天涯~巧編~ (清夏)
しおりを挟む

『女難』

『序~半身~』

 私の半分は獣だ。

 私のような者は、半獣と呼ばれる。

 この国では、半獣は一人前として認められない。

 学ぶことも、働くことも許されない。

 人としては半人前、いや、半人前以下だというのだろうか。

 私が生まれて、父母は悲しんだだろう。けれど、父母は嘆きよりも深く私を愛してくれた。そう、思う。


 私は生まれて直ぐに死んだ。

 正しくは、死んだということにされた。

 そして田舎で密かに育てられ、物心つくころに父母の元に戻った。

 その時に、きつく言われたことは絶対に人型をとりつづける、ということ。

 半獣であることを、決して人に知られてはならない、ということ。


 私の戸籍には、半獣とは記されていない。

 戸籍の上では、私は父母の養女とされている。

 父母は、人の戸籍を金で買ったのだ。


 私は、人として生きている。半獣としての私は、死んだ。




 私は今、人としての半分で生きている。

 私の半分は、死んでいるのだ。





 仕事の内容を聞くと、戒莉は嫌な顔をしてしまった。

「おや、お気に召さないかい?」

 珊揮はからかい口調でそう言うが、戒莉もこの程度のことで、いちいち突っかかってはやらないことにしている。

「別に」

 だが、そう言いながらも、気乗りしていないことは否めない。

 戒莉のその心が、表情に表れていないはずがない。

 

 

 珊揮が持ち込んできた仕事の内容というのは、一言で言えば護衛。それも巧の大学に、人を一人送り届けるという単純な依頼。

 そんなものを珊揮が引き受けるというのは、どうも解せない気もする。何か裏がある。

 戒莉は、疑っていた。

 珊揮は、戒莉のそんな眼差しを受けて、仕方ないだろうという表情を作って、こう言った。

「是非にと言われてね。断れなかったんだよ」

 ならば、報酬もそれなりに立派なものなのだろう。

 戒莉は視線を落とし、溜息をついた。

 

 と、珊揮は戒莉の顎に手を添えて、ぐいと顔を上げさせた。

「何が気に入らないのか、当ててあげようか」

「当てて見せろよ」

 やや挑発的に言っているのは、腹立ちのせいだ。

「護衛の対象が、女なのが嫌なんだろう」

 ズバリ言う。

 

 実は、そのとおりだ。

 

 戒莉が、女嫌いなのではない。

 いや、一時的には女嫌いになっていると言えるのかもしれない。

 今、女に関わりを持ちたくないと、戒莉は思っている。

 

 つい先ごろ、戒莉が関わった女が死んだ。

 一人は、戒莉が女を守りきれなくて死んだ。

 もう一人は、戒莉が女の大切なものを奪った故に、死んだ。

 

 戒莉は、自分に関わりを持った女は、不幸になるような気がしていた。気のせいだと割り切るには、女が不幸になる確立が高すぎる。

 挙句、付き合っていた女は別の男と結婚するわ、以前につきあっていた女とよりが戻りそうで、結局戻らなかったりした。

 占い師がこの世界にいたならば、『女難の相が出ている』と言われるだろうと、戒莉は密かに思っていた。

 いや、よく考えてみたら、女難の相が出ている者は、女によって災厄をもたらされる者であり、女に災厄を与える者ではないはずだ。

 そこまで考えてみて、戒莉はひとり、さらに落ち込んだ。

 

 

 とにかく、このところ女がらみの仕事に良い結果はない。

 戒莉は、その仕事は降りると、珊揮に告げた。

「ここでひとつ、その因縁を断ち切ったらどうだい? きっと、良い旅になるよ」

 珊揮は、戒莉の逃げ腰を捕らえて微笑む。

 その自信は、どこからくると言うのだろう。

「それとも、もう剣客は止めるかい?」

 煮えきらぬ戒莉を試すように、珊揮が笑う。

 この男は、それなら、それでいいとも思っているはずだ。

「俺自身が嫌で言ってるんじゃない。ただ……」

 あくまでも、不幸な女をつくらない為だと戒莉は訴えてみたが、そんなことが通じる相手ではない。

 

 

 戒莉の旅支度は仕組まれていたかのように、あっという間に調ってしまった。

 

 

 

 

 

 




序の部分が、300文字程度で、これはどうにもならんので、前書きにしちゃったっ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『幸せな女』

 その女からは、不幸というものの匂いが全く感じられなかった。

 みごとなものだと、戒莉は感心した。

 

 

 戒莉たちが護衛をするその女は、白露といった。

 うっすらと青みがかった白い髪がキラキラと輝き、同じ色の長い睫に縁取られた大きな眼が印象的だ。そして、そこにはめられたごく薄い緑の瞳は、思わず指輪にでもしたくなる輝きに満ちている。

 着ているものは、ごく質素にみえるが、びっくりする程ものがいいのだと、珊揮は戒莉に耳打ちをした。織りがまた凝っていて、単色ではあるが花の模様がうっすらと浮き上がっている。それは近くで見なければ、気付かないようなものだ。それが本当の贅沢なのだそうだ。

 白露は二十歳だと聞いた。二十歳ならば、成人女性だ。だが、見た目は、どちらかといえば幼く、儚げな少女の面差しを残して居る。

 化粧はしているが、うすく粉をはたいて、紅をひいているにすぎない。 だが、それだけで充分だ。むしろそれ以上は、白露の美しさを損なうものとなるだろう。

 真っ白な美しさだ。

 戒莉の貧しい語彙の中では、そう表現するのが精一杯だったが、なかなかどうして的を得た言い方だと、珊揮は大袈裟なくらいに感心していた。

 ともかく、容姿はそのような調子な上に、大店の娘で、何不自由なく生きているという風情。白く細い指は、『生まれてこのかた働いたことなどない』と、言いたげだ。

 挙句、白露はこのたびは大学に推挙されたのだ。

 できすぎている。

 これを羨んだり、嫉んだりするのは、もはやばかげている。

 こんな人間もいるのだと、思うしかない。  

 

 

 

 その白露は、珊揮の顔をじっと見ていた。

 その横顔を、戒莉は目深に被った頭巾の下から、ちらりと見た。

 随分と熱心だが、珊揮に惚れたのだろうか。

 まさかな。と、思いながら戒莉は視点を白露から外した。

 珊揮は、女にもてないと言うわけではない。むしろ、不当なぐらいに珊揮に惚れている恋人がいる。しかも、複数。

 だが、珊揮は一目で女が惚れるような容姿では、決してない。時間をかけて、じわりじわりと真綿で首を絞められるように、女は珊揮に惚れていくのだ。

 それからいくと、戒莉は真逆だ。

 女は戒莉に一目惚れするが、時たつのと付き合いの深さに反比例して、戒莉の元を去っていく。

 戒莉は、また女難の相のことを思い出してし、ちょっと不機嫌になった。

 

 

「道中、よろしく御願いします」

 白露の唇から零れたのは落ち着いた声音で、尊大な心根の欠片も感じられない。

 戒莉は、やはり感心する。

 

 こんな女がいるのだ。と。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『二度とふたたび』

 生まれ育った街を離れるというのは、どんな気持ちなのだろうか。

 白露は、二頭立ての幌つき馬車に乗りこみ、珊揮と戒莉は騎獣にそれぞれまたがっていた。

 幌の中から、後ろに小さくなっていく街並みを見つめている白露の横顔を、戒莉は頭巾の下から盗み見た。

 

 戒莉の目には白露が嬉しそうに映った。

 大学に行くのだ。可能性に満ちた未来、希望に溢れる世界。それが彼女の前に広がっている。嬉しそうでも、ちっともおかしくはない。

 ならば、見据えるのは行く手、前方ではないだろうか。白露が、視線と心を遣るのは来し方、後ろなのだ。

 何がそんなに喜ばしいのか、戒莉はなんとなく訊きたい衝動にかられたものの、それを飲み込んだ。

 

 別に訊くことではない。

 

 それに、あまり喋らないことを決めている。海客であるということが、言葉の様子からばれてしまわない為だ。

 巧は、海客には厳しい国だ。

 巧に流れ着いた海客は、だいたいほとんどが殺されるのだという。

 海客は、巧ではとても憎まれている。それは、海客が現れると同時にその土地を襲う蝕のせいだ。

 蝕が通り過ぎた後には、何も残らない。

 刈り取り寸前であった作物も根こそぎ持っていかれるし、それどころか多くの命もさらっていく。

 海客が蝕を連れてくるのだと、皆思っている。いや、そうではないことを本当は知っているのかもしれない。

 奪われる悲しみや怒りの矛先が無ければ、やっていられないほどにその絶望は深い。

 そういうことなのだろう。

 

 流されて来たのが巧でなくて運が良かったのかもしれない。そう一度思ってみて、戒莉は笑った。

 本当に運がよければ、今ごろ戒莉は日本で暮していただろう。

 まあ実は、それすら運が良いとは言い切れないのだか。

 

 ともかくも、巧で海客であることを表立たせているのは、得策ではない。

 珊揮は『喋ることで、海客だとばれはしない』と笑い飛ばしていたが、日本語で話しかけても、こちらの言葉に聞こえるという仙の言うことなど、あてにはできない。

 

「よく、御覧になっておくとよいですよ」

 珊揮が、白露に語りかけた。

 戒莉の耳には、それが日本語に響く。

 さらに、珊揮は続けた。

「あれが、あなたが生まれた街ですよ」

 

 白露は、言葉でそれに答えはしなかった。だが、その瞳に浮かんでいた喜色は、珊揮の一言で掻き消えた。

 おや、と戒莉は首を傾げた。

 先ほどまで目の前に居た完璧な女が、揺らいでいた。

 じっと、旅立った家のある方を見据えながら、白露は不安な表情を見せる。

 期待と不安、悲しみと喜び。それら相反するものが、ないまぜになって彼女の中に存在する。

 白露は、急に不安定な存在となった。

 

 

 別れは悲しいものだ。そして、旅立ちは嬉しいものだ。

 白露の故郷は、遠ざかっていく。

 

 モウ カエラナイ

 モウ ニドト アエナイ

 

 戒莉は、頭巾を改めて深く被った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『誰も死なない』

 旅は、平坦な道を軽装でいくようなものだった。

 腰に差した剣が常よりも重い、戒莉はそう感じていた。

 

 もちろん、巧という国が平和な訳ではない。

 麒麟が死に、王が倒れて、国はあっという間に荒れてしまったと聞く。その荒みようは、並みのものではなく、一体どうして王は倒れたのか、何をしたのかと、民の声が表立って聞こえてくる。

 何故、巧の民は王を失うことになったのか。戒莉は知らない。それは、戒莉だけではない。巧の民のほとんどが知らないのだ。

 それどころではない、多くの民は王の名も知らぬというから驚きだ。

 自分の住んでいる国の為政者がどんな人物で、何をしたのか。民の生活に強い影響を及ぼすにもかかわらず、当の民には一切知らされないことが、よいこととはあまり思えない。

 

 この世界の民には、ほとんど政に参加する機会は与えられていない。

 皆、それは王のすることだと、国の行く末などというものについては考えない。考えても、仕方のないことなのかもしれない。王は麒麟が選ぶのだし、民は王を選べない。王のすることを、民は止めることも、後押しすることもできないのだ。

 ここは、そういう世界だ。

 

 戒莉は自分の手が、無意識のうちに剣の柄におかれていることに、はっとした。

 そうだ、この世界では、こんなもので身を立てることができる。

 剣は、日本では用のないものだ。

 

 

「ここで、休憩しましょう」

 珊揮が、そう宣言する。

 今日は、これで三度目の休憩だ。

 旅なれないお嬢様の為に必要なことだろうが、行程は進まない。

 馬車には立派な御者がおり、白露はただ乗っているだけで、何をしているというわけでもない。

 こんな調子で、今日の目的の街にたどりつけるのだろうか。

 戒莉は、苛立っていた。

 

 白露は、おいしそうに水を飲んでいた。『水なんて飲めない、お茶にしてくれ』と言い出すのではないかと、戒莉はぼんやり考えていたのだが、それは裏切られた。

 馬車の荷台の上で半日も揺られ、白露は疲れている様子だった。さすがに笑顔はない。しかし、『もう嫌だ。もっと休もう』とは、口にしない。

 実を言えば、護衛するのが深窓の令嬢だと聞いた戒莉は、その時点でかなり嫌な気分になっていた。どうせ、我がままで、自分の思い通りにならないと癇癪を起すような女なのだろうと考えたからだ。

 戒莉が今までに会ったことのある金持ちの女というのは、皆そんな感じだった。ゆえに戒莉は、白露もそんな女に違いないと決め付けていた。

 

「お前も、ぼーっとしてないで水を飲んだらどうだい」

「……」

 返事の代わりに、戒莉は水筒に口をつけた。

 珊揮に言われるまでもなく、戒莉は水を飲もうと考えていた。つい、白露の様子に眼を留めてしまっていただけだ。

「ずいぶんお嬢様のことが気になる様子だね」

 いつものからかい口調で珊揮は、戒莉の目の前に立った。

「別に」

 戒莉は、それで会話を終えようとした。

「別に?」

 少し、しつこい。

 溜息をついて、戒莉は珊揮を見上げた。

「俺のせいで、あの女が死ななければいいと思っただけだ」

 ひどいことを言っている。

「お前のせいで死んだ女なんていないよ。今までも、これからもね」

 即座に答える。

 珊揮は、本気でそう考えているのだろうか。たぶん、考えているのだろう。

 

 戒莉は、ふと可笑しくなった。

 

 こんな男もいる。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『剣は人を斬るのだろうか?』

 二日目になると、白露は異様に元気になっていた。

 

 変な女だと、戒莉は思った。

 昨日は、珊揮の方ばかりを熱心に見ていた白露が、今日は戒莉を質問攻めにする。

 戒莉は、その問いかけの総てを聞き流していた。

 白露が口にするのは、大したことではない。戒莉の年がいくつかとか、珊揮が『風渡りの珊揮』なのかとか。そんなところだ。

 大学に行くという人種も、それほど高尚な質問ばかりをしてくるわけでもないらしい。

 別に答えてもいいが、答えなくてもいいようなものばかりだ。

「あなたの剣、それ本物よね」

 あげく、愚問中の愚問だ。

 贋物の剣をさしている杖身は、杖身ではない。

 この女は戒莉を杖身と認めていないのかもしれない。

 少し前ならば、むっとしているところだが、戒莉は最近そういったことにはあまり腹が立つこともなくなっていた。

 戒莉の杖身としての第一印象は、十中八九どころか、十中十が最低なものだ。

 自分が杖身に見える方がおかしいのだと、戒莉は諦め始めていた。

 白露がそんな問いかけをしてくるのも、まあ許せる範疇だった。

 

「ああ」

 短く、戒莉はそう答えておいた。

 白露は、戒莉が一応の反応を見せると、なぜか満足気にピタリと黙った。

 

 後に、白露の質問攻めは、質問に答えてもらうのが目的ではないのだと、珊揮は解説をした。

『なら何のためだ?』

 その戒莉の質問には、珊揮はにやりと笑うだけで答えてはくれなかった。

 

 

 

 昼餉の休憩を取ったあたりから、戒莉は後ろが気になり始めた。

 距離を保っているものの、戒莉たちのあとをずっと着いてくる者があった。正しくは、『者たち』なのだろうが、姿を見せているのは一人きりだ。

 何事もないかのように歩みの速度を変えてはいないが、不自然なことは明らかだ。珊揮も彼らに気付いている様子だ。

 戒莉は腰の剣が、さらに重くなったような気がした。

 この剣は、また人を斬るのだろうか。

 戒莉が胸のうちで問いかけると、自らの声で応えが帰ってきた。

『斬るのは剣じゃない。お前だ』

 そのとおり。

 

 

 

 その日の宿に辿り着いたときも、まだ背後の影は消えていなかった。

「まあ、物取りか人さらいというところだね」

 まるで今晩の夕飯の献立を予想するかのような口調で、珊揮は戒莉に耳打ちした。

「どうするんだ」

「物取りなら馬車を狙うだろうし、人さらいならお嬢様を狙ってくるだろうしねえ」

 少し考える様子を見せて、珊揮は戒莉をちらりと見る。

 戒莉の意見を求めているようにも見えるが、そうではない。

「俺が厩で寝る」

 溜息ひとつ。それぐらいは、許されるだろう。

「いや、私が厩で寝るよ。お前は、お嬢様についててくれないかな」

「なんでそうなる?」

「おや、お嫌かい」

 何が面白いのか、珊揮は笑う。いつも笑う。

「別に」

 文句はある。しかし、戒莉はそれを言うことはなかった。

 

 女難の相は、もう消えただろうか。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『官吏』

 白露は、大いに不満そうだった。

 自分と同室だというのが気に入らないのだろうと、戒莉は思っていた。

 白露の身辺警護をするなら、同室であるのが一番いい。だが、白露にとってみれば、戒莉は得体の知れない男の一種でしかない。

 その男と同室とは、むしろ不安なのかもしれないし、屈辱的であるのかもしれない。

 まあ、同室といっても、居間をはさんで別々の寝室で寝るのだから、大したことではないだろう。

 戒莉は、そんな風に考えていた。

 

 食堂に行くことも警戒し、部屋に食事を運ばせることにしたのだが、それについては戒莉は少々後悔していた。

 白露は、一緒に食べようと言い出したのだ。

 まあ、同室で別々に食事するということの方が不自然だが、戒莉には白露と向かいあって食べるというのが、とてもぐあいの悪いことのように思えた。いままでも、朝餉などをとることもあったが、その場には珊揮もいた。ふたりきりというのが、どうも気まずい。

 戒莉は、無言で食べ続けることに専念することにした。

 とにかく食べ続ける限り、喋る必要はない。

 食べる量が、常よりも多くなっていく。嫌な汗が戒莉の額に噴出しつつあった。

 これをなんというのだろう。戒莉は、自分のなかにある言葉の引き出しをかき回した。

 ひらめく言葉があった。

 

―― 前門の虎、後門の狼

 

 いや、前が狼で、後ろが虎だったろうか……などと、戒莉の思考はどこか現実から離れつつあった。悪い癖だ。

 ふと、気付く。

 なぜか、昼間あれほど話しかけてきた白露が、ひとことも口をきかない。

 そんなにも、自分と同室にさせられたのが腹立たしいのかと、戒莉は考えた。やはり、こういうところが我がままなお嬢さんなのだろうか、と。

 どんなに白露が嫌がろうと、このお嬢さんを守るのが戒莉の仕事なのだ。そのためにどんな態度をとられても、同じ部屋にいる方が都合がいい。

 

 それにしても、賊の狙いはどちらなのだろう。

 荷物は、珊揮が守るだろう。いや、荷物など珊揮は守っていない。ただ、待ち伏せているのだろう。

 珊揮は、賊が荷物と騎獣狙いなのだと踏んだのだろう。だから、そちらで賊を待つ方を選んだのだ。

 戒莉を白露の方へ寄越したのは、そういう意図もあるのだろう。

 相変わらず、珊揮は自分を信用していない。

 戒莉は、こめかみに痛みを感じた。

「これ、味が濃くない?」

 ふいに、白露の声が問いかけてきた。

「別に」

 戒莉は、思索中に降り込んできた声に、短く答えた。

 それは単に、今口にしている料理の味を、戒莉が濃いと思わなかったというだけの理由だった。

 白露は、それを拒絶と感じたのか、それ以上は言葉を続けなかった。

 

 戒莉は、そのままぼんやりと白露のことを考えながら食べ続けた。

 白露は、大学へ行くのだ。あらためて思い出す。もちろん、そのための旅だ。決して忘れた訳ではない。だが、その意味するところを戒莉は、あまり考えたことがなかった。この、まだ若い娘は大学に行く。なんとなくだが、それは大変なことなのだということも分かる。

 これから、白露は戒莉とは全く違う道を歩んでいくのだ。輝かしい将来、とでも言うのだろうか。

 戒莉は、自分が行く道とはどんなものなのかを考えるに至った。

「あんたは、何で大学に行くんだ?」

 自然と、戒莉はそう問いかけたくなった。

 白露は、びっくりしたという顔のまま、戒莉を見返していた。

 そのうす緑の瞳に、血塗られた道を行く自分の姿が映るのが、戒莉には厭わしいことに思えた。

 つい、先に目を逸らしたのは、戒莉の方だった。

 

 白露は、少しの間をおいて、固まった表情をふっと緩めた。

「私はね。官吏になりたいの」

 その声は、いままでに戒莉が聞いた白露の声とは、様子が違っていた。

 

 

 ああ、この人は、政に関わる人間なのだ。

 戒莉は、気付いた。

 なんの為に官吏になりたいのかと問う前に、戒莉はその声音に、白露の意志を聞いたような気がした。

 

 

 戒莉の手には、国のために、多くの人のために何かできる力はない。ただ、血で穢れているだけの手だ。

 けれど、そんな手でも、守れるものがあるのかもしれない。

 そんな気がした。

 

 

 

 

 

 




15の夜。18だけど。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『因縁』

 白露が寝室へ入っていくと、中から戸に鍵がかかる音がした。

 戒莉がそうするように指示をしていた。戒莉にそう言われた白露は、何故という顔をしたが、それに従ったのだ。

 その音を聞いて、戒莉はひとつ息を落とした。それには、安堵の心が込められていた。

 あまり白露の姿を見ていたくない。いや、白露に自分の姿を見られていたくない。そっちの方が正しい、と戒莉は思った。

 立ち上がり、壁にかけておいた剣を戒莉は手にした。

 やはり、重い。

 

 法輪刀、またの名を天涯。

 

 なぜそんな銘がついたのか、珊揮も知らないという。

 堺仁は、法輪というのは悪や煩悩を打ち砕くものだという。蓬莱では、仏教そのもののことを言う場合もあるのだとかなんとか。

 そして、天涯。世界の果てということだ。もしかしたら、これは海客か山客によって名づけられ、あるいはもたらされたものなのかもしれないと、堺仁は興味深いとさかんに言っていた。

 そんな剣が巡り巡って、戒莉の手にあるというのも何かの因縁なのだろうか。

 

 

 静かだ。

 おそらく寝つきのよさそうな白露のことだ。扉の向こう側で、彼女はもう寝入っていることだろう。

 戒莉は、このまま何事も起きないのではないかという甘い錯覚に囚われそうになった。

 戒莉は、剣を鞘から引き抜いた。

 今夜の刀身は、ぬらぬらと、ひどく生々しいものに見えた。

 戒莉はそれを眺めながら、これから自分は人を斬るのだということを確信した。

 

 

 ひたひたと、近づくものの足音が聞こえた。

 それは耳では捕らえることのできないような音だ。

 言うならば、戒莉は全身で知覚する。

―― こっちが、当りだったか

 予想が外れて、珊揮は悔しがるだろうか。

 そんなことを考えたのは一瞬で、戒莉は素早く重心低くかまえた。

 ドンと短く扉が破られ、どうと何人かがなだれ込んできた。

―― 五人だ

 戒莉は、そう知覚すると同時に、『いける』と自覚する。

 無防備に飛び込んで来る一人目の額を割る。血は、あまり出なかった。

 意識を失いながらも、なおも飛び込んできた時の勢いを止めることのできない賊の体を、戒莉はひらと避けた。賊は床に転げる。これで一人。

 すかさず四人が、戒莉に斬りかかる。四方を囲まれ、戒莉は逃げ場を失っていた。

 瞬時に右のひとりを選んで、戒莉は突進した。

 突然矛先を向けられた方は、虚を突かれて一瞬ひるむ。それを目掛けて、戒莉は思い切り剣を突き出した。

 賊の切っ先が戒莉の頬をわずかにかすめ、戒莉の刃は相手の肩に届いた。

 肉を貫く感覚が、戒莉の手元に届いた。

 

「げぐあ」

 

 奇妙な声を上げて、またひとりが床にうずくまった。

 その男のもう一方の肩に足をかけ、戒莉は剣を素早く引き抜いた。

 あと、三人。

 戒莉に余裕は、もはやない。体勢を低く落とし、戒莉は一人を切り上げた。命の糸が、ふつりと切れる感じがした。

 それでも、戒莉は止まらない。

 のこり二人は左右にある。

 右の賊の剣を、天涯で受ける。がちりと刃と刃がぶつかり、戒莉の体はやや押された。

 力では勝てない。

 このまま左に行っては、もう一人の敵の餌食となる。

 しかし、戒莉は弾かれるように左へ飛ぶ。

 その勢いを殺さずに、戒莉は脇差を抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 




戦闘モード終了。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『扉の向こう』

 その夜も、白露はぐっすりと眠ってしまった。

 夢すら、白露の睡眠の深さに辿り着けなかった。

 ようよう起き上がり、ふらふらと戸を開けようとして、白露はそれに気付いた。

 鍵がかかっていた。

 それはなんと言うことはない。白露自身が昨晩かけたものだ。

 昨日の夜、食事を終え、寝室に引き取ろうとしている白露に、それまで黙っていた戒莉が言ったのだ。

「戸に鍵をかけてくれ」

 白露は、少し驚いた。

 言われなくとも、そうするつもりだったが、どうしてそんなことを戒莉が言い出したのか、白露は首を傾げた。

「何かあるの?」

「あるかもしれないし、何もないかもしれない」

 用心の為だと、戒莉は言った。それ以上、聞かれても何も答えないという響きがある。

 白露は、息をひとつ吐いて、分かったと頷いた。

 

 

 結局、別になにもなかったのだ。

 白露は小さく笑って、鍵を開けた。

「……」

 戸の向こう側に居間を見たとたん、白露の呑気さが露呈した。

 そこには、明らかに血を拭き取ったような跡があちこちに残されていた。

 その血は、決して少ないものではなかっただろうことが予想された。

「何?」

 何があったのか。これは誰の血なのか。その血の主は、生きているのか。

 様々な疑問が、空しくも白露の中を駆け巡った。

 白露は、直ぐに向かいの寝室の戸に駆け寄った。

「戒莉!」

 果たして、そこには空の寝台があった。

 近寄ってよくよく見れば、きっちりと整えられた寝具。そこには戒莉が横になった形跡がない。

 

「おはようございます」

 廊下の方から、声をかけてくる者がある。

「珊揮!」

 白露は勢い良く、廊下への戸を開けた。

「おはようございます。よくお休みでしたね」

 にこやかに笑う珊揮の声。やや皮肉のようなものが混じっていると感じるのは、白露の気のせいだろうか。

「何があったの!? 戒莉は?」

 口調が、つい強くなる。

「まあ、落ち着いてください」

「落ち着いてなど」

 いられないと、言おうとした白露を、珊揮は手で制した。

「戒莉は、大丈夫です。少し疲れたので休んでいますが、怪我や病気ではないです。それから……」

 やや、間をおいて、珊揮は微笑んだ。

「宿に賊が入りましてね。でも、安心してください。皆、捕まえましたから」

「え」

 白露は、その言葉を理解しきれずに、しばらく珊揮の顔を見返していた。

 どれだけの時がたったのか。おそらく、そんなにたってはいなかっただろう。

 白露は、はっとした。

「賊が?」

「そうです。昨日からずっと誰かが私達の後をついて来る感じがしていたんですよ。

 騎獣か荷物のどちらが目的だと思っていたんですがね。どうやら、あなたが狙われていたようですね」

 背筋に冷たいものが走るというのは、本当にそんな感じがするのだと、白露は知った。

 白露たちの様子を窺っていた者がいることに、珊揮は気付いていたのだという。

 それ故に、番をするために珊揮は厩で寝ると言い出したのだと。

 しかし、しかしと、白露は思う。

 荷物や騎獣は守れても、白露がさらわれてしまったり、傷ついたり、死んでしまうことがあったなら、どうするつもりであったのだろうか。

 白露は怒り混じりで、その疑問を珊揮にぶつけた。

「貴方は、私が狙われていた可能性を考えなかったのですか?」

「だから、戒莉と同じ部屋で休んで貰ったんですよ」

 さらり、ふわりと珊揮は笑って、そう答えた。

「だから?」

 白露はただ、繰り返した。

 

 だから、珊揮は戒莉を白露の近くに置いたと言うのだ。白露を守るために。

 珊揮は、白露を守ることに、それが有効と考えたのだ。

 それが正しかったのかと、問う以前に、答えはここにある。

「これは」

 白露は、辺りの血の染みを指した。

「これは、戒莉が?」

「そうですよ。五人です。幸いなことに二人は息がありました」

 静かな珊揮の声音に、白露はあらためて戦慄する。

 賊が襲ってきた。

 戒莉は、五人の賊をここで斬った。そうして三人は、死んだということだ。

「戒莉が怪我をしたのではないのね」

 呆然としながらも、白露の意識はそこへ向かった。

「ええ。でもね、やっかいなことに戒莉は血に弱いものでね。寝込んでますよ」

「は?」

「面白いでしょう。特に自分が斬った相手の血がね、駄目なんですよ」

「それは……酷い話だわ」

 珊揮の笑顔に、白露はそうつぶやいた。

「でしょう」

 珊揮は、にんまりとした。

「扉一枚隔てたところで大立ち回りをしていると言うのに、貴女はぐっすり眠っていた。

 貴女のような図太さが、少しでも戒莉にあればいいんですがねえ」

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『おかげさま』

 旅は、続いた。

 

 戒莉は、馬車の荷台の隅で丸くなって横になっている。

 ただでさえ白い顔が、いまや蒼いくらいだ。

 馬車に揺られることが、戒莉の体に障らないか、少し宿で休んでいた方がよいのでは。と、白露は言ったが、珊揮は大丈夫だと笑った。

「なあに、一日こうして寝ていれば、けろりとして起きて来ますよ」

 そんなことを言って、珊揮は荷台に戒莉を乗せると、自分はさっさと騎獣にまたがった。

 戒莉の乗っていた騎獣の手綱を器用に引きながら、珊揮は先を行く。

 白露はその背中を暫く眺めていたが、珊揮の方は一度も振り返らなかった。

 

 

 白露は、戒莉の顔を覗き込んだ。

 戒莉は、確かに眠っているだけだった。

 美しいという言葉は、もはや陳腐な気がするが、そんな言葉しか見つからない。

 

 この男は、美しい。

 

 初めて戒莉を見たときに、白露はそのキレイな顔にただ、驚き、ため息をついた。

 この男は、美しい。

 だが、それだけではない……ような気がする。 それが何かは、白露には説明できなかったが。

 白露は、その冷たい頬にそっと触れた。

 戒莉は少し顔をゆがめて、眉根に皺を寄せた。

 起こしてしまったかと、白露はひやりとした。しかし、戒莉は一言、聞き取れない言葉をこぼして、再び規則正しい寝息を落し始めた。

 なんと言ったのだろうか。

 その言葉は不明瞭ではなかったが、その意味を汲み取ることが、白露には出来なかった。

 

「いたずらしないでくださいよ」

 ふいに、珊揮の声が降ってきた。

 むろん。白露をからかうよう調子の声音だ。

 珊揮は、いつの間にか馬車の背後まわり、幌の中を除きこんでいる。

「そんなことはしませんよ。あなたではないですからね」

 目には目を、毒には毒で、軽口には軽口で。だ。

「おや、私がいつそんなことをしました?」

「別に、あなたはいかにもそんなことをしそうだから」

 白露は、やや砕けた口調で珊揮に笑いかけた。

 珊揮は、その笑顔を見ると、『確かにそうかもしれませんね』などと嬉しそうだ。

 

 

 本日、何度目かの休憩中に、戒莉はのっそりと馬車から降りてきた。

 顔色は、大分良くなっていた。

「あら、おはよう」

 白露は、極上品の笑顔で戒莉を迎えた。

 戒莉は、無言で暫くの間じっと白露を見ていたが、すっと視線を外した。

 正にご挨拶もなし、だ。

 そこに珊揮が、現れては戒莉に追い討ちをかける。

「おや、はやいお目覚めだね」

 ニコニコと邪気のないのが、不気味だ。

「オカゲサマデ」

 戒莉は、仏頂面のまま、ぽつりとそんなことを言った。

 




1,003文字! 頑張った!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『道を選ぶ』

 旅は、基本的に単調なものだ。

 危険なことが次から次へと襲いかかってくるものでもない。

 もちろん、何かあった方が良いというはずもない。

 賊に狙われるなどというのも、もうごめんだ。

 もっとも、

「この先で妖魔が出た」

 という話を聞くのは、そう珍しいことではない。

 白露は、実際に出くわしたことはないが、巧の国中では、妖魔は街にまで現れているらしい。

 妖魔とは、できれば一生お目にかかりたくない。

 白露は、そう思っていた。

 いくら珊揮でも、妖魔を必ず倒せるという保障はないだろう。

 そんな話を、白露は珊揮にした。

 珊揮は、例の調子で笑いながら、何とかなるでしょう。などと、いいかげんなことを言った。

「それに戒莉は、柳で馬腹を一撃で倒したことがありますよ」

 そんな、見え透いたことを言う。

 だが、と白露は思う。

 もしかしたら、本当なのかもしれない。

「戒莉は強いのね」

「ええ……けれど、『違う』とも言えますよ」

 まるで謎かけだ。白露は、少しうんざりしていた。

「戒莉は、私にも理解できないところがありましてね」

「付き合いは長いの?」

「六年。長いか短いかは、人それぞれの考え方ですね」

 珊揮が、白露には寂しそうに見えた。

 珊揮と戒莉の関係は、白露にはまだ理解できない。

「あなたは、どう思うの?」

「まだまだ、ですね」

「そう。じゃあ、私なんかは全然ね」

 わざと軽い口調で、白露は言ってみた。

 

 

 その日は、昼の休憩をとって半時ばかりまでは順調だった。

 ただ森は深く、いつまでたってもそこから抜け出せる気がしなかった。

 珊揮は、予定どおりにいけば、夕刻までにはギリギリ森を抜けられるということだ。故に、休憩はあまりとらずに進むことになると、朝から白露は説明を受けていた。

 

 

 昼餉のための休みが、その日初めての休憩だった。

 後は休みなしで森を抜けると、珊揮はあらためて言った。

 戒莉も、その方がいいだろうと言った。

 そして、こうも言った。

「何か、嫌な感じがする」

 雨こそまだ降っていなかったが、木々の向こうに切れ切れに見える空には、黒い雲がどんよりと垂れ下がっていた。

 これで雨にでも降られたなら、足が遅くなる。

 最悪、森で野営をしなくてはならなくなる。

 多少の無理をしてでも、はやく森を抜けた方がいいということになった。

「という訳ですから、少々覚悟をしてくださいね」

 珊揮は、やんわりと言うが、白露はそれを重く受け止めた。

 それから、馬車を進める速度を極端に上げたわけではないが、あきらかに一行は急ぎ始めた。

 戒莉は、相変わらず白露の乗る馬車の後ろをついてくる。

 ただし、いつも被っている頭巾はしていなかった。

 その整った顔を上げて、周囲に気を配っている。

 張り詰めている。

 確かに、今までにない緊迫感が白露たち一行を包んでいた。

 そのさなか、白露の目は戒莉を追っていた。

 

 このキレイな生き物は、穢れを知らない存在ではない。むしろ、普通に生きている者とは比べ物にならぬほどに、その手を汚している。

 それが分かっていてもなお、白露は幻想を引きずっていた。

 戒莉は白い。一点の染みもなく、清廉潔白だと。

 おかしなものだ。ただ、きれいな造作をしているからといって、そんなはずもない。見た目に惑わされてはいけない。

 

 何故、戒莉は剣客などという、ことさらに似合わない道を選んだのだろう。

 では、と、白露は自問する。

 自分に官吏は似合うのか、と。

 自分が、官吏になるということは、似合わないなどという生易しいものではない。

 そう考えると、戒莉が剣客であるのも、何の不思議もないような気がしてきた。

 

 似合う、似合わないという理由で、人は道を選ぶのではない。

 ただ、そうしたいと思うから、そこへ向かっていくのだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『誰かのこえ』

 森の深さは、白露の想像を超えていた。

 その時間の長さに、白露の緊張の糸が解け始めていた。

 ゴトゴトと揺れる荷台の上で、白露は眠りの淵に立っていた。あともう一歩踏み出せば、底なしの闇へと落ちていきそうだ。

 

 

 

 遠くで、声が聞こえた。

 誰かが泣いている。ああ、これは赤ん坊の声だ。

 誰なのだろう。

 まどろみの中の思考では、答えには辿り着けなかった。

 白露は、その声のする方へ近づいていく。

 白露は、闇のうちに泣いている子供を見たような気がした。

 小さな女の子だ。あれは、誰だろう。

 何を泣いているのか。何がそんなに悲しいのか。

『どうしたの?』

 声をかけるが、その子はただ顔を覆って泣くばかりだ。

 白露は手を伸ばし、その子の肩に触れた。

 びくりと、子供の体が跳ねた。

 白露は気付く、これは自分だと。

 幼い頃、田舎に預けられたときの白露は、毎日泣いてばかりいた。

 誰とも遊んではいけないと言われて悲しかった。

 人に見られてはいけないと、家の中に閉じこもって息をつめて生きていた。あの頃。

 白露は、小さな自分の肩を抱きしめ、耳元で優しく囁いた。

 

『大丈夫。泣くことなんてないわ』

『ほんと? 大丈夫?』

『もう、心配しなくていいの。母さまも、父さまもみんなが待ってる』

『じゃあ、なんで迎えに来てくれないの?』

『もう少し、大きくなったら、絶対に来てくれる』

『どれくらい大きくなればいいの?』

『ずっと、人でいられるようになったら』

『人?』

『そう。人でいられたら、外で遊べるし、家にも帰れる。父さまや母さまとも、一緒に暮せるの』

『……じゃあ、駄目ね』

『え?』

『だって、あたし、人じゃないもの』

『なにを言ってるの?』

 白露は、幼い自らの顔を見た。

『だって、あたし、獣だもの』

 ニヤりと、唇の端が上がるのが、見えた。

 赤い、赤い口だ。

 

 

 あっと、声をあげて白露は覚醒した。

 夢だ。

 

 嫌な夢だと、溜息をひとつおとしたところで、白露は現実世界の異変にようやく気付いた。

 馬車が、あきらかに異様な速度で走っている。

 御者は、ただめちゃくちゃに馬を追い立てている。

 どこをどう走っているのか、白露には全く分からなかった。

「どうしたの!? 何があったの」

 そう怒鳴るが、御者は振り返ることも手綱をゆるめることもない。

 立ち上がることも出来ぬ揺れに、白露は這いながら前を目指した。これでは、まるで獣だ。

「止まりなさい!」

 御者の肩に手をかける。

 御者は、悲鳴を上げた。

「なに?」

「あ、ああ、お嬢様」

 御者は何と自分を間違えたのだろうか。御者はうろたえ、呆然としながらも、必死で馬を走らせ続けようとしている。

「何があったの?」

 少し、落ち着いた声で白露はその言葉を繰り返した。

「あ、妖魔です! 妖魔が出て!!」

「妖魔? 珊揮と戒莉は?」

 荷馬車の周囲に、いるはずの二人がいない。

「あの二人が、妖魔を足止めするから、逃げろと。ただ逃げろと!!」

 御者は、揺れに舌を噛みそうになりながら、それだけをなんとか言い切った。

「分かったわ。まかせるから、御願いね」

 白露は、頷いて御者の肩を叩いた。再び後ろに視線を遣った。

 何かが追いかけてくる様子はない。ただ、遠くで声がした。夢の中で聞いた。あの、赤ん坊の声だ。

 

 あれは、妖魔の声だ。

 獣の声だ。




お嬢様の特技は、どこでも、何が起こっても眠れることです。
すごいですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『おかしなもの』

 まだ、日は落ちきっていないにも関わらず、森は薄闇に侵食されていた。

 木の陰に何かが潜んでいたとしても、事前に察知することは難しいだろう。

 だとしたら、動き続ける方がいいのかもしれない。

 ただ、確実に白露達は道に迷っている。このまま、いたづらに走り続けてよいものか。

 この道を行くことが、森を抜けるということなのか、ただ深みにはまっていると言うのか、全く分からない。

 どこかでじっとしていた方が、珊揮と戒莉の助けを期待できるかもしれない。

 いや、助けどころか、妖魔が相手だ。あの二人もどうなったのか、分からない。

 

 白露の思考は、めまぐるしく巡るものの、絶望的な方向を目指すばかりだ。

 そうこう惑ううちにも、陽が傾き始めている。

 このまま、走り続けていいものなのだろうか。

 馬もこれ以上走るのは負担だろう。荷を棄てた方が、いいかもしれない。いっそ、車を乗り捨てようか。

 白露は、闇に飲まれつつある周囲に目を凝らした。

 何か、どこかに、隠れ込む場所はないのか。

 

 

 目の端に、奇妙な木が映った。

 それは、周囲のどの木とも似ていない。

 白露が見た木の中で、それに似た木は確かにあった。

 記憶の中のその木は、枝にとりつけられたとりどりの帯が風にそよぎ、大きな実をつける木だった。

―― 里木…… 

 もちろん、里木がこんな森の中にあるはずがない。

 あるとしたら、それは野木だ。

 

 

 

「大丈夫なのでしょうか」

 御者は、白露の様子を窺いながら、おそるおそる尋ねてきた。

「ええ、野木の下ならばどんな獣も襲ってこないのよ」

 確か、そのはずだが、白露も本で読んだだけで、実際にどうなのかは自信がない。だが、御者に対してはその不安は隠して笑顔を見せた。

「そうですか」

 御者は、白露の微笑みにようやく肩に入った力を落とした。

「馬を休ませましょう。それから、どうするかを考えないといけないわね」

「はい」

 御者は、いそいそと馬の方へ向いて行った。

 

 白露は、御者に見えぬところで溜息を小さく落とした。

 野木の下に逃げ込んだものの、この後どうしたものかが考え付かない。

 白露は、それでも考えを広げようとした。

 野木の下は、安全。確かに、そのはずだ。夜、山野や森で休むにはここより安全な場所はない。

―― ああ、でも

 野盗に対しては、有効ではない。

 そう考えると、白露はふとおかしくなった。この野木の下で危険なのは、獣ではなく、人なのだ。

 おかしなものだ。

 ここで、白露からふっと良い感じに力が抜けた。

 おかしなものだ。

 




1001文字!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『思案』

 白露は、御者に火を起させ、地図を広げた。

 それは巧の全体を示す地図だ。森の位置は分かるが、自分達が森の中のどこにいるのかは全く分からない。

 森には、東から入って北へ抜けるのだと、珊揮は言っていた。

 陽がしずんでいった方角から、行くべき方向を白露は考えることができる。だが、あくまでもだいたいで、正確なものではない。

 それにかけるか、ここに留まって助けを待つか。

 白露は、決めかねていた。

 あらためて、地図を眺めてみる。

 この森さえ抜ければ、街は直ぐ近くにある。街まで行けば、何とかなるという自信はあった。

 あくまでも、森さえ抜ければ。だが。

「どうしたらいい?」

 つい、口にするつもりのなかった言葉がこぼれていた。

 御者は、それを自分への問いかけと思ったのだろう。それまでぼんやりと薪を火にくべていた手を止めた。

「ここで、助けをお待ちにならないんですか?」

 それも一つの手だ。しかし、助けが来ると言う保障があるのだろうか。

 あの二人。珊揮と戒莉は、未だ姿を現さない。もう既に、この世の人ではない可能性だってある。

 その可能性は無視できないのだが、白露はあの二人の死を信じてもいない。

 

「そこが思案のしどころなのよ。あなたはどう思う?」

「私などには分かりません」

 御者は首がもげるのではないかという勢いで、首を振った。

「でも、私よりもあなたの方が旅慣れているでしょう」

 白露には、御者に意見を求めるのは極当たり前のことのように思えた。

 だが、御者の方では、そんな風には思ってなかったらしい。ひたすらに恐縮し、慌てている。

 白露は、ここで重大なことに気付いた。

「ねえ、今気付いたんだけど」

「な、何ですか」

 御者は、白露の口がどんな怖ろしいことを言おうとしているのか、おののきながらも訊かずにはおれなかった。

「私、あなた名前を知らないわ」

 頭上に巨大岩石でも落ちてきたような衝撃に襲われているような表情で、白露は御者に訴えかけてくる。

 もしや、これは場を和ませるための冗談なのかもしれないと、御者は考えようとした。何か気のきいたことを自分も言うべきなのか……。

 だが、白露の様子は真剣そのもの過ぎて、御者は名を名乗るのが精一杯だった。

「……私は、洋高と申しますが」

「そう、洋高……悪かったわ。ごめんなさい」

 そんな風に謝罪の言葉を差し出された洋高は、とにかく混乱するばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜の闇は、白露が今まで見た中で、一番深かった。

 とりあえず、御者の洋高が用意してくれた食事をとり、眠ることにした。

 もしも明日の朝になって、珊揮も戒莉も現れなかったら、自力で森を抜けようと、白露は考えていた。

 その為にも、体を休ませなければと自分に言い聞かせてはいるものの、白露はとても眠れそうにないと思った。

 白露は地面の上に敷物をひき、体だけ横たえてみた。

 

 

 静かの中に身を落すと、何の拍子か、戒莉の問いかけが脳裏にふと甦ってきた。

『あんたは、なんで大学に行くんだ?』

 白露は、なんと答えたのだろうか。

 そうだ。こう答えたはずだ。

『私はね、官吏になりたいの』

 なぜ、官吏になりたいのか。

 白露は、自らに問う。

 

 

 小学に通う頃、勉強熱心で、頭のよい学友がいた。それが白露が上の学校へ進んだとたんに、姿が見えなくなった。

 それは、その子が半獣だからだと。皆、当たり前のことだという顔で言った。本来ならば、小学にも通えないはずの者なのだと。

 白露とその子では、何が違ったのだろうか。

 自分はここに居ていいのかと、白露は自問した。

 半獣のあの子が、学校を追われ、自分がのうのうと勉強を続けるということが、とてつもなく罪深いことだと思った。

 それは我がままで、贅沢な痛みに過ぎない。

 だが、いや、だから、白露は半獣だろうと、貧しかろうと、誰もが望んだように生きられる国が欲しいと思ったのだ。

 人に上も下もない。半獣だからといって、差別をされる謂れはないはずだ。

 しかし、そう思っていたのにも関わらず、傲慢が頭をもたげる。

 ここまで共に旅してきたというのに、白露はついさっきまで、御者の名前を知らなかった。

 白露の濁った目には、洋高が荷馬車の一部にしか映っていなかったということだ。

 白露は、ずしりとそれを受け留めた。

 これも自分だ。

 知らず、知らずのうちに人を人と思わずに過ごしてしまう。自分はそんな人間なのだと。

 なんと弱く、愚かな生き物なのか。

―― 強く、もっと強く

 白露は、目を固く閉じた。

 

 

 

 

 




さすがのお嬢様も、眠れないようです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『獣の夜』

 

 

 そのまま眠ってしまってことに気付いたのは、どれほどたった頃だったろうか。

 白露は、図太い自分の神経に呆れながら、笑った。

 そういえば、盗賊のときも、妖魔に襲われたときも、白露は肝心なところで眠りほうけていたのだ。

 そしてまた、白露は自分の呑気さかげんに、ほとほと嫌気がさすこととなる。

 

 

 静かだ。そして、寒い。

 寝返りをうつと、焚き火が消えかけているのが白露の目に映った。

 いけないと、身を起したところで、白露ははっとする。

 何の気配もない。

 危険が迫っているわけではなかった。

 しかし。

 馬車がない。

「洋高!」

 白露はすぐさま飛び起きると、御者の名を呼んだ。

 返る声もない。

 洋高の姿は、消えていたのだ。

 

 

 白露は、笑った。大声を出して、笑った。それを聞くものがあったなら、妖の声と聞いたかもしれない。

 そう思うと、白露は益々おかしくなって笑った。

 情けない。

 洋高は馬車とその積荷を持って、白露を置いて行ってしまった。これがどういうことを意味するのか。よもや単身、助けを呼びに行ったのではあるまい。

 やはり、野木の下で一番危険なのは、人であったということだ。

―― 人は嫌だ

 白露は、その言葉を洋高と、自らにも投げつけた。

 人は裏切る。

 人は醜い。

 人は愚かだ。

 ならば、いっそ獣であった方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

 ふいに、背後に光が見えたような気がした。

 白露の笑いは、ピタリと止んだ。

 ゆっくりと、白露はその光の方へ振り返った。

 それは、闇夜を照らすような眩い光ではない。

 ただ、黒い世界に赤い炎の玉がふたつ、ゆらゆらと点っていた。

 白露は、息を飲んだ。

 これは何なのか?

 白露の中で、熱いものが駆け巡った。

 答えは、簡潔だった。

 

 これは、獣の眼だ。

 

 声ひとつ立てず、身じろぎひとつせず、白露はその眼を見返していた。

 その赤い眼も、じっと白露の眼を見ている。

 じわりと、全身から汗が滲んだ。

 野木の下にいれば、相手は襲っては来ない。そう理解しながらも、白露は今にも飛び掛ってきそうな視線に息が止まりそうだ。

 にらみ合う相手はその目だけを晒し、姿を闇に隠している。

 白露には、無防備にこの世界に放り出されている自分が見えた。

 震えが止まらない。

 牙に、爪に引き裂かれることを恐れているのではない。

 もの言わぬ赤い眼が、白露にこう語りかけてくる。

 

『お前は、こちら側の存在ではないのか』

 

 ふっと、赤い視線が白露から外された。

 光が、消えた。

 おそらく、獣は白露に背を向けて、立ち去ろうとしている。

 草木を揺すりながら、遠ざかる足音。

 白露は、声を出そうとしたが、喉は干からびていて、何の言葉も出ては来なかった。

 もしも声が出たならば、白露は何を言えたのだろうか。

 置いていかないでくれと。連れて行ってくれと。叫んでいたかもしれない。

 

 その夜、白露は人の姿をしていなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『残念』

「大丈夫かい?」

 珊揮が声をかけた頃には、戒莉は既に失神寸前だった。

 当然、返事などできはしないはずだったが、朦朧としながら、戒莉は何事かを口にした。

 たぶん、『平気だ』とか、そんな強がりの類であったのだろう。

「おっと」

 戒莉が前のめりに倒れるところを、珊揮は受け止めた。

 やはり、軽いな。などと、戒莉が聞いたら怒りそうなことを、珊揮は思った。

 もっとも、最近の戒莉はあまりそういうことに直接怒ったりはしなくなった。珊揮の前ですら、身体的な劣等感を、戒莉は飲み込むようになっていた。

 そういうことが、けっこう淋しいものだと、珊揮が気付いたのも最近のことだ。

 

 戒莉は、うすく目を開けていた。

 まだ気を失っているわけではなさそうだが、時間の問題というところだ。

「もういいよ。少し休んでおいで」

 そんな珊揮の言葉に促されてではないだろうが、戒莉はすとんと意識を失った。

 

 

 森で、妖魔に襲われた。

 相手はわずかに二頭であったが、意外にてこずってしまった。

 二人で妖魔を倒している間に、白露の馬車は完全に姿を消していた。

 確かに、逃げろと言ったが、あまりの逃げ足のすばらしさに、珊揮は感心していた。あの御者は、慌てながらも馬を追い立て、確実に妖魔から離れていった。

 

「さてと、どうしたものかね」

 白露たちを追っていかねばならないところだが、どこをどう探したものか分からない。何より、戒莉をこのまま置いていくわけにもいかない。

 珊揮は思いあぐねて、戒莉を介抱するほうを選んだ。

 これで白露にもしものことがあったら、どう言い訳しようかと思いながら、珊揮は戒莉を抱えこんだ。

 ぐったりと、珊揮の腕にすべてを委ねている戒莉の顔色は、蒼白い。

 珊揮は、常にはない厳しい表情でそれをみた。

 今日はまた、ずいぶんとたっぷりと血を浴びたものだ。適当な水辺を探して、戒莉の体についた妖魔の血を落としてやらねばならない。

 珊揮は、戒莉を抱えたまま、ひょいと騎獣に飛び乗った。

「……」

 その反動のせいだろうか、戒莉が僅かに目を開けた。

「おや、珍しいね」

 ひとたび気を失うと、戒莉は血をおとして暫くしないと目を覚まさないものなのだ。

 しかも、戒莉の唇が小さく動いている。何かを言いたげだ。

 珊揮は、戒莉の口元に耳を近づけて、その言葉を拾おうとした。

 珊揮が聞き取れたのは、僅かに女の名だけだった。

「ハクロ……」

 珊揮たちが、ここまで護衛をしてきたお嬢様の名だ。

 まともな状態でもないくせに、なお戒莉は白露のことを気にかけている。

「そんなにあのお嬢様が、気になるのかい? 妬けるねえ」

 その場には相応しくない軽口を含んで、珊揮は笑った。

 さすがの戒莉もこれには怒っていただろうが、次の瞬間には、戒莉の意識はまた深く落ちてしまって、反論することは出来なかった。

「残念……」

 珊揮は、独り呟いた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『黒髪』

 だいたい思ったとおりのところに、池を見つけたときに、珊揮はほっとした。

 池は以前よりも、小さくなっているように見受けられるが、戒莉の血を洗い流すには充分だ。

 珊揮は、戒莉を抱えたままそっと騎獣から降りた。

 戒莉はぴくりとも動かない。おそらく少々乱暴に扱っても目を覚まさないだろう。

 珊揮は、戒莉を地面に下ろし、血で赤く染まったその衣服をはいだ。

 そうして、ぐったりとした戒莉を抱え込んで、そのままザブザブと池の中に分け入り、腰ほどの深さまできてぴたりと止まった。

 

 片手で戒莉の体を支えて、もう片一方の手で水をすくい、戒莉の頬にかけた。

 戒莉は、気付く様子はない。

 珊揮は、体にこびりついた血はこすって落とし、髪を水に浸した。

 黒く長い髪が、水の中で生き物のようにゆらゆらと泳ぎだした。

 珊揮は、念入りに髪を洗う。体についた血よりも、髪の方がやっかいなのだ。きちんと洗ってやらないと、血の匂いは落ちない。

 洗うのも乾かすのも面倒だからと、戒莉が髪を切ろうとしたのを、あわてて皆で止めたことを、思い出して珊揮は微笑んだ。

 確かに、もう少しくらい短くしたほうが、こういうときは良いんじゃないかと思うが、やはり勿体ないと思う。

 戒莉の髪は、寸分の光も寄せ付けないほどの漆黒だ。海客は、だいたいが黒髪だが、これほど見事な黒には珊揮もお目にかかったことはない。

 いや、お目にかかったことがないといえば、この容姿だ。

 

 

 

 初めて戒莉を見たときには、こんなにキレイな子だとは気づかなかった。それほどに痩せこけ、そして汚れていた。むしろボロボロで、いびつな子供だった。

 体を洗い、清潔な衣服と充分な食事を与えてやると、痩せこけて死にそうだった子供が、少しずつ人らしい肉付きと健康を取り戻していった。

 その様を見ているのが、珊揮には先ず楽しかった。

 そして徐々に、戒莉の容貌がひどく整っているのに、気付いていったという訳だ。

 

 

 

 戒莉は、だいたい十九になる。

 その割に体つきが貧弱なのは、食が細いせいだろう。無理やりにでも、もう少し食べさせた方がいいのだろう。

 藍椋もそう言っていたな、などと珊揮が思っているところで、戒莉の指がわずかに動いた。

 一度失神してから、二度も途中で気付くとは、珍しいこともあるものだと、珊揮は戒莉に微笑みかけた。

「もう少し、大人しくしていなさい」

 戒莉は、何か言いたげにやはり口を動かすが、溜息のような声が洩れてくるだけだ。

 戒莉の底なしの闇のような瞳が、やや怒っているのが見て取れる。

 戒莉は、自分の状況が理解できているようだ。

 ここ数年で、血に慣れてきたのだろうか。戒莉の回復がはやくなっているような気がする。

 珊揮の手は、休むことなく戒莉の髪を洗い続けた。

「これぐらいで、いいかな」

 戒莉に問いかけるかのように、珊揮はそう言うと、池から上がった。

 珊揮はてばやく戒莉の体を拭き、髪をぬぐった。着替えを荷物から取り出し、あっという間に着せる。

 手馴れたものだ。

 せっかく行水したのにも関わらず、陸に上がって泥で汚れてしまったが、まあいいだろう。

「さて、少し休んでおいで」

 木の根方に横たわらせると、今度は珊揮自身が体を洗うために池に再び入っていった。

 

 戒莉は、ぼんやりと珊揮のその様子を見ていたようだが、やがてもの凄い声が珊揮に飛んできた。

「珊揮!」

 

 

 




お目覚めです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『伝わらない』

 意識がぼんやりと浮上してくると、戒莉は自分の体が奇妙にふわふわするのに心地よさを感じた。

 見上げると珊揮の顎がそこにあった。

『ああ、やっぱり岩みたいな顔だなあ』などと戒莉は、ぼんやりと考えていた。

 そうして戒莉が、自分が珊揮に体を洗われていることに気付くまで、やや時間を要することとなった。

 

 ようやくソレに気付いた時に、戒莉は体を動かそうともがいた。しかし動いたの指一本、しかもピクリと僅かなものだ。

 だがそこで、珊揮も戒莉の意識が戻ってきていることに気付いたらしい。

 にっこりと、やはりあのあやすような笑顔を、戒莉に向けた。

「もう少し、おとなしくしていなさい」

 さすがに最近、そんな程度では怒りはしなかった戒莉だが、むっときた。

―― なんだ、その子供扱いは

 とは言え、珊揮に体を洗ってもらわなくては自分でも何もできない状態だ。戒莉は、益々不機嫌になっていった。

 

 かなり乱暴に、珊揮は戒莉の頭をガシガシと洗っている。

 まあ、優しく洗われても気味が悪いので、それはいい。

 それにしても、情け無い姿だ。

 戒莉は、悲しくなる。自分で自分の面倒もみれないのだ。こんな自分が、杖身を続けることは、むしろ迷惑なのかもしれない。いや、絶対に迷惑で足手まといだ。

 じわりと、涙が滲む。涙など、枯れ果てたかと思って油断していたが、目じりから零れてしまった。

 珊揮は、見ただろうか。見たかもしれないが、あんまり珊揮が乱暴に頭を洗うので、池の水の雫がかかったのだと後で言えばいい。

 戒莉は、そんなどうでもいい言い訳を考えると、観念して珊揮のするがままに身を任せることにした。

 

 やがて、岸にあがり身支度を整えてもらうと、裸でいるときよりは戒莉の心が落ち着いた。布一枚のことだが、不思議なものだ。

 そこで、はっとする。

―― 白露は、どこだ?

 首をめぐらせてみようとしたが、体が言うことをきかない。

 周囲の様子から、白露が近くにいる雰囲気がしない。

 珊揮に問いかけようとするが、声も出ない。

 しかも、珊揮はみずから行水しはじめるという呑気さを見せ始める。

 再び、かっと怒りがこみ上げた。そのおかげだろうか、戒莉の口が動いた。

「珊揮!!」

 その声に、戒莉自身びっくりした。

 

 珊揮は振り返ると、ゆっくりと水から上がってきた。

 ずぶぬれだ。

「なんだい、戒莉」

 そんなことを言う。

「ハク……ロ」

 まだ喋りにくい。戒莉は、咳き込みながらそれだけを何とか吐き出した。

「さてね。逃げたと思うけど」

「あ……」

『あんたはバカなのか』と、戒莉は言いたかったが、そこまで自由に口は動いてくれない。

 護衛する相手を放っておいて、呑気に行水している杖身がいるものか。

 戒莉は、目で訴えた。

「ああ、戒莉。お礼はいいよ。お前の面倒を見るのは慣れてるからね」

 

 伝わらない……。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『無理は通らない』

 

 

 

 珊揮の話によれば、白露の乗った馬車はうまく逃げおおせているはずだ、とのことだ。

 

「うまく逃げすぎてるような気もするんだけどねえ」

 なんだか気になるもの言いをする。

 珊揮は、こんな風になぞかけのようなことを言うことがある。

 状況的には、そんな余裕はないのではないかと思う時でも、それは変わらない。

 戒莉はそれに苛立つが、珊揮の言葉の意味を察することができない自分に腹を立てている割合も大きかった。

 戒莉は口惜しさから、これまでその意図するところを聞かずにいたが、今はそんなことを言ってる場合ではない。

「あんた、なにを疑ってる?」

 やや、もつれ気味の舌で、戒莉は問いかけるというよりも、命じていた。

「まあ、御者がちょっと怪しいかなって思ってるだけ」

 珍しくあっさりと、そしてなんとも軽々しく、珊揮は言ってくれた。

「こんなとこで呑気にしてる場合か?」

 そう叫ぶとともに、体を起そうとしてみるが、全くどこにも力が入らない。戒莉は、情けなさに泣きたくなるが、今は泣きはしない。

「まあまあ、無理は禁物だよ」

 珊揮の様子は、状況に不似合いなくらいに落ち着いている。

 戒莉は、自分があせればあせるほどに、この男は冷静であろうといるような気がした。

「お嬢さんは、今から私が探してくるから。お前は、ここで大人しくしておいで」

 その満面の笑顔は、戒莉を落ち着かせようとしているのか、はたまた煽ろうとしているのか?

 不明だ。

 

 珊揮は戒莉の背に手をさしこむと、その体を起こした。そして剣を、戒莉に差し出した。

 戒莉の手の力は、まだ弱く、とても剣など握れたものではなかった。しかし、珊揮はそれにかまわず鞘から剣を引き抜くと、柄を戒莉の掌にのせ、それを握らせた。

「これで、なんとかできるね」

 問いかけではない、断定だ。

 戒莉は、頷くだけだ。

 

 

 

 珊揮が遠ざかっていくのを、戒莉はただ見送るだけだ。

 なにしろ、立ち上がるどころか、剣を支えに座っていることもやっとのところだ。

 既に手が痺れてきている。それでも、柄を離すわけにはいかない。

 ひとたびこの手を離したら、とたんにその身はひっくり返るか、前のめりに崩れるかだ。そうしたら、しばらく自分では起き上がれなくなってしまう。

 だから、ここで倒れるわけにはいかない。

 

 倒れては、いられない。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ガラガラという音に、戒莉は覚醒した。

 つまり、寝てしまったということだ。

 白露の呑気が伝染したのかもしれないと、のちに珊揮は戒莉をからかったものだ。

「ただいま」

 その音とともに現れたのは、珊揮であった。

 すっかり日は沈み、姿はよくとらえることができない。

 珊揮はたいまつを手に、馬車に乗って帰ってきた様子だ。白露も乗っているのだろうか。

「どうなってるんだ?」

 剣を支えに、戒莉はゆっくりと立ち上がってみた。

 戒莉の体は少々きしんだが、珊揮を見送った時よりも数段回復している。

「どうも、こうも」

 珊揮の声の割に明瞭ではない。状況はおもわしくないのだ。

 

 

 よく見れば、車につながれているのは、先に馬車を引いていた馬ではなく、珊揮が乗っていた騎獣のようだった。そして、馬車のところどころ血のようなものが飛び散っていた。

 幌の中を覗いてみたが、戒莉は誰の姿もみつけることができなかった。

「白露は?」

「見つからなかったよ」

 けろりと珊揮が言う。

 戒莉は少しの間、ぽかんと珊揮を見返した。

 白露を探しに行って、見つけられなかったといって帰ってくるという。その男の神経を疑った。

「御者もいなくてね」

 馬車だけが見つかったと。珊揮は、付け加えただけだった。

「どうなってるんだ?」

 無駄とは分かっているが、戒莉は問わずにはおれなかった。

「さあね」

 言葉どおりの表情。

 戒莉は、本気で珊揮に呆れた。

 言葉を失う戒莉に、さすがに説明不足だろうと考えたのか、珊揮は馬車をみつけた時の様子などを話しはじめた。

 

 珊揮は終始、呑気な口調はくずさなかった。

 珊揮は白露たちが逃げた方向に向かって行ったが、しばらく何も収穫はなかった。その間に、どんどん辺りは暗くなったので、これ以上の探索は無理と考え、引き返そうかと思ったのだという。

「お前のことも心配だったからねえ」

 余計なことだ。戒莉は、むっとしたが、話を続けるように無言で珊揮を促した。

 やれやれという顔をしてみせて、珊揮は話を続けた。

 

 ここに戻ろうとしたところで、珊揮この馬車にでくわしたのだそうだ。

 馬車には、誰も乗っては居なかったのだという。白露も御者も。

 しかも馬は二頭ともに無残に食いちぎられている様子で、息絶えていたという。

 血がおびただしく流れ、飛び散っており、その血が馬のものなのか、人のものなのかははっきりしなかったと、珊揮は溜息まじりに言った。

「ただね。こんなものを見つけたんだよ」

 珊揮は、茶色い布に包まれたものを差し出した。

 その包みは、はっきりと血で汚れていた。戒莉は、それを受け取り、用心深く開いた。

「……」

 はたして、それは胴から離れた人の腕だった。

 刃物で切断されたのではなく、力まかせに引きちぎられた。そんな感じだ。

 そしてその筋肉のつき方から、白露のものではなく、男のものであることが分かった。

「やれやれ、もうちょっと驚いたらどうだい?」

 ちょっとガッカリ、みたいな表情。

「それで?」

 そういう戒莉の声は、戒莉自身も驚くほどに冷静なものだった。

 珊揮は、やはりガッカリして、また話を再開した。

「これはたぶん御者の腕だね。それから、この切断面からいうと、何か獣のようなものに襲われたと思うよ」

 御者のものと思われる体の一部が、あちこちに散乱していたが、白露らしきものは見つからなかったのだということだ。

 それは、つまり白露が無事である可能性をさしているが、珊揮ははっきりとは言わなかった。

「白露は、馬車に乗っていなかったのかもしれない」

 思ったことを戒莉は口にしてみた。

「そうだね。御者がお嬢さんを置いて、荷物を盗んでいったところを襲われた。そう、考えたいところだね」

 否定はしないが、完全なる肯定でもない。珊揮の言いたいことは、戒莉にも分かる。

 あまり、期待してはいけない。

 そういうことだ。

 

 

 その夜は、そこでお仕舞だった。

 夜、森の中で無闇に歩き回るのは、得策ではない。

 珊揮は、寝なさいと戒莉に言う。

 戒莉は寝ている場合でないと思う。しかし、きちんと休んで体調をもどさなくてはならないという場合でもある。

 戒莉はその義務感だけで、横になり、そっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『白い獣』

 朝の光がようよう森に差し込んだころ、戒莉は目をあけた。

 すべては夢であったかと、ぼんやりと思うが、直ぐに現実が押し寄せてくる。

 ここは森の中、そして自分は昨日、妖魔を斬った。

 だるさが残るが、動けないものでもない。これならば何とかなると、戒莉は踏んだ。

 そうして、珊揮と二手に分かれて白露を探し始めてはや、一時。

 

 ただ、闇雲に歩いている。

 白露の姿を求めながらも、これでは自分が迷ってしまうと、戒莉は焦りを感じていた。

 この辺りに野木があると、珊揮は言っていた。ただ、正確な場所が分からないのだとも、言っていた。

 珊揮は、この森を幾度か通ったことがあるらしい。

 正しい道を行けば、間違いなく森を抜けられるが、道を誤まるとなかなかに難解な迷路になるということだ。

 果たして、白露は無事でいられるだろうか。

 それは絶望的なことのように思えた。

 道に迷い、荷物も馬車も奪われ、あのお嬢さんが正気でいられるだろうか。

 やはり、夜のうちに探していた方が良かったのかもしれない。

 戒莉は後悔しながらも、それが自分には無理なことであったことも知っていた。血を浴びると、戒莉は動きがとれなくなる。厄介な体質だが、最近ようやく回復が早くなってきているような気がする。

 

 戒莉は白露を諦めることはできなかった。

 それは、白露を守るというのが、戒莉が杖身として請け負った仕事であるからだ。

 それ以外に、自分には何もないのだと、戒莉は思っていた。

 けもの道を行きながら、どこかへたどりつけるはずだと信じるしかなかった。

 

「あ」

 ふと、やや開けた場所が見えた。その先に、大きな木が見えて取れる。

 野木だ。

 戒莉は、今までに何度かこの木を見ている。そして、この下で休んだこともある。

 

 果たして、あの下に白露はいるのだろうか。

 心がはやる。歩調もつい、早まった。警戒をやや怠った。

 と、戒莉はピタリと歩みを止めた。

 木の下には、生き物の影があった。

 白露、ではない。

 獣だ。

 真っ白な、豹のような獣だ。

 思わず、戒莉の手が剣を抜いていた。

 白い豹と、目が合った。

 ひどく、美しい獣だ。

 薄汚れることのない。野に生きているとは信じがたい、真っ白な美しさだ。

 戒莉は自分の中に、その白い豹を言い表す言葉を捜したが、うまい言い方を見つけることはできなかった。

 豹は、立ち上がると一歩、二歩と後退した。

 はっとして、戒莉は剣を鞘に納めた。

 野木の近くである。たとえ相手が猛獣であっても、殺傷は許されない。そういう約束なのだと、珊揮は言っていた。

 豹が下がったことで、それまでその下にあった布が見えた。

 薄桃色の美しい絹物だ。

 たしか、昨日、白露が着ていたものだ。その着物は裾は引きずるし、袖もだらりと長い。なかなか優雅なものなのだが、こんなものを着て、旅をしている白露に、戒莉は半ば呆れ、半ば諦めていた。

 その着物だけが、どうしてここにあるのだろうか。

 まず考えられるのが、着替えたということだ。そこにたまたまこの豹がやってきて、座り込んでしまったのかもしれない。

「まさか、あのオジョウサン、お前が食べちゃったのか?」

 独り言のつもりで、戒莉はそう豹に向かって問いかけていた。

 野木の下で、獣は人を襲わない。まさか、そんなことはないだろうと、戒莉は思っていた。

 しかし、なぜか豹はそれに答えるかのように、首を振った。しかも、けっこう激しく。

「……」

 不思議なものを見る思いで、戒莉はしばし豹を見つめた。

 そうして、まさか豹が人の言葉を解するはずもないと、自分の気の迷いを笑った。

 

 

 と、向こうから馬車の音がする。

 果たして、その御者台にいたのは珊揮であった。

「どうだい、お嬢さんは見つかったかい」

「いや、いたのはこの白い豹だけだ」

「豹?」

 珊揮は馬車を野木に寄せて、御者台から降りると、白豹を覗き込んだ。

「これは、みごとな豹だねえ」

 珊揮は、豹に向かって大袈裟に感心してみせた。

 戒莉は、このとき珊揮が何に気付いていたのかを知らなかった。

 ただ、なにを呑気なことを言っているんだ、という顔で珊揮を軽く睨むばかりだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『生き過ぎる』

 珊揮は白い豹に顔を近づけ、しげしげと見ていた。

 いくら野木の下だからといって、危険はないのだろうか。

 戒莉は、そう言ってやった。

「ああ、大丈夫だよ。ことに、このコはね」

 白い豹は、確かに優雅な雰囲気を持っているが、猛獣には違いない。それを『このコ』呼ばわりするとは……。戒莉は、半ば呆れ気味に感心した。

 

 それにしても、白露はどこへ行ってしまったのだろうか。

 こんなところで、白い豹にかまけてなどいられない。

「珊揮、はやく移動しよう」

「なんで?」

 まさか、そう聞き返されるとは予想だにしなかった。戒莉は、一瞬言い返す言葉を見失った。

「白露を探す」

 なんとか吐き棄てるように言って、戒莉は自分が焦っていることに気付いた。

 駆り立てられている。苛立っている。いてもたってもいられなくなっている。

「さて」

 珊揮は、戒莉とはやはり対照的に、よく言えば冷静で落ち着いている。悪く言えば、呑気で無責任だ。

「本当にずいぶんあのお嬢さんに入れ込んでいるみたいだね」

「どういう意味だ」

「どういうも、こういうも、言葉どおりだよ。お前は、ちょっとあのお嬢さんにこだわり過ぎているよ」

 何を言っているのか、戒莉には、本当に理解できなかった。

 白露は、護衛の対象だ。金を貰い、雇われている以上、彼女を守ること、彼女を無事に大学まで送り届けることが役目であるはずだ。行方を見失ったその白露を、一刻もはやく探し出さなくてはと思うことは、そんなにおかしなことなのだろうか。

「お前、あのお嬢さんに何を期待してるんだい?」

 全く、さらに珊揮の問いかけは理解不能だ。

 戒莉は、白露に何を期待しただろうか?

 くだらない質問を繰り出すのは止めてくれとか、そのヒラヒラした服は旅には向かないから何とかしろとか、そんなことだけのはずだ。

「あんたは、おかしい。なにを言ってるのか分からない」

 口にする言葉は、戒莉の素直な気持ちのはずだ。

 そう思いながらも、なんとなく珊揮から視線を逸らすのは、何かあるのだろうか。戒莉自身が、戒莉の心を図りかねていた。

 

 白い豹が、すこし首をかしげて、こちらを見ているのが、戒莉の視界に入った。

 ただ、見ているだけなのだが、興味津々という目つきに見受けられる。白豹とは、こんなに好奇心旺盛な生き物なのだったろうか。

 戒莉には、この獣の視線も厭わしげに思えた。

 

 珊揮も、この白豹も、戒莉に何を言わせたいのだろうか。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「官吏って、すごいよねえ」

 しばしの沈黙を破って、珊揮が発したのはそんなものだった。

 全く脈絡を感じさせないその言葉の先には、一体なにが潜んでいるのか。戒莉は心のうちで身構えた。

 そして白豹までが、珊揮を疑わしい目で見ている……ようにみえた。

「普通の人間は、政に関わることなんてないだろう」

 いつか、戒莉が思っていたようなことを珊揮は口にする。まるで、見透かしているかのようだ。いつも、そうだ。

「立派なものだよね。それに比べて私たちは、何なのだろうね」

 どっかりと、木の下に座り込む。珊揮は、本当に白露を探す気はないらしい。

 戒莉からは、もう溜息しか出てこない。

 

「あの白露ってコを見てると、思い出すことがあるんだよ」

 珊揮の語り出しは、極めて好調だった。

「昔ね、知り合いに官吏がいたんだよ。とても、優秀な官吏でね。しかもこれが美人だったんだよ」

 昔、と言うときの珊揮の目は、どこか遠くへ行っていた。しかし、『美人』という単語で、あっという間に現実にもどっていた。

 これ以上、関係のない話を聞く余裕は全くないはずなのだが、珊揮が『昔』のことを話すことは珍しい。

 戒莉は、つい珊揮の話に耳を傾けてしまう。

「その官吏の娘が仕えていた王は、その御世が千年続くのではないかなんて言われるくらいの名君だったんだよ」

 豹が身を乗り出していた。

 戒莉は、珊揮の話と白豹の様子と、両方ともに気になり始め、気がちりじりになる。

 珊揮は、戒莉も豹の様子もまるきり無視するかのように、ひとり、話を進めるばかりだった。

「それがね。なんのきっかけか、あるとき王の様子がおかしくなってしまったんだよ。民に重税を課し、どんな軽い罪を犯した者も皆死罪にした。そういうとんでもない勅令を出す以外は、ほとんど政務を投げてしまった。集めた税を遊興に使い果たし、国庫は空になる勢いだった」

 淡々とした口調に、むしろおそろしい勢いで、国が、王が傾いていく様が想像された。そのとき、珊揮はそれらを目の当たりにしていたのだろう。そして、今、語りながらその当時を追体験しているのだ。

「あるときね。王はこういう勅令を出したんだ『みな、仲良くするように』ってね。まあ、一見スバラシイというか、勅令にするほどのことだろうかと思うだろう。これが、とんでもないものだったんだな。少しの争いも、王は許さなかった。子供同士の喧嘩も、夫婦の言い争いも、ちょっとした小競り合いも、ついかっとなって怒鳴ることも、みんな死罪」

 その王が何をしたかったのか、戒莉には理解不能だ。王というのは、民のことを思い、道を外れぬように努めるものだと、なんとなく戒莉は考えていた。それをわざと道を外れていこうと、しているようにしか思えない。

「王は、どこまでしてみたら、天は自分を滅ぼそうとするのか、それを試そうとしているみたいだったよ」

 ふふっと、笑って、珊揮は奇妙な表情になった。泣きたいのか、可笑しいのか、怒っているのか、全く汲み取れない。

「どうして、そんなことになるんだ」

 珊揮に訊いても、せん無いことを戒莉は口にしていた。

 そのとんでもない王の心など、誰も分からなかったはずだ。

 ここで久方ぶりに、珊揮の焦点が戒莉で結ばれた。

「さてね。王も、人間だということかな。人はあまり長く生きていると、どこかがおかしくなってしまうのかもしれないね」

 戒莉は珊揮にある問いを投げかけそうになって、寸でのところで止めた。それはとても怖ろしいことに思えた。答えを聞いてはいけないと、戒莉の中の臆病が叫んでいる。それを問うてはならない。それを口にしてはならない。そう。

 

『あんたも、そうなのか』と。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『誰か』

 

 「それでね。その官吏の娘、字は珠鳳と言ったんだけどね。珠鳳は、国の荒むのを憂い、民の苦しむのに涙を流し、王をいさめようとしたんだ。」

 いやな感じがした。

 この先で珊揮が語ろうとしている珠鳳の運命が、戒莉には分かった。それは止めようがなく、そしてそうでなくては、ならない結末のような気すらする。

「珠鳳は、王に斬られたよ。その首は王宮の桃の木に吊るされてね。まるで、果実が実ったみたいだった」

 そんな怖ろしいことを言っている珊揮の口元からは、笑が消えない。

 戒莉の中の何かが、細かく震えた。

 珊揮は、一息大きく吸って、吐いた。

「みな、珠鳳を止めようとしたんだけどね。誰も珠鳳を説得なんてできなかった。だって、彼女は正しかったからね」

 正しいことが、正しく作用するとは限らない。戒莉は、それを知っている。

 珠鳳は、正しかったけれど、間違ってもいたのだろう。

 その王は、正しいことなど聞きたくはないし、正しいことをしようとしていなかったのだから。

 珠鳳は。無駄に死んだのだ。

 戒莉は、そう断じている自分が怖ろしいものに思えた。冷血な生き物だ。

「珠鳳は、言っていたよ。『王を止めなくてはならない』んだってね。そして彼女は、止めようとしたんだ。他の誰かが、あるいは天が、王を止めてくれるのを待つのは、止めたんだよ」

 それは、王の命を狙ったということを意味するのだろうか。

 ぼんやりと、戒莉は考えていた。そうではないだろう。会ったこともない珠鳳なのに、彼女はそんな人間ではないと、戒莉は確信していた。暴力に暴力で対するような女性では、ないはずだ。最後まで、諦めず、道を踏み外すことなどなく、王の良心を信じた。彼女は、そういう『正しい人間』だった。

「私たちは、珠鳳を止めようとしながら、彼女に期待もしていたんだよ」

 珊揮の口から『私たち』という言葉が飛び出たのを、戒莉は聞き逃せなかった。

「彼女に任せて、彼女に背負わせ、自分には出来ないことを珠鳳に託してしまった。私たちが、私が珠鳳を殺したようなものなんだよ」

 

 何か言おうとしたが、全く気の聞いた言葉をひねり出すことはできない。こんな状況だからではない、戒莉は自分にはもともと珊揮を救う力も、資格もないのだと、かすかに絶望してみた。

「それで、その王はどうなったんだ?」

 そんな、つまらない言葉で話をつなげていこうとする浅ましさ。

 戒莉は、自嘲する。こういうときにも人は笑いたくなるものなのだと、戒莉はひっそりとまた嘲笑った。

 珊揮は、自然と下がってしまった視線を戒莉に上げた。

「死んだよ。でも、王に剣を振り下ろしたのは天ではなかったよ。陣宇という男だった。大僕のひとりで、珠鳳の父親だった」

 

 誰かに期待するというのは、自分では何もしないということだ。それはとても卑劣で、卑怯なことだ。それに自分は気付かなかった。そして、誰かが、天が、王を止めてくれるのだけを期待していた。そうして娘も、なにもかも、失ってしまった。

 

 陣宇という男は、そう言っていたと。

 珊揮の話は、それで終った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『目的は手段を正当化する』

 長い夢から醒めたような感覚に、戒莉は眩暈のようなものに襲われる。

「俺は……」

 

 

 

 戒莉は、白露に期待している。

 自分のできないことを任せて、背負わせている。そう、珊揮は言いたかったのだろうか。

 そして、珊揮はその身勝手な期待がどんな悲劇を生むのかを、語ってみせたというところだ。

 だが。と、戒莉は、ひとり握る手に力を込めた。

「俺は、あんたや陣宇とかいう人とは違う」

「そうかな」

「俺は……確かにあの娘に自分の出来ないことを託して…いたのかもしれない。でも……そんなに期待していた……わけでもない」

 戒莉はゆっくりと、奇妙な間をとりながら喋っていた。

 戒莉は、言葉を懸命に選びながら話をしていた。こんなに、考えながら話をしたことは、今までにないくらいだ。

「俺は、ただ自分の出来ることをしようとしていただけだ」  

戒莉が落ち着いた調子で、珊揮とこんなに話をするのは、どれくらいぶりだろう。

「お前のできることって何だい?」

 そんなものなどないと、否定するような声音は、珊揮の中にはなかった。

 戒莉は、なぜか安心して、次の言葉を発することができる。

「あの娘のような国の政を担おうとする者を守ることが、できる」

「なるほど」

 珊揮は、立ち上がる。

 戒莉は、そのまま珊揮を見上げた。

「そう、思おうとした」

 戒莉は、続ける。

「そう思い込んで、人殺しを正当化しようとしてみた」

 しばしの間。

 珊揮は、何も言わない。笑いもしない。

「でもそんなことは、どんなに正しく見えようと、でっちあげだ。俺は、この国の行方も、民の幸せも本当は何も考えていない。それに……」

 一瞬、そこから先を口にすることを、戒莉は躊躇った。

 だが、それはほんとうに瞬きの間だけで、戒莉は言うべき言葉を探し当てていた。

「それに、あの娘が将来どんなに立派な官吏になっても、国の為につくすことになっても、俺自身とは何の関係もないことだった」

 喋りすぎだ。いつになく、そのままを言っている自分に戒莉はクラクラした。これも、きっと珊揮の計算のうちなのだろう。

 それでも、そう言ってしまわなければ、戒莉はどこかおかしくなってしまいそうだった。

 つまり、戒莉は単に『そう言いたかった』だけなのだ。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「これから、どうするんだ?」

 ひとしきり心の内を喋ってしまった気恥ずかしさを誤魔化すように、戒莉は珊揮に問いかけてみた。

   

「どうって?」

 珊揮は立ち上がると、体のあちこちについた砂埃を払った。

「依頼主になんて言うつもりだ?まさか『お嬢さんは行方不明です。でも、こちらには関係ありません』……って訳にいかないだろ」

 言っておいて、戒莉はあらためてそうはいかないと思った。

 やはり、戒莉の中で仕事は全うしたいと思う心がうずく。

 それに、白露のことを諦める気が起きない。

「大丈夫。『お嬢さん』は、見つかってるからね」

 それは、おそろしく急展開だ。

「どこに?」

「ほら、そこに居るじゃない」

 珊揮が示すところには、誰もいない。正しくは、白い豹がいるだけだ。

 まさか、これを白露ですとでも言いたいのだろうか。

 いくらなんでも、『お嬢さんは、呪いをかけられてこんな姿になりました』という誤魔化しが、きくはずがない。

「ふざけてる場合か」

 戒莉は、声に怒気を含めた。

「ふざけてなんかいないよ。ねえ、お嬢さん」

 真面目に、いや不真面目そうな態度ながらも、かなりの本気度合いの高い様子で、珊揮は白い豹に向かって、そう言った。

 つい、戒莉も白い豹の方を見てしまったではないか。

 その白豹は、奇妙に落ち着きのない様子だった。 目が泳いでいる。というのだろうか。まるで、人間のするような表情を見せる。

 『まさか』と『もしや』が、戒莉の中で交錯し、やはり結論としては『そんなはずは無い』に行き着いた。

「戒莉は、頭が固いねえ」

 もはや、戒莉に話しかけるのではなく、珊揮の対象は白い豹だった。

 声をかけられるたびに、明らかに豹が反応している。

「半獣って知ってるだろう」

「そりゃ…え、でも」

 戒莉が寄宿していた寺小屋は、雁にある。雁は半獣が比較的多い国だ。そこで何年か暮していれば、半獣と知り合う機会もある。実際、戒莉の行く道場にも何人か居る。

 しかし、ここ巧では、事情が違う。

「そうだね。この国で半獣が大学に行くはずないからね。だから、秘密なんだよね。お嬢さん」

 邪心などまるでないような笑顔で、珊揮は白豹に迫っていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『半獣』

 珊揮の顔が、すぐそこに迫っていた。

 その目は、青く澄んでいるようで、底知れない。

 

 

 

 白露は、以前に珊揮に戒莉のことを尋ねたことを思い出した。

「戒莉は、杖身なのですか?」

 思えば、バカな質問であった。

 そんな問いかけに、珊揮は驚いたような顔をしてみせ、直ぐに笑い出した。

「あれが剣客でなかったら、あなたの父上は無駄な金を払っていることになってしまいますよ」

 そんなはずないでしょう。と、珊揮は言う。

 確かに、そうだ。

「そうは見えないでしょうが、戒莉はあれでなかなか優秀ですよ」

「そうなんですか」

「人は見た目どおりだとは、限りませんよ。あなただって、そうでしょう」

 珊揮の言葉に、白露は、はっとした。

 無言の間ができた。

 人を見透かすような青い瞳に、白露は胸の奥が痺れるように冷えた。

「そうですね。私も、黙っていれば可愛いのに、とよく言われます」

 何とか冗談ごかしにそう言ったものの、珊揮に通じたとは思えない。

 白露は、人のことを知ろうとすることが、自分をもさらけ出すことになるということに気付いた。

―― あぶない

 この男は、あぶない。

 

 

 この男は、お見通しだったのだ。

 いつからだろうか。

 

 

 頭が痛む。

 こめかみを押さえようとして、その手が人のものではないことに気付く。

 それは、白いふさふさとした毛に覆われていた。手、ではない。前足だ。

 これでは物を掴めない。人の社会で生きるうえで、とても不便だ。

 

 

 これが自分。

 半分が人で、半分は獣。

 半人とは呼ばれずに、半獣と呼ばれる。

 優秀であるのに学校に行くことを許されなかった、白露の学友と同じ。半獣だ。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 戒莉は、また押し黙ってしまった。

 白露は、気まずい空気を無理やりに吸い込み、吐いていた。

「今晩は、まともな宿で眠れますよ」

 珊揮だけが、陽気だ。

 

 白露の秘密が露見してから、半日。

 戒莉の騎獣で馬車を引いて、森を抜け、街についた。

 白露は人の形に戻り、もちろん着る物もきちんと身に着けている状態だ。

 御者台の戒莉は、何も喋らなかった。

 白露は、戒莉を無口な人間だと思っていた。それが珊揮と会話を交わしている彼の姿を、垣間見た。

 だが、それもまた元のようになってしまった。珊揮には、ああいう表情みせて、あんなに喋るのだということだ。

 嫌われるようなことをしただろうか。白露は、頭をひねる。

 まあ、ないとも言えないが、そんなにあからさまな態度を示さなくてもいいではないか。

 

 宿に入り、部屋の前で珊揮は、口を開いた。

「いろいろあって、大変でしたから、今夜はゆっくり休んでくださいね」

 珊揮の言葉は、ごく普通の様子だ。

「あの」

 ここまで、何も言われないのは不気味過ぎる。白露は、やはり黙ってはいられなかった。

 周囲に誰もいないことを確認し、白露は思い切って尋ねようと思った。

「なんですか」

 なんのことかは、分かっているはずだが、珊揮はとぼけてみせる。

「私のこと、どうするつもりなんでしょう?」

「どうも、こうも、ちゃんと大学まで送り届けますよ」

 とぼけすぎだ。こういうところに、戒莉は苛立ちを感じるのだと、白露は思った。

「そうではなく、私が半獣だということをどうするつもりかとお尋ねしているのです」

 静かに、白露は珊揮を見上げた。

 珊揮は、少し間をおいた。

 戒莉もちらと、白露の方を見たが、すぐに視線を外して通りすぎて行こうとする。

「別に、何もするつもりはありませんよ」

「どうしてですか」

「そうですね。そんなことをしても、私には何の得にはならないからですよ」

 当たり前でしょう。という顔で、珊揮がぺろりと言う。

 

「ですが、私のしていることは違法です」

 その白露が大学に行き、官吏になるという。自分で言っていて、かなり滑稽だ。

 珊揮は、おやという顔で白露に尋ねた。

「では、あなたはどうして欲しいのですか」

「分かりません」

 本当に、分からない。

 どうして、こんなことになってしまったのかも。

 これから、どうしたいのかも。

 

 

 

 一晩、ゆっくり休んでからお話ししましょうと、珊揮が笑って、その場はお仕舞となった。

 これで眠れてしまうのが、白露の美点だ。

 そう、白露は思おうとした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『そういう世界に生きている』

 やはり、眠れてしまった。

 実にスバラシイ。

 朝は容赦なく、やってくる。

「おはようございます」

 そして、この男の笑顔も全く容赦というものを知らない。

 サワヤカではない。

 白露は、もう諦めの境地に入りつつある。

 

 

 荷馬車は揺れる。

 白露は、荷台が揺れるのに身を任せていた。

「どうして、あの時にしらを切らなかったんだろう」

 考えていたことが、気付けば口から出ていた。

 あの時、珊揮が白い豹の姿である自分に対して、『お嬢さん』と声をかけてきた。それに応えなければ、白露が半獣であるということを隠しきれたかもしれない。

 それなのに、白露は潔くも、肯定の言葉を発してしまった。

 どうして、そんなことをしてしまったのだろうか。自分でも、分からない。

 そんなにあっさりと、認めてよい秘密ではなかったはずだ。

 これは、自分ひとりきりの身の破滅を意味するのではない。役人に知れれば、父母にもその罪科が及ぶはずだ。

 白露には、分かっていたはずだ。

 しかし、それでも押し切れない何かが、あの男にはあった。

「無駄だからだ」

 誰かが、白露の代わりに答えてくれた。

 そうだ。

 いくら誤魔化そうとしても、あの珊揮という男を騙しきれない。無駄だから、白露は観念したのだ。

「あ」

 白露は、その声がした方に顔を上げた。

 白露の方へ振り返りもせず、戒莉はその御者台にいた。

 そしてその背中は、さっき声がしたのが幻聴であったかのように、もう何も語ろうとはしていなかった。

「なるほど。無駄なのね」

 白露は、すっかり納得した。

 

 そうして、ぼんやりと、ただぼんやりと、白露の脳裏にあの日の朝のことがひらりと落ちてきた。あの日、豹の姿のまま、珊揮と戒莉の会話を聞いていたことを、白露は思い出した。

 珊揮が戒莉に語って聞かせていた官吏の娘の話を聞きながら、白露はいろいろと考えていた。何を考えていたのか、ひとつひとつは思い出せないが、いちいち考えることの多い話だった。

 珠鳳という官吏の話。

 あれは、戒莉に話しているようで、白露に向けられたものであったのかもしれない。

 もしも、白露が官吏となったとして、もしも王が道を見失ったとして、白露は何ができるのだろうか。

 白露はひとつ、溜息をついた。

 すべては、もしもだ。だが、覚悟は必要なのかもしれない。すべての『もしも』に対する覚悟が。

 

「戒莉」

 白露は戒莉に問いかけてみたくなった。

「あなたは、なぜ剣客になろうとしたの?」

 答えは何となく予想できていた。それでも、白露は戒莉の口から、その答えを聞きたいと白露は思った。

「他にやれることがなかったからだ」

 戒莉の言葉は白露が考えていたよりも簡単なものだった。

 

 

 戒莉の思考は、実は簡単だ。

 それ故に悩みは、単純で、その分根深いのかもしれない。白露や、ひょっとしたら珊揮よりも。

 ものごとを複雑に考えるのは、悪いことではない。いろんな考えや、知識があることは重要なことだ。けれど、それらにまぎれて、本質的なところを見失ってしまうことがある。

 戒莉が放つ単純な言葉が、ときおり白露にそれを思い起こさせる。おそらく、珊揮も、そうなのだろう。

 もちろん、戒莉自身はそんなことを露とも知らない。

 ただ、彼は思っていることを言っているにすぎないのだ。

 だから、敵わない。でも、戒莉のような人間ばかりで世界が成り立つかといえば、そうでもない。 いろんな人間がいていいのだ。

 そう、王である者や、麒麟である者がいて、官吏がいて、農民がいて、半獣や海客もいる。

 そういう世界に、生きているはずだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『幻影』

 盗賊、妖魔、そして御者の裏切り。

 いろんなことが、短い間にあった。

 

 あの御者のその後のことについて、白露は珊揮から聞いた。

 自業自得だと言えば、それまでだが、白露の中にはそう思い切れないものが疼いていた。

「油断していました。まさか、御者があんなことをするとは」

 珊揮は、申し訳ないと白露に言ったが、本当にそう思っているかは疑問だ。

 あの御者は、白露の父が直接雇った者で、珊揮が連れてきたのではない。

「もしかしたら、御者は先だっての賊とつながっていたかもしれないですね」

 そんなことまで言う。

 さすがに白露は、反論せざるを得なかった。

「それは、あの時に捕らえた賊から聞けばいいことでしょう」

「確かにね」

 珊揮は、含みのある笑顔で応える。

 

 

 その夜の宿に、ひとりの男が珊揮を訪ねて来た。

 男は、これといった特徴のない男で、次に会っても白露はその男だと認識する自信はないくらいだった。強いて特徴をいうと、『平凡』という男だった。

 愛想もよく、物腰も柔らかで、印象のよい人物と言ってよいはずだったが、白露には、それだけの男とも思えなかった。

 表面は、実ににこやかなのだが、腹の中は絶対に見せない。そんな男であるような気がした。

 その男は、珊揮と戒莉に何か話をすると、早々に立ち去った。

 白露は、除け者という訳だ。これは正直、面白くはない。だが、ことさらに騒ぎ立てて、聞き出すというのも腹立たしい。

 白露のこんな想いなど、おそらく見透かしていたのだろう。珊揮は、もったいぶって、白露にこう切り出した。

「これからお話しすることは、貴女には少々つらいものですが、お聞きになりたいですか」

 そう言われて、聞かない者があるだろうか。珊揮は、あきらかに白露が話を聞くことを前提にそう言っているにすぎない。 いいだろう。珊揮がそういうつもりならば、白露はうけてたとうと思った。

「聞きましょう」

 白露は自分が尊大に見えるように、言った。

「いいでしょう」

 珊揮は、満足だと言わんばかりに、にやりとした。

 

 

 

 宿屋で白露たちを襲ってきた賊の生き残りの口から、その背後が明らかになってきた。と、いう。

「狙いは、私だった?」

 そこまで聞いて、白露は珊揮の話の先を口にした。

 珊揮が、『辛い』などという前置きをするくらいだ。白露に関わるような話でなければ、ならないはずだ。

「そのとおりです」

 当たり前のように、珊揮は受けた。

 白露の口からは、溜息が落ちた。

―― やはり

 なんとなく、そんな気がしていた。白露の脳裏に浮かんだのは、ひとりの男の笑顔だった。

「心当たりがあるようですね」

 珊揮には、白露の心の内の画像まで見えているかのようだ。

「いえ」

 白露は、嘘をついた。

 そんなことは、全く意味がないが、白露は珊揮の口からあの男の名が出るのを聞きたかった。

「顕彰という男を知っていますね」

 そう、珊揮はあの男の名をすばりと言った。

「ええ」

 頷きながら、白露はあの男、顕彰の優しげな幻影が消えないのを不思議に思った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『逆恨み』

 顕彰は、白露の許婚だった男で、さらに言うならばともに大学を目指していた男だ。

 だが、その両方ともに、過去の話だ。

 婚約は解消され、白露は大学の推挙をもらったが、男はそれが叶わなかった。

 白露が大学に進むと決まったときに、顕彰はいつもと変わらぬ微笑でいた。

 

『おめでとう。僕も嬉しいよ』

 顕彰がそう言ったのは、本心であったろう。

 ただし、嬉しいと思う心の他に、別の感情も同時に抱いていたに違いない。

 あの時、白露はなんといったのだろう。

『ありがとう。大学であなたが来るのを待ってるわね』

 それを聞いた顕彰の笑顔は、一瞬歪んだ。だが、それは本当にひとたびの瞬きの間に過ぎず、直ぐにいつもの柔和さが戻って来た。

『僕の分もがんばって。期待してるよ』

 

 その後、婚約を解消したいという申し出が、白露のもとにもたらされた。

 それも仕方のないことだと、白露も白露の親も受け留めてしまった。

 

 そうして白露は顕彰と顔を会わせることなく、旅発ったのだ。

 

「その顕彰という男は、死にましてね」

「え」

 初耳だ。

 珊揮の言葉に、白露は回想の世界から現実に一気に引き戻された。

「一月まえの話らしいですよ」

「そんな」

 そんな話は聞いていない。

 この一月、白露は大学行きの準備に追われていた。しかし、だからといって、顕彰が死んだなどという話を聞き逃すはずがない。

 白露の親や周囲が、白露を心配して隠したのだろうか。

「自殺のようです」

 あいまいな語尾を使ったが、珊揮の口調はそれを断じていた。

「顕彰が死んだことを、彼の親は誰にも言わなかったようです。こっそりと彼を埋葬し、周囲には少し骨休めに田舎に行っていると言っていたようですね」

「なんのために?」

 そんなことよりも、言わなくてはならない言葉があるだろう。

 白露は、混乱していた。

 顕彰の死。自殺。隠された死。何もかも、現実味がない。しかし、現実なのだろう。

 乱れていく心を抑えるように、白露は自分の胸に手を置いた。

「さあ」

 珊揮の言葉は、短く、そしてそれで完結していた。

 誰も、分からないのだ。誰も、知らないのだ。

「では、今回の賊は」

「顕彰の親が仕組んだことです。まあ、逆恨みでしょう」

 

―― サカウラミ

 残酷な言葉だ。

 逆恨み。

 そうだろうか。

 顕彰の死に、白露が関わっていないと言い切れるだろうか。

 白露は自問した。

 

 顕彰の心を、白露はきちんと思い遣ったことがあるだろうか。

 白露の心は、その問いを即座に残酷な答えを出していた。

 

 

 その夜、一人の寝台の上で何度寝返りをうっても、白露は眠ることができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『明日という日』

「おはようございます」

 朝の挨拶など、誰が決めたのだろうか。

 珊揮のあいかわらずの呑気な調子を、その言葉が助長しているようだ。

 白露は、どんよりとした視線を珊揮に当てると、何もかもがこの男のせいにできないか、などと訳の分からないことを考えてみた。

「おはようございます」

 気の迷いを払いながら、白露はなんとか呪わしい挨拶をひねり出した。

 

 珊揮の背後で、戒莉が無言で通り過ぎていく。

 そういえば、昨日、戒莉は一言も喋らなかった。

 確か、珊揮から顕彰の話を聞いたときに、同席していたはずなのだが。

 白露は、どうしてもその時の戒莉の様子が思い出せない。きっと、白露には見えていなかったのだ。

 

 

 食堂は、朝餉をとる客たちでにぎやかだった。

 白露は、その片隅に何とか席をみつけて腰を下ろした。

 白露には、めずらしい寝不足状態だ。食欲もあまりない。

 故郷の街を出てからというもの、白露は食事が口に合わないことに閉口していた。それは白露の口が奢っているというよりも、塩加減の問題だった。とにかく、どこで食べる食事も、白露にとってはしょっぱいのだ。特に今日の朝餉の塩辛さは、白露の食欲を減退させるのに一役かっていた。

 ぼんやりと、白露は珊揮と戒莉の様子を眺めてみる。

 戒莉は、のろのろと箸を使いながら、申し訳程度の食事をしていた。朝が弱いだけなのか、あいかわらずもの凄く不機嫌な様子に見える。

 珊揮は、その戒莉にあれを食べろ、これもどうだと言いながら、自分はしっかりとした食事をとる。

 いつもの、朝の様子に違いない。

 

 この二人は、何を考えて生きているのだろうか。

 白露は、思う。

 剣客などといって、聞こえはいいかもしれないが、彼らは明日の命も保障されないようなものだ。

 こういう人たちには、裏切りや、仕返しなどは日常茶飯事、よく目にすることで、特に気に留めるようなものではないのだろうか。

 白露は、こんなことにくよくよとする自分の方が馬鹿なのではないかと思いはじめていた。

「どうしました? あなたまで食事が進みませんか?」

 考え事が過ぎて、白露の手がお留守になっていることに、珊揮が気付いた。

「ええ、まあ」

 あいまいな言葉で、白露は心の内を隠した。

「今日もまた大変な道中ですからね。しっかり食べて、眠ってくださいよ。もちろん、お前もね」

 白露から、戒莉へ、珊揮の矛先が変わる。

 戒莉は、ぶつぶつと何言かを噛み砕きながら、やはりあまり食べようとはしなかった。

「昨日は、もう終ってしまいましたけどね。今日はずっと続いていくんですよ。死んでしまわない限りね」

 彼なりに白露を慰めようとしたのだろうか、珊揮は、そんな唐突なことを口にした。最後の一言は、余計かもしれなかったが。

「知ってますか?」

 何か思い出したという顔で、珊揮はなおも、続ける。

「明日というのは、永遠に来ないんですよ」

 そう言われた白露は、一瞬ぽかんとした。

 戒莉もなんのことやらという顔をしているが、ことさらに気にしていない様子で、卵料理と格闘していた。

「それは、何かの謎かけですか」

「まあ、そんなようなものです」

 珊揮の不敵な笑顔に、白露は少し考えた。そして、直ぐに分かった。

「ね、そうでしょう」

 白露がその答えを言う前に、珊揮はそう言った。

 その瞬間に、戒莉が少しむっとするのが、白露には分かった。

 

 明日という日は、永遠に来ない。

 今日の明日は、明日の今日だからだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 宿を出、馬車に乗り込もうというところで、珊揮が白露に話しかけてきた。

 今日か、明日には目的地に辿り着けるだろうということだ。

 それから、と、まるでついで事のように珊揮は言った。

「例の賊と、あの御者のことは、あなたのお父様にお任せしようと思います」

「そう」

 白露は特段、逆らいはしなかった。

 それが多分、一番いいだろう。

 珊揮のことだ。白露の父へ、使者としてあの特徴のない男を既にやったのだろう。

 

 顕彰の父と、白露の父は幼馴染であり、商売の上では好敵手というところだ。ただ、いがみあって相手を潰し合うばかりでは、商売がうまくいかない御時世だ。白露と顕彰の婚約も、そんなところからの、政略結婚というやつだ。いや、商略と言った方が、いいだろうか。

「どう、お裁きになりますかね」

「こちらの懐が狙われれば、それを許す父ではないわ」

 身内に対して愛情に深く、そして外に対しては非情な商人である父を、白露は知っていた。

「狙われたのが可愛い娘であるならば、なおさらでしょうね」

 白露の言葉に頷きながら、珊揮はそう言い足した。

 もしも、官吏であれば、これをどう裁くべきだろうか。白露の意識は、そちらへ飛んだ。

 ……と。

 

「あんた達の話は、まわりくどい」

 低く、かすれた声が割り込んできた。

 戒莉だ。

 朝餉の時とは別人のように、戒莉はキビキビと動き、馬車の支度を整えていた。

「そうだねえ」

 珊揮は、笑った。

「本当。そうね」

 回りくどいことなど、必要はない。

 罪人には、その罪に見合った罰を与えればよいのだ。二度と、罪を犯さぬように。

 

 

 もうすぐ、この旅が終る。

 けれど、本当の旅はまだこれからだ。

 何も解決はしていないし、これからどうするかも決まってはいない。

 白露がどう生きていくのか、どんな罰を科し、どう罪を贖っていくか、決めるのは白露自身だ。

 まだ、何も始まってはいない。

 ここが、出発点なのだ。

 

 白露は溜息をひとつ落として、それから戒莉に微笑んだ。

「今日もよろしく」

 

 生きている限り、今日という日は始まるのだ

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『ひとり』

昨日の投降後に前話を少し足しました。
一話にするには、文字数がたりなかったもので……
12月6日に、前話を読んだという珍しやかな方がいらしたら、まず前話の後半を読んでくださいませ。
お手数をおかけします。


 旅というのは、いつか終る。

 たとえ、何も得られなかったとしても、それが何の意味も成さなかったとしても、旅は終る。

 そして、命にも同じことが言える。

 

 騎獣に乗った珊揮の背中を眺めながら、荷馬車に揺られているだけで、どんどん旅の終わりが近づいている。

 戒莉は、自分には起きなかったことと、白露に起きたことをなぞってみた。

 戒莉の『女難の相』は、解消しそうにない。

 結局、白露というこの娘は、幸福はそのままではあるが、陰を負い、傷ついた。

 それは、戒莉のせいではない。むしろ、そうであればよいのにと、思うくらいだが、そうではない。

 珊揮は、戒莉が白露に随分入れ込んでいると言っていた。それは、むしろ逆だ。できるだけ、関わらないようにしてきた。

 戒莉に関われば、どういうわけか女は、不幸になる。なんの根拠もない理由だが、統計的にはその率が高かった。自分のせいで、他人が不幸になるのを見たくない。

 それは、人を不幸にして、ただ自分が傷つきたくなかった。ということだけだ。

 自覚はある。

 結局のところ、ただの逃げだ。

 或いは、自分が人を不幸にしているなどと考えるのも、傲慢なことであるのかもしれない。

 たとえ負の要素でも、人に何か影響を与えられるような存在ではないのかもしれない。

 

 戒莉は、白露の様子をちらりと御者台から振り返って見た。

 白露は、馬車の振動に逆らわずに揺れていた。とろとろと、眠たげなまぶたの奥では、何かを考えているのかもしれない。

 いろんなことがあった割に、白露は落ち着いているように見えた。驚き、傷ついて、悩んではいるようだが、日に日にその態度が変わっていくようだった。覚悟を決めたという一種の清清しさと、残酷さ、そして強さ。そんなものが垣間見えるのは、戒莉の気のせいなのだろうか。彼女の中で、何か響いて、何が起きて、何が生まれたのか、戒莉には想像もつかない。結論だけを見せ付けられている。

 戒莉は、ひとり取り残された気分だ。

 

 戒莉と白露は、重なるところは絶望的にない。

 教養や、品格、経済力と家庭環境、穢れのない手。

 白露が持っているものを何一つ、戒莉は持っていない。

 そんな全く似ていない白露を初めて見たとき、戒莉には何故か、白露がそこに居ていいのか、惑いながらそこに存在しているように感じた。

 白露を見ると、この世界のどこにも身の置き所のない自分が見えてしまう。戒莉には、二重に苦痛だった。そんな自分を認めることと、そんな白露を傷つけること。どちらも、嫌なことだった。

 そして、この結末だ。

 白露は、自分自身で居場所を決めて、そこへ自分で向かおうとしている。

 結局、戒莉はどこにも行けない。

 皆、戒莉をおいていってしまう。

 

 

「戒莉、少し急ごうか」

 珊揮の陽気な声が、戒莉を追い立てる。

「分かった」

―― 分かってない

 何処へ行くのか、何処に居場所があるのか。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『王』

 大学というのは、思ったよりも活気のないところだ。

 静かで、人の姿もまばらだ。

 寮に運び込んだ白露の荷物が、嫁入り道具のようにきらびやかで、違和感を醸していた。

 珊揮はそこで、別れの言葉を白露に渡した。

 白露は、静かにそれを受け取り、『これまでお疲れさまでした。いろいろ、ありがとう』というような言葉で珊揮と戒莉をねぎらった。

 戒莉は、一言も声を出さずに、小さく頭を下げるくらいだった。

 白露は目礼を返して、それでお仕舞だ。

 永遠に、これでお別れだ。

 

 

 傲霜は、大学と同じく『意外に活気がない』ところだった。

 戒莉が住んでいた雁の街は、確かに遥かに小さな街だったが、傲霜よりも勢いがあるように思える。

 ここは、首都らしさがない。

 戒莉は関弓に行ったことはないが、こんなものではないはずだ。

 

 珊揮は『休養をとった方がいい』と、傲霜に宿をとった。

 戒莉は宿屋の二階の窓辺に座って、外をぼんやりと眺め下ろし、往来を行く人々の数を、数えるでもなく数えていた。

 この都の寂しさは、どこからやって来るのだろうか。

「王がいないから……か?」

 当たり前のことなのかもしれないが、戒莉には今ひとつピンと来ない。

 なぜ、王がいないと国が荒れるのか。

 王が現れたとたんに、どうして国が落ち着くのか。

 その仕組みも分からないし、その仕組み自体の意味が分からない。

 天が王気を麒麟に示し、麒麟は王を選ぶとか。

 戒莉にとってみると、御伽話の世界の出来事のような気がする。

 だが、この世界ではそれが本当なのだ。

 そうして、天が選んだはずの王も、いつか倒れてしまう。その時は、即位からほんの数年で訪れることもあるし、何百年たってもやってこないこともある。

 現に、巧では数十年で王が逝き、雁では五百年間おなじ王がその座にいる。

 そのおかげで、そのせいで、国が繁栄したり、衰退したりする。

 その差が王都ひとつをとってみても、大きく顕れる。

 きっと、大学の在り様も、国によって違うのだろう。

 

―― 白露は。

 

 ふと、戒莉は思う。

 白露はあの大学で学び、そして希望どおり、官吏になるのだろうか。

 官吏になって、どうするのだろうか。官吏になったら、何ができるのだろうか。

 この疲弊した国を、何とかできる力があの娘にあるのだろうか。

 いや、と、戒莉は思い直す。

 

―― 王だ

 

 総ては、王なのだ。

 王さえいれば、王の在位が長ければ、この国は救われるはずだ。

 万の官吏がいかに努力しようと、王が居るということに敵うはずもない。

 以前に珊揮が話していた官吏の娘の顛末が、戒莉の中をよぎった。

 

 この世界で、唯の人は無力だ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『優しい世界』

 戒莉が目覚めると、既に朝ではなかった。

 のろのろと寝台から降りると、ぼんやりと歩いた。

 扉を押すと、そこには昨日まで居なかった人物が座っていた。

 

「おはよう。ごゆっくりですね」

 にこにこと、平凡で人のよさそうな顔を向けてくる。

 英俊だ。

「ゆっくり休んでるところだからな」

 戒莉は、常よりも低い声でそう応えた。

 確かに珊揮は、戒莉に『ゆっくり休みなさい』と言っていた。

 英俊は、苦笑しながら視線を向かいの珊揮にやった。

「まだ、疲れてるようだねえ」

 珊揮は、戒莉にも座りなさいと、隣の椅子を示した。

 そのまま、戒莉は示された反対側の椅子に倒れこむように座った。

 やれやれと、大袈裟なしぐさを見せて、珊揮は茶を煎れた。

「まあ、お飲み」

 差し出された茶杯に、戒莉は用心深く匂いを確かめた。

「残念ながら、藍椋のお茶は手に入らなくてね。あれは、お前にとても効くのにねえ」

 嬉しそうに珊揮は、笑った。

 戒莉は、その顔を無視しながら茶をひとすすりした。

―― 甘い

 

 

 

「さて、ちょっと面倒なことになってね」

 戒莉の寝起きのぼんやりが、やや退いたところを見計らって、珊揮がもったいつけた口調で、話を始めた。

「お嬢さんの元許婚の父親が行方不明になったんだよ」

「逃げられたのか?」

 口の中の甘さに苛立ちながら、戒莉は英俊をちらと見た。

「私の落度ですね。まさかこちらの動きに気付かれていたとは思いませんでした」

 英俊はそういいながらも、それほどに落胆しているわけではない様子だ。

 

 白露の元許婚の父親、すなわち白露を狙った男は、字を寛勢というらしい。

 寛勢のことを聞いた白露の父親の行動には躊躇いがなかったそうだ。役人にも話をつけ、あっというまに寛勢を捕らえる手はずを整えた。しかし、それより寛勢の動きは早かった。寛勢のところに捕り手が押しかけ時に、寛勢の姿はどこにもなかったということだ。

 

「どうも、傲霜に潜伏しているんじゃないかということだよ」

 珊揮は、静かに茶を一口含んだ。

「まだ、白露を狙ってるってことか」

 当たり前なことを口にして、戒莉は後悔した。

「まあ、そうでなければ、今までのことは何だったんだっていうくらいだよ」

 珊揮は、この状況を面白がっているようだ。

 残念ながら、戒莉にその余裕はない。

「寛勢は、見つからないのか」

「まだです。今、希央と真佳が探しています」

 今度は、英俊のこの丁寧な言葉に、戒莉は苛立った。

「そんな悠長なことで、いいのか」

「もちろん、悠長に構えてるわけじゃありませんよ。白露さんのところにも護衛を密かに置いていますから」

 やはり、悠然とした様子を崩さない英俊。この男の底知れなさは、珊揮以上であるかもしれない。

 戒莉は、すっと立ち上がり、さきほどまで寝ていた部屋に向かった。

「おや、また寝るのかい」

 珊揮の声が追いかけてきた。

「着替えて出かける」

 きっぱりと、戒莉は返した。

「どこへ?」

「どこでもいい。こんなところで呑気に茶なんて飲んでるよりましだ」

「でも、お前に人探しの才能はないよ」

「うるさい」

 馬鹿みたいだ。戒莉はそう思いながらも、子供っぽい声を上げてしまった。

 戒莉があてもなく町を走り回っても、ただ相手にこっちの動きを知らせるだけだ。戒莉は、目立つのだ。

 そんなことは戒莉自身分かっている。けれど、役立たずだとはっきり言われているようで、認めてしまうのには勇気がいる。

 

「まあ、まあ、戒莉には寮の方に行ってもらいましょう」

 英俊が、戒莉をなだめるようにそう提案してきた。

「そうだねえ。まあ、あまりこわもてなのがウロウロしてたら、大学も迷惑でしょうからね。私が行かない方がいいでしょうね」

 珊揮は、にやにやしながら英俊に同意した。

「白露には、なんて言って護衛につくんだ?」

 珊揮の言い口に、何か引っかかるものを感じてはいたが、戒莉は何とかそれを無視して会話を進めようとした。

 白露とは、昨日別れてもうこれっきりの予定だった。もう、旅は終ったのだから、護衛の必要はないはずだった。それがまた護衛です。などと言って現れたのでは、まだ狙われていることを白露に知らせて怖がらせるだけだ。やはり、密かに見張っている方がいいのだろうか。

「そのまま話せばいいんじゃないのかい」

 けろりと、珊揮は言う。

「でも」

 こんな怖ろしいことを、なぜ白露に言うのかと、戒莉は抗議した。

「ただのお嬢様なら、その方がいいかもしれないね」

 珊揮は、そう前置きした。

「でもね、あの娘はただのお嬢さまではないんだよ。いや、ただのお嬢さまでは、困るんだよ」

「困る?」

「そう。あの娘はね、官吏になろうという人だからね。ただきれいで、優しい世界で生きているわけにはいかない人なんだよ」

 ゆるやかに珊揮は、そう断じた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『天の意図』

 白露の寮の一室には、持ち込みすぎた荷物の整理がつかない状態だった。

 そこで、荷解きのために手伝いの必要があるということに……無理やりなった。

 さらに、白露の身の回りの世話をするというからには、その役目を果たすのは女の方が自然であろうということになった。

 

「で、また俺はこれか」

 その手伝いという役割をふられた戒莉は、不機嫌だ。

 前回の妓楼でのようなヒラヒラした衣装ではないが、戒莉が身につけているのは、まぎれもなく女の着物だ。

「あら、似合うけれど」

 白露は、あっさりと言う。

 この娘は、嬉々として戒莉の着物の見立てをしたものだった。

 自分の置かれた状況が、分かっているのだろうか。戒莉は、首をかしげる。

 いや、分かっているはずだ。

 それは、ほかならぬ戒莉が白露に話したからだ。

 白露は、つけねらわれているのだ。今までもそれで随分ひどい目にも逢っている。それを知っていて、この様子なのだ。

 戒莉は、もう感心するしかない。

 

 

 そして一日目、これといって怪しい者の姿はみあたらず、大学は平和そのものだった。

 それでも、戒莉は安心しなかった。

 

 

 それにしても、片付け、という名目でいる戒莉だが、その能力は悲しいまでに備わっていない。

 むしろ、いたずらに荷物を広げて、収拾がつかなくさせることにおいては、戒莉の右に出る者はないと言っても過言ではない。

「戒莉って、本当に剣以外は何もできなさそうね」

 白露は、ぽつりとこぼした。

 戒莉は、これに反論する言葉を持っていた。それは、

『荷物をさっさと片付けてしまったのでは、自分がここに居る理由がなくなってしまう。いつまでも片付かないのは、好都合のはずだ』

……というものだったが、言い訳にしか聞こえないような気がして、戒莉はこれらをぐっと呑み込んだ。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 夜になって、白露は寮の部屋を見て溜息をついた。

 全く片付いていない。むしろ朝よりも散らかっている。

 そして、床中に散乱した荷物に埋もれそうになりながら、戒莉が呆然と立っていた。

「ただいま」

 もう、白露は笑うしかなかった。  

 

 

 戒莉は、大学では変わったことはなかったかと、白露尋ねてきた。

 白露にとって、大学生活は始まったばかりで、何が変わったことなのか判断がつかない。

とりあえず白露は、食堂の味付けが濃いとか、そんなことを言ってみた。

 

「そういえば、着替えてしまったのね」

 戒莉はどういうわけか、袍に姿を改めている。

 白露は残念そうに、そして『それでいいのか?』という含みを込めて、そう言った。

「女の形をしていなくても、俺は男には見えないらしいからいいんだ」

 随分と捨て身なことを、戒莉は言った。相当に襦裙が嫌だったとみえる。

 戒莉は、苛々している。それは、女の着物を着せられたことと、剣を手元におけないことだけが原因ではないだろう。

 

 白露は、自分の態度が戒莉を刺激していることは分かっていた。

 命を狙われているにしては、緊張感がない。

 白露は、自覚している。

 しかし、それは白露がつとめて落ち着こうとしているからであって、決して寛勢を甘くみている訳ではない。

 慌てたり、怯えたりしていても、事態は好転しない。むしろ悪化させるだけだ。

 もちろん、内心は白露も怖い。しかし、逆恨みにせよ、自分が当事者なのだ。誰かに任せて逃げ出すわけにはいかない。

 そう、白露は戒莉に話した。

 と、戒莉は驚いたような顔でしばらく白露の顔を見つめて返していたが、やがて

『分かった』と一言、詰まらなそうに言った。

「俺はあんたを絶対に守る。でも、あんた自身も気をつけてくれないと困る」

 白露の目を見ずに、戒莉はそう低く呟いた。

「……分かったわ」

 白露は、その言葉を重く受け止め、頷いた。

 

 戒莉は、その日にあったことを、できるだけ細かく話して欲しいと、白露に言った。白露は、素直にそれにしたがって、記憶を手繰り、朝からの出来事をなぞっていった。

 講義で分からないことを質問に行ったこと、他の学生と議論したこと、その学生の名前など、それから夕飯の献立まで話してみたが、それが何かと結びつくとは、白露には思えなかった。

「こんな感じだけれど」

 とりあえず話せることは、こんなものだというところで白露は、そう言った。

 戒莉は白露の話をひととおり聞くと、黙りこんだまま、何事か考えているようだった。

 白露は戒莉が、考え事をしているすきに、その姿をよくよく見てみた。あまりジロジロと見ていては、何となく気まずいので今までこんなに凝視したことはなかった。

 

 やや視線を落としている、その目を縁取るまつ毛の黒が、鮮やかだ。その奥の瞳は艶やかに濡れていて、底知れない闇が沈んでいた。

 白い顔には、一点の染みも皺もない。わずかに上気しているのだろうか、頬に常よりも赤みがさしている。

 やはり、つい見入ってしまう。白露は、どうして天はこういう人間を作ったのだろうかと、その意図を図っていた。

 

「なんだ?」

 さすがに見すぎたのだろう。戒莉は視線を上げて、白露に問いかけてきた。

「随分考え込んでるようだったから。何か分かった?」

 白露はごまかしつつ、それらしいことを言うことがてきた。

「特に」

 極力短い言葉で済まそうとしているのかと思うほどに、戒莉の言葉はそっけない。たぶん、これで会話は終わりだと、白露は溜息をついた。

 だが、戒莉はやや口調を和らげて、続けた。

「特に怪しいことはなさそうだが、用心に越したことはない」

「そうね」

 白露は微笑んでいた。

 

 また真剣さが足りないと、戒莉はむっとしたかもしれない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『塩梅』

「さっき言っていた本のことだけど、借りるのは無理かな」

 最近学友となったひとりが、食堂で白露にそう話しかけてきた。

「貸すのは問題ないんだけど、まだ荷物が片付いてなくて、どこにその本があるのか分からなくて。もう少し待ってくれる?」

 歯切れ悪く、白露はそう答えた。

「そうかあ。もちろん、片付いてからでいいよ。貸してくれるなら、いつまでも待つよ」

 相手は、特に気にしている風ではなかったが、別の男が口をはさんできた。

「なんだ。まだ片付いてないのか。手伝いがいるんだろう」

 不思議そうに、首を傾げる。

 

 確かに、白露が大学について五日、侍女まで連れてきているのに、まだ片付かないというのは奇妙だ。

 しかし、その侍女が問題なのだ。

 実際、片付けているのは、白露ひとりだ。

 昼間の時間、白露は大学の講義で忙しい。夜の短い時間をつかって荷解きをしているのだから、あまり片付けが進まない。しかも、翌日の昼間に、戒莉が散々にしてしまうので、これも片付けねばならなくなる。

 腹立たしいことに、白露は侍女を寮に連れてきたとんでもない『お嬢』だという評判を立てられていた。中にはあからさまに、それをあてこすって来る者もいるし、陰では、それこそ何を言われているか分からない。まあ、侍女はともかく、荷物の豪華さだけでも、この批判の発生する要素はあったわけだが。

 さらに困ったことに、戒莉はあまり人前には出ないようにしていたのだが、ちらりと戒莉の姿を見た者が、この『侍女』がすごい美人だと吹聴してまわったくれたのだ。

 おかげで白露とその侍女の話が、すっかり大学中で話題になっている。

 白露は、頭が痛くなる。これでは、こっそり戒莉が護衛のために身分を偽っている意味がない。

 戒莉に会わせてくれだの、講義のことで話をしたいから部屋に行っていいかなどを、何とか断るのもいいかげ白露はうんざりしてきている。

 

「それより、ちょっと塩のかけすぎじゃないの」

 白露は、なんとか話題をそこからそらそうと、目についた向かいの男の様子に注意をした。

「ええ、でも何か塩気が足りない感じだろう」

 男は、塩をかける手を止めたものの、不満そうに料理を眺めた。

「そうかしら、むしろ濃いとおもうけれど」 

 白露は、今まで話に夢中になって食べ損なってすっかり冷えてしまった料理を口にしてみた。

「あら」

 確かに、濃くはない。白露は、ちょっと驚いた。昨日までは塩辛くて水なしでは食事ができないと、思っていたところだった。

「だろう」

 向かいの男は、白露の了解がとれたので、塩を盛大にかけることを再開した。

「でも、私はちょうどいいと思うけど」

 白露は、首をかしげた。

「それは、地域差なんじゃないの」

 横にいた鶯歌という学生が、この会話に入ってきた。

「白露のいた地域はだいたい薄味なの、それに対してこの塩かけ男の住んでいた所は、濃い味付けをするみたい」

「なるほど、なるほど」

 塩かけ男は、感心しながらなおも塩をかける手を休めない。

「でも、あなたはかけすぎ!」

 白露は我慢がならず、男の手から塩の瓶を取り上げた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『親の心』

 戒莉が昼間、荷物を部屋中に散乱させている間、白露は講義を受けていた。

 戒莉には読めないような本を何冊も抱えて、他の学生と、やはり理解不能なことを話している白露が、戒莉にはやはり遠い世界の住人に思えた。

 

 白露の婚約者という男なら、これを羨んだろう。その親の寛勢ならば、これを憎んだろう。

 

 自分のやるべきことを理解し、そこに向かっている白露が、戒莉には羨ましかった。しかしながら、大学生だとか、将来有望だとかいうことには、戒莉は全く興味を感じなかった。

―― やっぱり、俺は剣客に向いてるな

 そんなことを思って、戒莉はうなずいた。

 

 それにしても、と戒莉は考える。

 それにしても、親というのは子の為に、ここまでするものなのだろうか。

 寛勢は、自分のそれまで築いてきた地位や名誉を投げ打って、逆怨みではあるが、息子の恨みを晴らそうとしている。

 白露の親もそうだ。寛勢というのは、実は白露の父の親友であったと聞く。そんな相手も、娘の為に撃ち取ろうとする。殺してもかまわないという。 親というのは、凄まじくも、有難いものだ。

 戒莉は、自然と自分の親のことを思い出した。思い出してみて、両親がなんだかとても遠い存在になっていることに、気付いた。

 思い出すくらいだ。最近では、ほとんどの時間、親のことを忘れている。

 薄情な自分に、戒莉は呆れた。

 そうして、自分の親ではなく、他人の親の心の内なんてものを考えている。

 

 戒莉は、思考の脱線を修正するために、自分の頬を軽く叩いた。

 今は、感傷的になってる場合ではない。

 この三日、あまり大学内をうろつくこともできず、たいしたことはできていない。おかげで、いつもより頭を使う時間が長い。

 街で寛勢を探索しているはずの珊揮たちから、なんの情報ももたらされていない。

 戒莉は、いつまでもこうしているわけにもいかないだろうと考えている。いっそ、探索や護衛を解いたふりをして、白露のいるここで待ち伏せた方がいいのだろうか。

 いや、それでは白露を危険にさらしてしまう度合いが高い。それに、他の学生にも危害が及ぶことも考えられる。

「ん?」

 戒莉はそこまで考えて、もういちど寛勢の心の内を図ってみた。

 もしも、自分が寛勢だったら、どうするだろうか。

 白露をどうして葬るか。いや、白露を殺したとして、気が済むのだろうか。

 もしも、ここに寛勢が居たら、そしてこの大学で学ぶ白露を見たら、他の多くの学生を見たら、何を考えるだろうか。

 やはり、もしかしたらここにいたかもしれない息子のことが思い浮かぶだろう。

 かわいそうな息子、大学に行くことを許されず、婚約者にまで裏切られて、死んでしまった息子。さぞや、無念であったろう……。

 息子以外の者たちは、大学で学び、将来も有望だ。しかし息子は、ここにいない。将来すらない。

 憎しみの矛先は、もはや白露ひとりに向けられてはいない。

「あ」

 すべてが、憎い。やりきれない。皆が死んでしまえばいいと、呪いの言葉が次から次へと湧いてくる。

 ただ、想像しているだけの寛勢の心の闇にのまれてしまいそうな自分に、戒莉は吐き気を感じた。

 

「戒莉」

 声が、落ちていく戒莉の腕を掴んで引き上げた。

 いつの間にか戸口に立っているのは、白露だった。

「どうしたの」

「いや、別に」

 額に噴出している汗を隠すように、戒莉は白露に背を向けた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『干息』

 戒莉は、その日のできごとも、ひととおり白露から聞いた。

 今日も、昨日とは大した違いはないように思えた。

 

 

 

 そして夜も更けた頃、真佳が現れた。

 

 

 戒莉は、ここ数日というもの、床に薄い寝具をのべて寝ていた。

 寝ると言っても、ここに来てから、よくは眠っていない。

 夜陰にまぎれて何者かが部屋に近づいても、戒莉は即座に身を起すことができた。

 一方で、白露は、あいかわらずの豪快さで、すっかり寝入っていた。

 寛勢の件はもちろん。護衛とはいえ、男が同室にいるというのに、これは気の抜けすぎだ。

 戒莉を男と思っていない。その可能性もあるが。

 

 真佳は、少し見ないうちになんだか背が少し高くなっているように見えた。

「寛勢を見つけた」

 前置きなしで、真佳が口を開いた。

「それで?」

 戒莉も余計な驚きなどはさまなかった。

「だが、死んだ。俺たちの目の前で、毒を自分で飲んだ」

 口惜しいと、真佳の顔が言っていた。

 あっけなさすぎる。戒莉は、にわかには信じられなかった。しかし真佳の様子から、冗談とも思えない。

「どんな毒なんだ?」

「干息という毒だ。即効性があって、少量で死ぬ」

 そんな怖ろしいものを寛勢は、なぜ持っていたのか。実際そうしたように、自殺用に用意したものだろうか。

 いや、恨みを抱いた人間がそれを手にする理由は知れている。

「お嬢サンは、なんともないのか?」

 真佳も考えるところは同じだ。

 白露を毒殺するつもりで、寛勢は毒薬を求めたのだ。

「何ともないな」

 寝台の上で、安らかに眠っている白露を、戒莉はちらりと見た。

「これからも食べるもの、飲むものに注意した方がいい」

 真佳は、静かに注意を促す。

 戒莉は、その言葉に疑問を感じた。

 寛勢が死んだならば、もうそれでお仕舞のはずだ。それでも、警戒が必要だということは、どういうことだろう。

「まだ、何かあるのか?」

「寛勢の女房だ」

 なるほど。戒莉はそれを忘れていたとは迂闊に過ぎた。子供には父親がいて、母親がいるものだ。父も母も、同じ親だ。同じことを考えても不思議ではない。

 それに女の方が、食べ物に近づきやすい。

「食事は、当分こちらで用意する」

 真佳は、そう言って朝餉なのだろう弁当と、水筒を置いた。

 それさえ食べていれば、安心だ。

「分かった。そっちはどうするんだ?」

「大学を内偵する」

 真佳の言葉に、戒莉は思わず羨ましいと思った。

 それに対して真佳は嬉しそうだ。

「お前は目立ちすぎてるようだから、下手に動くなよ」

 うす闇のなかでも、にやりと笑う真佳の口元は、はっきりと見えた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『誰も』

 寛勢が死んだ。しかし、安心はまだできない。どうやら毒薬を手に入れた寛勢の妻、つまり顕彰の母親がまだ潜伏しているらしい。

 

 夜明け前に起こされて、そんな話を聞いて、白露が衝撃を受けないはずがない。

 それでも、何故か戒莉の前では虚勢を張っている白露がいた。

「残念だわ。食堂の料理の塩加減が好みになったのに」

 そう言って、白露は冷たい弁当を受け取った。

 戒莉は、そんな白露の態度など、気に留める様子もなくなっていた。

「昼餉も、夕餉も、ここで食べてもらう。それから、水もこの水筒のもの以外は全部口にするな」

「分かった。でも、これって私だけが助かるってことじゃない?」

 白露は、ふと不安になった。

「他の学生が、毒を飲まされる……可能性はある」

 ひどく冷たく、戒莉の声が響いてきた。

「俺が守るのは、あんただけだ。他の人間までどうにかする依頼は受けていない」

「そんな」

 白露は、動揺した。

 自分の命が狙われているよりも、自分のとばっちりで誰かが被害にあうかものしれない方が、白露には苦痛に思えた。

「そんなことは、許せない」

「なら、あんたが自分で寛勢の女房を見つけろ。顔を知ってるのは、あんただけだ」

 きっと、顕彰の母親は大学に入り込んでくる。

 白露の目を、戒莉ばじっとみて、続けた。

「昨日、寛勢は毒薬を買ったらしい。その日のうちに寛勢がその毒を飲んで死んだ。たぶん、すぐにでもその毒を使いたいはずだ」

「ならば、大学に知らせて」

 大学側に知らせれば、不審な女を雇うこともないはずだ。

「それじゃあ寛勢の女房は、現れなくなってしまう」

 戒莉は、それを許さないというかまえだ。

「でも、皆を危険にさらすことになる」

 白露は、なおも食い下がった。

「仕方ないだろう。相手が何処に隠れているか分からないんだ。下手に動いて警戒されて、その女に逃げられたら? あんたは、いつまでも怯えて暮らさなくちゃならなくなる。あんた、それでいいのか?」

 苦しげに、しかし明確に、戒莉は言ってくれた。これは、お前のためなのだと。

 白露はひと呼吸おいて、戒莉に向かった。

「それでも、ここで誰かが私の代わりに死んだら、私はずっと、それこそ一生後悔だけをして生きていくことになる。だったら、ここで死んだ方がまし」

 白露は、毅然と言い放った。

 

 白露のそんな態度を見ると、戒莉は軽く舌打ちをした。

「あんたが死んで何になる? ただ、あのバカ夫婦が満足するだけだ。いや、あんたが死んでも、寛勢の女房は、もう止まらない。あいつらにとって、この大学そのものが呪詛の対照になってるんだよ」

 怒鳴るわけではないが、戒莉の声には怒りが込められていた。

 白露はその感情の強さをヒリヒリと感じながらも、決して引き下がることはなかった。

「ならば、なおのこと。誰も、殺させるわけにはいかない」

「オレも、あんたを死なせるわけにはいかない」

 戒莉も一歩も引くつもりはないらしい。

 

「では、やることは決まった。私を含めて、誰も殺させない。単純なことでしょう」

 できるだけ尊大に、白露は、思い切り微笑んだ。

 

 




1234文字!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『鶯歌』

『毒』

 毒。
 ようやく手に入った毒。
 これで何もかもが、もうすぐ終る。
 この毒が、総てを裁いてくれる。
 この毒が、何もかもを正しい姿にしてくれる。 

 
 あの子が死んだのに、あの娘が大学に行って、官吏になるなんてことがあってはならない。
 いや、あの娘だけじゃない。他の誰もが、そんなことをするのは許されない。
 みんな、みんな死んでしまうべきだ。
 あの子が死んだように、あの子と同じように。



 もう間もなくだ。
 夜が明ける。
 日が昇る。
 学生たちが、朝餉を食べにここにやってくる。
 あの娘もやってくる。
 汁物を一口。煮物を一口。
 それで、何もかもが正される。
 この部屋は、隅々まで屍骸で埋め尽くされる。
 死で満たされた、死だけしかない世界。その世界でならば、あの子も生きていかれるはずだ。
 皆、同じになれる。
 なんて素晴らしいのだろう。
 なぜ今まで、だれもそうしなかったのかが不思議なくらいだ。


 ああ、もう直ぐそこまで朝はやって来ている。
 新しい世界の始まりの朝だ。



 鶯歌は、まだ眠い目をこすりながら、ようやく寝台から這い出た。

 つい本に夢中になってしまい、眠るのが遅くなってしまった。

 

 鶯歌は、つい最近大学にやってきた。田舎から出てきたばかりの鶯歌には、何もかもが珍しく、都を観て廻りたいところであったが、今は大学の講義や鍛錬で精一杯であった。

 少し遅れてやってきた白露という娘は、鶯歌よりも年下であったが、はるかに頭のよい娘だった。そして、容姿もよろしい。挙句、金持ちときている。

 何もかもが鶯歌とは違う。同じなのは、まあ大学生であることと、女であることぐらいだ。

 鶯歌という風雅な字は、どういうわけでつけられたのかものかといつも思う。

 鶯歌の背丈は、同じ年頃の男よりも高いくらいで、ひょろりとしているので巨漢という風ではないが、明らかに女らしいとは言いがたい。それからいくと、白露は儚げで可愛らしい。こういう娘に生まれてくれば、鶯歌は大学なぞに行こうとは思わなかったかもしれない。もっと安穏と、お嬢様、お嬢様とかしずかれて一生を送っていただろう。

 

 鶯歌の家は貧しかった。鶯歌は、幼い頃に奉公に出され、下働きをしていた。

 運のよいことにそこの旦那が寛大な人で、学校に行かせてくれた。鶯歌は寝る間を惜しんで勉強をし、仕事も手を抜かずにがんばった。そのおかげで、成績がよいということで、どんどんと上の学校に進み、大学まで行くことになった。さすがに、そこまでは無理かと鶯歌は、諦めていたが、旦那は大学へ行くことを許し、援助までしてくれた。鶯歌は、この恩に報いるには、どうしたらいいのか分からなかった。

 そんな鶯歌に、旦那は言った。

 

『お前には大学へ行って、官吏になって欲しいね。国の為に働いて欲しいんだよ。なに、それでこの国が良い国になれば、私もここで幸せに暮せるというものだよ』

 

 そう言われて、鶯歌はがんばって勉強しようと心に誓った。

 しかし、いざ大学に来てみて、はやくもくじけそうになった。

 なにしろ、皆、頭がいい。そして勉強熱心だ。それまで誰にも負けないと思っていた勉強量など、少ないくらいだ。

 そして、家柄や実家の経済力など関係ないと思っていたのが、まちがいだった。

 学生の中には高官の子息がおり、そして豪商、豪農の家の者がいた。そういう人々は、幼いころから科目ごとに教師を持ち、専門に勉強をしてきている。働きながら、学校に行っていた鶯歌などが太刀打ちできる相手ではない。話してみれば、だいたいが気さくで、少しも偉ぶるようなところのない者が多いのだが、鶯歌はなんとなく、彼らに対して引け目を感じていた。

 白露も、ものすごいお嬢様で、頭がよくて、美人。もう立派過ぎて笑ってしまうくらいだ。寮に持ち込んだ荷物の豪華さ、そしてその蔵書のすばらしさは、噂の的だ。さらには、侍女まで連れて来たというから驚きだ。これを聞いたとき、自分のことぐらい、自分でやれよ。と、つい心の内で悪態をついたものだ。

 実際会って、話をしてみると、それほど鼻持ちならない人物ではなかった。それどころか、さっぱりとした性格で、意地の悪いところは全くなく、鶯歌とも気さくに話す。あげく、どういうわけか鶯歌の知識や考え方に、感心などして、それをすぐ口にする。

 ああいう人間には敵わない。

 しかし、白露は白露で、鶯歌は鶯歌だ。いろんな人間がいた方が、世の中とはうまくまわるものだ。

 

「さてと」

 顔をざふざぶと適当に洗い、髪を梳いて一まとめに結び、身支度を整えると、鶯歌は食堂に向かった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『事件だ』

 鶯歌が食堂に入っていくと、既に多くの学生がそこにいた。

 先輩もいたし、自分と同じ新入の者もいた。

 ざわざわと皆、口々に何か言っていて、誰も席に座っていない。

「おはよう」

 鶯歌は、昨日ここでやたらと塩を料理に振りかけていた男を見つけると、声をかけた。

「ああ、おはよう」

「どうしたの?」

 鶯歌は、気もそぞろな男の様子に首をかしげた。

「料理がないんだ」

「へ?」

「料理泥棒だよ!」

 男は、ものすごい事件が起きた。という顔で、鶯歌に言った。

 なんでも、朝いちばんでやってきた学生が、料理がないのに気付いたのだそうだ。いつもは、はやくから仕込みが行われていて、朝餉が出来上がっているはずなのに、何もない上に、料理人の姿も全くなかったのだとか。

「それで今に至るだ」

「それは、奇妙」

 鶯歌は、厨房を覗いてみた。確かに誰もいないし、料理らしいものは何もない。ただ、匂いは残っていた。

「料理はあったはずなんだよ!!」

 男は興奮気味だった。

「確かに……誰か寮官のところへ報告したの?」

 寮内で起きたことは、まずは寮を管理している寮官のところへ持ち込まれる。それで、寮官がしかるべき措置や説明を行うはずだ。

「ああ。もちろん。でも、今のところ何の説明はないんだ」

 男は、がっくりと肩を落す。

「ああ、今日は朝飯抜きかあ」

「まあ、あんたどうせ部屋に何か蓄えてあるんでしょう。それ食べなさいよ」

 鶯歌は、男の肩をポンと叩いた。

「そうだな」

 男はそう言うと、さっさと食堂を後にした。

 

「みなさん」

 と、食堂内にひときわ通る声があった。

 自然と、その声の方にその場の者の視線が集まった。

 その先には、白露がいた。

「みなさん。今日は、この食堂は使用禁止となりました。お弁当を用意してありますので、講堂まで御願いします」

 白露は、そう高らかに言った。

 みな、はじめはポカンとしていたが、ぶつぶつと文句を言いながら、食堂から講堂へ移動を始めた。

 鶯歌は、同じ説明を繰り返す白露に近づき、袖を引いた。

「何があったの?」

「説明は後でいい?まずは食堂を出てから」

 白露は、ごまかそうとしているという様子ではなかったが、鶯歌は釈然としない。

「なんで、白露がこんなことしてるの?」

「それも後。御願いだから、ここを出て」

 納得しないながらも、白露の勢いに、鶯歌は従わざるを得なかった。

 

 

 

 誰も残っていないことを確認してから、白露は食堂から出てきた。

 鶯歌は、それを待ち伏せていた。

「何があったの? 知ってるんでしょう」

 鶯歌が笑うと、白露は諦めたように言った。

「料理人が、料理に毒を入れたの」

「は、なんで?」

 白露から発せられた言葉が、鶯歌には一瞬理解不能だった。

「学生を皆殺しにしようとしていたみたい」

 混乱した鶯歌の質問に、白露は率直に答えた。

 

 大事件だ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『試す』

 時は、夜明け前に遡る。

 

 

 

 

「では、やることは決まった。私を含めて、誰も殺させない。単純なことでしょう」

 

 

 白露にそう決め付けられて、戒莉は別に言い返せなかったわけではなかった。

 他の学生を守る義理はないと、言ってはみたものの、戒莉自身、実はその意見に賛同はしかねていた。

 戒莉は白露を、無意識に試していたのだろう。白露は、自分以外の者を犠牲にできないという結論を出してきた。

 そう来なければ、戒莉はこの白露という娘を見限っていたのかもしれない。

 いや、そうはならなかっただろう。

 白露は合格ということになるが、戒莉自身にそんな風に人を試せるような資格などありはしなかった。

 合格だろうが、不合格だろうが、戒莉は白露を守る。それは変わらない。

 仕事として引き受けたからには、そうするのが本分であるはずだからだ。だが、同じ仕事をするにも、心持ちが違えば、気概も違う。

 戒莉は白露を守るべき存在だと、確信したかったのだ。

 

「できるだけ早く、できれば夜明け前に寛勢の女房を見つけ出すのが一番。もしも、見つけられない時には、寮官にこのことを話せばいい」

 戒莉は、今後の指針を白露に示した。

「いいでしょう」

 白露も、戒莉の意見に異存はない。しかし、不安はある。

「でも、探すと言っても手がかりが全くないけれど……」

「簡単だ。毒を飲ませるつもりなら、一番てっとり早いのが、厨房にもぐりこむことだ」

「それは、そうだけれど」 

 厨房に入り込むのをただ待ちぶせるのは、いかがなものだろうか。毒を混ぜるのが厨房でだけとは限らない。例えば井戸に毒を放り込むことだってあるだろう。そのほか、学生全員の口に入るもの総てを秘密裏に警戒するのは、無理だ。

 

「たぶん寛勢の女房は、もう厨房にいる」

 戒莉はそう、断じた。

「どうして、そんなことが言えるというの?」

「料理の味付けが変わったんだろう」

「ええ、まあ。でも、それだけで……」

「その味が、あんたの口に合うってことは、あんたと同じ嗜好の者が料理したんじゃないか」

「ああ、なるほど」

 白露は、鶯歌が言っていたことを思い出した。

 白露の生まれた地方では、この国のなかでも極端なほど料理の塩加減が薄いのだという。白露は、その味を当たり前のことと受け止めてきたが、ほかのどの地方の者の口にも、それはもの足りないものであるらしい。

「あの街の出なら、そういう味付けをする」

 戒莉は念を押すように言った。

 

 白露は、自分の指先が震えていることに気付いた。

 もし、毒が一日はやく寛勢の手に入っていたとしたら、白露も他の学生も、今ごろ命はなかったかもしれない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『故郷の味』

 厨房の中は、既に朝餉の支度が始まっていた。

 女の調理人が作業をしているようだ。

 白露は少し離れたところで見ているのだが、その女が寛勢の妻ではないことは、はっきりと分かった。

 やはり料理の塩加減だけで、判断するのは性急であったのかもしれない。

 

「おや、支度はまだだよ」

 厨房の中から、白露を見つけた女が声をかけてきた。

 白露は食事をしようというのではないことを女に伝えると、女はそうでしょうとも、という顔で笑った。

「目が覚めてしまって、こちらから人の気配がしたものだから」

 白露は、厨房に近づいた。

 やはり、寛勢の妻の姿はない。

 

「最近、味付けが変わったようだけれど、何かあったのかしら」

 目が覚めてしまって、誰かと話をしたいという風を装い、白露は女に微笑みかけた。

「ああ、気になったかい。ごめんなさいよ。ちょっと私が具合わるくしてね。代わりに入った人がどうにも薄味だったみたいでね」

「では、その代わりの人はもういないのね」

 この女とは違う人間が、この厨房にいたのだと、白露は心の底が冷やりとするのを感じた。

「ああ、今朝は仕込みだけしてもらったけどね。味付けは私がやろうと思ってね。もう、帰ってもらったんだよ」

 女は、味付けに絶対の自信があるようだ。

「では、この近くの人なの?」

「いいや。遠くの町から最近来たばかりだと言っていたよ。南の方だと言っていたけど。そこでは、どうも薄い味付けをするらしいよ」

「そう」

 白露は、その南からやってきたという女が、寛勢の妻であることを確信した。

 正直、怖ろしかった。しかし、ここで立ち止まってしまう訳にはいかなかった。

「その人、どこに住んでいるのかしら」

「さあ、知らないねえ。あんた、何か用でもあるのかい」

 女は、探るような目でジロリと白露を見た。

「私の故郷の味に似ていたものだから、もしかしたら同郷の人かと思っただけなの」

「へえ、あんたもあんな薄味がいいのかい」

「まあ、ずっとそれに慣れていると、そういうものだと思ってしまうのね」

 女の気分を害さぬように、白露は気を使った。

「そうだねえ。私もこういう味つけが当たり前だと思っていたからね、人によってはちょっとショッパイのかもしれないね。そうだ。あんた、ちょっと味見をしてくれないか」

 女は、煮物を小皿にひとすくいした。

「……」

 毒が、入っているかもしれない。その想いが、白露を躊躇させた。

「大丈夫。毒なんて入ってないからさ」

 女は豪快に笑う。

 しかし、白露には笑えない。

 それでも、白露は厨房の中に入り、女の手から小皿を受け取った。

 それは湯気をあげ、美味そうな匂いをさせていた。

 白露は、じっとそれを見つめた。

 

 と、白露の背後から声が滑り込んできた。

「毒なんて入ってないって? 笑えない冗談だな」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『祈るように』

「毒なんて入ってないって? 笑えない冗談だな」

 

 

 その声のする方に、女と白露の視線は走った。

 そこに立つのは、戒莉だった。

 まだ弱い朝の光の中でも、戒莉の姿は鮮明だ。

 女は、しばらく戒莉の姿に魅入られたように釘付けになっていた。

 

 ようやく正気を取り戻し、女がはっとした時には、戒莉は厨房の中まで歩みを進めていた。

「あ、あんた誰だい」

 女は慌てた。

「俺が何者かよりも、あんたが何者かの方が問題だと思うね」

 戒莉は、詰まらないことを言わされているという風情で吐き棄てた。

「何、訳の分からないことを言ってるんだい」

 女はそう反論しながらも、逃げ腰なのが分かる。

「なら、その料理、あんたが先に味見をしてみたらどうだ」

 言いざま、戒莉は白露の手から皿をとると、女に差し出した。

 女は、視線をその皿と戒莉の顔の間を行ったり来たりさせながら、一歩下がった。

「なんで、私がそんなことを」

 首を振りながら、女はなおもう一歩下がる。

 戒莉は、一歩前へ。

 笑の一片たりとも浮かべず、むしろ女を見下すような視線で、戒莉は女に迫っていく。

 

「戒莉」

 白露は、女の方が気の毒になった。

『なんだ』という目で、戒莉は白露をチラッと振り返った。

「この人が本当に、それを食べたらどうするの?」

 追いつめられた寛勢は、毒をあおって死んだ。それぐらいの覚悟が、この女にもあるかもしれない。

「その時は、その時だ」

 そう言い棄てる戒莉の白い横顔に、白露はゾクリとした。

 本気なのか、口先だけのことなのか、白露は戒莉という人間が分からなくなっていた。

「そうね。でも、それじゃあ何も分からないままでしょう」

 白露は溜息をひとつ落として、女の方に向き直った。

「で、あなたはどうするの?」

 

 

 女は、ぺたりとその場に座り込んだ。

 そして、ぽつりと一言。

「もう、お終いなんだね」

 呟いた女は、寂しげだった。

「もし、あなたが毒を料理に混ぜていたら、そういうことになるでしょうね」

 しっかりとした声で、白露は女に宣告した。

 

 実を言うと、白露はこの女が毒を盛ったか否か、懐疑的だった。

 女は、寛勢の妻ではない。寛勢の妻は、もっとほっそりとした、儚い感じの人だった。

 この女を、白露は知らない。

 だから、この女が白露の命を狙う、そんな暗い熱情を持っているとは思えなかったのだ。

 だが、女は毒を手にした。そして、それは白露だけではなく、他の多くの学生の命を奪っていたかもしれない。

 

「なぜかと、あんたは思っているだろうね」

 それまで視線を床に這わせていた女が、何のきっかけか、そう言って顔を上げた。

 女の目には、底知れぬ憎しみと、涙がうっすらと浮かんでいた。

「なぜ?」

 白露は、女の憎悪から目を逸らさずに、そのまま問い返した。

「坊ちゃんが死んだのに、あんたが生きていていいはずがないだろう」

 理不尽な話だと、女は憤っている。

 しかし、白露にしてみれば、それこそが理不尽だ。

 

 この女が坊ちゃんと呼ぶのは、おそらく顕彰のことだ。白露のかつての婚約者で、大学をともに目指し、その道を断たれて、自害した男。

 気の毒だったと思う。悲しいことだったと思う。顕彰を追いつめた原因のひとつに、白露の存在があったかもしれない。白露に罪がないとは言えない。

「でも、私はここで死ぬわけにはいかない」

 自らの死による贖罪を、白露は否定した。

 女の唇は白露への呪いの言葉を探していたが、ただ震えるばかりで、みつけることが出来ずにいた。

「私は、何もまだしていない。だから、まだ死ぬわけにはいかない」

 まっすぐ前を見て、白露は言い放つ。

 その凛とした白露の態度が、女を追い立てた。

 

 と、女は信じられない程の俊敏さで立ち上がったかと思うと、調理台に置かれた包丁を掴もうとした。

 しかし、一瞬早く戒莉の手が女の腕を掴み、後ろへねじり上げていた。

「ああっ」

 とらえられた女は、逃れようともがいたが、戒莉はそれを許さなかった。

「言いたいことがあったら、言っておけ。これが最後だ」

 静かに、冷淡に、しかし戒莉は女を背後から嗾けていた。

 

 女は、はっと白露を睨み据えた。

「あんたひとりに何かできる? 自分が何でも出来ると思ったら大間違いだよ。どんなにお偉くなっても、どんなにご立派になろうと、あんたが出来ることなんてたかが知れたものだよ」

 ようやく女が捕らえた言葉は、空しくも残酷に響いた。 

「あんた一人が死んでも、誰も、何も、困りはしないんだよ」

 

 そうだ。

 顕彰が死んでも、世界は嘆かない。国は、彼の死を惜しまない。

 女は自らの深みにはまっていた。

「そう。ひと一人が出来ることなんて、たかが知れてる」

 白露は、女の闇に揺らぐことはなかった。

 ただ、静かに女に言葉をかけていく。

「でも、何もできないわけではない……私は、そう思いたい」

 祈るように、白露は微笑んだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『誰が道を選ぶのか』

 あの事件から、四日ほどたっていた。

 珊揮は、いろいろと手続きに追われて、戒莉は何の説明もない状態で放置されていた。

 そうこうするうちに、ようやく戒莉にも、珊揮の煎れたお茶を不味そうに飲む機会が訪れた。

 

 

「それで、あの女は何者だったんだ?」

 戒莉は不機嫌だ。

「お嬢さんの元許婚の乳母だよ」

 戒莉の仏頂面を楽しみながら、珊揮は当たり前のように答えた。

 

 あの女が毒を仕込んでいたのか、戒莉はあの時に、実は確信などしていなかった。

 白露が料理の味見を迫られた時、陰で見ていた戒莉は、とっさに声をかけていた。

 もしかしたら、あの料理に毒など入っていなかったかもしれない。しかし、入っていたら、という危惧が戒莉をその場に出て行かせた。

 『毒が入っている』と言って、その女の反応を見る。それは一種の賭けだった。

 

「あの女のこと、あんた、知っていたのか?」

 あの女が、顕彰の乳母だと知っていたら、戒莉はあの女を即座に斬っていたかもしれない。

「分かったのはちょっと前だね」

 本当なのか嘘なのか、珊揮の言葉は難しい。

「白露は、知らなかったんだな」

「そのようだね」

「そうか。で、寛勢の女房の方は」

「亡くなったらしい。顕彰が死んですぐに……心労で、という話だよ」

 やや言いよどんだが、珊揮はそれでもこれに関しては事実を言っているようだ。

「なら、逆恨みの復讐劇は、これで終わりということか」

 この結末が、良かったとも、悪いとも、戒莉には判断がつかなかった。ただ、これでこんなバカバカしい殺し合いは、終ったのだと思いたかった。

「ひとまずはね。でも、知らないところで、知らない人間から恨まれることもあるからね」

 やけに重いことを、珊揮は言い添えた。

「白露は、これからも、きっと憎まれたり、恨まれたりするのかもしれないんだな」

 それでも、そういう道を選ぶのは彼女自身で、他の何者でもない。

「そうだね。でもむしろ憎まれたり、恨まれたりしているのは、私たちの方じゃないのかな」

 そう笑って口にしてしまえるのは、珊揮の強みなのかもしれない。

「そうだな」

 それを認めてしまうのは、戒莉の弱さだ。

 戒莉は視線を腰に落す。天涯が、また重くなったような気がした。

 

 

 これを手にするということは、人の命を取りながら、自分の命の糧を得ることだ。

 人の命を喰らって生きている。憎まれても、怨まれても、それは当たり前のことだ。

 それが嫌ならば、罪悪感を抱いたりするくらいなら、この剣を離せばいい。

 だが、と、戒莉は思う。

 これを手放すことは出来ない。これから遠ざかって生きてはいけない。もう、何もかもなかったことには出来ない。何も知らなかったことには出来ない。

 もうこれなしでは生きてはいけない。

 これから離れて生きていても、生きてはいない。

 だから、生きるしかない。

 憎まれても、怨まれても、自分自身が憎くても、恨めしくても、ここで生きるしかない。

 なぜなのだろう?

 どうして、そんな風に生きなければならないのだろうか。

 戒莉は、胸の内で自問する。

 

 ここにいたい。それだけだ。

 

 

 

 

「あんたはひとつ、思い違いをしている」

「おや、なんだい」

 戒莉のそんな前置きに、珊揮は声音も軽く、尋ね返した。

「あんたのマヌケさのせいで、珠鳳とかいう官吏が死んだんじゃない」

 何百年も前に、道を外した王を諌めようとして死んだ女官吏。珠鳳という娘は、珊揮にとってどんな存在であったのだろうか。

「おや、では誰が彼女を死なせたんだい?」

 珊揮は、じっと戒莉の闇を覗き込んでいた。

「珠鳳を殺したのは、王だ」

 戒莉の声は、低く響く。

 珊揮は、ただ苦く笑った。

 

 

 

『天涯 ~巧編~』 了

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 白露視点Ⅰ

巧編の冒頭部分を白露の視点で書いたものです。
元々は、こっちが最初に書いたもので、本編は書き直したものでした。
今では、なんで書き直したのか分からなってます。
せっかく書いてあるので、載せることに。
エコロジー?


『旅の支度』

 

 

 

「これだけの立派なお支度は、誰にもできませんよ」

 何が誇らしいのか、向春は声を弾ませている。

 白露は、このたび大学に推挙されるという、名誉に預かった。

 確かにこれは、誇らしい。

「こんなにお若くて、大学に進まれるなんて、なかなか出来ないことですよ。少学の学頭様も、お褒めになっていたというじゃありませんか」

 つくづく、向春は白露を褒めることが好きらしい。それとも、本心ではないのだろうか。

 やや、意地の悪いことを考えて、白露はふっと笑った。

 二十歳で大学に行くことは、確かにすばらしいことかもしれない。だが、もっと若くして推挙された例がないわけではない。

 白露は、それらの称賛は半分だけ、ありがたく頂いておくことにした。

 なんでも『半分』、と考えるのが白露の癖だ。

 

 手が止まっていることに、白露は気付いた。明日には、ここを立たねばならないというのに、荷造りが済んでいない。

 家具など、大きなものの手配は済んでいたが、手回りの品を纏めるのが後手に廻ってしまった。

 父母は、一人王都の大学に行く娘に出来るだけの支度をしてやりたいと、家具や衣類を新調してくれた。必要と思われる書籍の数々を集め、それらは寮の部屋には納まらぬであろう程だ。両親はどんな稀書をも、探し求めてくれた。そのおかげで、のちに白露は大学でも屈指の書籍持ちだと言われるようになることになる。

 世間的に、白露は両親に甘やかされて育った苦労知らずのお嬢様だ。

 あれが欲しいと、何気ない会話の中で一言発しただけで、翌日には白露の目の前にそれはあった。

 豊富な財力を持ち、愛情深い両親。深い知性と教養を持ち、美しさすら彼女の財産だ。なにも白露を悩ませるものなどない。皆、そう思っていることだろう。

 実際のところ、そのとおりだと、白露本人も思う。

 負の要素は、何もないはずだ

 やはり白露は恵まれているのだ。

 

 

 

 

 巧は荒れていた。王を失って、こんなにも速やかに国は傾いていくものかと、白露は驚くとともに、自分の住む世界が何とも覚束ないものであることを理解した。

 つい数年前に隣国の王が崩御したと聞いて、同情を寄せていたのが、気付けば自分たちも王を失ってしまっていた。

 今日あったものが、明日あるとは限らない。

 昨日生きていた人が、今日生きているとは限らない。

 巧は、そんな国になってしまった。いや、もともと国とは、そんなものであったのかもしれない。ただ、それに気付かなかっただけで。

 

 

 

 

 大学は首都にある。

 白露は傲霜を目指して、旅立つことになる。

 愛情深い両親のことである、当然その道中を心配した。

「だんな様が、すばらしい杖身を頼んでおいでになったそうですよ」

 すばらしい。

 向春の口は、ひたすらに白露の機嫌を探るように動く。

 この向春という娘は、いわゆる家生だ。年は、白露よりもひとつ、ふたつ下のはずだ。もの心ついた頃から、白露の身の回りの世話をするのが、この娘の仕事だった。そうすることに、向春は疑問も嫌気も抱かない。むしろ、白露の家にいることが、こんなにお優しい旦那さまと、奥様と、すばらしいお嬢様にお仕えできることが、幸せだと笑う。

 それが本当だとしたら、向春は幸せなのだろう。

「ええ、そうらしいわ」

 白露は、さして興味のない口調で、向春の話に相槌をうった。

「そうですよ。あの風渡りの珊揮ですよ」

 向春は、うっとりと言う。まるで、自分が伝説の一部にでもなるような気分でいるようだ。

 確かに『風渡りの珊揮』は伝説の人だ。

 だが、伝説は伝説だ。

 明日、白露の前に現れる剣客は、珊揮という字かもしれないが、伝説の『風渡りの珊揮』ではないはずだ。

 伝説は、伝説でしかないのだから。

「それより、早く荷造りを済ませないと。お前、私を眠らせない気?」

 

 

 

 そして旅立ちの支度は、いつまでたっても終らないような気がした。

 

 

 

 




この記載があったので、大学に持ち込んだ白露の荷物が豪華だということを憶えていたようで、、、後の展開になったのね。
と、あらためて思ひました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 白露視点Ⅱ

 

 

『あれが あなたの生まれた街』

 

 

 奇跡的にも、荷造りは夜が明ける前には済んだ。

 旅立つ朝に、白露は既にくたびれていた。

 これから、白露が経験したことのない長旅になるというのに。

 

 

 なるほど、と白露は妙に感心した。

 その男は、いかにも『風渡りの珊揮』という風貌をしていた。

 見上げるような身の丈、それに見合うだけの筋肉がしっかりと着いた体。褐色の肌と、赤錆のような髪が、いかに長く陽の光を浴びて生きてきたかを物語っているようだった。

 もしも、そこに表情というものがなかったなら、怖ろしくて近づくことさえできないような顔立ちをしている。

 だが珊揮は、キレイな瞳をしていた。優しい目をしていた。

 

 父が、丁寧に珊揮に語りかけるのを、白露はぼんやりと聞いていた。

 こちらが雇い主であるはずなのだが、ついそういう態度を示したくなる。 白露の目の前に現れた、珊揮を名乗るその剣客は、そういう男だった。

「白露、ご挨拶を」

 父に促されて、白露ははじめて自分が挨拶もせずに、不躾に珊揮を凝視していたことに気付いた。

「道中、よろしく御願いします」

「こちらこそ、よろしく御願いいたしますよ」

 物柔らかな声音で、珊揮は白露に微笑んだ。

 無骨なだけではない、その柔軟さに、白露はこれは『風渡りの珊揮』なのだという確信を持った。

 

 

 父母と別れ、慣れ親しんだ家や土地と別れ、向春と別れ、白露は今日会ったばかりの男と旅立つ。

 不安はなかった。それよりも、心が解き放たれるような、今までのしがらみから切り離されるような、浮き立つ心持ちが白露を満たしていた。

 

 

 

 

 馬車を操る御者、そして警護の珊揮と、もうひとりの杖身が白露の旅の供となった。

 荷物を満載した馬車の荷台の上から、白露は遠ざかる街並みを眺めるともなく、眺めていた。

「よく、御覧になっておくとよいですよ」

 珊揮が、目を細めて遠くを見遣った。

「あれが、あなたが生まれた街ですよ」

 その声に、白露の心は今しがた別れを告げたものに引き戻されるようだった。

 それでも、白露は旅立つのだ。そうして、半分失くした人生でも、全うに生きるのだと、小さく誓った。

 

 

 

 

 荷台というのは、正直快適ではない。そもそも人を乗せる目的ではないもの なので、それはどうしようもない。

 当初は、柔らかい布張りの座椅子のついた馬車で行くつもりであったのだが、そんな立派な馬車を見せ付けて旅するのは、襲ってくれと言わんばかりだという意見に従った結果だった。

 綿のたっぷり入った座布団をしいているものの、床から伝わる振動は否応なく白露に伝わった。

 だんだん気分が悪くなってきた白露は、空ろな目で空を見上げた。

 青く、晴れ渡った空は、なんだか白露をバカにしているようにも見えた。もちろん、これは気のせいだ。

 白露の様子を窺いながら、珊揮は頻繁に休憩を入れていた。白露は、それに感謝しつつも、自分のふがいなさに呆れていた。

 白露とて大学に進もうというくらいだ、一通りの武芸なども身につけている。体は、むしろ鍛えている方だし、体力は人一倍あるつもりだった。見た目よりも丈夫なのが取り柄でもあった。

「どうぞ」

 差し出された水は、今まで飲んだ、どんな飲み物よりも美味しかった。

 

 

 それでも、夕刻までに町に入ることが出来たのは、もともと珊揮が白露があまり旅慣れていないことを考慮に入れて行程を考えていたのだろう。

 

 

 

 その町は、どんよりと薄闇に沈んでいた。うら淋しい、荒んだ風が通り抜けているような町だ。

 その頃になると、白露は疲れてはいたものの、気分の悪さは何とか解消されていた。

「今夜は、ここで宿をとります」

「はい」

 ようやく揺れない地面に足を下ろし、横になれる。

 白露は、情けないが飛び上がるほどに嬉しかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 白露視点Ⅲ

 

『勿体なくとも 人のこと』

 

 

 深い眠りに落ちた。

 一夜が通り過ぎたことが信じられないほど、横になったと思ったら、気付けば朝だった。

「おはよう、ございます」

 白露は、まだすこし眠りを引きずりながら、珊揮と顔を合わせた。

「おはようございます」

 珊揮の方は、実に爽やかで、軽やかだ。

 

 背後で、ゆらりと影が動いた。ような気がした。

 もう一人の杖身だ。

 昨日はろくに口もきいていないし、姿もよくは見ていなかった。白露は、あらためてその人物を見た。

 こんな人間だったろうか。

 昨日ちらりと見たその杖身は、頭巾のついた上衣を頭からすっぽりと被っていて、顔というものはかろうじて口元が見える程度だった。そんなぞろりとした衣の上からも、この人物が決して大きくはないことは分かった。

 印象といえばそれくらいだった。あとは気分の悪化により、白露はすっかりこの人物のことを忘れていた。

 ようやく、落ち着いたところで見るこの杖身は、今まで見たことのないような人間だった。

 さすがに宿の中では、上着も頭巾もとっている。

 背は白露よりも同じくらいだろう。身は細く、およそ杖身らしくはない。珊揮とは対照的な男だ。

 そう、これは男なのだと理解するのに、少し間があった。

 まあ、男というにはまだ若く、少年のようだ。

「無理をしても、少しくらい何か食べておいた方がいい」

 朝餉はいらないというその男に、珊揮は実に優しく諭していた。

 男は頷きもしなかったが、ぶすっとした態度ながらも朝食の席に着いた。

―― 勿体無い……

 白露は、心からそう惜しんだ。

 せっかくこんな綺麗な顔をしているのだ。笑えばさぞかし、眼福であろう。白露は、この男が笑うときがあったら、見逃したくないものだと思った。

「戒莉」

 珊揮は、その男をそう呼んだ。

―― カイリ……

 どんな字を書くのだろうか。白露は思ったものの、口には出さなかった。

 戒莉は、お茶とほんの少しの菜を口にしただけで、空ろな目をしたまま、中空に何かを見ていた。多分、眠いのだろう。

 白露の方は、自分がしっかりと目が覚めてくるのを感じていた。食欲もいつもよりあるくらいだ。

 食事をしながら、白露は珊揮と戒莉を観察していた。

 この二人には、奇妙なものを感じる。この二人の関係が、つかめないからどうも気分が落ち着かない。もっとも、このふたりに会ったのは昨日が初めてで、つかめないのも当然というところだ。しかも、昨日の白露は人のことを気遣う余裕などなかった。

 珊揮は、何かと戒莉に話しかける。と言うか、世話を焼いているようだった。一方、戒莉はそれをうるさがりながら、結局その指示に抗うことはない。

 だいたいがして、この戒莉が何のために居るのか。が不明だ。

 この細身の美しい男は、杖身として役にたつことは、まずないだろう。なのに、どうして珊揮は、この男を同道させているのか。ただ、手元に置いておく為なのだろうか。

 白露は、どうもその考えが気に入らない。

 白露の親が、この戒莉にもそれなりの謝礼を出しているはずだ。

「もう少し、食べたらどうだい」

 微笑みながら、珊揮は果物を戒莉に勧めた。

 戒莉はいらないと言いながら、それを手にした。

「そうそう。朝餉はきちんと食べないと、大きくなりませんよ」

 珊揮は、嬉しそうに頷いた。

「うるさい」

 口の中でぶつぶつと、文句と果物を噛みくだきながら、戒莉は珊揮から顔をそらした。

 白露は、つい小さく笑った。

 戒莉は、ここではじめて白露に気をとめたようだが、直ぐに視線を外してしまった。この男に、自分は認識されていないのだと、白露は思う。やや、寂しいような気がした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 白露視点Ⅳ

 

『願うは自由』

 

 

 二日目になると、荷台の上もそれなりに慣れてきた。

 珊揮は、騎獣に乗って荷馬車の先を行っている。戒莉は、後ろに陣取っている。あいかわらず、頭巾を被っている。

 勿体無いことだと、白露はつくづく思う。退屈な旅である。どうせなら、あの顔を眺めていたいものだ。

「ねえ」

 思い切って、戒莉に声をかけてみた。

 だが、戒莉は全く反応らしいものを見せない。

 おそらく、『声をかけるな』という意思表示なのだろう。

 それを理解した上で、白露は話しかけ続けた。

「ねえ、あなたいくつ?」

「なんでそんな頭巾を被ってるの?」

「杖身なんて、どうしてなったの?」

「いつから、杖身なの?」

「珊揮さんて、本当に風渡りの珊揮なの?」

「あなたも仙なの?」

 

 戒莉は、きっちりと無視をしてはいるものの、だんだんと無反応ではいられなくなってきたようだ。もう、一押しか。

「あなたの剣、それ本物よね」

「ああ」

 短い声だが、それを聞いて、白露は満足した。

「そうよね」

 嬉しそうに、あらためて戒莉の腰にある剣を白露は見た。

 見た目は、それほど豪奢なものではないが、鞘に刻まれた文様の美しさには、心惹かれるものがある。飾り物だとしても、不思議はないようなこしらえだ。だが、それはきっと本物なのだろう。

 そうして、もう一振り、短めの剣が帯に差し込まれているのだが、こちらは珍しい形をしていた。細身で黒く艶のある鞘に納まっている。ここにも細かい模様が、金色に浮かび上がっているようだが、あまりはっきりとは見えない。

 あの剣を、戒莉は抜くことなどあるのだろうか。

 白露には、この少年が、人どころか、虫一匹傷つけるところをも想像は出来なかった。おそらく、仕事を始めて間もないのだろう。

 女ひとりを首都に送り届けるだけの仕事だ。それほど、危険なものではない。初心者の仕事には手ごろであったのかもしれない。

 これから、戒莉は人を斬るようなことになるのだろうか。

 そうやって、この綺麗な生き物は、汚れていくのだろうか。

 考えると、なにかどんよりとした澱のようなものが、白露の心の底に積もっていくような気がした。

 

 

 荷台の上から見える、道々の様子は、荒んだものだった。

 荒れて、作物が育つような環境ではない畑が多く見受けられる。人々の表情は、沈んでいると言うよりも、無いに等しい。 大学に希望を抱いて行こうとしている白露と、この国の人々との間には隔たりがあるようだ。

 やはり。

 白露は、自分の置かれた状況を幸福と感じるとともに、やりきれない気持ちになる。

 だからといって、自分にできることなどありはしない。

 施しも、一時のしのぎに過ぎないし、多くの者を救うことなど出来はしない。

 白露は己れの無力さを自覚して生きてきた。だからという訳ではないが、自分はせめて幸福に酔いしれて生きていこうと思った。幸福な自分が、幸福でないなどと、辛いなどと思って生きるのは、申し訳が立たない。

 飢えて死にそうな人を前に、空腹ということを知らない白露が『私だって、辛いのよ』なんて、どの面を下げて言えるというのだ。

 そう考えながら、白露の心はときおり、こんな風に沈むことがある。

 理屈ではないのだろう。自分でも、自分の心を制御など出来ない。

―― まあ、仕方ない

 つい、罪悪感を抱くのも、裕福な家に生まれたことも、こんな体で生まれてきたことも、仕方ないことだ。

 だから、あの戒莉がどう生きていくことになっても、それは仕方のないことだ。

 とは言っても、『願わくば、人を傷つけずに生きていって欲しい』などと、考えることくらいは許されるだろう。

 

 願わくば、この国に一刻も早く王が立って欲しい。

 願わくば、皆が幸福だと感じながら生きていける国になって欲しい。

 願わくば、そんな国を作り上げるための力になりたい。

 

 願うのは、自由だ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 白露視点Ⅴ

 

『同質』

 

 

 その夜の宿では、珊揮が厩で眠ると言い出した。

 白露は、なんのつもりであるか、さっぱり分からなかったが、別にどこで寝てくれてもかまわないと答えた。

「心細いかもしれませんが、近くに戒莉をおきますから、安心してください」

「は?」

 どうして、そういうことになるのだと、白露は目を見開いた。

 珊揮は、にこにこと微笑んでいるばかりだ。

「あの、近くというと」

「警護の為ですよ」

 つまり、同じ部屋に泊まれということらしい。

 さすがに、それはいかがなものだろうか。

「そこまでしなくても、よいのでは?」

 白露は、何とかこの危機を回避しようとしていた。

 そう、白露の心はこれを危機としていた。

「なに、気にしないでください。これが我々の仕事ですから」

 珊揮の言うことは、全く白露の胸の内と噛みあっていない。だが、珊揮は知っていて、そんな風に振舞っているのにすぎない。いかに、白露がやんわりと拒否したところで、彼が受け容れるはずがなかった。

「気が休まらないので、一人にさせてはもらえないですか」

 やや、強く言ってみる。

「戒莉は、貴女に干渉しませんよ。一人でいるようなものですから、気になさらないでください」

「気になります」

「何も同じ寝台で寝るわけではないですよ」

「当たり前です」

 白露は、声を荒げてしまった。

 いままで、こんな扱いは受けたことがない。白露は、人に傅かれ、人の羨望や尊敬、畏怖の念すら集めて生きてきた。それを鼻にかけたり、それに酔いしれて生きてきた訳ではない。しかし、知らず知らずの内に、周囲は自分に一目おいて、優しく接するのが当たり前のように感じていたのだ。だからこんな風に、当たってくる人間を前にすると、白露は戸惑いと苛立ちを覚える。

「宜しいですね」

「でも」

「なんです?」

「戒莉は嫌なのではないですか」

 白露は、最後の頼みにすがるように戒莉の方を見た。

 戒莉は、急に自分に向けられた矛先に揺らぐことはなかった。

「俺は、かまわない」

 白露は、それ以上言うべき言葉を見失った。

 

 

 夕餉は、珊揮の指図で、部屋でとることになっていた。

 何故だろうか。珊揮は、警戒をしているようにも見える。

 その割に、白露の側を離れるというのも奇妙だ。

 一緒に食卓に就く事に、戒莉はあまり気乗りはしていない様子だった。だが、やはり珊揮が何か言ったのだろう、ぶすっとした顔つきで白露の向かいの席に座っている。

 一言も発することなく、こちらが何か言うことも拒絶するような雰囲気に、白露はひとりで食べた方がましだと思う。

 ちらりと戒莉を見ると、不味そうに汁物を口に運んでいる。それは食べることが苦痛だとしか言いようのない表情で、何が彼をそんな風にさせているのか、その理由を問いただしたくなる。

 白露は、昼間に調子にのって質問攻めにしたことを反省するあまり、何も喋ることが出来なくなっていた。

 食器と箸が触れる音と、微かに咀嚼されるものの音。それだけしか聞こえない空間。

 奇妙だ。

 白露は、緊張する。

 仏頂面をした美貌の剣客は、張り詰めている。

「戒莉」

 思い切って、白露は声を発した。

「……」

 みごとに空振り。

 戒莉は、まさに苦虫を噛むようだという表現が相応しい。

 白露も溜息しか出ない。

 再びの沈黙、それが実際はどれだけのものであったのか、白露には分からなかった。けれど、感覚的にひどく長いものだったような気がしていた。

 

 

 唐突に、それは聞こえた。

 

 

 

「あんたは、何で大学に行くんだ?」

 これが、どこから出た声なのか、白露は戸惑った。

 ここに居るのは、白露と戒莉だけだ。白露は言っていない。ならば、この言葉は戒莉のものだ。

 白露は、ひとつ大きく息を吸い込んで、吐いた。

 

「私はね。官吏になりたいの」

 官吏になりたい。それは嘘ではない。たぶん。

「それには大学に行くしかないでしょう」

 戒莉は果たしてこの答えで満足しただろうか。

 いや、戒莉は今、さらに疑問を抱いているかもしれない。

 誰よりも、白露がそれを問いただしたい気持ちに駆り立てられていた。

 

 なぜ、官吏になりたいのか?

 

 




白露視点は、これでお終いです。
ここから本編の『因縁』へ続いていきます。
こっちの方が、戒莉がウジウジしていなくて良い気すらしてきました。
嗚呼、本当に。うっとおしい男です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 『噂の美人』壱

巧編始末記は、この話でお仕舞です。
本編、その後です。
蛇足とも言う。


「どうして、そんな風に生きなければならないのだろうか。

 ここにいたい。それだけだ。」


 白露の侍女が、相当の美女であるという噂があったのは、鴬歌も聞いていた。しかし、全く興味はなかった。白露の言い分では、とてつもなく仕事の出来ない女だと聞いていたし、なにより美女だと聞いて心惹かれる習性は、鴬歌にはなかった。

 その噂の美人を目の前にして、鴬歌の興味の度合いは、まさに頂点を極めようとしていた。

 それは、雪のように白い肌に、一滴の光も許さない黒い髪を持った、なるほど美人に違いなかった。鴬歌が今までに会った、どんな美人も霞むほどのとびきりの美人だ。

 朝の薄光の中で、露をおいてひっそりと咲く白百合にも似た神々しさだ。

 いや、そんなことよりも問題なのは、これが男だということだ。

 

 最初は信じられなかった。しかし、その声を聞いて、それが女でないことが何となく分かった。

 そして、その言葉を聞き、行動を見ているうちに、それが男であることが鴬歌の中で明確になった。

 

 その美人は、戒莉と名乗った。

 

 美人の侍女が実は男で、しかも杖身であったという二重の驚きを味わうことができたのは、鴬歌を含めたほんの数人だけであった。

 大学で起きた朝ごはん盗難事件の真相も、ごく一部の者しか知らないことだ。

 白露は、退学をも覚悟しているようだったが、そうはならなかった。

 毒を食事に混入させた女は、役人に突き出されたが、白露が事件にからんでいることは、公にはならなかった。

 それには白露の父が、陰で動いたのだということだ。

 なんとも歯切れの悪い結末に、鴬歌は何も言わなかった。

 ただ黙っていた。

 

「鴬歌は意地が悪い」

 白露は、恨みがましい目を鴬歌に向けて、笑った。

「あら、人聞きが悪いわね」

 しら、と鴬歌は応えた。

「わたしが、何も言わないことをおかしいと思ってるはずなのに、何も言わないなんて」

 白露の言い分は、おかしい。

 何も言わないでいる意図を汲んで、何も訊かないでいるのだから、褒められてもいいくらいではないか。

 鴬歌は、そう考えて、また飲み込んだ。

「じゃあ、話してくれる?」

「……本当に意地が悪い」

 

 白露が語った事件の顛末に、鴬歌は胸が悪くなった。

 人間というのは、どうにも勝手な生き物だ。勝手に絶望して、勝手に自らの命を絶つ。そして、勝手に人を怨んで、勝手に人を殺そうとする。

 皆、自分勝手だ。

 そんなことを考えている鴬歌にしても、その勝手な生き物の仲間であることは否めない。

「まあ、無事で良かったわね」

 白露の話が終わり、一呼吸置いたところで、鴬歌はそれだけ言ってみた。

「随分、飾り気のない感想ね」

 白露は、呆れ口調で微笑んだ。

「あら、私はそう思ってるのよ。貴女が無事で、本当に良かったって」

 本当だ。他人の勝手で、白露が官吏の道を閉ざされるなど、考えただけで憤りを感じる。

 白露は、優秀だ。そして、熱意がある。何より、正しい心の持ち主だ。こんな荒んだ国には、こういう人間が本当に必要だ。

 こんな風に考えるのも、鴬歌の勝手なのだけれど。

 薄く自嘲って、鴬歌は白露の顔を眺める。

「あら、ありがとう」

 照れ隠しのように、鴬歌の口調を真似て、白露は礼を述べた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 『噂の美人』弐

 そして、白露は美人な杖身といかつい伝説の剣客を、鴬歌に紹介した。

 

「あんた、でかいな」

 美人の方が鴬歌に投げつけられた言葉は、実に詰まらない、単純で、最低級ものだった。

 だが、その痛手たるや、鴬歌の予想していた以上だった。

「それほどではないですよ。比較の問題でしょう」

 つい、本当に『つい』だったのだが、鴬歌の口はそう吐いていた。

 嫌な男だ。

 鴬歌は、心の中で戒莉をなじった。

 あんなことを言う男、こんなことを自分に言わせる男、なんて嫌な男だ。と。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 でかい女だ。

 その女は、鴬歌といった。

 それは、白露の口からよく聞いた字だった。

『とても素敵な人なの』

 白露は、その女性をそう評していた。

 あまりにもそう言うので、戒莉はなんとなく鴬歌をものすごい美人だと思っていた。

 それが初めて対面という時にいたって、戒莉は自分の妄想というものに打ち砕かれた。

 鴬歌が美人ではない、とは言わないが、絶世の美女という訳ではない。やや目じりの上がった大きな目には力があり、引き結んだ口元には、一度発した言葉には絶対の責任を持つだろうと予想させるものがある。凛々しい美人と言えた。

 なよよかで、楚々とした美人を想像していた戒莉の脳内は、みごとに裏切られていた。

 もちろん、怨むべきは鴬歌ではない。

 『素敵な人』と言われて、そんな美人を想像していた自分の想像力というものに、戒莉は我ながら呆れていた。

 こんな風に、力強い、生気に満ちた女性を想像することが出来なかった。

 それにしても、こんなに体格の良いのは羨ましいと、戒莉は心から思っていた。鴬歌の姿を、いかにも眩しく見上げて、戒莉はつい、本当に『つい』呟いた。

「あんた、でかいな」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 鴬歌は、ひとり反省をした。

 あんな一言で、怒りを抑えられなくなってしまう自分の心の未熟さに恥じ入るばかりだ。

 自分の体格が良いことは、百も承知だ。

 あんな華奢で、ほっそりとした男から見れば、『でかい女』に違いない。あんなに美しい男から見れば、きっと不細工な女でもあったろう。

 そんなことは、知っていたはずだ。

 今までも、何度となく浴びせかけられた言葉にすぎない。

 なのにどうして、許せなかったのか。

 鴬歌は、暫く頭を抱えてみたが、答えは一向に出てはこなかった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 戒莉は、反省させられていた。

「なんでそんなことを言ったの?」

 白露は、呆れ気味に怒っていた。

「本当のことだ。間違っていない。悪いことでもない」

 戒莉の言うことは、なるほど真っ当であるかもしれない。

「本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるのが分からない? あなたが悪いことと思わないことも、それを言われて傷つく人もいるの」

 こちらも真っ当だ。

 戒莉は返す言葉を見失った。己れにも思い当たることがあったらしい。

「分かった。詫びておく」

「何て詫びるつもり?」

「でかいと思ったので、ついそう言った……とか」

「あなたって人は……それは冗談のつもり?」

 怒り気味に呆れる。

「いや。まずいのか?」

「とにかく、それは言うの止めてね」

 これ以上の話合いは、無駄なことだと白露は諦めた。

 戒莉は、納得したようなしないような顔をしていたが、ともかくも白露の言うことを承諾した。

「分かった。で、何て言うのが正解なんだ?」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 『噂の美人』参

 鴬歌は白露に誘われ、珊揮の宿を訪ねた。

 珊揮と手合わせしてみたいと鴬歌が呟いたところ、白露がそうしようと言い出したのだ。

 珊揮の元に行けば、戒莉に会うのではないかと思うと、胸がむかついた。しかし、あんな男の為に白露の申し出を断るのも、何となく面白くない。

 白露の心中は、自分でも驚く程に乱れていた。

 『何故なのか?』

 それを考えるのも腹立たしいくらいだ。

 

 そして間の悪いことに、珊揮は不在だった。

 戒莉は、詰まらなそうな顔で白露と鴬歌を出迎えた。

「珊揮は出かけてる。人に会うらしい」

 と、戒莉は言っていた。

 なるほど、おいてけぼりをくったという訳かと、鴬歌は推察した。

 実際のところ、珊揮は女と会っていたらしいのだが、この時の鴬歌には知るよしもなかった。

「せっかくだから、戒莉と手合わせしたら?」

 白露がそう提案した。

 とんでもないことだと、鴬歌は思った。

「戒莉は、こう見えて強いのよ」

 そう微笑む白露に悪気は一切ない。

 だが、戒莉の表情をちらと見てみると、『こう見えるっていうのは、どう見えるといいたいんだ?』と、悪態をついているようだった。

 どうやらほっそりとした体格も、比類なき美貌も、戒莉にはあまり有難いものではないらしい。

 鴬歌は、その時に気付いた。

 初めて戒莉を見た時に、自分は何と言ったのか。

 

『これが噂の美人なのね』

 

 きっと、戒莉はかちんときたことだったろう。

 嫌味のひとつくらい返したいところであったろう。

 鴬歌は、戒莉を『嫌な男』だという見解を、改めなければと思い至った。

 しかし。

 しかし、と思う。

 それぐらい聞き流すくらいの度量があってもいいではないか。

 そんな考えが、鴬歌の中で頭をもたげる。

 はたして、戒莉は『度量の狭い奴』だという新たな見解を、鴬歌は持つこととなった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 白露と鴬歌が宿に現われたのは、珊揮が愛人のところに出かけて行った後のことだった。

 鴬歌は、珊揮と手合わせをしたいと思って来たらしく、ひどく残念そうな顔をしていた。

 それを見かねた白露が、こう提案した。

「せっかくだから、戒莉と手合わせしたら?」

 そう言われた鴬歌は、明らかに『不満だ』という表情をした。

 まあ、伝説の剣客である珊揮と手合わせするつもりが、よく知りもしない戒莉などと手合わせすることになれば、そういう顔もするだろう。

 戒莉は、それは仕方のないことだと思った。そして、無理に鴬歌が自分と手合わせする必要はないと考えていた。

 だが、白露はこう言い添えて、鴬歌に手合わせを勧めた。

「戒莉は、こう見えて強いのよ」

 

 なるほど。と、戒莉は感心すらした。

 少し前には、戒莉が心無いことを鴬歌に言ったと、白露は怒っていたのだ。

 その同じ口で、今度は戒莉が傷つくようなことを言う。

 悪気がないというのは、どうしようもないことだ。よほど自分の言動に気を配っていないと、人を傷つけてしまうものなのだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巧編始末記 『噂の美人』志

 戒莉は、強かった。

 鴬歌の敵うような相手ではなかった。

 鴬歌もそれなりに剣には自信があった。たとえ剣客を生業としている者でも、こんなに非力そうな相手に、ここまで負けるとは思ってもいなかった。

 戒莉には、手加減するという意識は一切なく、鴬歌は完全に打ちのめされた。

 

 体格的に不利であるところから、戒莉という男はどれだけの研鑽を重ねて這い上がってきたのか。

 鴬歌は、理解する。

 この男は、ただ真っ直ぐなのだと。

 鴬歌が『でかい』と思えば、そう口にするし、腹を立てればそういう顔をする。

 体格が悪かろうと、そうしたいと思うことを、ただひたすらにする人間なのだ。結果を考えていない。それは欠点だが、そういう人間がいてもいいと、鴬歌は思った。

 結果を考えて行動する人間も必要であるし、結果ばかり考えて、何もできなくなってしまう人間ばかりが存在していては、世界は成り立たない。

 

「参ったわ。完全に」

 地面にへたり込みながら、鴬歌は心に浮かんだとおりの言葉を口にしていた。

 戒莉は、鴬歌に手を差し伸べて、こう言い放った。

「あんたも悪くはなかった」

 微かに笑みを浮かべている様は、やはり美人に相違なかった。

 そのキレイな顔で、憎らしいことも言う。

「力はあると思う。でも、あんたは力に頼りすぎて、自分の力に振り回されているんじゃないのか」

 

 全くもって、参った。

 

「少しくらい手加減してもいいのに」

 白露はむしろ不満そうだった。

「いえ、あれで有難かったの。ああしてくれなければ、私は自分の力が分からないで終わってしまったと思うからね」

 鴬歌は満足していた。

 白露は、その笑顔を眺めて少し考えをめぐらせた。

 ややあって、ふっとつられるように微笑んだ。

「そう、良かった」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

「白露が噂の美人を連れてきたんだってね」

 珊揮は浮かれた様子で、宿に戻って来た。

 その軽やかさそのままに、戒莉にそう問うた。

「ああ」

 言葉が短い。

「残念だったねえ。私も是非お手合わせしたかったよ」

 

「あんたは止めておいた方がいい」

 戒莉がそんなことを言うのが珍しくて、珊揮は訊ねずにはいられなかった。

「なんでだい?」

「あんたは、きっと負けるだろうから」

「私が? それは、それは」

 珊揮は、戒莉の言葉の意味するところを、なんとなく理解した。

「それでお前は、勝ったのかい?」

「さあ」

 

 その日の戒莉の言葉は、とことん短かった。

 

 

 

 

 

 

 

巧編始末記 『噂の美人』 了




天涯~編というものは、これで最後です。
単に国を限定できなくなってきただけなんですけどね。
『天涯』は、まだ続きます。ええ、まだです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。