ! という音と共に、瞬く間に消えていくロープ。それを弛ませることなく空中を突き進んだ人の身程もある鉄杭は、かの龍の肩の辺りに突き刺さった。

 

 それが、三本、四本、五本。次々と突き刺さる。翼の砲塔のようになっている部位と背中の外殻は極めて硬質なのか。その鉄杭すらも弾かれていたが、それでも六、七本の鉄杭がかの龍の各部位に突き刺さった。

 そして、鉄杭に括りつけられたロープを介して、船と龍が繋がれる。バリスタ用拘束弾。この手の迎撃戦では欠かせない拘束具だ。

 

 ぎりぎり、とばね動力のロープの巻取り機構が軋みを上げる。小型船の腹をかの龍に対して向けて、できるだけ抗力を保つようにする。

 さらに、先ほどバリスタ用拘束弾の着弾に失敗した小型船からばしゅばしゅとバリスタの弾が放たれる。なるべく肩や頭部など、比較的柔らかそうに見える部位を狙っているようだ。

 またさらに、ボウガンの使い手たちだろう。小さな爆発が立て続けにかの龍の背中を襲う。

 徹甲榴弾か、拡散弾か。まるで効いているようには見えないが、巨大龍戦においてはそれが当たり前だ。注意を引き付けられればそれでよく、内部に衝撃が届いていれば儲けものなのだ。

 

 そして、その思惑はかの龍に届いたらしい。

 猛烈な勢いでロープが引かれる。船が一気に傾きながら進み出し、アストレアがうっと呻いた。

 

「振り返ろうとしてる!」

「この図体では、流石に転回にも時間がかかるか……っ」

 

 ソナタは双眼鏡で観察に徹し、エルタは櫂を海に突き刺して、船を転覆させないように踏ん張る。なるべくかの龍を基点に円を描くように船を走らせるのだ。

 ロープで繋がれていない小型船たちも全力で櫂を漕いで追随する。中にはこのときを見計らって顔面に徹甲榴弾を撃ち込む猛者さえいた。

 

 このまま、かの龍の背中にできる限り居座り続け、こちらに意識を割かせることで時間を稼ぐ。

 どちらかの岸にかの龍が近づけば、地上のバリスタから拘束弾を撃てるようにもなるだろう。そうすればいよいよ本格的な拘束すらも行えるかもしれない。

 

 そう思っていた矢先のことだった。

 

 

 

 がくっ、と。小型船を引いていた凄まじい力から解き放たれる。エルタは危うく海に落ちかけて、アストレアに手を引かれて事なきを得た。

 

「拘束が解かれた!?」

 

 船が途端に失速する。その強引な導きを頼りに船を走らせていたのだから、これから櫂を必死に漕いだところで、かの龍の転回にはもう間に合わない。

 

「グラン・ミラオスの血管みたいな筋がさっきよりも光ってる……」

 

 ソナタはぎり、と歯ぎしりした。

 また蒸気が濃くなり始めているが、ソナタの見る限りでは、()()()()()()()()()()()()()()()()。先ほどと変わらぬかの龍の動きを見れば、拘束力などなかったようなもののようだ。しかし、それを利用しようとしていたハンターたちの間で動揺が広がる。

 

 むせ返るほどの熱気の中で、ソナタの頬を冷汗が伝った。

 

()()()()()()()()()()……体温を一気に上げたんだ!」

 

 そのソナタの言葉に、エルタもアストレアも言葉を失った。

 一度突き刺されば二度と抜けないような返しのついた鉄杭の拘束弾。峯山龍がこの拘束を破るときは強引に潜航したり暴れまわったりしてロープを引き千切るのだが、()()()とは。

 

 それはそのまま、生物の形をした溶鉱炉ではないか。

 

 

 

 紅を超えて、黄金の光を放つ胸核が誰の目にも映る。

 ハンターたちは、グラン・ミラオスの正面に立たせられた。

 

 アァ、と裂けた大地のような口が開き、そこから紅蓮の炎、いや、溶岩が覗く。

 

「────飛び込め!!」

 

 エルタの叫びに応じてソナタたちが赤熱化した海に飛び込むとほぼ同時に、絶大な熱量を誇るブレスが小型船の群れに向かって放たれた。

 

 誰もが望まぬ形で、早すぎる水中戦が幕を上げた。

 

 

 



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>> 古きカミのカタチ(2)


 かの龍の迎撃拠点に選ばれた、釣り鐘状の入り江を持つ孤島。
 玄武岩に覆われた島の頂上は、険しい崖に覆われて、誰の視界にも入らない。
 故に彼女は、そこを選んだ。

「ふふ、始まったわね」

 赤く染まる曇天の空。しとしとと温い雨が降る中で、真っ白な服を着たその少女は背中に手を回して指を組む。

「でもまさか、本当に来てくれるなんて。ふふふっ、なんて健気なのでしょう」

 眼下は火の手が上がり、喧騒に混じって怒号や悲鳴も聞こえてくる。けれど、それとはまったく無縁といった様子でその光景を見下ろす。

「数万年越しの再戦ね。どちらも、がんばってね」

 楽しそうにそう呟く彼女は、微笑みを称えていた。




 

 

 ここは、自分たちの知る海なのか。

 

 エルタが海に飛び込んで最初に浮かんだ言葉だ。

 

 エルタは水中戦の心得がある。訓練でドンドルマの水上闘技場を舞台に、ガノトトスと戦った。

 エルタの知る海とは、地上よりもひんやりとしている。海は陸と違って、日の光によって温まりにくいからだ。

 

 では、今エルタのいるこの海は何だというのか。

 ひょっとすると沸騰しているかもしれないというソナタの危惧は、良い意味で外れている。しかし、当たらずとも遠からずと言ったとことだろう。

 先の撃龍船への襲撃で飛び込んだときとは比較にならない。煮えたぎった風呂にいきなり放り込まれたかのような感覚がエルタを襲う。

 

 相手の初撃のブレスはどうにか避け切れた。もともとエルタの乗っていた小型船を狙っていたわけではないらしい。しかし、ブレスの着水と共に起きた水蒸気爆発で、激しい衝撃が容赦なく全身を打って平衡感覚を狂わせる。

 周囲を見渡せば他のハンターたちとソナタ、アストレアの姿があった。彼らもエルタと同じような感想を抱いているようだ。

 この場に統率者はいない。個人、またはパーティ単位で各々に行動しなければならない。

 

(急いで海底付近まで潜ろう。息は持つか?)

 

 エルタは二人に向けて手を仰いだ。二人は頷きを返して泳ぎ始める。

 水中の視界はそこまで悪くはない。こちらからぼんやりとグラン・ミラオスの下半身も見える。つまりそれは、あちらからこちらを補足されてもおかしくないということだ。海面付近にいるのは危ない。

 

 水中では声は伝わらない。他のハンターに指示を出しているような余裕はない。

 十メートルほど潜ったかという頃に、案の定それは起こった。

 

 水が激震する。二発目のブレス。顔だけ振り返れば、それは水中であっても掻き消えない熱を纏っていた。火竜や炎戈竜のブレスとは違い、明らかに質量を持っている。

 どうやら一人のハンターに直撃したようだ。先の衝撃の間近にいて判断が鈍ったか、海面付近に留まろうとしたか。

 

 砕けたブレスの破片と無数の泡が収まると、そこには力なく水中を漂うハンターの姿があった。あれは……恐らく死んでいる。原形を保てているだけましというべきか。

 蜘蛛の子を散らすようにしてハンターたちがその場から離れる。それを狙い撃つようにして三発目、四発目のブレスが襲い掛かった。先のブレスより威力を控えめにする代わりに連発性能を上げているのか。それでも、人ひとりの命を奪うには十分すぎる。

 

 先ほど力尽きたハンターも、それなりに名を馳せた実力者だったはずだ。

 あっけない幕切れ、など言えるはずもない。あのブレスがエルタたちを狙ったものであったならば、同じ運命を辿っていたはず。そして、この威圧感の塊のような存在に対して、怯まず船を出して立ち向かっただけでも十分な功績なのだ。

 

 海底までは水深五十メートルと言ったところか。そこまで潜り、エルタはポーチから特製のクーラードリンクを取り出した。細長い飲み口を咥え、容器を押しつぶすようにして飲み込む。

 タンジアの港を出る前、海水温が高くなっているという情報から念のためとソナタが作ったものだ。水中用の回復薬の容器に代わりに入れた。まさか、これを使うことになろうとは。

 口内に痛みを感じるほどの冷たさと、ざらざらとした舌触り。細かく砕いた氷結晶が多分に入っていて、身体を内側から冷却する。

 しかし、この環境ならばそれでも万全とは言い難い。自らの体温よりはるかに高温の水に全身を包み込まれる異様な状況。それに対抗するには、それこそ体内に氷結晶を直接取り込むくらいのことをしなければならないだろう。

 それでも、エルタはソナタにただただ感謝していた。これがなければきっとまともに動くことすらままならなかった。

 

 体の芯が冷え込むような感覚を、鍋で茹でられているかのような熱が塗り潰す。不快感は凄まじいものであったが、この熱にやられるよりはましだとエルタは前を向いた。

 海面付近ではブレスの応酬が続いているようだ。海底までは流石に捕捉されないか。しかし、ブレスそのものは海中で失速することもなく水深五十メートル前後の海底まで届いているようだった。あのブレスが放てる範囲で安全圏などないということだ。

 とにかく今は前へ。熱水の中で大きく水を蹴って、かの龍のもとへと向かう。同じくクーラードリンクを飲んだソナタとアストレアが後に続いた。

 

 

 

 

 

 グラン・ミラオスはどうやら二本足で立っているようだった。

 造形はエルタたちの知る生物と大差ないものであったが、その片足だけでも、人どころか並の飛竜種よりも大きい。そしてその立ち姿は、シュレイドに伝わる巨大古龍、ラオシャンロンが立ち上がったときの姿を彷彿とさせるものだった。

 

 翼から零れ落ちているのは溶岩というよりも灼熱の岩石、疑似的な火山弾か。それは海面で激しい水蒸気爆発を起こしたあとも、消えることなく海底へ沈んでいく。ブレスほどの威力、速さがなくとも十分すぎる脅威だ。

 そんな火山弾に注意を払い、それによる爆発を目隠し代わりにしながら、エルタたちはグラン・ミラオスを中心にして円を描くようにして泳いだ。この龍はどうしてか、目に入った敵を追い払うような行動をしばらくとった後は興味を失ったかのように歩き続ける。中途半端な敵対心、それを利用してまずは観察に努める。

 

 背中の巨大な突起はひとつひとつが黒い岩山のようで、いくつかは赤いどろどろとした火口が顔を覗かせている。そこからもまた、次々と火山弾が零れ落ちていた。この水の中にあっても、だ。火は水中では消えるという常識に真っ向から抗っている。

 尻尾はエルタが見てきたどの竜のそれよりも長大だ。首筋から連なる岩山が尻尾の先端部分まで続いている。そしてその根元には、胸元にあったものと同じような紅く渦巻く光の核があった。あちらよりも密度は低いようだが、その分巨大だ。そこからひび割れのような光の筋が背中に向けて走っているのを見るに、何らかの重要な器官なのか。

 

 そんな巨体を揺らして、海底に堆く冷えて固まった溶岩を積み上げながら、かの龍は歩き続ける。その歩幅は十数メートルにも達し、このまま手をこまねいていれば装填前の巨龍砲まで容易に辿り着かれることをひしひしと感じさせた。

 ハンターたちが海に出ている今、沿岸の砲撃部隊は確実に上半身に当てられる距離に近づくまで砲撃ができない。先ほどのように数撃ちすれば誤射の恐れがあるからだ。

 

(攻勢に出る)

 

 エルタは二人の方を振り返り、ハンドサインを送った。ソナタは真剣な顔で、アストレアがやや緊張の面持ちで頷く。

 ポーチから酸素玉を取り出して口の中に放り込む。イキツギ藻を乾燥させ練り固めた団子だ。溢れ出した空気を思いきり吸い込んで、エルタは熱水の海中を一気に突き進んだ。

 

 

 

 既に別のパーティのハンターたちは、グラン・ミラオスと接敵していた。

 アグナコトル装備のランス使いが腹下に潜り込んで連続突きを見舞っている。まだ外皮を削り取っている最中の段階のようだ。

 さらにレウス装備の太刀使いは勇敢にも降ってくる火山弾を潜り抜け、尻尾の根元のコアに斬撃を繰り出していた。見た目通り柔らかいのか、血が噴き出している……が、どこか様子がおかしい。まるで返り血を浴びるのを嫌がっているような仕草を見せている。

 

 やや離れた位置に陣取った大弓の使い手は海面から顔を出し、上半身に向けて射撃を放っていた。水中だとどうしても威力が減衰してしまうが故の戦法か。ブレスに狙われる危険を伴うし、そもそもこのうねりの中でそれを成すのは至難の業であるはずだ。

 さらに再度船に乗ったハンターもいるようだ。ボウガン使いたちか。全力で船を漕いでかの龍の正面に立たないようにしつつ、徹甲榴弾や拡散弾での牽制を続けている。

 

 彼らが第一陣。凄まじい威圧感と放射熱の中でここまで果敢に攻められるのは、彼らが紛れもない上位ハンターである証だった。

 

 無論、グラン・ミラオスも黙ってそれを見ているわけではない。

 ごご、という音を立てながら長大な尻尾が持ち上がる。あの太刀使いを含めた周辺のハンターたちは即座に反応して距離を取った。

 尻尾の先端が海面に近づくかという程に持ち上げられた尻尾が、勢いよく振り下ろされる。

 

 ごお、と海が轟いた。

 尻尾がたたきつけられた瞬間。ひときわ大きい地響きが水の波動となって伝わり、海が強くかき乱される。砕けた海底の岩石の破片や珊瑚、砂や泥が舞い上がり、さらにその余波を受けてか背中の火口からもいくつもの火山弾がばらまかれた。

 しかし、そうしている間にもかの龍から全力で距離を取っていたハンターたちに被害はないようだった。単純な尻尾の叩きつけでここまで周囲に影響を及ぼすその威力を目に焼き付けつつ、再び接敵しようとする。

 

 かの龍の攻撃はそこで終わらなかった。

 叩きつけられた尻尾。それがその前より数十度斜め方向に振り下ろされていたことがわかっていれば、あるいは予期できたかもしれない。

 片足を半歩引いていたグラン・ミラオスが、もう片方の足を軸に全身を使って尻尾を振り回した。

 

 巨大な力の奔流、水流がハンターたちを襲う。海竜が作り出すものとは比較にもならないほどの渦潮は、もはやそれそのものが一つの自然現象を彷彿とさせた。

 太刀使いと同じく尻尾のコアを攻撃していたらしい剣斧使いが巻き込まれた。尻尾に引きずり込むような水流に捉えられ、そのまま身体ごと激しくかき回される。激しい動きに慣れていたとしても、あれを受けては平衡感覚を失って意識を飛ばしてしまってもおかしくはない。ぐったりしているところを太刀使いが助けに入った。

 さらに、グラン・ミラオス自身も大きく身体を動かしたため、翼から零れ落ちる火山弾が思いもよらない方向までいくつも飛んできた。先ほどの弓使いが運悪くそれに被弾する。

 当たると同時に砕けて降り注ぐ、灼熱の泥。弓使いは炎を浴びたかのように悶え、弓を手放して必死にそれを払い落とす。重度の火傷と防具の損傷を負っただろうことは明白だった。

 

 グラン・ミラオスの攻撃は止まらない。

 突然二歩、三歩と後退したかと思いきや、海中に向けて次々とブレスを撃ち込む。それは先ほど腹下を狙って攻撃していたアグナシリーズのランス使いを狙ってのものだった。

 標準は恐ろしく正確だ。寸分違わず撃ち込まれるブレスにランス使いはガードを選択するしかない。まともに食らえば一撃で致命傷を負う程の威力、彼のアグナコトルの防具の火耐性の高さを以てすればそこまでは至らないかもしれないが、衝撃で戦闘継続困難まで持っていかれることは間違いない。

 盾に溶岩塊がぶち当たる重い響き。大型竜の突進すらときには受け止める大盾と言えど、あれは何度も受けていいものではない。しかし、かの龍は執拗にそのハンターを狙い続けた。

 二発、三発、四発。盾に当たった溶岩塊が砕け散るたびに、ランス使いは大きく後退し、そして反応が鈍くなっていく。ガードブレイク寸前だ。

 

 五発目。ソナタが間に入った。

 海王剣アンカリウスの刀身を盾として溶岩塊を迎え撃つ。それが刀身に接触すると同時に、周辺の赤く染まった海とは明らかに性質の違う水が刀身から溢れ出す。その水と激しい反応を起こしつつも、溶岩塊は砕けることなく受け流されて斜め後ろ方向へと沈んでいく。

 その隙にアストレアが半ばタックルするようにランス使いを抱きかかえて、重そうに泳いでいく。六発目のブレスをソナタは紙一重の動きで回避したが、その先にランス使いの姿はもうなかった。

 

 そして、ランス使いの救助に入った二人を追い抜いて、エルタがグラン・ミラオスに接敵する。彼らを含めた第二陣のハンターたちが再度巨龍へと肉薄していく。

 

 

 

 凄まじい放射熱だ。海水温もこれまでになく高い。彼らはこんな中で戦っていたのか。

 身体が熱されていくのを感じながらエルタは全力で泳ぐ。狙うはかの龍の腹だ。黒色の背中に比べてかなり赤みを帯びている。かの龍の全身から見ても比較的柔らかそうだ。

 目前まで近づき、背中の穿龍棍を手に握る。最後の一押しと勢いよく水を蹴って、水の抵抗に抗いながら勢いを乗せた右手の棍を突き出した。

 

 がりっ、と杭が岩を削り取るかのような手ごたえが伝わる。さらに続けて黒い龍属性の光が水中に弾けた。それは腹の外皮を少しだけ黒く染めた。

 効いた。龍属性は有効だ。外皮の貫通までは至らなかったが、想定の範囲内だった。人の手で拘束用バリスタのように深くまで貫くには、数をこなさなければならない。

 水中では踏ん張る大地がないため、攻撃の反動でそのまま後退してしまう。それを補正しながら、二撃目、三撃目と殴打する。エルタの見立ては間違っていなかったようで、外皮が窪み、破れていく。これが背中の黒い外殻であったなら、まるでカブレライト鉱石の塊でも殴っているかのような手ごたえのなさになったはずだ。

 

 ランス使いを狙い続けていたグラン・ミラオスが反応した。

 前屈みになり、煩わしそうに前脚を払いのける。頭上から迫り来たそれは軽く水流が発生するほどの範囲攻撃だったが、エルタは巧みにその水流を潜り抜けて攻撃を継続した。

 突き主体で殴る。水の抵抗がかかる水中では大振りの攻撃の威力が減衰してしまうからだ。点を突く攻撃が可能な穿龍棍やランスは比較的有利な武器種と言えるだろう。

 激しい運動で急速に失われていく空気を酸素玉で補給する。口の中で飴玉のように溶けていくそれの残量は残り半分ほどか。

 

 エルタのいる場所の下方、腹下部分を垣間見れば、ソナタがいるのが見えた。この赤い海の中ではラギアクルスの青い防具は逆に映える色になってしまっている。

 しかし、担いでいるのは大剣ではない。あれは……ランスだ。あのランス使いが担いでいたもの。青色を基調としているが、切先が黄色く発光している。ソナタはそれを担いで、先ほどランス使いが居座っていた場所でぎこちないながら突きを繰り出している。

 

 なぜそのようなことを。考えるよりも先にグラン・ミラオスが動く。

 吼えながら上半身を振る。両翼が揺れ動き、その先端から零れ落ちた火山弾が周囲一帯に降り注いだ。

 先ほどの弓使いを負傷させた攻撃。赤く光る海面が邪魔で、水の中に入ってくるまではどこに来るかが予測できない。ブレスと違ってただ沈んでくるだけなので見てから回避するしかなかった。

 リオレウスの火球よりも数倍大きいため、回避も大降りになる。二、三個の火山弾を紙一重で潜り抜け、エルタは腹に留まって小刻みな打撃を加えていく。腕や肩の防具の隙間に火山弾の破片が接触したのか、激しく染みる痛みと共に水ぶくれがいくつもできた。しかし、それも今は放置してただ肉薄し続ける。

 

 突然、ばごっと異質な爆発音が足元から響く。

 咄嗟に下を見てみれば、ソナタのいる周りが泡立っているのが見えた。いったいどうやって──いや、ソナタが担いでいたランスの仕業か。

 砕竜ブラキディオス。その竜の素材から作られた武器は切先に発光する粘菌が纏わり付き、ある程度対象に塗布された段階で大爆発を引き起こすのだという。確か爆破属性と言ったか。とても珍しい属性でエルタも知識でしか知らないが、ソナタの担ぐランスがまさにそれなのだろう。

 腹下の外皮が広範囲にわたって拉げているのが見て取れた。大砲の一発にも匹敵するのではないか。これにはかの龍も怯んで二、三歩とたたらを踏む。

 

 ソナタは追撃するようなことをせず、その場に留まっている。と、その背後からソナタの大剣を抱えたアストレアがやってきた。

 ソナタが槍と盾をアストレアへと素早く渡し、代わりに大剣を担ぐ。右手が義手で使えない彼女は持っていた縄で盾を身体に縛り付けて、槍を左手に持って泳いでいった。負傷した元の持ち主に返すのだろう。

 恐らく、あのランス使いの巧みな槍捌きによって爆発まであと一歩のところまではきていたのだ。それをソナタが引き継いだ。アストレアは現状後方支援に徹しているようだが、その役割を十分に果たしている。頼もしい限りだ。

 

 グラン・ミラオスが二、三歩後退したことで、再び距離が開いてしまった。距離を詰めるべく武器をしまおうとしたところで、エルタは海面の一部分が一際赤く瞬いているのを見た。まるで日の光のように。

 

 ────緊急回避。

 脚で思いきり水を掻き出す。穿龍棍の杭の射出を加えて、その作用でさらに自らの位置をずらしたところに──凄まじい量の気泡を纏いながら赤熱化した塊が通り過ぎていった。

 すぐ傍を通り過ぎた大質量の物体に、身体ごと持っていかれそうになる。肌を高熱が焼く。それをどうにか耐えて、エルタは一心不乱に潜水した。

 

 間髪置かずに二発目が到達する。海面に一番近かった左足の先にそれが僅かに触れた。

 

(づっ……!)

 

 苦悶の声を噛み殺す。弾かれた左足が鋭い痛みと鈍い痺れを発する。打撲を負ったか。だが、まだ動かせないほどではない。

 火傷は足の防具がどうにか防いだようだ。ある程度火に対する耐性があるはずの風牙竜の足袋が溶けかけているのを見て、その凄まじい温度を実感する。絶対に直撃を受けるわけにはいかない。

 

 三発目。これは大きく逸れた。やはり潜水は有効なようだ。

 水上から水中にあるものを狙い撃つときは、水の屈折率を考慮する必要がある。深く潜れば潜るほど、その位置を水上から正確に把握するのは難しくなる。

 ある程度まで潜ったところで、追撃は来なくなった。エルタは数十メートル開いた距離を一気に泳ぎ抜け、先ほどと同じく腹を一発、二発と殴る。

 

 煩わしい。かの龍にとってはその一言で済む話だろう。人に例えれば羽虫に周囲を舞われているようなもの。先ほどのソナタの一撃はそんな羽虫の一匹に噛まれたといったところか。

 再び上半身を屈めて、前脚を振るおうとする。今度は確実に捉えられるよう、より深く。ざざあ、と上半身の一部が一時的に海中に沈む。

 

 そのときを待っていた。

 

 がしゅ、と穿龍棍に内蔵された杭を肘側へと打ち出し、今度は一気に浮上する。それは他の誰かが見ていれば、あえてグラン・ミラオスにぶつかりに行っているように見えただろう。

 あっという間に迫りくる上半身。エルタを確実に捉えるべく前脚まで沈ませる。その傍には、煌々と黄金の光を放つ光核があった。

 エルタたちが水中にいて、グラン・ミラオスが立っている限りは決して届かなかった光の核がエルタの目の前に迫る。

 

 熱い。目も開けていられないほどの放射熱。海中に没したそれに向かって、エルタは両手の穿龍棍を突き出し、そのトリガーを引く。

 腹で小刻みな攻撃に甘んじていたのは、全てこの時のためだ。──龍気穿撃。

 

 肘側にあった杭が、赤黒い龍属性を纏いながら、竜撃砲にも匹敵する勢いで打ち出される。

 先ほどの爆砕竜のランスが引き起こした爆発とは違う、一点突破に特化した一撃は────その光の核の外膜を破った。

 

(届い……、……!!?)

 

 そして、その放射熱によって目を瞑っていたエルタが確かの手応えと共に得たのは──溢れ出す超高熱の血潮の洗礼だった。

 

 

 

(あのヤロウ、やりやがった!)

 

 海底付近からエルタの様子を見ていた太刀使いはぎりっと歯噛みした。彼はエルタが陥った状況が分かっていた。

 尻尾の範囲攻撃に巻き込まれた剣斧使いを助け出した後も、太刀使いは愛刀の鬼神斬破刀で突きを主体としながら地道に尻尾の根元の光核への攻撃を続けていた。強力な電撃は確実にその外膜を傷つけ、その中身を溢れ出させていた。

 

 問題はその中身だ。

 いわゆる血溜まりのような部位だったのだろう。翼や後背部の火口から流れ落ちているどろどろとした体液と同じものと思いがちだ。

 しかし、その純度、性質が違う。血のようにさらさらと水中に溶けていきつつも、凄まじい高温を保っている。攻めあぐねていたのはそのためだ。見たことも聞いたこともない物質をこの龍は身体に巡らせている。

 船上でバリスタ用拘束弾を使ったあのとき、全ての拘束がいきなり解かれたのは、恐らくこの体液が原因だ。彼の身に纏うレウス装備ですら防げなかったそれにずっと熱されれば、鉄が堪え切れるはずもない。

 

 まして胸部の光核となれば、この尻尾の根元よりも活発な器官と見て間違いない。それを無理やりこじ開け、溢れ出した体液を浴びたのだ。

 海面付近の視界は悪かったが、太刀使いはその中で今の一撃を放っただろうハンターがその場から離れていくのを見て取った。直撃を受ける直前にその場から離脱していたのか。類稀な反射神経だ。決して軽くはない火傷を負っただろうが、動けているだけで上出来だ。

 

 グラン・ミラオスもこれには再び驚かされたようだ。胸部を直接穿たれるとは思ってもいなかったのだろう。それがかの龍の生命力にまで届いているかは分からないが。

 少なくとも、これでかの龍も今までのような()()で済ませるようなことはできなくなったはずだ。これからは積極的にこちらを仕留めに来る。

 彼自身信じがたいことであったが、この龍がまだ本気を出してはいないことを太刀使いは直感で察していた。故に、油断なく堅実な攻撃を続ける。

 ……ああ。それにても、この海のなんという熱さか────

 

 オォ、とグラン・ミラオスは嘶いた。

 一、二歩と後退する。しかしその下がり方は今までのそれとは違って、どこか意図的なものを感じさせた。

 両方の前脚を持ち上げて、やや上体を反って。

 そして、上半身ごと海中に叩きつけた。

 

(おぉ……!?)

 

 押し寄せた水流に一気に押し流される。端から見ればただの圧し掛かりだが、その規模が桁違いだ。まるで土石流に巻き込まれたときのように、抗うことはできない。

 後方にいた太刀使いはまだいい。先ほどのハンターを含め、正面にいた連中は巻き込まれているのではなかろうか。圧し潰されなどされればまず生きてはいられまい。海上の船も一気に押し流されるか、転覆してしまったはずだ。船上で攻撃していたハンターたちが海に投げ出されていなければいいが。

 

(……? こいつ、起き上がらないのか?)

 

 太刀使いは訝しんだ。舞い上がった土や砂でかなり視界が悪いが、グラン・ミラオスは圧し掛かりの体勢のままで上体を持ち上げようとしていない。

 流石にこれだけの規模となると、起き上がるのにも一苦労なのか。ならば今は好機と言える。全身が海中に沈んでいるのなら、頭上から降ってくる火山弾に警戒することもない。

 ただ、もしこの龍がこの四足歩行状態でも動けるとするならば、深く潜ったところで大きな意味はなくなる。そのことを鑑みれば、もう少し離れて観察に努めるべきか。

 

 そう結論付けた太刀使いが慎重に泳ぎ始めるのと、グラン・ミラオスが身体を左右に揺り動かしながら一気に後退したのはほぼ同じタイミングだった。

 

(な!? はやっ……ごはっ)

 

 瞬く間に迫り来た翼の砲塔に避ける間もなく打ち据えられ、太刀使いの視界はそこで途切れた。

 

 運良くその場を切り抜けたハンターたちは、これから知ることとなる。

 グラン・ミラオスの本領は、この水中で、四足歩行状態で発揮されるものなのだということを。

 

 これまでとは比較にならない速度で百メートル近く後退したグラン・ミラオスは、海中に漂う藻屑のような狩人たちを俯瞰し、口元に溶岩を滾らせる。

 

 奇しくもその構図は、数十分前、船上で彼らがかの龍の正面に立たされたときの構図に似ていた。

 

 

 



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>>> 古きカミのカタチ(3)

5/19(日)17~20時:分割投稿作業実施





 

 

「…………」

 

 迎撃拠点の最奥、湾を広く見渡せる高台に設置された作戦本部で指揮官のシェーレイは厳しい顔で戦況を見守っていた。隣には護衛のガルムが立つ。

 背後では部下たちが慌ただしく動き回っている。伝えられる戦況を整理しているのだ。

 

 湾岸部に設置された砲撃場四つの内、二つが瞬く間に壊滅。ひとつは土台ごと完全に崩れ去ってしまった。それを見て、残る二つの砲撃場は静観に徹している。

 進行を食い止めるべく出撃したハンターたちの手による拘束攻撃はすぐに振り解かれたようだ。それほどに膂力が強いのか、極めて外殻が固いのか。

 拘束弾が無効化されたと分かるや否や、ハンターたちはそのまま水中戦を仕掛けた。彼らの功績で、グラン・ミラオスは彼らに標的を移し、湾の中心部付近に留まっている。

 

 今、かの龍は現在海上に姿を現していない。海中に没している。

 かの龍を包み込んでいた蒸気が、その発生源を失ったこと、海風が吹き始めたことによって薄まっている。双眼鏡で海面を見れば、巨大かつ複雑な渦潮のようなものがたびたび発生していた。

 あの下にグラン・ミラオスがいるのだろう。ハンターたちが決死の覚悟で戦っているのだ。

 

 やはり、彼らは図抜けた者たちなのだ。そのほとんどがシェーレイと同じ人間であるにも関わらず、あの畏怖の化身のような存在に対して怯まず立ち向かっている。

 その結果、グラン・ミラオスを一時間近くあの場に止めていた。まさに人間の可能性を体現したような者たちと言えるだろう。

 

 無論、シェーレイはハンター以外の人々も見下すつもりなど全くなかった。

 現在装填中の巨龍砲。これはドンドルマからシェーレイと共にはるばるここまでやってきた者たちの手によるものだ。撃龍船の整備はロックラックから訪れた隊員たちが担っている。

 最初の砲撃で全滅した部隊はシェーレイの過去の一大作戦、ゾラ・マグダラオスの上陸阻止戦を経験した者たちであった。彼らだからこそ、誰もが怖気突くような状況下で先手を打てたのだ。

 ここまでの物資を揃えられたのはタンジアハンターズギルドのギルドマスターの手腕によるもので、生活が苦しいはずのタンジアの人々の手厚い補給もある。

 

 これは、世界各地から選りすぐりの人々を集めた万全の作戦なのだ。それを生かすも殺すも、シェーレイの手にかかっている。

 ハンターたちにも死者が出ているという報告があった。あの地獄のような海の中、彼らの限界がすぐに来てもおかしくはない。

 シェーレイが次の足止めの策を出そうとしたところで、その知らせはやってきた。

 

「総司令殿! 先ほど、巨龍砲の装填が完了したとの知らせが入りました」

「……分かった」

 

 想定よりも数時間早い。

 シェーレイは技術者たちに賛辞を贈った。シェーレイたちを乗せた船団がその数を二つ減らして四隻で戻ってきた昨日から、彼らは不眠不休の突貫工事で組み立て途中だった巨龍砲を装填完了までもっていった。

 このまま悪い結果が重なれば、巨龍砲の準備が間に合わないままに迎撃拠点が突破される可能性があった。しかし、その対応策を考える必要はなくなったのだ。

 

「砲撃場の人々に伝令を出せ。これよりグラン・ミラオスを巨龍砲の着弾予定位置へ誘導する。巨龍砲が着弾次第、一斉に砲撃を行うこと。

 それまでの間、大砲同士の間隔をできるだけ広げておくように。かの龍の反撃による火薬の誘爆をできる限り抑える。

 湾外の撃龍船一隻に出撃の指示を。グラン・ミラオスがこちらに向けて再び歩き始めた段階で湾内に入り、砲撃が始まったと同時に、かの龍の背後からも砲撃を行う」

 

 矢継ぎ早に指示を出す。

 先ほどは様子見で手痛すぎる被害を出した。シェーレイがゾラ・マグダラオスと同じ戦法を安易に採用したのが原因だ。グラン・ミラオスはゾラ・マグダラオスと異なり、明確に人々と敵対している。

 そして、この蒸し風呂のような湿気の中では火器が刻々と使えなくなっていく。ならば、全方向から一度に最大の火力を叩きつけるのみだ。

 

「巨龍砲発射の合図は私が行う。ガルム氏よ。グラン・ミラオスが想定外の進路を取ったとき、誘導を一任してもいいだろうか」

「しかし、それではシェーレイ殿をお守りできませぬ」

「その間だけだ。対龍兵器の扱いには慣れている。この一撃を外すことだけはあってはならない。その要となる役割はガルム氏に相応しい」

「……はっ」

 

 シェーレイの隣に控えていた大男はやはり恭しく礼を返し、前線へと向かうべく踵を返した。もとより口数が多い人物ではない。しかし、単身古龍撃退経験者の名に恥じぬ実力、実績の持ち主だ。シェーレイは彼に全幅の信頼を置いていた。

 あとはハンターたちを撤退させる。ある意味、これが最も難しいかもしれない。現地ではかなり戦況が混乱しているはずだ。しかも今の彼らは水中にいて、信号弾の確認も困難だろう。

 しかし、早急にやり遂げなくてはならない。ここで彼らをこれ以上消耗させてはいけない。

 

「砲兵に追加で指示を!」

 

 巨龍砲を起点とし、かの龍への反撃を始める。

 頭の中で幾通りもの戦略を思い描きながら、シェーレイは足早に巨龍砲の元へと向かった。

 

 

 

 

 

 もしそこが声の届かない水中でなければ、そこは、阿鼻叫喚の場と化していただろう。

 

 残り少なくなった酸素玉を噛み潰す。口内に広がった正常な空気は瞬く間に消費され尽くし、呼気は泡となって海面へと昇っていく。

 この戦場の唯一の穿龍棍使い、エルタは赤く濁った海中の巨大な黒い影を見据え続けていた。

 

 周囲にいるハンターの数は、戦いが始まったころの半分近くに減っている。死んだのか継戦不可能になっただけなのかは分からない。恐らく割合は半々と言ったところだろう。

 そしてその大部分が、かの龍が海中に没してから、四足歩行状態に移行してから戦線離脱させられた。それだけ海の中のこの龍は強力だったのだ。

 

 最初のボディプレスに巻き込まれたものも少なくない。あの時点で最もグラン・ミラオスに接近していたエルタは、翼の下部へと逃れることによって奇跡的にあれから逃れることができていた。

 最もまずかったのはかの龍の正面側に立ちつつ、中距離を保っていたハンターたちだろう。海面から矢を射ていた弓使いのそれに該当し、あれ以降姿が見えなくなっている。

 さらに、広範囲に降り注いだ火山弾とあの巨体が沈んだことによる高潮で、エルタたちの乗ってきた小船は軒並み転覆するか遠くに追いやられてしまっていたようだった。

 

 通常のクエストであれば、とっくに失敗とみなされ帰還命令が出ていてもおかしくはない。しかし、今回はそうするわけにはいかない。ハンターたちの背後の人と兵器があまりにも多く、価値があるものであるが故に。時間を稼ぎ続けなければならない。

 そういった重みを全て投げ出して、逃げ出すのもいいだろう。そんな心境の者も必ずいるだろうし、それを馬鹿にもしない。自分の命を最優先にするのは決して愚かなことではない。

 ただ、それをかの龍が許せばという話なだけだ。

 

 龍気穿撃で穿った胸元の光核。そこから噴き出した超高熱の血潮に溶かされた皮膚が熱水によってふやけて、激痛と共に剥がれ落ちていく。その痛みが意識を鮮明なものとする。

 自らに向けて襲い掛かるブレスを掻い潜りながら、エルタは何度目かもわからない接敵を試みる。しかしそれは、ともすれば一瞬で致命傷を負いかねない領域への侵入でもあった。

 

 海中から放たれるブレスが水の抵抗を受け、いくらか遅くなっていることが不幸中の幸いか。ほとんど不可避であったそれは、しっかりと回避行動を取れば避けられるものになっている。

 しかし、それを補って余りあるのがその機動力の高さだった。二足歩行状態とは桁の違う機動性をこの龍は発揮している。

 

 グラン・ミラオスの視線がエルタを捉え、若干身を引くような動作をしたのを見て、エルタはぞっと悪寒を走らせた。

 こちらから向かうまでもない。あちらからこちらを轢き潰しにかかるつもりだ。

 

 次の瞬間、グラン・ミラオスはエルタとその周辺にいるハンターたちをめがけて、その巨体を滑らかに揺らして這いずりながら突進を仕掛けてきた。

 海底の地形、珊瑚や岩場などがばきばきとたやすく破壊されていく。後に残るのはばらばらになった残骸と波打った巨大な這いずり跡だけだ。

 

 速い、というわけではないのだ。それだけであれば、ガノトトスやラギアクルスの全力の突進の方に軍配が上がるだろう。問題はその規模の大きさだ。

 山が迫る。そう比喩しても全く遜色ない。大規模な地滑りや雪崩を経験した者はこうやって生きるのを諦めて、ただその現象を立ち尽くしながら見守るしかなかったのだろうという実感を得る。

 しかも、それはただの突進にあらずだ。翼の砲塔は胴の動きに合わせて揺れ動き、いくつもの火山弾をまき散らす。この龍が人という矮小な存在に対して向ける敵意の、その一挙動に掛けるエネルギーの大きさに圧倒させられる。

 

(───ッ!)

 

 だが、それでも呆然としてはいけない。叩きつけられる殺意を前に膝が震え、目を瞑りたくなってしまっても、毅然と構えて抜け道を探し出す。

 

 ──上だ。海面側。遠いが、やはりそこしかない。

 全力で水を蹴って、さらに大きく手をかいて数メートル浮上。瞬く間に迫りくる翼と火山弾、そして水の流れを読み取る。

 火山弾が落ちてくる場所をその巨体が迫る直前になるまで見極めて、見出した安全地帯にその身を滑り込ませる。

 

 圧倒的な水流に飲まれるのは覚悟の上だ。人が水桶に手を沈めて振ってみれば渦ができる。それが自然現象のスケールで起こっているだけのこと。

 抗えない水の奔流に飲まれたエルタの、真下をかの龍の肩が、右側面を重厚な翼が、左側面を頭部が。そして真上を火山弾が潜り抜けていった。

 

 回避成功だ──そして、それで終わりではない。

 

 かの龍はエルタを見ていた。胸を穿たれたことに執着しているかもしれない。当然、今の突進が避けられるところも横目で見えていたはずだ。ならばどう出るか。

 五秒程度で百メートル以上動いたグラン・ミラオスは、仕切り直そうと後退する──先ほどの突進と同じ速度で、同じ位置に。

 海竜種特有の這いずり動作を用いた素早い後退動作。それをこの龍が使えば、それは突進と全く遜色ない威力を持った攻撃行動となる。

 

 かの龍がまだ二足歩行を行っていたときに尻尾の根元の光核を攻撃していた太刀使いは、それの直撃を受けて意識を刈り取られた。エルタはそれを知らないが、そのときの挙動を見て、その脅威を十分に理解している。

 ただもう、回避は間に合わない。かの龍へと引き込むように渦巻いた水流によって、エルタはかの龍の背中に回り込むかたちとなっていた。下手にこのまま動けば、首筋から聳える火山のような外殻、そしてそこから零れる火山弾に自ら当たりに行く形となってしまう。

 

 故に。エルタは穿龍棍を両手に持ち、あえて潜水して背中の尻尾側、火口を覗かせていない外殻へその身を潜り込ませる。

 そして円錐状にいくつも突き出た巨大な堅殻のひとつにしがみ付き、さらに穿龍棍の杭を突き出して、突き刺すまではいかないながらも、それをアンカー代わりとした。

 そして、それを待たずしてグラン・ミラオスが後退する。

 

(ぐっ──!)

 

 ぐん、とエルタの身体が引かれる。先ほどよりも数段強力な水流と、直に伝わる振動が襲い掛かった。

 両腕が悲鳴を上げる。膨大な量の海水が流れていく音。目を開ければ眼球が水圧で潰されてしまうのではないか。

 気を抜けば瞬く間に脱臼しかねない力が両肩に集中している。それに加え──熱い。肌を溶かすかという程の熱水に延々と叩きつけられる。

 エルタが自身で選んだ選択とはいえ、それは地獄といっても過言ではない状況だった。エルタは歯を食いしばりながらその力に耐え続けた。

 

 そして、熱水の濁流が和らぐ。

 たったの数秒が数時間にも感じられるような高密度の苦しみを、エルタは乗り切った。

 

 雷に打たれたかのように鈍く痺れて思うように動かない身体を、なんとか外殻から引き剥がす。グラン・ミラオスの次の動きに最低限の警戒を払いつつ、ポーチの中をまさぐってクーラードリンクの入った水筒を取り出す。

 そこに入っていた残りの全てを一息に飲み干した。クーラードリンクも熱せられて生ぬるくなっているようだったが、その効果までは死んでいない。

 

 かの龍はエルタが自らの身体にしがみ付いて一緒に移動しているとは思わなかったようだ。エルタを見失い、周辺にいるハンターたちへと標的を移した。

 海底の地形は大部分が破壊され、隠れ潜む場所はあまり残されていない。しかも海底付近では這いずり突進への対処がほぼ不可能だ。故にハンターたちは土煙の中に身を潜めたり、海面付近に留まることで自由に動けるようにしつつグラン・ミラオスを欺いて一矢報いようとしている。

 しかし、それを成すにはかの龍の索敵能力が優れすぎていた。巨大龍は人間単体に意識を割かないという認識をことごとく覆してくる。

 

 熱水とはいえ水の中、それにも拘らず口元から黒煙と真っ赤な溶岩を滴らせ、人間の丈を優に超える大きさのブレスが放たれた。

 狙われたのは大剣使いの男のハンターか。距離的にはなんとか避けることが可能なはずだ。しかし、どこか様子がおかしい。心そこに在らずといった様子で水中を漂い、ブレスへの対処が一秒遅れた。

 

(……一秒は、致命的すぎる)

 

 溶岩弾(ブレス)が大剣使いに直撃する。その威力は火竜の火球(ブレス)の比ではない。いくら頑丈な防具を着ていても、それによって受ける衝撃が原理的に人間に耐えられるものではないのだ。

 砕けたブレスの靄が晴れれば、そこにはありえない方向に四肢を曲げた大剣使いの姿があった。

 

 限界だ。凄腕のハンターたちによって支えられた戦線が崩壊する。

 あの大剣使いが陥っていたのは、ハンターたちにとって最も忌避すべき状況のひとつ、熱中症だ。砂漠や火山での狩りにおいて、ハンターたちの死因として少なくない割合を占める。

 この海の熱は、人が活動するのが困難な域まで達している。クーラードリンクのあるなしに関わらずだ。外気と比べて、身体の熱されやすさが段違いなのだ。

 このままでは、ここにいるだけで人が死んでいくだろう。鍋に入れられた魚や蟹が勝手に死んでいくように。グラン・ミラオスが手を下すまでもない。

 

 そんな中で、かの龍は自らが動くだけで人が死んでいくのを知っているかのように、縦横無尽に動き回る。機動力においても、複数のハンターたちで距離を保って連携するという戦法を用いても、途方もない差をつけられている。

 もはや手が付けられない。また一人、また一人と人々が減っていく中、熱さに耐えられなかったのか動きを鈍らせたハンターに向けて、グラン・ミラオスが突進を仕掛けるべく身を引いて──その矢先のことだった。

 

 

 

 グラン・ミラオスの眼前を突然覆う二つの影。

 一瞬動きを止めたかの龍の緋色の瞳を、大剣が削り裂き、小剣が貫いた。

 

 

 

 ァ───

 

 海中で意識のあった人々は、そこで初めてグラン・ミラオスの悲鳴らしき咆哮を聞いた。

 反射的に振るわれる頭と前脚、自ら身を引くように後ろ足で立ち上がる。ざぁ、と海を渦巻かせながら海上に現れる上半身。二足歩行形態に移行したのだ。

 

 かき乱されて気泡に溢れた海中で、二つの影が踊る──ソナタと、アストレアだ。

 二人はかの龍に悟られないよう、首筋の火口から噴き出る火山弾を掻い潜りながらかの龍の後頭部へと移動していた。

 そしてかの龍が突進の予備動作で身を引くのに合わせ、狩りにおいて最も難しいとされる顔面への不意打ちを喰らわせたのだ。

 

 ソナタは左目を海王剣アンカリウスで一刀のもとに切り伏せ、アストレアはあろうことか左手に持った剣ではなく、右手の義手の仕込み刀の方で右目を貫いたようだった。仕込み刀の方が鋭利だとは言ったものの、かの龍と密着するようなものだ。

 エルタが胸部の光核を穿ったときほどではないとはいえ、少なくない量の血潮が赤い海へと溶けていく。

 

 大功績だ。今の一撃で失明させることができたかは定かではないが、一時的に視力を奪うことができたことはほぼ間違いない。しかも、強制的に二足歩行状態に移行させた。脅威度はさして変わらないが、機動力に大きな違いがある。

 

 次いで、海に次々と水柱が立つ。かの龍の火山弾によるものではない。沿岸部の大砲から放たれたものだった。

 出現当初にかの龍を包み込んでいた蒸気は、それそのものがもたらした風雨によって海面付近に立ち込める態度にまで晴れている。狙いはつけやすくなったはずだが、砲弾は全てグラン・ミラオスの後方に着弾している。

 

 グラン・ミラオスは視界を奪われた中で、砲弾が着水する音と振動が気になったのだろう。大きくその身を翻して湾の出口の方向を向く。多くのハンターに背中を向ける方向だ。

 いったい何がしたいのか、と、海中で憔悴していたハンターも海上に顔を出し、かろうじて生き残った小型船の上で生存者の手当てをしていたハンターたちと共に辺りを見渡した。

 

 そして、霧の中から『撤退開始』の狼煙を垣間見る。

 

 ────今のうちに、撤退を。

 沿岸部の砲兵たちの必死の合図を、その場にいたハンターたちは汲み取った。

 

「……やっと、やっとか! やっと巨龍砲が間に合ったのか!!」

「へへっ……ここまでしんどかった狩りもなかなかねぇなぁ……ごほっ」

「船は探さないで、岸まで泳いで! 動けない人もできるだけ見捨てずに……!」

 

 ハンターたちが海上で声を掛け合いながら泳いでいく。その数は、初めに小型船にのってかの龍のもとへと出向いていった人数から半分近く減っていた。

 時間にして約一時間強。グラン・ミラオスと精鋭ハンターたちの戦いは、圧倒的な環境の利を前に、死者数名、戦闘不能者数名というハンターたちの大損害を以て幕を下ろした。

 

 



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>>>> 古きカミのカタチ(4)

5/19(日)17~20時:分割投稿作業実施




 

 

 巨龍砲は、ドンドルマで開発された対龍決戦兵器だ。

 小型の飛竜種であれば易々と収まるほどに巨大な口径と、それを支える砲塔。さらに土台部に組み込まれた機構部まで含めれば、大きさは大型の古龍すら超え得る。

 これを扱うには高密度滅龍炭が必要となる。タンジアのハンターたちが狩猟したジンオウガ亜種の素材と、強燃石炭、膨大な量の龍殺しの実を混合して焚いた特製の火薬だ。砲弾内部にも同じ火薬が使われていて、着弾時には龍属性エネルギーの大爆発を引き起こす。

 

 効果の差異はあれど、古龍種には龍属性が有効だ。多量の龍属性を一度に受けると本来の力を発揮できなくなるという説もある。

 この巨龍砲の実績も確かだ。以前、ドンドルマに錆びついたクシャルダオラが来襲してきた際に、その撃退の決め手になったのが巨龍砲である。ここに設置されているのはその模造品ではあるが、性能は全く見劣りしていない。

 つまり、この砲弾が反撃の一手になる可能性は大いにある。故に、作戦の要として迎撃拠点の奥部に設置され、今までハンターたちを含めた人々が必死に守り抜いていたのだ。

 

 やや熱さすら感じさせる風、その場にいるだけで濡れるほどの湿気、大地を揺らす足音。劣悪な環境下で、シェーレイは巨龍砲の傍の櫓に立っていた。

 巨龍砲の前には木の障壁が築かれ、グラン・ミラオスの方から巨龍砲は見えない仕組みになっている。

 それはこちらも直線的にかの龍を撃ち抜けないことを意味するが、巨龍砲はそもそもそういう運用をしない。砲身を傾かせ、木の障壁を飛び越し山なりの放物線を描くように放たれる。ただぶつけるだけの砲弾だ。

 

 着弾地点は海上となる。件の龍が陸に上がってこない可能性を見越したものだ。そして、二足歩行状態のグラン・ミラオスはその着弾予定地まで一歩一歩と着実に近づいていた。

 グラン・ミラオスのさらに後方を見れば、湾外で待機していた撃龍船が一隻静かに湾内に入ってきている。シェーレイの作戦通り、巨龍砲が着弾したと同時に砲撃を浴びせかけるためだ。

 ガルムの姿は櫓からは確認できなかったが、どこかの塹壕か岩陰で状況を見守っているのだろう。かの龍が真っすぐにこちらを目指すというのなら、下手に手出しをする必要はない。

 

 この一撃を外すわけにはいかない。

 的は大きく、着弾位置も分かっている。外すなと言う方が無理な話と言えるかもしれないが、この大砲はスイッチの起動から発射まで十秒近い時間を要する。その時間差を考慮しなければ、望んだ結果は得られない。

 巨龍砲は放熱と次弾の装填に一時間弱の時間がかかる。巨大故に砲弾も数を揃えることは不可能で、残り一発分しか用意されていない。だからこそ、かの龍の頭部に直撃されるくらいの重い一撃を狙う。

 

 指示系統は入念に準備を済ませている。暴発の可能性もゼロとは言い切れないため、シェーレイ自身はスイッチを起動させない。スイッチ起動担当の砲兵が緊張の面持ちでグラン・ミラオスとシェーレイを交互に見つめている。

 地響きがだんだんと大きくなる。そのまま歩き続ければ、あと数分もしないうちに着弾予定地に到達するだろう。

 

 来い。そのまま、ここを目指して思いきり足を踏み入れて来るがいい。

 湯立つ赤い海と赤い空、温い雨に打たれながら、シェーレイは迫りくる活火山を見据えていた。

 

 

 

 

 

 海から陸に上がり、波が来ないところまで歩いて、エルタはそこで片膝をついた。

 凄まじい発汗と倦怠感、そして眩暈。込み上げた吐き気を止めることもできず、胃の中のものを地面にぶちまけた。

 

「エルくん!」

「エルタ!」

 

 駆け寄ってきたのはソナタとアストレアだ。先に陸に上がっていたらしい。地面に手をついてえずくエルタの背中をアストレアがさする。

 

「無茶したね。あんなに熱い海の中であれだけ動いてたらそうもなるよ」

「ごほっ……ぉ……おまえたち、ふたり、も」

「ソナタとわたしは、うみの中はなれてるから。でも、エルタはわたしたちよりうごいてた」

 

 アストレアの言うとおりだった。

 この三人の中では、エルタが最も泳ぎが下手だ。それは水中での消耗のしやすさに直結する。アストレアも体力はない方だと自ら言っていたが、ソナタよりはきつそうにしているものの、エルタほど消耗してもいない。

 

「グラン・ミラオスは……」

「私たちがいなくなったのに気付いたみたい。また歩き出している」

 

 顔を上げて後ろを振り返ってみれば、湾の奥部へと二足歩行で歩いていく龍の姿が見えた。逃げるときは後ろを振り返る余裕もなかった。

 岸からはバリスタの弾が放たれている。遠くからでも火薬の弾ける小さな光がちかちかと見えた。時折、グラン・ミラオスが反応して溶岩弾(ブレス)で撃ち返しているようだが、今回は対策したのか大規模な誘爆は起こっていない。

 

「巨龍砲に誘導しようとしてるね。装填が間に合ってよかったよ」

 

 ソナタは額の汗を布で拭いながら戦線を見やる。かの龍と直接対峙した者は、ソナタの言葉に大いに頷けるだろう。

 ハンターたちが受けた損害はあまりに大きかった。火山と見まごう程の巨体から繰り出される大規模攻撃に翻弄され、何よりも、環境への対策ができていなかった。

 エルタたちはクーラードリンクを飲んでいたからこの程度の消耗で済んでいるともいえる。多くのハンターは、海は冷たいという固定概念にとらわれてクーラードリンクなど持ち合わせておらず、熱中症になって自らの実力を活かしきれないまま戦線離脱していったのだ。

 

 これは、人が生身で相手できる存在ではない。そんな摂理を当たり前のように示された。

 これに対抗するには人の知恵、兵器に頼るのが最も懸命だ。タンジアの集会場で初めて作戦が公表されたあの日、俺たちは羊飼いかと憤っていたハンターもこれには口を閉ざすしかないだろう。

 

「……あれは、もう目が見えているのか」

「たぶん。宝石かってくらい固くて、表面を傷つけることくらいしかできなかったから」

「わたしも、つらぬけたけど、あさかった」

 

 一撃で失明まで追い込めるほど柔ではないか。しかし、ハンターたちに逃げる余地を与えたというだけでもその功績は大きい。

 見れば、アストレアの右肩、義手が装着されている部分が白い防具越しに赤く滲んでいる。突き刺すときに相当な力を込めたのだろう。血潮を浴びて火傷も負ってしまっているかもしれない。

 強烈な吐き気の波は収まった。背中をさするアストレアを「もう大丈夫だ、ありがとう」と制して、エルタは立ち上がった。

 

「大丈夫? じゃあ次は傷の手当だね。いつまた私たちが駆り出されるか分からない。申し訳ないけど、動ける限りは応急処置だよ」

 

 ソナタの言葉に二人とも頷く。

 エルタはアストレアの成長に驚いていた。数時間前は怯えを隠しきれていなかったのに、今は落ち着いている。それどころかグラン・ミラオスの瞳を剣で突き刺すという荒業をやってのけ、今のこの状況下でも心が折れていない。

 ソナタの言った『動ける限り』とはもちろん身体も対象だが、精神的な意味合いも強い。残酷な話だが、心が折れてしまった者は足でまといにしかならないからだ。

 そこまで意識していないだろうが、ソナタは今のアストレアを見て、『動ける』と認識している。

 

 やはり、アストレアは強い。彼女の悩みを解決するための精神的な下地は十分に備えている。ただ自覚ができていない、それだけだ。この戦いの中で、エルタもその手助けの方法を模索しなければならない。

 

 

 

 

 

「それにしても……」

 

 ハンターや兵士たちの退避場所として急造された避難壕の中。エルタの火傷の手当てをしていたソナタが呟いた。

 

「あの龍はなんで、人と戦うんだろうね」

「…………」

「ジエン・モーランはただそこを通りたいから。私が戦ったナバルデウスは角が育ちすぎて気が立っていたから。あの龍にも何か理由があるのかな」

 

 鳴り止むことのない地響きにぱらぱらと天井から砂が落ちる。隙間から差し込む外光は赤い。日常からかけ離れた状況下で、蒼と橙の防具に身を包んだソナタは思案する。

 アストレアもそれを聞いて考えを巡らせているようであったが、エルタは既に自らの答えを持っていた。

 

 ただ、それを口にすることはためらわれた。それは生物の原理的欲求から甚だ遠いもので、例えていうならば、人がつくったおとぎ話のような説だからだ。

 ただ。一か月という時間を彼女たちと共に過ごして、エルタの心境も変化していた。

 

 おとぎ話のような出会いをしたという、ソナタとアストレア。

 二人になら、話してみても真剣に取り合ってくれるのではないか。

 

 ()()()()()

 

「……あれは、人に挑んでいるのだと思う」

「挑んでる……? あんなに強い龍なのに?」

「ああ。……タンジアの港で総司令が演説をしたとき、かの龍は一度討伐されていると言っていたのを覚えているか?」

「うん。だからたとえ黒龍の系譜だろうと私たちで倒せるはずだって話だね」

「そのはなし、本当のことなのか。むかしの人があれにかったなんてしんじられない……」

 

 アストレアが怪訝な顔で言う。確かに実際に相対した今ならば、あれに勝つというのがいかに難しいかが分かる。

 

「恐らく、その情報は正しい。もし過去に人がここで敗れていたら、この一帯に人は寄り付かなくなっているはずだ。ましてタンジアの港ができるはずもない」

「噂のシュレイド城下町みたいな感じかな。誰も人が寄り付かないっていう……。今ここがそうなってないことが根拠だとすると、まあ納得できる、かな」

 

 ソナタは黒龍伝説などにも詳しいようだ。伝承好きを自称するだけのことはある。

 グラン・ミラオスはろくに歴史も残されていない遥かな過去に出現し、人々と戦って討伐された。それを前提として、エルタの理屈は成り立つ。

 

「……もし、今ここにいるグラン・ミラオスが過去の記録と同じ個体だったとしたら」

「そんなことは……」

 

 咄嗟に言いかけて濁らせたアストレアの言葉を、ソナタが引き継いだ。

 

「……ありえなくは、ない? 倒したっていう記録は確かにあるけど、証拠の素材とかはないってギルドマスターが……」

「古代の人々に致命傷を負わされたグラン・ミラオスが深海に沈んで休眠した可能性は少なからずあると思っている。その後から今日に至るまで姿を現さなかったなら、討伐とみなされても不思議じゃない」

 

 古龍は竜種とは一線を画する生命力を持ち、また寿命は果てしなく長大だ。故に、エルタの突拍子もない仮説も一概に否定できない。

 この場にいるほとんどの者は、この龍が何をしたいのかも分からないままに迎撃作戦に臨んでいる。このグラン・ミラオスが過去の記録と同一個体か別個体かなど別に気にも留めないだろう。

 しかし、それを学者の領分だと割り切ることなく考えることで、見えてくるものもある。

 

「あの龍は、一度人に負けたんだ。だからこそ、今度こそはと人に挑む。グラン・ミラオスが人と戦う理由はそれなのではないかと僕は考えている」

「……だからこそ、あの大きさなのにわたしたちを無視しなかったのかな。まだエル君の話は飲み込めきれてないけど、そういうことなら……」

 

 ソナタの後に続く言葉は言わずとも分かった。間違いなく、あの龍は手強い。

 人と戦う術を識っている。

 砲撃に敏感に反応して律義に撃ち返すのは、それ単体の与える損傷が小さくても積み重なることで無視できない傷になることを知っているから。

 ハンターたちを無視してもよかっただろうにあえて応戦したのは、人ひとりは無力でも群れれば脅威になることを知っているから。

 人と一度やりあったモンスターは戦い方を知って強くなる。そんなハンターたちの常識を、この規模で遂げられているというのは、途方もない話だった。

 

「巨龍砲……大丈夫かな?」

「……今までの戦いを見るに、あの龍は攻撃を受けてからそれに反撃している。当たり前の話だが……初撃は当てられるはずだ。ただ、二撃目はどうなるか分からない」

 

 何にせよ、巨龍砲を当ててその反応を見ないことには始まらない。

 巨龍砲は言わば超強力な龍属性攻撃であり、そしてエルタは実際にグラン・ミラオスと戦ってあの龍に龍属性が有効であることを知っている。間違いなく戦況は変化するだろうとエルタは予想していた。

 そして、もし巨龍砲が有効であったならば、何としても二撃目を当てたい。エルタたちの次の役目はそこになるだろう。かの龍が巨龍砲を破壊しようとするなら砲兵たちと共にそれを阻止し、この場から逃げ出そうとするなら船に乗って立ち塞がる。何としても再装填までの時間を稼がなくてはならない。

 エルタが考えを巡らせていたところで、アストレアがぽつりと呟いた。

 

「エルのはなしが本当なら、あのりゅうにどうやってかったのか、むかしの人にきいてみたい」

「本当にね。海底遺跡の撃龍槍とか水中用バリスタとか、古代の人たちって技術力すごかったみたいだし、兵器の力で勝ったのかも」

 

 ソナタの返答にエルタも頷き返す。

 世界各地の遺跡からその存在を明らかにしている古代文明。その技術力は今の文明を軽く凌駕している。それがどうして滅んだのかは、未だに世界の学者たちの悩みの種だ。

 

「あとは、古代の龍属性武器を駆使したんだろう。だからこそ、同じ属性の巨龍砲に期待できる────」

 

 エルタはそこで言葉を切って、深刻な顔で口を手で覆った。地響きでぎしぎしと揺れる避難壕の中で、急に沈黙が訪れる。

 アストレアがやや心配そうに声を掛けようとしたところで、エルタは弾かれたように顔を上げ、避難壕から飛び出した。

 

「エル!」

「エル君!? まだ手当てが終わってない……!」

 

 尋常な様子ではない。アストレアとソナタもエルタの後を追う。

 海の様子が見えるところまで一息に走ったエルタは、グラン・ミラオスが巨龍砲を守護する木造障壁の正面に立っているのを見て、ぎりっと歯を噛んだ。

 

 

 

 なぜ、なぜそこまで知っていながら、それに思い至らなかったのか。

 グラン・ミラオスには龍属性が有効だ。古代の人々もそれはすぐに分かったはず。今とは違い、古代文明は龍属性の鉱石を作り出せたのだという。その龍属性の兵器で以て、正攻法で勝負を挑んだのだろう。

 つまり、グラン・ミラオスは古代兵器と強力な龍属性武器によって瀕死にまで追い込まれたのだと仮定する。そしてエルタの仮説によれば、今ここで、この龍だけは、古代と現代が連続している存在だ。

 

 ()()()()()。この龍は覚えているのだ。過去に自らの身体を焼き尽くしたのだろう龍属性の雷光を。人が扱うその属性の恐ろしさを。

 グラン・ミラオスは迎撃拠点となったこの湾の奥地を目指していた。紆余曲折はあれど、今も歩みを進めている。そして、その先には巨龍砲が待ち受けている。

 誘いに乗った、と人々は考えていることだろう。視点を変える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その目的は、何か。

 

 

 

 

 

 ようやくだ。シェーレイは防護壁の向こう側にいるグラン・ミラオスを見やった。

 改めて、その大きさを思い知る。今ここからでもグラン・ミラオスのいる海から百メートル以上は離れているが、実はもっと近い距離にいるのではないかと錯覚するほどの大きさだ。

 威圧感も凄まじい。巨龍砲のスイッチを押す役目の部下が恐怖に駆られて早まらないかと若干の心配を覚えたが、シェーレイの合図をしっかり待っているようだ。

 

 腐卵臭が漂う。これはグラン・ミラオスの吐き出す溶岩によるものか。さらに火薬の焦げた匂いも漂っている。これはかの龍に向かって放たれた百発近いバリスタの弾の火薬と、それがかの龍のブレスによって爆発したものだ。

 グラン・ミラオスの上半身前面を散発的に、しかし大量に放たれたバリスタの弾はかの龍に少なくない損傷を及ぼしている。所々の鱗が削り取れて、真っ赤な血が流れ出しているのが見えた。しかし、それにグラン・ミラオスが動じる気配はない。

 バリスタ部隊の人的被害は小さい。バリスタ同士の距離を放していたことが功を奏したか、反撃のブレスでその多くは木っ端微塵にされたが、誘爆はしていなかった。

 

 砲撃部隊も反撃のときを待ち構えている。湾内の砲撃場はふたつが壊滅したが、残る二つは健在だ。密かに湾内へと入ってきた撃龍船も、グラン・ミラオスの後方に位置取ることに成功している。かの龍の包囲網は整った。

 

 グラン・ミラオスの脚部は海中にあるため見えないが、断続的に揺れる地面と地響きがこの龍が一歩を踏み出したことを教えてくれる。その一歩でどの程度進むのかの概算はできている。

 巨龍砲の起動スイッチが押されてから発射されるまでの十秒という時間差を考慮して、発射の合図を下すための残り歩数を弾き出す。

 

 ────あと三歩。

 

 どん、と地響きが伝わる。そのときになればシェーレイは右手に持った旗を掲げ、それを振り下ろす手筈だ。

 手の震えに抗うように、旗の柄を強く握りしめた。

 

 ────あと二歩。

 

 迎撃拠点のほぼ全ての人々の注目が集まっているのを肌で感じ取る。

 この一撃が決め手になるとは言い切れない。しかし、これを外せばここでの敗北がほぼ決定的になることは明らかだ。その不安と期待を一身に背負う。

 

 ────あと、一歩。

 

 シェーレイは、旗を持った右手をゆっくりと上げた。

 

 

 

 

 

「もうあんなところまでいってる!」

「巨龍砲は……!」

 

 急に避難壕から飛び出したエルタに追いついたソナタもアストレアは、エルタと同じ方向を見やった。

 湯気によって霞んで見えるかの龍と木の防護壁。エルタは立ち尽くしてその光景を見守ることしかできなかった。猶予などもうない。今がそのときだ。

 

 今、巨龍砲が放たれる。

 

 

 

 

 

 シェーレイが旗を振り下ろした。

 間髪置かず、砲兵が巨龍砲の起動スイッチを押した。

 

 蒸気を吹きながら発射機構が動き出す。安全装置が外れ、高密度滅龍炭が点火。瞬く間に黒い稲妻が砲身を包み込む。その光景は遠方にいたエルタたちからも観測できた。

 発射までの秒読みに入る。人々は固唾を飲んでその光景を見守る。

 

 グラン・ミラオスはその場から動かない。これは、当たる。

 

 膨大な量の龍属性エネルギーを纏った砲弾が、砲塔から飛び出そうと────

 

 

 

 

 

 ぼごっ、と。

 

 かの龍が放った炎が。

 これまでで最大の大きさの燃え盛る溶岩の塊が、巨龍砲の内部へと吸い込まれていった。

 

 

 

 直後に起こった大爆発は、周囲一帯を吹き飛ばし、焼き尽くした。

 

 数百もの人命がその肉体ごと一瞬で奪い去られた。あとには、何も残らなかった。

 

 どろどろに溶けて、真っ赤に赤熱化した大地を目の前に、黒龍は立っていた。

 

 

 

 

 

 やがて、「ああ、思い出した」とでもいう風に。黒龍は身を屈めて力を溜める。

 ゆっくりと、着実に。途方もない力が蓄えられていく。それは地殻変動の前触れを彷彿とさせた。そして、それを止められるものなど、誰もいなかった。

 

 数十秒後に一気に解き放たれた黒龍の翼の砲塔から、これまでとは比較にならない膨大な量の火山弾が目に見えないほどの速度で放たれる。

 

 あろうことか天まで至ったその火山弾は、しかしやがて、重力に従って落下を始める。

 空を覆う熱い雲を突き破って、無数の燃え盛る火の玉が迎撃拠点に降り注ぐ。

 

 砲撃場が燃えてゆく。逃げ惑う人々を火山弾が圧し潰していく。

 撃龍船が燃えてゆく。海に飛び込んだ人々を煮え滾った海水が茹でる。

 

 世界が、物理的に塗り替えられていく。

 

 

 

 全身に張り巡らされた光の筋を黄金に輝かせ、かの龍は歩き始めた。

 火山弾の噴出と共に流れ出した溶岩がその身体を伝っていく。穿たれたはずの胸の光核も、爆発の余波を受けて黒く焼けて拉げた甲殻も、血を流していたはずの体表も。その溶岩が塗り替えて。そこに在るのは、()()()()()()龍の姿だった。

 

 

 

 グラン・ミラオス。それは遥かな過去、天地創造の光景を、煉獄を具現化させる古龍。

 

 

 

 人よ。創世の理に従えと。

 燃え盛る火の海の中心で、黒龍は新たな一歩を踏み出した。

 

 



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第5節 人よ、創世の理に従え
> 人よ、創世の理に従え(1)




海は煮え立ち、空より炎が降り注ぐ。
人よ、創世の理に従え。




 

 

 タンジアの港、ハンターズギルドの集会場にて。

 金髪を三つ編みにした受付嬢、キャシーは紙の束を見ながら怪訝な顔で首を傾げていた。

 

「うーん……」

「どうしたの?」

 

 隣にいた先輩受付嬢のローラがそれを見て話しかける。いつもはクエストの斡旋などを行っている彼女たちは、今はグラン・ミラオス迎撃作戦の後方支援役として情報管理を担っていた。

 

「この作戦に来てもらったランク5のハンターさんたちって何人かいますけど、その中でもエルタさんの情報が少ないんですよね」

「そう? ……あら、ほんとね。ランク5昇格の理由はキリン亜種の討伐……功績としては十分だと思うけど、それ以外は狩猟記録ばかりね」

「だからちょっと気になっちゃって。かなりストイックな人なのかな……?」

 

 ランク5ともなれば勲章の一つや二つもらっていてもおかしくはない。そういったものを苦手とするソナタですら、モガとタンジアからの感謝状を受け取っている。エルタという狩人はそういったものを一切受け取っていないようだった。

 

「でも、今はそれについて考え込んでる時間はないわ。その話は彼らが戻ってきたときにするとしましょう」

「……そうですね!」

 

 迎撃作戦は今もなお継続中だ。最前線に出ている者から第二第三の防衛線に出向いている者まで含めれば、ハンターの数は百人を優に超えていく。彼らの居場所の管理はキャシーたちが務めるのだ。

 彼らが迎撃拠点へと向かう前、キャシーは不安を隠しきれず、ハンターのアストレアやソナタに逆に励まされてしまった。受付嬢ともあろうものが、情けない話だった。

 

 キャシーは意気込みを新たにする。今度こそ、彼らの帰りを信じ、笑顔でお帰りを言うのだ──。

 

「……? 今、何か聞こえなかった? 耳鳴りかしら」

「い、いえ。私も聞こえました。どぉーんって、太鼓の音みたいな……」

「あの方向から聞こえたような……。──なに、あれ」

 

 キャシーの健気な決意は、ローラの呟きによって塗り替えられていった。

 感情が抜け落ちてしまったかのような声音。ローラが呆然と見ている先をキャシーも目で追った。それは水平線の向こう、厄海の迎撃拠点がある方向の空────。

 

 赤い。

 

 太陽は既に昇っている。さっきまで青空が広がっていたはずだ。けれど、その空はまるで暗い血の色に染まったかのように赤かった。

 夕焼けとも朝焼けとも違う、不気味な赤。しかもそれは布に零れたインクのように、じわじわと青空を侵食していく。

 

 ぞっとするような悪寒に駆られて、キャシーは喘いだ。

 ハンターでなくとも分かる。あれはいけない。恐ろしい。

 

「……街の住民に避難指示をだせぃ」

 

 そして、先ほどまでカウンターで黙って酒を飲んでいたギルドマスターが口を開いた。それを聞いたギルドの職員が慌てて聞き返す。

 

「ひ、避難指示ですか? それは迎撃拠点からの連絡を待ってからの方がいいのでは──」

「非常事態じゃ!! 分からんのかっ!!」

 

 一喝。びくっとキャシーの肩が跳ねる。こんな剣幕のギルドマスターを見るのは初めてだった。

 

「あの空はかのグラン・ミラオスの仕業と見て間違いなかろう。ワシの見立てじゃがの。……()()()()()()()()ぞぃ」

「そんな……っ!」

 

 否定の言葉が口から出かける。ギルドマスターの言葉がキャシーには信じられなかった。信じたくなかった。

 だって、あんなに凄腕のハンターが数多く集っていたのだ。シェーレイ率いる海上調査隊は、かの超大型古龍ゾラ・マグダラオスの撃退経験を持つ歴戦の部隊のはずなのだ。そんな彼らが、まさか。

 

 けれど、あの空の彼方は。残酷なまでに、赤い。

 

「もう遅いかもしれんがのぅ……それでも手は打たねばならん。キャシー、ローラ、エリナ。逃げたければ逃げて構わん。ここからが正念場じゃぞぃ」

 

 手に持ったジョッキに入ったビールを飲み干し、ギルドマスターは重々しくそう告げた。

 ローラも、背後に立つ大銅鑼担当のエリナも黙っている。キャシーは震える手をぎゅっと握りしめた。

 突然迫り来た危機に、心が悲鳴を上げている。けれど、キャシーはこのタンジアハンターズギルドの受付嬢だ。前線で戦っているハンターたちに背を向けて、逃げ出すわけにはいかない。

 

(ソナタさん、アスティちゃん、どうか無事でいて……!)

 

 

 

 

 

 そのキャシーの願いが聞き届けられていたのか。

 ソナタとアストレア、そしてエルタは生き残っていた。──いつ死ぬかも分からない状況ではあったが。

 あの大爆発から数十分が過ぎ去り、エルタたちは撤退のために撃龍船へ乗り込んでいた。

 船はまだ湾外に接岸したままだ。湾内の迎撃拠点から逃げてくる人々の受け入れをしている。

 

「水をありったけ汲んで来い! ぼうっとしてりゃ船ごと沈んで全員死ぬぞ!」

 

 厄海の演習で知り合った船長が檄を飛ばしている。彼が立つ甲板は煤まみれで海水と血が沁み込んでいた。黒く焼け落ちている箇所も至る所に見られる。

 

「船長! また来ます!」

「ちぃ……っ!」

 

 彼が続いての指示を出すよりも早く、何度目かの炎の雨が降り注ぎ始めた。

 一発一発が人の身とほぼ同じ大きさの火山弾。貫通力では大砲に劣るが、人の頭上に直撃しようものなら間違いなく致命傷だ。さらに炎を纏って砕け散るために容易に船に火をつける。

 それが超広範囲にわたって雨のように降り注ぐ。舞い上がる細かな灰と赤く染まった空と海の景色が相なって、まるで燃え盛る火山の只中にいるかのようだった。

 

「うわぁっ!」「ぎゃっ……!」

 

 また二人、その無慈悲な雨に巻き込まれる。避けようとしてすぐ傍に着弾したのか、吹き飛ばされた二人は服に燃え移った炎をかき消そうと転げ回っていた。

 その一人の元へ他の船員が桶を持って海水をぶちまける。もう一人の元へはエルタが駆け付けた。同じように海水を浴びせて、肩を貸して船内へと運び込む。

 そうしているうちにもまた一発、この船に火山弾が直撃したようだった。二人の怪我人を出した火山弾による炎も放置されたまま、このままでは火事になりかねない──。

 

 ばき、と。甲板の板をたたき割るような音と共に、燃え広がっていた炎は煙を立てて掻き消えた。

 床そのものに向けて大剣を叩きつけたソナタはふうっと息を吐き、油断なく周囲と頭上を見渡しながら再び駆けていく。そんな彼女に船長が呼びかけた。

 

「ソナタ嬢、すまないが頼む! 甲板をぶっ壊す勢いでいい、とにかく火を消してくれ!」

「はい!」

 

 ソナタの持つ大剣、海王剣アンカリウスは剣自体が常に水を蓄えているという古龍武器ならではの特異な性質を持つ。それを使ってソナタは火消しに努めているのだ。

 アストレアは小回りの利く身体を生かしてソナタの手助けに入っていた。片腕で桶を持って、ソナタが大まかに鎮めた炎を確実に消し止めに行く。

 

 彼女たちが動き回るようになってから、死屍累々と言った有様だった撃龍船の上はある程度落ち着いてきている。

 それと単純に降ってくる火山弾の数が減っているというのもあるのだろう。最初はもっと数が多かった。つまり、グラン・ミラオスがここから離れているのだ。

 

「陸にいる連中はだいたい回収できたか!?」

「はい! 少なくともこの船に乗ろうとしている人はもういません!」

「よし、離岸するぞ。帆を張って錨を引き上げろ!」

 

 船長の指示に従って船員たちが慌ただしく動く。火山弾は常に降り続けているわけではなく、時間差がある。その間に船を出すのだ。

 ばっと帆が風を受けて膨らみ、船体が徐々に岸から離れていく。

 

「ああ、あの船はダメか……!」

 

 船員が指差す先には、濛々と黒煙を立ち昇らせながら炎上する二隻の船があった。火山弾による火を消しきれなかったのだ。帆の柱にまで火が燃え移っている。あれはもう離岸できないだろう。

 片方が撃龍船で、もう片方が輸送船だ。炎に包まれていく船の中から、逃げ遅れて蒸し焼きになる人々の悲鳴や嘆きが聞こえて来るかのようだった。

 他の船も続々と離岸していく。焼け落ちていく二隻の船に構っている余裕は、どの船も持ち合わせていなかった。今まさに、自らの船の消火に努めているのだから。

 

 この船内も相応の修羅場だ。怪我人を船内へと運んだエルタはそれを実感していた。

 もはや、動ける者の方が少ない勢いだ。怪我人を寝かせるベッドなど既に満杯で、個室や通路の床にまで人が転がっている。包帯も回復薬も、とても足りない。死人の数を数えるのはもう、止めている。

 

 この戦いで誰が生き残って、誰が死んだかなど誰も把握できないだろう。それくらい混乱した状況だった。トップを失った組織は無秩序になるということを痛感させられた。

 そう、これまで信号弾を駆使して作戦を指示していた人々はもういない。あの爆発によって作戦本部は跡形もなく消え去ってしまった。無論、その人々の中には総司令のシェーレイも含まれていることだろう。

 海上調査隊は、負けたのだ。

 

 

 

 時は少し前に遡る。

 エネルギーを蓄えて、砲弾を射出する直前だった巨龍砲の砲塔。そこにグラン・ミラオスの放った特大のブレスが吸い込まれていくのを見たとき、エルタは背後にいた二人に耳を抑えて伏せるように言った。

 直後にかっと光が閃き、大爆発が起こった。鼓膜など容易に破れるほどの大音量と、衝撃波じみた爆風。三人が伏せていなければ、遥か向こうまで吹き飛ばされて気を失っていただろう。

 びりびりと肌を打つほどの衝撃がようやく収まってエルタが顔を上げた先には、地獄絵図が広がっていた。

 

 巨龍砲があった場所を中心にして、切り立った崖だったはずの場所に巨大なクレーターができあがっていた。

 その地表は赤熱化し、龍属性の雷光がばちばちと弾けていた。巨龍砲とグラン・ミラオスを隔てていた木造障壁など跡形もなく、その残骸は遠く離れていたはずのエルタたちの元まで届いていた。

 

 その惨状の間近に、グラン・ミラオスはいた。

 かの龍もまた、その龍属性の爆風を真っ向から浴びて無傷とはいかないようだった。全身の赤い光の筋は黒ずみ、至る所から血を流していた。

 しかしそれは恐らく、かの龍に巨龍砲を当てられたときよりは少ない損傷だった。実際にその身に砲弾を受けていないというのは大きい。

 その証拠に、グラン・ミラオスは怯むことすらせず、しばらく立ち止まっていた後に新たな行動に出た。

 

 身体を屈め、尻尾を丸めて力を溜めるような挙動を見せる。この場にいるハンターならば誰もが察しただろう。あれは、できる限り阻止しなければならない類の予備動作だと。

 しかし、それを止められるものなど誰もいなかった。まず、物理的に近づくことができなかった。ただ警戒することしかできないままに時間が過ぎた。

 

 しばらくして、かの龍が咆哮と共に蓄えていた力を解き放ってからが、悪夢の始まりだった。

 全身の光の筋を黒ずんだ赤から黄金にまで輝かせ、グラン・ミラオスは膨大な量の火山弾を一気に放出した。火柱は雲を突き抜けて天まで達していた。

 やがて、溶岩の雨が降り始めた。

 大地を溶かし、水蒸気爆発を起こすほどの炎を纏った火山弾が、赤い雲の中から次々と地上めがけて落ちてくる。その数は優に百を超えていた。

 

 エルタたちは空を見ながら走り、避難壕に隠れるので精いっぱいだった。

 高ランクのハンターたちですらそれだ。砲撃場に構えていた海上調査隊員たちは惨憺たる被害を受けた。

 洞窟にでも隠れない限り、あの炎の雨からは逃れられない。急造の木の櫓や小屋などは瞬く間に破壊され、むしろそれが火種となり、中にいた人々を殺していく。各地の安全な場所に置かれていたはずの火薬庫にすらそれは容赦なく襲い掛かり、大爆発を引き起こした。

 

 人々は勝手に死んでゆき、グラン・ミラオスは再び歩き出す。

 もはやその進行を阻むものなど誰もいない。湾の奥で立ち塞がっていたはずの岩山は崩れ去り、そこを通れとでもいうようにかの龍の目の前には一本の道ができていた。その視界の先には海も見えただろう。

 火の海の中をグラン・ミラオスが歩いていく。いくつもの火口から噴き出す溶岩は留まることを知らず、たびたび大噴火を起こしては空に火山弾を降り注がせた。

 

 ここにいても埒が明かない。覚悟を決めて外に出たエルタたちは、山を越えて湾内から湾外へ、そして船で脱出しようとしているだろう人々に合流した。

 道中で錯乱していた兵士たちを先導するように先駆けたが、その間にも何度か火山弾が降ってきていて、エルタたちに続いて湾外の停泊所まで辿り着けた人々は少なかった。

 それを案ずる暇もなく、炎上寸前の撃龍船に乗り込んで、命の危険が伴う外での消火活動を手伝った。そうしているうちに今に至る。

 

 

 

 流石に疲労が激しい。エルタは自らの意思に反して閉じようとする瞼をこじ開けた。

 海中での戦いからほとんど休む間もなく山越えし、船の中でも動き回っている。しかもその間、空からの脅威に一時すらも気を抜けないのだ。

 

 そう、一時すらも。まさに、今だ。

 山なりに飛んできたらしい火山弾が、迎撃拠点のある方の上空から撃龍船の帆のひとつを撃ち抜いた。

 うわぁっと船の各所から悲鳴が上がる。ソナタが大剣を担いで駆けていく。

 帆柱は根元から折れるとまではいっていないものの、耐火性のあるはずの布は一気に燃え広がって灰になり、その機能を完全に失ってしまった。

 

「飛び火するなよ……!」

 

 撃龍船の船長は半ば祈るような面持ちでもうもう一本の帆を睨む。それが失われれば、この船はいよいよ立ち往生してしまう。

 ソナタたちがいる限り沈むことはないかもしれないが、かの龍が彼方の海まで行くまで待ちぼうけするだけの船に成り下がる。いや、船に乗り込んだ人々の多くはそれを望んでいるかもしれないが、少なくとも船長はそれを望んでいないらしい。無論、エルタもだ。

 

 火が完全に掻き消えたとき、もう一つの帆は未だに風を受けて張られ続けていた。

 

「舵取りいっぱい! グラン・ミラオスを迂回してタンジアに戻るぞ!」

 

 火に塗れた世界で、船長は堂々と指示を出した。これからかの龍が向かうだろう場所へと向かうと。

 もとから彼の部下だった船員たちは覚悟を決めているようだったが、そうでない人々が多く逃げ込んでいる船内からは動揺の声が聞こえた。もういやだ、という声も聞こえる。船長はその声を睨みつけて言い放った。

 

「このまま逃げようなんて魂胆の奴はこの船からとっとと降りろ。ここにいるどこかの船が拾ってくれるだろうよ。タンジアは俺たちの故郷だ。見捨てていられるか……!」

 

 シェーレイが最悪の展開と想定していた、グラン・ミラオスのタンジアの港への上陸。

 それが今や避けようのない事実となりつつあることを、この船にいる誰もが感じ取っていた。

 

 






執筆BGM『絶対魔獣戦線:メソポタミア』

本節では群像劇のように次々と語り手が切り替わります。予めご了承ください。
次回はゴールデンウィークでの更新を目指します。


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>> 人よ、創世の理に従え(2)

 

 土が焼ける匂いと、血の味くらいしか感じ取れない。

 巨龍砲が構えられていた土手をさらに進んだ先、崩れ去った迎撃拠点の湾の裏手で、一人のハンターが岩壁にもたれかかって座っていた。

 傍に置かれた重弩は、傷と煤だらけになりながらも、まだ弾丸を撃つ機構は生きている。

 けれど、身体の方がもう動かない。彼は自らの意志に全く応えず沈黙する両脚と、地面に倒れ伏した彼の仲間を見た。

 

「ちっくしょぉ……」

 

 熱い。苦しい。悔しい。歯を食いしばれば涙が滲む。

 

 迎撃拠点の陥落を悟った人々が次々と逃げていく中で、三人パーティの彼らは独断でグラン・ミラオスに追いすがった。

 自分たちでかの龍を止められるとは思ってもいなかった。二十人近くの凄腕ハンターたちが水中戦に臨んで数時間と持たず蹴散らされたのだ。

 あくまでも時間稼ぎ。ここから人々が逃げていくまでの間、かの龍の注意を少しでも引き付けて、あとは生存重視で立ち回ろう。炎の雨が降る中で、そう打ち合わせていた。

 

 その結果がこれだ。陸上でも、まるで歯が立たなかった。

 両翼の火口からとめどなく零れ落ちる溶岩と、凄まじい放射熱。攻めあぐねていた仲間の一人は、突如として頭上から迫り来た前脚の叩きつけへの反応が遅れ、灼熱の爪に引き裂かれ、潰された。恐らく即死だった。

 仲間の死を見て動揺したのだろう。罠師だったもう一人の仲間は咄嗟に助けに入ろうとし、空から降ってきた火山弾に自ら飛び込んでしまった。こちらはまだ息があるだろうが、しばらくは動けない。

 瞬く間に孤立無援状態となった重弩使いの彼は、それでも少しの間かの龍とやり合った。

 そして極度の緊張の中で、普段はありえない弾切れのミスを犯し、その隙にかの龍のブレスを至近距離から受けた。腰から下が動かないのは、そのときの衝撃で脊髄を砕いてしまったからだろう。ハンター人生に関わる大怪我だった。

 

「ちっくしょぉ……!」

 

 同じ言葉を繰り返す。グラン・ミラオスは既に島を縦断し、再び海中に没しようとしている。

 遠くの海を見れば、湯気で霞みつつも小さな船影のようなものが見える。人々は無事に脱出できたのだろうか、その手助けはできただろうか。もしかせずとも、彼らがここで殿の役を務めていたことにすら気付いていないかもしれない。

 

 三人はタンジアでずっと活動してきたハンターだった。失敗や怪我を交えながらも、運よく誰も死ぬことなく狩猟依頼をこなし続け、大型モンスターの連続狩猟もやってのけた。

 タンジアハンターズギルドの中でも数少ないランク4に揃って昇格したときには、彼らのためだけに集会場が貸し切られ、大いに祝われた。あの日、酔っぱらいながらこれからもタンジアでやっていこうと三人で笑い合った。

 

 そんな日々は、もう戻ってこない。

 それは覚悟していたことだった。ハンターという職に身を置く限り、死別がいつ来るかもわからないことは、集会場で死亡者の報告を見聞きするたびに意識していた。

 けれど、そんな彼らをいつも支えてきたタンジアが。武器を錆びさせる潮風に難儀し、商人たちはハンターにも容赦せず、けれど確かに彼らの帰る場所だったタンジアがなくなるのは、あまりにも耐えがたい。

 

 もしあの港町がなくなれば、自分たちはいったいどこに骨を埋めてもらえばいいのだ。

 もうどうすることもできない。ただかの龍が歩いていくのを見送ることしかできない。空から降ってくる火山弾に当たってしまえばそこで終わりだ。

 それがあまりにも不甲斐なくて、彼は歯を食いしばりながら、悔し涙を流しながら、声を絞り出した。

 

「ごめん、ごめんな……。加工屋のおっちゃん、キャシーちゃん、ギルドマスター……タンジア出身の俺たちが頑張らねえといけなかったのに……!」

 

 せめて、逃げてくれ。

 あの災厄がタンジアに来る前に。港が火の海になる前に。

 

 

 

 ふと、かの龍との水中戦で大立ち回りをやってのけた三人のハンターを思い出した。

 モガの村の英雄ソナタ、その傍らに立つ白い少女。そして、かの龍の胸を穿った異国の武器使い。

 

 ああ、こんな時でも憧憬が芽生えるのは狩人の性か。あるいはひょっとすれば、彼らに希望などというものを見出しているのか。

 明らかに()()()()()()()をしていた彼らならば、何か、やってくれるかもしれない。

 全てにおいて自己責任なハンターらしくない、他力本願な思考だ。けれど、このときばかりは。

 

「…………タンジアを、頼む」

 

 その一言だけを残して、彼は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 迎撃拠点を過ぎた先は珊瑚礁の海が広がり、海から顔を出した三つの島には黒龍祓いの灯台が設置されている。

 万が一の時のために要塞化が施されていたこれらの大灯台では、ランクの低い雇われのハンターと少数の海上調査隊員が派遣されていた。

 

「さっさと俺たちを逃がせ!! こんな場所、一秒だっていたくない!」

「それなら勝手に小舟で逃げ出せばいいじゃない! この火の海の中を生きて逃げられる自信があるのならね!」

「あ、あいつらは! 迎撃拠点の連中は何をやってるんだ!? 俺たちを残して逃げ出したのか……!?」

 

 そこは今、パニックに陥っていた。

 海と空が不気味に赤く染まり、迎撃拠点の方から突然大音量が響いてきたのが数時間前のこと。怖気づく彼らに一足早く訪れたのは、降り注ぐ火山弾の洗礼だった。

 

 大灯台の中は比較的安全と言えたが、それもいつ崩れるか分からない。大灯台は人工物で、岩ほど頑強ではないからだ。事実、頂上部や壁は大きな損傷を受けている。

 迎撃拠点からの連絡があれ以降途絶えているというのも彼らの不安を加速させた。彼らは言わば補欠の役であり、実戦経験の少ない者がほとんどだった。

 

 彼らのいる大灯台の横穴の出口から見えるのは、海から顔と両翼だけを覗かせて歩いていく火山の龍の姿だ。

 今、大砲を放てば頭部に直撃させられる可能性は高い。しかし、別の灯台の部隊はそうやって勇んで攻撃して反撃のブレスで焼き尽くされた。

 彼らは何もできないでいた。かの龍が放つ威圧感、周辺環境の劣悪化は、戦い慣れしていない人々にとっては耐え難いものだった。

 

「張っておいた水雷は……?」

「だめ。あの火の雨でほとんど起爆してる……」

 

 ときおり、海中から小規模の爆発がかの龍を叩く。タンジアの漁師たちの反対を押し切って設置した水中用大樽爆弾、簡易的な水雷原だ。

 しかし、その多くが空から降り注ぐ火山弾によって誘爆させられてしまった。これでは望んだダメージは期待しにくい。それでも十回以上は当たっているというのに、かの龍が歩みを止める様子はなかった。

 

 緊張と恐怖から来る緊張感が彼らの口数を減らしていく。

 タンジアを守る立場であるという責任感と、失われるかもしれない自らの命。それらを天秤にかけなければならないという事実に向き合いきれない。

 

 憔悴がピークに達しようかというころ。

 彼らは、水雷原を突破したグラン・ミラオスに向かって、真っすぐに突っ込む大型船を見た。

 

「な、何をする気だ……?」

 

 動揺する人々を差し置いて、その船はかなりの速度でかの龍へと突っ込んでいく。帆は畳まれている。今どき珍しい、海のモンスターを呼び寄せてしまうと嫌われている蒸気機関の船か。

 当然、かの龍もそれを黙って見ているわけではなかった。巨大な口から紅蓮の溶岩が滴るブレスを撃ち出す。

 

 その船はブレスを避けることすらせず、真正面からそれを受けた。角のように突き出した舳先がめきりと折れて、飛び散った溶岩が船首に火をつける。

 二撃目、三撃目。それらも甘んじて受けて、もはや船首は拉げて船の形ではなくなってしまった。炎上する寸前で、竜骨も底板も砕け、半ば沈んでゆきながらも、その船は止まらない。愚直にグラン・ミラオスに迫る。

 

 このときになって、ようやくかの龍はその船の意図するところを察したようで、方向転換しようと身を捻った。

 しかし、遅い。既にグラン・ミラオスの目前まで迫っていた船は、速度を緩めることなくそのまま突っ込んだ。

 

 衝突したのは、右の翼だ。ぐしゃりと船が潰れる。

 それと同時に、船体中央部から紅の炎が花開いたかと思えば、瞬く間に船全てを包み込む連鎖爆発を引き起こした。

 数秒遅れて、大砲の音を何重にも重ね掛けしたような轟音が見ていた人々の耳と胸を打つ。巨大な波紋がその船を中心に広がっていく。

 大型船の積み荷にありったけの大樽爆弾を詰め込んだ、自爆攻撃だった。

 

 オォ────。

 

 グラン・ミラオスが吼えた。

 

「き、効いた!?」

「龍が怯んだぞ……!」

 

 大灯台の内部の人々はそれを聞いて驚く。迎撃拠点にいなかった彼らは、そもそもあの龍が怯むということすら想像できていなかったのだ。それだけ彼らにグラン・ミラオスは絶対的存在として見えていた。

 

 煙が晴れた先には、木っ端微塵になって火のついた木片が赤い海に浮かぶのみとなった船と、右翼をより赤く染めたかの龍の姿があった。

 翼を失わせるまでは至らなかったようだが、大きく傷ついている。生々しい赤色は外殻の内側の血潮が流れ出ていることを示し、何より、翼から零れ落ちる溶岩の量が減った。うまくそれを生成できなくなったのか。

 

 つまり、あの船は単体で右翼の部位破壊を成し遂げたのだ。

 残骸となった船を、人々は息を飲む想いで見守っていた。

 突っ込むだけだったとしても、そこには必ず一人以上の人が乗って舵を取っていたはずだ。あれだけの爆弾を乗せて自爆すれば、彼らが生きているはずもない。

 

 恐らく、タンジア出身の人々だ。生半可な攻撃は通用しないことを察し、船ごと突っ込むことで、自らの命と引き換えにグラン・ミラオスの権能をひとつ奪った。

 

「特攻……」

 

 誰かが呟いたその言葉は、遠国より伝わる、捨て身の攻撃を示すものだった。

 

「……待って、あの龍、沈んでいくわ!」

「海の中に潜るのか!?」

 

 刻々と戦況は変化していく。壮絶な自爆を受けても、かの龍は止まらない。

 グラン・ミラオスは二足歩行から四足歩行へと移行する。両翼と首筋の火口が海中へと沈んでいく。

 数十秒後にはかの龍がそこにいることを示す渦潮も解かれて、その行方は分からなくなった。火の粉と赤空、赤い海のなかに彼らは取り残される。

 

「……今なら、逃げられるよな」

「……はぁ、この期に及んで、好きにすればいいじゃない。あたしはタンジアに戻る。今のことを調査隊の人たちに伝えなきゃ。今ので撃退したとは思えない……」

 

 火山弾が降っていないというだけで、そこはかなり平穏になったように思えた。異常な環境は何一つ変わってはいないものの、憔悴した彼らの感性には僅かな救いだった。

 逃げるもの、タンジアに戻ろうとするもの、留まるもの。生き残った人々は各々で判断を下し、灯台群での戦いは終息する。

 熱気と湯気熱気と湯気を放つ赤い海は、その後も元通りになることはなかった。

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 丸一日が過ぎた。

 火山弾の被弾を避けるために大回りしてタンジア帰ってきた撃龍船は、既に赤く染まった海と大騒ぎになった街に出迎えられた。

 不幸中の幸いと言うべきか、グラン・ミラオスはまだ出現していないようだった。確かな情報を得るために、船から降りたエルタとソナタは集会場へと急いだ。アストレアは撃龍船内で待機させている。

 

 集会場もまた、人々が入り乱れて忙殺されている状況だった。普段は表に出てこないギルドの職員たちもなりふり構わず飛び交う情報への対応に追われている。

 律義に待っていては埒が明かないのは明白だ。エルタたちは人々をかき分けてカウンターに辿り着いた。

 

「キャシーちゃん!」

「──ソナタさん! エルタさん! う、うぇぇぇん……!」

 

 カウンターに詰め寄る人々を必死に捌いていたキャシーにソナタが声をかけると、彼女は途端に涙を溢れさせ、カウンダー越しにソナタを抱きしめた。

 

「よかった、よかったぁ……! 絶対生きてるって信じてたんですけど……もしかしたらみんな死んじゃったんじゃないかって……!」

「ごめんね。不安にさせちゃって」

 

 肩を震わせるキャシーの肩をソナタがぽんぽんと叩く。もう一人の受付嬢のローラや銅鑼担当のエリナもほっとした顔を見せていた。

 しかし、状況は一刻を争う。キャシーもそれは分かっているのか、すぐに涙を拭いてソナタから離れ、表情を整えた。

 

「灯台群から帰ってきた方々や、高台の観測所にいた方々から話は聞いています。……迎撃拠点は陥落しちゃったんですね」

「うん。これから生き残った人たちが戻ってくるけど……半分くらい、死んだよ」

 

 誤魔化さず、しっかりと言い切る。キャシーもまた唇をぎゅっと結んだ。

 

「グラン・ミラオスはそんなに強いんですね……ギルドから必要な支援はありますか?」

「クーラードリンクを優先的に用意してほしいかな。あれがないと話にならない」

「……タンジアの現状は」

 

 普段は無口なエルタも口を挟んでいく。

 迎撃拠点の陥落は早い段階で分かっていたはず。そこから一日が過ぎているというのに、ここにいる人々の数を見る限り避難は順調に進んでいないようだった。

 

「それはワシから説明しようかのぅ」

 

 そう言ってカウンターの背後の建物から出てきたのは、タンジアのギルドマスターだ。このときばかりはジョッキを手に持っていない。

 

「ざっくり言ってしまえばな、海からの避難ができんで皆困惑しとるんじゃ。陸路は山間の狭い道が一本のみ。そこは人で溢れておる」

 

 ギルドマスターの説明は、エルタを納得させ得るものだった。

 海の赤熱化は既にかなり進んでいる。それは間違いなくグラン・ミラオスがここに近づいている証拠であり、街の人々の恐怖を駆り立てる。

 そんな中で、船で脱出しようと考える人はいないだろう。タンジアは迎撃拠点よりも大きな湾になっていて、そこさえ抜ければ船の方が比較的安全に逃げることができるはずだ。しかし、水平線の向こうまで海も空も赤くなっているとなれば、陸路を選ぼうとするのも道理だった。

 

 人々の対応は再びキャシーに任せ、エルタとソナタはギルドマスターに迎撃拠点で起こったことを話した。

 

「なんと、巨龍砲を撃ち返されるとは……。総司令どのはどうなったかのぅ」

「……この目で見たわけではないですが、恐らくは」

「ふむぅ……独自に準備を進めておいて正解じゃったな。とすれば海上調査隊の連中の采配はどうしたものか」

 

「──それに関しては、某が取り持ちましょう」

 

 エルタが振り向けば、そこには鈍色の銃槍を担いだ黒鎧の大男が立っていた。相応の気配と物音があったはずだが、この喧騒に紛れて気が付かなかったようだ。

 ソナタと同じ単身古龍撃退者のガルム。エルタとは別の船に乗ってきて、やや時間をおいて到着したようだ。

 

「ガルムさん!」

「……先に謝罪を。シェーレイ殿を護りきることができなかった。某のみが生き残るという体たらくだ」

 

 ガルムはそう言ってやや顔を落とした。あの大爆発をもろに受けて生きて帰ってきているという時点でその屈強さを物語っているが、自責の念が強いらしい。

 ただ、彼はすぐに顔を上げて言った。

 

「某はただの狩人で軍学も知らぬ。だが、シュレイド地方の古龍迎撃戦で人々をまとめ上げた心得はある。どうだろうか。ギルドマスター」

 

 ガルムの提案にギルドマスターは唸って考え込んだ。

 ガルムは彼自身が優れたハンターだ。そんな彼に海上調査隊の総司令の代理という重役を兼任させるというのは、立場的な枷をかけることに等しい。前線に立つことは難しくなるだろう。

 しかし先ほどの話によれば、シェーレイを含め海上調査隊の重役のほとんどが死亡している。今の調査隊は、誰から指示を仰げばいいのか分からない組織に成り下がっている。このまま放置すれば、その不安から街に損害を出す恐れすらあった。

 

「……仕方がない。ガルムどのに頼むぞぃ。ワシが臨時で担うよりも、上手くまとめ上げられるじゃろうて」

「承った」

 

 ギルドマスターの言葉にガルムが頷きを返したところで、ギルドの服を着た男性がばたばたと駆けてきた。

 

「ぎ、ギルドマスター! グラン・ミラオスが姿を現しました!」

 

 ソナタとエルタが弾かれたように振り向く。

 早い。早すぎる。あのまま二足歩行を続けていれば、あと一日程度は猶予があるだろうと船長は言っていた。とすれば、途中から四足歩行で移動していたのか。

 

「かの龍はタンジア湾の5キロ沖合に出現、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! ふ、噴火を起こしながら真っすぐにこちらを目指しています!」

 

 望遠鏡での観測か。ここから見える距離でもない。まだ切迫した状況ではないと考えたのか、いくらか顔を和らげた人々がいた。

 けれど、それは全くの見当違いだ。かの龍の()()は、そんなものではない。

 

「ギルドマスター。キャシーちゃんたちにも伝えてください。──とにかく、地下か岩陰へ逃げるようにと」

 

 否定の言葉は聞かない。あれの恐怖を正しく伝えられるわけがなく、そしてその恐怖を、空を見上げて知る頃にはすべてが遅いのだ。

 ガルムは急ぎ足で集会場から出ていった。海上調査隊のパニックを防ぐためだろう。彼らの拠点にはタンジア最大の黒龍祓いの灯台がある。彼らをそこに集めさせられれば、ひとまず持ちこたえられるはずだ。

 

「私はアスティを呼んでくる。たぶん気付いているはずだから。エル君は?」

「……ここに残ろう。ギルドマスターたちを死なせるわけにはいかない」

「分かった。しばらく別行動になるけど……どっちも大切なことだしね、気を付けて」

 

 そう言うとソナタは駆けて行った。ラギアシリーズを着て大剣を担いだハンターの疾走だ。人々は道を開けていく。

 エルタは空を見上げた。いつの間にか、空は赤く厚い雲に覆われている。あのときの空と同じだ。

 先ほどのギルド職員の報告を聞いていたのか、集会場に不満をぶつけに来た人々は、こぞって逃げ出そうとしたり迎撃拠点の人々へ恨み言を呟いたりしている。

 

 ドンドルマと違って、災害慣れしていない。

 過去のグラン・ミラオス出現から、永い時間が経ちすぎたのだ。

 

 

 

 ひとつめの火山弾が炎を滾らせて降ってきた。

 それが落ちてきた場所は、よりにもよってタンジアの外へ脱出するための唯一の陸路の真中だった。

 

「くそっ……進みが遅すぎる。いよいよ空も海もおかしくなってるってのに!」

「仕方ないだろ。逃げるって言ったって、いったいどこまで行けばいいのか……。……待て。周りが騒がしいぞ」

「ひ、ひょっとしてモンスターか? 皆空を見上げて────」

 

 ごしゃっと鈍く無惨な音が響き渡る。

 周辺の竜車はたちどころに燃え上がり、長蛇の列を作っていた人々は恐慌状態に陥った。

 ただでさえ怯えきっていて御すのに苦労していた竜車引きのアプトノスたちは、気が狂ったかのように人々を撥ね飛ばし、引き倒して走り回る。その道は冷えて固まった溶岩の黒と、血の赤色に染まっていった。

 タンジアからのたった一つの陸路は、いともあっさりと閉ざされた。

 

 次いで商店通り、街、周辺の山々にも火山弾が降り注ぎ始める。避難せずに残っていた人々の悲鳴と怒号が入り混じる中で、雲を突き破って、炎の雨が降ってくる。

 街が燃えていく。石造りの家屋をいとも簡単に砕き割って、残骸、そして火種へと変えていく。

 森が燃えていく。既に至る場所から煙が出始めていた。あれらから火の手が上がれば大規模な森林火災になることは疑いようもなかった。

 

「逃げろ、逃げろぉーっ!!」

「建物の中はダメだ! 燃やされるぞっ! 岩山の方に逃げるんだ!」

「迎撃拠点のやつらは何やってたんだよぉ……! いやだ、死にたっ──ごはっ」

「誰か、誰か助けて! まだ息子が家にいるの! あ、ああぁぁぁ……っ」

「……どうして空から、あんなものが降ってくるの……悪い夢なら、醒めて……っ!」

 

 タンジアが灼けていく。

 

 紅く塗り替えられていく大地の、その沖合にて。

 丸一日を経て現れたグラン・ミラオスは、かの船の自爆攻撃で受けた傷などなかったかのように、溶岩に満ちた両翼を広げる。

 その眼は、真っすぐにタンジアの港を視ていた。

 





ヒント:グラン・ミラオスの翼の部位破壊条件

文中の挿絵はただの地図なので見たい方はどうぞ。物語の進行が少しだけ分かりやすくなるかもしれません。


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>>> 人よ、創世の理に従え(3)

 

【挿絵表示】

 

 

 

 喧騒が煩わしい。

 

 悲鳴を上げて逃げ惑う人々を視界に入れず、エルタはじっと空を見つめた。

 海が発する熱によって立ち込める厚い雲、かの龍自身が生み出す噴煙。それらから産み落とされたかのように姿を現しては地上に落下してくる火山弾を見極める。

 遠方から撃ち出されたためか、ある程度は冷めて黒くなっている。それでもその内側は熱く燃え盛っていて、視認が難しくなっている分、むしろ厄介だった。

 

 雨のように無差別に降り注いでいるとはいえ、実際の雨のように密度があるわけではない。一度に千発落ちてくるなどということはないのだ。故に見極めさえしていれば。

 ぴく、と柳眉を動かしてエルタは地を蹴った。暴徒化しかかっている人々を鎮めようと震える脚で立ち上がっているキャシーの身体を抱きしめる。

 

「きゃっ!?」

 

 そのまま横っ飛びに地面を転がる。なるべく全ての衝撃が自分に向かうようにして地面を転がった。

 一拍おいて、キャシーが立っていた場所の間近に火山弾が着弾した。

 火山弾そのものは脆い。着弾すると同時に砕け散って、中身の溶岩を撒き散らす。瞬く間にカウンターと後ろの建物に火が付いた。

 

「ぁ…………」

 

 その光景を見たキャシーはエルタの腕の中で力を抜いた。助けられた胸の高鳴りなどどこにもない。ただ、あそこにいれば自分は間違いなく死んでいた。その事実を突きつけられて、呆然とする。

 爆風でカウンターから転げ落ちそうになっていた小柄のギルドマスターは、すんでのところでローラが受け止めていた。

 

 先ほどまで彼女に詰め寄っていた人々は慄いて後ずさりし、集会所の出口に向けて逃げ出していく。

 ハンターズギルドに縋ってもどうにもならないことを悟ったのだろう。燃え上がる掲示板やカウンターがそれを強く印象付けた。

 

 エリナが必死の表情で、消火用の海水が入った桶をカウンターにぶちまける。

 しかし、桶一つ分では火は消えない。まだ細かい火種が残っている。そして、ここは船上よりもはるかに燃え移るものが多い。

 炎が再び燃え上がろうとする直前に、素早く起き上がったエルタが穿龍棍を叩きつけた。

 

 黒い稲妻が弾ける。殴りつけた木板は黒い染みが広がり、炎は煙を上げて消え去っていた。

 ソナタの水を生み出す大剣ほどではないが、エルタの穿龍棍が秘めるジンオウガ亜種由来の龍属性も炎をかき消すことができる。龍属性はその他の属性に該当するエネルギーを抑えつけることができるのだ。

 

 次いで、カウンターの向かいの酒場にも火山弾が落ちてきた。めきめきと柱や屋根が折れる音と共に、数多くの食器が割れる音が響き渡る。店員のアイルーたちは前もって逃げていたようで、悲鳴が聞こえないのが不幸中の幸いか。

 やがて酒場から火の手が上がる。あれは流石に消しきれない。ぱちぱちと木材が焼けていく音を聞き流しながらエルタはまた空を見た。今この瞬間にまた火山弾が降ってきてもおかしくはないのだ。

 

「……未練など何だの言っておれんな。皆で岩山の避難壕まで行くぞぃ。あそこを目指す者も多いはずじゃ」

 

 重々しくギルドマスターが告げる。ローラとエリナ、ギルド職員たちはその言葉に頷いた。

 腰を抜かしてしまったらしいキャシーをエリナが抱え起こす。流石は大銅鑼叩き担当と言うべきか、しっかり肩を貸せているようだ。

 火山弾の予測に集中するエルタはそれを手助けすることができない。常に空を見上げながら彼らを追いかけた。

 

「……避難の誘導役はあちこちに向かわせたが、これではどうにもならんかもしれんのぅ。ワシの見立ても甘かったか」

 

 年老いて飲んだくれていても足は衰えていないようだ。杖をつきつつも自らの脚で歩むギルドマスターは、沈痛の面持ちで沿岸部の街を見やる。

 石造りの建物が多いので大火事にはなっていないようだが、煙や炎は無数に立ち昇っている。空からの破壊は今このときも進んでいるのだ。

 

 対策が甘かったところはあるだろう。仕方がない、で済ませられないこともあるだろう。けれど、海の異常が表れてからこの火の雨が降ってくるまでの時間の短さはただただ残酷だった。

 あと一日、かの龍が来るのが遅ければ。そう思わずにはいられない。そうであれば今までに死んだであろう人々の何割かは生きていたかもしれない。

 そして、モンスターの街への襲撃というのは往々にして、そういった後悔が付きまとうのだ。

 

 街や商業区の方から必死で逃げてきた住民たちも合流して、火山弾が降りしきる中、数十人の集団で避難壕へ向かう。

 その列を食い破るようにして落ちてくる火山弾を、エルタは声を張り上げて回避させた。ただ、ハンターでない人は反応速度も胆力も鍛えられていない。零れ落ちるように人が死んでいき、また新たに合流して。

 命が軽いという地獄がそこにはあった。

 

 さらに悪いことに、辺りは夜になろうとしていた。もともと太陽などとっくに厚い雲に覆われて見えなくなっていたが、それがさらに暗くなって、暗闇が忍び寄ってくる。

 誰かが松明を取り出して辺りを照らした。振り返れば、皮肉にも明るく照らされた沿岸部の街の姿があった。各地で燃え上がる炎によるものだ。

 湾の向こうの空は、夕焼けとも似つかない紅い光が煌々と放たれている。時おり天まで火柱が立ち上がり、厚い雲の中へと吸い込まれ、それはやがて火山弾となって大地に降り注いだ。

 

 ふつうに歩むだけならば、数十分とかからない避難壕までの道のりが、途方もなく長く感じた。火山弾が地面に落ちて冷えて固まると、無視できない障害物になる。

 タンジアを火の海に変えた主が、彼らから見える位置まで来ていた。

 

 今、かの龍は湾内へと差し掛かかる。

 湾を囲い込むように双方から延びる岬の先端には、その位置を夜にも船に伝えるためにそれぞれ灯台が設置してある。どちらもかなり高さがあり、まるでタンジアの港に入るための門のようだった。

 グラン・ミラオスはちょうどその灯台の間際に差し掛かろうとしていたところだった。やや水深が浅いのか、迎撃拠点で見たのと同じように上半身だけを海中から出している。

 

 もはや、それを止めようとする船も、狩人もいない。人々がかの龍の侵入を受け入れたかのように見える登場だった。

 少なくとも、何も知らない街の住民の視点ではそう映ったことだろう。

 

「……ワシらも逃げる準備ばかりしていたわけではないぞぃ。グラン・ミラオスよ。痛み分けといこうかのぅ」

 

 避難壕の外で、エルタの横に立ったギルドマスターは重々しく呟く。

 エルタがその意図を尋ねるよりも早く、その紅く暗い景色の中で、鮮やかな橙の光が弾けた。

 

 その光源は、湾の先端部の右手の灯台の根元だった。海を挟んで遠く離れたここから見ているから小さく見えるが、今の爆発は相当に大きい。それこそ、灯台そのものを壊しかねないほどだ。

 傍にいたグラン・ミラオスもその衝撃を感じ取ったのか、ぐるりと体の向きを変えてその灯台の方向を向いた。

 

 その頭上から、倒れてきた灯台の本体が襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 灯台の爆破、それによる灯台の崩壊にグラン・ミラオスを巻き込ませるという作戦がギルドマスターから伝えられたとき。ある男が実行役をかってでた。

 

「あの灯台のことなら僕が誰よりも詳しい。どこにどんな風に爆弾を置けばうまく倒れるかもなんとなくわかる。むかし木こりをやっていたからね」

 

 そう話す彼は、その湾の先端部にある灯台の守人だった。

 灯台の頂上で焚かれる炎を管理し、それを絶やさないようにする。嵐や大風がくれば、壁や構造に問題がないかを調べる。ハンターズギルドの職員と一緒に沖合の見張りをする。この灯台の中で寝泊まりすることなど日常茶飯事で、彼にとっては家族当然だった。

 

 それを崩す。根元から折って、迫りくる古龍への攻撃手段とする。人々はそのようなことは守人が頑として認めないだろうと思っていたが、彼の反応は穏やかなものだった。

 

 ギルドマスターがその作戦を話したときには既に、タンジアの港の海も赤く染まり、温泉の如く熱くなっていた。

 その姿が見えずとも分かる。おとぎ話に伝えられる古龍の何たるかを具現化するような、恐ろしい古龍が来る。そして、このタンジア地域の灯台群の名前が『黒龍祓いの灯台』であったのは、まさにこのときのことを指しているのだろうと。

 

 無論、彼にとっては灯台を崩すのは苦渋の選択だった。できることなら、そのまま残してやりたい。

 けれど、その一撃が並の兵器の何倍も重たく、今、このタンジアでできる最大の攻撃だろうことは彼が一番分かっていた。

 そして彼もまた、この灯台を支え続けた故郷のタンジアの港を守りたかったのだ。

 

「ふぅ……」

 

 彼は今、灯台から少し離れた岩陰で組み立て式のバリスタを構えていた。

 バリスタの引き金を持つ手が震える。これで灯台の最下層に設置された爆弾を撃ち抜けば、連鎖爆発を引き起こすことができる。

 火山弾が空から降ってきたときにはかなり肝が冷えた。しかし、灯台が身代わりになることで誘爆を防ぐことができていた。彼にとってはそれだけで胸が痛む光景だった。

 タンジアの街の様子も気になったが、それを気に留めていては機を逃してしまう。海から訪れたかの龍を、悠々と湾の中に入れてしまうことだけは避けたかった。

 

 かの龍は、灯台の間近に迫ってきていた。もうすぐだ。

 海から出ているのは上半身だけのようだが、それでも島か何かかと錯覚を起こすほどの大きさだ。彼が以前見たことのあるガノトトスも大型の竜だが、それすら比較にならない。

 ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めている。一歩を踏みしめるたびに地響きが伝わってきた。

 

 両翼はもはや翼というよりも二つの火山であり、噴煙を立ち昇らせながら、空へ火山弾を撃ち出している。首筋の火口からも、とめどなく溶岩が零れ落ちていた。

 あの溶岩を止めない限りは、たとえハンターたちでも近づくことはできないだろう。そして、この灯台の重さと大きさならば、かの龍すらも押し潰せる。

 

 息を吸って、吐く。引き金となる取手を握る。

 これから自分は、自らがずっと面倒を見てきた灯台を崩す。

 ならばせめて、大きな功績を果たさせよう。かの龍を下敷きにして動けなくさせるくらいのことをやってのけよう。

 

「……ごめんな」

 

 ここで、その進行を止めるのだ。

 グラン・ミラオスが灯台の隣に到達した直後に、バリスタの弾が灯台内部に敷き詰められた爆弾を撃ち抜いた。

 

 

 

 重なり合った爆発音が轟音となって響き渡ると同時に、ずん、と重くくぐもった音が聞こえてきた。

 多量の爆弾によって、根元からごっそりと吹き飛ばされた灯台の第一階層が、自重に耐えられず潰れたのだ。大量の瓦礫埃が撒き散らされる。

 そして、灯台は海の方向へ向かって倒れていく。彼の目論見通り、今グラン・ミラオスのいる位置へと寸分違わずに。

 

 大質量の建造物がその左翼にぶつかり、次いで頭部、右翼に叩きつけられる。

 かの龍は灯台を見ながら吼えるが、持ちこたえることはできなかった。幾度の嵐にも耐えた強靭な構造は砕けることなく、その形を保ったまま、かの龍へと圧し掛かったのだ。

 

 夜闇の中で、どおっと特大の水柱が立つ。

 そのあとにはかろうじて陸に残っている灯台の根元部分と、波打つ海しか残っていなかった。

 

 バリスタから手を離した守人は、言葉を発することなく成り行きをずっと見守っていた。

 灯台が倒れたことで一気に広がった視界を喜ぶ気にはなれず、けれど、これを別の人間にやらせるわけにはいかなかった。彼なりのけじめだったのだ。

 

 あれだけ鳴り響いていたかの龍を象徴する音、溶岩が零れ落ちて海水を蒸発させる音や、噴火の音は鳴りを潜めていた。それらは全て、海の下に。

 黒龍祓いの灯台の名に恥じぬ働きをしてくれただろうか。いや、これだけであの龍が倒せているとは思えない。撃退すらも難しいかもしれない。

 

 せめて、かの龍がここを抜け出すまでの間に、少しでも多くの人々が逃げ出せるように。海上調査隊やハンターたちが形勢を立て直せるように。

 時間稼ぎが終わるまで、ここでそれを見守る────。

 

 

 

 そのとき彼は、星の内側の光を見た。

 

 海が吹き飛んだ。

 その言葉に比喩はない。夜闇で錯覚を起こしたなど言い訳にもならない。その瞬間だけは、周囲は眩い光に照らされていたのだから。

 海の一部が刹那の間に水蒸気へと変わり、それを埋め合わせるように海水がなだれ込んだことによる二つ目の水柱を、彼は見たのだから。

 

「────ッ!!」

 

 鼓膜が破れるかという程の轟音だった。先ほどの大樽爆弾の連鎖爆発による音も、灯台が倒れた音もこれよりはましだ。咄嗟に耳を塞いでいなければどうなっていたことか。

 視界もたちどころに悪くなっている。莫大な量の水が一瞬で気化したことによって生まれた水蒸気が濛々と立ち込めていた。

 

 そして────これが、悪夢でなくて何だというのだ。

 

 海上から顔を出していたはずの灯台の姿はなくなっていて。恐らく海に沈んでしまっていて。

 代わりに、その灯台に下敷きにされたはずのグラン・ミラオスがそこに立っていた。

 

 傷ついていないわけでは、ない。最も負荷がかかっただろう左翼は、その付け根からへし折れるようにして力なく垂れさがっている。火山弾が噴き出す様子もない。

 逆に言えば、それ以外は健在だった。右翼も、首筋の火口も、紅い光の筋を瞬かせながら溶岩と火山弾の生成を続けている。何よりも……かの龍は、歩みを再開していた。

 

 現実から目を背けてしまいたい。けれど、彼は思考を放棄しなかった。

 今のは恐らくブレスだ。竜が吐くのと同じ類の。そのブレスの反動を用いて、かの龍は立ち上がった。自らを下敷きにしていた灯台をも押しのけて。

 それを成したが故の、あの威力。自らの大きさに匹敵するほどの範囲の水を一瞬で気化させ、文字通り、海に孔を開けた。ガノトトスの高圧水流とも、ラギアクルスの雷弾とも違う。至近距離の障害を消し飛ばすためのブレス。

 

 かの龍にとっては、思わぬ痛手を負ったが、足を止めるまでもない反撃だったということか。もはやその灯台には見向きもしない。

 

「…………すまない。止められなかった」

 

 あるいは、古龍の進行を阻むという発想そのものが、愚かなだけかもしれない。

 その一部始終を見守ることしかできなかった守人は、一人で岩陰に佇んだまま首を振って独り言ちた。

 対岸の森や街の景色は、夜闇の中で、火の稜線と言っても過言ではないほどに赤く揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 海上調査隊の使命を更新する。

 迎撃拠点は陥落し、使える兵器は残り僅かだ。しかし、かのグラン・ミラオスは未だ健在である。

 

 故に、これからはタンジアの街の住民を一人でも多く港から脱出させることを最優先事項とする。

 有志の者は残りの兵器を用いて、グラン・ミラオスの注意をできる限り引き付けろ。

 

 心が折れたものは街の住民と共にこのタンジアから脱出しろ。食料や緊急用のテント、武器を託す。

 不幸中の幸いか、この地域からあらゆるモンスターはいなくなっている。タンジアの港を超えてグラン・ミラオスが歩みを進めたならば、それを観測し、行き先を調べ、それからできうる限り遠く離れる方向に進路を取るのだ。

 

 行け。じきにここも戦場となる。身の安全は全く保障できぬ。

 火山弾の雨を恐れるなとは言わない。酷な命令であることは承知の上だ。だが、決して足を止めるな。立っていても、走っていても、確率は同じなのだ。ならばせめて、最後まで海上調査隊らしくあれ。

 

 行け。今、火山弾はその数を減らしている。今のうちに、急げ!

 

 

 

 

 

 もはや、組織での抵抗は不可能だ。

 アストレアと共に船長の乗る撃龍船から負傷した人々を運び出しながら、ソナタは険しい表情で暗い海を見つめていた。

 

 撃龍船で留守番していたアストレアと合流してから数時間が経った。エルタとはハンターズギルドの集会場で別れてからまだ合流していない。

 ソナタたちもかなり慌ただしく動いていた。本来はこの湯気立つ海に無理やり潜ってでもかの龍を止めに行くのがハンターの本分なのかもしれないが、目の前で失われていくタンジアの人々の命を見捨てることはどうしてもできなかった。

 

 一時は火山弾によって封鎖されていたこの街唯一の陸路も、何とか再開通させた。しかし、またいつ封鎖されるか分からないような状況だった。

 もともとあの道は二つの山に挟まれた谷をなぞるようにしてできている。火山弾の他にも、この断続的な地響きによって地滑りや落石があるかもしれない。

 それは洞窟や岩盤をくりぬいて作られた避難壕にも同じように言えることだった。度重なる地揺れによって天井が崩壊すれば、中にいる人々は生き埋めだ。火山弾が防げるだけの仮初の安全地帯に過ぎない。

 

 そして、当のグラン・ミラオスは、ついに海上調査団の本拠地の大灯台まで辿り着こうとしていた。

 あそこに生き残った数百名の海上調査隊の人々が取り残されている、わけではない。臨時の総司令となったガルムが、火山弾の雨が緩くなったタイミングで大灯台から兵士たちを逃がしていた。

 

 それでもと残った兵士たちが、大灯台の中や外から大砲やバリスタで砲撃を行っている。誘導を行おうとしているのだ。

 やはり、そういった攻撃には優先的に対処しようとするようだ。かの龍は大灯台へと真っすぐに歩んでいた。あるいはこの大灯台がこの龍のひとつの目標だったのかもしれない。

 

 大灯台までかの龍を連れてくれば、タンジアの街を左右から分断するかたちになる。

 けれど、そこが居住区から最も遠く離れていることも確かであり、まして何もせず、居住区に直接上陸させたり、今も住民が避難のために歩んでいる陸路を見つけさせたりなどさせれば、さらに酷い惨状になることは想像に難くない。

 そこには、組織的な抵抗を諦めて少しでも時間を稼ぐことを優先する悲壮な決意があった。

 

 そしてソナタも、アストレアにこそ話していないが、似たような決意でいる。

 もしグラン・ミラオスがソナタたちの背後にある陸路に向かって進路を取るのであれば、商店通りとその目の前の海を舞台に足止めのために打って出る。

 

 もし、勝算はあるのかと問いかけられれば、ソナタはそれに明確に答えることはできなかった。

 この龍はあらゆる意味で、それこそ、古龍という種族全体から見てもきっと極めて特殊な存在だ。

 

 ソナタはかの龍の左翼を見た。今は血潮が通っていないのか、ただの黒い火口となって夜の闇に溶け込んでいる。この港の入り口で、灯台そのものと引き換えにその力を奪った証だ。このおかげで、空から降り注ぐ火山弾の数は大きく減っていた。

 しかし、そこには少しずつ紅の光の筋が通おうとしていた。再生が始まっているのだ。

 

 再生。治癒ではなく、再生と言った方がしっくりくる。

 大砲によって傷ついていた外殻は、火口から流れ落ちる溶岩で覆われたかと思えば、何事もなかったかのように元に戻っている。

 迎撃拠点の後方にある灯台群から帰ってきた女性の話によれば、かの龍の移動中に爆弾を乗せた蒸気船が突っ込み、右翼の部位破壊ができていたのだという。そうでなければ、自分は生きて帰ることができなかったと。

 しかし、現状は見ての通りだ。かの龍はそんな傷を受けたことなど微塵も感じさせず、むしろ負傷した左翼の分を補うようにして右翼を活発化させている。

 

 グラン・ミラオスは自らが受けた傷をなかったことにする。そんな感覚を抱かせる。故に再生だ。

 溢れ出る溶岩、噴き出す火山弾は留まることを知らない。無尽蔵に創り出されては、世界を紅く染めていく。それはまるで、()()()()()()()だ。

 そんな存在に対して、果たして自分がどこまで持ちこたえられるのか。生きて帰ることはできるのか。

 

 

 

 そんなことを考えている間に、グラン・ミラオスは大灯台と目と鼻の先のところまで来ていた。

 先ほどのように灯台を崩壊させる、ことはしない、というよりもできない。つい先ほどまで、そこには数百人の兵士たちがいたのだから、その用意ができていないのも道理だ。内部の砲台も、ほとんどがかの龍の反撃によって使い物にならなくなっている。

 つまり、海上調査隊の時間稼ぎもここまで、ということになる。ここからはかの龍の出方次第。場合によっては、ソナタが出る。

 

 しかし、グラン・ミラオスはそこで不思議な行動に出た。

 二足歩行時には垂れ下げたままの前脚を、両方とも持ち上げて、大灯台を掴んだのだ。

 流石に大灯台と言われるだけのことはあり、径の太さだけならばかの龍に勝っている。かの龍の両前脚では円周の半分もカバーできていない。まるで、大きな木にしがみ付く人間のような。

 

 その口から、竜撃砲の炎を何百にも何千にも重ね合わせたような焔が光となって溢れ出ているのを見て、ソナタはぞっと背筋を凍らせた。

 

「少しでも高い場所に逃げて!! 船に乗ってる人は何かにしがみ付いて……!!」

 

 その言葉を言い切った直後に、かの龍の焔の蓄積(チャージ)が完了した。

 

 次の瞬間。大灯台の腹が()()()()()

 ドーム状の爆炎が大灯台を包み込んで、迎撃拠点での巨龍砲の暴発にも匹敵、あるいはそれを凌駕する衝撃波と熱風がソナタたちを襲う。大気の流れが変化し、ごうごうと強い風が渦巻いた。

 それは、あの湾の先の灯台を倒壊させたときに、かの龍が灯台を押しのけて無理やり起き上がるために使ったブレスと同じもの。なぜ、それを人のいない大灯台に向けて撃ったのか。

 

 

 

 あのとき、かの龍は見ていた。感じ取っていた。

 灯台が倒れたことによって発生する大波を。自らの力ではなかなか生み出せない海のうねりを。

 そして、人間たちはなぜか、海に近い場所にたくさんいる。

 ならば、そう。彼らがやったことを真似ればいい。先ほど思い出した焔を使えば、あれくらいのことは造作もない。

 ああ、あそこにちょうどよく似たような建造物がある────。

 

 前脚の灼熱の爪が、消し飛ばされずに残った大灯台の壁に食い込む。みしみしと石造りの壁がひび割れて軋む。

 基幹部分を失った大灯台を、かの龍は海の方向に向けて薙ぎ倒した。

 

 かの龍がタンジアの港に至ってから、三本目の水柱。それは、他二つよりも一線を画すほどに巨大なものだった。水飛沫は天高く、かの龍の頭や翼をも優に超えて。

 子どもが水たまりに投げた石が、水たまり全体に波紋を起こすように。

 グラン・ミラオスが投げ込んだ大灯台は、タンジアの湾全体に巨大な波紋を行きわたらせた。

 

「うわああぁぁぁぁっ!? あ、あづっ、あづい……っ!」

「たすけっ、ごぼっ、けほっ、たすけて……!」

「高波だ! 逃げろ、逃げろーーっ!!」

 

 まだ沿岸部の街に居残っていた人々、陸路が危ないからと戻ってきていた人々は、その高波によってほぼ全員が押し流された。

 

「せ、船長! あの波は乗り越えられません! 打ち上げられます!!」

「ちいぃっ! 皆死ぬ気で柱に掴まれ! 死ぬなよ……!」

 

 接岸していた船はほぼ全てが陸に打ち上げられるか転覆し、桟橋も破壊された。

 湾内で熱せられた海水が、タンジアの街を覆い尽くす。か弱い老人や子どもだろうと、屈強な狩人だろうと関係はない。人間である限り、大波にさらわれるという自然現象に抗うことはできない。

 

 

 

 人も、建物も、全てが押し流されて。一掃された景色の中に、グラン・ミラオスはいた。夜闇を紅蓮で染め上げて、タンジアの港に佇んでいた。

 

 人間は勝手に死んでいく。

 立ち向かう船もない。砲弾ももう飛んでこない。立ち向かう者は、いない。

 

 もはや、かの黒龍を止める術はない────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや。まだか。

 グラン・ミラオスは自らがブレスで消し飛ばした、大灯台があったはずの場所を見下ろした。

 そこには、たった一人、人間が立っていた。両手に龍殺しの武器を握って、その場に佇んでいた。

 

 まだだ。まだ終わっていない。

 反撃はここからだ、と。

 

 

 

 

 

 見上げるは、原初の星。

 立ち塞がるのは、いつの時代も『人』だった。

 

 

 



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第6節 原初の星、見通す海
> 原初の星、見通す海(1)






 

タンジアの港地図:

【挿絵表示】

 

 

 

 吹きすさぶ火の粉が、まるで雪のように見えた。

 細かい砂のような灰が降りしきる。目が痛んだが、涙を拭くことはできない。

 

 エルタはグラン・ミラオスと相対していた。

 土台を吹き飛ばされて、クレーター状の更地となった大灯台の跡地にエルタは立つ。対してグラン・ミラオスは上半身のみを海上に出している状況だ。それでも見上げるほどの高低差があった。

 

 エルタの両手には穿龍棍が油断なく握られている。獄狼竜の素材を用いた黒き穿龍棍は、内包する龍属性を発揮する瞬間を静かに待っている。

 かの龍の左翼はまだ活動を止めているようだが、右翼からは火山弾と溶岩が絶え間なく海から零れ落ちている。噴煙も立ち昇り続けているが、天へ打ち上げるような大噴火は頻度が減っていた。エルタに注目が向いている証拠だ。

 

 ぐば、と巨大な口が開かれた。紅炎が溢れ出す。

 そこからブレスが放たれるよりも先に、エルタは走り出していた。

 リオレウスなどと違って首から上をほぼ動かさずにブレスを放てるグラン・ミラオスは、ぎりぎりまで目標を捕捉し続けることができる。そして何より、ブレスそのものの速度が尋常ではない。

 海中ですら避けるのが困難で、地上で放たれるものに至っては、見てから回避がほぼ不可能だ。

 距離が保たれたままでは一方的にやられてしまう。エルタの側からかの龍に近づくしかない。

 

 前のめりに走る。左肩の傍を熱塊が通り過ぎていく。

 直後に背後で地面にぶつかったブレスが爆発し、爆風に背中を押されてつんのめり、そのまま宙返りして再び足をついて走り出す。

 グラン・ミラオスが二撃目を放つ直前には、エルタは海中へとその身を滑り込ませていた。

 

 海に飛び込んだエルタの頭上で、波打ち際の地面を削り取るようにブレスが爆発した。間一髪だ。

 それに胸をなでおろしている暇はない。むしろ、エルタはいよいよ海が深刻な状況と化していることを感じ取った。

 

 ここに来る前に、ギルドの備品のクーラードリンクを低体温症になる一歩手前まで飲んでいた。腹の芯から冷えて、頭痛がしていた。薬物乱用に近い使い方だ。

 そんな身体が瞬く間に熱せられていくのを感じ取る。熱さはもはや強い痛みを感じるほどにまで至っていた。つまり、そこにいるだけで軽度の火傷を負っているのだ。

 海水の出入りが少ない湾内でより熱せられたか。地上でもひりつくような放射熱が肌を焦がしていたが、ここに至ってはもはや火山すら軽く凌駕する過酷な環境だ。

 

 全身が茹でられているという本能的な恐怖が腹から湧き上がる。しかし、立ち止まるわけにはいかない。グラン・ミラオスは既に動き出している。

 巨体を左右に捻るようにして、かの龍は前傾姿勢で翼を振った。海上に大きな渦が発生する。

 

 火山弾のばらまきかと頭上を見たエルタは顔を強張らせる。右翼の火口になみなみと満ちていた溶岩が、凄まじい水蒸気爆発の音とともに巨大な布となって覆いかぶさっていた。

 海に沈んでも赤いまま、冷めきっていない。これはもしや、かの龍が迎撃拠点に来る前に仕掛けてきた『水の中で消えない炎』を混合した溶岩か。肌が触れてしまえば最後、たちどころに肉の内側まで溶かすだろう。

 

 頭上から死の布が沈み落ちてくる中で、エルタは安全地帯を探す。

 ────いや、範囲外に出るしかない。大きく水を蹴って、それでも全く足りない。

 エルタは素早く両手を腰の傍に揃えて、穿龍棍のグリップを握り込み、捻る。勢いよく射出された杭が、エルタの身体を数メートル前へと押し出した。

 加えてルドロスキック。両足を同時に上下させて、足の甲で水を蹴る。数秒もしないうちに十数メートル進んだエルタの足元を、徐々に固体化して黒く染まっていく溶岩の布が沈んでいった。

 

 やっと息を吐ける。口に含んだ酸素玉まで吐き出してしまわないように呼吸する。

 前を見て────それに反応できたということが、エルタのハンターとしての積み重ねを物語っていたと言えるだろう。

 

 目と鼻の先にあった、エルタの身の丈を優に超す灼熱の前脚。

 エルタが必死になって降り注ぐ溶岩から逃げている間に、かの龍が動かない理由はない。人にとって致命的な攻撃のひとつひとつは、かの龍の一連の仕草の範疇だ。

 逃げられない。咄嗟に体を捻って、真っ赤に染まる四本の爪に真正面から引き裂かれることだけは避けた。

 

 エルタを捉えたのは、その剛爪の一本。

 右肩から背中に変えて、風牙竜の鎧がまるでナイフを通された肉にように切り裂かれて、その内側を穿った。

 滑るような、感触。

 

「ぐっ、ぁぁ……!」

 

 生身の肉が削り取られ、たちどころに水脹れを起こしてぐずぐずに溶けていく。形容し難い痛みに、エルタの口から噛み殺した悲鳴と吐息が泡となって漏れ出した。

 左肩から胸にかけて溶断された。傷は深く、恐らく鎖骨と肋骨が折れている。傷口がケロイド状に塞がって血が流れ出ていないのが不幸中の幸いか。

 

 視界が明滅しそうな程の痛みの中、意識だけは手放さない。赤い海の中で目を凝らす。

 何度も頭の中に思い返す。今の攻撃も、かの龍にすればただ前脚を振っただけ。隙を見せることはない。

 

 グラン・ミラオスは、こちらに向けて抱擁するように、両前脚を広げて倒れ込もうとしていた。

 もし捉えられれば、あの巨体に海底で押し潰される。立て続けに訪れる死の感覚に、本能が全力で警鐘を鳴らしている。

 

 溶岩に照らされた水面が波打っているのが分かる。既にかの龍は目と鼻の先、しかし、迫ってくる速度はやや遅いことに気付いた。エルタ一人を狙っているためか。

 ぶつかっても大怪我はしない。そう判断するや否や、エルタは素早く穿龍棍を構えた。

 

 自らの両脇から掴みにかかった巨大な前脚。先にエルタの身体に触れようとしていた左前脚の指先に向けて、的確に両手の穿龍棍を叩きつけた。

 弾ける龍光。反動が傷口の激痛となってエルタの身体を硬直させた。歯を食いしばる。

 ただ、その痛みに相応しい成果はあった。指先が僅かに、しかしありえない方向に折れている。そこからできた体一つ分の隙間にエルタは身を滑り込ませ、かの龍の抱擁から脱する。

 

 そこから、まるで倒れてくる壁を登っていくかのように。迫ってきた体表に穿龍棍の杭を打ち込んで、それをアンカーとして、圧し掛かってくる巨体にぶつかりながらも移動し続ける。

 三度四度とそれを繰り返すころには、グラン・ミラオスの全身は海底に沈み、水中を舞い上がった塵が包み込んでいた。

 そして、エルタはその傍で息を荒げつつも立ち続けていた。下敷きになることは避け切ったのだ。

 

 腕が痺れている。巨大な壁をあえて殴りつけ続けたのだ。やむを得ず負った打ち身は全身に及んでいる。

 しかし、もしそうせずに背を向けていようものなら、間違いなく間に合わなかった。今、生きている。その次を考えられるのなら、十分だ。

 

 グラン・ミラオスの前脚は、迎撃拠点で戦ったときに比べて軟化している。あのときは色合いも黒く、攻撃を加えてもあえなく弾かれてしまっていた。

 アンカーとして体表に杭を突き刺すことも、迎撃拠点にいた頃は難しかった。それこそ、バリスタくらいの勢いがなければいけなかったはずなのだ。

 今、かの龍は全身の血流を促進させ、灼熱の体液を全身に行き渡らせることによって自らを活性化させている。その代償として肉質が軟化しているのだろう。だから指先に穿龍棍を打ち込むだけで、僅かに折ることができた。

 

 ただ、これらはかの龍にとってみれば、小さな羽虫に小指を刺された程度にしか認識できないだろう。相対的な差が大きすぎる。

 しかし、塵も積もれば、などと、そんな夢物語を語る気はなかった。その前にエルタは死ぬ。クーラードリンクの効果すらも掠れる熱湯の海の中で屍を晒すのは、一時間後にはほぼ確定している事実だ。

 

 その確定的な死を遠ざけるには。ただそれのみを考え、機をうかがう。

 グラン・ミラオスは四足歩行状態に移行している。迎撃拠点でもベテランのハンターたちを数多く葬り去った、かの龍の独壇場だ。

 水中では外傷用の回復薬は使えない。左肩の染み入る強烈な痛みに歯をくいしばって耐えながら、エルタは自身に目線を向ける、巨大な船より遥かに大きいかの龍を見通し続けた。

 

 

 

 

 

 モンスターの狩猟において、モンスターのペースに持ち込まれるとは、そのまま死亡率が跳ね上がることに直結する。

 モンスターの側の機動性が高すぎて翻弄されている、潜伏を気取られる、明らかにモンスターの側が有利な空間に誘い込まれるなどその理由は様々だが、往々にしてそれは起こり得る。むしろ、狩猟中に一度でもそうならないことの方が少ない。

 

 そういったときにハンターが取るべき行動は、可能な限りその場から脱出すること。やむを得ない場合は背を向けて逃げるよりもそのまま応戦する方が賢明なときもあるが、基本的には前者を最優先に見据えなければならない。

 撤退技術、ハンターにとっては狩猟技術と同じくらい大切なものだ。そしてその難易度は、相対するモンスターが強大であればあるほどに難しい。

 

 熱に浮かされている。エルタはかろうじてそれを自覚した。

 この海に入ってから二十分と経ってもいないはず。迎撃拠点で戦ったときは、今よりもクーラードリンクが効いていない状態で一時間弱は持ったはずなのに。

 かの龍の這いずりやブレスによる攻撃を避けて、合間に牽制のような打撃を与えて、それを数回繰り返しただけで、これか。

 

 この眩暈は頭を振ったりじっとしたりしたところで醒めない。熱中症とはそういうものだ。

 そう、これは明らかな熱中症の症状──湯あたりと言った方がいいのか。思考能力も、身体能力も低下していることをエルタは感じ取った。遠からず、自らの意思に反して、致命的な隙を晒すだろう。

 

 ただ、それはエルタがこの海に入ったときから予感していたことだ。むしろ、この異様な熱の中でそのことだけを考えてきた。

 そしてエルタは、自らが熱湯の海に飲まれてしまう前に、何とかその構図を作り出すことに成功していた。

 

 夜闇に沈む海の中で、エルタを見つめる巨大な灯火。

 対してエルタは、自らが海に飛び込んだ岸壁に近い場所で漂っている。

 

 グラン・ミラオスは水中で一人の人間をなかなか殺しきれないことに、業を煮やしている様子だった。

 人間で例えて言えば、自らの周囲を飛び回る蚊をなかなか捉えられず苛立っているといったところか。もっとも、その蚊の役に当たるエルタは既に飛ぶのも難しいほどに消耗しているわけだが。

 

 その蓄積された怒りは、かの龍にブレスの連発ではなく突進というかたちでの攻撃を選ばせた。

 四足歩行状態でのそれは海中でありながら海竜種並みの機動性を誇り、水中の視界の歪み、その山のような巨体も相成って、距離感を大きく狂わされる。

 気を抜けば一瞬ではねられ、引き潰される。人を一人殺すにはあまりにも強大すぎる力の躍動を前に、エルタは口の中で小さくなっていた酸素玉を噛み潰し、一気に水を蹴って浮上した。

 

 ざばっ、と水面から顔を出す。数十分ぶりに暗い曇天が見える。

 グラン・ミラオスはエルタを捕捉し続けている。這いずりの速度は緩まることはない。あと数秒でエルタの漂っているところまで辿り着くだろう。

 海面が、うねるように大波を創り出しているのをエルタは見た。グラン・ミラオスの突進を受けて押しのけられた、突進の前方の海水が嵩を増して波を創っているのだ。

 

 大灯台が倒れたときほどではないが、十分に大きい。それこそ、エルタが飛び込んだ岸と海面までの高さの差を優に埋めるほどに。

 波乗りだ。海面に漂っているだけでいい。大波に身体ごとぐっと持ち上げられ、かの龍の突進に押し流されるかたちでエルタは陸地へと戻る。

 

「ごほっ、ごほっ……」

 

 涼しい。冗談でなくそう思った。

 少なくとも海中より地獄ではない。体内に押し込められていた熱が一気に開放され、異常なまでの発汗が起こり始めた。体内の熱調整が壊滅的に狂わされている。

 ぐわんと頭を殴りつけられるような眩暈に、うまく立てずにエルタはえづいた。いくらか涼しい場所に移動したからと言って、熱中症はすぐには回復しない。しばらくはこの吐き気と倦怠感、頭痛に苛まれることになるだろう。

 

 悠長にしている暇はない。ポーチから外傷用の回復薬を取り出して左肩の傷に浴びせるようにかけているところで、再び押し寄せた海水が周囲を水浸しにした。

 体中から滝のように海水を滴らせて、グラン・ミラオスが海中から再び姿を現す。今回はさらに積極的に。前脚と違って重厚な両後ろ足で、岸壁を半ば崩すようにしながらよじ登ってみせた。

 

 グラン・ミラオスの全身が露になる。エルタが陸上でその姿を見るのはこれで二度目。あのときは迎撃拠点から離れるのに必死で遠目でしか見ていなかったが、今は真正面から向き合うかたちだ。

 海中ではまだ抑えられていた放射熱が全開で解き放たれている。まるで工房の炉の近くに立っているかのようで、実際、それくらいの常軌を逸した体温なのだろう。だが、それすらも海中の環境に比べればまだましと言えるところだった。

 

 少なくともこれで、熱によって自滅という最悪の事態は避けられた。この身体がまだ動かせるならば僥倖だ。

 強く地を蹴る。瓦礫が散乱しており足場は悪いが、比較的平らなだけましだ。

 ここまで距離が近ければ、ブレスが放たれてから着弾するまでの時間差はほぼゼロに等しい。避けるなどもってのほかだ。とにかく、グラン・ミラオスに接近するしかない。

 

 モンスターのブレスは総じて非常に強力だが、ここで人の小ささが功を奏することがある。かれらのブレスは灯台下暗しになることが多いのだ。

 かの龍にもそれは適用されるはず。今まで戦ってきた限りでは、かの龍の首の可動域はリオレウスなどに比べれば広いものの、生物的な範疇には収まっている。

 

 そして、エルタの目論見通り、エルタを狙って放たれたのであろうブレスは、その前に懐に潜り込んだエルタの背後で爆発した。

 走った勢いをそのまま利用して、右腕の穿龍棍でかの龍の右後ろ脚の指を殴りつける。これまで危険すぎて誰も攻撃できていなかった後ろ脚は、その黒い色合いに反し、杭を僅かに食い込ませた。

 流石に前脚や光核ほど柔らかくはないが、弾かれないだけ十分だ。龍属性も効いているだろう。

 

 グラン・ミラオスが攻撃を受けた方の後ろ脚を持ち上げた。二撃目まで加えたエルタは咄嗟にその場から飛び退く。

 直後、持ち上げられた右後ろ脚が荒々しく振り下ろされた。

 

「ぐっ……!」

 

 ずごん、とエルタの視界を激しくぶれさせるほどの振動が伝播した。地面が砕け、一部はめくれ上がり、地下からみしりと物々しく不気味な音が響く。振動はこの周辺一帯に届いただろう。

 それは右脚だけにも留まらない。次いで左足で同じような足踏みをしたグラン・ミラオスに、岩盤が悲鳴を上げている。燃え残ったテントや建物の残骸ががらがらと崩れていく音が僅かに聞こえた。

 

 突然襲い掛かった強烈な振動に、膝の自由が効かなくなってエルタは思わず地面に手をついた。

 そのまま復帰するまで待てればいいが、グラン・ミラオスはそれを許さない。今の衝撃に触発されたのか、首元や翼の火口から立て続けに火山弾が零れ落ちる。グラン・ミラオスの足元など、どちらの火口からの落下範囲に含まれる危険地帯だ。

 四つん這いになりながらもエルタは何とか上を見上げ、転がるようにして落ちてくる火山弾を掻い潜る。無様でもいい、死ななければ。

 やっとのことで火山弾の雨から抜け出し、立てるようになったかと思えば、グラン・ミラオスがエルタのいる方に身を向けていた。

 

「──ッ!!」

 

 そのまま、人が地面にいる虫を叩き殺そうとするように、無造作に前脚をエルタに向けて叩きつける。

 エルタの方から見れば、突然見上げるほどの高さから灼熱の刃が巨体ごと降ってきたのにも等しい、迎撃などできるはずがない。振動から立ち直った足をばねのように弾いて、その場から飛び退く。

 

 ずん、と岩盤が叩き割られた。エルタはその範囲から逃れていたが、次いで起こった爆発に巻き込まれ、吹き飛ばされる。

 視界が二転三転し、体中の打ち身が悲鳴を上げる。今のはブレスと同程度の爆発だった。地上で前脚が地面に叩きつけられると、前脚に籠っていた灼熱の圧力が一気に高まって爆発を起こすのか。吐き気と痛みに苛まれつつも、エルタは思考し続ける。

 

 考えることを止めないこと。その強大さに思考停止、自暴自棄にならないこと。精神力が持つ限り、直感を研ぎ澄ませ続けること。

 そうでなければ、かの龍の眼前に立つことはできない。あまりにも軽い死から逃れ続けることはできない。

 この両手の武器だけは手放さないように。エルタは再び立ち上がった。

 

 

 

 

 

 振り払われた前脚を飛び退いて紙一重で避け、黒く巨大な頭部のあごの下あたりに突き上げるような穿龍棍の一撃を加える。

 重厚な尻尾が薙ぎ払われたならば、穿龍棍を地面に叩きつけて跳躍、空中へと逃げる。海の中と違って、その重い尻尾は地面から持ち上がることはしない。まるで曲芸でもするように、背中を逸らして尻尾のすぐ上を潜り抜ける。

 もとは平らだったはずの地面はその絶大な質量によって砕かれ、流れ出す溶岩によって塗り固められ、ただの岩場のようになっていた。

 

「はっ、はっ……」

 

 エルタは肩で息をしていた。かの龍が上陸してからどれくらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。少なくとも、海中にいたときよりも長く戦えているような気はしている。

 グラン・ミラオスは地上で四足歩行状態に移行していた。それによる機動力の上昇は地上でも相変わらずだが、若干方向転換に時間がかかるようになっている。その隙がエルタの生存に大きく関わっていた。

 

 かの龍は未だ健在だ。それは残念に思うまでもなく、エルタにとってはごくごく当たり前の摂理だった。

 かの龍をもひとりで相手取り、エルタよりも多くの傷を与える凄腕のハンターも存在するだろう。才能や実力の差と言うのはどうしようもなく存在する。エルタは自分の実力がかの龍とひとりで相対するには足りないということを分かっていた。

 自惚れない。少しでも手傷を与えようとか、この街を護ろうなどという使命感を抱かない。

 ただ、迫りくる死に対してひとつひとつ的確に対処する。攻撃できそうなタイミングで攻撃する。そんな狩人の基本的なルーチンを延々と繰り返す。

 

 その繰り返しの先にあるものに、自分を存在させるために。

 

 グラン・ミラオスが突如として這いずりながら大きく後退した。エルタがいるこの広場は、それができてしまうほどには広かった。

 エルタはその行動を不審に思ったが、間髪置かれずにブレスでも放たれようものならまず避けられない。反射的にグラン・ミラオスとの距離を詰めようとした。

 

 その口元から、コォォ、という不思議な音と共に、緋色の光が迸っていた。

 

 まて、まさか。

 まさかそれを、ひとりの人間に向かって撃つのか。

 

 かつてないほどの死の予感。エルタはそれを見た瞬間にブレーキをかけるが、遅い。いや、もしエルタがあの場に佇み続けていたとしても、結果はそう変わらなかっただろう。

 チャージは二秒。

 グラン・ミラオスが解き放った火種は、明確な質量を持たないにも関わらず、先ほどの足踏みで起こった地震よりも遥かに強い衝撃をタンジアに響き渡らせた。

 

 傘状の煙が立ち上る。広場には大灯台の根元が吹き飛ばされたときにできたクレーターを上書きするかたちで、ふたつめのクレーターができあがっていた。

 グラン・ミラオスは二足歩行状態に移行している。ブレスの反動で身体が持ち上がったのだ。

 爆発の中心から少し外れたところにいたはずのエルタの姿は見えなくなっていた。防具ごと消し飛ばされたか、爆風に乗せられて遥か彼方まで吹き飛ばされたか。

 グラン・ミラオスの側からすれば、両者はささいな違いに過ぎなかった。煩わしかった羽虫がやっといなくなった程度の認識だろう。

 

 しかし、これでグラン・ミラオスはようやく自らの本来の活動を再開することができる。

 あのブレスは今のグラン・ミラオスにとっても大きなエネルギーを消費するため、あまり使用したくないものだった。しかし、あれ以外に立ち向かう者がいないなら、今出し切ってしまっても構わない。

 

 かの龍はその場でその巨大を屈ませた。自らの内側から更なる熱を引き出すように。引き出した熱を自らの身体に行き渡らせ、際限のない溶岩の源へと変換していくように。

 それは、この街を焼き尽くしたあの炎の雨の再演だ。両翼から天に至るまで噴煙と火柱を立ち上げて、そこにあった景色を塗り替える。それがグラン・ミラオスの在り方だ。

 

 撓まれたかの龍の胸部の光核が再び黄金色に輝きだす。その黄金色の血潮は徐々に全身へと伝わり、どくどくと脈動させる。

 港の入り口の灯台を倒したことで折れて機能を失っていたはずの左翼も、再び息を吹き返そうとしているかのように赤い筋が伸びようとしていた。

 右翼はもはや解放のときを待つのみ。なみなみと注がれた溶岩は溢れ出して地面へと零れており、それが地面を水のように溶かしては黒く冷えて固まっていく。そして小さな錐をかたちづくった。

 

 これまでよりも、濃く、広く。これまでよりも長い時間、その場で力を蓄え続ける。

 傷の修復も兼ねたこの沈黙が過ぎれば、あとはかの龍の在るがままに。延々と活動するのみだ。

 

 左翼の紅が取り戻されてゆく。もう少しで、溶岩の泉が蘇る。

 かの龍の全身から放たれる脈動の波動が、音という実体すら持とうかというころ。

 

 

 

 ────「撃えぇぇ──ッ!!!」

 

 

 

 どこからか響いたその声を聞き届けるよりも早く。

 空気を切り裂いて飛来したいくつもの砲弾が、かの龍へと届けられた。

 

 ごっ、どごっ、と立て続けに重い衝撃音が響き渡る。かの龍の後ろ脚の付け根、左翼、首筋に炸裂した火薬と鉄の花が咲く。

 全く予想外の方向から、予想外のタイミングで立て続けに攻撃を受けたグラン・ミラオスは、しかし、いつものように応戦することができない。

 自らの内側でエネルギーを溢れ出させている今は、逆に言えば、とても純粋で不安定化しやすい力を扱っていることになる。まして、空から無数の火山弾を降り注がせるほどの膨大なエネルギーだ。下手をすれば、暴発する。

 

 そしてそれは、強大なモンスターたちと渡り合ってきた船乗り、ハンターたちからすれば常識の範疇にあった。

 標的へと飛び掛かろうと自らの筋肉を張り詰めさせるナルガクルガに大きな音を与えると、倒れ込んでしまうように。ジンオウガが雷光虫を集める際に、無防備な姿をさらしてしまうように。

 まして、彼らの多くはかの龍のその仕草を一度見ていた。その力が解放されるのをただ眺めることしかできなかった、迎撃拠点で。それならば、既に一度見ているならば、やるべきことはひとつ。

 

「モンスターが明らかに力を蓄えているときは、それが危険だと分かってるならなおのこと、何としても妨害する! 当たり前だよなぁ!!」

 

 エルタやソナタたちを乗せていた撃龍船の船長は、堂々とそう言い放った。

 

 彼らは諦めてなどいなかった。

 大灯台の崩壊により発生した大波にさらわれた人々を、できる限り助け出していた。

 ありったけの海上調査隊員、ハンター、一般住民すらも集めて、陸に押し流された最も大きな撃龍船、一番船を引っ張って海へと復帰させた。

 

 折れた帆を修復し、奇跡的に湿気ていない火薬を探し出し、ありったけの船の修復素材や消火具、ハンターたちの道具を詰め込んで。

 この混沌とした絶望的な状況でで、それらを一時間といううちに全てやってのけて、今、かの龍の前に立ち塞がったのだ。

 

「反撃してくる様子はないな、狙い通りだ! 今のうちだ、何としてもやつを怯ませろ!!」

 

 彼はそう言って部下やハンターたちを鼓舞する。三番船の進水が行えず、一番船の船長が負傷したことから代理で船長を務めることとなった彼は、その手腕を存分に振るっていた。

 撃龍船の右舷に設置された三門の大砲が次々と火を噴く。夜闇で照準に難しさはあったが、タンジア出身の船乗りにとってここは庭のようなものだ。初撃からほぼ完璧に命中させてきた。

 

 命中した砲弾の身を数えて、十発目、頭部に直撃した砲弾がきっかけとなった。

 不安定に明滅していた胸元の光核の黄金色の光がかっと強く輝きを放ったかと思うと、そのまま消失して深紅に戻った。それと同時に、グラン・ミラオスがよろける。

 

 オ、オォ──……ァァ────

 

 そしてそのまま、立ち続けることができず、悲鳴のような咆哮をあげながら倒れ込む。ずずん、と地響きを立てて、大量の瓦礫埃が舞い上がった。

 復活しかかっていた左翼の火口は、再び岩そのもののような黒色に戻ってしまっていた。

 

「止まった!! やった……!」

「効いたぞ、今度こそ明らかに効いた!!」

 

 船上で歓声が巻き起こる。船長を含め、かの龍がこちらの攻撃に対して明確に地に倒れ込むような反応を見せたのはこれが初めてだ。

 

「よしっいい成果だ。だが気を抜くなよ! 取舵いっぱい、これより岸壁へ移動する! やつが倒れてる間にハンターを岸まで届けるんだ!」

 

 船長はそう言って砲撃を止めさせ、矢継ぎ早に指示を出して船を方向転換させた。追い打ちで集中砲火を浴びせたいところだが、かの龍に近づくには今しかない。

 半ば岸にぶつかるような形になっても構わない。その程度ならこの船は耐える。とにかく有志のハンターたちを急いで岸へ送り届けなければ。

 

 

 

 船の最も高所にある観測台では、測距や風向きの確認が繰り返し行われている。

 そこから望遠鏡で陸の状況を見ていた船員は、ふと首を傾げた。

 

「人がいる……?」

 

 最初は見間違いかと思った。しかし、かの龍の紅の光に照らされて浮かび上がるそれは、やはりひとりの人影だった。

 自分たちとは別に、陸路からあの広場へと辿り着いたのか。しかし、陸地は瓦礫や崩れた地面が散乱していて、近づくのは難しかったはず。

 いや、もしや。彼は息を飲んでその人影を追った。夜闇と降灰、土埃によって視界が悪く、何者かは分からない。しかし、倒れ込んでいるグラン・ミラオスのもとへ、意志を持って駆けている。

 

「あんたがずっと、戦ってたのか……?」

 

 彼らが船を出す準備をしている傍らで、何者かがグラン・ミラオスの注意を引き付けていたのは誰の目にも明らかだった。空から降ってくる火山弾の数は大きく減っていたし、何より、遠くに見えるグラン・ミラオスは何かと戦っているような仕草を見せていたから。

 迎撃拠点での惨状を考えれば、それは自殺行為にも等しい。準備不足だったとはいえ、二十人近くの凄腕のハンターが一時間程度で蹴散らされたのだ。あんな化け物に敵うはずがないと逃げ出してしまった者もいる。

 

 しかし、その何者かはやり遂げてしまった。撃龍船がここに辿り着くまでの一時間、グラン・ミラオスは大灯台周辺に留まり続け、他に注意を向けなかった。

 明らかに何か一つだけを狙って放たれたチャージブレス。その後に隙の大きい溜め行動に入ったのを見て、彼らはその何者かが死んだものとみなした。あの攻撃は、人を一人殺すには過剰すぎる。

 

 間違いなく無謀だ。けれど、勲章並みの功績だ。

 たとえこの船に乗る誰もがこの先の戦いで死んだとしても、そこまでを繋いだということが語り継がれるべき物語になり得る。

 

 だが、それでも。それでも止まらない。

 

「まだ、戦い続けるのか……!」

 

 何者か(エルタ)は、グラン・ミラオスに肉薄した。

 

 



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>> 原初の星、見通す海(2)

 

 時間は少しだけ遡る。

 かの龍のチャージブレスの兆候が見えた直後、エルタは瓦礫が散乱していたり窪んだりしている周囲の地面を素早く見渡して、人が一人入り込めそうな隙間に滑り込んだ。

 さらに傍にあった瓦礫を、穿龍棍の杭を差し込んで跳ね上げ、疑似的な盾とする。片腕はそれの保持に当てて、もう片腕は地面に直接穿つことでアンカー代わりに。

 そして、衝撃に備えた。

 

 ここまで二秒。僅かな時を置いて、グラン・ミラオスのチャージブレスが炸裂した。

 大地が捲れあがる。眩い閃光が先に届き、衝撃波と爆風が重なって襲い掛かる。

 エルタが身を隠していた地形は一瞬で平坦にされた。それは土も容赦なく抉り飛ばす。

 盾としていた瓦礫も瞬く間に割れて吹き飛ばされた。エルタの身体に無数の瓦礫の破片がぶち当たる。

 アンカーとしていた杭は抜き取られた。地面ごと持ち去られたというべきか。エルタはすさまじい速度で吹き飛んで、広場の端の方に転がった。

 

 吹き飛ばされた中では、最も近い瓦礫の山の中に。四肢の欠損のない状態で。

 一分近く気絶していたエルタが目を覚ましたのは、大砲の音が耳に届いたからだ。視界がはっきりしたときには、グラン・ミラオスが大きな地響きを立てて地面に倒れ込んでいた。

 

 立ち上がろうとする。がく、と膝が抜ける。手で支えようとすれば、肘すらも立たない。どさりと地面に倒れ込んだ。

 片方の耳が強い痛みときーんという耳鳴りばかりを伝えて音を拾わない。滴る血を見て、鼓膜が破れたことに気付いた。

 強い衝撃を受けすぎて、自らの意志と身体が分離してしまったかのように、うまく応答していない。

 

「…………う……ご、け……」

 

 震える唇で、言葉を紡ぎ出す。声すらもうまく出ない中で、エルタは自身の制御を取り戻そうとする。

 ここで横たわっていてはいけないのだ。

 

「う、ご……け……!」

 

 歯の食いしばり、だん、と穿龍棍を杖にして身を起こす。

 ともすれば重病人のようなよろよろとした体勢で、膝立ちとなり、片足を持ち上げ。膝を震わせながら立ち上がり、浅く震える呼吸を整えた。

 大怪我を負ったわけではない。強すぎる衝撃に身体が驚いているだけ。たとえ全身の骨に罅が入っていようとも、まだやれる。歩ける。走れる。武器を振るえる。

 

 この状況を待っていたのは、他の誰でもない。エルタ自身なのだから。

 

 最初は歩くような速度で、徐々に衝撃の余韻から自らを引き剥がし、地面を掴んでいく。手に握る穿龍棍の感触を確かめる。

 グラン・ミラオスは倒れ込んだままだ。それでいい。そのままでいろ。エルタが目論見を果たすまでは。

 

 大砲を放ち、かの龍を怯ませた撃龍船のことは全く考えていなかった。目の前でグラン・ミラオスが倒れている。その事実だけに集中していた。

 走り続けたエルタが辿り着いたのは、グラン・ミラオスの頭でも、胸元の光核でもなく。折りたたまれた右翼の付け根。未だ天に向かって火山弾を放ち続けられる火口のひとつ、その根元。

 

 辿り着いた先で一呼吸おいて、強く穿龍棍を握り締めたエルタは、全身に気迫を漲らせ、右翼の付け根の一際太い光の筋に向けて、一撃を叩き込んだ。

 

 

 

 自分がかの龍の攻撃を掻い潜りながら打撃を与えていく程度では、埒が明かないだろうことは分かりきっていた。

 ならば、どうするか。ハンターには出せない火力を一度に叩き込める兵器を使う他ない。

 

 迎撃拠点ではその戦法を試し、即座に反撃を受けて瓦解してしまった。であれば、反撃されないようなタイミングを何とか探すしかない。

 そして、人々はそれを見出している。かの龍が巨龍砲の発射を阻止したように。かの龍が大噴火を起こす前の、明らかな隙を知っている。

 

 ならば、それを待つ。信じるも何も、時間稼ぎでもなんでもない。

 その機会が来るまでできる限り死なないようにする。それをできる者が表れるまで、生き残り続ける。

 死ぬまでそれを続ける。死んだらそこで終わり。ただそれだけのことだ。それだけの狂気だ。

 

 

 

 打撃の数は、もう十を数えたか。

 一撃を重ねて連撃と成す。もっと多く、さらに強く。

 直前まで膨大なエネルギーを右翼に供給していたらしいかの龍の右翼の付け根は、熱で軟化して杭を通すようになっている。

 殴りつけるたびに熱い血潮が噴き出すが、まだ足りない。まだ奥へと進み続ける。

 

 

 

 エルタは自分と同じ武器を使う狩人をほとんど見たことがない。

 それも道理だ。メゼポルタという街で開発され、独自発展を遂げている穿龍棍は、「狩猟」というよりかは「モンスターとの戦い」に特化した設計となっている。

 草木をかき分けたり、罠を設置したりといった一般的な狩りではむしろ使い勝手が悪く、扱える職人も少ないことから普及が進まないのだ。

 

 しかし、本来は悪手とされる、モンスターとの正面切っての戦い、一般的な狩りが通用しないこの状況ならば、穿龍棍は本領を発揮できる。

 そう。まさに今、このときだ。その武器の名にある通りだ。この武器を設計した者の願いがそこに在る。

 

 『龍を穿つ』(龍と戦える)武器であれ。

 

 

 

 削り取る。打ち破る。そして穿つ。

 ひたすらに、右翼の付け根を掘削し続ける。まるで穿龍棍で穴を掘っているかのようだ。

 グラン・ミラオスが呻き声を上げる。エルタの掘削の意図に気付いたか。身を起こそうとするが、身じろぎ程度にとどまっている。

 時間がない。もっと強く、速く。両足を地面に踏みしめたエルタは、反動で後退するたびに前へ、掘削が進むたびに前へ。少しずつ進み続けた。

 

 

 

 結局、巨大龍との戦いでは兵器の力がものをいうという論調は、間違ってはいない。

 ただ、人にだってできることはある。ハンターでなければできないことがある。

 

 それが、今エルタの行っている特定部位への集中攻撃だ。これは大砲やバリスタなどの兵器では難しい。精度をある程度犠牲にする代わりに大きな火力を得ていると言える。

 大まかな攻撃は兵器の方に任せればいい。それで生命力を削っていける。ならばハンターは、ハンターにしかできないことを。

 

 あまり他人に主張はしないエルタだが、ひとつだけ、人々に伝えたいことがあった。

 

 グラン・ミラオスは決して無敵ではない。かの龍はまだ、生物の範疇にある。

 傷や破壊したはずの部位が再生するのは、機能を取り戻しているだけだ。それが可能であるというだけで、再びそこに血を巡らせるために、確かに生命力を費やしているのだ。

 つまり、かの龍が眠るなどの体力回復行動を取らない限り、人々がそれを見過ごさない限り。迎撃拠点で与えた傷も、灯台で圧し潰した傷も、無駄にはなっていない。

 

 かの龍の生命力の総量は底知れず、圧倒的な不利は変わらず、ただの気休めに過ぎない事実であったとしても。エルタはそれを伝えたかった。

 絶望するなとは言わない。絶望的な状況であることに違いはない。かの龍がタンジアにここまでの被害を与えた時点で、もはや手遅れだ。

 

 だが、たとえ彼だけだったとしても。エルタは。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それを、証明する。

 

 

 

 がん、がん、がん、がんとひたすらに刻み続ける。一心不乱にその先を目指す。

 

 両手が焼けるように熱い。

 半ばグラン・ミラオスの翼の根元にめり込むようなところまで進んだエルタの両手の防具は、返り血によって煙を上げて溶け始めていた。

 鉄製のバリスタ用拘束弾さえ溶かしてしまう熱だ。いかに頑丈なベリオロス亜種の防具と言えど、延々とその血を浴び続けて耐えるのは難しいだろう。

 

 問題は、この身体の方が耐えきるかどうか。

 既に周囲から大量の放射熱を浴び続けて、顔や腕の皮膚が剥がれて溶けだして泡立っている。形容しがたい痛みだが、まだ耐えていられる。

 しかし、いかに根性論を掲げようと、筋肉が溶けだしたり、疲労が蓄積しすぎたりしてしまえば攻撃の続行はできなくなる。そうなる前に、速く、強く。

 

「おぉ……!!」

 

 龍属性が弾ける。片方の杭が削り取り、すかさず差し込まれたもう片方の杭がさらに先へと穿っていく。

 穿龍棍使いの間では、エルタのこの一連の集中攻撃を『穿極拳舞』といった。

 

 そして、その瞬間は訪れる。

 穿ち続けた先にあった、胸元の光核と変わらないほどの圧倒的な熱とまばゆい光を放つ、大きな血潮の流れ。あれが、光核と翼の火口とを結ぶ大動脈か。

 

 それを見つけ出したと同時に、倒れていたグラン・ミラオスが動き出した。

 前脚を支えとして、うつ伏せとなって四足歩行状態に。さらにそこから後ろ脚で立ち上がる。右翼は見上げるほどの高さに持ち上がってしまった。

 

 隠し切れない怒りか、かの龍の口元の炎は燃え盛っていた。

 右翼の根元を深くまで穿たれたこと。それは見えずとも把握している。それを成した者を見過ごすことはできない。

 

 周囲を見渡す────

 

 

 

 グラン・ミラオスがその身を起こす直前に。

 がしゅん、と小気味よい音を立てて、エルタの身体は宙を舞った。穿龍棍の杭の射出で空に飛びあがったエルタは、自らが翼の根元に作った穴にしがみ付く。

 

 逃さない。たとえ宙に逃げられても追いすがる。急上昇の負荷に耐え、翼と共に引き上げられて、その上に立った。

 立ち上がったことで重力を課せられ、自重によって拡げられた傷跡に、エルタは穿龍棍を重ねて構える。

 そして、人の胴を優に超す太さの灼熱の奔流、それを守る最後の障壁に向けて。トリガーを引いた。

 

 

 

 龍気穿撃。穿龍棍の瞬間最大火力。

 これまでの攻撃で蓄えられたエネルギーを一点集中して放つその一撃は、その大動脈を穿ち切った。

 

 

 

 オォ────ォォォ──……! 

 

 

 

 右翼の根元から、間欠泉のように血潮が噴き出した。

 巨龍が身を捩って悶え苦しむ。再び倒れるようなことこそしなかったが、その苦しみ様は先ほど大噴火を止められたときよりも激しいものだった。

 それと同時に、絶え間なく煙を吹いて火山弾を零していた右翼が、左翼と同様に黒く染まり、溶岩を失っていく。右翼全体の血の気がなくなっていく。

 

 グラン・ミラオスの両翼は、活動を停止した。

 

 

 

 滝のように流れ出すかの龍の血に混じって、同じく赤に染まった、全身に返り血を浴びた一人の狩人が翼の根元から落下した。

 受け身を取る様子はない。背中から落ちていく。このまま落ちればよくて大怪我、命を落としてもおかしくないのは誰の目にも明らかだった。

 

 その狩人が、地面に叩きつけられる直前────

 

 その真下で待ち構えていた二人の狩人が、その身体を抱きとめた。

 

「……ありがとう。あとは、任せて。……アスティ」

「うん。わかってる。エルは、しなせない……!」

 

 白い防具を身に纏った少女が、その狩人を背負って駆けだしていく。

 それを見送った蒼と橙の防具を着た女性の狩人と、黒の鎧を身に纏った大男は。それぞれ各々の武器、大剣と銃槍の柄を握って構えた。

 

 夜が明ける。舞台が変わる。

 原初の星は、怒りの咆哮を轟かせた。

 

 



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>>> 原初の星、見通す海(3)

 

 

 瓦礫が散乱し、降り注いだ火山弾が黒い跡を残す大通り。

 建物が燃える音と火の粉が舞い散る中で、白いワンピースを着た少女がその道なき道を走っていた。

 

 この場では、彼女の姿はひどく不釣り合いに映る。しかし、その手の者が見ればそのワンピースが生半可な金属鎧よりも丈夫な素材で作られた防具であることに気付くだろう。

 そんな彼女の特製の白き防具は、いたるところに解れや破れがあり、煤や灰で汚れてしまっている。その跡が彼女の消耗を感じさせた。

 

 しかし、際立って特異に映るのは、その防具に染み込むようにして伝う赤色だった。今や、彼女の防具の背中部分の白色はすっかり失われていた。

 その赤色を刻々と生み出しているものが、彼女の背中に背負われていた。

 

「エル……しっかり!」

 

 余裕のない声で少女が声をかける。しかし、その背負われたものは返事を返さなかった。ただ彼女にその重みを預けている。

 もはやそれは、人のかたちをした何かと言っても差し支えないほどに酷い有様だった。

 焼き切れて、黒焦げになって、もはや何の素材で作られたものかすら判別できなくなったその防具。溶け落ちた皮がずるりと剥けて、そこから血に濡れた肉が見えた。

 しかし、それでもその者の身体から零れ落ちないものがあった。ふつうであれば真っ先になくなってしまってもおかしくないものが、未だ彼のすぐ傍にあった。

 

 その両手にしっかりと握られた、穿龍棍。

 凄まじい高熱によって、その柄と防具の金属部、手の皮膚の三つの異種が溶け合ってくっついている。

 それだけではない。かの手は穿龍棍を握り続けていた。気を失っていてもなお、その手の力だけは緩まっていなかった。

 

 そのあまりにも壮絶すぎる有様が目に映るたびに、少女はなぜか涙が溢れだしそうになった。ずっと泣くことなどなかった少女は、自分の感情に戸惑っていた。

 彼は、その武器だけは手放すまいと心に刻み続けたのだ。高熱によって自らの手が溶けだそうと、自身が死に瀕していようと、構うことなく。それを実践し続けた。

 そして、きっと今も戦っている。その執念が、彼の命を繋いでいる。

 

「しなせない、しなせないっ……!」

 

 少女──アストレアは、炎と瓦礫の道を懸命に走り続けた。

 背後からは咆哮と地震が鳴り響く。ソナタやガルム、その他の生き残ったハンターたちがエルタの後を継ぎ、かの龍と正面からの戦いを仕掛けている。

 アストレアもそれに加わりたかった。けれど、この背中の命を繋ぐこと。それが今は、彼女に課せられ、彼女自身も自覚している最大の役割だった。

 

 あの日、モガの村で交わした約束。

 彼が見ていてほしいと言っていた勇姿は、はっきりとこの目で見た。けれど、彼と交わした言葉が少なすぎることに、彼女は今になってようやく気付いていた。

 

 話したい。彼のことを知りたい。その想いを一心に抱く。故に、ソナタはアストレアに彼のことを託したのだから。

 

 

 

 

 

 急ごしらえのテントを張って作られたギルドの応急処置所には、逃げる途中で怪我を負った人々が寄り集まっていた。

 訪れる人々に対して、物資も人材も全く足りていない。しかし、火山弾の雨が落ち着いたことでようやく治療を行う場という体を成していた。

 

 相変わらずかの龍の咆哮は耳に届き、地を小刻みに、ときにぐらりと揺らす振動が人々の不安を駆り立てる。子供の鳴き声や怪我人の呻き声は止むことがなく、その場には負の感情が立ち込めていた。

 その場にまた、アストレアが垂れ幕を退けて駆け込んでくる。慌ただしく怪我人への処置を行っていたギルドの看護師は疲れを押し隠しながら顔を上げて、思わず息を飲んだ。

 次いで彼女の姿を目に収めた人々が、小さくないどよめきをあげた。

 

 アストレアの身に纏う白の防具は、半分以上が赤く染め上げられていた。そして、その背中には見たこともない程の酷い全身火傷を負ったハンターが背負われている。

 ギルドの医師の一人が慌てて少女に駆け寄る。むっとするほどの血の匂い。とうに命尽きていてもおかしくないような姿だったが、その首筋に手を当ててみれば、まだ脈は続いていた。驚くべきことに、浅い息もある。

 

「君! 人工呼吸容器にイキツギ藻粉末を二袋入れて持ってくるんだ! 恐らく秘薬か古の秘薬を服用し、生体機能の維持効果が現れている! それと生命の粉塵と栄養剤を!」

 

 医師は矢継ぎ早に周囲の看護師に向けて指示を出す。見れば十分に伝わる容体の深刻さが人々を動かし、やや隔離された場所に敷物も用意された。

 そこまでやって、彼はアストレアの肩に手を置いた。

 

「よく運んできてくれた。ここまで来て必要な処置を受ければ、彼は恐らく自力で持ちこたえられる。君は飲用の回復薬を持っているかね?」

 

 アストレアはこくりと頷いた。ハンターなら誰もが懐やポーチに入れているアイテムだ。彼女の頷きを見て、彼はできる限り落ち着いた声で言った。

 

「これからすぐに君の元へ人工呼吸容器と栄養剤が届けられる。まずは人工呼吸器の口を彼の口元に当てて、呼吸を落ちつかせる。そうしたら栄養剤と君の回復薬を2対1の割合で混ぜて彼に口移しで飲ませるんだ。慌てることはない。何回かに分けて、飲ませることを重視しなさい」

 

 肩で息をしつつも、アストレアはその指示を忘れないように憶え込んだ。

 さらに、包帯を巻くよりも彼の自然治癒力に任せて外傷用の回復薬を塗る方がよいこと、何かあったら迷わず人を呼ぶことなどを彼から教えてもらった。そうしているうちに、彼女の足元の地面は血の赤の斑ができあがっていた。

 

「本来は私たちが総出で対処する程の大怪我だ。だが、申し訳ない。今は我々も手が離せない。どこの誰とも分からないが、彼が命を繋げるように支えてやってくれ。────そして、ありがとう」

 

 彼は最後に感謝の言葉を告げた。

 

「これは私の勘だが、今、火山弾がほとんど降ってこないのは彼のおかげだろう? 彼のその手の武器と君の目がそれを物語っている。ギルドの医師として、彼を讃えさせてほしい。……ここがあるのは、彼のおかげだ」

 

 絶えず地のうなりが響く中で、かの医師の言葉はアストレア以外には届かず、周囲の人々からの称賛はない。

 しかし、医師の時間を割いたことへの批判もなかった。アストレアにとってはそれだけで十分だった。

 

 離れの敷物に彼の身体を下ろすと、改めてその火傷の酷さが伝わってきた。本当に、これでなぜ生きているのかが不思議なほどだ。けれど、彼は命を繋ぐことができているのだという。

 彼の口元の血を布で拭いて、人工呼吸容器を当てる。久しぶりに、片腕が義手であることをもどかしく感じた。この義手はあくまで狩りのためのもの。細かい作業はできない。彼を背負って運ぶのも相当に苦労した。

 

 それでもどうにか義手で人工呼吸容器を彼の口元に当てて、もう片方の腕で回復薬と栄養剤の瓶の栓を開け、医師に言われた通りの割合で口に含んだ。

 彼の口元を見る。もとは孤島の森で暮らし、長らく人の暮らしをしてこなかった彼女でも、異性との口づけが何を意味するかくらいは、モガの村で過ごした数年間で学んでいる。

 

 けれど、その意味に沿うならば。アストレアは何の戸惑いもなく、人工呼吸容器を頬で押しのけてその唇を重ねた。

 片手で首から上を持ち上げて、彼の舌が彼自身の喉を塞いでしまわないように自らの舌で抑える。そうして、彼の喉の動きを確かめて、彼女の口に含んでいたものが流し込まれるのを感じ取った。

 また、唐突に涙が零れそうになった。本当におかしい。ほっとしたのは事実だけど、なぜ、ここまで。

 自分の知らない感情に戸惑いながらも、アストレアは彼が目を覚ますことを願って、何度も何度も、口移しの栄養補給を行い続けた。

 

 

 

 

 

 遠くから、人と、地面と、狩場の騒めきがきこえる。

 エルタが薄く目を開いたとき、霞む視界に最初に映ったものは、白い肌で、白い衣服を着た少女の姿だった。

 

「……フラ、ヒヤの……女神、さま?」

 

 掠れた声でエルタは呟く。その声を聞いて、少女ははっと顔を上げた。

 

「エル!」

 

 思わずといった様子で少女の手が彼の肩に置かれる。鈍い思考の中で、エルタは畏れ多さを覚えた。なぜその存在が目の前にいるのか分からなくて、()()()()()()()()()()()()()()()

 エルタも彼女に手を伸ばそうとするもの、その手はなぜかほとんど持ち上げられなかった。まるで重い手枷を嵌められているかのようだ。

 

「女神、さま……僕は……」

「エル……?」

 

 彼の肩に手を置いた少女の声が訝しげなものへと変わる。醒めない夢にうなされているような気分で、エルタは喘いだ。

 

「僕は……まだ、あなたとの約束を……約束、を……?」

「エル、エル! わたしはアストレア。めがみじゃ、ない」

 

 何を伝えるべきか分からず、記憶も混濁して今の状況すら把握できていない。そんなエルタの肩を、アストレアは強めに揺さぶった。

 揺さぶられるだけで布や包帯がすれて激痛が走る。思わず呻いて、しかし、その痛みがむしろエルタの意識をはっきりとしたものへ変えてくれた。

 最初に思い出したのは、自分がかの煉黒龍と戦っていたということ、その過程で自らは負傷し、ここまで運ばれてきた。そう、自分は今まで気絶していたのだ。

 

「……っ、すまない……」

 

 小さく首を振って、エルタは顔をしかめて目を数度しばたかせた。

 彼女は自らの名を名乗った。アストレア。エルタと共にかの龍へと挑んだ一人だ。一見、彼女は大きな怪我をしていないように見える。その事実にエルタはほっとため息をついた。

 

「ここは……」

「きずのてあてをするばしょだ。いろんな人がきてる」

「気を失ってから、どれくらいが経ったか分かるか?」

「だいたい、お昼のはん分くらいだ」

 

 空を見上げて答えたアストレアに対して、エルタは再びほっとした。一日以上眠りこけていたわけではなかったらしい。

 耳をすませるまでもなく、今も地響きと咆哮のような音が聞こえてくる。かの龍は思ったよりもここの近くにいるようだ。

 

「今、誰が相手を……?」

「ソナタと、黒いよろいのひと。あと、生きのこったハンターたち。ソナタはつよい。だからきっと、だいじょうぶ」

「そうか……」

 

 ソナタとガルム、二人とも単身古龍撃退者だ。ハンターとしての総合的な実力はエルタよりも高い。

 彼らが前線に立っているのなら、確かにこの時間まであれ以上の進行を食い止めることだって不可能ではないだろう。

 

 アストレアが片手をそっと、横たわったエルタの手へとあてがう。

 エルタはその時になってようやく、自らの手と防具、そして手の皮がくっついていることに気付いた。そのせいで動かせなかったのだ。

 ジンオウガ亜種の素材で作られたその穿龍棍は、完全に破壊されていた。最後の龍気穿撃を放った時点で限界だったのだろう。杭は根元から折れて、棍は黒く炭化し、残った僅かな龍属性を散らしていた。

 

 それを少しでも労わろうという想いがアストレアの手つきからは感じられた。

 そこまでして戦い続けたエルタと、それを支えた獄狼竜を重ねて視ている。あるいは、もう見る影もないが、彼の命を守った防具のもととなった風牙竜の姿も重ねているのかもしれない。

 

「エルタ、ありがとう。みんながまだたたかいつづけていられるのも、ここにいる人たちが生きているのも、みんな、みんな、エルタのおかげ」

 

 エルタが全く意識していなかっただろう彼の功績を、アストレアはひとつひとつ語っていった。

 大灯台を倒されたあと、エルタが一人でかの龍を留めた一時間が、何にも代えがたい程に大切だったこと。その間、火山弾がエルタに集中していたことで生き延びた人々が大勢いること。

 その一時間の間に、船長やソナタが反撃の準備を整えることができたこと。

 

 そして何よりも、撃龍船の砲撃がかの龍の左翼を破壊し、さらにエルタが彼自身の武器だけで右翼の大動脈を断ち切ったことで、両翼の火口の活動が止まったこと。あの悪夢のような火の雨がほぼ降りやんだこと。

 

『人の身では黒龍には傷ひとつとして付けられない』というハンターたちの諦観を真っ向から砕いてみせたこと。

 人々がいまだに立ち上がっていられるのは、彼のおかげだということを。

 

「わたしも、たぶんあきらめてた。けど、エルタを見て、わたしもがんばろうっておもった。エルタに生きていてほしいっておもった」

 

 優しい言葉とは裏腹に、エルタの手に置かれたアストレアの手に力がこもる。それだけでエルタに激痛が走ることを分かっていながら、それを止められなかった。

 なぜなら────

 

「エルタ。エルタはもう十分にがんばった。それなのに。それなのに……」

 

 俯いた彼女の口元が歪む。溢れ出しそうな感情を押し殺しているかのようなその表情は、この一月でエルタが初めて目にするものだった。

 

「どうして、まだたたかおうとするの……?」

 

 エルタの手には力が込められていた。アストレアの手を押しのけてしまうのではないかというほどの強い力が。

 ここまで血を流して、息も浅いのに、どこからそんな力が湧いてくるのか。どうしてそこまでして戦おうとするのか、アストレアには分からなかった。

 

「エルにこれよりがんばるりゆうなんてない。ソナタやわたしのようにまもりたい人は近くにいないし、ただの、ギルドからよばれただけのハンターなのに、どうして」

 

 ソナタには戦う理由がある。ここで少しでもかの龍を消耗させなければ、モガの村にまで被害が及ぶかもしれない。自らの育て親の竜の遺骨が眠る、モガの森を守りたいアストレアも同じだ。

 ガルムとアストレアはほとんど言葉を交わしていなかったが、責任があるのだと彼は言っていた。指揮官の命を守ることができず、かの龍に一矢報いることもできないままにドンドルマへと帰還することはできないのだと。

 

 そういった戦う理由があるからこそ、今も尚、戦い続けることができる。実際、雇われで訪れたハンターの半数以上は街の人々の避難の護衛に回って前線に出ていない。そういう決まりがあるわけではないし、グラン・ミラオスの前では命があまりにも軽すぎる。

 命を賭す覚悟があっても、実力が伴わなければ一瞬で命を散らすだけの最前線。雇われのハンターでありながらたった一人で戦っていたエルタが、どれほど異常かは言うまでもない。

 そして、満身創痍となった今になっても、前線に戻ろうとする意志を持つ。本来は他のハンターに後を託して、ここにいる人々と一緒に担架で運ばれ避難するのが妥当なはず。少なくともソナタとアストレアはそのつもりだったのだ。

 

 ともすれば自らの命をここで使い果たさんとするほどの、その意志の源をアストレアは知りたかった。

 いや、それを知るまではエルタをここに留まらせようとまで思った。ここで聞いておかなければ、もう二度とそれを知る機会はないような、そんな気がした。

 

「…………」

 

 ぎゅっとエルタの手を握るアストレアの、その顔をエルタは見た。表情も、瞳も、どこまでも真剣だった。モンスターたちの世界で育った彼女の竜の眼光が、彼を真っすぐに捉えていた。

 ああ、これは────あの少女と間違えてしまうのも、仕方のなかったことなのかもしれない。

 少しだけ口角を上げたエルタにアストレアが怪訝な顔をする。それに構わず、エルタは穏やかに口を開いた。

 

 様々なものが焼ける匂いと、地響きに舞う埃と、遠くから聞こえる破滅的な音が同居する地獄のようなテントの片隅で。

 

「約束を……果たさないと、いけないんだ」

 

 炎に焼かれて掠れ切った声で、たった一人の少女に向けて、エルタは昔話を始めた。

 

 

 

 

 

 フラヒヤの女神たる女性と少年が別れた次の日。少年は、女神から最後に聞かされたおとぎ話についてずっと考え続けていた。

 

 遥かな過去に大地を創り、長い眠りについて、目覚めた先で人間と戦って負けて、再び海の底へと沈んだ龍のお話。

 不死の心臓を持ち、死ぬほどの怪我を負っても決して死なない。気が遠くなるような時間を経て、また戻ってくるのだと。

 

『このお話の『続き』はあなたたちが作るの。あなたではなくとも、きっとこの世界の誰かが。それを見るのを楽しみにしているわ』

 

 その話の最後の彼女の言葉を思い出す。大地創造のおとぎ話は今もなお続いていて、今に生きる人々も登場人物たり得るのだと彼女は言った。

 彼女は人智を超えた存在であるが故に、雲の上からその様子を眺める、なんてこともできてしまうのだろう。

 

 自分は、果たして女神がその話をするに足る人物だったのだろうか。少年にとっては十分に広かったが、彼女の話によれば本当に小さな村の住人に過ぎない自分が。

 不釣り合いだ、と思った。女神は人前に姿を現すことはない。その姿を見た人なんて村中聞き回ってもいるとは思えない。そんな有り得ないほどの幸運を受け取るには、あまりにも自分は不釣り合いに過ぎる。

 

 今は、まだ。

 

 自分が受け取ったもののあまりの大きさに、後になってから気付いて思い悩んでいた少年が、その思考に行き着くまでにそう時間はかからなかった。

 身の丈に見合わない。確かにその通りだ。女神から世界のおとぎ話を聞くなんて幸運を受け取ったのに、自分はあまりにも、こんなにも小さく、弱い。

 

 だから、きっとこの数日間は、これからの人生で受け取る幸運の前借りなのだ。

 これから自分は、この一生をかけて、受け取った幸運を少しでも返していかなければならないのだ。

 最後に聞いたおとぎ話の、登場人物になろう。女神へのお返しとしてはあまりにも小さいが、それしかない。

 

 約束だ。自分自身との、約束。

 

 少年は顔を上げた。彼の人生は、そこで決まった。

 

 ハンターになりたい、と突然言い始めた少年を村人たちは奇異の瞳で見つめた。

 この周辺は先代の開拓者たちが苦労して見出したモンスターの訪れにくい土地だ。ハンターとは縁が薄い。それなのにこの少年は突然どうしたというのか。

 ただ、村人たちには少年のその意志を咎める理由もなかった。落陽草採りの仕事は他の子どもに任せればいいし、育ち盛りの少年が一人減ればその分冬の食い扶持が増える。万が一少年がハンターとしてやっていけるような実力を持てば、仕送りも期待できる。

 結局、大それた無謀な夢だと馬鹿にする者はいたが、止める者はいなかった。少年はたまたまその村を立ち寄った商人と共にその村から旅立った。

 

 ハンターの訓練所がある村まで出向き、そこで一年間の指導を受けて晴れて駆け出しのハンターとなった彼は、世界各地を転々とし始めた。

 彼はハンターの自然との調和を重んじる姿勢に共感していた。しかし、彼はその上でより手早く、より攻撃的にモンスターを倒す手段を貧欲に求めた。

 

 ただただ、時間が足りなかった。彼の心の中には逸る気持ちが常に居座っていた。

 いつ、おとぎ話の続きが訪れるか分からない。十年後かもしれない。一年後かもしれない。もし一年後だったとしたら、間に合わない。早く強くならなければ、おとぎ話の舞台にすら立つことはできない。

 

 村を出て、世界の広さを知った。自分が目指しているものがどれだけ途方もないことであるかも、身の程知らずであることも思い知った。

 大型モンスターの中でも、古龍のクエストを受けることができるハンターは全体のほんの一握り。何人かでパーティを組んで長く続けていても、上位に上がることすら難しい。そして、多くの者がそれ以前に命を落とす。

 そんな現実を前に、不安になる暇も、自らを鼓舞する暇すらなかった。辿り着けなかったら自分がそこまでの存在だったという話。プレッシャーを置き去りにして、彼は狩りに埋没した。

 

 ドンドルマで龍を穿つ武器の噂を聞けば、加工屋に無理を言ってそれを製作してもらった。以降、それは彼が愛用する武器種となった。

 世界各地の情報が集う旅する市場の噂を聞けば、迷いなくそこを訪れた。そこで彼は初めて相棒と言えるハンターと出会い、同時に別れも経験した。

 女神の話したおとぎ話は、場所や時間がぼやかされていた。少年が彼女の話を商人などに話してしまう可能性を考えれば当たり前の話だ。故に彼は、各地の言い伝えを積極的に聞き回り、伝承を読み漁っていた。

 

 目立たないが強い。狩りと物語にしか興味を抱かない変人。周りの彼に対する評価はそんなところだった。彼が実績を上げていることに気付かない者も多かった。

 彼は自分自身を「おとぎ話の龍と戦える存在」に仕立て上げることができればそれでよかった。それ以外の何も必要とは思わなかった。

 

 ときおり彼は、自身のことを物のようだと思うことがあった。感情を持たず、ただモンスターを狩るという作業だけを続ける武器のような存在。それが自分だと。

 思い悩むことはなかった。むしろ上等だとさえ感じた。彼は自らに才能はないと思っていたが、人にとって大切な何かを削り取れる精神性は持ち合わせていた。ならば、そんなものは捧げきってしまえばいい。

 

 あのときに自分勝手に決めた約束を忘れていなければ、それで十分だ。

 朧げになり始めたあの記憶は、決して夢でも幻でもなかったのだと。他ならない自分に証明するために歩み続けた。

 

 牙獣を狩り、海竜を狩り、飛竜を狩り。

 故郷に戻ることもなく狩りに明け暮れて、戦闘技能だけを培い、バルバレで出会った相棒とも決別した。

 地上を駆けて、水中を泳いで、空中に舞って、その何れにも付いていけるように。

 その日々はもはや、狩りではなく戦いで。モンスターと『戦う』ことはハンターとして間違いであるということに気付いていながら、その葛藤を切り捨てて、削ぎ落して。大切な記憶だけを抱えて。

 

 戦って、戦って、戦い続けて────

 

 ────そして、青年となった彼はタンジアへと辿り着く。

 風牙竜の防具を身に纏い、背に担ぐは獄狼竜の穿龍棍。そのハンターランクは、古龍迎撃戦においてギルドから招集される目安となる、5。

 間に合ったのだ。村を出てからの十年間を、名前も知らないおとぎ話の存在に近づくためだけに費やして間に合わせた。

 

 あとは、自らの存在意義の全てを賭けて、おとぎ話の続きを担う演者となる。

 どのような展開になるかは全く分からない。成し遂げるべきものが何なのかすら、実は分からない。分かるはずもない。

 唯一分かっているのは、自分のことをたった一つだけ。

 

 かつての少年は。今の青年は。

 エルタという無名のハンターは。

 

 この戦いの先の生き方など(グラン・ミラオスと戦う)何も考えてはいなかった(そのためだけの武器だ)

 

 

 

 

 

「…………面白くもない話だったな。すまない」

 

 途中で何度も咳き込み、水を喉に流し込んでもらいながら、彼は最後まで話しきった。遥か古きおとぎ話と、その後の彼自身の人生を。

 戦いの音はだんだんと大きくなってきている。ここで応急処置を受けていた人々は火山弾が少ない今のうちにと避難していって、残る人はまばらになっていた。

 そんな中で、何を悠長に話していたのか。もっと短くまとめられただろうにと、横たわりながら自嘲的に笑った。

 

 そして、自らの腕に落ちる、水滴に気付く。

 ぽた、ぽたと滴るそれは、海水ではないようで、彼は視線を上げて、話を聞いてくれていた少女の方を見て、その目を少し見開いた。

 

 水滴は少女の頬から伝っていて、その出所は、彼女の瞳から。

 唇をぎゅっと結んだアストレアは、ぽろぽろと涙を零していた。

 

「エル。エルはひとつ、かんちがいをしてるとおもう」

 

 そして、泣いているにしてははっきりとした口調で、強い眼差しでエルタを見る。

 

「エルはやさしい。こころが、きれいだ。ソナタと同じくらい」

 

 アストレアは分かった。理解できてしまった。彼を再びかの龍の目前には出さないと、彼の手を押さえていた手を放しざるを得なくなってしまった。

 そうでなくては、彼は自分の生き様を自分で否定することになってしまう。それを間違っていると止めようとすることは、すなわち彼の大切な記憶を否定することにも等しくて、そんなことはアストレアには決してできなかった。

 

 その上で、アストレアは怒っている。そう。怒っているのだ。涙を流しながらも、彼に言いたいことがあるのだ。

 

「つまらない話なんかじゃなかった。エルのりっぱな生き方の話だった。ほんとうにエルの気もちを知れたかは分からない。分からないけど、それをつまらないなんて、エルが言っちゃいけない」

 

 胸の内から溢れ出す悲しい気持ちを、どう言い表せばいい。エルタが自嘲気味に笑いながら、その壮絶な生き様を語ることへの悲しみを、どう伝えればいいのか。

 誰かにこんなに共感したのは初めてで、初めて知る感情が痛くて、痛くて。自然に溢れ出す涙を、彼女は止めることができなかった。

 

「エルが自分をぶきだっておもうなら、きっとそれでいい。わたしも、自分を人だっておもったことはあんまりなかった」

 

 火の国で生まれたときには現人神、あるいは悪魔として扱われ、海に捨てられてラギアクルスに拾われてからは、自らを竜だと思って生きてきた。

 モガの村で人として生き始めたのは数年前からだ。しかし、やはり馴染むことはできず、生きづらいとまではいかずとも、息苦しさを感じていた。

 もともと老いていたラギアクルスが死んでからも森に居残っていたアストレアを、外へと連れ出してくれたソナタには本当に感謝している。けれど、この感覚だけはどうしようもなく伝わらない。同じ痛みを経験した者にしか伝わらないのだ。

 

「あなたは、あなたらしく生きた。生きてる。だからあのりゅうにたったひとりで立ち向かえた。たたかいのあいだ、わたしをささえてくれた。わたしはもう、それが分かった。わたしはエルの生き方をそんけいする。だからエル。そんなにかなしいかおをしないで」

 

 自らの舌足らずをここまでもどかしく思う日が来るとは思わなかった。その歯痒さにまた涙が出てくる。

 今日の自分は本当におかしいとアストレアは思った。物心がついてから泣いたことなんて今までで一度か二度しかない。なんで今日はこんなに感情が溢れ出すのか。あまりにもたくさんの人の死に触れすぎて、慣れない心が悲鳴を上げているのかもしれない。

 

 訴えかけるようなアストレアの言葉。それを黙って聞いていたエルタは、ややあって動揺を隠しきれない口調で呟いた。

 

「……驚いた。君は、僕の相棒と同じことを……言うんだな」

 

 アストレアは顔を上げた。いたのだ。アストレアの他にも、エルタの理解者が。その生き様を追ったものが。

 エルタはかつての日々を思い出しているかのように目を閉じた。

 

「確かにその通りだ。僕は、僕が信じたもののために……生きた。後ろめたさなんて、感じる暇もなかった。……ごほっ……悪い癖だ。いつもどこか自分に自信がない」

 

 どうしてこれを忘れていたんだと、エルタは咳き込みながら嘆息する。もしかすると、そんな大切な者の存在すら忘れかけてしまう程に、エルタは自らを追い込んでいたのかもしれない。

 あるいは、今までの語りが走馬灯のようなものだったとしたら。彼は言葉を話せているだけで、実際は死の淵にいるのかもしれない。焼き尽くされたその命は、ともすれば今も、その見た目の通りに途切れ途切れなのかもしれない。

 

「アスティ。君の……あの日の相談の、僕なりの意見を……今、言おう」

 

 それでも、エルタは言葉を続けた。

 モガの村でささやかな宴が催されたときに、桟橋に座って語り合ったあの日の、アストレアの彼への相談事。どうしたらソナタや村の人々に守られる日々から一人立ちできるのかという、少女の等身大の悩み事。

 あの時のエルタは、ただ自分の生き様を見ていてほしいと言うことしかできなかった。言葉で伝える術はないと思っていたが、今なら、それが言葉にできそうな気がした。

 

「僕は、自分の過去に囚われ続けながら生きた。自分の命が続く限り……それを全うするつもりだ。それに共感して、涙さえくれた君は……きっと誰かに託されて生きてきたんだろう?」

 

 アストレアは驚いた顔をして、ややあって頷いた。

 実際、その通りだった。ラギアクルスと意思の疎通ができていた彼女は、かの竜との別れのとき、お前は生きろと願われて生きている。それを彼に話したつもりはなく、単純に言い当てられていたことに驚いていた。

 

「この戦いの後のことを考えていない僕は……君の未来に口出しをする権利は、ない。一人立ちの方法についても、同じように。だが……お礼ぐらいなら、言わせてもらってもいいだろう」

 

 喘息のように掠れた息をしながら、訥々と紡がれるエルタの言葉。それを一言一句聞き逃すまいと真剣に聞いていたアストレアだったが、お礼という言葉を聞いて動揺した。

 エルタはそれに構わず、畳みかけるように言葉を重ねた。

 

「今、この瞬間に立ち会えていることが……っぅ……本当に、幸せなことだと思ってる」

 

 自分は幸せだったと、迷いなく彼は言った。

 皮膚と防具が溶け合って、全身の火傷は血に滲んで、水膨れを起こして、その顔は誰が見ても酷いと言わざるを得ないほどに傷ついていて。

 いつ発狂してもおかしくないほどの痛みと苦しみに見舞われているはずでありながら、そんなものはいつものようにと切り捨てて、この地獄の中で幸せと話す人は、彼以外にいるだろうか。

 

「君がいてよかった。君に、この話ができてよかった。君に出会えて、よかった」

 

 それはエルタの本心からくる言葉だった。

 友とは既に決別し、孤独に自らの戦いを終えるはずだったエルタは、再び観測される機会を得た。

 黒龍の翼から落ちたあのとき、かろうじて耳に届いた「あとは任せて」という言葉。自分がそんな言葉を貰うことができるなんて、思ってもいなかった。

 ソナタとアストレア。戦いの間際に、本来は関わることのないモガという小さな村でこの二人に巡り合えたということが、幸運でなくて何だというのだろう。

 

 そして、そんなエルタの言葉は。

 アストレアにとって。モガの森とモガの村という広くて狭い世界の中で生きてきた少女にとって、ラギアクルスと、ソナタに次いで三人目の。

 少女の存在の肯定として、少女に伝えられた。

 

「…………僕は、君が胸を張って生きる、その一つの支えになれただろうか?」

「……っ、ぅん……うん……!」

 

 アストレアは最後に溢れ出した涙を拭う。もう泣くのは十分だ。

 アストレアが一人立ちする素養は十分にあると、エルタは相談を受けた日から言っていた。その悩みは自分から解決していけると。

 

 ならば、何が足りなくてアストレアは足踏みをしていたのか。

 単純な話だ。アストレアが一歩を踏み出す、その最後の一押しだけが足りていなかった。

 そこまで辿り着く遥か彼方から、アストレアと共に歩んだのだろうソナタとラギアクルスは、そうであったが故に最後の一押しができなかった。彼らに守られてばかりではいられないというアストレアの意思が彼らの手を借りることを許さなかった。

 

 けれど、もう大丈夫だ。エルタがその背中を押してくれた。

 竜に育てられ、竜の瞳を持つ少女は、自分の意思で歩いていけるはずだと、エルタはアストレアの瞳を見て思った。

 

 

 

「それにしても、おどろいた。エルも、龍と交信する者(ドラゴンコミュニア)だったなんて」

「本当にそうかは分からないが…………今は、あの少女は何かしらの龍だったのではと、そう思っている。……そういえば、君はあの少女にそっくりなんだ。だからさっき間違えてしまった」

「わ、わたしはそんなりゅうにおぼえはない……」

「もちろん、偶然だろうとは思っているさ。しかし……不思議な縁だと思ってな」

 

 瀕死の重傷患者と、そのうわ言に付き合う身内の少女。

 傍から見れば彼らはそう映る。しかし、繰り広げられている会話は彼らにしか伝わらず、そして他愛もないものだった。このテントの外の惨状を鑑みれば、いよいよ全てを諦めたか、気が狂ったかと思われるかもしれない。

 

 もちろん、彼らは諦めてなどいなかった。むしろ、この一帯で二人は最も諦めから遠い立ち位置にいた。それはある意味、気がおかしいと言えるのかもしれなかった。

 しばらくの沈黙を挟んで、アストレアがエルタに告げる。

 

「エル。わたしはどうすればいい。あなたのために何ができる。もうエルを止めない。力になれることがあれば、言ってほしい」

 

 エルタが立ち上がりたいと言えば彼女は彼の肩を支えるだろうし、体力を回復したいと言えば彼女はエルタをさらに遠方まで運んでからソナタたちの加勢に行くだろう。アストレアにはその意思があった。

 

「…………ひとつだけ、頼みごとがある」

 

 しかし、エルタがそう言って後に続けた頼み事は、そのどちらでもなく。誰も思いつきはしないだろう内容だった。

 

「タンジアの集会場の辺り、その武器倉庫に……けほっ、青と紫の剣が仕舞われている。箱は触ると冷たいから分かるはずだ。……それを箱ごと持ってきてほしい。僕は、残ってる医者に頼んで……この手の皮と穿龍棍を引き剥がしてもらう」

 

 戦うつもりだ。全身大火傷でまともに動けない身体になっても、まだ。

 その死にかけの身体で何の役に立てるのかという一般的な意見をアストレアは飲み込んだ。きっと彼には何か考えがある。それに、この戦いで、エルタのためならできるだけのことをしようと心に誓ったのは他ならないアストレア自身だ。

 

「わかった。すぐにとってくる」

「ありがとう。もしかしたら津波で海に沈んでいるかもしれないが……よろしく頼む」

 

 アストレアは頷いて、立ち上がってすぐにテントの外へと出ていった。エルタよりも泳ぎがずっと上手い彼女であれば、それが海に沈んでいたとしても取ってきてくれるだろう。

 途中でグラン・ミラオスにも接近することになるが、かの龍の瞳に義手の短剣を突き刺してみせるほどの胆力を持つ彼女ならやってのけるはずだ。

 

 それよりも自分の心配をするべきか。立ち上がろうとしたエルタは、身じろぎするだけで全身に無数の針と突き刺されたかのような痛みに襲われて呻いた。

 ただ、筋肉はまだ死んでいない。骨折も致命的なものはない。極度の疲労状態から、体力だけは徐々に回復していることを感じ取る。事前に飲んだ秘薬の効果が続いているだけで、皮膚の壊死から命の危険に繋がっているという事実に変わりはないが。

 

「…………薬でごまかしきれるかと言ったところか……ごほっ。それで、いい。あと半日持つなら……それで十分だ」

 

 自分にそう言い聞かせて、エルタは掠れきっていながらもなんとか周りが聞こえるほどの声で看護師を呼んだ。

 テントに押し寄せていた人々が自主的に避難していったことで、後続となる医者や看護師が手隙になり始めていたのが幸いだった。しかし、彼らはエルタの依頼に仰天することとなるだろう。麻酔となるネムリ草が在庫切れになっていないことを祈るばかりだった。

 

 翻せば、自分の好きなように戦ってこんな状態になっても、エルタはまだ、自分の望む行動を起こせる可能性が残されているということだ。

 エルタの呼びかけに応じて駆け付けようとしている看護師を横たわったまま見ながら、エルタは小さく呟いた。

 

「本当に、幸せものだな。僕は」

 

 







前回の最新話から三か月経った……だと……?
エタってないよと信用できない沼から叫んでいる旋律です。短編の投稿やTwitterでの創作企画に筆を持っていかれていました。申し訳ないです。エタることはないですという言葉はフラグなのであまり使いたくなく、心が折れない限りは頑張りますとだけ(これもフラグでは?)


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>>>> 原初の星、見通す海(4)

 

 

 ────あれが、大海龍を一人で退けた狩人か。なるほど、道理よな。

 

 灼熱の戦場の中で、傷だらけの大鎧を身に纏うガルムは独り言ちた。

 灼熱という言葉に語弊はない。かの煉獄の龍から放たれる熱気と放射熱は、周辺の温度を際限なく上昇させ、防具越しに肌を焼いていた。

 海中ほどとは言わずとも、劣悪な環境下で彼は立ち続けていた。もう一人の狩人と共に。ガルムは今、その狩人の姿を傍目に見ている。

 

 一見すればただの狩人だ。大剣を担ぎ、防具は強力ではあるが伝説級というほどのものではない。装備の希少性で言えば、ダマスクシリーズを身に纏うガルムが大きく上をいくだろう。

 では、なぜその狩人をガルムが注目しているのか。その理由は極めて単純だ。

 

 倒れない。

 

 かの狩人の驚愕すべきは全てその一言に集約されていた。

 ガルムや彼女がこの場所に立つまでの間、たった一人でかの龍とやり合った狩人がいる。彼はおよそ一時間もの間戦い続けていた。それだけでも十分に驚嘆に値するというのに、彼女はそれをも凌駕していく。

 

 半日。ガルムたちに繋いだ狩人が稼いだ時間の、十倍以上。彼女が戦い続けている時間だ。

 

 その間、ひと時も休みに入ることなく。膝をつくことはあれど、倒れることはなく。

 ときおり港のアイルーたちが決死の思いで投げ込んでくる食糧や回復薬などを手早く回収し、咀嚼しながら戦い続ける。

 ガルムが注意を引き付け、龍の死角に入ったかと思えば武器を研ぎ、再び狙われる頃には武器を構えている。彼女はそれを延々と繰り返していた。

 

 完全に守りに入ったのかと思えば、否だ。

 今もまさに、彼女──ソナタはグラン・ミラオスの懐へと駆けていく。

 

 二足歩行のかの龍は、首を揺らしながら二歩、三歩と後退する。その度に首元の火口から溶岩が零れ落ち、正面から駆けるソナタに雨のように降り注いだ。

 ソナタは絶妙な身のこなしでそれらを避けていく。避け切れないものは割り切って、溶岩の雫で焼け焦げた防具の煙を立ち昇らせたまま走る。

 

 その直後に放たれたのは、爆炎を纏うブレスだ。溶岩の雨で撹乱し、本命の高火力で仕留める目論見か。地面めがけて放たれたそれは発射と同時に着弾しているようなもので、周囲に炎を撒き散らしながら大爆発を引き起こす。

 爆発に巻き込まれたソナタはしかし、受け身を取って瓦礫に身体をぶつけることを凌いだ。それどころか、吹き飛ばされた先がかの龍の尻尾付近だったために、その根元へと斬撃を叩き込む。

 ダメージを受けていないかと問われれば、否だろう。余波とはいえ、少なくとも火竜のブレスを真正面から受けるのと同等の衝撃を受けているはずだ。

 しかし、その衝撃をできる限り内臓や骨に加えずに受け流している。少なくとも、それは素人ができることではなかった。

 

 懐に潜り込まれたことを察知したグラン・ミラオスはその場で足踏みを繰り出す。

 後ろ足を片方ずつ浮かせて、力を込めて地面を踏みしめるだけの行動。しかし、それはかの龍の超重量が伴うことで極めて危険な攻撃と化す。

 ごっ、と形容しがたい音を響かせて、地面が砕け散った。反動で周囲の岩盤が捲れあがる。周囲の半壊した建物や瓦礫たちががらがらと音を立てて崩れていく。

 地面からの衝撃は、砂漠の王者ディアブロスの突き上げにも匹敵するか。少なくとも、立っていられないどころの騒ぎではない。まともに食らえば腰が砕かれるだろう。

 

 しかし、逃げ場のないはずのそれをもソナタは察知し、避けにいく。

 大剣の切先を地面に置いてその重みを預けつつ、かの龍から離れるようにして小さく飛び退いた。

 直後にかの龍の左足が振り下ろされる。もっとも衝撃が大きくなる瞬間をソナタは半ば空中でやり過ごした。先ほどと同様、全ての衝撃を逃がすことはできなかったようだが、一瞬ふらついた後、そのまま大剣を地面に引きずりながら距離を取る。

 

 彼女の戦い方は大剣使いにしては変則的なそれだ。十分に大剣を扱える身長ではあるが、やや細身であるが故に体重が足りず、よほど体幹がしっかりなければ剣に身体が降られてしまう。

 しかし彼女は、自らが大剣を御しきれないことをよしとしているようだった。剣先は地面に置くし、溜め斬りは背負い投げのように繰り出す。

 比較的小さい力で剣を振るうこと重視していて、薙ぎ払ったり切り上げたりといった力づくの扱い方をしない。

 力で大剣を扱うよりも斬撃の威力はどうしても劣るだろう。しかし、彼女はその代わりにまるで片手剣使いであるかのような軽快な動きを獲得していた。

 今回の大剣を地面に置いての回避方法などまさにそれだ。恐らく我流だろうが、よくその戦い方を見出し、成立させたものだとガルムは思う。

 

 今もまた、かの龍が二本足で立った状態から倒れ込んで彼女を押し潰そうとする。そのまま四足歩行をするために、かの龍の両手が振り上げられる、それが予備動作だ。

 すぐさまそれに気付いたソナタだが、かの龍もまたこれまでの戦いで学びを得ている。確実に圧し潰すべく、かの龍の倒れ込みは非常に早くなっていた。

 ボディプレスは多くの龍や獣も使ってくる生物本来の技ではあるが、この龍では規模が桁違いだ。完全な回避は、それこそ翼でも持たない限り不可能だろう。

 

 灼熱の巨体が迫る。ソナタがかの龍から背を向けずに大剣の柄を手に取ったところで、ガルムの視界は遮られた。その間、僅か五秒にも満たない。

 地面が戦慄き、熱風が吹き荒れ、多量の土埃が舞う。かの龍の首元から零れる溶岩はガルムにまで届いた。銃槍の盾でそれを打ち払い、目を焼く熱風に負けじと眉を顰めた。その視線の先に。

 

 ソナタが転がり出てきた。

 彼女の命を幾度となく救ってきたであろうラギアクルスの防具は、先端部が欠け、溶岩に溶かされ、かの龍の重すぎる攻撃によって拉げ、しかし、まだその形を保っている。

 転がり出てきたソナタが担いでいた大剣からは水が滴っていた。海王剣アンカリウス。古龍の角をそのまま削り出したという類稀な剣は、斬撃や防御に海水を纏う。

 圧し潰される直前、その大剣を龍と自らの間に挟み、水流で受け流しつつ弾き出されるかたちで離脱したのだ。それ以外では脱出不可能であったとはいえ、過集中に近い武器捌きが求められるだろうことは想像に難くない。

 

 そして、ソナタは再び身構える。かの龍の次の動きの何れにも対処できるように、その動きで生じるかもしれない隙を捉えるために、力まずに巨龍を見据えていた。

 

 強い。彼女は、間違いなく。

 その強さは、ハンターの間で一般的に評価される類のものではないだろう。大剣の魅力と言える単発の火力の高さは控えめであり、ガルムのように頑強な肉体を持っているわけでもない。

 この世界には、彼女以上の狩人としての実力や功績を持つ人間は数多くいる。この街にもいるはずだ。故に彼女はモガの村に留まることができていた。

 

 しかし彼女は、今は亡きシェーレイによって見出され、現に今この場において誰よりも長くかの龍とやり合っている。

 恐らくシェーレイは気付いていたのだ。『継戦能力』という彼女の強みを。彼女を単身古龍撃退者たらしめた、その持久力を。

 

『モガの村にはかの海の巨人、ナバルデウスと二日間に渡って戦い続け、終いには根負けさせた狩人がいるらしい。古龍と根競べなど人に可能なのだろうかと思ったが、世界は広いものだな』

『ソナタ氏はいざというときに力になってくれるはずだ。彼女は巨大龍と一対一でやり合った経験がある。巨大龍との戦い方を識っているのだ。これの戦術的価値を決して無駄にしてはならない。無論、君も並び立てる者だがね』

 

 戦いが始まる前、厄海に向かう船の中でシェーレイはガルムにそう言っていた。

 彼は千人近い部隊の指揮を執り、黒龍に対してあくまでも冷静に戦いを挑んだ。社会から逸脱し自由奔放に生きる狩人ではなく、社会を構築し集団を力とする一般人として戦った。

 今まさに砲弾を放とうとしていた巨龍砲の砲塔に、かの龍の火球が吸い込まれていくのを見たとき、彼はどんなことを思ったのだろうか。

 

 古龍撃退任務で彼と関わることが多かったガルムは、彼の内面をいくらかは知っている。

 恐らく彼は、呆然としてはいなかっただろう。現実を受け入れ難いという感情はあったろうが、それを超えて自らの死を毅然と見つめ、拳を握り締めていたはずだ。

 彼は思考のどこかで予感していたのかもしれない。巨龍砲すらもかの龍に超えられる可能性を。巨龍砲の傍に自らが立って指揮し、ガルムを遠ざけたのはそういうことだったのかもしれない。もう、それを確かめる術はない。

 

 無念だっただろう。彼が用意した兵器はほぼ全てが打ち倒され、海上調査隊は半壊した。

 相手が悪かったとしか言いようがない。作戦に不備はなく、相手がゾラ・マグダラオスであれば間違いなく成功していた。グラン・ミラオスは、伝説の黒龍であるということを考慮してもなお、あまりにも強く、そして人への殺意に満ちていた。

 

 ただ、彼のことを無駄死にとは言うまい。少なくともガルムは欠片もそう思ってはいない。

 なぜなら、まだタンジアが陥落していないからだ。エルタ、ソナタ、ガルム、生き残ったハンターたちが踏ん張り続けているからだ。

 ひとえにそれは、安直にハンターを投入しての解決を図らずに兵器での迎撃を目指したシェーレイの采配あってこそ。

 かの龍についての情報が皆無だった厄海の迎撃拠点で、ハンターがあれ以上に投入されることがあれば、ソナタやエルタはあの地で命を落としていたかもしれない。その場合、この街はとっくに陥落していただろう。

 

 ソナタを見出し、ハンターたちを温存したシェーレイの犠牲の、その価値の行く末はガルムたちが背負っている。

 

 ソナタだけに負担を負わせるわけにはいかない。ガルムは前へと足を進める。

 彼女が戦っている間、それを呆けて見ていたわけではない。彼もまた前線を支える者として、かの龍と戦いながらソナタの立ち回りを垣間見ていた。

 

 四足歩行となったグラン・ミラオスは、這いずりという名の凶悪な突進攻撃を仕掛けてくる。突進の王者たるディアブロスよりは遅い速度だが、その圧は桁外れだ。大規模な火砕流が迫ってくる感覚に近い。

 多くの人はそれを目の当たりにするだけで足が竦み、あるいは絶望に捉われて成す術もなく引き潰されるだろう。いかなる防具を着ていたとしても、あの這いずりに巻き込またならば、その後にできあがるのは圧壊された肉塊だ。

 

 ソナタは標的から外れている。かの龍の視線はガルムに向いていた。

 大楯担ぎたる者、正面から待ち構えて受け止めることができるのであれば、それが理想だ。

 しかし、そんな幻想、気概は捨て置く。それは蛮勇ですらない、ただの愚かな行為だ。

 

 ガルムは今一度盾と銃槍を握り締め、強く一歩を踏みしめた。

 走る。武器を手に握ったまま。それはガルムが体格に恵まれていたからこそできる、まさに力にものを言わせた所業だった。

 突進の進路上から横に逸れるようにして走る。しかし、這いずるように動くグラン・ミラオスは軸合わせを容易にやってのける。あっという間にその巨体がガルムのもとへと迫った。

 

 かの龍がガルムに追いつく寸前に、彼は街の用水路へと飛び込んだ。腰下あたりまでが水に浸かる。

 その直後、彼の頭上で凄まじい音が轟き、砂や瓦礫、溶岩が大量に降り注いだ。

 ともすればあっという間に生き埋めになりそうなそれを盾で払いのけ、あるいは槍を杖のように扱いながら、ガルムは用水路から脱出する。

 グラン・ミラオスもガルムが紙一重で突進をやり過ごしただろうことは気付いていたようで、後退して再びあの黒い鎧を着た人物を探そうとする。

 

 そのとき、グラン・ミラオスの背中で大きな爆発が起こり、煙が巻き上がる。

 小さく呻いたかの龍が、後ろを振り返ろうとする前に、再度尻尾の辺りで爆発が起こった。大樽爆弾の爆発を彷彿とさせるが、これは違う。大砲による爆発だ。

 赤く染まり、大量の木々や布きれが漂う海の上で、一隻の撃龍船から砲撃が行われている。

 

「それぞれあと一発撃ったら撤退だ! 外すなよ!」

 

 撃龍船で指揮を執っているのは、ソナタやエルタと共にいたらしい三番船の船長だ。

 かの龍がソナタとガルムに気を取られ、船に背を向けた隙に砲撃を差し込んでくる。ロックラックの誇る砂上撃龍船、峯山丸の乗組員でもここまでの活躍は難しいだろう。

 その威力から察される通り、撃龍船はかの龍の注意を引きやすい。グラン・ミラオスのブレスは大砲よりも威力が高く、狙いは正確で、かつ速い。エルタの離脱後に集中砲火を受けた撃龍船は、既に沈没寸前だった。

 

 かの龍が四足歩行のときは移動速度こそ早いが、方向転換には時間がかかる。首だけ振り向くといった芸当もできない。反撃を受けないこの機会を確実に活かしている。

 有効射程の限界辺りから放たれる砲撃はガルムたちの助けになっていた。その直撃を受けてもほとんど損傷が見られない外殻の堅牢さは絶望的にも思えるが、衝撃は着実に内側へと届いている。

 

 遠くの撃龍船が稼いだ時間で用水路から這い出したガルムは、今度は自らかの龍へと肉薄する。

 狙いはソナタと同じく尻尾の付け根だ。放射熱を絶え凌ぎ、ガルムはその銀色の槍を罅割れた外殻へと突き入れる。

 もともとは真っ赤な溶岩溜まりとなっていたそこは、ソナタやガルムの攻撃によって潰され、外殻と同じ黒色になっている。しかし、硬さは外殻よりもましだ。まだ固まりきっていないと言うべきか。

 

 鋭い槍先が傷口を抉り、そこから赤黒い炎が噴き出した。

 エルタと同じ色合いのそれは、しかし属性としての現れ方が大きく異なる。それは、エルタの穿龍棍が獄狼竜由来のものであり、ガルムの槍が銀火竜由来であることが原因だろう。前者は雷として、後者は炎として発現しやすいが、効果は概ね同じだ。

 二度、三度と突き入れれば、龍属性に侵食された甲殻が剥がれ落ちていく。この極端なまでの龍属性への脆弱性は、グラン・ミラオスが黒龍であることに起因しているのか。

 

 グラン・ミラオスもやられてばかりではない。かの龍が身動ぎしたのを見逃さず、ガルムは咄嗟に盾を構える。そこに、大質量の後ろ足が衝突した。

 

「ぐっ……」

 

 吹き飛ばされこそしなかったものの、滑りながら大きく後退する。その衝撃は、ともすれば盾を担ぐ右腕が砕けてしまうのではと感じるほど。

 這いずり、そして後退。かの龍が移動のために繰り出しているそれは、十分すぎるほどの恐怖だ。続けて迫り来た片翼も盾に衝突し、ガルムはさらに後退する。

 重すぎる衝撃に全身が軋み、鈍く痺れる。しかし、立ち止まるわけにはいかない。

 

 再び武器を握って強引に走り出したガルムは、背中の火口から零れ落ちる火山弾を盾で弾き退けながら、グラン・ミラオスの懐へと再び潜り込む。

 かの龍の滴る血潮が盾から零れ落ち、鎧の隙間から皮膚へ垂れる。焼けるように痛い、超高温の血の雨だ。

 それに臆することなく、一気に走り抜けたガルムは槍先をかの龍の後ろ足へと突き入れた。

 

 龍属性の炎は吹き出さない。その一撃は目標から数寸のところで外れている。しかし、ガルムの意図はそこにある。

 引き金を引く。コオ、というやや高い音と共に、槍先を明るい光が覆う。温度だけであればグラン・ミラオスのブレスにも匹敵しようかという程の熱量が槍先に収束していく。

 後退してガルムを見つけ出し、前脚で叩き潰す算段だったのだろうグラン・ミラオスが、辺りを見渡してから再び動き出す。その直前にガルムの準備は整った。

 

 それは竜のブレスを模倣した一撃。

 銀の太陽、古龍級生物とまで呼ばれたリオレウス希少種の銃槍が放つ────竜撃砲。

 

 グラン・ミラオスの後ろ足の指の一本が、蒼銀の炎に包み込まれた。

 

 オォ────

 

 咆哮が聞こえる。流石に看過はできなかったか。

 反射的に持ち上げられた左後ろ足が地面を砕くが、撃龍砲の反動で大きく後退しているガルムには当たらなかった。

 

 戦いから四半日が過ぎ去ったかという頃、グラン・ミラオスの肉質には変化が訪れていた。

 これまで全身にくまなく行き渡らせていたマグマを、自らの身体の内部のみへと引き込んだようだ。全体的に黒ずみ、以前に拘束弾を溶かしたあの体表の熱量は失われている。

 代わりに、マグマによる軟化がなくなって冷え固まった体表は、凄まじい程の硬さを発揮した。

 特にその傾向が大きかったのが後ろ脚と前脚だ。剣ではまず刃が通らず、ソナタは尻尾の付け根や腹などの限られた部位への攻撃を余儀なくされていた。

 

 しかし、ガルムの担ぐガンランスの砲撃ならば、その影響を小さくできる。むしろ、下手に柔らかく衝撃が受け流される構造よりも、衝撃を減衰させずに伝える硬さを持っていた方がより効果的だ。

 その砲撃機能の切り札とも呼べる竜撃砲、ガルムの担ぐガンチャリオットともなれば、その威力はハンターの武器でありながら大砲の一撃を凌駕しうる。

 

 重鎧と重量武器を手に持ちながら走ることのできる体格、類稀な狩人の勘、そして攻防を兼ね備え、瞬間的な爆発力も持つガンランス。

 これがガルムの単身古龍撃退者たる所以だ。シェーレイが過去に言っていたように、ソナタとは大きく特徴が異なる。

 西シュレイド国の王の暇潰しで銀火竜狩猟に一人で駆り出されても死なず、ドンドルマに突如古龍が襲来し、砦で孤立無援状態になっても死なない。ガルムもまた、凄まじい狩人であることには違いなかった。

 

 竜撃砲はそう何度も放てる攻撃ではない。武器にとっても、ガルムの負担にとってもだ。

 二度連続で放とうものなら、いかにガルムの強靭な肉体とて肩が外れることを避けられないだろう。それだけ大きな反動がある。

 

 ガルムの竜撃砲を合図としてか、周辺の用水路や瓦礫の山に隠れていたハンターたちが姿を現す。

 ソナタやガルムの他に、六人。全員タンジアの上位ハンターだ。彼らは順番に前線に出て退却を繰り返し、ガルムとソナタが一息つくのに一役買っている。

 彼らの負担はガルムたちよりは少ないはずだが、それでも犠牲は避けられていなかった。一人、また一人と欠けてこの人数だ。本来は一瞬で壊滅してもおかしくはないのに、よく持ちこたえていると言うべきか。タンジアの港は彼らの血にも濡れている。

 

 既に、彼らが戦い始めたあの広場は、既に黒龍自身の超重量と大破壊のブレスの連発によって岩盤ごと崩壊し、海中に没してしまっていた。

 無人の地と化した街中が今の戦場だった。ソナタは崩れたキャンプや建物内に人がいないと判断するや否やそこに飛び込み、あるいはあえてかの龍の突進をぶち当てて、自らが動ける場所を強引に確保していく。

 彼女とガルム、もしくはグラン・ミラオスが動けば、前線がそこへと移ろっていく。戦う場所を選んでいる余裕はない。戦いの主導権は常にかの龍に握られていた。

 

 ガルムは再びソナタを見る。

 彼女の龍を見つめる瞳を見て、この場の人々の指揮はガルムが取ると決めた。彼女に好きなようにやらせることが、この場においては最善だろうと判断した。

 モガ村の事件、体長六十メートルを超す巨大龍に明確に一対一で戦うという特異な状況を生き延びた彼女は、何を思って今ここに立っているのだろうか。

 悲鳴と怒鳴り声が聞こえた。また何者かが重傷を負ったか、あるいは死んだか。極めて劣悪な環境下で、ガルムは再び槍を握って走り出した。

 

 

 

 

 

 不思議と、懐かしい感覚だ。三年振りくらいかな。

 

 ソナタの意識は、グラン・ミラオスとの戦いに割かれていながらも、どこか遠いところにあった。

 身体が熱い。周囲の音がやや遠く、代わりに心臓の脈拍が聞こえてくる。明らかにふつうでない状態のはずなのに、身体の動きはとても滑らかだ。

 心と体が分かたれているように感じる。ソナタはこの状態に覚えがあった。

 

 三年前、ナバルデウスの撃退を請け負ったとき。丸一日を海底遺跡最深部への誘導に費やし、そこからさらに一日、ナバルデウスと戦い続けた。今の状態はそのときに近い。

 無論、環境は似ているどころかほぼ真逆だ。あのときは海の深くで、水圧の変化と低体温症に気を付けなければいけなかった。

 対して今、本当に気を付けなくてはならないのは熱中症だ。まるで火山の只中にいるような気温が、容赦なく体力を奪ってくる。

 唯一の共通点は、とにかく大きいということ。あのときの経験がソナタを生かしている。二度目は経験したくないな、と思ったあの戦いの記憶が、ソナタの命を今まで繋いでいる。

 

 四つ足の状態で、前脚で掴みかかってくる。こういうときに外に避けようとしてはいけない。前脚の一振りは大型モンスターの体当たりと同規模なのだから、飛び退いたくらいでは避けられない。

 内側に潜り込む。かの龍の攻撃の起点となる方へ向けて思い切って飛び込んで、抜け穴を探す。前脚の脇に当たる部分が構造的に隙間となることは分かっているから、そこから脱出する。巨大龍はその巨体故に、そういった隙間をなかなか自覚できない。

 

 続いて、特大の咆哮。かの龍の独特の呼気を感じ取って、即座に両手で耳を塞いで大剣を盾に衝撃に備える。

 一拍後に放たれた衝撃は、タンジア全体を震撼させるに足るものだ。本能的な恐怖と暴力的な空気の振動に晒される。それを無防備に受ければ嘔吐や強烈な眩暈に襲われることは間違いない。意識を失ってもおかしくないだろう。

 ナバルデウスと戦っていたときにはこの手の咆哮をまともに受けた。あのときの教訓が活かされている。あるいは砂原の捕食者ティガレックスとの交戦経験があるハンターは、対応ができたかもしれない。

 

 さらに続いて、方向転換。二足歩行だと足踏みをするだけだが、四足歩行では規模が大きくなる。

 体の向きに合わせて尻尾が動き、押された瓦礫が束となる。あれに巻き込まれれば四肢が砕かれかねないだろう。今のソナタは反対側にいるためその心配はない。

 後ろ脚を基点とするため、前脚の動きにも注意しなければならない。しかし、それは普段は届かない部位へ攻撃を当てるチャンスにもなり得る。

 走ってグラン・ミラオスの死角にまで回り込み、その動きから抜刀するべき大まかな場所を予測する。死角を辿り続けられるように走る。

 

 かの龍は前脚を動かしながら方向を変えていくため、その反動で首が少し上下に揺れる。脇下から逃げていったソナタを追撃するために方向転換し終えた、その瞬間を見逃さない。

 ソナタの頭上間際まで下がってきた頭部の、その喉元をソナタは叩き切った。その部位はブレスを放つという構造上、強固な外殻で覆うことが難しい。大剣の刀身は弾かれることなくその内へと食い込み、食い止められることもなく振り抜かれた。

 

「あっつ……ぅ……」

 

 頭上から血潮がソナタに降り注ぎ、防具から湯気が上がる。この熱湯を被ったかのような生々しい痛みは、斬撃の代償と言うべきか。

 かの龍にとっては表皮を軽く裂かれた程度の感覚だろう。しかし、喉元に刃を突きつけられるという感覚は、生き物に共通して強い印象を残すはず。

 ソナタの予想通り、グラン・ミラオスは悲鳴こそ上げなかったものの、ソナタに向けてより強い殺意を示した。

 それでいい、とソナタは思う。一人の火力なんてたかが知れている。ソナタが注意を引き付けている間に、周りのハンターや砲兵が傷を与えていった方がいい。

 

 

 

 ────がくっ、と膝が崩れた。

 あれっと思う間もなく、かの龍のブレスが間近で着弾する。爆風に吹き飛ばされ、大剣で身を守る間もなく、瓦礫の角に叩きつけられた。

 

「か、はっ」

 

 息が止まる。そのまま地面に倒れ込みそうになるのを、無理やり瓦礫に手をかけて飛び越し、再びその身を投げ出す。

 直後に二発目のブレスが着弾した。再度爆風に打ち飛ばされるが、今度は自らの状況を把握している。地面を二転三転し、受け身を取って膝立ちになったところで咳き込んだ。

 口の中を滑り気の液体と強い鉄錆の味が埋め尽くす。吐血した。内臓にダメージが行ったか。

 

 驚いたことに、こんな状況でも不思議な感覚は続いていた。そう言えば、ナバルデウスのブレスをまともに食らって数秒間意識を失っていたときもこの感覚が続いていたっけ、とどこか他人事のように考える。

 反射能力はクリアだ。思考もまともかは分からないが冷静だ。

 けれど、身体が追い付かなくなり始めている。かの龍を前に休まず戦い続けた、重ねられた傷や疲労が表面化しつつある。

 

 こういう考えはあまり好きではないけれど、とソナタは思考に前置きをした。

 グラン・ミラオスはナバルデウスよりも強い。周囲の環境へ干渉する作用が強すぎて、人が土俵に立つことができない。

 その場にいるだけで周囲を灼熱の環境に変えて、今こそ活動停止しているがその翼から夥しい数の火山弾を降り注がせる。それは自然災害というよりも、現象そのものだ。ソナタの立つ大地が意志を持って顕現したと言われても、ソナタはそれを疑わない。

 

 あの伝説の黒龍を前に半日持ちこたえられただけでも大したものかな、とソナタは僅かに苦笑を浮かべた。

 そんな思想が諦めや戦いの放棄への理由になってはならないし、そうするつもりもない。しかし客観的に見て、厳しいな、と思う事実からも目を逸らしてはいけない。

 

 彼女の肩は共に二、三度外れて強制的に引き戻している。肋骨もひび割れて、息が浅くなっている。エルタほどではないが、重い火傷も負っていて皮膚が完全に剥けている。

 熱さによって刻々と奪われていく体力に認識の方が追い付かなくなれば、ああなる。次かの龍を前に隙を晒したら命はないだろう。

 

 対してかの龍の方は、健在だ。受けた傷は蓄積されているのかもしれないが、少なくとも今までの間にその動きが鈍った様子はない。

 姿を現した当初の前身の光の筋は失われているが、胸部の光核は今も煌々と光り続けていた。あれを突破して心臓を引き抜きでもしない限り、かの龍が止まることはなさそうだ。

 

 何より恐ろしいのは、とソナタはかの龍の両翼を見る。

 ありったけの大砲を撃ちこみ、大動脈から穿って活動を停止させた。破壊するまでに、あまりにも大きな犠牲を払った。そうすることでようやく、一方的な状況から僅かに抜け出すことができていた。

 

 その機能が回復しつつあるということに気付いている人は、果たしてどれだけいるだろうか。

 破壊された部位はもう元には戻らないか、長い時間をかけてゆっくりと生え変わるもの。そういったハンターの間での常識が覆ろうとしている。動脈は再び繋がれ、血が通わずに死んだはずの外皮にうっすらと細い光の筋が伸びつつあった。

 

 悪い予感は当たるものだ。今は虚ろなあの火口が再び火山弾を吐き出すようになるまで四半日あるかないか、とソナタは直感で見立てる。

 再生したそれを再び破壊する余力は人々に残されていない。今度こそ本格的な進撃が始まる。再び火山弾の雨が広範囲に降り出せば、避難している人々も無事とは限らない。

 

 できることなら、それを止めたい。全身を傷つけ続ければ、その対処に追われて再生のためのエネルギーを割けなくなるという可能性にかけて、ソナタは半日近く戦ってきた。しかし、かの龍が一枚上手だったようだ。

 閉じ籠るように収束したマグマ。外傷の修復やソナタたちの排除よりも、両翼の再生を最優先にと行動した。その方が人にとって都合が悪いということを分かっているのだろう。

 

 届かない。どうしても届かない。

 何気ない致命の一撃を避けながら、かの龍を見上げながら、傷だらけのソナタは拳を握り締めた。

 これまでにソナタたちが戦っていた時間に意味がないとは言わない。しかし、狩猟という一連の流れにおいてソナタたちに風向きのいくような、有効な一手をまだ一度も与えられていない。手ごたえが感じられない。

 

 この場で可能性があるとすれば、ガルムの竜撃砲を胸部に当てることだ。ソナタが胸部を斬り裂き、そこにガルムが竜撃砲を撃ち込めば、少なくとも両翼の再生を遅らせることができるかもしれない。

 ただ、そういうことができる隙はどこにもなかった。皮肉にも、翼が部位破壊されたことでかの龍は大噴火のような長い溜めが必要な動きを取らなくなっている。

 四足歩行形態では地面付近に胸部があるし、ソナタも斬撃を何度か叩き込んでいる。しかし、そこまでだ。かの龍もまた、その部位が弱点であることを分かっている。連続して攻撃を加えるのはまず不可能だ。

 

 優秀なハンターが何人もいてもなかなか覆すことのできない、巨大さという、ただそれだけの絶対的な壁が立ち塞がっている。

 対して自分自身の体力は恐らく限界だ。集中は維持できているが、過酷な環境で強いられた消耗と痛手はごまかしきれない。届かない、という切実な感情だけが重なっていく。

 

 三年前、ナバルデウスと戦っていたときはどうだったか。込み上げる血に喘ぎながら、遠のく意識を繋ぎ留めながらソナタは考える。

 あのときは、ナバルデウスに届かせられるものがあった。古の兵器、海中撃龍槍だ。ソナタひとりの手では決して引き出せない力をあの兵器が担った。

 なんとか海中撃龍槍を当てて、ナバルデウスの異常発達した巨大角をへし折ることができたことが、あの戦いの転換点となった。命運の一撃といっても過言ではなかった。

 この戦いにおいては、そう。迎撃拠点の巨龍砲がその役を担うはずだった。巨龍砲を先んじて破壊されてしまった代償が、あまりにも重い。

 巨大龍戦においては欠かすことのできない瞬間火力、それを欠いた状態で戦い続ければ、こうなってしまうのか。

 

 

 

 諦観に包まれたくはない。届かせたい。この絶望的な状況の先を見たい。

 終焉の赤い空。その先にあるはずの青空を、未来を見たいのに。

 

 

 

 大剣を杖代わりに、膝立ちでグラン・ミラオスと向き合いながら、一筋の涙を流した。

 そのときだった。

 

 ピィ──ッ、とひときわ高い音が、大型船が出航するときの汽笛の音が鳴り響いた。

 思わず空を仰ぐ。全天が夕闇に染まったかのような赤い景色の中で、ソナタの背後、グラン・ミラオスに背を向ける方向から信号弾が上がっているのを目にした。

 撤退指示の信号弾だ。しかもそれは、迎撃拠点で見覚えがある特別な意味を持つもの。

 

 対龍兵器の準備が整ったことによる、誘導撤退の信号弾だ。

 

「────っ!」

 

 驚いている暇もなく、今度はグラン・ミラオスに向けていくつもの砲弾が着弾した。

 人々の動揺を感じ取って広範囲に攻撃を仕掛けようとしていたグラン・ミラオスは、自らの外殻に着弾したそれがこれまでの砲弾と違っていることに気付き、警戒を強める。

 砲弾は火薬の炸裂光を見せはしたが、音や衝撃はかなり弱い。その代わり、大量の白い煙が溢れ出し、グラン・ミラオスとその周囲を包み込んでいく。

 煙幕弾だ。ハンターたちの撤退のために、撃龍船から放たれたもの。かの龍は飛ぶための翼を持たないが故に、素早く煙幕を散らす手段を持たない。

 

 本当に一人残さず撤退させるつもりだ。何かの策がなければ、ここまではできない。

 膝立ちからふらふらと立ち上がって、ソナタは走り出した。かの龍から離れていく方向へ。それができるのは煙幕が濃い今しかない。時間が経てば経つほど、煙幕は風に流されて効果を失っていく。

 

 走って行った先に何があるのかは分からない。大砲やバリスタはほとんど破壊されてしまったはずだし、巨龍砲に匹敵する兵器を用意できていたとしても、また先に壊されてしまうかもしれない。

 

 けれど、それでも、まだ繋ぐ。まだ足掻く。

 血塗れになって龍の翼から落ちたエルタから継いで、ソナタたちが命を零しながら保ち続けた意思は、途切れることなくその先へ。

 

 生きよう。生きなければ。道なき道をソナタは走り続けた。信号弾の煙が打ち上がる方向へと向けて、懸命に走っていった。

 

 

 

 

 

 急造で拵えられた、簡素な木組みの防護壁。昇れば最前線の様子が小さく見える。

 今、その足場の上に一人の青年が立った。

 

「……本当にやるんじゃな?」

「ああ」

「そうか。ならばワシは、見届けさせてもらおうか。そうじゃのう、クエスト名は────」

 

 

 

【緊急クエスト】

 絶対黒龍戦線マグマオーシャン

 

【内容】

 星の始まり、原初の開闢とは、まさにこのような景色だったのかもしれぬな。

 追い詰められたのはワシらの方じゃ。これより後に残されたものなどない。止められなければ皆死ぬ。それだけじゃ。

 じゃからのう、おぬしらよ。この物語が新たな黒龍伝説となるか、英雄譚となるかはおぬしら次第じゃ。ワシはそれを見届けよう。

 もし、また青空を拝めたのなら────酒でも、飲み交わしたいものじゃな。

 

 

 





二か月ぶりですね。お久しぶりです。
更新が遅れてしまい申し訳ありませんでした。だいたいアイスボーンのせいです()
いよいよというところまで差し掛かってきたので、もう少し頑張っていこうかと思います。
pixivでMHWの短編の投稿も始めました。こちらの方もよろしくお願いします
https://www.pixiv.net/novel/series/1183469



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第7節 絶対黒龍戦線マグマオーシャン
> 絶対黒龍戦線マグマオーシャン(1)


 

 

「はっ、はっ……なあ、俺たちどれだけ歩いたんだ」

「タンジアを出てから一日弱ってとこかね」

 

 狭く、険しい山道。タンジアから続く陸路を歩いていた二人の男は、その声に疲れを滲ませていた。

 歩いているのは彼らだけではない。同じように逃れてきた人々が、何十も、何百も、あるいは千を超えて歩いていた。人の列は数百メートルに渡ろうかというほどに長く続いていた。

 本来は肉食のモンスターなどが出てきてもおかしくはないが、そういった獣たちは先んじてこの地から逃げ出している。人々は隣町や道中の集落を目指して、黙々と歩き続けていた。

 

「随分とまあ、歩いたもんだが……船に乗ってばかりで歩き旅なんてしてなかったから、もう足が棒になったみたいだ。船や竜車がないと、とてもじゃないがやってられんのだなあ。人って生き物は」

「そうは言っても、命があるだけ儲けものだぞ。あの悪夢はもうこりごりだ。この空が晴れん限りは、ろくに眠ることすらできん」

 

 そう言った男は空を見上げる。赤い空だ。朝方や夕方というわけでもないのに、頭上の太陽の光は赤い空を映す。

 半日前、あの空から炎の雨が降ってきた。避難する人々にも例外なく降り注いだそれは、百を超す人々の命を失わせ、人々の心を限界まで削り取っていた。心労による騒動が起こらないのは、ひとえに恐怖に突き動かされているからだ。

 タンジアを出てすぐのころよりも色合いは薄くなったとはいえ、空の赤色は果てる気配がない。雲はタンジアの方向へと総じて流れていき、不気味な渦上の積乱雲を形作っている。

 

「それに、おまえにも聞こえるだろう。俺たちの足音じゃない、地響きやら、吼え声が」

「頭がおかしくなっちまうんじゃないかってくらい聞いたさ。山に反響して重なって聞こえやがる。あんなの、同じ生き物とはとても思えない。いるんだろうな。タンジアに古龍が……」

 

 彼らのような一般住民には、かの龍が黒龍に名を連ねるものであることは知らされていなかった。そうだとしても、古龍という存在への畏怖は彼らに否応なく刻み込まれていた。

 

「ハンターが戦ってくれているんだよな。だがよ、あんな神サマみたいなやつを相手に人がどうこうできるのか? 迎撃拠点はあっけなく壊滅したって噂で聞いたし、全然止められてないんじゃないのか……?」

「……歩こう。ハンターさんが古龍を食い止められていても、いなくても、歩いていた方が生き延びれそうなことに変わりはないだろう」

「……そうだな」

 

 男たちはそのやり取りを最後にして、再び黙って歩き始めた。この道を歩いている人々の多くが、同じような心境で口を閉ざしていた。

 彼らの多くが慣れない徒歩での避難。気温も普段より高く、消耗を強いられる。人々の中には倒れる者も出始めていた。

 

 とにかく、この悪夢のような赤い空が晴れることを。

 千を超す人々は、ただそれだけを一心に願っていた。

 

 

 

 

 

 グラン・ミラオスがタンジアに現れてから、丸一日以上が過ぎた。

 海の商人の聖地と呼ばれた港町は、この一日でその在り様を大きく変えていた。

 

 海は大量の瓦礫や木材が漂い、桟橋は軒並み破壊され、沿岸部は更地になっている。かの龍が大灯台を海に投げ込んだことによって発生した大高潮のためだ。

 街は今も火の手が上がっている。もはや崩れていない建物を見つけることの方が困難だった。もし、かの龍の両翼が今も破壊されていなければ、ここも更地になっていたかもしれない。

 ところどころ、大怪我をして動けない人や死人の姿もあった。呻き声は地響きや火事の音にかき消されて届かない。前線に行けないハンターや海上調査隊による、懸命な救助活動が今も続いていた。

 

 上空は今も厚い雲が立ち込めている。それは嵐の目のように、グラン・ミラオスの頭上を中心にして渦巻いているようにも見えた。

 赤く染まる雲から、黒色の雨が降る。山火事や街の火によって立ち昇った煙が混じった、灰混じりの雨だ。たびたび降ってきては、気まぐれに周辺の火を消していく。

 

 そんな雨に打たれながら、エルタは立っていた。

 全身を覆う外套を羽織っている。彼の見た目があまりにも痛々しく、見る人を委縮させるからと彼に渡されたものだった。

 

 しばらくして、エルタの元へ、いや、今エルタがいる拠点へとふらふらになりながら走ってくる人々が現れた。

 皆、最前線で戦っていたハンターたちだ。例外なく疲労困憊している。中には辿り着いてすぐにその場で嘔吐する者もいた。

 そんな中でも、殿となっていたらしい二人のハンターの消耗は尋常ではなかった。

 

「ガルムさん! よくご無事で……っ、その腕はどうされたんです!? はっ、早く手当てを!」

「……なに、かの龍の突進を二、三度受け止めただけだ。人の身に過ぎる真似をした……代償だな。それよりも……彼女の手当てを優先してやってくれ」

 

 拠点に辿り着くなりどかりと座り込み、ガルムは荒い息を吐く。ダマスクアームを外した彼の右腕は、はち切れそうなほどに腫れあがり、青く変色していた。

 骨が複雑に折れていることは明確だ。それでいながら、回復薬でごまかし、腕の筋肉で無理やり盾を持ち続けていた。流石のガルムと言えど、やせ我慢であったことを隠し切れない様子だった。

 本来、グラン・ミラオスの突進は、ハンターが受け止められるか否かという次元にないものだ。それを一度のみならず二、三度。その他にブレスも盾で防いだだろうことを考えれば、こうなるのも道理か。

 

 長時間熱波に晒されて体中を赤く茹でられつつも、痛みによる脂汗を滲ませるガルム。しかし、彼はそんな自分を差し置いて、もう一人のハンターを気遣う。

 最後に拠点へと辿り着いたそのハンターは、その直後に事切れたように倒れ伏した。

 

「ソナタ! ソナタッ!?」

 

 負傷したハンターに肩を貸して歩いていたアストレアは、その姿を見て弾かれたように顔を上げる。他の者に負傷者を託して、ソナタに群がる人々を押しのけて駆け寄った。

 ガルムと同様、顔が赤い。けれどそれは火傷によるもので、血の気は引いている。息は浅く短く、ひゅーひゅーと音を鳴らす。四肢の指先は細かく痙攣していた。

 酸欠だ。アストレアも経験があった。双剣を使っていて過集中に陥るとこうなることがある。

 

 けれどこれは、そのときよりもさらに酷い。瀕死だったエルタと大差ない状況だ。

 このままソナタの息が細くなってしまうような気がして、アストレアは咄嗟に声が出せなくなった。

 

人工呼吸器(さんそだま)持ってこい早く! くそ、なんでこうなるまで戦い続けられるんだ……!」

 

 ソナタの姿に呑まれていた周囲の人々の内の一人が、数秒後に声を張り上げた。

 彼らが信じられないような目でソナタを見るのも無理はなかった。人という生き物は、そうなる前に倒れたり、怖気ついて引き下がるようにできているはずなのだ。そういう箍が外れた人は本来以上の力を発揮できるとされるが、それこそまさに命の前借り、凄まじい勢いで生命力を削っていることに他ならない。

 そして、ソナタはそれができてしまう人物であったからこそ、ナバルデウスを単身で撃退し、グラン・ミラオスを相手に延々と戦い続けることができてしまったのだろう。

 

 そのきっかけは、モガ村の人々の優しさに触れたこと。

 一見すれば、海竜の防具を着た上位の狩人程度の認識だ。ソナタ自身もその認識でいいと笑っていた。

 モガの村の人々に居場所を与えられ、村を大切に想い、アストレアのような存在に密かに憧れた。ただ、それだけのハンターだ。それだけで、自らの生命力を削り抜けるようになってしまった。

 

 ソナタが担架で運ばれていく。吐血もしていた彼女が命を繋げられるかは、気力と残りの生命力次第だ。しかし、ナバルデウスのときも彼女はその状態で死の淵から戻ってきたという実績がある。

 今回もそうであることを祈るしかないし、アストレアはソナタのことを信じていた。自分の身の回りから次々と命が零れ落ちていく、怖さの柵から足掻き出る。

 ソナタの元に居座るわけにはいかない。自分は自分の為すべきことを。アストレアは身を翻して、遠方のグラン・ミラオスを見つめて立つエルタのもとへと歩いていった。

 

 

 

 

 

「煙幕弾と隠蔽工作も、限界のようじゃな」

 

 およそ一キロ。グラン・ミラオスと此方との直線距離だ。

 それだけ離れていても、かの龍の姿は視界に大きく映る。放射熱がここまで届いているような気さえする。タンジアのギルドマスターは目を眇めた。

 隣には外套を着た青年の姿があった。一見浮浪者のようにも見えるが、手に握る一本の武器がハンターであることを示している。その足元には、血の雫が滴っていた。

 

「見てみよ。今まさに最後の撃龍船が沈みよるというに、なけなしの砲撃を当てるその技量。あの若造はタンジアの誇りじゃな」

 

 ギルドマスターの視線の先には、炎上しながら傾いていく撃龍船の姿があった。

 煙幕弾から逆探知され、グラン・ミラオスのブレスの応酬に晒された。舵を駆使して直接の被弾を避けていたが、徐々に火の手が上がり、煙幕を十分に張れなくなり、やがて、その土手っ腹に風穴を開けられた。

 かの龍の撃退のために世界から集った六隻の撃龍船は、これで全てが沈没、航行不可能になったことになる。その最後は、戦いの趨勢を決めるような華々しいものではなかったとしても、確かに多くのハンターたちの命を救ったのだ。

 

「いよいよ、覚悟を決めねばならん。おぬしは……愚問じゃったな」

 

 横に立つエルタの姿を垣間見たギルドマスターは、やや視線を落として歩き出した。

 木組みの指示台に立ったギルドマスターは振り返り、拠点内の人々を見渡す。その様子に気付いた人々が顔を上げた。老齢の竜人族特有の小柄な体格ながら、長らくタンジアの港を仕切ってきた威厳がそこにはあった。

 

「おぬしらよ。分かっているとは思うが、この場所がワシら人の最後の砦じゃ」

 

 彼は、半日前まで火山弾の雨から身を守るために洞窟に避難していた。その雨がエルタの手によって鎮められ、外に出られるようなり、逃げ出さなかった人々で寄り集まって突貫で作り上げた拠点がここだった。

 受付嬢やギルドの医師、地元の漁師、数人の海上調査隊とハンターたち、延べ三十人程度。巨大龍への対抗組織というにはあまりにも、その数は少なかった。

 

「この期に及んで気長に話すつもりもない。率直に言うぞい。……ハンターらよ。これからワシは、おぬしらを死地へ行かせるつもりじゃ」

 

 はっきりとそう告げたギルドマスターに対し、不満や非難の声は帰ってこなかった。

 

「最後の撃龍船も沈んだ。今、あやつを遮るものは何もない状況じゃ。ワシらの作戦は、あやつをここまで誘導し、あの胸の核に撃龍槍をぶつけることにある」

 

 彼が立つ指示台の真下に、それは鎮座していた。

 撃龍槍。本来は撃龍船に積まれていた巨大な兵器だ。ギルドマスターたちは高潮によって打ち上げられた撃龍船から撃龍槍を抜き出し、この場所に固定し、十全に稼働させることにこれまでの時間を費やしてきた。

 巨龍砲よりも歴史的には古い対龍兵器だ。しかし、その攻撃力には確かなものがあり、今の時代まで現役を張り続けてきた。

 何より、拘束用バリスタから大砲、巨龍砲に至るまであらゆる兵器を撃ち返してきたグラン・ミラオスは、まだ撃龍槍のことを知らない。燃料に滅龍炭は使用していないため、事前に察知もされない。上手くその存在を隠せば、初撃はほぼ確実に当てられるという算段だ。

 

「ハンターらの活躍によって、あやつが身体に纏っておったマグマは今や、胸の一部位のみになっておる。そこに撃龍槍の一撃をくらわせれば……強烈な痛手になるはずじゃ」

 

 倒すことができる、という言葉を、ギルドマスターは飲み込んだ。

 それは希望的な観測だ。もしかしたら、という夢に縋っているに過ぎない。ただただ、そうするしか道は残されていないということだけが、紛れもない事実だ。

 

「撃龍槍はここから動かせぬ。あやつがあらぬ方へと行かぬように大銅鑼を鳴らすつもりじゃが、ここにブレスの一発でも撃ち込まれればそれで終わりじゃ。じゃから、誰かが囮をせねばならん」

 

 撃龍槍の射程は対龍兵器の中でも最も短い。迎撃拠点での巨龍砲への誘導、あのとき以上に、目と鼻の先までかの龍を導かなければならない。

 ソナタとガルムに任せればよかったのではないか、と、言えるはずもなかった。双方、とうに限界は超えていたことは明らかだ。誘導の途中で力尽きて、グラン・ミラオスに大暴れされるという最悪の展開が待ち受けていただろう。

 彼ら二人には任せられない。他のハンターにとって死地に等しいことは明白で、仲間の死を踏み越えながら囮役を受け継ぐような、悲壮な決意が必要だった。

 

 決断に一刻の猶予もなかった。かの龍の周囲に漂う煙幕はもう、ほとんど残されていなかった。

 重々しく沈黙を貫いていた角竜の装備のハンターが「俺たちのパーティが……」と声を上げかけて、少女の声がそれを遮った。

 

「わたしが、行く」

 

 凛とした宣言だった。

 もとは真白だったのだろう血の滲んだワンピース。どこの汎用防具でもない、一見すれば防具にも見えない、ラギアクルス亜種の皮で編まれた装備を着た、隻腕の少女だ。

 角竜装備の男は首を傾げる。目立つ格好はしていたが、どこの誰だ、と。モガの村にずっと留まっていたが故に、彼女の認知度はソナタと比べて無に等しかった。

 

「ソナタの連れか。おぬしのハンターランクはこの場にいるハンターの誰よりも低いはずじゃ。それを分かってなお、自らが行くと言うのじゃな」

「かんけいない。わたしがころされたら、ほかの人におねがいすればいい。わたしがさいしょに行く。それで、わたしがここまでつれてくる」

 

 ギルドマスターの静かな圧力に、一切怯むことなくアストレアはそう宣った。

 最初から最後まで、誘導は自分一人で十分だと。他の誰も介入する必要はないと、そう言い切ってみせた。

 ギルドマスターは角竜装備の男をちらりと見る。男はギルドマスターと少女、自らの仲間を一度ずつ見やって、ややあってから頷いた。

 

「分かった。おぬしのみを前線に出そう。ただ、お主の言う通り、お主が殺されれば即座に次の者を出す。おぬしの亡骸は無視して作戦は続行するぞい。それで良いか?」

 

 その言葉に、少女もまた頷き返す。

 そうと決まれば、とアストレアは走って拠点の外へと出た。拠点内では受付嬢が大銅鑼を鳴らす準備を始める。

 ソナタたちが走ってきた瓦礫だらけの道なき道を、アストレアは逆走していく。本来燃えないものが焼けて溶ける特有の匂いと、僅かな血の匂いがそこには漂っていた。

 

 走って、走って。大銅鑼が鳴らされる直前、アストレアは振り返って拠点の方を見た。

 一見、そこらの建物の残骸と大差ない崩れかけの木組みの台の上に、外套を羽織った青年が立っている。

 彼と言葉は交わさなかった。また話すことがあるとすれば、それはこの戦いに何かしらの決着がついたときだ。そんな約束をした。

 

 今、彼の手にはアストレアが回収してきた彼の二つ目の武器が握られている。

 彼があの場所で待ち構えているということに、アストレアは何よりも意味を感じていた。ただ立っているだけで、もうほとんど意識はなかったとしても、見守られているということが彼女の背中を押していた。

 

 独りだ。

 誰の力も頼れない。誰かが手を貸すことはない。自分一人で何とかしなければならない状況を、アストレアは彼女自身で選んだ。

 竜であるラギアクルスに育てられ、人であるソナタに引き取られ、龍と人の狭間にいる者(ドラゴンコミュニア)だったエルタに認められた。

 今、この瞬間が、アストレアの本当の巣立ちの時だ。

 

 重厚な鐘の音が、タンジアの港に響き渡った。

 撃龍船を沈めて、厳かにその場に佇んでいたグラン・ミラオスが音の鳴った方向を向く。

 そして、たった一人の少女の姿をその瞳に捉えた。

 

 一度、その瞳を剣で貫かれるほどの至近距離で見えた、その少女の姿を。

 人でありながら竜の眼光を宿す稀有な少女は、グラン・ミラオスの瞳を真っ向から見返してみせた。

 

「来い。ラギア・アストレア(森の王の継承者)は、あなたなんかこわくない」

 

 グラン・ミラオスの口から滾った紅蓮の炎が、彼女のもとへと撃ち出された。

 

 





こんばんは。お待たせしてしまってごめんなさい。
第7節は一週間ごとに投稿します。本編の進みが遅くて心苦しいのですが、次回から一気に進められる……と思います。


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>> 絶対黒龍戦線マグマオーシャン(2)

 

 

 自分に向かって放たれるブレスを避ける方法は、二種類ある。

 ひとつは、見る前から回避行動を起こすこと。基本的にモンスターのブレスは直線的に放たれる。その軸上から自分を逃がすというものだ。

 もうひとつは、見てから回避行動を起こすこと。ブレスが放たれたその瞬間に、軌道や着弾位置を読み取ってすれ違うように避けるというものだ。

 前者が賢明であることは言うまでもなく、後者は判断力に難ありとされる。できるだけ被弾のリスクを減らしたいハンターにとって、紙一重とは望ましいことではない。

 そんな定説の上で、アストレアというハンターが選択したのは────。

 

「…………ッ!」

 

 見てからの、回避だった。

 大地の割れ目の如きその口からブレスが放たれて、アストレアの元まで届くのに数秒とかからない。アストレアが十秒以上走ってもかの龍に届かないほどの距離は、かの龍にとってないにも等しいものだ。

 着弾。轟音と共に地面が砕け、溶解した破片が周囲に飛び散る。横っ飛びしていたアストレアの身体を爆風が襲った。

 風に煽られて、着地した先で体勢が崩れる。しかし、アイルーのような身のこなしで手足をがりがりと地面に食い込ませたアストレアは、再びグラン・ミラオスへ視線を向けた。

 

 その直後、二発目のブレスが放たれた。

 咄嗟の状況判断を迫られる。右へ跳べば先ほどのブレスの着弾の土煙に身を隠せるが、自らも息を止めなければ(むせ)る。左へ跳べば今の慣性も利用できるが、その先の逃げ道が少ない。前は、後ろは……。瞬きの合間に判断を下す。

 右へ跳んだ。直後にブレスが着弾する。アストレアが立っていた場所は土埃と砂塵に包まれた。息を吸いたくなるのを堪え、砂塵の中で目を眇める。

 

 間髪置かず、三発目のブレスが放たれた。

 ややぼんやりと見えた炎の輪郭。それだけを頼りに、アストレアは再度右へと跳んだ。

 直感は────当たった。鼓膜を打ち砕かんとする爆発音がやや遠い。左に跳んでいれば直撃していた。つまり、死んでいたということだ。

 これが、かの龍相手に見る前からの回避が難しい理由。偏差射撃を用いてくることだ。ハンターが今そこにいる場所ではなく、その進行方向へ向けてブレスを放ってくる。エルタを始めとする狩人たちはこれに苦渋を舐めさせられていた。

 

 故に、見てからの回避。

 読み合いに失敗すれば即死の勝負に出るよりも、その瞬間ごとの命の危険を背負いながら回避に臨むのがアストレアの選択だった。

 それを成すためには、当然ながら迫りくるブレス、すなわち死を見据えなければならない。人であれば本能的に目を瞑ってしまいそうになる。けれど、目を背けてはならない。

 

 ずん、とグラン・ミラオスが一歩を踏み出す音がした。その間にもブレスは止まない。

 後方に回避する。焼け焦げた破片が彼女の頬を打って、細かな火傷を負わせた。

 

 彼女が請け負った役割は、グラン・ミラオスの誘導だ。攻め込むことではない。近づきすぎれば、ブレスの回避が間に合わなくなる。離れすぎれば、かの龍はアストレアへブレスを放つのをやめて別の進路を取るかもしれない。

 アストレアにとっては間一髪で回避できる距離を、グラン・ミラオスにとってはあと少しで彼女を捉えられるという距離を、保ち続ける。

 かの龍を、一人の少女を撃ち殺すことに執着させる。

 

 ひとつの命に向けるにはあまりにも大きな殺意が、自らに向けられているのをアストレアは感じ取った。

 膝が震える。身が竦みそうになる。幾多の飛竜とも正面から相対してきた彼女の心が、全力で警鐘を鳴らしていた。

 とても、人ひとりに抱えきれるような圧力ではない。その視線だけで圧壊させられてしまいそうだ。山そのものに押しつぶされるような、或いは、深海の果てで溺れるような。

 

 こんな殺意のもとで、エルタとソナタは戦っていたのか。

 

 はぁぁ、と震える息を吐いた。

 途方もない、本当に途方もない域だ。

 

 彼らを見上げてしまいそうになる。途方に暮れそうになる。

 けれど、違う。アストレアは彼らに並び立ち、そして一人立ちするのだと決めた。あなたなんか怖くないと、かの龍に向けて言い切って見せた。

 その覚悟を貫き通す。遥か後方に立つ彼への道筋は、わたしが切り開いてみせる。

 

 

 

 

 

「何をやっているんだ、あの少女は……」

 

 拠点からやや離れた位置に隠れて戦況を見守っていたディアブロス装備の男は、奇怪なものでも見たかのように呻き声をあげた。

 彼の背後には別のハンターたちが待機している。彼のパーティメンバーだ。彼らはアストレアが作戦続行不能になり次第、誘導役を引き継ぐ手筈になっている。

 

 彼は本心で、自分たちがすぐに出ていくことになるだろうと踏んでいた。

 どこの誰とも知らぬ一人の少女。拠点では妙な迫力がありはしたが、その体躯でかの龍に挑んでも木っ端のように蹴散らされるだけだろうと。自分たちもそのように扱われる予感がしていたからこそ、拠点でギルドマスターから話を振られたときに即断できなかった。

 

 そんな彼の予想が、今まさに、覆され続けている。

 

 彼女はかの龍に攻撃を仕掛けようとはしなかった。愚直にかの龍の正面に立ち、そのブレスを避け続けることで誘導を図るという手段に出た。

 ふつう、そんな方法は取らない。そもそも選択肢にないのだ。かの龍に肉薄して四足歩行にさせ、這いずりを誘発させる。そんな確証のない作戦がせいぜいだろうと思っていた。

 

 彼はあのブレスの凶悪さを知っている。迎撃拠点から必死に生き延びたときも、ソナタとガルムが維持していた戦線の支援をしていたときも、あれは人々の脅威であり続けた。

 大砲よりも遠方に届き、それができるだけの速度を持ち、兵器が一撃で灰燼に帰すほどの質量と熱量を持つ。直撃すれば大型の竜すら一撃で仕留め得るだろう。

 エルタやソナタですら、このブレスが自分に向けて立て続けに放たれるのを避けて立ち回っていた。彼らですらも、そう何度も避けられるものではないと悟っていたのだ。

 

 そんな状況を、彼女は自ら創り出している。

 あの速さで、あの爆発規模で、十秒にも満たない間隔で連発されているブレスを避け続ける。

 足場もかなり悪い。倒壊した家屋やテントが散乱する海沿いの通路が彼女に与えられた場だ。瓦礫の一つにでも躓けば、壁際に追い詰められでもすれば、それだけで彼女は死ぬ。

 地面の様子、周囲の風景、グラン・ミラオス本体。全てに気を配らなければならない。それは一言で言えば、人間業ではなかった。

 

「彼女は何者だ? この地域の狩人なのか……?」

 

 男もまた、タンジアに拠点とするハンターだ。ソナタのことは見知っていたが、アストレアのことは知らなかった。彼だけでなく、彼女を見ている人々のほとんどがそうだった。

 まるで幻影でも見ているかのような感覚に陥るが、かの龍から放たれる熱波と地響きを伴う足音が、この光景が現実であることを物語っている。

 

 気を抜いてはいけない。楽観視をしてはいけない。

 まぐれが続いているだけとは流石に言うまいが、いつ彼女がその業火に飲み込まれてもおかしくはない。拠点まではまだ遠く、グラン・ミラオスの誘導は着実だが、遅い。

 このような芸当がそう長く続けられるはずがない。いつ出られてもいいような心構えをしておかなければと、男はその眼を背けたくなるような光景を観測し続けていた。

 

 そのときを待ち構えて、いつまでたっても訪れないそのときを、手に汗を握りながら見据え続けていた。

 

 

 

 

 

 気付けば、長い時間が過ぎているような気がする。

 

 音がはっきりと聞こえない。初めは大樽爆弾をまとめて炸裂させたかのような轟きが耳に伝っていたのに、今は小さくぼやけてしまった。まるで世界の全てが遠のいてしまったかのようだ。

 視界も霞んできている。どれくらい前だったか、飛び散った炎の欠片が目に飛び込んできた。それで失明していないだけましかもしれない。片目では距離感を掴むのがとても難しくなる。つまり、死ぬ。

 

 遠いな。とアストレアはそれだけを思った。ただただ、遠い。

 自分に向かって放たれるブレスの数は、三十を数え始めたあたりからとっくに止めた。自分が今どこにいるかを把握する余裕など、とうに失われていた。

 ただ、まだ辿り着けていないという認識だけがあって、その認識以外の全てを彼女はブレスの対処に向けていた。

 

 初めからこうなることは分かっていたはずだ。あのときのソナタに意識があれば、必死に彼女を止めようとしただろう。これは、それだけ無謀な挑戦なのだ。

 彼女の数メートル先でブレスが着弾、炸裂し、爆風によって紙のように吹き飛ぶ。起き上がった先で、また爆炎が彼女の姿を飲み込んだ。身体から煙と血を散らしながら、倒壊した家屋に打ち付けられる。その数秒後には、その家屋は基礎の石積みごと炎に包まれた。

 

 あまりにも一方的な状況だった。もはや少女はまともに立てている時間の方が少ない。

 石ころのように転がされ、休む間など一秒すら与えられず、その身を炎で焼かれていく。血に染まっても白を残していた彼女の装備は、もはやぼろ布のようにしか見えなくなっていた。

 

 見る人によっては、少女が蹂躙されているようにしか見えないだろう。

 活火山そのもののような巨躯を誇る二足歩行の黒き龍。見上げるほどの高さにある口から放たれるブレスは、ただ一人の少女をいたぶり続けている。

 

 だが、また別の視点から見れる者にとっては──いや、この場においてはそういう者しかいなかった──それはあまりにも信じがたい光景だった。

 

 グラン・ミラオスはもう果てがないほどに強大な存在だった。もし神という存在がいたとして、かの龍がそれにあたると言われても信じない者がいないほどに。

 しかし、この迎撃作戦において、人がいかに未知の可能性を内包した存在であるかも示されていた。それはエルタであり、ガルムであり、ソナタだった。彼らは伝説の存在に触発されるようにして、人の限界に挑戦していた。

 

 そして、もう疑いもない。その人の限界に挑戦するもののひとりに、今、ひとりの少女が加わろうとしている。

 何の反撃も許されてはいないだろう。焼け焦げて、見るに堪えない姿だろう。無様に地面に転がされているようにしか見えないだろう。

 

 しかし、彼女は死んでいない。倒れない。

 それが何を意味するか。かの龍のブレスの威力を鑑みれば、とても簡単な問いだった。

 

 彼女がかの龍の誘導を始めてから今に至るまで、かの龍のブレスは彼女に一発も直撃していない。

 彼女は、もう百を超えたかというほどに放たれたブレスの、その全てを回避しきっている────。

 

 

 

 

 

 自分が死にかけているということが、これだけ身近に感じたのはいつぶりだっただろう。

 

 モガの森に漂着したあの日、白海竜に拾われた日のことを思い出す。ああ、やっぱりあのときわたしは死にかけていたんだな、と今更ながらに再認識した。

 今、アストレアが感じている死はやや特殊なものだ。身体の方が本当に死にそうになっているかと言えば、そうではない。それはもっと深くて、静かなところにある。

 けれど、次の瞬間には死んでいるかもしれないという場に延々と居続けているというのは、ある意味で死にかけているのと同じだとアストレアは思っていた。

 

 衝撃が彼女を真横から打ち据えた。みしりと腕の骨や肋骨が軋むのを感じ取りながら吹き飛ばされる。着地した先で、壊れたテントの支柱の先端がふくらはぎの肉を削ぎ、アストレアは呻き声をあげた。

 こんなことではいけない。もっとしっかり避けて距離を取らないと、安定した受け身を取れない。そう考えることはできるのに、実践は途方もなく難しい。

 

 再び彼女がかの龍の瞳を見据えたのと、かの龍の口が炎を纏ったのはほぼ同時だった。

 負傷した脚を庇う暇も、回復薬を飲む暇すらも与えない。今彼女にできる全力での回避を毎回のように強いられる。

 火傷で爛れた皮膚にあたる火の粉が痛かった。炸裂音に晒され続けた耳はきーんと耳鳴りするばかりで使い物にならず、霞む視界を何とかこじ開けながら、次にくるブレスの軌道を見極める。

 

 耳は死んでいても、かの龍の足音は脚から伝わる衝撃から感じ取れた。

 ずしん、ずしん、と、誘導を始めたときよりも早まっているように感じられる。苛ついている。いつまでたっても死なないアストレアを、何とかブレスで撃ち抜こうと躍起になっているように感じられた。

 悪くない展開だと彼女は思う。ブレスの間合いに入るのがより大変になったが、自分が今どれくらいの位置に来ているかも分からないが、この調子でいけば、いつかは。

 

 唐突に、脚の力が抜けた。

 とっさに振り返る。つい直前に抉られて、血が出ていたふくらはぎ。かの龍に意識を集中させていたが故に、その痛みを無視してしまっていた。跳ぶなら、もう片方の脚を使うべきだった────。

 

 少女の目の前で、赤黒く焚かれた溶岩の塊が爆発した。

 

「──かは」

 

 これが、かの龍のブレスの本来に近い威力。掠るだけで四肢を一本持っていかれかねないエネルギーの暴力。それは、百発以上を連続で放とうと衰えることがない。

 肺が潰れて、口から血を吐いた。白海竜の衣が千切れて素肌を焼く。右腕に装着していた義手は根元から砕けて、鋭い破片となって彼女の肩に突き刺さった。

 血に溺れ、悲痛な悲鳴だけが零れ出る。

 

「っ、あぁ…………!」

 

 分かっていたはずだ。こうなるだろうことは。

 いつかは持ちこたえられなくなる。直撃は避けているとはいっても、完全に回避しきれているわけではない。その余波と地面に叩き付けられる衝撃だけで、彼女の身体には重すぎる負担がかかっていた。

 それが表出したときが、本当に追い詰められている状況だ。もともと、薄氷の上で飛び跳ねていたようなものだ。少しでも回避が遅れて間近の爆発を受ければ、その後、本当に死が待ち受けることになる。

 

 腕を押さえ、血を吐きながら蹲る。そして間髪おかずに放たれたブレスの直撃を受けて、焼死体へと変わる。

 それは、彼女が拠点で手を挙げたそのときに、誰もが思い描いた未来だったのかもしれない。

 今、彼女はその人々の想像の通りに、炎の塊に圧殺されようとしていた。

 

 

 

 視ろ。わたしだけが持つ、竜の瞳で。

 溢れた涙で視界は滲んでいる。それでも、赤く染まった世界の中でも、かの龍のブレスの業炎は一際明るく映った。

 どんなに無様でもいい。赤子のような動きでいい。とにかく、その場から動く。もう動けないと悟ってブレスを放ってきたグラン・ミラオスを欺く。

 

 立ち上がれず、転んで、半ば這うように後退して。また目の前で、爆炎が咲いた。

 今度こそまともな受け身は取れない。膝を抱え込むようにして、衝撃からできるだけ身を守る。背中から瓦礫の山に叩き付けられて、鈍く重い痛みが彼女を僅かに痙攣させた。

 回復薬を詰め込んだポーチは、いつの間にか千切れ飛んでしまっていた。もうまともに息をすることすら敵わず、涙を零しながら彼女はえずく。

 

 それでも、それでもだ。たとえ動けなくても、瞳だけは、かの龍へ。

 わたしはあなたなんか怖くない。全力で人を倒そうとするあなたに、人として向き合って、その意志だけでも抗う。

 

 竜の瞳で、龍を見る。

 かつてのモガの森の王を、純白の鱗を身にまとった双界の覇者の眼光を宿す。それに愛され、育てられた者として。それは人でなく、竜としてもかの龍に抗うのだという意志が宿っていた。

 その意志を感じ取ってしまったが故に、グラン・ミラオスは何としても彼女を殺し尽くさんと執着したのかもしれない。

 

 その龍の歩いてきた痕跡は、ただただ真っすぐに。その体長よりもずっと長く続いていて。

 

 ともすれば、遠くにあったはずの急造の拠点が、もう目と鼻の先にある。

 

 何度も歯がゆい思いをさせられた。しかし、それも最後だ。

 そんな言葉が聞こえてくるかのように、かの龍は口から零れ落ちるほどの灼熱を充填し、それを放とうとしていた。

 

 今度こそ避けられない。少し動いた程度ではどうにもならない。いつの間にかかの龍は間近まで来ていて、放たれてから着弾するまでの時間が絶望的にない。

 アストレアはかの龍を見据え続けた。自らの身体は血だらけで、力なく横たわっていたとしても、迫りくる自らの死の、その先の瞳を覗き込み続けていた。

 

 放たれたブレスは、これまでになく巨大なものだった。

 それはかつて巨龍砲を撃ち抜いた、あの火球に匹敵するかという程で。

 少女一人を跡形もなく消し去るには十分すぎる────。

 

 

 

「させるかああぁぁぁっ!!」

 

 

 

 割って入ったその声は、酷く嗄れていた。けれど、その声に宿った裂帛の気合は全く霞んでいなかった。

 間一髪でアストレアの目の前に立ち、その背中に背負った大剣を振りかぶる。人の身の丈ほどもある純白の剣が、今まさに彼女を飲み込まんとしていた大質量のブレスに叩き付けられた。

 

「そ……な…………」

 

 また、わたしは守られる────いや、違う。

 彼女はそんなことを微塵も考えていない。ただただ、彼女にとってアストレアが何物にも代えがたいかけがえのない存在で。それを失いたくなかったから、満身創痍のまま飛び出してきたのだ。

 庇護されていると感じていたのは自分だけだった。ソナタは最初から対等に、わたしを見てくれていたのだと。

 

「そな、た、がんば……って……!」

「あ、ああ……っ、あああああぁぁ……!!」

 

 それは彼女たちが経験した中で最も長い、永遠にも感じられる数秒間だった。

 剣から溢れ出た水が、一瞬で蒸発していく。大海龍の角を削り出して造られた大剣が、その刀身を削って水を創り出し、ブレスを削って割いていく。

 ソナタは受け流すという手段を選ばなかった。この質量と速度の物体を受け止めれば、一瞬も拮抗できずに押し負ける。そうなればソナタも、アストレアすらも死んでしまう。

 

 だからあえて、刃を向ける。ブレスに対して切り込んでいくなど狂人の所業だ。けれど、ソナタにはそれしか残されていなかった。

 本当に、人に放たれるようなブレスではない。もはやこれは、巨大な溶岩の塊だ。

 前傾姿勢が崩れそうになる。腕と脚が悲鳴を上げているのを感じ取る。あまりの熱量に全身が防具ごと溶け落ちてしまいそうだ。

 

 けれど、自らの背後にアストレアがいるから、彼女ががんばってと言ってくれているから、なんのこれしき、と頑張れる。

 そんなことを言えるような状況ではなくとも、それが力に変えられるのなら。

 大丈夫だ。この剣は強い。グラン・ミラオスがナバルデウスより強かったとしても、こんなブレス一発で押し負けるほど、深海の主も柔ではない。

 一秒以下の時間が限りなく引き伸ばされる。刀身に罅が入ったのを感じ取り、それでも、溢れ出す水が止まることはない。

 悠久の時を生きた古龍同士が、姿かたちを変えてぶつかり合っている。

 

 がりがりと石畳を削って後ずさりながら、歯を食いしばって声にならない雄叫びを上げながら。

 その剣の先にある炎の壁を切り拓いて、切り拓いて、切り拓いて────。

 

「ああああぁぁぁっ…………!!」

 

 

 

 斬った。

 

 ソナタは大剣を振り下ろした姿勢でしばらく固まって、直後に糸が切れたように崩れ落ちた。手から零れ落ちた大剣は、半分近くにまで刀身をすり減らしていた。

 その周囲の地面は抉れ、一部は溶解して異臭と共に赤黒く燻ぶっていた。石畳としての姿かたちを残しているのは、ソナタの背後だけだった。

 倒れたソナタの身体を、這い寄ったアストレアが寄り添うように片手で抱く。そのまま意識を失ったらしき彼女たちを助け出すべく、待機していたハンターたちが動いていた。

 

 あのブレスを真正面から受けて、人のかたちを保てていること。恐らくは、生きていること。それが、彼女たちの成した奇跡と呼べる代物だった。

 ブレスを大剣で斬った。人の身で、竜ほどもある岩の塊を両断したにも等しい。まるで夢物語のような所業だ。

 

 グラン・ミラオスは、土煙と蒸気が晴れた先で彼女たちの姿を見ていた。

 彼女たちにとっては命をかけた一撃だろうと、かの龍にとっては大きく力を溜めた程度のもの。息を吸うように彼女たちに止めを刺すこともできたが、かの龍はそうしなかった。

 

 

 

 遥か下界を見下ろす視界に、ある青年の姿が映ったからだ。

 外見を隠す外套を身に纏っていたとしても、かの龍は既に気付いている。その者が、現状で自らに最も深い傷を負わせた油断ならない存在であると。

 

 二人の少女から視線を外し、かの龍は一歩を踏み出す。

 

 両翼は既にその火口を復活させようとしていた。かの者を倒し、再び火の雨を振り注がせれば、全てが決着する。人を打倒し、本来の目的を果たすことができる。

 一歩を踏みだす。地面が響く。立ち尽くす彼を、一撃のもとに仕留めるために、かの龍は歩く。

 

 一つひとつ、歩いていく。

 エルタの元へと、歩いていく────。

 



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>>> 絶対黒龍戦線マグマオーシャン(3)

 

 

 いよいよだ。

 重厚な振動をその身に感じながら、ガルムはそのときを待ち構えていた。

 

 簡素な小屋のような拠点の内部、エルタが矢面に立つ台の下にガルムは立っている。

 覗き窓から差し込んでくる放射熱が、かの龍が間近にまで迫っていることを知らせていた。

 

 ガルムはドンドルマの単身古龍迎撃者であり、この拠点に集った人々の中では最も撃龍槍の扱いに長けたハンターだった。

 巨龍砲に次いで、ドンドルマの誇る対龍兵器が撃龍槍だ。それが当たる位置までモンスターを誘導する役も、仲間を囮として起動させる役もガルムはこなしてきた。今、隣に鎮座しているような船用の撃龍槍も実戦で使った経験があり、その射程は感覚的に把握している。

 盾を持つことはできずとも、撃龍槍の起動はできる。そう言ってギルドマスターを説き伏せ、武器を担がずにこの場に立っている。しかし、そんな彼も今回ばかりは鼓動が大きくなることを抑えられずにいた。

 

 まさか自らが、かの黒龍に連なる存在に対して一矢報いるような一撃を担うことになろうとは。

 ドンドルマのアリーナで歌姫にでも謡われそうな状況だが、浮足立ってはいけない。現状を冷静に見据えることだけをガルムは意識する。

 

 かの勇敢な少女による誘導は、ほぼ完璧な成功を収めていた。その生死は定かではないが、ガルムはアストレアという少女に本心からの称賛を贈る。

 自ら中距離に立ちながら数百発ものブレスを連続して避け続けるなど、常軌を逸している。少なくともガルムには不可能だ。ソナタでも難しいだろう。軽快に動ける身体と、その身の丈にはとても収まりきるとは思えない程の胆力が兼ね備わっていなければ、数回の回避すら難しい。

 それでも彼女はやってのけた。歴戦のハンターたちの屍が積み重なることになるだろうと予想されていた長い道のりをたった一人で駆け抜けて、ガルムたちに繋いでみせたのだ。

 

 地響きがいよいよ大きくなり始めた。覗き窓からもかの龍の漆黒の体表が覆う。

 既に目の前にかの龍が立ち塞がっているようにも見える中で、ガルムは人の身程もあるレバーに手をかけ、まだ、そこから動かない。

 ふっ、と息を吐く。

 

 撃龍槍は通常、地面や海面に対して水平に飛び出るように設計されている。

 しかし、この撃龍槍は後部分が地面にめり込むように傾斜をつけて設置されていた。構造上の限度間際、槍は空に向けて突き出される。

 

 その目的はただ一つだ。

 かの龍の胸部に渦巻く緋色の光の核を、的確に突き穿つこと。

 

 脚を貫いて長時間転倒させる使い道もあっただろう。四足歩行時の頭部を狙う運用もできたはずだ。しかし、ギルドマスターたちはそれを選び取らなかった。

 もともと短い射程がさらに短くなり、的中率もかつてなく低くなることを承知の上で、大きければ当たる、という撃龍槍の設計理念に真っ向から反する運用に挑む。

 直撃、あるいは我々の死。ハイリスクハイリターンを望んだ彼らは、その先に何を見ているのか。

 

 ────ああ、それは確かに、人という種以外では成し得ないことなのかもしれない。

 極度の緊張に置かれながら、ガルムは僅かに口角を上げた。

 

 

 

 

 

 エルタが立つ。グラン・ミラオスが歩く。

 その口元からは紅蓮の炎が滾る。それを吐き出せば簡素な拠点などたちまち焼け落ちそうなものを、グラン・ミラオスはそうしようとしない。

 ブレスが当てられる距離から、倒れこめば押し潰せる距離へ。それは砦の城壁を前にしたラオシャンロンやシェンガオレンのように。着実に歩み寄っていく。

 

 迎撃拠点では猛威を振るい、人々に対抗手段がなかった遠距離攻撃を用いようとしない。

 自身のその選択が、これまでの戦いのあらゆる要因によって引き起こされたものであるということに、かの龍は気付いただろうか。

 

 大砲や拘束用バリスタに対して圧倒的な優位に立ち、巨龍砲すらその発射前に沈めてみせた。もう人々に残された対龍兵器などない。自身があまりにも強すぎるために、それを無意識で確信してしまう。

 龍属性の気配は感じない。火の海となった街並みの中では巨大装置の蒸気すら紛れる。

 至近距離専用の対龍兵器など、かの龍は知らない。知れるはずもない。それが近づくよりも前に、破壊しつくしてしまっていたが故に。

 

 これまでほぼ一撃必殺だったブレスを凌がれる現象を目の当たりにしている。

 ある青年にはブレスで追い詰められる前に懐へと潜り込まれ、ある大剣使いには視覚へと逃れられ、ある盾持ちには何度か直撃させても耐えられた。

 

 そして、ここに辿り着くまでの過程。その存在を以てしても、いや、そうであったからこそ、俄かには信じがたい。

 今いる場所を的確に捉え、次に動く向きを予想し、攪乱も織り交ぜながら放ち続けたブレスが、あろうことか全て避けられた。たった一人の少女に。

 追い詰めた場面は何度もあった。直撃したと思われる場面もあった。しかし、最後の最後まで、少女は立ち上がり続けた。その命を灼き尽くすことはできなかった。

 

 そして最後には、斬られた。人の建造物程度なら一撃で吹き飛ばせたはずのブレスが、直前に割り込んできたたった一人の人間の手によって真っ二つに斬り飛ばされた。

 

 直近で起こったこれらの出来事によって、グラン・ミラオスは青年が目の前に立っているという絶好の機会を前にしても、ブレスという選択肢を取ろうとは思えなくなっていた。

 それはグラン・ミラオスの錯覚、いや、過大評価だ。疑いの余地なく、ブレスの一発で拠点は落ちる。それなのにそうしようとしない。そうしようと思えない。

 その選択肢の消失は、人々の手によって掴み取ったもの。

 

 あらゆる選択肢はあった。この状況下でも人の側の陥落はあまり容易で、人に対して一切の油断をしないグラン・ミラオスは、その息の根を確実に止めにかかる。

 その望みに適う攻撃は、たったひとつ。

 

 チャージブレス。その一択だ。

 

 

 

 

 

 かくして、木組みの壁の目の前に、かの龍は辿り着いた。

 迎撃拠点では紅蓮と黄金、数時間前までは漆黒、そして今は、煌々と光る胸部を核として全身に葉脈が生き渡るような、緋色に。鎮められた両翼の火口は三度蘇ろうとしている。

 

 まるで不死身だ。何度でも息を吹き返す超常存在そのものだ。

 星の息吹をその身に宿す現象──古龍は今、眼下に立つ一人の青年を見た。そして、それに向けてゆっくりとその口を開けた。

 コオ、と静かに、しかしブレスなどとは比較にならない膨大な熱量が集っていく。あまりのエネルギーに口元の空気は歪み、口元の甲殻は耐えきれずに融け落ちていく。

 

 それだけの熱を一身に浴びて、それでも青年は一歩も動かずにその場に立ち続けていた。

 羽織った外套がちりちりと燃え始める。その表情は窺い知れない。何かを企んでいる、たとえそうだとしても、グラン・ミラオスはもう止まらない。

 

 彼を中心にして、この周辺一帯を焦土へと変える。先ほど無視した少女たちも、この拠点も含めて、全て。それができるだけの威力をこのチャージブレスは持っている。

 かの龍が信じる最高火力を以て、人という種の抵抗を終わらせるのだ。

 

 炎は光へと転換される。光の色は橙から青、そして白へと移り変わり、その熱は今に生きる人々では決して見ることのできない域にまで至っていた。

 そして、グラン・ミラオスはその巨体を前屈させた。このブレスの反動はかの龍の超重量を以てしても抑えきれず、後方に倒れる可能性すらある。それを防ぐために前傾姿勢を維持する。

 

 もはやその距離は、チャージブレスが放たれる前から青年が溶け落ちるのではないかというほどだった。

 何も知らない者から見れば、見上げてもまだ足りぬほどの巨大な龍が、豆粒程度の小さな人に話しかけようとしているかのような。

 

 

 

 ────がこん。

 重々しい起動音が響いた。無数の歯車が蠢き、白い蒸気が吹き出す。

 

 

 

 次の瞬間、人と龍が相対する景色の中に、今、一本の鉄杭が飛び出して。

 前屈みの龍の胸に深々と突き立った。

 

 

 

 光が迸る。

 強烈な一撃を食らったハンターが、虚空へ向かって血反吐を吐くように。

 かの龍が放とうとしていたチャージブレスは空に向かって放たれ、そこに一瞬、太陽が顕れた。

 

 眩い光と莫大な熱が天を焦がし、その余波だけで周囲の瓦礫や木々は吹き飛んでいく。厚く立ち込めていた雲すらその一部が払われて、本来の空が垣間見えた。

 

 クォォァ─────

 

 グラン・ミラオスが絶叫にも近い咆哮を放つ。

 一秒もしないうちに放たれていただろうチャージブレス。撃龍槍の起動から実際に射出されるまでの時間差までも考慮してガルムが捉えた、これ以上にない一撃だった。

 激しく回転しながら放たれた撃龍槍は、胸部の甲殻をぶち抜いて、さらにその内側へと突き進んでいく。

 

 超高温の血潮に融かされてもその勢いは衰えない。無骨ながら幾多の龍を屠ってきたことを証明し続ける。

 岩盤を掘削するかのような音を響かせて、滝のように血を撒き散らしながら驀進していく様は、まるでこの星の内側をこじ開けようとしているかのよう。

 

 かの龍との戦いが始まった直後にこれを放っていたとしても、これほどの鍔迫り合いはきっとできなかった。

 かの龍の胸核の温度も、硬度も、邂逅したときよりも明らかに低くなっている。各部位の再生、そして回復にほとんどの血と溶岩を回している今だからこそ。

 どんなに打ちのめされようと、意味がないように思えようと、延々と立ち向かい、戦線を繋いだ人々の価値が、意味が。今、ここに証明されている。

 

 原初の星に例えられる存在と、人の技術の結晶、立ち向かった人々の執念のぶつかり合い。

 

 短く、しかし永い時間の末に、血潮の湯気と蒸気の煙が晴れた先に、その決着の光景があった。

 

 

 

 ────届いた。届いている。

 芯の半ばまで融かし尽くされ、先細りして今にも折れそうになりながらも。

 

 その内核は、それまで何者も到達しえなかった領域。

 大型の竜をその身の内に取り込んでいたのかと錯覚するほどに大きく、拍動する心臓が、撃龍槍によって確かに穿たれていた。

 

 

 

 星の火山活動そのものと何ら変わりない存在であったとしても、心臓を持ちうるのか。

 もし学者や吟遊詩人がこの場に居合わせればそう考えただろう。そして、人々の土壇場での逆転を高らかに謳っただろう。

 

 撃龍槍は確かに心臓にまで届いている。その過程でやや左側へ逸らされたものの、その巨大な袋を貫いていることは明白だった。

 人であれば間違いのない致命傷だ。古の秘薬だろうと何だろうと意味をなさない。心臓の傷の治癒など夢物語にすら存在せず、首を絶たれることとほぼ同義に扱われる。

 瞬く間に脈拍は弱り、血の気を失い、速やかに死に至る。言葉を遺す間すらない。人を遥かに凌ぐ生命力を持つ竜種でもそれは変わらない。

 

 そのはずだ。心臓という機関を持つ限り、その理からは逃れることはできないはずだ。

 

 

 

 では(しかし)なぜあの心臓は拍動を続けているのか(その心臓は人の知る常識の埒外にあった)

 

 

 

 巨大な杭によって貫かれているはずだ。実際、その傷口からは湯気立つ血潮が噴出して撃龍槍を伝っている。

 だが、それがどうしたとでもいう風に、心臓は動き続ける。全身に血を送ることを止めようとしない。

 

 かの龍の全身を伝う光の筋は一瞬弱まったものの、それから徐々に血の気を取り戻しつつある。

 かの龍自身も今はショック状態に陥って動くことができないようだが、瞳孔の光は全く失われていなかった。

 

 死なない。致命傷になっていない。

 心臓を刺し貫かれていながら生きて立ち続けるという、あまりにも現実離れした光景がそこにあった。

 

 撃龍槍が沈黙する。役割を終えた対龍兵器はもう動かない。あとは新たに巡る血液によって融かし尽くされるのを待つのみだ。

 「これで倒せるかもしれない」という言葉を飲み込んだギルドマスターの意図が、こんなかたちで証明されることになるなど、誰が予想しただろうか。

 

 不死の心臓。

 かの龍が古龍として持つ、本当の特異性。

 かつての敗北から永い時を経て蘇り、あらゆる権能の原動力となった、この世界でも類を見ない永久機関。

 

 原初の開闢をその身で成した、世界で最も永く生きた生命のひとつは、自らの灯火が途切れないことを確信している。

 

 

 

 

 

 かん、と甲高い音がかの龍の眼下で響いた。

 見下ろせばそこには、返り血によって火が付いた木組みの防壁と、自らの胸を穿ったまま沈黙する鋼鉄の槍。その先に。

 

 外套を脱ぎ去って、長大な斧を晒す青年の姿があった。

 

 

 

 

 

 今、この瞬間を幸せと呼ばずして何と言うのだろう。

 自分は果てしなく幸運だった。それは嘘偽りも、飾りもないエルタの本心だった。

 

 もうまともな意識もない。四肢が動き、声が出せるのは紛れもない奇跡で、死の恐怖に怯えながらも治療に専念した勇敢な職員たちのおかげでもある。

 有体に言って、ほぼ手遅れだった。火傷の範囲も重度も致命的で、回復薬を服用しても皮膚の壊死は止まらなかった。

 現存の生命力を秘薬で無理やり引き出して、ありったけの痛み止めと包帯を使って、死ぬまでの時間を長引かせている。そうやって舞台に立てているだけの、正真正銘の死に損ないだった。

 

 それでも、それでもだ。

 目の前で繰り広げられている光景は、かつての自分が思い描いていた情景そのものだった。

 

 回転する大槍が、かの龍の胸殻を貫いている。

 火山の中枢を拓いたかの如き膨大な血潮と、削り取られた外殻の破片が撒き散らされている。

 

 その先に垣間見える。確かに穿たれて、それでも乱れない鼓動を刻み続ける心臓が。

 かつてのおとぎ話が具現化した光景の目前に、自分という存在が立てている。

 

 エルタは外套を脱ぎ捨てた。

 そこに在ったのは、半死半生をその身で証明するような惨たらしい有様の身体と、その見た目に相反する美しい装飾の斧。

 砕けた穿龍棍をその手から皮膚ごと剥ぎ取って、代わりに握られたその武器は、それだけが別の理の世界に存在しているかのような冷気を放っていた。

 

 一歩を踏み出す。その体の見た目からは想像もできない程の、力強い一歩だった。

 しかし、いくらそれが目の前にあるかのように見えていたとしても、グラン・ミラオスとエルタの距離は物理的に開きすぎていた。巨大龍はそう在るだけで距離感を狂わせる。

 エルタが飛び付いた程度では到底届かない。手に持った武器を掠らせることすらできない。両者の間にあるのは、一本の撃龍槍のみ。

 

 

 

 撃龍槍(鋼鉄の架橋)が、エルタとグラン・ミラオスを繋いでいる。

 

 

 

 走路はそこに在った。あとは駆け抜けるだけだ。

 回転が止まった撃龍槍にエルタは飛び乗った。かん、と甲高い金属音が響く。

 血に塗れた足元に滑りそうになる。体勢を立て直し、斧をしっかりと握りしめて、エルタは巨大な槍の上を駆け上がっていく。

 

 その最中で、エルタは柄に取り付けられた引き金を引いた。斧の先端が柄の方へと移動し、代わりに斧の背後に仕舞われていた一本の角が姿を現す。

 それは世にも珍しい幻獣の素材で作られた剣斧、断雷斧キリン──ではない。眩いまでの雷は纏わず、その代わりに蒼く、どこまでも凍てついている。

 

 降雹剣キリン。エルタが狩猟した唯一の古龍、氷の幻獣の角を芯として創られたその剣斧は、剣状態へと変形したその瞬間に異常なまでの冷気を膨れ上がらせた。

 剣を持つエルタの手が瞬く間に凍り付く。それは通常の武器の属性発現の域を超えて、目に見えて暴走していた。その有様は、それが古龍の武器であるということを彷彿とさせるものだった。

 しかし、エルタは自らの腕が氷に包まれていくのも構わず、むしろその溢れ出す冷気を盾として、灼熱の血の雨の中へと突っ込んだ。

 

 グラン・ミラオスは心臓を貫かれた衝撃から立ち直れない。物理的に懐を拓いたまま、エルタの突貫を迎え入れる。

 血の雨は止まない。これから先、止むことはないだろう。焼けて塞がった瞼をこじ開ければ、手に取れるほどの距離にそれはあった。

 さながら脈打つ溶鉱炉だ。拍動が大銅鑼のように空気を介して伝わってくる。自らの身の丈を優に超える大きさの心臓が、かの龍の生命を証明し続けている。

 

 

 

 今こそ、訣別の刻だ。

 血塗れの撃龍槍を駆け抜けたエルタは、氷を生やしたその腕ごと、剣状態の降雹剣を心臓へと突き刺した。

 

 

 

 

 

 その瞬間、原初の星は新たな感情を学ぶ。

 それはあまりにも不可解で、耐え難い、何よりも鮮烈な感情だった。

 

 死への恐怖。これまでの生で一度も感じたことのない、原理的に知覚することすらできないはずの寒気が、かの龍の全身を駆け巡っていた。

 

 

 

 エルタが手に持っていた降雹剣は、一般的な狩人の持つ剣斧とはかけ離れた特性を与えられていた。

 狩猟武器という枠に当て嵌まるかさえ怪しい。剣状態になった途端に暴走したのは、そうなるように創られたからだ。意図して作られた欠陥品とも言えるだろう。

 

 使い切りだ。たった一度でも剣状態になると、その武器が宿す属性を全て解放し尽くすまで暴走し続け、その果てに壊れる。

 下手に扱わない限り、狩猟中は決して破損させないという加工屋の理念に真っ向から歯向かっている。武器の形を与えられた爆弾のようなものだ。

 

 そうまでしても成し得たかったのは、かの霊獣のオリジナルに近い氷属性を現出させること。

 足跡に霜を纏い、地面から自在に氷柱を生やすかの霊獣は、あるときに他のモンスターの追随を許さない極低温の空間を創り出すことがある。

 空気を瞬間的に凍てつかせ、何もかも静止した極寒の地として切り取ってしまったかのような現象。そんなことができる存在は、エルタの知る限りその古龍しかいなかった。

 

 結局、おとぎ話に魅せられた子どもの語る夢物語のような理屈だ。

 大地を創造したなどという星の化身に真っ向から対抗できる存在など、この星を全て凍らせて終わらせるくらいの力を持っていてもおかしくはないだろう。あるいは、同じく黒龍の名を持つ伝説の存在か。

 世界の理の内に生きる人が、足元にも及ばないのは言うまでもない。竜ですら並び立つには遠い。おとぎ話が具現化したかのような、不死の心臓に干渉するのは困難を極める。

 

 国一つを一夜にして氷漬けにしたという伝説を持つ霊獣ですら、並び立てるかどうか。

 しかし、その神秘を一点に集約し直接ぶつけることができたなら、あるいは。

 

 

 

「ぐ、あぁ……!」

 

 ────生き地獄だった。

 半身は絶え間なく噴き出す血潮によって焼かれ、もう半身は場違いな冷気によって氷に埋め尽くされている。

 

 しかしそれは、翻せばこの武器の氷属性がそれだけ強く発揮されているということだ。鉄すら溶かすほどの熱量に押し負けず、降雹剣はグラン・ミラオスの心臓を凍らせていく。

 それでも、かつて霊獣と戦ったときの一瞬で万物を凍て付かせるような現象には劣るかもしれない。分かっていたことだ。それでも、たった一度でいい。限りなくそれに近づくことができればそれでいい。

 

 

 

「とどけ…………!」

 

 今の自分を、アストレアは見てくれているだろうか。

 彼女がこの剣を持ってきてくれた。高潮で海に沈んだギルドの武器庫からこの剣が拾い出されなければ、この瞬間は訪れなかった。

 そんな彼女が死地へと向かっていくのを、エルタは止めなかった。彼女の背中を押しておきながら、結局自分だけで走り続けた。

 

 あなたの生き方を尊敬する、と。純粋な意志を持って、涙を零しながら告げる彼女のことを思い出す。

 生きていてほしい。死にゆく自分を差し置いて、どこまでも無責任ながら、切実に。

 今まで息苦しかった分を、一歩を踏み出せていなかったわだかまりを解いて。竜の瞳で世界を見て、彼女だけが紡げる物語を、これからも。ずっと。

 

 

 

「とど、け…………!」

 

 かつての相棒は見てくれているだろうか。

 この迎撃戦には訪れなかった。彼は古龍を倒すという共通の目的からエルタと出会い、共に歩み、二人で霊獣を討伐し、そして彼自身の夢を叶えるためにエルタと別れた。

 

 お前の生き方をお前がつまらないなんて言うな、と。あのときのアストレアと全く同じことを言って自分を叱咤してきた。もう何年も前の話。エルタの人生を追った、もう一人だ。

 彼のことを急に思い出したのは、走馬灯のようなものか。

 この物語の外にいて、けれど、エルタにとって本当にかけがえのない存在だった。

 彼については、心配していたら怒られてしまうだろう。そんなことよりもお前は自分のことを心配しろと、何度も言われていたから。

 生きていてほしい。夢を果たした、その先を。歩み続けていてほしい。

 

 

 

「と……ど、け…………!!」

 

 

 

 あの少女は、見てくれているだろうか。

 

 

 

 自らの命が湯水のように流れ出していくのが感じ取れる。

 もはや痛みは通り越して、自分という体から皮膚が、肉が、骨が溶けて、あるいは凍って零れ落ちていくような感覚だけがあった。

 人の身で飛び込もうというのがおこがましい状況だ。甘んじて受ける。ただ、この手だけは決して離さない。

 

 誰かの願いも命も背負わなかった。自分ばかりが背中を預けて、ただこの瞬間のためだけに生きた。

 モガの村の人々を背負うソナタとは真逆の強さ。ひたすらに身勝手なこの在り方に、唯一見出すものがあるとすれば。

 

 あの日、何も知らない幼児だった自らに秘密の話をしてくれた、あの少女だ。

 

 かの龍の心臓は、星から受け取った力の源。溶けた大地のもとを永久に生み出し続ける。あの少女はそう言った。

 だから、ほんのひとときでいい。一秒に満たない時間でいい。その心臓を全て凍らせれば、その鼓動を止めることができれば。

 

 そのときだけは、星を砕くことができる(その心臓は永久機関の理から外れている)はずだ。

 

 

 

 心臓の拍動はかつてなく大きなものになっている。心臓に直接攻撃を与えられて動くことができないグラン・ミラオスは、しかし自らの命の本当に危機を感じ取り、心臓の凍結に全力で抗っている。

 対して、降雹剣も呼応するように冷気を生み出していた。今にも砕けそうなほどの振動は、属性解放突きによるものだ。

 

 大剣から重穹まで、現在のあらゆる武器種の中で、最も武器の属性を発揮できる攻撃が、剣斧の属性解放突きだ。だから彼は剣斧というかたちを選んだ。

 純粋な氷の古龍の力を借りて、本来であれば数年は持つその剣斧を一回の属性解放突きで砕け散らせることで、ここまで来れた。

 

 両者の戦いをエルタは見定める。剣を押し込む手の力を決して緩めず、自らを弾き飛ばそうとする心臓から決して手を放さず。

 不死の心臓を凍らせるという、自らの解の先を見るために。

 

「…………!」

 

 眼球は溶け落ちた。

 鼻は凍って砕けた。

 耳は焼けて灰になり、あるいは霜に包まれた。

 

 全て、全て全て炎に、氷にくべて、その先へ、その先を。

 

 

 

 人が龍に挑む物語の、結末を────

 

 

 

 

 

 

 

 刻が止まる。

 

 

 

 

 

 

 ぎし、と軋むような小さな音が鳴った。

 それが音として聞こえるほどの、静寂。

 

 膨大な血を吐き出していた大穴は、極寒の滝のように凍てついた。

 莫大な拍動を響かせていた肉の塊は、霜を生やして沈黙していた。

 属性解放を終えた降雹剣は、それ自身が氷塊に包まれていた。

 

 苦しみ悶えていたグラン・ミラオスも、その動きを完全に止めていた。

 

 大地を創造する開闢の星が、氷の楔によって繋ぎ止められた。

 

 

 

 

 

 ────まだだ。まだ終わっていない。

 まだ動きを止めただけだ。一時的な凍結に追い込んだだけだ。

 

 心臓そのものはその形を保っている。熱源が凍ったとしても、周囲は焼けつくような気温のまま。

 いずれ氷は融ける。融けた後でこの心臓が再び動き出さない保証はない。いや、必ず動き出す。

 かつての戦いでもこれに近い段階まで追い込んだのだろう。かの龍は一度死んだのだろう。しかし、かの龍は復活した。死んだはずの心臓は蘇った。物語は終わらなかった。

 

 砕かなければ。この氷を。

 爆弾でも、大砲でも、大剣の一撃でもいい。この心臓が氷に包まれている間に、その形を失わせる。そうでなければ、ここまでの戦いが()()()()()()になってしまう。

 

 そんなことはさせない。絶対にさせるわけにはいかない。

 そうだ。タンジアと海上調査隊の人々、そしてハンターたちはここに至るまでに全てを投げうってきた。余力を残すようなことをしていたら瓦解するような作戦だった。

 

 ならば頼れるのは、頼らなくてはならないのは自分しかいないだろう。自分が決着をつけなくてどうする。

 目が見えずとも、鼻が利かずとも、音が聞こえずとも、手や足の感覚が分からなくても、やってみせよう。終わらせる。

 

 たとえ、自分の身体がばらばらに砕けようとも────。

 

 

 

 

 

 

 

「あら、物語の感想を聞けないままに旅立ってしまうなんて、寂しいじゃない」

 

 

 

 

 

 

 

 そっと、エルタの手と重ねるように。

 真っ白な手が氷の壁に触れられて。

 

 

 

 紅い光が、エルタの目の前で弾けた。

 



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終節 おとぎ話の幕引きを
> おとぎ話の幕引きを(1)


 

 

 撃龍槍がグラン・ミラオスの胸を貫いて、訪れた静寂。

 どうせ間もなく、火山の咆哮が再び響き渡ることになるだろう。そんな諦観に包まれていた人々は、いつまで経ってもその轟きが訪れないことに気付いて顔を見合わせ始めた。

 

 やがて、空と陸、そして海に変化が訪れる。

 風が吹き始めた。海の熱気によって生み出され、集まって上空に縫い留められていた雲が吹き散らされていく。

 雲間から差し込むのは朝日だ。日の光が大地に本来の色彩を取り戻させる。炎の赤と土の色が区別できるようになる。

 海が白波を立て始めた。なにかに押し潰れているかのように凪ぎていた海が、その息づかいを取り戻す。

 

 古龍の支配下にあった世界が、少しずつ、しかし着実に、解かれていく。

 

 灰と煙が陽光に照らされて舞う中で、グラン・ミラオスは佇んでいた。

 

 まるでそこだけ時間が静止したかのように、かの龍は動かない。

 空に向かって咆哮しているかのような立ち姿は、自らの意志を世界に向けて最後まで訴えかけているかのようだった。

 一分か、十分か、それ以上か。屹立する龍の姿は時間の感覚を狂わせる。しかし、そのときは確かに訪れた。

 

 ずん、と山の裾野が崩れるように。グラン・ミラオスの後ろ足が沈み、その巨体がゆっくりと傾いていく。

 光の筋を失った翼が地に落ちた。横倒しになったいくつもの火口から、灼熱の体液が零れ出ることはない。黒く冷え固まった溶岩が火口に蓋をしていた。

 長大な尾は力なく投げ出された。龍が身動きするだけで周囲を更地にしていたそれは、深い眠りについた蛇竜のようにただそこに在った。

 黄金の瞳だけが未だ開かれたまま、漆黒の中で色を持つ。しかし、そこに光は宿っていなかった。

 

 倒れ行くその姿は、大灯台が倒されたときよりも大きな地揺れを伴って。

 その器に、再び命の灯が宿ることはなかった。

 

 

 

 

 

 グラン・ミラオスの巨体が地に横たわるのとほぼ同時に、そっと、音すらなく、白き少女が地面に降り立った。

 ふっと舞い散ったのは砂塵か、灰か、それとも光の粒子か。人が見ればそう錯覚してしまう程に、その少女は美しく、どこまでも白く、そして現実離れした雰囲気があった。

 

 そんな少女の腕には、ひとつの肉塊が抱えられている。

 いや、もはやそれが肉なのかすら定かではない。黒焦げになり、あるいは氷を生やし、何をすればそのような物体ができ上るのか見当もつかないほどの()()()だ。

 

 かろうじて滴り落ちる血が、それのもとが生き物であったことを証明している。

 人が見れば顔を顰め、近づくことすら戸惑うであろう有様のそれを、少女は微笑みと共に抱きかかえていた。その白い腕に煤と血の赤が染みても躊躇しない。

 ともすればそれは、その肉塊にこそ何よりの価値を感じているかのようだった。

 

 そんな異様な光景を咎める者はいない。見ている者が誰もいないのだ。それが分かっているから少女はそこに降り立っている。

 ややあって、少女は静かにその場に膝をついた。ぐずぐずの肉塊の上部を膝の上に置く。

 そして、どろりとした血で滑る皮を優しく撫でてから口を開いた。

 

「────さあ、お話をしましょう」

 

 

 

 

 

 ああ、これが死後の世界というものか。

 何もない闇の中で浮かび上がるように表出した意識。エルタは淡々としていた。

 

 死の概念には疎かったが、かつての相棒はそういった価値観をしっかりと持っていた。

 曰く、世界に生きる生き物たちは全て輪廻転生のもとにあるのだと。死すれば竜に、或いは風に。巡って廻り続けていくものなのだと語っていた。

 ではこれは、肉体を離れた意識が転生するまでの狭間のようなものか。確かに、暗闇の中にありながらもどこか温かい。

 

 未練は──ある。来世にまで影響を及ぼすのではないかというほどに。

 

 かの龍、グラン・ミラオスの生死を見定めることができなかった。

 確かに、確かにその鼓動を止めたことまでは記憶に残っている。ただ、最も重要なのはその先なのだ。その凍てついた心臓が砕けるところを見届けるまでは死んではいけなかった。自分自身がそう誓っていたというのに、この様だ。

 あの氷が融けた先でかの龍が再び目覚めるようなことがあれば、と考える度に悔いが残る。見届けることが叶うならば、この魂すら捧げても全く構わなかった。

 

 そこまでしてでも、成し遂げたかったことがある。

 人が星を墜とすことができるのかという概念的な挑戦も、その願いの根源までは至らない。

 

 手を届かせたいものがあった。そのために走り続けた。たとえ狂気とみなされてもよかった。

 人の歴史、龍の生涯から見れば、ほんの瞬きに過ぎなかったとしても。

 走り続けた先に、それを掴み取れるなら。

 

「────さあ、お話をしましょう」

 

 

 

 

 

 白い少女は、かろうじて人のかたちをしたそれに話しかけた。

 倒れ伏した黒龍を背景として、破壊され、今も火が踊る人気のない街の中で。

 少女の膝に乗せられた青年の、炭化した唇が僅かに動いた。

 

「あ……とれ、あ……?」

「あら、この期に及んで私を誰かと間違えるなんて、なかなかの逸材ね」

「え…………あ、ぁ……………………あ、なた、は」

「あら、覚えていてくれたの? それとも夢の中にいるのかしら。まあ、どちらにしてもそう変わりはないでしょう」

「ふ……ら、ひ……めが、み、さま」

「……そうね。あなたは私をそう呼んでいたわね。ふふ、懐かしい」

 

 少女はくすりと笑う。青年はその表情を見ることは既に叶わなかったが、今この瞬間に起こっている奇跡をようやく意識の中に落とし込んだ。

 

「ぼ、く……は…………しん、で……」

「さすがにその先に逢いに行くのはちょっと難しいわね。私も、この世界に生きていることに変わりはないから」

 

 やや回りくどい言い回し。エルタはそれにひどく懐かしさを感じた。

 涙を零すための目は融け落ちている。けれど、とぎれとぎれにしか聞こえなかったとしても、死の間際で音だけが聞こえることがどれだけ幸運なことか。

 

 死んではいない。死に行く過程で奇跡に巡り合った。

 そうであれば、何を尋ねるべきだろう。

 

「ぐら……み、ら…………は」

「そうね。私の後ろで眠っているみたいだけれど。長い、永い眠りね。人はこれを死んだと言うのではないかしら」

「……ぼ、くは…………ど……や、って?」

「最後に少しだけ干渉させてもらったの。このままだと、あなた本当に炎と氷に包まれてかたちがなくなってしまいそうだったから。最後の後押しを横取りしてしまってごめんなさいね」

 

 そんなことはない、とエルタは言おうとしたが、唐突に腹から込み上げてきた血がそれを阻んだ。

 最後の一撃は彼女が担った。意識が焼き切れる寸前の光景をエルタはかろうじて思い出した。エルタの傍に添えられた手。紅く、白く、眩い光。あれはあの少女が放ったものだったのだ。

 雷撃だったように思えるが、分からない。どこからそんな一撃を放てたのか、それは尋ねてもあまり意味のない問いなのだろう。

 

 結果的に他者の力を借りる結果になってしまった。情けない話だ。

 けれど、そのおかげでエルタはこうして彼女と言葉を交わすことができている。

 

 口の端から血が零れ落ちる。猶予などほとんど残されていない。底のない深い闇へと落ち込んでいく意識の中で、エルタは必死に言葉を紡ぎ出した。

 

「ぼ、くは……あ……た、の……もの、が……た…………き……いて……」

「ええ」

「あ、なた、の…………ゆめ、と……おも、い……た、くな……く、て」

「ええ」

「おわ、て、ない……もの、が……たり……を…………おい、か……けて……」

「ええ」

 

 僕は、あなたの物語を聞いて。

 あなたの物語を夢と思いたくなくて。

 あの終わっていない物語(大地を創った龍の話)を追いかけて、それに見えることができれば、夢でないことの証明になると。

 

 アストレアにも話した、ただそれだけの十年間。

 認めてほしかったのだろうか。分からない。ただ、これを話さなければ、この後に続く言葉はきっと伝わらない。

 

 どうか、あと少しだけ、時間を。

 この答えを聞くことができれば、もう、それで終わろう。

 

「ぼ、くは………………」

 

 そうだ。これが、未練の本質。

 自分はきっと欲深いのだ。無意識の内にそれを感じ取って、エルタは自らの願いに蓋をしていた。

 

 人生で向かい続けた問いは、たったひとつ。

 

 

 

「ぼく、は……あ、なた……の…………もの、がた……り、に……な……れ、ました……か…………?」

 

 あなたが語るおとぎ話の、登場人物になりたい。

 

 

 

 あなたに物語を紡がれる誰かになりたい。

 

 

 

「……そう。それがあなたなのね」

 

 少女は小さくそう呟いて、エルタから視線を外して空を見た。

 どこか言葉を選んでいるような沈黙。エルタはただそれを待った。龍の支配から紐解かれていく世界を、一陣の涼風が吹き抜けた。

 

「────龍が人に敗れて海の底に沈んでから、どれほどの時が経ったのでしょう。いくつもの時代を跨いで眠っていた龍は、再び目を覚ましました」

 

 しばらくして少女の口から語られたのは、かつてのエルタに言い聞かせていたような物語だ。

 けれど、その物語をエルタは知らない。知っているはずもない。それはまさに今紡がれる、今の出来事を綴った話なのだから。

 

「今度こそ、地上の再編を成し遂げる。龍は息まき、再び地上に姿を現します。

 再び人との争いになることは分かっていました。龍は挑戦者であり、かつての己よりも強い意志を持って人を薙ぎ払っていきました。

 最初から本気を出した龍を相手に、人は成す術もありません。侵攻され、蹂躙され、人の街は崩れ去りました。人々は絶望し、抗うことを諦めていました」

 

 歌うように語る少女は、そこで一度言葉を切った。そして、ふっと笑った。

 

 

 

「────たった一人の、狩人を除いて」

 

 

 

 

 

 それが、答えだ。

 

「本当に、たった一人。諦めずに龍に立ち向かった狩人がいたのです。人が火山ひとつを相手にするようなものでした。けれど狩人はそんな火山に登りつめて、暴れる火の口のひとつを塞いでしまいました」

 

 エルタが翼の根元を穿ったあの瞬間、少女はそれを見ていたのだと。

 

「狩人の雄姿を見て絶望から顔を上げた人々は、決死の抵抗を始めました。

 龍の突進を受け止めた大男がいました。恐ろしい龍の瞳を真っ向から見返した女の子がいました。龍の吐き出す炎に剣一本で挑んだ少女もいました」

 

 ガルム、ソナタ、アストレア。かの龍に勇敢に立ち向かった人たちのことも見ていたのだと。

 

「それでも人は追い詰められて、最後の最後。一度も諦めることのなかった狩人は、龍を討つための氷の剣を持ってこう言うのです」

 

 空を見上げていた少女は、そこでエルタを、エルタだったものになりつつある肉塊にそっと顔を近づけた。長く白い髪が彼の顔にかかった。

 

「僕は、あなたの物語になれましたか────」

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、言葉も流暢に紡げず、涙を流すこともできない歯がゆさと、それら全てを覆いかぶせてしまうようなこの感情をどうすればいいのだろう。

 

 報われた。

 自らの十年はきっと間違っていなかった。周りから見れば間違いだらけであったとしても、少なくとも、自分がそう認められた。

 

「あら、あなたも笑うのね。生まれたときから笑うことだけ欠けてしまったのかしらと思ったけど」

 

 おどけた口調で少女は言う。これから死にゆくエルタを気遣うつもりもないらしい。

 それが彼女という存在だ。生き物の死を幾千幾万、ともすれば幾億と視てきたのであろう少女の価値観だ。そういう風に在ったから、少年のエルタは少女に心惹かれたのだ。

 

「即興のお話だけれど、どうだったかしら。あなたの感想を聞きたくて、最後に手出しをしてしまったわ」

「……すこ、し…………はず、か……し……」

「あら、あなた天邪鬼なのかしら? 確かに、最初は龍のお話だったのに途中から人のお話になってしまっているところは反省点ね。あなたたちがあんなに魅せてくれるからよ。もう」

 

 彼女がグラン・ミラオスに止めを刺した理由に他意はないようだった。

 本当に、辺りに人の死が蔓延っていることにすら構おうとしない。見方を変えれば、それだけ非干渉を決め込んでいた彼女を動かしたという事実もまた、エルタたちが掴み取ったものだったのかもしれない。

 

「あなた、もう子どもではないし、私が何なのかもおおよその見当はついているのでしょう」

「…………」

「怖さ、というよりも、あなたは私をどう視ているのかしら?」

 

 少女は何気ない口調で暗に告げる。

 私は姿かたちこそ違えど、あなたたちが倒した龍に連なる存在よ、と。

 

 エルタが少女を怖がってないことは既に明らかだ。彼女が明確な意思を持って人と敵対すれば本能的な恐怖は湧き上がるかもしれないが、少なくとも今は落ち着いて彼女を視ている。

 彼女からの問いには答えなければなるまい。なかなか死ぬことを許してくれないな、と、いよいよ薄らぎ始めた意識の中でエルタは苦笑した。

 

「あ、なた…………は。ふ……ひや、の…………」

 

 少女の言う通りだ。初めて彼女に出会ってからタンジアに辿り着くまでの十年間に、エルタは少女がどのような存在であったかに気付いていた。

 ただ、それに関しては十年間で思い悩むことは一つもなかった。躊躇するまでもなく答えられる質問でよかった。もうエルタに物事を考える余力は残されていなかった。

 

「もの……がた………………すき……やさ、し…………めが、さま」

 

 フラヒヤの、物語が好きで優しい女神さま。それ以外の何物でもない。

 人にとって災厄である側面も持つのだろう。人に挑まれ、その悉くを返り討ちにした絶対の存在なのかもしれない。

 

 けれど、そんな彼女を少なくともエルタは見ていない。エルタが見てきたものだけで判断せざるを得ないのはとても自然なことで、そんな彼女は。

 あのフラヒヤの森の中で出会った彼女は、不届き者の少年に赦しを与え、それどころか幾多のおとぎ話まで贈ってくれた優しい女神さまだったのだ。

 

「……なんだか、上手く言いくるめられてしまったわね。いいでしょう。あなたがそう願うのなら、私はそう在るとしましょう。幸い、人はおもしろい物語を見せてくれることがあるから、そう飽きることもなさそうね」

 

 そう言って彼女は嘆息した。

 いつの間にか、空には青空が広がっていた。この世界で晴れの日に空を見上げれば大抵は見れるような、抜けるような蒼が水平線の向こうまで続いていた。

 

 

 

 

 

「め…………が…………さ、ま…………」

「どうしたの?」

 

「あ…………り……が…………」

「あら、お礼を言われるようなことをしたかしら」

 

「……こ……こ…………き……て…………く………………て……」

「ふふ。どういたしまして」

 

「ぼ……く……あ……て…………く……れ…………て…………」

「それは、こちらこそね」

 

 

 

 

 

「…………あ…………な……た………………あ……え…………て………………よ……………………か…………────」

 

 

 

 

 

「……私も、あなたに会えてよかった。エルタ・ミストウォーカー」

 

 霧の中で、たったひとつのおとぎ話の記憶を頼りに、白き少女の姿を追いかけ続けた。

 それが、エルタ・ミストウォーカーという青年の軌跡。

 

 止まることなく駆け続けたその先に、原初の黒龍の討伐を成し遂げてしまった。それすらも少女を追いかける手段としてしまった。

 

 その名を覚えよう。物語として記憶しよう。たった一つの出会いから、その先の人生の全てを捧げた鮮烈な生き様を。それを観測した龍として。語り継いでいくとしよう。

 

 

 

 けれど、彼は天邪鬼だ。少女に物語として紡がれたいという願いを持っておきながら、自らが主役になるのを恥ずかしがる。

 彼の名前を題名にしてもよいとすら思ったけれど、それは彼のために止めてあげるとしよう。

 

 ならば、どうしようか。

 これは彼が主役であることは間違いない。しかし、彼にも話したように、その他にもおもしろいものはいくつも見せてもらった。特にあの竜の眼光を持つ少女と、彼女と共にある大剣の使い手には思わず目を奪われた。

 これは、龍が人に挑むという異色の物語であり、人が龍に立ち向かう正統派の物語でもある。本来はそう在るべきものだ。

 ならば、その本来の趣旨に沿った題名にするとしよう。そう、例えば────

 

 

 

 『グラン・ミラオス迎撃戦記』

 

 

 

 

 

 

 

 撃龍槍が黒龍に激突した際の反動によってあえなく崩壊した拠点。

 その瓦礫の山の一部が盛り上がり、そこから出てきたのは傷だらけの大男、ガルムの姿だった。

 防具がない状態で頭部に落下してきた岩によって、長らく気を失っていた彼は努めて冷静に周囲を見渡し、目の前にある黒い壁が黒龍の外殻であることに気付いた。

 

 そこから命の気配は感じられない。倒されている。あの黒龍が。

 撃龍槍か、それとも他の要因か。瓦礫の山から這い出た彼は、拠点の後方、かろうじて平らな地面が残っている空間に、人間らしきものが横たわっているのを見た。

 

「…………!」

 

 痛みに軋む身体を動かし、その場所まで辿り着いて、確認のために膝をついた。

 やはり人だ。近くで見なければそれすらも分からない程の惨状だが、四肢はかろうじて繋がっている。

 

 念のため、呼吸と脈拍を確認する。念のためだ。診るまでもないことは分かっていたとしても、一人の狩人として、それから眼を背けてはいけない。

 

 

 

 呼吸はなかった。脈も既に止まっていた。

 しかし、それとは別にガルムは戦慄を隠せなかった。彼のぼろぼろになった身体を触ればガルムの驚きも伝わるだろう。

 熱い。そして冷たい。あまりにも両極端な、右半身と左半身の状態。いったいどのような状況に置かれれば、こんなことになるのか。その熱が今も残っている現状が、その凄まじさを際立てている。

 

 こんな地獄のような環境に晒されても、何かを成そうとしたのであろう人物を、ガルムは一人しか知らない。もう疑う余地もない。

 

「エルタ殿、見事だ。某は貴殿を心から尊敬する」

 

 そう言って胸に手を当て、ガルムは瞑目した。

 最後に黒龍討伐を成し遂げた者は彼だ。間違いない。その雄姿を見届けることができなかったことが悔やまれるが、それでも彼のことを生涯、胸に刻もうと誓った。

 

 それからしばらくして、今度は別の場所から騒ぎ声のようなものが聞こえ始める。

 何かを静止するような声。それを振り切って、二人の少女が互いに肩を支えあいながら姿を現した。

 ソナタとアストレア。恐らく、担架か何かで運ばれている最中に強引に下りてここまで戻ってきたのだろう。

 

「────ッ! エル!」

「…………ガルムさん」

 

 もはや人の原型を成しているかすら怪しいそれを即座にエルタだと言い当てたのは、アストレアの類稀な直感故か。

 アストレアが血相を変えてエルタに駆け寄り、ソナタはその後ろから足を引きずってガルムに問う。

 

 ガルムは静かに首を振った。ソナタの唇がきゅっと結ばれる。エルタに手で触れたアストレアも、すぐにそれを悟ってしまったようだった。

 

「エル、エル……! あ、ああぁぁぁ…………!!」

 

 両目から大粒の涙を零し、霜ついたエルタの片腕を手に取り、アストレアは慟哭する。

 彼に残された時間がもうないことは、既にあの応急キャンプで話したときから分かっていた。その覚悟もしていた。

 けれど、それでも、辛い。胸が締め付けられる。彼の最期を看取ることができなかった。それが何よりも苦しい。

 涙は止まることを知らなかった。泣き虫になってしまったとアストレアは思った。けれど、このために流す涙はきっと間違いではないはずだ。

 

「……彼女は仲間の死は初めてか?」

「……はい。かく言う私も、親しい間柄では初めてです」

「そうか。痛く、苦しいな」

「はい。……とても」

「その痛みは癒えなければならないが、慣れるべきものでもないだろう。某はもう、慣れ切ってしまった」

「……重いですね。私も、ちゃんと向き合います。──でも、見てください」

 

 エルタの傍で声を押し殺して涙を零すアストレアの背後で、ソナタとガルムは言葉を交わしていた。

 ソナタが視線を向けた方をガルムも見る。そこにはエルタの頭部があった。

 

「エル君。笑ってます。すごく穏やかに……彼、ちゃんと笑えたんですね」

「……よく見ているな。確かにその通りだ。目元も力が抜けている。不思議だ。壮絶な痛みに苛まれたはずだが…………」

 

 訝しがるガルムを傍目に、ソナタは久しぶりの青空を見た。

 

「……?」

 

 目の錯覚だろうか。

 今、空の向こう、白い雲の隙間に、純白の見知らぬ何かの姿が見えたような────。

 

「ソナタ殿」

「──あっ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてました」

「無理をしてここまで来たのだろう。怪我が厄介な後遺症になる前に正規の治療を施したほうがいい。我々海上調査隊も、できうる限り復旧を手伝おう」

 

 ガルムは既に今後を見据えている。

 それが指揮者の正しい在り方だ。実際、今後の課題は山積している。ギルドマスターも無事であることが唯一の救いだが、タンジアの復興には長い時間がかかるだろうことは明らかだった。

 

 けれど今は。もう少しの間だけ、ひとりの狩人でありたい。

 

「きっと、願いを見つけて、それを叶えたんだね。エル君」

 

 そう呟いて、ソナタは再び空を見る。純白の生物はもう見えなくなっていた。

 戦いが始まる前、リオレウスと戦ったときの頃の彼の言葉を思い出す。

 

 成し遂げたいことがあること。それが何なのかは実は分かっておらず、しかしその想いが霞むことはなかったということ。

 自らの願いの正体を知るためにタンジアを訪れたのだと、淡々と言っていた彼は、この戦いの果てに何を見出したのだろう。

 

 その話を聞きたかったな、と。視界が滲みそうになった。

 目じりの涙を拭う。アストレアはあれでいい。彼女があそこまでの感情を発露させることは滅多にない。そういうときに、彼女は自らの生き方を学ぶのだろうから。

 

「ガルムさん」

「何用か?」

「グラン・ミラオスは、強かったですね」

「────ああ。本当に、強かった」

 

 地面は血、そして炎に塗れて。灰が風に舞って、海は大量の瓦礫と死体を漂わせ、そんな景色が延々と続くような惨状でも。

 生きている。生きて、再び青空の下に立てている。

 

 復興しよう。そして向き合うのだ。大地を創造する龍を討伐したという事実に。その戦いに立ち会い、生き残った者として。

 

 エルタという人物に関わった一人として、物語の幕引きを見届けられるように────。

 

 

 

 

 

 

 

 これは、龍が人に挑み、人が龍に立ち向かう物語だ。

 結末の一幕はある少女だけが知っている。少女が知り得ない物語もある。群像劇とはそういうものだ。

 

 もっとも、いちばん大切だろう欠片を独り占めしようとは少女も思っていない。そうやって自らの記憶のみに留めてもいいのだろうが、あくまでも少女が好むのは誰かに語り聞かせることだから。

 しかるべき時に、話してもよさそうな人が現れれば、少女はその秘密を明かすだろう。

 

 その際には長い物語であることを予め伝えなければなるまい。なにせ、創世神話の頃から今この瞬間まで続く物語だ。一晩を丸ごと使っても語り切れるかどうか。

 ただ、始まりの言葉は決まっている。あのとき、幼い彼に語って聞かせたときのことを思い出せばいい。

 

 そう、あのときのように、やや声に抑揚をつけて、こう言うのだ。

 

 

 

「むかしむかし、広い海の片隅で、一匹の龍と生き物たちが暮らしていました────」

 

 

 





本編完結です。ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。
評価や感想などいただけるととても嬉しいです。……最後くらいはそういうことを言ってもいいかなと思ったのです。
後日、あとがきを公開いたします。


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始節 月を追う者
> 月を追う者(1)



過去編となります。本編中で語られた、エルタのかつての相棒の話です。

※ 以下、知らない人はスルーで大丈夫です。
ヒオンという名前のキャラが出てきますが、これは『 』少女で登場したキャラであるヒオンとは別人物です。




 

 出発するぞー! と、青空の元で、男の声が響いた。

 

 おお、と掛け声が周囲から響く。

 老いた男から若い女性まで、その年代は様々だ。アイルーの声まで聞こえる。

 周辺には人々が行き交っていた。立ち並ぶ色とりどりのテントに、三角旗や気球まで。人家こそないものの、そこはひとつの小さな商店街のような雰囲気があった。

 

 そんな商店街の一画が、ぱたぱたと()()()()()()()()()。さながらそれは、展開されたからくり箱をしまうかのような。

 収納され、連結され、車輪を装着されて。あれよあれよという間に、そこには一列になった荷車の群れができあがっていた。

 ここにいる人々はそれを、キャラバンと呼んだ。

 

 荷物を仕舞っていた数人が、慣れた様子で荷車へと乗り込んでいく。

 先頭と最後尾には数頭のアプトノスが控えており、彼らも戸惑った様子はない。これから自分たちがするべきことをしっかりと弁えている様子だ。

 これが彼らの日常だった。ここは、彼らのようなキャラバンが集って構成された地図に載らない名の無き街。中継都市ですらない。世界にいくつも存在する、流動していく集落のひとつだ。

 

 連結竜車となったそれには、一人のハンターが乗っている。キャラバンの護衛役だ。

 これから行く道の周辺環境は比較的安定しているという情報は入っているし、小型の肉食竜程度であれば彼らの手持ちの道具で追い払える。

 しかし、それでもハンターを雇う価値はある。大型のモンスターの狩猟経験のあるハンターであれば、なおさらだ。事が起こってからでは、遅いのだから。

 

 キャラバンの団長らしき人物が、先頭の竜車に乗って手綱を握る。それを少しばかり大きめに揺らせば、よいしょ、と掛け声で合わせるかのように二頭のアプトノスが踏ん張った。

 ごとん、と。竜車の車輪が回り始める。ぶら下がっていた連結梯子が持ち上げられて、ごとん、ごとんと後続の荷車が動き出した。

 何人かの見送りが手を振っている。それ以外は見向きする程度。そういうものなのだ。彼らが空けた街の一画は、次の日には別のキャラバンが訪れて居座っているのだから。

 

 キャラバンの団長も、わざわざ振り返ることはしない。さて、次に目指す地は。

 

「ちょ、ちょっと待ってー!」

 

 振り返った。後ろの方を見るために竜車の横から顔を出してみれば、こちらに向けて手を振りながら走ってくる人物がいる。

 一目見て、ハンターだと分かった。彼らの身に纏うものは千差万別だが、大抵、一般人が身に着ける衣服とはかけ離れた出で立ちになる。その人物もその例に漏れない。

 白の毛皮が基調で、全体的にもこもこした可愛らしい印象を与える。彼の知るマフモフではないようだが、少なくともあれは女だな、と彼は見立てをつけた。

 

 こうやって出発直前のキャラバンに突撃してくるハンターと言えば、その目的は大概予想がつく。

 ひとつは、彼が抱えるキャラバンの誰かに素材を安く買い叩かれたか、道具を高く売りつけられたかで、その不満を捨てきれなかったもの。この場合はとっとと退散するに限る。

 もうひとつは────。

 

「ここの人たちがバルバレに行くって聞いて! オレも乗せていってくれないか!」

 

 

 

 

 

 キャラバンというものは次の街へ向かう際、荷車にできる限り商品を積むものだ。これ以上人を運べない、ということも少なくない。

 ただ、かのハンターにとっては幸運なことに、今回は人ひとりが加わる程度の余裕は持ち合わせているようだった。

 もともと、規模に対して護り手が一人というのには、もしものときに若干の不安があったのだろう。輸送費を割安にする代わりに追加で護衛を務めるという条件付きで、飛び入りながら同乗が許可された。

 

 先客がいると聞き、そのハンターは同業者が乗る荷台へと飛び乗った。

 ほろ付きの荷台。暖簾をくぐれば、適当に足を伸ばして座っていた青年が顔を上げた。

 ハンター然とした装備を着ている。見覚えのある防具だった。確かクロオビシリーズだったか。

 

「はじめまして、だな。飛び入りで、このキャラバンに乗せてもらうことになった。ヒオン・ウィンドウォーカーだ。よろしくな!」

「エルタ・ミストウォーカー。よろしく」

 

 不愛想だが、無視はしなかった。ヒオンはにかっと笑ってその場に座り込む。

 バルバレに辿り着くまでの日々は、彼と共にキャラバンを守ることになる。人付き合いを嫌いそうな相手ならそれに合わせるが、仲良くできそうならばそれにこしたことはない。

 

「勝手に護衛の人数を増やしちゃってごめんな。どうしても、早めにバルバレに着きたかったんだ」

「構わない。護衛の経験は?」

「あるよ。二回くらいだけどな。一応、ギルドにしっかり登録したハンターだ。依頼を途中で投げ出すようなことはしないし、できないさ」

「念のため、ギルドカードを確認したい」

「いいぜ。ちょっと待っててな……ほら」

 

 エルタはヒオンから手渡されたギルドカードを手に取る。

 

 マカライト鉱製のギルドカード。駆け出しハンターというわけではなさそうだ。

 イャンクックやロアルドロスといった各地方の登竜門とも言えるモンスターを狩猟していなければ、この材質のギルドカードは作成してもらえない。

 ギルドからの信頼の証とも言えるだろう。ヒオンの言うことにも頷ける。

 

「装備は……ウルクシリーズか」

「お、知ってるのか。ちなみに武器はチャージアックスを使うぜ。おまえは?」

「スラッシュアックス」

「変形武器仲間か! いいな。近距離武器二人は若干考えること増えるけど……ま、なんとかなるだろ」

 

 ヒオンはうんうんと頷く。エルタはそれを見つつ、珍しい武器種の使い手だなと思っていた。

 チャージアックスはエルタの使うスラッシュアックスよりも後に現れた。開発されたばかりの武器だ。一般に普及し始めて一年も経っていないのではないだろうか。

 エルタも使用者は片手で数える程度しか見たことがない。知らない人もまだ多いだろう。ヒオンという人物はなかなかのチャレンジャーのようだ。

 

 

 しかし、そんなことよりもエルタは気になってしまうことがあった。

 初対面で尋ねるべきではないことかもしれないが、気になってしまったものは仕方がない。

 

「ヒオン。そのウルク装備についてだが」

「うん?」

 

 ヒオンは首を傾げる。亜麻色の瞳。その仕草はあざとささえ感じさせた。

 ウルクススの装備は対暑性に難があるが総合的な守りが堅く、女性用のものはそのデザインにおいても評価が高い。それを着ていることに特に不満はないのだが。

 

「君、男じゃないのか。女性用のものを身に纏っているのには何か理由が……」

 

 二人の間に沈黙が下りた。

 単純に気になっただけとはいえ、不躾だったか。あまり人に話したくない経緯があるのかもしれない。

 慌ててエルタが訂正しようと口を開きかけたところを、ヒオンの楽しそうな声が遮った。

 

「すごい! 初対面で気付くやつはなかなかいないぞ。ギルドカードでもそれとなく隠してあるのに、どうして分かったんだ?」

「どうしてと言われても、見て分かるとしか」

「やっぱ勘で当てるやつっているんだな……。そう、オレは男だよ。童顔で身体のつくりもがっしりしてないからさ。よく女に間違えられるんだ」

 

 あっさりと、ヒオンは自らの性別を明かした。

 確かに、男らしくない顔つきと体つきと言われれば、そうなのだろう。防具の内部の構造は多少弄られているだろうが、女性用のウルク装備を着こなしている時点でそれは察せられる。

 

「このままだとオレが誤解されそうだからざっくり話すとな。工房で間違えられたんだ。ふつうそんなことはあっちゃいけないって返品を提案されたんだけど、せっかく作ってもらったしな……」

「それで、そのまま受け取ったのか」

「ああ。でも、案外いいもんだぜ。調合屋とか言ったときに値引き交渉が上手くいったりな。容姿ってものは武器になるんだなと思ったよ」

 

 そう言ってヒオンは目を逸らしながら笑う。と、しばらくしてから少しだけ声のトーンを落として呟いた。

 

「やっぱ変、か?」

「……いや、別に」

 

 ヒオンが顔を上げた。少しだけ驚いたような顔をしている。

 何か変なことを言っただろうかと思いながら、エルタは言葉を重ねた。

 

「君がそう思っているのなら、いい防具なのだろう、それは。君自身が納得していて、君の身をしっかり守れるのなら、僕は何も言うことはない」

 

 初対面のハンターがあげられるコメントなどその程度だろうとエルタは思っていたが、その言葉は、存外にヒオンに好意的に受け入れられたようだった。

 

「……そうだな。その通りだ。ありがとな、褒められるとは思ってもなかった」

 

 嬉しそうに表情を綻ばせる。その顔はハンターらしくところどころ傷があれど、どこか魅力を感じさせるものがあった。

 もしかすると、茶化されたり引かれたりすると思っていたのかもしれない。エルタはそういう絡みは馴染みがなく、生真面目だった。

 二人で握手を交わして、やはり嬉しそうに、少しだけ照れくさそうにヒオンは告げた。

 

「改めてよろしく。おまえとなら、いい旅路になりそうな気がするよ」

 

 

 

 

 

 話し合いの結果、エルタはキャラバンの先頭、ヒオンは後方で見張りに着くことになった。

 この手のキャラバンが最も被害に遭いやすいのは、荷物ではない。竜車を引くアプトノスたちだ。

 生ものや多くの人を運んでいれば話は別かもしれないが、引手の草食竜が小型の肉食竜の群れに襲われるという被害が最も多い。

 商人や人が通る道とはいえ、この自然の中で人だけが取り残されてしまう状況は、一般人であればほぼ死に直結する。故に、人に従順なアプトノスは大切に守り通さなければならない。

 

 そのためにハンターがいる。商人たちもクロスボウ程度なら持ち合わせているが、あくまで牽制する程度のものだろう。

 エルタたちも主の得物とは別にボウガンを担ぐ。遠方から威嚇射撃ができるのは大きな利点だ。狙いは外れても、徹甲榴弾の音と匂いに驚いて逃げてくれるのであればそれに越したことはない。

 エルタが竜車を引くアプトノスたちを、ヒオンが控えのアプトノスたちを守る。そのままバルバレまで辿り着ければ護衛は成功だ。しくじれば報酬は支払われず、違約金が求められることもある。

 

 

 

 

 

 かくして、キャラバンの旅は順調に進んでいた。

 途中、イーオスと呼ばれる毒を吐く走竜が五匹ほどの群れで現れたが、エルタたちが素早く対処し事なきを得た。

 その後しばらくは親玉たるドスイーオスの襲撃に神経を尖らせなければならなかったが、そこまでには至らず、一行は森の中を進む。

 

 だが、木々の身長が一気に高く、幹が太くなる大樹の群れに差し掛かったところで、彼らは思わぬ足止めを食らうことになった。

 その道には、通常のクモの巣とは比較にならない程に大きな白い粘着物が、ところどころに付着していたのだ。

 

「これは……先に気付いてよかったかな。下手に進んだら一網打尽だ」

「ヒオンはこれが何かわかるのか」

「ああ。たぶん、ネルスキュラだ。何日か前くらいに、ここで狩りをしたんだろうな。そうでなきゃこんな痕跡は残らない」

 

 地面に付着した粘着物にそっと指で触れながら、ヒオンは険しい顔をしていた。

 それはかなり風化した様子を見せつつも、べたつくような粘着力を未だに残していた。どうやらネルスキュラというモンスターの仕業らしい。

 

 エルタたちの他にも、一組のキャラバンが森に入る前で立ち往生している。バルバレが近くなっているため、合流することが多いのだ。

 人の道に大型モンスターが縄張りを構えてしまうなどという事態は滅多に起こらない。そういう意味では、不運と言うべきか、これまで順調であったツケと言うべきか。

 

 迂回するか、それともこやし玉などの道具を頼りに強行突破するか。キャラバンの人々の間で議論が交わされている間に、ヒオンたちが話を持ち掛けた。

 

「オレたちでよければ、狩りにいこうか?」

 

 ヒオンたちは旅の道中、護衛という任務内容を履き違えない範囲内での大型モンスターの狩猟が許可されている。ギルドから与えられたその権利を行使し、事前にネルスキュラを狩ろうというのだ。

 その案は考えられていなかったらしく、ヒオンたちは心配された。それもそのはず。ここでヒオンたちが返り討ちに遭い死んでしまったなら、ここからバルバレまでの道のりの守り手がいなくなってしまう。

 

「でも、すぐに迂回を選ばないってことは、みんなも早く着きたいんだろ? 狩猟が失敗してもできるだけ戻ってくるようにはするからさ」

 

 食い下がるヒオンに、キャラバンの人々は迷いつつも了承を返すしかなかった。ヒオンが言っていることは図星だったのだ。

 迂回路はあまり使われない分、そこでも何かに襲われたり、思わぬ障害物に足止めを食らう可能性は十分にある。ハンターたちがうまくやれば、数日の損失で済むというのは大きい。

 

 三日。それがヒオンたちに与えられた日数だった。四日目の朝には、キャラバンはヒオンたちが死んだものとして迂回路に進む。

 ヒオンたちが狩猟に出ている間の人々とアプトノスの護衛は、もう一組のキャラバンのハンターが請け負った。

 大型モンスターを相手取るのはまだ荷が重いらしいが、ライトボウガンの使い手で小型肉食竜相手の護衛は任せてほしいという。互いの無事を願い、彼らは握手を交わした。

 

 そうして、巨大樹の乱立する森の中にヒオンとエルタは入っていく。

 二人がペアを組んでの、初めての狩猟だった。

 

 

 

 

 

 小休憩を挟み、道からも外れて森の中へ本格的に入り、半日弱は歩いただろうか。

 エルタたちは、当のモンスターの食糧庫らしき場所へ辿り着いていた。

 朽ちた倒木が偶然折り重なり、やや閉じた空間が生成されている。大木の枝に吊り下げるようにして、大小の繭のようなものがあちこちにぶら下がっている。

 

 エルタは腰に下げたポーチから双眼鏡を取り出した。

 

「あれは、全てモンスターなのか」

「ああ。ネルスキュラに捕らわれて、ああやって保存食にされるんだ。あまり見てて気持ちいいもんじゃないけど……何か分かるか?」

「……いや、見慣れない生き物たちだ」

「ちょっと貸して見せてくれ。んー……あいつはゲリョスを好んで食うって聞いたんだけど、見当たらないな。代わりにぶら下がってるのは……ケチャワチャか。あれはアルセルタスっぽいぞ」

 

 物陰に隠れながら、ヒオンが独り言のように呟く。

 ケチャワチャ、アルセルタス。どちらも好んで森に入るモンスターなのだという。

 エルタの知るイーオスも餌食にされていた。ゲリョスのことも分かるが、翼を持つ竜はこの森にはあまり入りたがらないのだろう。その姿は見当たらなかった。

 

「ケチャワチャを仕留められるってことは、かなり大きいな。成体か……」

 

 この森の食物連鎖の頂点に立っているだろうことは明らかだった。

 そして、そんなモンスターの食糧庫にまで足を運んだのは、飛んで火にいる夏の虫にも等しい。しかしそれは、エルタたちが望んだことでもある。

 一日のどこかのタイミングで、ネルスキュラがここへ足を運んでくる可能性は高い。そこでの鉢合わせを狙う。

 

 いや、今このときにも、エルタたちが気付いていないだけで、相手はこちらを捕捉しているのかもしれない。

 相手は翼を持たず、声帯もない。さながら、暗殺者のようにひっそりと森に溶け込んでいる。

 

 エルタたちは慎重に動いた。

 いつでも武器を抜けるような緊張感を保ちながら、自分たちが戦いやすい場所を選んで歩く。木の根で足場が不安定だったり、逃げ道が少なかったりする場所からなるべく距離を取る。

 油断しきった姿を演出する。雑談を交わすことまではしないものの、ここまで知らずに迷い込んできた生き物のように振る舞い、誘う。

 

「…………」

「…………」

 

 先ほど、千里眼の薬を一口飲んだ。普段より鋭敏になった五感が、近くに人よりも遥かに大きな生物がいるという気配だけを伝えてくる。

 来たのだ。エルタたちを観察している。機を窺っているのかもしれない。

 

 こちらはあちらの姿がどこにあるかまでは分からず、あちらもこちらの誘いに気付いていない。

 駆け引きのような時間が過ぎていって、そろそろ半刻が経とうかという頃。

 

 ヒオンの足元で、泥水がぶちまけられたような音がしたと思ったときには、エルタの視界からヒオンの姿が消えていた。

 

「ッ───くっそ!?」

 

 転倒させられた。ヒオンの脚にへばりついた人の腕ほどもある白い糸が、ヒオンを急に強く引っ張ったのだ。

 咄嗟に地上の木の根を掴む。しかし、その糸──もはや綱と言っても過言ではない──は足元の地面にも付着しており、それ以上に引っ張られることはない。

 それが意味するものとは。ヒオンがぞっと身を強張らせたそのとき、エルタが己の武器を振り被っていた。

 

 剣斧、ソルブレイカー。砕く牙の名をもつその刀身が、蜘蛛糸を捉え、しならせ、そして断ち切った。何重もの細かな糸の破片が宙を舞う。

 その間、僅か一秒。しかし、その迅速な対応が命運を分けた。

 エルタが飛び退き、ヒオンが倒れながらも地面を転がった矢先に、巨大な四つ足と尻尾が飛び掛かってきたのだ。

 

 ネルスキュラ。これが。

 なるほど、思っていた以上に蜘蛛に近い見た目だ。そして大きい。大型の竜に匹敵するか。

 もしヒオンがあのまま拘束されていたら、下敷きにされ、そのまま糸で全身を縛られていたかもしれない。滑稽な姿に見えるかもしれないが、もしソロだったのなら、その時点で死はかなり近い。

 

 ぎちぎちぎち、とどこで鳴らしていくかも分からない不気味な音と共に、ネルスキュラの脚がせわしなく動く。

 前肢をこちらへと向けた。こぶし大の六つの光点。あれら全てが眼なのだろうか。

 

「さっそく助けられたな! さあ、狩猟開始だ……!」

 

 足に巻き付いていた糸を無理やり切ったらしい。立ち上がったヒオンが盾と剣を構える。エルタも自らの得物を剣から斧へ移行させ、その切っ先を油断なくネルスキュラへと向けた。

 初めて出会う種との戦いだ。そして、ここはそんな相手の本拠地でもある。地の利を十全に活かし、こちらを翻弄してくるだろう。

 

 願わくば、小さな生き物二匹相手に油断してくれるといいが。蜘蛛にそういった思考はあるのだろうか。

 威嚇するように一対の爪を掲げたネルスキュラに対し、回り込むようにしてエルタは走り出した。

 






お久しぶりです。Senritsuです。
一連のお話は既に書き上げているため、週一で投稿していきます。
(週一だと間隔が長いと思われる方は、感想欄等で書いていただければ検討してみます)
恒例の過去編&最後に少しだけ未来編となります。よろしくお願いします。



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>> 月を追う者(2)

 

 ネルスキュラは本来、湿地帯や洞窟などに住処を構えるモンスターらしい。捕食対象であるゲリョスと同じ生息域であるのは、理に適っていると言えるだろう。

 こういった森の中に縄張りを構えるのは珍しいことだ。ただ、この地も連立する巨大樹の枝葉が上空を覆い尽くしてしまっていて、昼でありながら辺りは薄暗い。そういう意味では、居着きやすかったのかもしれない。

 

 いや、そういった生態的な理由もあるのかもしれないが、狩人として戦っていて、直感的に分かることがある。

 ここほど、ネルスキュラが自らの本領を発揮できる場所もなかなかない、ということに。

 

「ちっ、また逃げやがった……!」

 

 剣に着いた緑色の血糊を振り払いながら、ヒオンが悪態をつく。彼の見上げる先には、攻撃が届かない高所の枝に掴まるネルスキュラの姿があった。

 大きさの割には、枝がしならない。ひょっとするとイャンクックよりも身軽なのかもしれない。

 

 恐れていた通り、エルタたちはかのモンスターに翻弄されていた。二人とも近距離武器を担いでいるため、高所に逃げられると打つ手が途端に少なくなってしまう。

 護衛任務で使っていたボウガンを持ってくればよかったか、と一瞬後悔がよぎったが、初心者の域を出ない腕では牽制が精いっぱいだろう。むしろ、照準を合わせようとしている隙を突かれ、危険な目に遭いかねない。

 

 かの大蜘蛛は、少しでも自らの不利を悟ると糸を張ったり木に登ったりして自らを高所に逃がし、機を窺ってまた襲い掛かる。

 身軽とは言っても、人より遥かに重いことは確かだ。それが頭上から落ちてくるというだけでも大変な恐怖がある。

 

 胴の大部分を占める尻尾から、人の身程の白い球が放たれた。

 粘着弾だ。浴びてしまうと、まるで深い沼に全身が嵌ったかのような拘束を強いられる。そうやって身動きがしにくい状態にしてから飛び掛かる算段なのだろう。

 エルタたちを的確に狙ってくるそれを、ヒオンと共に避ける。速度はないため回避はそう難しくないが、問題はそのあとだ。粘着弾は地面に残留する。それを踏んでしまったら最後、その場に縫い留められる羽目になる。

 

 ばちゃばちゃと地面に撒かれる粘着弾によって、エルタとヒオンの行動範囲が徐々に狭まっていく。

 ただ、それは相手も同じだ。いかにモンスターとは言えど、無尽蔵に粘着物を生成できるわけではない。痺れを切らして地上に降りたてば、不利ながらも同じ土俵に立てる。

 

 再び地上に立ったネルスキュラは、四本の脚を不規則に上げ下げした。何を考えているのかが読めない。ただ、外敵の排除に執心しているらしいことは分かる。

 ヒオンが剣を握ったまま駆けていく。ネルスキュラは発達した爪でヒオンを捕らえようとし、彼はそれにもう片方の手に装着した盾を掲げて受け止めることで応えた。

 

 がき、と硬質なものがぶつかり合う音が響き、両者は拮抗した。

 いや、それは見た目の上での話だ。所詮、盾を持つのは人の腕に過ぎない。モンスターの膂力をもってすれば、簡単に押し込める。

 しかし、そうなる前にヒオンは迎撃の方法を変えた。

 

 両足で踏ん張りながら、その盾にもう片方の剣を差し込み、鍵を差し込むようなひねりを加える。そして、強引に盾を回し込み、両手で剣を引き抜いた。

 ヒオンの頭上で盾を押し込んでいたネルスキュラからすれば、ヒオンが盾を捨てて鍔迫り合いから抜け出したかのように感じただろう。実際、それはその通りだ。

 ただ、その盾は捨てられたのではない。ただ、その在り方が変わったのだ。

 

 斧変形。剣は柄へ、盾は斧へ。ヒオンの持つ近衛隊正式盾斧は両刃の斧に姿を変えた。

 ネルスキュラの懐に潜り込み、上体を思いきり反らしたヒオンは、全力でその斧を振り回しにかかる。

 

「だぁぁっ!」

 

 斧に引っかかっていた前肢の爪を強引に引き剥がし、反動をそのままネルスキュラの前脚にぶつける。それはまるで、大木に斧を打ち付ける木こりの動きを大袈裟にしたかのようだ。

 さらに、剣から斧に伝えられ、衝撃波のように伝播する榴弾ビンが斧の一撃に拍車をかける。みしり、という確かな手応えが音となって伝わった。

 

 これには流石のネルスキュラも応えたようだ。金属が軋むような鳴き声と共に、数歩よろめく。

 さらに、エルタが追撃を仕掛けた。ヒオンが狙った方とは反対側の脚を、斧で打ち叩く。

 そう簡単には刃は通さない。しかし、それでいい。斬撃に特化して一撃は軽くなる剣モードよりも、振りの重さに特化した斧モードの方がこの場合は適している。

 ネルスキュラの甲殻はかなり堅牢だ。しかし、種としての構造上、その脚は細く仕上がっている。あれらを一本でもへし折ってしまえば、機動力は大きく低下するだろう。

 

 ネルスキュラもまた、本能的にそれを理解しているようだ。ばねのように全身を撓め、大きく跳び退いてエルタたちと距離を取った。

 

「ヒオン、大丈夫か」

「へへっ。あいつが下がる前に、剣で脚の付け根を突き刺してやったぜ。かなり効いたはずだ」

 

 やや粗い息を吐きながらも、ヒオンは不敵に笑っていた。いつの間にか斧だったものは剣と盾に戻っている。

 その雪兎のような防具の見た目から来る印象とは異なり、かなり活発に動くようだ。いや、跳ね回る兎を想像すれば、あながち意外でもないか。

 

「逃げ回られたら厄介だしな……追撃、いけそうか?」

「分かった」

 

 狩猟中は呑気に話もできない。二人の会話に割って入るようにして飛来した粘着弾が、次の行動への合図となった。

 ネルスキュラは樹上に逃げず、地上で待ち構えている。エルタたちは木の根や茂みを飛び越えたり掻い潜ったりしながら、別々の方向から接近を試みた。

 

 その辺の木々には、細かな糸が張られている。保存庫の食糧が喰われて、吊り下げられていた糸が舞い落ちてこうなったのだろう。

 移動しているとこれが纏わりついてきて鬱陶しい。やはりここは、このネルスキュラの城なのだ。一時撤退を繰り返しても、遠くに逃げようとする気配がないのはそのためなのだろう。

 

 人の都合で容赦なく狩らせてもらう。しかし、それは相手にも言えること。ここに縄張りを構えてから幾人もの人を屠ったのだろうし、それらしき遺体が吊り下げられているのも双眼鏡で見た。

 まして、ここはあちらの本拠地だ。狩られる側にいるのはむしろ、エルタたちの方だった。

 

「うあっ!?」

 

 僅かにエルタの耳に届いた、くぐもったヒオンの呻き声。咄嗟に反応したエルタよりも、ネルスキュラの動きの方が早かった。

 音もなく、かつてなく俊敏に動く。蜘蛛の巣に引っかかった昆虫を捕らえる蜘蛛の動きだ。せわしない脚さばきは、見ていてぞっとするものがある。

 

 ヒオンは、窪地と木々との間に幾重にも張られた網に捕らえられていた。ネルスキュラに近づくために倒木を越えたところで、気付かずに引っかかってしまったのだろう。

 ヒオンが囚われているそれは、普段見る蜘蛛の巣のような形状には見えない。どちらかと言えば、ただの足場のようなもの。

 

 ただ、ネルスキュラにとって、自らの張った網から伝わる振動は、あるいは視覚よりも優位かつ的確だ。まさに獲物を捕らえる動きだった。

 捕獲を目的とした糸ではない。粘着性は低く、全身から飛び込んでしまったヒオンも既に抜け出そうとしている。しかし、あと少しというところで間に合わない。

 

 ネルスキュラは生物学的には鋏角種に分類される。

 ぱっと見では口先にあるくらいの目立たない部位が、その由来になっているのは何故か。

 

 ヒオンの目の前に辿り着いたネルスキュラの鋏角が、めきりと伸びた。

 

 それは人の身長を優に超える。ネルスキュラの最大の武器だ。これを以て、ゲリョスやケチャワチャといった大型モンスターを仕留める、まさにネルスキュラの象徴だった。

 ヒオンの表情が再び強張った。咄嗟に自由に動く右手でポーチを弄って閃光玉を取り出したが、ネルスキュラが鋏角を挟み込む方が速い────! 

 

 ばちん! という、鋭く生々しい音が響いた。それと同時に、森の中が閃光に包まれる。

 ネルスキュラにも閃光玉は有効らしい。追撃を仕掛けようとしていたようだが、たたらを踏んで後退る。

 不幸中の幸いか。しかし、ヒオンもまた無事では済まなかったようだった。

 

「づっ、ぁ……! ……っ……っ!!」

 

 首だ。首筋から顎にかけて切り裂かれている。ウルクススの毛皮でも流石に防ぎきることはできなかったか。

 ただ、その様子がおかしい。喉まで裂かれたかと危惧したが、そこまでではなく骨が露出する程度だ。その程度であれば、狩人にとっては日常茶飯事の範疇に入る。

 

 ヒオンの痛がり方は尋常ではなかった。

 大粒の涙を零し、自らの首を絞めつける勢いで傷口に手を押さえている。声は出せても、言葉を口にすることができなさそうな様子だった。

 まるで、経験したこともない痛みに襲われているかのような────。

 

「激痛毒か!」

「ぇる……あい、つの……どく…………ふつ……じゃ、なぃ…………っ!」

 

 息も絶え絶えになりながら、涙声でヒオンは訴えかける。

 ネルスキュラの毒は、その食性に依存する。ゲリョスを捕食せずに、イーオスやアルセルタスを喰らってきたこの蜘蛛は、その毒をより凶悪に変質させたのだ。

 

「解毒薬はある程度有効なはずだ。下がって様子を見てくれ」

「ごめ、ん…………そう、させ……もらぅ……っ!」

 

 激痛に顔を歪めながらも、なんとか立ち上がったヒオンは木々の陰にふらふらと走っていった。

 この蜘蛛が相手では、隠れても視覚以外で容易に感知されるかもしれない。ただ気休めにはなるだろう。エルタが近づけさせなければいい話だ。

 閃光玉によって錯乱状態に陥っていたらしいネルスキュラが、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。ヒオンの咄嗟の判断を内心で労いつつ、かの蜘蛛の注意を引くためにエルタは一人で走り出した。

 

 

 

 ヒオンが戦線に復帰したのは、それから十分ほどが過ぎた頃だった。

 見れば、包帯越しからでも分かる。首筋から顎にかけての傷跡周辺がどす黒く変色していた。思わず大丈夫かと尋ねたが、ヒオンは気丈に振る舞っていた。

 実際、まだかなり痛いのだろう。涙の跡も隠しはしていなかった。しかし、本人が大丈夫と言うのだ。よほど調子を悪くしていない限り、止める理由はない。

 

 それからさらに数時間が経ち、狩りはひとつの区切りを迎えつつあった。

 

 四本あったネルスキュラの脚は、そのうちの一本が砕かれて使いものにならなくなっていた。ヒオンが斧で打ち叩いた方の脚だ。

 しかし、エルタたちの予想に反して、ネルスキュラはバランスこそ悪くしたものの、三本足でも縦横無尽に森の中を跳び回る。

 

 ただ、ダメージは確実に蓄積されている。

 エルタたちを地上に置き去りにして、高所に吊り下げた保存食を食べようとしていたところを、ヒオンがブーメランを使って落下させた。あれが大きかった。

 強い張力のかかった糸は、すこし傷つくだけで一気に千切れてしまう。まるで曲芸のようだが、偶然ではなく、静止した的ならばよほど遠くにない限り数回で当てられるらしい。エルタは素直に称賛を送った。

 

 ネルスキュラも命の危険を感じてか、攻撃が苛烈になっていた。ヒオンもエルタも、爪で裂かれたり脚の下敷きになってりして、小さくない怪我を負っている。

 特に、あの鋏角による攻撃は凄まじい。エルタも太腿にあれを受けたが、少し裂かれただけで筆舌に尽くしがたい痛みが全身を駆け抜けた。傷口は赤黒く腫れあがり、しばらく走ることすらできなかった。

 絶対にあれをまともにくらってはいけない。胴体などをざっくりと裂かれたなら最後、ショックで気絶してしまいかねない。

 

 そして、今もまた。

 高いところの枝に糸を伸ばし、それに尻尾でぶら下がって振り子のように空中を揺れ動いたネルスキュラが、エルタを抱きしめるように脚を開いて飛び掛かった。

 回避が間に合わない。舌打ちと共に激突され、羽交い絞めにされて空中に連れ去られる。

 

「ごっは……」

 

 リオレウスに鷲掴みにされて空に連れ去られたときもこのような感覚なのだろうか、と場違いなことを考えた。

 大型モンスターの突進をまともに受けたのにも等しい衝撃で、胃の中のものがぶちまけられる。しかし、気絶していないだけで次第点だ。

 ぎちぎちぎち、と大蜘蛛の口が開く。鋏角を伸ばすまでもない。強烈な上下動で捉えた生物の平衡感覚を狂わせ、その間に目と鼻の先にある肉体に噛みついて直接毒を打ち込めば、それで終わりだ。

 

 なんとか抜け出そうとするが、長い爪はエルタの胴を鬱血させるほどに強く掴んで離さない。手に持つ武器も力強くは振るえず、有効打にはならなさそうだ。ならば、どうするか。

 あのときのヒオンのように、手だけなら動く。

 ポーチから拳大の物体を取り出して、今まさにエルタの脊髄に喰らいつこうとしていたその口の中に腕ごとそれを突っ込んだ。生暖かい感触。咥内でそれを握り潰す。

 

 紫煙がネルスキュラの咥内から溢れ出た。恐らく初めて味わう感触だろう。苦悶の鳴き声を上げ、大蜘蛛は無茶苦茶に手足を動かす。

 毒煙玉。旅の途中、ブナハブラやカンタロスといった巨大昆虫の群れに襲われたとき用の道具だ。同系統種というわけではないだろうが、効果はあったらしい。

 

 空中で身を投げ出されたエルタは、受け身を取る間もなく地面に激突した。

 こほっと血の混じった咳を吐き、息が詰まる。肋骨が折れたのか、強い胸の鈍痛に襲われる。しかし、それで済んだだけで儲けものだ。

 

「エルタ! 大丈夫か!?」

「ああ……毒は、受けていない」

「よかった……毒煙玉だろあれ。考えたな」

 

 エルタの元へすぐに駆け付けて、庇うように武器を構えたヒオンに感謝しながら、エルタはその場で回復薬を呷る。

 蜂蜜を添加した高級品だ。魔法のように傷が塞がるわけではないが、体力の消耗は大きく抑えられる。ただ、それも残り数は少なくなりつつあった。

 ネルスキュラは毒煙玉をようやく吐き出し、相当に不快だったのか地上に降り立って口をもごもごとさせている。エルタは何度か咳き込みながらも、ヒオンに話しかけた。

 

「ヒオン。決着をつけたい」

「うん。ただ、決め手に欠けるな。すばしっこくて斧がまともに当てられないんだ」

「あの尻尾が厄介だ。僕がこれからあれを潰しにかかる。その隙を突いてくれればいい」

「……つまり囮になるってことだよな。オレに任せていいのか?」

「ああ、ヒオンになら任せられる」

 

 エルタのその言葉を聞いて、ヒオンは狩場の中にいながら口元が緩むのを抑えられなかった。対してエルタの顔は真剣そのものだ。

 本当は、口を開くだけでも顎から下に激痛が走る。それでも、言葉を交わしてよかった。この短い間にそれだけの信頼を預けてくれるなら、それに応えたい。

 

「よし。じゃあ任せるぞ。死ぬなよな……!」

「了解した」

 

 ヒオンはエルタにそう言い残して駆けて行った。武器を研ぎ、榴弾ビンのエネルギーを充填し、攻勢に出るための準備を整えるのだろう。

 その手間の多さがチャージアックスの欠点とも言えるのだが、それらを経てからの斧の斬撃の威力の高さは、ここに至るまでに証明されている。

 

 今度はネルスキュラが立て直す方が早い。そして、捕食者は弱っている方を集中的に狙うのが定石だ。何を考えているのか分からないネルスキュラにもそれは当てはまる。

 ヒオンを無視し、素早くエルタの元へ詰め寄ってくる大蜘蛛に対し、浅い息を整えながらエルタは正面から向き合った。

 狩人としては、力と機動力で大きく勝るモンスターの正面に馬鹿正直に立つなど愚策もいいところだ。ただ、囮とはそういうもの。ヒオンもまた、エルタを信頼してくれている。

 

 これまでの狩りにおいて、最も警戒すべきは鋏角であることは間違いない。しかし、最も厄介なものは何かと言えば、それは尻尾から吐き出される糸だ。

 かの蜘蛛の圧倒的な機動力は、あの糸によって成し遂げられている部分が大きい。逆に考えれば、あの糸を射出する器官さえ傷つけてしまえば、その動きを大きく制限することができる。

 

 その狙いを実現するには、以前のヒオンのように懐深くまで潜り込む必要がある。その上で、高い威力の定点攻撃を叩き込まなければならない。

 ヒオンの斧では脚が邪魔になるだろう。剣による斬撃では役不足は否めない。エルタの斧も、同じような問題を抱えている。

 

 それが叶うのは、剣モードのスラッシュアックスによる属性開放突きのみだ。

 

 

 

 一分とかからず、エルタは再びネルスキュラに羽交い絞めにされていた。

 それもそのはず、エルタは剣状態のままで立ち回っていた。斧と剣では重心の位置と持ち方が大きく異なり、剣モードでは振りは速いが機動力がかなり犠牲になってしまう。

 もともと、剣モード主体で立ち回ることがあまり想定されていない。そんな状態で戦っていれば、まともに動けないほど弱っているとみなされて、ネルスキュラに執拗に狙われるのも頷ける。

 

 粘着弾を浴びせかけられて、避け切れずに身動きが取りづらくなったところを、がしりと捕らえられた。あまりにも容易かったその拘束劇に、大蜘蛛は歓声のような音を発する。

 鋏角が伸びてくるものとエルタは思ったが、それはしないようだった。あのときに毒煙玉を食わされたことが歯止めになっているのか。代わりに、エルタの狙っていた尻尾が大きく振り上げられる。

 

 まさか。エルタは半身を捻ったが、それを避け切ることはできなかった。

 

 どっ、と。エルタの肩に、ネルスキュラの尻尾から生えた棘が突き刺さった。

 

「あ……がっ……」

 

 防具と自らの皮膚を、易々と貫いて。

 何かが、体内に流し込まれている。

 

 これもまた、言葉にできないおぞましい感覚だ。ヒオンが狩りの前に語っていた。恐らく、即効性の昏倒毒。長く打ち込まれ続けるのはまずい。死が、近づいてくる。

 ただこれは、またとない。エルタの待っていた機会そのもの。

 

 前肢の爪で捕まえられていた武器から手を放し、一旦腕の自由を取り戻す。

 そして、武器を投げ捨てられるより前に持ち手を変えて掴み、別角度から抜き取って、尻尾に向けて切先を思いきり振り下ろす────! 

 

 ソルブレイカーの牙は、弾かれることなく尻尾の内部に突き刺さった。

 異物の感触に気付いたのか、奇声を上げてネルスキュラが尻尾を引き抜く。肩の傷口からは、明らかに異質な色をしたネルスキュラの体液が流れ出していた。

 

 今度はそう簡単に武器を手放すものか。エルタはスラッシュアックスのビン充填部の引き金を弾く。途端に、ソルブレイカーの刀身を赤黒い液体が伝った。

 滅龍ビン。ソルブレイカーが剣モードになった際に使用される、龍殺しの実を原料とするビンだ。その龍属性は液体のように発現し、モンスターの傷口へと毒液のように沁み込んでいく。

 

 ネルスキュラ相手ではほとんど効果を発揮しないかもしれないが、ないよりはましなはずだ。そのまま、属性開放突きへと移行する。

 大蜘蛛はエルタとその剣が尻尾から離れないことに気付き、地団太を踏んでその場で暴れ回ろうとした。

 

「させ、るかよっ!!」

 

 ネルスキュラが身体を撓ませて飛び上がる直前、そのさらに頭上から、斧を掲げたヒオンが降ってきた。エルタが囮になっている間に、木の窪みや若木を巧みに使って高所へと登っていたのだ。

 自らの落下衝撃すら味方につけて叩きつけられるその一撃の名は、高出力属性開放斬り。

 まだ無事だった方の前脚にぶち当たったそれは、強固な甲殻を完全に砕ききった。ネルスキュラの上半身が、がくりと地面にめり込む。

 

「──っ、エルタ!」

 

 大剣の溜め斬りをも凌駕するその一撃の代償は大きい。反動に痺れる腕を庇いつつも、ヒオンはエルタの名を呼ぶ。

 構うな。追撃のために備えろと言いたかったエルタだが、それを口にすることはできなかった。

 

 視界が霞む。今にも意識が途切れそうだ。

 日々の間に自然と訪れるあの微睡みとは比べ物にならない。そんなに生易しいものではない。

 底のない暗闇の中に落ちていくかのような。意識が融かされて、そのまま鼓動すら止めてしまうのではないかと感じられる程に深い誘い。エルタは膝を地面に付きかけていた。

 

 しかし、それでも、目の前の剣は今まさに光を発しているのだ。血よりも黒く、それでいて鮮やかな龍属性の光を。

 

 砕け。その武器の名を冠するように。

 手を放しては武器の方が抜けてしまう。それだけはだめだ。掴み続けなければ。

 

 掴んで、離さないように、しなければ────。

 

「おまえ、すごいな。エルタ。どうしてオレとおなじハンターランク帯にこんなのがいるんだよ」

 

 もうまともな握力もなく、ただ柄に縋りついているのと変わりなかったエルタの手を、白いグローブの別の手が握り締めた。

 その手もまだ震えているが、二人の力でやっと、暴れ回る剣の振動が抑えられる。

 数秒後、ソルブレイカーの属性開放突きが臨界に達した。限界まで流し込まれた龍属性の液体が爆発にも似た現象を起こし、その剣は二人の手元から引き剥がされる。

 

 このままでは死ぬと悟ったのだろう。砕かれた前脚を何とか持ち上げて体勢を立て直したネルスキュラは、ひとまず高所に避難するために糸を吐こうとする。

 しかし、その尻尾からはぼたぼたと体液が漏れ出るだけだった。その先端は、属性開放突きによって大部分が吹き飛ばされていた。

 

「あとは任せろ。きっちり終わらせるさ」

 

 体液と自らの血によって緑と赤混じりとなったウルク装備を身に纏ったヒオンは、そう呟きながらチャージアックスを構える。

 エルタは既に、目を閉じて地面に倒れ、静かな呼吸を繰り返していた。

 

 

 

 

 

 がたがた、と、木箱が揺れるような音がする。

 薄く目を開くと、そこは木の床の上だった。竜車の中か。

 

 眠っていたようだ。座り込み、軽く頭を振る。酷く身体が重い。身を起こすのも一苦労だ。

 肩から響いた鈍痛で、エルタは自らが負った怪我を思い出す。ふらつきながらも荷車のほろから顔を出すと、屋根付き荷台の上に座るウルク装備の少年の姿が見えた。

 こちらからの視線に気づくと、ぱっと顔を輝かせ、御者に一声かけるとエルタの元へやってくる。

 

「やっと目を覚ましたな。すこし心配したぞ!」

「すまない。あれからどれくらいが経った?」

「丸二日くらいかな。見ての通り、キャラバンは無事正規ルートを進めてるぜ」

 

 見渡せば、そこは巨大樹の森の中だった。ネルスキュラはあの後、ヒオンの手によって倒されたのだろう。

 縄張りの主を倒せば、普段なら数日は安全が確保される。しかし、稀に縄張りをもとから狙っていたモンスターが乱入してくることがあるため、護衛は怠れないのだ。

 エルタによって空いた穴は、もう一つのキャラバンの護衛が引き続いて守っている。彼らにとっても、エルタたちの狩猟は渡りに船だった。

 

「あのあとギルドのアイルーが様子を見に来たから話したけど、一回バルバレの方でハンターが出て、失敗してたらしい。まあ、あんだけ好きに動き回られたら無理もないよな」

「ああ、強かった」

「なんにせよ、ちゃんと起きてよかった! まだ具合悪そうだし、もう少し休んでおけよ。おまえに打ち込まれた毒の量、えぐかったんだからな」

 

 ヒオンに見透かされてしまった。正直、まだ意識がはっきりとしていないのが現状だった。

 狩場からキャラバンまでエルタを運んだのも彼なのだろう。礼を言うと、別にいいさと笑って返される。また今度話そうということで、ヒオンは持ち場へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 木々が疎らになり、赤土の山々が見えるようになれば、バルバレはもう間近だった。

 関所で手続きを済ませたキャラバンの人々は、ほっと一息つく。二週間に渡る旅路もようやく終わりだ。モンスターの脅威がないと言えば嘘となるが、人々の街には安心感がある。

 旅の無事を称え合い、護衛のハンターには正規の報酬が支払われる。ヒオンとエルタはキャラバンの面々との別れの挨拶もそこそこに、バルバレの入り口に降り立っていた。

 

「ここがバルバレか。噂されるだけはあるな!」

「都市か何かと勘違いしそうになるが……これも、地図に載らない街なのか」

「そうっぽいよ。どの建物にも車輪がついてるように見える。あと人が多い! ここなら、夢を叶えることができそうだ……!」

 

 人々の喧騒。立ち並ぶ店ごとに香りが変わる。

 穀物の匂い、香辛料の匂い、金物の匂い、本の匂い、毛皮の匂い……実に様々だ。景色の向こうには巨大な角を掲げた大きな建物も見える。ギルドの施設だろうか。

 ヒオンはこのような雰囲気の街を求めていたらしく、胸の高鳴りを抑えることができないようだった。

 

「……つかないことを聞くが、ヒオンは何を目的にこの街を訪れたんだ?」

「あれっ、言ってなかったけ。そういや、ネルスキュラの件でうやむやになってたかな」

 

 ヒオンは頬をかいた。その顔には未だに包帯が張られているが、後遺症や傷跡が残ることもないらしい。時間をかけて応急処置を取ったことが功を奏したのだろう。

 

「ちょっと気恥しいけどな……オレは、古龍を狩猟したいんだ。その実績がほしい。そのためには、ここで活動するのが一番手っ取り早いと思ったんだよ」

 

 古龍。ヒオンは確かにそう言っていた。

 エルタが驚いた表情をしていることに気付いたのだろう。ヒオンは首を傾げる。

 

「どうした?」

「いや……僕も、同じなんだ。ある古龍を探している」

 

 そのために、この街を訪れたのだと。

 ハンターになる理由は人それぞれだが、専らは富と名声、生活のためだ。特定のモンスターや古龍といった存在を追い求めて旅をする人はそう多くない。

 似た目的で行動する者と出会うのは、二人ともこれが初めてだった。

 

「そうだったのか! なるほど、エルタの強さに納得がいったよ。オレもがんばらないといけないな」

「僕は詳しい事情を話すことはできないが……、ヒオンはなぜ古龍を?」

「ん? んんー、そうだな。おまえになら話してもいいかな」

 

 ヒオンは少し悩む素振りを見せたが、やがてくすりと微笑んだ。

 自分たちの会話を聞いている者がいないか、少し辺りを見渡してから、含みを持って告げる。

 

「オレはな────新大陸古龍調査団に入りたいんだ」

 

 その名前は、ハンターになってまだ数年のエルタも聞き覚えがあるほどに有名なものだった。

 

 新大陸古龍調査団。この現大陸でたびたび甚大な被害を引き起こす『古龍渡り』と呼ばれる現象の調査を行うべく、人類未踏の大陸へ赴く組織だ。

 どれだけの人員が、何年おきで派遣されているのかまではエルタは知らない。しかし、少なくとも幻の大陸とされていた新大陸は存在し、今も調査が続けられていることは噂話で聞いていた。

 

「今までは学者とか、技術者とかばっかりの派遣だったけど、これからはハンターも募集していくって話を聞いたんだ。それなら、オレにだって希望はある」

「それで、古龍なんだな」

「ああ。古龍の狩猟経験なんて、ハンターの中でもほんの一握りだってことは分かってる。でも、だからこそ憧れちゃってさ。それでここまで来たんだ」

 

 遠くの空を見ながら、そう語る。

 その表情は、まだ霞んで見えない道程に怖気づきかけつつも、それを歩んでいこうとする野心を宿していた。

 

 それに対して、自分はどうだろうか。今、どんな表情をしているのだろう。

 エルタは新大陸古龍調査団に入りたいわけではない。しかし、目的とするものは同じだ。それなのに、その熱量には────大きな隔たりを感じてしまう。

 

 初めて、エルタが自身の目標とするものについて振り返ろうしたそのとき、ヒオンの声がそれを遮った。

 

「なあ、エルタ。もしおまえがよかったらさ、この後もオレとパーティを組まないか?」

「……僕と?」

「ああ。ここからはソロで活動するか適当にパーティを募ろうかと思ってたんだけど……この機会、逃したくない」

 

 ペアの誘い、差し伸ばされた手。

 エルタは、それを咄嗟に取ることはできなかった。

 

「いいのか。僕で」

「もちろん。オレこそ、おまえの足を引っ張らないようにがんばらないといけない立場だ。……さあ、どうする?」

 

 エルタより少しだけ小さな背。厚い毛皮に装飾が編み込まれた防具。一匹の兎の瞳が、エルタを真っすぐに捉えていた。

 

 エルタもまた、ここからはソロで活動していく予定だった。ヒオンとはここで別れることになるだろうと思っていた。

 ここでヒオンの手を取らなければ、その予想通りに事は進むだろう。ヒオンがそれを引きずるような性格でないことも、これまでの数日間で分かっている。

 ヒオンは、手を指し伸ばしたまま待っている。

 

 自らの根底にある願いを思い出した。

 その歩みは、人が挑んでいいものかどうかすら分からない。破滅が待ち受ける可能性もある。むしろ、その可能性の方がずっと高い。

 そんな道筋を、誰かと共に歩むようなことがあっていいのだろうか。巻き込むような選択は取るべきではないのでは。

 

 しかし。ヒオンの語る夢ならば────。

 

「…………」

 

 エルタはこわごわと、その手を、取った。

 

「……! へへっ……ありがとな! これからよろしく頼むぜ、エルタ!」

「ああ……よろしく頼む」

 

 嬉しそうにはにかむヒオンに、ぎこちない笑顔でも応じることができたら良いのだが。

 相変わらず固い表情のエルタは、それでも。しっかりと手を握り返すヒオンの気持ちに、少しだけ共感を感じて。そんな自分に驚いていた。

 






毎回、話の密度が高めになってしまっていて申し訳ないです。
読むのに負担をかけてしまい心苦しいのですが、どうぞ今後ともよろしくお願いします。


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>>> 月を追う者(3)

 

 バルバレという街で最も有名な古龍と言えば、大砂漠の巨大な岩船、豪山龍ダレン・モーランだろう。

 エルタたちの訪れたその時期、当の龍はちょうどバルバレから遠ざかっていく活動周期に入ったようだった。次に訪れるのは一年後か、十年後か。それなりの期間が開きそうなことに変わりはない。

 

 ヒオンは悔しがっていたが、もとより今のエルタたちのハンターランクでは、ダレン・モーランと相対するための砂上船に乗ることすら許されない。

 今はとにかくバルバレギルドからの評価を上げて、古龍の情報が出回ったときに優先して調査や狩猟に出向けるような立場になるしかない。二人は頷き合い、方針を固めた。

 

 そうと決まれば、あとは行動に起こすだけだ。二人はバルバレギルドの管轄する未知の樹海の探索に目を付けた。

 ギルドクエストとも呼ばれるそれは、大砂漠並みに広大な樹海に赴き、生息するモンスター、鉱物資源、遺跡などを調査するというもの。できるなら道の開拓や経済活動まで手を広げたいらしいのだが、モンスターの活動が活発でかなり難航しているようだった。

 

 そこの調査隊員にエルタたちはハンターとして志願した。

 死亡率も高い危険な役回りだが、もとよりハンターなど狩場では常に死と隣り合わせだ。ギルドから正式な評価が得られるだけマシだとヒオンは笑っていた。

 ギルドとしてもヒオンたちの志願は願ったり叶ったりだったようで、審査はあっさりと通過した。直前のネルスキュラの狩猟実績も評価されたらしい。

 

 バルバレは、あらゆるものが流動していく街だ。それはハンターだろうと変わらない。

 バルバレに長く留まろうとするハンターはそうそういない。ほとんどが護衛で訪れただけの者や旅人であり、一月もせずに街を去っていく。

 そんな中でバルバレを活動拠点として選んだヒオンたちは、バルバレギルドの職員をはじめとする『根を下ろした草』の人々から暖かく迎え入れられ、さっそく未知の樹海へと放り投げられた。

 

 

 

 

 

「はぁ……。あれはやばいな。迷ったら戻ってこれなくなりそうだ」

「見渡す限りの平地に見えて、複雑な生態系と階層構造の併せ技か。古龍が棲むと噂されるのも頷ける」

 

 数日後、集会場という名の酒場の席にどっかりと腰を下ろしたヒオンは、天井を見上げて深々とため息をついた。

 何か大物を狩ってきたわけではないが、単純に未知の樹海の規模と奥深さに圧倒されたのだ。竜の巣窟の異名は伊達ではない。

 

 高所に設置されたキャンプから見下ろしたときには、地平線の向こうまで緑が広がっているだけだった。

 しかし、実際に足を踏み入れてみれば、その景観は表面上のものに過ぎなかったことを思い知らされた。

 

 切り立った崖を滝が流れ落ち、底の見えない洞窟へ繋がる大穴がぽっかりと口を開け、深い森が急に途切れて砂地になったと思いきや、数分も歩かないうちに苔むす湿地に移ろっている。

 植生も、地質も、気温さえ異なる。それに合わせてモンスターの縄張りも複雑怪奇の体を成しており、ランポスとジャギィといった本来相容れない肉食獣が隣り合って生きている始末だ。

 

 探索だけで疲れるのも無理はない。環境の変化についていくだけで精いっぱいだった。

 新入りを笑顔であの地に送り出したバルバレギルドもなかなか容赦がないが、これで腰が引けているようであれば、これから先やっていくことは難しいのだろう。

 

「古龍は確かにいそうだけど、出逢うのに一生かかりそうだぞあれ……まあ、そのための調査隊だもんな。我慢強くやっていくしかないか」

 

 ぱんっ、と頬を叩き、ヒオンは気合を入れ直す。

 どうして、エルタたちはこの街を訪れたのか。それは、世界各地から訪れるキャラバンを通じて、数多の情報を得ることができるからだ。それらもまた、価値ある商品として扱われている。

 

 やみくもに未知の樹海を歩いても遠回りになるだろうことは初回の探索で分かった。これからは、ヒオンたちの方から古龍に逢えるように行動していく段階だ。

 他人からは地に足のついていない夢を抱く若者のように見えていたかもしれないが、ヒオンたちは至って真剣だった。

 

 

 

 

 

「古龍、古龍ね……すまないねえ。力になれそうにないよ」

 

 そう言って首を振ったのは、中程度のキャラバンを引き連れる女性の商人だ。

 

 小さな商館とも呼べそうな大型竜車の中で、商談用の椅子に座って彼らは言葉を交わしていた。

 竜素材を加工したのだろう、格調高い椅子だ。それに、花香石が焚かれていのか甘い香りがする。狩人にはやや馴染まないかもしれない。

 

 ここが彼らの戦場だ。彼らとは生きている世界が近いようで、案外離れている。

 そして、この席に就けるようになるまでに、相応の月日がかかっていた。

 

「アタシらが知ってるのは同業の連中の噂くらいさ。お得意サマのあんたたちには、申し訳ないけどね」

「いや、そういうのでいいんだ。オレたちよりも、場数は踏んでるはずだから信頼できる」

「おっと、それはアタシの何を指してのことなんだい?」

「もちろん、若くしてキャラバンを率いるカリスマ性ってやつかな」

 

 彼女の軽口を危うく躱し、ヒオンはにこりと微笑む。幸いなことに、彼女にヒオンの冷汗まで問う嗜虐心はなかったようだ。

 

「あんたたちは同業じゃあないからね。知りたいなら応えよう。────アタシらにとっての古龍ってのは、だいたい災難なのさ」

「それはまあ、そうだろうな」

「大抵はキャラバンの足を止めるし、運悪く鉢合わせると大抵生きては帰れない。それは竜でも同じことが言える。そういうのに振り回されることを想定済みで動くのも、アタシたちの流儀なんだけどね」

 

 商いと狩りが似ているかと問えば、まあ、強引に結びつけることはできるだろう。すぐに結果が出ることもあれば、長く耐え忍んで得られる成果もある。

 ただ、商人の方は物事をより長い目で見る必要がある。さまざまな事故を想定して動く。この点で見れば、刹那的になりがちな狩人とは対照的かもしれない。

 

 ぎしり、と彼女の座る椅子が鳴った。彼女が少し身を乗り出したのだ。

 

「古龍絡みだと、どうも天気の異変がそれなんじゃないかってアタシは思うよ」

「……嵐とか、干ばつとか?」

「いいや、嵐も干ばつも起こるときは起こる。それを動かない理由にしたらすぐに同業に出し抜かれるさね。でも、雨雲が変な色をしてたり、太陽と同じ向きに虹が出たりしたら、少なくともアタシは動かないよ。むしろ、逃げる算段を立てる」

「……『いる』かもしれないから」

「ああ、そうさ。やっと口を開いたね。不愛想なの」

 

 ここに来てから一言も言葉を発していなかったエルタの方を見て、彼女は不敵に笑った。

 その呼ばれ方は、エルタも自覚しているので受け入れるしかない。黙ってその先を促す。

 

「確実な危険だけを確実に避ける。アタシたちの目指すところさ。その指標として、アタシたちは悪い天気じゃなく、変な天気を重く見てる。アタシもそれに従った。その結果として」

「今まで生き延びている、と」

「察しがよくていいね。あんたたち見込みあるよ。出逢おうと思えば出逢えるんじゃないのかい?」

 

 古龍の姿なんて一生見ない方がいい。知らない方がいい。それが旅する彼らの方針だ。

 それを為すための指針をひとつ、彼女は自らの内に見出していた。変な天気、それを避けるようにと。

 それを徹底し続けた結果、『古龍について直接的な情報を提供できない』彼女がここにいる。

 それは翻せば、『そこに古龍がいたかもしれない可能性を全て潰した』のかもしれないと。彼女はそう言っているのだ。

 

「信用するかしないかはあんたたち次第さね。なにせ、実際にそこに何かがいたかどうかは結局分からず終いなんだから」

「いや、助かったよ。情報の判断材料がひとつ増えた。お金払わなくてもいいのかなこれ?」

「いいのさ。この席に金はいらないって最初に行ったのはアタシだから、渡されても受け取らないよ。それよりも、次にここに来たときに贔屓にしてくれた方が嬉しいねえ」

 

 首を傾げるヒオンに対し、彼女は小気味よくそう言った。

 

 未知の樹海で採取した特産品やモンスターの素材を、ヒオンたちは主にこのキャラバンに卸していた。

 そういったものは商人の間で取り合いになる傾向が高く、より高値をつけたところを、と商店を転々とするハンターがほとんどだ。

 

 ヒオンたちはそれよりも、ひとつの商店に絞ってそこが所属するキャラバンとの信頼関係を築こうとした。

 どちらが正しいということはない。ヒオンたちに目的があったからそうしただけの話だ。キャラバンのリーダーと面会の約束を取り付けるという、目的が。

 

 その結果として、ヒオンもエルタも持ち合わせていなかった視点からの情報を得られた。対価としては十分で、ここでやっと、ヒオンたちの取り組みに意味が生まれる。

 商人相手のやりとりとはこういうことだ。あのときはかなり手加減してやったと後ほどの彼女に大笑いされながら伝えられたが、ある意味モンスターよりも怖いとエルタたちは思った。

 

 

 

 

 

 一年経てば別の街。バルバレは巷の人からそう評される。

 商人が訪れては去り、店が開かれては畳まれ、風にたなびく旗は二日として同じ色合いにならない。もちろんそれは、流通する品々も、顔を合わせる人も同じだ。

 その日のエルタたちは、バルバレ近郊で採れる素材を別の地方の素材へと交換するという竜人の商人のもとを訪れていた。

 

「天空の結晶を分銅九つ分……確かに受け取ったわな。そんじゃあ、これが交換品だわな!」

「おぉー、これがデプスライト鉱石、か?」

「そうだわな。質は保証するわな!」

「……シーブライトよりも色合いが深いし重い。ヒオン、恐らくこれで間違いない」

「そうか? 元の素材知ってるおまえがそう言うなら大丈夫かな……それじゃ、これでやっとおまえの得物ががっつり補強できるってわけだ」

 

 両手で持てるほどの木箱の中に入った深い藍色の石を見ながら、ヒオンは笑みを浮かべる。

 デプスライト鉱石。エルタの担ぐソルブレイカーの刃を強靭にするために加工屋から求められていた素材だ。今の刃を構成しているシーブライト鉱石が高密度化したものらしく、他の鉱石では代用が効かなかった。

 

「原生林とか未知の樹海とかありそうなところ探し回っても全然採れなかったもんな……けっこう珍しいんじゃないか、これ」

「それを言うなら、あんたさんたちの持ってきた天空の結晶も大概だわな」

「そうなのか? 岩竜岩の辺りに居座ればそこそこ採れるんだけどな」

「大地の結晶ならそう価値は高くないわな。でも、そこまで硬いものは今のところ未知の樹海くらいでしか採れないんだわな。まあ、その鉱石と同じくらい珍しいと思えばいいわな!」

「抜け目ないなあ。物々交換だし値引き交渉はしないよ。それよりも……」

 

 ヒオンは腰に提げられたポーチを弄り、そこから手のひら大の麻袋を取り出して竜人商人の手に握らせた。

 老齢の竜人は紫色の座布団に座ったまま、黙って袋の中身を確認する。その中には、指先ほどの大きさの種──竜仙花の種がぎっしり詰まっていた。

 

「ふむ……要件を話すといいわな。これを受け取れるかはその話次第だわな」

「おっと、これ以降の話はエルタに任せるぞ。さっきから話したそうにしてるしな!」

 

 そう言ってヒオンは一歩身を引いた。

 白く可愛らしい装備のハンターの代わりに、ハンターの訓練場などで見かけるような装備のハンターが前に出る。

 

「率直に聞く────古龍の素材を扱ったことは、あるだろうか」

「うむ、そりゃああるわな」

「出逢ったことは?」

「さてどうだったか、すれ違ったくらいならあるかもしれんわな」

 

 流石は竜人族。いきなり古龍の話を振っても戸惑うことなく応えてくる。生きてきた年数が人と桁違いなだけはあるということか。

 

「それなら、ひとつ問いたいことがある。竜仙花の種は、若輩者が先達の話を聞くための代金だと思ってもらえればいい」

「情報料ということだわな?」

「ああ。僕たちは、古龍を探している」

「……こりゃまた、物好きもいたものだわな」

 

 小柄な老人の眉が少しばかり持ち上がった。

 先ほど竜人がはぐらかすような返事をしたが、それはとても当たり前の反応だ。商人にとっては、身の回りのありとあらゆるものが商品になり得る。

 聞き手次第では、話し手が気にも留めていなかったことに大きな価値が見出されることだってあるのだから。引き出しの中身はできるだけ仕舞っておくに越したことはない。

 

 その垣根を一時的に省きたいがための前金だ。竜仙花の種は竜人族が好む薬の材料になる。天空の結晶と同じ、未知の樹海の特産品の一つだ。

 こうやって物品を差し上げる方が、直接金を支払うよりも意志は伝わるはず────。

 

 ややあってその竜人は、相変わらずの糸目のまま、どこか不敵に笑った。

 

「よろしい。商談成立だわな。嘘か誠かも分からぬ噂話か、古龍に詳しい者への伝手か、ひとつ話そうだわな」

「……それも魅力的だが、用件は別にある。僕たちよりも古龍に近しいだろう、あなたに問うものだ」

 

 すう、とエルタは息を吸う。こういった人物がこの街に訪れるのを待っていた。故に、どうしても胸中に期待が募る。

 それは、頓智よりも直接的で、論考よりも抽象的だ。

 故に、概念的に古龍を知る者の、その感性に可能性を見出した。

 

「────『もし、地の底で眠る大地の源が、龍のかたちをとって顕れ、そして世界を歩むとして」

 

 きっとそれは、意味のある問答になるのではないかと。

 

「その歩みはどこで、どうやって止まるだろうか』」

 

 これが、今のエルタができる最大限の配慮だった。

 後ろでヒオンが怪訝な顔をしているだろうことがエルタにもなんとなく分かった。エルタの問うていることの趣旨が掴めないのだろう。

 

 たったの二言。まるで、ぶつ切りのおとぎ話のようだ。そうだ。その通りなのだ。

 これはおとぎ話だ。そのかたちであることに大きな意味がある。

 人という短命な種族では、その根底に敷かれた意味に気付けない。一般の竜人族ですら、汲み取ることができるかどうか。

 

 しかし、ありとあらゆる場所を巡り、竜と、大地と、そして龍の素材をその手に取っただろう、彼ならば。

 

「そうさな……ワシが思うに、()()()()()()()()()()わな?」

 

 かくして、竜人族の爺はことなげもなさそうにそう返答した。

 

「……それは、何故?」

「ああこりゃあ、おまえさんたちにはちと想像がつかんわな。そうよな……海の水も足止めにはならんと思うわな。大地の源そのものという存在なら、そこに大地を敷けばいいわな。吹雪もその歩みを止められんわな。地に温泉があればそれが力になるわな」

「しかし、それでは寒さなど意味は……」

「場所の話ではないわな。実際の火の山を見るわな。北国だろうと火山はあるわな? その逆に、南国だろうと鎮まった火山はあるわな。その理由を考えてみればいいわな」

「それは────」

 

 ────寒ければ勝手に止まる。

 存在そのものが大地の源であり、熱源であるが故に、外からの冷気に関係なく在り続けることができる。

 しかし、現実の世界にも鎮まった火山はある。もとは火山だった山など数えきれないほどにあるのだ。

 そして、その長い永い眠りはいつも。その中身が冷え固まることで始まる。

 

「生き物で例えるなら、あんたさんたちが熱い場所へ行くときにしょっちゅう飲んでるわな?」

「ああ、ああ……確かに」

 

 深々とエルタは頷いた。その眼光は明らかに先ほどまでと変わっていた。

 

 極めて短い問いかけ。あれ以上は話せなかった。ほぼ初対面の相手に向けて、エルタの口からその先を語るのは憚られた。

 それが、エルタの契った約束だ。大切な、大切な約束。

 

 しかし、その問答で得られたものは、エルタにとって十分すぎるほどのものだった。

 

「ありがとう。今得られた考え方は、きっと僕だけでは辿り着くのが難しかった」

「どういたしましてだわな。あんたさん、難儀な道を歩んでいるようだわな」

 

 竜人商人とエルタは握手を交わす。年季を感じさせる四本指だ。

 商人の方は今のやり取りでエルタの事情を薄々感じとったらしい。

 無論、その経緯までは到底悟れないだろうが。そこを深入りしそうにないのもまた、年の功と言うべきか。

 

「…………めちゃめちゃ置いてけぼりを食らっているんだけど、話はまとまったのか?」

「ああ。僕はもう満足だ。対価は十分に得た」

「ワシもこの竜仙花の種をありがたくいただくわな。追加徴収するつもりはないから安心するわな」

「ふーん……ま、そっちで上手く話が進んだならそれでいいけど」

「おや、おまえさんの彼女はワシに嫉妬しておるようだわな?」

「彼女……? ち、ちが……っ! 別にそんなこと思ってない!」

「そうだったのか。すまない。ヒオン」

「おまえも話を拗らせるな!」

 

 顔を赤くしてエルタに詰め寄るヒオンを見て、やれ痴話喧嘩だと竜人商人が笑い出し、先ほどまでのやや緊張感のある雰囲気は霧散してしまった。

 彼は現在、個人商人なのだという。どこかのキャラバンにでも入ればより手広く商売ができるだろうが、生憎とその手腕に見合うキャラバンがない。ただ、この街ならばそのうち機会が巡ってくるだろうと思えた。

 その後、「ありがと300万ゼニー!」という謎の別れ言葉で見送られながら、エルタたちは彼の商店を後にした。

 

 






この作品はMH4の本編よりも前の時間軸なので、竜人商人はまだ我らの団に所属していないフリーの状態です。
でも、ある程度設定に矛盾はあるかも。この作品だとそういう人なんだな、と捉えていただけると助かります。


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>>>> 月を追う者(4)

 

 『根を下ろした草』という言葉は、バルバレ特有のものだ。

 この街には根無し草ばかりが集う。少し滞在したかと思えば、風に吹かれるように旅立っていく。道行く人はそんな者ばかりだ。

 それ故、年周期でバルバレを訪れる商人などと再び顔を合わせることになれば、彼らはこう言われる。

 

『お前、流転の街に根を下ろしたか』

 

 と。

 そして、かつてはそんな『根を下ろした草』を客観的に見る側だったヒオンとエルタは、今。

 

「また会えたことを祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 

 ヒオンの掛け声に次いで、三人の狩人たちが子樽ジョッキをぶつけ合う。

 給仕のアイルーたちが運んでくる肉料理を豪快に頬張る。悪く言えば品のないその風景を咎める者は誰もいない。

 集会場と酒場は切っても切れない関係にある。きっとどの街でもハンターの酒盛りというものは繰り広げられているのだろう。

 その例に漏れず、ヒオンはバルバレの同業者──狩友と酒を飲み交わすこともあった。

 

「いやぁ、ヒオンもいよいよハンターランク4か。追いつかれちまったなあ」

「それけっこう前の話だからな! そっちこそ、あの重甲虫を倒したって聞いたぞ。すごいな」

「あーやめやめ。アイツの話は酒がまずくなるってもんだ。なあ?」

「こっちに話を振るな……! あんな醜態、思い出したくもない!」

 

 彼らは、ヒオンたちと同じく未知の樹海の調査隊に所属するハンターだ。

 参入はヒオンたちより先で、実力も彼らの方が高い。いや、高かった。

 今や、このテーブルを囲む面々は同じハンターランク帯だ。参入時はハンターランク3だったヒオンたちは着々と狩猟実績を重ね、最近になって彼らに追いついていた。

 

 未知の樹海の調査隊。多いときにはハンターだけで二十人以上がいただろうか。彼ら全員を集わせて酒場を貸し切って、共に樹海を踏破しようと盛り上がったこともあった。

 今、積極的に活動をしているのは十人程度だ。

 街を離れるなどの理由で抜けた者と、新たに参入してきた者がちょうど釣り合って数人。手足を失ったり、後遺症が残ったりして一線を引いた者が若干名。

 

 それ以外は、狩場で命を落としていた。

 

 初心者が入っていけるような場所ではない。最低限の実力が保障されなければ、入隊することすら叶わない。

 そんなハードルを乗り越えてきたハンターたちですら、未知の樹海は容赦なく飲み込んでいった。

 

 だからこそ、調査隊のエース部隊でもある彼らは暇があれば仲間と顔を合わせる。共に飲み食いできることそのものを称え合う。

 しんみりとするのは訃報を聞いた直後だけだ。大怪我でも生きて帰ってきたなら大健闘だと喜び、涙なんて飲んでも美味しくはないと笑い飛ばす。

 それでも、継ぎ接ぎの歯車のように零れ落ちていく命に思うところはあった。ギルドも努力はしているが、未知の樹海に住まう怪物はそれ以上に底深い。

 

 そんな中で彼らに追いつき、追い越さんとするヒオンとエルタの勢いは殊更に眩しく映ったのだろう。

 人を選ぶようなことはしない彼らも、ついつい二人を可愛がってしまうのだった。

 

「そう言えば、君の相棒はどうしたんだ?」

「そうそう、あの不愛想な、教官装備の」

「エルタか? あいつなら闘技場に行ってる。そのうち戻って来ると思うけど……」

「へえ。あんなところに行ってるのか。物好きなこったね」

 

 ある程度の酒が入り、やや顔が火照ってきたところで、ヒオンの相方の話題が持ち上がった。

 彼は今この場にいない。ここから離れたところにある、ハンターの訓練施設に足を運んでいた。

 

「酒の付き合いは悪いみたいだな。堅物なのか?」

「そう……でもないと思うけど。飲みとかの人付き合いはオレに任せてる感じはする。不器用なんだよ、そこらへん」

「こんな可愛いツレがいるってのに、ねえ?」

「ばっ……か。そんなんじゃないって。役割分担だよ。役割分担」

 

 からかわれたヒオンは慌てて視線を逸らした。

 白兎と教官。ウルク装備のヒオンとクロオビ装備のエルタを揶揄して付けられた愛称だ。バルバレに年単位で居座っている二人は、それなりに名が知られつつある。

 

 相変わらず古龍の情報を追い求める二人は、それとなく互いの役割を決めていた。

 ヒオンは、人との繋がりを基点とした情報収集を。商人とのやり取りや交渉事、他のハンターとの接点作りを担う。別にそこまで意識してやっているわけではなく、単純に酒や歓談が好きなのでそうしているだけだが、エルタの苦手なところをうまく補っている。

 最近は、文献を読み漁るようにもなっていた。もともとはエルタの役割だったのだが、ヒオンもそれに付き合うようになった。

 新大陸古龍調査団に入るという夢を追いかけるにあたって、識字や作文といった技能も求められる。十年前に旅立った三期団のほとんどが研究者だったという話からもそれは明らかだ。故に、ヒオンはこの手の知識にも貧欲だった。

 

 いつの間にか、対外的であろうがなかろうが、情報収集はヒオンが担うかたちになっている。

 では、その間に相方は何をしていたのか。

 

「あいつは狩りの腕を上げることに集中してるんだ。寝ても覚めても、狩りのことしか考えてないんじゃないかってくらいに」

 

 自分たちがこんなに手際よくハンターランクを上げることができたのは、その多くがエルタのおかげなのだと。そうヒオンは語った。

 

「狩りから戻っても闘技場に指導を受けに行ったり、工房で親方とずっと話し合ったりってさ。強くなることに余念がないし、こっちは追いつくので手いっぱいだ」

 

 初見のモンスターとやりあうことが多い環境の中で、訓練で得た技を駆使し、短期間で相手の動きを見切って対応できてしまうエルタの存在は大きい。

 ヒオンはヒオンなりに知識や戦術で実力の差を埋めることで、なんとか釣り合いを保とうとしている。だが、狩猟への貢献度で比べればどうしても相方が先に立つのが実情だった。

 

「危ねえなぁ。それは」

「彼は、何か目標にしているモンスターでもいるのか? 仇討ちや復讐なんてものはありがちだが、正直に言えば厄介極まりないぞ」

 

 ヒオンたちの先輩にあたる狩人たちは、その言葉通りに眉を顰めていた。

 彼らは十年以上ハンターという職に居続け、生き残り続けてきた。多くの同業者の引退や死を見届けていく中で、彼らは早死にする者とそうでない者の区別がなんとなくできるようになっている。

 

 その直感で言えば、エルタは間違いなく死に急ぐ側の人間だ。

 

 そもそもの話、ヒオンたちの実績が危うい。自分たちではやや実力不足か、という相手に挑み続け、そのほとんどを狩猟してのけ、大きな失敗もないままに今に至っている。

 それは優秀であることの証左とも言えるが、最短の道を駆け抜けていくことは良いことばかりではない。人は失敗から多くのことを学ぶ。それで死んでしまっては元も子もないのだが、エルタたちにはその経験が不足しているように思えた。

 

「そんな暗い動機はないと思うんだけどな……あいつの詳しい経緯とか、オレも詳しいことは知らないんだ」

 

 ジョッキのビールを呷る。この際、酒の勢いに任せて話してしまうことにした。

 愚痴っぽくなってしまうのは彼らに申し訳ないが、こういうことは客観的に状況を見てみるべきかもしれない。

 

「実際、かなり危なっかしいやつなんだよ、あいつは。自分の身を顧みなさすぎる」

「彼は剣斧の使い手だろう。あれは確か、太刀系と同じで攻撃を受け止めるようにできていない。攻撃に傾倒しがちなのはある程度仕方ないと思うが」

「それもそうなんだけど、あいつの場合はさらに尖っててさ……肉を切らせて骨を断つっていうの? 刺し違えるのとかぜんぜん躊躇しないんだよね」

「ヒュウ。思ってたよりさらにやばいじゃねえか。自殺願望でもあるのかよ?」

 

 一人が口笛を吹いて笑った。その反応を見て、あの戦い方はやはり異質なのだとヒオンは再認識した。

 

 出会った当時のネルスキュラの狩猟では、早く決着をつける必要があったが故にあのような強硬手段に出たのだと思っていた。

 しかし、それは勘違いだった。エルタにとってはあれが素だったのだ。

 

 エルタは相手の勢いを利用して深い一撃を負わせる戦い方をする。積極的にモンスターと正面から相対し、一騎打ちの状況へと自らを追い込んでいく。

 それは狩人というよりも戦士のそれだ。戦いは狩りの一部分であり、エルタはそれに自身のほぼ全てを委ねている。

 

 普通の狩りでは、モンスターと馬鹿正直に正面からやりあうようなことはしない。

 奇襲し、欺き、そして罠に嵌める。相手に主導権を握られれば死に直結しかねない。だからできるだけこちらに有利な状況だけで狩ろうとするのだ。大抵はそう上手くはいかないが、基本的な姿勢は一貫している。

 そんな一般的なハンターの在り方と、エルタの狩猟は根本から異なる。少々過激な物言いだが、自殺願望を疑われてもおかしくはない。

 

「やっぱ危ないよなー。他のハンターから話聞けてよかったよ。案外そういう人もいるものだと思ってたからさ」

「いるにはいるのかもしれないが、その生存率が高くないから少なく感じるのだろうさ」

「違いねえな。人とモンスターじゃ生命力も力も桁違いだ。そんな奴ら相手に刺し違えようだなんて蛮勇だと思っちまうな」

 

 ヒオンやエルタより体格に優れる熟練の狩人すらそう言う。むしろ、長らく狩りを経験したからこそそういった感覚が沁みついているのだろう。

 大型モンスターと一騎打ちなど、夢物語でしかない。鍔迫り合いにもならずに一瞬で押し負けて潰される。狩人の誰もが一度は挑戦し、そして思い知らされるのだ。

 

 エルタはそれを、鍛え上げた技と胆力でねじ伏せようとする。いや、実際ねじ伏せることができている。ただそれだけを追求するために、今日も闘技場で鍛錬に励む。

 その気概は称えられるべきかもしれない。しかし、そうでなくともモンスターは狩れる。力づくの勝負に持ち込ませないように、その努力を積み上げてきたのがハンターという職業であるはずだ。

 彼もそれは分かっているはず。それをあえて違えているとするなら。

 

 エルタは、狩っているのではない。

 戦っているのだ。

 

 では、それは何と? 

 

「んー……。無謀かもしれないことは分かってるけど、あいつ、それで大怪我負ってばっかりだけどさ。しっかり相手の方にも致命傷は負わせてて、生きて返ってこれてるんだよ。毎回毎回、そうなんだ」

「存外に冷静だな。行動が伴っていないようにも思えるが」

「あいつ真面目だから。本当に何か目的があってそうしてるんだと思う」

「お前らの言う、古龍を狩猟したいっていうあれか?」

「たぶんそれなんじゃないかなあ……それくらいしか思いつかないし。今度思い切って聞いてみるよ」

 

 はあっと酒気混じりのため息を吐いて、ヒオンは頬杖をついた。

 こっちだって心配しているのだ。竜の大口に飲み込まれそうになったり、炎の吐息を全身に浴びせかけられる姿を何度も見せつけられる、こちらの身にもなってみろと言いたくなる。

 これまで遠慮してきたが、先輩たちの助言の後押しもある。もう少しエルタと関係を深めてみようとヒオンは決意した。

 

「おうおう言ってやれ言ってやれ。いっそその装備を身に着けたまま泣き落としてやればイチコロだぜ。なあ?」

「だ、か、ら、そういう関係じゃないって言ってるだろ!」

「泣き落としか。悪くないな。君の存在を彼に刻んでしまえばいい」

「だぁーっ!!」

 

 もこもこの小手をどんっとテーブルに叩きつけて、ヒオンは声を上げた。

 この先輩方は性格が真反対のように見えて、ヒオンをからかうときなどは絶妙な連携の良さを発揮する。エルタがいれば対抗できるが、ヒオン一人では敵いそうにない。

 あとはもう腕っぷしだ。テーブルや椅子を壊すと出禁になってしまうため、即興で腕相撲大会が始まった。周囲で飲んでいた人々が野次馬と化し、大男と可愛い兎の対決だと囃したてる。実はそう珍しくもない光景が、この日も繰り広げられた。

 

 ヒオンたちの目標は彼らにも共有している。それが達成されれば未知の樹海の調査隊を抜けて、バルバレから旅立つということも表明済みだ。

 それに対してとやかく言うつもりは彼らにもない。古龍を追うなんて変わり者だとは思うが、夢を持って去ろうとするものを引き留めるのは、それこそこの街の住人らしくないからだ。

 

 いつものように先輩として振る舞う。二人の成長スピードは凄まじく、そのうち追い越されるかもしれないが、それでも付き合い方は変わらない。

 そうそう見かけない目標を掲げ、一本の綱の上を全力疾走するような危うさを持つ彼らを孤立させない。皆の輪の中に入れて、情報を共有しやすくする。

 それが『根を下ろした草』にできる、できる限りの応援なのだ。

 

 

 

 

 

「……と、まあそんな経緯でさ。できればいろいろと教えてほしいんだけど……」

 

 ぱちぱちと、世闇の中に焚火の音が響く。炎に照らされて、地面に二つの影が踊った。

 バルバレの管轄狩猟地である遺跡平原のとある小さな洞窟で、ヒオンとエルタは夜を明かそうとしていた。

 

 狩りの対象は青色の怪鳥。イャンクック亜種だ。

 通常種であるイャンクックと違って非常に珍しいモンスターで、バルバレギルドからヒオンたちに声がかかった。ギルドともそれなりに信頼関係が築けてきた証拠と言えるだろう。

 

 今は既に対象を捕獲し終えて、帰還の準備をしている段階だ。近くには傷だらけながらも静かな寝息を立てる青怪鳥の姿がある。

 朝になればギルドから荷車とアイルーたちが訪れるだろう。それまでは自らの怪我の手当てをしながら、静かな時間を過ごせる。

 

「……心配をかけていたか。すまない」

「いやまあ、別に謝ることじゃない。オレだけならこんだけの実績は出せなかったし、本当に心配だったら止めただろうし」

 

 ヒオンは肩をすくめる。ヒオン自身、次々と積み上げられていく狩猟実績に内心で喜んでいたことを否定できない。その勢いに乗じて、エルタの危うさに目を瞑っていたのだ。

 ただ、それではいけないと先輩たちに諭された。故にヒオンは重い腰を上げる。

 

「オレたち、ペアになってから何年か経つだろ。あのときはまだひよっこだったから前だけ見てればよかったけど。そろそろおまえのことも知りたくなってきたなって……」

 

 気恥ずかしい物言いだ。しかし、回りくどいとエルタに伝わらないので仕方ない。

 落ち着かなさげに焚火の薪を継ぎ足すヒオンに対して、エルタは少し考え込んでから答えた。

 

「分かった。話そう」

「そ、そんな二つ返事でいいのか?」

「君にならいいだろうと思った。それだけだ」

 

 どういう意味だそれは。そう尋ねたかったが堪えた。

 女性用のウルク装備を愛用し続けていたからか、性自認に何らかの影響が出ているような気がする。酒場でからかわれたことを思い出し、ヒオンは若干の危機感を覚えた。

 今は真面目な話をする時間だ。咄嗟に跳ねた心臓の音を何とか落ち着かせて、ヒオンはエルタの話の続きを待った。

 

「……焦ることのないように心がけてはいた。だが、どうしても逸る気持ちはあるらしい」

「それは、古龍を狩れるようにってこと?」

「それもある。いや……うん。そうとしか言えないだろうな」

 

 エルタにしてはやや要領の悪い答え方だ。それだけ言い淀むような経緯がある、ということなのだろうか。

 また少し考え込んで、エルタは意外なところから話を持ち出した。

 

「ヒオンは、黒龍伝説を知っているか?」

「ん? あぁまあ一応はな。キョダイリュウノゼツメイニヨリ、ってやつだろ。シュレイド辺りの文献漁ってたときに見かけたぞ」

「そうか。あれについてどう思う?」

「つっても、あの言い伝え以外には情報なかったから何とも言えないけど……一概に空想の物語って割り切っちゃいけないんじゃないかとは思うな。オレが追っかけてる五匹の竜の物語だって似たようなもんだ。…………いや待て、おまえまさか」

 

 顔色を変えたヒオンに対し、エルタは小さく首を振った。

 

「直接的な繋がりはない。だが、僕の目指すものは、それに近いものかもしれない」

「近いものって、相当不吉な相手なんじゃないか……?」

 

 エルタは再び首を振り、遠くに目を向けた。

 遺跡平原はモンスターがよく通るため荒れ地になっていることが多いが、広葉樹の森に点在する遺跡はまだ埋もれずに残っている。

 この遺跡がいつの時代の、どの文明のものであるかは未だに分かっていないらしい。バルバレが築かれてから長い年月が過ぎているというのに。

 

 世の中は不思議なことばかりだ。ヒオンや新大陸古龍調査団を駆り立てる五匹の竜の物語も、この遺跡も、エルタが追いかけているものも、全て。

 

「小さなころに、ある少女に出会ったんだ。村では見たこともない姿だった」

「うん」

「その人は、僕に数々のおとぎ話を聞かせてくれた。当時の僕は、夢中になってその話を聞いていた」

 

 この過去は、誰にも話さない。そう決めたのは誰だったか。

 けれど、その身勝手な決意とヒオンとのバルバレでの日々を天秤にかけたとき、ヒオンの方に傾いてしまうのだ。

 エルタがいなければここまで至れなかったとヒオンは謙遜していたが、その言葉はそのまま返すことができる。

 ヒオンがエルタとバルバレの人々の間に立ったことで、どれだけの恩恵があったことか。彼はその辺りが無自覚なのだ。

 

 古い記憶を思い出す。

 事の大きさから考えれば、民衆や権力者に話すべきことなのかもしれない。だが、それはできない。それは彼女との約束を破ることになる。

 しかし、誰にも話さないようにとも言われていない。()()()()()()()()()()と言われたくらいだ。

 決して軽んじていいものではない。けれど、目の前にいる少女然とした狩人に対して捧げられるものは、いつの間にかその域まで達してしまっていた。

 

「そのうちの一つが、以前の竜人商人とのやり取りだ。覚えているか?」

「あぁ、大地の源が生き物になって動き出したらっていうあの話か。あれがエルタの探している相手……つまり、古龍なのか?」

「恐らくは。あいまいな答えで悪いが、何分その存在を裏付ける文献が一切ない。未だに手探りのままだ」

 

 自らの手を見る。バルバレに来たよりもだいぶ大きく、そして硬くなってきたように思う。最も目を引くのは、防具越しからでも分かるその傷の多さだが。

 しかし、まだ足りない。土俵にすら立てないと直感が告げてくる。あのおとぎ話の舞台に立つには、まだ。

 

「『溶けた大地の源を空から降り注がせて、世界を始まりの頃に戻す。遥かな過去に人と争って敗れて、再びその日が来るまで海の底で眠っている』そんな存在がいるのだと、彼女は教えてくれた」

「聞いたこともない伝承だな……まだ学術院が編纂もできないくらいの辺境の言い伝えなのかもしれないな」

「……笑わないんだな」

「なんで? それをオレが笑うかよ。それを言うなら、五匹の竜の物語だって近いものだぞ。始まりの竜たちが今のどれかの龍たちを指し示しているのかも、導きの青い星の青年が誰かってことも分かってないんだから」

「いや、すまない。君を甘く見ていた」

 

 エルタは素直に謝った。そして、自らの予感は正しかったと悟る。

 ヒオンはこの手の話を笑わない。決して嘲ることをしないのだ。彼自身もまた、古龍渡りという神秘を追い求める身であるが故に。

 先ほどの話を民衆にしたところで、その反応は容易に想像できる。そんなことがあるかと一笑に付されて終わりだ。多くの人々にとっては、あまりに実生活から遠い物語であるから。

 

 けれど、ヒオンは違う。

 珍しい、出逢えたことが本当に幸運だったと言えるくらいの、似た者同士だったのだ。

 

「今思えば、あの時に聞いた物語はほとんど全て古龍に関するものだった。その内のひとつは恐らくクシャルダオラを指していると思っているが……それ以外は見当もつかない」

「……その人、実はやばい人だったりしないか? 確かおまえの故郷のフラヒヤってシュレイドに近いだろ。そこの王族がお忍びで来たとかじゃないだろうな……」

「さて、どうだろう。今となっては真相も分からない」

 

 エルタは静かにそう言った。実際、その通りだからだ。

 あの少女は誰なのか。あの数日間は何だったのか。彼女に聞かされた数々の物語よりも遥かに遠い不思議だ。

 

 ただ少なくとも、間違いなく言えることは。

 あの森の中での数日間が、今のエルタを形作っているということだ。

 

「いつか、あの物語の存在が姿を現すかもしれない。僕はそれに立ち会いたい。そのためには何よりもまず、強くならないといけない。古龍が竜よりも強いという道理はないが、過言でもないはずだ」

 

 そして、エルタは一つ、嘘をつく。

 

「それであの突貫姿勢か……理には叶ってるよな。オレも耳が痛い」

「ヒオンは違うだろう。新大陸古龍調査団はそういう組織ではないはずだ」

「……そうだな、分かっちゃいるんだ。つい弱虫が出ちゃったな。モンスターと正面からやりあえる強さってのはかなり普遍的なものだから……つい眩しくなる。オレは、おまえとは違う」

「ああ。きっとそれでいい。その上で、やはりこの戦法は変えるべきだろうか」

「いや、いいよ。たぶんおまえはその狩り方じゃないと釈然としないだろ。オレがおまえに合わせるために、納得できる理由が欲しかっただけだ。もう理由は聞けたから十分さ」

 

 そう言って朗らかに笑うヒオンを見て、エルタは内心で僅かな痛みを覚え、そんな自分に驚いた。まだ、自分にそんな感情が残っているとは思ってもいなかったからだ。

 自分があのような狩り方をするのは、他に理由がある。もっと後ろ冷たく、鋭利な感情が心を支配している。それを悟られなかったのは僥倖だったのだろうか。

 

 地平線の向こうの空が白み始めた。星々の瞬きが薄れていく。

 帰還の準備だ。簡易キャンプを畳み、焚火の火を消して伸びをするヒオンの姿を見ながら、エルタは再び自分の手を見つめていた。

 

 

 

 

 

 バルバレ程の大きな街でも、古龍に出逢う機会はなかなか訪れない。

 しかし、入ってくる情報の量はやはり多い。エルタたちの足が止まることはなかった。

 

 もちろん、その情報の中には誇張された噂や見間違いまで含まれている。いや、そんな類がほとんどと言ってもよかった。

 未知の樹海付近で珍しい色合いの鉱石の塊を見つけたと聞いて、行ってみれば岩竜の亜種であったりだとか。

 地底洞窟で時おり爆発音が響くという噂をもとに探索に出てみると、ブラキディオスという爆発性の粘菌を扱う竜の仕業であることが分かったりもした。

 

 それでも、エルタたちは前向きだった。

 古龍とはそういうもの。彼らは何処かに待ち構えているわけでもなく、意思を持って行動する。相見えるには運が絡むのだから、焦っても仕方がない。

 収穫もある。二人は確実に古龍に詳しくなっていた。誤報に惑わされ、文献の不明瞭な描写に頭を悩ませているうち、その中にある僅かな事実に触れる機会も増えてくる。

 最も恐れるべきは、訪れていた機会に気付かないこと。違和感を、違和感として感じ取れないことだ。機会を逃さないために必要な直感は、着実に磨かれている。

 

 幾多の人と出会っては別れ、再会し、古龍の面影を探った。

 危険な竜を狩り、探索し、その全てで生き延びて、古龍の気配を待った。

 

 バルバレを訪れてから幾年。

 二人の装備はそのまま。だが鎧玉を溶かし込んでより堅牢になっている。さらに、ヒオンの盾斧は火竜の素材を用いて強化が施された。

 白兎と教官という呼び名も街に馴染み、次の豪山龍相手の撃龍船に乗り込むのは彼らかと噂され始めた頃。

 

 未知の樹海に、ひとつの伝承が降り立とうとしていた。

 



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>>>>> 月を追う者(5)

 

「樹海に霧が出てる……?」

「ええ。私はギルドクエストを終えた後だったからそのまま帰ったけど、ちょっと視界が悪かったの。雲も低く立ち込めてたし、後で雨になるかもしれない」

 

 未知の樹海の調査隊のハンターからそんな話を聞き、ヒオンは眉を顰めた。

 ちょうど、入れ違いで探索に出向こうとしていたところだ。そんなヒオンたちに注意する程度の感覚だったのかもしれないが。

 

「この時間に帰ってきたってことは、樹海を出たのは昼過ぎだろ?」

「そうね」

「じゃあ朝霧でも夜霧でもないってことだ……引っかかるな、それ」

「でも、霧が出ること自体はそれほど珍しいことでもないでしょう?」

 

 むむ、とヒオンは口ごもる。

 確かに、未知の樹海は霧も出る。それこそ、頭上の雨雲が覆い被さってきたのかという程に深く霧が立ち込めることもある。

 しかし、最近の未知の樹海の気候は比較的温暖なはずだった。このときには突発的な雷雨や強風を引き起こすような雲が発達しやすいが、その予兆として霧が出るとは考えにくい。

 

「んー、他に何か思うところはなかったか?」

「そんなことを言われても……あぁ、そう。あなたは大丈夫だと思うけど、隣の相方さんはその格好だと少し寒いかもしれないわよ。外套を持って行った方がよさそうね」

「ん、んん?」

 

 ヒオンの隣にいたエルタの方を向き、彼女はそう言った。声色が変わったヒオンを傍目に、エルタは僅かに首を傾げて答える。

 

「忠告はありがたいが、そこまで寒かったのか?」

「肌寒い程度よ。霧が出る日にはよくあることね。雨になったらもっと冷えるでしょうから気を付けて」

「ありがとう。……ところで、つかぬことを聞くが」

「何かしら?」

「樹海を歩くとき、いつもとは足音が違っていたりしなかったか?」

 

 エルタがそう尋ねると、彼女は怪訝そうな顔をした。質問の意図を読み取れなかったのだろう。

 だが、別に答えない道理もない。彼女はしばらく考え込んで、その後ぱっと思い出したかのような表情を浮かべた。

 

「ええ、ええ。ちょっと未体験の足の感覚があって驚いたの。土の地面がしゃくしゃく音を立てるなんて、あれは何だったのかしら」

「霜だ!」

「わっ、どうしたの突然」

 

 突然声を上げたヒオンに彼女が驚く。ただ、エルタもヒオンの今の心情は理解できた。

 

 快晴の日もある。大嵐の日もある。肌寒い日もあれば、うだるような暑さの日もある。大粒の雹が降ってくることだってある。

 そんな未知の樹海でも、ごくごく稀か、もしくは全く現れない事象が存在する。

 

 雪、もしくは霜だ。

 

「オレ、ちょっとギルドに報告してくる!」

「了解した」

 

 駆け出していったヒオンを見送って、エルタと彼女は顔を見合わせる。

 

「大慌てで走っていったけど、一体どういうこと?」

「簡単に言うと、あなたは古龍に遭遇しかけたのではないかと思っている」

「あらそうなの? なら生きて帰ってこれたことに感謝しなきゃね」

 

 そう言って彼女はくすくすと笑う。最近バルバレギルドに登録した若手とのことだが、エルタたちの話を信じていないのか、それとも信じた上でこう言っているのか。後者だとすれば相当な胆力がある。

 しかし、とエルタは扉の向こうの未知の樹海の方角を見やった。まさか霜とは。

 

 かつての竜人商人とのやり取りを思い出す。

 何でもないはずの彼方の空が、冬空として隔絶されてしまっているかのように見えた。

 

 

 

 

 

 数時間後、ギルドがヒオンとエルタの両名を指名し、未知の樹海の一区画の探索を緊急クエストとして発令した。

 それまで未知の樹海は完全に閉鎖され、現在狩りに出ている他のハンターたちには信号弾で待機が指示される。

 『未知のモンスターと遭遇した場合、その狩猟を許可する』という文面に多くのハンターたちは驚いた。調査活動を重視するバルバレギルドにしては珍しい姿勢だ。

 

 その措置のいずれもが、ひとつの目標を掲げて未知の樹海の調査に協力してきたヒオンとエルタへの配慮だ。これまでギルドに貢献してきた古参のハンターたちの推薦も重ねられれば、ギルドもそれを無下にはできない。

 そんな背景を知っている者たちは、既に出立した彼らに向けてそっと応援を送る。

 

 受付嬢や同僚を心配させるような大物狩りに何度も出向きながら、毎回ぼろぼろで、しかし確実に戻ってきた彼らへと。

 

「死ぬなよ。また生きて帰ってこい」

 

 

 

 

 

「本当に霧が出てるな……」

 

 鬱蒼と生い茂る森林の中で、小さな荷車を引きながらヒオンは辺りを見渡した。

 いつもは頭上の木々の枝葉が影になって少し薄暗い森の中が、薄く立ち込める霧によって、まるで夜明け前のような暗さになっている。

 重苦しい感覚はない。この辺りに霧雨でも降るのかと思う程度の、冷たく静かな霧だ。先に話した彼女がそこまで重視しなかったのも頷ける。

 

 この霧を引き起こしている何かがいるとして、それはその場からほとんど移動していないようだった。

 エルタたちからすれば幸運なことだ。こういったものたちは、日を跨ぐ頃には既に遠くへ行っていることが少なくない。ここの動植物にとっては歓迎できないことかもしれないが。

 

「寒いな。故郷の村を思い出す」

「フラヒヤ地方はかなり寒いんだったっけか。でも、ここでこの冷え込みはちょっと考えにくいよな……」

 

 ほう、とヒオンが息を吐けば、それは白く染まって霧の中に溶け込んでいった。

 彼女の忠告は正解だった。ウルク装備のヒオンは特に気にならないが、エルタにこの寒さは応えるだろう。ホットドリンクを持ってきて正解だった。

 気温が低いと、湿度は逆に上がっていく。地面の苔や下草が水気を吸って、森の中はしっとりとした空気を纏っていた。

 

「普段あんなにうるさい鳥やら獣も……隠れてんのかね」

「寒さに耐性がないんだろう。巣穴から出ても、凍えてしまいかねない」

 

 目立つことのないように小声で言葉を交わしながら、エルタは目の前にある竜草の葉をなぞった。

 葉先から雫が落ちる。生命力が強い竜草もこの寒さは厳しいのか、少し元気がないように感じられた。

 

「勘なんだけどさ。寒さが険しくなっていく方に行けばいいんじゃないかな。あいつらってそういうものだろ」

「同感だ」

 

 地図を開き、キャンプの位置と霧がかかった地帯への進入経路を確認する。そして、狩猟に必要な道具の入った荷車を、なるべく大きな音をたてないように二人で運ぶ。

 互いに緊張はしているが、普段と変わらないやり方で探索を進めていく。その延長線上に、目指すべきものがいるはずだ。

 

 

 

 

 

 探索を始めてから、半日が経過しただろうか。

 エルタたちは、霧の中心部に迫っていた。

 

 霧が濃くなる気配はない。僥倖と言えるだろう。濃霧の中での狩りなど、夜の狩りよりもずっと危ない。

 ただ、気温は着実に低くなっていた。地面の土がところどころ白く色づき、さくさくと独特の足音を立て始める。草木に付着した雫も、白く侵食されつつあった。

 

 霜だ。空気中の水分が凝固し、結晶化しつつある。

 少なくとも、氷点下付近まで気温が下がっている。未知の樹海という温暖な地域の中で、それが指し示すものはほぼ一つだ。

 

「なあ、エル────」

「────伏せろ」

 

 見晴らしのいい崖の上。眼下の小川が連なる広場をそっと見下ろして、ヒオンが何かを言いかけたそのとき、エルタが鋭く呟いた。

 咄嗟に地面に伏せる。そのまま息を殺しながら後退し、互いに目配せをした。ヒオンがポーチから小さな双眼鏡を取り出す。

 

「いた……のか? ぱっと見何もいなかったけど」

「……目の錯覚でなければ。湖の方を見てくれ、ヒオン」

 

 要領を得ない答えだ。その指示もよく分からない。それでも、ヒオンはエルタの言葉に従った。

 少しだけ体勢を起こし、崖から顔だけを出すようにして、小川の水が流れ込む湖へ双眼鏡の焦点を向ける。

 そのまま、十秒ほど沈黙が下りた。

 

「……なあ、見間違いってことはないか。ひょっとしたら、魚竜か大きな魚が跳ねただけかもしれ……な……」

 

 レンズに映り込んだものを見て、ヒオンは言葉を失った。

 思わず双眼鏡から目を離し、肉眼で凝視する。いる。いた。一体いつから。

 

 いや、それよりも、状況が飲み込めない。

 ケルビやガウシカといったモンスターに近しいものを感じさせる四本足。そういったモンスターより遥かに屈強で大きいことは見て分かるが、注目すべきはそこではない。

 

 その獣の、立っている場所だ。

 

 見た目に反してかなり浅いのかと思った。しかし、湖の岸の色合いから、逆に水深は深いはず。

 あの場所だけ何かが浮いているのか、それとも堆積地なのか。しかし、そんな風には見えない。ただただ、水面だ。その足元に白い靄が漂っているというだけで。

 

 踏み出した足の先の水は、深く凍り付き。

 去り行く足の先の氷は、砕けて水中に没して。

 木の葉が池に落ちるかのような波紋を、点々と、点々と。

 

「水の上を、歩いてる……!」

 

 思わず、声が震えた。

 火山から雪原に至るまで、これまで様々な地を渡り歩いてきた。様々なモンスターと出会い、その生き様を見た。

 しかし、今見ている光景は、それらとは一線を画している。自らの中でいつの間にかできあがっていた常識が、認識が、今まさに突き崩されている。

 

 わずかな情報と短い時間でギルドが書庫をひっくり返して調べ、かろうじて推測したその名は、霊獣キリン。幻獣キリンと対を為す存在。

 

 紛れもない、古龍だ。

 

 あまりのことにしばらく言葉を失っていたヒオンは、一度目を瞑って気持ちを落ち着かせた。

 やはり古龍だった。ヒオンたちはこれを狩る、とギルドに向けて啖呵を切ってきたのだ。

 内心は大騒ぎだが、周囲は依然として静謐に包まれている。あるいは心音がかの霊獣に届いているのではないかと、ヒオンは心配になった。

 

 狩りの前にできる限り情報を得なくては。ヒオンは改めて双眼鏡を覗く。

 体躯は圧し固められた氷のように黒く、そこに縞のような白い筋が何本か走っている。大きさは実際に近づいてみないと分かりづらいが、おおよそ鳥竜種の長よりも一回り大きい程度だ。

 何よりも目を引くのはその角か。額から生えている紫水晶色の一本角は、古龍の能力はその角で制御されるという逸話を体現するかのような神々しさがある────。

 

「ヒオン!」

 

 え、と言葉を発する間もなく、ヒオンはエルタに突き飛ばされるようにして地面に転がった。

 一体どうしたと言おうとした矢先、先ほどまでヒオンがいた場所が目に映った。

 

 そこには、人の身丈ほどもある、美しく鋭い氷の剣山が屹立していた。

 

「────ッ!?」

 

 何が起こった──いや、今は状況を整理しているような場合ではない。

 気付かれたのだ。そして狙い撃たれた。肉眼では彼方が豆粒ぐらいにしか見えない、あの距離から!

 

 古龍に奇襲は通用しない。竜よりもなお格の差が明確でありながら、面と面を向かわせての戦いを強いられる。

 その通説の真実を思い知らされる。視覚に依存しない特殊な知覚器官を用いていると言われれば、今はそれを信じてしまうだろう。

 

「下ろう! あっちが森まで来たら最悪だ。回り道してあの広場に出る……!」

「分かった」

 

 素早く身を起こし、走って木々の間に飛び込む。二手に分かれ、崖の下の湖のほとりに向かうべく急峻な坂を下った。

 あの古龍はモンスターとしては小さい部類に入る。それはつまり、木々の生い茂る森が避難場所にはなり得ないということを指している。

 図体の大きなモンスターの突進などは、木々を盾にすればいくらか抑えられるし、避けやすい。しかし、この場合ではむしろ逆、簡単に各個撃破される危険性が非常に高い。

 

 脚を挫かないように細心の注意を払いながら、できる限り早く坂を下る。

 ざざっと防具を掠っていく小枝や葉を手で払いのけつつ、ヒオンはこの後の狩りについて考えを巡らせていた。

 正直に言って見当もつかない。念のためといくつか組んでいた作戦は、既に出鼻を挫かれている。

 あのまま水上に居座られれば遠距離攻撃手段がないヒオンたちでは打つ手がないことだけは確かだ。その場合は、注意を引いて場所を変えることが最優先になるか。

 

 木々を抜け、平地へと飛び出す。砂利の地面に膝ほどの深さの流水。狩場としてはそこまで劣悪ではない。

 すぐに霊獣の姿を探す。森の中での強襲は避けられたのに、その後に不意打ち受けてしまったら目も当てられない。

 

 ……いた。数十メートルの間を挟んでエルタとにらみ合っている。彼の方が、辿り着くのがいくらか早かったらしい。

 水上から地上へ降り立っているのは不幸中の幸いだった。だがそれは、相手がこちらを見下すことなく敵視したということでもある。

 

 先に動いたのは霊獣から。とはいっても、前足を上げて嘶いた。ただそれだけだ。

 何かしたのか、と訝しんだ直後に、足元からそれは訪れた。

 

 ひゅお、と風が集うような音と共に、ぎしりと何かが凍り付く。

 足元を見てみれば、それまで砂利と苔の地面であったはずが、真っ白に染め上げられて強い冷気を放っていた。

 

「ッ!」

 

 咄嗟に飛び退く。間髪置かず、そこから氷の結晶が突き上げられた。

 先ほどの先制攻撃で使ってきたのもこれか。エルタの方を見てみれば、彼の方にも氷柱が築かれていた。霊獣はこれを複数同時に展開できるということだ。

 竜種のブレスなどと違い、原理が全く分からない。少なくとも射程がかなり広いということだけは確かだ。

 

 たかが氷とはとても思えない。剣山と揶揄したことに誇張は一切なく、あれをまともに受けようものなら、強靭な防具だろうと貫かれるのではないか。そう思えるほどにその結晶たちの先端は鋭利だった。

 もしあのときにエルタがヒオンを突き飛ばしていなかったら、腹を串刺しにされていたかもしれない。そう考えると肝が冷えた。

 だが、予兆はある。一秒にも満たないが、あるのとないのでは大違いだ。頼りきりではいけないが、特に勘の鋭いエルタなら、そう簡単には捉えられないはず。

 

 一息の間にそこまで考えて、霊獣から視線が外れていたことに気付く。いくらその攻撃が特殊だったとはいえ、ハンターとしては下の下のミスだ。

 それはなぜか。当たり前だ。そうやって基本を怠った者から死んでいく。モンスターがその動揺を見逃すはずがない。

 

 氷柱によって、コップから溢れる水のように冷気が流れ出す。その靄の中から、猛然とその主が詰め寄ってきた。

 

「チッ……!」

 

 遠いからと油断せずに抜刀していたのが功を奏した。盾で凌げるかは分からないが、避けられるような状況でもない。

 身構えた直後、火竜の鱗を編み込んだその盾に、紫水晶色の角が正面からぶつかった。

 

「ぐっ……おぉ……!」

 

 突き上げだ。頭を低く構え、盾をめくるようにその角で持ち上げるような挙動。

 みしりと腕の骨が軋む音がする。予感はしていたが、霊獣の大きさは全くあてにならない。大型飛竜の突進に匹敵するか、それ以上の衝撃が襲う。

 たまらず、盾で弾いて飛び退いた。負荷がなくなって振り上げられた角がヒオンの喉元を掠めていく。下手をすれば、あれで顎を砕かれていた。

 追撃は受けきれない。何としても避けなければと覚悟したそのとき、キリンがその場から大きく飛び退く。

 

 叩き付けられるは竜を喰らう牙。霊獣の頭部を狙ったその斧の一撃は避けられたが、ヒオンへの追撃も中断させられた。

 見ているだけでは終われない。右腕の痛みを庇いながら、左腕に持った剣で攻めに行く。

 

 振りかぶった炎の剣。身を逸らして避けられた。返しの前足のけたぐりを何とか避けて、その腿を切り裂く。

 弾かれることはなかった。が、やはり硬い。こちらの攻撃が届くことが分かっただけでよしとする。古龍とは言えど、その血は赤いようだ。

 

 まだ攻めに行けるか。いや、エルタの足音がする。前転してエルタのために空間を開ける。

 ヒオンたちの立ち回りはこのように、互いに一気に攻め立てる苛烈なものへと変化を遂げていた。近接武器二人のペアであれば、そう珍しい戦法ではないかもしれないが。

 

 エルタに張り付かれるのを嫌がるように、霊獣は何度もステップを踏んで引き剥がそうとする。しかし、エルタはその動きに食らいついていた。柄を短く持ち、重心を自分に寄せて動きやすくしているのだ。

 不意に氷柱が挿し込まれるように出現する。しかしそれすら避け通し、エルタと霊獣は互いに傷つけあいながら一進一退の攻防を見せた。

 

 回復薬を一瓶飲み干して投げ捨て、ヒオンはその状況を俯瞰しながら動く。

 氷柱の数、霊獣の足捌き、ときには凍てついた地面に剣を叩き付け、そこから得た情報をエルタへと伝える。

 

「氷は時間が経てば崩れるみたいだ! 長引けば不利になるような類じゃない! 氷ごと剣で砕いてもいいけど、刃にかなり負担がかかりそうだからなるべく避けてくれ!」

「ああっ……!」

 

 エルタはかろうじて返事が返せるといったところ。そんなエルタと戯れる霊獣はヒオンのこともしっかり補足しており、氷柱を出現させてくるため油断はできない。

 やられっぱなしでいられるものか。霊獣の意識がヒオンに傾いた瞬間を見計らって、盾に仕込まれた榴弾ビンに衝撃力の充填を行う。先ほどの角の一撃を受け止めた分と斬撃の分で、一撃分くらいは稼げたか。

 

 さらに霊獣に回り込むようにして駆ける。氷柱によって不意を突かれたなら、それを真似しない手はない。雪兎の防具は雪に紛れる。凍土に生きる獣の本領を発揮する機会だ。

 息を潜めて漂う冷気に潜り込む。霊獣の死角に……入った。極力静かに左手の剣を右手の盾に差し込み、深く押し込んでから引き抜く。

 

 霊獣の体当たりがエルタにぶつかる。流石に受けきれず、剣斧を持ったまま数歩よろめいた。

 エルタの腹部めがけて一本角を突き入れようとしたその真後ろ。氷柱の影から炎纏う斧が姿を現す。

 

 炎斧ハルバリオン。近衛隊正式盾斧から派生した火竜リオレウスの盾斧。エルタとヒオンの成長の証であり、内包するビンは派生先と同じ衝撃力そのもの。

 高出力属性開放斬りだ。

 入った。これは当たる。浅はかな考えかもしれないが、この古龍は火の属性に弱いと思われる。これが有効打になり得るのであれば、それをもとに戦術を組み上げていけ────。

 

 がきんっ! と。

 これまでの狩猟生活で何度も聞いてきた、異様に硬質な何かに斬撃が弾かれる音が響いた。

 目を見張る。炎斧によるその一撃は、粗鉄程度であればその炎熱と衝撃力で砕いてしまえるほどの威力を備えている。それをも弾くとは、どれだけその外皮は堅牢なのか。……いや、違う!

 

「ごほっ、ぁ」

 

 腕から伝わった反動の衝撃から立ち直る前に、強烈な反撃がヒオンの胴体を捉えた。

 後ろ足によるけたぐり。思い切り吹き飛ばされ、受け身も取れずに地面に倒れこむ。強烈な胸部の痛みに歯を食いしばった。

 耐衝性に優れるウルク装備で軽減しきれなかった。これは肋骨が何本かやられたかもしれない。

 

 しかし、決定的な瞬間は見た。衝突したのは外皮そのものではない。その表面に張り付くように施された、甲殻にも似た氷の鎧だ。

 斬撃が当たった部位は灰色に色褪せ、ぱらぱらと破片のようなものが零れ落ちている。あれがヒオンの斬撃の炎を相殺した。さらにその物理的な硬度によって、榴弾ビンの衝撃を殺したのだ。

 

 霊獣が嘶く。平常時の延長線上にある雰囲気から一転し、脅威を排除する敵意へと。

 その足先を薄く覆うように氷が生えた。さらに、身に纏う冷気が肉眼で白く見えるほどに高められる。

 本番はここからだ。エルタは斧を構え、ヒオンも後方で剣を杖に立ち上がる。

 これまでになく静かな未知の樹海で、人と古龍の戦いが始まった。

 





正式名はキリン亜種ですが、この作品独自の呼び名を採用しています。

実はこの節は本編の1/3くらいの長さがあって、話数多めです。
まだ続きます。お付き合いいただけましたら幸いです。


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>>>>>> 月を追う者(6)

 

 霊獣について、ひとつ、ほぼ確実に言えることがある。

 霊獣自身にこちらの武器による攻撃は有効だ。なぜなら、こちらの攻撃を避け、あるいは身を守るから。

 

 そういった対処をするということが、その攻撃を脅威として認めているということの証左になる。まともに効きもしないことが分かっているのであれば、そもそもこちらのことなど気にも留めないだろう。

 実際に、堅牢な甲殻を持つ鎧竜や重甲虫といったモンスターは、初めのうちは自らの守りが雑で、追い払うことを意識している節がある。

 対して、霊獣からはそういう雰囲気は感じられない。初めから自らの守りを固めることに余念がない。

 

 そういう意味では、ある意味古龍らしからぬ存在と言えるのかもしれない。逆に言えば、古龍もまた生き物であるということか。

 しかし違う。論点はそこではなく、霊獣キリンは間違いなく古龍だと断言できる。その理由は、一時も尽きることなく呈され続けていた。

 

「来るぞエルタ……避けろ!」

 

 ヒオンの警告と共に、エルタの方へと身を翻し前足を振り上げた霊獣キリン。その角がこれまでよりも遥かに太く長く伸ばされているのを見て、エルタは舌打ちしながら大地を蹴った。

 その直後、霊獣がその頭部を勢いよく振り下ろす。瞬間、その角に込められていた冷気──角を巨大化させていた氷が解き放たれる。

 

 どんっ、という大砲のような音が響き、先ほどまでエルタがいた空間が氷の結晶によって埋め尽くされた。

 さらにもう一撃。ぎりぎりの回避になる。酷使されて震える足を叱咤し飛び退けば、その足のつま先から鋭い痛みが伝わった。見れば、防具の足先が氷に包まれている。急いでつま先を地面に叩き、泥を落とすように氷を払った。

 

 角に押し固めた冷気を直線状に叩き付ける攻撃。ブレスとは異なり、押し寄せる波のような印象を与える。しかし、それが遠くまで届くのには瞬きほどの時間も要さない。

 直線状にあった小川の水が針状の氷の山へと姿を変える。さらにその先にある滝の、崖から流れ落ちる水の一部までもが瞬間的に凍り付き、美しい氷像を形作った。

 

「それ飛び越えといてくれ! それまではオレが受け持つ……!」

「了解した!」

 

 エルタから霊獣を挟んで向かいにいるヒオンからその言葉を聞き、エルタはポーチから栄養剤を取り出して飲もうとした。

 しかし、その指を思うように動かせない。取り零して地面に落ちた栄養剤を土ごと手掴みし飲み干す。手の感覚を確かめ、手のひらを開いたり閉じたりした後にソルブレイカーの柄を握りなおす。

 

 手がかじかんでいる。グローブ越しの手の皮は血の気を失って真っ白か、あるいは凍傷で真っ赤になっているだろう。

 凍土でもないこんな場所で、だ。極度に気温が低下しているわけでもない。寒く、霧が出ていることは確かだが、激しく動いて身体が火照っている今では涼しいとすら感じられるほど。

 その深刻な手足の状態は、全てが純粋にこの霊獣の攻撃によるものだ。

 

 霊獣キリンの生み出す氷についても、相対しているうちに分かってきたことがあった。

 ひとつ。創り出された氷柱は、その場に与えられた冷気によって維持されているということ。

 

 基本的に氷柱は空洞だ。重ねてその結晶を構成する氷はとても薄い。放っておけば勝手に砕け散るのはこのためだ。

 翻せば、氷柱が砕けるまではその形を維持できるだけの冷気がまだそこに在るということになる。

 つまり、氷柱の傍に近づいてはいけない。体当たりで崩そうとするなどもってのほかだ。瞬く間に体温を奪い取られ、低体温症に近しい大きな消耗を強いられる羽目になる。

 口で言うのは簡単だが、実践は難しい。霊獣の攻撃への対処に手一杯になっていたら、いつの間にかすぐ背後に氷柱が出現していたことなど、ざらにある。実際、エルタは何度かそれに手足を踏み入れてしまったが故にこうなった。

 

 ひとつ。恐らくかの古龍が創り出す冷気に際限はない。

 簡潔だが、これが何より恐ろしく、そしてかの霊獣を古龍たらしめている要因だ。

 

 かの空の王者リオレウスですら、そう何発もブレスを連発することはできない。あれは中身を伴わない吐息なので効率は良いが、それでも確実に体内で減り行くものがある。

 対して、かの霊獣はどうか。もう大型の竜相手でも数体程度は倒してしまえるだけの氷を放ったはずだ。その代償として消耗を強いられている様子はないか。

 

 ない。一切ない。かつても今も、きっとこれからも。

 その冷気を行使し続けるのだろう。まるで息をするように、自らの身長や重量を超えた量の氷を生み出し続けるのだろう。冷たく静かな霧を引き連れて歩むのだろう。

 この世界に生きる者たちは皆すべて縛られているはずの理が一つ、解かれているのだ。思い知らされる。これが古龍かと。

 

 しかし、ただただ圧倒されてばかりではいけない。エルタたちは、これを狩ると公言してきたのだ。

 驚くべきことに、雷を司るとされる幻獣キリンはバルバレでの狩猟報告がある。古龍は狩猟可能なのだと、ハンターの歴史が証明している。

 

 バルバレの伝統武器である操虫棍の使い手であれば、この氷も難なく突破できるのかもしれない。

 そんなことを考えながら立ち塞がっていた氷の針山を越えたとき、同方向にヒオンが吹き飛ばされてきた。

 

「づっ、あ……! くそっ」

 

 この様子だと、またあの健脚で蹴り飛ばされたか。何とか受け身は取れたようだが、痛みを堪えているような顔をしている。先ほどろっ骨が折れたかもしれないと言っていた。それが効いてきているのかもしれない。

 容赦なく霊獣が突進してくるが、その相手はエルタが受け持った。ヒオンに比べて、エルタの方がまだいくらか余裕はある。

 

「助かる……!」

「アレまでの、距離はッ」

「もうちょっと、あと五十歩くらいのところだ! それまで堪えられるか!?」

「やってみせる……!」

 

 荒い息を吐きながら、ヒオンはエルタの問いに答える。

 先ほどのように氷の波濤に行き先を阻まれないように気を付けながら、霊獣の猛攻を掻い潜る。角、脚、氷、冷気。

 その蹄で蹴られ、角が掠めればそこから氷が生えてくる。何気なく漂う冷気や地面から生えた氷柱に武器が触れれば変形機構に支障が生じる。

 

 そう。武器の潤滑油を凍らせてくるのだ。この古龍は。変形武器にとってこれは致命的と言っていい。実際、ヒオンのソルブレイカーは内蔵された滅龍ビンがほとんど封じられてしまっている。

 氷結袋持ちのモンスターのブレスを受けたときなども起こりうるので特異というわけではないが、未知の樹海でそれが起こりうるとは流石に予想できなかった。

 

 それでも、泣き言は言っていられない。エルタたちは攻め込まなければならなかった。自らの身を守り、さらに目的を達するために。

 氷の鎧は全身を覆えない。あくまで、無防備な背中周辺のみ。何十回かの試行でそれも分かっている。狙うは頭部、腹。それに脚部だ。

 剣は封じられているが、斧の特性である破壊力のある斬撃の通りは悪くない。浅くても傷つけられるというのは、まったく血が流れないことより遥かに意味がある。

 

 とにかく攻める。攻撃のためにこの古龍に力を振るわせてはいけない。相手が攻撃に集中すれば、生き物としてのスペック的に圧倒されることは分かり切っている。

 防御、あるいは迎撃のために力を行使する状況を可能な限り増やしていくことが、こちらにとっての防御手段になりうる。

 

 かつてないきつさだ。想定よりもずっと早く強走薬を服用して疲労をごまかしているエルタだが、それでも酸欠になりかけるほどに体が酷使されている。

 しかも、二人は今、霊獣をある場所へと誘導しようとしている。そのことも頭に入れなくてはならない。

 古龍は総じて知能が高い。これ見よがしに待ち伏せをすれば警戒されることは目に見えている。故に、果敢に攻め続けて、その実ほとんどが決死の防御に等しいものであっても、そのように見せかけて、霊獣を騙し通す。

 

 それでいい。その方が性に合っている。そのための数年間の訓練だ。

 肩で息をして、顎から泥や血、汗を滴らせながら前を向く。小川の中を何度も転がされ、地面に叩きつけられ、氷が頬を切って汗が染みるのも厭わずに立ち上げるエルタは、既に全身を泥まみれにしていた。

 

 無論、それはヒオンも同じだ。ヒオンが攻撃を挿し込み、ときには霊獣の相手を受け持つことでようやく戦いの体を為せている。

 ここにきて身体能力がエルタより劣っていることが響き始めているが、ウルク装備は氷や冷気に対し高い耐性を持ち、武器も纏わりつく氷を強引に剥がせる炎斧で霊獣と噛み合いがいい。それらの恩恵を受け、ヒオンもエルタに追随している。

 そもそもヒオンは狩りの算段や突破口を見出す役。それを兼任しながら古龍を相手できていることが凄まじいのだ。

 

 せめて彼の戦術の駒としての役割を果たせ。その知識で困難な狩りからエルタを生還させてきた技量を信じろ。

 霊獣の懐に潜り込み、逆手に持った斧でその顎を思い切りかち上げた。その表皮から血が滲む。眼光の殺意が増す。

 氷を纏って伸びた角が振り回される。後退ってそれを避ければ、霊獣が一歩前へと進む。それを何十回と繰り返す。繰り返してみせるのだ。

 

「────辿り着いたぞ! そこで引き留める!」

 

 いよいよ視界も霞んでこようかという頃に、ヒオンが大声でそう言った。

 僅かな隙の合間に周囲を見れば、いつの間にか小川から離れ、森の木々がすぐそこまで迫っていた。

 致命傷を負わないままにここまで誘導できた。それは喜ぶべきことだが、ここに霊獣を引き留めなくてはならないという。

 拘束用バリスタなどという対龍兵器がこの森にあるわけもなく、竜相手に使う罠などこの古龍相手に一秒だって時間を稼げないだろうことは明らかだ。

 

 少しの間でいい。動けないほどの物理的なダメージを。

 そのためには、ヒオンの盾斧がどうしても必要になってくる。エルタのソルブレイカーではそこまでの有効打を打てない。

 

「斧を脚に当てろ、ヒオン!」

「やっぱそうなるよな……!」

 

 霊獣の意思に従って次々と地面を貫いてくる氷の針山を掻い潜りながら、エルタは唐突に音爆弾を持ちだしてその信管を抜く。

 直後、甲高い音が森中へ響き渡った。霊獣が驚くように足を止める。これまで刃ばかり使ってきた生き物が突然こんな音を立てれば流石に訝しむだろう。

 一度きりしか使えないはったりだが、二人が同時に懐に潜り込む隙を作れれば対価として十分すぎる。エルタの斧がその前脚を叩き、霊獣の腹下を潜り抜けるようにして、ヒオンが腹に斬撃を入れた。

 

 霊獣が嘶く。全身から怒気という名の冷気を生み出し、その角を巨大化させる。

 背後にあるものにその氷を当ててはいけない。エルタは咄嗟に霊獣の脇へ逸れ、攻撃方向を誘導した。

 放たれるは凍てつく一刀。あるいは砲弾。その直線上にあった大木がその枝の先まで一瞬にして凍り付き、霜づいた葉を降らせながら倒れていく。

 

 まだ角に冷気は残っている。必殺の二撃目が来る。

 大きく上体を逸らし一撃目を回避したであろうハンターの行方を目で追った霊獣は、その足元から迫る刃を見た。

 冷気に触れて切れ味が鈍っていることに構うことなく、いや、むしろそれを活かすかのように全力で叩き付けられたソルブレイカーの斧が、霊獣の顔を僅かに逸らした。

 結果、その一撃はあらぬ方向へと飛んでいき、自身の攻撃によって斬撃の威力を上乗せしてしまった霊獣は軽く頭を振る。

 

 その隙を見逃すものか。

 

「せぇっ!!」

 

 これまでの斬撃とガードの衝撃力を振動に転換して。

 遠心力を最大限に活かした炎の斧による横殴りが、霊獣の後ろ足の関節部を強かに捉えた。

 入った。今度は氷の鎧で防がれていない。

 

「エルタ離れろッ!」

 

 ヒオンに言われるまでもなく、エルタは次に取るべき行動をこなしていた。よろめく霊獣を押しのけて、ヒオンの元へ。

 ヒオンが取り出したのは、竹筒に包んだ固形火薬だ。攻撃の反動で痺れる腕を何とか動かし、炎斧ハルバリオンにそれを擦過して着火。霊獣を飛び越すように放り投げる。

 ヒオンの投擲の腕はかつてのネルスキュラ戦で証明された。例え腕の感覚がなかろうと、細心の注意を払って放たれたその竹筒は、森の茂みへと吸い込まれていく────。

 

 一秒後。特大の炎と共に、轟音がその森を震撼させた。

 周囲一帯が煙に包まれる。火薬に特有の匂いと木々の破片が当たりに撒き散らされる。

 

 ヒオンが竹筒を放り投げた先には、二人が運んできた荷車が置かれていた。中に入っていたのは支給用の大樽爆弾だ。

 その数は四つ。ギルドが一個人のハンターに許す破壊行為の許容量としても、人力で運べる量としても最大数だった。

 わざわざ崖の上まで持ってくる必要はないからと、下の方に置いていたのが功を奏した。危険を冒してでも利用する価値が十分にある代物だ。

 

 人が生身でその爆発を受ければ、即死も十分にあり得る。鳥竜の長くらいであればこれだけで仕留めきれるかもしれない。それだけの威力がある。

 煙が晴れていく。ヒオンたちは緊張を高めた。その跳躍力で飛び越えられたり、氷で壁を作られていたりなどしたら作戦は水の泡となるが、果たして。

 

 かくして、その煙の中から、その身を投げ出した状態から何とか起き上がろうとする霊獣の姿が見えた。

 直撃だ。効いている。この古龍には火力が有効なのは分かった。しかし、爆心地から木々も地面の土すら抉り取られて吹き飛んだ中で、五体満足で生きていることも凄まじい。

 

 エルタが疾駆する。情けなど狩りには不要だ。弱っているならその瞬間を叩く。

 その眼を狙う。ヒオンと同様に遠心力を乗せて叩き付けられたソルブレイカーの斧に霊獣は反応できず、その顔から多量の血が噴き出した。

 ヒオンも追随しようとするが、まだ反動の感触が消えないのか、手に持った剣を取り零してしまう。もどかしそうに手を振った。

 

 ならば自分が追撃を入れようともうひと踏ん張りしようとしたところで、エルタは目の前に立つ霊獣の異常に気付いた。

 ぎしぎしぎしと、固形物が圧縮され、軋むような音が辺りに響く。これは氷の音か。

 同時に、霊獣の身体に触れていたソルブレイカーに夥しい量の霜が生え始め、反射的に斧を引いて半歩後ろに下がる。

 

「これは……!」

 

 瞬く間に周囲の景色が白に包まれていく。これは、()()()()()()()()()()

 その場から離脱しようとしたヒオンは後方を振り返り、直後にまた身を翻して、駆けてきたエルタの腕を引いてその前に出る。これまでにない焦りの表情を浮かべながら。

 

「ヒオ────」

「伏せろ!! 逃げられ」

 

 ぴし、と。空気の最後の悲鳴はあっけなく。

 

 エルタの前に出て盾を構えたヒオンの言葉は紡がれることなく。

 二人を中心とした周辺の大地は、ただ静かに。

 その空間だけがその他から切り取られて、凍土すらも生温い氷雪に塗り固められ、そこは命の鼓動すら聞こえてこない地であることを定められて。

 ただただ、静かに。

 

 音を無くし、色を無くし、熱を無くす。

 果てしなく冷たい世界が、そこに顕れていた。

 

 エルタは体勢を低くしようとしたまま動かず、ヒオンの口は言葉を紡ごうとした形のまま硬直している。

 霊獣もまた、ふらふらと脚がもつれて追撃ができるような状況ではなかった。大きなダメージを負った直後に放たれたそれは、霊獣の生存本能の表れでもあり、負担の上乗せとなっている。

 

 数十秒が経って、ヒオンの口からごぼっと多量の血が吐き出された。それだけでなく、穴という穴から血が流れ出す。頬を伝ったのは、血の涙だ。

 何もかもが白く染まったその地の中で、霜に浸されていくその赤は印象的に見える。

 

「は……は……。……なんだ、それ……反則、だろ…………体の、中も……凍らすのかよ……」

 

 汗や水気は当然のこと。鼓膜や目の粘液も例外なく。口を開けていたものは食道から肺、そして胃液に至るまで。

 全てが瞬時に凍結し、結晶化して表皮を突き破った。そこから血が溢れ出したのだ。

 

 後ろにいたエルタも似たような状況だった。盾などで防ぎようもない全方位攻撃だ。口元を押さえてもその隙間から血が地面に零れ落ちていく。頭が割れそうなほど痛い。まさか影響は脳にまで及んでいるのか。

 

「エル……タ……生きて、るか……? 動ける、か……?」

「あ、あ……」

「……よかった。ほんと、よかった。いま、あいつ……動けない……みたいだしさ。こっちも、動けるように……なんないと」

 

 酷い耳鳴りがする。視点が定まらない。目玉が溶け落ちそうだ。

 だが、そう。思考は死んでいない。今生きているということは、あの全凍結は一瞬のみで、今はその冷気が残留しているだけということ。それで今死んでいないなら、動けるはずだ。復帰できる。

 

 地面に触れていたほうの手を見ると、滲んではいるがそれも真っ赤に染まっていた。まさか、体内を流れる血液までも凍って皮膚を貫いたのか。

 ヒオンが笑う気持ちも理解できる。あまりにも理不尽な力だ。この未知の樹海が、あの一瞬だけは凍土をも凌駕する極寒の地と化していた。そんなおとぎ話のような現象がまかり通ってしまっている。

 

「そう……だな。まだ……狩りは、終わっていない」

 

 体を覆う氷の殻を破るように。

 凍傷で真っ赤になった全身を砕き割るようにして、全身全霊をかけて、体を数ミリ動かす。全身を針で刺されたかのような強烈な痛みをも動力として、僅かずつ、少しづつ身体の在り方を取り戻していく。

 

 何度でも言おう。これが、古龍だ。

 あの日に聞いたおとぎ話のことを思い出した。国一つを一夜にして氷漬けにしたという龍の話。

 恐らくそれは、霊獣のことだろう。意志を持ってその力を行使すれば、遥かな過去の国一つ、今で言うところの街ひとつ程度であれば氷漬けになっても何もおかしくはない。

 

 そして、霊獣についても認識を改める。

 冷気を操る古龍だと思っていた。いや、大方その認識は正しい。ただ、それは付随している力に過ぎず、恐らく本質は別のところにある。

 

 この古龍は、きっと。

『この世界で、最も冷たい空間を創り出せる』存在なのだろうと。

 

 手が動かせるようになった。ポーチを弄る。

 震える手で巾着袋を取り出した。中に入った丸薬を摘み取ることなどできない。地面に転がして氷ごと喰らう。

 秘薬。ただの延命処置とも称される、長い目で見る命を削って今の命を繋ぎとめるような丸薬だ。

 

 ヒオンは炎斧ハルバリオンを抜き取り、自らの顔に押し付けた。

 じゅっ、と音を立てて、湯気が登り立ち皮膚が融かされ焼かれていく。あまりにも強引なその解凍方法に、皮膚が耐えられるはずもない。それでもヒオンは、瞼すらその刀身に押し当て、その氷を引き剥がす。

 

「やっと口が、回るようになってきやがった……ごほっ……この剣を凍らせることは、できなかったみたいだな」

 

 あるいはそれは、空の王者の矜持か。加工屋の執念か。その雪兎の防具も冷気の侵食は防ぎきれなかったようだが、命までは凍らせなかった。それだけで称賛に値する。

 二人が白銀の世界から戻ってくるのを待っていたかのように、霊獣が嘶く。現実にはただ互いが戦意を取り戻すタイミングが一致しただけなのだろうが、どちらも極力早く復帰を志したはず。それが被るというのも粋なものだ。

 

「オレは、オレの目標のために、おまえを狩るぞ。死にかけるくらいは、礼儀で捧げてやるさ……!」

 

 凄絶な笑み。胸中に身勝手な狩りへの罪悪感があるのを否定せず、そのエゴを飲み干して笑う。それでも狩ると言い切ってみせる。

 エルタは黙って立ち上がった。ヒオンの後姿を見る。

 やはり、少女のよう。本人が言ったように、ぼろぼろの死にかけといった様子だ。

 

 けれど、その想いはどこまでも真っすぐで。

 視界が血で赤く染まっていても、エルタには眩しく映った。

 



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>>>>>>> 月を追う者(7)

 

 かつて、二人で青い怪鳥を捕獲し、エルタがヒオンに自分のことを語った日。

 ギルドからの応援が到着し、帰還の準備が整ったところで、ヒオンがエルタに声をかけた。

 

「なあ、エルタ」

「どうした?」

「お前の後ろの方の名前ってさ、たしかミストウォーカーだったよな」

「そうだが」

「オレの後ろの方の名前はウィンドウォーカーだ。……なんていうか、ちょっと痛いかもしれないけど……ええいもう言うぞオレは」

 

 何やら一人でぶつぶつと呟き、意を決したかのように頬を叩いてエルタと向き合う。あの時の自分はきょとんとした顔をしていただろうと、エルタは思っている。

 

「なんかいろいろ悩んでるっぽいけど、相談したかったら言えよな。霧の中を歩く者(ミストウォーカー)なんだろう、おまえは。おまえらしいよ」

 

 後頭部で指を組んで。土と血で少し汚れたウルク装備を朝日に照らしながら、いたずらっ子のような笑みで。

 

「オレは風の中を歩く者(ウィンドウォーカー)だ。根無し草だから導きの風にはなれないけど、霧をちょっと晴らすくらいはできるかもしれないからさ」

 

 ヒオンは、そんなことを言った。

 

「…………なあ」

「どうした?」

「無言で返されると、オレ死ぬほど恥ずかしいんだけど」

「よく考えたなとは思った」

「ああぁーもう! この朴念仁!!」

 

 ヒオンが叫びとも呻きともつかない声を上げて、ヒオンがギルドのアイルーたちの元へと駆けていく。仕事をしていたほうがまだましと思ったのかもしれない。

 そんな彼を見やってから、エルタは僅かに目を伏せた。

 

 ミストウォーカーとウィンドウォーカー。霧の中を歩く者と、風の中を歩む者。考えたこともなかったが、確かにそういう側面もある。

 そうか、霧の中を歩いているのか。自分は。

 

 対して、彼は風の中を歩むのだと言っていた。確かにその姓は彼に合っているとエルタは思う。

 五匹の竜の話や、導きの青い星の話は何度も聞いた。各地を転々としながらも、その先に海の向こうの新大陸を掲げるその在り方は、世界を駆ける風を連想させるものがある。

 その風はもしかすると、エルタの目の前に立ち込める霧すら、晴らしてしまえるものかもしれない。

 だが、もしそうだとしても。

 

 霧が晴れた先に、何もなかったのだとしたら、ただの虚空が広がっていたとするなら。

 

 エルタという少年は、果たして次の一歩を踏み出せるのだろうか。

 

 

 

 

 

 霊獣キリンは、あの体躯で大樽爆弾の爆発をもろに食らっておきながら、その後も凄まじい生命力を発揮した。

 紫水晶の角から溢れ出る冷気は全く衰えることなく、むしろさらに強くなっているようにさえ思えたほど。

 エルタたちの背丈を優に超す大跳躍を見せたかと思えば、そのまま雷のように氷の結晶を突き落としたり。突然ゆっくり歩き始めたと思えば、幾筋にも連なる氷の剣山を出現させるなど、自らの力を余すことなく使ってエルタたちを迎え撃った。

 

 何より恐ろしいのが、エルタたちを一気に追い詰めた、あの一撃。

 もしかすると、あの瞬間に習得してしまったのかもしれない、目の前の空間を隔絶して限界まで低温を与えるあれを、常用の攻撃手段として用いるようになったことだ。

 

 次にあれの直撃を受けたら死ぬ。それはごくごく自然なことだった。

 あれは防具がどうこうというよりも、生き物が二度も放り込まれて生きていける攻撃ではない。むしろ一度食らって生きていたのが奇跡にも等しい。

 空気が無理やり拉げられるかのような軋みの音が予兆だ。それが聞こえたら、何よりもまず離れる。そしてそこに近づかない。これに尽きる。

 

 恐ろしさを上塗りするかの如く、あの攻撃はその範囲まで広い。小さく見積もっても十メートル以上、ドーム状の空間が切り取られて白銀に染まる。

 実際、かなり消耗しているヒオンが逃げ遅れ、右足のふくらはぎから下が巻き込まれた。

 

 「足先が爆発した」と、脂汗を浮かべながら、無理やり笑みを作っていた。

 恐らく、言葉通りの意味だろう。あれは防具の氷耐性程度ではどうにもならない。それらを貫通して冷気を与える理だ。恐らく、右足の指が何本か千切れている。

 欠損は回復しない。もう、受け入れるしかない。

 

 それでも、それでもだ。エルタたちは、攻勢を崩すわけにはいかなかった。

 恐らく、この古龍はまだ若い。二人はまだ熟練の狩人とは呼べず、付け入る隙などいくらでもあるだろうに、対応しきれず後手に回っている印象がある。その有利を最後まで維持しきれなかった時点で、こちらが狩られて終わる。

 体力的に厳しいのは明らかにエルタたちの方だ。有利など名ばかりのもの。それでも、攻めの姿勢を崩さない。守るために足を止めるのではなく、攻め込むために足を動かし続ける。

 

 何度胃の中のものをぶちまけたかも分からない。手足は肉離れを起こし、破けた肺は身体を鉛のように重くする。口は血の味しかしない。酸欠で思考は鈍り、視野は狭まる。あれ以降、耳も鼻もまともに利かない。

 

 泥仕合だ。本当に死に損なっているだけ。死んだほうがましだという考えが頭にちらつくほどの苦痛は、かつて経験したことがない。

 だが、覚悟してきたことだ。二人の腕で古龍を相手にすれば、死ぬかそれに近しいところまで達するのは分かっていた。

 

 死ぬ可能性の方が高いから、遺書を書いてきなさいとギルドマスターに言われた。

 だから遺書を書いてきた。それでも挑むと決めたのは、ヒオンたちなのだから。

 

 攻め込む。迎え撃つ。回避する。潜り込む。斬り裂く。弾かれる。叩き付ける。

 返り血を浴びる。血を吐く。回復薬を飲む。倒れる。起き上がる。

 回復薬が尽きる。受け止める。受け流す。

 

 足を一歩前へと。前へと。前へ────。

 

 その、果てに。

 

 

 

「エルタ。榴弾ビン全弾装填、完了だ……!」

「分かった。あとは任せてくれ」

 

 比喩なく永遠と思われるほどに長かったヒオンの合図に、エルタは短く返事をした。

 眼前には、冷たい闘気を未だ漲らせる霊獣の姿がある。何度切り裂いても、骨を砕いたと思っても立ち上がってくる。その想いは両者に共通するものかもしれない。

 

 だが、それも最後だ。

 格好の良いことを述べているように見えて、いよいよ追い詰められているのは二人の方だった。

 これを最後にしなければ限界が来る。恐らく先に動けなくなるのはエルタの方で、間を置かず殺されるだろう。二人で支えてきた戦線だ。その時点でヒオンも詰む。二人の若い狩人の挑戦は、そこで幕を閉じる。

 

 その一手はヒオンに任せた。やはり、エルタのソルブレイカーでは火力が足りない。

 その分、霊獣を食い止める。ヒオンが全力の一撃を確実に叩き込むために必要な時間、霊獣の足を止めるとエルタは言った。

 ヒオンはそれを信じた。方法も何も尋ねずに、じゃあ任せるとだけ言って、慎重にその場から離れた。

 

 だから、そう。これからは、エルタと霊獣キリンの一騎打ちだ。

 

 静かに自らの得物を構えた。手の感覚などとうに失われたが、握力はかろうじて残っている。

 霊獣が前脚を軽く漕ぐ。突進を仕掛けるときの癖のようだ。しかし、エルタはその場から動かない。ただじっと待ち構える。

 

 霊獣の角が氷に包まれていく。もうその光景は何度も見たが、やはり美しいと思う。

 鋭利な角の先端はエルタに向けられる。今度は避けても無駄だと宣言しているかのようだった。

 

「避けないさ」

 

 そうエルタが呟くと同時に、霊獣が勢いよく地を蹴った。

 彼我の距離は十数メートルほど、一瞬で詰められる距離だ。かの古龍もかなり消耗している。これで仕留めるという気迫が氷というかたちを伴って迫ってくる。

 

 エルタは剣斧の柄から片手を手放した。その足を留めたまま。

 瞬く間に霊獣の姿が大きくなっていく。エルタはそのまま動かない。

 霊獣の氷角が眼前まで迫っても、エルタは動かずに。

 

 その鳩尾を、霊獣の氷角が貫いた。

 

「ぁ、かは」

 

 流石は古龍の力の源と言える器官だ。人ひとりの胴を貫くのはあまりにも容易い。

 そのまま数歩押し込まれ、そして角ごと持ち上げられ、串刺しのまま掲げられる。

 痛みというものは、度を超すと鈍るのだな、と思った。

 

「え……? エ、ルタ……?」

 

 キリンの後方で、盾を斧へと変形させて構えていたヒオンは、呆然とした顔でこちらを見やる。

 ぱきぱきと腹が凍り付いていく、その顔を真っ赤に染める程の血が噴き出すかと思ったが、凍って血すら流れないとは。

 しかし、そんなことはどうでもいいのだ。ショック状態で息すら止まりそうになりながら、エルタは懸命に声を張り上げた。

 

「やれ! ヒオン! 今の内に!」

「でもおまえが──」

「早く!!」

「……ッ!」

 

 分かるだろう。分かれ。今しかないということに。

 霊獣が異変に気付いた。エルタを振り飛ばして、背後にいるヒオンを警戒しようとする。

 

 させない。無策で腹を差し出すものか。エルタは霊獣を羽交い絞めにした。

 ぞぶり、とさらに深く氷の角に沈む自らの身体に、視界が暗転しかける。それでも力は緩めない。

 霊獣が滅茶苦茶に暴れ回ろうとするより前に、片手に持っていた剣斧の刀身部分から、腕ほどもある大きさの黒い瓶を取り出した。

 

 滅龍ビン。変形機構が凍結させられ、剣状態がほぼ封じられたことで、これまでほとんど活かされなかったそれを取り出す。

 滴る黒い液体。充填量は申し分ないどころか、暴発寸前まで至っている。人体に影響はないはずが、瓶を握る手を爛れさせるほどに。

 この霊獣は知っているだろうか。龍殺しと称される赤い実の存在を。刀身の血を淵水晶でろ過し、赤い実の粉末と反応させて出来上がる液体の龍属性を。

 

 思えば、自分はいつもこんな戦い方をしてばかりだ。

 霊獣が何かを察して身構えるよりも早く、エルタはその咥内に片腕を突っ込み、滅龍ビンの中身を注ぎ入れた。

 

 霊獣が硬直する。異様な反応。人が口に入れても無事では済まないだろうが、それよりもさらに激しい拒否反応を起こす。

 全身に漂っていた冷気が、ふっと薄れた。針山のように逆立っていた鬣が柔く沈む。

 エルタの武器の半身を捧げて訪れた、その瞬間は。またとない好機で。

 

 その背後から、燃え盛る斧を振りかぶる少年が。

 

「あ、あああぁぁぁッ!!」

 

 超高出力属性開放斬り。

 内蔵のビンのエネルギーを一度に消費して放たれる斬撃。ガンランスの竜撃砲やスラッシュアックスの属性開放突きに並び立つ、狩猟武器の最大火力への挑戦の一つ。

 

 纏った炎が軌跡を描く。榴弾ビンの波動が響く。

 斬撃というよりも破砕と称されるその一撃は。足を止めた霊獣の黒き背中へと吸い込まれて。背骨をくの字に折り曲げて。

 

 その体躯を、地面にまで叩き付けた。

 

 ふっと、放たれていた冷気が途切れて。

 霊獣キリンが、再び立ち上がることはなかった。

 

 

 

 

 

「くそっ、血が止まらない……!」

「ヒ……オン」

「血さえ止めれば。心臓と肺は外れてるから大丈夫なはずだ……!」

 

 既に日は暮れた。白い霧によって薄らいでいた月光が、少しずつ地面に届き始める。

 霊獣の氷角によってエルタの胴に開けられた大穴。それそのものを覆っていた氷が融ければ、とめどない血が流れ出した。

 応急処置の範疇を遥かに超えている。だが、泣き言は言っていられない。緊急信号弾は既に打ち上げた。ギルドから救援部隊が到着するまで、エルタの命を持ちこたえさせなくてはならない。

 

「すま……ない……ごほっ」

「遺言なんて言い出したら張り倒すからな。おまえは生きて帰るんだよ……!」

 

 包帯を口で引っ張り腹に巻く。傷跡に回復薬を浸した布をあてがう。震える手で、それでもできる限り迅速に。

 包帯も傷当て用の布もみるみるうちに消費されていく。迷いなく自身の医療キットに手を出して、エルタの命の欠片が零れ落ちていくのを止めようとする。

 

「それ、は……自分、に……」

「うるさいっ! つべこべ言ったら張り倒すって言っただろ!」

 

 涙声を隠そうともしない。狩猟のあとから血を拭ってすらいないから顔がぐちゃぐちゃだ。

 必死の形相だった。純粋にエルタを生かすことだけを考えている様子だった。ヒオン自身も、誰が見ても重傷と呼べる状態なのに。

 

「ヒオ、ン。聞いて、くれ……」

「聞かないぞ。オレは聞かないからな。勝手に話してろ」

 

 そう言って黙々と手当てを続ける。そこに言外の意味があったのかどうかは分からないが、ヒオンはエルタの言葉を遮るようなことはしなかった。

 形容し難い痛みが腹部から常に押し寄せて、ともすれば気を失いそうになる。むしろそうやって運を天に任せた方が苦痛はずっと少ないだろう。

 けれど。エルタは意識を手放すつもりはなかった。ヒオンに伝えたいことがあるのだ。

 

「ヒオン。もし……僕が、死んだら。あの古龍の素材から……剣斧を一つ、作ってほしい」

「…………」

「使い道は……遺書に、書いてある。いつか、必要になる日が……来るはずだ」

 

 ヒオンは黙ったままだ。困った。もしこの願いが聞き届けられなければ、またとないだろう機会を失うことになる。

 仕方がない。正直に話してしまうしかないか。朦朧とする意識が、解けきってしまう前に。

 

「僕は、君に……ひとつ、嘘をついていた」

「…………」

「僕が、こうやって無謀になるのは……明るい夢があるから、じゃない」

「…………じゃあ、何だったんだよ」

 

 やっと返事を返した。その話になら乗ってくれるだろうと思った。代償として、もっと怒らせてしまったもしれないが。

 エルタが自身の命を厭わない狩りをすることを、ヒオンはかなり心配していた。だからあの日話し合ったのだ。その理由を偽っていたというのだから、黙っていられないだろう。

 だが、あのときは誤魔化すしかなかった。話せなかったのだ。なぜなら────。

 

「僕は……自分の命を、大切なものとは思わない」

 

 あの日のヒオンの心配を、今の必死な治療を、完全に裏切るものだったから。

 エルタは、ヒオンに嫌われたくなかったのだ。

 

 エルタは、あの日に語らなかった自らの一面を、訥々と語った。

 少女の物語に魅入られて、少女が語って聞かせた最後の物語に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ために村を飛び出した少年の人生を。

 

「途方に暮れて……しまったんだ。世界は……とても、広かった」

 

 幼いエルタが考えていたよりも、ずっと。遥かに。

 ハンターになって、広大な荒野に立って。

 物語に辿り着くための道が分からなくて、途方に暮れてしまった。それでも、進むことしかできなかったから。

 

「強くならないといけなかった。…………その強さは、どこから来るのだろうと思って。……捧げられるのは、この命しか、なかった」

 

 誰かを巻き込むわけにはいかないと思っていた。受け入れられたのは、将来に路を別つことが確定しているヒオンくらいで。

 一人で「物語のような強さ」を手に入れるには。不器用なエルタに思いつく選択肢はほとんど残されていなかった。

 

 狩りの度に大怪我をするような無茶をしていたのは、自分はそう在るべき人間だと定義していたから。

 狩りはエルタに与えられた試練のようなもの────自らの命の価値は、自らによって定められない。それを決めるのは、物語だ。エルタが描かれるかも分からない、物語。

 

 死ぬならそこまでだ。そこまでの人物だったというだけの話だ。死なないなら、また次の狩りへ赴くだけ。そしてそれを、幾度となく繰り返す。

 そこに感情は伴わない。快楽も達成感もない。不器用であることは分かっていても、エルタには淡々と進むことしかできなかった。

 あの日語られた古龍たちのように。彼らに立ち向かい、あるいは唄を遺した人々のように。煌びやかな物語の役者を演じることはできなかったから。

 

 気が付けば、戦いに身を投じている。モンスターを倒すことばかりを考え、殺しの技術に傾倒している。

 果たして、そんな人物が物語に描かれるだろうか。英雄譚の主人公には程遠い、狩人の在り方すら違えた何かが。

 

 エルタの生きているうちに、おとぎ話に語られた大地の源の龍が現れるかすら分からないのに。

 エルタ以外の誰も、その話を知らないのに。

 エルタだけが駆られている。エルタだけが囚われている。

 

 自らの命を試し続けたその歩みは、物語にふさわしくない在り方へと踏み込んでいた。

 けれど、立ち止まることだけは許されない。彼女の物語の誰かになるには、土俵に立つにはそれしかないから。

 

 ハンターとしての道を進み始めた日から、心の中にその矛盾はあって。

 その先に、エルタは。

 

 エルタは(それは)自分の命に何の価値も感じなくなっていた(どこまでも孤独な一人旅だった)

 

 

 

 

 

 話し切った。

 何度も喉をせりあがる血に言葉を詰まらせながら、ともすれば、気が遠くなる感覚に抗いながらも、最後まで話すことができた。

 短い独白だ。だが、十分だろう。それだけしか語ることがないのだ。エルタという少年の人生は。

 これが自らの終わりなら、それを受け入れる。奇跡的に助かるのなら、また死地へと出向くだけ。おとぎ話の古龍の手がかりがつかめるまで、あるいは死ぬまで、それを延々と繰り返そう。

 

「……聞く価値も、ない話だ。忘れても、いい」

 

 短くそう言って、エルタは目を閉じた。

 このあと、ヒオンがどうするかは分からない。ただ、彼のことだ。治療行為を止めることはないだろう。

 険悪なまま別れたくはないが、これはエルタ自身に原因がある。だから、せめてしっかりと受け入れる────。

 

 ドンッ、と。

 地面に何かが叩きつけられる音が一つ、エルタの耳元に届いた。

 

 思わず閉じた目を開く。その目の前には。

 右腕の肘から先を、エルタのすぐ傍の地面に叩きつけるヒオンの姿があって。

 何よりも、エルタが驚いたのは。それが、見間違いでなければ。

 

「ふざっけんなよおまえ!!」

 

 ヒオンの目から、大粒の涙が溢れていたことだった。

 

「どうして言ってくれなかった。どうしてそこまで抱え込んだ!」

「ヒオン……?」

 

 ぽたぽたと、エルタの頬にヒオンの涙が零れる。

 涙とは、怒りで流れるものだったか。いや、それは、悲しみによって発露するものであったはず。

 

「いいか言ってやる。おまえが矛盾って言った殺しでな、オレは命を救われてるんだ。オレは夢を追えてるんだ。おまえがいなかったら、オレはここまで来れなかった!」

 

 心の底から、言葉にしがたい感情を無理やりぶつけるようにヒオンはまくしたてる。

 エルタは何も答えられなかった。それは、これまでに与えられたことのない感情で、ただただ圧倒されていた。

 

「物語の登場人物に相応しいか? オレが証言してやる。『もちろんだ』! そうじゃなきゃ、今ここで助けようとするものかよ! おまえに生きてほしいって、思うものかよ……!」

 

 エルタが目を見開く。

 そしてヒオンは。

 

「その子の記憶は本当に、生き方を決めるくらい大切なんだろうさ。でもな、オレは! バルバレで一緒にいただけのオレはな。エルタみたいなやつがおとぎ話の古龍に辿り着くんだって、おまえなら辿り着けるって信じてる!!」

 

 エルタはあまりにも不器用すぎる。どこまで自分を追い込めば、そんなに無機質に自分を扱えるのか。

 けれど、その根底には少女の物語がある。夢が、あるはずなのだ。

 それを受け入れるのは本当に難しいことかもしれない。だからエルタは責任などという理論で押し固めてしまっている。

 ただ、たとえどんなに自己評価が残酷なものであろうと。

 

 その一部を寄り添ったヒオンは、その姿を、とても()()()()なものだと思うから。

 

 今の生き死にに関わらず、これからのエルタが、歩む先も年月も分からないという彼に、指し示すものなど何も思いつかないけれど。

 ふと、彼が振り返ったときに。

 ヒオンの言葉が思い出せるように。

 

「死ぬまでそれを忘れるな。刻ませておけ。それと、もうひとつ……!」

 

 だから伝われ、伝わってくれ。お願いだ。

 歯を食いしばって、絞り出すように。拳を握って、感情が言葉を止めることがないように。

 たとえ、人の価値観は他人によって変えられるものではなかったとしても。

 

「おまえの生き方を、おまえ自身がつまらないなんて言うな! 一人でそんなに、そんなに頑張ってたのに、それを何の価値もなかっただなんて言うなぁ……!!」

 

 自らの歩みを、自ら軽んじる。

 それだけは、エルタの目の前にいるヒオンが許さない。

 

 おまえの人生を、オレは無価値だなどと言ってやるものか。

 

「…………ああ」

 

 十秒ほどの間をおいて、それまで黙ったままだったエルタは、その言葉だけを返した。

 ヒオンは涙を拭い、再びエルタの怪我に向き合う。本来は、こんなことをしている場合ではない。けれど、このやりとりを通して、決意は一段と強くなった。

 

「死なせない。死なせないからな。おまえはバルバレに帰るんだ。絶対に……!」

 

 もう手を止めるな。最後の最後まで止血を試みて、清潔を維持し、体力を持続させろ。

 霊獣の遺体の傍らで、ヒオンの戦いは続いた。自らの怪我と全身の凍傷を顧みることなく、エルタの命が零れ落ちないように、一心不乱に手を動かした。

 

 数時間後、ギルドからの救援部隊が馴染みのハンターを引き連れて訪れて。

 エルタが急患として担架で運ばれるところまで見届けた直後に、ヒオンは糸が切れたかのように倒れた。

 慌ててアイルーが駆け付けたが、ただ極度の疲労で気を失っただけのようで、同様に担架で運ばれる結末となった。

 





次回、最終話です。


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>>>>>>>> 月を追う者(8)

 

 樹海から竜車、そしてバレバレの診療所とノンストップで救命処置を受けたエルタは、何とか一命をとりとめた。

 霊獣キリンの狩猟は正式に認められ、久方ぶりに古龍の狩猟が記録されたことにギルドは大いに盛り上がった。その場にヒオンとエルタはいなかったが。

 

 二人の怪我の度合いは深刻で、治療には長い月日を要した。

 特に心配されたのが後遺症の類だったが、ヒオンが右足の指を何本か失っただけで済んだ。エルタの腹に開けられた大穴が内臓の機能を失わないままに塞がったのは、ほぼほぼ奇跡と呼べるものだった。

 古龍の狩猟で死者が出なかっただけでなく、ハンターに復帰できるだけの怪我で戻ってこれたということが、本当に珍しいのだとギルドマスターは言っていた。

 

 半年を超す長いリハビリを終え、二人が再び武器を担いで狩りに行けるようになったころ。バルバレギルドからヒオンに向けて通達があった。

 その通達の内容は、ヒオンが待ち望んでいた、いや、十代であるヒオンがそれに相応しい立場になるために必死に追いかけていたもの。

 

 新大陸古龍調査団の第四期団員の募集が始まった、というものだった。

 

 

 

 

 

「これが新しいギルドカードか」

「ああ。バルバレクォーツを使っているらしいが」

「職人の技術ってすごいよな……。まあとにかく、これがオレたちの実績を証明するってわけだ」

 

 手のひら程度の板状のカードを手に持ったヒオンは、それを空に掲げた。下地となったバルバレクォーツの細かな結晶が、陽光を反射してきらきらと光る。

 

「ハンターランク5か。あんまり実感湧かないな。先輩たちよりも上って、なんか変な気分になる」

「だが、これで調査団の選考に挑むんだろう?」

「そうだな、自覚しっかり持たないと。使えるものは何でも使ってやる」

 

 ウルク装備の少女のような少年は、ぱちぱちと頬を叩いた。

 ヒオンはこれから、バルバレを発って新大陸古龍調査団の現大陸拠点に向けて旅立つ。

 エルタはその見送りに訪れていた。エルタもバルバレに長居するつもりはなく、加工屋に依頼した霊獣の剣斧の完成を待って、今度はドンドルマという都市へと旅立つらしい。

 

 つまり、二人のペアは今日を以て解散ということだ。

 第四期団は数十名程度のハンターを募集するそうだ。倍率は十倍を軽く上回るだろうが、ヒオンなら問題なく突破できるはず。

 そうなれば、二人が今後再び相見えることはとても難しくなる。ハンターという職業を続けるなら、尚更のことだ。

 

「んー、湿っぽくなっちゃうのは嫌だけど、お別れがしっかりできないのはもっと嫌だしな。てなわけで、オレとペアを組んでくれてありがとうな。エルタ。夢がかなり近づいたよ」

「いろいろと助けてもらったのは僕も同じだ。こちらこそありがとう」

 

 二人は握手を交わす。その姿はいつかのペアを結成した日のことを思い出させた。

 結局、二人の防具はあの日から変わらなかった。クロオビ一式と女性用のウルク一式。バルバレ特有の物々交換で補修用の素材を手に入れやすかったのが理由だが、おかげですっかりイメージが街に定着してしまった。

 ただ、そのハンターランクは3から5へ。最速かつ最年少で、中堅から街を代表するハンターにまで上り詰めた二人を貶す者はもういない。二人の旅立ちは惜しまれたが、引き留められることはなかった。

 

「……なあ、エルタ。これから言うことは、頭の片隅にでも置いてくれたら嬉しいんだが」

「なんだ?」

 

 互いの手を握ったまま、ヒオンは少し逡巡するように目を逸らしてから、エルタを見て微笑みを浮かべた。

 

「もし、おまえが自分で決めた約束ってやつが全部達成できて、もうすることないなって思ったらさ。新大陸に行ってみないか。きっと、退屈はしないと思うからさ」

「……それは。すまない。想像もできないな……」

 

 エルタははっとして、正直な感想を述べる。

 実際、全てが成し遂げられた後のことなど考えもしていなかった。完全に想像の外の話だ。

 きっとこれからもそんなことは考えもせず、邁進を続けるのだろう。そもそも約束を果たすという未来がどのようなものになって、いつその日が来るのかも全く不明瞭だが、その後になって改めて気付かされるのかもしれない。

 

「それでいいよ。夢が叶えられてないのに、叶った後の話をするってのも野暮だしな。だから、ちょっと記憶に残しとくくらいでいい。ヒオンってやつがいたなぁって、憶えてくれるだけで十分だよ」

「……分かった」

 

 ややあって頷き返したエルタを見て、ヒオンはにかっと笑ってみせた。

 

「おーい。そろそろ出発するぞ。別れの挨拶は済ませたか」

「わっやべっ。はーい! 今からそっちに行きまーす!」

 

 背後からの声に気付き、ヒオンは握っていたエルタの手を慌てて放す。

 第四期団は商人や物流の人間を主に募集している。商業の街バルバレの面目躍如ということだ。ヒオンの他にも数組のキャラバンが出立し、ヒオンはその竜車に乗り込む手筈だった。

 

「それじゃ、新大陸に行けて、そして生き残れたら! 待ってるよ。そんときにはたくさん話を聞かせてくれよな!」

「ああ。元気で」

 

 ヒオンは最後にエルタにそう言って、すぐに振り返ってキャラバンの元へと走っていく。

 涙など見せることもない、さっぱりとした別れ方だった。とてもヒオンらしいとエルタは思った。

 

 そしてエルタもまた、キャラバンが旅立つところまで見届けることはせずに身を翻す。

 怪我はほぼ完治したが、休んでいる間に失われた体力と狩りの感覚を取り戻さなければならない。特製の霊獣の剣斧が完成するまで、闘技場での地道な訓練の日々が再び幕を開ける。

 その次に赴くのはドンドルマの街だ。霊獣キリンの狩猟経験を交渉材料として、古龍観測隊と呼ばれる人々にコンタクトを取りに行く。その次はロックラック。水中での狩りを習得したい。

 

 ヒオンもエルタも、足を止めている暇はない。前に進まずにはいられない。

 バルバレでの数年間は、偶然目的が一致してペアを組んでいただけだ。交わっていたその道が再び別れたというだけの話。ならば、別れを惜しむ理由などないだろう。

 

 二人は、それぞれの行く道を。

 一人は導きの青い星を、一人は遥か古くから続くおとぎ話に駆られて。

 

 互いに、振り返ることはなかった。

 

 

 

 

 

 それからまた、幾年が経って。

 

 クロオビ一式の装備をベリオロス亜種の装備へ、武器を剣斧から穿龍棍へと変えて。

 一度も使われることのない霊獣キリンの剣斧を傍らに置きながら。

 幾多の狩りを積み重ねた少年は、青年となった。

 

 そして、かき集めた情報と僅かな噂を頼りに、いくつもの船を乗り継いで。

 海の都、タンジアへと辿り着く。

 

 

 

 彼の瞳は、遠く遠く。

 海の彼方を見つめていた。

 

 

 

 

 

 そしてさらに、月日が過ぎ去っていく。

 

 

 

 

 

「何事かと思えば、ゾラ・マグダラオスの背中に船が乗っかったぁ?」

「星の船から追加で傷薬と包帯持ってきてくれー! 重症者もけっこういるぞ!」

 

 新大陸調査拠点アステラ。船着き場を併設した流通エリアにて。

 六隻の大型船、それに超巨大古龍まで引き連れての新大陸到着となった第五期団の面々に、四期団以上の人々は昼間から総出で対応に当たっていた。

 どうやら船団の直下の海中から熔山龍ゾラ・マグダラオスが立ち上がって姿を現したらしく、それに伴う船の大揺れで怪我人が出ている。初端から新大陸の洗礼を受けていた。

 

「ヒオン! 司令部から名簿の写しを用意してもらえるか聞いてきてくれ。この状況だと負傷者の数が把握しにくい」

「了解した! 無事な五期団員は怪我人の手当てを手伝ってくれよなー!」

 

 四期団の同期からの頼み事を受けて、医療品を届けに来たヒオンは再び走り出す。工房が作成した金属製の軽鎧がかしゃかしゃと音を立てた。

 司令部では既に上層部による話し合いが行われている頃合いだろうが、掛け合ってみるしかないだろう。調査班リーダー辺りなら聞き入れてくれそうだが……。

 

「ここに、ヒオン・ウィンドウォーカーという名の人はいないだろうか?」

「────ッ」

 

 心臓が跳ねた。咄嗟にその声の主を探す。

 人混みの中で、物資班の道具屋の一人に話しかけていたらしい、その人物は────。

 

「オレを呼んだか? ……現大陸で会ったことはなさそうだが……」

 

 ほんの小さな落胆。けれど、それを表情には出さない。

 ヒオンの方を向いたその青年は、隣に小柄な少女を引き連れていた。少女は背中に双剣を担いでいる。彼女もハンターなのか。

 

「あなたがヒオンか。呼び止めてしまってすまないが、時間は?」

「少しならあるぞ。長話はできないけど」

「それはよかった。その前に自己紹介を……僕の名前はアトラ。こっちにいるのはテハ。どちらもハンターだ。それで、用事と言うのは……これだな」

 

 アトラは懐から竹筒を一つ取り出してヒオンに手渡した。封を切って中を見てみれば、便箋が一枚入っている。

 

「現大陸から船が出る直前に、アストレアという少女からこれを渡されたんだ。知り合いか?」

「いや、その名前に覚えはないけどな……」

「とにかくよかった。こういった文書は検閲が入るから没収されないか心配だったんだ。不謹慎かもしれないが、この騒ぎに少し助けられたよ。内容は読んでいないから安心してほしい」

「分かった。オレも黙っとく。……ここで少し読んでも?」

「バレないとも限らないから、その方がいいかもしれないな」

 

 アトラの後押しもあり、ヒオンはその便箋を取り出した。

 今は忙しいし、別に後で読んでもいいのだが、ヒオンにはどうしてもひとつ気になることがあったのだ。

 

 調査団の厳しい輸入制限を潜り抜けてまで届けられたその便箋。

 しかし、そこに書かれた文章は、とてもあっさりとしたものだった。

 

「…………ん、了解。確かにオレにとってはすごく大事な情報だ。ありがとな、アトラ」

「それはアストレアという子に言うべきだと思うが……どういたしまして」

「じゃ、オレ仕事があるから! これも何かの縁だ、また会ったら話でもしような!」

「ああ」

 

 便箋を竹筒に仕舞って、ヒオンは片手で挨拶して走り去っていく。

 その姿を見送っていた少女が、青年へと声をかけた。

 

「アトラ。彼から大きな感情の揺れを読み取りましたが、その後の行動は手紙を読む前と変わりませんでした」

「それはまあ、強がりってやつだよ。ここだと先輩のハンターだし、しっかりした姿を見せなきゃって思うよな」

「強がり……アトラが私に自身の怪我の状況を正確に伝えないことと同義ですね」

「正論が耳に痛いな。とにかく、あの子の依頼がこなせてよかった。…………本当に、大事な手紙だったみたいだしな」

 

 ヒオンが走っていった方向を、青年もまた見やった。

 二人も余裕をかましてはいられない。早速、無事だった面々でゾラ・マグダラオスの追跡隊が組まれようとしている。二人にもお呼びがかかるだろう。

 古龍渡りの解明を期待された第五期団員としての役割を果たすべく、二人は推薦組と呼ばれる人々の元へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 その日の夜、星の船と呼ばれる崖上の船の、その傍にある展望台にヒオンは訪れていた。

 見物に来た五期団員がいるかもしれないと思ったが、怪我人以外は出払っているか眠っているらしい。周囲に人の姿はいなかった。

 

 満天の星空に覆われて、涼風が吹き抜ける。木々の葉がさわさわと葉擦れの音を立てた。

 展望台に設置されたランプに火をつける。ベンチに腰を下ろして、昼に受け取った便箋を手に取った。

 

 誰もいなくてよかった。

 今なら、どうにか押し殺していた感情を曝け出せる。

 

 途端に、視界が涙で滲んだ。

 

「はは……あいつ、やりやがった」

 

 手に力がこもり、便箋の端がすこし歪む。

 そこに書かれていた内容は────。

 

 

『エルタ・ミストウォーカー

 タンジア近郊の厄海に出現した煉黒龍グラン・ミラオスの討伐任務において殉職。

 死因……グラン・ミラオスの心臓部に降雹斧キリンでの属性解放突きを敢行したことによる、全身火傷及び全身凍傷。

 功績……グラン・ミラオスの右翼破壊、及び討伐

 特記……煉黒龍の討伐を成し遂げた功績に準じ、ハンターランクを5から6へ一段階特進。新設の黒龍祓いの灯台にその名を刻むものとする。

 タンジアハンターズギルドがこれを保証する』

 

 

 正真正銘の伝説を、打ち立てたのだと。

 

「とんでもないことやってくれたなぁ、おまえは……!」

 

 紙面にぽたぽたと涙が零れる。手が震えて、言葉がまともに出てこない。

 ただ、今日くらいは。この夜くらいは泣いてもいいと思った。

 

 いつ、どこで力尽きてもおかしくない旅路だった。

 道のりは途方もなく、それがいつ現れるかも分からず、幼いころの記憶だけを頼りに戦って、戦って、戦い続けて。

 

 その先に、辿り着くものがあったのだと。

 命を燃やして、駆け抜けることができたのだと。

 

「黒龍っておまえ……。しかも……ははっ、その心臓に属性解放突きって。しっかりあの剣斧使ってるし。状況についていけねえよ……」

 

 探しているのは黒龍伝説に出てくる存在ではないと言っていたのはどこのどいつだと、ヒオンは言ってやりたかった。

 それすらも分からないほどに、エルタの追っていた古龍はあやふやなものだったのだ。黒龍をその手で倒すことが道の行く先だったということに、エルタも当事者になってようやく気付いたのだろう。

 

「……文句なしの英雄譚だよ。すごいな、おまえ」

 

 それを伝説と言わずして何というのか。

 不遜な物言いだが、煉黒龍には気の毒なことかもしれない。

 

 太古から蘇ってきて、誰もその姿かたちを知らないままに地上に返り咲けるかと思えば。

 『少女の導きがあった』というよく分からない理由で、その古龍を倒すためだけに十年以上も爪を研ぎ続けた刺客がいたのだから。

 

 二人で狩った霊獣キリン。その素材から作られた剣斧がその最後を担ってくれた。それだけで言葉にできない感情が溢れ出す。

 あの日、泣きながらエルタに訴えかけた言葉は、少しでも彼に届いていただろうか。彼があの日のことを思い出していたようなことがあれば、少しは力になれたかなと思う。

 

 けど、けれど、本当に本心を言葉にするなら。

 

「……死んでほしく、なかったなぁ……」

 

 声を震わせながら、押し殺すように、呟く。

 

 何にも囚われることのなくなった彼と共に、新大陸を駆け回りたかった。

 ここは噂に違わぬ命の宝庫だ。エルタが珍しく口数多く語っていたおとぎ話の古龍たちが()()という、未知の樹海も驚くような場所だから。

 

 あるいは、件の古龍が現れることなく月日が過ぎて。いつの日かヒオンが新大陸から現大陸へ戻るようなことがあったときに、彼の行方を捜して。

 「長い道のりだな」と共に酒を飲むような未来を、思い描いてしまっていた。

 

 それこそ、エルタの言っていた古龍が新大陸に訪れる可能性すら考えていた程で。

 自分が生き残れるような相手かは分からないにしても、間違いなく海を渡って訪れるだろうエルタと共に、その存在に対して生き足搔いてみたかった。

 

 そんな数々の願いは、もう叶うことはない。

 エルタの一人勝ちだ────()()得る()()()()()()()()など、どう言い表せばいいのか。

 

 けれど、それでも。ヒオンは片腕で涙を拭う。

 便箋に書かれた文章には、続きがあった。

 

『この手紙を読んでいるあなたへ

 エルとグラン・ミラオスの戦いの話を聞きたかったら、タンジアからモガの村に来て、この手紙を私に見せること。ここには書ききれません。お墓も案内します。

 ラギア・アストレア』

 

 拙い文字だった。文字を書くことに慣れていないのだろう。けれど、とても一生懸命に書いたことが伝わってきた。

 あのエルタにも、共に戦った仲間がいたのだ。決して彼は孤独なわけではなかった。手紙には書ききれないほどの話を、語り継ぐ誰かがいるのだと。

 

 死ぬわけにはいかなくなった。もともとそのつもりは毛頭ないが、改めてそれを決意する。

 新大陸に骨を埋める覚悟をしろと言われてここに来た。それを違えるつもりはない。しかし現在は、出産や病気といった理由があれば一時的に現大陸へ帰還することができる。

 

 今すぐには流石に不可能だろう。しかし、調査団全体の目標である古龍渡りの謎が解明されて、新大陸の調査がひと段落するような日が来れば。

 

 一時帰還を申請して、彼女の話を聞きに行こう────煉黒龍グラン・ミラオスの迎撃戦記を。エルタというハンターが生きた証を語ってもらおう。

 

「待ってろよ。あの世で酒を飲み交わすのはずっとずっと先だ! オレは生きて、語り切れないくらいの土産話を用意してやるから覚悟しとけ……!」

 

 空を見上げる。遠く遠く、現大陸の向こうまで広がる空の彼方へ。

 涙で頬を濡らし、目元を赤くしていても、最後には不敵に笑ってやるのだ。

 

 それが、ヒオンというハンターの在り方なのだから。

 

 

 

 

 

 

 それは、本編では語られなかった前日譚。

 霧の中と、風の中。真反対の心象世界を歩いていた二人のハンターが偶然道を共にした。

 

 導きはあった。まだ気付きは遠くて、行先も決まっていなかったけれど。

 それでも、駆け抜けていこうとする。

 

 人の歴史、龍の生涯から見れば、ほんの瞬きに過ぎなかったとしても。

 走り続けた先に、何かを掴み取るために。

 

 幼少期から背中を押して、決戦のあの瞬間へと踏み出し、その未来へと託していく。

 

 受け継がれていく、物語だ。

 

 

 

 

 







これにて過去編完結です。読了をありがとうございました。
グラン・ミラオス迎撃戦記としても、この話が本当のラストとなります。本編中ではさらっと出てきた降雹剣キリンの背景が描けてほっとしてます。
本節のタイトルである『月を追う者』はエルタの名前の由来である『月を追いかける者 / エルタ・ロンギ(古ノルド語)』から。この場合における月とは……ですね。
この挨拶も後書きの恒例となりつつありますが、感想や評価をいただけるととても嬉しいです。

さらに、処女作の『こころの狭間』から七年間ほど続けてきたモンスターハンターの創作活動も、この作品で一区切りつける予定です。
その記念として、一枚のイラストを描いていただきました。


【挿絵表示】


『こころの狭間』『とある青年ハンターと「 」少女のお話』『生まれ変わったら竜になりたい女の子とお話しするお話』『グラン・ミラオス迎撃戦記』『氷漬けのリンゴをあなたに』のキャラが登場しています。
他にもキャラはたくさんいるんですけど、とりあえず代表作と呼べるものを。自分にとってかけがえのないひとたちです。

みんな、お疲れさまでした。ありがとう!

私の小説を追いかけてくださった読者の方々も、本当にありがとうございました。

……とか言って、来週に短編を投稿する予定なので、活動止めてないじゃんって話なんですけど。とりあえず、一区切り。それをやっておきたかったんです。
気が向けば、noteか活動報告で思い出話でもするかもしれません。その際はよろしくお願いします。

それでは、長い後書きとなりましたが、改めてありがとうございました!



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