初恋と忘れられない想い (南雲悠介)
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作品紹介
キャラクター設定


本作に登場する当時人物などの詳細を載せています。
作品を読む前に是非とも一度ご覧になって下さい。


 メインキャラクター

 

 新堂雅也(しんどうまさや)

 本作の主人公。本編開始時点で25歳。冬生まれ。

 小中高と地元で過ごし、高校卒業後は進学せず社会人として地元の企業に就職しその後上京、田舎育ちで都会での生活に憧れていた。

 趣味はインターネットを使って色々なものを調べたりする事とアニメ鑑賞など。

 十年前に好きな人に振られたのが心に深く残っていて、恋愛には消極的。

 携帯はフューチャーフォンを使っている。

 

 

 ヒロイン

 浅倉咲希(あさくらさき)

 本作のヒロインの一人。本編開始時点で25歳。7月生まれ。

 雅也とは小、中と同じクラスだった。 子どもの頃から読書が好きで部屋には何冊も本がある。

 

 小学生時代には水泳とピアノを習う、中学生時代は卓球部、高校時代は弓道部。

 高校は進学校に通い、卒業後は地元を離れて大学に進学する、大学時代は人間心理学科に所属。大学卒業後は東京で働き始める。マンションに一人暮らし、大学の時代の友人明日奈との交流を続けている。

 十年前に雅也から手紙で告白されるが、それを断る。

 以来、男性に好意を寄せられた事は無く、彼氏もいない。恋愛経験は無し。

 恋愛になると本人も自覚しているがかなりのヤキモチやきで独占欲が強い。自分のかなり大きな胸にコンプレックスを持っている。ちなみに小学四年生の時から大きくなり始めたもよう。

 猫のカバーをつけたスマートフォンを使っている。

 

 

 篠宮湊(しのみやみなと)

 もう一人のヒロイン。本編開始時点で20歳。 恋愛経験は無し。

 腰まで伸びた長く綺麗な黒髪が特徴。

 雅也の働く会社の後輩で社内外問わず人気もの、おっとりした外見にそぐわずしっかり者で常に周りへの気遣いができる。

 高校を卒業して今の会社に入社まだ社会人2年目ながらも仕事をきちんとこなしている。

 妹の夏帆との仲は良好で、からかわれる事もあるがとても大切に思っている。篠宮家の家事は母と二人でやっている。

 家事は得意で特に料理は一品。編み物や縫い物なども上手。

 小さい頃から内気な性格でなかなか友達ができなかった。

 雅也と一緒に働くうちに彼に対して特別な感情を抱くようになる。

 恋愛に対しては真っ直ぐで純粋。

 

 

 サブキャラクター

 

 渡辺義之(わたなべよしゆき)

 雅也と咲希の小学生の頃からの友人。25歳。6月生まれ。

 主人公とは電話やメールのやり取りをする仲、クラスは別だが高校は同じ学校に通っていた。

 仕事の都合で様々な場所に行く機会が多く、近くに寄ったら雅也と何処に遊びに行ったりもする。

 咲希ともたまに電話をするが好意などは無く普通の友達として接している。

 

 

 久我山明日奈(くがやまあすな)

 咲希の大学の友達。25歳。8月生まれ。

 大学時代から恋愛に関しては積極的で友人の咲希になかなか彼氏ができないことを気にして合コンのセッティングをするなどアクティブに動き回る。高校時代は演劇部に所属。

 大学時代は演劇サークルの活動で舞台に立ち女優としても活躍していた。人前では本当の自分を曝け出すことはせずにいつも“誰か”を演じている。

 どんな性格でも演じれる恐ろしいまでの演技力を持つ。

 お互いに気を遣わずにいれる仲で咲希が唯一悩みを相談できる相手。

 いつか自分にも運命の人が現れるというのを信じていてかなりのロマンチスト。

 恋愛経験のない咲希に色々アドバイスがするが、明日奈自身は彼氏がいない 。

 あまり女っぽくないことを気にしている。



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Prologue
序曲 新しい年を迎える前には


物語が始まる少し前のできごと
季節は新しい冬を迎えていた浅倉咲希の周りは少しずつ変化していく


 二〇一六年 十二月

 

 

 *Point of view Saki*

 

 

 外はクリスマスムード一色で街の中のお店のまではクリスマスツリーを出したり、クリスマスツリー用の飾りつけをしたりするのを見かける事が多くなった。

 昔は家族と過ごしていたけど社会人になればそういう風にはいかない。

 

 九州にある実家には大学を卒業した後はしばらく帰ってない。

 成人式の時に地元で晴れ着を着て参加した時に帰ったくらいかなぁ。

 みんな元気にしてるかなぁ。なんて昔の友達のことをふと思い出した。

 今年もひとりでお祝いをすることになりそう。

 大学生の頃は友達と一緒にパーティーを開いて楽しんだりもしたんだけどねー。

 私は冬は結構好きな方——寒いのは辛い時もあるんだけど、クリスマスや新年を迎える前の独特なあの感じはすごく気に入ってる。

 雪が降った後の白い景色をきれいと思ったりするのは変なのかな? 

 クリスマスのイルミネーションが街を行く人たちを迎えてくれる。

 それを足を止めて眺める人もいれば、何も思わずに素通りする人もいる、他の人の色んな反応を見るのがまた面白い。

 

 周りにカップルも多くなってきた夜の街をひとり家に向かって歩く──手袋を付けている手も指先の感覚がないくらいに冷え切ってしまってる。

 うん、今日は暖かいものを食べようと思う。

 帰りを急ぐ私は自然と早足になっていた。

 その結果、いつもよりも早い時間に家に帰りつく、寒い中、仕事を頑張った自分にご褒美を上げたい気分かな。

 

 

「こんな時間に誰よ!」

 

 家に帰ったのに休む暇もなくケータイが鳴る。正直無視してもいいんだけど、もしも重要な用事だったら困るのは私のほうだしとりあえず出ようっと──私は通話ボタンを押して電話に出た。

 

『もしもし』

『もしもし? ちょっと! もう少し早く出なさいよね!』

『その声はもしかして明日奈?』

 

 電話の声の主は大学時代からの友達の明日奈。

 そういえば私に電話をかけて来る人なんて限られてたなぁ。

 

『それで何の用なの?』

『そうだったわね。ねえ、今、あんたの家の近くまで来てるからこれから寄ってもいい?』

『ええっ……さっき家に帰ったばかりで何も準備してないわよ』

『大丈夫大丈夫。さっきコンビニで色々と買ってきたから』

『また私の部屋でお酒飲むの?』

『いいじゃない。あたしも咲希と色々話したいこともあるしさー』

 

 明日奈はいつでも強引──だけど、彼女のことは全然嫌いじゃない。

 本当に友達思いのいい子だなって思うし、大学を卒業してから何度も私の家に遊びに来てくれる。

 彼女の愚痴に付き合いながらお互いに気を遣うことのない会話を楽しむ。

 私は荷物を綺麗に片づけていつ明日奈が部屋に来てもいいように準備した。

 

「こんばんはー」

「いらっしゃい。寒かったでしょ? さあ、上がって」

「おじゃましまーす」

 

 明日奈を部屋に向かい入れて暖房の電源をオン、私たちは部屋の真ん中に置いてある炬燵に足を入れた。

 

「本当に寒いわねー咲希は風邪とかはひいてない?」

「大丈夫だよ。それより明日奈は今日どうするの? また泊っていくの?」

「明日は休みだし泊っていこうかなーあんたとじっくり話もしたいしね

「明日奈がいつもうちに来るのは次の日お仕事がお休みの時だけだったよね」

「お酒とおつまみ買ってきたから一緒に飲もうよ」

「いいねぇ。私、グラスを持ってくる」

 

 台所からグラスををふたつ持ってついでに食べようと思っていた唐揚げをお皿に移して部屋まで運ぶ。

 

「美味しそうじゃん。それじゃあ乾杯しよっか」

 

「「カンパーイ」」

 

 グラスをこつんと合わせて乾杯する。ふたりだけの女子会はこうして始まった。

 

 

「やっぱり仕事の後の一杯は格別ね、これこそ大人の楽しみってやつ?」

「もう、なんかおじさんみたいだよ。明日奈」

「いいじゃん、本当のことなんだしさー。あーん」

 

 そう言うと唐揚げを皿から一つ摘まんで口の中に入れた。

 

「咲希さ、大学卒業してもう三年経つけど、社会人生活にはもう慣れた?」

「うん。まだまだ分からないこともいっぱいあるよ……働くって本当に難しいよね」

 

「大学の友達は皆バラバラになっちゃたし、東京で仕事してるのはあたしと咲希だけだよねー」

「うん。私もたまには会いたいけどなかなか都合がつかないよね」

「そういえばさ、あたしらもう今年で二十五歳になるけどいまだにどっちにも彼氏ができないよね」

「なによそれ……」

「だってそうじゃない? 他の友達は彼氏いる子ばかりだけどあたしと咲希には彼氏がいないしー」

「私は恋愛には──」

「──興味ないんでしょ? 咲希の言うことは予想できるわよ」

 私が言うつもりだったセリフを先に言われてしまう……。

 

「仕事だけが恋人っていう生き方は寂しいと思うんだよね。あたしはあんたとは違っていつも出会いのきっかけを探してるのよ」

 

 明日奈は大学生の頃も、積極的に合コンとかにも参加していて自分が良いと思った男の子には声をかけていた。

 

 ルックスも性格も悪くないのになぜか彼氏ができずに告白した相手にも振られちゃうことが多くてその度に泣きながら電話をしてきたから私も彼女が満足するまで話を聞いてあげていた。

 

「あたしと咲希、どっちが先に彼氏を作るかなー。ま、咲希は男には興味なさそうだし一生彼氏できなさそうだし」

「うっ……」

「咲希ってさ、人付き合いは上手いのにそういうことに関してはいつも他の人よりも一歩遅れてる感じがするんだよね」

「明日奈だっていつも告白して振られてばかりじゃん!」

「こ、告白をしたこともされたこともないあんたには言われたくないわよ!」

「なによ! 私だって男の人に告白されたことぐらいあるんだからね」

「えっ……マジ? それ、本当の話なの?」

「うん……」

「なになにー告白されたってどういうことよ! 詳しく聞かせなさいよ!」

「うるさいなあ。別にそんなの人に話すようなことでもないよ」

「そう言われと逆に聞きたくなるんだよねー気になるわ」

「たいした話じゃないってば!」

「でも、咲希が告白されるなんて天変地異でも起こらないとありえない話でしょ?」

「酷いなぁ」

「お願い! 聞かせてよ」

「もう。しょうがないなぁ」

 

 私は一度だけの話を明日奈に聞かせた。私が話し始めると黙って話の内容に耳を傾ける。 

 

 昔ね、私に告白してくれた男の子がいたの。

 小学校からの同級生で中学校まで一緒だったの、高校は私が進学校に行ったから彼とはそれっきりで一度も会わなかった。

 あまり話したこともなかったしどういったひとなのかも知らなかった。

 もちろん私の事が好きだっていうことも……。

 中学を卒業して何日か経った日に手紙が来たの。珍しいこともあるんだなって思って手紙の内容がすごく気になったの。

 もう十年も前の事だけどその手紙には一生懸命に自分の想いを伝えようっていう彼の熱意みたいなものも感じ取れた。

 

「僕は、僕は咲希ちゃんのことが好きです」って書かれた文字を見ても私は別になんとも思ってなかったから告白されても困るなあって。

 手紙で私に気持ちを伝えるまでに雅也君がどんなに悩んだのかわからないけど、好きでもない相手からそういうこと言われても迷惑だと感じた。

 だから私は、彼の手紙に返事をした「私は、雅也君の気持ちに答える事はできません。もう二度と私に話しかけないで!」って。

 

 

「そんなことがあったんだ」

「実はここ最近までは忘れてたんだよね。もう十年も前の事だったし」

「咲希に告白した相手かー。どんな人か気になる」

「今頃どこで何をやってるんだろうねー。中学校を卒業して以来全く会ってないんだ」

「けど、あんたも惜しいことしたわね」

「何が?」

「だってそうじゃない。その人と付き合っていれば年の瀬を今こうして寂しく女友達と一緒に過ごすなんてことにはならなかっただろうし」

「私は別に明日奈と過ごすの嫌じゃないよ?」

「そういう意味じゃないわよ! もうすぐクリスマスなんだし彼氏がいたら予定が入ってるのが当たりじゃない? でも、今年もひとりでお祝いするっていうのは寂しいことじゃん」

「社会人になってからは毎年いつもこうやってお祝いしてるんだけどなぁ」

「でも、こうして過ごす寂しいクリスマスがこれから先ずっと続くと思うと結構堪えない?」

「私は一人でお祝いするのも好きだけどなぁ」

「ダメだ……あんたそんなんだから彼氏ができないのよ」

「そ、それは明日奈だって同じでしょ!?」

「人生で一度彼氏を作れる機会があったのにそれをみすみす手放しちゃうなんてね~」

「好きでもない人と付き合ってもうまくいくわけないと思う!」

「そんなの一回付き合ってみてつまんない男だったら別れればいい話じゃん。仮にも自分のことを好きだって言ってくれた相手なわけなんだしさ」

「そういう付き合い方ってどうなのかな?」

「最初は好きじゃない相手でも付き合ってみればわかることだってあると思う。向こうはあんたに対する好感度はMAXなわけなんだし」

「付き合うなら結婚したいと思える相手じゃないと」

「最終的にはそれがゴールかもしれないけど、色々な付き合い方もあっていいんじゃない?」

「私が本当に好きだと言える相手にこれから出会えるかもしれないでしょう?」

「あたし以上に恋愛に関して何もしない咲希にそういう相手が現れるとは思えないなぁ」

「何さその言い方」

「自分で積極的に行動しないとそういったチャンスは巡ってこないよ。待ってるだけじゃね」

「明日奈みたいに行動しても実に結んでない人もいるよね」

「何よ! それでもやらないよりはましでしょう。あんたの場合は相手を選り好みできるような立場でもないし、それともあんたは自分に自信があるわけ?」

「そうじゃないけど……」

 

 私は顔が特別可愛いと言うわけでもないし今まで一度も男の子にモテた事も少ない。容姿ならもっと上の人はたくさんいるだろうし、スタイルにも自信があるわけでもない。

 

「恋愛をしないのは勝手だろうけどあたしみたいに頑張っているひとに対してそんな風な言い方はないんじゃないかと思う」

「そうだね。ちょっと私も言い過ぎたかも……ごめんなさい」

「あたしも言い過ぎた、本当にごめん。なんか雰囲気悪くしちゃったね……」

「こうやってお互い遠慮することなく言い合えるのはすごい大事なことだと思うよ」

「何回もこういうやり取りをしてもすぐに仲良くなるよねーあたしら」

 

 本当にそう思う。明日奈と話すときの私は気を遣わずに自分の黒い分もさらけ出すことができる。

 大学を卒業しても私を気にかけてくれる大切な友達。

 

「けどさー相変わらず殺風景な部屋だよねー」

 

 そう言ってキョロキョロと部屋の中を見回す。

 

 

「もう! それどういう意味よ」

「女の子の部屋には思えないほど何もないって意味よ。もう少し女子らしい部屋にしないと彼氏できたとき呼べないわよ?」

「いいの! 私の部屋に来る人はあんまりいないんだから」

「もしも彼氏ができたらちゃんとあたしに教えてよね?」

「はいはい。今日は久しぶりに遅くまでお話ししようよ!」

「うん」

 

 

「お風呂どうぞー。はぁ~すごい気持ちよかった。やっぱりお風呂は最高だよ」

「あんたお風呂好きだよね~前に一緒に入りに行ったときすごく気持ちよさそうな顔してたし」

「そんで、こっちの方は成長したのかなー」

「ひゃっ!? ちょっと! 明日奈何してるのよ!」

「育ってるねえ。いつ揉んでもものすごい柔らかい」

 

 明日奈は後ろから私の胸を揉む。

 

「ちょ、ちょっと! 手つきがやらしいよ?」

「ふふふ~このすごいおっぱいを目の前にして我慢できるわけないよ」

「や、それ以上はやめて……おっぱい揉まないでよ」

「あんまりやり過ぎると咲希が泣いちゃうからこの辺にしておく。私もゆっくりとお風呂入ってこよっかな」

 

 明日奈の手から解放された私は乱れた息を整える。

 

「あれ? もしかして刺激が強すぎた? ごめんごめん。それじゃあ。お風呂いただきますわ」

「う、うん……いってらっしゃい」

 

 彼女がお風呂場に入っている間、私は髪をドライヤーで乾かしながら心を落ち着かせた。

 この前も一緒にお風呂に入りに行った時もああいう風に胸を揉んできた……。女の子同士だからと言ってももう少し遠慮してほしいなぁ。

 

 そんなに大きいかなあ。丸く大きく膨らんだ自分の胸を触ってみる。明日奈だって別に小さいわけじゃないのに、でも、最近ブラがきつくなってきた気がする……。

 小学校高学年の頃くらいから大きくなり始めた胸は高校を卒業する辺りには他の女子が羨ましがるくらいサイズに。

 

 その分、私に対する視線はいつも胸に集まっちゃう。大人になったら大きくなるのは止まるって思っていたけどまだ成長している……。そういえばネットとかであんまり胸が大きくなり過ぎると下着を探すのが大変だって言うのを見たことがある。実際に可愛いデザインの下着は見つからなくていつも苦労してるの。

 

「上がったよー。気持ちよかったわ」

「おかえりなさい。はいこれ」

 

 お茶をコップに入れて明日奈に渡す。氷を入れておいたから結構冷たい。

 

「ありがとう」

 

 腰に手を当てて一気に飲み干してしまう。お風呂上りに飲む飲み物ってどうしてあんなに美味しいんだろう。

 

「ちょっと待ってね。その前にお布団敷くから」

「あたしがお風呂入ってるときにやっちゃえばよかったのに」

 

 机を片付けて私のベッドの隣にお布団を敷く。彼女の言うようにしていればよかったかもしれない、こういうところは相変わらず要領が悪い……。

 

「どうする? もう電気は消す?」

「寝る時でいいよ。それよりさ、もう少し話しようよ」

「何の話しようか?」

「それじゃあさ、あたしの子どもの頃の話をするね」

 

 明日奈の子どもの頃はすごく気になる。私は彼女の話に耳を傾ける。

 

「こう見えても私、子どもの頃は人見知りをしてたんだ」

「へえーそれは意外」

「今はそうは見えないでしょう? 子どものころってね、家族以外の人が怖いひとに見えてたんだ。それで周りの大人と話すできなかったのよね」

「そういう性格のせいか中学までは一人も友達ができなかったの。と言うよりはあたしの方が人付き合いを避けてた気がする」

「高校に上がった辺りからこんな自分を変えたいと思って思い切ってイメチェンしてみたの」

「イメチェン?」

「うん。長かった髪を切って今の髪型に変えた──」

「──そうしたらね、なんだか嘘みたいに明るくなれたんだ。今まで悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるほどにね」

「髪型を変えて積極的に周りに話しかけていったの。そしたら、皆とっても面白くて毎日が楽しくなった。もちろんそんな中にも変わっているひともいたけど、そういうのもありなんだと受け入れることができた」

「自分の中だけで閉じていた世界から一歩踏み出してみたらそこには見たこともない景色が広がってたの」

「それが今の明日奈なんだ?」

「うん、けどね、私だって落ち込んだりすることもあるんだ。だって、世の中って楽しいことばかりじゃないじゃない? 辛いことや苦しいことの方が多いような気がする」

「だけど、そこで立ち止まっていたらその先にあるもっと楽しい未来を見ることができないんじゃないかって、あたしは自分が楽しければそれでいいわけじゃないんだ、あたしの大切な人にも笑顔でいてほしい。嬉しいことや楽しいことを一緒に共有したい」

「面白いことがあったら咲希や友達に真っ先に報告してる。そしてそれぞれの違った反応をもらって色んな考え方があるんだなって改めて思うんだ」

「色々と考えてるんだね」

「もちろん! 今日だってあんたと一杯話ができてすごく嬉しいし、楽しいよ!」

「それは私もかなぁ」

「こういう面倒なところもあるあたしだけどこれからもよろしくね」

「そんなことないよ。私の方こそよろしくね」

 

 私たちは学生の頃に戻ったみたいに夜遅い時間まで話をする、明日奈と話せる時間がとても大切に感じるの。

 

「それじゃあ電気消すよ~」

「はーい」

 

 部屋を真っ暗にして目を閉じた。

 

「ねえ? 咲希、起きてる?」

「どうしたの? もう寝るんじゃないの?」

「暗くなったら急に聞きたいことを思い出してね」

「今度は何を聞きたいのよ」

「咲希はさ、いつか自分に好きな人ができたらどうする?」

「またその話? うーん、その時にならないとわからないかなぁ」

「もしもさ、あたしよりに先に彼氏ができたらちゃんと紹介してよね」

「できたらね、ちゃんと一番に報告するから」

「あたしはね、咲希に『恋愛』をすることはいいことなんだよって伝えたい。まだ、彼氏はいないんだけどこれからがんばっていこうと思う」

「私も言いたいことちゃんとわかってるよ」

 

 そう答えたけど、自分が恋愛をしているところなんてイメージがつかない。

 

「言いたいことはそれだけ、それじゃあおやすみ」

 

 私も寝ることにして携帯で時間を確認するともう夜中の一時、こんな遅い時間まで話をしていたんだ。

 ひとりの時は十一時前には寝ているからこの時間帯に寝るのはなんだか久しぶり。

 

 学生の頃は読書が好きで夜が明けるまで本を読んでいたけど、社会人になると仕事があるから夜更かしできないし、残業をすると本を読む時間もない……。この前買った小説はまだ読んでいないし、手つかずの本が何冊もある。今度時間を取って読もうと思う。おやすみなさい。また明日。

 

 

 

 十二月二十八日(水)

 

 

 私の働く会社は今日が仕事納めでお正月前の最後の出勤になる。

 それが終わると明日から一月八日までの長い正月休みに入る。

 今年最後

 の会社での仕事は大掃除、普段やらないとこを徹底的に掃除する。

 早めに終わればすぐに帰ることができるから頑張ろうと思う。っと言っても実は大掃除の前に自分の周りを少しずつ整理整頓していた私はそんなに力を入れてやらないでもいいんだけどね、あとやるべき作業はデスクを拭き掃除したりするだけだし。

 

「こんなところかな?」

 

 机を拭きあげて不要な書類を整理、ゴミを捨ててから、身の回りの整理を済ませて上司の吉岡さんの元へ報告に行く。

 

「掃除終わりました」

「お疲れ様。浅倉さんは普段からしっかりと整理整頓ができているわねー」

「はい」

 

 上司の吉岡さんは綺麗になった私のデスクを見て満足そうに微笑む。

 

「浅倉さんの頑張りはいつも評価してるわよ」

「ありがとうございます!」

 

 吉岡さんは私と歳がふたつしか変わらないのにすごく落ち着いて素敵な女性。

 会社の中でも人気があって、仕事もきっちりとこなして人付き合いもいい。

 そして美人という非の打ち所がない人。こういう人に憧れる。

 

「それじゃあ周りの人が終わるまで手伝いをしてくれるかしら?」

「はい」

 

 私は掃除が終わっていない同僚の手伝いをするために机に戻った。

 

「女性ばかりの職場だけどいつもみんなが頑張ってくれるおかげで今年も平穏に終えることができました。それでは皆さんよいお年を」

 

 最後のあいさつで締められて今年の仕事は終わり。二十歳を超えると一年があっという間に過ぎていくという話を聞いたことがおるけど、本当にそうだと思う、昔と比べて一年が終わるのが早く感じるようになった。

 一つ一つ歳を重ねるごとにまた世界から自分が取り残されていくような気がしない? 

 明日奈が変われたように私もこれから変わることができるのかな? 

 新しく買ったハンカチを机の上におきっぱなしにして眠りについた。



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序曲2 恋の始まりを告げるページをめくると

クリスマスを目前に控えた十二月
篠宮湊は家族と過ごす時間をとても大切に感じながら自分の中にある想いと向き合い「恋」の始まりを告げる一ページ目をめくるのだった。


 二〇一六年 十二月二十二日(木)

 

 

 白くてふわふわした雪が街に降り注ぐ中、私は一人駅のホームに立っていました。今年も残すところあと僅か──仕事納めが近づいて行く中で世間はもうすぐやって来る聖なるイベントの話題で賑わいでいました。

 もう数すら数えなくなってしまったクリスマスを私は家族と過ごす予定になっていました。

 妹からは毎回「彼氏はできた?」って聞かれるのがうんざりするけれど、温かい我が家が私の心の休まる場所でもあります。

 お母さんのお手伝いでクリスマスの為の料理を作らなくちゃいけないだろうし、家族へのプレゼントも準備しなくちゃね。

 そんな事をあれこれ考えて電車に乗る、車内のクリスマス向けの広告やニュースとかをぼんやりと眺めながらふと会社の先輩の事が頭に浮かぶ。

 

 私の初恋の人【新堂雅也】さん。同じ会社で働いている私より年上の男の人。今まで恋愛に縁が無くてこの年まで彼氏すらいなかった私が今では一人の男性に想いを寄せている訳です。

 きっかけはほんの些細な出来事だったけど、そんな小さな偶然が積み重なって行くうちに私はあの人に好意を持つようになりました。

 何分初めての経験なので私自身も色々と悩んでいるわけです。彼は周りの人と適度に距離を置いていてあまり深く関わろうとはしていないようでした。

 実際に新堂さんに「彼女がいるんですか?」と聞いた事は無いし、あの人もそんな事をペラペラと喋るタイプじゃありません。

 

 私の片思いですし、恋人になれた良いなぁとは思っています。けれど新堂さんの自分に対する評価や今までの接し方を変えるのはなかなかに難しい……。

 周りの人が恋愛の話で守る上がる中で頑なに会話に参加しようとしないのはきっと何か理由があるんじゃないかと。

 

 

「ただいま」

「あら湊。おかえりなさい、丁度良いタイミングね、着替えたらちょっと手伝ってくれない?」

「分かった。着替えてくるから少し待ってて」

 

 自分の部屋に入って着替えを済ませる──机に置いてあるスノードームには積もった雪を眺めてから「ふぅ」と深呼吸する。

 

 

「今年の料理は豪華にしようと思ってるのよ。私だけじゃ大変だったから湊が手伝ってくれて本当に助かってるわ」

「良いよ別に、毎年の事じゃない。それに私もお料理するの好きだしさ」

「そう。もう少ししたらお父さんも帰って来るって連絡あった」

「お父さんはしゃいで怪我でもしないと良いけど……」

「そうね。家族みんなでクリスマスを過ごすって言うのはあの人が言い出した事だけどお母さんもその方がすごく楽しいと思ってるのだからこうして仕事を早めに終わらせて帰ってきたわけだしね」

「毎年恒例だけど私はみんなで過ごす時間を大切にしたいなぁ」

「あんたは良い加減彼氏でも作らないとね。来年こそは湊の彼氏さんも入れて一緒にお祝いしたいわね」

「それ去年も言ってた……」

「あんたが恋人すら作らないからお母さんもお父さんも心配してるのよ。昔から聞き分けは良かったし、ワガママも言わない子だったから手はかからなかったけど、その分内気な性格で友達を作るのにも随分と苦労したじゃない?」夏帆ぐらいの明るさがあればすぐにでも仲の良い子ができたんだろうけど、あんた達姉妹は性格が真逆だからねえ」

 

 私と妹は反対の性格をしている。妹は社交的でいつもクラスの中心にいるようなタイプで部活や勉強に一生懸命で同級生からの評判も良い。

 どんな時でも前向きなお父さんに似たのかも……。

 

 逆に私は内気で周りに自分から積極的に関わって行くタイプじゃ無くていつも教室の隅で一人でいる事が多かった、社会人になってからは会社の人と上手く話せるようにはなったけど、これと言って仲の良い友人とかはいません。お母さんは優しくて素敵な人だけど、どうやら私はその性格は受け継いでいないらしい。

 

 反対の性格をしていても私たち姉妹は仲が悪いわけじゃない。むしろ逆ですごく仲の良い姉妹だと思います。

 妹は偶に私をからかうような事を言うのだけど、それはあの子の性格から来るものだし私も上手く受け流している。

 昔は妹みたいに明るい性格になれたらなんて事も考えていたけど私とあの子は姉妹でも別の人間、お互いの良いところ悪いところを理解して上手くやっているからもうそんな事で悩むことも無くなりました。

 

 私は家族をとても大切に思ってます。それはこれから先もきっと変わらないでしょう。

 

 来年こそは新堂さんに想いを伝えられたら良いなぁ。十二月の空に白い雪が降り優しく街を包み込む──そんな光景を見ながら新しく始まる「恋」の一ページ目をめくり始めるのでした。



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序曲3 中学生時代最後の思い出は──

 夕暮れの校舎を見上げながら僕は家に帰るために舗装されたアスファルトの上を歩いている、簡素な田舎の駅に来るディーゼルエンジンの汽車は黒い煙を吐き出しながら線路を走っていく。

 中学最後の文化祭の準備も終わってみんなが明日のイベントを心待ちにしていた、仲の良い友達同士で体育館で行われるレクリエーションの話題を大きな声で話していた。

 僕は友人の義之君と色々話はしたけど、明日は別行動を取ることになった。

 一人で文化祭を回るのなんてもう三度目のはずなのにどうしてだろうか今年はなんだか寂しく感じた。顔を上げると少し先にあの子が肩にバッグをかけて歩いている。

 歩くスピードはそこまで速くないからすぐにでも追いつきそうな距離だった。

 

 僕が彼女に片思いをしているなんて言うのは当の本人は気付いていないんだろうなあ。恋愛には興味なさそうだし、ポニーテールに纏めた髪から見える頸に目が行く。

 好意を持ってからいつも彼女のことを目で追いかけていた、僕から送られる視線なんて気にも留めていないのか真っ直ぐに前だけを見て歩いている。

 

 駅のホームに設置された椅子に座って彼女は借りた本を読んでいる、そうだ、小学生の頃から読書が好きで色々な本を読んでいた、感性はとても繊細で他人を思いやることのできる子、彼女に対して素直な態度を取れなかった僕にも他のクラスメイトと同じように分け隔てなく接してくれた。

 

 あの子の横を通り過ぎるとふわりとしたいい匂いがした。女の子って皆こんな良い匂いがするんだろうか? そんなことを思いながら彼女の座っている椅子の二つ先に腰を下ろす。

 僕が座っても全く反応せずに本のページを捲る。

 いやあ、参っちゃうよね本当に。こっちは二人きりで彼女のことを意識しざる得ないっていうのにさ。

 僕らの間に沈黙が続く。読書をしているのを邪魔しちゃいけないけど彼女と話したい自分もいた、葛藤しながらあれこれ考えていると他の友人たちが駅に集まり始める。

 僕は「はぁ」と溜息ついて椅子から立ち上がった。間も無く彼女と仲が良い女子が近づくと本を閉じて細やかな会話を始める。

 

(僕が来た時には無反応だったのにな)

 

 そう、彼女にとって僕はきっと取るに足らない存在なんだろう、そう思えてくるとなんだか寂しく感じる、夕暮れに染まる空は変わらない、秋の終わりから冬を迎えようとする十一月初旬、文化祭の話題で盛り上がる中、僕はひとり明日が来るのが憂鬱だった。

 

 

 

 文化祭の二日目──中学最後の文化祭ってことで思い出を作ろうと張り切るクラスメイトを他所に僕は体育館で行われるレクリエーションの事で頭がいっぱいだった。

 下級生がバンドを組んで参加するなかで僕はひとりでの出演を決めていた。

 もちろん誰かを誘おうとも考えたけれど、付き合ってくれる相手がいなかった。まあ、ひとりで出た方が気持ちが楽だからいいや。なんて強がりを言ったけど、心の奥底では緊張でマイナス思考に捉われていた……。

 

 小学生の頃はあまり人の前で喋ったりするのが得意じゃなかったけど、中学になってからはそんな気持ちも薄れていった。

 最後くらいは楽しい文化祭にしたいと思ってレクリエーションへの参加を決めた。

 ちなみに何をやるかと言うとみんなの前で一曲披露すると言うものだ。

 多くの人に馴染みがあるような曲は逆に知らないから僕は自分が好きなゲームの主題歌を歌うことに決めていた。まだネットで物を買うのが主流じゃなくてなかなか音源が手に貼らなくて苦労したな……。

 それでも何とか手に入れて前日のリハーサルには十分に間に合った。

 僕が歌う曲を知っているひとはおそらくいない。

 

 少しは変わった自分をあの子に見せられたら良い、体育館に全校生徒が入りなんだか騒がしくなってきた。僕は自分の出番が来るまで舞台袖の控え室と言うのは簡素な場所で待っていた。

 出番は最後から二番目──最初のバンドの演奏が始まると会場は大いに盛り上がりを見せる、多くの人に馴染みのある曲だからこそあそこまで盛り上がれるんだろう。僕は演奏されている曲は全く知らないからテンションを上げることができなかった。

 ボルテージが最高潮になる会場では大きな歓声が聞こえてきた。

 

「そろそろ準備お願いします」

 

 係の生徒に声をかけられて深呼吸してから舞台の脇まで移動する──あの子が見ていてくれるなら嬉しい。終わった後に一言でも「良かったよ」なんて言葉をかけてもらえたら出場した意味もある。

 中学最後の文化祭で思い出を作る為、僕は自分らしくない行動をして順番が来るのをドキドキしながら待つことに。

 

 

 *

 

 

「……演奏すごいよね」

 

 隣に座っている子が小声で話しかけてくる、ライブ中は盛り上がっているけど、準備中は皆静かに待っていた、私は周りの人ほど楽しめていないけどこの盛り上がっている会場の熱に絆されたのか体も熱くなる。

 

「次の演奏始まるよ」

 

 お喋りを辞めてレクリエーションに夢中になる。下級生が中心に三年生を楽しませようと色々頑張っている姿を見ると何だか良いなぁっ感じる。

 

 二日に渡って催される。文化祭は初日はバザーとかクラスの出し物が中心で二日目は体育館でのレクがメインイベントになっていた。

 

 今日の為に遅くまで残って練習したんだろうなと分かるような演奏に自然とテンションが上がって来る。

 手元にある文化祭の栞でレクに出演している生徒の名前を確認する。

 

「……えっ?」

 

 そこには意外な名前があった。

 

【新堂雅也】

 

 何度見直しても間違いなく彼の名前が載っていた。彼がこんなイベントに積極的に参加するのは意外だったし、びっくりした。

 だって、一年と二年の時は全くそんな気配はなかったし……。

 て言うか朝教室で顔を合わせた時にも自分が出るなんて事は言って無かった。

 意外な参加に驚きを隠せない私はせっかくの演奏も楽しむことが出来なかった。

 熱気に包まれていく体育館でのイベントも残すところあと二人になった。

 幕は一旦降りて次の出演者の準備まで3分程のかかるとのアナウンスがされると皆は椅子に座ってじっとしてる。

 個人で参加しているからメンバー名だけをアナウンスする司会の子、いよいよ始まる次の演出に全校生徒が一斉にステージに注目する。

 

 幕が上がりステージの後ろに大きなスクリーンが準備されている──彼はその舞台の真ん中でマイクを握っていた。

 冷やかしか応援か分からないクラスメイトからの歓声に右手を上げて応えるとチラッと舞台脇を見る。

 大型スクリーンに映像が流れ始めると見た事のないキャラクターが登場して会話劇が始まる。

 黙ってそれを聞いていると場面が切り替わり曲が流れて始める。

 そうすると彼はマイクを持ってステージの中央に移動し始める。

 

 映像に合わせて歌詞が表示される、次々と切り替わる映像を目で追うのがやっとの中、私の知らない曲を歌う彼の姿がある。

 

 さっきのライブとは比べ物にならないくらいに会場は盛り上がりを迎える、クラスメイトの男子達は彼の名前を叫び応援する、その様子を女子たちは冷ややかな反応で返す。

 彼は仲の良い友達が多いわけじゃないのに、クラスの男子みんなが盛り上げる。

 

 サビの途中に映った映像では可愛い女の子が涙ながらに何かを訴えていた、ステージのボルテージは最高潮を迎えて曲もいよいよ終盤に差し掛かる。

 雅也君は真剣な表情でマイクを握り歌に魂を込めていた。彼との付き合いは小学生の頃からだけどこんなにがんばっている姿は初めて見たかも。

 

 歌が終わり会場に向かって一礼すると割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。

 しばらくプログラムが進んでから雅也君が自分のクラスに戻って来る。

 男子生徒達と握手をしていてみんなが彼の頑張りを称えていた。

 中学生時代最後の文化祭は大成功で担任の先生も大喜び、教室に戻ってからはクラスメイトが彼の歌の感想を口にする中で私も聞かれた。

 

「特に何も……」

 

 と返事をしたけど本当はどんな感想を言えば良いのか分からなかった。文化祭の為に頑張ってきた雅也君に同じクラスメイトとして労いの言葉をかけてあげても良かったのかもしれない。

 

 文化祭が終わってもしばらくは彼の歌の話題で持ちきりだった。それでも気取らず周りの人に感謝していた様子を見て私は雅也君を少しだけ見直した。

 

 

 **

 

「特に何も……」

 

 あれだけ頑張って歌ったのに彼女の反応は淡白だった、まあ、素直な感想だろうから受け止めるけど、ある意味でショックでもあった。

 周りには言ってなかったけれど、僕は咲希ちゃんの為に歌った、選曲もじっくりやったし、歌の練習にも真剣に取り組んだ。

 クラスメイト達からの評価は純粋に嬉しい──そりゃあもう涙が出るくらいにだ、けれども、一番欲しかった人のあまりにも素っ気ない態度に僕はがっかりした。

 

 まあ、僕が勝手に彼女の為に歌うと決めて参加したことだし、当の本人はそんなことは知る由もない。当然といえば当然の反応なんだろうけど……。もう少し何かあっても良くない? 

 

 中学時代最後の文化祭はいい思い出を作ることができた。あの子に少しでもかっこいいところくらいを見せることができたんだろうか? 

 

 もしも、あの時君が褒めてくれたのなら僕は──

 

 ひとりでそんな事を考えながらまだ文化祭の余韻が残る校舎を後にするのだった。



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序曲4 動き始めた歯車

新堂雅也は十年前、ある女の子に片思いをする告白の末、彼女からもらった返事がいつまでも心の奥に残っていた。
それから月日は経ち、地元を離れて東京で働く雅也は慌ただしい生活を送っていた。そんな中、会社の後輩、篠宮 湊に一緒に初詣に行こうと誘われる。
失恋の事を忘れようとする雅也と偶然に出逢ってしまう初恋の相手。二人の距離は近づいていく。


 もう二度と私に話しかけないで! 

 

 僕の元に届いた手紙にはそう書かれていた──それで人生で初めての告白は終わりを迎えた。

 

 

 二〇〇八年 二月

 

 

 卒業式をまじかに控えた教室はどこかいつもと違った雰囲気が漂っている。

 ここからそれぞれが別々の高校に進学する──中には働く人だっているだろう。

 中学生から高校生になることは少しだけ大人に近づく気がするんだ。

 卒業式で歌う歌の練習をしている時、雅也は彼女と目が合った、いつもと変わらない優しい表情で友達と楽しそうに話してる。

 せっかく目が合ったのに恥ずかしく感じて自分から視線を逸らしてしまう。

 あの子のことを好きだと思うようになったのは小学四年生の頃、明るくどんな事にも前向きで、笑顔が特別な女の子に惹かれた。

 なかなか胸に留めていた想いを伝える事が出来ない僕は彼女と話すとなぜか普段とは違った不格好な態度だった。

 

 彼女はもしかしたら僕の事が苦手だったのかもしれない。

 そんなことに気がつきもせず、いつ告白をしようかな? と毎日色々と悩んだ。

 そんな彼女が高校は進学校に行くことが決まり、もう会うことはないと分かって自分の気持ちを伝えるようと思った。

 そうなると、どういう風に伝えるのかをまた悩んだ。電話で言うのか? いや違う、そんなことでわざわざ電話をしても……。

 何より電話なら断られた時はどうするって言うんだ。

 それじゃあ卒業式の日に呼び出して直接言うのか? 生徒の少ない学校だから誰かに見られる可能性だってある。

 一世一代の告白を誰かに聞かれるなんて死ぬほど恥ずかしいに違いない。

 こうして思いついたのが手紙を書いて気持ちを伝える手段だった。

 あれこれと考えてもあまりいいアイデアが浮かばない辺り僕の要領の悪さは昔から変わっていないようだ……。

 そして小学生の頃から好きだった相手に告白する為にらしくもなく手紙を書いている。

 夜の遅い時間まで何度も文章に間違いか無いか確かめながらボールペンを走らせる。

 女の子に好きだという気持ちを伝えた事はもちろんないし、自身があるとも言えない……。

 どんな返事を貰えるのかドキドキとして心も落ち着かない。

 

 

「こんなところかな」

 

 出来上がった手紙を封筒に入れて机の上に置いた。

 明日にでも出してこよう。長い作業が終わった後は気が抜けたように眠りにつく。

 朝の早い時間に起きてポストに手紙を投函にする。返事がもらえるといいんだけど……。

 手紙を送った後は返事が来るのを今か今かと待ち続けた。

 それから一週間もしない内に彼女からの返事が僕の元へ届いた。

 親や兄弟に見られないように自分の部屋で手紙を開ける。

 かわいいプリントのされた紙に女の子らしい丁寧な文字が並んでいる。書かれた一文字一文字をゆっくりと読み進めていった。

 

 

 ごめんなさい。私は、雅也君の気持ちに答える事はできません。もう二度と私に話しかけないで! 

 

 咲希より

 

 

 

 手紙を読み終えた僕は、そういうことなんだと彼女の告白への返事をようやく理解した。 

 

「そうか、咲希ちゃんに振られたのか……」

 

 こうして人生で初めての初恋は終わってしまった。

 

 

 二〇一七年 一月一日(日)

 

 

 新しい年を迎えてもいつもと変わらない朝がやって来る。

 東京で迎える新年は地元にいた頃とは少し違う。

 こっちで働くようになってからはすっかり都会の生活にも馴染んでいた。

 今はやりたいことができていてとても充実した毎日を過ごせている。

 だけどいまだに満員電車は苦手なんだ。

 

 

「あけましておめでとう」

「おう、あけましておめでとう」

 

 兄ちゃんに新年の挨拶をしてからテレビをつける。

 今年の始まりを教える正月番組では僕の知らない芸能人が体を張って笑いを取り、新年の初笑いをお茶の間に届けている。

 

 

「母さんはまだ寝てるの?」

「そうみたいだな。夕べは遅くまで起きてたみたいだよ。お前も遅くまでゲームしてただろ? 俺が寝る時にまだ部屋に明かりがついてたよな」

「この間買ったゲームをやっていたら朝になってたんだよ。面白くてね」

「あんまり無理するなよ。まあ、正月は休みにはやる事がないだろうからゲームするのはわかるんだけどな」

「テレビなんてどこの似たような番組ばかりだよなー」

「正月なんてそんなもんだろうね。少し出かけてくるよ」

「おう、行ってらっしゃい」

 

 

 朝ごはんも食べず上着を羽織って賃貸マンションを出た。

 高校を卒業後は兄ちゃんが先に東京で働いていたから地元で頑張って働いて母さんと一緒に去年上京してきた、今は三人で暮らしている。

 子どもの頃から父親がいないことは当たり前だったから気にもしたことはなかった。 

 社会人になってから改めて母さんや兄ちゃんの苦労がわかった。だからふたりを本当に尊敬している。

 

 

 町は相変わらず人が多い。昔は人込みが嫌いだったけど、もう慣れてしまった今では嫌な気分にはならない。

 カップルや家族連れを見るとありもしない別の自分を想像してしまう。

 もしも咲希ちゃんと付き合えていたらどうなっていたんだろうか? 

 僕もああいう風に誰かと笑いあって正月を過ごしていたのだろうか? 

 もう十年も前の片思いをいつまでも引きずって前に進めないのはまだどこかでそういう事を期待しているんだろう。

 

 

 あの告白以来、彼女とは会っていない──地元は同じで小中学校と同じクラス、高校も近くだったけど何故か一度も会うことなく卒業を迎えた。

 学生の時代の僕は人並みに友達もいて毎日楽しく過ごせた。

 好きなアニメや漫画カラオケに野球の話題で盛り上がった。

 特に印象に残っているのは高校三年の最後の文化祭で友達と一緒に歌を歌ったこと──あの時の会場の熱狂はすごくて今でもたまに思い出すことがある。

 彼とはそこまで頻繁じゃないけどメールのやり取りをしている僕と同じで野球が好きだからメールの内容はいつも野球の話が中心だった。

 小学生から仲がよかった友達とのやり取りも中学を卒業してからなくなってしまった。

 それでも唯一、ひとりだけ今でも交流する友人がいる。

 

 

 渡辺義之(わたなべよしゆき)君は小学校から高校までの同級生で、学科は違ったけど会えば色々な話をした。

 社会人になった今でもちょくちょく電話をかけてきてくれて大型連休の時はふたりで出かける事も多い、そんな彼は僕と彼女との共通の友人でもある。彼は仕事の都合上色々な場所で働いている。

 咲希ちゃんの連絡先を知らないけれど、義之君はたまに連絡を取っているようだ。

 当てもなくぶらぶらと街中を歩いてまだ朝の早い時間に家に帰ると母さんが美味しい料理を作ってくれた。

 休みの日だからこそいつもよりも時間があるから趣味に打ち込むことにしよう。

 この間買ったゲームをやろうと思いテレビのリモコンを探す。

 

 

「誰からだろう?」

 

 普段はあまり鳴ることがない僕の携帯電話が着信を知らせていた。家族以外の人からかかってくるのは珍しい。

 

 

『もしもし?』

 

 ちょっと不機嫌そうな声で電話に出た。

 

『あのっ……おはようございます! 私です、篠宮です』

『えっ、篠宮さん? どうしたの僕に何か用かな』

『はい、あの急で悪いんですが新堂さんは今日何か予定ってあったりするんですか?』

『予定は特にはないけど』

『それだったら今から初詣に行きませんか?』

『今から? もう十時前だけど』

『そうですね、実は今朝早くに初詣に行こうと思ってたんですが寝過ごしちゃって今さっき起きたばかりなんです』

『そうなんだ。僕は別に構わないけど篠宮さんは家族と一緒に行ったりしないの?』

『もう家族とはお参り済ませました』

『へえー。そうなんだ』

『新堂さんはご家族と一緒に行かなかったんですか?』

『行ってないよ。でも、母さんは行きたいみたいだから後で一人で行くんだってさ』

『そうなんですね』

『ああっと、初詣の話だね。うん、今からでも行けるよ。どこで待ち合わせをしようか』

『本当ですか? じゃあ十時三十分頃に日比野公園前で待ち合わせしましょう』

『十時三十分頃に日比野公園前だね。わかったよ』

『うふふ。私も今から支度します。それじゃあ失礼しましたー』

 

 電話機の向こう側の篠宮さんはどこか嬉しそうな感じだった。

 

 

「あれ? お前またどこかに行くのか」

「ちょっと初詣に誘われてね」

「義之とでも一緒に行くのか?」

「違うよ。会社の子に誘われたんだ。それ義之君だって色々忙しいだろうから」

「ふーん、お前が初詣に誘われるなんて珍しいじゃんか」

「ごめん。遅れるといけないからもう出るわ」

「おう、行ってらっしゃい」

 

 

 家を出てから待ち合わせ場所の公園に向かう。

 そこまで距離があるわけじゃないけど早めについておいた方がいいような気がするんだ。

 けれど、どうして篠宮さんは僕を誘ってくれたんだろう? 

 高校卒業をしてからは五年ほどアルバイトを経験、その後、東京でIT関連の会社に就職した。

 それまでにいくつもの面接に落ちて就職活動の難しさを改めて実感した。

 兄ちゃんと母さんは何も言わずに早く仕事が決まるように支えてくれた。

 そしてようやく試験に受かって今の会社に入ることができた。 

 入社仕事に慣れるために積極的に行動した。上司や先輩たちがとても親切な人ばかりで僕はすぐに溶け込めた。

 

 一年が過ぎた頃、ひとりの女の子がうちで働くことに。

 それが篠宮(しのみや)(みなと)さん。僕よりも五歳も年下で彼女も高校を卒業してから入ってきた。

 とても物静かな子で言われた仕事をきちんとこなしてミスもない。まだ二十歳なのにかなり大人びていて落ち着いている。

 社内でも彼女の仕事っぷりは評価されていて、周りの人にも分け隔てなく接することのできる人だ。

 教えたこともすぐに覚えてフォローなどの気遣いも忘れない、人気もあって、篠宮さんといるとみんなが笑顔になれる。

 

 けれど、僕と話す時の彼女はどこか遠慮しがちに思えた。

 それでも仕事はしっかりとこなしてくれているし、コミュニケーション能力が全くないという事ではないし、どうして自分の時だけそんな態度なのかわからない。

 その後輩が初詣に誘ってくれたのを疑問に思いながら待ち合わせ場所に先に着いて数分も経たないうちに篠宮さんがやって来る。

 

 

「おはようございます新堂さん。今日はわざわざすみません……」

「大丈夫だよ。気にしないで」

 

 初詣がある神社までゆっくりと歩き始める。外は雪がちらついていて上着を着ていないとかなり寒い。

 篠宮さんも暖かそうな格好をしてるしもう一枚くらい何か羽織ってくればよかったかなあ。

 

 

「篠宮さんは寒くない?」

「いえっ……私は大丈夫ですよ。新堂さんは?」

「僕は少し寒いかな。ははは。けれど、雪は嫌いじゃないしどちらかというと夏よりも冬の方が好きなんだ」

「そうなんですね」

 

 どうしてだろう? そんなどうでもいいことでもついつい話してしまう。

 沈黙が苦手な訳じゃないのに今日の自分はいつもよりもおしゃべりな気がする。

 

 

「私、新堂さんがこうやって話しているの初めてみました」

「えっ……?」

「なんか会社にいる時とは全然雰囲気が違うなーって感じがして」

「そうだね。仕事の時はスイッチを切り替えてやっているから。周りの人にはそういう風に見えるのかもしれない。篠宮さんが嫌なら黙ってるよ」

「いえ! そんなことはないですよ」

 

 そう言って優しく微笑む彼女はすごく素敵な女性だと改めて思った。なるほどだ。これなら社内で人気が高いのも頷ける。

 

 

「わあ! すごい人ですね」

 

 神社は思っていた通りすごい人込みで歩けるのがやっとなくらいだ。

 

「離れないようにね。一度見失ったら探すのに時間がかかるんだ」

「はい」

 

 篠宮さんは僕と離れないようにピタリと体を密着させてきた──

 

「大丈夫? ついてこれてるかな」

「大丈夫です。新堂さんがしっかりと袖を握ってくれているので」

 

 何とか人込みを抜け出して神社の境内へ足を踏み入れた。

 こういう神聖な場所は悪くない。これでも昔は歴史に興味があって近所の神社とかを良く調べてまわった。

 

 

「すごい人だったねー」

「そうですね。でも、何とか辿り着くことができました」

「あっ、ごめん。もう袖を掴んでなくてもいいよね」

 

 僕はすぐに彼女の服の袖から自分の手を放してそのままポケットに突っ込んだ。

 それからお参りをしてお守りを買いたいというで付き合うことに。

 

 

「新堂さんはどんなことをお願いしたんですか?」

「内緒」

「ええっ!? どうして内緒にするんですか!」

「だって、願い事って人に言うと叶わないって言うじゃん」

「そうなんですねー。だったら私も何をお願いしたのか内緒にしておこうかな」

 

 うふふと可愛らしく笑うのを見ているとすごくこっちまで優しい気持ちになれるなあ。

 

「お守りはもう買ったの?」

「はい、ここにどうしても欲しかったお守りがあったんです。競争率は高かったんですけど何とか買えました」

「そう、それならよかったね」

 

 彼女が一体何のお守りを買ったのか気にはなるけど、わざわざ聞くような事でもないだろう。

 

「そういえばさ、お腹空かない? 何か食べていこうか?」

「ああ、それだったら大丈夫ですよー」

「じゃーん! 実は私お弁当作ってきたんです」

「おお! すごいね。これ篠宮さんが作ったの?」

 

 持っているカバンの中から取り出したバスケットにたまごサンドにハムサンド、ミニトマトとかの野菜がきれいに並べられている。

 

「たまごサンドかー結構凝ってるね。もしかして僕に電話した後に作ったの?」

「いえ、準備は昨日のうちに少しだけしておいたんです」

「へえー」

「元々一人じゃ食べきれない量だったんで新堂さんが初詣に一緒に行ってくれなかったら冷蔵庫に入れて少しずつ食べようかと思ってたんです」

「でも、野菜とかは新鮮なうちに食べるのがいいよね」

「そうですね。じゃあ、あそこのベンチに座ってから食べましょう」

「うん」

 

 母親以外の人が作る弁当なんて初めて食べる。

 

 

「じゃあ、いただきます」

 

 手を合わせてこのサンドイッチを作ってくれた彼女に感謝して一つ口に入れる。

 

「美味い!」

「本当ですか!」

「うん、美味しいよ。最高! こんな料理が作れるなら将来、君はいいお嫁さんになれる気がするよ。結婚できる男が羨ましいなあ」

「も、もう! 冗談を言わないでくださいよ~」

「本当にそう思うよ。今まで食べたサンドイッチで一番美味しいかも」

「大袈裟ですよ~でも、そういう風に言ってもらえるなら私も頑張って作ってきた甲斐があるというものですよ」

「あれ? 篠宮さんは全然食べてないじゃん」

「えっ……? 私は後でちゃんと食べますから新堂さんお先にどうぞ」

「じゃあ、残しておかないといけないね。いやーついつい全部食べちゃうところだったよ」

「遠慮しないでいいですよ~」

 

 

 こうして僕の少し早めの昼食はいつもよりも楽しい時間となった。

 

「さてと、それじゃあ帰ろうか? 他にどこか寄っていくところとかはあったりする?」

「いえ、特にないです。新堂さんは?」

「僕も無いかなあ。んじゃ、帰るとしますかー」

「あのっ、帰るまででいいのでさっきみたいに私の服の袖を掴んでいてもらえますか? じゃないと私、あなたから離れちゃうかも」

「いいよ」

 

 言われた通りもう一度彼女の袖を掴んで歩く。篠宮さんは顔を少し俯かせ気味に付いてくる。

 

 

「あっ、ここまでで大丈夫です」

「本当に? 家まで送らないでいい?」

「はい、今日は付き合ってくれて本当にありがとうございました!」

「こちらこそ。すごく楽しかったよ。それじゃあ」

 

 軽く手を振って別れる。後ろを振り返ると僕が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

 

 本当にいい子だなあ。あの子と付き合える男は幸せ者だろう、そんな事を思いながらまだ明るいうちに家路につく。

 

 

 *Point of view Minato*

 

 

「新堂さんに私の想いが届けばいいなあ」

 

 私は神社で買った恋愛成就に効くお守りにそう願う。

 

『大好きな人と両想いになれますように』と。

 いつも仕事を教えてくれるだけの先輩だったあの人にいつの日か惹かれていた。

 町を歩いていると男の人から声をかけられる事も結構あったりする。

 友達と一緒だと断ってくれるんだけどひとりだとなかなか断れない。

 今は心から好きだと想える人に出逢えた。新堂さんの事を考えると胸がすごく痛くなる。

 

 他の人と同じように接したいけど、それができないで普段とは違った態度を取ってしまう自分にいつも自己嫌悪……。

 もっと話していたい、一緒に笑いあいたい。

 でも、どこか臆病で小心者の私には積極的に一歩踏み出すなんて無理。

 今日だって新堂さんに電話をかけるまで何回も練習した。

 

 断られたらどうしよう? と怖くなって通話ボタンを押せなかった。

 内気な自分を変えようと何とか頑張ってみたけど、また同じ事をやろうとしてもできないと言える。

 それが私の弱いところなんだと改めて実感してます……。

 帰ってお料理の練習もしなくちゃ。あの人に振り向いてほしいと努力しよう。この気持ちをいつか伝える日が来るまで。

 

 

 一月十日(火)

 

 いつもよりも早く家を出て満員電車に揺られながらストレスを感じる。

 都会に住んでいても未だにこれには慣れないなあ。

 降りる駅に付いて人込みに押されるように車外へと押し出される。

 一旦乱れた服装を整えてから歩き始める──

 

「──ん?」

 

 前を歩いていた女性が何かを落としたみたいだ。本人も他の誰もそれには気がつかず通り過ぎていく。

 僕はそれを拾い上げて落とし主に駆け寄る。

 

「あのっ! これ落としましたよ」

「えっ……?」

 

 同い年くらいに見える女性が振り返った。

 ここからまた二人の時間の歯車が動き始めた。



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common chapter
第1楽章 再会


偶然にも十年前の片思いの相手に再会した雅也、失恋の苦い記憶は思い出さないようにしていたけれど、初恋の相手を見ると鮮明に浮かんできた。
咲希自身も雅也と再びであったことに戸惑いながらも昔のような関係に戻りたいと思うのだった。


 一月十日(火)

 

 

「あのっ! これ落としましたよ」

「えっ……?」

 

 僕の言葉に同じ年くらいに見える女の子が振り返る。

 どこか身に覚えがある彼女の雰囲気、少し長めのきれいな髪と優しくて落ち着きのある表情。

 もしかしたらだけど、いや、でも、人違いだったらどうしよう……。

 落とし物をしたその子は初恋の相手(あのこ)に似ている気がした。

 そうだ勇気を出して声をかけてみよう。

 

「もしかして君は浅倉咲希(あさくらさき)ちゃん……?」

 

 相手に聞こえているのかわからないほど小さな声で呼びかけた。

 もしも人違いだった時は素直に謝ろう。

 世の中に似てる人は何人かいるという話を聞いたことがあるし、見間違いだとしても向こうは僕の事を知らないわけなんだし。

 

 

「えっ……? すみません、もう一度言ってもらえますか? よく聞き取れなくて」

「すみません。あなたが昔の同級生に似ていたのでつい声をかけてしまったんです」

 

 顔を見上げると女の子と目が合う。こういう場合はいつもなら目線を逸らしていたけど今日に限っては違った。

 

 

「もしかしてあなたは新堂雅也(しんどうまさや)君……? なの?」

「!」

 

 彼女の言葉に僕はゆっくりと頷いた。

 まさか向こうが僕の事を覚えているなんて思いもしなかったからだ。

 

「やっぱり君は咲希ちゃんなのかな?」

「……そうです」

 

 十年も前に片思いをした相手の顔を今になってようやく思い出した──そうだ、咲希ちゃんに間違いない。

 

 

「十年ぶりかな。どうして君がー」

 

 その時だった──

 

『もう二度と私に話しかけないで!』

 

 ずっと心の奥底に残っているあの言葉が急に浮かび上がってくる。

 気持ち悪い……。吐きそうな気分になる、すぐにでもこの場所から逃げ出したい。

 やっと会えた初恋のひとの顔を見るたびに辛い記憶が蘇る。僕は下を向いたまま彼女から距離を取った。

 

 

「待って! 雅也君」

 

 咲希ちゃんから自分の名前を呼ぶ声が届いているとわかっているのに聞こえないふりをして走り去る

 

「本当に雅也君なんだ……」

 

 一月の空に雪が降る。

 何もかもを忘れさせてくれる白い色はあの頃の悲しい記憶だけは忘れさせてくれないみたいだ。

 

 

「おはようございます」

「新堂君、おはよう」

 

 上司に挨拶を済ませてデスクに座る──けれど、さっきのできごとで心はまだ浮ついていた。

 仕事をやり始めたらすぐに集中できるだろうか? 勤務時間中だというのに僕は関係ないことばかりを考えていた。

 

 

「新堂さんは今、帰るんですか?」

「そうだよ。篠宮さんはまだ残ってたんだね」

「はい。ちょっと今日中に終わらせておかなくちゃいけない仕事があって、それでこんな時間までかかっちゃったんです……」

「まだ若いんだから無理はしないようにね」

「新堂さんだって若いじゃないですか!」

「二十歳超えたらみんなおじさんになるんだよ」

「またまたー。私も今終わったのでよかったら途中まで一緒に帰りませんか?」

「そうだね。そうしようか」

 

 帰り支度をする篠宮さんを少し待って一緒に会社を出た。

 

「あ! みてみてー。雪が降ってますよ~」

「今朝から降ってたよね。僕が会社に来る頃はここまで強くは降ってなかったんだけどなあ」

「寒いですけど滑ったりしちゃいけないですからゆっくりと帰りましょう」

 

 一月の空の下に降る白い雪を見るまでは今朝のことなんて忘れていた。

 

「新堂さん何かあったんですか?」

「えっ……? どうしてそんなことを聞くの」

「今日の新堂さんいつもと雰囲気違いましたから」

「何でわかったの? もしかして顔に出てたのかなあ」

「うふふ、どうしてでしょうねぇ。でも、確かに顔には出てた気がしますよ」

「あったといえばあったんだけどね……でも、篠宮さんが気にするようなことじゃないよ」

 

 せっかく聞いてくれた彼女にもこんな態度を取ってしまう自分が情けない。

 

「そうなんですね。変なこと聞いてすみませんでした」

「君が謝るようなことじゃないよ。大丈夫だから」

 

 強がってそう言ってはみたけれど、彼女に心の内を知られないようになんて狡いことを考えてしまう。

 それで会話は終わってしまい、ふたりとも何も話さずに歩く。

 

 

「私、雪って結構好きなんですよ。白くてフワフワしてて、真っ白に染まった景色を見るのもなんだかいい感じ」

「僕も嫌いじゃないよ。雪が降ると冬が来たんだって思うし」

「ですよね! でも、雪だるまが作れるくらい降ったら通勤するのが困ることもあるんですけどね」

 

 

 少し照れくさそうに笑う篠宮さんを見ているとこの子の優しさはきっと世界共通のものなんだろうと感じた。

 

 

「それじゃあ、私はここでお疲れ様でした」

「うん、お疲れ様。また明日」

「また明日」

 

 駅の改札を潜る篠宮さんを見送って空を見上げた。

 雪は降り続く──これは明日は積もるかもしれないな。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 

 どうして雅也君がいたんだろう……? 

 会社から帰った私は今朝のできごとを思い出していた──十年ぶりに“再会”した昔の同級生はかなり印象が変わっていていて自分でも最初は気がつかなかった。

 彼が拾ってくれたハンカチは何でもない安物だから変えが用意できる特別なものじゃないのだけど、それを雑に扱うことはできなかった。色々と考えていると携帯が鳴る。

 

 

『もしもし?』

『あっ、咲希ちゃん? 久しぶり、義之だけどー』

『義之君。久しぶりだね』

『最近忙しくて電話かける暇がなかったんだ。そっちは元気にしてる?』

 

 声の相手は私の小学校からの友人の渡辺義之君、大人になってからも私のことを心配してこうやってたまに電話をかけてきてくれる。

 

『元気にしてるみたいだね。良かったよ。仕事は上手くいってる?』

『う、うん……でも、やっぱり働くって難しいことだなって感じてるよー』

『苦労してるんだね……僕らの方が社会人としては先輩だから色々悩んでいるなら話を聞くよ』

 

 義之君は地元の高校を卒業後、上京して今はアパートや新規住宅向けの家具を作るメーカーで働いている。いつも模型とかを作っていた彼らしい就職先だなと思う。様々な場所で働いているらしくて東京にもたまに訪れる機会があるらしい。

 

 

『あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?』

『何? 聞きたいことって』

『義之君はさ、雅也君とは連絡取ってたりするの?』

『雅也君? うん、ちょくちょく連絡は取ってるし、たまに一緒に飲みに行ったりしてるよ!』

『そうなんだ。実は今朝ね、雅也君に会ったんだ』

『へえー』

『すぐに彼だって気づいたわけじゃないんだ。向こうが私を覚えていてくれたっぽくて声をかけてくれたの、落としたハンカチを届けてくれたんだけど、最初は誰だろう? って思った』

『だって、別人に見えたんだもん。だけど、よく見たらどこか昔の面影があって私の方から訊ねてみたの、そしたら彼もそうだって認めてくれた』

『咲希ちゃんは雅也君とは中学の頃最後に会ったっきりなんだっけ?』

『うん……』

『彼、高校卒業して地元で何年か働いてお兄さんがいる東京にお母さんと一緒に上京したんだよ』

『知らなかった』

『知ってるかと思ってたよ』

『だって、あれ以来会ってなかったし……』

『まあ、二人の間には色々あったからねえ』

『告白の事でしょう? つい最近まで忘れてたよ』

『そんな言い方したら彼が悲しむよ』

『だって十年も前の事なんだし……今更って感じがしない?』

『雅也君にとってはあの告白に至るまで葛藤があったんだって』

『なにそれ、女の子に告白するのになんで葛藤することがあるの?』

『初めてだったからじゃないかな? それに僕が見た感じだと咲希ちゃんは雅也君が苦手に見えたし』

『別に苦手ってわけじゃないけど……』

 

 そもそもあの人がどういう人間なのかそこまで知ってるわけじゃないんだよね。

 小学校の頃から一緒だと言っても話す機会はあまりなかったし、周りの男子とは違った『変な子』っていう印象しか持たなかったなぁ。

 

 

『もしちゃんと話をしたいって言うなら連絡先教えるけど?』

『えっ? 別にいいよ。そこまでしなくても』

『そう、気になるっているんじゃないかと思ったんだけど』

『実はハンカチを拾ってもらったお礼はまだ言ってないんだよね』

『咲希ちゃんが彼と話をしたいって言うなら協力はするよ』

『うーん、別に連絡先の交換くらいはしておいても良いとは思うんだよね、友達なんだしさ』

『そうだね。それじゃあ雅也君には咲希ちゃんに連絡先を教えたって僕の方からメールしておくから』

『ありがとう』

 十年振りに“再会”した同級生にお礼を言うために雅也君の連絡先を教えてもらう。

 

 

 義之君との通話が終わってすぐに雅也君の連絡先の載ったメールが届いた。

 スマホを操作してすぐに登録するアドレス帳を開いた。あれ? 登録先のフォルダ名はどうしようかな……。友達フォルダがあるしそっちに分類しておけばいいか。

 先にいつ頃、電話をすればいいのか義之君に聞いておけばよかったかなぁ。

 彼の生活リズムは知らないから二度手間だし、ちゃんと出てくれる時間にかけなくちゃいけないと思う。

 時計を見るとまだ十九時過ぎだし大丈夫でしょ。うん、この時間帯なら問題ないと思う。

 私はアドレス帳から番号を呼び出して通話ボタンを押した。

 

 

「こんな時間に誰だろう?」

 

 家に帰った僕はこの間買ったゲームをやっている最中だ。

 手に持っていた携帯ゲーム機を机に置いてケータイを取る。

 

『もしもし』

『こんばんは。あの、これは【新堂雅也】君の携帯でいいのかな?』

『そうだけど、おたくどちらさま?』

『ごめんなさい。咲希です。【浅倉咲希】』

『咲希ちゃん!?』

 

 驚いて座っていた座椅子を倒してしまう。その拍子に足を座椅子にぶつけてた。

 

『痛ぇ!』

『大丈夫? なんだかすごい音がしたけど……』

『ああ! 大丈夫だよ。それでどうして咲希ちゃんが僕の電話番号を知っているの?』

『その様子だとまだメール来てないんだね。私が雅也君の連絡先を聞いたってあとで義之君がメールで連絡することになってたの』

『そうだったんだ。それで何か用かな?』

『うん、今朝の事なんです。ハンカチを拾ってくれたことのお礼が言いたくて電話したの。あの時は本当にどうもありがとうございました』

『どういたしまして』

 

 彼女の落とし物を拾い十年振りに初恋の相手に“再会”した。だけど、電話越しでの会話はやはりどこかぎこちない。

 

『最初あなただって気がつかなかったよー。私たちそこまで話とかしたことがなかったからすぐには思い出せなかったの』

『僕もわからなかったよ。人違いだったらどうしようかと思ってた』

『そうなんだ? なんか印象変わったよね。特に声聞いていると本当に別人だと思える』

『そうかな? 自分では昔とあまり変わってない気がするんだけど、咲希ちゃんは変わらないね。朝会ったときは昔よりもすごく大人びた感じがしたよ』

『私ももう子どもじゃないからねー』

『髪型変えたんだね。前は短めの髪してたと思うけど』

『うん』

『そういえばこうやってちゃんと話するのは初めてかな? ははは。小学校から一緒だったけどそこまで話をしたことはなかったよね』

 

 彼女を退屈させないように少ない引き出しの中から会話になりそうな話題を選んでいく。

 

 

『雅也君がこっちに来てたなんて今まで知らなかったよ』

『高校を出てからは向こうで五年くらい働いてたんだ。それで最近上京してきてね、元々都会で働くのが夢だったし』

『そうなんだ。ねえ、お兄さんは元気にしてる? 面白い人だったよねー』

『ああ、元気にしてるよ。僕よりも明るくて相変わらずってところかな。そういえば咲希ちゃんはもう社会人だよね?』

『そうだよ。大学を卒業してから今の会社に入社したんだ』

『へえー、大学は楽しかった?』

『楽しかったよ。色々と勉強することも多かったけどね』

『行かないと大学の面白さは分からないっていう話は聞いたことがあるよ』

『雅也君は進学しなかったんだね』

『進学にはお金がかかるし兄ちゃんや母さんに負担させる訳にはいかないよ。それに今の仕事にはすごくやりがいを感じているから』

『どんな仕事に就いたの?』

『ネット関連の会社」

『なんか雅也君がパソコンを使いこなしているイメージがわかない(笑)』

『酷いなあ。ちゃんと使い始めたのは高校からなんだけどね、知識や情報処理能力はあると思う』

『じゃあ、私がパソコン関連で困ったことがあれば助けてもらおうかなー』

『僕にできることがあればねー』

『その時はお願いします! 今日は久しぶりにお話しできて楽しかったよ。もう切るね』

『こっちも楽しかったよ。もしもさ、何かあったりしたらいつだって相談にのるからさ』

『頼もしいねぇ期待しておきます。それじゃあね、おやすみなさい』

『おやすみ』

 

 

 通話が終わってもしばらく携帯を手放せないでいた。十年前の「初恋」の相手が昔と変わらずに僕に声をかけてきてくれた──だけど、咲希ちゃんからもらった告白の返事の手紙に書かれていた言葉がいつまでも胸に残っている。

 せっかく彼女の方から今日のお礼を言いたいと電話をくれたのにそんなことを考えるのはよくない。

 またかけてくれるんだろうか? そんな事を思いながら眠れない夜を過ごした。

 

 

 *Point of view Minato*

 

「これでよしっと」

「お姉ちゃん何を作ってるの?」

「ちょっとケーキを作ってみましたー。夏帆も食べる?」

「わあ! すごく美味しそうだね」

「うふふ、そうでしょう?」

「お姉ちゃんって彼氏もいないのにいつもお菓子作りとかお料理の練習とかは本格的だよね」

「夏帆、何か言ったかしら?」

「ううん! なんでもありません」

「あんまりそういう事ばかり言ってるとご飯作ってあげないからね!」

「ごめんってーお姉ちゃんの美味しいご飯が食べたいです!」

「それでさー。お姉ちゃん、例の人とは上手くいってるの?」

「ん? 誰のことよ」

「ほら、いつも話してくれる会社の先輩だっていうひとだよ」

「ああ、新堂さんね。新堂さんとは何もないわよー」

「でもお姉ちゃんその人の事を話している時はすごく楽しそうだよ? この間って一緒に帰ったんでしょ」

「その時はたまたま帰る時間が一緒になっただけよ」

「そんなこと言って実はお姉ちゃんの方からその人を誘ったんじゃないのかな」

「うっ……」

 

 妹に図星を指された私は何も言えなくなってしまった。

 

「その人ってさ彼女とかはいたりするの?」

「うーん、どうだろう。直接聞いたことがないからわからないわ」

 

 新堂さんに彼女がいるなんて話を聞いたことがない。同じ会社の女の子に尋ねても知らないって言う人がほとんどだったし、仮にいたとしてもそういうことを周りにペラペラと喋るようなひとじゃない。

 でも、すごい気になる……。

 直接本人に聞けば簡単なのだけどそういう事に関しては自分の性格のせいかなかなか一歩が踏み出せないでいた。

 

「お姉ちゃんくらいの年の女の人は恋愛経験があったりする人多いと思うんだよね」

「夏帆だって彼氏いないでしょ!」

「私は好きだと思える人がまだ現れないだけだよ」

「子どものくせにませたことを言うんじゃありません」

「年はふたつしか変わらないじゃん」

 

 妹とあれこれと会話をして自分の作ったお菓子を食べる。もっと上手くなってあの人に作ってあげたい。あとお料理の本も買わなくちゃ! 

 

 *

 

『この時間帯に雅也君の方から電話してくるなんて珍しいね』

『確かにそうだね。いつも義之君からかけてくれる方が多かったから、実はね、さっき咲希ちゃんから電話があったんだ』

『ちゃんと話はできた?』

『うん、今朝彼女の落とし物を拾ってあげたんだけどそのことのお礼を言いたくてかけてきたみたいなんだ』

『咲希ちゃんもそう言ってたね』

『義之君は彼女とは連絡を取ってたんだよね?』

『そうだよ。まあ、でもそこまで頻繁にやっていたわけじゃないけど』

『正直に言うとね、まだ告白のことで気持ちが整理できたわけじゃないんだ。もう十年も前の話なのにいつまでも引きずってる』

 

 彼はいつだってそうだ、些細なの話だとしても黙って聞いてくれる。そして、何かがあるとすぐに自分だと気がつかないようなところを教えてくれる。

 

『確かに忘れなくちゃいけないことなんだと思う。けれど、僕には今まで咲希ちゃん以外に好きになれる女の子ができたことがないんだ。正直ここまで未練がましい男だとは思わなかったよ』

『簡単に新しい“恋”を見つける事は難しいんじゃないかな?』

『学生時代なら出会いのきっかけとかは多そうな気がするけど社会人になるとさらに限られてくるからね、“恋”をすることが全てじゃないんだから』

『雅也君が楽しいと思えることや嬉しいと感じることに比重を置けばいいさ。そうすれば自然と忘れられるものだよ』

『ありがとう。義之君と話すと気分が楽になれるよ』

 

 こうやって話を聞いてくれる相手がいてくれることに感謝しよう。今度一緒に飲みに行く≪約束≫も取り付けた。

 いつまでもあの時のできごとを引きずっていちゃいけない。前を向いていかないとな。

 仕事で疲れた体をベッドに寝かして目を閉じると“意識”は現実と切り離されて深い微睡みの中へ落ちていく。

 

 

 ここはどこなんだろう? 身に覚えのない場所へたどり着いた。

 そこでは「誰か」わからない女の子が言い争いをしていた。

 ふたりはそれぞれ真剣な表情でお互いに自分の気持ちをぶつけていた。

 何を言っているのか僕には聞こえない、彼女たちのやり取りを離れたところからしか見ることができない。

 そして場面が切り替わり自分がどこか知らない場所に立っている。顔の見えない相手に何かを問いかけている。

 

 目が覚めると周りはもう明るくて朝が来たのがわかった。ぼんやりとした“意識”を覚醒させてベッドから飛び起きた。さっきまで見ていた夢の内容は全く思い出せない。

 

 

 一月十一日(水)

 

 

 朝起きてすぐに仕事へ行く支度をする。夢の事は覚えてないけど、昨日はあの子(咲希ちゃん)と話したという現実がしっかりとそこにあった。

 義之君の言うようにこれから楽しいことを見つけていこう。趣味は少ないわけじゃないからこれからは

 自分の時間を大切にしよう。

 昨日から降り続いた雪はもう止んでいるけど一面には真っ白な世界が広がっている。

 今日はまた一段と寒くなりそうだ。

 ポケットに入れているウォークマンで好きな音楽を流しながら雪道を歩く。

 今朝の満員電車は不思議と嫌な感じがしなかった。



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第2楽章 合わない二人の距離感

 一月十二日(木)

 

 

「アクアリウムパークか」

 

 休日にどこかに遊びに出かけようとネットを使って場所を探す。

 ひとりでアクションやアニメ映画を見たりするけど、こういった水族館? みたいなのに行くのも面白い気がする。

 休みの過ごし方は専らゲームかインターネットでのニュースを見ること、あとは野球観戦もあるけど今の時期はオフシーズンで試合が無いため退屈している。早く球春が到来してほしいものだ。

 さっき淹れてきたコーヒーを啜りながら片方の手でマウスをページスクロールしてこの水族館の紹介ページを読む。

 

 プラネタリウムと海の生物たちのコラボレーション!! プラネタリウムって言うと星座を見るものだけどそれと海がどういう風に合わさるのかな? 

 アクアリウムパークに行った人の評価ページは五つ★ばかりで売りにしているコラボレーションの評価も上々といったところか。

 うん、ここに行くのが良さそうかな。

 

 僕はすぐに財布の中を確認してチケットを購入することに──

 ──購入ページまで進んだところでマウスをクリックする手が止まる。

 もしも咲希ちゃんを誘ったら来てくれるかな? 十年ぶりに“再会”した「初恋」の相手への気持ちに整理を付けるいいきっかけになるかもしれない。

 また昔みたいに友達でいてくれるならそれでもいいんだ。

 これからは何でも気軽に相談をし合えるそういった関係を目指そう。

 彼女が行けるのかどうか聞いてもいないのにふたり分のチケットを買ってしまった。まあ、後で電話すればいっか。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 

 私は先日に買った本を読み進めている。

 とっても面白いストーリーですぐにハマってしまった。続きが昨日も遅くまで読んでいたし、最近では夜中の一時を過ぎても起きている事が多い。

 それ以外にも小説や仕事に役に立ちそうな本も何冊か購入した。休日は本の虫になるのも悪くない気がする。

 子どもの頃から読書が好きだったし、読み始めたら徹夜なんてことも当たり前で夜更かしばかりしていた。

 

「少し休憩しようっと」

 

 時計で時間を確認すると二十二時になろうとしていた。明日も早いしそろそろ寝なくちゃいけないんだけどやっぱり本の続きも気になる……次のページを捲ろうとするとケータイが鳴った。

「電話? もうっ、今いいところなのに!」

 こんな時間に電話をかけてくるなんて非常識な相手には応じたくないんですけど……。それに今は読書中だし邪魔しないでほしい。

 私は着信を無視して本に集中した、どうせ大した用事でもないだろうし。

 この時の電話に出なかった事が後々、自分に思わぬ形で返ってくるなんてこの時はまだ考えもしなかった。

 

 

「出ないか……」

 

 二十二時過ぎに咲希ちゃんに電話をかける。

 本当はもっと早くかけようと思っていたのだけど、なかなか行動に移せずにいたようやく意を決して電話すると彼女は出なかった。

 相変わらずこういうことに関しては要領が悪い……。

 ふたり分買った水族館のチケットを無駄にはしたくない。けれど、他に誘う相手はいないしどうしたものかなあ。

 もしもの時は一人で行くことになりそうだ。男ひとりで水族館に行くことなんて寂しい気がする。

 

「はぁ……」

 

 僕はため息を付きながら机に置いたチケットを凝視した。

 

 

 *Point of view Minato*

 

 

「ただいまー」

 

「お姉ちゃんお帰りなさい」

 

 いつもとは違い笑顔で私を迎える夏帆、これは何かある。姉だからすぐにわかる。

 

「どうしたの? 夏帆、今日は普段となんか違うじゃない?」

 

「お姉ちゃんアクアリウムパークのチケット取れた?」

 

 アクアリウムパークって言うのは最近、新しくできた水族館でプラネタリウムと海が合わさった演出が人気でテレビや雑誌にも取り上げられている。

 妹は最近の水族館の事知ってからずっと行きたいと言い続けていた。

 私も興味あったからふたり分のチケットを買う≪約束≫をしてあげたの。

 でも、インターネットを使って調べるとチケットがとりにくいみたいで私が買おうと思った時も残り枚数が少なくてひとり一枚までしか買うことができなかった。

 チケット制じゃなくてお金を払った人なら誰でも入場できるようなシステムだったりよかったのに……。

 

 

「ごめん。チケット一枚しか取れなかったの」

 

「ええっ!? 二つ取るって約束だったじゃん!」

 

「私が買う時には一人一枚しか買うことができなかったのよ」

 

「そんな~私、あの水族館に行くのすごい楽しみにしてたのに!」

 

 夏帆は子どもみたいに床にゴロゴロと転がりまわる。何だか小学生みたい……。

 

「もう高校生なんだからそういうことはやめなさい!」

 

「ううっ……行きたい! 行きたい!」

 

「わがまま言わないの! 私だってどうすることができなかったの」

 

「じゃあお姉ちゃん一人で行くつもりなの?」

 

「私がチケット買ったんだし行かないわけないでしょう」

 

「ずるい! 私もついて行くー」

 

「チケットが無いと来ても入れないでしょう!」

 

「そうだけどー」

 

≪約束≫をちゃんと守れなかったのは姉として情けない気もするけどこればっかりは自分ではどうすることもできない。

 

「お姉ちゃんの嘘つき!」

 

「何よーしょうがないじゃない」

 

 私は涙目になりながら言い合いをする、こういうふうに妹とケンカしたのはずいぶんと久しぶり。

 

「こら! ふたりともいいかげんにしなさい!」

 

 お母さんに止められるまでらしくもなく子どもみたいな言い争いを続けた。我ながら大人げない……。

 

「夏帆はあの水族館に行けるのをすごく楽しみにしてたのよ……」

 

「それはわかるよ。でも、チケット一枚しかないしどうしようかなぁ」

 

 取り合えず行かないことにはチケットが無駄になっちゃう……けれど、夏帆があれだけ楽しみにしてたから私ひとりで行くのはなんだか悪い気がする。

 

 

「夏帆。私のチケット上げるから一人で行ってきなさい」

 

「えっ……?」

 

「あの水族館に行くのすごく楽しみにしてたじゃない? だったら夏帆が行くべきだと思うの」

 

「それだったらお姉ちゃんが行けないじゃん」

 

「私なら大丈夫よ。夏帆が楽しんでくれるならそれでいいから」

 

「私だけが楽しいのなんて嫌なの! お姉ちゃんと一緒に行きたいよ」

 

「……夏帆」

 

「夏帆はね、湊と行けるのをすごく楽しみにしていたのよ。お姉ちゃんのこと大好きだし」

 

「お、お母さん!」

 

「そうだったんだね。うん、ありがとうね夏帆。お姉ちゃんも夏帆と行きたいから水族館のチケットがもう一枚買えないかがんばってみる」

 

 大切な妹が私と一緒に行きたいと言ってくれるだけでもすごく嬉しい。

 最初に買ってあった一枚のチケットを夏帆に渡して自分の分を買うためにもう一度インターネットを開いた。 

 

 

 一月十三日(金)

 

 

 さて、この間買ったチケットどうしようかな? 

 鞄の中に入れている水族館のチケットを何度も取り出して僕はうんうんと唸っていた。

 出勤してからも休みの予定をどうしようか悩んでいる。

 義之君はその日は予定が入っているみたいで行けそうにないし、こうなると友達が少ない自分の交友関係を恨んだ。

 こうなったらしょうがないひとりで行くことにするか。

 チケットが余ったのはどうしようもできないからいつまでも悩んではいられない。

 仕事も上の空で落ち着きがない。

 これはいけない気がする。集中するために鞄を目の届かない場所に置いて作業に没頭した。

 それからは業務は問題なく進み、帰り支度を整える為に鞄を持ち上げると──朝からの悩みの種である水族館のチケットが目に入る。

 

 

「それってもしかしてアクアリウムパークのチケットですか?」

 

「うわあ! びっくりした」

 

「あ、驚かせてすみませんでした……」

 

「ああいや、大丈夫だよ」

 

 いつもとは違う自分にいち早く気がついた後輩の女の子が声をかけてくれる。

 彼女の親切には本当に感謝したい。

 見られてたかな。ははは……はは……。

 無理をして笑ってみたけどかえってそれが不自然な感じになってしまう。

 

「この水族館のすごく人気でなかなかチケット買えなかったんだけど偶然二枚確保できてね。だけどもう一枚が余っちゃって」

 

「どうしてですか?」

 

「一緒に行くつもりで誘った相手が電話に出てくれなくて連絡が取れなかったんだ。他の友達も誘ってみたんだけど彼はその日予定が入ってて行けないんだよね。だから余ったチケットをどうしようかってずっと悩んでいた」

 

「そうだったんですね」

 

「まあ、最終的にはひとりで行くことになりそうだよ。ははは」

 

「実は私も妹にあの水族館のチケットを買うように頼まれていたんです。けど、一枚しか取れなくてどうしようかなって思ってたんです」

 

「そうだったんだ」

 

 篠宮さんは僕に何か言いたげな表情をする。だけど、なかなか言い出せないみたいだ。彼女が口を開くまで待つことにした。

 

「あのっ! 差し出がましいって思うかもしれないんですが、そのチケット要らないなら私にくれませんか? もしも新堂さんが必要じゃないなら私がもらっちゃってもいいですか?」

 

「僕にはもう一枚あるからね。あげてもいいよ」

 

「本当ですか?」

 

 パーッと明るい表情になる。その仕草に少しだけドキリとした。照れくさくて彼女の瞳を真っすぐに見ることができないで目線を逸らす。

 

「はい、どうぞ」

 

 僕は鞄の中からチケットを取り出して篠宮さんに手渡した。それを受け取ると、とても感動した様子でしばらくチケットをもらった手を見つめていた。

 

「本当にありがとうございます! 妹も喜びます」

 

「それならよかったよ」

 

 朝から悩んでいたことがばからしく感じるほどにあっさりと問題が解決した。

 

 

「それで新堂さんはこの水族館にいつ行くんですか?」

 

「今度の土曜日にしようかなって。ちょうど仕事も休みだしね」

 

「土曜日ですか」

 

 僕が土曜日に行くことを知ると彼女は何か考えているみたいだ。

 

「もしもで良かったらですけど、一緒に行きませんか?」

 

「一緒に行っても大丈夫なの? 妹さんと二人で行くんじゃなかったっけ?」

 

「そうなんですけど、チケットがもう一枚手に入ったので妹には一人で行ってもらうってこともできるんです。けどあの子私と一緒に行きたいみたいで昨日そのことでケンカしちゃったんですよね」

 

「そうなんだ。それだったらやっぱり妹さんと一緒に行くべきだと思うよ。僕は一人でも大丈夫だから」

 

「けど、これは元々新堂さんに譲ってもらったものだし、私は新堂さんと行ってみたいなって思ったんです。ダメ? ですか?」

 

 目を潤ませて上目遣いで見つめてくる彼女に僕は断るのが悪い気がした。

 

「二人の邪魔じゃないのならご一緒してもいいかな?」

 

「全然邪魔じゃないです! むしろ──」

 

「むしろ?」

 

「──い、いいえ。なんでもありません! 気にしないでください。それじゃあ、今週の土曜日に」

 

 

 耳まで赤くなって照れる篠宮さんを見送ってから家路につく。一人で楽しむはずだった土曜日の予定が一気に華やかなものになった。

 彼女の妹さんはどういう子なんだろう? 気になるな。

 僕はいつもよりも軽やかな足取りで家に向かった。今日も夜は冷え込みそうだ。コンビニで何か温かいものでも買って帰ろう。

 

 家に帰ってからは土曜日の事をずっと考えていた。女の子と一緒にどこかに出かけるっていうだけで男ならテンションが上がるだろう。

 前に会社の合コンに参加したこともあるけど自分に興味を持ってくれる女の子はいなかった。

 そこで恋人同士になった同僚もいたし彼女を作ろうとみんな積極的にアピールしていた。

 そんな中で場違いな感じもしたけれど、せっかく誘ってもらっているわけだし空気を壊すような真似はしたくない。それぞれが自分の好きな事や趣味を言い合う。僕は聞かれた事にだけ答えて後はあくまでも控えめに目立たないようにした。

 

 そう言った行動のせいか女の子に地味だと思われて声をかけられることはなかった。

 思えば「恋」をすることに憶病になっていたのかもしれない。

 

 自分では変わろうと思っていてもあの時の失恋をずっと引きづっている。

 初恋の人に十年ぶりに“再会”することができたのに彼女への未練がまだ心に残っている。

 早く忘れてしまいたい。だけど、忘れる事ができない。それが今になるまで恋愛をすることに消極的になっている理由なんだ。

 咲希ちゃん以上に好きだと思える相手に出会えれば──

 ──きっとこの気持ちもすぐに消すことができるんだろうか? もう普通に「恋」をしてもいいのかもしれない。

 とにかく今は今度の予定をしっかりと楽しもう。そうしないとせっかく僕と一緒に行きたいと言ってくれた篠宮さんに悪い。夜寝る前は子どもの頃ワクワクした感情のせいかなかなか寝付けないでいた。

 

 

 *Point of view Minato*

 

「ただいまー」

 

「お帰りなさい。今日も一日ご苦労様」

 

 お母さんはすぐに温かいココアを淹れてくれたそれをもらって私はほっと一休み。

 

「お母さん、夏帆は?」

 

「部活から帰ってきからずっと部屋にいるわ」

 

「ちょっとあの子に伝えておきたいことあるのよね」

 

 私は夏帆の部屋まで上がってドアをノックするとゆっくり扉が開く。

 

「何? 私、今忙しいんだけど」

 

「すぐに済むわよ。ちょっと部屋の中に入ってもいい?」

 

「うん……」

 

 夏帆はすぐに私を部屋の中に向かい入れてくれた。

 

「あのね、夏帆が行きたいって行ってた水族館の事なんだけどね実は──」

 

 ──私は新堂さんから譲ってもらったチケットを取り出して夏帆に見せた。

 

「それってアクアリウムパークのチケットだよね……? これどうしたの? お姉ちゃん」

 

「新堂さんに譲ってもらったの。二枚チケットを買ってたみたいなんだけど、一緒に行く相手がいないからって。それでね、今度の土曜日にこの水族館に誘ったのよ。一応、夏帆も一緒に行くかもしれないって返事しておいたけどどうかな?」

 

「私が行ってもいいの?」

 

「うん、その為にチケット譲ってもらったし、それに新堂さんにも夏帆が行くことは伝えてあるの」

 

「やったあ! 絶対に行く! お姉ちゃんと一緒に」

 

 さっきまで部屋で塞ぎこんでいたのが嘘みたいに感じるほどに元気になる機嫌が直って良かった。

 あの水族館に行くのをすごく楽しみにしていたみたいで私に何度もおススメの場所を教えてくれた。

 今日の夕飯は久しぶりにお母さんと夏帆と三人でがんばって美味しいものを作った。

 お父さんにも好評だったからまた作りたいと思う。

 

 

 *Point of view Saki*

 

「ごめん! やっぱりチケット買えなかったー」

 

「私もだよ。すごく人気あるんだねーあの水族館」

 

 新しくできた水族館に行ってみたいと思ってチケットを私と明日奈の分買おうと思ったのだけど秒殺。

 あっという間に売り切れちゃった。テレビや雑誌に取り上げられて更にお客が増えたみたいで争奪戦みたいになっている。

 ああそうそう、後で気がついたんだけど、この間の夜に雅也君から着信があったみたいなんだ。

 

 あの日は夜の遅い時間まで本を読んでいたから結局寝るのは遅くなって携帯を開いた時には次の日の一時になっていた。

 寝不足のまま出勤して仕事をやるのはすごく辛いことだってわかったから今度気をつけようと思う。

 一体何の用だったんだろう? 十年ぶりに“再会”した同級生と今は電話で話したりする、そんなに頻繁にかけるってわけじゃないんだけどね。だけど、昔みたいに楽しくやれたら良いと思う。

 彼の事は苦手だけど好きでも嫌いでもない。そんな感じ。

 

「次は絶対に手に入れるからね!」

 

「はいはい、無理しないでいいよ。なかなか入手できないんだしさ」

 

「そうだけどあんたと一緒に出かけるなんて私はすごく楽しみにしてるんだ」

 

「私もかな。明日奈は色んなこと知ってて面白いし」

 

「ふふんそうでしょう?」

 

「それじゃあまた何かあれば電話するから。咲希ちゃんとご飯食べるんだよー」

 

「はーい」

 

 明日奈との通話を終えて、携帯を枕元に置く、実は今日ね、嬉しいことがあったんだ。自分磨きの為に買ったアクセサリーが会社で皆にもいいって言ってもらえたんだーこれもあの雑誌のおかげだね。

 写っているモデルさんみたいに可愛くはないけど、おしゃれに自信は持っている。いつも綺麗でいたい。女の子ならそう思うのは当然じゃないかな? 

 そういうふうに話すと明日奈からは『彼氏もいないのに無駄な努力してるよね』って言われる……。

 

 本当に大きなお世話! 別に男の人にアピールするためにおしゃれしているわけじゃないし。

 

 でも、今まで一度もひとに綺麗だとか可愛いって言ってもらったことがないの。

 周りにそういう人がいなかったし、自分の顔がそんなにキュートとも思わない。

 けれど、やっぱり可愛いとか言われるとすごくいい気分になっちゃうのよね。

 鏡で何度もチェックする。無理のない自然なメイクが合ってる気がする。

 いつか誰かを好きになったとしよう、その人には最高の私を見せたい。持っている服は地味目の奴が多いし今度ちゃんとしたのを買わないとなぁ。

 男の人とデートしている自分なんて想像できない。けど、テレビに出てくるイケメンの俳優さんと恋人同士の妄想はした事はあるけど、実際、男っ気がまるでない気がする……。

 明日奈みたいに積極的に行動してみるのもありな感じだけど、私には大胆なことはできないと思ってしまう。

 ベッドの中で一人で悶々とした気持ちになりながら「恋」の在り方を考えた。



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第3楽章 芽生えはじめる感情

 一月十四日(土)

 

 

 いつもよりも早く目が覚める──今日は篠宮姉妹と一緒に水族館に行くことになってる。

 昨日からソワソワとして眠れなかったから寝不足気味だ。まるで遠足に行く前の子どものように心が躍っていた。

 枕元のデジタル時計は六時、地元で働いていた時は六時三十分起きだったし早起きするのが体にしみついてしまっている。東京に来てからはもう少し余裕を持って通勤できるようになったけど。

 楽しんでもらえたら嬉しい、まだ待ち合わせにはかなり時間があるけど、家にいても特にやることはないし、そろそろ出てもいいだろう。

 ちゃんと自分用のチケットをリュックに入れて忘れないようにしないとな。

 これはデートって言ってもいいのかな? 家族以外とどこかに出かけるのはあまりした事がないし、義之君とはたまに色んな場所に行くけど最近では全然行けてない。

 篠宮さんの妹はどんな子なんだろうか? きっと大人しくて素敵な子なんだろうな。

 

「それじゃあ、いってきます」

 

「いってらっしゃい。あんた今日は夕ご飯はどうするの?」

 

「それまでには帰ってくると思うから家で食べるよ」

 

「あんまり遅くならないようにしなさいよ」

 

「わかってるよ。もう時間だから行くわ」

 

 

 母さんや兄ちゃんには今日出かけることは前もって伝えてある。

 忘れ物がないかを確かめて上着を羽織って家を出た。朝の早い時間だけどまだまだ寒いのは続く、待ち合わせ場所までゆっくりと歩く——早朝なのに人は結構多いように思えた。

 都会と田舎ではこういうところが違いがある。田舎の場合はこの時間帯に活動している人が少ないし空いている店もコンビニか二十四時間営業の店ぐらいしかない。

 どちらかと言うと慌ただしい雰囲気の方が僕には合っている気がする。

 それでも最初こっちに来た時はいろいろと苦労もしたけど……それでも今は充実した毎日を過ごせている。

 色んな人を観察しながら歩くのも実は結構面白いんだ。

 篠宮さんとの待ち合わせの前に携帯で時刻を確認する──九時前かちょうどいい。

 そろそろ腕時計を買ってもいいんだろうけど、ああいうのは僕には絶対に似合わないと思うんだよね。

 それに携帯の時計は補正機能が付いているから正確だし。

 

 

「ごめん。待たせたかな?」

 

「いえ、そんなことはないですよ。私もついさっき来たばかりですから」

 

「おはようございます! 今日はよろしくお願いしますね~」

 

 彼女の横からひょいっと顔を出した女の子が出てきた。

 

「夏帆! ちゃんとあいさつをしなさい!」

 

「初めまして私、篠宮夏帆(しのみやかほ)って言います。改めてよろしくお願いします!」

 

 その子は目元とかお姉さんに似てる気がするけど、なんかイメージしていた子とは正反対の明るくて活発的な子だなという印象を持った。姉妹でこうも性格が違うことってあるんだろうか? 

 

「新堂と言います。よろしく」

 

「ふーん」

 

 妹さんは僕の恰好や顔を何度も見返している。あまりジロジロと見られるのは好きじゃない。

 

「悪くないんじゃない? お姉ちゃんにはもったいないくらいかも」

 

「夏帆!」

 

「どうかしたのかな?」

 

「いえ、何でもないですよー」

 

「それじゃあ、行きましょうか」

 

 二人と一緒に水族館に向かうことに──今日は楽しい一日になりそうだ、女の子と出かけたことがない僕は緊張していた。

 

 

「やっぱり結構人いますね……」

 

「人気の場所だからね、仕方ないことなのかな?」

 

 開園前の水族館にはたくさんの人が並んでいて係の人が列の整理をしている、僕らも並んで開園するのを待つことにした。

 

「水族館なんて今まで一度も来たことがないから今日はすごく新鮮に感じるよ」

 

「ふたりともお腹空いてない? 何か欲しいものとかあれば買ってくるけど、どうかな」

 

「そうですねー。でも、水族館の中にも食事できるスペースがあるみたいなんでそこで食べれば問題ないと思います」

 

「私は新堂さんとお話ししていたいです!」

 

 夏帆ちゃんはそう言うと腕に自分の腕を絡めてきた。

 

「夏帆、何やってるのよ!」

 

「いいじゃん別に~ねー。新堂さん」

 

「う、うん……」

 

 だけど、高校生とは思えないほど大きい胸が当たってるんだよなあ。

 気がついてやっているのかわざとなのかはわからないけど何だかドキドキしてしまう。

 

「もしかして新堂さんこういうことに慣れてないんですか?」

 

「えっ……こういうことって何かな?」

 

「それはですね~うふふ、こういうことですよ」

 

 そう言うと自分の胸を僕に密着させてくる。さすがにこれは刺激が強すぎるだろ! 

 

「こら! いいかげんにしなさい!」

 

 篠宮さんが夏帆ちゃんの頭をポコんと叩いて僕から彼女を引きはがした。

 

「ごめんなさい新堂さん。夏帆ってば、はしゃいじゃって迷惑だったでしょう?」

 

「あははは、元気な子でいいと思ったよ」

 

 至福の時から解放されて少し残念な気もするけどそれを気づかれないよう普段みたいに振舞った。

 

 

「すごく綺麗ー」

 

 開園した水族館に入ってから魚を見て回る。思った以上に凝った演出──プラネタリウムと水族館の融合というアピールポイントは嘘じゃないみたいだ。

 独特な雰囲気がすごく神秘的でまるで深海の中にいるような感じだ。

 普段見たこともない海の生物の不思議さにすっかり魅了される。

 隣で見ていている篠宮さんの自然な表情につい見とれてしまった、彼女と目が合ったけど照れくさくてすぐに逸らしてしまう。

 

「さすがに人気なだけはあるよね、いい感じだよ」

 

 つい沈黙に耐えられずに話しかけた。

 

「そうですね、私もとってもいいなぁって思ってます」

 

「篠宮さんは魚とかには詳しかったりするの?」

 

「別にそこまでは──」

 

「僕もあまり詳しくないんだよね。一般的な魚とかは名前くらいは知ってるくらいだし、来る前にちゃんと知識つけてくればよかったかなあ」

 

「見ているだけでも十分に楽しいと思いますよ。夏帆は色々見たいって言って先に行っちゃいましたし」

 

「子どもの頃とかは動物とかが出てくるテレビ番組を見てたりしたことがあるからわかる魚はいるとおもんだけどね、どちらかと言えば星空を見たりするほうが好きなんだ」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。田舎に住んでたからね、夜はよく星空を見上げていたから星座には結構詳しいんだ」

 

「意外ですね」

 

「向こうはこっちみたいに遊べる場所とかが少なかったからねー自然とそういうことばかりに目が行っちゃっうんだよ」

 

「私も星座に関する物語読んだりするの好きでした!」

 

「なんか神秘的だよねー。いい話ばかりじゃないんだけど色々と考えながら楽しんだりしてさ」

 

「わかります!」

 

 

 水槽で泳いでいる魚を眺めながら子どもの頃見た星の話を始める。

 そういえば、今の状況的ってふたりっきりってことか。

 隣で夢中に魚を見ている彼女の長くてきれいな髪がふわりと揺れた──篠宮さんって改めて見ると本当にかわいい後輩だなあ。

 こんな子とこうして一緒に水族館に来ていることがなんだか夢みたいに思える。

 仕事の時には見せない仕草どこか新鮮でずっと眺めていたくなる。

 

「どうかしたんですか? さっきから私のことずっと見てますよね?」

 

「ああいや、気に障ったのなら謝るよ。篠宮さんがすごく綺麗に思えてつい見ちゃうんだよね」

 

「ええっ!? 綺麗って、私がですか?」

 

 僕の言葉に彼女は顔を赤くして俯いてしまう──お互いしばらく会話をせずに何だか気まずい雰囲気が漂っていた。

 

 

「新堂さんっ!」

 

「どうしたの? 妹さん」

 

「夏帆でいいですよー私と向こうで一緒に見ませんか?」

 

「僕が一緒でもいいの?」

 

「はい。私も新堂さんとお話ししたいなって思ってたので。ねえお姉ちゃん新堂さん少しだけ借りてもいい?」

 

「夏帆、新堂さんに迷惑かけないようにね」

 

「篠宮さん、一人でも大丈夫?」

 

「はい、私ももう少し見ていたいので。戻ってくる時は夏帆に連絡させます」

 

「じゃあ行きましょう! 新堂さん」

 

「あ、うん」

 

 夏帆ちゃんに引っ張られて別の場所に移動する。篠宮さんは笑顔で手を振っていたけどなんか笑顔が固い気がした。

 

 

「見て見て! 新堂さん! これすごいロマンチックだよねー」

 

 夏帆ちゃんに強引に連れて来られた水槽には人だかりできていた。どうやらこの水族館で一番人気の場所みたいだ。

 

「そうだね。これは中身がどうなっているのか気になるよ」

 

「星と海を合わせることなんて思いつくことじゃないですよね。それがなんだかとても神秘的で」

 

「楽しんでもらえているのなら連れてきた甲斐があったよ」

 

 はしゃぐ夏帆ちゃんを見ていると、とても優しい気持ちになる、もしも僕に妹がいたらあんな感じなんだろうか? 

 

「私、新堂さんに聞きたいことがあるんです」

 

 そう言って足を止めてこっちに向き直った。

 

「新堂さんって彼女はいたりするんですか?」

 

「えっ……? どうしてそんなことを聞くの」

 

「答えてください! どうなんですか?」

 

「いないよ」

 

「本当ですか? それじゃあ好きな人とかもいないんですか?」

 

「今のところはね」

 

(それじゃあ、お姉ちゃんにもチャンスあるじゃない!)

 

 小さな声で何かをつぶやいているみたいだけどなんて言っているのかは聞き取れない。

 

「私、お姉ちゃん呼びますね」

 

 携帯でお姉さんに連絡を入れる夏帆ちゃん。合流して僕たちは三人で水族館を回ることにした。

 

 

「夏帆、新堂さんに迷惑かけなかった?」

 

「大丈夫だよ。それよりこれ見てよーすごい綺麗でしょう?」

 

「本当だ! これが夏帆が来たいって言ってた場所なの?」

 

「そうそう、私これを見るために来たって言っても間違いないよ」

 

 同じ場所を見ても姉妹でまったく違った反応をしているのがなんだか面白い。

 その後は水族館の中にあるレストランで昼食を取って少しだけ休憩中。

 

「篠宮さんは楽しんでる?」

 

「は、はい……」

 

「夏帆ちゃんは元気だよね」

 

「実はあの子結構人見知りするんですよ。私の友達が家に来た時はあんまり姿を見せないんです」

 

「それは意外だね」

 

「初対面の新堂さんにあれだけ懐いているっていうのも珍しい」

 

「あのさ──」

 

「はい?」

 

「いや、何でもないよ。だけど、人気の水族館って話は本当だよね今日は来てよかったと思っているよ」

 

「そう言えば夏帆ちゃんいないよね? どこに行ったのかな」

 

「夏帆ならもう少し水族館の中を見て回りたいって言ってましたよ。もう、また自分勝手に行動して」

 

「戻ってきたらまた三人で見て回ろうよ。それまでは君と一緒にいるからさ」

 

「ごめんなさい……気を遣わせちゃって」

 

「気にしないでいいよ。今日水族館に連れてきたのは僕なんだから目一杯楽しんでほしいからね」

 

「新堂さんはどうなんですか? 楽しんでくれてますか?」

 

「うん、すごく楽しいよ。でも、実を言うとね、こういう風に女の子と出かけるのは初めてなんだ」

 

「えっ……?」

 

「女の子と一緒に出かけるなんてことはしたことがなかったから朝から緊張してたけど今は落ち着いているよ」

 

「こういうことは初めてなんですね……」

 

「友達はいるんだけど男の友達なんだ、彼とはよく飲みに行ったりするんだよね。小学校からの同級生でこっちに来てからもずっと仲良くしてるんだ」

 

「こっち?」

 

「ああ、言ってなかったっけ? 僕は九州出身なんだ。兄が先に働いていてねそれで母さんと一緒に上京して来たんだ」

 

「九州ってどういうところなんですか?」

 

「僕が住んでいるところは田舎で車が無いと買い物に行くのも不便なくらいだった。本当に都会に越してきてよかったと思うよ。もうね、便利さも違うし色々な店があって面白いし」

 

「生まれたところ嫌いなんですか?」

 

「そうだね。あまり好きじゃないよ……。子どもの頃はあまりいい思い出がなくてね」

 

 嫌な気分になるけど昔のことを思い出した。

 うちの両親は僕が生まれた後に離婚した。その後、母さんは実家に戻って生活を始めた。

 今思うと女ひとり親で二人の子どもを育てるってことはとても難しいことだとわかる。

 新堂家の長女で下に妹ばかりの姉妹がいるんだけど、この人たちがまた面倒くさい人らだった。

 中学生になるまでは実家で暮らしていたからそういうひとたちに会う機会が多かった。

 近くに住んでいた母さんの妹は結構な頻度で来てたし本人がいないところで姉の悪口などをいい、自分の子どもがいかに僕や兄ちゃんよりも優れていることを自慢していた。

 

 その旦那もおっかないおじさんという感じで家に来るたびに説教じみた事を言い、無理矢理に勉強をさせようとする。

 そういうのが嫌で僕はその人が来る前に宿題を終わらせずっとゲームをしていた。

 息子の方もあまり態度がいいとは言えず、年下なのに呼び捨てにしたり──まあ、子どもの頃だからそういうことは気にしちゃいけないんだろうけど……。

 正直、あの人らの事を思いだすと嫌な記憶ばかりだ。子どもの頃に楽しいことなんて一つもなかった。

 曾祖母が亡くなった辺りから母さんは従妹や親戚達と縁を切った。

 大人になってから話を聞いたけど結局は曾祖母がいたから皆、実家に集まっていただけどそれ以外では関わり合いにならないようにしていただけだと。

 正直そうなってくれたのはありがたかった。あの人らの顔を見ないで済むと思うと清々する。

 

 

「でも、今はすごく楽しいよ。本当に都会は何もかもが違うんだ」

 

 この新しい場所でこれからもずっと生きていこうと思う。もう、向こうに戻るのなんてごめんだ。

 

「それじゃあ、もう少し見て回ろうか?」

 

「はい」

 

 周りにカップルも多かったけどそんなことは気にしないで彼女との時間を楽しもう。

 

 

「今日はすごく楽しかったです! ありがとうございました」

 

 アクアリウムパークを出て篠宮姉妹を家まで送ることに。夏帆ちゃんは止まることがなくて、一日中はしゃいでいた。そんな様子を篠宮さんと一緒に眺めつつゆったりと時間を過ごした。

 館内で食べた食事も美味しかったし神秘的な雰囲気がまた足を運びたくなるようなそんな場所だった。

 

 

「夏帆ちゃんは今日はすごく楽しんでいたね」

 

「はい! 今ままで来た場所で一番楽しかったかもしれません」

 

「もう、夏帆は大げさなんだから」

 

「お姉ちゃんだって新堂さんとふたりっきりで回れてよかったね」

 

「夏帆!」

 

 夏帆ちゃんの言葉に顔を真っ赤にして俯く篠宮さん。僕だって彼女と一緒に水族館に来れたのはすごく楽しかったし今日は本当に充実した一日になった気がする。

 

「またこうやって一緒にでかけたいですねー」

 

「そうだね、今度は行く場所をみんなで選びたいよ」

 

「じゃあ今度は私に選ばせてください」

 

「夏帆ちゃんが選ぶ場所かあ、体力がいりそうだよ」

 

「そんなことないと思いますよ」

 

「篠宮さんも今日は本当にありがとうね。僕も久しぶりにすごく楽しかった」

「私もです……楽しかったです」

 

「また来たくなるよね、あの水族館。人気な理由がわかったよ」

 

「今度がお姉ちゃんがチケット取らないとね」

 

「も、もう、前の事はもう言わないでよ……」

 

「それじゃあ。私たちはここで」

 

「うん、それじゃあ」

 

 駅で二人を見送って家に帰るために人込みを歩く──

 

「──今日は楽しかったなあ」

 

 誰かと遊びに行くことがこんなに楽しいことだったなんて。デートっていうのにはまだまだ雰囲気が足りない気もするけど篠宮姉妹が喜んでくれたから僕もうれしい気持ちになれた。

 

 

 もしも──咲希ちゃんと一緒に水族館に行っていたらどうなっていたんだろう? 

 本当に誘う相手だった彼女と水族館に行ったらもっと楽しかったんだろうか? もう一つのあったかもしれない世界を思い浮かべた。

 二人で歩きながら魚に関する知識を話す。

 僕の話を真剣に聞いてくれる咲希ちゃんに得意げになって話す、知識があまりない事を知られないようにするために本で勉強をする、そんなこともあり得たんだろう。

 だけど、これは来なかったもう一つ可能性──あの時の電話に彼女が出なかった時点で破綻してしまった未来。

 現実はいつだって一つの選択肢しか選べない、巻き戻る事も振り返る事もできない事象の中を生きていくしかないんだ。

 

 AfterもIfもあり得ないこのつまらない世界で自分のために前に進んでいかなくちゃいけない。

 これからは新しい「恋」を見つけよう。

 一番大切だと思えるひとに出会えるといいんだけどね。

 オレンジ色に染まった空は今日も変わらない色だ。いつもよりもゆっくりとした足取りで家に向かう。

 そろそろ母さんが夕飯を準備している頃。 

 家に帰り着いてからの僕は今日の事をいつまでも忘れないようにするために携帯で撮った写真を眺めた。

 今日はどうやら眠れそうにない。ベッドの中で毛布を被ってゆっくりと目を閉じた、ゆらゆらと揺れ動くまどろみに身を任せてみよう。

 

 いい眠りになるといいんだけどね、またあの夢を見ることができるんだろうか? 

 あれ以来まともに夢なんて見ていないけど、いや、もしかしたら見ているのかもしれないけど、内容を覚えてないだけかもしれない。ぼんやりとしか覚えてないあの夢の事が気になるなあ。

 僕の心の中である一つの感情が芽生え始めていた。それはまるでこれから起こる出来事を前もって知らせているようだった。



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第4楽章 変わりゆく日常

 一月十五日(日)

 

 

「………………」

 

「…………」

 

「……」

 

「……もうこんな時間か」

 

 枕元に置いている携帯に手を伸ばして時間を確認する──九時過ぎ、どうやらいつもよりも遅い時間に起きてしまったようだ。

 休日でも早く起きる癖が体に染みついているせいか、休みの日でも朝早くに起きてしまう。

 時間があるからずっとゲームをしたりパソコンを立ち上げてネットのニュースを見たりしている。

 都会は色々な物が手に入る、それが生活を豊かにするし遊ぶ場所にも困らない。

 昨日は篠宮さんと一緒に水族館に行った。すごく楽しかったなあ。

 ああいうのは初めて経験したから何とも言えないけれど、普段よりも高いテンションだったのは間違いない。

 元々は咲希ちゃんを誘うつもりで買った水族館のチケットが無駄にならないで済んでよかった。

 

 ここ最近は彼女の事を考える余裕なんてなかった。

 生まれて初めて女の子と出かけた──会社の後輩のその子はいつも頑張り屋で周りの人からも人気がある、彼女が付き合ってくれたことは感謝しないといけない。明日会社であったら改めてお礼を言おう。

 篠宮さんの妹の夏帆ちゃんは明るくていい子だ。彼女には元気をもらった、今どきの学生は皆ああいうふうに元気な子ばかりなんだろうか? 

 

「そろそろ起きようかね」

 

 ベッドから起き上がってまだ寝足りない体をノロノロと引きずって部屋を出た。

 

 

「おはよう」

 

「お、起きたか。俺はもう朝飯食い終わったからお前もさっさと食えよ」

 

 僕が起きるとたった今朝食を兄ちゃんが食器を流しに置いているところだった。

 

「母さんは?」

 

「出かけたよ。なんか買いたいものがあるんだとさ」

 

「ふーん」

 

 僕は洗面所で顔を洗ってからテーブルに座る。

 けこっちに来てから休みはいつもそれぞれ予定があって家族で顔を合わせて食事をするのは夕飯の時だけになった。今朝は昨日の残り物のおかずと多めのご飯で朝食を済ませる。

 今日は一日中家にいるつもりだし──どこかに出かける用事も特にない。この間買ったプラモデルも少しずつ組んでいかなくちゃいけないし、やることは割とあるのかもしれない。

 机に色々と準備してからプラモの箱から組みかけのパーツを取り出す──プラニッパーでパーツを切り離してからやすり掛けを丁寧にやっていく、こういった作業を進めて作っていくから一つ組み上げるのに普通よりは時間がかかる。

 

 最近のは組むだけでも十分にいいできなのが多いから別にこだわらないでも良いような気もするんだけどね。

 最初は慣れなかった塗装やスミ入れも自分なりにやれるようになった。

 アウトドアな趣味は野球観戦くらいだけど、今の時期は試合はないからどうしてもインドアな趣味の方に時間を取られてしまう。

 

 

 大人になるとお金があるから自分の好きなことに使えるのがいい、子どもの頃は欲しいものがあっても我慢しないといけなかったし、手に入れられないことも多かった。

 音楽プレイヤーをスピーカに繋いでお気に入りの曲を流す、作業用の曲を聴きながらパーツから必要な部品を切り取っていく。そろそろ作ったプラモを飾る場所が無くなってきたなあ。

 飾ってある台には好きなキャラクターのフィギュアも一緒に置いてあるし必要なのを整理していかないといけない気がする。今日は自分の時間を十分に楽しんでもいい。

 作業の手を止めて休憩していると携帯が鳴った。

 

 

「もしもし」

 

「もしもし? 雅也君、僕だよ。義之」

 

「どうしたの? 今日は」

 

「最近、あまり雅也君と話せてなかったからね。それで電話したんだ。で、最近、調子はどうかな?」

 

「ぼちぼちかな。今ね、この間買ったプラモを作っているところなんだ」

 

「へえー僕も別なの買ってついこの前作ったよ部屋に飾ってあるから今度来た時に見せる」

 

「僕は仕事が忙しくてあまり作れてなかった。ゲームも進んでないから今日はじっくりやろうと思ってるよ」

 

「それならあまり長く電話で話せないね」

 

「まあ、まだ朝だから時間はあるよ」

 

「それじゃあ雅也君に聞きたいことがあるんだけど」

 

「なに?」

 

「ああいや、やっぱりいいやごめん気にしないで」

 

「義之君がそういうなら聞かないでおくけど」

 

「悪いね。今度また一緒に遊ぼう」

 

「そうだね、どこかに遠出するのも悪くない」

 

「考えておくよ。それじゃあ」

 

 通話を終えて携帯を横に置く、また誰からか掛かってくるのも面倒だから電源は切っておくか。

 残ったプラモのパーツに鑢やすりをかけながらゆっくりと休日を過ごしていく。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 最近、雅也君とは会話もしていない。それに電話をかけても出ない事が多いし──私自身も仕事が終わると疲れて誰かと電話するなんてことが億劫になる。

 たまに明日奈から掛かってくる事があるけどすぐに終わる程度の短い通話で終わってしまう。

 

「やっぱり売れ切れかぁ」

 

 パソコンを使ってこの間行こうと思っていた水族館のチケットの購入のページを開く——どのチケットも売り切れで買えたとしても一人分。ひとりで行くのもいいんだけどせっかくなら誰かを誘って行きたい。

 誘う? 誰を? 誘える相手は明日奈しかいないけどあの子にも予定があるだろうし都合を合わせるのは難しいんじゃないかな? そうなると後は私が誘える相手は限られてくる。一人暮らしじゃないのなら家族と一緒に行ってもいいんだけど……。

 

 

 義之君誘ったら来てくれるかな? 私の小学校からの友達で今も付き合いがある──と言っても彼とどこかに遊びに行ったりするってことはほとんどないの。電話で話す程度だし。

 うーん。やっぱり一人で行くしかないのかな? 待ってよ、もしかしたら彼なら! 

 私は携帯であるひとの番号を呼び出して通話ボタンを押した。

 

「きっと雅也君なら一緒に行ってくれるかもしれない」

 

『お掛けになった電話は──』

 

 機械声のアナウンスが聞こえてくる。何よ! 出てほしい時にはいつも出ないんだから! イライラしながら携帯をベッドの上に投げた。

 

 あとでもう一回かけてみよう。そういえばこの前、雅也君から着信があったけど何の用だったのかな? 次に電話した時に聞いてみようっと。

 

 

「この辺にしておいて次はまた今度作ろう」

 

 半分くらい組みあがったプラモを箱にしまって一息つく──趣味に時間をとるのはやっぱり大事なことだと思う、休みの日はしっかりと休んでおこう。もう昼を過ぎた時間だしそろそろ昼飯を食べようかね。

 軽めの昼飯を食べてから部屋に戻る。

 

「──電話……?」

 

 携帯が鳴っている。また義之君かな? 僕はすぐに携帯を手に取ってディスプレイを覗いた。

 

【浅倉咲希】

 

 表示されている名前を見て慌てて通話ボタンを押した。

 

 

「もしもし?」

 

「もしもし? 雅也君?」

 

「うん。どうしたの?」

 

「ごめんね。何度かかけたのに全然でなかったから」

 

「そうなんだ。ごめん、ちょっとプラモデル作ってたんだ」

 

「そういうのが雅也君の趣味なんだ?」

 

「趣味はそれだけじゃないんだけどね。最近作れてなかったからいい機会だと思って」

 

「それじゃあ私、邪魔しちゃったかな……?」

 

「……そんなことない。さっき終わってね。続きはまた今度作ろうと思ったんだ」

 

「時間があるのならこれから私の電話に付き合ってくれない?」

「いいよ」

 

「ありがとう」

 

 久しぶりに咲希ちゃんと話せるのがうれしいのか僕は普段とは違う弾んだ声で答える。

 

「そう言えばひとつ気になったことがあるんだー雅也君前に私に電話くれたじゃない? あれってどういう用だったのかなって」

 

「あれはね……」

 

 咲希ちゃんを水族館に誘おうと思って電話を掛けたけど出なかったから結局誘えなくて篠宮さんと一緒に行くことになってしまった用事。

 

「どうしたの? 雅也君」

 

「ああ、あれはそこまで大した用事じゃなかったんだ」

 

「ふーん。それならいいんだけど」

 

「でも、一応聞いておいてもいいかな?」

 

「それじゃあ、言うんだけど……咲希ちゃんはアクアリウムパークって言う水族館は知ってる?」

 

「うん! 実はあそこずっと行きたいと思ってたんだ~でもチケットが取れなくて」

 

「その水族館だけどさ、あの時は僕、チケットが二枚取れたんだ、それで咲希ちゃんを誘おうと思って電話した」

 

「ええ!? そうだったの……」

 

 知らなかった……。あの時の私は彼からの通話を無視してしまった。もしも断らなかったら水族館に行けたかもしれないのに。

 

「それで結局水族館には行ったの?」

 

「うん、会社の後輩の子と一緒に行った。その子妹さんにチケット頼まれてたんだけど一枚しか買えなくて困ってたんだよ。僕も二枚チケット持っててどうしようか悩んでたら彼女の方から声をかけてくれてね。それで一緒に水族館に行くことになったんだ」

 

「……そうだったんだ」

 

 雅也君の話を聞いて少しだけ胸が痛んだ。彼には仲のいい人なんていないと思ってたし何よりも私を誘うとしてくれたのに他の子と一緒に行ったことにショックを受けた。

 

「その会社の後輩の子ってさー。男の子?」

 

「いいや。女の子だよ。僕もいつも仕事で色々助けてもらっているんだ」

 

 女の子……。雅也君と仲がいい子がいたなんて正直意外だった。こうやって電話で話すことがあるけど女友達は私だけだと思ってたし、雅也君は私の知らない女の子と仲良くしているって言うのがイメージできない。本当にタイミングが悪いなあ、私。

 どうしてだろう? 彼のことなんてなんとも思っていないはずなのになんかすごく嫌な気分! なんなのこの気持ち……。

 

 

「ごめんなさい。今日はこの後、予定があるから電話切るね」

 

 嘘だ、この後に予定なんてあるはずもない。だけど、このまま電話を続けてたら彼の口から知らない女の子の話が出てくるかもしれない。耐えられない、そんなの聞きたくない。

 

「そう、それなら仕方ないか。じゃあ僕の方から電話切るよ」

 

 彼はそういうとすぐに電話を切った──私は通話が切れた携帯を手に握りしめたまましばらく座れなかった。

 

 

 その後は彼の言葉が気になって仕方がなかった。別に雅也君が誰と仲良くしようと私には関係のないことだし、いちいち気に留めることでもない、けれど、本当に嫌な気分になる……

 でも、あの時電話を取っていたら展開が変わったていたかも──

 ──変わるってどういうことだろう? 雅也君との関係を今さら変えるつもりなの? 友達でいいって言ったのは私じゃない、彼のことは好きでもなんでもないんだから。

 けど、何故か雅也君と一緒に水族館に行く自分を想像してしまう。二人で神秘的な海の生物を眺めてゆっくりと流れていく時間を共有する。

 それはまるで恋人同士のような雰囲気、恋人ってああいう感じなのかな? 

 雅也君と水族館に行った子ってどういう女の子なんだろう……。会社の後輩って言ってたけど。

 私はその事が気になって今日の夜は眠れなかった。

 

 

「……ふぅ」 

 

 咲希ちゃんとの通話を終えて携帯をベッドの上に置いた。

 咲希ちゃんもあの水族館に行きたかったのか……。彼女の為に用意したチケットは無駄にはならなかったけど違う相手の手に渡った──

 ──世の中本当にままならない、今の時代は携帯やパソコンとかがあるのにどうしてだかすれ違ってしまう。

 

 いつだって連絡を取れる便利さは僕たちを鈍感にしてしまうんじゃないだろうか? 

 せっかく篠宮さんと水族館に行けたのにどうしてそんなことを考えてしまうんだよ……。

 それに彼女はただの友達なんだしもう、昔の恋は忘れて前を向いていこうって決めたばかりじゃないか。

 

 

「篠宮さん可愛かったなあ」

 

 篠宮さんと一緒に水族館に行ったけど、彼女は会社では見せないような自然な表情をしていた。

 水槽の中の魚を眺めたゆっくりとした時間はまるで恋人のような雰囲気だった。

 篠宮さんは本当にいい子だと思う。妹の夏帆ちゃんのためにチケットを準備したり僕のくだらない話をしっかりと最後まで聞いてくれた。

 きっと彼女は将来は素敵な女性になるだろう。今だって十分に魅力的なんだしさ。

 

 けど、篠宮さんと付き合っている男がいないっていうのも変な話だ。

 彼女くらい綺麗な子なら彼氏がいたってなにも不思議じゃない。前に同僚の女の子たちの会話が少しだけ聞こえたことがあるけど篠宮さんはどうやら好きなひとがいるみたいだ。それが誰なのかまでは知らない、すぐに仕事に戻ったから会話の内容をそこまで覚えているわけじゃない。

 僕の初恋はあの時にすでに終わってしまっている、今更咲希ちゃんと友達以上の関係になれるなんて思っていない。

 ベッドに寝転んで明日の事を考えながら眠りにつく篠宮さんにこの間のお礼を言わないとな。

 目を閉じるとすぐに眠りにつくことができた。最近疲れているからゆっくりと体を休めないといけない気がする。

 

 

「あなたは新堂さんのことどう思っているんですか?」

 

「私は彼のことが──」

 

 これは夢? 「誰か」が僕の事を話している。相手の顔はぼかされたようになっていてわからない。

 声は聞こえないはずなのになぜだか夢の中の自分人物の会話の内容がわかる。 

 最近見るようになってきた夢──いつも「誰か」と一緒にいる自分、とても楽しそうだ。

 

 夢は自分の望んだ事を形にするっていうのを聞いたことがある。

 自分自身がそういう状況になるのを心のどこかで期待しているのかもしれない。

 夢の中ではしっかりと内容は覚えているんだけど、目が覚めると全てを忘れてしまっている、いつも続きを見るってわけでもないし、夢を見ないこともある。

 何か意味があってこういう夢を見ているんだろうな。僕が夢の中の人物に駆け寄って何かを言っている。そこで相手が振り返る──それでも振り返った相手が女の子だっていうのはわかるんだけど誰なのかまでは僕も知らない、明日になればこの夢の内容も忘れているんだろうな。

 

 

 一月十六日(月)

 

「だー。眠い」

 

 会社へ行く電車の中で欠伸をする、いつも寝る時間は決まっているんだけど朝はあまり得意なわけじゃない。

 仕事中に欠伸を出さないようにしないといけないなあ、なんて考えながら昨日、電話で咲希ちゃんと話したことを思い出す。

 最近は話せてなかったから会話ができて少し嬉しかったけど、彼女は予定があるみたいですぐに通話は終わった。

 義之君も咲希ちゃんも大切な友人だからこれからも関係を続けていきたい。今日は出勤したら篠宮さんにこの間のお礼を言おう。

 篠宮さんと水族館に行ったのはすごく楽しかった。彼女はいつだって周りにいるひとにいい影響を与えてくれる。それは会社でもそうだ、後輩なのにしっかりとしている子だなって思う。

 都会の騒がしい朝に慣れて来ると色々なことを考えられるようになってくる。

 

 会社の先輩にはもっと本を読むように言われたことがあるけど、社会人になると読書の大切さを改めて実感できる。

 昔は漫画しか読んでなかったけど最近では小説をメインに月に一冊ペースで本を読むようにしている。

 仕事関連の本もそうだけど全く違ったジャンルの物語や作品に触れることで自分の感性を磨くことにつながる、大人になると多様性を受けて入れていかないと視野の狭い人間になってしまうからだ。

 いい本が見つかったら会社の同僚や先輩にも勧めてみようかなと思う。

 

 

「おはようございます!」

 

「新堂君、おはよう」

 

 上司に挨拶をすませてから自分のデスクに座る。プライベートから仕事に切り替えるために机の上に置いてある書類に目を通す、うちの職場はいつも綺麗にされているから物がなくなったりなんていうこともほとんどない。僕自身整理整頓はわりと得意な方でそういうのが苦手な同僚にコツを教えてあげたりしている。

 

 今日はまだ篠宮さんは来てないみたいだ。僕よりも早く来ている彼女がいないのは珍しい。

 まあ、僕がいつもよりも早い時間に来ただけなんだけどね。

 

「おはようございます」

 

「篠宮さん、おはよう」

 

 彼女の周りにはすぐに人が集まる。みんな魅力的な篠宮さんの事が本当に好きなんだろう。

 

「あ、新堂さん、おはようございます」

 

「おはよう」

 

 そんな中でも彼女は僕の方に来てくれて挨拶をしてくれる。元気な彼女の笑顔を見ているとこっちまで楽しい気分になれる。今日も一日いい日になりそうだ。

 

「お疲れー」

 

 仕事が一段落付いたから椅子の背もたれに寄り掛かる、先輩から差し入れのお茶を机に置いて小休止、今日は朝からハードな仕事だったなあ。ずっとパソコンに向かいっぱなしで休憩もろくに取ってなかった。

 後輩の子の仕事のチェックをしてから自分の仕事もやっていたから余計に疲れた。上司はいつもこんなことをやっているんだと思うと頭が下がる。

 

 

「新堂さん、お疲れ様です」

 

「篠宮さんもお疲れ」

 

 僕よりも先に休憩を取っていた篠宮さんが自販機で飲み物を買ってきてから戻ってきた。

 

「今日は朝から忙しかったよね」

 

「そうですね、でも、忙しいのは会社としてはいいことなんじゃないですか?」

 

「そうだね、久しぶりにハードだったから僕も疲れたよ」

 

「話は変わるんだけどこの間はありがとうね」

 

「……?」

 

「ああ、水族館の事だよ。アクアリウムパークだっけ? あそこいい所だったよね」

 

「私の方こそ! 新堂さんにはチケット譲ってもらっただけじゃなくて夏帆の面倒まで見てもらって」

 

「夏帆ちゃんはずっと元気に水族館の中を動き回っていたから僕はそこまで面倒を見たわけじゃないよ。でも、すごく楽しかったなあ」

 

「うふふ、私もですよ~ああいう風に出かけたのは小学生のころ以来でしたし」

 

「へえーそうなんだ」

 

「はい、子どもの頃はお父さんにいろんなところに連れていってもらったんです」

 

「僕はこっちに引越してきたのが高校を卒業したあとだったからなあ。昔住んでた町には遊園地どころか子どもが遊べる場所がろくになかったし」

 

「そうなんですか?」

 

「うん、だからいつも一人で家でゲームばかりしてたよ。外で遊んだりすることなんてなかったな」

 

「子どもの頃の新堂さんってどういう子だったんですか?」

 

「近所の大人からは妙なやつと呼ばれていたよ」

 

「……妙なやつですか?」

 

「集団行動が苦手でいつもひとと違うことばかりしてたのがそういうふうに見えたんじゃないかと思う。ま、実際そうだったからね」

 

「意外です」

 

「そう? 今でこそきちんと人と話ができるようになったけど昔の僕はそうじゃなかったんだよねーあとどちらかといえば生意気な子どもだったかもしれない」

 

「そうなんですねーもし良かったら新堂さんの子どもの頃のこととかもっと聞かせてもらえませんか?」

 

「あまりいい思い出はないんだけどね」

 

 と前置きをしてから子どもの頃の些細な話を篠宮さんに語った。彼女はつまらない話でもとても興味深そうに聞いてくれた。その様子がうれしくてついつい話し込んでしまった。

 こうやって彼女に影響されて毎日が少しずつ変わっていくのを僕は楽しいと思えた。

 どうやら新しい「恋」を見つけられそうだ。



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第5楽章 どうでもいいはずなのに

 二〇一五年 二月

 

 

 *Point of view Saki*

 

「もうすぐ卒業だよねー。咲希は就職するんだっけ?」

 

「うん、東京の会社に内定が決まってる」

 

 卒業を控えていてもキャンパス内はいつもと変わらない。残り少ない学生生活を満喫したい私は友達と一緒に学食に向かった。

 

「いいなあ。同級生でこっちに残るひともわりと多いみたいだよ。あとは上の大学院に進学する子だっている」

 

 大学の友達とランチをしながらもうすぐ訪れる卒業の事を話していた。大学を卒業するってことはもう学生じゃなくなる、社会人になって働くとい実感がまだ湧かない。

 私が通っていた高校は進学校だったからクラスのほとんどの人が進学した。あの学校に通っていて就職するってほうが逆にめずらしい。

 

「けど九州から東京に出るのはお金とかかかるんじゃない?」

 

「そうだねー。住む場所とかも決めないといけないし……」

 

「明日奈も東京だっけ? 大学の友達が身近にいるなら寂しくないじゃん!」

 

「明日奈が就職するなんてねー。てっきり大学院に進学するものかって思ってたよ」

 

「あの子意外と将来設計はしっかりとしてる子だからね。きちんと考えて進路決めてたし」

 

「へえー。そうなんだ」

 

「でもでも、東京に行ったらさすがに咲希にも彼氏できるんじゃない?」

 

「もうっ! またその話?」

 

「うちらはしっかりと彼氏作ったのにアンタには四年間もあったのにできなかったもんね」

 

「私は最初から恋愛には興味ないって言ってたでしょう……」 

 

「それが普通じゃないよね~女の子ならそういうことに興味持つもんだし」

 

「そうだよねー。同じ学部の男子からも地味で話しかけづらいって言われたよ」

 

 

「そんなこと言われてたんだ……」

 

 普段からあまり付き合いはいいほうじゃなかったけどそういう風に思われていたなんて聞くとショックだなあ……。

 

「咲希は男に全く興味ありませんってオーラ出してるもんね」

 

「別に恋愛なんてしなくても普通に生活できるじゃない……」

 

「そうだけど一度きりしかない人生なんだから楽しまないと! アンタそんなんだと老後一人寂しい人生を送るわよ?」

 

「やめてよ! まだ私、若いんだから」

 

 先の事なんてどうなるかなんて今の私にはわからない、将来に不安がないわけじゃないけどそんな事は考えたくない。

 

「けどさ、今まで男の子に一度も声をかけられたことがないなんてねー」

 

「咲希が通ってた高校は進学校だったんだっけ? やっぱり勉強詰めだったの?」

 

「うん、進学しない人は最初から先生たちにも目をかけられないから皆どこかの大学に進学することを目標に毎日がんばってたよ」

 

「うわあ、私はそういうのは無理……肩こりそうだもん」

 

「言えてるよね。息抜きでもやってないと身が持たないわ」

 

「それじゃあ恋愛なんてしてる暇はないか」

 

「単に相手がいなかっただけじゃない? 咲希は男の子好きになったこととか無さそう」

 

「何よ! 私だって好きな人くらいは──」

 

 ──いつも勉強詰めで目の前の事に精一杯だったから恋愛なんてしている暇はなかった。

 気分転換に友達にカラオケに誘われたけど勉強することを理由に断り続けた、高校時代はとにかく勉強勉強の毎日。

 

「何? 好きな人いたの?」

 

「……いなかったわ」

 

「やっぱりね」

 

「やっぱりねってどういうこと! 勉強詰めで恋愛なんてしてる余裕が無かっただけよ!」

 

「もしも咲希の事好きだって言ってくれる物好きな男がいたらその人は相当な変わり者ね」

 

「けど、そういう相手いるのかなあ」

 

「明日奈って、本当に失礼だよね!」

 

「だって咲希って全く男っ気ないんだもん」

 

「言えてる~大学でも仲のいい私ら以外とは距離を置いて付き合ってるし男子とは全く話さないじゃない」

 

「別にいいでしょう……」

 

 私ってそんなに変わってるのかな? 私みたいに恋愛に興味がない子だっているんじゃないかと思う。

 

「恋」をすると女の子は変わるって言うのを聞いたことがあるけど、本当にそうなのかなぁ? 実際に私は今まで一度も恋愛を経験したことがない。

 恋愛なんかよりも優先するべきことが多かったし……。

 

 寮に戻った私はこの間買っておいた本を読み進める、卒業までには読み終えたい。

 

 思い出せば色々な事があったなあ~四年間があっという間に過ぎていった気がした。

 大学での生活はとても新鮮なものでできるなら何年でもいたいけど……。

 皆それぞれの夢を持って社会に羽ばたいていく。私は少し不安があるけどきっとうまくやっていけるだろう。

 これから訪れる新しい生活に期待半分不安半分な気持ちで慌ただしく流れていく時間に追われていく毎日。この時の私はまだ「彼」の事を思い出していなかった。

 

 

 一月一七日(火)

 

 篠宮さんと一緒に水族館に行った日から僕は彼女の事が気になっていた。

 仕事中に目が合うと優しく微笑んでくれる。

 その仕草にドキリとして視線を逸らしてしまう。

 

「篠宮さん、ちょっといいかな?」

 

「はい、何ですか?」

 

「実はさ──近くに美味しい店見つけたんだけど今度一緒にどうかな?」

 

「えっ……いいんですか?」

 

「構わないよ。この間水族館に付き合ってもらったお礼がしたいんだ」

 

「お礼なんて! 私のほうがしたいくらいです」

 

「僕もすごく楽しかったからねーまた行ってみたいと思ったよ」

 

「そうですねー私も楽しかったですよ」

 

 うふふと笑う彼女はとてもかわいい。その笑顔に元気をもらえた僕は午後の仕事が一層頑張れた。

 

「お疲れ様でした」

 

「ああ、お疲れ。気をつけてね」

 

 上司に挨拶を済ませて帰り支度をする、仕事も順調に進んで早く帰宅することができそうだ。

 

「篠宮さんはもう仕事は終わった?」

 

「はい、終わってます」

 

「じゃあ一緒に帰らない? さっき話した店で食事でもどうかな?」

 

「いいですねえ。すぐに支度しますね」

 

 篠宮さんの帰り支度が終わるまで待つ。僕たちはふたりで会社を退勤して食事をすることになっている店に向かうことに。

 

 

「あの二人なんか雰囲気よくない?」

 

「そうね、もしかして付き合っていたりするのかしら」

 

「篠宮さんすごく嬉しそうにしてたわね」

 

「新堂さんも優しい表情してたしこれは何かあるかも!」

 

「付き合いだしたらちゃんと報告とかしそうだからその時まで何も言わずに見守りましょう」

 

 

「今日も一日ご苦労様」

 

「ありがとうございます」

 

「いつも本当に助かってるよ」

 

「私なんてそんなに力になれてませんよー」

 

 そんなことないよ。君がいるだけで職場が明るくなるし、何よりその素敵な笑顔を見ているとこっちまで元気になれるんだ。

 

「この間は水族館に付き合ってくれてありがとう」

 

「こちらこそ! 妹まで誘ってもらって」

 

「夏帆ちゃんだっけ? 楽しんでくれたのなら僕も嬉しいよ」

 

「あの子アクアリウムパークに行ったことを友達に自慢してましたよ~」

 

「あの水族館本当に良かったよね! 僕もまた行ってみたいよ思ったよ。けどチケット取るの大変だろうなあ……」

 

「人気ですもんね。私も行けてよかったですよ~」

 

「元々はチケット二枚取ったんだけど無駄にならないでよかったよ」

 

「……でも、本当は別の人と行くつもりだったねですよね?」

 

「そうだよ。だけど、相手が電話に出なくて結局誘えなかったんだ」

 

「お友達ですか?」

 

「友達といえば友達だけど──篠宮さんには話してもいいかもしれない」

 

 

「その子は昔好きだった人なんだよ……。小中と同じクラスで中学を卒業するときに告白したんだ、彼女からの返事を貰った時はドキドキしたけど結果はダメだった」

 

「それからは別々の高校に進学したらからそれでやりとりは終わったんだけど、その子と偶然にも十年振りに“再会”したんだよ」

 

「僕は彼女への気持ちに整理がついてなかったけど、また昔みたいに友達から始めてみようかと考えたんだ、そして彼女の事を忘れるために新しい『恋』を見つけられるようにしようって」

 

 篠宮さんは僕の話を真剣に聞いてくれた。会社の後輩の彼女にここまで話していいのかとも思ったけど、篠宮さんと話しているとなぜだか安心してついつい話すぎてしまう。

 

「彼女への想いを吹っ切らないといけない。いつまでも昔の恋を引きずるわけにもいかないからね」

 

 らしくもなくぎこちない笑顔を作る僕、やっぱり笑うのは苦手だ……。

 

「見つかるといいですね、新しい『恋』」

 

「そうだね。もしも、また僕が誰かを好きになったらその人のことを一生大切にしたいと思う」

 

 もう一度「恋」をすることができたらその瞬間瞬間を大事にしていこう

 

 

「? 雪だ!」

 

「本当に! 今降ってくるなんて思いもしませんでしたよ」

 

 白くてふわふわした雪が舞い降りる──まるでふたりで歩く僕たちを包み込むように。

 冷たい風が吹いて寒さを感じる。僕はぶるっと体を震わせると隣にいる篠宮さんに声をかけた。 

 

「寒くない?」

 

「少し寒いです……」

 

 彼女の言葉を聞いて僕は上着を脱いで篠宮さんにかけてあげた。

 

「新堂さん、これ」

 

「着ておきなよ。風邪ひかないようにしないとね」

 

「でも、それじゃあ新堂さんが──」

 

「僕なら大丈夫だよ。体は意外と丈夫だから」

 

 強がってみた。無理をして笑ってみたけど本当は凍えるほど寒い。だけど、篠宮さんに寒い思いをさせるわけにはいかない。

 

「もう少しだけ体寄せてもいいですか?」

 

「うん」

 

 恋人みたいな距離で肩を寄せ合った、真っ赤になっている篠宮さんの手。 

 

「これから温かい食事をしてから帰ろうか。ちゃんと駅まで送るから」

 

「はい」

 

 二人きりの時間はゆっくりと過ぎていく。一月の寒さは本格的だ、だけど、隣にいる彼女の事を僕は大切に思えた。

 

 

「今日はありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

 食事を終えて篠宮さんを駅まで送る。駅まで向かうまでの間、会話はなかったけどこうやって一緒に過ごせたから。

 

「楽しい時間ってあっという間に過ぎていきますよね」

 

「そうだね」

 

「私もう少し新堂さんと一緒にいたいです」

 

「……篠宮さん」

 

「だけど、無理は言っちゃダメですよね。食事できただけでもすごく楽しかったですし」

 

「僕も楽しかったよ。気を張ることがなくて自然と振舞えたし」

 

「私もですよ。あと上着ありがとうございます」

 

「返すのは今度でいいよ。まだ寒いから羽織っておいたほうがいい」

 

「それじゃあおやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 別れの挨拶をすませた篠宮さんは駅の改札へ──

 

「──新堂さん! 新しい『恋』きっと見つかると思いますよー」

 

 数歩歩いて振り返った彼女は笑顔でそう言う。

 

(そうだね。ありがとう篠宮さん)

 

 僕は心の中で彼女にお礼を言って改札をいつまでも眺めていた。

 

 肩に積もっていた雪を振り落として家に向かう、僕の中で彼女の事が特別な存在になっていく。  

 

 いつもよりもしっかりとした足取りで雪が積もりかかっている道を歩く、別れる時の篠宮さんの笑顔が忘れられなかった。今日は寒い日だったけど心は温かい、そんなことを感じながら変わっていく日常を楽しいと思えた。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 今日は早めに仕事が片が付いたから家でゆっくり過ごそうと思う。明日奈から一緒に飲もうと誘われたけど「また今度」って言って断った。

 家にいる時間が唯一心が休まる時だし読まないといけない本も何冊かあるから今日も寝るのは遅くなりそう。

 

「うっそー。雪降ってる」

 

 いつの間にか外は雪模様。室内で仕事をしていて外を見る機会がなかったから気が付かなかった……。

 

「傘、持ってきてない……」

 

 ま、雨と違って雪は払い落とせば落ちるからいいんだけど。

 

「弱まらないなぁ」

 

 雪は一向に弱まる気配を見せない。こうして会社の前にいても帰るのは遅くなるしどうしようかなあ。

 足元に気をつけておかないとと転ぶ可能性もあるし注意しながら帰ろう。

 決心がついた私がゆっくりと家の方角に歩き始めた。

 前を歩くカップルは女の子方が恋人に肩を寄せ合う、寒いんだからああいう風になるのは仕方ないことだと思う。

 

 私もああやって肩を寄せて一緒に歩いてくれるひとがいないかなあ。なんて考えてしまう。

 カップルの男の人の方が彼女を抱き寄せて二人はいい感じなる。

 何よ! ラブラブなのを見せつけるつもり? 

 私はうんざりしつつカップルと距離を話して歩く。

 

 クリスマスの時にもああいうひとたちはいたけど人前でイチャつくなんてどうなんだろう? 

 

 私ならそんなことはしない。

 でも、今まで男の子とデートしたこともないしどんなことをすればいいのかもわからない自分がいる。

 明日奈はそんな私を心配して合コンをセッティングしてくれるけどあの子と違って男の人と話すのがあまり好きじゃない私が場の空気に合わないでひとりでいることが多い。

 

 見かねて声をかけてくれる人もいるけど端的な会話で終わってそれくらい。それでも私に彼氏を作ろうと色々と気をまわしてくれる明日奈。

 別に恋愛なんてしなくても平気だし……。一人でいる方が自分の時間がいっぱい取れるし、彼氏なんて作ったらそういう時間が少なくなってくる。

 

 

「雪が降るなんて最悪……」

 

 私はいつもよりも慎重に歩みを進めて行く。早く家に帰りついて温まりたい。

 あ、そういえば食べ物もなくなってきたんだっけ。

 一人暮らしだからあまり買い物はする方じゃないけど、食べ物が底をつき始めているのに気がついた。

 普段はあまり食べる方じゃないんだけど最近は仕事が終わった後にたくさん食べるようになった

 ちょっとお肉がつき始めたわき腹が気になってる……ダイエットしなくちゃいけないなあ

 

 冬は好きだけど雪はあまり好きじゃないかな。

 そういえば雅也君は十二月生まれだけど彼はやっぱり冬が好きなのかな? 

 

 中学の頃まで同級生だったけどそこまで話した事が無かった。彼のことは義之君に聞くのが早いかもしれない。

 でも、雅也君は私を人気の水族館に誘ってくれるためにチケットを準備してくれていた──あの水族館は私も明日奈もなかなかチケットが取れないでいたのに。

 結局誰かと一緒に水族館に行ったみたい。例えば相手が女の子だったとしても別に私には関係ないことだし……。

 家へとどんどん足取りは早くなっていく、帰りを待っていてくれるひとなんていないけど……。

 

 

「寒い……」

 

 凍えて指先まで真っ赤になってる手にふぅーっと息を吹きかける。帰って早く温まりたい。

 俯いていた視線を上げると駅に見慣れた背中があった。

 

 

「あれは? 雅也君……?」

 

 そうだ、あの背中は彼に違いない、少し離れたところにいるけどすぐに分かる。けれど、こんな時間に何をしてるんだろう? 

 彼は私が見ていることにも気がつかない様子で駅の改札をじっと見ている。

 数分そのままの状態が続くと口元を緩ませて改札とは反対方向に歩いて行く──私は彼のあんな顔をは今まで見たことがないからなんだか変な感じがした。

 雅也君は私には気づかずに前だけを見て吹雪の中をどんどん先に進んでいく。

 多分彼も仕事帰りなんだろう。けど、駅とは反対方向に向かっている。どこに行くんだろう? 

 

「いけない」

 

 雅也君の事も気になるけど私も早く帰らないと! 雪を強く降るばかりだし、このままだと帰り着けないかもしれない。雪が降り続ける道を家へと向かって歩き出す。帰りにスーパーに寄ってお鍋料理の具材を買って帰るのだった。

 

 

「ただいま」

 

 誰もいない部屋にそう言ってすぐに炬燵の電源を入れる。冷蔵庫にスーパーで買った食材を入れて一休み。カーテンを少し開けると雪は更に強く吹雪いていた。

 

「なんとか帰り着けてよかったー」

 

 ポットからお湯をカップに注いでコーヒーを飲む。茶色の液体はすぐに体を温めてくれた。

 

「雅也君、もう帰り着いたかな……?」

 

 駅で見かけた友達の事が気になった。彼があんな場所に立っていたのはどうしてなんだろう? 

 昔みたいに友達でい続けることができたなら、お互い大人になってどこか相手に気を遣っている。

 雅也君に告白された時、私は彼を気持ち悪いと感じた。

 だってあまり話した事が無かったし、たまに話が合ったかと思えばなんか遠慮しがちに話して会話が続かなかった。

 

 彼に仲のいい女の子なんていなかったし恋愛にも興味が無いようにも見えた。

 中学の卒業式を迎えてしばらく経った頃雅也君から手紙が届いた。

 いったい何の用? なんて思いながら手紙を読んでみると──彼らしい不器用な文字で私に好意を伝えていた。

 恋愛には興味が無かったし、ましてや雅也君と付き合うなんて想像もできなかった。

 

 

 それから私は彼に返事をしてそれっきり。二人とも別々の学校に進学したから顔を合わせる事も無かった。

 私は義之君とはメールのやり取りはしてたけど雅也君とは何も無かった。彼にとって今の私がどういう存在なのかはわからない。

 だけど、私の為に人気のアクアリウムパークのチケットを準備してくれていたこと、結局一緒にいけなかったけど。

 

 

「その会社の後輩の子ってさー男の子?」

 

「いいや。女の子だよ。僕もいつも仕事で色々助けてもらっているんだ」

 

 私の為に取ったチケットで雅也君は別の子と水族館に行ったらしい。そんなことどうでもいいはずなのになんか胸の当たりが痛む。

 

 相手は女の子らしいけど本当なのかな? 彼の性格を考えたら一緒に行こうなんて思ってくれるそんなモノ好きな子がいるほうが驚く。

 言い方は酷いけど雅也君は女の子にモテるような人じゃない。私は昔の彼を知っているからこそ言える。

 だけど、今の彼の事はほとんど知らない。駅で見た頬を緩めたあんな嬉しそうな表情今まで見たことがなかった。

 

 

 携帯で彼の電話番号に電話をかけてみる。

 

「おかけになった電話はー」

 

 不在のアナウンスを聞いてから通話終了ボタンを押して電話を切る。まだ帰りついていないのかな? 

 この前電話かけた時はタイミングが悪かったし今度ちゃんと話さないといけないなぁ。

 どうでもいい、雅也君の事なんて考えたってどうしようもないけど考えずにはいられなかった。

 十年振りに“再会”した彼は昔とは違って落ち着いた雰囲気の男性になっていた。

 

 あとは声が変わったっていう印象を持つ、中学時代の彼の声はあまり低い声では無かったけど今の彼はその時とは全然違う声をしていた。

 女の子をドキドキさせるような感じではないけど好きな人にはぐらりと来るんじゃないかなって思う? 

 まあ、私は違うけどね。

 背も大分伸びていた、中学のころは私と同じくらいの背だったのに。

 今思うと大人になった雅也君は足が長くて結構いい体系をしてると感じる。元々痩せていたからなんだろうけど……。

 私のタイプの男性はテレビに出てくるイケメン俳優だし、そういう人比べたら彼は全然かっこよくない。

 

 食事を済ませて自分の時間。本を読んだりして寝るまでの時間をゆっくりと過ごす。

 今読んでいる雑誌に書いているけど、相変わらず水族館の人気はすごくてチケットも争奪戦状態になっているみたい。

 冬に水族館に行くのはどうなんだろう? って思うけどああいう場所は一年のどの日に行っても楽しめるものじゃないかな? 

 ベッドに入って部屋の電気を消す。今日は雪が降って本当に大変だった……。

 これから寝ようとすると電話が鳴る──こんな時間に誰よ! 

 

 

「はい浅倉です」

 

「もしもし咲希ちゃん? 僕だよ義之、今電話しても大丈夫?」

 

「……ちょうど今寝ようとしてたところだよ」

 

「じゃあ、時間を見てかけ直そうか?」

 

「いいよ別に。わざわざかけ直すのは面倒でしょう?」

 

「そうだね、あ、いや……あまり長い話じゃないんだけどね」

 

「寝るのが遅くなっても起きる時間は変わらないから」

 

「だったら少しだけ話していいよね」

 

「……うん」

 

 

「あのさ、最近雅也君と話はしたの?」

 

「うん。この間電話で少しだけ話したよ」

 

「そうなんだ。じゃあ水族館の事は聞いたんだね」

 

「私が一緒に行かなかったって話?」

 

「えっ……? 一緒に行かなかったの?」

 

「うん……雅也君が私を誘おうと電話してくれたみたいだけど」

 

「ならどうして行かなかったの?」

 

「だってその時、私電話に出てなかったの。後で私からかけて知ったの」

 

「そうだったんだ」

 

「あの水族館人気だからチケット取るのも難しかっただろうね」

 

「そうだね。だけど、会社の後輩の子と一緒に行ったみたいだよ」

 

「へえー」

 

 

「義之君はその後輩の子のこと、何か知ってるの?」

 

「僕は少しだけね。雅也君と一緒に飲んだ時に話を聞いたくらいかな」

 

「ふーん」

 

「仕事でいつも助けてもらっているって言ってたかなー」

 

「会ったことはないんだ」

 

「無いよ。僕らが飲むときは基本的に仕事の話はあまりしないんだけどたまに雅也君が話してくれることがあるんだよ。その子がいると職場の雰囲気が明るくなって誰からも好かれているんだって」

 

「彼女の方から何度か食事に誘われたこともあるらしいんだけど断っているって」

 

「実際にいるんだねそういう女の子」

 

「チケットふたり分取ってたなら水族館は多分その後輩の子と行ったんだろうね」

 

「ふーん。雅也君と一緒に行ってくれるっていうモノ好きな子がいるだけましじゃない?」

 

 私はらしくなく不機嫌そうな口調で言う。

 

 

「酷いなあ。それ本当にそう思っていても雅也君には言わない方がいいよ」

 

「別にいいじゃん。それとも彼メンタル弱いの?」

 

「そういうわけじゃないよ。ただ、今は昔みたいに友達に戻ろうって色々頑張っているみたいだしさ」

 

「なにそれ……今も昔も友達じゃん。それ以上の関係になんてなったことなんてないよ」

 

「ははは、そうだよね」 

 

「まあ、ふたりの共通の友人の僕としては安定した関係を望むよ」

 

「大丈夫! 彼の事なんてこれっぽっちも好きじゃないから」

 

「言うねえ。まあ、咲希ちゃんもそろそろ彼氏を作ったりしたら色々と考えた方変わるのかもしれないよ」

 

「余計なお世話です! 私は恋愛なんて興味ないし──」

「それいつも言ってるよねー。本当なのかわからないけど」

 

「じゃあ、僕からの情報だけど──さっき雅也君が話してた後輩の子だけど彼が言うには相当可愛い子みたいだよ」

 

「は? それを私に教えてどうするの?」

 

「や、咲希ちゃんが雅也君の事となんとも思ってないっていうなら別に気にすることでもないんだろうけど」

 

「本当だってば! 付き合うならもっとイケメンなひとがいいし」

 

「咲希ちゃんが好きな俳優さんみたいな男はなかなかいないと思うよ?」

 

「第一に雅也君は私の好みのタイプとはかけ離れてるしー」

 

「でもそれって結局は恋愛に興味があるってことじゃないの?」

 

「もう! なんなのよ」

 

「まあ、たまにはじっくりと考えてみるのも悪くないんじゃないかな。もう遅い時間だし、今日はこの辺でおやすみ」

 

「おやすみ!」

 

 通話終了ボタンを押してケータイを枕元に置いた。全く義之君は何の用で電話してきたんだろう……。

 

 雅也君が可愛い後輩の子と水族館に行ったからってなんなの! そんなの別に私には関係ないことじゃない! 

 

 それって彼が女の子とデートしたってことなのかな? 雅也君だって大人なんだしそういう相手がいたってなんの不思議じゃないんだけど──だけど、それは本当は私が彼と過ごすべき時間だったのかもしれない。たった一つのボタンの掛け違いでどんどんすれ違っていく気がする。

 私じゃない別の子とデートしている彼を想像してしまう。別にどうでもいいはずなのに嫌な気分になる……。

 

 好きでもない相手の事でこんなにも悩むなんてどうかしてるんじゃないかな? 

 

「雅也君は友達なんだから」

 

 自分にそう言い聞かせる。だって、彼の告白にはとっくに返事はしたし、それ以上の関係になろうなんて思ってもいない。

 彼だって私の事をいつまでも好きで居続ける理由なんてないんだし、ていうか十年も前の事なのに未だに想い続けているとしたらそれはそれで未練がましくて気持ちが悪い。

 けど、私が男の人に告白されたのはそれっきりで私の事を好きだって言ってくれる相手は現れなかった。

 

 

 私自身が恋愛を避けていたっていうのもあるんだけど、会社の同僚の子たちとの女子トークには彼氏の話題が出てくることも多い。皆、私に気を遣って最近ではその手の話はしなくなった。

 

 今年うちの会社に入社してきたばかりの子にも彼氏はいるみたいだし、仕事先で私だけがフリー。

 

 たまに誰かと飲みたくなって私から誘うことがあるけれど、大概彼氏との用事があるって断れる。

 去年のクリスマスだってそう、好きな人に贈るプレゼントは何がいいかなんて話をしたけど私にはピンと来ない内容だった。

 クリスマスは神様が生まれた日なのに恋人同士で過ごすなんて間違ってる! 本当ならお祈りしないといけないのに。同僚たちが仕事を早く終わらせてクリスマスムードの町に繰り出す中、私は一人会社に残って仕事を続けていた。

 

 結局帰り着いたのは夜も遅い時間。一人で料理を作って柄にもなく神様の誕生日を祝った。

 一人暮らしは慣れているはずなのにたまにとっても寂しくなる時もある。誰かに傍にいてほしいと感じる事もある。

 だけど、それが叶わないのは付き合いやすいひととしか付き合って来なかった私自身のせい。

 それが人間関係を円滑に進めるためにはごく自然なことだと思うし、誰だって苦手な相手とは一緒にいたくないものだと思う。

 一人が良くて自分で選んだことだけどたまに心配して家まで来てくれる友達の明日奈には本当に感謝している。

 

 明日も雪が降るのかな? 一月の夜は凍えるほど寒い、こういう時は時は暖かくして寝よう。

 おやすみなさい。明日もいい日になりますように。

 目を閉じるとあっという間に眠りに落ちた。

 今日あったできごとを忘れさせてくれるかのように白い雪は降り続ける。



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第6楽章 彼女との約束は始まりの予感

 一月十八日(水)

 

 

 白い雪は降り続く──まるで過去のできごとなんてすべて溶かしてしまうかのように。

 東京での何度か目の冬。いい加減慣れてしまったけれどやっぱり特別だ。

 僕は少しは前に進めているのだろうか? 今までは過去の失恋を今までずっと引きずっていたけれど……。

 そんなことを考えながら会社までの道のりを進む。

 一月の寒さは厳しくて周りにいる人間は肩を振るわせたり背中を丸めて歩いている。

 冬は別に苦手じゃないし夏の暑さよりは全然苦にならない。

 夏と冬どちらかと言えば冬が好きだ。

 世界は白銀に包まれて独特な雰囲気になる冬──たんに自分が生まれた季節だということもあるんだけどね。

 

 

 そんな雪景色を眺めながら僕は咲希ちゃんの事を考えていた。

 十年ぶりに“再会”した初恋の相手は昔と変わらない女の子だった。

 いや、昔よりも落ち着いた感じの綺麗な女性になっていたと言えばいいのかな? 

 僕の中での彼女のイメージは読書が好きで昼休みにはいつも図書室にいて、学校でたくさんを本を読んだ生徒を表彰することがあったのだけどその時に咲希ちゃんは必ずと言っていいほど名前が上がるような生徒だった。

 ──小学生の頃から一緒で最初のうちは何ともは思わなかったけれど、小学四年生になった辺りで大きく成長してきた彼女の姿見て女の子として意識するように。

 体育の授業の時、彼女とペアを組んで柔軟体操やストレッチをするときにいつもよりも近い彼女との距離に僕は特別な感情を抱いていたと思う。

 

 

 男とは違う匂いや自分よりも大人な体つきになる女の子にドキドキとして落ち着いていられなかった。

 中学生になると目を合わせるだけで心が揺れ動くくらいに咲希ちゃんの事を考えるようになっていた。

 他のクラスメートが水泳の授業を見学する中、彼女はスクール水着を着て真面目に授業を受けていたけど、その恰好は当時の僕にはかなり刺激が強すぎた。

 

 変に意識しているということを気づかれないために普段と変わらない態度で咲希ちゃんと接していたけど、それが僕が変わっていると思われたのかもしれない。

 彼女のどこが好き? なのかと他の人に聞かれた場合──当時の僕ならこう答えるだろう。

 

『咲希ちゃんの笑顔が好きなんだ!』

 

 笑った時の彼女は最高に可愛かった。

 こうも気取ることがない自然に笑顔を作れる女の子はいないんじゃないかな? って思った。

 クラスの中には他に可愛い子はいたかもしれないんだけど、僕には咲希ちゃん以外にそういう感情を持つ相手はいなかった。

 高校に入学してからは一度も会わなかったし、手紙での告白の返事はあまりにも辛い内容で正直に言うと彼女に会っても多分会話できなかっただろう。

 それからは好きだと言う感情は心の奥にしまいこんで「恋」をする事も無く毎日を過ごす。

 だけど、今の僕と彼女は恋愛関係じゃなくて昔みたいな友人関係──それがいいと僕が望んだ事だし僕の生まれて初めての「恋」はあの時に終わってしまった。

 もういい加減に忘れなくちゃいけない。

 

 

「──新堂さん! 新しい『恋』きっと見つかると思いますよー」

 

 昨日、駅まで送った時の彼女の言葉を思いだす──あの時の篠宮さんの笑顔にドキリとしてその日、僕は眠れなかった。

 仕事先の後輩だった女の子の存在が僕の心の中でどんどん大きくなっていく。

 前は咲希ちゃんを誘うつもりだった水族館のチケットが余ってしまって、その代わりに篠宮さんと一緒に水族館に行ったけど今度は僕の方から彼女を誘ってみようと思った。

 篠宮さんと過ごした時間は経験したことが無いくらいに充実したものになった。彼女の笑顔を思い出すことが多い。

「寒いな……」

 指先はすっかりと冷え切ってしまっている、僕はポケットに手を入れて雪の降る道を歩いていく──

 ──今日は雪の影響で会社に通勤するのが遅くなってしまった。

 

 

「おはようございます」

 

「おはよう。新堂君、大丈夫だった?」

 

「はい、遅れてすみませんでした」

 

「気にしないでいいよ。ほかの人も遅れているみたいだから」

 

「そうなんですか?」

 

 篠宮さんのデスクを覗いてみると彼女はまだ出勤していなかった。

 いつも先に通勤している彼女がいないとなんだか物足りない感じがする。

 まだ出勤していないのかな? 僕は自分のデスクに荷物を置いて仕事を始める準備をする。

 

「それにしても外はすごい雪ですよ!」

 

「そうだね、こんなに降るのは久しぶりだよー」

 

「僕が住んでいた地元では結構降ったんですけどね、東京はそこまでじゃないですよねー」

 

「まあ、皆が無事に会社に来てくれるならいいんだけどね。無理な時は休むように連絡してあるし」

 

「そうだったんですね」

 

「新堂君は真面目だよねー普通こんなに降ったら会社に出てこないよ」

 

「僕もそう考えたんですけどね。さすがに休めないなって思っちゃいまして」

 

「そういえば新堂君は去年は皆勤賞だったよね」

 

「はい! 実は学生の頃から今まででああいう賞を貰ったのは初めてで」

 

「有休も結構残っているみたいだし機会を見て消化したほうがいいよ」

 

「確かにそうですね」

 

 人が少ない中での仕事は思った以上に大変だったけど困ったときはお互いに助け合うことが大切だから僕はできる限りのフォローをしよう。

 今日は早めに帰ろうかな? なんて考えながらデスクに置いてある書類のデータをワークシートに打ち込んでいった。

 

 

「終わったー」

 

「新堂君お疲れ様」

 

「こんなに仕事をしたのは初めてですよ」

 

「うふふ」

 

 同僚の人は優しく微笑んで僕のデスクに飲み物を置いてくれた。女性が多い職場だけど周りの人が気を遣ってくれるからなんとかうまくやれている。

 仕事はひとりでやるものじゃないっていうことがよくわかる。

 

「ありがとうございます」

 

「外は寒いから暖かい飲み物の方が良かったかな?」

 

「いいえ。丁度喉が渇いていたので冷たい飲み物でも全然オーケーです!」

 

「今日は早めに帰った方がいいかもねー私もこの仕事終わったら帰ろうかと思ってるの」

 

「そうですね。そうしたいと思います。これ以上吹雪かれたら洒落になりませんからね」

 

「では、お先に失礼します」

 

「うん、気を付けてね」

 

 同僚に挨拶を済ませて会社を出ると外は白一色で寒さも厳しくなっていた。

 

「……これはすごいな」

 

 朝よりも強めに降る雪の中を家に向かって真っすぐに進む──上に着ているジャンパーにすぐに雪が積もっていく。

 早く家に帰りつきたい気持ちが大きくなって自然と早足になる。今日は一番の冷え込みになりそうだ。

 

 

「ただいま」

 

「おう、お帰り」

 

 家に帰りつくと兄ちゃんが丁度出迎えてくれた。

 

「外すごい雪だよ」

 

「みたいだな。俺が帰って来る時はそこまで降ってなかったんだけどな」

 

 僕は玄関で服についた雪を払い落として靴も揃えずにすぐに部屋に入る。

 

「参ったなあ」

 

 着ていた服を脱ぎ散らかしてすぐに部屋着に着替えて炬燵に電源を入れた。温まるまでの間コーヒーでも淹れてくるかね。

 仕事からオフモードに切り替えてベッドに腰を下ろした。今日も一日よく頑張った。 

 

 

「こんな時に電話なんてかけてくるのは誰だよ!」

 

 ベッドに置いた僕の携帯が鳴ったから機嫌の悪そうな声で電話に出た。

 

 

「もしもし」

 

「もしもし? 雅也君? 咲希です」

 

「咲希ちゃん? どうしたの?」

 

「今日、雪すごかったけど雅也君のほうは大丈夫だった?」

 

「こっちは一応大丈夫だったよ。道に積もってて歩くの大変だったけどね……」

 

「私は今日仕事休んだよー」

 

「あんなに吹雪くなら僕も休めばよかったかな」

 

「そういえば話変わるけどー私、昨日雅也君に電話したんだけど……」

 

「ごめん。ゲームしてて気がつかなかったよ」

 

「そうだったんだー」

 

「わざわざ電話をかけてくれたのに悪かったね」

 

「ううん、私もタイミング悪かったし、でも今日は出てくれてよかったよ!」

 

「ちょうど今家に帰ったところだったんだよね。着替えてたら電話が鳴ってね」

「……そうだったんだ」

 

「今日電話したのはね、この間一緒に水族館に行けなかったことに対する穴埋めっていうか、もし良かったら私とどこか出かけない?」

 

「別にいいけど、どこに行こうか?」

 

「雅也君はどこか行きたいところはある?」

 

 咲希ちゃんに言われても咄嗟には思いつかない水族館の代わりにはなりそうな場所か……。

 

 右手でマウスを動かしてネットサーフィンをしているとカップルにオススメ! と書いてあるページが目に留まる。最近リニューアルオープンしたおしゃれなカフェテラスらしい。店内もいい感じで女の子が好きそうな雰囲気。

 

 

「……カップル」

 

「雅也君どうしたの?」

 

「いや、何でもないよ。丁度今ネット開いたらカップルにオススメの場所っていうページがあってね」

 

「それってどういうところ?」

 

「なんかリニューアルオープンしたらしいカフェテラスだってさ、店内の写真見てるけど悪くない感じだよ」

 

「そうなんだ! じゃあそこに行ってみようよ!」

 

「別に構わないけど人が多いみたいだし予約とかしないといけないんだろうか?」

 

「うーんどうなんだろうね」

 

「僕の方でちょっと調べておくよ」

 

「お願いします。それじゃあ雅也君の都合のいい日、教えてくれる?」

 

「用事とかはないし休みの日ならいつでもいいよ」

 

「じゃあ次の土曜日なんてどうかな?」

 

「土曜日ね──いいよ。その日は何も用事が無いし」

 

「決まり! じゃあ土曜日にね、待ち合わせ場所は金曜日には連絡するから」

 

「わかった」

 

「じゃあ、私もう電話切るね」

 

 そう言うと彼女は電話を切る。

 

 

「まさか咲希ちゃんと一緒に出掛けることになるとね」

 

 まあ、元々は咲希ちゃんと水族館に行くつもりだったし目的は達成できたかもしれない。

 忘れないように机に置いていたメモ帳を開いて土曜日の予定を書き込んだ、普段メモ帳を使う機会は少なかったからページはいつも綺麗なままだ。

 久しぶりに使ったメモ帳。普段は携帯のメモ帳機能を使うことが多い。

 僕はアナログよりはどちらかと言うとデジタル派でもある。

 

 彼女は成長していていたのに僕はずっと変わらない──いつまでもあのときの恋を忘れられない子どものままで大人になりきれていない。

 篠宮さんの言うように新しい「恋」を見つけなくちゃいけない。

 携帯を開いて咲希ちゃんの電話番号をずっと眺めていた、まさか彼女の連絡先をアドレス帳に登録することになるなんてあの時の僕には思いもしなかったことだろう。

 パソコンでもう一度カフェテラスのページを開いて情報を入手していく、こういった作業は仕事でもやることが多いから得意だ。

 すぐに検索をかけて交通情報や店の混み具合を調べる。明日も仕事だって言うのにその日は夜の遅くまで起きて調べ物を続けた。

 

 

 一月二十日(金)

 

 

 咲希ちゃんからの電話を貰った水曜日から木曜日が過ぎて今日で金曜日になったのだけれど、彼女とカフェテラスに行く土曜日が楽しみでここ二、三日は仕事への集中力が無かった。

 家に帰ってからも夜の遅くまでカフェテラスの情報を調べる事の繰り返し。

 

 

「それじゃあお先に失礼します」

 

「新堂君がこんなに早く帰るなんて珍しいね」

 

「何かあるんですか?」

 

「ちょっとね」

 

 水曜に咲希ちゃんが金曜に待ち合わせ時間の連絡をするって言ってたから早めに帰って明日の準備をしないといけない。

 帰り支度を整えて上司と同僚に挨拶を済ませる、篠宮さんのデスクを覗くと彼女は気づかない様子で仕事に打ち込んでいた。

 

(……お先に)

 

 仕事をしている篠宮さんに聞こえるはずもないほ小さい声で呟いて会社を後にした。

 

 

 *Point of view Minato*

 

「今日の仕事はこれで終わりねー」

 

「そうですねー私、疲れましたよ」

 

「実は明日エステの予約してるんだ」

 

「いいね! 私もゆっくり買い物でも楽しもうかなー」

 

「篠宮さんも明日一緒にどう?」

 

「えっ……すみません。明日は遠慮しておきます。また誘ってください」

「あら残念ね」

 

「いきなり言われてもねー仕方ないわよ」

 

「本当にすみません……」

 

「いいのよ。今度予定が合うときに誘うから」

 

「はい」

 

「そういえば新堂さんは?」

 

「あれ? 篠宮さん気がつかなかった? 彼ならもう帰ったわよ」

 

「え?」

 

「何でも明日はどうしても外せない予定があるとかなんとか」

 

「もしかしてデートだったりしてね」

 

「ええ!?」

 

「どうして篠宮さんが驚くのよ……」

 

「いいえ、何でもありません」

 

「新堂君って仕事はしっかりとやってくれるけれど謎な所とかあるよね」

 

「言えてるー。プライベートの話とかほとんどしないし」

 

「休みの日とか何やっているのかしら?」

 

「今度聞いてみようかな」

 

 先輩たちはそれぞれの予定を話し始める。

 私は新堂さんのデスクをもう一度覗いてみたけどやっぱり彼の姿は見つからない。

 

「何か予定があるのかな?」

 

 あの水族館に行ってから新堂さんと話す機会は前よりも増えて自然と笑顔が作れるようにもなった。

 いつも駅まで送ってくれる彼のことを家に帰ってからも考えているの。

 胸がドキドキして夜も眠れないことだってある。

 私の「恋」はまだ始まったばかり──きっとこの恋を成就させたいと思う。

 

 そろそろ咲希ちゃんから電話がある頃じゃないかな? 

 すぐに出られるように携帯を横に置いてパソコンを立ち上げる。

 さっき煎れてきたココアのカップを啜りすすながら待つことにしよう。

 デスクトップにアイコンが並んでいる間に部屋の中を見渡した。

 今の僕は前に篠宮さんと水族館に行った時みたいに待ち遠しくてらしくもなく胸が高鳴っている。

 せっかく一緒に出かけるのだから咲希ちゃんを退屈させないようにしないといけない。

 水族館の時は行く前に海の生物に関する知識をネットでいくつか調べたけれど、今度は普通のカフェテラスだから特にめぼしい情報は見当たらなかった。

 

 

「会話が続けられるように咲希ちゃんが好きそうな話題を見つけないとな」

 

 僕はボキャブラリーがあまり豊富っていうわけじゃないから自然な会話をしよう。

 電話では話すようになったのだけれどまだ彼女の事を詳しく知っているっていう訳ではない。

 少しでも仲良くなれるようにがんばらないと。

 なーに気取らずにありのままの振る舞うことは難しいことじゃない、いつも通りでいよう。

 それが一番だと思う。

 なんていうことを考えていると携帯が鳴った。

 

「もしもし?」

 

「もしもし雅也君? 咲希です。今大丈夫かな?」

 

「ああいいよ」

 

「明日の予定のことを伝えようと思って電話したの」

 

「明日が待ち遠しくてここ最近はソワソワしていたよ」

 

「そうなんだ。実は私もなんだよねー雅也君と出かける事なんてほとんどなかったからなんだか新鮮で」

 

「僕も同じだよ」

 

「それじゃあ明日だけど八時前に秋葉原駅前に来てもらえるかな?」

 

「秋葉原駅ね、わかったよ。僕は何か目立つ格好しておいた方がいいかな」

 

「大丈夫だよ。着いたら電話するから」

 

「了解」

 

「まだ時間もあるしもう少しお話しよっか? 私聞いてほしいこととか結構あるんだ」

 

 

「今日は楽しかったよ。それじゃあおやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 僕は夜の遅い時間まで咲希ちゃんとの会話を楽しんだ。

 彼女とこうやって電話で話すようになって昔よりも仲良くなった気がする。

 きっと咲希ちゃんの中では僕は友達の一人だということに変わりはないのだろう。

 今はそれでもいいんだ。また彼女と話せたりすることができるのだから。

 僕の咲希ちゃんへの想いはあの時の告白で終わってしまっている。

 今更それ以上の関係を望めるわけがないんだ。だから期待なんてしても仕方ない……。

 だけど彼女が僕の事をどう思っているのかは分からない。

 まだ眠りたくない僕は暗い部屋の中をカーテンの隙間から差す光を頼りにして窓のそばまで行く。

 それからカーテンを少し開けて夜の街の様子を見る──東京はいつでも明るくて田舎にいたときとは全く違う。

 夜は静かな方が好きだけれど都会のギラギラとした感じにはもう慣れてきた。

 明日は予定があるから家にいるけれど普段ならこの時間は外に出かけていることが多い。

 都会の眠らない街の中で自分も前とは違った生活を過ごしている。

 そんなことを考えながら夜中の二時過ぎまで外の景色を見ていた。

 

 

 早く明日にならないかなあ。この間買った新しい服を下ろしておかないと。

 小学生の頃、遠足や学校行事の前日は落ち着いて寝られなかったことが誰にでもあると思う。

 何でも興味を持って世の中の事が何でも面白く感じた幼少期とは違って大人になるとそういうワクワクするようなことになかなか縁が無い。

 感性が豊かな人が羨ましい。僕はテレビでやっているニュースや時事ネタなんかには全く興味を持つことができないからだ。

 そう言った事に一々感情的になっていたら精神がもたないし、芸能人の恋愛ネタなんて心底どうでもいい。

 世の中楽しい事なんて気がつかないだけで結構身近にあるものかないかな? って思う。

 充実した日々を過ごすためには何か<変化>がないとつまらない。

 ここ最近僕の日常は前と比べると随分と変わったなあ。

 

 

「……そろそろ寝るか」

 

 寒さを感じてベッドに戻る。風呂に入って温まった体はすっかり冷え込んでしまっていた。

 

「明日の事は明日になってから考えよう」

 

 クローゼットから上着を出して上から羽織るとベッドに倒れ込んだ。

 ここからは簡単だ。何も考えずにただ身を任せるだけ──そう言えばまたあの夢を見るのだろうか? 

 最近見るようになった夢、その夢に何の意味があるのかは分からないけれど見るたびに夢は続いているような気がした。

 そんなことを思っているとあっという間に眠りに落ちていった──不思議なことにその日はすんなりと眠れてあの夢を見ることもなかった。

 おやすみなさいまた明日。



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第7楽章 白銀色の贈り物は真っ新な君の気持ちを染めていく

 一月二十一日(土)

 

 

 どうやら早く目が覚めてしまったみたいだ──今日は咲希ちゃんと一緒に出来かける日。

 いつも休日みには特に予定をいれていなかったけれど、最近では何かしらのできごとが僕を待っていた。

 

「今、何時だろう?」

 枕元に置いてある携帯を見て時間を確認した。

 

「……四時半か」

 

 時間の確認を終えてまだまだ眠り足りない体を起こして外出の支度を始めた。

 うちから駅までそこまで遠いわけじゃないんだけど早めの準備をしておくのは悪くない。

 携帯と財布をズボンのポケットに入れて学生時代から使っているリュックか東京に来た時に買ったスポーツバッグどっちにしよう? 

 両方引っ張り出したけど移動に困るかもしれないからそのままにしておいた、外出するときはできる限り身軽なほうがいいしね。

 ああ、そうだ。待ち合わせの時間まで音楽でも聴きながら待ってることにしよう。

 バッテリーをFullに充電したウォークマンを取り出す。

 今の時代はお気に入りの音楽をいつだってどこでも聴くことができるのは本当にありがたいことだと思う。

 まあ、僕の場合は最近流行っている曲なんかは全然知らないから専らゲームの曲かアニメの歌をよく聴くんだけどね。

 

 

「なんか緊張するな」

 女の子と一緒にどこかにできかけることなんて今まで経験したことがなかったからどうにも落ち着かない……。

 彼女を退屈させないように会話する内容も考えておかないと。

 水族館には行けなかったけれどこうやって穴埋めをしてくれるなんて彼女は本当にいい子だと思う。

 僕が好きだった咲希ちゃんの笑顔をもう一度見ることができるといいなあ。

 出かける支度は済んだけれどまだ五時過ぎなんだな。

 いつもよりもずいぶんと早く起きたもんだ……。

 待ち合わせの八時までかなり時間がある──僕はまだ兄ちゃんたちが寝ているのを確認してから足音を立てないように賃貸マンションを出た。

 

 東京の冬は思った以上に寒い。昔住んでいた所と比較すると実はそうでもなかったりするんだけどね。

 駅に行くまでの道のり歩みを進めていく、都会では休日の朝でも早くから人が行動している。

 最寄り駅から電車に乗って違う駅へ、首都東京では鉄道にバス交通機関が盛んで細かいところまで張り巡らされている。

 しかも一本電車を乗り過ごしても次が数分経てばすぐにやって来るから時間さえ間違わなければ遅刻するなんていうことはない。

 一度こういった便利さを体験してしまうと田舎での生活なんて窮屈に感じてしまう。

 道端を歩くひとたちは眠たそうな表情でそれぞれの行き先に向かっていく。

 そんなひとたちの時間の中に自分を置いて考えた。

 

 咲希ちゃんはもう家を出たんだろうか? こういう場合は男が早く着いておかないといけない気がする。彼女を待たせるようなことは避けないと──腕時計なんてしゃれたものは持っていないから今の時代に合わない”ガラケー“をパカリと開いて時刻を確認した。

 まだ七時にもなっていない―このままだとかなり早い時間に駅に着いてしまいそうだ。

「どこかで時間を潰さないといけないなあ」

 アーケード街を抜けてしばらく道のりを進んでいく。

「腹減ったなぁ」

 家を出たのが早かったからまだ朝飯も食べてない。

 ポケットに手にを入れて財布を取り出して小銭入れを覗く──八百四十三円。

 中途半端な金額だけど一食食べる分にはちょうどいいだろう。小銭を財布からポケットに移動させて朝早くからやっている牛丼屋に入って大盛りの牛丼と味噌汁のセットを頼み胃の中にかき込んだ。

 

「ふぅ食べた食べたー」

 満腹の腹を摩りながら歩く。ここから駅までは結構距離があるから食後の運動にはちょうどいい。

 途中ですれ違う人と肩がぶつかりそうになることがあったけどうまいこと体を反らして避ける。

 都会だとこういうことは日常茶飯事。ぶつかってもこっちからちゃんと謝れ大抵のひとはそのまま通り過ぎて行くんだけど中には面倒なひともいる……。

 深夜の渋谷を歩いていて何度か絡まれたことがあったけど相手の間合いに入らず争いを避けるように振舞ってなんとか事なきを得た。

 地元に住んでいた頃はまず二十二時を過ぎてからは外出しなかったし、何かあれば兄ちゃんか母さんに頼んで車を出してもらっていた。

 できるだけ問題を起こさないように家族に迷惑はかけられない──夜の町で絡んで来る人が皆悪人だとは言い切れない。

 仕事やプライベートが思い通りにいかず憤りを抱えてやり場のない怒りをぶつけただけかもしれない。

 誰にだってそういった面はあるものだしストレスを溜めて生きている僕ら現代人の心理なんだろう。

 仮に相手に闘争心があったとしよう。それに応じて対処すれば大きなイレギュラーが発生するかもしれない。

 だからこそ時には無関心でいなくちゃいけないことだってあるんだ。時にはそういうことも大事。

 人間関係は難しいなって改めて感じる。

 なんていうことを考えながら僕は冬空のもと足取りを速めて駅まで急いだ。

 

 

 *Point of view Saki*

 

「うーん、何を着ていけばいいんだろう?」

 今日は雅也君と一緒に出掛ける日。

 私は普段ではあまり早起きすることがないんだけど今日だけは違った。

 別に服はいっぱい持っているわけじゃないけれど初めて男の子と出かけるんだからちゃんとしたものを着ていかないとって思う。

 鏡の前で軽くお化粧。派手じゃない自然な感じのメイク──なんだか子どもの頃の遠足みたいでどこかワクワクとした感じ。

 

「雅也君ってどんな感じの子が好きなんだろう?」

 高校時代のクラスメートの男子がどのアイドルがかわいいとか女優がいいとかそういう話をしていたのを聞いたことがある。

 私だってかっこいい俳優や芸能人も好きだし、同じように女子の間で話題にしてた。

 彼が普通の男の子だったらそういった事にも興味があるんだろうなあー。

 ちょっと早めの朝ごはんを食べて外出の準備を整える。

 けど思えば小学生の頃から雅也君とはちゃんと話したことがあまりない。

 ていうか最初は意地悪な事ばかり言ってたから苦手だった……。

 義之君たちとは仲良くやっていたみたいだけど親しい女の子はいなかった。

 中学のころ私が部活の時に何度か見かけたけどこっちから話しかけるようなことはしなかったし、教室以外で雅也君と顔を合わせる機会も少なかった。

 高校は彼とは別の学校に進学したから全くやり取りがなくなっちゃた。最後に彼からのあの<手紙>をもらうまでは──

 

 

 二〇〇八年 三月

 

 

「お母さんおはよう。今日は仕事休みなんだ?」

「ううん。今日は出勤して時間が遅いだけ、十時頃には仕事に行くのよ」

「そうなんだ」

 私は冷蔵庫からジュースを出してコップに注ぐ。

 

「あんたももう高校生になるのねー。早いものね」

「なによ改まって」

「ついこの間まで小さかったのにもうこんなに大きくなって!」

「身長はそんなに伸びたわけじゃないでしょ!」

「そうね。もう少しで朝ごはんできるから待ってなさい」

「はーい」

「あ、そうだ。咲希、あんた宛に郵便が届いてたわよ」

「私宛に? 誰からだろう?」

「うふふ。今渡すわね」

 お母さんは嬉しそうな顔をして一通の手紙を私に差し出した。

 

「あんたもなかなか隅に置けないわね~」

「なにさその言い方……」

 お母さんから手紙を受けて取って後ろに書いてあった差出人の名前を確認する。

 

 

「雅也君から?」

 中学を卒業してしばらく経った後、私のもとに一枚の手紙が届いた──差出人の名前は【新堂雅也】

 同じクラスの友達からだった。自分の部屋に戻った私は机に座って手紙の封を切った。

 

 

 Read a letter

 

 咲希ちゃんへ

 

 ええっとちゃんと届いているかな? こうやって手紙なんて書くなんて緊張するな……。

 まずは咲希ちゃん卒業おめでとう! 咲希ちゃんとは小学生のころから一緒だったけど改めて自分の気持ちを文字にするなんていうことに僕は慣れていないから伝えたいことがうまく伝わらないかもしれない。

 だけれど、伝えないでいると多分ずっと後悔することになるんじゃないかなって思って今回手紙を書いて伝えることにしました。

 何だろうか、やっぱり緊張するなー。ちゃんと書きたいことを整理して気持ちを落ち着かせて書いているはずなのにね。

 咲希ちゃんが僕のことをどういうふうに思っているのかはわからないけれど、なんて関係のない話題を書いてないで早く伝えなくちゃね。

 あのさ、僕は、僕は咲希ちゃんのことが好きです。

 

 小学四年の頃、初めて咲希ちゃんのことを好きだって意識するようになったんだ。

 もちろん、小学校を卒業した時に気持ちを伝えようとも考えたけれどそれが好きだっていう気持ちかどうかはその時はまだわからなかったんだ。

 中学生になった辺りから大人びて落ち着いた女の子になった咲希ちゃんのことを前よりも意識するようになった。

 咲希ちゃんが笑ってくれるとなんだかこっちまで温かい気持ちになることができた。毎日違った顔を見せる君に僕はどんどん夢中になっていった。

 僕とはあまり話したこともなくていきなりそんなことを言われても戸惑うかもしれない。

 それでも、もう会うことはないだろうから最後に自分の想いだけは伝えておこうって思ったんだ。

 もしも告白を断るのだったら別に返事はしなくてもいいから。

 

 雅也より

 

 手紙を読み終わって数秒考える。

 

「ええっ!?」

 私は珍しく大きな声を上げて驚いた。

 

「それで? 雅也君からの手紙はどんな内容だったのよ」

「別にいいでしょ! なんでも」

「あら咲希、あんた顔赤いわよ」

「そんなことないよ!」

 慌てて否定したけれど、たぶん真っ赤になっていたんじゃないかって思う。

 もう! お母さんはいつも私のことをからかうんだから! 

 私自身さっきの手紙の内容がまだ理解できないでいた。同級生の新堂雅也君からおそらく告白と言っていい手紙──彼が私のことが好き? どうしてだろう? 

 確かに雅也君とは小学校のころから同じクラスだったけど……でも小学生のころからなんか苦手だったんだよね。

 どこか人と距離を置いていたし、話しかけてもいつも不機嫌そうだった。

 クラスメートの男子とは上手いことやっていて友達も多かったけど女子からの評判はあまりよくなかった。

 中学になった辺りから全く話すこともなくなった。

 私が部活に向かっている時に帰っている彼を見かけたけれど声をかけたことは一度もない。

 

 うちの学校は人数が少なくて部活動は半ば強制的なものだったけど彼は何故か部活には入らずに放課後になるといつも一番早くに教室を出ていく。

 小学校の先輩たちから部活に入らないことを咎められていたのをちょくちょく見ることもあった。

 彼が学校が終わって何をしていたのか興味はなかったし、あの時の私は毎日勉強と部活が忙しくて他人の事を気にしている暇がなかった。

 それでも小学校の頃の友達とは話しているみたいで前に何かのゲームの話題について話しているのも聞いたこともある。

 

 机の上に置かれた雅也君からの手紙をもう一度見て私はどういうふうに返事をしようのかな? って考えた。

 正直言うと私は彼の事なんて何とも思ってないし告白なんてされても困る……。

 私は恋愛には興味ないしそもそも中学生で付き合うっていうのも早すぎる気がする。

 あれこれひとりで悩みながら夜までしっかりと考えて手紙の返事を書くことにした。

 

 

 Writing a letter

 

 

 雅也君へ

 

 今日手紙が届きました。

 急なことなので驚いてます……。

 まさかあなたが私のことを好きだって言うなんて。

 雅也君とは小学校の頃から同じクラスだったよね、けど私にとってあなたと過ごした思い出なんて全くないし、そこまで仲が良かったっていうわけじゃないよね? 

 あなたがどうして私のことを好きになったのかはわからないけれど、私は雅也君の事は別に何とも思ってないし正直好きなんて言われても困ります。

 私たちは別々の学校に進学するしもう会う機会もないんじゃないかな? だから付き合うことはできないし、私自身恋愛には興味がありません。

 ごめんなさい。私は、雅也君の気持ちに答える事はできません。もう二度と私に話しかけないで! 

 

 咲希より

 

 

 私は返事を書いた手紙をポストに投函する。さあ、これでおしまい。だって好きでもない人と付き合ったりするなんて絶対にありえないし、ましてやその相手が雅也君ならなおさらね。

 けれど、私はこの手紙がこれから先ずっと彼の事を苦しめ続けるなんてこの時には思いもしなかった。

 そして私たちの関係を変えることの大きな障害となって今度は自分自身に返ってこようとしていた。

 

 

 *

 

 電車に揺られて待ち合わせ場所の秋葉原駅に向かう──雅也君はもう着いているのかな? 

 彼が時間をきちんと守ってくれる人ならいいんだけど……私は時計で時刻を気にしながら待ち合わせ場所へ。

 改札を通って彼の姿を探した。

 日曜日だから人が多くてうんざり(雅也君を見つけるのは苦労しそう……)

 一旦駅の外へ出てみようかな。待ち合わせの時間が八時で今は七時四十分だし、出口のほうへ向かっていると近くで馴染みのある声で名前を呼ばれた。

 

「咲希ちゃん」

 声のした方に振り替えてみると雅也君が人込みをかき分けながらこっちに向かってくる。

 

「いやあ、すごいひとだねー。油断してるとすぐに別の場所にいっちゃいそうだよ」

「……」

 大人っぽい服装とすらりとした体形に履いているジーパンから伸びる長い足──それでいてがっちりとした体つきをしていた。

 昔、私よりも背の低かった彼が今では大きく感じる。

 男の子から大人の男に成長した雅也君にドキリとして彼の顔を真っすぐに見ることができなかった。

 

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」

「それじゃあ行こうか」

 彼と一緒に駅を出て今日の目的地のカフェテラスへと向う。

 私はまだ胸がドキドキしていてその鼓動はなかなか治まりそうになかった。

 

「駅までの移動は疲れなかった?」

「……別に」

「そっか、僕は電車乗り継いで来たから実は少し疲れてるよ。ははは」

 彼はそう言って微笑みかけると前に進んでいく。

 ひとつわかることは彼が私の歩くスピードに合わせてくれているということ、私を追い抜いた時はすぐに歩みを止めて待っていてくれる。

 私が追い付いたら同じ速さにして一緒に歩く。相手に気を遣っているっていうのがすぐに理解できた、雅也君は相手をちゃんと気遣いできるひとだなって改めて思う。

 

「今日行くカフェテラスだけどさ、少しだけネットで情報を調べたよ」

「そうなんだ」

 少し不機嫌そうに答える私に彼は苦笑いを浮かべる──どうして不機嫌なのかというとこういうことがあったの。

 

 私たちは一緒に駅を出て少し歩いたんだけど、私が人込みに気を取られて雅也君と少しだけ距離が離れたんだ合流する前の少しの間、彼が若い女の子に声をかけられていた。

 すぐに会話が聞こえるほど近くに寄ると明らかに逆ナンパっぽい内容だった。

 さっきも私が思ったように彼の体形に魅力を感じた女の子が興味津々に話しかけていたみたい。

 雅也君はそういうことに慣れているのか声をかけてきた女の子に何か一言言ってから別れた。

 

「雅也君ってさ、ああいうのに慣れてる?」

「えっ? さっきみたいに女の子に声をかけられたこと?」

「うん……」

「ああ、街を歩いているとたまに声をかけられることもあるんだ。大体の子はちゃんと断ったらすぐに行ってくれるんだけど、連絡先を聞いてくる子は対処するのが大変だよ」

「相手を不快にさせないでどう断ればいいのかしっかりと考えないといけないからね」

「そうなんだ」

 意外だなって感じた。雅也君は子どもの頃、クラスの女子から人気があるってタイプじゃなかったし女の子にモテているところなんて想像できなかったから。

 ふたりの間は少し気まずい雰囲気になってお互いに黙ってしまう。それからお店に行くまでの雅也君とは一度も会話しなかった。

 

「さあ、着いたよ。並ぼうか」

 まだ十時前だと言うのにカフェテラスには結構な数の人がいた。しかもみんなカップルだって言うのが見るとすぐにわかる。

 私たちの前に並んでいるひとは肩を寄せ合って仲が良さそうにしていて見ているこっちまでなんだか恥ずかしくなってくる、いいなぁ、幸せそうで。

 私らもああいう風にしたほうがいいのかな? 隣にいる雅也君にチラッと視線を向けると彼はそれに機が付いたみたいで顔を私の方へと向ける。

 

「咲希ちゃん? どうかしたの」

「別になんでもないよ」

 私が笑顔を作ってそう言うと雅也君は頭に? マークを浮かべていた。列は少しずつ捌かれていって私たちがお店に入る番になる。

 

「それではカップル一組ご招待です!」

 店員さんは笑顔でそう言うと席まで案内してくれた。カップル……私たちも他の人にそういうふうにみえているのかな? 

 雅也君に視線を送ってみたけど今度は気づかない。

「なんだか照れくさいね」

 彼が囁くように私にそう言うと無理をしてない自然な笑顔を向けてくれた。

 

「どうぞごゆっくりー」

 案内された席に座るとメイド服を着た店員さんはニコニコと笑顔を浮かべてすぐに次のお客さんの所へと接客に向かった。

 

「料理の値段意外と安いんだね」

「……そうだね」

 私も机にあるメニューで料理を注文することに、どれも美味しそうで悩んじゃう。

 

「これ……」

 メニューで一番大きくしかも目立つように書かれているのはカップル限定料理。

 選べるコースがいくつかあって二人で一つの料理を食べるみたい。

 

「このカップルメニューが気になる?」

「えっ?」

「だってさっきからずっと見てたじゃんか」

「ちょっと目に入っただけだよ。ほら、こんなに大きく書いてあったら見ちゃうって!」

「確かにこれを食べるのはかなり勇気がいりそうだよね」

 雅也君もカップル限定メニューのページに目を向けて載っている料理のいくつかを指さす。

 

「まあ、せっかく来たんだから頼んでみるのもありかもしれないよ。僕らがカップルじゃないなんてここに来ている人は気づかないだろうからね」

 そう、雅也君とは水族館の穴埋めで一緒にカフェテラスに来ただけで別にカップルでもなんでもないんだから! 

 

「咲希ちゃんが頼むなら僕はそれでいいよ」

「本当にいいの?」

「大丈夫だよ」

「それじゃあー」

 私たちはカップル限定メニューを注文することに、雅也君はなんともないみたいだけど私は少しだけドキドキしていた。

 

「お待たせしましたー」

 数分待つと豪華な料理が運ばれてくる。思っていた以上の多さに驚く。

 

「これ、かなり量多くない……?」

「そうかな? これくらいなら普通だと思うけど」

 雅也君は目を丸くして運ばれてきた料理を机に並べる。

 

「二人で食べるんだから少しくらい量が多いほうがいいよ。咲希ちゃんはどれを食べる?」

「どれでもいいよ」

「じゃあ、僕はこっちからー」

 雅也君は自分の目の前に置いた肉料理に箸を伸ばす──

 

「──うん、やっぱり肉が美味いわ!」

「お肉好きなんだ?」

「ああ、好きだよ。牛も豚も鳥もどれも好きかなー」

「咲希ちゃんは食べないの?」

「今から食べるよ」

 私も箸を取って料理を口に入れる。カフェテラスって言うわりにはしっかりと味付けされていて美味しい。これならまた来てもいいかなって思える。

「美味しいね」

「意外だよ。こういう感じの店の料理はあまり美味しいイメージが無かったから」

 私たちはそれぞれ別の料理を食べているんだけど、私が残したのは雅也君が綺麗に食べてくれる。

 

「雅也君って結構食べるんだね」

「そうかな? 僕はそこまでっていう程じゃないよ、多分兄ちゃんの方がよく食べるかなあ」

「そうなんだ?」

 誰かとこうやって食事をするのも楽しいって覚える、基本的には明日奈と一緒に外食することが多いんだけどね。

 周りのカップルはお互いに食べさせあいっこしているのを見ているとなんだか恥ずかしい。

 

「ここはカップルが多い店だからああいうのはやっぱり自然なのかな」

「どうなんだろう……?」

「僕たちもやってみる?」

「えー。それは遠慮しておく」

「まあ、そうだよね」

「雅也君、付き合ってもいない子に軽々とそんなこと言わない方がいいと思うよ?」

「でも、こういった店に来てる限りはそんなことは言ってられない気もするけどね」

 私たちは料理を食べ終えた後、お店を出て秋葉原の街を散策する。

 

「咲希ちゃんはどこか行きたいところはある?」

「別に」

「そっか、それじゃあこの後どうしようかなあ」

 顎に手を当てて何かを考えている仕草をすると何か思いついたようにポンと手を叩いた。

 

「じゃあさ、ちょっと付き合ってほしい場所があるんだけど」

「付き合ってほしい場所?」

 私の手を取って人の多い道をどんどん進んでいく──彼の手は男の子の手だとは思えないほどきれいで小さかった。

 

「ここは?」

 私たちは駅から少し歩いたところにあるアクセサリーショップへ──休日だからか店内は結構な数の人がいる。

 

「実はこの店も来る前に少しだけネットで調べておいたんだよね」

「雅也君アクセサリーとかに興味あるんだ?」

「ああいや、そう言うんじゃなくてさ、まあ、後でいいか」

「?」

「入るのが嫌だったら外で待っててもいいから」

 私にそう言うと雅也君はお店の中に入っていく。仕方ないから私もお店の中へ。

 

 *

 

「こっちがいいかな? だけど、デザインはこっちが好みなんだよね」

 なんて言うことを呟きながら飾られている商品を手に取っていると──

 

「──お客様、何かお探しでしょうか?」

 店員に話しかけられた。自分で選びたいけど他の人の意見を聞いてみるのも悪くない気がする。

 

「ええ、実はあの子に贈るアクセサリーを探してて」

 僕は少し離れたところにいる咲希ちゃんを指さして答える。

 

「可愛い彼女さんですねー。そうですね、今の時期ならこれなんておすすめですよ」

 店員は僕が見向きのしなかった白いネックレスを手に取って見せてくれた。

 

「このネックレスは冬をイメージして作られているんですが、色合いもきれいな白で落ち着いた感じですし、これ自体に何よりも特別な意味があるんですよ?」

「特別な意味ですか?」

 

「それはですね──」

 綺麗に包装された紙袋を受け取って咲希ちゃんの元へ──この店は品揃えも悪くないしまた今度来てみよう。

 

「お待たせ」

「なにか買ったんだ?」

「まあね、それじゃあいこうか」

 時刻は十二時四十五分。もう昼を過ぎているけど、朝食べた料理が思っていた以上に胃に残ってて腹は減ってない。

 この後の予定は特に考えてない、こいつを咲希ちゃんに渡して帰ってもいいんだけど……右手に持った紙袋の中身を見ながら考えた。

 

 

「咲希ちゃんはまだ時間はある?」

「えっ……? うん、大丈夫だけど」

「じゃあさ、ちょっと落ち着いて話ができる場所に行こうか」

 私たちは道を引き返してビルの中に入っているコーヒーショップに移動する。

 

「昼時だから人がいいけど、まあ、いっか」

 椅子に座ってコーヒーを注文する。雅也君はその間も横に置いている紙袋が気になるみたい。

 さっきのアクセサリーショップで一体何を買ったんだろう? 届いたコーヒーを啜りながら何か言いたそうな様子をしている。

 

「あのさ、実はさっきの店でアクセサリー買ったんだけどさ、これを咲希ちゃんにあげるよ」

「これを? 私に?」

 

「うん、本当は本来一緒に水族館に行ったあと、お礼に何かプレゼントしようかなって考えていたんだ。まあ、流れちゃったけどねー。だから今日がちょうどいいんじゃないかってさ」

「そうだったんだ」

「買う前にネットで色々情報を得たんだけど実物を見たほうがいいかなってね、よかったらこれ受け取ってくれないかな?」

 横に置いてあった紙袋を私に差し出す──びっくりして反応が一瞬だけ遅れたけど私はそれを受け取った。

 

「今開けてもいいんだけどなんか恥ずかしいから別に家に帰ってからでもいいよ」

「どうして私に?」

「いや、今日咲希ちゃんとこうやって出かけることができて僕はすごく嬉しかったんだ。そのお礼って言えばなんだけど、もしも気に入らないのならしまいこんでもいいから」

 

 中身が気になったけれど、彼の言うように家で空けてみようかなって思った。

 毎年明日奈からは誕生日プレゼントを貰ってたけど、特定の異性──特に男の人からプレゼントをもらうことなんて今まで一度も経験したことがない。

 今日のお礼なんて言ってたけど私と出かけることを嬉しいと思ってくれてるんだ雅也君。

 まだカフェテラスとアクセサリーショップにしか行ってないんだけど……。

 今度誘うときはしっかりと予定を立てたいと思う。私たちはコーヒーショップで別れる時間まで過ごした。彼は楽しそうに色々な話をしてくれて、私もそれにへぇーとかうんうんとか相槌を打つ。

 

「今日は本当にありがとう」

「どういたしまして」

 駅の改札まで一緒に行く──ここから乗る電車が違うから別々のホームへ向かうことになる。

 

「今度はもっと長い時間楽しいところとか行けるといいよね」

「そうだね」

「まあ、何かあればいつだって電話してくれていいから」

「……うん」

「それじゃあ僕はこっちだから」

 彼は私とは逆方向のホームの階段を下りていく。私はその姿が見えなくなるまで見送ってから電車に乗り込んだ。

 

 

 *Point of view Saki*

 

「ただいま」

 家に帰ってすぐに部屋の電気を点ける──暗い部屋はすぐに明るくなって改めて帰ってきたんだなって感じた。

 

「疲れたなあ」

 外用の服を脱いで普段着に着替えてテレビを点けた。

 まだ十五時過ぎいつもはこの時間は本を読んでいることが多いからテレビを見るのはなんだか新鮮。

 ふと台に置いた紙袋に視線が行く──今日雅也君がプレゼントだって私にくれたもの。

 まだ中身は見てないけど何が入ってるんだろう? 

 紙袋の中に手を入れると丁寧にラッピングされた箱とアクセサリーショップのチラシが入っていた。

 ラッピングの包装紙を剥がして箱の中身を空ける。

 

「ネックレス?」

 綺麗な白と銀色が混じったような色合いをしたネックレスで、それは自分の顔が反射して映るくらいピカピカに輝いていた。

 あまり見たことがないデザインだけどあのアクセサリーショップのオリジナル商品なのかな? 

 ネックレスを手に取って見てじっくりと観察する。身に着けるのがもったいないくらいいいものだ。

 雅也君が選んだのだろうか? かなりセンスがいいと思う。

 よくわからないけどこれをプレゼントされた女の子は喜ぶんじゃないかな? 

 私は鏡の前に立ってネックレスを着けてみた。

 

「これ、すごく綺麗……」

 身に着けるとすぐに分かる。白銀色に輝いたそれはどうやら雪の結晶を表しているみたい。

 鏡に映る自分の姿を何度も見てしまうほど自然な美しさがある。

 せっかく素敵なものをプレゼントされたのに私はまだその実感が湧かない。

 

「私もちゃんとお礼しないといけないなぁ」

 ネックレスを外して箱に仕舞う、今度彼に合う時に着けて見せてあげよう。

 雪のように美しい贈り物を受け取った私はこの時はまだ、自分の中にある『感情』に気づいていなかった。



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第8楽章 踏み出す勇気をくれた人へ

 一月二十二日(日)

 

 昨日は咲希ちゃんと一緒に過ごしたけど彼女は僕の事をどういう風に思っているんだろう? 

 小学の時の同級生? おそらくその程度の存在でしかないのかな。

 それでも昔みたいな友人関係が続けてたいけるなら僕は満足。

 咲希ちゃんだって好きなひとができて「恋」をしていく──その相手に自分がなるなんていうのは有り得ない。

 またああいう風に遊びに行く機会もあるだろう。だから僕は変に“意識”しないでおこう。

 日曜だと言うのに何も予定のないから家にいることになりそうだ。

 パソコンを立ち上げてネットを開く。面白そうなニュースでも見るとしますか。

 Windows7を搭載した古めのマシーンにアイコンが並んでいく、マウスでネットのブラウザをクリックして起動、ブックマークからお気に入りのページを呼び出した。

 東京で働き始めて一番最初に買ったのがこのパソコン。

 型は最新のモデルよりも落ちるけれど充分に使える。

 いつも顔を出す掲示板やサイトを巡回──今日の僕はインドア派。

 

 

 *Point of view Minato*

 

 私は新堂さんに電話をしようかとかれこれ数時間悩んでいた。

 と言うのもこれから町に出かける予定になっているんだけど夏帆は友達と遊びに行って付き合ってくれない、たまにはお母さんと買い物に行くのも悪くないなあ。

 私の予定に新堂さんを付き合わせるのはさすがに気が引けた…………

 結局お母さんと一緒に出かけることに決めて携帯を一旦机の上に置いた。

 

「あら、湊もう決断はできたの?」

「うん。今日はお母さんと一緒に町にお買い物に行くわ」

「あらそう? 湊とお出かけなんて久しぶりだからお母さん嬉しいわ」

 部屋で外着に着替えて家を出る──ああそうだ携帯忘れないようにしないと。

 

「いつ振りかしらね、こうやって二人で出かけるのは」

 お母さんは私とのお買い物を楽しんでくれている。

 社会人になる前はこうやって親で出かけることが多かった。

 私と夏帆とお父さんにお母さん──篠宮家の家族は本当に仲がいい。

「そういえば夏帆から聞いたんだけど、あんた気になる相手がいるんだって?」

「ええ!?」

 お母さんがいきなり変なことを言い出すからちょっと大げさなリアクションを取ってしまった。

「いきなりなんなの?」

「その反応はいるのね! ねぇどんなひとなの? お母さんに教えてよ」

 子どもみたいに目をキラキラさせて聞いてくる。

「あんた恋愛に全く興味を示さないからお母さん心配してたのよー。その歳で彼氏すらいる気配ないし」

「酷い言い草だなぁ」

「それでどう言う相手なの?」

「会社の人」

「まあ! 社内恋愛? オフィスラブなんてあんたもなかなかやるわねー」

 それから新堂さんについてあれこれ聞いてくるお母さんをちょっと鬱陶うっとうしく感じながらも無事にお買い物は終了。

 帰り道、私たちはあのお店は品揃えが豊富だとか今度は夏帆も誘ってみようとか細やかな会話をする。

 私の自慢のお母さん、厳しい時もあるけどそれも愛情の裏返しだって言うことは分かる。

 

 

「湊、好きなひとがいるなら積極的にアタックしないとダメよ。あんたただでさえ内気な性格してるんだから」

「うん…………」

「話を聞く限りいい人みたいで安心したわ」

「とっても素敵なひとだよ。正直私にはもったいないくらい」

「弱気にならないの! 恋愛は一筋縄じゃいかない場合もあるけど成就させたいなら頑張らないと」

 お母さんはそう言って私の背中を押してくれた。

 私の「恋」を応援してくれるひとがいる、一歩踏み出す勇気をもらえた気がする。

 夕暮れの空の下で私はこれからは変わっていこうと決めた。

 さようなら。今までの私。



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第9楽章 始まりは突然に

雪の降る公園を指先を真っ赤にしてたった一つの大切なものを探した、誰かの為にここまで本気になったことは一度もなかった。
その行動が彼女の心さえも変えようとしていた、雅也は咲希の心遣いに遠慮して帰宅するがこれから先に起こるできごとは彼自身を更に苦しめる結果になる。


 一月二十七日(金)

 

 

「流石にキツイなあ」

 ここ最近一気に寒くなったせいか僕は若干風邪気味だった。

 でも、症状は軽いから母さんに薬を貰って会社に出勤する。

 マスクを付けて防寒着を羽織って家を出た。

 

 駅までの道のりは十分くらいだけど冷たい風が吹く中を歩いていかなくちゃいけない。

 周りのひとたちも寒そうに背中を丸めている。

 通勤ラッシュを抜けてようやく会社に到着。

 

「おはようございます」

「おはよう。新堂君ってどうしたの ? 今日はフル装備じゃん」

「少し風邪ぎみで──ごほごほ」

「大丈夫? 辛いなら無理しなくていいよ?」

「薬は飲んでるので頑張ります」

「具合悪くなったらすぐに言うんだよ」

「はい」

 僕は荷物をロッカーにしまって自分のデスクで仕事を始める。

 今日頑張れば明日は休みだし仕事をしっかりやろう。

 

「お疲れ様でした」

「お疲れ様。今日はもう上がっていいよ、あとはこっちやっておくから」

「はい、すみません……お先に失礼します」

 正直限界だったから帰れるのはありがたい、家でゆっくり休んで体調を万全にしよう。

 頭がクラクラして視線もぼやけている中、駅向かって歩き始めた。

 

 少し歩いている途中で携帯が鳴っていることに気がついて慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし」

「もしもし。私、咲希です。今電話していいかな?」

「大丈夫だよ」

 僕は無理をして大きな声で答える。

「雅也君今何処のいるの? よかったらこれからちょっと付き合ってくれないかな」

「良いよ。咲希ちゃんはどこにいるの?」

 彼女は近くの公園にいるらしい。

 もう咳も出なくなってきたからマスクは外してゴミ箱に捨てて公園に向かった。

「雪、降ってきたか」

 白い結晶が空からゆっくりチラつく、今日はあったかくして寝よう。

 

「お待たせ」

「遅かったね」

 咲希ちゃんは肩に積もった雪を払い落として立ち上がる。

「急に呼び出してなにか用なの?」

 僕は風邪ぎみなのを彼女に知られない様に敢えて元気に振る舞う。

「実はね、この間、雅也君がプレゼントしてくれたネックレス付けてるのを見せようと思って」

 隣に置いてあるポーチに手を入れてネックレスを探す──

「──あれ? 変だなあ、確かにこのポーチに入れたんだけど」

「見つからないの?」

「待って! もう少し探してみるから」

 何度もポーチの中を手探りで調べる、僕は近くに寄って様子見。

「雅也君に見てもらおうと何度も取り出したんだ。中に仕舞ったのも確認してるしどうして無いんだろう?」

「服のポケットとかに入ってない?」

「調べてみるね」

 僕の言葉に咲希ちゃんは一度立ち上がってコートやズボンのポケットに手を入れる。

「やっぱり無い……」

「僕も探すの手伝うよ」

 最初座っていたベンチの下に辺りの草むらや地面を探した。

「何でないんだろう」

 咲希ちゃんは泣きそうな顔をして言う。

 そういえばこの子は昔から泣き虫なところがあったっけ。

「大丈夫。僕が絶対に見つけるから!」

 手袋もしていない手で雪の積もった草を掻き分ける。

 指先は切れそうになるくらい冷たくて辛い…………。

 辺りはすっかり暗くなって人通りもまばらになってきた。

「ここに来る前はどこにいたの?」

「ちょっと離れた所にあるビルのコーヒーショップ。ここからだと歩いて二十分くらいかかる……」

「まだ時間あるし行ってみよう!」

「うん」

 完全に冷え切ってしまった手をポケットで温めながらコーヒーショップに急いだ。

 頼むから見つかってくれよ! 

 公園を出る時に時計で時間を確認したけどまだ二十時前だった。

 

 店に着いて咲希ちゃんが座っていた席を調べる。

 出てから一時間以上経ってるって言うし仮にここで落としたとしたら誰かが店員に届けてるかもしれない。

 僕は丁度注文を取り終えて戻る頃合いを見計らって声をかける。

「すみません。今から一時間くらい前なんですけどあの席で誰か落とし物とか届けて来ませんでしたか?」

 咲希ちゃんの座っていた席を指差して尋ねる。

「いえ、女性のお客様がお一人で座った後はあの席にはどのお客様もお座りになりませんでしたよ」

「そうですか」

「何かあったんですか?」

「いえ、こっちの話です。忙しいのに呼び止めてすみませんでした」

 店員は僕との話が終わると別の客の対応に行った。

 このコーヒーショップで一旦休憩してから考えようと提案してくれた咲希ちゃんの言葉の通り僕たちは彼女が座っていた席でコーヒーとケーキ注文する。

 

「ここ以外に寄った場所ある?」

「会社から真っ直ぐ歩いてきたから別にどこにも寄ってない」

「となるとここから公園までの間にネックレスを無くしたって事になるのか」

「…………うん」

 咲希ちゃんは目に涙をいっぱい浮かべて今にも泣き出しそう。

「大丈夫。きっと見つかるから」

 僕は自分のかけられる最大限の言葉で彼女を励ました。

「ありがとう」

 落ち着いて来たのか少しずつ今日の行動を話してくれた。

 まず最初にネックレスはやっぱり今持っているポーチの中にしまっていたらしい。

 デザインが気に入って家で何度も付けてくれたみたいだ。

 そんな風に言って貰えるならプレゼントした甲斐があったな。

 まあ、まだあのネックレスの意味とかは教えてないんだけどね。

 咲希ちゃんが知りたいと言うまでは黙っておこう。

 コーヒーショップで一休みしてから店を出たとたん強い風が吹き上げる。

 さっきまで 降っていた雪は軽く吹雪に変わっている。

 このままだと家に帰るのも厳しくなりそうだ。

「咲希ちゃんは今日はもう帰った方がいいよ」

「えっ…………雅也君はどうするの?」

「僕は平気だよ。遅い時間に帰っても何でもないからね」

 嘘だ。正直体はヘトヘトで限界、今すぐ家で休みたい。

 だけど不安そうな彼女を見てつい強がりを言ってしまう。

「でも、元はと言えば私のせいなんだしネックレスが見つかるまで最後まで付き合う」

「大丈夫大丈夫。僕がきっと見つけるからさ、今日はもう帰りなって」

「うーん」

「それじゃあさ、咲希ちゃんの住んでいるとこ教えてよ。ネックレス見つけて届けるからさ」

「悪いよ! そんなの」

「べつにどうってことないって。女の子を夜の遅い時間に家に返す方が十分に危険だってば」

「それにこの吹雪だといつ電車が止まるかわからないし」

 帰ることを渋る彼女を何とかその気にさせるのに一苦労した。

「じゃあ気をつけて」

「はい」

 咲希ちゃんを駅まで送ったあと僕はもう一回あの公園を探すためにまだ雪の降り続く町へ引き返す──住所を書いて貰ったメモをポケットに突っ込んで走り出した。

 全力で走ると冷たい風が肺に入り込んできて息苦しい…………

 

 

 コーヒーショップから駅を抜けてさっきの公園まで戻って来た。

 彼女の座っていたベンチには雪が積もっていてこれから雪に似た色のネックレスを探すのは大変だ。

 芯から冷えてしまったボディーを引きずりながらベンチに近く。

 ──辺りはすっかり真っ暗で転々と並ぶ街灯で照らされる場所を入念に探す。

 最初に感じていた指先の痛みなんかとっくに忘れてしまった。

 咲希ちゃんは僕が贈ったネックレスを大切に思ってくれている。

 だからこそ絶対に見つけなくちゃいけない。

 白い景色でそれに近い色のものを探すのは予想していた以上に難しかった……

 一度ベンチに座ってちょっと休んでネックレス捜索を続けた。

「この雪の中で本当に見つかるのか?」

 気持ちが完全に滅入ってしまいそうになりながら探していると一瞬明かりに照らされて輝いている何かを見つけた。

 街灯を手掛かりにベンチの後ろにあるちょっと緑の枝が生えている場所を手を使って調べる。

 

 

「こんなとこに引っかかってたのか…………どうりで見つからないわけだな」

 

 ネックレスは枝に積もった雪の下に埋もれていてしかも枝先に引っかかって目立たないようになってた。

 

 時間は二十三時前──よし! これなら十分終電には間に合いそうだ。

 最後の力を振り絞って駆け出して咲希ちゃんの住んでるマンションに向かった。

 

 

「七○五号室か」

 ぱっと見十五階建てはありそうな高級マンションのエントランスにあるインターホンで部屋番号を入力して呼出ボタンを押した。

 数回呼び出し音が鳴ってお目当の相手が出る。

「はい」

「僕だよ。雅也、ネックレス見つけたから届けに来たよ」

 そう言うとすぐにドアが開いた──目の前にあるエレベーターに乗り込んで七階のボタンを押した。

「結構高いな」

 廊下を歩いて七○五号室の前までやって来た。

「ここだな」

 一度深呼吸をしてチャイムを鳴らす。

 鳴らしたあと人が出てくるまでのこの沈黙はあまり好きじゃない。

 ガチャりという音が聞こえて扉が開く。

「雅也君」

「これ、ネックレスちゃんと見つけて来たから」

「本当にありがとう! わざわざごめんなさい…………」

 感動してるのか咲希ちゃんは泣きながらネックレスを受けとる。

「寒かったでしょう? さあ、中で温まって!」

「いや…………せっかくだけど遠慮しておくよ」

 彼女の好意を受け入れず扉から体を離した。

 だって僕は咲希ちゃんの恋人じゃない。

 ただの友達の僕がひとり暮らしの女の子の部屋に入るべきじゃない。

 いつか彼女に好きな相手が出来た時に別の男を部屋に上げたなんて知られて困るのは咲希ちゃんの方だ。

「せめて何かお礼をさせて」

「必要無いよ。お礼が目的で探してた訳じゃないし」

 僕は一秒でも早くこの場所から離れたかった。

 長居したら彼女の優しさに甘えてしまいそうな気がしたから。

「それじゃあ届けたからね」

「あ、待って! 雅也君」

 僕を呼ぶ声なんて聞こえていないかのように逃げるみたいにマンションを出た。

 それからは何とか終電まで間に合って〇時が過ぎる頃に家に帰った。

「ただいま」

 家族はとっくに就寝していて起こさないように靴を脱ぐ──

「あれ? なんかフラフラするぞ。おかしいな」

 自分の体に何が起こっているのかすら分からず僕はそのまま倒れこんだ。



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第10楽章 波乱の予感-お見舞いEVENT-

 一月二十八日(土)

 

 

「風邪ね」

「マジかよ……」

 脇の下に挟んでいた体温計を母さんに渡す。

 昨日、僕は玄関で倒れてしまってからそのまま眠ってしまったらしい。

 朝起きて来た母さんが僕を発見してさっき目が醒めるまで自分の部屋で休んでいた。

 体調が悪いことを伝えて熱を測ってみると体温は三十七度を超えている……。

 風邪を引いたのなんて久しぶりだし、こんなに辛いのは高校生の頃インフルエンザにかかって以来だ。

「あんた、昨日の夜何してたの? お母さんが寝る時は帰って来てなかったでしょ」

「別に良いだろ、なにしてても」

「とにかく今日は家で大人しく休みなさい。外に出ちゃダメよ!」

「分かってるって」

「お母さんは夜まで帰って来ないから」

「あれ? 母さん今日は仕事なの」

「——昨日言ったじゃん。その代わり月曜は休みだけどね」

 そういえば木曜の夕飯の時にそんなこと言ってた気がする。

「兄ちゃんは休みだっけ?」

「健吾ならもう家を出たわよ。今日は早番って言ってたから」

「そうなんだ」

 と言うことは今日は家には僕ひとりしかいないって事か。

 たまにはこう言う状況も悪くないけど今は風邪引いててそれどころじゃない。

「ご飯は作って冷蔵庫の中に入れておくからそれを食べなさい」

 母さんは僕にそう言うと部屋を出て行った、まあ、今日はお言葉に甘えてゆっくり休ませてもらおう。

 土曜日だったのが不幸中の幸いか──会社を休まなくていいから皆勤記録が途切れることはなさそうだ。

 僕はもう一眠りしようと瞼まぶたを閉じるすぐに眠気が来てそのまま身を任せた。

 

「ふぁー」

 目が覚めて時間を見ると十時二十五分。

(二時間以上は寝てたのか)

 腹も減って来たし何か食べようと思いベッドから起き上がる。

 まだだるけの抜けない体を軽く動かしていると──

「携帯が鳴ってる」

 ちょうどいいタイミングで携帯が鳴った、一息呼吸整えてから電話に出た。

「もしもし?」

「もしもし雅也君、義之だけど」

 電話の相手は小学生の頃からの友人。

 多分用は休みだからどこか遊びに行こうって誘いの連絡をしてくれたに違いない。

「義之君今日はどうしたの?」

「最近話せてなかったからね、様子が気になって電話したんだ」

「そうなんだ。僕もここ数日は仕事が忙しくて電話する暇なんてなかったよーごほごほ」

「もしかして風邪引いてる?」

「そうだよ。久しぶりに結構辛い思いしてるんだ……いやー参ったよ。ははは」

 無理に笑ってみたけど多分彼にはそんな僕の態度なんて既にお見通しなんだろう。

「そっか、風邪引いてるなら電話して悪かったね。今度改めて連絡するよ」

「ごめん」

「良いって。それじゃあお大事に」

 義之君との通話を終えて部屋を出る、朝ごはんを食べ終わった後はもう一度ベッドに横になる。

 辛い、しんどい……

 一人でいるのは苦じゃ無い筈なのに今日はなんだかいつもとは違う。

 

 

 *Point of view Saki*

 

「……雅也君」

 私は昨日彼が届けてくれたネックレスを手放すことができなかった。

 後で知ったんだけど昨日の冷え込みは今週一番で夜の外出は控えるように気象予報士のお姉さんも言っていた。

 うちのマンションに来た時の彼は肩まで雪が積もっていてとっても寒そうだった。

 温かい料理も用意してたんだけど結局無駄になっちゃった。

 私のせいで雅也君に辛い思いをさせたのに自分はあったかい部屋で休んでいた。

 私の為にあんなに一生懸命になってくれた雅也君。

 軽く自己嫌悪になりながら彼の様子が気になっていた。

 次に会う時はこのネックレスを付けたとこを見せてあげよう。

 恋人でもない相手から贈られたプレゼントにはしゃいでいる自分がいた。

 いってもたってもいられずケータイで彼の番号をプッシュする。

 

 

「もしもし? 雅也君、今話せるかな?」

「ごほごほ。さ、咲希ちゃん? どうしたの」

「ちょっと咳出てるけど大丈夫?」

「かなりキツイかなあ……なんか風邪引いたみたいでさ」

 私のせいだ…………

 寒い中私のネックレスを探していたせいで雅也君は風邪引いちゃったんだ。

「熱は何度くらいあるの?」

「さっき測った時は三十七度八分あったかな。今はわからないけど体温上がってるかもしれない」

「そっか……お家の人はいないの?」

「二人とも仕事。だから今は僕ひとりだよ。ごほごほごほ」

「本当に大丈夫?」

「咳が止まなくて辛い……」

「心配……だって雅也君が風邪引いたのって私のせいかもしれないし」

「咲希ちゃんのせいじゃないよ、実は昨日から体調あまり良くなくてさ。あ、これ内緒にしておくんだった」

 じゃあ雅也君は具合が悪かったのに私のワガママに付き合ってくれてたの? 私の為に寒い中ネックレスを探し回って……自分の体が辛い筈なのに見つけてくれたんだー。

 本当の事を知ってますます自己嫌悪に陥る。

「私、今から看病に行くよ」

「それは悪いよ、せっかくの休日をそんなことに使っちゃごほごほ」

「でも、私、雅也君に何もしてあげられていない。ネックレス見つけてもらったお礼もちゃんと言えなかったし」

「雅也君の家の場所は知らないから義之君に聞けば教えてくれるかな? 食べものとか色々買って行くから待ってて!」

「悪いって……」

「お願い、それくらいさせて」

「わかった。じゃあ待ってるよ」

 雅也君はそう言って電話を切った。病気の時にひとりで過ごすのはすごく心細いのは私もよくわかるから──

 メイクしないで家を飛び出した。自分にこんなに行動力があるなんて思いもしなかった。

 

 

「ここね、雅也君が住んでるマンションは」

 私の住んでいるマンションほどじゃないけど築十年も無さそうな新しめの建物。

 確か六〇五室だったかな? 義之君にマンションと部屋名を聞いておいたから間違いないと思うけど……

 エントランスの前には若い女の子が立っている。

 その子が私に気づいたとたんドアが開いたから慌てて中に入りエレベーターに乗り込んだ。

 彼女は私が乗るとサッと六階のボタンを押して扉を閉める。

 この子も六階に用事があるのかしら? ふと顔を覗き込んだ。歳はおそらく私よりも年下、同じ女の私が見ても可愛いって言葉が合う今風の子。

 数秘の沈黙が続いた後、六階に着いたからエレベーターを降りる。

 すぐ目の前にある部屋が六〇一号室だから──六〇五室は多分あの廊下の突き当たりにある部屋だと思う。

 部屋番号を確認しながら雅也君の部屋の前まで到着。

「六〇五号室——ここね」

 チャイムを押して一分くらい待った後にドアが開く。

「いらっしゃい、わざわざありがとうね」

 頭に冷えピタをしてマスクを付けた雅也君が出迎えてくれた。

「寒かったでしょう? さあ中に入って」

 私は玄関で靴を脱いでたら後ろから声が聞こえる。

「あのっ……新堂さん大丈夫ですか?」

「えっ……?」

 声のした方へ振り返るとさっき一緒にエレベーターに乗っていた女の子がいた。

「篠宮さんも様子見に来てくれたの? ありがとう」

「何、雅也君この子と知り合い?」

 よく見たら彼女の手には私と同じでスーパーの買い物袋がぶら下げてる。

「雅也君?」

 不思議そう顔をして私のことを見る女の子。

「これってどういうこと?」

 目の前にある彼女がこれから私に立ち塞がる大きなライバルになることなんてこの時はまだ気づかなかった。



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第11楽章 お互いの価値観

 僕の部屋には殺伐とした空気が流れている。

 ことの発端は風邪を引いている僕のお見舞いに二人の女の子が来てくれたことだ。

 咲希ちゃんから電話がある前に先に篠宮さんから着信があった。

 今日は家族がいないで一人で過ごしている僕のお見舞いに来てくれた。

 二人は偶然にもうちの玄関で鉢合わせ——せっかくだから上がってもらったけれど、なんだか微妙な感じ。

 

「二人とも座ったら? 立ちっぱなしは疲れるよ」

 クッションを二個出して目の前に置いた。

 篠宮さんが申し訳無さそうにそれに座ると咲希ちゃんも同じように座った。

「コーヒーでも淹れるよ」

「ダメですよ! 新堂さん風邪引いてるんですから休んでいて下さい」

「だけど——」

「私が淹れて来ようか?」

「悪いね、お願いできるかい? コーヒーの粉は冷蔵庫の横にあるラックの中に入れてあるから」

「わかった」

 咲希ちゃんは一言だけ言うとコーヒーを淹れるためにキッチンへ。

 部屋に篠宮さんと二人きりなのは気まずい、何か会話しないと。

 頭の中で必死に会話カードのどれがいいのか選ぶ。

「今日はわざわざありがとうね。ごほごほ」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 会話はそれでおしまい。僕は一旦ベッドに横になる。

「お待たせ」

 咲希ちゃんが三人分のコーヒーを持って部屋に戻って来る。

 僕と篠宮さんはそれぞれカップを受けとってコーヒーを啜る。

 沈黙、沈黙、沈黙。部屋にはカップを啜る音だけ——普段なら自分から話出すんだけど今はとてもじゃないけど会話できるような雰囲気じゃない。

 咲希ちゃんも篠宮さんも黙ったまま、僕は飲み終えたコーヒーカップを流しで洗ってから寝るためにベッドに戻った。

 

「咲希ちゃんもありがとうね。色々買ってきてくれたみたいだけど」

「うん」

「悪いけど、ちょっと寝らせてもらうよ思ってた以上に体がきつい…………」

「大丈夫ですか?」

 篠宮さんがさっと体を支えてくれた瞬間、彼女と目が合う。

 恥ずかしくなってお互い顔を逸らした。

 そのあと少し眠ってから夕方までいてくれた咲希ちゃんと篠宮さんにお礼を言う。

「それじゃあ私、帰りますね。新堂さん無理しちゃダメですよ?」

「わかってるよ。今日はありがとうね」

「私も帰るよ」

「玄関までは見送らせて」

 熱で火照った体を起こして立ち上がった。

「無理しないで」

 今度は咲希ちゃんが僕のことを支えてくれた。

「ありがとう」

「じゃあお邪魔しました」

「お邪魔しました」

 二人を見送った僕は部屋に戻って休んだ。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 雅也君の住んでるマンションを出たけど私にはあの子のことが気になっていた。

 一緒のエレベーターに乗り合わせてついさっきまで彼の部屋にいた女の子。

 誰なんだろう? 雅也君が親しそう話してた相手で彼がふらついた時にすぐに支えてあげていた。

 その時に数秒だけど二人が見つめあったのを私は見逃さなかった。

 胸の奥が針で刺されたみたいにチクチク痛む。

 息苦しさを感じて歩くのをやめて立ち止まる。

「なんとか治った」

 数分じっとしてたら良くなってきた——私はまた歩き始めようとしたら。

「あの…………すみません」

 誰かに声をかけられた。

「あなたは——」

 声の相手は雅也君の部屋にいた女の子だった。

 

「座りましょうか」

 彼女に言われてベンチに座る土曜日だからそこそこ人がいる公園に二人でいる。

 私たちはお互いに何か言いたいことがあるのに言い出せない。

 彼女は軽く深呼吸をすると、ピンク色の唇を開いて話出す。

「すみません。あなたは新堂さんの知り合い何ですか?」

 偶然かはわからないけど、どうやら私とこの子の聞きたいことは同じらしい。

「うん。そうだけど」

「自己紹介しておきますね、私は篠宮湊と言います。新堂さんと同じ会社で働いてます」

「私は浅倉咲希。雅也君とは小学校の頃の同級生」

(じゃあ、やっぱりこの人が新堂さんの『初恋』の人なんだ…………)

「浅倉さんって呼んだらいいですか?」

「うん、あなたは篠宮さんでいいかしら」

「はい、あの一つ聞いてもいいですか?」

「何?」

「浅倉さんは新堂さんとお付き合いしてるんですか?」

「ええっ!? ないよ! ないない! あり得ないから! 私と雅也君はただのお友達」

(それなら私にチャンスあるんじゃないかな?)

「すみません、失礼なこと聞いて新堂さんが浅倉さんを名前で呼んでたので恋人同士なのかな? って思ってしまって」

「なるほどねー。私たちのクラスは名前で呼ぶのが普通だったから今でも呼んでるのよ」

「そうだったんですね」

「篠宮さんは今日雅也君のお見舞いに行ってたんだよね?」

「はい」

「じゃあ私と同じかー」

「浅倉さんもですか」

「うん、彼が急に風邪引いたなんていうからびっくりしちゃったんだ」

「それで心配になって色々買って持って行ったわけ」

 篠宮さんもたまたま電話したら雅也君が風邪を引いたって聞いて心配して様子を見に行ったらしい。

「今日は浅倉さんと話せてよかったです」

「私もだよ。そうだ! 篠宮さんのアドレス教えてよまたお話ししたいし」

 私はスマホを出して彼女の番号を教えてもらった。

「登録完了! それじゃあ何かあればいつでも電話していいから」

「ありがとうございます」

「じゃあね」

 篠宮さんと別れてまっすぐ家に帰る——夜は寒いからあったかくして寝ないと。

 彼女に言った友達の言葉の意味を私はすぐあとに後悔することに羽目になる。

 

 

 *Point of view Minato*

 

「友達か…………」

 浅倉さんが新堂さんのことが好きじゃないのならこの気持ちをあの人に伝えていいのかもしれない。



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第12楽章 特別な贈り物

 熱が大分下がってきて随分と楽になってきた。

 僕はベッドから身体を起こして部屋のカーテンを開ける。

 まさか篠宮さんと咲希ちゃんが見舞いに来てくれるなんて思いもしなかった。

 二人の女の子から看病されるなんていうのは僕が好きなゲームでよくあるような展開だけど実際はそんな事考えている暇はなかった。

 

 そのまま見送ったけれどあの後大丈夫だったのかなあ。

 篠宮さんは咲希ちゃんが僕の「初恋」相手だというのは知らないだろうし。

 誰かに頼れるっていう事は幸せな事かもしれない。

 元気になったら篠宮さんにはお礼を言うつもり。

 僕の中で彼女の存在が少しずつだけど大きくなっていくのだった。

 

 

 *Point of view Saki*

 

 雅也君のお見舞いを終えて家に戻ってきた。

 今日はいつもより疲れちゃった…………。

 私だけが彼の親しい女「友達」と思っていたけどそれはちょっと違ったみたい。

 彼が住むマンションに来ていた女の子——篠宮湊さん。

 彼女は雅也君の会社の後輩、それだけの相手なのに何故だか気になる。

 篠宮さんは落ち着いた感じの大人しめの子だという印象を持った。

 長く伸びた髪が綺麗で羨ましい。

 そこら辺を歩いていたら男の人に声をかけられそうな可愛さもあった。

 

 篠宮さんと話をしている雅也君は熱が出て辛いはずなのにどこか楽しそうな雰囲気。

 私には見せたことがない自然な表情。

 彼があんな風に笑ったところなんて一度も見たことがなかった。

 小学校からの同級生だけど当時はそんなに話すような関係じゃなかったし私は雅也君が苦手だった…………。

 

 だけど、どうしてだろう? あの時の私は篠宮さんに嫉妬していた。

 嫉妬? なんでそんな気持ちになったのかな? 

 雅也君が誰と仲良くしようと私には関係ないはずなのに。

 胸にチクリとした痛みを感じて私は呼吸を整える。

 

 彼に貰ったネックレスを付けると自分が特別だと思えてしまう。

「雅也君どういう気持ちでこのネックレスを選んだんだろう」

 私には勿体ないくらいに綺麗なアクセサリー。

 家族以外の人から何かを貰う事なんて今まであまり経験無かった。

「ちゃんとお礼を言わなくちゃね」

 嬉しくてお風呂に入る時以外はこのネックレスを外さない。

 鏡の前で自分の姿を見ていると携帯が鳴る。

「誰だろう」

 私はすぐに電話に出る。

 

「あ、咲希? 私、明日奈だけどー」

「明日奈? どうしたのよ」

「今、話しても大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「良かった! ねえねえ、これからアンタの所に遊びに行ってもいい?」

「遊びって…………まあ、私も予定無いしいいわよ」

「やったー! それじゃあ今から向かうわね」

「はいはい」

 電話を切った私は彼女が来てもいいように部屋の中を軽く掃除した。

 

「おっ待たせ! いやー外は寒いねー」

 明日奈は「お邪魔します」と靴を脱いで部屋に上り込む。

「もう! ちょっとは落ち着いたらどうなの?」

「あははーごめんごめん」

「今、あったかいコーヒー淹れるから座って待ってて」

「ほーい」

 私は台所からカップを二つ準備してインスタントコーヒーの粉とお砂糖を入れてポットからお湯を注いだ。

 

「はい! 寒かったでしょう? これ飲んで温まろう」

「ありがとう」

 私もクッションの上に座って暖房を入れる。

「あのさーあたしさっき気になってる事があるんだけど聞いてもいい?」

「なに?」

「咲希さーそのネックレスどうしたの?」

「これ? これはー」

「めっちゃ綺麗じゃん! それアンタが買ったの?」

「違うよーこれはその」

「なによーあたしらの仲で隠し事なんて辞めてよね」

「……うん、これは貰ったものなんだ」

「なになに、詳しく聞かせて」

 私はネックレスをプレゼントされた経緯を明日奈に話す。

 

「へえーそうなんだ」

「まあ、元々は私が彼と一緒に水族館に行く約束だったんだよね」

「あの水族館チケット取れないのによく二人分用意できたわね」

「なんて言ったっけ? その彼」

「雅也君? 新堂雅也君」

「もしかしてその彼が中学の頃に咲希に告白したっていう」

「そうだけど…………」

「なにそれ! 昔好きだと言ってくれた相手と十年ぶりに再会するなんてドラマみたいじゃん」

「アンタにそのネックレスをプレゼントした新堂君に会ってみたくなっちゃった」

「もう! なんでそんなに嬉しそうなのさ」

「実は今日、彼のお見舞いに行ってきたの」

「お見舞い? どういう事」

 私はネックレスを探して風邪をひいてしまった雅也君の話を明日奈に聞かせてあげた。

 

「そのネックレス探すためにあんな寒い夜の中頑張ったんだ」

「うん、私のせいで雅也君風邪引いちゃったわけだからお見舞い行ってきた」

「咲希は彼とは友達なんだよね?」

「そうだけど」

「そっか、ただの友達の為にそこまでやるかなーしかもネックレスをプレゼントするなんてね」

 その日、明日奈はうちに泊まっていったんだけど私には雅也君の事を色々聞いて来た。

 今度会わせてほしいなんて無茶な事も言ってたけど…………。

 私は彼から貰ったネックレスを身につけて眠りについた。

 このネックレスの本当の意味を知るのは少し後の事だった。



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第13楽章 プロミス

 一月三十日(月)

 

 

 風邪もすっかり良くなっていつものように満員電車に窮屈さを感じながら出勤する。

 今日は篠宮さんに看病に来てくれたお礼を言わなくちゃいけないな。

 僕は電車を降りると普段とは違う道を通って会社に向かった。

 ふと前を見ると仲睦まじそうに歩くカップルに目がいった。

 いつか僕もああいう風に誰かと一緒に二人だけの時間を過ごす事になるのかな。

 僕の心の中にいつまでも残っている初恋の苦い思い出、それを忘れてしまえるような「恋」をすることができるんだろうか? そんな相手に巡り会えるんだろうか? 

 篠宮さんの言うように新しい「恋」を見つけるために行動していこう。

 一月の寒さは厳しいけれど少しずつ前に進もうと改めて決心した。

 

 

「おはよう」

 先に来ていた篠宮さんに挨拶してから仕事の予定を確認する。

 っと、その前に彼女にお礼を言わなくちゃいけないな。

 僕は篠宮さんに看病に来てくれた事への感謝の気持ちを伝えた。

 それからはいつも通りに仕事を進めたけど変に“意識”をしてしまったのかなかなか思うように捗らなかった、それでも何とか今日の分の仕事を終わらせて定時に帰れるように。

 

 

「それじゃあ失礼します」

 上司に報告を済ませてデスク周りを綺麗にする。

 篠宮さんはまだ作業をしていて僕は「お先」とだけ声をかけて会社を出た。

 

 

 もう仕事も終わったから真っ直ぐ帰ってもいいけどんだけど、どうしても彼女と話がしたいと思って篠宮さんが出て来るのを待った。

 さすがに外で長時間待ち続けるのはかなり辛い。

 風邪がまたぶり返さないといいんだけど……。

 

 

「新堂さん? 何してるんですか」

「ああいや、ちょっとね。篠宮さんが出て来るのを待ってたんだ」

「……私をですか?」

「うん、今から時間あるかな? 少し話をしたいんだ」

「はい、大丈夫です」

 今の時間は十八時前、まだ家に帰るのは早すぎる。

 この日はちょっとでも長い時間を彼女と過ごしたいと思っていた。

 僕は篠宮さんと一緒にこの間行ったコーヒーショップに入る。

 

「土曜は本当にありがとう。会社でもお礼を言ったんだけど、改めてちゃんと言っておきたかったんだ」

「いえいえそんなそんな。私、新堂さんが風邪ひいたって聞いたら心配になったんです」

「正直ありがたかったよ。あの時は体がキツくてしんどかったから」

「そうだったんですね、急に押しかけちゃって迷惑じゃなかったですか?」

「全然そんなことないよ」

 僕がそう言うと彼女の表情がパッと明るくなる。

 自然なその表情にこっちまで明るい気待ちになれた。

 

「あの後はどうしてたの?」

 注文したコーヒーを啜りながらずっと気になっていた事を篠宮さんに問いかけてみた。

 

「あの後?」

「ほら、君がうちから帰った後だよ。ちゃんと真っ直ぐ家に帰ったのかなって」

「そうですね、帰る前にあの日新堂さんの部屋にいた子と少し話をしました」

「それって咲希ちゃんの事? 何の話をしたの」

「先に声をかけられてそれで二人で話を浅倉さんが新堂さんの小学生の頃の同級生だって知りました」

「咲希ちゃん僕のことを何か言ってなかった?」

「特に何も言ってなかったですよ。浅倉さんも私と同じで新堂さんが心配になってマンションに行ったって」

「そっか」

 咲希ちゃんは僕が風邪を引いた理由を知っているはずなのにそれを篠宮さんには話してないみたいだ。

 という事は僕が彼女にネックレスをプレゼントしたのをこの子は知らないんだ。

 今は篠宮さんと一緒にいるんだから気を遣わせるのはやめておこう。

 僕はもっと聞きたいことがあったけれど、押し留めてすぐに別の話題を考えて彼女と過ごす時間を楽しんだ。

 

 

「それじゃあ今日は楽しかったよ」

「私もです。新堂さんといっぱいお話出来て良かった」

 ひらひらと手を振る彼女の顔はどこかぎこちなかった。

 

「もしかして何か言いたい事があるの」

 店を出てから何度も僕に話かけてくるから何か言おうとしていたのはわかっていた? 

「わかっちゃいました?」

 観念した顔をすると篠宮さん僕の方に寄って来て口を開いた。

「あのですね、今度はうちでご飯食べませんか?」

 ——それは彼女からの食事のお誘いだった。

 僕は一瞬固まってしまったけどすぐに元に戻る。

「僕が篠宮さんの家でご飯を?」

「はい……。無理だったら断っちゃってもいいですよ」

 嘘だ。彼女はこう言ってはいるものの断って欲しくないというのが伝わって来る。

「いつにしようか? 篠宮さんの家に行くの」

「あ! はい! 今週の土曜日なんてどうですか?」

「土曜ね、特に予定も無いからいいよ」

「それじゃあ土曜の朝に迎えに行きますね!」

「うん」

 僕は土曜に篠宮さんと会う約束をしてから家に帰る。

 改札を抜けて駅のホームの階段を降りる時に後ろを振り返ると彼女は最後まで見送ってくれていた。

 

 

「服、何着てこうかなあ」

 そんな事を考えながら空を見上げると珍しく星が見える。

 東京で見る空も悪く無いなと思う。



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第14楽章 少しずつちょっとずつ変わっていけたら

 *Point of view Minato*

 

 誰かに「恋」をする事はとても素敵なことだと思う。

 学生時代は恋愛になんて無関心で周りの友達の色恋話にはついて行けず、ずっと彼氏なんていなかった。

 その後は家から近い会社に就職して慌ただしい毎日を過ごていた。

 そんな私を変えてくれた人がいる。

 

 

 ——名前は新堂雅也さんと言って仕事先の先輩で私より少し年上の人。

 年上なのにどこか子どもっぽさがある人で、いつも笑顔で好印象。

 先輩達に聞いた話によると新堂さんは九州で数年働いてから東京こっちに上京してきたらしい。

 生まれも育ちも関東の私には九州がどんなところなのかイメージできない。

 最初は仕事に対する端的な会話を交わすようになったけど新堂さんはあまり他人と話すようなタイプじゃないなって感じた。

 話はするんだけど深く関わろうとはせずに距離を置いている。

 私も最初は苦手なひとだった……。

 だけど、私が仕事でミスをしてテンパっちゃった時に「大丈夫だから落ち着いて」と声を掛けてフォローしてくれた。

 新堂さんのおかげで何とかトラブルを乗り越えることができた私はお礼を言いにデスクに向かう。

 

「新堂さん、今お話できますか?」

 昼休みになって書類を綺麗にまとめている新堂さんに話かけた。

「ん? ああ、篠宮さんか、どうしたの?」

 書類を整理する手を止めて私の方へ体を向ける。

 

「この間の仕事でのトラブルからフォローありがとうございました」

「ああ、その事ね。随分と深刻な顔してるから大事な話かと身構えちゃったよ」

「えっ? 私そんな顔してました?」

「ちょっと怖い顔になってだよ」

 そう言って不器用に笑顔を見せた、このひともこんな表情するんだ。

 仕事をしている時には見せたことのない顔だ。

 

「お昼まだでしょ? 良かったら一緒にどう?」

「良いんですか?」

「もちろん。僕は何が買ってくるけど篠宮さんは食べるものある?」

「私はお弁当があります」

「自分で作ってるの? 偉いなー。僕も今度から弁当にしようかな。流石に毎日何か買ってるとお金勿体無いないし」

 お財布を持って「それじゃあ行ってくるよ」と立ち上がってビルの中に入っているコンビニへ。

 新堂さんが戻ってくるまで私はお弁当の包みだけを広げて待つことに。

 

 数分するとちょっと大きめなレジ袋を持って戻ってきた。

「待たせてごめんね」

 机の上に袋を置いて中からコンビニ弁当を取り出す。

 手作りのお弁当とは違っておかずやごはんの量が決まっているコンビニ弁当。

 私は全く食べないからわからないけどああいうのって美味しいのかな? 

「一つじゃ量が足りないから三つ買ってきた」

 袋からお弁当を出して揚げ物がたくさん入っている方を選んで割り箸を割った。

「これ飲んでいいよ。そのまま食べたら喉に詰まるからね」

 横に置いてあるお茶のペットボトルを一本、私に差し出す。

「ありがとうございます」

 静かな職場で食べるお昼ごはん、他の人は外に食べに出かけちゃってオフィス内は私と新堂さんの二人だけ。

「篠宮さんは外に食べに行ったりしないの?」

「はい」

「そっか、ずっとオフィスの中で仕事してると息苦しさを感じることあるからね。たまには外の空気を吸いに行くのも悪くないよ」

「そうですね」

 せっかく新堂さんが話しかけてくれたのに事務的な反応しかできない自分に軽く自己嫌悪。

 それから会話もせずに取り黙々と食べる。

「ごちそう様でした」

 先に食べ終えた私はお弁当箱を持った立ち上がる——新堂さんはまだ食べているから邪魔しないように。

「待って、これ食べていいよ」

 コンビニ弁当が入ってた袋から粒タイプのチョコレートを出す。

「ついでに買ったから篠宮さんにあげるよ」

「ありがとうございます!」

 チョコを受け取ると優しい笑みを返してくれた。

 案外優しいところあるんだー。なんて感動しながらもらったチョコを見てそう思った。

 

 

 少しずつ変わっていく、私の心、あの人のおかげで毎日が本当に楽しい。

 自分の中の気持ちに気がつくようになるのは少し後の話。



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第15楽章 気になる存在

 *Point of view Minato*

 

 

 恋をする事がなんなのかは私には分からなかった——社会人になってから代わり映えのない日を送っている。

 会社の人たちは良い人ばかりだと思うけどプライベートで付き合うまでの関係じゃない。

 人付き合いってそういうものじゃないかな? 仕事が終わって真っ直ぐ家に帰る事が多い、今のこの生活に私は納得してるのかしら……。

 

 

 でもね、そんな私には最近気になる人がいます。

 それは先輩の新堂さん。彼とはこの会社に入ってから知り合ったんだけど、たまに話すようになってからはいつも顔を合わせるのが楽しみになってた。

 先輩は結構色々な事を知っていて面白い。

 会話の内容はいつも違っていて話す度に新しい話題を振ってくる。

 時には聞き手側に回って私の悩みに対しても真剣に向き合ってくれた。

 新堂さんには私も自分の事を色々相談するようになった。

 ——だけど、あの人は私にもあまり自分の事は話そうとしないの。

 最初会った時に感じた事だけれど、新堂さんは周りと距離を置いている気がする。

 表向きは人当たりが良さそうだけど深い部分には決して振り込んでこない。

 どうしてなのか理由は聞けなかった。

 

 携帯を開いてぼんやりとアドレス帳を眺める——家族以外の連絡先が登録されていないこのスマホに初めて男の人の番号が登録された。

「新堂雅也」の名前を見て考える。

 

 実は私の方が新堂さんに連絡先を聞いたの。

 彼は最初戸惑った表情を見せたけれどすぐにいつも顔を戻ると「後でね」とだけ私に伝える。

 仕事が終わる時に今の時代だとあまり若い人が使っているのを見かけないフューチャーフォンを片手に持って私のデスクまでやってきた。

 

 

「ごめん。普段は携帯をロッカーにしまってるからさー」

 隣の椅子に座って携帯を操作しだす。

「ええっと、スマフォって赤外線通信とかってあるのかな?」

「この機種には無いです」

 新堂さんは「そっかー」と呟いて携帯とにらめっこする。

 そんな様子を見かねた私は自分のメールアドレスと電話番号を書いた紙を渡す。

 すると新堂さんは右手にメモを持ちながら左手で携帯を操作し始めた。

 新堂さんは確か右利きだったような気がするけど利き手じゃない方で操作するのってやりづらくないのかな。

 そんな事を考えていると入力を終えてメモを丸めてポケットにしまい込んだ。

 

「新堂さんはいつも左手で携帯の操作するんですね」

「えっ、何かおかしかった? 僕にはこれが普通なんだけど」

「右利きですよね? 逆の手だとやりづらくないですか?」

 私がそういうと「別にそんな事ないけどなー」と言って不思議そうな顔をして携帯を触る。

 

 後で教えてもらったんだけど新堂さんは高校生の頃から今の携帯を使っているとのこと。

 家族はスマフォに機種変更したけど自分はイマイチタイミングを逃してしまったらしい。

 

「まあ、普段は電話もあまりかかって来ないしネットも使わないから今の携帯でも充分かな」って言っていた。

 

 私達は駅までの道を一緒に歩く。

 そういえばいつの間か新堂さんと帰るのが当たり前のようになっていた。

 代わり映えのなかった日に少しずつだけど「変化」が生まれていた。

 

 新堂さんは私が駅の姿が見えなくなるまで見送ってくれる。

 その様子にどこか安心して足取りも軽やかに家に帰り着く。

 初めて連絡先の交換をしてから私は新堂さんにメールや電話をするようになった。

 夜の遅い時間でもちゃんと返事をしてくれる。

 私達の関係はちょっとずつだけど変わっていった。



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第16楽章 浮ついたままで

 湊は鼻歌を歌いながら土曜日の予定を考えていた。

 初めて雅也が篠宮家にやって来る、誘ったのは湊だけど彼女は今まで男の人を家に呼んだ事は無かった。

 

 

「それで、ちゃんと新堂さんは誘ったの?」

「うん、誘ったよ」

 湊の部屋には妹の夏帆がいて食事に誘ったのかを聞いてきた、内気な姉の恋を応援したいと考えた夏帆はまず家に雅也を呼んでみたら? と提案した、最初は遠慮していた湊も一歩踏み出す勇気を持ちたいと妹に打ち明けた。

 その日の夕飯の準備をしている母に雅也を家に呼びたい事を伝えた、ちょうどテレビを見ていた父は突然の娘の言葉に驚きリアクションを見せたけど、湊の真剣な想いに許可を出すことに。

 両親は娘に彼氏が出来ない事を心配していた、二十代の女の子なら恋愛に興味がある年頃なのに全くそういう話を聞かないから不安にも感じていた。

 湊は雅也の事を会社の先輩だと両親に伝えたけれど、どうもそれだけじゃない事を察した、幸い土曜日は二人共家にいる、食事をする時に改めて雅也を紹介しようと考える。

 母親と一緒に夕飯の準備する湊の様子をうんうんと頷きながら眺める父、篠宮家の家族仲は良好。

 

 

 夏帆ももう一度雅也に会えるのを楽しみにしてる、一緒に水族館に行った時に自分と波長の合う人だと感じた。

 姉の湊とは違って明るくて前向きな性格をしている夏帆は姉がいつも話していた相手に興味があった。

 小さい頃から自分よりも大人びていてワガママも言った事の無いしっかり者の姉が夏帆は大好きだ。

 たまに無理を言って困らせる事もあったけど、二人しかいない姉妹の間は絆で結ばれている。

 もちろん大好きな姉の選んだ相手ならその恋を応援してあげたい、だけど、その人が酷いひとなら許せない! 夏帆は新堂雅也という人がどういう人間なのか自分の目で確かめる必要があった。

 実際に会ってみた感想は思っていた人とは良い意味で違った。

 高校生の夏帆からしてみると父以外の男は騒がしくて子供っぽい印象を持っていた、同じ年のクラスの男子はうるさくていつまでも子供だったから。

 雅也は落ち着いた感じの人で、初対面の夏帆にも大人の態度で接してくれた。

 なによりも雅也と過ごしている姉の嬉しそうな表情を見る事ができたのは収穫あり、家族といる時にあんな顔はなかなか見れない。

 行きたかった水族館のチケットを譲ってくれた雅也はいい人だと思った。

 お姉ちゃんには幸せになって欲しいという夏帆の純粋な願いは湊に伝わっているかはわからない、だけど、篠宮姉妹には言葉にしなくてもお互い相手の気待ちが分かるのかもしれない、それが姉妹の絆だと思う。

 

 

 湊との約束をしてからの雅也は早く土曜にならないかなあと毎日考えていた、誰かの家で食事を取るなんて経験は今までに一度も無い、しかも相手は最近気になり始めた存在の湊であること、これからも彼女と良い関係を続けていきたいと思っていた。

 雅也の中で湊の存在はドンドン大きくなっていく、もうあの時みたいに失敗をしたくない。

 これまで恋をする事に臆病になっていた自分を変えたいと強く願う。

 東京で咲希と再会してから昔みたいに友達としていられる自分でいい、雅也が彼女に告白した事なんて咲希自身は覚えているわけないと。

 じゃあどうしてあんなネックレスをプレゼントしたんだろう? どこかで彼女への未練を断ち切らないといけなかったはずなのに……。

 頭では忘れなくちゃと思っていても雅也にはあの時の咲希の返事がいつまでも心に残っていた。

 ゆらゆら揺れる浮ついた気待ちのまま、これから先に起こる出来事を予感なんてできるはずはなかった。



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第17楽章 告白〜湊の想い〜

 二月四日(土)

 

 

 今日は篠宮家で食事をする約束の日、雅也は朝起きた時から落ち着きなくそわそわしている。

 母親の作った朝ご飯にも手をつけずに家を出る時間ばかりを気にしていた。

 職場で篠宮さんに会っても普段通りの会話もできなかった。

 一緒に水族館に行った日から彼女の事が気になり始めていた、この気持ちが恋なんだろうか? 僕は十年前のあの時から誰かを好きになる事に臆病になっていた気がする。

 これは咲希ちゃんを好きだと思った気持ちと同じなんだろうか? 

 心の中で自問自答する、中学生の頃の初恋と大人に成長してからの恋愛感情はちょっと違うような。

 考えれば考えるほど分からなくなる……。

 二月の空に問いかけても返事なんか返ってくるわけはなかった。

 

 

 ポケットに入れている携帯をぱかりと開いて時間の確認をした。

 八時三八分、待ち合わせの時間は九時だからまだ二十分弱ほどある、ウォークマンで好きな音楽を流して篠宮さんを待つ。

 昨日はあまり眠れずなかったから今朝は寝不足気味……。

 初めて女の子の家に行くんだから誰だって緊張すると思う。

 彼女いない歴=年齢。なんて言い出した人は上手いこと言うなあ。

 今までの雅也は女の子と遊ぶ機会も無く、恋愛とは無関係な生活を送っていた。

 それが今日は会社の同僚の子、それも最近気になり始めた異性から食事に誘われた訳だから落ち着かないのも納得できる。

 

 

 待ち合わせ時間が近くなったからイヤホンを耳から外して待っていると——

「新堂さん」

 僕を呼ぶ声にすぐに振り返ると篠宮さんが立っていた。

 ちょっとだけおしゃれした彼女はこの人混みの中でも分かるくらい魅力的だった。

 ナチュラルメイク? って言うのかな、飾らない感じがすごくいい、こうしてみると本当に可愛いと純粋にそう思う。

 湊からしてみたら普段と変わらないはずなのに雅也はドキドキとして胸の鼓動が治るのに少し時間がかかった。

 

 

 電車を降りて篠宮家に向かう二人の間に会話は無い、雅也はどう湊の事を褒めようと考えていた、結局何も言えないまま湊の家に着いてしまう。

 

 

「ちょっと上がって待っていて下さいね。私、着替えてきますから」

 玄関に取り残された雅也は取りあえず言われた通りにすることにした。

「お邪魔します」

 靴を揃えて湊の家に上がる、マンションに住んでる雅也は一軒家で暮らしている湊を羨ましく思った。

 都内で一戸建てに住むにはお金を持っていないとなかなかできないこと、篠宮家の間取りはわからないけど結構いい家だなという印象を持った。

 

「む、君は一体誰だね?」

 家の中を見ていると男の人に声をかけられる。

「あ、すみません、ご挨拶遅れました。僕は今日篠宮さんにお誘いを受けて来た新堂と言うものです」

「おお! それじゃあ君がそうか! ようこそ我が家へ」

 男の人は雅也とガッチリ握手すると柔らかな表情で部屋に案内する。

「母さん、お客様だよ、すぐにお茶の準備をして。あ、僕はお酒をね」

「はいはい、全く子どもみたいなんだから」

 キッチンの方から落ち着いた女性の声が聞こえる。

「あら、いらっしゃい、新堂さんかしら? お話はいつも湊に聞いてます、立ちっぱなしだと疲れるでしょう? どうぞ座って下さい」

 女性に促されて雅也はソファに腰を下ろした。

「自己紹介がまだだったね、僕は湊の父です。そしてあそこで料理を作っているのが僕の自慢のお嫁さんで湊の母親だよ」

「新堂雅也といいます、篠宮さんとは同じ会社で働いていて——」

「湊から君の事は聞いているよ、そうかー。あの子がなあ」

 湊の父は感慨深そうに雅也の顔を見る。

「ちょっと内気な所もあるが、どうかよろしく頼むよ」

 さっき玄関でした握手とは違うタイプの握手を交わす二人。

「あらあら、お父さんもう酔っ払っちゃったのかしら?」

「僕はまだ酒は飲んでないぞ! それより湊を何をしているんだ! 雅也君を待たせちゃダメじゃないか!」

 初めて会ったはずなのに湊の父は雅也をすっかり気に入ってしまった。

 それから数分も経たないうちに着替えを済ませた湊が降りてきた。

 普段着の彼女を見る機会なんて早々ない、雅也の前だからと派手な服を選ばずに家で着ている服で彼の前に現れる。

 

 湊父がお酒を飲み始めたので雅也も付き合う事に、そこまで頻繁に飲むタイプじゃないけど今日は特別な日だからいつもより飲むペースが早い。

 妹の夏帆も姉と母の料理を手伝う、湊父は雅也とスキンシップをしている、家族で過ごす事の暖かさを改めて感じた。

 早めの夕食には豪華な料理が並ぶ、誰も雅也は食べたことのないものばかりで味も絶品だった。

 最初は遠慮していたけど、たくさん食べてほしいと言われてご飯のおかわりを貰う。

 湊の母はその食べっぷりにうっとりして隣に座っている娘に何か耳打ちする。

 

 食事が終わった後は家族団欒、篠宮家の日常に雅也も加わる、湊との会話も弾み表情が豊かな彼女にいつもよりも多く話をしてしまう。

 

 結局、夜の十時頃まで篠宮家で過ごした、気をよくした湊の父は雅也に泊まっていくように勧めたけど今度来る機会があればそうさせてもらうと断ってひとまず帰る事に。

 

「今日はすごく楽しかったです!」

「僕もだよ、久しぶりに楽しい気分になれたよありがとう」

 靴を履いて篠宮家を後にする、ちょっと名残惜しい気もしたけどいつまでも長居しちゃいけない、お父さんは泊まっていっていいとは言ってくれたけど着替えも無いしね。

 

「新堂さんちょっと待って下さい。駅まで送って行きます」

「うん、ありがとう」

 湊は一旦上着を取りに部屋に戻る、二月の夜は寒い、風邪を引かないようにしないと。

 

 

 家から少し歩いて人気のない場所で彼女は足を止めた。

「篠宮さん、どうしたの?」

「あのっ! 私、今日は新堂さんに聞いてほしい事があるんです」

 いつもの篠宮さんならこんなに大きな声は出さない、何か大事な用があるんだろう。

 僕は彼女が言葉を発するまで待つ事にした。

「……あの、私、私はー」

 グッと拳を握りしめると大きな決断した表情を見せて口を開いた。

「私は新堂さんが好きです! ずっとずっと言いたかったんです! 私のこの想いを、でも、なかなか勇気が出なくて……だけど、今日伝えたいって」

「……好きです、新堂さんの事が」

 

 目の前にいる女の子は今にも泣き出しそうな顔をしている。

 今の僕はどんな顔をしているんだろう?

 勇気を出して告白する彼女の瞳を真っ直ぐ見つめると胸が熱くなる。

 そうだ、やっとわかったよ。

 これが「恋」なんだ、あの時から僕はずっとこの気持ちを忘れようとしていた。

 篠宮さんの傍に寄るとその体を自分の方へと抱き寄せた。

 

「ありがとう、篠宮さんの気持ち嬉しいよ」

 今はそれしか言えなかった、他に言葉が思いつかなかった、僕の胸の中にいる女の子を大切にしなくちゃいけないと。

 僕らは人の目になんて気にしないで抱き合った、二人でいるこの瞬間はまるで時間が止まっているかのようにゆっくり流れている。

 携帯の着信音が聞こえるけどそんなのはどうだっていい。

 今はこうして彼女の温もりを感じていたかった。あの時みたいにもう一度人好きになる事ができるんだろうか? 

 会社の後輩として接してきた年が近い女の子の存在が僕の中でどんどん大きくなっていくのが分かる。

 だけど、この時はまだこれから起こる出来事を予感するなんて出来なかった。

 外は凍えるほど冷たい風が吹いていたけれど、彼女と触れ合っているこの瞬間は暖かくてずっと離れたくないなとも思った。

 篠宮さんに告白された事で十年間仕舞い込んでいたはずの「恋」をしたいという感情がまた湧き上がってくるのだった。



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第18楽章 ネックレスの意味と気づいた気持ち

雅也にネックレスを贈られた意味が理解できなかった咲希は友人の明日奈に相談してみることに。
明日奈の言葉に今までの自分の想いと十年経ち、ようやくわかった本当に気持ち。
「恋」をするという初めての経験に彼女自身も胸の高鳴りが抑えきれずにいた。


 湊から告白をされたその日、雅也が携帯に着信があることに気づいたのは家に帰ってからだった。

 

 

 *

 

 

 咲希は友達の明日奈と一緒に過ごしていた、二人の会話の話題は雅也の事が中心だった。

 

「咲希、もっと新堂君の事を聞かせてよ!」

 

 部屋でゆっくりとくつろぐ明日奈は咲希の小学生の頃の同級生に興味津々、話そうにも彼の事をそんなに詳しいわけじゃない、子どもの頃はどちらかと言えば苦手なタイプ……。

 東京で“再会”してからはお互いの連絡先を交換してちょくちょく話すようにはなった。

 雅也からプレゼントされたネックレスを毎日身につけていた、自分には勿体ないくらい良い物でなんだか申し訳なくなってくる。

 

「どういう人なの? 新堂君ってさ」

「どういう人なんだろう……」

 

 明日奈の問いかけに彼がどんな人なのかすぐに答えることができなかった。

 

「そのネックレスを買ったお店の場所覚えてる? 今から行ってみようよ」

「今から? しょうがないなぁ」

 

 特に予定も無いから別にいいんだけどね、もう一度あのお店に行く事になるなんて思わなかった。

 

 

 品川駅で山手線外回り渋谷・新宿方面行きの電車に乗り込む、休日に関係なく電車の中は混んでいた、咲希はそんな状況にうんざりしつつスマホでニュースを見る。

 

 渋谷駅で降りて南改札から出て雅也と行ったアクセサリーショップに向かう。

 流石の人の多さに酔いそうになる、明日奈はウキウキとして歩いているけど咲希はそんな気分になれなかった。

 

「もう少しでお店が開くみたいだよ」

 

 朝の十時開店のアクセサリーショップに着いた咲希と明日奈は店が開くまで待った、十五分ほど待っていると店員がやってきて笑顔で挨拶をする、ニコニコと笑いながらドアのロックを解除すると店内に照明がついて明るくなった。

 二人は店に入って並べられたアクセサリーの一つひとつを見ていく、明日奈は気に入ったやつがあれば買うつもりらしいけど咲希は別に欲しいものはなかった。

 

「あら、お客様は以前お見えになられた方ですよね? 今日は彼氏さんとは一緒じゃないんですね」

 店内をぶらついていると若い女性店員が声をかけてきた。

 

「あ、いえ……。あの彼とは別にそんな関係じゃないですよ」

「そうなんですか? 一緒に来ていた男性の方があのネックレスを買って行ったのでてっきり恋人同士だと思っていました」

「このネックレスですよね?」

「まぁ! 身につけてらっしゃってるんですね! とても良くお似合いですよー」

 店員に褒められて咲希は照れて顔を赤くする。

 

「では、そのネックレスの意味はお聞きになっていますか?」

「……意味ですか?」

 意味なんてあるのかな? 雅也君は何も言ってなかったけれど。

 

「それは普通なら滅多に人に贈るようなものじゃないんです。お客様とご一緒に来ていた男性にはかいつまんでしか説明はしなかったのですが、そのネックレスは愛してる女性に男性がプレゼントする物なんですよ」

 

「散りばめられたダイヤが愛情の証でうちのお店でも特別に注文しないと入荷しない商品です、結婚する相手にこのネックレスを渡す人もいるそうで、それくらい深い愛情を示すものなんです」

 

 

 咲希は自分へプレゼントされたネックレスの意味を知った、愛する女性にしか贈られない特別なもの、受け取った相手への想い、そしてこのネックレスを必死に探し出した雅也の姿が思い浮かんでくる。

 どうしてだろう? 彼の事はなんとも思っていないはずなのに何でこんなに胸がキュンと締めつけられるのかわからなかった。

 アクセサリーショップを出てからの咲希はずっと何かを考えているようだった、そんな様子に気づいた明日奈は一旦落ち着く為にコーヒーショップに入る。

 

「あのお店結構いいものがたくさんあったよー。まあ今日は買わなかったけどね」

「……そう」

 明日奈の話に適当な相槌うって返す、咲希にはこの胸の中にはある気持ちの正体が何なんか理解出来ずにいた。

 

「あのね、ちょっと聞いてほしい事があるの」

 もしかしたら明日奈なら答えを知っているかもしれないから、店の外には雪がチラいていた。

 

 

 アクセサリーショップで店員さんに教えてもらった事を全部話す、明日奈は真剣な表情で聞いてくれた。

 

 

「まさかそのネックレスにそんな意味があったなんてねー」

 一息ついてコーヒーを啜る明日奈、咲希のカップにはまだ手のつけていないコーヒーと一緒に注文したスコーンが残っていた。

 

「私、分からないの……。雅也君がどうしてこのネックレスをプレゼントしてくれたのかが」

 

 何度考えてみても答えが見えて来なかった、それはまるで抜け出せない迷路に迷い込んでしまったみたい。

 

「咲希と知り合って四年以上になるけどあんたがそんなに悩んでいるとこなんて初めてみたよ」

 

 二人の間にはしばらく沈黙が続く——頼んでおいたコーヒーはすっかり冷めてしまっている。

 

「でも、新堂君は咲希がそのネックレスを無くした時に必死になって探してくれたんでしょう?」

「うん……」

 

 そのせいで雅也君は風邪をひいてしまった、ただの友達の為に彼はどうしてあそこまで真剣になれるんだろう。

 

「もうそれただの友達っていうんじゃないんじゃない? じゃないとそんなネックレスあんたにプレゼントしないって」

「どういうこと?」

「もう! 相変わらずこういう事には鈍いんだから、新堂君にとって咲希はただの友達じゃないってことよ。咲希自身も本当は分かってるんじゃないの?」

「分かってるって何を?」

「あんたが彼に『恋』をしてるって事よ」

 恋? 私が雅也君に? この感情がそうなの?

 ネックレスをプレゼントして貰ったあの時から彼の事を考えると胸が切なくて辛かった。

 今まで自覚が無かった、私はずっと雅也君に惹かれていたなんて——

 

「やだ、どうしよう、意識してきたらすごく体が熱くなってきちゃった」

 きっと顔も真っ赤になってるに違いない……。こんなところを明日奈に見られるなんて恥ずかしい。

 

「今になってようやく自分の気持ちに気がついた感じかー。咲希のそんな仕草見れるのはすごくレアだわ」

「もう! からかわないでよね」

「ごめんごめん、でも、あの咲希が恋をするなんてねー」

「私だって驚いてるんだよ? なんか明日奈の言ってことが分かる気がする」

 

 十年前にはありえなかった、私が雅也君に「恋」をするなんて、だけど、今なら分かる。

 私は彼の事が好き。

 考えるだけで苦しくなる……切なくなる、今すぐにも彼に会いたい、私の想いを伝えたい、ずっと一緒にいたい。

 恋愛になんて興味なかった。自分が誰かと恋愛をするなんてイメージが湧かなかった。

 雪はすっかり止んで晴れ間が見える空。

 私の恋も始まったばかり、まずはこの気持ちをあの人に──今度会った時に言おう。

 

 明日奈と別れた後はまっすぐ家に帰る、胸元には雅也君にプレゼントされたネックレスが輝いていた、それをキュッと握りしめて改めて自分の本当の想いを確認した。

 

 

「ちょっと緊張するかも……」

 スマホで彼の番号を呼び出して通話ボタンを押す──その前に深呼吸、雅也君は電話に出てくれるかな? 前は友達にかけるだけだったから何も緊張することはなかったけれど今は違う。

 私はしばらく通話ボタンを押せずにいた。

「よし!」

 勇気を出して雅也君に電話をかけた。

 

 

「出ない……」

 呼び出し音が聞こえるだけで彼は電話に出ない。タイミングが悪かったのかなあ、また後で電話してみようっと。

 カーテンを開けてみると星が綺麗に見える。明日は言えたらいいなあ、胸のドキドキが止まるまでしばらく時間がかかりそう。

 今日から私の「恋」が始まるのだった。



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第19楽章 すれ違う二人

 やっと自分の気持ちに気がつく事ができたの、私は雅也君の事が好き。

 まさか自分が恋をするなんて思いもしなかった——私は昔、彼が私を好きだと言ってくれたのを思い出す。

 あの頃の私はまだ恋愛をするって事を理解できてなかったのかも、高校の時は彼氏はいなくて毎日勉強ばかりしていた。

 周りが大学に進学する人ばかりだったから遊んでいる暇なんてなかった。

 中学の頃は人数が少なくて部活は強制だったけど、高校はそうじゃなくて部活をやらないのも自由。

 私は高校では弓道部に入って毎日練習をがんばっていた。大会に出場した経験もある。勉強と部活の両立が意外に大変で遅くまで練習した後にどこかに寄って遊ぶなんてこともしなかった。

 家に帰ったらまずはその日の授業の復習をする、学校から出されたたくさんの課題が終わる頃には深夜を迎えているなんていうのがしょっちゅう。

 まあ、そのおかげで希望する大学に通う事は出来たんだけど、私には学生時代が楽しいと思えるような出来事はほとんどなかった。

 

 

 なんだろう? こんなに胸が熱くなるものなの? 初めてこんな感情が湧いてくる、息が苦しくて辛い……。

 駅のホームで雅也君と十年ぶりに“再会”したあの日、彼は小中学時代とは全く違っていた。

 最初は私も雅也君ってわからなかった、それからは連絡先を交換して色々話すようになった、彼が私の為になかなか取れない水族館のチケットを準備して一緒に行くつもりだったこと、このネックレスを無くした時に雪の降る中必死に探し出してくれたこと、そしてネックレスをプレゼントしてくれた意味──

 ──咲希はもう一度スマホで雅也に電話をかけた、今すぐにでも声が聞きたかったから。

 

「……やっぱり出ない」

 

 この日に限っては二人の電波は全く繋がらない。

 ちょっと不安になりながらベッドに入って考える。

 雅也君って意外と女の子にモテるのかな……?

 二人で一緒に街を歩いてた時に彼は知らない女の子から声をかけられてた。

 だってあの雅也君だよ? 中学時代はモテない事を絵に描いたような男子で、仲のいいクラスメイトの女子もいなかったし、どちらかといえば嫌われていた印象が残ってる、私も苦手なタイプだった。

 

 好きだとわかって初めて気がついた、あの時の私は嫉妬してたんだ……。

 彼が他の女の子と話している事に——こんなに自分が嫉妬深いなんて知らなかったなぁ。

 付き合ってもいない相手にヤキモチを妬くなんて。

 眠ろうと目を閉じても雅也君の事を考えると眠れない。

 

「もう一回電話してみようかな」

 

 一人であれこれ悩んでもどうしたらいいのかわからない。

 ちゃんと私の気持ちを雅也君に伝えないと——胸元に輝くネックレス、特別な贈り物を簡単には外せなかった。

 

 

 *

 

 湊に告白された雅也は彼女を抱きしめた。

 十年間忘れなくちゃいけないとわかっていてもそれが出来なかった「初恋」の苦い思い出をようやく忘れられる、やっと一歩前に進むことが出来る。

 新しい「恋」に踏み出せるきっかけをくれた湊に雅也は感謝した。

 気持ちの整理を付けることを理由に告白の返事を待ってもらった。

 いつまでも待ち続けると言う湊に早めに決断しないといけないと思った。

 雅也の中で湊の存在が日に日に大きくなる。篠宮家での食事を終えて家に帰ってからは何度も自分の湊への気持ちを確認した。

 

「篠宮さんにちゃんと返事しないとな」

 

 あの時の告白が何度もフラッシュバックする、それはまるでゲームのワンシーン、雅也の心は湊の方へぐっと惹きつけられていくのだった。



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第20楽章 恋慕

 恋をした事がない咲希は今の気持ちが一瞬の心の迷いなんじゃないかと思った。

 雅也を好きになったきっかけが自分がよく読む恋愛小説みたいな展開じゃない、だからまだ信じられなかった。

 

 *

 

 悩む度に胸が張り裂けそうになる、あの日、肩まで雪の積もった彼が私にこのネックレスを届けてくれた時の事を思い出す。

 散りばめられたダイヤが愛情の証でお店でも特別に注文しないと手に入らないものだって教えてもらった。

 そんな特別な贈り物を貰えた私は雅也君にとってどういう存在なんだろう? 

 東京の街で十年ぶりに“再会”してから私たちは昔みたいに友達として接してきた。

 ついこの間までそうだったし、これからもそれは変わらないと思ってた。

 だけど、今は違う——雅也君とは友達以上の仲になりたい。

 こんなに悩むなんて思わなかった……。

 私はもう一度電話をかけるために真っ暗な部屋で少しだけ差し込む明かりを頼りにスマホを探した。

 

 

「今度こそ出てくれるかな?」

 彼に電話をかけると決めたのに急に不安になる……。

 さっきかけた時は出てくれなかった、きっとタイミングが悪かったんだと思う。

 咲希は雅也の番号を呼び出して通話ボタンをタップした。

 

 

 

 **

 

 

「……好きです、新堂さんの事が」

 

 

 帰りの電車の中で篠宮さんからの告白を何度も思い出していた。

 生まれて初めて女の子に好きだと言われたこと、それが僕が最近気になり始めた相手からだった。

 篠宮さんを抱きしめた時、僕は彼女とずっと一緒にいたかった。

 咲希ちゃんに振られたあの日以来「恋」をすることに消極的になってしまった自分。

 彼女も少しでも僕といたいと言ってくれた、こんな気持ちになるのは久しぶりだ。

 十年前に終わってしまった僕の初恋——あれから咲希ちゃんともう一度会えた、子どもの頃よりは仲良くなれたんだろう? 

 

 周りの人はスマホをいじりながら歩いてる、僕の時代に合わないフューチャーフォンはこの風景には馴染まない。

 そんな風に思いながら品川駅からホームへ降りて電車に乗り込んだ

 いつも億劫に感じる電車での移動もその日ばかりは気にならなかった。

 

 

 ***

 

 

「やっぱり出ない……」

 今の時間は二十三時過ぎ、もしかしたら雅也君はもう寝ちゃってるのかな? 

 すれ違い、合わない時間。携帯があるのに連絡が取れない様子はまるで昔のドラマを見ているような感覚。

 咲希は不安な気持ちが募ってきた、「恋」を自覚する前は相手の事なんて考えずにいつだって電話できた、だけど今は雅也に嫌われるんじゃないかと思うとあまりしつこくはできなかった。

 

 前に雅也からもらった告白の手紙は返事を書いてから捨ててしまった、書いていた内容も思い出せない。

 

「酷いことしたなあ……」

 

 酷い自己嫌悪に陥る。私を好きだと言ってくれた人に最低な返事をした、その事もついこの間まで義之君に言われるまで忘れたんだもん。

 もしかして私って酷い女なのかな? 

 ますます自分が嫌になってくる……。

 こんな私を雅也君はもう一度好きになってくれるのかな? 

 

 彼が風邪を引いた時に看病に行ったんだけどそこには私以外にも女の子がいた、篠宮さんっていうその子は雅也君の会社の後輩で私と同じように彼の様子を見に来たらしい。

 あの時は言えなかったけど、篠宮さんはすごく可愛い女の子だと感じた。

 年下なのに女の子らしくて一緒に並んでいると私の女子力の低さが目立っちゃうくらい。

 

 十年経ってようやく彼への想いに気づいた私はまだ恋愛に関しては何もわからないの……。

 次に雅也君に会う時はどういう顔をすればいいの? 

 鏡に映る自分の顔を見る、もっと可愛い顔に生まれていれば苦労する事なかったのになぁ、彼好みの女の子になりたい。

 雅也君の好きなタイプってどういう子なんだろう? 聞いてみたいけどその勇気が私にあるのかな。

 プレゼントされたネックレスは私にはもったいないくらい、とっても素敵だと感じる。

 恋愛ってこんなに悩むものなんだー。自分がどんどん変わっていくのがわかる。

 初めての体験にドキドキするけど不安な気持ちもある。

 あの時の雅也君も今みたいに悩んだのかな? 

 

 十年って時間は私達の間に大きな壁を作っている気がする。

 でも、私の恋心はまだ始まって数日も経っていない。

 こんな気持ちになるならしばらく雅也君には会わない方がいいのかな、だけど、その感情とは裏腹に今すぐにも彼に会いたいっていう気持ちもある。

 近いうちに自分の想いを雅也君に伝えようと思う。だけどそれには勇気がいるけどね。

 

 咲希が雅也への告白を決めた頃、雅也自身は湊に対して返事をするきっかけを作ろうとしていた。



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introduction chapter
動き始めた恋


 家に帰り着く頃には時刻は〇時になろうとしていた。

 今日あった出来事が夢みたいに思えた、篠宮さんに好きだと告白されて十年前のあの時から止まった僕の時計は時間を刻み始めた。

 玄関で靴を脱いで上着を洗濯籠に放り込んでフローリングの床を歩く、母さんと兄ちゃんの部屋の明かりは消えているからもう寝てるんだろう。

 僕は自分の部屋には入るとすぐにベッドに倒れこんだ、ポケットに入れてた携帯を充電機に繋いで寝転ぶ。

 

 この時の雅也は帰り着いた疲れか携帯に着信がある事なんて気づきもせずに眠りについた。

 咲希は雅也が電話に出ないことに不安感を抱いて湊はやっと自分の気持ちを雅也に伝えたこと、そして二人で抱き合った事を思い出していた。

 湊の家族は雅也をすっかり気に入り次に家に呼ぶ日を相談していた。

 それぞれの時間はゆっくりと進み始める——冬はまだ続くけどこの物語は始まったばかりだった。

 

 

 久しぶりに夢を見た。前に見た夢と同じだけど今回のは少しだけ内容が違っていた。

 相変わらず僕は身に覚えのない場所に立っている。

 そこでは「誰か」わからない女の子同士が言い争いをしていた。

 ふたりはそれぞれ真剣な表情でお互いに自分の気持ちをぶつけていた。

 何を言っているのか僕には聞こえない、ひとりの女の子がもう片方に平手打ちをした。

 平手打ちをされた女の子は涙目になりながら相手を睨む。

 そして二人は言い争いを続ける、って言うところで夢は終わる。

 どうしてそんな夢を見るんだろう? あの二人の女の子は誰なのか? 夢の中では顔はぼやけていてはっきりわからない。

 なんだか気持ちの良い感じじゃない、さっぱりしない目覚めが僕を待っていた。

 

 

 二月五日(日)

 

 目が覚めてから携帯を充電機から抜いてメールの送受信ボタンを押した。

 一通も届いていない事を確認して壁紙に戻ると着信履歴が表示されていた。

 昨日の夜に何件かの電話があったみたいで僕はかけてきた相手の番号を確認した。

「浅倉咲希」

 

 咲希ちゃん? 最後の着信は昨日の二十三時過ぎか……。

 その時はちょうど帰りの電車に乗っていた時間で携帯はマナーモードにしてたから着信に気づかなかった、僕が家に帰り着く数分前にも着信があった。

「何の用だったんだろう」

 咲希ちゃんからの電話の内容が気になった後で僕からかけて聞いてみようかな、そんな事を考えていると携帯が鳴る。

 僕は慌てて通話ボタンを押して電話に出た。

 

「もしもし?」

「もしもし雅也君。僕だよ義之」

「義之君、どうしたの?」

「いやー最近話せてなかったからね、様子が気になって電話したんだ。今話せるかい?」

「大丈夫だよ。特に予定もなかったから」

「そうなんだ、けどもう十一時過ぎだからそろそろお腹空いて来る頃だよね」

「えっ……? 十一時? マジで?」

 僕は枕元に置いてあるデジタル時計で時間を確認すると——ちょうど11:26分になったばかりだった。

 

「ついさっきまで寝てたよ。もうこんな時間だったとは……」

「雅也君が遅く起きるなんて珍しいね。何かあったの?」

「いや、特にはー」

 僕はそう言って言葉を飲み込んだけど義之君には教えておいてもいいかと思って口を開いた。

「あのさ、本当は昨日ちょっと色々あったんだけど聞いてくれるかい?」

 僕は昨日篠宮さんに告白された事を義之君に話した。

 彼は最初は驚いていたけど「おめでとう」と僕を祝福してくれた。

 それからは夕方になるまで義之君と話してから電話を切った。

 結局咲希ちゃんに電話をかけ直す事をすっかり忘れてしまう。

 

 

 *Point of view Minato*

 

 

 やっと言えた。私は昨日ずっと好きだった人に告白した。

 その人は会社の先輩で始めはなんとも思わなかったんだけど、あの人の見せたちょっと他の人とは違う一面を見れた事がきっかけに意識し始めた。

 いつも会社で顔を合わせるうちにどんどん仲良くなった。妹の夏帆と一緒に水族館へ行った事は大切な思い出。

 帰りも同じになって駅で別れるようになってから私は彼と離れることが寂しいと感じるように。

 毎日会社で会えるのにバカみたいだけど……。一秒でも長く新堂さんと一緒にいたい。

 恋をするって本当に素敵だと思うの。だってそうじゃない? 好きな人のためになら自分も変わろうと思えるんだから。

 内気な自分を少しでも変えたくて——新堂さんに好きになって貰えるような女の子になりたい。

 その為に努力してきたつもり、私は昨日の事が夢みたいに感じてまだ信じられない。

 

 

 今日は気分転換の為に街に買い物に来てる、たまにはこうやってひとりの時間を過ごすのも悪くないなって思う。

 家にいるのが嫌じゃないんだけど外で目一杯羽を広げたい時もあるの。

 ショッピングを楽しんで帰る途中——

 

「あなたもしかして篠宮さん?」

「……えっ?」

 ——誰かに呼び止められたから後ろを振り返る。

 

「やっぱり篠宮さんだ! こんなところで何してるの」

「浅倉さん? 私はお買い物をしてたところなんです」

「そうだったんだ、なら呼び止めちゃダメだったよね」

「いえ……今から帰るところでしたから別に大丈夫ですよ」

「そうなんだ、ねえ、それなら少しだけ話していかない?」

 私は浅倉さんと二人で近くの公園のベンチに座った。

 

「寒いよねー流石二月ってところかな」

「……そうですね」

 浅倉さんとは新堂さんが熱を出して看病に行った時に知り合った。

 新堂さんの初恋の相手——その人が今私の目の前にいる。

 彼女が綺麗なショートヘアの髪をかきあげる仕草をすると胸元に輝くネックレスに気がついた。

「ああこれ? これはね、最近プレゼントされたんだー」

 嬉しそうに教えてくれる浅倉さんの顔はちょっと火照っているのがわかった。

 

「あの、浅倉さんに話したい事があるんです」

「私に? なになにー」

 

「私、ずっと好きだった人に告白したんです」

「へぇー頑張ったんだね! 篠宮さんが好きになる人ならきっと素敵な人なんだろうなぁ」

「はい! とっても素敵な人なんです。私その人の事が大好きです」

「あなたがそこまで言う相手かー良い人に出会えて良かったわね」

「ええ、本当にそう思います」

 浅倉さんは私の恋を応援すると言ってくれた、その言葉に私はホッとした。

 もしも浅倉さんが新堂さんの事が好きだったらどうしようっていう邪な考えがあったから。

 

「実はね、私も最近好きな人ができたの」

「そうなんですか!」

「うん! どうして今まで気づかなかったんだろうって思った。まあ、私の初恋はまだ始まったばかりだけどね」

 照れくさそうにはみかむ浅倉さんは恋する女子——私も同じだから気持ちはすごく共感できる。

 

 

「だからね、私、その人に告白しようと思うんだ。篠宮さんの方が先に告白したんだよね? 恋愛初心者の私に良いアドバイスをご教示ください」

「そんなアドバイスできるほどじゃないですよ……。でも、私も浅倉さんの気持ちがすごく分かりますから私で良かったら力になりますよ」

「ありがとう!」

「やっぱり告白するなら直接伝えた方がいいかも、二人きりになってから言うんです」

「ふむふむ」

「自分の気持ちに正直になって伝えれば良いです。あ、でも、これでアドバイスになってるかなぁ」

「大丈夫、篠宮さんの言いたい事ちゃんとわかるから」

「良かったです。自分がその人の事がどれだけ好きなのかっていう事を言葉で表せばいいと思います」

「そっかーうん、今日は篠宮さんと話せて本当に良かったわ」

「そう言ってもらえたなら私も安心します」

「私、勇気を出して告白する。初めての恋だもん! 後悔したくないしさ」

「それがいいと思います」

「うん、今日はありがとうね! 私、篠宮さんの恋も応援してるからお互い頑張りましょう」

「はい」

「それじゃあね」

 

 

 私は浅倉さんと別れてからは真っ直ぐ家に帰った。

 浅倉さんにも好きな人ができたんだ、どんな人なんだろう? 

 あの綺麗なネックレスをプレゼントした相手なのかな? 

 私達はそれぞれの「恋」に進んでいく。

 この時の私はその後に起こる出来事を全く予感する事なんて無かった。



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変わっていく二人の関係

 二月五日(月)

 

 

 今朝も電車の混み具合は相変わらずで時間を遅らせて乗り込んだのに人が多い。

 僕は周りの人に押されながら車内の奥まで押しやられる。

 満員電車が嫌でいつも家を出る時間を変えているんだけどあまり効果はない。

 荷物が少し当たったくらいで怒り出すような人がいないのは有難い事だけど……。

 今日会社に行ったら篠宮さんと会うんだろうな。

 ——僕は彼女が告白してくれた時の事を思い出した。

 初めての体験に胸がドキドキして止まらなかった。そうだ、十年もの間僕が忘れていた感情、もう一度恋を始めたい。篠宮さんとならもしかしたら……。

 告白の返事はしっかりと自分の言葉で伝えようと思う。

 一方、雅也の携帯には昨日咲希からの着信履歴が残ったままだった。

 

 

「おはようございます」

 同僚に挨拶をして自分のデスクへ向かう。

 ——途中、先に来ていた篠宮さんと目が合った。

 普段なら目を逸らしてしまいそうになるんだけど今日はちゃんと彼女の目を見れる。

 口元を緩め自然な笑顔を見せてくれた後輩の女の子に僕も視線で応えた。何気ない朝の風景なのに自分でもすごくいいなって思う。

 篠宮さんに元気を貰えた僕はいつもより張り切って仕事に取り組んだ。

 

 

「お疲れ様でした」

 今日の分の仕事を終えて一息つく、デスクを軽く掃除して帰り支度を整える。

 ふと篠宮さんの様子を見ると彼女も僕と同じように帰り支度を始めていた。

 

「篠宮さん、今日は一緒に帰る?」

 僕が声をかけると彼女は数秒考えてから「はい」と返事を返してくれた。

 篠宮さんの帰り支度が終わるまで自分のデスクで待つことにした、今日の僕はなんだかそわそわして落ち着かない。

 

 

 帰り道の二人の間に会話はない。普段なら何か話すんだけど今日の僕らはなんだかぎこちない……。

 僕は篠宮さんの顔を真っ直ぐに見ることができない、隣を歩いてる彼女の顔が赤くなっている。

 

「この間はありがとね、楽しい食事ができたよ」

「……あ、いえ、私も新堂さんが来てくれて嬉しかったです」

 会話はそれで終わってしまった、もっと長く篠宮さんと一緒にいたい。

 こんな想いになるのはあの時以来だ、いや、あの時以上かもしれない。

 

「あのさ、この前の告白の事なんだけどね」

 僕は一旦歩みを止めて深呼吸してから篠宮さんの方へ向き直る。

 ——近い距離で改めて見ると彼女は本当に可愛い女の子だと感じた。

 自分の顔も赤くなっているのがわかる。

 

「告白の返事なんだけどね、もうちょっと待ってもらえるかな? もう少しで自分の気持ちに区切りがつきそうだから」

「私はずっと待ってますから」

 

 

 今の気持ちが好きっていう感情なのか改めて考えてみる必要がある。

 これが僕が「恋」をできる最後のチャンスかもしれないから慎重にならないと。

 

「あの、私からもいいですか?」

「何かな?」

 篠宮さんは手を胸の前でグッと握って意を決したみたいに声を出した。

 

「名前、私の事は名前で呼んでくれませんか? 私、新堂さんとの関係を変えたいんです! だから私の事は名前で呼んで下さい」

 彼女の普段とは違った雰囲気に僕は驚きを隠せなかった。

 篠宮さんは大きな声を出すタイプじゃないしこんなに真剣なのは初めてみた。

 

「わかった。ちゃんと名前で呼ぶよ。──湊ちゃん、これでいいかな」

「はい! あの、私も新堂さんを名前で呼んでいいですか?」

「もちろん!」

「それじゃあ——雅也さん」

 湊ちゃんに自分の名前を呼ばれた瞬間すごく心地良かった。

 目の前にいる女の子が会社の後輩から僕にとって特別な存在へと変わっていくのがわかる。

 もう一度彼女への想いを考えなくちゃいけない。

 

「それじゃあ湊ちゃんまた明日ね」

「はい、また明日。雅也さんも気をつけて帰って下さいね」

 僕らはまるで付き合いたての恋人みたいにお互いの名前を何度も呼びあった。

 手を振ってくれた湊ちゃんに僕も手を振り返して応える。

 離れたくない……。ずっと側にいてほしい、だけどそんなワガママを言って彼女を困らせるわけにはいかない。

 自分の事を好きだと言ってくれた女の子、もう一度僕に「恋」をするきっかけをくれた子。

 湊ちゃんの姿が見えなくなってからも僕はしばらくその場を離れることができなかった

 時刻は十九時前、改札口は相変わらずの混み具合だった。

 

 *

 

「ん? 携帯が鳴ってる」

 ポケットに入れてある携帯からお馴染みのゲームのBGMが聞こえてきた。僕は慌てて携帯を開いて通話ボタンを押して電話に出る。

 

「もしもし?」

 

「もしもし雅也君? 咲希です」

「咲希ちゃん? どうしたの」

「うん、今時間あるかな?」

「大丈夫だよ」

 僕は携帯を左手に持ち変えて耳に当てた。

「ねえ、今から会えない?」

「今から? また急だね」

「無理ならいいけど」

「わかった、いいよ。それでどこで待ち合わせする?」

「私の部屋まで来てくれる? 前に来たことあったよね」

「了解」

 前に咲希ちゃんの住んでるマンションへ行った時は彼女が僕のプレゼントしたネックレスを無くしちゃってそれを届けに行った。

 雪の降る中必死に探したのを思い出す。

 あの時、彼女は部屋の中に上がるように言ってくれたけれど僕が遠慮した。

 改札口から引き返して駅を出る 、咲希ちゃんの住んでるマンションはここから歩いて十五分はかかる、ジーンズのポケットに手を入れて来た道を引き返した。

 

 

「確か七○五号室だったよな」

 マンションのエントランスにあるインターホンで七〇五号室の部屋番号を入力して呼出ボタンを押した。

 すぐに自動ドアのロックが開いて僕はエレベーターに乗って七階へ。

 ——廊下を進んで咲希ちゃんの部屋の前に到着した、乱れた服装を整えてからインターホンを押す。

 

 ドアの前で待っていると一分も経たないうちに扉が開く。

 

「寒かったでしょ? さあ、中に入って」

 僕は咲希ちゃんに促されて部屋の中に入ったけど靴を脱ぐのに戸惑ってしまう。

 

「どうしたの?」

「本当に中に入っていいの?」

「うん」

 緊張する……。一旦心を落ち着かせないと! 深呼吸して気持ちを切り替えてから。

 

「お邪魔します」

 ——靴を揃えて咲希ちゃんの部屋に上がる。女の子の部屋に入るなんて経験はしたことがない。

 

「座ってて、今ココア入れるから」

 

 あまり女の子が部屋をジロジロと見るべきではないんだけど、どうも落ち着かない僕はキョロキョロと辺りを見回す。

 咲希ちゃんの部屋は一人暮らしなのがわかるくらいものが少ない。

 そして女の子の部屋はすごくいい匂いがする。

 彼女はいつもこの空間で生活してるんだな。

 ちょっと小さめの棚にはカーテンがかけられている、多分人に見られたくないものが閉まってあるんだろう。

 本が好きな咲希ちゃんは大人になっても読書を続けているんだろうなあ。趣味の少ない僕も見習わなくちゃ。

 カーペットに胡座をかいて座る僕は背筋を伸ばして姿勢を正した。

 

「お待たせ」

 二人分のマグカップと砂糖の入った瓶を机の上に並べる。

 

「お湯じゃなくてホットミルクから作ったから美味しいと思う。お砂糖は必要なら入れてね」

 

 自分の前に置かれた茶色の液体の入ったカップを持って口に運ぶ。

 甘くてコクのある味が口一杯に広がってくる、砂糖を入れなくても十分に美味しい。

 冷え切った体が温まっていくのがわかる。

 ちらっと彼女に視線を向けると胸元には僕がプレゼントしたネックレスが綺麗に輝いていた。

 身に着けてくれているんだと思うと嬉しくなる。ネックレスはすごく似合っていて街で歩いていたら声をかけない男はいないと思う。

 

「どうしたの? 私の方じっと見てるけど」

「ああいや、そんな深い意味は無くてー。そのネックレスちゃんと着けてくれてるんだなって思って」

 まだネックレスの意味は教えていないんだけど大切にしてくれてるならプレゼントした甲斐があった。

 

「それでさ、僕を部屋に呼んだのには何か理由があるの?」

「えっ、それはー」

 そもそも理由もなく彼女が僕に電話してくる訳もないし、ましてや自分の部屋に上げるなんて事はしないと思う。

 

「私は二人きりで話したいなぁって思ったんだけど、ダメだった?」

「そうなんだ、急に咲希ちゃんの家に呼ばれたから何かあるんじゃないかと思ったんだよね」

「迷惑だった?」

 上目遣いで見つめる彼女の視線から目を逸らせない僕は数秒見つめ合う様な形になった。

 

「ごめん。女の子の部屋に上がった事なんて今まで経験したことがなかったから今少しだけドキドキしてるんだ」

 今の自分の気持ちを咲希ちゃんに伝えてみる、彼女はどうなんだろう? 男友達を部屋に呼んだりするんだろうか。

 

「私も男の子を部屋に呼んだのは雅也君が初めてだよ」

「えっ……そうなんだ」

「うん、大学時代の友達はちょくちょく来るんだけどその子は女の子だから」

「意外だった、咲希ちゃんならもう彼氏がいてさー部屋に上げた事あると思ってた」

「私、彼氏なんていないよ。恋愛なんて興味無かったから。大学は女子大だったし出会いのきっかけなんてないよ」

「そっかー。僕は一人で出かけるとたまに女の子に声をかけられる事あるけど、ほら、この間咲希ちゃんと一緒に出かけた時だって」

「雅也君はどうなの?」

「どうって何が?」

「もう! 何がじゃないでしょ! 雅也君は彼女とかはいるの?」

「へ? 僕はいないけど」

 咲希ちゃんは「いないんだ」と小さな声で呟くように言った。

 どうしてそんな事を聞くのか僕にはわからない。

 それからは二人とも沈黙してしまう、彼女もどこか不自然な感じだ。

 

「今日はもう帰るよ。咲希ちゃんも何か変な感じだし、僕がいたらゆっくり休めないよね」

 沈黙から抜け出したくて僕が立ち上がって玄関へ向かうと、

 

「待って! 雅也君」

 咲希ちゃんは僕の腕を掴んで引き止めた、女の子とは思えないほど強い力で引っ張る。

「お願い! 帰らないで」

「咲希ちゃん?」

「お願い、側にいて?」

 彼女が落ち着くまで僕は帰らないように約束した、あんな強引に引き止められるなんて思わなかった。

 

「咲希ちゃんが落ち着くまでは帰らないって言ったけど明日も仕事だからあまり長くはいられないよ」

「嫌、帰っちゃダメ」

 駄々をこねる子どもみたいに目を潤ませて訴える、その仕草に僕は何も言えなくなってしまった。

 

 

「後で下着とか買って来るから脱いだ服は洗濯機に入れておいてね」

 咲希ちゃんは僕が帰らないように色々気を回している、彼女が買い物に行っている間、僕は風呂に入って疲れを取るように言われた。

 一人用の脱衣所で服を脱いで洗濯機に入れようと蓋を開けると中にある彼女の下着に目が行く。

 まだ洗濯されていない咲希ちゃんの下着。

 ——僕はつばを飲み込んだ。結局洗濯機にじゃなく洗濯籠に脱いだ服を入れて風呂に入る。

 

 疲れが一気に取れていく、湯船に浸かって考える。

 咲希ちゃんが僕を呼んだのはただ二人きりで話をしたいだけなのに帰らせてもらえない。

 彼女が落ち着くまでは帰らないつもりだけど仕事もあるから早く帰りたいんだけどなあ。

 

「風呂ご馳走さまでした。次いいよ」

「うん、それじゃあ私も入ってくるね」

 

 咲希ちゃんが風呂から上がったら帰るように伝えよう。黙って帰る事も出来たんだけどそんな事したら多分泣いて大変な事態になりそうだだから。

 

「気持ち良かったー」

 風呂から上がった彼女は上機嫌。よし、これなら大丈夫そうだ。

 

「あのさ、そろそろ僕帰るよ。僕が脱いだ服は捨ててもいいから」

 玄関へ向かうかと立ち上がろうとした瞬間。

 ——咲希ちゃんは体を密着させてそのまま僕を押し倒す。

 

「ちょっ、ちょっと!」

「帰っちゃいや……」

「だけど明日も仕事があるからその……」

 咲希ちゃんは体を重ねるように僕の顔に自分の顔を近づけた、押しつけられた胸のむにゅりとした感触を感じる。

 キスでもしそうなほど近い距離まで接近してお互いの体を密着させている状況。

 胸がドキドキして動悸が激しくなる、僕はなんとか理性を保っていた。

 結局その日は咲希ちゃんの部屋に泊まる事になって後から家族に友達のところに泊まるとだけメールを送った。

 

 一つしかないベッドに二人で寝ることになった、僕は床に寝るって言ったんだけど咲希ちゃんが聞いてくれなかった。

 

「じゃあ電気消すね」

 部屋の明かりが消えるとあっという間に闇に包まれる。僕は壁側に体を向けてできる限り彼女から離れて寝ようとする。

 すると咲希ちゃんが手を握ってきた、そして後ろから抱きしめるように体を密着させる、その感触に興奮して目が冴えてしまう。

 

「あのさ、咲希ちゃん。その姿勢きつくない?」

「全然きつくないよ」

 そう言ってもっと密着させてきた。

 ——彼女の大きな胸が押しつけられる。握られた手にも力が入って僕はドクンドクンと心臓の鼓動を感じる。

 僕の胸の高鳴りが彼女に伝わっていやしないか気になる。

 とにかく目を閉じていると僕の耳に咲希ちゃんの吐息がかかる。

 

「……大好き」

 耳元で囁かれた言葉はまるで寝言みたいで僕は彼女の様子を見るとそのままの姿勢で寝息を立てて眠っている。

 こんな状況で眠れるわけがなかった。一睡もできずに朝を迎える、僕の手は咲希ちゃんに握られたままだった。



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言葉にできない想い

 二月六日(火)

 

 

 昨日は一睡も出来ずに朝まで起きていた僕の今の調子は最悪だ。

 これから仕事に行かなくちゃいけないのに……。

 ベッドから体を起こそうとしたけど咲希ちゃんにガッチリと掴まれていて身動きが取れない。

 すうすうと寝息をたてる彼女を起こさないように体をあまり動かさないようにした。

 

 女の子と一夜を過ごした。

 ——隣で寝ている子は僕の初恋の相手。だけど、それはもう十年前に終わってしまった。

 正直咲希ちゃんが何を考えているのかわからない。僕らはただの友達、それは彼女自身が望んだことなのに。

 だから僕たちはそれ以上の関係になる事なんてあり得ないんだから。

 

「……ん」

 掴まれていた腕の力がすーっと抜けていく、僕はすぐに彼女から離れてベッドから這い出た。

 

「雅也君? 帰っちゃうの?」

「起こしちゃった? 今日は仕事があるから僕は帰らせてもらうよ」

「ねえ、お仕事終わったら帰って来る?」

「ここに戻って来るって約束はできない。一旦家に戻らないといけないから、咲希ちゃんだってこれから仕事だよね? 早めに支度した方がいいよ」

 起きたばかりで毛布を掛けたまま僕と会話する彼女に別れを言って玄関に。

 ——僕が来た時から何も変化がないのはこの場所だけだ。

 昨日みたいに帰ってほしくないとワガママは言わずにすんなり送り出してくれた。

 僕は彼女のマンションを後にして駅まで歩いた。

 朝帰りのとこを誰かに見られるとまずい……。

 一回家に戻って着替えてこようかな。出勤まではまだ時間に余裕がある、時刻はちょうど五時半を過ぎた頃だった。

 

 

 *

 

 

 〈結局言えなかった〉

 

 雅也君が帰った部屋の中をぼんやりと眺めながら昨日のことを考えた。

 告白するつもりだったのに結局私は彼に気持ちを伝えることができなかった。

 一つわかったのは雅也君に彼女がいないって事──一緒のベッドで寝たことを思い出すと顔がかーっと赤くなる、我ながら大胆な事しちゃったんだなって。

 握った雅也君の手は暖かくてドキドキした。

 彼は私のワガママにも嫌な顔をせずに側にいてくれた。

 プレゼントされたこのネックレスは寝る時も身につけてるの、やっとわかった私の気持ちを雅也君に伝えなくちゃ! 

 恋をするとこんなに自分が変わるものなんだなー。その変化にちょっと戸惑う事だってあるけど……。

 

 胸が裂けそうになる想い──毎日彼の顔を思い浮かべていた、ひとりが寂しいなんて感じなかったけど、雅也君が好きだとわかって私は初めて自分の部屋で自慰行為をした。

 やり方を知らなかったからどうすればいいのか分からず心を満たす為に行為に耽る。

 

 こんな私を知ったらどう思うんだろうなぁ。軽蔑されちゃうかな? 

 ずっと雅也君に側にいて欲しかった。

 だけど、告白はできなかった、彼が私に好きだという手紙を書いた時おんなじ気持ちだったのかな? いっぱい悩んで、考えて、手紙を書いたんだろうなぁ。

 十年経って自分の想いに気がつくなんて……。

 どうすればいいんだろう? 私は自問自答を繰り返す。

 今度は私が雅也君に告白する。

 ──もしも断られたらもう今までみたいな関係は続けていけないかも……。

 友達から恋人へステップアップするのは簡単なことじゃないと思うの。

 それでも伝えなくちゃ後悔する、でも、どう伝えようか悩んじゃう。

 私は一度彼の告白を断っている、あの時は恋愛に興味なかったから好きだと言われてもピンと来なかった。

 

 

「……両思い」

 そうなれるのが一番だと思う。

 ネックレスを買ったお店に寄った時、一緒にご飯を食べた時の事を思い出す。

 雅也君とは中学校の頃まで同じクラスだったけどあまり仲は良くなかった。

 そんなに話した記憶もないし、彼は私のどこに惹かれたんだろう? 

 自分の顔は可愛いって自信を持って言えるわけじゃない、高校の時には周りが恋の話で盛り上がっても私には実感がなかった。

 勉強、勉強の毎日で恋愛をしている余裕なんて無かったもん。

 大学時代は明日奈と友達になるまではそう言った事には縁がないって思ってたの。

 でも、好きなタイプはいたんだー。ほら、よくテレビに出てるアイドルの男の子いるじゃない? かっこよくて大好き! 好きなタレントが出る番組は夜遅くても起きて見てたし女の子なら皆そうじゃないかな? 

 

 さて、話に戻るね。私は雅也君にどう気持ちを伝えるか考えていた。

 初めての恋——もちろん告白だって初めて、二人きりになった時に伝えたい。

 告白の言葉はどうしようかな……? 普通に好きです! って言えば伝わるかな? あまりシンプル過ぎて冗談だと思われちゃったらどうしよう? 

 あれこれ悩んだあげく結局結論は出なかった。

 

「篠宮さんに聞いてみようかなぁ」

 雅也君の会社の後輩でこの間知り合った私よりも全然イケてる女の子。

 同じ女の子目線で見ても彼女はすごく可愛いと思う。

 そして篠宮さんは好きな人に告白したらしい。恋に関してはあの子の方が一歩先に進んでる。

 仕事が終わったら待ち合わせして話を聞いてもらおうっと。

 雅也君が帰っていつもと変わらない私の部屋——すぐに着替えて家を出る支度をする。

 彼と同じベッドで寝た事を思い出すと顔が苺みたいに真っ赤になる。

 でもね、すごくドキドキしたの……。

 仕事中も頭の中には雅也君の事ばかり、恋をするとバカになるって聞いたことあるけど、あながち間違いじゃないと思った。

 

「お疲れ様でした、お先に失礼します」

 会社を出てから家には帰らず篠宮さんとの待ち合わせへ急ぐ。

 お昼休みに電話したら私の話を聞いてもらえる約束をしてくれた、前はあまり話せなかったから少しでも仲良くなりたい。

 

 

「お待たせー」

「いえ、私も急いで来たのでそんなに待ってないですよ」

「中入ろっか」

 篠宮さんと一緒にお店の中に入る。

 ——ここは若い子に人気で私は明日奈に教えてもらったんだけど来るのは初めて。

 お店の中は私たちと同い年の女の子や女子高生もいてなかなかの賑わい。

 空いてる席に座ってからメニューを広げる。

 

「篠宮さんは何か注文する?」

「私は浅倉さんが頼んだ後でいいですよ」

 

 とりあえず落ち着いて話が出来るように軽めの料理を注文する。

 よく見るとところかしこに女性が喜びそうな工夫がされている。

 

「急に呼び出してごめんね。ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだ」

 篠宮さんも注文が終わって料理が届くまで少しだけ話をした。

 

「前に言ったんだけど。私ね……好きな人に告白しようと思うの。それで篠宮さんにいいアドバイス貰えたらなんて考えてるの」

「アドバイスですか? 」

「そうなの! 実はね、私告白するの初めてなんだー。だからどうしたらいいのがわからなくて。篠宮さんはどんな風に告白したの?」

「……私はー」

 彼女は顔を真っ赤にして俯いた。告白のシチュエーションを思い出してるのかな? 

 

「私も告白するのになかなか勇気が出なかったんですけど頑張って伝えたんです『好きです』って相手の人と二人きりになった時にいいました」

「へえー。そうなんだ」

「やっぱり自分の気持ちを素直に伝えるのが一番だと思います……。その人の事が本当に好きだとわかってもらえるように」

 

「私の場合、ずっと伝えたいって思っていたんですけど、自分の性格のせいできっかけをつかめなくて、でも、後悔したくないなって。それでその人を食事に誘ってから告白しました」

「篠宮さんが告白した相手の人ってどんな人なんだろう? ちょっと気になっちゃうな」

「とってもステキな人です。優しくて仕事で困っている時はいつも声を掛けてくれて、毎日話すだけで幸せを感じられるんです」

「その人は同じ会社の人?」

「はい、私よりは先輩で同じ部署で働いています」

「そうなんだー。同じ会社にそういう素敵な人がいて良かったね!」

「はい! あの、浅倉さんの好きな人はどんな人なんですか?」

 

「私の好きな人はね」

 あれ? どんな人なんだろう?

 そういえば私、雅也君の事はあまり良く知らない。

 私の中の彼の印象は中学時代のままでストップしてる

 

「実は彼の事あまり良く知らないの。最近好きだって自覚するようになったの。それでこの間は一緒に食事もしたし、このネックレスだってその人からのプレゼントなの」

「素敵なネックレスですね。プレゼントしてくれた人はかなりセンスあると思います」

「……うん、私もついこの間まではただのネックレスだと思ってたんだけどこれには特別な意味があったんだ」

 

 店員さんに教えてもらったネックレス込められた想いを篠宮さんにも教えてあげた。

 

「すごくロマンチックですねー。きっと浅倉さん愛されてますよ!」

「うふふ、ありがとう」

 私もちょっと照れるような仕草を見せる。ゆっくり話してみてわかったんだけどやっぱりこの子はすっごくいい子。

 女の子同士だから気兼ねなく話せてるっていうのがポイントなのかもしれない。

 

「あのさ、篠宮さんに一つ聞いておきたい事あるんだけど」

「何ですか?」

「うん……。あなた雅也君と同じ会社なんだよね? 彼とは仲良かったりする?」

「えっ……?」

「ごめんなさい。ちょっと気になったの。それでどうなの?」

「ま——新堂さんとは良く話ますよ。一緒に帰ったりする事もあります」

「そうなんだ、あのさ、雅也君って今本当に彼女とかはいないんだよね?」

「そうだと思いますけど……どうして私に聞くんですか?」

「この前、彼が風邪引いた時にお見舞いに行ったじゃない? その時に篠宮さんと雅也君が随分仲よさそうに見えたから、同じ会社で働いてるなら接点あるのかなって」

 

「私なんて彼のイメージは中学生の頃から止まってるんだー。それが十年ぶりに“再会”したら全然違う感じになっててさ、びっくりしたよ」

「浅倉さんは新堂さんの小学校時代の友達なんですよね?」

「そうだよ、中学校まで同じでそれからは別々で高校の時は一度も会わなかった」

 

「彼と共通の友達がいるだけどその人とはたまに会ってたかなぁ今でも電話で話したりするし」

 篠宮さんは雅也君の会社の後輩で良く話をするっていうの情報を得ることができた。

 

「雅也君って今気になる人はいたりしないのかな?」

「どうなんでしょう? 本人に聞いてみたらどうですか」

 

「そうだよね。だけど、そういう事聞くのって私が彼に気があるみたいに思われちゃうかもしれないし」

 篠宮さんの前で必死に自分の気持ちを誤魔化した。

 私はウソつきだ——本当は雅也君の事が好きにも関わらずそうじゃないって否定して。

 元々どう告白すればいいのかわからなくて篠宮さんに色々聞いてみようと考えてたのに本題からずれた話をして何とか私の想いを勘付かれないように振る舞う。

 

「篠宮さんは告白の返事ってもらったの?」

「まだもらってないです……。でも、私の待ち続けるつもりです、あの人も気持ちの整理がつかないでしょうから無理に急かすような事はしたくないんです」

「けどさ、なかなか返事もらえなかったら不安にならない? あーやっぱりダメだったんだなって」

「そうですね。だけど、私の好きな人はいい加減な態度を取るような人じゃないですから、もしも告白がダメだとしてもちゃんと返事をしてくれると思います」

「その人の事よく見てるんだね」

 

「よし! 篠宮さんと話したら私も告白する勇気持てたよ! 自分の気持ちを素直に彼に伝えてみる」

「頑張って下さいね。お互いの告白が上手く行くといいですよね」

「そうねー。今日は付き合ってくれて本当にありがとう! また恋愛関係の事で相談するかもだけどいいかな?」

「はい、私で良ければ」

「ありがとう。それじゃあ気をつけたい帰ってね」

 

 

 篠宮さんと別れた私は何だか悩んでいたのが馬鹿らしく思えるほどに清々しい気分だった。軽やかにスキップをしながら家に帰る。

 

 

 言葉にできない想いが胸をきゅんと締めつけていたけど、伝えたらきっと気持ちも楽になる。

 次の休みの日に雅也君を家に呼んで告白しよう。

 十年かかってようやく気がついた私の本当の想い——雅也君との関係を変えたい。

 私の初恋は始まったばかり—それはまるで白いアルバムのページみたい。

 胸元に輝くネックレスは綺麗な白銀色を映し出す。宝石に散りばめられた愛情を咲希は感じながら夜の空を見上げる。

 星は見えないけど静かな群青色の空は変わらずにそこにあった。

 

 

 東京で迎えた何度目かの冬、そこから二人の恋は始まる。

 湊、咲希はそれぞれの想いを胸に秘めて恋へと踏み出していく。

 彼女達が同じ人を好きになったということを知るのはこれから少しだけ後のこと。

 渦中の人はまだ何も知らずにいる、終わったはずの初恋と新しい恋の二律背反に悩ませられるのを。



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一途な心

 今日、浅倉さんと恋愛について話をした。あの人も好きな人に告白するらしい。

 私は雅也さんに自分の気持ちを伝えたけどまだ返事を貰っていない。

 日曜に大事な話があるって直接言われた。多分その時に返事をしてくれるんじゃないかと思う。

 ようやく告白できて私は肩の荷が下りたみたいに軽やかな感じ。

 あとはいい応えを貰えたら……。

 

 雅也さんは十年前の失恋をずっと引きずってきた——私に出来るのはそれを含めて彼を受け入れてあげる事なんじゃないかな。

 そして、私は雅也さんの片思いの相手だった浅倉咲希さんと知り合いになった。

 向こうは私が告白した相手が雅也さんだって言う事は知らないだろうし、浅倉さんの好きな人を私は知らない。

 お互いの恋が上手くいくといいなぁって、浅倉さんも恋をしてステキな女性に変わるんだろうなぁ。

 恋愛出来るチャンスなんて限られているわけだから悔いのないようにしたいよね。

 

 私の家族も雅也さんを気に入ってくれたからもしも恋人になれならまた家で一緒に食事をしたい。

 夏帆とも仲良くやっていけそうだし本当に私にはもったいないくらいの相手。

 自分の想いをようやく伝える事ができた、あとは雅也さんからの返事を待つだけ。

 人を好きになるって言うのはその人と一生を過ごすって言う事。

 それはどちらかが年を重ねてもずっと変わらない。

 真っ直ぐな想いだけをいつまでも胸に抱いておこう。

 

 内気な自分を変えるきっかけがこの恋なんだから—私は雅也さんがどんな応えを出しても受け入れるつもり。

 他に好きな人はいないはずだから私の告白が失敗するなんて言うのは考えてない、考えてないんだけどやっぱり不安な気持ちがある……。

 

 湊の想いと咲希の気持ち、その二つはいずれ衝突するのを予感させていた。

 お互いが同じ人を好きになり、それぞれの感情は日に日に強くなっていく、今まで少しずつ積み上げてきた恋心とぱっと燃え上がった恋心は対比関係にある。

 

 湊とは譲るつもりはなかった。咲希はまだ不安を抱えていた。

 十年と言う時間はあまりにも長くようやく気づくことができた雅也への恋心。

 あの時の手紙の返事をやり直せたら良かったのにと後悔するのはすぐの話だ。

 友達から恋人へと関係を変化させるのは本人が考えている以上に困難だった。

 だって雅也の中にはいつまでも十年前の失恋が重く心に残っているのだから。

 

 

 日曜日に雅也さんからされる大切な話の内容が気になる私はそわそわとしてなかなか落ち着けなかった。

 あと少し……。答えがわかるのは、恋の神様、どうか私に味方して下さい。

 一途な心は移ろう事は無くただ一人の相手に向けられていた。



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あの頃のように

湊への告白の返事をする決意をした雅也は次の休みの日に彼女に連絡して自分の気持ちを伝えることに決めた。


 もう失敗はしたくない、これが恋をする最後のチャンスだと思うから。何度も自分自身に問いかける、僕のことを好きだと言ってくれたあの子の想いに応えたい。

 湊ちゃんを抱きしめた時、いや、もっと前から僕はあの子に惹かれていたのかもしれない。

 女の子に告白された事なんて無かったから自分がその立場になるとすごくドキドキする。

 湊ちゃんは僕のどこがいいんだろう? 彼女とはそこまで長い付き合いじゃない、一緒に帰ったり食事をしたりする事もあったけど……。

 付き合いの長さなら咲希ちゃんの方が長い、同じベッドで寝た事を思い出すと恥ずかしくなる。

 女友達の家に泊まるなんて前までの僕なら絶対にありえない事だった。咲希ちゃんは独り暮らしみたいだし寂しくなったんだろうな。

 所詮彼女にとって僕はそういう存在。ただの友達なんだ、あの頃みたいにお互いの関係は変わらない。

 そもそも東京で再会できたことが奇跡みたいなものだし一生会わない展開もあっただろう。

 けれども、僕はまた彼女と巡り会ってしまった。あの日、僕の初恋が終わってしまってから止まったままの時間。

 思い出すと胃が痛くなるほど苦しくなる……。咲希ちゃんへの気持ちは区切りがついているはずなのに。

 こんなフラフラとしたまま湊ちゃんに返事をしていいんだろうか? 

 

 もしも、咲希ちゃんに再会しなかったら僕はすぐにでも湊ちゃんに告白の返事をしていただろうか? 

 自分自身の決断が鈍っているのは心の奥底じゃまだあの失恋を引きずったまま前に進めていないんじゃないかとわかる。

 ただの友達の彼女にあのネックレスをプレゼントしたのはなんでだ? 水族館に行く約束をおしゃかにしたのは咲希ちゃんの方だし僕がそこまで気を遣う必要があるのか? 

 

 いつまでもそういう関係を続けるのは良くない、湊ちゃんに返事をしたら咲希ちゃんとは距離を置こう。

 恋人を第一に考えないといけないからね、決意が鈍らないように早く告白の返事をしなくちゃな。

 

 *

 

 

 咲希は雅也に電話する為にスマホを握りしめていた。

 いつもは連絡するのに気を遣う事なんてないのに今日は違っていた。

 次の土曜日に雅也を呼び出して告白するつもりでいた、何度も深呼吸をしてから何を喋るのか頭の中でシミュレーションしてから電話をかける。

 ツーコールもならないうちに相手は電話に出る、咲希はもう一度深呼吸してからゆっくりと口を開いて言葉を発する。

 

 

「もしもし雅也君? 咲希です。今電話して大丈夫かな?」

「大丈夫だよ。僕はさっき家に帰ってきたばかりなんだ。それで僕に何か用?」

「うん……あのね、今週の土曜日って何か用事あったりする?」

「土曜? いや、特に何もないけど……」

「そうなんだ、あのね、土曜なんだけど雅也君に話したい事があるから私の部屋に来てくれない?」

「咲希ちゃんの所に? その用事って電話とかメールじゃダメなの」

「うん、二人きりで会って話したいの」

「そっか、わかったよ。土曜は大丈夫。だけど、日曜はちょっと大事な用があるからさ」

「そうなの?」

「ああ、かなり大事な用でねー。こればかりは外せないんだよ」

 

 雅也君がそこまで言う用事って何なんだろう? 気になるけど多分プライベートなところだから私が聞いちゃいけない事だよね。

 もっと長く彼と話していたい寝る前にはおやすみって言ってほしい。

 伝えたい用はとっくに終わっているはずなのに私は雅也君との通話が終わるのが名残惜しくて会話を繋げようと話題を考える。

 

「この間はワガママ言って泊まって貰ってごめんなさい。迷惑だったよね」

「あーその事かー。いや、別にいいよ。結局帰らないって判断したのは僕なんだからさ、風呂までご馳走になってあのまま帰るのは流石に悪かったからね」

 雅也君のその言葉にホッと一安心する。正直なところワガママ言って彼を引き止めちゃったから軽く自己嫌悪してたから……。

 私の聞いたことに答えてくれただけなのに、何だか自分だけが特別な存在だと思えてきちゃう。

 彼にプレゼントからされたネックレスは私への愛情だって勝手に勘違いしてるだけかもしれない。

 それでも私はやっぱり雅也君の事が好きなんだって。

 自分がこんなに愛して貰っているのが涙が出るくらい嬉しい。

 だけどまだ彼の本当の気持ちを聞いていない。 いくら私が想い続けても片思いなら私達の関係は変わらない。

 変えたいよ、ずっとずっと一緒にいたいよ。今だって触れ合いたい、抱きしめてほしい。

 人を好きになるとこんなに抑えきれない感情が溢れてくるものなんだ。

 本当に信じられないくらい。

 ——私は変わっていく、雅也君に好きだと言って貰える女の子になりたい。

 

 篠宮さんにアドバイスされた通り今の私の気持ちを素直に彼に伝えてみよう。

 断られたらどうしようって言う不安もあるんだけど伝えないで後悔はしたくたい。

 十年も掛かって自分の気持ちに気づくなんてね。私がたまに読む恋愛漫画の主人公みたい。

 ああいう物語は恋のライバルが登場したりイケメンな男の子に迫られてドキドキするって言う展開が良くあるパターンだけど。

 私には恋のライバルはいないし雅也君は彼女はいないって言ってたし私が恋人になれる可能性は高い。

 彼もまさか私から告白をされるなんて思いもしないんだろうなぁ。

 初めての恋が順調に行きそうで良かった。恋の神様には感謝しなくちゃね! 

 

 

「私が雅也君に告白する初めての人になるのか〜」

 そんな事を考えると自然と頬が緩みっぱなしになる。私は自分の恋愛が上手くいく事に自信を持っていた。

 

 だけど、実際には私は二番目で—雅也君へ気持ちを伝えるのは遅すぎたのが分かるのはすぐの出来事だった。

 

 そうとは知らずに土曜日が来るのを待ちながら告白の練習する。

 とびっきりの笑顔とナチュラルなメイク、少しでも可愛く見えるように前に明日奈が無理矢理買ってくれた洋服を着て鏡の前でクルッと一

 回転して決めポーズ、スマイルも完璧! 

 

「これでよし」

 早く土曜日にならないかなぁなんて子どもの頃みたいにワクワクする。

 

 雅也君待っててね。私の想いをあなたに届けるから、恋の神様お願いします。私に少しだけ力を貸してください。



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溶け合う心

 二月十日(土)

 

 

「湊ちゃんに僕の気持ちを伝えよう」

 応えは最初から出てたのかもしれない。僕はもう一度恋をするきっかけを貰えた。

 同じ会社の後輩の女の子、彼女のことが好きだと言う気持ち、それは十年前のあの日から忘れていた感情。

 湊ちゃんに告白されて彼女を抱きしめた時のこの子の事を大切にしたいって思えた。

 失恋してからもう恋愛はしない、いや、恋をする事から逃げていたのかな、単に向き合いたくなかっただけだろうな。

 ようやく分かったよ。前に進むことを諦めていたのは自分自身だってことがさ。

 僕は日曜日に湊ちゃんと会う約束をした。その時に僕の気持ちを伝える。新しい恋へ踏み出すんだ。

 目的地に到着するまでの間、告白の返事で頭がいっぱいだった。

 

 今日はこれから咲希ちゃんと会う。

 ——なんでも彼女から大事な話があるみたいだ。

 彼女の家に行くのは三度目だけど、まだちょっと緊張する。

 この前は咲希ちゃんの部屋に泊まった。

 女の子の部屋に泊まるなんて今まで経験したこと無かったし何より彼女が僕に対してあんな表情を見せたのに驚いた。

 駅から真っ直ぐ歩いてマンションの前までやって来た。

 不審者に思われないようにすぐに中に入ってマンションのエントランスにあるインターホンで部屋番号を入力して呼出ボタンを押した。

 

「はい」

「雅也です。今着いたよ」

 数秒間待つマンションの自動ドアのロックは解除され目の前にあるエレベーターに乗り込んだ。

 

 彼女の部屋七○五号室の前で一回深呼吸してからインターホンを押す。

 

 ガチャリ

 

 鍵が開く音がして大きな扉が開いた。

 

「いらっしゃっい。寒かったでしょう? さあ、中に入って」

 咲希ちゃんはゆったりとした服装をしている。きっと家で寛いでいたんだろう。

 僕は靴を脱いで「お邪魔します」といい、彼女の部屋に上がり込んだ。

 用意してくれたクッションに座って部屋の中を見回した。

 割と綺麗な彼女の部屋は女の子らしさを感じる。

 ふとベッドに視線が移るとあの日の夜のことを思い出す。

 一つのベッドで咲希ちゃんと一緒に寝たのを、「……大好き」って言う彼女の寝言を聞いた。

 きっとあれは夢の中で誰か好きな人へ向けて言った言葉なんだろうな。

 

 

「あまり見ないでね? 恥ずかしいから」

 咲希ちゃんは照れ臭そうにそう言って二人分のジュースをコップに注いだ。

 僕はそれをゆっくり飲み干して空になったコップを台の上に置く。

 

 今日の彼女の様子はちょっと変だ、なんだか落ち着きがないしチラッと僕の方を見てはすぐに視線を逸らす。

 何か大事な用があるって僕を呼んだ割にはなかなか会話に入らない辺りなんか怪しい。

 とりあえず彼女が自分から言い出すまで待ってみることに——二人の間には結構長い時間沈黙が続いた。

 

 丁度十二時に差し掛かろうとする時、咲希ちゃんはいつになく真剣な表情をして僕の顔の前まで近づいた。

 僕たちはお互いの吐く息が感じられるほど近い距離まで顔を近づける。

 目のやり場に困った僕は咄嗟に彼女の顔から視線を逸らそうと首を横に流す。

 

「逸らさないで……。お願い、私の顔見てほしい」

 両手で掴みこむように僕の顔を覆って自分の方へ向けさせてた。

 咲希ちゃんの細い瞳が僕をまじまじと見つめていた。

 

「私の顔ってあんまり可愛くないかな?」

「えっ……? そんな事無いと思うけど」

「もっとはっきり言っていいんだよ? 自分の事は分かっているつもりだから」

 二人は数秒間見つめ合う形になる。こんなに近くで咲希ちゃんの顔を見たことないや。

 僕が好きだった彼女は昔と変わらない笑顔を見せてくれた、そうだ、僕は咲希ちゃんの笑顔が大好きだったんだ。

 

「ちょっと顔近すぎない? 」

 僕は顔を離そうと体を引く——その瞬間、咲希ちゃんは僕をぐいっと引き寄せて二人は抱き合うような格好になる。

 僕の膝の上にちょこんと座った彼女の体は思ったより小さかった。

 

 咲希はすごく胸が高鳴っていた。張り裂けそうになるのを必死に抑えながら雅也の顔を見上げた。

 困ったような表情は見せるものの突き放したりせずにそっと咲希の体を支えていた。

 心臓の鼓動が早くなる、チクリと刺すような痛みに息が苦しくなる……。

 見上げた視線の先にある二つの瞳は真っ直ぐと咲希を見つめていた。

 

「あのね、私、雅也君に聞いてほしいことがあります」

 グッと手を握り勇気を振り絞って言葉を出す。

 だけど、その後がなかなか続かない、目の前にいる人に自分の気持ちを伝えるのがこんなにも難しいなんて思いもしなかった。

 

「わ、私はー」

 咲希ちゃんの髪が揺れるとシャンプーのふわりとした香りが鼻を突き抜けた。

 ごくりとつばを飲み込み彼女の言葉を待つ。

 

「私は雅也君のことが好きです」

 

 一瞬咲希ちゃんが何を言ったのか理解するのに時間がかかってしまった。僕は驚いた表情をかくさずに彼女に向ける。

 今にも泣き出しそうな顔をして目には涙を溜めていた。

 

「えっ? 好きってそれってどう言う意味」

「言葉通りの意味だよ、私は雅也君が好き! ずっとこの気持ちをあなたに伝えたかったの。十年経ってやっと気がついた鈍感な私で良かったら雅也君の彼女にして下さい!」

 

 僕は愕然とした。だってそうだろう? 咲希ちゃんが僕に告白するって言う展開なんて想像がつくわけない。

 僕らは今までただの友人関係でそれは生涯変わることはないって思ってた。

 それはこれから先もずっとそうだろうって僕自身も分かってたから。

 それが咲希ちゃんが僕が好き? 冗談ならタチが悪いからやめてほしい……。

 

「な、何で? 好きって? それに何で今更……」

 僕の中で終わったはずの初恋、失恋の手紙で叶うことがなかった最初の恋。

 

 もう二度と私に話しかけないで! 

 僕の元に届いた手紙にはそう書かれていた。

 ──そのたった一言で人生で初めての告白は終わりを迎えた。

 

 十年前のあの時に咲希ちゃんへの想いはもうピリオドを打ったはずなのに。

 

「どうして? どうしてなの」

 今起こっている出来事を頭の中で整理するのに時間がかかる。

 

「好きなの……雅也君の事が」

 咲希ちゃんはキスをしてしまいそうになるくらい顔を近づける、彼女の吐く息が感じられた。

 

 流石に今の状況はまずいって思って体を逸らする為にむずむずと足を動かすと、今度は両手でガッチリと固められて本当に抱き合う形になる。

 脈拍数が上がって胸がドキドキする。こんな状況になったら誰だって落ち着いてはいられないと思う。

 僕は何とか寸前のところで理性を保っている。

 外は冷たい風が吹いていて寒いはずなのに僕らはお互いの体温で暖めあっているから寒さを感じなかった。

 咲希ちゃんはじっと僕の顔を見ている。長い時間密着してたせいかもうポカポカと暖かい。

 

「ごめん……。ちょっと今、混乱してるから」

 僕はそういって咲希ちゃんを自分の体から引き離す。

 

「あのさ、本当にどうしたの? 何で好きだなんて……。それに告白の返事なら十年前に手紙で貰ったはずだよ」

「あの時の私は自分が恋愛をするなんてイメージ湧かなくてー。だから雅也君が私を好きだって伝えてくれた気持ちに応えられなかったの」

 彼女はばつの悪そうな顔でそう言うともう一度体を重ねて来た。

 

「もしも私の気持ちが伝わってないのなら何度でも言います。私は雅也君の事が好きです。この想いに嘘偽りはないから」

 咲希ちゃんは身につけているネックレスをぎゅっと握りしめる。

 

「それ、大切にしてくれてるんだね」

 僕が彼女にプレゼントしたネックレス——その特別な意味を知っているのは僕だけ。

 

「もちろんだよ! このネックレスのおかげで私、本当の気持ちに気がつけたんだから」

「えっ……? それじゃあそのネックレスの意味を知ってるの」

「……うん、これを買ったお店の店員さんに聞いたの」

「そうだったんだ」

 僕は咲希ちゃんに意味を聞かれたら教えてあげるつもりだったけど彼女は何も聞いてこなかったからてっきり興味がないものと思い込んでた。

 元々は一緒に水族館に行く約束をするはずだった——でも、その約束は反故になって結局湊ちゃんと行く事になったんだっけ。

 

 湊ちゃん……。僕は自分に告白してくれた後輩の女の子の事を考えた、彼女に返事をするって決めたのに。

 咲希ちゃんの告白で揺らぐような軽い気持ちだったのか? 何度も頭の中で考えて応えを出したじゃないか。

 だけれど僕の気持ちは水風船みたいにゆらゆらと漂っていた。

 二人の女の子に告白されるなんて経験は今後一生ないだろう。

 しかも一人は初恋の相手終わってしまったはずの恋が動き出そうとしていた。

 

「おっと!」

「きゃっ!」

 咲希ちゃんが急に立ち上がろうとしたから僕はバランスを崩しつ床に倒れる。

 そこに彼女の体が重なるこれはかなりまずい状況だ……。どういう状況かと言うと僕に咲希ちゃんが馬乗りになっている状態、しかも顔が近いから事故でキスでもしちゃいそうだ。

 

「ごめん! すぐに起きるからちょっと離れてもらえる」

「良いよ。このままで……。私、雅也君になら初めてを捧げてもいいから」

「えっ? ちょっと!」

 僕が体を起こそうとする前に彼女から唇を奪われた。生まれて初めてのキスは味なんて無くて、ただ咲希ちゃんの柔らかい唇の感触を感じた。

 僕達二人の心は溶け合って混じり合う。それはもう子どもじゃない大人の関係に変わっていくのがわかる。



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優しい嘘

二人の関係は以前より少しずつ変化を見せ始めていた。
咲希は雅也が湊と会うことを知ることになるが、何も知らない雅也は咲希に優しい嘘をつくのだった。


 結局あの後、僕らは一言も言葉を交わさず部屋の中には重苦しい雰囲気が漂っていた。

 僕は生まれて初めてキスをした。

 ——というよりは無理やり唇を奪われたと言った方がいいか……。

 お互いに経験は無いはずなのに彼女のキスはまるで慣れているかのようだった。

 激しく何度も唇に触れて息をするのも苦しいくらいだ。

 もう夕方近くなるけど咲希ちゃんが満足するまでキスは終わらなかった。

 唾液で口の周りがベトベトになりながらも彼女は長い時間キスをし続けた。

 

「夕飯ご馳走するから食べて行ってね」

 無理やり笑顔を見せてはいるけど顔は真っ赤でついさっきまでのキスの余韻がまだ残っているんだろう。

 僕は自分の唇を軽く撫でて咲希ちゃんの唇の感覚を思い出す、ピンク色で綺麗でそして柔らかった。

 料理ができるまで床に寝転がって待つけど僕の頭の中ではキスの事がいつまでも残っている。

 

 

 湊ちゃんに告白の返事をするつもりだった。

 ——心ではそう決めていたはずなのに僕の思考は混乱していた、二人の女の子に告白されたこと、あの咲希ちゃんが僕を好きだって言ってくれた。

 とっくに終わってしまった初恋の苦い記憶が心の中から消えることが無い。

 忘れなくちゃいけない。新しい恋に向き合わなくちゃならないのに……。

 何度考えてもそれはまるで迷宮に迷い込んだみたいに僕の気持ちが晴れる事がない。

 

 このままじゃいけない! 僕は体をこの空間から抜け出す為に体を起こした。幸い今、彼女は料理中だからここで僕が帰ったとしても気がつかないだろう。

 ポケットから抜け落ちた財布を拾ってすり足で歩く。

 頼む! 気づかないでくれよ。

 

「雅也君何してるの?」

 僕の祈りも虚しく咲希ちゃんは出来上がった料理をテーブルに運んで来た。

 

「ああ、いや、ちょっとトイレに行こうかと思ってただけだよ」

 咄嗟に思いついた嘘をついてその場を逃れようとする。料理を運ぶ彼女の横切ってトイレへ。

 

「トイレはこっちだよ」

 もちろん僕が咲希ちゃんの部屋のトイレの場所なんて分かるはずが無く僕の言った事はすぐに嘘だって彼女にバレてしまう。

 

「ご馳走さま」

 がっつりとした肉料理と付け合わせのサラダとスープを飲んで夕飯は終わる。

 僕はそろそろ帰ろうと思って咲希ちゃんが食器を洗っているキッチンにひょいと顔を出した。

 

「今日はご馳走さま。美味しかったよ。それじゃあ僕はそろそろ帰るね」

 彼女の返事を待たずドアを閉めて今度こそ玄関へ向かおうとする。

 

「待って!」

 咲希ちゃんは慌てた様子で僕を引き止めた。

 

「もう帰っちゃうの……?」

「うん」

 

 数秒間二人は沈黙すると雅也はポケットに手を入れて咲希の制止を聞かず玄関へと足を迎えた。

 

「待って! 帰らないで」

「けれどこれ以上長居するわけにもいかないし」

「帰ると私泣くから!」

「えっー」

 雅也は昔から咲希の泣き顔には弱かった。小学生の頃から同じクラスだったからこそ分かること。

 泣き虫な所は大人になっても全然変わっちゃいない。

 結局泣くとまで言われた雅也は帰るのを止めてしまいその日一晩だけと約束して咲希の部屋に泊まることにした。

 

 

「何やってるんだろう」

 咲希ちゃんは今、風呂に入っている。僕は先に頂いて濡れた髪を乾かしていた、部屋の暖房の温度はちょうどいいくらいで来た時と同じ服を着る。

 

「泣き虫なのは相変わらずか」

 昔から僕はよく咲希ちゃんの泣き顔を見ていた。小学生の頃とかってちょっとした事で女の子を泣かせちゃって罪悪感にかられることが多かった。

 そんなつもりはなかったのにと後悔しつつ反省ばかりしてたなあ。

 あまり過去の出来事を思い出すのは好きじゃないんだけどあの子の泣きそうな顔を見るとつい思い出してしまう。

 

「お待たせ」

 彼女はタオルで髪の毛を拭きながら部屋に戻ってきた、その格好は下着の上に何故かワイシャツ一枚だけ。

 

「服を着ないと風邪引くよ」

 目のやり場に困った僕は咲希ちゃんにそう言って床に寝転がった。彼女は僕の言った事なんか聞かずそのままの姿で過ごす。

 二十二時を回った頃眠くなったのか咲希ちゃんは部屋の明かりを消してベッドに入る。

 僕はというとクッションを枕に床に寝る。まあ、ベッドは一つしか無いんだから仕方ない事なんだろう。

 体を横にして目を閉じると耳元で囁くような声が聞こえる。

 

「一緒に寝よう?」

 声の主はもちろん彼女だ、この部屋には僕と咲希ちゃんしかいないんだから当然なんだけど。

 

「いいよ、僕は床で寝るから」

「お願い雅也君。私、寂しいの……」

 甘えるような口調で僕にそういうと彼女の息が耳にかかって、一瞬ぞくりとした。

 

「仕方ないなあ」

 僕は起き上がって咲希ちゃんの寝てるベッドに潜り込む。もちろんあまり密着しないように壁側に体を向けて寝る事に。

 

「……ありがとう」

 彼女は呟くみたいにそういうと落ち着いたのか自分もベッドに入る。

 僕はドキドキしながら目を閉じて早く眠りにつけと願った。

 頭の中が真っ白になって思考は停止し、そのまま白い波に身を任せた。

 

 

 *

 

 

「雅也君もう寝ちゃったかな?」

 隣を見ると彼はスヤスヤと寝息をたてて眠っていた。

 その寝顔にどこか安心した私は今日の事を考えていた、人生で初めて告白した事。

 ——彼の事が愛おしくて堪らない事、ずっと一緒にいたいこの先もずっとずっと。

 恋愛をするってこんなにも自分が変わる事なんだって初めてわかる。

 起こさないようにそっと雅也君のほっぺに触れてみる。

 彼の肌は男の人とは思えないほど綺麗でちょっと羨ましい……。

 雅也君の寝顔をじっと眺めながら考える。彼は私のワガママに付き合って今日は一緒にいてくれた。

 このネックレスをプレゼントされた日から私の恋は始まってたのかも、彼を家に帰したくないって思いがふつふつと湧き上がる。

 自分がこんなに独占欲が強い子だなんて思わなかった。

 

 

 初めてのキスの感覚を思い出すと耳まで真っ赤になりそうなくらい。

 今まで経験した事がなかったから私は彼の心を繋ぎ止める為にあんな大胆な行動をしたの……。

 自分でも驚いている、キスの余韻はずっと残ってて私はそっと唇に触れた。

 今、この幸せがずっと続けば良いなんて思っちゃう。だけど、明日には雅也君はー。彼は明日大事な用があるって言ってたの。

 わかってる事なのに離れるのはすごく寂しい……。

 別れる事を考えると涙が出ちゃう。

 この瞬間から時間が止まったらいつまでも雅也君と一緒にいれるのになぁ。

 そんな事を考えちゃう私って嫌な子かな? 彼に嫌われたりしないかな? 

 考えるほどに不安になる。

 今が幸せでそれを失うのは耐えられない。

 寝てるの顔を見て何度も何度も自分の気持ちを確かめた。

 

「あれって」

 雅也君の頭の先には彼の携帯が置かれている。スマホじゃなくてガラケーを使ってるって義之君が言ってたの本当だったんだー。

 

 私は彼が起きないのを確認してから携帯を拾う。

 結構古めのデザインなのかずっと使ってるのか理由は分からないけど充電器を挿すところの蓋が開きっぱなしで閉められなくなってた。

 いけない事だとは知りつつも私は我慢出来ずに彼の携帯をパカリと開いた。

 全然知らない何かの女の子のキャラクター(多分アニメじゃないかな?)が待ち受けに設定されていた。キーを押して携帯を操作する。

 メールか着信履歴を見れば彼の明日の大事な用って言うのが分かるかもしれない。

 一旦手を止めて雅也君の様子を確認する、全然起きる気配がない。

 私は指先でキーを押してメールボックスを開いた。

 送信済みボックスの宛先の名前を見て愕然とする。

 

 宛先:篠宮湊

 

 そこには私の知っている名前がある、篠宮湊さん、雅也君の会社の後輩で私もついこの間知り合いになったばかり。

 話してみてわかったのはあの子はとっても良い子で私の恋の相談も真剣に聞いてくれた。

 

 メールの内容は明日雅也君が篠宮さんと一緒に過ごすっていう事、私は過去の履歴を遡って内容を確認する。

 雅也君から篠宮さん宛に何通もメールが送られていて明日の待ち合わせ場所と時間が書かれていた。

 今度は着信履歴を見ると彼が篠宮さんへ何回か電話をかけていた。

 彼女の番号は私も知っているからこれは本当に篠宮さんの電話番号で間違いない。

 

 

 明日雅也君は篠宮さんと会う。そういえば彼女は好きな人に告白したって言ってたけどまさかそれってー

 私は雅也君のメールをメモして明日彼が行く待ち合わせの時間と場所を控えた。

 その事が気になって全然眠れなかった。

 

 

「それじゃあ僕は帰るから」

「……うん」

 朝の早い時間に起きた雅也君を見送りに玄関へ

 ——下着一枚だけどそんなに気にするほどの事じゃないと思う。

 

「今日って用事あるんだっけ?」

「そうだよ、まあ、そんなに大した用事ではないんだけどね」

 

 嘘、私は知ってる。雅也君はこれから篠宮さんと会うんだ。私に気づかれないようにする為か誤魔化したように言うけど彼の言葉に気持ちがこもっていない事を。

 

 雅也君を見送った私は、すぐに着替えて彼の後を追う。

 二月の朝は冷え込みが厳しいくらいだけど、それが気にならないくらい頭の中では色んな考えが巡っていた。



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誰かが傷ついても

 二月十一日(日)

 

 

 改札を出ると外は凍えるくらいに冷たい風が吹いていた。

 雅也はポケットに手を入れてずんずんと人ごみの中を歩いていく。

 この時期は堪えるような寒さに凍える事もある。ただの冷たい風だって辛い……。

 今日はこれから湊と会う約束をしていた。告白の返事をしないといけない。とっくに気持ちの整理がついてるはずなのにまだモヤモヤとした感覚が抜けない。

 

 二人の女性に告白されたこと、ずっと友達として接していた咲希に好きだと言われたのが雅也には今でも信じられない。

 咲希への想いは十年前のあの日に終わった。手紙に書かれたかの文字で自分が振られたのを理解できた。

 それからは「恋」をするのに臆病になっていた気がする。

 それを変えてくれたのが湊だった、の子とならもう一度新しい恋へ踏み出せるとそう思っている。

 

 咲希と一夜を過ごしたのは気の迷い。そう自分に言い聞かせながら湊との待ち合わせ場所に急いだ。

 自問自答を繰り返し頭の中を整理して彼女への想いを再度確認した。

 

 

「お待たせ。湊ちゃん」

 僕は待ち合わせ場所に先に着いていた湊ちゃんに手を挙げて挨拶すると彼女の側まで駆け寄った。

 

「待たせちゃった?」

「いえ、そこまでは待ってないですよ」

「じゃあ行こっか」

 

 今日は湊ちゃんと一日過ごす予定なんだけど何をするのか特に決めていなかった。

 彼女と少しでも長くいたい、ふいに隣にいる湊ちゃんと目が合うと優しく微笑んでくれた。

 本当に可愛い子だなあ

 何をやるにしてもその仕草の一つひとつがグッとくる。こんな可愛い女の子と僕と一緒いてくれるなんて。

 

 ぶらぶらと街中を歩いた後はファミレスでご飯を食べてショッピングを楽しみ二人で映画を見る。

 今流行りの作品を僕は知らないから湊ちゃんが見たい映画のチケットとドリンクを買って列に並ぶ。

 女の子と映画を見るなんて初めてだな。上映が始まって二十分くらい経つと隣に座っている湊ちゃんが手を重ねてきた、ぎゅっと握りしめた感触はまるで恋人みたい。

 映画に見入っている彼女を他所に僕の心臓の鼓動は早くなる。

 内容があんまり頭に入って来なかった。

 

「面白かったですねー」

「そうだね、だけど僕は途中からあんまり集中できなかったよ」

 

 二人で映画館と同じビルに入ってるコーヒーショップで小休止。

 頼んでおいたパンケーキとコーヒーが運ばれて来る。僕はさっとチョコレートのソースをかけてパンケーキを口に運ぶ。

 

「美味い! これは当たりだなあ」

 美味しいものを食べると笑顔になるっていうけど確かにそんな気がする。

 砂糖を入れないコーヒーを啜って苦味を味わう。

 

「湊ちゃんは食べないの?」

 

 料理が運ばれて来たのに一向に手をつけない彼女を変に思って尋ねてみた。

 

「ごめんなさい。なんか雅也さんが美味しそうに食べてるとこ見てるとほっこりしちゃって」

 

 湊ちゃんは優しく微笑むとゆっくり料理を食べ始める、二人は細やかな昼食を楽しんだ。

 

 東京の人達はいつも急いでいる気がした、エスカレーターの左側に乗って手すりにつかまっているとその横を下っていく人達をしょっちゅう見かける。

 僕の後ろにいる湊ちゃんはエスカレーターのアナウンス通り落ちいて乗っている。

 

「東京の人ってさエスカレーター下っていくんだよね」

「そうですね、みんな急いでるのかも」

「こっちに来て大分経つけれど未だに不思議に思うよ」

「けどそれが普通じゃないですか? 私は下ったりはしませんけど……」

「よっぽど時間に追われてるんだなって思う。まあ、僕は田舎の出身だからそういところに無頓着なだけかもしれないけれども」

 

「さてと、ちょっとここで休んでいこうか」

 僕らは公園のベンチに座り歩きっぱなしだった足を休めた。

 この場所はある意味特別でもある。

 あの日、咲希ちゃんの無くしたネックレスを見つけた場所で、雪の降る中必死で探し続けた自分の姿を思い出す。

 ふーっと大きく息を吸い湊ちゃんの方へ視線を——彼女はその視線に気づき顔をこっちに向けた。

 

「あのさ、湊ちゃんに言いたい事があるんだけど、聞いてくれるかい?」

 二人の間に冷たい風が吹く。雅也はぐっと拳を握りしめると真剣な表情で湊を見つめる。

 

「あの時の告白の返事だけどさ、今言ってもいいかな」

 目の前にいる自分を好きだと言ってくれた女の子の気持ちに応えたい。

 何度も何度も頭の中で考えて自分の気持ちを確かめた。

 

「僕は湊ちゃんの事がー」

 そうだ、僕の気持ちを彼女に伝えないと! 

 

「湊ちゃんの事が……」

 言うんだ! 今、返事をするって決めたじゃないか! 

 

「湊ちゃんが」

 

 

「私は雅也君のことが好きです」

 

 湊ちゃんへ告白の返事をしようとした時咲希ちゃんの言葉を思い出してしまった。

 決めていたはずなのに……もうあんな失恋はしたくないと思ってるのに。

 僕はその後の言葉を言えなかった。そのまま黙り込んでしまう。

 そんな僕の様子に気づいた湊ちゃんは優しく頬に触れた。

 

「無理しないで……今の雅也さんすごく辛そうに見えるよ? 私は告白の返事はいつまでも待つつもりだから安心して」

 ふいに彼女に抱きしめられると心が落ち着いた。

 優柔不断な自分に嫌気がしたけど湊ちゃんの言葉で少しは安心できたかもしれない。

 

「ごめん。僕は本当に情け無い男だよ」

 こんな僕に真剣に向き合ってくれる彼女の優しさにいつまでも甘えてちゃいけない。

 

 

「じゃあ、僕はこっちだから」

「はい、あの、雅也さんさっきも言ってた通り無理はしないで下さい。私はずっと待ってますから」

「うん、ありがとう」

 駅で湊ちゃんと別れてからは今日の事がずっと心残りだった。

 告白の返事をするって決めていたはずなのにそれができなかった。

 あの時咲希ちゃんの言葉を思い出さなかったら言えたんだろうか? 

 もう一度咲希ちゃんに会って確かめないといけない。

 彼女の気持ちが本当なのかを。

 雅也の心は二人の女の子の間でゆらゆらと揺れ動いていた。

 

 

 *

 

 

 雅也君を追いかけた私は彼に気づかれないようにこっそりと後をつけた。

 寝ている時に雅也君の携帯を見たから彼が今日篠宮さんと大事な用があるって事は知っている。

 大事な用って何なんだろう? 私と一緒にいることを拒んでまで果たすものなのかな。

 

「あ、見失わないようにしないと」

 電車を降りて待ち合わせ場所に向かう彼を追いかける。もちろん向こうが気づかない程度の距離を保ちつつね。

 側から見たら変な人に見えているかもしれないけどそんな事を気にせず私は彼を尾行する。

 待ち合わせ場所で二人は落ち合うと並んで歩いていく。

 

「何さー。いい雰囲気じゃない!」

 雅也君は篠宮さんの歩くスピードにペースを合わせて彼女が遅れないように気を遣っている。

 彼が篠宮さんに時折見せる自然な笑顔に私はちょっとだけ嫉妬する。

 私といる時はあんな顔見せたことないのに! 

 でも、改めて雅也君の事を見るとドキドキする——ジーパンからスラリと伸びた足に背筋はまっすぐで姿勢がいい。

 顔はイケメンじゃないし、私の好きなアイドルとは天と地程の差がある。

 って言っても決して不細工だってわけでもない。

 私はずっと子供の頃の彼しか知らなかったから今の雅也君を見て正直驚いてるの。

 あの頃の彼は子どもで私も苦手だったし、小学生の時からクラスメイトだけどあんまり好きじゃなかった。

 女の子にもモテてなかったし地味目な印象だった。

 十年ぶりに再会してまた昔みたいに友達でいたいなと思ってた。

 

 だけどそんな私の気持ちも変わっていった。最初は電話で話すだけの関係だった、彼が私の為に手に入りにくい人気の水族館のチケットを買っていた事、このネックレスをプレゼントしてくれた事、無くしたネックレスを見つけ出して家まで届けてくれた事、小さな出来事かもしれないけど私の雅也君への気持ちは日に日に変化した。

 友達の明日奈に指摘されるまで気づかなかった。

 十年経ってようやく私の本心が見えた。

 そこからは彼のことが好きで堪らなくなっちゃった。ずっと一緒にいたくてワガママを言って部屋に泊まって貰ったの。

 同じベッドで寝た時はドキドキして心臓が止まっちゃいそうだったの。

 私から雅也君にキスした事——あんな大胆な行動に出たなんて自分でもびっくりしてる。

 私の頭の中が雅也君の事ばかりになっていく。恋愛ってこんなのなんだ。

 これから先もずっとずっと一緒にいたいってそう思える。

 

 閑話休題

 

 ビルの映画館に並ぶ二人の様子を遠くから眺める。もしかしてこれってデート? あの二人ってどんな関係なんだろう。

 流石に同じ映画を観たらバレちゃうから私は二人が出て来る時間までビルの中の別のフロアで時間を潰すことにしよう。

 

 食事を済ませた雅也君達はどこかに向かっている。私が後をつけるとあの公園に入っていった。

 私がネックレスを無くした場所——あの雪の中雅也君が必死に探している場面が頭に浮かんできた。

 私は身につけているネックレスをぎゅっと握りしめて改めて雅也君への愛情を確認した。

 二人はベンチに座って休んでいる。会話の内容は聞こえないけどいつになく真剣な表情の彼が篠宮さんを見つめて何かを言っている。

 だけど雅也君は途中で黙り込んでしまって俯いた。そんな彼を篠宮さんは優しく抱きしめた。

 私の胸はチクリと痛んだ。好きな人が他の女の子と抱き合っているところなんて見るにも耐えない。

 私は目を閉じて「早く終わって」と心の中で呟いた。

 

 二人はそれからはまっすぐ駅に向かって歩き出す。雅也君はさっきとは違い笑顔を見せるようになっていた。きっと篠宮さんが何か言ったんだろうと思う。

 

「何やってるんだろう……私」

 自己嫌悪して今日はもう帰ろうと思った。雅也君の用事って篠宮さんと普通に過ごす事だったのなぁ。

 帰ると決めたのにその事が気になった私は雅也君と別れた篠宮さんに声をかける。



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吐露

湊と咲希、お互いに好きな相手に告白したことを伝える、咲希は今までに感じていた疑問を確かめるために湊と話をする。
同じ人を好きになったことを知り、二人のそれぞれの感情はこれから激しくぶつかっていくのだった。


 雅也君と別れた篠宮さんは引き返して駅の出口に向かう。

 私は彼女が外に出た瞬間に呼び止めた。

 

「ちょっと良いかな?」

「浅倉さん? 偶然ですね、私に何か用ですか?」

 

 彼女の言葉に何も答えずに私はさっきまでいた公園に連れて行く。

 

「大事な話があるんだけど時間は大丈夫?」

「はい、大丈夫ですよ」

 時刻は丁度午後六時になったとこで辺りは暗くなり始めてる。

 

「とりあえず座って話しましょうか」

 私がベンチに座ると隣に篠宮さんも腰を下ろす。

 二人の間にはしばらくの沈黙が続く——彼女には聞きたい事がある。

 横目で篠宮さんの様子を伺うと暗くなっている空を眺めていた。

 

「大事な話って何ですか?」

 先に沈黙を破ってきたのは彼女からだった。

 

「……うん、あのね、ちょっと篠宮さんに聞きたい事があるんだ」

 雅也君とどういう関係なのかを聞けばいいんだけど、なかなか切り出す勇気が持てない。

 

「そうだ! 篠宮さんに言われて私好きな人に告白したよ」

 ちょっと話題を逸らしたように思わせて少しずつ核心に迫っていくようなやり方を試してみようと思った。

 

「良かったです。告白は上手くいきましたか?」

「うーん。まだわからないわ。彼からすぐに返事を貰えた訳じゃないし」

「そうなんですね」

「篠宮さんは? 確かあなたも告白したんでしょう? 返事は貰えたの?」

「私もまだ……」

 彼女の言葉に嘘は無いと思う。だって私に嘘なんてつく必要がないんだから。

 

「そっかー。じゃあまだ二人とも返事待ちって事なんだ」

 私はうんうんと頷いてリアクションを取る。それはそうと彼女と雅也君との関係を聞き出さなくちゃ! 

 

「私も浅倉さんに聞きたい事があるんですけど聞いてもいいですか?」

 先に言葉を発したのは篠宮さんの方。

 

「何? 聞きたい事って」

 

 二人の間に冷たい風が吹く——それはこれから起こる出来事を予感させるみたいだった。

 

 ベンチから立ち上がった篠宮さんは胸の前に手を握りしめて次の言葉を言う為に勇気を振り絞っているように見えた。

 

「私が聞きたいのはあなたと新堂さんの事です」

「私と雅也君の事?」

「はい。浅倉さん前に私に言いましたよね、新堂さんとはただの友達だって」

「うん。言ったね」

「だったら浅倉さんには教えた方がいいかな。わ、私、言いました。新堂さんに好きだって」

 

 彼女のその言葉を聞いた瞬間私の短い髪はふわーと風に煽られる。

 

「そ、そう……」

 

「私はずっと新堂さんの事が好きでした。何度も想いを伝えたいって考えていたんですがなかなか言えなかったんです。でも、ようやく伝える事ができました」

 彼女は明るい笑顔を見せてそういう。やめて! もうこれ以上は聞きたくない。

 

「本当はちゃんと浅倉さんにも言うべきだと思っていたんですがあなたと新堂さんの関係が分からなかったので伝えるのをずっと躊躇っていたんです」

 

 この瞬間、私のモヤモヤとしていた感情に遂に核心が持てた。

 彼女が言っていた告白した相手って言うのは雅也君の事だったんだ。

 

「わ、私はー」

 一体何を言うつもりなの? 目の前にいる篠宮さんは不思議そうな顔をしてこっちを見てる。

 急に息が苦しくなる——雅也君に告白した人は私が初めてだと思っていた。

 だけど違うんだ……。私は二番目なんだ……。今なら彼が私にとった態度の意味も分かる。

 この子に先に告白されてたから雅也君は私の気持ちに遠慮していたんだ。

 十年も経ってようやく伝える事ができたのに! 今日だって告白の返事をする為に彼女と会ってたんだ……。

 私と一緒にいる時には見せた事がない彼の自然な笑顔を彼女は独り占めできる。

 許せない! そんなの絶対に! 

 

「私もね篠宮さん。あなたに言っておきたい事があるの」

 私は吹っ切れたように彼女に言葉を返す。

 

「私が告白した相手なんだけどね、あなたのよく知ってる人よ」

「えっ?」

 彼女は驚いた表情を見せている。当然ね、自分の知ってる相手になんて言われたら誰だってそんな顔をすると思う。

 

「私も言ったわ。『好きです』って、雅也君にね」

「!」

 篠宮さんはようやく私の言葉を理解したみたいで動揺を隠しきれていなかった。

 

「それじゃあ浅倉さんが好きな人って……」

「そう、雅也君よ」

 私達の間にピリピリとした空気が漂う。肌を刺すような痛みを感じる。

 

「そんな……。浅倉さん私にいましたよね? 新堂さんとはただの友達だって」

「あの時はまだ彼の事を好きだと分かってなかったからああいう風に答えただけよ」

「友達なんじゃないんですか!」

 篠宮さんは急に大きな声を出す。その言葉には私への苛立ちを感じる。

 

「あの時はそう言ったけど今は違う。私は好きなの雅也君のことが」

「どうして今頃になってそんな事を言うんですか!」

「どう意味?」

「あなたは十年前に新堂さんを振ってるんですよ! それがどうして今になって彼の事が好きだなんて言えるんですか」

「雅也君に聞いたの? 私が彼の初恋の相手だって」

「直接聞いた訳じゃありません。だけど新堂さんは今までずっとその事で苦しんでいたんです。やっと新しい恋に踏み出そうとしてたのに。それなのに!」

 

 私が何かを言う前に先に篠宮さんの右手が上がるのが見える。

 

 パァーン! 

 

 頬に感じる痛みに私は手でその箇所をさすった。

 

「最低です! あなたは最低の人です」

「なんであなたにそこまで言われなくちゃいけないのよ!」

「十年も新堂さんを傷つけておきながらよくもまあ図々しく彼に好きだなんて言えましたね」

「そんなの関係無い事よ! 告白したのをなんで一々あなたにあれこれ言われなくちゃいけないの!」

「私の恋を応援するって言ったじゃないですか!」

「それはそうだけど……。相手が雅也君だなんて知らなかったからそう言っただけじゃない」

 

 私達はまるで子どもみたいに言い争う。公園内にはもう人がいないから聞かれる事はない。

 篠宮さんに引っ叩かれたほっぺたはまだジンジンとした痛みが残ってる。

 

「だって好きになっちゃったんだから仕方ないでしょ! 私だって恋愛をする権利くらいはあるわ」

 

「あなたに新堂さんに好きになってもらう資格はありません。今まであの人がどれだけ辛い思いをしてきたか。十年も前の初恋をずっと引きずって生きてきたんですよ」

 

「だから今までの事を謝ってこれからは私が雅也君の側にいるつもりよ」

「罪滅ぼしのつもりですか? そんな事じゃ許されないと思います」

 

「ごめんなさい。今まで仲良くしてきましたけどもう無理です、私が新堂さんを好きな気持ちはあなたよりも大きいです。あなたに彼は渡さない! 私は絶対に諦めない。雅也さんは私の一番好きな人ですから」

 

 湊は真っ直ぐ迷いの無い想いを咲希にぶつける——その気持ちの強さはひしひしと伝わってくる。

 純粋な心はひとりの男性に向けられているものだった。

 咲希が出来るのは雅也から贈られたネックレスを握りしめて愛情を確かめること、未だ彼から直接告白の返事を聞いた訳じゃない。

 二人のそれぞれの感情はこれから激しくぶつかっていく。それはたった一人しかいない相手への最大限の愛情表現でもあった。

 波乱とこれから起こる恋の小競り合いに雅也自身が葛藤する事になるのはすぐの話。



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醜い感情

 許せない! 

 帰りの電車の中で私は初めて人に対して怒りという感情を持った。

 今日は雅也さんと会って二人きりで時間を過ごした。告白をしてからも私達の関係はいつも通りだけどそれが安心する。

 きっと彼は私に返事をするつもりだったんだろうなぁ。

 色々と悩んでようやく新しい恋へ進める雅也さんを側で支えてあげたい。初めて人を好きになってから分かった事も多いの。

 いつか私がおばあちゃんになってもずっと一緒にいたいって思えた人に出会えた事、そのひとの為なら何でもできるって、雅也さんとこれからの人生を歩いていきたいって。

 結局告白の返事は貰えなかったんだけど、私はいつまでも待つつもり。

 

 だけど今日の彼はどこか普段と違う感じがしたの。苦しそうで無理に笑顔を見せていたからすぐにわかった。私といてもあんまり楽しそうじゃなかった。

 私への返事が雅也さんを苦しめていたら嫌だなって思う……

 私は無理している彼にちゃんと分かっている事を伝えて抱きしめた。

 

 あの人は恋愛に対して忘れる事が出来ない辛い経験がある。

 初恋の人に振られた事——それが十年もの間雅也さんをずっと苦しませていた。

 だから、雅也さんはもう人を好きになるのは諦めているのかも。

 それでも私は雅也さんが好き。これは誰にも譲れない気持ちだし。

 

 雅也さんと別れてから駅の外へ出た瞬間に私は声をかけられる。

 呼ばれた方へ振り向くと浅倉さんがいた。

 

「ちょっと良いかな?」

「浅倉さん? 偶然ですね、私に何か用ですか?」

 

 浅倉さんは私の言葉に何も答えずにさっき雅也と一緒にいた公園に私を連れて行った。

 

 なにやら大事な話があるらしい。私達は公園のベンチに座り私は大分暗くなって来た空をぼんやりと眺めた。

 

「大事な話って何ですか?」

 私の方から浅倉さんに用を尋ねると彼女は聞きづらそうな表情をして話題をなかなか切り出せない様子。

 実は私も浅倉さんには聞きたい事があった。前に雅也さんとはただの友達だって言ってたけどそれは本当の事なのかな? 

 

「そうだ! 篠宮さんに言われて私好きな人に告白したよ」

 彼女は本質から逸れた話題で会話を続けようとする。

 浅倉さんも好きな人に告白したんだーお互いの恋が上手くいけばいいなぁ。

 二人とも告白の返事は貰えていない——本当なら私は雅也さんから私の気持ちへの応えが分かる日だったかもしれない。

 浅倉さんはウンウンと頷いてリアクションを取っていた。私はどうしても気になって仕方がない疑問を彼女にぶつけてみた。

 

「私も浅倉さんに聞きたい事があるんですけど聞いてもいいですか?」

「何? 聞きたい事って」

「私が聞きたいのはあなたと新堂さんの事です」

「私と雅也君の事?」

 

 私が告白した相手が雅也さんだって事を彼女に伝えた。

 そして浅倉さんの告白した相手が雅也さんだと知った時、私の心の中には言葉では言い表せないような醜い感情が沸いてきた。

 十年間ずっと彼を苦しめていた人が今になって好きだなんて流石に図々しいと思った。

 初めて人が許せないと思った。目の前にいる相手に強い怒りを覚えた。

 

 気がついたら私は彼女の事を引っ叩いていた。

 私達は公園の中で言い争う、絶対に許さない! 雅也さんがどれだけ悩んでずっと初恋を引きずっていたのを、彼の気持ちを断っておきながらそれを正当化しようとしている浅倉さんが私は許せなかった。

 

 同じ人を好きになってしまったのは何かの偶然? ねぇ、恋の神様教えてよ! 

 自分の中にある彼への気持ちをぶつける、想いの強さなら絶対に私の方が上だし! 

 だって私はこんなにも雅也さんの事が好きなんだから。

 何とか感情を抑えこんで家の帰りつく。普段と違う雰囲気の私に家族は心配していたけど何も言わないで自分の部屋に入った。

 

 

 *

 

「何やってんだ僕は」

 湊ちゃんに告白の返事をするって決めたはずだったのにそれができなかった。

 もう自分の中では応えが出ていたのにどうして言えなかったんだろう? 

 湊ちゃんと一緒に過ごすようになって僕は少しずつ彼女に惹かれていた。

 あの時以来人を好きになる気持ちを持つのはやめようと思っていたけどそんな僕を彼女は変えてくれた、この子ならと僕自身もそう思った。

 告白の返事をしようとした時に思い浮かんだのは咲希ちゃんの顔だった。

 

 何で咲希ちゃんは僕に好きだなんて言ったんだろう……。

 あの子の本心がわからない。だって僕の初恋は十年前のあの日に終わってしまったのだから——また咲希ちゃんを好きになるって事は無いと思う。

 咲希ちゃんの部屋で一夜を過ごしたけどそれは彼女のワガママに付き合っただけ、一時気まぐれに感情を揺さぶられちゃいけない。

 きっと一人暮らしで寂しかったんだろう、だから自分の気持ちを落ち着かせる為に僕を部屋に呼んであんな事をしたんだろう。

 

 僕を好きだって言ったのも寂しい気持ちを紛らわせる為、依存できる相手なら誰でも良かったんだろうなー。咲希ちゃんが本気で誰かに恋をするなんて想像つかないし。

 そう自分に言い聞かせて納得する。湊ちゃんへの返事は近いうちにしなくちゃいけない。

 いつまでも待たせるのは相手にも失礼だから。

 

 雅也は次に咲希に会った時に本心を確かめようと思った。

 これから起こる展開に雅也自身気が休まる暇がないというのを。

 咲希と湊はそれぞれの想いを秘めて行動に移していくのだった。



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劣情

 何でこうなっちゃったんだろう……。

 家に帰り着いた私は着替えもせずにバフってベッドに倒れ込んだ。

 やっぱり私の思ってた通り篠宮さんが告白した相手っていうのは雅也君の事だった。

 彼の携帯のメールを見た時になんとなくだけど二人の関係を予想できた。

 仲の良い二人を見ていると私は激しい嫉妬心を抱いた。

 好きな人が他の女の子と楽しそうにしている所を見たら誰だってそういう気持ちになるんじゃないかな? 

 多分あの子と一緒に水族館に行ったんだと思う。アクアリウムパークは大人気の水族館でチケットを取るのも難しい私はダメで結局行く事が出来なかった。

 雅也君は私と一緒に行くために水族館のチケットを買っていたのを後で知った。

 彼からの着信を無視したあの時の事を今更後悔……。

 それで二人の仲が進展していったのかな? 本当なら私がその場所にいたはずなのに! 

 

 普段着に着替え床に座る──首元のネックレスをギュって握ると金属の冷たさを感じる。

 私にはもったいないくらい綺麗なそれを毎日身につけてる、彼への想いを確かめる為に。

 

 雅也君に告白したけど、いい返事貰えなかったらどうしよう……。

 篠宮さんの言うように私は彼の告白を一度断ってる、しかもかなり酷いフリ方しちゃってるし。

 

「どうしてあんな事しちゃったんだろう……」

 自己嫌悪に陥る。もしもそれが障害になってるとしたら私はどうしたらいいんだろう。

 過去に戻ってやり直せるならあの時の私に雅也君の告白を断っちゃダメだと忠告したい。

 もう一度を私の事を好きになってほしい。雅也君は私のどこを好きになってくれたのかな? 

 手紙に書かれてたと思うけど内容忘れちゃったなぁ。

 私って女の子として魅力あるかな? 鏡で自分の顔を見るのはあまり好きじゃない、だってあんまり可愛くないし……。

 おしゃれに興味無いわけじゃ無いんだけど自分よりも可愛い子を見ると劣等感抱く。

「恋」をしなかったらこんなに悩むことは無かった。他の女の子も同じように悩んだり辛い想いをして「恋」をしてるのかな?

 初めての経験に戸惑い不安な気持ちが募るばかり。

 人を好きになるってこんなにも難しい事だったんだ。

 

 雅也君を想うと日に日に自分を慰める回数が増えていく──今までそんなのやらなかったのに。

 好きだと自覚してからは四六時中彼の事を考えてるの。

 その度に何度もベッドを(きし)ませる。

 隣の人に私のエッチな声を聞かれるのは嫌だから出来るだけ抑えて行為に耽る。回数を重ねる度にどんどん激しくなっていく。

 何度も彼の名前を呼びながら絶頂に達する、最後は頭の中が真っ白になって何も分からなくなっちゃう。

 濡れた下着を洗濯籠に入れるけど流石に枚数が多くなってきた……。

 自分がこんなにエッチな女の子なんて知らなかったなぁ。

 雅也君幻滅しちゃうかな? 

 

 もしもあの子がいなかったらって思う事があるの。

 篠宮さんがいなかったら雅也君は私の告白を受け入れてくれて私たちは恋人同士になれたはずなのに。

 私が彼と再会するまでの間彼女はずっと側にいたんだ。毎日同じ職場で顔を合わせて細やかな会話を楽しんで、仲を深めていったんだ。

 

 正直彼女が妬ましい。私よりも雅也君に近い場所にいて私が知らない彼の一面も知ってて尚且つ二人で過ごす時間も多い。

 恋愛じゃ篠宮さんに大きくリードされてる──十年経ってようやく本当の想いに気づいて彼に告白しようとしてた私よりも先に自分の気持ちを伝えて告白の返事を待ち続けているんだもん。

 私だって雅也君への気持ちは本物だし誰だろうと譲る気は無い。

 彼女が雅也君を好きにならなければ私の「恋」は上手くいってたのに。

 ジェラシーを感じる。

 あんなに自然に彼と接してるし今日の二人の雰囲気は良い感じだった。

 

「……私ってこんなに嫌な女だったんだ」

 

 篠宮さんに激しく嫉妬して自分でも酷い子だってわかってる。

 でも、それでも私は雅也君への想いに嘘偽りは無い。

 もう一回彼に好きになって貰えるなら何だってするつもり。

 目の前にある幸せを掴むチャンスをみすみす手放すような真似はしたくないの。

 彼とした初めてのキスの感触を思い出すと体が火照ってくる。

 あの時はもう無我夢中だったから冷静になって考えてみると我ながら恥ずかしい事をしたと思う。

 

「雅也君、ちょっとは私の事意識してくれたかなぁ」

 女として見られていなかったらやだなぁ。

 他の女の子なんて見ないで私だけを見てほしい。振り向いてほしい。

 私はこんなにもあなたの事が大好きなの。それが伝わってほしい。

 好きな人の気持ちを自分へ向ける為にはどうすれば良いのかな? 

 悩んでも悩んでもなかなか答えは出ない。

 

 恋愛をするって一筋縄ではいかないものなんだ、まずは雅也君にあの頃みたいに私の事を好きになって貰わなくちゃ! 

 でも自信がない……。篠宮さんは私よりも若くて可愛くて魅力的な女の子。

 それに雅也君と一緒にいる時間も私よりかきっと長いんだろうなぁ。

 私だって彼とは小中学と同じクラスだったから合わせて九年間はおんなじ空間で過ごしたんだから! 

 だけど、その差なんてあっという間に埋まってしまった。

 今は真逆で篠宮さんと雅也君の仲に私一人が取り残されている感じ。

 あのままあの二人が付き合ったら──そんなの絶対に嫌! そんな状況になったら私立ち直れない。

 

 ベッドの上で一人悶々とした私は手を下着の中へ入れる。

 今日も劣情を抱いて行為に耽る。

 何度も絶頂して疲れ果てた私はそのまま眠りについた。



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静かな冬の夜

 二月十二日(月)

 

 

 電車の中に流れているCMや広告で二月十四日のバレンタインデーを再認識する。

 日本だと女性が意中の相手にチョコレートを贈る日なんだけど、正直社会人になるとあまり関係無いような気もする。

 学生の頃はみんな女子からチョコを貰いたいからと髪型を整えたりしてオシャレをしていた。

 僕はというとそんな事は気にしないで普段通りに過ごしていた。

 去年は湊ちゃんが周りの人にチョコを配っているのを見た。もちろん僕も貰えたから彼女にしっかりとお返しもした。

 そういえば貰うばっかりで誰かにあげるなんて今まで考えた事も無かったなあ。

 今日仕事帰りにちょうどいい店に入って湊ちゃんへのバレンタインの贈り物を買おう。

 そう決断した僕はつり革から手を離し品川駅で降りて階段を登り山手線のホームへと移動した。

 駅のホームは相変わらずの混み具合で押されながら電車に乗り込んだ。

 

 渋谷駅で降りてからはまっすぐ会社までの道を歩く。毎日同じルートを使っているんだけどそれが安定しているから仕方ない。

 携帯で時刻を確認すると九時十五分——うちの会社は出勤は十時からだからまだ結構な余裕がある。あまり早く着きすぎても誰もいないデスクで一人ぽつんとしてるだけだしね。

 そのまま携帯を左手に持ち替えてメールを打ち始める。僕は右利きだけどメールは左手の方が打ちやすい。

 アドレス帳から湊ちゃんのメールアドレスを選んでメールを送信する。

 今日は彼女と一緒にお昼を食べたい気分だから僕の方から誘おう。

 送信してから五分も経たないうちに返信が来た。

 

『お昼一緒に食べるの楽しみにしています^ ^』

 

 湊ちゃんからの返事を確認した僕は自然と頬が緩む。楽しい昼食になりそうだ。

 僕は彼女との関係を続けていく、まだ迷っているのか? 早く告白に返事をしなくちゃいけないはずなのに。

 二人の女の子に想いを伝えられた事——今までに経験のないできごとに僕は戸惑っていた。

 いつまでも待ち続けると言ってくれた湊ちゃんの気持ちに応えたい。

 初めてひとに好きだと言われた事、後輩のあの子はとてもいい子で一緒にいると安心するんだ。

 ここ最近は彼女としょっちゅう同じ時間を過ごしていた。彼女の家で食事したあの日に告白された。

 僕はすごく嬉しかった——とっくに終わってしまった「恋」をもう一度。

 だけど、恋愛の神様はそんな僕に試練を用意していた。

 

【浅倉咲希】僕の初恋の人で、十年ぶりに会う機会が巡ってきた相手。

 あの時の手紙で彼女への想いは終わってしまったはずなのに僕はいつまでもそれを忘れるというのができなかった。

 再会しても昔みたいに友達として関係を築いていくだけ……。僕たちの仲はただそれだけなのに。

 

 一夜を同じ部屋で過ごした事、僕に好きだと言った彼女の表情は真剣そのものだった。

 どうして今頃になって? 咲希ちゃんならとっくに恋人ができて幸せな時間を送っているだろうになと思う。

 振られたのを思い出すと胸が痛くなって苦しい……。

 そうだ、彼女は十年前に僕を振った。色々悩んで書いた手紙で伝えた僕の気持ちは打ちのめされた。

 

 だから、咲希ちゃんの好きだと言う言葉を信じられない。

 真剣な想いだって何かの冗談だと思えてしまう。だってさ、彼女が僕を好きになる理由なんかないんだから。

 

 確かに特別な贈り物は贈ったけれど、あれは元々一緒に水族館に行く約束を果たしてくれた時のお礼のつもりだったし。

 まあ、結局彼女とは行かないで湊ちゃんと行ったんだけどね。

 でもそのネックレスを寒空の下探し続けたこと、それで風邪をひいて看病してもらったんだっけ。

 仮に咲希ちゃんが本気だとしても僕はまた彼女を好きになれるんだろうか? 

 

 閑話休題

 

 

 昼休みになって僕は湊ちゃんと昼を食べる為に財布を持ち彼女のデスクへ向かう。

 

「篠宮さん、これからお昼一緒にどうかな?」

「はい! いいですよー」

 湊ちゃんはデスク周りを整理して手提げを持って立ち上がる。僕は彼女が立ち上がるのを確認してからポケットの中に入れてある財布を触る。

 今日は何を食べようかと考えていると湊ちゃんが僕の横にスッと入ってきた。

 

「実は今日、たまたまお弁当を二つ持ってきてるんです。良かったら雅也さんもどうですか?」

 耳元でそう囁くと手提げの中を見せてくれた。綺麗に包まれた弁当箱が二つ入っている。

 

「うん。それじゃあ頂くね」

 僕も湊ちゃんに囁くように応えて二人でどこか落ち着ける場所に移動した。

 会社の廊下を歩いていると人目のつかないところで僕は湊ちゃんと手を繋いだ。

 胸が高鳴ってドキドキした。隣にいる彼女に視線を向けると照れくさそうにはにかんだ笑顔を見せてくれる。

 可愛い! 今すぐにでも抱きしめたいと思うけれど、流石に会社の中だから自重した。

 

 離れた所にある休憩室は距離が遠いから普段あまり使われていない。

 僕はドアに鍵がかかっていない事を確かめて中に入る。

 部屋の電気をつけて椅子に座って寛ぐ。

 湊ちゃんは手提げから弁当箱を取り出してテーブルの上に置いた。

 

「さあ、食べましょう」

 

 僕たちは二人並んで座ると湊ちゃんは包みを解いて弁当箱を広げた。

 

「美味しそうだねー。これは湊ちゃんが作ったの?」

「はい、雅也さんのお口に合えばいいんですが……」

「食べてもいいかな?」

「はい、どうぞ」

 差し出された箸を受け取っておかずの一つを摘む。

 ハムが巻かれたウィンナーとアスパラにはマヨネーズがかけられていた。

 ご飯は桜でんぶでピンク色に、花びらの形に切ってあるかまぼこは凄く良い感じ! 

 女の子の作る弁当ってこんなに可愛いものなんだなあ。

 関心しながら一つ一つを口に入れてじっくり味わう。

 

「美味い! 湊ちゃんはやっぱり料理上手だね」

「そんな事ないですよ〜」

 彼女は僕の言葉に嬉しそうに応えるとマイボトルからお茶を注いでくれた。

 こうして湊ちゃんと食べる昼食の時間はあっという間に過ぎていった。

 これからは頑張って弁当を作って来てくれるみたいだ。

 明日も一緒に食べる約束をして僕たちは午後からの仕事に取り組んだ。

 

「お疲れ様でした」

 定時に帰れるのは本当にありがたい。日本人は働きすぎだと思うからもっとのんびりとしていてもいいような気がする。家に帰ってからは自分の時間を十分に満喫するか。

 僕は帰り支度を済ませて湊ちゃんに声をかけた。彼女と一緒に帰るのは最近の日課になりつつある。

 会社を出てから僕らは事務的な会話をする。早く告白の返事をしなくちゃいけないと思うと、どうしても彼女への態度がぎこちなくなってしまう。

 

「あのさ湊ちゃん。告白の返事なんだけどー」

「迷っているうちは答えは出ないものですよ」

「えっ?」

「私、毎日雅也さんを見てますから分かりますよ。まだ迷っているんですよね?」

 彼女の言う通り僕はまだ決心がついていなかった。僕の心は抜け道の無い迷宮に迷い込んだみたいだった。

 この迷い道から抜け出すにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 かと言っていつまでも結論を先延ばしにしてちゃダメな気もする。

 

 湊ちゃんを駅まで送った後、僕はバレンタインのプレゼントを買う為にアクセサリーショップへ入る。

 店の中には女性客ばかり唯一の男性である自分は随分と場違いな気がした——店内の一番目立つ所に新発売の商品を宣伝する大きなポスターが貼られている。

 そのポスターに目を奪われていると店員に話しかけられた。

 事情を話して湊ちゃんへのオススメのプレゼントを聞いてみよう。

 男性から女性へのバレンタインの贈り物は珍しいみたいで店員は真剣に僕のプレゼント選びに付き合ってくれた。

 彼女には一体どんなプレゼントが見合うんだろうな。

 女の子に贈り物をする機会があまり無いから選ぶのにも一苦労……。

 咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスも店員に勧められたものだし。

 だけど、湊ちゃんへのプレゼントは僕が自分で選んだものをあげたい。

 今の気持ちを素直に伝える事のできるものは——ふと、キラキラと神秘的な輝きを放つチャーム? を見つけた。

 その混じり気のない自然な美しさに僕はすぐに引き込まれた。

 手にとって見るとそこまで大きなものじゃないんだけど落ち着いた色合いでいかにも女の子が身につけていそうな感じがした。

 

「これにするか」

 自分の直感を信じてみよう。綺麗なチャームを持ってレジに並ぶ。

 湊ちゃん喜んでくれるといいなあ。

 僕が彼女に贈る初めてのバレンタインのプレゼントは特別な日にふさわしい代物。

 アクセサリーショップを出た僕は近くの店で一箱千円くらいするチョコレートを購入して家に帰る。

 

 月曜の夜は静かに過ぎていく、二月はまだまだ冷え込みが厳しい時期だけどちょっとしたイベントが雅也の心をあったかくする。

 二月十四日が訪れるのを楽しみに眠りについた。

 

 丁度その頃、湊は初めての手作したバレンタインチョコをほおづえをついて眺めながら雅也への想いを再確認していた。

 咲希はというと小学生の頃を思い出しながらバレンタインのプレゼントを準備していた。

 冬の夜は長い、湊と咲希、それぞれの秘めた想いがたった一人のひとに届くように。一度しか無い「恋」はゆっくりとだけど始まりを告げる。



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Jealousy

二月十四日のバレンタインデーを迎えようとする雅也は湊へのプレゼントを準備して渡せるのを楽しみにしていた。
そんな中、咲希から掛かってきた電話で彼女の住むマンションに向かう、前のように咲希の部屋で一夜を過ごすことになるのだが、今回はちょっとだけ事情が違った。
咲希は湊に激しい嫉妬心を抱いてある行動をする。
それがこの先、三人の関係を大きく変化させることに


 二月十三日(火)

 

 

 仕事が終わって僕は明日のバレンタインの事を考えていた。

 ちょっとだけ高いチョコレートと湊ちゃんへのプレゼントのチャームをオシャレなラッピングをした袋と一緒にバッグに入れて持ち運んでいた。

 十四日の朝にすぐに渡せるようにする為だ、改札に向かおうとすると携帯が鳴っているのに気がついて、左手をポケットに突っ込んで携帯をパカリと開いて通話ボタンを押した。

 

「もしもし?」

「もしもし雅也君? 咲希です。今大丈夫かな?」

 駅の中だとうるさくて電話の声が聞こえないから僕は来た道を引き返して一旦外に出た。

 

「もしもし? 丁度今帰るとこだったんだ、それで僕に何か用」

「うん……。あのね、今から私の家に来てくれないかな?」

「また急だね。うーん、もう駅の外に出たし咲希ちゃんちはここから逆方向だしなあ」

「お願い、どうしても雅也君に会いたいの」

「けど今からだと帰る頃終電に間に合うかどうか……」

 時刻は一九時を過ぎている、ここから咲希ちゃんと会ってどのくらい時間がかかるかはわからない。

 実際、彼女の住むマンション自体は歩いても十分かからない距離なんだけど、この間の件もあるし、まあ、少し話してすぐに帰ればいいか。

 

「会いたいよぉ」

 電話越しに涙声で喋る咲希ちゃん、本当に泣き虫なのは子供の頃から変わってないなあ。

 

「わかったよ。今行くから」

 通話ボタンを押して電話を切り、携帯をポケットに入れて二月の夜の空の下を歩き始める。

 今夜の冷え込みはかなり辛いものだった。

 

 

 彼女の住むマンションへ到着した僕は部屋番号を入力して呼出ボタンを押す。

 すぐに咲希ちゃんが出たから「雅也です。今着いたから開けてくれないかな?」と言うと自動ドアが開いた。

 エレベーターに乗り込んで七階のボタンを押す──エレベーターが上昇してからは考え事をする暇も無くあっという間に目的の階に着いた。

 それから静かな廊下を歩いて咲希ちゃんが住んでいる七○五号室のインターホンを鳴らす。

 数秒待つと重たい扉ガチャリと鍵の外される音共に開く。

 

 

「いらっしゃい。寒かったでしょ? さあ、中に入って」

 咲希ちゃんは僕が中に入るのを確認してから扉を閉めて鍵をかける。

 靴を揃えて部屋に上がり玄関前でスリッパに履き替える。

 彼女の部屋に上がるのは相変わらず緊張する、前にここで一夜を過ごした時の事を思い出した。

 

 

「お腹すいてない? 私、何か作るけど……」

「大丈夫だよ。それよりいきなり電話をかけて来たけれど僕に何か用があるの」

「迷惑だった? ごめんなさい」

「いや、そうじゃないんだけど」

 今にも泣き出しそうな彼女にあまり強くは言えない。僕は暖房の効いた部屋で用意されたクッションの上に座った。

 

 咲希ちゃんの真っ直ぐな瞳が僕の方に向けられている。僕らは見つめ合う形になったけど、お互い視線を逸らしたりしない。

 数分の間見つめ合う——彼女は僕の隣にちょこんと座ると肩に頭を乗せてくる。

 二人の間に沈黙が続く、咲希ちゃんはどんどん大胆になっている。

 結局そのまま夕飯をごちそうになり特に会話などはせずに帰る時間を迎える、立ち上がって玄関に向かおうとすると手を引かれた。

 

 

「今日はずっと一緒にいたい」

 子どものようにわがままを言う彼女の手を払いのけて靴を履く。

 

「待って! 今から帰っても遅いから泊まっていってよ。ね?」

 まだ二十一時前だから帰りの電車には余裕で間に合う。僕は咲希ちゃんの言葉を無視して鍵を開けようとすると——

 

「ダメ!」

 

 彼女は僕の手を取って鍵を開けようとするのをやめさせた。

 

「咲希ちゃんは僕に本当に用があったの? ここまで来たけれど、何もなかったよね」

「それはー」

 咲希ちゃんは僕の言葉に押し黙る。この反応だと別に大した用事があった訳じゃなさそうだ。

 僕には彼女の考えている事が理解できなかった、ワガママに付き合わされて帰るのが遅くなるのは良くない、明日も仕事があるんだし。

「それじゃあまた」と、別れを告げてもう一度部屋の鍵を開けようとする。

 

「……待ってよ」

 呟くような囁くような涙声で必死に引きとめる、後ろを振り返ると咲希ちゃんは目に涙をいっぱいに溜めていた、その顔を見ると決心が鈍ってしまう。

 

「わかったよ。咲希ちゃんの言う通りにするから」

 履いた靴を脱いでもう一度部屋上がると彼女は安心したのか泣き止んでくれた。

 

「その前にちょっと冷蔵庫借りてもいい?」

「どうして?」

「冷やしておかないといけないものがあるんだ」

 僕はバッグから湊ちゃんへ渡すつもりだったチョコを冷蔵庫に入れると怪しまれない内容にその場所から彼女を遠ざけた。

 

 この時の僕は大きなミスを犯していた、湊ちゃんにプレゼントするつもりだったチャームもチョコと同じ袋に入れていたことだ。

 

 この間とまた同じだ、僕はこの日は咲希ちゃんの部屋に泊まることになって今は風呂に入るところだ。

 あの後、泣いてしまった彼女を前にするとどうしても突き放せたかった。

 脱いだ服を畳んでおいて風呂場の戸を開けた、湯船に浸かりながらゆっくりと今の状況を考えようかな。

 

 

 

「それじゃあ電気消すね」

 二人共入浴を済ませて寝る準備をする、いつもよりも早い時間だけどたまには悪くない。

 風呂から上がった僕らに会話はなかった、この間みたく彼女と同じベッドで寝ることになって僕は緊張していた。

 できるだけ近づかないように離れたところで体を横向きにする──目の前にあるマンションの壁は無機質で冷たさを感じる。

 すぐ後ろで眠る女の子はそっと僕の手に触れた、その小さな手はぎゅっと握られてお互いの吐息がかかる距離まで顔を近づける。

 ここで寝返りを打ったら彼女の顔に自分の頭が当たってしまうから身動きしないでおこう。

 耳元で「大好き」と囁くように言う、僕らの距離感はどんどん近くなってくる。胸の高鳴りを抑えつつ早く眠れるようにとりあえず目を閉じて押し寄せてくる波に身を任せよう。

 考える間もなく夢の世界へ落ちていった。

 

 

 *

 

 

「雅也君はもう寝ちゃったかな?」

 同じベッドで寝ている彼の様子を見ると寝息が聞こえてくる。どうやらもう寝ちゃったみたい。

 色々と話したいこともあるんだけどなぁ、なんて思いつつも繋いだ手に力を入れる、すごくあったかくていつまでもこうしていたいと思う。

 年頃の女の子が恋人でもない相手を家に上げるなんていうことは普通ではありえないことなんじゃないかな? 

 

「喉乾いちゃった」

 確か冷蔵庫の中にジュースがあったはずだからそれでも飲もうかな。彼を起こさないようにすっと立ち上がってキッチンに向かった。

 チラッと雅也君を見たけど全く反応せずにスヤスヤと眠っている。

 

 

 冷蔵庫を開けてジュースを取り出すとふと紙袋が目に入る。

 そういえば、雅也君がさっき「冷やしておく」って言ってたっけ、普段ならそんなものに興味なんて湧かないはずなのに今は中身が気になってしまう。一杯だけジュースを飲み干して元の位置に戻すと代わりに紙袋を取り出した。

 

「何が入ってるんだろう?」

 紙袋を持つと意外と軽かった、私は中を覗き込んでみるときれいに包まれた箱と小物が入ってそうな袋がある。

 一つを出すとそれは最近女子の間で話題になっているお店のチョコレートだった。

 どうして雅也君がそんなものを持っていたのかはわからなかったけど、一緒に入れられていた袋の中身を確認して私はすぐに気づくことができた。

 

「これってもしかしてチャーム?」

 袋を開けると綺麗で可愛いアクセサリーが出てきた。手にとってよく見てみると混じり気のない自然な美しさがあってすごくデザインも良い、おしゃれでとっても素敵! 

 

 彼は何でこんなものを持っているんだろう? 私は考えた、こういう時の乙女の感ってすごいと自分でもそう思う。

 チョコレートにアクセサリー、誰かへのプレゼントなのかな? 

 流石に男の義之君にあげるものじゃないだろうし、となると相手は——私、分かっちゃったかも……。

 

「……もしかしてあの子へのプレゼント?」

 彼が女の子に贈り物をするとしたら大方の予想はつく。

 そう、これはきっと篠宮さんにあげる為に買ったものなんだ。

 それが分かった瞬間、私は彼女に激しい嫉妬心を抱いた。

 

 私よりも先に彼に告白して、私よりもずっと雅也君に近い場所にいて、彼の心さえも虜にしようとしている年下の女の子。

 中学の時まで同じ時間を過ごした私を置き去りにするくらい距離を縮めて、私の「恋」の障害になっている子。

 

 いつも身につけているこのネックレス——これを贈られた私は雅也君にとって特別な女の子だと思ってたけど、実際はそうじゃなかったんだ……。私には今の現実を受け入れられない。

 彼の心は自分に向けられていないということを、いつだって触れられる場所にいるのに。

 初めて人を好きになってようやくわかった、辛くて苦しくて泣いちゃうくらい悲しい気持ち、こんな想いをするのは私が雅也君を心の底から好きだっていうこと。

 

 今まではどこか迷いがあったのかもしれない。初めての恋心にどうしたらいいのかわからないで、ただただ感情に任せてただけなんだ。

 でも、ようやくわかった気がする、こんなんじゃ彼が私を見てくれないのは当たり前。

 

 ……あの子が本当に妬ましい。私に向けられていない雅也君の愛情を感じる事が出来るんだから。

 沸々と煮えたぎる様な嫉妬心を燃やした私はチャームとチョコレートを元の紙袋に戻して勢い良くゴミ箱に叩きつける、彼が起きる前にやっておかないと! 

 ゴミ袋の口を縛って明日の燃えるごみの日に出してしまおう。

 これであのチャームが篠宮さん手に渡る事は無くなるわ! 

 

「私だけが特別なんだもん」

 

 

 雅也の初めてのバレンタインのプレゼントが湊に届く事は無い。

 冷たい雪の降る夜はいつまでも長く続いていた。



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聖バレンタインデーに届ける想い

 二月十四日(水)

 

 

 目が覚めると部屋の中は凍えるほど冷え切っていた。僕は携帯で時間を確認する。

 

「まだ二時か……」

 こんな時間に目が覚めるのはあまり眠れていない証拠だ、ふと、隣を見ると一緒に寝ているはずの咲希ちゃん(かのじょ)がいない。

 ベッドから抜け出して真っ暗の部屋の中携帯のライトを頼りに進む、コンビニにでも行ったんだろうか? 

 部屋の中を移動して玄関の方へと向かう。このまま僕が帰っても咲希ちゃんは多分気づかないだろう脇に置いた自分のバッグを持って立ち上がる。

 冷蔵庫を借りて中に入れてあるチョコと湊ちゃんへのバレンタインのプレゼントを忘れないようにしないとな。

 すっと足音を立てずに立ち上がってつつつと床を歩く、僕が扉に手を伸ばした瞬間ドアが開いた。

 

「あれ? 雅也君? もう起きたんだ」

 僕はその場に立ち尽くして彼女の問いかけに小さく頷いた。

 

「ちょっと目が覚めちゃったんだよね。そういえば咲希ちゃんは何をしてたの?」

 

「ゴミを出してたの。朝の早いうちに出しておいたほうが忘れないで済むでしょう?」

 

 咲希ちゃんは僕が家に帰る支度をしているのを見るとそっとドアを閉じた。

 

「かなり早い時間だけれども僕はもう帰るよ」

 左手に持っていたバッグを右手に持ち替えて靴を履くために玄関まで進む──途中、湊ちゃんへのプレゼントを思い出して冷蔵庫の前に足を止めた。

 

「そういえば、冷蔵庫借りてたね。中に入ってるやつ、持って帰るよ」

 ドアに手をかけて冷蔵庫を開けた。けれど中に入れておいたはずの袋が見当たらない。

 

「あれ? この中に袋を入れといたはずなんだけど……」

 僕は中を見回してみる、やっぱり袋が見当たらない。食材を少し動かして袋を探してみたけど見つからない……。

 

「なんで入ってないんだ」

 一旦冷蔵庫から離れてみると傍にいた咲希ちゃんと目が合った。

 

「ねえ? 冷蔵庫に入れていたものって大切なやつなの?」

 

「まあ、そうだね」

 

 彼女の反応を見る限り何も知らないと予想できる──僕が湊ちゃんへバレンタインのプレゼントを贈るのなんて知ってるはずがないんだから。

 

 

「中身を全部出すわけにもいかないしなあ……さてと、どうしようか?」

 顎に手を当てて考えてみたけれど、すぐに答えはなかなか降りてこなかった。

 あれこれ悩んでいると咲希ちゃんがサッと僕の横に来た。

 

「ねえ? 雅也君今日が何の日か知ってる?」

 

「今日は二月十四日だけど……」

 今はとっくに〇時を過ぎているから日付は変わっているから十四日で間違いないはずだ。

 

「バレンタインデーだよね? 今日」

 

 バレンタイン、毎年のように行われているイベントは僕の中ではそんなに特別な感じはしなかった。

 ゲームとかなら結構重要なできごとだったりするんだけどね、もしくは二月十四日生まれのキャラクターもいたりする。

 

 子どもの頃、咲希ちゃんやクラスの女子からお菓子を貰ったことがすごく嬉しかったことを思い出す。

 

 

「そうだね……」

 僕は彼女から視線を逸らす。咲希ちゃんだってバレンタインデーはそこまで特別な日なんかないはずなのに。

 

「私ね、今日は雅也君に渡したい物があるんだ」

 

 そういうと彼女は戸棚を開けて綺麗にラッピングされた箱を取り出した。

 

「これ、私からの気持ち。受け取ってください」

 

「これを僕に?」

 何でだろう。昔も彼女からこうやってお菓子を貰ったことがあるのに今回のはなんか違う感じがする。

 

 僕は咲希ちゃんからのバレンタインのプレゼントを受け取り二人は暫くの間見つめ合う形になる。

 今度は目を逸らさずにじっと彼女の顔だけど見る。

 咲希ちゃんの顔はほんのりとピンク色に染まっているのがわかる。

 どうしてだろう? なんだかドキドキする。

 胸の高鳴りを抑えきれない。だけど、僕はこれから湊ちゃんにプレゼントを渡すんだ、浮ついた気持ちで上げたら彼女に悪い。

 

「やっぱり雅也君はあの子にバレンタインのプレゼントをあげるんだね」

 

 一瞬だけ、睨むような眼をするといつもの彼女らしくないすごい剣幕で僕に迫ってくる。

「私、知ってるんだ。雅也君が冷蔵庫に入れてた紙袋がある場所」

 

「知ってるの? なら教えてくれないか!」

 

「ダーメ。絶対に教えてあげないから」

 

「何でそんなこと言うんだよ」

 

「だって、仮にあの紙袋が雅也君の元に戻ったら、あの子へ贈るつもりなんでしょ?」

 

「さっきから咲希ちゃんが言ってるあの子って誰の事?」

 

「とぼけないでよ! 篠宮さんの事だよ!」

 

「どうして君が湊ちゃんの事をー」

 

 その瞬間、僕はハッとした。僕は咲希ちゃん(かのじょ)の前で湊ちゃんを名前で呼んでしまったからだ。

 

「湊ちゃんって呼んでるんだ。雅也君が女の子の事名前で呼ぶのは小学生の頃の友達だけだったよね?」

 

 何も言い返す言葉は無い。だけど、自分の口から咲希ちゃんに言わないといけない時が来たんだ。

 

「湊ちゃんに好きだって告白された」

 僕がそういうと彼女は手を胸の前でキュッと組み。唇をかみしめた。

 

「人生で初めての経験だった。誰かに好意を伝えられたことは」

 咲希ちゃんは黙って僕の話を聞いているけどその表情は見るのも辛そうな感じだった。

 

「嬉しかった。気持ちが昂った。だってさ、僕は今まで恋愛から逃げて来たんだ、だけどさ、湊ちゃんはそんな僕に素直に想いを伝えてくれたんだ。こんな僕にもう一度を恋をしてもいいんだと教えてくれた」

 

 十年という月日は長く雅也の心の中にいつまでも残り続けていた、ようやく新しい「恋」へと振り出せる、そのきっかけは湊が作ってくれた。

 

「だから、咲希ちゃんに好きだと言われた時は正直理解できなかった。だって、君は十年前に僕を振ってるわけだし」

 

 あの時のことを思い出すだけでも逃げ出してしまいそうになる。

 自分の一世一代のイベントは失敗に終わってしまったのだから。

 

 

 *

 

 

 雅也君の言葉を聞く度に私は過去の自分のやったことを酷く後悔する。

 彼がどんな気持ちであの手紙を書いたのか今なら分かるかも。

 本気で私を好きだと——色々と悩んでそれでも私に告白してくれた。

 愛されてたんだ、こんな私を雅也君は好きになってくれたんだね。

 嬉しい。泣いちゃいそうになるくらい心の奥からポカポカするみたいな感じ、目の前の人が自分の事を愛してくれたんだと。

 

 だけど今は違う……。雅也君の気持ちは私の所には無い。

 告白を断った日から彼の中では私に対する想いは冷めてしまったんだろう。

 もう一度私の事を見てくれる可能性はあるのかな? 

 初めての恋愛は想像していたよりも厳しい戦いになりそう……。

 

 私が雅也君を好きだと分かった時には篠宮さんはもう彼に告白していた。

 私の彼と過ごした時間をあっという間に埋めちゃって、二人の仲に私はひとりだけ置き去りにされてる。

 手を伸ばしてみるけど雅也君はスルリとすり抜けて隣にいる彼女と楽しそうに談笑してる。

 

 こんなにも胸が裂けそうで辛い気持ちになってみて「恋」をしてる事を自覚する。

 

 彼が好きで好きで堪らない。ずっと私の側にいてほしい、何処かに行くなんて嫌……。

 

 小学生の頃は何となくバレンタインデーのお菓子を渡していたけど、今は正真正銘の本命チョコを雅也君の為に用意した。

 この日が来るのを私がどれだけ待ち望んだことか。

 けれど、彼は私じゃなくて篠宮さんへのバレンタインデーのプレゼントを準備していた。

 あの子に似合いそうな可愛いチャームはきっと雅也君が選んだんだろうなぁ。

 どんな気持ちで篠宮さんへのプレゼントを買ったのかな? 想像すると苦しくて辛い……。

 その度に胸元のネックレスをぎゅっと握りしめる。

 

 ネックレスをプレゼントされたのは私だけで私は彼にとって特別な女の子だと自分に言い聞かせる。

 だって、そうしないと泣いちゃうからー。

 好きな人が自分の事を見てくれないのがこんなにも切ないなんて。

 寂しくなる度に自分を慰める行為の回数は増えていく。

 ついこの間まで経験無かったのが嘘なくらいに行為に耽る自分がいた。

 

 篠宮さんへの強い嫉妬心は日に日に大きくなっている。もしもあの子がいなければ私は今頃雅也君と恋人になれてたのに! 

 雅也君が彼女と仲良くしているところを見てるだけで醜い感情が沸き起こる。

 

 咲希は日に日に自分が嫌な女になっていることを自覚しているけど、それでも初めての「恋」を諦めるつもりはなかった。

 

 

 **

 

 

「咲希ちゃん、紙袋がどこにあるのか教えてくれるかな?」

 湊ちゃんに渡すつもりだったプレゼントが入った紙袋のある場所を彼女は知っている、もう嘘はつけない。僕は自分が告白された事を伝えたし。

 

「いいよ、だけどその場所に雅也君は多分入れないと思うけど」

「どういう意味?」

 彼女の言っていることが理解できない。僕が入れない場所? そんなところに紙袋を置いてるのか? 

 

「まだ業者さんは取りに来ないけどね」

「えっ……」

 

「紙袋はね、うちのマンションのごみ置き場にあるよ」

 

 彼女のその言葉を聞いた僕は居ても立っても居られずに靴を履いて外に飛び出そうとする。

 

「待って。雅也君はうちのマンションのゴミ捨て場の場所知らないでしょう?」

 

 彼女の言うとおりで僕はこのマンションに数えるほどしか来てないからゴミ捨て場の場所を知らなくて当然なんだ。

 

「どこにあるの? 教えて!」

 彼女に迫り場所を聞き出そうとするも──

 

「マンションに住んでいる人の鍵が無いと入れないし……」

「そうなんだ」

 その場に腰を落としてがっくりと肩を落とす。

 

「けどさ、どうしてゴミとして捨てちゃったの? 一言声をかけてくれればいいのにさ」

「……嫌だから」

「は?」

「雅也君があの子にプレゼントを贈るなんて嫌だから」

「僕が湊ちゃんにバレンタインのプレゼントを贈っても咲希ちゃんに関係ないことだろう!」

「関係あるよ! 好きな人が他の女の子にプレゼントを贈るのなんて私は許せない」

 

 二人は言い争いを始める。雅也はいつにもなく怒っていて何故咲希がそんな行動をしたのかわからなかった。

 

「とにかく! ゴミ捨て場に連れて行ってくれないかな。このままだと僕のプレゼントが湊ちゃんに渡せないし」

「やっぱりあの子にあげるつもりなんだね」

「そうだよ、だって湊ちゃんは──」

 

 ──そう言いかけて僕は口をつぐんだ。それ以上は何も言い出せなかった。

 まだ迷っているんだろうか? 初めて女の子に好きだと言われた、その子は僕の返事をいつまでも待っている、湊ちゃんに告白の返事をするつもりだったのに僕の心はまだ落ち着かない。

 

「私にはプレゼントを準備してなかったんだね」

「は?」

「篠宮さんにはあげるのに私には何もないんだ」

「いや、だってそれはー」

 二人の間に気まずい空気が流れる——薄暗い部屋の中で見る咲希の顔は雅也に対して真剣な眼差しが向けられていた。

 

「咲希ちゃんの考えてる事が僕には分からない」

 

「私だって初めての経験なんだよ? あなたのことをこんなにも好きになるなんて」

 そう言うと咲希は雅也の手をぎゅっと握る。

 

「本気なの?」

「うん……。私ね、やっと分かったの自分の気持ちが。あなたにもう一度好きになって貰えるように頑張るから」

 

 雅也は咲希の想いをようやく理解できた、あの時の告白はジョークなんかじゃなかったっていうことが。

 二月十四日、聖バレンタインデー。今年の冬は今までとは違う。

 咲希から贈られた本命チョコととびっきりの愛情。

 それは決して幻なんかじゃなく今こうして起こっている出来事。

 雅也は戸惑いを感じながら、自分の気持ちを何度も確認するのだった。

 

 降り積もる雪のようにふわふわと舞い落ちるそれはまるで──



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繋がる心~始まる関係~

 夢だと思っていた。十年前の初恋の人が今、僕のことを好きだと言ってくれている。

 あの時、告白が失敗した日から僕たちの関係は終わりを迎えた。

 僕らは別々の学校に進学して高校時代は一度も会うことがなかった。いつの間にか僕も彼女に告白したのを時々しか思い出さないようになってた。

 それでも、僕の心の中はいつまでも「失恋」の苦い記憶が残り続けている。

 十年も前から僕は何も変わっちゃいない……。

 

 彼女から贈られたバレンタインチョコをじっと眺めてふらふらとしてる自分の心を落ち着かせるために深呼吸した。

 

 今日初めて咲希ちゃんの気持ちが冗談なんかじゃないって気づいた、だってさ、彼女は僕をふってそれから両想いになることなんて絶対にありえないことだって思ってたから。

 彼女への気持ちはとっくの昔に終わってしまっているはずなのに僕の心の中はそわそわして落ち着きがない。

 

 二人の女の子に告白されたこと。

 ──人生でそんな経験をするのはもうこれっきりかもしれない。僕は顔を上げて咲希ちゃんの方を見る。

 

 彼女の真っすぐな目が僕に向けられていた。顔が少しだけ赤くなっているのも分かる。箱を持っている指先にしゅっと熱が伝わる。

 

「雅也君が篠宮さんと仲がいいことは知ってるよ。私は彼女と少しだけ話をしたことがあるから」

 

「知ってたんだ」

 

「……うん。この間、私の部屋に泊まったでしょ? その時に雅也君の携帯を見て篠宮さんと会う約束をしていることを」

 

 

 僕は咲希ちゃんにばれていないと思っていたけれど違ったみたいだ。彼女はそっと自分の胸に手を置くと胸元に輝いているネックレスを握りしめた。

 

「これをプレゼントしてくれたことはすごく嬉しかったよ。それでわかったんだ自分の本当の気持ちが」

 

 言い聞かせるようにそう呟いて雅也の手を握る咲希、初めての「恋」それは決して平たんな道ではないけれど、彼女は何度も雅也への想いを確かめた。

 

 二人の間には独特の空気が流れる。雅也は湊へのバレンタインのプレゼントがゴミに捨てられたことを聞いて咲希の事を理解できない気持ちもあった。

 

「だけど、どうして僕が渡すはずだったプレゼントを捨てちゃったの?」

 

「嫌だったから……雅也君はあの子と仲が良すぎると思うの私かなり嫉妬しちゃったんだ」

 

 初めて知ったんだ。

 ──彼女が僕のことを気にかけていてくれたなんて。

 

「だけど、あれは僕が湊ちゃんへ上げるために選んだんだから勝手に捨てるのは酷い」

 

「ごめんなさい」

 

 ここで咲希ちゃんを咎めたところで状況が変わるわけではないし、そんなことは僕自身もわかってはいた。

 

「湊ちゃんへのプレゼントをゴミ捨て場から回収してくるから一緒に来てくれるかな?」

 

 僕がそう言っても彼女は一歩も動かない。

 

「咲希ちゃん?」

 

「嫌なの、あれを取り戻したら雅也君は篠宮さんにあげるんだよね? そんなの絶対に嫌!」

 

「そう言っても僕だって湊ちゃんに渡せないと困るわけで」

 

「だったら渡さなきゃいいじゃん」

 

 咲希ちゃんは口を尖らせてそう言うとわがままを言う子どもみたいに拗ねる。

 

 彼女の態度に僕はちょっと呆れしまう。

 

 しぶしぶ彼女はゴミ捨て場についてくることになり僕は扉の鍵を借りて中に入る。

 

「この中から見つけるのか……。かなりの量があるな」

 

 朝の早い時間でも同じマンションに住む住人たちのゴミが置かれている、人様のゴミを漁るなんて行為は駄目だとは思うけど仕方ないか。

 

 咲希ちゃんは自分が出したゴミがどれなのか教えてくれない。早く探さないと僕ももう少ししたら会社にいかないといけない。

 

 たくさんあるゴミの山を見渡してからもう一度咲希ちゃんへ訊ねる。

 

「残ねーん。時間切れです」

 

 そういうと彼女は僕をゴミ捨て場から外に出す。太陽の日差しが眩しくて思わず目を細めた。

 

 車のエンジン音が聞こえて周囲を見渡すとゴミを回収する車がマンションの脇に停めてあって業者の人が下りてきた。

 

 僕は業者の人に事情を説明したけれど、結局咲希ちゃんが自分で出したゴミを教えてくれなかったから湊ちゃんへのバレンタインのプレゼントは見つけられなかった。

 

 

(どうしようか)

 

 会社へ向かう電車の中で今後のことを考える。湊ちゃんへプレゼントするつもりだったチョコはもうゴミ回収車の中にある。とっておきのプレゼントを取り戻すことはできない、落胆した僕は肩を落としながら会社に向かった。

 

 

 会社では女の子達がチョコを配っていてもちろん湊ちゃんも同じ部署の人たちに渡していた。

 彼女が準備しているチョコは男女共に人気で仕事が終わってからわざわざお店の場所を聞いているひともいた。

 今日は仕事も手つかずで上の空ばかりだった、帰る時間になったというのになかなか自分のデスクから離れられなくて「はぁ~」と溜息をひとつついてようやく立ち上がった。

 

 

「新堂さん、これから時間ありますか?」

 

 僕が立ち上がった丁度いいタイミングで湊ちゃんが声をかけてくる。

 

「えっ……うん。大丈夫だよ」

 

 僕らは一緒に帰りことになって駅までの道のりを歩く。

 

「ちょっといいですか?」

 

 彼女は足を止めて真剣な眼差しを僕の方へ向けてくる──座って休めそうな場所まで移動すると湊ちゃんはカバンの中から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。

 

「会社で皆にチョコ配ってましたけど、雅也さんには特別なのをあげようと思って」

 

 隣に座っている彼女は優しくはにかんでそう言うと取り出した箱と僕の顔とを交互に見る。

 

「これってもしかして?」

 

「そうです。雅也さんにあげるチョコは私の手作りですよ」

 

 むふんと鼻息を荒くして湊ちゃんはチョコを渡してくれた。

 

「ありがとう」

 

 それを受け取った僕は涙が出るほど嬉しかったけどそんな表情を見せない為にわざと作り笑顔をしてみた。

 

「嬉しいよ本当に」

 

 言葉で何度も感謝を伝えたって足りない。今、目の前にいるこの子の気持ちを感じるとジンジンと胸が痛んだ。

 

「あのさ、実は僕も湊ちゃんにバレンタインデーの贈り物を渡そうと考えてたんだ、だけど、ごめん。ちょっと理由があって渡せなくなっちゃったんだ」

 

「そうなんですか?」

 

「……うん。本当にごめん」

 

「残念だなぁ」

 

 心の底から残念だと思ってくれている彼女に僕は本当の事を言わなくちゃいけない。

 

「あのさ、今日バレンタインチョコ貰うのは実は二回目なんだ」

 

「えっ……?」

 

 

 湊ちゃんの髪がふわりと風に揺られる、いつもよりも真剣な二つの目が僕の方へ向けられている。

 この視線から逃げちゃダメだ。「ふぅ」と深呼吸をして真面目な顔をして彼女の方へ向き直る。

 

「実はさ、咲希ちゃんと会ってた。昨日、仕事から帰る途中に電話があったんだ。それで朝まで彼女の部屋にいた」

 

 胃に刺されたような痛みを感じながら湊ちゃんにこれまでのできごとを話す。

 

「彼女の部屋には何度か泊まったこともある。だけどそれ以上は何も無いから」

 

 今更そんな事を伝えたところでどうなるんだ? っていう話だ、だけどこのまま湊ちゃんに嘘をついたままいたくなかった。

 彼女のことを考えておらず自分の保身の為だと思われたって仕方がない、僕は最低な男だと思う。

 

「それで咲希ちゃんにバレンタインチョコを貰った。そして、彼女の気持ちを改めて知った」

 

「咲希ちゃんは僕に好きだと告白したんだ。湊ちゃんに告白された少し後の話だけど」

 

 彼女は真剣な表情で僕の話を聞いている。このままここからいなくなってしまいそうになるけど、逃げないできちんと向き合わないといけない。

 

「正直、最初は咲希ちゃんに告白されたときは冗談だと思ってた。だってさ、彼女は十年前に僕のことをふってるわけだしさ」

 

 両想いになりたいという僕の希望はあの時に終わってしまったんだから。

 

「それで彼女の僕に対する気持ちが冗談なんかじゃないってことを知った」

 

「初めての経験をしたんだ。二人の人から好きだと言われるなんてさ。本当はずっと隠しておくつもりだっただけどそれはできないと思った。湊ちゃんに僕の気持ちを伝えておかないくちゃいけないからね」

 

 僕は隣に座る湊ちゃんの頬っぺたに手を当てて優しくなぞった。冷たい手に彼女の熱を感じる、すぐに湊ちゃんの顔が見れる位置まで自分の顔を近づける。

 

「ありがとう。こんな僕の事を好きだと言ってくれて。あの時の返事を今するよ、僕も湊ちゃんが好きだ。あの日告白されてから君の事をずっと意識してた。僕で良ければ湊ちゃんの恋人になりたい」

 

 

 嘘偽りのない僕の気持ちを伝える。二人は数秒見つめあうと湊ちゃんはすっと目を閉じる。

 

 僕は彼女の体を抱き寄せて唇を重ねた。咲希ちゃんからされたキスじゃなくて自分から湊ちゃんを求めてやったキス。

 

 告白されたあの日、彼女を抱きしめた時とは違い自然と様になる行為、夜の公園で二人だけを照らすライトがロマンチックだと感じた。

 

 長い間キスを続けた僕らは離れるのが一生の別れになるんじゃないかと思えるくらいに帰りの時間を惜しんだ。

 

 

「それじゃあ僕はここで」

 

「私、帰りたくないなぁ」

 

「僕もだよ。湊ちゃんと離れるのが辛い……」

 

「私も同じ気持ちです。雅也さんとずっとずっと一緒にいたいです」

 

「これから二人だけの時間を取っていけばいいと思う」

 

「……そうですね」

 

 名残惜しそうにする彼女に僕は共感する、できればずっと一緒にいたい、けれど、それがままならない。

 会社の後輩から恋人へ関係を変えた僕たち。

 

 これからは彼女の為にできることは何でもしてあげたい。もちろんダメな事はしっかりと言おう。

 恋人になればお互いの悪いところだって見えてくるかもしれないけれどそれを受け止めて親密な関係になれたらいい。

 改札を出てからホームに続く階段を降りてポケットに入れてある携帯から湊ちゃんにメールを送る。

 いつもは早く打ちすぎて打ち間違えたりする事があるんだけど、ちゃんと文章におかしなところがないかをしっかりと確認してから送信ボタンを押した。

 充電端子の上に付いてるマナーモードのボタンを長押してから端末をポケットに突っ込んだ。

 

 二月の駅のホームには肩を縮めて歩く人が多い。

 ──そんなひとたちに押されながら帰りの電車に乗り込んだ。



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closing chapter
不安と戸惑いの中にある感情


 家に帰りついてからは今日の出来事を振り返っていた。

 湊ちゃんの告白にやっと返事をして僕たちの関係は変わった。

 僕からしたキス、彼女の唇の柔らかい感触を思い出すと全身が火照ってきた。

 二度目の「恋」を今度こそは成功させようと思う。

 こんな僕の事を好きになってくれた湊ちゃんを大切にしていこう。

 ベッドに寝転んで携帯を枕元に置いた。家に帰ってから湊ちゃんからの着信はない。

 でも、それが実に彼女らしいと思うし、今すぐにでも恋人の声が聴きたいのを抑え込んでゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 *

 

 

 僕は夢を見ている。前におんなじ感じのを見たことがあるけど内容はそこまで覚えているわけじゃない、二人の女の子が言い争いをしている場面だ。

 

 夢の中の僕はそんな彼女たちの様子を離れたところで眺めている。言い争いをしている人物が誰なのか気になってちょっと近づいてみるけど白い(もや)みたいなのが掛かっていて顔を確認する事ができない。

 

 激しく感情をぶつける二人の女の子、そんな醜い所を遠くで見ている僕は何だか胸が痛んできた。

 起きてしまったらすぐに夢の内容は忘れてしまうのだからできるだけ夢からのメッセージを受け取ろう。

 

 女の子達はお互いの髪を引っ張たりして喧嘩をしている、男同士の喧嘩とは違いがあるけれど

 ——かなり激しい争いだ、髪を掴まれた女の子は涙目になるつつも相手に反撃する。二人は一歩も譲らない。

 ——髪を掴まれていた子はバランスを崩した相手のお腹にパンチをする。

 たまたま体重の乗ったパンチは格闘家さながらの威力で打ち出され、受けた子はお腹を抑えて地面に座り込んだ。

 今度は彼女の方が涙目になり乱れた呼吸を整える。

 顔も分からない女の子が喧嘩しているところを見るのは何だか不思議な感じがする。

 離れた場所で様子を伺う僕に片方の女の子が気づいて後ろを振り返る! 

 相手の顔が分かる前に僕は更に深い眠りについた。

 

 

 **

 

 

 雅也さんに告白した日からずっとこの瞬間を待ってたのかも。

 私は彼に抱きしめられた時の事を何度も思い出す。

 悶々とした感情が浮かんで来るけどそれ以上に泣いちゃいそうになるくらい嬉しい。

 

 私達は今日恋人同士になりました。

 ──冷たい部屋の中でもポカポカとするくらい熱く感じた。

 私のファーストキスは大好きな人に捧げる事ができた。

 お互いの気持ちが通じ合って初めて恋人になれた。

 こんな私を雅也さんは好きだと言ってくれた。先に告白をしたのは私からだけど、雅也さんからの返事はかけがえのないものだと思うの。

 

 ちょっと話が逸れるんだけどー私は恋人ができたのを家族に話した。

 妹の夏帆は最初、ニヤニヤとして私をからかうような事を言ってきたけど最後には「おめでとう」と祝福してくれた。

 お父さんは私に彼氏ができた事に舞い上がっていつも少しずつしか飲んでいなかったお酒を出して飲み始める。

 お母さんからは恋愛に対してアドバイスを貰う。機会を作って雅也さんを改めて家族に紹介しようって言うアイデアも浮かんで来た。

 

 篠宮家の夕飯は普段よりも豪勢で、私自身家族の温かさを再度確認出来た。

 いつか雅也さんとこんな家庭を作れたらいいなぁ。

 そんなに遠くない将来に焦がれて今の状況が夢なんかじゃないって言うのを確かる。

 

(大丈夫だよね、きっと)

 

 ちょっぴり不安な事があるの、それは浅倉さんのこと。

 ──雅也さんの初恋の人で最近十年振りに再会した相手。

 彼の心の中では十年前の失恋がいつまでも残っている。

 悔しいけれど、私が雅也さんに出会って一緒にいた時間よりも浅倉さんと過ごした時の方が多い。

 最初に彼が好きになった人は私じゃなくて別のひと……。

 どうして神様はそんなイジワルをしたんだろう? 

 もしも私が雅也さんの初恋の相手だったらこんなに不安な気持ちにならなかったのになぁ。

 

 あの日の公園で浅倉さんの雅也さんへの想いを知った。

 彼女が身につけていたネックレスは彼がプレゼントしたものなんだろう。

 あんな素敵な物をプレゼントされた彼女が妬ましい。

 

「どうして今頃になって……」

 

 初めて浅倉さんと会った時、彼女はまだ雅也さんが好きじゃ無かったと思う。

 それから私の知らないうちに彼女の気持ちが変わるような出来事があったんじゃないかな、もしも、私が問いただしたら彼は本当のことを教えてくれるのかしら。

 雅也さんの心をずっと繋ぎ留めておきたい、他の女の子の事なんて見ちゃ嫌! 

 

 これから同じ時間を過ごして彼の嫌な一面だって見えてくるかもしれないけどきちんと受け止めていこう。

 もちろん嫌なとこは私からもしっかり言おうと思う。

 欠点の無い人間なんていないんだからお互いにそういうのを言い合えるような関係でいなくちゃね。

 湊は気持ちを新たにして恋愛に向き合っていこうと決意した。

 

 

 ***

 

 

 ちょうどその頃、咲希は友達の明日奈と会う為に出かける支度をしていた。

 急な用事に戸惑ったけれど、大学からの付き合いである友達の頼みを無碍に断る訳にもいなかった。

 

 夜に外に出る機会はそれほど多くない。冷たい風に体を丸めながら待ち合わせ場所のファミレスへ向かう。

 周りには紙袋を下げたひとが多くいる、きっと皆バレンタインの贈り物なんだろう。

 町を歩いていると人気のアーティストが歌う歌が流れてその曲に足を止めるひともちらほらいる。

 私の前を歩いているカップルは人目も気にせずに肩を寄せ合う

 ──ああ言うのを見ていても前は何も感じなかったけれど今は違う。

 私も雅也君とあんな風に一緒に歩きたい、彼の事を考えると冷え切った体に沸沸とした感情が湧き上がって来る。

 やっと自分の本当の想いを伝えられた。毎日身につけているこのネックレスは最高のプレゼントで雅也君が好きだという気持ちに気づかせてくれた大切なもの。

 一度も恋愛を経験した事が無かった私が今ではもうすっかり恋する乙女に変わっていた。

 一日中雅也君の事を考えてるの、もっと彼の事を知りたい。

 私が知っている雅也君の情報と言えば中学生時代までの子どもの頃のやつばかり。

 私の中では彼との思い出なんて無いし、学生時代は気持ち悪いとも思っていた。

 高校に入学してからは一度も会わなくて共通の友達でもある義之君から雅也君の話も聞かなかったし。

 

 それが何の因果なのか東京で十年振りに“再会”した彼は私よりも背が高くて落ち着いた感じの男の人になっていた。

 正直、最初は何とも思わなかった。私の好きなイケメン俳優比べても地味でカッコいいなんて微塵も感じられない普通の男性ってイメージ。

 

 ただ、昔は性格が悪いと思っていた雅也君の優しい一面を初めて見た時私の中の彼のイメージが少しずつ変化していった。

 ネックレスを無くした私の為にとっても寒い中必死に無くし物を探してくれた事、肩にまで雪の積もった服でネックレスを届けてくれた事、そしてこのネックレスの意味を店員さん聞いた時に私は気づいた。

 十年経ってようやく気づけた堪らないほど切なくて息が苦しくなるほどの強い想いと愛情。

 こんなにも一人のひとを好きになるなんて思いもしなかった。

 ちょっといきなり過ぎだと思われるかもしれないけど、恋愛経験が全く無かった私でも分かるくらい雅也君を好きになる。

 

 ただ、そんな中ある一つの不安要素がいつも私を弱気にさせる。

 それは何かというと十年前の彼の告白を断った過去

 ──昔に戻ってやり直したいくらい後悔してる……。

 当時の私は恋愛に興味が無かったから仕方ないと言えばそれまでなんだけど、過去のたった一つの過ちが初めての「恋」の大きな障害になってる。

 私がいつまでも自分の本当の想いに気づかなかったせいで雅也君の心は今、一人の女の子に向けられている。

 出会ってからそんなに時間が経っていないはずなのに彼女は雅也君を惹きつけた。

 私が彼と出会って過ごして来た時間をあっという間に追い抜いて親密になっていく篠宮さんに激しい嫉妬心を抱く。

 恋愛の神様は平等じゃなくて私に試練を与える。

 バレンタインのプレゼントだって雅也君は篠宮さんにだけ用意してた。

 可愛いデザインのチャーム。

 彼はそれを彼女に贈ろうとしていた。私には何もプレゼントを準備してくれてなかった……。

 

 

 明日奈との待ち合わせ場所に到着した私は不機嫌な顔をして席に座る。

 明日奈は先に来ていて料理をいくつか注文してた。

 私の微妙な変化にすぐに気付いた彼女は「何かあった?」話しかけて来る。

 私は重く息を吐くと明日奈にこれまで出来事を話し始める。



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もう一度あの人の一番になる為には

「明日奈に聞いてほしい事があるんだ」

 

「何? どんな話」

 

 彼女は注文したコーヒーに一口口をつけるとカップを置いて私の方へ向く。

 

「あのね、私、雅也君に告白したの」

 

「マジ? 咲希にしてはやるじゃん」

 

「私にしてはってどういう意味よ!」

 

「まあまあ怒らない怒らない」

 

 頼んでいた料理に手をつけ始める明日奈をよそに私は今日まであった事を話した。

 

「へえー。あたしが知らないうちにそんな事になってたんだ」

 

「……うん」

 

「咲希の話を聞く限りかなり厳しい戦いになりそうね」

 

「やっと好きな人ができて一世一代の告白をしたけど失敗したと」

 

「まだ失敗してないもん」

 

「わかってるって、で? どうなの? 良い返事はもらえそう?」

 

「わかんない。もしも良い返事を貰えなかったらどうしよう……」

 

 途端に不安になって俯く私に明日奈はさらっとした言葉を返す。

 

「新堂君が先に別の子から告白を受けてて、その子は彼とすごく仲が良いんだよね?」

 

「……そう」

 

「そっかー。正直なところあたしもこういう経験無いからどんな風に言えばいいのかわかんないけど、咲希がもう一度彼に好きになってもらえるかがポイントじゃない?」

 

 一番気にしている事をさらりと言う明日奈に私は小さく頷いて肯定する。

 今の私がもう一度雅也君に好きになってもらうにはどうすればいいのか何度も考えていたから。

 

 彼は私のどこを好きになってくれたんだろ? あの時にちゃんと聞いていればこんなに悩む事なんてなかったのに……。

 自分でも知らない部分に惹かれたのかな? 

 初めて「恋」をしてわかったのは私が考えていた以上に複雑で思い通りにはいかないって言う事。

 前に読んだ恋愛小説のヒロインみたいな女の子に私はなれっこない。

 

 今まで私を好きだと言ったのは雅也君だけで、私自身も異性と積極的に関わっていくタイプじゃないから恋愛とは無縁だと思っていた。

 

 逆に私は彼のどこが好きなんだろう? 顔ならもっとイケメンな人はいるし、なんなら私の好きな俳優の方が数倍もカッコいい。

 男性としての魅力を感じて惹かれてた訳じゃない。

 

 でも、気づいたの……。人を好きになるのに外見で判断しちゃダメって。

 こういうのはごく自然と巡り合う形で訪れるものじゃないのかな。

 あの時、私が駅で落とし物をしなければ私達が再び巡り合うきっかけもなかった。

 私も彼も違う時間を過ごしてそれからはいつもと変わらない日々を生きていく。

 それが何の運命かもう一度私は雅也君と出会った。

 これはきっと偶然なんかじゃなくてそうなるべくしてなった結果だと思うの。

 だってそうでしょう? 十年も会っていなかった相手とまた会えるなんて言う出来事が現実で起こったんだから。

 

 私達は結ばれる運命にあるんじゃないかな? 夢見がちだと思われてもいい、私はそう信じているから。

 

 ただ、それなのに現実はままならない。私が雅也君への想いを自覚した頃、篠宮さんは彼に好きだと伝えていた。

 本当だったら私達はすぐにでも恋人同士になって今頃は二人で同じ時間を過ごしていた。

 私に気を遣って篠宮さんと会うのを隠してた彼。

 ──私と彼女の差はどんどん広がるばかり。

 一番欲しいものってなかなか手に入らないって言うのは聞いた事があるけど、本当にその通りだと思う。

 というか私自身がもっと積極的になるべきなんだ。そうしないと雅也君を篠宮さんに取られちゃう。

 

 

「これから私はどうしたらいいんだろう……」

 

「咲希がもう諦めてるならそれでも良いんじゃない? ただ、あたしが思うに今諦めたらあんたは一生彼氏ができないわよ」

 

 明日奈の言葉が胸に突き刺さる、これまで私なら彼女の言葉何て軽く受け流すのに今はそんな余裕もない。

 

「深刻だね、正直、咲希が恋愛の事でこんなに悩むなんて思いもしなかった」

 

「自分でも驚いてる『恋』をすると女ってこうも変わるものなんだなって」

 

「良い傾向じゃない? 今までの咲希は恋愛なんか全く興味示さなかったわけだし」

 

「こういう事を相談出来る友達は明日奈しかいなくて」

 

「まあ、あたしもそんなに恋愛経験が豊富って訳じゃないけどね。咲希よりは多いかなー。でも、まだ付き合ってるひとはいないんだよねぇ」

 

「いっぱい悩んだらいいと思うよ。初めての体験なんだしさ、正直あんたが恋愛で苦労するなんて考えもしなかったしね」

 

「今まで経験して来なかったから色々と不安なの」

 

「友達としてあたしに出来ることは咲希の恋を応援するって事かな。あんたが意中の彼と上手くいくように出来る限りは力になるわよ」

 

「ありがとう」

 

「ちょっと! これくらいの事で泣かないでよ!」

 

 明日奈の言葉が嬉しくてつい泣いちゃった私を落ち着くまで宥める。

 それからはこれから先どうしたらいいのか二人で話し合う。

 ──もう一度雅也君にちゃん会って話をすること、自分が彼と関係を変える為に行動しなくちゃいけないこと、明日奈は真剣に考えてくれた。

 応援してくれる彼女の為に頑張ろうと思う。

 二十三時を過ぎても東京はまだどこも明るい、雪がチラつく中しっかりとした足取りで家に向かう。

 冷え切ってる手でスマホを操作して一つの電話番号に電話した。

 

 

 *

 

「ん? 電話か」

 

 枕元に置いてある携帯へ手を伸ばして通話ボタンを押す。

 

「もしもし。誰?」

 

 まだ完全に起ききれていない頭で寝ぼけ気味に着信相手に尋ねた。

 

「もしもし雅也君、咲希です。今大丈夫かな」

 

 着信相手からの声が届いたのを確認してから僕は聞き手とは逆の手に携帯を持ち替えて通話を続けた。

 

「咲希ちゃん? どうしたのこんな時間に……」

 

 丁度目の前にあるデジタル時計で時刻を確認すると〇時を過ぎていた。部屋の中は冷え切っていて携帯の明かりで顔が照らされる。

 息を吐いたら白かった。暗い部屋がパッと明るくなって一瞬目を細める。

 

「もしかしてタイミング悪かった?」

 

 ちょっと涙声で言う咲希ちゃん。

 

「〇時って大抵は寝てる時間だと思うんだけど……。それで何の用なの?」

 少し不機嫌にそう言って彼女からの要件を聞く。

 

「あのね、今度の土曜日空いてる?」

 

「土曜? 特に予定はないけど」

 

「だったら会えないかな?」

 

「また急だね、ていうかこの間会ったばかりじゃん」

 

「……うん。そうなんだけど」

 

「会うだけで特に用があるわけじゃないんだよね?」

 

「ちょっと話したい事があるの」

 

「電話じゃダメなの? 改めてかけてくれたら話は聞くけど」

 

「電話じゃ嫌。直接会って話がしたいの」

 

 どんどん涙声になる咲希ちゃんに良心が痛んだ。昔から彼女のこういうところには弱かった。

 僕は電話を耳に押し付けたままふぅと大きく息を吐いた。

 

「わかった。いいよ。僕も咲希ちゃんに話さないといけない事があるし」

 

 それは僕が湊ちゃんと付き合うことになったということだ。咲希ちゃんが僕を「好き」だと言ってくれた事が未だに信じられないけど、僕は自分の気持ちをはっきりと彼女に伝える必要がある。

 まっさらで何も予定が無かった土曜日に外せない用事ができた。

 

 咲希ちゃんと会う約束をしてからもう一度寝る為に目を閉じた。

 この間見た夢は見る事がなく僕は訪れる睡魔に抗わずに身を任せた。



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冬の街を優しく照らしながら

 雅也さんと恋人同士になれた私は今の状況が夢なんかじゃないって事を改めて確かめる。

 スマホに連絡先に登録してある雅也さんの電話番号を眺めると自然と頬が緩む。

 私の初恋はいい結果になった。大好きなひとと両想いに、憧れから恋愛に感情が少しずつ変わっていくのを実感しながら毎日過ごしていた。

 あの人と出逢ってそんなに経っていないけれど、日々を過ごすうちに好きになっていった。

 私の想いはブレなくてずっと変化せずに今に至る。

 だから、自分から雅也さんに告白した時はなったその場から残る逃げてしまいそうな感情を抑え込んでた。

 子どもの頃から内気な性格で自分の気持ちを上手く伝えられなくて苦労したのが咄嗟に蘇る。

 

 そんな私が自分から告白なんて大胆な行動をしたのには驚いちゃう。

 名前で呼び合うようになってから日は浅いけれど男の人に名前で呼ばれるなんこれまで経験してなかったからとっても嬉しい。

 

 寒い空の下で彼に抱かれて人の温もりを感じたの。やっと片思いでしかなかった私の「恋」が始まった。

 喧嘩をしたり相手の嫌な部分も知るんだろうけど、その度に想いを伝えていない時期を思い出そう。

 

 テレビに映るイリュミネーションの美しさ心を奪われる。もう二月だけど冬を感じさせる綺麗な装飾はチカチカと人工の光を放って道行く人を照らしている。

 

「綺麗……」

 

「あら、湊はすっかりテレビに夢中なのね」

 

 お母さんはテーブルにお皿を運んで料理の準備を始める。

 私はエプロンを付けてお母さんを手伝う為にキッチンに立つ。

 

「ありがとう。今日は量も多いから手伝ってくれるのはありがたいわ」

 

「良いよ。私も料理する好きだし」

 

 篠宮家のキッチンからはいい匂いが広がる。夏帆がもう少しした帰ってくる頃だろうから頑張ったあの子にあったかいものを作ってあげよう。

 家族と食事をする時間は私にはかけがえのないもの、笑顔の溢れる家庭が好き。将来、私も雅也さんとこんな家族を作れたいいなぁ。

 

「湊、お昼に作ったケーキはバッチリよ」

 

「本当? 初めて作ったから上手くできたか不安だった……」

 

 最近では料理以外にお菓子作りに興味を持ってお母さんに相談したり本に載っていたレシピを試しに作ってみたの。

 彼女として出来ることは精一杯やっていこうと思うの。

 

 今度また彼を食事に誘う時に食べてもらいたいからー。

 

 私は雅也さんの心を癒したい。彼はずっと十年前の失恋を引きずって来たのだから、私がそばにいて雅也さんの心が安らぐのなら──大好きな人が苦しいのは嫌だから……。

 

 

 東京に降る雪はいつだって変わらないはずなのに私たちの関係は違っていた。

 これからは恋人と過ごす時間が増えて新しい景色を見て初めての体験いっぱいするのかな。

 

 *

 

 恋人へのプレゼントって何をあげればいいんだろうか? 

 湊ちゃんに喜んで貰えるようなものを贈りたい。東京には色々な店があって選ぶのは苦労しない。

 贈り物をする回数はこれから増えて来るだろうから自分のセンスを磨かなくちゃいけない。今度デートした時に彼女が欲しいものを聞いてみよう。

 初めてできた恋人を愛おしく感じる。こんな僕でも好きだと言ってくれた後輩の子──もうそうじゃないんだけどね、今はたった一人の僕の好きな人。

 

 あの頃、女の子を好きになった気持ちが十年経って再び湧き上がる。

 また「恋」をできるきっかけを貰えた。街照らす街頭は賑やかな光を放ちその眩しさを遠くから眺める。

 一人で街中を歩くのは嫌いじゃない、白い息を吐いてポケットに手を入れて歩くスピード緩める。

 

 田舎に住んでいた頃は冬の楽しみ方は積もる雪で雪合戦したり雪の上に寝転んだりして遊んだ。雪が降ると色々な遊びができて楽しかったなあ。

 僕がかつて住んでいた場所は雪も雨もたくさん降るところ、子どもの時は当たり前過ぎて気にならなかったけれど都会で暮らすようになって改めて地元が懐かしいと思う感情が湧いてくる。だけど、帰ろうとは思わないんだけどね。

 

 そういえば僕が風邪をひいた時に湊ちゃんと咲希ちゃんがお見舞いに来てくれた事を後で母さんに突っ込まれた。

 夜に帰宅した際に流しに食器が重ねてあるのに気づいて母さんに状況を聞かれたから僕が教えた。

 息子が女の子を二人も家に招いたのが珍しかったらしい。別に僕が呼んだ訳じゃないんだけど……。

 母さんと湊ちゃんはまだ会ったことはないけど、咲希ちゃんとは小学生時代に何度か会っている。

 僕と彼女は中学までクラスメートなんだけど、母さんはいつも仕事が忙しくて授業参観とかの学校行事に参加する機会は少なかった。

 だから小学生時代の友達の名前は覚えているけど中学からクラスメートになった子たちは全く知らない。

 母さんは義之君のお母さんとは仲が良くてこっちに引っ越してからも頻繁に連絡を取り合ってる。

 

 ちなみに僕に恋人ができたっていうのはまだ家族には伝えていない。そのうち機会を見て言おうかなと考えている。

 

 久し振りに僕が子どもの頃の話を始めたので黙って聞いていた。正直、子どもの時の話は聞くたくない……。

 なぜかと言えば本当に考えや行動がガキで自分がやった事が恥ずかしくて嫌だからだ。

 特に小四の時は咲希ちゃんの事を好きなんじゃないか? と意識し始めた年でその頃から彼女へ接する時はかなり緊張した。

 告白したのは中学を卒業してからだけど、僕の咲希ちゃんへの想いはわりと早い段階から芽生えていた。

 

 クラスには他に可愛い子がいたんだけど僕の目には咲希ちゃんしか入って無かった。女の子の成長の速さにドキドキしていた。中学生の頃の彼女はスタイルが良くて体育の授業の際は目のやり場に困った。

 髪をポニーテールにして小学生時代から変わって若干大人びたイメージを見せていた。時々見せるはにかんだ笑顔が好きだった。

 ずっと片思いをしたまま卒業までその想いを伝えないできた。

 

 そうだ、あの頃の僕は純粋に彼女に「恋」していた。

 初めての恋心を大人になりきれていない僕は戸惑う事もあったけれど、咲希ちゃんに好きな人がいないと知った時、彼女に告白しよう決断する。

 当時の僕は携帯も持っていなかったし彼女へ連絡する手段は限られていた。電話で伝えても良かったんだけど、もしも親が電話に出た時は告白気まずくなるから結局、手紙を書くことに決めた。

 自分でレターセットを買って切手も準備した。

 ──いざ手紙を書こうとするとなかなかいい文章が思いつかない。

 

 悩んで手紙が手付かずになる事だってあった。勇気を振り絞ってペンを走らせて書いた内容は今でも忘れやしない。

 

 メールやLINEが広まる前は手紙で気持ちを伝えていたんだな。

 ラブレターの書き方何て誰も教えてはくれないけれど中学生の僕は自分の気持ちをストレートに相手に届けようと考えていた。

 ポストに投函してからは咲希ちゃんからの返事が待ち遠しかった。

 もしも両想いになれたらいいなあと思ってた。

 ──だけど、そんな淡い期待を彼女からの返事の手紙は打ち砕いていった。

 

 〈もう二度と私に話しかけないで!〉

 

 その文章を読んだ時、僕の初恋は終わってしまった。人生で恋愛経験の多いひと、少ないひとそれぞれいるんだろうけれど僕はその日以来「恋」をする事を辞めてしまった。

 友達の義之君は咲希ちゃんとはあまりやり取りをしてる訳じゃないんだけど、僕は彼に自分が告白したのは教えた。

 義之君は何も言わずに僕の話を聞いてくれた後、気分転換の方法を教えてくれた。

 

 それから十年の間、彼女なんて作らないで好きになれる女の子もいなかった。

 そんな僕をちょっとずつだけど変えてくれた子──それが湊ちゃん。

 会社でも人気があっていい子が僕と関わりを持ってくれた。

 二人で過ごす時間は増えてきて、僕が咲希ちゃんと一緒だった九年間なんてあっという間に埋まってしまう。

 というか湊ちゃんの方が親しい関係だと言えるかな。

 

 土曜日にもう一度咲希ちゃんと会う約束をしたけどその時に僕の方から彼女をフル事になりそうだ。フラれたらあの時の僕の気持ちが咲希ちゃんはわかるようになるんだろうか? 

 例え泣かれても僕は言わなくちゃいけない。

 

「もう君への想いは冷めてしまったんだから」

 と僕の片思いはとっくに終局を迎えたんだから。

 咲希ちゃんの告白を断らないとこれからの湊ちゃんとの幸せに支障が出るだろうし。

 

 咲希ちゃんが僕を好きだと言ってくれたのを嬉しくなかったのか? と言えば嘘になる。

 女の子から好意を持たれたら誰だってそう思う。

 ましてや彼女はずっと密かに想い続けた相手──だけど、彼女が考えている以上にあの時のラブレターの返事が僕らの関係を変えてしまったんだから。

 

 

 十年間経ちようやく気づいた咲希の本当の想いは儚くも辛い現実を突きつけられる。三人の人間関係に些細な綻びが見え始めたのだった。



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White breath

「うん、それじゃあ土曜日にね」

 

 雅也君との通話を終えてスマホをベッドの上に置く、ふと天上を眺めると暗い部屋の中をライトの灯りが一瞬だけ照らす。

 好きな音楽でも聴こうと思い携帯にイヤホンを刺して音楽アプリを起動する。

 お馴染みの曲が流れて来てリラックスして目を閉じた。

 そういえば雅也君はどんな曲が好きなんだろう? 

 よく考えたら私は彼の好きなものを一つも知らない気がする。義之君に聞いたら教えてくれるかしら。

 人を好きになってからは毎日その人のことばかりを考えてる。

 二月の寒さはまだまだ厳しいけれど、私は部屋で彼と触れ合ったのを思い出す。

 十年前の自分ならこんな「恋」をすると言うのは予想もできないと思う。

 

 寝る時も身につけている彼からプレゼントされたネックレスが白銀の輝きを示してくれた。正直私には勿体ないくらいの代物。

 

 冬は嫌いでは無いけど今までは特別な感じはしなかった。

 だけど、この冬に私は初めて「恋」をした。自分の中にある気持ちに気がついてひとりの人を好きなった。

 十二月生まれの雅也君は冬は好きなんだろうか? 私の中の彼のイメージは中学生の頃で止まっている。

 

 この十年間で彼にどんな出来事があったんだろう。子どもの頃とは違って落ち着いた男性に成長した同級生を見て私は最初何とも感じなかった。

 駅で偶然に再会してなかったら私たちはそれぞれ別に道を歩いていたんだろうなぁ。

 違った未来を想像してみたけどしっくりこない。

 私が雅也君ともう一度巡り逢う前に篠宮さんは彼と出会っていた。

 

 ただ単に雅也君と仲が良い女の子ってだけなら私もそこまで気にする存在じゃない。

 

 だけど、それだけじゃ無い。彼女は雅也君に告白した最初の相手。

 彼のお見舞いに行った時に仲の良さそうな感じだった。もしかしたら篠宮さんはずっと雅也君を想い続けていたのかも。

 

 自分の本当の気持ちに気がついて雅也君へ想いを伝えたタイミングは最悪……。

 私は篠宮さんの言葉を思い出した。彼はこの十年間、失恋の苦い思い出を忘れる事ができずにいたこと、その原因を作ったのは彼の告白の手紙に私が返事した内容。

 過去の出来事が今の私の恋愛の最大の障害になるなんて。

 その事実を知ったのはほんの最近で篠宮さんに言われなきゃ気づきもしなかった。

 

 同じベッドで寝たのに雅也君は私に手を出さなかった。自分が女として見られていないんじゃないかと不安になる……。

 競争相手がいない恋愛ならこんなに焦ったり不安感を抱く事もない。

 

「ずっと触れていたい」

 

 つい独り言が漏れてしまう。ひとり暮らしをしていて寂しいなんて感じた事なかったのに今は彼ともう一回触れ合いたいと思ってしまう。

 私からしたキスは思い出すだけで顔が真っ赤になる。

 

 そうして私の手は自然と下着へ伸びる。

 

「んっ」

 

 パンツの上から性器に触れると艶かしい吐息が漏れる。初めて自慰行為をした時からどんどん回数が増えていく。

 ベッドのシーツを汚すわけにはいかないから私はそのままの状態でお風呂場に移動した。

 

「やっぱり大きすぎかな……」

 

 下着姿で鏡の前に立つ、子どもの頃から大きなおっぱいにはコンプレックスがある。

 先ずサイズちょうどいい下着を探すのも一苦労だし可愛いデザインのものも少ないし男性からの視線も気になる。

 小学高学年の頃から大きくなり始めて初めてブラを付けたのは五年生の時、六年生にもなると体育の時間では体操服の上からでも胸の膨らみが確認できた。

 まあ、あの頃のクラスの男子は私のそんな悩みなんて知らないだろうし気にもしていなかったと思う。

 

 私はふと昔の事を思い出した。そう言えば雅也君とはよくペアを組んで体育をやってたっけ。

 小学生の時は誕生日で出席番号が割り振られるから七月生まれの私の次の番号は雅也君だった。

 

 体育の授業で柔軟をしている時、優しく体に触れてくれた。

 小学生の彼との思い出なんて数える程もないんだけど何故かそんなことばかりは覚えていた。

 

 中学生のなった頃の私は体の成長に戸惑いを覚えていた。周りの子たちもそれなりに発育がよかったけど、体育の時間はいつもスポーツブラを身につけてた。

 幸いに授業の時にジロジロと私の胸を見る男子はいなくて安心した。

 

 他の子は普通の体育の授業には参加していたけど水泳は見学する子が殆どだった。

 私は小学生時代はスイミングスクールに通っていたし泳ぐのは好きだからきちんと授業に参加した。

 

 ただ、スクール水着って体のラインがくっきりと出るし胸の大きい私は泳いだ後にはみ出したりしないかが心配だった。

 更衣室で着替えていると「咲希ちゃんはおっぱいが大きくていいなぁ」なんて他の子達に羨ましがられた。

 

 

 自分の体に多少のコンプレックスを持って大人になった。

 鏡に映る自分を見るとパンツの中に手を入れたまま──一旦手を離してからブラのホックを外す。

 プルンって言う擬音が聞こえてきそうなくらい曝け出された胸は揺れている。

 乳首はちょっぴり立っている。私はそのままパンツも脱いでお風呂場に入った。

 おっぱいもお尻も大きくて本当に困っちゃう……。

 お風呂場の鏡で裸になった自分の姿を眺めていると体が火照ってきた。

 

 ベッドを汚さない為にお風呂でオナニーをするようになったのはごく最近の話。行為終えてそのままシャワーを浴びられるのがいい。

 

 椅子に座った私はゆっくりと胸に触る。自分のおっぱいを触るなんて今までは無かったのに。

 柔らかい感触を感じながら胸を揉んでいく。感度の良いおっぱいは揉んでいるうちに乳首を勃起させる。

 勃起した乳首の先っぽを摘むとビリビリとした感覚が全身に走る。

 両手を使い左右の乳首に刺激を与えていく。

 

 甘い吐息が漏れて私はどんどん積極的になる。今までオナニーをした事がなかったからかすっかり快感の虜になっていた。

 休みの日は一日中しているなんて事もある。回数も増えて日に日にエッチな女の子変わっていく。

 

 ちょっぴり汗をかいてきたけど気にせず続ける。

 

 ──おっぱいから手を離してそのまま下に伸ばす。

 

 敏感な場所に触れると一瞬ビクんと体が反応する。もう濡れ始めているそこを触るとネバネバとした愛液を出していた。

 なぞるように触っていると頭もぼーっとしてくる。指先はベトベトになっちゃうんだけどしている時は気持ちいいからいっか。

 一旦椅子から立ち上がってお風呂の壁に手をついてお尻を突き出した。

 

 お尻はぶるんと揺れて私はそのままオナニーを続ける。

 床にポタポタと愛液が垂れてエッチな臭いがお風呂場に広がる。

 

「すんすん」

 

 私は鼻を鳴らしてその臭いを嗅ぐ。自分がこんな変態だとは今まで知らなかった。

 鏡には蕩けた顔が映し出されてる。その顔を見ているとオマンコを弄るスピードは早くなる。

 

「はっはっ」

 

 発情した雄犬みたいな声が出ても気にせずに続ける。

 

「今日は違うのも試してみようかな」

 

 濡れてベトベトな指を舐めていると鼻を刺すような刺激臭いが広がる。それを吸いこんで指をお尻に指を近づける。

 

「お尻でやるのは初めてだけど……」

 

 さっきまでオマンコを弄っていたものをお尻の中に突っ込んだ。

 

「んあっ♡これいいかも♡」

 

 指先はすっぽりとお尻に入り今まで感じた事が無いような感覚が私を襲う。

 

「お尻でするのってこんなに気持ちいいんだー。オマンコでするのとは違う」

 

 今日の私の変態度は二割増しな気がする。こんなところを誰かに見られてたどうしよう。

 部屋には鍵を閉めているしオナニーをしていている時の声は隣に聞こえないように配慮はしているつもりだけど。

 

「これやばっ! 最高に気持ちいい♡」

 

 お尻とオマンコの両方でやるのが最高に堪らない! なんで私ずっとこんなに気持ちの良いこと知らなかったんだろう。

「恋」をしなかったらオナニーなんて知らずにいたんだろうと思う。

 

 ぐちゅぐちゅっていう卑猥な音がお風呂場に響いていく、乱れ切った自分の顔を見ると更に変態度が増してくる。

 

「私の変態な顔もっと見てぇ」

 

 頭の中では雅也君とセックスをしているのを妄想しながらオナニーを続ける。

 彼と繋がりたい──セックスしたい! 

 

 

「チュウウウウウウ」

 

 お風呂場の壁にキスを浴びせる。目を閉じると雅也君とチューしてる感覚になる。そんな妄想をしながら何度も壁にキスをする。口から涎が溢れ出てくる。

 壁にキスしながらお尻とオマンコを同時に刺激するのを続けるといよいよ私の体にも変化が生まれてくる。

 この感覚は何度も何度も経験した。最高に気持ちの良いあれ。

 

「んああああっ♡」

 

 絶頂に達した私はビクビクと体を揺らして壁に凭れる(もた)

 何度もイキ続けても性欲はなかなか治らない。

 

「はあっ、こんな変態的なことでイッちゃった」

 

 イキ終わっても腰はガクンガクンとしてるしお尻もおっぱいも揺れてる。

 イッた時におしっこも一緒に出てしぶきを上げた。黄色い液体は臭いにおいを放って勢いよく外に出される。

 床には私の愛液とおしっこが混じったものが伝って排水溝に流れていく。

 一度呼吸を整えた私はまだ満足できないで続きを始めた。

 

 結局、この日はこの後十回以上イキ続けてようやく性欲が治まった。

 熱めのシャワーで身体を洗い流す──ポタポタと滴を滴らす髪の毛をタオルで吹き上げドライヤーで乾かす。

 濡れたパンツは新しいもの変えてブラジャーを付けようとした時にあるものがない事に気がついた。

 

「忘れるとこだった……」

 

 洗濯籠に入れた服の中からネックレスを取り出して身に付ける。

 雅也君にプレゼントされた日以来お風呂以外でこのネックレスを外した事はない。

 キラキラ綺麗に光ネックレスを見てうっとりする。素敵なデザインで本当に良いものだなぁ。自然な輝きで見ていて心が落ち着く。

 

 これを私に贈ってくれた彼の事を想うと──胸がドキドキしてまた体が火照って来た。

 

 たった今着替えたばかりなのにまた汚す事になるのは避けたい……。

 

 悶々とした気持ちを抑えてベッドに入る。今日はなかなか寝付けないかも。

 体を冷やさないようにタイマーをセットした暖房を入れてから眠りつく。

 彼を想いながら目を閉じた。



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spin chapter
あなたを想いたい


咲希ともう一度逢う為に彼女のマンションを訪れた雅也。
今まで恋人ができたのを言えずにいたが、やっと伝える決心をして咲希の告白の返事をすることに


 二月十七日(土)

 

「行ってきます」

 

「どっか行くのか?」

 

「ちょっと友達のところにね。夕方までには帰ると思う」

 

 兄ちゃんと少しだけ話をして僕は靴を履いてマンション出る。

 夕飯には帰るつもりだから財布と携帯に家の鍵、あとSuicaも忘れないようにしておかないとな、持ち物は少なめで行こうと思う。

 今日は咲希ちゃんのところへ行く予定、彼女に僕の気持ちを伝えなくちゃならない。

 僕が湊ちゃんと恋人になったこと彼女は受け入れてくれるだろうか? 

 ちょっとばかり不安にもなるけどきっと大丈夫だろう。

 今朝は曇り空が広がっている。それはまるでなかなか晴れる事のない自分の気持ちを表しているかのようだった。

 

 

 *

 

「もう朝なの?」

 

 目が覚めた私は目を擦りながら洗面所に向かう──鏡に映る自分の顔は超ブサイク……。こんな顔で彼に会ったら嫌われちゃう! 

 顔を洗って歯磨きを済ませて髪にドライヤーかける。

 普段からおしゃれにはそこまで気をつかうわけじゃないんだけど、今日はこれから人と会うのだからしゃんとしておきたい。

 

「今からシャワー浴びても大丈夫だよね」

 

 髪型をセットするのにドライヤーを使っているけど、ま、いっか。

 私は服を脱いで洗濯籠に放り込むと冷え切っているお風呂場に足を踏み入れた。

 

 シャー! 

 

 ちょっぴりぬる目のお湯で全身を洗い流してスポンジを手に取る──ボディソープを泡立ててから優しく体を洗う。

 休みの日にシャワーを浴びるのはあまりやらない。休日は家で本を読んで過ごす事がほとんどだから汗をかいたりしないからシャワーを使う必要もないし。

 眠気は吹き飛んで心地の良い感じ! うん、今日も良い日。

 髪を乾かして本棚から一冊の本を抜き取って床にピタんと座る。

 

「ふぅ」

 

 リラックスした私はそのままの体制で読書を始めた。

 ──小学生時代から本を読むことが好きで、たくさんの物語に出会ってきた。大人になってもそれは変わらないんだけど流石に読むペースは子どもの頃よりも落ちた気がする。

 紙の手触りと独特な香り、ページをめくる度に新しい世界が広がる。

 本の世界は素晴らしい。今読んでいるのはもう何度も読んで内容を理解しているんだけど、何回読んでも面白いと感じる。

 読書をしているとあっという間に時間が過ぎる。まだ九時前だけど早く雅也君来ないかなぁ。

 

 

 その頃、僕は休日でも人が多い電車に揺られながら目的に向かっていた。

 景色が左に流れて行くのをぼんやりと眺めながら考えごとをする。

 今日咲希ちゃんの告白に返事をする。その後、彼女とこれまで通りの関係を続けていけるんだろうか? 

 男女の間に友情は存在しないっていうのが僕の考えでもある。

 咲希ちゃんとの関係は変わって行くんだろうな。

 吊革を持つ手に力が入る、電車は時刻通りに駅へ到着した。僕はサッと手を離して他の乗客と一緒に電車を降りた。

 駅のホームには冷たい風が吹いている──降りると同時に手をポケットに入れて改札へ続く階段を登った。

 

 咲希ちゃんの住んでいるマンションまで歩く途中見知らぬ女の子に声をかけられた。連絡先を教えてほしいって言われたけれ、やんわりと断って咲希ちゃんのとこへ。

 

 何度か訪れているマンションは変わらないでその場所にある。僕は彼女の部屋番号を押して呼出ボタンに触る。

 

「雅也です。今着いたよ」

 

 と言うと三〇秒も経たないうちにマンションに自動ドアが開いた、目の前にあるエレベーターに乗り込んで七階のボタンを押してドアを閉めた。

 

 *

 

 ピンポーン

 

「誰だろう?」

 

 インターホンの音に気づいて近寄るとモニターに映る人物を確認する。

 

「雅也です。今着いたよ」

 

 画面に映し出された相手の正体を知ると私はドアロックの解除ボタンを押した。

 雅也君が部屋を訪ねて来るまでの間彼の分のスリッパを玄関に並べる。

 

 ピンポーン

 

「はいはい」

 

 今度はドアのインターホンが鳴ったから私は靴を履いて扉の鍵を開けた。

 

 ガチャリ

 

 部屋の扉が開いて中から咲希ちゃんが姿を見せてくれる。

 僕が中に入ると彼女はドアを閉めて鍵をかける。

 

「いっしゃい。上がっていいよ」

 

 招き入れるような仕草する彼女の言葉に従って僕は靴を脱いで準備されていたスリッパに履き替えた。

 

「座って待っててね」

 

 ポンと僕の目の前にクッションを置いた咲希ちゃん「あったかい飲み物を準備するね」って言ってキッチンへ。

 

 沈黙が続く彼女の部屋をぐるっと見回してクッションに座った。

 炬燵に足を入れてズボンのポケット手を出して座りこんだ。駅から歩いてマンションに来たからちょっと疲れてる。

 自分の日々の運動不足を疎ましく思いながら暖かい飲み物準備してくれている彼女を待った。

 

「お待たせ」

 

 手に二つのマグカップを持って来るとコトンと僕の前に置いた。

 中を覗くとインスタントのコーンスープが湯気を立てながらコーンの香りを運んできた。

 咲希ちゃんは自分の分のマグカップを置くとペタンと座る炬燵に足を入れる。

 僕らは無言でスープを啜る──冷えている体の暖かい飲み物は格別だ。ふと顔を上げると彼女は僕がスープを飲んでいるとこを眺めている。

 目が合う二人、数秒見つめ合う形になったけれど、僕はすぐにマグカップに視線を戻した。

 

「ごちそうさま」

 

 僕がスープを飲み終わるとちょっと遅れて咲希ちゃんもカップ空にした。

 

「洗って来るから待ってて」

 

 そう言うと二人分のマグカップを手に持ってキッチンへ戻って行った。

 僕の前に腰を屈めた時に彼女の胸元に身につけているネックレスが綺麗な輝きを放っていた。

 前に言っていた通り咲希ちゃんはあのネックレスをいつも身につけてくれているようだ。

 自分がプレゼントしたのになんか嬉しくなる。

 

 食器を洗い終えた彼女は短い髪の毛を掻き分ける仕草をしてちょこんと座る。

 僕達の間に静寂な時間が流れる。

 ──お互い何か言いたそうな素振りは見せるんだけどなかなか言葉を発する事が出来ないでいた。

 咲希ちゃんから何かを言い出すのなら僕は待つつもり。

 

「今日、雅也君に来てもらったのは大事な話があるからなの」

 

 沈黙に耐えられなくなって彼女は苦笑いしながら先に話し出す。よく見ると顔がちょっと紅潮しているかのように見える。

 

「あのね、私、やっぱり雅也君の事が好きです」

 

 恥ずかしそうに僕に気持ちを伝える咲希ちゃん表情はいつにもなく真剣だ。

 

「そう言ってもらえるのは嬉しいよ」

 

「ホント? 私の気持ち、迷惑じゃない?」

 

「自分の事を好きだって言ってくれる子が迷惑なんて思わないよ」

 

「それじゃあ──」

 

 咲希ちゃんは立ち上がると僕の隣に女の子座りして僕の手をそっと握る。彼女のその仕草は飾らないごく自然な感じがして可愛いなあと感じた。

 

 そのまま僕の胸に頭を預けると背中に手を回してガッチリとホールドする。

 僕は彼女にされるままで何も抵抗しなかった。キスしそうなくらい顔を近づける二人。

 

「これが私の気持ちです……。あなたとずっと触れ合っていたい。堪らまないくらい好きなの。自分の欲望も制御できなくなるくらいに」

 

 彼女の大きな胸が押し付けられる──僕の心臓の鼓動が早くなるのがわかった。

 僕が何も言わないから咲希ちゃんは力を入れてぎゅっと抱きしめる。僕の胸に位置に彼女の頭があって顔を上げて上目遣いで見つめて来る。

 目が合うと彼女ははにかんで照れくさそうな笑顔を見せてくれた。

 

 二人の距離はどんどん近づく──彼女は握っている僕の手に指を絡めると体を寄せた。フワリとした良い匂いを嗅いで僕は彼女の頭を撫でた。

 頭を撫でられると咲希ちゃんはその細い目の目尻をトロンと下げて喜びを表してくれた。

 密着した姿勢のまま咲希ちゃんは僕に最大限の愛情を示してくれる。

 

「私の初めての『恋』だから、雅也君にもう一度私好きになってほしいの……。自分に自信がないの、雅也君は昔、私の事を好きだって言ってくれたよね? ずっと知りたかったの、私のどんなとこを好きになったの?」

 

 素直に疑問をぶつけて来る彼女に僕はいい加減な気持ちで接する訳にはいかないと思い僕が彼女に惹かれた理由を話し始める。

 

「聞いたら咲希ちゃんがどんな反応するかわからないけど、それでも知りたい?」

 

「……うん。教えてほしい」

 

 真っ直ぐな視線を向けられて僕は目を逸らさずに優しく微笑みかけてまた彼女の頭を撫でた。

 

「僕がね、咲希ちゃんの好きだったところは笑顔だよ」

 

「笑顔?」

 

「そう。はにかんだ様に笑う君の笑顔に惹かれたんだ。初めて好意を持った小四の時からずっと好きだった」

 

「小学生の頃からなんだ」

 

 咲希は雅也がそんな昔から自分の事を好きでいてくれたのを知って泣きそうになるくらい嬉しかった。

 

「あれ? 告白の手紙にも書いた気がするんだけど、もう十年も前の事だから忘れちゃった? 好きな理由は書いてなかったけれど、好意を持ったのはその頃からだよ」

 

 告白の手紙を捨ててしまった咲希は雅也に言われるまで思い出せなかった。軽く自己嫌悪に陥る。

 

「最初は外見から好きになったけど、その後は咲希ちゃんの内面も含めて好きだなって思うようになったんだ」

 

 嬉しい。今にも泣き出しちゃうくらい、自分では可愛いと思えなかった私の顔を好きだと言ってもらえた。ちょっとだけ自信が溢れて来る。

 この人の気持ちは遊びなんかじゃ無かった。真剣に考えて私の事を好きでいてくれた。

 自分がこれほど愛されていたなんて今頃知った──改めて彼の事が大好きだと確信できた。

 

「もう一度私を愛して下さい」

 

 色々悩んだけどもう迷わない! 私は雅也君が好きなの。こんなにも大好きだと思える相手に「恋」をしたんだ。

 彼からプレゼントされたネックレスは雪みたいに白くて私の心を染めていく。

 私はそのまま雅也君の顔を自分の唇へと近づける。

 ──あの時みたいにキスがしたい! そっと目を閉じて唇を重ねる為の心の準備をする。

 息苦しいほど心臓の鼓動が早くなり密着させている箇所から少し汗ばんでくる。

 

 ──次の瞬間、私の顔は彼から遠ざけられた。

 

「えっ……?」

 

 何が起こったのは理解するまでの間に、彼は抱きしめていた私の腕を振り解いていた。

 

「僕も咲希ちゃんに言わないといけない事があるんだ」

 

 雅也君は私から離れると今さっきとは違った反応をする。

 

「咲希ちゃんの気持ちはすごく嬉しい。嬉しいんだけどその想いに僕が応える事はできないんだ」

 

「あのさ、僕はもう恋人がいるんだ」

 

「えっ……?」

 

 彼のその言葉に私の目の前は真っ暗になる──

 

「──ちゃんと言うべきだと思うから伝えるけどその相手は湊ちゃんだよ」

 

 彼はゆっくりとそう告げると私の事なんて眼中に無いかのように話を続ける。

 

「湊ちゃんに告白されて、それで返事をしたんだ」

 

「うそ」

 

「本当だよ。僕らは付き合っている」

 

 雅也君の言葉が信じられなかった。ううん信じたくない……。

 

「もっと早くに君伝えていたらこんなに悩まずに済んだよね。ごめん」

 

「だから僕は咲希ちゃんとは付き合えない。電話やメールじゃなくて自分の言葉で君に伝えたかった」

 

「僕たちの関係もこれでお終い。もう僕から咲希ちゃんへ連絡する事はないし、このマンションにも来ない」

 

「どうして?」

 

「えっ」

 

「どうして私じゃなくてあの子なの? 私はそんなに魅力ないの?」

 

「そうじゃないよ。咲希ちゃんに魅力ないなんて一言も言ってない」

 

「じゃあどうしてよ! 私はこんなにもあなたが好きなのになんで私を選んでくれないのよ!」

 

 急に大声を出した私に雅也君は面をくらった顔をする。困ったような表情を見せるとその理由を教えてくれた。

 

「言わないでもわかってると思ってたから敢えて何も伝えなかったけれど、僕が咲希ちゃんをもう一度好きにならない理由を教えるよ」

 

「だってもう君への想いはあの時に冷めてしまったんだから」

 

「もしかしてそれって……」

 

「そうだよ。僕の初恋が終わったあの日。その時の心の傷は十年経った今でも癒えていないんだ」

 

「……そんな」

 

「あの告白が失敗に終わった時に僕の咲希ちゃんへの気持ちは完全に消えてしまった」

 

「だから、君がどんなに努力しようと僕の想いが変わる事はないんだ」

 

 その言葉を聞くと咲希ちゃんはわんわんと泣き始める。心配になったけれど、気にしないことにした。だって、もう彼女と逢うのはこれが最後だから。

 失恋した苦しさや辛さは体験してみないとわからない。咲希ちゃんも僕と同じようにその気持ちを知るんだろう。

 

 今まで言いたかった事を伝え終えた僕は目の前で泣きじゃくる女の子を部屋に残して玄関に向かった──途中、かつて僕が好きだった笑顔を浮かべる咲希ちゃんの顔が脳裏をよぎったけど、ぶるぶると頭を振り打ち消した。

 そうして僕は少し罪の意識を感じて家路に着くのだった。



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Crystal of snow

 家に帰り着いてからは疲れがどっと押し寄せて来た。

 あの後、僕は帰りの電車の中で考え事もせずに真っ直ぐにマンションにたどり着いた。

 

「あれで良かったのかなあ」

 

 泣いている咲希ちゃんの顔を思い出すと胸が痛む、自分で決めたはずなのにな。

 携帯に登録してある彼女の電話番号を削除しようとキー操作をする。

 

 他人との関わりを断つ際に僕がやるのはその人に関わる全ての情報を自分の元から消す。

 例えばとあるゲームを二度とプレイしないと決めたらそのゲームに関する情報をシャットアウトする、Twitterとかで繋がりのある人とはフォローを外して相手のツイートをタイムラインに表示されないようにして自分の目に留まらないようにする。

 

 だから、もう咲希ちゃんとは関係を持たないと決めたのなら彼女に関する事を切り離さなくてはいけない。

 アドレス帳を開いて彼女の番号を消去する為にキー操作。

 

 〈OKボタンで削除します〉

 

 ディスプレイに表示される無機質なメッセージしたにある、OKボタンのにキーカーソルを合わせる。

 一度大きく深呼吸すると携帯の決定キーを押す──

 

 〈削除しました〉

 

 連絡先の削除を知らせるメッセージを見た僕は携帯を閉じて横に置いた。

 

(これ良いんだ)

 

 そう自分に言い聞かせる。良いんだ、だって僕はもう咲希ちゃんには会わないんだから。

 後悔も何も無い。彼女との関係はあれっきりなんだから。

 

 僕の初恋の相手、【浅倉咲希】ちゃん。

 十年前の片思いは実ることが無い「恋」だった。

 彼女に振られた日から僕の中での彼女に対する想いは消えてしまったのだから。

 もう一度咲希ちゃんを好きになるなんてあり得ない。

 

 彼女は十年経った今頃になって自分から本当の気持ちが分かったようだ。

 もしもあの時の僕に今と同じ感情を抱いていたのなら僕らの関係は変わったんだろうと思う。

 どんなに咲希ちゃんからの愛情を受けたとしても僕には彼女の気持ちが信じられない。今の関係から恋人同士になるなんてイメージが湧かないし第一に僕自身がそういう関係を望んでいない。

 失恋すれば僕が受けた悲しみとか理解できるだろうし、咲希ちゃんにとっても新しい「恋」を見つけるきっかけに繋がるんじゃないかと思う。

 これからは恋人である湊ちゃんとの時間を大事していこう。

 

 真っ暗な部屋の中で電気も点けずにカーテンの側まで寄ると隙間から差し込む光が足元を照らす──僕はカーテンを開けて夜の景色を眺める。

 チラチラ雪が降る、寒さで凍えそうな手に息を吹きかけて窓硝子に触れると氷のような冷たさを感じる。

 今年の冬は去年とは違い寒さが厳しいなあ感じる。

 何でもないはずの僕の日常はゆっくり変化していく、僕は湊ちゃんへの想いを再確認するとまだ雪が降る外の景色を見ながらしばらくの間部屋の中に立ちつくした。

 



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取り戻せない過去

 雅也君が出て行った部屋の中でポツリと取り残される私はさっきまで起こった出来事を振り返っていた。

 彼が私に惹かれた理由を聞く事ができた、自信持って無かった自分の顔──笑顔が好きだと言ってもらえた。

 私が雅也君に笑顔を見せた回数なんてそんなに無いはずなのにそれが彼を惹きつけていたなんて知らなかった。

 

 小学生の頃からずっと私に好意を持ってくれていた事、改めて知ると胸が張り裂けそうになる……。

 生まれて初めて私に好きだと伝えてくれた人──

 

 ──なのに私は彼への想いに最近になってようやく気がついた。

 

 自分でも本当に嫌な女だと思う……。

 

 雅也君を抱きしめた時の感触を思い出して手でほっぺを触る、こんなにもあの人が好きで今まで「恋」を経験した事の私が変わっていくのが分かる。

 

「最初は外見から好きになったけど、その後は咲希ちゃんの内面も含めて好きだなって思うようになったんだ」

 

 雅也君に言われた言葉が何度頭の中で再生される。彼の私への気持ちの大きさを感じた。小学生の時からずっとこんな私を好いてくれた。

 

「私ってかなり鈍感だったんだ」

 

 恋愛に興味無かったのもそうなんだけど、雅也君の気持ちに気づかなくてあの手紙を貰うまで彼が私に好意を持っているなんて知ら無かった。

 

 過去はやり直す事はできない、もしもそれが可能なら今すぐにでも過去に戻って雅也君の告白への返事をしたい。

 

「どうしてあんな酷い事しちゃったんだろう」

 

 自己嫌悪に陥る。当時の私の気持ちを汲み取って彼への手紙の返事は最善な選択を選んだはずなのにね。

 

「……諦めたくない」

 

 涙で濡れた目元、真っ赤になった鼻を見ても現実を受け入れるのは難しかった。

 

「あの告白が失敗に終わった時に僕の咲希ちゃんへの気持ちは完全に消えてしまった」

 

 彼に言われた言葉が心にずしんと重くのしかかる。雅也君が篠宮さんと恋人同士になったというのを聞かされた。

 

 私よりも早く彼に気持ちを伝えた年下の女の子──

 

 ──羨ましい、妬ましい。私に向けられるはずの愛情を全部あの子が独占してる。

 

 嫉妬で狂いそうになる、胸元のネックレスにギュッと握る。金属の冷たさがやけにリアルで私の気持ちをざわつかせる。

 

 子どもの頃泣き虫だった私は雅也君の悪気なく言った言葉で悲しんだ事がある。彼からしたらいつも泣いてばかりの女の子だったかもしれないん

 だけど、ケンカした事は一度も無かった。泣いてる私に彼が必死になって謝っていたのを思い出した。

 

 中学生になってからは前よりも話をする機会も減っていった。部活の終わりにたまたま一緒に帰った事がある、けれど私たちの間に会話は無かった。

 

 私は雅也君が好きそうな話題を必死に探しているうちに駅のホームに着いちゃった。

 田舎に住んでいたから都会みたいな改札がある駅は全く無い、帰りの汽車は同じでも私は友達といる場合がほとんどで彼は一人でいる事が多かった。

 

 女子が恋話で盛り上がる中、私は教室で本を読んでいた。

 

「咲希ちゃんは好きな人っているの?」

 

 急にクラスの子が私に話題を振ってきた──特定の誰かを好きだと思っていなかったか「好きな人なんていないよ」とだけ答えて本の続きを読む。

 いつのまにか私は恋愛に興味のない子って言う周囲の認識に変わっていった。

 正直、中学生で彼氏彼女の関係になるなんて早すぎるんじゃないかと思う。

 恋愛経験は無いけど、小説とか漫画で恋愛の絡み話は読んだことはある。

 高校生になってからは中学時代よりも恋愛の話題を聞くことが増えてきた。

 

 クラスの男子の誰が良いとか言う会話を聞いても私にはパッとしなかった。

 

「浅倉さんって真面目だよねー」

 

 クラスメイトからそんな言葉を受けとっても私の心に変化は無かった。

 

 

 あの日、雅也君に好きだという告白をされてから私はそれ以降男の子に好意を伝えられていない。自分でも好きだと思える相手にも出会わなかった。

 それから大学生になって明日奈から合コンに誘われる機会もあったんだけど良いと思える人は見つからなかった。

 

 

 だから、この「恋」が私にとっては初恋なの。初めて一人のひとを好きになった。

 今まで経験した事のない気持ちや感情が湧き出してくる。

 いつも彼の夢を見る。恋人同士になった私たちは幸せな時間を過ごし、私は雅也君に寄り添って一緒に歩く。

 そんな細やかな幸福をお互いにシェアしながらゆっくりと関係を深めていく。

 

 だけど、現実は夢のようにはいっていない。私の気持ちは雅也君に届くのは凄く難しい……。

 今まで苦労するなんて言うのは少なかったけど、今が一番ままならない。

 大好きな人に触れたいと言う私の気持ちはどんどん大きくなるばかり。

 息が苦しくなるくらい胸が痛む。

 

 もしも篠宮さんよりも先に私が彼に告白していたらどうなっていたんだろう? 

 

 私の気持ちを受け止めてくれたのかな? 

 

 胸元に輝くネックレスは綺麗な色で私の心を包み込む。初めて異性からプレゼントされた贈り物──

 

 ──ただそれだけなら私の中でのこのネックレスの価値なんてたかが知れているんだけど、それだけじゃないの。

 

 

 私の彼への想い気づかせてくれた。自分が愛されていたのがわかった時、私の中でたった一つの大切なプレゼントに変わった。

 

 自分の気持ちに迷いそうになってもこのネックレスが思い出させてくれる、もう私の心に迷いなんて無いの。

 

 雅也君が愛おしい。ずっとずっと一緒にいたい、ううん、それだけじゃないの。彼と人生を歩いていきたい。日に日にその感情は強くなるばかり。

 

 

 諦めるなんて嫌……。

 

 この「恋」を成就させたい、その為なら──

 

 

 咲希の雅也への気持ちは冷めるどころか更に強くなる一方、恋人ができて一段落したと思っている雅也はそんな彼女の想いなど到底知る由も無かった。

 三人の間の空気が変化して行く予兆を感じさせていた。



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意外な出会い

 二月十八日(日)

 

 湊ちゃんに連絡して僕は今日は彼女と過ごす事にした。

 会社でいつも顔を合わせているのに電話をかけるのはまだ緊張する。

 左手で携帯を操作しながらペン立てからシャープペンとメモ帳を取り出す。

 デジタルな記録方法が一般的になってきたけれど、僕がアナログなやり方を試す事が多かった。

 

 待ち合わせ場所と時間をメモ帳に書き写しページの部分を切り取ってポケットに入れた。

 恋人ができてから初めて一緒に過ごす時間──それを大切にしたいと思う。

 近いうちにまた湊ちゃんの家にお邪魔する事になっている。僕は向こうの両親に気に入ってもらえたようだ。湊ちゃんの妹の夏帆ちゃんに会うのも楽しみ。

 

 次は僕の番、湊ちゃんを自分の家族に紹介しなくちゃいけない。

 僕に恋人ができたというのを知って母さん達がどんな反応をするのか気になる。

 ワクワクとした感情を抱いて僕は家を出る。外は冬の厳しい寒さが続いていた。

 

 *

 

「……来ちゃった」

 

 私は雅也君の住むマンションの前にいる、彼がいる時間を狙ってやってきた。

 急に訪ねてびっくりさせようっていうのが本当なんだけど彼の部屋で話をしたいと思った。

 私は「ふぅ」と深呼吸をしてからマンションの中に入る。

 

「あら、どうしました?」

 

「えっ……」

 

 丁度歩き出そうとするタイミングで女の人に声をかけられた。

 女の人はじーっと私の顔を見ると何か言いたそうな表情を見せる。

 

「ごめんなさい。あなたの顔昔、どこかで見た事があるような気がして」

 

「ああ、いえ。私はー」

 

「ああ! 思い出したわ。あなたもしかして咲希ちゃん?」

 

「えっ……?」

 

「人違いならごめんなさい。あなた確か【浅倉咲希】ちゃんでしょう?」

 

 女の人は私の事を知っている風に話す。だけど、私には女の人は顔見知りじゃない。

 

「ああ、そういえば私はあまりあの子の授業参観とかに参加する事が少なかったから覚えてないわよね、私は新堂雅也の母です」

 

「ええっ!?」

 

 これから雅也君に会うつもりだったけど先に思いも寄らない人に出会ってしまった。

 

 

「寒かったでしょう? うちでゆっくり温まって行っていいからね」

 

 雅也君のお母さんはすぐに部屋に暖房を入れてくれて「寒いからこれを着て」と上着を持ってきた。初対面のはずなのに自分の母親のように世話をやいてくれる。

 

 元々雅也君に会いにきたつもりだったのに彼のお母さんと会ってしまった。私が彼に会いに来た事を伝えると何も聞かずに家に上げてくれた。

 お母さんのお話によると雅也君は朝の早い時間に出かけたそうで、帰宅する時間はわからないみたい。

 

 雅也君のお母さんは小学生の頃数えるほども会っていないはずなのに私の顔を覚えてくれていた。

 

「咲希ちゃん綺麗になったわね」

 

「そんな事ないですよ」

 

 私は恥ずかしくなって俯き気味に応える──まだ雅也君のお母さんと目を合わせられていない。

 

「雅也が小学生の頃にちょっとだけしかあなたの事を見かけなかったんだけど、それでもなんとなくだけど、覚えていたのよ」

 

「あなたも東京に住んでいたのね。あの子はちっともそんな事話さないから。今だってせっかく咲希ちゃんが来てくれているのに家にいないし」

 

 お母さんは私に暖かいコーヒーとケーキを出してくれた。確か彼にはお兄さんもいたはず。二つ年上の彼のお兄さんは小学生の頃に何度か会った事がある面白い人だったというイメージ。

 

 

「今でも雅也とは仲が良いの?」

 

「えっと。それは……」

 

 出されたケーキを食べながら彼のお母さんとお話しする。初めて話をしたけど、とても良い感触で変に緊張する事も無くケーキ会話ができた。

 お母さんは家に彼の友達が訪ねて来るのを喜んでいた、私もつい長話をしてしまう。

 

 彼の家族と話せる機会が出来たのは今日の収穫──結局私は十九時過ぎまで雅也君の家で時間を過ごす事に。

 お母さんは帰って来ない彼に不満を言いつつ夕飯の支度を始める。

 

 

「私も何かお手伝いします」

 

「大丈夫よ。あなたはお客様なんだからゆっくりしてて」

 

 申し訳ない気持ちにもなったけどせっかくの好意を無碍に扱う訳にはいかず私は夕飯が出来るまでの間、じっと待つことにした。

 

 

 時刻は十九時を少し過ぎた辺り──私がソワソワし始めると雅也君のお母さんに「夕飯食べて行って」と言われ帰る時間を変更した。

 

 二十分を過ぎると雅也君のお兄さんである健吾さんが家に帰って来た。

 お兄さんは初め知らない子が家にいる事に驚くとすぐにお母さんから事情を説明されると「いらっしゃい」と一言だけ言って自分の部屋に入ってしまった。

 お兄さんが帰宅しても雅也君本人はまだ家に帰って来ない。

 料理が冷めると悪いからと私は夕飯をご馳走になる。

 

 食事中に特に会話はなかった。せっかく雅也君のお母さんが作ってくれた料理の味もわからないくらい私は緊張してした。

 

 

「それじゃあお邪魔しました」

 

「はい。外は寒いから気をつけてね」

 

 玄関で靴を履いていると雅也君のお母さんから「家に帰ったら食べて」とお菓子の詰め合わせを貰う。

 

「ありがとうございます」

 

 私はお礼を言ってお菓子を受け取り外に出る。

 

 

「寒っ……」

 

 すっかり冷え込んだ二月の夜の下を駅に向かって歩いている途中で今日の出来事を振り返る。

 雅也君には会えなかったけれど、彼の家族と一緒に過ごす機会があった。

 小学生の頃からの友達である私を彼のお母さんが覚えてくれていたのは嬉しい。

 実はお兄さんが帰って来るまでの間お話したんだけどお母さんは私が彼の事を好きな事にすぐに気づいたみたい。

 だけど、根掘り葉掘り状況を聞いて来る訳じゃなく私が話しやすい話題を選んで会話を続けてくれていた。

 

 

 新堂家の人に受けいれて貰えたらいいなぁ。

 私の「恋」まだまだこれからだけど意外な出会いに私はほっこりして家に帰るのでした。



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小さな変化をもたらしそうな予感

 電車に揺られながら湊ちゃんとの待ち合わせ場所へ向かう。

 品川駅は相変わらずひとが多くて油断すると迷ってしまいそうだ。

 まあ、渋谷駅ほどじゃないけどね、あれは一種の迷宮と言ってもいい。

 エスカレーターの手すりに手をかけて乗り換えるホームに降りて行く。

 恋人に少しでも早く会いたいと思った僕は自然と早足になる。

 電車を乗り換えて目的の駅に到着するまでそんなに時間はかからなかった。

 

 駅を出た僕はキョロキョロと辺りを見回す。

 

「いた」

 

 すぐに湊ちゃんを見つけた。壁に寄りかかってスマホを弄っている彼女の姿は何気ない都会の風景にしっかりと馴染んでいた。

 僕は人混みをかき分けながら彼女の元へ──

 

 ──彼女はスマホを触りながら待ち人が来るのを今かいまかと待っている。

 僕が近づいて来るのが分かった湊ちゃんはそのまん丸な瞳を僕の方へ向けた。

 右手を挙げて彼女に自分の場所を教えると数歩進んでから湊ちゃんの横に立つ。

 

「おはようございます。雅也さん」

 

「おはよう。湊ちゃん」

 

 パッと明るい表情を見せる彼女に僕は優しい気持ちになる。僕らは細やかな挨拶を交わすと人の多い街中を一緒に歩き始める。

 彼女が遅れた時はピタリと足を止めて待つ。湊ちゃんは申し訳無さそうな表情を見せるけれど、僕といる時は気を遣ってほしくない。

 

 僕たちはショッピングを楽しむ。湊ちゃんが唸りながら服を選んでいるところを眺めていると幸せなんだ。

 不意に見せる彼女の自然な仕草がドキリとする。綺麗な長い髪は歩く度に揺れる。

 横を見ると湊ちゃんが微笑む──僕はそんな彼女をとても愛おしいと感じる。

 

 この気持ちは大事にしないといけない。初めて女の子から好きだと伝えられた事、もちろんそんなのは今まで一度たりとも経験した事がない。

 僕に告白した彼女の気持ちは分かる。自分も昔、咲希ちゃんに告白した事があるのだから。

 直接伝えてくれた湊ちゃんと違ってあの時の僕は手紙で想いを伝えた。

 

 もう一度「恋」をできるきっかけを貰えた。

 

【篠宮 湊】

 

 彼女には感謝したい。僕らは映画館で映画を観ることになった。今日上映されている映画のどれを観るか考えている彼女を余所にみる。

 

 僕は自分の好きなアニメの劇場版が公開されているのが気になっていたけれど、そんな素振りを見せないように振る舞った。

 

「雅也さんは何か見たいやつありますか?」

 

「えっ……? ああ、そうだねー」

 

 アニメのグッズを手に取っている時に湊ちゃんに話しかけられた僕は慌ててグッズを元の棚に戻して彼女の元へ。

 

「僕は湊ちゃんが見たいやつでいいよ」

 

「……そうですか。でも、雅也さん見たい映画あるんじゃないですか?」

 

 アニメの映画が見たいなんて言ったら彼女はどういう反応をするだろうか。自分のオタク趣味を否定する訳じゃないけど、女の子でそういうのに興味がある子はいるのだろうか? 

 

「実はね、僕が好きなアニメの劇場版が公開されててずっと気になっていたんだ」

 

 親に叱られた子どもみたいに俯き気味にそう答えると僕が予想していた応えとは違った反応が返ってくる。

 

「じゃあ、それを見ましょうか。私、全然知らないんですけど、初見でも楽しめますか?」

 

「うん! 楽しめるよ。ストーリーが面白くてキャラクターも魅力的なんだ」

 

 二人分のチケットを買って上映まで時間があるから僕は湊ちゃんにアニメの説明をする。

 もちろん彼女には自分の趣味の事とか包み隠さず話した。

 

 

「あー面白かった」

 

「私も初めて見たんですけど、面白かったです」

 

 映画館から出た僕たちは下の階にあるレストランで食事をしていた。湊ちゃんと映画のどこが面白かったのか話をしながら料理を届くのを待った。

 

「正直なところ僕がああいうのが好きだって言うのは湊ちゃんには内緒にしとこうと思ってた」

 

「どうしてですか?」

 

「いやね、ほら、女の子ってアニメとかゲームに興味ないイメージあるからさ。湊ちゃんだって普段はアニメ見たりゲームをしたりしないってさっき言ってたじゃん」

 

「僕の周りにいた女の子は興味のない子ばかりだったし」

 

「確かに私はそういうのは詳しく無いです……。けれど、趣味に人の評価って大事なんですか? 自分が好きならそれでいいと思います」

 

 湊ちゃんに言われた言葉に僕はハッとした。そうだ、子供の頃からゲームとかが大好きでそれは成長した今も変わらない。

 僕はいつの間にか趣味に他人の評価とかを気にするようになっていたんだ。

 忘れていた、彼女に言われて思い出したんだ、好きなもの純粋に楽しむ気持ちを。

 

「恋人なんだから私といる時は気を遣わないで下さい。自分の気持ちに遠慮する事なんてないんです。私は雅也さんをもっと知りたいんです」

 

 彼女の優しい笑顔に僕は泣きそうになるの堪えながら「ありがとう」感謝の気持ちを伝えた。

 その後食べた料理はちょっぴり塩辛く感じた。

 

 

 映画館を後にした僕達はとある店の前までやってきた。

 

「アクセサリーショップ? 雅也さんここに寄るんですか?」

 

 僕は彼女と一緒に前に来た事があるアクセサリーショップに立ち寄った。そう、咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスを買った店だ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 僕たちが店に入るとすぐに若い店員が声かけてくる──あの時の女の店員とは別の人みたいだ。

 

「すみません。以前予約した新堂というものですが」

 

「新堂様ですね、少々お待ち下さい」

 

 店員はそういうと店の奥に引っ込んでしまう。

 

 ──数分またされると僕が予約した客だと確認が取れたのかさっきの店員が戻って来た。

 

「ご予約頂いた新堂様ですね。こちらにおかけになってお待ち下さい」

 

 湊ちゃんは不思議そうに目を丸くして僕の顔を見る。

「すぐに終わるから」と彼女に伝えると店員は僕が予約していた商品をもってカウンターまでやって来る。

 

「ご予約しただいたのはこちらの商品でよろしいでしょうか?」

 

「はい。それで良いです」

 

「ありがとうございます。それではお家計はあちらのレジで行います」

 

 店員に案内されてレジで会計を済ます。商品の入った袋を持って湊ちゃんの元へ戻る。

 

「お待たせ。それじゃあどっか寄っていこうか」

 

 彼女の興味ありげな視線は手に持っている袋に向けられていた。僕らは一旦休めそうな場所を探す。

 

 結構立ち寄る機会の増えたあの公園で一休み──僕はそこで湊ちゃんにプレゼントを渡す事にした。

 

 二人でベンチに座って休憩している。チラつく雪を見ていると湊ちゃんがブルブルと震えたから彼女に僕が着ている上着をかけてあげた。

 

「寒いですね」

 

「そうだね」

 

 端的な会話を交わすと僕らの間に静寂がやってくる。僕は手に持っている袋を一旦横に置いて立ち上がる。

 

「あのさ、湊ちゃんに渡したいものがあるんだ」

 

「私にですか?」

 

 不思議そうな顔をする彼女に僕は頷いてもう一度袋を手に取って彼女に差し出した。

 

 

「バレンタインの時に渡せなかったプレゼント。これが僕の気持ちです」

 

 アクセサリーショップで買ったプレゼントを湊ちゃんに渡す。喜んで貰えたら嬉しい。

 

 

「嬉しいです。今は開けちゃってもいいですか?」

 

「ああ、いいよ。湊ちゃんに似合うかどうか分からないけど」

 

 彼女の僕の言葉を聞き終えると箱の包装紙を剥がして中を開けた。

 僕はその様子をドキドキしながら眺めていた。

 

「すごく綺麗……」

 

「喜んで貰えたらいいんだけど」

 

 彼女にプレゼントしたのは指輪だった。婚約指輪では無いんだけどそれに近い感じのものと言ってもいい。

 実はちょっと前からあの店で予約しておいたものなんだ。湊ちゃんのイニシャルを入れたリングを特別に用意してもらった。

 まあ、店側のサービスだし彼女には一番とっておきなプレゼントを贈りたいと思っていたんだよね。

 

 湊ちゃんはリングを指に嵌めて手を広げて見せた。

 

「よく似合っていると思うよ」

 

 飾る事のない素直な言葉で感想を伝える。真っ直ぐに気持ちを伝えるのが一番だと思うから。

 

「こんなの……。嬉しすぎますよ」

 

 ポロポロと涙を流す湊ちゃんに僕はちょっと驚いて彼女の隣に座り直す。

 

「ちょっと! 泣かないでよ。急だからびっくりした」

 

「でも、すごく幸せで、私、今までこんな素敵なプレゼント貰った事が無くて」

 

 手で顔を覆って泣いているところをできるだけ見せないようする湊ちゃんの仕草を愛おしく感じた僕はさっと彼女の手に自分の手を絡ませた。

 冷たい手をギュッと握って温める。僕らは見つめ合う、涙を指で拭ってあげた。

 二人だけの時間はゆっくりと流れている。周りにはぽつぽつと人がいる。それでも気にせずに湊ちゃんの肩を抱き寄せる。

 くっついたら少しはあったかくなるんじゃないかと思ったから。

 なかなかにいいムードになって来た。

「今日は湊ちゃんが良いって言うまでこうしているから」と彼女に伝えるとギュッと手を握り返して来る。今こうしている時間が永遠に続けば良いなと感じる。ずっと湊ちゃんと一緒にいたいから。

 

 

 *

 

 雅也さんから貰ったとびっきりの愛情を感じると高揚感が高まる。私が望んでいた形とは逆の結果になっちゃったのは予想出来なかった。

 彼に告白してからは不安な事もあったの……。

 逆の結果って言うのは彼と私が恋人同士になれた事。

 心の片隅では雅也さんは浅倉さんがまだ好きなんじゃないかと疑っていた。

 初恋の人に会えば嫌でもその時の事を思い出す。先に告白をしたのは私からだけど、雅也さんが直接好きだって言う想いを伝えたのは浅倉さんなのだから。

 良い返事が貰えないんじゃ無いかと思うと不安な気持ちに押しつぶされそうになる……。

 だけど、彼は私の告白に返事をくれた。浅倉さんじゃなく私を恋人に選んだ。

 彼の心から浅倉さんの存在を消さないとある意味で私たちは本当の恋人にはなれない気がした。

 

 雅也さんと別れた私は駅を出てスマホである人に連絡をして次の休みの日に会う約束をした。

 これから起こる出来事なんて予想出来ないけど、ちょっとずつでも私達の関係を変えるきっかけになるじゃ無いかと思う。

 

 変わらない冬の景色に湊は再度気持ちを改めて次の休みを待つ事にした。



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あの頃の想いを仕舞い込んで

 家に帰り着いた僕は上着を洗濯籠の中に放り込んで自分の部屋に向かう。

 時刻は二十一時過ぎ寝るにはまだ早いけれど、今日は疲れたから何だか早く休みたい気もした。

 

「おかえり。ご飯食べる?」

 

「腹減って無いからいいや。シャワー浴びて寝る」

 

 自分の部屋から母さんが出て来る。僕は端的な会話を済まして着替えを取りに行こうとする。

 

「今日浅倉咲希ちゃんが来たわよ」

 

「は? なんで咲希ちゃんが家に?」

 

「さあ、でも、あんたに用があったみたいよ。朝マンションの前で会った」

 

「そうなんだ」

 

「七時くらいまではあんたを待ってたけど結局会わないで帰った。お母さんびっくりしたよ。浅倉咲希ちゃんとはあまり会ったこと無かったけどすぐに分かった」

 

「連絡先知っているならちゃんと謝っておきない」

 

 それだけ伝えると母さんは自分の部屋に戻って行った。僕は着替えを持って風呂場に、さっきの母さんの言葉が気になっていた。

 

 咲希ちゃんが家に? 何の用なんだろう? 

 あれこれ思いを巡らせながらさっき少し熱めのシャワーを浴びた。

 

「寒い……」

 

 僕の部屋はすっかり冷え込んでいて暖まった体が一気に冷える。

 上半身裸のままだとまずいと感じてすぐに服を着る。さっき着替えを取りに来た時にベッドの上に置いた携帯が目に入る。

 咲希ちゃんに連絡するべきなんだろうか……。

 けれど、僕はもう彼女に連絡しないと決めたんだし、いっか。

 

 だけど、気になってしまう。彼女は一体何の用で僕を訪ねてきたんだ? 

 咲希ちゃんは会わない──いや、会えないんだ。僕には湊ちゃんって言う恋人がいるんだから。

 咲希ちゃんに告白する前の僕が今の状況を知ったら驚くだろうなあ。

 まさかずっと片思いしていた相手が僕を好きになってくれたと言う事を。

 

 だけど、過去は取り戻せないものなんだ。告白が成功しなかった時から僕の中での咲希ちゃんへの気持ちには冷めてしまったのだから。

 それでもこの十年間、その事に悩み続けた現実もある。

 

 もしかしたら心の片隅ではまだ彼女が好きだったのかもしれない。だから、なかなか忘れる事ができなくて今までずっと引きずっていたんだ。

 

 けれど、今は違う。もう一度好きだと思える相手に出会った。

 それはあの頃の想いと同じなんだから。湊ちゃんとのこれからをしっかりと考えていこう。

 咲希ちゃんだって僕の気持ちを知って諦めてくれるだろうから。

 たった一人の恋人を大切にしたい。湊ちゃんの笑顔を見ていたい。

 

 雅也は心に奥に残っていた咲希への想いを仕舞い込んで湊との将来を真剣に考える。これから先、何が起こるのか知るのはすぐ後の事だった。



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二人の間に流れる空気

 二月二十四日(土)

 

 

 もうすぐ二十時になる。ポケットに入れてある携帯で時刻を確認すると帰る為に駅の方向へ歩きだす。

 今日は秋葉原まで行って来た。欲しかったゲームソフトとかもあったんだけど結局何も買わないで帰る。ああ言うのは見てるだけでも十分に楽しい。

 電車を乗り継ぐ為に移動しているとふと見慣れた顔を見つけた。

 

(あれって湊ちゃんだよな? こんな時間に何してんだろ)

 

 湊ちゃんの事が気になった僕は帰る方向とは逆の改札から出て彼女の後を追いかけた。

 

 辺りはすっかり暗くなっている。僕は湊ちゃんの後を付けながら冷たい指先に息を吹きかける。

 湊ちゃんは人気の無い公園に入って側にあるベンチに腰掛ける。僕は彼女に声をかけずにちょっと離れた場所で様子を伺う事にした。

 

 

 *

 

 夜に出かけるなんて言う事は今まであまり経験が無い。

 私からあの人を呼び出したんだから来るのが遅くても待ち続けるつもり。

 今日は雅也さんに貰った指輪を身につけて来てる──会社とかでは外してるんだけどね。

 初めて男性、ううん、好きな人からの贈り物は私の雅也さんへの想いをより一層深くするもの。

 恋人同士になって大きく変わるような事は無いんだけど、彼はいつだって私の事を一番に考えてくれている。

 思考を巡らせる度に雅也さんが好きだと実感する。

 だからね、あの人にはちゃんと伝えておかないといけないと思うの私がどういう風に想っているのかを。

 待ち合わせの場所に到着して近くにあるベンチに座る。ちょっと周りを見るけどまだ彼女の姿は無い。どうやら私の方が早く着いちゃったみたい。

 待ち人が来るまでの間すっかり冷え込んで来た冬の空の下、私は待ち続けるのでした。

 

 

 **

 

 私は夜の町を一人で歩いている。今日はこれから彼女と会う事になっている。

 

【篠宮 湊】さんから私のとこに連絡があったのは一週間前──雅也君の住んでいるマンションを訪ねた後。

 家に帰って来た私の部屋スマホの通話音が鳴って慌てて電話に出る。

 

「『もしもし? 誰ですか?』」

 

「『こんばんは。浅倉さん、私です。篠宮です』」

 

「『えっ……』」

 

 電話して来た相手に驚いてリアクションに困ってしまう。

 

「『こんな時間にすみません……。どうしても浅倉さんに話したい事があって電話したんです』」

 

 話? 一体何の話なんだろう? 

 用があって電話して来たのは分かるけれど、はいそうですかと素直に話せるほどの余裕は私には無い。

 だって彼女は篠宮さんは雅也君の恋人。彼の口から直接聞いたんだから間違いない。

 

 彼女がいなかったら私の「恋」は上手くいったはずなのに。もしかして自慢する為に私に電話して来たの? そうだとしたらかなり性格悪いと思う。

 

「『話? あなたが私と話すような事あるのかな?』」

 

「『はい。直接会って伝えたい事があるんです。次の土曜って何か予定とあったりしますか?』」

 

「『土曜日ね。ちょっと待って』」

 

 土曜は仕事も休みで特に予定がない事を篠宮さんに伝えてその日に会う約束をする。

 

 私も雅也君の事で彼女に言っておきたい事があったしちょうど良いタイミングかも。

 

 あの子は彼と別れてほしい。だって雅也君と恋人になるのは私なんだから──

 

 ──初めて人を好きになった。今まで「恋」をしてこなかった私にはこれが最初で最後の恋愛になるのかも。

 

 だからこそ、この想いを諦めたくない。例え今は彼の気持ちが他の子に向けられていたとしても前みたいに私の事を好きになってくれると信じている。

 ううん。信じないと負けてしまいそうになるから──

 

 ──私の思っていることと、現実はあまりに違いすぎる。私がやっと十年かけて雅也君への気持ちに気づいた時、彼の心を覆い尽くしていたのは別の子。

 

 あの頃は彼が私に片思いをしていたのに今じゃあ逆で私が彼の気持ちに寄り添おうとしている。

 

 十年って言う月日は長くてその間に私たちは大人になっていく。

 恋愛を経験して来なかった私に恋の神様は試練を与える。

 

 篠宮さんとの電話が終わってぼんやりとカレンダーを眺める。

 土曜に急に入った予定、私はあの子に言わなくちゃいけない事を何度も自分の頭の中で繰り返していた。

 

 

 ***

 

 湊が待ち合わせ場所に着いてから二十分程過ぎたあたり、咲希は同じ公園に到着して湊の姿を探す。

 夜の公園は所々にあるライトが点々と灯り辺りを照らしている。

 人の顔がはっきりと分かるほどの明るさでは無いけれど、真っ暗な中では心持たない光だけど無いよりはまし。

 

 咲希は人座っていそうなベンチだけに絞って探し始める。

 公園の入り口から結構離れた場所にあって全く目立たないベンチに人影が見える。

 薄暗い公園の中をゆっくりと歩みを進めていき丁度顔を上げた湊をライトが照らす。

 

 

「こんばんは」

 

 湊はごく自然に挨拶をする。まだ二人の間に流れる空気は冬の冷たさを感じるほどではなかった。



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どこかで見た景色

咲希と湊はお互いに激しい感情をぶつかり合う。
その光景を目の当たりにした雅也はいつも自分が見る夢の中での情景と重なる。
物語は新しい展開を迎えるのだった。


「こんばんは」

 

 私は篠宮さんに呼び出されて夜の公園までやって来た、私たち二人の間にはなんとも言えない空気が漂っていた。

 

「今日は浅倉さんに話したい事があって呼び出したんです」

 

 篠宮さんの真っ直ぐな視線が私を捉える──彼女の気持ちの強さを感じてギュッと手を握った。

 

「雅也さんの事で浅倉さんにどうしても言っておかなきゃいけない事があるんです」

 

 やっぱりそうなんだ。彼女が私を呼び出した理由は何となく察していたけどやっぱり雅也君の事なんだ。

 

「私、雅也さんとお付き合いしています」

 

「知ってる。雅也君に聞いたもん」

 

 私がそう答えても篠宮さんは顔色一つ変えずに話を続ける。

 

「あなたが雅也さんの事好きなのはわかりますけど彼はもう私と付き合っているんですよ?」

 

「だから何だって言うの?」

 

 不機嫌そうな声で彼女の言葉に言い返す。私の心の中にある雅也君への気持ちは何の偽りもない。

 私は、彼が好き。その想いに嘘をつくつもりはない。

 

「だから、もう雅也さんと関わるのはやめてもらえませんか?」

 

 私の間に冷たい風が吹く、私は「ふぅ」と軽く息を吸い込む。

 二人の間に流れる空気が変化したのが分かった。

 

「どうしてあなたにそんなことを言われなきゃいけないのよ」

 

「どうしてって、浅倉さんは分かっているんですか? 私達は付き合っているんですよ」

 

「そうね。それは知ってる。だけど、私は自分の気持ちに嘘をつきたくないの」

 

 篠宮さんと話して私の中にある雅也君への想いを再確認する事ができた──

 

「──私は雅也君が好き。この想いは何があっても揺らぐ事はないの」

 

「今更過ぎますよ!」

 

 今まで冷静に振る舞っていた篠宮さんは苛立ちを隠せない様子で声を荒げる。

 

「十年前に雅也さんをフッておいて今更そんな事言うのはおかしいと思います。彼はあなたとの事でずっと苦しんでいたんですよ」

 

「あなたの言う通り。だから、私は過去の過ちを後悔してこれから雅也君にもう一度好きになって貰えるように頑張るつもり」

 

「それはあり得ないと思います」

 

「どういう意味?」

 

「雅也さんが浅倉さんをもう一度好きになるなんてあり得ない事だって言っているんです」

 

「そうかしら? 私は彼の初恋の相手だよ。私から迫れば雅也君はどういう反応するかなぁ」

 

 これまでの仕返しと言わんばかりに私は悪戯っぽく篠宮さんを煽る。彼女と雅也君の関係が切れてしまえば私には好都合だしね。

 

「あなた本当に最低ですね……。こんな人だとは思わなかったです」

 

「恋愛に関しては自分でも性格悪いって言うのは自覚しているつもり。あなたが私にやった事と比べたらこれくらいは言っても良いんじゃないかと思ったの」

 

「私があなたに一体何をしたって言うんですか」

 

 

 この子の素直さが心底腹が立つ。本当なら私が雅也君の恋人になっていたはずなのに! 

 私から彼の心を奪っておいて平気な顔をして雅也君の側にいる。

 雅也君と知り合ったのは私の方が先なのに、小学生の頃から一緒なのに。

 私はふと昔の事を思い出した。

 

 *

 

「雨降ってるし……」

 

 部活が終わって外に出ると激しい雨が降っている事に気づいた。雨の日はあまり好きじゃない。気分も落ち込むだけじゃなくてジメジメとしているのが苦手……。

 

「どうしよう。傘持って来てない」

 

 急に大雨が降るなんて思いもしなかったから今朝は傘を準備して来なかった。

 周りの友達もそうみたいで親に携帯で電話をして迎えに来てもらうようにしていた。

 体操着のまま私は空を見上げる。

 この大雨の中、帰らなくちゃいけないのはしんどい……。それだけじゃない雨に濡れたら確実に透ける、雨で下着が透けるのは恥ずかしい。

 男子からの視線も気になるし本当にどうしよう……。

 クラスの男子からの視線を感じる機会は中学生になって増えてきた。

 小学四年生頃から膨らみ始めた胸は中学生に進学してからは更に成長した。

 体操着の下にスポブラを付けて体育の授業に出る。マラソンとかで走るとおっぱいが擦れてちょっと痛かった。寄せてあげたら胸の谷間が出来る。中学生にしては発育良かった気がする。

 自分が大人の女性に成長しているのが分かった。

 雨の中を駆け出す人達をぼんやりと眺めながら「ふぅ」と溜息を吐いた。

 

「……帰ろう」

 

 意を決して雨の中を帰ろうとすると横を男の子が通り過ぎた──

 

 ──相手の顔は見えなかったけれど後ろ姿で何となく分かった。

 

「雅也君?」

 

 私の手提げバックには男物の傘がぶら下がっていた。よく思い出したら彼は小さな声で「これ使いなよ」と言っていた気がする。

 大雨の中を駆け出す彼の後ろ姿を私はいつまでも目で追っていた。

 

 傘を返そうと思っても雅也君は放課後はすぐに帰っちゃう。

 私も部活があってなかなか彼に会う機会がなかった。

 

 放課後にクラスの女子達は「恋」の話題に盛り上がっている。誰々が良いとか悪いとか話をしてる。

 私は図書館に用があって教室から出ようと荷物に手をかける。

 

「咲希ちゃんって好きな人いるの?」

 

 突然自分に話題を振られてぽかんとする。私は恋愛に興味無いし何で皆がそんな話で盛り上がれるか謎。

 

 教室から出ようとすると引き止められて自分の席に座らされた。何人の子が私の机を囲んで聞いてくる。

 

「で、咲希ちゃんって好きな人いるの?」

 

 興味津々で私に尋ねて来た。私は観念して早く終わらないかなと思った。

 

「咲希ちゃんは真面目だから恋愛になんて興味無いよねー」

 

 小学生の頃から仲のいい友達がそう言って助け船を出してくれた。

 クラスの子は付き合うなら誰が良いと思う? 何て事を言ってきゃあきゃあはしゃいでる。

 私はそんな空気に乗り切れず一人取り残された感じになる。

 

「雅也君なんてどう?」

 

 急に雅也君の名前が出て私はドキリとする。

 

「ええー。私は無いなあ。彼と話をした事もないし」

 

「あたしも小学生の頃から同じクラスだけど一番あり得ない」

 

 優しく無いだとかかっこ悪いだとか彼に関して好き勝手に言ってる。

 でも、私は雅也君の事を皆とは違うように考えてた。

 文化祭で私が重いものを運べなくて苦労していた時に彼は何も言わずに手伝ってくれた事、雨の日に傘を貸してくれた事。

 何故か雅也君は私には優しくしてくれた。

 小学生の頃は私や他の友達に憎まれ口をよく言ってたから私が年賀状に『憎まれ口はやめた方がいいかも』と書いた事がある。

 卒業後の進路は別だからもう彼に会う事はないと思う。

 

 あの頃の私が分からなかった事が今の自分には分かる。

 雅也君はずっと私の事を好きでいてくれた。鈍感な私が彼の気持ちに気づかなかっただけ。

 卒業後にあの告白の手紙を貰うまでは私は彼の想いを知らなかった。

 もしかしたら私は心の片隅で雅也君に惹かれていたのかも、ただ気がつかなかっただけで。その想いに気づくのは十年も経ってから──

 

 ──こんな私をずっと好きでいてくれた人。雅也君の事を考えれば考えるほど胸が切なくなる。辛くて苦しい……。泣き虫なとこは子どもの頃から変わらないなぁ。

 何度も自分の気持ちを確認して彼に対して素直になる。雅也君は私の笑顔が好きだと言ってた。好きになった理由を教えて貰って私は更に彼への愛情が深まった。

 白くてふわりと雪みたいにチラチラと降り積もる感情。

 ギュッとネックレスを握りしめて篠宮さんを睨んだ。

 

「雅也さんの事は諦めて下さい」

 

「嫌」

 

「もうあの人を苦しめないで!」

 

 篠宮さんが私に近づいて声を上げる。私たちはお互いに向き合う。

 

「私は雅也君を絶対に諦めるつもりは無いから。あなたが彼と別れれば良いんじゃない?」

 

 篠宮さんが目の前に来るとこれまで胸の奥に留めて置いた醜い感情が沸々と湧き上がってくる。

 

「私は雅也さんと別れるつもりなんてありません!」

 

 大人しい印象とは逆に篠宮さんは怒りの感情を隠す事無くぶつけてくる。私もこの子に言いたい事が山ほどあるの。

 

「雅也君はあなたよりきっと私の事が好きだから」

 

 だって、私は彼の初恋の相手──特別な存在なんだから。

 

 次の瞬間、篠宮さんの右手が上がるのが見えた。

 

 パァーン! 

 

 平手打ちを貰った箇所にジンジンとした痛みを感じる。篠宮さんから叩かれるのは二回目。

 

「何するのよ!」

 

 もう一発貰う前にほっぺを摩る手とは反対側の手で彼女の腕を掴んだ。

 

「離して!」

 

 彼女は左手で私の手を引き離そうと掴み叫ぶ。少しだけほっぺの痛みが楽になった私は掴まれた腕と逆の腕で彼女の顔叩いた。

 

 パシンと言う音が響いて篠宮さんはほっぺに手を当てた。私が叩いたとこは少しだけ赤くなっているのが分かる。

 彼女は涙目になりながら私を睨む──その強い視線に私はちょっと怯んだ。

 先に手を出して来たのはあの子だから私は何も悪い事をしていない。

 なんて言う事を考えていると彼女はグッと拳を握った。

 

「あなたが悪いんだからね! いきなり叩いて来るから」

 

 溢れ出る感情を篠宮さんにぶつける。私の言葉に彼女は何も反応せずに距離を縮めて来る。

 

「何を──」

 

 するつもりなんて言う暇は無くて篠宮さんは握った拳を思いっきり私の顔に向けて突き出す! 咄嗟の事で私は顔をガードする暇は無くてパンチがモロに顔面にヒットした。

 

 体勢を崩した私に彼女は更に追い討ちをかける。吐きそうになるくらいに痛みに耐え切れずその場に蹲る。

 息を整える私に見下ろすような眼差しを向ける彼女を睨んでお腹に手を当てる。

 

「これくらいじゃ全然足りませんよ」

 

 篠宮さんはまるで汚物を見るような目で私を見下ろす。

 

「……ふざけないでよ」

 

 なんとか言葉を出すのがやっとな私の顔は涙と鼻血で酷いことになっていた……。

 呼吸を整えて膝から立ち上がった私は目の前にいる相手に激しい憎悪を抱く、ポタポタと滴る鼻血が地面を赤く染める。

 

 私達はお互いの手を掴み合いまるで男の子の喧嘩みたいに感情を剥き出しにしていがみ合う。

 

 よろけた篠宮さんの髪を力一杯に引っ張る。痛みに顔を歪めたところに私はさっきのお返しと言わんばかりにがむしゃらに手を突き出した。

 慣れてないせいかパンチした時の手の痛みに耐え切れず右手を抑える。

 篠宮さんの顔は唇から血が出ていて顔が腫れているのが分かる。

 それでも彼女は我慢して私に向き合う。

 女子同士の喧嘩何ていままでに一度も経験した事はなくて、本当に酷い状況になっている……。

 顔のケガが良くなるまでは仕事にも行けそうにない。

 

 

 二人の感情は激しくぶつかり合う。遠くてその様子を見ていた雅也はいても経ってもいられなくなり駆け出した。

 それは彼がいつの日か見た夢の中で見た景色を再現しているかのようだった。

 

「夢なら早く覚めてくれ」

 

 二人は自分達に近づいて来る足音に気がついて湊は後ろを振り返り、咲希はボヤけた目でやって来た相手の姿を見る。

 

 

「雅也さん。どうしてここに」

 

「雅也君。何でここにいるの?」

 

 二人の間に流れる空気が変わるのを感じた。雅也は真っ先に湊に駆け寄り抱きしめる。その様子を見て咲希の感情は爆発する。

 雅也を湊から引き離し彼の胸に顔を埋めた。

 三人時間はこの瞬間だけぴったりと一致した。乱れた酷い顔を見せまいと隠す湊に雅也は手を伸ばすと咲希に抱き寄せられた。

 

 そして咲希は湊の目の前で雅也の唇を奪う──キスをされたことで今の状況が夢なんかじゃないって気づく事ができた。

 

 絡み合う三人の物語今は新しいページをめくり始めるのだった。

 それは純白のアルバムを染めるように始まりを迎える。ここだけは現実の冬の寒さから切り離されたかのように。



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Memories Off Minato
本当の恋人に


湊と本当の恋人になる為に雅也は咲希への今までの想いに向き合う。
十年もの間、忘れる事の出来なかった初恋の記憶と戻る事の出来ない過去、咲希は過去の自分の過ちを後悔し、雅也は過去の自分と決別して前に進んで行こうと決意する。
冬の寒さは相変わらずで三人の人間関係は変化を見せる。


「大丈夫? 湊ちゃん」

 

 唇から血を流している恋人に駆け寄り肩を抱いてあげる。出血量は多いわけではないけれど、心配になってくる。

 

「雅也さん!」

 

 顔をくしゃくしゃにして僕の胸に飛び込んで来た、湊ちゃんの泣き顔なんて初めてみた。優しく彼女の頭を撫でるとわんわんと泣き出す。

 

「辛かったね。もう大丈夫だから」

 

 僕はそう声をかけて落ち着かせると彼女はうんうんと何回も頷いた、綺麗な髪は乱れてしまって酷い有様だ。

 

「……雅也君」

 

 僕が顔を上げると咲希ちゃんも目を腫らして泣いている。彼女の泣いている顔は子どもの頃から苦手だ、咲希ちゃんの顔には鼻血の跡が残っていてさっきまで起こっていた事の凄惨さを感じさせる。

 ここで僕が咲希ちゃんを気遣えば湊ちゃんが悲しい思いをする。

 恋人がいる前で他の女の子の事を見ちゃいけない。

 咲希ちゃんから距離を取って離れる。

 湊ちゃんと同じく泣き顔の彼女を見た瞬間、僕の脳裏にはある光景がフラッシュバックした。

 

(そうか、僕が見てた景色はこれの事だったんだ)

 

 いつか夢で見た光景──それが今、現実に目の前にある景色なんだ。

 夢の中で言い争いをしていた二人の女の子は湊ちゃんと咲希ちゃんなんだろう。

 あの夢はこの出来事を予測していたんだろうか? 

 ぼんやりとしか無かった夢の中での記憶がまるで今まで見ていた出来事かのように蘇る。

 夢の記憶と現実の情景が一致して僕は改めて今自分の置かれている立場を理解した。

 

 さっと湊ちゃんを抱きしめて精一杯の愛情を注ぐ。

 そうだ、迷っちゃいけない! 僕はこの子の事が好きなんだ。

 十年もの間、忘れていた感情、いや、違うな。僕は「恋」をする事から逃げていただけなんだ。

 いつまでも未練がましく昔の「恋」にしがみついて、前に進むのを諦めていたのは僕自身だったんだ。

 ようやく分かった。自分の本心気づくのには遅すぎたくらいだ。

 

「ありがとう。湊ちゃんのおかげで気づく事ができたよ」

 

 僕は大切な恋人に一言そう言うとちょっとだけ離れた所にいる咲希ちゃんに向き合った。

 

「咲希ちゃん。僕を好きだと言ってくれたのは嬉しかった」

 

 嘘偽りのない自分の本当の気持ちを彼女に伝えなくちゃいけない。

 

「十年前、僕は君に片思いをしていた。卒業式の後手紙で気持ちを伝えた事、それは未だに忘れていない。君から貰った返事に胸を高鳴らせて手紙の封切った」

 

「あの手紙に書いて事が咲希ちゃんの本心なんだよ。君は僕をフッてそれで僕の初恋は終わりを迎えたんだ」

 

「あの日から僕は『恋』をする事から逃げて自分の心と向き合おうとしなかった」

 

「けれど、この子に、湊ちゃんに教えられたんだ。いつまでも過去を引きずってばかりじゃ駄目だって事を」

 

「僕は彼女の気持ちに誠意を見せないといけない」

 

 咲希ちゃんは僕の言葉を黙って聞いている。隣にいる湊ちゃんはギュッと手を握ってくる。

 僕は彼女に笑いかけると握られた手に力を入れる。

 

「僕は咲希ちゃんの気持ちに応える事はできない。もう恋人がいるから。僕の事は諦めてほしい」

 

 あの日、湊ちゃんに告白された時からずっと咲希ちゃんへの気持ちを考えていた。

 モヤモヤとしてなかなか決断出来なかったけれど、ようやく言えた。

 

 もう僕の彼女への想いはあの頃みたいに蘇る事は決してない。

 

 十年前は僕が咲希ちゃんに振られたけれど、今度は僕が彼女を振る番になる。

 

「咲希ちゃんも振られたらあの時の僕の気持ちが分かると思う」

 

 初めて好きになった子──咲希ちゃんの笑顔が僕の心を虜にした。

 その女の子に僕は今違う形で向き合っている。

 昔の僕なら今の状況をどう思うだろうか? 

 片思いだった人、僕にとって彼女は普通の女の子じゃなかった。

 彼女にとっては残酷な結果になるだろうけど、僕が咲希ちゃんに言わないといけない。

 冬の寒さをしみじみと感じる。僕たちの間に流れていた時間は今の瞬間から別の時を刻み始めた。

 僕の隣にいるのは咲希ちゃんじゃない。

 側にいる湊ちゃんの手を握り何度も自分の思いを反芻する。

 

 俯く咲希ちゃんの目から溢れ出る涙。それでも逃げちゃいけない現実に向き合おうとする。

 もう彼女の顔を見れない。

 僕は湊ちゃんが泣き止んでから咲希ちゃんに背中を向けて夜の公園から出て行く。

 

 しっかりと握られた湊ちゃんの手から感じる温かさを持って湊ちゃんと本当の恋人になろうと思った。



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割り切れない想い

「湊ちゃん大丈夫?」

 

 雅也は湊に声をかける。恋人に気を遣いながら帰り道を歩いていたのだけれど、気が気ではなかった。

 

 湊と咲希のやり取りを目の前で目撃していても経ってもいられなくなり気がついた時には二人の間に割って入っていた。

 

「心配かけてごめんなさい」

 

 申し訳無さそうに謝る湊の顔を見ていると罪悪感に押しつぶされそうになる。

 

「湊ちゃんが謝る理由なんてないよ」

 

 震えている恋人を優しく抱き寄せて人目も憚らず(はばか)キスをした。

 キスをしている瞬間はまるで時間が止まっているかのような気がする。

 もう湊ちゃんが悲しむ事がないように何度も僕なりの愛情を彼女に注いだ。

 

 

「今日はこれから家に帰るんだよね?」

 

 こんな状態の湊ちゃんを一人で返すのは心持たない。僕はある事を思うついて口に出してみた。

 

「今日は僕の家に泊まっていきなよ」

 

「えっ……?」

 

 戸惑う彼女を他所に僕は話を続ける。

 

「明日も休みなんでしょ? だったら今日一日は一緒にいよう」

 

 自分の気持ちを湊ちゃんに伝える。もしも、断られたとしても譲歩するつもりなんて無い。

 湊ちゃんは少しだけ考えて「分かりました」と返事をしてくれた。家族がいる家に彼女を連れて帰るなんて言うのは初めてだけどそんな些細な事を気にしている場合じゃない。

 僕のせいで湊ちゃんはこんな目に遭ったのだからその責任は取らないといけない。

 

「雅也さんのお家に泊まるのは良いんですが、お母さん達に連絡だけはさせて下さい」

 

 彼女は僕から離れて親に電話をかける。話している最中にチラチラと僕の方を見ている。

 湊ちゃんはどういう風に説明しているんだろう。彼女の事だから上手く伝えたに違いない。

 

「お待たせしました。これで大丈夫です! ちゃんと雅也さんのお家に泊まるってお母さんに説明しましたから」

 

 照れくさそうに言う湊ちゃんの目は少しだけキラキラしているように見えた。

 ついさっきあんな出来事があったのに僕に笑顔を見せてくれるこの子は本当に芯が強いなと感じた。

 僕らは同じ電車に乗ってマンションに向かう──僕は方時だって湊ちゃんの側を離れやしなかった。

 

 マンションに着いてから鍵でドアのロックを解除する。目の前にあるエレベーターに乗り込んで六階のボタンを押す。

 

 どこか緊張した様子の湊ちゃんを尻目に僕はドアをゆっくりと開けた。

 

 玄関で靴を脱いで上着を洗濯籠に放り込む。靴からスリッパに履き替えて部屋に向かう。

 

「遅かったじゃん。また秋葉原に行ってたの?」

 

 母さんが部屋から出てくる僕が首を縦に振って応えると後ろにいる湊ちゃんに気がついた。

 

「こんばんは。お邪魔します」

 

 湊ちゃんは母さんに挨拶するのを見て「先に部屋に入ってて」とだけ伝えて母さんに彼女がうちに来た理由を話す。

 できるだけ分かりやすく伝える必要はあるけれど、公園であった事は言わないでおいた。

 

 それから湊ちゃんが僕の恋人だと言うこともやんわりと伝えて自分の部屋に入る。

 

 部屋に入ると湊ちゃんが床にぺたん座りをしている。僕はその隣に座る。彼女のキョロキョロと辺りを見る。

 僕の部屋はあんまり物は無いけど他人からじっくり見られるのは緊張する。

 大きなモニターはゲーム用で下のカラーボックスにはゲームソフトのパッケージが名前順で並んでいる。

 そういえば、湊ちゃんはゲームはするんだろうか? 

 既にゲームが生活の一部になっている僕にとって自分の好きな事を恋人から否定されるのは堪える気がする……。

 

「この前雅也さんの看病に来た時以来ですね。この部屋に入るのは」

 

「あの時は本当にありがとうね。正直に言うと湊ちゃんが看病に来てくれて嬉しかった」

 

「今日一日は君の側にいさせてほしい」

 

 湊ちゃんのすぐ側に寄って手を握る。あんな事があった後じゃ彼女も不安な気持ちが募っているだろうから安心させたい。

 

 僕は体を密着させる──湊ちゃんがあぐらをかいた僕の足の上に座る。

 それからゆったりと体の方向を変える。

 僕らはお互いに向き合う形になって彼女の顔がすぐ近くまで寄って来る。

 心臓の鼓動が早くなり。上目遣いで見つめて来る湊ちゃんの背中に手を回した。

 

 こうしてみると湊ちゃんの体って意外と小さいんだなって感じた。

 

 もう彼女を離したりなんかしない、僕がいつまでも沸きらない態度をしていたせいであんな事が起こった。

 

 

「湊ちゃんには本当に辛い思いさせたね。ごめん」

 

 彼女には何度謝っても足りないくらいだ。僕のせいで苦しんで来た恋人の心の支えになればいい。

 

「もう平気です。雅也さんの気持ちはちゃんと私に伝わっていますから」

 

 湊ちゃんの優しさを感じると自分が本当に情けなく思わされる。

 変わって行こうと決めた──彼女との関係を続けていく為に。

 十年の間、僕の心に傷を残した片思いの記憶がもう一度蘇る事は無い。

 だって僕は咲希ちゃんの想いには応えなかったのだから。

 僕の初恋の人から好意を伝えられた時、冗談だと思った。

 彼女は昔、僕を振ったのだから。

 けれど咲希ちゃんの想いが冗談なんかじゃないと知った時、僕はあの頃の記憶を思い出す。

 両思いになりたいと願って告白したにも関わらず結果は最悪だった……。

 

 

「今日はずっと側にいるから」

 

 湊ちゃんは安心した表情を見せてくれた。僕は彼女を部屋に残してシャワーを浴びる事にした。

 〇時を迎えようとしている中、僕は家で変わらない生活を送る。

 

 風呂から出ると丁度母さんに鉢合わせ、シャワーじゃなくちゃんと風呂に入るように言われると給湯機の電源を入れて風呂に湯を張る。

 

「彼女さんにも温まってもらいなさい」と一言だけ言って自分の部屋に戻って行った。

 僕は頭に被ったバスタオルを洗濯籠に放り込んで一端服を着て彼女の元に。

 

 湊ちゃんにさっき言われた事を伝えると初めは遠慮していたけれど、最後には「お風呂いただきます」と答えてくれた。

 服は仕方ないから同じ物を着るらしい。何か申し訳なくて僕は自分のTシャツを出して湊ちゃんに渡す。

 ちょっとサイズは大きいけど何も着ないよりはマシ。

 

 風呂から上がって来た湊ちゃんは炬燵に入って温まる。

 もう遅い時間だから寝ることにしてベッドをどっちが使うか話し合う。

 湊ちゃんを床に寝せる訳にはいかないから彼女にベッドを使って貰うことにした。

 床にクッションを置いて枕替わりにして寝転ぶ──硬いフローリングの床で寝ると体が痛くなりそうだ……。

 

 

 本当はもう少しだけ彼女と話したいと思っていたけれどね、仕方ない。

 

「……部屋の電気消すよ」

 

 もう夜の遅い時間だけにそろそろ寝ないと流石にキツい……。

 部屋の電気を消して炬燵に足を入れて固い床に体を預ける。

 カーペットを敷いているからフローリングの冷たさは感じない。

 目を閉じて今日の事を振り返る。

 

 咲希ちゃんを振った事──これからは湊ちゃん(かのじょ)の為だけに生きていこうと決断した。

 十年も掛かってようやくあの時の想いを断ち切る事ができた。

 咲希ちゃんに恨まれようと憎まれようと僕はたった一人の恋人の想いに報いたい。

 初めて人を好きになったあの頃の僕、ずっと咲希ちゃんの事を考えていた。

 

 僕の片思いは叶わなかった……。きっかけさえあればもしかしたら咲希ちゃんと恋人同士になって今も一緒の道を歩いていたなんて言う未来だってありえたかもしれない。

 

 人生は一度きりでやり直しはきかないんだ。咲希ちゃんと付き合えた未来は無数に枝分かれしたルートの一つ。

 僕はそれを選択できなかったから別の未来が時間軸に刻まれていった。

 湊ちゃんとの出会いもそうだ。彼女に一生会わない別の選択肢だって幾多に存在するのかもしれない。

 

 僕はこう言う思うんだ。

 

 人間の生きている時間には無数の因果列が存在するんだと、無数にある未来から僕らはどれかを選択していく。

 毎日同じように過ごしているのだって実にところは自分では変化に気づかないほど微細なものだと言うのを。

 例えば今日、秋葉原に出かけなければ湊ちゃんと咲希ちゃんのやり取りを目撃する事だって無かったし、彼女らの想いを知る由も無かった。

 

 そうやって無数に分かれた未来の一つを選んで進んで行く、これからどういう状況へ変化するのかは今の僕には知る手段はない。

 だけれど、湊ちゃんとの未来が少しでも明るいものになるように選択していくしかない。

 

 僕は昔好きだった咲希ちゃん(あのこ)にさよならを告げた。

 

(さようなら僕の初めて好きになったキミ)

 

 もう会う事はないだろう。

 

 

 *

 

 

 咲希は雅也の言葉を聞いて激しい後悔をする。

 十年前のあの日、彼からの手紙の返事で咲希の運命は決まってしまった。

 もしも、雅也の告白に応えていたのなら今と違った形を迎えていたのかもしれない。

 

 何度泣いても涙は止まる事が無かった。そう、これほど後悔するくらいに咲希は雅也を好きになっていた、初めて自分へ好意を持ってくれた同級生、ただそれだけの存在ではなく純粋に雅也を愛していたのだと改めて実感する。

 

「私、こんなにもこんなにも雅也君の事好きだったんだ……」

 

 顔を覆って泣く──涙は頬を伝っていく。そこに冷たい風が吹いてめちゃくちゃな状態になる。

 

 未だに自分が振られたという現実を受け入れられない咲希は夢なら早く覚めてほしいと願った。

 篠宮さんに殴られた顔の痛みはジンジンとして治まる気配はない。

 

 この場で命を絶ってしまいそうになるくらい辛くて苦しい……。

 きっと彼も同じ想いをしたんだろうなぁ。

 初めて雅也君の気持ちが理解できた、好きな人と結ばれない難しさと厳しさを感じる。

 

 たった十年前の私の選択で全部失敗しちゃったの……。

 過去はやり直す事が出来ないって知っているからこそキツい。

 ようやく気づいた自分の本心──雅也君への想いはそう簡単に捨てられるものじゃない。

 

 思えば思うほど彼が好きだと気づかされる。胸元に輝くネックレスは今日も変わらない色を見せている。

 私がそれをギュッと握ると涙がぽたりと落ちる。

 

 今の私はきっと見せられないほど酷い顔をしてるんだろうなぁ。

 

 

「失恋しちゃったんだ、私」

 

 やっと今の状況が理解できたけど、今日あった出来事を思い出すだけでも嫌……。

 

 もう雅也君と会えないと、彼は私じゃなくてあの子を選んだ。

 

 それが悔しくて悲しくてこの複雑な気持ちをどうやって伝えたらいいのかわからないけど私は彼への想いを早々に割り切れるような強さは持っていない。

 

 これから私は彼に会うのは叶わないけれど、ずっと想い続ける事は出来る。ううん、好きでいさせて下さい。

 自分の「恋」諦めないと決めたのを、いつかまた私を見てくれると信じ続けて二月の空に誓う。

 

「その時が来るまで私はあなたを待ち続けます」

 

 

 咲希にとっては悲恋となった初めての「恋」

 それでもどうしても断ち切る事が出来ない想いがあるのだった。



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これから先の事を考えてみよう

 大好きな人と本当の意味で恋人関係に慣れた気がする。雅也さんのベッドで眠りながらそんな事を考える。

 私の彼はすごく優しいひとだと思う。今まで辛い「恋」をしてきた、それでも雅也さんは私を選んでくれた。

 浅倉さんに自分の気持ちを伝えて別れを告げる──それがどれほど大変だったのかは私にはわからない。

 十年も彼に心の中にあった初恋の思い出、それがいつまでも忘れられなかった。

 

 私が雅也さん好きだと思ったきっかけは些細なものかもしれない。それでも彼への感情を抑える事が出来なかった。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 布団を被って目を閉じる、ここは雅也さんの部屋なんだなと感じると何だか緊張する……。

 私には今まで恋愛経験なんてないしましてや彼氏ができた事もない。

 彼と一歩進んだ関係になれたのかな? 

 これからが大変だろうけど私は迷わない! ずっと一緒にいて同じ景色を見て行きたい。たとえ私達がおじいちゃんおばあちゃんになったとしてもそれだけは変わらないでいよう。

 

 *

 

 湊ちゃんはもう寝たかな? 毛布に包まって音楽プレイヤー操作する。

 夜はテンション上がるような曲じゃなくてしっとりとした楽曲を聴いて心を落ち着かせる。

 僕は咲希ちゃんとの関係を断ち切って新しい未来に向かって吹き出した。

 もしかしらあり得たかもしれない別の未来──咲希ちゃんと恋人になってそれからー。

 決して一つじゃない道を探して悩んで、最後は自分自身で選択した。

 これから僕は湊ちゃんと一緒に同じ世界を見ていくんだ。

 十年も忘れる事も出来なかった、いいや、気持ちに整理がつかなかっただけかもしれない。

 そんな僕であるにもかかわらず湊ちゃんは好きだと言ってくれた。

 彼女が僕の中で特別な存在になっていく。

 この子の為に生きて行こうと思えた。湊ちゃんにはいくら感謝しても足りないくらいだ。

 僕のベッドで寝息を立てる彼女の髪を優しく撫でて今後の事を考えてる。

 僕の家族にちゃんと紹介しなくちゃいけない。これから慌ただしくなりそうだ。それでも何故だかワクワクとした感情を覚える。

 将来の事を真剣に考えてみようと改めて決意するのだった。

 

 **

 

 初めての「恋」は試練もあったけれどもう大丈夫。私は雅也さんとの将来を真剣に考えていこう。

 幸せな家庭を想像する──いつも笑顔が絶えなくて、時々喧嘩もしちゃうけどその日のうちに仲直りして。

 二人だけの家族が増えていく度に私は幸せを実感する。そんな家庭を築けたらいいなぁ。彼と二人三脚で頑張っていこう。

 この幸福な時間をいつまでも続けていけますようにと祈る。

 新しい未来は今この瞬間から始まっている気がする。



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新堂家の朝食

 二月一八日(日)

 

 いつも通り何も変わらない朝がやってくる。目が覚めた僕は体を起こして軽く背伸びをした。ベッドの方を見るとまだ湊ちゃんが寝ている。

 彼女を起こさないようにそっと立ち上がって部屋を出る。

 

「美味いなぁ。朝の一杯はこれに限る」

 

 冷蔵庫に入れてあった野菜ジュースをコップに注いで一気に飲み干した。ニンジンの強い匂いがするけれど、別段気にはならない。

 オレンジ色の液体に含まれている糖分はすぐさま僕の脳内に刺激を与えるに違いない。

 コップを洗ってから自分の部屋に引き返す──まだ湊ちゃんは起きてないだろうから。

 

 部屋に戻ってからはウォークマンで音楽を流しながら時間を過ごす、女の子が僕の部屋で眠っているなんていう状況に緊張しないわけじゃないけれど、変な気をおこさないようにしないと。

 まるで夢みたいだけど、現実である。僕は恋人がいてその子が今、自分の部屋にいるんだ。

 

 あの日以来、もう「恋」何てしないと思っていたのにまさかこんなことになるなんてね。

 湊ちゃんの事を大事にしたい、僕にもう一度「恋」をできるきっかけをくれた子。

 咲希ちゃんへの気持ちにはキリがついた。十年の間、僕の心の中に残っていた記憶はスルッと抜け落ちていく。

 これからは彼女と一緒の未来を過ごしていこう。ベッドで眠る恋人に優しく微笑みかけてもう一度部屋を出る。

 

 

「おはよう。今、朝ご飯作っているから」

 

 母さんが起きてきてキッチンで料理を作っている──僕は一旦洗面所で顔を洗ってから食器をテーブルに並べる。

 

「あの子はまだ寝てるの?」

 

「ああ、昨日は色々あって疲れてるみたいだから起こさないであげようと思ってる。コップは二つでいいんだっけ?」

 

「健吾もいるから3つ準備しておいて、お母さんはコーラを飲むからよろしく」

 

「はいはい、わかったよ」

 

 母さんのコップにコーラを注ぐとシュワシュワと音をたてて泡に覆い尽くされる、泡が引くのを待ってから少しずつ注いでいく。本当にコーラが好きな人だ。僕はさっき飲んだ野菜ジュースを自分のコップに注いでから茶碗と箸をテーブルまで運んだ。

 

「おはよう」

 

「おはよう。今、母さんが朝ご飯作ってるとこ」

 

「俺もジュース飲むわ。悪いけど注いでくれんか?」

 

「あいよ」

 

 兄ちゃんはゆっくりとジュースを飲むとテーブルに座ってご飯ができるのを待った。

 

「こうやって家族みんなで食事をするのはいつもと変わらない光景なんだけど僕は今朝の朝食は何だか新鮮に思えた」

 

 座って待っていると良い匂いが部屋に漂ってきて、母さんがおかずをテーブルに並べていく

 

 ──その瞬間僕の部屋の扉が空いた。

 

「……おはようございます」

 

「おはよう湊ちゃん。ごめんね、ちょうど今朝飯食べるとこなんだけど湊ちゃんはまだ起きてなかったから準備してなかった」

 

「いえいえ、わたしにはお構いなく、急にお邪魔して迷惑かけているだけですし……」

 

 そういうって申し訳なさそうに俯く彼女に僕はいたたまれなくなって立ち上がる。

 

「そういえば雅也、この子誰なんだ?」

 

 この中で唯一事情を知らない兄ちゃんがいたってシンプルな疑問を問いかける、僕は昨晩あった事をかいつまんで説明すると驚いた様子を見せていた。

 

「せっかくだから彼女さんにも朝ごはんも食べてもらったら?」

 

 そういうと母さんは湊ちゃんの分の食器も並べ始める。

 

「すみません……ご好意に甘えさせてもらいますね」

 

 ちょっとだけ無理は表情を見せると僕の横に座る。僕は湊ちゃんのコップにもジュースを注いで箸を置く。

 今までずっと三人だけだった新堂家の朝餉に今日は特別なお客さんが加わることになった。

 家族団欒の良さを改めて実感した僕は美味しい朝食を食べて自分の部屋でゆったりと過ごすことにした。



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あの頃の想いをもう一度

「湊ちゃんって本当にいい子ね」

 

「いえいえ、そんなことないですよ」

 

 母さんと湊ちゃんは昼食の準備の為に二人してキッチンに立っている。

 朝飯を食べた後僕は彼女を家族に紹介した、僕に恋人ができた事にまず驚かれた。

 それからはゆっくりと流れていく時間の中で僕らは関係を少しずつ深めていく。

 最初は緊張していた湊ちゃんも今ではすっかりと落ち着いて話せている。

 母さんがいつもどおり昼飯の準備を始めようとキッチンに立つ。

 湊ちゃんと並んで話しながら料理を作る姿を見るとなんだか微笑ましく思う。

 

 そういえば篠宮家にお呼ばれした時、彼女は料理を担当してたっけ。

 湊ちゃんの家で食べたご飯の事を思い出す。また、彼女の家にお邪魔する機会があればその時を楽しみにしておこう。

 

「雅也、もうすぐ出来上がるから食器の準備しておいて。あと健吾も呼んできて」

 

「はいはい」

 

 僕は部屋にいる兄ちゃんに食事が完成する事を伝えに部屋に向かう。

 湊ちゃんは母さんと何やら話しているけど会話の内容は聞こえなかった。

 

 

「いただきます」

 

 出来上がった料理を前にしてもう腹ぺこな僕はすぐに手をつける。

 家族三人の食事にひとり加わっても何も変わらない、けれど、どこか穏やかな空気が流れる。笑顔を見せる恋人の隣で僕は幸福感に浸る。

 ゆったりとした昼食を取り、僕は自分の部屋に戻ることに。

 

 

「母さんと何を話してたの?」

 

「えっ……知りたいですか?」

 

「何か変なことでも言われたの」

 

「いえ、そんなことないですよー。ちょっと面白い話が聞けたんですが内緒にしておきます」

 

「そう言われると逆に気になるけど……。ま、いいか」

 

 昼飯を食べ終えて僕らは部屋でのんびりと過ごす。いちゃつきたい気分でもあるkれど、流石に家族があるんだから控えておこうと思った。

 

「でも良かったよ。湊ちゃんがうちの家族と仲良くやってくれて」

 

「最初は緊張してたんですけど、今は落ちつきました。雅也さんのお母さんは本当に良い人だと思いました。初めて来た私を暖かく迎えてくれて」

 

「母さんはあまりそういう事を気にするようなひとじゃないからね。一緒に料理してるとこみて僕もすごく心が安らいだよ」

 

「そうなんですか?」

 

「うん、前に湊ちゃんの家でご馳走になった時もお母さんの手伝いしてたでしょ? 女の子が料理してるとこ見るのって何か好きなんだよね」

 

 自分が感じた事をストレートに彼女に伝えてみる、変に気取らずに僕の気持ちを湊ちゃんに打ち明ける。

 

 初めてできた恋人──この子を大切にしていこうと思う。目の前にいる彼女に近寄って髪を撫でる。

 相変わらず綺麗な髪だなー。艶々としていて女の子ってみんなこんなに髪が綺麗なのかな? 

 

 

「これからさ、時間をかけて関係を深めていこう。僕は湊ちゃんのそばにずっといるから」

 

「はい、私は今のこの状況が幸せ過ぎてちょっと夢みたいに感じますけど、これが夢だったら嫌だなぁ」

 

「夢なんかじゃないよ。ほら、だってこうやって触れ合うことができるんだからさ。この感触が夢なんてあり得ないよ」

 

 そっと彼女を抱き寄せると距離が近くてドキドキする。湊ちゃんの顔をまっすぐに見て自分の想いを再確認する。

 僕は湊ちゃんが好きだ──あの頃からずっと忘れていた感情。

 人を好きになるっていうこと、それをもう一度思い出す。

 

 もうあの子の事は忘れなくちゃいけない。僕は初恋の人が心に残っていた。

 十年の間、恋愛から逃げていた自分が前向きになれたのは湊ちゃんのおかげでもある。

 

 

「湊ちゃんが咲希ちゃんとあんなやりとりしてるなんて思いもしなかった。だけどさ、あの出来事で僕は彼女への想いを断ち切ることができたのかもしれない」

 

「私も必死でした。浅倉さんの雅也さんへの想いは知ってましたから……。それでも譲れない気持ちがあったんです。自分でもびっくりするくらい」

 

「湊ちゃんがあんな激しく喧嘩してるとこなんて僕も初めて見たから本当に驚いた」

 

 女の子同士の争いなんてまるで昼ドラを見ているかの様な光景だった。

 あの時、僕が飛び出していなかったらどうなっていたんだろうか? 

 そうしたら湊ちゃんとこういう関係になれていたんだろうか? 

 

 咲希ちゃんへの想いを十年も捨てる事ができなかった僕が──あの時の咲希ちゃんの泣き顔がフラッシュバックする。

 忘れなくちゃいけない。もう彼女は僕にとって何でもない存在なのだから。

 初恋の人っていうのは特別な相手だというのは聞いた事があるけれど、それだけに咲希ちゃんと再会できたのはまるでゲームみたいな出来事だった。

 

 あの頃の好きだという気持ちが残っていたのならもしかしたら僕は咲希ちゃんと付き合ってたのかもしれない。

 それは僕が選ぶ事が出来た未来の一つ、彼女が僕を好きだと言ってくれた時に心が揺れなかったと言えば嘘になる。

 本当にいつまでも未練がましい男だと自覚する。

 

 最低な自分でも好いてくれた女の子がいる──僕はもう一度湊ちゃんの顔をじっくりと見つめる。

 ちょっと頬が赤い彼女の顔に手を当てて撫でる。この光景は夢じゃなくて現実なんだ。

 初めての恋愛はハードルだってあるだろうけど、この子となら乗り切れる気がする。

 恋人を愛おしく感じる。午後の時間を過ごしながら色んな事を話す。

 いつもと変わりのない日曜なのに今日は何だかすごく楽しい。

 また、うちに来る約束を交わして僕は湊ちゃんを家まで送った。

 

 帰る途中の空は変わらず黒色が広がっている──前に見上げた時と変化の無いはずなのにな。二月の寒さに体を震わせながら夜の電車に乗り込んだ。



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もう一度恋に向き合う覚悟を決めた時

 辛くて苦しい気持ちが湧き起こってくる……。

 私はその感情に押しつぶされそうになる、何度も何度も後悔をする。

 もう酷いくらいに泣いた──顔は見せられないくらいになっちゃってそれでも泣き足りないくらい。

 涙が枯れる事ってあるんだねって思う。私は今それがわかる。

 

 初めての「恋」は想像していたよりも悲しい結果に終わっちゃった十年前のあの日、私は雅也君の告白の返事を断った、それが今になって私自身の恋愛の障害になった。

 人を好きになったのは初めての体験だった、胸元に輝く白銀のネックレスが気付かせてくれた儚い想い。

 恋に落ちた私はこれまでに感じた事がない感情が湧き上がる。

 彼の事を考えてベッドを軋ませた日、自分の本当も気持ちに気づくのがこんなにも遅くなっちゃった……。

 

 人生は一度きりだからこそ選択肢は間違える事ができない、やり直しが効かない時間を生きているというのを改めて分らされた。

 

 もしも、篠宮さん(あのこ)よりも先に彼に私の想いを伝えていたのなら──違った結果になってたのかな? 

 何度も後悔する……。私を好きだと言ってくれた彼、恋愛に微塵も興味を持たなかった自分が初めて好きになった人。

 ううん、好きなんて言葉じゃ軽い気がする、私の雅也君への想いはそんな軽い気持ちなんかじゃない。

 

 自分でもそう分かるの。彼と触れ合った時、堪らないほどに愛おしくてずっと側にいてほしいと思った。

 自分がこんなに独占欲が強い子なんて知らなかった。それは「恋」をして初めて理解する事ができた。

 

 恋愛小説は読んだ事があったけれど、まさか自分が物語の中の人物みたいな恋愛をするなんてピンと来なかった。

 

 雅也君にプレゼントされたネックレスはいつも通りの綺麗な色を見せてくれる

 それを見ていると私は更に彼への想いが強くなる。

 

 もしもやり直す事ができるのなら──中学生の頃に戻って彼の告白に応える。

 

『私を雅也君の恋人にしてください』って言う。そこから私たちは今と違う未来を歩いて行くんだろうなあ。

 私は雅也君の彼女で彼はいつだって自分の事よりも私のことを優先してくれて、そうやってゆっくりと二人は仲を深めて行くの。

 そしてお互いに将来の事を語り合いながら関係を結んでいく。

 

 そんな違った形の未来を想像する。だけど、今の私の側に彼はいない……。

 

「咲希ちゃんの笑顔が好きなんだ」

 

 雅也君は私の顔が好きだと言ってくれた。彼に笑顔を見せたことなんて数えるほどあるわけじゃないのに一度見せた笑顔をずっと覚えていてくれた。

 

 大雨が降った日、何も言わずに傘を貸してくれた事、文化祭の時、重いもの運んでいた時に声をかけて手伝ってくれた事。

 今思いだすと彼は私にすごく優しくしてくれた。それでも雅也君の好意に気づかないばかりか彼の事を振った。

 

 取り返しがつかない事をしたんだなって分かったのは最近になってから。

 

 手を伸ばしても届かない恋──私はもう一度雅也君に好きなってほしい。

 音楽プレイヤーから流れてくる静かなメロディが暗い部屋の中で一人ぼっちの私の心に響く。

 大好きな曲をかけてるのにちっとも良い気分になれない。

 

 恋愛をするってことは簡単なことじゃない──好きになった人ができて初めて理解する。

 片思いの不安さや告白した後のもどかしさ、色々な感情が湧き起こってくるの。

 

 他の子はどうなんだろう? 初恋は実らないものなのかな? 諦めて他の相手を探したりしてるのかな? 

 

 けれど、私には雅也君以上に好きになれそうな相手はできないと思う。

 だからこそ、例えどんなに辛い結末だとしても諦めたくない。

 

 自分の気持ちに正直に生きようって決めたから──そんなに割り切れるほど私の彼への想いは易くない。

 

 もうじき三月になろうとしている中、私は気持ち新たにもう一度「恋」 に向き合う覚悟を決めるのでした。



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温かい家庭に包まれて

「おかえりなさいお姉ちゃん」

 

「ただいま、外すごく寒いよ」

 

 家に帰り着いた私は靴を脱いでスリッパに履きかける。雅也さんのお家に泊まって1日を過ごした。

 私たちの関係は<変化>した──ただの会社の同僚から恋人へ変わった。

 夢みたいな話、だけどこれは現実。これはずっと私自身が望んでいたこと。

 お母さんと夏帆に雅也さんとお付き合いを始めた事を伝えるとみんなすごく喜んでくれた。

 篠宮家の温かい家庭、いつも笑顔が絶えない家族が私は大好き。

 妹の夏帆とは仲の良い姉妹だって評判で私自身もあの子の事を大切に思っている。

 お母さんの手伝いをするためにキッチンに立つ、四人だけの家族の輪で笑う雅也さん。

 そんな将来を想像するとなんだかすごく楽しい。

 

「お姉ちゃん。私も手伝うよ」

 

「ありがとう。それじゃあ、レタスを千切ってくれる?」

 

「はーい」

 

 夏帆と並んで料理をする機会なんて少ないから嬉しい。

 いつもと変わらないように感じる食卓が毎日ちょっとずつだけど変わってる。

 今度また雅也さんをうちに呼ぶという約束をして私は自分の部屋に戻る。

 

「ねえお姉ちゃん。ちょっと話したいんだけどいい?」

 

「良いわよ入ってらっしゃい」

 

 部屋の中に夏帆を招き入れる。妹は床にピタんこ座りする。

 

「それで話したいことって何?」

 

「お姉ちゃん本当に新堂さんとお付き合いすることになったの?」

 

「……そうだよ。夢みたいな話だけどね」

 

「そっかー。おめでとう。お姉ちゃんにもやっと彼氏ができたんだね」

 

「うん、恋人ができるなんて私も驚いてるよ。彼と一緒に働くようになって片思いをしてて、その想いがやっと報われたんだ」

 

「夏帆のおかげでもあるのよ。あんたがお姉ちゃんを励ましてくれたから勇気が持てた。そのおかげで新堂さんに告白することができたの」

 

「そうなんだ。私がお姉ちゃんの力になれたんだー。すごく嬉しい! だって私はお姉ちゃんが大好きだもん」

 

 私たちはたまに喧嘩をすることもあるんだけど、仲の良い姉妹だと自分でも感じるの。夏帆は私と違って明るくて前向きな子、時々あの子の前向きさが羨ましい。

 

「今日はお姉ちゃんの部屋で寝ようかなぁ。新堂さんとの事色々と聞きたいしね」

 

「良いわよ。ちゃんと布団持ってきなさいよ。そう言えば夏帆と一緒に寝るなんて随分と久しぶりね。昔はあんなに同じ部屋で寝てたのにね」

 

 お互い成長してから同じ部屋で寝るなんていうことは無くなった。だkらすごく懐かしく思うのよね。

 

 小さい頃は『お姉ちゃんお姉ちゃん』ってよく私の後を着いてきていたあの子が今ではすっかり成長して姉である私をからかうことを覚えちゃって。

 

 その日の夜は夏帆と遅くまで妹と久しぶりに深夜まで話をした。あの子の事、そして私の自身の事、今ままで伝えたかったこととかを話した。

 雅也さんともこういう風に気を遣わずに会話できる日が来るんだろうか? 

 初めての「恋」に障害はつきもの、私は彼と恋人同士になれたことに安心していた。

 

 三人の時間の針はまた、動き出そうとしていた──湊は雅也への想いを再度確認しながら幸せな時間を過ごす。

 咲希はもう一度自分の本心と向きあい、諦めきれない心と失恋の記憶を引きずりながらもあるアクションを起こそうとしていた。

 

 彼女たちの恋は一筋縄ではいきそうにない。一人しかいない人を好きになったこと。

 咲希は今まで抱いてた感情が一気に胸の中に湧き上がってくる。十年経って燃え上がるような彼女の想いは一度フラれただけでは消えることはない。

 

 湊の恋はこれから起こるであろう試練を予測させる。たった今の幸福な時間を過ごす二人の間にはまたしても障害が阻もうとしていた。



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自分の心の奥底にある感情は

「心配をかけたけど、もう大丈夫だよ。わざわざ電話してくれてありがとう」

 

「僕も雅也君がどうしてるか気になってたからね。なんでもなかったのならよかった」

 

 義之君との通話を終えて携帯を置く──僕の小学生時代からの友人は彼の方からこうあって連絡をしてる。僕は湊ちゃんの事を話して二人で好きな漫画の話で盛り上がった。

 東京に来てからもが唯一関わりのある友達で彼との友情はこれからも大事にしていきたいと思った。

 

 これからは湊ちゃんを最優先にしていこう。僕は初めてできた恋人との距離感を考えながら接する。もちろん毎日話していたいと思うこともあるんだけど、こういうのはお互いに適切な関係でいる為に強引な真似はできない。

 

 彼女がそれで僕を嫌ったりはしないとは思うんだけど、何せ僕にとって彼女ができるなんていうことはあの日以来一度たりとも考えたことはなかった。

 

 僕の初恋は小学四年の頃だった──クラスメイトの女の子の笑顔を見て胸がドキリとしたことを覚えている。それから少しずつだけどあの子の事を意識するようになっていた。中学生になる頃には大人びた感じに成長した彼女にドギマギしながら毎日を過ごしていた。咲希ちゃんをふいに目で追っているなんていうことも。

 あの頃の彼女は髪をポニーテールにする機会が多くて部活の帰りにはよく体操服のまま駅の椅子に座っているところを見かけた。

 他の子もいたのに僕は咲希ちゃんしか目に留まっていなかった。

 椅子に座って読書している彼女は本当に魅力的な女の子だと感じた。どうしてあんなに可愛いのに誰とも付き合っていないんだろう? 好きな人はいないのかな? なんていう思考を巡らせていた。

 部活を引退して制服姿で帰るようになってからも咲希ちゃんは相変わらず特別な魅力を放っている。もしかすると僕が彼女のことが好きだったから贔屓目に見ていたのかもしれない。

 

 地味目な中学校の制服を着ても咲希ちゃんはとびきりに輝いていた。小学生時代と比べると話す機会は少なくなって彼女の仲の良い友達と話す事が多かった。

 

 ずっと片思いをしててなかなか想いを伝えられずにいた、田舎の学校だから僕が告白したなんて知られたらあっという間に学校中に広まる可能性がある、それは避けたかったら結局手紙で想いを伝えることにしたんだ。

 自信が無かったわけじゃないけれど、誰も好きな人がいなかった咲希ちゃんと付き合えたらすごくいい、それ以上は何も望まないつもりだった。

 

 

 あれから十年経って僕らは再び巡り合った──どこかのテレビドラマみたいな展開が現実でも起こるなんて今でも信じられないけど、僕は彼女と〈再会〉する。そこから止まっていた僕の時間は動き出した。

 正直夢だと思った。あのこが僕を好きだと言ってくれた事。ずっと好きで片思いな僕の「恋」が十年振りに進展があるだなんて。

 咲希ちゃんにあのネックレスをプレゼントした時僕はどういう気持ちだったんだろう? 単なる友達にあんなものを贈ったりするだろうか? 

 彼女が僕の中で特別だという認識は変わっていない。

 

 最低だな……。湊ちゃんと付き合っているのに僕は昔好きだった人を思い出していた。あの子の事をフったはずなのに罪悪感に苛まれる。

 気持ちに整理をつけたはずなのに心の奥にまだ残っている感情──早く消さないと! 僕はもう咲希ちゃんの事がー。

 

 人生にやり直しはきかない、だからこそ常にベストな選択をしなくちゃいけない。取り返しがつかなくなる前に。

 きっと咲希ちゃんは今回の事で僕を諦めてくれただろう、あの子の側にいるのは僕じゃない、別の人を好きになって恋愛をするべきだ。

 もう会うこともないんだろうし、昔みたいな友達同士の関係に戻るのも難しい……。

 咲希ちゃんの事を追いかけていた僕がいつの間にか彼女から求められる存在に変わっていた。

 この時の僕は咲希ちゃんとの出来事がこの先の湊ちゃんとの幸せな時間の大きな障害になろうとしているなんていうことは予想もしていなかった。

 まだ冬は終わりそうにない──三人の間に流れる空気は周りを巻き込んで変化していく。

 僕が細やかな幸せを手に入れるのが困難であるのを知るのは少しだけ先の話になりそうだ。



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揺るがない想い

 もしも、あの頃の自分と向き合う事ができたのならなんて言う言葉をかけるのかしら? 

 

 きっと過去の私は驚くんじゃないかな? 恋愛になんて興味無いと言ってた自分がこんなにも焦がれるような「恋」をする事になるなんて、しかも相手はあの雅也君。

 

 彼とは中学まで一緒だった。初めて私に好きだと伝えてくれた相手──もしもだけどあの頃から彼と仲良くしていたら今の結果は変わっていたかもしれない。

 

 人を好きになるのってちょっとしたきっかけ、私はそれがわかるのに十年以上の月日が掛かっちゃった。

 恋愛に対して鈍感だと言えばその通りだと思う。好きな人もできずに今までずっと過ごしてきた。

 

 片思いの辛さってこんな感じなんだ……。自分の気持ちを告白するまでの不安、そして私の想いは彼に届くにはあまりにも遠すぎる。

 それを知った時、今までに感じたことのない感情が湧き起こって来る。

 

 初めて好きな人ができました。小学生の頃からの同級生で一度は私に告白したひと、私は彼の事をただの友達だと思ってました。

 だけど、十年経ってようやく気づいた気持ち──私は雅也君が好き。

 胸がドキドキする、こんな体験は初めて。

 

 恋愛に向き合って来なかった自分を変えよう、彼を振り向かせたい、私の笑顔が好きだと言ってくれた。堪らなく愛おしい。

 

「……雅也君」

 

 ベッドを軋ませて自慰行為に耽る、何度やっても湧き上がって来る性欲を抑えることはせずに欲望のままに続ける。

 

 何度も絶頂を迎えても私の心は満たされる事がない。彼と繋がりたいと強く思う、濡れた下着を新しいものに着替え一日中行為をしていても足りないくらい。

 

 恋愛に関する事は明日奈にも相談した、ていうか話せる相手が彼女しかしない……。

 

 これから先どうしよう? もちろん自分の気持ちを簡単に整理できるわけじゃないのだけど私はまた彼に好きになってほしい。

 

 鏡の前で笑顔の練習──雅也君が好きだと言ってくれた自分の笑顔。笑っている時私はどんな顔をしてるのかな? 

 

 何気なくやっているつもりだったんだけど彼はちゃんと見てくれた。

 外見で相手を判断するべきじゃないって言うのはよく聞く事だと思うの、だけど、最初会う時は外見から入るんじゃないか? 

 

 それからその人の印象がどう言う風に変わっていくかは本人たち次第だし、私にとって雅也君はそこまで仲の良い相手じゃなかっった。

 

 小学生の頃から彼は変わった人だなぁって印象を持っていたし、第一にあまり話すような事も無かった。

 

 けれど、中学の頃を思い出すと雅也君は私と接する時の態度が他の女の子達とは違っていた。

 

 長い時間同じクラスで過ごしていたはずなのに私は彼の想いに気遣く事がなくてあの手紙を貰わなきゃ多分知る事も無かった。

 

 昔の彼と私の関係に何か変化はあったのかな? 今と比較するのならお互いに成長して大人の対応ができるようになったって事かな。

 

 中学時代までの彼しか知らなかったから“再会”した時は驚いた。

 小学生時代は私よりも背の低かった彼が今では自分を追い越している。

 痩せ型の体型なのは昔と変わってないけど、足が長くてスラリとした感じなの。

 

 十年振りに会って、色んな話をした──最初は友達だと思って接していたけれど、このネックレスをプレゼントされて私の感情に変化生まれた。

 

 毎日身につけている白銀の色のネックレスの輝きを見るたびに私は彼への想いを再確認。

 初めて「恋」をした。自分には縁のない話だとそう思っていたのだけど最初の「恋」は片思い。

 

 それも前の時と完全に立場が逆。十年前は雅也君は私に片思いをしていた、彼もきっと今の私と同じ気持ちだったんだろう。

 

 今になってようやく理解できた。本当の想い──それに気づくのに掛かった年月が十年。

 

 私が自分の気持ちを確かめる前に雅也君は彼女と仲を深めていった。

 

 神様って残酷だと思う……。「恋」にハードルは多いものだとはわかるけど、こんな展開はあんまりだと感じる。

 

 篠宮さんはずっと彼が好きで私が一緒に過ごしてきた時間なんてまるで障害にならないかのように雅也君と急接近していった。

 大人しそうに見えて彼女が起こすアクションは大胆で「恋」に対して真剣に向き合っている。

 

 私ももっと真剣にならなくちゃダメだよね。

 

 何度も何度も彼への想いを募らせる。

 

「雅也君、それまで待ってて下さい」

 

 彼の心をもう一度自分へ向けさせる為に──私はどんなことだってやろうと決意するのでした。この想いは決して揺らがないのだから。



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感じる視線〜重すぎる愛の始まり〜

 今日は湊ちゃんと一緒に出かける日──僕は服を着替えて時刻を確認する。

 

「待ち合わせは十時からだからまだ少し早いか……」

 

 携帯を閉じてポケットに突っ込む、恋人になってから初めて僕が彼女をデートに誘う。

 前に一緒に水族館に行った事があるけどあれは咲希ちゃんに渡す為のチケットが余ってたからだし、湊ちゃんの妹の夏帆ちゃんもいたから二人きりと言うわけじゃ無かった。

 

 流行りのファッションなんて言うのは僕にはよく分からないけれど違和感の無い格好でデートに向かおう。

 

 部屋でのんびりと過ごしながら今日の予定をシミュレーションする、まずは湊ちゃんの買い物に付き合ってそれからは食事を取ってカラオケに行って、数日前から練っておいたプランを再確認。

 

 カラオケで歌のは随分久しぶりだから楽しみ。前行った時は義之君と一緒でお互いに好きなアニメやゲームの主題歌を歌って盛り上がった。

 

 飾る事のないありのままでいれるような友達がいると言うのは本当にありがたい事だ。

 彼女が出来てからは恋人が優先になっちゃっけど、時間を作って義之君にどこか遊びに行こうかな。

 

 今度篠宮家で食事をする約束をしたし、湊ちゃんの家族に良くしてもらっている、お父さんとは一度じっくり酒を呑み交わしたい。

 

 今まで自分ことばかりで精一杯だったけれどこれからは大切な恋人の為に時間を使っていきたい。

 

 一秒でも早く彼女に会いたくて僕はマンションを出る。今日は目一杯楽しもう。

 外はまだまだ寒くて凍えそうだけれど、心はポカポカと温かい気持ちで軽やかな足取りで駅の方向へ歩き出した。

 

 

(……君、出てきた)

 

 

「相変わらず人すごいなあ」

 

 品川駅の人の多さに溜息が出る──だけど、いつも体験してることだし今更感傷に耽ることでもないような気がするけど。

 

 山手線のホームへ降りて人混みをかき分けながら歩く。都会の人はいつも忙しなく活動をしている。僕も最初は驚いたけど今はもう慣れっこで携帯で時間を確認しながら到着した電車に乗り込んだ。

 

 スマートフォンが幅広く普及する世の中で僕が使っているフューチャーフォンは時代の流れに逆行し何だか自分だけ別の世界にいるかのように感じさせられる。

 

「?」

 

 何だろう? 誰かに見られているような気がする……。自意識過剰なのかもしれないけど確かにどこからか視線を感じる。

 僕は一瞬だけ後ろを振り返ってみるけれど雑踏の中に紛れ込んでいる特定の“誰か"を見つけると言うのは困難だろう。

 

「気のせいか? まあいいや」

 

 そんな些細なできごとはすぐに忘れて湊ちゃんとの待ち合わせ場所へ急いだ。

 

 

「お待たせ!」

 

「あ、雅也さん。来てくれたんですねー」

 

 ぼくが声をかけると湊ちゃんはひらひらと手を振ってくれる──すぐに彼女の隣に並んで顔を見つめる。

 

「? 私の顔何か変ですか?」

 

「いや、そんな事ないよ。湊ちゃんは今日も可愛いなって思ってね」

 

「もう! いきなり恥ずかしい事言わないでください」

 

 ちょっと怒っているように見えるけれど、きっと照れ隠しなんだろう。彼女の仕草はどれもすごくチャーミング。ちょっぴり頬が赤く染まっているけど、僕は気づかないフリをして微笑みかける。

 綺麗な髪が風にふわりと揺れた、女の子独特の良い匂いが運ばれてくると自然と頬が緩み改めて幸せを実感する。

 

 僕は彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。寒いのか肩を震わせる湊ちゃんに僕は自分が来ているコートをかけてあげた。

 

 

 この時の雅也はその様子を伺う“誰か”の存在に感づく事は無く、湊とのデートを楽しむのだった。

 

 

「これとこれどっちが良いと思いますか?」

 

「うーん、僕はこっちの落ち着いた色が湊ちゃんに似合うと思うけど」

 

 彼女の買い物に付き合う。女の子は服を選ぶ時間が長いって聞いた事があるけれど、まさにその通りビルの中の洋服店に入ってから一時間以上時間が経っている。

 

 湊ちゃんが唸りながら服を選んでいるのを見ながら僕はメンズコーナーで設置されている冬物の衣服をぼんやりと眺めていた。

 

 女の子向けの服を選ぶセンスなんて僕にはないから湊ちゃんが欲しいと感じるものを買った方が良いと思う? 

 

 女性店員と楽しそうに談笑する彼女の姿を見て心が和んだ僕は「ゆっくり選んでていいよ。僕はちょっとだけブラついて来るから」と彼女に伝えて洋服コーナーを出た。

 

 湊ちゃんの買い物が終わったら合流しよう。同じビル内にはテナントがいくつか入っているんだけど、僕が興味のそそられるようなものは無さそうだ。

 

 しばらくぶらついて来るとは言ったけどどこに行こうか? 悩んでいるとさっきの服屋から少し離れた場所にある本屋に足が向かう。

 

「お? この原画家の人イラスト集出してたんだ」

 

 お気に入りの原画家の人の画集を手に取って見ていると僕が好きなゲームのキャラクターが表紙になっている。

 

「欲しい」

 

 後ろで値段を見ると──一七〇〇円と書かれていた。

 意外と安い気がする、こういう原画集は値段が張るやつもあるし、早めに買っておかないと売り切れる事だってある。

 

 僕はその画集と発売されていた好きな漫画の最新巻を持ってレジに並んだ。

 

 

「服は買えた?」

 

「はい。気に入ったのがあったので買っちゃいました!」

 

「そう。良かったね。何か店員と楽しそうに話してたけど」

 

「ふっふっふ、実はそれだけじゃないんですよー」

 

 そう言うと湊ちゃんは脇に置いている袋の中から一枚取り出して僕に見せる。

 

「実は雅也さんのお洋服も買ったんです! これ、私からのプレゼントです」

 

「えっ……。本当?」

 

 彼女から服を受け取ったそれを僕はそのまじまじと見つめた。女の子からプレゼントされるなんていう体験は今までに無かったから目をパチパチさせながら湊ちゃんの顔と服を見比べた。

 

 

「男の人の服って選ん事がないから不安ですけど気に入って貰えたら嬉しいです」

 

「ありがとう! 本当に嬉しいよ! 恋人から贈られた最高のプレゼントだね」

 

 ちょっと大袈裟なリアクションをしてけれど、湊ちゃんは笑顔を見せてくれた、僕は彼女をベタ褒めしてお昼の楽しい時間を過ごす事ができた。

 

「?」

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、何か朝から誰かに見られてる気がしてね」

 

「そうなんですか?」

 

 湊ちゃんも辺りをキョロキョロと見渡すと僕は違和感の正体を探ろうとしたけど、せっかくのデートを台無しにしたくないから。話題を変えて湊ちゃんとのひと時を楽しんだ。

 

 

「帰りはどうする?」

 

「もう少しだけ一緒にいたいです」

 

「うん。わかった」

 

 僕はそっと彼女を抱き寄せる──キスでもしそうなほど近い距離まで顔を近づけた。

 湊ちゃんの長い髪を優しく触って今日のデートの感想を伝えた。

 

 彼女の買い物に付き合って一緒にご飯を食べて何気ない会話をしただけなんだけど、それが僕にとってはすごくかけがえのないものに感じた。

 

「恋」をしてこの子の為だけに生きていこうと決めてからささやかな日々を送れている。

 僕を好きだと言ってくれた湊ちゃんの愛に応えよう。

 

 ちょっとずつだけど僕の周りは変わって行く。そのきっかけをくれた彼女が愛おしい。

 

 二回目の「恋」──今度こそ上手く行くだろう。彼女がそばにいてくれるのなら大丈夫だ。

 

 名残惜しいけど別れの言葉を伝えて駅まで湊ちゃんを見送る。もちろん次に会う約束も取り付けておいた。

 手を振って見送って改札から帰りの電車の出るホームへと向かう。

 

 

「早めに帰り着いたな」

 

 駅を出てからまっすぐと家の方向へ歩き出す──時刻は二十一時過ぎ、人気の少ない道は静寂に包まれていた。

 

「……やっぱり誰かの視線を感じる」

 

 僕は今朝から感じていた違和感の正体を突き止めようとした。誰かが僕の後をつけて来ている。

 足を止めると相手も止まり僕が歩き出すと同じ様に歩き出す。

 

 最近は物騒な事件とかも増えて来てるし何もトラブルに巻き込まれてないといいんだけど……。

 

 相手の目的がはっきりしないし、無理に関わって事件に巻き込まれたくない。それでも僕は歩くスピードを変えずに進む。

 

 何だか気味が悪い……。嫌な感じだ。走って振り切っても良いんだけど、変質者を刺激するのは良くない気もするしなあ。

 

 なんていう事を考えているうちにマンションに着いた。ポケットから鍵を取り出してドアのロックを解除する、さすがに家に着いてまで後を追って来る奴はいないだろうと安心してエレベーターに乗り込み五階のボタンを押す。

 

 だけど、この時の僕はその“誰か”に住んでいる所を知られているなんていう事を特に気も留めていなかった。



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愛する心

「ただいま」

 

「おかえり、あんた宛に荷物届いてるわよ」

 

「荷物? ネットで何か買った覚えは無いけど。どこにある?」

 

「部屋の前に置いてるから」

 

「わかった。一体何なんだ?」

 

 部屋の前に置かれた荷物を抱えてから中に入る──通販とかで何かを購入した覚えは無いしな、僕に来る郵便とかは少ないし、着替えるために服を脱いでペン立てからハサミをとって箱を開ける。

 

「何だこれ?」

 

 箱の中身を開けてみて驚いた──中に入っていたのものは僕の写真、しかも明らかに隠し撮りされたものだった。カメラの方を向いていないしごく自然な表情で写されている。

 だけど、妙なのはこう言う場合一緒に写っているはずの湊ちゃんの姿が見当たらない事だ。しかもこの間のデートした時の写真まである。

 

(気持ち悪い)

 

 背筋に寒気を感じて写真を放り出す──なんでわざわざこんなものを送ってきたんだ? 送り主も誰かもわからないし、それにどうしてうちの住所を知っているんだ? 

 疑問が浮かんでくる、もしかしてここ最近誰かに見られている様な感じがしていたけどまさかな。

 

 写真を全部取り出すと結構な枚数がある。僕は恐怖感を覚えながら箱の中を覗くと一枚の紙切れが出てくる。

 

「これなんだ?」

 

 ペラりとした紙切れを拾い上げて見ると文字が書かれている。

 

 私はあなたの事をいつまでも想い続けています。あなたがきっと私に振り向いてくれるのを信じてる。

 

 何だ? 一体誰が? 紙に書かれた内容から相手は僕の事を知っている様な感じだった。

 僕の知り合いは少ないからと荷物を送ってきた相手を特定するのは難しい事じゃ無いだろう。

 

「……もしかしたら」

 

 僕は直感的に察してとある人物に連絡をする──そう、もう二度と会うことも無いと決めた相手に。

 

 *

 

「もしもし」

 

「もしもし。咲希です。もしかして雅也君?」

 

「うん。そうだよ。ちょっと咲希ちゃんに聞きたいことがあって電話したんだ」

 

 もう二度と声も聞かないと決めていた相手──僕の初恋の人。

 湊ちゃんと恋人になってから彼女への想いは断ち切った。だから僕は昔みたいに咲希ちゃんと仲良くするなんていう事はできない。

 

「聞きたい事? 何?」

 

「あのさ、この荷物なんだけど送ったのは咲希ちゃんなの?」

 

「荷物? 何のこと?」

 

「とぼけないでよ! 僕の写真が一杯入ってる荷物だよ! 今日僕の元に届いてたんだ」

 

「そうなんだ。でも、どうしてその荷物の送り主が私だと思ったの? 別の人だってありえるじゃん」

 

「確かにそうだけど。明らかにおかしいんだ! 僕の写真ばかりだし、中に入ってた紙切れに書かれている事を見たら身近にいる人物だって予測ができた」

 

「雅也君が気にしすぎなんじゃない? たまたまあなたのところに届いた荷物に写真が入ってたってだけじゃないの?」

 

「偶然とは思えないんだ。それにこの間湊ちゃんとデートした時のしゃしんもあるし!」

 

「デート……。篠宮さんとデートしたんだ」

 

「恋人なんだから別にいいだろう。あの時もずっと誰かの視線を感じていたし、ここ最近もそうだ。仕事が終わってからも後をつけられてたし」

 

「ふーん。それで雅也君はその犯人が私だって言いたいの?」

 

「少なくともこの荷物を送ってきたのは君だと予測してるよ」

 

「答えが知りたいのなら今から会えない? そしたらあなたの疑問に思っている事が全部解決すると思う」

 

「今からって……。もう十八時前だけど」

 

「全然余裕あると思う。雅也君のお家から私のとこまでそんなに時間かかるわけじゃ無いし」

 

「何考えてるの?」

 

「べっつにー。雅也君が思っている様なことは考えていないよ」

 

「とにかく会えばこう言うことはやめてくれるんだろ?」

 

「あら? 私が犯人だと思ってるわけ? 酷いなぁ」

 

「確信は持てないけど僕はそう思ってる」

 

「いいわ。その疑問も私のところに来れば解決するだろうし、それじゃあ待ってるから」

 

 そう言うと彼女は電話を切った。

 

 ──本当に行くのか? もう会わないと決めたはずなのに……。だけど、僕は彼女がどうしてこんな事をしたのか理由を知りたかった。

 一度脱いだ服をもう一度着て財布と鍵だけを持って家を出る。

 

 外は凍える程に寒くて上着を着てくればよかったなと後悔した。彼女にプレゼントしたネックレスを探した時の様に肩に積もる雪を払いながら駅まで走った。

 

 

「まさか、またここに来るなんてな」

 

 咲希ちゃんの住むマンションを見上げながら偶然に起こった運命について考える。もう二度とこの場所を訪れる事なんてないと思ってた。

 あの日、僕が彼女を振った日から連絡すらとっていない──咲希ちゃんだって諦めてくれたんだろう。彼女の初恋があんな結果で終わってしまおうと今の僕には共感できる様な出来事じゃないから。

 

 今はただの同級生、彼女に対して未練も何も無い。そう自分に言い着替えて咲希ちゃんの部屋番号を入力して呼出ボタンを押す。

 

「雅也です」

 

 一言そう告げると扉のロックが解除された目の前にあるエレベータに乗り込んで階数のボタンを押す──エレベータの中は数秒間の沈黙に包まれたあと無機質な電子音が到着を知らせ現在の階を示すランプする。

 エレベーターから降りて肌に夜の風が当たってすごく寒い……。

 それでもぽけっとにいれている手は出さずにズンズンと目的の部屋へ。

 

(着いたか)

 

 咲希ちゃんの部屋に浮いて一旦深呼吸をする──これからどんな顔をして彼女に会うつもりなんだ? 数秒頭の中でシミュレーションしてからドアの横に備え付けられているチャイムを押した。

 

 十秒も経たないうちにドアが開いた──僕は間に体を滑り込ませて中に入る。

 だけど、部屋の中は真っ暗でセンサーが反応して玄関の明かりが点いた。

 

「咲希ちゃん? 雅也だけど中にいるの?」

 

 声をかけて見るけど反応はない……。ちゃんと僕が来るって言うのは彼女に伝わっているはずなのに妙だな。

 靴を脱いでフローリングの床を進んで目の前の扉を開ける──部屋の中は真っ暗でよく見えない。僕はすぐ横の電気のスイッチを押そうとした瞬間後ろに人の気配を感じた。

 

 振り返ろうとした瞬間! 

 

 ドン! 

 

 何かに殴られたのか後頭部に激しい痛みを感じる。聞き手で押さえながら何とか意識を保っているともう一発軽めの衝撃が頭に響く。

 

 僕は混濁する意識の中、膝をつく形で床に腰を下ろした。

 

「な、何なんだ?」

 

 呟く様な小さい声を出すのがやっとでじんじんと頭に感じる痛みに耐えられずに目を閉じた。

 

 

 **

 

 

「ここは……?」

 

 一体どのくらいの時間が経ったのだろう? 意識を取り戻した僕はまだ痛みの残る頭を押さえながら辺りを見渡した。

 

 暗い部屋の中、誰かがじっと自分に視線を向けていることに気づき、立ち上がろうとするけど、体の自由が効かない。

 

「これは一体? 手が縛られてるのか」

 

 両手は縄の様なものでしばられて動かす事ができない。暗くて状況が掴めないなか、部屋の中にいるだろう彼女に呼びかける。

 

「咲希ちゃん! いるんだろう? どうしてこんなことするんだよ! これじゃあ身動き取れないじゃないか」

 

 僕が声を荒げてそう言うと、暗闇の中で誰かが動いた、その瞬間、彼女の顔が目の前まで出てくる。

 一瞬怯んで後ろに下がると頭が壁にぶつかる。

 

「あいた! 頭ぶつけたわ」

 

 暗くて分からない。不安がどんどん湧き起こって来る……。咲希ちゃんそのは真っ直ぐな瞳で僕を捉えると頬を撫でられる。

 僕らはキスしそうなくらい近い距離まで顔を近づけると彼女は耳元で囁く様に言う。

 

「……変な動きしたら許さないから。雅也君はこれからずっと私と一緒なんだから」

 

 

 いつもとは違い妙に迫力のある言葉に背筋がぞくぞくして僕は恐怖感を覚える。顔に冷や汗をかいているかもしれない……。

 

 カーテンから漏れる微かな光が床を照らす。ゴクリと唾を飲み込むとするりとという音が聞こえて僕は体を押し倒された。

 

「ちょっ! これは一体」

 

 ベッドに倒された僕に追い被さるように体を重ねる咲希ちゃん──彼女は下着姿一枚で僕の上に馬乗りになっている。

 

「何するんだよ! 離してしてくれ」

 

 体を起こそうとしたんだけど後ろ手に縛られているから腕を思うように動かせない。

 

「静かにして。私の言うことを聞いてくれたらその腕解いてあげる」

 

 悪戯っぽく笑みを浮かべると身動きの取れない僕に彼女は強気な態度で攻めて来る。

 

「解いたら雅也君逃げちゃうでしょ? だから動きを封じる必要があるの」

 

 大きな胸を僕に押し付けながらそう言うと身につけている下着を脱ぎ始めた、胸元には僕が僕がプレゼントしたネックレスが見えた、部屋の電気は消しているけどスマホのライトを使って僕の顔を照らす、いきなり顔を照らされたから眩しくて思わず顔を歪める。

 するりとブラを外しプルんと胸を曝け出して僕を見下ろす。間近で見た彼女の胸は本当に大きくてピンク色の乳首が僅かに立っているのが分かる。

 

 僕は何とか理性を保ちつつこの状況から脱しようと体を動かすけど、腕が縛られているせいか何とも滑稽な運動を繰り返すだけになっている。

 

 そんな僕の様子を顔色一つ変えずに一瞥すると、ゆっくりと体を前に倒す。

 

 咲希ちゃんの胸が直接当たるようになり、僕の心臓の鼓動は早くなる──服の上からでも胸の感触を感じられる。

 身体中が熱くなって彼女から目を逸らすと顔をぐいっと自分の方へ向けられた。

 

(近い、近すぎる)

 

 そのまま咲希ちゃんはキスでもしそうな勢いで胸を押し付けて来る。

 

「ちょっと! 顔近いよ」

 

 思わず声が出ると──彼女は笑みを浮かべて離れた。とりあえず一安心するとそのまま今度はパンツを脱ぎ出した。

 

 下着を全部脱いだ彼女はベッドの脇にそれを置いて次は体を下へと下げ始めた。

 何をされるのか分からずに不安に思っているとズボンのベルトに手をかけてかちゃかちゃと動かす。

 ものの見事にズボンのベルトを緩めるとゆっくり下へ下ろす。

 

「やめてくれ! 今度は何をするつもりなんだ?」

 

 僕の問いかけにも答えずにズボンを一番下まで下ろして無理やり脱がせる──誰かに下着姿を見られていると言う羞恥心に思わず目を閉じる。

 

「大丈夫。ここから先は私に全部任せてね」

 

 咲希ちゃんは脱げたズボンを放り出して今度は僕の下着を脱がせ始めた。流石にこのままだとまずいと感じて足をバタバタさせて抵抗したけど、それが返って下着をずり下げて脱げやすくしてしまった。

 抵抗も虚しく僕はパンツを脱がされてしまった。誰にも見せた事がないあの場所を彼女は興味深そうな眼差しで見つめる。最高に恥ずかしくて視線を逸らした。ああ、このまま消えてしまいたい。

 

「男の人のって初めて見た……。こんなふうになってるんだ」

 

 そう言って丸出しの局部を触り、熱っぽい吐息を何度も吹きかける。

 今までの状況でも特に変化のなかったそれは遂にムクムクと大きくなり始めた。

 

「何? 大きくなり出したんだけど。すごいね、さっきまで小さかったのに」

 

 男にとっては自然な行動が逆に彼女の好奇心を刺激したみたいで更に深く息を吹きかける。

 

「こんなにおっきくなるんだ……。ねえ? これが最大の大きさなの?」

 

「いやっ、これはそのーまだそんなに大きくないよ」

 

 僕の言葉に目を見開いて局部を握る──急に握られたから思わず変な声が漏れる。彼女はそれを聞き逃さずに僕の反応を確かめながら局部を刺激していく。

 

 その刺激を気持ちいいと感じてしまったけど、声を押さえて我慢する、だけど、体は正直だ。今までに経験したことのない刺激に反応して先っぽから透明な液を出し始める。

 

 咲希ちゃんはそれを指で触れてベトベトとした感触を確かめるとペロリと指先を舐めた。先っぽに触れた指をくにくにと上下に動かして出て来る液が指を伝う。局部はベトベトになり、何か気持ち悪さを感じる……。

 

 それでも刺激を止めることはせずに今度は局部を握ってからゆっくりと竿を扱き始める。

 

 ちょうどいい感触に気持ち良さを感じて思わず体を逸らす。僕の反応を見て咲希ちゃんは扱く速度を早める。何とも言い難い感覚に溺れそうになりながらも我慢を続ける。

 

 

「意外と我慢強いんだね。ちょっとびっくりしたよ」

 

「あのさ、もうこんなことやめにしないか?」

 

「嫌、雅也君すっごく気持ち良さそうな顔してるもん。やめてあげない」

 

 顔を横に向けて我慢をしているのを彼女に見せないようにする。

 

 グチュグチュと淫靡音が部屋に響く──息を整えながら彼女の刺激に耐えつつ身動きできない体を動かす。

 

「ここから先は私も知らないから何かやって欲しいことはあるかな?」

 

「へ? できればもうやめてくれるとありがたいんだけど……」

 

「だーめ、その提案は聞き入れられません。雅也君が我慢できないような事をしてあげるからね。ねえ? なにがして欲しいの? 言って」

 

 ここで彼女に僕が望んでいる事を伝えてしまえば湊ちゃんを裏切ることになる、それだけは絶対に駄目だ。このまま彼女が満足するまで耐えきれば解放してもらえるだろう。

 

「もしかしてあの子に遠慮してる?」

 

「えっ……?」

 

「やっぱりそうなんだ……。篠宮さんの事考えてるんでしょ? だからして欲しい事言わないんだね。流石に意志が固いんだ」

 

「別に知らないってわけじゃないんだ。男の人がこうされると気持ちいいってことに」

 

 咲希ちゃんは指を話すと顔を局部に近づけて大きく鼻で息を吸った。

 

「すんすん。この匂い嗅いでるだけでどうかなりそう」

 

 ベトベトになった僕の局部をうっとりした表情で見つめるとぐっと握り寄せて舌を出す。

 

「ちょっ! まさか舐めるつもりなの?」

 

「正解。まあ、それだけじゃないんだけどね」

 

「まずはここからね」

 

 玉袋にキスをされた──時には手の上に乗せて何度もキスを続ける。

 吸い付いたり、舐めたり、キスをしたり、タイミングとかをずらして繰り返す。僕が気持ち良くなるように行為を続ける。

 初めての経験のはずなのに彼女はすごく上手かった、比較する対象がいないから何とも言えないのだけど、僕はだんだん気持ち良くなってきた。

 

 つい咲希ちゃんの頭の上に手を置くと彼女は上目遣いで見つめるととろんと眉毛を下げる。

 

 玉袋から竿に移るとすでに濡れているそれに丹念に舌を這わせる。彼女の涎で竿がベトベトになり、舐められていると言う感覚がすごく良くて頭がくらくらする。

 

 

 実は僕は自分のあれを舐められたり咥えたりする言う行為が好きなんだ。と言っても今まではゲームでしか体験してこなかったから実際にやられたのはもちろん初体験。

 ゲームをやっている時はそういうシチュエーションが来ると目を閉じて感覚を味わうのだけど今は現実でされている。

 ずっと我慢を続けてきたけど僕の体は咲希ちゃんの与えてくれる刺激を受けいれている。

 

(何とか耐え抜かないと……。そうしないと湊ちゃんに顔がたたない)

 

 頭の中で快楽に抗うけれど、無理をしている僕の様子を彼女は見逃さずどんどん気持ちの良い方へ持って来る。

 

 ていうか、本当に上手すぎる! ただ、舐められているだけなのにその先もやって欲しいと思わされてしまう。

 

 事切れそうな“意識”を平常に保ちながらいつまで我慢できるのか? 自分と戦いながら早く彼女が満足を迎えますようにと祈った。



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既成事実

 腕を縛られて自由に動かすことさえままならない僕は彼女が与えてくれる刺激に我慢の限界を迎えようとしていた。

 

 最初は軽く舌を這わせるだけだった行為も次第に竿にキスとかを繰り返されるうちに濡れてすごいことになってきた……。

 部屋の中に充満し始める雄の匂いに咲希ちゃんは顔を火照らせて上目遣いで見つめてくる。彼女の小さな口が窄まりそのまま上に移動する。

 僕は次に何をされるのか予測ついた──ねっとりとした涎を含ませた舌は初めて口淫をやるはずなのに今まで経験してきたかの様に竿を舐め回す、ざらざらとした感触を感じながら目を閉じた。この快楽の虜になってしまいそうなくらいだ。

 

 我慢強い方ではないのだけれど、彼女が満足するまで耐え抜いて早く解放して欲しい。

 

 頭の中でそんな事を考えていると咲希ちゃんと目が合う──彼女は目を丸くして僕のチンポを見ている。まだ最大の大きさにまで勃起したわけじゃないけど先っぽから溢れる我慢汁をずずっと啜ると鼻で大きく息をした。

 

「すごい、雅也君って体は細いのにここは大きいんだね……」

 

 普通の時はそこまでの大きさじゃないむしろ小さい方だ、だけど一度勃起し始めると結構な大きさにまでなる、本当に人の体って不思議なものだと思う。

 

 彼女はまだ勃起途中のチンポを掴むと上下に扱く。ぬるぬるとした透明の液体が指先から滴れてローションの役割を果たす。

 ついさっきまでふにゃふにゃだったものが今ではかちかちの状態だ。

 

 僕は息を漏らしながら刺激に耐えようと必死になる──思えばもしも彼女と恋人になっていたのならこう言う行為をするのだって抵抗がなかっただろう。

 けれども、今は違う。僕には湊ちゃんと言う恋人がいてこれから一緒に過ごしていこうと考えている。

 だからこそ、咲希ちゃんの与えてくれる快楽に負けちゃいけない。しっかりと自分の意志を持っておこう。

 

 早くこの状況から解放される事を願い射精したいという願望に抗いながら“意識”を平常に保っていく。

 

 僕の葛藤なんてまるで気にしていないかの様に行為を続ける咲希ちゃん。唾液まみれの口元は何だかエッチな感じで舐めるたびにこちらの反応を窺っている。

 

「そろそろ終わりにしないか? 咲希ちゃんももう満足しただろう。こういうのはもうやめたほうがいい」

 

 何とか振り絞って出した弱々しい声が彼女に聞こえているのかわからないけど、行為を終わらせる為に何かアクションを起こさないといけない気がした。

 

 僕の言葉が聞こえていなかったのか咲希ちゃんは無視して行為をやめない。そればかりかさっきよりも激しく刺激していく。

 ──一旦口を離した彼女の様子にようやく終わったんだと安心していると、ふーっと大きく息を吐いて顔を沈める。

 

「ちょっ! これで終わりじゃないの?」

 

 僕が声を出すと彼女はそれに答えず口元を尖らせる──次の瞬間、僕のチンポは咲希ちゃんの口の中へ誘われた。いきなり奥までは咥えずにあくまでも口淫の一種として行う。

 温かい感触を感じると亀頭は前よりも大きく膨らみ、より一層淫猥な形になる、それでも更なる快楽を求めて勃起する。

 

 チンポを咥えたまま咲希ちゃんは頭を上下に揺らす──口から溢れる涎が竿を伝い全体に気持ち良さを伝える。

 

 これがフェラチオってやつなのか! ゲームで見たものと同じだけど実際に体験して見ると堪らない! 

 ずずっとチンポを吸い上げる様にバキュームされて思わず腰が浮く、僕のそんな反応見た咲希ちゃんは眉毛を垂らして喜びの表情を見せた。

 

 射精するのをずっと我慢して来て何だか変な感じがする。息を漏らしながら刺激に耐えようとするけど体が快楽を求めていた。

 

 一旦チンポから口を離すと大きな口を開けて今度は喉の奥まで咥えこんだ、今までの感覚が嘘に感じるくらいとてつもない刺激が襲ってくる。

 

 喉奥まで咥えてからゆっくりと頭を動かす──いきなり奥まで咥えたのが苦しかったのか咲希ちゃんは咳き込む。

 

 最高の感触だ、彼女の口の中では唾液がカウパー液と混じり合いドロドロとした液体が包み込む。

 もう最大限まで勃起したチンポをより深く咥えようとするけど、咲希ちゃん顔を歪めて吐き出す。

 

「大きすぎて喉の奥に当たる……。これ本当にすごすぎて咥えるのが辛い」

 

 口を離して手で少しだけ扱きゴクリと生唾を飲み込むと再び大きな口を開けてチンポを咥える。

 

 今度は左右に頭を揺らして行為を続ける──喉奥に当たった感触を感じるけどそれでも彼女は舌を使って刺激をやめない、何度も咳き込みながらのディープ・スロートは最高に気持ちが良くていよいよ限界を迎えようとしていた。

 

 ふと咲希ちゃんの顔を見ると彼女は涙を浮かべている、涙と鼻水で汚れた顔はとても卑猥で今まで見たことがない顔。

 

 そして遂に我慢の限界を迎えた僕は彼女の口の中へ射精した──口から溢れ出そうなくらいの精液が発射された、いつもよりも多い量が出た。

 

 咲希ちゃんは精液を吐き出そうとはせずに飲み込んでいく、喉を鳴らす音が部屋に響く。

 

 絶頂を迎えてしまった僕は乱れた息を整える。ようやくこの状況から解放されることに安心して彼女に声をかけた。

 

「これで満足しただろ? ねえ、そろそろ手を解いてもらえない?」

 

 僕の言葉が聞こえているのか分からない。咲希ちゃんは何の反応も示さず行為の余韻に浸っている。

 

 相変わらず手を縛られて何もできない僕はジタバタとベッドの上で動き回る。

 射精したはずなのにまだ小さくなるどころかむしろまた勃起してないか? こいつ……。

 むくむくとまだ膨らんでいるチンポが萎れるのを待とう。

 

 我慢のしすぎでちょっと疲れたしな、そのまま眠ってしまいそうになると今度はパンツを脱いでベッドの脇に放り出す。

 暗い部屋でカーテンの隙間から漏れる僅かな光が体を映し出す。

 

 大きなおっぱいときちんと整えられた下の毛がすごくエッチだ。

 恥ずかしいのかちょっとだけ顔が明るんでいる。

 

 目の前にいる裸の咲希ちゃんの姿に僕のチンポは勃起した──それからゆっくりとそばに寄るとそのまま腰を下ろした。

 

「待って! 流石にまずいって!」

 

 僕のチンポは彼女の性器に挿入される。ぬるぬるになっている股間からいやらしい液を零しながら体を上下に動かす。ぐちゅぐちゅとお互いの性器が重なり合う音は経験の無いシチュエーションを演出する。

 

「私、今日は危ない日なの! だから雅也君の精液を子宮までちょうだい!」

 

「そんな事したらどうなるか分かるだろ! 今すぐやめてくれ! 君が辞めないなら僕が自分でー」

 

 手を縛られた状態で抵抗しようよ足を踏ん張って立ち上がろうとする──けれど彼女に押さえつけらて阻止される。

 咲希ちゃんの胸が服の上からでも感じられるくらい近い距離に張り付く。

 それでもお互いの性器は繋がったままで次第にその快楽に彼女自身も身を委ねていく。

 

 何度も僕を抱きしめキスをする。その度に子宮キュッと締まりが良くなる。蕩けるように涎を垂らす咲希ちゃんの顔は今までに見たことがないくらいエッチで純粋に行為を受けいている。

 

 馬乗りになって上下に体を揺らすたびにチンポは子宮奥まで突く──突かれる度に激しく声を上げ喘ぎ声が部屋に響く。

 

 無理矢理な行為だけどこれがセックスなのか、こんなに気持ちが良い事をしたら虜になってしまいそうだ。

 

 その度に湊ちゃんの顔が浮かぶ……。何とか、何とかしないと。

 

 咲希ちゃんは行為に夢中で僕のことなんて見ていない。きつく締まる膣内の刺激は二発目の射精をするのには十分すぎるくらいだ。

 さっきまでずっと耐えていたのに一度出してしまったらリミッターの外れた機械の様に制御が効かない。

 

 もう絶頂を迎えそうなのか彼女の声はどんどん激しく乱れていく──限界を迎えたペニスは二回目の射精の為に精液を運ぶ。

 

 咲希ちゃんは僕に「愛してる」と叫びながら訪れる絶頂に身を任せた。

 同時のタイミングで絶頂してぐったりと前に倒れ込む彼女の子宮の中へ精液が注ぎ込まれる、一回目の時よりも明らかに多い量の精液が危険日だという咲希ちゃんの子宮を一杯にする。

 

 ガクガクと腰を震わせるとお尻がぶるんと揺れる何度も逝ってしまった。

 涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を見られていても気にしないのかそのままアヘアヘとへたり込んだ。

 

 とんでもない経験をしてしまった僕はしばらく放心状態でベッドから起き上がることさえできなかった。

 

 雅也と咲希の間に目を背けない既成事実が出来上がってしまう。

 取り返しのつかない行い、裏切り、雅也の心は罪悪感で押し潰されそうになる。

 

 二度目の「恋」は純粋な想いとは裏腹に引き返す事が不可能な方向へ進んでいくのだった。



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ためいき

 生まれて初めての体験だった──僕は咲希ちゃん(かのじょ)と体を重ねた。

 ゲームや漫画とかで見ていたものを実際に自分で体験してみると生の感触が何度でも鮮明に蘇ってくる。

 あの後、僕たちは性行為の気持ちよさをまるで覚えたての動物のように獣セックスに夢中になった。

 彼女が言うには僕らの体の相性は抜群らしくいつまでの萎える事ない僕のチンポを下の口で咥える度に激しい声を上げてよがる。

 

 お互いの体を求めあい何度もキスをする中で僕は湊ちゃんへの罪悪感で頭の中が一杯になっていたけれど、次々と押し寄せてくる快楽に抗うのも難しい状況になる。事切れた理性は目の前の欲望を貪りただ受け入れるだけ。

 セックスをする時はコンドームを付けてとかで避妊するべきだろうに彼女はまるで子どもができても構わないと言う態度で「生がいい」と直接繋がるように僕を促す。危険日だと言うのに咲希ちゃんは僕のチンポを支給口まで誘導しなんの躊躇いもなく中に迎え入れる。

 

 初めて膣内(なか)にチンポを挿入した時は生暖かい感触を覚える、もちろん今までそんな経験がなかった僕は生で女性器に入れられた自分のものを制御することはできずにいた。

 襞は波打つように男性器を迎え入れる──何にも貫かれていない処女膜に先端が当たるとまるでずっと待っていたかのようにうねり始める。

 快感を覚えた僕は思わず息を漏らす。自分から今の状況から抜け出すことができずにいる。

 繋がって上下に動く咲希ちゃんの口元から涎が溢れる、彼女は快楽に溺れている醜い顔を隠すこともせずに寝ている僕に視線を向ける。

 動く度にぐちゅぐちゅとした音がどんどん激しくなる。息遣いが荒くなり蕩けた表情を見せる。

 咲希ちゃんが腰を振る度にぬるぬるとした液が混じり合い部屋の中に充満する雌と雄の臭いに僕は正常な判断をするのが難しくなっていた。

 

 太くそそり立つ僕のチンポは彼女の膣内に入って更に大きく膨らもうとしていた、彼女が言ってた通りこの細い体のどこにこんな巨大なものを仕舞い込んでいたんだろうと自分でも思った。

 

 冬の寒さに凍えるくらい部屋の中で裸で抱き合う二人──肌が触れる度に感じる温かさ、男と女の関係を結んでしまった僕たちは後戻りのできない状況に陥る。

 

「後ろからもしてほしいな」

 

 チンポをマンコから抜いて側によると咲希ちゃんは僕の手を縛っていた紐を解く。

 ようやく両手が自由になり指の一本一本が動くことを確かめる。

 ベッドから体を起こすと彼女の顔が近い位置にある。僕は思わず目を逸らす。

 そして、部屋から出ようと動き出すと腕を掴まれる。

 

「後ろからして」

 

 そう言うと僕の目の前にお尻を突き出して自分から広げ始める──お尻の穴が見える位置まで近づける。

 プリンとした丸くて大きなお尻が僕の顔の前にある。咲希ちゃんはそのまま横に振り始めるとマンコから汁が床に滴り落ちる。

 

 ゴクリと生唾を飲み込んでゆっくりと手を伸ばした、丸くて大きなお尻を優しく摩ると喘ぎ声を漏らす、どうやらお尻で感じているみたいだ。

 僕はそのまま摩りながら彼女の反応を確かめる。物欲しそうに見つめる咲希ちゃんの目には涙が浮かんでいる。

 綺麗なヒップはちょうど熟れた桃みたいにプリプリとしていて柔らかい感触が手に残る。

 

「雅也君、撫でるの上手すぎ。私、お尻で感じちゃうかも……」

 

 言葉を漏らす彼女の反応は快感を受け入れて素直な感想を伝える。僕は黙ったまま行為を続けているとマンコから溢れ出てくる愛液はポタポタと落ちて床を濡らす。

 

「触るだけじゃなくてもっと激しいの頂戴」

 

 ねだるように言うとお尻を突き出してくる──どうやら彼女は僕のチンポが欲しいらしい。

 

「ダメだよ。まだお預け」

 

 そう言ってお尻を叩くと体がびくりと震えた。叩く度にぶるんと揺れる、アナル指を穴に這わせてるとヒクヒクと開いたり閉じたりするのがわかる。

 人間の体って本当に不思議なものだ。僕は這わせた指をそのまま突っ込んだ。

 

「んぎぃ!」

 

 咲希ちゃんは聞いた事もない声をあげた。うねうねと指先に感じる今まで経験がしたことのない感触、更に奥まで入れようとすると彼女は声を上げ

 お尻とスパンキングすると獣みたいに吠える。好きだった子のこういう姿を観れるのはなんだか変な感じだ。

 

 バックからする前の前戯で咲希ちゃんはすっかり果ててしまう。赤くなったお尻は突き出されたままで僕はそれを両手で鷲掴みして撫で回す。

 アナルに入れている指を動かしすと彼女は息苦しそうな声をあげる。

 

 どこまでやればこの子は満足してくれるんだろうか? 咲希ちゃんの欲求不満が解消されたら解放してもらえるだろう。

 

 それまでは僕はゲームや漫画で覚えた知識を最大限に活かして彼女を快楽へ誘う。

 

 夜中なのに部屋に響く声は隣に聞こえていないだろうか? と心配になる。今時の子って自分の部屋で恋人と行為をするものなのかな? 

 そう言ったことに経験のない僕は今の状況から一秒でも早く解放されることを願って彼女の満足する行為を続ける。

 

 

 心の中で大きなため息をついた。恋人を裏切ってしまったことに罪悪感を抱いてしまう……。

 

 湊ちゃんとの初めてはまだ経験していない、恋人になったからと言ってもそういう行為はきちんとタイミングを見てからやりたいと思ってる。

 

 大切にしたいひとがいるのだから、けれど、咲希ちゃんと繋がっていた時すごく満たされた気持ちになったというのは嘘じゃない。

 

 昔の僕が望んでいた事が叶ってしまう──だけど、それは恋人としての関係じゃない、こんな愛の形があってもいいんだろうか? 

 

 目の前で感じる咲希ちゃんを他所に僕は何度も頭の中で考えを巡らせるのだった。



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Calling you

「……出ない」

 

 私は次の機会に家で食事をご馳走する約束を取り付ける為に雅也さんの携帯に電話をかけたけど全然出てくれない。

 妹の夏帆は彼が来るのを楽しみにしているしお父さん達だってそう。彼はもう私たちの家族に受け入れられている。

 

 好きな人と結ばれるなんていうロマンチックな経験をまさか自分がすることになるなんてね。

 ずっと片思いをしていた──だからこそ雅也さんの気持ちはすごく嬉しかったし内心では舞い上がっていたのかも。

 彼は「恋」に対して思い出したくない記憶がある、それを含めて支えていこうと思う。

 

 お互いが心を通わせて本当の恋人同士になれたのなら、それは幸せな事じゃないかな? 

 お母さんの手伝いでキッチンに立つ、お料理はもっと上手くなりたい、雅也さんに美味しいと言ってもらえたら良いなぁ。

 彼の笑顔が好き、見ていると私の方まで幸せな気持ちになれる。

 

 厳しい冬の寒さを感じる中で私たちは一歩進んだ関係になった。初めて人を好きになった事、その人と恋人になれたのは恋愛の神様が私に与えてくれた幸福なんだろうな。

 穏やかな篠宮家の日常に彼が加わる、会話の中心になって、私は自分の彼氏が素敵なひとだと改めて認識する。

 

 一度しかないこの恋が成就して、安心したのか私はこの先に訪れるであろう波乱の出来事に対してこの時はまだ予想だにもしてませんでした。

 

 

 *

 

「電話が鳴ってる」

 

 折り畳まれてた長方形の端末をパカりと開いて着信履歴を確認した。

 

【篠宮 湊】

 

 恋人から何回か着信がある──僕は履歴のページを閉じて体を預けているベッドの上で天井を眺めた。

 咲希ちゃんとの何回目かのセックスでもう大分疲れてきた……。どっと疲労を感じてしばらくの間は立つことさえままならなかった。

 彼女と繋がった時、僕は今までに感じたことのないような快感を覚えた、初めて性行為をしたのに夢中になるほど激しい咲希ちゃんの愛情表現を受け入れてしまった。

 

 そして後悔が押し寄せてくる。恋人を裏切ってしまった……。

 僕の事を好きだと言ってくれた湊ちゃんを他所に咲希ちゃんとのセックスを辞めることができなかった。

 あれだけ続けていたのだからもしかしたら妊娠(できて)してしまったかもしれない。

 彼女も危険日だと言ってたし、コンドームも付けずに生のまま挿入したら流石に言い訳もできないだろう。

 

 温かい子宮の中に何度も自分の遺伝子を発射する、零れ落ちるほどに注がれてその度に彼女は絶頂を迎えて果ててしまう。

 

 体の相性は抜群らしい──何度行為を続けても枯れることのない性欲、こんなに気持ちが良いことがあるんだな。咲希ちゃんは自分の醜い顔を隠す事もなくひたすらに快楽を求める。夜の遅い時間に寝る時間を削ってもセックスを続けた、そうお互いの体を求め合い重ね合う。

 後ろからされるのを気に入ったのか彼女はお尻をこっちに向けて振る。プルりとしたお尻が目の前にあって、僕はそれを優しく撫で回す。

 その度に声を漏らしながら喘ぐ彼女は本当にエッチだなって感じた。

 

 行為を続けていく途中ベッドの上に置いた僕の携帯が鳴る──それでもその着信に出る事もなく、ひたすらにセックスを続けるのだった。



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Regret

 二日近く家に戻っていない、ひとり夜の街を駅へ向かって歩く。

 都会の夜は僕が住んでいた田舎とは違って街灯が明るく照らしている。時々立ち止まりながらこれまでのことを考えた。

 乾いた寒風が吹き荒み肌に冷たい風が当たる。この間買ったN−2Bに身を包んで夜の街を颯爽と歩く。

 

 咲希ちゃんが寝ている間にこっそりと抜け出して来た。あれ以上続けていたら僕は本当にダメになってしまいそうだったから。

 初めて性行為を経験した──今でのその時のことを鮮明に思い出すことができる。

 乱れ切った彼女の顔は酷いものでセックスをするとあんな風になるんだなって思った。

 恋人がいるのに他の女の子と行為をしてしまった。激しい後悔の念が押し寄せてくる……。

 このままどうしたらいいんだろうか? いつまでも隠しておくわけにはいけない、きちんと湊ちゃんに話すべきだろう。

 それでたとえ僕らの関係が険悪になったとしてもずっと嘘をつき続けるよりはずっとましだ。

 

 冬の群青色の空は今日も変わらない、そんな空を睨んでから終電に間に合わせるように歩くペースを早めた。

 大きなビジョンに映る知らない芸能人は笑顔で商品の宣伝をしている、わざわざ足を止めてそれを見る人は少ない。

 みんな他人になんぞ興味も示さずに前を向いて歩いている。忙しない、それが都会の人なんだ。最初のうちはこの景色に違和感を抱いていたけれど、今では僕自身もその空間の中にいるひとりだ。

 

 改札にスマートフォンをかざす人が多く出入りする駅で僕は交通カードの券売機の前に立っていた。

 財布から野口を取り出してカードに料金をチャージする。吐き出されたカードを取って定期入れに入れ直して改札へ向かう。

 

 改札をから駅のホームへ降りると冷たい風が肌に当たる。それでも表情一つ変えずに乗る電車のくる方へ体を向けてズボンのポケットに手を入れた。

 

 吐く息は白くなり、寒そうに体を丸める人がいる中で僕はこれから先の事を考えていた。夜の帳は降りて静寂な時間が長く続く。

 

 マンションへ帰る途中に携帯を開いた──湊ちゃんからの着信があったのに気がつく、電話が鳴った時僕は咲希ちゃんとのセックスに夢中になっていた、何回もかけていないところを見るとどうやら僕が出なくて諦めたみたいだ。今度僕の方から連絡を取ろうと思う。

 それで、きちんと謝ろう、とても許してもらえるようなことじゃないけど誤魔化しておくほうがスッキリしない。

 

 初めてできた恋人を大事にしたい、その気持ちに嘘なんかはない。けれども、彼女との性行為がこれからの僕らの関係を変えていくことになるんだろう。

 

 もしも、妊娠していたらどうする? 間違いなく父親は僕だ、男ならその責任を取らなくちゃいけない。だからといって彼女と結婚するわけにもいかない……。

 せっかく授かった命を堕すなんていう残酷な選択を僕ができるんだろうか? 

 問題は咲希ちゃん自身がどう考えているかだ、子どもを作れば苦労するのは彼女だ、一時の快楽を求めた結果できてしまったものとどういうふうに向き合っていくんだろうか? 

 

 子どもを作ることを望まないのならセックスなんてするべきじゃない。けれども、彼女はそれがわかっていて行為を続けた。

 お互いが繋がる中、何度も自分を孕ませてくれと懇願する言葉を聞いた。

 

 妊娠することを咲希ちゃん自身が望んでいたのか? それは聞いてないから僕にはわからない。

 湊ちゃんに隠れて関係を続けるわけにはいかない、次に会う時にもう二度と会えないことを伝えるべきだと思う。

 

 まだ、父親になるなんて実感は湧かないしそれに僕は咲希ちゃんとの間に子どもが欲しかったわけじゃない、自分のやったことの責任を正当化するように何度も頭の中で言い訳をしていた。

 

 最低な男だと思われても仕方がない。事実僕は恋人がいる中で他の子と交わってしまったのだから。先のことがこんなにも不安に思えた事はなかった……。

 

 家に帰り着いても簡単に眠る事はできずに結局考えがまとまった時にはもうすでに外が明るくなっていた。



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Let's take a step toward the future

 あの出来事以来僕は湊ちゃんと接する時に気を遣ってしまう。

 早く咲希ちゃんとの事を伝えるべきなんだろうけどそれもままならない状況が続いていた。

 それもでも彼女の笑顔を見ると安心するしそれと引き換えに裏切ってしまったという思いとの間で葛藤する。

 こんなにも悩んだのは昔初めて「恋」をした時と似た感覚だ。

 

 僕の初恋は成就しなかった、小学生の頃から好きだった子と付き合う事はできずに恋人も作らずに今まで「恋」と向き合うことから避けていた。

 

 一月のあの時に彼女と“再会”したことで僕の中で止まっていた時間が再び動き始めた。きっかけはほんの些細なできごと──それも僕は咲希ちゃんとまた出逢えたのを嬉しく思った。

 十年以上も前の片思いなのにそれがいつまでも自分の心の中にあってなかなか忘れることなんてできなかった。

 そんな中僕は湊ちゃんと巡り合えた、いつも明るくて彼女の笑顔は天使からの贈り物なんじゃないかと思えるほどチャーミングだ。

 

 ただの職場の後輩から気になる人へ変わっていった、一緒に食べるお昼ご飯の時間が毎日楽しみで小さな幸せを感じていられた。

 

 僕の中で湊ちゃんの存在が大きくなるにつれて昔の失恋の記憶が蘇る──もう「恋」なんてするつもりはなかったけれど、そんな頑なだった僕の心を彼女が優しく解きほぐしてくれた。

 あの子の為に忘れたかった記憶と向き合っていこうと思えるようになれた。こんなにも自分を想ってくれるひとがいるのに僕は何をやってるんだろう? 

 

 まとまったはずなのに結局は迷ってしまい行動に移すことができない……。

 僕の変化に気づいたのは彼女の方だった。いつもと違う様子を感じ取ったのかなんだか今日はどこかよそよそしい態度を取っている。

 

「どうしたの? 弁当食べないの」

 

「えっ……? ああ、はい。ちゃんと食べますよー」

 

 無理をして笑う湊ちゃんと見ていると何だかすごく悪い気分になってくる。僕の恋人はいつだってそうだ、自分が無理をしててもそれを打ち明けたりはしない、相手の迷惑を第一に考えているあたり本当に心の優しい子なんだって思う。

 

 彼女を迷わせてしまっているのはおそらく僕が原因だ、言わなくちゃいけない! だけどいざ声を出そうとする喉の奥につっかえて出てこない。

 

 言うべきことを決めていたはずなのにいざと言うときに何も言えなくなるなんてな……。

 

 それでも伝えないとダメなんだ。僕はふぅと深呼吸をして湊ちゃんの手を握り彼女の顔を見る。

 二つの瞳が僕を捉えているその真剣な眼差しを見て怯みそうになった。

 

「あのさ……。実はちょっと湊ちゃんに言わなくちゃいけないことがあるんだ」

 

 彼女は黙って聞いてくれているゴクリと唾を飲んで一決して話そうとした瞬間──僕の脳裏に咲希ちゃんと抱き合っているイメージが湧いてきた。

 

(くそっ! こんな大事にな時にどうして思い出すんだよ!)

 

 ブルブルと頭を振って雑念を消そうとしたけれど、そうする度に咲希ちゃんの顔が思い浮かんでくる。

 

 僕の方から湊ちゃんに声をかけたのに言い出せずにいる。そんな僕の様子を見ていた彼女は何も言わないで待ってくれた。

 

 きちんと謝らなきゃならない。到底許してもらえるようなことじゃないのだろうけどそれでも逃げているわけにはいかない。

 

「ごめん……。ちゃんと言うって決めたんだけどね。こんなんじゃ全然ダメだわ。もっとしっかりしないと」

 

「人間関係って難しいですよね……。相手の事を考えれば考えるほどわかんなくなる事もあって自分でもどうしたらいいんだろう? って悩んじゃうこともあって。皆誰からから嫌われるのを恐れているんですよ」

 

「もちろん断然に人に好かれた方が楽なんでしょうけど、そうやって無理したって余計に関係が悪くなっちゃう時だってある。私はそう言うのは嫌かなあ」

 

「今度の事は僕の口から湊ちゃんへ言わなきゃならないことなんだよ。そこはしっかりとしておきたいと思うんだ。これからずっと付き合っていく中で少しでもいい関係を築いていきたいからさ」

 

「迷っているうちは言わない方がいいと思います。自分の中で答えが出た時に言うのがベストじゃないかな? 雅也さんはいつもいろんな事を深く考えすぎてますよ。もっと気楽に構えていてもいいのでは?」

 

 湊ちゃんはそう言って笑顔を見せてくれる。この子を裏切っちゃいけない、改めてそう自分に言い聞かせる。こんなにも真剣に捉えてくれている僕の恋人、本当に素敵な人に出会うことができたんだな。

 

 なあ? 聞いてるか昔の僕、君にはこれから先愛おしいと思える子が現れるんだ、いつまでもあの時の失恋を引きずっていないでちょっとは前向きになってみようぜ。

 

 もしも、過去に戻ることができるのなら僕はあの頃の自分そう声をかけるだろう。もうすぐ三月を迎えようとしている中で僕ら一歩はまだ始まったばかり。

 隣に座っている彼女をこれからも大切にしていこう。季節は移り変わる──そんな当たり前の出来事を肌に感じながら感傷に耽るなんて何時ごろぶりだろうか? 

 

 この子がいてくれるから僕は──いつまでもふらふらとして落ち着きがない自分の心に改めてさよならを告げて僕は次に湊ちゃんと会う約束をする。

 

 君がいてくれるなら僕は大丈夫。そうだ、新しい恋はまだ始まったばかり、どんな障害があったとしても彼女と一緒なら乗り越えていける気がする。

 

 会社から帰る頃には冷え込みが激しくなってくる。それでも雅也の心は細やかな温かさを感じていた。



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Restraint

「うん。それじゃあまた明日ね」

 

「はい。おやすみなさい。話せてよかったです」

 

「僕もだよ、明日がすごく楽しみになってきたよ。それじゃあおやすみなさい」

 

 湊ちゃんとの電話を切り終えて携帯を枕元に置く、明日は彼女とのデート。すごく楽しみだ、新しい服と綺麗な靴を準備してまるで遠足前日の子どもみたいにワクワクとした気分になる。

 

 デートプランは二人で話し合って決めた。ああいう風に恋人同士で何かを決めたりするのって昔からちょっと憧れていた。意見がぶつかる事があってもいい、全部が全部同じなんていうのはつまらないからね。

 会社の帰りに寄ったコーヒーショップでちょっとしたブレイクタイムの中で色んな話をした、湊ちゃんは僕といきたい場所がたくさんあってなかなか決められないでいた、前に一緒に行ったアクアリウムパークも気になるらしい、チケットを準備するのは大変だけど頑張ってみるかね。

 今度はふたりだけの水族館だし、ちょっとは楽しめるといいんだけど。

 

 水族館も面白いけど僕はプラネタリウムも好きだ、涼しいドームの中で綺麗な星を眺めるなんていうのも悪くない気がする、今の時期に公開されているところがあればいいんだけど。

 

「もう十九時か風呂に入るにはまだ早いしちょっと出かけてくるかな、ちょうど喉も渇いたしコンビニで飲み物でも買ってこようかな。外は冷えるだろうから上着がいるか」

 

 N−2Bを着て財布と携帯を持って外に出る、母さんたちは今日は仕事で遅くなるかもって言ってたし最近は僕自身も深夜に過ぎに帰り着く事が多いから家いなくても心配されないだろう。

 

「やっぱ寒いわ……。こいつを着ておいて正解だったな」

 

 渇いた寒風が吹き荒む夜の街は静寂に包まれていた、周りはまだ明るくて繁華街の方は賑やかな音楽が聞こえてくる。

 ジーンズのポケットに手を伸ばして風を切りながら歩き始める。

 コンビニまではそんなに遠い距離じゃない、飲み物を買ったらちょっとだけぶらつくのも悪くない。

 財布には諭吉が五枚、大したものを買うわけじゃないが、色々と見て回るのも悪くないな。

 

 あえて人気の少ない道を選んで歩いていると何やら背後から来る違和感に後ろを振り返る。

 コツンという足音は止まって聞こえなくなる。

 

(気のせいか? まさかつけられてるなんていうことがあったりしないか)

 

 僕が歩みを始めると足音はちょっとずつ響いてくる──敢えて人気のない道を通ったからその違和感はすぐにわかるまでに。

 

 胸くそ悪い感じがして足音を振り切るように駅へ走って電車に乗り込んだ。流石に目的地は決めていなかったが、電車の中までついて来る物好きはいないだろう。

 

 目の前の席が空いたのでどっしりと腰を下ろす、途中一駅ほど乗ってから降りる。いつも使わないルートで出て駅の外へ。

 

「流石にもう追ってきてないだろう」

 

 ほっと一息ついて遠回りしてしまった事に後悔しながら家に戻るルートを辿る。

 

「ここはあそこか。はは、そういえばこの場所には色々あったな」

 

 どうしてだろう? 自分でも何でここに来たのか分からないが、湊ちゃんと咲希ちゃんがやりあっていた公園に辿り着いた。

 冷たいベンチに腰を下ろして一息つく、今は誰かに付けられているなんていう違和感は無いし、ここでしばらく休んでいこう。

 

 咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスを探した場所──二人の女の子が激しく感情をぶつけ合っていた場所、夢で見た時はわからなかったけど後で知ることになった。

 

 暗い公園には僕しか人はいない。雪の中必死でネックレスを探していた自分の姿が思い出しながら考える。

 

 

 三十分以上寒空の下にいてすっかり冷え切ってしまった。もうあれから一時間以上経つ、時間が過ぎるのは早いもんだな。

 

「さてと、そろそろ帰ろうかね」

 

 勢いよく立ち上がって顔を前に向けると目の前には思わぬ人物が立っていた。

 

「……咲希ちゃん。どうしてここに」

 

「やっぱりここにいたんだね」

 

 彼女は僕の言葉に何も答えずにどんどんとこっちに向かって来る。僕はすり足でちょっとずつ後ろに下がるけどベンチに足がぶつかって止まってしまう。

 

 

「この場所は私にとっても特別な場所なんだよ? だって雅也君が私の為にこのネックレスを探してくれた場所なんだから」

 

 できるだけ彼女と目を合わせないようにしていると咲希ちゃんの方から顔を近づけてきた。

 

「篠宮さんと結構激しくやりやったんだっけなぁ。あの時の痛み今でもわすれてない。結局雅也君はあの子を選んだけど私は納得してないから」

 

「前にも言っただろ。僕の君への気持ちはあの時にもう冷めてしまったって今更もう一度好きになることなんてない。それに僕にはもう恋人がいるんだ」

 

 自分の気持ちに嘘はない──十年前のあの日、僕の初恋はとっくに終わりを迎えてしまったのだから、この先何があったとしても咲希ちゃんの事をまた好きになるなんて言うのはあり得ない。

 

「もういい加減にしてくれないか? 僕らの関係はもう終わったんだし、いつまでも付き纏われてもこっちが迷惑なんだよ!」

 

 ちょっと強めの口調で言ったけど彼女の表情は変わらない、どうしてこんな風になってしまったんだろうなあ。僕が選んだ選択肢が間違っていたとでも言うつもりなのか? 

 

 彼女とはただの友達関係にも戻ることはできない、それは事実だし僕自身がちゃんとけじめをつけないと。

 

「もう二度と会う事はないよ、これから僕は湊ちゃんと一緒にいるだろうから、君と昔みたいな友人として接するのは難しいと思う」

 

 自分の口から嘘のない気持ちを伝える、恋人いるのにいつまでも昔に「恋」に縛られてちゃいけない。

 

 彼女と目があっても逸らす事はしない、今の僕の本当の想いを知ってもらう為に、冬の公園の中、二人の間に流れる空気感は逃げ出してしまいそうなくらいに冷え切っていた。

 

 僕はいい加減帰ろうと彼女に背を向ける──その瞬間頭にずしりとした衝撃が襲う。

 

「っ! これは一体……」

 

 思わず後頭部に手を当ててガックリと地面に膝を落とした。朦朧とする意識の中、何とか自我を保って立ち上がろうとするけれど、頭の痛みに引きずられ視界がぼやける。

 

「くっ、何だよこれ」

 

 ぼんやりとした意識下で今の状況を飲み込もうとしていると再び後頭部に強い衝撃が──その痛みに耐えかねて今度は殴られた場所に手を当てることさえままらない。そうして僕の視界はまるで白いもやがかかったようにはっきりとしない。

 この状況でこんな事ができるのは一人しかいない、迂闊だった。まさか彼女がこんなことをするとは思わずに背中を向けたのが間違いだった。

 

 僕にまだ意識があるのを気づいた咲希ちゃんは再び手に持っていたものでもう一撃加える。三回目の衝撃はすでに弱り切っている僕を気絶させるには十分だ、遂に目を閉じて落としていた膝から崩れるように地面に倒れ込んだ。

 

(ああ、これから先一体何が起こるんだろうか)

 

 目を閉じると暗黒の世界が広がる──その暗闇に身を任せると一気に引き込まれるように僕の意識は奈落の底へ落ちていった。

 

 

 *

 

「ここは? どこだ」

 

 あれからどのくらい時間が経ったんだろう? 僕は目を覚まして暗闇の中で頭を動かして状況を確認した。

 

「ん? これ、手を縛られてるのか」

 

 両手はきつめに縛ってある、僕は床に座らせられていて自分では立ち上がるのも難しい状況だった。まずここがどこなのか知る必要がある。唯一自由に動かせる頭を左右に振って確認する。

 

「ここってもしかしてー」

 

 そうだ、僕はこの場所に身に覚えがある、間違っていないのならおそらくは──

 

 

「やっと起きたんだ」

 

 闇の中から聞こえる声に耳を傾ける。声の主は僕に近づいて来ると何か長方形の物体をパキリと折って床に投げ捨てた。

 

「これ。僕の携帯じゃないか! ねえ咲希ちゃんいるんだろう? 何でこんなことするんだよ!」

 

 声を荒げて暗闇に呼びかけたけれど返事はない、次の瞬間彼女は僕の目の前に姿を表す。

 

「もう絶対に逃げられないから。前は腕を解いてあげたのが悪かったかなぁ、これでもう身動きすらできなくなるはず」

 

 僕を見下ろしてそう言うと逃げないようにとさらにキツく縛り上げる。床に寝せられて抵抗もできない相手に彼女は何をするつもりなんだろうか? 

 恐怖で冷や汗をかく僕のことを気にもせずに破壊した携帯の残骸を回収する。

 

「逃げようにとしても誰かに連絡しようとしても無駄だからね。雅也君は何もできないんだから」

 

 声のトーンは普段と変わらないはずなのにそんな彼女の様子に恐怖感を覚える。

 

「あんなにエッチしたのにどうして逃げちゃうのかな? 私たちの体の相性は抜群のはずなのに」

 

 頬に手で触れるとそのまま思いっきり引っ張られた、ジンジンとした痛みを感じながら抵抗しようと頭を動かす。

 

「ダーメ。大人しくしなさい。じゃないともっと酷い目にあうかも」

 

 耳元で囁くように言うと彼女は僕をベッドまで連れて行った。

 

「この間は途中で終わっちゃったしまた続きでもしよっか」

 

 そう言って服を脱ぎ出す。僕は思わず目を閉じてしまった、それからベッドに倒されて押さえつけられる。

 彼女はズボンのベルトを緩めると何の躊躇いもなくズボンをずり下げた、下着姿になった僕あ足をバタバタと動かして抜け出そうとするけど体を乗せて妨害される。

 それから一呼吸おかずにパンツを脱がす──露わになる自分の性器はまだ小さくふにゃふにゃのままだ。

 この状況で経つほど変態じゃないし第一にこんな事が許されるわけがない。

 僕は咲希ちゃんのことを出来る限り意識しないように振る舞う、そんな様子が面白くないのか彼女は不満げな表情を覗かせてまずはブラジャーを外す。

 ぷるんと曝け出された大きな胸は重力で垂れ下がりちょうど僕の顔の前で止まる。なんとか視線を逸らして見ないようにしてたのがわかったのか彼女はそのまま胸を押し付ける。

 息ができないほど苦しい……。柔らかいものが押し付けられているはずなのに呼吸するのもままならない。

 

 ツンと立った乳首が唇に触れる──おそらく咲希ちゃんは意識してそれをやったいる、口を開けたらそのまま乳首に吸い付いてしまいそうだ。

 鼻で息をしながら理性を保とうとする。

 

 なかなか僕が自分を求めてくれないことに痺れを切らせてもっと積極的に行動する、押し付けられたおっぱいの感触と触れ合う彼女の肌の温もり、前はそれに負けてしまったけれど、今は違う、限界を迎えても耐え切る自信はある。

 

 鼻で呼吸する僕の様子を見ると胸を離して今度は顔を近づける──見つめ合う形で向きある僕ら咲希ちゃんの丸い瞳は僕を捉えている顔を横に流して見ないようにすると首を押さえつけられて無理やり自分の方へ顔を向けさせる。

 

 唇に指を当てると顔を埋める──無理やりに口を塞がれる、彼女も鼻で息をする、貪るように啄むとピチャピチャとした音が響く。

 こんな形でキスをされるのは正直好きじゃない……。それに相手は好きな子でもない。

 

 心のどこかで咲希ちゃんと恋人になりたいと思ってた、けれどそれは昔のこと、今の僕にもう一度彼女に対して好意を持つことなんてないのだから。

 

 身動き取れない僕の体を好きにしていく、例え意識していなくとも人間の体というのは不思議なものだ

 さっきまで全く反応を見せていなかった自分の股間はムクムクと大きくなり始めた、感情を抑え込んでいるはずなのに男性器は外からの刺激を受け入れる。

 

 僕に出来る最低限の抵抗といえば目を閉じて彼女の裸を見ないことだ。

 そしてそれを実行に移す──目を閉じて視線を遮る、その間彼女は勃起したチンポに跨ると激しい声を上げた。生暖かい感触を覚えたけど僕はそれに抗う様にひたすら早くこんな事が終わってくれと願った。

 脳裏に浮かぶ湊ちゃんの顔、罪悪感で押し潰されそうになる、快楽に負けてしまってはいけない、自分にそう言い聞かせて目を閉じ必死に我慢した。

 

 それから数時間が経った、もう何発射精したかも分からない。咲希ちゃんは息を乱しながらも腰を上下に動かしてチンポを奥まではめる。

 

 数発で萎えるどころか突き上げる度に先端は膨らみ彼女の膣内を刺激する、逆に咲希ちゃんの方が限界を迎え到底耐えられない様子だった。

 目を閉じていても聞こえて来る彼女の喘ぎ声がその状況を理解させる。

 

 バックからしてほしいらしいが前みたいに僕に逃げられる可能性があると察したのか彼女は体位を騎乗位から変えることはない。

 

 部屋中に充満する卑猥な臭いに僕は思わず顔をしかめる、自分で動くことはせずに彼女にされるがまま、まるで調教でも受けている気分だ。

 こういうシチュエーションは大概男女の立場が逆なパターンが多い、まあ、僕にはそんな趣味はないが──

 

 咲希ちゃんの体なしでは生きていけないようにされてしまうのか? いいや、そんな事はありえない。彼女はただ、己の性欲を満たすためにやっているだけだからそこまでは考えていないと思う。

 

 

 時間は経ち、ヘナヘナと体を前に倒し込み絶頂する咲希ちゃん、胸の感触が肌に伝わる、理性が崩壊するまで一本の綱の上を慎重に渡っている状況だ、彼女は拘束され抵抗できない相手を一方的に自分のものにしようとしている。

 

 僕が調教される時間は日付が変わるまで続けられるのだった。



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Unexpected event

「あれ? 新堂さん今日はお休みですか」

「そうなんだよ、彼が仕事を休むなんて珍しいよね? 何か聞いてない?」

「いいえ、私は……。そう言えば私が入社してから新堂さんが休んでいるとこあんまり見たことないかも」

「まあ、休みの連絡は受けてるし、体調が悪いなら無理する必要もないよね、彼がいない分はみんなでフォローして行こうよ」

 

 上司の言葉でちょっとだけ安心したけど私に心の片隅には不安が残っていました。

 

 デートする約束していたのに雅也さんと連絡がつかなかったの……。何度か携帯にかけてみたけど出てくれない。

 普段遅くても連絡をしてくれる彼が音信不通になるのは何だか嫌な胸騒ぎがした。

 雅也さんがお仕事を一日お休みした日は私は早めに帰宅して家でお母さんのお手伝いをする、夏帆やお父さんは相変わらずだけど私は不安感を感じ取られないように振る舞った。

 

「やっぱり出ない……」

 

 自分の部屋で雅也さんに電話をかけてたけれど、結果は変わらない。どうしたんだろう? この前まで一緒だったのにもしも何か大きな病気になっていたのならお見舞いに行かなくちゃ。

 あんまり心配しすぎてうざがられるのも嫌だし……。そのうち彼の方から連絡があるでしょう、そんなことを考えながら過ごすのでした。

 

 

「新堂さん今日もお休みなんですか?」

「そうみたいだね、二日も続けてなんて珍しいよね、さっき連絡受けてあと二、三日は休みたいとっていう話なんだけど心配だよね。ついこの前まで元気そうにしてたし、急に何か大きな病気になっちゃったのかね」

 

 雅也さんは今日も来ていない、私が就社してから彼が休むところなんてほとんど見たことがない

 もしかして本当に入院でもでもしてるんだろうか? だけど、それならちゃんと言うはずだし気になる……。

 朝から仕事に集中できない私は今日退勤したら様子を見に彼のお家に行こうと思う。

 

「お疲れ様でした」

「お疲れ、篠宮さんも大変だったね。今日は早めに帰ってしっかり休んでね」

「はい、ありがとうございます。それじゃあお先に失礼します」

 

 会社を出ると冷たい風が吹いていた──いつもよりも早い時間にお仕事を終えた私はその足で電車に乗って彼の住むマンションへ。

 

 部屋に番号を入力して呼出ボタンを押す、数秒待っていると反応がある。

 

「あの、私、新堂さんの仕事先の者ですが、お休みしていると聞いて様子を見に来ました」

 

 数秒すると自動ドアのロックが解除される、目の前にあるエレベーターに乗り込んだ。

 六〇五室の前に来て一度深呼吸──来るのは初めてじゃないけれどやっぱり緊張する。ゆっくりとチャイムを押す、押してかた数秒間沈黙が広がると重い扉が開かれた。

 

「あ、あなたは確か。この間うちに来てた子よね?」

 

 雅也さんのお母さんが出てくる──ここで話すのもなんだからと家の中に上げてもらう。

 

「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに雅也いないのよ。どこで何をしてるのかあなたは知らない?」

 

「私も知らないんです……。お仕事を何日か休んでいたので様子が気になって来てみたんですが」

 

「あらそうなの? 仕事休んでまで何をしてるのかしらねー」

 

 顎に手を当てて困った顔をする彼のお母さんから少しだけ話を聞くことができた。

 

 なんでも彼は私とデートする約束した前日から家に戻って無いらしい、携帯に電話をかけても電源が入っていないらしくて全く反応無し。

 出かけるにして後できちんと連絡を入れるようにしていたからそんな雅也さんが音信不通になるのはおかしいと言ってた。

 

 

「確か篠宮さんだった? あの子が恋人だって言ってたけどそれは本当なの?」

 

「はい、私は雅也さんとお付き合いしてます」

 

「そう、彼女に心配をかけるなんて本当にしょうがない子ね。全く子どもじゃないんだからふらふらとしないでほしい」

 

「だけど、変な話よね。雅也はあなたとデートする約束してたんでしょ? それでいなくなるなんて普通ならあり得ないことだろうけど、あの子が行きそうなところ心当たりはない?」

 

「……すみません。わかりません」

 

「連絡を取ろうにも携帯にかけても出ないからねぇ本当に何かトラブルに巻き込まれたのかもしれない」

 

 新堂さんのお母さんと少しだけお話をする──私は彼のことがしんぱいになった。お付き合い始めてまだそんなに月日は経っていないのだけど、私に取って彼はとてもかけがえのないひと。

 私の家族も彼を受け入れてくれた、雅也さんとこれからもずっと一緒にいたい、彼の携帯にもう一度電話をかけてみたけど反応無し……。

 お母さんは戻ってきたら私に連絡をさせると言ってくれたから一旦家に帰る事にした。もしも私の方に雅也さんから連絡があった時はきちんとお母さんにも伝えると言う約束をして新堂家を後にした。

 帰りの電車の中で私は今までに感じたことがない不安を抱いていた。私たちの恋人としての生活は始まったばかりなのにいきなり障害が立ち塞がる。

 その時だった、私はもしかしたらかもしれないけれど、雅也さんの居場所を知っている人に一人だけ心当たりがあった。

 駅を出てから残っていた彼女の電話番号へ電話をかける。

 

 冬の寒さが厳しい中、ひとり白い息を吐きながら凍える指先でスマホの画面をタップする。呼び出し音が鳴ってからお目当ての相手が電話に出る。

 

「もしもし? 浅倉さんの携帯で良いですよね? 私です。篠宮です。ちょっと聞きたいことがあって連絡しました」

「あら、何かしら? もしかして失恋した私を笑う為にかけて来たの?」

「いえ、そうじゃありません実は──」

 

 時がゆっくりと流れる──三人の人間関係は大きな“変化”を迎える。それは今まで最大の波乱の予感を帯びていた。

 湊と咲希、二人がもう一度対峙することになる、始まったばかり新しい「恋」は純白のアルバムのページを染めながら記憶していく。

 それはまるで小説の物語の一頁を捲るように静かに紡がれていくのでした。



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歪んだ愛情〜心が虜にされてしまうまでに〜

「実はここ数日雅也さんと連絡が取れなくて……。仕事も休んでるみたいなんですけど、何か病気になったんじゃないかなって思って心配してたんです」

「へえーそうなんだ。それで彼と今は連絡取れてるの?」

「いいえまだ……。さっき雅也さんのお家に行ってお母さんともお話ししたんですが、数日前から家にも帰ってないみたいなんです」

「彼が行きそうな場所に心当たりがなくて困っているんです。この前デートする約束もしていたのに当日になっても音信不通で……」

「あんなことがあっても私に電話をかけて来るなんてあなたって意外と図太い性格してるんだね。私はあなた達の関係を認めたわけじゃないわよ」

「それは! 浅倉さんは雅也さんに振られたんですよ? もう彼とは関わらないでほしいんです! 私たちは健全なお付き合いをしてますし」

「だからー認めないって言ってるでしょ? それに彼が一番最初に好きになったのは私なんだから」

 

 浅倉さんは電話越しからイラついた声で言う。私と話すのだって不快なのに仕方なくしてるって感じがすぐにわかる。

 彼の初恋相手──雅也さんにとっては特別な人、もしも私が彼に好意を抱いてなかったら二人は恋人同士になっていたかもしれない。

 それでも雅也さんは私を選んでくれた。彼の想いに応えたい。自分でも「恋」をすることでこんなにも変わるものなんだって改めてわかった。

 

 

「もうあなたは雅也さんとは関係ないんですからいい加減に諦めて下さい」

「どうしてあなたにそんなこと言われなきゃいけないの! 私が誰を好きでいようと関係ないじゃない」

「それは浅倉さんが他の人を好きなら私だって何も言いません。だけど、あなたが好意を抱いている相手には恋人がいるんですよ?」

「あなたの方がタイミングが早かっただけじゃない、私がもっと早くに自分の気持ちになってたら雅也君は私を選んだと思うわ」

 

 やっぱり無理……。この子とは仲良くやれそうにない。自分が十年もの間雅也さんを苦しめていたと言うことに自覚が無いどころか平気か顔をして彼に好意を持っているのが許せないと思った。

 彼は昔の失恋のせいで今まで「恋」をすることに臆病になっていた、初恋の忘れることができない記憶がいつまでも心の奥に残っていた。

 ようやく踏み出して乗り越えていこうってしているのに彼女のせいでまた辛い過去のことを思い出すんじゃないかなって。

 

 だから、私は彼女を許すことはできない。雅也さんは優しいから咲希さんを突き放したりしないだろうけど、彼女はそれに甘えて好き勝手に振る舞う。

 恋人いる相手を好きになるなんてどういう神経をしてるんだろう? もしも私が同じ立場になったなら大人しく身を引くと思う。

 雅也さんが幸せでいてくれるなら自分の想いを全部仕舞い込んで彼の「恋」を応援する。

 それはきっと辛いことだと分かるの……。だけど、好き人が幸せでいてくれるなら私はそれだけでいい。でも、失恋で泣いちゃうんだろうなぁ。

 泣いて彼への想いを断ち切って、それで──

 もしかしたらあり得たかもしれない別の未来を想像してみる。そこで私はどんな選択をするんだろう? 今ある幸せも私自身が選んだこと。だから逃したくないの。

 咲希さんと電話で言い合ってから向こうが電話を切る、結局雅也さんのことは何も聞けなかったなぁ。

 もう時期三月を迎える夜の空はいつもと変わらず外はより一層冷え込んでくる。私は寒さに耐えきれなくなって自販機で温かい飲み物を買ってから家路についた

 

(どうか雅也さんが無事でありますように)

 

 

 *

 

 

 誰かと電話を終えた咲希ちゃんはリビングに戻ってきてからスマホを置いて僕に視線を向ける。

 電話するときに別の場所で話していたから僕には通話相手が誰なのかは分からない……。

 

「もう勘弁してくれないか? さすがに疲れてきた……」

 

 トイレの時以外は僕は椅子に座らせられいて常に彼女の監視下に置かれている、ちなみに食事は食べさせて貰えているが両手を縛られているので咲希ちゃんが直接口に運んで食べさせている。

 部屋に監禁されてから何日が経ったのかはわからない、僕が逃げ出さないように見張り少しでも妙なことをしようとすると僕を殴った時に使った鈍器を向けてくる。

 彼女は普通に仕事に行き、その間僕は暗い部屋の中で身動きもできずにじっとしている。

 頻繁にトイレに行かないように水分は少ない量しか与えられず唾を飲んだところで乾き切った喉を潤すことなんてできやしない。

 食事の時以外は彼女に性行為の為に利用され、心身共に疲弊しきっていた。

 それでも咲希ちゃんは解放してくれるどころか彼女の要求はエスカレートしていくばかりだ、抵抗しようにもその気力さえ失いかけていた。

 

 彼女と繋がる中で何でも湊ちゃんへの罪悪感で押し潰されそうになる……。

 徐々に咲希ちゃんとのセックスを気持ちがいいものだと認識するように変えられていく。

 手を縛れていてもバックで犯すように要求する彼女は壁に手をついてお尻をこちらに向ける──自分で女性器挿入することができない為チンポを突き出すと後は彼女の方から迎え入れていく。

 何時間も行為は続いても萎えるどころかどんどん快楽を求める。まともな思考ができずにいて。このままだと本当に咲希ちゃんを愛してしまいそうだ……。

 

 無理やりにキスをされ嫌な気分になっていたけど、次第に受け入れ始める自分がいた。必死に争いつつも体は正直で咲希ちゃんの与えてくれる快楽に身も心も奪われてしまいそうになる。

 

 何度も抱き合って彼女は僕の名前を叫びながら絶頂する、その様子に最高に興奮して僕も咲希ちゃんの名前を叫ぶ。

 

 大きな胸をぶるんと揺らしながら何度も上下に動く、刺激に顔を歪めながら僕の反応を確認してくる。

 

 そんなのが夜の遅くまで続き疲労感を覚えながら眠りにつく、幸いこの部屋の隣はつい最近空き部屋になったらしくてちょっと大きな声を上げたところで隣に住む住人に聞かれる心配はないらしい。

 

 仕事から帰って来ると着替えを脱ぎ捨てて裸になる咲希ちゃん──最初は目を瞑っていたけど彼女の裸に見慣れてしまった。

 膨らみ始めた僕のチンポを自分の胸で挟んで刺激を与えていく、パイズリされる経験なんて今までになかったけど、咲希ちゃんは初めてじゃないくらいに上手だ、比較する対象がないからわからないけど、少なくとも僕はその行為を受け入れてしまっている。

 

 柔らかい大きなおっぱいに包まれていると何とも言えない快感を覚える。小学生の頃クラスの女子と比較すると咲希ちゃんは胸が大きい方だった、四年生くらいの頃からそれははっきりと分かるようになり、六年生になると体育の時ペアを組むと意識してしまうくらい。

 

 中学では他の女子が水泳の授業を見学する中、咲希ちゃんはスクール水着を着て授業を受けていた、そのボディラインに目を奪われた。

 休憩中にたまたまプールから上がるとこを見てしまった時に胸の谷間がくっきりと目に入ってしまった。

 

 見学してる女子が男子の目を気にして休んでいるというのは分かったけど咲希ちゃんはそんなこと意識していないのか体のラインがはっきりとわかるスクール水着を着ていた、体育の授業の時だって他の子と比較すると体操服の胸のあたりが膨らんでいてそのエッチさに僕はドキドキしたのを覚えている。

 

 咲希ちゃん自身が何を考えていたのかは知らないけれど当時の僕にとっては刺激の強いものとなっていた。

 高校は別だけどあれだけのスタイルがあったらおそらく男子生徒にモテたと思う。元々笑顔が魅力的ではにかんだ笑顔にやられる男は多いだろう。

 そんな彼女が今まで彼氏ができたことがないなんて見る目がない男ばかりだ。咲希ちゃん自身は恋愛に興味があったんだろうか? 

 

 バックから嵌められて自分から腰を動かす──卑猥な音が響き子宮を何度も貫く度に咲希ちゃんは激しく喘ぐ時おり見せる顔は乱れ切っていてあまりの快感に涙や鼻水を流しながら喜ぶ。

 

 一旦行為が終わった後、彼女は今度はキスをしてくる──ベロチューだけじゃない、僕の口の中に自分の舌を入れて絡ませてくる、ディープキスなんていうのはもちろん経験なし、キスをする時は目を閉じているけど咲希ちゃんは一体どんな顔をしてるんだろう? 

 お互いの口の中の雑菌が行き来するなんていうのも気にせずに深いキスを交わす。

 

 もうすっかり調教されてしまった僕は精神的に限界を迎えていた──僕の方から彼女を求めるわけじゃないけれど、咲希ちゃんとのセックスに快感を覚えてしまった。

 ここで僕から行為をせがんだら本当に何もかも終わってしまう、だからそれだけは何とか綱渡りな理性を保ち阻止している。

 

 

 **

 

 雅也君の様子が変わっているのはもうわかりきっている。最初は私が無理やりエッチをしていることに抵抗していたけど、今ではその気力すらも感じられない。

 

 元々彼は私が好きだった──それは帰ることのできない事実、小学生の頃からの片思い、私自身が恋愛に興味なかったから彼の気持ちに気づくことはなかったけど、思い起こしてみたら確かに雅也君は私に他の子と違った視線を向けていた。

 小学生の頃に意地悪ばかりされて彼のことは正直あまり好きじゃなかったけど、あれくらいの年の男の子って皆大体あんな感じだろうと思う。

 

 体育の授業の時ペアを組んだ事があるけど、彼は私を意識していたのかどこかぎこちなかった気がする。柔軟運動の時、ゆっくり背中を押してくれて私たち結構息があっていたんじゃないかな? って。

 小学生の時は背は私が高くて彼はまだ幼さを感じていた。だけど、中学を卒業する頃には身長は追い抜かれちゃったけど。

 

 図書室へ用事があってドアを開けた時、偶然に雅也君と鉢合わせる。私たちは数秒見つめ合う形になったけど、私がさっと避けたので彼は出て行ってしまう。男の子と見つめあったのにドキドキしなかったのは私が彼を異性として認識していなかったからだと思う。

 

 恋愛に興味なんて無くていつも本を読んでる事の多かった私を雅也君はどういう風に思ったんだろう? 

 

 こんな私を好きだと言ってくれた。あの時はピンと来なくて手紙に最低な返事をしたことだけが今となっては後悔してる……。

 エッチの最中に涙目で彼を見つめると、目を閉じているのかこっちの表情に気づいていない。

 

 篠宮さんと電話で話した内容は彼には言っていない、彼女は必死になって雅也君を探している、私から彼を奪ったんだから彼女も同じ目にあえばいいんだ。雅也君を独占して、彼にたっぷり愛情を注ぐ。それであの子に一矢報いた気がするの。

 

 私の方が雅也君を好きだという気持ちは強いんだから──エッチ中は彼のことだけを考える。体の相性も抜群で私はこれまでに体験のない快感を受け入れる。

 十年前の自分なら雅也君とこんなことをしているなんて考えもしないだろう。彼からプレゼントされたネックレスは私にとって特別なもの。

 肌身離さず身につけて雅也君への想いを気づかせてくれた。

 

 ここまでやっているのに彼の心はまだ私とリンクしていない。そう、私とエッチしながらきっと雅也君はあの子のことを考えているんだろうなぁ。だから、彼女のことを考えられないようにしてやろうと思った。

 彼を骨抜きにすれば私のことをもう一度見てくれる。

 

 

 咲希の愛情は雅也に注がれる。もう昔みたいな友人関係には戻ることはできない、何度も行為をする中で妊娠の可能性も考えたが、咲希はむしろ雅也の子どもを宿してもいいとさえ思っていた。

 

 理性が崩れていく──目の前の快楽に押し流される、危険な駆け引きは続き紙一重のところで踏みとどまっていた雅也の心が咲希の虜になるのに最後の行為が引き金となった。

 

 

 一方その頃、湊は恋人の事を考えながらもう一度咲希に電話かけようと悩んでいた。

 

 雅也が行きそうな場所に見当はつかないけれど、何となく嫌な予感はしていた。次に咲希に連絡した際は彼女を直接呼び出して聞こうと決めてスマホの通話ボタンを押した。



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波乱の前に

 私の悩みは胸が大きいことだった……。小学四年生頃から大きくなり始めて中学生になると体育の時間とかちょっと大変だったの。

 

 幸い大きな胸をしてても視線を感じたことがないし、中学時代のクラスの男子はそういうことに興味がない子ばかりだった。

 他の子から羨ましがられたけど、大きな胸で得するようなことってあるのかな? 

 皆は成長期を迎えて男子に肌を見せるのに抵抗があって水泳の時間は大抵の子が見学していた。

 私はスイミングスクールに通っていたから他の子と違った本格的な水着を着て授業を受けた、ただ、体のラインがくっきりとわかるから今思い出すよからに大胆な事をしてたと思う。

 

 プールサイドから上がる時におっぱいがはみ出してしまわないか気にしていた、自分の版が終わってプールから上がると丁度雅也君が泳ぐ番だった、彼はチラリと私の方を見たけどすぐに顔を前に戻して水の中に入る。

 

 選手ごとに泳ぐ種目が違うメドレーリレーで彼は「ふぅ」と大きく息を吐いて水に潜る。

 小学生の頃は二十五メートルすら泳げなかった彼が今では楽々と百メートル泳いで疲れた様子も見せていない。

 ここが男子と女子の差なんだなと感じるけれど、私はスイミングスクールで結構長い距離を泳いでいたからその差を大きく感じなかった。

 

 他の子は体操服を着て日かけで休んでいる。水泳の授業を真面目に受ける私が珍しいのかあれこれと話をしていた。

 

 自分のスタイルに絶対に自信があったわけじゃないけど恥ずかしがってちゃ何もできなくなるから私はそんな事は気にしないでおいた。

 

 授業が終わって更衣室で着替える──冷たいシャワーの滴を落として水着を脱いでタオルで体を拭く。泳ぐのが好きだから水泳の授業は好き、どうして他の子はわからないんだろうなぁ……。

 なんて事を考えながら更衣室を出た。

 外に出ると雅也君も同じタイミングで出てくる、彼は私を見る事はせずに体育館に入っていった。

 

 先生から次の体育の授業の説明を受けて私たちは教室に戻る事に、途中で仲の良い子と合流して喋りしながら渡り廊下を歩く。

 

 体育の授業は嫌いじゃない、体を動かす事自体は悪くないし、運動を大切だと思うからー。

 

 今思うと私は九年間も彼と同じ空間を共有していたのに好意にすら気づくことがなかった……。中学生になってからあまり話す機会も多くなかったし、第一に私自身が恋愛に興味を持っていなかったのが理由だと思う。

 

 中学校を卒業してからは一度も会ってはなかった、友達の義之君とはたまに同じ汽車に乗り合わせた事があったけれど……。

 

 あの手紙に返事をして以来、私たちはもう二度と巡り合うなんて思っても見なかった。成人式の時も彼は会場にいなくて小学校時代の男子が全員揃うことがなかった。

 

 大学を卒業して働き始めてからは毎日遅い時間に家に帰ってぐったりとして何もやる気が起こらない、大好きな読書をする回数も昔と比べると減ってきた気がする。

 

 長期休暇の時は大好きなイケメン俳優の出るドラマを見てキュンとする。明日奈から誘われて一緒に出かけることもあったけど、あれ以来異性の人から告白をされた事はない。

 

 雅也君が初めて純粋に好意を持ってくれた相手だったの、そんな十年も前の事なんかとっくの昔に忘れてしまっていて思い出すことなんて無いって分かってた。

 

 たまに義之君と電話で話すけど、お互いの仕事のことばかりの端的な会話をして切る、それだけ──

 

 大人になるともっと色んなことができて楽しいはずだと考えていたけどそんな私の理想なんてすぐに打ち砕かれてしまった。

 会社恋愛の話題が出た時は自分に話が降られないように祈りながら周りを気にして仕事する。地元には戻ってないし久しぶりにお母さんたちに会いたい、家族で集まって賑やかな会話を楽しもう。

 お兄ちゃんやお姉ちゃんとも会えたら良いなぁ。明るくて笑顔の絶えないうちの家族は私は大好き。

 

 

 高校になって中学の頃から仲の良かった同級生とはあまり話さなくなった、私が通っていた高校は進学校だったから毎日勉強漬けで大変だった……。自分で選んだとはいえもっとのんびりとした学生生活を送りたいと感じたこともある、定期考査の多さと成績ではっきり区別される、うちの学校に通うほとんどの子は進学するから高校を卒業して就職するというのは滅多にない。

 部活と勉強の両立に悩ん時もあった、けど家族に支えられて何とか頑張れた、帰りが遅くなることもあってヘトヘトになりながらな何とか家に辿り着く毎日──楽しかった思い出の方が少ない。

 たまに義之君と同じ時間に帰ることになった時は彼と端的な会話を交わす、だけどその会話に雅也君が出てきた事は一度もなかった。

 彼がどうしているかなんて興味が湧かなかったしー。

 

 義之君とも小学校からの付き合いだけど彼はとっても良い人だという印象を持っている。穏やかな性格をしていてみんなに好かれるタイプ、事実面白くて中学生時代も人気があった。

 

 大して雅也君はどうだろう? 私は彼について考えてみた。小学生の頃から一緒なはずなのに私は彼のことを全く知らない、誕生日くらいは覚えてあげてはいるけれど……。

 向こうは私の誕生日や性格とか結構よく知っていた、誕生日の日におめでとうと言ってくれた。

 

 それか今では彼に夢中になってしまった──自分の中の想いを何度も確かめる、冬の空の下、肩まで雪を積もらせて私へのプレゼントを必死になって探してくれた事、特別な贈り物に込められた本当の意味それを知った時今まで秘めていた感情が一気に爆発しました。

 明日奈に言われて初めて気づいた彼への想い、それは十年もの間ゆっくりと心の中に降り積もっていたのかも。

 

 白い雪を見るとそんな感情が湧き上がってくる、もうすぐ三月を迎えるというのにね。今年の春はどんな形で訪れるのかな? 変わらない日々の中で普段通りの季節を感じる。今年はちょっと意味合いが変わってきそう。

 

 

 *

 

 

 浅倉さんに電話をかけた私は彼女ともう一度会う約束をしました。

 雅也さんに何かあったとしたおそらくは浅倉さん絡みだろうし、どうして彼女は諦めてくれないんだろう? 

 あの子と雅也さんの関係は十年前に終わってしまったというのにー。

 ここまで順調だった私の「恋」に立ち塞がる大きな障害、彼の気持ちが自分に向いているのは知っているけれど、最初に好きになった人ってやっぱり特別だと思うの。

 私は今まで雅也さん以外の人に好意を持ったことがないけどこの気持ちが特別なものだというのは分かります。

 彼の初恋は小学生の頃から──ずっと一途に浅倉さんのことを想っていた、結局その「恋」は叶わなかったけど……。

 

 十年前の彼がどんな気持ちで彼女に手紙を書いたのか私には理解できない、真っ直ぐなひとだからきっと純粋に浅倉さんに恋をしていたんだろうなぁ。

 

 雅也さんとの幸せを考えるなら浅倉さんには向き合わないといけない、彼女があの人を諦めてくれるならそれは幸いじゃないかな。

 

 これ以上雅也さんを苦しめないように勇気を出して私から言おう、内気なはずなのに自分から行動したのは数えるほどしかない、好きな人を想うからこそ、こんなに積極的になれた気がするの。

 彼と連絡が取れないのは不安だけどきっと大丈夫よね。

 

 

 咲希にマンションの場所を聞いて辿り着いた湊は電話をかける、中で何が起こっているかはもちろん彼女は知る由もなかった。



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傷ついた心

 

 浅倉さんの住んでいるマンションの前に着いた私はスマホで彼女に連絡を取る。

 

 雅也さんのことが気がかりでずっと胸騒ぎがしているのを何とか抑え込んで浅倉さんのところまで来ました。

 

 

「もしもし?」

 

「……もしもし、浅倉さんですか? 篠宮です」

 

「何? 何の用なの」

 

「今、浅倉さんの住んでいるマンションの前にいるんですけど、外で話とかってできますか?」

 

「面倒い……。どうしても行かなくちゃダメなの?」

 

「はい、出来ればお話ししたいなぁって思ってるんですが……」

 

 浅倉さんはしばらく黙ると結局外へ出るのは面倒くさいと言って電話を切ろうとする。

 

「待って下さい! 外で話すのが嫌なら他に方法を考えますから」

 

「その要件って電話じゃダメなの?」

 

「ええ、浅倉さんと直接会ってお話ししたいんです。大事な事ですから」

 

「分かったわよ……。それでどうするの?」

 

 彼女と話せる機会を作る為に何が必要なのかなって改めて考えてみました。

 雅也さんの件でどうしても聞きたい事があるし……。ここで引き下がるわけにはいきませんでした。

 

「そうだ! 外で話せないのなら浅倉さんのお部屋でも良いですか?」

 

「……私の部屋散らかってるんだけど」

 

「それは平気です。そこまで長い話じゃないですし、私が疑問に思っている事が解決したらすぐに帰ります」

 

「うーん。今忙しいからまた今度じゃダメ? そしたらちゃんと時間作るからさー」

 

「駄目です。今聞いておかないと! 後回しになんてできないです」

 

 私が力強くそう応えると浅倉さんは「はぁ」とため息をついて仕方なさそうに私を自分の部屋に来てもいいと許可してくれました。

 

 部屋の番号を聞いて雅也さんのお家にお邪魔したみたいに共有のエレベーターに乗って浅倉さんのお部屋の向かいました。

 

 扉の前で深呼吸してからチャイムを押します──すぐに浅倉さんは出てきてくれて私は彼女の部屋に招き入れられました。

 

 友達以外の女の子のお部屋にお邪魔するのはあまり経験がありませんでしたから緊張してしまいます……。

 浅倉さんは私の様子を伺いながら飲み物を準備してくれました。

 部屋は散らかっていると言ってましたが、実際はそんな事は無くて女の子のお部屋らしい可愛らしさを感じられる空間になっています。

 私は気持ちを落ち着かせて浅倉さんの準備してくれたクッションに座りました。

 

 間も無く浅倉さんが戻ってきたので私は姿勢を正して彼女と向き合いました。

 私が彼女とお話をするのは大切な人の為──もしかしたら何かを知っているんじゃないかという淡い期待感を持ちながらすぐに本題に入ることにしました。

 

「あの、浅倉さんに聞きたいんですが……。本当に雅也さんの居場所を知らないんですか?」

 

 彼女は黙っている。私は目を逸らさずに真っ直ぐに相手の目を見て言葉が出てくるのを待ちました。

 

「知ってるって応えたらあなたはどうするわけ?」

 

「お願いです! 彼が今どこにいるのか教えてもらえませんか? 私すごく心配でー。私だけじゃありません。雅也さんの家族も彼の行方が気になっているんです」

 

 やっぱりここまで来て正解でした。どうやら彼女は雅也さんに関して何か知っていると言った反応でした。何としても彼の居場所を聞き出さなくてはいけません。

 

「知っているなら教えて下さい。本当に心配してるんです!」

 

 私が強めの口調でそういうと浅倉さんはすっと立ち上がって胸元に付けているネックレスを私に見せつけて言いました。

 

「私ね、異性からのプレゼントなんて今までもらった事なかった。最初は戸惑ったけどすごく嬉しかったの。雅也君から初めての贈り物だった。このネックレスをプレゼントされるまでは彼の私に対する気持ちの大きさを知らなかった」

 

「初めて人を好きになった。それは燃え上がるような想いだったの。今までの自分が『恋』をしたことで変わっていった。どうしてあの時、彼の気持ちに応える事ができなかったんだろう? って考えたの」

 

「私自身が恋愛に対して興味を持っていなかったのもあるんだけど、十年も経ってようやく気づけた。私は今でも雅也君が好きよ。その気持ちは変わらない」

 

「でも、雅也さんは今は私とお付き合いしてるんですよ?」

 

「タイミングの問題ね。あなたがいなければ彼はきっと私の事を選んでいただろうし、何せ私は初恋相手なのよ?」

 

「それは昔のことじゃないですか。彼の気持ちが浅倉さんに向かう事はもう無いと思います」

 

「それはあなたの勝手な考え。こっちは九年も一緒の空間で同じ時間を共有したのよ。現に彼はそれで私に好意を持ったわけだし」

 

「それでもあなたは雅也さんの想いに応えなかった。それをあの人は今までずっと引きずって生きていたんですよ。今更彼を好きになっても遅いんじゃないですか」

 

 そう。私と彼女との差は彼の想いに応えたどうかだけ──ほんの些細な事なんだろうけど、それが大きなファクターになっている気がします。

 咲希さんがどんな風にあの人を想っていてももうすの「恋」が叶う事はないのだから。

 

「彼はどこにいるんですか?」

 

「探してみれば? まあ、もう遅いだろうけど」

 

 咲希さんの言葉にぞっとした私は立ち上がって部屋の中を調べ始めました。必ず見つけて見せますからどうか無事でいて下さい。

 不安がどんどん募っていく中で少しでも希望を見いだせたのなら私はそれを掴みたい。

 

 一通り部屋の中を調べましたが彼の姿を見つける事はできませんでした……。唯一調べていない場所はトイレとお風呂場。私はまずお風呂場を探す事にしました。

 電気をつけて中を見てみたましたが、そこには何もありませんでした。

「はぁ」とついため息が出てしまいましたが気持ちをリセットして今度はトイレを調べる事に中の電気は消えているので誰かがいるなんて予想できませんでした。

 私は明かりを点けてドアノブに手をかけます──ちょっと不安な空気を感じ取り恐る恐るドアをゆっくりと開きました。

 

 

「これ……。何の臭い?」

 

 ドアを開けると今まで嗅いだことのない臭いが広がってきました。思わず扉閉めてしまった私は中を確認する事ができませんでした。

 一旦深呼吸してからもう一度ドアノブに手をかけて今度はさっと扉を開けました。

 

 

「なにこれ……」

 

 目の前に広がる光景に声が出ませんでした。

 

 私の愛する人が縛られた状態で便器の上に座らせられていました、早く解いてあげようと彼の様子を伺うととても疲れた表情をしていました。

 トイレ自体は清潔に保たれているのですがこの何とも言えない臭いに不快感を抱きました。

 目の前にいる人物が誰であるのかも気づかないほど憔悴しきっている雅也さんの両手を縛っている紐を解いて彼を解放してあげました。

 

 それと同時に私は咲希さんに対する怒りの感情が湧き起こってきました。すぐに彼女に問い詰めたところ悪気もなく返事が返ってきました。

 

「彼の心はもう私のもの。快楽の虜になってしまったのだから」

 

「どういう意味ですか?」

 

「分からない? だったら教えてあげる。私へ雅也君とセックスしたの」

 

 勝ち誇ったような表情で私にそう言うと咲希さんは今まで何をしていたのか語り始めました。

 

 私が彼女の部屋を訪れるまでの間、二人は何度も体を重ねていたそうです。彼も最初は抵抗していたらしいですが次第に咲希さんを受け入れたそうです。

 トイレの臭いは中で二人がエッチをしていたという証拠で、その他にお風呂場でも好意をしていたみたいです。

 その状況を聞いた私は顔を歪めて彼女に対して激しい憎悪を抱きました。

 咲希さんはセックスの様子を艶っぽく語りながら耳を塞いでいる私に現実をつきつけました。

 

 語りぶりから察するに彼女が嘘を言っているようには思えませんでしたし、第一にトイレで縛られていた雅也さんの疲れ切った様子を見るとこの部屋で行われた事が全部事実であるというのが理解できました。

 いたたまれなくなりすぐにでもこの空間から逃げ出してまいそうでした……。

 でも。このまま彼を置いていけるはずもなく私は何度も名前を呼んで呼びかけます。

 疲れ切っているのか反応が鈍くて本当に心配になります……。

 ようやく私の姿に気づくと彼は大粒の涙を流しながら私に謝りました。

 

 傷ついた心は癒えるまでに時間がかかりそう──それでも私が支えていこう。グッと拳を握り咲希さんの顔を平手打ちをお見舞いして彼を支えながらマンションを後にしました。

 

 自分の足でゆっくりと歩く雅也さんに寄り添うと自然と涙が止まらなくなりました。

 

 どうして彼が酷いこんな目に遭わないといけないんだろう? せっかく新しい「恋」に向き合っていこうと決めていたのに

 二人が幸せになる為に用意された試練があまりにも酷な内容で私は「恋」の神様を恨みました。

 

 ようやくまともに話ができるようになった時には帰りの電車を待つ駅の改札口でした。彼は何度も私に謝りながらなかなか帰ろうとしません。

 そんな雅也さんを抱きしめて安心させます──人がいても関係ない。今は彼の傷ついた心をちょっとでも癒す事ができるのなら。

 

 優しい手が私の背中をガッチリと挟み込みます。雅也さんは泣きながら感謝してきちんと話す事を約束してくれました。

 自分が辛い状況のはずなのに私を気遣ってくれました。そんな彼の優しさを感じながら私は放っておけなくて結局、雅也さんのお家まで一緒に帰りました。

 お母さんに何度もお礼を言われてもう遅いからと彼のお家に泊まっていく事になりました。着替えを準備してもらいお風呂で汗を流しながら今日あった出来事を振り返りました。

 お風呂から上がり雅也さんのお部屋に入ると彼はベッドの上に寝転んでいました。

 

 よっぽど疲れていたのでしょう着替えも済まさないままの格好で寝息を立てる彼のほっぺを優しく撫でてこれからはもっと私が側にいてもうあんな事がないようにしようと改めて決意したのでした。

 

「もう大丈夫だからね」



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幸せに向かっていくためには

 穏やかな寝顔で寝息を立てている彼の横で私は微笑む。一緒のベッドで寝るなんてとっても恥ずかしい事だけど恋人になってから今まで大変な事が多かった。

 雅也さん自身が咲希さんとの関係に悩んでいてこれから先も彼はきっと辛い思いをしつづけるんだろうな。

 私が出来ることは少しでも長く彼のそばにいること──私たちの間に下手な言葉はいらないんです。お互いが想い合っているからこそ絆を深められて、相手を愛おしく感じるものなんです。

 ここに来るまでに恋愛で辛い経験をしたから彼だからこそ私の気持ちを蔑ろにしない。そう思いたいけど……。

 咲希さんのマンションで彼をみた時、酷く憔悴していた。あそこで何が合ったのか想像するだけでも吐き気が込み上がって来る……。

 

 雅也さんが他の女の人と肉体関係を結んだ、もちろん彼の方から望んでいたわけじゃないんだろうけど、一度快楽を知ってしまったらその依存からは抜け出せない。

 あの時の咲希さんが私に向けていつた言葉が頭から離れない、彼は何も悪くないはずなのに疑ってしまう。

 私って嫌な子……。自分のそんな一面にうんざりする、表向きでは雅也さんに「大丈夫」だと声をかけながら本心では彼の事を信頼していない。

 

 恋人になるのって難しいことだと思う……。相手の全てを肯定する関係だけじゃ上手くいかない、嫌な一面どうしても受け付けない面だってある。それをどういう風に感じるかによるんじゃないかな? 

 

 好きで一緒になっても別れることだってある、みんなそれぞれがそんな経験をしながら恋愛をしていく、私はまだ初めてだからこれか先にどんな事が起こるのかも予測できない。

 けれど、雅也さんはしっかりと応えてくれた、その気持ちを私が無視しちゃいけない気がする、咲希さんとのことだってきっと──

 

 彼女から告白されても私を選んでくれたのが彼の本当の想い。辛くて息苦しいできごとにも向き合っていかなきゃね。少しでも幸せに近づく為に。

 

 

 **

 

 

 夢を見るなんていうのはここ最近ではなかった。ていうか見ていても内容を覚えていないだけかもしれない……。

 目を閉じると現実と夢の世界との狭間を僕の魂はゆらゆらと揺らめいていた。

 この感じは覚えている。いつも明晰夢の原理を利用して夢だと認識しながら自分の好きな様に展開を変える事ができる。

 空っぽな僕の頭の中に流れ込んでくる風景はいつかプレイしたゲームの中に登場した景色だ。

 たまにこういう風に夢の中に逃げ込む事がある、そういう時は大概心が耐えがたい苦痛に見舞われた場合で子どもの頃からよく起こっていることでもあった。

 この原理を使ったときに見た夢は大抵僕が都合よく変えたもので精神的に辛い場面から逃避する為の防衛手段の一つでもある。

 もちろんこんなことは今まで誰にも話したことはないし、ストレスを感じて生きているから誰にだってあるんじゃないかと思う。

 

 このまま現実世界に戻らなかったらどうなるんだろう? なんていうのは子どもの頃から何度も考えた。永遠に目を瞑ったまま起きることがなく、生きているのかもわからない状態。

 そう望んだ時もあったけれど、結局は現実に戻ってしまう……。

 失恋してから咲希ちゃんと恋人同士になった夢を見る機会が増えた、いつまでの彼女に対して未練があったんだろう。それは心の奥底で僕が望んでいた事が夢として浮かんだんだろう。

 湊ちゃんと付き合う様になってからはそんな夢は見ない様になった。

 

 大切な人とこれから先どういうふうに向き合っていくのか考えないといけない、咲希ちゃんと肉体関係を結んだせいで心身共にすっかり疲れ果てていた、一度でも彼女を求めてしまった罪悪感に押しつぶされないになる。

 湊ちゃんとどんな顔して逢えば良いんだ? こんな最低な自分を許してくれるのだろうか? 頭の中で何度考えても答えはなかなか見つかりそうにない。

 現実と夢の世界との間を彷徨っている<精神>は深い奈落の底に落ちる。優しい手の感触を感じながらもう一度眠りにつくのだった。



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巡り来る日々に備えて

 様子が気になったから来てみたらすごいことになってるわね……。

 咲希の部屋に上がった私はその散らかりように驚いた、遊びに行って良いのか聞くために電話した時、いつもとは何か違う雰囲気なのに気づいてすぐに咲希の住むマンションに向かった。

 

「……何があったのよ」

 

 散らかった部屋の中は足の踏み場もないくらいで辺りには服やら本やらが散乱していた、それを一つずつ拾って机の上に置くとイライラした様子に咲希と目が合う

 こんな様子のこの子は初めて見る、そして私は彼女の口から今までに起こった事の顛末を聞くことになる。

 

 咲希の初めての恋愛は私が想像していた以上に大きな障害と困難がつい纏っているみたい。

 十年ぶりに<再会>した同級生──彼の事を好きになって初めて咲希自身も「恋」に真剣に向き合った。

 友達として私ができるのはたった一度きりの恋愛を応援してあげる事だった。

 咲希が幸せになってくれたらいいとも思っている。大学からの付き合いだけど私にとって彼女はただの友達なんていう安っぽい関係じゃなかった。

 

 初めての「恋」に顔を赤らめて俯くのを見ていると何だか微笑ましいなってこの子もこんな顔するだなって新しい発見。

 恋愛に関して私がアドバイスできることは少ないだろうけれど、咲希の想いが報われたら嬉しい。

 

 

 だけど、今回はかなりやりすぎちゃったね。まさか相手の人を監禁までするなんて……。

 彼女が好きになった相手にはもう既に恋人がいるというのを聞かされた。

 それは咲希が自分の想いに気づいた日、残酷にも告白する前に彼女の「恋」は終わってしまう。ううん、始まることすら許されなかったのかも……。

 

 片思いの辛さをわかってあげることは私にはできない、なんて言葉をかけててあげよう、悩んでも何も思いつかなかった。

 

 初めて人を好きになって恋愛に向き合うと決めた咲希にまるで過去からの因果が巡ってきたみたいな展開が待ち受けていた。

 

 あの時にもしも新堂君の告白を受け入れていたら今とは違った形を迎えていたんじゃないかなと思う。

 

 たった一度の行いで取り返しがつかなくなる、人生って本当にままならない。

 

 だけど、そうそうには諦められるようん想いじゃないっていうのはわかる。咲希は涙で目を腫らしながら過去の事を後悔していた。

 新堂君に対してやったことは愛情の裏返しと言えば聞こえがいいけれど、完全におかしい。何でそんなことしたのよ……。

 女性にも監禁罪って適用されるだろうし、このまま穏便に済むとは思えない。もしも、何か問題が起こった時に私はこの子の味方でいてあげられるんだろうか? 

 

 宥めているうちに咲希はぽつりと呟く。

 彼女の新堂君への想いは真剣だった。それだけは理解できる、だけど──

 

「とにかく一旦落ち着きなよ。私が知らないうちにこんなことになってるなんてね。驚いたわよ。あんたにそんな行動力があったなんてね。それだけ新堂君のことが好きだという事なんだろうけどさすがにやりすぎよ」

 

「相手の心を無理矢理に手に入れてもそれは本当の関係じゃないわ。昔みたいにもう一度彼に好きなってもらいたかったんでしょ? だったらもっと考えて行動しなくちゃね、十年前に彼をあんたが振ったっていう事実は変わらないんだから。それが大きな障害になってるなら自分自身が変わっていかないといけない気がする」

 

「これから先どうしたいの? 『恋』を始めるんならきちんと段取りを踏んでいくべきじゃない? 急にやろうとしてもかえって失敗するだけ、相手の人に恋人がいるっているのなら最悪の状況も踏まえておかなくちゃ」

 

 応援するって言いながら反対のこと言ってるわね私──けれど、世の中ままならない事の方が多い。恋人がいる人を好きになってしまった苦しさえや辛さを咲希がどういう風に乗り越えていくのか。

 泣きたいのなら最後まで付き合おう、そして色々なものを吐き出せばきっといい考えが浮かんでくるかもしれない。

 

 もう時期春を迎えようとしている。そんな中で気持ちに整理をつけないといけない時が迫ってくるのでした。

巡り来るべき日に備えておかなくちゃね。



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last chapter
穏やかに過ぎゆく時


 *

 

 二年後

 

 背筋が凍りつくような寒い季節はもうすぐ終わって春に向かう──いつもと変わらないはずなのにどうしてだろうか? 今年の春は何だかいつもとは違いワクワクとした高揚感を抱いている。

 恋人ができて迎える何度目かの春、僕は彼女の事を大切にしたいと思った。あんな事があったと言うのに湊ちゃんは僕と一緒にいてくれている。

 彼女を裏切ったこんな最低な自分が許せない……。咲希ちゃんと体を重ねて心まで虜にされていから普通の生活が送れるようになるのに随分と時間が経ってしまった。

 その間に僕は篠宮家を何度も訪れるようになった、僕の家族にも湊ちゃんとの関係を気を遣う事がなく伝えることができていた、彼女がうちに来る度に母さんと何か話しているのを見かける。

 兄ちゃんや母さんも湊ちゃんを気に入って新堂家の食卓には新しい食器が並ぶようになった、仕事を続けながら休みの日は恋人と過ごす時間を優先する。

 今まで自分の事にあまりお金を使って来なかった僕が今では一人の人のために将来を考えるように変わっていった。

 湊ちゃんの妹の夏帆ちゃんと一緒に三人で出かける機会も増えて自分が向こうの家族に受け入れて貰えているんだなってわかる。

 

 月日が経って僕らの関係は一歩ずつ前進していく、もちろん喧嘩をする事だっているけれど、お互いの気持ちをぶつけって認め合うそんな仲になれた。

 

 あれから僕は咲希ちゃんとは会っていない、もう彼女は僕の事を諦めてくれたんだろう。

 僕の初恋の人、東京の街で<再会>した同級生は僕にとっては特別な存在だった。もしも、彼女と付き合っていたらーなんて言うことを考えてみることもあるんだけどそれはもう叶わないことはない夢想。

 

 例え咲希ちゃんが僕を想い続けていたとしても僕の心がもう一度彼女に向く事はないのだから、春はいつだって新しい出会いを運んできてくれる、子どもの頃はそんな細やかな出来事に心を躍らせていたけど大人になるとそこまで感じなくなってしまった。

 

 今度また湊ちゃんとデートをする約束をして僕は駅で彼女と別れる。アスファルトに視線を落としてズボンのポケットに手を入れてズンズンと歩いていく──家に帰るために何度も通っている道は最近新しい賃貸マンションができたりして風景も変わっていく。

 田舎に住んでいた時は変わり映えしない景色を心に留めることなんてなかったんだけどね。都会は慌ただしいけどこれがこっちでは普通の出来事なんだ。

 

 スマホで連絡先を開く──

 

【浅倉咲希】

 

 ──彼女の連作先をまだ消すことができずにいた、我ながらいつまでも未練がましい。いつもなら咲希ちゃんに関する全ての情報をシャットアウトするはずなのに。

 友達の義之君も僕に気を遣って彼女の話題は出さないようにしてくれている、いい加減僕も咲希ちゃんの事を忘れなくちゃいけいない。

 そうだ、僕の告白が失敗したあの日からずっとあの子の事は忘れていたじゃないか。

 それでも心の奥底ではあの時の失恋を引きずっていた。

 

 自分は変わったはずのにどうしてだろうか? 家に帰る途中に心地の良い風を感じる。

 

 

「……あのっ、すみません」

 

 誰かに声をかけられて振り返る。

 

 そう、これからまた一波乱が起こるなんて幸せの真っ只中にいる僕にわかるはずなんてなかったのだから。



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あの日夢見た光景

 声のした方に振り返ると女の人と目が合う。

 誰だろう? 僕はこの人を知らない。綺麗なショートヘアが風に揺られる。

 僕よりも少しだけ背の低い女の人のまっすぐな瞳は周りを通り過ぎていく他の人たちへ向けられることがなく、自分の目の前にいる相手を捉えていた。

 

「何か用ですか?」

 

 声をかけてきた相手にそう答えると彼女は爪先から頭の先までじっくり観察すると「ふーん」と小さな声で呟いた。

 とても初対面の相手にするような行動じゃない……。僕が少しだけ身構えると女の人は距離を縮めてくる。

 ふわりとした良いにおいが鼻先を通り抜けた──女の子ってどうしてこんなに良いにおいがするんだろう? 

 顔が近づいたからかなり緊張したけど女の人はとても綺麗で見惚れてしまいそうになる。

 そんな僕の様子を観察しつつ彼女は腕を絡めてきた。抵抗しようとサッと腕をひいたけれど意外と強い力でガッチリと固められていた。

 

「ちょっとあなたとお話ししたいことがあるの」

 

 耳元で囁くとまるで恋人にするかのように僕と腕を組んだまま歩き始める。

 湊ちゃんと腕を組んで歩き機会なんてあまりないけど、他の女性とこういうことをするのは良くない……。

 そう頭の中で反論しつつ、相手の子に連れられるように少しおしゃれな喫茶店へ入るのだった。

 

 平成から令和に元号が変わって僕の周りに一体どんな出来事が起こるだろう? そんなことは当時の自分はまだ知るよしもなかった。

 

 

「初めまして。私の名前は久我山明日奈って言います」

 

「自己紹介どうも」

 

 運ばれてきたコーヒーを一口啜る。こんなおしゃれなカフェに入るのは初めてだから何だか場違いようにも感じる──周りの人はノートパソコンを広げて仕事をしているサラリーマン風の男性やカジュアルな服を着ている女性とかがほとんどだった。

 

 久我山さんと名乗る女性は注文したサンドイッチを食べながら僕の様子を窺っている。人から見られるのはあまり慣れてない……。

 

「それで、僕に一体何の用ですか?」

 

 一向に会話を始めない彼女に痺れを切らして僕の方から声を発する。

 

 数秒間黙った後、とんでもないことを聞かせることに。

 

 

「『浅倉咲希』って女の子を知ってるよね? 私、あの子の友達なんだ」

 

【浅倉咲希】

 

 その名前を聞いて僕は久我山さんから視線を逸らした──彼女から見たら分かりやすい反応だっただろう。

 

「知ってるみたいね。最近あの子に会ってたりする?」

 

「……いえ」

 

 僕と同い年だという彼女につい敬語で話してしまう。正直また咲希ちゃんの名前を聞かされるなんて思いもしていなかった。

 湊ちゃんと付き合い始めてもうあの子のことを忘れようとしていた矢先、またあの時の出来事を思い出すなんてな……。

 

「私はそこまで頻繁に会うわけじゃないの。だけどあの子なんかいつも寂しそうな感じでほっとけなくてね」

 

「どうして今更僕にそんな事を言うんですか?」

 

「別に敬語じゃなくてもいいわよ。咲希が好きになった人に興味があってね、単なる私の好奇心と言って良いかしらね」

 

 笑顔を見せる久我山さん──彼女はテレビに出てくる女優みたいに綺麗な顔をしているけれど、何となく掴み所のない女性だなって印象を持った。

 

「咲希とは大学からの付き合いなんだけどあの子は恋愛とかに全く興味を示さなかった。合コンを合コンをセッティングしてあげても乗り気じゃなくて今まで付き合った人はひとりもいないって言ってたわ。そんなあの子が今では恋愛に夢中になってるじゃない? だからすごく嬉しくてね」

 

 久我山さんはカップに口をつけてコーヒーを啜る──ピンク色で綺麗な唇が艶々としていた。

 おしゃれなカフェでは馴染みのないポップスが流れている、この空間にいるだけでも自分が特別な存在になる気がする。

 

「僕と咲希ちゃんとの関係はもう終わったから、確かに昔は僕の方が彼女に片思いしてて告白した事もあったけど、良い返事は貰えなかった……。これから先もう一度あの子を好きになるなんてありえない。それに僕には今付き合ってるひとがいるし」

 

「それでも咲希は諦めるつもりはないかもね。一度きりの『恋』だものね。そう簡単に割り切ることはできないんじゃない?」

 

「そういうものかな。まあ、十年以上前の失恋を引きずり続けていた僕には何も言えないんだろうけど。君がどう言うふうに考えているのかは知らないけど僕はもう咲希ちゃんと会うつもりもない」

 

「もう一度あなたに見て欲しくてあんな事をするなんてね……。正直に言えば私も驚いたわ」

 

 

 久我山さんは僕と咲希ちゃんが体を重ねた事を知っていた。あの子がどういう気持ちでそんな行為に臨んだのか男の自分には理解するのは難しい。

 咲希ちゃんの大学頃の思い出話に耳を傾けつつメニューを広げて料理を注文する。高校を卒業した後の彼女の事は僕は全く知らない。

 興味が無いと言えば嘘になるけどそれでもあの子のことを思い出すだけで逃げ出してしまいたくなる。

 

「こうやって話してみてあなたがどういう人なのか少しはわかった気がする」

 

「本当に単なる好奇心だけで僕と話をしたの? 何か裏があるんじゃない?」

 

「仮にそうだとしても教えたりすると思う? どう思うかはキミ次第だよ。まあ、これから先また会うことがあるかもね」

 

 久我山さんは立ち上がって自分の分の料理の代金を払って店を出ようとする。

 

「ちょっと待って」

 

 僕は彼女を引き止めてテーブルに置いているケーキを急いで食べて立ち上がり二人分の会計を済ませる。

 怪訝そうな顔でその様子を見ている彼女と一緒に店を出た。春でも少し肌寒さを感じる外は薄暗くなっていて。眩しいくらいの光がチカチカとアスファルトの道路を照らしていた。

 

 

「もう少しだけ話をしよう」

 

 僕は彼女をいつも寄る公園に呼び止めてベンチに座る──

 この公園に来るたびにあの時の事を思い出していた、雪の中で指先を真っ赤にしながら咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスを探したこと、そして彼女はそれをちゃんと身につけていたというのを知った時はすごく嬉しかった。

 異性にプレゼントを贈った経験なんて今までに一度もなかったし、第一にあの子の誕生日は七月だ。冬はとっくに季節遅れ。

 

 湊ちゃんと咲希ちゃんが激しい争いをした場所、僕が夢で何度か見た光景でもあった。

 

 あれから月日は経つけど僕と湊ちゃんは恋人としての関係を続けている。将来的には結婚をすることも考えている、今はその資金を貯める為に仕事をしているし、二人で暮らす予定の新居の話とかもし始めている。

 

 自分に恋人ができてその人と結婚まで考えるようになるなんて昔の僕に聞かせたらどう言う顔をするだろうな。

 

 

 ベンチに座る久我山さんの顔を近くで見る──彼女はとても綺麗な人だと思う。性格もさっぱりとしているし咲希ちゃんの良い子と友達になったもんだな。

 今日始めて会ったはずなのに僕はどこか彼女に安心感を覚えてしまった。

 

「僕と会った事は咲希ちゃんに言うの?」

 

「ううん。言わない、今日あなたに声をかけたのは完全に私個人の興味からだよ。二人だけで会ったなんて咲希が聞いたら怒りそうだからね」

 

「まだ咲希ちゃんは僕のことを諦めていないのかな」

 

「そうね。最初から潔く身を引くつもりならこんな綱渡りみたいな恋をしてないんじゃないかしら。あの子なりに真剣に考えているみたいだし」

 

「けど、もう咲希ちゃんと僕が関わることはない。恋人を優先にしたいからさ、どうやったら諦めてくれるんだろうか? ちゃんと振ったはずなのに」

 

「恋に真っ直ぐなのは咲希らしいけどね。今までそう言うふうに思えるような相手に出会わなかったから。あなたはあの子にとって特別な存在ってことよ」

 

「例えそうだとしても僕は彼女の想いに応える事はできない」

 

「真面目ね、それでも私は友達の恋を応援するつもり。咲希があなたと結ばれてくれるなら良いと思ってる」

 

 真剣な眼差しでそう言うと久我山ベンチから立ち上がる。僕は頭の中でどうすればいいのか思考を巡らせていた。

 あのできごとから咲希ちゃんとは会ってない、けれども今でも連絡先が消せない情けない自分もいた。

 

 これから先の事はまだわからないけれども湊ちゃんとのこれからを優先していきたいから片付けておかなくちゃいけない問題でもある。

 

 まだ肌寒さを感じる東京の夜は変わらない日常と共に過ぎ去っていく。もう一度会うべきなのか? それとも──悩んだ末に導き出す答え、それを僕自身が決断するのにはもう少しだけ時間がかかりそうだ。



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綺麗で儚いもの

「それじゃあ土曜日にね。楽しみにしてるよ」

 

「は〜い」

 

 湊ちゃんとの通話を終えてスマホでネットワークブラウザを立ち上げる。

 前までガラケーを使っていたとは思えない程今ではスマホを使いこなしている、始めて機種を変えた時はすごく感動した。

 この便利さを知ったらもうガラケーに戻る事はできない、アプリとかをたくさんインストールしているわけじゃないからホーム画面に並んだアプリの数は少ない。

 使い終わった後はクロスで画面を拭いていつだって綺麗な状態にしてある。

 土曜日は湊ちゃんと過ごす約束。とても楽しみだ。先ずは篠宮家にお邪魔して食事をご馳走になり、それからは彼女が望むなら街へ出かけてもいい、家でゆっくりと過ごしたっていい。

 どんな風になろうとも恋人と一緒にいられる時間は貴重なものでそれは大事にしていきたい。

 二年経ったからと言って僕らの関係が大きく変わる事はない、逆を言えばしっかりと時間をかけて仲を深めていきたいと思う。

 お互いが結婚意識し始めても恋人になった時みたいに仲の良い関係でいたい。

 付き合ってから彼女の嫌な部分を知ってもそれでも僕の気持ちは変わらない。

 第一に欠点の無い人間なんて実際にはいない。湊ちゃんだって僕に直してほしいところもあるだろう。マイナスな部分だけで彼女の全てが嫌いになるなんて言うのはありえない。

 足りない分はお互いで補っていけばいい。結婚すれば死ぬまで同じ時間と空間を共有するのだから。

 

 いつの日かどちらかが先に逝ってしまう日が来ると想像すると寂しい気もするけど歳を重ねてもいつまでも仲の良い夫婦でいたいな。

 なんてね。まだ結婚もしてないのにそんな未来をイメージしたってしょうがないかもしれないけれど。

 

 

 雅也自身は思い描く未来の形──それはほんの少しだけの穏やかな日々を愛する人と過ごしたいと言うものだった。彼の人生において今まで幸福感を覚えるような事は少なかった。

 若いうちは苦労をしろというけれども、そういった痛みや辛さを耐え抜いても報われない事だって少なからずある。

 人生は理不尽の連続ばかりで心が休まる暇はない。それでも、ちょっとずつでもいい、小さな幸せをを感じていたいそう願うのは人間心理じゃないだろうか? 

 

 今まで報われない日々を過ごしてきたのなら今だけは幸せでいたい。二人の未来はまだ始まったばかり、これからどんな困難が待ち受けているのか予想はできないが、それを乗り越えていってほしいと思う。

 

 

 *

 

 デートプランの計画を練りながらベッドに寝転んだ。明日は湊ちゃんに楽しんで貰えるようにしたい。もちろん僕自身が楽しむ事だって忘れない。

 恋人ができてから一緒にいる時間は何よりも大切で今まで誰かとの時間を優先したことのない自分がこんなにも変わるものなんだなって改めてそう感じる。

 僕ができる事は目一杯の愛情を注いであげることだ。自分の気持ちに正直でいよう、こんな僕を好きになってくれた彼女に最大限の感謝の気持ちを持ちながら眠りについた。おやすみなさい、また明日。

 

 

 **

 

 “綺麗で儚いもの”

 

 一年前

 

 十二月

 

 

 東京の冬は厳しい寒さが続いていた──私は背中を丸めながら白い息を吐く、仕事帰りの電車の中は想像していた以上には混んでいなかった。

 

(忘れられない)

 

 胸元に輝く白銀のネックレスはあの時と同じように変わらない色を出していた、あんな出来事があってから私は彼に会っていない。

 雅也君と体を重ねた日の事を思い出して自分を慰める毎日。初めての「恋」を諦めきれない私は日々悶々とした感情を募らせていた。

 夢の中で昔の自分と彼が何か話をしている──当時の自分は雅也君の事なんてどうでも良かったし正直あまり好きじゃなかった……。

 

 こんな夢を見ました。

 

 次は誰かの視点で私の姿が何度も映し出された、夢の中の自分は泣いたり笑ったり感情豊かに振る舞っている。

 視点の人物は私に気がつからないように視線をおくっていた。そう、これはきっと彼から私をみたイメージなんだろう。

 どうしてこんな夢を見るのか自分でもわからないけど、夢は何かを伝えようとしてるんじゃないかと思う。

 

 走馬灯のように私たちの思い出が駆け抜けていく──雅也君からみた私は笑顔がチャーミングな女の子だった。彼は私の笑顔に惹かれたと言っていたのを思い出す。

 

 好意を抱いてからは日に日に私へ向けられる視線が増えてくる。私に感づかれないように気をつけながら真剣な眼差しは一人の女の子に注がれていた。

 

 こんなに想ってもらえてたなんて知れて泣きそうなくらいに嬉しい。中学生になった頃、彼は何度も私に告白しようと行動をしていた、kれど、なかなか上手くいかず時間だけが過ぎていった。

 卒業式を間近に控えた時期に彼はようやく今までの自分の気持ちを伝えようとペンを握った。

 手紙なんて初めて書くのか随分と苦戦している、周りくどい言い回しじゃなくて純粋に好きだと言う想いを片思いしている相手に伝えようと決心する。

 

 そう、この時はまだ彼の片思いでー。この時は本当に私のことを好いていてくれたんだなってわかる。書き上げた手紙の文章を読み返してから便箋を綺麗に折って封筒に入れた。

 

 デジタルな文化が普及して来た中で敢えてアナログなやり方を選んだの。返事が来るのを待ちながら私への想いを再確認する。

 

 今度は自分の視点になる。お母さんからまさやくんから届いた手紙を受け取って部屋に戻る私の姿が映る。

 もしもこの時にあの手紙にきちんと返事を書いていたなら未来は変わったかもしれない。

 

 胸がキュッと締めつけられる。

 

 ……息がするのも苦しいくらい。夢の中でもしっかりと身につけている白銀色のネックレスの輝きは自分の今の気持ちを表現していた。

 

 夢の中で大きな声で叫ぶ! それでももちろん彼女には届かない。

 

(お願いだから気づいて! その手紙にちゃんと返事をしなくちゃいけないの!)

 

 そこで途切れるように空間は切り取られる、次に私が立っていたのは雅也君と何度か行ったことがあるあの公園だった。

 

 雪の中で必死に何かを探している彼の肩にどんどん雪が積もっていく。

 

『この雪の中で本当に見つかるのか?』

 

 指先を真っ赤にしながら地面に積もった雪を掘っていく。

 私にプレゼントしてくれたこのネックレスを探すのにこんなに頑張ってくれたんだ。

 

 この後、雅也君は風邪を引いちゃって私は罪悪感に押しつぶされそうになる……ちなみにこの時の私は彼への想いにまだ気づいていない。

 ちらつく雪と凍えるように冷たい風が吹く中でもたった一つの物を探し続ける。

 

『こんなとこに引っかかってたのか……。どうりで見つからないわけだな』

 

 ネックレスは枝に積もった雪の下に埋もれてて、しかも枝先に引っかかって目立たないようになってた。

 

 すっかり冷え込んできたのなんて気にもしてないかのように雅也君は走り出した。

 

 そこで夢は終わっちゃった。

 

 彼が今までどう言う風に私のことを好きになっていったのか過程を辿っていく形になり、今までは知る事ができなかった想いが分かった。

 

 知ってしまうと今の現実を受け入れきれず泣いちゃいそうになる。鈍感すぎたんだ私……。

 

「恋」に興味を持たず好きな人もいなくてずっと過ごしてきた。初めて好きになった人はあんなに前から私をー。

 

 今はあの頃の雅也君と同じで私は片思い中。でも、彼は別の子を好きになってその子と恋人になった。

 

 もっと早く気づいていれば……。胸が裂けそうになる辛くて苦しい感情、もうあの人は私を見ていない。それでも諦めきれない。

 

 冬はまだ終わりそうにない。巡り来る季節の中で紡がれていくのは愛する気持ちだけ。

 

 もう一度あなたに会うために私ができることはー。

 

 雅也と湊と咲希の物語はめぐりめく季節のように移ろいで終結部へ向けて動き始めるのだった。



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見果てぬ夢

 久我山さんと会った僕は彼女の言葉が頭の中に残っていた。

 咲希ちゃんは僕を諦めていない、この間みたいなことが今度僕の身に起こるのか? と嫌な予感がする。

 初めて会った咲希ちゃんの友人は随分綺麗な子だった、初対面の人とあまり積極的に話すタイプじゃ無いのにどうしてか僕は彼女と会話を続けてしまった。久我山さんはまるでドラマの中で役を演じている女優の様な雰囲気を醸し出していた。

 どうしたら咲希ちゃんが僕を諦めてくれるのか彼女に相談しようにもあの子は咲希ちゃんの「恋」を応援すると言ってた。

 僕と湊ちゃんの恋愛を祝福してくれる人はほんの数人程度、友人の義之君はもちろんそうだけど、僕の家族それに篠宮家の人たち──

 ──あの暖かくて優しい家族の一員になれるかと考えると今からすごく楽しみでもある。

 

 何で恋愛をするのにこんなにも苦労するんだ……。片思いをしてたあの頃を思い返すと今では信じられないくらいだ。

 僕に恋人ができて幸せを実感できる日々が訪れるなんて。十年来の想いが報われることはなかったけれども、それ以上に大切な人ができた。やっとまた好きになれる女の子と出会えたんだな。

 

 ゆっくりとだけど僕たちはお互いの時間を共有していく。最初は会社の後輩だった相手が今では僕の恋人、そんなゲームみたいな出来事に幸福感を抱いて細やかな日常を謳歌している。

 湊ちゃんと過ごす時間はいつだって僕にワクワク感と充実感で満たしてくれる。

 

 最近だとLINEを使って連絡取ることも多くて彼女は可愛いスタンプとかを何種類も持っている。スマホに変えてから生活がガラリと変化したし、やっぱり最新のものに触れる機会は貴重だなって思う。

 

 僕らが付き合い始めたと言うことはごく一部の人にしか伝えていない。そもそもそう言うことをペラペラと周りに話すのは好きじゃない。

 付き合ってから結婚まで長い時間はかけたくはないけど勝利のことはしっかりと考えて二人で話をしてから決めていこうと思ってる。

 

 *

 

 咲希が片思いしている相手と話をして抱いていた印象が変わった。あたしが想像していた以上に彼は面白いひとだった。

 こう見えても大学時代は舞台に立つことが多くて女優として色んな役を経験した。あたしが咲希と付き合っているのはあの子の友達だって言うのもあるけど興味深い人間だと感じたから。

 咲希を観察してると演技に幅が出るだろうし、なによりあの子は今の境遇はなんだかドラマのワンシーンのみたいに見える。

 

 新堂君の前じゃ猫をかぶって振る舞ったおかげでどう言う人間なのかをじっくりと知ることできた。

 仲の良い友達として咲希との関係は続けているけどあの子はあたしの本心は知らないだろうしそれを知ったところで大した問題じゃない。

 

 三角関係をテーマにした舞台が作れそうな気もするし、情報の収集はやっておくべきだと思う。

 咲希の事はもう色々と知っているから次は渦中の人物二人と接触してみようかな。

 

 新堂君の恋人の情報は持っていないけど彼と仲を深めれば自然と聞き出せる状況になるかもしれない。この舞台は脚本から演出の細部に至るまで拘りたい。

 だけど、問題は役を演じることができる適切な人がいればの話だけどね。

 まあ、誰もいない時はあたしが一人二役すればいいか。

 

 自分がモデルになっているってあのこが知った時にどういう反応をするのか興味はある、例えそれであたし達の関係が悪くなったとしても気にしない。

 

 初めて咲希と会った時から彼女を演じる為に今まで影で努力してきた、あの子からしたらあたしは気遣い無く接することのできる友人なんだろうね。

 大学時代は四年間観察してたけど、面白いと思えるような出来事は何も起きなかったけど、まさか今になってこんな風になるなんてね。

 

 ……舞台に上でのあたしは【浅倉咲希】そして、もしかしたらもう一人を演じる事になるかもしれないけれど。

 この舞台が必ず成功させてみせる。上映したらヒットは間違いないと思う。

 もっと彼と彼女の情報を入手しなくちゃね。近いうちに新堂君とはもう一度会うことになりそう。

 いざとなれば──まぁ、それは今後の展開次第ね。

 

 

 **

 

 恋人になってからの日々は内気な私を少しずつだけど変えてくれました。

 あの人の側にいたいと強く願い片時でも離れたくないと思うようになりました。

 私の家族は私たちが結婚するんじゃないかと期待してるけれどそれはまだ先になりそうです。

 雅也さんがどう言う風に考えているのか、私も結婚へ向けて理想を語ったりしてお互いの認識を高めています。

 ウェディングドレスを着たくないなんて言うのは本心じゃないけれど、細やかな結婚式でも良いなぁと思っています。

 式をあげなくても夫婦でいる人は存在するだろうし……。

 ここまで育ててくれた両親に感謝の気持ちを込めて結婚式をやりたいと思うのは女の子なら誰だって感じるんじゃないかな? 

 彼がどこまで真剣に考えてくれているのか気にはなるけど私から急かすような真似はしたくない。

 だってあの人はようやく掴んだ小さな幸せを継続させる為に毎日頑張っているんだもん。それは同じ場所で見てきた私だからこそわかること。

 今はとっても幸せ、この穏やかな日常がこれからもずっと続いていけば良いなと感じる、二人で並んで歩いていこう。雅也さんとならきっと大丈夫だよね。

 そんな風に思いながら。彼との将来に想いを馳せるのでした。

 

 

 明日奈の目的を知らない咲希は雅也との事を相談しようと考えていた。

 今まで仲良くしてきた友人の本当の姿それを彼女が知ることになるのはもう少し後の話。最終部へ向けて加速する演奏はより情熱を帯びていく。

 新しい季節を迎えるうちに変化していく毎日の中で三人はそれぞれの想いを秘めて先の未来を想像する。

 そして時折導入される別視点で進められる物語が本編とクロスしてより一層に複雑になる、二度目の「恋」は狂気と波乱に包まれて着実に進行していくのだった。

 それはまだ見果てぬ夢の続き──



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懐疑心

 仕事が終わって家に帰り着くと自動ドアの前に人影が見える。

 あまり目が良いわけじゃないから誰が立っているのか分からないけれぼおそらく宅配の配達員でも来たんだろう。 僕はその脇を抜けようとすると急に何かに腕を掴まれた。

 

「おかえり、帰ってくるのを待ってたよ」

 

 腕を掴んだ相手を睨むとそこにはついこの間知り合ったひとがいた。

 

「急に訪ねちゃってごめんね」

 

 そう言いながら机に置かれたコーヒーカップに口をつける、あの後一旦部屋に戻って外着に着替えてから駅近のおしゃれなコーヒーショップに入る。

 僕は普段からこういった感じの店を利用する機会はないから緊張する。一方久我山さんはそんな僕の気持ちなんて知らない様子で料理を食べている。

 

「それで? 一体何の用? ていうかうちの場所誰から聞いたの」

 

「新堂君の家の場所は咲希から聞いた。あの子なかなか教えてくれなくて苦労したけどね」

 

 彼女と二人きりで食事をしている様子を某らの関係を知らない人たちからしたらどう言うふうに見えているんだろうか? 

 チラリと久我山さんに視線を送ると彼女と目が合った。綺麗な瞳は僕の姿を捉えている、どうにかこの状況から一刻も早く脱したい僕は会話を進めつつ目的を探る事にした。

 久我山さんは咲希ちゃんの話題はあまり話さない。僕のことをあの子からどんな風に聞いてるんだ? なんていう疑問が浮かんだ。

 と言うよりも何で久我山さんはわざわざ家の前で待ち伏せするような真似をしてたのか? わからないことばかり。

 

(大学時代の咲希ちゃんか……)

 

 彼女はどういうきっかけで久我山さんと知り合ったんだろうか? 高校を卒業してからすぐに就職した自分には大学生活なんてイメージが湧かない、ゲームとかアニメで見るようなキャンパスライフは幻想的なもので実際はもっとチープな感じなんだろうな。

 咲希ちゃんがどこの大学に通っていたのかなんていうのは僕が伺い知らないところだ、そこで恋人ができて、恋愛を経験していれば今こんなことにはなっていない、そう思う。

 

 久我山さんと入ったコーヒーショップはサラリーマンやOL風の客も多く利用していた。とうきょうは本当におしゃれな店がたくさんある、田舎に住んでいた僕はコーヒーなんて缶のやつかインスタントを飲むことがしょっちゅうでブランドとかの味はイマイチわからない……。

 

「君と会うのは悪い気はしないけど、二人きりで会っているのを咲希ちゃんは知ってるの?」

 

「知らないよ。知ってたら多分面倒なことになるだろうね」

 

 ぼんやりと呟く彼女は短い髪を揺らして頬杖をつく、その仕草がすごく様になっていてまるでドラマの中に迷い込んだように感じられた。

 コーヒーカップに口をつけて啜る──ちょっぴり苦目の味が口の中に広がる。

 

(砂糖もう少し入れれば良かったかなあ)

 

 ブラックが苦手なわけじゃないけれどもあまり美味しいと感じないのは良くない気もする。

 彼女は僕に興味があると言ってたけれども、人にそんな事を言われたのは初めてだ、子どもの頃からあまり周りと積極的に関わるタイプではなかったし、大人になって変わったけど、他人に注目されるというのに苦手意識があった。

 

 中学の頃の文化祭で歌を歌ったのはあの子の為だったけど、聞いて欲しかった相手の淡白な反応にすっかり萎えてしまったのを思い出した。

 

 会計を済ませて店を出ようとすると腕を掴まれた。

 

「これから少し時間ある? ちょっとあたしの家まで来てほしいんだけど」

 

 突然そんなことを言われた僕はどう言う反応をしていいのかわからず彼女に言われるがままに久我山さんの家へと向かうことになった。

 

 マンションのオートロックを解除してエレベーターに乗り込む──僕らの間に会話はない。大きな扉の前に立った彼女は鍵を取り出して鍵穴に差し込む。

 ガチャリと扉が開く音が聞こえると何も言わずにドアノブに手をかける。

 

「やっぱり僕、帰るよ」

 

 そう言って引き返そうとすると強引に腕を引っ張られる。

 

「ダメよ。これから話があるって言ったでしょ。逃がさないわ」

 

 まるで別人みたいな久我山さんの怒気迫る勢いに圧倒された僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 

「ただいま」

 

「あら、おかえりなさい」

 

 リビングから女性が出てくてきて玄関までやってくる──その人は僕の顔を見るととても驚いた様子で靴を脱いでいる久我山さんの顔と僕の顔を見比べていた。

 

「友達、今日はこれから舞台に関する話するだけだから」

 

 表情を変えずに女性に伝えると僕の手を引いてサッと自分の部屋に招き入れた。

 

 部屋の鍵はかけない──久我山さんは「ちょっと待ってて」とだけ言い残して部屋から出て行ってしまう。

 僕はフローリングの床をツツと足を滑らせて進む。

 

 数分待つとさっきの女性と久我山さんが戻ってくる。どうやら彼女は僕がここに来た事情を説明していたようだ。

 よく見ると女性はとても綺麗な人でどことなく彼女の面影を重ねることができた。

 

「もしかしてさっきの人は君のお母さん?」

 

「そう。あたしは母さんと二人暮らしなんだ。あ、ちなみにこの情報は咲希は知らないから、あの子はうちに遊びに来る機会がなかったし。あたしの方があの子の部屋に行くことが多かったから」

 

 大学時代から仲の良い相手にも知らせていない情報を知り合って日の浅い自分に教えていいものなんだろうか? 

 久我山さんは何を考えているのかわからない、確かにこの子と話しているはずなのに別人と話しているみたいに感じる。この違和感はなんだろうな……。どうにも落ち着かない。

 

 心がざわついている、ふと気がつくと久我山さんの顔が近い位置にあった。僕は慌てて身を引く、一体どう言うつもりなんだ? 今まで色んな人を見てきたけれど、彼女は思考が読みにくいタイプだと感じた。

 

 

「あたしなら、良いよ」

 

「何がいいの? て言うか顔近すぎるんだけど」

 

「本当にこういった経験はしたことがないんだね。『女』に慣れていないって感じがする。咲希とはエッチしたんでしょう?」

 

「何でそのことをー」

 

 忘れてしまいたい過去──僕は生まれて初めて体を重ねた相手の事が蘇って来る。嫌な記憶だから早く消したいと願っていた。それでも、思考の奥底に張り付いてなかなか取れない。

 乱れ切ったあの子の顔、初めての経験は僕の心に消せることのない記憶を刻みつけた。

 

 急に服を脱ぎだす久我山さん。僕が声をかける間も無く彼女は下着一枚になる。これまで「女」を感じることができなかった相手を途端に“意識”する。

 汚れを知らない透き通った白い肌。久我山さんの表情に変化はない、下着姿だと言うのに羞恥心すら感じていないんだろうか? 

 

「本当のあたしはどれだと思う?」

 

 密着させて来た肌の温もりを感じる。女の子の良い匂いを嗅いでしまう、それでも、理性はまだ崩壊するには余裕があった。

 咲希ちゃんほどではないけど、久我山さんも結構胸が大きい、服の上からでもわかる膨らみをできる限り意識しないようにした。

 

「いきなりこんなことして何を考えてるんだ? 君はもっと自分を大切にするべきじゃないか、恋人でもない相手にこんなことをしちゃいけない」

 

「そう言うってことは雅也はあたしを『女』と認識してくれてるんだね」

 

 久我山さんに呼び捨てにされる。さっきまでの彼女とは雰囲気が違うと言うのはすぐに感じ取ることができた。

 

「本当に何なんだよ……。大事な話があるんじゃないの」

 

「理由なんて後からいくらでも付けられるじゃない。あたしはあなた達に興味があるのよ。その為なら手段を選んでいられないのよ」

 

 この子は一体何を言ってるんだ? それにあなた“達”という言葉が引っかかる。

 

 

 *

 

 雅也には明日奈の目的がわからないでいた。咲希から彼の存在を聞いた時から明日奈の中にはとある計画が思いついた。

 

 彼女は雅也達の三角関係を描いた舞台を完成させるのが目的だった。

 咲希と仲良くしながらいつか訪れるかもしれないチャンスを窺いながら日々を過ごしてきた。

 

【久我山明日奈】という舞台女優としての名前──今まで彼女は本名を名乗った事は一度も無い。明日奈という名も演じる為の役名であって本当の彼女の名前を知るのは母親だけ。

 深く周りの人間と関わりを持たなかったからこそ、今まで「友人」すら欺くことができた。

 自分の最大の武器を活用して最高の舞台を作り出す事を最優先に活動をしていた。

 台本から脚本まで全てを担当し大掛かりなものを準備している。

 

 咲希を演じる為に身近にいて。彼女を観察してきた。そして残りの登場人物のイメージを固めるために先ずは雅也と接触することに。

 

「全てはこの為に──あとはもう一人の主役と会うべきね」

 

 

 **

 

「雅也になら本当のあたしを見せてもいいよ」

 

 下着に手をかけるとなんの躊躇いも無く脱ぎ捨てる、歳の近い女の子の裸に驚いた僕は目を閉じた。自分の置かれた立場を理解するのは到底難しいことでもある。

 強引な彼女の行為に戸惑いつつ僕はこのどうしようもない運命の因果に逆らえずにいた。



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突き放す勇気

 下着を脱いで裸の久我山さんが僕の目の前に立つ──発達のいい胸と白くて透き通った肌が曝け出される。

 大人の女性の魅力って言うんだろうか、汚れをしならい艶やかな柔肌と女の子独特ないい匂いを嗅ぎながら僕は溜息を漏らす。

 

 彼女の考えていることが理解できない……。一体何の目的があってこんな事を? 頭の中で何度も思考を巡らせてみたけど答えは見つからない。

 

 咲希ちゃんと体を重ねた日から僕の周りにはどうにも逃れられない渦のようなものがあるんじゃないかと思えてきた。あの日、咲希ちゃんと<再会>してから今まで普通の時間が流れていた空気が一変した。

 女の子にモテたことはこれまで一度も無かった。咲希ちゃんを好きになるまで恋愛に関して興味すら持ってなかった。

 

 気がつくと僕の体はベッドの上に倒されていた──目の前に久我山さんの顔がすごく近い位置になって緊張し目線を逸らす。

 彼女の胸が僕の体の上に押しつぶされてむにゅりとした感触を覚える。若干頬を赤く染めている久我山さんはそのままの体制で顔を埋めた。

 上着を捲られて肌が曝け出す。

 

 そして舌で僕の体を舐めまわし始める、その何とも言えない感覚に変な声が出てしまう……。それでも彼女は行為をやめるばかりか最初は腹を舐めていた下を上へと移動させた、唾液でベトベトになっている肌に更に密着度を増すように触れてくる。

 

 咲希ちゃんの友達と関係を持つわけにはいかない。僕は彼女の行為に抵抗した、あっさりと引き下がらずにどんどん積極的になっていく彼女を理性を保ちつつ突き放す。こういうのはあの時咲希ちゃんにされたことと何ら変わりもない……。あの時だって僕がもっと必死に彼女を拒絶していればあんな面倒なことにはならずに済んだ。

 

 久我山さんの目的がはっきりとしない間は中途半端な事はするべきじゃない。僕はベッドから起き上がってすぐに衣服の乱れを整えた。一向に表情すら読めない彼女他所に僕はふぅとため息を吐き出して立ち上がる。

 

「こんなことはするべきじゃない。君がどういう風に考えているのかはわからないけどもっと自分を大事にしなくちゃ駄目だよ。それに無理矢理に体を重ねた所で心が繋がっていないのなら全く意味がない」

 

 そう言って彼女に視線を向けると裸の体を恥じらうことがない様子を見せる。自らの好奇心だけで人間関係を崩壊させるような真似はしちゃいけない。もっとも咲希ちゃんとの仲が完全に拗れてしまっている僕が言うべきことではないんだろうけどね。

 それでもいい加減なままではいられない──湊ちゃんの為に自分自身が変わらくちゃならない。

 

「今日のことは咲希ちゃんに話たりはしないけど、今後は僕の前に現れないでもらえるかい? 恋人との時間を優先しようと思ってるから。君の目的に関しても追求するつもりはない。僕たちの関係はこれでおしまい」

 

 それだけを伝えて部屋を出る。今彼女はどんな表情をしているんだろう? なんて事を考えたけれども、振り返ることはせずに久我山さんが住むマンションを後にした。

 

 だけど、この時はまだこれから起こるであろう出来事を予感することなんてできずにいたんだ、帰り道で今日あった事を忘れようと最寄りの駅へ向かう電車に乗り込んで揺られる車内でぼんやりと景色を眺める。



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Mellow

「こうして飲むのは久しぶりだね、おt外仕事が忙しくてなかなか都合がつかなかったし、雅也君は最近どうしてる? 順調かい」

 

「まあ今の所はね。義之君の方はどう? 仕事大変じゃない」

 

「僕はもう慣れてるから大丈夫だよ。色々なところに行けるのは新鮮な感じがするしね、今は仕事をしっかりと頑張るつもり」

 

「そっか、僕は順調とは言えるけど色々悩みとかもあるんだよね」

 

「話してみると楽になるかもしれないよ。僕だって聞きたいことあるし」

 

「今さ、付き合ってる彼女がいるんだけど最近僕の周りでちょっとした変化があってさ、咲希ちゃんとの事が原因かな」

 

「咲希ちゃんとは最近話してないなあ。彼女が雅也君に告白したって言うのは知ってるけどね。恋愛に関して僕がアドバイスできるようなことは無いと思うけど……」

 

 

「本当のあたしはどれだと思う?」

 

「それでも聞いてほしい事があるんだよ。咲希ちゃんの大学生の友達の女の子がいるんだけどさ、【久我山】さんって言う、その彼女がなんか怪しい行動しててさ」

 

「怪しい行動? と言うとどんなの」

 

「彼女が僕たちの関係に興味を抱いてるらしくてさ、この間裸で迫れた」

 

「おっと、それはまた穏やかじゃないね。雅也君はその子とはやりとりはあったのかい?」

 

「無いよ。この前初めて会った。向こうは堂々と咲希ちゃんの友達だって宣言してたし近くのコーヒーショップで食事したくらい。正直僕は咲希ちゃんの友達なんて全く知らないからさ」

 

「中学までなら僕も分かるけどそれ以降は全然知らないや。それは向こうだってそうなんだろうし、僕らは子どもの頃とは大分変わったからね、特に雅也君は中学までとは別人みたいに変わったよね」

 

「昔の僕を知ってる人がいたら驚くだろうね。 子供のときは言い方が悪いけれど『ガキ』から抜け出せなかったと思う。成長して精神的に安定してからは子どもみたいな振る舞いとかはしなくなったし」

 

「僕らはやりとりがあるけど他の人とは中学までで殆ど交流がないかなあ。たまに地元に戻る機会があっても皆んな県外で働いているみたいだし顔を合わせる事もないよ」

 

「話戻るけどさ、その久我山さんと話していて違和感を覚えたんだよ」

 

「違和感」

 

「なんて言うか彼女は別の誰かを演じているかのようだった、舞台で活躍する俳優が役を演じきる事があるでしょう? そんな感じがしたんだよ。あの時彼女が迫って来たのもお芝居の一つじゃ無いかと錯覚させられるくらい違和感を覚えた」

 

「何が目的なんだろうね」

 

「今更何で僕の前に彼女が現れたのか謎だけど、咲希ちゃんには何か隠している気がする、まあ、僕はまず最初に彼女の言動や行動を不信に思った」

 

 

「本当のあたしはどれだと思う?」

 

 あの時の彼女の言葉ずっと引っかかっている──この違和感の原因なんだろうか? 興味があるからといっていきなり初対面の相手に自分の裸を曝け出すような真似はしない。

 彼女の奥底に潜んでいる感情、行動理念が理解できない……。

 もしも、僕と体の関係を結んでしまったら咲希ちゃんとどう言う風に接せるつもりだったんだろうか? 

 親友を裏切ってしまうかもしれないリスクまで負ってやることじゃない。

 

 

「雅也君が今付き合っている子がいるのなら。その子を大事にしてあげてよ、僕はいつだって友達だからさ、今度良ければ彼女を紹介してよ。一度会ってみたいからさ」

 

「ああ、そうだね。湊ちゃんに話しておくよ。彼女はとても良い子なんだ僕にはもったいないくらいにね、やっとできた恋人だからもちろん大事にしていくよ」

 

「それじゃあ乾杯と行こうか! 新しいつまみ開けるわ、缶チューハイも何本か持ってくる。居酒屋で飲むとすごく金かかるよね、家で飲んだ方が気を遣わないでおける。兄ちゃんも何本か飲むらしいから僕らはさっき買ってきた奴から飲み始めようか」

 

 ポテトチップスの袋を開けてその他にもスルメにチーズかまぼこ、ビールジャーキー、サラミとかを机にバラっと置く。

 

「乾杯!」

 

 つまみを一口食べてから酒を飲む──シュワっとしたサワーの炭酸に果物のフレーバーが良く合う、これぞ大人の贅沢! 最近は酒のたくさん種類が増えてどれも美味い! 

 

 義之君はチーズかまぼこを食べながら酒の味の感想を言う、こうやって彼と飲み合うのがひさしぶりでテンションが上がった僕はついついつまみに手を伸ばす。

 

「お前らもう飲んでるのか? 俺も混ぜろ」

 

 兄ちゃんが冷蔵庫から缶チューハイを手に持って来る僕は少し尻を動かして場所を開けるとゆっくりと座った兄ちゃんはプシュッと缶を開けた。

 

 僕らが買ってきたつまみを食べながら酒を呷る(あお)

 母さんは酒が苦手であまり飲めないから僕達の家飲みに参加することは無いけど唐揚げとかの料理は準備してくれる。自分はコーラをコップに注いでつまみを食べ始める。

 

 母さんは義之君と色々な話をする、その様子を僕は飲みながら聞く。友達が家に来てくれるのが嬉しいのか作った唐揚げを義之君に勧めていた。

 

「美味しいですね」

 

「もっとあるからたくさん食べていいよ。はら、雅也もお母さんが作った唐揚げ食べなさい」

 

「もう食べてるよ。ちょうど良い味付けで美味いわ」

 

 今日の新堂家は賑やかな食卓になった、義之君は母さんに夕飯を食べるように促され僕たちは飲みながら夕食を楽しんだ。

 

 

 缶チューハイが無くなっても冷蔵庫には僕が買っておいた日本酒があるそれをコーラで割って飲む。美味い酒と料理に満足して僕は着替えを取りに部屋に戻る。

 

 携帯を湊ちゃんからLINEが来てた。

 

「今家に友達が来てて一緒に飲んでるんだ。それで返信遅れた」

 

 返信用のメッセージを送ると可愛いスタンプで返事きた──僕は今度湊ちゃんもうちに呼ぶように母さんに言われたことを伝えて部屋を出る。

 

 籠に洗濯物を入れて戻ると大分お菓子の数が減っていた。僕は買い置きしていたスナック菓子の袋を持っていった。

 

 

 明日が休みだからか夜の十時を回っても風呂に入る気配がない。義之君はこれから電車で帰るらしくて僕は彼を駅まで送るために外に出た。

 

 

「今日は随分と飲んだなあ。義之君は気持ち悪くなってたりしない?」

 

「平気。空きっ腹で飲んでたらやばかったかもしれないけど」

 

「確かにね。腹減った状態で飲んでたら確実に出してたわ」

 

「雅也君のお母さんの作った唐揚げも美味かったしね」

 

「義之君がうちの母さんの料理食べることなんて滅多にないからね、満足してくれたのなら良かったよ」

 

「それじゃあ僕はこっちだから」

 

「ああ、今日は本当にありがとうね!」

 

 僕がそう言うと義之君はスッと手を挙げて駅の中へ入っていた。

 

(さてと、んじゃ帰りますかね)

 

 友達に話したことで僕の心は少しだけか楽になった気がする、春の夜は心地が良い風が吹いている、来た道を寄り道せずに引き返した。

 

 

 *

 

 

「明日奈、話があるって何よ?」

 

「そうね、これからのあたしと咲希に関することかな。とりあえずあんたの家に向かうわ」

 

 通話を終えた咲希には明日奈が口にした言葉の意味がわからないでいた。



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Agitato

「それで? 私に用って一体何なの? 明日奈の方からなんて珍しいじゃない」

 

 二人は部屋の中で向き合う。大学時代からの友人の急な用事に咲希自身は少し戸惑ったけれど明日奈の事を信頼していた。

 

「あたしね、彼に会ったんだ……」

 

「彼? それって誰のこと? 私の男友達を明日奈に紹介したことあったつけ」

 

 目の前にいる明日奈は表情こそいつも通りだが、何となく普段と違った感じがした。

 

「あんたには心当たりがあるんじゃない? 出なくちゃ流石に鈍すぎると思うけど」

 

「誰だろう? もしかして義之君? じゃないよね。私が義之君の話を明日奈にしたことは一度も無いし、私の友達だよね? うーん誰だろう。大学の頃の仲良くしてた人なんてそこまでいたわけじゃないんだけど」

 

「本当にあたしの口から誰か教えてもいいの? それで咲希は冷静にいられるのかな」

 

 やっぱり普段の彼女とは違う雰囲気に咲希は違和感を覚える。今までずっと友達として接してきたけれどこんな明日奈の一面を見るのは初めてだった。

 

「鈍いのね。まぁいっか。それじゃあ教えてあげるわよ。あたしは【新堂雅也】君と会ってきたの」

 

「……えっ?」

 

 明日奈の口から意外な人物の名前を聞かされて驚く咲希、雅也の事は彼女にも相談したけど、どうしてわざわざ会ったと言うことを強調させているのかわからない。

 

「あたしなりに色々とやってみたんだけどダメだった。彼ね、思っていた以上に意志が強いわよ。もう咲希が付けいる隙なんてないくらいにね」

 

「ちょっと待って! 何を言っているの明日奈……。雅也君と会ったってどういうこと?」

 

「言葉通りの意味だよ。あたしはあんたたちの関係に興味あってね。それでその中心人物である新堂君と会って話をしただけ」

 

「……私たちの関係? それってどういうことなの」

 

「目的があるって言うのかな。今まで咲希と仲良くしてたのにはちゃんとした理由があったのよ。それを今更言ってどうなるかなんてあたしが知ったことじゃ無いけどね」

 

「何を言ってるの。明日奈の言ってる事が何一つわかんないよ!」

 

「真実を知っても咲希はこれまで通りにあたしの友達としていられる? 色んな人を見て来たけど人間関係っていうのは案外あっさりと崩れるものよ。そして一度壊れてしまったら修復するのには難しい。まぁ、あんたが知りたいって言うのなら教えてあげるわ」

 

「あたしは今までずっと咲希を欺いていた」

 

「えっ?」

 

「大学で初めてあんたの事を見た時はただの興味の無い相手でもあった。初めは眼中に無かったのよ。何となくのその時の気分で咲希に話しかけた、あたしの好奇心をそそるような相手じゃ無いのならすぐに関係を切ればいいと」

 

「それで自己紹介した【久我山明日奈】ってね。でもこれはあたしの本名じゃない、久我山明日奈って名前はね、当時あたしが演じてた舞台女優の名前なのよ」

 

「咲希には言ってなかったけどあたしは大学は演劇を専攻してたんだ、学部が違うから普段はあんたとの直接的なやり取りが少なかったから素性を知られる心配もなかったしね」

 

「役作りをする上でそのキャラクターになりきるっていうのは重要な事なのよ、だからあたしは咲希の前では明日奈を演じ続けた。そうすることであんたはあたしのことを疑いもせずに友達として接してくれる」

 

「そうやって関わっていくうちに興味深い話を聞くことができた。【浅倉咲希】は男に興味がないって、最初はどうしてなんだろうって考えた、思えばあんたはあたしがセッティングした合コンにも来る機会はあまりなかったし男性に対してトラウマでもあるんじゃないのかって」

 

「大学四年間でその理由を知る為に近づいた。けれど、そう簡単にはいくはずもなくて咲希がなかなか理由を話さないことに苛立ちを覚えていた。結局【久我山明日奈】としての舞台は成功したけど、あたし自身が納得するようできじゃなかった。他の連中が手放しで喜んでいるところを見て冷めてたのよ」

 

「それからあんたが東京で働くって聞いてチャンスだと思った。偶然にも東京にある劇団からスカウトの話が来ててね。あたしの舞台での演技を見て惚れ込んでくれたらしいのよ」

 

「明日奈としての舞台は終わりを迎えたから新しく演じるキャラクターを探さないといけない、そんな事を考えていた頃に咲希から新堂君の名前を聞かされた」

 

「【浅倉咲希】に告白した唯一の男、あたしが俄然その存在が気になった、そして丁度いいタイミングで劇場から新しい舞台の設定から演出まをあたしにやらないか? っていう話が来たの。普通の舞台じゃ観客は満足しないし、何よりあたし自身が納得できるようなものを作り上げたいと思うようになった。そこで注目したのがあんた達だったのよ」

 

「私たち? たちってことは他にもいるってことだよね」

 

「正解、あんたと雅也とそしてその恋人。三人の三角関係を聡明に描いた舞台にすればきっと大きな反響がある。だからあたしは主役の一人である彼に直接会ってみようと考えたのよ」

 

「私たちの今の関係をお芝居にするつもりなの」

 

「そうだよ。それがあたしの目的、だから咲希と今までずっと仲良くしてきたあんたを近くで見れば演じる時に役に入り込めるからね。この舞台はあたしにしか作り出せない。三人の複雑な関係を描くことでリアリティも打ち出せるし」

 

「酷い……それじゃあ今まで私の相談に乗ってくれてたのは全部その為だったんだ」

 

「親しい関係の方が分かることもあるからさ、何も疑わずに接してくれてあたしは楽だったけどね。咲希の友達の【久我山明日奈】を演じていれば良いわけだし」

 

「!」

 

「怒った? そういう生々しい感情をみせてくれていいんだよ、そうした方が役を演じる時に幅も出るし」

 

「良い加減にしてよ! どこまで人を馬鹿にすれば気がすむの! 人の失恋を利用するなんて信じられない」

 

「あれ? 『恋』は諦めるつもりはないんじゃなかった?」

 

 咲希は怒りを抑えきれず明日奈の顔を思いっきり引っ叩く。それでも彼女はその行為でさえ自分が【浅倉咲希】を演じる為の糧にしてしまいそうだった。

 信じていた友達から受け入れがたい真実を聞かされた咲希は放心するしかなかった。

 結局、目の前の人物は【久我山明日奈】を演じているだけに過ぎなかった。今までゆっくり育んできた人間関係は彼女の言うようにあっさりと崩れ去るのだった。

 

 明日奈は咲希に真実を伝え、自分たちを主役とした舞台を完成させると意気込みそこに本当の彼女の姿が初めて見えた。

 心の支えすら失った咲希はひとり部屋の中で呆然とするしかなかった。



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Presto

 泣き出したくて逃げ出したくなる、咲希は部屋の中で崩れ落ちて号泣する──信じていた相手に伝えられた衝撃の事実、それを受け入れるにはあまりにも残酷すぎた……。

 

「うっ、うう……」

 

 ぽたぽたと涙が零れ落ちる、綺麗なカーペットにシミができても止まることがない、心が痛む……、吐きそうになるくらい気持ち悪くなる……。

 どうしてこんな目に遭うんだろう? 

 因果応報なんていう言葉がある、今まで私が行って巡り巡ってきた災難、私はただ、幸せになりたいだけなのに……。

 

 四つん這いになった時に胸元から垂れ下がる輝く白銀のネックレス──それは二年前に雅也君からプレゼントされてから一度も外したことがない。

 この宝石の一粒一粒に込められた愛情を知って私は自分の本当の想いに気づくことができた。

 

 私は鈍感で当時の彼の自分への好意を蔑ろにした。それでも雅也君はずっと想っていてくれた、初めて誰かに好きだって言われてあの頃の私は全然イメージが湧かなかったし、恋愛自体に興味なくて今までそうやって生きてきた分これからも変わらないと思ってた。

 

 二年前の冬のあの日、彼に<再会>するまでは──十年ぶりに会った私たち、雅也君とは中学を卒業してから何もやり取りがなかったし、共通の友達の義之君も彼の話題を口に出すことはなかった。

 

 二人はまた巡り会って昔みたいな友達関係を築いていくはずだった。だけど実際は違くて私は十年もの歳月をかけてようやく彼に対する気持ちを知ることができたの。

 一つ違うと言えば今度は私が雅也君に片思いしてるってことかな? 子どもの頃は逆で彼が私に片思いをしてた。当時の雅也君が抱いていた感情とか今の自分ならわかる。

 

「私、今どんな顔してるんだろう」

 

 明日奈の言葉を思い出す──あの子が何を考えているかわからない。だってついこの間まで私たちは良い関係を築いてきたのだから、それも彼女の目的の一つだとしても簡単に受け入れることなんてできない。

 

 私はちっとも明日奈のことを知らなかった。私に内緒で雅也君と会っていた。

 

「うっ……」

 

 想像すると気持ちが悪くなって来る……。楽しそうに話す二人のことを思い浮かべると気分が悪い。その空間に本来いるべきなのは誰なの? 

 

 篠宮さんが私に向けて言った言葉──彼女の想いの強さを知ると臆病になるけれど、それでも負けたくない、諦めたくないと思える。

 たった一度きりの「恋」なんだから。ちょっとだけ楽になった私はなんとか体を起こして立ち上がる。部屋のドアは明日奈が出て行ったままの状況で開け広げられている。

 いたたまれなくなった私はこの場所から逃げ出すように外に飛び出した。

 部屋着のままなんて気にしないで夜の街を走る──どこかに行って休みたい、そのままずっと。

 

 泣いている顔を見せないために下を向いて歩く、周りの人たちはそんな私のことなんて気に留めず通り過ぎていく。その厳しさを身にして感じると胸が痛んでくる、自分がどんな格好をしているのかさえもわからずにふらふらと彷徨う。

 ふと右手を見るとスマホが握られている。世界から孤立している私に唯一残された場所──それに縋り付くように画面のロックを解除する。

 

「いや……私の居場所を奪わないで」

 

 充電は八〇パーセント。これならまだ大丈夫、へたり込むように地面に座ると冷たいアスファルトの感触がなんだか嫌な感じ。

 

 世界から切り離された自分を惨めに思いながら唯一の希望に縋る。意識せず連絡先から彼の番号を呼び出していた。

 

「……助けてよ、雅也君。私、どうすればいいの」

 

 この絶望的な現実から救い出してほしい。ネックレスをギュッと握りしめて夜の空を見上げる、胸が裂けそうになるくらいにチクチクと痛む。

 呼吸をするのさえ苦しくなってその場にうずくまる。

 

 もう限界を迎えていた私は彼の番号をタップして電話をかけた。

 

(お願い! 出て)

 

 無機質になる呼び出し音を聞きながらたった一つの希望に期待して祈るように電話の相手が出るのを待った。

 

 *

 

「おっと、こんな時間に電話なんてかけてくるのは誰だ?」

 

 スマホに着信を知らせるアイコンが表示されたから──僕は通話ボタンを押して耳に当てる。丁度部屋で休んでいる時にかかってきたものだから不機嫌な声で電話に出た。

 

「もしもし」

 

「……」

 

「もしもし?」

 

「……」

 

(いたずら電話か?)

 相手は何も返事をしない。僕は通話を終わろうとボタンをタップしようすると声が漏れてくる。

 

「うっ、うう……」

 

「もしもし? あの間違いなら切りますよ」

 

「待って、切らないで下さい」

 

 涙声で返事をする相手に僕は電話越しに顔を歪めてとりあえず言う通りにする。

 

「もしもし、どなたですか?」

 

「私です、咲希です……」

 

「えっ……?」

 

 もう聞くことが無いだろうと思っていた彼女の名前、僕の初恋の人。

 

「咲希ちゃん? 一体どうしたの?」

 

 本来ならば関わらずに切ってしまええば良いんだろうけど、電話の向こうから泣いている様子が分かる彼女の事が放っておけなかった。

 

 

「うう……。切れないでくれてありがとう」

 

 涙声で返事する咲希ちゃんはまるで地獄から救われたような明るい口調を感じた。

 

「どうしたの? 泣いてるみたいだけど」

 

 僕がそう言うと彼女はしばらく黙ってしまう──無理に聞き出そうとはせずにあくまでも咲希ちゃん自身が次の言葉を発するまで待った。

 

「あのね、ちょっと立ち直れないことがあって、それで泣いてたの」

 

「そうなんだ、それで僕に電話をかけてきたんだね」

 

「うん、今の私には雅也君しかいなかったの」

 

「大袈裟だよ。僕が咲希ちゃんにやれることなんてたかが知れてるし」

 

「雅也君の声を聞いたら少しだけ気持ちが楽になった。優しいね、普通だったら私の返事なんて聞かないで電話切っちゃうだろうし」

 

「そんなんじゃないよ。もしも緊急の連絡だったら困るからね。悪戯かどうかも確認したかっただけだから」

 

「私、今、一人で外にいるんだ。あはは、友達と色々あってね家にいるのが辛くなったんだ。それで逃げるみたいに走ってどこだからわからないけど今地面に座ってる」

 

「どこだか分からないって……帰る時はどうするの?」

 

「わかんない……」

 

 電話越しでも咲希ちゃんが元気がないのは分かる。喋るのも辛そうなのに無理をして僕との会話を続けている、それはまるで僕と話している事が唯一彼女の世界と繋がっているかのようだった。

 

「夜遅い時間に女の子が一人でいるのは危ないよ。早く家に帰った方がいい」

 

 僕にできるのは例え気休めだとしても彼女に励ましの言葉をかけてあげる事、それで咲希ちゃんの気持ちが休まるのなら。

 

「ねえ、話を聞いてもらえますか?」

 

「話? 少しだけならいいよ」

 

 電話越しに咲希ちゃんの吐息を感じた、その微妙な距離感が二人の間を一時だけ繋ぐ、季節は春だが夜に外にいるのは寒いだろう。

 

 咲希ちゃんはなかなか喋ろうとしない。よっぽど辛い出来事があったんだろうな、時刻は〇時を過ぎようとしている、僕は電話越しに欠伸をしながら彼女が話をするのを待った。

 

「今更雅也君に縋るなんて図々しいって事はわかってます。だけど、今の私のたった一つの希望はあなただけなの」

 

 いつにも増して神妙な様子を感じ取れた。すぅと息を吸う音が聞こえる

 まだ春は始まったばかり、終わりを迎えたはずの二人の関係──急速に変化する周りの環境は物語を最後の旋律へ誘う。

 過去、現在で奏でられた音符が未来へのメロディーを紡いでいく。

 空白のアルバムのページを埋めるように、譜面に載せられる。



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舞台女優

「あと少しで完成ってとこね」

 

 作りかけの台本の表紙を何度も指でなぞる、冬に起こったたった一度きりの「恋」のドラマ。それを演じるのは自分自身、この恋愛劇に脚本から配役まであたしが全部決めた。

 完成した台本がみんなの手元に渡るまでにはあとちょっと。

 この恋愛ドラマの結末は簡単にしちゃいけない。

 

 この舞台はあたしにとっても重要な意味を持つ。

 普通の男女の恋愛をテーマにして演じたとしてあたしが満足するようなものを作り出せるとは思えない。

 劇場で見た人達を魅了して話題を独占しなくちゃいけない、その為に今までずっと準備をやってきたんだから。

 咲希にどう思われていようとそんなのは関係ない。舞台は大成功させる、決意を胸に抱いて台本を作る作業を再開した。

 

 あの子との友情を捨ててあたしは二人の女の子を演じきる──今まであの子を見てきたんだから性格から細かい仕草ですら真似できる。

 ううん、違うわ、舞台上ではあたしは【浅倉咲希】になる。

 咲希を演じる理由それはあたしが自分で決めたこと──あたしが舞台に立つと見ている人たちはみんな驚いた顔を見せる高校時代一人で男役以外を全て演じたことがある、理由は簡単一緒に演劇の練習をしてた子達に満足させられるような演技をできる子がいなかった。

 学生の舞台でそんなに真剣にやらなくてもっていう反発の声も多かったkれど、あたしはそんな批判の声を自分の演技で黙らせた。

 

「彼女は舞台に上がると別人になる。役を演じているはずなのにどうしてか他の人とは違う、そうだ、完全になりきっているの、キャラクターがどんなものであろうとも完璧な演技で演じ切る」

 

 あたしの舞台を見た人たちは口を揃えてそう言う──相手役の男子生徒と恋人役を演じたら彼はあたし自身の演じた「女」の魅力に取り憑かれてしまった。

 劇場を降りると告白をされる事が多かった、どんな性格でも演じきれるおぞましいまでに高い演技力を持っている自分に自信がある。大学に入った頃演劇サークルの仲間であたしの演技についてこれる子なんていなかった。

 どの子も平凡で退屈な役しか演じられないのに苛立ちを覚えていた。

 

 むしゃくしゃして周りに当たり散らすなんていうみっともない真似だけはしなかったけど、日に日に鬱屈が積もっていくばかり。

 

 たまたまキャンパスを当てもなくぶらぶらと歩いていたときにあの子に出会った。

 

 出会いはほんの偶然で次の演劇の脚本で頭がいっぱいだったあたしは目の前から来る人影にも気づかずにぶつかる。

 

 彼女は体制を崩して尻もちをついたーその様子を見てようやく現実へ引き戻された。

 

「あら、ごめんなさい。怪我はないかしら」

 

 初対面の相手と話す時に心が得ていることは本当の自分じゃない別の誰かを演じると言うこと──あたしが誰かなんて演劇をやるうえではなんの関係もないんだから。

 

「あ、大丈夫です」

 

 立ち上がってパタパタとズボンのゴミを払ったその子はちょっと恥ずかしそうにしてた。

 どうやらブラついていて他の学科の子に出会ったみたい。

 その時はすぐに別れたけれど、どうしてかあたし自身はあの子のことが気になっていた。

 後で知ったことだけど彼女の名前が【浅倉咲希】で人間心理学科に通っている同い年の子だという情報を手に入れた。

 見た目も普通の子で何となくつまらなそうな雰囲気を感じた。

 

 だけどふと聞いたとある事象を知ってからあたしは彼女に興味を持った。

 

 浅倉咲希という女の子は男が嫌いなのかわからないけど今まで彼氏ができたことがないらしい、食堂で彼女と同じ学科の子が話しているのを聞いただけなんだけど、合コンとかに誘っても全然来ないらしい。学科では仲の良い友達はいるのに恋愛の話題に関しては何故か興味がない。

 

 あたしはいつものように偽名を使って彼女の友達から色々な情報を聞き出した、けれど、所詮友人が知っている情報なんて些細なものでこれといって面白そうなものはない。

 

 あたしはしばらく彼女を観察することにした──同じ大学で学部の違う子に会える可能性なんてそこまで高いわけじゃないけどあの子はいつも決まった行動パターンをしていて居場所を突き止めるのは苦労しなかった。

 

「隣いい?」

 

「えっ……?」

 

 たまたま一人でお昼ご飯を食べているところに話しかけた、あたしは彼女の友達に名乗った【久我山明日奈】の名前で自己紹介した。

 初めは警戒してたみたいだったけれど、この間あたしがぶつかった相手だと思い出すとあの時のことを謝り始めた。

 

 それから学部は違うけどあたしは咲希とよく一緒にいることが増えた。もちろんあたしが演劇サークルに所属しているのは内緒にしてあくまでも【久我山明日奈】として接した。

 

 大学一年のクリスマス。周りの人たちは浮かれムードでクリスマスの予定を話していた。あたしはそんなひとたちを軽蔑した目で見つめてた。

 

 クリスマスに予定を作るなんて子どもの頃だけで大学生にもなって大騒ぎするようなイベントじゃない。

 

 咲希から予定を聞かれた時にぼんやりとしか返事をしなかったけどあの子はクリスマスに特に予定が無い。同じ学部の子達が街へ繰り出す中あたしは咲希と二人で女だけのクリスマスを過ごしていた。

 

 咄嗟に恋愛の話題を振ったときにいつもと違う顔を見せたのを見逃さない。これまで恋愛に興味ないって言ってた子があんな顔をするんだろうか? 

 あたしは疑問に感じて探りを入れてみる。咲希と同じ高校に通う友達は大学にいないけど、何とか彼女の秘密を知ることができたら──

 

 ──なんのためって? それはあたしが「浅倉咲希」を演じる為よ。

 思い返せば高校時代も今も演じているのは誰かが生み出したキャラクターで現実にいる人をモデルにした事なんて一度もない。

 フィクションの演技がもしも現実で起こった出来事をなぞったら見た人はどんなリアクションを取るのか気になった。

 あたし自身が満足するような舞台を作り上げる為に準備を進めていった。

 

 咲希と四年間同じ大学へ通って卒業も彼女が東京で働くのを知ってからあたしも東京の劇団に入団してお芝居を続けた。

 まあ、本当に働いているところはあの子に教えていない。

 ずっと咲希を見てきたあたしなら彼女を演じきれる自身があった。

 劇団の主役を任されるようになってからも納得がいくようものは作れないジレンマに悩まされていた。

 三年働いた頃に団長からあたしが企画した舞台を上映するといった話をもらった。すぐに準備に取り掛かる。そして現実に起こった出来事を劇に流し込むというアイデアはすぐに思いついた。

 ついに迎えたチャンスを待っていたかのようにあたしの周りでは幸運が続いた。

 

 今まで咲希と友達として接してきたけど、彼女の心情に変化が生まれたのに気づいた。

 そう、二十五歳の冬あの子は思いだけないイベントに遭遇する。

 昔、咲希を好きだった男と偶然にも<再会>した。

 まるでこの時を待っていたかのように二人の仲は急激な変化の波が訪れる。

 あの咲希が「恋」をしたという、大学時代あたしが合コンに誘っても来なかったあの子が人を好きになるなんて。

 

 彼から貰った白銀のネックレス──それがずっと頑なだった咲希心を変えた。

 初めての「恋」これまで恋愛経験の無い咲希がどんな風になるのか期待が膨らんだ。

 あたしもこの話題を取り入れて劇を作ろうと思った。

 

「恋」をしてからの咲希はこれまでの彼女が嘘かのようにいつも不安な気持ちで一杯だった。

 あたしに昔の事を話してくれた、咲希が好意を持った相手は中学生の頃自分へ告白した相手で高校生になってからは一度も会わなかった同級生。

 しかも咲希自身が彼からの告白の手紙に酷い返事をしたらしくてそれを後悔してた。

 彼からプレゼントされたネックレスに込められた愛情と意味を知って咲希はようやく自分の恋心に気づいた、十年間ずっと温められて来た感情は昂りを迎える。

 恋愛をするのにかかった年月がそれだけ彼女を不安にさせる。

 片思いされていた側から片思いする方へ変わる──やっと女の子らしい一面を見せてくれた。

【浅倉咲希】を演じる上で必要なポイントは全部揃えた、あとはこの冬を背景にした恋愛劇が完成するのを待つだけ。



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この想いを君へ届けよう

「湊ちゃんに伝えておかないといけないことあるんだよね」

 

 LINEのトークから僕は彼女へメッセージを送った。咲希ちゃんから聞いた内容を湊ちゃんにも教えておこうと考えたからだ。

 咲希ちゃんの友人の久我山さんはとんでもない計画を立てていた。僕らの「恋」をテーマにした演劇を上映するらしい、彼女が今まで咲希ちゃんと友達として接してきたのは全部その為の行動で【久我山明日奈】って言う名前も本当の名前じゃないらしい。

 ずっと信じていた友達から聞かされた事実に咲希ちゃんは胸を痛めた、心の拠り所を失っても少しでも現実にいたかったのか唯一の希望である僕に連絡して来た。

 都合が良いと思えばそれまでなんだろうけど彼女が落ち着くまでは何も言わないでおいた。

 

 今更咲希ちゃんへの気持ちを再確認するだけ無駄だから──僕にはもう恋人がいる、湊ちゃんとの時間を大事にしていきたい。

 

 彼女が例え僕を諦めてくれなくても自分の気持ちには正直でいたい。

 初恋の人と結ばれるのを夢見ていた子どもの頃と今とじゃ状況が違う。

 

 咲希ちゃんは何もかもが遅すぎた──もしも当時の彼女が別の応えを出していたのなら描かれていた未来の結末は変化していただろう。

 

 *

 

「湊ちゃんはまだ会ってないだろうけど、僕はこの間その久我山さんと会ったのは本当に偶然で僕はあの子の事について何も知らなかった」

 

「浅倉さんのお友達なんですね……。その人何を考えてるんだろう。私には理解できません、人の恋愛を舞台にするなんて」

 

「そうだね。あの子が何を思っているのか分からないけど、確実に言えるのは彼女は僕らの関係を知る為に何かアクションを起こすと思う。現に僕と関わって来たのはその一つだろうし」

 

「そうですね、となるとその人はもしかしたら私にも接触して来るかも……」

 

「その可能性は高いだろうね。ただ、久我山さんは湊ちゃんとの直接の繋がりがないからどういう風に来るのかは予想できない。僕の事は咲希ちゃんから聞いて知ってただろうけど、湊ちゃんの存在を確認するのは難しい」

 

 咄嗟に僕は咲希ちゃんが言ってた言葉を思い出した。

 

 ──久我山さんは咲希ちゃんと関わる時もわざわざ偽名を使って別の誰かを「演じて」いた。

 本当の自分を他人には決して見せずにどんな性格でも演じ続ける。舞台女優としての彼女を見たことがないから分からないけれど、彼女には人を惹きつけるような魅力があると思う。

 僕は湊ちゃんと話す中で一抹の不安を感じた──僕の恋人ならきっと大丈夫だろうけど……。

 

 湊ちゃんに辛い思いをさせるわけにはいかない。ずっと僕に片思いしててようやく実った「恋」昔、僕も片思いをしていたから気持ちはよく分かる。

「恋」をするのは一筋縄じゃいかない。恋愛の駆け引きとかそういったものも重要になるんだろうけど、僕は器用じゃないからそういうのはできそうにない。

 ただ、湊ちゃんとこれから先の将来を考えて一緒に過ごしてゆく、そんな細やかな幸せを噛み締めて生きていこう。

 

 まるで十年間の振り返しが来ているかのようだ、これまで何の変化もなかった僕の生活がまるでドラマみたいに目まぐるしく移り変わっていく。

 

 きっかけはあの日、駅で咲希ちゃん(かのじょ)と<再会>してからだ。止まっていた時間の歯車が動き出して機械仕掛けの時計の針の秒針が新しい時刻を刻み始めた。

 

 終わったはずの「恋」がまた始まった。実は咲希ちゃんと結ばれるのをw少しだけ期待してた自分がいたんだ。だけども、十年という時の流れは僕らにはあまりにも長すぎた。

 あの日、手紙での告白の返事を貰った日──当時の事を思い出すと胃が痛くなる……。

 

 僕は彼女にフラれた。初めての「恋」が終わりを告げた日。咲希ちゃんともう一度出会うまでは心の片隅に留めておくだけにして、ずっと忘れていた。

 

 だけれども、こんな自分でも好きだと言ってくれる子が現れる──湊ちゃんは辛かった僕の初恋の記憶を受け入れてくれた。

 

 彼女のおかげでもう一度恋愛をしてみようと前向きな気持ちになれた。十年という間フラれたのを引きずっていた自分の心を解きほぐして貰った。

 最初は仕事先の後輩から始まった関係、同じ時間を共有するうちに僕らの心は寄り添っていった。

 自分では気づかないうちに湊ちゃんに惹かれていたんだろう。純粋で明るくてとってもチャーミングな彼女の笑顔が大好きだ。

 だからこそ、大切にしたいと思える。

 

 

「僕はどんな事があっても迷わないよ。これから先もずっと湊ちゃんを想い続けます。君は僕にまた恋愛をするチャンスをくれた。僕にとっては一番大切な人だから」

 

 真剣に自分の気持ちを伝えてみる、彼女は「はい」としっかりとした返事を返してくれる。その言葉尻にどこか幸福さを滲ませているのが分かった。

 

 これから起こるだろう出来事を警戒しながら僕たちは何度もお互いの気持ちを確かめ合った。

 

 付き合い始めてから二年が経った僕らの関係はゆっくりとだけど二人で思い描いた未来へ着実に進んでいくのだった。僕の想いをのせて君へ届けよう。

 

(ありがとう湊ちゃん)



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彼女と送る日常を愛おしく感じながら

「次の休みの日はどこかに出かけようか、デートだよ。僕は湊ちゃんと過ごせる時間をもっと作りたいと思うし。行きたいところに希望があるのなら教えて」

 

「そうですねー。今度近場にできたコーヒーショップなんてどうですか? 最近インターネットとかでも話題なんですよ! 女性客が多いんですが、男性でも十分寛げる空間だと思いますよ」

 

「なるほど、それは良いね。コーヒーなんて店でちゃんと飲んだことがないや。湊ちゃんはそういった所にはしょっちゅう行くの?」

 

「そうですね、割と行きますよー。料理が美味しいとこはリピートしてますし、コーヒショップで過ごしてからお買い物なんてどうですか?」

 

「良いね。予定は早めに決めておこうか。行き当たりばったりなのが一番良くないからね、コーヒーショップでの食事は僕も楽しみだし、買い物は丁度いい、僕も欲しいものがあったからね」

 

「お店の事とかは調べれば出ると思いますよ。注文もシンプルなのが人気の理由みたいですし」

 

「コーヒショップってさ何か魔法の呪文みたいなのを唱えないとダメなんだと思ってた。女の子はおしゃれな店知っていて羨ましいよ。僕なんか食事ができれば良いやって考えてるし、そこまでこだわったことないかなあ」

 

「そうなんですね、でも雅也さんと前に行った水族館はすごくムードも良かったですよね。あの時は夏帆も一緒だったけど私は十分に楽しむことができました」

 

「そういえばあの時はまだ湊ちゃんと恋人になれるなんて思いもしなかったよ。でも、意識はしてたよ。湊ちゃんはすごく綺麗で僕もドキドキしてた」

 

「私もです。あの時は嬉しくて舞い上がっちゃいそうだったけど、なんとか平常心を保っていたんですよ? 夏帆がいてくれて落ち着いたこともありましたけど。今度また行きたいですよね」

 

「うん。でもチケット取るの大変そうだしなあ。あの後すごく人気の場所になったらしいよ。この間たまたまTwitterのトレンドに上がっているの見たし、チケットは前回よりも取りづらくなるかもね」

 

「それは頑張らないといけないなぁ。私もできるだけやってみますね! 次は二人きりで行きましょう」

 

「恋人になってから行くのだと同じ場所でもまた違った感じなんだろうか? すごく楽しみだよ。湊ちゃんが喜んでくれるなら僕は嬉しい」

 

「雅也さんはいつも私のことを優先してくれるけれど、もっと自分の気持ちとかも考慮して良いんじゃないかな? 私ばかり楽しくても雅也さんがどういう風に感じているのかは気になっちゃいますし」

 

「はは、そうかい。それじゃあ今後はきちんと僕の意見も伝えるように努力するよ、初めてできた恋人だからどうしても君の楽しむ顔が見たいと思って自分の事を蔑ろにしてた気がする」

 

「どっちかが一方的に楽しい想いをするのって違うと思います。嬉しいのや面白いことはお互いに共有するべきです、もちろん考えが合わない時だってあるだろうけど、そうやって少しずつでも相手の事を理解できるようになっていくのが理想じゃないかな?」

 

 

 湊ちゃんはいつだって自分の気持ちに正直だ、そういうところは僕も見習いたいと思う。お互いが気を遣っている関係なんて疲れるだけ、彼女とは色々な時間をシェアしていこう。

 恋愛に関して全力で挑む。その結果は必ず良いものになると信じている。

 デートや食事をする回数が増えていくともっと湊ちゃんを知ることができるだろう。そうやって僕は彼女との将来を真剣に考える。二人だけじゃなく湊ちゃんの家族も大事にしたい、もちろんうちの家族もだ。

 

 誰かを好きになってその人と一生を過ごすのは限られた人生の中でも最高の時間。歳を重ねても初恋の気持ちだけは忘れずにいたい。

 

 ようやく現実に向き合う覚悟ができた。決心がついた、感情が昂る。

 感性が鈍らないうちにアクションを起こさないとな。

 

 湊ちゃんとの会話を終えた僕はもう自分から連絡をすることがないと決めた相手へ電話をかけた。

 

 きちんとしなくちゃいけない。僕の大好きな湊ちゃんの為に今自分ができることは──

 

 ──いつまでも「恋」から逃げ続けていた僕にチャンスを与えてくれたあの子の想いに報いる為に。

 

 物語は最終局面へ向けて本格的に動き出そうとしていた。



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Melody

「もう一度でいいからあなたに会いたい」

 

 咲希ちゃんから受け取ったメッセージを僕は久我山さんと対峙する為の材料にしようと考えていた。

 あの子から彼女へ連絡を取ってもらい僕の方からきちんと気持ちを伝えよう。

 久我山さんの夢見るような物語に付き合う気はさらさら無い。僕はこれからの人生を湊ちゃんと一緒に歩いて行く──だからこそ、僕たちの「恋」の障害になるべき事象は取り除いておかないといけない。

 その為に咲希ちゃんを利用するんて我ながらずる賢いとも思うけれど手段を選んではいられない。

 今まであの子との関係が停滞し続けて来たのは僕の責任でもある。目先の幸せにとらわれて物事の本質を見てなかった。

 心の中でだけ決意をするのはもうやめだ。一旦深呼吸して僕は咲希ちゃんへ電話をかける──どことなく緊張しているけれど、ちゃんと話そう、彼女だって友人に裏切られてショックを受けているはずだから協力してくれるだろう。

 もしもダメならその時は久我山さんの連絡先だけ聞いて後は自分で何とかする。

 呼び出し音が三回なる前にお目当ての相手は電話に出た。

 

 *

 

「電話?」

 

 放り投げているスマホが着信を知らせる、仕事以外で電話をかけてくる相手なんて限られている。うんざりしつつ画面に表示された通知を確認した。

 

【新堂雅也】

 

 彼の名前──私は一度気持ちを落ち着かせてから電話に出る。

 

「もしもし、僕、雅也だけど今話しても大丈夫かな」

 

「うん、大丈夫だよ」

 

 私の唯一の希望。彼の声を聞くだけでちょっぴり元気になれた。スピーカーフォンにしてテーブルの上に携帯を置く。

 

「それなら良かった、あのさ、咲希ちゃんに頼みたいことがあるんだけど」

 

「頼みたい事? 何かな?」

 

 今まで彼が私に頼み事なんてしたことあったかなあ。力になれると思うと何だか嬉しく感じる。

 

「ちょっと言いにくい事なんだけど……。協力して欲しいことがあるんだ」

 

「協力? それって私じゃないとダメなの?」

 

「そうだね。できればで良いんだけど、無理かな?」

 

「ううん、私でも力になれることならいいよ。それで? 協力して欲しいことって何かな?」

 

「うん、実はさー。咲希ちゃんは久我山さんの連絡先って知ってるよね? 僕は彼女に会いたいんだ。今までの事をきちんと話しておこうと思ってる」

 

 雅也君から意外な人物の名前を聞かされた──あの日の出来事以来私は明日奈に会っていない。

 私が知っているあの子が実は全て演技で本当の自分すら見せていなかった。

 友達だと思っていたのに裏切られた。明日奈は私たちの恋物語を舞台にして演技をするらしい。その為に私の事をずっと観察してたなんて……。

 その言葉すら本心なのか分からないけれど、一つ言えるのは彼女にとって私は取るに足らない存在だったってこと。

 それが悔しくて涙が枯れるほどに泣いた──でも、失恋よりは辛くない。好きな人と結ばれない運命の方がもっと残酷で厳しい……。

 

 

「咲希ちゃんも辛いだろうけど僕は決めたんだよ。これ以上恋人を悲しませるわけにもいかないからね。僕がはっきりと自分の意志を伝えて彼女の馬鹿げた舞台劇になんて付き合う気がないって言う」

 

 電話越しからでも雅也君の真剣さを感じ取れた。正直私もあの子に言いたい事はある。だけど決心がつかないでいた。

 

「もしも無理なら連絡先だけ教えてくれたら後は僕一人でなんとかするよ」

 

「私の気持ちもちゃんと考えて答えをいくつか用意してくれてるんだね。本当に優しいね」

 

 この優しさが私に向いていないのが本当に辛くて胸がいたい……。やっぱり私は「恋」を諦める事なんてできない。

 ずっと想い続ける、いつの日か叶う日が来るのを待ってる。

 

 彼の提案を受け入れて私は雅也君と二人で明日奈と会うことにした。携帯からあの子のアドレスへメールを送った。

 正直返信が来るかはわからないけど、ちょっとは良い方向へ進めば良いなぁなんていう淡い期待を抱いて返事を待った。

 

 私が想像していたよりも早く明日奈からの返信は来た。彼女自身舞台を完成させる為に私たちに会う目的があるらしい。

 

 雅也君からの提案だと言うのは黙っておいて私は嫌味の一つでも言ってやろうと思った。すぐに会う約束をして私は再度彼に連絡をする。

 

 本当の【久我山明日奈】がどういうひとなのか興味がある。どんな性格でも演じることのできるあの子がこれまで見せてきた演技は女優賞並み、だけど、そんな筋書き通りにはいかない。

 

 ひとりじゃ勇気が持てないけど、彼がいてくれる。

 

 誰かが認識できる、連続した音の並び──メロディは綺麗な譜面に新しい音符を載せていく。終曲へ向かって激しく情熱的に旋律を奏でていくのでした。



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Variation

「久しぶり、二年ぶりかな」

 

「……そうだね」

 

 会話とは思えないほど短いやり取りを終えた僕らは並んで歩く。いつだろうかあの頃、僕が憧れていた情景。

 咲希ちゃんと一緒に同じ時間を過ごして、どちらかが先に逝ったとしてもお互いを想いあって生き続ける。

 昔の僕がずっと望んでいたこと──中学生でもそんな未来を思い描いていたんだな。

 状況は変わってしまった。もう当時のようにこの子(さきちゃん)に好意を持たない。

 歩くスピードを彼女に合わせて横に並ぶ──照れたように隣ではにかむ咲希ちゃんと目を合わせずに前だけを見続けた。

 この笑顔は僕のものじゃない、いつか彼女が心から好きだと思える相手に向けられるべきだと思う。

 

 二人の間に沈黙が続く──もうあの頃のような関係に戻る事はできない。そう思う度に咲希は胸に締め付けられるような痛みを感じる。

 

 ただの同級生という間柄なら今この瞬間でさえ気兼ねなく会話をして笑い合うそんなささやかな日常を送れるのを夢見ていた。

 

 *

 

「待ち合わせ時間ぴったりだね。そういうとこは相変わらずね」

 

 短い髪が風に揺れた──まるで観客席からステージを見ているような感覚を覚える。

 この子【久我山明日奈】はそれを“意識"せずにやってのける舞台女優。

 独特な空間に引き込まれてしまう。

 

 咲希ちゃんの真っ直ぐな視線が向けられる──ピリピリとした空気に胃が痛くなる……。

 

「咲希と君が一緒なんてね。でも、二人だけなんだ」

 

 表情すら変えずに淡々と言う久我山さんは僕が連れてくるのを期待してた「誰」かの存在を探していた。

 

「正直いまだに明日奈があんなことをしたって信じられないけど、私はずっと友達だと思って接してきた。それは明日奈も同じだって」

 

「あたしの本来の目的を教えてあげてもそう思えるの? あたしはあんたを利用したんだよ。自分の舞台を成功させるために。大学からの付き合いだけど本当に気づかなかいほど鈍感だったとはね」

 

 咲希ちゃんの大学生時代なんて想像も湧かない僕が社会人として色々大変な思いをしている中で彼女達はキャンパスライフを楽しんでいたのかもしれない、高校時代は大学に行ってみたいとも思ったけれど、お金がかかると言うのを理由に断念した……。

 咲希ちゃんは進学校に通っていたし大学へ進学するのは当然の選択肢としてあったんだろうな、僕は高校を卒業してからは外の世界の厳しさを知っていった。

 

 今でも仕事は緊張して吐きそうになる時だってある。普段はそれを見せないように振る舞って入るけれど、無理をしているのには違いない。

 

「君がどう考えて行動したかは知らないけど、それで咲希ちゃんは傷ついた、本当の友達ならそんな酷いことやるのはあんまりじゃないか」

 

「あら、あなたがそれを言う? 咲希が悩んでいる理由の一番の原因なんなのにね、この子が恋愛で四苦八苦するところなんて大学時代じゃ見れなかったから貴重だったよ。あなた達が何を言ったところであたしの決意は揺るがない、この舞台は絶対に成功させるわよ。その為にやれることはやってきたつもりだし、今更辞めさせようとしても無駄だから」

 

「でも役者が一人足りないわね。新堂君の彼女、その子とはまだ会ったことがないから演じる時のイメージが湧かない。それだけが引っかかってる」

 

 久我山さんの意志は固い。僕らが止めるように言ったところで早々に揺らぐようなものじゃない。けれど、これ以上は流石に我慢できない。

 僕はらしくもなく激しい口調で久我山に噛み付いた。まるで動じていない彼女は相変わらずの鉄面皮でこっち出方を伺っている。

 僕らの関係は彼女が想像するような簡単なものじゃない。咲希ちゃんの想いを受け入れないって事、それで苦しんでいたとしても僕が自分で決めたんだ。

 片思いの辛さと切なさを知るべきだと思うから──あの日の自分を思い出す。僕はずっと一人の女の子が好きだった。

 それはもう過去の出来事、今は大切にしたいと思える子がいる。

 

 

「例え君が僕たちの恋愛を演劇にしたとしてそれが成功するとは思えない。何かを犠牲にしてまで得た結果が必ずしも正しいわけじゃないんだ。現に君は咲希ちゃんとの友情を代償にして何か得たものがあったのか?」

 

「それはあたし自身が決める事だね。あなたに何を言われても関係ない。咲希との友情を大事にしてあたしが欲しかったものが手に入るとは限らない、それに、人間皆何かを犠牲にしてるものだよ。自分にとってマイナスな出来事に遭遇しない方が稀でしょう。綺麗事だけじゃ現実は生きていけないのよ」

 

 そうだとしても今まで友達として関係を築いてきたひとに急に裏切られたらどう感じるんだろう? 

 咲希ちゃんは顔にこそ出してはいないけれど、きっとすごく悲しんで苦しい思いをしたに違いない。

 僕にとって彼女は友達だから自分ができる範囲でなら助けてあげたい。

 それで咲希ちゃんの僕への好意が高まったとしても自分自身の本心はもっと心の奥の大事なところにあるのだから。

 

 

「あたしはこの舞台は成功させるつもりだよ。完成したらあなた達にも見せたいわね。まあ、あと一人の人物に関する情報を得ないと不完全燃焼な気もするけど、今日は新堂君が彼女を連れてこなかったのは想定外。着実に準備を進めてたのにそれが崩された。あなたの彼女に会ってどう言う人なのか分かれば演じるのに苦労はしないから」

 

「この舞台を演じれるのはあたしだけ。他の人には絶対に無理だと思うわ。今まで一人で複数の役を演じる事が多かったから何の躊躇いもない、新堂君役の子にはしっかりと演技の指導はやるつもり」

 

「舞台を止めようとしても難しいみたいだね……」

 

「そうね、もう色々と準備は始まっているから今更止めるなんて言うのはできない、変えの原稿を準備するのも大変だしね」

 

「だけど、君の演劇は大成功するとは思えない。だって肝心なものが欠けているんだから」

 

「あら? 演劇の素人のあなたに一体何がわかるのかしら? 言っとくけどあたしはずっとこの道を進んできたのよ、あなたが想像しているようなチープなものじゃない。言葉だけで一体何が評価できるのかしらね。まあ、実際にあたしの舞台を見ればそんなことは言えなくなると思うけど」

 

 そこまでに自信を持っているのか。今日は湊ちゃんをここに連れてこなくて正解だったかもしれない。彼女がどんな風に僕らを演じるにしてもそれはただ【新堂雅也】の表面上をなぞっているに過ぎないのだから。

 他人が誰かを演じるのと本人が直接やるのでは大きな差がある。

 久我山さんはどんな性格でも演じきれるんだろうけどそれを見て僕らをモデルにしている事に気づく人がどれくらいいるかだ。

 他人の目からフィルター越しに見た人物像と実際のイメージがかけ離れていたらそれはただの写身でしかない。

 彼女が言う舞台がどの程度のレベルのものかは計り知れないけれど、彼女は大事な事を見失っている気がする。

 

 僕らの考えは平行線──いくら頼んだところで久我山さんの決心が揺るがないことがわかった。僕と咲希ちゃんは止めるように何度も頼んでみたけど効果はなかった。

 結局大した収穫も得られずに帰る時間になる、僕は咲希ちゃんをマンションまで送り届けて今日の会話を湊ちゃんへ報告した。

 着々と進む恋愛劇の舞台の幕が上がるのを静かに待つしかできないでいた。



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Serenade

 明日奈の件で早めに答えを出そうと動き出す雅也。

 先ずは今まであった事の情報を整理して湊に伝えた。当事者である自分と咲希の関係性についても隠し事のないように伝えた、湊はまだ会った事がない【久我山明日奈】という人物が気がかりだった。

 ようやく報われた湊の初恋──ずっと片思いの相手と結ばれて一安心とは言えず彼女には様々な試練が待ち受けていた。

 恋愛にハードルはつきものだとは言うのだけれど、細やかな日常、穏やかな日々を過ごすのがこんなにもままならないものなんだなと感じる雅也。

 

 何度も篠宮家を訪れる度に今の幸せが偽りのものなんかじゃないと分かる。

 恋人の家族にも温かく向い入れられ湊との将来を真剣に考える。

 幸福な生活を送る為に障害は取り除いておかないといけない。

 

 明日奈なら自分と必ず接触してくるだろうと予測。次に会った時にはっきりと意思表示をしよう。

 

 湊と付き合い始めて二年の月日が流れる東京で新しい年を迎えるのが楽しいと感じる。今まで心の片隅で退屈で窮屈に思えていた都会での日常、それが毎日をきちんと過ごそうと思える。

 

 これもまた彼女のおかげだろうか? 会社で会って夜は電話で細やかな会話を楽しむ。

 恋人ができるとこんなにも充実した生活が送れるんだな。

 

 **

 

 私たちは同じ未来に向かって歩み始めている──彼がうちに来る機会も増えてきて結婚するまでの間の日を指折り数えるばかり、妹の夏帆もお父さんたちもものすごく喜んでくれている。私は家族を持てるっていう希望に胸を躍らせて幸せな時間を好きな人と過ごす。

 

 雅也さんから聞いたある出来事が心の奥に引っかかりはするけれど、彼が自分でケリを付けると話していた時、私にも何かできることあるんじゃないかとも考えた。もう私たちの問題でもある、いつまでも無関係ではいられない、彼は何でも一人で解決しようする、ちょっとは恋人の私を頼ってくれてもいいのになぁ。

 これから先は一筋縄ではいかないかもしれないけど私はずっと雅也さんを支えていこうと思う。

 

 

 奏でられる演奏はそれぞれのパートを主張してメロディを紡いでいく。もう時期終わりを迎えようとしている楽曲はラストスパートへ向けて個々の音を響かせていく、季節が移ろいでも止まることはない、最後にどんな曲が完成するのかはまだわからない……。

 それでも止まるわけにはいかなかった。個人の感情と思いを主なテーマにおく。

 終止符を打つのは誰になるのだろう? 予測もできない。ただ、移り変わっていく日々の中で答えを見つけ出すしかないのだった。



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Recitativo

 一人では解決できそうにない問題に直面した時に人はどんな行動を取るのだろうか? 

 悩み事を解決する為に自分ができる範囲で活動をするものだと思う。

 今までの僕は誰かに頼ることなんてしてこなかった。

 他人と距離を置いてきた自分の性でもあるんだけど……。不安の波に飲み込まれてしまいそうになる時がある。

 僕は一人でずっと考えながらやってきたつもりだけど、それで困る事もなかった。

 けれども今回は事情が違っている、僕だけの力ではどうすることもできない事象に遭遇した。

 今までが些細なトラブルが少なかったと言えば嘘になるけど、ここまで大きな出来事には滅多に会うことはない。

 

 仕事をしていると時々自分は何の為に働いているんだろうと考える──上司からの指摘を真摯に受けているのだけど、小さなミスで萎縮してそれがまた違うミスを呼び込む『負の連鎖』なんていう言葉を聞く機会があるのだけどれも、言い得て妙はフレーズだと感じる。

 どちらかといえば僕は不器用な方だ、それは自分でも自覚しているし、改善しようと頑張ってみているけれどそれが周りに正しい形で伝わっているのかはわからない……。

 ただ直向きに目の前の事に集中する。例えそれで成果が上がられなくても不器用な生き方しかできない僕には他に選ぶような選択肢すら残っていないのだから。

 

 こんな自分でも変わっていこうというきっかけを与えてくれた彼女には感謝している。職場では湊ちゃんの目に僕がどう言うふうに映っているのかは知らないけれども、彼女の良い影響を受けて僕自身も成長する。

 

 だからこそ、いい加減な気持ちは持てない──ふぅと大きく息を吐いて咲希ちゃんに教えてもらった電話番号へ電話する。

 誰かの力を借りてもいい。これは僕たちが解決しなくちゃいけない。

 

「もしもし?」

 

 ようやく繋がった敢えて知らない番号からの電話を取るのを躊躇ったのか久我山さんと通話ができるとうになるまで数秒ほど時間が経過していた。

 

 

「もしもし、これは久我山さんの携帯の番号で良いのかな? 僕は新堂です」

 

「良いわよ。あなたから電話をかけてくるなんてね。それであたしに何か用事?」

 

「一度会って話がしたい。僕一人じゃなく今度は恋人も一緒だ。君がやろうとしている事に僕たちは不快感を覚えている。その事も含めてもう一度話をしよう」

 

「良いわよ。あと一つ聞くけどそこに咲希は呼んでるの?」

 

「いいや……。咲希ちゃんは呼んでいない。僕と恋人だけだよ」

 

「そう、あたしはあの子も呼んで欲しいんだけど。一応咲希も登場人物の一人なわけだし、今どう言う状況なのかも確認しておきたいから」

 

「君が直接に呼び出せば良いんじゃない? 友達なんだろう? だったら遠慮する必要はないと思うんだけど」

 

「あたしあの子と色々あって顔を合わせづらいんだよね……」

 

「わかった咲希ちゃんには僕から連絡しておくよ」

 

 

 久我山さんとの通話を終えた僕はすぐに湊ちゃんへ電話する、これは僕らの問題だから彼女にも付き合ってもらう、次で最後だ、久我山さんに言いたいことは山ほどある。それを言い切って彼女の計画を破綻させよう。

 

「これで最後にしよう」

 

 会う日の予定を決めて僕はもう一度あの子へ連絡を取るのでした。



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Nocturne

 今回の件に関わりのある人物は全員揃った。僕らは会話するような雰囲気じゃ無い事を察してかお互いに何も喋らずに目的地へ向かう。

 

(今日で最後にしよう)

 

 何度も心の中でそう言って僕は改めて気持ちを整理する、いつまでも後回しにしておけない問題、解決するまで時間がかかったかもしれないけれど、僕のこれから先の未来の為に放っておいちゃいけない。

 

 待ち合わせ場所について一度深呼吸──久我山さんはまだ着いていないようだ、スマホで時刻を確認する待ち合わせ時刻よりもと五分程早く着いていた。

 たったの五分と言う短い時間なんだけど僕たちは何も喋らずに彼女が来るのを待つ。

 

 

「みんな先に着いてたんだ。っと言ってもあたしも時間ぴったりだから問題ないはずだけど」

 

 時間丁度にやってきた彼女は僕たちが揃っているのを確認するとちょっと人気の少ない場所へ移動した。

 

「それで、今日は一体何の用があるの? こう見えてあたし暇じゃ無いんだけど、あなた達に付き合うのもこれっきりにしたいわね」

 

 久我山さんの友達だと言うのに咲希ちゃんは何も喋らない、そんな状況を見かねて僕が先に声を出す。

 

「それはこっちのセリフ。君との縁も今日で最後にするつもり、どうして僕たちが集まったのかは分かるだろう? 君がこの間言ってた劇の事だ。あれを辞めてもらおうと伝えに来た」

 

「今更ね、もう舞台の準備は整っているの。新しいものに変えることなんてできないわ。それともあなたが何かアイデアでも出してくれるのかしら? 演劇素人にまともなアイデアが浮かんでくるとは思えないけど、あたしを納得させられるなら聞いてあげるわよ」

 

「アイデアなんかはない。けれど、無理なら実力行使もやむを得ないと思っている。僕らはただ、平穏な日常を過ごしたいだけなんだ。それを邪魔する権利は君にはないはずだ」

 

「実力行使ねー何をするつもりなのかしら?」

 

「それは今日の君の出方次第だ。素直に辞めてくれるなら大事にはならないはずさ」

 

 この話し合いをする前に僕は久我山さんの事を調べた──彼女は舞台に出ているということで見つけるのには苦労しなかったけれども、名前を変えている事が多くて本人かどうかの確認を取るのに手間取った。

 僕が考えている策と呼ぶにはチープな内容かもしれないけど、彼女が所属している劇団に直接乗り込むというものだ、初めからそういう選択を選んでおけば良いんだろうがあくまでも最終的な手段にしておきたかった。

 誰かに迷惑をかけずに事態が終息するのならそれに越したことはない。

【久我山明日奈】と言う人物の社会的評価を下げるというものだ。

 正直こんな卑怯な事をやるのに躊躇いがなかったのか? と言われると胃が痛い……。

 けれども、何か派手なアクションを起こさないと一筋縄にはいかなそうな予感もした。

 

 

「あたしは最高の舞台を目指しているだけ。あなたちにこの気持ちがわかるはずがないと思う、今回の作品はあたしの全てをかけて挑むのだから」

 

 僕らの意見は絶えず平行線、咲希ちゃんも久我山さんに対する不満をぶつけていた、友達に対して酷い言葉を言うのは彼女も辛い事だろう……。

 だけど、いい加減僕らの関係を終わらせる為にもここが正念場だと思う。今まで黙っていた湊ちゃんが急に声を出した。

 

「あの、私は自分がこの場所にいるのが何だか場違いな気がしてならないんですが、それでも、言わせてもらいます。久我山さん>でしたっけ? あなたはそうやって誰も信頼せずに自分だけの意志を突き通してお芝居したって人の心に響とは思えません」

 

「あなたからすれば素人の些細な意見かもしれません。それでも、私にはあなたがやろうとしている事がおかしいと言える勇気があります、誰かを不幸にして作り上げた舞台なんて見る人に感動を与えるのは無理じゃないですか。あなたはなんの為に劇場に立っているのですか?」

 

 湊ちゃんの想いは至ってシンプルなものだ、久我山さん自身が何の目的の為に演じ続けるのか? 今まで本当の自分すら他人に見せてこなかった彼女が作り上げるお芝居が人を魅了するものとなるのだろうか? 

 

 不意をつかれたような顔をして僕らの間に長い沈黙が訪れた。きっと彼女は今までの人生を振り返っているところだろう。

 僕は久我山さんがどう言う人なのかは知らない、彼女が歩んできた人生を理解するきっかけなどない。

 

「誰かの為じゃない、あたしが満足したいから演じ続けるただそれだけの事よ」

 

「本当のあなたはどこにいるのですか? 私の前にいる【久我山明日奈】は女優が演じているだけのひと、自分が何者かすらわからなくなってるんじゃないのかな」

 

「違う! あたしは久我山明日奈それ以外の誰でも無いわ!」

 

 長年演技を続けてきた彼女に今の自分を否定するのは簡単な事じゃない、本当の自分すら見失っている子に良い演劇が作れるとは思えない。

 

「君自身が今まで自分に向き合って来なかったのがこう言う形で現れているのだろう。本当の君は誰なんだい?」

 

「明日奈……。大学からの付き合いだけど貴女は私の前でずっと演技をしてたわけね、それに気づいたのはこの間、ようやく分かった」

 

「何がわかったって言うのよ! 咲希! 勝手な事言わないで」

 

「明日奈は自分と向き合うとこから逃げているだけ、誰かを演じていれば本当の自分と向き合わないで済む。だからその度に名前を変えて心も隠し、本心を悟られないようにしてたんだ。だけどね、いつまでもそのままじゃいられない、辛い事や悲しい事と向き合っていかなくちゃいけないの、私だってそう……」

 

 一瞬だけ僕に視線を送ると辛そうな表情すら見せずに久我山さんに感情を爆破させる。

 咲希ちゃんだって辛い経験をしたんだろうな、僕は口を挟まずに黙って彼女の言葉の一つ一つを聞く。

 

 

「あの時ずっと言いたかった言葉がようやく言える。もう私達に迷惑をかけないで! 貴女に振り回されるのはウンザリだよ」

 

 咲希ちゃんが久我山さんの側にまで寄る──僕には右手が動くのがわかった。

 

 平手打ち。久我山さんは叩かれた箇所を手で抑える、ずっと溜め込んでいた咲希ちゃんの怒りの感情、湊ちゃんと言い争いをしてた時とはまるっきり違う本気の態度。

 

 咲希ちゃんがこんなに怒っているのを僕も見た事がない、まあ確かに彼女がしてきた行いを考慮すると妥当なんだろうけど……。

 

 痛みを知って初めて分かる気持ち──明日奈にとってそれはこれまで体験した事のない感覚だった、本当の自分と向き合う事から避けてきた明日奈に、咲希の想いは本人の予期しない形で伝わる。

 

「もう一度ちゃんと考えてみる。あたしが本当にやりたい事は何なのか? ってね、まさかあなた達に教えられるなんて思わなかった。安心して。もう咲希達を題材に舞台なんてやらないから、あたしはあたしが納得できる形でお芝居を続けていきたい。そしていつかはみんなを感動を与えるような作品を作ってみたい。これから一から始まりね」

 

 まるで憑き物が取れたかのような表情をすると久我山さんはこれまでの事を謝罪した。

 誰かを許すと言うのは心にゆとりのあるひとにしかできない。だから僕は彼女を許そう。隣にいてくれる湊は優しく笑いかけてくれた。この笑顔に報いる為に僕がやるべきことは──

 

 加速する調は譜面にメロディを紡いでいく、そのノクターンは自由で月明かりの照らす窓ぎわに静かな曲を奏でていた。



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Concerto

 ようやくひと段落ついた、思い起こせばこんなに解決までに時間がかかるものなんて思わなかったな。隣を歩いている湊ちゃんに視線を向けると彼女は立つどまる。

 

 

「やっと終わったね、これで穏やかな日を過ごせそうだよ」

 

「そうですね。雅也さんすごく疲れた顔してますよ」

 

「そうかなあ、普段はそういうのは顔に出さないようにしてたつもりなんだけどね、やっぱり湊ちゃんにはわかっちゃうか」

 

 手で顔をゴシゴシと擦り気持ちをリセットした、恋人がいるのにこんな顔を見せるべきじゃない。これで久我山さんとの関係も終わりだ、そしてもう咲希ちゃん(あのこ)とも会うことはないだろう。

 これから僕がやるべきことは見えている──湊ちゃんとの時間を大切にすることだ。

 

「今度の休み空いてる? デートしようか、僕の買い物に付き合って欲しい。それからこの間湊ちゃんが行きたいと言ってたコーヒーショップに行こう。そして次は例の水族館に夏帆ちゃんも連れてまた行こうよ」

 

「そうですね、夏帆も喜ぶと思います。チケット買わなくちゃいけませんね」

 

「次は大丈夫だよ。湊ちゃんの家族とはこれから先もずっと付き合うことになるんだからね、だから僕は少しでも長い間君と一緒にいたい」

 

「あのさ、聞いて欲しいことがあるんだけど良いかな?」

 

 二人の間に流れる風は静かな空気を運んでくる──雅也はあの日の想いをもう一度甦らせながら湊をある場所へ連れて行った。

 

 **

 

 

「どこへ行くんですか?」

 

「とっておきの場所」

 

 僕は彼女の手を引いてとあるビルの中に入る。

 

「今日予約したものですが、新堂と言います」

 

「新堂様、ですね、こちらへどうぞ」

 

 頭に? マークを浮かべる湊ちゃんの手を引いて僕らはとっびきりおしゃれな雰囲気のレストランの席に座る。

 こういうところに来るのは初めてだから緊張する……。

 

「さ、座って。まずは何か食べようか?」

 

 メニューに書いてある料理はどれも聞いたことがないものだかりだ、ここへ来る前にネットでおすすめのコースを調べておいた。僕はボーイさんを呼んで二人分のコース料理を注文する。

 

「今日の事が片付いたら伝えるつもりだったんだ」

 

 湊ちゃんは僕の言葉を真剣に聞いてくれる、メロウな音楽が流れている店内はとてもいい感じの雰囲気だった。

 

(よしっと!)

 

 僕は気持ちを切り替えて今日のために準備しておいたプレゼントを取り出した。

 

「これ、湊ちゃんに」

 

「私にですか? 何だろう」

 

 不思議そうな顔する彼女はラッピングされた髪を剥がしていく。

 

「小さな箱? 何が入ってるのんだろう?」

 

「開けてみて」

 

 僕がそういうとゆっくりと箱をあける──

 

「──これって指輪……ですか」

 

「それだけじゃないんだよ。実はこれも渡そうと思っておいたんだ」

 

 僕は以前訪れた事があるアクセサリーショップで綺麗なネックレスを買っておいた、昔、咲希ちゃんに上げたやつとは意味合いが違っている。

 

 ネックレスを受け取り指輪の箱をじっとみている湊ちゃんに僕は言葉を送る。

 

「篠宮湊さん」

 

「はい!」

 

 急に名前を呼ばれて背筋を伸ばす湊ちゃん──その真面目さに僕は微笑んで彼女を見つめて今まで何度も練習してきた言葉を送る。

 

「僕と、結婚してもらえますか?」

 

「えっ……?」

 

 突然の事に情報が整理できていないのか湊ちゃんは固まってしまう。数秒間二人の間に沈黙が流れる。もしも断れたらどうしよう? なんて言う不安な気持ちがないと言えば嘘になる。

 僕は彼女が喋るまで何も言わないでおいた、すると湊ちゃんの目から涙がぽたぽたと落ちる。

 

「ごめん。泣かせるつもりはなかったんだ。大丈夫」

 

 あたふたしながら席を立とうとすると──

 

「大丈夫です。これは嬉しくて泣いているんです。だって私は雅也さんのことがずっと好きで恋人になれて満足してました、だけど、将来の事とか真剣に考えてるうちに不安に思うこともあったんです。私に幸せな家庭を作れるのかなって」

 

 今まで感じていたこと、心の奥底にある気持ちを吐露する。湊ちゃんはいつでも自分の気持ちよりも他の人を優先してきた、そんな彼女がこうして本心をぶちまけてくれたのは某らの関係が進展したっていうことなんだろう。

 

「私、こんなに幸せで良いのかな? 初恋が叶う可能性って天文学的な数字だって聞いたことがあります。私にとって雅也さんと出会えたこと、そしてあなたと恋人になれたのはそんな数字では計りきれない奇跡だと思う」

 

「もう一度『恋』をしても良いと思えた。そのきっかけをくれたのが湊ちゃんだった。昔の初恋の辛い記憶をいつまでも引きずって前に進めなかった、そんな僕を変えてくれたのが君なんだ」

 

 僕は湊ちゃんの手を握って指輪を嵌めてあげた。綺麗輝く宝石はその混じり気ない美しさで僕の恋人を飾っている。

 

「ありがとう。私、雅也さんに出会えて本当に良かったと思います。私にたくさんの愛をくれて本当に感謝しています」

 

 僕らは見つめ合う──今度は彼女のこの真っ直ぐな瞳から目を逸らさなようにしよう。

 

「……さっきのプロポーズの返事しますね。これからもよろしくお願いします」

 

 

「恋」なんてできないとずっと思っていた。十年前のあの日から僕は自分が誰かと幸せになるって言うのを諦めていたのかもしれない。

 だけど、今は違う、目の前にいる彼女と共に未来を作っていくんだ。

 今までいつまでも心に残っていた記憶とさよならできる。

 

(湊ちゃん、本当にありがとう。何度感謝してもしきれない、君に出会えたことが僕の奇跡だ)

 

 ゆったりと流れる時間を共有しながらこれから先思い描く二人の未来に祝福をあげた。



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Harmony

 緩やかなに流れる時の中で僕の隣で微笑む彼女の耳元で囁く。

 

「今日は一緒に過ごそうね。時間ならたっぷりあるから」

 

 湊ちゃんと付き合う様になってから休日は彼女と過ごす時間が殆どだ。ファミレスに入って料理を食べている時も細やかな会話を続ける、その一瞬一瞬が僕にとってはかけがえのない時間だし、何よりも恋人といるとどんな場所にいても心が安らぐ。

 

「これからゆっくりと買い物を楽しんでその後はどこかで食事でもしようか? 湊ちゃんは何か食べたいものってある?」

「だったらこのお店に行きませんか? 実は今日のデートの前に調べててずっと気になってたんです!」

「どれどれ? へえー、本格和食かー。良いね。僕は和食も好きだし行ってみようか」

 

 湊ちゃんがスマホに移したお店のホームページを見せてくれた、どうやら駅近くにできた日本食の料理店で本格的な和食に僕が好きな定食とかのメニューも充実している。お酒も提供しているみたいで種類も豊富で価格もお手頃、給料日前で財布が軽い僕にとっては願ってもないことだ。

 

 湊ちゃんと手を繋いで歩く──冷え切った指先に伝わる熱、ほんのりと頬を染めている彼女に僕は笑顔を返してペースを合わせる。

 

 雪がちらつくほどじゃないけれど、相変わらずの寒さだ、通り過ぎた人の中にはぶるっと肩を震わせて歩いている人もいる、僕はどちらかといえば寒いのは得意な方だからあまり辛くはない。辛くは無いんだけど、外を吹く風が冷たくてほっぺがピリピリしてくる……。

 

「……寒い」

 

 湊ちゃんはぶるっと体を振るわせると立ち止まって街の街頭に目線を移す。僕は「風邪引かない様にね」と言って自分が羽織っていたジャンパーを脱いで彼女に着せた。

 

「雅也さん、寒く無いんですか?」

「風が冷たくてちょっときついけど平気かな。湊ちゃんとこうしていると凄くあったかいし」

 

 僕は彼女の体を自分の方へ引き寄せてぎゅっと抱きしめる。『もぅ』と口を尖らせても嫌がる素振りを見せずに受け入れてくれる湊ちゃん。

 

 すっかり冬を迎えた東京はいつだって忙しそうに時が流れていく。

 

 ──田舎では感じることのできないスピードの速さに最初のうちは慣れるまでに時間がかかったっけ。昔の事を思い出すとあまり良い記憶は無い……。

 上京してからは就職活動で慌ただしくてどこかに遊びにいくなんていうイベントとは縁遠い生活を送っていた。

 就職しても毎日覚えることが多くて仕事をなんとかこなすのが精一杯でプライベートな時間なんて取る暇もなかった。

 だけどここ最近はようやく落ち着いて来たかな? 一度しかない人生だ、もっと自分の好きに生きるのが良いのかもしれない。

 

「雅也さんが楽しいと思ってくれるなら私はいつでもお付き合いしますよ」

「僕だけが楽しいんじゃ意味がない。湊ちゃんも同じ気持ちじゃないとどっちか片方が一方通行な想いなんて好きじゃない」

 

 彼女とはお互いの気持ちを尊重し合ってやっていこうと思っている。喧嘩をすることだってあるだろうけど、時にはそれが良いスパイスになる。そうやってぶつかり合ってもいい、時にはきもちがすれちがうことだってあるだろうけど、それで別れるほど僕らの関係は浅いものじゃない。

 

 “恋”をするきっかけをくれた子【篠宮湊】ちゃん。

 

 ──僕にとって彼女は家族と同じくらい大切な存在、なんて言うのを直接伝えるのは照れくさいから遠回しな言い方をするんだけど、湊ちゃんはちゃんとわかっているみたいだ。

 

「また考え事してたんですか? 雅也さんって考え事してる時は口数が少なくなるのですぐにわかりますよ」

「──ホント、叶わないなあ湊ちゃんには」

 

 全部お見通しってわけね、まあ、良いけど。付き合い始めた頃から変わらない僕の好きな人、心のメモリーに湊ちゃんとの思い出を刻み込みながらゆっくりと流れるハーモニーに耳を傾けた。

 

「今日は何だか普段よりも湊ちゃんが眩しく見えるよ」

「何ですか? それ? 私特に変わりないですよー」

 

 微笑む湊ちゃんの手をもう一度握って僕は今目の前にある幸せを心から感じていた。



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Finale

湊との結婚式を控えている雅也は恋人との時間を増やしていく
将来に希望を抱きながらいつもと変わらない道を歩く。
繋がれた手を優しく握り返しながらささやかなに過ぎていく日常。
二人の未来は眩しい程に明るく照らされる。
今年もまたあの日のように冬がやってくるのだった。


「それじゃあ行こうか」

 

「うん。そう言えばもう少しで雅也さんの誕生日だね。今年も一緒にお祝いしようね」

 

「そうだね。誕生日をちゃんと祝ってもらえるのなんて子どもの時までと思っていたけれど、今は違う。湊ちゃんがいてくれるし、何よりも毎日が楽しいと感じてるよ」

 

 恋人と共に家を出て駅までの道を歩く──もうすぐ僕は誕生日を迎える。歳をとるなんて大人になってからは億劫で日に日に老けていくのを感じると子どもの頃は毎日成長する自分の姿にワクワクとしたのを思い出す。

 

 冬を迎える度にあの日の事が鮮明に蘇る。駅であの子と<再会>した事、僕の初恋の人で小学生の時の同級生、彼女を好きになって誰かを想う気持ちの辛さや片思いのもどかしさを知るきっかけになった。

 東京は僕が来てからも毎日変わらない。朝の満員電車に仕事へ急ぐ人たちの慌ただしさ、そんな風景にいつのまにか馴染んでしまい、当たり前のように感じる。

 

 もうじき結婚式を迎える僕らはお互いに過ごす時間がかけがえのないものだと共通の認識を持つようになる。

 

 式の会場選びから招待状の制作まで二人で共同作業で頑張った。一緒になってからは夫婦二人で暮らす準備を進めていて新居にはちょっとずつだけれども家具や荷物が揃い出している。

 決して広いとは言えないマンションの部屋を借りて暮らし始める。将来子どもができたらもっとちゃんとした物件に引っ越さなきゃいけないな。

 まだまだ先のことだろうけどそう遠くない未来──自分が結婚をできるなんて思わなかった、こんな自分でも好きでいてくれる子がいる。それが最高に嬉しい。

 幸せな時間が長く続けていけるように頑張らないといけないな。東京で迎える何度目かの冬、今年は例年とは違った年になりそうだ。

 少しずつだけれど未来に向かっている──これから先の人生に色々な困難が待っているかもしれないけどきっと悪い事ばかりじゃないだろう。

 むしろ真逆で湊ちゃんと暮らせることに子どもの頃みたいなワクワクとした昂揚感を覚えている。

 いつ頃からだっただろうか? そう言う感情を無くしてしまったのは。大人になると日々の生活がルーチンワークみたいに進んでいって気がついたらそれが当たり前に感じて、新鮮味に欠ける。

 

 時間が過ぎるのが早く感じるのだって子どもの時は毎日色んな発見があってその日その日を楽しんでいてきた。成長するにつれてそういった気持ちが薄れていってしまう。

 

 

 **

 

「雅也さん。今日はね今までずっと伝えたかった私の気持ちを言うね」

 

「こんな私を好きでいてくれてありがとう。運命の出逢いってファンタジーの世界だけのものだと思ってた、けれど、あなたと会えなかった自分を想像するとね、毎日代わり映えのない生活を送っていたと思う。それが幸せなら良いんだけど雅也さんとお付き合いするようになってからこんなにも恵まれているんだなって感じたことはありませんでした」

 

「私はね、こうやってあなたの側にいられて本当に嬉しいの、気持ちが昂っているの、こんなにも好きになれる人と出逢ってそれから同じ時間を共有する、二人で人生を歩き始めてたったそれだけのことだけど一番の幸せに感じるんだ」

 

 彼女の言葉を聞いて僕はスッと手を繋いだ──ギュッと繋がれた手、この手を離しちゃいけない。初めて「恋」をした季節、あの頃の気持ちをもう一回思い出してみよう。隣で微笑んでいる僕の彼女、そんな笑顔につられて自然と笑みが溢れた。

 冬の空の下、肩を寄せ合って歩く──今日の予定を話しながら電車に乗る、周りの風景は何一つ変わらないはずなのにな。

 

「……?」

 

「どうしたの?」

 

「いいや、何でもない。多分気のせいだと思うから」

 

 一瞬だけあの子とすれ違った気がした──僕の初恋の人、あれから彼女とは会っていない。義之君も気を遣っているのか咲希ちゃんの話題は出さないようにしているし、事実、僕自身もつい今さっきまで忘れていた。

 あの子と恋人になってたら違った未来があったんだろうなあ。けれども、それは僕にはもう縁の無い話だ、今は湊ちゃんが僕の彼女なのだから。

 

 もしも、あの時の告白が上手くいっていたら──なんていうのを考えるのはもう辞めたんだ、いつまでも初恋の苦い記憶を引きずってちゃいけない、僕には湊ちゃんとの未来があるのだから。彼女の為に生きていこうと決めたから。

 

 

 一瞬通り過ぎた影は立ち止まる──それは気のせいではない。たまたまではあるのだが、咲希とすれ違った。咲希は今でも雅也への想いを捨てきれないでいる、今度中学の同窓会があるらしいのだけど、参加を渋っていた、その場で雅也と“再会”した時の気まずさでいたたまれなくなるからだ。

 雅也とは違い咲希は過去を振り返っていた。時が巻き戻せるのならやり直したい、あの時の彼からの告白の返事に応えていたのなら、悔やんでも悔やみきれない、幸せになるチャンスを逃してしまった。

 

 雅也の隣にいて笑い合う時間、もしかしたらあの場所に自分がいたかもしれないなんて考えると泣けてくる……。自分自身の想いはあの頃とは変わったはずなのに周りは変化すらない、ふと目に入る看板に映る女優は明日奈が演じているものだった、彼らの「恋愛劇」をモデルした舞台は最後の役のイメージが決まらずに別のものにすり替わったと聞いている。

 明日奈はその舞台で成功を収めたのだが、彼女自身は納得してはいなかった。咲希との友情関係は破綻してしまいこれから先、彼女を満足させるようなイベントが起こりそうにない。

 

 咲希と雅也はそれぞれが違う道へ進んでいく。お互いが干渉する事が無い時間軸で月日は流れる。

 そしてもう何度目かの一月十日を迎えた──咲希と雅也が“再会”した駅のホームでは今日もたくさんの人たちが電車を待っていた。あの時落としたハンカチを身につけて過ぎ去る日々を感じながら「初恋」の忘れることができない想いを抱いたままの咲希は電車を待つのでした。




今までこの作品を読んで頂きありがとうございました!
皆さんのおかげで連載から二年あまり、遂に最終回を迎える事ができました。
連載開始当初、最後まで物語を描き続けられるのかという気持ちもあった反面自分のペースで投稿して、更新するたびに少しずつではありますが充実感を覚えました。

長編小説かと言えば微妙な話数になるかもしれないですが、それでもストーリーを完結させた自分を褒めてあげようと思う。

感想を書いてくれた方、お気に入りに登録してくれた人、色んな人に支えられてやり遂げることができ、本当に感謝の気持ちで一杯です。

この作品は完結しますが、別の作品でまた皆さんと出会えるのを楽しみにしています。

それではまたお会いしましょう!


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