夏のできごと (ソノママチョフ)
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初夏のできごと 一

「今年の夏は、例年にない猛暑となるでしょう」

 

 最近になって天気予報やニュース番組で繰り返されるようになったその予言は、どうやら的中しそうであった。

 今は六月、まだ初夏である。

 にもかかわらず、教室に吹き込んでくる風はすでに暑く、絡みつくような湿り気をも帯びていた。

 風はうら若き男女の群れ──生徒たちの中に飛び込むと、彼らが発する賑やかな生気と同化した。

 

 生徒たちは授業という労苦から既に解放されていた。

 今は思い思いに放課後の時を過ごしている。

 ある者は部活動の準備を始め、ある者は級友と遊びに行く約束を交わしていた。

 活力と喧騒によって、教室中が満たされているかのようだった。

 

 だがその中で、ただ一人、異質な雰囲気を漂わせている少年がいた。

 席に着いたまま片肘をつき、外を眺めている。

 彼の、薄い茶色の瞳には、校庭で球技に勤しんでいる生徒たちの姿が映っていた。

 だがそれらの光景は、少年には視覚情報の一部としか捉えられていなかった。

 どんなに楽し気で興味を惹きそうなものであっても、少年の心には届かない。

 彼にとっては、それらは無意味なものであったからだ。

 

桜庭(さくらば)、元気?」

 

 少年の耳に快活な声が届く。

 自分の名前を呼ばれたとあっては、少年も反応せざるを得ない。

 彼は声の方向に振り向いた。

 日に焼けた健康そうな肌の、「活発」という言葉を擬人化したような少女の顔が、目に飛び込んでくる。

 少年は淡々とした口調で答えた

 

「元気と言えば元気かな」

「気のない返事だねえ。今もご主人様の命令待ちですか?」

「そういう言い方は好きじゃないって、前にも言ったはずだけど」

 

 少年の声には、明らかに非難の意が込められていた。

 少女もそれを察し、快活に笑いつつも「ごめんごめん」と謝っている。

 

 桜庭は少年の姓である。

 名は早人(はやと)

 名付け親でもある彼の両親は、二人ともすでに他界していた。

 

 早人は髪の色も瞳と同様、薄い茶色である。

 染めているわけではなく、生来のものだ。

 また肌も色白なので、全体的に色素が薄い印象を受ける。

 顔立ちは端正かつ中性的であった。

 これらの身体的特徴のおかげで、早人は初対面の相手からは「白人の血が混ざっているのではないか」とよく誤解されていた。

 

 早人は少女に何かを言おうとして、口を開きかけた。

 だがその時、制服のポケットからアラームが鳴り響いた。

 会話を中断してスマートフォンを取り出す。

 

「はい早人です。はい……はい……。分かりました」

 

 通話が終ると、早人は立ち上がった。

 鞄を机の上に置き、帰り支度を始める。

 

「ごめん、呼び出しだ」

「ご主……滝川(たきかわ)さん?」

「そうだよ」

 

 少女は眉根を寄せた。

 心の内を探るかのように早人の顔を見つめ、問いかける。

 

「そうやって毎日命令されるのって、腹が立たない?」

「長年やってるから」

「やめたいと思わないの?」

「考えたこともなかったな。でも、やめてどうなるものでもないし。ここにも通えなくなる」

 

 早人は、要領よく帰り支度を進めながら答えた。

 

「んー。じゃあ、やりたいからやってるって訳ではないんだよね?」

「そう言うのとも、ちょっと違うかな。選択の余地がない、そういうことだよ」

「なんで……」

「そんなに気になるのかな?」

 

 苦笑しつつ、早人は少女に顔を向けた。

 彼の、秀麗な顔を間近に見た少女は、あっという間に赤面する。

 

「そ、そ、そ、そう言う訳じゃ」

「まあいいよ。機会があれば詳しく話してあげる。じゃあ夏樹(なつき)さん、さようなら」

 

 早人は、にこやかに少女──夏樹に微笑み、歩き始めた。

 だが教室を出る直前、夏樹によって進路をふさがれてしまう。

 早人は驚き、足を止めた。

 夏樹が、太陽を思わせる満面の笑みで問いかけてくる。

 

「本当に?」

「え?」

「詳しく教えてくれるんでしょ、桜庭と滝川さんのこと」

 

 早人は呆気にとられ、肩をすくめた。

 

「いいけど。でも皆しってることじゃないのかな」

「ある程度はね。貴方達『主従』は有名だもん」

「それなのに、わざわざ?」

「桜庭から直接、聞いてみたいから」

 

 夏樹はきっぱりと宣言した。

 快活すぎるほど快活な彼女の口調からは、早人は色気めいたものを感じられなかった。

 

 だがその内容は周囲にとっては、衝撃的なものであったらしい。

 数名の女子がはやし立てるような声をかけてきた。

 それらの声の中には「ついに」とか「やっと」と言った単語が含まれていた。

 彼女らの間では、夏樹が早人に強い興味を抱いているのは、公然の秘密のようなものだったのだろう。

 

 周囲に煽られながらも、早人は努めて冷静を装った。

 姿勢を正し赤いネクタイを直してから、口を開く。

 

「じゃあいずれ。時間ができたら」

 

 それだけを伝えると、夏樹の脇をすり抜けて教室を後にした。

 背後から、女子たちの騒ぐ気配が感じられた。

 

 

 

 

 早人の通う学校は、その名を私立希恍(きこう)高等学校という。

 全国でも五本の指に入ると言われる程の、超名門校だ。

 中高一貫教育のため、高校から入学してくる生徒は存在しない。

 校則で制服の着用が義務付けられており、学年によってネクタイが色分けされていた。

 一年生が赤で二年生が青、三年生は白である。

 

 名門だけあって学費の高さも半端ではなく、一般家庭の世帯年収に匹敵する。

 敷地は広く、東京ドームが二つ収められるほどであった。

 その中に点在する校舎群は、長い歴史を感じさせる煉瓦造りの外観をしている。

 しかしその内は改装を重ね、最先端の教育施設と設備環境が整えられていた。

 セキュリティも万全で、高い塀に囲まれた敷地内には監視カメラがそこかしこに設置され、外界からの侵入を固く拒んでいた。

 

 構内の一角には来客・父兄用の駐車場がある。

 早人は今、そちらに向かって道を急いでいた。

 通話相手との待ち合わせ場所が、そこに指定されていたためだ。

 

 早人の目が、木陰に立つ少女の姿をとらえた。

 背筋をまっすぐにして立ち、腕時計を見つめている。

 首元にあるネクタイは、早人と同じ赤い色だった。

 後ろ髪は肩の下に届くほど長いが、前髪は眉の所で切り揃えられていた。

 色白の顔は大人びた印象で、極めて整っており、万人が認める美人と言ってよい。

 

 だがしかし、彼女の表情にはどこか生気と言ったものが欠けていた。

 まごうことなき美人なのだが、妙に作り物めいているのだ。

 人形か、彫刻のような美であった。

 

 少女も早人に気づいたらしい。

 早人に向き直ると、彼が到着するや否や口を開いた。

 

「遅かったわね」

 

 抑揚のない、顔と同様に感情の現れない声が通った。

 

「すみません、(みさき)様」

「どういうつもり? 私は五分以内に来るように命令したはずだけど」

 

 早人は岬との付き合いは長い。

 したがって彼女が無表情ながらも立腹しており、下手な言い訳が通用しなくなっていることも悟っていた。

 かといって馬鹿正直に「クラスメートの女子につかまっていた」などと言えば、話がややこしくなる。

 できるだけ無難な返答をするしかない。

 

「帰り支度に手間取ってました」

「無駄なものが多すぎるのね。貸しなさい、その鞄」

「はい」

 

 早人は鞄を岬に差し出した。

 岬は鞄を受け取ると、駐車場の片隅にあるゴミ箱まで運び、無造作に投げいれた。

 早人の元へ戻ると、今度は自分の鞄を彼に差し出す。

 早人は一礼し、恭しくそれを手にした。

 

「帰るわよ」

 

 岬はそう告げると、早人の先に立って歩き始めた。

 二人は待機していた、黒い高級車までたどり着く。

 ドライバーが慣れた所作で二人を後部座席に迎え入れた。

 それからすぐ、車は出発した。

 

 時は夕刻である。

 本来であれば空気も涼み、すごしやすくなるはずの時間だ。

 だが暑気は、衰える気配を見せなかった。

 街道を行く人々は日傘をさし、あるいはハンカチで汗をぬぐっている。

 もっとも早人たちのいる車内までは、暑気も及ばない。

 高級車ゆえに振動も少ない環境は、通常であれば快適なものであるはずだった。

 

 しかし車内にいる三人は、誰一人として心穏やかではいられなかった。

 少女の怒りはまだ収まっていなかった。

 少年は、少女に激発する機会を与えないよう、無言を貫いていた。

 そしてドライバーは、少女と少年から発せられる、首を絞めつけてくるような緊張感に耐えていたのだ。

 岬が、正面を見据えたままの姿勢で問いかけた。

 

「明日は?」

 

 簡潔すぎる質問であった。

 それでも早人は、岬の意を理解していた。

 

「六時起床予定です。現在までのところ、スケジュールに変更はありません」

「そう。じゃあ下校も今日と同じくらいになるはずよ。明日は待たせないでね」

「……岬様、それなのですが」

 

 岬は顔を動かさず、視線だけを早人に向けた。

 早人は一拍の間を置いてから、話を続ける。

 

「明日の放課後、急遽ミーティングの予定が入ってしまいました」

「欠席しなさい」

「……いえ、以前お話ししたかもしれませんが、僕は学園祭のクラス委員に任命されています。明日はその話し合いですので、欠席する訳には……」

「私が帰るまでなら参加してもいいけど、それ以上は無理ね」

「かしこまりました」

 

 会話は終わり、岬は視線を正面に戻す。

 以降、車内では無言の時間が続いていった。

 車は幸いにも信号待ちになることもなく、快調に走り続けた。

 出発してから約三十分で、目的地の滝川邸に到着する。

 

 滝川邸は広く、大きい。

 敷地面積は平均的な高等学校のそれを凌駕している。

 その広大な土地の中央、やや北寄りに、白亜の洋館がそびえたっていた。

 地上三階、地下も一階が設けられている、城のように大きな建屋である。

 

 車は正面玄関前で停車した。

 早人と岬を、初老の執事と二十代と思しき二人の女中が出迎える。

 岬はごく簡単に帰宅の挨拶をすませると、二階の私室へと向かった。

 早人は後に付き従いながら、女中に岬の鞄を手渡している。

 

 岬の部屋には、岬と女中だけが入っていった。

 早人は扉の前で一礼し、二人を見送っている。

 彼の視界が、豪奢に装飾された部屋の一部をとらえたのは、ほんの一瞬のことだった。

 扉はすぐに閉じられ、早人は顔を上げる。

 そして階段を降り、一階の廊下を進んでいった。

 建屋の奥まった場所にある、「桜庭」という表札のかかった扉を開ける。

 

 部屋には十畳ほどの広さがあった。

 それだけなら一人で暮らす分には申し分ない。

 しかし部屋の中には、生活を送るうえで必要な家具類が、ほとんど存在していなかった。

 あるのは真新しいタンスが一つと、こちらも傷一つないベッドだけだった。

 壁紙すらなく、壁面は灰色に塗り固められた殺風景な表層をさらしている。



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初夏のできごと 二

 翌日、希恍高校にて。

 早人が席に着くと、夏樹が声をかけてきた。

 

「はい、これ」

 

 彼女は昨日すてられたはずの、早人の鞄を手にしている。

 夏樹の後方、やや離れた場所には数名の女子がいて、なにやら声援を送るようなポーズをとっていた。

 早人は驚きつつ、礼を述べる。

 

「ありがとう」

「でも、必要なかったのかな」

 

 夏樹は机の上に視線を向けた。

 そこには捨てられたものと同型の、真新しい鞄が置かれていた。

 

「いや、そんなことはないよ。でもどうして、ゴミ箱にあるって気付いたのかな?」

「悪いと思ったんだけど、昨日あれから桜庭の後を追っかけた」

 

 夏樹の、岬ほどではないが美人の部類には属する顔が、すでに赤く染まっている。

 

「それで、これも悪いと思ったんだけど、鞄の中を見ちゃったんだ。……驚いたよ、教科書以外に何も入っていないなんて。ノートすらないし」

「いつ捨てられるか分からないからね」

「どうして?」

 

 夏樹の声は快活な彼女に似つかわしくない、涙まじりのものとなっていた。

 早人は苦笑しつつ、答える。

 

「分かったよ。鞄のお礼もあるし約束もしたし、話してあげる。……でもここだと場所が悪いから」

 

 早人はさりげなく、自分達に向けられている視線の数をかぞえていった。

 片手で余る程度にはあった。

 

「昼休みに空き教室で説明させてほしいんだけど、それでもいいかな?」

 

 夏樹は一も二もなく頷いた。

 周囲の生徒たちから歓声のようなものが上がりかける。

 だが直後に鳴り響いた予鈴のチャイムによって、それは打ち消されていた。

 

 

 

 

 昼休み。

 早人は夏樹を連れて校舎内を散策し、「空室」の表札がかかっている会議室を見つけていた。

 念のためにノックをして、誰もいないことを確かめてから入室する。

 

 その部屋では直前まで授業か会議が行われていたらしい。

 ホワイトボードに数式のようなものが残されていた。

 窓からの日差しは強かったが空調が効いており、中は涼し気で心地よかった。

 

 二人はテーブルをはさみ、向かい合うようにして着座した。

 早人は両手を机の上で組み、リラックスしている。

 他方、夏樹は両手を握って膝の上に乗せ、唇も噛みしめて緊張に耐えていた。

 早人は問いかけた。

 

「大丈夫?」

「ななななな、なにが?」

「緊張しているみたいだけど」

「そ、そ、そ、そんなことないよ」

 

 明らかに「そんなことがありそう」な答えであった。

 しかし早人は、それ以上は問い詰めたりせず、話を進めていく。

 

「僕と岬様の話を聞きたいってことだったけど……全てを話すとなると、とてもじゃないけど昼休みだけじゃ終わりそうもないんだ。だから要点だけまとめていくけど、それでいいかな?」

 

 夏樹は真っ赤な顔を上下に、何度も動かした。

 早人は一度だけ頷きを返し、語り始める。

 

「最初は……小学校一年生の時だったから、もう九年前になるのかな。僕の両親が亡くなった」

 

 部屋には防音対策がとられており、外の喧騒は聞こえない。

 早人の声だけが通っていた。

 

「交通事故だったんだけどね」

 

 当時の詳しい事情は、早人も覚えていない。

 学校での授業中に呼び出されて以降、大騒ぎする大人たちに翻弄されてしまい、両親の死を実感する余裕もなかったのだ。

 ただし、大人たちがそこまで騒ぎ困惑していた理由については、今は分かっていた。

 早人には身寄りがなかったのだ。

 

「父の家系は子供が生まれにくかったらしくて、親戚と呼べるような人も存在していなかった。そして母は孤児で、年老いた夫婦に引き取られ、育てられていたんだ」

 

 母の養父母、つまり早人にとって養祖父母にあたる二人も、当時すでに他界していた。

 子供がいない故に母を引き取ったということもあり、彼らにも身寄りは存在していなかった。

 このままでは、早人もどこかの施設に預けられることになるだろう。

 それを阻止しようと、父の友人だった人物が、手を尽くして早人の引き取り手を探し回ってくれた。

 しかし結局、見つからなかった。

 だが、

 

康光(やすみつ)様……岬様のお父様が、僕を引き取りたいと申し出てくれた」

 

 早人は目を閉じ、当時の記憶を掘り起こしている。

 仰天する人々の顔が、真っ先に頭に浮かんだ。

 

 早人の父は平凡なサラリーマン、母も専業主婦だった。

 そんな桜庭家の一人息子を、なぜ滝川グループの総帥たる康光が受け入れようとしたのだろうか。

 誰もが理由を知りたがったが、答えは与えられなかった。

 康光は早人を引き取る際、「理由は一切きかないように」ということを、ただ一つの条件としていたのだ。

 

「僕も康光様に尋ねたことはあるけど、答えは頂けなかった」

 

 夏樹は神妙な顔で、早人の話に聞き入っている。

 もっともここまでの話は、彼女も噂話などで聞いたことのあるものであった。

 こうして本人から聞くまでは、半信半疑ではあったのだが。

 

 当時、早人の周りにいた大人たちにしても似たような心境であったらしい。

 康光の申し出に対し、懐疑的な気持ちを抱く者も多かったようだ。

 とはいっても、渡りに船の申し出なのは間違いない。

 彼らは結局、早人を康光に預けることにした。

 最後まで早人の面倒を見てくれていた父の友人に連れられ、わずかな家財道具をたずさえ、早人は滝川邸を訪問した。

 

「その時、僕らを出迎えたのが執事さんと小さな女の子……岬様だった」

 

 ──ちゃんと挨拶をしないと。

 

 幼い早人は思った。

 しかし彼が口を開くよりも早く、岬の怒鳴り声が玄関ホールに響き渡った。

 

「当時の岬様は、今と違って感情表現ゆたかだったんだよ」

「なんて言われたの?」

「『そんな汚い服や鞄を私の家に入れないで!』、と」

 

 夏樹は息を呑んだ。

 

 岬の命令は、迅速に実行された。

 早人が持ってきた家財道具は、玄関をまたぐことなく全て処分された。

 服にしても、執事が用意したものと、家の外で着替えさせられたのだ。

 そうしてようやく館への立ち入りを許された早人に、岬は再び声をかけてきた。

 

「……今度は、なんて言われたの?」

「『貴方は私の召使いなのよ。それをわきまえないなら、いつでも追い出すから』とね」

「そんな……そんなことが許されてたの?」

 

 夏樹の顔は、今は怒りによって赤く染まっていた。

 早人はまたしても苦笑し、返答する。

 

「今もそうだけど、滝川邸では岬様が絶対なんだよ」

 

 滝川家の当主である康光と彼の妻は、多忙なため、あまり家には戻らない。

 必然的に、残る岬だけが滝川の人間となる。

 彼女に逆らえる者、意見できる者は、滝川邸に存在しないのだ。

 

「それからは岬様の機嫌を損ねるたびに、原因となった物を処分させられた」

 

 早人の薄茶色の瞳が灰色に変じたように、夏樹には見えていた。

 

 正確に言えば、捨てられたのは物だけではない。

 人についてもそうだった。

 早人が友人を優先して岬を待たせたりすれば、その友人と強制的に絶縁させられた。

 とにかく岬を最優先しなければならない、それが早人に課せられた使命だったのだ。

 

「僕は岬様に仕え、岬様の意を実行する、それだけの人間なんだよ」

「逆らったりはしなかったの?」

 

 夏樹は目に涙を浮かべ、震える声で問いかけた。

 早人は首を小さく横に振り、答える。

 

「昔はね。でもそのたび、打ちのめされた」

 

 岬に逆らうというのは、滝川家に逆らうことと同義となる。

 従って彼女に反抗的な態度をとったりすれば、滝川邸に居る全ての人々、普段は優しく接してくれていた執事さえもが容赦なく敵に回った。

 周囲すべてが敵対しているような状況で、幼い早人が耐えられるはずもない。

 彼の反抗心が根こそぎ失われるのも時間の問題だった。

 

「……それでも、僕は小さな抵抗を一つだけ続けていた」

 

 早人の声が、それまでの淡々としたものから変化した。

 意地や矜持と言った強い意志の力が、わずかながらも感じ取れる。

 夏樹はそう思い、自身の表情にも輝きを取り戻していた。

 

「さっきも話した通り、僕は滝川邸に到着した時点で全ての家財道具を処分させられていた。だけど……」

 

 早人は密かに、ある物をズボンのポケットに潜ませ、隠しておいたのだ。

 それは純銀で作られた、ハート形のロケットペンダントだった。

 元々は早人の持ち物ではなく、彼の父が若き日に、母へとプレゼントしたものだ。

 それを父の友人が、早人と父母の三人が写っている写真を入れなおし、手渡してくれたのだ。

 早人はペンダントを慎重に隠し通し、時折り首から下げ、家族を思い出していた。

 ところが、

 

「それを身に着けていたある日に、運悪くまた岬様の逆鱗に触れてしまった」

 

 当時の状況は、おぼろげながら早人の記憶に残っている。

 岬の部屋での出来事だった。

 彼女が怒った理由についてはもう覚えていないが、早人はその場で服を脱ぐように命令されていた。

 となれば当然、ペンダントも見つけられてしまう。

 

 岬はペンダントを目にするや否や、捨てるように命令してきた。

 早人は土下座までして許しを請うたが、無駄だった。

 むしろ早人が必死になるほどに、岬は怒りを増していた。

 

「ただその時、部屋の中には僕と岬様だけが居たんだ」

「二人きり?」

「そう。それで恥ずかしい話だけど……僕は岬様に飛びかかった」

 

 夏樹は驚き、目を丸くした。

 

 幼い早人はペンダントを守るために、やけくそになっていたのだろう。

 そのためには暴力を振るうことも、岬を泣かせることもいとわないつもりでいた。

 

「でも情けない話だけど、岬様に力でねじ伏せられた」

 

 幼い頃の話である。

 腕っぷしは女の子、つまり岬の方が強かったのだ。

 岬は早人の首から引きちぎるようにしてペンダントを取り上げ、宣告した。

 

 ──そんなに大事な物なら、私の手で処分してあげるわ。

 ──貴方は感謝するべきね。

 

 嘲笑うような声を浴びせられ、早人は部屋から叩き出された。

 それは早人が全てを、ペンダントだけでなく矜持や反抗心さえをも奪われた瞬間だった。

 

「……その時から、僕は抵抗するのをやめたんだ。今の僕にはもう何もないんだよ」

 

 強い陽の光が窓から差し込み、部屋を明るく照らし出している。

 その中で黒く濃い影が動いた。

 夏樹が立ち上がったのだ。

 彼女は早人に向けて、哀願するかのような声をかけた。

 

「……何もないなんて、そんなことないよ。桜庭は頭いいし、それにスポーツだってできるし」

「それは、岬様に仕える者として必要だから教え込まされたんだ」

 

 乗り手にとって良い馬になったに過ぎない。

 早人は自分自身について、そのように評してみせた。

 夏樹はうつむくと、そのまま押し黙ってしまった。

 

 しかし、彼女はやがて顔を上げる。

 深呼吸をすると、早人に問いかけた。

 

「……じゃあ、召使いになっているのが嬉しいって訳じゃないんだよね」

 

 早人は意表を突かれていた。

 彼にとって岬の従者であるというのは、もはや喜怒哀楽を伴うようなものではなくなっていたのだ。

 感情の揺らぎすら許されず、ただ岬の意向を受け入れるだけの存在、それが早人なのだ。

 己の心情を、早人は正確に告げる。

 

「喜ぶとか悲しむとか、そういうものじゃないんだ」

「でも、そうなんだよね?」

 

 夏樹の声は力強く、有無を言わせぬような迫力があった。

 早人は困惑しつつも、夏樹を納得させるべく説明を続ける。

 

「ありきたりだけど、しょうがないんだよ」

「だったら、私が助けてあげる」

「え?」

 

 夏樹の宣言は、早人にとって完全に想定外のものであった。

 呆気にとられ、夏樹の顔を見つめなおす。

 夏樹は弾んだ声を出した。

 

「待っててね」

 

 彼女の顔に浮かんだ太陽の笑みは、早人にはひどく眩しいものに見えていた。



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盛夏のできごと 一

 陽の光は近年で最も強く、鋭いものとなっていた。

 時は盛夏である。

 

 熱く尖った光の束は、滝川邸へも容赦なく降り注ぎ、白亜の城塞を眩しいばかりに輝かせていた。

 その建屋内、三階廊下を岬が歩いている。

 陽光を半身に受け黒絹のような髪をなびかせる姿は、神々しいばかりに美しい。

 そして歩調は、機械のように正確なリズムを刻んでいた。

 よく言えば美術品のような、悪く言えば機械じみて感情を感じさせない、容姿と所作である。

 

 しかし早人がこの場にいれば、岬が今、不機嫌の極にあることを察しただろう。

 その原因は、まさに早人自身にあるのだが。

 この日、彼は朝から他家への使いに出されていたのだ。

 

 常であれば、余程のことがない限り早人が岬の傍から離されることはない。

 そのようなことは、岬が断固として拒否するからだ。

 だが今日、早人を使いに出したのは康光であった。

 となれば岬も逆らえない。

 おまけに使いの内容も隠されていたので、岬の心には、醜いささくれがいくつも出来あがっていた。

 

 早人を使いに出した康光は、しばらくすると今度は娘を呼びつけた。

 つまり今、岬は康光の書斎へと向かっているのである。

 ちなみに、これは稀有な事例であった。

 康光は自身が多忙ということもあって、娘にかんしては放任主義を貫いていたのだ。

 

 年代を感じさせる木製扉の前に、岬は辿り着いた。

 扉をノックし、抑揚のない声で到着を告げる。

 入室を許可する返答を受け、岬はノブを回した。

 

 部屋の中は、窓のある面を除く三方全てに床から天井まで届く本棚が据えられていた。

 巨大な暖炉も一つ、設置されている。

 調度品の多くは木製で、部屋中に紙と木の香りが漂っており、昭和か大正時代にタイムスリップしたかのような趣があった。

 

 部屋の中央には花瓶の置かれたテーブルがあり、それを囲むようにして椅子が数脚、並べられていた。

 そのうちの一つに男性が着座している。

 彼こそがこの部屋の主であり岬の父、滝川康光であった。

 

 康光は未だ四十代半ばである。

 この若さで滝川グループの総帥を務め、順調に業績を拡大させているほどの、稀に見る秀才であった。

 すらりとしたスタイルの持ち主で、顔の下半分は黒々とした髭で覆われている。

 その風貌は実業家というよりも、大学教授か文豪にこそ似つかわしいものと言えよう。

 康光は娘を迎えると、簡単な挨拶をしてから椅子を勧めた。

 岬が席に着くと、一呼吸おいた後、話し始める。

 

「岬」

「はい」

「おまえは、早人のことをどう思っている?」

 

 岬は訝しげに、整った眉を歪めた。

 

「どう、と言いますと?」

「簡単に言えば、おまえにとって早人はどういった存在か? ということだ」

「従者です」

「そうか」

 

 康光はテーブルに両肘をつき、手を顔の前で組んだ。

 

「それで間違いはないんだね?」

「はい。それ以上でもそれ以下でもありません」

 

 岬の返答は誤解しようのないものだった。

 康光は目を閉じてしばし黙考すると、姿勢を変えずに話し始めた。

 

高山(たかやま)さんのことを憶えているかな? 父さんの友人で、重要な取引先でもある」

「はい」

「早人は、来月から高山さんに引き取られることになった。おまえの従者役からも、すでに外れている」

 

 青天の霹靂。

 岬にとって康光の言葉は、まさにそれであった。

 激しい憤激のあまり、岬は全身の血が逆流するような感覚にとらわれ、眩暈すら覚えていた。

 激情の赴くまま、普段からは想像もできない勢いで怒声を発する。

 

「どういうことです、お父様!」

 

 人形の顔が、般若に変わっていた。

 眼球に血管が浮き出るほどの鬼気迫る表情は、康光をして「これが本当に娘なのか」と思わせるものだった。

 しかし康光は、内心の困惑や動揺は一ミリも面には出さず、泰然として説明を始めた。

 

「早人は文武両道で、きわめて優秀だ。希恍高校でもトップクラスなのだから、大したものだ。それを知った高山さんが、早人を将来にわたってサポートしたいと申し出てくれた。今日からその準備に入る」

 

 甲高い音が鳴り響き、空気が切り裂かれた。

 岬が猛然と立ち上がったため、勢いに押されて花瓶が倒れたのだ。

 こぼれた水がテーブル上に広がり床へ滴り落ちたが、岬は気にも留めない。

 

「なぜ、断わりもなく私の従者を他家にやるのです!」

「それだ。その考えが、早人をおまえから引き離す理由だ」

「……え?」

 

 思いもかけない返答を聞かされ、岬の怒気もやや削がれた。

 続けて康光から放たれた質問は、さらに彼女の意表をついていた。

 

「岬、滝川家の成り立ちは覚えているかな?」

 

 父親の意図は不明ではあったが、それでも岬は頷いた。

 

 滝川家の始まりは、安土桃山時代にまでさかのぼると伝えられている。

 とは言っても、当時は名家や富豪などではなかった。

 関東に領域を広げていた大名に仕える一武将として、その名があっただけだ。

 豪商として名を成したのは江戸時代の頃となる。

 

「その歴史に誤りはない。だが世間……いや、滝川家の中でもごく一部の者しか知らない、隠された事実がある」

 

 康光は重々しく告げると、目と口を閉じた。

 父親が、何か重大な事柄を告げようとしている。

 岬はその気配を察し、沈黙を保って彼の言葉を待った。

 やがて、康光は口を開く。

 

「もともと滝川は、ある商家の番頭を務めていた。つまり使用人だったのだよ……そしてある時期に、主人の財産を乗っ取ったのだ」

 

 岬は絶句した。

 もっとも、滝川家が使用人だった、という点については彼女も納得している。

 大昔から現在に至るまで裕福な家系など、滅多に存在しないであろうから、当然ではある。

 だが主人の財産を乗っ取ったという点については、驚愕せずにはいられなかったのだ。

 その話が事実なら、滝川家は商才で成り上がった訳ではなく、泥棒まがいのことをして現在に至る地位と財産を手に入れたことになるだろう。

 

 言葉を失っている娘を見据えつつ、康光は話し続けた。

 

「その時から、滝川は我が世の春を謳歌していった」

 

 主人の財産を奪うというのは、間違いなく後ろ指をさされるような行為である。

 だが滝川家の祖先は、世間の評判を覆すほどに狡猾であり、商才にも富んでいた。

 商機にも恵まれて、順調に繁栄していったのだ。

 

 一方、かつて滝川家の主人だった人々は悲惨だった。

 身ぐるみはがされた上に、遠方へと追いやられてしまったのだ。

 彼らは凋落を続け、やがて世間からも忘れ去られていった。

 その上、過去を抹消せんと謀った滝川家によって、歴史上からも存在を消されてしまったのだ。

 

「その、かつて滝川の主人だった家の名が、桜庭だ」

「……!」

 

 岬の心臓が、驚きのあまり極小の間ではあるが、動きを止めた。

 康光は深く長い息を吐きだし、尚も淡々と語っていく。

 

「ある日、私は消息不明となった桜庭家がどうなったのかを調べようと思った」

 

 罪悪感に駆られた訳ではない。

 と、康光は言葉を付け足した。

 実際、その通りであった。

 ことビジネスにかんする限り、康光は祖先に負けず劣らずの辛辣な手段を用いることがあった。

 しかしそれでも彼は、滝川家の当主にのみ受け継がれてきた歴史上の事実を、清算したくなったのだ。

 康光は四方八方に手を尽くし、桜庭家の消息を調べていった。

 

「そうしてようやく見つけた桜庭家の末裔……それが早人だ」

 

 岬はもはや、人形どころか氷像と化していた。

 口を開くことも、瞬きすることすらできぬまま、父の話に圧倒されている。

 

 康光が早人を見つけた時、彼の両親は既に亡くなっていた。

 早人は引き取り手もなく、どこかの施設に預けられる寸前だったのだ。

 その状況は、しかし康光には天恵に見えていた。

 

「早人を引き取れば、わずかながらでも桜庭家への贖罪となるだろう。それに早人が成長し、将来おまえと結婚することにでもなれば……」

 

 そうすれば、遠い昔に主人から奪った財産を返すことにもなるかもしれない。

 康光はそう考え、早人を引き取ったのだ。

 だが、

 

「おまえが早人を、あくまでも従者として見るというのなら、桜庭は主人から使用人に落とされたことになってしまう。それでは意味がない」

 

 滝川と桜庭が過去の恩讐を超えて対等になる。

 それが、康光の望みだったのだ。

 

 ただし彼は、自分の願望を娘に告げたりはしなかった。

 父親の思惑によって娘の人生が左右されたり、歪められたりするようなことがあってはならない。

 舞台を整えたとしても、決断は岬自身が下すべきだ。

 それが、康光の考えだった。

 

 岬は瞬きをした。

 目に雫が落ちてきて、視界をふさいだためだ。

 その雫は、涙ではなかった。

 岬の額に脂汗が浮かび、合わさって水滴となり、肌を滑り落ちてきていたのだ。

 作り物のように滑らかな肌を苦悩の色に染めながら、岬はそれでも声を絞り出し、反論した。

 

「お父様、高山家に引き取られたところで、早人の状況は変わらないのではありませんか? ここにいた頃と同じ、使用人のままなのですから」

「そうはならない。早人は高山家の養子になる」

「養子?」

 

 岬は怪訝な声を上げた。

 彼女が知る限り、高山家には三人の子供、兄妹がいる。

 それなのに早人を養子に迎えるなどと、どのような理由があるのだろうか。

 疑問に対する答えは、すぐに与えられた。

 

「正確に言えば婿養子だ。高山さんの末娘……夏樹さんと言ったかな、たしかおまえの同級生だったはずだが。早人を非常に気に入っているらしい。もちろん結婚はまだ早いが、二人は許嫁となる。今日、早人を使いに出したのも、先方に挨拶させるためだ」

 

 岬の足下で、床板が急激にうねり始めた。

 岬は、まるで揺りかごの中に放り込まれたかのようにバランスを崩し、テーブルの縁に両手をついて必死に身体を支えた。

 景色も歪み、急速に暗転していった。

 呼びかけてくる康光の声も、あっという間に小さく遠いものとなっていた。

 

 岬はすぐに悟った。

 床が揺れたのは地震などではなく、自分の足がくずおれたためだということを。

 視界が暗転したのは、視野狭窄を起こしたため。

 父の声が聞こえなくなったのは、気を失いつつあるためだった。

 岬は愕然としたまま、暗く冷たい世界へ落ちていった。



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盛夏のできごと 二

 高山邸にて。

 滝川邸に劣らぬほどの広さを誇る建屋の中を、早人と夏樹が並んで歩いていた。

 早人は高山家への挨拶を済ませ、今は帰宅のために駐車場へと向かっている。

 夏樹は見送りのため、彼に付き添っていた。

 

「へへー」

 

 夏樹が、はにかむようにして早人に微笑みかけた。

 早人は足を止め、夏樹に正対する。

 夏樹も立ち止まり、早人の顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも……一体全体、何でこうなったんだ?」

「心配?」

「そうじゃなくて……」

 

 早人にとっては、急展開どころの話ではなかった。

 彼が高山家への婿入りの話を聞かされたのは、この日の朝である。

 そして呆気にとられている間もなく、夏樹の両親へ挨拶に出向くことになってしまったのだ。

 

 高山邸に到着してからも、狐につままれたような気持ちは続いていた。

 それでもつつがなく挨拶を済ませ、夏樹の父母からは好意的な言葉をかけてもらえた。

 しかし今になっても夢見心地というか、どこか現実感を伴わない心境は続いていた。

 そんな自身の気持ちを、早人は正直に話した。

 夏樹は両手を後ろに組み、笑顔で答える。

 

「桜庭を助けるって言ったんだもん、このぐらい簡単だよ。私も世間でいうところのお嬢様なんだよ?」

「簡単って……許嫁になったりして、いいのか?」

「大丈夫!」

 

 夏樹はきっぱりと断言した。

 

 婿養子とは言っても、早人が高山家の跡取りになる訳ではない。

 それは夏樹の兄たちの役目となる。

 従って早人は思い悩んだり、重圧を感じる必要もないのだ。

 それに夏樹の父は、娘には非常に甘かった。

 その夫となる人物となれば、悪いようにはしないはずである。

 夏樹はそう説明すると、顔を真っ赤にして言葉を付け足した。

 

「それに、それにね……桜庭だから、いいんだよ」

 

 早人への、純粋な想いが込められた発言だった。

 真正面からの告白を受け、早人も思わず息を呑んでいる。

 

「こうでもしないと、滝川さんに勝てないと思ったから。でも大丈夫! 桜庭が嫌になったら、いつ婚約解消してもいいから」

 

 夏樹は努めて明るく笑って見せた。

 だがその声と唇は、わずかに震えていた。

 早人もそれに気づいた。

 胸を締め付けられるような感覚を覚え、彼は行動する。

 夏樹の肩に手を回し、彼女を抱き寄せた。

 

「ありがとう……本当に、ありがとう」

 

 夏樹の耳元で、早人は囁いた。

 彼女の身体は燃えているかのように熱くなっていた。

 胸も、爆発しているかの如く高鳴っている。

 夏樹は震える腕を懸命に動かし、早人の背に回した。

 

 甘く熱い二人の世界は、しかし中断される。

 早人のポケットでアラームが鳴り響いたのだ。

 早人は我に返ってスマートフォンを取り出すと、画面を見て、秀麗な顔に陰を落とした。

 その様子を見て、夏樹も着信相手が誰かを悟った。

 彼女は早人の手を両手で包み込むと、縋り付くような目を彼へ向ける。

 

 早人は逡巡する様子を見せた。

 だがそれも、ほんの一瞬のことだった。

 小さく、しかし決意の込められた微笑を浮かべると、スマートフォンの電源を切りポケットへ納める。

 夏樹は目に涙を浮かべ、飛びつくようにして早人を抱きしめた。

 二人は唇を重ね合わせて目を閉じ、お互いの存在のみで世界を満たしていった。

 

 

 ──────

 

 

 早人が降車すると、猛烈なまでの熱波が彼に襲い掛かってきた。

 日は傾きつつあったが、熱と光は未だに強く、陽炎すら起こしながら辺り一面を眩く染め上げていた。

 滝川邸も、建屋自体が発光しているかのように白く輝いている。

 その見慣れた、巨大な建築物を見上げながら、早人は考える。

 自分は夏樹のことをどう思っているのだろうか、と。

 

 好意はある。

 ただしそれは、夏樹が自分に抱いている好意とは種類が異なるものだろう。

 あるいは、彼女に比べると小さなものなのかもしれない。

 

 とは言っても、好意だけでなく感謝してもしきれないほどの恩義も感じている。

 二人の間にある感情の差は、これからゆっくり埋めていけば良いのではないだろうか。

 自分を取り巻く環境は、彼女のおかげで以前とは比較にならないほど好転したのだから。

 長年にわたって心を占め続けていた絶望の黒雲が、取り払われたのだ。

 今は希望に満ちた晴れ間が、はっきりと見えている。

 

「でも一つだけ、問題は残っている……」

 

 早人は呟き、玄関のドアを開けた。

 

「早人!」

 

 怒号とすら称してよいほどの、巨大でひび割れた声が、早人を出迎えた。

 早人は戦慄しつつ、絞り出すようにして声を発する。

 

「……岬様」

 

 早人の眼前には、彼が思い描いていた「たった一つの問題」そのものが、仁王立ちしていた。

 彼女の眼光には、瘴気すら漂わせるほどの憤怒の色がある。

 早人にとって、これほどまでの負の感情を彼女からぶつけられたのは、初対面のとき以来であった。

 周囲には執事と三人の女中が居たが、彼らは無言で二人の対峙を見守っていた。

 岬が、歯ぎしりを交えつつ問いかけてくる。

 

「なぜ、電話に出ないの? 私を無視する気?」

 

 早人の背に、滝のように冷や汗が流れた。

 口内からは急激に水分が失われ、息をするのも困難になっていく。

 早人の身体は、骨の髄まで岬への服従心が叩き込まれ、染みついている。

 その恐るべき事実を、早人は否が応でも理解させられていた。

 それでも彼は、内なる恐怖と必死に戦いながら、口を開いた。

 

「康光様にお聞きではないのですか。僕はもう、岬様の従者ではありません」

 

 早人は全力で抗議したつもりだった。

 しかしその声は小さく、かすれていた。

 

 執事や女中たちは無言のまま、どこか悲し気に見える眼差しを早人と、そして岬に向けている。

 彼らも、早人と岬に何が起きているのかは知っていた。

 だが口を差しはさむ訳にもいかず、成り行きを見守っているのだ。

 岬が、有無を言わせぬ口調で断言する。

 

「関係ない! お父様がなんと言おうが、おまえは私の従者なのよ!」

「……岬様」

 

 早人の顔色は、今や蒼白になっていた。

 岬への恐怖、そして彼女の意を無条件で受け入れねばならないという、強迫観念。

 それらとの戦いによって、彼の心身は急激に削り取られていた。

 

 足が勝手に動き、岬の前でひざまずこうとする。

 頭が重くなり、岬を正視できなくなる。

 身体はすでに限界に達していた。

 だが早人は、わずかながら残っていた自我へ必死にしがみつき、尚も抗い続けた。

 

「……岬様、康光様が決定されたことです。そして、僕もそれを望みます」

「従者のくせに! おまえに選択権などない!」

 

 その宣告を聞いた時、早人の心は折れた。

 岬への服従心で、頭が埋め尽くされる。

 全身から力が抜け、崩れ落ち、その場で膝をついた。

 両手も動き出し、自然に土下座の姿勢をとる。

 あとはもう、謝罪の言葉を述べるだけだった。

 だが、

 

「いや、まだだ。まだ諦める訳にはいかない。夏樹のためにも……」

 

 その考えが頭に浮かび、早人は最後の力を振り絞った。

 脱力していた身体を懸命に動かし、顔を上げ、床を蹴り──逃げ出したのだ。

 自室に向かって、全力で走り始める。

 

「諦める訳にはいかない。でも、岬様には勝てない。じゃあ、逃げるしかない」

 

 早人はおそらく、恐怖によって錯乱状態に陥っていたのだろう。

 自室に向かうのでは、袋小路に飛び込むのと同じである。

 問題を先送りにする、その程度の効果すらないだろう。

 そんなことも分からないほどに混乱しながら、しかし彼は必死に走り続けた。

 岬が、嘲笑まじりの声をぶつけてくる。

 

「恩知らず! 今までの恩を忘れて!」

 

 恩。

 その言葉が、負け犬となっていたはずの早人の心に引っかかった。

 恩とは、なんであろうか。

 

 その言葉を聞かされて、真っ先に浮かんだのは夏樹の笑顔だった。

 彼女は人生をかけてまで、早人を救おうとしてくれているのだ。

 それはまぎれもない、恩と表現できるものだろう。

 では岬の言う恩とはなんであろうか。

 彼女が何をしてくれたというのか。

 彼女から与えられたもの、それは……。

 

 考えた瞬間、早人の中で何かが弾けた。

 足を止め、立ち尽くす。

 数秒間その姿勢を保ち続けてから、岬に向き直った。

 

 早人の表情を見て、岬は絶句する。

 彼は今、血走った目で岬を睨みつけ、口には牙を剥いていたのだ。

 その様は、鬼と表現するにふさわしい。

 幼き日、早人がペンダントを取り返すべく戦いを挑んできた時のことを、岬は思い出していた。

 早人は、吠えるようにして怨嗟の声を発した。

 

「恩? 恩ってなんだ? 僕の中にあるのは苦痛の記憶だけだ。それが、与えられたもの全てだ。そんなものが恩だって言うなら、もう沢山だ!」

 

 広大な玄関ホールが、氷結した。

 早人を除く全ての人々が氷像と化し、呼吸すら止めていた。

 

 その中で、岬は真っ先に動き始めた。

 とはいっても、まともな行動はできなかった。

 口をだらしなく開き、悲鳴とも呻き声ともつかない声を漏らし続けるだけだったのだ。

 早人は、刃物のように尖った視線で岬を一瞥してから踵を返し、自室へと向かっていった。

 

 早人の姿が見えなくなっても、岬は呆然と立ち尽くしていた。

 身体は微動だにしない。

 執事と女中が心配し声をかけてきたが、それも耳に入らないようだった。

 

「どうして。そんなはずは……。私は……私は……」

 

 本人にしか聞こえないその言葉を、岬は繰り返し呟いていた。



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盛夏のできごと 三

 康光は上髭を何度もしごきながら、書斎でくつろいでいた。

 彼は通常、多忙である。

 滝川グループの総帥として世界中を飛び回らなければならないのだ。

 たまに帰宅しても、その時は滝川家の当主として邸内をまとめなければならない。

 つまり彼にとって心を落ち着けられる時と場所となると、今のように一人で書斎にこもった場合のみとなるのだ。

 

 扉がノックされ、執事が盆にコーヒーを乗せて入ってくる。

 執事はコーヒーをテーブルに置くと、数瞬の間をおいてから口を開いた。

 

「旦那様」

 

 康光にとって書斎が唯一のくつろぎの場であることは、執事も知っている。

 従ってこの部屋においては、滅多なことでは康光に話しかけたりはしなかった。

 稀有な事例が発生したため、康光も意外そうな表情を執事に向ける。

 

「なにかね」

「畏れ多くも申しあげますが」

 

 執事の口調は慇懃なものだった。

 しかしこの初老の男性は、康光の性格も知り抜いていた。

 ゆえに康光が「上髭を何度もしごく」のは、上機嫌の証であるということも知っていた。

 

「桜庭さんの婿入りの件、白紙に戻すことはできないでしょうか」

 

 執事の提案に、康光は怪訝な顔を見せた。

 

「なぜかね?」

「……お嬢様がお気の毒です」

 

 康光は上髭をいじっていた指の動きを止めた。

 手を顎に当てなおし、考える姿勢をとる。

 

「確かに、悲しむのも無理はない。岬からすると、慣れ親しんだ従者がいなくなる訳だ。幼馴染でもあるし……」

「そうではございません」

 

 従順な執事が、康光の意を否定した。

 それは稀有どころか、前代未聞の事態であった。

 康光も驚いたが、怒り出したりはせず、興味深げに執事を眺めて説明を待った。

 執事は、相変わらず静かな口調で話し始めた。

 

「旦那様。お嬢様は常日頃、桜庭さんに厳しく接しておられました。ですが桜庭さん自身のことは、一度だって嫌ってはおりませんでした」

 

 早人と初めて会った日もそうだった。

 あの日、岬は早人の衣服や荷物、つまり彼の過去すべてを捨てさせた。

 だがそれも、早人が憎くてやった訳ではない。

 みすぼらしい過去など彼には相応しくないと思ったからなのだ。

 

「その後、桜庭さんに『召使いとして仕えないのなら追い出す』とおっしゃいましたが……」

「それは知っている」

 

 ということは、岬は早人をそれほど大事にはしていないのではないのか。

 と、康光は疑問を呈した。

 執事は大きく頭を振った。

 

「いえ。お嬢様の気性と、それに幼い頃のことで素直になれなかったというのもあるのでしょう。本心では、桜庭さんを追い出す気など無かったはずです。ですが、そう言ってしまった手前……」

 

 岬の中で屈折した心理が発生した。

 早人が言いつけを守らなかった際、責任が本人にあるとなれば、岬は彼を追い出さざるを得なくなる。

 それは本意ではないし、耐えられない。

 ならば責任を早人以外に転換してしまえばよい。

 悪いのは早人ではなく、彼をそそのかした者なのだ。

 

「お嬢様は、常に桜庭さんの周りにいる人々に憎しみを向けていました。桜庭さんを永遠に手元に置いておくために、不安要素を排除し続けていたのです」

 

 そこまで話すと、執事は一旦、間を置いた。

 溜め息を一つついてから、結論を口にする。

 

「旦那様、お嬢様にとって桜庭さんは……」

「……岬は、今はどうしているのかね」

 

 康光の声は静かながらも、娘への気遣いが感じられるものだった。

 執事は喜んだが、すぐに表情を沈痛なものへと変えた。

 

「部屋に籠りっきりになっております。……時折り、悲鳴とも咆哮ともとれる声を発せられているとか」

「咆哮?」

 

 剣呑な言葉を聞き、康光は眉をひそめた。

 険しい表情のまま、コーヒーカップに口をつける。

 苦みと酸味が絶妙にブレンドされた味わいと、芳醇な香りが、康光の鼻腔と口内に染みわたった。

 康光はコーヒーの出来栄えに満足したように頷くと、しばし思考の海に沈んだ。

 やがてカップを置き、彼は告げる。

 

「……成長のためには失恋も必要だろう。挫折を乗り越えられないようでは、滝川の跡取りになれるはずもない」

 

 その言葉は、執事が期待しているものとは異なっていた。

 執事は尚も反論しようとして、口を開きかける。

 しかし結局、頭を下げ、主人の意向を受け入れていた。

 

 

 

 

 叫声は壁を突き抜け、廊下中に響き渡っていた。

 岬の私室につながる扉の前では、女中が一人、緊急時に備え待機している。

 扉を開けて中の様子を見たい、あるいは逃げ出したいという欲求との戦いについては、女中は放棄していた。

 叫声が始まってから、すでに何時間も経過していたからだ。

 

 壁一枚を隔てた部屋の中は、消灯されてはいるものの、窓からの月光によって明るく照らし出されていた。

 そこに見える光景は、鳴り渡る絶叫に劣らぬほど荒んでいる。

 おそらくは、女中が想像しているよりもはるかに醜く、狂気に満ちているだろう。

 

 まるで台風が訪れたかのように、衣服、書物、家具に至るまで全てが部屋中に散乱していた。

 しかもその多くは破壊され、吐しゃ物がへばりついているのだ。

 そして部屋の中央では、岬がうずくまり、嘔吐を続けていた。

 とは言っても、もう吐く物も無くなり、舌を出し蛙のように喉を痙攣させているだけなのだが。

 

 岬は顔を上げると、長い黒髪を引きちぎらんばかりに強くつかんだ。

 そして宙に向け、絶叫する。

 その声は、もはや人語と呼べるものではなくなっていた。

 虐殺される獣が発するかのような、悲痛な響きと恐ろしさを併せ持った叫びである。

 

 そう、岬は叫ばずにはいられなかったのだ。

 叫ばなければ、喉をつぶして身体を痛めつけなければ、思い出してしまう。

 考えてしまうのだ、どうしても。

 

 ──なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

 ──早人を可愛がっていたのに。

 ──早人も理解してくれていたはずなのに。

 ──いつも一緒にいてくれたのに。

 ──命令すれば、素直に聞いてくれたのに。

 ──時々は、笑顔も見せてくれたのに。

 ──そう、笑顔を……。

 

 だが、それら良き思い出はすぐに消え去ってしまう。

 そして岬の頭は、早人の苦しそうな顔、辛そうな顔で埋め尽くされてしまうのだ。

 岬は憎悪する。

 その対象は他でもない、彼女自身だ。

 

 ──私が早人を苦しませた、悲しませたんだ。

 ──なぜ、そんなことをしたんだろう? 理解できない。

 ──酷いことをしなければ、優しくすれば、早人は笑って、幸せだったのに。

 ──これから先も、ずっと一緒にいてくれたはずなのに。

 ──悪いのは……そう、過去の私だ。

 ──なぜ私は。

 ──殺してやりたい、私を。

 

 岬は再び髪をかきむしり、絶叫する。

 叫び声によって聴覚を塞ぎ、視界すら歪め、吐しゃ物の臭気で鼻腔をも封じ込める。

 己の思考すら許さない。

 そうして五感すべてを埋めなければ、耐えられないのだ。

 心と身体にわずかでも隙が生まれれば、早人の悲しげな顔が現れる。

 それはすぐに、己への殺意と化す。

 

 殺したいほど憎い相手が、自分自身なのだ。

 その事実に、岬の精神は耐えられなかった。

 咆哮を繰り返し、部屋中をのたうち回る。

 さらに頭を壁に何度も打ち付け、手当たり次第に周囲の物を破壊した。

 

 ──でも、許して。

 ──お願い、貴方に嫌われたくない、軽蔑されたくない……。

 

 

 ──────

 

 

 早人が滝川家を離れるのは、九月一日である。

 その日まで残り一週間となっていた。

 となれば彼も、引っ越しや諸々の準備で多忙な日々を送っている……かというと、そうでもなかった。

 所有物は岬によってことごとく廃棄させられていたため、ほとんど残っていなかったのだ。

 

 それに従者という役目からは解き放たれていたが、未だ滝川家の世話にはなっていた。

 したがって遊びまわるような気にもなれず、早人は時間を持て余し気味であった。

 この日も、書店で購入した小説を一日中ベッドの上で読みふけっている。

 夜半になって睡魔の訪れを感じ、寝間着に着替えようとした。

 

 その時、部屋の扉がノックされた。

 早人は相手に氏名を問いかけた。

 

「……私」

 

 九年間で一番よく耳にした声が返ってきた。

 早人は驚き、ベッドから飛び降りる。

 急いでドアを開けると、さらに驚愕した。

 

 眼前にいるのは、間違いなく岬だった。

 しかし、人形のように美しい顔は、まさに作り物の如く青ざめていた。

 目は充血し、その周りには大きな隈ができている。

 早人が岬と顔を合わせるのは、先日の玄関での別れ以来であった。

 あれから、彼女に何が起きたというのか。

 岬のあまりの変わりように、早人もさすがに心配になっていた。

 

「岬様、どうなされましたか?」

「これを、返しに来たの」

 

 岬は固く握りしめた右手を、早人の前に差し出した。

 その指にいくつもの歯形がついているのを、早人は目にする。

 岬が、自分の指に噛みついたのだろうか? 

 そんな疑問が頭に浮かび、早人は戦慄した。

 

 だが、岬が手を開くと、そんな疑問は吹き飛んでしまった。

 岬の掌に乗っていたもの、それは──

 

「……ロケットペンダント!」

 

 早人は叫び、絶句する。

 それからは無言で、楕円形の装飾品を見つめ続けた。

 

 ペンダントは、銀色に光り輝いていた。

 その様は、早人が所持していた頃と変わらないというよりも、より美しくなっているようにすら見えた。

 長い間、大事に保管され、磨かれてもいたのだろう。

 しかしなぜ、岬がペンダントを持っているのだろうか。

 彼女は、これを破棄すると告げていたのに。

 早人が疑問を抱くと同時に、岬は話し始めた。

 

「貴方が、とても大事にしていたものだから、これは捨てられなかった。でも貴方に返したら、貴方の心はこれにとらわれたままになってしまう。だから返せなかった」

 

 早人は困惑する。

 岬の意図を把握できぬまま、視線を彼女の、晴れ上がった両目へと向けた。

 岬の瞳からは、早人がかつて見たことのない、悲壮感のような感情の揺らぎが見て取れた。

 

「いつの日か、私を心から慕ってくれるようになった時に返せば、きっと喜んで、感謝してくれる。その日を待っていた。……でも、もう間に合わないから」

 

 岬は目を閉じた。

 彼女の、蒼白だった頬が、朱の色で染められる。

 

「お願い、許して。貴方が、早人が好きなの」

 

 告白を終えると、岬はうつむき、沈黙してしまった。

 

 岬の声は、ごく小さなものだった。

 だがその声は、早人の心奥をたしかに射抜いていた。

 そのために彼は、岬の声が部屋中で反響を繰り返しているかのような、そんな錯覚に陥っていた。

 岬の言葉は、早人にとってそれだけ衝撃的なものだったのだ。

 

 いや、岬に執着されているのは分かっていた。

 しかし恋心と呼べるようなものだとは思わなかったし、思いたくもなかったのだ。

 ましてや、その想いのために、岬が自分に慈悲を請うなど想像できる範疇を軽く越えていた。

 

 早人の頭に、岬との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。

 その多くは辛く苦しいものだ。

 だがそれも、彼女の愛情によるものだったというのだろうか。

 そう言えば普段は冷淡な彼女も、時には早人を愛しむような素振りを見せることもあった。

 あの所作こそが、彼女の本心だったというのなら……。

 

 そこまで考えて、しかし早人は記憶に蓋をした。

 頭を振り払い、良き思い出を心の隅へと追いやる。

 岬の手からペンダントを奪い取ると、ことさら冷たい声を出した

 

「ありがとうございます。でも、もう遅いんです」

 

 早人は表情を見せないよう、その場で踵を返した。

 冷酷きわまりない口調で、岬を突き放す。

 

「僕は、僕の人生を取り戻しに行く。そこに貴女は必要ないんだ」

 

 岬の前で、わざと派手な音を立てて扉を閉める。

 早人は、自分の顔を見られたくないのと同様に、岬の顔も見たくはなかった。

 もしも今、彼女の顔を一目でも見てしまえば、自分の心はまた折れてしまう。

 その恐怖に、彼はとらわれていた。

 

 早人はベッドにもぐりこみ、布団を頭からかぶった。

 それからは岬が早く立ち去るよう、ひたすら願い続けた。

 だが早人が眠りに落ちる時になっても、岬が扉の前から動く気配は、遂に感じられなかった。



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夏の終わりに

 八月末日。

 空は未だ青く高く、天上まで突き抜けていた。

 だが滝川邸に吹き付ける風の流れは、時に軽く爽やかで、どこか秋の色を感じさせるものとなっていた。

 早人は明日、この地を離れる。

 

 この日、早人は朝から別れの挨拶のため、屋敷中を回っていた。

 もっとも康光とその妻は海外へ商談に出てしまっていたので、対象となるのは執事に女中、運転手といった人々となる。

 女性からは泣かれ、男性からは励まされるなどして一喜一憂しつつ、早人は最後に執事を訪ねた。

 初老の執事は、早人へ気落ちしたような声をかけてきた。

 

「いよいよ明日、お別れですね」

「執事さんにはお世話になりました」

「また、いつでも遊びに来てくださいよ」

 

 執事は悲しそうに笑い、早人は苦笑した。

 早人には、この館を再訪するつもりは毛頭なかったが、それを告げるのは野暮というものだろう。

 言葉を濁す早人に対し、執事は尋ねる。

 

「最後にお嬢様と話されるつもりは、やはりありませんか」

「はい」

 

 間一髪もおかずに、早人は断言してしまっていた。

 執事は肩を落とし、無念そうにうつむいてしまった。

 早人もさすがに「ちょっと冷たすぎるかな」と思い始めた。

 少なくとも執事に恨みはないのだから、多少は岬を気に掛ける素振りを見せてもいいだろう。

 早人は考え、口を開いた。

 

「岬様は最近、どんなご様子なんですか?」

「もう、部屋から一歩も出てきません」

「一歩も?」

「はい。食事にしても、女中が部屋の前まで運んでいます」

 

 尋常な事態ではない。

 早人は驚き、同時に疑問を抱いた。

 

「誰か、部屋の中に入って様子を確かめたりはしなかったんですか?」

「鍵束を奪われてしまったんです」

「え?」

 

 早人の顔から、血の気が引いていた。

 鍵束に自分の部屋の鍵がついていたら、岬が忍び込んでくるかもしれない。

 その想像によって、彼の背筋には氷柱が突き立てられていたのだ。

 しかし、その不安も杞憂となる。

 

「心配しなくても、桜庭さんの部屋の鍵はついていませんよ」

 

 執事に告げられて、早人は安堵の溜め息をついた。

 執事は、さらに話を続けている。

 

「まあ旦那様の部屋と、倉庫や車庫の鍵は付いていましたけどね。合鍵もあるにはあるんですが、それを使ってお嬢様の部屋に入っても、また取り上げられるだけでしょうし……」

 

 

 

 

 その日の夜。

 早人はベッドで横になり、灰色の天井を眺めていた。

 すでに夜も更けていたが、彼は未だ寝付けないでいる。

 理由は二つあった。

 

 一つは、新たな生活への期待感である。

 夏樹と共に新しい、本当の人生を始められるのだ。

 牢獄まがいのこの部屋からも解放される。

 その期待感は、早人の心を高揚させてやまなかった。

 そして、もう一つの理由は──。

 

 扉がノックされた。

 早人は相手に氏名を問いかけたが、返答はなかった。

 早人は深呼吸をして心を落ち着かせてから、立ち上がった。

 

 相手が岬なのは分かっていた。

 ならば、彼女が何をしてこようと、何を言おうと、突き放さなくてはならない。

 早人にとってもギリギリの勝負なのだ。

 長年にわたって身体に植え付けられた服従心を克服しなければ、全ては水泡に帰してしまう。

 

 早人は周囲を見回した。

 灰色の壁で囲まれタンス一つだけが置かれた、寒々とした情景が広がっている。

 岬に屈せば、この部屋からの脱出もかなわなくなるだろう。

 そして希望のかけらもない、無感動な日々へと引き戻されるのだ。

 

 一瞬、自分に許しを請う岬の姿が、早人の脳裏に思い浮かんだ。

 だが彼はすぐに頭を振り、心の内から岬の姿を追いやった。

 とにかく、わずかな恐怖、あるいは憐憫や同情すらも抱いてはならない。

 早人はそう覚悟を決め、扉を開けた。

 

 眼前の人物を見て、早人は絶句する。

 そこには、うつむいた一人の少女がいた。

 彼女は痩せこけており、いたる所に吐しゃ物がこびりついた寝間着を着用していた。

 その衣服には、早人は見覚えがあった。

 岬が好んで着ていたものだ。

 となれば、この少女は岬本人のはずなのだ。

 

 だが少女の髪には、岬の長く美しい、黒絹のようだった髪の面影は無かった。

 酷く乱れている。

 いや、乱れているどころではなく、ハサミか何かで滅茶苦茶に切り落とされていた。

 さらには所々に頭皮が見えている部分があり、そこには赤黒い、血がにじんだような跡もあった。

 

 自分で髪を引っ張り、抜き落したのだ。

 その考えに至り、早人の全身から一斉に冷や汗が噴き出す。

 叫び声を上げそうにもなっていた。

 だが彼が口を開くよりも早く、少女が呟いた。

 

「お願い、許して」

 

 聞きなれた、岬の声だった。

 早人は、なぜか心が落ち着いていくように感じていた。

 汗も急激に引いていく。

 早人は深呼吸をして、岬を諭し始めた。

 

「岬様、執事さん達が心配しています。皆に元気なお姿を見せて上げてください」

「許して」

「岬様……」

「どうすれば許してもらえるのか、私には分からないから」

 

 岬は面を上げた。

 その顔はやつれ青ざめ、目は充血して周囲には隈ができ、頬はこけていた。

 だが、美しさは損なわれてはいなかった。

 凄まじいほどに病的で幽鬼じみてはいたものの、彼女の美しさはその荒廃にすら打ち勝っていたのだ。

 いつものように、人形か彫刻のように美しい──右半面だった。

 

 岬の残り半面を見て、早人は今度こそ絶叫する。

 後方へ飛びすさると、転がるようにしてベッドへ駆け上り、壁を背にしてへたり込んだ。

 彼を追いかけて、岬が部屋に入ってくる。

 今の早人には、岬を阻止できない。

 口を開けて岬の顔、その左半面を瞬きすらできずに見つめている。

 

 岬の左反面は、右側と同様、人形のようだった。

 ただし、ガラスケースに入れられて飾られているような、真っ当な人形ではない。

 幼児が悪戯に火であぶったかのように全体が焼け、溶け崩れてもいたのだ。

 目も、黒目と白目が混ざったかのように灰色一色で塗りつぶされている。

 そこからは涙であろうか、透明な体液が垂れ流されていた。

 

 なにか、強い酸をかぶったのだ。

 早人の心中でわずかに残っていた理性は、それを察していた。

 だが強酸など、どこで手に入れたのだろう。

 倉庫を開けて見つけ出したのだろうか。

 理性が状況を把握する間にも、岬は一歩、また一歩と近づいてくる。

 

「私は」

 

 彼女は歩みを止めぬまま、哀願を始めた。

 

「私を許さない。でも、貴方の傍にいたいの。どうすれば良いか分からないの。これじゃ足りない? どうすれば許してくれる?」

 

 岬は錯乱している。

 早人の理性は、そう教示していた。

 だが彼には、どうすることもできない。

 

「貴方が許してくれるなら、私は何をされてもいい。……そう、殺されてもいいわ」

 

 早人は内なる恐怖に、遂に屈していた。

 指一本すらも動かせなくなっている。

 

「お願い、殺して。それで許してもらえるなら、私はかまわない。いえ、むしろ本望だわ。お願い、殺して」

 

 早人はもはや逃げるどころか、考えることすらできない。

 迫る岬の姿に、ただ飲まれ続けていた。

 

「許して」

 

 

 

 

 ──────完──────



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