カワルユウキ (送検)
しおりを挟む

隣の席の田中さん
第1話


 

 

誰か、誰でも良いんだ。

 

 

俺を、助けてくれ。

 

 

この、薄暗い部屋の中で一人、孤立無援。

 

 

誰でもいいんだ。

 

 

誰か──

 

 

反抗期の妹が甘え盛りになる方法を、教えてくれぇぇぇぇぇ!!!!

 

 

 

 

 

 

「ふぉぉぉぉぉぉ!?」

 

ドンガラガッシャーン。

 

そんな物音が鳴り響く中、俺の意識は妙な浮遊感からの肩周辺に広がる物凄い衝撃と共に覚醒した。

寝覚めは非常に悪い。そりゃそうだろう。痛みから始まる1日なんてロクなもんじゃない。きっと今日は厄日なんだろうと、俺は痛めた肩を擦りながら、うんと伸びをした。

 

「……それにしても、めちゃくちゃな夢だったな」

 

懐かしい夢を見ていた。

それは壮大で、反抗的な夢。

髪の長い女‥‥‥妹が俺の頭にチョップを敢行し、痛みに蹲った俺を、その鋭い目で蔑む夢。

正夢だと信じたいのだが、可能性とか関係なしにこれは経験に基づく事実なのである。只でさえ完璧にマスターしたハイキックやらカウンターやらを兄にかます始末だ。気をつけなければならない。

人生何が起こるか分からないのが実情だ。あれだけ可愛かった妹は今では反抗期なのか分からない始末。彼女の放つ一撃は何より重く、痛い。

できることなら有無を言わさずハグの刑に処したいところではあるのだが、常識的に考えて戦力差を考えない特攻は自殺行為なので妄想のみに留め、大きなため息を吐いた。

いずれ一泡吹かせたいな、本当に。

 

冗談もそこそこに、現実に戻る。

先程まで見ていた夢に震え、心がヒエッヒエになってしまった俺は改めて今まさに起きている状況を確認するために辺りを見渡す。すると、目の前にはタンス。その上には先程から喧しい音を立てている目覚まし時計。

目覚まし時計程喧しくてかったるいものはないが、今の俺にとっては目覚まし時計の音を止めることよりもかったるい事案があったのだ。

 

 

端的に、寒くて起きるのがかったるい。

 

 

俺は、暫く毛布にくるまりながら倒れ込んだ状態でぼーっとしていた。耳を澄ませば目覚まし時計の喧しい音が聞こえてくるこの状態でぼーっと出来るのは個人的にやばいよ凄いよと自画自賛しつつボソリと一言。

 

「‥‥‥遅刻じゃん」

 

俗に言う寝坊と言う奴だ。

時刻は9時50分。今から急いでいけば、2時間目の途中に学校に着いているのだろうが、直ぐに着替えて、直ぐに外に出られるような準備をしていない俺にはそんな行為無理難題も甚だしい。朝ごはんを食べて、顔を洗って、着替えて、外に出る──ざっと見積もって2時間目の終了に合わせて学校に着くと言った所だろう。

いつでもマイペース。急いだって、焦って忘れ物をするのが俺。はっきり言って、この時間帯で急いでもなんの得にもならないのだ。

 

「‥‥‥よし」

 

先ずは朝ご飯を食べようという決断を脳内会議により決定し、それを遂行するために毛布から出て、目覚ましを止める。

ようやく訪れた静寂に、安堵した俺はうんと伸びをする。朝特有の静けさが俺の鼓膜を襲うと、伸びにより得た快楽がさらに増幅し、俺の幸福指数を増やしていく。やはり朝のこの時間は捨てられないよな‥‥‥なんて思いつつも、この先の顛末を何となく分かっていた俺は、一言。

 

「また、怒られるなぁ」

 

そんなことを独りごちつつ、先ずは朝飯を食べるために、リビングに向かって足を動かすことから始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通学路というものは、一定の時間になると人がすし詰めのようになり、歩行が困難になり、気分を害すことが時としてあるのだが今日、盛大に遅刻をしてしまった俺はそんな苦労を味わう必要もなく、通学路を悠々自適といった心境で歩いていた。

お陰でストレスは多少軽減されている。これぞ遅刻者の特権‥‥‥!学校の僅かな単位を犠牲にすることで得れる‥‥‥特権!!

 

「何時も遅刻寸前で焦ってるのがアホみたいだな」

 

もっと言えば救いようのない馬鹿じゃないか。最後に心の中でそう付け加え、己に対しての評価をマイナスまで落とすと、その後は何も言わずに淡々と、自らの在籍する高校に向かって歩いていった。

校門を潜り、下駄箱に辿り着き、靴を脱ぎ、上履きに履き替えると、先程まで憂鬱だった気持ちが少しだけ引き締まる。俺にとって、上履きを吐くという行為はネクタイを締め直す行為と同じ。学校指定のものを履いたり着たりすることで、これから学校で何かをするというスイッチの切り替えが出来るのだ。

自分のクラスは1階。それ故に階段を上る必要もなく、廊下を歩けば直ぐに自分のクラスのドアがある。

相変わらずの寒さに身を縮こませながら歩き、ストーブのある教室にまで辿り着くと、何の気に留めることも無くガラガラとドアを開いた。

すると、俺に突き刺さるのは遅刻した哀れな少年を文字通り憐れむ細められた目付き。一瞬いじめなのかと軽く疑いたくなるものの、この視線を長年受けてきたからか、心が痛くなったりすることは無い。

人間、物事の事象にはいつか慣れるものだ。受け流し、時にどっしり構えて、物事にぶつかっていくことで人は如何様にも変わっていく。

それは俺も例外ではない。その視線にビクついていた過去の俺はもう居らず、華麗にスルーを敢行しながら前を歩く。

───が。

 

「‥‥‥」

 

敵は視線だけではなかったらしく。

俺の歩く先を邪魔するかのように、仁王立ちで立っている青年はこちらを強い眼差しで見つめている。

否、睨みつけていたという方が正しいか。それだけの力を孕ませた眼差しをこの男───俗に言う腐れ縁、友達はしていたのだから。

 

「‥‥‥どしたの?」

 

目の前に立っていたら先に進めない。試しに肩をトントンと叩いてみたものの微動だにしない。そんな男は、無駄な労力は使いたくない俺にとって相性の悪い部類にある。

そして、俺がこの坊主頭の男を苦手にするもうひとつの理由。それは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北沢啓輔ぇぇぇぇぇぇッ!!!」

 

 

 

 

 

この、馬鹿でかい声だ。

 

いっそのこと、野球場の売り子でもやったらお金を稼げるのではないのかという程の声を間近で聞いた俺は、その声に心底気分を落としつつ自分でも分かるほどのトーンの低さで語りかける。

折角引き締めた気分が、一気に緩んだのだ。

 

「‥‥‥何だよ」

 

「お前を待っていたんだよッ!!さあ!野球をやるぞぉぉぉぉぉッ!!」

 

「ないわー」

 

「何故だァァァァッ!」

 

喧しい。

 

というか、こんな寒い日にキャッチボールなんてしたら体が凍えちまう。運動部でもない俺は寒さに滅法弱いんだからな。果たしてこの目の前で悶えている腐れ縁は今の俺のこの状況をしっかり分かった上でそのような事を言っているのだろうか。

 

「取り敢えず、どいてくれ。席につけないからな」

 

無駄話もそこそこに仁王立ちする男──石崎洋介の脇を歩きながらそう言うと、わなわなと震えた石崎は俺を睨みつけるが否や、指を差して俺に吠える。

 

「‥‥‥俺は、俺は諦めないからな!?覚えてろよ──!?」

 

そう言うが否や、廊下へと出ていってしまった石崎を見送り、『誰がキャッチボールなんてするかボケ』と反抗の意を込めて思いっきりドアを閉める。

こんな日に外遊びを敢行する帰宅部が何処にいるのだと思い切り叫びたい気分になったが、ここには生憎人の目、何より──アイツの目がある。

ただでさえ言い合いになっていたのにこれ以上の喧嘩は不味いと思いドアを閉めるまでに留まったが、本来ならばこれでは済まない。想像の中では、石崎はもっと酷い目にあっているのだ。

 

自分の席である窓際の一番後ろへと向かうとこれまた何やらいい姿勢で、目を瞑り、顔を顰めている女が俺を待っているかの如く座っていた。

その姿はまるで牡丹のようで。怒っているかとでも言わんばかりの態度を見せてもそう見えるのは、他のなんとも言えない彼女の魅力なのだろうということを感じつつ、俺は隣の席へと向かっていった。

 

「.....はは、ダメだこりゃ」

 

向かっていくに連れて、彼女の怒りのオーラが手に取るように分かってくる。今回のあの子の怒りは俗に言う『まじおこ』なのだろう。顰められた眉や、瞑想しているその様子から、そんな怒りがはっきりと伝わってくる。

どうやら、ズルをしてまで安寧を求めた俺に、これ以上の安寧は送らせてくれないらしい。乾いた笑みを浮かべ、背負っていたリュックを机の脇にかけると、やはり、予想通りのひそりとした声が聞こえる。

 

「‥‥‥遅いよ、北沢くん。大遅刻だよ」

 

──さて、俺はこの隣の席で何かを呟き、顔を顰めた少女にどういった対応をしたらよろしいのだろうか。誰か教えてくれ。何ならこのクラスの誰でも良い。模範解答があるのなら教えて欲しい位だ。何せ、今の俺が咄嗟に彼女の怒りを沈める為に浮かんだ策は誠心誠意のDO☆GE★ZA位しかなかったんだからな。

 

「‥‥‥ま、まあ、なんだ。悪かったよ」

 

その言葉に、暫し膠着状態に至っていた俺は改めて考え、練った作戦を敢行するために頭を下げる。

その『怒らせてしまった原因』が何であれ、俺は隣の席の女を怒らせてしまっている。それ故に素直に謝る。そして、謝罪をする。それによって俺自身の評価と好感度をあげる作戦に俺は打って出たのだ。

 

謝罪をした後、席について隣の女を見る。すると、彼女はこちらを見て、少し頬を膨らませて、訝しげな表情を作る。

──おい、俺。その表情に対して威圧がないとか可愛いかよ、とか言ってくれんなよ。頼むから滑らすなよ、俺のお口。

 

「今回で3回目だよ、そう言うの───本当に大丈夫なの?」

 

「仏の顔も三度まで、だろ?大丈夫。俺は山よりも高く谷よりも深く反省しているから」

 

「‥‥‥なら良いんだけど」

 

そうかそうか、分かってくれたか。

物分りの良い友達を持てて、俺は幸せだ。人間、人付き合いが大事とか言うが、改めてその言葉の意味がわかった気がする。

理解者に、可愛い女の子。そんな2つの役を1人で何もかもやってのけてくれるこの子は流石演劇部と言うべきなのか。若しくは、神と形容すべきなのか。

兎に角理解してくれる存在のありがたみを知った俺は、その女の子に対して心の中で深く感謝を行い、崇め奉った──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、隣の席の理解者の理解を得たところで、俺のルーチンワークを速やかに敢行しよう。

手始めに惰眠。2度目に惰眠。極めつけに惰眠のトリプルスリープが俺のルーチンワーク。人というものは睡眠が大事ということをよく聞く。ならば必要に応じて睡眠を摂るのは良いこと。

そして、全身の力を抜いて、3秒机に突っ伏すという惰眠のコツを持っている俺にとって睡眠は容易いこと。依然として睨みつけてくる田中がいるのは俺にとっての懸念材料ではあるのだが、目先の快楽を貪りたいと考えている俺にとっては、この程度の懸念材料では止まることは無い。

その光景を後目にノートを取り終わった俺は目を瞑り、机へとダイブする。

 

 

 

 

 

その勢いのまま、惰眠を──

 

 

 

 

 

 

 

 

「──痛゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!」

 

突如として鋭いチョップが俺の後頭部を襲う。おのれ、敵襲か。まあ、この際どちらでも良い。問題は『誰が何の因果で俺を襲ったのか』なのだから。

 

痛みに悶えていた俺は立ち上がり、周りを見渡し声を上げる。恥も外聞もない。今の俺の頭の中にはチョップをした奴に対しての恨みしかなかったのだからな。

 

「誰じゃい!石崎か!それともそこのお前かぁぁぁぁ!」

 

「隣だよ!?角度と今の今までの会話で分かるよね!?」

 

と、俺がそう言って辺りを隈無く見渡すと隣の席の『田中』さんがその声に呼応し、大きな声を上げる。

ふむ、確かにそれもそうだったな。現に周りに誰もいなかったろうし。そもそもの話、俺はこの子と石崎以外にチョップをされるような恨みも友情も買ってない。先程の会話を鑑みたとしても、田中が俺にチョップを敢行したのは明白である。

ならば、何故この女は俺にチョップをかましたのか。それが問題であり、今の俺が考えるべきプライオリティでもあった。

 

「で、どうしたんだ田中」

 

俺が先程とは打って変わってあくまで冷静にそう尋ねると、隣人───クラス1のしっかり者と言っても過言ではない女の子はわなわなと体を震わせて俺を睨みつける。

 

「どうしたもこうしたもないよ、北沢くん‥‥‥北沢くん!」

 

「はい、北沢です」

 

「2時限目まで堂々と休んでいたんだよ!?このままじゃ留年しちゃうよ!ノートくらい取ろうよ‥‥‥北沢くん!!」

 

「へ、へい‥‥‥」

 

怒りながら、とっととノートを写せとチョップの体制をとり目で命令する田中。それを見た俺こと『北沢啓輔』は田中に告げられた怒涛の北沢連呼にひいひい言いながら板書きに書いてある内容を書き移そうとノートを取り出しながら弁解する。

 

「今日も悪いな‥‥‥反省はしているんだよ、これでも」

 

「その言葉はもう聞き飽きたよ‥‥‥惰眠はまだ良いとして、遅刻は本当にダメだよ?このままじゃ社会に出ても寝坊するようなダメな人になっちゃうから」

 

「うぐ‥‥‥痛いところを突いてくるじゃあないか。田中のくせに生意気だぞ!」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるか分からない」

 

田中琴葉。

2年次のクラス分けで希しくも同じクラスの隣同士になったしっかり者の女の子。

まともな交流は2年次からという浅い付き合いではあるのだが、初対面である筈のコミュニケーションから何かと俺に世話を焼いてくれる女の子である。

この子の中で、俺が一体どういう存在になっているのかは気になるところではあるが今はそれどころでは無い。ノートを取り、ご厚意をご厚意として受け取らなければ田中のチョップが俺の頭を2度殺すだろう。

そんな想いから真面目にノートを取りつつ、田中の言葉に空返事を重ねていると、不意に田中が頭を抱える。

はて、どうしたのだろうか‥‥‥俺、また何かやっちゃいました?

 

「このやり取りを何度もやってる自分が憎たらしい‥‥‥」

 

案の定、俺が原因だったらしい。何度も何度も重ねる遅刻。進言しては繰り返される空返事。例え俺が田中の立場だとしても、同じ反応をするであろう。

ただ、冬も近付いている11月は本当に寒いんだ。寒い故に起きるのも遅くなってしまう。

その気持ちも察して欲しいのが本音ではあるのだが。

 

「分かってくれ田中‥‥‥今、俺は生命の危機に瀕しているんだ。凍死というかなり深刻な危機にな‥‥‥」

 

「‥‥‥なら、身体中にポッカイロとか貼ったりして寒さを凌げば良いのに」

 

「馬鹿かお前、のぼせ死ぬぞ」

 

ああ、そういえばお前って真面目故にポンコツなところが多々あるよな、はっはー‥‥‥と内心で大笑いをしていると、田中の瞳が一気に細められる。

その瞳は、呆れでもジト目でもない。まるで視線で殺すかのように細められた瞳で──

 

「何か言った?」

 

「明日からポッカイロ体全体に貼り付けて登校します」

 

「そして遅刻もしない‥‥‥仏の顔も3度まで、ちゃんと聞いたからね」

 

「謝るから許して」

 

1年前からそうだ。

奴の怒った時の目には鋭いナイフでも宿ってるのかというくらいの眼光が光り、思わず寒気がする。これが彼女の武器だとは思わないが、その睨みは俺を震わせるには充分で、その目と言葉に俺は机に頭を擦り付け、平伏の姿勢を取った。

 

「北沢くんに今1番必要なのは、学力でもなければ運動神経でもない‥‥‥朝早くから起きる習慣なのかも」

 

「‥‥‥それは違うな。今の俺にはとある『成分』が足りないんだ‥‥‥そう、惰眠成分という今の俺にうってつけの成分がな」

 

「必要なのは学力だよ。後、夜の睡眠‥‥‥遅刻をしないように目覚ましを付けたりする『習慣』こそ、今の北沢くんに必要なものだと思うな」

 

「そんなこと言うならお電話かけてモーニングコールでもしてくれよ。メアド教えるからさ」

 

そうだ。

そもそもの話、田中がチョップをかまさなければ俺は遅刻した時に恐怖に怯え、ビクビク登校する必要も無かったのだ。

それならばこの田中琴葉という女の子に責任を取ってもらえば良い──そこまで考えて携帯を取り出し、携帯番号を見せようとすると、その手を掴まれ、それなりの力で握られる。

 

「おいおい、田中さんよ。手ぇ握っちゃってますぜ。恥ずかしくないんですかい‥‥‥え、ちょっと。本当にやめてくれません?力入ってるから!痛いからっ!」

 

「‥‥‥学校内でスマートフォンを使ってはいけません」

 

「‥‥‥ふ、ふふっ!田中、俺はスリルを体験したいんだ。何時、何処で先生が見ているかどうか分からない、この荒野の中で‥‥‥!」

 

「さっきから言っている意味が分からないけど、北沢くんが馬鹿でしょうもない遅刻魔って言うのははっきり分かったよ‥‥‥!」

 

「ぐおぁぉあ!?」

 

更に入れられた強い力に悶え、遂にスマホを手放すと、田中は俺からスマホを取り上げて引き出しに入れられる。

そして、一言。

 

「次、スマホを動かす素振りを見せたらもれなくスマホが壊れます。それでも見ようとするなら北沢くんの骨に───」

 

「ぼ、僕のお骨どうなっちゃうんでせうか.....」

 

「ヒビが入ります」

 

「誰か助けて!!」

 

間髪入れずに言われた田中の言葉に俺は助けを求める。彼女は『やる』と言ったら『やる』子だ。少なくとも約束や宣言を破るような『悪い子』ではないということを俺は知っている。

連絡ツール&大事な骨かプライド。今の俺に必要なものは何かと言えば、それは勿論最愛の家族と連絡を取るための連絡ツールに決まっている。

必要なのは、恥を捨て田中に泣きつく覚悟だ。

今の俺には、それが必要とされている。

 

「‥‥‥田中、悪かった。悪かったからっ‥‥‥お願いだからスマホだけは!家族と‥‥‥家族と連絡が取れなくなっちゃう!俺1人じゃ死んじゃうから!」

 

しかし、そんな行為気にも留めなかった田中は相も変わらず冷たい眼差しで、呟く。

 

「次やったら‥‥‥本気でやるからね」

 

「は、はい‥‥‥はいっ!」

 

次やったら───。

 

その言葉は俺を恐慌状態に陥れ、今日1日スマホを触れないという地獄にも陥れる一言。

そんな言葉に、俺はただひたすら首を縦に振り、田中はそんな俺の情けない姿に胡乱な表情を向ける。

その表情を見た俺は、感謝と怒りの狭間で立ち竦み、一種のジレンマに陥っていたのだろう。田中から目を背け、大きくため息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺、啓輔という人間について少しだけ確認と説明をしようと思う。

家族構成が妹と弟と母親の4人暮らしで、良くも悪くも素直。そんな家庭の中で、唯一と言っていいのか、俺という存在は性格がひねくれてしまっている。

何せ、高校入ってから3年生まで部活は未経験、時々遅刻はする。それでいて田中のような女の子を怒らせてしまうという悪行をこなしてしまっているのだ。そんな奴が『良い子』な訳が無いし、恐らく今後もなるつもりはない。

そんな俺は、俗に言う『不良生徒』とか言う奴なのだろうということを自覚している。まあ、これくらいで不良生徒とか他の奴らから見たら片腹痛い所だろうが俺が通っている学校からしたらこんな奴でも不良生徒認定されてしまう。何せ、不良が1人もいないからな。ちょっと悪いことをしてしまえば、直ぐに目立ってしまうのだ。

 

友達が少ないというのも、俺を不良生徒たらしめている原因だろう。高校入ってからまともに話した人間が石崎と田中くらいしかいない。クラスメイトには挨拶をする程度。勿論、挨拶するだけの関係など友達とは言えないだろう。そうなると俺の友達は田中と石崎という野球部エースだけになる。

 

まあ、何が言いたいのかというと。

 

片や野球部エース、片や委員長の俗に言う人気者としか深い付き合いのない不良生徒の俺が授業で孤立すんのはそれなりに分かっていることであって。

 

 

 

3時間目───

 

 

俺にとっては1時間目と形容してもおかしくないその時間。体育を受ける羽目になる俺は、殆どの時間独りでぬぼーっとすることを強いられているという事だ。

 

「‥‥‥」

 

白球が金属バットに当たる甲高い音が聞こえると、ボールはふわりと外野に向かって飛んでいく。ポジションの関係で俺は外野にいるため、捕球体制に入ろうと身体を動かしたが、それは杞憂に終わる。

俺の立ち位置はレフト。その一方でボールが飛んだのはライト。要するに、体育の授業でレフトに出来ることなんざ持ち場に飛んだボールをキャッチすることくらいしかないため、やることは何も無かったのだ。

ライトがバンザイして、ボールをキャッチし損ねる様を見てパチパチと手を2回叩くと、もう一度バッターボックスの方を見て、大きなため息を吐いた。

 

今現在の競技は、野球。

ズバリ、ピンポイントで俺の大嫌いな球技だった。

 

ここで誰に語るまでもない自分語りをしようと思うのだが、俺は野球という球技がとてつもなく嫌いだ。その原因は、ただ単純に俺という人間が白いボールを追っかけることが嫌だったり、腐れ縁がいちいち誘ってきたり、軽ーくトラウマってたりと様々な要因が絡み合って出来上がった野球に対する負のイメージ。

なんというか、身体が受け付けないのだ。今ではボールも見たくないし、出来ることなら保健室の女教師のお世話になっていたいのだが、物は試しと試してみた結果体温計を差し出され、結果が平熱なもんだったから文字通り、外に叩き出された。

あの先生がいる限り、保健室でサボるのは許されることはなさそうである。尤も、サボってしまうと成績下降の一途を辿るので、何度も何度もサボる訳にはいかないのだが。

 

さて。俺自身が体育という競技にしっかり向き合おうと決意し、嫌々ながらもバッターボックスを見遣ると、視界に俺に向かって走る男の姿が入った。

その姿は、まるでフライボールを追いかけて走るひたむきな野球少年のようで、その姿に見とれているとその男が俺を指差し、叫ぶ。

 

「上!!」

 

何やら必死げにそう叫んだ男の指示を、俺は話半分で聞き流していたつもりだった。理由は簡単、たった今男の子がバンザイしたボールを捕球したばかりなのにボールが俺の上を飛んでいる訳がない。

しかし、条件反射とは怖いもので。

その声に反射的に反応してしまった俺は、その声の指すがままに上を向いてしまう。

すると、視界1杯に広がったのはまっさらな空。

悪い予感がした俺は、その空を見た瞬間にすぐ視界を前に切り替える。

すると──

 

 

「‥‥‥うおおおお!?」

 

不意に風を切る音が聞こえた俺は咄嗟に前を見る。するとそこには眼前にまで迫ったボールが。

このままでは顔面直撃からの保健室行き一直線。折角授業を受けようと決意して間もないのにこのまま保健室は嫌だと思った俺は、持ち前の反射神経で唐突にやってきた白いボールを掌で掴む。やけに勢いのある『石』のような直球が掌を直撃し、やけに痛い。

 

その白球はまるで幼年期に受けたボールのようで──

 

なんて頭でどうしようもないことを考えながら、ボールの飛んできた方向を睨むともう1発。今度はグローブが飛んで来る。

 

 いくらなんでもかなりのスピードで飛んできたグローブなんぞを俺が片手で受け止められるはずもなく、為す術もなく見事にそれを顔面にくらい、倒れ込む。

 

鼻に鈍痛が走ったのだ。

 

「痛あああい!!誰か保健室!保健室に俺を連れてって!あわよくばサボるから!やった!これで3時間目休めんじゃん!!」

 

「本音がダダ漏れだぞ啓輔」

 

自覚がないがバッチリ声に出てたらしい。グローブが飛んできた方向。後ろに目を見やると、そこには俺のマイ腐れ縁、石崎がそこにいた。

彼は呆れた表情で小さくため息を吐き、俺を見下ろす。その姿にふつふつとフラストレーションを貯めつつも、結局怒ったところでなんの意味もないということを悟り──小さく息を吐いた。

 

「‥‥‥安心しろ腐れ縁、そんな法螺を吹いたところで、誰も俺なんぞを助けちゃくれねえんからな」

 

「あちゃー、それ自分で言っちゃうかぁ‥‥‥」

 

あぱー、と額を手でぽんと叩く石崎を尻目に俺は自力で立ち上がると諸悪の根源、石崎を睨み付ける。

 

「グローブを投げるんじゃありません。学校の備品だからって粗雑に扱うなよクソピッチャー」

 

「おー、すまねーな。何かムカつく顔が欠伸をしてたもんだからよ‥‥‥思わずグローブ投げちまったよ」

 

「あ゛?」

 

「お?やんのかゴラ」

 

お互いがお互いを睨みつける。しかし、そんな行為が無駄極まりない行為だということは俺も石崎も分かっていることであり──金属バットがボールを貫く甲高い音が聞こえると、1連の行為に何かを感じた石崎が大きくため息を吐いて、『やれやれ』と首を横に振る。

その様はまるで小洒落た道化師みたいで哀れ‥‥‥ゲフンゲフン、滑稽だった。

 

「はいはいゴメンね。というわけでキャッチボールでもしようぜ、どーせお前のところにボールなんてなかなか飛んでこないんだからよ」

 

「何故謝罪の言葉からキャッチボールの勧誘に話が飛ぶ」

 

「そんなことはもう決まっている‥‥‥そこにキャッチボールがあるからだッ!!」

 

カッコつけて何かを言ったところで肝心の石崎がカッコよくないのだから仕方ない。

悲しいかな、漫画の主人公のような言葉を誰かが使ったとして、それをカッコイイと思わせられるのは本当に極小数の人間のみだ。おまけに会話のセレクトもそんなに格好良くなかったため石崎の発言の威力は半減。たった今、俺の野球に対してのやる気がマイナスを突っ切ってしまった。

と、いうわけで──というのには些か無理があるのだが、兎に角キャッチボールをしたくなかった俺は石崎の目を見ながら、右肩を左手で抑えて一言。

 

「ごめん、俺肩関節脱臼しててさ」

 

「さっきまで準備運動元気にこなしてたじゃねえかよ」

 

む。流石に野球をやって、かつ普通に投げていたのに肩関節の脱臼は無理があったか。

ならば──と足首を抑えると苦悶に満ちた表情を作りながら、もう一声。

 

「足首を捻ったんだ」

 

「や、お前普通にランニングしてたじゃん‥‥‥つーかお前。普通に野球やりたくないだけだろ!?」

 

野郎。

流石腐れ縁だ。俺のやるべき事を全て読んでやがる。それとも単純に俺が分かりやすいだけなのか。

俺が思うに後者だとは思うが、正直それはどうでもいい。

今の俺のやるべき事は、とにかく石崎の『野球やろうぜ!』攻撃をかわし、平穏な3時限目を営むことなんだからな。

 

「兎に角俺はキャッチボールはしない。お前みたいな野球バカとキャッチボールするなら惰眠を貪っていた方がマシだ」

 

そう言って石崎を追い払おうとすると、その言葉に憤慨した石崎は顔を赤くして俺に接近してきた。胸ぐらを掴みかねない勢いで俺の元へ近寄ると、先程までミットを嵌めていた手の人差し指で俺の頬をグリグリと押し込む。

痛い、後ちょっと臭い。

 

「野球バカじゃねえよ!お前が野球に異常な程の嫌悪感を示してるからそう見えんだろ!?」

 

「異常なのはお前だ。後、指で俺の頬をグリグリすんな‥‥‥くっさ」

 

「よし言いやがったなテメェ!!表出ろ!!その腐ったパンツに風穴空けてやるからよ!」

 

「‥‥‥喧嘩売ってんのか?良いぜ、その喧嘩受けてやるよ」

 

まさに臨戦態勢。

俺は、白球とグローブを手に。石崎は何処で拾ったのか分からないテニスボールを片手にして、睨みつけあうその姿にギャラリーはいない。

普通に次の打者がバットをボールに当てている時点で俺たちの存在など気にも留めていないのだろう。それはそれで悲しいものがあるが、決して悪いことだらけではない。今のこの状況に集中出来るのは、決して悪いことじゃないんだからな。

 

気を取り直した俺は、にじみよる石崎を牽制すべくボールを投げるフリをしながら、フェイクも交えて近寄っていく。

その距離、20センチメートル。

野球というスポーツがデスマッチへと変貌してしまう可能性を孕む喧嘩が勃発しようとしたその時。

 

 

それの終わりは、唐突に発された1つの声からであった。

 

 

 

 

 

「お前ら‥‥‥」

 

野太く低い、ハスキーボイス。

俺も石崎も知っている、体育教師の声を聞いた途端背筋がぴくりと動く。この声は、俺が体育の時間に『最も』危惧しているもの。

振り向いたら非情な宣告をされる未来が見えてしまう。気付けば石崎はプルプルガタガタ震えてやがる。よ、よお。さっきまでの威勢はどうした石崎よ。足なんてぷるぷる震わせちまって。意気地がねえじゃねえか、ええ!?

 

「随分と元気だなぁ、北沢」

 

ハスキーボイスの矛先が俺へと向かう。矛先が俺へと向かったことに味を占めたのか片手でカッツポーズを敢行した石崎を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、必死に我慢して後ろを向く。

鬼のような形相をした体育教師を相手取り、腰が引けつつも、俺は口角をひたすら上げながら詭弁を吐いた。

 

「か、風邪気味なんですよ俺。さっきから鼻詰まりがやべぇっす」

 

「せんせー、コイツさっきまで元気っしたー」

 

「石崎ィ!!」

 

しかし、そんな努力は石崎の一言によって水泡に帰す。そもそも俺の発言でどうにかなるという問題ではなかったのだが、風邪かどうかということを先生が信じるか否かで今後の対応も変わってくるというもの。

嘘を見抜かれてしまった俺には、相応の罰走が待っているだろう。

主に石崎のせいで。

 

依然として先生の怒りは収まらない。先程まで口笛を吹いてよそ見をしていた石崎を睨みつけると、先生はその怒りの表情から無理くり笑みを作った。

不動明王が、笑ったような気がした。

 

「‥‥‥そういうお前こそ、いつまで経っても備品を大事にしないなぁ石崎」

 

「や、やだなぁもう!僕このグローブ大好きなんですよ!何処がって......うん、そこはかとない素朴な感じが良いよね!」

 

「へっ」

 

「鼻で笑うんじゃねえよ啓輔ぇ!!」

 

どの口がそういうことを言うのか。備品を投げ、あまつさえそれをデスマッチに使おうとしたお前は最早俺と同類。先生にそれを見られた時点で、その綺麗事も通用しない。

余計な言い逃れはやめた方が懸命である。

 

「大体テメエはいつもそうだ!先ず私生活がノーコン!ちょっとはやる気出せよムラッ気野郎!!」

 

「直球が上擦る奴には言われたくねえよ。ああ、お前美人の女の子と話す時も声が上擦るよな。マネージャーに水貰う時、声を上擦らせないで『頂戴』って言えるようになったか?」

 

「あ!?」

 

「ノーコンなのはお前のボイスだってんだよ‥‥‥ノーコンボイス」

 

「あ゛ぁ!?」

 

1度は消えかけた火が今一度再燃する。

売り言葉に買い言葉という表現がまさに正しい一言で石崎に暴言を吐くと、それに負けず劣らずの罵声を石崎は俺に浴びせる。

俺達の喧嘩は、最早自分たちでは収めることのできない末期症状と化していたのだ。

 

「ふ、ふふふふふふ」

 

そして、俺達の罵声の浴びせ合いを目の前で見ていた鬼教か...体育教師は顔を引きつらせて笑う。

その表情は最早笑みが笑みではないと表現出来るなんとも言えない表情で。

そんな表情を浮かべた体育教師は俺たちを一瞥し、一言────

 

「お前ら2人とも走ってこい!!」

 

「すいませんでした」

 

「了解です」

 

俺達に罰走を言い渡した。

体育の授業の時はいつもこれだ。

先生に怒られて、俺と石崎が喧嘩して言葉という名前のブーメランを飛ばしまくる。

 

そして、怒られて走る───

 

「テメェのせいだからな啓輔!!」

 

「容易くブーメラン投げてんじゃねえ!!お前のせいでもあるだろうがァ!!」

 

「口より先に足を動かせこの不良生徒共がァ!!」

 

先生の怒鳴り声を号砲に見立て、俺達は周囲の目線をいなすかの如く、ランニングを始めた。誰の目を気にすることも無く、頭に浮かぶ限りの罵倒と文句を口に出しながら。

 

 

 

俺、北沢啓輔と腐れ縁、石崎洋介。

進学校に通う俺達がどうしてこんな低レベルな喧嘩をしているのかは俺達には知る由もない。

 

ただ1つ、確かなことはあって。

それは、俺と俺の隣を走る腐れ縁は楽しい楽しい体育の時間を無駄走りなんかに費やしてしまうどうしようもない『馬鹿』だということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「起きなさい!!」

 

「んごぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!?!?!?」

 

舞台はまたしても教室。

体育の疲労が原因でまたしても教室で惰眠を貪っていると隣の席の田中さんの声と同時に、条件反射で身体がピクリと動く。

田中さんの声で俺が起きれたのは、俺自身の眠りが浅かったからなのか。もしくはパプロフの犬の法則が田中さんの声によって成立してしまっているのか。

それは俺には分からず。

どうやら学校の中に俺の安住の地はないらしい──なんてことを悟りながら、意識も虚ろに俺は田中に言葉を返そうと口を動かした。

 

「勘弁してくださいよ田中さん。俺は今猛烈に眠いんだ‥‥‥どこかのバカのせいでな」

 

嘘じゃあない。

尤も、石崎のことがバカになるのなら、それは例に漏れずに俺自身もバカの部類に入るのだろう。これぞ、自分のことを棚上げすると言うのだろう。そこにプライドは無いのかと言われれば‥‥‥うん、ないな。

そんなバカに加えてプライドも皆無な俺を田中は若干哀れみの目付きで見やる。言っておくが俺はこれしきのことで興奮なんてしないんだからな。

 

「‥‥‥それ、どっちもどっちの気がするのは考え過ぎ、かな?」

 

「ビンゴ!」

 

「北沢くん‥‥‥」

 

呆れたような表情で俺を見る田中の心境を察するには些か読解力のない俺ではあったのだが、果たして田中が俺に対して何を思っているのか。それはその後の言葉で理解をすることになる。

 

「北沢くん、貴方さっきから惰眠ばかり貪ってるけれど、本当に大学受験をしようと思ってるの?」

 

「いきなりなんでしょうか、田中さん怖い」

 

「いきなりもなにもないよ。このままじゃ色々大変になるよ?」

 

手厳しい一言をいとも簡単に発してくれる田中さん。そして、それを目の当たりにした俺は、今まで自分の行ってきた行動を振り返る。

今までの俺は、部活という部活をやった試しがなく俗に言う帰宅部とかいうやつをやっていた。それでも、自堕落に暮らしを送っていた訳ではなくそれなりに参考書を見て勉強したり、無闇矢鱈に面接やら小論文やらのノウハウが書いてある本を見たりと受験生としての行動は取ってきた。

しかし、最近は冬ということもあり若干の停滞期‥‥‥要するにおさぼりが多くなってきたのも事実。

確かに怠けていた。それは事実。謝らなければな。

 

「すまん、これからはもうちょっと頑張ってみるよ」

 

男に二言はなしとはよく言ったもので、実際に口に出してしまうと『やらなければ』という想いに駆られることが時としてある。

否、これは寧ろ人として当たり前のことなのかもしれないが俺にとっては物珍しい。普段からぐーたらしている俺からしたら、こういった言葉を発すること自体が稀なのだ。

 

それ故か。そんなぐーたら星人の突然の意思表明を聞くことになったクラス委員長は、先程から何やら呆気に取られたかのような顔をしていた。

 

「.....意外だなぁ、まさか北沢くんからそんな言葉を聞くなんて」

 

「俺だってやる時はやるよ。要はエンジンがかかるのが遅い馬鹿ってだけでな」

 

俗に言うスロースターターって奴だ。まあ、目の前のしっかり者にそんなことを抜かした暁には勿論その子は何時ものようなジト目で───

 

「その癖を何とかした方がいいんじゃないかな‥‥‥」

 

そんなことを言われるわけで。やっぱり俺はこの女の子には敵わないということを強く認識する。

こういう女の子なのだ。何処までも真面目で、毅然としている田中。そんな女の子にとって俗に言うところの不良生徒である俺は注意し、目を引く存在。他の奴らよりも怒られる比率が多いことは分かっているのだ。

とはいえ、俺は今のこのスタイルを変える気はない。

何故かって、これが気楽だから。わざわざスタイルを変えてまで田中と付き合って行こうだなんて思っちゃいないし、媚を売るつもりもない。

あくまで俺は俺。

それが俺のスタイルであり、信条。

 

そして、そんな信条を胸に、今日も今日とて北沢啓輔は気楽に生きていく。

なあなあに一日を受け流していきたいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

とはいえ、流石にこの場面は何かを言っておかなければならないだろう。この場面で黙って惰眠とかキメたら確実にシバかれるし。例え誰が俺の事を馬鹿と宣おうが構わない。しかし、ここで黙ってシバかれてドM認定されるのだけは御免だ。

そんな意思から、俺の口は自然と言いたいことを言うように、紡がれていく。

その言葉は、意欲と誠意を同時にそこはかとなく見せることの出来る魔法のような言葉。そして、無理せずにストレスを溜めることもない素晴らしい言葉。

 

そんな俺の懸命な詭弁は──

 

「あ、明日やるよっ!」

 

「明日やろうは馬鹿野郎って言葉知ってる?きっと今の北沢くんにぴったりだと思うよ」

 

何時ものように、田中琴葉に弾き飛ばされたのだった。

 

 

 

 

 

 




8/18 台詞の語尾修正
2020.5/22 台詞、語尾、地の文などの表現描写を修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話

 

俺と田中との邂逅を改めて考えてみると、なんとも情けない姿を見せた──というのが最初に来る感想だった。

何せ、俺はあの日──入学式という大事な日に大遅刻をかますという殊更学生がやってはいけないことを犯してしまったのだから。

 

『いっけねぇ、やっちまいましたぜ‥‥‥』なんて言葉を内心に留めながら指定された自分の席に向かうと、隣の席から声が聴こえる。

 

『遅刻だよ』

 

『ひっ!?』

 

田中さん。

──彼女の誠実さや可愛さなんかを腐れ縁に延々と聞かされていたため、ある程度の予備知識は持っていた俺ではあったが、それは急に話しかけられて平然と答えを返せる力にはならない。

不良生徒である俺を叱った田中。

その声に肩を跳ね上げ、隣を見た俺。

そんな俺と田中の行動がほぼ数コンマの時間で起こったその瞬間、視線は交錯し、俺は田中の整った顔立ちを見ることになったのだった。

 

 

 

 

ファーストコンタクトにしちゃ、カッコつかないだろ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生において、目覚めというものは肝心なものだと俺は思っている。その日に始まる人間生活で、1番初めに行うものは目を覚まし、体を起こすこと。その時の気分により、今日1日の生活も決まるものだ。

気分が良ければ、外に出ようと思う。

気分が悪ければ、体温計を持ってきて熱を測る。

眠ければ、更なる安息を得ようとする。

トイレに行きたけりゃ、用を足しにいく。

 

人の気分により、目覚めは多種多様。選べるのならば、やっぱり気分が良い目覚めを選びたい。

かくいう考えもあって、今日も今日とて、俺は快適な睡眠もとい惰眠を貪っていたのだが──

 

 

 

「あああああ!」

 

 

 

そんな俺の今日の惰眠の目覚めは、あれだ。

 

そう、急にポケットに忍ばせた携帯の振動による目覚めだった。

何がとは言わないが、変なところに振動が当たってしまい、俺は睡眠を思わぬ形で、そして最悪の形で妨害される。

 

「!?」

 

振動により、情けない声を出した俺の隣で勉強をしていた田中が肩を跳ねあげてこちらを見る。うん、何だろう、意外と恥ずかしい。というか、スマホのバイブで情けない声を出してしまう俺、物凄くだっせえ。

 

「ど‥‥‥どうしたの北沢くん?」

 

何はともあれ、そんな俺を隣の席の田中さんが心配しつつも訝しげな表情を浮かべてこちらを見て、尋ねているのだ。ここはしっかり反応───もとい弁解をしなければ、俺のメンツに関わるってもんだろう。

大体、弁解しなきゃ勉強してた田中さんに失礼だろ.....そんなことを頭の隅っこで考えながら、俺は遠慮気味にポケットを指さす。

 

「‥‥‥何かポケットから振動が」

 

「マナーモードにした方がいいよ.....?」

 

「すまん、迂闊だった」

 

指さした方向が生憎名状し難い所だった事に後から気付いた俺は少し呆れ気味な声色でそう言った田中に謝罪の意味を込めて盛大に机に頭をぶつける。その間にもバイブはまだ動いている。しつこいぞバイブ。空気読めよバイブさん。

 

そう言って何気なくスマホを取り出そうとして、気付く───

 

『次、スマホを見せる素振りを見せたらもれなくスマホが壊れます。それでも見ようとするなら貴方の骨に───』

 

ヒビが入る。その恐怖的な一言を忘れる程、俺の記憶力はそこまで悪くない。

田中のチョップは華奢な身体の割に合わず、鋭く、重い。そんな田中のチョップで物理的に骨を折られてしまったら色々生活が不自由なことになったり、色々大変になっちまうだろう。

ヤバイよヤバイよ‥‥‥なんて慌てているのかどうかすらも分からない思考を重ねていると、田中がぽつりと一言。

 

「‥‥‥まだ振動、止まらないの?」

 

「え、えっと‥‥‥ほら、ほっとけば治まるだろ」

 

「そうかな‥‥‥」

 

「お、おう!きっと、多分、恐らく、めいびー‥‥‥」

 

しかし、依然として着信音は止まない。持ち主の性格に似てしまったのか、空気を読まない俺のスマホは依然として着信音を鳴らし続けている。

制服のポケットから伝わる微細な振動も、俺にとっては煩わしいことこの上なく、その振動と音に次第にフラストレーションを溜めていると、田中の訝しげに細められた目が俺を捉えた。

 

「本当に?」

 

「‥‥‥可能性は、限りなく薄いな」

 

「早く出てあげた方が良いと思う」

 

「ごめんな、本当にごめんな」

 

ポケットでまだ振動が治まらない中、俺は田中という女の子に女王様よろしく媚びへつらう事を決心し、潔く頭を下げた。

土下座外交も吃驚の弱腰な態度と媚び方である。ここで気の強い輩なら『スマフォくらい使わせろやぁ!アアン!?』みたいに脅迫出来るんだろうが、俺にはそんな強さも度胸も趣味もない。

故に、見る方も思わず軽蔑するような眼差しを向けるだろう勢いで頭を下げたわけなのだが、どうにも田中の表情は明るい。

天使のような慈愛の篭った笑みに、不信感を抱きつつも田中を見つめる。すると、左手の人差し指を唇に添えた田中が俺を見て、一言。

 

「急な電話だと良くないから、出て良いよ。先生が来たら誤魔化しといて上げる」

 

「田中ァ‥‥‥!?」

 

神を見た。

天使を見た。

そんな言葉で表現したとしても、恐らくし足りないであろう田中の慈愛に俺の心は盛大に高鳴り、感謝の言葉がつらつらと頭の中から湧いてくる。

 

そうだ。

いつもチョップをぶち込まれているからかやることなすこと厳しさの先行する田中ではあるのだが、その実心根は優しいのだ。

 

 

「うう‥‥‥ありがとう、ありがとう‥‥‥!」

 

意外性の塊としか思えない田中の一言に俺が泣きながら田中に感謝を告げると、田中はいつも通りの声色で俺に諭す。

 

「...別に良いから早く電話に出てあげなさい」

 

「.....それもそうだな」

 

 諸悪の根源であるバイブは今後、マナーモードにするとか対策を練ることにして、今は目の前で起きている事案について対処をしなければならない。

 そうこうしている間にもスマホは俺のポケットで暴れている。痺れを切らした俺は、勢いで電話に出ることで心に溜まった鬱憤を晴らそうとする。

 

 「悪徳商法と!オレオレ詐欺は通用しねえからなぁ!?」

 

『......何言ってるの兄さん』

 

 おっと、急いでしまっていて誰の着信だか忘れてしまっていた。そうだ───コミュニケーションアプリ『LIME』で俺に電話をかけてくれる人物といいこのタイミングでの電話といいかかってくるのはただ1人ではないか。

 

 「おお、どうしたんだ我が愛しのシスターよ」

 

『その気持ち悪い言い回しを即刻辞めて。今時間はあるの?』

 

 「昼休みだからあるにはあるぞ.....んで、どした『志保』」

 

 俺が電話越しでまる1日かけて考えた独特の言い回しを拒絶されてしょげつつも、返答するとそれを聞いた妹.....志保が会話を始める。

 

『あの...今日のお迎えなんだけど』

 

 「ああ、良いぞ別に。『用事』だろ?頑張れよ志保。家の事なら俺がやっとくからさ」

 

『本当はこんなこと頼みたくは無かったんだけど、ごめんなさい兄さん。この借りは絶対返すから』

 

 「借りなんてお前もよそよそしいなあ。俺達兄妹だろ?困った時はお互い様だ」

 

『.....なら、お願いね兄さん』

 

 「おうよ、任せとけ」

 

 最後にもう一度、ありがとうと志保は言って電話を切った。

 

 「んー...」

 

 北沢志保。

 

 北沢啓輔の4個下の可愛い妹。クールな目付きといい、歯に衣を着せない残虐性といい、整ったスタイルといい、なにかと中学生離れしている妹である。

 

 そんな妹の珍しいお願いに、暫し思案───

 

『私、アイドルのオーディションを受けようと思っているの』

 

 当初、志保からそのような言葉を聞いた時には本当に驚いた。何せ今の今まで相談も何も無い上にそのような予兆すらもなかったのだ。しかしその後の志保の話を聞いていくうちに、元々拒む意思もなかった俺の心は驚きの心境から妹を応援する気持ちへと変わっていった。

 彼女にも、彼女なりの道があるのだ。それを拒むような兄は兄ではないし、口出しをする権利もない。志保がやりたいと思った道を突き詰めればいい。そして思う存分力を発揮し『夢を叶えればいい』と思う。

 

 

 

 

 夢叶うといいな、志保。

 

 お兄ちゃん、影ながら応援しているからな。

 

 

 

 「頑張れよ...」

 

 俺がそう呟いた瞬間だった。

 

 「誰が?」

 

 「ふぉぉぉぉぉ!?」

 

 思わぬ背後からの声に、不覚にも浸ってしまっていた俺は驚きのあまり声が出てしまっていた。

 声のした方を振り向くと、そこには唐突に叫ばれたことによる驚きと、本日2回目の叫び声を上げた俺に対する呆れをミックスさせたかのような表情をしている田中琴葉がそこにはいた。

 

 「そこまで驚かなくても良いと思うんだけど...」

 

 「驚くわ!突然背後の至近距離から話されたらな!」

 

 「それでも『ふぉぉぉぉぉ!?』って......男の人が『ふぉぉぉぉぉ!?』って......」

 

 「2度も言わんでいい!」

 

 全く、さっきの電話(志保)といい田中といい間が悪すぎる。そもそもの話田中みたいな可愛い女の子が突然後ろから話しかけてきたら誰だって驚きますわ。

 もう少し田中は自分がどれだけ世の男子高校生に影響を与えているのか知る必要がある。

 

 「...妹だよ」

 

 「北沢くんの妹さん...」

 

 「おっと、俺の妹を北沢啓輔と同じように考えるんじゃねえぞ。妹は俺と比べて高スペックで、可愛いくて、家族に対して面倒見の良いちょっとスポーツが苦手なのを除いたら非の打ち所のない女の子なんだからな」

 

 シスコン?はっ、何とでも言いやがれ。何ならブラコンの血を引き継いでいる迄ある。

 シスコンとブラコン、併せて...ダメだ。良い言い回しが思いつかない。

 

 「...私からしたら北沢くんもかなりの高スペックだと思うんだけど」

 

 は?

 

 俺が高スペック?

 

 「ないないない。俺は精々そこら辺の雑草位のスペックだよ」

 

 勉強‥‥‥うん、並ですわ。

 

 スポーツ‥‥‥もう衰えてますわー。

 

 ルックス‥‥‥うん!お察し!

 

 「石崎を見てみろよ。アイツは良いぞー、野球も出来て、ルックスも良い!頭は‥‥‥うん。まあ、伸びしろですねぇ!」

 

 勉強なんて努力次第でどうにでもなるだろうし、そもそもここそれなりの進学校だからな。だから...うん、きっと、きっと大丈夫さ、心配するな。

 

 「まあ、そんなわけで他にもスペック高い奴は沢山いるし、何ならお前だってスペックは高いんだから。お前さん普通に可愛いし、勉強出来るし、運動だって出来るし」

 

 だから気にすんな。

 

 そう言おうと口を開きかけると若干顔を赤くした田中が俯きながらボソリと呟く。

 

 

 「自信無くすなぁ...」

 

 「あ?」

 

 何を言ったのか分からないが、それを考える間もなく田中は顔を上げる。

 

 「...何でもないっ、馬鹿」

 

 何故か罵られたんだが、何でか分かるやつがいるのなら教えてくれやしないだろうか。

 

 そっぽを向いた田中の耳は依然として朱に染まっていた。

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 終業のベルが鳴り、HRが終わる。

 

 ここで何時もの俺なら、更に惰眠を喰らって田中に叩き起こされるか、渋々帰り支度をするかのどちらかなのだが、今回の俺は風のように素早く帰り支度を始めていた。

 

 「え、ええっ...」

 

 俺が惰眠を貪ることに慣れている田中も隣で困惑の声を上げているが、そのようなこと知ったこっちゃない。急いで宿題をバッグに入れて...尤も、家でやるわけじゃないが。更に学習参考書をバッグに入れて...これまた家でやる訳では無いが。

 

 「...そういやあ田中は俺のこの速さを見たことが無かったか」

 

 教科書を厳選しながら、田中に尋ねると隣にいた田中も同様に帰り支度を始める。

 

 「...ここまで北沢くんの帰り支度が早いのは初めてかも」

 

 「なら、覚えといた方が良いな。北沢啓輔七不思議の1つだ」

 

 「残り6つは何よ...」

 

 それはな、俺も分からん。

 

 「俺は、家族が大好きなんだ」

 

 「良い事だと思うよ?家族を敬うことって結構大事......はっ」

 

 おい。

 

 今の驚いたかのような声はなんだ。

 

 「まさか北沢くん、ブラコンでシスコンなの?」

 

 ......

 

 「...き、北沢啓輔七不思議の1つだ」

 

 「何か今、妙な間があったんだけど...まさか図星?」

 

 「な、七不思議だぜっ」

 

 「...ああ、そうなんだね」

 

 田中は、まるで何かを察したかのようにそう言うと帰り支度をしながら続ける。

 

 「シスコンでブラコン......良いと思うよ。別に恥ずかしがることはないと思うの。だって、家族が好きなだけなんだもん。妹や、弟と、もしかしてお母さん、マザコンも......」

 

 「んなわけねぇだろ!!マザコンは絶対にねぇっ!!」

 

 マザコンっていうのは、大好きなのはお母さん!お母さんと結婚したい!!って奴の事の筈だ。俺は前提条件として母さんは好きだが結婚したいとは思えない。せめて結婚するなら年の離れていない普通の女の子と普通の恋をして、普通に結婚したい。ただ、結婚願望のようなものを持っている訳でもない。

 

 「兎に角俺はマザコンじゃないから!お前マザコンの意味知ってて発言してんのか!?」

 

 「え、お母さん嫌いなの?」

 

 「うわああああ!めんどくせえ!!田中ってものっそいめんどくせえ!!」

 

 「めんどくさいって.....失礼だよ。疑問を述べただけなのに」

 

 「人には言っていい事と悪いことがあるんだよっ!」

 

 

 俺は頭を抱え、そそくさと田中から逃げる。奴は危険だ、不味い、死ぬぞと俺の中のリトル北沢が警鐘を鳴らしている。

 このままでは、あえなくして俺の羞恥ポイントがMAXになって死んでしまう。俺という人間だって恥のかき方と死に方くらいは選びたい。

 

 後で田中のご機嫌でも取って先程までの会話を忘れて貰おう。そう思いつつ、俺は帰路───天使が待つエデンへと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

兄は往々にして強くあるべき。

そんな言葉が仮にまかり通るのだとするのなら、それは私にとって挑発以外の何物でもない。それは、兄妹で支え合っていこうと決めている私達にとって、その固定観念のような何かは忌避するべきものだと他ならない私がそう感じているから。

仮に兄がそんな舐め腐った独善的な考えを抱いているのだとしたら、1発殴ってやろうとすら思っている──

そんなことを考えながら、私は今日の陸のお迎えを兄に任せたことに、ちょっとした罪悪感を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「......ふう」

 

学校の片隅──誰もいない廊下の隅で、私はとある男に電話をしていた。

その男は、普段から阿呆で、馬鹿で、それでも私の事を良く見てくれていて、面倒を見てくれて。

口には出さないけど憧れている。そんな男の人。

 

北沢啓輔。

私の4個上の兄だ。

 

普段から、遅刻寸前で起きてきて、急いで学校行って、それでも何時も家族の手伝いをしてくれる大切な兄。偶に気が向いた時に、家族のお弁当を作ってくれる気まぐれな兄。

口は一丁前な癖に、いざ実力行使となると腰が引けてしまう、そんな兄である。

 

そんな兄に、わざわざ学校にいる時間帯に何故連絡しようとしたのかと言うと──

 

『悪徳商法と!オレオレ詐欺は通用しないからなぁ!?』

 

所謂、私の不手際にあった。

買い物鞄を肩にかけながら買い物をしていると不意に見かけたアイドル募集のポスター。

その紙に目を奪われた私は気が付けばそのポスターを携帯のレンズに合わせ、パシャリと音を立てていた。

使命感のようなものがあったのかもしれない。基本的に学生バイトや、仕事で家計を助けることが出来るのは高校生になってから。それでも、できることなら今すぐに家族が少しでも贅沢できるように、少しでも行きたいところに行かせてあげられるように──そう考えていた私にとって、この紙は天啓にも近いものがあって。

 

 

 

 

 

『拒否なんてしねえよ。志保がやりたいって言うのなら、応援する。やりたいことを正面切って応援すんのは、お兄ちゃんの役目なんだからな』

 

家族の誰よりも先に相談をした──そして、私のやりたいことを肯定してくれた兄の期待に応えたいと思うようになったのは紛れもない本音である。

 

 

 

今日は大切なオーディション。失敗するかもしれない。私の実力が出せないかもしれない。そう思うと、少し怖くなる。

 否、もう緊張とプレッシャーで押し潰されそうになっている。私だって、人間だ。普段から兄さんに『クールと落ち着きを絵に描いたかのような子だ!世界一可愛い!』とか言われたりするけれども、私より可愛い子は沢山いるし、何より私だって落ち着けない時はある。

そもそも兄さんは調子が良いのだ。誰彼構わずピンチになれば人を持ち上げる。時として、その言葉は励ましになることはあるものの、何度も聞かされれば、それは次第に効力を失っていく。

少しは自重して、そのボキャブラリーを増やす要因となっている思考力を多少は早起きをするための知識に使って欲しいと、私は切に願っている。

 

例に漏れず、今日も兄さんは遅刻しそうになっている。

これに懲りたら、少しはバイトやら家事の量を減らして欲しいものなのだが──と考えたところで、3時を告げるチャイムの音が鳴る。

 

「──本当に、馬鹿な兄さん」

 

さあ、行こう。

私は私のやりたいことをやって、自分の夢を叶える。

私にできること、私にしかできないことをするために、強く歩いていくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから教室での田中の弄りを何とか回避した俺は、時間もあまりなかった為に早歩きでとある場所へと向かっていた。

 

 「あーあ...学校がも少し早く終わりゃあいいんだけどなぁ」

 

 学校は、確かに大事な時間だ。しかし、頭では分かっていても理不尽だと感じることは時としてある。

 俺の中では学校はそのひとつであり、学校で半日を過ごすことに最近は意義を見出しきれていない。

 正直、学校の時間を早く終わらせて家に帰って家族と過ごしていた方が俺にとっては良い。もしくは何処かで遊んでたりとか、尤も最近は遊びに繰り出すことは無くなったのだが。

 

 さて、そんな事を考えていたらもうすぐ目的の場所だ。俺はそこの門を潜ると、俺より小さな子供達がいるところまで歩き出して、ドアを開ける。

 

 「こんにちわー」

 

 「あ、啓輔君!こんにちは!」

 

 保育園の先生に挨拶をして周りを見る───

 

 「陸くん!お兄ちゃんが来たよ!」

 

 保育園の先生がそう言って、子供を呼ぶと帰り支度をした1人の男の子がこちらへてくてく歩いていく。

 

 「お兄ちゃん......おかえりなさい」

 

 少し遠慮がちな笑顔で、北沢陸は俺に微笑んでくれた。

 

 

 

 「ごっふ!!」

 

 ああ、また鼻血が出た。ここに来ると何時もこうなってしまう。故に、大抵何時も陸を迎えに行くのは志保の役目なんだけど、今日は致し方がない。それにこうなることを予期していた俺は盛大に鼻血を吹き出したように、ポケットティッシュを持っている。

 

 「き、啓輔くん!?」

 

 「お兄ちゃん!?」

 

 先生と、陸から慌てた声が聞こえるも、それを左手で制して、右手で鼻を抑える。陸のあまりの可愛さに鼻血が出てしまいましたなんて、死んでも言えない。

 

 「だ、大丈夫......最近、暑いですからね」

 

 「...いま、10月だよ?」

 

 なら、体温が上がっているんだろうな。心配するな、多分風邪じゃあないから。

 鼻血を止めて、振り向くとそこには最早伝統芸と化してしまっている俺の鼻血ブーに苦笑いの先生と、それを心配そうに見守る陸がいて、また鼻血ブーしそうになるも何とか堪える。

 

 「よし、それじゃあ行こうかりっくん」

 

 俺が陸に向かって手を差し伸べると、陸はその手をしっかりと握る。

 

 「それじゃあ、先生。失礼します」

 

 「はーい。陸くんもまた明日!」

 

 見送ってくれる先生を背に、俺達は靴を履いて園内を出る。外は、既に日が暮れかかっており、冬の訪れが近いということを教えてくれる。

 

 「りっくん、今日も楽しかったか?」

 

 「うん!楽しかった!」

 

 「そっか、それなら良かった!」

 

 子供は遊びを楽しむのが半分仕事のようなものだ。遊びを楽しまないような奴は、子供じゃない。俺だって、子供の頃は馬鹿みたいに遊んでたからな。

 

 「にしても、驚いたか?お姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんが来たこと」

 

 本来なら、志保が陸のお迎えに行くはずだったので突然俺が来て驚かれたらどうしようと内心思っていたのだが。

 しかし、陸はさして驚いた様子もなく俺を見上げて首を振る。

 

 「お姉ちゃん、今日はお兄ちゃんが来るってこと言ってたから全然驚かなかったよ」

 

 「おおっ」

 

 用意周到、完全無欠とはこのような事を言うのだろうか。サンキューシッホ、図らずも俺の懸案事項を解消してくれた志保は出来る妹。はっきり分かんだね。

 

 「お姉ちゃん、今日大切な発表会なんだって。大丈夫かなぁ...?」

 

 「なんだ、陸はお姉ちゃんのこと信じてないのか?」

 

 少し悪戯っぽく返すと、陸は慌てたようにふるふると首を横に振る。

 

 「なら、心配しなくても大丈夫だよ。志保は頑張り屋さんだから、きっと報われるさ」

 

 スポ根ものを全肯定する訳では無いが、これでも努力は報われるという言葉にはそれなりに信頼を置いている。先ずは努力をしなければ、始まらない。

 そして、志保はそれを実践した。だから、志保は成功する。明確な根拠はないが、そんな気がする。志保可愛いし。

 

 若干妹補正が入ってないの?と問われたら、多分入っていると答えると思うけど。

 

 とはいえ、陸が心配するのも分かる。現に陸は姉想いだから。

 

 頑張っている姉を応援しているからこその不安って、やっぱりあるよな。

 

 「陸、じゃあお姉ちゃんの必勝祈願に何かやろうか」

 

 「ひっしょうきがん?」

 

 「おう、お姉ちゃんが発表会で大成功する為のおまじない。今日はハンバーグかオムライスを作ってケチャップで何か描いてやろうぜ」

 

 そう言うと、陸はぱあっと擬音が付きそうな程の笑みを見せて、俺の手を握る力を強める。

 

 「僕が描く!ハンバーグにケチャップで描く!」

 

 「お、いいな。じゃあどでかいハンバーグ作るぞー」

 

 「おー!!」

 

 

 その後、近所のスーパーで挽肉を買って、陸と一緒にハンバーグを志保に振舞った。

 志保は、疲れた表情で帰ってきたが陸を見て直ぐに元気になる。

 陸と一緒に作ったハンバーグはケチャップアートの甲斐もあり、志保にとても喜ばれたということと、陸がとても喜んでいたということだけ伝えておこう。

 

 因みに、何故か俺だけ頬を抓られた。

 

 志保が言うには『したり顔の表情が何故かムカついた』らしい。

 

 解せぬ。

 

 急に抓ってくるウチの妹、怖すぎるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話







 

 

 

日が照りつけている癖に体感温度は全くもって上昇の気配を示すことの無いアンバランスな陽気が俺の身体を支配するその日の『波乱』は、誰に言った訳でもない田中の独り言から始まった。

 

「先生、ここに不良生徒がいます」

 

「......あん?」

 

朝のSHR後。

『不良生徒』という今では最早聞き慣れた言葉を俺に聴こえるように呟いた田中の独り言を俺はわけもなく拾い、問いかける。しかし、黒板の一点のみを見つめた田中の独り言は尚のこと続く。

 

「巷で聞いたんです。とある生花店で女の子とイチャイチャイチャイチャしてて。あまつさえ中学生時代は、その子と付き合ってた噂まであったとか」

 

「生花店‥‥‥?」

 

生花店と言えば。

そういえば俺の働いている場所は生花店と呼べる場所であったということを認識し、それと同時に俺は田中の発した言葉に目を見開く。

問題は後者だ。

誰だ!誰だよ俺と『そいつ』が付き合ってるなんて噂をしたの!!しかも中学時代!?それもうロリコンじゃん!!

 

「そうだ、店の名前も聞いたんです。確か、し───」

 

「よし分かった!分かったから黙れ!?その口まじで黙れ田中ァ!!!!」

 

俺は、見知らぬところで俺のプライバシーが田中に透け透けになっていることを咎めようとして思わず暴言を吐いた。

何故、俺のプライバシーがまたしても透け透けになっている?俺の情報はどうなっているんだ?敵は誰なんだ?そんな疑念に駆られていると、田中がこちらをまるで『何言ってんだこいつ』みたいな純真無垢な表情で問いかけてきた。

 

「どうしたの?ブラコンでシスコンの北沢くん」

 

「さり気なくこの前の話をネタにするのはやめてくれませんかねぇ......!それよりも俺が言いたいのはお前がブツブツブツブツ言ってたさっきのネタのことだ!!誰から聞いた!その手の話題は高校時代には何一つ話してないはずだぞ!?」

 

 俺が先程までの田中の独り言を咎めると、田中がジト目でこちらを見やる。

 

 「石崎くん」

 

 「テメエ石崎この野郎───!!」

 

 彼は何度も何度も俺のプライバシーを透け透けにしている前科がある。今日という今日はボッコボコのフルボッコにしても良いのではないかと拳を血に染める覚悟を決めていると、田中が怒りの表情でこちらを睨みつける。

 

 「私、今まで北沢くんの愚行は何度も見逃してきたつもりだけど」

 

 「おい待て、遅刻して何度も何度も痛い思いをしたのは気のせいか?」

 

 「今日という今日は、許せない。年貢の納め時だよ北沢くん」

 

 「更に待って、何時も許されてない気がするんですけどこれまた気のせいですかね?」

 

 適度にツッコミを入れるも、今日の田中は動じない。鬼のような形相を平気で保っている。怖い。端的に言って、恐ろしい。

 

 「......甘い。甘いよ北沢くんは。砂糖をふんだんに使ったコーヒーよりも甘いよ。まさか───」

 

 その時、田中は躊躇いを見せる。しかし、石崎に全てを話されているということは、もはや逃げ場はなし。俺は両手を広げ、降伏の意思を示す。

 

 「......ああ、そうだな。もう白状してやるよ。そういう事だよ」

 

 「......やっぱりそうだったんだ。道理で毎日活き活き惰眠を貪って───」

 

 「仕方ないんだ!俺には必要なことなんだよ!『大切な人』の為に!!」

 

 「なっ───!?」

 

 その瞬間、田中は頬を赤く染める。え、何で?

 まあ、別に田中が顔を赤く染めようが俺としては不都合がないので続けるわけなんだがな。

 困惑する田中を尻目に、俺は両手を翼の如く大きく広げて更に一言。

 

 「その人の事が大切だから、禁忌に手を触れるんだ。いわばスマホで電話することだって、バイトすることだってその人の為の布石なんだよ......!」

 

 「ふ、布石って......で、でも。駄目だよ、高校生がそんな───」

 

 「もう、この際言ってやる。誤魔化す気は無い。俺の口からお前に伝える、白状するよ」

 

 バレてしまったのなら、仕方ない。

 

 「そう、全ては───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「......で、殴られたの?」

 

 「いやあ、そりゃあ綺麗な右ストレートでしたよ。一瞬目の前とお空が真っ赤になりましたからね」

 

 あの右ストレートは素晴らしかった。普段は演劇をやってるらしい田中だが、アイツなら、ボクシングだって出来てしまいそうで末恐ろしい。

 

 と、そんな想像をしていると俺のバイトの先輩。黒髪ロングの美人がため息を吐いて、こちらに呆れた視線を送る。

 

 「馬鹿でしょ」

 

 「それを言ってくれるな」

 

 俺だって自覚してるやい。もっと深く石崎から聞いたとされている事前情報を掘り下げて聞くべきだった。

 

 まさか、俺がバイトを始めた理由が女の子との出会いを求める為とか言う不純な動機だったと噂されているだなんて、思いもしなかった。

 

 否、予兆はあった。最初から田中がそのような事を言っていたのは分かる。これは俺の聞く力の乏しさによる災難なのだ。

 

 序に石崎は止血した後直ぐにアップルパンチ(自称。特に他意はない)を脳天にぶちかましといた。無論、脳震盪を起こさない程度の、ゲンコツだ。偶には制裁を与えなければ、こちらの身とプライバシーが持たない。

 

 と、そんなことを思って心の中で石崎に対する呪詛を唱えていると、レジに座っている黒髪ロングの美人───2つ年下の『渋谷凛』がこちらをまるで馬鹿でも見るかのような、否──実際に言われていた──目付きで睨む。

 

 「大体、そんな噂をされているのは啓輔がことあるごとにこの店に来るからでしょ?自分のしでかした罪には責任を持ちなよ」

 

 「俺に罪ってあったっけ......!?大体、ここまで俺のプライバシーが筒抜けになってるのは俺の某友人のせいなんだぞ?」

 

 「友人に対してのブロックが甘いんだよ。啓輔は詰めが甘いからね」

 

 「初耳だぞそれ」

 

 そこまで詰めが甘いか俺。

 

 「十分甘いよ、啓輔はさ」

 

 そして、この笑顔だ。全く忌々しい。昔───俺がスポーツをやっていた頃からの腐れ縁のこの表情だけは昔と全く変わらない。

 渋谷凛は、いわば親友のような関係だ。昔から同じ小学校で、関わることが多くて、成り行きで友達になって、今ではバイト仲間───尤も年上の俺が後輩で、年下の凛が先輩という変な構図なのだが。

 

 「このド畜生め......」

 

 「啓輔、世の中には『先輩』に言っていいことと悪いことがあるんだよ?」

 

 「あああああ!!腹立つ!!無茶苦茶腹立つ!!3年前までランドセル背負ってた癖に!!あどけない表情して俺の裾掴んでた癖に!!」

 

 分かっていることだけに、尚更腹が立つ。確かに渋谷はこの生花店の一人娘であり、仕事の経験も彼女の方が長い。しかし、年齢的には俺が年上という一種のジレンマに陥ったことにより、地団駄を踏み、悔しがると凛が少し顔を引き攣らせて、無理くり笑顔を作る。

 

 「か...関係ないでしょ。全く、過去の話を持ち出すなんて啓輔も子供だね」

 

 「.....さあて?子供はどっちだろうな。こうやってバイトしつつ将来に備えて目を腐らせている俺。方ややることがなかなか決まらずに部活動何にしようかなーって未来に夢を馳せウキウキしてる若人───」

 

 その瞬間、渋谷の右ストレートが俺の頬を掠める。その軌道はまさに何処ぞの伊達のコークスクリューブローの軌道であり、それが髪に掠ってしまった俺の大事な髪の毛は、2〜3本抜けてしまった。いやあ、驚きだよ!啓輔心臓ひえっひえだよ!

 

 「啓輔、アンタが私の弟や兄じゃなくて良かったね。もし血縁関係だったら危うく啓輔直伝のコークスクリュー、よそ見からのガゼルパンチでアンタをはっ倒してた所だよ」

 

 「なりたくもねえよ。俺の妹は志保、弟は陸。これ重要だからな?最早俺はアイツら家族の為に生きているといっても過言じゃないんだからね?」

 

 「はいはい、本当に啓輔は家族想いだね」

 

 「あ、なんか今腹立った」

 

 そう呟いた俺は、休憩にかこつけて外の空気を吸う。穏やかな空気が俺の肺を支配して、また俺の体に活力が戻ってくる。

 太陽が、俺の顔を照りつける。それと同時に、凛は何気なく、俺に語りかける。

 

 「.....啓輔の弟妹になった子は幸せだろうね」

 

 「いきなりどうした」

 

 というか、何で。

 

 そう思い、カウンターを振り返るとその先には半ば呆れ気味の凛が苦笑して、こちらを見つめていた。

 

 「普段バイトをしてお金を稼ぎつつも、しっかりと妹弟の面倒を見てくれる優しい兄貴なんて、きっといてくれるだけでありがたいよ。まあ、啓輔はそれなりに頼りがいあるしね」

 

 そう言って、ぷっと吹き出す凛を見て若干の殺意に駆られるのは最早俺自身の問題なのだろう。煽り耐性が先の石崎の件で既に擦り切れていた俺はこめかみに力を入れて無理矢理笑顔を作る。

 

 「そっかぁ.....頼りがいがある、ねえ?」

 

 瞬間、俺は凛の元へ近づき、頬を引っ張る。

 

 「嘲笑しながらそう言っても信ぴょう性の欠けらも無い事に気付きやがれ!!」

 

 「痛っ──ちょっと啓輔その右頬貸して?生意気なその口、私も抓って‥‥‥引き裂いてあげるから」

 

「はっ‥‥‥できるもんならやってみろよ!その非力なパワーで俺の強靭な頬を引きちぎれるならぁ痛゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!

 

 俺と、凛の日常はこんなものだ。

 

 決して、あらぬ噂の通りに仲睦まじいわけでもなく、かといって殺伐とした空気でもない。

 お互い軽口と軽い喧嘩をこなす程度に仲が良い、昔から.....ではないがこの関係性をずっと続けている。

 

 故に、俺は思う。

 

 渋谷凛といるこの日常は、決して悪いものではないと。胸を張ってまでは言えないが、少なくともここでは正直な自分をさらけ出せる。

 

 尤も、仮に俺と凛の関係が腐れ縁なんかでは無い初対面なんかだったらあの鋭い眼差しで軽く小便ちびるまであるんだけどな。

 

 この関係を『親友』というべきか、『後輩』というべきか、はたまた『親密』と言うべきなのか、俺は迷っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、花屋のバイトを終わらせて、それでもチクチクと心臓を抉るようにやってくる凛のカットボールのような口撃を何とか回避しつつ帰路についていると、俺のポケットが振動する。

 

 「ふぉぉぉぉっ!?」

 

 あまりに唐突な出来事な訳でもないのに変な声を出してしまう。なんだろう、最近電話に対応する事に田中のせいで滅茶苦茶抵抗を感じるんだけど。

 

 「......畜生め」

 

 内容を見てみるとそこには妹からの電話が来ていた。こんな時間に、妹からのお電話。なんだろう、なんか嫌な予感がする。部屋に隠しといた石崎の回し物、俗に言うところのムフフなビデオでも見つかったか?

 

 

 ......

 

 

 勿論、ここで着信拒否なんてしたら帰ってきた志保に凛以上に内角を抉るようなカットボールもとい口撃が俺を襲うので、大人しく電話に出ておく。

 

 おうこら、そこのハムスター。情けないゴミクズを見るかのような目つきは止めないか。これは北沢啓輔という人間にしか分からない懸案事項なんだからな。え、ハムスター......?ハムスターって外にいるものなの?......いや、きっとバイト疲れで気が滅入っているからあんな幻覚を見るのだろう。そう思った俺は頬を1度叩いて電話に出る。

 

 「言っておくけど俺に罪はないからな。あれはクラスメイトiのアホが贈ってきた回しものだ」

 

 真実を早口に捲し立てると、志保が電話越しに困惑の声を上げる。

 

『......は?何を言っているの兄さん』

 

 ......どうやら、要件は俺の危惧していたものとは違ったらしい。1度、落ち着くために深呼吸をして気を取り直す。

 

 「悪い、妄言だ。で、どうかしたのか?」

 

『今、何処にいるの?』

 

 「うん、外にいる」

 

『私は外の何処にいるのか、聞いたつもりなんだけれど』

 

 おっと、確かに家にいなきゃ外にいますわな。言葉の真意をしっかり読み取れよ北沢啓輔。昔からそうだ.....そんなんだから昔からお前は妹の尻に敷かれてるんだろうが。

 

 尻......尻、か。うん、深く考えるな。言葉の喩えだろうが。

 

『今、物凄い不快な気分に陥ったのだけれど』

 

 「気のせいだ。それと、今スーパーの前にいるんだが......追加で買い物か?」

 

『ええ、ケチャップを1つ。何処かのお兄ちゃんがりっくんにケチャップアートを教えたせいで買っておいたケチャップが切れたから』

 

 やや辛辣に言葉が返ってくるも、今の彼女の言葉には『冷酷』さが全くといっていいほどない。これは何時もの妹から察するにあまり怒ってはいないという事だ。

 本気で怒った志保は、怖い。目のハイライトは消えていつの間にか、俺は尻餅を着くか、土下座をしている。そして悪魔のような無表情で見下ろされて冷酷な声色で一言だけ言われるんだ。

 

『正座』

 

 この怖さは、1度体験してみなければ分からない。そう思ってしまう俺は文字通り、志保の尻に敷かれてるんだろうということが自分でも理解できる。

 

 閑話休題───

 

 「美味しかっただろ?愛情がこもってて」

 

『因みに誰の、と聞いてもいいかしら』

 

 「99パーセントのりっくん成分と1パーセントの兄貴成分」

 

 俺がそう言うと、志保はため息を吐いて、一言───

 

『100パーセントりっくんを希望するわ』

 

 そうして、志保は電話をぷつりと切ってしまった。

 

 「俺の愛情はいらないってか」

 

 全く、失礼しちゃうぜ。俺だって陸と一緒にハンバーグ作ったんだぜ?そもそも100パーセントりっくん成分っていったらハンバーグを作るための工程を全て陸が背負わなければいけなくなる。

 レシピを見ながらハンバーグ作りに悪戦苦闘するりっくん......見てみたい気持ちはあるが、子供が1人で火を使うのは危険です。お兄ちゃんが許しません。

 

 「ま、それはいいとしてだ」

 

 ケチャップだったっけかな。それを買いに行かなければ志保の冷酷な目付きと声色が俺の五体を蝕むであろう。俺は、バイトで疲れた体に鞭打ちながらスーパーへと歩を進める。

 

 何時もなら買い物カゴを持っていくのだが、今回買いに行くのはケチャップだけ。故にカゴは持ち運ばず自動ドアを潜ると、店内をぐるりと見渡す。

 

 すると、意外な人物がスーパーの食品売り場で食材を吟味していた。

 

 「......げ」

 

 なんということでしょう。

 

 そこには本日のお昼時、俺にあらぬ疑いをかけて最後には右ストレートを食らわせてきた田中琴葉さんがいらっしゃるではありませんか。

 

 先の件といい、今年に入って田中のせいで何かとトラウマを植え付けられてしまっている俺としてはここで一発逃亡と洒落こみたい所なのだが、志保のケチャップの1件もある。

 まさに四面楚歌、背水の陣、ABCD包囲網って所だ。さっきから頭の中では最近まで聞いてた牛さんの歌が聞こえてくる。これが巷でよく聞く『はい、お前詰んだ〜♪』って奴なのだろうか。

 

 どうする、北沢啓輔。

 

 田中琴葉に近付くか。

 

 妹沢志保に『正座』させられるか。

 

 

 

 

 それとも───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪いことをしてしまった───

 

 

 私、田中琴葉は気分転換にお母さんに頼まれた食材を吟味しながら1人の男に対して、そんな気持ちを抱いていた。

 

 北沢啓輔───。

 

 その男は普段から、不真面目、不勤勉、寝坊助とダメな要素ばかり目立つ人間だ。授業は不真面目に取り組むし、高校生になって、何かを継続したことを見たことがないし、月イチのペースで寝坊は当たり前。その愚行は隣の席にいる私にとっては許容しがたい事実であり、性格だった。

 

 勿論、彼にだって言い分はあると思う。彼には弟妹がいて、何かと忙しい。友達と遊びに行く時間が無い程忙しい───という話を聞いたことがある。それ故の遅刻ならば、致し方ない面もあるし、部活なんて以ての外だろう。授業中に寝るのはあまり褒められたものではないが、それでもノートはしっかり取っているみたいだし(石崎くん談)。

 

 けど、だからといって、世間的に彼の行為が許される訳じゃない。遅刻はしては行けない。授業はしっかり受ける。最低限、これだけでもやって欲しいというのは本音だし、高校生のルールであろう。

 

 そんなことを考えている最中、私はたまたま出くわした石崎くんからとんでもない情報を得てしまったのだ。

 

 それが、バイトと女の子の話である。

 

『よーよー、田中ちゃん!最近啓輔と仲いいね!折角だから付き合っちゃいなよ!』

 

 彼の言動や、行動には嘘はない。一見ニコニコした笑みを振りまいた軽薄そうな男と思われがちだが、色んな人と友達だったり、野球を一生懸命やってたりと、クラスの男女からの評価はなかなか高い。

 それ故か、当初は彼の『こういった』言葉───俗に言う茶化し等に一種の抵抗を感じていた私だが、今ではちょっとした挨拶みたいなものとして、軽く受け流せる程度には、慣れた。

 

『あはは......まあ、まちまちかな?』

 

『そうかいそうかい!ならいいけど、もし啓輔を狙ってんなら早くした方がいいぜー?何せ、アイツはバイト先でも女の子とお話してるからなぁ?』

 

『え』

 

 バイト?

 

 初耳なのだが。

 

 ましてや、女の子?

 

『あ、やべ、口滑った』

 

 瞬間、真顔になる石崎くんをじっと睨み、1歩歩み寄る。説明してもらおうじゃないか。

 

『教えて?石崎くん』

 

『せ、せやな......』

 

 困惑する石崎くんを尋も......こほん、問い詰めて見たところ、北沢啓輔という人間はどうやらバイトをしているらしい。

 石崎くん曰く、中3のころからバイト的なものを始め、高校生かられっきとしたバイトとして採用されると某生花店で女の子とイチャイチャイチャイチャしていたらしい。

 

 もし、忙しいといっていたことがバイトなのだとしたら。その目的が妹弟の為ではなく、女の子の為だとしたら。私は彼を止める権利がある。

 

 こうなってしまった私を止めることは出来ないってことは私が1番知っている。情動に、熱情に身を任せることがよろしくないことは分かっている。

 それでも、私は。私自身を止めることは出来なかったのだ。

 

『あ、でも別にそういう関係になってるわけじゃないぞ?寧ろ噂のままに終わったっていうか......って、ちょ.....マテオ!』

 

 自分の席へと向かう。後ろで石崎くんが何かを言っているがそんなことは知らない。窓際1番後ろの席に腰掛けると、私は群青色の空をじっと見ていた北沢くんを一瞥して誰に語りかけるまでもなく、実際にはちょっとだけ語りかけるように石崎くんから聞いたことを復唱した。

 

 

『先生、ここに不良生徒がいます』

 

『......あん?』

 

 

 それから先は、お察しだ。

 

 

 家族の為にバイトをしていたという事実を確認しないまま、決めつけてしまった私は自分を恥じた。砂糖をふんだんに使ったコーヒーよりも甘かったのは、私なのであった。

 家族の為にバイトをしているのなら仕方ない。というか、賞賛に値するし、これに関しては怒る気もない。

 

 それなのに、唐突に白状し始めた北沢くんに驚き、あまつさえ大切な人の話を『彼女』のことと盛大に勘違いしてしまった私は羞恥で顔が熱くなった。

 

 そして、それを悟られないように北沢くんの目を塞ごうとした故の右ストレートだ。早急に保健室に連れて行って、何とか事なきを得たが、お陰様で見事なまでの罪悪感が私の心を支配してしまったのだ。

 

 「はあ......」

 

 あれから、色々と都合が合わなくてちゃんと謝ることが出来なかった。明日、ちゃんと謝らなければ。

 うん、大丈夫。北沢くんなら、多分、きっと許してくれる。

 

 ただひたすらにそう思い続けつつ、自らを奮い立たせるためにぐっと握りこぶしを作る。

 

 そして、そろそろキャベツを選ばなきゃ......と、キープしておいたキャベツを買い物カゴに入れようと手を伸ばしたその時だった。

 

 「ママー、ここに変な人がいるよー」

 

 「こ、こらっ!指をささないの!」

 

 子供連れの家族がそう言った声に思わず、咄嗟に振り向いてしまう。

 すると、目の前には先程まで頭の中に浮かんでいた男が、買い物カゴで顔を隠して、そろーり、そろーりと忍び足で私の横を通過しようとしていた。

 

 「......」

 

 こんなカモフラージュで、だまくらかせるとでも思っていたのだろうか。

 

 「......」

 

 「......お、おーう、ワタシ、アメリカカラキマシター、ジュテーム!ボンジュール!シルププレー!サヨナラホームラーン!!」

 

 アメリカ人なのか、フランス人なのか分からない時点でアウトだろう。そして最後のは全く関係の無い野球用語だ。

 

 「......じーっ」

 

 「......むーん」

 

 やがて買い物カゴのカモフラージュを解いた北沢くんが顔を背けて変なうめき声を上げる。そんな北沢くんの目を私はじっと見つめる。

 

 「北沢くん?」

 

 「......はい」

 

 不味い、自分でも笑顔になっているのがわかる。尤も、この笑みは楽しく愉快......と言ったものとは程遠いそれなのだろうが。

 

 「何してるの?」

 

 そう尋ねると、観念した北沢くんはため息を吐いて俯く。

 

 「ええっと、この度は妹からケチャップの調達を頼まれた次第でありまして......」

 

 「うん」

 

 「意気揚々とスーパーに行ってみたらキャベツを厳選している田中さんを見かけましてですね......」

 

 「それで?」

 

 「あ、これやべー......って思った俺は何とか野菜コーナーの近くの調味料、ケチャップを買う為に買い物カゴをカモフラージュに使って......」

 

 「全然カモフラージュになってなかったよ」

 

 「いや、案外お前さん騙されてたって......って怖い怖いッ!田中さん!?謝るからどうかその笑顔をヤメテ!精神的にやられちゃうから!俺、メンタルボロ雑巾だから!」

 

 ごめんなさいごめんなさいと呪詛のように私に言ってくる北沢くんを尻目に、私は溜まった息を吐き出す。ため息は基本よろしくはないが、あまりの急展開にこうでもしないと事に対応出来そうになかった。

 

 「何も隠れる必要は無かったでしょうに」

 

 「自由だろ、俺がそこで何しようが......」

 

 「それで子供に不審者と間違われてたら本末転倒でしょう」

 

 「うぐ......」

 

 北沢くんはそう言うと、バツが悪そうに顔を背ける。その表情がなんだか面白くて、私は少しだけ表情が緩んだ。

 初めて出会った時からそう。北沢くんには何か不思議な力があるのだろうか。例えば、出会った人、話した人を笑顔にするような力。そんな何かが北沢くんにあったのだとしたら、きっと北沢くんに会う度に笑ってしまう私はその何かに見事にやられてしまっているのだろうか。

 

 「北沢くん、顔は大丈夫?あの時は、ごめんなさい」

 

 私がいつの間にか、謝罪の弁を述べると北沢くんはいつも通りの切れ長の目付きを私に向けて、少しだけ呆れた表情で。

 

 「お陰様で、何とか」

 

 そして、ため息を吐いて北沢くんは笑顔を見せた。

 

 北沢啓輔は、不真面目で、不勤勉で、寝坊助だ。それでも、彼の内面は優しくて、妹弟想いで、寝坊助なのも理由がある。

 そんな彼は、私とって大切な友達であり、大切なクラスの一員だ。

 

 

 

 ......

 

 

 .........

 

 

 

 そして私は、昔の北沢啓輔を知っている。

 

 

 

 少なくとも、貴方はそんな暗い表情をするような人間ではなかったと私は記憶している。

 

 

 

 あの時の貴方の目は輝いていた。そして、そんな貴方の一言に、勇気づけられたのだ。

 

 

 

 本当の意味で、私を勇気づけてくれた。

 

 

 

 今の私がこうある原点が北沢啓輔なのに、今の北沢啓輔がそうでないことに、私はなんとも言えない、複雑な心境を抱いていた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 結局、こうなることは分かっていたのだろう。あれこれ考えて時間を無作為に潰している時点で俺の末路は決まっていたのだ。

 まあ、何が言いたいのかと言うと。先程まであれほどまで頭の中で考えていた出来事は、考えずとも答えが決まっているのであってだな......

 

 

 

 

 

 

 

 「で、兄さん?分かっているわよね?」

 

 田中にバレずにケチャップを取りに行こうとした時点で時間がかかってしまい、妹沢志保を怒らせてしまうことは分かっており、ケチャップを買おうが買わまいが俺がこうして尻餅を着いてしまっているのは最早既定事項だったというわけで───

 

 「せ、せやな......お兄ちゃんなんの事だか分からないよ」

 

 「そう......残念ね。疲労で頭がパンクしてしまっているのかしら」

 

 「そ、そう!そうなんだよー!最近俺右と左が分かんなくて!学校行こうと思ってたら公園のベンチで寝てたりとか結構あるんだよね!」

 

 俺が慌てて弁解をすると志保の冷酷な目付きが更に過激さを増す。

 

 「兄さんの方向音痴は昔からでしょう......全く、少し放っておいたらすぐにこれ。兄さんは本当に......お間抜けというか、阿呆というか、お馬鹿というか」

 

 「......すまん」

 

 「......全く」

 

 志保はそう言うと、俺と同じ目線に座り込み後ろに回り込む。

 

 そして、一言。

 

 「肩で良い?」

 

 「肩?」

 

 どういうことだろうか。志保がいきなり座り込んで俺の後ろに回り込んでいる時点で俺の頭はパンクしてるんだけど、どういう意味なのか分からない。

 

 いきなりの謎行動に困惑していると、志保が肩を思いっきり抓る。

 

 「ぎゃああああ!?」

 

 「疲れているって!言ったのは!何処の誰よッ!」

 

 「お、俺俺!」

 

 慌てて俺がそう弁解すると、志保は人生最大とでも言っても過言ではないため息を吐いて、俺の肩を拳で軽く殴る。うん、軽くでも痛いです。

 

 軽く殴っても痛い志保の肩パンに悶絶していると、志保が後ろから俺に一言───

 

 「肩、貸して。疲れているんでしょう?」

 

 少し、恥じらいを持つかのような声色でそう言った。

 

 「え、物理的には無理なんだが」

 

 「もう、突っ込まないわ......そうよ、分かっていたじゃない。兄さんが人類史に類を見ない阿呆って事は」

 

 乾いた笑いと同時に、なんだか非常に失礼な事を叩き込まれてる気がするだけれど、まあいいか。

 

 「んで、お前は俺に何をしてくれるんだ?」

 

 そう言って、振り向くと志保の手が俺の顔を強制的に押し戻す。その手には力は入っていなかったが、何となく押し戻される。

 1拍間が空いて、志保は無機質な声で俺に言う。

 

 「肩をマッサージしてあげるって言ってるの」

 

 「おお」

 

 志保の肩マッサージなんて何年ぶりだろうか。小さい頃、純真無垢な笑顔で肩たたきをしてくれた志保が懐かしい。

 

 「じゃあ、お願いしようかな」

 

 俺がそう言って肩の力を抜いて目を閉じると、肩が指に押される心地良い感覚が俺を襲う。その感覚はとても気持ち良く、それと同時に懐かしい感覚でもあった。

 過去に俺が純粋なスポーツ少年でいた時、疲れた身体を癒してくれたのは母さんの美味しい料理と、マイエンジェルである志保と陸の笑顔と、時々やってくれる志保のマッサージだった。最初は拙い手つきで、お世辞にも上手いとは言えなかったが、それでも俺は幸せだった。

 家族に囲まれて、何も考えないでいられる時間は確かに幸せだったのだ。

 

 「......あ、いい。そこいいわー」

 

 「中年のような声を出すの、やめてくれないかしら」

 

 それは、志保のマッサージが上手なのが悪いのだ。妹フィルターにかけなくとも、志保のマッサージは上手になったと個人的には思う。流石、何時も母さんのマッサージをしているだけあるな。ここまで来たら、最早職人芸だ。

 

 「学校、楽しいかー?」

 

 「.....兄さんは?」

 

 質問を質問で返すのはあんまりよろしくはないのだが、妹と話す時にそんな事を気にする事はない。俺は乾いた笑いを上げて、肩を竦める。

 

 「まあ、いつも通りってとこだろうか」

 

 登校したら石崎に野球部に勧誘されて。

 田中と挨拶して。

 時々、田中にプライベートを突っ込まれて。

 石崎にアップルパンチを繰り出したり。

『何時かは変わってしまうであろう』この日常も、今はそんなに悪くは無い。

 

 「ああ、そう。最近女の子とよく話すんだよ」

 

 「兄さんが?」

 

 「そう、田中って言うんだけど......まあ、話してて悪い気はしなかったりする」

 

 2年生になってからよく話すようになった隣人、田中琴葉。彼女と話している時間は俺的にはなかなかの暇つぶしになる。

 と、そんなことを考えているとマッサージの力が少しだけ強くなるのと同時に、後ろから志保の声が聞こえる。

 

 「兄さんらしい答え方ね。素直に『楽しい』って言ったらいいのに」

 

 「楽しい......か」

 

 そんな思い、俺にあるんですかね?

 

 記憶のそこらじゅうをほじくり返しても、楽しかった思い出なんてのは限られているし、それこそ高校生になってからはそんな未体験の楽しい思い出なんてのは作れた試しがないのだが。

 

 「それに、俺は家族と過ごせるこんな時間が1番楽しいからな。これを経験しちまうと、なかなか楽しいなんて言えるのは出てこなくなっちまう」

 

 例えばりっくんと遊んだりとか!

 

 志保と一緒に料理作ったりとか!!

 

 家族総出でどっか行ったりとかな!!!

 

 「ああ、また志保と釣りに行きてえなあ。あの時の悔しそうな表情の志保をもう一度見てみたァ痛い!!痛いよ志保さん!分かった!俺が悪かったからそんな強くマッサージしないで!!」

 

 俺が痛みに悶えながら志保に制止を訴えかけると、耳元にぞわりとした感触が。恐る恐る、聞き耳を立てると、志保が俺の耳元で囁く。

 

 「兄さん?記憶って殴れば消える可能性があるのよ?例えば......そうね、海馬の付近とか」

 

 「そんなこと言いながら頭を撫でるんじゃありません!!怖いからっ!」

 

 今、この瞬間、俺は悪魔を見たような気がします。

 もともと志保は怖かったけど、ここまで殺気に満ちた志保は見たことがない。冷酷な目付きで見られ、『正座』と言われるよりも恐怖を感じる。

 何はともあれここは話題転換の必要がある。これ以上のこの話題を続けるのは危険だと察した故だ。

 

 「さ、さあ!今度は志保の番だ!学校生活についてあらかた聞かせてもらおうではないかっ!」

 

 形勢逆転、またはリセットを求めて志保にそう尋ねると、案の定今までの雰囲気が変わっていつも通りの穏やかな雰囲気が訪れる。

 

 志保に釣りワードはNGだ。

 

 心のメモ帳に書いておかねばな。まあ、直ぐに忘れて痛い目見るのが俺。啓輔クオリティなんだけどさ。

 と、内心俺の思慮浅さを恨んでいると志保が無機質な声で一言───

 

 「普通」

 

 「一言で済ませやがりましたねぇ!」

 

 普段あまり学校の事を話さない俺があれだけ話した意味って一体なんだったんだろうな。きっと、上手く志保の術中に嵌ってしまっただけなのだろう。今までの経験からしてそうだ。

 

 「制限もへったくれもないでしょう。兄さんが喋りすぎて、私は普通に喋った。それだけの事よ」

 

 案の定そうだった。

 

 なあ、普通って何なんだろうな。

 

 「......別に兄さんの心配してるような事にはなってないから大丈夫よ」

 

 「......本当だな?」

 

 例えば、あることないこと言われてたりとか。

 

 例えば、ぼっちだったりとか。

 

 「ええ、本当よ。だから大丈夫」

 

 若干怪しいところだが、信じようではないか。あんまり深く介入するのも良くないしな。

 

 と、肩のマッサージが終わると今度は何故か頭を抱え込まれた。え、何すんの?ヘッドロックですか?

 

 「し、志保さん?」

 

 骨は残してください、と何時も妹に謝る時に使う常套句のような何かを発しようとすると、志保は耳元で囁く。

 

 「心配性な兄さん。私だってもう中学生なんだから私なんて放っておけばいいのに」

 

 「.....そうは行かないな。高校生になったらそれは考えてやるよ。まあ、一筋縄では行かないと思うけど」

 

 俺は、志保も陸も大好きだ。

 だから二人とも同じ位に心配してしまう。時々過保護だと思われたりもするだろうけど、それくらいの心配はお兄ちゃんとしてさせて欲しい。

 

 少しの間だけど、志保には寂しい思いをさせたから。

 

 「......遅刻魔で寝坊助な兄さん。毎日毎日無理して家の手伝い、しなくてもいいのに」

 

 「んー、遅刻魔は昔からだからな......それに、好きでやらなきゃ手伝いなんて続かないぞ?」

 

 最初は惰性だったけど。

 次第に美味しそうにご飯を頬張る皆の姿を見たり、何かをした時の達成感が癖になり、調理やら諸々の手伝いが楽しくなった。

 尤も、家庭科の授業は嫌いなんだが。作る料理を制限されてしまったり、座学の授業が非常に億劫だから。

 

 結局のところ、家族みんなには美味しいご飯を食べてもらいたいっていう俺の好きでやってる願望なんだ。

 

 まあ、一周回って善意の押し付けとか思われたら泣いちゃうけど。

 

 そう思い、心の中で涙を流していると、ふと頭を抱えていた感覚が消えて、肩に重心が乗っかる。

 

 「兄さん」

 

 「‥‥‥やっぱりあったんじゃないか」

 

 志保なりの気持ちの表し方なのだろう。小学校3年生から少しずつクールに育っていったけど、志保だってまだまだ年頃の女の子だ。真正面から気持ちを表すのが難しく感じる時ってある。そして、それを1度経験した身として、言いたいことを言えるようにフォローしたり、聞いたりすること位は俺にだって出来る。

 

 「何かあったんだな?俺でいいなら聞くぞ」

 

 そう言うと、重心がこくりこくりと動いて、続ける。

 

 「私、オーディションに受かった」

 

 「おおっ」

 

 おめでとう。そう言おうとした俺を遮って、志保は更に続ける。

 

 「‥‥‥やっていいの?」

 

 「妹が夢を叶えようとして、それを応援しない兄貴がいてたまるか」

 

 重心に手を添えて、撫でるように動かす。すると、少しだけ『それ』はぴくりと反応するも、そこから動く気配はない。

 

 「だから、気にすんなよ。家のことは任せろ。んでもって、自分の本当に進みたい道を突き進んで......俺をファン第1号にしてくれ。あわよくば初サインも俺のものな」

 

 んでもって家宝として崇め奉るんだ。ライブに行くのも楽しそうだ。

 そんなことを想像して少しだけ笑うと、志保も少しだけだが、くすくすと笑い声を上げる。

 

「ええ‥‥‥兄さんがファン1号よ。サインだって、特別に家で崇めても文句言わないわ」

 

「志保様しゅごい!───なんて言っても?」

 

「馬鹿な兄さん、そんなことを言ったら私に頭ぶち砕かれるって分かってる筈なのに」

 

「おかーさん助けてー!!この子俺にジャッジメントしようとしてる!!助け──ふげぇ!?」

 

ストレートは飛ぶ。

そんな言葉が相応しい志保の右ストレートは俺の頭ではなく肩を直撃する。

いつの間にか背中に当たっていた重心は消え失せ、その代わりに背中に残ったのは鈍い痛み。その痛みが響いた瞬間、俺の身体は地面に打ち付けられ、それと同時に見たのはこの前見た夢と同じ光景。

鋭い目付きで俺を睨み、見下ろす志保の姿であった。

 

「‥‥‥取り敢えず兄さん、頭を差し出して?」

 

「急に怖い事言うなよ‥‥‥ねえ、謝るから。お兄ちゃん謝るからっ!」

 

何はともあれ、北沢志保はアイドルとなりその道を邁進していく。きっと、これからの彼女には様々な困難が襲うだろうけれど、きっと大丈夫。

こんなにも、可愛くて、誠実で、真面目な子だ。どんな困難があっても諦めず、その道を突き進んでいくことだろう。

 

 

 

ちゃんと、支えてやらんとな。

 

 

 

そんな決意を胸に、志保の拳に打ち砕かれた今日この頃であった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話

 

 

 

 

 

 ただひとつ、問題点があるとするならばそれは俺の精神状態だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 志保の件の後日、俺は久しく経験することのなかった『心地良い目覚め』が出来たことにより、珍しく二度寝をせずにリビングへと向かい家族を盛大に驚かせてしまっていた。特に、陸の目を見開いた様子は忘れることは出来ないであろう。あの表情だけで、普段の俺がどれだけ遅刻魔だったのかが分かる。

 

 心地良い目覚めでコーヒーを飲んだ後は陸を志保と一緒に保育園に連れていく。これまた、保育園の先生に驚かれていた。いやあ、慣れないことをするって怖い。怖すぎる。

 

 そして、時は今現在に遡り、志保と2人で登校中。

 

 「志保の制服姿ってのも、新鮮だな」

 

 「私だって新鮮よ。まさか兄さんと肩を並べて歩く日が来るなんて」

 

 「志保のマッサージのおかげだぜっ!」

 

 「どうだか」

 

 志保はあの時の可愛らしいそれから相変わらずの素っ気なさに戻ってしまったが、寧ろこれくらいの距離感を保ってくれた方がこちらとしても話しやすいし───

 

 「久しく志保がお兄ちゃん頼ってくれたからな。やる気に満ち溢れているっていうのもあるかもしれないな」

 

 ギャップがあった方がいじりがいがあるってもんだよな。

 

 「ッ......今日は随分と饒舌じゃない」

 

 志保の顔を見てみると、引き攣った苦い笑みを浮かべていた。普段はクールを地で行くような女の子だ。やっぱり昨日のそれは志保にとっては恥ずべきものであったのだろう。

 

 「ま、偶にでいいから頼ってくれよ。別に兄貴に頼ることを恥ずかしがる年頃じゃないんだし」

 

 「......分かってるわよ」

 

 「なら良いんだ」

 

 頭を撫でようとしたら右手でパシリと叩かれた。ちくせう、痛いハイタッチだぜ。

 

 「気安く頭を撫でないで」

 

 「恥ずかしいのか」

 

 「断じて違う、とだけ言っておくわ」

 

 次第に志保の通う中学校が近付いてくる。それにつれて、志保と同じ制服の女の子や、学ランの男の子も増えてきている。ちらほらとだが俺の高校の制服を着た奴らもいる。

 

 「んじゃ、そろそろお別れだな」

 

 「ええ、そうね」

 

 「お弁当!持ったか?」

 

 「ええ」

 

 「教科書!忘れんなよ!」

 

 「何時も何かしら教科書を忘れてた兄さんが言う台詞じゃないわね」

 

 「......寄り道しないで帰ろう!」

 

 「貴方は私の母親か」

 

 吐き捨てるかのように志保がそう言うと、振り返って校門へと向かっていった。

 

 「うし、俺も行かなきゃな」

 

 そう思い、俺の弁当箱を確認しようとバックを覗くと、そこには白猫の弁当袋......それを開けると黒猫の形をした弁当箱とタッパー。

 

 「あ、弁当箱間違えた」

 

 俺の弁当箱は白猫系統なのに、やらかしてしまった。まあ、いいだろ。弁当を間違えたところで俺と志保の弁当箱の中身は同じだし、どうせ帰ってきたら激おこぷんぷん丸のシッホが誕生しているだけだから正直、不都合はない。

 

 

 そう考えた俺は先程まで考えていた思考を放棄し、欠伸をしながら学校へと歩を進めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この時に俺はもう少しだけこれから起こるであろう事象にもう少し注意を払う必要があった。

 昔から、こういったいつもと違うような行動を意図せずに行っていた場合、高確率で何かが起こる。本とかでもよく見る展開だ。日常生活からヒロインに関わろうとする生活を送ろうとすると何かしらのイベントが起こる、運命的な何かに巻き込まれる。

 

 一見、テンプレで現代ではなかなかない。寧ろそんなイベントないとか思いがちだが、こういうのって意外とよくある。いつもより早く起きて登校したら忘れ物したとか、いつもより遅く、余裕を持って出かけたら家の鍵かけるの忘れたとか。

 

 なら、そこまで警戒している俺が何でこの日に限ってなんの警戒心もなしに登校していたのか、という疑念に駆られる。まあ、後々思った事なのだがこれに関しては一言───

 

 

 

 

 志保に頼られて、浮かれてた。

 

 

 それに尽きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、本題だ。

 

 俺───北沢啓輔という生徒が、妹に頼られて完璧に浮かれている状態で、教室のドアを開けて、石崎の『野球やろうぜ!』攻撃を華麗に回避して、席に着いたところから事件は始まる。

 

 「ふう」

 

 窓際の席で、珍しく余裕をもって座る。こういった時間はなかなか迎えることがない為、どういった時間を過ごせば良いのか分からない。こんなことなら暇つぶしになるものでも持ってくれば良かったと後悔する。ああ、スマホはダメだ。ホーム画面を見た瞬間に田中にクラッシュされるからな。

 

 と、そんなふうに窓際の席で暇を持て余ししていると、田中の方から声がかかる。

 

 「おはよう」

 

 「おう、おはろーさん田中」

 

 このようなやり取りを幾度となく繰り返しているためか、田中と挨拶することにより最早一種の安心感のような気持ちを得れている。さしずめ、ルーティンワークとでもいうのだろうか。女の子と話すことがルーティンワークと化している俺......なんかヤダ。

 

 と、そんなことを考えていると田中がじっとこちらを見る。それはそれは、まるで俺の目を覗くように。それに気付いた俺が田中を見ると、ふいっと目を逸らされる。なんだ、いじめか?

 

 「......おい」

 

 「えっ」

 

 そして、それが何度も続くもんなので堪らず俺は田中に声をかける。すると、田中が肩を跳ね上げてこちらを恐る恐る見やる。心做しか、出そうとした声も強ばっている。

 

 「ど、どうしたの?」

 

 「どうしたもこうしたもあるか。こちとらお前の視線と存在のせいで落ち着かねえんだよ」

 

 話しかけられるのは、別に構わない。しかし、用もないのにじっと見ていられるとこちらとしてもどう対応したら良いのか分からない。正直、困る。

 

 「用があるなら聞くけど、用がないならあまりチラチラ人のことを見ない方がいい。それとも、俺何かしたか?したなら謝るが」

 

 言いたいことだけ言ってもう一度窓を見やると、田中は今度はしっかりと、それでいていつも通りの毅然とした声で、俺を呼びかける。

 

 「少し、相談があって」

 

 ほう、あの田中が俺に相談とな。

 

 「聞こうじゃないか」

 

 この時、発せられた田中の言葉を俺は一生忘れることはないだろう。まるで、頭を鉄アレイで打ち込まれたかのような感覚。開いた口も塞がらない。体も金縛りにあったかのような、そんな訳の分からないような感覚が俺の五体を襲った。

 

 その言葉とは───

 

 「私......アイドル、やってみようかな......なんて思っているんだけれど、どうかな」

 

 「は」

 

 なあ、アイドルって最近流行っているのか?

 

 それとも、俺の関わる人間だけたまたまアイドルになろうとしているのか?

 

 どちらにせよ、唐突の発言に驚かずにはいられなかったものの、今回の件に関しての答えのようなものは持ち合わせている。やる、やらないは本人の意思によって決められるもの。やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなければいい。それだけの話なのだから。

 しかし、『聞こうじゃないか』と言った手前まともな返答を返さなければ、俺の良心が痛む。それに、普段から田中には迷惑かけてるし......なんて柄にもない事を内心思いつつ、俺は目の前の女に問いかける。

 

 「お前はどうしたいんだ?」

 

 「え、私......?」

 

 「田中がやりたいんだったら受けるだけ受けてみればいいし、受けたくないなら受けなけりゃいい。それだけの話だろ?大体、お前に『アイドルやってみようと思います。どうでしょうか?』なんて問われても......『お、おう。せやな......』くらいしか答えられねえよ」

 

 一息にそう言うと、少しだけ残念そうな顔をして田中が俯く。

 

 「そっか......やっぱり私次第、だよね」

 

 「因みに、動機は?」

 

 「友達に言われて......『琴葉なら絶対大丈夫だから』って」

 

 「あらら......」

 

 どの世の中にも『絶対』なんてのは無くて、何も決まってない状態で『絶対』なんて言葉で励ましを送られても送られた当人は励ましどころではなくプレッシャーになってしまうことは良くあることなんだけど。

 しかし、田中は馬鹿みたいに真面目で正直で優しい人間だからそんな言葉もプレッシャーと同時に励ましとして享受していくのであろう。

 

 ま、そんな奴を目の前にして俺が言えることって言ったら、そうだな。さっきの言葉と、後は......

 

 「......田中さ」

 

 「?」

 

 

 

 

 これしかないわな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「見てくれが本当に可愛いよな」

 

 その瞬間、クラスの空気が固まったような感覚がした。さっきまで顔を向けていた田中はこちらを、まるで有り得ないものでも見るかのような表情で見やり、一言───

 

 「......え?」

 

 素っ頓狂な声を上げた田中に、わっしょいわっしょいモードへと頭のスイッチを切り替えた俺は更に言葉を続ける。

 

 「性格だってきっちりしてるし、俺が遅刻してきた時にはノート見せてくれるし、適度なツッコミが有難いし、こんな俺に話しかけてくれるし。外面だけじゃなくて内面まで完璧とか......あーもう、端的に言って最高。可愛すぎるでしょ。もう、本当に自重してほしいくらい可愛いわー

 

 自分でも何言ってるか分からないくらいに饒舌に舌が回る。そして、一点だけを見つめた視界からは、次第に顔を赤くして、引き続き、何を言えば良いのか分からない表情をした田中がいる。

 

 「な、え、北沢......くん、何言って───」

 

 そして最後に、目をぐるぐるさせてグロッキー状態になっている田中に座礼して、一言。

 

 「もう!ほんとに!田中さん最高ですッ!!

 

 そう宣言したのを最後に、俺は頭のスイッチをカチャリと切り替えて、本当に言いたかったことを言う。

 

 「まあ、オーディションやんなら気負わずいってこーい。心配しなくても何とかなるよ、田中は外面も内面もかっこかわいいんだからさ」

 

 俺は、過度な期待も応援もしたくなかった。そんなことを言ったって田中が気負うだけだということも、散々期待されることの苦しみも人並みに知っていたから。

 故に、俺は頭のスイッチを切り替えた。わっしょいわっしょいして、遠回しに田中にエールを送って、期待してない体を装って。

 俺は、そうして欲しかったから。

 昔───過度な期待をされることが酷く辛かったから。

 

 既に期待を背負わされている人間に更に期待を背負わせようとする程、俺は重い人間ではないし、そうありたくもないのだ。

 

 「......何が気負わずよ。人のことをこれでもかってくらい弄んで......北沢くんの馬鹿っ」

 

 と、まあ過去の回想やら何やらをしていると、赤面しながら怒り顔で田中さんにそう言われた。そして、それを聞いた俺は、その怒り顔が何時ものクラスメイトの『田中琴葉』に戻ったことに少々安堵する。やっぱ、田中はそうじゃないとな。張り合いもないし、つまらない。

 

 「事実だろ。田中は本当に自己評価が低いんだからな。もっと自分に自信を持て」

 

 「......別に自己評価なんて普通だと思うけど。それに自己評価云々なんて、そんなこと北沢くんには絶対に言われたくない」

 

 そう言うと、田中はそっぽを向いて授業の支度を始める。やたらと周りの騒音が五月蝿い。

 

 「自己評価......ねぇ?」

 

 俺の自己評価......そう思い、考えてみる。

 

 「自己評価もなにも、俺は世界に名を残す程の遅刻魔でっせ?周りからは不良生徒と見なされ、煙たがれ、石崎に『野球やろうぜ☆』って誘われる.....馬鹿だろ?」

 

 うん、我ながら完璧な自己評価だ。周りの奴ら(いしざき)の話を盗み聞いた周りの俺に関する評価を上手く纏めた最高の自己評価。

 これに追随する程の自己評価はないだろう.....!と自分でも訳が分からない程の自信を持った状態でそう言うと田中は『やっぱり』と言いたげな表情で俺を見る。

 

 「自己評価が低いのは北沢くんの方だよ」

 

 端的に言うと、ジト目。そんな目付きを向けられた俺はというと、それはそれは穏やかな天気なのにも関わらず、自らが完璧だと思った自己評価を否定されたことによるショックから、どんよりとした面持ちで机に頭を下げる。

 有り体に言って、惰眠を貪ろうとしたのだ。

 

 「あ.....こら、惰眠はさっき貪ったばかりでしょう」

 

 「田中の言葉で俺のハートがブレイクした。惰眠30分を希望するっ」

 

 「何処の豆腐メンタルよ.....」

 

 さあな。

 

 俺にだってわからんよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「おい、啓輔!!あれはどーいうことだよっ!!」

 

 いつも通り、惰眠を貪っているとふとそんな叫び声と同時に肩を揺すられる気持ち悪い感覚が俺を襲う。その感覚に、惰眠を妨害された俺はストレスマッハの状態で石崎を見据える。

 

 「ああ......?折角の惰眠をごツイ手で妨害しやがって......お前は俺の嫁かっ!」

 

 「おい啓輔。お前本当に1度病院に逝った方がいいんじゃねえのか?」

 

 真面目に返された。なんだろう、凄い悲しい。

 

 「今日一日学校はお前の告白騒動で持ち切りだ。一体お前に何があった!?何がお前をそこまでにした!?俺、お前をそんな子に育てた覚えないよっ!?」

 

 逆に聞きたい。

 

 告白騒動とはなんだ。なんでお前がそこまで盛り上がっている。そして、お前は俺の母親なのか?

 

 「知らんがな、俺が聞きたい」

 

 「知らないなんてこたぁねえだろう!!現にお前の口から発せられた言葉なんだからな!!」

 

 「うっせーうっせー」

 

 喧しい声に抗うかのようにそう言うと、石崎が俺の両肩を掴んで続ける。

 

 「お前......もしかしてスイッチ切り替えたのか?」

 

 「あ?」

 

 続けて石崎が俺のネクタイを解きにかかる。やめろ。何がとは言わないが誤解されるだろう。

 

 「スイッチだよスイッチ!!」

 

 「生憎それを買ってやる金も甲斐性も俺にはない」

 

 「誰が任〇堂の話してんだよッ!!テメーの脳内のスイッチの話をしてんだよ馬鹿ッ!!」

 

 そう言って俺を罵る石崎。果たして俺は今月で何回バカと罵られるのだろう。

 それはそうと、周りの喧騒にも似た噂話と、石崎の鬼気迫る迫真の声色でようやく今、俺が置かれている状況が分かってきた。

 どうやら、過去に俺がしでかした田中さんわっしょいわっしょい事件(自称)により、俺の一連の行動を告白と勘違いした輩があることないこと学校中に広めまくっているらしく、石崎曰く、校内はその噂で持ちきりらしい。

 ふむ、参ったな。

 俺としてはどう噂を広められようが一向に構わないのだが、田中にとってはよろしくないだろう。何せ、今、まさにアイドルになろうとしてる自他共に認める真面目少女だ。これから先、彼女がアイドルになろうがならまいが、この噂は彼女にとっては傍迷惑なものとして残り続けるだろう。

 人の噂も七十五日とはよく言うもので、実際は噂なんてものはそのままにしていたら一生囁かれ続ける。俺は、確かに不真面目、不勤勉、不誠実と悪い性格ばかりが先行する阿呆だが、人様に迷惑だけは極力かけたくないのだ。

 故に俺はこの噂を撲滅するべく1度改まり、石崎を見据える。

 

 「......石崎、俺はどうしても切り替えなきゃ行けない理由があったのさ」

 

 「......聞こうじゃないか、その理由とやら」

 

 「俺はあの時......田中から発せられる空気を察したんだ。そう......あれは、凄かったッ!!」

 

 「な......何だとッ!?お前、いつの間に空気を読めるように───」

 

 「そう......あの、自己評価の低さから発せられる鈍感少女としての1面......そして、それを聞いてしまった俺の何か言わなきゃいけない雰囲気......!」

 

 それを聞いた石崎は涙を流す。流石、感受性とハンカチと嘘泣きには定評のある石崎だ。俺の言葉にいとも容易く涙を流してくれた。

 

 「お、お前......お前って奴は!」

 

 「人は、成長する生き物なんだよ......!それなのに、成長したと思ったら直ぐに茶化される!そんなの認められると思うか!?」

 

 「そんなの、そんなの嫌だッ!!折角啓輔がひとつ大人になったのに!心無い一言でまた啓輔の成長の機会が奪われるなんて......耐えられないッ!」

 

 「じゃあ、お前は俺に何をしてくれるんだ......?」

 

 締めの一言。俺がその言葉を口にすると、石崎は何処ぞの熱男よろしく拳を突き立て、一言───

 

 「噂をしてた奴を片っ端からアンパンチしてくるッ!!」

 

 「よし、逝ってこい!」

 

 そう言うと、石崎は親指を立てて廊下へと出ていった。『アンパンチ!!』やら『熱男ぉぉぉぉ!!』なんて言葉が聴こえてきたがここは無視だ。関与していない風体を装い、石崎が拳で噂を根源から叩き切る。そして、俺が惰眠を貪っている間にも噂は消えている。

 

 クラス1の人気者である石崎だからこそできる芸当だ。お世辞にも頭がよろしくはない石崎の事だからきっと誰かに咎められるまで物理的にアンパンチを繰り返し、黙らせる事だろうが。

 

 ありがとう、石崎。心の中で感謝を込めて敬礼をすると、後ろから声がかかる。

 

 「へー、私が鈍感少女かあ」

 

 その女の声は、聞き慣れた声なのに何故か寒気がする。そう、それはまるで妹に怒られている時のような、そんな感覚。そして、こういった事項が俺を襲った時、俺という人間はその事項に対し、為す術もないという事を俺自身が1番知っていた。

 

 「あ、いや、えーっと......」

 

 「北沢くん」

 

 何故か、デジャブを感じる。次に田中から発せられる言葉を俺は予知していたのかもしれない。予知......否、そんなものでは無い。寧ろやられ慣れてるとでも言った方が正しいのか。

 田中は、クスリと笑って一言────

 

 「正座」

 

 その瞬間、俺の膝は力が抜けた。糸でも切れたかのように───

 

 「先ずは、一言。言わなければ行けないことがあると思うんだ」

 

 ああっ......凄い。誘導の仕方まで妹とそっくりだ。こんなの抗いようがないじゃないかっ。そう思った瞬間、俺は誰に操られるまでもなく田中の方へ向き直り田中を見上げる。

 

 マルサルヘアーとでも形容すべきロングヘアーと年相応に整ったスタイルが目に毒だ───なんて事を頭の中で考えつつ、俺は頭を下げる。

 

 「自分、調子乗ってました。幾ら田中が可愛いからってそれを公衆の面前で......あまつさえ石崎には鈍感少女なんて......ごめん、田中は少女じゃなかった。立派な女だったよな......」

 

 そう言うと、田中は左手で顔を覆って首を横に振る。

 

 「突っ込んでいるのそこじゃないんだけどなあ......」

 

 「ええっ」

 

 なら、何を謝ればいいんだ。俺は、それ以外に失礼な事を言ったのだろうか。

 

 「それに関してはもういいけどっ。本当に今日一日どうしたの?今日の北沢くん......何だかおかしいよ?」

 

 おおう、どストレートな回答ありがとうございます。そうです、今日一日俺はおかしいんです。切り替え不可能なスイッチを志保の馬鹿が押しちゃったんですよー。『お兄ちゃん調子に乗っちゃう』スイッチ......おえっ、自分で言ってて気持ち悪くなってきた。

 

 「......済まないな。ただ、田中迷ってるみたいだったからさ」

 

 先程のお兄ちゃんスイッチは兎も角、それに関しては本音だし、真面目だ。目の前の何かに困った友達を何とかしてやりたいと思うのは俺の良心であり、心の奥に今でも決めている事だ。問題は、『何とかしたい』の方法だったわけなんだけど、流石に公衆の面前でわっしょいわっしょいするのは駄目だったな。反省しなければならない。

 

 「......心配、してくれたの?」

 

 「そらそうよ。新しい何かに挑戦するって凄い勇気のいることだから生半可な気持ちじゃ出来ない。それを俺の隣の席の奴さんがやろうとしてる......正直、大丈夫かと、そう思った」

 

 心配はしている。だからこそ、無責任に頑張れなんて言いたくなかった。若干ひねくれててもあの時のやり方があの時の俺の最適解だった。まあ、それも結局は不発だった......故にこうして正座させられているわけなんだが。

 

 「.....そっか」

 

 かくして、俺が正座をしながら過去のわっしょいわっしょい作戦を懺悔していると田中は、何かを考える素振りを見せる。

 

 「私......アイドルやるって言って、否定なんてひとつもされないでみんなに頑張れって言われてる。友達にも、家族にも、先生にだって。感謝してる、私のやることを肯定してくれて、反対も特になかった周りの人達に感謝って言葉じゃ足りないくらい......そう思ってる。だからこそ、期待に応えなきゃって......私は思ってる」

 

 「ああ、お前ってばそういう人間だったよな」

 

 北沢啓輔という人間を1括りにして考えるのなら、10人中10人は『馬鹿』って言うだろう。基本馬鹿で、遅刻魔で、寝坊助。ぞんざいな性格の割に頼られたら調子に乗っちゃう駄目兄貴。

 だけど、それが『俺』としての人物像でありあるべき姿だ。俺のアイデンティティなんだ。

 

 ならば、この目の前にいる女のアイデンティティってのは?田中琴葉の人物像ってのは?

 田中は『真面目』だ。故に男女共に人気があるし、周囲の期待も相応に受ける。

 

 普通の人間ならプレッシャーにしか感じないであろう一言も、田中は励ましとして受け取るであろう。現に俺のようなひねくれた奴の言葉も、心配として受け取ってくれた。

 

 田中琴葉という女はどこまでも『真面目』だ。そして、周囲の期待には応え、言われたこと、成すことは全て100パーセントの準備を以て100パーセントの力で遂行する完璧主義。

 田中琴葉はそういう人間だったんだ。俺とは違う、周囲の期待に対して投げやりになった俺とは確実に違う。彼女は周囲の期待をも力にしようとする。

 

 彼女はきっと、表舞台に立つことに向いている。直感的に、俺はそう思ってしまった。

 

 ならば、俺はどうする?俺も『頑張れ』なんて言って彼女を応援するか?

 

 答えは、否だ。

 

 言っただろう?北沢啓輔は『馬鹿』なんだ。だからこそ、模範解答が近くにあったとしてもそれを答えずにひねくれた回答をしてしまう。だからこそ、俺は何度も田中の事を褒めちぎるであろう。

 

『やるならやってみたらいい』

 

『やらないならやらなければいい』

 

『田中は可愛い』

 

『アイドルに向いている』

 

『最高です』

 

『気負わずいってこーい』

 

 そんな、1度は言われてみたかったであろうキーワードの1部を田中に言う。世間では、これを投影とでもいうのだろうか。はたまた感情移入か。

 

 ただ1つ分かることは、田中から見て、俺は先の質問に対してどっちつかずの解答をしてしまっていることは確かだったということだろうか。他ならぬ俺がそう感じている。

 

 「時に、田中よ」

 

 「え?」

 

 「お前は、俺に応援してほしいか?それとも、応援して欲しくないのか?」

 

 何気なく、そう発言した俺に田中はきょとんとした目を向けて、答える。

 

 「......どうだろ、だって北沢くん。仮に応援するって言ってもまた私の事を困らせそうだし」

 

 「ほう、わっしょいわっしょい作戦をしてほしいと」

 

 「そんなこと1度も言ってないっ」

 

 お互い会話を交わし、怒り、笑う。

 

 そんな不思議な感覚に身を任せるかのように、俺は言った。

 

 「アイドルになったら、応援してやるよ。それまではただの一般人だからな。応援する道理がない」

 

 だから、と続ける。

 

 「アイドルになる為に.....気負わずいってこーい」

 

 北沢啓輔は北沢啓輔らしく、目の前の『アイドル志望』に、高らかに拳を突き上げ、エールにすらならないエールを送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話

 「受かった」

 

 その言葉を聞いた俺は、少しだけ笑みを見せる。やはり、俺の目に狂いはなかったといったところか、なんて内心格好付けて見た所で何かが変わるわけでもなく、俺は普通に田中を賞賛する。

 

 「ほう、良かったじゃあないか。ならば、晴れて俺はお前さんのファンだ。第1号だ」

 

 拍手を2度して賞賛すると田中は少しだけ目を瞑り、話題転換。

 

 「それよりも驚いたことがあるの」

 

 「聞こうじゃないか」

 

 「北沢くんの妹さんがいた事」

 

 「おお、志保に会ったのか。どうだ、可愛かったろ」

 

 志保は自慢の妹だからな、と胸を張って言うとため息を吐いた田中が少ししんみりした様子で俺に言う。

 

 「ええ、可愛かったわ。可愛かったけど......」

 

 「無視されたか」

 

 「それはもう、見事にね」

 

 志保のやつ、まさかアイドルになって早速孤立しているんじゃなかろうな。心配だ。実に心配だ。

 

 「もし良ければ、志保のこと気にかけてやってくれ。同僚としてで良いから、会った時に挨拶......ああ、それでも無視するようだったら俺の名前を使ってくれて構わない。『アンパンチ』って言ったら多分仲良くなれるはずだからさ」

 

 一息にそう言う。すると、田中は呆気にとられたような表情をした後、クスクスと笑みを零す。

 

 「一応、真面目に考えたつもりなんだがな......」

 

 「ご、ごめんごめんっ。あんまり北沢くんが妹さんの事を気にかけるものだから思わず......」

 

 尚も笑い続ける田中を見て、俺は珍しく大きなため息を吐く。

 

 「まあ、いい。俺はシスコンでブラコンだからな」

 

 「え、マザコンは?」

 

 「断じて違う、とだけ言っておく」

 

 俺は母さんには感謝しているけど、マザコンじゃない。覚えとけ、ここテストに出るから。

 

 「それにしても......田中がアイドルかぁ」

 

 これから下積みを経て、様々な経験をして、ステージに経って、色んなことをするであろう将来性抜群な女が目の前にいることが、何だか想像出来ない。いや、実際アイドルが目の前にいるのだ。自覚しろよ北沢啓輔。

 

 「どうかしたの?」

 

 「いや......悪いけど田中がアイドルになったってのが未だに想像というか、自覚が出来なくてな......」

 

 「それは......ほら、まだ私見習いのようなものだし」

 

 「そうじゃない。いや、そうなのか....?」

 

 まあ、アイドルの友達なんて俺にいる訳でもなし。そんなもの何れ自覚するであろう。頭の中でそう自己完結させた俺は先程までの思考を放棄し新たな悩み───今日の晩御飯について頭を悩ませることにした。

 

 「さて、今日の晩メシどうしようかな......」

 

 そう呟き、チラシを取り出すと田中が興味深げにこちらを見る。

 

 「北沢くん、やっぱり買い物とかするんだ」

 

 「母子家庭だしな」

 

 何が高くて、何が安いのか、特売とか、それくらいの事は分かっとかないと買い物とか行けない。最初はノープランで買い物も行ってたけども、母さんにお金の使い方の大切さを学んでからはこのスタイルが身に染み込んでしまった。

 

 「お前も買い物くらいはするだろ?それと大差ねえよ」

 

 「ふーん......そんなものかな?」

 

 「そんなもんだ」

 

 まあ、俺の場合家事は志保との交代制だったからそこまで大変ってわけじゃないし、寧ろ家事とか色んなことが一人暮らしをする前に経験できるのは物凄く有難い。いずれは俺も一人暮らししなきゃいけないしな。何時までも実家ぐらしじゃ、母さんに面目が立たない。

 

 ふむ、野菜と鶏肉が安い。

 

 家にはルーがある。

 

 「よし、今日はシチューだな」

 

 「シチュー......」

 

 「そう、シチューだ」

 

 クリームシチューの濃厚な甘みと旨み。1度口に含んだら最後。病みつきになるあのクリームシチュー様だ。おおっ、考えたら涎が。腹も減ってきたな。

 

 時計を見てみると、時刻はちょうど昼休みの中盤。そろそろ飯を食わないと5時限目の授業に間に合わなくなってしまう。

 

 「さて、メシだメシ」

 

 俺は何かを考える素振りをしている田中を尻目に、自らの作った卵焼きに齧り付いた。

 

 うん、しょっぱいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、長かった5時限目と6時限目の授業も終わり、俺と田中は早々に帰り支度を済ませていた。

 

 「んー......眠いなぁ」

 

 マトモに授業を受けたため、酷く身体がダルい。どうしてこうなったのかというと、惰眠を貪ろうとしたら田中に拳骨喰らったの一言に尽きる。

 クソッタレめ......と誰に言うまでもなく、悪態を突いていると田中が相も変わらず呆れたような視線を送り、俺に問いかける。

 

 「本当に......どうして北沢くんって授業中にそこまで寝ることが出来るの?」

 

 「田中......それは授業がつまらないからだよ!!」

 

 「それを両手を広げて高らかに言われても反応に困るんだけど......」

 

 何でさ。自分の主張を述べたまでだろ。

 

 「大体、授業はつまらなくても受けるものでしょう。学費だってかかってないわけじゃないんだから......」

 

 「う......」

 

 それを言われると弱い。

 

 「せ、せやな......これからは真面目に受けられるように頑張ってみるよ......」

 

 目を逸らしつつ、冷や汗をかきながら俺は苦し紛れにそう言う。その間に、前をチラリと見ると、田中は「じー......」とまるで擬音が付くかの如く、俺をジト目で睨んでいた。あ、なんだろ。ドキドキが止まらない(恐怖)

 

 「......ど、どうしたんだよ田中っ。俺はしっかりと授業を受けられるように頑張る。それでいいだろっ」

 

 そんな変な高揚感を胸に、そう言うと田中は先程のジト目を変えることなく一言───

 

 「『頑張る』っていうのが怪しすぎる」

 

 「即答ゥ───!?」

 

 間髪入れずに言われた言葉に思わずツッコミを入れる。出した当人である俺も吃驚のツッコミスピードだ。

 

 「だって、北沢くん何回も同じ事を言って直した試しなんて1度としてないじゃない」

 

 「失礼な。これでも最近は寝坊助直そうと頑張っているんだぞ」

 

 「北沢くんの場合そろそろ『頑張り』じゃなくて『結果』が求められる年頃だと思うんだけど......例えば、何をしているの?」

 

 ふむ、それを掘り下げて聞いてくるか。まあ、いい。嘘はついてないからな。ここ1週間で俺が行動したこと全てを洗いざらい話してやろうではないか。

 

 「月曜日に目覚まし時計をふたつにして、火曜日にオールナイトしてみた」

 

 「うん」

 

 「水曜日は、朝飲むコーヒーの量を2倍にしてみたり、木曜日には朝飯を作った後に妹に抱き着いて志保成分を吸収しようとしたら抱きつこうとした右手の上から何処ぞの宮〇も吃驚のジョルトカウンター喰らって失神した」

 

 「......ちょっと待って」

 

 「金曜日には、陸......弟に起こしてもらったりとか土曜日には、今まで行った全ての事を同時にやったりもした」

 

 「突っ込みたい......本当に色々突っ込みたいけど我慢しなきゃ......」

 

 何やら田中がぶつぶつ言いながら頭を抑えているが、ここまで言った以上最後まで言わなければ気持ち悪い。

 

 「んで、日曜日に最終手段で志保に寝起きを襲ってくれないかと頼んだら、何やら物凄い目付きで睨まれてハイキックからの肝臓打ちされて最後には───」

 

 「ごめん、話は変わるんだけど」

 

 唐突に話を切り替えられた。

 

 「おい、お前が切り出した話だろ。責任持って最後まで聞け」

 

 内心穏やかではない俺は早口に捲し立てる。すると、先程まで無表情だった田中が少しだけ顔を引き攣らせる。

 

 「聞くに堪えない話だったから......大体、妹にジョルトカウンターされる兄って一体」

 

 「そこは置いとけ。大体は俺のせいだから」

 

 現に志保があそこまで冷酷な目付きだったりジョルトカウンターを俺に噛ますようになったのはしっかりとした原因がある。

 そもそも、志保は赤の他人にあそこまで過激な攻撃はしない。基本は他人に無関心であり、深く関わろうともしない。それ故に距離を感じる時もあるし、それが心地好く感じる時もある。

 その距離を、どう思うかは接したやつ次第だ。それくらいでいいと思うやつもいれば、嫌だと思って踏み込む奴もいる。

 

 「北沢くんの......せい?」

 

 「ああ」

 

『北沢志保』という人間がどういうものなのか、そんなことは今は関係ない。今、説明補足が必要だったのは『北沢志保』が『北沢啓輔』という人間にどうして遠慮ない性格になってしまったか、だったな。

 

 「まあ、端的に言ってしまえば家族だから、なんだけどね」

 

 他人では、思わず自重してしまうような事も家族なら遠慮なく出来る。

 俺が、他人にあんまり関わろうとしなくても志保、陸、母さんにはとことん関わる。それは『家族』が俺にとって心を開ける存在だから。

 

 それは、恐らく志保も同様でその表現の仕方が俺に対する罵倒であったり、照れ隠しのジョルトカウンター、肝臓打ちだったり、時たま見せる優しい笑顔だったり、マッサージだったり。たったそれだけの話なんだ。

 

 「田中だって、家族になら心を開いてある程度のことは言えるだろ?それは何でだと思う?」

 

 「......信頼、してるから?」

 

 「それがお前の問いの答え......だと思うよ。うん、寧ろそうじゃなかったら泣く。自宅の押し入れでおいおい泣く」

 

 「何処の現代文よ......」

 

 そう呟いて、田中は帰り支度を済ませた鞄を肩にかけて、立ち上がる。

 

 「......何だか無性に美味しいシチューを作りたくなってきた。そろそろ俺行くわ!!」

 

 俺は、その時衝動に駆られた。

 

 必ずや志保の舌を唸らせるシチューを作り、家族の......主に志保の笑顔を見る為に。家族の笑う姿を想像し、やる気に満ち溢れた俺が今にも外へ行かんと歩き出すと、その足を不意に発せられた田中の声が止める。

 

 「.....北沢くん」

 

 「?」

 

 不意に立ち止まり踵を返した方を振り向くと、田中が真顔で俺に尋ねる。その姿に、自分の頭の中にあるスイッチ......『真面目』スイッチがカチャリと音を立てたような感覚が俺の体を無意識に真顔にさせた。

 

 「その......買い物なんだけど」

 

 「買い物?」

 

 俺が、そう言うと田中はまるで一大決心でもしたかのような決意のある表情と声色で俺に一言───

 

 「私もついていっていい?」

 

 そう言って、俺以外の周りの時を一瞬止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 あー、なんだろ。

 

 買い物についていくのは別に良いんだけどさ。

 

 「そんな一大決心したかのような表情で言われても......」

 

 「う」

 

 「それに......お前、俺と一緒に買い物行って何がしたいの?」

 

 俺と買い物行って、メリットがあるのならそれを是非聞いてみたいのだが。

 

 「......あ、勿論目的はあるよ。私料理は出来るんだけど北沢くんみたいに材料とか、そういったものをチラシとかみたりして本格的にシチューを作ったことはなくて」

 

 ......ああ、成程ね。

 

 「つまり、俺が何を意識してシチューの材料を買っているのか知りたいと」

 

 「うん、個人的に気になるんだ。普段は適当な北沢くんがどんなことを思って買い物をして、どうやったら美味しいシチューを作れるのか」

 

 「......別に俺、料理ができるなんて言ったつもりないんだけどな」

 

 本当に。田中琴葉という女は北沢啓輔の事をどこまで知っているのだ。

 名前から始まって、バイトのことまではいいとして。料理が美味しいなんて情報、俺ですらそんなに聞いたことがない。

 あれか、また石崎か。

 

 「石崎くんから聞いたよ。『啓輔の料理は美味いんだよ......特にシチューがっ!』って」

 

 石崎の真似なのか身振り手振りを使って石崎の真似をする田中。流石、演劇部と言ったところか。滅茶苦茶似ている。というか、可愛い。

 

 後、情報をまたお漏らしした石崎は処す。

 

 「......分かった。まあ、大したことは説明出来ないだろうけど付いてきたいなら付いてこい」

 

 「本当?」

 

 「嘘はつかない。ああ、後......」

 

 「どうしたの?」

 

 「次から、一大決心する時と場所と状況は考えような。それから、石崎の真似はめっさ可愛かったぞ」

 

 まあ、どこで何言おうが自由なんだけど。そう最後に付け足してバッグを肩に背負うと、田中が固まる。

 

 「......おーい、田中?」

 

 身長柄、田中を少しだけ見下ろす形でそう尋ねると、ようやく田中が動き出す。

 

 「......ぁ」

 

 「あ?」

 

 言葉の意味が分からず、再度尋ねる。

 

 すると、田中はあっという間に顔を赤く染めてそれはそれは見事なまでに狼狽した。

 

 

 

 

 「ああああああ」

 

 目をぐるぐるさせて、何処ぞのポンコツアンドロイドも吃驚な位に壊れてらっしゃる。ここまで壊れた田中は初めてだ。

 

 結局、出発する為に田中を正常な状態に戻す必要があったため、あれから1時間は学校を出ることは出来なかった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 「穴があるなら潜りたい......ッ!」

 

 学校からスーパーへの道すがら、田中は両手で顔を覆いながら重い足取りで歩いていた。

 

 「あのさぁ......そんなに後悔するなら言わなければ良かっただろうが」

 

 「だ、だってあの時は周りのことよりも自分のことばかり頭にあって......!」

 

 「それを何とかしろって話だよ」

 

 自分のやりたいことに一途なのは大いに結構だけれども、時と場合と場所は考えほしい。そうしなければ田中自身が近いうちに痛い目を見る。

 それが分かっているのに、言わないほど俺は薄情ではない。まあ、石崎にアップルパンチする程には冷たいが。

 

 「知らず知らずのうちに周りはあたかも俺達が放課後デートするかのように盛り上がってたし。こりゃあ石崎に噂を撲滅させる必要があるかもな」

 

 石崎ならば、きっとアンパンチで......あ、無理だ。職員室に連行されたって石崎に怒られたばっかりだった。ああなってしまった石崎は暫く口を聞いてくれないんだよな。まあ、数日経ったらまた『野球やろうぜ!』って話しかけてくるんだけど。

 

 というか、実際この状況ってデートだよな。勿論、そうは思いたくないし、田中となんて考えてすらいない。ただ、客観的に見たらこの状況は完璧にデートだと思われる。俺がこの状況を第三者の視点で見たら『リア充爆ぜろ!わっほーい!』って取り敢えず煽ると思う。

 

 「......石崎くんって本当に北沢くんのこと色々知ってるよね」

 

 「まあ、小学校の頃から同じクラスだしな」

 

 奴とは、切れても切れぬ仲なのかもしれない。小学校、中学校とクラスは同じ。高校も同じ学校で同じクラス。

 ただひとつ、決定的に違うのはアイツが野球部のエースで、俺が帰宅部って事だ。

 

 「石崎は陽キャ、俺は陰キャ。光があれば、影は鮮明に映し出される......」

 

 「最高のコンビってこと?」

 

 んなわけねーだろ。

 

 「光が憎たらしい。あー、もう石崎さん勘弁してくださいよ......って所だな」

 

 「貴方って人は......」

 

 田中は1度、俺を冷めた目で見つめると続ける。

 

 「野球、やってたんでしょう?石崎くんと。どんな人だったの?」

 

 どんな人だった、か。

 

 それはお前のイメージ通り───

 

 「何処までも底抜けに明るくて、それでいて天才。何でもできるといえばできるし、実際アイツは高校からの推薦もあった」

 

 最初のスカウトは、恐らく現在も最強の強さを誇るであろう在阪の高校。

 最後のスカウトは、関東の強豪校。

 兎に角たくさんの高校から推薦が来ていたし、石崎の力なら、セレクションだって受かるはずだった。

 だけど、アイツは全ての高校の誘いを断った。そして、今は無名の高校を県内でも随一の強豪校に仕立てあげ、奮闘中である。

 近々、石川から良い選手が来るらしい。彼の野球部強豪校計画は順調に進んでいる。

 

 俺、『北沢啓輔』から見た『石崎洋介』ってのは。

 

 「馬鹿みたいに優しすぎるんだよ。アイツは」

 

 そして、そんな優しいやつのひとつの道......可能性を、俺はぶっ壊したんだ。

 

 「優しい......か。確かにそうかもね」

 

 「何が確かなんだっての」

 

 「だって、石崎くん北沢くんの事を本当に楽しそうに話すから」

 

 「面白がってんだろ」

 

 「それもあるかもしれないけど......何か、そういうの良いよね。言いたいことを言える友達が近くにいる事ってなかなかないし、出来ないことだから」

 

 

 

 

 

 ......

 

 

 

 

 

 言いたいこと、か。

 

 「お前にもいるだろ。そんな事を言い合える友達は。それに、田中はこれからアイドルになるんだぜ?沢山の人と切磋琢磨していく過程で、そんな友達沢山出来る」

 

 「......そういうもの、かな?」

 

 「そういうものだよ。だから、一先ずは俺の言うこと信じとけ。騙されたつもりでな」

 

 やがて、スーパーが見えてくる。辺りはまだまだ明るいが、季節は冬。故に暗くなるのも早くなる。

 一時とはいえ、女の子と共にいるのだ。早く用を済ませて、早く帰らせなければ田中のご両親が心配するだろうし、俺だって志保の冷たい眼差しを浴びせられることになる。

 

 「話は変わるんだけど、北沢くんって何時から料理を始めたの?」

 

 スーパーに入店して、買い物カゴを取ると後ろから付いてきた田中が俺の横に立ち、尋ねる。

 

 「小3」

 

 「成程、小3......って。ええっ......!?」

 

 田中が驚いた声を上げる。そこまで驚くようなことを言ったか。

 

 「しょ、小3から料理を始めたの......?」

 

 「ああ」

 

 「ってことは、火を......?」

 

 「馬鹿言え、そんなの母さんが許してくれるか。何の変哲もない即席デザートだよ。牛乳とそれを混ぜたヨーグルトみたいなの」

 

 名前を忘れた。確かあれって......フ......ルーツ?だっけ。いやいや、フルーツってまんまフルーツじゃん。

 兎に角、あれが初めての料理と呼べるものだった。1人で作ったそれはとても美味しかった思い出がある。妹も、純真無垢な笑みで美味しいって言ってくれたよな。

 

 多分、そこから料理に興味を見出したんだろう。

 

 「そっから少しだけ間が空いて、本格的に料理をするようになったのは中学校の部活を引退した頃......だっけかな?志保に教えてもらったりして上達した」

 

 いやあ、師の大切さが分かった瞬間だよね。教えてくれる人が良ければめきめき上達する。今の自分の料理スキルがどれだけなのかは分からないけど、少なくともまだまだ料理が下手くそだった時に味見をしてくれた志保の顔が青くならなくなる位には上達したと思う。

 

 「田中は?」

 

 俺が興味本位で尋ねると、田中は顎に手を添えて考えるポーズを取る。ちくせう、いちいち行う表情や仕草が画になりますよね。流石アイドル見習いといったところか。

 暫く、考えていた田中は不意に思い出したのか手をポンと叩く。

 

 「確か小学校6年生の頃、かな。友達にクッキーを焼いたの。丁度バレンタインの日だったから」

 

 「ほー、田中がね」

 

 意外だ。いや、女の子にしてみたら普通か。友チョコとか色々あるもんな。

 それにしても、バレンタインか。そんなことを思いながら特売のジャガイモ、人参をカゴに入れる。

 

 「北沢くんは、バレンタインとか......なにか貰ったりした?」

 

 「あー、あれか。ああ、それなりに貰ったぞ」

 

 妹がチョコをくれる。

 

 弟がチョコをくれる。

 

 石崎が、『ほもちょこ!』とラッピングしてある封に書いたチョコをくれる。

 

 それから......

 

 「大変だよな、あれ。下駄箱にチョコを沢山ぶち込むなんて。あれ、1回いじめかと思ったんだからな」

 

 下駄箱を開けた瞬間にドバドバとチョコが溢れ出た時はクラス中が殺意に満ち溢れた目付きを向けるわ、石崎にからかわれるわ、妹に不機嫌になられるわで本当に大変だったんだからな。もう二度とあんな思いはしたくないものだ。

 

 「あれこそお菓子メーカーの陰謀だ......ううっ!寒気がするっ......と、どした田中。そんな鳩が豆鉄砲くらったかのような表情して」

 

 「......ご愁傷さま、だね」

 

 「は?」

 

 「何でもない、買い物の続きしよっか」

 

 「お......おう?」

 

 何故か、田中に呆れられているかのような顔つきをされたのかは分からないが、まあいい。俺はシチューに必要なベーコンを買うために歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北沢啓輔という人間は、限りなく家族想いだった。

 

 今日1日過ごして、北沢くんについてわかったことはそれだった。

 

 北沢くんの口から発せられる思い出には沢山の家族の思い出が詰まっていて、それを聞いた私は自然と笑みが零れてくる。

 

 「んー......りっくんの人参嫌いは筋金入りだからなぁ......出来ればシチューには入れてやりたくない。だけど食べてくれないと将来困るし......複雑だ......」

 

 今も、北沢くんは家族の為にあれやこれや考えている。好み、苦手、栄養、バランス。今の北沢くんの選択にはしっかりとした責任があって、とても好感が持てた。

 

 ならば、他のこともしっかりとやれるのではと考えて......止めた。

 

 北沢くんは『本当にやりたいこと』に関して本気を出す人間という事実が分かったからだ。

 曰く、北沢くんは家族が好きだ。だからこそ、家族の為ならバイトだって、料理だって、シスコンだって、ブラコンだってなんでもやる。

 曰く、北沢くんは学校が嫌いだ。だからこそ、不勤勉で、不真面目で、寝坊助なのだ。

 

 1年間弱北沢啓輔という人間に関わってきた私が、仮に北沢くんの素顔がどちらかと問われるのなら今の私は胸を張ってこう言う。

 

『家族のことを考えている北沢くん』と。

 

 それ程に、今の北沢くんは真面目で、誠実で、勤勉で、何より正直だった。

 学校にいる時の北沢くんの方が本物と言う人もちらほらいるかもしれない。理解出来ないわけじゃない。実際、以前の私......一年前の北沢くんの事を深く知らない私がそこにいるなら絶対に『学校にいる時の北沢くん』が本物だったと思うだろう。

 しかし、深く関わってくると『北沢啓輔』という人間を取り巻く色んなものが嫌でも見えてしまう。ニヒルな笑みで、軽快に持論を振りかざす北沢くんは偶にその笑みに陰を落とす。

 

 それこそ、例えるなら今まで付けていた仮面のようなものがぽろりと落ちてしまうような感覚───

 

 1度それを見て、何かおかしいと気が付いた。

 

 2度それを見て、『おかしい』ということを確信した。

 

 3度目からは、学校での北沢くんの表情が嘘ということに気が付いた。

 

 深く関われば関わるほど見えてくる北沢くんの素顔を知る度に、私の中の北沢くんのイメージは、容易く崩されていくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「田中」

 

 「!?」

 

 不意に声が聞こえる。その声に驚いて、声のする方......前を見ると、そこにはエコバッグを腕にかけた北沢くんが怪訝そうな表情で私を見ていた。

 

 「レジ、終わった。そろそろ行こうぜ」

 

 「あ、うん」

 

 今日も今日とて、北沢くんは気だるそうなオーラを身にまとい私に話しかけてくれる。その何時も見せる気だるそうな表情は、学校にいる時や、他所向きに話している時に使う北沢くんの仮面で。

 

 

 何故か、ズキリと心が痛んだ。

 

 

 スーパーを出て、帰路につく。自然と歩く歩幅が違う為北沢くんが私の斜め前を歩く形が嫌で、歩くスピードを少し早めた。

 それに気付いた北沢くんはこちらを苦笑いして見つめる。

 

 「言ってくれりゃスピード落とすのに。悪かったな」

 

 「別にいいよ。元々私が無理言って付いてきたんだし」

 

 それに関しては本当だ。北沢くんは本来1人で買い物に行く筈だったのにお願いして付いてきてしまったのだから。余計な気を遣わせたかもしれないし、お邪魔だったなと思う。

 しかし、そんな私の心配を他所に北沢くんは続ける。

 

 「それこそ別にいいよ。買い物さえ出来れば何人いようが変わらないし。それに少しだけど話せて楽しかった」

 

 「そう、かな?」

 

 「ああ。だから気にすんな」

 

 一言、そう付け足して北沢くんは私の歩調に合わせながらゆっくり歩いていく。ちょっとした気遣いが、私にとっては少しだけ有難かった。

 

 「......あ」

 

 不意に、北沢くんの足が止まる。ピタリと、時でも止まったかのように。

 

 「どうしたの?」

 

 そう尋ねるも、返事はない。息をするのも忘れているかのように、反応しない。

 

 一体どうしたのだと思い北沢くんの視線を追ってみる。するとそこにあったのは公園のベンチと『折れた木製バット』だった。それは、単なる木製バット。野球をする為に作られた、北沢啓輔には何も関係のないバットの筈だ。

 しかし、北沢くんはそのバットに向かって歩き出す。その足取りは重く、何処か覚束無い足取りだった。

 

 バットを持ち上げる。右手にはグリップエンド側のバットを。左手にはもう片方のバットを。まるで、懐かしいものを見るかのように。それでいて、その表情は────

 

 

 

 酷く、物憂げだった。

 

 この時、北沢くんが何を考えていたのかは良く分からない。

 けれど、そのバットを見た北沢くんの表情だけは分かったし、その表情が芳しくないって事も私には理解できた。

 

 果たして、これは踏み込んでいい一線なのだろうか。

 

 私なんかが、踏み込んでいいのか。

 

 私には、分からなかった。

 

 そして、覚悟もなかった。

 

 やがて私の姿に気が付いた北沢くんは、折れたバットを持ったまま私に近付く。

 

 「道具は大事に、後処理もしっかり」

 

 「......え」

 

 「スポーツの鉄則だぜ。折れたバットをあんな公園に捨てて......子供が触っちまったらどうすんだよな」

 

 全く、けしからん......とおちゃらけた雰囲気で話しかける北沢くんに、以前のような雰囲気は感じられなかった。

 

 「......さ、そろそろ帰ろうか。田中だって門限とか色々あるんだろ?幾ら自分の為っていっても門限を守れなかったら自炊どころじゃないからな」

 

 「あ......そ、そうだね!時間が......うん」

 

 「お、おう。なしてそんなにしどろもどろになっているのか知らんけど......ま、いいか」

 

 この男は、自分がどんな顔をしていたか気づいていないとでも言うのだろうか。先程の雰囲気がまるで嘘とでも言うかのように北沢くんは歩き出す。

 そして、その後をついて行くかのように私も歩き出した。

 

 風が凪ぐ。一通り、話したことで会話のネタが尽きてしまった私達は、無言になり気まずくなる。

 この空気を何とかしたいと思った私は、知恵を振り絞り北沢くんに質問をする。

 

 「北沢くんは、もし大学に入れたら一人暮らしをするの?」

 

 何気なく、尋ねたその一言に北沢くんは考える。

 

 「んー......まあ、憧れではあるよな」

 

 「北沢くんにも憧れ、あったんだ」

 

 北沢くんの良い意味で人間味のある所がひとつ見つかった。一人暮らし、大いに結構なことだと思う。北沢くんなら、きっと一人暮らしもそつなくこなしそうだ。

 尤も、一人暮らしをする前に寝坊助な面だけは直さなければならないのだけれど。

 

 「だって、あれだろ?1人でムフフな本読んでも誰にも咎められないじゃん。あれ、結構困るんだよね......よく、石崎が回覧板よろしく回してくるんだけどさ」

 

 一気に冷めた。

 

 「......いやらしい」

 

 「悪い悪い、ちょっとしたジョークだよ」

 

 「ジョークでも言っていいことと悪いことがあるよっ」

 

 大体、女の子の前でそんな......アレな話をするのは如何なものなのだろうか。北沢くんのデリカシーの無さを心底恨む。

 

 「......まあ、ムフフな本は兎も角として一人暮らしは何時かしなきゃな。何時までも家族と一緒にって訳にも行かないし、俺が独り立ちすれば家族は楽になるはずだから」

 

 「家族と一緒に居れなくなって寂しくないの?」

 

 北沢くんはブラコンでシスコンの筈だ。そんな北沢くんにとって妹と弟と定期的に会えないのは辛いのではないか。そう思い、声をかけると北沢くんはひとしきり笑って私を見やる。

 

 「そりゃあ寂しいけど......それも含めて家族だろ。大丈夫、俺はアイツらから既に沢山幸せ貰ってるから」

 

 「幸せ......?」

 

 「そー、幸せ。例えば、作ってくれた飯を残さず食べてくれたり、編んだりしたマフラーとかを着てくれたり、偶にマッサージしてくれたりとか......そういうのって、些細なことだけど物凄い幸せなんだ。そんな幸せを俺はもらってるから大丈夫。十分だ」

 

 「......そっか」

 

 「それにしても、お前が心配してくれるなんて珍しい事もあるもんだ。今日は槍でも降ってきそうだな」

 

 「ちょっと待って。なんで私が北沢くんを心配したら槍が降ってくるの!?」

 

 「いや、だって田中は普段俺の身の心配しないでバンバンチョップ放ってくるじゃん。ただただ珍しいなー......って思っただけだよ」

 

 「そんな事ないっ」

 

 北沢くんの言葉に何処か腹に据えかねるものを抱いた私は思わず身を乗り出して北沢くんを見る。それに驚いた北沢くんは思わず『うおっ』と声を上げて、仰け反る。

 

 「私は北沢くんのこと何時も心配してるよ。北沢くんは私にとって......」

 

 そこまで言い淀んで、考える。

 

 彼は、覚えてないのかもしれない。

 

 あの時の光景を、私と出会ったあの日の事を。

 

 ならば、今が言うべきタイミングなのではないか?それを言ったところで何かが変わるわけでもない。必要なのは、タイミングと『勇気』だ。

 

 前からそうだった。

 

 目の前の男の『深く』に入り込む勇気が足りなくて、私の過去を話せずじまいだった。ならば、今が話しかけるタイミングなのではないのか?勇気を振り絞る時なのではないか?

 

私、田中琴葉は北沢啓輔という人間に恩がある。あの時は、それっきり話す機会も無かった故にちゃんとしたお礼が言えなかったけど、今、ここで、このタイミングなら、言える。お礼を伝えることが出来る。

 

 言え。

 

 過去を話して、『ありがとう』と感謝の気持ちを伝えるだけではないか。

 

 「......お前にとって?」

 

 1度は驚いて情けない声を上げていた北沢くんが、私の眼をいつにもない真剣な目で見てくれていた。後は、言うだけだ。想いを伝えるだけなのだ。

 

 

 

 

 それなのに。

 

 

 

 「北沢くんは......」

 

 声が震える。緊張しているのか、自分が何をする為に、どこに立っているのかも分からなくなっている。今、唯一分かるのは喉元にでかかった言葉と北沢くんが私の眼をしっかりと見てくれていることだけだった。

 

 

 

 「私に、とって」

 

 「うん」

 

もう、ストックされた言い回しはない。後は一言───

 

 

 

 

 

 伝えるだけ────

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、拍子抜けした音楽が私の耳を襲った。

 

 「え......ええっ......」

 

 振動したのは、私の携帯だった。何時も、聞き慣れた着うた。その音により、今の今まで構築されていた空間が壊されたかのような感覚を、私は覚えた。

 北沢くんはくつくつと笑みを零し、私を見る。その笑みは今の今まで見せていた真剣な表情とは裏腹に、本当に何かを面白がるかのような笑みだった。

 

 「また、今度だな」

 

 そう言うと、北沢くんは十字路を左に曲がり、帰路に。その姿に待てと制止をかけようとするも、その手は、その声は、北沢くんの声によって防がれる。

 

 「また明日、学校で」

 

 一言、それだけ残して北沢啓輔は去ってしまったのだった。

 

 「......間が悪過ぎるよ」

 

 初めて、家族からの着信を恨んだ私はきっと悪い子なのかもしれない。けれど、そう思ってしまうほど今回の件は残念だった。

 言えたかもしれないのに......否、言えた。きっと私は彼の目を見て言えたはずなのだ。

 

 

 

 

『私は、貴方に助けられたことがあるんだ』って。

 

『ありがとう』って。

 

 たった、それだけの話じゃないか。

 

 何故、あそこまで躊躇ってしまったのだ。

 

 「......馬鹿っ」

 

 最近は、よく隣の席の男の子に対して良く使うようになった言葉を、今回は私自身に投げかけて私は依然としてなり続けている携帯の着信を鎮めるために、電話に応答した。

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 「ふう」

 

 買い物袋を腕にかけ直し、俺は自宅に向かって歩き出す。

 

 あの時、田中は何を言おうとしていたのだろうか。まるで、一大決心をするかのような表情で何を俺に告げようとしたのだろうか。

 俺は、田中との面識はない。過去にも、俺の頭の中にあるのは真っ黒な野球に関する記憶と、その他諸々の家族の記憶しかない。田中のような......性格が真面目で、それでいて可愛い女の子なんて俺は知らなかった。

 

 まあ、彼女が言うことを気にする必要はない。言わなくても、それはそれでいい。

 

 

 知らなくていい話も、往々にしてある。

 

 

 思い出す必要のない過去だって、往々にしてある。

 

 

 もし、田中の口からそれが発せられた時は、きっと知る必要のある話、過去なんだろうけど生憎、俺に田中のそれを追求するかのようような意思も、決意も、甲斐性も俺にはない。ただ、川の流れのように流されていくだけだ。

 

 

 

 

 

 何かを追い求めるのは、もう疲れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 「っと」

 

 暫く歩いていると、そこには家の前で待機している妹が仁王立ちで目の前の男......俺を睨みつけていた。

 

 「随分、遅かったわね」

 

 「心配したか?」

 

 「別に」

 

 素っ気ない返事で志保は俺の元へ歩き出し、荷物をやや強引に奪い去る。

 その強引な優しさが、今の俺には有難かった。

 

 「そういえば、そろそろクリスマスだな」

 

 「ええ、そうね」

 

 「またサンタの格好してやろうか?わーって盛り上げてやるよ」

 

 「別に、兄さんのサンタ姿なんて見慣れてるから今更盛り上がりもしないわ」

 

 いつも通り、志保は辛辣だ。

 

『初めて作ったシチュー』を食べた時も、有り得ないくらい罵倒された。

 

 だけど、その辛辣さが今の俺には必要だ。

 

 ドMとでも何でも言いやがれ。俺は辛辣で、時々可愛いところもあるこの妹が大好きなんだ。

 

 「今日は、シチューだ」

 

 何気なくそう呟いた一言を志保は受け取り、おれの方を振り向く。

 

 「なら、味見しなくちゃいけないわね。りっくんにあの味のシチューを食べさせるわけにはいかないから」

 

 あの時から、今日まで

 

 志保の憎まれ口は『辛辣』だ。

 

 だからこそ、今の俺がある───

 

 「言ってろ」

 

 家族な好きな俺でいられるのだ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話

 

 

 

 

 

 

 

 至高の時間、というものは直ぐに終わってしまうものだ───。

 

 

 

 

 2学期も終わりに近付き、次第に本格的な寒さが俺の四肢を襲い始める今日この頃。

 俺は日曜休みとかいう至福で最高の時間を自室のベッドで堪能していた。

 日曜は俺にとっては至高の時間だ。

 それは何故か。

 学校がないからだ。

 

 いつも通り、よく食べてよく寝るという行為をすることにより、いつもの俺なら8時頃に起きて、学校へ行かなければならないのだが日曜日に学校はない。

 それ即ち、どういうことか分かるだろうか。

 

 あの!委員長に!惰眠を妨害される必要がないのである!!

 

 田中琴葉は俺の惰眠の敵だ。俺が寝ようとしたらものの数秒もしないうちに叩き起こされてしまう。しかし、自室に田中がいるはずもなく結果として俺は何時までも惰眠を貪ることができる状態にあるのだ。

 序に言わせてもらえば、スマホをクラッシュさせられる必要もない。

 

 「......とはいえ、腹が空いたな」

 

 そろそろ自分の分の朝飯を食べるか。おっと、今の言葉だけ切り取ったら俺がまるでニートみたいに見えるが決して俺はニートなんかではないからな。勘違いすんなよ。

 

 ......誰に言ってんだろうか、俺は。

 

 得てして、俺は自室を住処から出たありんこよろしく飛び出て、リビングへと向かう。

 部屋に誰もいないのを確認。

 マッマ、リック、買い物か。

 そして、机に書き置き発見。

 

 ふむ、どうやら買い物に行っているらしいな。そして、何時ものように美味しい朝食用意してくれるマッマ最高です。ありがとうございます。

 

 両手を合わせて、感謝の念を母さんに送りつつ朝食を食べ始める。

 すると、ポケットに忍ばせていた携帯が不意に振動した。

 

 「......もう驚かねえぞ」

 

 勿論、最近は携帯の振動が田中のせいで軽くトラウマってたけども。最近はその程度のことで同様はしなくなった。

 寧ろ、携帯の振動でトラウマって毎日毎日『ふぉぉぉぉぉ!?』なんて言ってる人生俺は嫌だ。勘弁して欲しい。

 

 閑話休題───

 

 「なんだ朝っぱらから。お兄ちゃんが恋しくなったか?」

 

『なる訳ないでしょう』

 

 何故か、レッスンに行っていた筈の志保から連絡が来ていた為、電話に応答するとすかさず志保が辛辣な言葉を浴びせる。

 

 否、辛辣な言葉を言ってはいるものの何分その言葉には覇気がない。寧ろ元気すらないように思える。

 巫山戯てはいられない。そう思った俺は咄嗟に声色を落とした。

 

 「どうかしたか、一大事か?」

 

 「......ええ、そうよ。一大事。全くもって不覚だわ」

 

 珍しく聞く、志保の気を落としたかのような声。そして、俺の頭を駆け巡る焦燥感。思わず俺は声を出し、会話の内容を急かしてしまった。

 

 「どうした、何があった」

 

 暫し、間が空く───まるで言おうか、言わざるかの選択を迷うかのように。

 

 やがて、決心したのかこくりと息を呑む音が聞こえるのとほぼ同時に志保は内容を話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 「お弁当を忘れてしまったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 ...

 

 

 

 ......

 

 

 

 

 

 

 「おし、後で志保説教な」

 

 安寧の時間は、容易くぶっ壊れてしまうものなのである。あれ、さっきまでもそれっぽいこと考えていた気が......

 

 

 

 

 ま、別に良いか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「いやあ、まさか自分の部屋にお弁当を置いてきてしまうなんて志保ったらおっちょこちょい!」

 

『気持ち悪い』

 

 今、俺は志保の部屋にあった弁当箱を抱えて外へ出ている。目的としては、志保がレッスンをしているとされている765プロライブシアターまで弁当を届けるためだ。傍から見たら出前とか、過保護の馬鹿兄貴とか思われそうだけど、志保の為を思えばこれしきのこと、『多分』辛く......ないです。

 

『それよりも兄さん、道は分かっているわよね。そのまま道なりに行ったところを真っ直ぐ行けば目的地に着く。鉄則よ、兄さん。道なり、真っ直ぐ』

 

 「お、おーけー!ばっちこい!!」

 

『......甚だ不安ね、兄さん方向音痴だから』

 

 そう、妹の話の通り、俺は極度の方向音痴なのだ。それはもう、妹が困る位には方向音痴を拗らせてしまっている。

 

 「俺的にはちゃんと目的地に着いている筈なんだがな」

 

『そう、兄さんは妄想と現実の区別が付けられない迷子兄貴なのね。私、初めて知ったわ』

 

 「喧しいわ!」

 

 俺だって好きで迷子になっている訳じゃないのだ。そう.....気が付けば迷子になっている。半ば運命的に迷子になってしまっているだけなのだ。

 ただし、今回だけは別だ。志保の弁当箱を届けるというミッションを授かり、スマホでマップも開いて、現在進行形でてくてく歩いている今の俺なら目的地に絶対に辿り着ける。そんな気がしてならないのだ。

 

 「.....待ってろよ。お兄ちゃんの.....お兄ちゃんの意地を見せてやる!」

 

 「期待しないで待ってるわ」

 

 そんな妹の失礼な一言を右耳から左耳へと流しててくてく歩く。道なりに歩いていく。

 

 

 

 そう、てくてくと───

 

 

 

 ......

 

 

 

 つれずれなるままに───

 

 

 

 ............

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「志保助けて、迷った」

 

『兄さん後で正座』

 

 志保に無機質な声でそう言われた。さて、どうする北沢啓輔。これで志保に説教すら出来なくなったぞ。

 

 「し、仕方ないだろ!?そう!これはもう運命なんだよ!新しい場所に行こうとすると迷うっていう───運命は、変わらないんだ!!」

 

『大体、さっきまで持ってた意地はどうしたのよ』

 

 「そこら辺の川に捨てた」

 

『随分軽い意地だったのね』

 

 失礼な、まあ.....事実だが。頭の中でそう考え、地団駄を踏んでいると少し声のトーンを落として志保が続ける。

 

『......昼までに着いてくれればいいからマップとか使って何とかお願い』

 

 「せ、せやな」

 

『それと.....迷惑かけて、ごめんなさい』

 

 そう一言だけ言うと、志保は通話を終了し、俺の耳にはツーツーといった機械音しか聴こえなくなってしまった。

 

 1度、通話が切れたのを確認した俺はその勢いのまま再度マップを開き、現在位置と目的地を確認しようとする。

 その瞬間、俺の目に映るのは訳の分からない細い道と現在地を示す方向キーみたいなの。

 あれ、これって方向キーが左向いてるな。志保が道なり真っ直ぐとか言ってたからこの道を真っ直ぐ進めば良いのか?

 

 そもそも、ここどこ?

 

 「......ジーザス」

 

 1度落ち着こう。落ち着きのない男はモテないとかいう噂まであるしな。や、別にモテたい訳じゃないんだけど。

 適当な自販機でブラックコーヒーを買い、公園のベンチに腰掛ける。すると、先程まで焦燥感に駆られていた俺の心は次第に落ち着きを取り戻し、呼吸も少しずつだが安定していく。

 寒いし、17歳がベンチに腰掛けてコーヒー飲んでる姿はなんというか、個人的にシュールに感じてしまう。まるで、新たな職場を探しているフリーター......

 

 考えたら腹が立ってきた。

 

 おっと、いかんいかん。心頭滅却だ。落ち着きのない男はモテないとか言うし(2回目)。

 

 「......ま、やるしかねえわな」

 

 方向音痴がなんだ。俺にはスマホという文明の利器があるじゃあないか。

 さあ、行こう。無事に765プロライブシアターにまで辿り着く。そして、志保に説教して、土下座する。

 

 ここから先はお兄ちゃんの独壇場だ───

 

 

 「ねえねえ!どしたのそんな所でガッツポーズなんてして!」

 

 と、決意した瞬間にこのザマだよ。俺ったら恥ずかしい。

 何事かと振り向くと、そこには茶髪のロングヘアーに着崩した服がそれとなく色っぽい女が俺を純真無垢な目付きで見ていた。

 

 あ、やめてください。その目付きは俺に効きます。主にメンタルが、死ぬ。

 

 「......いや、別に」

 

 「えー、そんなことないっしょー。さっきからスマホのマップずっと眺めて悶えてたじゃん」

 

 バレテーラ。

 

 「......お前、何時から俺の事見てたんだよ」

 

 俺がそう言うと、先程まで俺を見ていた女は少しだけ悩んだ素振りを見せ、うんと頷き、再度俺を見る。

 

 「コーヒー飲んでた頃からかな?『ここはどこだー』って嘆いてたじゃん」

 

 「や、嘆いてねーから」

 

 確かに迷ったことによって俺のハートはガクリときていたが、嘆くほどのものでもない。

 ついでに悶えてもいねーよ、この......なんだ。お、お洒落ヘアーめ。なんて悪態にすらなってない悪態を心の中で突いていると、目の前の女は俺のスマホの画面を覗き込む。

 

 「というか目的地765プロライブシアターじゃん!」

 

 「あ?」

 

 なんと、彼女は765プロライブシアターまでの道程を知っているのか。

 

 「お前、本当に何者?」

 

 疑心暗鬼の状態でそう尋ねると、女の子はまさに元気溌剌といった笑顔で、俺を見て─────

 

 「私は所恵美!まあ、通りすがりの一般人だよ!」

 

 自己紹介された。別に自己紹介して欲しくて尋ねた訳じゃないんだけど。しかし、自己紹介をされてしまった以上一般的な礼儀として、俺も名前を言わなくてはいけない。

 最低限のマナーだ......ソースは母さん。うん、信用に値する。

 

 「そっか。俺は北沢啓輔だ。よろしくな、所」

 

 そう言って俺が差し出した右手を、所は華麗にスルー.....というか忘れたのかは知らないが無視し、まるで有り得ないものを見るかのような目付きで見ていた。

 

 「......『北沢』!?」

 

 「ああ、北沢啓輔だ」

 

 そう言いつつ、手を引っ込める。なんだろ、行動が空回りした時って物凄く恥ずかしいよね。きっと、目の前にいる女の子もなんて馴れ馴れしい奴なんだとか思っていることだろう。

 この瞬間、俺の黒歴史がひとつ刻まれた。タイトルは『思春期だんし!黒歴史と化した勘違い』......うん、これは強い。なんか分からないけど強い気がするよ(小並感)!

 

 「......それってもしかして志保───」

 

 「妹の知り合いか」

 

 「見事に当たってた!?というか反応速っ!」

 

『志保』の名前を出した瞬間、自分でも驚く程の速さでそう尋ねた俺を所は大袈裟なアクションで驚く。勘弁してくれ、志保の名前が出てきたので思わず反応してしまったのだ。

 

 「ああ」

 

 「ってことはー......妹関連で何かあったの?」

 

 「ビンゴ」

 

 俺がそう言って、志保の弁当を見せると彼女......所はニヤリと笑みを見せて、俺の肩を小突く。

 

 「妹想いですなぁ〜、良いですなぁ〜、家族愛!」

 

 ヒューヒューと俺を茶化す所を見て、俺は胸を張る。

 

 「ああ、何せ俺はシスコンだからな!志保は最高だ!可愛い!!」

 

 「良いですなぁ!妹自慢!」

 

 お互いにニヤリと笑い合い、拳を合わせる。一時はどうなるかと思ったが、彼女とは仲良くなれそうだな。彼女には、周りを元気にする能力でもあるのかもしれない。これがコミュ力とでも言うのか。

 と、どうでもいいことを考えていると不意に所が俺の先を歩き始め、一言───

 

 

 

 

 「付いてきてっ、案内するよ!」

 

 

 

 

 ───あたし達のシアターへ!

 

 振り向いて、言い放った言葉の意味は分からなかったけれども。

 

 今現在は所恵美という女に頼らざるを得なくて、俺は渋々目の前の先を歩く所の後を付いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フルーティーな香りが、俺の周囲に漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所恵美という少女は、凄まじい程のコミュ力を持っていた。

 今日、成り行きで所に道案内をしてもらっていた俺の今日の感想が、これだ。あれから所は765プロライブシアターの事など、最近流行りの服やらミックスジュースやらの話を俺に教えてくれていた。

 無論、そういったものに疎かった俺はなかなか話題に乗っかることは出来なかったが、一方的に話題を提供する訳でもない所の話し方は意外にも好感を持てた故に苦にはならなかったのだ。

 

 

 閑話休題───

 

 

 「そういえば」

 

 ライブシアターまでの道程を歩いている所の後を付いていっていると所が減速して俺の隣を歩く。

 

 「『所』なんて他人行儀だなぁ、志保だって『恵美さん』って呼んでくれるのに......」

 

 なんと。

 

 貴女は出会って間もない思春期の男子に、名前で呼べと、そう仰るんですか。

 

 「俺はな、滅多に名前呼びはしない主義なんだ。分かったら頬を膨らませた顔を近付けるな!残念そうな顔をするな!」

 

 さっきからやたらと距離が近い所から距離を取りつつ、後を付けようとするも、その距離感はあっという間に詰められてまた距離が近くなる。

 

 「ぶーぶー、いいじゃん別に減るもんじゃなし」

 

 口を尖らせてそう言う所を見て、俺は何とも言えない気持ちになる。確かに所って呼びにくい。あんまり苗字に聞き覚えがないからか、単に俺がアホなだけなのか。どちらにせよ、所って苗字には若干の違和感がある。

 

 「それにさ、所って呼びにくくない?アタシが嫌なんだよねぇ、友達にも『恵美』って呼ばせてるし!」

 

 「俺らいつの間に友達になってたの......?」

 

 あっという間に友達となっているかのような一連の会話術。これがリア充とかいう奴か。やだもう、石崎といい田中といい所といいリア充怖い。

 

 「どうかな!ここはアタシを助けるって感じで!」

 

 「......」

 

 

 まあ、百歩譲ったとして?

 

 これは俺が好きでやってるわけじゃなくて、所恵美という少女にやらされてるってことになるし。

 

 志保とかに『名前呼びとか何考えてるの?』とか言われても、呼ばされてるんだって言い訳できるし。

 

 別に、個人的に不都合はないし。

 

 基本的には名前呼びはしない主義だが、本人が名前で呼んで欲しいというのなら、その希望に応えるべきか───

 

 

 

 「......分かったよ。機会があったらな」

 

 そう言うと、所は指パッチンを決めて、俺を見る。

 

 「やたっ!それじゃあ早速言ってみようか!」

 

 「言う必要性を感じない、却下」

 

 「ぶーぶー!」

 

 より声量を増した所からのブーイングが俺の心を何処かのジェフさんも吃驚なスライダーで抉る。こうなったら仕方ない、心にデッドボールを喰らいまくって俺のメンタルが廃人になる前に、話題転換だ。

 

 「.....志保はシアターではどんな感じだ?元気してるか?」

 

 俺がそう尋ねると、恵美は『にゃはは......』と少し苦笑いしつつ頭をかく。

 

 「他の子達と比べてちょっと孤立気味だけど......良い仲間が沢山いるから自然に溶け込んでいくと思うよ!」

 

 「おお、マジか」

 

 孤立気味っていうのは何時もの志保を想定したらなんとなく分からなくもない。俺が気になったのはそれをカバーしてくれる良い人達がいるか否かだ。

 俺は志保のプロデューサーでもなければ、介入者でもないから直接関わるようなことは出来ない。それに、下手に介入した所で何が出来るわけでもなし、そういった類のものは妹が嫌がることも知っている。心配だけど、見守る事しか出来ない。歯痒いけど、それしか出来ない。

 だからこそ、志保には不器用ながらも同期の人達と仲良くして欲しい。

 

 何をするにしても1人では限界があるから。

 

 何はともあれ、俺の心配事を聞いた恵美は俺の心の靄を振り払うかのような太陽直下の笑みで親指を立てる。

 

 「本気と書いてマジってヤツだよ!なんならスマホでビデオ送っても構わないし!」

 

 「いや、良いよ」

 

 流石にそこまでして頂けるのは、申し訳ない。志保の頑張ってる姿とか絶対に見たいけど、己の欲の為だけに他人に負荷をかけるような事はしたくない。

 志保の頑張る姿を見るのは、彼女の初ステージまでお預けである。ああ、今から楽しみだなぁ。今から心臓ヒエッヒエだよ!

 

 と、心ではヒエッヒエとか言っときながら実の所は『わくわくが止まらないよお』状態になっている俺がふと上を見上げると、そこには『765PRO LIVE THEATER 』と建てられた看板が目に入る。

 

 「見えたっ!ここだよここ!」

 

 歩行を止め、意気揚々とこちらを見て建物を指さす恵美を見て、俺は感慨に耽る。成程あれが765プロかと建物を斜めからから見上げてそう呟くと、恵美は俺の手を引っ張って走り出す。

 

 「ちょ......所さん!?自重!!自重!!」

 

 こんなシーン.....傍から見たら手を繋いで仲睦まじい姿でいるように見えなくもない醜態を妹に見られてしまったら俺はもう羞恥で軽く死ねる。しかし、こんなシーンで俺は死にたくない......!主に!!社会的に!!

 しかし、そんな俺の叫びを他所に恵美の足は更に加速......加速......止まらねぇ!!

 

 「お願い止まってぇ!!」

 

 「良いじゃん別に!!さあドアを開けるよー!!」

 

 「あああああッ!!!!!」

 

 そして、恵美が意気揚々とドアが開き俺が目にしたのは───

 

 睨み合う志保と、もう1人の女の子───どうやら、かなり修羅場な場面に出くわしてしまったようだった。

 

 「......孤立してないようで何よりだ」

 

 俺がそう呟くと、恵美は何故か慌てふためき俺に弁解をする。

 

 「ほ、ほら!あれだよ!!喧嘩するほど仲がいいとかいうしっ......!静香と志保は同世代の仲間のような......そう!ライバルっ!好敵手みたいな関係だよっ!安心して!志保と静香は仲間だから!」

 

 目をぐるぐるさせて、そう言う恵美。それを落ち着かせる為に、俺は恵美に深呼吸を促す。

 

 「はいストップ。先ずは深呼吸なー」

 

 恵美は言われるがまま、スーハーと深呼吸する。それを確認した俺は肩を竦める。

 

 「気にしちゃいねえよ。寧ろ安心した」

 

 「あ......安心?」

 

 こくりと頷き、俺は続ける。

 

 「志保があんだけ自分の主張を同年代にぶつけるなんて見たことなかったし......いや、寧ろ羨ましいわー。あんだけの事を言える仲だなんてー......と、俺はこのまま見てても良いんだけど、恵美は止めなくて良いのか?」

 

 そう言うと、恵美はハッとなって、またしても顔を強ばらせる。簡単に言うと、顔が二段変身した。

 

 「今さり気なく恵美って......だああああ!!そんなこと今気にしてる場合じゃなかったぁぁ!!」

 

 慌てて恵美が志保と静香と呼ばれる女の子の間に入って仲裁する。話を聞く限りでは練習方針の食い違い、か。まあ俺はアイドルの練習とか知らないし、それよりも優先しなきゃいけないことがあるんだけど。

 

 「おーい!志保ー!」

 

 お互いがそっぽを向き、漸く話が終わったかというタイミングでドアの前にいた俺は志保に声をかける。すると、その声に気が付いた志保は小走りで俺の元へ向かい、早速両肩を掴まれ、揺さぶられる。

 

 「兄さん!本当に兄さんなの!?こんなに早く来たこともない場所に来れるなんて......!」

 

 開幕早々失礼なこと言われてる気がするんですけど。それよりもだ。

 

 「所さんとやらに助けて貰ったんだ。それと後で志保説教な?」

 

 色々な意味で。や、もう失礼なこと言われたこととか弁当忘れたこととか色々。

 

 「そう......恵美さんには感謝しなきゃね。ああ、それと兄さんこそ後で正座よ」

 

 「ちゃっかり覚えてやがった......!?というか元はと言えば志保が弁当忘れたところから始まったんだぞ?」

 

 「それはごめんなさい。説教は甘んじて受け入れるわ。だからこそ兄さんも正座で私を心配させてしまったこと、詫びてほしいの」

 

 「なして俺が正座しなきゃいけないんですかねぇ......!?」

 

 北沢啓輔は激怒した。必ずかの邪智暴虐な妹をなんとかせねばならないと。

 何とかしようと顔を引き攣らせながら志保を見ると、目の前にはまたしても仲裁に入った恵美がこちらを苦笑いで見つめていた。

 

 「はいはい!ストップストップ!兄弟水入らずで喧嘩は良いけど場所は考えよ!」

 

 ふむ。

 

 確かにそうだった。良く良く周りを見渡すと今の今まで様々な場所にいた女の子達が何事かとこちらをまじまじと見ている。

 やましい事は何も無いが、用がないのにこれ以上長居するのも良くはない。そこで、志保に弁当を渡したことにより手持ち無沙汰になった俺は志保の方を見て、笑顔を見せる。

 

 「正座は甘んじて受け入れる。ああ、後は......頑張れよ」

 

 そう言うと、志保は少しだけ───俺にしかわからない程度に口角を上げて。

 

 「分かってるわよ、兄さんも帰り道......気を付けてね」

 

 そう一言だけ言って別の場所へと向かっていった。

 

 「道案内、ありがとな恵美」

 

 「んん!気にしないでいーよ!それに、志保の意外な面も見れたし......ねぇ?」

 

 何だか志保関連でとんでもないくらい嫌な予感がするのだが。

 

 「......お手柔らかに頼む」

 

 両手を合わせてお辞儀、ななめ45°の姿勢を取ると『にゃはは』と独特な笑い声を上げた恵美は俺の肩をぽんぽんと叩く。

 

 「志保の事は任せて!後は......そうだ!」

 

 と、恵美がぽんと拳と掌を合わせた乾いた音がしたので前方を向くと、恵美は俺にピースサインを向けて高らかに声を上げる。

 

 「アイドルとしてのアタシ......所恵美をヨロシクね!」

 

 ああ、薄々勘づいてはいたが彼女もアイドルだったらしい。恐らく彼女の今日イチとも称されるであろう笑みと同時に、俺の中でリア充で美人のアイドルの卵と親しく話してしまったという黒歴史が新たに追加された。

 

 「は、はは、はははは」

 

 乾いた笑いだけが、俺の口からは発せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰路についた流れで、昼まで何もやることのなくなった俺は、バイトの予定こそ立っていなかったが渋谷生花店で適当に手伝いをしていた。

 とはいえ、特に特別な事をするまでもない。ただ単に店番して、接客して、渋谷と話す。ただそれだけの事だったが、暇つぶしにはなったのだ。

 

 「それにしても、啓輔の方向音痴って相変わらず治ってないんだね」

 

 「喧しい」

 

 先程までの話を凛に話すと、予想通り凛が俺を見てクスリと笑う。

 渋谷凛という少女は、人をからかうのが本当に得意な女だ。尤も、それは慣れ親しんだ人間にだけなのだが。これから凛と友達になるであろう人間が個人的に不憫に思えてならない。

 

 「大体志保が弁当を忘れたのがだな......」

 

 「はいはい、どうせ妹が悪いだなんて欠片も思ってないんでしょ?」

 

 「......まあ、そうなんですけど」

 

 「なら、思ってもないことは口に出さない。あんたが方向音痴だったから志保に正座させられる。それで良いじゃん」

 

 「そうなんですけどさー」

 

 「敬語だかタメ口だかはっきりしないよね......」

 

 俺のはっきりしない態度に渋谷は何とも言えない表情で俺を見る。端的に言ってしまえば顔を引き攣らせて、可哀想なものを見るかのような目付き。いや、そんな表情出来る渋谷さん凄い!きっと将来役者になれるよー!

 

 渋谷が役者となり敵をバッサバッサ斬っている様子を想像しながら、茶を飲みこむ。

 

 

 

 

 

 

『踊ってるの───?』

 

 

 

 

 

 「ははははは!!!」

 

 「なんか凄い失礼な事考えられた気がするんだけど、取り敢えず泣くまで殴っていい?」

 

 「......すみません」

 

 流石、長年バイトを共にこなしてきた戦友───もとい好敵手だ。俺の考えている低俗な事など渋谷にとってはお見通しならしく、さっきから手首を回して臨戦態勢でこちらを睨みつけてらっしゃる。

 何処の紫髪のバイク通学委員長だよ。と心の中で悪態を付いていると、渋谷はため息を吐いて、俺に尋ねる。

 

 「何かあったの?」

 

 「は?」

 

 「啓輔が悩んでいる時っていうのは大抵訳わかんない言い回しをするからね。何かあったんでしょ?」

 

 

 

 

 

 .........

 

 

 

 

 

 ...............

 

 

 

 

 

 「......はあ、やっぱりバレちまうか」

 

 俺は、目の前で微笑む少女を何処かで甘く見ていたのかもしれない。誰にもバレないであろう俺の悩みもこの少女にはきっと筒抜けなのだ。

 尽く秘密ごとがバレる18歳。うん、だっせえ。

 

 「言っとくけど啓輔の隠し事の下手さは重症レベルだからね。バレてないとでも思ったの?」

 

 「ああ、寧ろバリバリで隠せてるんじゃねえかって現在進行形で考えてた」

 

 「阿呆ここに極まれり、だね」

 

 「うっせい」

 

 そう言った俺は、お茶を啜り喉を潤した後に頭に残っていた悩みを言葉に変換する。

 

 「俺さ、分かんねえんだよ」

 

 「何が?」

 

 「俺がちゃんと『兄』としてやっていけてんのかって」

 

 そもそも、兄って何をしたら兄なのかなと思う時が時々ある。弟妹の夢の応援をするのが兄?それともただひたすらに前を見て、手本を見せて、目指すべき指針となるのが兄?

 それとも、もっと他のことを当たり前のようにこなせてるのが兄なのか。俺は、志保や陸にとって『頼れる兄』でいられているのか。俺には分からない。

 甚だ不安だ。俺は兄としてやっていけているのか。

 

 「急に何を言い出すのかと思えば......」

 

 渋谷がそう言ってため息を吐く。失礼だとは思わない。寧ろ、いきなりこのような事を他人に言われれば誰だって困惑する。実際に俺だって石崎やら田中やらにそんな家庭内の事情聞かれたら困るから。

 けれど、俺は聞いてみたかった。この目の前の友達なのか親友なのか分からないこの女に、俺は『兄』としてやっていけてるのかを。

 

 「ずっと、前だけ向いてきたからな。いざ後ろを振り向いたら見えてるはずだったものが見えないんだよ」

 

 「......そういうもの?」

 

 「どうだろうな、昔から見えてなかったかもしれない。けれどあの時の俺が見えてなかったのは確かだったんだ」

 

 いわば、中学時代前半の俺は弟妹に無関心だったのだ。ただひたすらに『夢』を追い続けて、弟妹を蔑ろにし続けてきた。言い方は悪いんだろうけれど、中学時代の俺は志保を、そして陸をないがしろにし続けてきたと自負している。

 第三者がなんと言おうとこの評価が変わることはない。これは、他ならぬ俺がそう思っていることなのだから。

 

 「......そっか。啓輔は悩んでいるんだね」

 

 「......お前だって分かってんだろ。俺がここまで家族のことで悩むようになっちまった原因が」

 

 いわば、今の俺が今の俺たらしめる原因を。家族のことを優先して、学校を億劫に感じて、不真面目、不勤勉、寝坊助な原因───

 

 

 「俺が『部活』やってない理由」

 

 俺が1つ間を置いてそう言うと、凛は少し真顔で頷く。

 

 「うん。分かってるよ」

 

 「......そりゃそうだよな。お前と俺って小学生の頃からそれなりにつるんでいたしな」

 

 出会いは、小学3年生の頃だった。家族のプレゼントを花にしようと思い、近場の生花店を選んだ時に初めて来た生花店が渋谷生花店だった。

 そして、たまたま店に迷い込んできた凛と、俺は入口の手前でずっと睨み合っていたのだ。

 凛は、警戒心を露わに。

 俺は、その警戒心に反抗するかのように。

 

 そこから紆余曲折を経て、仲良くなった。学校が同じなのも幸いしたのか、少しずつ気安く話しかけられるようになった。

 

 そして、今はこうして事情を知りつつもこうして気安く話しかけてくれる。それだけで、俺は有難かった。

 

 そんな彼女は俺を見て呆れながらも笑みを崩さずにこちらを見続ける。

 

 「何年啓輔の腐れ縁やってきたと思ってるのさ。あんたが頑張ってたってことは人並みに見てきたつもりだし、分かってる......ま、私に分かられたって嬉しい訳ないんだろうけど」

 

 「そんなことない。現にこうして心がウッキウキな俺がいる」

 

 「無理矢理奮い立たせてるんでしょ......」

 

 あは、バレてしまったか。

 

 「実は今、少しだけ落ち込んでるんだ」

 

 それは、思い出す必要のない過去を思い出してしまったから。あの時の『夢』のようなナニカに縋り付いていた俺を思い出してしまったから。

 

 「やっぱり、か」

 

 渋谷は、ため息を吐いて俺を見る。そんな光景も最早当たり前のように感じてしまう。俺の言うことなすことにため息を吐かれ、それでも何かと世話を焼いてくれる。果たして年上はどっちなのか、実年齢を教えずに誰かに聞いたとしたらその誰かさんはどっちを選ぶだろうかな。

 俺が思うに、それは渋谷を選ぶ人間が多いんだろうなと。きっとそう思う。

 

 「あのさ」

 

 渋谷が俺を真剣な眼差しで見つめる。それに釣られて、俺の視線は彼女の鋭い眼差しに釘付けになる。

 

 「啓輔はさ、『変わらないもの』見つけた?」

 

 その問い───何度も何度も問われているその問題に、俺は昔から同じ回答をし続けている。

 

 「───欠片も見つからねえよ」

 

 最早、その考えすら放棄しているのかもしれない。何せ、俺はこのお題に対して何を思うことも無くなったのだからな。

 

 何もかも、変わらずにはいられない。

 

 そんな言葉を風の便りで聞いた時、俺は天啓を得たかのような、もしくは諦観を覚えたかのような、そんななんとも言えない想いを得た。

 

 それからの俺はというものの、その言葉を思い出しては、実感。思い返しては実感を繰り返し、心を痛めていた。まあ、痛めたといっても対してダメージは少ないし、鬱にもならないし、本気で悩んでいるヤツらにとっては俺のそれなんぞフンコロガシのフンのようなものなのだろうが。

 

 「......渋谷、俺は昔からひとつだけ信じているものがある」

 

 「うん、それも分かってる」

 

 そう、渋谷凛という少女が俺に同じ質問をするのと同様に俺という人間も彼女に対して同じ回答を繰り返している。

 だからこそ、彼女はこれから言うであろうその一言を覚えていたし、知っていた。

 

 「『変わらずにはいられない』とでも言うんでしょ?」

 

 その言葉に、待ってましたとシニカルに笑う。

 

 「正解した渋谷凛選手には啓輔検定1級を贈呈しよう」

 

 「うん、それはいらない」

 

 「辛辣だな」

 

 渋谷は、その言葉に冷たい眼差しを送るものの直ぐにその瞳を渋谷にとっては珍しい優しい笑みを孕んだ瞳に変えて俺に言う。

 

 「啓輔が志保や陸のお兄ちゃん出来てるかどうかは私には分からないけど。今の私がいるのは啓輔が私の面倒を見てくれたり、話しかけてくれたりしたからだよ。そんな啓輔が妹弟に関して道を違えることは絶対にない......断言出来るよ。だから自信を持て......とまでは言わないけど、虚勢位は張りなよ。『俺は志保と陸の面倒を見れてるブラコンでシスコンの北沢啓輔だ!』って感じにさ」

 

 「ふむ......?」

 

 虚勢、か。

 

 なかなかに斬新なアイデアだ。お前本当に俺より年下か。

 

 そんな面持ちで渋谷を見ると、渋谷はまだ言い足りないかというような表情で少しだけ笑う。

 

 「啓輔のブラコンシスコン子供好きは筋金入りだからね。そんな啓輔だったら何故か監視なんて事しなくてもお兄ちゃんやってる......そう思っちゃうんだよね」

 

 あ、子供好きって要するにショタコンか......と、何やらとんでもないことを口走ってやがる渋谷を見て、俺は過去を少しだけ思い返す。

 

 弟......陸と、妹である志保に全くもって構っていなかった酷いお兄ちゃんだった過去。

 妹弟たちは気にしていなくとも、俺にとっては気にする。

 

 

 

 

 北沢啓輔の人生の『汚点』だ。

 

 そして、その汚点は俺の記憶に度々現れては俺の心境を大いに狂わせる。

 

 

 

 

 

 「......なんてね」

 

 まあ、そんな汚点を作り出した原因とはとっくのとうにおさらばしたのだから最早そんな事柄を思い出す必要はない。なんなら変わらずにはいられないその記憶とやらを新しい、楽しい記憶で塗り潰していけばいいのだ。

 

 俺と、母さんと、妹と、陸と。

 

 そして、少ないけど特徴があって愉快な友達と。

 

 「うん、分かったよ」

 

 「何が」

 

 すかさず聞こえる渋谷の疑問の声に、俺は胸を張って答える。

 

 「明日から虚勢を張って生きている俺の未来」

 

 「へえ、その心は?」

 

 ああ、そりゃ勿論───

 

 

 

 

 「田中(委員長)にあっという間に見破られて、チョップを喰らう1日」

 

 

 

 

 そんでもって、その1日は、日常は何処かで崩れる。

 

 

 道を違える。

 

 

 俺も、田中も、石崎も、それぞれの未来がある。

 

 

 分岐して、違えて、すれ違って、時が経って───

 

 

 そして、時が経った俺の元には変わらないと信じていたものは、微塵も残らず砕け散る。

 

 

 

 

 

 

 俺は────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『変わらない』を信じられない俺自身が、心底大嫌いなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




新撰組ガールズすこ。

2019/07/25 11:01加筆修正
「オワタァァァ!?」⇒「あああああッ!!!!!」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

事務所では───

アイドルマスターの二次小説でよく見る『事務所では...』なんてものを書いてみたくてこの小説を書き上げたのはここだけの話。
三人称視点で書き上げた話を投稿するのは初めてなので至らない点はあると思います。おかしな点、不明な点があれば、ご指摘頂ければ嬉しいです。
また、お気に入り登録、評価、誠にありがとうございます。今後、不定期更新になりますが完結まで何とか持っていけるように頑張るので今後ともよろしくお願いします。


 

 765プロライブシアターには、新たに発足したプロジェクトがある。その名を39プロジェクトといい一人一人の特徴は十人十色。そんな色の濃い面子の中に、合流した人物が2名いた。

 

 1人の少女の名を、北沢志保という。彼女は、冷静沈着で、レッスンも笑わずに真面目に、真面目に、ストイックに取り組み続ける。今はまだ、他のものより技術面で劣るものの、そのポテンシャルは底を知らない。

 

 そして、もう1人。

 

 その少女の名を田中琴葉という。彼女は、周囲に気を配り、尚且つ自分も真面目に取り組むという俗にいう『委員長』タイプの少女である。

 

 そんな2人の見習いアイドルはタイプ的には、似ている面が多々あるが本質的な面ではやはり彼女達はそれぞれの真面目さに特徴を持つ。

 

 北沢志保は周りに無関心である。どれだけ仲良くされようが、公私をわきまえる。レッスンでは周りと馴れ合うことなく、皆がレッスンを終えても1人で自主トレ。常に1人でいることが多い、そんな人間だ。

 

 現に、レッスンルームを見てみると今日も今日とて北沢志保は1人で自主トレをしている。そして、いつも通り1人のアイドルに挨拶され、突き放し、なし崩し的にレッスンを一緒にやる......尤も、志保は片方のペースなど考えてすらいないが。

 

 

 

 「し、志保ちゃん速いよー!!」

 

 「なら1人でレッスンをして頂戴。私は1人でも大丈夫だから」

 

 

 

 ご覧の通りのストイックさを持ち合わせたアイドルが、北沢志保というアイドルなのである。

 

 一方で、田中琴葉というアイドルは、やはり自主トレをしている時でも周りのペースに合わせ、それでいて真面目に取り組む。

 その気配りと、真摯さが良い方向に混ざり合い、早速仲間も出来た。

 

 休み時間中に差し入れを送ったりする程の真面目っぷりだ。その真面目さから時々友達に良い意味で笑われたりすることも多々ある。

 

 

 

 「にゃはは!琴葉はマメだねぇ!別にそんなこと気にしなくたって良いのに!」

 

 「そんなことないと思うんだけどなぁ」

 

 

 

 

 と、まあそんな具合にこの色の濃い面子の中で2人は悪戦苦闘しつつも、それぞれの持ち味を発揮し、この先も自身のアピールポイントを見つけ、日々邁進していく事だろう。寧ろ、それだけの想いを持たなければアイドルの道に足を踏み入れたりなんかはしないだろう。

 

 片や、自らの慕う家族───母、弟、そして、兄を笑顔にする為に。

 

 片や、周囲の期待に応える為に───そして、自らを応援してくれるとある男の為に。

 

 それぞれの信念を携え、周囲の為に、今日も2人はトップアイドルへの道を歩んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「琴葉ー」

 

 ふと、琴葉の耳に聞き慣れた声が聞こえる。その声は、やや高く、1度聞いたら忘れないであろう声。

 

 「恵美」

 

 琴葉が声のした方を振り向くと、そこには予想通り茶髪のロングヘアーにユニセックスのラフな衣服を着用しているイマドキの女の子といった風貌の所恵美が琴葉の後ろに立っていた。

 しかし、その見た目とは裏腹に今の恵美の表情は少し疲れたかのような表情をしていた。

 何時も明朗快活を地で行くかのような性格をしている恵美の事だ。このような表情をされてしまうと勿論真面目で気配りの出来る琴葉が見過ごす訳もなく、恵美を心配そうに見て、尋ねる。

 

 「どうかしたの?」

 

 「あ、あはは......実はね、今日は結構ハードな1日を過ごしてきたんだよ」

 

 恵美は、先程までの行動を思い返す。

 

 少年に出会い、そして意外な関係性を知り、そして肝心の用があるらしい女の子がもう1人の女の子と喧嘩していた───。

 それだけならまだしも喧嘩していた女の子───志保の何時もの冷たい程のクールっぷりとは無縁の家族を心配したり、兄に対してちょっとだけ傲慢な性格を持っていたりと色々な志保を知ってしまった。

 

 目まぐるしく変わり、崩壊する風景に、恵美は純粋に疲れてしまっていたのだ。

 とはいえ、目の前で起こっていた風景が嫌だったという訳では無い。恵美は啓輔という男を嫌っているという訳では無く、寧ろ無表情で軽快なトークを展開するシスコン兄貴に好意を抱いていた。

 何せ、話している内は驚くほど疲れに気が付かないのだ。これは北沢啓輔と話した人間がこぞって賞賛する本人は知り得ない北沢啓輔の持ち味であった。

 

 と、恵美がそんな事を考えていると琴葉が恵美を見つめて、尋ねる。

 

 「何があったの......?」

 

 一方で、琴葉は啓輔と恵美が話をしている間に他の仲間と共にダンスレッスンをしていた為に恵美が疲れを残した原因である『北沢兄765プロライブシアター突撃事件(恵美命名)』について、何ひとつ知識がない。それ故に、恵美が疲れを残している原因というのが気になった。

 無論、琴葉の質問に答えない理由がない恵美は琴葉を見て、笑顔で一言───

 

 

 

 

 

 

 「志保のお兄ちゃんが765プロに来たんだよ!」

 

 

 

 

 

 

 瞬間、琴葉は自身の顔が引き攣る感覚を覚えた。

 志保の兄───それは、つまりそういうことで。

 北沢志保の兄というなら、姓は北沢ということになる訳で、琴葉はその条件にピッタリ当てはまるシスコンブラコンお兄ちゃんの名前を知っていた。

 

 「......ねえ、恵美。その男の人って黒いショートヘアの......志保と同じ鋭い目付きをしてたり......する?」

 

 「んん......?どうだったかなぁ......?」

 

 恵美は、琴葉の顔の引き攣り具合に若干驚きつつもその男の顔をもう一度、思い浮かべる。

 

 黒髪のショートヘアーに整った顔立ち。鋭い目付きはそれなりに威圧感があって、感情表現には乏しかったけれど、何処か近寄り難さを感じさせない軽快なトーク。

 その特徴は、琴葉が問うていたキーワードに見事に当てはまったのだ。

 

 「うん、その子で間違いないと思うよ?何せあの目付きは志保とまんまそっくりだったからねぇ?はっちゃけた志保と会話してる気分だったよ!」

 

 瞬間、琴葉は何とも言えない顔をして、恵美を見る。その表情に、流石に何かを感じ取った恵美は苦笑いしつつ目の前の渋い顔をしている親友に問いかけた。

 

 「......どったの?」

 

 「......ううん、なんでもないよ」

 

 琴葉としては、特に言うべきことでもない。深刻そうな顔の割には、考えていることは『その男を知っている───というかクラスメイトだ』という在り来りな事なのだから。それでも琴葉のそんな顔つきを見た恵美がこれしきのことで引き下がる訳もなく、少しおちゃらけた様子でもう1度問いかける。

 

 「なんでもないってことないっしょー、だって今の琴葉の顔とんでもないことになってるよ?」

 

 「え......そんなに?」

 

 「うん」

 

 目は驚愕、そんでもって顔は引き攣っている。そんな表情を親友がしていれば、誰だって心配するだろう。

 

 「大体、何か用がなければそんな事聞かないでしょ?ここはアタシに任せてよ!」

 

 何処ぞのヒーローのように頼もしく胸を張る恵美を見て、琴葉は何とも言えない気持ちになる。

 大体、彼女に悩みなんてものはない。そして、今考えている事案が大したこともなく、目の前の友達に話すことでもないという事も同時に思っていた。事実、仮に琴葉が恵美の質問に対して『その男の子知ってるよー、私と同高なんだー!』なんて言ってみろ。それを聞いた殆どの人間は『え?あ......ふーん』と、返答に困るであろう。

 

 しかし、そんな事を考えてしまうのと同時に折角悩みを聞いてくれる恵美を無碍にしてしまう───というのも超がつくほどの真面目である琴葉には許容出来ない事案であった。

 故に、琴葉は恵美に苦笑いしつつ先程から顔が変になってしまっている理由を話そうと口を開いた。

 

 「実は、その人───北沢くんは私と同じ高校の人なの」

 

 「......今なんて?」

 

 「同じ高校の、クラスメイト」

 

 1拍、間が空く。

 

 そして、それと同時に恵美は琴葉の思惑とは大きく外れて、まさに『意外』といった顔つきで叫び声を上げた。

 

 「ええええええええ!?」

 

 「......ちょっと待って恵美。そこまで驚くこと?」

 

 「だ、だって......!高校生!?それも琴葉と同級生の!?高2!?」

 

 恵美は、琴葉からしたらなんでもないカミングアウトに対して、驚きを隠せないでいた。

 所恵美が思う北沢啓輔の人物像───それは、先程の印象の通りでそれら全ての特徴を纏めあげると、総じて『大人びて』いた。

 故に、恵美は啓輔の年齢を自身では知り得ない啓輔の実年齢よりも高く設定していた。身長の高さも含めると、少なくとも成人間近の人間だろうと恵美は思っていたのだった。

 

 「恵美は北沢くんに対してどんな人物像を抱いてたの?」

 

 「えっと......クールで、カッコよくて、それでいて......なんというか、シスコン?」

 

 当たらずとも遠からず───

 

 恵美の啓輔に対する印象を聞いた琴葉がそう思って恵美に学校にいる時の北沢啓輔について話そうとした瞬間、ふとドアが開く。

 

 開いたドアには2人の人物───片一方が、オレンジの髪にアホ毛がキュートな少女『矢吹可奈』に先程まで話題に挙がっていた北沢啓輔が溺愛するクールな黒髪少女『北沢志保』が立っていた。

 無論、2人共765プロの次代を担う金の卵でありそれぞれに大きな特徴を持つ。志保は前述の通り『冷静沈着、無関心』といったアイドルであり、可奈は『元気、歌声』が特徴のアイドルだ。

 

 ここで唐突だが、矢吹可奈は北沢志保と仲良くなりたい。それは、彼女───可奈の人懐っこさから来るもので、誰とでも仲良くなりたい物語の主人公のように、志保とも仲良くなりたかった。

 

 その一方で、志保はやはり周りに無関心であり、レッスンに妥協も、無駄話も、仲間との会話も現時点では一切ない。そんな彼女達の性格は『正反対』であり、なかなか二人の仲は進展していかなかった。

 

 「ま、待ってよ志保ちゃーん!」

 

 「......何か用?矢吹さん」

 

 「あ、反応してくれた!えへへー......実は今日美味しいパンケーキ屋さんを見つけたんだけど......って置いてかないでよ!待ってー!!」

 

 そんな二人の様子を見た恵美と琴葉は顔を合わせて苦笑いする。

 

 「そう......顔立ちは本当に似ているんだよねぇ」

 

 恵美は、そう呟いて啓輔との出会いを回想する。その思い出からは啓輔の軽快なトークが思い浮かばれる。今、こちらに向かってくる北沢志保と同じような無関心そうな顔をして、同じように猫系のキーホルダーを引っ提げ、そしてここぞとばかりの妹自慢。

 

 あまりのギャップに少しだけ笑いそうになってしまったのは本人だけの秘密だ。

 

 「うん、恵美の言う通り......北沢くんは志保にそっくりだと思う」

 

 そして、琴葉がそれに同調しながら二人揃って志保の様子を見ていると、それに気付いた志保が何やら嫌な雰囲気を纏わせて、こちらに近づいていく。

 やがて、目の前へと辿り着いた志保はこちらを鋭い目付き───彼女にとってはノーマルなのだが───で捉える。

 

 「あの、何か」

 

 さて。

 

 ここで覚えていて欲しいのは、田中琴葉が北沢志保という少女と『会話』というものをしたことがないという一点だ。勿論、両者共にいじめ等といった子供じみた事をしている訳では無い。ただ、単純に接点と縁がなかっただけなのだ。

 そのような理由もあり、琴葉にしては珍しく───端的に言えば、テンパっていた。

 何処のコミュ障だ......と琴葉は自分で自分を笑いたくなった。しかし、テンパってしまったものは仕方ない。何時もなら、会話でテンパることはないのだが今現在はこの鋭い目付きを送っている少女を目の当たりにしてテンパっているのが事実なのだ───と琴葉は現状を理解し、声を上ずらせながらも目の前の少女───志保に一言。

 

 

 

 

 

 「あ......」

 

 

 

 

 

 そして、その一言は。

 

 

 

 

 

 「アンパンチッ───」

 

 

 

 

 

 

 テンパった故に、発せられた一言だった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 北沢志保は、困惑していた。

 

 

(......何を言っているのかしら)

 

 

 彼女の名前は知っている。

 田中琴葉。765プロダクションの仲間であり、同じ時期に加入した───年上の同期。彼女は人当たりが良く、根は真面目、ダンスや歌の予習も欠かさない俗に言う所の委員長のような人だった。

 そんな仕事熱心な田中琴葉を北沢志保はそれなりに認めており周りに無関心な志保にしては珍しく『彼女の名前と特徴』は覚えていたし、それなりに敬意を払ってもいた。

 

 そして、そんな志保の僅かな敬意が早速瓦解しそうであった───。

 

 あの田中琴葉が某アニメの必殺技を吐いてらっしゃる。その事実は、志保の瞼を3ミリ程上げさせるには十分な出来事だった。

 

 「......どしたの琴葉?」

 

 あの、誰に対しても、どんな時でも笑顔を絶やすことの無い恵美ですら、良く分からない......困惑といった表情を浮かべ、先程からフリーズしている琴葉の顔の前で手を振っている。それ程に琴葉の『アンパンチ』には、破壊力のような何かがあったのだ。

 

 さて、冷静さを幾分か取り戻した志保は先程までのアンパンチの事など忘れたかのように、恵美に問いかける。

 

 「恵美さん、先程から私の方を見ていましたが何か用ですか?」

 

 「あー......これ、言っても怒んない?」

 

 「用件にもよりますが」

 

 志保が無表情でそう言うと、にゃはは......と笑い声を上げた恵美が志保の迷いのない瞳を見て、先程までの話題を志保に教える。

 

 「ズバリ、志保のお兄ちゃんの話をしてたんだよ───」

 

 「兄が何かしましたか。教えてください恵美さん」

 

 恵美が兄───啓輔の話をしようとした瞬間、志保は驚くほどのスピードで詰め寄った。

 

 彼女───北沢志保は、兄の事になると反応が鋭くなる傾向にある。啓輔が弁当を持ってきた時、啓輔の呼び声にいち早く反応し、兄のお使いのような何かが方向音痴の割に早かった事を心配したのは志保であった。そして、彼女は兄を尊敬し、明確な好意を寄せている。

 まあ、纏めて何が言いたいのかというと、北沢家のシスコンブラコンは啓輔だけではないということであって。そんな志保の高速移動&心配っぷりに恵美は改めて『家族だなぁ......』なんて感慨に耽っていたということだ。

 

 「ストップストップ!別に何かやらかした訳じゃないから!取り敢えず落ち着いてって!」

 

 兎に角、今は感慨に耽るよりもやることがある。そう思った恵美は志保を一旦落ち着かせ、先程から固まっている琴葉を再起動させるべく耳元で少しだけ大きな声を上げる。

 

 「こーとーはー!」

 

 「ひゃうっ!?」

 

 変な声を上げて、再起動した琴葉が最初に見たのは、志保のなんでもない普通の視線と、恵美が苦笑いしている表情だった。

 

 「ど、どうしたの2人共......え、2人......志保?」

 

 先程から素っ頓狂な声を上げて志保と恵美を交互に見る琴葉を見た志保がため息を吐きつつ琴葉に言う。

 

 「......呆れた。自分が何を言ったのか忘れたんですか?」

 

 「え、私......何か言ったっけ!?」

 

 琴葉は確認の意志を込めて、恵美に問いかける。すると、恵美は琴葉の真似をするべく真顔で、一大決心をしたかのような表情で琴葉を見て一言。

 

『アンパンチッ───』

 

 ご丁寧に、言い終わった姿まで真似した恵美を見た琴葉は、次第に意識を無くすまでの自分がどういった行為を───否、愚行をしていたのかを思い出す。

 

 「......あ、あああっ、ごめんなさい志保!私ったらとんでもないことを......!」

 

 「......別に良いですけど」

 

 羞恥に顔を赤く染めた琴葉を見て、特に咎める気もない志保は一言で琴葉の行為を見なかった事にし、話題を転換しようと琴葉に話しかけた。

 今の彼女にとっては、琴葉の『アンパンチ』発言よりも、優先すべきことがあったからだ。

 

 「で、恵美さん。兄について、何か?」

 

 「ああ、そうだったね!そう......アタシ達は啓輔のことについて情報交換をしていたのさっ!」

 

 「情報交換......?」

 

 「アタシ、啓輔気に入っちゃってさー。鋭い目付きの割に面白い発言をするのがもうたまらなく面白くて......」

 

 「はぁ......」

 

 お腹を捩らせてクスクス笑う恵美をジト目で見やる志保は、先程の1件を思い出し、改めて頭を下げる。

 

 「恵美さん、兄がお世話になりました」

 

 「んにゃ!別にいいってー。アタシこそ啓輔とお話出来て楽しかったからさ!」

 

 頭を下げた志保を諌めるかのように恵美が言うと、それを見ていた琴葉が、今の今まで出来ていなかった自己紹介をしようと志保に向き合う。

 

 「あの、志保。なかなかタイミングが合わなくて自己紹介出来なかったけど......」

 

 そう言って、琴葉が自分の名前を言おうとすると、志保がその言葉を遮るかのように手を出す。

 

 「結構です。名前......田中琴葉さん、ですよね。流石に何日もいれば名前と顔くらい一致しますから」

 

 それに、と志保は言葉を続ける。

 

 「琴葉さんのことは、兄からも伺っています。何時も兄がお世話になっています......先程の1件も、どうせ兄が絡んでいるんでしょう?」

 

 「あ......あのことはもう忘れてっ!」

 

 確かに、北沢啓輔に扇動されたのは事実だが、この場面で元はと言えば北沢啓輔が『アンパンチ』と発言すれば───と言ったのが宜しくなかったんだ等の言葉を目の前の妹に対して言えるほど琴葉のメンタルや良心は廃れてはいない。

 それ故に、行きどころのない羞恥心に苛まされた琴葉はまたしても赤面───そして、その光景を見た恵美は茶化すかのように笑い、志保は───兄が琴葉のような人物と仲良くなれているのに驚きと共に、何故か、嬉しく感じてしまっていた。

 それと、後で琴葉さんにそれなりの恥をかかせた兄はフリッカーからのチョッピングライトで処す。

 そう思って、無表情で拳を握り締めた無自覚ブラコン少女は、自身の考えが兄と殆ど似通っているということに、依然として気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 冬休みの一端とお散歩日和

この話にかかった文字数18000字!!


どーしてこうなった。


遅くなりましたがあけましておめでとうございます。本年度もよろしくお願いします。


 あれから、大した事件も無く冬休みを迎えられた事を、良しとするか否かは今の俺には分からないのだが、少なくとも何もないのんびりとした日常というものは悪いものではないだろう。

 

 あの時、田中が何を言いかけたのかは正直分からない。気にならないと言えば嘘になるし、あそこまで溜めといて携帯の着信とかそりゃないでしょ田中さんとか言いたいことはあるが、俺から聞くような事をする必要はない。

 

 田中琴葉という女は、1度言い出そうとした事を有耶無耶にしようとする性格ではない。言おうと思ったことはどれだけの時間をかけても言うし、回りくどい事等はせずに思いの丈を正直に伝える。

 

 故に自ら知ろうと思わなくても、そのうち田中の言わんとしている事は俺の耳に入る。それまでに俺がやらなきゃいけないことは、田中があの時のような真面目で真摯な声色で同じような言葉を発しようとしたら、俺もスイッチを切り替えて真面目に話を聞くってこと。それが人としてのマナーであり、北沢啓輔がずっと続けてきた、半ば習慣のようなものだった。

 

 まあ、そんなわけであってあれから俺はいつも通り田中と会話を交わしつつ、石崎の『野球やろうぜ!』攻撃を華麗に躱して、惰眠を貪って、田中さんにチョップを喰らって───と、流されるように、のんびりと、穏やかな日々を満喫していた。

 

 そして、あれよこれよという間に終業式。全く、時というものは本当に過ぎるのが早い───なんてジジくさい事を考えつつ、俺は1人で雪の降る街を歩いていた。

 

 雪が、俺の肩にかかる。

 

 ふと、空を見上げてこの時期の到来を懐かしむかのようにため息を吐いた。

 

 時期は12月後半。

 

 

 

 

 

 1年が、過ぎようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「いいかハナコ、俺がパーを出した瞬間にお手だ。OK?OK?」

 

 俺がしゃがみ込んだ状態でそう言うと、ハナコは大きな声でワン!と鳴き、俺を純真無垢な眼差しで見つめる。その姿に俺は一抹の不安を覚えつつも30分前から仕込みに仕込んだ一発芸を披露してもらおうと、右手を差し出す。

 

 「ぱー!」

 

 「ワンっ!!」

 

 仕込みに仕込んだ必殺技───お手をしてもらおうと右手をパーの形にして差し出すと、ハナコはそれを無視して飼い主の元へと走っていく。おのれ、裏切りおったなハナコ。そして走った先を振り向くと、そこには渋谷が呆れを通り越して最早一種の達観のような表情で俺を見ていた。

 

 「何してんの」

 

 「仕込み芸」

 

 「人のペットに仕込み芸教えちゃダメでしょ」

 

 そりゃごもっともですな。だが、こういった小動物にネタを仕込ませたいと思ってしまうのもまた事実。何気なくテレビで見た犬のお手に影響されたのは俺だけの秘密である。

 それにしても犬は可愛い。経済的な事情で犬等といった愛玩動物を飼う訳にはどうしてもいかないのだが、将来一人暮らしをするようになったら愛玩動物を飼うのも悪くは無いかもしれない。

 

 「俺、大人になったら大きな犬飼おう......2人で細々と暮らしたいな......」

 

 「あ、そうなの?じゃあ山奥でペンション買って犬と二人きりで暮らすんだね。名前は?ハチ?」

 

 「誰が猫田の話をしろと言った」

 

 幾ら俺でも山奥に家買ったりはしない。しないったらしない。仮にそんな所に家建てたら色々不便だし、第1母さんや、最愛の妹、弟に会う機会が激減してしまうではないか。俺はそんなの嫌だぞ。

 

 「それともお前、俺を山奥に押し込めて存在を抹消させたいとか言うんじゃなかろうな。そういう訳には行かない、例え抹消されても不死鳥の如く何度でも蘇ってやるからな」

 

 「今、ここでアンタの存在を永久に登録抹消してもいいんだけど」

 

 辛辣な一言を発して、渋谷は穏やかな天気には似合わないため息を吐いた。

 

 時刻はお昼過ぎ。冬休みの為マッマとりっくんが一緒に買い物に行っていて、なおかつ志保がレッスン。その為手持ち無沙汰になってしまう予定だった俺は昨日のうちに渋谷マッマにお願いして渋谷と共にバイトをこなしていた。

 学校、家事以外を終わらせた俺の趣味がバイトと惰眠しかなく、連日のお休みにより眠気もない俺はこの冬休みに時給900円という今の俺には非常に有難いバイトを渋谷先輩監修の元、バイトをこなしているのだ。今頃他所の奴等は勉強なり、部活なりしている事だろう。そう考えると、何となく自分が普通じゃない気がして、少しばかり不安になる。

 

 「なあ、渋谷。俺って普通の人だよな」

 

 何となくそう尋ねると、渋谷は鳩が豆鉄砲喰らったかのような表情で俺を見る。

 

 「本当にそう思ってんの?」

 

 「聞いてみただけだろ」

 

 「なら、自分の胸に確り確認してから私に聞いてよ。そうしたら自分がどれだけ分かり切った質問しているのか分かるからさ」

 

 「それ、遠回しに俺が異質とでも言ってんじゃなかろうな」

 

 そう呟いて、俺は胸に手を当てて今まで生きてきた俺という存在の確認を始める。

 

 妹に蹴りを入れられて、あの憎き委員長にチョップをぶちかまされて、今もこうやって渋谷に辛辣な一言を発せられて。そんな俺が常人、か。

 

 

 

 「うん、俺って超異質」

 

 「分かってくれたなら良かったよ」

 

 花の確認をしながらそう言った渋谷の言葉に俺は大きく頷き、しょげた。

 

 「ほら、やること特にないならレジ番しててよ。そんなところでしょげてないでさ」

 

 「なんで今日に限ってこんな客が少ないんだと思ったらクリスマス前日だからか。道理で客が来ないわけだ」

 

 流石にクリスマス前日の昼下がりにどんちゃん騒ぎしている輩は居ないだろう。寧ろ、クリスマスの休みを満喫する為に溜めていた仕事やらそれぞれのやることを消化している人の方が多数。俺のようにただ目的も無くのうのうとバイトなり家事なり手伝いなりしている奴等が少数だろうか。

 季節は過ぎて本日は12月24日。世間的にはクリスマスの一歩手前で皆が今か今かとクリスマスを待ち構えている日だった。

 

 「プレゼント、どうすっかな」

 

 何気なく、店番をしながらそう呟くとすかさず声が聞こえる。

 

 「シスコンブラコン」

 

 「当然だろ、好きなんだから」

 

 「あ、ショタコンも込みか」

 

 「属性を付け足すな」

 

 俺は弟と妹が大好きなだけで決して幼い子供が好きな訳じゃない。変な属性を付け加え、あらぬ疑いをかけるのは是非とも止めてもらいたいものだ。

 

 「因みに去年は何をプレゼントしたの?」

 

 「去年は母さんに花と財布、りっくんにはサッカーボールをプレゼントして、志保には絵本をプレゼントした」

 

 「ねえ、去年の志保って12歳だよね。なんで小6のプレゼントが絵本なのさ」

 

 「志保は絵本が好きだからな」

 

 本屋のあるコーナーにお気に入りの1冊を探そう!とかいうコーナーから厳選して取ってきた。選考基準は、俺が面白いかどうかという非常に拙い選考基準ではあったのだが。

 

 「勿論志保には絵本だけじゃない。黒猫のイラストが描いてある腕時計を買ったが......なんだろ、絵本の方が喜ばれてた気がするんだよなぁ」

 

 「・・・そりゃ気の所為でしょ」

 

 どうだろうな。1年前のアイツ見た目によらず趣味がまだ子供っぽい所あったし。

 

 しかし、1年経った今の志保や陸の趣味嗜好が大人っぽくなっているかまだまだ子供なのかってのは正直に言うと、分からない。人は成長する生き物だ、りっくんは大きくなって、サッカーが出来るようになったし、志保だって新人ながらアイドルを始めている。それ故に、俺は自慢の妹弟に何を贈るべきなのか。かつての思考のままで良いのか、本当に迷っていたのだった。

 

 「プレゼントは気持ちってのは分かってんだよ。でも、年に1回のイベント。折角なら盛大に、家族を喜ばせたいじゃないか。そんな時にプレゼントが足枷になるような事、俺はしたくないんだよ」

 

 そう言って、ひとつため息を吐く。その溜め息には普段使わない頭をうんと捻った事による溜め息と、事が上手く運べない駄目兄貴を自嘲する意味での溜め息だった。

 

 「兄も大変なんだね。まあ、啓輔の場合苦労はしてもそれを苦には思ってなさそうだけど」

 

 「良く分かってらっしゃる」

 

 それは、俺自身が望んでやりたいと思った事だから。考えるのは大変だけど決して辛いなんてことはないんだ。家族の為に、家族が喜ぶ為に、家族が家の中で笑っていられる為に。俺は毎年クリスマスにかこつけてサンタの仮装と共にクリスマスパーテイを開く。そして、今年も例に漏れず盛大に行う『予定』だ。

 時期はジングルベルが鳴り響く前日。皆が足繁く仕事を終わらせるために仕事やら営業やら何やらをしているであろう今日この頃。

 

 

 

 「だから俺はやるんだよ......」

 

 「何を」

 

 「クリスマスイベントをな」

 

 

 

 

 

 俺、北沢啓補の脳内では既にそれはそれは楽しい北沢家のクリスマスイベントが始まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花屋のバイトを終えた俺は、ジト目でこちらを見やる渋谷を巻き込んでクリスマスの計画を画策していた。

 

 「やっぱり先ずは身なりから入らないとな。クリスマスといえばサンタクロースとプレゼント。というわけで渋谷、俺と一緒にデパートに行こう」

 

 「繋がりが全然見えてこないんだけど。大体なんで私が北沢家のクリスマスイベントに一役買わなきゃいけないのさ」

 

 「荷物持ち」

 

 その瞬間、こめかみに青筋を立てた凛が笑顔でパキパキ拳を鳴らす。

 

 「取り敢えずその頭1発殴らせて」

 

 「ジョークだ。ジョークだからその表情やめろ。俺のメンタルに響く」

 

 女の子に荷物を持たせようとする程俺は鬼畜でもないし、空気読めない人でもない。女の子と外に繰り出すなら荷物持ちはするし、話は聞く。母さんから教えられたマナーだ。

 

 「それに、渋谷が言っていた事も理解できる。確かに他所の奴が人のクリスマスに首突っ込むのってあんまりイメージ出来ないだろうし、そういうのお前守備範囲外っぽいもんな。お前孤高の少女(笑)だし」

 

 「遠回しに私をディスってんのバレバレだから。というか(笑)まで言葉で表現する啓輔は十二分に鬼畜だよ」

 

 「ばっかお前。俺を鬼畜なんていったらお前や志保はどうなんだよ、悪魔か?魔王か?どっちか選んでくれてどうぞ」

 

 「大方一般人でしょ」

 

 「面白い冗談はよせ。こっちの腹筋がもたないから」

 

 現に俺の腹筋がヒクヒク言ってる。大笑いはあまりしたくない質でな。渋谷の武士姿とか想像して吹いたりはしたけど、それだって本来なら有り得ない、俺としてはとっても希少なケースなのだ。

 

 閑話休題───

 

 「俺が渋谷に来て欲しい理由ってのはさ、プレゼントを見て欲しいんだよ」

 

 「へー」

 

 「・・・まあ、別に無理だってんなら強要する謂れはないし、別に良いけど。志保と渋谷は歳が近いから、女の子目線で良いものがあるのならアドバイスが欲しいってだけだからな」

 

 そう言って渋谷を伺うと、相も変わらず渋谷は作り物のような笑みを浮かべて、俺を見る。

 

 「花いいよ、特にポインセチアとひいらぎ」

 

 「露骨なステマを止めないか花屋の一人娘」

 

 「じゃあ......1日お兄ちゃんを好き放題殴って良い券を10枚発行するとか」

 

 「肩たたき券のノリで言うんじゃねえよ。俺を殺す気か?」

 

 先程から軽快に飛んでくる渋谷の罵倒のような提案を即否定していると、渋谷が若干目を輝かせ親指を立てる。

 

 「啓輔、男なら勇気出して飛び込むべきだよ」

 

 「無様に死ぬのが目に見えているのに飛び込むのはただの脳筋のお馬鹿さんだぞ」

 

 そういう役回りは石崎だけで結構だ。俺は負けの分かる戦に命を突っ込むほど勇気はないし、ライフポイントもない。というか、志保に好きなだけ殴られるのとか嫌を通り越して絶対に嫌。あの子のパンチ年々激しさを増してきてるんでっせ?最近はボクサーのように首ひねり使って勢いを半減させないと普通に気絶しかけるし。

 

 「第1、志保なら枚数コピーして永遠にガゼルパンチを繰り出しかねない。もう直に成人するであろう18歳が妹のサンドバッグになんてなってたまるかってんだ」

 

 「流石にそこまではないでしょ・・・・・・全く仕方ないな」

 

 そう言うと、渋谷はため息をひとつ吐き仕事用のエプロンを外し、立ち上がる。

 

 「お母さん少し外出ても良いー?」

 

 恐らく、奥で仕事の続きをしているであろう渋谷マッマに渋谷がそう言うと、渋谷マッマの了承する声が聴こえる。

 

 「いいわよー、デートでもするのー?」

 

 若干含みを持たせた渋谷マッマの一言に渋谷が呆れた表情でこっちを見やり、顎で俺に命令する。その意図を察した俺は先ずはジャブ代わりに奥の部屋に向かって高らかな声を出した。

 

 「渋谷さーん!!」

 

 「なにー?」

 

 「凛ってー!実は男も女もOKだったんですってー!」

 

 「そうなのー?初耳だよー!」

 

 渋谷マッマがそういった途端、何やら骨がパキパキなる音が聴こえたが気にしない。ここは渋谷の言わんとしていることを遂行するために更に声を出す。

 

 「娘さんお借りしますねー!」

 

 「はいはーい、凛をよろしくねー!」

 

 その声が聞こえた途端、渋谷の拳が俺の肩を貫く。その一撃は肉ではなく骨に響くパンチ。そんな拳を喰らった俺は膝をつき、蹲る。

 

 「痛ァい!?」

 

 「アンタ・・・私がどう見えたらバイに見えるの?いくらジャブ代わりでもちょっと度が過ぎると思うんだよね・・・!」

 

 「・・・え、違うの?なら謝る。スマン───」

 

 その瞬間、近くにあった本を頭に思いっきり振り下ろされる。そのあまりの激痛に、更に俺は蹲る。

 

 「痛え!?俺謝ったのに叩かれるの!?」

 

 「ごめん、その謝る姿が結構頭にきたからさ、思わず分厚い本で頭を叩いちゃった」

 

 その時、俺の頭に電流が走る───

 

 「頭だけに・・・頭にきたっ」

 

 「1点未満の駄洒落をありがと。で、私はアンタの頭をもっと叩けばいいの?それとも踏まれたいの?」

 

 「やめてください電撃的に閃いたんです許してください」

 

 笑顔で俺の頭を叩く渋谷のオーラは正に鬼。なあ、ちょっと前までコイツ俺の事鬼畜とか言ってきたんだぜ?果たして会話に(笑)を付ける俺と分厚い本で頭を叩いて、あまつさえそれを続けようとする渋谷。果たしてどっちがぐう畜なんだろうな。

 

 「・・・すまん」

 

 「聞こえない」

 

 「すみません・・・!」

 

 「動きを加えて、ワンモア」

 

 「本当にごめんなさい!それから買い物付き合おうとしてくれてありがとうございます渋谷先輩!」

 

 投げやりにそう言って頭を下げると、渋谷は近くに置いてあった鞄を取り、支度を始める。

 

 「・・・じゃあ、行こうか。それとアンタの買い物に付き合う代わりに私の買い物にも付き合う。これ約束というか条約ね」

 

 「ちょ、荷物持ちの俺の負担は───」

 

 そう言いかけると、それを渋谷が遮るかのように振り向いて、暗黒的な微笑を送る。そして、それを見た俺は完敗を認め、悟る───

 

 「え?何か言った?」

 

 「・・・荷物持ち、させていただきます」

 

 背景、家族へ。

 

 僕は、とんでもない後輩を持ってしまったらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、場所は変わってデパートまでの道のり。昼までにバイトを切り上げた俺は母さんに断りを入れて渋谷と共にデパートまでの道を歩いていた。

 人は多い。冬休みだからというのもあるし、ここが都内ってのも勿論ある。

 

 「道中で買い食いするって言うのも、何か新鮮だよね」

 

 「そうか?」

 

 別にホットドッグを道中で食うって普通のような気がするけど。その気になって探せば屋台なんかかなりの頻度で見つかるし。

 

 「それよりも折角協力してくれるってんのにそれに対しての対価がそのホットドッグひとつって......本当にそれで良かったのか?なんならデパートのレストランとかでも良かったのに」

 

 「別にいいよ。私、このホットドッグ結構気になってたし。それに買い物に付き合う位の対価をレストランでの食事だと思うほど私は現金じゃないでしょ」

 

 「俺はもっと残虐だと思ったんだがな」

 

 「なら、考えを改めた方が良いよ。私は余っ程の事を言われない限り基本は何も言わないから」

 

 「ああ、そうかい」

 

 なら、別に良いのだが。

 

 そう思い渋谷の分を買うついでに買っといたホットドッグにありつく。

 

 それは一人で食べるよりも美味しかった。

 

 「美味いな」

 

 「でしょ?前々から気になってたんだ」

 

 「まさか渋谷に・・・否、この先は言うべきではないな」

 

 「ちょっと、今の思考に関して詳しく」

 

 鋭く突き刺さる渋谷の視線と抓り攻撃にひいひい言いつつ、デパートの中に入る。

 すると、辺りは様々な物と沢山の人達に囲まれ、軽快なBGMが耳を支配する。デパートに来るのも久しい俺にとっては、この世界はちょっと苦手だ。世界が目まぐるしく回っている感じがして、気持ち悪い。

 

 「で、どこに行くつもり?」

 

 デパートに着くなり渋谷が俺を見てそう尋ねる。その質問に対して俺は少しだけ含み笑い。

 

 「そんな質問に答えられてるのなら、俺は今頃1人でパーリータイムしてるよ」

 

 「それをドヤ顔で言われても困るんだけど・・・まあ、いいか。その為に私を招聘したんだもんね」

 

 ため息混じりにそう言うと、渋谷は真面目な顔になる。この時の渋谷は大体まともな返事をしてくれるので信頼しているのだが今回は何を言ってくれるのだろうかな。

 内心ウッキウキで渋谷を見ていると渋谷は真面目な表情を変えずに、冷静沈着な声で一言───

 

 

 

 

 

 「家電量販店でカミソリ2つ買いに行こうか」

 

 「お前は志保と陸に何させたいの?カミソリ持たせて何させる気なの?」

 

 1度でも渋谷のまともな表情を信頼した俺が馬鹿だった。ついでに言うなら無表情でカミソリ言われたら心の臓が冷えてしまうのは俺だけなのかな。

 

 「何って・・・最近は物騒だからさ。幼い女の子に護身用に持たせといてもいいんじゃない?啓輔の話を聞く限り志保なら物理的にカミソリシュートも出来るはずだよ」

 

 「怖ぇ・・・物理的にカミソリシュートってデパートで堂々と言えちゃう渋谷さんが怖ぇ・・・!」

 

 そして、そんなことを考えながらも家電量販店へと足を進めている自分が何より怖すぎる。どうやら、俺の中で渋谷凛という女の存在は想像を絶する程の影響力を持っているのかもしれない。というか、俺は渋谷のカミソリシュートに対してなんて突っ込めばいいのやら。平松さんか?それとも早田くんか?分かりません。

 

 「まあ、候補には入れときなよ。候補が多くて困ることは無いんだし」

 

 「一生セレクトしないであろう候補をありがとな。カミソリを買うくらいならそこら辺に置いてある石ころを『これ、神龍石なんですよー!』って言ってプレゼントした挙句ハイキックされた方がまだマシだ」

 

 「凄い妄想力だね。いっその事その力で小説書いてプレゼントしたらいいのに」

 

 「予測力って言ってくれない?あたかも俺がぶん殴られ願望があるかのように言うの止めろよ」

 

 やがて、俺達は家電量販店へと赴き視界に広がる様々な商品を品定めする。

 家電量販店には様々なものがある。炊飯器、オーブントースター、トイレ、ゲーム、etc......その中で、志保が貰って喜ぶであろうもの。ええ、彼女はゲームに興味がないことくらい分かっています。トイレなんか買った日には軽く蔑まれるでしょう。要はしっかりと吟味をしなければならないという事だ。

 

 「オーブントースターとかは?」

 

 「お、いいとこに目付けたな」

 

 そのオーブントースターで毎朝志保にパンを焼いてもらおうか。毎日志保に俺の朝食を作って貰えるのなら、俺はどんな事があっても我が妹をリスペクトしていく所存である。

 

 まあ、将来的には家を出て自炊せにゃならんのだが。

 

 「ただ、この場合オーブントースターが我が家に既に存在してるのが難点だし、志保の為になるプレゼントにゃならん」

 

 「そんなこと言ったら殆どの家電無理じゃん。なんでここ来たの?」

 

 「カミソリに釣られた」

 

 「うん、それは私が悪かった」

 

 二人同時に頭を下げて、早々に家電量販店コーナーを出ていった。さて、次は何処を目指すべきなのかな。

 

 「志保の好きなのは絵本だよね。なら、本屋は?」

 

 「本も良いが、他は?」

 

 本なら、俺の中では志保にプレゼントする第1候補になってはいるのだが、その場合去年と同じプレゼントになるのが痛い。

 

 「......例えば、志保がプレゼントされて喜ぶものっていったら何を想像する?あ、絵本とぬいぐるみ以外で」

 

 先を歩いていた渋谷が俺の方を振り向き、顔を覗き込む。そのクールな視線に、若干大人になったんだな、なんて想いを抱きつつも俺は目の前の女の子に答えを提示する為に頭を働かせる。

 思えば、志保の好きな物が絵本とぬいぐるみとりっくん以外ピンとこない俺は家族の事に対して本当に無頓着だったということが分かる。ダメだな、これじゃあシスコンなんて名乗れない。本当のシスコンなら妹の事で1週間は語れるようにならなければ。

 

 「くっ......!」

 

 「何だかピンとこないって顔してるね」

 

 「一生の不覚だよ渋谷......妹のプレゼント1つまともに考えられない俺が憎い」

 

 「そこまで悩むことかな......」

 

 内心気分をどんよりさせていると、渋谷が苦笑いしながら俺を見る。

 

 「まあ、いいじゃん。時間はまだまだあるんだしゆっくり悩めば良いよ」

 

 「......面目ない」

 

 「知ってる」

 

 「そりゃ結構な事で」

 

 隣接されているベンチに腰を下ろした俺と渋谷はほぼ同じタイミングでため息を吐く。その原因は言わずもがなプレゼントの内容であり、本来ならば俺自身が決めなければならない内容。その悩みを半分渋谷に肩代わりしてもらわなければ俺は今頃悩みに悩み、家電量販店にすらたどり着けなかったであろう。悩むことは悪いことではない。物事に関して悩むことは吟味しているという証拠になるし、適当に何かを決めるよりかはよっぽどマシだ。

 

 ただ、悩むことも度を越せば優柔不断と揶揄される。今の俺を客観的に見ればおそらくそれに該当するだろう。候補はあるのに実行に移せずこうしてベンチに座ってうんうん唸っているのが良い例だ。

 

 生憎、渋谷にも俺にも時間に限度がある。こればかりは抗いようのない事であり、どうしようもないことである。故に、悩みに悩むのも程々に・・・何処かでこれだというものを決めなければならない。

 

 志保に対するプレゼントに頭をうんうん悩ませている間にも人通りはベンチに座った俺達を通り過ぎていく。その様子を見ながら、志保のプレゼントを決めようと、商品カタログを取りに行こうと立ち上がり前を向くと、不意に俺の瞳が、1人の女の子に釘付けになる。

 途端、視線に気付いた女の子が俺を見て目を見開く。そして、一言───

 

 「北沢くん?」

 

 「田中」

 

 まさか、こんな所で出会うなんて思わなかった。田中さんならクリスマス前日でもパーリータイムせずにいつも通りの生活を送っているかと思っていたんだがな。

 

 「どうしたこんな所で。クリぼっちか?」

 

 「むっ......別にひとりきりじゃないよ。それに、今日はクリスマス前日だよ?」

 

 「ははっ、悪い悪い」

 

 「それよりも北沢くんこそ何してるの?」

 

 「家族のプレゼント、主に志保の」

 

 さも当たり前という風に答えると、田中は若干苦笑い。

 

 「シスコンだ・・・・・・」

 

 「別にシスコンじゃなかろう。妹弟のプレゼントを選ぶことがシスコンなら世界中のお兄ちゃんは全員シスコンだろうて」

 

 「そう言って、何時間プレゼントを吟味していたの?」

 

 「丸一日考えてたなっ」

 

 どうやったら志保やりっくんにクリスマスを楽しんでもらえるのかを主としてプレゼントやクリスマスツリーの位置。はたまた今回の仮装まで考えられるものは全て考えていたな。そんな意を込めて田中に笑いかけると田中は何とも言えないといった苦笑を崩さずに言葉を返す。

 

 「やっぱりそれシスコンだよ・・・・・・」

 

 

 

 何でさ。

 

 

 

 そう思い、半ば反抗の意を込めて田中を見遣ると先程まで田中と俺との会話を傍観していた渋谷が立ち上がり田中に正対する。渋谷の身長は15歳ながら田中の身長を越しており彼女たちの事を知らない人達から見たら同年代同士が正対していると思われる人も少なからずいるだろう。実際は違う。田中と渋谷の年齢はふたつ違う。田中が年上のJKで渋谷が受験を控えたJCだ。それにも関わらず渋谷と田中があたかも同年代のように見えてしまうのは身長の差のみならず年上にもタメ口を利く渋谷の度胸のような何かと大人びた渋谷の物腰と表情の影響なのだろう。

 

 渋谷は田中を視る。それはまるで何かを品定めするかのような、そんな瞳。そして、そんな瞳で見られた田中は心なしか緊張しているようにも感じた。

 

 「アンタが田中さん?」

 

 「う、うん」

 

 「私は渋谷凛」

 

 「趣味は人間生け花だぞ」

 

 「よろしく───ああ、因みに趣味は特になし。クラスメイトなら分かってると思うけどあの馬鹿の言うことは良い意味でも悪い意味でもまともに聞かない方がいいよ」

 

 そして、渋谷は握り拳を作り拳と腰を捻って俺にコークスクリューブローを放つ。

 

 「うぉぉぉぉ!?」

 

 「誰が人間生け花が趣味だって?花屋の娘になんてこと抜かしてんのさ」

 

 「残虐的なお前にはぴったりな趣味だと思ったんだがな」

 

 「まだ言うかそれを。あんたって本当にそういうとこ執念深いよね」

 

 ため息を吐き、薄目で俺を見る渋谷。そんな瞳で見られても興奮したりはできないがこちとら何時も苦汁を舐めさせられているんだ。今仕返ししないでいつ仕返しする。うん、今しかない。

 

 「と、いうわけでこいつが花屋の一人娘、田中が付き合っているとか勘違いした女の子渋谷凜だ。一応高校受験を目前に控えた中学生。将来は俺たちの高校に入学するかもしれないから今のうちに仲良くなっておくことを推奨する」

 

 「ねえ、私女子高行くって啓補に言った筈だよね。なに、アンタの前頭葉イカレてんの?」

 

 そういうことも言っていた気がする。まあ、渋谷の進学予定の女子高は私立だから都立の高校である俺と田中が在籍している高校も受けれるには受けれるのだけれど。このことを分かっていて渋谷は言っているのだろうか、気になる。

 

 「なんというか・・・北沢くんと関係がある人って良い意味で普通の人と飛び抜けているよね」

 

 田中がぼそりと俺に聴こえるように呟くとそれを聴いていた渋谷が呆れた笑いを浮かべる。

 

 「ハッタリでしょ。啓補は兎も角私は世間に馴染むように努力してきたつもりなんだけど」

 

 馴染む、ね。

 

 プレゼントのファーストチョイスにカミソリを選択して、ボクシングの必殺技をかましてくる目つきの鋭い普通の女の子がいるのなら是非お目にかかりたいものだな。良くも悪くもそんな子が普通の女の子なわけがない。渋谷は十二分に特別な女の子だろうて。そう思い田中を見遣ると、田中は渋谷の返答に対して何とも言えないような、そんな乾いた笑いを浮かべていた。

 

 「それにしても、珍しいね。北沢くんが顔見知りとはいえ一人で出かけずに友達と何かをするなんて」

 

 「と言っているぞ、渋谷。俺とお前は友達のように見られているらしい。先輩と後輩には見えないのは屈辱の極みだよ、啓補マジショック」

 

 「よし、後でアンタ泣かす」

 

 俺が突発的に行った挑発のような何かに渋谷は青筋を立て無理くり笑みを作り堪える。そして田中のほうを向いて一言。

 

 「アイツ、妹に渡すプレゼントで悩んでるからさ、一緒に何が良いのか考えるの手伝ってくれないかな?」

 

 その一言に、俺は目を見開く。ただでさえ渋谷の時間を削ってプレゼントを選んでもらっているのに田中の時間をも削ることになってしまったらもれなく俺は罪悪感で凹む。そこまでの人員をかけてまで選ぶことではない。俺と渋谷だけでも、最悪俺一人でもなんとかなる。

 

 「渋谷、別に田中の手を患わせる必要はないだろ。第一、田中は一人でこのデパートに来ているわけじゃない、友達か何かを待たせてんだぞ」

 

 「あ、そっか。すっかりそれを忘れてた」

 

 忘れるな。先程まで傍観に徹していたのならしっかりと覚えてろ。

 

 「田中、気にする必要はない。友人を待たせているのなら早くそっちの方に行ってやれ」

 

 というか、是非行ってくれ。そんな面持ちで田中を見遣ると、少し不満気な顔付きで田中が俺を見る。その瞳の意味が分からずに思わず顔を顰めると、田中は不満気な顔付きそのままで話す。

 

 「・・・私に頼るのは、嫌?」

 

 「いや、そういう訳じゃなくてだな。お前だって用事があるんだろ?だったら別に───」

 

 「確かに用事もあるけど、暫くは大丈夫だし・・・何より北沢くんが妹さんの為に何かをしようとしてるから、私も協力したい」

 

 コイツ。

 

 意図したのかどうかは知らんが断りにくい状況を作っちまいやがった。頼るのが嫌かと聴かれて断れる奴がいるのなら是非教えて欲しい。

 

 「・・・だってよ?どうするの啓輔。これ断ったら田中さんの好感度が急降下だよ?」

 

 「好感度ってお前なぁ・・・」

 

 確かに、そうかもしれないが田中にとっての感情がLOVEでもない俺にとっては田中の友好度も好感度も上げる意思がない。そんなものが数値化されて、明確にあるのならそんなものクソくらえだ。

 ただ、折角頼んでくれたものを無碍に断るのも気が引ける。その中で一種のジレンマをまたしても感じ取った俺はため息を吐いて、1度間を取って答える。

 

 「・・・何か案があるなら、教えてくれ」

 

 チキンだ。好感度云々言っておきながら、結局田中さんの厚意に甘えてしまっている俺は相当な腰抜けで優柔不断なモテない男だと卑下してしまう。それでも、そんな俺の言葉を聞いた渋谷はため息を吐いて『そこは教えてくださいでしょ・・・』と呆れ笑いを浮かべ、田中は嬉しそうな笑みを浮かべる。てか、同年代に敬語とか俺絶対嫌だからな。そして、何時もタメ口のお前が敬語を語るとかなにそのブーメラン・・・と渋谷を生暖かい目付きで見遣ると、ついに渋谷が俺の足をローキックで痛めつける。

 

 「ぐほぉ!」

 

 あまりの痛みに蹲る俺に田中は容赦なく質問を続ける。

 

 「そう言えば、志保の好きなものってなんなの?」

 

 「志保が好きなのは絵本とぬいぐるみだ・・・痛え」

 

 「・・・じゃあ、それにしたらいいと思うけど」

 

 「ところがそうはいかないんだよ、田中さん」

 

 「あ、えと───」

 

 「凜でいいよ。どうせ田中さんの方が歳上だろうし。その代わり、私もタメ口利いちゃうけど・・・いい?」

 

 「おい、その配慮を俺にもしろよ。俺歳上だろ?」

 

 俺と同い年の筈の田中に対しての態度に物申そうと渋谷にツッコミを入れるものの、渋谷はまるで意にも介さず田中に対して続ける。

 

 「この馬鹿は去年に黒猫の時計と絵本をプレゼントしてしまって、形式的に去年と同じプレゼントは出来ない上に、志保の趣味嗜好が変化しているのではないかと不安になっているんだよ。だから、今年はまた違ったプレゼントを送りたいんだって」

 

 「因みに一昨年はぬいぐるみだったぞ。ぬいぐるみぎゅって抱えてた志保はマジで可愛かった」

 

 「少し黙ってて」

 

 そして、ようやっと反応してくれたと思った所の罵倒に、俺の心は完璧に打ち砕かれる。仕方ないだろ、現にぬいぐるみ持ってた志保はマジで可愛かったんだから。何時もクールを地で行き、弱味を見せたりすることがなかった志保がプレゼント送った時に見せた本当に嬉しそうな笑みは周りの人すら幸せにしてしまいそうな力を持っていたように思える。現に、その時の俺がそうだったから。一生懸命プレゼントを悩み抜いた苦労がその笑顔だけで報われたから。

 

 「・・・だとすると、難しいよね。私も志保と同じ事務所でアイドルやってるけど、なかなかそういった話は聞かなくて」

 

 「しかもシスコン拗らせてるせいでいつもより判断力が鈍すぎる」

 

 「シスコンで何が悪い。志保も陸も俺の大切な兄弟だ」

 

 「・・・と、ご覧の有様だよ。だから、同じ事務所でアイドルしてる琴葉にアドバイスを貰おうと思ってたんだけど」

 

 「そっか・・・」

 

 そう一言だけ田中が呟くと、ふと田中が何かを思い出したかのように顔を上げる。その乾いた音に釣られ、思考の海に潜っていた俺の意識は田中に向けられた。

 

 「北沢くん、妹さん・・・志保が今熱中しているものってなに?」

 

 熱中、か。

 

 「お兄ちゃんを殴ることとりっくんを愛でること」

 

 その瞬間田中の笑みが引き攣り、渋谷の鋭い眼光が俺を捉える。

 

 「真面目に考えなよ」

 

 「真面目に考えたさ、新技の高速タックルめっさ痛かったんだからな」

 

 上体を低くしたプロサッカー選手顔負けのスライディングタックルは俺の足を痛めつけるには十分な強さを誇っていた・・・という所まで考えて、やはり護身用でもカミソリは要らないな、とまとめる。だって、今の志保普通に強いし何なら喧嘩に巻き込まれたとしても素手で何とかしてしまいそうなんだもん。

 

 「・・・じゃあこうしよう」

 

 そう言うと、田中は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて俺に問う。

 

 「志保が今、1人で頑張っているもの、なんだろ。シスコンの北沢くんに質問だよ」

 

 「1人で?」

 

 「今、志保は北沢くんに断りを入れて何をしてる?」

 

 1人で頑張っているもの。

 

 俺に断りを入れてやっているもの。

 

 そのキーワードは俺の頭にすっと入っていき、俺の頭の中で引っかかっていた何かを解消させた。そして、首を傾げた田中の問いに対する解を見つけた時、俺が考えうる中での最強のプレゼント・・・・・・志保をあっと驚かせるプレゼントが電撃的に閃いたのだった。

 

 「アイドル────か」

 

 普段はそうそう起こらないであろうすっきりとした感覚と口角が上がる感触を得た俺は半ば衝動的に渋谷に問いかける。

 

 「渋谷、スポーツ用品店行ってくる」

 

 「アンタ・・・唐突過ぎでしょ」

 

 「閃いたんだよっ。これなら志保を喜ばせられるであろう最強のプレゼントをな!」

 

 「・・・分かったよ、行っといで」

 

 ため息混じりの苦笑と共に渋谷がそう言ったのを確認すると俺は走り出す。頭の中はさながら有頂天。充実した日々を過ごせていると言っても過言ではないと思える。そんな俺は、最後にこんな俺のプレゼント選びに付き合ってくれた2人の女の子に振り返り、一言────

 

 

 

 

 「渋谷!田中!本当にありがとう!!」

 

 

 

 

 

 最大限の感謝を込めて、スポーツ用品店へと走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1人の男がスポーツ用品店へと嬉々とした様子で向かっている中、取り残された2人の女の子たちはお互いを苦笑いの表情で見つめていた。渋谷は先程までこの場所でうんうん唸っていた啓補の豹変ぶりに呆れるかのように。琴葉は今日まで面識のなかった女の子と2人でいる気まずさから。啓補という存在がスポーツ用品店へと向かってしまった以上、2人の関係は浅いものであり。渋谷の目つきも相まって2人は話すタイミングを計りかねて無言のまま、暫しの時を過ごしていた。

 そんな静寂を、断ち切ったのは渋谷だった。琴葉の方は向かずに啓補の走っていった方向を見遣って続ける。

 

 「・・・ありがとう」

 

 「えっ」

 

 「いや、啓補ってああ見えて悩んだりすると結構ドツボに嵌るタイプだからさ。助けてくれて感謝してる」

 

 再びありがとうと今度は頭を下げた渋谷に、琴葉は顔の前で必死に手を振り渋谷の一礼を止めさせようとする。琴葉からしたら啓補にアドバイスを送ったのは、所謂エゴというやつで自分がアドバイスを送ろうと思ってそうしたまでの話であった。その為、こうやって第三者に頭を下げられるとひどく身体がむず痒くなってしまう。

 

 「べ、別に凜ちゃんが頭を下げる必要はないよ!これは私がやりたくてやった事だし・・・」

 

 「それでもだよ。友人として、協力者として琴葉には感謝してる。だから私はこうやってお礼を伝えてるの」

 

 渋谷は頭を上げて琴葉に笑みを送る。渋谷のそんな笑みは人に滅多に見せるものではないのだが、今のこの瞬間の友人を思う時の笑顔は魅力のあるものだった。今の笑みならばアイドルだって出来てしまうだろう、否・・・スカウトマンが黙っていないのではと琴葉が苦笑いしていると、その苦笑いに渋谷が不思議そうに反応する。

 

 「何?私の顔に何かついてる?」

 

 「ううん、凜ちゃんの笑ってる顔が可愛いなあって思って」

 

 無論、本音であり事実。しかし、そんな賞賛を凜は正直に受け取らずに、左手を口角に添える。

 

 「琴葉ってバイなの?」

 

 「口説いてないよ!?」

 

 琴葉は唐突な渋谷のキャラ崩壊に驚きつつ、彼女が啓輔と違和感なく軽口を言い合えている理由の一端を知る。啓輔と対等に渡り合うためにはこれくらいの会話を挟める余裕が必要なのかもしれない。尤も、琴葉自身啓輔の感情表現乏しい軽快なトークもとい家族自慢に真っ向から対抗する気はないのだが。

 

 「あはは、冗談だって。啓輔の馬鹿と長い間付き合ってると、自然と人の地雷踏む癖がついちゃって。ほら、啓輔が琴葉に殴られる原因を作った時みたいにさ」

 

 う、と琴葉が声を漏らすとそれに呼応するように凜がクスクスと声を漏らして笑う。

 

 「改めて言わせてもらうよ。万が一にもそんな事は無いし、当時の啓輔は女の子の尻を追っかけるよりも、家族の事に夢中だったから」

 

 「家族・・・か」

 

 田中は、その言葉に納得する。何せ、家族のプレゼントを未だに真剣に考えているお兄ちゃんだ。きっと、今も昔も志保や弟のことが大好きで大好きで仕方なかった人間の筈だと琴葉は推測する。

 

 「想像出来るよ。何となく」

 

 それ故に、発された一言に凛は納得の表情で田中を見た。

 

 「どうやら、そっちの啓輔は今のところ相変わらずみたいだね」

 

 「・・・凜ちゃんは、昔の北沢くんを知っているんだよね」

 

 「当然。じゃなきゃ他人の妹のプレゼント選びに手を貸したりなんかしないよ」

 

 まあ、若干渋ったりはしたが基本線は啓輔の事には協力的な凛である。彼女が啓輔の頼みに難色を示したのは啓輔を弄ぶ.....言ってしまえば暇を持て余した凛の遊びであるのだ。

 

 

 

 

 一定の会話を挟み、凛と琴葉の仲は早くも良好なものとなる。それは、とても好ましい事であり、双方にとっても楽しいものとなる。元々啓輔を介して知り合った2人である。若干の不安はあったものの今となってはそんな心配も杞憂だったというのが、2人.....琴葉と凛の感想である。

 

 それ故に、凛は踏み込んだ。琴葉の人となりを知った上で。琴葉の人となりを信頼して。

 

 「気になる?啓輔の過去」

 

 「過去って・・・」

 

 「今の啓輔よりも昔の・・・野球馬鹿だった頃の北沢啓輔」

 

 そう言って、渋谷は考える。

 

 もし、彼女が北沢啓補の過去を知らないのなら

 

 もし、彼女が何も知らないでいるのなら

 

 それなら、その過去を知っている私が彼女に伝えるべきなのではないかと。

 

 「・・・琴葉はさ、何かに絶望したことってある?」

 

 それは、一種の感情。夢破れ、挫折したものが時として感じる負のみのそれ。そんな体験をしたことはあるのかと唐突に問われた田中は驚くものの、渋谷の質問に誠実に返す。

 

 「似たような感情に陥ったことはある・・・と思う。ごめん、断言できる自信がない」

 

 「いいよ、別に。急に尋ねたわけだしむしろ断言されたほうが気持ち悪い」

 

 それでいい、と渋谷は納得した。そもそも人の絶望の感じ方なんてものはそれぞれだ。感じ方の温度差を咎める趣味は渋谷にはなかったし、絶望の度合いが違うことが渋谷のこれから話すことに影響することはない。渋谷がこの話をする上で最も重要視しているのはそれではない。

 渋谷が大事にしているのは、もっと単純な事なのだ。

 

 「体験したってのが大事なんだからさ」

 

 「体験?」

 

 「そう、体験。それに近いものを経験した人間じゃないと、啓補の過去は話せない。だって、経験したこともない人にそれを話したところでまるで響かないから」

 

 渋谷凜という少女は無闇矢鱈に他人の事を話そうとしない。それは、滅多にその機会がないからということもあるが、凜の友人に対する義理堅さもそうさせている。家族のことは勿論、少ない友人に秘密と言われたこと、確証のない話は絶対に口にはしない。『特に』北沢啓補に関しては人を選ぶ。少なくとも啓補は彼女にとって本当の仲間だと思っているから、信じているから。

 そんな彼女が、こんな質問をして琴葉を試すこと自体が、本当に珍しいのだ。

 

 「私だって・・・響くかどうかは分からない」

 

 「なら止める?強制はしないよ。これは私が琴葉に伝えときたいから話すだけの所謂エゴってやつだし。北沢啓補と後々関わっていく中で避けては通れない『過去』を私がアンタに伝えたいだけだから」

 

 聴かないのなら、それでいい。言い方は悪いがこれは聴く意思もない人間に安易に話すべきものでもないから。そう思い琴葉を薄目で見ると、琴葉は俯いて何かを考えているようだった。

 

 「私に、話してもいいの?」

 

 「何となく琴葉なら大丈夫かなって。そう思っただけだよ」

 

 その感覚はいわば直感のようなものである。人となりを知ったとはいえ田中琴葉という人間に深く関わったことがない以上、100パーセントの確証を持つことは出来ない。

 

 けれど、この目の前に立つ女の子がこの話を聞いて何かが変われば。

 

 北沢啓輔を変えられるのではないかと。

 

 その一方で、田中琴葉は北沢啓補の過去を知りたかった。それは、中学での琴葉が知っている啓補と今の琴葉が知り得る啓補とのギャップとの差ががあまりにもあったから。そして、今の啓補をどこか放っておけなかったから。けれど、絶望というキーワード。友達を待たせているという焦燥感。そして安易安直に人の過去を知っていいのかという悩みが琴葉の足を止めていた。その結果琴葉は俯き悩んでいた。

 

 そして、その理由が凜には手に取るように分かっていた。

 

 凜は紙を取り出し、自身の連絡先を記入し琴葉に押し付ける。

 

 「これ、私の連絡先。決心付いたら何時でもかけてきなよ。それから―――」

 

 急な展開に顔を上げて「え、えっ」と慌てている琴葉にニヤリと笑みを浮かべ、凜は一言。

 

 「さっき琴葉は啓補と絡んでいる私を良い意味で飛び抜けてるって言ったけど、そんな啓補と違和感なく軽口を言い合える琴葉も十二分に飛び抜けてるよ。特大ブーメラン、投げちゃったね」

 

 「なっ―――」

 

 今度は顔を赤く染め、狼狽した琴葉を尻目に凜はスポーツ用品店へと歩を進める。

 

 「もっと自信持ちなよ。啓補が碌に人と話さない中で、琴葉とはまともに会話しているんだからさ」

 

 最後に一言。そう言って本当に凜はスポーツ用品店へと向かって行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「琴葉さん」

 

 ふと、後ろから聞こえた声に琴葉は肩を跳ね上げて後ろを振り向く。

 すると、琴葉の目の前に映ったのは啓補や凜と同じ、年相応以上に大人びた印象を持つ女の子がじっと琴葉を見つめていた。

 

 「あ・・・志保か。えっと、ごめん、迎えに来てもらっちゃて」

 

 「構いません、もともと琴葉さんにはお礼を言わなければならない立場なので」

 

 そう言うと、北沢志保はお礼を言うべく頭を軽く下げる。

 

 「兄のプレゼントと、それから荷物も少々持っていただいて本当に助かりました。ありがとうございます」

 

 「そんなにかしこまらなくたっていいよ。乗りかかった船のようなものだし・・・寧ろまともなアドバイスができたかどうか」

 

 頭を下げた志保を諫めつつ、こうして志保と2人でいる琴葉だが実のところは啓補に言われたように彼女は今日に限り『ぼっち』であった。午前中にレッスンを終わらせた後、余裕のできた琴葉であったが取り急ぎ行うような要件もなかった為それとなくデパートで時間を潰していた。

 そんな中、琴葉が通路で見たのは両手に抱えた大量の荷物に悪戦苦闘していた志保だった。そこから成行きで琴葉は志保を手伝うことになったのだが、その過程で琴葉が記憶しているのは兄と弟のプレゼントに対して無表情ながらも目を輝かせていた志保とプレゼントを買い終わった後の満足そうな笑みのみである。

 

 「それにしても沢山買ったね。何時もこうなの?」

 

 何気なく尋ねた琴葉の質問に、志保は思案する。

 

 「何時もはこうじゃないんですけど、今日はクリスマス用の食材とプレゼントを探していたので。こうでもしないと兄がすぐに調子に乗りますから」

 

 調子に乗らせるとはどういう意味だと琴葉は思案するも、それは志保の言葉により意味を理解する。

 

 「あれやこれや今日のうちに支度をしておかないと兄主導で混沌としたクリスマスパーティが始まってしまうので。クリスマスの日位兄には楽をしてもらいます。兄の思い通りには絶対にさせません」

 

 何時もの志保らしからぬ熱意のこもった声に、若干の既視感を感じつつも琴葉はクスリと笑う。兄妹というものはここまで思考が被るものなのか、というか混沌としたクリスマスパーティとは・・・?と内心琴葉が疑心暗鬼になっていると、志保は何時もの冷静さを取り戻す。

 今回、普段は一人でいる志保が成り行きながらも琴葉の厚意に甘えたのにもしっかりとした理由がある。それは兄経由でありながらもアイドルとして働く前から田中琴葉という女の子の人となりを事前に知っていた上で、ファーストコンタクトに細かなミス(志保が一度レッスンに釘付けで琴葉を無視&琴葉のアンパンチ)はあったもののしっかりと会話ができたという過程があるからである。もし、その場に居合わせたのが音痴の女の子や饂飩好きの女の子なら、仮に協力すると言われても頼まず突っぱねていたことだろう。

 

 やがて、出口にさしかかり琴葉と志保の帰宅手段も別の為2人は別れの言葉を言うために向き合う。

 

 「本当に今日はありがとうございました。このお礼は後々返します」

 

 「別に返さなくて良いよ。だって私達仲間でしょ?」

 

 仲間。

 

 その言葉に志保は顔を俯かせ、琴葉に言う。

 

 「・・・琴葉さんがそう思っても、私はそう思ってませんので。それに・・・」

 

 その時、志保は確実に何かを言おうとした。

 それは、何か大事な事を打ち明けるかのような哀愁に満ちた顔付きで。けれど、その言葉は発するまでには至らず喉から出かかった寸前で止め、言い直す。

 

 「すいません、何もないです。兎に角貸しは返させてください。誰かに貸しを作ったままなのは嫌なので」

 

 勢いのまま、そう言った志保はこれ以上の追撃を受けない為に早々に歩いていく。尤も、琴葉にこれ以上志保の決意のような何かに口を挟む気は毛頭なかったのだが。

 

 「さようなら、志保!」

 

 最後にお別れの挨拶を志保に届けるべく大きな声で呼びかけると、志保が振り向き様に頭を下げて、また歩き出す。そんな志保の義理堅さのような何かを垣間見た琴葉はこの短時間のうちに起こった濃密な時間を回想し、改めてその濃密さに大きく息を吐く。

 

 色んな出来事が起きた。志保に出会い、荷物持ちを手伝って、北沢くんに会って、凜ちゃんに出会って、そして志保のプレゼントを一緒に考えた。

 

 その中で偶発的に起きた、啓輔の過去を知るチャンスのような何か。その好機に、琴葉は身を竦めてしまった。

 

 過去は知りたかった。けれど、それを知ろうとした時、琴葉の気持ちを躊躇わせてしまったのは焦燥感、思いとどまり。

 

 そして、これを知った時決定的な何かが変わってしまうような半ば本能的な直感。そして、その直感は知らず知らずのうちに琴葉の心を締め付け、躊躇わせていた。

 

 

 

 

 

 そこまで考えて、琴葉は大きくため息を吐く。

 

 今の琴葉には、決定的なモノが欠けていた。

 

 それは、何時も生真面目で、委員長で、周囲の期待に努力と結果で答えを出してきた琴葉が持っていたもの。そして、『ある日』を境に琴葉が感覚的に身に付けていたもの。

 

 

 

 

 

 田中琴葉には勇気が欠けていた。

 

 啓輔の過去を知る勇気が欠けていた。

 

 自身がやりたいと思える事を躊躇わない勇気が欠けていた。

 

 変化に躊躇わず、突き進む気持ち

 

 

 

 

 

 

 変わる勇気が欠けていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




書いてて今更ですが、要所要所でシリアスを入れてくるスタイルなのでそういった展開が苦手な方はブラバ推奨です。

こんなのシリアスじゃねぇ!!凛すこ!琴葉すこ!妹沢すこ!な方が少しでも増えて頂ければ嬉しいです。

メイド志保、見たい(切実)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それは変わらずには───
第8話 謝るのがステータスになっているのはちょっと駄目な気がする


 

 

 

 

かつて、俺には夢があった。

 

それは、俺にとっては無謀で、無計画で、それでも壮大で希望に満ちた夢。

 

夢があったから野球が楽しかった。

 

夢があったから野球が上手くなった。

 

夢があったから野球が出来たんだ。

 

 

仮にその夢を純粋に追いかけられていたのなら、俺はその夢を叶えることが出来たのだろうか。その先にある幸福へ、俺は進めたのだろうか。

 

それは、今の俺には分からない。

 

『夢が壊れた』俺には、一生知ることが出来ない。

 

 

 

野球は、嫌いだ。

 

野球には、酸いも甘いも含めた沢山の思い出があるから。

 

そして、今では壊れ、崩れた夢を持っていた頃の俺を思い出してしまうから。

 

 

 

何度だって、言ってやる。

 

 

 

『俺は────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日は、驚くべき一言から始まった。

 

 そう言っても、過言ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新年が明けて、2回目の登校日。朝、いつも通りギリギリに起きて、ギリギリで支度して、ギリギリで学校間に合って、ギリギリ田中さんの馬場チョップを回避することに成功したギリギリじゃないと生きていけないらしい俺は、田中に寒い目で見つめられながらも教室の自分の席に着き、ふらふらと悠々自適な時を過ごしていた。

 

 「新年経ってもギリギリの癖は変わらず......か」

 

 田中がそう呟いて、こめかみに手をやる。その様子はまるで出来の悪い子供の対応に困る母のような姿であり、不覚にも自分が情けなくなってしまった。

 とはいえ、多少自分が情けなくなった程度で行動を改めるのならば、とっくのとうに行動は改まっている。

 

 「ははっ、いっその事チャイムと同時に教室に入ってこようか」

 

 ───途端、頬に鈍痛が走る。痛みに悶えながら田中マッマを見ると、田中はニコリと黒い笑顔を見せながら俺の頬に手を伸ばしていた。

 

 「抓るよ?」

 

 「うん、ごめん。調子に乗り過ぎたのは謝るから有言実行やめれ、痛い」

 

 しかも、次第に力が強くなっていくのだからタチが悪い。どうやら、今の田中には遠慮なんてものは持ち合わせてないらしく、俺はひたすら田中の抓り攻撃を耐えていた。

 すると、次第に田中の抓る力は弱まり、手は俺の頬を離れる。そんな田中の様子を見て、やっと解放されたのか、そうなのかと内心コロンビアガッツポーズをして浮かれていると、田中はニヤニヤしている俺の顔を見て、少しばかりのため息を吐いた。

 

 「常に規則正しい生活を送って余裕を持って行動する。そうすれば日常にゆとりを持つことが出来るし、何より健康に良いんだよ?」

 

 「規則正しい生活、か」

 

 「因みに北沢くんは何時も何時に寝てるの?」

 

 「10時」

 

 その瞬間、田中の顔は驚きに包まれる。なんだろう、今日の田中は表情がころころ変わるなあ。その表情ひとつひとつが画になるのは、やっぱり田中が演劇部の部長として演劇に真摯に取り組んでいた故か、と思っていると、田中はその表情のまま続ける。

 

 「......私としてはその時間に寝て何故そんなに惰眠を貪れるのかを聞きたい所なんだけど」

 

 「そりゃあお前、俺を誰だと思ってるんだよ。惰眠マスターのケイスケだぞ?」

 

 「随分マスターになるのが簡単そうな称号だね......」

 

 うっせい真面目マスター。こちとら妹にも何度も何度も寝坊助を叱られているんだ。

 この前なんか遅刻間際でぼーっとベッドでうたた寝していた俺の頬を思いっきり抓ってきたんだぞ。そんな痛い思いをしても寝坊助が治らないってことはそれ即ち、俺の寝坊助&惰眠は一種のステータス......否、俺の天命ってことになってるんだよ。『ちゃんと寝てね☆』っていう神のお告げなんだ。

 

 「......今、本当にどうしようもないこと考えなかった?」

 

 「考えてない」

 

 そして、心を読むのは止めろ。冷や汗かくだろうが。

 

 そう思い、内心田中の読心術に肝を冷やしていると俺と田中の前に言わずとも知れた野球バカが現れ、ドヤ顔で身を乗り出す。迫力あるそのドヤ顔はまさに男前───なんて、またしても頭の中で馬鹿な事を考えていると、今度は読心術なんぞ心得てもいないだろう真正の馬鹿、石崎洋介が俺の肩を掴みながら耳元で叫ぶ。

 

 「球技大会だっ!!」

 

 「耳元で唾を吐きかけるな、気色悪い」

 

 「辛辣!?お、お前心友と書いてズッ友と読む間柄にある俺になんて事を───!?」

 

 「うん、ごめん石崎くん。今のテンションは流石にちょっと......ダメ、かな?」

 

 「田中まで!?酷い!!酷すぎるよっ!現実は......残酷や!」

 

 それを言うならお前が最近ハマりだしてるホラーゲームも随分残酷だと思うけどな。現実を残酷と言ってしまう位ならお前が常日頃からゾンビーズに殺られて『こ......興奮するぜッ!』とかいって授業中や休み時間にこっそりピコピコやってるゲームにも残酷って言ってやってほしいものなのだが。

 後、事ある毎に『嘘だッ!』とか言うの止めろよな。昔やってたゲームを思い出すからさ。

 

 「......ああ、そうだ。確かに球技大会近いよね。そろそろ練習とかするのかな?」

 

 さて、先程から項垂れて地面にのの字を書いている石崎を他所に、思い出したかのようにそう尋ねてきた田中に俺は『知らん』と肩を竦めて溜息を吐き、何処と無く呟く。

 

 「球技大会、か」

 

 かつて、暇を持て余した運動部員がこぞってやる気を出していた例の運動部の運動部による運動部の為の玉遊び。中学生時代は渋々参加していたが、高校生になって初めの球技大会は体調不良を理由に欠席した。無論、今回も体調不良を理由に応援に回る予定である。

 

 「北沢くん、何かやるの?」

 

 「おサボりって競技があるなら是非是非参加したいんだが」

 

 サボりと惰眠なら一等賞を取れる自信があるぞ。

 

 「そんな競技あるわけないでしょう」

 

 「なら出ない。拒否権を行使する───」

 

 「即答───!?」

 

 田中から驚きの声が上がるも、俺はそれを華麗にスルーして石崎を見る。石崎は依然として地面にのの字を書いてぶつぶつ言っている。俺はそんな石崎の坊主頭をペシっと叩き、正気に戻させる。てか、こいつの頭感触いいな。ツルッとしてて気持ちがいいぞ。

 

 「痛ってえな!馬鹿になるだろうが!!」

 

 「お前の場合もう馬鹿だから関係ない。それよりも、分かってるな石崎。今回の球技大会は俺は出ないぞ。体調不良で欠席する未来が見えたからな」

 

 「テメエが勝手に未来を捏造してんだろうが......!」

 

 石崎はわなわなと震えながら俺を見る。やだなあ、そんな熱い眼差しで俺を見ないでくださいよー。そんな目で見られても俺はお前の期待には応えられないぜ?

 

 冗談はともかく、俺は球技大会には出たくないのだ。その為には何をしたらいいのか、それは球技大会を取り締まっている体育委員の石崎に早い内に休養宣言をしてしまう事だ。生憎、我が高校の球技大会種目は団体戦が多い。それ故に1度でも頭数に入れられてしまえば、休んだ後にクラス中から強烈で鮮烈なバッシングが襲うだろう。只でさえメンタルがボロ雑巾の俺にそれはキツイ。絶対にキツイ。

 

 「大体お前だって分かってんだろ!?俺がその手の競技が嫌いなの!腐れ縁さんよォ!」

 

 「知らねえよ!てかお前普通にやればどの種目でもハイレベルにこなせるだろうよ!!なまじ運動神経は良いんだからよ!」

 

 「かーっ!分かってねえなぁこの石像は!上には上がいるんだよ!!それに比べたら俺の運動神経は並より下なの!クソなの!お前の頭と同じでな!!」

 

 「せ、石っ......言いやがったなこの野郎!!」

 

 遂に石崎がこめかみに青筋を立てて俺を見据える。しかし、それがどうした。お前の怒りなんぞ俺は既に分かっているし、見切っている。

 

 「......なあ、石崎。そろそろお前とは決着を付ける必要があると思うんだよ」

 

 「ああ......そうだなぁ。前々からお前のアップルパンチにはうんざりしてたんだ。丁度良い、ここら辺で俺をペシペシ殴っている事がどれ程愚かな行為なのか、身を以て分からせてやんよ」

 

 「......え、待って。何で北沢くんと石崎くんが決着をつける羽目になっているの?」

 

 田中が何やら怪訝な表情でこちらを見るが、そんなことは俺の知ったことではない。今、俺は目の前の石崎を熱い眼差しで見ることで精一杯なのだから。

 そして、何よりアップルパンチにうんざりする奴には負けられない。何故か分からないが、俺の心の中に眠る獅子の魂が今回限定で蘇ったのだ。今ならいける、そんな気がしてならない。

 

 「容赦はしねえ!安心して昇天しろ石崎ィ!!」

 

 「ほざけ!!ろくに運動してねえ奴に俺が負けてたまるかァァァ!!」

 

 2人揃って飛び出し拳を振り構える。俺はそのままストレートを打つために、腰を捻る。対する石崎は独特なステップを刻み、見るも明らかなアッパーを繰り出す為に上体を低くする。

 

 そして、同時に放った拳と言葉は───

 

 「アップルパンチ───ぶふぉ!?」

 

 「熱男ぉぉぉ───へぶしッ!?」

 

 両者相打ちの、手痛い一撃となってしまった。

 

 「みぞ......鳩尾痛い......!」

 

 「畜生......!喉に拳喰らわせんじゃねえよ......!」

 

 目の前には喉を抑えながら悶絶している石崎が、俺を苦し紛れに見つめていた。かくいう俺も鳩尾付近にアッパーカットを喰らった為、かなり痛くて蹲っている。

 石崎の熱男の威力を心底思い知ると同時に、拳に走った確かな感触に浸っていると、突如視線の恐怖を感じる。所謂、鋭い剣の切っ先を向けられているかのような感覚に陥った俺は、恐る恐る後ろを振り向く。すると、そこにはジト目でこちらを見やる委員長、田中が。おのれ、視線を送っていたのはお前か。

 

 「......二人共、何やってるの?」

 

 恐らく、俺の記憶史上最も恐ろしいオーラのような何かを引っ提げ、田中は尋ねる。

 先程まで悶えていた石崎は、田中の表情を見るなり無言で土下座を敢行する。幾ら潔さが大事だと言っても無言で速攻土下座って立場的にどうなん?貴方仮にも野球部キャプテンのリア充ですよね?

 

 ......なんて、場違いな事を頭の中で考えている俺も、内心では土下座しようかなー、なんて考えており、さっきから両手がわなわなと動いている。その動き、まさに変態。自分でもそう感じてしまう醜態に俺は心が痛くなりました。

 

 まあ、結局のところここまで田中さんに言われてしまえば、端的に言って『非』しかない俺達は頭を下げるしかなく───

 

 「......自分マジで調子乗ってました、すいません」

 

 「.....さーせん」

 

 しっかり者の委員長に、俺達は土下座でこの場を切り抜けようと、頭を教室のタイルにくっつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、田中によって強制的に仲直りさせられた俺と石崎は特に蟠りを残すこともなく、最後は清々しい程の握手をすることで、田中の機嫌を戻すことに成功した。

 

 委員長のジト目から逃れる為の方法が握手という何とも言えない攻略法であったが、まあいいだろう。別に石崎と仲直りをした事で何かが大幅に変わる訳でもない。変わるというのなら、それは石崎の『野球やろうぜ!』口撃が緩和されることくらいだろう。

 

 そう、俺の安寧は守られた───石崎に殺られることも無く、田中さんのジト目も元通りになり、今日の授業は殆どが自習。ここから先はまさに独壇場、惰眠し放題の睡眠入りっぱなしモードへ移行できるものだと......現時点までの俺はそう思っていた。

 

 不意に、目が覚める。

 

 時刻は12時、昼食の時間だ。あれから随分と惰眠を貪ってしまっていたらしく、机の上には手付かずの課題と適当に漁っていた大学のパンフレットやら何やらが乱雑に置かれていた。

 

 辺りは自習故にざわざわしている。最近流行りの服やら化粧水やら髪型やらの話だろう。尤も、俺にとってはそんな話は分からない上に興味もないのだが。

 

 ぼんやりとしていた視界が次第に開ける。それと同時に前を向いていた俺が最初に目にするのは必然的に黒板の方となる。それ故に、俺は黒板に書かれていた文字に目を見開き、驚愕することになる。

 それもそのはず、そこには球技大会と大きく黒板に書かれており、バドミントンと書いてある所に大きく俺と田中の名前が記入されていたのだった。

 

 「お、おい......」

 

 俺は、球技大会は不参加でお願いしますと言った筈だよな。果たしてあの野球馬鹿は何をお聞きになりやがってたのでしょうかね?

 というか球技大会がある事すら石崎とのタイマンで忘れてた───てへっ、なんて寝起き早々気持ち悪い事を考えていると、俺が起きた事に気付いたらしい田中が申し訳なさそうな顔で俺の肩をつつく。

 

 「田中......?」

 

 「ごめん、今回の球技大会全員参加って言うの忘れてたって石崎君が」

 

 「おい......石崎それ......!先に言ってよぉ......!!」

 

 不覚だった。

 

 思い返されるのは1年生の時に参加していた体育祭。部活動にも所属していないやる気のない俺は体育祭のありとあらゆる競技に難癖を付けて、参加することを拒否した。

 全員参加が求められていなかった1年生の球技大会では、拒否する俺に種目選択を強制する輩はいなかった為、俺は何の競技に参加することもなく、悠々自適に時を過ごすことが出来ていたのだ。

 そして、今回の球技大会も悠々自適な時を過ごせるのだと錯覚していた───

 

 「仕方ないでしょう。北沢くん、全員参加なんて初めから言ったら適当に個人競技選んで適当に不戦敗するだろうし」

 

 「流石田中、俺のやらんとしていることがパーペキに分かってらっしゃる!」

 

 「北沢くんが分かりやすいだけだよ......」

 

 失礼だな。まあ、俺が分かりやすいとか言われてんのは事実だし、色んな奴から言われてるから別にいいけどさ。

 

 「それにしたってバドミントンとは......しかも田中とって......」

 

 「む......何か失礼だよそれ」

 

 「そういう訳じゃないって。折角の楽しい球技大会をお前は俺『なんか』と同じ競技で過ごしてて良いのかって言ってるの」

 

 大体、クラスで人気者の田中なら頼まなくても他の女子やら男子やらと球技が出来るだろうて。

 そんな至高の時間を俺のような不良生徒と一緒にバドミントンして時間を潰して良いのか。

 そのような意味を持った言葉を発すると、田中が何故かジト目で俺を見返す。あ、やめてください。その瞳は俺のメンタルに響く。

 

 「北沢くんは自分をなんだと思ってるの?」

 

 「不良生徒」

 

 「即答......まあ、北沢くんらしいけど」

 

 「というのは建前で、実際の俺はシスコンブラコン変態お兄ちゃんなのだよ!」

 

 「うん、確かに妹にジョルトカウンターされたのを自慢する北沢くんは変態だね......って、そうじゃなくてっ」

 

 失礼な言葉を発しかけた田中はその言葉を1度区切り、俺の目を見つめる。その眉目秀麗な顔付きは、若干の怒りと、悲しみをミックスさせたよくわからない顔付きだった。

 

 「北沢くんは、確かに不良生徒だよ。遅刻はするし、偶に失礼なこと言うし、直ぐにサボろうとするし......うん、それに関してはもうフォロー出来ないくらいに不良生徒やってると思う」

 

 「お前は俺を貶したいのか?それとも罵りたいのか?」

 

 「多分罵りたいのかも」

 

 「見事に喧嘩吹っかけやがったな、よし表出ろ田中」

 

 俺がそう言って立ち上がろうとするも、それは田中さんの頬を抓る攻撃により阻止される。というか田中さん無視するとかやだもうこの子酷すぎる───

 なんて、考えていると抓られていた頬を開放された後、田中が俺を真剣な目で見つめ、一言───

 

 「だけど、私にとってそんなレッテルは北沢くんを忌み嫌う原因にはならない。私は、私が北沢くんと球技大会をやりたいから一緒にバドミントンをするんだよ」

 

 そう言って、ニコリと笑う田中さん。その一方で、俺は目の前の女の子の思わぬ言葉に驚き、目を見開いてしまった。

 俺は迂闊だったのだ。田中がそこまで考えてくれていたにも関わらず自分を勝手に卑下して、折角の誘いを有耶無耶にして断ろうとした。今、自分の目の前で起きていることを認識できていない証拠だ。結局物事というのはなるようにしかならない。今自分が何を要求されているのか、それを考え、出来ることなら流されていく。それこそが今の現代人がストレスやら重い何かを提げない秘訣なのだ。

 ならば、北沢よ。お前がやらねばならないことはなんだと自問し、今までの自分の行動を詫びようと頭を下げる。

 

 「.....まあ、何だ。そこまで考えてくれていたのに俺『なんかと』なんて言うのは失礼だったな。すまん」

 

 「別にいいよ。北沢くんがそういう人だってこと、分かってるから」

 

 「ああ......お前の中で俺は随分と失礼な評価をされている節があるけどな」

 

 「失礼な、ちゃんといい所も知ってるよ」

 

 ほう。

 

 なら、何処が良いのか当ててもらおうではないか。尤も俺の良いところなんて俺自身分かっていないのが本音なのだが。

 

 「例えば?」

 

 俺が、皮肉るようにそう尋ねる。すると、田中はあっけからんとした表情で俺を見て一言───

 

 「マザコンな所とか」

 

 「よっしゃ表出ろ真面目カチューシャ」

 

 

 

 このあと無茶苦茶口喧嘩した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 球技大会───以前の俺にとっては縁もやる気の欠片もないイベントだった筈なのだが、頭数に入れられてしまった以上、人様に迷惑をかけることを望まない俺はやはり球技大会に参加せざるを得ないのだろう。

 

 競技内容はバドミントン。はっきり言おう、俺にとっては縁もゆかりも無いスポーツだ。似たような競技でバレーとテニスをやったことはあるが何方も上手くいかず、ピンとこなかった為にテキトーに不真面目にこなしていた。てか、野球以外の競技のルール真面目に分からない。バスケの人数は何人だっけ、11人だったか?確か、サッカーが5人でやるんだったか?

 まあ、そんな状態の俺がバドミントンなんてもののルールを知っているわけないし、そもそも球技大会なんて遊びだし別にそこまでマジにならなくてもいいんじゃねー?なんて、最初はそう思っていた。

 

 

 

 もう一度言おう。

 

 

 

 「最初はそう思っていた......!」

 

 「急にどうしたの......?」

 

 おっと、心の声が出てしまったみたいだ。いけないいけない。心の中で留めておくものは留めておかないと俺の周りが周りなだけに幾ら命があっても足りない。

 

 閑話休題───

 

 「......もう一度、言ってみようか」

 

 先程まで、考え事に耽っていた俺は改めて田中を見据える。彼女の目は、まさに真剣(マジ)。恋は出来ないよー......なんてネタにすらならないであろうネタを頭の中で考えていると、田中は先程と同じように一言。

 

 「練習しよう」

 

 「俺が素直に練習するとでも思ってんのか?」

 

 もし、仮にそう思っているのだとしたら俺は田中の頭の中身をリセットさせてやらなければならない。果たして田中が俺のスポーツに対する姿勢をどう感じているのかは甚だ疑問だが、少なくとも俺はスポーツに熱意やら熱情やら情欲やらを感じる程清々しくない。

 寧ろ、1周回ってサボることに熱意を持っているまである。

 

 「大体、どの時間に球技大会の自主練習をするんだ?体育の時間は球技大会の練習に使ってもいいらしいけど、絶対お前体育の時間以外も練習しようとしてんだろ」

 

 俺が、田中の言っていた自主練習とやらに疑問を呈すると、田中はあっけからんとした表情で頷く。

 

 「まあ、それはそうだけど」

 

 「......やめとけやめとけ。てかお前アイドルだろ。球技大会に気合を入れすぎて怪我とかしたらどうするんだよ。時間を無作為に治療とリハビリに費やすことになるんだぞ?」

 

 「......そんな事言って。実は自分が1番休みたい癖に」

 

 「バレた?」

 

 「バレるよ!」

 

 田中はおちゃらけた調子でそう言った俺を一喝し、俺に詰めてかかった。その動き、まさに疾風の如く。俺が気付いた時には、田中は既に俺を見上げじっと睨みつけていた。

 

 「常に目先の勝利に全力で戦っていく......確かに北沢くんの性格からしてそんな事するのは難しいんだと思うけど、折角の球技大会なんだから勝ちに行こうよ!」

 

 「あのな、別に俺戦いとか求めてもいないし敵を踏み潰すような趣味も持ち合わせてないの!分かったらその可愛い顔をこちらに寄せて来るな!怒っているのは分かるが詰めてかかるな!周りの視線が痛いんだよ!!」

 

 現に、周りがざわついているのを田中は理解した方が良い。ただでさえ球技大会とか面倒事が目白押しなのに、根も葉もない噂とかが出来上がってしまった日には俺はもうストレスマッハで死んでしまう。

 

 やがて、周りの視線に気が付いた田中は辺りを見渡した後、コホンと咳払いをして若干赤く染まった顔を俺に見せる。表情が幾らか緩和している所からして、冷静にはなれたようだ。いいね、やっぱり人間COOLにならないとね!間違ってもKOOLにはなっちゃダメだからね!

 

 「......本当に、ダメかな?」

 

 その表情を見て、俺は少し後ろ髪を引かれる思いになる。一応、警告はしたつもりだ。それでもやると言っているのならば、俺は付いていくべきなのだろうしやらなければならないのだろう。折角誘ってくれたのだ、寧ろやらなければいけないだろう。

 

 「......んー」

 

 なら、折衷案で行こう。そう思った俺は田中を見てひとつの提案をする。

 

 「プレゼンをしてみてくれ」

 

 「え」

 

 「知ってんだろ?こう......俺が球技大会の練習をやって得があると思える何かを俺に言ってみてくれよ。その結果『おっ』て思えるものがひとつでもあったら俺は本気でバドミントンやるよ。約束だ」

 

 「......本当?」

 

 「ああ、嘘は吐かないよ」

 

 正直、『ラブアンドピース』とか抜かしてこの場を凌ぎたいのが本音なのだがそれを言った暁には周りに変な目で見られるだろうし、何より面倒だ。そして、球技大会の練習をやることで俺に何か得があるのだとしたら、それほど俺にとって喜ばしいことは無いのだ。

 

 故に、先ずは話を聞こう。その後でやるか否かを決めれば良いじゃないかと頭の中で自問自答して田中の話に耳を傾けるべく、席に着き田中の言葉を待つ。

 

 鳥の鳴き音を耳をすまして聞いて時間を潰す。やがて、考える素振りを見せていた田中が意を決したかのようにこちらを見るのを確認すると、俺は少し口角が上がる感覚を得る。

 

 「......北沢くん」

 

 「おう」

 

 「北沢くんは、誰かに応援されたことってある?」

 

 「あるな」

 

 かつて、俺が野球をやっていた頃に家族が応援してくれてたな。尤も、それも小学生が終わる頃には各々の事情があったことで家族が応援に来れなくなり、その感覚は薄れてきているのだが。

 

 「誰かに応援されるって本当に気持ちいいことだと思うんだ。プレー中、厳しい時に後一歩踏み込めれば、後一歩手が出れば。そんな時に応援されると......勇気が出る」

 

 「実体験か?」

 

 「うん」

 

 なら、信用に値するな。誰かの実体験ってやっぱり大事で、そういった話を踏まえるからこそ励ましの言葉やアドバイスに現実味を帯びてくる。苦しみを知らない人のアドバイスよりも、苦しみを知っている人物のアドバイスの方が俺は好きだ。

 

 「私はその1歩で助けられたことがあるから。そして、そんな応援を貰って......その上で勝ちたい」

 

 「だから、最善の努力をしたいと」

 

 「......それが、『私の最善』だから。北沢くんと練習して、万全を期して試合に臨みたいって、私自身がそう思っているから。もし、仮に練習を積み重ねて臨んで、その上で応援されて勝てたのなら......これ程嬉しいことってないと思わない?」

 

 成程、ね。

 

 流石田中と言ったところだ。なんでもそつなくこなせる故に即興のプレゼンも上手い。人を乗せるのも上手だし、事実俺は田中のプレゼンに乗せられそうになっていた。

 

 「......ダメ、かな?」

 

 そして、自信なさげに上目遣いだ。こんなの、即断で断れるわけがなかろう。仮にここで練習を断ったらどうなる?精々クラス中から非難の目付きとバッシング。そして、石崎の援護射撃が俺の心を蝕むことであろう。

 毎度、毎度田中と石崎が絡むことになるとろくなことにならない。バイトの件で誤解され、喧嘩の原因は殆どが石崎の情報漏洩。そして、今回の球技大会の件。本当に、タッグでも組んでるのかってぐらい俺に悩みと怒りとチョップをプレゼントしてくれる。

 兎に角、周りの視線が痛い。その視線に逃げるかの如く、俺は苦笑い───

 

 「田中の言わんとしていることは分かった。この件は家でよく考えて......明日には結論を出す。絶対だ」

 

 時間もないしな、今回ばかりはまともに期限を守らないと、球技大会をやること自体が有耶無耶になって、中途半端な精神のまま中途半端な結末を迎えることになる。

 俺は、ハッピーエンドやバッドエンドというはっきりした展開は好きだが、ノーマルエンドみたいな含みを持たせる展開は大嫌いなんだ。

 

 「......本当に?」

 

 「信じないならそれでいい。俺が明日になったら結論を田中に言うまでだからな」

 

 俺がそう言うと、終業のチャイムが鳴り響き部活動へ行く輩、帰る輩、駄弁る輩とそれぞれの行為に勤しむ為に帰り支度を始める。

 田中は......事務所に行く輩。俺は直帰の輩に分類される故に、自然と帰りも別々になる。

 

 「じゃ、明日な」

 

 俺が先に支度を済ませ、帰ろうとドアに手をかける。すると、ボソリと田中のつぶやく声が聞こえる────

 

 「......優柔不断」

 

 放っとけ。




どうでも良い設定

北沢啓輔
テレビ中継があれば、野球は観る。密かに妹が始球式をやらないのかと期待している。好きな言葉は『秋の風物詩』。

石崎洋介
根っからの野球好き。好きなチームは福岡の球団。嫌いなチームはキャッツ。
理由は大好きな選手がFAでキャッツに移籍したから。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話 BURNING UP!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「冗談でしょう」

 

 

 

 

 最愛の妹にそう言われた俺は苦笑いのような何かを禁じ得ずにはいられなかった。

 

 自分でも分かっている。まさか俺が、あの委員長とバドミントンをやるなんて思いもしなかったのだから。大体混合ダブルスとか何だし。何で俺が混合ダブルスやらなきゃならないんだし。

 

 「まあ、何はともあれバドミントンをやらなきゃいけなくなった。しかも田中が目指しているのは優勝だ。参ったな、俺はテキトーにバドミントンをやってればいいと思ってたのに田中さんまさかのガチ勢だよ」

 

 「......琴葉さんは真面目な人だから。大体、クラスメイトなんだからその程度の事兄さんは織り込み済みでしょう?」

 

 洗い物を終わらせた志保は台所から顔を覗かせて呆れた顔つきで俺を見る。果たしてその顔付きがどういう意味を孕んでいるのやら、俺には分からない。

 

 「まあ、そうなんだけどな」

 

 「だったら今更うじうじ考えるような事をしない。何時も短絡的で直情的な兄さんらしくないわよ」

 

 「遠回しに俺をディスりにかかるの、止めろよな」

 

 

 志保が台所の仕事を終え、麦茶の入った2つのコップを持って向かい側の椅子に腰掛ける。どうやら、俺の分のお茶を用意してきてくれたらしい。

 

 「悪い」

 

 「りっくんを寝付かせてくれたお礼」

 

 「何時もやってる事だろうよ」

 

 肩を竦めてそう言うと、志保も俺と同じく肩を竦めて自嘲気味に笑う。

 

 「当たり前の事を当たり前のようにしてくれる。そんな兄さんに偶には妹の気遣いがあっても良いと思ったの」

 

 「俺は何時も志保の気遣いに助けられてるぞ」

 

 「嘘よ、私最近兄さんにガゼルパンチを放った記憶しかないわ。それで助けられているって言うのなら兄さんは真正のドMよ」

 

 「サラッと俺がドMになっているかのように言うの止めろよな......!?ほら、最近肩とか叩いてくれたりしたじゃないか。それは気遣いにカウントされないのか?」

 

 「あれは......一種の手段だったから。それに、兄さんの肩を叩くなんて久しぶりで加減も分からなかったわ」

 

 ああ、そうだったな。確かに志保が俺に肩のマッサージをしたのには言いたいことがあったからというれっきとした目的があったからこそだったよな。

 だからといってその目的を達成する為の手段が肩のマッサージとかやだもうこの妹可愛すぎでしょとか色々言いたいことはあるんだけど、それを言うのは野暮ってやつだな。

 

 「それでも俺は嬉しかったがな」

 

 「......話は変わるけど、兄さん」

 

 照れたなこいつ。耳を赤く染めやがって、バレてないとでも思ったのかよ可愛いなぁ......

 

 そう思った瞬間、右足に確かなやわっこい感触が当たるのと同時に激痛が走る。

 

 「痛ぁい!?」

 

 「話が変わると言ったでしょうこの駄目兄貴。頭の中で変な妄想なんてしてないで私の話を聞いて?」

 

 「いやお前それほぼ『聞け』ってのと同義だろ!?」

 

 現に今、俺がこう言っている最中にもグリグリグリグリ俺の足を痛めつけている志保が聞く耳を持つ筈がない。なまじ俺の急所のような何かを心得ている志保は口も腕っ節も達者な女の子になってしまったのだ。お兄ちゃん、そういう風にシッホを育てたつもりないんだけどな。

 

 「と、兎に角お兄ちゃんは志保がグリグリ足を痛めつける限り人の話なんて聞かない───」

 

 「聴け、耳を傾けなさい」

 

 「ああっ!この子遂に躊躇いもなく言っちゃったよ!しかも笑顔で!!」

 

 「喧しい。りっくんが起きたらどうするの」

 

 「ぐ......志保、お前本当に良い性格になりましたよね」

 

 まさかりっくんを盾に使うなんて......そう考えた俺が、苦し紛れにそう言うと志保は俺を見て溜息を吐いて苦い笑いをこちらに向ける。

 

 「幼い少女にガゼルパンチ、肝臓打ちからのデンプシーロールを会得させたのは何処の誰?」

 

 「俺ですねごめんなさい」

 

 昔、喧嘩とか事件とかに巻き込まれた時の護身術とか抜かして遊び半分でボクシングマンガの技を覚えさせたのが元凶だったのだ。あれからの志保はというものの俺に対して容赦のないパンチを繰り出すようになってしまった。因みに1番効いたのは本気で怒った志保のよそ見からの放置プレイ。あれはシスコンの俺にとってはどんな拳よりもキツかった。

 

 「......それよりも、兄さん。琴葉さんとバドミントンをするなら、せめて1日だけでもいいから真面目に、真摯にバドミントンと向き合いなさい。じゃないと琴葉さんは怒るわよ」

 

 「えー......」

 

 「えーもへーもないわよ。誘ってくれて、それを了承したのならその人の考えにしっかり付いていく......人としてのマナーよ。兄さんより年下の女の子だって実行しているのよ?」

 

 まあ、そりゃあそうだな。

 

 折角誘ってくれたのにそれを無碍にするのは良くないと思って、田中の誘いを了承したのに、それで適当なプレイをしたら本末転倒だよな。

 志保の言いたいことは、そりゃあ分かるよ。

 

 「だがな、俺はバドミントンのセンスなんかないし意図せずとも田中の足を引っ張る事になるかもしれんのだぞ?」

 

 「真摯に行うことと技術的なものはまた違うのよ。そうね、例えるなら......下手でも最後まで付いてくる人間と、上手くても高慢で適当な人間、兄さんならどちらとバドミントンの練習したい?」

 

 「......下手なほうかな?」

 

 「そう、じゃあ兄さんは自分が人にやられて嫌な事を率先して行う畜生だったのね。私、そんな兄さん嫌いよ」

 

 「な───!?」

 

 「......あくまでそうなったらって話よ。いちいち大袈裟ね......」

 

 そう言うと志保は、席を立ちリビングを出ようと歩き出す。その後ろ姿は以前にも増して頼もしく見えて、俺は思わずその後ろ姿に声をかけてしまった。

 

 「ありがとな、志保」

 

 「琴葉さんが球技大会なんかでモチベーションやら諸々を落としたら事務所に迷惑がかかるから。くれぐれも馬鹿な真似とか、血迷った行為をしないように」

 

 そう告げて、志保は自室へと向かいその姿を消して行った。馬鹿な真似とか血迷った行為の心配をされている辺り、志保の中で俺がどんな立ち位置になっているのかと突っ込みたい所ではあるのだが、石崎曰く細かいことを気にしているとモテないらしい。それ故に、俺は先程までの考えを頭の隅に追いやり、明かりのついた天井を見上げる。

 

 

 

 今、その部屋には俺しかいない。母さんとりっくんは眠り、志保も自室へ篭った。

 故に、静寂───リビングには俺の呼吸音しか聞こえない。この状態なら、考え事をするのにはお誂え向きだろう。

 

 今、俺は田中とバドミントンでタッグを組む約束をしている。そして、やるからには勝ちたいと田中さんは仰った。誘われた側の俺は田中さんの言うことには逆らえない。『ラブ・アンド・ピース』なんて以ての外だ、死に晒せ。

 

 この状況を乗り越える為に必要なもの。それはシッホ曰く真摯に向き合う事、そして人にやられて嫌な事を他人にしない事らしい。

 俺は、基本的に嫌な事というものは野球以外にはないのだが、強いて言うなら調子に乗っている奴は嫌いだし、自らを誇示する人間も嫌いっちゃ嫌いだ。

 

 だからこそ、俺は先ずはバドミントンをしている間は高慢、卑屈、誇示はせずにひたすら田中に付いていく必要がある。でなきゃ志保に嫌われる。妹に嫌われるのは絶対に嫌だ。それこそ自宅の押し入れでおいおい泣き喚く。

 

 それから、後は田中の足を引っ張らないようにしたい。こう見えて田中はなんでもそつなくこなす事が出来る故に、バドミントンも人並みには上手い。

 片や俺はと言うと野球以外はポンコツの運動神経を誇る人間であり、テニスとかなんかは壁打ちでも空振りする程のセンスの悪さである。

 

 それでも、まあ、頑張ればなんとかなる筈だ。某サッカーアニメの主人公だって『何とかなるさっ!』とか言ってドリブルでそよ風を巻き起こして背中周辺からオーラぶちまけてたらいつの間にか全国制覇だ。俺だって、頑張れば、何とかなる。うん、2次元と現実はまた違ってくるけどそう思っとこう。じゃないとやってらんねえ。

 

 「よし」

 

 決意は固まった。天井のシミを数えてたら、目が疲れてきたので、俺もそろそろ自室で睡眠を取るとしよう。

 うつらうつらとしつつ、自室へ向かう。すると、俺の目の前に人影が。

 

 「お、陸......どしたの?」

 

 何だか心配そうな顔付きでこちらを見るもんだから気になって尋ねてみると、陸は依然として心配そうな顔を俺に向けて一言。

 

 「しんぱいだよ、お兄ちゃん」

 

 「なして?」

 

 「こんな時間なのにお姉ちゃんと何か話してたから......お兄ちゃん、お姉ちゃんに怒られてたんじゃないのかなって......」

 

 おー......

 

 弟にまで心配される長男って果たしてどうなんだろうな。というか、別に志保には怒られてないし......いらん心配をかけてしまったらしいな。反省、反省。

 

 「んー、別にお姉ちゃんに怒られていた訳じゃないぞ?ただ、相談事に乗って貰ってただけだよ」

 

 「......本当?」

 

 「ああ、本当だ!だから心配すんなよー可愛いなぁ!」

 

 陸を抱っこしてニコリと笑う。すると、陸もニコリと笑い......昔の志保と同じような顔ではしゃいでいた。

 守りたい、この笑顔───なんて言葉にしたら何処かの誰かさんに馬鹿にされるのだろうが、今の陸の笑顔にはそれくらいの価値があったのだ。

 

 「よし!元気になった!丁度良いから志保の誕生日にやるイタズラ考えようぜ!」

 

 「い、イタズラ!?お兄ちゃんそれはダメだよ!」

 

 俺を注意したりっくんが何やら顔を青ざめさせているのだが、そんな事はお構い無しに俺はりっくんを説得しようとする。

 

 「良いんだよ、プレゼントと一緒に渡すんだから......大体な、こういうおめでたいことってのはサプライズみたいなのが付き物なんだよ。最近志保俺がサンタさんの格好しても驚くどころか呆れた視線を送るんだぜ!?ここは1発志保が滅茶苦茶驚くような事をして、とんでもないプレゼントを────────

 

 

 

 

 

 

 ......なーんて事は冗談だからさ志保さん。拳をふらふらさせて臨戦態勢でこっち睨むのやめて?」

 

 「ノックアウトさせてあげるから直りなさい馬鹿兄貴」

 

 青い顔をしているりっくんを尻目にいつの間にか現れた志保の、恐らく何倍もの力強さを孕んだパンチが俺の肩を貫き、悶絶───なんでこの子肩パンこんな上手いの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、俺がやらなければならない事というのはしっかりと今起こっている現実から目を背けることなく、バドミントンと田中に対して真摯にならなければならないということだった。

 

 まあ、俺が真摯とか普段寝坊助不真面目不勤勉な不良生徒が何言ってんだぷぎゃーワロスとか自分で自分を笑いたくなるが、これをやらなければ志保に嫌われてしまうのだ。偶には真面目にスポーツやってもいいだろう。普段筋トレしかしてないから、気分転換にもなるかもしれんし。

 

 「......と、いうわけであってだな。さっきネットでバドミントンについて色々調べてみたんだけど」

 

 「先ずは色々突っ込ませて北沢くん」

 

 田中が何やら頭を抱えて俺を見る。その表情はまさに困惑。はて、俺が何かやったのか。それとも田中の調子が悪いのか。

 

 「どうしたんだ?」

 

 「まずひとつ。その大量のマンガはなに?」

 

 「ああ、これはは○バドだな。先ずはルールから覚えようと思って。これ結構バドミントンのルールとか書いてあって面白いよ?」

 

 逆転のクロスカット───とマンガには載っていないアニメの方の技の名前を言いながら嬉嬉としてカットの打ち方を真似ると田中はその漫画を取り上げ、何処から取り出したか分からない養生テープで縛り付けてしまった。

 

 「は○バドォ!?」

 

 普段使わない金をはたいて購入した故に愛着の湧きつつあった漫画を取り上げられたことに対し思わず叫び声を上げるも、田中は取り合わず無機質な声を続ける。

 

 「2つ目。その大量のワックスでセットされた髪型はなに?」

 

 「いやさ、先ずは見た目から入ろうと思ってさ。漫画のコーチの真似してみた。流石にパツキンはダメだし、黒髪故に不完全燃焼で終わったんだけどな」

 

 「じゃあ、最後。そのハチマキは?」

 

 「修造」

 

 「競技が間違ってる事に関して突っ込めば良いのかどっちなのか教えて」

 

 いや、それよりも先ずは整髪料を溶かせ。とものっそい笑顔で至極当たり前の事を言ってのけた田中。それを見た俺は苦笑いで一言。

 

 「やる気が空回りしてしまった」

 

 「やる気の方向性がブレてるんだよそれ」

 

 田中が溜息を吐いて苦い顔を俺に向ける。しかし、その表情は何時もの俺を叱るそれではなく、若干の微笑みも見受けられる。

 

 「......兎に角、ワックスは球技大会の練習までに溶かして、ハチマキは付けない。分かった?」

 

 マジか。

 

 事前学習からの事前準備をしてきた俺の誠意はどうなるんだ。と内心田中を恨めしく思うものの、今回の俺は田中に逆らうことは出来ない。仕方なく、俺は両手を上げて、全面降伏の意思を告げる。

 

 「......分かったよ」

 

 「なら良し......それと」

 

 そう言うと、田中は少しだけ悩む素振りを見せた後俺を見据え、胸の前で握りこぶしを作る。

 

 「......バドミントン、頑張ろ」

 

 「何時になく真剣ですね、田中さん怖い」

 

 「私は何時だって真剣だよ。特に勝負事においては......負けず嫌いだから」

 

 

 

 

 勝負師の顔なんて、何時ぶりに見ただろうか。

 

 そう思ってしまう程、田中の顔は本気と書いてマジというくらいに熱意と熱情に満ち溢れていた。灼熱のような覇気が田中琴葉という少女を纏い、辺りを彷徨い歩いていれば火が移ってしまいそう。

 

 ただ、今回だけは。田中の覇気に触発されてもいいのではないのかと、俺は何となくそう思ってしまった。それが、どういう過程でそう思ったのかは分からない。

 

 ただひとつはっきりとしているのは。

 

 

 「......負けず嫌いなのは、俺だって同じだよ」

 

 

 

 俺は今、どうしようもなくバドミントンをしたいと思ってしまっている事だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お、お前ら......まさかここまでとは」

 

 男は、困惑した。

 

 それは、2人の熱意に溢れた混合ダブルスペアが、球技大会の練習中、阿吽の呼吸で何度も何度も頭をぶつけてるから。

 

 男は、顔をひくつかせた。

 

 それは、灼熱のような覇気が先程とは打って変わって沈静化してしまったから。

 

 「......天才」

 

 ここまで来れば、最早神に選ばれた者達だと男───石崎はある種の達観に至る。まさか───

 

 「同じコースの球を追っかけて同じところにたんこぶ出来るとか何処の息ピッタリペアだよもうお前ら爆発しろ」

 

 石崎は、ため息混じりにそう言う。その声を───先程から心に秘めときゃいいナレーションのような何かをぶつくさぶつくさ言っているのを倒れ込んだ状態でバッチリ聞いていた俺は同じく頭をさすっている田中を見て、取り敢えず謝る。

 

 「すまん、田中。立てるか?」

 

 「う......うん、大丈夫」

 

 良かった。頭のダメージって結構気を遣わないといけないからな。え?石崎の坊主頭を叩いたのはどうなんだって?はっは、忘れとけ。

 

 「それにしてもお前達......特に啓輔は癖が強すぎるだろ。何だよ両利きって。それとお前がさっきからやろうとしているあれ......何だよ」

 

 「クロスカット」

 

 「技術を付けて出直してこい。今のお前じゃどれだけの運動神経があっても無理だよ......てか、漫画の見すぎだ」

 

 図星を言われた。

 

 「田中も田中で......なんつーか、気合が空回りしてんだよな。二人とも、思う所は同じなのに考えていることは同じじゃないっつーか......」

 

 そう言い淀むと、石崎は頭をぽりぽりかいて、俺達に大きな声で問いかける。

 

 「お前ら!勝ちたいか!?」

 

 「うん」

 

 「そりゃあもう」

 

 二人とも勝ちたいという想いは変わらないだろう。田中は当然のこと勝つ気でいるし、俺は田中についていくということが確定しているし、やるからには勝ちたいし。

 

 それ故に、田中に続く形で同意すると石崎が再び質問を俺達に送る。

 

 「じゃあどういう風に勝ちたい!?」

 

 「圧倒的に」

 

 「とにかく勝つ」

 

 「そこだよッ!!」

 

 石崎が俺と田中にツッコミを入れる。おかしいな、そんな俺達おかしいこと言ったか?

 

 「お前ら勝つためのやる気は滅茶苦茶あるのにそこに行き着くまでのプロセスがないから空回りしてミスを連発してんだよ。折角勝ちたいって気持ちは同じなんだから作戦くらいは立ててからラリーの練習をしろ!」

 

 ふむ。

 

 確かに作戦を立てることは大切だな。かの有名な武将にも有名な軍師さんがいてこそ、幾度の戦にも勝利を収めることが出来たのだ。

 立派な作戦無くして勝利はない。完全勝利───バベルの頂上に射す太陽の光を浴びる為にも、俺達は練習に向けていた熱意を少しでも作戦立案に費やすべきなのだろう。

 

 「で、作戦って具体的にどーすんの。あれか、キツツキ戦法か」

 

 「どう挟み撃ちにするってんだよ......てか、最善の策を考えるのもペアの仕事だろ。そんなもん2人で考えろ」

 

 そう言うと、石崎は校庭へと歩き出す。

 

 「じゃあな、これから俺はバスケの練習で忙しいんでな。後は2人で仲良くやってろ」

 

 去り際の後ろ姿が、曲がり角を曲がったことにより消えてなくなるとぽつりと田中が呟く。

 

 「......作戦、か」

 

 「まあ、急に細かい作戦とか用意してもできっこないし、簡単な......そう、お約束事みたいなやつだな」

 

 例えば、こっからここまで渡っちゃいけないみたいな。決まり事のひとつやふたつなら俺だって何とか覚えることが出来るだろうし。

 俺に技術がない以上、ダブルスの力や技術力は数段落ちてしまう。ならば、せめて連携面や頭を使う事くらいは他に勝っておきたいところだ。

 

 「お約束......か」

 

 「どうだ?例えば......そうだな」

 

 俺は田中から1歩離れ、離れたことにより出来た間を指さし、境界線のような何かを作る。

 

 「こっから右は、俺がやる。だからその左はお前がやれ、みたいな?」

 

 「......ああ、成程。つまりコースの役割分担をするという事か」

 

 「そそ、そういうこと」

 

 そうすれば、俺と田中が同じコースを狙って打とうとすることで懸念される衝突も幾らか緩和される筈だ。死角から突然やってくる痛みより痛いものはないからな。俺だって、急にボールが死角から飛んできて頭にぶつかったりしたら嫌だし、辛い。

 

 「......真ん中に来たのは誰が叩くの?」

 

 それは......うん、ほら。あれだよ。

 

 「1番近い奴が叩く」

 

 「また衝突するよ!!」

 

 田中は最後の最後でアバウトな考えに至ってしまった俺にツッコミを入れる。仕方ないだろ、誰だって完璧な考えを1発で出来るやつなんていないんだからさ。

 

 「大体、試合中はかなりのスピードでシャトルが動くんだからいちいち北沢くんの位置まで見れないし......無理があるよ、それ」

 

 「ならどうすんだよ。言っておくが、これ以上俺には引き出しはないからな。精々後は位置を変えろとかそれぐらいしか───」

 

 俺がそう捲し立てるように言いかけると、顎に手を添えて考えていた田中が不意に顔を上げて目を見開く。

 

 「それだよっ!」

 

 「......は?」

 

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

 

 「前衛と後衛に分けて、中途半端なシャトルが飛んできたら前衛がしゃがんで後衛が───」

 

 「そいつの頭ごと撃ち抜くと」

 

 「どうしてそうなるの......?」

 

 だってそんなイメージしか湧かないんだから仕方がない。

 

 「じゃあ、お前が後衛やってくれよ。俺が前衛で鋭いシャトルとかネット前に落ちるシャトルは対応するから。んで、中途半端なシャトルが来たらお前はしゃがんだ俺の頭ごと全力スマッシュを撃ち込んでくれ。俺はその尽くを耐え抜いて見せるからよ」

 

 「......北沢くんって、本当に性格悪い時があるよね」

 

 「うるさいよ」

 

 こちとら痛いことをされるのには慣れているんだ。大体加減しつつも何時ものようにチョップを敢行したり抓ったりして俺を痛めつけているんだから、今更ラケットで頭を撃ち抜かれようが大したことは無い。その程度でやられているのなら、俺は既に石崎の『熱男』でくたばっている。

 

 「......あ、それともなに。俺の頭をラケットで撃ち抜くのが怖いの?やだもう!何時もチョップ容赦なく打ってる田中さんらしくないじゃん!」

 

 田中さんマジテラワロスー......と舌を出しながら煽っていると、田中は何時もらしからぬ引きつった笑みで俺を見る。

 

 と、そんな表情も束の間。ため息をひとつ吐いて空気をリセットした田中は俺を見て、ラケットを思い切り振り抜く。

 オーバーハンドストロークからなされる思い切りの良いスマッシュは、俺の顔面付近を通り髪の毛にラケットが掠る......そんな感覚がした。

 

 「......本当は人に向けて振り抜いちゃ駄目なんだけど......言質は取ったからね、北沢くん」

 

 冷たい声がかかり、俺の身体は自然と硬直する。別に、これから俺が田中のスマッシュやらドライブの餌食になろうが恐ろしくもなんともないし、それこそさっき言ったように慣れている。伊達に渋谷のコークスクリューブローやら、志保のガゼルパンチをくらっている訳では無いのだから。

 

 では、何が俺の身体を硬直させ、何が現在進行形で俺を恐怖という感情に陥れているのか。それは、勿論田中の冷たい視線と、声色。本気で怒った......若しくは悟った時の視線と同義のもの。

 

 「容赦はしないから」

 

 そんな彼女の視線を見れたのははレアで、物珍しくて、序にラッキーなんだけど、状況が状況だ。

 

 俺は、そんな彼女を見て一言───

 

 「ジーザス」

 

 体育館の天井を見上げ、無数の明かりに俺は睨みを効かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、俺と田中のバドミントンの特訓は苛烈を極めた。

 ある日は、穏やかな陽気が降り注ぐ中で石崎という協力者と共に、連携面の練習。

 

 「北沢くん!しゃがんで!!」

 

 「オーライ......ぎゃああああ!?」

 

 穏やかな日差しを背景にしてスコーン!!という音と共に俺の頭に衝撃が走る───こんな光景を見た石崎は練習後、顔を青ざめさせて『......後で、俺の良く使っているキズぐすりを紹介するよ』とか言ってきた。キズぐすりは有難いけど、俺の事を思ってくれての発言なら少しでも中途半端なロビングを上げるのを止めてくれはしないだろうかな。

 

 

 はたまたある日は、雨の降る中での体育館での練習。

 

 少しでも個々の技術を上げるために、シングルスで対決───勝っては再戦、負けては再戦を繰り返し今ではかなりの試合数をこなしたんだなぁ......と感慨に耽ることも出来る。因みに対戦成績は10勝9敗。田中にそれを言って自慢したら田中の奴『自分が10勝だ』とか言ってきやがった。まあ、この件に関しては俺も分からなくなってきたので放置───田中は依然として不満そうに少し頬を膨らませていたが。

 

 まあ、そんな精神的にも体力的にも厳しい訓練を繰り返して行った結果、それなりにフォーメーションも形になり、それなりに動けるようになり......少しではあるものの勝算も立てられるようにはなってきた俺と田中は、球技大会を前日に控えていた。

 

 

 

 

 「そう、結局そこまで来たのね」

 

 時は球技大会前日の夜。りっくんを寝かせた後に志保がいれてくれたお茶を飲みつつ、近況報告のような何かをしていた俺は、近頃の練習により張ってしまっていた筋肉を解していた。

 

 「結局......ってことは俺が途中で折れると思っていたのか?」

 

 「ええ、勿論」

 

 「そりゃ随分辛辣な評価ですね......」

 

 お茶を啜り目を細めて志保を見ると、同じくお茶を啜った志保があっけからんとした口調で続ける。

 

 「仕方ないでしょう、今まで兄さんが熱意を出して何かをやったことなんてある?唯一続いた野球だってポーカーフェイスなのかは知らないけど淡々とやってたし」

 

 「じゃあお前聞くけどサードがアウト1つ取る事に『アウトォォォォォォ!!うきゃきゃきゃきゃ、うきゃー!!!』なんて言って目立ってたらお前どう思うんだよ、絶対『コイツ変態だな』って思うだろ?」

 

 大体、バスケにしろ、野球にしろスポーツの感情表現なんて自由だ。虎のバードやノーミサンのようにポーカーフェイスで淡々と仕事をやってのける人もいれば、鷹の熱男や北のいじられ?キャラさんだったり色々なところの色々な人が、人それぞれの個性を磨き、輝いている。

 そして、その時の───中学まで野球をしていた俺の感情表現の仕方が淡々と野球をすること。たったそれだけの話だ。

 

 「......まあ、兄さんがそう言うのなら別にいいけど。元より中学生の兄さんが野球をやっている姿。私は見てなかったし」

 

 「そうだな。まあ、色々あったし」

 

 「......ええ、そうね」

 

 俺が今言った『色々』というワードには、様々な思いが詰められている。俺自身の後悔、自責。そして、家族の事情。俺の知り得る全ての思いを孕んだ『色々』だ。

 

 志保は昔、俺が野球をしている姿を『格好良い』と称した。どうやら当時俺が愛用していた赤色のバットやらリストバンドやらグローブやらを使って走り回る姿が志保の幼いお眼鏡にかかったらしく、それはもう試合がある時には毎回毎回、志保は俺の試合を見に来てくれていた。

 母さんと、『今はいない父さん』を引き連れて。

 

 陸が生まれて、暫くは志保も俺が野球をしている姿を応援してくれていたし、父さんも、俺が野球をしている姿を微笑ましい表情で見ていてくれていた。これでも父さんには憧れていたんだ。俺に野球を教えてくれて、俺の活躍する姿を本当に嬉しそうな表情で見ていてくれていた記憶がある。

 母さんは、色々忙しくて試合を見に来れなかったけど、理解していた。それでも、その日の試合で沢山打ったことを報告すると、本当に嬉しそうな表情で喜んでくれていたのだ。

 

 

 

 

 

 ある日、父さんがいなくなった。

 

 いなくなった原因は知らない。俺が知っているのは乱雑になったタンスと、父に関する全てのものが消えていたという事実。

 野球は、その時やりたかった。

 だけど、一家の長男として家族を守らなきゃいけない。

 母さんは野球を続けろって言った。

 その言葉を拒否するべく首を横に振ると、母さんがしゃがみこみ、俺の目の前に顔を近付ける。

 

『子供が遠慮をしないっ、啓輔が野球をやっている事が私にとっての楽しみなんだから』

 

 その時、子どもだった俺はその言葉に正直に野球を続けた。

 そしてみるみるうちに野球は上手くなって、当時のエースの力もあって県大会で優勝して───

 

 

 

 

 俺は、あの日、野球を続けた事を死にたくなるくらい後悔した。

 

 

 

 

 「あらあら、2人共どうしたの?」

 

 不意に、顔が上がる。先程まで無言になっていた俺と志保はそんな声にハッとなり、二人同時に声のした方を向く。

 

 「母さん」

 

 そう、目の前には北沢家のラスボス───なんてのは冗談で、何時も美味しい朝食を作ってくれているマッマが俺達を微笑ましい表情で見つめていた。

 

 「お母さん、お茶いる?」

 

 志保が立ち上がり冷蔵庫に向かうも、その足を母さんの声が止める。

 

 「ああ、別にいいわよ。私もそろそろ寝るから」

 

 穏やかな表情でそう言う母さん。それを見た俺は久し振りに見た光景に胸を踊らせ、志保を茶化す。

 

 「相変わらず志保は早とちりだなぁ、まあそこが可愛いんだけどさ!」

 

 「ええ、可愛いわね」

 

 「母さんもそう思うよな。長い黒髪に整った顔立ち!早とちりなのは気立ては良い証拠だし、料理も上手!!これに勝る可愛いがあるか!いや、ない!」

 

 あ、やらかした。

 

 「......啓輔は本当にシスコンね」

 

 「......後で処す」

 

 やらかし過ぎたと冷や汗を1滴流す頃には時既に遅し。目の前には、若干苦笑いでこちらを見やる母さんに、後ろには溢れんばかりの殺意でこちらを睨みつけているであろうシッホ。

 

 こりゃ後で志保に半殺しにさせられるなぁ、なんて思いつつ茶を啜り話題転換をしようと席に座る。

 

 「話は変わるけど母さん。俺、明日球技大会があるんだよ」

 

 「啓輔が?」

 

 「ええ、兄さんはバドミントンをやる為に。尤も最初はワックスを塗りたくりまくったり漫画の世界にハマってたりとか色々やる気の方向性を違えていたみたいだけど」

 

 「ワックスが無くなっていたのはこれが原因か......」

 

 母さんは苦笑いで俺を見る。しかし、その瞳は優しく何かを怒るような、そんな眼差しではなかった。

 

 「啓輔」

 

 「ん?」

 

 不意に尋ねられて、母さんの方を向く。すると、母さんは純粋に、疑問をぶつけてきた。

 

 「学校、楽しい?」

 

 その質問に対して、俺は即答───

 

 

 

 「無論、楽しいに決まってる」

 

 田中がいて、石崎がいて。そいつらが俺を楽しい気持ちにさせてくれて。そんでもって、明日は球技大会だ。楽しくないわけがなかろうて。

 

 さあ、明日は待ちに待った地獄の球技大会だ。田中に触発されてここまで来た以上、最後まであの委員長様に付いていこうではないか。

 そんなことを思い、俺は天井を睨みくつくつと笑みを零した。

 

 

 

 

 

 

 「あーっはっはっは.....ゲホッゲホッ!!」

 

 「兄さん気持ち悪い」

 

 「ごめんなさい」

 

 志保の罵声が俺のやる気を1段階下げた。

 

 

 

 

 

 




現在、興味本位で書いてしまったバド回に苦戦中。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 球技大会と贖罪と 【前】

プロットはある。

後は時間と気概があれば.....

気概さえ.....










キャータテノユウシャカッコイイー!!


リアルが忙しかったのと某アニメにハマり投稿が遅れてしまった事、お詫び申し上げます。新生活.....始まったんですよ(感慨)


※前編は茶番、後編はシリアス入る予定です。ご了承ください。




 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、なんだ。

 

 かくして色々な困難や、痛い目も見たものの無事にこのような日々を迎えられた事を俺は本当に嬉しく思っている。以前までの俺なら確実に投げ出して、逃げて、惰眠を貪っていただろうし、本当によくここまで来たなと自分で自分を褒めてやりたかった。

 

 それ故に、球技大会の開催が宣言されたと同時に始まった野球を普段は野球が嫌いな俺が1人で観戦しに行ってしまうのは本当に仕方の無いことであり。

 

 もし、この行為を誰かに咎められたとしたら俺は確実にこう言うであろう。

 

 

 

 

 

『まじテンアゲー』ってな。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 カウントはツーストライクツーボール。俗に言うところのバッティングカウント。そして、バッターは我が2組のエース、イシザッキー。

 

 悠然と振り構えた右打者の石崎は野球部のピッチャーの投じた変化球を鋭いスイングで打とうとする。

 

 タイミングはバッチリ。スイングスピードも抜群。その時、野球の事を詳しく知らない観客達はエース石崎の名前も相まって殆どの人間がサヨナラ逆転3ランホームランを予期したであろう。

 

 

 

 

 

 カコンッ

 

 

 

 

 バットの下に当たる情けない音がグラウンドを支配する。急激───というよりかは手元で少しだけ変化した縦のスライダーに石崎は思わずフルスイングをしてしまう。その結果、バットの下にボールが当たりボールは鋭くもなんともない、ピッチャーゴロとなってしまう。

 

 「うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 石崎が悲鳴を上げながら全速力で走るものの、結果は虚しくピッチャーゴロのダブルプレー。ツラゲならぬイシゲの完成であった。

 そして、この瞬間ゲームセット。2-4でうちのクラスは敗北───優勝の可能性は少し遠のき、これから敗者復活戦からの巻き返しに臨むことになる。

 

 「おーい!!石崎ぃ!!」

 

 ヘッスラしたまま夏の大会で負けたような悔しさで倒れ込んでいる石崎に俺は声をかける。そして、石崎がこちらを見てくれたのを確認すると、俺は大きな声で一言。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ヘッスラの感触どうだった!?」

 

 「お前それよりも俺に言うことありますよね!?」

 

 ふむ。どうやら、ダメージは浅いらしい。石崎がこうやって元気でいるのが何よりの証拠である。

 俺はやたら噛み付いてくる腐れ縁にため息を吐きながら近付いて手を差し出す。

 

 「ほら、立てよ本日2併殺2エラーのイシゲ。」

 

 「お前って本当に人をムカつかせるのが得意なのな!!大体俺がバッティング苦手なの知ってんだろ!?」

 

 乱暴に掴まれた手を思い切り引っ張り、石崎を立ち上がらせるのと同時に俺は石崎に訪ねる。

 

 「いや、お前がバッティング苦手なのは知ってるけどそれで2エラーってさ。なに、力抜いたの?」

 

 本日、石崎は2度のエラーをした。ひとつはキャッチャー絡みのワイルドピッチ。もうひとつはバンドにより浮いた中途半端なポップフライを落としてからの2塁送球のエラー。本来の石崎らしからぬエラーに驚いたのは嘘ではなく本当だ。

 

 「ッ......張り切り過ぎたんだよ。せめてこれって言える4番が居たら俺達は一躍優勝候補なのによぉ」

 

 そう言ってチラチラと俺を見る石崎を無視して俺は空を見上げながら呟く。

 

 「そうか、そりゃあ残念だったな。来年の球技大会はゴジラでも連れて野球やれよ。きっと一躍優勝候補だな」

 

 「呼べるかよ!!」

 

 喧しい。

 

 さっきから情緒不安定だ。お前がそうやって叫ぶ度に周りの連中が驚いたかのようにこっちを見るんだぞ。石崎はもう少し声のボリュームを落とすなりなんなりして目立たないようにすることを覚える必要があると思う。試合中の声と今の声が同じとか俺からしたら有り得ないからな?

 

 「......で、調子はどうなんだよ」

 

 「調子?」

 

 「メンバー表、見たぞ。今日お前と田中が戦う相手、二人とも身体能力の高い奴等で、息ピッタリのラブラブカップルだって」

 

 そりゃあ混合ダブルスにピッタリのメンツだな。二人とも、運動神経抜群の相性抜群なんてチームスポーツをする為に生まれてきたような奴等だ。だが、そんな情報を聞いたごときで後ずさりしてしまう程俺と田中の練習量は少なくない。

 

 「最初から諦められるなら相手知る前に逃亡してる。練習をした以上、俺はやるよ。逃げて田中と妹にチョップ&ハイキックを喰らう方が俺にとっては面倒だからな」

 

 「お前......どういう暮らししてんだよ。田中だけなら兎も角妹にまでハイキックされるとか......」

 

 石崎が何かに怯えるように俺を見る。石崎の性格上今の言葉に興奮しても可笑しくないと思った俺の事実を交えたジョークのつもりだったんだが、どうやら俺にジョークセンスなんてものは持ち併せてはいなかったらしい。

 内心、生まれ持つセンスにがっくりしているといしざきがため息を吐く。

 

 「ま、お前がそう言うならそれでいいよ。てか、アイツらも大概だけどお前らもラブラブはなくとも息ピッタリのペアだからな。何とかなるだろ」

 

 「ねーよ」

 

 田中さんと俺が息ピッタリなんて地球が裏返ってもないという自負がある。大体息ピッタリなら今頃俺は中途半端なロブが来た時の田中のスマッシュに頭を物理的にも精神的にも悩ませていないだろう。

 

 「どうだか、大体田中は異性の友達は居ても容赦なくチョップをぶちかますほどの友達なんてお前くらいしか居ないんだからな。否定から入るのもいいけど、即答せずに少しは悩めよなっ」

 

 「......はいはい、分かりましたよ」

 

 こうやって石崎に言われた以上、梃子でも自分の意志を曲げないということは、俺が1番よく分かっている。かつて、俺が在籍していた中学校の野球部エース。昔は配給を巡ってキャッチャーと暴力沙汰になることも多かった意志の強い選手だ。

 それは日常生活でも同じで、自分がやっていることには相応に責任を持つ。そして、最後までやり通す。その石崎の性格は良くも悪くも学業面や野球部で遺憾無く発揮されている。

 何はともあれ俺が適当に返事をすると石崎は何がおかしいのかからからと笑い、俺を見る。

 

 「ははっ......んじゃ、俺はそろそろ2回戦があるからお暇するけど、お前はどうするんだ?」

 

 「俺は体育館だな。そろそろ田中が痺れを切らしてラケットで素振りしてる頃だから」

 

 激おこプンプン丸の田中さんが出来上がっているかは別として、そろそろ会場に行って支度しないと間に合わなくなる。時間に遅れて不戦敗からの不完全燃焼&委員長チョップとか勘弁だからなマジで。

 

 「そうか......啓輔」

 

 改まった石崎は俺の両肩を掴み、真剣な表情で俺を見る。はて、激励でもしてくれるのだろうかと考え、石崎を見ると、深呼吸して、一言。

 

 

 「いのち、だいじにな!」

 

 

 そうやって、頬を膨らませて笑いを堪える石崎を見て、如何していきなり某RPGの作戦名が出てきたのかは分からなかったが、はっきりと分かったのは俺の心の中に石崎に対する明確な殺意が湧き上がった事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体育館シューズを持っていく為に1度下駄箱に向かい、体育館シューズに履き替える。バドミントンマンガに影響された俺はあれからバドミントンシューズを買おうかどうか迷ったのだが田中に難色を示されたので、バドミントンシューズの購入は諦めて、練習を重ねていった。

 

 バドミントンの練習を始める前は新品同然だったシューズは少し汚くなっており、それなりに練習を重ねたということがシューズからも伝わってくる。

 こういった目に見える証拠が、スポーツでは練習を積み重ねたという証拠になり、最後の踏ん張り所で踏ん張れるようになるのだ。

 

 体育館の入口に向かい、体育館へ入る。すると、最初に目にしたのはやはりジト目で俺を見る田中だった。

 

 「遅いよ、北沢くん」

 

 「そうか?時間までには着いただろ」

 

 「基本は15分前行動だよ、ただでさえ今日は試合があるんだから......」

 

 言われてみればそうだ。失敬失敬、あんまし人と関わった事ねえし約束事なんて以ての外だからそういうのあんまし覚えてねえや、はっは。

 

 「それよりも......こりゃまた随分と盛り上がってるなぁ」

 

 野球場といい、体育館といいクラスの旗や横断幕とか、兎に角この学校は運動事に関して盛り上がり過ぎている節がある。体育祭なんかもそう、まるで一大イベントというような風体で臨むのだから驚きだ。

 

 応援に声援、どうやら相手のペアはクラスでも人気のカップルらしく、クラスの殆どが応援をしている。完全アウェー......かなり不利な展開だろう。

 

 「うわ......凄いね、球技大会ってこんなだったっけ」

 

 「俺が聞きてえよ。この学校が特殊なのか、俺達が異端なのか」

 

 「少なくとも去年バレーをした時はこんなじゃなかったよ」

 

 「ならあのバカップル共のせいだろうな。リア充マジで爆ぜろわっほーい」

 

 「何処の美奈子よ......」

 

 誰だそれ。

 

 「......知らないならいいよ。別に、知らなくて困ることでもないし」

 

 「あっそ」

 

 名前からして女の子っぽいけど別にそこまで俺女の子に飢えてないし気にする程の事ではないだろう。

 

 「さて、そろそろアップ始めようぜ。......少ないながらも応援してくれてる奴さんの為にな」

 

 「え?」

 

 そう言って体育館の応援席を指差すと、そこにはちょっとした軍団ながらも田中の事を応援しているクラスメイト達が。俺の事が華麗にスルーされている件に関しては盛大に見逃しておく。なんか回想したらめっさ悲しいし。

 

 「......皆」

 

 「練習頑張った上で勝つんだろ?勝ってその流れで優勝してしまおうぜ」

 

 田中のプレゼンの内容としては、頑張って練習して、みんなに応援された上で、勝つ。折角2つの条件が達成されているのだったら、最後の条件も達成してしまおう。そして、俺は志保に哀れみの意を込めたそれで慰めて貰うんだ......

 

 まあ、そんなことを考えて内心硝子の心に自虐的な考えで心にヒビを入れていた俺だが、気分を入れ替えて田中を見る。改めて見る景色は、やっぱり完全どアウェー。何時もの俺なら確実にすっぽかして、トイレで蹲っている。気分的には、それとさして変わらない。端的に言えば、めげている。

 

 だが、しかし。今回に限っては1人ではない。1人では出来ないこともうんたらかんたらってどっかの歌詞に書いてあった筈だ。良く志保が聴いてた曲......うん、題名忘れた。

 

 「......うん!」

 

 まあ、結論を言ってしまえば田中がこうやって気概に満ちた表情してれば、それでいい。

 

 これは、田中がやりたいと言い出した事なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どんな勝負事にも、絶対なんて甘い言葉は通用しない。サッカーや野球だって、はたまたバドミントンだって試合が終わるまで、何が起こるかは分からない。

 

 それ故に、俺と田中は懸命に練習をしてきた。目の前の敵を倒す為に。優勝という目標に向かって。

 

 

 

 そんな俺達は、早くも窮地に立たされていた。

 

 バドミントンの試合は、基本2ゲーム先取の勝負である。先に21点を取ったチームが1ゲームを取る事が出来て、それを2ゲーム撮った方の勝ち。しかし、バドミントンのプロでもない上に、時間の都合もある為2ゲーム先取は変わらないものの、16点先取で1ゲーム。

 至極単純なルールである故に、劣勢か、優勢かの区別も判断はそれなりに容易ではある。

 

 幾ら練習した所で俺達はプロには及ばない。作戦だって裏があるわけでもなし。それ故に、状況の優劣の判断が利くのは『どちらが元気か』ということと『どちらが沢山ポイントを取っているか』。

 

 この際正直に言おう。このままぐだぐだ御託を並べても状況が覆る訳でもない。うん、言うぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 「カイエン乗りてぇ.....」

 

 俺が譫言を呟いている時点で察してくれ。

 

 「石崎くん、北沢くんが壊れたよ。何とかして」

 

 現在、双方1ゲームずつ取って第3ゲーム目。相手チームが11点目を取ったことによりインターバル中である。スコアは10-11。はっきり言おう、スタミナや経験諸々含めて劣勢である。

 

 「啓輔!!現実逃避をするな!目の前の敵を倒す為に何をすべきか考えるんだよ!」

 

 2ゲーム目のインターバルからこちらのベンチで応援をしている石崎が俺の肩を揺すり俺を正気に戻そうと奮闘する。その甲斐あって、俺は何とか興奮した状態から冷静な状態になることが出来た。

 

 「......単純にスタミナがもうやばいんだよ。俺、帰宅部だぞ?それなのにアイツら第3ゲームまでもつれこませやがって......ああ、不戦勝してぇ」

 

 「啓輔、ステイ・クールだ。ラケットを持ったまま相手ベンチに向かおうとするな。退場させられるぞ」

 

 おっと、これは失礼。あまりの疲労感によりまともな倫理観が破綻していた。

人間疲れた時は何も考えられなくなるんだな、と思いつつ石崎を見遣ると石崎が苦い顔でこちらを見る。その様子に俺と田中が顔を見合わせ首を同時に傾げると、石崎が苦しげに俺に尋ねてくる。

 

 「お前ら.....どうしたんだよさっきから。練習でやってた事が全然出来てないじゃないかっ」

 

 「.....あのな、石崎。練習で出来たことがそのまんま試合で通用するなんて上手い話転がってるわけないだろ?ステイ・クールになるのはお前の方だよ」

 

 「.....ああ、そうだな。確かにそうだよ。お前達が変なプレイさえしてなければ俺だってそう言ったよ?けど蓋を開けてみたらどうだ、予想以上にミスが多い。そりゃあもう何か言いたくもなりますわ」

 

 「.........兎に角、ミスは減らさないとな。安牌なロビングでもいいから先ずはラリーを続けられるようにならないと、点が取れない」

 

 「え、ちょっと?無視するまでは兎も角俺の目の前に手を出して視界を遮断するの止めて?あたかも俺が存在していないもののように扱うの、ガチで止めて?」

 

 石崎が何か言っているが気にしない。それよりも俺達には何とかしなければならない事案があるのだから。

 俺達がポイントを取られてしまっている原因は、細かなミスで自滅してしまっている点にある。一つ一つのプレイに拘り、ディテールに気を遣わなければこちらの風向きが優勢に変わることは決して有り得ない。

 

 「......そうだね」

 

 「だから田中はもうちょっと走れよな。ほら、お前がロビングあげ損ねて俺の頭にぶつけたプレイ。挽回しないと1週間はそれで弄り倒すから」

 

 「む......それを言うなら北沢くんも相当レシーブをネットに当ててたよね」

 

 バレテーラ。

 

 確かにそうだった。ていうか、人の事棚にあげる前に自分の技術を何とかしなければならない。

 

 ネット前でのミス。

 

 スマッシュの空振り。

 

 これらさえなければ今頃俺達がリード出来ていてもおかしくはない筈だった。

 それでも、やはり本番と練習は違うのか要所要所でミスを連発してしまう。田中よりも、俺の方がミスをしてしまうのは本番に対する気持ちの違い故か。

 

 「啓輔......」

 

 石崎がなんとも情けないと言った表情で送る視線を無視して少しだけ屈伸をする。

 体力がない故に、肉体がキツイ。こまめに解しておかないと筋肉を壊してしまう可能性がある。

 

 と、そんな事をしていると審判の笛が鳴り、戻れという指示が与えられる。それに気付いた田中と俺はお互い激励もせずに後衛、前衛へと分けられる。

 

 「はぁ......」

 

 あまりにも、辛い。そんな状況にため息を吐くと白帯の向こう側からくつくつと笑い声が聞こえる。

 随分と気取った笑い方だ。加えて言うのなら厨二チックだ。そう思い笑いの根源たる男を見上げると、これまた随分とニタリとした笑みで俺を見下ろす。

 

 「随分と元気がないな北沢!!」

 

 「......お前誰だっけ」

 

 「ガッデム!今日の試合で散々話したじゃねえかよッ!!」

 

 そういう奴もいた気がする。

 しかし、殆どの記憶がバドミントンの試合で埋め尽くされている俺にとっては、目の前の奴なんか覚えているはずもなく、俺は思わず首を傾げてしまった。

 

 「......そうか。で、なんだよ」

 

 ここまであからさまに笑うということは何か用がある筈なのでは。てか、ないのに笑ってたのならそれ程無駄な事は無い。流石にそこまで無駄なことをする余裕はないだろう.....と、半ば半信半疑の面持ちでいると案の定男が続ける。

 

 「なかなか良いプレイをする。しかし、イマイチの連携だ。とは言っても練習中はもっと仲睦まじくプレイをしていた.....」

 

 「おい、勝手に評論家気取んなよ。んでもってサラッと仲睦まじくとか言ってんじゃねえよ.....何とかしろ、相方!」

 

 俺がもう1人の女の子にそう言うも、苦笑いで片手で『ゴメン』と言われるに留まる。おのれ、もしや貴様等グルか、グルなんか.....と相方の女の子を少しだけ睨むと、自分の世界に入っていた男が手をパン!と叩き一言───

 

 「さてはお前、仲間割れしたな?」

 

 

 

 

 

 

 ......

 

 

 

 

 

 仲間割れ、ねぇ───?

 

 俺と田中は少なくとも友達ではあるが、仲間なんかじゃない。もし、今この瞬間のバドミントンしてる様子を見てこの男が俺と田中が仲間と言い張るのなら、その結論は勘違いも甚だしい。

 

 「仲間じゃねえよ。一時的な協力関係だ」

 

 仲間なんて強固な関係に俺を巻き込まないでほしい。結局のところ、そんなもの俺にとっては不必要要素でしかない。

 仲間───聞こえは良いかもしれないが、その言葉には明確な定義がない。どのラインを超えれば、どの一線を超えれば『仲間』なのか?その定義は人によって違う。

 そして、人によって違う───または、明確に定義していないような奴等が無責任に『仲間』という言葉を振り撒くのだ。

 

 

 

 そして、容易く裏切る───

 

 

 

 俺は、そんな人間にはなりたくない。仲間というものに関しての明確な定義が分からない俺が、無責任に『仲間』という言葉を使いたくない。使うのなら、明確に定義されたものを使って面白おかしく生きていたい。『シスコン』、『ブラコン』、『不良生徒』。これらは全て、俺の生きてきた道が定義を示した。だからこそ、俺はその言葉に笑い、演じて、楽しめるのだ。

 

 故に、俺は『仲間』なんて言葉で自身と田中を括って欲しくはなかった。

 

 

 

 結局はそんなもの、いとも容易くぶっ壊れてしまうのだから───

 

 

 

 

 

 

 「そうか、なら勝てるわけないよな」

 

 「......は?」

 

 「俺と相方の女の子は強固な信頼関係で築かれているからな!お前らみたいな協力関係(笑)でまとまっているような奴らには絶対に負けない!」

 

 なんか、急にお惚気始めやがったぞ。いや、それよりもだ。

 

 「協力関係も、それなりの信頼のうちに入るんじゃあねえのか......?」

 

 「甘い甘い!じゃあ北沢はその子の事が大好きなのか?その子が大好きだから、ラブだから信頼しているのか!?」

 

 「ラブ、とな」

 

 「そうだ!!」

 

 強く言い張るこの男は、余っ程女の子の事を信頼しているらしい。そんな関係、俺にとってはどうでも良い事なのだが、一応提示された質問には答えなければならない。

 

 「少なくともラブではないな」

 

 LOVEですか?

 

 いいえ、そんなものクソ喰らえです。ついでに言うなら俺が心から信じることが出来るのは家族だけです、俺の心は家族にあるんですー......と心の中でLOVEという言葉に悪態を吐く。

 

 試合が再開される。相手の女の子のサービスがふわりと後方へと向かう。これは言わずもがな田中が処理してくれると見込んだ俺は男の動きをじっくり観察する。

 

 男が、田中の方を見る。それをじっと見ていた俺は少しだけ後ろに下がり、次に来るであろう打球を待つ。

 

 田中が大きくレシーブしたシャトルは放物線を描き中途半端な位置へと飛んでいく。

 それでも相手は迷うことはなかった。男は後ろを見ることも無く、前へどっしりと構えてニヤリと俺に笑みを送る。うざい、ふぁっきゅー。

 

 俺がそんなことを思っている間にも、女の子がレシーブを返す。前方右、これなら俺が拾える。

 

 少しギリギリだったものの、右手に持ったラケットを地とシャトルの間に滑り込ませる。敢行したのはクロスネット。

 

 「は!?」

 

 石崎から、そんな声が聞こえる。これは決まったか───?

 

 「ぬおおおおお!!」

 

 と、思った矢先に前方の男が横に跳躍し、ラケットを懸命に伸ばす。するとラケットはシャトルに当たり、ネットに当たり自陣へ......。

 

 あまりに基地外なレシーブに俺は思わずそのシャトルを見送ってしまった。

 何故か、石崎がベンチごとひっくり返った光景に舌打ちをしながらシャトルを拾い上げ、女の子に渡していると、倒れていた男が立ち上がりくつくつと笑い声を上げて俺を見据え、一言───

 

 「この得点は......ズバリ、愛の差だ!!」

 

 「んなわけあるか。明らかに技術の差だろうが」

 

 素人に毛が生えた程度の俺達がそんな無茶苦茶レシーブに反応出来るわけがなかろうて。

 

 「はっ、良く言うぜ......あんだけ高精度のクロスネットを打ち込んどきながらな」

 

 「コニーさんは簡単にクロスネット打ち込んでたぞ」

 

 「そりゃお前、漫画の世界だからな!?フィクション(虚構)ノンフィクション(現実)の違いくらいは付けようぜ!?」

 

 ほう、キミもマンガを読んでいた口か。あれ面白いもんな、3巻から画のタッチ変わってんのに賛否両論あるらしいけど、俺は好きだぜ。何せ試合展開の迫力が段違いだ。

 

 女の子のサーブが放たれる。おっと、今度はショートサーブか。少し勢いのあるサービスが前方に立っている俺にボディに勢い良く向かってくる。身長の高い選手はボディの対応に苦しむことはあるが、生憎俺はボディに苦しむ程の高身長ではない。良くも悪くも普通だ。

 

 上手く腕を折り畳んで、心臓付近のシャトルをレシーブ。コースは右利きの男のフォア側へと向かっていく。

 まあ、これには反応するであろうふわっとした中途半端な1球。分かっているのなら、反応するのも容易いであろう。男が打つであろう一打は......そうだな。

 

 

 

 

 右利きの俺のバックハンド側へのドライブとか、さ。

 

 

 

 「でりゃあ!!」

 

 あ。

 

 本当に来た。

 

 注文通りのバック側ドライブに俺は上手くタイミングを合わせてプッシュ。プッシュと呼べる程の威力はないし、俗に言うキルショットとやらではない。しかし、男にはかなり効いてしまったのか反応出来ない。

 

 隣にいた女の子も、手を出すもののガットに当たりこちらのコートにシャトルは入らなかった。よって1点獲得。12-11。後4点で......勝てるのか。

 

 「なんかあれだな、良い勝負だ」

 

 相手も息を切らし、田中も息を切らしている。その中でも、俺も皆に負けないくらい足腰がガタガタいってる。

 バドミントンは、一瞬の跳躍や、スマッシュ等に対応出来るような筋肉が求められる。そして、それは球技大会が始まる前の10日にも満たない練習で身に付く程甘くない。

 仮にこの試合に勝ったのなら、更なる強い敵と長時間の試合が俺を待っている。どんな奴が相手をしてくれるのだろうか。次はもっと楽勝なのが良いな。

 

 

 

 

 

 「げっ」

 

 ああ、そんな事を考えてたらサーブミスった。余計な事は考えない方が良いよな。ガッデム俺。ふぁっきゅーバドミントンしてる俺。

 

 12-12。

 

 「.....集中力が散漫だよ」

 

 「悪い、まあ.....次やれば良い」

 

 そう言って、乾いた笑いを田中にするとジト目で頬を膨らまされてしまう。なんだろ、凄く悲しい。そして、目の前の男の嘲笑っている様子が腹立たしい。

 

 「なーはっはっは!下手っぴめ!」

 

 「.....なあ、田中さんよ。コイツ妹に教えたチョッピングライトでぶん殴っても良いかな」

 

 ストレスが溜まっている状態であの男の甲高い声を聴いていると思わず殴りたくなる衝動に陥ってしまう。故にネット前まで歩き、白帯の向こう側に居る男に手を伸ばしかけていると、田中が俺の手を掴み引っ張り込む。

 

 「反則負けになるよ!?」

 

 「畜生そうだった.....ッ!!」

 

 怒りに任せて、ここまで来た道のりを全て壊してしまうところだった。確かにあの男は心底鬱陶しいが、だからといって暴力で沈めたらそこら辺のチンピラとやっている事が同じになってしまう。

 それは、嫌だ。普段から不良生徒として名を馳せている俺ではあるが暴力沙汰を起こしてお縄にかかって妹に蔑まれるとかマジで勘弁だからな。

 

 「じゃ、じゃあ暴言!!ルールに引っかからない程度の暴言なら良いだろ!?Son of a bitch !(クソッタレ!!死に晒せ!!)

 

 「あああああ!!絶対に言ってはならない一言をッ!!」

 

 言うより速い田中の高速チョップが俺の鼻付近を襲うと、俺の心がふと浄化されて行く。おかしい、何故ここまで心がさっぱりしてんだ?俺こんなドMだったっけ。

 

 「兎に角暴力、暴言はダメ絶対。分かった?」

 

 「.....ああ」

 

 「冷静になった?」

 

 「ああ、大丈夫。何せ今の俺はKOOLだからな!」

 

 「うん.....うん?大丈夫、なんだよ.....ね?」

 

 大丈夫、現に今の俺は鼻から血が出てより一層冷静になれてんだからな。もう少し田中は俺を信用して欲しい。流石に何度も何度も同じ事を言われる程俺も性根腐ってないし、普段の素行不良は認めるけど、こういう時くらいは俺はまともだと思ってはくれないのだろうか。

 

 「安心しろ、今の俺は.....大丈夫だっ」

 

 何はともあれ、先ずは田中を安堵させなければならない。そう思い、一言を発するとそれを聞いた田中はジト目で俺を見て一言────

 

 

 

 

 「鼻血出しながらそんな事言われても」

 

 「おめーのせいだろカチューシャ女」

 

 

 

 

 

 試合は一時中断した。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話 球技大会と贖罪と 【後】

前半 バド回
中盤からシリアス入ります。

本編的にはここからスタート.....かな?


 

 

 

 

 

 

 その後も、試合は続く。

 

 あの後、息を吹き返した俺と田中は突き放す、しかし追いつかれる───を2度繰り返して熱戦を繰り広げた。

 次第に試合を終えたチームも俺達のコートを見始め、ギャラリーはかなりの数に至っている。と、そんなことを考えている場合ではなかった。

 

 上空にふわりと浮かんだシャトルを観察する。勢いはない、なら俺が叩けば良い。それでも、ジャンプする体力が既に尽きかけている俺にはジャンピングスマッシュという選択肢はない。

 

 ダブルスのせいで隙がねえ。

 

 なら───

 

「てーい」

 

 情けない声を上げるのと同時に、ふわりとみっともないロビングを上げる。その軌道は、ごくごく僅かな放物線を描きネットの真上で落下───

 

「な、お前.....これまた処理に困る打球をッ!!」

 

 自陣中央で構えていた男と女は咄嗟に前へと走り出し、浮かぶシャトルを一斉に見遣る。

 

 シャトルはネットスレスレに落下。敵陣へと向かい、そのシャトルは見事落ちていった。

 

 会心の一撃───

 

「うおっしゃあ!」

 

「やった!!」

 

 思わず出てしまった雄叫びに、田中が呼応しガッツポーズ。いつもの俺ならそんな空気に水を刺すように田中にあーだこーだ言うのだが、そんな余裕も今の興奮状態に陥っている俺には残っていなかった。

 

 ギャラリーは、俺達がガッツポーズをしている光景をどう思っているのだろうか。仲の良いタッグだと思っているのだろうか、若しくは仲直りしたとでも思っているのだろうか。

 

「.....ッ。完全に息を吹き返してきたな」

 

 息を吹き返す、といった表現はあながち間違いでは無い。現時点でムードが高まっているのはこちらの方であり、大したプレッシャーも感じていない。

 実力的に厳しいと思っていたが、その差は今まさに縮まろうとしている。

 

 会場のざわめきと、数少ない応援団(田中の個人ファンに限る)が俺達の実力不足を底上げし、奴等と対等でいさせてくれたのだ。

 

 体育着の襟首を強引に顔付近に持っていき、汗ばんだ顔を拭う。しんどくないって言えば嘘になるし、辛い。けれど、ここまで来て負けるってのも癪だ。

 

 あと少し、ここで勝負を決めて一勝。そこから優勝へ。駒を進めて見せようではないか。

 

 

 

 誰の為に?

 

 

 

 

 そりゃ田中のファンの為にだ────

 

 

 

「何浸ってんだよ気持ち悪い」

 

「おめー少し黙ってろよ」

 

 雰囲気、これ大事よ。ムードを壊す奴は世間でも通用しないって良く聞くし。

 

「大体プレイ中は静かにしてろよ。集中出来ないんだよ、後うざい」

 

「はっきり言いやがったな.....まあ、作戦なんだが」

 

 いや作戦だったんかーい(棒)

 

「.....俺の集中力を途切れさせたところで勝機はたかが知れてるだろうに」

 

 これ、本当に。

 純粋なバドミントンの実力だけでいったら常日頃からまともに基礎を練習してる田中の方が上手だ。そりゃ俺とて真面目に『練習』はしてきたさ。けど、出来もしない高等技術に時間を取られすぎて、本来やらなきゃいけない大切な練習を疎かにしてしまっていた。

 

 俗に言う本末転倒ってやつだ。何が『クロスカット』だ。何が『ハルダウン・クロスファイア』だ。そもそも右利き素人の俺が無理やり左でクロスファイアを打ち込もうとしている時点でアウトだったんだよ畜生。

 

 そんな事を思いながら、若干の後悔をしていると不意に男がくつくつと嫌味ったらしく笑い声を零す。非常に腹立たしい───と内心思いながら男を睨むと、男は俺を見て一言─────

 

「嘘をつくなよォ、天才野球少年君よォ」

 

「え゛」

 

「野球とバドミントン.....一見判断すれば、なんの関係もないものだって思うかもしれないが、運動神経という観点からしたら何も変わらねえんだよ」

 

「.....まあ、そりゃそうかも知れんが」

 

 確かに運動神経は大事だよね。運動神経があるとないのとでは、この先の選手生活の在り方が大きく左右されると思うよ。

 

「俺が何も知らないとでも思ったのか?噂を聴いてるんだよ.....かつてはウチの野球部エースの正捕手であり、サード転向後は俊敏性のあるフィールディングと正確なスローイングを武器として、安打を量産したクラッチヒッター」

 

「いや.....そりゃ拡大解釈が過ぎるんじゃないっすかね」

 

 別に大したプレイヤーではなかったよ、と軽く突っ込んでおく。

 自信過剰は良くないって言うし。そこ、大事よ。

 

「兎に角!!俺はお前みたいにクールでスカしてる奴が大っ嫌いなんだ!!挙句の果てには自分の得意な物すら止めて自堕落な生活を送る。」

 

 大半が図星なだけに胸が痛い(切実)。

 けど、そんな事を言わないでくれ。俺には俺なりの理由があったんだし、ここは平和的に行こうよ。今更どうこうできる問題でもないんだから。

 

「取り敢えず落ち着いてくれよ。俺は別にスカしてるつもりはないし、今は純粋にこの勝負を楽しんでんだ。要らんことを言って水を刺すのは止めておくれよ」

 

「む.....」

 

「......それに、そんな事別にどうだっていいじゃあないか。俺からしちゃ天才だとか野球とか、この件に関しちゃどうでもいい事なんだからよ」

 

「なに......?」

 

「勝負も、試合も、全部何とかなるさ......信じてんだからな」

 

 仲間と言えるかどうかはわからんけど。

 

 あくまで、協力関係として。

 

 けれど、今までの生活態度から俺は田中のことはそれなりに信頼しているし、そもそもバドミントンに誘ったのは他でもない田中だ。それで投げ出すような事をしたなら絶対抓る。縦縦横横で丸書いてちょんってしてやる。

 

「田中!!」

 

「?」

 

「後4点で勝てるぞ。勝っちまおうぜ」

 

 そう言うと、肩で息をしつつも田中は無言でサムズアップをする。軽くドヤっている表情が可愛いのは、ご愛嬌って奴だろう。

 

「な、舐めるなよ!?」

 

「お前こそ舐めんな」

 

 試合が再開される。田中のサーブが敵陣後方へと向かうと、すかさず女の子が後方へ高いロビング。それを田中が鋭いレシーブで敵陣後方右隅へと打ち込む。なかなか鋭い、良いコース。

 

 しかし、素早く右隅に走り込んだ男はスライディングをしながらバックハンドレシーブ。シャトルは自陣へと向かい、勢い良くこちらへ向かっていく。

 

 時が止まる感覚に陥る。俺の頭上を超えていくシャトル、セオリー通りなら田中の返球がベターだ。

 しかし、今は劣勢であり『流れ』が欲しい。それを得る為に必要な事は───

 

 

 

 意外性。

 

 

 

 

「とうっ」

 

 ジャンプ1番。気分的にはジャンピングキャッチを今まさに行わんとする高揚した気分。されど、プレイはクールに。狙うは渾身の一打。

 

 ジャンピングスマッシュ。

 

 精一杯の力を振り絞り、ラケットを縦に振るう。ラケットのド真ん中.....スイートスポットに当たる気持ちの良い感触を得て得点を確信する。

 

 しかし、俺が見た現実は非常で。

 

 恐らく偶然差し出したのであろう、女の子のラケットにシャトルが当たってしまっていた。

 

 それでも───まだだ。

 

 

 女の子の苦し紛れのレシーブは、中途半端で対策も何もしていなければお見合いしてしまうような、そんな1球。

 

 後ろにある程度下がり、その1球を悟ると少しだけしゃがむ。すると、田中が後ろから走り込む気配が。

 

「しゃがんで───!」

 

 そらきたっ。

 

 ずっと前から練習していたこのパターン。1、2回目は失敗していたが今度こそは成功させてみせよう。俺は、しゃがむタイミングと覚悟。田中は、技術と容赦のなさ。それらを全て集約させて、是非、この一打に懸けやがってくれ───

 

 

 

 

「田中ァ!!」

 

 

 そして鈍い感触と共に打ち込まれたシャトルは────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ういーっす、啓輔さーん」

 

 時は過ぎて、2時───

 

 汗をかき、顔面に水を派手にぶちまけ癒しを得ているといつの間にかこちらへ来ていたのか石崎が顔を上げた俺の顔面にタオルを投げつける。

 

 タオルを顔面から剥ぎ取り、強引に濡れた顔を拭くと心地よい気分になり、当初の目標であったリフレッシュが出来たことに安堵の気持ちを浮かべる。水も滴るうんたらかんたらとは良く言うが、俺はきっと該当しないであろう。良くも悪くも俺はフツメンだ。その事実は水を交えたところで悲しいかな、変わるわけがないのだ。

 

 さてさて、先程から嫌らしい笑みを浮かべている石崎。彼は先程まで第2試合目の野球をしていた所である。

 

 1試合目こそ、暴投にゲッツーと最悪の出来だった石崎だが2試合目は息を吹き返したかのように大活躍。守っては10個の三振を取るガチ勢っぷりに、打っては同じ野球部のピッチャーに満塁策を取られ、怒りの3ランで勝負に終止符を打った。

 

 そんな石崎は俺に一言───

 

「見事にぃ、物の見事に負けちゃいましたねーぇ」

 

「うっせーよ」

 

 あれから、俺達は敗北した。原因は至極簡単。

 

 田中の負傷だ。

 

 あの時の俺は疲労困憊の状態で、レシーブを返すのにも一苦労の状態。そんな状態にも関わらず、俺は田中に無茶をさせてしまったのだ。

 

 結果として田中が足を挫くアクシデントに見舞われ、負傷による棄権で俺達は負けた───簡潔に言うと、敗北した上にその次の試合でリベンジも叶わなくなってしまった。

 

 当然だよな、田中はアイドルだ。無茶させる訳にはいかんでしょ。

 

 と、まあ肝心のバドミントンはアクシデントで終わってしまったが、それを除く球技大会は大した問題もなく進展して行った。男子バスケのグループが女子達に良いところを見せようとここぞとばかりに頑張ってるのとか、面白いを通り越して、微笑ましい気持ちになれたな。

 1年前のように見ているだけでも俺は十分に楽しかったが、今回は田中と共にバドミントンを頑張った。肉体的には疲労しているのだが、心は充実───俺にしては珍しく、家族以外の事で満ち足りた気持ちになれたのだ。

 

 しかし、それとこれとは別だったりする。

 

「......怪我、させちまったなあ」

 

 不慮の事故とはいえ、目の前で事故って田中が怪我をしたのだ。恐らく明日か明後日には今回の出来事を言わずとも激おこプンプン丸のシッホが誕生していることだろう。

 

 そして、またしても殺人タックルからの4の字固め───

 

「......やべぇ、ゾクッとしたわ」

 

 最早習慣化されつつある志保の腕っ節を利かせた反抗に軽く戦慄を覚えていると、トントンと肩を叩かれる感覚が。

 

 何事かと思い振り向くと、さっきまで仕返しと言わんばかりに煽っていた石崎がニッコリとした表情で俺を見ていた。

 

「殊勲賞を取る喜び」

 

「戯言は程々にしとけよ」

 

 隙あれば自分語りとか止めてくださいな。

 

「開幕早々扱い酷いなっ......」

 

 そりゃお前が変な事を抜かすからだ。

 

 まあ、石崎か俺が変な事を抜かし、これまた石崎か俺のどちらかが辛辣な言葉を発するのは最早鉄板となりつつあるのでもうこんなことでストレスを溜めたりしない。

 

「で、何の用だ?」

 

 冗談は程々に話の流れを元に戻すと、石崎はこちらをまるでありえないものでも見るかのような表情で見る。

 

「お前さあ......短い間とはいえタッグを組んだ戦友に一言もなしってのはいくらなんでも淡白なんじゃねえのか?」

 

「そりゃそうだな、お疲れさん石崎」

 

「いや俺じゃねえし。そこは察せよ鬼畜鈍感略してキチドン」

 

 新しく言葉を作るな。序に言うなら造語で俺を貶すな。更に言うなら指をさすな、総じて失礼だろうが。

 

「......田中は保健室だろ?また明日にでもお疲れ様って言えば良いじゃねえか.........色んな意味で」

 

 建前上、露骨に田中の事を心配するのは気が引ける。

 考えても見ろ、ごくごく一般の男子高校生が『ああっ.....田中大丈夫かなぁ!?心配だよォ!!』だなんて言ってみろ。第三者の視点で客観的に見たら案件物だぞ、それ。

 故に心配していない風体を装い『はっ.....』と吐き捨てるようにそう言うと、石崎が眉を潜めて俺を見る。その表情は、少し不愉快とでも言いたげな顔つき。

 

「うっわお前性格悪ッ......兎にも角にも、今日言えることは言った方が良いと思うぞ。どうせお前の事だ、寝たら忘れんだからな」

 

 それに、と1度間を空けて石崎は続ける。

 

「今じゃなきゃ伝えられないことだってあるだろ......お前はそういうタイプじゃなかったか?その日でしか分からない事、言えない事があるってのが信条じゃなかったのか?」

 

「.....過去にも先にも俺がそんな事を思った事は何ひとつねーよ。しかも寝たら忘れるとか.....やだもう石崎くん失礼しちゃうな」

 

 先ず、初めに言っておこう。

 

 俺は、今の台詞をいつもの石崎に当てているような軽口のように言った。けど、先程の石崎の言葉に『ひっかかりのような何か』を感じたのは確かで。

 

 そんな俺の心情を見透かせない程、石崎洋介という人間は鈍感ではないということを。

 

 

 

 

 

「誤魔化すな」

 

 

 

 

 

 

「.....誤魔化す、ね」

 

 確かに、俺は誤魔化したのだろう。腐れ縁であるこの男に今の心情を悟られるのが嫌で、恐らく浮き彫りになっていた自らの心情を深層心理に無理矢理押し込んだのだ。

 

「お前は、少なくとも『そういう奴』だったんだよ。何年腐れ縁やってると思ってんだ。お前の考えてる事───全部とまではいかないが、少しくらいなら分かるし、何よりお前と俺は同じスポーツを同じチームでやっていただろうが」

 

 北沢───

 

 最後に発した石崎の言葉に、自然と眉間に皺を寄せる感触を覚える。

 

「......バドミントン、1部始終を見たぜ。競技は違うけど、お前は何ら腐っちゃいなかった。技術も、相手と対峙した時の余裕綽々のポーカーフェイスも、ふと相手を思いやれるメンタルも、全部お前らしかったよ」

 

「.....それが」

 

 どうした、そう続けようとした俺の言葉を石崎の言葉が封じ込める。被せて言うことも出来た。しかし、石崎の思い詰めたような表情を悟った瞬間、俺は続きを言うことが出来なかった。

 腐れ縁のそんな顔を見るのは、久しぶりだった。何時も明朗快活馬鹿丸出しを地で行く男だ。そして、そんな男がこの表情を浮かべるのは後にも先にも自身がひとつ、譲れないと豪語するであろう『野球』関連の話であった。

 

「お前は才能の塊だった。間違いなく、お前は『天才』だった。それなのに......俺は、お前を野球の道に戻すことが出来なかった。1番の腐れ縁だったのにも関わらず、な」

 

 顔を上げる。しかし、表情は変わらず石崎は諦観に満ちた声色で過ぎた全ての事象を悔やんだ。そして、この声色は続き俺を見据えたまま一言───

 

「なあ、北沢───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺とお前、何処で道を違えたんだろうな......プロ行こうって、日シリ一緒に出ようって、戦おうって、そんな事ばかり言ってたのにな」

 

 

 その言葉に、俺は『昔』を思い出す。かつて、目の前に相対する男がボールを持ち、不敵な笑みでマウンドに立っていたのを扇の要で見ていたおおよそ6年も前の出来事。あの時は若かった───と年寄りじみた事を考えつつも俺は石崎が犯したたったひとつの間違いを言及すべく、石崎を見据える。

 彼は、たったひとつ間違いを犯している。それは、言った当人には分かるようで分からない間違い。人の間違いには必ずそれに関わった人物にも間違いがあるというONE FOR ALL.ALL FOR ONE(1人は皆の為に。皆は1人の為に)擬きの考え。全てがそうなる訳では無いが、少なくとも今回の石崎の考えにはそれが該当する。少なくとも、俺が野球をやめたのは他が悪いとかそういう理由ではないのだから。

 

 

 

「......思い上がりも良い所だぜ、石崎」

 

 故に、俺は石崎の精一杯の善意に釘を打つ。善意で言っていたのは分かっていて、有難いと感じているにも関わらず俺は石崎に半ば悪態を突くように言葉を紡いだ(吐いた)

 

「お前が俺を引き留めた?ああ、そうだな。確かに手前は俺を引き留めた。けど、それに俺が心を揺り動かされたとでも?勘違いすんな、その時から俺の心は決まっていたんだ。仮にお前がそのことに関して邪なことを考えてんなら、そんな考え直ぐにそこら辺のゴミ箱にでも棄ててしまえ。俺は俺だ。誰に干渉されることも無い、俺の意思で『野球を辞めたんだ』」

 

 俺が、俺の意思で野球を辞めた。それは紛れもない事実。故に、石崎が謝る必要は皆無だし、何より自分のせいだと宣うのは自分の意思で野球を辞めたと考えている俺に対してあまりにも失礼ではないか。

 

「それに、道は違えるものだ。将来なんて約束されていない。仮に俺がお前さんの言うところの天才だとしてもだ。幼馴染、兄弟、旧知の仲.....その悉くが同じ球団やプロチームに入ってこれまた海外でも同じチームでプレーして、引退後のセカンドキャリアまで同じ道を辿る事はあるか?そんなの、見たことねえだろ。人間必ずどこかの分岐点で違う道を辿るんだ。それは、俺やお前だって例外じゃない......蛇足だが、その道の天才がその道で戦わなきゃいけない謂れもねえしな」

 

 その言葉を最後に、俺は背を向けた。石崎が何を言おうが俺がこれ以上譲る気がない。かと言って石崎がその言葉を撤回する意思がない以上これ以上会話をしても状況が平行線を辿るのは明白である。これ以上会話を重ねてもそれは俺達には何の意味をも成さないのだ。

 

「じゃあな、石崎。一応忠告は肝に銘じて田中の様子でも見てくるよ」

 

 

 俺は、俯く石崎を背に歩き心の中で石崎洋介という人物に思いを馳せた。

 

 

 石崎の言いたいことは分かっている。ああ見えて、奴は変な所で賢い。きっと、俺が野球を辞めた理由も薄々感づいている。

 そして、その賢さと元来の頑固な性格のせいで石崎は俺に関しての懸案事項を抱えてしまっている。

 

『誰が北沢啓輔を退部に追い込んだのか。または、何故北沢啓輔は野球を辞めたのか。極論、何故北沢啓輔を止められなかったのか』

 

 そんなもの、誰のせいでもない俺のせいだ。故に気にしなくても良い、そう言っているのに馬鹿で阿呆で真面目で真摯な石崎洋介は自責の念を抱き続ける。

 そして、俺はそこまでの思いを抱かせてしまっている事に、罪悪感を抱き続ける───

 

 

 

 

 

 

 

 そして、この感情も何れ石崎と俺が道を違えればお互い忘れる。石崎が陽のあたる場所で名を上げ続け、俺は何処か分からない場所でなあなあに何かをしている。そうしていくことで、その罪悪感も何れ薄れていく。人間なんて、そんなものだ。そんなものでしかないんだ───

 

 

 

 

 

 

 

 

「......っと」

 

 頭の中でそんな事を考えてたら、いつの間にか保健室だ。距離はさほどなかったとはいえ、あたかも一瞬で景色が変わったような状況にやや驚きつつも俺はドアを開けて田中が居ないかの確認をする。

 

「......あら、誰もいないじゃないか」

 

 もしや石崎、シリアスな展開に持ち込んで俺をその気にさせて謀ったのか?ちくせう、奴にしては高度なトラップだ。何処ぞの沙都子ちゃんも吃驚の巧妙な罠に、歯軋りをして石崎に対して呪詛を唱えていると、不意にベッドにぽとんと落ちているピンク色の何かに気が付く。

 

「あ?」

 

 単色では無い、水玉の模様も入っている革製のもの。その存在が財布ということに気付いた俺はその財布を拾い上げる。小銭の音がしない。もしや持ち主はしっかり者か───なんて馬鹿な事を考えて財布に目を凝らしていると、ドアが開く。

 

「失礼します、忘れ物───え?」

 

 その声色の正体が計らずとも田中だと分かった俺は、財布を顔の前に近付けたままドアの方を見遣る。すると、田中が引き攣った顔でベッド近くに立っていた

 

「......よ、よお」

 

「......人の財布の匂いを嗅いでいる───変態?」

 

「違う!」

 

 誰が好き好んで人の財布の匂いなんて嗅ぐか。何処のフェニミストだ......俺はそんな特殊性癖なんぞ持ち合わせていない。

 

「これ、お前のか?」

 

「うん、ごめん......手間取らせちゃった」

 

「俺も来たばっかりだし良いよ.....言っておくけど、匂いなんて嗅いでないからな」

 

 弁解混じりにそう言い、財布を差し出すと、田中はあはは......と苦笑いをしながら俺の掌に置かれていた財布を取る。

 

「分かってるよ......で、北沢くんはなんで此処に?」

 

「お前の様子を見に来たんだよ......石崎の野郎に言われてな。まあ、こうして歩けてんなら怪我は大したことないか?」

 

「......うん、少し足首を捻っちゃっただけだから。まあ、暫くは安静にしてないとダメだけど骨折とか捻挫とかよりかはマシ、かな」

 

「ああ、マシだよ」

 

 何せ、内容によっちゃ1ヶ月2ヶ月かかる怪我だったのかもしれないのだ。そうなれば仕事やレッスンにも影響が出るだろうし、何よりそれは田中の本意ではないはずだ。田中の言葉に便乗し、そう言うと田中は何故か苦笑いして一言。

 

「......ごめん」

 

「は」

 

 いきなり何を言い出すのだこの子は。怪我の診断結果を伝えた所からいきなり謝られても話の脈絡を掴みかねるのだが......。

 

「一応聞くけど、何が?」

 

 尋ねると、田中は顔を俯かせてベッドに向かって歩き出した。その足取りは重く、そして気だるげ。そんな田中の姿を見るのは初めての筈なのに───何故かその足取りに妙な既視感を感じた。

 

「球技大会、バドミントン───良い所までいったのに結局負けちゃって。負けても次があったのにそれも私のせいで出来なくなっちゃって......」

 

「お前が怪我してアイドル出来なくなる方が俺にとっては問題だぞ、志保にスライディングされるからな。それに、俺は地味に優越感に浸れたから別に良いよ」

 

 何せ、皆が汗水垂らして運動している中俺はゆったりと試合観戦だ。余計な労力を使うこともない、事情が事情故に皆から煙たがれることも無い。寧ろ、その逆......田中と共に敵を追い詰めたことで皆から賞賛されるまでに至ったのだ。

 

「あはは......北沢くんらしいね」

 

「田中は楽しくなかったのか?」

 

 応援されて。

 身体動かして。

 敵を追い詰めて。

 

 俺は楽しかったがな、と続けると田中は少し迷う素振りを見せた後にそっぽを向く。

 

「それは......楽しかったよ?皆に応援されて、北沢くんと一緒にバドミントンやって、敵を追い詰めて。負けはしたけど、楽しかった」

 

 そこまで言うと田中が誰もいない保健室のベッドに座り込む。ぽふん、と可愛らしい音がするもののスプリングが軋む音はせず、田中の身体の軽さをベッドスプリングにより感じていると、田中は少し暗い顔で言葉を紡ぐ。

 

「けど......勝ちたかったよ。折角北沢くんが本気になってくれたのに。普段、やる気を出さずに省エネしてるかも怪しい寝坊助北沢くんが普段使わないようなやる気を出してくれたんだから」

 

「やる気......?」

 

 俺がやる気を出すことはそこまで心を動かされることなのか?それは、なんというか.....嬉しいを通り越してショックなのだが。

 

「北沢くん、結構本気でバドミントンやっていたでしょう?」

 

「まあ、そうかな」

 

 先程の省エネ云々は兎も角、本気で何かに取り組んだのは確かに久しぶりだった。やはり、本気で何かに取り組めば楽しい気持ちになれるし、事実バドミントンは面白かった。家事とシスコンブラコン以外に懸命になれることが大してない俺にとっては必死に頭と身体を動かすスポーツをした事は、新鮮だった。

 

「だからこそ、勝ちたかった。一生懸命バドミントンしてくれている北沢くんと一緒に優勝したかったんだ」

 

「そんなものかねぇ.....」

 

「そんなものだよ。だから、なんだろ.....北沢くんがバドミントンやってくれなかったらここまで本気を出すことなんて、なかったのかもしれない。去年と同じでクラスの友達とわいわい楽しんでただけかもしれないし、そもそもここまで熱くなれなかったのかも」

 

 本来なら、それが正しいと思うんだがな。少なくともウチの学校では球技大会なんて体育祭同様イベント(お祭り)みたいなもんだ。怪我をおしてやろうとするような奴は居ないだろうてからに。

 

 まあ、なんだ。田中が熱くなろうが楽しくなろうが俺にとっちゃそれは些細な話であり、その感情次第で俺の運命が大きく変わることはない。故に、どう転ぼうが田中さんが球技大会してくれりゃ俺にとっては良かったのだが────

 

「それで怪我しちゃ世話ねえだろうよ、真面目でひたむきな田中さんよ」

 

 田中さんが球技大会を恙無く終わらせることが出来なかった事は、後々のシッホの俺に対する行為に大きく影響を受けることだろう。主にはスライディングタックルとか、4の字固めとか。田中のせいだとは言わない、てか言えない。寧ろここまで来たら自分の過去の行いが悪いのだと割り切れる。俺が妹に自身で身を守る術を教えてしまったのが悪いのだから。

 

「.....何か今、嫌味に聴こえた」

 

「真面目でひたむきって所か?俺は寧ろ田中を褒めちぎって賞賛したいと考えていたんだがな.....」

 

 田中の良いところは沢山ある。そして、今回の球技大会では沢山の良いところが顕著に見られていた。真面目、ひたむきは平常運転で更にバドミントンが意外に上手かったとか、俺とダブルス組んでくれる優しさだったり、声掛けした時に可愛らしいドヤ顔で反応してくれた真摯さだったり。

 

 そう、下手に田中のせいにしたくないのはそこなんだよな。どんなものにも真面目に取り組む田中だからこそ伝わる真摯な思い。その思いは俺の心の毒を尽く浄化してくれる。

 

 後々になって田中に怒られた事を『なんだよ』と思う時はあった。けど、田中と関わるにつれて、俺が感じたのは田中琴葉という女の子の『真摯な心』。惰性ではない、目の前のどうしようもない男を何とかしようとしてくれている真っ直ぐな心。そんな心を目の当たりにして、本物の毒を吐く気にはなれなかった。軽口は、時として言う時はあるし、そもそも田中が『そうじゃない』と言えばそこまでの話なのだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 ........

 

 

 

 

 

 

 なんだろうな、この気持ち。まるで、バドミントンの練習してる時のような熱く滾るような感覚。何時もの俺が感じることは無い熱い何か。

 そんな情動に身体を乗っ取られたのかは分からない。けど、何故か掌に力が入って、心が熱くなって、その想いがとめどなく溢れるように口が開く。

 

「ったく......楽しかったのになんでそんな顔するかね......なんて思ってたらそんな事で顔を曇らせてたのかよ」

 

「む、そんな事って───」

 

 俺が向かい側のベッドに座ると何やら反抗の意を唱えようとしていた田中が不意に目を見開き俺を捉える。

 

「そんなことだろうがよ、たった一度のミスで落ち込んであたかも『この先』がないような体で振る舞う.....らしくねーぞ。しゃんとしろ田中」

 

「───でも、もう球技大会は」

 

「あるだろ?」

 

「え」

 

 田中が素っ頓狂な声を上げて、こちらを見る。その声に俺は少しばかりのため息を吐き、田中を確りと見つめる。

 普段、真摯に向き合ってくれるお返しだ。タイミングを間違ってる感は否めないけど、田中が真剣な時と、こういう時位俺も真摯になんなきゃな。

 

「なら、来年仕返し(リベンジ)すりゃいい話だろうがよ」

 

「来年.....」

 

「お前に球技大会に対してのモチベーションが保てんのなら、俺をまた誘いやがれ。そしたら俺はまた喜んでお前とタッグ組んでやるよ。テニスでも卓球でも何でも来い......漫画の力で何とかしてみせる。だからそんなしょげた顔してんなよアイドル」

 

 田中が悩んだりした顔は、何度も見てきたけどどうにもしっくりこない。田中が一番似合うのはふとした時に見せる優しい笑みだ、少し悪態を突いた時にムッとしながらも最終的には呆れ笑いで許しちまう顔だ。何事にも向き合うと腹を括った決意の表情だ。

 

 俺は、そんな田中を見ていたい。一人の人間として、田中琴葉という偶像依然の一人の人間として、田中を応援したいんだ。

 

「俺は、楽しかったよ。お前みたいな真面目で、ちょっとポンコツで、それでいて目先の出来事に本気になれる田中とバドミントン出来て、さ」

 

「.....ポ、ポンコツ?」

 

「ああ、田中はポンコツだよ。ちょっと恥ずかしい事を言ったら壊れたアンドロイドみたいになる。それをポンコツと言わずして誰をポンコツと呼ぶのか、このポンコツめ」

 

「む.....それを言うなら北沢くんだってポンコツだよ!」

 

「はっ!怪我をしてしまった女の子が片腹痛いわ!!」

 

 お互いに悪態を突き合い、『ぐぬぬ.....』としかめっ面で睨み合う。けど、そんな表情で睨み合うのは今日が初めてだった故か、俺と田中はお互いにくすくすと笑ってしまう。

 

 

 

 

 ───ああ、その表情だ。

 

 

「.....やっと、元の田中に戻ったな」

 

「あ───」

 

「田中はそれで良いよ。お前の持ち味は真面目で、それでもとことん自分のやりたい事に真っ直ぐに、いざという時はぐっと前に進める所なんだからさ......精一杯笑って、精一杯協力して、お前の色を出す!それが出来たなら上出来だ───気張れよ、田中さんや」

 

 最後に、そう締めると俺は今できる最大限の笑みを見せて立ち上がった。最早、此処でやることは無い。終業を告げるチャイムも鳴った。田中がフリーズしているのが少々気がかりだが別に困ることはなかろう。では、帰って当初の予定の通りシッホに励まして貰おうではないか。

 

 どうせ、明日には酷い目に遭うんだし──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「......勇気、貰ってばっかりだ」

 

 

 

 

 

 

 

「.....え」

 

 

 それは、唐突な一言。

 

 

 その言葉───否、『声色』に俺は立ち止まった。何時もなら話半分に聞くような言葉なのに、この時の田中の声色に、俺は思わず身体と脳をフリーズさせてしまっていた。

 それは、聞いたこともない声色だったから。何時も真面目で、しっかり者で、勇気のある田中には見合わない覇気がなくて、弱くて、泣きだしそうな声。

 

「.....た、田中?」

 

 俺は、振り向いた。声が上擦っているのが自分でも分かる。けど、そんな事は気にしない。

 

「ねえ、北沢くん」

 

「.....どうした?」

 

「少し、昔の話していいかな」

 

 それは、半ば懇願にも近い声だった。そんな声で頼まれた俺は、無作為に突っぱねる訳にも行かず無言の了承で彼女に応えた。

 

「私、1度周囲の期待に押し潰されそうになった」

 

「周囲の期待?」

 

 周囲の期待、というとあれか?何時もお前が浴びているような声援応援その他諸々の期待ということなのだろうか。

 フリーズした頭で必死に考えを巡らせていると、田中は更に続ける。

 

「誰かに期待されるのが辛くて、本当は泣きたくて、何度も何度もそうしよう、なってしまおうって思ったことがある。けど、『琴葉なら大丈夫』って、そんな事を言われる度に私は期待に応え続けてたんだ」

 

「......それで、1回周囲の期待から逃げたのか?」

 

「ううん。結局私は踏みとどまったよ......何でだと思う?北沢くんに質問」

 

「......さあな、俺には分からない」

 

 そう言うと、田中は少しだけ困ったようにくすりと笑う。その笑みに、俺は更に頭の中がこんがらがってしまう。

 

 さっきの言葉から田中の様子がずっと可笑しい。纏う雰囲気も、オーラも何時もの彼女のものでは無い。

 俺は、田中琴葉という女の子に対して半ば尊敬のような思いを抱いていた。どんな時も、折れず、挫けず、最後まで自分の心の中に潜む芯を折らない女の子。それは、相手が誰であろうと賞賛に値するものだと思うし、万人ができるようなものでは無い。当たり前の事を、当たり前のようにこなす事って本当に難しいことなのだから。

 

「そっか.....やっぱりね」

 

「.....けど───」

 

「?」

 

 少し、目を見開いて驚いたような表情。それを見て少し笑ってしまうような衝動を何とか抑えて、俺は続ける。

 

「お前は1度周囲の期待から逃げようとした。正直、その苦しみは分からないし、悟ろうとしたってお前に『私の気持ちが分かるかー』って罵られるのが関の山」

 

 今言った通り、俺には田中の苦しみは分からない。それは、例え他人であろうとも理解することはきっと容易くはないだろう田中の心理。

 けれど、彼女は苦しいと言ってそのまま終わらせようとしない。昔も、アイドルをやろうとした時も。彼女は周囲の期待に投げやりにならず、向き合って、戦った。それは俺にとってはとても眩しい。

 

「だけど、お前は今も周囲の期待に応えようと頑張っている。トップアイドルになろうと、頑張っている。そういう頑張り、誇っていいと思う。一人の人間として、尊敬する」

 

俺が、そう言うと田中は笑みを見せる。その笑みは、まるで過去を懐かしむ様に、少し歪められた笑み。

 

「今の、北沢くんらしい。何処までも優しくて、気遣ってくれて」

 

「おめーはそこまで俺の事を知ってる訳じゃないだろ?」

 

「知ってるんだよ」

 

「え」

 

俺の過去を?

 

そんな意味を込めて発した一言に、田中は首を縦に振る事で肯定の意志を示す。

 

「私ね、とある野球少年に教えて貰ったんだ。『ひとつのことに真摯に取り組む事の楽しさ』とか、『それを終わらせた後の達成感』とか......ううん、再認識したって言った方がいいかも」

 

「世の中にも、そんな野球少年がいるんだな」

 

「いるんだよ、その少年の目付きの鋭さとかシスコンブラコンぶりとか......もう、本当にあの時色々突っ込みたかったのに、少年の話はとっても面白かったし、嬉しかった」

 

 そう言うと、田中は意を決したように前を見る。その視線の先にあるのは北沢啓輔。その光景は、冬休み直前に田中と買い物に言った時の光景に酷似していた。

 

 そして、今度は躊躇うことは無い。それは、田中の揺れることの無い決意の瞳を見れば、分かった。

 

「北沢くん」

 

 そうして、田中が口を開いた瞬間。

 

「キミが、私を助けてくれたんだよ」

 

 

 俺の過去は、忘れていた過去は、知るべき過去になった。

 

 

 

 

 

 

 

「田中」

 

「?」

 

「俺は、お前のことを覚えてない」

 

 前にも思ったことはある。

 俺は田中琴葉のような真面目な娘を中学時代に見たことはない。それは俺の既定事項のようなものであり、現時点ではそれが『答え』である。

 尤も、何かの欠片がトリガーになって『答え』が変わる可能性も無きにしも非ずだが。

 

「うん、分かってる」

 

「......面目ない。あの頃は、色々精一杯だったんだ」

 

「野球?」

 

「まあ、そうとも言うけど」

 

 野球以外にも、色々あった。まあ、大雑把に言えば家庭環境の事とか、人間関係とか。そういったものが目まぐるしく変わっていくことに免疫のなかった当時の俺は、そういった当たり前のものに過剰に反応してしまっていた。今考えれば、当時の俺は心が狭かったと、理解することが出来る。

 

「あの頃の俺には自分本位の記憶しかない。だからお前の問いには完璧に答えられないし、答えられたとしても、それはたまたま合っているってだけだ」

 

 人間は変わってしまう。色んなことを体験して、人並みに成長して、変わってないって思ってても人から見たら何かが決定的に変わっている。それを中学時代に知った。痛いくらい、思い知ったんだ。

 

「自覚してるとかしてないとかの問題じゃない。『変わらない』なんて殆どないんだ。ルールだって、不都合があれば変わる。感情にだって起伏がある。親友だと思っていた関係性は疎遠になるかより親密になるかの分岐点だ」

 

 そして、俺とお前の関係性も何時かは変わる。

 

「お前の怪我だって、いつかは治る。お前が話してたことは俺が忘れていた......俺がやった行動にも関わらずだ」

 

 何度だって、俺は口にする。

 渋谷にも、石崎にも、田中にも、そして自分自身にも。

 

「田中」

 

「......なに?」

 

 この、鎖のように俺を縛り付ける魔法のような言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

「それは、変わらずにはいられないんだよ」

 

 良いことも、悪いことも。

 

 好感情も、悪感情も。

 

 関係性も、存在も。

 

 色褪せていく思い出も、何もかも。

 

 全部、全部変わらずは居られない。

 

「だから俺はこの先も適当に暮らしていく。もう、何かに期待すんのは疲れたから。極端だって思われてもいい。現状維持が手一杯なんだ」

 

「......悲しくないの?」

 

 田中が問う。その質問に、俺は当たり前のように決められた答えを述べる。

 

「人には、人それぞれの考え方や思想がある。俺は俺で、田中は田中。お前は悲しいのかもしれないけど、俺にとっては.....もう、馴れたよ」

 

 当初は確かに虚無感ともなんとも言えないものを感じていた。それでも、それは日を追う事に変わっていく。その意思が頭に張り巡らされてから野球をキッパリ切り捨てた。道具も、不必要な物は全部捨てた。何故か、グローブだけはどこを探しても見当たらなかったけど、出来る限り.....野球を『する』ことからは遠ざかって行った。その代わり、家族の為の時間に費やした。弟を迎えに行ったり、出迎えたり、夕食を作ったり.....そんな日々は俺の心にぽっかりと空いた穴を少しづつ埋めてくれた。そうして、『現在の俺』がいる。

 

「人の事なんて、分かんねえよ。けど、俺にとってはその生き方が良くて田中にとってはお前が思った道が正しい.....それだけだ」

 

「.....そっか」

 

 顔を俯かせて、田中がそう呟く。長くはない、1部の前髪だけパツンと整えられた髪が田中の目を隠す。それでも、田中は言葉を続けずにその一言のみ。故に、俺はもう1度、言いたいことを続ける為に息を吸う。

 

「だからこそ、俺は田中を応援するよ」

 

「.....えっ」

 

 途端、田中が顔を上げて俺を変なものでも見るかのような眼差しで見据える。何だ、そんな訝しげな表情をして───そう思っていると、田中が言葉を続ける。

 

「ごめん、話の脈絡が理解出来なくて」

 

「いや、案外関係のある話だぜ?お前はお前の進みたい道を覚悟を持って進んでいる。なら、俺はその道に干渉する謂れなんてないから、田中の進むべき道を陰ながら応援してる.....ほら、関係あるだろ?」

 

「.....確かに」

 

「だろ?だから、それに関して俺が纏めたい言葉はひとつだけ」

 

 そう言って、俺は笑った。それは、きっと引き攣ってるだろうと思うけど今の俺が出来る最大限の笑みで。普段使わない表情筋をフル活用して───

 

「お前は進みたい道を突き進めよ。俺は.....ファン1号は、田中琴葉っていう女の子が止まらない限り、ずっと応援してるからさ」

 

 たったひとつ。

 

 田中琴葉という偶像(アイドル)以前の1人の女の子に対して去年から言っていたことを再認識させるべく、そう言った。

 

 

 

「......ほら、やっぱり元気を貰ってばかりだ」

 

「俺に?はは、物は言い様だな。大それた事なんて言ってないだろ?」

 

 進んでいく人間を応援したくなるのは最早人の性といってもおかしくはない。頑張る人間を応援したくなるのは俺にとっては当たり前。それ故に、俺は自嘲気味にそう言う。それでも田中は首を横に振り、何時もの凛々しい顔つきで俺を真っ直ぐ見据えた。

 

「昔も、アイドルやる時も、今も。北沢くんに、貰ってばかりだよ.....だから私からもひとつだけ」

 

 そう言うと、田中は俺にニッコリと笑った。それは、俺が見た中では1番の田中の笑み。本当に嬉しそうに、目を細めて一言。

 

「ありがとう、私に元気をくれて。進みたい道を突き進める勇気をくれて───」

 

「.....あのなぁ、そういう笑みはもっと他の奴に見せてやれば良いじゃないか」

 

「無理だよ、きっと.....北沢くんがいなきゃ、こんな笑みはきっと出来なかったから。北沢くんがそうやって私に勇気をくれなくちゃ、『本当の勇気』は得れないから。だから、ありがとう」

 

「.....もう、勝手にしてくれ」

 

 真正面から、笑顔で感謝をされる事に俺は慣れていない。昔から、感謝されるような事などまるで行っていなかったから。やっていたとしても、きっとそれは人として当たり前の事で、家族にしかそんな事を言われた『記憶』のない俺にとって、田中の感謝は何故かむず痒いものがあった。

 

 それだけではない、何だ───この、心にせり上げてくる感情は。何なんだ、田中のことなんて思い出せないのに、断片的に見えてしまう既視感は。

 

 一体お前は何なんだ。何故、お前は俺の心や面持ちをこうも容易く動かしてくれるんだ。どうして、お前という存在にいちいち既視感のようなものを感じてしまうのだ。

 

 本当に、分からない。

 

「ッ.....」

 

 頭が痛くなり、片手で頭を抑える。それと同時に保健室に向かって足音が聴こえる。恐らく保健室教諭が戻ってきたのだろう。この状況を第三者に見られたなら後々面倒なことになること必至───そう考えた俺は田中に笑いかけた後に出口に向かって歩き出した。

 

「先生来たな。それじゃ、俺はこれで───」

 

「待っ───」

 

 外に出ようとした俺の制服の裾を田中が指でちょこんと引っ張る。

 ここで、いつも通りの俺なら踏みとどまって『何だ』と返すところであったろう。それが、俺───北沢啓輔クオリティだから。

 しかし、今回は球技大会を1試合ながら本気でやり過ぎた故に足腰は溜まった乳酸のせいでふらふら、ましてや疲労感なんてものは抜群に残っている。

 

「うおっ」

 

「え───」

 

 それ故に、俺の体は引っ張られた裾に合わせるかのように、倒れ込む。その先にはベッドと田中。不味い───そう思った時にはすでに遅し。服の裾を引っ張った田中と共に、俺はベッドにもつれて倒れ込んでしまった。

 

 

 

 俺は田中を押し倒してしまっていたのだった。

 

 田中の長く綺麗な髪がベッドに倒れたことにより少し乱雑な状態になって俺の視界に入る。目は、驚愕。頬は少し赤みがかって───まあ、なんだ。扇情的だった。

 

「......な、な」

 

 そして、そうなると決まって起こることがやはり誰かにこういったハプニングを見られるのが定石なわけであって───

 

「なんかすごい音がしたけどどうしたの......って、何やってるの2人共──!?」

 

「ち、違います!!誤解です先生!!私は北沢くんに財布を───!」

 

 

 

 

 

 

 

 結論はただ一つ───

 

 

 この状況は、とても不味い状況だということだった。




バド回は本当に難しかった。
もう少し詳しく書きたかったけど、このまま書いてると永遠に終わる気がしなかったので、バド回は打ち切り───バドミントンの二次創作書いてる人、しゅごい。

そして、今回はシリアス入りました。不快さが滲み出る文章で気分を悪くさせてしまった方は申し訳ありませんが、これがこの作品の肝です。
他作品ネタがシリアスの土台になってしまってるのに危機感を覚えつつ、作ってしまった設定故に変更出来ないもどかしさがあります。

やる気って大切よね。実は私、このパートは作品投稿をする前に作っていたのですが、地の文を書くことを億劫に感じ、何と制作期間6ヶ月!!挙句の果てには16000字という中途半端な長さの物を書いてしまったやる気のないろくでなし作者は私です。

執筆を滞らせてしまい申し訳ありませんでした。前話も合わせて、皆様方の趣味嗜好に本二次創作が適合なされば、ゆっくり読んで頂ければ幸いです。
いや、ホントバド回は茶番なんで.....最悪、後編の終盤さえ読んで頂ければ話の筋的には違和感なく読めるんで。

2019/07/23 14:14 後半部分心理描写を追加。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話 熱さはぶり返してしまったようです

昨日日間入ってました、読者の皆様ありがとうございます───なんて自分語りは置いといて、次話をお楽しみください。


 

 

 

 

 

 さて、運動部の運動部による運動部の為の祭典である球技大会が終わりを告げ、何時もの穏やかな日常が戻り始めていた昼休みの今日この頃。俺、北沢啓輔は何時もながら窓の背景と小鳥たちの囀りをBGMに見立てて惰眠という名のリラックスタイムを過ごしていた。

 

 今日、田中は何やら用事があるらしく机にはいない。何時もなら惰眠を貪っている俺に委員長チョップが飛んでくるのだが、今回はそんな事も無く穏やかな日々を久し振りに味わうのと同時に、一種の虚無感のようなものを感じていると、不意に肩をとんとんと叩かれる。

 

 はて、誰だろうかと思い上体を起こして辺りを見渡すと、そこにはあたかも当然のように石崎洋介がそこに立っていた......仁王立ちで。

 

「......で、俺は脛を蹴りあげれば良いのか?」

 

 弁慶の泣き所とか言ったな。仁王立ちで動じないってことは脛を蹴らないとこの馬鹿は反応してくれないよな。

 

 そう思い、立ち上がりつま先で石崎の弁慶を蹴りあげようと思い切り足を振りぬこうとすると、不意に石崎が目を瞑ったまま喋る。

 

「......田中が転んだ」

 

「あ?」

 

「あのしっかり者の田中がだ。それも、球技大会やってから暫く経って、怪我は治っているはずなのにも関わらず良く転ぶ」

 

 ああ、そう。

 

「で?」

 

 俺が尋ねると、今度は目を見開いた状態で石崎が俺に語りかける。

 

「単刀直入に言う。お前、何かしたろ」

 

「ああ、多分」

 

 心当たりなら、山ほどある。例えば球技大会の前に色々いざこざがあったりとか。はたまた惰眠してばっかりでしっかり者の田中さんの反感を得てしまったとか。そういったものが俺の心の中で芽生え続けている限り、俺は永遠に石崎の質問に対して曖昧な解答をし続けるだろう。

 

 主に、心当たりがありすぎるせいで。

 

「やっぱりてめえか!」

 

 石崎が唐突に俺の胸ぐらを掴みネクタイを引っ張る。俺としては、このまま制服を掴まれて皺なりなんなり出来てしまうと大いに困るので流されるように石崎にくっつく。クリーニング代も、シャツを買い換えるお金もあまり馬鹿にならないからな。

 

「俺に言われても知らねえっての。強いて言うなら心当たりがありすぎて分からん。田中に聞いてくれよ」

 

「俺もそう思ったよ......!ってかそうした!」

 

「で、結果は?」

 

「見事にあたふたされて逃げられたよ!周りの目線が冷たかった......!正味、興奮はしたっ......!」

 

「お前真性の変態だな」

 

「ああ!?変態で何が悪いんだよぉ!?」

 

 そこは否定しろよ。特にお前は人気者なんだから、変な噂とか立てられないように少しは私生活を気にしろ。

 

「......てか、石崎が荒ぶっているのも全部俺のせいか」

 

 忘れもしない、球技大会後日談。

 怪我をした田中を保健室まで運んだ俺は田中の足の治療をしつつ、田中との意外な接点を知り、感謝されて、そして押し倒した───

 無論、不可抗力だ。そこまでの根性はないし、あれからやってきた保健室の先生の誤解もひいひい言いつつも何とか解いたし、あれから田中にも謝ったし。別に不都合はないだろうな、なんて思っていたのは球技大会が終わった夜までのこと。

 

 そう、夜まではそう思っていたのだ。

 日を改めて田中に挨拶をしようとすると、なんとなんと逃げられる逃げられる。何が悪かったのかはまあ察しはつくし、日を改めて謝りたい気持ちもあるのだが兎にも角にも田中と話すことが出来なければ謝罪もも出来なかろうて。

 いっその事謝罪文でも送ろうかしらん・・・

 

「ああ、全くそうだね。俺が荒ぶっている原因は確実にお前のせいだ。確実にな」

 

「お前の脳内は平常運転で荒ぶってるけどな」

 

「なんだ、分かっているじゃあないか」

 

「自分で言うのもなんだけどそこは否定しようぜ野球部エース」

 

 まあ、田中とは近いうちに話す機会を設けなければならないだろう。流石に挨拶しただけなのに避けられるとかショックで泣く。序に妹にも勘繰られてぶっ飛ばされるし。

 

 当面の課題は、田中さんとお話が出来るようになることが課題だ。と、内心考えていると頃合良く田中が田中がこちらへ向かってくる。何か心ここに在らずといった雰囲気だが大丈夫なのだろうか、なんて心配を他所に俺は席に着いた田中に声をかける。

 

「田中?」

 

 すると、田中は「ひゃうっ」と情けない声と同時に肩を跳ね上げ、壊れた機械のようにこちらを振り向く。

 

「え.....なに、どしたの?」

 

 漸く話しかけられたと思ったら、今度はポンコツアンドロイドの田中さんが出来上がっていらっしゃった。もしや石崎の言うところの『あたふた』とはこういうことを言うのか?

 

 軽く石崎を見遣ると、石崎が目を細めてニヤリ───まあ、なんだ。達観者のような表情で俺を見つめていた。その目は『お前の考えていることは間違ってないよ』とでも言いたげな目付きで、その目付きに俺は田中の現在の状況を悟り、迅速に関係を改善すべきだということを悟った。

 

「あのさ、昨日の件なんだけど───」

 

「あ、うん!あれは私が悪かったよ!ごめん!!」

 

 顔を赤くして、早口でそう言う田中。そんな何時もらしからぬ田中の状態に俺は改めて事の深刻さを悟る。これじゃあ謝るどころか会話も成立しない。

 

 どうやら、俺と田中さんがまともに会話をすることが出来るのはもう少し先になりそうだ。

 

 何とか、シッホに嫌われる前には関係を修復したいものなのだがな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とある作戦を思い付いたんだ」

 

 時刻は昼休み。珍しく俺の前の席に陣取って3段弁当を食らっている石崎に今の今まで考えていたことを告げようと話を切り出すと、今まで白米のみの弁当箱に釘付けになっていた石崎がこちらを見て少しだけ胡散臭そうに俺を見る。

 

「お前がそう言った時の作戦は大抵碌なもんじゃないのだけど・・・まあ、いいや。で、何の作戦を思い付いたんだ?」

 

「田中の怒りを買う事」

 

 良い案だと思ったんだ。

 怒り───というものは時に我を忘れさせる効果がある。情動と熱情に身を任せ、憤怒の想いをありったけの力で解き放てば、何時か普段通りの会話を挟める───なんて思ったんだけどな。

 

「案の定ろくでもない事だったよコイツ」

 

 珍しくツッコミ役?に回った石崎が俺を呆れた表情で見据えペシっと俺の頭を叩く。

 何すんだ坊主、この野郎。

 

「何時もペシペシ叩いてるお返しだ、こんにゃろう」

 

 そう言うと、石崎は続ける。

 

「お前、もうちょっと田中に優しくなれよ。いや、人に優しくなりやがれよ」

 

「環境が環境なだけにそりゃあ無理かもしれんな」

 

 きっと、皆が俺に優しい世界になってくれたら俺も皆に突っかかったりお調子の良い言葉を出す必要も無くなるから自然に優しくなれる筈だ。要は皆が俺に話しかけたりパンチ、キック、チョップ、罵倒をしなければ良いんだ───志保、田中、渋谷、石崎、お前達のことだぞ。

 

「お前なぁ......まあ、いいか。これで田中と話せなくなるよりかは何らかの対策を講じた方がいいかもしれないだろうし」

 

「講じた方が良いに決まってんだろ、兎に角今の状況は不味い。具体的に言うとドキドキする。田中を普通の目で見られなくなる」

 

「リア充は、爆ぜてどうぞ!!ガッデム!!!」

 

 兎にも角にも俺を見てそう吐き捨てた石崎が目線を俺にではなく弁当に合わせた事で、この話は一旦収束する。

 

 あれから、何度か田中とコンタクトを取るべく近寄ってみたのだが近寄る前に逃げられる事が殆どで唯一話しかけることが出来た3時限目休みも、しどろもどろと言った様子で話を逸らされて用事があるとか言われて逃げられた。

 

 今は、何処にいるのかは分からないが恐らく教室へ出来るだけ離れた所で昼飯を食べているだろう。毎度、昼食を教室で食べる俺から離れる為に。

 

 どうやら、俺も随分と嫌われてしまったようだな。田中琴葉という女の子は俺にとってはクラスメイト以上のなんでもない存在だが、球技大会で少しは仲良くなれたんじゃないのかな.....なんて自惚れていた俺にとっては少しがっくしくるものがある。なんだろ、ちょっと悔しい。

 

 ちくせう。そう呟いて白米を平らげると、先に飯を食べ終わった石崎が意味ありげにこちらを見つめる。

 

「何だよ」

 

「いやぁ、よくよく考えたら高校入ってからのお前が対人関係で悩んだ事なんてあるかなぁ.....ってな」

 

「ないな。だって俺、人と関わる事大してないし」

 

「そんなお前が他人と関わって、対人関係で悩んでいる.....ほー、これはもしかすると?」

 

 変な顔をしてこちらを見る石崎に不覚にもイラッときた俺は溜息を吐いて、石崎に悪態を吐く。

 

「やっかましいなぁ.....」

 

「ははっ.....存分に悩めよ、若人よ!」

 

「おめーは勉強頑張れよ、赤点予備軍」

 

「うっせバーカ!」

 

 石崎が舌を出してあっかんべーを敢行する。果たして石崎は現時点での自身の学力をどう思っているのだろうか。恐らく、予想だが、1ミリも鑑みてないのだろう。その根拠は簡単、奴が果てしない野球バカであるからである。

 

 だからこそ、俺はそんな石崎のあっかんべーに笑いを堪えきれなくて。

 それと同時に少し悲しい気持ちにもなって。

 

 最後には、何で『お前がここに居るんだ、何故ここに居てくれるんだ』って訳の分からない気持ちに至る。

 

 ───仮に、周りの人間の運命を変えてしまったらお前はどうする?

 

 ───進むべき道が、誰かによってねじ曲げられて、未来の展望も馳せた未来も霧散させてしまったら、どうやってお前は生きていく?

 

 何気ない会話から、かつての過去を思い出す。辞めようとしても辞めきれずにぐだぐだと引き延ばして、惰性だけでやってきた中学時代。葛藤の念に込められた問いは、何時もこれだ。

 

 それでも、そんな想いすらも引き延ばして迷っていたら何時の間にか大切なものを失くした。その何かが、俺を『変わらせた』。

 

 石崎の運命を変えてしまった。

 

「.....話、終わりか?」

 

「.....?どうしたんだよ、啓輔」

 

「.....いや、何もない」

 

 こういった想いに駆られると、石崎を直視出来なくなる。石崎に対しての申し訳なさや、後悔の気持ち。それらが俺を苦しめて、目を逸らさせる。

 

 依然として、俺は石崎に謝れないでいる。

 

「.....あ、そーいや今日ミーティングだったな」

 

「そうか、なら行ってやれ。お前の下手くそな高説でも、エースって霜がつくだけで神の啓示になるんだからな」

 

「アンタ息を吐くように毒吐きますよね.....」

 

 ふぅ、とため息を吐いて石崎は教室を出ていく。その光景を見て、漸く俺は生きているような、そんな気持ちを実感して大きく息を吐いた。

 

 群青色の空は何処までも眩しくて、明るい。果たして俺の俺のこんなモヤモヤっとした気持ちも、この群青色の空のように澄んだものになるのかは分からない。ただ一つ分かること、それは俺の今の気持ちがあたかも曇天のような、そんな面持ちだということか。

 

 泣きたい位の過去に、立ち向かう勇気が今の俺には全くない。

 変わり行く景色に想いを馳せることすら、今の俺には出来ない。

 

 それは、総じて恐怖心が勇気を勝るから。

 

 きっと、何かを恐れているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コツン

 

 

 

 

 

 ふと、そんな音が聞こえ、俺は空を見るのを止め反対方向───廊下側を見やる。すると、そこには最近は見なくなった光景、田中さんが席に着いて、一息入れている光景が俺の目に映った。

 

 耳が赤い。平静を装っているつもりなのかは知らないが、俺から見ればそんな装い、平静などではない。

 平静というのは俺のようにしっかりとした姿勢で、笑顔を向けて、にこやかに、フレンドリーに────

 

「や、やあ!田中さんよぉ!随分と俺から逃げ回ってくれたじゃねぇか!」

 

「!?」

 

 あ、俺もテンパってた。

 

 いつもの俺らしからぬ悪人のような挨拶に、またしても肩を跳ね上げさせた田中に若干の罪悪感を感じつつもコホンと小さく咳払いをする。

 

「.....こんにちは、北沢くん」

 

 それは、田中も同様で驚いた表情をした後に普段の普通そのものといった表情で俺を見る。いつの間にか、石崎はいなくなり周りの人間もあまりいない故に、窓際にある俺と田中の席だけ、この世界から隔離されたような感覚を得る。雑音は、聞こえない。まるで、遠い。

 

「おう」

 

 そして、世界は変わった。1度見たことのある世界へ。何時も、俺と田中が入り込んでいる笑いあり、罵倒あり、チョップありの世界へ。

 

 そんな世界がやってきたことに、何処か嬉しい気持ちを得てしまっている俺は、余っ程この世界が気に入ってしまったのだろう。

 

「そろそろ学期末テストが始まるね。勉強しなくて大丈夫なの?」

 

「唐突だな。さっきまで俺の声を聴いた途端にそそくさと逃げていた田中さんよ」

 

「む.....それは、ごめん」

 

 少し申し訳なさそうな表情で謝る田中を見て、今なら改めて非礼を詫びることが出来ると思った俺は椅子ごと田中に向き合い頭を下げる。

 

「俺も悪かったよ。幾ら事故とはいえ、あれは.....ねぇ?」

 

 押し倒した後に見えたのは、目を見開いた田中さんの表情に、長く綺麗な髪が乱雑にベッドにかかる扇情的な様子。序に言うのなら恵美と出会った時とはまた違った香りが俺の心を少しだけドギマギさせた。

 

 端的に言って、本来なら土下座では済まされない程の大事件を犯してしまった俺なのだが、今回は事故ということもあって、田中からも、保健室の先生からもその件については咎められなかった。保健室のベッドを無断で使ったのはめっさ怒られたけど。

 

「あ.....あの事はもう忘れてっ」

 

 じゃあ、取り敢えずお前のその赤面する癖を何とかしてくれ。そっちが意識している限り、俺は一生あの事件───黒歴史と形容しても可笑しくはないそれが頭を過ぎるんだからな。

 

 と、まあなんとも自意識過剰な考えを口に出す程この事件を混乱状態にしたくない俺は両手を上げて、降伏の意思を示す。それは、この件に関しては無理矢理にでもわすれますよー.....という軽い意思表示のつもりだ。

 

「へーへー分かりましたよ委員長。それで?テストが何だって?」

 

「.....勉強しなくていいのかなって」

 

 そう言ってちらりと俺の机を見る田中さん。俺の机には先程まで平らげていたお弁当に、りっくんがクリスマスにプレゼントしてくれた白いハンカチ。どんなプレゼントでもりっくんのプレゼントという霜が付くだけでご飯3杯は余裕でいける。それ故に、俺は白いハンカチを机にかけ、本来のハンカチの用途とは違った形で愛でていた。

 

「なんだ、そんなことか。勉強なら今の俺だってしているぞ?」

 

「.....え?今の北沢くんが?」

 

「何故、りっくんがハンカチをくれたのか。それを検証する為にりっくんの心理を研究する.....心理学の勉強っ!」

 

「5教科の勉強をしようよ、国数理社英とか」

 

 まともに返された。なんだろう、凄い恥ずかしい。

 

「ただでさえ、北沢くんは勉強あまりしてないのに.....本当に大学へ進学するの?」

 

「うん、するぞ。ていうか、テスト勉強は俺だってちゃんとやっているんだから心配するな。赤点以上の点数位、余裕のよっちゃんだ」

 

「.....ふーん」

 

 田中さんがそう言って俺を怪しげに見遣る。まさに、信頼していないといった様子。そんな田中を見た俺は、不覚にもイラッと来てしまった。

 

 若気の至りとかいうやつだろう。俺は田中を自分でも分かるほどの薄目で見やると口角を上げて、ニヤリと笑みを送る。

 

「賭けるか?」

 

「え」

 

「簡単な話だ。今回の学期末テスト、5教科で合計点数が高かった奴が勝ち」

 

「.....テストはそんな事をする為にやるんじゃ───」

 

「おっけ!つまり自信ないんだな?」

 

 ピクリと田中の肩が上がる。しかし、それはあの時のように慌てた為に肩が跳ね上がった訳ではなく、もっと違った様子。

 

「そうだったんだな。だったら最初からそう言ってくれれば良かったのに。『私は勝つ自信ありませんー』ってな.....自分のテストに自信を持てないやつが、人のテストに指図とかマジテラワロス──────」

 

「.....勝負しないなんて、一言も言ってない」

 

「あ?」

 

 途中まで言いかけた俺の言葉を遮った田中に反応すると、田中は怒りの表情で俺を見遣る。それは、まさに臨戦態勢といった様子。

 

「勝負するって言ってる。私だって、今回のテストで北沢くんには負けないって自信があるから。弟くんのプレゼントを愛でているマザコンお兄ちゃんには絶対に負けないくらいの、ね」

 

 恐らく、田中は俺の言葉に乗っただけだ。それだけならば、球技大会の時に田中のプレゼンに俺が乗ったそれと状況はさして変わらない。しかし、今回は違う。

 

 田中は、怒っている。俺に挑発されて、真面目な田中は本気で怒っていた。そこで、漸く俺はこの女の子を煽る事がどれだけ危険なことなのかを理解したのだった。

 しかし、俺から吹っかけた以上田中の恐怖的な一面を見た位で引き下がる訳にはいかない。何より、偶には俺だってやれば出来る所を見せなければいけないのだから。

 

「.....わくわくが止まらないよ。今から北沢くんの鼻っ柱が折れるのが楽しみだ」

 

「.....上等だよ、田中。俺はマザコンじゃあないっていい加減体に染み込ませなければならんし、丁度良いや」

 

 俺は、田中を薄目で見たまま続ける。田中の瞳に、俺のこの姿がどう見えているのかは知らないが、少なくとも俺の心の中にはあの時の球技大会同様熱く滾る何かが湧き上がっている。

 

「勝負だ、田中。仮にお前が勝ったら、俺を煮るなり焼くなり好きにしろ。その代わりお前が負けた場合───分かってるな?」

 

「.....絶対に負けないからっ」

 

 お互いが、睨み合う。その光景は、あの時の球技大会と同じ。

 熱情は再動員され、俺の熱情を嫌という程滾らせた。

 

 

 

 

 

 どうやら、熱さはぶり返してしまったようです。

 

 こんなの、望んではなかったんだけどな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

「と、いうわけで勝負することになったんだ」

 

「先ずは正座して琴葉さんに対する非礼を詫びなさい暴言兄貴」

 

 家に無事に帰ることが出来たのならば、俺に待ち構えているのは2通りの光景。1つは、レッスンを切り上げた志保が陸を連れて帰り、一緒に遊んでいる光景。若しくは誰もいない家に、陸と一緒に帰っていく光景。

 今回は前者が正しく、またテスト期間でもあった為当番の日に乗っ取り俺が作ったカレーライスを食べ終え、陸が眠りこけ、母さんが風呂に入っている頃に俺達は机に向かい各々の課題を解いていた。

 

 そして、小休憩にと麦茶の入ったコップを2つ持っていきそのうちの1つを志保に渡したところで、俺達は少しの間会話を挟むことにした。

 学校のこと、アイドルのこと。

 

 そして、共通する話題───田中琴葉に関して。

 

「いやあ、まさか煽りを入れたつもりが煽り返されるだなんて思わなかった。田中も成長したなあ、主に精神面が」

 

「それに比べて兄さんはいつまで経っても精神面が5歳児よね。煽り耐性ゼロの遊び心満載で、精神年齢が年相応なのか疑うレベルよ」

 

「うっせバーカ」

 

「馬鹿、ね。誰に口を聞いているのかしら。私?それとも自分自身?後者なら兄さんのツッコミは概ね正しいわ───自分語り乙って所ね」

 

「母さぁん!!志保が虐めるよ!!」

 

「.....ふっ

 

「おい今鼻で笑ったろ」

 

 確りと聞こえましたからね?普段はクールな志保さんが鼻で笑ったの、確り聞き取りましたからね?

 

「それにしても、そんな子供じみた理由で喧嘩をするなんて.....本当に兄さんは馬鹿よ。どうしてこういう時に限って子供なの。スペックは一般社会人のレベルを悠に超えているのに」

 

「悪い意味でか」

 

 それならば自覚している。崇高な精神もへったくれもない俺は時として遅刻や不勤勉等を起こすことがある。そんな俺が一般社会人のレベルを良い意味でぶっちぎってるわけが無い。俺がそう思っているのだ、きっと志保もそう思っているのだろう───と内心思っていた。

 

 けど、志保が続けた言葉は意外にも俺の予想とは反して。

 

「良い意味、よ」

 

 志保が珍しく、俺を褒めた。

 

「おいおい、過大評価なんてお前らしくないぞ。お兄ちゃん褒められるのは嬉しいけど、志保のその評価は何か裏を感じる」

 

「本心よ、今時家事全般が高レベルでこなせる高校生なんてなかなか居ないものよ」

 

 気の所為だと思い、しつこく否定をするものの志保の言葉は変わらない。

 明日の天気は槍なのかと本気で疑っていると、志保は続けてため息を吐く。

 

「過小評価が過ぎるのよ兄さんは。人のことは馬鹿みたいに褒める癖に」

 

 そして、トドメの一言である。

 吐き捨てるように言った言葉は図らずも俺の胸に突き刺さり、反抗の意を削ぎ落とし俺の顔を縦に頷かせてしまう。

 

「.....うむ」

 

「これに懲りたら多少は自分の家事全般に自信を持つこと。料理だってかつての地獄のような晩御飯より100倍もマシになったのよ。野菜だって確りと切れるようになったし、煮物の作り方だって間違えない。洗濯も、掃除もそれなりに出来る.....良かったわね、兄さん。後は職さえ探せば勝手に生きていけるわ」

 

「.....確かに!!俺.....一人で生きていけるよ、志保!!」

 

「逝ってらっしゃい、私兄さんの一人暮らしを陰ながら応援するわ」

 

「やめてよね、あたかも今すぐ俺が出ていくかのように対応するの」

 

 後、『いってらっしゃい』が変な書き分けされた気がするんですけど気のせいですか?俺、泣くよ?自宅の押し入れに顔をぶち込んでおいおい泣くぞ?

 

「.....話は変わるけど、餌に釣られてテスト勉強をするのなら是非頑張ったら良いと思うわ。私も兄さんの事に関与出来る程暇じゃないし」

 

「餌って.....何も俺はそういうのだけで田中に勝負を吹っかけた訳じゃないんだぜ?」

 

「餌のようなものよ、琴葉さんに何でも言う事を聞いてもらうだなんて.....何時から兄さんはそんなに偉くなったの?」

 

「一応俺と田中は同年代なんですけど」

 

「.....ああ、そうだったわね」

 

 思い出したかのような声色でそう言われた。

 啓輔マジでショックなんですけど。

 

「.....まあいいや、なら俺の好きにさせて貰うぞ。一応報酬もあるし、ボッコボコのフルボッコにして田中に1つ言うことを聞いて貰おうと思ってたから」

 

「.....公序良俗に反する事は絶対にしないこと。それだけは肝に銘じて好きにしなさい」

 

「分かってら」

 

 やってたまるかそんなもの。

 こちとら1度前科紛いの事をしでかしちまってんだ。これ以上田中の評価と自身の人徳が地に落ちるような行為なんてしてたまるかよ。

 

 

 

「ああ、それと」

 

 これ、大事だわな。

 そう呟いて、俺は志保に笑みを見せる。気持ちは先程のような巫山戯た気持ちではない、出来る限り妹の事を考えた気持ち。

 1度そうなってしまえば志保に対する怒りなんて、なくなってしまう。仕方ないよね、俺チョロいしシスコンだし(自覚)。

 

「お前もテスト近いだろ?分からないとこ、あるなら相談に乗るから。1人で悩まないでお兄ちゃんに相談しろよ?何時でも見てやるからさ」

 

 そう言うと、目を見開く志保。続いて、目を右に左に動かして口を噛み締めて耳を紅潮させた。目をきょろきょろさせたのは、視線の置き所を探しているのか。全く定点に定まっていなかった。

 

 やがて、志保が漸くこちらを見定めて悔しそうに眉を潜める。───素直じゃないけど時々優しくて、面倒見も良くて、器量良し。ああ、かあいいなぁ。こんな妹が居てくれて俺は本当に幸せだなぁ。

 

「それは───分かっ、てるわよ」

 

「ははっ、照れんな照れんな。頑張れよ、志保」

 

「ッ───喧しい!!」

 

 志保の右ストレートを首捻りで躱して、綺麗な御御足から放たれる強烈な蹴りをサンバステップで回避する。

 サンバステップ?それは昔取った杵柄って奴ですよ、志保さんや───と心の中でおちょくっていると、唐突として志保が俺に対しての物理的攻撃を中断して、小さくため息を吐き席を立ち上がって歩き出す。

 

 なんだ、もう終わりか───そう思い勝利を確信して軽く口角を上げていると唐突として隣の椅子を引く音が。母さんが戻ってきたかと思い、嬉嬉としてそちらを振り向くと目の前には志保がワークを広げている光景が!!

 驚きで心臓飛び跳ねそうになったものの務めて冷静に俺は志保に尋ねる。

 

「.....志保さんは俺の隣で何をしてらっしゃるんですかねぇ」

 

「兄さん、実は私今日中にこのワークを終わらせたいの。テスト期間はまだまだ余裕があるけど、出来る時に終わらせたいし、終わらせる期間が早い程レッスンにも打ち込めるから」

 

「な、何時間やるつもりだい?」

 

 苦し紛れにそう言うと、志保は純真無垢な笑みで一言。

 

「終わる迄よ」

 

 俺に、非情な宣告を下した。

 

「分からない所、教えてくれるんでしょう。こうなったらヤケよ。とことん学ばせて貰うから覚悟しなさい」

 

「母さん助けてこの子に俺の学力搾り取られる」

 

 その後、滅茶苦茶勉強しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自習時間───何時もの俺ならこの時間は惰眠を喰らっている所なのだが、今回はそうはいかない。

 テスト期間中であり、授業以外にも休み時間を使って復習をしたり、ノートまとめをしたりするクラスメイトがちらほらと出ているが、その例に漏れることはなく俺もテスト勉強とノートまとめを確りと行っていた。

 

 不勤勉のツケが祟ってノートに空きがある所は田中に土下座して見せてもらったりして工夫していた為、そこまでノートに粗がある訳では無い。田中様々なのに勝負なんて仕掛けて良かったのか、と今更ながら思った。が、これまた今更勝負を撤回することなんて出来やしない。

 

 こりゃ勝っても偉そうになんか出来ないぞ───なんてノートまとめを進めていくに連れて軽く戦慄ってると目の前で弁当を食っていた石崎がこちらを有り得ないものでも見るかのような目付きで見つめていた。

 

「な、なあ。啓輔くん、お前ってそんなに勉強ガチ勢だったっけ?俺こんなキミ見たことないよ?」

 

「奇遇だな。俺もお前みたいな野球馬鹿見たことがない」

 

「それは無理がありませんかねっ.....!」

 

 無理あったな。

 ただ、今の俺は俗に言うガチ勢って奴なんだ。出来れば、お口にチャック。可能ならお口に裁縫───許容範囲内で、とっとと自分の課題を解いて、俺の邪魔をしないでくれやい。

 

「ていうかお前もテスト勉強しろよ。幾らお前が野球馬鹿でも最低限の点数を取らないと卒業すら出来ないんだぞ?」

 

「最低限?おう、進塁打か。プッシュバントなら任せろや」

 

 阿呆、ここに極まれりだな。

 何処ぞのECHIGOじゃないんだぞ。何でもかんでも野球と絡みつけるのは止めろ!そういうのが許されるのは中学生までなんだよ!!

 

「残念だ、誠に残念だが欠点だな」

 

「そ、そんなぁぁぁぁ!?そりゃねーっすよ啓輔さん!!俺、このままテストで赤点取り続けたら.....」

 

「.....取り続けたら?」

 

「.....どうなるんだっけ」

 

 あ、コイツ真性の阿呆だ。

 

「留年」

 

「.....龍念?」

 

「発音が違う。留年、お前はこのまま赤点を取り続けたら欠点になるの。そしたら大好きな野球の夏の大会を迎える前に勉強まみれの時を過ごすことになるの。分かるか?」

 

 そう言うと、石崎は顔をサーっと青ざめさせる。漸く、事態を理解したようで先程まで箸で掴んでいたソーセージをポトリと落とし、固まる。

 

「そ.....そげなアホな」

 

「.....この調子じゃテスト範囲も聞いてねえだろ。寝てたもんな、お前」

 

 俺の記憶では、定期テストの範囲が告げられる尽くの授業で夢現の中だった覚えがある。そんな石崎がテスト範囲を覚えている訳がなく、勉強にとっかかれる訳もなく、石崎はあたふたしたまま俺を見つめる。

 

「け、啓輔!?テスト範囲を教えてくれ!!」

 

「.....」

 

 その言葉に、一瞬悩んだものの何だかんだ奴は真面目に取り組んでいるものがある。何も俺のように日常生活を不勤勉にこなしている訳でもなくて、時には俺を励ましてくれたり、軽口で会話を挟んでくれる。

 

 そんな奴に何もしないってのは.....流石に気が引けた。

 

「テスト範囲なら教える」

 

「け、啓輔ェ.....!!」

 

 取り敢えず、ページ指定されている範囲を5教科分代用の紙に記し、それを石崎に手渡す。急ごしらえのものだが、情報の正確性は保証する。

 俺のお墨付きってのが、信憑性の欠片もないので保証したところで意味が無いのだが。

 

「後は友達に聞けよ、お前なら居るだろ。その手の友人が」

 

「居るには居るが.....」

 

 そう言うと、石崎は眉を寄せて渋い表情をする。はて、何か不都合でもあるのか?コミュ力煌めく石崎ならノートを見せてくれる友人等山程居るだろうてからに。

 それとも、体裁でも気にしてるのだろうか.....否、それならば石崎はとっくに俺と馬鹿なんてやってないだろう。大体、石崎は体裁なんてものには興味を示さない。何せ都立からの下克上を狙っている男だ、体裁を気にするのなら今頃スカウトのあった高校へ入学し、大エースとして君臨しているだろう。

 

 それならば、何故───?そう考えた俺の疑問は、意外にも速く収束した。

 

「.....皆、野球ってひとつの目標に向かって頑張っている傍らで確りと勉強も頑張ってんだ。それにも関わらず、俺は誰かに頼りっぱなしで良いのかな?野球だって、勉強だって」

 

 ───。

 

 石崎にしては珍しく頭を使って悩んでいる。奴がこんな風に悩んだのを見たのって何年くらい前かな?流石に急展開過ぎて、話についていけないぞ。

 暫し、石崎から発せられる陰鬱なムードに馴れて今の石崎の状況に応じた正しい言葉遣いをしなければ。

 

「圧倒的な奪三振ショーも魅せられなければ、勉強だって誰かの力を借りてギリギリ赤点回避。そんなのがキャプテンで良いのかな.....って最近思うんだよね」

 

「ああ、お前基本石直球を打たせて取るピッチングだし、バッティングもアベレージ残して、他の奴に勝負を決めさせる脇役タイプだもんな。」

 

「ははっ.....そうだよ。俺はそういう人間───」

 

「オマケに小さい頃はおねしょを俺に押し付けようとした挙句に先生にバレたり勝負を決めようとホームランバッターになろうとしたら率すらも残せない打率1分バッターになったし、そう考えたらお前ってつくづく主役にはなれないよな」

 

「アンタ容赦無さすぎっすよね!?何なの!?俺に恨みでもあんの!?」

 

「.....おめーがネガリ始めたんだろうが」

 

 どうやら先程のような軽口は今の石崎には適合しないらしい。なら───真面目に話した方が良いのかな。

 

 

 

 

 うん、よく考えたらそっちの方が間違いないじゃん。時として『え?何マジになってんの?プギャーワロス』とか言われることがあるかもしれないけど(実体験)別に石崎にマジになったってなんにも失うものなんてないじゃないか。

 

 過去の俺を殴りたい。

 石崎の過去を開陳すれば、何時かあの明朗快活馬鹿丸出しの石崎に戻るんじゃないのかって浅い考えをしていた俺をぶん殴ってやりたい。

 

「.....石崎」

 

「?」

 

「世の中には色んなタイプの選手が居るよな。アンダースロー、サイドハンド、クォーターハンド、オーバースロー。投手だけでも大きくこれだけは分類出来る。その中でお前の生き方、なんてものはその他大勢の1部でしかない」

 

「それが───どうしたよ」

 

「お前の生き方は恥ずかしくねえって事だよ。誰かに頼ったって悪くは無い。それもひとつの『主人公』の生き方だ。全員が奪三振マシーン四番パワーヒッターの俺TUEEEEなんてやってたらこの世界のバランス崩れるだろうが、分かりやがれよ炎上ピッチャー

 

「え、待って。何で俺って馬鹿にされてんの?」

 

 言葉の綾だ、気にしないでくれ。決してお前のピッチングをディスってる訳じゃないから。ないったらないから。

 

「兎に角、お前がやらなきゃ行けないのは現状の自分に自信を持つこった。それ以外は知らね、後はお前がどうにかしろよ」

 

「.....でも」

 

 ────ああ、うざったいな!!

 

 あまりのセンチメンタルっぷりに業を煮やした俺は立ち上がり、上を見上げる。そして、一言。隣のクラスに届くような大きな声で────

 

 

 

 

「お前らのエースが!!日本の!!野球の!!直球勝負界のエースがピンチだぞ!!助けてやれよゴラァ!!!!!!!」

 

 

 

 

「ちょ、お前大声で何吹聴してんの!?」

 

 石崎が俺に制止の声をかけるものの時すでに遅し。俺の大声を聞きつけたのか、帽子のキャップを被った総勢16人程の男達が教室へ駆けつける。

 こうして見ると、特徴的な奴が多い。明らかにパワー鍛えてますよって奴だったり俊敏そうな1番バッターだったり、石崎好みの選手が多いようにも感じる。

 

「話は聞いたぞ.....石崎!」

 

「お、岡崎.....」

 

「俺達、同じ仲間じゃないか!」

 

「相談くらいしろよ、エース!」

 

「お、大山.....中谷」

 

「チームはお前が居ないと始まらないってのに、その張本人が練習出れないでどーすんだよ!」

 

「ウホッ!(無言の肯定)」

 

「島田、陽川.....皆」

 

 やがて、話を聞きつけた野球部諸君が石崎の方へ集まり笑みを見せる。その数は16人。石崎洋介という人となりが惹き付けたやる気と根性に満ち溢れた仲間達である。

 

『さぁ!赤点回避して甲子園出場しようぜ!!』

 

「すまねぇ.....すまねぇ.....」

 

 

 

 ファイト、石崎。

 赤点回避に向けて頑張れよ。

 

 .....ていうか、罪悪感あるならこれからは幾ら要領が悪いからって勉強を睡眠時間に費やすのは止めろよ?練習キツくて不可抗力な面もあるにはあるんだろうけど。

 

 と、俺もそろそろ勉強しなきゃな。そう思い、机の上に置いてある暗記用ノートに目を遣ると、カキカキとノートに何かを記入した時独特の音が俺の隣で激しく鳴り響く。

 無論、その音の正体は田中で先程からなのかは知らないが田中もガチ勢が如くスピードと迫力でノートに問題と答えを記入していく。そんでもって田中の字は正確で、綺麗で、若干その字に見蕩れてしまったのは俺の心の中に留めておく。

 

「よお、田中さんよ。そんなにぶっ通しでお勉強してたら頭がパンクしちまうぜ。たまには休憩したらどうだ?」

 

 田中のペンが一段落ついたところでそう提案するも、田中はこちらになど目も遣らずに一言。

 

「いい」

 

「.....あっそ」

 

 眼中に無いってことなのだろうか。何かそれは非常に悔しい気がするのだが、その心配は杞憂に終わり田中はこちらを見て心配そうな顔を向ける。

 

「北沢くんこそ、何時も学校でまともに勉強した事ないんだから、疲れているんじゃない?」

 

「対戦相手を心配してくれんのか、お人好しな奴だな」

 

 それとも皮肉ですか?だとしたらご生憎様って奴だ。俺はこれしきのことで疲れたりはしないし、こんなので折れるくらいなら今頃志保のパンチや渋谷のパンチに殺られてとっくに引きこもってる。

 

「はっきり言おう、無問題だ。これしきの事で疲れてんならこの高校には入れてない。土壇場での俺の集中力を舐めない方がいいぞ、や.....マジでカンペキだから、自画自賛したくなるくらい最強だから」

 

「.....それ、自分で言わなければ格好良かったと思うんだけどなぁ」

 

「お、そうか?田中に格好良いと言われるなんて、光栄だな」

 

 素直に嬉しいと感じたので、流れに身を任せてそう言うと少しだけ頬を膨らませた田中がこちらを見て、悪態を突く。

 

「今の北沢くんを褒めてるんじゃないよ.....」

 

 ただ、その可愛らしい顔つきのせいで怒りが怒りに見えないのはご愛嬌って奴なのだろうかな。

 

「はっはー、落ち着けよ田中。そこの問題間違えてるし」

 

「.....え」

 

 それは、漢字の対策の勉強。ちょっとしたケアレスミスを指摘すると、小さな声を上げた田中は俺が指さした方向を凝視し、肩にかかった髪を少しかきあげた。やがて、自身の間違いを理解したのか『あ』と素っ頓狂な声を上げると、少し赤面して、コホンと咳払い。

 

「.....ありがと」

 

「ああ、気にすんなよ、後々『敵に塩撒いちゃった!!』とか言って後悔しないように俺も頑張るから」

 

 それに、勝負は正々堂々が良いもんね!

 汚いやり方はせずに、正しいやり方で勝つことが出来ればその時の喜びも倍になるからね!そう思い、下衆な顔をしていると唐突に田中の表情が曇り、ジト目で俺を見遣る。

 

「.....やっぱ今の言葉は取り消す」

 

「ええっ!?」

 

「.....馬鹿」

 

 言葉を急に取り消され、罵倒されました。

 

 理不尽じゃありませんかね?

 

 

 

 

 




ちょっとした用語集

岡崎、大山、中谷、島田、陽川
=本編のオリキャラ。今後は出る予定は少なめなので覚える必要はないが、モデルは某球団の選手達。尚、作者石崎くんのモデルがロッテに移籍したことにより絶叫。何でや.....



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話 感想文1枚書いて持ってきてやるよ

 テスト、なんてものに力を入れるほど俺は勉強熱心でもないし、成績が不味いわけでもなかった。

 ただ、今回の俺がテストに力を入れるようになってしまったのは、本当に成り行きで、どうしようもない事だったのだ。

 

 絶対変わらないなんてものは存在しない。故に、絶対テストで力を入れない、なんて事が永遠に続くわけでもなし。実際、少し成績が不味かった時はテストに力を入れた日もある。今回は、テストに力を入れなければならない時間なのだ。

 

 ならばやってみよう。勉強だって特別嫌なわけじゃない。サクッと勉強して、サクッと田中に勝って、サクッとご褒美だ。

 公序良俗に反する物以外で、田中に何をしてもらおうか───そんな期待を他所に、俺は嬉嬉として近くの図書館へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 図書館には様々な本や資料がある。それを有効利用しようとする輩は図書館によく行くのだが残念ながら俺は知識を蓄える趣味を持ち併せている訳では無い故に、図書館にはなかなか行った事はなかった。

 

 それ故に、1部の部屋がこれだけ喧しいものだとは思っておらず、俺は内心頭を抱えて自らの思慮浅さを悔やんでいた。

 

「おいおいお前図書館でなんつー物食ってんだよ!」

 

「ぎゃはは!!ポテチポテチ!!」

 

「本が油まみれになったらどうすんだよぉ!!」

 

 男衆3人組が何やら粗相をしているみたいで周りがひそひそと何かを言っている。

 そんな中図書館へ入ってしまった俺は入口で立ち尽くして、この悲惨な事態を傍観していた。

 

「......俺、勉強したかっただけなんだけど」

 

 まあ、仕方がない。

 流石にこの状況は看過できないし、図書館は意外にも暖かくて、勉強するには環境良さげだからここで勉強したいという思いもそれなりにあるし。

 普段、目立つのはあまり好きではないがここは俺が何とかして状況を覆そう。

 

「回し蹴りからのジャンピングニーキック.....いや、ここは正攻法で文字通り表へ引っ張り出すか.....」

 

 そう呟きながら、その3人組に近付こうとするともう1人俺と同じくこの状況を傍観している女の子がいた。髪は瑠璃色にも似た水色で、透き通るような髪質をしていて、それなりに雰囲気もある故に、この図書館の中ではあの男達に次いで目立っていた。

 

「何故、誰も止めんの‥‥‥?」

 

 少女が1人、呟く。そして、その言葉に俺はピクリと肩を動かし少女を見る。後になって、俺は少女の言葉に反応なんてしなきゃ良かったと心底思うのだが、当時の俺に反応の是非を正しく見分ける程の冷静さは持ち合わせておらず、目の前の女の子に思わず声を掛けてしまった───

 

「皆、怖えんだよ」

 

 後ろから声を掛けた俺にピクリと肩を跳ね上げた少女が俺を見る。その目はやや、訝しげ。そりゃそうだよな、だって初対面の人だもん。自分の独り言に反応されたんだもん。

 

 少女は咄嗟に身構えて俺から距離を置く。懐疑的な視線と1歩下がったその距離感に、見えない壁を感じる。その一連の動作は、見知らぬ人物に声をかけられた際の対応の仕方を教えこまれたかのような軽い身のこなしであり図らずも俺の精神をぶち壊した。

 

「何者ですか」

 

 しかし、めげている訳にもいかない。距離感を取られているのなら素性をとっととバラして、彼女の信頼を得れば良い。

 嫌なものは良いものに変えていけば良いんだ。『変わらないなんてない』んだから.....だぁいじょうぶだって!!

 

「俺は北沢啓輔、野球と馬鹿が死ぬほど嫌いな高校生。以後よろしく───で、お前のさっき言ってたことだが」

 

 そう言って、俺は辺りを見回す。するとそこには迷惑そうな顔つきをしつつも怯えた目付きをしている皆の姿。そして、それに気付いた彼女はハッとしたように俺を見て、少しジトっとした目付きで俺を見る。

 

「皆怖いと思うぞ?やっぱり、不良と絡むと碌な事にならないし。真面目な女の子だって、クールな美少女だって不良にかかればポンコツ、ドS、暴力的になる───いるんだよ、うちの学校と俺の知り合いに」

 

 不良(生徒)と関わって時々ポンコツになっちゃう可愛らしい女の子が。

 不良(生徒)と関わって時々ドSになっちゃう花屋の一人娘とか。

 不良(生徒)の妹でコークスクリューかましてくる目付きの鋭い女の子が。

 

「.....それは、恐ろしいですね」

 

「だろ?皆不良に会って一番最初に考えるのは、自身をおかしくさせられちゃうんじゃないかっていう恐怖なんだ。外見もさながら、アイツらはなんでもありだからな。不良を舐めちゃいけねえぜ」

 

「.....もしや貴方も怯えている部類に入るのでしょうか」

 

 それはどうだろうなぁ.....

 

 いや、確かに不良学生を相手にするのは怖いんだけどそれ以上に不良生徒の俺がこれ以上失うものってないし、生憎カツアゲされる程の金も持ち合わせていない。序に言うのなら金より大事な妹弟が今は居ない。

 

 もう何も怖くない(ふらぐ)みたいな事は考えないけど、それなりに怖くはないのが現状である。

 

「.....怖くはない、止めたいとも思う。ただ1人では心細いのも確かだ」

 

「怖いのですね」

 

「怖くないもん、心細いだけだもん」

 

「はあ.....」

 

 要領を得ない俺の発言に、女の子は何やらジト目で俺を見つめる。そんな瞳に晒された俺は、胸が少しばかり辛くなる。

 というか、痛い!!視線が痛いんだよ!!隣の女の子のジト目の威力が呆れた視線を向ける志保顔負けなんだよ!!そんな目で俺を見るなよォ!!

 

「.....分かったよ。行けば良いんだろ、行けば。1人で勝手に行って、死んでしまえとでも言ってんだな。ああそうかよ、お前はとんだ愉快犯だな」

 

「何を言っているのですか?別に私は貴方に出張れとは1度も言ってないでしょう」

 

 コイツ、どの口が言うか。

 お前のその呆れた視線は俺という人間が『頼りない』と語っているのと同義だろう。そんな視線に晒された男がどうなるか分かっているのか?殆どの男は良いところ見せたくて特攻してぶちのめされるんだよ。

 

「鏡を見たらどうだ?今のお前がどんだけ哀れなものを見るかのような表情で俺を見ているかが分かるからよ.....!」

 

「.....人の顔を物申す前に先ずは貴方の顔を拝見なさっては如何でしょうか?その程度のことにも気が付かぬなど.....馬鹿なんですか?」

 

「うるさいよ!?それ位自覚してるよ!!俺の顔がイッちゃってる事くらい分かってる!!」

 

 ぐぬぬ.....と呻き声を上げて、女の子を見る。それに比べて、女の子の顔は涼しげであり、俺を目の当たりにしても先程のようなクールな表情を崩さずにこちらをじとーっとした目で見つめる。

 

 しかし、それも束の間。周囲がザワつく様子を耳で察知すると、気が付けば男達が俺たちを3人で囲んでいた。あらヤダ、リンチですか?

 

「困りましたね、囲まれました」

 

「せ、せやな.....」

 

 まさか囲まれるとは思わなかった。少なくともこちらから突っかからない限り絡まれるような事はないと思ったのだが。

 まあ、これだけ大声で喧嘩してたら仕方ないだろう。アイツらが館内でポテチを食いながら本を読んでいたのは紛れもないマナー違反だが、俺達もそれは大概である。

 

「おい、テメーらうっせえんだよ......人前でイチャコラこきやがってよ」

 

 やがて、不良達はこちらに目敏く反応し自らの事は棚上げしてこちらに不快そうな視線を向ける。

 

「そうだそうだ!!」

 

「図書館迷惑だってんだよォ!!!」

 

 耳が痛ーい!!!

 

「図書館迷惑.....?それを言うのなら貴方方の粗相も些か問題なのではありませんか?図書館で食を摂り、汚らしい手で本に触る。その行為がどれだけ職員に迷惑をおかけになっていると思っているのですか」

 

 俺等も自身の事を棚上げして不良を成敗しようとしてるよ.....もう無茶苦茶だぁ。

 どうしよう、俺も便乗すべきかな?それとも静観キメとくか?どっちが彼女や他に好印象を持たれるか、それが大切なのだが────

 

 

 

 少し考えて、俺も便乗する事を目指した。

 

 

「せやせや!!脂ギッシュで気持ちわりー!!」

 

 負ける気せーへん!!二人がかりやし!!二人がかりで正論ぶつけてれば勝てるわ!!

 

「黙っていてください」

 

「うるせえんだよ馬鹿野郎!!」

 

「はっ!女の子に怒られてやんの!!」

 

「プギャーワロス!!」

 

 

「.....」

 

 

 何でや。

 

 何で俺は四面楚歌の状況を強いられているんだ?

 

「どうせ立場的に不味くなった事を危惧し、便乗等といった浅慮な行為に耽ったのでしょう?貴方が出張ると碌なことになりません、大人しく私の陰に隠れていてください、北沢」

 

 そんなことはないと信じたい。

 ただ、俺の深層心理は何を考えているのか分からないから当てにならない。

 

 そんな俺の気持ちを無視して冷静沈着にそう返した女の子は、溜め息を吐いて再び不良3人組に向き直り鋭い切っ先のようなジト目を向ける。

 

「で、どうするのでしょうか。このまま貴方方が幾ら足掻こうが図書館から追い出されるのは既定路線でしょう。このまま罪を重ねるか、大人しく出ていき、二度とこの図書館に足を踏み入れないか、死ぬか、どちらか決めてください」

 

「物騒だよ、怖いよ」

 

「黙れと言いましたが?」

 

 鋭い目付きでひと睨みされて、しょげる。

 便乗なんてしようとした俺を、殺したい。

 穴があるなら埋まって、死にたい。

 

「う.....うるせえんだよ!!」

 

「けっ!お高く止まりやがってよ!!」

 

「良い子ちゃんでちゅねー!!」

 

 素直に止めろと言ってやりたい。

 煽れば煽るほど自らの浅はかさを恨むことになるぞ。

 

 

「大体テメェらは見せつけてそんなに楽しいですかー?」

 

 なあ、止めろって。

 

「マナー違反が許されるのは小学生までだよねー!!」

 

 止めてやれって。

 

「ばーかばーか、はっはっはー!!」

 

 

 

 

 

 

 .....

 

 

 

 かっちーん。

 

 

 

「おい、俺とお前は何処ぞのバカップルみたいにイチャコラこいてるように見えてたらしいぞ。お前とそんなことをしているように見えてたのは屈辱の極みなんですけど、啓輔マジドン引き」

 

「私が貴方と?冗談はその犯罪者のような目付きだけにしてください。寧ろショックを受けたのは私の方です、よもや貴方のような珍獣とそういった間柄に見えているとは」

 

「......あ゙?」

 

「......は?」

 

「無視してんじゃねえよ!!」

 

 五月蝿い。

 

 お前らのせいで俺は彼女に呆れた視線を向けられるし、怒られるし、図書館からの評価はダダ落ちだし碌な目に遭ってねえんだぞ!!(逆ギレ)

 何時も変態行動を起こして、呆れさせてしまっている志保にそんな目付きで見られるのならまだしも出会ってものの数分しか経っていない女の子にそのような目付きをされるのは俺のメンツが許さない。

 

「......五月蝿い」

 

「!?」

 

「さっきからそうだ......元はと言えばお前等が騒いでなけりゃあ俺がこの子にこんな目付きをされることも無かったんだよ。この落とし前どう付けてくれんだ......あ?」

 

「し、知らねえよ!!」

 

「挙句の果てに責任転嫁ですか......つくづく、最低ですね。というか、人として有り得ないでしょう」

 

「そうやって細かい事を気にしてるから白髪になるんだよ。それに、俺は事実を述べた迄だ。そのポンコツなお可愛い脳内で考えるんだな」

 

「しらっ......!?ポンコツ......!?言いましたね。言ってはならない事を言いましたね!これは地毛です!!それを言うなら貴方の終末期のような目付きこそ何とかすべきでしょう!!」

 

「ああっ!?遂にお前も言っちゃいけないこと言った!!この目付きこそ生まれつきだ!!ていうか終わってねえし!俺の目付き終わってねえし!!」

 

「な、何なんだよお前等は!!」

 

「少し黙ってろ!お前は今蚊帳の外にいるべき存在だから.....ああ、でも後で覚えとけよ。表で確りと教育的指導してやるからよ.....」

 

「.....誠に不快ですがこの男の言う通りです。貴方達の行動は些か問題ですがそれよりも問題......否、最早問題外の男を何とかしなければなりませんので」

 

「うわ、お前と同じ意見とか嘘でも止めて欲しいわ.....ねえ、止めて?嘘でも止めて?」

 

「貴方が意見をねじ曲げれば良いでしょう。便乗なんてしてしまう心の軽さを以てすればその程度簡単なことでしょう?」

 

「あ゙?」

 

「は?」

 

「ひっ.....」

 

 

「さっきから初対面の人に毒ばかり吐きやがって.....そういうのはもうちょいお互いを知ってから吐き出すべきだろ?」

 

「それならばもっと理知的な返答をして下さい。正直貴方の便乗行為と発言諸々は他の人間の神経を逆撫でするだけです」

 

「それは申し訳ない」

 

 いや、自分キレると中途半端に語彙力低下するんですわ。

 自覚してるだけに指摘されるとなかなか辛い。

 

「ええ、本当です。もっと誠意を持って.....は?」

 

 いや、だから悪かったって。

 それよりも、もっとやらなきゃならないことがあるし、この件は俺の敗北って事で手打ちにしようや。

 

「てか、よくよく考えたら便乗なんてせずに黙って通報すれば良かったんだよな。という訳で俺携帯持ってるから110番するね」

 

 いや、ガチのマジで。

 女の子が不良に囲まれて(俺も含む)メンチ切られてるとか普通に案件物だから。助けを呼んで良い奴だから。

 そして、それを傍観してた俺のクズさよ。便乗するより前に、もっとやるべき事があったのに、それを見落としてしまっていた。

 

 全く、俺は中学生かっての。こんなんじゃ宿題をしなきゃいけないのに他のことしてる子供と同じだぞ?俺は高校2年生、いい加減やるべき事の優先順位位ハッキリさせなければ。

 

 それに気づけた俺はやばいよ凄いよと自己陶酔に浸っていると、男がポテチで湿らせた手で俺の制服の胸倉を掴む。ちょっと待て、普通に汚いぞ。

 

「法に訴えるのかよ!?」

 

「訴えて何が悪い。言っとくがな、俺の安いプライドなんて既にこの女の子とお前らにズッタズタに切り裂かれてるんだ。今更.....逃げたところで恥ずかしくないね、寧ろ清々するわ」

 

 スマホのロックを解除して、110番のボタンを押そうと電話帳を開く。男が焦って俺のスマホを振り払おうとするも、手の自由を奪われている訳でもない俺は器用に迫り来る男の手を掻い潜り110番と押し、着信。

 

「ち、畜生!!覚えてやがれよこの野郎!!」

 

「この腰抜け野郎め!!」

 

「やられたらやり返す位の気概でかかってこいよ!!」

 

 あーあー聞こえない聞こえなーい!!

 男達が捨て台詞のような何かを吐いて逃げ出す。その罵声に両耳を塞いで居ると、今の今まで呆気に取られていた女の子がこちらを見て、何やら呟いている。

 

 きっと、心の中で外道とか思われているんだろうな.....なんて恐らく生暖かいであろう目付きで女の子を見つめていると、漸くこっち側の世界に戻ってきた女の子がこちらを見て一言。

 

「......なん見とるん」

 

 開幕早々発した言葉がそれですか。

 や、彼女の先程までの言葉を掻い摘んでこうなるってのはある程度想像出来たけど、それでもやっぱり現実と想像とでは言われた時の心の痛みが違いますよね。

 俺とて、志保や渋谷に物理的攻撃を受ける時に何も対策をしていない訳では無い。予めどういった攻撃が来るのかを想定して、どういった攻撃からどういった痛みが来るかまでしっかり織り込んで回避の想定をしている。それでも、やはり現実の痛みは想像の痛みを遥かに超える。常に現実は俺の想像を超えていくのだ。

 ああ、後例えるならりっくん。夢とか想像とかでりっくんと遊んでいるより現実でりっくんと遊んだ方が何億倍も楽しいし、りっくんが可愛い。

 大事なことなので、もう一度言う。りっくんは可愛い

 

「いや、なんだかんだ何とかなったなぁって」

 

 スマホの着信を止めて、心の中で自問自答しながらそう返すもやはり彼女は俺に好意的な対応等はせずに『はぁ.....』と小さくため息を吐いて、俺を見遣る。目は細められており、鋭くて怖い。女の子の向けるような眼差しなんかじゃないよ、これ。

 

「何が『何とか』ですか.....まだ、何も終わっていません」

 

「え」

 

 隣の女の子は膝を着き、先程まで男達が食い散らかしていたポテチを拾い上げる。その上品な手つきとは裏腹に、顔は不快そうな表情を全面的に押し出していた。

 

「ポテチ.....油の塊と聞きますが、ここまでとは」

 

「お前、ポテチ食ったことないのか?」

 

「お前じゃありません、白石です.....ええ、このようなものは食べたことありませんね」

 

「食うなよ?幾ら物珍しいものだからって」

 

「食べる.....?貴方は私が拾い食いをするような下賎な輩とでも思っているのですか?」

 

 女、改めて白石はこちらを睨み付けて俺を厳しげに糾弾する。冗談で言ったつもりが、どうやら彼女には通用しなかったらしい。

 会話の内容や流れから彼女の性格を読み取れなかった俺のミスだ。彼女には冗談めいた事は言うべきではない。寧ろ、怒りに身を任せていた時の方の話し方の方が良いのだろう。

 

「悪い、冗談だった。今後一切冗談は言わない。お前には冗談が通用しないらしいしな」

 

「.....冗談?つまり貴方は冗談を用いて私を辱めようとしていたのですか?」

 

「うん、だって俺白石嫌いだし」

 

「.....奇遇ですね、私も貴方のような男は大嫌いです」

 

 ある意味相性抜群で良かったらしい。本音をぶちまけたら、白石も笑顔でこっちを見て毒吐きやがったからな。

 

「.....ですが」

 

「?」

 

「感謝、しています。きっと1人では何も出来ませんでしたから。貴方と戯れを起こさなければ私自身も先程の集団を傍観しているだけの、1人だったのでしょう」

 

 そっぽを向いて、言葉を選んでいる様から感謝の言葉を言いずらそうにしているのが、目に見える。別に、御礼乞食でもない俺にとっては感謝などされなくても、良かったのだが、折角白石が御礼を言ってくれたんだ。俺も───

 

「.....そこで突っ立ってないで、ポテチを拾ってください。貴方はのろまなんですか?いいえ、鈍足ですね。鈍足二足歩行者───(なにがし)

 

「俺の名前は北沢啓輔だ。某じゃねえ」

 

「覚えるつもりは皆無なので」

 

 辛辣だなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 あれから、ポテチを拾い上げた俺と白石は特に会話をすることなく普通に別れた。俺は本来の目的である勉強へ、白石は図書館を出て何処かへ。

 

 どうやら彼女は石川から東京の下見に来たらしく、4月から住まいを東京へと移すらしい。何なら観光案内でもしてやろうか、もしくはその手の奴等を紹介しようか───なんてごく僅かとなった善意を振り絞ってそういったものの白石はこちらを振り向き、ジト目。

 

 

『貴方に頼むくらいなら、1人でやってみせます。結構です』

 

 と、一蹴され俺の善意は完全に砕け散った。

 なら、勝手にやってくれと肩を竦めるも、白石の姿を見た俺はちょっとした懸念材料に駆られる。曰く、彼女は石川からやってきた旅行者であり東京へは下見に来た。しかし、持ってきているのは軽いバックに軽装───こんな状況で道に迷ったりなんかしてみろ、確実に終わるぞ。

 

 幾ら喧嘩したとはいえ、今では軽口を言えるまでになった女の子だ。ここで見殺しのような形になるのは後味が悪い。俺は自身の連絡先を記すと無理矢理白石に押し付け、捨て台詞を吐く。

 

『困ったら、連絡しろ』

 

 そこで、俺は白石に別れを告げてとっとと勉強へと戻って行った。ほら、大した会話してねえだろ?一言二言言葉を交わして、最後は善の押し売りのような形で白石に連絡先を渡して、別れた。何らおかしなことじゃない。罵倒されたのは、充分普通じゃないけど、泣きたいけど。

 

 

 先程までの事件を思い出しつつ、俺は休憩がてらの読書をする為に小説関連の本を探していた。人間、予め目標のような何かを目先に置いておけばやる気が出るものだ。そして、今回の俺の目先の目標───ってのがその小説関連の本って訳だ。休む、読む、休む、読む───確りとしたサイクルを作れれば学力は飛躍的に伸びるであろう。

 

 それにしても、彼女───白石は本当に凄かった。まさにヤンキーと称しても可笑しくない確りとした体つきをした男3人組に負けず劣らずの言動で弾き返してしまった。それこそ、まさに俺TUEEEE小説のキャラみたいなレベルで強いなぁ、なんて感慨に耽る。

 

「けど、罵倒は許さん。後であったら今度こそ語彙力で白石をぎゃふんと言わせてやる」

 

 ま、俺の語彙力じゃ弾き返す前に吹っ飛ばされるだろうけど.....そう呟きながら、何気なく手に取った小説を捲り内容を浅く理解しようとする。

 

「......ふむ」

 

 どうやら俺が手に取ったのは大層なファンタジー小説だったらしい。主人公がとある国の王子様で、結婚する為に婚約者の元へ3人の仲間と共に行こうとすると、自分の国が潰れてしまい、事件の謎を追いかけ、代々伝わる王家の力を集めていく物語。

 

 良いな、これ。王子様の性格は傲慢だけど仲間を信じているのがひしひしと伝わってくる。この先の展開も気になるし、これにすっかな。

 我ながらベストなチョイスをしたことにガッツポーズをしていると、不意に視線に見られる嫌な予感が俺を襲う。

 こんなことなら、ガッツポーズなんてしなきゃ良かったな、なんて考えを頭から振り払い、恐る恐る後ろを向くと、そこには女の子がいた。

 

 少女は、目を輝かせて俺を見ている。

 

 俺は、内心怯えた気持ちで少女を見る。

 

 きっと、周りは俺を年下の女の子に目を輝かせられている変態と勘違いする。

 

 そんな傍から見たらいかにもアンバランスなこの光景に、俺は息を吐いて気持ちをリセットさせた。

 

「......邪魔、か?」

 

 俺が声をかけた事が意外だったのか、少女は『えっ』と悲鳴にもならない悲鳴を上げる。少女の髪色は青。そして、光のように明るい眼差しが俺を捉えていた。否、実際目がキラキラ輝いてらしたな。

 

「い、いえ!別に邪魔というわけでは!」

 

 少女は胸の前で手をぱたぱたと振り、俺を見て───その視線は俺が手に持っている本へと向かっていった。どうやら、俺の持っているファンタジー本が気になるらしい。

 

「......もしかして、狙っていたとか」

 

 その可能性もある。もしかしたらその本に興味を示していて、よし借りようってなった時に俺が横からかっさらってしまったとか。だとしたらそれはとてもいたたまれない事だし、優先度からしたらテスト前で勉学に勤しむべきである男、直に18歳になる俺と、見た目高校1年生若しくは中学校3年生のこの女の子を比べると、どうしても女の子の方が上になる。

 

 事実、女の子は俺の言葉に対して一瞬目を見開きながらも何かを躊躇うかのような、そんな表情をしていた。おのれ図星か文学少女。

 

 依然として躊躇うかのような表情を浮かべている女の子に、痺れを切らした俺は女の子に2択で迫る。

 

「じゃあ2択だ。お前はこの本を読みたいのか、それとも読みたくないのか。2秒以内に答えろ」

 

「え、ええっ!?」

 

「はい、残り1秒」

 

 本当に数えてた!?と女の子がツッコミを入れるものの今の俺に冗談は通じない。何故かって、それは今の状況から少しでも早く逃れたいからである。

 女の子は慌てた状態のままこちらを見る。この状況がマンガで描かれているのなら、この子の目は渦巻きの如くグルグルしているであろう。

 それ程までに、女の子はテンパっていた。あまり人と会話したことがないのか、そもそもこの状況を作り出した俺が奇特なのか。恐らく後者が正しいのだろうな。

 

「わ、分かりました!読みたい!読みたいです!!」

 

 なら良し。俺は先程まで棚にあった本を戻し、隣に置いてある本を片手に女の子に一言。

 

「お先にどうぞ、文学少女さん」

 

「......え、いいんですか?けど───」

 

「俺、勉強しなきゃいけないから読める時間は限られてくるし、読みたいならどうぞ」

 

 そう言うと、文学少女はこちらを見てお辞儀───する前に俺は走って逃げた。

 

「え......ええっ!?」

 

 女の子が驚いた声を上げるものの知ったこっちゃない。考えてみろ、見るからに年下の女の子が俺に向かってお辞儀をしているこの光景。傍から見たら幼い少女を本を巡って恫喝している男にしか見えないだろ。

 ......幼い少女を恫喝しているってのは兎も角個人的に感謝されるのはまだ良いが、お辞儀されて感謝をされると本当に身体がむず痒くなってしまう。あれもこれも俺が不良生徒として母校に名を馳せちゃってるせいだ。感謝されることに慣れるくらい善を積んで行けばこのような事にはならなかった筈だし、どうにか文学少女のお辞儀にも対応できただろうに。かといって、不良生徒を改めようと言う気はさらさらないのだが。

 

 いつまで経っても感謝には慣れない。

 

『ありがとう』の一言が、重く感じてしまう。

 

 そういえば、田中に感謝を伝えられた時も何か身体がむず痒くなったな.....と、そんなことを思っていると女の子の元からは結構離れられたみたいで、目の前には色んな人が各々の好きなことをしているスペースが広がっていた。

 その中には、イチャイチャしているカップルもいたり、本を読んでいる人や、当初の俺の目的のように制服姿で勉強をしている輩もいる。

 

 空いている席───壁際のスペースを確認した俺は席に座り、1度深呼吸をする。走ったことにより失われた体力を回復させ───俺はカバンから現代文の教科書とノートを取り出す。

 現代文を選んだ理由は特にない。強いて言うならこの前の勉強が理系だったからっていう短絡的な理由からか。尤も、それ自体も大した理由でもないが。

 

 範囲のページを見て、該当するページの教科書を開き、分からない単語を確認。ふむふむ、心の中に一物ってどういうこっちゃ。Kさんはお気の毒だったなとしか言い様がない。

 

 思考の海に潜りながら、ページを探索し、キリがいい所でプリントの問題を解きにかかる。点数は無難、良くも悪くもない。普段ならここら辺で『まあいっかなー、よし!りっくんと遊ぼう!!』ってな発想に至るのだが、今回は図書館で勉強している故にりっくんは近くにいないし、ついでに言うなら今回は本気を出さなきゃいけないのだ。

 時刻を見る。4時。今日は志保がお迎えをするって言ってたから......よし、もう一度問題を解こう。そう思い伸びをしてスイッチを切り替えると、不意に女の子と目が合った。

 

 その瞳、刹那。

 

 俺の視界の中に、女の子の光のような眼差しを捉えたその瞬間、俺は急速に家に帰りたい衝動が湧き上がった。

 この子と今話をするのは何か不味い───そんな反射的な衝動が俺の足を奮い立たせて、苦笑の感情を作り上げた。

 

「......あ、あーっ。そろそろ晩御飯の材料買わないとなー!残念無念!帰ろーっと!」

 

 事実、志保がお迎えをする日は俺が夕食の下ごしらえをすることが決まっている。序に言うのなら、志保は最近アイドルを始めたので、出来ることなら『これだけはやる』と言って聞かないりっくんのお迎え以外の事は出来るだけ済ませて負担をかけないようにしたい。

 尤も、そんなことを言ったら志保に『調子に乗るな』と軽く蹴りを入れられるのが目に見えているのだが───と、思考に耽っていると先程まで目が合っていた女の子がいつの間にか俺の目の前に立ち、俺を見上げていた。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 

 女の子の真摯な瞳───また、田中とは違ったタイプの瞳が俺の目を見る。その瞳に応えるべく、俺は彼女の目を見据える。

 

「何か用か?」

 

「あの、本を譲ってくれてありがとうございました!私、この小説読みたくって......」

 

「ああ、確かにその小説面白そうだったし───」

 

「え」

 

 え?

 

 俺が相槌を打った途端に聴こえた少女の素っ頓狂な声。何か不味い事を言ったか───?と女の子を見ると素っ頓狂な声と同時に浮かび上がっていた驚きの表情は、次第に変化していく。

 最初に変わったのは、口元。開かれた口元はわなわなと震えてまるで爆発寸前といった風体を醸し出していた。更に変化したのは眼差し。普通に開かれていた目は開かれ、彼女の光のような眼差しが俺という存在に希望を見出すかのように向けられる。

 それら全てを総合した彼女の顔付きはまさに『期待・渇望』。その顔付きに俺は既視感を覚える。小学生の頃の記憶、少年の日の思い出。暗い記憶ではない、楽しかった時の記憶。

 

「.....分かってくれるんですか!?」

 

「え」

 

 今度は俺が素っ頓狂な声を上げるも、それを気にもしない女の子は俺の気持ちなど露知らずといった勢いで目を輝かせる.....目がキラキラしてらっしゃる。

 

「そうなんですよそうなんですよ!この本は前々からシリーズ化していて世間からの評価も上々!!主人公が世界を救うという王道的展開に個性溢れる仲間達!!そして、なんと言っても注目するべきは悪役!特にラスボスのキャラがもう───!!」

 

 ───ああ、この人もしかして。

 

 少女のマシンガントークを身を挺して受け止めながら、俺は朧気に思い出していた過去を完全に思い出す。

 かつて、他校の人間から噂話を聞いたことがある。俺が純情可憐(笑)な野球少年をやっていた頃、図書室に潜む七不思議。

 何時も図書室の窓際で本を読みふけっている少女。その女の子はまさに文学少女で、年相応に可愛くて、時々『風の戦士......饂飩』とか妄想をだだ漏れさせて。

 それでも見た目が可愛くて、振った話には乗ってくれるからといって魔が差したとある少年が噂の女の子に話しかけたのである。

 

 本を読みふけっている女の子に、『本の話題』を───

 

 

 

 結果、その少年は何やらげっそりとした様子で図書室で発見されたらしい。後の供述によると『少女は凄かった』らしい。

 それだけ聞いたら何やら如何わしい表現になりかねないが、決してそういう意味ではない。石崎によると、少女は藍髪光眼で本に異様な熱意を持ち、自分の好きなものに関しては永遠と語れる力を持っている『根っからの文学少女』らしい。

 そして、元々の噂と少年の件も相まって名づけられた二つ名は『図書室の暴走特急』。

 

 

 

 

 その少女の名は───

 

 

 

 

 

「───であるからしてそのヒロインが巫女様でしてその人も......って、どうしたんですか?そんな悟ったような目をして......」

 

 先程の緊張はどこ吹く風、本のことを話したことですっかり緊張の解れた少女は、俺を疑問の眼差しで見つめる。

 疑問の眼差しで見つめたいのは俺だよ。お前は図書室じゃ飽き足らず図書館の暴走特急になろうとしてんのか。

 

「......名前」

 

 俺がそう言うと、文学少女は先程までの流暢な会話を打ち切り、ハッとした表情になり何時もの───暴走特急モードではない通常形態へと戻っていった。

 

「あ......すいません。ついつい読書談話出来るのが楽しくって......名乗らなきゃ失礼ですよね」

 

「.....七尾百合子、だろ」

 

 俺はその名前を知っている。かつて石崎に又聞きした名前。図書室の暴走特急として名を馳せた少女の本当の名前。

 そして、彼女も俺の名前を知っている。かつてバッティング練習に明け暮れていた俺が成り行きで彼女に話しかけて、それっきり会ってはいなかったが俺は七尾という名前をハッキリと覚えていた。

 

「え......」

 

 そして、名前を言い当てたことで少女は戸惑う。当然だ。七尾からしたら知らない男性に名前を知られているのだ。驚かない訳が無い。

 

「おかしいな......まだアイドルになって日は浅いはずなのに......もしかしてストーカー......!?私もしかして何時の間にかサスペンスの世界に───!?」

 

「あるわけねえだろんなもん!!」

 

 あらぬ嫌疑をかけられていたことに思わず叫び、俺は目の前の暴走特急を落ち着かせる。

 というかストーカーとかそういうの以前に今とんでもないことを聞いた気がするんですけどこれは俺の気の所為なのか。

 と、今はそんなことを考えている場合ではなかった。俺は、1度ため息を吐き名前を知っている理由を伝える。

 

「俺の名前は北沢啓輔、元東小の窓ガラスと花壇を割った前科者だ」

 

 元、東小。そして、窓ガラスと花壇を割った前科者。そのキーワードを発した途端、先程まで緊張の解れた顔つきをしていた少女は顔を硬直させる。

 

 

 そして、少女は目を見開き一言───

 

 

「もしかして窓ガラス先輩ですか!?」

 

 

 え、何その旅ガラスみたいな渾名。俺は何処ぞのホームレスでもないし、テントを燃やされたりもしてないんですけど。

 

「......まあ、いいか。久しぶりだな、七尾」

 

 俺がため息混じりにそう言うと、文学少女はにこりと笑い───

 

 

「はい!久しぶりです窓ガラス先輩!」

 

 

 新事実となった俺のあだ名を図書館という静かにしていなければならない場所で、盛大にぶちかましやがったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 かつて、北沢啓輔という男は根っからの野球少年だった。それはもう、放課後に帰ってきたら直ぐに赤基調の野球道具を持って、学校で遊ぶ程には。

 その頃、北沢啓輔ともう1人───石崎洋介は巷で有名な野球少年だった。何かと野球にかこつけて物申す阿呆っぷり、通学途中に『手に馴染ませる』とか抜かしてグローブをはめて軟式球でキャッチボールする非常識っぷり。その行為から名付けられたのは『東小の野球馬鹿共』。そう言われてしまうほど北沢啓輔と石崎洋介は野球の事しか頭になかったのだ。

 

 ある日、啓輔は貯めに貯めたお小遣いを叩いて金属のバットを買った。無論、赤色のバットである。彼が赤色を選んだ理由が妹が喜んでくれるからとかいう最早不動のシスコンっぷりを小学生時代から拗らせている啓輔だが、これでも野球には真摯で当時は夜は家族と遊ぶことがあれど、放課後から暗くなるまでの殆どは腐れ縁である石崎と野球をしていたのだ。

 

 そして、金属バットで試し打ちをしようと石崎を呼び、マウンドに立たせ、当時から変態的と揶揄されたバッティングフォームで石崎の小学生にしては重いストレートを易々とセンター方向に弾き返したのだった。

 

『あ、バカお前』

 

 石崎がそう言って恐ろしい速さで後ろを振り向く。それに釣られて俺も打球の方向を見ると、そこには図書室が。

 

『あ』

 

 思わず口を開けたのと同時に、窓ガラスが割れる音がけたたましく聞こえる。その音に、啓輔と石崎は揃って顔を見合わせたのだった。

 

「おい、どうするんだよ犯罪者」

 

「犯罪者とか言うの辞めろ。お前が打ちごろの球を放るからだろ炎上ピッチャー」

 

 お互いが罵倒を吐きあい、1発殴り込む。そして、二人同時に悶絶していると、割れた窓ガラスから1人の女の子がひょっこり顔を出す。

 

 見た感じ、怪我はなさそうに見える。しかし、窓が割れてしまった事を見られたということは、女の子と話を付けなければ俺が窓ガラスを割った事がバレてしまう。そう考えた啓輔は溜息を吐いて、校舎に向かって歩き出す。

 

「お、どした前科者」

 

「口を塞げ。しゃあなしだ、頭下げに行くんだよ。そうでもしなきゃ先生に何言われるか分からねえからな」

 

 北沢啓輔は憤怒した。

 元はといえば連帯責任で石崎にも謝って欲しいと思っていたから。

 しかし、練習に誘った手前こちらにも非はある。

 二人揃って怒られるくらいなら、こちらが怒られてまたスッキリ野球をやろうと意気込んだ啓輔は校舎へと歩き出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、啓輔が図書室に入るとそこには1人の女の子が。見た感じ怪我はない。そう察した啓輔は少女の元へ歩み寄った。

 

「おい、そこの女の子」

 

 帽子の色を見る限り、3つ年下の女の子だ。啓輔が女の子らしい赤色のランドセルと共に置かれている帽子に目をやると、少女はこちらを勢い良く振り返り、尋ねる。

 

「これは・・・貴方がやったんですか?」

 

 その質問に一瞬躊躇った啓輔だが、嘘を吐くのは良くないという母の教えにより、頭を下げて少女に謝る。

 

「俺がやった。本当に申し訳ない・・・・・・さあ、一思いに殺せ!それが嫌なら警察に突き出せこの野郎ッ!」

 

 瞬間、啓輔は年端もいかない少女の目の前でヘッドスライディング土下座を敢行し、謝罪する。その潔い姿はやった側からしたら非常に勇ましいものであるものの、どうしても見る側からしたらみっともないように思われてしまう。

 

「え・・・・・・えーと、その。と、兎に角頭を上げて下さい!!警察に突き出したりはしないし・・・殺しもしませんからっ!」

 

 しかし、偶然にも女の子にそのような感情はなく寧ろ女の子を困惑させてしまった啓輔。その様子を悟ることの出来ない鈍い啓輔は土下座をした状態のまま更に弁解を加えて行った。

 

「いや、ほんとに悪かった......!というかわざとじゃねえんだ!!赤いバットでアドレナリンが湧いてしまってだな......!」

 

「あ、赤ですか.....因みにどうして赤なんですか?赤って言ったら女の子が好みそうな色だと思うんですけど.....」

 

 その言葉に、啓輔は驚いたように頭を上げる。

 

「そうなのか?」

 

「.....え、だってランドセルとか赤いのは殆ど女の子が着けてるし」

 

「ほー、そんなものなのね」

 

 啓輔は、女の子の言葉に正座しながら相槌をする。北沢啓輔という男は当時から周りに驚く程無関心であり、それこそ興味のあるものは野球のみという男である。そんな男が女の子の身に着けているものに興味関心など得るはずもなく、先程から彼の頭の中にあるのは罪悪感のみ。それと野球以外には、今の啓輔は全く興味を持っていなかった。

 

 さて、そんなつまらないものを見るかのような瞳をされた女の子は突如起こった珍事に驚きを隠しきれていなかった。何せ窓ガラスが割れたと思ったら今度はドアの開いた先に男の子がスライディング土下座を敢行したのだ。

 一応話題は繋いだが、女の子───七尾百合子の心は依然として目の前の少年によって、掻き乱されていた。

 

 しかし、それと同時に高揚感も感じていた。

 

 まるでサスペンスのような出来事からボーイ・ミーツ・ガールのような体験まで、幅広い非日常的な出会いが読書好きの百合子の頭をお花畑にした故か、彼女の頭の中からは既に目の前の少年が窓ガラスが割った犯人だという事は頭の中から消え失せていた。

 

「ところで貴方は.....」

 

 百合子からは興味本位で尋ねられた一言。

 されど、啓輔にとっては少々返答に困る一言。

 啓輔は戸惑った。もし、ここで名前を開示してしまったらもれなく北沢啓輔という男が図書室の窓ガラスを割ったという悪評は広まる。しかし、そこで逃げたら母の言いつけを破ることになる。そんな行為をしたくもなかった啓輔は、誤魔化す事を本格的に諦め、呆れ笑いで百合子を見る。

 

「俺の名前は北沢啓輔。赤いバットを使った野球で窓ガラスを割ってしまった男だ。よろしくな」

 

 そんな男の挨拶に百合子は、嬉しそうな笑みを見せて、一言──

 

「はい!よろしくお願いします北沢先輩!」

 

「その先輩ってのいいんだけど」

 

「え......じゃあ北沢さん、ですか?」

 

「......もうそれでいいや」

 

 面倒臭いし。そう言って、啓輔と百合子は共に図書室の窓ガラス掃除を始めた。そこでようやっと百合子も窓ガラスが割れたという事を思い出して、啓輔と共に掃除をする為に、窓付近に向かって歩き出した啓輔についていったのだった。

 

 先生にバレた時は、とても怒られてしまったが教師に怒られる事が半ば当たり前と化している啓輔にとって、保護者召喚以外のものはてんで恐ろしくもなかった。あの時の啓輔は、野球と家族にしか興味がない男でありそれ以外には対して興味がない男であった。

 

 その後、啓輔は百合子と出会う事はなかった───否、厳密に言うと顔を合わせれば挨拶をする程度の間柄であったのだが、顔を合わせる機会というものが対して少なかった為、自然と出会う機会も減少し中学も別々───疎遠となってしまっていた。

 

 それが、北沢啓輔の七尾百合子に関する記憶である。野球の練習をしていたら、ひょんな事で不良生徒としての道に足を踏み入れ、その先では読書好きな女の子が居たという記憶。

 

 そう、北沢啓輔は忘れっぽい性格ではないのだ。寧ろ記憶力は良い方で、家族が何時、どこで何をしていたか───というのが断片的なピースさえあれば思い出せるのだ。

 しかし、田中琴葉との邂逅との記憶は思い出せずにいたのは何故なのだろうか。何故、断片的な記憶が琴葉によって告げられたのにも関わらず、啓輔はその記憶を思い出せなかったのか。

 

 何故啓輔は百合子との記憶を思い出したのか。

 

 

 それは至極簡単。その時の啓輔は、野球を心の底から楽しんでいたから。

 

 たった一言、それに尽きるのだ。

 

 尤も、本人はそんなこと意識もしていないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

「それにしても、窓ガラス先輩.....ね」

 

 先程考えた通り、俺は小学校の窓ガラスと花壇を割ったってだけで決してテントを燃やされたりもしていないし、ホームレスでも無い。

 俺には、暖かな家族がいる。母と、妹と、弟が家で待ってくれているのだ。

 

「あはは.....さっきはごめんなさい。それしか頭に入ってなくて.....」

 

「いや、別に良いよ。渾名にはそこまで執着しないし」

 

 白石にも某が定着してしまったようだし。1日で2つもあだ名を呼ばれる日が来るなんて思ってなかったってのが本音なのだが。

 

「それにしても、本当に久しぶりですね!最初会った時は誰だか分からなかったけど.....よく見たら鋭い目付きとか、若かりし頃の北沢先輩にそっくりです!」

 

「若かりし頃って.....一応俺まだ10代なんですけど」

 

「あ.....すいません、なんか北沢先輩って見た目私の3個上にどうしても見えなくて.....」

 

「.....まあ、それはよく言われるな」

 

 曰く、生気のない態度と目付きをしているとか。

 曰く、見た目クールの内面ドアホとか。

 

「なんか、見た目だけは大人───って感じがするんですよね。一体何をしたらそうなるのか、聞いてみたいです」

 

「そりゃ色々だ」

 

 地獄見たり、辛い思いしたり、泣いたり。そういう想いをバネにして、人は成長していくものなのだ。

 以前の俺がどれだけクールだったのかは知らないが少なくとも今の俺がいるのはそういった『過去』を受け入れてきたからだと自分は思っている。

 

「色々.....とは?」

 

 うーん.....

 

「まあ、ほら。妹に回し蹴り喰らったり、バイト先の女の子に罵倒されたり、愛でるべき対象がいたり.....」

 

「思った以上にハードな人生だった!?」

 

「そんなにか?」

 

 ツッコミ入れる程辛い過去じゃなかったけど。いや、メンタルは幾度となく崩壊してきたけどさ。

 

「暴力と罵倒なんて1番メンタルに来るそれじゃないですか!」

 

「違うな、七尾。これは家族のスキンシップなんだよ」

 

「す、スキンシップ.....?」

 

 おう。

 

「拳と拳を交えて成長していく物語───七尾は読んだことないか?お前なら、スポ根物の素晴らしさを語れるのではないのか!?」

 

「す、スポ根.....あ、あれ?けど北沢先輩の家族構成って小さい弟くんと妹さんだって話を聞いたことが───ま、まさか!!」

 

 途端、顔を赤らめた文学少女は俺に驚きに満ちた顔を向ける。そして、彼女はその流れで俺を見て一言。

 

「家族愛を超える兄と妹の絆───愛情!!禁忌に触れる壮大なる愛の物語が───!!」

 

「あるわけねぇだろんなもん!!」

 

 おいゴラァ!!!

 空想も大概にしろや文学少女!!!

 お前それをこんな空間で言ってくれんじゃねえよ!!主に俺が変な目で見られるだろうが!!

 俺が言ってんのはスポ根物だ!!それをどう曲解したら禁断の恋物語になるんじゃボケェ!!!

 

「はっ.....すいません、トリップしかけてました」

 

「しかけたじゃねぇ、完全にトリップしてたんだよ.....」

 

 コイツの妄想癖は何時まで経っても変わらないのだろう。よくよく考えてみたら、確かに初対面の時もそのような雰囲気はあったし、サッカー部の奴もそのような空想癖があったとか、聞いたことあるし。

 

「で、その本は面白いのか?」

 

 話題をシスコン話から読書談話へと切り替えて、少しでも七尾を落ち着かせようとそう言うと、七尾はこちらを見て笑顔で頷く。

 

「はい!感想は.....もう、紹介しましたよね」

 

「ああ、だからトリップはしてくれるなよ」

 

 俺はトリップ出来ないからな。

 話に付いていけなくなっちまう。

 

「ぜ、善処します.....で、呼び止めた理由なんですが」

 

 そう言うと、百合子は俺に本を渡す。それは俺の狙っていた本───ファンタジー小説が俺の手元に置かれていた。

 

「これ、お前が───」

 

「はい、私が北沢先輩に譲ってもらった本なんですけど.....実は私、この小説読み終わってしまっているんですよ」

 

「.....あ゙〜、成程ね」

 

 要するに、俺が変な気を回したところで七尾はその本を既に読んでいて。

 譲る準備のような心構えは出来ていたのに、俺が下手な善意を押し付けちまったせいでややこしいことになっちまったのか。

 

「早とちり.....全く、馬鹿な奴だぜ」

 

「へ?」

 

 おっと、勝手に浸って七尾に迷惑をかけてしまっている。

 

「何もない、話を続けてくれ」

 

 俺がそう言うと、七尾は不思議そうな顔をしながらもその1秒後には笑みを作り、続ける。

 

「それで、先輩にこの本を片手間で読んで頂いて───この本の面白さを共有出来たらな、なんて思っているんです」

 

「.....ふーん」

 

 見た目は、ただのファンタジー小説である。しかし、読書家の七尾イチオシの本ということで、俺の中でその本は霜が付いたように輝いて見えた。

 故か───普段は、本なんて読まないのに。確証なんてものはないのに。

 

 俺は、その本を片手で持ち上げてバックに仕舞う。

 

「分かったよ、そこまで言うなら読む」

 

「本当ですか!?」

 

「もともと勉強の気分転換に読むつもりだったんだ。別に不都合はねえし、構わねえよ」

 

 立ち上がり、帰宅の為に歩を進める。

 

「ああ、そうだ」

 

 期限くらい、決めなきゃな。

 

「この小説、お前に感想言わなきゃいけないから───そうだな、テスト終わりの2週間後」

 

 

 

 テスト終わりの気分転換にはちょうど良い。田中に仮に負けたなら、七尾と遊んで気分転換でもしよう、そう考えた俺は人差し指を突き上げて『1』を示す。

 

「1.....ですか?」

 

「おう」

 

 そして、その『1』が示す意味というのは。

 

 

「感想文1枚書いて持ってきてやるよ」

 

 

 

 七尾百合子という少女と話をする為に『俺が楽しむ為に』必要なピースである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




りっくんは可愛い(確信)。
りっくんの世話を焼くシッホも可愛い(確信)。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話 学期末テスト






文章構成に四苦八苦してました。

では、続きをお楽しみください。


 朝。

 

 不自然な程の悪寒に駆られ、当社比では最悪の目覚めとなってしまった俺は声にならない呻き声を上げて、先程からうるさいほどに鳴り響く目覚まし時計の音に終止符を打たせるべく、ゾンビモードの如く、のそりのそりと歩き出した。

 

「あ゙ー......だる゙いぃぃぃぃ......」

 

 起き上がり、目覚ましの音を遮断したのと同時に発したダミ声のような何かは、俺の意識を覚醒させ、いつものようにドアを開けるべくドアに手をかけた。

 

 最近は、時間通りに起きる癖が着いてしまったようでどうしても朝寝坊が出来なくなってしまった。俺とて寝坊に否定的なわけではないのだが、田中さんにチョップを食らうのは勘弁だし、最近はテスト勉強もしているし、朝寝坊は奇跡的に行っていない。高校3ヶ月皆勤は俺の中ではちょっとしたシーズン記録だ。

 

 と、まあそんな風に色々な条件が積み重なったその上で俺の特技の中に『目覚ましの時間通りに起きる』という技が追加された訳だが、朝寝坊をしない事で俺の中では新たな懸案事項を抱えてしまっている。

 

 それが、目覚めの悪さであった。

 いや、よくよく考えてみてくれよ。俺ってば田中に出会うまではずっと寝坊助やってきたのにそれが急に変わると思いますか? 変わらないなんてないのは分かってますけどさすがに変わるスピード位はありますから。誰もが目まぐるしくフォルムチェンジなんてするわけないから。ここ重要。

 

 俺という人間は朝寝坊をしてはいけない立場にある人間なのである。田中が俺の近くにいて、チョップを敢行していく限り俺はこの惨状からは逃げられない‥‥‥悲しいことにな! 

 

 故に、朝寝坊をしない為には無理矢理体を起こすほかないし何回も顔を洗って自身を奮い立たせなければいけない。幸か不幸か、最近は身体が早起きに馴染むようになってきた。顔を洗ってシャキッとなる回数が10回から2回になったのだ。毎日洗顔7回目くらいから『早くしてくれない?』と志保に凄まれるのは嫌だからな。流石に慣れなければならない。

 

 

 

 

 

「今日も俺最っ高!!」

 

 さて、今日も顔を2回洗った後に鏡を見て決め顔を作り、何時も通りのセリフを吐いていると後ろで眠そうにしている志保が俺を睨む。その表情から朝起きてばかりで不機嫌なんやなあ‥‥‥と鏡越しに生暖かい目つきを送っていると志保が一言。

 

「五月蝿い」

 

「ごめんなさい」

 

 

 そう言うと志保は、壁にもたれかかりながら歯磨きを目を瞑る。眠いのか、それとも精神を統一させているだけか、志保の心の中を悟れない俺には何も分からない。

 

 歯を磨き終えて志保に洗面台を譲ろうとするとなんと志保がうつらうつらとしていました。心のフォルダにその年相応の顔付きを焼き付け、俺は心身共に目覚めを迎えた。流石、一発可愛がれば十発殴り返す人型目覚まし機だ。どんな表情でも俺に目覚めという健やかな時をプレゼントしてくれる。

 

「志保、終わったぞ」

 

「‥‥‥ええ、分かったわ」

 

 なんだ、志保も眠っていたのか。

 あれから何時まで起きてたのかは知らないが、こうして志保が眠そうにしている以上、自称シスコンの俺がほっとく訳にはいかない。何時も、色んな方法で起こしてもらっている恩返しだ。せめて、今日くらいは志保の目をバッチリ覚まさせてやりたい。

 

 何か出来ないかな。俺にしか出来ない、志保の目を完璧に覚まさせる何かが。ビンタするか───否、巫山戯んな。逆襲に遭って最悪死ぬぞ? 

 抱き着くか───いい加減にしろ。ぶん殴られて気絶して遅刻すんぞ? 

 

「‥‥‥兄さん、何かよからぬ事を企んでいない?」

 

「お兄ちゃんは志保にそんなことしない」

 

 死ぬのが分かっているのに飛び込むのは俺のセオリーではないからな。

 

「嘘よ。兄さんの顔、まるで悪代官のような顔をしているわ。そんな顔を鏡に見せといてよくそんな事を言えるわね」

 

 ジト目が眠たげな表情とミックスして非常に恐ろしいです、はい。

 けど、そんな表情にすら愛情のような何かを感じてしまっている俺はドMなのでしょうか。

 

「いや、ほら。志保を起こす方法を考えてたんだ」

 

「私は、今、ここに立っているのだけれど」

 

「それは眠っていないという証拠にはならんだろ」

 

 立ちながら寝るなんて造作もないことであろう。志保には悪いがその言動は眠っているのに眠ってないと言い張る奴にしか見えない。

 

「‥‥‥仮に私が眠っていたとして。兄さんは私に何をする気?」

 

「ビンタ」

 

「殴り返す」

 

「ハグ」

 

「ジョルトカウンターがお望み?」

 

「‥‥‥後は、脇を擽るとパニック状態───って話を聴いたんだ」

 

 と、俺が言うと志保は悪寒で目が覚めたのかまるで汚物を見るような嫌な顔つきをしながら俺を見据える。端的に言って実の兄に向けるような目つきではなかったのだが何時ものことな上に俺にとってはこういう目つきあってこその志保だと考えているので今更気にすることではない。

 

「............」

 

「おやおや志保さんどうしたんだい? まるでゴミを見るような目付きだよ? 俺別に志保にそんな事しないし、寧ろどうすれば今日も志保が元気に登校できるのか考えてただけだから」

 

「そんな視線向けてないわ」

 

「え」

 

 ならどんな目つきなんだよとツッコミを入れようとすると自称ゴミを見るような目つきを送ったまま志保が不敵に笑った。

 

「今世紀最低な変態不審者を生ゴミを見るような目付きで見つめているのよ」

 

「りっくん!! 志保が虐めるよォ!!」

 

『変態不審者』という新たなワードに耐えられるほどの強固なメンタルはどうやら俺にはなかったらしく、弟のりっくんに助けを求める。最早恥も外聞も関係ない。ここまで来たら大天使であるりっくんに俺のメンタルを直してもらうほかない。

 

「本当にそう思っているのなら、コーヒーをお願い」

 

「了解、熱いのを用意しておくわ」

 

 ついでにりっくんにメンタル直してもらうわ。

 

「最近は寒いから、それが有難いわ」

 

「ウイ」

 

 志保とサムズアップを交わし、インスタントコーヒーの用意を始める。粉入れて、水温めて、はいっ、これで完成───っと。

 その秒数10秒の早業に我ながらやばいよすごいよと浸っていると、てくてくと歩く音が。その足音に反応して後ろを向くと、そこには寝ぼけ眼の大天使りっくん──────

 

「あっ、好き」

 

「何が?」

 

「りっくんは知らなくていいぞー。そのままのりっくんで居てくれたら良いからなー」

 

 そうしてくれれば俺は一生ストレスフリーでいられる。

 

 だが悲しいかな。りっくんも何時かは成長して俺のことを『兄貴』とか言うんだろうな。出来るなら志保と同じく兄さんにしてくれ。りっくんの『兄貴』なんて聞きとうない。

 

「そうはいかないよ、お兄ちゃん。僕だっておとなになるんだ」

 

「教育アニメの影響か? 悪いことは言わないから何時ものりっくんでいてくれ。ねえ、頼むから。今だけでもそのままでいて? その姿で俺を癒して?」

 

「いやだ!」

 

「反抗期だァ!! 母さん!! りっくんが反抗期になったァ!!」

 

 ああああああもうやだァァァァァァ!!! 

 母さん助けて!! 志保が反抗期に近い状態になって、りっくんまでもが反抗期にでもなっちまったら俺もう手に負えないよ!! 

 

 成長速度があまりに早過ぎて俺が2人の成長に追いつけない!! (建前)

 

 どうしよう2人とも最高かよ! 今日は赤飯炊こう!! (本音)

 

「お兄ちゃん、僕もコーヒー飲みたい!」

 

「悪いことは言わないから100%のオレンジジュースにしなさい」

 

 幾ら成長したといってもそれはいけません。

 味覚をおかしくするぞ。

 

「えー......でも、コーヒー飲んだら大人だって」

 

「そんな事を言ったのは誰かな? 16歳までコーヒーを飲めなかったお兄ちゃんに喧嘩を売ってるのかな?」

 

「お姉ちゃん」

 

「志保ォッ!!!!!」

 

 

 

 その日はジョルトカウンターから始まり、志保がコーヒーを熱がり、舌を出した所を大笑いした事で朝っぱらから武力行使の大喧嘩になり、珍しく黒い笑顔を家族に見せた母さんに拳骨を喰らうまで収拾が付かなかったのは、北沢家のみぞ知る事件である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テスト期間はあれよこれとと過ぎていき、気が付けばテストの開始まで24時間を切った今日この頃。クラスは真面目に勉強する者、それなりに勉強する者、そして不真面目に騒いでいる者と3等分されている我が2組では、教室の窓際後方で石崎と琴葉が勉強をこなしていた。

 

 石崎は暗記科目の特訓、琴葉は纏めたノートの最終確認を行っており、まさに万全といった状況で優雅にノートを眺めていた。

 

「(......これなら、勝てる)」

 

 琴葉は、朧気ながらも確信した。かのシスコンお化け、北沢啓輔をけちょんけちょんにして、自らが北沢啓輔を何らかの形でこき使う場面を。

 しかし、念には念を入れるのが琴葉である。どれだけの知識が脳内に蓄積されていようが石橋を叩いて渡るように、琴葉は何度も何度も間違いないノートの内容を記憶し、ひとつひとつ答えを噛み砕いていく。

 そんな琴葉の頭脳は、ピークに達していた。北沢啓輔と戦うという意識から成り立つ抜群の集中力は琴葉の脳内をクリアにし、過去史上5本の指に入るであろう集中力で脳内には恐るべき正確性で記憶が蓄積されていった。

 

 その一方で、石崎も周りに助けられながら何とか赤点回避ギリギリのラインにまで学力を向上させていた。野球部の連中にスパルタ指導を受け、ひいひい言いながらも根性で頑張ってきた石崎には、この勝負を何としても切り抜けるという執念が根付いていた。

 普段は目もくれないテストにも、野球が懸かれば本気になる───果てしない野球馬鹿、それが石崎洋介という男であり、野球部のエースであった。

 

 しかし、そんな男にも休息は必要である。『腹痛いお』とか抜かして先程から席を外している啓輔が暫しの間ここに来ないことを悟った石崎は、いつも通りの軽いノリで、琴葉に話しかけた。

 

「ねえねえ、田中ちゃん。今ちょっと良いかな?」

 

「?」

 

 琴葉は、石崎の言葉に反応するとノートから石崎へと視線を向ける。その表情は、先程まで集中していた石崎が唐突にこちらへ話しかけた事に対する『驚き』の心境を孕んでいた。

 

「ははっ、別に大したことじゃないんだ。休憩がてら少し世間話をしようってだけで」

 

「休憩......」

 

「そー、休憩。田中ちゃんもどう? ちょっとした世間話を───啓輔の腰巾着としてみない?」

 

 腰巾着───

 その言葉に少し、目を見開いた琴葉。少なくとも啓輔が石崎の事を腰巾着だと思っている節はなく、この状況で石崎がこういった事を言うのは、予想外だったというのが琴葉の気持ちである。

 

 故か、琴葉は石崎に向けて声を上げる。石崎の言葉を否定するように、自分の意思を伝える。

 

「石崎君は北沢君の腰巾着なんかじゃないよ。北沢くん、言ってたよ?」

 

「あー‥‥‥『光が憎ったらしくて仕方ない‥‥‥あ゙〜石崎さん勘弁してくださいよー』ってか」

 

「凄いね、一言一句そっくりだ」

 

「伊達に腐れ縁やってねえよ......いや、間違っては欲しかったよ? 影と光とか何処のバスケよって思ったし。けど、何となく分かっちまう訳ですよ。奴の考えてることってのがさ」

 

「良いね、それ。言いたいことを言い合える友達って本当に良いものだと思う」

 

「言いたいこと、ね......」

 

 そこまで言い切った石崎はふと、昔───北沢啓輔と共に野球をしていた頃を思い浮かばせる。

 かつて、親友とも腐れ縁とも称する事のできる啓輔と共に野球をしていた過去。それは石崎洋介という人間を楽しませるには充分過ぎる過去である。

 

 北沢啓輔がいたからこそ、彼と切磋琢磨してきたからこそ今の自分が居る。無論、その考えに至るまでの葛藤こそあったものの、こうして『ある程度』割り切れるようになってきたのは石崎という人間が大人になった、というひとつの証拠でもあった。

 

 人間、どこかで暗い過去や輝かしい栄光を棄てて新たな1歩を踏み出さなければいけない時が来る。その転換期、というものが石崎にとってはかつての相棒である北沢啓輔との離別であり、北沢啓輔にとっては野球を切り捨てることであった。

 四捨五入という言葉は数学用語で対象の数字が4以上ならば次の数字を繰り上げ以下ならばその数字はあたかもなかったものとして切り捨てる1部の計算式や問題には外せないものである。

 転換期に何かを切り捨てるのも、四捨五入と同様の節があり、時に記憶を塗り替え、時に数字を切り捨てることで元の数字を変え、セオリー通りに問題を解くことで大人という答えに辿り着かなければならない。

 

 頭では分かっている。例え馬鹿な石崎であろうとも、そのようなことは分かっているのだ。けれども、石崎は心のどこかで啓輔と野球をやりたい───過去に戻りたいという思いを抱いてしまっていた。

 理屈を知ることと、理解をすることはまた別だ。石崎洋介は理屈を知り、多少の割り切りが出来ていたとしても心のどこかではその定石を理解しきれず、理不尽な想いに辟易してしまっていたのだ。

 

 故か、田中の言葉に反応を示した石崎は何時もの明朗快活な笑みに少し影を落とした。

 

「良いものばっかりじゃねえっすよ?」

 

「え」

 

「俺ら見ての通り腐れ縁、けど今は道を違えたクラスメイト。これでも昔は野球を一緒にやって、甲子園出ようぜ! って勝手に盛り上がってたんだぜ?」

 

「そうなの?」

 

「そーなのです! しかもバッテリー組んでたんだけどそりゃあもう啓輔は半端なかったからな!? 俺の心理状態しっかり把握してリードするし、ベースを盗む奴を100%退治出来てしまうほどの強肩、そしてパンチ力のあるバッティング......端的に言ってやばかった」

 

「......それじゃ中学時代もバッテリーを?」

 

 それは、興味本位で投じられた質問。普段なら頷くであろうその質問に────

 

 

 

 石崎は首を横に振った。

 

 

「え......なんで」

 

「転向させられたんだ、奴が小4の時にな」

 

 その言葉に田中は身体を硬直させ、石崎の顔を見つめる。琴葉が覗き込んだ石崎の顔は何かを憂うような顔。

 そんな顔つきに、今まで見せたことのなかった石崎の自虐的な笑みに琴葉は焦燥感を顕にする。何か石崎の気に触るような事を言ってしまったのかもしれない。踏み抜いてはいけない地雷を踏み抜いてしまったのかもしれない。堰を切るように溢れ出したそんな後悔は、琴葉の心境をなんともいえないものへと変貌させていった。

 

「あ、悪いようには思わないでな? 別にこの件で機嫌悪くなるほど俺ガキじゃねえし。てか、数年前の出来事で気を遣わせるとか───マジごめん!!」

 

 石崎が頭を下げて両手を合わせる。そんな傍から見ればおかしな格好の謝罪を真に受けた琴葉は『こちらこそごめん』と軽く頭を下げた。

 

 無言の空気が石崎と琴葉の周囲に漂う。割と周囲の雰囲気には鈍感であり、何時も今はこの席にいない不良生徒と共に馬鹿をやっている石崎すらも察せられるこの空気に石崎は『たはは.....』と笑いながら続ける。

 

「腐れ縁って辛いよ。約束が何かの事情でぶっ壊れた時、道を違えた時、友情が壊れた時の空虚感ったらありゃしないから」

 

「北沢くんと、石崎くんが......?」

 

「うーん、当たらずとも遠からずって感じかな。現にこうして今は仲良しこよしだし、馬鹿やってるし」

 

 それは、確かな事実。どれだけ殴り合おうが暴言を吐きあおうが仲間は仲間。その思いが変わることは無い。

 

「ただ、俺って人間が啓輔に対して負い目を抱いてるのは確かだし、啓輔が何かしらの事情があって野球を辞めたことも、変わっちまった原因も分かってる」

 

 なら、確かめれば良い。話し合いをして、お互いにズレ込んだ感覚を擦り合わせて行けば良い。しかし、石崎はその考えを放棄して、力なく笑みを作った。

 

「けどさ、俺にはないんだよ。『聴けるだけの勇気』が」

 

「勇気.....?」

 

「誰かに頼ってばっかの人生が死ぬ程嫌いだった。何で頼ってばっかなんだって、何で頼らせてくれないんだよって、ずーっと思ってたのにな」

 

「え───」

 

「......田中ちゃん」

 

 石崎は、田中を見遣る。それは本来の石崎らしからぬ真面目な顔つき。そこから織り成す石崎が形成したらしからぬ雰囲気に、琴葉は思わず息を呑む。

 

「啓輔を、宜しくな」

 

「───宜しくって」

 

 琴葉がそう言った途端今まで漂っていた雰囲気は霧散し、いつものおちゃらけた雰囲気の石崎が頬を膨らませながら琴葉にキメ顔を作る。

 

「額面通り、末永くお幸せにってな!」

 

「額面通りなの!?」

 

 石崎の額面通りと言う言葉ほど信用ならないものはない。

 そもそもこの男、基本的に頭が悪く語彙力もあまりない。そのような男が額面通りという言葉を使いこなせるわけがなく、その言葉を石崎が使ったのもたまたま見たドラマでそのような言葉を使っていたから───という石崎の気まぐれであった。

 

 そうこうしている間にも、廊下から歩いていく音が聴こえる。ドアが開く音と同時に琴葉と石崎が同時にドアの方を見遣るとそこには何やらゲッソリした様子の啓輔が気だるげなオーラを振り撒きながらこちらへ向かって歩いてきていたのだった。

 

「よーお前ら北沢家の落ちこぼれが戻って来たぞー......って、田中は何故顔が赤いんだよ」

 

 それを聴いた琴葉は思わず自分の頬をぺたぺたと触る。確かに頬が熱い───そもそもこの少女、見かけによらず己の色恋沙汰に関して免疫がない節がある。故に、時として自ら自爆する時もあるし先程の石崎の茶化し等に一定の弱さがある。

 尤も、彼女はその事実を理解していないのだが───

 

「べ、別に何もないよ!」

 

 たった今、頬が熱くなり漸く『己が照れている』ことに鈍感ながら気が付いた琴葉は慌ててその内面を悟らせないように啓輔に対して『誤魔化す』という選択肢を取る。

 

 が、それは無策! 

 

 何故かって、そこには自他共に認める『空気読めない男』石崎がいたのだから。

 

「よーよー啓輔!! お前さんも愛されてるなぁ!! お前、田中ちゃんが顔を赤くしてる原因何だか分かるか!? この子俺の言葉をきょっか───」

 

「石崎くん!!」

 

 啓輔の肩に腕を回した石崎の不意に発せられたその爆弾発言に琴葉は思わず狼狽する。しかし、そんなこと知ったこっちゃない啓輔は石崎と琴葉を順番に見てため息を吐く。

 

「いや、お前ら仲良いなー」

 

「お、そうか? でもそれ言うならお前らの方も仲良いよな。お前ら実は付き合ってるとか───」

 

 石崎がそう言った瞬間、啓輔と琴葉はそれぞれ瞬間的に言葉を脳内で処理し、言葉に発する。片一方は、無表情で。もう片方は平静を保ちつつも少し頬を赤らめた状態で。

 

『それはない』

 

「えー、即答......でも息ピッタリって事はさ、脈は───」

 

『それもない』

 

「......お似合いだと思うんだがなぁ」

 

 石崎が勿体なさげに呟いた一言に啓輔はジト目で田中を見やった。そもそもこの話に関して無知も良いところであった啓輔は端的に言って被害者である。そんな啓輔がボキャブラリーに富んだ言葉を発せられるはずもなく、石崎の言葉をそれこそ額面通りに拾い、思いの丈を正直に語る。

 

「いやいやー、俺には田中みたいに綺麗で真面目な委員長なんて勿体ないですよー」

 

 勿論、啓輔にとっては賞賛の意をもって発した一言である。北沢啓輔にとっての田中琴葉と言う少女は何処までも真面目で、優しくて、真摯に物事に取り組む───それでもちょっとポンコツで可愛いところもある普通の女の子。

 だが、その言葉を聴いた琴葉は賞賛を賞賛と受け取ることなく啓輔に対抗すべく啓輔をじっと見つめる。その表情から察せられる感情は、不機嫌である。

 

「む......それを言うなら私だって。北沢くんみたいな時々真面目な不良生徒、こっちから願い下げだよ」

 

 

(......いや、田中さんに北沢くんよ。お互い貶すのか褒めるのかどっちかにしろやい)

 

 お互いがお互いを見て物を言い合う。そんな光景を傍観しつつ、石崎は感謝していた。何故かって、かつて北沢啓輔がこうして同年代の女の子とわいわい話すなんてこと────それこそ啓輔が『同年代の人間と』話すなんて琴葉に会うまで長いこと見ていなかったから。

 

 1人の腐れ縁として何が出来るかと石崎が考えた時、出来ることは殆どなかった。だからこそ、啓輔自身に安寧の時を与えてくれているこの女の子に、石崎は多大なる感謝と賛辞を送っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 時が過ぎるのは早いもので、時間が惜しいと感じる程に時の速さは比例していくような錯覚を受ける。

 

 それは俺にとっては間違いでもなんでもなく、端的に言うと俺はもっと時間が欲しかった。

 もっと勉強して、万全な状態で臨みたかったと現在進行形で考え、時間の経過をより体感的に速くしてしまっていた。

 

「啓輔!! テスト勉強どうだ!? 上手くいったか!? 俺!? 俺はもう負ける気せえへん!! 地元やし!!」

 

「......地元は関係ねえだろ坊主」

 

 しかも聞いてねえし。

 

「がっはっは!! もしや啓輔さん余裕がないんじゃないんですかぁ? 何時ものお前ならこの程度の煽りなんて煽りで返すくらいの気概を持ってんだろぉ?」

 

「余裕がないんだ」

 

 

 

 

「......え、マジで?」

 

「腹が痛い、風邪も引いたみたいなんだ」

 

 ずっと徹夜で勉強していたのが祟ってしまったのだろう。喉も痛けりゃ腹も痛い。倦怠感も先程から一入にあり、その痛みが今回の無理ゲーをより一層際立たせている。

 

「あ゙ー......腹痛いい゙ぃ.........」

 

「と、取り敢えずあれだ......俺漢方薬持ってくるよ!」

 

 中谷ぃ! 漢方薬をくれぇっ!! と石崎が走り出す。それを見た俺は漸く訪れた安寧に息を吐き、机に突っ伏す。

 

 本来なら、もっと復習とかしたかったんだが‥‥‥悲しいことにやる気が出てこない。体調不良ってここまで辛かったんだなぁ。風邪をあまり引いたことの無い俺にはよく分からないなぁ‥‥‥なんて軽く自己嫌悪のような何かに浸っていると隣から聞こえる物音。

 

 

 

 

「......大丈夫?」

 

 そして、聴こえた声に俺は思わず肩をぴくりと反応させた。

 

「あ゙ぁ......田中かぁ......」

 

 いつも通り、ストレートヘアーに少しマルサルってる髪色が俺の視界に入る。そして、その後に俺の顔を伺った田中の表情は、心配そうな顔つきだった。

 

「......なんて、大丈夫なわけないか」

 

 そう言うと、田中は自分のバックから水筒と飴を取り出す。手際の良いその姿に、思わず呆けてしまっていると田中が湯気を放つコップを俺の机に置いた。

 

「......なに、これ」

 

「柚子茶だよ。これを飲むと風邪に効くらしいから、是非飲んで」

 

 柚子茶、とな。

 柚子といえば、冬になると母さんや志保が柚子湯に浸かってるってのを何回か聞いたことがあるけど、本当に効果ってあるんだな。

 

 ここは、厚意に甘えて口にしよう。てか、もうコレ敵に塩を送られすぎて勝負どころじゃなくなってんな。まあ、良いか。有耶無耶にしてしまえば───

 

 

 

 

 

 や、それは田中が怒る。

 

 何が不味いって1度かけた勝負を有耶無耶にしてしまう不誠実な行為が1番不味い。何よりこの勝負は俺から仕掛けた勝負だ。ここで引き下がるのはあまりに恥ずかしい事ではないか。

 

 厚意は有難く頂く。

 勝負は本気でやる。

 勝ったら......その時はその時だ。

 

「田中」

 

「?」

 

「ありがとう。柚子茶は有難く頂きます」

 

 そう言うと、田中は何とも言えない引き攣った笑みを浮かべながら俺を見る。なんだ、何かおかしなことしたか俺。

 

 また何かやっちゃいましたか? 

 

「北沢くんが素直にお礼を言うなんて」

 

「失礼な。俺だってお礼の1つや2つ、安いもんだぞ」

 

「でも、何時もの北沢くんならこの勝負に辿り着くまでに風邪引いてたら欠席してたよ。基本無理はしない人だったし......何より寝坊助だったし」

 

 その言葉で思い起こされるのは、2年生序盤から中盤にかけてのの月一寝坊助オンパレード。あの時は、何度も何度も惰眠を喰らって田中にチョップを喰らっていたのだが、今では叩かれ癖が着いてしまったのか、ただ単に心境の変化でも起こったのか。

 

 まあ、あの時の俺に会えたなら今の俺に言えることはたったひとつ。『寝坊助は止めとけ』って警告だ。何せ田中のチョップは回数を追うごとに俺の頭に強く響くようになるんだから。

 

「......そうかい」

 

 何はともあれ、柚子茶の入ったコップに口を付ける。そう言えば、このコップ俺に使っていいのかな。

 確か世の中にはこういうのを如何わしく感じる輩がいると聞いたのだが。

 

 ......そう考えると、何か段々この状況が不味いように思えてきた。

 

「時に田中」

 

「?」

 

「このコップどうすんだ? 見たところステンレス製の水筒にくっついてる奴なんだけど......」

 

「え、普通に飲めば......」

 

 ファッ!? 

 

 まさか先程まで考えてたのって俺の考えすぎ!? 

 それとも田中が人生経験豊富なだけ!? 

 

 どうしよう......俺、地雷踏んじゃった? と色々考えて悶々としていると、漸く田中も俺の言わんとしている言葉の意味に気が付き、3秒程固まった末に顔を瞬間的に赤くした。

 

 おお、すげえな。『ぼふっ』ってこういうことを言うんだな。何時ぞやのポンコツアンドロイドな田中さんもなかなか面白かったが、自らの行った行為に『ぼふっ』てなる田中もこれまた可愛気があって、愉快である。

 

「そういうの嫌な奴だっているだろ? もし田中が嫌なら俺自重するけど」

 

「なっ......!? いや、別に大丈夫だよ! そんな理由で目の前の病人を放っとく訳にはいかないし......」

 

 ふむ、病人を放っとく訳にはいかないからそういうことを許してくれるってか。

 

「お前、あれだろ。天使か何かだろ」

 

「別に天使なんかじゃ......!?」

 

 田中が反論している間に柚子茶を飲む。うっわ、普通に上手い! 喉が楽になる!! 

 

「はー......美味い」

 

「............」

 

「何絶句してんだよ」

 

「......ちょっと廊下出てくる」

 

「おう、そうか。テストまでには戻ってこいよ」

 

「......うん、多分戻ってくる」

 

「は? 多分───っておい」

 

 心ここに在らず、といった感じで田中が教室を出ていく。テスト前だってのに、そんな余裕があるのか。一生懸命勉強してきたから、少し休憩するってか。

 

 ああ、畜生。

 

 やっぱりアイツ、カッコイイ(可愛い)なぁ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話 しじみ汁は美味しいらしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風邪を引いてしまった俺の懸案事項であるテストが終了した。

 

それは、今まで頑張ってきた俺の重くのしかかっていた心を解放するには十分すぎる要素であり、熱を出していながらも身体が楽になった感覚になり、変なテンションにもなった。

 

否、最早熱を出していたからこそテンションがメーターを振り切ったまである。兎に角俺はテンションが上がっていた。何なら、空も飛べそうな程に。何なら今から志保に抱きついても抵抗がないくらいに。

 

その結果、俺の身体は限界を迎えて以降の2日間を高熱で休んだとさ。いやあ、馬鹿だよね俺。帰って直ぐ安静にしてれば良いものの変なテンションの侭に変なノリで作った創作料理を作って家族をドン引きさせてたのが祟ってしまったらしく、後日高熱が俺の身体を襲ってしまったのだ。

 

「志保ぉ.....お粥が欲しいよ。志保の手料理から織り成す情熱のお粥で俺にパワーをくれよぉ」

 

「母さん、兄さんは高熱で頭が沸騰してるみたい。氷枕の追加をお願い」

 

先程から俺に付きっきりで看病してくれている志保に我ながら甘えすぎて気持ち悪いと吐き気を催す程の言葉を投げかける。しかし、そこは何時も俺の言葉をスルーしている志保故か、俺の変態的要求にもしっかり辛辣な言葉を投げかけてくれる。

 

兎に角、先ずは熱を直さなければならない。お医者様によると、疲れによる高熱なだけらしいから2日もすれば治るって話だし、今回は休むことに全力を注ごう。

 

「そういえば、志保.....レッスンは?」

 

「終わったから帰ってきてるのよ。本当に兄さん、頭大丈夫?」

 

「大丈夫だと信じたいよ.....ごめんよ志保」

 

「.....はいはい、分かったから。今はゆっくり休んで」

 

有難く休ませて貰います。と言葉ではなく態度で示す為に縦に頷くと、何時も無愛想な志保が少しだけ困ったようにクスリと笑い俺の右手を握る。

 

「.....暖かいなぁ」

 

人の血が通ってるんだから当たり前なんだけど、それだけじゃない。心まで暖かくなるような、そんな気さえしてしまう。

家族の暖かさって、こういうことを言うのかな。

 

「覚えてる?昔、兄さんがこうして私とりっくんを寝かせてくれたこと」

 

「あ、それ覚えてるよ」

 

幼少の頃、名前を呼ぶととことこ歩いて笑みを見せてくれる可愛い妹を俺は溺愛していた。その時の記憶はまだまだ残ってる。無論、薄れてきてはいるものの、こうして志保や陸が思い起こさせてくれるとまた何度でもその光景が鮮明に浮かぶ。

 

あの時は.....絵本を読んでも眠れなかった時なんかに志保の手を握っておまじないをかけていたな。おまじないの内容.....忘れたけど、何か変なこと教えてた気がして思い出したくない。

 

「.....なら、手を握りながら何を言ってたか覚えてる?」

 

「すまん、おまじないをかけていたのは俺も今さっき思い出したんだけど内容までは思い出せん」

 

そう言うと、志保はため息を吐いた後目を瞑る。そうして3秒経った後志保は空いているもう片方の手で俺の肩をぽんぽんと叩きながらリズムを取る。

 

そして、無言だった空間に志保の声が響く。

 

「良い子は黙って、ねんねしなー.....って子守唄を唄ってくれたのよ」

 

「志保」

 

「?」

 

「耳が幸せです。死んで良いですか?」

 

「まだそうなってもらっては困るわ。兄さんにはまだまだ長生きしてもらわないと」

 

それもそうっすね。

 

流石にこの歳で死ぬとかお笑いを通り越して笑えんわ。俺はまだまだ生きる.....家族の為に生きるんや!

 

「あーはっはー.....ゲホッゴホッ.....!!」

 

「.....無駄話が過ぎたみたい。そろそろ兄さんは寝なさい」

 

せやな、そうするよ。

 

「.....安心して、兄さんが寝るまで私も傍にいてあげるから」

 

そんなに俺、愛に飢えてないから。ひとりぼっちも寂しくないから。

 

けど、こうして手を握られるのは悪くない。

 

こうしている間は、俺の中の心が暖かくなる気がするから。普段の喧騒と過去に溢れて荒んでしまった俺の心が癒される気がするから。

 

だから、今日は志保の厚意に甘えようと思う。

 

また、明日から誰よりも強いお兄ちゃんを目指して頑張っていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、熱を直すために3日を要した俺は3日後の金曜日。久しぶりに学校へと辿り着いた。学校は学期末試験が終わったこともあり、短縮授業へと移行。更には明日は土曜日ということもあり病み上がりの俺にとっては非常に親切な日程となっている。

 

いつも通り、校舎の入口で下駄箱から上履きを取り出し履き替える。そうして向かうはこの学期が終わればサヨナラするであろう教室。

ドアを開ければ、3日ぶりの不良生徒到来に少しざわめく教室に空気を読まない男、野球部エースの石崎が仁王立ち。

 

この光景は何度も見覚えがある。石崎がこうして俺を不敵な笑みで見据えて、俺を見る。そうして俺に向かって一言。

 

「啓輔!!野球をやるぞぉぉぉぉぉッ!!!」

 

「ないわー」

 

「何故だァァァァッ!!」

 

だって寒いもん。なんて頭の中で考えながら頭を抱えて項垂れる石崎を通り越して窓際の席へと向かう。

 

そこに向かえば、楽しい時間を過ごせると分かっていたから。だからかな、俺の足は本能が呆れるくらい忠実にその席へと向かっていった。

 

「.....よっ」

 

何となく、久しぶりの挨拶が気恥ずかしくて遠慮気味に挨拶をするとその声にハッとなった女───田中琴葉は俺を見て目を見開いた。

 

「治ったんだ」

 

「まあ、色々世話になりまして」

 

主に柚子茶とか。とても美味しかったです。

 

「別に何もしてないよ.....あ、それと───お疲れ様」

 

そう言うと、田中は俺を見て少しはにかむ。その笑みに俺は少しだけ心を揺り動かされる感覚を得た。

何時からか、得るようになった気持ち。具体的には球技大会辺りから感じるようになった経験のない感覚は、計らずも俺の口角を上げてしまう。

家族の暖かさとは違うむず痒い感覚に、少し戸惑っていると田中が『そう言えば』と胸の前で掌をパンと叩く。

 

「テストの結果」

 

「ああ、そう言えば何点だったよ」

 

3日も休めば、テストも返ってくる。

タイムリーパーでもない俺は、テストの結果からは逃げられない。

勝っていようが、負けていようが甘んじて受け入れなければならないのだ。

 

「北沢くんのテストの結果は引き出しにあると思うよ」

 

そりゃあ良いや。

後からテスト用紙貰うのって結構めんどくさいからな。職員室で振るわない成績のテストを受け取れば気不味くなるし、各授業毎にテストを返されちゃ一つ一つの結果で悶々としてしまう。テストの結果を見られようが羞恥心もクソもない俺にとってはこうして机の引き出しにしまわれていた方が、ありがたいんだよな。

 

てか、俺の引き出しなんて好き好んで見るヤツいないから。俺の机を見る奴とか、どんだけ俺の机に興味あるのよ‥‥‥とツッコミ入れたくなるわ。

 

「じゃあ、後は俺がテストの合計得点を田中に言えば決着が着くと」

 

「うん.....因みに私は」

 

「何点だった?」

 

「5教科合計で480点。自己新記録だよ」

 

「はい終わったー!!もう全部終わったー!!あー恥ずかしい恥ずかしいッ!!」

 

「変なテンションになってない!?」

 

五月蝿いよ!!

こちとら田中の総合点数をもうちょい下に見積もってたんだよ!!

甘すぎ!?見通しがクソ!?

ああそうだよ俺はクソだよ!!

そもそも単純な実力不足だよ!!

涙が止まらないよ!!

 

「や、ヤケにならないで‥‥‥取り敢えず結果を見てみてよ。勝負は最後まで分からない、でしょ?」

 

「ああ‥‥‥だが期待はしてくれんなよ」

 

無駄口もそこそこにテスト用紙を表に返す。

すると、表に書いてあるテストの点数は当然丸見えになるわけで───

 

 

 

 

 

 

国語 85点

数学 90点

社会 95点

理科 80点

英語 80点

 

 

合計点数4()3()0()()

 

 

 

 

その点数に、俺は絶句して。

田中は目を逸らした。

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥あー、えっと。うん、でも北沢くんは文系だし」

 

必死にフォローされているのが酷く悲しい。何で俺は対戦相手にこんなにフォローされてんだ?非常に情けなくないか?

 

「‥‥‥‥煮るなり焼くなり好きにしろ」

 

「え」

 

「好きにしろ!!」

 

「何でそこまで強調するのかな!?」

 

うるさい馬鹿!!

 

こちとら田中に勝つ気で勉強してきたんだ!!その結果が敗北になっちまって、勝者に慰められるこの展開は非常に嫌いなんだ!!

 

どうせなら驕り高ぶれよ!!そういう性格じゃない良い奴だってのは分かってるけど勝負に買った時くらい自慢しろよ!!

 

「あ゛ぁぁ.....田中に負けた。折角田中に勝つって大見得切ったのに負けるとか.....もうやだ、お家帰りたい.....」

 

「今日は短縮授業だから。それは少し我慢しよ?」

 

田中に諭されながら、あまりにも非情なこの結果に項垂れる。流石田中だ。学年末テストは総まとめと言っても過言ではない範囲数を誇る。それにも関わらずアイドルと両立してこんなに良い成績を取るなんて、相当の生真面目っぷりじゃないと出来ない。

 

性格も良し、アイドルも良し、頭も良し。これって、俺が付け入る隙ないだろうし、そもそも田中に勝てる奴なんてなかなかいないんじゃねえの?

 

「.....まあ、俺のこのクソみたいな結果は兎も角。お前はこの勝負に勝ったんだ。前に言った通り、煮るなり焼くなりしてくれて構わない」

 

寧ろしてくれ。

 

じゃないと色々収まりがつかない。

 

「.....そもそも私は北沢くんがちゃんと進路を叶えられるかどうかが心配だったってだけだったのに」

 

「.....う」

 

「北沢くんってあれだよね.....そう、早とちり。後何だかんだ燃えやすい」

 

「.....すいません」

 

今、確実に鎮火したけどな。ジト目の田中さんの早とちりと燃えやすいのダブルコンボに俺の心はズタズタです。

 

「まあ、良いか。折角北沢くんがそう言ってくれてるんだし.....ひとつ、お願いしようかなー」

 

そう言って、田中はニコリと笑みを見せたあと熟考する。その笑みに少し恐怖のようなものを感じた俺は、軽く身震いしながら次の言葉を待つ。

やがて、熟考していた田中が何かを思い出したかのように笑みを作り一言───

 

 

 

 

 

 

 

「一緒にご飯食べよう」

 

は?

 

え、今なんて言ったこの子。

俺の聞き違いでなければ、コイツ一緒にご飯食べようとか言わなかった?

となると何処で?

まさかここで?

 

「───あれ、もしかして聞こえなかった?」

 

「いや、聞こえたよ。充分すぎるほど聞こえた」

 

なら、良かった。と田中は俺の返答にそう返すと先程と同じ笑みのまま───否、やや鼻息荒げに続ける。

 

「前々から北沢くんに紹介したいお店があったの。そこのしじみ汁がとっても美味しくて.....」

 

「や、ちょいちょいストップ」

 

しじみ汁とか、今はぶっちゃけどうでも良い。てか、大事なのそこじゃない。

 

「?」

 

「あのさ、お前ってアイドルだよな」

 

「それは‥‥‥うん」

 

「なら、アイドルが一般人の男と簡単に、お手軽に、何なら近くのコンビニ感覚で一緒にご飯食べて良いの?や、そもそも俺と一緒にメシ食べて何か得があんの?」

 

得があるなら是非聴いてみたい。もし、具体的な得があるのなら道行く奴らにその得とやらを吹聴しまくって男も女もオールオッケーなハーレム大国を築いてやるぞ。

 

「.....紹介したいだけなんだけどなぁ」

 

「なら紹介だけしろよ。別に俺とメシなんて食わなくて良いだろうがよ」

 

なんなら志保でも連れてメシでも行けばいい。そして、俺をもっと別のことにこき使えば良い話だろ。

正直、田中が行きつけの店を俺に紹介して得することなんて1つもないだろうて。

 

と、我ながら呆れた面持ちで目の前の田中を見遣ると田中はジト目でこちらを見なさっていた。なんだよその目、止めろよ。志保が俺に侮蔑の視線を送ってるみたいでなんか嫌だぞ。

 

「‥‥‥煮るなり焼くなり好きにしろって言った癖に」

 

あ゛。

 

田中の言葉に思わずそのような悲鳴にも近い言葉が漏れる。

まさかこんな所で自分の言ってしまったことが仇になるなんてな。感情そのままに発した一言に碌なものはない。勿論、それに反論できる術も持っていない。

俗に言う『詰み』ってやつだ。

 

「───ぐうの音も出ないな、そのド正論」

 

「大丈夫、店で偶然を装えば大丈夫だし───その、他意はないから」

 

んな事分かってらい。

 

田中のような奴が俺に行ってくれていることは全部親切だってことも分かってる。もし、田中が極悪非道な悪徳総帥なら俺は今頃ありとあらゆる雑用を行い、心身共に疲弊してしまっていたことだろう。

それをしないということは、田中は優しいってことだ。罰ゲームの内容が『一緒にメシ』とかやらされる側の性格によっちゃご褒美だからな?

 

 

「おっけ、分かったよ.....んで、店の名前は?」

 

兎に角、俺は田中の要求を飲む他に選択肢はなかった為両手を上げて降参の意を示す。その光景に満足気な表情を示した田中はこちらを見遣り一言───

 

 

 

 

「たるき亭、だよ」

 

聞いたことすらない定食屋の名前をお発しになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「田中って割かし積極的だよね」

 

「は?」

 

短縮授業から帰宅し、恙無く家事を済ませ2人でコップ一杯の麦茶を飲みながら俺がそう言うと、志保が明らかに殺意を孕んだ声色と目付きで俺の言葉の真意を探ろうとする。やだなぁ、俺の事看病してくれた志保はどこに行っちゃったの?

 

「だって、急に一緒にご飯食べに行こうとか言うし」

 

「は?」

 

「この前のテストの時なんて自分の水筒のコップに柚子茶を注いでくれるし」

 

「は?」

 

「.....いや、お前さっきから『は?』しか言わないけどさ!!怖いから止めろよそういうの!!」

 

「呆れるくらいのカミングアウトを兄さんが何度もするからでしょう?それよりも兄さん。私、琴葉さんに迷惑かかるような事をするなって球技大会の時に言ったわよね?」

 

「それはその日限定だろ?」

 

「は?」

 

「あ、いや.....ゴメンなさい」

 

さっきから志保が怖い。看病したり、甘えたりしてくれる時とはまるで真逆のその目付きはまさに天国と地獄。無論、今の光景が地獄である。怖い目付きに幸福感を感じてしまうほど俺はドMじゃないから。何度も言ってるから。

 

「.....それにしても、琴葉さんがそんなことを言うなんて」

 

「俺も吃驚したし、最初は止めたんだよ。でもテストに負けた手前どうしても断りきれなくてな。言ったことを反故にするのはお前の言うところの公序良俗に反する事だし」

 

前に志保に公序良俗に反することをするなと言われたことをなんだかんだ覚えている俺にとって、志保の約束ほど破るわけにはいかない約束はないため今のところは出来るだけ物事の事象に誠実であろうとしている。

 

例えば、テストは最後まで真面目に受けたり。朝寝坊をしなかったり。細かな積み重ねが誠実さへの近道と考え、日々邁進している。勿論、誠実であろうと決めた理由はあるんだけどな、ヒントは馬場チョップ。

 

「‥‥‥確かに、琴葉さんから言われたことだし約束を破るのも良くはないし仕方がないけど」

 

「志保の言うこと守ったお兄ちゃんを褒めて欲しいな」

 

「気持ち悪い」

 

酷い。

 

「‥‥‥な、何はともあれ、俺考えたんだ」

 

「何を?」

 

「どうせなら田中を盛大に喜ばせようって」

 

罰ゲームってのは想像以上に過酷なものだ。勝った奴の言うことに基本的に服従せねばならない。当然、途中で辛くなることもあるだろう。

そこで俺は考えたのだ。どうせ辛くなるくらいなら達観的になり、ハイテンションとなり、この状況すらも楽しんでしまおうと。

 

俺は、決心したのだ。

 

1日限りで、田中を喜ばすピエロになろうってな(唐突)。

 

「1日限りの道化師に‥‥‥俺はなるっ」

 

「兄さんは毎日がピエロじゃない」

 

「生意気な口はこれか?」

 

志保の頬を軽く抓って反抗の意を唱えると、素知らぬ顔をしてきた志保の顔が突如変化する。その顔は俺という存在の思わぬ反抗に腹を立てたのか怒りに歪められている。そして、目は既に何人か殺ってそうなハイライトの消えた目付きであった。

 

「どの口がその台詞を発しているの?」

 

「この口だ」

 

「ならご生憎だけど、今の兄さんに私の暴言を咎める権利なんてないわよ」

 

「なんだと‥‥‥」

 

「私は兄さんの世話を2日したの、その間言いたいことも我慢して普段の10割増の優しさで兄さんを介護したのよ?」

 

「普段どんだけ俺に優しくねえんだよお前は」

 

あれが10割増って。何時もは暗黒面して俺にドS極まりない発言や行為をしでかしてるってことっすよね?何そのダークサイド的思考。天使の方もっと頑張れよ、もっと優しい志保見せてくれよ。

 

「というわけで、兄さんは1日くらい私に主導権を握らせて然るべきだと思うの」

 

「‥‥‥しゅ、主導権とな」

 

「兄さん」

 

「んだよ」

 

「あの時の兄さん、とっても可愛かったわ」

 

「あああああ!!あああああ!!」

 

『あの時』───フッ‥‥‥と鼻で嘲笑した後に発せられた志保の言葉に俺のメンタルは崩壊した。毎週ペースで崩壊するのはよくある事なのだが、今回は破壊度がえげつない。

 

何時もはヒビが入る程度か、一部が欠けるに留まっていたメンタルブレイクは過去の黒歴史を思い出すことにより二割増のダメージを孕んだ攻撃となり、俺のメンタルを文字通り『破壊』した。

 

「‥‥‥今兄貴として大切なものを失った気がする」

 

ただ、何か憑き物が落ちたような気分だ。具体的には今の俺なら何言っても恥ずかしくないような気さえしてきた。それが良いのか悪いのかは知らんが、取り敢えずあれだ、田中との昼食を楽しむ術でも聴いてみようか。

 

「てなわけで女の子が喜びそうな言葉教えて志保えもん」

 

「恥も外聞も消えたわね」

 

志保、それや。

さっきから何か心が軽くなた気がしたのだがよくよく考えてみたら今の俺、恥ずかしさがない。

 

「第一前提として、そんなもの自分で考えるべきでしょう」

 

「考えた、考えたけどダメだったんだ」

 

「なら風邪拗らせたって言って休めば?今なら何とかなるでしょう」

 

「不誠実を止せって言ったのお前だよね?何で抑止の張本人が不誠実を進めてんの?」

 

「私の知ったことではないから」

 

「良いのか?お前の大事な仲間が兄の毒牙に冒されても」

 

「あ゛?」

 

「待って、ストップ。流石に今のはお兄ちゃん調子に乗りすぎたから。毒牙になんてかけないから。寧ろ喜んで田中のモチベーション上げる要員になってみせます、モチベーション上がらないとか言って退団とかさせないようにするから!!」

 

いざとなったらまたスイッチを切り替えて、田中をわっしょいわっしょいして持ち上げて見せるさ。そうすることで田中はモチベーションを上げ、俺は志保に鋭い目付きを向けられなくて済む。我ながら完璧なwin-winの関係である。

 

「‥‥‥全く、兄さんは本当にそういう所がダメ。折角誘われてるのだからこういう時くらい自分で考えて人を喜ばす方法を考えなさい」

 

自覚してるだけに辛いです‥‥‥志保が好きだから、当たり前のことが出来なくて罵倒されるのは‥‥‥辛いです。

己の思慮浅さに悲しみ内心涙を流していると、ため息混じりに志保が続ける。

 

「‥‥‥先ず、服はシンプルに。それから兄さんはその目付きの悪さをメガネで隠せばマシな顔が更にマシになるわ‥‥‥それから」

 

「‥‥‥それから?」

 

「普通にしてれば、兄さんは格好が付くわ」

 

「志保‥‥‥」

 

なんてこった。

ここに来てお褒めの言葉をくれるだなんて、流石志保はデレというかそこら辺の塩梅が分かっている。

こうして俺がやる気と気概に満ち溢れているのが良い証拠だ。どれだけ罵倒されようが、志保の一言で俺の心は前へと前へと舵を切ってしまう。

 

「さあ、行ってきなさい。自分の足で明日着る服を考えるのよ」

 

志保の締めの言葉に、俺は大きく頷き自分の部屋へと向かっていく。

 

「おう!!」

 

帰り際に、大きな一言を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥まあ、その普通の概念が理解できない兄さんには『格好良さ』なんてものは一生巡り会えないのでしょうけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから、着る服を決めたりと何かとイベント事に恵まれることの多かった俺ではあるのだが、実は田中との食事前にもうひとつ約束していたイベントがある───ということに気付いたのが、先程。

 

勉強の間に読んでいた本の返却期限をうっかり忘れそうになっていた為、本を図書館に返却し、その流れで俺は前にテスト勉強をしていた席へと辿り着く。

 

しかし、目的の人物は目の前にいなかった為ぐるりと辺りを見渡すと。本棚の影に藍色の髪の毛が。

 

「‥‥‥こちら、ズネーク。図書館資料室Bにて奇特なる本を発見した。これからこの本の捜査を敢行する───風の戦士よ、応答を頼む」

 

「‥‥‥ず、ズネークさん!深入りしすぎですよ!戻ってください!そこは危険過ぎます!!」

 

「安心してくれ風の戦士。この先にはスリルが待っているんだ───冒険という名前のスリルがな‥‥‥」

 

さて、遊びもこれくらいにしてそろそろトリップしている七尾を現実に戻そう。このままじゃ埒があかないしな。

本棚にある本を抜き取り、抜き取った棚から見える七尾の顔を見つけた俺はその顔に笑顔を向けて、挨拶をする。

 

「よ、七尾」

 

「うひゃあ!?」

 

さて、そんな俺の声に驚いたのか肩を跳ね上げて此方を壊れたゼンマイのように振り向いた七尾はまさに戦慄───といった表情で俺を見つめる。そんな表情をしてくれたことに俺は若干の安堵感を得た───いや、悪ふざけは誰かが乗ってくれないと非常に恥ずかしいからな。風の戦士───とか言って『は?』なんて言われた日には俺はもう軽く死ねる。

 

さて、先程までは目を見開いて俺の突然の来訪に驚いていた七尾であったがそんな顔つきも束の間、少しばかり憤慨した様子で頬を膨らませる。

 

「北沢先輩!!驚かさないでください!!」

 

「やー、はっは‥‥‥悪い、まさか七尾がノッてくれるとは思わなかったから。少し悪ふざけが過ぎたな」

 

「本当ですよ‥‥‥吃驚したんですからね?急に本棚から顔面が飛び出てきて───ホラー小説の世界に入り込んじゃったんじゃないかと!」

 

「それは俺の顔面がホラーって言いたいの?売られた喧嘩は買うぜ、七尾」

 

全く失礼な話だ。

 

「何はともあれ、悪いな。約束したのに風邪引いちまって」

 

「やっぱりそうですか、最近はタチの悪い風邪が流行ってますからね‥‥‥気にしないでください。風邪でしたら仕方ありませんよ」

 

そう言って貰えると助かる。

俺だって風邪を引くなんて思いもしなかったんだ。突然のアクシデント───大目に見てくれ、なんて言うのは傲慢だと分かってはいるのだがそれでもそう言ってくれるだけで十分ありがたい。

 

「それよりも‥‥‥先輩」

 

「ああ‥‥‥分かってるよ───七尾!」

 

先程から、俺が右手で持っているファイル付きの原稿用紙に七尾の目は釘付けになっている。その視線から察せられる答えはただひとつ───分かりきっている。

 

ニヤリと笑みを見せた後に七尾にそのファイルを手渡しする。

 

「おお‥‥‥これは!!」

 

 

そして、開いた原稿用紙に──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七尾は絶句した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ‥‥‥圧倒的だったッ‥‥‥って先輩!!これ俗に言う小並感ってやつじゃないですか!!」

 

そっぽを向きながら口笛を吹いていると、七尾からお怒りの言葉が向けられる。いや、良くお前さん小並感なんて言葉知ってるな。てか、ぷんぷんしながら怒るなし、マジで可愛いかよ。

 

「いや、紙より言葉で言った方が良いと思ってな」

 

「それはそうですけど‥‥‥」

 

おーう、七尾さんや。そんなジト目を俺に向けないで下さいよー。俺、実は最近出会った女の子では恵美以外全員にジト目向けられてるんだ。これって結構傷つくのよ。

 

や、俺の行動が悪いのは自覚してるんだけどさ。

 

「まあ、兎に角聴いてくれよ。俺の読後の感想をよ」

 

「‥‥‥そういうことなら、是非教えてください。北沢先輩の思いの丈を」

 

「任せろ」

 

 

 

俺は、その物語を読んだ感想を兎に角事細かに伝え始めた。時に身振り手振りを交えて、時に大雑把に、時に適当に。

感想を行って面白かった事を挙げるとするならば、七尾の表情が俺の感想を聞いていく内にみるみる変化していくことだったか。

 

例えば、俺が登場してきたモンスターの鳴き真似なんかを加えつつその場面のバトルシーンを身振り手振り解説すると、七尾は目をキラキラさせて此方を見遣り、逆にヒロインが危険に晒されてしまった場面を事細かに感情込めて解説すると、七尾は目頭に涙を貯めながら嗚咽を漏らし感情移入する。

そして、単刀直入にこの物語の素晴らしさを説明すると七尾は花でも咲きそうな笑顔で俺の手を握り『そうですよねそうですよね!!』と俺に同意を促すのだ。

兎に角、様々な表情で俺の感想を傾聴する七尾を見て、感想を伝えるのが楽しくならなかったと言えばそれは『大嘘』になるし、これは後々になって思ったことなのだが、ぶっちゃけ七尾のこういう所がアイドルとしてスカウトされた所以なんだろうな───と感じた。

 

あの表情と好きな物に真っ直ぐになれるその心意気こそが、知り合いの田中や妹の志保、JKギャル風お洒落少女の恵美にもないオンリーワンの七尾のアイドルとしての武器になるのだろうな───なんて少しばかり思ったりもして。

 

 

「まあ、なんだ。やっぱり読んで正解だったわ」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ、本をあまり読まない俺が言うんだ。非常に面白かったと思うぜ?」

 

しかも、この物語はファンタジー小説ときたもんだ。

普段そういったものは読まずに読むとしたら教科書と石崎の回し物ばかり読んでる俺がここまでのめり込めたのは、何気に凄いことだと思う。

 

「それに、ヒロインがどことなく志保に似てたんだよなー‥‥‥裏に秘めた誠実さとかが特にそっくりだった」

 

そう言うと、ガタン!という物音と同時に七尾が目を見開き、俺を見る。

俺的には何らおかしなことを言ったつもりはないのだが、七尾には驚愕の出来事だったらしい。

 

「北沢‥‥‥志保?」

 

「妹の知り合いか!」

 

「食い付きが速い!?」

 

だって妹の知り合いだなんて言うんだから仕方ない。

今の俺は過保護な兄貴そのもの。

妹に迷惑はかけたくないが、普段の志保がどうしているかは気になるめんどくさい兄貴は俺です。

 

「し、志保は勉強頑張ってるか?てか友達なのか!?あの強情で自称クールなブラコンシッホに‥‥‥友達!?」

 

「お、落ち着いてください!」

 

お、おう。

確かに志保と同世代の奴に妹の情報を聴けるという興奮的状況に落ち着きを失ってしまっていた。

心頭滅却、心頭滅却。

落ち着きのない奴は人に嫌われるぞ。

気をつけねば。

 

「えーっと、同僚ですよ、私アイドルしているんで‥‥‥」

 

「‥‥‥ふぁっ?」

 

「せ、先輩‥‥‥凄い変な顔してますよ?」

 

果たしてそれは俺だけが悪いのでしょうか。

驚きの出来事の連続で頭がショートしてしまっている。

えっと、確か七尾は志保の友達で、アイドル仲間で‥‥‥

 

「何だよ、ただの神かよ」

 

「北沢先輩の中で私は一体どうなってるんですか‥‥‥」

 

そりゃ、七尾さん。

俺の中でアンタは神ですよ。

志保の友達やってくれて、あまつさえアンタは志保のことを同僚と呼んでくれているんだ。

同僚───良い響きではないか。素晴らしいことだと俺は思うね。

 

「そんなに意外でした?私がアイドルしていたこと」

 

「別に意外じゃねえよ。確かお前この前もそれっぽいこと言ってたし‥‥‥まあ、良いんじゃねえか?七尾なら大活躍出来んだろ。頑張れよ」

 

「は、はい!ありがとうございます!」

 

本当に嬉しそうににへっと微笑む七尾。

良いね、やっぱり七尾はアイドルの才能があるのだろうか。

ま、プロがスカウトしたんだから勿論光るものはあるんだろうな。

見初めたプロデューサーさん、ナイスだぜ。

 

「後、何故か最近俺の周りでアイドルになる輩が増えてるからそういうのは慣れてんだ。さっき言った志保に、この前会った恵美に、七尾に‥‥‥後は、田中」

 

「め、恵美さんに琴葉さん!?凄いじゃないですか先輩!!」

 

「何がだよ」

 

「何が凄いってまるで何処ぞのハーレム小説のようにアイドルの女の子と出会ってる事ですよ!!同期では1番のクールビューティーの志保にオシャレな恵美さん!!更には事務所随一の気遣いマスターの琴葉さんと知り合いだなんて‥‥‥ハーレムですよ!!まさにハーレム!!

 

「あのさぁ!図書館で誤解を生む発言すんの止めてくれる!?俺ハーレム築いてないから!!寧ろ周りに人とか来ない人だから!!」

 

現に、周りのヤツらがチラホラ囁いてるから!

あらぬ噂でただでさえ低い俺の社会的地位を地に落とすのは勘弁して欲しいものだ。

 

「‥‥‥でも、本当に面白い巡り会いですね。普通そんなことありませんよ」

 

「そんなこと百も承知だよ。けど、仕方ねえだろ‥‥‥なっちまったもんは」

 

我ながら面白い巡り会いだということも分かっている。狙っている訳でもないのに妹含めて数人もの知り合いがアイドルをやっているのは、笑いを通り越して驚天動地だ。

こうして七尾に言われたことにより、俺は改めて己に起こる出来事の奇特さを思い出していると、不意に七尾が笑みを見せる。

アイドルらしい、可愛らしい笑みだ。

 

「チケット取り放題ですねっ」

 

「お‥‥‥おう?」

 

なんだ、どういう意味だ?

 

「デビューする時は、チケット送りますからねっ」

 

「あ、ああ‥‥‥頑張れよ」

 

最後に七尾は俺を少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。

それは、普段の七尾が見せるような笑みではない芝居がかった笑み。

そんな笑みを見せながら七尾は一言。

 

「‥‥‥ハーレムですねっ」

 

「よし、表出ろ」

 

俺の怒りの導火線に火を付けた。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話 でぃす いず でーと?

 

 

 

胸を焼くような痛みだと、かつて少年はその事象に対して語った。

息が苦しくて、呼吸が乱れ、罪悪感と共に頭が重くなる。

次第に楽しいことを考えることも辛くなり、どうしようも無くなった身体がまるで自身の周りに重力がかかったかのように重くなる。

そんなことを考えてしまうような痛みだから、当然少年はその痛みを発した状況も鮮烈に覚えている。

 

 

 

 

 

 

あれは、そうだ。とある昼下がりのこと。

 

 

家族が大変なことになっていた時、少年は母の甘言に甘え、いつも通りの日常を送っていた。まだまだ小さい弟の顔を拝んだ後に、妹と共に学校へと向かう。そうして校舎を通り、妹と別れて教室へ入ると腐れ縁の友達と野球をしたりしなかったり。

兎に角野球中心の生活だ。

今考えたら有り得ないと一蹴するような話ではあるのだが、当時の少年からしたらこれは当たり前だった。野球が出来て、家族が居て、毎日が笑顔で。そんな当たり前を当たり前だと感じていた昼下がりの事。

妹が泣いていた。

当然、嫌いでもないし好きでもあった俺はお小遣いで買ったプリンを落とし、妹の側へ駆け寄る。

何が起こったのだろうか、いじめられたのか。けんかしたのか。そんな思いが俺の頭を支配した時、ぽつりと妹は一言───

 

 

 

 

 

 

『お父さん、なんで居なくなったの?』

 

 

 

その時から、少年は何処か当たり前を当たり前のように感じられなくなった。

その時から、少年の胸の中は焼けるような痛みと恨みのような何かがぐるぐると蠢いている。

 

思えば、俺自身が今の考え方に落ち着いたのはここからなのかもしれない───なんて思ってしまうくらいには、この出来事は忘れられないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

それが何時になったら忘れられるのか。

 

 

 

 

 

 

その答えは、既に分かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝覚めが悪く、朝早くに目が覚めると目の前を支配したのは暗闇。

その暗闇に抗うかのように光を求めて手を動かす。すると俺の右手に当たったのは電気を付けるための紐。ビンゴ、とここぞとばかりに力強く引っ張り、その流れで脱力するとベッドへと身体が沈み込み、明かりと共に、俺の視界が明瞭になった。

 

休日。

予定があるということに味を占めて、早く惰眠を貪ったのが幸いしたか。今日はいつもの寝坊助っぷりが吃驚な程に早く起きることが出来た。早寝早起きはリンクしているのだ───ということを感じながら、俺は重い腰を上げて、少し早めではあるがリビングへと向かうことを決める。

 

「‥‥‥クレイジー」

 

時計を見て、悪態を吐く。

時刻は4時。電車は始発どころかテレビすらもやっていない始末だ。こんな状態でリビングで何をするのかと言われても、正味インスタントコーヒーを作る程度しか脳のない俺には選択肢が限られてくる。

無論、行うべきことはコーヒーを飲むことだ。スマホ?寝ながら音楽聴いてたらいつの間にか充電が切れていた。恐らく2時間はスマホを使えないだろうさ。

 

 

 

 

 

階段を降りて、リビングへと向かう。幸いにもそこに暗闇は無く、誰かが既に起きているということが俺にも理解出来た。

さて、誰だろうとリビングから顔を覗かせると、そこに居たのは我が家の大黒柱、マッマがコーヒーを啜りながら何かの資料を読んでいた。

 

「おはよ、母さん」

 

そう一言発して、母さんが座るリビングへと向かうと、母さんが俺の方を振り向く。

 

「啓輔」

 

「早いよ、明かりがついてたからびっくりしちゃった」

 

現在時刻は先程時計を見て理解している。

明朝、普通ならまだ皆寝ているであろう時間。

事実、志保と陸は寝ている。会話の声しかしないのが、その最たる証拠である。

 

「で、何を見ているの?」

 

「ランドセルよ。来年、陸も小学生になるから」

 

母さんが笑みを見せて、俺にその資料を見せる。

そこにはランドセルを筆頭とした小学生に必要な筆記用具諸々のチラシ。

その紙には丸が幾つか付けられており、黒のランドセルに丸を付けていることから黒が候補に入っているのは容易に想像が付いた。

 

「ははん、さては俺のランドセルが赤だから今度は黒にするってか?」

 

「‥‥‥啓輔、寧ろそこは紺色だと思わない?」

 

「りっくん、ランドセル、紺‥‥‥て、天使だ!!マリアージュ!!

 

「まあ、ランドセルは消耗品だし大事にしてくれているのは有難いんだけど‥‥‥志保の時もランドセルは買ったんだし陸にもちゃんと買うわよ」

 

「ほうほう‥‥‥いやぁ、さっすが我らのおかーさん!家族を大切にする理想の人!ははっ、素晴らしいね!!」

 

いや、割と本気でそう思ってるから。

3人の子どもを女手1つで育てて、ましてや片方は途中まで親不孝やってた不良生徒だ。

それにも関わらず優しく、厳しく育ててくれた母さんには──母さんにだけは本当に頭が上がらない。

 

「んんっ‥‥‥俺の個人的感情は置いといて、来年は陸も小学生だもんね」

 

「ええ」

 

「だから、色々用意しなきゃいけないし、けど成長が見られるのは嬉しい‥‥‥そう、嬉しい悲鳴だ」

 

状況によって、志保と一緒に家事を分担することも多い俺。

そんな俺は歳を重ねていくにつれ、笑顔で子どもを育ててくれていた母さんの苦労を少しずつ知り始めている。

仕事して、家計のやりくりをして、それがどれだけ大変なのか──俺は知っているから。

 

 

 

「‥‥‥けど、大丈夫?」

 

 

 

だから、俺は普段らしからぬ一声を掛けてしまったのだろうと思う。

馬鹿だ。

そんなこと聞いても、母さんが本音をさらけ出すことなんてないって、今までの経験から分かっているのに。

 

「啓輔?」

 

「無理してない?倒れそうになってない?疲れてない?‥‥‥俺達なら、ちゃんと協力して上手くやってるから、頑張りすぎないでよ」

 

マザコンなのかもしれない。

けど、俺は心配せずには居られなかった。

いつだって笑顔な母さん。

けど、その笑顔を続けられるのが不思議なくらいの苦労を母さんはしている筈だから。

それなのに、何でこうして笑みを崩さないでいてくれるのか。

理屈では分かっていても、本当の意味は未だに理解出来ていない。

 

と、そんなことを考えていると不意に母さんが立ち上がる。

何をするのか──そんなことを思いつつも信頼している故に、ぽけーっと突っ立っていると、不意に胸に抱き寄せられた。

待って。

予想外だ。

 

「むぐ」

 

「啓輔は暖かいね」

 

「‥‥‥人間だもの、母さん」

 

主に体温的に。

しかし、母さんはそういう意味で言ったわけではないらしく更に俺の頭を撫でて、続ける。

 

「根本的に勘違いをしているのは、誰に似たんだろ‥‥‥」

 

「俺のアイデンティティかな、てへっ」

 

「全く、啓輔が暖かいのは確かに体温のせいだけどそれだけじゃないの。言葉にだって、行動にだって、それが顕著に現れてる。お母さん───啓輔がそういう人に育ってくれて、本当に嬉しいの‥‥‥分かる?」

 

母さんは、そう言って俺の頭を撫でた。

優しくて暖かいその手で撫でられる。それは俺にとっては予想通り。

親の手だ。暖かさを感じるのは半ば当たり前のことでもある。

そう、そこまでは予想通りだったのだが──

 

 

 

「‥‥‥予想外だよ、母さん。俺まさかそんな風に思われてたなんて思わなかった」

 

「ふふ、自己評価が低いもの。我が家の頼れる長男は」

 

「志保も友達もそう言われてましたけどそんなことは決してないから。変な冗談はやめてください」

 

否定を敢行するものの、母さんはくすくすと笑い声を上げるのみで全く取り合おうとしない。

すると、母さんはもう一言───

 

「もっとやりたいことをやっても良いの」

 

そう言って、俺を抱き締める力をより強めた。

 

「‥‥‥母さん?」

 

「色んな心配をかけまいと何も言わないでくれているのは分かってる。それが、おかあさんの一言位で簡単に言うようなことじゃないのも分かってる‥‥‥けど」

 

「うん」

 

「話ならいつでも聞くから。だから、啓輔には私の心配なんてしないで、友達を作って、学校生活を楽しんで、大学にも行きたいなら行って──色々な楽しい思い出を作って欲しいの」

 

その言葉に胸が痛む。

母さんのことを心配したのにも関わらず、逆に心配されてしまったことから何処か申し訳なさのようなものを感じたからだろう。

こうなってしまえば俺の口からは否定の言葉は出せない。

無言の肯定、というやつだろう。俺は母さんを見据えると、学校生活を楽しむ──その意味を込めて、縦に頷いた。

 

「‥‥‥ごめん、朝っぱらから暗い話なんてしちゃって」

 

悲しみに暮れる暇なんてないんだ。

俺は長男。

どんな時があっても家族の前では強く、優しいお兄ちゃんじゃなきゃ行けないんだからな。

エゴ?プライド?

まあ、そんなものだろう。けど、それを恥ずかしいなんて思ったことは1度してない。

 

「けど、随分前にも言っただろ?俺が家族を支える長男になるって。その代わり、志保や陸にはしたいことを出来るように、俺が真人間になる───ち、遅刻はちょっと多いけどさ」

 

「‥‥‥ええ」

 

「だから俺も家族のことも心配しないでくれ。シッホとりっくんは、俺がちゃんと見てるから」

 

最後に一言、そう言って俺はコーヒーを入れに台所へ向かう。

気が付けば、時刻は5時を少し過ぎていた。

日が上りはじめ、外を明るく照らし始める。

その光景に見とれながら、俺は一日の始まりを迎えるべく伸びをして、笑顔を作ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥それが俺のやりたいことなんだからさ」

 

誰に言うまでもない、そんな一言を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折角りっくん&ランドセルのマリアージュでテンションが上がったのに二度寝する馬鹿が何処にいるんだ。

 

そう自分で自分を奮い立たせ、椅子に座ること1時間。支度をするといって洗面台に行った母さんを見送りながらコップ片手にぼーっとしていると、不意に聴こえた階段の音。

その音に気が付き意識を覚醒させると、そこには志保が寝間着姿で突っ立っていた。

朝特有の眠たげな表情は既に霧散しており、流石我が妹だ──等と心の中で志保しゅごいと褒めて遣わしていると、不意に妹が一言。

 

「準備にしては些か早いと思うのだけど」

 

そう言って、俺の向かいの席に座り。俺を『じっ』と擬音でも付きそうな目付きで俺を睨みつけた。

おかしいな。

お兄ちゃん、志保を怒らせるようなことを何もしてないはずなんだけどな。

 

「‥‥‥俺が準備をしていると、不都合でもあるのかい?」

 

「柄にもないことをしないで。実は兄さんの皮を被った別人じゃないのかって疑ってしまうでしょう」

 

「お兄ちゃんは啓輔だから‥‥‥!ガチモンの啓輔だからッ‥‥‥!」

 

「どうだか‥‥‥で、こんな早くから起きて、何用?まさか朝からやることなくてベッドに行こうか迷ってたところ‥‥‥とか?」

 

そう言って、首を傾げる志保。

俺がこんな時間に起きるのはそんなに意外なのかと怒りたい気分なのだが、別に良い。

俺は兄貴だからな!

ちょっとしたオイタは気にしないのがお兄ちゃんだから、そんなことで怒ったりはしない。

本当の兄は、動かざる山の如く些細なことにも動じないのが肝要だと俺は思うんだ。

 

両手を広げ、志保を見据える。相も変わらず笑顔の一欠片すらも見せない志保。その中で俺は一言。

 

「そうとも限らないんだぜ我が愛しのマイシスター」

 

「端的に言って気持ち悪い」

 

「お兄ちゃんは今猛烈に死にたくなったよ」

 

酷い。

まあ、その遠慮のなさが志保の美点でもあるのだが。

 

「‥‥‥田中のことだ。どうせ1時間前には来んだろ?なら俺はその先を行く‥‥‥志保、俺はその上を行かなきゃいけないんだよ‥‥‥!」

 

「どんな使命があってそんな一大決心をしたのやら‥‥‥私には到底理解出来ないわ」

 

だと思う。

いきなりそんなことを言われても困惑するのみだろうし。

とはいえ俺も何も考えていないわけじゃないんだ。

志保に服装を指摘されて、まともな服装を必死で考えた。

不可抗力ながらも朝早く起きて今日に備えている。

 

「お兄ちゃんな、もうちょっと真面目に生きていこうと思うんだよ」

 

「真面目?」

 

「そう、真面目だ。いや何回もそう言ってるけど、今度は真面目に‥‥‥そうだな、例えば志保を1人の女の子として見てみるとして」

 

「は?」

 

「‥‥‥志保って、そこはかとなく可愛い感じがして──こう、なんだ。可愛いよね!」

 

「‥‥‥兄さん」

 

「えーっと、後は‥‥‥うん、志保って良いお嫁さんになる──」

 

「兄さん!」

 

志保らしからぬ声が俺の動きを止める。

唖然としていると、志保は浮かない顔でぺたぺたと俺の頬を触る。

一通り頬を触り終えると右手でこめかみを抑え、志保は大きなため息を吐いた。

 

「今日の兄さんは何処かおかしいわ。まさかその状態で琴葉さんに会うつもり?」

 

「いやいや、寧ろ絶好調だろ。今なら田中の良いところ10個言えるぜ?」

 

「それは人として当たり前──だからそうじゃなくて‥‥‥」

 

どうやら志保の期待に添えた一言は言えなかったらしい。

頭を横にふるふると振った志保。今度は俺を鋭い目で睨み付けて一言。

 

「私、別に兄さんには期待してないの」

 

「ねえ、泣くよ?俺一応メンタルはボロ雑巾レベルだからね?頭豆腐の角にぶつけて死んじゃうレベルだからね?」

 

「ただ、普通に日常を過ごして。偶の非日常をそれなりに過ごして。兎に角楽に過ごして欲しい──意味、分かる?」

 

「意味なんて一欠片も分からないけど俺の発言に対して何らかのアクションを起こせよ愚妹──とは思った」

 

「面白い冗談ね、ふふっ」

 

鼻で笑いやがった志保をどうするかは怒りに身を任せそうになっている俺が決めるべきではなかろう。怒りに任せて頬を抓ったところで俺がどうなるかなんてのは今までの経験則から分かりきっている。

どうせ、やられキャラの中ボスみたいに必殺パンチで倒れるんだ。

良いことなんて志保のそっち方面での成長を感じられるくらい。それだけで痛い思いするなんて、俺は嫌だ。

 

大きなため息を吐いて、天井のシミを数える。

鼻腔を擽るコーヒー香りと、思わず頬を弛緩させてしまうような家特有の空気。

慣れ親しんだこの家の心地好い香りが、俺の心を落ち着かせた。

 

 

 

 

 

「‥‥‥仮に兄さんが無理をしているとして」

 

暫しの静寂。

それを断ち切ったのは志保だった。

朝のこの時間は生活音が鳴らない。

それは、母さんがまだ支度を始めたばかりであることだったり。

りっくんが以前として目を覚ましていないこと等も影響しているのだろう。

その中で俺は志保の声が鮮明に響き、同時にその声がいつもの声より1トーン落ちた声だということも理解することが出来た。

 

今の志保は真面目そのもので話している。

長年家族をやってんだからな。それくらいは察するに難くない。

 

「それで兄さんが倒れてしまう位の負担がかかっているのなら、私自身のやるべきことも少し増やすのは当たり前の事よ」

 

とはいえ、今のこの状況。

基本人が真面目に話している時は真面目に返すことで通っている俺とはいえ、こればかりはまともに返す訳にはいかない。

折角大好きな妹がやりたいことをやってくれているのだ。

それに水を差すようなことはしたくない。これも、俗に言うエゴやプライドに値するのだろう。

何ともまあ、やっすいプライドだとは自覚しているが。

 

「やりたいことをやる!お兄ちゃんが出来ていなかったことを真面目に真摯に取り組んでる志保は俺の自慢の妹だよ」

 

「誤魔化しにしては拙い言葉選びね。昨日手抜きしてカレーライスをお肉抜きにして、代わりに大豆を投入しようとしたのりっくんにバラすわよ?」

 

「大豆は畑のお肉だろ‥‥‥っ!?」

 

あれは決して手抜きなんかじゃない!

子どもの野菜嫌いは深刻なんだ。

その中で如何に野菜を美味しく食べられるか、如何に野菜を使った料理で子どもの野菜嫌いを克服させられるか‥‥‥そこが料理を家族に作る醍醐味だろう!?

 

「志保‥‥‥お前は子どもの野菜嫌いを舐めてるぜ」

 

「りっくんは星型の人参を美味しそうに食べてくれたけど」

 

「え゛」

 

「大体、子どもの野菜嫌いが深刻なんじゃないの。昔の兄さんの野菜嫌いが深刻なのよ。ゴーヤ、ピーマン、ゴボウ、ブロッコリー‥‥‥運動してた頃のお弁当の献立選びに相当困ったって母さんが言ってたけど」

 

「母さん!?」

 

悲報である。

母さんが俺の元野菜嫌いを妹にバラした。

まさかこんな所で妹に野菜嫌いがバレるなんて思わなかったってのが本音なのだが──と、内心パニック状態になっていると志保が立ち上がり、座った状態の俺に歩み寄る。

 

「兄さん」

 

志保が俺の隣にまで歩み、見下ろす。

鋭い視線が見下ろすその様は何処ぞのお嬢だ。

正味興奮するような性癖なんぞ持ってはいないが、志保が俺を見下ろすその様に、思わずこくりと唾を飲み込むと、志保が一言。

 

「ボタン、外れてる」

 

胸元に手をかけ、開いていた服のボタンを志保が閉じた。

不覚だ。

兄さん、意図的にやった訳じゃないんだ。許しておくれ。

 

「話を逸らそうとしたって言いたいことを言うまで会話は終わらないから」

 

「‥‥‥うむ」

 

誤魔化し大作戦は見事失敗に終わりました。

主に俺のボタン外れのせいで。

時間を巻き戻したい気分ではあるが、実際に時を止められることはない。

志保は尚も俺を見下ろして続ける。

 

「自分のことに気を遣って、自分のやりたいことを‥‥‥範囲が限られてはいるけど兄さんだって出来る。だから偶には今日みたいに自由に、やりたいことをやってくれた方が余程妹‥‥‥いえ、保護者として安心できるの」

 

「待って、保護者とか言わないで」

 

折角良い事言ってくれてたのに最後の一言で台無しだから。

そんな俺の様子や言葉など気にしてないかとでも言いたげな涼しい顔で、最後に志保は俺に微笑みかけた。

 

「琴葉さんとご飯に行くなんて意外だったけど‥‥‥楽しんできてね、兄さん」

 

その笑顔は、大切な人に向ける時に決まって微笑む志保らしい表情で。

その笑顔が向けられていることに、幸せを感じるのと同時に一考───

 

「‥‥‥志保」

 

「?」

 

「俺、そんな笑顔を見せてくれる志保をお嫁に出したくないよ!」

 

「売られた喧嘩は買うから表に出て。目覚まし代わりに思いっきりコークスクリューかましてあげるから」

 

「うっひゃっひゃ!面白い冗談は止めろって!」

 

「冗談にして痛みを紛らわせるか、事実として受け止めるか、2択にしてあげるから選びなさい」

 

誰か助けて!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間苦もあれば楽もある。

そんな言葉の通り、志保のコークスクリューを受けて苦の感情を得た俺は、その後の『楽』を得るために都会の喧騒の中を歩いていった。

尤も、志保の件は俺の自業自得とも取れるが。

 

「‥‥‥ここか」

 

現地集合。

田中から突きつけられた約束通りの時間と集合場所にここに立っている俺は、恰も道場破りをするかのような面持ちで、店のドアの前に立つ。

 

なかなか古風な店だ。

レストランではなく、定食屋。

そもそも外食にも行くことの少ない俺からしたら全てが真新しい。故に胸が弾み、引戸を思い切り開けてしまうのは仕方の無いことだろうと思う。

 

「あ、北沢君」

 

「田中」

 

意外と直ぐに見つかった田中さん。

彼女こそ、今回の俺のターゲット。

この女の子とご飯を食べて、無難に話して、無難に罰ゲームを享受する。

それが今回の俺のミッションなのだ。

戦意はある。志保に物理的な喝を入れてもらったせいで有り余っているまであるからな。

そんな戦意を田中に伝えるべく、向かいの席に座った俺は好戦的だと自画自賛したくなってしまうような言葉を伝える。

 

「ようよう、田中さんや。こんな所に呼び出しておいて覚悟は出来てんだろうなぁ、ああん?」

 

「覚悟というか、お腹が減った」

 

「遅くなってごめんなさい」

 

戦意、一瞬で挫かれる。

ある意味挫折にも近い感情だ。

今まで湧き上がっていた想いが、田中の現実的な一言により一気に冷めた。なんでこんなに好戦的だったのか俺にも分からない。

そう考え、自らの浅はかな行為に愕然としていると田中が俺を見てクスリと笑う。

 

「時間はピッタリだし、気にしてないよ。それよりも──北沢君」

 

「?」

 

「お金はちゃんと持ってきた?」

 

「お前俺を乞食とでも思ってんの?」

 

失礼な奴だと心底思う。

バイト戦士を舐めないで欲しい。

これでもお金はちゃんと貯めてるし浪費もしていない。

自分で言うのもなんだが、そこら辺の男子よりも金銭感覚は養ってるつもりなんだがな。

 

「日替わり定食頼む金くらい持ってるっての‥‥‥あ、すいません。日替わり定食ひとつお願いしまーす」

 

店員さんに注文を通し、後は料理を待つだけ。待つという行為を苦にすることはない性格なのだが、外食に行くのなんて久々なもので些か勝手に慣れていない。

家で料理を作れちまう人が3人も居れば外食もそれ程必要ないってのが実情なのだ。

 

「田中は?」

 

「もう頼んだから大丈夫」

 

成程。

既に頼んでいるのか。

準備が早いな。

 

「ちゃんとしじみ汁も頼んだよ」

 

「報告しなくても結構だよ」

 

尤も、田中がそんな渋い料理を好むなんて思わなかったのだが。

美味しいのは分かるけど、店で頼もうとは思わない。

田中はどうなのだろう。1日に1回はしじみ汁を飲まなければやってられないのだろうか。

そんなどうでもいい妄想をしていると、とある女の子が店内へと入っていった。

黒髪ロングの少女。

大人びた雰囲気を醸し出しつつも、何処か幼さも感じるその顔つき。誰かは知らないが、綺麗な女の子というのが第一印象であった。

 

「‥‥‥あ」

 

「友達か?」

 

「同じ765プロのメンバー。努力家な女の子なんだよ」

 

「因みにお幾つで?」

 

「14歳」

 

え?

 

「‥‥‥すまん、もう一度」

 

「14歳」

 

「エリートッ!?」

 

アイドルのエリートだ。

中学生ながら己のやりたいことを職として戦う少女。

俺なんかより何倍も凄いのは、恐らく当たり前のことだろう。

 

「因みに、饂飩が大好きなんだ」

 

「なんだそりゃ‥‥‥ひょっとして誕生日プレゼントも饂飩が良いってか?」

 

「静香ちゃんなら言いかねないかも」

 

「ウッソだろお前」

 

因みにうどんが大好きらしい。

心底どうでも良いわ。

そもそもそれを知ってどうするのか。話す機会があった時に話題を提供しろってか?俺が彼女と話すことなんて余程のことがない限り有り得んだろう。話したとしてもうどんを話題に出来るかどうか。

彼女と仮に話す機会があって、どうしてうどんを話題に出来るのか。『あ、うどん好きなんでしたっけ』って話題提供するんか?恐らくそんなことを言ったら確実に疑われるぞ。

 

それに、彼女はアイドルであり俺は一般人だ。

当然壁もある。

饂飩好きなのを知ったところで、さして俺に影響がある訳でもない。

恐らく1日経てば黒髪ロングの女の子がうどん好きだった──なんてことすらも忘れていることだろう。

 

悲しいことに、俺の記憶力はクソザコナメクジだ。

 

「それにしても、その静香さんとやらは珍しい奴だな」

 

「え、どうして?」

 

「うどんが好きだから」

 

「‥‥‥うどんが好きな人って結構居ると思うけど」

 

「数ある料理の中から?ハンバーグとかオムライスとかしじみ汁とか、そんな数ある名料理の中からうどんを選べちゃうあの子が珍しくないとでも?」

 

「む‥‥‥それは暗に私も珍しいって言ってるの?」

 

「安心しろ、別にそうとは言ってない‥‥‥ただ、うどん好きって公言出来てしまう奴が珍しいって言っただけだから」

 

人の好みなんぞ千差万別だ。

貶す必要も無いし、褒める必要も無い。

ただ、俺が感じたのは静香という少女が数ある料理の中からたったひとつ、うどんをチョイスしたのが珍しいというのみ。

別に失礼なことを言った訳では無いと思うんだが、田中がムッとした表情を浮かべたってことは俺がズレてるのかもしれん。

だとしたら改善しなければ。

危うく友人関係の希薄さがバレる。

 

「お待たせ致しました」

 

と、そんなことを考えている間に料理が運ばれる。

俺が頼んだのは日替わり定食。

ご飯が主食の、美味しそうな奴だ。

 

「待ってましたよこの時を‥‥‥」

 

割り箸をパキッとした音とともに2つに割り、料理を待ち構える。

店員さんが俺と田中が座る席の元にまで歩み、料理を置く。

そして俺は、その置かれた料理に思わず目を見開いたのだ。

 

「──は?」

 

何せ、そこに置かれたのは俺が頼んだ日替わり定食ではなく。ひとつの丼が俺の目の前に置かれたのだったからな。

巫山戯んな。

ご飯が主食なんだろ。

どうして、どんな理由でご飯がうどんになるんだ。

意味が分からんぞ、俺は。

 

「饂飩‥‥‥だと?」

 

「あの方からの奢りです」

 

「はぁ、奢りぃ?」

 

奢らされるような恩も貸しもないのだが。

しかし、店員は俺にしきりにうどんを勧める。

得体が知れない分、食欲より恐怖の方が勝っているのだが、この心情を理解してくれる方は残念ながらこの空間にはいない。

田中すらも首を傾げているしな。

どうしようも無い。

 

「いらないよ。大体俺はうどんじゃなくて定食を食いに来たんだ。なんだようどんって。いつからこの店はうどんを一般客に薦め───」

 

「───発音が違う」

 

「ぴっ!?」

 

突如聴こえたドスの効いた声に、俺は思わず身震いした。

何処の誰がそんな声を出したのか、それは俺とて理解してはいる。

あのうどんを啜っているエリートさんだ。アイツが俺を声で脅したのだろう。

 

「‥‥‥」

 

そして、睨みつけてきやがった。

クソ、なんだってんだよ。

そんなに俺は悪いことをしたのか?

 

「北沢くん?」

 

「‥‥‥アイツ、めっさ鋭い眼光を俺に向けてきたんですけど」

 

「え、それ大丈夫?」

 

うん、大丈夫ではないな。

生憎俺の心は女の子の厳しい視線をなんでもないように躱せる程鋼鉄ではない。良くも悪くも俺の心は硝子だ。間違いない。

一悶着あったところで、店の人はカウンターへと戻ってしまった。俺の目の前に残ったのはうどんが入ったひとつの丼のみ。

蒸気の暖かさだけが、俺の救いだった。

 

「‥‥‥しゃあねえ、食ったろうやないかい」

 

出されたものは残したら非常に勿体ない。

そんな貧乏性な精神を胸に、恐る恐るうどんを啜る。

すると、口の中に広がったのはコシがあり、食べ応えバッチリなうどんの感触と、絡むようにうどんにまとわりつく出汁の味。

 

これは──

 

「‥‥‥やるじゃねえか、こんにゃろ」

 

「美味しい?」

 

「奴がここの饂飩を啜る理由が分かった」

 

認めよう、絶品だ。

とはいえ未だにあの人が俺にうどんを奢った理由が分からないわけなのだが。

中学生に奢られるなんて、とんだヒモ男もいたもんだと軽く自虐的な考えに至りつつ女の子を見ると、ドヤ顔でサムズアップをする黒髪少女が存在していた。

 

喧しいわ、そのドヤ顔サムズアップ止めんかい。

 

「‥‥‥仲良いね」

 

「饂飩で通じあったところで嬉しくともなんともないがな」

 

「でも、初対面の人と仲良くなったのは確かだよ。北沢君って、信頼関係を作るのは本当に上手だよね」

 

「はは、初耳だよ。そんな特技持ってた覚えないんだけどな」

 

俺がそんな風に思われていたのも初耳だ。

母さん然り、田中然り、他人の印象ってのは分からないもんだな。

次から次へと予想外の言葉が出てくる。

 

「‥‥‥やっぱりスポーツしてた名残なのかな」

 

「スポーツ?」

 

「北沢君、野球やってたんだよね?」

 

「‥‥‥野球、か」

 

野球。

かつて俺が最も夢中になっていたポピュラースポーツ。

打って、投げて、走って、守る。

その一連の動きに、かつての俺は魅せられた。

 

「頑張ってた?」

 

「そりゃあ、もう」

 

一時期は引くくらいボール追っかけてたから。

ホームランボールもファウルボールも自打球もなんのその。

兎に角、白球に食らいついていった──俺にとっては思い出深い球技だ。

 

「とはいえ、もうやろうとは思わないし‥‥‥関係ないと思うんだけどな」

 

「‥‥‥もしかして、あんまり友達を作らないのと関係してたりする?」

 

「そういうのないから。俺がぼっちなのは元からだ」

 

友達作らないのは元々だし。

積極的に友達作ろうとしない性格も災いしているのだろう。

石崎から始まり、渋谷、田中、恵美、七尾と決まって俺は受け身で接している。

そんな中で友達と言える奴が数える程だがいるのは、恐らく奇跡と呼んでも過言ではないのだろう。

 

「そっか、ごめん。深掘りするような事しちゃって」

 

「構わんよ」

 

気になることを聞こうとすることは別に悪いことじゃない。俺だって気にすることじゃないし、別に構わないというのが本音だ。

 

ここで漸く日替わり定食がやってくる。

今度はご飯が主食の、れっきとした定食。

うどんは美味しかったけど、高校生の食欲が並盛のうどんで充たされる訳がない。

俺は先程使った割り箸を使って、炊きたてのお米とおかずのハンバーグを食べ始めた。

 

「‥‥‥それに、いつも田中には世話になってるしな」

 

「え」

 

「忘れたとは言わせねえぞ‥‥‥あれだけ俺を弄んどいてさぁ、今のこれもどちらかと言えば公開処刑だからな」

 

「公開処刑!?」

 

そうだ。

まあ、今となっちゃそんなに気にしてないけど──と続けて、軽口を終えようとすると、田中の顔が不意に赤くなった。

え、何かやった?

軽口叩いただけだよね?

もしかして田中って軽口で快楽を得るような──

 

「そ‥‥‥そっか。公開処刑‥‥‥か」

 

「え、ちょっと田中さん?」

 

「そうだよね、この状況ってよくよく考えたら‥‥‥」

 

「う、うーん?」

 

あれー?

軽口のつもりだったのになんか展開がおかしくなってるぞ?

大体、何でお誘いする時は恥ずかしがる素振りなんて欠片も見せてなかったのにそんな表情を今更になってするの?

可愛いが過ぎるから止めろ──なんて内心を程々に田中に自制を促すと、俯いてぶつぶつ言っていた田中が目を見開いた状態で俺の顔を見て、一言。

 

「き、北沢君」

 

「はい」

 

「やっぱりこれってデート───」

 

「オーライ田中ァ!!これ以上その件について述べるのは止めろォ!!!」

 

爆弾発言をしそうになったので、止めた。

それも無理矢理だ。

田中の肩を掴み、揺さぶる。

うどんを食っている少女が食い入るように見ているが、そんなの知ったことか。

 

「他意ないって言ったよね!?どーして今更そんなこと言うのさ!!」

 

「だ、だってあの時はその場の流れで言っちゃったから!!まさか北沢君が何でも言うこと聞くなんて言うとは思わなかったから!!」

 

「人のせいにすんなよ!?いや確かにこの状況はおかしいし志保も『は?』って言ってたけど!!」

 

そこでようやく落ち着いたのか。

田中は1度呼吸を整え、視線を右往左往させた後に赤面した表情のまま『う〜‥‥‥』と唸りながら俯いた‥‥‥

 

チックショウ可愛いなぁッ!!

 

「‥‥‥田中。そういうところだぞ、お前が真面目で時々ポンコツとか言われる所以」

 

「‥‥‥ポンコツって言うのは北沢君だけだよ」

 

「なら俺にそのポンコツを見せるのを止めろ」

 

全く、ちょっと気を許したらこれだよ!

これだから田中は困る。

大体アンタが言い出した事だろ、ご飯食べに行こうって言って、行きつけだかなんだか知らないが店まで指定して。

自分で決めたことくらいしっかり責任を持って欲しいものだ。

俺だって球技大会の時は決めたことに責任持って真面目にやったんだからな。まあ、結果はお察しだったが。ただ単に負けて、押し倒しただけ。俺の黒歴史ランキング3位に入る恥である。

 

「良いか、お前のそういうポンコツな所も魅力ではあるけど自分が決めたことくらい責任を取りなさい。今日のこれは罰ゲーム、デートじゃない。分かったな?」

 

「‥‥‥うん」

 

俺から一向に視線を合わせようとはしない田中であったが、冷静さは幾分か取り戻したのだろう。頬の赤みが取れ、目を逸らす程度で済む位には回復している。

しかし、会話は一向に成り立っておらず。

そのもどかしさに俺は頭をかいて、田中から目を逸らした。

詰まるところ、この状況が俺にも恥ずかしく感じてきた訳だ。

 

「だぁ、なんで無口になるかなぁ」

 

「‥‥‥い」

 

「?」

 

「意識、したら‥‥‥会話が」

 

なあ、知ってるか田中さんや。

世間じゃそれを『可愛いが過ぎる』って言うんだぜ。

俺は今幸せだよ。

まさかこんな所で腐れ縁の言ってた非現実的な光景に出会えるなんてな。

案外石崎の言うことも間違いではないってことなんだな。

後で馬鹿にしたこと謝っとかなきゃ。

 

「‥‥‥うーん、眼福」

 

「えっ」

 

「何でもない。それよりも何も会話しないってんなら俺が会話するぞ、良いんだな」

 

「‥‥‥うん、もし良ければ」

 

こく、こく、と首を縦に振り田中が首肯する。

よろしい。ならば話してみせようではないか。

人間死ぬ気になれば大抵の事は出来る。

尤も、今のこの状況を死ぬ気でやる必要なんかさしてないのだが。

 

「‥‥‥じゃあ、少し昔話」

 

「昔話?」

 

とはいえ、ネタは浮かんだのだから仕方ない。

中途半端は良くないということは教えられている。俺は田中の目をしっかりと見据えると、自身や他者の様々な経験を引っ提げた昔話を話し始めた。

 

「むかーしむかし、ある所に野球好きのお兄ちゃんがいました。しかし、妹はそもそも運動神経が良い方ではなく、家事とお母さんの手伝いが大好きで、弟はサッカーが好きでした。お兄ちゃんは野球でぼっちになった挙句、そのあまりの孤独さに耐えかねて野球をやめたとさ、めでたしめでたし」

 

「‥‥‥北沢君」

 

「?」

 

「重いよ、昔話にしては重すぎる」

 

「そうか?『花咲かじいさん』も『マッチ売りの少女』もこれくらい重い話だったろ。てか、普通にハッピーエンドじゃないか」

 

死人が出るんだぞあのお話。

それに比べたら俺の話なんて可愛いものだろ。

俺の話なんてアリとキリギリスと同じだぜ?

教訓、改心系のお話にしてはよく出来た話だろうて。

 

「孤独で野球を辞めるのがハッピーなのかな‥‥‥」

 

「ハッピーよ、それで家族の笑顔が拝めるならな」

 

総じて俺という人間は出来た人間とは言いきれない。

しかし、そんな俺にも幸せはある。

どんな人間にも『幸福』は付き物だ。

まあ、それと同時に──若しくはそれ以上の『不幸』の感情が、幸福を恰もなかったかのように凌駕してしまうことも往々にしてある訳なのだが。

 

「人ってのは何時も幸せを求める癖に目先の幸せには無頓着だからな。実は幸せが足元に転がってましたー、なんてオチもあったりするぜ?」

 

「幸せ‥‥‥か」

 

「お前は沢山ありそうだな」

 

「そんなことはないよ」

 

即答。

田中みたいな女の子でも不幸だと思うことはあるということだ。

良いじゃないか。人は不幸を乗り越えることで幸福に出会える可能性がある。

ドン底の中でもがき苦しみ、その先にある一筋の光が見えた時──その時の感情はきっと幸福になるはずだから。

だから人は諦められないのだろう。

尤も、それが万人に通用する言葉ではないのは分かっているが。

 

「‥‥‥まあ、あれだ。田中も時に足元を見たり周りを隈無く探してみれば良い。そしたらお前が本当に知りたいこと、やりたいことがアイドル以外にも見つかるかもしれない。そしたらそれは人生の転機だ、歓迎すべきことだ」

 

「うん」

 

「何が言いたいのかって?そりゃあ田中さん、あれよ。人生を楽しめって話さ」

 

「聴いてないよ、別に‥‥‥」

 

うるせい。

なんか言葉に迷ったんだよ。

 

苦笑いの表情を浮かべた田中。

その笑みは次第に真顔に変貌し、天井へと視線が映る。

 

「うん、私にもやりたいことが増えるかもしれない‥‥‥けど、先ずはその未来を切り拓くために、今を精一杯頑張らなきゃ」

 

「切り拓く、とな」

 

「そう、切り拓く‥‥‥今を頑張れない人に明日はない──なんて誰かが言ってたの、頭に残っているんだ。その言葉、本当にその通りだなって。頭にすーっと落ちていく感じがしたんだ」

 

田中の視線が俺の方へと向けられる。

その視線は真面目そのもので、またしてもその視線を見た俺は頭が痛くなる。

最近はずっとコレだ。

この女の子の目を見た時、何処か既視感に襲われた後に頭が痛くなる。どうしてか理由を考えると更に頭が痛くなる。

いや、まあ昔出会ったのは田中さんから聴いたんだけど。

それが影響してるんかね。

 

「だから私は今を頑張るよ。アイドルとして活躍できるように。そして‥‥‥うん、北沢くんが志保ちゃんのアイドル姿を見た時に、私も一緒に見てもらえるような──そんなアイドルに」

 

兎に角だ。

今の田中の意気込みは決して否定できない、寧ろ棹らすべき意気込みである。

田中らしい──と言える程俺はこの子を深く知っている訳では無い。

しかしながら、そんな俺でも今の田中の考えが賞賛できるものだということくらいは分かる。

 

だから。

 

「良いね、その意気だ」

 

その答えを、俺は歓迎した。

志保のライブの時に田中が出れるなんて確証はどこにもないのに。

田中の勇姿が見れるのか、そんな確証どこにもないのに。

 

「‥‥‥ま、まあ志保ちゃんがライブする時に私が歌えるのかは全く分からないんだけど」

 

「せやな」

 

「志保ちゃんと付きっきりでレッスンしたら──」

 

「そこまでするなっての‥‥‥」

 

まあ、田中のことを深く知らないっていうのは前々から思っている事だけど。

いつも真面目っぽいけど偶に──こんな風にポンコツになっちゃう田中さんがいるってことは、俺にも分かる。

そして、そんな田中とお話することは、今では俺の生活の1部となっていること。

 

田中を知って、田中と話すことが俺の日常になった。

 

話すことをあまりしなかった俺が、である。

それって本当に小さいことなのかもしれないけど、俺にとっては劇的な変化なんだ。

 

感謝すべき事なんだ。

 

「‥‥‥さ、そろそろ帰るかな」

 

大盛りを頼んだ訳でもない日替わり定食は割と直ぐに平らげることが出来た。

途中から何やら田中さんの様子がおかしくなってしまったしここは早めに帰ってしまうのが良いだろう。

さっきから静香さんとやらの視線もドギツいものがあるし。

ホントに、いちいち突き刺してくるよね。志保然り、静香さん然り。

 

「もう帰っちゃうの?」

 

「へっ、さっきまでデートがー、羞恥心がー、とか言ってたヤツが良く言うぜ」

 

うぅ‥‥‥と呻き頭を抱える田中。

今の田中には『デート』という言葉は禁句らしい。

現にその言葉を放ったせいで田中さんの顔がトメィトゥみたいだ。

信じられないね。余裕でご飯食べに行こうとか誘った癖に。

 

「‥‥‥けど、北沢くん」

 

「?」

 

「来てくれてありがとう。楽しかったよ」

 

「罰ゲームで御礼を言われるのかね‥‥‥」

 

とはいえ、嬉しくないわけがない。

罰ゲームとはいえ綺麗で可愛い女の子とデート。

石崎には悪いがこの前借りたギャルゲーよりも田中の方が可愛いね。

 

グッバイゲーム。今、俺はこの瞬間が幸せだよ。

 

「こっちの台詞だ、また機会があったら行こう」

 

「‥‥‥うん!」

 

今度は今日イチと形容できるニコリとした笑みでそう言った田中。

その笑顔を一瞥した俺は、今度こそ先に会計を済ませて店を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空が明るく、雲ひとつない。

俺の今の気分を表したかのような天気は、図らずも俺の視線を釘付けにする。

今の俺は、この空の如く雲ひとつないハッピーな気分だった。

なら、この後の1日もハッピーとなるか。

そこまで考えて伸びをした所で、俺はあることに気が付いた。

 

「‥‥‥」

 

視線。

勿論、確信めいたものがある訳では無い。

何となく察したのだ。何処か好奇心の塊のようなキラキラした視線が俺に突き刺さる変な感覚を。

 

1度その視線を気にしてしまえば最後。

誰が俺を見ているのか、というのが気になってしまい身体がむず痒くなる。

こういう時は、決まってその好奇心を発散しなければならない。

1度気にしてしまったものは最後までやりきらなければ気が済まない性格が災いしてしまったのだろう。

俺はその視線の正体を追及せねば気が済まなかったのだ。

 

立ち止まる。

そして大きく息を吸う。

そして俺は──

 

「誰じゃい!!!」

 

気配のした電信柱の影に向かって思い切り叫んだ。

すると、物音と同時に誰かが電信柱の影から躍り出てすっ転んだ。

女の子、茶髪にグラサン。

それだけの情報から普通は名前を絞り込むことは出来ないだろう。

しかし、俺には分かった。

この状況、それを覗く洒落た格好をしている茶髪の少女。

 

「いたた‥‥‥なんで急に大声出すのさ」

 

友人の少ない俺にとって、数少ない友人の顔を思い出すことは容易だった。

 

 

 

 

 

 

──覗きとは、悪趣味じゃあないか。

 

 

「恵美」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話 一球

例えばこの出会いを歓迎することが出来たら1万円上げる───とか言われたら俺はもう間違いなく1万円を貰いにこの出会いを歓迎すると思う。

けれど悲しいかな。

貰えるお金もなければ、見られたのは非常にまずーい状況。

俺はこの状況をどう回避すれば良いのか、非常に頭を悩ませていた。

 

「‥‥‥なにしてんの、恵美」

 

取り敢えずはこの状況を何とかすべきと考えた俺。恵美にそう声をかけると、尻もちを着いていた彼女は起き上がり、少しだけ苦笑いをしながら頭を摩る。

 

「にゃ、にゃはは!ゴメンゴメン!!折角2人水入らずの所を邪魔しちゃって」

 

「いや、別にいいけどさ。もしかして‥‥‥ずっと見てた?」

 

こうしてここにいる以上恐らく恵美には見られているのだろうけど、万が一があるかもしれない。

実は、今来たばっかりだったとか。例えば、難聴系ヒロインだから全然聞こえなかったとか。

そんな幸運(ラッキー)があっても良いと思うんだ。

 

「‥‥‥例えば、ほら。俺と田中がギャーギャー騒いでたこととか、さ」

 

「んー‥‥‥」

 

俺がそう言って恵美に確認を取ると、途端に目を瞑りこめかみに手を当てた恵美。しかし、そんな考え込んでいるような恵美の素振りは数秒で終わり、それと引き換えに見せられたのは人懐っこさを体現したような笑み。

そんな笑みを浮かべながら、恵美は一言。

 

「にゃは、しじみ汁は美味しかった?」

 

「バッチリ見てんじゃねえか」

 

そりゃそうだよな、じゃなければこんなところの電信柱に隠れておちおち尻もちなんて着いてないだろう。

いやあ、恥ずかしいな‥‥‥知り合いの女の子にこんな痴態を見られたのは非常に恥ずかし過ぎるぞ北沢啓輔!

 

「そ、そんな恥ずかしがることないじゃん!!しじみ汁美味しかったんだし、感無量でしょ?」

 

状況に絶望し、蹲り、頭を抱えた俺を必死にフォローしようとする恵美。フォローがフォローになっちゃいないがこういうのは誠意が肝だ。恵美のこういった姿勢は有難いとは思う。現に、少しだけ元気を取り戻せたからな。流石コミュ力抜群の女の子だ。こういう時に何をすれば良いのかということをよく分かってらっしゃる。

フォローがフォローになっちゃいないんだけどね!

 

「‥‥‥そっかぁ、覗いてたのか」

 

「うん」

 

悪びれもなく、頷く恵美を見て軽く殺意が湧くが何も暴力や暴言を吐くほどではない。

寧ろ田中との食事風景を見られただけだ。それだけでも充分恥ずかしいけど、死ぬほどではない。何せこれはデートじゃない、罰ゲームだからな!

 

「‥‥‥まあ、覗かれたところで大したことはないけど。感心はしないぜ」

 

「だからごめんってばー。まさか啓輔がこんな所で琴葉とご飯食べてるなんて思わなかったんだもん。スミに置けないっていうか、抜け目がないというか‥‥‥あれだね、チャレンジャーだねっ」

 

お前後で酷いからな

 

「にゃは、理不尽ってこういうことを言うんだね!」

 

悪戯っぽく笑みを見せる恵美を一瞥しながら時計を確認する。

気が付けば時計の針は2を指している。田中と話した後で、恵美と余計に喋ってしまったせいでかなりの時間を食ってしまったらしい。

依然として恵美が笑顔でこっちを見てるのが非常に気に食わないのだが、俺もそろそろ帰らなければいけない。

息を吸って、思い切り吐くことで己の気持ちを切り替えると、恵美が相も変わらない笑みで俺を見る。今度は何を企んでいるんだ‥‥‥なんて思いながら目の前の少女の笑みを眺めていると、またしても彼女が会話の主導権を握った。

 

「んじゃ、途中まで一緒に帰ろっか」

 

「は?」

 

いきなりそんなこと言われたら否が応でも会話の主導権を握られてしまう。唐突に発せられた衝撃発言に開いた口が塞がらないでいると、あっという間に距離を詰められた恵美に手を掴まれる。

いやあこれが女の子の手ですか、田中の時もそうでしたけど本当に女の子の手ってやわっこくて爪長くて素敵──って違う違う。

 

「その手は何だ」

 

「逃げるでしょ?」

 

「逃げねえよ。良いからその手を離せ。俺とお前は手を繋ぐ程の仲じゃないだろうが」

 

「やだなー、アタシと啓輔の仲じゃん。1度楽しく話せれば友達!アタシ達は放課後も一緒に遊ぶ仲なのさっ!」

 

「今日含めて2回しか会ってない件について」

 

「細かいことは気にしなーい!」

 

お前はもっと気にした方が良いと思うんだ。

そうツッコミたくなる衝動を何とか抑えつつ、俺は改めて所恵美という少女について考える。

コミュ力抜群。可愛い女の子。茶髪ロングのアイドル。

そんな女の子が俺の手を握っていること自体が最早意外を通り越して異質なのだ。それにも関わらず俺はこの女の子に手を握られ、笑顔を向けられている。

‥‥‥出会いは公園。寧ろあの時は迷っていた俺に道を案内してくれるというおまけ付き。それだけで友達になれているとか、正直実感がないのだ。

 

何せ、俺は初対面の女の子(白石)と不良そっちのけで大喧嘩するような会話下手だからな。そんな奴に多くを求められても困る。

 

「俺とお前が一緒に帰らなきゃいけない理由を教えてくれないか」

 

「理由?」

 

「そうだな‥‥‥例えば、用事があるとか。田中に近付くなとか」

 

田中は、アイドルである。

1年目とはいえその事実が変わることはなく、勿論人付き合いも増えていく。その中で、同じアイドル仲間の恵美が俺と田中の関係を一刀両断するのは何ら不思議なことではない。

片やアイドル、片や不良生徒だ。

しかし、そんな俺の考えは見当違いも甚だしいようで。

キョトンといった風に目を見開いた恵美は俺を見て一言。

 

「やだな、そんなコト言わないよ。何の因果があってアタシが琴葉の交友関係を阻害するのさ」

 

至極当たり前のことを言われてしまった。

尚も手を繋ぎながらそう言う恵美。俺は、そんな恵美のキョトンとした表情を見て、やってしまったという気持ちに至る。

田中と恵美の関係なんて何も分からないのにも関わらず、そんなことを言ってしまうのは失礼に値する。詰まるところ、俺は恵美に対して失礼なことをする──貸しを作ってしまったのだ。

 

「悪い‥‥‥」

 

「あーあー、心外だな。まさか啓輔がそーいうこと言うなんてー」

 

先程の抑揚のある声が一転、棒読みでそう言う恵美。温度差がある分、何処か怒っているという雰囲気が醸し出されており、凄みがある。

そんな光景を見てしまえば最後。

俺は彼女に謝るため必死に頭を捻った後に、弁明を行うため口を開いた。

 

「し、失言だったよ。これは所謂事故であってだな。単純に気になってしまったというか」

 

「気になって失礼なコト言っちゃうんだ」

 

耳が痛い。

オマケに胸も痛い。

これが自業自得というやつなのだろう。今の恵美の棒読みを聴いている俺の胸はズキリと痛みが走っている。ヒビが入りやすい俺のメンタルに、棒読みは効果抜群。そんな今の俺には、どれだけの羞恥や痛みに晒されようが恵美に謝る他なかった。

痛いのは志保のコークスクリューブローでお腹いっぱいだ。

 

「うぐ‥‥‥!わ、分かった。謝るし、詫びも入れる‥‥‥」

 

「詫びって?」

 

「‥‥‥言うことを聞く、とか」

 

「‥‥‥成程。じゃあ途中までアタシと一緒に帰ること!それで許そうじゃないかっ」

 

頭を下げて、謝ろうとした途端に先程までとは打って変わった弾んだ声が聞こえ、その声に俺は安堵感を得たのと同時に、『やはりか』という達観めいた気分に陥る。

弱みを握られてしまった以上、どうしようもない。そもそも田中と恵美の仲を軽んじてしまった俺の責任だ。この件に関しては逃げようもないし、逃げるつもりもない。

俺は両手を上げて降参の意を示した。

 

「‥‥‥それで恵美の機嫌が直るなら」

 

「やたっ!じゃあ途中まで一緒に行こっか!」

 

指パッチンを決め込み、笑顔になる恵美。恐らくこれを花のような笑みと呼ぶんだろうな‥‥‥なんて考えを抱きながら、頭を上げた俺は恵美と共に途中までの道のりを歩き出していった。

 

「にゃは、こうして歩いているとあの時のこと思い出すよね」

 

「あの時‥‥‥ああ、道案内の時のことか」

 

俺がこの女の子に対しての印象をコミュ力抜群のJKと固めたシアターまでの道のり。ミックスジュースやら流行りのファッションなんかの話をしていた恵美は本当に楽しそうに笑っていたのを確かに覚えている。

そして、それは今も同じ。楽しそうに笑って、会話を提供して、さりげなく人を気遣うことも忘れない。そんな恵美だからこそ、こうして会話が弾んでいるのだろう。

人に恵まれていると個人的には感じている。友達は少ないが、家族然り、田中然り、恵美や渋谷、腐れ縁然り、どいつもこいつも持っている自分の色が濃く、飽きさせない。

交友関係において、話題を提供してくれる存在だったり、楽しく会話できる存在は非常に有難いものだ。そして、それを交友関係の中で行うことが出来ている俺は、例に漏れずその恩恵を受けていると自負している。

 

みんな、良い奴だ。

 

それは口には出しちゃいないが、俺の心の中にしっかりと内在している。

それを身体的な意味でしっかり表現出来ているのかと問われれば──その確証はないんだけどな。

 

「道案内が終わった時から思ってたんだけどさ、啓輔って琴葉と仲良いよね」

 

「え?」

 

隣を歩く恵美にそう言われ、思わず足を止める。恵美から田中関連の話が出てくるのはこのリア充と連れ立って歩く以上ある程度は予測できた。問題は恵美から言われた『道案内が終わった時から』というワードである。

確かに恵美の言っていることは事実ではあるが、道案内の時は田中とのことを話した覚えはない。それにもかかわらず恵美がそう言ったということが俺には不思議でならなかった訳だ。

因みに、俺は田中とはそれなりに仲の良い関係性を築けているんじゃないのかなとは思っている。前に石崎に茶化されたときは否定したけど、そもそも仲が本当に悪けりゃ話もしないし、テストで勝負もしない。

尤も、田中さんがどう思っているのかは知らんけど。

 

「俺ってお前に田中とのことちゃんと話したっけ」

 

「え、ちゃんと?啓輔、琴葉と結婚するの?」

 

「お前が今、どれだけ的外れなことを言ってるのかは‥‥‥分かってるよな?」

 

速断速答で恵美の戯言を一刀両断すれば、恵美の口からは『にゃははー』と、先程の快活な笑い声とは程遠い間延びした空笑いが聞こえる。そんな様子にため息を吐きつつ、俺は恵美に対して正直に言葉を並べる。

 

「気がつけば田中が俺の席の隣で話しかけてきていたんだよ」

 

「そうなの?」

 

「‥‥‥すまん、あんまり記憶がないんだ」

 

恵美から驚きの声が上がるのも仕方ない。あんな可愛い女の子がクラスの不良生徒に話しかけるなんてどこのラブコメだとか、昔の俺が聞き手の立場にいるなら絶対に言うだろうし。

けど、一度でもそんな奇天烈な経験をしてしまえば人の価値観なんてものは簡単に塗り替えられてしまう。今の俺なら石崎が『知らない女の子が俺に好きって言ったんだよ!』って言われても信じて見せる。それだけの自信が俺にはあった。

そして、俺は1年前───厳密に言うところの田中と初めての会話をするまでの記憶に霞がかかっている。

理由は分かっている。あの時の俺は極端に一つの方向を向きすぎてしまっていたから、その方向の記憶しかないのだ。

切り捨てて、抱き締めて、必要性を感じて。

いつかの俺は一生懸命が過ぎたって母さんが言っていたのを覚えている。

馬鹿にも程がある愚行をしでかして、勝手にどん底に堕ちた。そんな俺に『楽しい』を与えてくれたのが、他の誰でもない田中なんだ。

 

「なんつーか、その時1杯1杯でさ。1年前の俺が今こんなに学校でも外でもはっちゃけてるなんて思ってもみなかった」

 

楽しいを与えてくれた田中が俺にチョップを打ち込むようになった。

田中の恐怖が脳裏を掠めるようになってからというものの、石崎との会話も少し弾むようになった。

毎日が楽しくなったし、胸が弾んだ。

 

「不思議だよな、人生って。こうも簡単に予想が裏切られる。こうも簡単に未来が変わる‥‥‥何気にそれってすごい事だと思うんだ」

 

そこまで話した所で恵美が口をぽっかりと開けていたことに気が付く。いかん、柄にもなく浸ってしまったか───と軽く自己嫌悪に陥っていると、その様子をおかしく思ったのか恵美が俺を見て、クスリと笑みを見せる。

 

「すまん、浸ってた」

 

「ん、別に大丈夫だよ。普通に分かるなーって思ってさ」

 

え───分かるのか。

つーか分かられてしまうのか!?

 

ううむ、それはなんともまあ恥ずかしい話である。ただの意見ならまだしも、分かられてしまったその言葉は軽く浸っていた俺が不意に口に出したもの。求められてもいない言葉に理解を得られたところで困るのは自業自得な俺の方である。

 

「う、嘘だろお前‥‥‥JKでそんな達観的になれるとか理解力の鬼か‥‥‥!?」

 

「いやそれブーメランだって!アタシだって啓輔の口からそんな言葉が出るとは思わなかったし‥‥‥」

 

それにね、と一息吐いた後に恵美は続ける。

 

「理解はできるんだよ。アタシもね、今がこんなに充実するなんて思ってなかったから」

 

「そうなのか?」

 

「アタシね、読モやってたんだ」

 

「ど‥‥‥どくも?」

 

「あ、読者モデルの話ね。それでもって家ではカテキョのセンセに色々勉強教えて貰って、兎に角普通に学校生活を送ってたんだ」

 

成程、読者モデルに家庭教師か。

一見してみると何とも厳しいスケジュールに見えるのだが、本人が好きでやっているのなら話は別だ。

存外好きというもの程時間の流れは早く思えてくるし、つまらないと感じるものは時間が長く感じる。こういうの、なんて言ってたっけかな。まあ、そんな感じの言葉があったはずだ。

そういえば渋谷とか志保にも勉強を教えたりしてたな。

勿論、今以上の学力向上は必須だが、将来的には教える立場に立つのもありかもしれないな、なんて思ったり。

 

「放課後は友達と一緒に遊んで、学校でも楽しんで。その生活はフツーに楽しかったよ?けど‥‥‥今はもっと楽しい。アイドルが、滅茶苦茶楽しいんだ!」

 

「‥‥‥そっか」

 

活力のある恵美の言葉は、聴いているだけで楽しくなってくる。トークセンスも、笑顔も、同級生ならイチコロだろう。それに、何より親しみやすい雰囲気がある。これは紛れもない恵美の持ち味であり、美点なのだろう。

そんな恵美の明朗快活っぷりに、すっかり絆されてしまった俺は思わず吹き出してしまう。それに気が付いた恵美は『あっ』と声を上げた後に、頭に手を置いて舌を出した。

 

「ゴメンゴメン!こっちも浸っちゃったね!」

 

「良い話を聞かせて貰ったからな、構わねえよ」

 

俺のよりか余程建設的で段階的な話だった。こちらも浸って言葉を発してしまった以上恵美の話は聞くべきであるし、そもそも恵美の話は浸ったものではない。経験談に基づいた感想だ。そして、その話を鬱陶しいとも思わない。

強いて言うとするのなら、年甲斐もなく高尚な考えを持っているっていう感心だろう。コミュ力含め、お前本当に高校生かって思いたくなったぞ。

 

「まあ、俺も偉そうなこと言える立場じゃないから。ボキャブラリーに富んだ言葉は言えないけど‥‥‥その楽しいって気持ち、大切にな」

 

「大切‥‥‥?」

 

「そう。大切に‥‥‥ほら、人間50年とか言うじゃん。お前が思っている以上に時が過ぎるのは早くて儚いものなんだ。俺ももう18歳‥‥‥初めてケーキ作ろうとしたらとんでもないもの作って志保にぶん殴られたのが昨日のことのようだよ‥‥‥」

 

本当に時の流れは早い。

ケーキを初めて作ったのが16歳の頃なら、志保に反抗的になられ始めたのが1年の冬頃。小学生の頃はあれだけ可愛かった志保は今ではクールビューティが過ぎる別嬪さんになった。

それら全てはまるで昨日のことのようで、時の流れがあっという間だということを認識させる。嬉しいことではあるが、哀愁を感じないと言えば嘘になる。

ずっと──こんな時間が過ごせれば良いな、なんてことを思っていた。

否、幼い頃は今以上に幸せになれると盲信していた。

 

時の流れを感じるのと同時に、自分が想っていた昔の幸せがどれだけ浅ましく、自己中心的な考えだったのかを痛感させられるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ」

 

ふと、一言。

ぽつりと呟いた一言と同時に、恵美が立ち止まる。

隣を歩いていた俺は恵美に2.3歩程の距離をつけた後に立ち止まり、恵美の方を振り向いた。

 

「楽しいことって、沢山あるけどさ。人生って1回きりだから──やっぱり弾けてみたいじゃん」

 

「お前の場合の『弾ける』ってのがどういう意味なのかは知らないが、概ねは同意できるかな」

 

輪廻転生やら異世界転生やら色々な概念はあるが、それは確かなことではない。確かなのは現在しかない、ならその現在を思い切り楽しもうという概念は呆れるほど理解できる。

なら、現在を楽しんで充実させてやろうという気概が伝わってきた恵美の発言に頷きながら言葉を返すと、『でしょ?』という言葉の後に恵美が続ける。

 

「だから人と話しているとそういうこととか分かったりするんだ。楽しく話してても普通に話してても、ある程度の‥‥‥我?があって、その時に話す将来の夢とかでやりたいこととかが分かっちゃうもんなんだよ」

 

「へえ‥‥‥」

 

「でも、不思議。啓輔はビックリする位受け身でさ。自分から話さないから──アタシ、啓輔の好きなこととか、将来の夢とか‥‥‥そういうのが全然分からないんだよね。強いて言うならシスコン」

 

「お前、俺をそんなふうに見てたのな」

 

「誰だって思うでしょそれは」

 

恵美の鋭いツッコミは初めて聞いた気がする。

そんなことを思いつつ、核心に迫られつつあった俺は何となく気まずくなり、頬をポリポリとかく。

すると恵美はその笑顔に陰を落として。

明朗快活とは程遠い、苦い笑いを見せて。

 

「‥‥‥啓輔にはさ、あるの?家族のこと以外でやりたいこと」

 

立ち止まり俺を見つめる恵美の表情はその快活な様子を失っている。どこか心配そうに苦笑いをする彼女の表情には、本当に人を心配するとき特有の真心が見え隠れしているのだ。

心は実際に見えるものではないが感じることはできる。受け取った本人の感受性次第ではどのようにも解釈することができる心。そんな恵美の苦笑いから察せられる心を、『俺』は心配と受け取った。

間違いかもわからない。が、ここで質問の意図を聞くほど野暮な性格でもなかった俺は、恵美の顔をしっかりと見据える。

 

「‥‥‥うむ」

 

「‥‥‥にゃはは、冗談!なんとなーく聞いてみただけ──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え」

 

「家族が幸せなら、それでいい」

 

幸せになれるなら、悪魔に魂売ったって良い。

嘘でも方便でもない。

本気だ。

家族の幸せに勝る幸せは今の俺にはない。

極論、母さんと志保と陸が幸せならそれでいい。

()()()()()()()()()

 

「‥‥‥お、もう駅か。時が過ぎるのははえーなぁオイ」

 

気が付けば最寄りの駅に辿り着いてしまった俺と恵美。相も変わらず彼女と話していると時すらも忘れてしまうようで、俺は改めてリア充の凄さ。陽キャラの素晴らしさを学んでいた。

環境は人を変えるとは良く言ったものだが、確かにこの子1人友達になるだけで人生は随分と変わるだろう。

さて、先程まで苦笑いをしていた恵美は憑き物が落ちたかのように先程までの笑みを取り戻していた。普通にしてれば顔立ちはクール、しかし話していくと人懐っこい笑顔が持ち味の陽キャ、コミュ力抜群のJKということが分かる。それでもってあのようなアンニュイな顔を見せられる──うん、百面相っていうのはコイツのことを言うんだろうな。

 

「あっという間だね。もっとお話したかったんだけどなー」

 

「やめてくれ、恵美と話してたら要らんことまで喋っちまいそうだ」

 

「お?そんなこと言っていいのかな?」

 

「ごめんなさい」

 

迂闊だった。

今の俺は所謂罰ゲーマー。恵美の言いつけの元、会話をしていることを忘れてはいけない。今、この場面の主導権は奴が握っているのだ。

頭を下げ、許しを請う俺。それをあざ笑うかのように恵美は『ふふっ』と笑い声を零す。

 

「今日は楽しかったよ!また一緒に帰ろうね!」

 

「御免被るぜ‥‥‥またな、恵美」

 

「まーたそういうことを言う‥‥‥ま、いっか!じゃーね啓輔!」

 

最後の最後の山場を超えれば、後は下り坂。恵美が提示した罰ゲームを終えた俺は、そう言って駅に向かっていく恵美を後目に、自らの家族が待つ家へと向かい、歩を進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんな奴にも好きなものがひとつはある。

俺の場合、それが家族『じゃなきゃ』いけない。

それだけの話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一人で自宅までの帰り道をぽつぽつ歩いていた俺は今日までの俺自身を回想すべく過去の消えたり都合よく書き換えられた記憶を引っ張り出していた。

その過程では、かつての俺がとても楽しい何かをしていたことだったり、幼少期の頃の黒歴史を思い出したりと、俺の頭の中は、ありとあらゆる記憶を思い出していく記憶のバイキング状態と化していた。

 

 

 

それでもやはり1つ。完全に消えてしまったつながりが思い出せずに悶える。

 

 

 

知るべきだと感じた。

球技大会の時に感じた田中との微かな繋がり。最初は知らなくても良い事だと思っていた。俺の霞がかかった過去の記憶なんぞ思い起こすだけ無駄と感じたからだ。

しかし、そんな思いは田中の真摯さによって打ち消される。

過去に受けた感謝を忘れずに『ありがとう』と言ってくれた。シチューの買い出しの際に含ませていた言葉を、勇気を出して伝えてくれたのだ。それなのに、俺は思い出せない、思い出す気にもならない──なんて言葉で逃げたくはなかった。

 

 

大体──

 

「あんな顔してたのにこれ以上知らぬ存ぜぬで済ませられるかっつーのォ!!」

 

あの時の田中の俯き加減の顔をいつまでも忘れられないでいる。

いつも毅然とした態度で、笑顔は可愛くて、それでも時々ポンコツな田中。

そんな田中が勇気を出して言ってくれた一言に応えたい。応えて見せたい。そんなことがあったなって言って田中を笑わせてやりたい。

なら思い出すのが筋だろ。例えそれを思い出して辛い記憶を思い出したとしても、それは折角親身になってくれる友達に不誠実であっていい理由にはなりゃしない。

 

どれだけの時間をかけたって、俺はその出来事を思い出したかった。それは同情ともとれるのか、若しくはただの愚行か。一度は考えたものの理由探しに必要性を感じなくなってからはそれを考えることを止めた。その理由が何であれ、俺がその出来事を思い出し、田中に笑っていて欲しいという俺の思いは一緒だということを悟った故である。

しかし、記憶というものほど当てにならないものはない。本当に見つけたいものはここぞという時に見つからず、こんな時に限ってどうでも良いことを思い出してしまう──また、そのきっかけが転がっていくことは良くある出来事で。

 

「すいませーん!!」

 

「ん?」

 

遠くから声が聞こえ、声のした方である右横を振り向くと、足元に軟式の白球が転がってきた。

泥色になったボールは努力の証。そんなボールが転がってきた瞬間、俺は何故声をかけられたのかを悟った。

ボールだ。そして、声のした方ではグローブを嵌めた少年達が手を振りながら、俺に返球を催促していた。

 

「‥‥‥放っとくわけにはいかないからなあ」

 

その白球を拾うことに、抵抗感がある。

他人からしたらたかがボール位──と思うかもしれない。けれども、俺にとってそれは大きなことなんだ。

そのボールやたまに公園に落ちているバットなんかで良い思いも悪い思いも経験した俺にとっては、ある意味での『ワケあり』だから。

その『ワケあり』は思い出でもあり、それと同時に出来ることなら封じ込めておきたいものでもあるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その『思い出』を手に取った瞬間、気分は最悪なものになるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『そうか。啓輔は野球が好きなのか』

 

 

 

 

うん。

 

 

 

 

『なら一生懸命練習しないとな。どれ、一緒にキャッチボールでもするか』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『大きくなった姿が楽しみだな‥‥‥』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消えろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥」

 

ボールを握る度に湧き上がるこの想いの正体は、やるせなさなのか苦痛なのか。複雑に混じり合い、確立されてしまった今の俺の心ではそれを知ることはできない。

 

()()()()()()()()子どもながらに理解したことを覚えている。

どれだけの言葉を尽くしたところで、たった1度の出来事で全てが壊れてしまうこと。どれだけ優しい約束をしたところで、たったひとつの行いで全てが淀んで見えてしまうということを。

そんな天啓を得た俺は、その天啓を己のプライオリティとして、決して家族は裏切らないように。どれだけの馬鹿をやらかしても家族には、家族にだけは笑顔でいようと()()()()()()()()()()()()

それでも、その考えが頭の中にあっても本当に切り捨てなければいけないものを切り捨てられず、3年もの間俺は家族を苦しめた。

それを忘れてはならない。一生かけても償えない、俺の汚点だ。

 

当然、あの人には感謝している。

恨むことはない。憎むこともない。大人には大人の事情があり、当時も今も子どもである俺に止められることなんてひとつもないから。やむを得ない事情を憎み、己の精神に負荷をかけるほど俺は馬鹿じゃない。

ただ、もうあの人は他人ってだけ。それでいい。

それでこの件は吹っ切れてるから。

寧ろ感謝したいくらいだ。この件がきっかけになり、俺が野球をやることで家族にどれだけの負荷がかかるのかを知れたから。

妹の涙に、気がつくことができたから。

家族が大切だということに気付けたのだから、それで良いんだ。

 

人間、良いことも悪いこともいつかは変わってしまうもの。それはどんな人間にも抑えることのできない自明の理。必然と共にやってくる酷く儚い空虚な現実だ。

そんな時はいずれ家族にもやってくる。それぞれの未来を歩むことで、俺達の関係性も嫌というほど変わっていく。何もかもが、変化せずにはいられない──それは北沢啓輔とて例外ではないのだ。

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

野球ボールを拾う。

それは一般的な小中学生が使う軟式球。硬球を使って野球をしたことが少ない俺には違いはさほど分からないが、硬球よりか全然打ちやすいということを腐れ縁から聞いたことがある。

ボールを触ること自体も久しく、ボール特有の丸みに感慨のような何かを感じていると、少年が両手を広げボールを急かす。

 

「くださーい!!」

 

感慨に耽っている場合ではない、そう感じた俺はボールを投げる時のように縫い目に沿って人差し指と中指を添え、振りかぶる。

肩のストレッチはまるでしていなかったが、一球しか投げない上に、今後野球をする予定はない。序に肩にはちょっぴり自信があることから、ストレッチ軽視の考えに至る。

 

迷いもなく振りかぶり、俺は白球を中坊に向かって投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は光り輝くように見えた白い流れ星が今一度輝いて見えることは、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果は、ノーバウンド送球。50mという距離がありながらも普通に返球できたということは、俺の肩は中学3年生のまま変わっていないということ。

まだまだ俺の肩は健在らしい。

 

「ありがとうございまーす!」

 

少年から、感謝の声が響き渡る。

その純粋な姿は見ていて気持ちが良くて、帽子を取り頭を下げるその行為には一種の清々しささえ感じられる。

そんな清々しさを肌で感じた俺は、その少年の礼に応え、自分という存在を証明するかのように大きく手を横に振り、そして一言。

 

「気をつけろーい!」

 

大きく声を張り上げて、俺は今一度目的地に向かって歩き出す。

真っ直ぐを見つめ、ひたすら歩き出す。

思い出してしまった過去を振り返らないように──ひとつ、ひとつ。

脆く、今にも壊れてしまいそうな己の道を、踏みしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




志保パパごめん。円満解決なんて無理よりの無理、啓輔君もそこまで器用じゃない。作者も書けないそんなの。
少なくとも急に出ていった親に子どもが良い印象を抱くわけがないって補足。
事実大変だし。この件で母が仕事に出て、あんな広い部屋に志保が1人、鍵っ子だった時もあったはずでしょ?
そら誰にも頼らなくなるわよ。それでもりっくんをちゃんと可愛がり、経済状況まで考えて家事もする志保はマジで神。
志保のお母さんも、志保も、りっくんも本当に報われて欲しいわね。

んで、遅れて本当にごめんなさいってどうでもいいことを書く人間界の塵芥。
ここというタイミングでうみみ走法が出来ないという致命的な欠陥を抱えた駄作者ですが、今後ともよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

No name

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深い闇というものが人生には必ずある。

人が人生という長いレールを歩いていく上で、必ず陥るであろうその闇はスランプと言うべきなのか、挫折と言うべきなのかは知らない。ただ、その闇というものが1つの夢を崩すということは自明の理であり、その深い闇で多くの人は自らの持つ夢や目標を容易に壊す。

闇に絶望し、堕ちた時点でそのレールは終わりだ。壊れた破片を元に戻す術はない。そうなってしまった場合、人はまた新しいレールを見つけ、手際良く乗り換えていかなければならない。

電車の乗り換えのようなものだ。予定を決め、乗り換え、目的地を目指す。ただ1つ違うのは、目的地が所々で変化する──それくらいだ。

 

言うは易し、行うは難しだ。

一見、レールの乗り換えは楽そうに見える。夢を捨て、新しい自分になる。言葉の表面を取れば、新しい夢を見つければ良いだけ。夢なんて直ぐに見つかると思う奴が大半だろう。

人間っていうのは実際の物事に直面しない限りは沢山の選択肢を見出せる人種だ。1人じゃ何も出来ない?仲間と協力すればいい。お金がない?働いて稼げばいい。夢がない?なら探せば良い、という風に感じた不安や心配を有り体な言葉を並べ、覆い隠す。

 

けれど、実際その物事に直面し、追い詰められた時、人は現実を知る。

空想だけではどうにもならないということを知る。

今まで考えてきた安い作戦が全て消し飛ぶ。

何故なら、過去に呟いた空想や作戦は全て他人事だから。

なんの重みもない戯言だから、その考えは考えとして頭に浮かぶ前に破綻しているからだ。

けれど、それを知ることのない人は今日もありもしない空想を発案し、己を慰める。

この先、どんな現実が待っているのか。その事実を知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

俺は、頭では分かっていた。

人間は他人事のように、絵空事ばかり考えただけじゃなんともならない。

時に行動に移し、戦って行かなければならない。現実を認識しては、その現実を多少なりともマシなものにするために、行動していく。

未来を変えるために、少しでも動くことが、人には出来るということを俺は知っていた。分かっていた筈だった。

 

けど、当時の俺にはそれが出来なかった。

その勇気がなかったから。頭では分かっていたのに、それを変えるだけの勇気がなかったから。

故に、いつの間にか妥協を覚えた。『こうありたい』が『これでいいや』となり、諦めた。

 

一度でもそうなってしまえば自分を今一度上昇気流に乗せるのは容易ではない。堕ちた自分をもう一度上に引き上げるには想像以上のパワーが必要になる。2倍、3倍、もしくはそれ以上。それが分かっているのに、俺はいつの間にか変わることを諦めかけてしまっていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

少なからず言えること、それは以前まで堕ちていた人間がたった一人で這い上がれるほど人生は甘くないということ。そもそも這い上がろうという発想にも至らない比率が多いのが実情だ。現実を知り、その現実に立ち向かうことを諦めることで凝り固まってしまった頭は這い上がるという行為そのものを強く拒否する。

 

 

頭では分かっていること。

それをすれば掴めるということ。

全部分かっているのにも関わらず、どうしようもない程頭の中がいっぱいいっぱいだった、もどかしいと言いきれる過去の俺に『今の俺』を会わせたらどのような言葉を送ろうかと考えた時がある。

俺は何度も何度も考えた。今の俺、昔の俺。2つを鑑みて、現実じゃ有り得ないことを、静かに考えていった。

 

過去を踏まえた出来事を教えて、『お前はこうすれば良い』という啓示を送るかと考えた時がある。

結果は否。今の俺がどの面下げて啓示なんて送るのだ。己は啓示を送るほど尊い生き方をしてきたのかと、俺の心の中のリトル北沢にぶん殴られた。結果、心が壊れそうになりました、はい。

 

調子はどうだ?と当たり障りのない会話を行い、これからどうするのかを尋ねるのかと考えた時がある。

それも、答えは否。過去の自分がどんな思いでいたかは自分が1番分かっている。ああ、言ってやるよ──最悪だったってな。己の気持ちを隠し、本当に居たいと思えた場所を手放そうとして、何もかもから逃げようとした。

寧ろ過去の俺に会えたとしたら、ぶん殴ってやりたい気分だ。それ程までに、過去の俺には腹が立っているんだからな。

 

 

 

 

俺が言ってやりたいのは、もっとシンプルなものだ。

 

『悩め』

 

北沢啓輔という男が欲しいもの、大切にしたいもの、手繰り寄せたいもの。

それらを考え、何がしたいのかを必死こいて考える。

それこそ、今の俺が過去にそうであったように悩んで悩んで悩み続ける。そうすることによって俺は『現在』を掴んだ。長いレールを渡った末の、ゴールを見つけることが出来たのだから。

 

悩みに悩み続けた俺の過去は黒歴史であれど、後悔する要素など何も無い。

暗い闇に向かっていってしまった記憶も。

高校時代の家族のために費やした時間も。

腐れ縁と共に、駄弁り続けた経験も。

そして、1人の女の子と出会った記憶も。

全てが今の俺を形作っており、その経験がなければ俺はこのゴールに至れなかった。苦い記憶も、経験もあった。泣きたくなるような思いもした。けれど、それがなければ今の俺は間違いなくここにはいない。

 

辛い過去から1人で逃げ出し、本当に欲しいものも掴めずに闇の中でレールを乗り換えることすらしなかっただろうから。

 

 

「‥‥‥」

 

 

 

 

 

 

 

俺は忘れない。

あの時俺を救ってくれた一言を。

本当に大切なものを失いかけていた俺に、差し伸べてくれた暖かな手を。

その『手』があったから俺は今、こうして歩いていけている。

己の力で、レールを踏みしめている。

ここに向かおうと、その手を掴もうと、強く決意できたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥ああ」

 

椅子に座るキミを見て、忘れたくないという思いを一層強く願った。

舞台は、思い出とは程遠い、年月も浅く、ムードもへったくれもない場所。

前と後ろ。窓からは日差しが降り注ぎ、空間には陽と影の区別が色濃く付けられる。ワックスで艶が出たタイルは懐かしくて、思わず笑みが零れてしまう。

そんな場所に久しく降り立った『俺』。

既に窓際の後ろから4番目の席に座る彼女がその姿に気が付くと、端正な顔をこちらに向けて、少しだけはにかむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅刻だよ」

 

その一言は、俺にとっては本当に懐かしくて。一瞬過去を思い出してしまい、その過去の情けなさに思わず口角が上がる。

自虐?哀愁?違う。この笑みはきっと──

 

「待ち合わせ通りに来る良い子ちゃんには言われたくねえな」

 

どうしようもない嬉しさからくる笑みだ。

何処までも真面目で、可愛くて。それでいて、真面目故のポンコツっぷりも見せる、1人の女の子がここにいること。

遅刻を咎めるその光景が酷く懐かしくて、笑ってしまったんだ。

窓際に向かい、空いている席に座る。木で作られたそのイスは、固い。いつの日か感じた尻の感覚に、そんな感想を頭の中で思い浮かべつつ、俺は目の前の女に笑いかける。

 

「おたく、全然変わってませんね」

 

俺にしては、少しだけ固い言葉遣い。だが、ここに居たかつての俺と比べて自然体で居られるからこその言葉の意図を悟った女は、挨拶代わりのジャブを打ち込んだ俺に、花よりも綺麗な笑顔で言葉を返す。

 

「いえいえ、キミこそ全然変わってなくてビックリだよ」

 

「‥‥‥これでも服装とか、色々気は遣ってんだけどな」

 

「あ、勿論良い意味で。顔つきも、ちょっと軽い感じも、本当に変わってないなって思って」

 

「褒めてんのか、それ」

 

それはそれでショックではあるんだが。

それでも前言撤回をしようとしない女の笑顔を見ていると、そんな気分も一気に晴れていく。

きっと、嬉しいのだろう。

以前の俺は、そんな当たり前のことすら見落としていたから。

 

 

 

この子がこの場所で笑ってくれているという事実が、どれだけ有難かったことなのか──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──

 

「?」

 

言いたいことは山ほどある。

例えば、この場所で起きた思い出とか。昔の俺がやらかした悪行の数々とか。

かつては尖って尖ってナイフのようになっていた俺。そんな黒歴史を明け透けにすると、ちょっとばかり恥ずかしいが、これもこの子と話せば楽しい気分になれる。

正直言うなら、今日はこの場所でずっとその話をしていたい。

尤もそれは、叶わない願いではあるのだが。

 

「言いたいことは山ほどある。けど、先ずはここに来て第1に考えたことを伝えたいんだ。少しだけ付き合ってくれ」

 

けど、それよりも俺は話したいことがある。

キミが教えてくれたこと。

キミがいてくれたこと。

それら全てのお陰で俺がこうしてここに居れることの感謝を、誠心誠意を以て伝えたいんだ。

だから──

 

 

 

 

 

 

「聴いてくれ」

 

1つの勇気と、その顛末の話を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




はい、(2部が)おしまい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。