鬼少女の幻想奇譚 (りうけい)
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里を追われた子

 

 

 

 昔、昔、あるところに、二人の幸せな夫婦が住んでおりました。夫は商売上手で家族思い、妻は気立ても器量も良く、まさに何一つ申し分のない夫婦でありました。

夫は里で最も大きな酒屋の主人で、まだ30前後であるにも関わらず、商売を切り盛りし、生活には困りませんでした。

 

 しかし、そんな2人にも、ある一つの悩みがあったのです。

 

—子が生まれない。

 

 別に2人の仲が冷えているというわけではありません。しかし、どうしても妻の腹には子は宿りませんでした。夫は金にものを言わせて、子宝お守り、お札、まじない、イモリの黒焼きなどを手に入れましたが、どれも効果は無く、一向に子は生まれません。

 

—もう駄目なんじゃないか。

 

 2人がそう言って、養子を迎えようかと相談を始めた頃—待望の赤ん坊が妻の腹の中に現れたのでした。

 

 夫は躍り上がって狂喜し、妻も嬉し涙を流しました。ついに、ついに、ついに待ち望んだ子が生まれるのです。夫は買い集めるお守りを子宝から安産へと変え、妻は赤ん坊のため、家の手伝いを控えて安静にしていました。

 

 それからしばらくして、待望の子は生まれました。が、それを取り上げた産婆が、腰を抜かしてしまいました。

 

—どうしたんだね、何かあったのか。

 

 子供が無事に生まれるのか、気が気でならない夫は、気を揉んで産婆に尋ねます。産婆は相変わらず腰を抜かして、しかし赤ん坊は抱えたまま、答えます。

 

—角が、この子には、角が生えている。

 

 夫は、驚いて赤ん坊の額を見ます。なるほど、短く白い角が一本、にょきりと立っておりました。

 

—これはどういうことだ。我が子の角は、いったいなぜ生えてきたのだ。

 

 夫は慌てましたが、そこはやはり酒屋の大旦那。すぐに落ち着いて、博麗の巫女に伺いを立てることにしたのです。博麗の巫女は代々貧乏でありましたから、金持ちの夫に呼ばれるとすぐにやって来て、赤ん坊を見ました。

 

—これはいけない。この子は呪われている。このまま家に置いておけば、あなたの家は傾くし、あなた方以外の者にも災厄をふりまくでしょう。

 

 巫女は、顔を青ざめさせて言いました。それを聞いて、最も悲しんだのはもちろんこの夫婦でした。ようやく授かった子が、どういうわけか呪われているのですから。

 

—しかし、このまま放逐して殺せば、分別のない赤ん坊のことだ、きっと悪霊になるでしょう。10歳になるまで育てて、それから捨てなさい。育てている間に降りかかる厄は、この子に私が封じ名をつけることで、抑えておきます。

 

 巫女の命令は、絶対でした。2人は泣く泣くそれを受け入れ、我が子をきっちりと10歳まで育て、里の外に追いやりました。育てている間、商売は傾き、他の里人から嫌がらせを受けましたが、それは〝鬼子〟を追い出してからは、ぷっつりと途絶えました。

 

 そうして夫婦の家は何とか元通りになりましたが、その鬼子が里を追われた後、どこへ行ってしまったのかはもはや誰にも分からなくなってしまいました。

 

 

 



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一章 秋の旧都
第1話 紅紫(あかし)髪の鬼少女


 

 

 

 私は、かたん、と何かの落ちる音で目が覚めた。

 

 ゆっくりと、薄い布団から身を起こす。その時にいつも目に入ってくるのは長屋の薄汚れた壁だけである。家具や調度品といったたぐいの物をもつ余裕のある暮らしはしていないからだ。天井を見上げると、また、かたり、かたりと音がする。

 

今の音の正体はよく分からないが、鴉か何かが屋根の上を移動したのだろう。地底にも、何故か鴉はいるのだ。

 

 気にしている暇は無いと思って目をこすり、眠気をさまそうとする。

 

「あれ……」 

 

 じんわりと温かい雫が、手の甲についていた。-涙? 私は何か悲しい夢でも見たのだろうか。思い出そうとしても、目が覚めた今、再び夢の内容を紡ぎなおすことなどできそうになかった。ただ、漠然と、遠い昔の記憶を反芻(はんすう)していたような、そんな感覚だけが頭の中に残っていた。

 

 しばらくそうしてぼうっとしていたが、やがて光が窓から差し込み始めたのに気づき、私は慌てて布団を仕舞うと、他の妖怪たちが集まってくる前に井戸場へ行き、水浴びをするために着替えを引っ掴むと、部屋の戸を開けた。

 

 

 

 地底の更に地下深くには溶岩の流れている場所があり、温められた地下水脈が温泉となっている浴場もあるらしいが、残念ながら私はそこに通えるほど十分な給金を貰っていない。そのため、近くの井戸端で、誰も見るもののいない早朝にこっそり水を浴びるのである。

 

早朝の薄明かりの差す井戸端にはいつも通り誰もおらず、静まり返っている。地底は遅くに寝る者が多いので、昼まで寝ている者も多いのである。

 

 私は着物を全て脱ぎ、一糸まとわぬ体になると、あらかじめ井戸から汲み上げておいた冷水を頭から被った。

 

 ばしゃり、と小気味いい音と共に、心地よい涼しさと爽やかさが体を駆け抜ける。

 

「ふう……」

 

思わずため息を漏らしてしまい、辺りを見回す。

 幸い早朝であるためまだ誰もおらず、私の水浴びを見ている者もいないようだった。ほっとして、今度はたらいに張ってある水で頭を洗おうと、顔を近づけた。

 

「………」

 

 私は、水面に映った私自身の顔—正確にはその額に生えている一本角と赤紫の髪を見て、つい顔を強張らせてしまった。もしも私の髪が黒くて、角がなかったら今ごろは地上で暮らしていたのに─そう思うと、自分の現状どころか、容姿まで憎たらしくなってくる。

 

 私の住んでいる長屋は地底の旧都の端の端、弱者の集う貧民街に建っている。この旧地獄は地上を追われた者の楽園と言われているが、それは強い妖怪たちにとってであり、弱者たちは相変わらず虐げられ、細々と生き永らえている。

 

 私はそんな弱者の中でも特に非力で、殺されそうになったのは数えきれない。むしろ今でもこうして生きているのが不思議なほどだった。

 

小さい頃にこの見た目のせいで地上でさんざん追い回され、命からがら地底に逃げてきたのだが、地底では私の外見は人間の14、5歳の娘にしか見えず、唯一妖怪である証と言えば額に生えている短い一本角と赤紫の髪、それと少しばかり寿命が長いだけで、妖怪らしい力は何1つ持っていないのである。

 

そのため、地底でもたいしていい目を見ることはなく、何とか生活しているという有り様である。

 

 つまりこの角さえなければ、私は地上で、ただの人間の娘として生きることができていたのだ。なまじこんなものがあるために、私は—

 

 そこまで考えて、私はまたため息をついて、首を振る。

 

 よそう、と思った。自分の顔を見るたびにこの角さえなければと自分を呪うのが半ば日課になっているのでいかんともしがたいが、早く水浴びを終わらせなければ、誰かがやってくるかもしれないのだ。

 

 私が朝に水浴びをしているのは、夜にすると妙な輩が集まってきて私の躰を鑑賞したり、まぐわおうとする者さえ出てくるからだ。以前やって来たばかりでそれを知らずに夜に水浴びをした時、随分怖い思いをした。以来、私はこうして朝に体を清めている。

 

 私はしっかり体の汚れを隅々まで落としたのを確認して、着物を身に着ける。よく馴れた浅葱色のそれは、体にぴったりと張り付き、安心感を与えた。

 水浴びを終え、身支度も整えたので、今日も食い扶持を稼ぐべく、旧都の中心へと歩きはじめた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「こちら、ご注文の冷ややっこと熱燗(あつかん)です」

 

「遅いんだよ! さっさと持ってこいよ」

 

 いつも通り、客の罵声を受けてびくりとしながら、私は厨房に戻る。ここは現在の私の働き口、旧都中心の居酒屋だった。働いて食べていける分の金を貰うことができるのは恵まれている方だが、客から理不尽な罵りを受けたり、暴力を振るわれたりすることは珍しくない。泣きたくなることも多かったが、ここを辞めると他に当てが無いので、黙って働くしかない。

 

「はい、唐揚げ持ってって!」

 

 私が厨房に戻ると、店主の土蜘蛛が新しい料理を渡した。この店主は人使いが荒いことで有名で、皿を割ったり少し注文ミスをしてもその日の給金から天引きすることもある。

 

「ちょっとちょっと、つっかえてるわよ。次のほら、行った行った」

 

「待ってください、誰に運べばいいのか……」

 

「いいから。自分で探しなさい」

 

 冷たく言って、店主は厨房の中に姿を消した。私が唐揚げを持って行った客も散々遅いとか愛想が無いなどと言いながら受け取った。

 

これだけこき遣われれば誰でも愛想なんて振り撒く余裕などあるまい。そう思いながらも、へこへこと客に謝って、その場を去ろうとする。

 

「ここ、やってるか?」

 

 その時がらがらと戸を開けて現れたのは、どう見てもろくな性格では無さそうな鬼だった。人相が悪く、その眼の奥には、ぎらぎらとした悪意が見え隠れしている。そして服の隙間から見える、ごつごつとした筋肉は私など容易に殴殺できそうな、凶悪なまでの膂力(りょりょく)を備えているようだった。

 

「いらっしゃいませ! こちらの席へどうぞ……」

 

 私は、一応その鬼に席をすすめ、注文を聞く。その鬼は、ただ「酒」と言って、黙り込んでしまった。私がどんな酒が良いか、と訊くと、ぎろりと睨んで酒の銘を言った。

 

 私は逃げるようにしてその場を去った。あの剛腕で殴られれば、私はひとたまりもない。店主も私が殴られたところで客に文句は言わないだろう。何しろ、地底は「力こそ正義」なのだから。早急にその酒の入った徳利と猪口(ちょこ)を持って戻る。

 

「お待たせしました、こちらご注文の品です」

 

「注げ」

 

「………はい、わかりました」

 

 本来はここまでする義理はない。無いが、断れば何をされるか分かったものではない。それほど私のような弱い者の立場は、池に浮かぶ泡沫のように、不安定なものなのである。

 

 徳利を傾けると、こぽこぽこぽ、と思いのほか勢いよく酒が流れ始めた。慌てて徳利の傾きを調整しようとしたが、すでに遅く、酒の一滴が跳ねて猪口を持つ鬼の手にかかった。ぴちゃり、とその音が耳に入った時、私は心臓に氷柱を突っ込まれたような感覚と共に、はっとして鬼を見た。

 

「………ふざけるなよ」

 

 この鬼の堪忍袋の緒はどうも弱い素材を使っていたらしい、凄まじい形相で私をねめつけてくる。私はひたすら頭を下げ、謝った。

 

「すみません、すみませんっ!」

 

「どうするんだ、ああ? 着物にもかかってるじゃないか!」

 

「でも、今のははずみで……」

 

「黙れ! 言い訳なんぞ聞きたくない!」

 

 ふと顔を上げると、その鬼の口はすでに酒臭かった。朝っぱらから既に酔ってここに来ていたのだ。鬼は、喚きながら私に向かって拳を振り上げ、したたかに殴りつけた。

 

 がしゃん!

 

 椅子をいくつも巻き込んで、私は壁に叩きつけられた。顔を殴られそうだったのでとっさに庇った腕がじんじんと痺れている。骨にひびが入ったかもしれない。さらに後頭部をどこか切ったらしく、生温かい液体がわずかなぬめりを伴って、流れ落ちるのを感じる。

 

 他の客は突然のことに、唖然として殴り飛ばされた私と鬼を見比べていた。

 

 鬼は私につかつかと歩み寄り、襟首をつかんだ。また殴るつもりだろう。

 

「……やめてください」

 

 必死に声を振り絞って乞うが、鬼はまだ酒で興奮した状態らしく、ただただ私を睨みつけながら拳を何度も振り下ろす。

 

「や、やめ……」

 

 鈍い痛みに耐えながら床に這いつくばり、鬼の拳をくらっていると、だんだん意識が遠くなっていく。まさか、このまま殴り殺されるのではないかーそんな恐怖を伴って。

 

唇が切れ、顔をかばう腕の骨がきしみ、手加減なく振り下ろされる拳に、抗うすべなく蹂躙される。完全に朦朧として、だらりと腕を下げる。抵抗する気力もなくなり、私は迫り来る拳骨をぼんやりと眺めていた。

 

「やめなっ!」

 

 突然の鋭い声を聞き、その鬼はすんでのところでその腕を下ろした。鬼はその声の聞こえた方向を見て、怖気づいているようにも見えた。

 

(誰………?)

 

 私はそちらを見ようとした時、気が緩んでしまったのか、気を失ってしまった。意識を手放す前に見たのは、店の扉の前に立つおぼろげな〝誰か〟の姿だけだった。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 はっと目が覚めると、そこは居酒屋の一室だった。本来は宴会などで使う場所なのだが、そこに私は転がされていたらしい。ちくちくと畳が肌をさし、すこしかゆかった。

 

「……目が覚めた?」

 

そう言って私の顔を覗き込んできたのは、緑色の眼の少女だった。少し短めの金髪に、整った顔の持ち主である。

 

「……誰ですか?」

 

 訊くと、彼女は、ああと言って答える。

 

「私はパルスィよ。橋の番人をやってるわ。あんたが起きるのを待ってた。………ああ、勇儀に助けられるなんて、なんて、なんて妬ましい……」

 

「ええ?」

 

「あ、気にしなくてもいいわ。私の癖だから。……かなり強く殴られてたみたいだけど大丈夫?」

 

「あ、はい、何とか……」

 

 パルスィは先ほどちらりと聞かせた妬みや(そね)みをないまぜにした口調はどこにやら、本気で心配しているように見えた。どうやらこのパルスィという人は美人ではあるが、どこか性格に問題があるらしい。

 

「私はまああんたが殴られてるのを見たんだけどさ、そりゃ気の毒だったね。あの鬼、割と有名な荒くれ者だから」

 

 私はその時、鬼を止めたあの鋭い声を思い出して、はっとした。

 

「ひょとして、あの時止めてくれたのはパルスィさんですか……?」

 

 しかしパルスィは被りを振った。

 

「いや、あれは私じゃない。言ったのは、勇儀っていう鬼だよ。私の知り合いなんだけどね、あいつは鬼を怒鳴った後、普通に酒飲んで出てった」

 

「……じゃあ今度会ったらお礼言わないといけませんね……」

 

「お礼? いや、そんなことしても、多分向こうが覚えてないよ。あいつはふだん弱いやつどうでもいい、というか嫌ってるタイプだからね。それはあんたを助けようとしたんじゃなくてただ単にうるさかったから怒鳴ったんじゃない? まあ大体の鬼はそうなんだけど」

 

「……じゃあなんでパルスィさんはここに?」

 

 お礼を期待してなどいないという言葉を聞くと、それならばパルスィは何故ここにいるのかということになる。彼女は全くの部外者であったはずであり、ここにいる意味がない。

 

「……単純に、興味かな」

 

 パルスィはそう言うと、私の前髪を掻き分け、あの白い一本角を探り当てた。こつこつ、と叩いて、前から、横から眺めている。私はついにパルスィの視線に耐えられなくなり、訊いた。

 

「…………あの、なんで私の角を見てるんですか?」

 

「ん? いや、あんた、鬼だよね? それを確認したくて」

 

「はい、一応鬼ですが……」

 

「ならなんで、あの鬼にやられっぱなしだったの? あんたぐらいの歳なら、普通に殴り返すこともできるだろうに。店で暴力沙汰を起こしても流石にクビにはしないでしょ、ここなら」

 

 なるほど、と私は思った。パルスィには、私の角が何かの拍子で見えたのだろう。それで黙って殴られるがままだった私にその理由を訊きたくて、私が目覚めるのを待っていたということになる。

 

確かに私のようなただの人間の小娘のように見える鬼でも普通はかなりの筋力を秘めている。が、私は何故か鬼であるにも関わらず非力で、鬼どころか天狗にも、下手をすると地霊殿のトップであるという悟り妖怪にすら劣るかもしれない。そんな身体能力であるから、反撃したくてもできないのである。

 

 パルスィに大まかにそんなことを説明すると、パルスィはおおいに不思議がっていたが、話が一段落すると、「じゃ」と言い残して去っていった。

 

「……仕事にもどらなきゃ」

 

 私は座敷を出て厨房に向かおうとして、気づいた。既に夜だったのである。ちょうど片付けが終わったらしい店主がのそりと厨房から出て来て、じろりとこちらを見た。

 

「……もうここは店じまいだよ。あんた、昼間っからずっとぶっ倒れてたんだからね。帰っていいよ」

 

 店主はそう言って、しっしっと私を追い払った。

 

「あの、お給金は………」

 

「ずっと寝てたのに、金なんか払えるわけないでしょ。寝ぼけたこと言う前にさっさと帰って寝な」

 

 私を追い出すと、店主はぴしゃり、と居酒屋の戸を固く閉ざしてしまった。

 

「そんなあ……」

 

 どうも今日はついてない。客に殴られる、面白半分で見物にくる奴はいる、挙句の果てに給金なし。踏んだり蹴ったりだった。お腹はすいているが食べ物を買う金が今日は貰えなかったので、ひもじいのを我慢しながら家に帰らなければなかった。

 

「……水でも飲んでお腹を膨らませよう」

 

 帰宅途中の井戸場で、私はそう思って水を汲むことにした。金がないときはこうして偽りの満腹感で、お腹を満たすのである。情けない方法ではあるが、そうしないと苦しくてやってられない。私は、するすると釣瓶を落として水を汲もうとした。

 

「……ちっと飲みすぎたかなあ」

 

 どこからか声が聞こえてきた。私がとっさに首を巡らせて後ろを見ると、そこにいたのは長い角を額から生やした、すらっとした女の鬼だった。

 

「…………!」

 

 私はすぐに井戸の影に隠れた。同じ鬼といっても、昼間のように目を付けられて殴られては敵わない。触らぬ神にたたりなし、君子危うきに近寄らず―別に私は君子でも何でもないが、隠れてやり過ごせればそれでいい——

 

「ん? 誰か今隠れたか? おい、出て来いよ」

 

 しかし鬼はこちらに気付いていたようで、話しかけてきた。が、鎌かけかもしれない。私が息を潜めて黙っていた。

 

「おい、いるんだろ? 出てこなかったらぶっ飛ばすが……」

 

 どうやら、本当に気づいていたようだ。そして、私はあと数秒以内に姿を現さなければぶっ飛ばされるらしい。鬼は嘘をつかないというから、何も行動しなかったら、それは間違いなく実行されるだろう。

 

(ああ、もういやだ……。今度は殴られませんように……)

 

 私は必死に祈りながら、井戸の影から姿を現した。またあれぐらいの力で殴られたら、本当に死ぬかもしれない。膝が生まれたての子鹿のように、ぷるぷると震える。

 

 女の鬼は、少し酔っているようで、顔が少し赤かった。

 

「おう、出てきたか。……なんだ、人間か?」

 

「……いえ、一応、妖怪です」

 

「そうかそうか。まあいいや、ちょっと酒飲みすぎちまって、水汲んでくれないか?」

 

 逆らったら鉄拳制裁が待っているだろう。私は、急いで井戸で水を汲むと、鬼に差し出した。鬼は受け取った釣瓶の水を一気飲みすると、小さく、ため息をついた。

 

「ふう。いくら何でも、鬼殺し20升は多すぎたな。今度はもうちょいおさえて飲まないと……ああそうだ、水持ってきてくれて、サンキューな」

 

「いえ、そんな滅相も無い……では私はこれで……」

 

「待て」

 

 ごく自然にフェードアウトしようとした私の首根っこを、鬼はそのしなやかな腕で掴み、引き戻した。

 

(……もう、私が何したっていうのよ! ああ、また目つけられたんじゃない⁉ 運悪すぎ! もう駄目、死ぬ死ぬ死ぬ!)

 

 しかし、鬼の発した一言は私の予想だにしないものだった。

 

「まあなんか簡単なお礼をしようかと思うんだが」

 

「お礼? 水汲んだだけじゃないですか。そんなことでわざわざ……」

 

「いいじゃないか。今、私は気分が良いんだ。受け取ってくれ。……あ、そうそう、言い忘れてたが、私の名前は星熊勇儀だ」

 

「星熊…勇儀……」

 

 どこかで聞いたような―そう思っていると、私は昼間の意識を失う寸前に聞いた、あの声を思い出す。星熊勇儀とは、自分が酔っ払いの鬼に殺されかけたのを、止めてくれた鬼の名だった。

 

「ああ! 昼間に助けてくださった、勇儀様ですか?」

 

「……ああ、そういえばそんなこともしてたな」

 

「それじゃあお礼を言わないといけないのはこっちじゃないですか」

 

 幸運だった。勇儀様なら、おそらく突然襲ってくることなどないだろう。それに、命の恩人でもあるのだ。勇儀様は、ぽりぽりと頭を掻きながら、困ったように言った。

 

「……まあそれはそれとして、こっちも何かいい感じのものをあげたいと思うんだが。というかお前の名前は何て言うんだ?」

 

「私の名前ですか?」

 

「そうだよ。それ以外になにかあるか?」

 

「ああ、はい。私の名前は――――と言います」

 

「ふーん、字は何て書くんだ?」

 

「ちょっと待ってくださいね……」

 

 私は、その辺に落ちていた木の枝で、地面に自分の名を書き始めた。画数が少し多く、面倒だが漢字できちんと書く。しかし、それを見た勇儀様は、先ほどまではご機嫌だったのに、いつのまにか険しい顔をしていた。

 

「……これが、お前の名前か……親がつけたのか?」

 

「ええと、確か昔、博麗の巫女がつけたって聞いたんですが」

 

 といっても、私はこれでも数十年生きているので何代か前の巫女による名だが。

 

「そうか。……ひでえ名前をつけられたもんだな。まあ親がつけてないだけましか……」

 

「え?」

 

「……いや、何でもない。ところで聞いときたいんだが、お前は、この名前、気に入ってるか?」

 

 私は首を捻りながらも、別にそうでもない、と答えた。なんだかしっくりこないし、名前で呼ばれることはほとんどなく、あんた、とかお前、と呼ばれていたからである。勇儀様はそれを聞いて、

 

「なら、新しい名前は要らないか?」

 

………名前?

 

 何かの冗談かと思って勇儀様を見るが、いたって真面目な顔である。私が新しい名前を貰うことが、お礼になるのだろうか?少し考えこんだが、断るのも気まずい。 

 

「はあ……貰えるなら貰っておきます」

 

「よし、分かった」

 

 勇儀様は少しの間うーん、うーんと考え込んでいたが、やがてばっと顔を上げると、「そうだ」と手を叩いた。

 

(あざみ)、というのはどうだ? お前の髪とおんなじ色の花の名前だ」

 

「あざ……み……」

 

 口の中でその名前を転がすと、不思議とその名前は、自分になじんでくるような気がした。

 

「どうした? 気に入らないなら別のにするけど」

 

「これでいいです。……………いえ、これがいいです」

 

 勇儀様は、嬉しそうにそうかそうか、と笑った。そして、何かを思いついたように、ぽんと手を叩いた。

 

「……そうだ、あざみ。ここで会ったのも何かの縁だ。明日暇だったら私の賭場まで来てみないか。まあこれは私のきまぐれだから、別に来たくなかったら来なくてもいい。賭博の人数合わせなんだが」

 

「賭場……賭け事をするんですか? 私お金持ってませんよ?」

 

 現に今は正真正銘の一文なしである。正直に言うとどうせ貰えるなら名前より晩御飯代が欲しかった。

 

「ああ、掛け金は私が用意するから。私は胴元だから、金をある程度出しても痛くない。たまにはこういう余興も面白いかと思ったんだが、来てみないか?」

 

 来たくなかったら来なくてもいい、と勇儀様は言ったが、私は雰囲気とか、立場的に断ることのできる要素はどこにもない。これは明日、賭場に行かなくてはならないだろう。

 

「じゃあな、また明日」

 

 立ち尽くす私を残して、勇儀様は去っていった。

 

 

 



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第2話 勇儀の賭場

 

 

 

 私は、水浴びを済ませて髪の毛をぎゅっと絞り、水をきった。近くに引っ掛けておいた着物を身に着けると、貰った紙切れを袂から取り出した。

 

「賭場……中央のかしら」

 

 旧都は中心に行けば行くほど、大きな賭場や店があり、当然妖怪たちもそこに集中している。私の住んでいるような場所は街の中心から離れた端の端、まともな妖怪はあまり住んでいない。勇儀様の示した地図に書かれている賭場は旧都のど真ん中にあり、そこの胴元もやっているという勇儀様は相当の大物なのだろう。

 

 何かうっかり失礼なことでもしたら——

 

 私はそう思って、身震いした。勇儀様も昨日はきまぐれに温情をかけてくれたようだが、今日の機嫌は良くないかもしれないのだ。だが、行かなくても後で見つかって何をされるか分かったものではない。

 

(もう、どうしてこんなことに……)

 

 私は、大通りを歩きながら、内心頭を抱え込まずにはいられなかった。だが、そう考えている間にも足は賭場に向かっている。決めるのは今のうちしかない。

 

 いっそ逃げるか。勇儀様がいくら偉いといっても、私をピンポイントで見つけ出す能力は無いし、それにむきになるほどの執念はないはずである。

 

(よし、逃げよ)

 

 私は、くるりと踵を返して賭場と逆の方向に歩み去ろうとした。が、

 

「うわっ!」

 

 私は、後ろから歩いてきていた誰かにぶつかり、盛大に転んでしまった。衝突の瞬間、顔が何か柔らかいものに埋まった気がした。思い切り背中を打ち付けて、うに、と口から怪音が出る。

 

「ああ、すまなかったな」

 

 ぶつかってしまった相手は、私の手を取って引っ張り、立ち上がらせた。その顔を見て、私は自分の作戦が水泡に帰す瞬間の音を聴いた。

 

「お、あざみ、来てくれたのか。そうこなくっちゃあな。ほら、とっとと行くぞ」

 

 ぶつかった相手は、どういう運命のいたずらか、星熊勇儀その人だったのである。私は抵抗する間もなくひょいと肩に担がれ、そのまま勇儀様は歩き続ける。どうやら賭場まで強制的に移動させられるようだった。周りから、道行く妖怪たちの奇異の視線が集まる。

 

「待って、待ってください勇儀様! 自分で歩けますので!」

 

 じたばたと振った足は虚しく空を切り、勇儀様は、はっはっは、と笑いながら歩いていく。私の意見を耳に入れるつもりはないらしい。私は観念して、運ばれるがままとなった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 勇儀様が私を(担いで)連れてきた賭場は、想像していたよりもずっと広く、綺麗な場所だった。わらじを脱いで座敷に上がると、新品の藺草(いぐさ)の香りがする畳に、高級そうな障子、襖には色とりどりで精緻を極めた絵が描かれており、私の住む長屋とは大違いだった。

 

「………すごいですねえ」

 

「こんなのはただの飾りさ。本当に楽しいのは、あれだ」

 

 その広い部屋の一角で、数人の鬼が賽子と湯飲みのようなものを囲んで、丁半賭博に興じていた。私は賭博をしたことはないが、この賭け事のルールくらいは知っていた。大雑把に説明すると、胴元が賽子を振って、客はその出目が丁(偶数)か半(奇数)を当てる遊びなのである。

 

「あ、あんなにお金が……」

 

 賽子を振り終えるたびに、小判が行ったり来たりしている。あれ一枚を稼ぐのに、私では一週間はかかるだろう。そんなものが20枚30枚と飛び交っているので、少し青ざめてしまった。

 

「あ、姐さん! いらしてたんですね」

 

 賽子を囲んでいた鬼のうちの一人が、こちらに気付いたらしく、ささっと駆け寄ってきた。なかなか若い鬼で、勇儀様に頭を下げながら、

 

「今日もよろしくお願いします。しかし姐さん、今日も一段と美しいようで……」

 

「心にもないこと言うんじゃないよ」

 

「分かってますとも。冗談です」

 

 そう言って、二人は豪快に笑う。傍から見ている私は、勇儀様が気分を害するのではないかとひやひやしていたが、杞憂だったらしい。ほっと胸を撫でおろしていると、やって来た鬼の一人が、私に気付いた。

 

「……誰だお前。残念ながらここは会員制なんだ。もっと下の鉄火場で遊びな」

 

 しっしっ、と鬼は私を追い払おうとする。私もできるだけならそうしたいのだが――

 

「待ちな。その子は、私が連れてきたんだ」

 

 勇儀様の声で、賭場から私をつまみ出そうとしていた鬼は、勇儀様と私を交互に見る。

 

「へえ、姐さんの、妹ですか?」

 

「馬鹿。髪の色がそもそも赤紫と金でちがうじゃないか。いつもの面子でやるのも飽きたし、たまには別の奴も入れて遊んでみたらどうだと思って連れてきたんだが」

 

「あ、そうでしたか。こりゃ失礼……お名前は?」

 

「い……あざみです」

 

「あざみね、分かった。姐さん、あざみの参加はいつほど?」

 

「まあすぐ行くから、遊びながら待っときな」

 

 鬼は頷くと、囲みへと戻っていった。勇儀様はそれを見送って、私の方へ顔を向けた。

 

「こういう賭け事はやったことあるかい?」

 

「……いいえ、ないです」

 

 賭け事にうつつを抜かすような余裕がまず、ないのだ。それ故、私は花札や双六などもやったことが無かった。まして丁半博打など、経験があるはずもない。

 

「うーん、ならあんまりお前は楽しめないかもしれんなあ。いいカモにされて終わりかもしれないが……」

 

「それに、私が負けたら勇儀様の分のお金が……」

 

「いや、そんなのはどうでもいいんだ。私がお前を連れてきた理由は、マンネリが嫌だったからなんだ。金は気にしなくてもいい。勝ったら儲けものだと思いな」

 

 そう言って勇儀様は、私の手のひらに、ずっしりと重たい小判を、1枚、2枚と重ねていく。

 

「あわわわ………」

 

 これまでの人生でこれほどの大金を手にしたことはない。おそらく、まともに働いても一生こんな大金を持つ機会は無いだろう。合計で30枚、勇儀様は小判を渡すと、「ほら、いけ」と、私の背中を押した。

 

 鬼たちの囲みに私がやってくると、鬼たちは賽子の目ではなく、私に視線を向けた。そのうちの手前にいた鬼が、

 

「姐さんの紹介なんだってな。今日はよろしく」

 

「いえ、こちらこそ……」

 

 どうやら、勇儀様の名は、絶大な力を持っているようで、鬼たち(といっても私も一応鬼なのだが)の反応は蔑みや冷たさを伴っておらず、むしろ温かく迎え入れられたようだった。

 

「姐さんに認められたってことは、嬢ちゃんも結構、強いんだろ? 喧嘩。今度手合わせ願いたいよ」

 

「はは……」

 

 曖昧に笑いながら、私は落ち着いて腰を下ろす。が、内心完全なパニックに陥っていた。

 

(……いや、何言ってるんです!? 喧嘩なんてしたこと無いし、手合わせ願われたら死ぬんですが……)

 

 幸い後で殴り合おうなどとは言われず、賽子で遊ぼうという流れだったので、あの世行きは回避することができた。胴元が賽子を振り終えると、鬼たちは冗談を言い合いながら、金を積み上げていく。

 

「あんたは丁? 半?」

 

「あ、丁に一両……」

 

 地底では、江戸時代に迷い込んできた外来人が地上で流通させた銭や小判が流れ込んできて、それが通貨となっている。私が一日に稼いでもらえるのは銭が数枚といったところなので、これだけでもしばらく働かずに過ごせるのだ。

 

「なんだ、堅実だなあ」

 

 訊いてきた胴元の鬼は、つまらなそうに言った。周りを見れば、皆5枚6枚と金を積んでいる。私にはそれほどの勇気は無いので、最初は一枚だけ、様子見として賭けた。

 

「よし、どうだ?」

 

 胴元がお椀を取ると、出目は2と6で合計8.つまり丁だった。

 半に賭けた鬼から、ああー、と残念そうな声が漏れる。私は半に賭けた鬼から1枚小判を貰うことになった。

 

「お、勝ったのか。次は多めに賭けてみたら?」

 

「え、あ、はい……」

 

 胴元の鬼が、柔らかい笑顔でそう言った。今回丁に賭けた者たちは私を含めて掛け金が少なかったので、余分だった金は胴元に入る、つまりこの賭博で最も儲かるのは胴元なので、機嫌がいいのだろう。

 

一方、半にかけて掛け金を失った鬼たちは、さほど気にした様子もなく、次をどうするか話し合っていた。

 

(適当に勝ち負けして、お金を減らさないようにするかな……)

 

 私は、おそらく盛り上げ役として参加させられているのだ。できるだけ損も得もせず、勇儀様にお金を返せば、皆満足するだろう。次は多めに賭けて負けておこう。

 

「あ、次は半で3両」

 

「よし、分かった」

 

 鬼が賽子を振って、出たのは半。負けるはずだった金は、6両になって返ってきた。

 

(まあ、こういうこともあるよね……)

 

 予想外だったが、この調子で賭け続ければ、良い感じに収支が合うだろう。

 

「半で6両」

 

 勝ち。今度は、12両になって返ってきた。

 

「……なんというか、運がいいんだねえ」

 

「……そうですかね」

 

「はっはっは、まあそのうち負けるから、あんまり調子に乗ってるとえらい目に遭うぞ」

 

 隣の鬼がそう言って、丁に7両、賭けた。

 

「……ですよね、頑張ります」

 

 

 

 

「おいおい、マジかよ……」

 

 数時間後、鬼の一人が呟いた。私も心の内では頭を抱えて同じことを呟いて、

 

(なんで? なんでなんでなんで? なんでこうなったの?)

 

 と冷汗をどっとかきながら、目の前に積みあがっている小判を見つめていた。

 

 目の前にある金は、172両。勇儀様に軍資金を渡された時は、30両だったから、およそ6倍に膨れ上がったということになる。もちろん他の鬼たちの持ち金は、私に吸い取られて少なくなっている。

 私は、運がいいのか悪いのか、言う目がことごとく当たり、どんどんその持ち金を増やしていた。たまに負けることもあったが、次にかけた時にはすでに元通りになっていた。圧倒的な幸運が、私に舞い降りていたのである。

 

「イカサマじゃねえのか?」

 

 鬼の1人が言ったが、私はイカサマの方法すら知らないし、胴元に何か情報を貰っているわけでもない。ただの幸運なのだ。

 胴元が、笑って勇儀様に問いかける。

 

「姐さん、この子、ひょっとして本職の賭博師なんですか? 確かに強くて刺激はあるんですけど、ちょっと他の奴が面白くなさそうでして……」

 

 勇儀様も、私の大勝ちを見て、あんぐりと口を開けていた。当然だろう。適当にその辺で誘ったつもりの奴が、自分の賭場で勝ちまくっているのだから。

 

「………私はそんなつもりでこの子を入れたわけじゃないが……おいあざみ、あんたなんかそういう計算とか得意な賭博師なのか? それともイカサマしてたのか?」

 

 そう訊かれて、私はぶんぶんと全力で首を横に振った。むしろ、私が一番驚いているのだ。何故適当に目を言っているだけなのに、大勝ちするのか。しかもイカサマなしなら、賭博師であってもこの丁半博打ではあまり意味をなさない。純粋な運が占める割合が大きいからだ。

 

「……どうも、あざみが嘘を言っているようには見えないな……ということは、信じられないくらいのラッキーってことか」

 

 勇儀様は、面白い面白い、と言って大笑いしていたが、金をむしり取られつつある鬼たちは愉快なはずもなく、ちらちらと私を——ひょっとすると私の積んでいる小判にかもしれないが——見ている。相当雰囲気が悪い。

 

 私は、天を仰ぎたくなった。神様が幸運をこんなところで私に与えるというのはどういう意地悪なのだろうか。もう嫌だ。逃げ出したい。皆私をちらちら見ないで。お金返して逃げるから、勘弁してください――

 

「あ、皆さんのど渇きません? 飲み物取ってきますが……」

 

 私は、明るい笑顔で鬼たちに聞いた。あわよくば、このまま逃げ出してしまおうという魂胆である。この金はあってもトラブルの元だろうし、何も持たずにいなくなってしまうのが一番だ。

 

「いや、いい。続けるぞ」

 

 鬼の一人が、不機嫌そうに言った。逃げそこなった私は、ここが旧ではなく、正真正銘の地獄であるということを悟った。

 

「じゃあ、私は半で……86両賭けます」

 

 負ければ、皆にうまく分配することができる。鬼たちはそれを悟ってか、丁に賭ける者、はたまた私の運の強さを頼みにして半に賭ける者にぴったり2分された。

 

 とくに損の無いはずの胴元も緊張した顔もちで振った賽子の出目を確かめ――

 

「半です」

 

………やってしまった。

 

 私の賭けた86両は丁に賭けた鬼たちから一両残らず小判を巻き上げてしまったのだ。巻き上げられた鬼たちは、憤慨し、半に賭けて私のおこぼれを貰った鬼は、安堵の息をついている。

 

「ああ、そろそろやめますかね」

 

 胴元も、これ以上勝負を続けるととんでもないことになりそうな気がしたのか、賭博を中止した。私も、そして何とか自分の金を減らさずに済んだ者も続行は望んでいなかったため、反対は無かった。

 

「あざみ、お前、すごく運がいいじゃないか! 面白い」

 

 勇儀様は大金を抱えて呆然としている私に、ぽんぽんと頭を叩いて相変わらず笑っていた。

 

「約束通りその金は全部、お前のもんだ。いやあ、よくやったなあ……」

 

 勇儀様はうんうん、と頷いていたが、私は金を巻き上げられた鬼たちが気になってしょうがなかった。一人はすでに外へ飛び出してしまっており、残った者は「カミさんに叱られる……」とか「またやっちまった……」とか言って頭を抱え込んでいる。このまま帰ったら、私は彼らに闇討ちされるのではなかろうか。

 

「あの、勇儀様……負けた人たちに10両ずつ、あと宴会を開いてはくれませんか」

 

「……持って帰らないのかい?」

 

「はい。私には身に余る大金ですし……いくら運が良かったと言っても、気の毒ですし、最後くらいは楽しい思いをしてほしいなあと」

 

 勇儀様はしばらくきょとんとしていたが、にやっと笑って、私の肩をばんばんと叩いた。

 

「よく言った! いいね、あんたの気前の良さ。気に入ったよ。……おい、落ちこんでんじゃねえぞ! あざみが飲み放題、食い放題の宴会を開いてくれるんだってさ!」

 

 勇儀様の言葉に、周りは少しの間ぽかんとしていたが、その意味を理解して、沸き立った。勇儀様が、10両ずつ金を返してやると言ったため、「カミさんにしかられる」と嘆いていた鬼も、安心できたらしい、私の手を握って、上下にぶんぶん振り回して、感謝感激雨アラレをぶつけてきた。当の私は怨みを買わずに済んだことでここにいる皆の誰よりもほっとしていたのだが。

 

 すぐに山菜の炒め物、松茸ご飯、豚足の煮物、大量の人間の筋が入ったおでん、寿司、数の子、(どうやって材料を入手したのかは分からないが)鯛の尾頭付き刺身、焼き豆腐、ざるそば、鬼殺し、巫女の口噛み酒、果ては踊り子、乞食まで運び込まれ、どんちゃん騒ぎとなった。

 

「飲め! 歌え! 踊れ!」

 

 胴元の鬼が、顔を赤くしながら叫ぶ。と、その顔にイセエビが飛来し、鼻を挟まれる。活きイセエビである。胴元の鬼はぎゃあ、と倒れ、その上で他の鬼がサンバを踊りだす。「キリギリス、ああキリギリス、キリギリス」と訳の分からない和歌を詠んでほめたたえ合う一団や、乞食がせっせと腹に食べ物を詰め込んでいたり、収拾のつかなくなるほどの大騒ぎだった。

 

 勇儀様は、静かに酒を飲みながら、私に問うた。

 

「どうだ、楽しいか」

 

「……ええ、まあ。楽しいです」

 

「そうか。ところで相談なんだがあざみ、お前、私の子分にならないか。その気前の良さと運の良さ、気に入ったよ」

 

 酔っぱらって私の着物の裾をめくろうとした鬼の顔に拳をめり込ませながら、勇儀様は言った。決して面白半分ではない、真剣な光が目に宿っている。

 

「お気持ちは嬉しいんですが、働かないと私は生計が立てられなくて……」

 

「それは私がどうにかしてやる。どうだ。私の周りにいて、身の周りのことをしたり、お遣いをしたりといった程度の業務内容だが……つまらないか?」

 

「いえ、そんなことは決してありません! ええと、じゃあ……その、私なんかが従者になってもよろしいのですか?」

 

「よろしいとも。お前は、今日から私の子分だ。私のとこにすぐ来られるように、新しい家を用意してやる。この宴会が終わったら、長屋を引き払ってこい」

 

「分かりました」

 

 私は、頷いた。これで正式に私は勇儀様の従者となったわけである。あまり話を聞いてくれそうにないが、この人……いや鬼の下なら、ひどい目を見ずに済むかもしれない。

 そう思ったが、先ほどの苦境を考えると、案外そうでもないかもしれない。

 

そう思っていると近くに酒瓶が転がってきた。手に取ってみると、よく見かける日本酒や焼酎ではなく、〝稗田之酒(ひえだのさけ)〟と書かれている。どこかで見たような銘だな、と私が首をかしげると、

 

「お、飲むかい? まあ私の部下なんだから、それくらいぐいっと飲めないとな!」

 

「え? ちょっと待って……」

 

「まあまあ、遠慮せずに飲みなって」

 

 勇儀様は蓋を開けるのを面倒くさがり、びす、と瓶に人差し指で穴を開け、私の口に突っ込んだ。濃密な酒の香りが鼻腔をくすぐり、中の透明な液体が、私の喉を滑り落ちていくと、身体がぼっと温まる感じがした。

 

「ほらほら、じゃんじゃか飲め。あんたは、この宴の主役なんだからね!」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

「うう—、頭痛い………」

 

 暗くなって旧都の店先や長屋の前で提灯に明かりが付き始める頃、宴会はお開きになり、私は痛む頭をさすりながら自分の長屋へと帰ることになった。勇儀様は私の住処を提供してくれるらしいが、それは明日からだという。だからこれであの長屋で寝起きするのは、今日で最後となるだろう。

 

 少し名残惜しい気もしたが、旧都の中心ともなれば、あの長屋よりはいいところがあるに違いない。私は、少し浮かれていた。

 

「しかし今日は、冷え込むわね……」

 

 ぴゅうと吹いた空っ風は、半そでの私の腕に吹き付け、鳥肌を生じさせた。地上ではすでに夏は終わっているというから、これからどんどん寒くなっていくのだろう。もっと厚手の生地の着物を買わなくてはならない。

 

 そんなことを考えて歩いていると、誰かが私の進行方向に立ちふさがるようにして、立っていたので、立ち止まった。その人物はかなりの大柄だったが、建物の影で顔はよく見えない。

 

「ええと……何か用ですか?」

 

「金を置いていきな。昼間、大儲けしただろう?」

 

「えーと、それが……もう宴会もしちゃったし、残りは返してしまったのでないんです」

 

「嘘をつくな。どうせ、懐に数枚小判を忍ばせてるんじゃないのか?」

 

 私を待ち伏せていた者は、どうやら昼の賭博で勝った金を強奪しようともくろんでいるらしい。こんなことが起こらぬよう、宴会と金の返還をしておいたはずなのだが、そんな考えは甘かったようである。

 

(ていうかあれ……? 私、本当にお金持ってないし、お金出さなかったら殺されるんじゃ……)

 

 その思考を読み取ったかのように、相手は一歩進んで、

 

「渡さないというなら、その命ごと貰うことにしよう」

 

「あ、あなたは……」

 

 昼間の博打で、終わった直後に飛び出した鬼だった。なるほど、自分の金を取り返しに来たということか。

 

「すみません、私はお金持ってないんです!」

 

「だから、嘘をつくなと言ってるんだ。まあ、こんなに嘘がつけるなら、少なくともお前の正体は鬼ではなかろう。殴殺してくれる」

 

「その子は鬼だよ」

 

 その時、聞きなれた声が上から聞こえた。相手の鬼と私は、同時にそちらを向く。

 

「全く、あんたもつまらない男だよねえ。小娘に金を巻き上げられたぐらいで待ち伏せして取り返すなんて、卑怯にもほどがある」

 

 勇儀様だった。建物の屋根に座っており、顔は涼やかな表情だったが、額には青筋が浮かんでいる。どう見ても、勇儀様は怒っていた。

 

「………違う、姐さん。この女は、絶対イカサマしてる。そうでなければあんなに運よく目を当て続けることなんてできるわけないだろ」

 

「だが、その子は鬼だ。嘘はつけない。私はあざみに〝イカサマはしてないか〟と訊いたんだ。それで、否定している」

 

「じゃあ、そいつは鬼じゃないんだ。姐さん。失礼だが、別の妖怪を鬼と間違えてしまったんじゃないか?」

 

 鬼は、私を指さして、言う。そういえば、と私は不思議なことに思い当たった。私は確かに妖怪であることは勇儀様に教えたが、鬼であるとまでは言っていない。さらに、角も髪に隠れて見えなかったはずである。なのに、どうやって勇儀様は私を鬼だと断定できたのだろうか。

 

 私は関係ないことを考えていたが、勇儀様の一言で、容赦ない現実に引き戻されることとなった。

 

「じゃあ、勝負してみな。あざみが鬼なら、あんたとも互角かそれ以上に戦えるはずだ」

 

 何ですと。

 

 はい、確かに私は鬼です。鬼ですが、めちゃくちゃ弱いんです。米俵1俵も持ち上げられません。拳骨一発で倒れます。やめてください。

 

 叫びたかったが、今更勇儀様が前言撤回するとは思えない。せっかく勇儀様が来て助かったと思ったのに、一転窮地に立たされている。

 

「おい、あざみ。私は強者しか認めないからな、せめてそいつぐらいは倒せよー」

 

 えええええええ⁉

 

 ちょっと待ってください。本当に無理ですって。死にます、謝るので許してください。助けて助けて助けて……。

 

 鬼の方を見ると、拳を構えている。完全にやる気である。私が戸惑っているうちに相手は距離をつめ、お互いに拳の届く範囲になった。

 

「いくぞ、らぁっ!」

 

 鬼の右拳が、私の鼻を掠める。凄まじい風圧で、私の髪がぶわりと揺れた。

 

(ひえっ……)

 

 私はそれを避けた後も、嫌な予感がして、しゃがんだ。するとその瞬間、私の頭があった位置を、敵の蹴りが通過した。

 

「もらった!」

 

 鬼は、しゃがんだため次の動きに移るのが遅くなった私の顔面に、拳を叩きこんできた。

 

――あ、死んだ。

 

 目の前で火花が散る。相手の拳は私の額に当たっていた。私はこのまま死ぬのだろうかと勝ち誇った相手の顔を見てぼうっとしていたが、なかなか死は訪れない。

 

「……あれ、意外と大丈夫……?」

 

 首をかしげると、殴った鬼の方が、「そんな馬鹿な……」と呟いていた。

 

「てことはひょっとして……」

 

 私は右手をしっかり握りこみ、胴に引き付け体のばねを縮めてから、鬼の顔面に右ストレートを放つ。鬼の頬に私の拳が炸裂し、頬骨が砕けたのだろう、ばきゃっ、という音と共に、鬼はもんどりうって倒れた。

 

 私はしばらく何が起こったのか分からなかったが、倒れ伏す鬼が流石に哀れになり、私は助け起こしてやろうと近づいた。しかし、その鬼は、「ち、近づくな!」と私の手を振り払い、慌てて逃げだしていった。

 

「おーい、銀二—、お前、破門なー」

 

 勇儀様は、忘れ物したぞー、と呼びかけるような調子で、逃げていく鬼—銀二という名前だと初めて知った—に追放を宣言すると、私に向き直った。

 

「あの……勇儀様」

 

「何だ? あいつかい? あいつは気にしなくていいよ。元々鬼のくせに根がせこいやつでさ。そのうち放り出しちまおうと思ってたのさ」

 

「いえ、そうではなく……なんで私、こんなに腕力が強くなって、しかも頑丈なんでしょうか」

 

「そりゃあんたが種族「鬼」だからさ。頑丈さと力強さがウリのな」

 

「いえ……実は私、確かに鬼だったんですが、まるで非力で……あんなことできるはずも無かったのに……」

 

「そりゃ、私がお前に名前をつけたからさ」

 

「え?」

 

 私は、勇儀様をまじまじと見る。名前をつけられたから、強くなった? そんな都合のいい方法があるのなら、誰だってそうする――

 

「正確に言えば、お前の本来持っていた力を取り戻した、というのが正しいかな。前にお前につけられてた名前、ありゃあ博麗の巫女があんたに課した腕かせさ。多分あんたは何かやらかして、力を封印されてたんだろ。妖怪は精神的な制約に縛られるからな。よくない名前をつけられるだけでも力が弱まるってのに、博麗の巫女にやられたんだからねえ……あんたは、元々弱体化させられていたんだよ」

 

「そうでしたか……」

 

 それを見越していたということは、勇儀様はあの時、「名前をつけてやる」と言ったのはすなわち、「力を取り戻させてやる」という意味だったのかもしれない。

 

「あの、それで、従者にしてくださるという話は……」

 

「変わらないよ。鬼に二言は無いし、むしろ今のは褒めてやる。すっとした」

 

 勇儀様はそう言った後、付け加えた。

 

「………それに、言っただろ。私は強者しか認めないって」

 

 

 




1、2話は長めになりましたが、3話以降は平均5000文字で、読みやすくなると思います。


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第3話 古明地さとりの書斎にて

 

 

 

吹き付けてくる風がうなじをひとなでして、私はくしゅん、と大きなくしゃみをした。

 

私は朝の間に布団を新しい住居に運んでいた。そのほかに家財の類は一切なかったので、引っ越しが楽だったのは嬉しかった。早朝に布団を運んできた私に対して、勇儀様は何度も「持ち物はそれだけか」と聞いてきた。

 はいそうですよと答えると、ある程度家財は無いと不便だろ。今度買いな、と言われて2両ほど渡された。本当に太っ腹である。

 

 私は自分の家に家財を積み込むと、早速勇儀様のもとへ走り、何をすればよいのか、と訊いた。

 

「ん、じゃあ朝飯作ってくれ」

 

 勇儀様はそう言ったあと、「顔洗ってくる」と、どこかへ去ってしまった。おそらく井戸場だろう。私は勇儀様の家の台所で、何か食材は無いかとごそごそと探した。

 

「……あれ? 無い」

 

 食材は見あたらなかった。料理のために水は用意してあった。が、肝心の材料が無いのだ。

 

「もう、いつも料理しないのかな……」

 

 私は節約の為に料理を自分で覚えた(味は前に働いていた店で盗んだ)のだが、どうやら勇儀様はそうではないらしい。しかしあちこちあさってみると味噌だの酒だの山女魚(やまめ)だの、酒やつまみは見つかった。

 

「不健康ね」

 

 米を見つけることができたので、一応といでから、後で炊くことにし、ありあわせのもので料理を作った。

 

「おーい、帰ったぞー」

 

 勇儀様はしばらくして戻ってきた。顔を洗いに行ったはずなのに、顔が煤けている。何故、と訊くと近くにいたごろつきの鬼を一人、ぶちのめしてきたらしい。道理で米が炊けるほど遅く帰ってくるはずだ。

 

「もうご飯できてますよ」

 

 私はご飯をよそって、焼き魚、たくあん、卵焼き、味噌汁を出す。勇儀様は目をまんまるにして、ほかほかと湯気のたつそれらを見て、

 

「おお。こんなちゃんとした朝飯、初めて見たな。あざみは料理できたのか」

 

「できないと私の稼ぎを考えると死活問題でしたし……勇儀様はこれまで朝ご飯はどうやって?」

 

「パルスィの家に押しかけて食ってた」

 

「ああ、あの人」

 

「知ってるのか?」

 

「はい、この前ちょっと会ったことが会っただけですが」

 

 あの人がどんな朝餉(あさげ)をつくるのかは知らないが、それでも勇儀様が〝ちゃんとした朝飯〟と言っていることから推測するに、あまり上手ではなかったのかもしれない。

 

「あざみは飯、食わないのか?」

 

「あ、一緒に食べていいんですか?」

 

「当たり前だ。別々に食べて何かいいことがあるのか?」

 

 勇儀様が不思議そうに訊き返してきたので、私は首を振って、「じゃあ」と白飯と味噌汁をついだ。

 

「あれ、お前魚とたくあんは?」

 

「一つずつしかなかったので、勇儀様の方にだけ入れてます。たくあんほんとに一切れしかなかったんですが、なんであんな中途半端に残ってたんですかね……まあ私は、これがあるので大丈夫です」

 

 私は、ふふんと笑って、鶏の卵を取り出した。中身が腐ってないか心配だったが、2つあるうちの一つは割って中を見てみると大丈夫そうだったので、卵焼きにした。残る一個を私の分としたわけだが、私はそれを焼かず、こんこん、と台の端で殻を割ると、その中身をご飯の上にかけた。

 

「卵かけご飯です。庶民の味方」

 

 醤油を入れて箸でかき混ぜると、ほどよい黄色になった。さて食べようと思ったとき、勇儀様がもの欲しそうな顔をして、

 

「うまそうだね、一口くれないか」

 

「ええー、勇儀様、卵焼きと焼き魚があるじゃないですか。それ食べたらいいじゃありませんか」

 

「一口だけ、一口でいいから」

 

「……一口だけですよ」

 

「サンキュ、じゃあ一口」

 

がぶり。

 

 私が茶碗を渡すと、勇儀様は一口で、茶碗によそっていた半分を持って行ってしまった。……勇儀様の一口は、常人の一口とは違う。私はこの教訓を身をもって知った。

 

「勇儀様! 私の分……!」

 

「ごめんごめん、怒るなって。ほら、魚やるから」

 

 流石に悪いと思ったのか、勇儀様はそう言って魚の載った皿を寄越した。

 

「………ありがとうございます」

 

 新鮮さが命の魚は、まず地底の貧乏人には食べられない。どう考えても、卵かけご飯よりも焼き魚の方が貴重なのだ。私がもぐもぐと焼き魚を食べ始めると、勇儀様はそうだ、と言って話を始めた。

 

「……ところで今日は地霊殿に行く日なんだが、ついてきてくれるか?」

 

「……地霊殿?」

 

 地霊殿とは、地獄跡に建っている管理施設で、覚妖怪やら八咫烏やらがいるという、間違っても乞食が寄り付くような場所ではないということぐらいは知っている。だが、何故勇儀様はそこへ行くのだろうか。

 

「私は、旧都の取り仕切りもしてるんだ。顔も広いし、何よりこれが一番強いからね」

 

 これ、と言って拳を固める。多分喧嘩だろう。

 

「で、今月の旧都はこうこうこうでした、とさとりに言いに行く約束なんだよ。どうだ、行くか?」

 

「ずっとここに居てもしょうがないし……行きますけど、なんでそんなに確認するんですか?」

 

「会いに行く奴が奴だからな。さとり」

 

「さとり……」

 

 名前だけは知っている。古明地さとり。読心能力の持ち主で、地底のさらに下で蠢く悪霊たちを管理している者。普段は地霊殿に引きこもっており、その姿を見た者はほとんどいないという。

 

「私は思ったことしか言わないから特に気にならないんだけど、心読まれるのが嫌な奴って多いじゃないか。あざみもそういうの苦手かなと思ってな」

 

「別に私は大丈夫ですよ」

 

 特に心を読まれて困るようなことは何もない。そんなことより、どちらかというと地霊殿に入ることができるということに関心があった。

 

「勇儀様は前に何度入ったんですか?」

 

「1月に1回だから、数えきれないな……自分の目で確かめればいいさ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 地霊殿の一室、書斎では遅く起きてきたさとりに、お燐が珈琲(コーヒー)を淹れていた。香ばしい匂いが部屋を満たし、寝ぼけていたさとりの頭脳も、午前9時にしてようやく回転を始めたようだった。

 

「最近暇ねえ……ねえお燐、今日の予定は?」

 

「悪霊の視察と、……あ、今日勇儀さんが来ますね。」

 

「勇儀? ああ、旧都の報告ね。きっかし一カ月か」

 

 さとりは、部屋にかけてあるカレンダーを見て、確認した。毎月毎月、一度も休まず来ているのは勇儀の性格というよりも、約束を破るというのが種族的に難しいのだろう。さとりは勇儀のような豪快な人格の持ち主とは相性が悪いらしく、そう何度も会いたい相手ではない。

 

 しかし、言う事と思っている事が一致しているー分かりやすく言えば裏表が無いので、なんだかんだ長い期間うまく付き合っている。案外覚妖怪にとって鬼はもっとも友としやすい妖怪なのかもしれない。鬼たちがそう思っているかどうかは知らないが。

 

「どうぞ」

 

 お燐の注いだ珈琲をお礼を言って受け取り、口をつける。心地よい苦みと酸味で、目が覚めた。カフェインがさとりの仕事エンジンとでも言おうか、そのスイッチを入れるのである。これが無ければやる気が起きず、何も仕事をしない引きこもりになるので、やめることは出来ない。今やさとりは一日に5杯は飲むので、立派なカフェイン依存症である。

 

「とっても美味しいわ。最近淹れ方変えた?」

 

「わかります? コツはまずカップを温めてですね……」

 

 お燐が得意げに解説を始めようとした時、ばたんと書斎の扉が乱暴に開けられる音がした。さとりとお燐がそちらを見ると、勇儀が立っていた。

 

「よお、今月も来たぞ」

 

「お久しぶり。お燐、今言おうとしてた方法で珈琲淹れてあげて」

 

「ああ? いいよ。あたしはあれ、苦手だから。どうも炭のくずを煎じて飲んでるような感じがしてね」

 

 珈琲愛好家のさとりからすれば怒鳴りつけてやりたい気分だが、どうも勇儀にはそれが出来そうもない。まがりなりにも友人であるし、何となく憎めないところがあるのだ。

 

「……で、報告だけど、私の子分の鬼がするから」

 

「子分?」

 

 勇儀は部下の鬼が確かに数人いるが、今までは自分だけで地霊殿へ来ていた。勇儀が誰かと一緒に来るなんて珍しい。確かによく見ると、勇儀の後ろには身長160センチほどの赤紫の髪を麻の紐で束ねた少女がいた。

 

「あ、あの、初めまして。あざみといいます」

 

 おどおどしており、とてもではないが鬼には見えない。体つきも華奢で髪のせいで角も見えないが、本当に鬼なのだろうか。さとりがまじまじとあざみを見ていると、あざみは上ずった声で懐から取り出した報告書——勇儀が書いておいたのだろう——を読もうとしていた。

 

「……別に言わなくても良いわよ。その報告書を渡して頂戴」

 

 さとりがそう言うと、あざみは勇儀の方を見て、それでいいかと目で合図したようだった。勇儀が頷いてようやく、あざみはさとりに報告書を手渡した。

 

「……どうしたの、この子。攫ってきたんじゃないでしょうね」

 

「んな訳あるか。正真正銘、合意の上での子分だよな」

 

 勇儀に、「なあ?」と訊かれたあざみは、こくこくと首を縦に振っていた。本心ではどうだか。さとりはあざみの心を覗いてみることにした。

 

『悟り妖怪ってこんなに小さかったんだ……』

 

 残念ながらさとりが読めたのは、勇儀についてのコメントではなく、さとりを観察した感想だけだった。だが、言うに事欠いて小さいとは何事だろうか。確かにまださとりの胸囲は成長途中で勇儀ほどでもないが、見ればあざみもそれほど胸が大きいというわけではない。

 

「………私、心の中で考えたこともわかっちゃうんだけど」

 

 

 

 

 私は地霊殿の主というイメージからか、古明地さとりという人物の身長の高さを過大評価していたようだった。実際に会ってみると、小さい。10歳前後の容姿で、最初は私のような従者か小間使いかと思った。

 だが、入って来た時に椅子の上にふんぞり返っていたし、勇儀様が真っ先に声をかけたので「古明地さんはどこですか」などという間抜けな質問はする必要がなかった。

 

 こうした安堵から、私は相手が心を読めるということを忘れ、古明地さとりを観察していたので、当の彼女から、心を読んでいると言われたときに少しびくりとした。

 

「小さいとはなによ。小さいとは」

 

 ……どうやら身長がコンプレックスらしい。確かに失礼なことを考えたものだ。機嫌を損ねたかもしれない。後で背が伸びやすくなるという牛乳でも送ろうか。

 

「お詫びのしるしに、今度牛乳でも……」

 

「まだ食い下がるの? ほっといて」

 

(しまった。余計な一言だったか。)

 

 私はこれ以上何かを言うとさとりとの関係が修復できなくなりそうな気がしたので、黙っていることにした。

 

「だいたいあなたもちょっとばかし私より大きいからって、馬鹿にするんじゃないわよ」

 

 さとりはまくしたてた後、珈琲を飲み干し、近くにいた従者——お燐というらしい——にもう一杯を要求する。

 

「さとり様―、あんまり飲むと良くないですよ」

 

「大丈夫。淹れてきて」

 

 お燐が新しい珈琲を淹れるべく出ていくと、さとりは私と勇儀様に向き直った。

 

「ああ、もう帰っていいわよ。報告は後で読ませてもらうから。お疲れ。後、なんだか知らないけど最近はあちこちに妙なのが出てるらしいから、気を付けた方がいいわ」

 

「妙なのって何ですか?」

 

「多分悪霊か何かの類ね。私の管理してる悪霊ではないわ。しっかり数が合うもの。地上から迷い込んできたか、地底で発生したのか、よく分かってないけど」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

地霊殿からの帰り道。私と勇儀様は、仕事場(勇儀様の賭場)へと歩いていた。何故か地霊殿の周辺にはあまり長屋や店は出ていないのだが、少し歩くとすぐに地底の大通りに出た。私は勇儀様の横を歩きながら、そういえば、と言って切り出した。

 

「勇儀様は悪霊を見たことがあるんですか?」

 

「悪霊か……地上にいたころは何度か見たな」

 

「地上では、ということは地底には悪霊はいないんですか?」

 

「いや、ここの悪霊は全てさとりが管理してるからいないってわけじゃないが、勝手にその辺をうろついてたりはしないってことだ。もともとここは地獄だし、悪霊も寄り付かないのさ」

 

 なるほど、と思った。地上にいた頃は里で何度か悪霊が出たという話は聞いたが、地底でそれがないのはそんな理由があったからなのだ。

 

「でもこれからは悪霊に襲われる心配が出てくるってことですよね……」

 

 そう言うと、勇儀様は傍の屋台を見ながら、答える。

 

「……ま、ああいう霊は妖力の塊を1発ぶち当ててやったら消えるし、いてもいなくても変わらないだろ」

 

「いやー、私、そういう変な術とか使えなくて」

 

 勇儀は私の言葉を聞いて、一瞬変な顔をしたが、すぐにああそうか、と一人で納得していた。

 

「……てことは、あんたってスペルカードルールも知らないのかい?」

 

「何です、それ?」

 

 私は世情に疎い。前にあった、地底に巫女が乗り込んできたという事件の時も普通に働いていたし、興味もなかったからである。

 

「まあ、分かりやすく言うと地上ではスペルカード決闘の法があるのさ。誰が考えたんだかは知らないが、お互いに霊力、妖力、魔力、何でもいいから弾幕を作って、お互いにそれを撃ち合いながら戦うんだ」

 

 その後勇儀様の説明を聞いたので、おおよそのスペルカードルールについて把握することができた。つまり、地上にいる者たちは地底のような暴力での解決ではなく、その「決闘」で揉め事を解決しているということか。

 

「まああたしは教えるの苦手だし、そういう妖力の引き出しとかはやりたきゃ勝手にやりな」

 

「はあ……まあ時間のある時に」

 

 といっても妖力の引き出し方など知らないし、師となる人物もいないので、頼れる武器はこの鬼の身体能力だけだろう。自分一人の身と、勇儀様に仕えるだけの実力があれば、それ以上は望まない。意外と「強くなりたい!」という願望は芽生えてこないものである。

 

(私って鬼らしくないのかな?)

 

 私は首を捻ったが、それで答えが自然と湧き出るはずもない。私は気を取り直して勇儀様の後をついて行った。

 

 

 



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第4話 異形の来訪者

 

 

 夜も更けた頃、私は明日の勇儀様と自分の分の朝食の用意をしていた。味噌汁の下準備と米とぎは前日にしておくのである。初めて勇儀様の住まいで食事を作った時は準備不足で手間がかかったが、これで時間がかなり短縮できる。

 

「……よし、これで終わりっと」

 

 具を入れた小さい鍋に蓋をして、ひとまずは準備完了、後は調理に使った道具を洗えば今日の仕事は終わりである。勇儀様は会議があるとかで明日の朝に帰ってくるそうなので、今日は空き時間が多かった。

 

私は水に濡れないようまくりあげていた袖がずり落ちてきたのを元に戻しながら、ふと思った。

 

(もう2週間か)

 

 私が勇儀様の従者になって、すでにそれほどの時間が経っているのだ。名前を貰ったあの日はまだ昨日のように思い出せるが、それだけの時間が経った証拠に、すっかり新しい生活のリズムが出来上がっていた。

 

 朝は勇儀様の家に行き朝食を作る。その後、勇儀様の賭場に行って、胴元を務めるのだ。これまでは勇儀様がずっと胴元をしていたらしいが、最近は何やらあちこちへ行く用事があって忙しいようなので、私が代行しているというわけである。最初に私が胴元としてやって来たときには、また金を巻き上げに来たと勘違いされ、勝負にならないからやめてくれと鬼たちに懇願された。

 しかし私が勇儀様の代理として胴元を務める旨を伝えると、鬼たちは安堵していつも通り博打を始め、2週間たった今でもなんとか賭場を保っている。

 

 しかし、勇儀様は何のためにあちこちへ顔を出しているのだろうか。賭場にいる勇儀様の仲間らしき鬼たちに訊いても分からなかった。私や仲間に話さないということは、別に話す必要が無いか、話したくないからなのかもしれない。

 

(………まあいいか)

 

 私は勇儀様の多くいる子分のうちの一人でしかない。勇儀様がわざわざ自分のすることを私に言う必要は無いのだ。

 

こうして1人の従者として目をかけてくれているのだから、これ以上何かを勇儀様に求めるべきではないのだ。……とはいえ、やはり何か隠し事をされていると思うとなぜだかもやもやとした気持ちがわだかまってくる。

 

(……あーもう、何してるのか気になる!)

 

 叫びだしたい気持ちを抑えながら包丁を洗って片づけていると、がらがら、と戸を開ける音が聞こえてきた。

 

 勇儀様が帰って来たのだろうか、と慌てて玄関へ走った。

 

「こんばんは。……あれ、勇儀はいないの?」

 

 そこに立っていたのはパルスィだった。いつかあった時と同じ服装で、肩には白い()()(ぶくろ)を背負っている。

 

「勇儀様はお出かけです、パルスィさん」

 

「あーそう、いつ戻ってくる?」

 

「朝には帰ってくると思いますが……」

 

「じゃあ待たせてもらおうかな。明日非番だし。……ん、私どっかであなたに会ったっけ?」

 

 パルスィは私の顔をじろじろと見て、やがて緑色の眼をまんまるにした。どうやら思い出したらしい。

 

「あ、店でぶちのめされてた……ええと、名前なに?」

 

「あざみです」

 

「あざみ。あざみね。でもよく弱っちいあんたが勇儀の子分になれたわねー」

 

 パルスィは嫌味でも何でもなく、本当に感心しているようだった。

 

「はは、まあいろいろありまして……荷物、持ちましょうか?」

 

「あ、持ってくれるの? ありがと」

 

 パルスィは頭陀袋を私に手渡した。私が受け取った時、がちんと袋の中で硝子(ガラス)のぶつかる音がした。酒瓶だろうか。そう思うとパルスィは心でも読んだのか、その答えを教えてくれた。

 

「せっかくいい酒が入ったから、勇儀と呑もうと思ってたのよね。ちょっとあてが外れたけど」

 

「一応おつまみくらいは出せますけど……要ります?」

 

「ん、じゃあ貰おうかな」

 

 私はパルスィを適当な部屋に案内した。マッチで行燈に火を点けると、橙色に輝く炎が生まれ、ぼんやりと座敷を照らす。私は持っていた酒瓶入りの頭陀袋を置くと、胡瓜のからし漬けと湯飲みを持って戻った。

 

「お疲れ、でもここには暇が潰せるようなのは一つも無いのね」

 

 パルスィはきょろきょろと部屋の中を見回していたが、私の持ってきたおつまみと湯飲み、パルスィの持ち寄ったお酒以外はちゃぶ台一つしかない。畳や天井は綺麗で高級なのに他に何もないというのが奇妙なほどだった。

 

「まあ勇儀様は自分の家を寝る場所くらいにしか思ってませんし、多分どこ探しても無いですよ」

 

 勇儀様の屋敷は広く立派であるが本人がさほど興味を持っていなかったので勇儀様の寝る場所以外は掃除もされず、埃がたまったままだった。数日前に私が大掃除をしてどの部屋もようやく使用可能な状態まで戻ったのだが。

 

「そういえば勇儀がうちに朝食食べに来なくなったんだけど、あなたがご飯作ってるの?」

 

「そうです。私の仕事ですので」

 

 にこりと微笑むと、パルスィは「ふーん……妬ましい」と呟いた。最後の一言はごくわずかにしか聞こえなかったが、おそらく例の発作だろう。

 

「でも最近はあまり帰ってきませんし、何か忙しい事でもあるんでしょうか?」

 

「さあ、悪霊探しでもしてるんじゃないの? あいつ結構暇そうだし、探し出して倒してやろうとか思ってるのよ。多分」

 

「悪霊ですか……本当にいるんですかね」

 

「うん、かなり目撃者はいるから、多分いると思うわよ。最近ほんと暇だし、お目にかかってみたいわね。昨夜はこの辺りにいるのを見た奴がいるらしいけど」

 

「そういうこと言ってたら本当に来ますよ。ていうかその悪霊ってどんな姿だったんですか?」

 

「うん、それはね……」

 

 パルスィが言おうとした時、玄関から乱暴に戸を開ける音が聞こえてきた。

 

「あ、勇儀が帰って来たのかな?」

 

「…………ほんとにそうですかね」

 

 入って来た者はこちらへ向かっているようだが、床板が軋む音が全くしない。勇儀様や、比較的軽量な私でさえ歩けば少し音が鳴るのに、移動する気配があるだけで無音なのは解せない—

 

 そう思っていると、やがて私の耳には、何かを引き摺るような音が聞こえてきた。ずるり、ずるりとまるで血にまみれた肉塊を引きずるような音。パルスィも異常を察したらしく、さっと顔色を変えた。

 

「………ねえ、これって」

 

 声を出そうとするパルスィに、慌ててしっ、と人差し指を唇にあてて喋らないように頼んだが、遅かった。先ほどまでゆっくりだった移動音が、速度を増したのだ。

 

 ずるり、ずるり、ずるり………。

 

「それ」が私たちのいる座敷の前にやって来た時、パルスィは押し殺した悲鳴をあげた。行燈の光が、侵入者の影を映しだしたからだ。

 

 障子に映る影は、どう見ても普通のものではなかった。最初は巨大な栗のイガのようなシルエットだったが、よく見ると突起の先端は丸く膨れ、そのさらに先は枝分かれしていることから、どうやら手足であるらしいことが分かった。それは絶えず(うごめ)いていて、しかもおぞましいうめき声が障子越しに聞こえてくる。

 

—こいつが、まさか—

 

 息を呑みながら影を見つめていると、がたり、という音とともに指が障子に差し込まれた。黒く、乾いた血のこびり付いた指は、座敷の中と外を隔てる障子を、すうっと開けた。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、赤黒い肉塊からのびる無数の腕だった。よく見るとその腕を生やしている球体の正体は男とも女とも知れない無数の顔がびっしりとはりついたもので、その眼窩に収まっているはずの目玉は無く、闇があるばかりである。

 

悪霊は行燈の光に照らされて、人の肝臓を思わせるねっとりとしたどす黒い皮膚を晒していた。

 

「あ………ああ………」

 

 私が呆然としていると、パルスィは私の肩を掴み、後ろへ思い切り引っ張った。直後、私のいた空間をその化け物の伸ばした腕が空振りした。

 

「どうする? あんなヤバそうなやつ、勝てっこないわ。殴っても霊だから効かないだろうし……」

 

「とりあえず場所を変えましょう」

 

「どうやって。後ろは壁よ? 前はこのわけわからない奴に塞がれてるし」

 

「だから、逃げる道を作るんです」

 

 私は心の中で勇儀様に謝りながら、壁を思い切り殴りつける。

 

 どがああん!という大音量とともに壁が崩れ、外への逃げ道が出来上がった。

 

「ほら、逃げますよ!」

 

 悪霊は目の前まで迫ってきていた。私の開けた大穴から部屋を脱出する。後ろを振り返ると、悪霊は普通に壁を通り抜けてきていた。まごまごしてはいられない。私たちは、駆けだした。

 

「なんであの時は障子開けて入って来たのに、今回は普通に壁抜けできるんですか⁉」

 

「多分あなたか私を目標にしたからじゃない⁉ あの手の悪霊は取り憑こうと決めた相手がいれば、壁だろうが岩だろうがすり抜けてくるのよ!」

 

 パルスィは走りながら、後ろを見る。悪霊はすさまじいスピードで私たちを追ってきていた。

 

「私は飛ぶから!」

 

 パルスィはそう言って、空に飛びあがる。

 

「………って、私は連れて行ってくれないんですか!」

 

「ごめん。私、あなた一人抱えて飛べるほどパワーないからさ。応援呼んでくるまで頑張って逃げてて」

 

「そんな! 待って! ちょっと!」

 

 私の必死の呼びかけにパルスィは手を合わせて謝罪の意を表し、飛んで行った。私は妖力が使えないため、パルスィのように空を飛ぶことはできない。このまま地上で悪霊に追われ続けるしかないのだ。

 

 こんな鬼ごっこは二度としたくないと思っていたが、あの化け物は、どうやら私を目標にしているらしい。怪物の視線ははっきりと私に向けられているようだった。

 

「………この!」

 

 私は近くに落ちていた石を拾って悪霊に投擲する。が、石は悪霊をすりぬけて遥か後方へと飛んで行った。やはり、直接攻撃は通用しないようだ。つまり、私はあれに対抗する手段は何1つ持ち合わせていないということになる。

 

(なんで私、最近こんなに運が悪いのよ!)

 

 私は自分の運命を呪いたくなった。良いことが起こった後には、バランスをとるように悪いことが、しかも絶対に良いことに釣り合わないほどろくでもないことが起こっているのだ。

 

「あっ」

 

 私は、がつ、と言う音と、その瞬間に視界が地面に近づくのを感じた。石に蹴躓いたのだ。前のめりに手をつく。すぐに起き上がろうとした時、私の右足が、掴まれた。

 

「ひっ……!」

 

 私は振り向き、そしてそれを後悔した。私の足を掴んでいたのはあの化け物から伸びる無数の腕の一つだったからである。その手は血糊で黒ずみ爪は剥がれかけており、それでもしっかりと私の足を掴んで放さない。私は思い切り足をばたつかせ、逃れようとしたが手の力は強く、さらに他の腕に左足を掴まれる。

 

「うっ……!」

 

 両足を掴まれた私は、ずるずると後ろへ引っ張られ始めた。このまま悪霊の餌食になると、どうなるのだろう。ずたずたの肉片にされる? そしてその後に、喰われるのだろうか?

 

私は、あの悪霊に四肢を喰い千切られ、髄を(すす)られる自分の姿を想像して、震えがはしった。

 

「やめて! やめてやめてやめて!」

 

 叫ぶ。だが化け物が聞き入れるはずもなく、爪の後を地面に残しながら、私は引きずられていく。視界を、悪霊のおぞましい姿が覆いつくしていく。

 

「やめてーっ!」

 

 

 

 

「怪輪『地獄の苦輪』っ!」

 

 目の前に醜悪な悪霊の口腔が迫り、私の腕に噛みつこうとした瞬間、上空で何かが光った。瞬間、悪霊に降り注いだ光球が炸裂し、私は放り出される。悪霊は鉄をこすり合わせたような耳障りな叫びをあげ、なおも私を捕まえようと迫る。が、伸ばした腕をも光弾が粉砕し、悪霊は怯んで手を引っ込める。

 

 見上げると、光球の源らしい場所には、勇儀様ともう1人、誰かが飛んでいた。

 

「罠符『キャプチャーウェブ』」

 

 宣言とともに繰り出された光の糸は悪霊に絡みつき、がんじがらめにする。まさに悪霊は手も足も出ない状態となってしまった。

 

「え……な、何?」

 

 悪霊はもう何もできないと悟ったのか、姿が薄れていく。勇儀様ともう1人の誰かが下りてくる頃にはすっかり消えていなくなってしまっていた。

 

「ち、逃がしたか。わざわざあんたまで呼んで悪かったね、ヤマメ」

 

 勇儀様がそう言うと、もう1人—ヤマメと呼ばれた少女は「まあいいさ」と答える。どうやら格好から考えると土蜘蛛であるらしい。ヤマメは、「それよりも」と言って私を見る。

 

「あざみ、無事か?」

 

「はい、何とか……パルスィさんが呼んでくれたんですか?」

 

「ああ。そのうちここにも来るだろう。危機一髪だったな」

 

 私は、こくりと頷いた。今回は本当に死ぬかと思った。あの悪霊に絶対に話は通じないだろうし、殺そうという意志のみで動いているような奴だったのだから。

 

「でもさあ勇儀、弾幕使えば悪霊でも倒せるじゃん。なんでこの子は自分で戦わなかったの?」

 

「……弾幕が使えないんだよ。多分妖力はあるんだろうが、妖力の扱い方が分からんらしい」

 

 私はそのやりとりを聞いていて、何故だか無性に恥ずかしくなってきた。ヤマメは妖力をもとに「弾幕」とやらを使うのを当然のように考えているようだ。そんなものも使えないのか、と言っているようにも聞こえる。

 

それは、妖術も使えないにも関わらず、「自分の身さえ守れる実力があればいい」などとのたまっていた私を嘲っているようにー彼女にはそんなつもりは無いのだろうがー感じ、言い様のない羞恥心がわきあがってくる。

 

このままで本当にいいのだろうか。いつでも勇儀様が守ってくれるわけではない。また今回のような身体能力が全く意味をなさない相手とまみえたら、はたして私は身を守ることができるのだろうか?

 

そして、勇儀様の従者と言えるだけの強さを妖力を使えない私が持っているかと聞かれれば、否である。少なくとも妖力を扱えねば、いくら身体能力が高くても強いとは言えない。

 

私は気がつくと、ひとりでに勇儀様の名を呼んでいた。

 

「勇儀様」

 

「なんだい?」

 

 勇儀様に聞き返されて一瞬だけ気後れした。勇儀様は首をかしげてもう1度、

 

「何か言いたいことがあるならはっきり言いな?」

 

「あ、あの……」

 

私は、ありったけの勇気を振り絞って答える。

 

「私、妖力を使えるように……いえ、それで弾幕で戦うことができるようになりたいです。勇儀様……お願いです! 私にそれを教えてくれませんか?」

 

「……そうだな」

 

私は、勇儀様が頷いてくれるものと思った。しかし、実際の答えは

 

「駄目だ」

 

という、簡潔な、それでいて有無を言わせない響きをもった一言だった。

 

 




ここでは後書きがわりに少し世界観の補完を行う予定です。小説の中で説明すればいいのですが、やりすぎるとテンポが絶望的に悪くなるので……。

・勇義の屋敷
星熊勇義の住む巨大な御殿。あざみは別に住みかがあり、そこから通って来ている。

・パルスィと勇義の関係性
仲のいい友人。というかパルスィの性格的に勇義くらいしか友人がいない。

・悪霊
霊というよりクリーチャーっぽい。消滅したわけではなく、一時的に引っ込んでいるだけ。夜になったら普通にまた出てくる可能性が高い。

・妖術の扱えないあざみ
妖力そのものはあるが、使い方を知らない。MPがあって呪文を覚えていない状態。


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第5話 蜘蛛の糸

 

 

 

「おうおう、派手にぶっ壊してくれたねえ」

 

「うう、すみません……」

 

 悪霊は結局再び現れることは無く、私は一睡もしないまま次の日の朝を迎えた。用意しておいた朝食を食べると、私は勇儀様の賭場へいつものように行く—というわけではなく、悪霊から逃げるとき、壁に開けてしまった風穴を埋め、補修しなくてはならなかった。

 

修理の材料は勇儀様が用意してくれるらしいが、作業をするのはもちろん私である。しかしここまで寛大な処置で済ませてくれたのには、感謝しかない。

 

 私は壁に新しい木板を張り、漆喰を塗り付けていく。はっきり言って素人仕事であるため、元通りになるかは怪しい。そう言ってはおいたが、勇儀様はうんうん、と頷いてから、「でも、私の子分なんだし、自分の尻は自分で拭いな」と言われ、黙って頷くしかなかった。

 

 勇儀様はしばらく私の補修作業を眺めていたが、やがてこう切り出した。

 

「妖力の使い方を教える件だが、昨日言った通り……私じゃ駄目だ」

 

 昨夜、襲ってきた悪霊に対して、私は全く無力だった。だから妖術を使えるようになりたいと言ったのは、このままでは自分の身が危ないというだけでなく、勇儀様の従者にふさわしくないと烙印を押されるのを恐れたためだった。

 

そんな自分を見つけたとき、強くなければ、強くあろうとしなければ、勇儀様に捨てられる。そんな恐怖が私の意志の底に根を張っているのをまざまざと感じるのである。

 

(ああ、駄目だ。考えがどんどん後ろ向きに……)

 

 勇儀様は私の言葉に駄目と答え、その理由を言う前に戦闘音で目を覚ました住民が集まってしまい、それに対応するうちにうやむやになってしまっていた。

 

やはり駄目だという言葉に、私ががっくりと肩を落とすと、勇儀様は慌てて、

 

「あ、無理と言ってもお前が妖術を使えるようになるのは一向に構わない。むしろ使えるようになってほしいくらいだ。今から……」

 

 勇儀様はそこまで言って、はっと口を閉じた。

 

「……まあいい、いずれ分かることだ。とりあえずお前に妖術習得が出来ない理由としては、まず私がその、どうするかとかこうすればいいとかを教えられないからなんだ。地底にも教えられる奴はいないだろうし、ここにいる限りは無理だ」

 

「そうですか……」

 

 まあそんなこともあるだろうとは思っていたが、落胆した。単に護身用というだけでなく、実は勇儀様やヤマメの使ったような美しい技を使ってみたいという憧れもあった。しかし、それはやはり欲張りすぎというものだろう。身体能力が元に戻り、勇儀様の従者として生活が保障されている今でも、十分幸せなのだから。

 

 私が壁の修理を再開させようとしているのを見て、勇儀様は付け加える。

 

「ただ……あくまで地底で教えられる者がいないだけで、地上にはいる。ツテもある」

 

「え、それじゃあ……」

 

「私は、行ってもいいと思っている。十分に強くなって戻ってきたらな。だが、地上行きはあいつを通してからだ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「地上行き? 良いわよ」

 

 さとりは思いのほか簡単に許可してくれた。かつての異変以来地上と地底の行き来の規制は緩められ、さとりが許可を出した人物は地上へ出てもいいとされている。土蜘蛛のように病気を流行らせるおそれのある者やそもそも地上へ出たくない妖怪—例を挙げるならさとり本人だが—は地底に籠ったままで地上へ行きたいとする者はまだ少ないらしいが。

 

 さとりは書類仕事の真っ最中らしく、書類から顔も上げず黙々と作業を続けていたが、ふと私の方を見て訊いてきた。

 

「そういえば、あなたは地底出身?」

 

「いえ、地上の人里ですが」

 

「てことは地上から何かの事情で地底へ来たってことでしょ? いったいどういうわけでまた地上なんかに戻ろうと?」

 

 さとりは心底不思議そうな顔で私を見上げた。確かさとりも地上でろくな目にあわず地底へ追われてきたクチだった。だからわざわざ私が地上へ行くのを理解不能なものとして見ているのだろう。

 

「大した理由じゃありませんよ。地上に出て妖力をうまく使えるように教えてもらいに行く予定なんです」

 

「妖力? あなたひょっとして………」

 

「はい。全然術の類は使えません。あるのは、これだけ」

 

 私はそう言って腕を曲げて力こぶを作ろうとし、ぽこりとも盛り上がらないのを見て、やめた。

 

「………筋力あるようには見えないけど」

 

「いや、そう見えないかもしれないでしょうが、ちゃんと腕力はありますから!」

 

 さとりは失礼なことに懐疑的な視線を最後まで途切れさせなかったが、やがて溜息をつくと、引き出しから何かを取り出して私に投げつける。

 

 キャッチして見てみると、それは墨で何やら書きつけてある木板だった。文字を崩しすぎているため何と書いてあるかさっぱり読めない。

 

「それ、許可証。ヤマメに見せれば通してくれるわよ」

 

「ありがとうございます」

 

 私は受け取った木板を懐に仕舞う。さとりはそれを確認して作業に戻ろうとしたが、何故か顔を上げて、もう一度私を見た。

 

「ところで妖力の扱い方だけど、誰に教えてもらうの? あなたにそんな当てがあるようには見えないけど」

 

「うーん、私は会ったことないんですけど、勇儀様の友人で、茨木華扇っていう仙人らしいです」

 

「ああ、あの似非(えせ)仙人。たまーに地底に来てることもあるのよね」

 

「え、そうなんですか? じゃあわざわざ地上に行かなくても会えるじゃないですか」

 

「どうかしらね。いつもは上の妖怪の山に住んでるし、地上に行った方が早いんじゃない?」

 

「それもそうですね」

 

 妖力の扱い方を仙人に訊くというのも変な話だが、勇儀様によると魔力も霊力も妖力などは呼び名が違うだけで大体同じようなものなのだとか。勇儀様は「それにあいつは確かに仙人だけど……」と言葉を濁し、先ほどはさとりにも似非仙人と言われていたので、ひょっとすると純粋な種族としての仙人ではないのかもしれない。

 

「まあ妖力を使って弾幕を作れるようになれば地上でもお手軽に決闘できるし、師匠も妥当な人選ね。正体は分からないけど、華扇は真面目だし」

 

「へえ………」

 

 勇儀様とヤマメの、高火力で、それでいて美しい弾幕を思い出して、私は少し呆けていた。妖力を使えるようになったら、私もあの悪霊に怯えずに済むだろう。そう、わたしもあんな力を—

 

「ちょっと、起きてる?」

 

 さとりはひらひらと私の目の前で手を振っていた。

 

「あ、すみません。ぼうっとしてました」

 

「全く。あなた、心読んでてもほんとつかみどころ無いわよ。おどおどしてたり急にボーっとしたり。この前は随分失礼なことを考えてたみたいだけど?」

 

「それは謝ったじゃないですか」

 

「あ、今面倒くさいって思ったでしょ。思ってること、全部筒抜けだからね」

 

 なるほど。さとりが地上で嫌われるわけだ。面倒くさい。

 

「あーほらまた面倒くさいって思った! さっさと出ていきなさい!」

 

 私は書斎を叩きだされた。どうやら私はさとりとは先天的に相性が悪いらしい。私が溜息をつきながら地霊殿から出ようと歩いていると、向こうからさとりのペット—お燐が珈琲を持ってこちらへ向かっているのが見えた。お燐はこちらに気が付くと、たたたと駆け寄ってきた。

 

「あれ、もうお帰りかい?」

 

「はい。先ほど許可証を貰いまして」

 

「そう。ならよかった。さとり様、カフェイン切れたら荒れるから。なんかいろいろ言われなかった?」

 

「いえ、別に……」

 

「ふうん。あの人、カフェインを6時間以上摂らなかったら発狂して仕事どころじゃなくなるからねえ。だからこうしてこまめに淹れてるわけだけど」

 

 そこまでくると、珈琲も阿片(アヘン)と同じなのではなかろうか。明らかに薬漬けの患者の末期症状である。地底の端では阿片を気晴らしに吸うものがいたが、およそ最後は正視できるものではなかった。さとりも珈琲に溺れ死にしないことを願うばかりだ。

 

 私は地霊殿を出て、旧都の外へ向かった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 旧都と地底の入り口のある場所は河で遮られており、その川に唯一掛かっている橋がある。空を飛べない私はそこを通って旧都を出ることになるのだが……。

 

「あなた、地上に行くんですって? 妬ましいわ」

 

「あ、出た」

 

 やはりそこにいたのはパルスィだった。前に橋の番人と言っていたが、地底で橋と言えばここしかない。いくらか、私は彼女と会うことを予期していた。

 

「出たとは失礼ね。勇儀はもう橋を渡ってあっちにいるよ」

 

 パルスィは橋の向こうを指して、言う。勇儀様はおそらく私が許可証を確実に手にいれるとわかっていたのだろう。

 

「あなたが帰ってくるまで勇儀の朝ご飯は私が作るから、安心して修行に行きなさい」

 

「ありがとうございます。そうしてくれると私も従者として心配なく地上へ行けますので」

 

 微笑むと、何故かパルスィは舌打ちをした。彼女なりの別れの挨拶なのかもしれない。そう思った時、

 

「おーい、あざみーっ!」

 

 勇儀様の声がして、私はその方向に向かって走る。少しでも待たせるのは申し訳ない。

 私が勇儀様の声に導かれてたどり着いたのは、上へと続く大きな縦穴の真下だった。地上から吹き下ろしている風がかん高い音をたてている。その穴の真下の中心に、勇儀様とヤマメは立っていた。

 

「許可証は貰ってきたか?」

 

「はい、この通り」

 

 私が勇儀様に見せるとうん、と頷いて

 

「それじゃあ華扇に会ってしっかり妖術を習得してこい。で、帰ってからバタバタするから、帰って来ても気を抜くなよ」

 

「わかりました。必ず早くに妖術と弾幕を使えるようになって帰ってきます」

 

「よし、それじゃ餞別だ」

 

 渡されたのはずっしりと重たい巾着と手紙。手紙はどうやら華扇に向けての推薦状のようなものらしい。そして巾着は……。

 

 私はその中身を見て、息を呑んだ。中には数枚小判が入っていたのである。

 

「一応金も持っておいて問題はないはずだ。博麗の巫女に頼ったりするなら、それが一番のお守りになるだろうしな」

 

 勇儀様は笑う。当代の巫女は霊夢という名前で、歴代の巫女でも優れた才能の持ち主であり、かなり金に汚い方だという。その先代だか先々代だかの予言でここに来る羽目になったので、博麗に対して少し複雑な気分ではあるが。

 

「私は地上の様子は分かんないが、天狗どもに聞けば分かるだろう」

 

 勇儀様の言葉に、私は思わずまじまじと見てしまった。地上の様子が分からない? 地底は地上との不可侵というルールが設けられているが、今は自由に出入りできる。それならば勇儀様も地上を見たことはあるはず……。

 

そんな私の疑問を感じ取ったのか、勇儀様は勝手に答えてくれた。

 

「ああ、私は地底に入って条約が結ばれてからずっと、地上には出ていない。地上には行ってみたいとは思うんだけどな。私まで出てきちまうと、あんまし条約の意味が無いって言うか……わかるか?」

 

「ええ、まあ……」

 

 勇儀様はどうやら、今でもその条約を守っているらしい。鬼と一口に言っても嘘をつくとか約束を守る度合いにはやはり個人差、いや個鬼差がある。私は約束はできる限り守るタイプであるが、勇儀様はその面での束縛の度合いが比べ物にならない。嘘は一切つかないし、約束は最後まできっちり守り通す。これは勇儀様の美点であり、そして己の行動を縛る弱点でもあるのだろう。言ってしまえば不器用なのである。勇儀様が地上を去った理由は案外その辺りにあるのかもしれない。

 

「……もう別れの挨拶は済んだかい?」

 

 先ほどまで黙ってたたずんでいたヤマメが言った。私は飛んで地上へ行くことができないので、彼女に抱えて上まで連れて行ってもらうのである。

 

「はい。……では行ってまいります。勇儀様」

 

「気をつけてな」

 

 最後の一言は、短かった。ヤマメはすぐに私を抱え、するすると蜘蛛の糸を手繰り寄せ、上へ、上へと昇っていく。下を見ると勇儀様の姿がだんだん小さくなっていき、見えなくなった。

 

 あまりの高度に少し気が遠くなったが、ヤマメの頼もしい声が私の耳に入る。

 

「さあ、着くよ」

 

 光が天から漏れ出ていた。一条の光が差し込み、あたかもそれがヤマメの持っている蜘蛛の糸であるように錯覚する—そう思った時には、既に地上だった。

 

「うわあ……」

 

 私は地底に通じる穴から出ると、草むらに立った。やはり地上は秋が訪れていたらしく、多くの紅葉が吹き散らされ、あちこちに真紅の曼殊沙華(まんじゅしゃげ)—俗にいう彼岸花である—が咲き乱れている。

 

「私はもう行くよ。妖術習得、頑張ってね」

 

 ヤマメはそう言い残すと、穴から出していた顔を引っ込め、地底へと戻っていく。そうだ。この景色を眺めるために私は地上に来たのではない。妖力の習得、つまり茨木華扇に会わなくてはならないのだ。

 

 ぱちん、と己の頬を叩いて、気合を入れる。

 

「よし、行くか!」

 

 見上げると、頭の上には地底の暗闇ではなく、無限の蒼穹が広がっていた。

 

 

 

 




・壁の修復
鬼の持つ特性は怪力だけでなく、短い期間で橋を架けるなど、実は建築の才能を持っている。

・地底と地上の行き来を管理するさとり
旧地獄の管理に加えて、少ないとはいえ余計な仕事を増やされているため珈琲摂取量がかさむ。カフェイン急性中毒になる日は近い。

・地上へ出られない勇義
約束は絶対に破らない。この場合は、くそ真面目と変換しても構わない。


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二章 古書店の妖
第6話 夕の剣、風の舞


 

 

 

「しまった……華扇さんの家ってどこなの……?」

 

 私は地底を出たはいいが、どこへ向かえばよいのか見当がつかなかった。勇儀様は「天狗に訊け」と言っていたが、今のところちらりとも見ていない。ここは妖怪の山では無かったのだろうか。

 

 既に日は傾き、黄昏時となっていた。夕日と紅葉が入り混じり、赤と黄を基調とした万華鏡のような光景が広がっている。もう少し見ていたいところだが、今はそれどころではない。暗くなるとまたあの悪霊に襲われないとも限らないからだ。そうなれば、一巻の終わりである—

 

 その時だった。2つの黒い影が、私の頭上に落ちたのは。

 

「………どうやら人間の女のようです」

 

「あやや、こんな時に見つかるとは、運の無いお方のようですね」

 

 見上げると、そこにいたのは真っ白な髪を持ち、尻尾も生えている白狼天狗、それと、艶やかな黒い翼をもつミニスカートの女がいた。—おそらくこちらは烏天狗だ。そのうち白狼天狗の方が急降下して、私の目の前に降り立つ。

 

「射命丸様、侵入者を排除します」

 

「……ま、あなただけでやれるでしょう、椛。私はその辺で見守ってますから。あと、私を呼ぶときは文さま、と呼んでください」

 

「……了解しました」

 

 射命丸と呼ばれた烏天狗は私への興味も無さそうで、地上に下りもしていない。その様子を見た椛という白狼天狗は、ため息をつきながら、腰の刀を抜きはらう。ぎらりと光る玉鋼の輝きを目にしながら、私は一つの疑問にとらわれていた。

 

「侵入者……?」

 

 私がいつ、彼女らのテリトリーを犯したというのだろうか。私はただ地底から地上に上がって来ただけであり、地上との交流は禁止されていなかったはずなのに。

 私が首をかしげていると、抜刀した椛がじりじりと近づいてきていた。全く動かない私を見て、ひとりごちる。

 

「逃げもしないのですね。なかなか人間としては肝が据わってるし、あまり殺したくはないですが……山の掟ですので。侵入者は、排除することになっています」

 

 ………ええ⁉

 

 ひゅいん、と風を切る音と共に、椛の刀が、私の顔を引き裂かんと迫る。ここでようやく私は自分が殺されかけているということに気付いた。

 

「……危なっ!」

 

 すんでのところで右手を伸ばし、刀身を掴まえる。それでも椛は万力のような力を込め、そのまま私を斬り伏せようとした。射命丸の方は、私が椛の刀を防いだのを見て少し驚いてはいるものの、手出しはせずにただ見下ろしている。

 

「……お前、ただの人間じゃないな」

 

 椛が、鈍く光る刃の向こうで私を睨みつける。彼女の刀を素手で防いでいる時点で、人間ではないと判別はつくのだろう。しかしそれでも攻撃をやめようとしないのは、襲ってくる理由が私が人間であるかどうかは関係ないからに違いない。

 

「……大切な武具なんでしょうが、すみません」

 

 私が左手で刀の根元を持ち、力を込めると、刀はその力に耐えきれず、飴細工のようにぐにゃりと折れ曲がった。

 

「なっ………!」

 

 椛は顔に驚愕の色を浮かべながら、折れ曲がった刀を捨て、俊敏に懐から短刀を取り出す。とっさに短刀を弾き飛ばそうとした私の拳は、椛が素早く構えていた楯に防がれてしまった。

 

「死……ねっ!」

 

 楯で私の視界を塞ぎつつ、体当たりをするように短刀を突き出してくる。

 

「くっ……」

 

この短刀は避けられない。楯ごと椛を殴り飛ばすしかー

 

そう思って拳を構えた瞬間、ぞぶっ、と私の腹に短刀が突き立てられ、鋭利な痛みが走った。

 

「……よし」

 

椛は手応えありとみたのか、少しだけ緊張を緩めた。その瞬間、私は椛の楯を狙って、拳を叩きつけた。

 

がああん!と盾が金属質な音を反響させながら、吹き飛ばされる。椛もその衝撃に踏みとどまれなかったらしく、宙を舞った。

 

「……ぐっ……」

 

 椛は吹き飛ばされた後、よろよろと立ちあがった。先ほどの殴打の衝撃が骨まで伝わって折れたらしく、右腕をだらんと下ろしている。

 

私の方はというと、腹に突き刺さっている短刀から、どくどくと血が溢れていた。

 

 だが、以前ならいざしらず、本来の鬼としての力を取り戻したこの体はこの程度の傷は問題にならないはずだ。私が痛みに顔をしかめながら短刀を抜いて捨てると、血が止まり、傷がみるみるうちに塞がっていった。

 

 椛はそれを見て、ちっと舌打ちをした後、上空でにやにや笑いながら見ていた烏天狗—射命丸の方を仰ぎ見た。

 

「文様! 申し訳ありません! 手伝ってはもらえないでしょうか!」

 

「えー、さっき侵入者を排除するっていたのは椛でしょう? 頑張ったらどうですか?」

 

 椛は一瞬だけ怒気を露わにしたが、すぐに抑えて、

 

「……私の力は及びません。戦ってください」

 

 射命丸はそれを聞くと、満面の笑みを浮かべて降りてくる。

 

「そうそう、素直が一番ですよ、椛! ちゃんと言えば、いつでも私はあなたの代わりに戦ってあげますから」

 

「…………」

 

 椛の殺気は今や私というよりも射命丸に向けられているようで、怒りのあまり顔を真っ赤にしている。射命丸はどこ吹く風と涼しい顔であるが。

 

「さて、私の可愛い椛の右手を折ってくださったあなたには、ちょっとばかり仕返しをしないといけませんね」

 

 射命丸がにこやかな顔で言うと、途端に突風が吹き付け、周りの木々もざわざわと揺れ始めた。風は射命丸を中心に周囲へ吹き出しているようで、間合いを詰めようとしても、風圧のために一歩も踏み出すこともできなかった。

 

 ごうごうと吹き付ける風の中、射命丸は髪をはためかせながらこちらをじっと見据えていた。椛が立ち上るような殺気を身にまとっていたのに比べ、射命丸は全く気負う様子もなく、自然体で構えている。おそらく彼女は先ほどの椛よりもはるかに格上なのだろう。

 

 私がごくりと唾を呑みこんだその時、射命丸がふと思い出したように聞いてきた。

 

「……しかしあなた、何のためにここへ来たんですか?」

 

「え……あっ」

 

「先ほどは私たちを見つけても積極的に襲ってくるようには見えませんでしたし、何かを取りに来たようにも見えない。目的はなんですか?」

 

 そうだ、そのことをすっかり忘れていた。私は華扇に会うためにここに来たのだ。決して天狗たちと殺し合うためではない。私は勇儀様の手紙のことを思い出し、射命丸の方に差し出す。

 

「あの、これ……見てくれませんか?」

 

「……何でしょう」

 

 射命丸は風で推薦状を手元に運び、包みを開いて中身を取り出す。そして読んでいるうちに、その顔がだんだん青ざめていくのが遠目にも分かった。

 

「……え? あなた、鬼ですか?」

 

 射命丸は手紙からぎしぎしと音を立てそうなぎこちなさで顔を上げる。

 

「……はい。前髪で見えなかったかもしれませんが」

 

 私が髪を掻き分けて角を見せると、射命丸は「なるほど」と呟く。そして私を鋭く見据え—

 

 

「すみませんでしたーっ!」

 

 

 射命丸は地面に頭のてっぺんを擦りつけそうなほどの勢いで土下座した。

 

「ええー⁉」

 

 私は、そして横でも椛が唖然として土下座する射命丸を見ていた。射命丸は風で私のもとに推薦状を返すと、少し震えを帯びた声で続ける。

 

「まさか、あなたが勇儀様の従者だったとは……今までの非礼は全てそこにいる椛がやったことでして! その、私は何とぞお見逃しいただきますよう……」

 

 すると椛が急に慌て始める。

 

「え、ちょっと待ってください文様! 汚いですよ、そんな! 戦うってあなたも言ってたじゃないですか!」

 

「相手が鬼の時は話が別です! ほら、あなたも謝ってください!」

 

 ぎゃあぎゃあと内輪もめを始める2人に、私はおそるおそる声をかけた。

 

「あのう、すいません。勇儀様にこのこと言わないんで、道案内してくれませんか?」

 

 勇儀様はどうやら天狗に恐れられているらしい。私からすれば強敵のように見えた射命丸でさえあれほど怯える勇儀様の実力とは、どれほどなのかと思ったが、この状況なら道案内くらいはしてもらえるかもしれない。

 

「ええ、それくらいお安い御用です! で、確かに私は許してくれるんですよね?」

 

「もともと勇儀様に言いつけるような真似をするつもりはないんですが…」

 

 それを聞いて椛も安堵の息を吐く。勇儀様の威を借りているようでなんだか申し訳ないが、私を含め、死人無しで場を納めることができたのでこの際は仕方ない。

 

 射命丸は、ふうと一つため息をつくと、訊いて来た。

 

「で、どこに行きたいんですか?」

 

「ええと、茨木華扇さんの家まで……」

 

「なるほど、分かりました。さっそく案内しましょう」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 椛は天狗の住処へと帰ってしまったが、射命丸に連れられて私は華扇の家に向かっていた。辺りは日が落ちて、だんだん暗くなってきている。射命丸は飛べない私を抱きかかえて、夜の帳の降りつつある空を飛んでいた。

 

「えーと、あなた……いえ、あざみさんはやっぱり、地底から来たんですよね。どうして地上に?」

 

 烏天狗は新聞を作るのが好きだというから、彼女は私の話を新聞のネタにするつもりなのかもしれない。そう思いながらも、何となしに答えてしまう。

 

「ああ、私、さっき見てたと思うんですけど、鬼としての腕力とか身体能力はあるんですが、妖力がうまく使えなくて……華扇さんの元で修行をしようと思ってきてるんです」

 

「なるほど。あ、これ記事にしていいですか?」

 

「駄目です」

 

 あまり公に知られても得は無いし、写真を撮られたりなどしてもし人里に私を覚えている者が生きていたりなどしたら、面倒なことになるかもしれないからだ。

 

 射命丸は、「そうですか」と少し残念そうな顔をすると、取り出そうとしていた奇妙な機械—カメラというらしい—を仕舞う。

 

「ふむ、しかし華扇さんを師匠にするんですか……確かに師匠にするにはいいかもしれませんが、あの人多分授業料たっぷり取りますよ?」

 

「そうなんですか? 足りますかね……」

 

「さあ。まあその推薦状があれば多少割り引かれるかもしれませんが」

 

 もし華扇が射命丸くらい勇儀様を恐れていれば割り引くどころか無料にしてくれるかもしれない。だが、さとりの言い方から察するに、勇儀様とは友人のような対等な関係だったと思われるため、そんな都合のいい展開は期待できないだろう。それにそもそも、ものを教わろうという人に対して他人の名を借りて脅しつけるような真似はするべきではない。

 

「……それにしても射命丸さん、勇儀様嫌いなんですか? すごく震えてましたけど」

 

 射命丸は自分の土下座を思い出したのか、少し顔を赤くしながら、

 

「そりゃ仕方ないですよ! だって昔は妖怪の山を支配していたのは我々天狗ではなく、鬼の四天王でしたから。天狗なら誰でも星熊勇儀の名を聞いた者は震えあがるんですよ!」

 

 いったい勇儀様が地上にいたころはどうだったのだろうと思ったこともあるが、射命丸や天狗たちの怯えっぷりは尋常でない。ますます気になる所だが、流石に案内をしてくれている射命丸に昔のことを話させるのは申し訳ないので、何も言わなかった。

 

「……さて、着きましたよ」

 

 射命丸は地面に降り立つと、私を地面に下ろした。目の前にあったのは仙人の住む家にしては質素な小屋で、地底のような岩を削り取って作られたような石壁ではなく木造である。小さいながらも手入れが行き届いており、蜘蛛の巣などは1つも見当たらない。華扇は綺麗好きなのかもしれない。

 

私がそう思って小屋を眺めていると、後ろからとんとんと射命丸に肩を叩かれた。射命丸はぺこりと頭を下げ、

 

「では、私はこれで失礼します。勇儀様にどうぞよろしく」

 

「あ、ありがとうございました」

 

見送った後、私は目の前にある華扇の家に顔を向けた。

 

 中は明かりが灯っているし、おそらく中に居るだろう。私は入り口に走り寄り、とんとん、と戸を叩いた。

 

「はい、誰ですか」

 

 がらがら、と戸を開けたのは、桃色の髪の女性だった。髪を2つのお団子にしてまとめており、丸い目をぱちぱちと瞬かせている。そして目を引いたのは包帯を巻いた右腕で、事前に聞かされていた茨木華扇の姿と一致していた。

 

「ええと、あなたが、茨木華扇さんですか」

 

 彼女は不思議そうな顔をして、頷いた。それがどうした、というような表情だったが、それは続く私の一言で、驚きへと変わった。

 

「私を弟子にしてください!」

 

 

 




・突然襲ってくる天狗たち
地底から出る→迷う→天狗領域に侵入からの対決。射命丸は個人的には人間に友好的だが、それはそれ、これはこれ。

・弾幕を使ってこない椛
あざみをただの山に迷いこんだ人間と見ていたので、弾幕は使わずに手早く済ませるために白兵戦を挑む。普通に弾幕勝負を挑んでいれば勝てていた。

・鬼たちと天狗
妖怪の山を支配していた鬼の代わりに現在は最大勢力の天狗が仕切っている。ただし天狗たちは鬼のほとんどが地底へ行った後も鬼に頭が上がらない。


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第7話 仙人の庵

 

 

 弟子にしてください、と言ってから、華扇と私の間には、微妙な沈黙が横たわっていた。それもそうだろう、踏むべき手順を踏まず、名乗りもせずにいきなり弟子入りを希望したのだから。緊張していたとはいえ、もう少し何か前置きをしてから言えばよかった、と後悔の念にとらわれていると、華扇は少し眉間に皺をよせ、

 

「あなた、その格好は何?」

 

「……あ、これは……」

 

 私は先ほど椛と戦ったせいで着物が汚れたり破れたりして、腹に至っては刺されたのでべっとりと血がついている。彼女が怪しむのも無理はない。そのことに思い至って慌てて弁解しようとすると、

 

「ちょっと来なさい」

 

「へっ?」

 

 むんず、と首根っこを掴まれ、家の中に連れ込まれる。私が戸惑っているうちに華扇はぐいぐいと私の手を引き、風呂場に叩き込んだ。

 

「体洗ってから出てきなさい。話はそれからよ」

 

「あ、はい……」

 

 風呂場は、窓が無いせいで薄暗かったが、壁の隙間から差し込む光でぼんやりとではあるが部屋の様子が分かる。

 見れば風呂桶には水が張ってあり、傍の台の上には、濡れた体を拭く布まで用意してある。時間帯を鑑みるに彼女が入る直前だったのかもしれない。完全に夜になれば光が差し込まず完全な闇になるはずだが、彼女はどうやって風呂に入るのだろうか。

 

 風呂桶にいきなり入ると血糊で真っ赤になってしまいそうなので、何回か水をすくって浴び、目につく汚れを落とすと、わたしはざぶんという音とともに風呂桶に飛び込んだ。

 

秋に水風呂は少し寒いが、いつものことで慣れている。ふうと一息ついていると、風呂場の扉に近づいてくる音がして、「いいかしら」と華扇の声が聞こえた。

 

「はい、なんでしょう」

 

 私が答えると、華扇は扉を開け、台にきちんと折りたたまれた着物と手ぬぐいを置いた。

 

「拭く物と着替え。あの着物、もう駄目みたいだから、それ着てっていいわよ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 射命丸がお金をごっそり取られるかもと言っていたので相当のどケチか守銭奴かと思っていたが、そうでもないらしい。そう思っていると、華扇は巾着と勇儀の推薦状も置いて、

 

「あとこれあなたの持ち物でしょう? 置いとくわよ」

 

「あ、その手紙は華扇さん、あなた宛てです」

 

「私宛て?」

 

 華扇は首を捻ったが、「まあいいわ。ごゆっくり」と手紙を持って風呂場を出て行った。

 

「………引き受けてくれるかな……」

 

 勇儀様の推薦もあるし、無下にはされないと思うが、華扇にも華扇の都合がある。何らかの理由で断られる可能性もあるかもしれない。もしも断られたら—おとなしく地底に帰るしかないだろう。

 

 そうなりませんように、と願いながら口元まで水に沈めていると、壁の隙間から差し込んでくる光が完全に消え、真っ暗になってしまった。射命丸に運んでもらった時はまだ山の向こうに日が昇っていたのでもう完全に夜になったのだろう、そう思っていると、どういうわけか天井が光りだした。

 

「うわあ……」

 

 おそらく光苔の一種なのだろう、天井をよく見るとわさわさとした植物が発光していた。なるほど、華扇が窓を取りつけなくても普通に風呂に入れるのは、この光苔のおかげだったのか。

 

 しかし地底でこれほど大量の光苔を見たことはない。この苔自体が非常に珍しく、生育も難しいからだ。それを明かりとして利用できるほど集めるとは、華扇も勇儀様の友人なだけあって、かなり格の高い仙人なのかもしれない。

 

 私はしばらく光苔が隙間風に揺れるのを見ていたが、流石に寒くなり、用意された布で体を拭き、着物を身に着けようとする。

 

 どしん。

 

「…………?」

 

 そのとき、背後で壁を拳で叩くような音がして、私は振り返った。ぱらぱら、と壁から木屑が落ちる。そしてまた、どしん、どしんと何度も壁を叩くような音がする。

 

「何、これ……?」

 

 続いて、べちゃり、と言う音。まるで、腐った肉を叩きつけているような—

 

「………まさか」

 

 私は地底で襲ってきたあの悪霊のことを思い出した。あの時も、私を見つける前はこうやって壁や扉をすり抜けては来ず、戸をわざわざ開いて侵入してきていた。今回も、そうなのではないか—。

 

 まだ、壁を叩く音は続いている。まるで私がここにいることを確信しているかのように……。

 

 しかし、と私は揺れる壁を見ながら首をかしげた。わざわざ地底から追いかけてきたのだから、それには何か理由があるはずである。単純に殺し損ねたからついてきたということも考えることはできるが、何となく、このバケモノは私自身を目標にして追いかけているような気がした。

 

「……ちょっとあなた、この辺に良くない気配がするんだけど……」

 

 その時、ちょうど華扇ががらりと戸を開けて入って来た。そして、外から叩いている音と揺れる壁を見て、なるほどと呟く。

 

「あの手紙、読ませてもらったわ。……あなた、なかなかいろいろ苦労してるみたいだけど……この悪霊も、あなたについてきたもの?」

 

「……はい、多分そうです。地底で襲ってきたアレだと思います」

 

「なら、仕方ないわね……」

 

 そう言って華扇が取り出したのは、彼女の武器―ではなく、赤く透き通った小さい珠のついたお守りだった。そして私に手渡すと、「ぎゅっと握りなさい」と言う。

 

 その通りにすると、しばらく壁を叩く音が聞こえていたが、だんだんその力は弱くなり、最後には聞こえなくなった。

 

「……これは、何ですか?」

 

「それは私特製の悪霊除けのお守りよ。アレに殺されたくなかったらずっと持ち歩いてなさい」

 

「え、貰ってもいいんですか?」

 

 そう訊くと、華扇は頷いて、

 

「でも、授業代は払ってもらう予定なのよ。そのお守りは、そうね……おまけみたいなものかしら」

 

「え、じゃあそれって……」

 

「ええ。あなたを私の弟子にしてあげるわ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ひとまず私は風呂場から出させられ、少し古びた座敷のある部屋に通された。しばらく待っていると華扇が戻ってきた。手には団子が何串か載った皿があり、それを畳に置くと、正座をしている私の前に、足を横に崩して座る。

 

「お団子食べる? これ、人里から買ってきた今一番おいしい店のやつよ」

 

「あ、後でいただきます……」

 

 華扇はふーん、そう、と言いながら団子を1串取る。そして一つ目のお団子にかぶりつきながら、話し始めた。

 

「あの手紙……ええ、あなたの持ってきた手紙。あれには、あなたを妖術の勉強……少なくとも弾幕ごっこができるくらいに鍛えてくれって書いてあったんだけど、それでいいのよね?」

 

「はい。……教えてくれますか?」

 

「もちろんよ。勇儀の頼みだし、別に断る理由もないから……。でもあなた、いきなり初対面の人に弟子にしてくださいっていうのはどうかと思うわよ。せめて名前くらい言いなさい」

 

 そこで私は遅まきながら、華扇に自分の名前を告げていないことに気付いた。

 

「えっと、私の名前は……」

 

「あざみ、でしょ。手紙に書いてあったわ。まあそれはいいとして……1カ月で、5両。授業料だけど、払えるかしら?」

 

 射命丸に言われていたので予想はしていたが、まさか5両とは思ってもいなかった。私は勇儀様のくれた巾着袋をとりだし、小判の枚数を確認する。

 

「……6両……か」

 

 1ヶ月分は払えるかもしれないが、2カ月以降は無理だ。修行にどれだけかかるのかわからないが、たった1ヶ月で妖術を習得できるのだろうか。

 

「ちなみに修行はあなたの才覚にもよるけど、最低でも3カ月はかかると思うわ」

 

「……足りません」

 

 そう言うと、華扇はぴくりと眉を動かした。

 

「足らない? うーん、困ったわねー」

 

「でも華扇さん、仙人ってそんなにお金がいるんですか?」

 

 私の仙人像は、もっと人や妖のいないところに住み、霞を食べて生きている、金の全く必要ない生活をしているというものである。それを言うと、華扇は少し顔を赤らめて、

 

「でも、お団子とかお菓子とか、美味しいもの食べたいし……他にも欲しいものがあるから」

 

 思いのほか、彼女は俗っぽいところもあるらしい。しかしそんな事情もあるのなら、彼女も月謝を下げるわけにはいかないだろう。しかしそのままでは私が中途半端にしか妖術を習得できない……。

 

 頭を抱えていると、華扇が不思議そうな顔をして言った。

 

「なら、自分で稼げばいいじゃない」

 

「自分で稼ぐって……どこでですか?」

 

「それはもちろん、人里よ。あなたいかにも妖怪ですってオーラ出てないし、その角も隠れて見えないし、働きに行っても妖怪って分からないんじゃないかしら」

 

 そう言われて、うっと言葉に詰まった。私はできるだけなら人里へ行きたくない。かつて私を追放した場所であり、そして今でもそれを覚えている者がいるかもしれないからである。追い出されてからどれだけの時間が経っているのか分からないが、寿命の長い者ならまだ生きている可能性がある。

 

(もう追い出されるのは嫌だ……)

 

 脳裏に、人里を追い出された日の情景が浮かび上がってきた。

 

 

 あの日、私は父親に手を引かれ、人里の外まで遊びに行った。もちろん父の目的は10歳になった私を巫女の言った通りにどこかへ捨ててくることだったが、その頃の私は初めて「遊びにいく」という体験をしていて、無邪気に喜んでいた。

 

 父と母は私を育ててはいたが私のいる間は他の里の者たちから白い目で見られていたらしく、一緒に遊びに行くという普通の親子であれば当然のはずのこともできなかったのである。

 

 何十年も経ってしまった今、両親の心情を推し量ることは無駄なことなのかもしれないが、両親も私と同じく、この子の髪が赤でなかったら、この子に角が生えていなければ、と思っていたかもしれない。

 

 山に入って栗を拾ったり鹿を追いかけたりしていると、私は突然眠気に襲われ、そばにあったふかふかの落ち葉の上に横になり、眠ってしまった。今思えば、あれは父が私を連れて出る前に食べさせた、どら焼きに眠り薬を入れられていたのかもしれない。

 

 そして目を覚まして夕方になった時には傍に父の姿はなかった。そして手に掴まされていた紙に「帰ってくるな」と書かれているのを見た時、私は博麗の巫女の予言を思い出したのである。

 

 それから山が底知れぬ闇へと落ちていく間、私はただただしゃくりあげて、その紙を握りしめることしかできなかった。頭では両親も好きで私を捨てたわけではないことは知っていたし、そうしなくてはならないことも分かっていた。だが、その時は心細くて、ただただ父と母の名を呼んで、袖を濡らしていたのである……。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「どうしたの? 何か嫌なことでも思い出した?」

 

 華扇が、私の顔の前で手をひらひらさせながら、訊いてくる。

 

「人里で働けって言ってから、何かに怯えるような顔してたわよ、あなた。そんなに人里が嫌い?」

 

「……いえ、そういうわけでは」

 

 私は、答えながら自分の臆病さに辟易していた。昔の闇に包まれていく山の中で独りぼっちだった、あの時の恐怖は今もなお心の奥底に根を張り、私の行動を縛っているのかもしれない。勇儀様のおかげで身体能力は向上していたが、すっかり染みついてしまっていた臆病さまでは、消えていないのだ。

 

「じゃあ人里に行けばいいじゃない。あなた、勇儀の従者なんでしょう? 主にわざわざ筆をとらせてここまで来たのに、人里に行きたくないっていう理由でやめるわけ?」

 

 華扇の鋭い視線は、じっと私を射すくめていた。

 

「わ、私は……」

 

 人里へ行くのは、恐ろしい。またあの時のように追い出されるようなことがあったら、と思うと、足が竦んでしまう。実際には起こりえないであろうということは分かっていても、私の心は恐ろしいと叫ぶのである。

 

「……おかしいわね。あなたみたいな臆病な子、勇儀が従者にするとは思えないんだけど」

 

 私が何も言わずに正座したまま微動だにしないのを見て、華扇はそう言い、立ち上がる。

 

「もう遅いし、今日は泊めて言ってあげる。その後、地底に帰りなさい」

 

 そう言って、華扇は戸を開ける。ここで彼女を呼び止めなければ、私にはもう妖術を習得するチャンスはないだろう。だが、それでも人里に行くよりは—

 

 

『それに、言っただろ、私は強者しか認めないって』

 

 

 ふと、勇儀様の言葉が頭に蘇った。ここで人里に行くのが怖くて、帰ってきたと勇儀様に言えば、私はどうなるのだろう? 華扇も、勇儀が臆病者を従者にするとは、と言っていたし、放り出されるということもあるのかもしれない。

 

「待って……ください」

 

 私は思わず、華扇を呼び止めた。華扇は振り返り、こちらを見る。

 

 ここでまた何も言えなかったら、私は勇儀様にも見限られ、またあの長屋での生活に逆戻りするのではないか……。1人で起き、1人で過ごし、最後に1人で死ぬ―そんな一生を送りたくない。

 

「華扇さん……私、人里に、行きますので……どうか、で、弟子に……」

 

 1つ1つ、絞り出すように言う。彼女はしばらく黙って私の目を見つめていたが、やがてにこりと笑って、

 

「じゃあ、私がいいところを紹介してあげるわ。丁度この前そこに行ったら人手が欲しいって言ってたし……鈴奈庵って、知ってる?」

 

 




・お金の価値
純粋なもとの世界の価値とは微妙に違う。
・金をせびる華扇
言うほど金には困っていない。一応意味があって仕事をさせようと考えている。
・華扇の庵
ちゃんと屋敷がある。こちらは別荘的なもの。


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第8話 3つの約束

 

 

 

 鈴奈庵。人里で本居家の営む貸本屋で、小さいながらも娯楽の本から学術の書まで幅広い書物を扱っているので大繁盛とまではいかないものの、そこそこ客足のある店である。店主の夫婦は本の仕入れに忙しく、常にここで店番をしているのは、その夫婦の娘の本居小鈴である。

 

「………よし、と」

 

 小鈴は適当に見繕った本をカウンターの上に置くと、自分専用の椅子を引き寄せ、その上に座る。窓から差し込む朝日が本を日焼けさせるとまずいので、窓は自分の座るここだけに日光が当たるように調整された位置についている。それゆえ店の中はほんのり薄暗いが、朝のこの時間は店番とはいえ自分1人で鈴奈庵を貸し切っているようなものなので、秘密基地めいた雰囲気がお気に入りなのである。

 

 幻想郷で出版される本は少ないため、もっぱら店の本は外の世界から流れつく本を置いている。外で忘れ去られたもの以外にも、外来人が落として言ったものや、結界のほつれから迷い込んできたようなものなど入手方法はさまざまだ。

 

 小鈴は開いた本を読みながら、椅子を後ろに傾け、背もたれになだれかかった。どんなにだらしない格好をしてもいいのは、客の来ない朝限定の特権である。そのままの姿勢で読書を続けていたので、誰かががらりと戸を開けて店内に入って来た時は、危うく後頭部を打ちそうになった。

 

「あ、いらっしゃいませー」

 

 ちらりと柱時計を見ると、まだ8時30分である。こんなに早く客が来るのは珍しい。そう思って客の顔を見ると—

 

「あれ、阿求?」

 

 小鈴は思わずそう言ってしまったが、すぐに友人の阿求ではないことに気が付いた。

 

 まず、髪が微妙に違う。紫がかっているはずのその髪は薄い紅がさしており、髪もおかっぱではなく、のばして後ろでまとめていた。そして着物もそれほど高級そうでない代物で、稗田家の当主とは思えない。それでも小鈴がこの少女を見て、真っ先に阿求の名を呼んだ理由はその容姿にあった。

 

 涼やかな目元やきりと引き締めている唇など、挙げればきりがないが、とにかく阿求と似ていたのである。しかしやはり他人の空似だったようで、入ってきた少女はいきなり知らない名で呼ばれ、戸惑っているようだった。

 

「え、えっと……すみません、私は、その……阿求という人ではないんですが」

 

 話してみると、やはり別人だと思った。身に纏っている雰囲気が違う。阿求の凛としたたたずまいではなく、何かに怯えるかのようにおどおどしており、少女は続けて訊いてくる。

 

「ここ……鈴奈庵ですよね」

 

「そうですよ。何か本をお探しですか?」

 

 阿求だと思ったから普通に話しかけたのだが、普通の客であればそのまま軽いノリで話し続けるのはまずい。小鈴はそう思って尋ねたが、少女は小鈴には少々予想外の答えを口にした。

 

「えっと……華扇さんの紹介で、ここで店員を募集してるって聞いてたんですけど……」

 

 それを聞いて、小鈴はこの前やって来た華扇に店員を1人募集したいともらしたことを思いだした。元々両親が言いだしたことで、小鈴が店番として役に立たないから、きちんと雇った店員が1人欲しいのだそうだ。小鈴は両親には内緒にしているが妖魔本コレクターであり、その収拾のためにこっそり店のお金を使ったり時間を割いたりしている。そんな理由で鈴奈庵の収入は芳しくなく、真面目な店員と娘を入れ替えてしまおうという魂胆らしい。

 

「華扇さんの紹介って……あなた、名前は?」

 

「あざみといいます。昨日華扇さんの弟子になりました」

 

 仙人の弟子、と訊いて、小鈴の食指がぴくりと動いた。もし仙人と同じように仙術が使えるのであれば、小鈴の大好きな妖魔本を多く発見したり詳しく研究したりすることもできるかもしない。それにまだ目の前にいるあざみはとても仙人の風格は無く、そこらにいる町娘のような雰囲気だが、自分の身を自分で守るだけの実力くらいはあるだろう。次の妖魔本は少々危険な場所にあるが、彼女に護衛を頼むことができればそこへたどり着くことができるのではないか。

 

「……あなた、妖魔本とか知らない?」

 

「え? 何ですかそれ?」

 

「妖怪が書いた本。魔導書なんかもそれにあたるわね。そういうのを読むのが私の趣味なんだけど……店員なんかやるより、今度、その入手の手伝いをしてくれないかしら」

 

「手伝いって……そんなこと言っても私、正直言って遊んでいる暇はないので……」

 

「従業員になれるように父さんと母さんに言ってあげるから。その代わり、手伝ってほしいの」

 

「うーん……」

 

 あざみは押しに弱そうだし、あともう少し頼めば妖魔本を集めるのにも協力してくれるだろう。しかも普通の人間ではなく。仙人になるのである。彼女自身が本を書くこともあるかもしれない。

 

 活字中毒者(ビブロフィリア)である小鈴は、冷めやらぬ興奮にぞくぞくと身を震わせた。それを流石に不気味に思ったのか、あざみはおそるおそる、声をかけてきた。

 

「えーと……それで私は、いつまで待てばいいんでしょうか」

 

「私の親が帰って来るまでね。それまでお客もそんなに来ないだろうし、お喋りしない?」

 

「はあ……分かりました」

 

 小鈴が椅子を押しやると、あざみはその上に、ちょこんと座った。

 

(……やっぱり、似てるわね)

 

 もし身なりを良くして阿求と同じ髪型、髪色にすれば見分けるのは難しいだろう。偶然にしても、これほど似るということはありえるのだろうか?

 

「そういえば、あなたはどこから来たの?」

 

 そう訊くと、あざみはうーん、と少し考え込んで、

 

「あちこちに住んでたんですが……まあ生まれは人里です」

 

 それはそうだろう。人里の外で人間が生まれることはほとんど無いし、生まれてもその辺をうろついている野良妖怪がぱっくりと食べてしまうこともあるからだ。見たところ彼女に武芸の心得は無さそうだし、仙人の弟子といってもろくに術も使えないだろう。だが、あちこちに住んでいた、というのが気になった。

 

「あちこちって? 人里の外によく行ってたの?」

 

「というか……かなりの時間を地底で過ごしました」

 

「えっ」

 

 地底とは、地上から追放された者たちが集まる吹き溜まりだったはずだ。そんな場所に人間が行って、無事だったのか。というかそもそも、彼女は何故地底へ行かなくてはならなかったのか。

 

 疑問が一気に湧き出してきて、小鈴はどれを質問しようか迷っているうちに、あざみは近くにあった本棚から本を一冊抜き取り、表紙を眺めていた。

 

「宇治拾遺…物語? 聞いたことないですね」

 

「読めるの?」

 

「流石にこれくらいは。小さい頃にお父さ……いえ、周りにいた人に教えてもらいました。……でも、なんだか読みづらいですね」

 

「まあ昔の本だしね」

 

 小鈴はどんな文字で書かれた文章でも読むことが出来るが、あざみはどうやら昔の本を読んだことは一度も無いらしい。頁をぱらぱらとめくり、「芥川」のところで手を止めた。

 

「……小鈴さんはこれを読んだことがありますか?」

 

「あんまり私こういう古めの本は読まないんだけど、それは知ってるわ。……えーと、確か何年も一緒になれなかった2人の男女がついに結ばれて、追手のかからない遠くまで逃げようと駆け落ちするところから始まったかな」

 

 うろ覚えなのであちこち違うような気がするが、大体こんな感じだった。こういうときは阿求の完全記憶能力が羨ましくなる。しかし小鈴のあやふやなあらすじを聞いて、あざみの瞳に少し、興味の色が揺らぐのを見た。

 

「……それで2人はどうなるんですか?」

 

「都を出て、芥の渡しを通過した二人が野原に差し掛かった時、日が落ちて真っ暗な夜になっていたわ。おまけに雨が降ったり雷が鳴ったりして、ひどい嵐になった。2人はどこかに泊まれるところはないかと、必死に雨宿りできそうなところを探すの」

 

 もともと2人とも貴族で体力のある方ではないだろうし、雨に濡れ続ければたちまち悪性の風邪を引いてしまっていただろう。

 

「男が必死に小屋はないものかと探す中、女は雷に照らされて見えた何かの影を見て、女は『あれは何?』と訊いたんだけど、男の方はそれに答える余裕もなくて、ただ黙っていた。けど、多分あれは自分たちを狙ってる鬼だろうと思って男は血眼で建物を探して、ついに荒れはてた小屋を見つけられた。2人でそこに入り、男は鬼から守るために蔵に女を入れて、自分はその前で持っていた槍を構えて、『さあ、来るなら来い。一突きにしてやる』って懸命に守っていたの」

 

 小鈴はそこで、言葉を切った。あざみは早く小鈴が続きを言わないかと思っているらしくもじもじしていたが、やがて痺れを切らして言った。

 

「……続きは?」

 

「あなたが私の妖魔本集めに協力してくれるなら、教えてあげる」

 

「……そう来ましたか……」

 

 あざみは腕を組んで、少し考え込んでいた。

 

「……ほら、ちゃんとその時には私個人からお給料あげるし……ね?」

 

「そう言われましても……私、夕方から華扇さんに修行をつけてもらう約束でして……お手伝いの内容を聞かないことには」

 

「それなら問題ないわ。昼に紅魔館の大図書館へ行くんだけど、その道中で守ってほしいの。弾幕の腕が無くてもいいから、私を守ってくれればそれでいいわ」

 

「……身を盾にする、とかでも?」

 

「それあなたが死ぬんじゃないの。……一応聞いとくけど、妖怪とやりあった経験とかある?」

 

「何度かあります。鬼とか天狗と」

 

 それを聞いて、少し驚いた。鬼はもちろん、天狗も組織化されて普通の人間では勝つのが難しい上級の妖怪である。それを相手に勝てるのであれば、まだ仙人の弟子ではあってもなかなか手練れのようである。……というかむしろ貸本屋の店員というより妖怪退治屋になればいいのに何故わざわざここに来たのだろう、と思わないでもなかったが。

 

「それなら問題ないわ。契約成立ってことで」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「小鈴さんの妖魔本集めの手伝い? 小金を稼ぐチャンスがあるんなら、少しくらいそれに乗ってもいいわよ」

 

 鈴奈庵から山に戻ってくる頃には、太陽はほんの少し西に傾いていた。私が小鈴の護衛の話をすると、華扇は思いのほかあっさりと賛成してくれた。

 

「……で、鈴奈庵の店員にはなれた?」

 

「おかげさまで」

 

 小鈴の両親が帰って来てからいくつかの質問を受けたが、すぐに私を店員として採用してくれた。小鈴のしていた店番の時間を半分私が担当し、余った時間で小鈴は仕入れのためにあちこちへ出かけなくてはならなくなったらしい。本人は嫌がる素振りを見せつつ新しい妖魔本との出会いを想像してにやにやしていた。出会った時はまともかと思ったが、割とそうでもないらしい。

 

 まともでないといえば、この目の前にいる仙人の従えている動物も、まともではないのだが。

 

「華扇さん……その鷲、妙に大きくありません?」

 

「そりゃ当然よ。これから私の道場に移動するために乗っけてもらうんだから」

 

 華扇に応えるように、大鷲がぶるぶると身を震わせる。おそらくこの大鷲以外にも使役できる動物はいるのだろう。

 

「……ていうか、この小屋があなたの家だと思ってたんですが」

 

 私が射命丸に案内された華扇の小屋を指さすと、華扇は少し笑って、

 

「それは最近建てた妖怪達との交流のための小屋よ。私の住処はちゃんと別にあるわ。そっちで客人と会うのは面倒だし、何か用があるときはこっちに来てもらうの」

 

 そう言うと、華扇は私に手を差しのべた。一緒に乗れということだろう。私はその手につかまり、大鷲に乗った。

 

「あんまり2人乗りはやらないんだけど、多分大丈夫。ちょっと寒いかもしれないけど我慢してね」

 

 びゅうう、と耳元で風が吹き荒れ、地上が遠ざかっていく。射命丸の時と同じく、山を一望できる高度で、気温の低さというよりもその高度で、鳥肌がたつ。

 

「これくらいで怖がってたら空なんて飛べやしないわよ」

 

「……分かってますって!」

 

 ふふ、と華扇が笑って少しして、私に訊いてきた。

 

「そうだ。これから修行の前に言っとくけど、あなた、妖術を身につけたら地底に帰るのよね」

 

「……まあ、ずっと勇儀様のもとを離れるわけにもいきませんし」

 

「一応、私は人間の味方だし、地底と地上の間で行き来が盛んになるのは望んでないの。だからいくつか、あなたに条件を出させてもらうわ」

 

 面倒なので聞かなかったが、華扇にもいくつかしがらみがあるようだ。私は黙って頷いた。

 

「1つ目。あなたは自分が妖怪であることを人に知られてはならない。……私は人間の味方だからね。それに霊夢、つまりは当代の博麗の巫女あたりがあなたのことを知ったら、あなたが悪い妖怪でなくても退治しにくるかもしれないわ」

 

「……気をつけます」

 

 できるだけ博麗の巫女と関わらないようにしよう、という考えがさらに大きくなった。触らぬ神にたたりなしである。

 

「2つ目。修行後は地底で過ごすこと」

 

 それは問題ない。勇儀様が地底にずっといるつもりならば、私もそこに居続ける予定であるからだ。華扇はそこを心配していたらしく、私が頷いたのをみて、ほっと息を吐いていた。

 

「そして当然だけど、3つ目……人を傷つけない。これやったら即私があなたの討伐に乗り出すわ」

 

「や、やりませんよそんな事……」

 

「ならいいわ。この3つを遵守すれば、私はちゃんとあなたに修行させてあげる。ほら、見えてきたわよ」

 

 吹きすさぶ風の向こう、緑色の山間に大きな屋敷が1つだけ、ぽつんと建っているのを華扇は指さした。

 

 

 

 




・阿求と似ている
謎の阿求タグの理由。地底にいる妖怪たちはほぼ阿求と面識がなかったので小鈴と会って判明。

・芥川
高校の教科書で紹介されて知名度が上がってきているらしい。実は2段オチ。

・華扇の条件
 あざみのことを思ってだけではなく、彼女の都合がいくつか盛り込まれている。

この形式の後書きが早くも面倒になってきました…そもそも小説の中で全部説明しろっていう話ですよね。まあ自分で言ったことなので努力はしますが。




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第9話 図書館の魔女

 

 

 

「……妖術習得って一口で言ってもね、普通は妖力なんてものは妖怪なら誰でも持ってるの。人間で言うなら筋力みたいにね」

 

「なるほど」

 

 私は華扇の屋敷の一室で、師匠である華扇の話に耳を傾けていた。座布団の上で正座しながら聞いているうちに、妖力が使えないということがどういうことであるか、具体的に分かってきた。

 

「……つまり私は、妖力の観点から言えば赤子同然というわけですね」

 

「んー、赤ん坊でも少しは腕力あるし、どちらかと言えばノミ同然と言うべきかしら」

 

「ノミ……ですか。辛辣ですね」

 

 そう言うと、華扇は苦笑して、

 

「あまり嘘はつきたくないしね。あなたの妖力はまさにノミ以下なのよ。……まあ、きっかけさえあれば難なく取り戻せると思うわ。ちょっとした努力でどんどん伸びるとは思うし。ほら、手を出しなさい」

 

 言われた通りに右手を差し出すと、華扇はそれをぎゅっと両手で握った。

 

「何ですか?」

 

「……すぐ終わるわ」

 

 そう言った瞬間、私の右手を包み込む華扇の手のひらから、じんわりと温かいものが移ってくるのを感じた。しかしそれは彼女の体温ではなく、どちらかというと「気」に近いようなものだった。それが目に見えないうねりとなって私の体を駆け巡り、全身に行き渡っていく。

 

 しばらくして、華扇は手を離した。するとあの奇妙な気の流れも断ち切られ、暖かさも嘘のように消え去っていた。華扇は私をじっと見て、やがて満足げに頷いた。

 

「これで良し。今、私の仙気を流し込んで、あなたの眠っている妖力を目覚めさせた。今はまだ分からないかもしれないけど、修行を積んでいくうちに自然と強くなるわ」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言うのは早いわ。修行はこれからだもの。今日の分は……そうね、滝に打たれてみる?」

 

「……それと妖力の成長と何の関係があるんですか?」

 

「妖怪は肉体よりも精神寄りの存在で、力の源はそれに依存しているから……うーん、そうね。分かりやすく言えば、妖力を鍛えたいんだったら心を強くしなさいって話。人里行きたくないって駄々をこねる人には難しいかしら?」

 

 華扇は少し人の悪い笑みを浮かべ、こちらを見てくる。水風呂には慣れているが、正直に言うとやりたくない。秋を過ぎて冬へ入ろうかという時に川へ飛び込めばその瞬間に震えが止まらなくなるだろう。鬼の体でも寒いものは寒いのだ。

 

「でも、やるわよね。ほら、勇儀の面子もあるわけだし?」

 

「分かりましたって。やります。やりますから!」

 

 その後私は極寒の滝行を5時間続けさせられた。歯の根が合わないほどの寒さが私の目に見える形で残したのは、少し先っぽの凍った髪だけだった。

 

 

◆◆◆

 

 

「……ということがあったんです」

 

「滝行を5時間とか、聞くだけで冷えてくるわ。よく死ななかったわね」

 

「まあ体は丈夫なので」

 

 答えると、小鈴は不安げに「本当かな……」と呟く。今日は鈴奈庵の定休日で、約束だった小鈴の護衛のため、小鈴とともに紅魔館へ向かっていた。

 

「それならいいけど……風邪ひいてて今日は全力で戦えませんとか、そういうのは無いのよね?」

 

 小鈴はなおも疑わしげにちらちらと見てくる。彼女からすれば私の体調は自分の生死に直結するのである。慎重になるのも無理はない。

 

「大丈夫ですって。それにもう半分も道を歩いてきちゃってますし、ここからなら紅魔館に行く方が早いですよ」

 

 ここからさらに歩いて霧の湖を迂回すると、その(ほとり)に紅魔館という巨大な屋敷があるらしい。なんでもそこの主は吸血鬼で、その他にも人ならざるの者たちの住まう場所なのだという。幸い上位の妖怪たちは理性的で、やってきた人間をすぐさま襲うことはないし、今回小鈴が取引する相手は紅魔館の主の友人らしいので、よほどのことが無い限り紅魔館で襲われる心配は無いだろう。むしろ心配なのは紅魔館までの道のりに現れる野良妖怪たちで、力こそ弱いが人間を食うことに躊躇いがないのだという。

 

「ほら、身を守るために家にあった刀も持ってきたわけだし。仙術ができなくても我が家に伝わる刀を一振りすれば、どんな野良妖怪でもばっさばっさと……」

 

「この刀ちょっと錆びてるみたいですがね」

 

 私は帯に差している刀を見下ろした。刀などなくとも野良妖怪程度であれば素手でも何とかできるとは言ったものの、小鈴の不安は拭い去れなかったらしい。結果、本居家の物置に眠っていた刀を持ち出して私が武装するということになった。

 

(野良妖怪って言っても貸本屋に伝わる刀なんかでそう簡単に斃せるのかな)

 

 しかも手入れもろくにしていないらしく、切れ味はあまり良くない。試しにとんとんと自分の腕を刃の部分で叩いてみたが、一滴の血も流れなかった。野良妖怪に遭遇したらさっさとこの刀を捨てて飛び掛かった方が早いかもしれない。

 

「まあいいわ。そうそう野良妖怪なんて会うもんじゃないし。今回のお目当てはもちろん魔導書(グリモワール)よ!」

 

「魔導書……? 読むと魔法が使えるようになる本ですか?」

 

「うーん、魔女ならともかく一般人には無理かな……でもあのパチュリーの蔵書だし、宝の山よ。入手できるものは今日のうちにこの箱の中に詰め込むわ」

 

 小鈴はそう言うと、背負っている木箱をとんとんと後ろ手に叩いた。本をそこに入れて帰るつもりらしい。

 

「待ってなさい、私の魔導書!」

 

……まだあなたのものではないでしょう、と胸の奥で呟きながら、私は一つ、ため息をついた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 何故か昼はずっと霧が立ち込めているという湖を横目に少し歩くと、やがて太陽の下で赤々と照らされている巨大な館が見えてきた。勇儀様の屋敷とも華扇の屋敷とも違う見たことも無い造りの建物で、赤い煉瓦を積み上げた壁によって四方を囲まれたそれは、人里などとは隔絶された世界からやって来たような、異質な雰囲気を漂わせていた。

 

 その壁の中央には門番らしき鮮やかな緑色の服を着ている女性がいて、私たちがこの館の図書館に用があることを告げると、すんなりと通してくれた。

 

 館の中に入ると、私たちが来るのを予期していたのだろう、奇妙なフリルのあしらわれた衣服を身に着けた銀髪の女性がホールの真ん中に立っていた。彼女は私たちの姿をみとめるとうやうやしく会釈して、

 

「……本居小鈴様ですね。パチュリー様から案内を指示されております、十六夜咲夜といいます。そちらは?」

 

 咲夜の目が私に向けられると、小鈴は慌てて答えた。

 

「あ、この人は私の護衛です。ほら、道中危ないですし……」

 

 咲夜はそれを聞いて「なるほど」と答えただけで、すぐに私への興味も失せたようだった。彼女はこつこつと音をたてながら歩き、ホールの扉の1つを開いた。

 

「こちらが図書館への通路です。途中は道が入り組んでおりますので、ちゃんと私についてきてください」

 

 彼女の言う通りその通路は迷路の様で、しかも薄暗かった。一定間隔でランタンが置かれていたが不思議なことにその中に炎は無く、ただぼんやりとした光の玉が浮かんでいるだけである。パチュリーという魔女の魔法だろうか。

 

「ひえー、こんなの案内なしに行けっこないわ。あなたとはぐれたらどうなるの?」

 

 小鈴が先導する咲夜に訊くと、咲夜は微笑して何も答えなかった。

 

「……離れるなってことでしょう、多分」

 

 ランタンの光はまるで閻魔の裁きを受けるために整列している人玉のようで、果ての見えない黄泉へつながる道を歩いているような気がしていたが、やがて向こうに明るい光が見え、そこにたどり着いた瞬間、小鈴は感嘆の息を漏らした。

 

 視界を埋め尽くす本棚と、その中にぎっしりと収納されている書物。鈴奈庵を初めて訪れた時は、その本の多さに驚いていたが、ここはそれとは比べ物にならない蔵書量だった。隣の小鈴は何度もため息をつきながら、高級そうな本の背表紙を撫でていた。正直気味が悪い。

 

「……ねえ、あざみちゃん。この辺りの本、ぜーんぶ外の世界のものみたい。本棚ごと持って帰りたいなあ……」

 

「泥棒しに来たんじゃなくて、取引に来たんですよね。とりあえず司書さんか、そのパチュリーさんに会うのが先ではないでしょうか」

 

「……そこの子の言う通りよ。これ以上勝手に本を持っていかれたら困るし」

 

 背後から突然声がしたので、私は驚いて振り向いた。するとそこにいたのは薄紫のネグリジェに身を包んだ、少し小柄な魔女だった。体が弱いのか、けほけほと咳をしながら彼女は私を見た。

 

「……どうも初めまして。咲夜から話は聞いてるわ、あざみさん。私はパチュリー・ノーレッジ。この魔法図書館の持ち主よ」

 

「私はパチュリー様の部下の……まあ小悪魔とでも呼んでください」

 

 パチュリーの後ろから新たにもう1人の女性が現れた。手にはティーカップが4つ載った銀の盆を持っており、傍にあったテーブルにそれを置いて、ゆっくりとお辞儀した。

 

「本を盗っていくのは魔理沙だけで十分よ。あなたは取引に来たんでしょう? 小さな貸本屋さん」

 

 パチュリーにじろりと睨まれ、小鈴はびくりとした。

 

「す、すみません……」

 

「……まあいいわ。立ったまま話すのも何だし、ゆっくり座りながらお茶しましょう」

 

 パチュリーがぱちんと指を鳴らすと、空中から4つの椅子が現れ、ごとごとと音を立てて着地した。私と小鈴は少し驚いていたが、パチュリーからすればどうということもないようで、さっさと自分の出した椅子に腰かけ、小鈴を見上げた。

 

「さ、取引といきましょう」

 

 

 

 

 それから数時間。パチュリーと小鈴の交渉は未だに続いていた。どうやらパチュリーは図書館で気に入らなかったり逆に読みすぎて完全に頭の中に内容が入ってしまったりした本をどこかに売却するつもりだったらしい。そこに小鈴が名乗りを上げ、はるばる人里からパチュリーのもとを訪れたのだが……。

 

「……ちょっと待ちなさい。この本は見かけこそ悪いけど、内容の質と量がいいのよ。そんなはした金では売れないわ」

 

「でも背表紙がぼろぼろで取れそうですしね。ほら、しおりもよれよれですし」

 

「それだけ読み込んだの。背表紙なんて後で修理すればいいじゃない」

 

「修理費込みでこの値段なんです」

 

 そう言いながら小鈴はそろばんを弾いて、パチュリーに見せていた。最初は読書仲間ということで気があったのだろう、本の話で2人は盛り上がっていたが、本の売却にあたって、苛烈な値引き戦争が行われはじめた。小鈴は出来るだけ安くするために値切り、パチュリーは小鈴が買うギリギリのところを見計らって売る。そんなことを続けているので、2人の前に置かれていたお茶は飲まれることも無く、すっかり冷めてしまっていた。

 

「パチュリー様もそれほどお金が入り用ってわけでもないのに、暇ですね……」

 

 私の目の前に座っていた小悪魔は、横目でちらりとパチュリーを見た後、私に向き直った。

 

「あなたもあの2人の話が終わるまで暇でしょう? 私司書だし、何か読みたい本があったら言ってくれたら貸してあげますが」

 

「魔導書は分かりません」

 

「別にこの図書館にあるのは魔導書だけじゃないですよ。パチュリー様、物語も普通に読みますし。どうですか?」

 

「……じゃあ面白い本を教えてください」

 

 地底にいる頃となると本を買うような余裕など無かったが、無知で、自分の前に明るい未来が開けているなどと根拠もなく確信するほど幼かった時はよく両親のどちらかが童話を読み聞かせてくれていた。久しぶりに物語の興奮と希望を味わうのも悪くないかもしれない—そう思って、私は小悪魔の提案に乗っかることにした。

 

「ささ。こっちです」

 

 小悪魔に手を引かれて立ち上がった。パチュリーも小鈴も私たちには構わず、気にしていないようだった。そして私は小悪魔に導かれ、本棚の森に足を踏み入れた。

 

「物語のスペースはここではありません。もう少し先」

 

 そう言うと、小悪魔は先にさっさと歩いて行ってしまう。確認するとここの本棚は物語や魔導書ではなく、実用書—料理や大工仕事の効率など—だった。私が小悪魔を追いかけて走ろうとしたその瞬間、視界の端に、ある本のタイトルが目に留まった。

 

「……小悪魔さん! ちょっと待ってください!」

 

 私が呼び止めると、小悪魔は引き返してきて、

 

「……どうしたんですか。急に。別に何か読みたい本が?」

 

「はい。これです」

 

 私が差し出した本を見て、小悪魔は不思議そうな顔をした。

 

「……『悪霊について』? なんでこんなものを? 悪霊に憑かれてるんですか?」

 

「ある意味そうかもしれませんが……ちょっと知りたいと思っただけです」

 

 そう言うと、小悪魔はどこかつまらなそうにしながら、

 

「悪霊の話ならその本を見なくても、私でもできますよ。聞きます?」

 

 

 

 

 

「そもそも悪霊とは、根っこの部分から妖怪や神とは違う、人の魂のなれの果てなんです」

 

 結局私は小鈴たちが話し合っている横で、小悪魔の悪霊講義を聞くことにした。今はお守りのおかげか、あの気色悪い怪物を見ずにすんでいる。しかし地底からわざわざ追いかけてきた執念を見るに、それでは根本的な解決になっていない。

 

 修行であれを撃退できるだけの力をつければいいだけの話なのだが、毎晩襲い掛かってくるのを倒すのも面倒だ。完全に消滅させることができるに越したことは無い。私は小悪魔に、地底に現れた悪霊の様子をできるだけ細かく伝えた。

 

「それで、悪霊はそのお守りをつけたら現れなくなったんですよね。……そのお守り、外さないでいいのでちょっと見せてください」

 

 私はお守りを首に下げたまま小悪魔の方に差し出した。小悪魔は少しそのお守りを見て、

 

「……魔力妨害型ですか。なるほどなるほど」

 

「何が分かったんですか?」

 

「あなたを狙う悪霊の種類くらいは。あなた誰かに怨まれてますか? そういう心当たりとか」

 

「ええ⁉ 無いですけど……。なんでそんなことを訊くんですか」

 

「あなたを襲っている悪霊は、誰かに操られてあなたを襲っているんです。そうですね……初めから説明すると、悪霊には大きく分けて2つのタイプがあるんです。1つ目は怨みを果たしたり悪さをするために自分で動き回る者。基本的にそういうのは力が強くて、自我があり、話が通じることが多いですね。2つ目は、誰かに操られて行動を起こす者。術者に使役されるときに現世とあの世の境からやってきて対象を襲います。自我はありません。あざみさんの話を聞くと、どうしても後者の印象を受けます」

 

 そう言うと、小悪魔は上着のポケットを探り、中から和服を着た操り人形を取り出した。

 

「悪霊を退けるお守りも2種類あって、自我のある悪霊を退けるものなら小さい結界を張るんですが、あなたの持っている者は使役者が悪霊に指示を与えるための魔力を止める—つまりこの操り人形の糸をぷちっと切るようにして悪霊の出現を防いでいるんです」

 

「……ということは私を狙う誰かがいて、悪霊はその操り人形にすぎないと、こういうわけですか?」

 

 小悪魔はゆっくりと頷いた。そして再び私のお守りを指し、

 

「しかもそれに込められてる魔力(仙気)、相当強力ですよ。このお守りを作った人は十分すごい人ですが、それを必要とするほど強力な呪いを差し向けられているということです。この悪霊を使役している者は相当の実力者か、あなたに強い怨みを持っているに違いありません。……誰か殺したりしました?」

 

「だから何もしてませんって!」

 

 心当たりがまるでない。あったとしても勇儀様に破門された鬼くらいだろうが、それほどひどい怨みではないだろうし、強力な術師でもなさそうだった。……ならば私は誰に呪われたのだろうか。

 

 私を殺したいと願う動機があり、かつそれを誰かに依頼する財力もしくは実行できる能力のある者。その条件を満たせる者は、少なくとも私の周りにはいないのである。幼いころに呪いがかけられていたのだとしても、今頃になって発動する意味が分からない。

 

 私が考え込んでいると、ぽん、と肩を叩かれた。

 

「終わったわ。帰りましょ」

 

 振り返ると満面の笑みを浮かべる小鈴がいた。そのさらに後ろには疲れ切った顔でテーブルに突っ伏すパチュリーがいる。どうやら値引き対決は小鈴の勝利に終わったらしい。小鈴はテーブルの上にお金を置くと、戦利品を木箱に納めて背負った。

 

「今日はありがとう。また来るわ」

 

「最近はこの辺、野良妖怪が多いから気を付けてくださいね」

 

 小悪魔はパチュリーに毛布を掛けながらそう言うと、ぺこりとお辞儀をした。私たちも礼を返してから、紅魔館を出た。

 

 

◆◆◆

 

 

「はあー、大漁大漁!」

 

 私は満足げな顔の小鈴と一緒に、夕焼けの中を歩いていた。いつの間にか図書館の中でそれほどの時間が過ぎ去ってしまっていたらしい。今から人里まで小鈴と同行して華扇の屋敷に行くまで時間が足りるかどうかが気になったが、小鈴を途中で放り出すわけにもいかない。小悪魔は野良妖怪がこの辺りによく出没すると言っていたし、夕方から夜になるにつれて遭遇率は上がるだろう。1人で帰らせるのは危ない。

 

「……パチュリーさんはそんなに楽しそうじゃなかったですけど」

 

「いいのよ。あっちは本読んでるだけでいいけど、こっちは生活がかかってるんだから。多少値引きくらいしてくれても……ね?」

 

「まあそれなら何もいいませんが……」

 

 右に森の見える道の半ばに差し掛かったその時、嫌な気配を感じ、私は立ち止まった。

 

「……どうしたの?」

 

「しっ。何か……森の方から気配が」

 

 数秒後、私の予感が的中していたことが分かった。森の中から青い甲殻と無数の足を持つ3丈ほどの大百足が飛び出してきたのだ。大百足は頭部の甲殻の隙間にある小さな両目を爛々と光らせ、私と小鈴の姿を捉えているようだった。

 

「あれが……野良妖怪ですね」

 

 噂をすれば影という奴である。私は頼りない刀を抜き、大百足に向かって正眼に構える。

 

「……その荷物は捨てて、小鈴さんは逃げてください。守り切れないかもしれません」

 

「分かったわ」

 

 小鈴はそう言うと、木箱は背負ったまま、人里へ向けて一目散に走り始めた。

 

「木箱は捨ててって言ったでしょう! 命と本、どっちが大切ですか!」

 

「本に決まってるじゃない!」

 

 小鈴が何の躊躇もなく答えるのを見て、呆れを通り越して感心してしまった。どうしてこうも私の周りには難儀な性格の持ち主が多いのだろうか。ため息をつきながら、鎌首をもたげて今にも襲い掛かってきそうな大百足を、きっと見据えた。

 

 

 




・妖怪の存在は精神に依る
メンタルが強い=本質的な生命力、強さ。妖怪が鬱病になったらかなり致命的。
・錆びている刀
物置にあった刀。無いよりはましという思考で小鈴があざみに渡した。
・フェードアウトする咲夜
パチュリーに来客を伝えたあと、すぐに仕事に戻った。
・大百足
野良妖怪。3丈(9メートル)の大きさ。成長すれば山を何巻きもする妖怪に成長するが、人の唾液に弱い。


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第10話 妖怪殺し

 

 

 

 かち。かち。かち。

 

 大百足は鋭い牙を鳴らしながら、その長い体で1人残った私の周りを囲っていく。おそらくこのまま包囲を狭めて私を絞め殺すか、あの牙で噛み殺すつもりなのだろう。いずれにせよ、このままでは危ない。刀で斬ってみようか。

 

 目のまえを高速で移動する百足の胴体に目を走らせるが、厚い群青色の鎧のような甲殻に覆われており、このなまくらな刀でそれを突き通せるかは分からなかった。

 

「……ものは試しね」

 

 私は刀を振りかぶると、目の前を移動する百足の胴体に向けて思い切り斬り下ろした。

 

 ぴしっ、という音とともに百足の甲殻―ではなく、刀にひびが入った。私の膂力で硬い百足の甲殻に打ち付けたとはいえ、とんだ骨董品である。

 

 百足は私の抵抗に気付いて激昂したのか、先ほどよりも早く牙を打ちつける音が聞こえてくる。来るか、と身構えた瞬間、私の周囲をぐるりと囲んでいた百足の胴体が、一瞬で締まった。

 

「うっ!」

 

 がっちりと百足の胴体に巻き付かれ、極められていない両の腕以外は自由に動かすことができない。百足はそのままぎりぎりと圧力をかけてきた。自身の甲殻に挟んで私を圧死させるつもりらしい。

 

 しかし私を殺すには少々力不足だったようで、息が苦しくなる程度にしか圧力を感じない。並みの人間ならここで内臓や血液を吐き出して息絶えるのだろうが、その程度の力であれば私は殺せまいーそう思った瞬間、何故かこの百足に、既視感を覚えた。

 

 だが、ゆっくりとその理由を深く考える余裕などない。息苦しいのも嫌なので、拘束を解くことにした。小鈴もそろそろ逃げ切れたころだろうし、大百足と決着をつけるべきだろう。

 

私は百足の甲殻に1つに手をかけると、力任せに一枚、べりべりと引きはがす。そして無防備な肉が露わになったところに刀を数度、突き刺した。

 

 何百もの鼠が叫んだような、甲高い悲鳴があがった。どうやらこの大百足の発したものらしく、ぐらりと体を揺らがせたかと思うとすぐに私の拘束をほどいた。そして向き直った大百足の眼は、明らかに私の姿のみを捉えていた。

 

「……話はやっぱり通じないんですね」

 

 椛や射命丸とは違い、対話のできない相手。ちょうど地底で襲ってきたあの悪霊のように。この手の敵とはどちらかが死ぬまで戦わなければならないのだろう。

 

 直後、鎌首を深くもたげた大百足はその顎をかっと開き、真っすぐ私の首めがけて飛び掛かってきた。

 

 がくん、と視界が揺れる。

 

 見下ろすと、私の首は百足の顎に挟みこまれていた。百足はそのまま力を込めながら振り回す。私の体はそれに合わせて空中でぐらぐらと揺れたが、それでも、私の首は切断されるどころか意識も飛ぶことはなかった。

 

 結局、この大百足は自身の取りうるどの手段をもってしても私を殺すことはできないのである。鬼と野良妖怪の間にある無慈悲なまでの力の差をまざまざと感じながら、私は既視感の正体を確信した。

 

 絶対的な力の差のために上位者に生殺与奪の権利を奪われ、いつ消えるか分からない人生を虚しく生きていた、私と同じではないか。

 

 私は振り回されながら百足の口の隙間に刀を差し込み、落ち着いて上へ向ける。百足は一向に死ぬ気配どころか気絶もしない私を流石に不審に思ったのか、動きを止めた。

 

「妖怪にも、来世があるといいですね」

 

 言葉は通じないと分かっていたが、野良妖怪にも手向けの言葉はいるだろう。直後、私は柔らかい百足の口腔の上へ刀の切っ先をあてがうと、天へ向けて貫いた。

 

 くたり、と私の首を挟み込んでいた百足の顎から力が抜けた。解放された私が何とか地面に着地して見上げると、百足は最後にぎょろりと目を動かして、自らの脳天を見る。

 

 そこには小鈴から借り受けた刀の切っ先が、百足の頭を串刺しにして銀色に輝いていた。

 

 百足はそのままゆっくりと倒れた。その後に少し痙攣していたが、やがて動かなくなった。

 

「…………」

 

 この百足の妖怪は人間を襲って食べていたのだろうが、今回は襲った相手が自分より強かった、とそれだけの話である。

 

それでもただ殺される側だった私がいつのまにか殺す側へと変わってしまったという事実は、(もや)のような後味の悪さを私の胸の中に残していた。

 

(これが力……か)

 

 今も私は勇儀様の従者としてふさわしくなるために強さを求めているが、力を得た後は、それをどう使えばよいのだろうかー

 

 ねっとりとした百足の血糊は、月の光に照らされながら、いつまでも手のひらにその感触を残していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 小鈴は鈴奈庵に逃げ戻ると、ぜえぜえと荒い息をしながら、壁にもたれかかっていた。

 

「し、死ぬかと思った……」

 

 やがて落ち着くと、小鈴は椅子にぼすんと座った。

 

 あれほど大きい百足の妖怪に襲われれば、小鈴はひとたまりもなかっただろう。念のためにあざみを連れて行って本当に良かった—

 

「あの子……無事かしら」

 

 思考があざみに向かって初めて、思い出した。逃げるのに無我夢中でーそれでも本は手放さなかったがー小鈴はあざみを置いてきているのである。彼女がいくら仙人の弟子で天狗たちと渡り合える手練れだといっても、あの強そうな妖怪を相手にして勝てる保証があるだろうか。

 

 もし彼女があの百足に殺されていたら……それを思い、小鈴はぞっとした。そうなってしまえば、自分のせいで人が1人死んだことになるのだから。

 

(大丈夫よね。華扇さんの弟子なんだし)

 

 そうだ。野良妖怪の2、3匹は始末できる……そう思い込もうとしたが、あざみの華奢な体で妖怪を斃すところを想像できない。むしろ非力な人間として噛み殺されているというイメージが脳裏をちらつき、小鈴の罪悪感を煽っていた。

 

「どうしよ……どうしよ……」

 

 そう言って小鈴が頭を抱えた時、とんとん、と戸を叩く音が聞こえた。

 

「小鈴さん。開けてください」

 

 あざみの声。生きていたのだと安堵して、小鈴は戸を開けた。

 

「よかった、生きてて……って。何その血⁉ 大怪我してるじゃない⁉」

 

 あざみの着物にはどす黒い血が染み込み、彼女の頬には飛び散った血を拭った痕があった。そしてもともと赤に近かった髪も完全に血の色に染められている。あざみは心配する小鈴の様子に気付いたらしく、困ったように笑って、

 

「ああ、これ全部返り血です。心配しなくても結構ですよ」

 

「流石にそれだけ血だらけで心配しない方がおかしいわ。……まあ、あなたが無事で何よりだけど」

 

 先ほどまで彼女の命を心配していたが、当の本人はあの妖怪と渡り合った後であるにも関わらず、平然としているように見えた。これほど腕が立つのに、どうして妖怪退治を生業としないのか、本当に不思議である。

 

「それと……すみません。刀が折れてしまって……」

 

 そう言うと、あざみはおずおずと刃の部分が丁度半分になってしまっている刀を差し出した。

 

「……いいのよ。物置にあった奴だし。これが無くなってても誰も気にしないわ」

 

「それならいいんですけど……」

 

 あざみは手ぬぐいを取り出して丁寧に飛び散った血糊をふき取ると、椅子を引き寄せ、その上に座った。何をするつもりか、と小鈴がじっと見ていると、あざみは期待のこもった眼で小鈴の方を見返してきた。

 

「……約束のあれ、教えてください。男の人が女の人を守って蔵の前で刀を抜いたところからです」

 

「……ああー、あれね」

 

 そういえばそんな約束もしていた。小鈴は記憶をまさぐって、話の続きを思い出した。

 

「……えーと、その男の人が蔵の前で一睡もせずにずっと見張っていたの。それでその夜……」

 

「鬼が目の前に現れたんですか?」

 

「いや。結局その晩、鬼は男の目の前には現れなかった。少しうとうとし始めた時、夜が明けて、ついに好きな人を守り切ったと思って、男の人は戸を開けたわ」

 

「じゃあそれで2人とも無事に逃げられたんですね」

 

「いや……その蔵の中にいたはずの女の人の方は、いなくなってた。男の人が押し入れの前に立ってたんだけど、鬼はもともとその蔵の中にいたの。女の人は攫われる瞬間に悲鳴をあげたんだけど、雷の音にかき消されて、戸の外にいた男の人には聞こえなかったそうよ」

 

「……なんだかやりきれないお話ですね」

 

「そうね。でもまあこれは後になって鬼一口っていう話になってからのお話で、その前の宇治拾遺物語では……」

 

 小鈴がさらに言葉を連ねようとした時、がらがらと戸を開ける音がして、誰かが入ってきた。もう夕方も過ぎてとっくに閉店しているはずなのに、一体誰が—そう思ってそちらを見ると、入って来たのは茨木華扇—あざみの師である仙人だった。華扇はあざみを見つけると、心なしか冷気を孕んだ声で、

 

「いつまで待っても来ないと思ったら……ここで何をしてるの?」

 

 顔は微笑を浮かべているが、間違いなく華扇は怒っている。あざみは冷汗を流しながら、

 

「あっ……えーと、思いのほか仕事が長引いて……それに野良妖怪と戦わないといけなかったので……」

 

「でもさっき小鈴ちゃんにお話聞かせてもらってなかった? その余裕があるならもう少し早くこっちに来られるんじゃないの?」

 

 うぐ、とあざみが言葉に詰まるのを見て、華扇はあざみの首根っこを掴まえた。

 

「ほら。さっさと帰って修行するわよ。遅れてきた分、きっついのをね」

 

「そんなあ……」

 

 あざみは情けない声をあげながら、ずるずると引きずられていった。

 

「お邪魔したわね」

 

「あ、はい。あと、遅くなったのは私のせいもあるので……そんなに怒らないであげてください」

 

「……善処するわ」

 

 華扇はあざみの肩についていた血糊をちらりと見て、そう答える。そしてそのまま2人は鈴奈庵を出ると、小鈴の見送る中、墨を流したような闇の中に消えていった。

 

 

◆◆◆

 

 

「もう、今度遅れたら魔封じの札を貼るわよ?」

 

「それはやめてください……」

 

 私は水を張った桶に雑巾を浸しながら答える。小鈴の護衛で修行に遅れた日から1週間ほどが経っていた。私は華扇に怒られ、罰として1週間、屋敷の掃除を課せられていたのだが、ようやくそれから解放されるのである。そう思って桶の水を運んでいこうとしたとき、華扇は「ちょっと待って」と私を呼び止めた。

 

「そうそう、あなた、お休みはいらない?」

 

「お休み? 元からないものだと思っていましたが」

 

私の今の生活は、真夜中から朝まで寝て、昼の間に鈴奈庵に勤め、夕方から夜は華扇の屋敷で修行、就寝する、という単純なものである。地底にいたころの働いて寝るの繰り返しよりはましになったが、お休みという概念がいまいち実感として湧いてこない。

 

「そうか……あなた、ずっと働いてたっけ。道理で嬉しそうな顔をしないわけね。鈴奈庵はお休みあるの?」

 

「はい。1週間に1日。その日は別のお仕事を入れようかと思ってるんですが」

 

「……勤勉ね。霊夢と足して2で割れば丁度いいのに」

 

 華扇はぼやきながら、うーんと唸る。

 

「どうしたんですか?」

 

「ちょっと人手が欲しい案件があるの。そのお休みの日、私と一緒に来てくれないかしら?」

 

「丁度することも無いですし、お引き受けしますが……どこに行くんです?」

 

「魔法の森よ。そこでちょっと不穏な動きがあるらしいわ」

 

 

 

 

 

 




・百足とあざみの能力差
まず負けない。身体能力に限って言えば、勇儀>あざみ>天狗>百足。
・鬼一口
2段目の落ちはここでは紹介されない。しかしこの結末が好きなら2つ目の落ちを見るのはあまりおすすめできない。


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第11話 霧は姿を隠せども

 

 

 

 遠くから何かの遠吠えが聞こえてきて、少しびくりとした。辺りを見回すが、深い霧に包まれ、視界が悪い。そこらにある木々も霧のせいで幽霊のように見える。もともとじめじめしていた場所だから気温が下がると霧が出やすいのだろう。

 

「何かここ怖いですよ……じめじめしてちょっと気分も悪いですし」

 

 私がそう言うと、前を歩く華扇は気にもしていないようで、

 

「そういえばこの辺りは茸の胞子やら何やらが飛んでたわね」

 

「早く出たいんですが……手伝ってほしい話って?」

 

 私は華扇に連れられてこの魔法の森に来ているのだが、華扇からは何をすればよいのか聞かされていなかった。こんなじめじめした森に入って、一体何をするのだろうか。

 

「……鉄砲を持った奴が、この魔法の森にいるって話。鉄砲っていう武器は聞いたことある?」

 

「……あの鉄と木でできた長筒のことですか?」

 

「そうそれ。火薬の力で鉛の弾を撃ちだして相手を殺す武器よ。妖怪でも当たったらちょっと怪我するわ。で、ここからが本題なんだけど……前に里の人間がどうしても薬を作るのに必要な茸が必要だっていうんで2人で入ったらしいの。それで茸を取っているところに、遠くから銃声が聞こえて、そのうちの1人の肩が撃ち抜かれたそうよ」

 

「それってつまり……見境なく撃ってるってことですか?」

 

 そう訊くと、華扇は周囲をきょろきょろと見回しながら、

 

「ええ。前に似たような事件があって、その時は野鉄砲っていう妖怪の仕業だったから今回もそうかと思ったんだけど……妖怪も人もすすんで魔法の森に入るわけが無いわ。現にあなたはあまりここに長居したくないでしょう?」

 

「まあ、そうですね……」

 

 瘴気が漂っているだけでなく銃を持った何者かが潜んでいると教えられたら、誰でも長居したくないと思うのは当然だろう。

 

「まあ、これだけ広い場所だから、探すのにあなたの手が必要ってわけ。人間にやらせたら危険でしょう? 霊夢が撃たれたら大変だし、人が立ち入るのは危険。だからあなたに頼んだのよ」

 

「そうですか。でもこの霧じゃいくら何でも迷いますよ。どこか先導してくれる人はいないんですか?」

 

「ええ。しばらく歩くことになるけど、そこに案内してくれそうな知り合いがいるのよ」

 

 

◆◆◆

 

 

 相変わらず霧に包まれている木々の間を通り、ようやく私と華扇は一つの家にたどり着いた。紅魔館ほど豪奢ではないが洋風で、『霧雨魔法店』の看板が掛けられている。

 

「魔理沙。来たわよ」

 

 華扇がこんこんこん、とノックすると、戸はすぐに開き、金髪を一部編みこんだ魔女の格好をした女の子がひょっこりと顔を出した。

 

「何だ、華扇か。てっきり銃を持った奴がウチに強盗しにきたのかと思ったよ」

 

「この家にそんな値打ちものがそんなにあるの? 茸か魔導書くらいでしょ」

 

「まあ、その通りだけど……って、後ろにいるのは誰なんだぜ?」

 

「私の弟子よ。あざみって言うの」

 

 それを聞いた少女—魔理沙は、「へえ、珍しいな」と言って、顔をあげた。

 

「私は霧雨魔理沙だ。よろしくな」

 

「こちらこそ。……それでなんで魔理沙さんの家に来たんですか?」

 

「魔理沙はこの森の住人だからよ。事件についていろいろ知ってるだろうし」

 

 華扇がそう言うと、魔理沙は目を丸くして、驚いたように言う。

 

「華扇、お前この森で銃を撃ちやがった奴がいるって話、聞いたのか?」

 

「ええ。人里でだけどね」

 

 どうやら魔理沙も知っているらしい。彼女は私と華扇を家に招き入れ、扉を閉める。

 

「……まあいい。私もちょっと迷惑してたところだしな。この前、撃たれかけたんで、茸探しの範囲を狭めたんだぜ。おかげで採れる茸が少ないんだ」

 

「撃たれかけた? どこで?」

 

「ここから少し離れたところにある丘を越えた向こう側の辺りだ。幻覚茸がとれる場所なんだが」

 

 私と華扇はそれを聞いて、顔を見合わせた。仮に銃を持った人物が幻覚を見る茸を独占したいのだとしても、何故そんなものを欲しがっているのかが分からない。魔理沙やパチュリーのような魔女ならともかく、一般人にはそうそう必要ないものだからだ。私たちの考えていることを察したらしく、魔理沙も首を捻りながら続ける。

 

「私も最初は人間かと思ってたんだが、霧の向こうに少し見えた影が人間にしては大きかったんだよな。だから私は銃を持った妖怪かと睨んでる」

 

「妖怪が銃を、と言うと不自然ですよね」

 

「ああ。だけど銃が危なくて近づけないし、どうしようかと思ってたんだよ。華扇は銃弾大丈夫か?」

 

「まあ流石に数発撃たれた程度じゃ死なないけど。そもそも、危なそうな話なら首を突っ込まないわ」

 

 華扇はそう言って窓から外を眺め、ますます濃くなる霧にため息をついた。

 

「……これからその場所に行きたいんだけど、案内してくれる?」

 

「いいぜ。でも鉄砲持った奴がいたら私はさっさと退散するから、後はよろしくな」

 

 魔理沙はそう言って机に置いてあった大きなとんがり帽子を被ると、白いマフラーを巻き、手袋をつけていた。

 

「あなたそんなに寒がりだったっけ?」

 

「違う。防弾マフラーだよ。硬い素材をより合わせて作ってみたんだ」

 

「また訳の分からないものを……」

 

 どうやら魔理沙もこんな森の奥まで来る客がいるのかは知らないが、一応「魔法店」を営んでいるだけあって、妙な道具を作ることもできるらしい。私が感心していると、華扇がぱちんと手を叩いた。

 

「じゃあ早速その場所に行ってみましょう」

 

 

◆◆◆

 

 

 相変わらず外は深い霧に覆われていたが、魔理沙は木々を見てすいすいと先を歩いていく。おそらくこの森は彼女にとって庭のようなものなのだろう、そう思わせるほど、自信たっぷりに進んでいた。

 

「……もうすぐ着くの?」

 

「いいや。もうちょい先だ。まあでもお前が来てくれて助かったよ。霊夢は多分動かないだろうし、そもそもあいつは妖怪に対して強くても、相手が人間だったら信仰とか立場的に強く出られないだろうしな」

 

 華扇から霊夢という名を聞いたときはどこかで聞いたことがあるような名前だな、と思った程度だったが、そういえばその名は当代の博麗の巫女の名前だった。以前の地底異変で目の前にいる魔理沙とともに地底に現れた解決者であり、最強の調停者でもあるらしい。私は面識がないので霊夢という人物がどういう人間かは知らない。

 

「そういえばちょくちょく霊夢さんって話題に上がってきますけど、どういう人なんですか?」

 

 私が訊くと、魔理沙は少し考えて答える。

 

「まあ、まずは金にがめつい奴だ。信仰しなくても多分賽銭入れれば態度変わるし。それに、面倒臭がり屋だな。あいつが修行してるの見たことないぜ」

 

 以前私が出会った巫女と比べると、霊夢は相当の不真面目であるようだった。しかし魔理沙曰く、異変の時は「とりあえず出会った奴は神だろうが妖怪だろうがぶっ飛ばす」人間であるらしい。それを聞いて、ますます博麗と関わり合いたくないという気持ちが胸の中に広がった。

 

私が自分の足で博麗神社に行くことは絶対に無いだろうな、と思いながら歩いていると、魔理沙は急に立ち止まった。

 

「……ここが例の丘?」

 

「そうだぜ。ここの向こうにいるのをよく目撃されるらしい」

 

 魔理沙はそう言って、丘—といっても森の中の少し小高い部分をそう指しているだけらしい—を登り始める。私と華扇もそれにならって好き勝手に生えている草を踏みしめながらついていった。

 

 私たちが登り切ると、魔理沙はマフラーの隙間から白い息を吐きながら、麓を指さす。

 

「………ほら、あのあたりに見えるんだ」

 

 丘からそちらを眺めると、白い靄の向こうに、確かに黒い影がいくつかちらついていた。他の木々に紛れて分かりにくいが、人の形をしたそれだけがゆらゆらと揺れている。

 

「前来た時は1人だけだったんだがな。結構数が多くなってるぜ」

 

 魔理沙は腕組みをしてため息をつく。華扇はじっと影を見つめていたが、何を思ったのか、右手を大きく振った。

 

 すると、向こうの影の一つが、華扇と同じように手を振り返してくる。いや、振り返してくるというよりは華扇の動きに連動しているといったほうが正確だろう。華扇は手を下ろすと、唖然とする魔理沙と私に振り向いて、説明を始めた。

 

「この影の正体は分かったわ。これはいわゆる「御光」ね。霧に私たちの影が映ってるだけよ。普通は高い山で霧が出た時なんかに起こるんだけど、平地でも条件が整えば起こることがある現象よ」

 

「じゃあ大きな影を見たっていうのは……」

 

「十中八九、これね。普通は気づきそうなものだけれど……多分撃たれて動転して、影が自分のものだって分からなかったんでしょ」

 

 華扇はそう言いながら、影の方へ歩き始める。

 

「だから、妖怪じゃなくて、相手は霧に隠れてこそこそ何かをしている人間よ。意外と分かりやすい事件だっ—」

 

 その瞬間、銃声が轟いた。華扇はよろめき、数歩後ずさる。そして息もつかせず、2発目、3発目の炸裂音が響き、華扇は仰向けに倒れた。

 

「……何だ⁉」

 

 走り寄ろうとする魔理沙を押さえつけて伏せさせる。華扇がこの程度の攻撃で死ぬわけはないが、魔理沙は人間である。殺し合いを目的としていない弾幕ごっこでは強くても、こんな血なまぐさい争いに巻き込むわけにはいくまい。

 

「伏せててください。本当に危ないので」

 

「……分かった。私は邪魔だろうし、さっさとふけさせてもらうぜ」

 

 魔理沙は身を屈めながら、そろそろと狙撃者と反対の方向へ歩いていく。そしてそれを確認すると、私は華扇が倒れている方へ駆け寄った。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……大丈夫ではないけど。いきなり撃たれてびっくりしただけよ」

 

 華扇は痛みに顔をしかめながら起き上がると、命中した弾丸を捨てる。

 

「銃は一回撃つと弾込めに時間がかかるはずだから、少なくとも相手は3人はいるわ。全部とっつかまえて、慧音に引き渡すのがいいでしょう」

 

 その妙に慣れた物言いは、まるで華扇が何度もそんなことをしたことがあるように聞こえた。

 

「……こういうことって、よくあることなんですか?」

 

 それを聞いた華扇は苦々しい顔をして、頷いた。

 

「たまにあるわ。普通はこんなことは無いけど、それでも罪を犯す人間は出てくる。そういう時は霊夢とか魔理沙には知らせないで私とか他の妖怪が何とかするんだけど……流石に私だけで捕まえるのは難しいから、あなたにも手伝ってもらいたくてね」

 

「……殺すんですか?」

 

「それはしない。生きたまま捕まえて」

 

 華扇の言葉に、少し安心した。私が妖怪であるといっても、人間を殺すのは嫌だった。大百足を殺した時点で私の手は汚れているのだが、やはり人を殺すのと話の通じない妖怪を殺すことの間には大きな壁がある。

 

「私は空から先回りするから、あなたはそのまま追って行って」

 

 華扇はそう言うと、ふわりと飛び上がった。そして私は指示通り、森を駆けて華扇が撃たれた時に見えた光の方へ駆ける。

 

 しかし霧が深く、どちらへ逃げたのか見当がつかない。私が立ち止まってきょろきょろと見回していると、右手から数人が急いで逃げる音が聞こえてきた。

 

「……そっちか!」

 

 私が音の聞こえる方に追いすがると、逃走者たちもそれに気づいたらしく、こちらに発砲してきた。銃弾が耳元を掠め、傍の木々に命中する。どうやら正確に命中させる余裕はなく、(めくら)撃ちしているようだった。

 

 私は視界にとらえた逃走者たちを見て、一気に追う速度を上げた。人間の、しかも銃を抱えている状態の脚力では鬼の私を撒けるはずもなく、距離はどんどん縮まっていく。そして私は最後尾を走る人間の腕を掴んで引き留めた。

 

「捕まえた」

 

 私がそう言って座ってもらおうと力を込めると、捕まった人間—無精ひげの生えた40歳ごろの人間だった—は暴れて逃げ出そうとしたので、怪我をさせないよう細心の注意を払いながら、銃を奪って組み伏せた。

 

「俺は何も知らねえ! あいつらが勝手に俺を誘ったんだ」

 

 男は逃げ切れないことを悟ると、何故か必死に弁解を始めた。私も彼らが何をしていたかも知らないのできょとんとしていたが、男は押さえつけられながら私の顔を見上げ、そして同時に驚愕の色に変わった。

 

「………本家、か」

 

 そう言うと、男はそれ以上抵抗するそぶりを見せず、おとなしくなった。男の言ったことも状況も何もかも分からなかったが、この男は放っておいて残りを追いかけたほうがいいだろうかと思い、私は顔を上げた。

 

「……そっちも捕まえたのね」

 

 すると、霧の向こうから、華扇が現れた。後ろにおとなしくお縄についている3人の男を連れ、ゆっくりと歩いてくる。そして後ろの3人は私の顔を見るや、先ほどの男と同じようにそろって驚きの表情を浮かべ、「もう気づかれてたのか」と呟く。

 

「……何をしたか全て教えてくれますか?」

 

 よくわからないが、彼らはすでに何かを諦めているように見える。話を聞けば、何が起きていたのかがはっきりとするかもしれない。

 

 華扇もそれを察したのか、何も言わず彼らのうち誰かが口を開くのを待っていた。するとそのうちの1人が口を開いて、答えた。

 

「……わかりやした。多分俺らの企みは全部調べがついてるんでしょう。本家—いや、稗田阿求様」

 

 




・霧に包まれる魔法の森
 ほぼ冬。普段はジャングルのような場所のため植物に元気がない。
・鉄砲
 妖怪にもある程度は通じる。ただし鬼や仙人レベルの相手には効果が無い。
・防弾マフラー
 物語には関係ないが、珍しく面白いアイデアが出たように感じる。いつか防弾マフラーを巻いた主人公の話を見かけたら、それは私が書いているかもしれない。
・御光
 俗に言うブロッケンの妖怪。虹が見えたりすることもあるらしい。
・人里の治安
 法はないが、問題を起こした者は村八分にあったり、妖怪にひそかに始末されたりする。


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第12話 鏡合わせの2人

 

 

 

(阿求……確か小鈴さんもこの名前を言ってたっけ)

 

 しかし稗田。稗田か。予期しないところで、因縁の家名を見ることになるとは、どういう運命のいたずらだろうか。

 

 目の前にいる男の口から稗田の名が出た瞬間、私は思わず身を固くしていた。稗田というのは、私の生まれた家の名なのだから。

 

「俺たち分家の者たちが酒屋を営んでいることはもちろん知っていますよね。その商売に陰りが見えてきたことも。分家が何代続いているかは知りませんが、少なくとも阿求様のいる稗田本家から分かれてしばらくは暮らし向きはよくありませんでした」

 

それを聞いて、私が阿求と似ている理由が何となく分かってきた。私は酒屋を営む分家、阿求は御阿礼(みあれ)の子を中心としているらしい本家と別の生まれではあるが、同じ稗田一族なのだ。同じ血族であれば顔が似ているというのも頷ける話だ。

 

 私は黙って、男が語るのを聞いていた。おそらく私が阿求でないと知ったら、この男は話すのをやめてしまうだろう。

 

「……でも、何十年か前に龍神の加護っていうのを授かって、そのおかげでよく儲かってたんです。最近どういうわけか加護が消えちまったみたいで、稗田は落ちぶれ始めてるんですが」

 

「龍神の加護って何ですか?」

 

「先代だか先々代だかの旦那様が言ってた話で、商売がうまくいくように頼んだんだそうです。本当に龍神様の加護があったのかは知りませんが……確かに繁栄はしていたんです」

 

「……龍神、ねえ」

 

 華扇が、眉をよせて考え込み始めた。龍神とは、たしかこの幻想郷を作った神と言われる存在だったか。……だが、龍神を祀る神社は幻想郷に存在していない。加護をもらうもなにも、その旦那様がどこでそんな加護を得ることができたというのだろうか。

 

 男はおずおずと顔を上げて、私を見る。話を続けていいかということだろう。私は頷き、続きを促した。

 

「……急に儲からなくなって、にっちもさっちもいかなくなりやしてね。幻覚茸の汁を混ぜた酒が大人気だってんで、茸を取りに魔法の森に来てたというわけです」

 

「じゃあ、あなたたちの持ってる鉄砲はなに?」

 

 華扇が訊くと、男は慌てて答えた。

 

「こ、これは妖怪に襲われたら応戦できるようにって旦那様が俺たちに持たせてくれたんです。実際、この辺りには妙な奴が多くて、この前なんか白黒の妙な帽子を被った奴が来たんですよ。適当に撃ったら退散しましたがね」

 

 それを聞いて、華扇はため息をついた。おそらくその白黒とは魔理沙のことだろう。お互いが妖怪の類だと勘違いし合っていたのである。通常であればそんな勘違いは起こらないだろうが、この濃霧で相手の姿がよく見えなかったのだ。

 

「華扇さん、この人たちどうします?」

 

「まあ悪意はないにせよ人を怪我させたわけだし……それに毒性のある茸を酒に混入するのも良くないわね。ていうかそれを知られないためにこの霧の中で茸狩りしてたんじゃないの?」

 

「…………」

 

 男は何も答えなかった。図星だったらしい。

 

「とりあえず死んだ人はいないから、村八分とか妖怪に引き渡すほど重い罪ではない……かといってお咎めなしっていうのは軽いわよね……」

 

 華扇がそう考え込んでいるのを見た男は私の方を見て、心配そうに訊いてくる。

 

「……阿求様の意向として、これから分家をどうするおつもりで?」

 

「あー、えっと……」

 

 もともと私は阿求ではないので意向も何も無いのだが、彼らからすれば、稗田の名に泥を塗った分家に対する本家の制裁は心配事の1つなのだろう。しかし今ここで私が「何もしない」と言って彼らを安心させることはできても、本物の阿求がそれと同じように答えるかどうか。偽阿求の私には荷が勝ちすぎる。

 

「……後で考えさせてもらいます」

 

 私が曖昧な返事をしてお茶を濁すと、男たちはいきなり罰を突き付けられなかったためか、少し安堵する気配を見せた。

 

「……それは判決が延びたってだけだけどね」

 

 そう言って男たちを嗜めると、華扇は私の方に近づいてきて、耳打ちした。

 

「……私はこれから慧音のところにこの人たちを引き渡しにいくから、あなたは本物の阿求のところにいって、分家をどうするか聞いてきなさい」

 

「ええ⁉ 私1人で、稗田本家に行くんですか?」

 

「当たり前でしょ。それにあなたならちょっといい着物着とけば勝手に家の人間も阿求と間違えて通してくれると思うわ」

 

「……普通に行ったら駄目なんですか?」

 

「駄目ってことはないだろうけど、そっちの方がやりやすいでしょう?」

 

 確かに、稗田本家ともなれば用向きも言わずに一般人が立ち入れるかどうかは怪しい。阿求のふりをして本家に潜り込むのが1番手っ取り早いだろう。

 

(でも、稗田か……)

 

 人里へ何度も来るうちに慣れはしたが、私を追い出した稗田家—今回向かわねばならないのは本家だが—となると、話は別だった。私の臆病は地上に出てからの数回の戦闘で幾分か克服できたような気がするが、稗田は私の最も恐れるもの—孤独の源なのだ。

 

「……ま、そういうわけだから。さっさと行ってきなさいよ」

 

「あの、これって役目を入れ替えることは……?」

 

「で・き・な・い。これも修行の一環よ。ほら。行きなさい」

 

……華扇は修行だと言って私をあちこちに連れまわすが、ひょっとすると私はいいように使われているだけではないのだろうか。そう思いながらも私はこっくりと頷き、薄れ始めた霧の向こうに向かって歩き出した。

 

 

◆◆◆

 

 

 ここのところ晴れ続きだが、今日も雲1つない空が頭上に広がっている。幻想郷は結界で囲まれているのでこの空もまやかしなのかもしれないが、それでも息苦しさは感じさせず、むしろ今の阿求の心を映しているかのように青々としていた。

 

(調子に乗っていっぱい借りすぎちゃったかしら?)

 

 何冊もの本を両手で抱えて、阿求はすれ違う人に気を付けながら歩いていた。昨日仕事が一段落したので、今日は鈴奈庵に行って小鈴とお喋りをしながら借りる本を選んでいたのである。

 

(やっぱり仕事をこなした後の本選びは最高ね)

 

 仕事が終わったという解放感、そしてどんな物語を読もうかという興奮のせいで、ついついいつもよりも多く本を借りてしまう。しかも今回は品ぞろえが妙に良くなっていたので、さらに数冊借りてしまった。

 

 何でも最近あの紅魔館の地下図書館から本を引っ張って来たそうで、小鈴は自慢げに魔導書を見せびらかせていた。紅魔館と言えば道中も紅魔館自体も危険度の高い場所である。だから阿求がよく行けたわね、と感心していると、小鈴は腕の立つ人を雇ったから、と答えた。

 

 腕の立つ者と言われて真っ先に思いついたのは霊夢と魔理沙だったが、2人とも小鈴に雇われるような柄ではないだろう。霊夢の賽銭箱は最近小康を保っているようだし、魔理沙もとりたければ勝手に紅魔館に侵入して盗っていくからだ。

 

 では誰が、と聞いてみると小鈴は「あざみっていううちの店員よ。まだ阿求は会ったことなかったっけ」と言っていた。

 

(新しい店員ねえ……)

 

 小鈴の話によると、阿求と顔がそっくりだそうで、暗い場所であれば見分けるのが難しいかもしれないということだった。本当に自分と姿が似ているのかどうかを確かめるために少し会ってみたい気もしたが、それは次の機会にしよう—そう考えた時に、ちょうど自分の家の前まで来ていた。

 

「帰りました」

 

 言ってから、その必要がないことに気がついた。今日は、家の者はあちこちへ出払っていて誰もいないのだ。聞いている者はいないと分かっていても、少し恥ずかしかった。ため息をつき、草履を揃えようとして—

 

「………?」

 

 阿求は、土間の隅に、自分のものの他にもう一足の赤い鼻緒の草履が揃えて置いてあるのに気がついた。誰かが自分よりも早く帰って来たのだろうか。そう思ったが、阿求はすぐに思い直した。確か稗田に出入りする者に、赤い鼻緒の草履を履いた者はいないのである。

 

ということは、客人がやって来て、何らかの理由でこの家に留まっているということだろう。

 

(でもわざわざ稗田に来て待つってことは、私に用があるのかしら)

 

 阿求は何十年、何百年もの間に幻想郷の記録を取り続けてきた御阿礼の子の9代目で、そんな立場の彼女は、時折妖怪から自分を恐ろしく書いてくれと頼まれることがあるのである。

 

 せっかく借りてきた本だが、客をあまり待たせるのもよくない。阿求は仕方なく本を自分の部屋に置き、客間へ向かうことにした。

 

 しかし自分の部屋の前まで来て障子に手をかけた時、向こうから少し光が漏れてきた。

 

(私、窓を開けっぱなしにしたかしら?)

 

 昼に何か書いたり読んだりするときは木窓を開いておくのだが、それ以外の時は盗難を防ぐためにも窓はきっちりと閉めている。阿求は少し首をかしげながら、障子を開いた。

 

「……あ、初めまして阿求さん」

 

 くすんだ緋色の着物を身に纏った1人の少女が、自分の座布団の上に正座していた。書き物をするための机、本棚などは阿求が出て行った時と何も変わっていなかったが、唯一、この少女だけがこの部屋と相容れない異分子としてそこに存在していた。

 

「……え?」

 

 そして、さらに阿求を驚かせたのは、まるで磨きこまれた鏡に映りこむ自分の姿のように、その少女があまりにも自分に似すぎていたことだった。阿求が固まっていると、少女は不思議そうに阿求を見つめながら、口を開いた。

 

「どうしたんですか?」

 

「……どうしたもこうしたもないでしょう! どうして私の部屋に上がり込んでるんですか!」

 

 それを聞いた少女は、はたとそれに気づいたような顔をして、頭を下げた。

 

「申し訳ありません。でも、ここの方がやりやすかったので」

 

 何が、と聞こうとして、阿求は彼女の右手に鉄砲が握られているのに気づき、ぎくりとした。やりやすかったというのはまさか、阿求自身を殺すことなのだろうか。

 

そう考えると、目の前の少女が阿求に似ているのも頷ける。家の者に怪しまれぬよう、阿求に化けて忍び込んできたのだ。

 

 顔が青ざめ、血の気が引いていく。目の前で剥き出しになっている銃身は鈍色に光り、そののっぺりとした輝きに似合わない獰猛さを醸し出していた。

 

そして少女が銃を持ち上げた瞬間、阿求は固く目を瞑った。転生の準備が完成していない今殺されれば、御阿礼の子は二度と生まれない。それはすなわち自分の意識がこの世から永劫に消滅してしまうことを意味していた。

 

「—っ!」

 

 身構え、弾丸が身を貫く痛みに耐えるための覚悟を決めたが、なかなかその痛みはやってこない。やがて阿求が目を開けると、銃を阿求に向けて差し出した少女が首をかしげてこちらを見つめていた。

 

「頭痛ですか? それならちゃんとした薬屋を呼んだ方がいいと思いますが」

 

「……いや、頭痛じゃなくて……ごめんなさい。ただの私の勘違いね」

 

よく考えると、阿求を消して得のある者はいない。暗殺者を差し向けられる心配はないのだ。

 

 阿求は鉄砲を受け取ると、その意外な重さに驚いた。目の前の少女は片手で無造作に渡してきたが、両手で受け取ってもずしりとくるほどの重みである。阿求はそれを自分の右手側に置いてから、目の前の少女に向き直った。

 

「……それで、私に鉄砲を渡して、何が言いたいわけですか?」

 

 

 

 

 

 

 私は魔法の森での顛末をかいつまんで話した。稗田分家の営む酒屋が振るわなくなっていること、魔法の森でとれた幻覚茸を酒に混ぜていたことも。

 

「………分家ですか」

 

 阿求はやはり稗田家の当主というべきか、じっと宙を睨んで考え事をしていた。しかし私の方は、どちらかというと阿求本人に興味があった。

 

(確かに、似てるなあ……)

 

 髪型や目の色など細かい部分を除けばほぼ私と同じ容姿で、遠い親戚であるというよりも、双子だったのではないかと思うほどだった。阿求はやがて私に目を戻し、答えた。

 

「……分かりました。後で分家の処罰に対しては追って返答するとあなたの上司にお伝えください。他の者とも話し合う必要があるので」

 

 結局本家の人間全員で話し合うのなら、私が来た意味は無かったかもしれない。そう思ったが、とりあえず仕事が終わったので、さっさとこの稗田本家から抜け出すことにした。

 

「では私はこの辺で帰らせていただき……」

 

「そういえばあなたの名前、ひょっとしてあざみじゃないですか?」

 

 阿求の問いに私が目を丸くすると、阿求はふふ、と笑って、「確かに」と呟く。

 

「確かに小鈴の言う通り……こんなに似た人間がいるなんて思いもしなかった」

 

「……同意見です」

 

 正確に言うと私は人間ではないが。そんな私の心のうちを知ってか知らずか、阿求は私の顔をまじまじと見つめ、首を捻っていた。

 

「親戚でも無いのにこんなに似るなんて……何か前世で因果があったんでしょうか?」

 

「……少なくとも私は阿求さんと会った記憶はないですがね」

 

 そもそも彼女が生まれたときには、おそらく私はすでに地底にいた。私の知る範囲では、血のつながり以外で彼女との接点は1つもない。

 

「髪型まで一緒にしたら、なかなか見分けられないかもしれないですね。ほら、私みたいに前髪をぱっつんてしたら……」

 

 そう言いながら、阿求は私の前髪を掻き分けようと右手を伸ばしてくる。

 

(まずい!)

 

 私は思わず、阿求の手を打ち払ってしまった。前髪を触られると角の感触で鬼だとすぐにばれてしまうので、普段は額に触れられないよう気を付けているのだが、少し油断していた。阿求の機嫌を損ねたのではないかとおそるおそる顔を上げると、阿求は決まりの悪そうな顔をして、

 

「あ……ごめんなさい。触られるの嫌いな人?」

 

「……いえ、そういうわけでは……こちらこそすみません。しかしそろそろ時間が時間なので、失礼させていただきます」

 

 そろそろ華扇も大方の仕事は片付いただろうし、早く阿求の言葉を伝えて帰らなければならない。すると阿求は何故か少し残念そうな顔をして、呟いた。

 

「夕方と夜の道は気をつけてくださいね。妖怪たちの時間です」

 

 私は阿求の言葉に頷くと、窓の外を見る。西の方からわずかに黄昏色の光が差し込み、()()()の時間が訪れようとしていた。

 

 




・稗田分家
酒屋を生業とする。最近まで龍神の加護があった。あざみはこちらの稗田家出身。
・稗田本家
御阿礼の子を中心としている人里の有力な家。分家と仲は悪くない。
・龍神
幻想郷を作った神様。現在はどこで何をしているのか全くの謎。


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第13話 冬はつとめて

 

 

 

「ふんぬぬぬ……」

 

 しんしんと冷え込む夜、私は華扇の道場の真ん中に座り込み、自分の掌に全集中力を注ぎ込んでいた。

 

 華扇は先日の分家の男たちを掴まえたご褒美が貰えるということで人里の自警団の所へ行き、今は私一人が留守番をしている。先日の事件で結局阿求は分家に対して負傷した人への賠償を命じただけで、他の厳しい罰は必要ないとしたらしい。最初は身内びいきかと思われたが、事件の内容は里全体に知れ渡り、稗田分家はますます経営が悪化しているのだという。阿求が重罰を必要としないと判断したのは、それを見越していたからに違いない。罰は自分が下さなくても勝手に与えられるというわけである。

 

 あの分家がどうなろうと私の知ったことではないが、1つだけ奇妙に思ったことがある。

 

 それは、稗田分家は人里だけでなく地底にも酒を売っているはずなのに、龍神の加護が必要なほど商売がうまくいかないのか、ということである。

 

 というのも勇儀様の従者になるきっかけとなった宴会で、「稗田之酒」という銘柄のものを見つけたのだ。おそらく地底と何らかの方法で取引を行っているはずである。地底での酒の需要は高いだろうし、金払いもいいはずなのに、どうして商売が傾くのだろうか。

 

 そんなとりとめのない思考が頭に溢れはじめ、集中を乱す。私はぶんぶんと首を振ってそれをひっぺがすと、目を閉じた。

 

 自分の体の中にある力を、体外に押し出すようなイメージ。一度弾幕の作り方を華扇に聞いてみたところ、そんなことを言われた。そのため、いつもさせられる苦行を耐えた後は弾幕を作ることができるか、就寝の時間まで試しているのだ。

 

 しばらくその通りに集中してふと目を開けると、ぽつり、ぽつりといくつもの淡い光点が現れていた。いつもはここで終わりなのだが、今回はその光点は消え失せず、膨れ上がり始めた。

 

「……え、これひょっとして成功?」

 

 私は戸惑いながらも集中を続け、手毬ほどの大きさになったところで妖力の供給をやめた。しかしそれでも光球の群れは消滅せず、ふわふわと私の周辺を漂っている。

 

「1、2、3……」

 

 常に動き回っているため正確な数は分からなかったが、およそ10個程度といった所だろう。まだ弾幕を形作るほどの数は出ないし自在に操ることもできないが、ついに自分も弾幕を作ることができたのだ。

 

 光球は私を中心として浮遊しており、私が歩くとそれに合わせて光球も移動する。橙色の光を放つそれらはまるで私を囲んで守っているようだった。

 

(触れられるのかしら?)

 

 私は単純な興味から、そっと光球の一つに触れると—

 

 閃光。遅れて一際大きな爆発音がして、頬に熱風が当たる。私は吹き飛ばされ、道場の壁に叩きつけられた。

 

「『決闘用』なの忘れてた……。でも、これなら十分……」

 

 私は壁が傷んでいないか確認してから、起き上がった。少し服が煤けて袖の辺りが敗れたが、傷は負っていない。触れた弾幕が1つだけで、私の妖力がまだまだ貧弱だったせいもあるだろう。

 

(でも……弾幕は作れた!)

 

 後は数を増やして操作できるようにし、一つの技―スペルカードに昇華させさえすればいいのだ。目標が定まり、早速周りの球を動かす練習を始めようと思ったその時、道場の扉ががらりと開いた。私がそちらに目をやると、右手に大きな包みを抱え、心なしか上機嫌に見える華扇の姿があった。

 

「帰ったわよ。人里でとっても美味しいお団子頂いちゃった。今からお茶入れて2人で食べ……って、どうしたの? それ」

 

「弾幕です。ついに作れました! これってどうやって動かすんですか?」

 

 そう言うと、華扇は私と包みをちらりと見て、少し迷うそぶりをみせた後に答えた。

 

「それは後で教えてあげるから。お団子食べたくない?」

 

「そうですね。ちょうど私もお腹減って来たところですし、休憩しましょう」

 

 お茶を淹れたり菓子を並べたりするのも私の役目である。私は団子の包みを華扇から受け取るため、走り寄る。すると華扇は途端に顔色を変え、ぎゅっと包みを抱きしめた。

 

「あなたの周りの弾幕全部消してから来なさい! このまま来たら—」

 

(……あ)

 

 私は、たった1つの光球で私の身体が吹き飛ばされたことを思いだした。しかしそれに気付いたときはもう遅く、すで私の弾幕と華扇が伸ばしていた左腕が接触していた。

 

 華扇は泣き笑いを浮かべ、私も避けられぬ運命に抗うのを諦めた直後、視界は眩い光に満たされていった。

 

 

◆◆◆

 

 

「……もう! せっかくもらったお団子なのに!」

 

「重ね重ねすみません……」

 

 華扇は無事だった団子を口に放り込みながら、不機嫌そうに言った。私は不注意にも弾幕を華扇にぶつけてしまい、土産の団子を焼き、華扇の服をぼろぼろにしてしまったのだ。私の着物は2度目の衝撃に耐えられずずたずたになってしまったため、新しいものを華扇から貰った。

 

「……いい? 今度はちゃんと動くときは弾幕消してから。というかこれからは屋内で練習するのはやめてちょうだい」

 

「分かりました……」

 

 私は黒焦げになっている串団子を口に入れ、その苦さに顔をしかめた。無事だった団子は華扇に回し、黒焦げで食べられそうにない方はもったいないので私が食べることにしたのだ。

 

「ほら。苦いって言ったでしょ。無理しなくて食べなくてもいいのよ」

 

「いえ。団子一個でも食べずに捨てるとバチが当たりますよ。それに黒団子もなかなか香ばしくて独特の風味が……」

 

 そう言いながら私はあまりの苦さにむせてしまった。慌てて湯飲みを取り、お茶で流し込む。それを見ていた華扇は呆れた顔をすると、少し逡巡するような様子を見せ、団子を載せた皿をつっと私の方へ押しやった。

 

「……炭の塊なんて食べても美味しくないでしょ。何個か食べていいわよ」

 

「いえ。お気になさらず……」

 

「私が気になるのよ! あなたの目の前で1人だけ食べるってのも気分が悪いしね」

 

「……い、いただきます」

 

 そう言われては華扇の善意を無下にはできない。私は団子の串を1本取って口に運んだ。先ほどの焦げ団子にあった炭の味はせず、もっちりとした口触り、ほんのりとした甘みが口の中に広がった。

 

「美味しいですね。しかも甘味なんて久々に食べました」

 

 地底にも茶屋はあるが、勇儀様に会う前はとても手が出せなかったし、従者になった後は忙しくてのんびり茶をすする暇もなかったのである。

 

(そういえば勇儀様、どうしてるかなあ……)

 

 私が勇儀様のもとを離れてそろそろ一カ月が過ぎようとしているが、きちんとご飯を食べているだろうか、お屋敷の床には埃がたまっていないだろうか。そう思うと地底の喧騒も少し懐かしく思えてくる。

 

(………いけないいけない。しっかりしないと)

 

 しっかり自分の妖気を操れるようになるまで地底には帰らない。私は勇儀様とそう約束したのだ。鬼同士の約束なのだから、絶対に破るわけにはいかない。

 

 私が望郷の念—地底を故郷と言えるならばそう表せるだろう—を押さえつけていると、華扇は団子をゆっくりと味わうように咀嚼しながら言った。

 

「……でも、弾幕を作れるようになったら操るのなんて簡単よ。妖気をうまく変質させれば形、色、速さなんかもすぐ分かるはず。というかあなたは妙な能力は無いみたいだし、妖力の扱いに特化すればおおよそのことはできると思うわ」

 

「……例えば何ですか?」

 

「そうね。さっきみたいな巨大な光球じゃなくて小さい粒をたくさん用意して疑似的に光の煙幕を作ったり、結界を作ることもできると思うわ。まあ皆面倒くさがってそこまで妖力の扱いに長けようとしないけど」

 

「なるほど……妖力だけでも使いようってことなんですね」

 

「まあ、そういうところは自分で考えるのが一番だけどね……あっ」

 

「どうしたんですか?」

 

 華扇はちょっと待って、と言うと私に近づき、喉元に手を伸ばす。そして私の首にかかっている例の悪霊除けのお守りを外し、じっと見はじめた。

 

「……やっぱり。ちょっとほつれてる」

 

 華扇は布地の一部がささくれ立っているお守りを私に見せた。よく見ると一緒についている赤い珠にも白いヒビが入っている。

 

「ああ、最近野良妖怪と戦ったりさっき爆発に巻き込まれたりしてたから、そのせいかもしれません」

 

 先ほどの事故では着物が一丁駄目になってしまっているので、むしろこの程度ですんでいるのは奇跡と言えるのではないか。そう思ったが、華扇は首を振った。

 

「これは私が力を注いで作ったお守りよ。その程度でぼろぼろにはならない。考えられるのはこれが封じてる悪霊が力をつけている、もしくはそれを操る術者が強く命令しているという可能性かしら」

 

 そう言われると、お守りのほつれも珠のヒビも、悪霊が邪魔なお守りを壊そうとした結果のように見えてくる。私はあの悪霊を思い出して、身震いした。

 

「……大丈夫。もっと強いお守りに変えてあげるわ」

 

 華扇はそう言って部屋を出て、戻ってきた時には同じようなお守りを手にしていた。そして華扇はおもむろに、私の首にそれをかける。

 

「……知ってるかもしれないけど、悪霊はあなたを狙って襲ってきてる。それも、誰かに操られてね。あなたの出自に関係するのか、それは関係ないのか分からないけど……あなたを呪っている者が必ずどこかにいるはず」

 

「それが分からないんですよ。私は人に恨まれるようなことを何もしてないし、するような人も心当たりがないんです」

 

 そう言った時、何代か前の巫女が、私を呪われている、と言ったことがあるのを思い出した。それゆえに私は里から追い出されたわけだが、災いとは、この悪霊をさして言ったに違いない。……ということは、悪霊に襲われることは私が生まれた直後にすでに決まっていた、ということになるのだ。

 

「術者の死後も悪霊が目標を追い続けることってありますか?」

 

「……無いわ。死んだらそれっきりよ」

 

 では、少なくとも人間が私を呪っているわけではないうのは確かだ。人間であればまず寿命がもたない。妖怪や仙人のような寿命が長い者でないと私を呪い続けるのは不可能だろう。

 

(しかし……私を呪う人外か……)

 

 人里で私の存在が邪魔だと思う者と言えば、当時の稗田本家、分家辺りだが、彼らが現在まで生きている可能性はない。しかも、その時に私は人間以外と出会ったことはほとんどないはずなのである。それゆえ考えられるのは人間から妖怪などに私を呪うよう依頼し、その契約の履行がまだ続いている、というところだろうか。

 

 流石に情報が少なすぎて推測の域を出ないし突っ込みどころは多いが、やはりこれがしっくりくる仮説である。その相手を見つけることが至難の業なのだが。

 

「あ、雪」

 

 華扇はそう言うと、窓の外を指さした。行燈の光に照らされ、闇の中で舞っている雪粒がちらほらと見え、やがてそれの勢いは激しさを増していく。吹雪に交じって時折響く甲高い風の音は、まるで悪霊が私を招くような声に聞こえた。

 

 

◆◆◆

 

 

 昨夜の大雪で、辺り一面が銀世界だった。

 

 雪を踏みしめる感触は心地いい。さくさくという小気味いい音と、いつもと違う道の弾力のようなものを感じるからだ。……だが、感触は心地よくても感覚は別で、私の足は鈴奈庵へ行くまでの道のりできんきんに冷えてしまっていた。

 

「うー、寒い寒い……」

 

 今日のような寒い日のために買っておいた真っ白な足袋も生地が薄かったのか、冷気に貫かれて全く寒さを防げていない。おまけに地上の寒さを甘く見ていたので、手袋や襟巻きのような準備もしていなかった。地底は溶岩の熱や岩のおかげで熱が地底から逃げなかったので、ここよりも暖かかったのだ。

 

 私は鈴奈庵の看板を見つけ、天の恵みを見つけたような気分になった。鈴奈庵は小鈴が炉子(ストーブ)をたいているはずだ。温まりたいがために、私は裾に雪がつくのも気にせず、走り出した。

 

「おはようございます、小鈴さん」

 

 私は戸を開けると、冷気を店内に入れないよう、すぐにぴしゃりと閉める。しかし小鈴はいつもの店番用の机には座っておらず、どうやら奥の方にいるようだった。私は少し大きめの声で小鈴に呼び掛ける。

 

「小鈴さーん、もう店始めるんじゃないですか?」

 

「……ん、あと15分だけおこたにいさせて……」

 

 言い終わらないうちに、小鈴の声は消え行ってしまった。私があきれて店の待機室を覗くと、小鈴は炬燵(こたつ)から頭だけを出して、すやすやと眠りこけていた。

 

「こーのー!」

 

 私が死ぬほど寒い思いをして鈴奈庵にやって来る間にぬくぬくと過ごしていたくせに、まだ15分などと言うのか。……私も普段はこの程度で怒らない程度には温和だと自負しているが、今ばかりは身も心も外の寒さで冷え切っていた。

 

 私は天誅として極限まで冷えた手のひらで、小鈴の頬にそっと触れた。

 

「……冷たいっ!」

 

 小鈴は私の手を振り払うと、雷もかくやというほどの敏捷さで炬燵に潜り込んだ。私は炬燵の中に手を突っ込んで小鈴の手首を探り当てると、そのままずるずると引きずり出す。その間、小鈴は寝ぼけまなこで怨みの言葉をつぶやいていた。

 

「もう、人が気持ちよく寝てるところを引きずりだすなんて……この鬼! 外道! 人でなし!」

 

 図らずも私の正体を6割6分ほど当てながら、小鈴は炬燵へ戻ろうと抵抗する。

 

「小鈴さん、今日は仕入れに行く日なんですよね。そろそろ出発したらどうです?」

 

「そうね。ちょっと夢の世界で探してくる」

 

 そう言って炬燵へ入ろうとする小鈴を掴まえ、店に引っ張りだそうと頑張っていると、店の入り口の方から戸を開ける音が聞こえてきた。

 

「……開店してるのかな?」

 

「……あ、はいそうです! どうぞ好きな本を見て言ってください!」

 

 客が来ているので流石に行かねばならないと思ったのか、小鈴もしぶしぶ炬燵でのまどろみを諦め、「半纏(はんてん)取ってくる」と言って母屋の方に歩いて行った。私も客の方に対応するため、奥の座敷から出て草履をつっかけ、店内に入った。

 

「……あなたが、ひょっとして鈴奈庵の新しい店員さん。……あざみさんかな」

 

 目の前にいたのは、流麗な白毛を腰まで伸ばした女性で、教師のような—というか実際そうなのだろう—出で立ちをしていた。

 

「はい。そうですが」

 

「……そうか。君は、お金を払えば護衛、殺し、風呂掃除までなんでもやってくれるらしいと聞いたんだが…」

 

「どこから聞いたんですか、そんな噂」

 

私は顔をしかめた。尾ひれがつきすぎて、まるで私が金の亡者のように聞こえるし、実際に働いたのは小鈴の護衛と華扇の協力だけである。

 

「ま、それはともかくちょっと頼みたいことがあるんだけど聞いてくれるかな。……そうそう、言い忘れたけど私の名前は上白沢慧音という」

 




・分家に冷たいあざみ
追い出された理由を仕方ないと分かってはいるが、いい感情はない。
・弾幕生成
弾幕は触れると光と爆音、衝撃がある。能力を弾幕の1部にしている者もいる。
・お守り
悪霊が強ければ強いほどいいお守りが必要になる。完全に壊れるとぼぎわんみたいなのが来るかもしれないので注意が必要。
・炬燵
火鉢が中央にあるタイプ。掘りごたつと違って寝やすい。


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第14話 人妖の交わり

 

 

 

「将棋を教えてほしい、ですか?」

 

……やはり慧音は私を何でも屋とでも勘違いしているのではなかろうか。慧音が私に頼みたいことというのは寺子屋の子供たちに将棋の指し方を教えてほしいというものだったのである。しかも私が将棋を指せるか分からないのに、なぜそんな依頼をしてきたのか。

 

 そう言うと、慧音はああ、と言って答えた。

 

「今度生徒に教えてみようと思ってね。今日はここに将棋の本があるか探しにくるつもりだったんだけど、経験者がいた方が話は早いから。とりあえず近くにいた君に声をかけてみたんだ。指せる?」

 

「……まあ、駒の動きとかちょっとした戦法くらいは知ってますが」

 

 胴元をしているとき、勇儀様の賭場で賭け将棋というのを練習したことがある。とはいえ、私程度の者ならその辺りにもいるはずである。別を当たってもらう方がいいだろう。

 

「そうか。なら私が覚えて教える方が早いかな」

 

「……あ、待ってください。心当たりがあります」

 

 私が賭け将棋を横から見ていた時、それで遊んでいた鬼のうちの1人が、天狗の中には将棋好きな者が結構いると言っていたのを聞いたことがある。ひょっとしたら私が出会った射命丸や椛も将棋を(たしな)むかもしれない。

 

「心当たり?」

 

「はい。まあ本人たちに訊いてみないと分からないですけど、妖怪は将棋好きが多いですし、たぶんうまい人もいるんじゃないでしょうか」

 

「君の当てっていうのは妖怪か……」

 

 慧音は妖怪と子供たちを会わせるのに少し迷ったようだった。寺子屋に比較的無害な妖精や妖怪はいるらしいが、ただ妖怪と言われると躊躇してしまうらしい。しかし私が射命丸の名を出すと、途端に快諾した。

 

「射命丸あたりなら大丈夫かな。人里でも新聞を読んでる人もいるし、危害を加えてくる心配もないと思う」

 

 人間に危害を加えないという慧音の言葉に、私は若干の心配をしていた。というのもその彼女に(役目だったので仕方ないのかもしれないが)戦う一歩手前まで行ってしまったことがあるからである。

 

「……でも射命丸は取っつきやすいといえば取っつきやすいんだけど、ネタのないところには全く寄り付かないからね。彼女のツテがある人っていうのを始めて見たよ」

 

「はあ。でも射命丸さんが来てくれるかはわかりませんよ」

 

「その時は無害そうな別の妖怪でも」

 

 絶対来いと言えば射命丸はその通りにすると思うが、私は偉そうに他人を呼びつけたり勇儀様の威を傘に着るような真似をしたりするのは極力したくない。

 

「……紹介料はこれくらいでいいかな?」

 

 慧音が見せた金額は、人里で2週間は遊んで暮らせそうな大金だった。華扇への支払いも楽になるだろう。私が頷くと、慧音はふっと笑った。

 

「……まあ、これはある意味あざみさんへの正当な報酬みたいなものだからね」

 

「はい?」

 

「この前里を騒がした稗田分家の事件があっただろう。あれで分家のお偉方も反省したらしくてね。落ちた評判を取り戻すために、あちこちに寄付してるってわけなんだ」

 

「へえ、そうですか」

 

「……なんか急に声が冷たくなってないか。まあそれでウチにも寄付が来てね。でも今までの内容を教える分にはこれ以上金が必要なかったし、何か新しいことを教えたいと思ってね」

 

 それで将棋か。私と華扇が魔法の森で男たちを捕まえたことが回りまわってこのような形で戻ってくるとは、運命もなかなか気まぐれのようである。

 

「天狗の姿を間近で見るのもあの子たちにとっていい経験になると思うし」

 

 慧音は目を細め、教え子たちの顔を思い浮かべているようだった。彼女は子供たちのことを第一に考えて生きているのだろう。

 

私がもう少し幼ければこの先生の授業を聞いてみたかったな、と思ったが、そっと胸のうちにしまっておいた。

 

 

◆◆◆

 

 

 慧音と話した3日後、私は妖怪の山から引き抜いてくることに成功した1人の天狗を連れて、寺子屋への道を歩いていた。ただし彼女の髪の色は黒ではなく雪のように真っ白で、哨戒用の装束を着ている。

 

 目の前にいる白狼天狗—椛は、不満そうに鼻をならした。

 

「射命……いや、文さまから強制的に連れてこられたんですけど……私は何をすればいいんですか?」

 

 椛は射命丸の名を出すときだけ憎々しげに、しかし文さま、と呼ぶことはきっちりと守りながら、私に訊いてきた。私は、最初は射命丸に来てもらおうと思って会いに行ったのだが、射命丸は「今は手が離せない仕事があるから引き受けかねます。もっと適任者がいますしね」と言って、椛を代役として呼んできたのである。

 

「あれ、射命丸さんに言われたかと思ってましたが」

 

「私はただあなたについて行けと命じられただけですよ。休日中にね」

 

 椛は吐き捨てるように答える。緊急事態だと言われたので慌てて寝巻から着替え飛び出したのだという。椛は目を擦りながら、

 

「……ゆっくり昼まで寝るつもりだったのに。あの鳥頭は脳みそが小さすぎて部下をいたわるという心がないんですよ」

 

 眠気のせいか、椛の気性は荒くなっていた。人目もはばからず、射命丸への怨みつらみを並べている。こうなったのは私のせいでもあるので流石に申し訳なくなってきた。

 

「……すみません。きついなら今日は帰ってくださって結構ですよ」

 

 そう言うと、椛はため息をついて、首を振った。

 

「一応お仕事を聞いてからででもいいですか。あれでも一応上司の命令なんで、遂行せずに戻ってくることはできません」

 

 椛も相当の苦労をしているようである。あれほど鬼の権威の前にへりくだった射命丸が目の前にいる椛を顎でつかっているというのはなかなか想像しづらいところではあるが。

 

 そう思いながら、私は仕事の概要を伝えようと口を開いた。

 

「とりあえず、寺子屋の子供たちに将棋を教えてほしいんです」

 

「将棋⁉」

 

 椛の耳がぴくりと動き、こちらを振り向く。私が椛の異常な食いつきに驚いていると、椛はこほんと咳ばらいをして訊いて来た。

 

「一応聞いておきますけど、教えるのは本将棋でいいんですよね。私たちの大将棋は時間がかかりますから」

 

 私が頷くと、椛は少し機嫌が良くなったようだった。

 

「山の仲間と飽きるほど将棋やってますからね。人里で強い棋士が生まれて山に来ればいいのにってよく言ってたんですよ」

 

「さあ……それはどうでしょう」

 

 どうやら椛は相当の将棋好きらしい。しかも聞いたところによると独自の決まりを加えた将棋もしているようである。私が博打の道具くらいにしか考えていなかったのを彼女に知られたら間違いなく怒られるだろう。

 

 椛の方をちらりと見ると、先ほどまでのどんよりとした気配はどこへやら、椛はご機嫌に歩き出していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 ぱちり、ぱちり、ぱちり、とお喋りの合間に鳴る駒音を聞きながら、私は子どもたちが指す将棋を見て回っていた。子供らしく素人の私が見ても無駄な手、かえって不利になる手が多かったが、習って間もないのだから当然だろう。

 

「……ね、これ詰みだよね」

 

 突然近くにいた男の子に袖を引っ張られ、私は盤を覗き込む。ごちゃごちゃと適当に駒を並べたような詰め方だったが確かに詰みではあるので頷く。

 

「でも私なんかよりあっちにいる椛さんの方が上手だから、そっちに訊いたらどうですか?」

 

「……えー、やだよ。キビシイもん」

 

 私と椛が寺子屋にも出張するようになったのは数日が経っていたが、力をつけたい子供は椛に師事し、のんびりと指したい子供は私を好んで頼るようになっていた。遠目に見ても椛の指導は苛烈で、確かに厳しかった。しかしその分効果はてきめんで、もはや私派の子供たちは誰も椛派に勝てないようになったらしい。

 

 私はあちこちを見て回って疲れると、慧音が座っているのを見つけ、そちらへ向かって歩いた。

 

「隣座っていいですか」

 

「どうぞどうぞ。お疲れ様」

 

 慧音はそう言ってから少し黙っていたが、やがてほうと息を吐きだした。

 

「……正直こんな遊戯に寄付を使っていいのかなんて思ってたけど、よかったみたいだ。ちゃんと身になる勉強もしてるみたいだし……」

 

慧音はチルノという妖精の悪手を咎めている椛をちらりと見た。

 

「妖怪とも楽しくやれているみたいだからね」

 

 一瞬私が妖怪であることがばれたのかと思ってひやりとしたが、椛だけを指して言ったらしい。私は胸をなでおろしながら、慧音の言葉に耳を傾けていた。

 

「本来、妖怪は人間に恐怖される対象であり、人間はそれを退治するという関係でなくてはならないっていうのがきまりだけど、たまにはこんな風に妖怪と人がこんな風に楽しむのもいいんじゃないかなって思うんだ」

 

「……そう思いますか」

 

「まあね。妖怪にも悪くない奴だっていくらでもいるから。……でも、生徒を喰ったりする奴なら、絶対許さないけど」

 

 慧音は冗談めかして、しかし嘘ではない響きを伴って答える。私はその言葉の裏に隠された並々ならぬ覚悟を見た気がして、わずかに後ろへいざった。

 

「……そういえば、若いのに寺子屋をやってるって、すごいですね」

 

「はは。私は見た目よりちょっと長く生きてるんだよ。後天性だけど、半獣だからね」

 

「後天性?」

 

「うん。両親は普通の人間。とっくに死んじゃってるけどね。だいたい、普通の人間同士の子が妖怪なわけがないでしょ」

 

「……今なんて言いました?」

 

「いや、人間の子が妖怪なわけないって……当たり前のことだけど。まあ、力は弱くなるけど森近さんみたいな人と妖怪のハーフとか、私みたいに後から人間を辞める場合もあるけど、基本的に人から妖怪は絶対に生まれないってこと」

 

 それを聞いて、私が今まで何も不自然に思っていなかったことが、疑問となって胸の奥にわだかまってきた。

 

(なら、私はいったいどうして妖怪に?)

 

 考えられるのは両親のどちらかが人間ではなく鬼で、私がハーフだったという場合である。確か父の方が稗田で、母が嫁入りしたという話は聞いていたから、この場合は母の方が鬼だったということになる。しかし慧音の話からは混血だと本来の種族より力が劣ってしまうというような印象を受ける。今のところ私の力は他の鬼と比べて格別に弱いというわけではないので、それは違うだろう。

 

「といっても実は例外的に1つだけ本来人間として生まれる予定だったものを妖怪にする方法が存在する。呪いだよ」

 

「呪い……」

 

 呪い、と聞いて真っ先にあの悪霊を思い出してしまった。だが、仮に私が妖怪である理由が呪いにあるのならば、私に悪霊をけしかけている者は私の出生と浅からぬ因縁があるはずである。

 

「これは私の知ってる話なんだけど、かなり前に稗田家で鬼の子どもが生まれるという事件が起きたらしい」

 

 私はゆっくりと顔を上げ、慧音の顔を見た。しかし慧音は世間話をするように、妙な緊張を感じさせていない。私の正体を見抜いて喋っていたのかと思ったが、ただ単に偶然だったらしい。

 

「……歴史の編纂のために阿求から資料を借りることがあるんだけどね。その時にたまたま見たんだよ。両親はともに人間なのに妖怪が生まれたって言うんで、博麗の巫女まで駆け付けたらしい。巫女は呪いの類だろうって言って呪いを防ぐための「封じ名」をつけ、ある程度育ってから里の外に追いやったんだって」

 

「その後は?」

 

「いろいろあったんだけど、2人目はちゃんとした子供が生まれて、家を継いだ。最初の子を妖怪化させた呪術者は捕まらなかったらしいけど」

 

 私の弟、もしくは妹が人間だったということは、母が実は鬼だったという可能性は消え去る。そして里で私を呪った相手が見つからないのも、相手が妖の類であったのなら頷ける話だ。

 

「……でも、その子を妖怪化させて何の得があるんですか?」

 

 一族を恨む者が私を殺すために悪霊を差し向けるのなら分かるが、妖怪化させた理由は何故なのだろうか。跡継ぎを絶やすためならわざわざそんなことをしなくても生まれた子を片っ端から殺して行けばいいはずである。

 

「まあ考えられるのは稗田家に負担を与えるためかな。妖怪を子どもとして育てるのは、大変なことなんだ」

 

 慧音は「そして」と言ってから、苦虫をかみつぶしたような顔をして、

 

「子供を何らかの儀式の……生贄って言うべきかな。それに使う時は普通の人間より妖怪の子の方が成功しやすい。だから稗田に呪いをかけるついでにあわよくば触媒にしてしまおうとか、そんな魂胆があったんじゃないかな」

 

「生贄……」

 

 では、あの時あれに食われていたら……ある程度予想はしていたが、あらためて背筋の凍る思いがした。敵は想像以上に剣呑な相手のようだ。それに、仮に敵の正体を突き止めることができたとしても私はそれを倒すことができるのだろうか。浮遊術を習得し、スペルカードもすでにいくつか作ってあるものの、全体的に未熟であるし、相手がそもそも決闘ルールに乗って来るかどうかもわからないのである。

 

「……終わりましたよ」

 

「うわっ、びっくりした」

 

 私が考え込んでいると、いつのまにか椛が目の前に立っていた。どうやら将棋教室を切り上げたようで、子どもたちは駒を片づけ、盤を棚に戻している。慧音は椛の方を見て、

 

「今日もありがとう。あと数回なんだけど、お願いできるかな」

 

「はい。私も自分を負かすことのできる相手が欲しいですしね」

 

 椛は顔こそ無表情だったが、尻尾は左右に揺れていた。尾は口ほどにものを言うということか。

 

「あざみさんも。やっぱり何でもできるじゃないか」

 

「その認識はあらためてほしいですけどね」

 

「はは、分かったよ。……2人とも、今日は帰っていいよ。後は私がやっとくから」

 

 外は既に夕焼けとなっていた。私と椛は慧音の言葉に甘え、寺子屋を後にした。途中で出ていく私たちに気付いた子供の1人が出てきて手を振って来たので、私たちも手を振り返しながら、道を歩いて行った。

 

「……では、この辺で」

 

 私と椛は里の外れで別れることになった。目的地は同じ妖怪の山だが、彼女は違う方向から行った方が早いのだという。

 

「明日もあるらしいから覚えててくださいねー」

 

「もちろん」

 

 椛は短く答え、しばらくしてから付け加えた。

 

「……最近の楽しみですし」

 

 ぼそりと言うと、椛は飛び去ってしまった。射命丸のせいでもあるとはいえ半ば強引に連れてきてしまっていたので申し訳なく思っていたが、楽しんでいるのなら許してもらえるだろう。

 

 私は紅色に染まる空の向こうにある山の頂を見据えた。徒歩であれば全力で走っても華扇の屋敷にはつかないが、今の私にはあの術がある。

 

 私がいったん目をつむって呼吸を整え、印を切ると、ふわりと体が持ち上がった。

 

これは数日前に華扇が教えてくれた浮遊術である。呼吸を整えたり印を切ったりするのは術を使いやすくする儀式のようなもので、慣れてくると省略できるらしい。私はまだまだ修行足らずなので必ずそれをしなくてはならないし、自由自在に空を駆けることもできないが。

 

(でも……飛べるっていうのは……いいな)

 

 空から見る景色は、地上とは全く違う。人も森も大きな湖も、一つの手入れの行き届いた箱庭のように見えるのだ。ようやく勇儀様や華扇が見ているのと同じものを見られたような気がして、嬉しかった。

 

 私は無限の夕陽に包まれ、太陽を追うように飛び続けた。冬の夜は早いから、もう少し早く飛ばなければ華扇に大目玉をくらってしまう—そう思って加速しようとした瞬間、私の足を誰かが掴んだ。

 

「ひゃいっ⁉」

 

 驚いた拍子に術が解除され、身体ががくんと地上へ吸い込まれそうになる。しかし、その手がしっかりと私の足を掴んでいたおかげで墜落を免れることができた。

 

「ど、どうも、ありがとうございます……」

 

 私は逆さになりながらも裾がめくれ上がらないよう押さえ、お礼を言った。数回の浮遊経験で慣れたかと思ったが、目の眩むような高さで宙づりになっているのは流石に怖い。気を落ち着けて素早く印を切り、浮遊術を掛け直した。そして足を掴まれた方向に目を向け、私は絶句した。

 

 空間の裂け目のようなものから、1本の細い腕だけが飛び出ていたのだから。

 

「あらあら。びっくりさせちゃったみたいで申し訳ないわね」

 

 声とともに切れ目が広がり、腕の持ち主の姿があらわになった。白い帽子に豊かな金髪、紫を基調とした洋風の服に身を包んだ女性で、口元にはうっすらとした微笑をたたえている。容姿は美しいが、どこか怪しいというか信用の置けないように直感したのはいささか早計だろうか。

 

「私は八雲紫よ。幻想郷の、いわば……管理人をしている者」

 

「私に何の用ですか?」

 

 上空を飛ぶ私を奇妙な能力で捕まえにきたり、身に纏う雰囲気が人間のそれとは違う時点で相手が人間ではないということはわかる。彼女が私に接触してきた理由が知りたいのである。

 

「用ねえ……ちょっと質問したいだけよ。あなた風に言い換えると……」

 

 紫は空間の切れ目から少し身を乗り出し、私の耳元でささやいた。

 

「鬼が人のふりして来るなんて、人里に何の用ですか、なんてね」

 

 




・将棋
日本史上最も面白いゲーム。(囲碁派の方はごめんなさい)幻想郷では一部を除いて現在と変わらず本将棋を指している。ちなみに角換わりや横歩取り、穴熊系の対振り持久戦などの戦法の整備は最近に行われたので、知るためには外の世界から流れてくる本に頼らざるを得ない。
・あざみの学
一応10歳まで育てられたので和差積商の四則演算、読み書き等はできる。地頭は悪くない。
・印を切る
 本来は邪鬼を払うものなので途中までしかしない。いわゆるルーティンという行為。
・慧音と稗田家の繋がり
 歴史書の編纂のため、稗田家から資料を借りている。


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第15話 地獄変

 

 

 

「……そういえば、こういう時間帯を、黄昏時って言うじゃない?」

 

八雲紫は、私の方に視線を向けながら、何気ない調子でそう言った。

 

「黄昏っていうのは、薄暗くなって近くの相手の顔も見えなくなってしまって、会った人に『誰そ彼』と訊かないといけないことから来てるらしいわ。……まあ、私は訊かなくてもあなたの正体を知っているわけだけどね」

 

 紫は目を細めると、まるで思考を読もうとするかのように、私の目を覗き込んだ。

 

「……数日監視してみたけど人を害する意志があるわけではないようだし。問題ないかしら?」

 

「数日って……つまりあなたは、私をずうっと監視してたんですか?」

 

 肌が粟立った。私がさっと身を引くと、紫は少し慌てて付け足した。

 

「流石に四六時中見てるわけじゃないわよ。私もそんなに暇じゃないしね。ただ、華扇の弟子だって言うからちょっと調べてみたの」

 

 華扇の名を思い出して、私ははっとした。彼女との約束の1つ、つまり私の正体を隠すことに失敗したのである。

 

「……華扇がこっち側だから、あなたももしかしたらと思って調べてみたら、大当たりだったってことね。それで、ここに来てる理由は何かしら?」

 

「修行です。でも、私の正体があなたに知られた以上、もう「仙人の弟子」でいられないかもしれません」

 

「なら私を殺したらいいんじゃない? 死人に口なしよ」

 

「私は人殺しを禁じられてるし、したくもないので。……まあ紫さんは人ではないとは思いますが、勝てる気がしません」

 

「正直なのはいいことね」

 

 私も鬼であるから、嘘をつくことは好まない。ちなみに分家の者たちの時は相手が勝手に勘違いしただけだし、人里の人間にも私が妖怪であると伝えなかっただけで、嘘は1つもついていないのである。

 

「まあ、華扇は鬼を弟子にしたと知られたくないからそう言ったんでしょうけど……そもそもあの子が鬼だし、私はそれを知ってるわ。そんなのを気にするのも今更って感じね」

 

「華扇さんが、鬼……」

 

 ようやく合点がいった。勇儀様が言葉を濁したのも、さとりが似非仙人と呼んでいたのも、そういうわけだったのである。

 

それにしても、易々と華扇や私の正体を見破るあたり、この紫という妖怪はなかなか食えない人物のようだ。私たちの性質上嘘をつくのが苦手というせいもあるが、それを差し引いても尋常でない洞察力を備えていることは分かる。

 

「……驚かせちゃってごめんなさいね。最近結界のほつれがひどいものだから。ちょっと変わったことがあったら、それが原因かなって思ってとりあえず調べてみることにしてるの」

 

「結界?」

 

「……博麗大結界のことよ。私が管理してるんだけどね。特に無縁塚での切れ目が……」

 

 紫はそこまで言うと、「多分あなたには分からないからいいわ」と話を打ち切った。

 

「……引き留めちゃってごめんなさいね。また今度」

 

 そう言って紫がするすると空間の切れ目の中に入り、その空間が閉じると、もうそこには何も存在していなかったかのように、夕陽の中に溶け去ってしまった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……しかし、お前がやって来るなんて久しぶりだな、華扇」

 

 そう言うと、勇儀はベく杯に酒を注ぐ華扇に目をやった。なみなみと杯を満たす酒を飲み干すと、華扇は勇義の方に目をやった。

 

「ええ。怨霊の気配がうざったいけど」

 

いつもならそうそう地底には来ないのだが、今日は用事があったので、仕方なくここ―勇義の屋敷へ来ているのである。華扇はただ訊きたいことがあっただけで長居するつもりはなかったものの、勇儀がせっかくだからと酒と杯を持ってきたので、酒盛りをしながら話している。

 

「それで、話したいことってなんだ?」

 

「あなたがよこした子のことで、ちょっとね」

 

「あざみか。修行の方はうまくいってるのか?」

 

「ええ。そろそろ実戦もできるんじゃないかしら。私の指導はもう必要ないと思うわ」

 

「なら、そろそろ帰ってこられるのか」

 

「ええ。それに人里に行かせてるから多分あなたが手紙のなかで言ってた、臆病なところも改善してるしね。……ちょっとドジが目立つけど」

 

 団子を黒焦げにした罪はまだ覚えている。しかし、それは今回の話の本題では無い。華扇は単刀直入に問うことにした。

 

「あざみに憑いてる悪霊について、あなたは何か知ってるんじゃないの? 普通に過ごしてて、あんな強いのが憑くわけないわ」

 

 自分の作ったお守りが破られかけていたのを見て、華扇はあざみにかけられているた呪いが桁外れの強さを有していることを見抜いたのである。

 

今すぐどうにかなるとは思えないが、華扇のお守りでも対抗できなくなるほど呪いが強くなれば、徐々にあざみの身は蝕まれ、いずれは破滅するだろう。

 

 華扇の問いに、勇儀は杯を傾けながら答える。

 

「ああ。知ってる。……そもそも、私があいつを子分にしたのは、あいつを助けてくれって言われたからだしな」

 

「……誰に?」

 

「さあね。言うのが面倒くさいし、誰だっていいだろ。あいつを見つけたのは偶然だが、見つけた時にこいつを助けるっていう約束を思い出したんだよ」

 

 一度勇儀とどのようにして出会ったかと聞いたとき、あざみはそんなことは一言も言わなかった。おそらくあざみの方はたまたま勇儀が自分を従者にしてくれたのだと思っていたのだろうが、勇儀の方からすれば必然の行動だったのかもしれない。

 

「でも……助けるって言っても、あれを何とかしないといけないのよ? 倒すだけならいくらでもできるけど、根本的な解決にはならないわ」

 

「……大丈夫だ。もう準備はしてあるからな。あざみが戻ってきたら、さっそくやるつもりだ」

 

「何を?」

 

「……今は言えないね」

 

 鬼の性分で、嘘はつけないかわりに言いたくないことは一言も喋らないつもりのようだ。しかし勇儀は意味もなく秘密を持ちたがるような性格ではない。必要があってのことなのだろう。

 

「……まあいいわ。あなたが何とかするあてがあるんなら、もう私が心配をする必要もないわね。もうちょっと呑んでから、上へ戻るわ」

 

「よし分かった。久々に飲み比べといこうじゃないか」

 

 勇儀はなみなみと酒の入った星熊杯を持ち上げ、華扇も自分の杯に酒を注ぐ。その時、華扇は徳利に「稗田」の文字が刻まれていることに気が付いた。

 

「稗田……そういえば、地上で揉め事を起こしたとこが作ってたのね、この酒」

 

「揉め事? 何かあったのか?」

 

「ええ。あざみも連れてって解決したんだけど。ていうか地底相手に商売してるんなら怪しい茸酒なんかに手を出さなかったら良かったのに」

 

「……ああ、それは何ていうかな。この酒、実はタダで貰ってるんだよね」

 

 勇儀は頭をぽりぽりとかいて、少し決まりが悪そうに言った。

 

「ずっと前からの約束でね。代替わりしてもきっちり持ってくるのさ。お礼にね」

 

「何の?」

 

「人……いや、鬼助けのね」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「今日から夜はもう来なくてもいいわ」

 

 冬も深まってきたある日のこと、私が座敷の真ん中で結跏趺坐(けっかふざ)を組んでいる最中、華扇はそんなことを言った。

 

「え、でも月謝は払ってますよね」

 

 人里で鈴奈庵の店員以外にも、護衛や将棋教室までしてお金を稼ぎ、不足なく払っているはずである。修行を打ち切る理由はないはずだ。

 

「……もう私がついてなくても、後は自力でいけるわよ。もうスペルカード自体は全部完成してるんでしょう?」

 

 華扇の言葉に、私は頷いた。私が所持しているスペルは8枚。ほとんどの技が完成しているが、私は変わった能力を持っているわけではないので、いきおい弾幕も妖力を考えうるだけ応用したものとなっている。

 

「あとはあなた次第。ここを修行に使ってもいいけど、それくらいなら実戦……スペルカードの決闘で弾幕ごっこの勘を掴んだ方がいいわよ」

 

「華扇さんは相手してくれないんですか?」

 

「……うーん、私はあなたのスペル、ほとんど見ちゃったから。普通はお互いのスペルは始めて見ることになるから、実戦に近づけるならお互いに手札を知らない人とやった方がいいと思うわ」

 

「はあ……」

 

「それと、確かに妖力を使えるようにはなったけど、あなたはまだ完全に慣れてるわけじゃない。大技を連発したり妖力を使いすぎたら、身体の調子が悪くなるかもしれないわ。それだけは気をつけなさい」

 

 

 

 

 私は鈴奈庵の昨日の売り上げを計上して帳簿にまとめると、机に突っ伏した。華扇への支払いは必要ないが、あと少し地上に留まって弾幕ごっこの勘とやらを掴まなくてはならないので、鈴奈庵で働き続けなくてはならないのである。

 

「私の周りで弾幕ごっこできそうな人……か」

 

 射命丸と椛はおそらくできるだろうが、一度将棋教室に呼び出してしまったので、何度も頼みごとをするのは悪いだろう。かといって紅魔館へ行っても相手が強すぎるし、おそらく手加減もしてもらえまい。ちょうどいい相手がいないものだろうか。

 

 そう思ったとき、ばたんと扉が開く音がした。

 

「いらっしゃいませ」

 

 私がそちらに目を向けると、やや背が低く、下駄をつっかけた女の子が立っていた。これだけならどこにでもいそうな出で立ちだったが、彼女の持っている巨大な一つ目と大きな口のある傘は、少なくとも普通とは言い難かった。

 

 その子は私を見ると、ぱっと顔を輝かせた。

 

「あ、いたいた。そこの人。あざみさんだっけ?」

 

「はい。……あれ、初めて会いましたよね? なんで私の名前を?」

 

「結構里で噂になってるんだよ。大捕り物の話とか将棋教室の話とか。縁談を組んでみようなんて人もいるわよ」

 

「……それは困りますね」

 

 見合い話など冗談ではない。私には帰るべきところがあるし、それは断じて人里ではなどではなく、勇儀様のいる地底だからである。そう思っていると、目の前の少女は周りに人がいないか確認するようにきょろきょろと周りを見回し、口を開いた。

 

「……でも私、見ちゃったんだ。あなたが血まみれでここに来るの」

 

 おそらく紅魔館の帰りがけで小鈴の護衛をした時の話のことだろう。

 

「……ああ、それは別に誰かを殺したとかじゃなくて妖怪の返り血……」

 

「あ、いやいや。別にそれであなたを脅そうとかじゃないの。ただ、その時の血まみれのあなたを物陰から見て、とってもびっくりしたの」

 

「そうでしたか。驚かせちゃってすみません」

 

それを聞いた少女は首を振って、

 

「……私が言いたいのはそういうことじゃないの。私、他の人をあなたみたいにうまく驚かせたいのよ」

 

「別に私は驚かせたいと思ってやってたわけでは……」

 

「でも、私より少し背が高いし、お化けの才能あると思うんだけどな」

 

「やりませんよ」

 

「弾幕ごっこの練習相手になるって言っても? さっき言ってたでしょ?」

 

 うっ、と言葉につまった。……しかし本当にスペルカードを持っているのだろうか。私がまじまじと顔を見ると、彼女は微妙に左右の色が違う目をまたたかせると、何かに気付いたらしく、ぱんと手を打った。

 

「私が弾幕ごっこできるか疑ってる? 大丈夫だよ。これでも私、妖怪だから」

 

「妖怪?」

 

「そう。言うの忘れてたけど、多々良小傘って呼んでね。私のご飯は人の驚きの感情……要するにびっくりなの」

 

 妖怪というのは妙な者が多いと思っていたが、中には食事の内容がこれほど違う者もいるようである。私が少し驚いていると、小傘は「ん、何かちょっとお腹が膨れた気がする」と言った。

 

「……独学で驚かせるのも限界だし、誰かに師事しようとしたんだけど、誰も相手にしてくれなくて……ていうか1回不審者扱いされて捕まりかけたし」

 

 自分で言っていて落ち込んできたらしく、小傘は肩を落としていた。

 

「だからあなたにも断られたらあてがなくて……」

 

「……私でいいならちょっとくらいは驚かす練習につきあってもいいですよ」

 

「本当に?」

 

「はい。私の決闘の練習の相手をしてくださるなら」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 月のない夜、1人の男が人気のない通りを歩いていた。提灯の明かりで足元の闇を追い払いながら、煙草をぷかぷかとくゆらせている。

 

(こんな夜に出歩くもんじゃないな)

 

 里の中で誰かに襲われる心配はないとはいえ、やはり眼が利かないと、不安になるものである。男は図体こそ大きいものの、暗いところが苦手で、どうにも小心者だった。だから物陰に何かが潜んでいないか、後ろから足音を殺して忍び寄ってくる者がいるのではないかと、びくびくしながら歩を進めていた。

 

いざとなったら咥えている煙管(きせる)を握りこんで相手に拳を一発ぶちかましてやるさ―などと勇ましいことを言って家を出てきていたのだが、それを今更ながら後悔していた。

 

(煙草くらい明日買えばいいのに、なんで夕方に遠くの店まで行っちまったんだろうなあ)

 

 男が怖さを紛らわせるためにじょりじょりと髭をさすりながら歩いていると、ぺたり、ぺたりと後ろから足音が聞こえてきた。

 

 夜道を歩いているのが自分だけではないという一種の安心が、暖かい毛布のように心を包んできた。やはり人間がそばにいると、少し心も落ち着くものである。

 

だが、やがて男が細い道に入ってからもその足音は男の後ろをただひたひたとつけてきた。この先には男の住む長屋くらいしかなく、しかもそこの住人は老人ばかりで、こんな夜更けに外を出歩くわけはないのである。

 

 そしてしばらく一緒に歩いていて気付いたことだが、相手は提灯を持っていない。角を曲がった時にちらりとそちらを見たが、明かりらしきものは一切つけず、ただぼんやりと人影が見えただけだった。

 

 これは、おかしいぞ。

 

 思わず男は立ち止まってしまった。すると足音もぴたりとやんだ。10歩ほど後ろに、その「誰か」の気配があった。

 

(……やっぱり、ろくなもんにあいやしない)

 

 男はそれでも怖いもの見たさで振り返った。案の定そこには人が立っていた。だがその着物は豪奢で、煌めくような紅に彩られている。どこかのいい家のお嬢さんだろうか、と男は思い直した。ひょっとしたら一人でどこかへ遊びに行って、自分だけで帰り切れないからとりあえず自分についてきて、話しかけられずについてきていたのかもしれない。

 

「ちょっと、そこのお嬢さん。どこから来たんだい?」

 

 男が訊くと、女は黙って近づいてきた。市女笠を深く被り、顔は分からない。男が怪訝に思って提灯で女を照らした瞬間、女は顔を上げた。

 

 般若の面が、男を見上げていた。

 

 異様な雰囲気を感じて男が思わず後ずさると、般若面の女は袖の下からぎらりと輝く短刀を取り出した。そして、男に向けて無造作に振り上げる。

 

「うわああああっ!」

 

 男は提灯を投げ出すと、そのまま駆けだした。何度か転びながら、それでも後ろだけは見ずに、ひたすら正体不明の者から逃げようと懸命に走っていく。

 

 その姿を見送ると、般若面の女はため息をついて面を取った。

 

「こんな感じでどうですか、小傘さん」

 

「うん、ばっちり」

 

 小傘はそう言うと、面を取った女―あざみに向かって笑いかけた。あざみは市女笠も取り、短刀―実際は百足退治のときに折れてしまった刀の半分だが—の刃の部分を布で巻いて袖の下に仕舞った。

 

「これでも普通の驚かせ方だと思うんですけどね。いままでどうやって驚かせようとしてたんですか?」

 

「……えーと、傘をばって広げて、おどろけーって叫んでた」

 

「なるほど。他人に教えを求めようとしたのは正解かもしれなせん」

 

「ひどくない?」

 

 小傘は憤慨しつつ、男が落として言った提灯を拾い上げた。

 

「まあ小傘さんが同じことをするならこの着物も大きいですし、ちょっと小さめのを調達した方がいいかもしれないですね。……でも、この着物って高くなかったですか? こんな良さそうなの、あんまり着てる人見ませんし」

 

「それは気にしなくていいわ。なんかこっちの方が雰囲気出るでしょ?」

 

「そういうものですかね」

 

 あざみは首をかしげたが、小傘が力強く頷いたので、それ以上は何も言わなかった。

 

「やっぱり人の驚かせ方は人に聞くのが1番ってことね」

 

 久々に十分な「驚き」にありつけたせいか、小傘は上機嫌だった。数日後に自分たちのしていることが事件にされるとは露も知らずに、あざみと小傘は次の獲物を探して夜道を歩いて行った。

 

 

 




・嘘はつかない
嘘はつかないが、重要なことを言わない。現実でもよく使われる手口。
・久々の勇儀登場
じつに11話ぶりに登場。今だけとはいえ、「勇儀の」従者の話でこれほど出てこないのはまずいのではないか。
・華扇は鬼
今まで茨歌仙で明言されていなかったので似非仙人と言ってお茶を濁してきた。
・べく杯
円錐状の杯。テーブルに立てることができないので、酒を飲みおわるまで置くことはできない。酒豪専用アイテム。


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第16話 紅御前の怪

 

 

 

 外はすっかり暗くなり、遠くの田んぼから、蛙の鳴き声が聞こえてきていた。近頃は冬の寒さも和らいできたので、地面の下で眠っていたものたちが目覚め、活動を始めているのだろう。春の訪れはもうすぐである。

 

 日が落ちて鈴奈庵へやってくるお客がぱったりと途切れたので、私は「開」と書かれている看板を抱えて、店内へ戻した。中でランプの明かり一つを頼りに本の整理をしていた小鈴は私が戻って来たのに気が付いたらしく、最後の一冊を本棚に仕舞うと、椅子を引き寄せて、ため息をつきながら座った。

 

「お疲れ様。お茶飲む?」

 

「いえ。これから先約があるので」

 

「それは残念。せっかくいいお茶だったのに……でも多めに買ってあるから、また今度飲めばいいかしら」

 

「今度があればいいんですけどねー」

 

 そう言うと、小鈴は不思議そうに私を見た。何を言い出すのか、とでも言いたげな顔である。

 

「……そろそろ私、鈴奈庵でのお仕事を辞めようと思ってまして」

 

 小傘との決闘の練習が終われば、もう地上に留まる必要はない。雇ってくれた小鈴の両親には悪いが、地底と地上を往復して勤務するわけにもいかない。ただ本来の仕事に戻るだけの話なのだ。

 

 小鈴は私が何を言ったか分からなかったのは一瞬だけのようだったが、意味をくみ取ってもしばらくは口をぱくぱくさせていた。

 

「……え、辞めるって、この店を?」

 

「はい。いろいろ都合があって、申し訳ないんですけど」

 

「ひょっとして、結婚?」

 

「しませんよ。だいたい誰がそんな根も葉もないうわさを……修行も終わりそうなので、そろそろ私も自分の住んでる所に帰ろうと思ってるんですが」

 

「……今はどこに家があるの?」

 

「地底です」

 

 そういうと、小鈴はむむむ、と唸っていたが、やがて仕方がないとでもいうように息を吐き出しながら、答える。

 

「……確かに毎回地底からうちに来るのは無理ね。里の方に住む気はないの?」

 

「できません。私にもそこでの仕事があるので」

 

「……本業があるってこと?」

 

「そういうことです。ここにいるのは何ていうか、修行のためなので」

 

「それならしょうがないわね。……でも、代わりが来るまでは来てくれないかしら」

 

 確かにいきなり抜けると言われても困るだろう。小傘との決闘練習や交換条件の夜回りも続けなくてはならないので、私は頷いた。

 

 そしてしばらく鈴奈庵で本を読んだ後、小傘と練習をする約束の時刻が迫っているのに気づき、私は席を立った。

 

「……そろそろ失礼します」

 

 そう言うと小鈴は顔を上げ、私の袖を掴んで引き留めた。

 

「そうだ。言い忘れてた。夜出歩くなら、『(くれない)御前(ごぜん)』に気を付けた方がいいわよ」

 

「紅御前?」

 

 私が聞き返すと、小鈴は頷きながら、本と本の間に挟まっていた新聞を抜き出した。

 

「最近夜に出没する妖怪らしいわよ。なんでも真っ赤な着物を着た般若面を被った妖怪らしいわ」

 

 なんとなく嫌な予感がしたが、私は小鈴が差し出す新聞を黙って受け取った。新聞の名前は案山子念報、と書いてあり、どうやら射命丸とは違う天狗が書いた記事であるようだった。

 

 

『春先の怪異

 夜に外を歩いていると、後ろから誰かが近づいてくる気配がするーそんな時に振り向くと、般若面を付けた女が立っている。そしてその女はこちらが気づいたと知ると、短刀を振りかざして襲ってくるという。

 

 この怪異にはすでに名前がつけられていた。紅く豪奢な着物を着ているので、紅御前と呼ばれているらしい。……しかしなんと言っても里に住む人間にとっては恐ろしい者であるだろう。その正体は人間とも妖怪とも判別はつかない。しかし刃物を持って襲ってくるのだから、どちらにせよ危険なのは変わりがない。会ったときは逃げるのが得策である。

 

 もちろんそんなものの跳梁を許すわけもなく、里の有志の者たちが集まり、今日この「紅御前」に対する処置を話し合うそうである。闇に巣食うこの者が正体を暴かれる日は近いかもしれない』

 

 

 私はそれを読み終え、表面上は顔色を変えずに小鈴に返した。

 

「……そうですね。私も気をつけます」

 

「そうよ! 幸い誰も怪我した人はいないみたいだけどね」

 

 当たり前だ。私が人間を傷つけられるわけがない。あくまで短刀は相手を怖がらせるものだから。

 

 小鈴は目の前にいる私が紅御前その人だとは思いもせず、真面目な顔で、「いや」と呟く。

 

「……あなたなら逆に倒せるかもしれないわね」

 

「はは……」

 

 確かに簡単だ。私自身の首を掻き切れば紅御前は退治できるのである。しかし、これほど深刻な問題になっているとは思わなかった。少し危ない奴がうろついているだけで里の中で寄り合いが開かれるわけがないと踏んでいたのである。

 

 地底ではこんなことが起きても誰も気にしないので、感覚が少しずれていたらしい。だが、退治屋が出張ってくるのならそろそろ小傘への協力を打ち切った方がいいかもしれない。ある程度小傘と練習はしたし、これ以上続けてもろくなことにならないだろう。

 

「ではお先に」

 

 私はぺこりと頭を下げて鈴奈庵を出ると、小傘の待っている里の外れへと急いだ。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……大輪『ハロウフォゴットンワールド』!」

 

 小傘の宣言と同時に、彼女を中心にして現れた光球が、渦巻き状に展開してくる。もちろん1つでも触れたら負けである。私はうなりをあげて飛んでくるそれらを紙一重のところで躱しながら、中心の小傘の方へ、少しずつ迫っていく。

 

 二日前の決闘では最後の最後でこの技を受けて敗北した。小傘は「私はそんなにスペカ使うのうまくないの」などと言っていたが、やはり技を身に着けて一カ月足らずの私ではすぐに勝てるわけもなく、今のところ全戦全敗である。

 

「避けるのうまくなったわね」

 

「これは、前に見たスペルですからね」

 

 私が光弾の嵐をかいくぐりながら言うと、小傘は少し意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「なら、これはどうかしら?」

 

 ぴたり、と弾幕の動きが止まったかと思うと、先ほどの数倍のスピードで光球の奔流が横殴りに吹き付けてくる。とてもではないが、かわしきることはできない。

 

「お、鬼符っ、『人肉柘榴(じんにくざくろ)』!」

 

私の宣言とともに、赤紫の光弾がずらりと私を囲むように現れた。回避するのを諦め、こちらのスペルで防御することにしたのである。そしてその直後、小傘と私の弾幕がそこかしこで衝突し、閃光や爆音をまき散らす。

 

『人肉柘榴』はもともと防御用のスペルで、相手への攻撃ではなく、相手の弾幕を相殺するのを主眼にしている。優先的に相手ではなく弾幕の方へ向かうので、相手の攻撃圏内で数秒だけ安全地帯を作り出すことができるのである。

 

 その与えられた数秒は、反撃の準備をするには十分だった。

 

「……獄符『羅刹(らせつ)の魔槍』」

 

 手のひらに集まった妖気が形をなし、長細く変形し、先端は刃のように鋭くなる。きらきらと輝く実態なき槍が、私の手元に収まった。

 

これは厳密に言うと弾幕というよりは妖力で作られた疑似的な武器である。無論これをばらけさせて弾幕として使用したり接近戦を挑むこともできるが、今回の目的は違う。

 

 私は小傘の張っている弾幕の薄い場所を見つけると、そこへ槍を振りかぶった。

 

 ばしゅっ、と槍に触れた光弾は蒸発した。続けて光球を薙ぎ払い、切り捨て、消し飛ばす。その勢いで小傘の弾幕を突破すると、さらに向こうで小傘が浮遊しているのが目に入った。私が視認すると同時に小傘も私が突破したのを悟ったらしく、次の技を出そうとする。

 

こちらの槍は届かない—が、次の技を繰り出すのは、私が一瞬早かった。

 

「籠符『芥川の人喰い蔵』」

 

「化符『忘れ傘の夜行列車』っ!」

 

 小傘の周囲に新たな光が灯り、すぐに光弾となる。一方で私の方は右手で保持している「羅刹の魔槍」の他に対抗するための弾幕は存在しない。「人肉柘榴」はすでに使用したので、攻撃を受けるようなことがあれば地面に叩き落されていただろう。……あくまで、攻撃を受けていれば、の話だが。

 

 瞬間、衝撃波が宙を駆け抜けた。続けて1発、2発。

 

「……あれ?」

 

 小傘が、困惑の声を漏らした。というのも、彼女の放った弾幕は私に届くどころか、彼女から少し離れた場所で勝手に爆発し、空中にその威力を散らしたからである。そして数度の爆発で、小傘の弾幕は全てが消滅した。いずれも勝手に自爆し、私に届いたものは一つも無かった。

 彼女の生成した弾幕が完全に消滅すると、小傘を中心として球状に、赤色の弾幕―私のものである—が現れた。

 

 種を明かすと、この技は結界を張って、それから攻撃を行うものである。ただし結界で囲うのは自分ではなく相手で、攻撃の行き先は結界内部—要するに、檻の中に相手を入れてその中に矢の雨を降らせるようなものである。この技の欠陥はある程度の距離まで接近しなくてはならないことだが、決まればあの狭い結界の中でそうそう避けきれるものではない。

 

「……うわーっ!」

 

 悲鳴と、ずどん、という音がした。結界がほどけ、白煙をあげながら落ちていく小傘を見ると、私は慌てて彼女を助けるために急降下した。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……うーん、初めて負けちゃった」

 

 小傘はぱんぱんと服についた埃を払いながら、少し悔しそうに言った。地面に落ちる寸前に浮き上がったので、それほどダメージは無いという。怪我を心配していたが、杞憂だったようだ。

 

「まああの技は初めて見せますからね。運が良かっただけですよ」

 

「……いやー、腕上がってるわよ。……ていうか最後の奴は無理でしょ。閉じ込めてから中に弾幕張るとかひどすぎない?」

 

「まあそういう技ですから……」

 

 結界に閉じ込められてから無傷で抜け出すのは不可能に近い。よしんば強固な結界で防御することができたとしても、結界の維持のために消耗を強いられることになる。欠点としてある程度まで近づかなければ攻撃が成立しないので使える場面は限られるが、純粋な火力で言えば、私の所持しているスペルカードの中でも屈指の威力を有している。

 

「……さてと。練習も終わったことだし、次は皆を驚かせにいくわよ!」

 

 小傘はそう言うと地面に置いていたつづらから、例の紅御前の衣装を取り出した。夜な夜な現れる怪異として認知されてからはこの姿を見た者はすぐに逃げていくようになっている。

 

 小傘はいそいそと衣装を私に着せながら、ご機嫌そうに口笛を吹く。

 

「今夜もお腹いっぱいになれるかな」

 

「……そういえば、自分で驚かせなくても大丈夫なんですか?」

 

「うん。私が食べるのは『驚き』の感情だけだから。まあ自分でやるに越したことはないけどね」

 

「それなら、あなたが『紅御前』をやってはどうでしょうか」

 

 それを聞いた小傘は首を傾げた。

 

「紅御前?」

 

「私たちのことですよ。里で話題になっているそうです」

 

「……人間の話題に⁉ じゃあもっと頑張らないと!」

 

 小傘は、自分たちが話題になっていることを無邪気に喜んでいるようだった。しかしそれは言い換えれば、目をつけられた、ということでもあるのだ。

 

「討伐隊が組まれるかもしれないんですよ? そろそろやめないと本当にひどい目に遭うと思いますが」

 

「うーん、確かに……」

 

 小傘も何度か痛い目にあったことはあるようで、この仮装での日課を続けるかどうか、悩んでいるようだった。そして少し悩んだ後にだした結論は、今夜きりで終わらせる、というものだった。

 

 

 

 

「……楽しかったけどなあ」

 

 未練がましく赤い着物にちらちらと目をやりながら、小傘は『紅御前』の装いをした私とともに夜道を歩いていた。周りに人の気配はせず、少し手持ち無沙汰だ。

 

「引き際が肝心ですよ。……というかやりたいなら自分でこの格好をして驚かせたらいいじゃないですか」

 

「えー、それやったらもしもの時、私が逃げられないじゃない」

 

「……つまり私を囮にして逃げる気だったと?」

 

「あはは、冗談よ、冗談」

 

 私は嘘くさい小傘の言葉に、ため息をついた。どうも私は他人にうまく利用されることが多いようだ。小鈴の時も華扇の時もそうだったが、いつの間にかいいように使われているような気がする。

 

(まあ、今夜だけなら何も起こらないよね……)

 

 新聞には寄り合いが開かれるのは今日と書かれていた。だから少なくとも今夜に里の人間たちが行動を起こすことは無いはずである。

 

早くても明日からだーと思って油断していたので、私は直後に現れた背後の気配を感じ取る事ができなかった。

 

「そこの2人、止まりなさい」

 

 言われた瞬間、私と小傘はびくりとして、立ち止まった。

 

「1人は……小傘かしら。で、もう1人が噂の紅御前ってわけ」

 

 その声は低かったが紛れもなく女性のものだった。しかし里では聞いたことのない、落ち着いた声。私は振り向き、その相手の顔を見た。

 

 最初に目に飛び込んできたのは紅白の巫女服。お祓い棒を肩に担ぎ、黒髪を大きなリボンで結んでいる。そしてその顔は私が以前に一度だけ出会ったことのある巫女の面影が残っていた。

 

「博麗の巫女……」

 

 この幻想郷での勢力を均衡させている調停者にして、無敗を(うた)う最強の一族。そんな彼女がどうしてここにいるのかー答えは言われなくても分かっている。私たちを退治するために、彼女自身が出張ってきたのだ。

 

 博麗の巫女は、とんとんとお祓い棒で肩を軽く叩きながら、品定めをするように私と小傘を眺めやった。そして小傘に向かってびしっ、と指をさす。

 

「あんたは、後でボコボコにしてやるわ。覚悟しときなさい」

 

「え、聞いてよ霊夢。これは深いわけがあって……」

 

「そしてあんた」

 

 小傘の弁明を無視すると、霊夢は私に目を向けた。

 

「人を襲ってるみたいだし、放っておくわけにもいかないわね。あんたは今ここで、叩きのめす」

 

 霊夢の目は本気だった。私は慌てて折れた刀を捨てると、弁解しようとした。

 

「これには深いわけが……」

 

 霊夢は私が言い終える前に何枚ものお札を袖から取り出しすと、ふっ、と不敵な笑みを浮かべた。これまで見たどの笑いよりも冷徹で、どすの利いた笑み。

 

「言い訳無用よ。おとなしく退治されなさい」

 

 




・紅御前
あざみ、小傘の仮装した姿の通称。もちろん危害は加えてこない。
・案山子念報
姫海堂はたての新聞。射命丸の新聞と違って知名度が低い。
・あざみのスペルカード
各種9枚それぞれ鈴奈庵にあった本を調べて名付けられている。何も調べずに9枚全てのカードの元ネタが分かる人は相当の読書好きか伝承好き。
・博麗霊夢
スペルカードルールで間違いなく最強の人。妖怪絶対退治する系少女。

…そういえば東方新作の鬼形獣、(旧かどうかわかりませんが)地獄が舞台だと聞いて、マジかーと頭を抱えています。茨歌仙の方も展開次第でこちらに矛盾が生じるかもと思ってはらはらして見てたんですが、こっちもこっちで地獄の詳しい情報が来るかもしれないので、期待半分、不安半分ですね。


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第17話 闇夜の巫舞に散る

 

 

 

 私は、決して博麗の巫女の強さを過小評価していたわけではなかった。

 

 しかし人間の中で最も、そしてスペルカードという決闘の形なら幻想郷でも並び立つ者はいない強さであるという漠然とした評価は、私の認識不足によるところが大きかっただろう。

 

「鬼符『更科姫(さらしなひめ)の紅葉狩り』」

 

 赤く輝く季節外れの紅葉が私の頭上に現れた。そして、それらは一気に雪崩をうつように、目標―霊夢に向かって殺到する。しかし霊夢は慌てる風でもなく、迫りくる紅葉の群れを見つめていた。

 

「ちょろいわね」

 

 霊夢はそう言うと、回避する—のではなく、高密度の弾幕の中に突っ込んできた。

 

あまりに予想外の行動だったので、一瞬唖然としたが、このスペルは相手を追尾する型なので、それでも霊夢を追い続ける。私が直接動かしているわけではないのだから、それは不意をついたことにはならない。

 

 そう思ったが、すぐにその考えも甘いということが分かった。霊夢は不意をつこうとしたのでも、気が狂って弾幕の中に突進してきたわけでもない。

 

 あの無数の弾幕を全て、回避しながら進むつもりなのだ。

 

 赤い嵐の中で、霊夢は全ての攻撃を紙一重のところで躱しながら、こちらへ向かってきていた。最小限の動きで、正確に、そして確実にこちらへと近づいてくる。

 

「霊符『夢想封印』」

 

 瞬間、霊夢を包み込む紅葉の嵐が膨らんだ。その直後に爆散し、霊夢を覆い尽くしていた弾幕が消え去る。

 

そして弾幕を打ち破ってもなお形を留めていたいくつもの光球が、すさまじいスピードで私に襲いかかってきた。

 

 私はとっさに結界を張って防御したが、1発目で亀裂が入り、2発目で半壊、3度目で完全に結界を破られ、続く4発目が、私の身体を吹き飛ばした。墜落する寸前、私はかろうじて飛行術を掛け直すと、何とか空中に踏みとどまった。

 

 撃墜を免れたとはいえ、完全にゼロ距離からの爆発だったので、無事というわけにはいかなかった。着物のあちこちが千切れ飛び、鼻緒が切れ、そして般若面がどこかへ行ってしまっていたのである。

 

霊夢は私を見ると、何故か不思議そうな顔をした。

 

「あら? あんた、阿求……?」

 

 顔を見られた。

 

 私は慌てて顔を手で覆い隠そうとしたが、遅かった。すでに霊夢は私の顔を見てしまっている。

 

そしてさらに運の悪いことに、次の瞬間に突風が吹いて私の髪をはためかせた。すると霊夢は戸惑うような表情を引っ込め、代わりに鋭く私を見据えた。

 

「いや、阿求じゃないわね……だって、そんな角は生えてないものね」

 

「………」

 

角も見られた。

 

「……やっぱり、小傘と組んで人を襲っていたってわけ」

 

「襲っていたわけではありません。私はただ小傘さんのお手伝いを……」

 

「お手伝いの見返りは何だったのかしら? 人の肉? 魂?」

 

 霊夢は有無を言わせない口調で、厳しく問い詰めてくる。彼女からすれば私も人を喰う妖怪のうちの1人に過ぎないのだろう。そしてそれを裏付けるように、霊夢は言った。

 

「あんたが人間だっていう可能性も捨てきれなかったからさっきまでは手加減してたけど、今からは本気で行かせてもらうわ」

 

 気配が変わった。

 

 彼女の真っ黒な瞳は月の光を映し、その中心にいる私を捉えている。彼女が私を人間ではなく妖怪だと認識したことで、妖怪退治の専門家、「博麗の巫女」としての本領が発揮されようとしているのだ。

 

 私が身構えたその瞬間、霊夢はすでに私の目の前にいた。

 

―疾い!

 

 私はごくりと唾を呑みこみ、接近戦用の槍を出そうとする。しかし、霊夢が一手早かった。

 

「遅い」

 

 無数の光弾が、私に向かって集中した。結界を張る間もスペルで相殺する間も与えられず、全てがまともに命中する。

 

 耳をつんざくような炸裂音が響き、視界が純白の光に包まれた。荒れ狂う霊力の奔流は私を吹き飛ばし、どこかの家の屋根に叩きつけた。

 

「くっ………!」

 

 起き上がろうとした私の目に、追撃せんと急降下してくる紅白の巫女が映った。今から起き上がったのでは遅い。スペルカードで迎え撃つ。

 

「雷神『伊邪那美(イザナミ)霹靂神(はたたがみ)』」

 

 妖力を雷に換え、手のひらに帯電させると、一気に対象―霊夢に向けて解き放った。青白い稲妻は宙を駆け抜け、霊夢に襲い掛かる。

 

「……ちっ!」

 

霊夢は命中の直前に結界を張って防御した。このスペルは発動してから防御したのでは間に合わないので、こちらの攻撃を事前に読んで展開したのだろう。この読みの力といい、技の威力といい、小傘などとは段違いの強さである。

 

私は両手を霊夢に向けたまま、ありったけの妖力を雷に送り込む。私の周りで青白い火花が散り、バチバチと音をたてる。目を思い切り見開いて霊夢がいるであろう場所を凝視していると、妖力を使いすぎたせいか、くらりと眩暈がした。

 

―確かに妖力を使えるようにはなったけど、あなたはまだ完全に慣れてるわけじゃない。大技を連発したり妖力を使いすぎたら、身体の調子が悪くなるかもしれないわ。

 

 華扇の言葉を思い出したその時、ずきん、と脳を極太の針で貫かれたような痛みが走った。

 

「………っ!」

 

 その一瞬、集中が途切れ、スペルが中断される。

 

 痛む頭を押さえながら術をを再展開しようとしたが、その瞬間、薄れていく稲妻の光の中から、霊夢がこちらに迫ってくるのが見えた。

 

(しまった!)

 

 もはや策を弄する間もなく、霊夢と私の距離は、ゼロとなっていた。霊夢の背後から、恐ろしい数の光弾が浮かび上がり、まとめて叩き込まれる。

 

その瞬間、すさまじい衝撃が走り、朦朧としていた私の意識は、ついに光の彼方に溶け去ってしまった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「本当になんで私が妖怪の世話なんかしなくちゃなんないのよ……」

 

 行燈が灯り、ぼんやりとした明るさを保っている部屋の中で、霊夢はぼやいた。部屋の四方の壁には魔除けのお札が貼ってあり、妖怪が自由に出入りすることはできない。この部屋は紫や他の妖怪たちになどに侵入されたくないがために用意したのだが、今はその逆―部屋でこんこんと眠り続ける「彼女」を閉じ込めるために使用されている。

 

 霊夢は、連れてきた少女―今人里を騒がせている「紅御前」の正体である―を見て、ため息をついた。

 

 もともと彼女を倒したらさっさと自警団に引き渡すつもりだったのだが、自警団の面々は全員がどこかへ集まっているらしく、知っている団員の家へ行っても、引き渡せそうな者はいなかった。

 

ただ1つ得たものがあるとすれば、霊夢の背中で気絶していた少女の名前が、あざみという名前だと知ることができたくらいか。彼女はここしばらく鈴奈庵で働いていたそうである。

 

 あざみがいつ目覚めて逃げるか分からないし、こんな危険な妖怪の監視をただの人間に任せられるはずもないので、仕方なく博麗神社に連れてきたのである。

 

(朝になったらまた人里に行かないといけないわね)

 

 面倒だが、これで神社の名が上がるなら安いものだ。博麗神社は商売敵の守屋と違って売り込みが下手なので、こうして妖怪を退治しなければ参拝客は減る一方だからである。

 

 あざみは埃にまみれ、ぼろぼろになってはいるが、肌には擦り傷一つついていない。どれほど人間に似ていようとも、人間を襲う妖怪には変わりないのだ。

 

(後で小傘も見つけたらとっちめないと)

 

 小傘は霊夢の相手をこの相方に任せてさっさと逃げてしまい、戦いが終わるころにはすでに姿が見えなくなっていた。ひょっとすると霊夢が現れることを想定していたのかもしれない。

 

「………んっ、んん……」

 

 横たわるあざみの睫毛が揺れた。そしてゆっくりと目を開き、ぱちぱちと数度瞬きをする。

 

「ここは……?」

 

 あざみは目を擦りながら身体を起こすと、部屋の中を見回していた。そして霊夢に目を留めると、顔に驚きの色を浮かべ、身体を中途半端に起こしたまま、後ろへじりじりと下がる。

 

「は、博麗の巫女……!」

 

「そうよ。私があなたを運んだの」

 

 彼女が霊夢へ向けるまなざしには、怯えと恐怖が入り混じっていた。異変解決時に蹴散らしていく弱小な妖怪や妖精にその目を向けられることはあるが、彼女のそれは異常と言ってもよいほどだった。

 

「わ、私をこれから、どうする気ですか?」

 

「……明日、人里に引き渡しにいくわ。そこで何をされるかは知らないけど、人里で人間を傷つけてはならないってルールを破ったあなたには、それに文句を言う権利はないのよ」

 

「そ、そんな……」

 

「ちなみに逃げようとしても無駄よ。結界が張ってあるから」

 

 外へ出ようとしても見えない壁に阻まれるだけで、お札そのものを何とかしようとしても、それには近づくことさえできないのである。

 

「あんたが変な気を起こして人里で暴れなかったら私もこんな面倒なことしなくてよかったんだけどね……」

 

 そう言うと意外なことに、あざみは深々と頭を下げた。

 

「それは本当に申し訳ありませんでした。……でも私は人間を傷つけてませんし、傷つけるつもりもなかったんです!」

 

「刃物は持ってたんでしょ?」

 

「……刃物なんてただの飾りです。本当に殺す気なら、わざわざ刃物を見せなくても、首に手をかけて力を込めればいいだけなんですから」

 

 あざみはそんな恐ろしい内容を口にしながら、目を伏せた。顔こそ阿求に似ているが、性格は人間の思考と妖怪の感覚が微妙に混じり合っているようで、どうにも危うい。しかし彼女生来の性質として腰が異常に低く、そして辻斬りをするような度胸があるようにはとても思えない。

 

「……小傘と組んでたけど、あんたに何の得があったの?」

 

「私の決闘練習に付き合ってもらってたんです。代わりに小傘さんのお手伝いを……」

 

「それで調子に乗りすぎて私と実戦練習になっちゃったってわけ」

 

「うう、私、最後はむしろ反対したんですよ……」

 

 この話が本当なら、この事件はただの人騒がせないたずらとして処理することができる。霊夢が妖怪退治に成功したとしても、その前に誰かが怪我をしたり死んだりしていると、「遅すぎる」と非難されることもある。だからそんな「他愛ない悪戯」ですむものであったのなら、それに越したことは無い。

 

(問題は、それが本当かどうか……よね)

 

 彼女の言うことが本当であれば厳重注意の後にさっさと解放してやってもいいが、今の言葉は逃げ出すためについた嘘で、逃がした後に犠牲がでてしまったということになれば目も当てられない。

 

「私は嘘をつきませんよ。この角にかけて」

 

「あんたが鬼って保証はないから。角があるからと言って鬼だとは限らないわ」

 

「……じゃあどうしたら信用してくれるんですか?」

 

「まずあれだけ迷惑かけて信用されようってのが甘いわね。息の根を止められても文句を言えないと思うんだけど」

 

「もうしません。もうしません」

 

 あざみは額に頭を擦りつけ―畳が傷つくのでやめてほしい―ひたすら霊夢に謝ってきた。そんな姿を見ていると、ますます彼女が鬼だということが信じられなくなってくる。鬼だというのならもっと傲慢で不遜な態度をとってもいいと思うのだが。

 

「……ま、いいわ。私なんかよりいろいろ知ってる奴が明日の朝に来るはずだから、あんたを見せて何の妖怪か品定めをしてもらうわ。あんたが言ってることが嘘じゃないってことが分かったら、ちょっとは見逃してもいいと思うけど」

 

「……そうですか」

 

「小傘なんかに協力したのが運の尽きだったわね」

 

 あざみは長々とため息をついて頷いた。本当に小傘に利用されただけであったのなら、少し気の毒だ。

 

「……そういえば、その『いろいろ知ってる人』って誰ですか?」

 

 今更どうあがいても無駄だと思ったのか、あざみはそんなことを訊いてきた。

 

「……華扇っていう仙人よ。明日、宴会を開くつもりだったの」

 

「えっ」

 

 それを聞いた瞬間、あざみの顔がみるみるうちに青ざめていった。さきほど霊夢に見せた怯えとは比較にならないほど血の気が引いている。

 

「どうしたの?」

 

「いえ……なんでもありません」

 

 そうは言ったが、頭を抱えながら「怒られる……」「本当にどうしよう」とぼそぼそ呟き始めたので、なんでもないということは無いだろう。ひょっとしたら華扇と何らかのつながりがあるのかもしれない。

 

「……とにかく、今夜はこの部屋で謹慎しときなさい。明日になったら開けるから」

 

 

 




・妖力の使いすぎ
頭痛や寒気など、妖力の行使に慣れていない間は消耗で体調に異変をきたす。永く生きているものはまずないが、あざみはまだ妖怪としては若輩。
・角があるからといって鬼とは限らない
正邪(鬼人と言っているが嘘はつく)のこと。厳密には鬼と言ってもいいが、ここで論じているのは「嘘をつかない」鬼のこと。


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第18話 別れを告げる日

 

 

夜が明け、山の際から日が差している。冬の名残りか、冷え冷えとした空気が博麗神社の境内を満たし、静かな早朝を迎えていた。

 

 私が障子の隙間から外を覗くと、雀がときおり思い出したかのようにさえずりながら、地面をつついている。何となしにそれを見ていると、急にその雀は飛び立ってしまった。

 

「……だから、あんたなら鬼かどうか分かるでしょ」

 

「………ええ、まあそうだけど」

 

「ならはっきりさせて。あいつが嘘をつかない方だったらまだやりようはあるから」

 

 1つは、霊夢の声。そしてもう1つの声は華扇のものだった。歩いてくる2人は石畳を歩きながら、こちらへ近づいてきているようだった。

 

(絶対怒られる……!)

 

 人間を傷つけてはいないが、少なくとも霊夢に私の正体は知られてしまったのだ。華扇との約束は守れていない。そろそろ地底へ帰ろうかというときに、とんでもない失敗をしてしまったものである。

 

(あの時に小傘さんを止めてたらな……)

 

 しかし後悔は先に立たないものと相場が決まっている。私が観念して待っていると、障子が開けはなたれ、華扇と霊夢が入って来た。

 

「華扇はこの子知ってる?」

 

「……ええ。よく知ってるわ。知り合いよ」

 

 華扇は正座している私を見つめて、ただそう呟いた。しかし今の一言は、修行に遅れてしまったときや弾幕をぶつけてしまった時とは比べ物にならないほどの怒りを孕んでいるように聞こえた。

 

「大丈夫よ、霊夢。この子は私に任せてくれればいい。代わりに今度美味しいもの持ってきてあげるわ」

 

 華扇はどうやら私を助けてくれるらしい。しかしその割には私への視線は鋭く、ただ罪人よろしくかしこまることしかできなかった。

 

 霊夢は少し考えていたが「ま、いいわ」と言って、私を引き渡すのをやめたようだった。

 

「あんたが言うんなら大丈夫なんでしょ。後は任せるわ」

 

「ありがとう、霊夢」

 

 霊夢は適当に頷くと、ぴしゃりと障子を閉めて出て行った。すると華扇は霊夢に向けた微笑を引っ込め、こちらを向く。

 

「さて、あざみ」

 

「は、はいっ!」

 

 私は正座したまま、飛び上がりそうになった。華扇に声を掛けられた瞬間、久々に死の気配を感じた。勇儀様も底がしれないが、華扇もまた私よりも格の高い上位者なのだ。

 

「何か言いたいことは?」

 

「……迷惑かけて、すみませんでした……」

 

 汗が頬を伝い、あごからぽたりと落ちた。

 

「……いろいろ言いたいことがあるけど、長々と説教するのは面倒だし非効率的だから、一言で言わせてもらうわ」

 

 華扇はそう言うと、右手をぐっと握りこんで拳を作りー

 

「このバカ弟子がッ!」

 

 華扇の拳が脳天に炸裂した。以前銀二という鬼と殴り合った時はそれほど痛いとは思わなかったが、今回は格上の鬼である華扇の一撃であるので、威力は十分だった。

 

 私が痛む頭をさすりながらおずおずと華扇を見上げると、華扇は腕組みをして、まだ怒りが収まらないとでもいうように眉をひそめていた。

 

「人を傷つけたわけじゃないっていうならいいけど、そうそう他の妖怪の口車に乗るものではないわ」

 

「……分かりました」

 

「ならよろしい」

 

 華扇は頭をさする私から目を外すと、障子の方に目をやった。

 

「私が言えば、霊夢は拘束を解いてくれるはず。霊夢もあなたを引き渡すために移動するのは大変だろうし、後は里の人間を安心させれば万事解決すると思うわ」

 

「どうするんですか?」

 

「幸い、里の人間たちはあなたの正体が分かっていない。だから例えばその赤い着物が付喪神になっていたとでも理屈をつければ納得してくれると思う」

 

 要するに、一芝居打つというわけである。そうすれば霊夢は私の正体がどうであれ神社の名を上げることができるし、里の人間の安寧も守られ、そして私も地底へ帰ることができる。確かにこれが最もいい事件の落としどころだろう。

 

 華扇が障子をとんとんと叩くと、それまで見えない壁が立ちはだかっていた出入口が私でも通れるようになったらしく、何の抵抗もなく部屋を出ることができた。そして私と華扇は、霊夢と話をつけるため、彼女のいるであろう部屋を探して歩き始めた。

 

 

 

 

 私と華扇はやや古ぼけた座敷の中、煎餅の入った皿を挟んで霊夢と向かって座っていた。

 

「………まあ、それなら私もいろいろやりやすいわね」

 

 ぱりぱりと煎餅を齧る音をたてながら、昨夜に私を完膚なきまでに叩きのめした最強の巫女―霊夢は言った。霊夢は華扇の提案を吟味し、自分に損が無いと分かるとあっけないほど簡単にそれを受け入れた。

 

「私も何度も人里に行くほど暇じゃないのよ。あんたが人間に危害を加える奴だと思ったから拘束してたけど……華扇、もう一回聞くけど、本当にこの子が人を傷つけないって保証できる?」

 

「ええ。そんなことできっこないわ」

 

 華扇の言葉を聞くと、霊夢はよし、と言って立ち上がった。そしてつかつかと私の方へ歩み寄る。戸惑いながらこちらを見下ろす霊夢を見上げていると、霊夢はそのまま私の背後に回り、背中の辺りでなにやらごそごそし始めた。帯をほどいているらしい。

 

「ちょ、ちょっと! 何してるんですか⁉」

 

「見れば分かるでしょ。あんたの着物の帯ほどいてんのよ」

 

「だからそれが何でって……」

 

 そう言っているうちに帯がほどけ、私は着物を脱がされた。腰の方にもサラシを巻いているので全裸というわけではないが、それに近い格好ではあるだろう。膝に畳のちくちくとした感触が伝わってくる。

 

「紅御前の正体が何であれ、倒した証拠は必要でしょ? あの刀も没収させてもらうわよ」

 

「だからって今没収することないじゃないですか! こんな格好で外なんか歩けませんよ!」

 

 私の場合は通常よりも長い布で胸部から腰までを一気にぐるぐる巻きにしているのでまだましな方だが、この格好で外を出歩いたら間違いなく頭がおかしいと思われるだろう。

 

 霊夢はため息をつくとその着物をどこかへ持っていき、新しい着物を手に持って戻ってきた。

 

「これでも着ときなさい」

 

 私の頭に投げかけられたのは、灰色の、これまた古びた着物だった。あちこちがほつれているが、着られないというわけではなさそうだった。

 

「……ありがとうございます」

 

 私がもぞもぞと着物を身に着けながらお礼を言うと、霊夢はひらひらと手を振った。

 

「いいのいいの。どうせ妖怪退治の話で参拝客が増えれば、いくらでもそんな古着は買えるわけだし」

 

「妖怪退治をしなければ人は来ないんですか?」

 

「まあね。ご神体とかあればいいかなって思って探したこともあったんだけど……」

 

「この神社って、ご神体がないんですね……」

 

「元々ね。信仰してる神様もわかんないし。だからいろいろ工夫して商売してるのよ」

 

 私の知識が間違っていなければ、神社というものはたいていご神体があるし、信仰する対象もあるはずだ。過去にご神体を紛失したとか奪われたというのなら分かるが、元々無い、というのは聞いたことがない。

 

「私も不思議に思ってるんだけどね。何故この神社にご神体が無いのか。過去にご神体にしようって霊夢がいろいろ持ってきたけど、どういうわけか全部だめになるのよ」

 

 この博麗神社にはご神体というものに縁がないのかもしれない。しかしご神体に縁のない神社というものも珍しいが、巫女でさえ祀っている神が分からないというのには驚いた。それでは信仰する方も張り合いがないだろう。

 

「この神社のどこにも神様の記述は無いし。本当にここって神社なのかしら?」

 

「……霊夢にまで言われるなんて、この神社も駄目なんじゃないかしら」

 

「はは、まあそうね」

 

 華扇と霊夢は笑い合っていたが、やがて華扇は「そうだ」と何かを思い出したかのようにこちらを見た。

 

「……あなた、今からどうするの?」

 

「今から、とは?」

 

「これで修行は終わったでしょう?」

 

 言われて初めて、はっと気が付いた。私は、(成り行きではあるが)幻想郷で最高の実力者と対決していたのである。小傘との練習で回数は重ねていたし、そのうえに博麗の巫女との戦いも経験したのだから、ひとまずは一人前と名乗れるだろう。

 

「そうですね……では約束通り、そろそろ私も地底に帰ります」

 

 私がそう言うと、華扇は少し寂しそうな顔をして、

 

「……ちょっとくらいなら地上に少しいてもいいとは思うけど。ちょうど宴会が始まるわよ」

 

 霊夢がそれを聞いて「忘れてた」とつぶやくと、とてとてと部屋の外へ急いで走っていった。宴会の準備でもあるのだろう。私はそれを見送ってから、華扇の方に向き直り、首を振った。

 

「……いえ。私はこれでも勇儀様の従者ですので。修行が終わったからには、地上でぶらぶらしているわけにはいきません」

 

「あらそう、残念ね。いくらでも美味しいものがあるのに。黒焦げじゃないお団子もいっぱいあるわよ?」

 

「……その話はよしてください」

 

 あの失態を思い出して流石に恥ずかしくなり、私が顔を背けると、華扇はふふ、と笑った。

 

「まあいいわ。あなたが勇儀に仕え続けるのなら、多分間違った力の使い方はしないでしょ」

 

 華扇はぽんぽんと私の頭を叩いて、言った。

 

「さ、行きなさい。今頃勇儀も首を長くして待ってるかもしれないわ」

 

「……ありがとうございました」

 

 私はぺこりとお辞儀をすると、華扇のいる部屋から縁側に出た。すると石段の上に私の草履が載っているのを見つけ、それを履いた。

 

 顔を上げると、神社の境内に満ちていた朝の気は去り、すっかり太陽は登ってしまっていた。神木らしい梅の木の枝の隙間から差し込む光に目を細めながら、私は石畳を歩き、鳥居をくぐった。

 

「………」

 

 そこで私は立ち止まり、振り返ってもう一度、お辞儀をした。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「今までお世話になりました」

 

 小鈴と一緒に歩きながら、あざみは頭を下げた。鈴奈庵を去るあざみの見送りに、里の外れまで歩いていく途中だった。

 

先日に代わりの店員が見つかったので、彼女は元いた場所へ帰ることになったのだ。出会ってから数カ月しか経っていないが、いつも顔を合わせていたのもあって、少し寂しかった。

 

「こっちもね。また会ったらお仕事頼みたいわ」

 

「よっぽど常識はずれなものでないのでしたらお受けしますが……まあまともに生活してたらまた会うこともないでしょう」

 

 あざみもどこか寂しそうに笑った。確かに地底など小鈴には到底行けない場所であるし、彼女がこれからそこから出てくる予定もないと言っていたので、これが最後の会話になるかもしれない。

 

「修行は全部終わったの?」

 

「はい。まだまだ実力は足りませんが」

 

「……へーえ。じゃあ妖魔本も書けたりするの?」

 

「さあ……それは知りません。私は普段、文を書きませんし」

 

「阿求に習ったら?」

 

「……なんで私にそんなに何かを書かせたがるんですか?」

 

 あざみは不思議そうに小鈴を見返した。どうやら彼女は妖魔本を書くことには全く興味がないらしい。小鈴は若干の落胆を感じながら、首を振った。

 

「何でもない。後任もちゃんと見つけたし、何も心配せずに帰っていいわ」

 

 

「後任さんですか……一応挨拶しておいた方が良かったですかね?」

 

「いや、もういいわよ。だいたい、後任って阿求だし」

 

「阿求さん?」

 

 あざみは、目を丸くした。それはそうだろう。というのも幻想郷縁起の編纂をしていれば、わざわざ稗田本家の、しかも御阿礼の子が鈴奈庵で働く必要は全くないからだ。

 

 しかし、阿求には幻想郷縁起の執筆以外に、転生の準備もしなければならないのである。転生するためには「徳」を積まねばならないそうで、無償で働いて生きている間からこつこつと「徳」を積んでいくのだそうだ。現世で積みきれなかった徳は地獄で閻魔様と仕事をして積むというのだから、転生するといっても、楽なことばかりではないようである。

 

「……阿求さんも苦労してるんですねー」

 

 そう言ってから、あざみは慌てて「別に小鈴さんが苦労してないって言ってるわけじゃないんですよ」と付け加えた。

 

その後も他愛ないお喋りに興じていたが、やがて里の外れにやってくると、あざみはぴたりと立ち止まった。

 

「では、お元気で」

 

 小鈴が頷くと、あざみは歩き始めた。やがてその後ろ姿が遠くなってから、彼女が振り向いて、小さく手を振っているのが見えた。小鈴がそれに応えているうちにあざみの姿は遠ざかり、山の奥へと消えてしまった。

 

 

 




・博麗神社のご神体
無い。ちなみに外の世界にも博麗神社はあるが、そちらもさびれて何を祀っていたかは不明。
・阿求の転生
生きている頃から転生のための準備が必要。御阿礼の子としての体は閻魔(映姫)が用意するが、徳を積まなければ転生はできない。


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三章 常闇と光明の狭間より
第19話 星熊の客人


 

 

 

 久々に戻ってきた地底は、硫黄の臭いがした。ごつごつとした岩壁―行きはヤマメにのせてもらっていたが、今は自分で降りられるーを抜け、地面に足をつけた。

 

 地底は地下水脈がそのまま川となっており、旧都はこの昇降洞の対岸にある。遠くから見える旧都のきらめきを見て、あの懐かしい喧騒を思い出した。もう数カ月もここを留守にしていたのだ。

 

 私はそう思いながら、歩いて対岸とこちらを繋ぐ橋へ向かった。飛んで川を渡ってもよかったのだが、橋にはおそらくパルスィがいる。挨拶くらいはしておいた方がいいだろう。

 

 橋に差しかかると、手すりに腰を下ろし、足を組んでいる金髪碧眼の彼女―パルスィがいた。パルスィは橋を渡ってくる私に気付いたらしく、腰かけていた橋の手すりからひらりと飛び降り、私の前に立った。

 

「……意外と早いお帰りだったわね」

 

「はい。ちゃんと修行して帰ってきましたからね。これで私も勇儀様の従者として恥じない程度には強くなれたかと」

 

「……そう。じゃあ飛んでさっさと勇儀のとこまで行けばいいじゃない。わざわざなんでここを通ったの?」

 

「顔なじみの人なので、挨拶くらいはしておこうと。それに私のいない間、勇儀さまの朝食を作ってくださったようですし」

 

 そう言うと、パルスィは気にするなというように手をひらひらと振った。

 

「別にいいのよ、それくらい。料理の腕も上がったし、あなたもこれから食べにくる?」

 

「……遠慮します。それは私のお仕事ですから」

 

 あくまで私の本分は勇儀様の身の回りのお世話をする従者である。食事を他人任せにしては私が仕えている意味がない。

 

「……妙なところで律義よね。あなた達って。勇儀も適当なところあるけど絶対に地上には出ないし」

 

 パルスィは呆れ混じりに呟く。そしてその時、ふと何かに気がついたように瞳の光が揺れた。

 

「そういえば……勇儀の命令なら、何でも聞く?」

 

「何ですかいきなり。死ねとか誰かを殺してこいとか、説明もされずに言われれば従えませんが、そうでないなら何でもしますよ」

 

「……そう、それならいいわ」

 

「どういうことですか?」

 

 訊き返すと、パルスィはいたずらっぽく、唇に人差し指を当てた。

 

「勇儀が今、大きな計画を立ててるの……あなたもそのうち説明されるはずよ。だからそれまで待っときなさい」

 

 

 

 

 結局パルスィは何も教えてくれなかったが、近々何かがあるということは何となく察しがついた。私のいない間に勇儀様は何をしていたのだろうか。

 

 そんなことを考えながら大通りを歩いていると、いつの間にか勇儀様の賭場に着いてしまっていた。賭場に入ってその中を見回したが、いたのは顔見知りの鬼たちだけだった。そのうちの粗末な服を着た若い鬼が、ぱっと顔を上げてこちらを見た。

 

「お、あざみの嬢ちゃん、戻ってきてたのか」

 

「はい。……ところで勇儀様はここにいらっしゃいますか?」

 

「いいや。今日は客人があるって言ってたから家の方にいると思うぜ」

 

「そうですか。ありがとうございます。……ところで、帰って来たばかりでよくわからないんですけど、勇儀様は何か大きな催しでも開くんでしょうか?」

 

 そう言うと、鬼は肩をすくめて答えた。

 

「……俺たちも教えられてない。根回しは勇儀様が全部やってるってわけさ。俺たちは決行の日に集めるって言ってたからな。お嬢ちゃんも教えてもらえないかもしれない」

 

「……でも、パルスィさんは知ってるようでしたが」

 

「ああ。あいつは鬼じゃないからな。勇儀様はたぶん、俺たちみたいなうっかりが酒に酔った調子にべらべら喋ったりしないようにしてるんだろ」

 

 勇儀様は、古くからの仲間や子分に秘密を作って、いったい何をしようというのだろうか。しかし決行時には鬼の力は借りるようなのでやはり情報が漏れるのを気にしているのだろう。そう考えたとき、ふと私が地上に行くときに勇儀様の言っていたことを思いだした。

 

『むしろ、お前には妖術を使えるようになってほしいくらいだ。今から……』

 

 今から? 今から何があると言おうとしていたのか。鬼の力がいるのだから、物理的な力が必要で、情報を漏らさないようにしていることから、土木作業の類でないことは確かだ。

 

(まさか、争い……?)

 

 しかし私はすぐに頭を振ってその考えを吹き飛ばした。勇儀様が喧嘩のときにわざわざ搦め手から勝負するのを見たことがない。必ず自分の手の内を相手にさらしてから勝負を始める。

 

……まあ勇儀様の考えていることは読めないし、パルスィの言うとおり、勇儀様が話すのを待っていた方がいいだろう。私は自分の中でそう結論付けると、勇儀様の屋敷へ向かった。

 

 

◆◆◆

 

 

「……ですから、あなたはあの子をここに留めて置くだけでいいんです」

 

 星熊勇儀の屋敷の一室で、1人の鬼と1人の人間が、向かい合って座っていた。この屋敷の主―星熊勇儀は寝ころびながら、質の良さそうな藍色の着物をきた、壮年の男をじろりと睨んだ。

 

「何を言っているんだ? 私はあの子を『助けてくれ』と言われたんだ。それじゃ約束を守ったことにはならないな」

 

「……しかし、酒を毎月持ってきているのは私であって、以前あなたが契約した稗田の人間とは違うのですよ。このお酒もタダじゃないんです。おまけに近頃は商売も芳しくないので……いま厄災の子が来れば、稗田分家は潰れます」

 

 勇儀は眉をひそめると、ぐいと右手の酒を飲み干した。

 

「だから何度も言ってるだろ。代々の稗田分家の当主が書いてる『覚え書き』を持って来いっていうんだ。そうすればもうこれ以上何も言うことはない。私があの子を連れてお前たちの家に行く必要もないわけだ」

 

「……それでも駄目です。あれは門外不出のものですから」

 

 男はきっぱりと答えた。この男は現稗田分家当主で、勇儀があざみを見つけた後に連絡を受け、度々地底を訪れていた。

 

 勇儀は昔の稗田分家当主と1つだけ契約をしていた。それは酒を毎月1升送る代わりに、あざみが勇儀のもとを訪れた場合、世話をする、というものだった。

 

 現当主は勇儀からの手紙が烏天狗を通じて届けられるまで、なぜ地底に酒を運び込まなければならないのかということを全く知らなかったという。それでも以前からやっていたことなので継続していたらしいが、勇儀と出会って初めてその意味を知ったと言っていた。

 

(……お前の子孫はすっかり約束を忘れてるみたいだな、昭義(あきよし)

 

 

◆◆◆

 

 

「頼みがある」

 

 ごろりと転がる勇義の前で、座敷に頭をこすりつけるようにして土下座をする男の姿があった。見た目は30前後といったところだが、歳に似合わず身なりはよく、精悍な顔つきをしている。

 

 勇儀はちらりとその顔を見てから、口を開いた。

 

「……頼み、ねえ。まずあんたは何ていう名前なんだ? いきなり人の家に上がり込んで名乗ることもせずに頼みごとをしようなんて、無茶なんじゃないか?」

 

 見ると、男の服はところどころがほつれ、腕には擦りむいたあとがある。ここへ来るまでに地底の誰かに襲われたのかもしれない。根性のあるやつだな—と感心していると、男は顔をあげた。

 

「私の名前は、稗田昭義だ。稗田分家の当主をしている。星熊勇儀、今日は怪力乱神と恐れられているあなたの力を借りるために来た」

 

「……で、その頼み事ってなんだい。まだやってやるって決めたわけじゃないが、一応話だけ聞いとこう」

 

 昭義はゆっくりと、しかし聞き逃させないようにはっきりと答えた。

 

「私の娘を、助けてほしい。時間を問わず、娘が死んでしまうまで」

 

 昭義はそれだけ言うと、後はおしのようにじっと黙っていた。言いたいことはそれだけということだろう。勇儀は少し面食らったが、落ち着いて答えた。

 

「お門違いだね。護衛なら里にいくらでもいるだろう。稗田くらいの名門なら最高の用心棒を雇える。私じゃなくてもいいじゃないか」

 

「いや、私は星熊勇儀にしかできないと思っている。私の娘は、鬼なんだ」

 

「鬼……?」

 

 この男はどこからどう見ても人間だ。いったいどうしてそんなことになったのか。

 

「一種の呪い……いや、代償とでも言おうか。私の子は、すでに命が質に入れられている」

 

「じゃあその呪いとやらをかけた奴を倒してほしい、ということか?」

 

 昭義は首を振った。

 

「そんなことをしてもあなたが勝つ見込みは少しもない。我々ができるのは祈ることと取引きをかわすことくらい。娘は奴の供物なのだ」

 

「供物……ね。その供物をあんたが自分の判断で取り返すってのはどうなんだい?」

 

 つまりこの男の娘は、神か何かに命を捧げるために生かされている、生贄であるということなのだろう。しかし供え物であるというのなら、人間の方も人身御供を出す見返りを求めているはずである。契約を曲げて供物を捧げないというようなことがあれば、その取引相手と生贄を巡る争いが起きるのではないか。

 

 そんな意味を込めた勇儀の問いを理解したらしい昭義は、重々しく頷いた。

 

「……ああ、おそらく駄目だろうな。少なくとも私はそいつに殺されるだろう」

 

「なのに何故娘とともに助けてほしいって言わないんだい?」

 

 すると昭義はふっと笑った。

 

「……約束を破ったけじめは破った本人がつけないとならないからな」

 

 結局、勇儀は昭義の頼みを聞き入れた。酒を貰えるからというのもあったが、自分のあずかり知らぬところで供え物にされたこの男の娘に興味を持ったからである。端的に言うと、刺激が欲しかったからだ。

 

 数日後、里で例の「鬼子」が追放されたという話を昭義が遣わせた稗田の人間から聞いた。次に追放されたその娘を地底まで運んでくるという話だったのだが、ここで思わぬ事態が起きた。

 

 稗田昭義が怪死したのだ。

 

 娘を追い出した日の晩、使用人の1人が昭義の部屋に黒い影のようなものが入っていくのを見たという。

 

その影の表面に人の顔のようなものが無数に浮き出ているのを見て、その使用人は声も出せずに震えながら一晩中そこに立ち尽くしていたらしい。

 

 次の日の朝、昭義の部屋を開けてその使用人が見たのは恐怖の表情を顔面に貼り付け、何かがこれ以上近づかないようにしようと腕を突っ張ったまま死んでいる昭義の姿だったという。

 

 稗田は本家を含めて大騒ぎとなり、そのうちにこれは追放された鬼子の呪いだという結論となってしまった。そのせいで昭義の娘を回収して地底に回収することはできず、そのまま行方不明になってしまったのである。

 

 

◆◆◆

 

 

(昭義に、()()取引をしていたのかくらい聞いとけばよかったねえ……)

 

 おそらく昭義を殺したのは以前あざみを襲ってきたあの悪霊と同じ存在だろう。つまり相手はただ契約の履行—供物であるあざみの命を奪うことのみを目的としているのだ。つい最近まであざみが襲われなかった理由はよくわからないが、命を取りたてに来たのだろうということは察しがついた。

 

 しかしあくまであの悪霊は「取り立て人」にすぎず、稗田分家が取引きをした相手はおそらく別の存在のはずである。第一にあの悪霊からは意志が感じられなかったし、少なくともあの時点では絶対的というほど強力なものではなかったからだ。

 

 契約の内容を知っていたであろう昭義はすでに死んでしまっているので、彼が書き残しているはずの記録を見ることでしかあざみを救う方法を見つける手立てはない。そこで勇儀は現当主にそれを持ってきてほしいと頼んだのだが、「決まりだから」との一点張りでにべもなくはねつけられた。

 

 おそらくあざみの実の父が死んでからの稗田分家からすれば、彼女はむしろ消えてほしい存在なのだろう。不吉な予言をされているのに加えて、人の子ではないのだから。現在昭義との約束が曲がりなりにも果たされているのは勇儀の武威を恐れているからで、稗田分家は今すぐこの縁を切りたいはずである。

 

「……とにかく覚え書きは持ってくることはできません。彼女……いや、あれがどうなろうと私はどうでもいい」

 

 男は立ち上がると、「では」と言い残して、勇儀に背を向け、去ろうとした。

 

「交渉決裂だな。……これでもう私の肚は決まった」

 

「肚を決めたからどうだっていうんですか? あなたは地上へ出られないでしょう?」

 

「……まあ好きに言ってな。そのうちお前の家に遊びにいくぞ」

 

 勇儀の言葉に顔をしかめながら、稗田家現当主は戸を開け、そのまま歩き去った。もはや現在の稗田分家はあざみを稗田家としては認識していないらしい。勇儀はため息をつきながら見送っていると、視界の隅で空間がぐにゃりと歪んだ。

 

「誰だい」

 

「……私です、勇儀様」

 

 何もないはずの空間から、あざみが姿を現した。久々に見るその顔からは腹立たしいほどの臆病さは消え、一本の芯が通っているかのようにぴんとのばした背筋から、どことなく一回り成長したような様子を漂わせていた。

 

「帰ってたのか。……ああ、華扇のとこにやって正解だったな。よく頑張ったみたいじゃないか」

 

 そう言うとあざみは少し照れ臭そうにしていたが、やがて真面目な表情に戻った。

 

「勇儀様……今の人はいったい?」

 

「客人だよ。話を聞いてたのかい?」

 

 そう問うと、あざみはゆっくり首を横に振った。

 

「いえ。先ほどは修行の成果を見せるために術で姿を隠してこっちに来たのですが……何かあの客人と揉め事でもあったんですか?」

 

 あざみにはまだ稗田とのごたごたを話す必要はない。勇儀の知っていることは少ないし、稗田分家との話を教えてもあざみの神経をすり減らすだけで何の得もない。地上へ行き、全てを知るまではあざみに何も教えない—これが勇儀の考えている「助け方」だった。

 

「……まあ、あんたが気にすることじゃないさ。そんなことより、せっかく帰ってきたんだから宴会の1つでも開こうじゃないか」

 

「そうですね……それなら今からあちこちに注文しないと……」

 

 話をそらすと、それにまんまと引っかかったらしいあざみは難しい顔をしながら急いで外へ出て行ってしまった。宴会用の料理を頼みに行ったのだろう。

 

(帰って来たばかりなのに、よくやるね)

 

 おそらく昭義との約束が無かったら見向きもしていなかった娘だったが、従者にしてからのひたむきさは数多くいる子分の中でも1番だった。

 

もし人間として生まれていたら地底などには来ず幸せに人里で暮らしていただろう。それが今やどこの何ともしれぬ者の供物にされているのだから、皮肉なものである。

 

 勇儀はあざみの背中を見送りながら、耳の傍で風が吹くのを聞いた。

 

 

 

 




・勇義の命令
 強制力最大。順序は勇儀>華扇>その他従うべきと判断した人
・あざみの父親
 あざみを追い出した直後に死亡していた。事件の大部分を知っていたと思われる。
・あざみの透明化
 スペルの1つ。基本的に特殊なものはこれと稲妻だけで、他はほぼ通常の弾幕。


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第20話 イカサマ火車

 

 

 

 盤の上でころころころ、と転がった賽子が、6を上に向けて止まった。それを見た相手の鬼が手を叩いて、嬉しそうに言った。

 

「よし、あがりだ」

 

「ああ、私負けちゃいましたね」

 

 この日、私はいつも通りに勇儀様の賭場で胴元や他の客の賭け事の相手をしていた。昼になってようやく起きた博徒たちがやってくる時間帯で、客が多い。

 

 とはいえ、先日に馴れない宴会の準備を手配したのに比べれば苦労は少ない。やはり慣れた仕事の方が安心するものである。

 

「うーん、今日は俺、ツイてるな」

 

 今は客の1人の双六の相手をしているのだが、相手は2回ほど立て続けに勝っており、機嫌が良かった。だが、私も仕事なので賭場に損が出ないように配慮しなくてはならない。そこで私は困ったような顔を作って、考え込むふりをした。

 

「……じゃあ次は2倍で賭けませんか? 私、このままじゃ勇儀様に怒られてしまいます」

 

「はは、胴元が熱くなってどうするんだ。俺の運は今絶好調なんだぜ?」

 

「いえ、次は絶対勝ちます!」

 

「……そこまで言うんならのってやる。その代わり、次俺が勝ったら倍額払ってもらうぞ?」

 

 鬼は愉快そうに笑いながら、駒を振り出しへ置いた。彼は、私が頭に血が上って倍額をかけたと思っているらしいが実のところは全く違う。2倍、2倍で賭け続けていると一度で損失分を一挙に取り戻すことができると踏んでの掛け金積み上げである。

 

まあ要するに私は一度勝てば彼が勝った分を取り戻すことができるのだ。賭場の金という大量の金を前提にして、そして相手をうまく乗せなければならないが、絶対に負けることは無い。

 

 というわけで、彼の前に積まれていた金のほとんどは、数十分後には私の手元に戻って来ていた。最初こそ勢いがあったが、一度負けてから負け癖がついたのか、連戦連敗だった。

 

「……ああくそ、勝てねえ! あんたイカサマとかしてねえよな!」

 

 私が無言で頭の角を見せると、鬼はぐっ、と声をもらして黙った。しかしツキがないのが分かっているのか、腕を組んで遊び続けるかどうか考え始めた。

 

「……そうだ、他の奴を誘おう」

 

 胴元とだけ遊んでいても金は増えないと判断し、他の客から巻き上げるつもりらしい。実に妥当な思考である。鬼は「すぐに戻るから」と言って席を後にすると、すぐに戻ってきた。しかし、先ほどはいなかったもう一人が後ろに立っていた。

 

 特徴的な猫の耳、赤毛に赤目、笑った時にわずかに八重歯の見える特徴的な風貌は、間違いなく地霊殿でさとりの珈琲を入れていた-

 

「……お燐さん?」

 

 そう言うと、お燐も私の顔を見て思い出したらしく、ああ、と手を打った。

 

「あの時の鬼さんか。元気してたかい?」

 

「ええ、まあ……お燐さんが賭場に来るなんて珍しいですね」

 

「いっつもさとり様の仕事のお手伝いしてるからね。今日はさとり様がダウンしちゃったから、外に遊びに来てみたのさ」

 

「ダウンって……大丈夫なんですか?」

 

 するとお燐は手をひらひらと振って、こともなげに答えた。

 

「大丈夫大丈夫。ベッドから起き上がらないだけだから。明日になったらまた活動を再開するんじゃないかな」

 

 お燐はさとりを機械かなにかだとでも思っているのだろうか。私は少しさとりの身が心配になった。

 

「……でもせっかくの休みだし、あたいも派手に遊んでみたいんだよねえ」

 

 お燐はそう言うと腰に付けていた袋から砂金をちらりと見せた。

 

「これで参加できるかい?」

 

「ええ。小判と同じ重さの分だけ小分けにしてくだされば」

 

 こうしてお燐を交えて再び双六が始まった。相手が2人なので先ほどの戦法は使いづらいが、うまく均等に利益が分散できると思っていた。しかししばらく続けていると、だんだんと私と鬼の前に積まれている金が少なくなり、お燐の目の前に金の山ができ始めた。

 

(……明らかに怪しいわね)

 

 私は、連勝して上機嫌のお燐をちらりと見た。先ほどの鬼の好調はただの偶然だったが、今回は何かタネがあるのではないかと疑うほどお燐が勝っているのである。当然誘ってきた鬼も面白いはずがなく、ぶすっとした表情で賽子を振っている。

 

「はっはっは、なんだかあたいだけ勝って申し訳ないねえ」

 

「……勝負はこれからだ」

 

 鬼はそう言って、また賽子を振った。明らかにお燐はいかさまをしているのだが、見破れなければ咎めることはできない。私はからくりを見破るべく、仔細にお燐の一挙手一投足をじっと見ていた。

 

 まず、双六だから盤に何かが仕掛けられているということはない。したがって細工をするとすれば賽子の方である。

 

「ほら、あんたの番だよ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 お燐は賽子をつかみ取ると、私に手渡した。

 

「ありがとうございます」

 

 私は受け取った賽子を見たが、何の変哲もない普通な賽子だった。まあ自分を有利にするためには、相手に渡すときにすり替えねばなるまい。彼女が振った直後に賽子をおさえていかさまを見破る必要がある。

 

 私の後に鬼が振り、お燐の番が回ってきた。お燐が出した数はやはり6。賽子の出目が分かったその瞬間、私は俊敏に動き、お燐が拾う前に賽子を取った。

 

「どうしたんだい、そんなに慌てて……」

 

 どちらかというとお燐の方が焦っているように見えたが、構わずに私は賽子を観察した。……が、見るまでもなく、取った瞬間にいかさまのネタは分かってしまった。

 

「わかりましたよお燐さん」

 

 私が爪で賽子を両断すると、中から鉄のおもりが出てきた。非常に単純な仕掛けだが、1の目の面の裏に重りをつけ、6が出やすい賽子にしてあるのだ。

 

 お燐は決まりが悪そうにぽりぽりとこめかみを掻いた。

 

「あは、ばれちゃったか。……でも今回だけだから。一回いかさまってやつをやってみたかったんだよ。ちゃんとお金は返すからさ、許してくれない?」

 

 お燐は手を合わせながら、上目遣いでそう頼んできた。

 

「はは、そうですね。まあ私には損がないので……」

 

「ありがと、同じ従者どうし、話がわかるね」

 

 私は頷いて袂から縄を取り出すと、素早くお燐の手首をぐるぐる巻きにした。

 

「な、何を……」

 

 抵抗するお燐を押さえながらさらに後ろでに縛りあげ、私は答えた。

 

「私には損が無いですが、勇儀様の賭場と、そのお客には損が出るんです。悪く思わないでくださいね」

 

 

◆◆◆

 

 

「うう、悪かったって……」

 

 お燐はあざみに引っ張られ、とぼとぼと賭場の通路を歩いていた。

 

 いかさまをしたとはいえ、まさか縛り上げられて勇儀のところまで連行されるとは思わなかった。いかさま賽子を使ってみたかっただけなのに。

 

(……さとり様、ごめんなさい)

 

 寝ている間にペットが外で捕まったと聞いたら、さとりは卒倒するだろう。ただでさえ労働過多なさとりには重すぎるニュースになる。

 

「……ねえ、あざみ。あたいのこと、さとり様には内緒にしてくれない?」

 

「私は勇儀様の判断に従うだけですからねー。捕縛はしましたが」

 

 つまり、お燐の運命も勇儀次第というわけである。はたして勇義がお燐のいたずら半分のいかさまを許すだろうか。

 

 許すわけがない。

 

 お燐は冷汗を流しながら、そう結論付けた。毎月地霊殿にやって来るのでその性格は知っている。ささいな嘘もつかないほど潔癖なのだから、いかさまをしたお燐にはどういう態度で接してくるのか計りかねる。

 

 すぐに勇義の部屋に到着し、あざみは「失礼します」と言って戸をすっと開けた。

 

 お燐の目に飛び込んできたのは流れるような金髪。額に生えた立派な一本角。長煙管を吸いながら、星熊勇儀はこちらに目を向けた。

 

「あざみか。……もう昼飯作ったのか?」

 

「違います。いかさまをしようとしたお客様を連れてきました」

 

「いかさまだって?」

 

 ぎろり、と勇儀の目がお燐に向いた。睨むだけで心臓を止められそうな重圧に、お燐は思わずびくりとした。

 

「……ていうか、さとりのとこのペットじゃないか。さとりから飯は食わせてもらってんだろ。なんでウチに来たんだい?」

 

「ちょっと……遊んでみたくて」

 

「いかさましてかい?」

 

 勇儀は呆れたように言った後、びっ、と3本の指を立てた。

 

「私の賭場では、いかさまをしたやつには3つのうちどれかの罰を与えることになってる。選ぶのはあんた自身だけど」

 

「……さとり様に言わなかったら、どんな罰でも受けるよ」

 

「言ったな。1つ、目をえぐられる。2つ、鼻をそがれる。3つ、片手の骨を粉々にされる。……さあ好きなのをどうぞ」

 

(ひええええっ!)

 

 お燐は震えあがった。どれを選んでも後遺症が残るレベル。まさに鬼の所業である。お燐を連れてきたあざみですら引いていた。すると勇義は苦笑して、言葉を続ける。

 

「……というのはまあ冗談だ。4つ目がある。……地霊殿であんたが統御している怨霊の一部を、私にゆずってほしい」

 

「はい?」

 

 お燐は、耳を疑った。怨霊はお燐やお空などにとっては有益な食料だが、普通の妖怪、例えば勇義のような鬼にとっては害にしかならないはずである。なぜそんなものを欲しがるのか。

 

 しかしお燐はさとりから怨霊の管理を任せられている。容易にほいほい怨霊を外にやっていいものではない。お燐が悩んでいると、勇儀はぽんと肩を叩いて、さらりと言った。

 

「………もしこれも嫌だっていうんなら、さっきの3つのうちどれかをしてもらう。さあ、あんたはどうする?」

 

 鬼は嘘をつかない。お燐はすぐに決断を下した。

 

 

◆◆◆

 

 

 私は勇儀様の指示でお燐と一緒に地霊殿へやって来た。ここへ来るのは地底を出た日以来だが、相変わらず清潔ながらも閉ざされた空間のような狭苦しさを感じさせている。

 

 お燐に先導されて歩いている地下へと続く通路はなめらかな石灰でできており、病的なまでに白い。数間おきに取りつけられている青白い炎のランタンも、怨霊たちの巣食う場所へといざなう案内のようだった。

 

「もう、こんなことになるんだったら賭場なんかいかなきゃよかったよ……」

 

「自業自得じゃないですか。……まあその気持ちは分からなくもないですが」

 

 私は人里での一件を思い出してそう言った。お燐の場合、霊夢の制裁のような身体的苦痛をともなわない罰であるぶん、ましだろう。

 

「それにしても、あんたの親分はなんで怨霊なんか欲しがるのさ?」

 

「さあ………近いうちに何かやるってことだけは知ってるんですけどね」

 

 それについては私の方が知りたい。帰ってきて数日がたつが、まだ勇儀様は私にそのことを語ってはくれていないのである。

 

(ちょっとくらい教えてくれてもいいと思うんだけどな)

 

 勇儀様のために一生懸命仕えているのだから、少しくらい信頼してほしい。そういう不満がないでもなかったが、今のところは我慢して何も言っていない。

 

「着いたよ」

 

 お燐が立ち止まったのは、この通路の最深部だった。彼女の前にはくすんだ色の鉄の扉が立ちふさがっている。お燐は右のポケットから小さなフタつきの壺を取り出すと、私に手渡した。

 

「それを開けて怨霊に近づけると中に吸い込むことができるよ。何個か回収したらフタを閉めるんだ」

 

 そう言いながらお燐は左のポケットから鍵を取り出して扉の鍵穴に差し込み、かちりと音がするまで回した。

 

「なるべく早くに戻って来てね。私はここで、さとり様とか空が来ないかどうか見張ってるから」

 

 私は頷くと、扉を開けて中へ入った。

 

 熱気。入った瞬間、やけつくような高温の風が頬をなでていった。地面は今までのような整ったものではなく、ごつごつとした岩盤が露出しているーそんな空間が目の前に現れた。

 

この地下空間そのものはそれなりに大きいものの、その中央にはがっぽりと奈落が口を開けており、底を覗き込むと、赤々と光る溶岩がごぽごぽとたぎっているのが見えた。

 

 もしこの中に飛び込んだら、鬼の身体でも助からないだろう。私は身震いをして亀裂から離れると、ここにいるという怨霊の姿を求めて、辺りを見回した。

 

 すると目の前でいくつもの火が突然現れた。闇の中で燃えさかる色とりどりの炎はじっと見つめていると、苦痛に顔をゆがめている人の顔が浮かんできた。

 

(……多分、これね)

 

 私は怨霊を小壺に封じ込めるため、フタを開けた。するとその2、3個の人玉たちはすぐにその壺に吸い込まれた。抵抗などはできないようで、おとなしく回収されるがままのようである。

 

(勇儀様はちょっとって言ってたけど……)

 

 だいたい50から60個で大丈夫だ、と私がここへ来る前に勇儀様は言っていた。少し粘り強くここで待って怨霊を掴まえなければならないー

 

「あなた、誰? ここで何してるの?」

 

 私は背後から急に声をかけられ、さっと前に飛びのいた。慌てて振り向くと、そこには丸い帽子を被り、ベージュ色の洋服をまとった少女だった。一見するとその奇抜な服装以外はいたって普通の子だったが、1つだけ違っていたのは、その胸にどう見ても大きな目玉としか思えないものがついていたことである。

 

「………さとりさん?」

 

 このサードアイを持つのは、地霊殿の主であるさとりだけのはずである。そう思って発した私の言葉は、どうやら見当違いなことだったらしい。彼女は少しむっとしたような顔をして、首を横に振った。

 

「違うわ、私はこいし。……質問には答えたわ。次はあなたの番」

 

こいしはそう言うと、いたずらっぽく笑って私を見上げた。

 

 




・賭け事で絶対負けない方法
大量にお金を用意し、倍々で賭けていく。途中で相手が降りさえしなければ必ず勝てる。
・イカサマサイコロ
某漫画で有名なシゴロ賽、磁石を仕込んだものなど。鬼の賭場で使うには勇気がいる。
・怨霊封じの小壺
怨霊の管理を簡単にするためにお燐が自作したもの。


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第21話 旧地獄の使者

 

 

 

 煮えたぎる溶岩の熱風が顔に吹き付ける。ぽこぽこと沸騰した泡がはじける音がこの空間の中でこだましていた。

 

 しかし私の目は、目の前の彼女―古明地こいしに釘付けにされている。古明地、と名乗ったことからさとりと血のつながった者なのだろうが、そんな者がいるとは知らなかった。

 

「お名前は?」

 

 こいしは、首をかしげて繰り返した。

 

「……あざみといいます」

 

 答えながら、妙だな、と思った。入り口ではお燐が見張りをしていたはずだ。どうやって彼女に気付かれずに入ってくることができたのか。お燐が鍵を開ける前はしまっていたので、たまたまこいしが先に入っていたというのはありえないはずである。

 

 考えられるとすれば、私が勇儀様に披露していたように極小の光弾を体の表面でうまく操作し、姿を消すように見せかける方法がある。しかしそれでも気配すら感じさせないというのはどういうことなのだろう。

 

 そう思いながらこいしを見ていると、彼女はくるくると私の周りを歩いて、眺めまわしていた。

 

「……お姉ちゃんの新しいペット……じゃなさそうね。む、その角……なるほど、勇儀のお仲間さん!」

 

「正確には従者です」

 

 私が訂正すると、ははん、とこいしは何かを見透かしたように笑った。

 

「あの鬼さん、何か悪いことたくらんでるんでしょ? 怨霊なんか持ち出しても普通は何の使い道もない……あるとしても大騒ぎを起こすくらい」

 

 こいしは私の両手を掴むと、ぐいと顔を近づけた。

 

「ねえ、何するの? 大暴れ? 教えてよ!」

 

「……私も詳しくは知らないんです」

 

「けち! 教えてくれたっていいじゃない! 教えてくれなかったらお姉ちゃんに全部ばらしちゃうわよ」

 

 それをやられるとまずい。わざわざお燐を脅してまでさとりに黙っているのだから、勇儀様はさとりに今回の怨霊の取引を知られたくないはずである。もしこいしがさとりに告げ口するようなことがあれば、計画が台無しになる可能性が高い。私は慌ててとりなした。

 

「わ、わかりました。じゃあ一緒に行って、勇儀様に聞いてみてください」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……で、怨霊のついでにおまけがついてきたと」

 

 私が怨霊とおまけ(こいし)を屋敷に連れて帰ると、勇儀様は苦笑いをした。命令にないことだから当然だろう。私は座敷に這いつくばると、畳すれすれに頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません……勇儀様にとってはどうでもいいかもしれませんが、そうしないと思ったので……」

 

「私が邪魔みたいに言わないでよー」

 

 こいしが不満そうに頬を膨らませたが、実際のところは()()()どころではない。なるべく隠密にことを運びたかった。

 

(なんで私ってこうも余計なことしちゃうんだろ)

 

 強くなったというのに、ますます土下座が板についてきている気がする。私が心の中で首をかしげていると、勇儀様は鷹揚にうなずいた。

 

「ま、いいさ。怨霊を持ってきてくれたんだから。………それにド派手にやるんだから、こいしがいてもいなくても変わらないさ」

 

 腕組みをして、そうひとりごちる勇儀様に、こいしが訊いた。

 

「で、何をたくらんでるの?」

 

 いきなりそれを訊くのか。私も、周囲の鬼も教えられなかったことを、部外者のこいしに教えるだろうかー

 

「ああ、うん。異変を起こそうと思っててね」

 

 勇儀様は、あっけらかんと言った。私が唖然とした表情で勇儀様を見ると、勇儀様は手を振りながら、軽い調子で答える。

 

「悪い、悪い。別にお前が嫌いだから秘密にしてたんじゃなくて……地底が異変を起こすって言ったらどうしても地上の妖怪が警戒しちまうだろ? 最近は地上から来る奴らもいるし、その中に紫の息がかかった奴がいるかもしれないから、できるだけ知ってるやつを少なくしときたかった」

 

 紫。あの油断ならない雰囲気の妖怪のことか。確かに彼女なら、旧都にも数人くらいは監視役を送り込んでいてもおかしくはないー気がする。

 

「それに、さとりに知られても面倒くさかったから、地上に行く前に絶対さとりと会うことになるあんたには教えられなかった。だから、前からパルスィとか口の堅い奴にだけ根回しをしといたんだ。……さとりは地底の異変なんか認めないだろうし」

 

 あの頃、あちこちへ行っていたのはこの異変の根回しのためだったのだ。しかしさとりは怨霊の管理を任されているだけで、旧都を管理しているわけではないだろう。なぜさとりの目を気にしなくてはならないのか。

 

「……ああ、それはな。私が今回の異変で、怨霊を使うことを決めたからだ。吸血鬼の主は赤い霧、冥界の主は春を奪う、みたいにただ大暴れするだけじゃなくて、戦いに参加してない奴でも幻想郷のやつらに何か影響を与えたほうが面白いかなってな」

 

「え、面白さのためだけにお燐さんを脅したんですか?」

 

 そう訊くと、勇儀様は、ふ、と笑って付け加えた。

 

「今のは冗談だよ。それにお燐が何かしなくても最初から取りに行く予定だった。本当の理由は……まあ、名目だな。地上の妖怪の一部は地底を警戒してる。だから侵攻じゃないことは分かるように、逃げた怨霊を掴まえるっていう体で地上へ行って、暴れるんだ」

 

 暴れる、という単語を聞いた瞬間、私の隣で足を伸ばして座っていたこいしが目を輝かせた。

 

「楽しそう! 私も暴れていい?」

 

「好きにしたらいいんじゃないか。……まあそれで、私たちは敵対するために地上へ行ったわけじゃないって言えるわけさ。で、怨霊が逃げた責任を負うのは……」

 

「さとりさん」

 

「そうだ。ま、その辺はだいたいうまくやってさとりに迷惑かからないようにしないと……」

 

 これで、おおよそ勇儀様の考えている内容は理解できた。勇儀様が珍しくこれほど回りくどいやり方をしたのも、地上との軋轢を考えてのことだったというわけだ。しかし一方で、腑に落ちない点が1つだけ存在する。

 

(なんでそこまでして、異変を起こしたいんだろう?)

 

 鬼は率直さを好む。勇儀様はその典型と言っていいくらいで、本来ならば深謀遠慮という言葉には縁のないお方であるはずだ。わざわざ好まないことをしてまで異変を起こすというのは、何らかの目的が無くてはならない。

 

 うむむ、と考え込んでいると、勇儀様は私の方に顔を向けた。

 

「それであざみ。あんたはこの異変に参加するかい?」

 

「も、もちろんです。修行の成果を見せるいい機会ですし、私の行動は勇儀様にゆだねていますので」

 

「ははは、そうこなくっちゃな!」

 

 勇儀様は私の頭をわしづかみにすると、ごしゃごしゃとかき回した。頭がぼさぼさになってしまったが、悪い気分ではなかった。やがて勇儀様は手を離すと、表情をあらためた。

 

「さて……あざみ。1つ、仕事をたのみたい」

 

「何なりと」

 

「私たちが地上で大暴れするときに面倒なのが、天狗どもだ。もしあいつらが、地底の鬼たちが再び地上へ戻ってこようとしてると思ったら表面上は歓迎するだろうが、裏でこそこそ手回しをするかもしれない。だから、あんたが先に天狗たちのところへ行って、話をつけておいてくれ」

 

「話って……どんな風に?」

 

「無理にこちら側に取り込まなくても最低限、中立にさせればいい。さいわい、あんたは一緒に将棋教室やるくらい天狗と仲がいいみたいだし、うまくやれるだろ」

 

 なぜそのことを知っているのだろう、と顔を上げると、勇儀様は私の疑問を読み取ったらしく、ああ、と言ってそのわけを教えてくれた。

 

「華扇だよ。この前来て、修業中のことをいろいろ聞かせてもらってたのさ」

 

 修行中。その間私は何をしていだだろうか。脳裏に浮かんできたのは時間を守れず華扇に引きずられる私、団子を黒焦げにする私、霊夢にぼろぼろにされたあげく華扇に怒られて首をすくめる私……これを勇儀様に知られていた、ということか。

 

 私は顔を覆い隠したくなるほどの恥ずかしさを覚えながら、「そうですか」と平静を装って答える。勇儀様はそれを知ってか知らずか、なかなか面白い話が聞けたよ、と呟いていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 春は、いい。

 

 萌える草の匂いが鼻腔を抜け、新緑が目に映るとき、椛はいつもそう思う。射命丸や他の位の高い天狗にあごで使われる不満も、この景色が見えなければすぐに爆発してしまうだろう。

 

 射命丸のことを思い出して、椛は腹の中が煮えくり返るような気持ちを反芻した。他の天狗の中でも最も気に入らないのが射命丸で、椛の私生活を新聞に出したり、上司であることをいいことに山菜狩りをやらせたりと、とにかく椛のことを考えようともしない。

 

 さすがに手柄の横取りや暴力をふるうことは絶対にしないが、許しがたいものは許しがたい。それなら鬼とはいえ、まだ分別のあるあざみの頼みを聞いている方がましだったかもしれない。短期間ではあったが、子どもたちとの将棋教室は給金が出たし、面白かった。哨戒天狗から将棋教室の師範になろうかと少し思ったくらいである。

 

(でもまあ、何もないのが1番だけど)

 

 あざみにはどこか親近感のわくところはあったものの、相手は鬼。いつどんな無茶ぶりをしてくるか分からないので、顔を合わせないに越したことはない。幸い、彼女は勇儀に近い部下だ。滅多に地底から出てくることはないだろう—

 

「あ、椛さん、ちょうどいいところに」

 

 その時、椛が寄りかかっている木の裏から、そんな声が聞こえてきた。椛がぎくりとして振り返ると、そこにいたのはあざみだった。珍しく前髪をあげて後ろでまとめて結んでおり、角が見えている。

 

 椛はため息をつきたくなったが、いまさら逃げることもできない。諦めて話すことにした。

 

「何のご用ですか、あざみ様」

 

「ちょっと天狗の方々とお話したいことがありまして。あなたたちの本拠地まで、道案内をしてほしいんです」

 

 椛はその時点で、面倒ごとの匂いを感じた。天狗たちは鬼が地上に来るということだけでもぴりぴりするのだが、それでも地上へわざわざやって来るのであれば、よほど重要なお話ということになる。そしてその内容によっては、椛も居合わせた1人として、何らかの騒ぎに巻き込まれる可能性があるのだ。

 

 椛は適当に言い訳をつけて、その役目を辞退することにした。

 

「すみませんね。今は哨戒中なのでちょっと……」

 

 このままうまく去ることができれば、他の天狗に面倒ごとを押し付けられる。そう思ったが、あざみは頷いて、

 

「わかりました。では哨戒が終わるまでご一緒しましょう。侵入者がいれば私も手伝ってあげますよ」

 

 冗談ではない。あざみは親切で言っているのかもしれないが、椛にとっては逃げの目を潰されたので、力なく笑うしかなかった。

 

「あ、ありがとうございます……しかしあざみ様の手をわずらわせるまでもありません。私1人で十分です」

 

 必死に抵抗したが、あざみは遠慮だと思ったのか、なおも続ける。

 

「そんなに遠慮しなくてもいいじゃないですか。お願いですから」

 

 あざみは悪気がない分、余計にたちが悪い。椛は逃走の道を諦めた。

 

「……わかりました。もう、そこまで言うなら案内しますよ! でもそこで何があっても私のせいじゃありませんからね!」

 

 椛はきょとんとするあざみに手招きし、飛び立った。天狗たちは鬼を畏怖しているが、それは決して鬼を好いているわけではない。圧倒的な力の前にひれ伏しているだけなのである。

 

 天狗がその数を活かせる本拠地に鬼がたった1人で乗り込むとどうなるか。それは天狗の一員である椛にもわからないことだった。

 

(……一雨来そうね)

 

 空を飛ぶ椛の視界の端で、黒雲が近づいてきていた。

 

 

 



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第22話 遥かなる妖怪の山

 

 

 

 

 延々と上へ続く石階段、そしてその両側に間をとりつつ満開の桜が並んでいる。一段一段に散った花びらが積もり、あたかもこの道が花弁によってつくられたような雰囲気を醸し出していた。妖怪の山では桜よりも紅葉の数の方がはるかに多いのだというが、ここだけは別だろう。人里でもこれほど眺めのいい場所はなかった。

 

「あざみ様。ここからは歩いていきましょう」

 

 椛がそう言うと、その階段の両脇にいた白狼天狗は私を見て、さっと顔色を変えた。椛の知り合いなのか、お互いの剣を交差させて私を通すまいとしつつ椛と一言二言喋っていたが、やがて青ざめた顔のまま、剣を下ろした。

 

「どうぞお通りください」

 

 そう言われたので、私は少し会釈してから椛とともに花で埋め尽くされた階段を上り始めた。

 

「………ひょっとして私、というか鬼はあんまり好かれてないんですかね」

 

 小声で訊くと、椛は呆れた顔をして私をまじまじと見た。

 

「当たり前です。誰も表立っては言いませんが、鬼は天狗にとってトラウマなんですから。文様の醜態を見たでしょうに」

 

 確かに、と私は思った。あの頃の私であれば射命丸は楽に私を負かすことができていたはずである。しかし彼女は勇儀様の手紙を見ただけで震えあがり、勝手に降参してしまったのだ。

 

射命丸の実力は鬼にも手が届いていそうなものなのだが、鬼というトラウマは彼女ほどの者にも刻み込まれているということを心に留めておいた方がいい。

 

まあ今回は交渉のために来たのだから、むしろその心理は有利に働く。私は堂々としていなければならないのである。

 

 本来私は偉そうにするということに向いてないし、先ほどから椛にあざみ「様」と呼ばれているのがむずがゆかったが、これも役目だ、と舌の根でつぶやきながら歩を進めた。

 

 

◆◆◆

 

 

 鬼の使者が来るという話は、何十年も安寧の時に浸かっていた天狗たちにとって、まさに青天の霹靂だった。

 

 天狗たちの長、天魔もその例に漏れず、それを聞いたときはいかに丁重に帰ってもらうかを考えようとした。しかしすでに山の中腹までやって来てしまっているということで、迎えざるをえず、やむなく宮で会うことにしたのである。

 

(今度はどんな無茶ぶりを聞かされることやら)

 

 というのが天魔の目下のところの悩みだった。今でこそどの天狗よりも妖力が強く、天狗の総大将となっているが、若い頃は星熊の配下の鬼にすら歯が立たなかったのである。

 

 鬼たちが地上からいなくなってようやく自分の時代が来たと思ったのになぜ今更、と若干の苛立ちを含みつつ、天魔は扇子で座敷をぱしぱしと叩いていた。

 

 座敷の周りを固める烏天狗たちは扇子の音が鳴るたびに首をすくめ、そわそわとしていたが、やがて外から一人の白狼天狗が入って来た。たしか椛という名前だったか。

 

「鬼の使者が来ました」

 

「通せ」

 

 天魔がそう言うと、椛はまた出て行き、今度はもう一人を伴って中へ入って来た。

 

 天狗たちがどよめいた。鬼の使者は思ったよりも小柄で、身体の線は華奢と言ってもいいくらいである。しかしその赤紫色の髪の間からのぞく一本の角は、彼女がここにいる誰よりも上位の存在であることの証だった。

 

そして彼女は何十羽はいようかという烏天狗たちに囲まれながらも平然として歩き続けると、座っている天魔の前でぴたりと止まった。

 

「初めまして。私は星熊勇儀様の使い、あざみと言います。本日は勇儀様より天魔様にお伝えしたいことがあって参りました」

 

 あざみ、と名乗った使者は淡々と言った。やはりあの星熊の配下というだけあって、この数の天狗に囲まれても恐れは微塵も感じていないらしい。

 

「……鬼が来るのも久しぶりだな。星熊殿はご息災か」

 

「はい。天魔様もお達者のようで何よりです。……ところでさっそく内容をお伝えしてもよろしいでしょうか」

 

 鬼も最近は礼儀という者を覚えたらしい、と思いながら天魔は頷いた。荒々しい使者をやらないぶん、内容も穏当なものかもしれない。

 

「読み上げます。

 

『よう天魔、元気かい? そろそろくたばってるころじゃないかなって心配して手紙を書いてみたんだ。もし元気なら今度こっちに来て腕相撲の1つでもしてみないかい? 今度は手加減してやるから。

 

まあ冗談はさておき。今、私は地底の奴らと異変を起こそうとしてるんだ。

 

もちろん地上にも打って出るけど、そのときにあんたらの領域を通過させてほしい。一緒に異変を手伝えとは言わないから、黙って見ていてくれればそれでいい。

 

 返答まで待つから、良い返事を頼む』

 

………だそうです」

 

 

 

 

 読み終えて手紙をたもとに戻す間、私は天魔の顔色を見ながら戦々恐々としていた。そういえば私は勇儀様の文を見たことがなかった。華扇のときは友人だからこの調子でよかったのかもしれないが、今回は鬼に対してどんな感情をもっているか分からない天魔である。

 

1文目でいきなり(勇儀様なりの親しみの表現なのかもしれないが)天魔をおちょくってしまっているし、私が目を通してしかるべき形に書き直しておいたほうが良かったかもしれない。

 

(しかもなんでこんなに武装した烏天狗がいるんだろ)

 

 つとめて不安や戸惑いは顔には出さないようにしていたが、この座敷にいる烏天狗は20や30ではくだらないだろう。そしてその中で一際大きな存在感を放っているのが、天魔だった。

 

 眉間に刻まれたしわは深く、わずかに白の混じった黒翼は生きた年月の長さを表している。しかしその目の光は鋭く、老いてなお強い力をもつ天狗の長としての迫力は十分だった。

 

 私が読み上げた後、天魔は書状を受け取って文字を見直していたが、やがて私に手紙の一部を指し示してこう訊いてきた。

 

「ここに、異変を起こすと書いてあるが、星熊殿はなぜ異変を欲するのだ」

 

 うぐ、と回答につまった。私は知らない。異変を起こすということは知っているが、勇儀様の目的がどこにあるのか、まったくつかめていないのである。

 

「……答えられないのか」

 

 天魔の声に、怪しむような気配が混じった。ざわざわと周りの烏天狗も囁きあい、こちらを見ている。私はその視線を受けながら、息を呑んで天魔を見ることしかできなかった。

 

「……私は、これを伝えにきただけです。しかしあなた方とことを構えるつもりでは……」

 

「ふむ。しかし迷惑はかけないと言っているが、本当の目的は、妖怪の山に戻ってくる、いや、地上に戻ってくることなのではないか?」

 

「そ、それは……」

 

「お主は知らないと言ったが、星熊殿は儂にこう訊かれることを承知でお主に異変の目的を教えずに送り出したのではないかね?」

 

 そうか、と理解した。天魔は、再び鬼たちが戻ってきてせっかく築き上げた天狗の優位を、名実ともに取り上げられるのを恐れているのだ。さいわい今は地上との行き来が少し制限されているので問題は無いが、今度の異変で鬼たちが出てきた場合、その取り決めも意味をなさない。

 

 それを察知しているからこそ、天魔は私に異変を起こす理由を問うてきたのだ。もしその目的が山に戻ってくるというわけでなければこの案を呑むつもりだったのだろうが、私は答えられない。

 

「……私にはわかりません」

 

「そうか」

 

 天魔はふう、とため息をつくと、さっと右手を上げた。すると周りを固めていた天狗が手に手に刀や槍を構え、私に向ける。

 

「………これはどういうことですか?」

 

「もともと力を持っておるお主らには分からんだろう。儂らは鬼がいなくなってはじめて儂らの世界を作ることができたのだ。……それが今になってこちらへ戻るだと?」

 

 天魔の言いたいことは、よくわかった。私も勇儀様に出会うまでは彼らと同じ側だったからだ。私は自身が強くなることで立場が逆転したが、彼らの場合は鬼がいなくなることで強者の立場にいられた。それを守りたいという一心なのだ。

 

「だからお主がここで死ぬか、もしくは帰れない体になってしまえば、返事はしなくてもよい。そうは思わぬか?」

 

勇儀様は天狗からの返答を待つ、と書いていた。そこを突いた論理だろう。私が帰らねば勇儀様は永遠に異変を起こすことができないというわけである。

 

「……やめるつもりは?」

 

「鬼の使者に刃を向けた時点で毛頭ない。やれ」

 

 天魔の号令とともに、私の頭上にきらめく無数の刃が振り下ろされた。しかしもちろん私もおとなしく斬られる義理はない。私の首筋に刃が食い込む直前、赤い輝きが私の周囲に現れた。

 

「……鬼符『神領浅緋』」

 

 じゃきっ、という音とともに弾幕が匕首(あいくち)の形に変形した。切っ先は全て周囲の天狗に向いている。刀を振りかぶった天狗たちは次に何が起こるのかを悟ったようだったが、一手遅かった。

 

 次の瞬間、無数の紅い匕首が周囲を囲む天狗たちに放たれた。至近距離でまともに食らった烏天狗は全身に裂傷を負い、転がるようにして私から離れようとする。外れた弾幕は壁を貫き、床を削り、掛け軸に穴を開け、凄まじい被害を出していた。

 

「……おおっ!」

 

 弾幕が消えた途端、傍で伏せていた1人の烏天狗が飛び上がり、大上段に斬りかかってくる。私はそれを右手で受け止めると、がっちりと抑え込んだ。振りほどこうとする天狗に、私は最後の望みをかけて言ってみた。

 

「……私には戦う気はないんです。どうか、刀を納めてください」

 

 刀越しに荒い息をついてこちらを見る烏天狗の男は、ふ、と笑った。

 

「天魔様が命じた以上、俺たちは戦う。……だからそんなこと言ってる場合じゃないんだぜ、鬼さんよ」

 

 その瞬間、どん、と背中を押されたような感覚とともに私はよろめいた。胸に違和感がある。見下ろすと、胸から刀身が飛び出していた。

 

 思い出したように喉から血が溢れ、激痛が走る。後ろを見ると、別の烏天狗が私を背中から刺し貫いていた。

 

「……と、とったぞ」

 

 後ろから。前の烏天狗に気に取られている間に後ろから忍び寄られていたのだ。罠とも言えないような単純な作戦に引っかかったことに苛立ちを覚えながら、溢れた血をぺっと吐きすてた。

 

「分かりました。もう、諦めましょう」

 

 戦わないという選択肢に留まるのは、と心の中で付け加えてから、私は受け止めていた刀を力づくでもぎ取った。そして逆手に持ち替えて後方へ突きを放つと、後ろの烏天狗は慌てて私に突き刺した刀から手を放した。

 

 私は奪い取った刀で牽制しつつ、背中に突き刺さった刀を抜いて畳に投げ捨てた。紅い血が畳に飛び散り、座敷を汚した。

 

 胸の傷が早くも塞がっていくのを感じながら、私は泣きたくなってきた。

 

(もう少しお話で解決しようっていう姿勢じゃないの⁉ 勇儀様もなんであんな挑発みたいな手紙を……ていうか傷は塞がるけど痛いんだからやめてよ!)

 

 しかし相手はやめるどころか、私を手負いだと判断したのか戦闘を継続するつもりのようだった。烏天狗たちはじりじりと近づいてくる。しかもこのまま続けていれば無傷の新手がいくらでもやってくる。長引けば不利になるのは私だった。

 

 天魔は勝ちを確信しているのか、腕組みをしたまま言う。

 

「いくら鬼といえどもこの数、全てを屠ることはできまいて。おとなしくつかまるがいい」

 

「戦わなくてもいいのは魅力的ですが……お断りします。それをしては勇儀様に合わせる顔がありません」

 

 とはいえ、彼らに勝つことは不可能だ。先ほど天魔の言ったとおり数が違いすぎるし、私は持久力がない。このままここで戦い続ければ妖力と体力をすり減らして討たれることは間違いないのである。

 

 それゆえ、私のとるべき戦術は1つ―逃げる、しかなかった。

 

「影符『隠行鬼』」

 

 宣言と同時に私の身体の表面を極小の光球が覆っていく。すると、私を囲んでいた烏天狗たちは動揺した。それもそうだろう。私の姿は烏天狗たちには見えなくなったのだ。

 

しかしこの術は妖力を食うため、効果時間は最大でも十数秒といったところである。早くここを脱出しなければならない。

 

 とん。

 

 跳躍。私の姿を求めてうろたえる烏天狗たちの頭上を飛び越えて囲みの外へ着地すると、私は術を解いた。途端にこちらに気づいた天狗が私を指差して、叫んだ。

 

「……囲みを抜けたぞ!」

 

「追え! 殺せ!」

 

 烏天狗たちが殺到してくるのを尻目に、私は雨の匂いのし始めた野外へと飛びだした。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「あざみを天狗のところにやった、ですって⁉」

 

「ああ、そうだけど……何か問題が?」

 

 予想外の華扇の大声に、勇儀は狼狽した。そもそも勇義の従者なのだからどこへ行かせても勝手なはずなのに、どうしてそれほど気を立たせるのだろうか。

 

 華扇がやって来たのはあざみを地上にやった数時間後だった。あれほど立派な書状も書いておいたのでおそらく天狗たちの中立は易々と引き出せるはずだろう、と思いながら、勇儀は早くもさとりに外の騒ぎを知られないように準備を指示していた。

 

 だから部屋に誰かが入って来た時は子分の誰かかと思ったのだが、その人物は滅多に地底へ来るはずのない華扇だったのである。異変を起こす直前に華扇が来たのは、すでにそれを知っていて止めに来たからか、と勇義は身を固くした。が、

 

「そろそろお守りも古くなってる頃じゃないかと思って、新しいのを持ってきてあげたのに!」

 

「お守り……ああ、あの悪霊除けの」

 

 勇儀は拍子抜けした。このタイミングで来たのはたまたまだったらしい。

 

「ええ。前にあげたのはそろそろ駄目でしょうし。……ていうか、あのバカは絶対に約束を忘れてるわね」

 

「約束?」

 

「地上に行かないって約束させたのよ。こんなことがあるかもしれないから。……ほんとに鬼なの、あの子⁉」

 

「まあ『鬼』になって数カ月だからな。アタマはまだまだ鬼っぽくないところもあるだろ」

 

 勇儀の言葉に華扇はため息をつくと、「仕方ない」と言って踵を返した。

 

「……地上に戻って直接渡してくるわ。今度は厳しくお灸をすえてあげなくちゃ」

 

 

 

 

 




・鬼と天狗の意識の差
鬼から見た天狗は友人。天狗から見た鬼は支配者。
・天魔
公式では死ぬほど影が薄い。とはいえ力関係的に勇儀には及ばないもののかなりの実力者だと思われる。
・勇儀の書状
本人は大真面目にいい文を書いたと思っている。
・理論武装
鬼、特に約束を守る勇儀に有効。というかまともに戦っても勝てない場合、それくらいしか対抗手段がない。


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第23話 風雨の鴉天狗

 

 

 

―これが、鬼の強さか。

 

 天魔は何人かの側近とともに暗くなり始めた空に陣取ると、地上で行われている戦闘を見下ろしていた。その内容はたった1人の鬼の使者を討ち取るというものだったが、それが戦闘として成立しているのは、ひとえにやってきた鬼の力量が凄まじいものだったからである。

 

 鬼の使者—あざみは空中だと完全に数がものを言うので地上の、そして数の利を活かしにくい林の中を選んで疾走していた。このまま地底へ逃げるつもりだろう。その途中で襲い掛かってくる天狗と刃を交えながら、一直線に地底に繋がる洞穴を目指していた。もちろんそうさせないために天狗たちが立ちふさがるのだが、白狼天狗は勝負にならないし、烏天狗も4,5合打ち合っただけで倒されていた。

 

 まさに一騎当千、というのがふさわしいだろう。追いすがる烏天狗の斬撃を回避すると、奪った刀で斬り返し、囲まれれば術で周囲の敵をまとめて一掃する。かつての星熊勇儀のような理不尽なまでの暴力という点では遥かに劣るものの、1人で烏天狗の精鋭と互角、いやそれ以上の戦いを繰り広げている。

 

(……こんな者たちが山に出てきたらかなわん)

 

 まず、天狗の権威は間違いなく失墜するであろう。鬼とは昔のよしみで友好関係にあったが、それも相手が地底に住んでいるからで、天狗の支配を揺るがすようになるなら、話は別である。

 

 万一鬼たちと戦いになるとすれば、あまり愉快ではないが紫や守屋などの勢力と協力して抑え込む。絶対に鬼を地上に戻してはならない。

 

「天魔様。先発の50人がみな負傷して動けません。次を送り込みますか」

 

 側近の烏天狗が、そう報告した。

 

「ああ。……死者はいないのか?」

 

「はあ。そのようで。地底に戻るのを優先してとどめを刺す暇がないのでは」

 

 違うな、と思った。鬼の力で刀を振るうのであれば、注意せねばすぐに相手を殺してしまう。つまりあの鬼の使者は、意識して烏天狗たちを殺さぬよう戦っているのだ。この状況で命を狙ってくる烏天狗をも殺さない、という甘さともとれるような優しさをもっていたということだろうか。

 

(話せば分かったかもしれないが……)

 

 今更もう遅い、と思った。優しき鬼には気の毒だが、彼女は運が悪かったのだ。

 

 天魔は側近の一人—射命丸に命じた。

 

「あの鬼を止めよ」

 

 

   

 

 

 ぽつ、ぽつ、と雨が降り始めた。暗雲が立ち込め、小雨が降りはじめる。空の様子は雲に覆われていてよく分からないが、そろそろ夜になるころだろう。しかし本来であれば濡れた土の匂いがするであろう林の中は、血の赤と、鉄の匂いに包まれていた。

 

「ぜああっ!」

 

 私の一太刀を受けた烏天狗が腕から血しぶきを上げながら倒れた。殺さないよう加減して戦っているが、それでもやはり肉を切る感覚には慣れない。彼らは命じられているから戦っているだけであり、何の罪もないのだ。

 

 しかし斬っても斬っても、すぐに新手が送り込まれてくる。加えて逃走の途中で何度か術も使ったため、妖力の残りが怪しくなってきている。節約のため相手の武器を奪って使っているが、妖力が尽きるのは時間の問題だ。そうなってしまえば囲まれた際に手が打てない。

 

(はやく、地底へ戻らなければ)

 

 さいわい、私—というより妖怪は夜目が利くので、明かりをつけなくても逃げることはできる。天狗との交渉は決裂してしまったが、私はそれを報告しなければならないのだ。絶対に地底へたどり着く—

 

「ちょっと失礼しますよ」

 

 上空からその声がしたのを境に、急に傍で剣戟を交わしていた烏天狗たちが引いていった。今の声は、どこかで聞き覚えがある—しかしいちいちそんなことを思い出す間も無いため、この機会を逃さず、一気に速度を上げようとした。

 

「つれないですね」

 

 またあの声がしたかと思うと、雨混じりの突風が前方から吹き付けた。不意をつかれ、思わず立ち止まってしまった。私の周辺の林だけが凄まじい嵐が居座っているようで、先ほどまで静かだった森の木々が風になぶられて激しく揺れている。

 

 1人、烏天狗がゆっくりと私の目の前に降りてきた。しかし彼女の周りだけ無風になっているのか、短い黒髪ははためきもしない。おそらく、これも、そして周りの嵐も彼女の「風を操る程度の能力」によるものなのだろう。降りてきた烏天狗—射命丸は、私を見るとため息をついた。

 

「天魔様に言われたので来ましたが……正直、あなたとは戦いたくないんですよね、あざみさん」

 

「奇遇ですね。私もです」

 

 こちらも、追跡してくる烏天狗を斬り払い振り払いしながらようやくここまで来たので、余力はあまりない。全力で戦えるならまだしも、消耗した状態で射命丸の相手をするとなると、勝てるかどうかは微妙なところである。

 

 ほんの少しだけ射命丸が仲裁してくれるのを期待したが、続く彼女の言葉は、それとは反対のものだった。いつものどこかおちゃらけたような雰囲気は一切ない。射命丸はちらりと上空を見上げると、呟いた。

 

「とはいえ、今回ばかりは真面目にやらないといけないようですし……」

 

「敵になるんですか?」

 

「まあ、そういうことになりますね」

 

 射命丸がそう言った途端、ぴたりと風が凪いだ。しかしそれは戦いをしないという合図ではない—むしろその逆、戦いを始めるからこそ、無駄な力の漏出を抑えているのだ。

 

 射命丸は、天狗の団扇を振りあげると、高らかに宣言した。

 

「岐符『天の八衢』」

 

 無数の光弾が彼女の手元に生まれ、私に向かって押し寄せてきた。私はやむなく自前の槍を生成し、弾幕を地道に消し飛ばす。無論、空中へ逃げれば袋叩きに遭うので射命丸には何としてでも地上での対決で勝たなくてはならない。

 

 私は光球の奔流を文字通り切り開きながら、一気にその源である射命丸へ迫った。射命丸は私が弾幕を回避もせずに直進してくるのを予想していなかったのか、狼狽の表情を浮かべる。

 

「鬼符『更科姫の紅葉狩り』」

 

 無数の紅葉が空中に咲き乱れ、射命丸へ向かって殺到する。

 

射命丸と私の弾幕は一瞬だけ拮抗したが、次の瞬間に紅葉は射命丸の弾幕を突き破り、彼女を呑みこんだ。彼女の弾幕は周囲に展開されるタイプだったが、「紅葉狩り」は全ての弾幕が標的に向かう。突破は用意だった。

 

「おやまあ……ずいぶんと成長なされたようですね」

 

 しかし私の弾幕が薄れて完全に消え去ったとき、射命丸は依然としてそこに立っていた。至近距離で攻撃を食らったはずなのに、傷一つ負っていない。

 

「どういう手妻ですか?」

 

「……私は結界を張るなんて面倒な真似はしませんが、代わりにこれがあるので」

 

 射命丸が人差し指を立てると、そこに木の葉の混じったつむじ風が現れた。

 

「以前河童の科学とやらの取材に行った時に教えてもらいまして。風でうまく何もない空間を作ってやれば、弾幕の威力は殺せるらしいですよ」

 

 ふふん、と射命丸は少し自慢げに言った。もう天狗なのに、まだ鼻を伸ばしたりないのだろうか。

 

(……しかし、弾幕が効かない、というのはまずいわね)

 

 今の話が本当であれば手持ちのスペルはほとんど意味をなさないし、私の奥の手である「人喰い蔵」も効かないだろう。戦うには姿を消すか、今持っている槍で近接戦に持ち込むしかない—

 

「さて、そろそろ攻撃に移るとしますか」

 

 射命丸の姿が消えた。

 

「なっ……」

 

 霊夢の時は、距離を詰めてきたと認識することができた。しかし今回は、まさに消えた、と表現するしかないほどのスピードだった。

 

「ここですよ」

 

 背後からの声。それが耳に届いた瞬間、振り返ろうとした私の視界の端で、射命丸が扇を水平に振り払った。

 

 ざくっ、と私の背中に風の刃が食い込んだ。

 

「ぐっ……」

 

 私は振り向きざまに槍で射命丸を斬ろうとしたが、彼女は身を屈めて難なく避けると、返しの一撃を叩きこんだ。

 

 私の肩口が深く切れ、ばっと鮮血が吹きあがった。血と妖力を失いすぎたのか、少し眩暈がする。揺れ始めた視界の中で、射命丸は私を見据えながら、言った。

 

「おとなしくしてください。そうすれば命まではとりませんよ」

 

「………」

 

 強い。スピードだけであれば霊夢を上回るうえ、弾幕による攻撃は効果が薄い。勇儀様に対しては弱気だったが、予想通りの強敵だった。

 

(……これは……まずい……かな)

 

 私の中で初めて、「死」の文字が浮かび上がった。私は、降伏することはできない。しかも勇儀様から交渉を任されている以上、その交渉相手の天狗に捕獲されるという醜態をさらすわけにはいかないのである。

 

だからといって、このまま戦っても敗色濃厚であるし、勝ったとしても力を使い果たし、首を取られるだろう。詰みである。

 

(……せめて。せめて射命丸を倒してから……)

 

 覚悟を決めて顔を上げようとしたその時、私は足元に転がるずたずたになった「お守り」を見つけた。

 

「……え?」

 

 胸元をまさぐる。ない。華扇から貰った、あの悪霊除けのお守りが。おそらく先ほどの射命丸の一撃で、千切れてしまったのだろう。

 

「……まさか」

 

 すでに辺りは暗い。夜になってしまった。そしてお守りをつけていなければ—

 

 悪寒が走った。

 

「……どうしたんですか?」

 

 射命丸は怪訝に思ったのか、私に一歩だけ近づく。そのときだった。

 

 がさり。

 

 大きな茂みの中から、あの悪霊が姿を現したのは。

 

「……来た!」

 

 射命丸は私の視線を追い、あの悪霊—黒々とした屍肉の塊のような存在をみとめ、目を丸くした。

 

「何ですかあれは……」

 

 射命丸は扇を持ち上げると、無造作に2回、悪霊にむけて風刃を放つ。しかし見えざる風の刃は肝心な悪霊をすり抜け、後ろの茂みを散らした。当然だ。妖力を使う攻撃ならともかく、「風」ではあれに干渉できない。

 

 のそりと何事もなかったかのように悪霊はこちらへ向かってきた。

 

「……ちっ」

 

 射命丸は珍しく不機嫌そうな顔をしながら、再び目にもとまらぬ速度で扇を奮った。しかしそのことごとくが効果を発揮することなく後方へ飛んでいく。

 

「……実体がない、ということですか。それなら……」

 

 射命丸は、右手を悪霊に向けた。

 

その指に5個の光点が灯り、悪霊に向けて解き放たれる。水色の光が炸裂したが、悪霊の勢いは止まらない。

 

射命丸はそれを見て、露骨に面倒だな、というような顔をした。

 

「……逃げた方がいいですよ。私の役目は終わったし……」

 

「……え」

 

 射命丸はそう言うと、さっと飛び立って悪霊から逃れた。私に止めを刺さないのが不可解だったが、射命丸に下されていた命令は「私の始末」ではなく、「私との交戦」だったのかもしれない。そのため、別の敵が現れたのを口実にさっさと抜けたのだろう。

 

(なんにせよ、これで最大の障害は消えたけど……)

 

 目の前にいるのは、あの悪霊。目と鼻の先のところまで迫ってきている。耳障りなうめき声を上げながら、突進してくる。本当はこの状況下で妖力を使いたくはないが、この怪物相手には、術しか効かないことは分かりすぎるほど分かっている。

 

私は落ち着いて悪霊を引き付けると、なけなしの妖力を振り絞った。

 

「鬼符『芥川の人喰い蔵』」

 

 悪霊が、私の顔まであと3寸というところで停止した。結界で阻まれているため、どれほどもがこうとも、私を捕らえることはできない。悪霊は、私の顔でも食い破ろうというのか、がちがちと歯をならしていた。

 

「……今日のところはお引き取りください」

 

 結界に閉じ込められた悪霊に、弾幕の雨が降り注いだ。容赦なく肉を穿ち、貫き、焼き焦がす。結界の中で妖力の奔流が荒れ狂い、悪霊は消滅した。

 

しかしその直後、私は激しい頭痛を感じて座り込んだ。

 

(……今ので完全に妖力が尽きた)

 

 傷の治りも遅い。いくら鬼といえども、体力は無限ではないのだ。そして次に天魔が打って来るであろう手は—

 

 ざっ、と何人もの烏天狗が地面に降り立った。手に持っているのは刀—ではなく、弓。彼らは遠巻きに私を囲むと背中の矢筒から矢を取り出し、弓につがえる。

 

(……なるほど)

 

 近接戦だと被害が出る可能性があるので、最も安全な方法で私にとどめを刺そうというのだろう。確かに妖力の尽きた私には、もはやこれを防ぐ手立てがない。

 

(……申し訳ございません、勇儀様)

 

 使命は果たせないうえ、こんなところで命を失うはめになるとは。私はこれから自分が辿るであろう末路を思い浮かべたが、精根尽き、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 

 いつの間にか空は晴れ、月が顔をだし、私と烏天狗たちを照らしている。

 

 ぎり、と烏天狗たちは弦を引きしぼり、私に狙いをつける。銀のやじりが私の身体を貫く未来を想像して、思わずぎゅっと目を閉じた。できるだけ痛くはしてほしくない—そんなことを考えながら。

 

 

「……弓を置け! そしてその子から離れなさい!」

 

 

 懐かしい声が響いた。

 

 私がゆっくりと目を開けると、烏天狗たちは弓を下ろし、空の一点—そこにいる()()を見ていた。桃色の髪が翻り、その左手には包帯が巻かれている。遠目でも、今の一言を放った人物の姿ははっきりと私の目に映った。

 

「華扇……さん」

 

 助けの手を差しのべてくれた人物―華扇は、鋭い目付きで、状況が飲み込めず戸惑っているらしい烏天狗たちに目を向けた。

 

「……もう一度言いましょう。武器を下ろしなさい。そして私の()()が襲われている理由について、説明してもらいましょうか」

 

 

 

 

 




・夜目が利く
 別にあざみに限った話ではなく、妖怪にはほぼあてはまる話なので烏天狗たちも同様。ただ走るのに支障がないだけ。
・射命丸の能力
 弾幕によって生まれる爆風もその気になれば操れるため、本気を出せばまず弾幕戦が成立しない。が、人間相手(霊夢、魔理沙など)には弾幕で戦わなければならないので、出そうと思っても本気の出しようがない。
・悪霊の耐性
 地味に強力になっている。以前は勇儀のスペルで一撃のもとに消し去られたが、今回は射命丸の攻撃に耐えている。


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第24話 異変前夜

 

 

 

 人里で読まれる烏天狗の新聞と言えば、文々。新聞と案山子念報である。

 

 しかし天狗内での「公式な」新聞は、天魔の側近の書記官が記したものであり、それに烏天狗たちの作るような気の利いた名前はなく、天狗領域で「新聞」といえば、これを指す。

 

「いやー、本当に大変でしたよ」

 

 目の前の烏天狗—射命丸文は、畳に寝転がって新聞を読む椛に言いながら下駄を脱ぐと、部屋に上がり込んできた。

 

「……今日、私非番なんですけど」

 

「知ってますよ。でも昨日は大変だったんですよ。聞いてくださいよー」

 

 昨日というのはもちろん鬼の使者と天狗たちが戦闘を繰り広げた事件のことである。椛は嫌な予感がしたためあざみを案内した後、天魔御殿から遠くへ逃げていた。

 

 あざみは逃走しつつ追跡してくる天狗たちと戦い、じつに62もの天狗を戦闘不能にしたが、追い詰められ、殺されるところだったところを地底から来た新しい使者が誤解を訂正して事態を収拾した、と新聞には書いてある。

 

「はいはい分かりましたよ。……で、何がどう大変だったんですか?」

 

「あざみさんと戦いました」

 

 椛は久しぶりにこのいけ好かない上司の顔をまじまじと見た。そして鬼と戦ったにしてはわりとピンピンしているな、と少し残念に思った。

 

「……まあ、だいぶあちらは消耗してて動きも緩慢でしたから、勝てそうだったんですけどね」

 

「負けたんですか?」

 

「うーん、負けたって言うより横やりが入って結果的にそうなったていうか……悪い霊が出たんですよ」

 

「悪い霊?」

 

 この新聞には、そんな言葉は一文字も載っていない。どういうことだ、と椛が目で訊くと、射命丸はそれに気づき、説明した。

 

「今回はいろいろ利害が絡んでましたから、書記官があちこちを削ったんでしょう」

 

 まず削られたのは、悪霊の件。鬼と戦ったというだけでも一大事なのに、悪霊まで出てきたとなるとますます混乱が深まる。というわけでこの事実は伏せられた。

 そして地底の使者の詳細が伏せられているが、その正体は茨木華扇である。しかも驚いたことに、あざみの師だったという。

 

「鬼が、仙人の弟子に……⁉」

 

「そうか。あなたは知りませんでしたか」

 

 華扇は人間の味方と称していたはずだが、それがどうして鬼を弟子に持つことになったのか。椛は首を捻った。おそらくそこも含めて複雑な利害がからんでいたのだろう。

 

「……まああの時はこっちもだいぶ被害がありましたから、こちらにとってありがたかったですし、地底の侵攻も絶対に起きないことが保証されたので、上の方々も一安心というところでしょう」

 

 星熊勇儀は妖怪の山への一切の野心を持ち合わせていない、という返答が華扇を通じてもたらされたのは、今日の明朝だった。ほかならぬ星熊の言葉なので天魔も信用し、使者に襲い掛かったことへの非礼の詫びを入れ、両者―といっても地底側で戦ったのはあざみだけであるが―の争いは静まった。

 

 椛は射命丸からことのあらましを聞くと、ほうとため息をついた。

 

「これでしばらくは騒々しいことは起きませんね」

 

「……? 何言ってるんです? 地底から使者が来た理由は知ってますよね?」

 

「………あ」

 

 そうだった。彼らの本当の目的は、異変を引き起こすことだった。天狗との交渉の思わぬいざこざは終わったが、彼らにとってはこれからが本番なのだ。

 

「でも私たちは局外中立ですから、高見の見物を決め込むことになりますが……面白いことになるかもしれませんね」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 はっと目を覚ましたとき、私は布団の中にいた。ちちち、と雀の鳴き声が聞こえ、格子戸の向こうから日が差し込んでいる。私はゆっくりと身を起こすと、見覚えのある座敷を見回した。

 

(ええっと……私は、確か……)

 

 こんなところで寝ていなかったはずだ。確か天狗たちと戦って、殺される寸前だった。そして、どういうわけかやって来た華扇がその途中で攻撃を制止し―

 

 そのとき、ようやくここがどこなのかということに気づいた。勇儀様の屋敷だ。見覚えがあるのも、一度大掃除をしたから当然である。

 

(……華扇さんが運んできてくれたのかな)

 

 私がそう思ったとき、がらりと障子が開いて、誰かが入ってきた。

 

「お、起きてたのか」

 

 やって来たのは、勇儀様だった。珍しく何かを心配するような顔をして、私を見た。その瞬間、私は自分が使命を果たせず逃げかえってきたという事実を思い出した。勇儀様はそれを心配しているのではないか。

 

「も、申し訳ありません……天狗との交渉は……決裂しました」

 

「ああ。華扇から聞いた」

 

 低く、しかしよく通る声で勇儀様は答える。その目は冷ややかに私をとらえているように見えた。勇儀様はこの失敗で、私に従者としての価値がないと思ったのではないか―そんな恐れがちらりと胸を掠めた。

 

「……殺されかけたらしいな」

 

「はい……その通りです」

 

 勇儀様は険しい顔のまま、私に目をやっていた。私は勇儀様の顔を直視できず、ただただ頭を下げることしかできない。

 

「……今回は失敗しましたが、次は死んでも命を遂行します。ですから、私を捨てるのだけは……」

 

 必死に言いつのると、勇儀様は変な顔をした。

 

「なんでそういう話になるんだ? 別にあんたを責めに来たわけじゃないんだが……」

 

「えっ」

 

「ていうかだいたい、私の手紙がまずかったんだろ? むしろ私は、あんたに謝りにきたのさ」

 

 勇儀様はどすんと私の隣に座り、ぼろぼろの着物のそでをめくる。するとそこには昨日の戦いの中で負った傷が、赤い線としてうっすらと残っていた。

 

「……まだいくつか傷が残ってるな。どれだけ斬られた?」

 

「さあ……」

 

 あれだけの乱戦だったから、数える暇など当然ない。だが、鬼の再生力で追いつかない程度の猛攻が加えられていたのだと今更ながら気づいた。

 

「今回、約束を守れなかったのはお前だけじゃないかもな……」

 

 はあ、といつも快活な勇儀様らしからぬため息を吐くと、勇儀様は

「すまなかった」と言って、深々と頭を下げた。

 

 勇儀様が頭を下げた。……私に? それに気づいた瞬間、私は慌ててしまった。

 

「……いえ、そんな、頭を下げなくても……私はっ……平気ですから……だからその……普通に座っててください!」

 

「………そうか」

 

 そう言ってようやく、勇儀様は顔を上げた。私は自分が頭を下げるのならいくらでもするが、どうもそれを自分にされるとなると居心地が悪い。まして、相手が勇儀様であるならなおさらだった。

 

 そう思っていると、廊下の方からまた足音が聞こえてきた。誰か客人がいるのだろうか。するとその足音はこちらへまっすぐ向かってきた。

 

「勇儀。天狗とちゃんと話はつけといたから……ってあなた、目を覚ましてたのね」

 

 入って来た人物―華扇は私に気付き、目を向けた。

 

「はい、おかげさまで……」

 

 心なしか、私に向けられた華扇の目に、ちらりと怒りの色が見えた気がした。そしてその数秒後、華扇は大きく息を吸い込むと、

 

「………本っ当にあなたは何を考えてるの⁉」

 

 私の肩を掴んでゆさぶった。

 

「地底から出るなって言ったことも忘れて……! それに、何の用心もせずにのこのこと天狗の本拠地まで行くなんて!」

 

 華扇の剣幕に、私はひたすら小さくなることしかできなかった。それもそうだろう、私を助けるために、秘密にしたがっていた私の師事の件を天狗に話さなければならなかっただろうし、苦労をかけてしまったのである。

 

「……はい。でも次は迷惑かけませんから」

 

「私が言いたいのは、そうじゃない!」

 

「………まあまあ華扇。あざみも好きで天狗と戦をやってたわけじゃないんだし……」

 

 すると華扇は、きっと勇儀様を睨んだ。

 

「……何言ってるの。そもそもあなたの書状がまずかったんでしょう! 前に私に宛てた書状も最初は喧嘩の申し込みかと思ったし」

 

 私の弟子入りを推薦するだけの書状をどう書けばそんな解釈の可能な文に仕立てることができるのだろうか、と気になったが、私は黙っていた。すると華扇は私の方に顔を戻して、呆れたように言った。

 

「だいたいあれだけの天狗、あなた一人で何とかできるわけないじゃない。天魔に聞いたけど、降伏の道もあったんでしょう?」

 

「勇儀様の顔に泥を塗ることになるかもしれないので」

 

「……ま・ず・は自分の身を心配しなさいって言ってるの。あなた、確かに強くなったけど、それでも私や勇儀に届くほどじゃないでしょ。だからあなたの勇気は無謀、忠誠は狂信なの。もうちょっと自分の命を重く見なさい」

 

「は、はあ……」

 

 華扇は私を見やると、「まあ、あとは養生しなさい」と言ってずり落ちた布団をかけなおした。 

 

「もう帰るのか?」

 

「ええ。あざみの様子を見に来ただけだしね。……でも、ちょっとあなたも来てくれない?」

 

 華扇が何か含みのある言い方をすると、勇儀様もそれに気づいたらしく、「分かった」と応じ、立ち上がった。そして瞳の像がはっきりするほど私の方に顔を近づけると、

 

「……今のうちに体力を回復しておいてくれ。異変は、今日の夜に起こす」

 

 私がこくん、と頷くと、勇儀様は満足そうな顔をして、外へ出て行った。

 

 

 

 

 

 あざみの寝ている部屋から出て、勇儀の自室に移動すると、華扇は勇儀に聞きたかったいくつものことを詰問することにした。

 

「さて、説明してもらいましょうか。異変を起こすってどういう事?」

 

 勇儀には問い詰めたいことが山ほどあった。異変を起こすというのもそうだし、地上へ出るというのも、そしてその目的も。

 

「……説明も何も、そのままだ」

 

 勇儀は言いながら徳利を引き寄せ、そのまま口元に持っていき、ぐいと飲み干した。

 

「まず、さとりのペットから貰った怨霊を地上に放す」

 

「その時点でいろいろと許せないんだけど……まあいいわ、続けて」

 

「……そして私がそれを追うってことで子分たちを地上にやる。こうなったら流石に紫もその動きを察知して、必ず博麗の巫女を動かしてくる。あくまで異変だから、紫は途中には出てこられない。それでやって来る霊夢に」

 

 勇儀は、空になった徳利を軽くはじく。

 

「—何とか勝つ」

 

 ぱき、と徳利が真っ二つに割れて、転がった。

 

「……肝心なところは出たとこ勝負なのね。あなた、霊夢の強さをなめてない? それと、もう一つ言ってないことがあるでしょう」

 

「言ってないこと?」

 

「とぼけたって無駄よ。なんで異変を起こすの。暴れるだけなら異変の体裁を整える必要は無い。何か地上の妖怪に要求したいことがあるはずよ」

 

 勇儀が見ているのは、霊夢や子分たちではない。この異変は、地上の妖怪―とくに紫を引っ張り出すための大仕掛けなのだ。

 

「……気づいたか」

 

「当たり前よ。それで、目的は?」

 

「まあ、別にお前に聞かれて問題があるわけじゃないか。私の目的は―」

 

 

◆◆◆

 

 

 遠い山に日は落ちて、宝石のような星を散りばめた空がうっすらと浮かび上がり始めた。人里では今日の仕事を終えた人々がおのおの家路に着いている頃だろう―

 

 八雲紫は、自分の屋敷の縁側で涼しい風に金髪をたなびかせながらのんびりとお茶をすすっていた。

 

(ああ、やっと一息つける)

 

 近頃は結界のほつれがひどく、あっちを直せばこっちが、こっちを直せばあっちが、という具合に果てしないいたちごっこを演じていた。今日も、9カ所もほころびを見つけて直しておいたのだが、普通であればこれほど結界が崩れるわけはない。

 

(……何か、私の知らないところで起こっているのかしら)

 

 しかし、結界のほつれは人為的なものと考えるにはいささか場所が散らばりすぎている。何か自然に起こった原因で結界が破られていると見るのが妥当だろう―結界を破る趣味のある者が犯人でなければ、の話だが。

 

 とはいえそのいずれにせよ、根本的な原因を突き止めなくては事件の解決にはならない。明日は藍に結界の補修を任せ、原因究明に乗り出す必要がある。

 

「ちょっと藍、来て―」

 

 そう言うと、すぐに藍が駆けつけてきた。7つの金の尾を揺らし、額に少し汗を浮かべ、こちらに向けて走ってくる。

 

「そんなに急がなくても良かっ―」

 

 紫が笑いながら言おうとした言葉を、藍は遮った。

 

「紫様。異変が起きました」

 

 ぶっ、と口に含んだお茶を吹き出しそうになった。

 

「地底から逃げてきた怨霊を追い、地底の住人が妖怪の山へ出てきて他の妖怪や人間と小競り合いを起こしています。怨霊による被害も馬鹿になりません」

 

「本当なの? この忙しい時に……」

 

「はい。しかも今回の異変の首謀者は星熊勇儀……地底の鬼です」

 

 地底。紫はその単語を聞いた瞬間、珍しく真面目な顔つきになった。地底は地上の吹きだまりであり、この安定した幻想郷で何かあるとすればここだとにらんでいた場所だった。

 

 しかし実質的に藍と2人で結界を管理しているため常に監視することはできず、2重の抑止力—天狗勢力と、地霊殿がそれの代わりをしてくれている。天魔は鬼の天下を好まないし、さとりは異変のような乱痴気騒ぎが嫌いなようで、地底でその動きがあればすぐさま伝えてくれる手はずだった。

 

「天魔はなぜか黙認し、不動です。地底側も天狗領域に入らないので、何らかの取り決めがされていたとみるべきでしょう。古明地さとりは……」

 

 藍は1枚の写真を紫に渡した。そこに映っているのは椅子に縛り付けられたさとりと、その隣でカメラに向かってピースサインを送るこいしだった。

 

「……身動きが取れない状態のようです」

 

「文字通りね」

 

 こうなるとこいしもこの異変に乗っており、さとりはそうと知らなかったためにまんまと捕まり、そしておそらく地上へ行く口実とするための怨霊を盗まれたと考えられる。

 

「まさかあの星熊勇儀がこれほど用意周到だとは思いませんでしたね」

 

「真っすぐだからといって馬鹿だとは限らないわよ」

 

 実際、紫は後手に回ってしまっていた。結界の補修に忙殺されていたとはいえ、紫の裏をかいて異変を起こせたのは勇儀の裁量によるところが大きい。見た目によらず、存外頭が切れたらしい。

 

「……だけど、まあこれは『異変』。異変を起こした妖怪は人間に倒されなければならないわ」

 

 紫がそう言うと、藍はその意味を汲み取り、頷いた。

 

「すでに霊夢と魔理沙には伝えています。明け方にはこの異変は終わっているでしょう」

 

 

 

 




・天狗の書記官
 哨戒部隊の名簿や建物の修繕費、広報活動を行っている。実は当初この人物を主人公にしようと考えていたが、この小説で登場する機会はない。
・あざみの師事を知らない椛
 椛はあざみが人里へ行く前に正体を知ってしまっているため、華扇の弟子であると知らせると都合が悪い(人間の味方の仙人が鬼を育てていることになる)。そのためあざみは椛にそのことを話していないし、将棋教室では椛は子供たちとしか話していないため知らなかった。
・勇儀の文
 意識せずにケンカを安売りする。悪意はない。
・あざみの思考回路
 簡単に死ななくなったので、自分の体よりも勇儀に仕え続けることに重きを置いている。


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第25話 春の遠雷

 

 

 

 

 その日、博麗神社は閑散としていた。騒がしい客人の姿はどこにも見えず、夕闇の中をぽつんと御神木の梅が境内の石畳に影を落としているだけである。

 

「……遅くなっちゃった。早く夕飯作らないと」

 

 笹帚を握りしめて、霊夢はつぶやいた。本当はもっと早くに掃除を終えて夕食を用意する予定だったのだが、午後にとった昼寝が少々長引き、始めるのが遅くなったのである。

 

(まあ今日は客もいないし、適当でいいかしら)

 

博麗神社を訪れる客がいるときはその分食事を出すが、客はたいてい何かしらの食材を持ってきているのでおかずが一品増える。しかし普段はそんな食材を買う余裕はないため、ご飯と味噌汁、運が良ければ川魚、といった粗末な食事になる。

 

「霊夢、いるかー⁉」

 

 霊夢が箒を戻すため、納屋の方に向かって歩き始めた霊夢の耳に、魔理沙の声が飛び込んできた。空を見上げると、ちょうど魔理沙が急降下してきているところだった。よほど急いでいたようで、着地するやいなや、堰を切ったようにまくし立てた。

 

「多分、異変が起きた! 妖怪の山の近くを飛んでたら、ふもとの方で怨霊とか土蜘蛛がわんさかいたんだ。それでちょっとドンパチしてみたんだけど、なんせ数が多くて、私だけじゃ無理だ」

 

「ええ……それ本当に異変なの?」

 

 正直に言うと、今から妖怪の山まで出向くのは面倒だった。確かに大量の土蜘蛛や怨霊が出てきているのは異常事態だと認めざるを得ないが、紅御前退治のおかげでまだ派手に神社の宣伝をする必要はなく、それに第一、腹がすいている。

 

 魔理沙はそんな霊夢の心を見抜いたらしく、やれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「まあ面倒なのは分かるけどさ……お前は絶対来ないといけないだろ」

 

「その通り」

 

 突然横から口を挟まれ、霊夢と魔理沙は声のした方を向いた。そこにいたのは、見間違いようのない、九尾の狐―藍だった。藍は、腕組みをしたまま霊夢の方に向き直った。

 

「魔理沙の言った通り、これは異変だ。地底から逃げ出した怨霊を追って、地底の妖怪も妖怪の山の辺りを跋扈している」

 

「………ならいいんじゃない。そのうち帰るでしょ」

 

「よくない。これは口実だ。明らかに地上の妖怪への挑戦だ」

 

「地上の妖怪、ねえ……ならあんたたちで勝手にやってれば?」

 

 馬鹿らしい、とばかりに霊夢は鼻で笑い飛ばした。妖怪の山が地底の妖怪に占領されようがされまいが全く霊夢に関係がないのである。レミリアや幽々子のときのような迷惑があるならまだしも、今回ばかりは興味の埒外だった。

 

 騒ぎが大きくなれば出動するだろうが、藍としても騒ぎが大きくなる前に霊夢を動かしたかったのだろう。

 

「………なら、報酬は出そう」

 

「どれくらい?」

 

「………即決できないが、まあこれくらいは」

 

 こしょこしょと霊夢と藍が交渉しているのを見て、魔理沙は呆れかえっていた。こんなことをしているのを見ているくらいなら、さっさと現場に急行した方が早い。

 

「もう、まどろっこしいぜ! 私は先に行くからな!」

 

 魔理沙はそう言い捨てると、未だにそろばんを弾きあっている2人を残し、空へ飛び立った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 くらいのはこわい。

 

 夜の野山。風に揺られる草のさざめきに混じって、何かの気配を感じる。不意にうなじに生暖かい息を吹きかけられそうなほど、濃密な闇。どこか遠くから、青白く光るいくつもの目が私を探して近づいてくる。

 

 私は辺りにいる何かに気取られぬよう、草むらの中で、息を殺しながらそれらが過ぎていくのを待っている。目をつむって開けたら、そこには私を見つけてにんまりと笑う何かの姿があるのではないか―そう思ってしまうから、目を閉じるということもできず、ただただ草むらの中で体をちぢ込めることしかできない。

 

 やがて、息を吸うのが難しくなってくる。青白い目はすぐそこまで迫ってきているのに、呼吸は余計荒くなる。狭いところに隠れているせいか、それとも何かが瘴気を纏っていたせいか。

 

 息をととのえないと。

 

 ひたひたと、追手は傍にやって来る。それの正体は分からない。だが、私を追ってきているということだけは、はっきり分かるのだ。それは私が息を潜めている草むらの、すぐ横を通り過ぎる。まるですでに私の居場所を知っていて、じらすためにわざとやっているかのように、ゆっくりと―

 

 不意に、右頬に吐息がかかった。

 

 はじかれたように右を向いた私の目に見えたのは、爛々と光る瞳と、赤く、不気味な笑いを浮かべて横に裂けた口。叫ぶ間もなく、何かは飛び掛かって来た。

 

 

 

 

 がくん、と高いところから落ちたような感覚とともに、私は目を覚ました。

 

 目を開けると、そこはさとりの書斎だった。さとりの見張りをしに来たのだが、私がやってきた時、彼女は眠っていた。そのためソファに腰かけてさとりが目覚めるのを待っていたが、つい眠り込んでしまったらしい。

 

(……久々にあの夢を見たわね)

 

 あれは里から追い出されて地底へ行くまでの間、数年ほど野山を彷徨ったときの記憶だろう。夢に出てきたのは狼か何かだったはずだ。今は無論敵とはいえないものだが、あの頃は野山の暗闇というものの恐ろしさをいやというほど思い知らされた。

 

 勇儀様に名前をもらい、鬼としての力が引き出された時にようやく夜目が利くようになったが、それまでの夜は、恐怖の棲む場所だったのである。

 

「……全然ほどけない……こいしにはあとでガツンと言わないと……」

 

 そのとき、私の耳にそんな声が聞こえてきた。さとりが目を覚まし、縄で縛りつけられた体を動かし、どうにかして抜け出そうとしているようである。私は前のように気分を損なわないよう、できるだけ刺激しないように話しかけた。

 

「おはようございます。気分はいかがですか」

 

 声をかけると、さとりはぎろりとこちらをにらんだ。

 

「最悪よ。それとも何? 私が縛られて気分が良くなるとでも思ってたの? しかも居眠りして……本当に何しに来たの?」

 

「……私は異変が起きるまであなたをここから出さないためにいます」

 

―酉の刻(午後6時)になるまでさとりから目を離すな。

 

 私が勇儀様から承った最初の指示だった。その後は自由だという。ある意味勇儀様らしく、実に分かりやすい命令だった。

 

「……異変……そんなの私は許可しないわよ」

 

「ですから勇儀様もあなたを真っ先に押さえたのだと思います。まあ迷惑はかけませんから」

 

「……もうかかってるの! ほんとあなたと関わるとろくなことにならないわ……」

 

 縛ったのは私ではないし、別に私の意志でさとりを見張ろうというのでもないが、そう思われるのも仕方ない。部屋の柱時計に目をやると、もうすぐで酉の刻だった。

 

「少し辛抱していてください。すぐその縄をほどきますし、私も地霊殿から出て行くので」

 

「……なら最初っからそうしてよ。もう窮屈でたまらないわ」

 

 私が縄を解き終わると、さとりは私の手を払って「どうも」と明らかに心のこもっていないお礼を吐き捨てるように言った。やはり、さとりとはつくづく相性が悪いようだ。お互いに離れていた方が楽でいいだろう。私も自分のしていないことで延々と文句を言われ続けるのは気分が悪い。

 

「では。そろそろ異変の方は始まってるでしょうし、これでお暇させていただきます」

 

「どうぞどうぞ。さっさと霊夢にボコボコにされに行きなさい」

 

 霊夢。その名を聞いて、思い出した。どうして今まで気付かなかったのか。当然異変となれば無敵の彼女はやってくる。以前の対決では終始防戦一方で、反撃する暇さえなかった。あれが来るとなれば、いくら勇儀様でも一筋縄ではいかないだろう。

 

(………私が最初に相手をしようかしら)

 

 パルスィやこいしなど、主な異変の参加者はあらかた地上へ出てしまっている。彼女らを呼び戻すのは面倒だし、何より霊夢は地上の敵を倒してからここへくるとは限らない。面倒くさがりの彼女だから、こちらがわざと放った怨霊が陽動、あるいはきっかけにすぎないと見抜けば不必要な戦闘を避けて直接地底へ侵入してくる。

 

 しかしどの場合でも、霊夢は地底と地上をつなぐ洞穴を必ず通らなくてはならない。そこで待機していれば、霊夢もしくは別の調停者が現れるはずだ。もし霊夢を相手に回した場合私が勝てる見込みは1割もないが、相手のパワーを削れることができればそれでいい。私は消耗度外視で戦い、疲れた霊夢と勇儀様に戦ってもらうという寸法である。

 

 そこまで考えたとき、私はもう地底の大通りを歩いていた。いつもは騒々しいこの道も、荒くれたちが地上へ行ってしまったため、いつになく静かだ。辺りを照らす篝火や灯篭も少なく、まだ夕方だというのに閉まっている店もある。

 

「……あれ、まだ行ってなかったんだ」

 

 そう言いながら団子屋の中から出てきたのはヤマメだった。変わらずこげ茶のドレスをまとい、団子が歯につまりでもしたのかつまようじを器用に唇で動かしながら話しかけてくる。

 

「……ええ。私は地上には行かず、洞穴で待機するつもりです」

 

「お、大物狙いかな? ヤマメさんそういうの好きよ」

 

「ヤマメさんは行かないんですか?」

 

「うーん、私はいいかな。地上で病気が流行って私のせいにされるのも嫌だし。本物の死人が大量に出たら異変じゃないでしょ」

 

 確かにあくまで異変を起こしたい勇儀様にとって、それが本気の殺し合いになるのは好ましくない展開だ。ヤマメが本気を出せば人里の1つや2つ、疫病で壊滅しそうなものだがそんな破壊力は異変、ひいては弾幕ごっこに求められない。

 

「ま、出来る範囲なら手伝ってもいいわよ」

 

「……じゃあ1つだけ頼まれてくれませんか」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……確かに今度の異変は何っていうか……やらせくさいよなぁ……」

 

 最高速度で空を飛びつつ、魔理沙は眼下に広がる森を見下ろした。かなり暗くなったとはいえまだ地上の様子はかろうじて見える。その森のあちこに、妖怪らしき影がいくつもあった。

 

(藍の言う通り、本命は怨霊っていうより地底の妖怪の方か)

 

 博麗神社の道中、多少の妖怪には遭遇したが、怨霊には一度も出くわしていない。そもそもの絶対数が少ないのだろう。

 しかし大量の敵と戦う必要が無いとはいえ、この異変の本質が地底妖怪たちによるものなのだとしたら、当然魔理沙はわざわざ地底まで赴かなければならない。余計な魔力をここで失うわけにはいかないだろう。

 

(霊夢がさっさと来ればもうちょっと楽だがな)

 

 だが、霊夢は紫からの「報酬」の交渉に忙しいらしい。まあ首を突っ込む必要は魔理沙にもないうえ、霊夢が遅れてくるというのは、魔理沙単独で異変を解決するチャンスでもあるのだ。

 

 魔理沙は心の中でにやり、と笑った。これまでさんざん張り合ってきたが、完全な勝ちというのは少なかった。もともと凡人が天才に勝てるということ自体が少ないからである。

 

「……でも今回は、私が一番乗り……」

 

 魔理沙がそう言いかけた瞬間、不意に山の向こうから魔理沙めがけて飛んでくる影があった。目を細め、よく見ようとすると、その点はだんだんと大きくなり、そしてその正体が明らかになったときにはすでに、フリルをあしらったスカートを揺らし、やってきた人物—古明地こいしが魔理沙を見下ろしていた。

 

「……あっはは、魔理沙み~っけ。ねえ、遊ぼうよ」

 

「残念だな。私は今、異変解決で忙しいんだ」

 

 無意識で動いている奴などに構っているヒマはない。魔理沙がこいしを避けてそのまま通り過ぎようとすると、こいしは人さし指を魔理沙に向け、ばん、と言いながら拳銃で撃つような真似をした。

 

 ばしゅっ、という音とともに少量の閃光が魔理沙の顔の傍をよぎり、長い尾を引いて遥か彼方へと飛んで行った。

 

「ちょっと、私も異変に参加してるんだから無視しないでよー」

 

「ああ、そうみたいだな」

 

 魔理沙はため息をつくと、こいしに向けて、八卦路を構えた。

 

 

 




・霊夢は乗り気でない
基本的に面倒臭がりというのもあるが、地上と地底の妖怪のトラブルと考えたのでさらに意欲がない。
・さとり捕縛
実行したのはこいしだが、勇儀の指示。さとりへの配慮だが荒っぽすぎて理解されない。


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第26話 百花繚乱の決闘

 

 

 

 

 どこかで魔力がはじけ、空気を焼き焦がすような匂いがしてきた。と同時に風に乗って爆発音が断続的に聞こえ、ときおり閃光も見える。

 

「……魔理沙が戦っているようですね」

 

 藍のつぶやきに紫はうなずいた。予想通り、魔理沙は妙な小細工をせず、というかしようという発想がないのだろうが、ともあれ正面突破を狙っているらしい。相手からすればこの手の輩は道を阻みやすいという点で与しやすいが、紫にとっても都合のよいことがひとつだけある。

 

「……あんたが出てくるなんて聞いてないわよ」

 

 その声を聞いた紫はにっこりと笑って、パルスィを見下ろした。服も髪も黒くすすけ、仰向けに倒れている。その向こうにはもう何人かの鬼やつるべ落としなどが倒れていた。

 

「……ええ、私が別にこの『異変』を解決するわけじゃないわ。ただ、ちょっと手助けしてるだけよ」

 

 魔理沙の動きが単純なぶん、彼女を迎え撃とうとしている敵の動きも読みやすくなっているため、先回りは容易だった。そして見つけてしまえば簡単に相手を無力化できるのである。

 

「………どっちみち干渉はしてるじゃない。いつもはだいたい霊夢と魔理沙に任せてるだけなのにね」

 

「そういえばそうね」

 

 紫はパルスィの皮肉っぽい言葉をいなしつつ、紫は別のことを考えていた。つまり、この異変の目的がどこにあるか、ということである。

 

 結界の修復に手一杯で余裕が無かったとはいえ、勇儀は計画を周到に用意していた。天狗たちを抱き込み、さとりを押さえた。これで異変を収拾できる者は、霊夢や魔理沙に限られてくる。

 

 では、その霊夢と魔理沙が敗れれば、誰が事態を解決するのか。勇儀本人でなければ、管理人である紫が出ざるをえない。今まで地底については以前の取り決め以外ノータッチだった(はっきり言って面倒だった)が、今回は関わらざるをえない。

 

「……私がこう考えることも、あっちは重々承知でしょうけど」

 

 そうひとりごちたとき、近くで辺りを見回していた藍がやってきた。

 

「紫様。私の式で現状を探ってみましたが、どうやら霊夢はすでに地底の昇降洞へおりた模様です」

 

「さすが仕事が早いわね。私が来るまでもなかったかしら。だいたい今回の『異変』に参加してる連中は地上に出払ってるだろうから、あとは簡単に星熊勇儀のとこにたどり着くでしょう」

 

 あとは勇儀を成敗して一件落着だろう。少なくとも全力で戦える霊夢に弾幕ごっこで勝てる道理はない。思惑などはあとで聞きだせばいいだけのことだ―

 

 紫がそう思っていると、藍は不思議そうに首をかしげた。

 

「それにしても………霊夢はどうやって妖怪たちに目をつけられずに地底に入り込めたんでしょうか」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「我々がこうしてちょっと移動するだけで妖怪と遭遇するんですよ。霊夢がいくら気を付けていても、何匹か妖怪と戦わなければならないはずですが、これほど簡単に地底へ到達するのが不可解でして」

 

 やはり、式の能力は「与えられたこと」を元に思考を展開する癖があるらしい。膨大な計算を一瞬でこなせる藍がこんな単純な問題が解けないというのもその弊害だろう。

 

 紫は、できの悪い生徒に対してするように、静かに微笑んだ。

 

「……ああ、そんなのは簡単に思いつくことよ。……少なくとも霊夢や私にとってはね」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ここに来るのは二回目かしら。

 

 博麗霊夢が地底の昇降洞を抜け、その底の地を踏みしめたときに感じたものは、その程度のものだった。何ということもない、妖怪を調伏するだけのいつもの仕事。

 

 顔を上げると、人里と同じかそれ以上に華やかな地底の都の光が目に入ってきた。今日は月の光が無く、そのせいもあってより一層きらびやかに飾りたてられているようにも見えた。

 

「さて、さっさと殴り込みをかけましょうか」

 

 力も十分温存している。魔理沙はどうやら真正面から行ったようだが、そんなことをしなくても、要は勇儀さえ倒してしまえばいいのである。

 

 霊夢はまっすぐ妖怪の山へ突入するのではなく、迂回して天狗たちの領域から昇降洞まで近道をしていた。地底の妖怪達が地上へ出てくると言っても、天狗の領域を好き勝手に移動することは考えにくい。天狗たちの無用な警戒を避けるためにも、天狗の領有する場所は最小限に移動するはずである。

 

 そのため、天狗領域を通れば勇儀の手下妖怪とばったり遭うことも無いだろうし、天狗たちも魔理沙や妖怪たちの派手な戦いに目を奪われて侵入は容易になるというわけである。実際、低空飛行で見つからないよう移動すると、誰に見とがめられることも無く昇降洞へ到達することができた。

 

(魔理沙にはちょっと悪いけど……ね)

 

 親友を当て馬にしたようでほんの少し罪悪感があるが、とにかく今回は手早く異変を終わらせてしまいたかった。単に面倒というのもあるが、紫の都合で動かされたような気がして、気に入らなかったというところが大きいだろう。

 

 霊夢がため息をつきながら飛翔し、都への橋にさしかかったその時、その橋の真ん中には、たった1人、待ち構えるようにしてたたずむ影があった。

 

「お待ちください」

 

 裏をかいたと思ったが、まだこちらに残っている仲間がいたらしい。霊夢が静止すると、相手もふわりと浮かび、霊夢に合わせてゆっくりと空中—弾幕戦の舞台へとやって来る。

 

 霊夢の征く手を阻まんとするその相手の顔をみとめると、霊夢はすっと目を細めた。いつかの月夜の晩のように、煌々と旧都の明かりに照らされ、柴染めの着物の肩に、ぱらりと紅い髪がかかっていた。

 

「久しぶり、というほど日は経ってないかしら」

 

「ええ、まあ……このところ忙しかったのであなたに会ったのもついこの前のようです」

 

 霊夢が口を開くと、相手―あざみは、以前とは打って変わって、落ち着いた調子で答えた。地上で退治したときはとても敵ではないように思えたが、今回は不気味なほど静かで、こちらを見据えている。

 

「……ちょっとどいてくれる? 私はあなたなんかと戦ってる暇はないの」

 

「断ります。今夜、あなたをお通しするつもりはありません」

 

「私は勇儀を倒しにきたの。あなたには関係ないでしょう?」

 

 霊夢は、頑ななあざみの態度に、妙な引っかかりを覚えた。前の件で霊夢と戦えばどうなるかはわかっているのに、何故関係のない勇儀と霊夢の対決に首をつっこもうとしているのだろうか。

 

 そう思った瞬間、霊夢ははっとした。もし霊夢が知らないだけで何か関係があるとしたら―

 

「私は、勇儀様の従者ですので」

 

 あざみは、低くつぶやいた。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と赤い光点が彼女の背後で数を増していく。ここで、霊夢もあざみが敵対するつもりであるということをはっきりと悟った。

 

「……なるほどね」

 

「勇儀様にお会いになるのでしたら、私を倒してからお会いしてください」

 

 あざみがそう言うと同時に、黒鉄を削ったような金属音とともに、彼女の背後に控えていた光点は匕首の形へと変形した。切っ先の目標は全て目標―霊夢に向けられている。あざみはゆっくりと霊夢へ向き直り、つぶやいた。

 

「鬼符『神領浅緋』」

 

 

 

 

 

 いかにして霊夢を消耗させるか。 

 

 私は妖力でこしらえた刃を霊夢へ放ちつつ、そのことだけを考えていた。勝てる見込みはまずない。これはいい。しかし、ただ負けるだけでは駄目なのである。相手に損耗を強いるのが、私の目的なのだから。

 

 一旦刃の奔流が止まると、霊夢はお返しとばかりに針を数本、私めがけて投擲する。額や頬を掠めた針が風を切る音を聞きながら、私は考えていた。

 

―私が霊夢に勝っている部分はどこだろうか?

 

 霊力の絶対量。経験。反射神経。どれをとっても、霊夢が完全に上回っている。これはどうあがこうと覆すことができない事実。この要素だけで戦えば、いくら引き分けを狙っても肉を切らせて骨も断たれるという結果に終わるだけだろう。

 

 逆に私の勝っているところと言って最初に思いつくのは膂力くらいだが、当然弾幕勝負だから活かすところは皆無だ。しかしもう1つ私に有利な点があるとすれば、それはまだ私の手札が霊夢に知られていないことだろう。

 

 以前の戦いで早々に敗北してしまったのが幸いして、霊夢はこちらのスペルはほとんど知らないはずである。こちらも相手のスペルを完全に把握しているわけではないが、先ほど旧都を出るとき、用事のついでに、霊夢が異変の際に使っていたカードをヤマメに教えてもらっている。情報では、私に利がある―

 

「霊符『夢想封印』」

 

 その声で、私ははっと現実の世界に引き戻された。必殺の弾幕が霊夢の周囲に咲き誇り、不気味な光をその中心にたたえていた。

 

―まずい。

 

 とっさに迎撃用―「人肉柘榴」のスペルを宣言しようと思った瞬間、霊夢の弾幕はうなりをあげて、こちらに襲い掛かってきた。私が先ほどまで放っていた匕首は霊夢の光球に触れるとことごとくが儚く消え去り、楯としての役割すら果たしていない。

 

 あっけなく匕首を平らげると、光球は首筋へ迫る。しかしその時すでに、私の右手にはそれを切り捨てるための武器は握られていた。

 

「鬼符『羅刹の魔槍』」

 

―見える。

 

 体をめぐらせ、まずは目の前にある光球を横薙ぎに斬りはらった。続けて右斜め、脇側、回り込んで背後から襲い掛かってくる弾幕を順に撃墜する。前回は結界で防御するので精いっぱいだったが、射命丸のスピードに比べれば、動きは止まって見える。

 

 最後に一際大きな一弾を貫くと、ぼしゅっ、という音とともにもうもうと煙が漂った。その瞬間、それを吹き飛ばすかのような風圧を感じる。

 

「………っ!」

 

 私が顔を仰け反らせると、先ほどまで私の額があった位置を、一本の針が飛び去って行った。つう、と額から零れた血が、槍を構える右手の甲にぽたりと落ちた。

 

「………へえ、なかなかやるじゃない」

 

 煙が消え去ると、霊夢は片頬に不敵な笑みを浮かべながらそこに浮遊していた。今の衝突で消耗した様子は少しもなく、涼しい顔で私を眺めている。一方こちらは、少しだけ呼吸が乱れていた。

 

 霊夢は癖なのか、とん、とんと肩をお祓い棒で叩きながら言う。

 

「前は瞬殺したのに。あーあ、あの時ちゃんと調伏しとけばよかった」

 

「……ふふ、やれるなら、今やってみてください」

 

 勇気を振り絞っての挑発である。いつもなら足を舐めてでも許しを請うところだが、残念ながら今回はそうはいかないのである。

 

「ちょっとこの前と態度が違うんじゃない?」

 

 霊夢はぴくり、と眉を動かした。流石に妖怪退治の専門家だけあって、安っぽい挑発に乗るつもりはないらしい。しかし彼女の気配が少し尖ったものになったのは、気のせいでは無いだろう。

 

「そうですかね。……まあ、今日ばかりは譲れないので」

 

「……ふーん、そう。それでもいいわ」

 

 霊夢はそうつぶやくと、袖からずらりとお札を取り出した。離れてはいるものの、そのすべてによく練られた霊気が込められているのが分かる。直撃は言うまでもなく、かすってもその威力は馬鹿にならないだろう。

 

「あんたを倒したら勇義のとこまで道案内してもらうから」

 

 直後、霊夢の手元からぶわりと白い旋風が巻き上がった。お札は霊力の輝きも相まって白刃のようにきらめいている。そして霊夢が私を見て、つっ、と指さした瞬間、ぞわりと全身が総毛だつような寒気に襲われ―

 

 視界を紙吹雪の群れが覆いつくした。

 

 

 




・天狗領域うんぬん
一応天狗から地底の妖怪たちの通行許可は取っているが、天狗側は高みの見物を決め込みたいので、地底の妖怪は天狗のエリアに深入りしてほしくない。
・式の性能
藍や橙の式としての性能では与えられた条件を元に正しい結果を出せるが、目的達成のため条件を変えるという発想ができない。


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第27話 策成れり

 

 

 

 

 徳利を傾けると、ぷんとした酒の匂いとともに透明な液体が杯の上に満ちて行った。今日は月が出ていないので、傍にある篝火(かがりび)で手元を照らし、こぼさないように気をつけながら、口へ運ぶ。

 

 星熊勇儀は一口に飲み干すと、そのまま眼下を見下ろした。

 

 旧都の街並みには、地霊殿まで続く一本道を中心に、篝火の光があちらこちらに見える。しかし異変騒ぎを聞いたためか、その数は少ない。そしていま勇義が座って一人晩酌しているような楼も、ここを含めていくつかしか明かりが灯っていなかった。

 

「……なんだ。異変が起こってるってのに、ずいぶん寂しいね」

 

 呟いたとき、ふっ、と東の楼の篝火が消えた。勇儀がそちらに目を向けると、その方角から空中を移動する影が見えた。飛ぶ、というよりは振り子のように上がり下がりしながら、やって来る。その「誰か」は勇儀があぐらをかくその目の前に着地したとき、驚くような声をあげた。

 

「……ここで何してるの? 勇儀」

 

 黒谷ヤマメだった。彼女は地底の上面にくっつけていたらしい糸を巻いて回収すると、不思議そうに勇義の瞳を見つめてきた。

 

「見りゃわかるだろ。酒飲んでんだよ」

 

「……分かりにくくてごめん。異変の首謀者が何でここで酒盛りしてるのってこと」

 

「いーんだよ。私は。どうせあっちから来てくれる」

 

 勇儀が昇降洞の方を指さすと、ヤマメは珍しくため息をついた。

 

「いつまでそんな昔の約束守ってんの。配下の鬼だって地上に行ってるんでしょ」

 

「ああ、そうだよなあ……私はいつまで約束を守ればいいんだろうなあ」

 

 どこか遠くを見るような目をしながら答える勇儀を見て、ヤマメはますます訳が分からなくなったようだった。……まあ、今のは地上に行く行かないの話のことではないが。

 

「……ところで勇儀は、ずっとここで酒飲むつもり?」

 

「うーん、まあ誰かが地底に降りてくるまではね」

 

「その明かりつけて置いたままにする? もし必要ないなら消して」

 

 勇儀は、ヤマメの言葉を怪訝に思った。そういえば先ほども東の楼で明かりを消していたが、何かわけがあるのだろうか。そう訊くと、ヤマメは首をかしげた。

 

「……さあ。私じゃなくて、あざみが言ったことだから」

 

「あざみが?」

 

「うん。なんでだろうね……店とかのは時間になったら消すように皆に伝えてください、てさ。……面倒だけど引き受けるって言っちゃったからなあ」

 

「へえ、そうか。そういえばあいつは異変の間どうするって言ってた?」

 

「ずっと昇降洞のところで待つって言ってたよ」

 

 ヤマメがそう答えた時、都の外れの方で、ちか、ちかちかと何かが光った。遅れて轟音がやって来る。

 

「……ん、もう地上の奴らが来ちゃったみたいだね。あざみは大丈夫かなあ」

 

「さあねえ。私はただ待つだけさ」

 

 闇夜の向こうで、また弾幕の輝きが宙に舞い散った。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

―一瞬で決めてやる。

 

 途轍もなく強力なお札の嵐は、反応の暇も与えずあざみを包み込んだ。が、これではたりまい。前に見たように結界で防いでいるか、或いは得物で突破してくるだろう。

 

 突破してくるとすればその先は―

 

 霊夢は自身の作り出したお札の嵐に向けて、突っ込んでいく。

 

 そのとき、ぶわり、と霊夢の前方の護符の群れが盛り上がり、あざみが体のそこかしこに切り傷を負いながら脱出してきた。しかし、その目は既に迫りくる霊夢を見て、まん丸に見開かれた。

 

「鬼符……」

 

「霊符『夢想妙珠』」

 

 すばやく展開された霊夢の弾幕は、標的―あざみに向けて、あますことなく直撃する。

 

 刹那、純白の光が視界を覆いつくした。霊夢の攻撃はなおも続き、爆発する弾幕は連打する大太鼓のごとく、地底中に響き渡る。

 

「うぐっ……」

 

 燻されてはたまらないとでも言うかのようにあざみは爆煙の中から抜け出すと、いったん霊夢から距離を置くつもりなのか、後ろへ下がる。

 

「逃がさないわよ」

 

 霊夢が追撃しようとした瞬間、あざみは絶叫した。

 

「影符『隠形鬼』!」

 

 悲鳴とも宣言ともつかぬその言葉とともに、あざみの姿は宙にとけ、消えてしまった。後は静かに残された煙の残滓が漂っているだけである。

 

 あざみは必ずこの近くに潜んでいる。霊夢は油断なく辺りを見回しながら、そう思った。

 

(……こんな技も使えたのね)

 

 逃げられたか? しかし相手の目的はあくまで霊夢を旧都に行かせないことである。となればすなわち、選択肢は1つ―攻める、しかない。

 

「鬼符『芥川の人喰い蔵』」

 

 至近距離で、その呟きが聞こえた瞬間、霊夢は結界を張っていた。直後、鮮やかな赤の弾幕が、霊夢を包み込む。

 

 凄まじい妖力の奔流が、霊夢に向けて押し寄せた。空中から地へ叩き落すほどの勢いの弾幕が霊夢の結界を叩き、削り取っていく。先ほどまであざみの使っていた弾幕とは桁違いの威力だった。

 

 霊夢は、自分が張った結界があと数秒で崩れると確信したとき、ため息をついた。

 

「………シャクだけど、今使っちゃうか。『夢想転生』」

 

 その瞬間、霊夢の結界は波にさらされた砂城のように消え去った。が、あざみの弾幕は1つとして霊夢を穿つことはなく、彼女の体を無視してただ無駄に放出され続ける。

 

 唖然とするあざみに、霊夢は「人喰い蔵」の結界すらも通過し、あざみに襲い掛かった。

 

 あらゆるものから宙に浮く、つまり何物にも干渉を受けなくなる博麗の巫女の奥義である。弾幕も、結界も、あらゆるものは彼女の前では空気に等しい。

 

 あざみは、向かってくる霊夢をみるや、さっと身を翻し、後退しようとした。が、無駄である。すでに霊夢の射程圏内に入っていた。

 

「……お返しよ。『二重結界』」

 

 あざみの周りに現れた無数の弾幕が、一挙に彼女めがけて殺到した。当然あの槍ですべてを防ぎきることはできず、次々とうちもらした光球が命中する。

 

 焼けつくような熱風を感じた。

 

 そしてその直後、凄まじい閃光が地底を駆け抜ける。霊夢の無尽蔵なまでの霊力が爆発の撃力に転換され、荒れ狂った。

 

ようやく二重結界が終わって辺りが静まり返った時、驚いたことにあざみはまだ空中に踏みとどまっていた。

 

しかし連弾の威力をもろに浴びたためか着物も本人もぼろぼろで、槍はかまえているものの満身創痍といった体である。呼吸は絶え絶えで、肩で息をしていた。

 

「………しぶといわね」

 

 正直に言うと、霊夢も大技の連発で疲労は無視できない程度にはたまっている。この後に勇儀と戦わねばならないことを考えると、あざみとこれ以上戦って損耗するのは避けなければならない。

 

「降参しないのかしら? 私そろそろ行きたいんだけど」

 

「先ほど私が言ったことを思い出してください。それが答えです」

 

「……残念だけど、私は忘れっぽいのよね」

 

 それを聞いたあざみは、長くため息をつくと、ゆっくりと霊夢を見上げた。

 

「ではもう一度。旧都に入るなら、私を倒してからにしてください……」

 

 あざみが言い終えたとき、霊夢の視界から彼女の姿は消えていた。いや、もっと正確に表現するならば、彼女だけでなく、そのほか全てが暗闇に飲み込まれ、何も見えなくなった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

「おや、急に暗くなったね」

 

 相変わらず勇儀とヤマメは酒盛りをしていたが、突然旧都の明かりが落とされ、一挙に闇に包まれてしまった。ヤマメは何かを思い出したように立ち上がると、傍で燃えていた篝火を蹴倒し、消火した。

 

「忘れてた。この時刻になったら消すんだった」

 

 ヤマメがひとりごちると、勇儀は、眼下の街並みを眺めながら、一人合点したように頷いた。

 

「……ああ、そういうことか」

 

「何がわかったの?」

 

「いや、あざみのやろうとしてたことがね。……今日は新月だったか」

 

 勇儀はそれ以上何も言わず、少し考えているようだったが、やがて杯を空にしてから、立ち上がった。

 

「ちょっと私も行ってくるよ。これがあざみの切り札だろうからね。うまくしたら珍しいもんが見れるかもしれない」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

―勝機は、今しかない。

 

 私は全速で、霊夢に向けて飛行した。

 

 私が霊夢と違う点―ないし、人と妖怪で違うのは、腕力、治癒力、寿命―そして、眼の違いである。今日は月明かりがなく、旧都の明かりによって戦いは行われていた。そして、その明かりを完全に消してしまったら?

 

 私の眼は、暗闇の中でも霊夢の姿をとらえていた。かたや、霊夢は光り輝く弾幕を見ていたため闇に目が順応しておらず、何も見えていない。

 

 霊夢の攻撃にひたすら耐え忍び続けたのも、この瞬間を待つための時間稼ぎだった。検討の結果、威張れることではないが自分が弾幕戦で霊夢に勝てるわけがないとい結論に達したのだ。

 

 故に、勇儀様の人脈、妖怪としての優位を利用するしかなかった。霊夢の来るタイミングが悪ければ成功しない賭けだが、それに勝ったのだ。

 

 私は霊夢を間合いにおさめると、右手に槍を実体化させた。霊夢は槍の光に反応した。が、それよりも早くその切っ先を振り下ろす―つもりだった。

 

 がっ、と音がして、私の槍は、霊夢の額に届く直前で静止した。槍の穂先と霊夢の額の僅か2、3寸というところで、霊夢のお祓い棒が割り込み、こちらの斬撃を防いでいた。

 

「……惜し、かったわね。今のはひやりとしたけど」

 

「惜しい? ここまで予定通りです。……獄符『羅刹の魔槍』」

 

 宣言と同時に、はらり、と私の握る槍がいくつものリボンのようにほどけた。元々これは分解して弾幕としても使うことができるのである。だからこそ、スペルの1つになっているのだが。

 

 霊夢はとっさに回避しようとしたが、私は霊夢の服を掴み、それを防ぐ。その一瞬は、弾幕が霊夢に命中し、威力を発揮するのに十分な時間だった。

 

 轟音が響いた。私自身を巻き込みながら、それでも攻撃は止めない。私はゼロ距離ですべての妖力を使い果たすまで、霊夢に向かって弾幕を叩きこみ続ける。

 

「………放し、なさい!」

 

 私と霊夢は滅茶苦茶に飛び回りながら、空中で争っていた。もはや優雅さのかけらもない形だが、離せば勝ち目はない。意識が飛びそうになりながら、必死に応戦する。

 

 私と霊夢は上を取り合い、くんずほぐれつしながら地上へと墜落していった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 あざみの指示で真っ暗闇になっていた旧都に1つ、また1つと明かりが灯った。ちょうどそのとき地底に降り立ったのは、白黒の魔法使い―魔理沙だった。

 

「……ん? いつもより明かりが少なくないか?」

 

「本当ね。私が出たときは普通に明るかったのに」

 

 傍にいるのは、先ほどまで魔理沙と戦っていたこいしである。ただし敗北を喫したあかしとして袖のほつれた上着、裾が黒ずみ、ずたずたになったスカートを身に着けている。こいしはもう負けたため、地霊殿に帰るのだという。魔理沙も旧都に行かなければならないため、ある意味では道連れと言えなくもない。

 

 魔理沙はちらりと上をみると、鼻をうごめかせた。

 

「これは……火薬……っていうより霊力の弾幕が弾けたあとの煙の匂いだな。どうやって来たかは知らないが、霊夢が私より先に着いたらしい」

 

「そんなに細かく分かるの?」

 

「ああ。霊夢と死ぬほど決闘してきたしな。私たちが来る前に霊夢とここで戦った奴がいる」

 

「でも、だいたいの異変を起こす妖怪は私みたいに地上に行ってるはずだけど」

 

「そうか。で、地上で見なかった奴は?」

 

 そう問うと、こいしは思い出しながら、指を折って数え始めた。

 

「……ええと、ヤマメと、あざみと、……あと勇儀」

 

 あざみという奴とはこの前の異変で会わなかったが、どこかで聞いたような名である。魔理沙は少し首をかしげたが、すぐに思考を切り替えた。

 

ともあれ、その3人のうち誰かと、霊夢は戦ったはずだ。その後、霊夢はどこへ行ったのだろう。今戦っている様子が見られない以上、ここで勇儀を倒したか、あるいはあざみ、ヤマメのどちらかを倒してもっと旧都の奥へと侵入していると考えるのが自然である。

 

「また霊夢に先を越されちまったぜ」

 

 魔理沙は慌てて飛び立った。あちらが先に戦ったら、魔理沙の手柄はこいしくらいのものではないか。

 

 ぽっ、ぽっ、と旧都の大通りの提灯に、篝火に明かりが灯る。魔理沙はそれを見下ろしながら先へ進もうとしたとき、その向こうで信じられない光景を目にした。

 

 大通りの向こうには、燃え盛る火に照らし出され、ゆらゆらと揺れている2つの人影があった。1人がもう1人を組みしき、喉に手刀を当てている。

 

その上の影は遠くからではよくわからないが、その下―どう考えても敗北の姿をさらしている者―は、巫女装束をまとっている。

 

「……霊夢が、負けた?」

 

 魔理沙は呆然としながら、しかし詳細を知るべく、その2人の方へ向かって飛んでいった。

 

 

 

 




・あざみの策
 ヤマメや他の旧都住民の助けを借りている。そろえなければならない条件(月明かりのない夜、相手が人間かどうか、権力があるか)が多いためいつもは使えない。
・弾幕戦としての美しさ
 今回の決闘にはあまりない。それまで気にしていたら勝ち目のある戦いはできないため。


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第28話 鬼の(くびき)とは

 

 

 

 

「……あ、あなたの負けです」

 

 私は、霊夢を下に組み敷き、手刀を当てながら言った。すでに私が(勝手に)出した戒厳令は解かれ、旧都から暗闇は追い払われつつある。

 

 これでようやく、私は霊夢を道連れにして地上へ叩き落すことに成功したのである。無論切り札あってのことであり、私個人の実力であれば到底敵う相手ではなかったはずだ。

 

 それでも、やはり霊夢との実力差は大きかった。妖力を限界まで使用したためか、頭の中は針鼠が暴れまわっていると思うほど痛く、視界はぐにゃりと曲がっている。もはや立っているのが精いっぱいであり、当然霊夢にとどめの一撃を見舞うような力は一滴も残されていない。

 

 これで諦めてくれ―と思ったが、その瞬間、霊夢はかっと目を見開いた。

 

「……今、何て言ったの? まだ。まだ戦えるわ」

 

 霊夢の身体から、ぶわりと霊気が立ち上る。駄目だ。まだあちらはパワー十分である。

 

(……まあ、それでもいいか)

 

 私の目的はすでに達成した。これだけ霊力を削れば御の字である。あとは勇儀様にお任せすることにしよう―

 

「おいっ! 霊夢!」

 

 そんな声が聞こえ、何かが光ったと思うと同時に、私の身体は高々と宙を舞っていた。受け身をとることもできず、地面に身体をしたたかに打ちつける。

 

「……なによ魔理沙。余計な手助けは要らないわ。ちょっと不覚をとったけど、まだ戦えるから」

 

「そんな事言ったって、全然余裕があるようには見えないが」

 

 どうやら、闖入者はあの魔理沙のようである。私を吹き飛ばしたのは、彼女の魔法らしい。横たわる私の視界の端で、金髪が揺れていた。

 

「……そこで私を待ってたやつが予想以上に手強かったのよ」

 

「お前にそこまで言わせるなんて珍しいな」

 

「ええ。……まあ、さっきのあんたの攻撃を回避できなかったってことはもう勝負はついてると思うけどね」

 

 霊夢がそう言ったとき、からん、ころん、と旧都の奥から、下駄を鳴らして歩く音が聞こえてきた。流石に反応は早く、2人はばっと身構えると、その足音の主へ顔を向けた。

 

「おーおー、なかなか頑張ったんじゃないか」

 

「久しぶりだね、お2人さん」

 

 勇儀様とヤマメだった。勇儀様はくるくると左手で杯を弄びながら、ゆっくりとここに揃っている役者を見回す。勇儀様はゆっくりと私の方へやってきてしゃがむと、ぽん、と頭をたたいた。

 

「あざみ。よくやった。休んでていいぞ」

 

「………はい」

 

「私にはー?」

 

 いつの間にかいたこいしが言うと、勇儀様は頷いた。

 

「ああ、こいしも。……ていうかそろそろさとりの所へ戻ったらどうだ」

 

「分かってる分かってる」

 

 こいしはもう飽きたとばかりに地霊殿へと飛び去ってしまった。勇儀様はそれを一瞥(いちべつ)すると、霊夢たちに向き直った。

 

「……さて、これであんたらは私と戦うことになるわけだが……」

 

 霊夢と魔理沙はともに疲労し、霊夢は私と戦った直後であるためか、最初に出会った時よりも霊力の勢いが半減している。この状況で戦えば、勇儀様とヤマメが優勢になるだろう。

 

「……やってやろうじゃないの」

 

 霊夢がぴっ、とアミュレットを扇状に広げ、投擲の構えを見せる。魔理沙も右手に持っている何やら箱のようなものを構える。しかしどちらの動作も緩慢としており、2人の体力に余裕がないことは見てとれた。

 

 対する勇儀様とヤマメはこの異変が始まって一切戦っていないため、気力、体力ともに横溢している。いくら霊夢と魔理沙が手練れといっても、ここで勝ちを収めるのは難しいだろう―

 

 その時、急に力が抜け、私はがくりと頭を落とした。どうやら安心して緊張の糸がゆるんだらしく、急速に意識が遠のいていく。

 

妖力も体力もからっぽだったため、身体を包む無気力感に抗うことはできない。どうもこの頃気絶癖がついてしまってよくないな、と思っていると、瞬く間にまぶたが落ちてきた。

 

私はこの戦いの帰趨に思いを馳せながら、気を失った。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 霊夢は勝つ。例え相手が吸血鬼だろうが、亡霊だろうが、神さまだろうが。だからこそ、紫はほぼ異変の解決に介入せず、博麗の巫女に全てを任せてきた。

 

 博麗の巫女に異変を解決させる理由はいくつかあるが、主な理由は、人間が妖怪を退治できるという事実を確認させるためである。これがなくては幻想郷の妖怪と人間の間の微妙なパワーバランスは崩壊する。

 

 故に、霊夢が負けた、あるいは負けそうな場合は、紫は介入も辞さないつもりでいた。例えば、今回のように。

 

「はいはい、ちょっと待ちなさい」

 

 今にも勝負が始まろうとするその瞬間、紫はその両者がにらみ合う空間にスキマを作り出し、姿を現した。

 

 霊夢、魔理沙、ヤマメが驚いて出現した紫を見つめる中、勇儀だけはにやりと笑って紫に目をやる。

 

(これも、思い通りと言うヤツかしらね)

 

 紫は離れて霊夢とあざみの戦いを見守っていた。途中までは霊夢の圧倒的な優勢の元で経過した。が、あざみの策によって手痛い反撃を受けた霊夢は、次の戦いに耐えられる霊力を残していなかったので、強硬手段に訴える—つまり、勇儀たちとの戦いが始まる前にその両者との間に現れ、紫自らが異変を終わらせることにしたのである。

 

「……何しに来たの?」

 

 霊夢はぎろりと睨むが、紫はそれをいなしながら答えた。

 

「私が直々にこの異変を終わらせようと思ってね」

 

「私と魔理沙が負けると?」

 

「そうは言ってないでしょ。ただ、このまま任せるのは不安ってだけ」

 

「だからそういう意味じゃない」

 

 しかし霊夢は自分に残された霊力については理解しているらしく、それ以上噛みついてくることはなかった。魔理沙も同じく地上で魔力を消耗しているため、何も言わない。紫は2人の了解を得たと解釈すると、勇儀へ向き直った。

 

 勇儀はどこか不満そうにしながら、紫を見た。

 

「……えらく素直に負けを認めるんだな。戦ってもいないのに」

 

「あの子たちが本当に負けたらまずいのよ。負けるという可能性があることも問題になるほど」

 

「気に食わないな。絶対に勝てる勝負しかさせたくないってことだろ?」

 

「この幻想郷を守る子たちだからこそ、ね」

 

 紫がそう答えると、勇儀はため息をついて、「で?」と言う。

 

「代案があるからここに来たんだろう? それは何だ?」

 

 やはり直球に訊いてくる。そのくせ紫にすら目的を読ませないというのが何とも不気味なのだが。

 

「……質問を質問で返すようで悪いけど、あなたが異変を起こした目的はなに? それが私に実行可能なものであるならば、矛を収めることを交換条件に、その目的を果たさせてあげる」

 

 巧妙に言葉を選んだが、この言葉は負けと言っているに等しい。

 

「紫。お前自身が私と戦うんじゃないのか?」

 

「……地上と地底の妖怪で争うことが目的なら、それをお勧めすするわ」

 

「冗談だ。それで、私の目的を聞きたいのか」

 

「それはもちろん」

 

 勇儀はそれを聞くと、こともなげに頷いた。そして、それを聞いた瞬間、紫はあまりの意外さ、というよりもばからしさに唖然とした。

 

「地上と地底の行き来の禁止を無効にしてくれ」

 

「……? 今なんて?」

 

「言った通りだ。ずっと前に地上の奴らと決めた約束を改めさせてほしい」

 

 理解不能だった。今でも、さとりの許可を貰えば地上に行くことは可能である。それなのに、何故今そんなことを言うのか。勇儀であればさとりに問題を起こさないと言えば信用はあるだろうし、地上へ行く許可は難なく下りるだろう。

 

 にも関わらず、わざわざ異変を起こすわけが無い。勇儀はふざけているのか。

 

 紫はちらりと勇儀の眼を見たが、ふざけるような色は見えず、むしろ真剣に紫の返答を待っているようである。

 

「……一応聞くけど、あなた、実質的に地上と地底の行き来が自由になっているのは知ってるかしら?」

 

「もちろん。……だからといって、約束したことは守らなくちゃならないからね。いくら自由に行き来できると言っても、あの協定が無効になってるわけじゃない」

 

 そうか、と紫はようやく合点がいった。これは、鬼の論理である。たとえ、互いに地上、地底を行き来してはならないという協定が有名無実化していたとしても、その協定を勇儀は守る。いや、守らざるをえない。

 

 紫に分からないはずである。勇儀がここまで契約にこだわるという発想を原点に持たねば彼女の心を知ることはできない。約束を破らないため、約束を前もってなくす―勇儀は手練手管を使おうとしたのではない。この単純な論理を貫こうとし、結果として紫を出し抜いたのだ。

 

 紫は、くらくらするようなめまいを覚えた。が、履行すべき条件は至って単純。もはや形を留めているに過ぎない協定を破棄すればいいだけなのだから。紫はそのため必要な新たな1つの確認をしておきたかった。

 

「わかったわ。それについてはあなたの望む通りにしましょう。……だけど、地上の妖怪と敵対したり人間を勝手に殺したりするのはナシ」

 

「もちろんだ」

 

 もっとも、今回のやり口から考えてそうそう大きな目的があるとは思えなかったが、一応言質は取っておくべきだろう。剛力の鬼を封じる最も強力な軛となるのは、鋼の鎖ではなく、言葉なのだから。

 

 紫と勇儀の間で取引が終わると、霊夢と魔理沙、そしてヤマメはぽかんとした顔で2人を見ていた。

 

「……ちょっとヤマメ。あんたこういうことするって知ってて来たの?」

 

「いいや? 何か考えてることはあるんだろーなーとは思ってたけど、まさか決闘すらしないとはね」

 

 肩をすくめて、ヤマメはつまらなそうに首を振った。魔理沙はにやにや笑いながら、霊夢を見やる。

 

「で、結局霊夢には黒星がついただけ、と」

 

「誰が負け犬よ。あんたの邪魔が入ってなかったら、普通に勝ってたわ」

 

「へいへい。……ところで問題の霊夢を追い詰めた……あざみだっけか、そいつは何してるんだ?」

 

 霊夢が黙って指さしたのは、地面に突っ伏して動かないあざみだった。

 

(……元をただせば、その子が善戦したせいで私がここに来る必要ができたわけね)

 

 霊夢を向かわせれば勝てるという大前提を覆したのが、あの夕陽の中で出会った鬼だとは到底信じがたかったが。

 

「紫様。また結界のほつれが」

 

 スキマの奥から、藍の声が聞こえてきて、紫は頷いた。

 

「では、また会える時を楽しみにしていますわ」

 

「おう、次会うときは地上だな」

 

 紫は勇儀と挨拶を交わすと、するりとスキマの中にもぐりこんだ。そしてスキマを閉じる寸前、眼を閉じて横たわるあざみの顔を見て、ちりりと脳裏に火花が散ったようなきがした。

 

「……?」

 

 スキマはすでに閉じ、地底から完全に紫のいる空間が切り離された後、ゆかりは何か忘れているような、既視感をあざみの顔に覚えていた。

 

 前に会った時? 阿求に顔が似ているから?

 

 いや、それよりも昔。まだまだ昔の時の話のような―

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 目が覚めると、いつものように布団に寝かせられているわけではなく、ごつごつとした感触が背中から伝わってきた。地面に触れている手からはなぜかつやつやとした感触が伝わってくる。

 

(これは……河原の石?)

 

 ぱちりと目を覚ますと、私は見たことのない河原にいた。果てしなく続く川と、小石の敷き詰められた川岸。それ以外に地面を彩っているのは、紅く咲き乱れる彼岸花のみである。

 

 じゃりっ、と歩くたびに小石が音を立ててすり合う。他に音を立てるものはなく、水のせせらぐ音すら聞こえない。まるで私以外の時が、全て止まってしまったかのように。

 

 私はなぜここにいるのだろうか。

 

 霊夢と戦って、魔理沙が現れ……そうだ。そして勇儀様とヤマメがやって来たのだ。それからどうなった? 勇儀様は、霊夢たちに勝ったのだろうか?

 

私はそれかけた思考を修正した。どちらが勝っていても、私がここにいる理由とは結びつかない。

 

(見覚えのない景色……そもそもここはどこかしら。というか早く帰らないと勇儀様に迷惑かけるかも……だけどまずどうやって帰れば……)

 

私は一挙にものを考えようとして、混乱していた。まとまらない思考が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。

 

 その時だった。私の耳に、ぎぃ、ぎぃ、と船をこぐ音が聞こえたのは。

 

 音がした方へ顔を向けると、深く立ち込める霧の向こうから、一艘の船と、それをこぐ船頭の影がやって来るのが見えた。息を呑んでじっと見つめていると、その影はさらにこちらへ近づき、ついに互いに視認できる距離まで近づいた。

 

「……よ、いたいた。捜したんだよ」

 

「私……ですか?」

 

「ああ。早くこの船に乗ってよ」

 

 船頭は、赤い髪を短く切った女性で、裾をたくしあげ、船をこぎやすい格好をしていた。それだけなら普通の人間と変わらないが、眼を惹くのはその後ろに構える大鎌である。

 

「あたいは死神の小町ってんだ。ま、映姫様―要するに閻魔様のとこへ行くまでの付き合いだが、よろしくな!」

 

「死神⁉」

 

 死神だと聞いて、ようやくここがどこだか分かった。彼岸だ。生と死の狭間である。

 

私が後ずさると、小町は首をかしげた。

 

「死んだって自覚してないの? ……ああ、臨死体験ってやつかな……」

 

「臨死体験?」

 

「うん。今のあんたは霊魂だけの存在。体は現世でこんこんと眠っているよ。つまりあんたはあの世に逝きかけてるってことさ」

 

「はい!?」

 

「だーかーら、何があったか知らないけど、あんた、死にかけてるんだって」

 

「………」

 

妖怪がそんなに簡単に死ぬだろうか、と思ったが、確か私は妖力ー妖怪としての生命力の尽きた状態で倒れた。夢や幻覚のようだが、私は本当に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのかもしれない。

 

小町は私を納得させるためか、「お迎え」と書かれた手帳を取り出した。

 

「名前は?」

 

「あざみ……です」

 

「あざみ、あざみっと……あれ、無いね。私の覚え書きには」

 

 ぺらぺらと帳面をめくりながら、小町はひとりごちる。やはり、私の名前は死神のお迎え予定には入っていない。ただの偶然だ。

 

しかし、私の期待をよそに、小町は首をひねっている。

 

「んー、でも、やっぱりついてきてもらった方がいいかもね」

 

「……なぜですか?」

 

 小町はまだ帳面をめくっていたが、やがてある(ページ)で手を止め、私に見せた。

 

「いやね、何十年も前にお迎えする予定だった頁に、()()()()名前が載ってるから。あざみ―いや、稗田諱(ひえだのいみな)さん」

 

 

 

 




・異変解決(?)
勇儀の要求が軽かったため何事もなく終了。基本的にほぼ皆が損をした。(こいし→敗北 霊夢、魔理沙→骨折り損 あざみ→敗北+三途の川ウォッチング)
・名前
あざみは勇儀がつけた名前で、巫女のつけた方が諱。このせいで次回は説明がややこしい。


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第29話 浄玻璃の鏡は何を見た

 

 

 

 

 ひえだのいみな。その言葉―私が勇儀様に名前を頂く前に持っていた名前は、冷たい感触を持って記憶の底から這い出してきた。

 

「その名前で呼ばないでください」

 

 意識せず、語気が鋭くなる。私はもう稗田でも、泣きながら逃げ回る諱でもない。勇儀様に仕える従者、あざみなのだ。

 

「おや。ひょっとしてあたい、地雷を踏んじまったかい? いや、悪気はないんだ。ただ、あんたは冥界のシステム上では、死ぬ予定となっているってことさ」

 

「……死ぬ予定?」

 

「ああ。こればっかしは閻魔様に聞かないと分かんないけどね。どうせあんたは私と一緒にこの三途の川を越えなくちゃならない。私の帳面に名前が載っている以上、この賽の河原からは永遠に抜け出せない。それとも……」

 

 小町は地面を埋め尽くす石を指さした。

 

「ここの石を積み上げ続けるかい? 1つ積んでは親のため、ってな。まあ鬼が来てそれを崩すんだけど。……いや、今はあんた自身が鬼なのか」

 

 はっはっは、と小町は笑う。死者に触れる時間が長いためか、それとも死神だからか、彼女はあまり人の生き死にに頓着していないようだった。

 

 このまま話していても埒が明かない。私はため息をついて、小町の船に飛び乗った。

 

「……他に選択肢はないというわけですね。それなら仕方ありません」

 

「物分かりが良くて助かるよ。い……あざみさん。三途の川を渡れば絶対戻ってこれないとは言ってるけど、ありゃ嘘だ。予定にないのは現世に突っ返される。あんたの場合はそれが曖昧だから映姫様に訊かないと駄目なんだけどね」

 

「ということは、私は今から閻魔様に会うんですね」

 

「その通り。ほんと怖いよ。あたいがサボってたら怒鳴ってくるし」

 

 それは当然なのではないだろうか。そう思ったときにはすでに、小町の船は霧の向こうへと漕ぎ出していた。

 

 

 

 地獄。

 

 と一口に言っても、その勢力や常識は場所によって全く異なる。大きく二つに分けると、勝手気ままに様々な勢力が群雄割拠しているところと、死人を更生するための、いわゆる現世での想像通りの地獄とに分かれているのだという。

 

 私が今いるのは後者ではあるが、ここは秩序を重んじるだけあって、地底―旧地獄よりひっそりしているような気がする。

 

 三途の川を渡り、私は閻魔の執務室へと通されていた。閻魔大王が座るのであろう椅子はまだその主を迎えておらず、辺りに獄卒らしき人影もない。

 

 辺りを見回すと、巻物や帳面などの書類は分類わけされているのが目に入った。机の上には塵一つないことから、おそらく閻魔はきっちりとした性格なのだろう。

 

「お待たせしました。閻魔の四季映姫といいます」

 

 私が振り向くと、そこには誰もいなかった。……のではなく、私が目線を上にあげていたため、背がそれほど高くない映姫を見逃していたのである。

 

 私は閻魔と聞いて、天をつくような髭面の大男を想像していたが、実物は小柄で、緑の髪を短く切りそろえた女性―というよりも少女、と言ったほうがしっくりくる容貌だった。

 

「初めまして。あざみとお呼びください。映姫さん」

 

「……そうですね。あなたがその名にこだわるのであればそうしましょう」

 

 映姫は自分の椅子に腰かけると、私を見下ろした。閻魔の冠を被っている様子はまるでごっこ遊びのようだったが、発する気配は間違いなく閻魔のそれであった。

 

「彼岸当局の、あなたの扱いについて説明する前に、一つ、長い前置きをしてもいいでしょうか。あなたの、出生についての話です」

 

「……どうぞ」

 

 今気づいたが、映姫の隣にある鏡はおそらく、浄玻璃の鏡である。人の一生の行いを全て見ることができるのだから当然、その辺りのことも分かるのだろう。

 

「あなたは、御阿礼の子が私のもとで転生するために働くことは知っていますか」

 

「ええ。徳を積むんでしたっけ」

 

 小鈴から聞いた話だから、まず間違いはないはずだ。

 

「そう、それで私が転生用の身体を用意してあげるのです。それで、7代目か8代目だったでしょうか。その時、私はいつものように稗田本家に御阿礼の子をもうけさせようと考えました。しかし、その時本家は流行り病で子を産めそうな者が次々倒れていました」

 

 映姫は、たんたんと語る。

 

「そこで、転生する本人と相談して、分家の方に御阿礼の子を誕生させることにしました。それが、あなたです」

 

「……私、ですか?」

 

「そうです。あなたは稗田の人間だから阿求と顔が似ているのではない。あなたが御阿礼の子、つまり阿求になる予定だったから、顔が寸分たがわず同じなのです」

 

「え……? 私はもともと私という人間として生まれるのではなく……」

 

「阿求として生まれる予定でした。……しかし、私はその手はずを整えたのですが、しばらくして様子を見ると、どうもあなたの身体がおかしい。調査してみると、転生先の肉体が、妖怪に変質していたのです」

 

 やはり仮説通り、私の血統に問題があったわけではなく、胎内にいるとき、()()()に妖怪化したのだろう。ここは予想内である。

 

「そのため、私と阿求はその肉体―つまりあなたに阿求の魂を転生させるのをやめ、仕切り直して本家の方で転生させました。ですから、あなたの魂は本来阿求に上書きされて消滅する予定でした」

 

「……つまり、私は妖怪化したために魂を上書きされずに誕生できたと?」

 

 妖怪となっているため私は私でいられた。ということは、端から人間として平穏に生きる道は私には存在しなかったということになる。これは、なんという皮肉だろう。私が大嫌いだった角が、私という存在の大前提だったのだ。

 

 もし「上書き」されていれば、この体は阿求のものだった。

 

「これは話に関係なく、ただあなたに訊いてみたかったのですが……これを非道だと思いますか? 生まれていない者を踏みにじる行為だと思いますか?」

 

 映姫は、じっと私を見つめ、問うてくる。私が現にこうして自我を持つ以上、今の阿求、いや阿礼の魂が操る肉体は、別の少女に成長する機会があったかもしれない。その、いわば生前殺人とでもいうべき行為の善悪を訊いているのだ。

 

「……すみません。私にはよくわかりません……」

 

 阿求の仕事は転生でもしなければ続けられず、また記録という面でも確かに幻想郷には必要だろう。しかしその裏では慈しまれ育まれるはずの胎児の魂が葬り去られている……

 

 閻魔ともあろう者が完全に答えを出せないこの問いに、私が答えられるだろうか。

 

「……そうですね。私は「黒白を分ける」ことが出来ますが、「正しく」分けているかはいまだにわかりません。だからあなたにこそ答えてほしかったのですが。まあいいでしょう。話を戻します」

 

 続いた映姫の話によると鬼と化した私は、生まれたときにはすでに死神の帳面に載っていたのだという。いずれ何かの贄となる予定だったのだ。

 

「私もそのときは大して気にも留めませんでしたが、あれが巫女のつけた封じ名とは思いませんでした」

 

「封じ名?」

 

 そういえば勇儀様が言っていた。私の力を制限するためにつけられた呪詛の類だったはずである。

 

「ええ。あなたの「諱」という封じ名は、悪霊を寄せ付けない為のものです。そう、ちょうどあなたが首からさげているお守りのように」

 

「……封じ名は足かせだと聞きましたが」

 

「その面もあるでしょう。しかし、博麗の巫女ほどの霊力の持ち主がつけた名前であれば、ある程度悪霊の襲撃は免れることができたはずです」

 

 そういえば、私は勇儀様と出会うまで、悪霊に一度も出会ったことはなかった。襲われるようになったのは―

 

「私が、あざみにという名を貰ってから……」

 

「はい。確認しましたが、あなたは3度、悪霊に遭遇していますね。おそらくあざみという名を貰い、封じ名の効果が消えてしまったために悪霊が出現したものと思われます」

 

「……ほ、本当、ですか?」

 

 映姫は頷くが、にわかには信じがたかった。それでは巫女は私の力をそいでいたのではなく、保護していたことになるのだ。そして勇儀様のせいでその加護が消えた、ということになる。

 

 自分の信じていたものが全て、偽物に変わってしまう―そんな不安がじわじわとやって来る。

 

「ちなみに、私は嘘などつきませんよ。知っていることをそのまま話しているだけです」

 

 映姫は静かに続ける。

 

「……つまりですね、あなたは『諱』として死ぬ予定でしたが、それが封じ名であったために悪霊があなたを見つけられず、その結果、『あざみ』として生きているのです。これほどややこしいケースは滅多にありません」

 

「……それで、私はこの世に帰ることができるんですか」

 

「はい。あなたは現在、あざみであって諱ではないということですので。……もちろん偽名を使えば死神のお迎えが無いというわけではないですよ。今回は特例です」

 

「特例?」

 

「はい。巫女と鬼がつけた名前だからこそ、小町の帳面に影響を与えるのです。ただの一般人がつけたものでは、そもそも死ぬ予定が変わるということはありえません」

 

 やはり、帰ってから勇儀様に聞かなければならないことがあるかもしれない。思えば、封じ名について知っていたことも妙だ。それに私が鬼であることを、まるで事前に知っているかのような口ぶりだった。

 

 何を聞かされても忠誠は揺らがない、と思う。だが、ここまで知ってしまったなら、全てを―私が辿った軌跡よりも前の因果の糸を手繰り寄せ、全てを知りたい。

 

「……そういえば、父……いや、昭義はここに来ていますか?」

 

「昭義? ……ああ、あなたの……その方は地獄にいますね。罪状は、係累を贄にした罪、契約を破った罪、です」

 

(係累を、贄……)

 

 つまり、私のことだろう。実の父が私を贄にした張本人だと知っても、私の心はその程度では動かなかった。あれならやるだろう、と心のどこかで思っていたのかもしれない。

 

「面会できますか?」

 

「無理ですね。もっとも、あなたが自ら地獄に堕ちるのであれば別ですが」

 

 昭義もおそらく何かを知っているだろう。特に、私が何に狙われているかくらいは。だが、地獄に自ら飛び降りる気にはなれない。そこで何を知ろうが、「これから」は望めないからだ。

 

「……分かりました。ではここに長居する理由もありませんし、今から帰していただけませんか」

 

 そう言うと、映姫は頷いた。手にした閻魔の(しゃく)でさきほど彼女が入って来た扉を指し示した。

 

「そこの扉から出れば、あなたの意識はこの世に戻っていきます」

 

「あ、そうなんですか。じゃあこれで。ありがとうございました」

 

 私は頭を下げると、すぐにそのドアノブに手をかける。そのとき、映姫は思い出したように言った。

 

「……そうだ。今現在、あなたの魂は「あざみ」ですが、身体は「諱」として生きている。そのことだけはお忘れなきよう」

 

 がちゃり、と扉が開いた。私は最後の映姫の言葉の意味をはかりかねたが、それに質問するだけの時間はなく、意識は闇の中に溶け去っていった。

 

 

 

 




・阿求の魂上書き
 阿求が転生する前に、転生先の体の魂は消える。なぜ「徳」を阿求が生前、死後に積む必要があるのかという理由。
・封じ名
 諱には本名という意味がある。巫女が皮肉をきかせてつけた名前かもしれない。ちなみに漢字表記にしてあるのはあくまで諱が真名(漢字)であり、あざみが仮名(ひらがな)だから。


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第30話 夕闇のシスル

 

 

 

 

 異変が終わってから一週間が経った。私は3日ほど寝込んでいたらしく、気絶した後に何が起きていたかを全く把握していなかったが、人づてに聞いたところによると事実上地底の勝利に終わったらしい。

 

 霊夢と魔理沙はまだ戦える状態だったが、彼女らが負けるのを恐れた紫が介入し、勇儀様の要求を聞き入れる代わりに地上からすべての妖怪と怨霊を回収するという約束を結んだのである。

 

 その後勇儀様の配下の鬼たちは怨霊集めに東奔西走し、この事件が完全に収束したのは異変が始まって2日が経ったころだったという。

 

 その次の日に目覚めた私は、後処理に参加しなかったため、その代わりに異変の成功を祝う宴会の全てを取り仕切らなくてはならなかった。旧都の生活は毎日宴会をしているようなものだが、今回は規模が違った。勇儀様の大盤振る舞いで、勇儀様の屋敷で行われる宴会には誰でも参加が可能だったのである。

 

 それから三日三晩宴会は続き、参加した客のほとんどが二日酔いで吐き始めると、ようやくお開きとなった。すべての後片付けを終えたとき、私はくたくたで、宴会のあった座敷で寝ころんでいた。

 

「ああ、やっと終わった……」

 

 嵐のような日々だった。思えば天狗たちと交渉しに行く日から気絶している期間を除けば、常に動き続けている。身体的には問題ないが、精神的な疲労はすさまじい。

 

(今日はもう帰って休もうかな)

 

 映姫から聞いたことが、まだ頭の片隅でうずまいている。勇儀様もひょっとして何かを知っているのではないかと思い、訊こう訊こうと考えてはいるものの今日はとてもではないがそんな気力はなかった。

 

 障子を開けて外を見るとすでに暗くなっていた。しかし人間と違い妖怪は夜が本分の時間なので、ますます人通りは多くなっていく。

 

 私は新調した(せざるをえなかったともいう)草履を履いて賑わう人ごみのなかを歩いた。焼き鳥やりんご飴の夜店も出ており、笛や鼓の音も騒がしく聞こえてくる。ちょっとしたお祭りのようである。

 

 普段ならこの浮かれた雰囲気にあてられて気分が軽くなるが、今回は疲れているため、どちらかというとげっそりした。

 

 私は人にぶつからないようにして歩いた。しかし妙なことに、相手の方からすっと避けていき、口々に声をかけてくる。

 

「よぉ。あざみさん。勇儀の姐さんによろしくな」

 

「ねえねえ。次もあんな感じのパーッとした宴会開いてよ。アタシ、踊ってやるからさあ」

 

「そーいえば異変のとき明かり消して回れって言ったのあんたらしいね。ちょっと後でツラ貸してくれる?」

 

 どうやら、この前の異変騒動と、一人だけで宴会客をさばいたおかげで、私の顔は旧都の者全員に知れ渡ってしまっているようだった。私はお礼を言いながら、できあがる道を通り抜けていく。

 

 そのとき、隣の屋台で何かが倒れる大きな音がして、悲鳴があがった。

 

「あたしを馬鹿にしてんじゃないよ! この屋台のくじはどうなってんのさ!」

 

 見ると、男と土蜘蛛の女が口論をしていた。いや、口論をしているというのは正確ではない。女の方が一方的に叫んでいる。気の弱そうな男は何の妖怪かは分からないが、くじ屋台の主人らしい。地面には、紐のくじの入った箱が倒れていた。

 

 見て見ぬふりをしようと思ったが、この辺りの屋台の店主たちからは勇儀様がみかじめ料を取っている。お金を納めてもらうかわりに、揉め事があれば勇儀様かその部下が店主たちを助けなければならない。

 

「どうかしましたか」

 

 私が声をかけると、土蜘蛛の女は振り返り、私の肩を叩いた。

 

「ああ、勇儀さんのとこの。聞いてくれる? そこの屋台、絶対当たりくじいれてないわ。20回くじ引いたのに一個も大当たりは出ないのよ」

 

 大当たりと言って女が指さしたのは、三脚つきの、射命丸が持っていたようなカメラのようだった。たかがくじでそこまで大騒ぎするだろうか。私はこの件を放り出したくなったが、これも仕事である。

 

「……仕方ないですね。では店主さん。大当たりの景品があるってことはまだくじの中に大当たりはありますよね? 確認のために残りのくじを見せてもらえますか?」

 

 もちろん助けると言っても、屋台がイカサマをしていれば勇儀様の信用問題にかかわる。悪質な客から屋台を守るのは、屋台側に何の非もないという確証がとれてからである。

 

「………?」

 

 屋台の主人は確認させようとする私に向かって、不思議そうな顔をした。

 

「どうしましたか? ほら早く」

 

 私がうながすと、後ろから土蜘蛛の女が主人に罵声を浴びせた。

 

「ほら見なさい。自分とこのケツモチにもそのくじは見せられないんだろ。イカサマしてた証拠だよ。呪い殺してやろうか」

 

「わわっ……そういうことか。見せます見せます」

 

 主人は慌てて箱の中を見せた。中にあったひもには外れ、やや当たり、当たり、大当たりと書かれた紙が先端についている。……やや当たりとはなんだろう? 首をかしげながら、私は土蜘蛛の女の方にそれを見せた。

 

「これでいいでしょう。これ以上何か言うのであれば私が相手になりますし、勇儀様が直々にお相手なさることもあるかもしれませんが」

 

 そう言うと、土蜘蛛の女は首を振った。

 

「鬼がやってないって言ってるんならやってないんだろ。それに、あたしもあんたらを敵に回すほど馬鹿じゃないんでね。じゃ、また」

 

 くじで当たりが出ない程度で大騒ぎするわりに、案外冷静な判断だった。土蜘蛛の女はくるりと踵を返すと、ぼやきながら去っていく。

 

「あーあ、最近できた屋台だってんでいったけど、とんだハズレだよ……」

 

 私が土蜘蛛を見送っていると、主人が私にむかってお辞儀をした。

 

「ありがとうございました! 本当に死ぬかと……!」

 

「は、はあ……みかじめ料ってこういう時の為に取ってるわけですし」

 

 すると主人は、またあの不思議そうな顔で私を見た。そういえば私がくじの中身を見せるよう言った時も同じような顔をしていた。さてはこの男は。

 

「みかじめ料、払ってないってことですか?」

 

「そ、そそそんなことはないです。ちゃんと払ってますよ、ミカジメリョウ」

 

「…………正直に、言ってください」

 

 私は、主人の瞳を覗き込んだ。この辺りで商売をするには勇儀様の庇護は必須だ。勇儀様の庇護が無い場合、何をされても、力がすべての旧都では文句は言えないーつまり、物を盗まれたり客に殺されたりしても誰も気にしない。誰も助けてはくれないのだ。

 

 そして私は賭場で働いているため「そちら」方面には詳しくないが、みかじめ料を払わない商売人を叩きだす部下もいるという。

 

 主人は顔を蒼白にさせながら、うなだれた。

 

「は、はい……払ってません。でもまだ来て3日なんで……」

 

「悪いことは言いません。今からでもいいのでお金を納めてください。ばれれば……どうなるかは私にもわかりかねます」

 

「そうか……」

 

 言っていて、私はこの男を少し気の毒に思った。おそらく旧都の貧民街かどこかから稼ぐために中心までやって来たのだろう。景品のカメラや硯は新品に見えるが、よく見ると油で艶出しがしてあったり、修理の跡があったりする。

 

 おそらく転がっているゴミを景品に仕立て上げているのだろう。しばらく華やかな場所にいたために忘れていた、旧都貧民街にいたころを思い出し、胸に鋭い痛みがはしった。

 

 もっともそこでは隣人は敵であり、情けをかけでもするとたちまちつけこまれ悪くすると殺されるため、あの頃に会っていれば互いに無視しあっていただろうが。

 

「……まあ、これからちゃんと納めるのであれば大丈夫でしょう。私は今日のことは目をつぶるので安心してください」

 

「あ、ありがとうございます」

 

(……勇儀様から見た私ってこんな感じなのかなあ)

 

 ぶんぶんと音がするほど早く礼を繰り返す主人を見て、私は心の中でつぶやいた。が、何はともあれ、問題は解決した。

 

「では、私はこれで」

 

 足早に去るとき、私は家に帰って休むことしか考えていなかった。だから、不思議に思うべきことを意識の外に締め出してしまっていたのである。

 

 考えてみるべきだっただろう。なぜ、外来物で珍しく、地底にはない「カメラ」を、あの店の主人が、みかじめ料も知らないほど旧都慣れしていない主人が持っていたのかということを。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 次の日、私は朝早く家を出て、勇儀様の賭場に向かった。早朝は一晩中遊んでいた客が睡魔に襲われ、朝からの客がやってくる時間であるため、まだ胴元の仕事は少ない。その間に勇儀様に気になることを訊こう、と思っていた。

 

「勇儀様? 見てないなあ」

 

 私が勇儀様の居場所を聞くと、私の代わりに一晩中胴元をやっていた鬼は、首をかしげた。

 

「じゃあ……ご自分のお屋敷にいらっしゃるのでしょうか」

 

「いやあ、夜はずっとここにいて遊んでたからな」

 

 確か勇儀様は宴会で騒ぎ続けていたはずである。それから休まず一晩この騒がしい賭場で遊ぶとは、酒だけでなく体力や精神力も杯から無限に湧いてくるのだろうか。

 

(いや、それだけのパワーがあるから旧都の人たちをまとめられるのか)

 

 ふむ、とあらためて自分の主の妙なところに感心していると、鬼はそうだ、と言ってぽんと手を叩いた。

 

「そういや、さっき旧都の外の方へ行くって言ってたな」

 

「外? ああ、昇降洞の辺りですか」

 

「そうそう。滅多に橋の向こうに出ないのに、珍しいこともあるもんだ」

 

「……ありがとうございます。そちらへ行ってみます」

 

 私はお礼を言って賭場を出ると、大通りに沿って昇降洞の方へ向かった。人通りは少なく、早足で歩いたためあっという間に橋に着いた。そして橋のなかばの欄干に寄りかかっているパルスィを見つけた。

 

「パルスィさん! 勇儀様はまだ昇降洞の近くにいますか?」

 

 くぁ、とあくびをしているところに話しかけたので驚いたのか、パルスィは慌てて口を閉じた。

 

「ななな何⁉ いるなら声かけてよ!」

 

「わかりました。今度からそうします。で、勇儀様は?」

 

「あんた二言目には勇儀勇儀って……まあいいわ。さっきそこを通っていったわよ」

 

 私はパルスィにお礼を言うと、昇降洞へと駆けた。すると、ぽっかりと天井に開いている穴の下で、天を見上げる1人の鬼―勇儀様がいた。差し込む光に照らされ、勇儀様の髪は透き通るように輝いている。

 

「……ここで何をなさっているのですか?」

 

 私が傍へ近寄ると、勇儀様は、ああ、と言ってこちらへ顔を動かした。

 

「地底の薄暗さに馴れきっちまってるから、ちょいとひなたぼっこして光に慣らしとこうと思ってな」

 

「珍しいですね。旧都は酒盛りと遊びと喧嘩以外にすることはないとおっしゃってたのに」

 

「いつもはな。……ところが私は今、地上に用があるんだ」

 

「用? ああ、地上へ行く許可を求めたのもそのためですよね。なぜですか?」

 

 私がそう訊くと、勇儀様はむう、と考え込むそぶりを見せた。これまでそれについては私に何も言ってはくれなかった。だから話したくない内容なのだろうとは思っていたが、その通りだったらしい。

 

 勇儀様は眉間に深いしわを刻んでいたが、やがてふっと息を吐き出した。

 

「………まあ、いつまでも黙っているわけにはいかないしな。私が地上に行く理由は、お前を助けるためだ」

 

「わ、私、ですか?」

 

 私は狼狽した。封じ名を取ったせいで悪霊に襲われるようになったのはともかく、私はすでに勇儀様に助けてもらった身である。今さら何の助けがいるのだろう。

 

「お前、首から下げてるお守りを見たか? 少しほつれてるぞ」

 

 私が首から下げたお守りを見ると、透明な石に白いヒビが一筋入っていた。

 

「いずれ、華扇のお守りでも対処しきれなくなるほど悪霊の呪いは強くなる。どうしようもなくなったときには、もう遅い」

 

「遅いって……どうなるんですか」

 

「人間なら肉体が先にグズグズになって駄目になるだろうが、あんたは肉体が強いからな。人格が少しずつこそぎ落とされ、しまいには息をするだけの肉塊になるだろうさ」

 

 ぞっとした。私は呪いの効果でやってくる悪霊さえ払えばよいと思っていたが、呪いそのものが私を蝕むということは考えていなかった。

 

「で、私はお前を助けなくちゃならないから、分家に乗り込んで、呪いを解く手がかりを見つけようと思ってるわけさ」

 

「そ、そんなことまで……」

 

 信じられない。勇儀様からすれば一従者にすぎない私にこれほど手を尽くしてくれるのだから。異変を起こしたのも、地上へ自分が行くための準備―つまり、私のためだった。

 

(でも、なんで?)

 

 勇儀様は助けなくちゃならないと言った。助けたい、助けようというような自発的な言葉ではなく、まるで他の人への義務を果たすためのように……。

 

「あざみ。一つ、教えておくことがある。私がお前を子分にした本当の理由だ」

 

 勇儀様がゆっくりと言った言葉は、非現実的な響きをともなって、耳に入ってきた。

 

「お前を従者にしたのは、お前の父親に頼まれたからなんだ」

 

 

 

 




・みかじめ料
用心棒代。勇儀は旧都のまとめ役と言っても、実質ヤクザ。賭場の運営もしているので金には困らない。
・あざみのふだんの仕事
賭場の運営、収支の計算、勇儀の身の回りの世話。他の子分と肩代わりしあって回している。


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四章 追憶の旅
第31話 毒の杯


 

 

 

 

 あざみは、ぽかんとした表情で勇儀を見ていた。勇儀の言葉の意味が分からないとでも言うかのように。

 

 やがて、くしゃっと顔を歪めると、口に手を当て、遠慮気味に笑った。

 

「ふふ、勇儀様も冗談を言うときがあるんですね」

 

「…………」

 

 勇儀が黙って睨むと、あざみはびくりとして、笑うのをやめた。

 

「……まさか、本当、ですか?」

 

「私は少なくとも、真剣に話してたつもりだった。もういい。忘れてくれ」

 

「わ、分かりました! 信じますから! でもまさか……って。勇儀様のおっしゃることなら信じられますが……私を見捨てた父がそんなことをするとは思えず」

 

 あざみはうつむきながら、そう答えた。

 

「そうだ。私は里を出てから勇儀様に会うまでかなりの時間を過ごしてました。頼まれていたのであればそんなにかからないはずでは」

 

「最初はその予定だったけどな。お前を引き渡す日の夜に昭義が死んだから、混乱してるうちにお前の行方が分からなくなった」

 

「しかし、あれが命の危険をおかして地底へ来るでしょうか」

 

「あんたはそう思ってないだろうけど、実際来たんだ」

 

 あざみはどうにかして、勇儀が「昭義に頼まれて」自分を助けているということを否定したいようだった。今まであざみが分家や肉親への恨み言を言うのを見たことはないが、それは恨みが記憶の底に沈んでいたからだろう。

 

 だが、幼い頃はそうではなかったはずだ。おそらく、他の妖怪や獣から逃げながら、人里から追いやった者を恨みはしたはずである。いつもなら勇儀の言うことを素直に聞くあざみが勇儀の言葉に疑いを抱くのも、その恨みを思い出したからだろう。

 

 結局のところ、あざみは「昭義」が単に憎むべき対象でなくなるのが怖いのだ。

 

「……あんたの言う、あれ……昭義は土下座したよ。私と話すときにね」

 

 あざみの顔はみるみる青ざめていった。呆然としているようで、自分の中からあふれそうな何かを懸命に抑えているようにも見える。

 

「……聞いてたから、会った時に私が鬼だって知ってたんですね。封じ名のことも」

 

「そうだ。お前の書いた名前を見て、思い出した」

 

「じゃあ、あれは気まぐれじゃなくて」

 

「必然だ。私は、お前を助ける義務があった。だから子分にした」

 

 あざみはよろめいた。おそらく、彼女が勇儀のもとでやってきたことは、自分の意志や幸運で成したことだと思っていたのだろう。だが、勇儀の部下になるという前提が、実際は昭義の手によるものなのである。

 

「つまり……父上は、私を追い出した後のことを……考えていた?」

 

「そうだと思うよ」

 

「何もかも……何もかもがあれの手のひらの上でしたか」

 

「何もかもではないだろ。修行はお前の意志だろ?」

 

「………」

 

 自分の力で切り開いたと思った未来が、他人の手で作られていたという衝撃は、まだ受け入れがたいものらしい。あざみは何も言わず、おしのように黙っていた。

 

「……勇儀様」

 

「なんだい」

 

「今日だけ。今日だけお休みをいただけないでしょうか」

 

「いいよ。……でも、明日には地上へ行くからね。その準備だけはしとけよ」

 

「了解しました」

 

 足元もおぼつかない様子で帰っていくあざみを見ながら、勇儀はため息をついた。

 

 以前に比べればはるかに心が図太く成長したと思ったが、やはり自分の家のこととなると途端に気分が悪化するらしい。

 

 昭義のことを「あれ」と呼んでいることからも分家への感情は察せるが、勇儀はその昭義本人と出会っているだけに、なぜそれほどのすれ違いが生じているのかが分からなかった。

 

(……まあいいさ。どっちにせよ、私は自分の酒代の分だけ働くだけだ)

 

 分家へのケリのつけかたは、全てあざみ自身に任せる。勇儀は地上で問題を起こさないと紫に約束したため、この件で物理的に関与することはない。だから仮にあざみがキレて分家の屋敷をめちゃめちゃにするようなことがあっても、勇儀は何もしない。

 

 勇儀が地上へ行くのは、相手を威圧して昭義の覚え書きを平和裏に受け取るためであり、それ以外にすることはなかった。

 

(ま、面倒臭いのは明日からだし今日はどうしようかね)

 

 そう思いながら勇儀が大きく伸びをしたとき、酒臭い息が頬にかかった。

 

「……よっ、元気かい」

 

 勇儀の背後に、いつの間にか誰かが立っていた。振り返るまでもなく、声の主は分かっていた。

 

「萃香かい。久しぶりだね」

 

「この前異変を起こしたって聞いてさあ。ちょっと来てみたくなったんだよね」

 

 ふわり、と勇儀の前に回り込んだ萃香は、手にした瓢箪の中の酒を口に流し込みながら、遠ざかるあざみの背を見た。驚くほど背が低く、8歳ほどの少女といっても通じそうなほど幼い外見である。ただ一つ人間と違うのは、左右に巨大な2本の角が生えていることか。

 

「……いくら「約束」しちまったからって、よくこんな面倒くさいことしてるねえ。ほんと勇儀はまじめっていうか」

 

「それは私の勝手だろ。だいたいあんたの方がおかしいんだよ。前に私と博打やったとき、イカサマしてたろ」

 

「や、それを言われると弱い」

 

 ぺし、と自分の頭を叩きながら、萃香はいたずらっぽく笑った。あどけない、と言えばそうだが、実際はともに長い年月を生きている知人なので、勇儀の心に響いてくるものはない。

 

「まあ、実を言えば異変の直前も地底に来てたんだけどねえ。ほら、ここ危ないじゃん? 人間が入ったら捕まって食べられるくらい。だからこの前地底に用があるっていう酒屋のおっさんを運んできたんだ」

 

「……阿求じゃない方の稗田の当主?」

 

「そうそう。それ。うまい酒くれるっていうからオーケーしたんだよねえ。ていうかなんでか知らないけど、あの酒屋は地底に用があるらしいから、お得意様だよ」

 

(……なるほどね)

 

 よく考えれば当然のことだった。ただの人間が地底へ行くのは危険である。定期的に酒を持ってきた家人やこの前やってきた当主を守る者がいるというのも不思議ではないだろう。

 

「……それでさあ、私がここに来たのは、鬼退治を見るためなんだよね」

 

「鬼退治?」

 

「そうそう。最近じゃあだぁれも私らと喧嘩やろーって人間いないじゃん? だからそれを見るのが楽しみでさあ」

 

「つまり、どういうことだい?」

 

 勇儀が訊くと、萃香は赤ら顔を近づけて、何がおかしいのか、ははっと笑った。

 

「察しが悪いねえ。だから、地上から鬼を殺しにやって来る奴がいるっていう話なんだよ。面白くない?」

 

「……まあ、そういう気骨が本当にある奴ならな」

 

 昔は源頼光のように、「本当の」鬼退治を行う人間がいたものの、現在では霊夢や魔理沙がするように命のやり取りのない決闘が主流になり、命がけで鬼に挑んでくる人間がいなくなって久しい。

 

 当然、勇儀もその鬼退治を志した人間に興味がわいた。

 

「……で、そいつが殺そうって鬼は誰だい? 私か?」

 

「いーやー。あんたみたいな強そうなのは狙うつもりもないってさ」

 

「じゃあ誰だい」

 

 自分を狙った刺客でないことに落胆しながら訊くと、萃香は首をかしげながら答えた。

 

「さあ……私は顔も知らないけどさ、あざみっていう名前なんだって」

 

「なに?」

 

「ひょっとして知ってる? ちなみに鬼退治やろうっていうのはさっき言ってた酒屋の家人なんだけど」

 

 その瞬間、勇儀は分家のとってきた「対策」が理解できた。

 

 勇儀たちが地上へ来る前に、あざみを殺す。ごたごたの種をあらかじめ潰しておこうというわけだ。

 

「……ああ、知り合い、というか私の子分だ」

 

「ええ? 助けに行かなくていいのかい?」

 

 烏天狗の群れや博麗の巫女には負けたが、人間の刺客くらい寝ていても倒せるはずだ。それにー

 

「私は今日、あいつに休みをくれてやったからな。私がいちゃあ、気も休まらないだろうさ」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 私が家に戻る頃には、すっかり夜になってしまっていた。

 

 勇儀様からお休みを頂いたあと、私はあてもなくさまよった。自分の心の中がごちゃごちゃしているときに、歩きまわるのは、私の癖だった。

 

 献立を考えるとき、困ったことがあったときには、その場でぐるぐると歩き回っているうちに頭も回転し、解決策を思いつくのである。

 

 だが、今日一日歩き回り、心をうまく整理することはできなかった。

 

(……今でも、信じられない)

 

 ここに私がいられるのが、父―昭義のおかげであるということが。

 

 私は行燈に火を灯し、ゆらゆらと揺れる火を見つめた。

 

(家のために私を捨てたのならば、完全に放置していればよかったのに)

 

 そうすれば、心おきなく分家を、昭義を憎めただろう。勇儀様に拾われてから実務面で忙しくなり、昔のことだからと気にかけないようにはしていたが、やはり今でも分家に対する恨みは私の中でくすぶっている。

 

 頭では割り切れても、感情までは割り切れないものだ。

 

 つくづく、自分をかえりみると、そう思う。自分が「こう」生まれてしまったことにはもう何の怒りも無かった。そうしなければ私と言う自我が生まれることも無かっただろうから。

 

 しかし、こうして真実が明らかになってもまだ昭義が自分を助けようとしたのだという事実を認めたくない自分がいるのも確かである。

 

―嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 

 まるで聞き分けのない駄々っ子のように。

 

 もう寝ようか。私が心をどう整理しようとも、明日は地上へ向かうのだ。無駄なことを考えるのに行燈の油を使う必要は無い。

 

 しかし私が、ふっと息をふきかけて火を消そうとした時、とんとん、と玄関の戸を叩く音がした。

 

「少しお待ちください」

 

 誰だろう。勇儀様だろうか。それともパルスィ?

 

 私の部屋はほとんど物がないので、片づける必要はない。座布団から立ち上がって土間へ飛んでいき、戸を開けた。

 

「あ、こんばんは。さがしましたよあざみさん」

 

「……誰ですかあなた」

 

 知らない男だった。あご髭をそった跡が青々としており、体つきは細い、気の弱そうな男である。右手には風呂敷で包まれた重箱、左手には硝子瓶の入った袋が握られている。

 

「ほら、あれです。この前のくじ屋の者です」

 

「くじ屋……? ああ、あの」

 

 ようやく思い出した。彼は土蜘蛛の女にからまれていたくじ屋の主人だった。

 

「……ぜひお礼をと思いまして」

 

 ぺこぺこと頭を下げながら、男は酒がちゃぷちゃぷと音をたてる一升瓶を差し出してくる。

 

「いや、そんな。私は別にお礼が欲しくてやったわけでは」

 

 慌てて手を振ると、男は左手の重箱を見せた。

 

「いえ。もちろん酒だけとは言いません。酒盛りには肴が要りますよね。当然あります」

 

 判断に困った。親切で持ってきてくれているものを無下に突き返すのは冷たいし、かといってあまり呑みすぎて明日に障るのも困る。

 

 ……だが、酒は嫌いではないのだ。鬼の特性として勇儀様ほどではないが酒には強く、たしなみもする。

 

(……まあいいか。せっかくだし。このお酒高そうだし)

 

「ではお言葉に甘えてさせていただきます。おあがりください」

 

 私はくじ屋の主人を家にあげると、囲炉裏を囲んだ。彼がどうやって手に入れたかは知らないが酒はなかなかの上物で、杯に入れた瞬間、芳醇な香りが広がった。

 

「肴は、ニシンの卵です」

 

 要するに、数の子。幻想郷に海は存在せず、普通の人間が外の世界へ行くことはできないため入手困難な食べ物である。私も存在を知るだけで実物を見たことはなかった。

 

「え、いいんですか、こんなの」

 

「ははは、いいんですいいんです」

 

 目を丸くする私に、くじ屋の主人は軽くうなずいた。

 

「残ったら後日食べればいいんですし。私のお礼の気持ちです。さ、どうぞ」

 

「ありがとうございます。……ところでみかじめ料は」

 

「……大丈夫です。あなたの言う通りにしましたよ」

 

「ああ、ならよかった。私も朝一番からアレを見るのはしのびなくて……」

 

「あれって?」

 

「見せしめですよ。勇儀様、頑としてお金を払わない人としょっちゅう喧嘩しに行ってますから」

 

「へ、へええ」

 

 くじ屋の主人は顔をひきつらせた。それでも酒を注ぐ手はとめず、私が杯を空にすると、すかさず酒を注ぎ入れる。

 

「……そういえば、あなたは一滴も呑んでませんね」

 

 一升瓶を4、5本空にしたとき、私はくじ屋の主人が一口も酒に手をつけていないことに気がついた。くせがなく美味しい酒だったので、ついつい一人で飲んでしまっていた。

 

「いえいえ、お気になさらず」

 

 笑いながら答えるくじ屋の主人の顔が、ぐにゃりと歪んだ。酔いのまわりが早い。というか気分が悪い。

 

「あれ……」

 

 いつもなら九升呑んでもまともなのだが。どういうわけだろう?

 

 そのとき、激しい激痛が頭にはしった。

 

「……痛ぅ…」

 

 頭を押さえてうずくまると、くじ屋の主人が心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……あまり。ちょっと酔いが回いすぎた感じれす。ころお酒、強いんですかぁ?」

 

 呂律が回らなくなってきている。気のせいか、手足もしびれて動かしづらくなっていた。それを見たくじ屋の主人はほっとした顔をすると、重箱の下に手をやった。

 

 そこから取り出したのは、悪酔いを治すための薬―ではなく、短刀。

 

「ああよかった。もし薬が効かなかったらどうしよって思ってたんですよ」

 

「………は?」

 

 訊き返そうとしたとき、私はどさりと前のめりに倒れた。くじ屋の主人は短刀を鞘からすっと抜き出して白い刀身を見せると、私の目の前にやってきた。

 

「……まだ気づかないか。俺は分家の者だ。あざみ、もとい諱。あんたを殺すために来た」

 

 見開いた私の眼に映ったのは、先ほどまでの気弱な屋台の主とは似ても似つかない、刺客の顔だった。

 

 

 




・勇儀の分家に対する態度
 毛嫌いするというよりかは興味の対象外と言う方が正しい。昭義の約束を守るために交流を保っているだけで、通常であれば無視している。
・萃香
 地上にいる二人の鬼のうち一人。(もう一人は華扇)行動理念は楽しいか否か。
・源頼光
 かつて酒呑童子を倒した平安の妖怪バスター。鬼退治の途中、鬼を騙すために人肉を食したり、毒酒を盛るなどどちらが鬼かというほどの鬼畜行為が目立つ。


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第32話 待つとし聞かば

 

 

 

 

 

「……なんれ、今さら」

 

 舌が回らない。強力な麻痺毒でも盛られたか。私は懸命に動こうとしたが、手足は言うことを訊かず、ぴくぴくと震えるだけである。刺客の男は無表情に私を見下ろしながら、口を開いた。

 

「今だから、だ。お前に戻ってこられたら困るんだよ。分かるな?」

 

「………」

 

 おそらく、私が地底に引きこもっている分には問題がなかったのだろう。だが、「鬼」として分家に戻ってくるのはまずいというわけか。

 

「話によると、当主がつけた記録をご所望のようだな。それで何をするつもりだ? その記録のどこかに分家の弱みでもあるのか?」

 

「……なんのこと、れすか?」

 

「知らないふりか。まあ何にせよ、今まで何の音沙汰も無かったお前が里に戻ってくる理由なんて、うちへの復讐だろうからな」

 

 そうか、と私は納得した。分家がわざわざ刺客を送り込んでくる理由。私が、昔に追い出された復讐をするのを恐れているのだ。

 

「違い、ます。そんらことは」

 

「ない、と? 信じられるか」

 

 そう言うと、男は短刀を私の背中に向けて突き下ろした。

 

 しかし、がっ、と鈍い音をたてて、白刃は私の身体に拒まれた。着物の背だけが切り裂かれ、冷たい空気がその部分をなでていく。

 

 男はちっと舌打ちをして、私の身体を仰向けに転がした。

 

「やっぱりバケモノだな。今ので死なないってのは」

 

 刺客が私を見る目は、自我のある者を見る目ではなく、まるで物を見るかのような目だった。男はそのまま短刀を私の胸に突き立てようとした。が、圧力を感じたものの、やはりその刃は私の皮膚を傷つけることはできなかった。

 

 天狗たちはもともと剛力であるため、彼らの攻撃を受ければたとえふさがるといっても一時的にダメージを受ける。しかし、そもそも人間の力程度では、よほどの達人でないかぎり鬼である私の皮膚に傷をつけることは不可能である。

 

 男はいらいらしているらしく、めたらやったらに短刀を振り下ろしてくる。私は身をちぢ込めて、麻痺が癒えるのを待った。

 

 毒の効果が切れれば弾幕を使うにしろ、力で制圧するにしろ、人間が私に太刀打ちできる道理はない。そして、鬼が酒に強いということはすなわち、解毒にかかる時間も短いということである。あと少し耐えれば、私の勝ちだ。

 

(……まあ、あそこを狙われないという条件つきだけど)

 

 そのとき、男は荒い息を突きながら、刀を引っ込めた。どうやら今までの攻撃がほとんど通じていなかったことに気がついたらしい。私は、麻痺がとけつつある舌を回して、挑発した。

 

「……どうでした? もっと頑張って私を殺す努力をしたらどうです?」

 

 これで逆上してさっきと同じように攻撃を受け続ければ楽だと思ったが、今の言葉でむしろ、相手の頭は冷えたらしい。すっと目を鋭く細め、私をにらみつけた。

 

「……そうだな。どうすればいいか分かったよ」

 

 その刹那に感じた嫌な予感は、次の瞬間に現実へと変わった。がっ、と私の頭を左手で押さえつけると、親指で左目をこじ開けたのである。

 

「……確かに、俺の力じゃお前の身体を刺し貫くことは無理だが、目ん玉もそんなに頑丈か?」

 

「………っ!」

 

 暴れる私を押さえ込みながら、男は逆手に握った短刀を、私の眼窩に深々と突きこんだ。

 

「あああっ!」

 

 ぐしゃり、と眼球が潰れる音が頭の中で聞こえ、次いで視界の左側が真っ白になった。冷たい刃の感触と激痛が、頭の芯を震わせる。

 

 痛みのあまり力任せに短刀を目から引き抜くと、生温かい飛沫が散った。男は笑いながら、引き抜かれた短刀を私の右目に向ける。

 

「ははは、どうした。やっぱり弱点は目か。つぎは右目を―」

 

 私はとっさに自分の左目から流れ出る血を手につけ、男の目に向かって投げつけた。不意をうたれた男はまともに血の目つぶしを食ったらしく、ぐあっ、と言ってたたらを踏んだ。

 

(勇儀様が見たら、卑怯だって怒られるかもな)

 

 しかし、時間稼ぎには十分だった。

 

 私は左目を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。痛い目にはあったものの手足の麻痺はほとんど回復している。

 

 男は血で曇った目をこすりながら、短刀を構えた。私が動けるのを見てなお降参しないのは、私の左側の視界が制限されているとみているからだろう。死角になっている左側へと回り込んでくる。

 

 しかし男の得た優位というのは、もはや砂上の楼閣にすぎなかった。私を殺すつもりなら、目のさらに奥へと短刀を突き入れ、頭の中をかき回すべきだった。それを逃した時点で、男の敗北は決まっていたと言えるだろう。

 

 男は私の顔を見ると、目をみはった。

 

「……はは、嘘だろ」

 

 私の左目は割れたガラスをくっつけるように、素早く再生されていた。痛みがひき、全くの闇だった部分にぼんやりと光が差し、視界が戻ってくる。

 

「この……バケモンがあっ!」

 

 刺客は、今しかないとばかりに斬りかかってきた。が、その勝敗は、火を見るよりも明らかだった。

 

 私は左手で男の短刀を掴んだあと、軽く握りこんだ拳でみぞおちに死なない程度の打撃を叩きこんだ。

 

 かっ、と声にならない叫びをもらした後、力を失った刺客の身体は派手な音をたてて地面に落ちた。

 

 私は血で濡れた頬をぐいと拭うと、男を見下ろした。そして男の胸を踏み、心臓がきちんと鼓動しているかを確かめる。

 

 どくん、どくん、と心臓は規則正しく脈打っていた。

 

『やっぱりバケモノだな』

 

 さっきこの男が言ったことを、ふと思い出した。確かに彼からすれば私はバケモノだろう。しかし、私がいったい彼に何をしたというのだ。誤解があったとしても、少しは話を聞いてくれてもよさそうなものだが。

 

「………」

 

 もし、この足に力を込めたら。このまま踏み抜いたら。

 

 もちろんそう思ったのはほんの一瞬だった。彼にはやってもらわなければならない仕事があるからである。そうしなければ手加減して殴った意味がない。

 

(まあ、これで地上のことも楽になるだろうし、良しかな)

 

 私はそう思いながらも、やはりため息をつかざるをえなかった。

 

 先ほどの大立ち回りで、部屋の中が血でめちゃくちゃになっていたからである。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 彼はもともと分家の家人だったが、そろばん勘定よりも腕っぷしが強かった。そこで当主から「鬼退治」を頼まれたのである。

 

 当主の話によると、殺す相手は昔に分家で生まれたが、追い出されて今は地底で生活している鬼だという。それが再び地上に戻ってきて復讐しにくるであろうということだった。

 

 見返りははずんでもらえるうえに、相手は妖怪。倫理的に遠慮する必要はなかった。問題だったのは妖怪が跳梁する地底で、人間だとばれずに行動する方法と、目標をどうやって仕留めるかだった。

 

 前者は、倉庫にあったガラクタを適当に持っていき、屋台は地底で調達してくじ屋のふりをすることで解決した。後者を解決したのは、当主が渡してくれた毒酒だった。

 

『……鬼はたいてい酒好きだからいらないかもしれないが、いちおうつまみも持っていけ』

 

 自前の短刀に酒、数の子を持って地底へ行く間は、伊吹萃香という鬼が男を守っていた。どうせならずっと護衛をすればいいのに、と思いそう言うと、萃香は地底からのはぐれ者であるため一緒にいると目立つかもしれないと答えた。

 

 もちろんこの時期に地上から人間がやって来たと知られれば、標的の警戒心が強くなるかもしれないので、やむなく屋台の主に化け、あざみを探し続けた。

 

 そして目標を見つけ、首尾よく毒酒を飲ませた後―

 

「はっ!」

 

 刺客の男が目を覚ましたとき、自分が縄で縛られ、床に転がされているのに気がついた。外はすでに明るく、朝になっているらしい。

 

(そうか。俺は失敗したのか)

 

 覚えているのは、刀を素手で受け止められた直後に強烈な一撃を腹に叩き込まれたこと。あと一歩だった。あと一歩であの娘を亡き者にできたのに。

 

「……お目覚めのようですね」

 

 頭のそばから冷ややかな声がして、男はおそるおそる顔をあげた。やはり、見下ろしているのはあの女―あざみだった。その顔は無表情で、怒りや蔑みといった感情すらも読み取れなかった。

 

「で、俺をどうする気だい」

 

 わざわざ殺さずに拘束しているということは、男にはなにか利用価値があると考えているのかもしれない。もしくは、拷問の為に生かしているか。

 

 あざみは答えず、ぐいと男の胸ぐらをつかむと、右手でピースサインをつくり、男の両目の前へ持ってくる。そこで、あざみが何をしようとしているのかは分かった。

 

「……五つ数えるまでに私の質問に答えなければ、これから先ずっと光を見ることはないでしょう。まず一つ。あなたに私の暗殺を指示した人は?」

 

「……まて。落ち着け」

 

 男が慌てて制止するが、あざみの返答は「いーち」だった。

 

「整理させてくれ。ちょっと時間を」

 

「にい。………言っておきますが、私はあなたが質問に答えないのを望んでいますから」

 

「わ、わかった。………指示したのは当主だけだ」

 

 答えても、あざみの表情は大して変わらなかった。

 

「ふうん……まあそんなところだろうとは思いましたが。それで、二つ目の質問です。今のあの家には、何か知られたくない秘密でもおありです?」

 

「……し、知らない」

 

「いーち」

 

「知らないんだ。本当に」

 

 あざみは、ふむ、と考え込むそぶりを見せたあと、まあいいかとつぶやき、再び訊いてくる。

 

「三つ目です。あなたは確か私が覚え書きをよこせと言ったとかどうとかとおっしゃっていましたが、とんと心辺りがありません。覚え書きとは何でしょう?」

 

 稗田家の覚え書き。その話なら、一使用人にすぎない男でも、十分に知っている話だった。本家で御阿礼の子が幻想郷の歴史を綴るように、分家も里の様子や自身の記録を残すのである。

 

 稗田家は代々物を書く血筋だったからなのかは分からないが、分家の当主は代々自身の経営、できごと、里の様子を記録し続けてきた。酒屋と言う場所は酒を買いに来る者たちのうわさ話が交差する場所でもあり、記録する情報にも事欠かなかった。

 

 当主は帳面に、自身に都合の悪いことであろうとも、余さず書きつけておく。不都合なことでも、忘れないようにする必要があるからだ。……もちろん、家の人間以外には見せないものだ。

 

 という内容を男が喋り終えると、あざみは。ああ、と納得したようにうなずいた。

 

「……それでか。なるほど。あの時みたいに……」

 

 しばらくぼそぼそとつぶやいていたが、男がじっと見ていることに気づき、ぴたりと口をつぐんだ。

 

「失礼。……最後の質問です。これからどうしますか? 二つ選択肢をあげましょう。一つ目は、地底で暮らし続けること。……任務に失敗しておめおめ帰れないと思うならそれでもよいと思います。が、あなたが人間だとばれたら、いつ喰い殺されるかわかりませんね。おすすめできかねます」

 

 では実質、一つしか選択肢はないというわけだ。

 

「……二つ目は、私があの家に戻るついでに、あなたを連れていくことです。そこで、当主を説得してください」

 

「は? ……何についてだ?」

 

「私が、別にあなた方に復讐するつもりで地上へ行くわけではないということです。あなた方は何を勘違いしているのかは知りませんが、そもそも私があの家にいたときの当事者は死に絶えてるはずですから、仕返しの道理はないですよね」

 

「……じゃあどうして戻ってくる」

 

「私が生きるためです。まだ何らかの症状は出ていませんがね。呪いがかかっているそうでして。それを解く手がかりを探しにいくつもりなのです」

 

「尋問しようとしてた奴の言葉を信じるとでも?」

 

「私は嘘をつきませんよ?」

 

 そう言うと、あざみは縄をほどき始めた。仮に今、男が逃げたり襲って来たりしても対処できると考えているのだろう。男を解放すると、あざみは土間にあった草履を履きながら、振り返った。

 

「……もし、地上へ戻るつもりなら、今から私についてきてください。もっとも、あなたがどうしても生きたまま臓物を食べられたいというなら別ですが」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

「準備はできたかい?」

 

 勇儀様は、きらびやかで光沢のある、派手な着物を着崩していた。右肩をはだけさせ、鎖骨が露わになっている。賭場で熱い勝負をやるときの格好なのだが、昨日からずっと遊び続けていたのだろうか。

 

 私と勇儀様はすでに、昇降洞の真下にいた。天にぽっかりとあいた穴から、風が出入りする音が聞こえてくる。私がうなずくと、勇儀様は私の後ろについてきていた刺客の男を見て、首をかしげた。

 

「で、後ろにいる奴は?」

 

「私を狙った刺客だそうです」

 

「それは分かる。萃香が言ってたからな」

 

「ええと……誰です?」

 

「知り合いだよ、知り合い。ま、どうせ私がいなくてもお前なら余裕で勝てただろう?」

 

 毒酒を盛られて少しピンチではあったが、結果を見ればそう言えるだろう。私はうなずいた。

 

「で、私が聞きたいのは、何でそいつをここに連れてきてるのかって話だ。あんたも腹が立ってるなら殺ればいいだろ」

 

「……いえ、彼には分家との交渉をしてもらうつもりです」

 

 すると、勇儀様は意外そうな顔をした。

 

「おや。あんたは分家嫌いだろ? 交渉なんてせずに家をめちゃめちゃにしてやりたいとか思ってないのかい?」

 

 確かにいきなり刺客を放ってくるやり口は気に食わないし、私の命がかかっているので譲れないところはある。だが、私のしがらみは、今の分家の人々にとっては関係のないものだろう。彼らだって、自分の祖父や曾祖父あたりがしたことで復讐すると言われても、納得はできまい。

 

 自分には何の落ち度もないのに、人生がめちゃくちゃになるという理不尽さは、私自身がよく知っている。とはいえ、「分家」という言葉がムカデやゴキブリを指すのと同じような感覚で聞こえるのには変わりないのである。だからー

 

「……私は、もういいんです」

 

 次の地上行きで完全に生家とは決別する。呪いが解ければもう関わる必要はない。関わりたくもない。遺恨を残さないように注意を払って、目的を達したらここに帰って二度とあの家には戻らない。

 

 昨日、刺客の男のそばで一睡もせずに考えた末に決めた。私の感情は完全に封印して、目的を達成するためだけに動こう、と。

 

 勇儀様は「ふうん」と言ってから、ぼそりとつぶやいた。

 

「……言っておくが、私は何もしない。威圧くらいはできるけどな。だから、地上でお前が何をしようとも、私は何の手助けも、邪魔もできない」

 

「大丈夫です。むしろ、勇儀様が一緒にいらっしゃってくれることが心強いので。平気ですよ」

 

「………そうか?」

 

 なぜか勇儀様の目には、珍しく心配の色が浮かんでいた。が、すぐにその微妙な表情は消えうせ、いつもの鷹揚な笑みが浮かんでいた。

 

「よし。じゃあ今から行こうか。その家に」

 

 はい、と答えて、私と勇儀様は、地面を軽くけり、地上へ飛び立った。

 

 

 




・鬼の解毒スピード
アルコールの分解が早い→肝臓強い→解毒も早い。ただし、並の人間が酒と毒(または薬)を同時に飲んだりすると肝臓が処理しきれなくなるため危険。
・目玉が弱点
当然と言えば当然。流石にネウロやイワンコフほどの防御力があるわけではない。


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第33話 昔語り・壱

 

 

 

 

私の世界は狭かった。

 

 座敷牢というらしい。物心がついたころから屋敷の離れの、鉄格子のはまった部屋にいた。外を眺められる窓もあったが、そこにも鉄格子がはめられていた。

 

 私の世話をする老婆は怖かった。梅干しのようなしわくちゃの顔は、いつも眉が吊り上がっており、私が泣きわめきでもすれば、離れには他に誰もいないのをいいことにひどく折檻された。

 

 私は老婆を恐れて、すぐに泣くことは無くなった。食事をこぼすことは無くなった。文句を言う、口答えするという発想が無くなった。

 

 何歳のときだっただろうか。ある日、裏庭に生えているすすきが風にたなびいている景色を窓から覗いていると、紺色の着物をまとった男がやってくるのが見えた。

 

 誰だろう、と思ってじっと男を見つめていた。鉄格子を曲げられそうなほど体格が良く、ごつごつした顔だった。男はこちらに気付かず、そのまま離れの入り口の方へ回り、見えなくなった。

 

「……いえ、旦那様。今は起きておいでです。はい。はい。どうぞお入りください」

 

 老婆の猫なで声が聞こえてきた。いつも怒鳴り声か平坦な声しか聞いたことがなかったので、私はびっくりした。

 

「じゃあ、会わせてもらうよ」

 

 錆びた声だった。おそらく先ほどの男だろう。私は老婆以外との人間の出会いに、少しわくわくしていた。

 

「噂は収まりましたか」

 

「いや……まだ鬼子の噂は立っている。いくらあの子を隠しても、一度広まった噂は消えない。それに、あの子ほど災害の責任を押しつけやすいネタはないだろうからな」

 

「いっそ殺してはどうでしょう、旦那様」

 

「……駄目だ。博麗の巫女の言いつけは破りたくない。それに角が生えていても我が子だ」

 

 やがて、障子がすっと開き、老婆と男が入ってきた。私は2人を見ると、慌てて正座して、手をつき頭を下げた。こう迎えなければ、老婆にぶたれるのである。

 

「おお、この子はすごいな。もうちゃんと挨拶できるのか」

 

 男はそう言うと、老婆に向かって目で合図した。私はわけが分からないまま頭を下げ、二人の様子を見ていたが、どうやら老婆は男の頼みをきくのを渋っているようだった。

 

「呪いの子ですよ。もしも旦那様に何かあったら……わしも好きで世話をしてるわけじゃありませんし」

 

「大丈夫だ。その子は角が生えてるだけだ。呪いなんてのはまやかしだ」

 

 老婆はしかたないというような顔で牢の鍵を開けると、男に見えないように、ぎろりと私を睨んだ。私はいつものくせで首をすくめたが、老婆の拳が落ちてくることはなかった。

 

 老婆は鍵を開け、すぐに下がっていた。その代わりに私のいる牢に入って私の前に座っていたのは、あの男だった。

 

「……私を、覚えているか」

 

 私は首を振った。私の世界は、老婆と自分とこの座敷牢だけ。他の人間と話した記憶はない。老婆に怯えながら過ごす毎日があっただけである。

 

 私の反応を見て、男はどこか寂しそうにした。が、すぐににっと笑うと、私を抱きかかえ、立ち上がった。男は額をつきあわせ、私の瞳を覗き込んだ。

 

「私はお前の父。稗田昭義だ。これからずっと来るからよろしくな」

 

 その日から、私の生活は変わった。まず、老婆は少なくとも顔を殴りつけることは無くなった。母屋まで行くことは許されなかったが、庭に出ることはできるようになった。そして何もせず無為に過ごしていた日々に、勉強の時間が加わった。

 

 勉強の時間が始まるのは、いつも夕暮れ時だった。師は昭義だった。老婆は私に何かを教えても無駄だろうと言ったが、それでも空の彼方に赤みが差し始める時間には、昭義は必ずやって来た。

 

 昭義の用意してくれた紙に、ゆっくりと、「ちりぬるを」と書いているときだった。昭義は横で私の書いた文字を見ながら、満足そうにつぶやいた。

 

「お前は物覚えがいいな。やはり私の娘だ」

 

「……ちちうえも、わたしとおなじとしのときにはかけましたか?」

 

「ああ。一ヶ月もあればかなの読み書きはできるようになる。我々稗田一族はな」

 

「ひえだ?」

 

「……そうか、知らないか。婆は何も教えてくれなかったのか?」

 

 私はうなずいた。老婆から教えてもらったのは、怖いという感情と、決まりごとを守らなければ怖いことが起こるということ。老婆が怒り狂って手を上げるとき以外は互いに距離を取っていたので、教えるも何もない。

 

「私たちのご先祖様は、この世界で起こったことを書き残してきたんだ。私たちはその仕事をすることはないけれど、ちょっと頭がいい」

 

 昭義は人差し指で頭を指した。

 

「だから、他の人たちを束ねる仕事をするし、勉強もしなくちゃならないんだ」

 

「……わたしもいつかそのおしごとをするのですか?」

 

 そう訊くと、昭義は一瞬だけ、さっと顔をこわばらせた。しかし瞬きをして再び顔を見ると、そこには柔らかい笑みが浮かんでいた。

 

「ああ、きっと」

 

 それから二カ月でひらがなとカタカナを覚えた私は漢字を覚えるかたわら、簡単な本を昭義に読んでもらうようになった。しかし稗田家にある本にひらがなとカタカナを読める程度の知識で読める物はなかったため、絵入りの短いひらがなで綴られた本を昭義がどこからか持ってきていた。

 

 その中で、記憶に残っている本は、外の世界から流れ着いた本だったと思う。あの頃はたいして気にもとめなかったが、本の綴じ方、字の均等さは明らかに幻想郷のものではなかった。

 

「こころのやさしいおにのうちです。どなたでもおいでください……」

 

 昭義は、いったんそこで言葉を切った。私はしばらく続きを待ったが、昭義は黙りこくったままだった。

 

「つぎにすすまないのですか?」

 

「……うん、いや、ちょっとね。もしお前がこの人間と友達になりたい赤鬼ならどうするかなって思ってね」

 

「わたしがですか?」

 

「うん。お前ならどう人間と友達になる?」

 

 私は考えた。外に行けないから友達を作ったことがない。しかし、想像することはできる。あの老婆と「友達」になれるかどうか。

 

 私は黙って首を振った。

 

「わたしは、きらわれているのならともだちにならなくていいとおもいます。おなじおにのともだちをつくります」

 

……この話の結末はどうだっただろう? それだけが思い出せないが、とにかく昭義に読み聞かせてもらったときがあったことは覚えている。

 

 昭義と過ごす時間は楽しかった。が、しばらくすると、昭義に不信感を抱くようになった。

 

 六、七歳くらいの頃だろうか。その日、私は縁側の下にある巣を出入りする蟻の列を眺めていた。せかせかと休みなく動き、餌を運び込む。この繰り返し。

 

 なぜそんなものに夢中になっていたのかは分からないが、座敷牢の中よりははるかに楽しいものである。「外」へ出られない身としては、昭義のいない時間の中でも指折りの楽しい時間だった。

 

 日が真上から少し傾き、日影が濃くなったころだった。こつん、と空から降ってきた石が地面ではねた。

 

 何だろう、と思って立ち上がると、私の背後にあった壁の向こうから、ひそひそ声が聞こえてきた。

 

「やめなって。こんなことしたら屋敷の人に怒られるわ」

 

「ばか。今の石で誰かが驚く声がしたら逃げればいいんだ。今は誰もいない」

 

「やってみなくちゃわかんねえしな」

 

「そうだよ。そのために俺の父ちゃんからはしご借りてきたんだからさ」

 

「もういいわ。あんたたちで勝手にやってればいいじゃない」

 

 3人の子どもの声。この壁を越えて入ってくるつもりらしい。今までなかったことなので、私は驚いた。早く引き返して離れに入れば、鉢合わせはしない。

 

 しかし、そこで私はいや、と思いなおした。ここで待っていれば、昭義でも老婆でもない他の人間に会えるのではないか。「外へでてはならない」という決まりも、あちらから勝手に入ってくる分には大丈夫なはずだ。

 

 漆喰で塗り固められた塀の向こう側から、かたっ、と何かがぶつかる音がした。はしごをかけた音。かたかたと音を鳴らしながら、誰かが登ってくる気配がした。

 

 ひょっこりと顔を出したのは、日に焼けた顔の少年だった。塀の上から敷地の中をきょろきょろと見回し、私の方を向いたとき、ちょうど目が合った。

 

「うわっ、やべっ」

 

 少年は慌てて顔を引っ込めようとした。しかし私が人を呼んだり追い散らすようなこともせず、ただ突っ立っているのをけげんに思ったらしい。

 

「……お前、何してんの?」

 

「蟻の巣を見てました」

 

「マシタって、何で俺に敬語使うわけ?」

 

 そういえば、なぜだろう? 私が首をかしげていると、少年はぽりぽりと頭をかいた。

 

「まあいいや。ここの家の人に俺のこと言わないでくれよ」

 

「あ、あの……」

 

「いや、ほんと。頼むからさ」

 

「……はい。秘密にします。でも、その代わりに……外ってどうなってるのか教えてくれませんか?」

 

 私がそう言うと、少年は目を丸くした。何を言っているんだと言いたそうな顔である。

 

「私は一度も外へ出たことがなくて。だから……」

 

「……いやー、今も誰かが来たらやばいんだ。ここで話してる暇はないよ」

 

「そうですか……」

 

 せっかく「外」のことについて語ってくれると思ったのに。外には本当にたくさんの人が歩き回っているのか。店で商売をしているのか。妖怪や神さまがいるのか。確かめたいことはいくつもあった。

 

 私が落胆していると、少年はがらがらと何かを引き上げると、こちらに向けてそれを落としてきた。

 

 がたん、という音とともに私の前に落ちてきたのは、木でできたはしごだった。

 

「お前も外に来てみればいいだろ。ほら、来なよ」

 

 私は逡巡した。外に出てはいけない。しかし、本に書いてあったことを自分の目で見て確かめたい。

 

 迷った。もしもこれがばれたら? 老婆は激怒するだろう。手を上げることは今ではあまりないとはいえ、昭義のいない間にひどい目に遭うのは明らかだ。

 

 しかし、してはならないと言われるものほどしてみたくなるものである。怒られるかもしれない。叩かれるかもしれない。それでも、少しだけならー

 

 私は、はしごに手をかけてしまった。

 

 

 

「ちょっとお、その子誰?」

 

「稗田のお屋敷のお嬢様じゃねーの?」

 

 塀のむこうには、少年の仲間らしい2人が待っていた。1人はいがぐり頭で、大柄だった。残った1人の少女はやや茶がかった短髪で、目が鋭い。

 

 私を連れてきた方の少年が、何かを言おうとして、あっと口ごもった。

 

「名前聞いてなかった。なんて呼べばいい?」

 

「諱。いみなと言います」

 

「よし分かった。俺は賢三。こっちの坊主が大六、うるさそうなのが菊枝だ」

 

「誰がうるさいって?」

 

 菊枝の睨みを無視して、賢三は「それで」と話を続ける。

 

「何かして遊ぼうぜ。鬼ごっこでも缶蹴りでもいい」

 

「え? 遊ぶんですか?」

 

「当たり前だろ。外見て終わりとかつまんないじゃん」

 

 賢三はそう言うと、あざみの腕を引っ張って駆けだした。

 

「一番遅く遊び場にきた奴が鬼な!」

 

「あっ何それずるい」とか「ふざけんな」と言いつつ、菊枝と大六もついてくる。しかし里の大通りは人が多く、今まで2人以下の人間と同時にあったことのなかった私にとっては、目が回るような光景だった。

 

 賢三はすいすいと人を避けていくが、私はその後ろをもたもたと動いていたため、大通りを抜ける寸前、どさっと誰かにぶつかってしまった。

 

「いたた……すみません」

 

「あらあら、ちゃんと前見て歩くのよ」

 

 ぶつかったのは、紫色の洋服を着た女性だった。リボン付きの奇妙な帽子、目の模様のあしらわれた傘、流れるような金髪。

 

 私は彼女に抱き起されながら、少し妙だと思った。私がぶつかったのに、彼女の上体はこゆるぎもしなかったのである。

 

「次は気をつけなさいね」

 

 そう言うと、女性は私たちの走って来た方向―稗田家の方へ歩いて行った。

 

 私が呆けていると、賢三が戻ってきた。

 

「ごめんな。もうすこしゆっくり行こう。あいつらに抜かれるかもしれないけど」

 

「いいえ、気にしてません」

 

「それならいいけど。……ところでさっきの人、お前の屋敷の方に行ってたな。すっげえ綺麗な人。オトナの魅力ってやつがあるよな……あの人知ってる?」

 

「いいえ。まったく」

 

 そもそもずっと離れにいるので、老婆と父親以外は、使用人はおろか家族の顔さえ知らない。もっとも、昭義によると母は私を産んで以来、いつも体調がすぐれず、母屋の自室にいるらしいが。

 

 賢三はしばらくその女性が去った方を見ていたが、くるりと回れ右して手招きした。

 

「……ま、いいや。お前は「外」を見たいんだろ? 今は中のことなんてどうでもいい」

 

 外は楽しかった。毎日、外へ出るのが楽しみになった。昼過ぎにはしごで塀を叩く音がするのが合図。私は塀にかけられるはしごを登って外に出て、賢三たちと遊ぶ。町はずれの野原を駆けまわり、なんでもないおしゃべりで笑う。そして昭義がやってくる時間までに離れに戻る。それで大丈夫。

 

 それで大丈夫、のはずだった。

 



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第34話 昔語り・弐

 

 

 

 

 賢三と大六がいなくなった。

 

 それを知った日、はしごをかけたのは菊枝だった。はしごをかけるのは賢三か大六の役目だったにもかかわらず。私は慣れた手つきではしごを登ると、彼女に2人が来ていない理由を問うた。

 

「いなくなったの。なんでか分からないけど」

 

「いなくなった? いつですか?」

 

「わからない。でも昨日、2人とも家に帰ってないみたい」

 

 嫌な汗がじっとりと流れた。賢三と大六が同時に行方不明。1人ならまだしも、2人が同時に、となると何かあったとしか思えない。

 

 とても遊ぶような気にはなれなかった。それは菊枝も同様だったらしく、私たちは何も言わずに別れた。そして私が離れに戻ってぼんやりしていると、がらりと後ろの戸が開いた。

 

「……父上?」

 

 昭義が立っていた。眉は吊り上がり、口は体内に充満する怒りを吐き散らさないために、ぐっと引き縛っているようだった。

 

「決まりを破ったな」

 

 私はとっさに頭をかばった。叩かれる、と思ったが、昭義は何もしなかった。おそるおそる顔を上げると、昭義は微動だにせず、ただこちらをずっと見つめていた。

 

「賢三、大六という少年2人が、お前の名前を口にした。それを聞いた親が屋敷に来た」

 

「………」

 

「お前は知らないかもしれないが、お前の額にある角を人に見せれば、お前がこの稗田家にいるということが他の人間に知られるのはまずいことなんだ。だから私と婆以外の人間と会ってはならない」

 

 後で知った話だが、私は稗田家の外では死んだことになっていた。実際は博麗の巫女のお告げに従って生かされてはいるが、何らかの天災が起きたときに里の人間たちの悪意が稗田分家に向くきっかけになる可能性があるため、存在が秘匿されていたらしい。

 

 だが、私が外を出歩けば、その意味はなくなる。当時の私はそれを知らなかったし、理解もしていなかった。

 

 そして、稗田分家はその秘密を守り抜くために何でもするということも。

 

「賢三と大六は、野山に出て妖怪に襲われ、死んだ」

 

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 

「2人の家族もいずれ後を追うだろう」

 

 私は愚かだったが、その言葉を額面通りに受け取るほど馬鹿でもなかった。つまりあの2人は、私の存在を知ったため口封じされたのだ。菊枝はたまたま私のことを人に言わなかったためその存在を知られなかったのだろう。

 

 最初に感じたのは悲しみではなかった。2つの命が理不尽に奪われたことに、生まれて初めて怒りを感じた。

 

「……なぜあの2人を殺したのです。決まりを破ったのは私なのに」

 

「もともと無関係の人間が死なないようにお前に決まりを課してたからだ。もしそんな奴らを増やしたいなら、外へ出るといいさ」

 

 昭義はそう言い残すと、何も言わずに離れを出て行った。

 

 

 

 私は次の日、菊枝に会った。誰にも見つからないように注意しながら、こっそりといつものように塀を越えると、すぐに私は菊枝に切り出した。

 

「もう、会うのはやめましょう」

 

「どうして?」

 

「危ないからです。私のことを言ってもいけません」

 

「それは……2人がいなくなったことと何か関係あるの?」

 

 私は、うっと口ごもった。昭義が言った通り、私のせいで彼らが殺されたとも言えるのだから。

 

 菊枝は、そう、と言ってそっぽを向いた。

 

「……どんな事情があるのかは知らないけど、お屋敷の人たちがやったのね」

 

 私はうつむいた。私が外を見たいと思ったから。決まりを破ったから。それを言うことはできなかった。それを言ったら、菊枝はどんな目で私を見るのか。

 

 それが途方もなく怖かった。だから、私は卑怯にも何も言わなかった。菊枝はそんな私の心の中を知ってか知らずか、じっと考え込んでいた。

 

 やがて何か決心したような顔をすると、ぎゅっと私の両手を握って、ささやいた。

 

「……じゃあ、今日でお別れ。ありがとう、遊んでくれて」

 

 ふいと顔をそむけると、彼女ははしごを置いたまま走りだした。私が伸ばした手は彼女の袖を掴みそこね、空をきった。

 

 違う。あの2人は。私のせいで。

 

 走っていく菊枝の背中に声にならない懺悔をほとばしらせながら、私はそのままそこに立ち尽くしていた。

 

 

 

 それから数日が経った頃、にわかに外が騒がしくなった。どうやら里の人間が何人も門の前に来ているらしく、その応対に出た家の人間と何やら揉めているようだった。

 

 どうしたのだろう? そう思ったが、外へ出る勇気はなかった。しかし喧騒はますます大きくなり、彼らが何に対して怒っているかが聞こえてきた。

 

「本当は知ってるんだろ。うちの子どもをどこにやったんだ!」

 

「……だから、僕はただの手伝いなので、そんなことを言われても」

 

「じゃあ家の奴らを出せよ! いや、当主だ。当主を出せ!」

 

 分家の手の者が2人に手を下したことが知られている? いや、そこまではいっていないが、分家と2人の失踪が結び付けられている。一体どこからそんな情報が……

 

 私はそこで、はっと気がついた。菊枝だ。あのとき、菊枝だけが分家の人間と2人の失踪について関係があることを知った。そして彼女は、それを秘密にして身を守るのではなく、逆に言いふらしてしまったのではないか。

 

 子どもが言ったことだと最初は真面目に受け止められないだろうが、子どもがいなくなった親たちはその責任を誰かに求めるべく、行動を起こすだろう。そしてそこに、「死んだ」はずだった私が生きているという情報を加えると、分家を疑う理由ができる。

 

 つまり、「稗田分家は後ろ指を指されないよう忌子を隠して育てており、他の子どもはそれを知ったために殺された」という想像ができるのである。

 

 2人を殺した報いだ。

 

 私は、殺害を指示したであろう昭義が対応に苦慮するところを思い浮かべた。……しかし、私はそれを、喜ぶべきなのか、それとも心配すべきなのか。

 

 この頃からだったと思う。私が昭義に対して親しみと憎しみがないまぜになった感情を抱きだしたのは。

 

 私の「友人」を殺害したのは間違いなく昭義だが、これまで一緒に過ごしてきた日々で昭義が見せた優しさが嘘かと言われれば、否である。

 

 どうすればいいのだろう。そもそも自分のせい。いやでも2人を殺す必要はなかったのでは。あのとき何もしなければ。

 

 考えはまとまらなかった。昭義の顔を見るたびに、2人の顔がちらつく。何か差し入れをもらっても、感謝の言葉を口にする前に思い出す。

 

 その頃の私の心はぐちゃぐちゃだった。

 

 その一方、私を取り巻く環境も激変した。

 

 私の存在が里の人間の知るところとなったのである。分家は、もう私の存在を隠し通すことはできなくなった。だが、それを逆手にとって、こんなうわさが里に流された。

 

「分家の鬼子は殺すと祟りがある。だから追い出すまで分家はその子供を隠して閉じ込めていたが、馬鹿な子どもがそれを連れ出し、鬼子のふりまく「厄」を浴びたために不幸な末路をとげたらしい」

 

 細かい部分は人によって違ったが、内容はほぼ同じである。要点は、分家は私を他の人間から隔離して害をもたらさないように勤めている善玉であり、私が災いの源であるということだ。

 

 こうすれば、2人が死んだことも含め、里の者たちの悪意は私へ向くというわけである。むろんそのうわさを作り上げたのは分家自身、つまり昭義だろう。

 

 その作戦は半分だけうまくいった。

 

 祟りがあるから、といって私が殺されることはなかったが、憂さ晴らしのような嫌がらせや迫害が始まった。私のいる離れに火が放たれたことがあった。庭を歩いていると近所の子供たちが手に手に石を持ち、奇声をあげながら私の頭を目標に石を投げてくることがあった。

 

 おそらく、稗田家の内部にも私をこころよく思わない者もいたのだろう、食事に毒が入っていたこともあった。神経系の毒だったのか、呼吸ができず、一晩中、座敷牢の中でのたうち回った。

 

 老婆は遠くからじっと私が痙攣する様子を眺めていたが、やがて命に関わりそうにないと判断すると、さっさと出て行った。

 

 里の人間の悪意を私に向けるという点では分家の狙い通りになった。しかし分家の利益に差しさわりが無かったかというと、やはり私がいるということで分家と関わるのを避ける者が増え、客足が遠のいたらしい。家人の中では私を殺してしまえという意見が多数出たそうだが、昭義と母が退けたという。

 

 その頃になると、どうして私が外へ出てはならないのか、自分はどういう立場に置かれているのかを理解できるようになった。

 

 そして理解できるようになる分だけ、孤独は深まった。

 

 その間、唯一私の味方だったのは、昭義だった。私が顔や腕にあざを作っているのを見ると、優しくなでさすり、痛かったろう、痛かったろう、とつぶやいた。その声を聞いているうちに、私も心の堰が崩れたように、泣き出すのが常だった。

 

 しかし今にして思えば、私に悪意が向く状況を作り出したのは昭義である。私を慰め、味方であるようにふるまっていたのは自身の罪悪感を紛らわせるためだったのかもしれない。

 

 そして、私を殺さなかったのは、ただ博麗の巫女の言う通りにするため。当主としては当然のことなのかもしれないが、私がどんな目に遭うかよりも、自分の家を潰さないようにする方を重要視していたのである。

 

 度重なる嫌がらせに精神がまいりはじめたころ、昭義が土産をもってやってきた。いつものように夕方ではなく、昼過ぎに。

 

「どら焼きだ。甘いぞ」

 

「……ありがとうございます」

 

 私は小さく礼を言い、昭義が差し出した箱の中のどら焼きを一つ口にした。中の餡が舌の上でとろけ、ささやかな幸せを文字通り味わった。

 

「父上は食べないのですか」

 

 昭義は箱の中身に1つも手をつけていなかった。

 

「ああ。私は要らない。後でお前が食べればいい。……ところで、今日は外に行かないか」

 

「外?」

 

 私は、昭義をまじまじと見つめた。なぜ、今さら私の外出を認めるのだろう? 前は人を殺しまでしたのに。そんな昭義の態度の変化に驚いた。

 

「……もう、お前の存在は里人全員の知っているからな」

 

「しかしそれが私を外に出す理由にはなりません。それに……」

 

 外を歩いていれば、当然他の人間とも出会う。彼らに追い回されるくらいなら、ここにいる方がましだ。

 

 そんな私の心を読み取ったのか、昭義はぽんと肩を叩いた。

 

「……大丈夫だ。私がいっしょに行く。それに、これが最後の機会かもしれないんだ」

 

 最後の機会。私は、心がぐらついた。私はこれから、ずっとこの暗い屋敷の一角に閉じ込められ続けなければならない。そう考えると、たとえ石を投げられるとしても、一度だけ外へ出るというのは、たまらなく魅力的なことに思えた。

 

(でも、もし……)

 

 もし、最初からこんな風に外へ出ることができたのなら。考えてもどうしようもないことだが、つい思考がそちらへ向かってしまう。

 

 誰も不幸にならなかった。誰も死ななかった。……のではないか。

 

「……嫌か?」

 

 昭義は、心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は首をゆっくりと横に振った。

 

「いいえ。……でも、私が好きなところに行けるわけではないですよね」

 

「……ああ、その点はすまないが、里のはずれの森に行くことになっている。お前を里で遊ばせるのはまずいから」

 

 

 

 

 外の季節は秋になっていた。あちこちに落ち葉が散らばり、道を黄色に染め上げている。

 

 私は大きな笠をまぶかにかぶり、昭義の後ろをついていった。他の里の者たちは私の方には目もくれず、傍らにいる誰かと喋ったり、空を見たりしながら歩いている。

 

 案外と誰も気が付かないものらしく、たまに気付いた者がいても、昭義がいるため、特に何かをしてくるということはなかった。

 

 誰にもひどい目に遭わされることはない。

 

 そう思うと、心の中でそっと安堵の息を吐いた。この日が終われば私はあの離れに戻らなければいけないが、今だけは誰にも邪魔はされない。

 

 私は少し心をはずませながら、「外」の様子を目に焼きつけるため辺りの様子を窺いながら歩いていた。

 

 やがて整然とした街並みが消え、家もまばらもなり、落ち葉の舞い散る森の中に踏み込んだあたりで、昭義は立ち止まった。

 

「ここから自由なところに行きなさい。日が暮れたら私が呼びに行くから」

 

「……はい」

 

 なぜ外へ出る機会を与えてくれたのかはいま一つ分からないが、とにかく最後の機会である。私は駆けだした。

 

 そういえば、あの3人と、こことは違うが町はずれの山まで行ったことがあった。あのときは、最後に残った賢三を探すのに手間取った。そして辺りに落ちていた栗を集めるのに夢中になっていた。

 

 思い出した時、ちょうど私の足元に栗が落ちているのに気がついた。イガにつつまれた実を取り出し、袂に入れる。イガを除く方法は菊枝から教わっていた。

 

 私が栗を拾い集めていると、こちらをじっと見る鹿の姿が視界に入った。互いにぴくりとも動かなかったが、私が一歩踏み出すと、あちらから逃げてしまった。

 

 私は鹿がどこへ行くのかが気になり、その後を追った。そして鹿を追いながら、少しずつ山の奥へと入っていった。帰り道の分からないほど奥へ。

 

 やがて、私は鹿の姿を見失った。辺りを見回してもどこにも見当たらず、ただ落ち葉を散らす大樹と、その周りを囲むように木があるのみである。

 

 ため息をついて踵を返そうとしたとき、私は突然眠気に襲われた。

 

(いつもこんなに走り回らないからかな)

 

 少し疲れてしまったのだろう。私は傍にあった、ふかふかの落ち葉の上で横になった。

 

 大事な時間をこんなことで使うのはもったいないと思ったが、背中から伝わる落ち葉の感触は、私を心地よい眠りへといざなった。

 

 

 



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第35話 昔語り・参

 

 

 

 目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。

 

 どうしてだろう。昭義は迎えに来ると言っていたのに。

 

 頭が少し痛かった。その痛みは固い地面に頭をつけていたときのものというよりかは、毒を盛られたときのような、吐き気をともなう頭痛だった。

 

「父……上?」

 

 まさか、昭義が私のことを忘れて帰ったわけではないだろう。「最後の外出」になると言ったのは昭義自身なのだから。

 

 体を起こして辺りを見回すが、動くものと言えば、ときおり風にゆられてさざめく木々と、かさかさとまるで生き物のように音をたてる落ち葉くらいである。

 

 急に心細くなった。闇を照らすものは弱弱しい月の光だけであり、木の影、地面のくぼみには、恐ろしい魔性が棲んでいるような錯覚さえ起こす。私は、昭義の姿を求めた。

 

 結局のところ、私は昭義を頼る以外に生きていく術を持っていなかった。だからこそ、心のどこかでは他人を殺す命令はしても、私自身は放り出さずに最後まで大切にしてもらえると思っていたのかもしれない。

 

 昭義の姿を見つけられない焦りで、ぐっと右手を握りこんだ。すると、その手の中でくしゃりという音がして、ようやく私は自分が手に紙を持っていることに気がついた。

 

『もう二度と里に戻ってはならない』

 

 短く、そう書かれていた。そしてその字は、文字を教えてもらうときに見た昭義の文字と、全く同じだった。

 

「は……はは……」

 

 そのたった15文字がこれまで私が昭義に寄せていた、自分を放り出さないだろうという信頼を崩すのを目の当たりにして、乾いた笑いが出た。

 

 そうか。二度と里に戻ることはないから。だから、最後の外出。昭義が外出を許可した理由も、私に気づいた人間が咎めなかったのも、私が里から放逐されるのを知っていたからなのだ。

 

 どうして思い至らなかったのだろう。殺しにくい厄介者を追い出そうと考えるのは当然であるはずなのに。

 

 私は、自分を放り出した昭義を、そしてその意図に気づきもせずのこのことついていった私自身を呪った。そしてこれから自分が歩まなければならない孤独な道を。

 

 じんわりと涙があふれてきた。泣くことはよくあったが、もう涙をぬぐってくれる者はいない。背中をさすって嗚咽を止めてくれる者もいない。

 

 母の意向は分からないが、少なくとも昭義は一人娘よりも家を優先した。そのことは分かっていた。当主としてそれは当然なのは分かっていた。

 

 だが、そのときは私を見捨てたというその一点が、私にとって昭義を憎むにたる対象とするには十分だった。……とはいえ、「恐ろしい」人里に舞い戻る気はなかったため、泣き明かしたあと、私はあてもなく幻想郷をさまようことになった。

 

 非力な人間が幻想郷の野山を歩き続けることは危険であり、私の場合も例外ではなかった。私はよくよく見れば角があるものの、見た目は人間と変わらず、またその頃は鬼の力もなかったために、野犬や妖怪の襲来に逃げ惑った。

 

 昼は見通しがきくためにまだよかったが、最も恐ろしいのはやはり夜だった。ぎらぎらと光る眼差しが音もたてず忍び寄ってくるのである。そして背を見せればたちまち襲い掛かり、喉笛を噛み切ろうとしてくる。

 

 その襲撃に馴れた頃、私は昼に眠り、夜に起きているようになった。

 

 頭がはっきりしている方が逃げやすいうえ、ずっと離れにいたためか、その頃でも夜目は利くほうだったために逃げる支障にはならなかったからである。きちんと寝れば体力を回復できるし、判断力も鈍らなかった。

 

 食事は食べられそうなものであればそのまま食べた。木の根、樹皮、運が良くて獣の死体……。食事面で考えれば、里での暮らしはまだ人間扱いされていたというべきだろう。水が見つけられなかったときは、泥をすすった。着ていた着物や足袋は色を失ってすりきれ、すっかりぼろぼろになってしまっていた。

 

 こうして獣以下の暮らしを続けながら各地を転々としていたが、ある日、私はぽっかりと地面に開いた穴を見つけた。

 

 下をのぞき込むが、穴は底が見えないほど深く、大きかった。吹き込む風の音はまるで亡霊の叫びのようで、そうだとすればさしずめこの穴は地獄へつながる穴だろう、と思った。

 

「………」

 

 私は深淵を覗きながら、身震いした。

 

 恐怖ではない。この地獄へ通じていそうな穴へ身を躍らせたいという衝動がはしったのである。睡眠と食事で体力は回復できていたが、精神はもう限界だった。

 

 ここに落ちれば、もう何も考える必要は無い。苦しむ必要はない。

 

(……そう考えると、極楽かしら?)

 

 私は憑かれたようにけたけたと笑った。今思えば、あのときは本当に正気ではなかったと思う。私は笑い終えると、深呼吸して気を落ち着かせた。

 

「さて、と」

 

 そして空中へと一歩を踏み出した。

 

 少しの浮遊感の後に、私は真っ逆さまに落下した。すさまじい風圧のために髪ははためき、風を切る音だけが聞こえる。遠ざかる地上の光を見ながら、私はため息をついた。

 

 ああ、これで終わり。ようやく楽になれる。

 

 私は阿鼻地獄へと落ちてゆく亡者のように手足の力を抜き、まぶたを閉じた。そしてすべての感覚が喪失する瞬間を待った。

 

 が、いつまでたっても衝撃は伝わってこない。それどころか、死んだ、という感じもしなかった。気がつくと、ごつごつした地面の上に、自分の身体は横たえられていた。

 

「……?」

 

 もう私は死んだのだろうか? 私がおそるおそる目を開くと、そこには珍妙なこげ茶のドレスを纏った女がいた。女は私が目を開けたことに気づくと、気負う様子もなく話しかけてきた。

 

「あんた気をつけなよ。あたしが助けなかったら危なかったよ」

 

「……ここは、地獄ですか?」

 

「ん? 知っててここに来たわけじゃないの?」

 

「いえ。偶然見つけたので」

 

「そう。……まあ、確かに、ここは地獄と呼ばれていたときもあったけど、今はちょっと違うかな」

 

 今は違う? あの世なのに、何の違いがあるというのだろう?

 

 私の疑問の視線に、その女―ヤマメと似た格好だから、おそらく土蜘蛛だったのだろう―は、歌い上げるように答えた。

 

「幻想郷で最も自由な場所。地獄あらため旧地獄。ここはそういうとこさ」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 春の真っただ中で、今日も暖かい日差しが降り注いでいた。からりと晴れた空は雲一つなく、往来の人の数も多い。

 

 ぱさぱさと店先の土間にたまっていた砂ぼこりを掃き出しながら、小鈴は機嫌よく鼻歌を歌っていた。近頃客が増えてきて、儲かってきているのである。店先の掃除も頻繁にやらなくてはならないが、それは客が多い証拠であるため、嬉しい仕事である。

 

 小鈴が一か所に集めたチリを外へかきだしていると、道を数人の子どもたちが駆けていくのが見えた。

 

「地底から来た妖怪なんだってさ」

 

「えー本当? 嘘じゃないの?」

 

「本物だよ本物。ツノあるもん」

 

 怪訝に思って子供たちが走っていく方を見ると、そちらには人だかりができていた。本当に鬼がやって来ているのだろうか?

 

(ちょっとくらいなら、いいかな)

 

 今は店の中に母がいる。少し抜け出しても問題はないだろう。小鈴はほうきをそっと壁に立てかけると、珍しいもの見たさに人ごみの方へと歩いて行った。

 

 小鈴が知っている鬼といえば萃香くらいだが、彼女以外の鬼は見たことが無い。霊夢の話で地底にいることは知っていたが、実物を見る機会は今までなかったのである。

 

 小鈴が人だかりの出来ているところへ到着すると、その中心から大きな声が聞こえてきた。

 

「うん、地上の団子ってのも悪かないな。華扇が食いたがるのも納得だ」

 

「……はあ、確かにそうですが。あまりその名前を出さない方がいいかと」

 

「おっと、そうか。おう、あんたら何じろじろ見てんだ」

 

 他の野次馬の背中でその二人を見ることはできなかったが、声からするとやってきた妖怪というのは2人とも女のようだった。

 

 しかし、と小鈴は首をかしげた。大きな声の方は聞いたことがなかったが、それに答えた方の声はどこかで聞いたことがある気がするのだ。

 

「……ああ、あんたらも団子が食いたいってことか? ……そうじゃない? 金がないから食えないってことか?」

 

「たぶんそういうことじゃないと思います……皆さんはたぶん私たちが珍しいから……」

 

「そうか? まあ私たちだけ食ってるってのもこいつらに悪いし、ちょっくらおごってやろう」

 

 そんな声が聞こえたかと思うと、何やらきらきらと光る物が野次馬たちの頭上に振りまかれた。ばららら、と地面に落ちたそれを見ると、黄金色に輝いている石―いや、金だった。

 

「⁉」

 

 それに気づいたのは、小鈴だけではなかった。その瞬間、皆が目の色を変えてばら撒かれた金を拾い始める。

 

「待ってください、勇儀様! 里での金の価値は地底とは全く違います! 無暗にばらまくとまずいですよ」

 

「まあいいだろ。皆楽しそうだし」

 

 小鈴は、唖然としてその二人を凝視していた。

 

 皆がかがんで金を拾い始めたので、小鈴は団子を食べている二人の姿を見ることができたのである。勇儀と呼ばれた方の一人は、派手な服に身を包んでおり、鬼の証である一本づのが額から生えている。しかし、小鈴を驚かせたのはもう一人の方―

 

 あざみだった。

 

 

 

 

 

 

 

「……あざみ、ちゃん?」

 

 私はその声を聞いて、やはり団子屋に寄り道するのは諫めておいた方がよかったと後悔した。ゆっくりと振り返ると、小鈴が目を見開き、私の方を見ていた。

 

「あ、ああ……お久しぶりです」

 

 私がぎこちない笑みを浮かべると、小鈴は、おそるおそる、といった表情で尋ねてきた。

 

「ちょっと待って……住処が地底って言ってたけど、あなたは、妖怪なの?」

 

「え、ええ………」

 

「でも華扇さんの弟子だったんでしょう? 仙人が妖怪を弟子にとったの?」

 

「えーと、それは、そのう……」

 

 答えに窮した。私がすっぱりと認めてしまえば華扇に迷惑がかかるかもしれない。とはいえ、嘘をつきたくもない。私が目を白黒させていると、勇儀様が「そうそう」と小鈴の反応を愉しむそぶりを見せながら、私の前髪をかきあげた。

 

「こいつも鬼なんだよ。意外だろう?」

 

「ちょ、何勝手に……華扇さんに迷惑がかかります」

 

「いまから分家に乗り込むんだ。遅かれ早かれ噂は広がるものさ。華扇には後で謝っときゃいい」

 

「……それでも、やっぱり団子屋に寄る必要は無かったんじゃないですか?」

 

 私の言葉に、勇儀様は目をそらした。やはり団子屋に行ってみたかっただけか。

 

「……ま、冗談はこれくらいにするか。もう分家の方に刺客の男を交渉させにいったんだから、向こうから返答するまで私らは適当に待ってればいいだけだろ?」

 

「む……まあそうですけれど」

 

 すでに私と勇儀様は刺客の男に私たちの要求―稗田昭義の覚え書きと、それを得さえすれば何の危害も加えないという条件を伝え、分家に送り返した。相手が頑としてこちらの要求に応えない場合は、勇儀様は何もできないため私が強行突破しなくてはならないが、おそらくその必要はないだろう。

 

 あちらもまさか鬼二人を敵に回して無事にすむとは思っていないだろうし、その際に受けるであろう被害と私たちの要求をはねつけることが全く釣り合わないからである。

 

「それでもやはりあまり目立たない方が……どうかしましたか、小鈴さん」

 

 小鈴はびっくりしたせいか、ぽかんと口を開けたままだったが、次の瞬間、私の肩を掴んでゆさぶった。

 

「……妖怪ってことは、妖魔本も書けるわけよね! 今度、なんでもいいから書いてくれない?」

 

「は、はあ……こりないですね」

 

 そういえば小鈴は大百足の前でも本だけは捨てずに逃げていた。私が鬼だとわかっても態度が変わらないのは、私に妖魔本を書いてほしいからだろう。

 

「ほら、書くのはなんでもいいから。とにかく魔力か妖力ののった文字を読みたいの! ねえ、お願いできる?」

 

「ああ、わかりました。わかりましたからそんなに揺さぶらないで」

 

 しつこく頼み続ける小鈴に、私はそう言った。

 

「……約束よ?」

 

 にっと笑った小鈴を見て、私ははっとした。約束してしまったからには、絶対に何かの本を書かねばならないのである。つい口をついて出た言葉だったが、まんまと言質をとられてしまった。

 

 私がため息をついていると、交渉にいっていた刺客の男が戻ってきた。

 

「今から屋敷に来い、だそうだ」

 

「……そうかい。じゃ、さっそく行くとしようか。呪いを解く答えが待ってるしな」

 

「はい」

 

 勇儀様は、腰かけていた長椅子から立ち上がると、団子の置いてあった皿に小判を2枚ほど積んで、のびをした。

 

 小鈴と会うなど少し予想外の出来事があったものの、いよいよあの生家に戻るのである。私は、胸の中で暴れる心臓を抑えながら、立ち上がる。

 

 そのとき、ふと嫌な予感が頭をよぎった。

 

(呪いの鎖を断ち切る手だてが見つからなかったら……どうすればいいのかしら?)

 

 しかし、勇儀様はそのままあの家の方へと歩き出してしまっていた。私はそれを追って駆けだそうとしたが、1つだけ小鈴に伝えなくてはならないことがあることに思いいたり、足をとめて振り返った。

 

「ああ、小鈴さん。さきほどの約束ですが……1つだけ条件を加えてもよいでしょうか」

 

「……なに?」

 

「もしも私が死ぬか筆を持てない状態になった場合は本を書かなくてもいい、ということにしておいてください」

 

 私は、では、と言って今度こそ分家の方へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 




・あざみの保身
 昭義に対して、友人を殺されたことには不満を覚えていたが自分のことだけは何とかしてくれるだろうと思っていた。状況のせいもあるが、少しゆがんでいる。


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第36話 昔語り・肆

 

 

 

 

 私が追い出される前に見たときと変わらず、分家の屋敷は傲然と建っていた。ただ、塀や瓦は少し薄汚れており、やや閑散としている。

 

 もう二度と戻るかと思っていた場所。思い返したくない場所。それが目と鼻の先にある。目のくらむような圧力で、一瞬私は後ずさった。

 

 私はごくりと唾を飲み込み、首を振った。

 

(……いいや、気圧されちゃ駄目。……あちらも私たちを恐れているはず)

 

 私たちが門に近づくと、門の前に立っていた男が、引きつった顔でうやうやしく礼をした。

 

「お待ちしていました。勇儀殿。諱殿。早速ですが、当主の所へご案内しましょう」

 

 男はそう言うと、踵を返して門を開けた。ついてこいということだろう。

 

 庭は前に訪れた本家とそれほど変わらない大きさで、昔よりも少し狭く見える。私の背が伸びたせいもあるだろうが、一つだけ気になる点があった。

 

 伸びた雑草が多いことである。稗田の分家ほど大きな家であれば使用人に命じて草むしりくらいさせておくはずなのだが、この庭はそうでない。分家に余力がないことは見て取れた。

 

「……なんだか、静かで退屈なところだな」

 

「噂には聞いていますが、旧都の方はここと比べ物にならないほど華やかなのでしょうな」

 

 勇儀様のつぶやきに、男はみみざとく答えた。

 

「……近頃どうにも首が回らないようでしてね。私ァ、いつ首切られんのかとひやひやしっぱなしです」

 

 そういえば前に怪しい茸酒に手を出していたのも経営が怪しかったからと言っていた。だが、仮にも昔から続いている酒屋がこうも簡単に商売が傾くものだろうか。

 

 私自身がまがりなりにも賭場を仕切っているので分かるが、常連が一定数いれば商売は成り立つものである。これといった原因無しに財政が悪化するわけはない。

 

「ここに当主様がいらっしゃいます」

 

 男の言葉で、私の意識は現実へと呼び戻された。考えているうちに目的地―当主の部屋の前についていたらしい。

 

 男が膝をついて正座し、すらりと障子を開けた。

 

「星熊勇儀殿と、稗田諱殿をお連れいたしました」

 

 部屋の中、座布団に座って腕を組んでいた壮年の男と、目があった。天魔に比べると老いによる見た目の深みは浅いものの、やはり名家の当主らしく堂々と構えている。男は視線を勇儀様に移すと、ゆっくりと口を開いた。

 

「………まさか、本当に来るとは思いませんでしたね」

 

「私は嘘つかないからなあ。行くっていったら行く。やるって言ったらやる。それが流儀ってもんだ」

 

「それはよいことですな」

 

 当主の皮肉交じりの言葉を受け、勇儀様は、満足そうにうなずいた。

 

「……分かってるじゃないか。だから、要求が通らなかったらどうなるかも単純明快だろう?」

 

 当主は、少し身を引いた。しかしすぐに咳ばらいをすると、勇儀様からふたたび私へと視線を戻した。

 

「単刀直入に訊きましょう、諱さん。あなたに復讐の意志はないと言えますか?」

 

「……はい。私はそんな気は毛頭ありません。ただ、襲ってくる輩がいれば戦いはしますが。例えば、酒で罠にかけようとする刺客とか」

 

 私は当主の瞳を覗き込んだが、そこに気後れや戸惑いといった表情は見つけられなかった。あるのはただ、私を見定めようという意志のみ。

 

「気に障ったなら申し訳ない。だが、儲けの振るわない今、あることないことが噂になるだけでも大変なのです。分かってください」

 

 分家という先入観があるせいか、それとも単に殺そうとしてきた本人に分かってくれとぬけぬけと言われるからか、私は当主の言葉に舌打ちをしたくなった。しかしぐっとこらえ、つとめて冷静にふるまいながら、こちらの要件を提示した。

 

「まあ、今はその話はいいでしょう。私が今日来たのは、私の父―稗田昭義の覚え書きをいただくためです。それを見せてくれるなら、あなた方に決して危害は加えないと約束しましょう」

 

「嫌だと言ったら?」

 

「そのときは、あなたがたが床に就くときの見晴らしをよくしてさしあげようかと思っています」

 

 当主は顔をしかめてから、それで、と続けた。

 

「その昭義という当主の記録を悪用しないということは?」

 

「もちろん、しません。この角にかけて」

 

 当主は考え込んでいる様子だった。といっても、私たちは簡単な二択を出しているだけである。屋敷をめちゃくちゃにされるか、覚書きを出すかの、簡単な二択。

 

 当主はため息をつくと、やがて懐から、紐のついた、古びた鍵を取り出した。

 

「……これが書庫の鍵です。目的のもの以外は、決して触れてはいけません」

 

 目の前で揺れる鍵を掴んで受け取ると、私は首肯した。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 書庫の中は外よりも一段涼しい空気がたまっていた。人があまり入らないのかやや埃っぽく、格子から差し込む光に舞い散る芥が照らされていた。

 

「地下にも本があるそうだから、手分けして探すか」

 

 勇儀様は顎で地下へ続くはしごを示した。

 

「……そうですね。勇儀様はどちらを探しますか?」

 

「うーん、じゃ私は地下の方へ行ってみる」

 

 勇儀様はそう言うと、はしごの方へ歩いていき、飛び降りた。

 

(私も探さないと……)

 

 本棚には月々の帳簿や水の採取地の目録など、種類別に分類されているようだった。一つずつ見落としのないように確認していった。そして最後に「覚書」という張り紙がされている本棚を見つけた。

 

 私はその棚に近づくと、背表紙に目をはしらせる。分家初代から順に並んでいるらしく、第何代目、と書かれた後にその当主の名前が書かれている。背表紙の名前を追い続け、私は、ついに目的のものを見つけた。

 

『覚書 稗田昭義 壱』

 

 私は震える手で本を抜き取り、乗っている埃を払った。ぱらり、と開くと、そこには目次が書かれていた。その字はまぎれもない、あの記憶の中で何度も思い出した昭義の手によるものだった。

 

 どうやら覚え書きは複数に分けて執筆されているらしく、二巻以降に内容を書き、一巻に目次をあとから追加していくという形式らしい。勘定、日記、備考といった項目を飛ばし、自分に関係のありそうな項目を探して頁を繰っていく。

 

 途中で、人物と書かれた項目を参照したが私の記述は見当たらなかったため、目次を改めて見直す。すると、ある項目を見つけ、私の手は止まった。

 

『二十三、諱』

 

 これだ。

 

 私は急いでその項目が記された巻を抜き出し、頁を開いた。

 

『……稗田諱。私の長女である。ただし鬼であったために十になる頃に追放した。人物での記述を行わなかったのはヒトではないからだ』

 

 簡単な説明の後、記されていたのは、予想以上に長い「物語」だった。もしかすると、これほどの文量が必要だからこそ「人物」の項目と分けたのかもしれない。

 

『諱のことを話すには、あの子が生まれる前から記述をしなければならない。そのことを思い出すと我ながら酷なことをしたと思う。が、あの頃の私はそれを制止したとしても聞きはしなかっただろう………』

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 父が死んだため、一人っ子であった私がいきおい稗田の分家を継ぐことになった。

 

 本業の経営に関しては父が健在だったころにしっかり手伝っていたし、本家との仲はそれなりによかった。誰もが私が分家を栄えさせるだろうと期待していたし、私もそうであろうと努力していた。

 

 始めの一月はよかった。父の遺した覚書を見て取引のこつを勉強し、里での役目も果たしていた。父の代でたくわえた金にも手をつける必要がないほど順風満帆だった。

 

 しかし、それ以降、どうにも商売がうまくいかなくなった。

 

 私には商才というものが欠けていたらしい。すでに商売のやり方については頭に叩き込んだつもりではあったが、肝心なときに顧客を逃し、対応を誤り、日に日に財政は傾いて行った。

 

 家人の中でも財政を危ぶむ者も出始めた。私を無能と陰口をたたく者もいたらしい。私は少しずつ追い詰められていった。

 

 私自身が無能であることは自覚していたし、そしられるのは問題がなかった。しかし、このまま家を潰してしまうようなことだけは避けなければならなかったのだ。

 

 そういった商売や算盤勘定に長けた者に任せるというのも考えないではなかったが、そもそもそういった人材はどの店も手放したがらない。そうして解決策が見つからないまま時だけが過ぎていくのに、焦りを感じ始めた。

 

「ごきげんよう」

 

 ある日の夜、私が書斎でいつものように帳簿を見て頭を抱えていると、いつの間にか見知らぬ女人が立っていた。里では見かけたことのない異国風の格好だった。

 

「……君は誰だ」

 

「八雲紫という者よ。……そんなことより、あなたにはお悩みがあるはず。私はちょっとそれを解決しに来たの」

 

「悩み? 何のことだ」

 

 私が問うと、紫は勝手に向かいの座布団に腰を下ろすと、扇子で口元を覆い隠しながら、囁くように言った。

 

「あら。あなたは、うまく家の商売を回したいのではなくて?」

 

「……それがどうした」

 

「私はそんなあなたの願いを叶えてあげるために来たのよ」

 

 家を潰さない方法がある。それを聞いた瞬間、私は何かの術にかかったかのように、紫を凝視していた。

 

「本当か?」

 

「ええ。とりあえず聞くだけでも損のない話だと思うけれど」

 

「……どういう話なんだ」

 

 私がそう訊くと、紫はパチンと扇子を閉じた。すると私と紫の間の空間に、奇妙な裂け目ができあがった。あぜんとする私の前で、紫は悠々とその空間の隙間へと片足を踏み入れた。

 

「あなたも、こちらに来なさいな」

 

 紫はそう言うと、そのままスキマの向こうへと行ってしまった。私に気配を悟らせずに書斎へ入っていた時点で気付くべきだったが、彼女はおそらく人間ではないだろう。このスキマも、入ったらどうなるのか、まったく分からない。

 

 しかし、そのとき私は相手が妖怪であろうと何だろうと、家を潰さない方法を教えてくれるならば魂でも売っていただろう。ためらわず、スキマの中に足を踏み入れた。

 

 足袋に石畳の冷たい感触が伝わってきたと思うと、すでに私は神社の境内にいた。あの博麗の巫女が住む神社だ。

 

「……今、巫女は眠っているはずだから、あまり大きな音を立てないでちょうだい」

 

 紫は、私の真後ろに立っていた。

 

「………いったいなぜ、こんなところに?」

 

「それはもちろん、神頼みに決まってるじゃない。この神社の神さまに、ね」

 

「博麗神社の神……」

 

 神社とは言われているが、そういえばいったい何の神を祀っているのか、私は知らなかった。

 

「……ご神体もないという話だが?」

 

「あるわよ。これまでの博麗の巫女たちが気づかなかっただけで」

 

 そう言うと、紫は淡く七色に透き通った、一枚の板状のものを見せた。

 

「これは、いつもは具体的には言えないけど博麗大結界の中心部に安置されているわ。巫女は近頃結界の管理はしていないから、このご神体の存在に気付かない……これを握りこめば、あなたの意志が神さまに伝わるはずよ」

 

「……それは何だ?」

 

 夜の闇の中、紫の手にあるそれは、ぼんやりと光っていた。その光に照らされた紫の口元は、当然のことといわんばかりに微笑の形を作っていた。

 

「これは龍神の鱗。幻想郷を作った最高神。それが、博麗神社の祀る神よ」

 

最高神。紫の言葉に、私はまるで夢でも見ているかのような非現実感に襲われた。

 

「……それは、本当なのか?」

 

 そう言うと、紫は少し不本意そうに眉をひそめた。

 

「私はそのようなくだらない嘘はつきませんわ。そもそも、幻想郷の要である博麗神社が幻想郷を創造した龍神を祀っていて何か不自然なことがあるかしら?」

 

「………」

 

 確かにそう言われてみれば、その通りだ。納得しかけたところで、とある疑問がわいてきた。

 

「……なぜ、私にその話を持ち掛けてきたんだ?」

 

 幻想郷の最高神で、商売の御利益があるというのなら、多少道中がけわしくても参拝客は多く来るだろう。にもかかわらず私だけにしか龍神の存在を知らせないのはおかしい。信仰を集めるのならばもっと効率の良い方法はあるのだ。

 

「いい質問ですわ。契約の前に説明をよく聞くのは大切ですものね。……龍神は、幻想郷を維持するために力を使っている。しかし、その力は並の信仰じゃ補いきれないの。博麗神社は人が来にくいところにあるし、まともなやり方では補充できない……。だから、人身御供を選んで、龍神が力を維持できるようにしているわけ」

 

「つまり龍神はヒトを食らっていると?」

 

「まあ、食らうだなんて人聞きの悪い……定期的に一人が死ぬだけで幻想郷が保てるのだから、すばらしい話だとは思わない? それに人身御供を捧げる側にだって、いいことはあるのよ」

 

 紫はそう言うと、私に龍神の鱗を手渡した。

 

「人身御供を捧げる代わりに、龍神は1つだけお願いを叶えてくれるわ。幻想郷の人間を全員殺せだとかそういった無茶な願いじゃなければね。あなたの場合は、商売繁盛かしら」

 

「……しかし、人身御供が要る」

 

「別にあなたじゃなくても、あなたに近い血縁ならば誰でもいいわ」

 

 それを聞いて、私は落胆した。今、この世には私の親類は少ないし、彼らを失えば商売が成り立たなくなる。

 

「父と母はすでに死んでいる。子どももまだいない」

 

 すると紫は、そんなことは何でもないというように首を振った。

 

「子どもなら、後で作ればいいのよ。親と違って子どもはいくらでも生まれるから、1人くらい問題ないのではなくて?」

 

 今思い返すと、紫の言葉は明らかに私を惑わす詭弁だった。しかしそのときの私にとってはその甘言は心地よく、耳から頭の奥へとしみわたっていった。

 

「わかった。ならば誓おう」

 

 私が握りしめると、龍神の鱗の輝きが増した。まるで私の意志に反応するかのように、感情の波に合わせてゆらゆらと明滅していた。

 

「龍神よ、最初に生まれる子どもを捧ぐ。それを代償として、私に、いや分家に財の恵みをもたらしていただきたい」

 

 瞬間、私の周囲が突然純白の光に覆われた。同時に、稲妻に打たれたかのように体が動かなくなり、ばったりとその場に倒れた。

 

 なぜかだんだんと暗くなっていく意識の中で、紫の声だけがこだまして聞こえてきた。

 

「これで、契約完了よ。ゆめ忘れないよう……」

 

 何が起きた、と問おうとしたが、その前に意識が完全に闇に呑まれてしまった。

 

 

 

 




・黒幕 紫。といっても悪気はない。「龍神と契約して人身御供になってよ」とセールスをしただけ。
・龍神が博麗神社の神 ……という設定。原作設定ではないので注意。


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第37話 昔語り・伍

 

 

 

 

 博麗神社からどうやって戻ったのかは覚えていない。なにごともなく次の日が始まったため、財政を何とかしたいと思うあまりにそんな夢を見てしまったのだとさえ思っていた。

 

 しかし奇妙なことに、それから妙な具合に商売がうまくいきはじめるようになったのである。新しい顧客がつき、副業で金貸しもてがけるようになり、蔵には富が溢れるようになった。

 

 火の車だった家の財政を立て直した家人たちの私への評価は一変した。私を無能だと言っていた者は代わりに称賛を浴びせるようになり、以前は何かと用をつけて私に会うのを避けていた者たちはこぞってやってきてへこへことお辞儀するようになった。

 

 分家の絶頂期を築いた人間として、私は得意でたまらなかった。富という要素に限れば本家すら凌駕し、金貸しによって他の有力者たちに「貸し」ができていたため、私はこの「里」ですらある程度操れるようになっていた。

 

 その一方、商売で成功するたび、私の脳裏にはあの契約がちらついた。子供を生贄にささげる—この成功は、自分の子どもの命を材料として生まれているのではないか。

 

 そんな思考がよぎるたび、私は自らを奮い立たせるため、あれは夢だと自分に言い聞かせながら、ふんと鼻で笑っていた。

 

 妻との間に子がなかなか生まれなかったときはその自分への虚勢を張る余力はなく、もしや子が生まれなくなるのが龍神の求めた代償なのかと思って焦ったが、ようやく子供ができたという話を聞くと、私は胸をなでおろした。

 

 だが、その安堵は娘の産声とともに砕け散ることになる。

 

 私が娘を抱き上げたとき、その額に人ならざるものの証―鬼の角が目に入った。ここでようやく、私はあの契約が夢であったわけでも、そしてうやむやになったわけでもないということに気がついた。

 

 しかし、そのときの娘の角については明確な描写はできない。記憶があやふやだからである。私にかぎらず稗田家の血を持つ者は見たものはたいてい思い出せるが、思い出せないということはろくにその角を見ていなかったということだろう。

 

 と言っても、それは私が犯した罪の証から目をそらそうと思っていたからではない。娘が、可愛らしすぎたのだ。

 

 娘が生まれてくるまで、私はその実体を見たことは無かったし、どうといった感情もなかった。辺りで見かける子供たちに対して感じるような一種の微笑ましさとでもいうか、そのような程度のものだろうと思っていた。

 

 だが、私は娘と会った瞬間、あまりにも無防備に眠りこけるその姿と儚さに、守るべき対象であると直感してしまった。初めて持った自分の子の命は、他人の子の命とは全く、それこそ自分の命よりも別格に尊いものなのだと思った。

 

 この子に角があろうと、髪の色が少し人と違っていようと、そして妖怪であったとしても、血を分けた娘だということには変わりない。しかしそう思うと同時に、自分がやったことへの後悔が波のように押し寄せてきていた。

 

 私は娘を産婆に任せると、博麗神社へと向かった。紫があの夜にとった態度から考えると、博麗の巫女は龍神の存在や契約について知らないはずだ。娘を守れる人間は、高い霊力を持ってなおかつ私が契約に背こうとするのを防ごうとも思わない者、つまり、博麗の巫女くらいなのである。

 

 この時点で、私はすでに龍神との契約をすっかり破棄するつもりでいた。神との約束を破れば、多くの神話で証明されたように無残な末路を辿ることになるだろう。それでも私は、それくらいで自分のやってしまったことを取り返せるのなら安いものだと考えていた。

 

 博麗神社にいた巫女に事の次第(取引のことは無論言わなかった)を伝えると、巫女は即座に分家へ行くことを承諾した。そして家に戻ると、巫女が本当に龍神に関しては何も知らないらしいということに安堵しながら、娘を彼女に見せた。

 

 すると巫女は重々しい口調で「呪い付きの妖ですね」とつぶやいた。

 

「妖怪、ということですか。私の娘が」

 

「……はい、とても信じられませんが、そうです。奇形の赤子というわけではないでしょう。妖力を感じますので、本物の妖怪です」

 

 娘の妖怪化。それが私の願いの代償だったのだろうか。そう思ったが、それでは生贄、という契約にはそぐわない。おそらく「この後」、つまり娘の命を奪う段階があるはずだ。

 

「どうすればよいですか」

 

 私が訊くと、博麗の巫女は泣き始めた娘を見ながら、深刻そうな顔でこう答えた。

 

「……こういう鬼子は生まれて即座に殺すのはよくありません。赤ん坊は善悪の区別がつかないので、高確率で人に害をおよぼす悪霊になります。ですから、ある程度育ててから殺すか、追い出すのがよいでしょう」

 

 そうではない、と思った。私が知りたいのは、娘を助ける方法だった。しかし下手に口を滑らせるとあの取引を知られてしまうかもしれない。私は慎重に言葉を選んだ。

 

「そうですか……ところでつい先ほど呪われているとおっしゃいましたが、それについて教えてくれませんか」

 

「わかりました。たぶんこの妖怪化も呪いをかけたのと同じ者によるものだと思いますが、不幸を呼び込む類のものですね。本来はこの子に降りかかるものですが、巻き添えという形で周囲にいる者たちにも災いがもたらされる可能性があります」

 

 おそらく、その「不幸」によって娘の命が奪われた場合、それが龍神の腹の中に収まるという具合なのだろう。まだ不明な点は多いが、そうでなくてはこの呪いの辻褄はあわない。

 

 私が顔を曇らせているのを何か勘違いしたのか、巫女は慌てて付け加えた。

 

「ああ、そうは言っても大丈夫です。私がこの子の鬼としての力ごと呪いを封じてしまえば被害は最小限に抑えられます。だからそれほど気にしなくてもいいですよ」

 

「……その場合、娘に降りかかる災いも振り払えるのですか?」

 

 私がそう訊くと、巫女は頷いた。「おおもとの呪いを封印するわけですから」ということだった。

 

 だから、私はすぐさま巫女に娘の呪いを封じるように頼んだ。巫女は快諾すると、娘に「諱」という名をつけた。これで呪いは封じることができるという。

 

 いみな。忌み名。娘の命を守ってくれる名前とはいえ、なぜかよい名前だとは思えなかった。とはいえ、巫女は依頼に応えるという点では問題なく仕事をしてくれたので、それに関しては何も言わなかった。

 

 用事が済んで巫女が帰ろうとしたとき、私は彼女に礼を述べた。彼女はほんのり笑って、「いつでも困った時があればお呼びください」と答えた。私はつられて笑いかけたが、続く彼女の言葉で、その笑みは形になる前に消えた。

 

「もし、どうしても諱を殺す必要があれば私に伝えてください。私が処理いたしますので」

 

 一瞬、意味が分からなかった。私は唖然として聞き返した。

 

「……え、それは一体……どういう……」

 

「そのままの意味です。……あ、心配なさらずとも確実に処理できますので必要があれば遠慮なくおっしゃってください。ではこれで」

 

 彼女はのんびりとそう言うと、暗い空へ浮かび、そのまま博麗神社の方角へ飛び去ってしまった。

 

 私は呆然としながら、これから自分の娘が、いや諱が人間として扱われないことを、そこでさとったのである。

 

 

 そしてそれから、私は諱の存在を秘匿することに決めた。博麗の巫女と同じように、里の人間は娘を人間扱いはしまい。表向き、家の者には稗田家のためと言っていたが、実のところ諱が迫害を受けないようにするためだけにそうしていた。

 

 家人の一人であった老婆に彼女の世話を任せると、私は噂を消して回った。また、誰かに見とがめられることのないように、諱と老婆のいる離れには極力近づかなかった。

 

 その頃は仕事も忙しかったため、なかなか諱と会わなかったが、やがて私は離れへと足を運んだ。

 

 私は老婆を見つけると、諱の様子を聞いた。仕事の合間に母屋の方へやってきた老婆から諱の様子を聞いてはいたが、顔を合わせるのは、実に四年ぶりである。

 

 私は老婆と話しながら、諱のいる座敷牢への道を歩いていった。私は罪人でもないのに座敷牢に入れる必要はないと言ったのだが、老婆は諱を牢に入れなければ安心して世話ができないと言ったため、やむなくこの処置をとっているのである。できるならば、そろそろ座敷牢への監禁くらいは解いてやりたい。

 

「……ここです」

 

 私は、老婆が立ち止まった部屋の障子を開けた。目に入って来たのは、座敷の中に設けられた鉄格子と、窓から差し込む赤い光。そして、その中に一人の幼子が足を崩して座っていた。

 

 丸い目。袖からのぞいている小さい手は紅葉のようで、親の欲目と言ってしまえばそれまでなのだろうが、随分可愛らしく育ったものだと思った。

 

 諱は私と老婆に気付くと、すぐに居住まいを正した。人に会うことはなかっただろうが、老婆がしつけたのだろうか。私は老婆に言いつけて牢の鍵を開けさせ、諱と向かい合った。

 

 私を覚えているか、と訊くと、諱は首を振った。生まれて間もない頃のことだから覚えているはずもないのだが、それでも私は初めて諱と出会ったときおことを鮮明に覚えているだけに、一抹の寂しさがあった。

 

 しかし私はすぐにそれを引っ込めた。仕事が落ち着いたので、これからは諱に会うことができる。私は彼女を抱きかかえると、こつんと額を合わせた。

 

「私はお前の父。稗田昭義だ。これからずっと来るからよろしくな」

 

 

 

 

 それから、私は諱に勉強を教えるということで夕方には離れへ行くようになった。そのころ、私は屋敷の外には出ないように釘を刺しつつも、離れの近くならば外に出ることを許したが、夕方にはいつも諱は座敷で私を待っていた。

 

 

 妖怪化しても稗田家の特色である記憶能力の高さは引き継がれているらしく、あっという間に文字や計算を覚えていった。

 

 里を追い出されたあとのために知識を与えていたのだが、諱は将来私と同じ仕事をするつもりでいるようだった。

 

 私には、諱に家督は継げないことを教える勇気はなかった。だから嘘をつきながら、ただ親としてできる限り、勉強をさせた。

 

 ある日、私が諱に絵本を読み聞かせているとき、ふと絵本の中に出てくる赤鬼と諱の姿が重なった。そこで私は何の気なしに、「お前がこの鬼ならどうする」と訊いた。彼女は鬼の友達を作りたいと答えた。

 

 そのとき、そうかと私は気が付いた。追放されても、同じ姿を持つ者たちと一緒であれば娘が孤独な道を歩まずに済むのではないか。人間には理解されなくとも、同じ妖怪ならば諱を仲間として受け入れてくれる者もいるかもしれない。

 

 この頃は諱を預かってくれるような妖怪の知り合いはいなかったため、それを即座に実行に移すことはできなかった。しかし、この思い付きは深い根をはり、私の意識の奥にわだかまっていた。

 

 それからしばらくして、紫がやってきた。

 

 私が書斎に入ったとき、さも当然といった体で、彼女は本棚を眺めていた。私があっけにとられていると、紫はこちらに気付き、あら、と声をもらした。

 

「お久しぶりですわね、当主様。この分だと、ご利益はあったのでしょう?」

 

「……ああ、確かに。おかげさまで今、うちは財政的にはこれ以上ないほど潤ってる」

 

「ふふ、それはそれはよかったこと」

 

 紫は微笑み、しかし瞳の奥に妖しい光を宿しながら答えた。どうにもこの女には得体のしれないところがあり、まるで何を考えているかはわからなかったが、このときは直感的に彼女が何のためにやって来たのかに気付いた。

 

「……それで、代償についてのお話なのだけれど」

 

 やはり、と思った。諱はまだ死んではいない。もしも契約の条件というのが諱の命であれば、まだ私の願いの代償は支払われていないことになるのだろう。

 

「代償? 娘が鬼になったことか?」

 

 私がとぼけてみせると、紫はすっと目を細めた。

 

「あなたはそう捉えてるのね」

 

「契約と言っても、私は全てを説明されていない。代償は、娘のなんだ?」

 

「決まっているでしょう。命よ。妖怪化することの何が代償になると思って?」

 

「……わざわざ妖怪にする必要はあるのか?」

 

 私がそう言うと、紫は肩をすくめた。

 

「当たり前じゃない。妖怪の方が命としては高級だし、人間扱いされないから他の里の人間に邪魔されず楽に供物にできるでしょう?」

 

「供物にする方法は?」

 

 紫は眉をひそめ、私を見返した。

 

「どうしてそんなことを訊くの? あなたは知らなくてもいいことよ」

 

「たとえば、今すぐ娘を殺したいと考えていたらそういう質問をするとは思わないのか?」

 

 もちろんはったりだ。これを聞きだしておけば諱の命が助かるかどうかは全く違ったものになるかもしれない。

 

「……あなたの娘よりも、あなたの方が鬼らしいかもしれないわね」

 

 紫はそう言ってから、龍神の供物にする方法を説明した。曰く、諱には呪いがかけられており、周りに起こる不幸を被って死ねば供物になるという。

 

 たとえ細心の注意を払って不幸から身を守ったとしても悪霊に追われるか呪殺され、いつかは確実に死に至るのだそうだ。

 

「普通は、そうやって生まれてから1年もしないうちに供物になるのだけれど……あなたの子どもは運がいいわねえ。外であんなにはしゃいじゃって」

 

「外? どういうことだ? 諱は家に閉じ込めているが」

 

 私がそう言うと、紫は意外そうな顔をして、冗談でしょう、とつぶやいた。

 

「同い年くらいの子どもたちと一緒に表の道を走っていましたよ。うっかり私にぶつかるくらい楽しそうでしたわ」

 

 まさか、諱が私との約束を破って外に出ていたのだろうか。ありえない。言いつけを破るような娘ではなかったはずだ。

 

「まあ、先の短い命なのですから、残り時間くらい自由に使わせてあげてもいいのではなくて? それにあの子が早く死ななければ、あなたにも代償を求められる。外に出て危ない目に遭う機会が増えればその危険も減りますわよ」

 

「私に、代償?」

 

「おっと失礼、最後に一つ、教えて差し上げましょう。あなたの願いは諱という娘の命を代償にして叶えられたもの。しかしあなたが何らかの手段で諱を守って死なずにすんだというときは、つなぎとしてあなたの命が代償にされるの」

 

 つまり私が約束を破った場合は私の命も差し出さなければならないということか。つなぎと言っているからには、私が死んだところでいずれ諱が死ぬのにも変わりはないらしい。

 

 紫はスキマを開くと、こちらを振り返った。

 

「まあ、いいわ。あなたは話が分かるみたいだから。これまで、親が子どもを差し出したときは後からやっぱり取り消してくれだなんていうことが多くてね……気持ちは分かるけれども」

 

「……ああ、そうだな」

 

 私もその一人だ、と心の中で呟きながら、スキマの中に消えた八雲紫を見送った。

 

 

 

 



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第38話 追憶の終わり

投稿間隔が空いてしまいました。すみません。


 

 

 

 紫が来た後の私の行動はあまり記したくない。とはいえ、全てを書き残さなくてはこれを書いている意味がないのである。

 

 まず私は、諱と一緒に遊んでいた子どもというのを突き止めた。賢三と大六。この子どもたちが諱のことを親に教え、それを聞いた親がこちらへ問い合わせにやって来たため、苦労はしなかった。

 

 その後、家人に命じて諱の存在を知る賢三と大六を消した。この二人は冒険心が強く、人気のないところー何者かに襲われても誰も助けてくれる者がいないようなーによく行っていたため、殺害は楽だった。

 

 二人の子どもの家族の方も消そうと考えていたが、その前にどういうわけかこちらの暗殺が噂として流れたため、大きな騒ぎとなった。

 

 私が対応に苦慮していると、家人の一人が、全てを諱のせいにするという策を提案した。否定するのではなく、矛先を分家全体から諱個人に向けてしまおうということだろう。

 

 他の家人も名案だと頷いた。私はなるべくその手は使わないようにしたかったが、それ以外に分家を潰さない方法は思いつかなかった。

 

 それから諱への迫害は苛烈を極めた。稗田分家に対しては今までと変わらず尊敬が払われていたものの、その中にある「離れ」の忌子は、むしろ日ごろの鬱憤を叩きつけるのにちょうどよい対象だったのだろう。

 

 私は背中をさすって諱を慰めながら、彼女の「これから」について考えていた。里を追い出せば、彼女を迫害する者はいないだろう。しかし、獣同然の暮らしをしなければならないし、途中で妖怪に遭遇でもすれば死は免れない。

 

 誰か、諱を保護してくれる者はいないのだろうか。

 

 そう思ったとき、諱の言葉―鬼を仲間にするという言葉が浮かんできた。そのときもまだ仲間になりそうな鬼たちがいる場所すら知らなかったが、調べているうちにやがて「地底」という場所に鬼がいることを知った。

 

 私は地底に乗り込み、そこにいた鬼の一人―名前は星熊勇儀であるーと約束を交わした。諱を守ってもらうということを。

 

 約束では、私が諱を山に置いて行ったあと、勇儀の配下の鬼が彼女を地底に連れて帰るということになっていた。私は具体的な場所の指定をしたほうがいいのではないかと訊いたが、指定された山であればどこでもよい、とのことだった。

 

 これで諱には安心して住めるところができるだろう。星熊勇儀は約束をしっかりと守る者だというから、約束が果たされるという点では何の心配もない。ただ、心残りがあるとすれば、私が全てを彼女に伝えることがないまま去らねばならないことか。

 

 私はすでに取り返しのつかない過ちを犯した。それを直接諱に伝える機会は、おそらくこれからないであろう。だからここに全てを書き記すことを、私の身勝手な贖罪とする。

 

 私のした仕打ちを考えれば、親心という単語を持ち出すのすらおこがましいかもしれないが、私にできることは全てやりつくしたつもりだ。

 

明日、「追放」されて諱は永遠に私のもとから姿を消す。できることならば娘が成長していく姿を傍で見ていたいと思っていたが、これが最も諱にとってよい選択になるのだから、私は涙をのんで見送ることにする。

 

我が娘が旧都で末永く、安堵して暮らし、その身に幸いのあることを願うばかりである。……

 

 

 昭義の手記はそこで途絶えていた。他の頁と違い、ぽつぽつと薄い染みがついていた最後の頁に、新しい染みが一つ、二つと増えていく。

 

「……肝心なことを……書き忘れていますね、父上は」

 

 目が潤み、文字がぼやけた。私は袖で浮かんでいく涙をふき取りながら、嗚咽をもらした。

 

「呪いを解く方法なんて……どこにも書いてないじゃないですか」

 

 書かれていたのは、一人の男が苦悩する姿だけ。私が嫌って「あれ」と呼んでいた昭義が、呪われた一人娘と、家を守るという義務に板挟みになっていく過程が書かれているだけだった。

 

 もう、私には昭義を憎む気持ちはすっかりなくなっていた。だが、それが今さら何になるだろう。すでに昭義は故人なのだから、そんなことを知っても何もすることはできない。責めることも、謝ることも、慰めることも。

 

「遅いんですよ。何もかも………」

 

 涙は滂沱として押しとどめられなかった。捨てられた日の夜と同じように、私は体を丸めて泣き続けた。

 

 

 

 私は気の済むまで泣いた後、勇儀様に覚え書きを見せるため、地下書庫へと降りた。中は真っ暗で、私が人間だったならば一寸先も見えなかっただろう。

 

「おう、終わったか」

 

 勇儀様は、ちょうど私が降りてきたはしごの傍に立っていた。

 

「……すみません、お待たせしました」

 

 覚え書きを見つけたのか、と訊いてこなかったということは、勇儀様はおそらく私が上で何を見て、何をしていたかを知っているということだろう。少し気恥ずかしい思いをしながら、覚え書きを渡した。

 

「私は慰めるのは得意じゃないから待ってただけさ。気にするな」

 

 勇儀様はそう言いながら、ぺらぺらと頁をめくり、片眉を上げた。

 

「なるほどねえ。神サマと来たか。しかも幻想郷を創った龍神……ほうほう」

 

 勇儀様は最後にぱたんと本を閉じると、長いため息をついた。

 

「……どうでしょう。何か契約を解く手がかりを見つけられましたか」

 

 私がそう訊くと、勇儀様はかぶりを振った。

 

「いいや。呪いを解く手がかりはないな。しかも龍神様となれば、力で敵う相手じゃない。どうしようもないな、現時点では」

 

 勇儀様がそう断言すると同時に、とさり、と何かの落ちる音が足元から聞こえてきた。

 

 うす暗い床の上に落ちていたのは、私が首から下げていた、華扇のお守りだった。紐が千切れてしまったのだろう。勇儀様はそれを見て、ぼそりとつぶやいた。

 

「時間も、あまりないかもしれないな」

 

 お守りについていた赤い珠には、無数の白いヒビが這いまわっていた。

 

 

 

 

 私と勇儀様は、分家を後にして、華扇の住まいへと向かった。今は昼だから問題はないが、夜になったら例の化け物がやってくる。ひとまずお守りが必要だ。

 

 私たちはあたりをつけた場所に降り立ち、草を踏みしめながら華扇の住処へ向かい始めた。

 

「勇儀様でも、龍神様という存在を倒すことは不可能なのですか?」

 

「……シャクだがね。私も一応怪力乱神なんて大層な名前をつけられちゃあいるが、本物の神には勝てない。力じゃどうしようもないんだ、アレは。どんな剛腕の持ち主でも、雷と殴り合いはできないからね」

 

「そうですか……」

 

 勇儀様がそう言うなら、その通りなのだろう。勇儀様ならどうにかできるような気がしていたが、やはり無理なものは無理らしい。

 

「落ち込むなって。華扇なら何とかできるだろ」

 

「ええ……それはどうでしょう」

 

 そのとき、一陣の風が吹いたかと思うと、頭上から声が降ってきた。

 

「私がどうかした?」

 

 眩い日の光を背に空からゆっくりと降下してきたのは大鷲だった。声の主―華扇はそこから飛び降りると、ふわりと着地した。

 

「まさか地上に出てくるためだけに異変を起こすとは思わなかったけど」

 

「私が嘘をついたことがあるかい?」

 

「ない、っていう答えが返ってくると初めから分かるような問いはしなくていいと思わない? ……まあいいわ、それで何の用?」

 

 華扇はどうやら勇儀様からおおよその経緯は聞いているらしく、私と勇儀様を見ても驚いた様子は無かった。

 

「あざみのお守りを交換してほしくてね」

 

「お守り……あと数カ月はもつと思っていたけれど。ちょっと、前に渡したお守りを見せて」

 

「わ、分かりました」

 

 袂から壊れかけたお守りを取り出して渡すと、華扇は急に顔を曇らせた。

 

「……なるほど、これはもう駄目ね。予想よりもはるかに強力になっているわ」

 

「では、代わりのものをお願いできますか?」

 

 

「ああ、えと、駄目っていうのはね……」

 

 華扇は珍しく口ごもった。

 

「何が駄目なんですか?」

 

「…もう無理なの」

 

「無理、とは」

 

「もうお守りの効果は、ほぼ効かなくなってる。まだしばらく耐えられる読みだったけど、予想以上にあなたにかけられた呪いは強いの」

 

 それを聞いて、私はげっそりした。

 

「じゃあこれから毎日あの気色の悪い化け物と戦わなければならないわけですか」

 

「それだけならまだいいんだけどね。呪いが進行すれば遅かれ早かれ……。原因を探りなさい」

 

「原因は分かってるんです」

 

 私は書庫で知った、華扇に龍神様に関する出来事について語った。華扇はそれを聞いてから無言で考えていたが、やがて頷いて、

 

「なるほど。それならば私の手には負えませんね」

 

 匙を投げた。

 

「えっ……つまり?」

 

「言葉通りです。あなたは近いうちに死ぬ」

 

「な、何とかなりませんか?」

 

「できたらそう言っているわ。少なくとも私はお手上げ」

 

 華扇の言葉は、まるで現実味を帯びていなかった。

 

(私が死ぬ? 今こうして生きているのに? 冗談でしょう?)

 

 もちろん、華扇の言っていることは頭では分かっている。私が近いうち、龍神によって呪殺されることを。しかし、天狗たちとの戦いのときのように刃を向けられているわけではない。

 

 死の宣告をされてもただ漠然とした不安があるのみで、切迫した恐怖は感じていなかった。少なくとも、背後から招かれざる第三者の声が聞こえてくるまでは。

 

 何者かの吐息が、私のうなじにかかった。

 

「……なるほど、あの男は本当に余計なことをやっていたのね」

 

 勇儀様でも、華扇の声でもない。私は飛びのき、振り向きながら拳を構えた。その瞬間、相手がどうしてこれほど近くにいながら声を発する直前まで私に気配を感じさせなかったのかという理由がはっきりと分かった。

 

「ここに何の用? 紫さん。そして、その式」

 

「あなた達が今話していたこと、それが私たちの用事よ」

 

 紫だった。扇子で顔の下半分が隠れ、表情はほとんど読み取れない。涼やかな目元は笑みを浮かべていたが、おそらくその下の口は笑ってはいないだろうということが声音で分かった。その後ろには九つの尾をもつ狐の妖怪が控えていた。おそらく紫の部下だろう。

 

 紫は華扇から私に目を移すと、無造作に近づいた。

 

「まあ待ちな。あんたが何を考えてるかぐらい教えてくれてからでもいいんじゃないか」

 

 勇儀様は、紫の肩を掴んで引き留めようとした。しかし、その腕はスキマに呑まれ、全く別の場所の空を掴んだ。

 

「星熊勇儀、あなたは私に指一本触れられない。おとなしくしていなさい」

 

 紫はそのまま私の目の前にやってきた。

 

「いみ……いや、今はあざみ、という名かしら。ようやく思い出した。あなたは生贄の子ね?」

 

 紫の声に探りを入れるような雰囲気は感じ取れなかった。ただ、答えを知っているうえで確認しているだけなのだ。

 

「はい。先ほど分家で私の出生に関する過去は全て知りました」

 

「なるほど。じゃあ、知っているわね? あなたがどうして鬼になったか。そしてどうして殺される必要があるのか」

 

「……ええ」

 

「そこまで分かっているのなら、話は早い。私たちは1つだけ、あなたにお願いしにきたの。たった一つだけでいい。それさえやってくれれば、私たちは何をするわけでもない。場合によるけど、ある程度あなたの望みをかなえてあげることもできる」

 

「……それで、お願いと言うのは?」

 

「簡単なことよ。ええ、説明する分にはとても簡単なこと」

 

 紫はぱちんと扇子を閉じた。そして、

 

「あなたにはこれから、幻想郷のために死んでほしいの」

 

 

 

 



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