袁本初の華麗なる幸せ家族計画 (にゃあたいぷ。)
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雌伏編
壱.六歳


読み返して面白くない、と思ったので書き直しました
なので初投稿です


 (わたし)(みやび)には不思議な記憶がある。

 縦長の四角い建造物が建ち並ぶ街中、喉奥を枯らせるような汚れた空気、自然音はほとんどせず、雑踏が耳に煩くて仕方ない。車と呼ばれるものが道路を走り、人は道路の端へと追いやられている。

 今の時代と比べると驚くほどに発展した世界、その中でも顔を上げているものは少なかった。誰も彼もが不承面をしており、笑顔なのは店の出先で客寄せをしている者くらいなものだった。いやまあ仲睦まじい男女がいるような場所に赴けば、本物の笑顔を見ることもできるが、そういう者は少数派だ。それに見ていて面白いものでもない。顔を俯けている者が数多く、誰も彼もが溜息を零していた。

 そんな数ある人物の一人に、私――私であって私ではない誰かがいた。

 

 記憶の中にいる誰かはよく誰かに叱られていた。

 決して手際が良いとは言えず、むしろ鈍臭いと呼ばれる類の人間であった。そのため常に肩身の狭い思いをしており、口数は少なくて何時もなにかに怯えている。

 口癖は、死にたい、だった。

 今すぐにでも死んでしまいたかったが、死にたいと思うだけでは死ねないと彼女は考えている。

 人は生きるという意思がなくとも生きることはできるが、死のうと思って死ねるようにはできていない。死ぬには理由がいる、自殺するのは死ぬという意思ではなくて、生きていても仕方ないという諦めからできる行為である。電車の線路に飛び込むのも、強い意思ではなくて、ふとした拍子にトンッと飛び降りてしまうような発作的なものである。

 意思が介在していないものは、もう事故のようなものだ。人は理由もなく死ぬことはできない、できるのは精々事故が起きる可能性を高めることくらいなものだった。

 注意散漫、スマートフォンを片手に弄りながら歩くことで事故が起こる可能性を高める。駅のホームでは運悪く、いや、運良くふとした拍子に死ねるように目の前の線路をじっと見つめ続けている。そして、電車が通り過ぎる度に自分の肉片が細切れのスプラッタになることを夢想した。

 死ぬには良い日か、そんな日はない。何時でも死ぬには都合が悪い、そういう風に世の中はできている。誰かの迷惑なんて考えていれば、きっと何時まで経っても死ぬことなんてできない。

 それでも三日もあれば、一回くらいは全てがどうでもよくなる瞬間がある。その瞬間に線路の前に立っていたり、屋上付近で休んでいるかどうかなんて運だった。運といえば、生まれてこの方、運が良かったと思うことはほとんどない。よくある漫画のようにこの手札がくれば逆転という場面で一度も引いたことがないし、馬券やパチンコに手を出せば、必ずと言っても良いほどに負け越している。人間関係も良いとは言えず、恩師と呼べる人物はおらず、学生の頃の友人はおしなべて連絡が取れなくなっていた。

 まあ人当たりが良いとは思っていない、と彼女は自嘲する。

 こんな陰鬱とした性格をしているし、自他共に認めるつまらない人間だった。通信簿では常に真面目で優しい、という言葉が挙げられる。親からも同じことを言われて褒められてきた。その真意を知っている、特に印象に残らない、褒めるべき点のない奴に告げる言葉であると知っている。

 強いて挙げるならば、悪運が強いと言える。言葉通り、悪い意味での運である。何度か死ぬ思いをしたことはある、車に撥ねられそうになったり、スキーで森の中に突っ込んでみたり、登山で崖から転がり落ちそうになったりしていた。しかし、常に死ぬことを意識してきたせいか、そういう時に限って、咄嗟に手を伸ばしてしまうのである。勝手に足が動いた。そして何時でも辛うじて生き残った。間近に感じた死の気配、息を荒くした体で生を実感して、まだ生きているのか、と思うと同時に心が急に冷めるのを自覚する。

 こういう時に限って運が良い、いや、死にたいと思っているのに死ねる機会を悉く潰しているのだから運が悪いと言える。

 どうにも自分は死ぬことに対しても鈍臭いようだ。

 

 今日もまた生きなくてはならないのか、と何時ものように自らの運命に嘆いている時だ。

 道路の脇に毛むくじゃらの何かが落ちているのを見つける。定期的に見かけるものであるが、これの正体を知ったことはない。なにかのゴミだと思うが、何がどうなって、こうなってしまったのか分からなかった。なんとなく年季の入ったもので風化していることはわかる。

 そんな時、ふと目の前を過ぎった黒猫が、チリンと首輪の鈴を鳴らして道路へと飛び出した。綺麗だな、と思った瞬間にトラックが飛び込んでくる。それを見た時、目の前でスプラッタする黒猫の姿が脳裏に過ぎる。タイヤに胴体を潰されて、口から肉を吐き出しながら目玉を飛び出させる黒猫の姿、そして道端に置かれたまま誰にも拾われずに風化する。

 自分は決して優しいわけではない、真面目というのは少しあっている。

 

 間に合うと思った、だから道路に飛び出した。

 

 馬鹿なことをしていると思う、しかし、そう教育したのは両親と世の中だ。

 目の前の悲劇を無視することはできない、犯罪に手を出すこともできない。誰もいない横断歩道で信号を無視することすらできなかった。基本的に後ろめたいと思うことができず、後味が悪いと思うことができなかった。道徳と倫理に縛られ続けて、思うように生きられないことに不自由さを覚える。世の中は自由を謳歌している者ほど、面白可笑しく生きられるようにできている。ただ単に好き勝手に生きるのではない。自分のために生きられるかどうかなのだ。

 他人のために生きることを美徳とする世の中なんて糞食らえだ、それができる人間は此処では一握りだ。気付いた時には手遅れだ、もっと遊んでおけばよかったと若者相手に憧憬する。それでも生きる目的のようなものを見つけられる人間はまだ幸せだ、それだけでも生きることを苦痛に思わずに済むのだから。

 自分のために生きる、それができない人間が今の世の中に生きる価値を見出せないのは当然だった。

 そんな考えだから自分の命の価値は限りなく低かった。

 

 極論、間に合わなくても良かった。

 黒猫の時は微動だにしなかったトラックが急ブレーキを掛ける、飛び出した私の足だけを巻き込んで大きく横に逸れていった。私は地面に転がり、肌と衣服を傷つけながら黒猫の側まで辿り着いた。ああ、また生き残ってしまったようだよ、とその場に立ち尽くした黒猫を見つめながら苦笑する。

 その時、トラックの影が動いているのが見えた、いや大きくなっている。気配で分かった、トラックが横転しようとしている。脇目も振らずに駆け出せば、間に合うかもしれない。片足が骨折していても間に合う距離と時間だった。

 チリンと鈴が鳴った。

 

 そうだね、君がいたよ――黒猫を抱えるとそのまま放り投げた。

 

 君には君を待っている者がいる。

 私にも待っている家族がいるかも知れないが、まあ私如きがいなくなったところでどうとでもなる。でもきっと君がいなくなるとずっと悲しむ人がいるはずだ、何故ならば君はとても綺麗で美しい。可愛がられているのがよく分かる。

 黒猫がストンと優雅に着地する。

 振り返って、その綺麗な瞳を私に向けた時、ほっと一息を零した。

 やっと死ねるよ、と。

 

 視界がトラックの影に押し潰される。

 

 彼女の記憶はそこで途切れている。

 真っ白な空間、私は寝台の端に腰を下ろしていた。此処が夢の世界だということはなんとなくわかった。

 暫く、ぼうっとしていると眼鏡をかけた大人の女性が私の前に姿を現した。彼女は周囲を不思議そうに見渡しながら歩き寄り、無言で私の前に立ち止まった。彼女は黙り込んだまま私のことを見つめると「これってなんて罰ゲーム?」とうんざりするように吐き捨てる。

 それから彼女は私の前に座り込むと、微笑みかけながら私の頭をぎこちない手付きで撫で始める。

 

「君は君の好きなように生きれば良いから、私なんかよりも良い生き方できるよ。それだけは保証できる」

 

 柔らかい声色、優しそうな笑顔を向けられる。

 でも本能的に彼女が私のことなんか興味を持っていないことがわかってしまった。彼女は誰も愛していない、愛されるということも分かっていない。どうでも良いって思っているから、誰にでも優しいし、優しさを向ける相手を選んだりすることはない。本当の意味で大切に想う相手はいない、だから彼女が自分を大切にすることもない。

 その中でも救いがないのは、彼女自身が自分の本質について理解しており、それを受け入れてしまっていることだ。

 なんて悲しくて寂しい人なのだろうか。

 親姉妹ですらもどうでも良いと思える感性は超人的だ、きっと自らが産んだ子供にすら興味を持てないに違いない。

 それを理解しているからこそ、彼女は誰かと結婚したいと考えていなかった。

 彼女は自分では誰も幸せにできない、と理解している。

 

「私はもう死んだ人間だから、君はまだ生きている人間だから」

 

 起きる時間だよ、と彼女が額に口付けする。

 

 目覚めた時、全身が汗だくで気持ち悪かった。

 これは私が四歳の時に見た夢であり、彼女の記憶と知識は今も私の中に残っている。しかし彼女の意識が私を侵食することはない、なんとなしに分かる。もう彼女は私の中にはいなかった。

 頰を触ると涙を流していた、理由はよくわからない。でも忘れられない人だった。

 

 彼女は誰も愛せなかった。

 誰も救えないと思っていた。

 救われたいと望んでも、救われるとは思っていなかった。

 彼女は救われることを最初から諦めていた。

 そして死にたい、と。ただ死にたい、と。

 死ぬ理由を求めて、人生を彷徨い続ける。

 そのような生き方を私にはできない。

 幸せを求めずには生きられない。

 

 彼女の記憶が正しければ今は後漢末期、

 家は農家。近頃は様々な災害が折り重なり、飢饉が相次いでいる。

 当時から病弱だった私は口減らしのために家から追い出されることになった。当初、奴隷として売り出されることが検討されていたことを私は知っている。このまま最後の親孝行として自身と引き換えに家族に金を入れることも考えたが、少し経った後に誰かを幸せにする前に私自身が幸せにならなくてはいけないと考え直した。

 自分すら愛せない者に誰かを愛することはできない、そのことは誰かの記憶が証明してくれている。自分すらも幸せにできない者が誰かを幸せにすることを考えるのは烏滸がましいと教えてくれた。

 だから私は家から逃げ出した。

 独りでも生きるために、私が幸せになるために、深夜に寝台から抜け出して、家を飛び出してやった。

 私は私の為に生きる、その大切さを彼女は教えてくれたのだ。

 

 これから先、もしどこかで彼女と出会うことができれば、

 私は私の為に生きて、幸せになったぞ! と満点のドヤ顔で教えてやるのだ。

 そして、貴方の知識と記憶があったからだと付け加えるのだ。

 

 それはきっと途方もなく気分が良いに違いない。




目標、納得いくできになったら投稿。


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弐.七歳

 今は数え年で七歳、

 私、(みやび)は自称人物批評家の下で使いっ走りをしていた。

 主な役割は御主人様の身の回りの世話になる。新しく仕入れた茶葉を使って、沸かした湯を急須に注ぎ入れる。この時代、天の知識によると茶葉は庶民が手を付けられない高級品らしいが、この世界での茶葉は安くはないが庶民の手が届かない程でもない嗜好品である。時間にすると五十秒強、急須を傾けて、白い湯気と共に薄い緑色の液体を湯呑みに注ぎいれる。

 周囲が心が落ち着くような心地よい香りに包まれて、ほんわかした気分で盆を両手に早足で御師匠様の部屋へと向かった。

 

「茶が入りました」

 

 と扉の前で声を上げると、入りなさい、と落ち着いた声が扉越しに聞こえてくる。

 私が肩で押しながら扉を開くと丸渕眼鏡をかけた大人の女性が出迎えてくれた。頭にはもこもことした鍔付きの帽子を被っており、背中まで届く長い髪は三つ編みに纏められている。なんとなしにおっとりとした雰囲気を持つ彼女は私が御師匠様と呼んでいる人物であり、名は許劭、真名は水卜(みうら)と云った。筆を手に持ち、竹簡を机に並べている姿から筆まめな師匠が知人に御便りを書いていたことがわかる。

 私が机に置く前に御師匠様は直接、盆から湯呑みを手に取って縁に口を付ける。

 

「あなたが淹れる茶はいつも美味しいわね」

 

 師匠はほっこりと微笑み、机の端に湯呑みを置いた。

 

「またお願いするわ」

 

 そして、ばらりと竹簡を盆の上に置かれる。

 分かりました、と私がお辞儀する時にはもう師匠は筆先を硯の墨に浸しているところだった。私は部屋の隅に置かれた小さな机に腰を下ろして、机上に置いといた小箱から桐を取り出して竹簡に穴を開ける。ゴリゴリと削れる音、外からは風が吹く音がする。耳を澄ませると御師匠様の息を吐く音が聴こえた。静かで少し長めの呼吸から集中しているのだと察した私は心持ち分だけ音を静かにして、粛々と竹簡を紐で結ぶ作業に没入する。

 穏やかに時が刻まれる。ずっとこうだったら良いのに、と胸の中で呟いた。

 

 なんとなしに庭に植えられた柿の木に実がなっているのを見て、昔のことを思い返す。

 村から逃げ出したのは今から丁度、一年前のことになるか。あれは冬に入る少し前のことになる。

 孤児となった私は、当てもなく街中を彷徨い歩いていた。そんな時に目に入ったのが庭に植えられていた柿の木であり、極度の空腹に耐えかねていた私は、つい思わず枝になっていた柿に手を付けてしまったのだ。なけなしの良心から美味しく熟れていた柿には手を付けず、あんまり美味しくなさそうなものに手を付ける。齧り付くと渋みが口の中に広がったが、この際、食べられるだけでも御の字だった。そうして渋みに耐えながら丸一個、食べ終えたところで今の御師匠様に見つかり捕らわれてしまった。

 縄に縛られたまま厩に放置されること幾刻か、床に敷かれた藁が気持ち良くて暖かくて……久し振りの雨風を防げて、野獣や暴漢に襲われることもない環境も重なり、うつらうつらと私は眠りこけてしまった。

 次に目覚めた時は布団の中で寝かされていた。ぼーっとする頭、気怠い体、衣服は脱がされている。額から濡れた手拭いが落ちる。

 寝転んだまま、顔を横に向けると背の高い女性が硯で墨を擦っているところだった。

 

「起きましたか?」

 

 手を止めて、ゆっくりと私の方を振り返る。

 落ちた手拭いを拾い上げると、桶に溜めた水に浸して、丁寧な所作で絞り上げる。

 上品な人だと感じた。

 額に置かれた手拭いがヒンヤリとして気持ちよかった。

 

「貴方には聞かなくてはならないことが沢山あります。辛いでしょうが今少し辛抱をしてください」

 

 竹簡に筆を走らせながら、一通りのことを質問される。

 先ずは体の具合のことを訊かれて、柿を盗んだ理由について問われた。あの柿は食えたものではありませんよ、と彼女が苦笑していたのが印象に残り、それから出身の話、今の境遇について問われたところで彼女は重々しく息を零す。定期的に衣服と体を洗っていたから気付かなかったのかもしれない。精々、貧相な農家の子供だと思っていたのだろうか、それが身寄りのない孤児になったのだから彼女が頭を抱えるのも無理もない話だろう。

 話している内に上半身を起こしていた私は、ふらふらと体が左右に揺れ始めていた。渋い顔をした彼女に指先で私の額を小突かれて、コテンと布団に吸い込まれるように倒された。

 もう少し寝ていなさい、何処か疲れた様子を見せる彼女の言葉に甘えて、私は目を伏せる。

 

 過去から現在、

 竹簡を紐で結び付けた私は「他にありますか?」と告げると「今日はそれだけよ」と御師匠様が私の方を向かずに答える。

 では、と私は竹簡を睨みつける師匠を置いて部屋を後にした。

 私室で上着を着込み、襟巻きを首に巻き付ける。師匠お手製の手袋を両手に付けて、モコモコの体で屋敷から出る。天災の重なる昨今、外の活気は著しくない。それでも私がひもじい生活をせずに済んでいるのは師匠のおかげだった。

 大通りにある商店に足を運ぶと、「許劭先生んとこの小娘じゃないか」と笑顔で店主に出迎えてくれる。

 ここは私が贔屓しているお得意先であり、子供相手でも法外な金額を要求してこなかったことから頼りにさせて貰っている。食材や調味料、茶葉などの嗜好品と扱っている品が多く、仕入れる量が多い時は屋敷まで快く運んでくれるのが良かった。まずは両手に抱えた五つの竹簡を宛先を伝えながら一つずつ手渡して、適当に店の中を見つめてみる。

 今日は特に仕入れるものはないのだが――と、私は厳重に蓋された瓶を見つける。話を聞けば、中には純度の高い酒が入っており、水で薄めて飲むのが普通なんだそうな。良いことを思いついた私は、それを小遣いで購入する。その時、店主に心配そうな目で見つめられたが「飲むわけじゃないですよ、思い付きです」と言えば快く譲ってくれた。

 私は受け取った酒瓶をその場で蓋を開けて、手の甲に数滴だけ酒を落として舐めとる。思っていた以上に度数が高い、これならと舌で転がすように酒を味わった私が満足げに頷いてみせる。

 そこで店主が私のことを軽く引いた目で見つめていることに気付いた。

 良い品物ですね、と私はにっこりと笑って誤魔化すと、より一層に店主の笑顔が引き攣った。

 

 酒瓶を担ぎながら屋敷に戻る。

 台所に酒瓶を置いた私は庭の柿の木によじ登り、状態の良さそうな渋柿を選んで地面に落としていった。最後に私も地面に飛び降りて、両手両足を使って着地する。それから地面に落とした柿は両手に抱えた私は、そそくさと師匠に見つからないように台所まで撤収した。

 まな板の横に並べる渋柿、前に師匠が食えたものではない、と評したものである。

 ヘタに付いている枝を包丁で切り抜き、薄く酒で満たした皿の上に逆さまに置き並べる。一度で数十秒、酒で濡れた箇所を軽く拭き取って、少し大きめの瓶に詰め込んだ。本来であれば、ビニール袋と呼ばれるもので密閉するらしいが、まだ今の時代にビニール等という便利なものはない。ようは密閉できれば良いと雑に考えた私は、御師匠様が塵にした紙を瓶の縁に敷いてから蓋を置き、更に重石を乗せる。

 これで無理なら酒が勿体ないけども瓶詰めみたいに酒で満たしてやろうと思って、台所の隅に瓶を隠した。

 

 御師匠様は定職には就いていなかった。

 人物批評家と自称しているが、それは生産性のあることではなく、職業と呼ぶには些か怪しい。しかし人望はあるようで日に誰かしらが屋敷まで師匠を訪ねてくるし、週に二、三度は何処かしらから御便りが届けられる。人物批評は勿論、師匠の機嫌を取ろうと贈られてくる物品の数々が主な収入源となっていた。

 普段、御師匠様の口数は少ない。それは自らが発する言葉の影響力を意識してのことであり、私と二人きりの時くらいしか話すことはしなかった。だから代わりに文章を書き連ねるのかもしれない。物静かな彼女が筆で語る言葉は雄弁で、瞼の裏に情景が思い浮かび、それを見つめる心が繊細に描写されている。

 その言葉使いが面白くって、手紙の中身を盗み見てるのは内緒だ。

 

 それから師匠の部屋に戻ると「ぴゃあっ!」という悲鳴が部屋に響いた。

 見れば師匠の机には竹簡が散らばっており、師匠が慌てた様子で集めているところであった。その明らかに可笑しな挙動に私は首を傾げながら「何をしているのですか?」と問いかける。しかし師匠は質問には答えてくれず、「い、何時の間に帰ってきたの?」と上擦った声で問い返してきた。

「つい先程、戻ったばかりです」と告げる。それから師匠の持つ竹簡を見つめて「急ぎでしょうか?」と机の上に散らばる竹簡に手を伸ばす。

 

「こ、これは違います!」

 

 師匠が語気を強めて、竹簡を両腕に抱きかかえる。

 それがなんだか拒絶されているようで嫌だった。でも私はただの使いっ走りだ。過ぎた想いを持つべきではないと考えて、分かりました、とただ一言、にこやかに笑って背を向ける。あっ、という小さな声が背中越しに聞こえた気がしたが、そのまま振り返らずに部屋を出た。少しの間、師匠とは顔を合わせたくなかったから庭に出る。なんとなく冷めた気分、溜息が溢れる。両頬をパチンと叩いて気を取り直した。

 今でも私は十分に幸せな日々を過ごしている、孤児の私を拾って育ててくれただけでも御の字と云える。それ以上を求めるのは罰が当たるというものだ。

 庭に出るとうっすらと雪が積もっていた。

 しんしんと降り落ちる雪を見上げて、はぁっと両手に息を吹きかける。

 

 私には名前がある。

 姓はなく、名は攸と云う。嘗て違う名前を持っていたが、今は御師匠様に頂いた名前を使っている。

 庭に忍び込んだ柿泥棒の私を引き取ってくれた師匠は、私のことを小間使いとして扱うと言っていた。とはいえ当時の私はまだ六歳だ。難しい仕事を任されることはなかったし、ただ単に私を屋敷に置く口実に過ぎなかったと思う。最初の数週間は本当に簡単な仕事しか頼まれなくて、暇を持て余していることの方が多かった。

 普通の子供であれば、仕事なんて放り出して遊び出しているところだろうか。しかし孤児であった私は貧困を知っている、今日を食い繋ぐために塵を漁ることもあった。たった数週間だったが、あの日に戻りたくないと強く願っている。だからこそ師匠には感謝しているし、退屈に思うことができる今こそが幸せなんだと正しく理解している。

 だからこそ私は師匠の力になりたくて、仕事をたくさん熟せるように頑張った。

 天の記憶から様々な知識を得ていたけども私には文字を読むことができなかった。だから一生懸命に文字が読めるように頑張ったし、最初は口数少なかった師匠の挙動を見逃さないように心がけている。

 そうしている内に師匠の方から私に話しかけることが増えていった。

 教えてくれることは多岐に渡り、今では御師匠様と呼ぶような関係にまでなった。

 よく師匠は頭を撫でてくれる。教えられたことが上手くいった時、申し付けられたことをきちんと熟せた時、なにもなくとも頭を撫でてくれる時もある。その時々で力加減が違っていて、それぞれの良さがあった。

 中でも一番好きなのは、師匠の隣に座っている時、特に意識せずに私の頭へと師匠の手が乗っかる時だ。いつものように愛情をたっぷりと込められたものではない。手持ち無沙汰な片手が宙を泳ぎ、止まり木を求めた小鳥のように私の頭に乗せられるのが良いのだ。乱暴でもなくて、丁寧過ぎることもない、その時々の気分で撫でたいように撫でられるのが嬉しかった。

 催促はしない、撫でたい時に撫でられることが好きだった。

 

 冬の寒気のせいだろうか。

 頭に少し寂しさを感じてながら灰色雲の空を見上げていると「ひゃあっ!」と不意に後ろから冷たいものが両頰に触れた。思わず後ろに振り返れば、ケタケタと悪戯っ子のような笑い声をあげる女性が両手に付いた雪を振り落としているところである。

 外見は師匠似、しかし性格は師匠と似ても似つかない。

 

「雅ちゃん、可愛いわねえ。お持ち帰りしちゃいたいわ〜」

「……湊御姉様、御戯れが過ぎますよ」

「その膨れっ面も最高よ。お持ち帰りをするしかないかしらね、するしかないわね」

 

 不意に彼女に抱き締められた私は、わぷっと顔を彼女の豊満な体に埋めさせられる。

 柔らかくて、大きく、そして良い匂いがする。否応なしに押し付けられる胸の圧力に溺れてしまいそうになり、抵抗する意思は早々に失われる。力の差は歴然としている、そのことを言い訳に彼女の胸の感触を享受する。言っては悪いが御師匠様は胸が大きくない、どちらかといえば小振りな方で胸に顔を埋めるという感覚を味わうことは難しい。

 そして、この困り者の御姉様。御師匠様の姉である彼女は、胸が大きくて形も良いという極上の胸の持ち主であった。

 

「御姉様、何をしているのでしょうか。月旦評はまだ先ですよ?」

 

 偶然通りかかったのだろうか。

 竹簡を片手に持った師匠が威嚇するように御姉様を睨みつけている。

 それで御姉様は名残惜しそうに私を胸から解放して、ぷはっと甘い香りに痺れてきた脳に冷たい空気を吹き入れる。それから逃げるように師匠の下へと駆け寄り、彼女の胸に飛び込んで大きく深呼吸をする。師匠の匂いは安心する、御姉様の匂いは体の内側から熱くなり、お腹や胸の奥が切なくなってくる。だから師匠の匂いを目一杯に吸い込んで、高鳴る胸の鼓動を落ち着かせるのだ。

 師匠の胸に顔を埋めたまま、ふと見上げてみると師匠は顔を真っ赤にしたまま固まっている。

 どうしてしまったのか、師匠の胸が高鳴っている。

 

「あらあら、好かれているわね。あとこれは私宛かしら?」

 

 固まる師匠から竹簡を奪い取った御姉様は、バラリと開いて中に目を通した。

 

「これはこれは……あら〜」

 

 御姉様が楽しげな笑みを浮かべてみせる。

 中には何が書かれているのだろうか。興味津々に御姉様のことを見つめていると「教えよっか?」と問いかけられる。

 私が知っても良いのだろうか。是非、と答える前に師匠が私を強く抱き締めて押し止める。

 

「御姉様、やめてください!」

 

 耳まで真っ赤にした顔の師匠が叱りつけるように声を上げる。

 しかし何処吹く風といった様子で御姉様は無視して、私のことをじっと見つめている。

 すべきことはわかるね?

 そう呼びかけられた気がした私は、師匠の腰に手を巻き付けて力一杯に抱き締める。

 

「……湊御姉様、内容を教えてくれませんか?」

「人物批評ですよ、人物批評! 別におかしくもなんともないでしょう!」

 

 御姉様の代わりに師匠が声を荒らげて答える。

 中身が人物批評であれば、どうして私が見てはいけないのだろうか。師匠が人物批評を竹簡に書き込むことは少なくなく、いつもは私が扱っても気にすることはなかった。

「そうね、人物批評には違いないわ」と御姉様は愉快そうに笑い声をあげる。

 

「早く渡してください」

 

 片手を差し出す師匠、そこで私が師匠を抱き締めることで足止めしていることに気づいたようだった。

 御姉様は勝ち誇った笑みを浮かべながら「抜粋、私の雅が可愛すぎて辛い」と告げる。

 なんだそれは、ふと見上げると師匠が唖然とした顔で青褪めていた。

 

「雅の可愛さを言葉で言い表すには万の言葉では足らず、如何なる尺度で推し量ろうとも新たな可愛さを発見するばかりで止まることがない。世は諸行無常、日が過ぎれば、人は少しずつ変わると言いますが――――」

「あー、あーっ! 御姉様、止めて! 止めなさい! 雅もどきなさい! どいて、御姉様を殺せない!!」

「湊御姉様、続けてください! 私が止めている内に、さあ早く! 続けるのです!」

「――昨日の雅よりも今日の雅、今日の雅よりも明日の雅、共に過ごせば過ごす程に雅に対する想いは膨れ上がり、飽きることは決してない。昔よりも今の方が雅のことを強く想っているにも関わらず、今、昔の雅を想えば、昔の雅も今と負けず劣らず愛おしいと想ってしまうのです。人物を批評することを生業とするにも関わらず、どうにも昔の私は節穴だったようであり、この可愛さに気付けなかったことに私は私の人物眼に自信を失わざる得ません。どうして雅はこんなにも可愛いのでしょうか、どうしては雅は雅なのでしょうか。こんなにも心が乱された経験は初めてで、同じ部屋、同じ空気を吸っていると思うだけでも……ん?」

 

 御姉様に掴みかかろうとする御師匠様を決死の覚悟で止め続けていると、急に師匠の抵抗が止んでしまった。

 顔を上げると、真っ赤な顔で目に涙を貯める師匠の姿があった。羞恥に堪えるように口元を真横に引き伸ばして、プルプルと身を震わせる姿は何時もの大人びた師匠の雰囲気とは違っている。なんというか、いたたまれない。

 なにか言葉をかけるべきなのだろうが。しかし、なにを喋れば良いのかわからない。

 

「私も御師匠様のことが大好きですよ」

 

 思い付かなかったから、ずっと思っていたことを言葉に出した。

 少なくとも師匠のことを慕い続けていることは本当で、これから先も師匠を想う気持ちに変化はないと思っている。師匠は黙ったまま私の頭に手を乗せると、わしゃわしゃと乱暴な手付きで無茶苦茶に撫でられた。何が起きているのか分からないが、その行為は悪い気分はしなかった。

 御師匠様に撫でられるのは好きだ、撫でられる行為そのものが好きだった。

 

「私よりも姉妹らしく見えるわね」

 

 呆れるように、少し嫉妬するように御姉様が零す。

 その言葉は御師匠様には届かなかったようで、苦しいほどに強く抱きしめられた。

 きっと、今の私は幸せなんだと思う。



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参.八歳

・攸:(みやび)
許劭の小間使い。

・許劭子将:水卜(みうら)
人物批評家、月旦評の主催者。

・許靖文休:(みなと)
人物批評家、許劭の従兄。


 この日、屋敷は騒がしかった。

 今日は月に一度の月旦評が開催される日取りで、豫州を中心とした有力者が屋敷に集まっている。

 さて月旦評とは御師匠様である水卜(許劭)が主催を務める人物批評会のことであり、大陸全土に住む官僚や名家、豪族の情報を持ち寄って好き勝手に批評する場のことだ。始まりは御師匠様と姉である(許靖)の二人による報告会であったが、途中から湊が知人を連れこむようになり、今となっては月旦評での批評が世間に影響を与えるまでに規模を膨らませている。

 次から次へと月旦評への参加者を呼び込む湊御姉様に対して、名家に失礼がないようにと毎度の如く趣向を凝らした準備を整える師匠は、月旦評の時期が近付く度に「こんなに規模を大きくするつもりはなかったのに……」と口を零すようになる。

 そんな月旦評であるが、今回は少し趣向が変わっている。

 

 きっかけは月旦評のもてなしとして用意された柿だった。

 試行錯誤の末に渋柿を甘柿にすることができたものであり、これを大層気に入った御師匠様は次の月旦評で振る舞いたい、と私に多額の金銭を握らせた上で甘柿の用意を言いつけた。甘柿は名家の者達にも好評、どうにも柿を美味しく食べるには干すのが大半であり、熟れたものを手に取っても若干の渋みが残る。その中で完全に渋みを除いた柿は、それだけで極上の甘味となった。

 尤も砂糖黍と甜菜の栽培がなされているこの世界では、天の知識にある程の価値は求められないだろうが――これで金儲けをするつもりはない。こんなお手軽にできてしまうのだ。何処かで誰かが始めれば、何処かの誰かが手法を暴いて、真似を始めるに違いない。それに私自身が美味しく柿を食べてみたかっただけであり、できあがった甘柿を御師匠様にお裾分けもできたので私個人としては満足している。

 問題なのは、その後だ。

 

「うちの子は素晴らしい」

 

 そう御師匠様がポツリと零したことを皮切りに、あれよあれよと子供自慢大会が開催されてしまったのである。

 あ、不味いな。と、そのことを察した私は師匠に一言だけ告げて、そそくさと批評会を後にした。これでも私は使用人達に混じって、月旦評の準備を色々と整えてきたのだ。とりあえず取っておいた甘柿でも食べながら休息を取るのが良い。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると「ちょっと、そこのあなた」と後ろから呼び止められる。

 はてな、と思って振り返ると自分より幾らか幼い年頃の少女が立ち尽くしている。頭に猫耳の付いた薄緑色の頭巾を被っており、少し警戒心を込めた目は臆病な猫のように感じられた。身を縮こませるように両手を胸元近くに添える仕草を見てると、彼女の頭を撫でてあげたくなるが、猫と同じく無作為に頭を撫でようとすれば噛みつかれるような気がした。

 私は安くないわよ、と御高く止まっている猫を相手にするような感覚で接するのが正しいか。

 

「失礼なことを考えているでしょう、ねえっ!」

 

 なんとなしに目を逸らす。別に御猫様とか思っていませんとも、ええ。

 

「……やっぱり失礼なことを考えているわね! 目よ、目がそう物語っているわ!」

 

 指を突き付けられて少なからず苛立ちを感じて、「目は生まれつきです」とつい不機嫌に睨み返した。

 それだけで、うっ、と少女はたじろいた。相手の機嫌を悪くするのは本意ではないのだろうか、ふむっと気を取り直しつつも「それで私になにか用ですか?」と素っ気なく問いかけてみた。

 見知らぬ少女、月旦評の参加者が連れ込んできた子供かと思われる。

 大人達の話に付き合いきれなくて、抜け出してきたと言ったところだろうか。私も一度だけ同席させて貰ったことがあるけども、ずっと御師匠様の膝の上で延々と頭を撫で続けられる嵌めとなった。別に撫でられること自体は苦痛ではないのだが、衆目監視の中で晒し者にされながら微笑ましい視線を向けられるのが苦痛だった。そのことに気づかず、ほとんど無意識に私の頭を撫で続ける師匠も恨めしく、月旦評の時は二度と師匠の膝には座らないことを胸に誓っている。

 それはさておき、今は目の前の少女に対応することが先決か。

 むすっとした顔のまま、じっと私を見つめている。睨みつけている、と言った方が良い顔で私のことを見つめている。

 

「……貴方が退屈そうにしていたからよ、悪かった?」

 

 そして出るのは憎まれ口である。

 退屈というのは私ではなくて彼女の方だろうに、そんなことを考えながら私は彼女の手を引いて台所に連れていった。台所には取り置きしておいた甘柿がある、美味しいものを食べさせれば少しは警戒度も薄めてくれるだろうと思ってのことだ。気位の高い猫だって始まりは木天蓼(またたび)からである。

 そういえば、まだ彼女の名前を聞いていなかったと思って「私は攸、貴方は?」と問いかける。

 

「自己紹介のつもり? 姓がないじゃない」

「姓はないのよ、名前も貰ったものだしね」

「孤児? それとも奴隷上がりなの? その割には……」

 

 まあ良いわ、と少女は首を横に振る。

 

「私は荀彧、字は文若よ」

「文若ね、覚えたわ」

 

 荀彧、袁家に次ぐ名門と呼ばれる荀家の御令嬢だったか。

 思っていた以上の大物の娘に気後れしそうになったが、家を知った後であからさまに下手に出ることをきっと彼女はよく思わない。

 それでも礼節だけはしっかりとしておこうと思って、心持ち背筋を伸ばした。

 

 荀彧を台所まで案内した私は、

 余らせていた甘柿を手に取って、包丁を皮を剥いて切り分ける。

 皿に盛りつけた柿に爪楊枝を差して、椅子に座らせた荀彧の前に置くと彼女は警戒する猫のように私のことを上目遣いに睨みつけると、おずおずと柿に手を伸ばした。口元まで持ってきた柿を彼女は暫く見つめると「渋くないのよね?」と確認を取る、その言葉に私が頷き返した。恐る恐るといった様子で柿を前歯で削るように齧り、そして頰を小さく膨らませて柿をゆっくりと歯で削る。

 余程、渋柿で酷い目にあったのか、それとも柿の渋みがただ単に苦手なのか。

 見守っている内に荀彧は二口目を齧り、そして三口目は大きく口に入れる。まだ警戒心は溶けきってないようであるが、すぐに二切れ目に手を付けたので気に入ってはくれたようだ。

 そんな彼女の様子を見守っていると「……なによ」と半眼になった荀彧は鬱陶しそうにしながら柿を頬張り続ける。

 

「なかなかだったわ」

 

 荀彧が熱い茶を啜りながら呟く言葉に、愛い奴め、と私は鼻歌交じりに使った食器を片付ける。

 それから彼女を退屈させないために「将棋でもする?」と問いかけると「私を相手に良い度胸じゃない」と荀彧は乗り気で悪どい笑みを浮かべてみせた。

 

 私は天の知識を持っているが、今の時代について詳しいことは知らない。

 後漢末期から三国時代と呼ばれる歴史の推移を知っているが、この三国時代は歴史的な出来事が少なくて、晋を経て、五胡十六国時代への繋ぎという認識しかない。そのため曹操や劉備、孫権といった面子は分かるが、天の知識としては漢王朝最後の皇帝である献帝の方が印象が強かったりする。あとは関羽とか孔明くらいなら辛うじて分かるといった程度、曹操と孫権の配下ともなると分からない。

 呂蒙とか言うのが「男子、三日会わざれば刮目して見よ」の人であってるのかな。まあその程度の認識だ、中国史としては知っているが三国時代としてはまるで理解ができていない。

 だから目の前の少女のことも荀家の御令嬢以上の意識はなかったのだ。

 手合わせして分かった、こいつはやばい。

 

「…………負け、ました……」

 

 歯を食い縛り、今にも泣き出しそうな顔で荀彧が頭を下げる。

 負ける気はしなかった、天の知識という優位がある私は十にも満たぬ少女を相手に負けるとは思わなかった。形勢の推移は序盤から中盤にかけて、私の優位で事が進み、勝ち過ぎないようにと思って抜いた手を差した。

 その瞬間――対面から放たれた殺意にゾッとした。

 荀彧に物凄い形相で睨みつけられて、まだ駒の上に置いていた指を思わず離してしまった。気の緩みを咎めるように荀彧が中盤から終盤にかけて、ぐいぐいと形勢を押し上げてきたが今一歩及ばず、詰みまで十三手といったところで投了を宣言する。ふうっと息を吐き捨てる。気付けば全力で打っていた、そうしなければ負けていた。猫なんて生易しいものではなく、獰猛な虎に追いかけ回されているような心持ちだった。

 そして逃げ切ったことよりも対局が終わってくれたことに安堵する。

 

 荀彧は膝上で両手を握り締めながら、下唇を噛み締めながら盤上を睨みつけている。

 嗚咽を漏らさず、目からボロボロと涙を零しながら、じっと見つめている。まともに見えないはずの視界で彼女は何を見ているのだろうか、何が見えているのだろうか。途中で手を抜いた罪悪感からか何も言えず、言ったところで慰めにもならないと思って、暫く彼女が落ち着くのを待ち続ける。

「……此処」と消え入るような声がふと耳に届いた。

 

「どうして、この手を打ったのか聞いてるの。察しなさいよ」

 

 真っ赤に腫らした目で私のことを睨み付けてくる。

 つい口元が綻んだ、彼女の私を見る目が胡乱げなものに変わるのを感じ取りながら「えーと、これは……確か……」と思い出しながら自分の考えを語り始める。私の意見を汲んだ彼女が「こうだったらどう?」と指し手を変えて問いかけた。彼女ほどに読みが深くない私は駒を動かしてみないと展開が読みきれず、天の知識と経験から「こうするかな」と駒を差してみる。

 そんなことを繰り返した。その時間が思いの外、楽しくって――胸の奥がチクリと痛んだ。

 

 再戦を何度かしたところで月旦評が終わったようで大人達から声がかかる。

 荀彧が残念そうにする顔を俯けていたので、「また遊べるよ」と私は彼女の頭を優しく撫でてあげた。

「約束よ」と荀彧が顔を俯けたまま答える。

 その様子を迎えにきた荀彧の母親らしき人物が少し驚いた表情を見せる。

 

「また遊んでください」

「はい、喜んで」

 

 荀彧の母親からの言葉に二つ返事で答える。

 月旦評が終わり、後片付けの最中、私は延々と荀彧との時間を思い返した。

 思い出すのは楽しかった時間ではなくて、荀彧の泣いた顔ばかりだ。

 

 あの子はきっと強くなる。

 素質があり、それでいて貪欲だ。きっと今まで自分に対して満足したことなんて一度もなかったに違いない。

 あれだけ目の前の事に対して、真摯に向き合える人物を私は知らなかった。

 きっと天の世界にだって、そう存在しないはずだ。

 

 それに比べて、私はなんて情けないのだろうか。

 天の知識や経験だって、私が私の力で得たものではない。それを捨てる気もなければ、それを使う事に躊躇するつもりもないが――それだけに頼っている自分のことがどうしようもなく情けなかった。

 今のままでは駄目だと思う、少なくとも次会う時に彼女の目を真っ直ぐに見返すことができなくなる。

 私は荀彧に負い目を感じている――そのことが許せない。失望されることは耐え切れない、失望されることに怯える事こそが私は許せなかった。

 だから師匠に願い出る。

 

「どうか私に御師匠様の知恵と知識を授けてください」

 

 床に両膝を突き、深々と頭を下げる。

 師匠は少し考え込む素振りを見せると理由を問うてきた。

 その時は深く考えずに素直に思ったことを口にする。

 

「情けないままでいたくありません」

 

 翌日からの予定に座学が加えられることになった。

 きっと、この時初めて私と御師匠様は正式に師弟関係になったのだと思っている。




・荀彧文若:?
名門荀家の御令嬢。



ps.
「真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの」を読み耽ってました
ざっくりと経済や商売に触れる作品は結構ありますが、それを主軸においた恋姫作品は珍しい気がする。
恋姫の世界観を満喫してるって感じがして好きです。

またタイトル詐欺になっている本作「袁本初の華麗なる幸せ家族計画」は
「莫名灯火」を応援しております。
香風の可愛さと恋の可愛さで新旧可愛い担当が掛け合わさって、可愛さのビッグバンや〜〜っ!!

次回くらいに麗羽が登場すると思います。


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肆.九歳と十歳

・攸:(みやび)
許劭の小間使い。


 姓は許、名は攸。字は子遠。

 我が名は許攸、字は子遠。真名は(みやび)である。

 言ってやった、言ったった。大事なことなので二度も言った。

 

 数え年で九歳になった私は、水卜(許劭)御師匠様の勧めで豫州にある私塾に通う事になった。

 豫州にある名家が通う私塾であり、私の出自が孤児でありながらも師匠の推薦で私塾への入門を許される。そして入門の届け出を書かなくてはならなくなった時、姓と(あざな)が必要になってしまったのである。それで御師匠様に相談してみると、師匠は少し黙り込んでから紙と筆を取り出し、許子遠と大きく書いてくれたのだ。

 一字目に敬称である子を入れる堅苦しいところが師匠らしくって、名の攸に合わせて遠という文字を持ってくるところが最高に堅っ苦しい感じがした。字を付けて貰えたことも嬉しかったけども、それ以上に私が飛び跳ねるほど嬉しかったのは姓に許を付けてくれたことだった。

 もう幸せで気持ちが抑え切れなくって「御師匠様、大好き! ありがとう!」と思いっきりに抱き付いてしまった。

 師匠はもう顔を真っ赤にして、体を強張らせながらも私のことを延々と撫で続けてくれたのだ。

 

 今日は私の人生で最高に嬉しかったかもしれない。

 つい友達の荀彧に姓と字を貰ったって手紙を送った、届かないと困るから五通も書いて出してやった。

 一字一句違えず、同じ文章のものを五通もだ! ああもう幸せで仕方ない。

 私の幸せが届けって、願いを込めて送り出した。

 

 数週間後、私の祈りが通じてくれたようだ。

 だって五通全部が無事に荀彧の下まで届けられたという手紙が、綺麗な文字と丁寧な言葉遣いで延々と書き連ねた文句を添えて送り返されて来たのだから。最後の一文、「良かったわね」と取ってつけたような一言が最高に愛らしい。手紙五枚分の想い(文句)が詰まった手紙を両手に抱き締めて、特製の箱の中に大事にしまっておいた。

 時折、文字が汚くなったとか、内容がしょうもないとか、そんな理由で追伸に「読んだら燃やしてください」と書かれていることもあるが、そんな勿体無いことなんてできるはずがない。この想いを込められた言葉(文句)の数々は大事に保管して、末代までの家宝にするのだ。今、私はとても気分が良い。凱歌の一つでも歌いたい気分だ。

 雅の幸せ天気模様は今日も快晴、遠くまで見渡せるほどに澄み切った青空だ。きっと私塾でも楽しいことや嬉しいことが沢山あるに違いない。

 まだ見ぬ環境、世界に胸を高鳴らせずにはいられなかった。

 

 

 所変わって時も経た翌年の現十歳、

 豫州にある名門私塾で退屈な時間を過ごしている。

 日中は私塾で講義を受けていることが多いが、私塾での講義内容は期待していた程ではなかった。

 御師匠様に教え込まれたことばかりで退屈な毎日を過ごしている。大きく欠伸をする度に講師が問題を投げつけてくるが、その大半が最初から知っている内容であり、事もなげに答えてみせると講師は苦虫を噛み潰したような顔ですごすごと身を引いていった。最後方の窓際の席、ぽかぽかとした陽気を相手にいつも眠気に争い続けている。

 そんな私にも私塾での友達がいる。

 その子はいつも私の隣の席に腰を下ろして、私が講義中に居眠りを始めると頰や手を抓ってくれるのであった。

 

 名は朱霊、私塾での成績は平均よりも少し上といった程度の残念な少女である。

 一見すると小柄な体躯の可愛らしい少女であるが、上着の下には忍装束と呼ばれる衣服を着込んでおり、常在戦場を信条に掲げて全身に暗器を仕込むような変わった女であった。そんな彼女は忍一族の末裔であり、周囲には正体を隠して生きている。

 では何故、私が彼女の正体を知っているのか。そこが彼女を残念と評する理由であり、愛おしくも思えるところだ。

 さて、その日の講義を終えた後、真面目に話を聞いていたはずの彼女は、さりげなく私に擦り寄って「勉強を教えてください」と申し訳なさそうに頭を下げてくる。

 だから私は何時もの決まり文句を返してやるのだ。

 

「あとで房中術の相手をしてくれるならいいよ」

 

 最初は食事とか甘味で手を打っていたのだが、

 彼女の教えを請いにくる回数があまりにも増えたせいで蓄えを失った彼女に「なら体で支払ってよ」と救いの手を差しのべたのが始まりである。頬を朱に染めた彼女は、ぐぬぬ、と呻き声をあげながら痩せこけた蝦蟇口財布を取り出し、中身を確認して大きく溜息を零す。

 これまでの傾向から彼女の次の仕送りまで、まだ日があることを私は知っている。

 

「……房中術って秘術なんだよ? 普通は一族以外に教えちゃ駄目なんだよ?」

 

 真っ赤な顔の朱霊が項垂れるように問い返す。

 この時代、房中術は厭らしい意味ではない。というよりも天の知識でも本来、房中術とは気の調和を図り、整えるものに過ぎないのだ。そして、この世界には確かに氣と呼ばれるものが存在しており、体内を氣で満たすことで強靭な肉体と若さを保ち続けることができる。人間が持つ本来の寿命そのものは伸びないようであるが、体内を氣で充実させることは健康な肉体を持つことに繋がるので、結果的に氣の扱いに長ける者は総じて寿命が長い。

 そんな技術であるためか房中術は名家と豪族の間で広く伝わっているし、一定以上の身分にある者は房中術の習熟を必須とされている。また各御家で独自の技術体系があり、効果の高い手法は秘匿される傾向にもあった。特に名門と名高い袁家は顕著で、現当主の袁逢は少女(ロリ)というよりも幼女(ペド)という噂も聞いている。

 つまり一定以上の身分にある者が実年齢と比べて、明らかに若いことには理由があるのだ。

 

「別にいいじゃない、減るもんじゃないし」

 

 房中術は幼い時から教養として叩き込まれるが、元が孤児である私に房中術の心得はなく、御師匠様と御姉様では体格と氣の性質が違いすぎて上手くいかなかった。まだ焦る必要はない、と御師匠様に言われているが氣そのものが弱い私は他よりも成長が遅く、老いが早い。房中術を学ぶのに早いに越したことはない。

 

「減るんだよねぇ……羞恥心とか、こうガリガリっとさ」

 

 耳まで赤くなった朱霊が口元を尖らせながら視線を横に逸らした。

 同性なのだから恥じらうこともないと思うのだが、どうにも彼女にとってはそういうことではないようだ。というよりも貴方の場合は延々と体全身を揉み解しながら氣を送り込み続けるだけで、房中術の中でも比較的健全と言われる類のものではないか。気持ち良すぎて、ついつい喘ぎ声が溢れてしまうのは御愛嬌。疲労が取れて体が軽くなるので単純に彼女にされるのが好きというのもある。

 されている時は頭の中がぼんやりとして、眠ってしまうことも多いが、終えた時はしっかりと熟睡した後のように頭の中がすっきりとする。

 

「あと自制心? 他はえっと、正気度とか?」

 

 兎にも角にも氣の扱いが苦手な私にとって、為すがまま、されるがままで良い彼女の房中術は性にあっている。

 私もお返しにと思って、彼女の房中術を学んでみようと試みているが、どうにも彼女は氣が乱れやすい傾向にあるようで波長を合わせるのが困難だった。ただ単に私が下手なだけかもしれない。今も努力をしているが成功した試しはなく、朱霊にじっくりたっぷりと一方的に氣を揉み込んで貰うことの方が多い。

 あまり乗り気ではない彼女を見つめて「どうする?」と私が問いかけて、生唾を飲み込んだ朱霊が小さく頷いて折れるまでが何時ものやり取りになっている。

 今日こそは我慢する、今日こそは絶対に我慢する、と呟く彼女の手を引いた。

 

「あら、(わたくし)を置いて、お二人だけでお出かけするなんて見過ごせませんわ」

 

 そんな私達の間に割って入るのは高飛車な少女。

 特徴的なのは掘削機のように巻きに巻いた縦長の金髪、身に付ける衣服と装飾品の全てが最高級の品質を誂えており、手を口元に添えながらオーッホッホッホッと高笑いを上げてみせる。

 その分かりやすい名族の名は袁紹、四世三公を輩出した名門袁家の長子である。

 しかし彼女は愛人とのあいだに生まれた子であるために袁家の後継者としては認められず、周りからは妾の子と蔑まされており、私塾の門下生からは距離を置かれていることが多い。それでも彼女はどこ吹く風よと持ち前の高笑いを上げ続けた。

 側から見れば鼻につくような高飛車な態度も朱霊と私にとっては見慣れたもので共に苦笑いを浮かべる。

 甘味処に向かう予定だったことを袁紹に話すと「私も同席させてもらいますわ、よろしくて?」と二つ返事で乗っかったので私達は「喜んで」と答える。

 袁紹と朱霊、そして私こと許攸の三人組は私塾でも有名であり、放課後と休憩時間はいつも一緒に過ごしている。

 

 何時もの甘味処に赴き、二階にある何時もの個室を借りる。

 私の目の前には、たっぷりの果物をあしらった杏仁豆腐が用意されており、袁紹と朱霊の前には参考書と蝋板が置かれていた。

 二人が文字がぎっしりと詰まった難しい内容の参考書を前に唸り声を上げるのは、私にとっては見慣れた光景。二人には適当な課題を課して、時折、投げかけられる質問に答える。こうやって勉強会を開くのも私塾に通い始めてからのことで、最初は朱霊に泣きつかれて、その後で放課後に一人、書庫で勉学に励んでいる袁紹を見つけて三人となった。

 朱霊は残念だが、袁紹の頭の出来は悪くない。出自で乏しめられてきた彼女は誰からも侮られないように勉学に励んだこともあってか、勉強会を開いてからは常に首席の成績を収めている。

 ――弱みを見せるのは華麗ではありません、と袁紹は云う。

 そのため彼女は決して努力をしている姿を誰かに見せようとはせず、さも当然のように最優の成績を収めることで模範的な優等生を演じてみせる。血の滲むような努力をおくびにも出さず、涼しい顔で何をやらせてもソツなくこなす彼女はきっと周りからは才能の塊のように見えていたに違いない。常識的な範囲で優等生である彼女は講師からのウケも良かった。

 首席の成績を収めても彼女は満足せず、慢心せずに勉学と調練に励み続ける。何故ならば彼女には将来の保障がない、今のままでは彼女が袁家を継ぐことはありえず、そのことは袁紹本人も自覚している。

 だからこそ彼女は努力を重ねる。

 袁紹は決して優れた才覚を持っているわけではない、裏で努力する彼女は名門の名に相応しくない泥臭い姿であったかもしれない。

 しかし私は彼女が泥臭く努力する姿が嫌いじゃなかった。

 

 勉強を始めて数刻後、

 頭を使い過ぎて、ぐったりとした二人を連れて甘味処を出たところで、あら奇遇ね、と見知った顔と出くわした。

 名は曹操。ピョンと大きく巻いた二つ結いの金髪が特徴的で、小柄な体格をしている。また彼女は私塾の同期生であり、私と共に問題児として名を連ねている。彼女は私と云うよりも袁紹の知り合いだ。曹操も出自で苦しめられてきた口であり、宦官の孫娘と蔑まされてきた過去を持っている。その点で袁紹に通じるところがあったのか、なにかと袁紹が曹操に絡んでいるところをよく見かける。

 そんな袁紹は彼女のことを友達と言っており、曹操は認めたくはないけどもと前置きをした上で認めている。

 

「あら曹操さんではありませんか、貴方()甘味を頂きにいらして?」

「……ええ、私()甘味を堪能しに来ただけよ」

 

 朱霊が胸に抱えている参考書をチラリと見て、曹操は少し含みを持たせた言い方をする。

 そのことに気付いた様子のない袁紹は得意の高笑いをあげると、誰も頼んでもいないのに此処の甘味の美味しさを事細かに説明をし始めるのだった。うんざりとした顔で話を聞き流してる曹操は、どうにかしなさいよ、と私に視線を投げかけるが、どうにもできないよ、と私は肩を竦めてみせる。曹操の後ろには二人の女性が付き従っており、片や苦笑を浮かべながら袁紹の話に耳を傾けて、片や苛立ちに恨みがましい視線を袁紹に投げつけていた。無論、御高説を垂れ流している袁紹に気付く気配はない。

 頃合い見計らったところで曹操が話を打ち切り、話を聞くだけでは耳は肥えても舌は満足しないわ、と足早に甘味処へと歩き出した。

 そのすれ違いざまに、あの時の話を考えてくれたかしら? と曹操に耳打ちをされる。

 

「あの時の話?」

 

 首を傾げる袁紹に、なんでもありませんよ、と笑って誤魔化した。

 そしていそいそと逃げ出そうとする朱霊の肩を掴んで「約束」と耳元で囁いた。

 甘味処の会計は袁紹が支払っており、彼女に貸しはない。

 そして友達が少なく、技術もない私は朱霊しか頼れる相手がいないのだ。

 

「絶対に怒られる、絶対に怒られる……」

 

 青褪めた顔でぶつくさと呟く朱霊を連れて、誰も邪魔の入らない場所を求めて歩き出す。

 袁紹とは此処でお別れ、この後で私達が何をしているのか知っている彼女は引き攣った笑顔で快く送り出してくれる。

 気持ちいいことは良いことだ。




・朱霊文博:?
私塾の同期生、忍者で残念な少女。

・袁紹本初:?
私塾の同期生、名門袁家の長子。妾の子。

・曹操孟徳:?
私塾の同期生、曹家嫡子。宦官の孫娘。

ps.
次回は袁紹の間幕、説明しきれてない箇所を補足します。


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間幕・水面の白鳥

・袁紹本初:麗羽(れいは)
名門袁家の長子。妾の子。

・許攸子遠:?
私塾の同期生、許劭の養子。孤児出身。

・朱霊文博:?
私塾の同期生、勉強仲間。許攸にべったりな子。

・曹操孟徳:?
私塾の同期生、曹家嫡子。宦官の孫娘。


 姓は袁、名は紹。字は本初。真名は麗羽(れいは)

 四代に渡って三公を輩出する名門汝南袁家の長子に産まれるも、父袁逢が愛人との間に作った子であるために正式な後継者として認められなかった。娼婦上がりの母は側室に迎え入れられることで当主からの寵愛を受けるも、正妻が孕むよりも早くに産まれた私は袁家にとっての邪魔者として扱われることになる。

 数え年で三歳になる頃、次子嫡女である袁術が産まれたことで私は屋敷での立場を失い、物心が付いた時には使用人達から虐められていた。肩身狭い思いを抱き続ける中、私は袁術の予備として育てられることになるが、それも五歳になる時に三女袁姫が産まれたことで完全に居場所を失うことになった。

 その時、殺されなかったのは袁逢の恩情だと強く言い聞かされている。

 

 さて数え年で六歳になる頃、私は叔父袁成の養子として屋敷から追い出される。

 幸いにも袁成は養子として迎え入れた私のことを愛してくれたが――今だから分かる、彼は子育ての経験がないためか兎にも角にも甘やかして育て上げた。我儘を言っても許される環境に私もつい調子に乗って様々なことをおねだりし、そのほとんどが名門袁家の資金力にものを言わせることで叶えられた。

 我ながら歯止めの利かなくなった我儘っぷりに歯止めをかけたのは、ただひとりの少女であった。

 

 それは確か月旦評と呼ばれる会合でのできごとだ。 

 親に手を引かれて訪れた屋敷で出会った少女を前に、我が物顔で我が家の家訓を語り聞かせたことがある。

 

『名門足る者は常に華麗足れ』

 

 この言葉は名門袁家で代々語り継がれてきた言葉であり、今も(わたくし)の胸に強く刻み続ける格言であった。

 その心得の真意を当時の私は、常日頃から名門袁家の一員であることを強く意識し続けることで、言葉のみならず態度を以て名門袁家の威光を周知させることができる。と解釈していた。そうすることで名門袁家として相応しい人物になれると信じていた。

 しかし私の解釈に、この時の少女は口答えをするように疑問を呈する。

 

 ――そうあり続けるために必要なことってなんだろう?

 

 それは今日まで自分なりに自己研鑽に励み、自分を信じて邁進する私が初めて足を止めた瞬間でもあった。

 彼女が提示した疑問に私がまず思い付いたのは、自らが名門袁家であることを誇りに持ち、強い信念と意志を持ち続けることだった。そのことをそのまま少女に伝えると「超人でも目指したいの?」と彼女は呆れたように失笑を零す。

 その癪に障る態度に私が苛立ちを募らせていると、彼女は優しく言い聞かせるように口を開いた。

 

「大事なのは何事が起きてもいいように備えておくことだよ」

 

 この時に出会った少女とは数年間、顔を合わせることはなかった。

 再び顔を合わせた時も少し見覚えがある程度で、何を話したのかまでは覚えている感じはしなかった。

 ただ私の心の中では、彼女の言葉が強く残り続けて、後の人生に大きな影響を与えることになる。

 

 

 年月が過ぎて、私は九歳となった。

 少女と出会ってからは袁成の子として恥じぬように勉学に励み、名門として必要とされる教育を受けること幾数年、その一環として地元にある私塾に通うことを義父袁成から提案される。

 特に疑問に思うこともなく、そのまま私は御義父様の勧めに従って私塾に通うことになった。

 

 講義を受ける初日、周りから孤立する少女を見つける。

 彼女の周りの席は不自然に空いており、その後ろで眠りこけている少女を除けば、彼女の近辺にいるものは居心地が悪そうな顔をしている。意識しているのか無意識なのか、周囲を寄せ付けない空気を纏う当人は退屈そうな顔で手に持った書籍に目を通しているところだ。その頁を捲る速度は早く、五秒もしない内に次の頁に移っている。

 なんとなしに興味が惹かれた私は、「失礼しますわ」と彼女の隣に腰を下ろした。

 家元の屋敷から追い出されたとはいえ未だ名門袁家に名を連ねている身の上、化け物と呼ばれる相手と何度も顔を合わせてきた経験がある。そして隣の少女からは化け物と呼ばれてきた人物達が放つ気配と同じ臭いを嗅ぎ取ったのだ。

 それは確証もない、気がしたという程度の話である。

 

 まるで有象無象の評価に興味を持たないところなんかも似ている。

 評価されるのも当たり前、異端として扱われるのも当たり前、誰かの能力を認めることはあっても、誰かに必要以上の期待を抱かないところがよく似ている。自分が誰よりも優れていると自覚しているからこそ、他者の能力を見極める目に自負を抱いており、運用することで期待を示し、頼った結果は自分が責任を取るべきだと考える。

 だからこそ彼女は周りに期待せず、粛々と現実だけを見据えているのだと感じるのだ。

 

 まるで周りに興味がなさそうな顔をしていた少女は、少し目を見開いた意外そうな顔で私のことを見つめる。

 

「……聞いたことがあるわ。貴方、妾の子でしょう?」

 

 相手を品定めするような不躾な視線、その口から発せられた問いかけは挑発的なものだった。

 私のことを試そうとする小娘に「そう呼ぶ者も居ますわね」と澄まし顔で答えてやる。これまた少女にとっては意外な反応だったようで「こんなに聡明だったかしら」と失礼なことを呟き、俄かに興味が湧いた様子で質問を重ねる。

 

「屋敷を追い出されたとも聞いたけど?」

「ええ、事実ですわ」

「怒らないのね、少し意外だわ」

 

 その嫌味のような言葉に腹が立たないのは、それが本心からの言葉だったせいかもしれない。

 それはそれで不遜かもしれないが、少なくとも嫌な気はしなかった。

 だから私は胸を張り、オーッホッホッホッと高笑いを交えながら堂々と答えてみせる。

 

「今の私は袁成の娘、そこに誇りを持つことはあっても恥じることはなにもございませんわ」

 

 宦官の孫娘さん、と最後にちょっとした意趣返しのつもりで付け加えてやった。

 その言葉に少女が僅かに表情を強張らせる。

 ピリリと張り詰めた空気に教室にいる全員が我関せずと私達から一斉に視線を逸らした。

 

 先に入門していた使用人から彼女の噂を聞いている。

 講師の問い掛けに対しては、常に異端の発想を以て返すことから講師を困らせ、反論をすれば完璧な理論を用いて言い負かすことで講師から忌み嫌われる問題児。

 名は曹操、字は孟徳。

 彼女にとって、宦官の孫娘という言葉は禁忌のはずだ。それをやられっぱなしは面白くないという理由だけで口にする。しかし挑発をしてみたが彼女が乗っかってくるとは考えていなかった、少なくとも彼女は周りに思われているほど誰彼に噛みつく狂犬ではない。

 にんまりと笑みを浮かべてやると、負けじと彼女も攻撃的な笑みを浮かべ返す。

 そのまま互いに互いを睨み合った後、くすりと互いに含み笑いを零した。

 

「ええ、そうよ。私は宦官曹騰の孫娘、己が祖父の家系であることを誇りに思っているわ」

 

 曹操が涼しい顔で答えたことで教室内の張り詰めた空気が弛緩した。

 まるで修羅場が過ぎ去った後のような安堵感に包まれる中、私は何事もなかったかのように黙々と講義を受ける準備を進める。

 これから先が思いやられるわね、と曹操が溜息を零すのが耳に聞こえた。

 

「なになに? 妾の子に宦官の孫娘?」

 

 不意に後ろから、よく響く声で話しかけられた。

 振り返れば、つい先程まで曹操の後ろで熟睡をしていた少女が眠たそうな目を擦っており、再び周囲の張り詰めた空気に「ふえっ?」と可愛らしく首を傾げて見せる。

 彼女の顔に見覚えはある、が曹操は知らないようで不機嫌そうに眉を顰めた。

 

「私は許攸。此処だけの話、私は孤児出身なのよ。なんだか私達って似てるねえ」

 

 その曹操の怒気をさらりと受け流して自己紹介をしてのける。

 許攸、確か人物批評家として有名な許劭の養子のことだ。出自で苦労する者同士で仲良しの握手、と彼女の方から笑顔で手を差し出して来たので、彼女の手を取ってじっくりと観察する。間違いない、月旦評の時にいた少女だ。そのあまりにも悪意のない様子に曹操も毒気が抜かれたのか怒気を収めており、彼女も許攸の手を取った。

 その時に曹操とも握手を交わしたが、彼女の手は良いところの女性とは思えない程に手の皮が硬くなっていた。気質的には武人と思えないが――それは曹操も同じだったようで、また驚きに目を見開き、そして爽やかに微笑みかけられる。

 そこで講師が入ってきたので一旦、私達は手を放して私語を慎んだ。

 

 私塾に通い始めて数ヶ月、

 曹操は、やはり曹操で独りで居ることが多かった。

 孤独を好むというよりも、孤独であることを苦痛に感じないといった方が正しい気がする。周りに合わせようともせず、独立独歩を体現するような立ち振る舞いをする彼女を相手にする時、話しかけるのは何時も私の方からであった。

 あまり彼女は私塾で交友を広めるつもりはないようで、私以外では許攸と一緒に居るのを見かける程度だ。ああ、そういえば許攸に話しかけているところは何度か見かけたことがある。

 そして、その許攸はといえば私に絡んでくることが多かった。

 

 基本的に私達は出自のせいか避けられることが多く、とてもじゃないが私塾での交友関係は広いとは言えない。

 

 私が私塾に居る時、許攸と一緒に居ることが多い。

 今となっては真名を預けても良いと思えるほどに仲が良くなっているが、そうなる前の彼女は私塾の書庫で引き籠っていることが多かった。大抵は床に座って書籍を読み耽っており、時折、書棚を背もたれにうたた寝してしまっている時もある。

 思えば講義中、彼女は眠っていることが多い。しかし講師に質問を投げかけられると彼女は咄嗟に当たり障りのない無難な答えを返すので講師も渋々引き下がらざる得ず、曹操とはまた別の意味で問題児として扱われていた。

 何時、勉強をしているのか。どうして寝不足なのか。そのことを問いかけると彼女は眠たそうな目で答える。

 

「だって子守唄に丁度いいじゃない、熟睡できるよ」

 

 どうやら彼女は屋敷に戻ってから夜遅くまで書籍を読み耽っているようで、私塾には昼寝をしに来ているようなものだと答える。なんて非効率なんだ、と思いもするが私塾に通っていることには他にも彼女のなりの理由があった。

 

「一つは御師匠様に言い付けられているから、もう一つは書庫の書籍を持ち出せること。最後は袁紹、君と曹操に出会えることだよ」

 

 にへらと緊張感なく笑う許攸のどこまでが本心なのかわからない。

 ただ予習と復習のために書庫に通い詰めている内に許攸との仲が深まり、徐々に行動を共にすることが増えていった。それから私塾の講義が理解できずに苦しんでいると「勉強、教えてあげよっか?」と許攸が軽い調子で提案してくれて、定期的に勉強会が開かれることになった。

 元から許攸は他にも一人、同期の門下生にも勉強を教えていたようで勉強会は三人で開かれる。

 

 この時、面識を持ったのが朱霊という名の女性だ。

 朱家といえば揚州にある名門、丹陽朱家が思い浮かぶが彼女とは一切関係がない。使用人に調べさせてみると彼女の実家は名家というよりも地元の有力者といったもので、辛うじて豪族と呼べるといった程度の家柄の娘であった。

 私塾での成績は並よりも上といった程度、ただ身のこなしは素晴らしいものを持っていることから知略よりも武芸に秀でた人物であるようだ。

 私塾に通っているのも基礎知識を身に付けるためだと本人が言っている。

 

 許攸は彼女のことを残念娘、と呼ぶことが多いけども朱霊のどの辺りが残念なのか私には分からない。

 

 そんな勉強仲間である三人組は私生活でも行動を共にすることが多くなり、巷でも私達三人組の顔は少なからず知れ渡っている。主に私の金払いが良いので、金蔓として覚えが良いだけかもしれないが――さておき、この三人組に曹操も誘ったことはある。

 それで何度か付き合ってくれたこともあるが、彼女が私達の輪に加わることはなかった。

 私塾では孤独な彼女も私生活においては仲間がいるようで、私達よりも身内を優先して市中を歩き回っているようだ。それでも根気よく話しかけているが、いまひとつ手応えを掴み切れていない。

 

 時折、やりにくいわね、と曹操が独り言を零すことがある。

 その真意が考えても分からなかったので許攸に相談を持ち掛けてみたが、袁紹のことを嫌っているからじゃないよ、と彼女は返すだけで本質までは教えてくれなかった。

 たった一度だけ、その内に分かることだね、と誰に言うつもりもなく呟いたことがあった。

 その時の許攸の寂しそうな表情が、妙に印象に残っている。

 

 

 年月は過ぎて、数え年で十歳になる頃の話だ。

 私は勉強会に加えて、朱霊からは武芸を教えてもらうようになった。相手を倒すことよりも生き残ることを主に置いており、守るだけならば形になってきた自覚がある。

 よく頑張るなあ、と私と朱霊の鍛錬を見学する許攸が感心半分、呆れ半分に零す。

 

「何処かの誰かさんが、何事が起きてもいいように備えておくことだよ、って言ってらしたので」

 

 と皮肉交じりに教えてやると「良いことを言ってくれる人も居るもんだねえ」と当の本人は呑気に頷いてみせる。

 もし仮に何かが起きた時、何もできないのと、何かできるとでは明確な違いがある。無論、万が一が起こらないように備えておくことも必要だ。私が剣を振るう時は壊滅的な状況に追い込まれている時に他ならない。しかし、それでも剣を扱えるという事実は、今後の糧になると信じている。

 武芸の講師役である朱霊は御手本のように綺麗な太刀筋だとよく褒めてくれた。

 

 余談になるが、許攸の剣の素質は彼女にべったりの朱霊が黙って首を横に振るほどに壊滅的だった。




ps.
近頃、「真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの」に嵌っています。
前にも紹介しましたが世界観から作り込もうとしている気がする。
この作品を読んで、上記の作品を読んでいない方は是非とも今すぐに読んできてほしいくらいに好き。

あと公式でディザーサイトの方が来ましたね。
来年が今から待ち遠しい限りです。


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伍.曹孟徳

・許攸子遠:(みやび)
許劭の小間使い。

・曹操孟徳:?
私塾の同期生、曹家嫡子。宦官の孫娘


 私、(許攸)は読書の他にも趣味を持っている。

 

 これはまだ私塾に入門して間もない頃の話だ。

 私は独りで小高い丘に陣取り、地面には筵を敷き、帆布を貼り付けた木板を抱える。眼前には見下ろす形で私が暮らしている街があり、愛用の筆を縦に持ち構えながら腕を突き出して縮尺を測る。今日は書き始め、まだ下書きの段階だ。丁寧に目の前の景色と帆布を見比べながら先ずは当たりを取っていった。

 基本的に私は見たものを見たまま、あるがままに書き写すことに注力していた。

 出来る限り忠実に、粛々と線を書き入れる。時折、ふぅっと息を吐いて、間を取ることで全体を俯瞰する。私には絵を描く才能がない、抽象的で印象的な絵を描くことは難しく、簡略化してみたり、迫力のある絵を描くことはできなかった。できるのは目の前の景色、光景をなぞるように筆を動かすくらいなものだ。天の世界には写真と呼ばれるものがあるらしいが、私が描こうとしているのは正に写真と同じものであり、この景色をそのまま帆布に書き写してやりたかった。

 指先一つで撮れる写真、この世界ではまだ実現できない技術である。

 

 絵を本気で突き詰めようと思ったら、技術だけではなくて膨大な量の知識も必要であった。

 人物画や風景画を描きながら、ああでもない、こうでもない、と思い悩んでいる内に天の知識でも曖昧だった人体や建造物の構造、民衆の道具や生活環境、名家の暮らしぶりなどの雑学が増えた。人を見かければ観察する癖が付き、その身形から職業の特定、身嗜みや立ち振る舞い、表情から相手の目的を推測するのが癖になっていた。

 それらは書籍を読んでいるだけでは得られない知識であり、それを調べるのもまた楽しい。

 

 不意に強い風が吹いた。

 画材道具は飛ばされないように押さえたが、代わりに資料として書いた絵が数枚が風に攫われてしまった。

 空を舞う絵を見上げながら、あー、と気落ちする声が溢れる。追いかけようにも私の身体能力では難しい、早々に諦めた私は飛ばされた絵の行く末を名残惜しく見守り続けた。すると遠方で馬に乗った三人組の内、最も小柄な一人がパシッと私の絵を掴んだ。左右にくるんと巻かれた金髪の少女、遠目からでも分かる特徴的な容姿に彼女が同じ私塾の曹操だということが分かった。

 捕まえた私の絵をまじまじと見つめており、三人組の内一人が私の方を指で差した。

 

 おーい、と私は大きく両手を振って、ぴょんぴょんと跳ねてみる。

 すると三人組が私に向けて馬を駆けさせた。曹操が中心で先頭、残る二人が付き従うように曹操の後ろを走らせている。

 そして声が届く距離になって感謝を伝えようとすると、それよりも早くに曹操が口を開いた。

 

「あら貴方だったのね、許攸。早速だけど、この絵を売ってくれないかしら?」

 

 馬に乗ったままの曹操が私の絵を片手に持って告げる。

 まだ売るとも言っていないのに「これだけ出すわ」と彼女は付き添いの一人を見やると、二人の内、聡明そうな方の女性が馬を降りて金子を差し出してきた。絵を買うというには過分な金額、少なくとも下書きの線を清書せず、軽く色を塗った程度の絵に付ける金額ではない。

 視線を上げると当然、受け入れられると思っているのか曹操は興味津々に私の絵を眺めている。

 ふと視線を戻すと金銭を受け取ろうとしなかったせいか、聡明そうな女性が訝しげに私のことを見つめていた。年齢は私よりも一つか二つ上といった程度、しかし体格は私と違って随分と良い。もう一人の護衛らしき女性も目の前の彼女と同じく体格が良くて、胸も大きめだ。なんとなしに顔の雰囲気が似ているので姉妹かもしれない、ただ目の前と女性と比べると少しばかり頭が悪い感じがする。

 今だって、なかなか金銭を受け取らない私に苛立ちを募らせている。

 

「ええい、さっさと受けとれば良いじゃないか! これ以上、孟徳様を煩わせるな!」

 

 とうとう我慢できなくなったのか馬に乗った護衛が怒声を張り上げる。

「待て、姉上」と聡明そうな女性が諌めて、「あら足りなかったかしら?」と曹操が私の絵から顔を上げる。

 いやいや、そういう問題じゃないんだよ、と私は首を横に振った。

 

「それは売り物じゃないからね、売れないよ」

 

 その言葉を告げた時、初めて彼女の観察する目が私の方に向けられた。

 

「どうせ吹き飛ばされていた絵じゃない」

 

 楽しそうに目を細める彼女を見て、試されていると感じる。

 数瞬、目を伏せる。売らない、と言ったのは違うと思ったからだ。では、何故違うと思ったのか。

 直感的な返事に答えを求めて、考えを纏めてから改めて口を開いた。

 

「それは売り物じゃないです」

 

 繰り返した言葉に曹操は目を細めて、じぃっと私のことを見つめる。

 

「では拾った物を勝手に持っていくのは構わないのかしら?」

「……その時はまあ仕方ありませんね。私では貴方達から取り返すことはできません」

 

 自然と言葉が丁寧なものに変わる。

 なるほど、と曹操は楽しそうに頷き「淵、返してあげて」と聡明そうな方の護衛に資料を手渡した。淵――曹家の縁戚と言えば、夏侯家。つまり彼女が夏侯淵、ということは今も馬上から私に敵愾心を向けている馬鹿そうな方は夏侯惇だろうか。

 曲がりなりとも許家の一員として、ある程度の家柄と相関図は頭の中に詰め込まれていた。

 

「うん、ありがと。夏侯淵、だっけ?」

 

 少し気を緩めて、淵と呼ばれた女性から資料を受け取る。

 夏侯淵は少し固まり「ああ、そうだ」と首肯した。

 

「なにかお返しをした方が良いかな?」

 

 曹操に問いかけると「なら、そうね」と彼女は私が資料を入れた鞄を指で差してみせる。

 

「そこに入っているものが見たいわ」

「……全部、資料用に覚え書いたものばかりだけど?」

「ええ、それが見たいのよ。駄目かしら?」

「駄目と言うわけじゃないけども……」

 

 正直なところ良い気はしない。

 絵が見たいと求められれば、屋敷にある絵をいくらでも見せてあげるが手元にある資料は誰かに見せるように描いていないのだ。そもそも作品ですらないので、率先して見せたいとは思わない。

 しかしまあ御礼として求められるのであれば、私の気分の問題だけで断るほどの理由もなかった。

 

「……大事に扱ってくれないと嫌だよ」

 

 それだけを告げると、感謝するわ、と彼女は頷いて馬から降りる。

 

「これから狩りに行く予定ではなかったのですか?」

 

 曹操の後ろに控えていた夏侯惇らしき女性が悲鳴をあげるような声で問いかける。

「また後で埋め合わせをするわ」と曹操がにべもない返事して、あからさまに気を落とす。その時にかこうえんが「姉上、何時ものことではないか」と彼女のことを慰めていたので、二人が姉妹であることは間違いないようだ。そして夏侯淵の姉に当たる人物は夏侯惇の他にはいなかったはずである。

 そんなことを考えていると「開けるわよ」と曹操が私の鞄を手に取ったので頷き返す。

 あまり色々と考えていても仕方ない。私はこれから絵を描く予定だし、彼女も満足したら勝手に帰るはずだと考えて放っておくことにした。

 

「その絵だったら売ってくれるのかしら?」

 

 ふと曹操が訊かれたので、私は少し悩んでから「応相談で」と返事する。

 後ろでは近場の木に馬を括り付けた夏侯姉妹が鍛錬を始めており、金属音が響き渡った。「止めさせる?」と曹操が問われるも私は首を横に振る。あの程度の音であれば、気にならない。目の前にある帆布と景色に意識を集中させる。音が遠のく錯覚、意識が世界に溶け込み、世界から私だけが隔離される感覚を得る。隣で曹操が感嘆するのを感じたが、今はもう気に留めない。

 今日は下書きまで終えるつもりだ、そして明日以降にでも気が向いた時に進めようと思った。

 それから少し時間が経った。

 

「いつも一人なの?」

 

 下書きを進めていると時折、曹操が話しかけてくる。

 

「いつも一人だね」

「この辺りにも賊が湧いているから一人歩きは危ないわ」

「そうだね、危ないよね」

 

 首肯する、曹操が不機嫌になったのを感じたが気に留める程ではない。

 目の前の景色を帆布に書き写すことで頭がいっぱいだった。

 何時の間にか曹操が私の後ろに立っていて、耳に吐息がかかる距離で私の下書きを見ているのが分かる。

 

「貴方の才覚は捨て置くには惜しいわ、私のものになりなさい」

 

 守ってあげる、と囁かれた言葉が色っぽいと思った。筆を腕ごと前に突き出して、縮尺を測って微調整を繰り返す。細かい装飾などは覚え書いておく程度、後で手持ちの資料と見比べながら清書すれば良い。

 

「許劭の養子というだけで誘拐するだけの価値があるわ」

「私の不用心さ加減は自覚しているよ」

 

 そんなことよりも、と私は視線だけを曹操に向ける。

 

「曹操、この景色は物足りないと思わない?」

 

 振った質問に、曹操はきょとんとした顔を浮かべる。

 

「……ええ、そうね。まだ発展する余地はあると思うわよ」

「こういう絵を描いているとね。数年後、数十年後の景色を幻視することがあるんだ」

 

 語りながらも手を動かし続ける、頭は目の前の景色を再現することに注力していた。

 

「今はまだまだだけど……此処は人が集まり、物も集まる場所だよ。私達が大人になる頃には、もっと店も家も増えていると思うんだよね」

 

 なにも考えずに思ったことがそのまま口から出る。

 曹操はただ一言、「私なら――」と前置きした上で「此処に道を作るわ」と帆布を指でなぞった。ああ、それは良い、と私は道を書き足して、その周辺に店を建て始める。商人が寝泊まりする宿舎が足りない、厩が足りない。産業はどうするのか、という話に切り替わって、農地は何処に置くのか。では農地を管理する村人の家を用意してあげて、物が増えれば人が増えると住宅区を設定した。ここまでくると役所が必要だろうとなり、そして防衛するための備えも考える。農地のために川を引き、それをそのまま防衛に活用できるようにと考えた。税金は幾らが妥当か、常駐する兵はどれだけ必要か。架空の豪族や商家まで生まれてしまって、なんだかもう楽しくなってしまった。

 そうこうしている内に帆布は真っ黒となり、私と曹操以外には誰も理解できない有様となっていた。

 

 ああ、楽しかった。と私が満足げに真っ黒な下書きを見つめる。

 隣に立つ曹操に感謝の言葉を述べようとすれば、彼女は私の顎を持ち上げた。

 そして唇を奪われる。

 何が起きたのか分からなくて、唇を重ねられたまま呆然としていた。

 ぷはっ、唇を離された時も理解が追いついていない。

 

「許攸、私のものになりなさい」

 

 その唐突な告白に心は更に動揺した。いえ、と曹操が唇を舐め取りながら言葉を改める。

 

「貴方は私のものになるべきよ」

 

 彼女の獰猛類のような視線に身が竦んだ。

 曹操の背後では夏侯惇が嫉妬するように私のことを指で差しながら怒鳴り散らしており、夏侯淵は思い悩むように黙り込んでいる。いや、助けてくださいよ。と思いはするが私に救いの手を差し伸べてくれるつもりはなさそうだ。

 だから私は天の知識と経験を総動員し、この事態から逃げ切るべく口を開いた。

 

「前向きに検討しつつ、善処したく思ってます」

 

 天の世界で多用される最強の逃げ口上だ。

 その真意を見抜かれたかどうか分からないが、曹操は押し黙ったまま目を据わらせた。それから暫く見つめ合った後、彼女の懐から解放されたが、この時はもう本当に食べられると思って冷や冷やした。

 実際に味見されてしまっているけど、ちょっと気持ちよかったけど。

 

 曹操陣営に勧誘されていた、と気付いたのはもう少ししてからのことだ。

 斬新な勧誘方法もあったものだと思いながら、今日も今日とて執拗なまでの勧誘を受け続ける。

 あれから独りの時、唇に指で触れたり、舐める癖が付いてしまった。




・夏侯惇元譲:?
曹操の側近。夏侯姉妹の姉の方。

・夏侯淵妙才:?
曹操の側近。夏侯姉妹の妹の方。

ps.
時系列がごっちゃになって本当に申し訳ない。
遅れた原因はただ単に次話が面白くならなかったので書き直していただけです。

「真・恋姫†無双 北郷一刀・商人ルート 天下も金の回りもの」
が同日投稿されていたので言葉遣いが可笑しかった箇所の修正ついでに同作品から、どこの政治家なんだよ、と思わずツッコミたい台詞をコピペしています。
皆、天下も金の回りものは面白いぞ!


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間幕・ぽんこつ忍者

・朱霊文博:影丸(かげまる)
忍びの里出身の忍者。

・許攸子遠:?
私塾の同期生、許劭の養子。孤児出身。逆らえない。


 姓は朱、名は霊。字は文博。真名は影丸(かげまる)

 好きな場所は高い所で、忍びの里で培った技術を駆使して監視塔(物見櫓)をよじ登り、そこから周囲一帯を見渡した。高所から見渡す限りの地理を把握するのは手慣れたもので、そのまま地上に降りても正確な地図として活用する術を身に付けている。これは忍者であれば誰もが身に付けている基本的な技術だ。

 私はもう癖になってしまっているので高い場所にいると地理を頭に叩き込まないと落ち着かない。

 

 眼下を見渡していると馬車の荷物が崩れてしまった場所や取り壊された家屋や新築された商店などを頭に叩き込んだ。

 そして息を吐いて、空を見上げる。そして胸一杯に大きく息を吸い込んだ。地上では人通りが多く、雑多な臭いで満ちており、特殊な訓練を受けた私には少し辛かった。

 おかげで風呂好きの潔癖症、空気も地上よりも空の澄んだ空気の方が好きだった。

 

 そんな感じで長閑な一時を堪能していると空の向こうから鳩が飛んでくるのが見えた。

 その足に手に収まる程、小さな筒が取り付けられているのを見つけた私は、鳩に届くように口笛を吹いてみせる。すると鳩は方向を変えて、私の方へと一直線に滑空する。そして私のすぐ近くでバサバサと忙しなく翼を動かすことで失速し、羽根を撒き散らしながら私が前に突き出した腕に留まる。先ず片手で小筒を取り外して、それから餌代わりに干し肉を与えた。鳩は美味しそうに干し肉を噛り付いた後、勢いよく私の腕から飛び立ち、そして飛んできた方へと帰っていった。

 それを見届けてから私は受け取った小筒の蓋を開けて、そして手の平程度の大きさの紙に書かれた文章を眺める。

 

「……わざわざ縁談の話を伝えるために伝書鳩を使わないで欲しいなあ」

 

 憂鬱さから顔を俯けさせる。

 すると眼下にある路地裏で男三人から逃げ出す少女の姿が目に入った。

 許攸や袁紹といった名家や豪族との付き合いを持っていると、つい世の中では女尊男卑の価値観に染まっているように感じるけども、庶民の間だけでは未だに男尊女卑の傾向にある。そもそも女性が男性に引けを取らない膂力を持っているのは氣と呼ばれる技術があるからで、氣を用いない素の身体能力で云えば男性の方が力強い。その上で女性には子を孕んで産むという役割があるので、どうしても外に出て金を稼ぐという役割は男性が担うことになり、女性には外へ出なくても大丈夫なように家の留守を任されることになるのだ。

 名家や豪族、商家の有力者となれば、また事情が違ってくるのだが――今は落ち着いている時ではないか。

 

 トンと監視塔の屋根を蹴り、高場から水に飛び込むように地面に向けて飛び降りた。

 地面に引き寄せられる感覚に身を委ねて、激突する少し前にくるんと身を回転させてから四肢全てを用いて地面に着地する。その猫を模した身のこなしは忍びの技術の一つだ。猫の動きを真似することから、とある流派では猫を師と仰ぎ、慕いて、お猫様と呼ぶ風習があったりする。

 そして目の前には暴漢らしき男が三人、驚きに目を見開いている。

 

「あ、兄貴ッ! 空から女の子がッ!?」

「わかってらいッ!」

「お、お天道様だ! お天道様が兄貴の悪事を見かねて……ッ!!」

「そんな訳があるか、ビビってじゃねえッ!」

 

 お、これはなんだか楽しそうな勘違いをしているようだ。

 背後には衣服を乱れさせた少女が息を切らせている――これはお仕置き決定ですよ、と私は背中に担いだ直刀を抜き取った。

 そして頭上高くに燦々と輝く太陽を指で差し、満点の笑顔で声高々に宣言する。

 

「私は太陽の御使い、貴様の悪事を見るに見かねたお天道様が貴様らを成敗せんと私を遣わせました!」

 

 軽く直刀を振るって準備運動、またつまらぬものを斬ってしまった、とドヤるために気合を入れる。

 

「天に代わって、お仕置きです! 覚悟しなさい女の敵ッ!!」

 

 見得を言い切って、私は駆け出した。

 すり抜けるように三人の隙間を横切る瞬間、数多の剣閃を放ち――そして何事もなかったかのように佇み、直刀を背中に担いだ鞘に納める。またつまらぬものを斬ってしまった、と後ろを振り返ると衣服を全て切り裂いた三人の男が丁度、仰向けに倒れるところだった。峰打ちだから大丈夫だよ、と告げようとしたところで暴漢三人の股間で、男の象徴とも呼ぶべきものが天高く勃起しているのが目に入った。

 そういうことをしようとしていたのだから、大きくなっていることに不思議はない。

 だが気合いを入れすぎたことで褌までも斬ってしまったこと、そして初めて見る陰茎が汚らわしい人物であったという衝撃、それが話に聞いていたよりも余程に物騒でえげつない形状をしていたことに私の頭の中は名状し難いほどにぐちゃぐちゃとなった。何故だか分からないけども、女心を穢されてしまったかのような気分になった私は――その悔しさから男達の股座に立ち、その勃起した逸物の根元を思いっきり力任せに蹴り上げて、兄貴と呼ばれていた人物に対しては全体重を掛けて踏みつけてやった。

 こんな奴に初めてを奪われるなんて、と口惜しく思うけども復讐をしても虚しいだけだった。

 失ってしまったものは返ってこない。

 

「へえ、忍者って実在したんだね」

 

 その言葉に後ろを振り返った。すると少女は私が持っていたはずの紙を片手に持っており、悪戯っぽく笑ってみせている。

 

「朱霊、だよね? 覚えてるかな、同じ私塾の許攸だよ。助けてくれてありがとう」

 

 言い終えて文を私に手渡してきた。呆然としながら受け取ると、許攸と名乗った少女は耳元で囁くように告げる。

 

「縁談って早くない? 忍者ってそういうものなの?」

 

 悪戯っぽく笑う少女に、私は致命的な弱みを握られたことを察した。

 忍者と正体がばれてしまってはこの地で活動することはできない。そして今、忍びの里に戻っては先ず間違いなく縁談を進められる。まだ十歳になったばかりで好きでもない相手と婚姻を結びたくなかった私は「このことは内密にしておいてくれると嬉しいんだけどな〜」と軽い調子で言ってみると「忍者だから?」と問い返されて「忍者だから」と力強く頷き返した。彼女は私の願いを聞き届けてくれるだろうか? どうしよっかな〜、と許攸は焦らすように私を流し見る。なんだか嫌な予感がした、祈るような想いでギュッと目を閉じる。

「可愛い顔だね」と少女はにんまりとした笑みを浮かべてみせた。

 

「私のお願いを聞いてくれるなら考えてあげる」

「えっと、さっき助けてあげたから、その代わりってことで……」

「私、口軽いよ? 見張ってくれないとすぐ喋っちゃうかも?」

 

 人差し指で口元を擦りながら悪戯っぽく告げる彼女の姿に、私は助けたことを後悔し始めていた。

 

 それから数ヶ月間、特に彼女は私に要求して来なかった。

 でも私から興味を失った訳ではないようで、これ見よがしに私へと視線を投げかけてくることが多くって放っておくこともできない。幸いなのは彼女が袁紹との仲が良かったことだ。彼女と近しい関係を保つことは、そのまま任務に関連付けられる。友人関係を続けることは、里に私の実力を見せつける上でも好都合だった。放課後に勉強を教えて貰うのも任務の一環、それで甘味を奢る羽目になるのは必要経費というものだ。経費で落ちないけど。

 ともあれ、繰り返し彼女に勉強を教えて貰っている内に仕送りが尽きた。

 

 そこで彼女が提案してきたのが「なら体で支払ってよ」という言葉だった。

 

 きちんと確認すると房中術を教えて欲しいということだ。

 しかし房中術というのは忍びの里の秘術でもある。全盛期の肉体を維持する術は何処の誰であっても欲しいものだ。しかし氣には相性というものがあり、何処の誰であっても同じ効果が望めるものではない。特に血筋による影響は強い為、各家で独自に研鑽を積み続けていることが多く、秘術としての傾向が強くなっていった。

 だから私がきっぱりと断ると「あの秘密、喋っちゃおうかな」と何食わぬ顔で言い返された。

 

 私が身を強張らせると彼女は身を寄せて、そっと耳打ちされる。

 

「ねえ? 私が勝手をしないように体で教えてよ」

 

 少女に手を取られて、まだ薄い胸元に当てられる。

 私は逡巡する。女性の忍びには房中術の他に、標的を快楽漬けにする為の性技がある。相手を思いのままに操って、情報を吐露させることは勿論、現場から資料を持って来させたり、暗殺の手引きをさせたりもする。言ってしまえば、手っ取り早く現地で協力者を得る為の技だ。中には同性相手に使う技もあったりするが、しかし、私は知識があるだけで実際に行ったことはない。そもそも房中術ですらも相手が見つからず、試したことがなかった。

 顔が熱くなってくる、生唾を飲み込んだ。想像するだけで頭の中が、ぼーっと蕩けてくる。

 

「あれ、思ってたよりも初心な反応? そういう訓練はしてないの?」

「いや、私は……その、戦闘が専門で……! 潜入は、苦手で……だから……それで、使いものにならないからって……これで失敗したら、私は……」

「ふうん、確かに忍者には向いてなさそうかな」

 

 だったら、と許攸は身を寄せてくる。

 

「私で試せば良いじゃん。良いよ、好きに弄っても。貴女好みの体になってあげる」

「だから、私は……その、そういうの、本当に苦手だから……」

「私って氣の才能がないみたいでね。頑張って試しているけども一向にうまくなる気配がないの」

 

 私は氣が扱えるようになりたい、貴女は相手を堕とす練習ができる。誘惑するように囁かれる。

 両手を取られて、顔を近付けられた。息がかかる距離、顔全体が視界に収まらない。ただじっと瞳を見つめられて、なんだか気恥ずかしかったから顔を逸らす。呼吸が荒くなっているのがわかる、熱い吐息が頰に吹き掛けられる。

 忍者なんかよりも余程、淫靡な少女に私は胸が高鳴るのを抑えきれなかった。

 

「まずはお試しでしてみようよ」

 

 じゃないと喋っちゃうから。

 私には最初から彼女の頼みを断ることなんでできなかったことを今、悟った。

 その翌日から彼女に房中術を教え込むことになる。

 

 日頃、彼女は普段と変わらない生活を送っている。

 房中術、といっても基本的には氣の循環を整えたりするだけだ。私が彼女の肢体を揉みながら氣を送り込むことで、氣を扱っているのと同じ状態を維持する。これを日に一度、繰り返すことで彼女の肉体は若さを保ち続けることができる。実際には一日、二日、空くことがあるので僅かに成長をしていっているが私個人としては、もう少し肉付きが良くなってくれた方が嬉しかったりする。その成長を肌身で確認するのも好きだった。

 でも今のままでも構わない、平然とした顔で他の誰かと話す彼女を見ているのは非常に興奮する。

 

 許攸は自分の肢体のことを貧相だと語る。

 だけど古傷だらけの私に比べると綺麗だし、少し乱暴に扱うと壊れてしまいそうな肢体は魅力的に映った。軽く押さえ付けるだけで身動き一つ取れなくなってしまうほどに貧弱な体、彼女と体を重ねる時、彼女の全てを征服したような優越感に浸れた。抵抗はない。なにをするのも私の思うがまま、されるがまま、欲望のままに技から少し外れたことをしても無知な彼女は受け入れる。私の下で淫らに身を捩らせて、くぐもった嬌声を零す彼女に私の体は否応なしに欲情する。もっと触れたい、虐めたい。貴女の全てを曝け出して欲しいとほんのちょっとだけ過激なことをする。私は彼女を堕とすための技を自分から使うことは少ない、大体、彼女にお願いされて試しに使うことがある程度だ。彼女の知的好奇心は性の方向にも遺憾なく発揮されていた。私は練習という言い訳をしながら、ただ興奮するばかりだった。彼女を堕とそうと試みて、実際に堕ちているのは私の方だった。彼女の体に溺れそうになる、彼女を想う心はとっくの昔に溺れていた。胸が苦しくなって、たった一夜、逢えなくてももどかしい。ずっと呼吸が止まっている、そして彼女を見た時、触れた時にようやく私は呼吸をすることができる。日を追うごとに、私は彼女への想いを拗らせる。こんなことではいけないのに、と想いながら今日もまた彼女と体を重ねていた。胸が苦しくなる、伝えられない想いがある。私は忍者だから、そしてあくまでも任務だから、私が彼女に堕ちることは許されない。泣き出したくなるほどの葛藤に、そっと彼女の手が私の頰に触れる。私の下で仰向けになる彼女は、上気しきった顔で微笑みかけてくる。

 こんな時くらい私だけを見つめてよ――情欲を堪えることは非常に難しいことだった。

 

 この任務が終わると結果次第で私は見知らぬ誰かと婚姻しなくてはならない。

 少し前までは、それがなんとなく嫌だった。でも今は絶対に嫌だった。私はこの身体を彼女以外の誰にも見せたくない。これは恋心と呼ばれるものなのだろうか、よくわからない。初めて肌を重ねた相手には否応なしに情を抱いてしまうものだと聞いたことがある。だから初めては里の者か、忠義を尽くす主に捧げる。その一環だろうか、と思って、他の子を誘ったことがあるけども背徳感と罪悪感の方が強くって適当に肉体を解してから帰した。男には興味を持てなかった、彼女を救った日のことを思い出すから誘う気にもならない。

 果たして、この想いは本当なのだろうか、わからない。本当だとして、どうすれば良いのだろうか。

 

 私は婚姻だけは嫌だったから、縁談を壊すことだけを考えた。

 好きものがいる屋敷に潜入して、幾つかの薬を盗み出す。これらは本気で相手を堕とす時に使うものだ。他には不思議な蜂蜜を原料にした秘薬、本来は格式の高い名家にしか出回らないソレも手に入れる。高級品で効果は永続的、それと粗悪品で効果は一時的。もう自分が何をしたいのかわからない。

 いざとなったら自分で処女を破ればいい、そして男遊びばかりしている。とでも白状すれば良い。

 でも私はどうしようもなく乙女で、どうしようもないほどに忍者失格で、初めてはやっぱり好きな人を相手にするのが良かった。

 幻滅するだろうか、嫌われるだろうか。

 今日もまた数多の道具を懐に忍ばせながら彼女と一緒に、お決まりの場所へと向かった。

 情欲に身を委ねることは、情欲を堪えることよりも難しかった。

 

 

 




久しぶりな気がします、どれだけの人間が覚えていることでしょうか。
昔の自分の文章の力の入れ具合に驚く


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陸.十一歳

・許攸子遠:(みやび)
許劭の養子。
・朱霊文博:?
私塾の同期生、ぽんこつ忍者。
・袁紹本初:?
私塾の同期生、名門袁家の長子。妾の子。

・曹操孟徳:?
私塾の同期生、曹家嫡子。宦官の孫娘。


 粘着質な水音が薄暗い部屋に響いた。

 焚かれた香の匂いに頭の端が痺れるような感覚を得る。頰に手を添えられる、優しい手付きで顎を上げさせられて、しかし逃さないようにしっかりと固定される。上から押し付けるように唇を重ねられた。抱き寄せられる、全身を弛緩させる。私を支える彼女に身を委ねる。彼女の温もりに包まれながら、啄ばむように唇を吸われた。その快感に身震いし、もっと欲しいと彼女の首に両手を回した。もっと貪って欲しい、と彼女を誘うように目を伏せる。

 私を抱き締める彼女は消極的であったが、欲望には忠実だった。罪悪感や背徳感に心を削り、その胸の疼きを快感と興奮に変換する。快楽主義者の癖に道徳と倫理に縛られ、苦痛そうな顔をしながら悦楽を貪る彼女のことが愛おしかった。むしろ被虐趣味みたいな一面も持っているので、ちょっと虐めたり、焦らしたりすると彼女の綺麗な瞳から正気が失われて、劣情に濁る様は本当に可愛らしい。唇を離した時、彼女は舌先を出して、私のことを見つめながら荒い息を立てる。まるで犬のようだと思って、彼女の頰に手を添えて、私の方から彼女の舌を迎え入れる。

 力の差は歴然、何時でも主導権を握れる癖に彼女は私の指示を待ち続けた。

 もしかすると隷属趣味も持っているのかも知れない。命令されて仕方なく、本当は嫌だけど仕方なく、そういうのを彼女は好んでいるのかもしれない。少しくらいは襲って欲しいと思うし、虐められたいと思うけども、彼女は優し過ぎるから私のして欲しい事しかしてくれない。

 彼女は加虐的(サディスト)のようであり、その本質はとても被虐的(マゾヒスト)だ。襲いたい、貪りたいと頭では思っていても、心が縛られたい、求められたいと願っている。だから私は彼女の手を取り、表情や仕草に様々な合図を忍ばせる。目敏い彼女は操られるように私の導きに従って、私の望むように唇を押し付けて舌を重ねる。唾液と吐息を交換し、互いに互いを侵食する。

 私個人の好みとしては攻めるよりも受ける方が好きだった。でも誘惑される彼女のことを見ていると背筋がゾクゾクするし、私だけしか見つめていない瞳を見ると興奮する。情欲が愛情を上回ってしまった姿は可愛すぎて、愛おしすぎて、全てを受け止めてあげたくなる。抱きしめたい、それ以上に抱き締められたい。そして私という存在で彼女を溺れさせたかった。私が仕込んだ蜘蛛の糸は濡れた唇同士を繋ぐ糸のように儚く脆いものだというのに、彼女は簡単に雁字搦めに拘束されてしまうのだ。この仕草一つ、言葉一つが罠だと理解しておきながら、彼女は自ら望んで地に堕ちる。時折、人間の扱いを受けることすら嫌がる素振りを見せるから笑っちゃう。

 私は被虐的(マゾヒスト)なようで、その本質はとても加虐的(サディスト)かもしれない。でもやっぱり時々で良いから虐めて欲しいと思うのだ。だからこうして手取り足取りやり方を教えてあげているのに、目敏くも鈍感な彼女は嫌がることをさせられるという状況に興奮して目先のことしか見えなくなっている。

 だから貴方は残念なのだ、だから貴方はぽんこつなのだ。見抜いた罠に自ら嵌り、そして溺れる間者が何処の世界にいる。

 そう言うと貴方は反抗的な態度を見せるけども、縛られたい、犯されたい、求められたい、と期待で胸を高鳴らせてしまうから私は容赦なくお仕置きをしてあげた。足を舐めろと言った時、嫌悪に歪む顔とは別に一瞬、薄っすらと口元を歪ませたのを私は知っている。

 上気させた吐息を吸い込みながら唇を食んで、そしてまた重ねる。何度も繰り返して吸い付いた。唇を離して、お互いの口から涎が垂れるのも構わず、また唇を押し付ける。舌を絡める、私の口内に誘い入れると彼女の舌が私を蹂躙した。私の唾液が舌で掬い取られる、そして彼女の唾液が舌を伝って流し込まれる。無意識に体が震えた、彼女に攻められる口が気持ちよくて仕方ない。犯されるのは気持ちいい、犯させるのは気分が良い。呼吸ができずに意識が朦朧とする、もう彼女の吐息だけが私の肺を満たしている。彼女の匂いで包まれている。

 視界が白く霞んできた頃合いで、体を離される。ぼやける視界、劣情に染め上がった瞳なのに私の体を気遣ってくれているのが分かった。優しいな、もっとがっついてくれても良いのに――待て、がしっかりできる彼女が愛くるしくて、頭を撫でる。

 もう大丈夫だよ、と彼女の口からはみ出していた舌を吸うように唇を重ねる。

 

「ねえ、子遠。接吻だけで何時間も過ぎてるんだけど?」

 

 あれから更に数えきれない程、唇を重ね合わせた後、彼女が半目で問いかけてくる。

 もう顎も舌も疲れ果てた私達は涎が垂れ流しになっているのも気にせず、お互いに口から舌を出したままお互いを真正面から見つめ合っている。

 曹操に唇を奪われた日から私は接吻に嵌っていた。その相手を務めてくれているのは朱霊、ぽんこつ忍者だ。彼女とは私塾に入ってからの付き合いであり、曹操と袁紹に続く三人目の友達である。他二人と比べて彼女は身分が低いので話しかけやすいのが良かった。気軽に買い物や散策に誘えるし、弱味を握った時には房中術の指南を頼むこともできた。

 そして今は曹操との口付けが忘れられず、気持ちが良い接吻の仕方を練習している最中である。

 

「……房中術の訓練、どうする?」

「もう時間がないんだけど……」

 

 障子越しで部屋に差し込む光が、少し弱まっているように感じられる。

 もうそんなに時間が過ぎていたのか。お互いに汗塗れで、胸元も唾液でドロドロだった。帰る前に体を拭かないといけないな、と思いながらも彼女の首に腕を回して顔を引き寄せる。そして鼻先が引っ付く程の至近距離で私は吐息を吹きかける。彼女の見開かれた瞳には、とても自分だとは思えない淫乱な姿の少女が映っている。

 私は笑みを浮かべて問いかける――もうちょっとしていこうよ、と。

 朱霊は元より赤かった顔を更に真っ赤にさせながら視線を右へ左へと逃げるように泳がせる。口は真一文字、耐えるように歯を食い縛っているが、彼女の意思は豆腐のように脆いことを私は知っている。彼女の唇に指先を添えて、強請るように腰を振ってみせる。

 彼女が何かを堪えるように目を伏せる、ふるふると身を震わせたら限界の合図。ガバッと急に抱きつかれて、きゃーっと演技染みた声を上げながら押し倒された。

 あと数分だけ、と彼女は理性が蒸発した顔で自分に言い聞かせるように呟いている。まるで説得力がない、と私は苦笑しながら目を伏せて、全身の力を抜き彼女に全てを委ねる。首元すらも晒して生殺与奪の権利すらも放棄した。ごくりと生唾を飲む音を耳にして、そのすぐ後で唇を貪られる。

 ぎゅっと抱き締められる体は遠慮がなく、否が応でも肺から空気が絞り出された。背骨が軋む音がする、酸欠で意識が飛びそうになる。口を蹂躙する水音が頭の中で反響する、やばい、これ、物凄く気持ちが良い。

 苦しくて、辛くて、無意識に手が天井に向けて伸ばされる。本能からの危機感が助けを求めようとしているが口を塞がれて声を出せず、手は虚空を掴むばかりで何も得られない。背中を叩いても微動だにせず、じたばたと足を動かしても気に留めてくれない。ぷっくりと鼻提灯が膨らんで、ぶくぶくと口から泡が吹き出してきた。

 あ、これは本当にヤバい――涙が頬を伝って落ちる。視界がぐるんと上を向き、ビクンと大きく体が跳ねた。

 それを最後に全身の力が抜け落ちる、チョロチョロと股下から温かい液体が溢れ出した。発情した犬は未だに私の口を貪り続けており、呼吸一つも許さない。そういえば確か、彼女は素潜りも得意だと言っていた。その記録は何分だったか――確か三十分間とか、自慢してた……記憶が…………

 

 

 性行為をしながら死ぬと記録上、腹上死として扱われる。

 では接吻をしながら死んだ時は腹上死として記録されるのだろうか、それとも単なる窒息死として記録されるのか。そんな法哲学的なことに頭を悩まさていると「……暗殺?」と朱霊が少し気不味そうに答えてみせる。

 あの後、私の呼吸は止まってしまったようだが、彼女の懸命な蘇生活動によって息を吹き返している。友達と接吻の練習をしていて、何がどうして殺されそうになったり、その相手に蘇生される事になったのか訳が分からないが――きっと若気の至りというやつが悪いんだと思う事にした。覚醒した直後に大泣きしている彼女に向かって、「今までで一番気持ちよかった」と告げたら「馬鹿ッ!」と怒鳴られた。解せない、馬鹿に馬鹿にだと言われることがこんなにも理不尽なことだとは思いもしなかった。

 それはさておき私と朱霊は一緒に居ることが多い。

 

 朱霊との付き合いが始まったのは、曹操に唇を奪われてから二週間後の話になる。

 曹操も袁紹も家のことで忙しいということで、久しぶりに独りきりとなった帰路のことだ。正直にいえば、寂しいというよりも安心感の方が強い。曹操と一緒に居ると視線が怖いのだ、背中を見せると捕らわれてしまいそうな気配に身の毛がよだつ思いをする。狙われているのが分かる。また接吻をして欲しいと思うことはあるが、一度でも気を許すと骨の髄まで食べられてしまいそうで怖い。

 道中で雨に打たれて、雨宿りをしていたら外は真っ暗になっていた。こんな日もあると夜道を無用心に歩き回っていると暴漢に襲われそうになる。

 そして、その時、月夜に紛れて颯爽と現れて助けてくれたのが朱霊だった。

 

 彼女が実は忍者の末裔と知ったのも、この時だ。

 暴漢と戦っている時に懐から落とした文を拾い上げた時、ふと見えてしまった文章で彼女の正体がわかった。私塾には基礎知識と常識を学ぶために通っているとのことで、それそのものが任務とのことだ。

 他にも任務はあるの? と問いかけると黙り込んだので、心の内でぽんこつ忍者と呼ぶようになった。

 

 曹操と二人だけになるのが怖くて私塾では大抵、私は朱霊か袁紹と一緒に居るように心がけている。

 そうこうしている内に朱霊とは勉強会を開くほどの仲となっていた。基本的に私が教える側で、その代わりに朱霊が甘味などを奢ってくれた。一度であれば、大した額ではなくとも、何度も繰り返すと結構な金額になる。それで朱霊が小遣いが足りないから、という理由で剣術を教えて貰うようになったが――私には剣術の才能がなかったようで、朱霊が黙って両手を上げる始末であった。

 余談になるけども袁紹の筋は良く、今も教えを請うているとのことだ。

 

「他に教えて欲しいものはない?」

「うーん、房中術?」

「房中術かあ、やり方は知ってるけども……房中術ッ!?」

 

 顔を真っ赤にする朱霊、何か可笑しなことを言ったかなと私は首を傾げる。

 この時、袁紹も首を傾げていたが翌日、何故か袁紹がよそよそしくなった。それはまあ数日もすれば普段通りに戻ったが、それ以後、房中術の話題を出す度にそそくさと退散するようになってしまった。房中術と言っても筋肉を解す程度に全身を揉んで貰うものであり、あまりの心地よさにいつも途中で寝ることが多い。

 事を終えると汗だくになるので、同じ風呂に入ったりと裸の付き合いも増える結果になっている。

 

 近頃、曹操の視線が私だけではなくて、朱霊にも向けられている。

 とても嫉妬深い目で、「手を出していないでしょうね?」という言葉に対して、朱霊は首が取れるんじゃないかってほどに首を横に振った。相変わらずのぽんこつっぷりだなあ、と思いながら今日も今日とて一番の友達と共に勉強会と房中術の講習会を行う予定である。今日からは朱霊の体を使って房中術の練習をすることになっていた。

 出会い茶屋、二階の奥の方にある部屋を借りる。

 香の配合はいつも朱霊に任せている。ただ、この時の香はいつもよりも甘ったるくて、頭が少しくらりとした。全身の肌がピリピリと刺激される。ちょっと今日の香は強過ぎない? 問いかけるも朱霊は答えてくれず、上気した顔で私のことを見つめている。呼吸は荒いのに、息を深く吸い込んで吐き出している。ただじっと無言で私のことを見つめていた。ああ、うん、これはあれだね。逃げられるか考える、無理だと結論付ける。逃してくれるか考える、五分だと判断する。身の危険は感じている、でも、うん。朱霊が相手なら良いかなって思ったりもしてる。両手首を掴まれて、そのまま布団の上に押し倒された。私の上で四つん這いになる彼女は、息を荒くしたまま見開いた目で私のことを見下ろしてくる。彼女の熱い吐息が頰に吹きかけられる、余裕のなく、私だけを見つめてくれる朱霊は少し怖かったけども、それ以上に可愛いなって思ってしまった。だから私は全身の力を抜いた、好きにしても良いんだよ? と微笑みかける。

 すると何故か朱霊は項垂れて、押さえていた手を放してしまった。なんでだろ、と彼女の頰に手を当てると冷たいものが指先に触れる。前髪を搔き上げると声を押し殺すように泣いていた。

 もう可愛いなあ、仕方ないなあ。私は彼女を体の上からどけると乱れた衣服を整えながら目も合わせずに告げる。

 

「ぽんこつ忍者」

「……ふぐっ」

 

 自覚はあるのか、気不味そうに顔を背ける。

 まるで悪いことをした後の犬のようだ。

 だから犬らしく少し躾けてあげようと思った。

 

「私は貴方になら初めてを捧げても良かったと思っていたんだよ」

 

 これは本当の気持ち、ほんの数分前までは彼女に初めてをあげるつもりだった。

 房中術の本質が、いくら按摩術(マッサージ)に似ていると言っても肌と肌を重ね合わせることに違いはない。それに気付かないふりをしてあげているが、私が裸体を晒す時はいつも興味津々に見つめてきていた。必死に堪えてるけども手つきが厭らしいことがあるし、結構、際どいところを触ってくることもある。戸惑いながらも接吻まで許してくれた時にはもう彼女が私に堕ちていることはわかっていた。だからまあ襲われるのは時間の問題だと思っていたし、意地悪している分だけしっぺ返しを食らうのは覚悟していた。

 もう半ば付き合っているようなものだと思っていた、だから告白も再確認のような形になると思っていた。

 

「でも駄目だね」

 

 びくりと身を震わせる彼女が可愛くて、愛しくて、つい口元が歪に上がるのがわかった。ああ凄く意地悪してあげたい。

 

「これから私が言うことを繰り返して」

 

 きょとんとした顔を浮かべる朱霊に向けて、誰かの記憶にある英語教師がするように私は人差し指を振りながら告げる。

 

「貴方が好きです」

「……あ、あなたが好きです」

 

 戸惑いながらも繰り返す。やっぱり貴方は犬だよ、と愛しく見下す。

 

「貴方を愛しています」

「あ……貴方を、愛していましゅ……」

「貴方を愛しています」

「……貴方を、愛していまふ! あうっ……」

 

 恥ずかしさで今にも泣き出しそうな子犬。

 よくできた御褒美に頭ではなくて顎下を撫でてやると、彼女は擽ったそうに身を捩り、でも嬉しそうに目を細めた。口の端に親指の先を入れるとねっとりとした唾液が顎を伝う。

 お預けなんて可哀想だね、でもこれは貴方が望んだことだからね。

 

「愛してる」

「……あいひてる」

「愛してる」

「あいひてる」

「愛してる」

「あいひてる!」

「ちゃんと言ってくれたら好きにして良いよ」

「あいひてる! あいひてる! ……あいひてまひゅ!」

 

 愛してる、と正しく発音しようとして何度も繰り返すけども私が入れた親指が邪魔で発音できなかった。

 遂にはポロポロと泣き出しながら、し以外の音も口にできなくなっていった。嗚咽を零しながら必死に愛してるって伝えようとしてくれる朱霊に「そんなに私としたいの? 気持ち悪い」と嘲笑った。首を振ろうとするけども私の手が邪魔で否定できない。時折、他の言葉を口にしようとするけども「愛してる」とたった一言呟いてやるだけで「愛してる」と彼女は泣きながら伝えようとしてくるのだ。ちょっと力を込めれば振り解ける癖に、私が与えた鎖を食い破るなら私は今すぐに襲われても良い。それができるのに抵抗しない彼女は、哀れで惨めで情けなかった。愛してる、と正しく発音できずに可哀想だ。

 そんな彼女を見ているとお腹の奥がきゅんと締まるのがわかった。襲われたい、犯されたい。どうせなら無茶苦茶にされたい。彼女に初めてを捧げるなら生涯の心的外傷(トラウマ)になるくらいの傷を刻み込んで欲しかった。もう貴方以外では満足できない体にして欲しい。でも、それをしてくれない貴方がいけない。

 ぽんこつ忍者、と囁けば彼女はピタリと身動きを止める。待て、ができるのは賢い子だ。

 

「貴方になら私はいつでも襲われても良かった」

 

 でも、口から親指を抜き取る。涎まみれの顎を拭ってやり、軽く匂いを嗅いでから口に含んだ。水音を立てる、と朱霊は呆然と私のことを見つめてくる。興奮するというよりも私以外に何も見えていない、口元ばかり見ている。チュッとわざとらしく音を立てながら親指を抜き、舌舐めずりをしてから続きを口にする。

 

「愛してるってきちんと言えない子には体を許したくない」

「……あ、あっ! っんぷ!?」

 

 だ〜め、と私の涎でべっとりなった親指を彼女の口に入れた。彼女は思わず、と言った感じで私の指を咥える。そして、そのまま舐め始めた。

 

「厭らしい……」

 

 自分の頰に片手を添えながらうっとりと目を細める。

 貶されているというのに朱霊は気恥ずかしそうに身動ぎしながら私の指を離そうとしなかった。その満更でもなさそうな顔に罵声の一つや二つを浴びせてあげたくなったけど、ぐっと堪えた。私は彼女のご主人様になりたい訳ではなかった。こういうのも嫌いな訳じゃないけども、それは時々なら良いっていうだけの話。もうほとんど手遅れに近い気もしないでもないが、私だって彼女のことを御主人様と呼んでみたかった。こういった誰にも見せられない顔をする朱霊は独占したい、でも私だって彼女に独占されたかった。

 だから今の彼女は受け入れられない。とっても残念だけど、また次の機会に。

 

「待っててあげるから、ちゃんと素敵に告白してよ」

 

 彼女の口から指を抜き、その柔らかい頰に手を添える。

 唇を重ねる。ただ本当に優しく触れ合うだけのもの。少し物足りない。でも、それはとっても甘くて美味しい接吻(キス)だ。その味を私は知っている。でも私の初めてを奪われた時よりも、よっぽど上質で美味しかった。

 癖になっちゃう。

 

 

 翌日の話、朝方、曹操に話しかけられた。

「私のものになれ」といつものように勧誘も兼ねたものであったが、その唇を意識した仕草や流し目には内心でどきりとしていた。

 でも今日はそんなこともなくって「考えておくよ」といつもと同じことを返す。すると曹操は訝しげに柳眉を顰めると探るように私のことを見つめてきた。脈がなくなったかしら? そんなことを呟いた後、まあいいわ、とその場を後にする。

 そして放課後、いつもの甘味処にいつもの三人組。それになぜか曹操が同席していた。

 味違いの団子が四つ、それぞれひとつずつ私達の前に置いてある。特に目立った話題はないのだが、それぞれの顔色には特徴があった。まず朱霊は先程から顔色を青くしており、袁紹はうんざりとした顔で私と朱霊の様子を見ている。そして曹操はとても不機嫌そうに私達の様子を眺めていた。なにかおかしなことをしているだろうか、と思いながら朱霊が食べていた団子を横から掠め取り、代わりに私の団子を、あ〜ん、と彼女の口に押し付ける。青褪めてはいるけどもきちんと食べてはくれる。もぎゅもぎゅと口に動かしてから、むぐっ、と喉を詰まらせたような反応をした。

 彼女が見つめる視線の先には、殺気を放つ曹操の姿があった。いや、なんで、そんなに機嫌が悪いんです?

 

「ねえ本初、二人って何時からああなの?」

「いえ、昨日まではもう少し大人しかったはずですわよ」

「……ねえ、朱霊?」

 

 ビクリと身を震わせて立ち上がる

 

「ひゃ、ひゃい!」

「手を出すな、と言外に伝えていたわよね?」

「違うんです、違うんです!」

 

 曹操が睨みを利かせる。

 まあ矛先が私に向いていないのであれば構わない。一言断ってから彼女が飲んでいた茶を啜る。

 私と種類の違うもので「あ、美味しい」とつい声に出た。

 

「あれ、爆ぜないかしら?」

「あら気が合いますわね。(わたくし)もいい加減にして欲しいと少しばかり思ってましてよ」

「まさか貴方と気が合うことがあるなんてね。……なんだか感慨深いわ」

「感慨……?」

 

 曹操が団子を食べながら何処か遠くを見つめるのを袁紹が胡乱げに見つめる。

 相変わらず二人は仲が良いようで、仲が悪いようで、やっぱり仲は良い気がする。

 なんというか曹操は大人で、袁紹に合わせている感じが強い。

 

「ともあれ許攸を手に入れるには二人一緒でなくてはならなくなったわね」

「いくら曹操さんが相手とはいえ、二人は渡しませんわよ」

 

 言ってなさい、と手を振ってみせるところが如何にも余裕ある大人って感じがする。

 二人が言い争いだか、鎬を削るだか、なんだかよくわからないことを耳にしながら本日もまた何事もない一日でした、と締め括る今日この頃だ。

 

 




とりあえず書き溜めてあった分を出させて貰いました。
次話辺りで雌伏編っていうか、幼少期の話が終わります。


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漆.覇王

・許攸子遠:(みやび)
許劭の養子。
・朱霊文博:?
私塾の同期生、ぽんこつ忍者。

・曹操孟徳:?
私塾の同期生、曹家嫡子。宦官の孫娘。


 今年で十二歳、学問所に通う最後の年になる。

 まあ最後だからといって私達のやることには大きな変化はない。周りが就職活動に勤しむ最中、今日も今日とて朱霊と共に勉強会を開いている。参考書を開きながら頭を抱える朱霊を前に、もうひとりの友人のことを思いやる。袁紹は最近、勉強会に参加しなくなった。私は水卜(許劭)御師匠様と働けば良いし、朱霊も実家が忍びの里なので就職先が決まっているようなものだった。そして私達の中で唯一、まだ就職先が決まっていないのが袁紹だった。

 勉学では曹操と私を上回る首席であり、妾の子と蔑まれることもあるが名門袁家の血筋には違いない。

 このまま放っておいても適当な役職を与えられると思うのだが、「それでは(わたくし)の望むものは得られませんわ」と彼女は毎日のように各地へと奔走するようになった。袁紹がなにを望んでいるのかまでは知らない。でも、ひとりの友人としては彼女のことを応援したいと思っている。

 そういえば最近、曹操が私に絡むことが減った。

 学問所にも足を運ぶことが減ったようで、なんだか少し物足りなくなる。彼女もまた成績が優秀なので就職先に困ることはないと思うのだが――これでも曹操と付き合いを持った身だ、彼女が平凡の枠で収まるような人間ではないことを私は知っている。今頃、なにか面白いことを企んでいるに決まっているのだ。

 親指で唇に触れる。会いたいな、と思った。だから会いに行くことを決める。

 

 頭を抱えながら項垂れる朱霊の傍まで、すすっと移動して息を吹きかけるように耳打ちする。

 

「文博?」

「え、あっ! ……な、んくっ」

 

 驚き片耳を押さえながら振り返る朱霊の唇を奪った。軽く吸ってから顔を離して、呆然とする彼女に微笑みかける。

 

「奪っちゃった」

「……勉強にならないんだけど?」

 

 顔を赤くしながら半目で睨みつけてくる。

 怖いなんてまるで感じなくって、むしろ愛おしく思えた。だから顎下を擽ってやる。

 擽ったそうに身震いをした後、朱霊が不貞腐れるようにそっぽ向いた。

 ぺしぺしと頭を叩いても口一つ利いてくれない。

 

 それが少し生意気に思えたから背中越しにぎゅーっと抱き締めてやった。

 耳をぺろぺろと舐めてやれば、彼女は何の抵抗もできなくなる。

 

 

 翌日、いつもの甘味屋で仕入れた新作の甘味を片手に私は曹家の屋敷に訪れる。

 しきりに耳を気にする朱霊を隣に置いて「許攸が来たよ」と曹操への言伝を守衛に頼んだ。待っている間、なんとなしに朱霊の耳に息を吹きかけながら遊んでいると「なにをしているのよ?」と心底呆れた顔の曹操が門の出入り口に立っていた。軽く混乱した私は天の知識にあった言葉を捩り「み、見せつけてんのよ!」と言ったら「はあっ?」と威圧されたから大人しく朱霊を盾にした。

 先ほどまで真っ赤だった顔が、さぁっと青褪めるのは見ものだった。

 

「まあいいわ。折角、来てくれたのだから屋敷を案内するわよ」

 

 そう言ってくれたので、お言葉に甘えて曹操の後ろを付いて歩いた。

 

 さてはて、流石は宦官の最高位である大長秋まで上り詰めた曹騰の屋敷というべきか。

 袁紹の屋敷よりも更に広くて大きい。それに木や岩、池の配置など、全て計算に入れられた庭は歩いているだけでも見飽きることはなかった。「ここで茶でも一杯飲んでみたいな」と何気なく呟けば「私のものになってくれるなら好きに使ってもいいわよ?」と曹操が余裕たっぷりの笑みで返される。少し前までは彼女に話しかけられるだけで胸の高鳴りを覚えた。それがどういう感情なのか分からなかった。少し油断すると沼の中までどこまでも引きずりこまれてしまいそうだったから私は彼女を避けていた時期がある。今は、そういうときめきのような感情を曹操に抱いていない。でも彼女にはちょっと興味を持っていたりする。まだ唇の感触は覚えている。遊び半分、そんな軽い気持ちで彼女に堕とされることに少なからず興味はあった。

 でも、と私は朱霊の腕を取る。不思議がる朱霊に私はにんまりと笑みを浮かべた。

 

 たった一時の気の迷いで失いたくない。朱霊のことを思えば、曹操に未練なんてなかった。

 堕とされるなら朱霊の方が絶対に良い。

 

「見せつけてくれるわね」

 

 曹操が若干妬いた様子で苦笑いを浮かべる。

 ふふん、と私が全身で朱霊を抱きしめると、あたふた、と朱霊が顔を真っ赤にした。

 これで抱き締め返す甲斐性があれば、なお良かったのに。

 

「華琳姉ぇ!」

 

 横合いにガバッと誰かが飛び込んできた。

 体当たりをするように曹操を押し倒した少女、土に塗れる彼女を満面の笑顔で馬乗りにする。倒れたまま身動きを取らない曹操に「元気ないっすね〜?」と少女は見下ろしながら指先で曹操の頰をつんつんと突いている。あ、ちょっと柔らかそう、私もやってみたい。

 曹操は大きな溜息を零すと「何があったの?」と馬乗りする少女に問い掛ける。

 

「なにもないっすよ。華琳姉ぇが居たから抱きついただけっす!」

「ああ、そうなのね……わかったわ。客人が居る時は勘弁してもらえないかしら?」

「……客人?」

 

 少女は曹操に跨ったまま周囲を見渡し、「あっ!」という声と共に私達の姿を見つける

 

「申し訳ないっす、挨拶をしろって言われていたっすよ」

 

 ゆっくりと曹操の上から立ち上がる少女は私達の方を振り返って、元気よく声を張り上げた。

 

「あたしの名前は曹仁っすよ! 華琳姉ぇの従妹っす!」

「……真名」

「あ、いけなかったっすよ! 人前に喋っちゃ駄目だって言われてたっす!」

 

 あわわ、と両手で口を押さえる少女――曹仁の後ろでよろよろと曹操が立ち上がり、曹操にしては珍しい爽やかな笑顔で背後から曹仁の手を取る。

 

「与えていた課題はどうしたのかしら?」

「分かんないから投げてきたっす!」

「あ、ふーん、へえ、そうなのね?」

 

 そのまま曹操は流れるような動きで曹仁に腕緘(アームロック)を決めた。

 曹仁の声にならない悲鳴が庭に響き渡る。「躾のなってない悪い子にはお仕置きが必要ね」と曹操は依然、笑顔のままで更に締め付けを強くした。それ以上はいけない、という朱霊の訴えは無視された。締め付けを少し緩めた後、曹仁は苦悶の表情のまま荒い息を吐き出し、そしてまた強く締め上げられて悲鳴を上げた。曹操にもこんな一面があるんだなあ、と私は目の前で行われる従姉妹の触れ合いを我関せずと和やかに傍観する。

 数分後、地面に倒れた曹仁が締め上げられた腕を抱えながら、はらはらと涙を流していた。

 

「大丈夫なの、あの子?」

「大丈夫よ。元気と頑丈さが取り柄みたいな子だし」

 

 曹操はパンパンと手を叩きながら素っ気なく答える。

 

「姉さん!? またなにかしでかしたのですか!?」

 

 またひとり、遅れて現れたのは先ほどよりもお淑やかそうな少女だ。

 髪は背中を隠すほどに長く、毛先がくるっと巻いてある。姉さんと言った辺り、彼女もまた曹操の親族なのだろう。三人共に目元や顔の作りが似ている気がする。性格は随分と違うようだけど。

 曹家の屋敷なだけあって、曹操の親族が多い。夏侯惇や夏侯淵も居るのかも知れない。

 

「大丈夫、何時ものよ」

「また飛びついたのですね……もう、あれだけやめるように言ってるのに」

「好かれるのは嫌いじゃないわよ。ただ、そうね、ちょっと油断したかしら」

 

 いつもは避けてるのよ、と流し目で私達を見る。そこで漸く曹仁の妹さんらしき娘が私達の存在に気付いたようで「すみません、気付かなくって」と頭を下げてくれた。

 

「私の名は曹純、字は子和と申します」

「ご丁寧にどうも、私は許攸子遠。でこっちが……」

「いえ、知っています。朱霊さん」

 

 にこりと微笑んでみせる曹純に、朱霊が少し居心地悪そうに笑顔を返した。

 

「ところで貴方まで抜け出してくるなんて珍しいわね、勉強はどうしたのかしら?」

 

 曹操が割って入るように曹純に声を掛けた。

 

「姉さんが姿を消したから少し探しに……姉さんはどうして出て行ったの?」

「与えられた課題が終わったからっすよ」

 

 曹仁が片腕を抱えながら、よろりと身を持ち上げる。

 

「早く褒められたかったっす」

「後で見ておくわ。私は二人の案内で忙しいから残りは好きにしてても良いわよ」

「え〜っ?」

 

 ぶーぶーっと口先を尖らせる曹仁。

 邪魔にならないように行きますわよ、曹仁の首根っこを掴む曹純。

 困った子ね、と満更でもない顔で微笑む曹操。

 なんというか和やかだ。

 

「あら、許攸。どうかしたかしら?」

 

 問いかけられて、ん〜ん、と私は首を横に振る。

 

「良いなって、ちょっと思っただけ。素敵だよ、二人を見てる時の曹操って」

「あら、私のものになってくれたらいつでも見せてあげられるわよ?」

「今なら満更でもないんだけどね。でも、やめとく」

 

 私は朱霊に飛びつくように首を抱き締めた。そして見せつけるように頬擦りしながら笑ってみせる。

 

「私、これでも嫉妬深いからね。曹操と一緒だと身が持たないよ」

「きちんと可愛がってあげるわよ。それこそ毎日だと身が持たないくらいにね」

「それは魅力的だね、これは私が心移りしないように文博には頑張って貰わないと」

 

 軽く朱霊の頰に唇を押しつけてから体を離した。

 私は当て馬かしら? 呆れ半分に告げる。 いやいや割と本気だよ、どろどろに堕とされそうだったから避けてたところもある。たぶんそれは今でも変わらない。私では曹操には敵わない。愛し愛されるではなくて、きっと一方的に愛される。それはそれで魅力的な気もするけども、でもまあきっとそれは私が求めることではない。曹操の隣は落ち着かない、慣れることはない気がする。

 私にとって朱霊の隣が最も居心地が良かった。

 

「……曹操様」

「取らないわよ、その気のない相手には手を出すつもりはないわ。もちろん、貴方にもね」

 

 ひらひらと手を振り、屋敷を案内するわ、と歩き出した。

 不安げな朱霊と少し見つめ合ってから、曹操の背中を追いかける。

 

 

 曹騰の屋敷、その石畳の廊下で談笑を交わしている。

 とはいえ話しているのは私と曹操ばかりで、相変わらず、朱霊は気不味そうに押し黙っていた。なにか後ろめたいことでもあるのか、此処に来てからというもの少し元気がなく、誰とも目を合わせようともせずに俯いている。気にかけようとすると曹操が私に話題を振ってくるので、声をかける機会を失っていた。

 まあ、あまりにも酷そうなら後で慰めればいいかな。と今は曹操との会話に意識を向ける。

 

「そういえば、貴方。確か、人物評論家である許劭の弟子でもあったわね」

 

 そうだけど、と私が頷き返すと曹操が悪戯っぽく口角を上げながら告げる。

 

「私のことも評論してくれないかしら?」

「私が? 曹操を?」

「ええ、そうよ」

 

 ちょっとした余興よ、と曹操は艶やかに笑みを浮かべてみせる。

 私はまだ人を推し量れるほどの人間じゃないんだけどね、と思いながらも数少ない友達の為に思考を巡らせる。それまでの性格や言動、そこに天の知識すらも合わせて、彼女を表現するに足る言葉を模索する。そして、じいっと曹操と瞳を見つめた。浮かんだ言葉が本当に彼女に合っているのかどうか、彼女の青い瞳から内面まで見透かせるように探りを入れる。候補は二つ、最初に思い浮かんだ方は違うと首を振り、もう一つの言葉の成否を確かめる為に曹操の瞳だけに意識を集めた。

 曹操が満更でもなさそうに目を細めてみせるのを見て、これで大丈夫と自らに言い聞かせるように頷き答える。

 

「清平の奸賊、乱世の英雄」

 

 朱霊が動きを止める、場の空気が凍ったような錯覚を得た。

 

「ふぅん、貴方は私をそう評するのね」

 

 ねえ、と曹操が私の顎を手に取ると息が吹きかかるほどの距離で私のことを見下ろす。

 

「どうしてそう思ったのかしら?」

 

 その問いに私は正直に答えることができない。

 何故なら根拠は天の知識にある。私は知っている数千年後に訪れる泰平の世を、清平とまでは行かずとも、やむ終えない事情で犯罪を犯す者がほとんどいない時代を知っている。そして、その時代を鑑みて思ったのだ。きっと曹操は満足しない。挑戦することを諦めず、刺激を求めて、何処までも高みまで駆け登る。どの時代であっても彼女は適合するだけで生き方を変えることはあり得ない。そもそもだ、犯罪だからといって彼女程の女好きが女性に手を出すのをやめるだろうか? あり得ない。むしろ、姦雄と呼んでも良い。

 乱世の英雄はそのまんま、彼女には天下を治める能力がある。乱れた世を治める事は、彼女のような当代一の才の持主でなければ手が出せない。かつては太公望、始皇帝、高祖、光武帝。数百年後の未来にまで名を残す偉人と並び立つ偉業になる。

 天の知識に説明が付けられず、私が答えに窮していると「まあいいわ」と手を離してくれた。

 

「前の時とは真逆ね」

 

 そう告げると背を向ける。

 

「孟徳さまぁ〜!」

 

 ガチャっと扉が開け放たれて、曹操以上の身の丈ある女性に横から飛び掛かられた。

 そして少し前に見た光景と同じく石畳の床に倒れる曹操。そして、その上で馬乗りになりながら涙目で訴えてくる――彼女はえっと、確か夏侯惇だったはずだ。見た目とは裏腹に随分と子供っぽいと記憶に残っている。馬乗りにされた曹操は膝で夏侯惇の尻を持ち上げると、前屈みになった夏侯惇の耳を引っ張り、脇下に引きつけながらごろんと横に転がってみせた。そして、気付けば曹操が夏侯惇を馬乗りにしている。

 孟徳様? と引き攣った笑みを浮かべる夏侯惇に曹操は無言の笑顔で答える。

 

「お仕置きが必要かしら?」

「あ、いえ……その、勘弁いただければ……」

「流石に二度目にもなると、ね?」

 

 曹操に脇や横腹を擽られた夏侯惇が大きな笑い声を上げる中、私は天の国で行われる短距離走と呼ばれる競技で、二回目の待った(フライング)を受けた選手が競技場で寝転んで抗議の意思を示す場面を思い出した。一人目は許されるのに、二人目は許されない。あの規則ってちょっと理不尽だよね。まあみんな、一度目は待った覚悟で始めるから何度もやり直しになるんだろうけどさ。

 

「許攸か」

 

 夏侯惇が飛び出してきた部屋から書籍を片手に持った夏侯淵が姿を現した。

 そこから部屋の中を覗き込むと先程、庭であった曹仁と曹純の姿があり、あと一人、お嬢様っぽい見知らぬ顔もあったが金髪がくるっとしているので曹操の親族だと思われる。誰も彼もが参考書を開いており、勉学に励んでいるようだった。そして壁の一面には大きな黒板と教壇が置いてあり、黒板には所狭しと図面に文字が書き連ねてある。

 学校、だろうか。天の知識にある教育機関の光景に似ている気がした。

 

「見られちゃったわね」

 

 夏侯惇が全身を痙攣させながら気を失っている横で曹操がばつが悪そうに告げる。

 

「……曹操が、これを?」

 

 部屋の中を指で差しながら問いかけると、彼女は首肯する。

 

「後で人手不足になるのは目に見えているもの、なら今のうちから鍛えておこうと思っただけよ」

「……文官として、だけではないみたいだね」

 

 夏侯淵の書籍を横目に盗み見る。

 中には過去に起きた裁判の判例が書き込まれていた。部屋の奥を見れば、屯田や治水、更には税収に関する資料や参考書まで置かれている。徹底的に実用向けの書籍ばかりを揃えた書籍群。まるで今から領地の運営術を叩き込んでいるようではないか。

 曹操は肩を竦めてみせる。

 

「この天下を治めるのに一人の力だけでは限界があるとは思わない?」

「……曹操、貴方には何処まで未来が見えてるの?」

 

 彼女は不敵な笑みを浮かべてから答えた。

 

「覇道の果てまで」

 

 その存在の強大さに、ぶるり、と身が竦んだ。

 

 

 




誤字報告、ありがとうございます。


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間幕:雄々しく、勇ましく、華麗に進軍ですわ

・袁紹本初:麗羽(れいは)
名門袁家の長子。妾の子。


 (わたくし)、袁紹。つまり麗羽にとって、袁術とは邪魔者だった。

 名門袁家の長子として生まれた当初は可愛がられたにも関わらず、正妃との間に子が生まれた途端に周りの反応は手の平を返したように私を妾の子と乏しめた。私個人のことは構わないが、母までもが貶されることは耐えきれない屈辱として今も記憶に残っている。

 そして袁術、私から成り代わるように次期当主の座を奪った奴の名前だ。

 今は名門袁家の次期当主に固執している訳ではないが――その座を袁術に奪われるのは未だに納得ができない。なぜなら私は袁術の顔を生まれてから一度も見たことがない。それは袁術が私を見下してのことではない。そもそも袁術は屋敷から出て来ず、自分の部屋から出てくることもほとんどなかった。研鑽を積むこともせず、蜂蜜水を飲むだけの日々を送っていると云う。

 つまり、それは私が胸に刻んでいる名門袁家の家訓。

 

『名門足る者は常に華麗足れ』

 

 という言葉に反した生き方をしていると云うことだ。

 特に名門袁家は民草や奴婢からの労働力で得た資金を糧に生きているのだから、得た利益はしっかりと民草と奴婢に還元すべきなのだ。そして民草の上に立つ存在であるから規範となれるように常に研鑽を積み重ねて、礼儀作法、姿勢にいたるまでを正しく身につけなくてはならない。無論、教養を得ることも大事だ。名門足る者は決して、侮られてはならない。何故ならば、私達は民草の代表なのだ。私が侮られることは従える全ての人間が侮られることと同義である。

 高貴さには義務が生じる、その義務を放棄することは高貴さを放棄することと同義だ。

 

 そして袁術に限らず、今の御時世には義務を放棄した名家で溢れていた。

 民草は権力者の食い物ではない。民草が権力者を食わして、権力者が民草の暮らしを豊かにする。

 そんな関係こそが理想だと考える。

 汚職だらけで犯罪が犯罪と分からない濁流が今の世の中だとするならば、私は世の中を清らかな流れにしたいと思った。

 少なくとも今の世の中は間違っているから、それを是正する為の力を欲している。

 

 その為には名門袁家の力は必要だ、許攸の深い見識は絶対に欲しい。

 そうでなくとも友人として許攸、そして朱霊とは道を違えたくはなかった。

 できることなら同じ道を歩みたい、と願っている。

 

 私が学問所に通い続けるのは大きく二つの理由がある。

 ひとつは学業で主席を取ることで、私自身の評判を上げることだ。もうひとつは人脈を広げることにある。

 義父袁成から勧められた時には考えが及ばなかったことだが、この学問所は冀州の各地に存在する名家がこぞって通わせる名門中の名門であった。つまり、ここで交友を広げるだけでも私は力を蓄えることになり、ここで上げた評判は今後に必ず私の為になる。

 じっくりと力を蓄えること四年間、学問所に通う最後の年。卒業すると私達は役職に付けられる。

 まあ半分以上は役人になる為の試験を受けることになるのだろうが、私や曹操、許攸といった成績優秀者には無縁の話だ。朱霊は微妙だが、彼女の場合は実家に帰るという手段があった。とはいえ、このままの流れだと、きっと私は名門袁家の意向で役職が決まる。そうなると袁術の為に働かなければならないかもしれない。あのまるで駄目な女の下で飼い殺される未来もある。

 それだけは絶対に避けなくてはならない。

 

 その為に積み重ねてきた人脈があり、絶えず学び続けてきた知恵と知識がある。

 

 ある程度、自分の意思を貫く為には何をすれば良いのか。

 それは袁家の外にまで知れ渡る評判だと思った。袁紹は凄い、という評判を世間から得られれば袁家の意向だけで進路が決まることはない。少なくとも優秀な人材を飼い殺すことは外聞が悪いはずだ。この一年間で得られる分かりやすい功績とはなにかを考えた。答えはすぐに見つかった。

 賊退治、世間をさわがす彼らの存在は歩く功績だ。

 

 許攸と初めて出会った日から贅沢を控えるようになり、自然と貯まってしまったお小遣い。

 学問所で許攸と再会してからは意識的に貯め込んできた。

 その全てを今、投じるべきだと判断する。

 

 ここで終わるようなら最初から私はそれまでの人間だったのだ、自らに言い聞かせるように覚悟を決める。

 雄々しく、勇ましく、華麗に袁本初が築く道の一歩目を踏み出すのだ。

 

 



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捌.十二歳

・許攸子遠:雅みやび
許劭の養子。
・朱霊文博:?
私塾の同期生、ぽんこつ忍者。
・袁紹本初:?
私塾の同期生、名門袁家の長子。妾の子。


 この日、私は木板に貼りつけた帆布に筆を走らせていた。

 趣味で始めた絵ではあるが、数年も描き続けていれば形にはなるようだ。何度か朱霊に協力して貰ったこともあり、人物画だって随分と上手くなった気がする。人体構造から理解して書くことが大事だと天の知識にあったので、試しに何度か朱霊を題材に描かせてもらっていた。そして、この前にたっぷりと時間を掛けて描いた絵は、顔を真っ赤にした朱霊によって燃やされかけた。細部まで拘った会心の出来、きっと後世にまで残る。と断言したら無言で直刀を抜いてきた。慌てた私は衣服を上塗りすることで説得し、だったら早く描け、と背後から圧力を掛けられながら衣服を描き足した。ちなみに上塗りの絵の具を削れば、裸体が晒されることは内緒だ。この絵には浪漫が詰まっている。実際、綺麗に上塗りの絵の具だけを削ることは不可能に近いだろうが、それでもこの衣服の下には確かに書かれていた朱霊のありのままの姿が描かれている。そのことを知っている私は朱霊の絵を眺めているだけでも心の奥底から込み上げてくるものがある。好きこそものの上手なれ、という言葉が天の国にはある。私は朱霊大好きな気持ちがちゃんと詰め込められているだろうか?

 今は描きあげた朱霊に装飾品で着飾り、少し絵の寂しいところに小物を描き足す作業に入っている。

 朱霊が退屈そうに欠伸をするのを横目に見て、くすりと笑う。そんな日常的な光景、時折、どたばたと慌ただしい足音を立てた袁紹が部屋に飛び込んでくるのも稀によくある話だった。

 

子遠(許攸)さん、文博(朱霊)さん! 居ますわね!?」

 

 扉を開け放った袁紹に「ああいいところに」と私はゆるりと振り返って帆布に描いた朱霊を披露する。

 

「どうかな? 文博の魅力の半分程度は引き出せたかなって思うんだけど?」

「あら良いですわね。少し大人っぽくて色気を……って違いますわ!」

 

 流れるようなノリツッコミ。冗談半分なのは事実だけども半分は本気、それどころではありませんわ、とまくし立てる袁紹に少し残念に思いながらも帆布にそっと布を被せる。

 

「それで今日はどうしたの?」

 

 問いかけると袁紹は胸に手を当てると高らかに宣言する。

 

(わたくし)、挙兵しますわよ!」

 

 ………………。

 私は無言で朱霊に目配せをすると、朱霊は黙って首を横に振った。

 そして私は天井を仰ぎ、とりあえず袁紹を椅子に座らせてから帆布に掛けた布をそっと開ける。

 

「この文博で最も力を入れたのは……」

「さらっと流そうとしないでくださいまし!?」

 

 どうやら誤魔化しきれないようだ。

 これが単なる思い付きであれば、適当な言葉を重ねるだけで話を有耶無耶にしてしまうことも可能だが、今日の袁紹はひと味違っている。まあ、と私は溜息を零しながら袁紹の真正面に座り、手で朱霊に隣まで来るように指示を送る。コツコツと足音を鳴らされる。それは徐々に近付いて、私の真後ろで止まった。疑問に思うと同時に朱霊がたどたどしく私の脇下に手を差し込んで、優しくお腹を撫でるように抱きしめられる。

 これでいいの? と耳に息を吹きかけるように囁かれた。

 違うよ、ポンコツ忍者。その言葉は心の奥底で留めて、袁紹を見据える。

 

「それでどうしたの?」

「その姿勢で話を続けるつもりですの!?」

「これはちょっとした手違いだよ」

 

 違った!? と衝撃を受ける朱霊はさておいて、いい加減に本題に入ろうと先を促した。

 いまいち釈然としない様子の袁紹だったが、このままでは話を始められないと悟ったのだろう。

 観念するように、袁家における自分の立ち位置について、つらつらと語り始める。

 

 要約すると、

 力を持つ存在がきちんと力を使わないから世の中は荒れている。

 というものだった。

 

 そんな世の中を是正する為には、名門袁家の力が必要だ。

 しかし現状、袁紹の立ち位置は決して良いものとは言えない。妾の子という蔑称は名門袁家の汚点として扱われていることを意味する。そんな袁紹が力をつけることを袁家の者達が良い感情を持つはずがなかった。このままでは使い潰されるか、飼い殺される。そんな懸念を袁紹が抱くのはおかしなことではない。

 では袁紹の懸念を払拭する為にはなにをすれば良いのか、それは分かりやすい功績を立てることだ。

 義勇兵を募り、自主的に賊退治をすることは――まあ官軍からすれば面白くないだろうが、とりあえず袁紹の未来を守ることに繋がる。周囲に袁紹の功績が知れ渡った時、名門袁家は袁紹を飼い殺すことはできなくなる。飼い殺すことで袁紹の功績を袁家が掠め取ることも難しくなるはずだ。

 博打に見合う報酬はある。問題があるとすれば、軍事を得意とする人間が私達には居ない、ということか。

 だが、私は静かに息を吐き捨てた。

 

「……義勇兵を維持するのも大変だよ?」

 

 頼ってくれたのは嬉しい。でも正直な話、賛同はできない。

 その理由のひとつは、私達は袁紹ほど切羽詰まっていない、というものだ。

 申し訳ないけど、私も朱霊も将来が約束されている。

 

「……私を忍びとして雇ってくれるなら力を貸すよ」

 

 未だに私のことを後ろから抱き締める朱霊が口を開いた。

 

「私、子遠以外との縁談なんて嫌だから」

 

 頰を朱に染めながら、そっぽ向いた。そういえば、そんな話も合ったなあ。

 

「ええ、里を通じて正式に雇いましょう。できれば終身契約で」

「それは勘弁して欲しい。私、忍びとして認められたら子遠に仕えるつもりだから」

「……仕えられても困るんだけど?」

 

 あまり朱霊とは仕事上の関係にはなりたくない。

 とはいえ朱霊が他の誰かと縁談を結ぶというのは嫌だった。朱霊の為に、そして袁紹の為に、この二人の友達に力を貸すのは嫌ではない。むしろ好ましいとすら思っている。それでも私は保身に走る、そして私のいう保身とは朱霊と共に居られる未来を守ることだ。

 大きく溜息を零して、不精不精、と二人に引きずられるように口を開いた。

 

「今は何処まで話が進んでいるの?」

 

 その言葉に朱霊と袁紹の二人が破顔してみせる。やめてよ、ちょっと恥ずかしいじゃん。

 

「とりあえず義勇兵を百人まで集めることができましたわ。装備や糧食の発注は、こんな感じでよろしいかしら?」

 

 どうやら思っていた以上に話は進んでいたようだ。

 袁紹の書簡を受け取り、とりあえず現状の把握に努める為に頭を働かせる。

 随分と高価な装備や糧食を配給する予定なんだなあ。

 

「予算は?」

 

 このくらいですわ、と袁紹が思い出したように書簡を手渡してきた。

 それを見て、袁紹が義勇兵を百名だけに留めた理由が理解できた。これは節約しても二ヶ月しか保たない。それでも私達が動かすには多過ぎる金額なんだけども、商店や荘園を開く為の初期投資としては充分過ぎる金額がある。

 最初が肝心、資金が尽きる前に後援となってくれる存在が私達には必要だ。

 

「装備と糧食はもっと削らないと義勇軍を維持できないよ」

「これでも相当、落としたつもりですが……」

「名門袁家の金銭感覚だと、そうなっちゃうんだなあ」

 

 とりあえず、これは私で預かる案件になりそうだ。

 袁紹には練兵に精を出して貰って、朱霊には情報を集めてきて貰う必要がでてきた。

「できる?」と横目に問い掛けると「頑張る!」と答えが返ってきた。

 駄目そうですね。

 

 これからは少しばかり忙しくなりそうだ。

 

 

 ひと月が過ぎる。義勇軍の調練は、袁紹自身が付けている。

 補佐には情報収集から帰ってきた朱霊が付いており、私は調練の様子を小高い丘の上からぼんやりと眺めている。

 あまり忙しいことにはならなかった。というのも袁紹自身が「将来のことを考えれば、こういった役回りも知っておいた方がよろしいですわね」と自ら率先して事務仕事をこなしているのだ。そして私は彼女の相談役という立ち位置に収まっている。何処で調練をすれば良いのか、とか、書類はこれで大丈夫なのか、とか、そういったことを助言している。

 つまり目の前で調練を続けている義勇軍は、袁紹個人が自ら考えて作り上げた集大成と呼べる代物だった。

 こうやって頑張っている姿を見ていると応援したくなるものだ。

 

「様になりましたね」

 

 頭に笠を被り、竹籠を背負う薬売りの少女に話しかけられる。

 そうだね、と振り返らずに告げると彼女は懐から綺麗に折り畳まれた文を取り出し、それを私に差し出してくる。受け取ると彼女は軽くお辞儀をした後で静かに立ち去った。文は懐に入れる。調練に精を出す袁紹は私が誰かと一緒にいたことなんで欠片も気付かなかったけども朱霊にはしっかりと見られてしまっていたようで嫉妬深い目で私のことを睨んでくる。そんなに私を独占したければ、さっさと告白すれば良いのだ。どうせ両想いだって分かっているんだし――しかし奥手の彼女はなかなか私に告白してくれない。私を見つめる愛しい彼女に向けて、にんまりと笑みを浮かべてやると朱霊は不貞腐れるようにそっぽ向いた。

 あらあら、そんな態度を取っても良いのかな。私だっていつまでも待ってるわけじゃないんだよ? 曹操のところへ行っても良いんだからね。実際に行くつもりはさらさらないけども、それくらい思わせぶりなことを言っても罰は当たらないと思う。

 

「ありがと、何顒」

 

 中身を確認しながら伝えると彼女は僅かに会釈してから場を離れた。

 彼女のお墨付きも貰ったことだし、賊退治に出向くには頃合いか。受け取った文には、この近辺に潜伏している賊の情報が書き込まれていた。御丁寧にも大まかな数まで記されている。

 この調練が終わった後、袁紹に出陣を提案してみようと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは完全に余談になるけど、

 次の房中術の練習日、朱霊はやけに積極的だった。

 やっぱり可愛い。

 

 

 



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玖:遠征

・許攸子遠:雅《みやび》
許劭の養子。
・朱霊文博:?
私塾の同期生、ぽんこつ忍者。
・袁紹本初:?
私塾の同期生、名門袁家の長子。妾の子。


 姓は何、名は顒。字は伯求。

 その詳しい素性は知らないが、仲買人として知る人には知られる人物であった。

 彼女自身は多くを語ることはないが、その能力は信用に値する。適正な金額を手渡すだけで必要なものは全て期限内に取り揃えてくれた。そして彼女の扱っている商品には情報も含まれており、今回は金を握らせて近辺に潜伏する賊の情報を集めて貰っている。ちなみに彼女が私に力を貸してくれているのは、お得意先である許劭の養子だからであり、今後も関係を続けるかどうかは今回の結果次第という話をされている。

 そして予想以上に袁紹が頑張ってくれたおかげで暇になった私は工作活動に勤しんでおり、その後ろでは何顒が興味深そうに私の手元を観察している。

 

「……何顒さん、今日はもう用事はないのでは?」

「ええ、ありませんよ」

 

 いつもの薬屋の格好で微笑んでみせる。

 可愛いというよりも綺麗で格好いい容姿、切れ長の目を細めるだけで誰かの心を射止めてしまいそうだった。私自身、恋愛感情は抱かないけども姿形が好みではある。目の保養、見ているだけなら浮気にならない。しかし、それも観察する側での話だ。特に会話もなく後ろからじいっと見つめられるのは気疲れする。

 何顒は仕事人っていう感じの人なので、本当に必要なことしか話してくれない。

 

「……弩、ですね」

 

 呟かれるような疑問に、その反応だよ! と彼女から振ってきてくれた話題に嬉々として飛びついた。

 今、私の作っているのは天の知識に則るのであれば、クロスボウ。つまり片手持ち用の小型の弩であった。こんな小型のものを使うくらいであれば、最初から弓を使った方が良い。そんなことは分かっている。しかし私は非力だ。朱霊は飛ばす程度に弓を扱えるし、袁紹は十五間(約27.3m)先にある的に当てることができた。しかし私は弓を引くことすらもままならない。剣の腕前は朱霊が黙って首を横に振る程度には才能がない為、自衛手段の一つとして考えたのが小型の弩だった。

 まあ一回しか使えない不意打ち用、ないよりはまし程度の代物だ。

 

「威力はあるんだけどね」

 

 と引き絞った弦の留め具を外せば、バシュッと矢の先端が木の幹に突き刺さった。

 

「……暗殺用ですね」

「大きすぎるんじゃない?」

 

 真顔で頓珍漢なことを呟く何顒に苦笑する。

 持ち運びと取り回しが良いだけで衣服の中に忍ばせられる代物ではなく、小型で飛距離も短いので、実践向けではなかった。あくまでも自衛手段を保たない人間が、申し訳程度に自衛する為の武器に過ぎない。

 弩上部に取り付けた梃子を引っ張りあげる事で弦を引き絞る機構と取っているので非力でも安心設計だ。

 

「それ、どういう仕組みになっているんです?」

 

 何顒が興味深そうに問いかけてきたので、梃子を引っ張りなら押し上げるだけと伝えておいた。

 

「……貴方って金儲けができない性格をしていますよね」

 

 溜息交じりに呟かれる言葉に「あんまり興味はないからね」と素知らぬ顔で告げる。

 私は私が幸せであれば、それで良いって思っている。その為には金銭も必要だけど必要以上の金銭は荷物になると考えていた。あまり周りから束縛もされたくない。朱霊になら束縛されるのも吝かではないけども、やっぱりある程度の自由は欲しかった。私は我儘で自分勝手だと自覚している。ただ今となっては私の幸せに朱霊は必要だし、袁紹も放っておけないところがある。だから私も二人の足を引っ張らずに付いていけるように努力する。今日日守られ系お姫様は流行らないのだ。

 なんだかんだで欲張りになってきた、あれもこれもと守りたいものが増え続ける。

 

「真っ当に生きていれば、そんなもんですよ」

 

 そう言って何顒が微笑ましそうに目を細めてみせるのだった。

 

 

「ここから少し北に進んだところに三十人規模の馬賊がいる」

 

 いつもの面子、いつもの甘味処、その個室で開いた地図を指で差した。

 朱霊は食い入るように地図を見つめながら頷き、袁紹は腕を組みながら視線だけで私に話の続きを促す。

 私は軽く深呼吸をしてから戦力分析に入る。袁紹義勇軍は総勢百人、歩兵中心の編成だ。対する馬賊は総勢三十名前後、その名が示す通り、全員が騎馬に乗っている。つまりまともに戦っては勝てない。そのことは朱霊と袁紹にも分かっており、しかし口を挟まずに私の言葉を待った。騎馬対策は考えている、と告げれば二人は表情を弛緩させる。

 ただ厄介な敵もいる、と私は二本の指を立てた。

 

「ひとりは身の丈以上の大剣を振り回し、ひとりは身の丈以上の大金槌を振り回す。馬賊の二枚看板だそうだよ」

 

 まあ朱霊よりも強い相手なんてそうそう見つからないだろうけど、と楽観的に肩を竦めてみせる。

 

「それにしても初陣の相手が馬賊なんて、些か性急過ぎませんこと?」

 

 そんな袁紹の言葉に「手頃だったんだよ」と返す。

 今回標的として定めた馬賊は、言ってしまえば小悪党に分類される。小さな商隊を襲うことで危険だと商隊に認知させた後、近場を通る商隊に護衛料をせびるというものだ。ただきちんと護衛は果たすし、その護衛料も法外な金額ではない為、急ぎの場合は護衛料を支払うこと前提に道を通ることもあるんだとか。根っからの悪党ではないのかも知れないが、義賊ということもまたあり得ない。

 困っている人がいるのは事実、この馬賊を退治して漢王朝と民衆の顰蹙を買うことはないだろう。

 

「これからのことを考えると馬は必要だ」

 

 じっと袁紹を見つめると「貴方も大概、博打が好きですわね」と袁紹が呆れ混じりに微笑んだ。

 

「槍……せめて人数分の竹槍を用意しなくてはなりませんわ」

「あと両端を尖らせた木杭も欲しいかな」

 

 話を詰める、更に詳細な地図を用意して作戦を考える。

 朱霊は少し退屈そうに欠伸をしていた。

 

 

 数日後、準備を整えた私達は義勇兵百名と共に出陣した。

 義勇軍とはいえ初めて軍を率いた行進は思いの外、緊張する。それでいて高揚もしていた。

 馬に乗っているのは私と袁紹のみ、朱霊は乗馬が苦手な私の為に馬を引いてくれている。他の牛馬は全て荷馬車を引くのに充てがわれていた。用意した糧食は八日分、片道三日の旅路になる。あんまり足に筋肉がないせいか馬が歩く度に体が揺れる、お尻が痛い。あんまり風景を楽しんでいる余裕もなかった。そういえば天の知識には鞍とか鐙とかあった気がするけども、周りで付けている人を見たことがない。今度、試作してみようかな。

 陽が傾き始めると周りが暗くなる前に野営の準備を始める。これまた私は用なしで、袁紹の指揮の下、役割分担した上でてきぱきと野営陣地を建築する。朱霊が適当な森から大きな猪を狩ってきたので兵達はみんな大喜びしていた。野営には天の知識から私が提案した道具が幾つかあって、便利だと袁紹も兵達も私のことを褒めてくれた。ただそれは私が正しく努力して得た結果ではなかったので、微妙に居心地が悪くて曖昧に笑い返すだけに留める。

 私って、此処にいる意味あるのかなって思い始めたのはこの辺りからだ。

 本当に、いたれりつくせりの旅路だった。袁紹が思っていたよりも働いており、朱霊も狩猟などで糧食の足しを持ってくる。地図の見方や方角の確認の仕方とか袁紹が全部、吸収していた。

 私はなにもしないまま、三日目を迎える。

 

 朱霊が私のことを横目にちらちらと見ながら少しもどかしそうにしていた。

 ああ、そういえば、近頃は御無沙汰だったな。声とか漏れそうだったから遠征中は嫌だったのだけど――と私は夜になると即席の宿舎に朱霊を連れ込んだ。不思議そうな顔をする朱霊の前で私は上着を脱いで、あまり得意ではない挑発的な笑みを浮かべて朱霊の唇を奪った。舌を絡める、厚めの布に覆われただけの屋内で水音を響かせる。興奮はしない、気持ち良さも感じない。慣れない場所、周囲に意識が持っていかれる。隙間から入り込む冷たい風が頭を冷まさせた。でも朱霊の熱は感じるから間違った行動はしていない、と自分に言い聞かせて彼女の首に両手を巻きつけて抱き寄せる。うん、ちょっと気分が乗ってきた。周りのことなんか気にならないくらいに朱霊を意識すると気分を高揚させることができる。後で、とても後悔することになりそうだけど、と呼吸の為に唇を離した後、あざとく舌先を出して上目使いで朱霊のことを見つめる。その瞳は確かに情欲に染まっていた、はずだった。

 朱霊は下唇を噛んで、私の両肩を持って体を離す。

 私が首を傾げると朱霊が振り絞るように口を開いた。

 

「……するなら帰ってから、ちゃんとしたい」

「今、慰めて欲しいのに?」

 

 ほんのちょっとの気の迷い、居心地が悪かったから居場所を求めた。

 ただそれだけの話だ。居てくれるだけで良い、とよくある物語の主人公なら言うだろう。言いたいことはわかる、でも、それだけでは嫌だった。理由はよく分からない。でも、それは違うとわかる。なんとなく、でも確信している。こんなことに意味はないこともわかっている。でも駄目だった。面倒臭い女だな、と自嘲して乱れた衣服を整える。

 ごめん、と謝ると朱霊はとても苦しそうに押し黙った。

 

「遠征中、ずっと誘惑するから」

 

 これはただの八つ当たり、仕返しされても構わない。

 私は感情を隠さない、抑えない。思ったことを伝えたいがままに口にする。この私に惚れたんでしょ? なら惚れた弱みに付け込むだけだ。慰めてくれないのなら、せめて気晴らしには付き合って貰わないと割に合わない。私を自分のものだと思っているツケは払わせる。

 未だに告白もできないぽんこつの癖に。

 

 彼女一人を宿舎に置いて、外に出る。

 

 

 星空の下、まん丸のお月さんが空を浮かんでいる。

 火照った体に夜風は心地良かった。朱霊と唇を重ねることは気持ち良かった。たぶんきっと曹操の方が上手いのだろうけども、心が蕩けるのは朱霊が相手の時だった。心はきっと心臓のような形をしているのだと思っている。ちょっと力を加えると簡単に変形してしまうように柔らかかったり、ちょっとやそっとではビクともしないように頑丈だったり、触れているだけで温かい気持ちになれるほどの温もりがあったり、そこにあるだけで凍えてしまうほどに冷たかったり、心には様々な性質が内包されている。心には形があると思っている、形があるから人は人として真っ当に生きていられるのだと思っている。それがどろどろに溶けてしまった時、たぶん人は人として真っ当には生きられなくなる。心を燃やし尽くそうとした時、心を傷付けてズタボロにした時、人は人ではなくなると私は思っている。

 胸が膨らむくらいに大きく息を吸い込むと肺の中が冷たい空気で満たされた。

 馬鹿だなあ、と自嘲する。馬鹿なことをしたなあ、と後悔する。嫌われたかな、幻滅されたかな、少し不安になる。この程度で見捨てられるとは思っていない、その辺りは信用している。でも弱い自分を見せたのは確かで――ああ、これは自己嫌悪だ、と気付いた。嫌だな、情けないな。そう思うと落ち着かなくなって適当に歩き回った。ちょっとした自暴自棄、どうとでもなれって気持ちが少しある。でも実際に危機的状況に陥ったら情けなくも思い浮かべるのだ。文博(朱霊)、助けて。って思う自信が私にはある。

 ぶらぶらと散歩をしていると「子遠(許攸)さん」と聞き慣れた声を掛けられる。

 

「このような夜遅くに出歩かれては危ないですわよ」

「うん、そうだね」

 

 微笑み返すと袁紹は少し黙り込むと、すぐ隣まで歩み寄ってきた。

 

(わたくし)、人は星に似ていると思ってましてよ」

 

 不意に袁紹は夜空に手を伸ばしながら語り始める。

 強い輝きを放つ星があり、仄かな光だけを灯す星がある。人は単体だけでは点に過ぎないが、人と人が結ばれることで線になる。線と線を繋ぎ合わせていくことで絵になる。今はまだ袁紹と朱霊、そして許攸の三角形だけの絵に過ぎないけども、いつか必ず大陸全土を覆い尽くすような巨大な麗羽座を作ってみせる。

 そんな話をされた。あれ、麗羽っていうのは、もしや。

 

「貴方には私は必要ないかも知れませんわ、でも私には貴方が必要ですわ」

 

 左手を胸元に添えて、右手を差し伸べられる。思わず、受け取りそうになる手を、袁紹は自ら手を引いた。

 

「私の真名は麗羽──先に預けておきますわ。判断は遠征の終わった後でお願いします」

 

 掘削機のように巻いた金髪を翻しながら背を向けられる。

 

「どうか後ろで私の姿を見ていてくだいまし。貴方からたくさんのものを受け取った私を是非とも見て欲しいのですわ」

 

 再び、空高くに手を伸ばす。

 

「備えあれば憂いなし、名門足る者は常に華麗足れ。私を見なさい、万雷の喝采を聞き届けなさい」

 

 その瞬間、夜空の星々が彼女を中心に瞬いたように感じられた。

 そんなことはあり得ない。しかし、この瞬間、確かに彼女は星空を従えた。

 月光に照らされる彼女の金髪が月よりも美しく煌めいた。

 

「貴方にはその責任があります。何故なら――――」

 

 満月すらも引き立て役にする風貌、ゆるりと振り返る横顔は自信で満ちている。

 

「――貴方が私をここまで育て上げたのでしてよ?」

 

 心が、揺さぶられた。

 

 

 



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拾.初陣

・許攸子遠:(みやび)
許劭の養子。
・朱霊文博:?
私塾の同期生、ぽんこつ忍者。
・袁紹本初:麗羽(れいは)
私塾の同期生、名門袁家の長子。妾の子。


 騎兵。

 それは後世、銃と呼ばれる兵器が発明されるまで戦場の顔として駆け回っていた存在のことだ。

 その強みは機動力と突破力にある。敵側面を強襲して敵陣を崩すこともあれば、敵陣の後方を奇襲で撹乱することもあり、包囲陣を敷く時は誰よりも早く敵の退路へと回り込み、敵が撤退すれば追撃と掃討を担当する。敵味方が密集した戦場では強みを生かせないが、広さを充分に保った余裕のある乱戦であれば、その高さの強みを充分に生かすことができた。時に斥候、時に伝令、つまるところ戦場のなんでも屋、持ち前の機動力で野戦における全ての仕事を熟すのが騎兵だ。攻城戦は考慮しない。

 いっそのこと、部隊の全てを騎馬隊にすれば、野戦で同数以下を相手に負けることはない。尤も、そんなことは名門袁家の財力を以てしても不可能なことで――というよりもだ、仮に資金が足りていても雇える人と買える馬が居なかった。騎乗とは専門的な技術だ。その上で騎馬隊として戦えるほどに熟練した技術を持つ者は限られるし、戦場でも怯えない馬の育成には人手と時間がかかる。

 つまり騎馬隊というのは、それだけで希少価値が高い。

 そして、その苦労に見合うだけの価値がある戦闘力を有している兵科でもあった。

 

 草原を風が揺らす昼過ぎ、街道沿いにある平原に彼女達は現れた。

 騎兵三十騎、その先頭には二人の女性が大型の武器を持って、待ち構えている。

 片や大剣、片や大金槌、共に細身の体躯、それで片手で軽々と持ち上げている辺り――あっまずった。と表に出さずに心を冷やつかせる。身の丈以上の武器を軽々と振り回せる奴は十中八九で氣の使い手だ。そのことは袁紹と朱霊も気付いたようで、朱霊は私のことを横目にじとっと睨みつけてくる。

 袁紹は呼吸を一つ挟み、巻き髪の一つを手で払うと覚悟を決めたように敵陣を見据えた。

 

「よお、お嬢ちゃん達、ここを通るには通行料っつーのが必要だって聞いてないか?」

 

 大剣使いが馬に乗ったまま一歩前に出ると軽い調子で、大剣を横に薙ぎ払った。

 彼女を中心に草が仰け反り、大剣は彼女の肩に収められる。実戦知らずの義勇兵がざわりとどよめく中、朱霊さん、と袁紹が朱霊に前へと出るように促した。朱霊は私から視線を切り、溜息交じりに前へと出る。そして背中に抱えた直刀の柄に手を添える――キンッという金属音が鳴った。気付けば、朱霊は直刀を抜いており、ひらり、と宙を舞っていた蝶が真っ二つに分かれて地面に落ちる。

 大剣使いが驚きに目を見開くのを確認した袁紹は、胸を張って腕を組み、そして賊徒を見下した。

 

「この大陸にある土地は全て漢王朝の管轄内、ましてや街道、ここを封鎖することは漢王朝に対する反乱になりますわよ?」

「……通行料というのは言葉の綾です」

 

 大金槌を持った女性が礼儀正しい所作でお辞儀してから告げる。

 

「この辺りには賊徒が多く、また獣も積荷の食料を狙って襲います。ですので私達は護衛として雇われているだけに過ぎません」

「先程、通行料と申しましたが?」

「ここを通行する時、私達を護衛として雇う時の料金です。道によって変わるので通行料、ややこしいのは申し訳ありません」

「ここを通るには通行料が必要とも言ってましたよ?」

「そうですね。……ここの土地勘も知らぬ者が護衛なしで通るのは危険と言わざるを得ません。それと口が悪いのは育ちの悪さ故のもの、やんごとなき人に対する礼節を弁えてないのはどうか許してください」

 

 そう言うと彼女はぺこりと頭を下げる。袁紹は少し考え込む仕草を取った後、軽く人差し指を振って切り口を変える。

 

「そうやって街道で待ち構えるのは良い商売とは言えないのではありませんか?」

「……私達もこれが良いやり方ではないことは自覚しています。しかし街中では私達のような伝手も評判も持たない人間では、街中で商売をしても他の者に横取りされてしまう。こうして街の外で売り込みをかけなくては仕事を貰えないのです」

「では、そこの貴方、ええ、貴方です」

 

 賊徒は全員が首を傾げるだけで誰も袁紹の言葉に反応していない、しかし袁紹は口元を厭らしく歪めながら言葉を続ける。

 

「貴方が着ている鎧が官軍のものなのは何故でしょう?」

 

 その言葉を告げた時、大金槌使いが後ろを振り返る。

 しかし、賊徒は全員、首を傾げるばかりだ。ほっと溜息を零しながら大金槌使いが私達を見る。そして袁紹の表情を見て、ハッと顔色を青褪めさせる。大剣使いが大剣を構えて、視線に殺意を込める。それを受けて、朱霊が直刀を構えて殺意を以て返した。

 ただ一人、袁紹だけが勝利を確信するように頰に手を翳す。

 

「おーっほっほっほっほっ! 貴方達がやっていることはどう言い繕おうが漢王朝に対する叛逆! それをお粗末な口八丁で正当化しようとは性根が腐っている証拠、お家が知れますわね!! さあ、やっておしまいッ! 敵は賊徒、正義は(わたくし)にありますわッ!!」

 

 おうっ! と義勇兵が竹槍の底で地面を叩いた。

 大剣使いを先頭に敵が突っ込んでくる最中、私は秘密兵器の準備を急がせる。

 袁紹は朱霊に目配せして「あの大金槌、欲しいですわ」と口にした。

 

「……余裕だね」

「朱霊さんでしたら余裕でしょう?」

「ぎりぎりだと思うよ。油断ぶっこいでると死にそうだし」

「無理なら殺してくださいまし。貴方を失ってまで欲しいとは思いませんわ」

 

 朱霊は頷き、義勇兵に指示を送る。

 

「後方部隊は手拭い用意! 投石良し!」

「皆様、竹槍は持ちましたわね!? 最前列は柵に打ち込んでやりなさい!」

 

 おうっ! と最前列の兵が二人組で前に出ると片方が地面に柵を立てて、もう一人が大金槌で地面に打ち込んだ。

 即席の防御陣形、来るぞ! 来るぞ! と互いに互いを囃し立てながら次々と柵を地面に打ち込んだ。その背後から五十を超え手の平大の石が空を掛ける。その大半が高速で地面を駆ける敵には当たらないが、二人、三人と僅かに敵兵を地面に叩き落とした。

 敵との距離を考慮して、投石回数はあと一回、柵は今、二人掛かりで杭を叩きながら少しでも深く地面に食い込ませている。

 

「馬鹿正直に敵の兵に突っ込む必要はありません。左右から分かれて突撃を!」

 

 敵が左右に分かれる。

 ここでひとつ、騎兵に関して復習する。騎兵の恐ろしいのは機動力、そして突破力だ。また騎兵の突破力というのは速度に依存している。つまり騎兵というのは足を止めさせれば、その脅威は大いに削がれることになる。これが千を超えるような騎兵を相手にするのであれば、厳しい。しかし相手は高々三十騎、投石が思っていた以上に効果あったので今、相手は二十六騎。二手に分けたので片方だけで十三騎――突破力とは質量と速度を掛け合わせた力だ。隊を分けたのは僥倖、大きく迂回してくれたから幾分か速度も落ちている。長槍を密集させた槍衾、その最前線の一人は手拭い片手に先の尖った小石と細かい鉄破片を纏めて、ぶんぶんと振り回している。

 さあ、至近距離からの広範囲散弾投擲! 殺傷能力はないが前列の馬を止めるには十分な効果があるはずだ! 数千が相手なら効果も薄いが高々三十ないし二十六、ないし十三騎!

 勝ったな、と口元を歪めた。その時、一頭の馬が空を駆けた。

 

「うおおおおおおおおおっ!!」

 

 竹槍を飛び越えた騎馬一頭が、ぐしゃりと槍衾を踏み潰した。

 大剣使いが腕を振り上げて、早く来い! と背後の賊に指示を送る。次の瞬間、剣が閃いた。大剣使いの馬の首が、ズルリと落ちる。大剣使いの体が馬と一緒に傾く最中、朱霊が直刀を振り回す。無数の金属音が響き渡る。大剣使いは地面に転がり落ちながら大剣に身を隠すようにして、朱霊の猛攻をやり過ごしていた。「文ちゃん!」という声と共に、朱霊は大きく後方に跳躍する。その先程まで立っていた場所を幾人かの義勇兵と共に吹き飛ばした。潰された血肉、骨が青空に撒き散らされる。

 

「左翼はもう良いですわ! 右翼を! 朱霊さんの援護に回ってくださいッ!」

 

 そう袁紹が指示を出すも動きが鈍い、先ほど二人が見せた凄まじい力に臆してしまったようだ。

 それでも竹槍や投石で朱霊の動きを援護してくれる。朱霊は味方の援護を縫うように駆けて、二人を自由に動かさないように飛んでは跳ねて、地面を転がり、前後左右、上下からと縦横無尽に攻撃を仕掛ける。しかし二対一では分が悪いのか攻めきれない。だが、それは相手も同じことだ。朱霊が致命的な隙を晒す時、狙いすましたかのように援護が入り、そのまま反撃に移る。周囲の動きまで掌握しているのか。

 敵味方全ての攻撃を避けながら利用し、二人相手に対等に渡り合っていた。

 

「……っ! 文ちゃん、不味いよ」

「ああ、そうみたいだな」

 

 朱霊と二人が戦っている間も戦場は目まぐるしく動いている。

 袁紹は冷静に、冷徹に戦場を俯瞰し、そして、二人を包囲するように淡々と兵を動かしていた。私すらも気付かないうちに丸っと囲まれた大剣と大金槌の二人組、二人を救出するために十数騎の騎兵が外側から突破を図ろうとするも袁紹の的確な指揮を前に竹槍で追い払われていた。

 気付いた時には私達の圧倒的優勢、私はただ置いてかれるばかりだ。

 

「こうなったら一か八かだ! 斗詩、私を飛ばせ! あの金ぴかが敵大将なんだろ!?」

「……それって無茶が過ぎない?」

「まともにここを突破する方が無茶だ!」

 

 んもう、と斗詩と呼ばれた女性が大金槌を振りかぶる。

 その隙を逃すまい、と朱霊が駆け出したが、その初動を大剣が妨げ、そのまま大きく後ろに跳躍する。

 大金槌が振り抜かれる。その時、大剣使いが大金槌の上に乗った。

 

「ぶっちぎれ! 文顔夫婦(めおと)砲ッ!」

 

 大剣使いが空高くに打ち上げられる。

 そして、そのまま空中で回転しながら制動し、振りかぶった大剣が太陽に向けて翳された。

 着弾点付近の兵が退く中でただ一人、馬に乗った袁紹が袁家の宝剣に手を添える。

 

「新婚御祝儀だ!」

 

 衝撃音、袁紹を中心に砂煙が舞い上がった。

 

「やったか!?」

 

 という大剣使いの声に、砂煙を切り払う一閃が振り抜かれた。

 首筋を狙った鋭い一撃に大剣使いが一歩、二歩と距離を取る。

 

「……お嬢様じゃなかったのかよ?」

 

 大剣使いが強気に笑みを浮かべながら頰の汗を拭い取る。

 備えあれば憂いなしですわ、と馬から降りた袁紹が宝剣を片手に握り締めながら自らの胸元に手を添える。

 

「申し遅れました。私の名は袁紹、字は本初。袁家汝南の長子、袁成の養子。そして貴方達を従える者ですわ」

「はんっ! あたい達を飼い慣らせるって!?」

「飼い慣らす必要がありまして?」

 

 袁紹は袁家直伝の高笑いを上げた。

 

「私が貴方達を従わせるのではありませんわ、貴方達が私に従うのです。自分から進んで私の前に跪く、それが道理というものですわ」

 

 言い終えると袁紹が宝剣を鞘に収めて、大剣使いに背を向ける。

 

「おい、どうして剣をしまうんだよ!」

「なぜって、それは……」

 

 もう勝っていましてよ、と袁紹が悪戯っぽく笑みを浮かべて、私に視線を送る。

 大剣使いが地面を踏みしめる。その瞬間を狙い定めて、彼女の脹脛を的確に射抜いた。人の気も知らないで、と私は大剣使いが飛び込んでから、ずっと照準を定めていた弩の構えを解く。やっぱり簡易的にでも照準器を付けると命中率が段違いだね、とほくそ笑む。

 地面に崩れ落ちた大剣使いは、周囲の兵に捕らえ抑えられる。

 

「さあ、この者を縛り上げてください。できるだけ頑丈に、しかし辱めてはなりませんわよ」

「くそッ! 卑怯だぞ、卑怯者めッ!」

「貴方と真正面から戦うなんて御免被りますわ。まだ死にたくありませんもの」

 

 大剣使いが捕らえられたのを知ってか、ほどなくして斗詩と呼ばれた大金槌使いも降伏した。

 朱霊は足止めが限界だったようで滝のように汗を流していた。私の顔を見た時、とても嬉しそうにはにかんだから思いっきり抱き締めてやった。袁紹が呆れたように私達を見つめるが気にしない。

 私達の初陣は、勝鬨代わりの袁紹の大笑いで幕を閉じる。

 

 

 




最初の予定では四つくらい用意していた許攸の策は全て、猪々子に全て脳筋で潰される予定でした。
でも隘路でもないのに真正面から素直に攻撃してくる訳がない。と考え直した結果、考えていた策のうち三つほどが使われなくなりました。


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拾壱.卒業

 戦後処理、

 結び方がなっていない義勇兵の代わりに朱霊が絶対に抜け出せない結び方で捕虜を全員縛り上げた後の話だ。

 馬賊の頭領と思しき二人組みの前に袁紹が前に出る。

 

「おい、私達をどうするつもりだ!」

「うう……目を付けられないように頑張ってたつもりだったんだけどなあ……」

「斗詩! 泣き言言うなッ!」

 

 大剣使いは袁紹のことを睨みつけており、大槌使いは俯き項垂れている。

 袁紹は二人を見下したまま、小さく息を吸い込んで言葉を発する。

 

(わたくし)の配下になりなさい」

 

 そうすれば、と胸を張って大らかに口を開いた。

 

「今すぐにでも私の別荘を貸し与えて、給料は官僚に仕官する者と同額を支払います。週休二日制、有給は年に十日。有事の際には働いて貰いますが――勿論、その時には手当を付けましょう。年金有り、保険有り、育休有り、負傷して戦場に出られなくなった時の保証は勿論、貴方達が戦死した際には年金の受け取り先を家内に――」

「馬鹿! そんなことを言われて、あたい達がお前に下るかよ!」

「……文ちゃん、待って」

「ほら、斗詩も言ってやれ!」

「文ちゃん、黙って?」

 

 底冷えするような低い声に大剣使いはビクリと身を震わせた。周囲を沈黙が支配する中、斗詩は縛られた姿勢のままで額を地面に擦り付ける。

 

「わかりました、袁紹様。是非とも私達を使ってください」

「なんだって、斗詩!? 目を覚ませ!」

「目を覚ますのは文ちゃんよッ! よく考えて、この荒れた御時世に安定した収入を得られるその意味を! 私達の生涯は安泰なのよ!!」

「いや、でも信用できるかどうかなんて……」

「名門袁家の名を出した上での契約よ。この話を反故した時、袁家の名は堕ちるのよ」

「あの袁家だからこそもみ消すなんて簡単だろ!」

 

 そうして二人が言い争いをしている最中、困惑しているのは馬賊の皆様方だ。

 勿論、あの二人の去就が決まり次第、勧誘を始める予定だ。

 

「最近、こんなのばかり見せられている気がしますわ」

 

「ばーか!」とか「あーほ!」とか低次元な言葉が飛び交い始めた言い争いに袁紹が呆れ混じりの溜息を零す。

 誰のことだろう? と私が首を傾げると、イチャつくなって意味だと思うよ、と朱霊が咎めるように私を見つめてきた。満更でもない癖に。

 二人が袁紹の配下として仕えることを決めたのは、それから数十分が過ぎた後のことだ。

 

 

 三ヶ月が過ぎた、袁紹の率いる義勇軍が遂に千の大台へと乗る。騎兵は二百だ。

 大剣使いの文醜と大槌使いの顔良。二人が義勇軍に加入してからというもの近場の賊徒に敵はいなくなった。豫州沛国を中心に治安は劇的に向上し、商隊が豫州内を活発に動き回るようになった。その影響もあってか拠点周辺にある村や商家、豪族から支援金を頂けるようになり、とりあえず義勇軍の運営は安定にするようになった。依頼が来れば、即日で動き出す袁紹義勇軍。今でこそ落ち着いているが、ほんの一ヶ月前までは忙しさで目が回るほどだったのを覚えている。

 そして安定した今、私は本業の学業に戻っている。

 まだ真名の返事をしていなかった。明確な理由はない。断るつもりもないが、なんとなしに受けていいものでもないと思ったから待って貰っている。

 袁紹と朱霊の二人は、顔良と文醜と共に義勇軍の運営に精を出しており、顔を合わせる機会が減りつつある。

 

 想い人にも満足に会えぬ日が続いている。

 そんな私の寂しさを埋めてくれるのは――意外でもなく曹孟徳。くるんと曲線美を画く二つ結いの金髪、小柄で華奢な体をした彼女が甘味を頬張る私の隣に座っている。反対側には曹仁がおり、向かい側には曹純そして曹洪。つまるところ曹家全員集合である。なにそれ怖い、囲い込みが半端ない。

 きゅうっと胃が痛くなるのを感じながら心頭滅却と心を無にすることを心掛けた。

 

「別に取って食おうっていう訳じゃないわ。それに最初は子廉(曹洪)だけの予定だったんだから」

 

 出会ったのも偶然よ、と言われるが信用できるはずがない。

 曹操の恐ろしさは、この一年で嫌という程に理解できている。具体的にいえば、沛国は既に曹操の手中にあった。曹操が有志を集うことで自警団を結成し、城壁都市の治安維持に努めていたようだ。名義は違っているが、何顒からの情報なので曹操が裏で動いていたことは間違いない。他にも商家同士のいざこざを解決していたりと豪族からの曹操の評判は頗る高く、袁紹が支援を受けている豪族の中には曹操に相談してから援助を決めた者も居るのだと云う。

 曹操が云うには「腰の重たい亀に賄賂を送るよりも勤勉な兎に支払って働かせる方が有益ではなくって?」とのことだ。

 ちなみにこれは何顒本人が直接聞いた言葉らしい。

 

「ぶー、袁紹ばかり目立って狡いっすよ。孟徳ねえも挙兵しないっすか?」

「わざわざ本初が自ら苦労を負ってくれているのよ? 私達の出る幕じゃないわよ」

 

 むうっと不貞腐れるように曹仁が頰を膨らませてみせた。

 それを見て、曹操が困ったような、満更でもなさそうな顔で微笑んだ。

 私、邪魔者じゃないですかね?

 なんとなしに視線を前に向けると曹洪が雑誌を見つめながら唸り声を上げる。

 

「この衣装も捨て難いですが……いえ、やっぱりお姉様にはこちらの衣装が……」

「今日はなんでも着てあげるわよ。その為に時間を作ってあげたんだから」

「ある程度は目星を付けておかないとまた時間が足りなくなりますわ!」

「どれだけ着せるつもりなのよ」

 

 曹洪の剣幕に「好きにすればいいわ」と曹操は苦笑する。

 

「あたしには何か良い服ないっすか?」

子孝(曹仁)さんですか? ああ、そういえば着てみてほしい衣装が幾つかありましたわ!」

「もう、姉さん」

「もちろん子和(曹純)さんにも着て欲しい衣装はありますわよ」

「えー、んー、私は見ている方が好きかなぁ?」

「そう言わずに付き合ってくださいまし!」

 

 わいのわいのと曹家一同で盛り上がっている。

 私って場違いじゃないかな、と思って曹操に目配せすると「慣れないことをするのは疲れるわね」と私だけに見えるように肩を竦めてみせる。なんというか、やっぱり曹操は大人だった。彼女達のおねえさんであることは勿論、それを抜きにしても十歳以上も年上の女性のように思えて仕方ない。個性的な姉妹を纏めるのは大変そうだな、と思うと同時に、きっと毎日賑やかで楽しいんだろうな、とも思った。

 だって曹操は困ることはあっても笑顔を絶やすことがない。妹達が話し合う光景を見るだけで幸せそうだった。

 

「もう一ヶ月もしない内に私達は学問所を卒業するわ」

 

 不意に曹操が独り言を呟くような――私にだけ聞こえる声で話しかけてきた。

 

「卒業当日、図書室で待っているわよ」

 

 それだけを告げられる。

 妹達が楽しそうな光景を一歩退いたところで見つめる曹操はとっても嬉しそうで、眩しいものを見るように目を細めた。

 それが酷く寂しそうにも見えたのは目の錯覚だろうか。

 

 

 卒業当日、

 塾長の長話を聞いた後、私は袁紹の誘いを断って図書室へと赴いた。

 そこには、ただ一人、曹操だけが立っており、本棚にある書籍に目を通している。

 ぺらぺらと頁を捲りながら私には一瞥もせず、ただ言葉を紡いだ。

 

「これはもしもの話よ」

 

 長い話を綴られる。

 

「とある場所にひとりの少女がいました。

 少女は自信家で、誰よりも自分が優れていると信じており、誰よりも遠い未来を見通すことができると信じていた。

 そして国は腐敗し、今にも滅びてしまいそうで……土地は痩せこけ、民草は疲弊しきっていた。虎視眈眈と大陸の覇権を狙う異民族、このままでは大陸は十六分割されて――まあこの数字は適当なのだけども――私達が築いてきた歴史が脅かされようとしていた。

 だから少女は立ち上がった。この国難に対処できるのは自分だけと信じて、大凡、人道的ではない手段を用いて、自分の国を、せめて土地と文化を守ろうと死力を尽くした。その為に戦を起こし、その為に数百万という民草に苦難を強いて、それでもなお少女は自分の道を歩むことをやめなかった。止まれなかった、止まる気もなかった。一度、歩み始めた覇道を止めるなんて、許せなかった。

 ただ土地を――そこに根付いた文化を、過去から脈々を受け継いだ歴史を守りたくて、少女は戦い抜いた」

 

 言い訳に過ぎないのだけど、と少女は書籍から顔を上げて自嘲する。

 

「……それで少女はどうなったの?」

「負けたわ」

 

 拍子抜けするほどにあっさりと少女は答える。

 

「三国になり、残り二国となり、最後の最後に行われた決戦で――断崖絶壁を赤色に染め上げるような大火に根こそぎに燃やされてしまったのよ」

「それでどうなったの?」

「もうひと悶着あったけども……まあそこで終わったようなものよ」

 

 パタン、と書籍を閉じる。表紙には胡蝶の夢と書かれていた。

 

「これはもしもの話、少なくとも今ある歴史ではない場所での話よ」

「曹操、貴方は……」

「最初、貴方に執着したのは――なんとなしに似てたからなのよ、天の御使いと呼ばれた男に」

 

 でも違ったわ、と少女は首を横に振る。

 そしてゆっくりと顔を上げた。不敵な笑みを浮かべた口元に全身が震える、場の空気が完全に支配される。獲物を見据える瞳は全てを見通すようで私の心なんて丸裸にされてしまうかのようだった。その風格は王者の如し、大陸の覇権を握るのは彼女しかいないと信じさせられる。体が震える、震えが止まらない。恐怖ではない、だが彼女から目を逸らすことができない。見惚れていた、本能が彼女に屈しようとしているのが分かった。彼女こそが当代唯一の王者だと心服させられる。

 ゆっくりと手を差し伸べられる、それは地獄に垂らされた糸のように甘美に感じられた。

 

「改めて言うわよ。許攸、私と共に来なさい。私は貴方に惚れたのよ」

 

 我が主、と思わず屈しそうになる足を叱咤する。

 大きく深呼吸を繰り返す、一度、二度……そして三度、体の震えが止まらない。

 それでも引き攣る笑みを浮かべて、両手を拱手に合わせ、深く頭を下げる。

 

「貴方に誘われたこと光栄です」

 

 でも、と言葉を紡いだ。

 

「決して貴方が不服な訳ではありません。しかし私にはもう心に決めた人がいます」

「……そう、振られたわね」

 

 曹操は断られても笑ったままだった。

 

「貴方は曹孟徳を振ったのよ、そのことを後悔しなさい」

 

 そう告げる曹操は慈しむように私を見つめていた。

 それでいて少し悲しそうで、拗ねるように背を向けられる。

 私は、そのまま図書室を去ろうとした。

 

「待ちなさい」

 

 呼び止められる。背を向けたまま、首だけを動かして私を見つめる。

 

「華琳よ」

「……え?」

「鈍いわね、二度は言わないわ。貴方の真名を教えなさい」

 

 この時、何故だか泣きそうなほどに嬉しくなった。

 彼女に認められたことが、胸を締め付けられるほどに幸せに思えた。

 振った人間が涙を流すの駄目だと思うから、ぐっと堪えて答える。

 

「私の真名は雅、家族以外では預けた者はまだいません」

「そう、私が貴方の初めてなのね」

 

 曹操は嬉しそうにはにかんでみせた。

 その顔を見ただけで満たされた気分になった、何故だか救われた気になった。

 振ったのに、可笑しな話だ。

 

「雅、貴方はこの華琳を惚れさせたのよ。誇りなさい」

 

 そう云うと彼女は背を向ける。

 私は深く頭を下げた後で図書室を立ち去った。

 

 

 門には袁紹が一人で待ち構えていた。

 少し不安そうにする彼女に私は簡単に告げる。

 

「麗羽、私の真名は雅って言うんだよ」

 

 その言葉を聞いた時、麗羽は破顔させた。

 大凡、名族とは言い難いほどにぐちゃぐちゃにした顔で私に抱きついてきた。鼻水が衣服に付くのは嫌だったけども、まあ今日は特別だと割り切って抱き返す。

 おーいおーいと泣き叫ぶ麗羽が泣き止むまで、長い時間ずっとそうしていた。

 

 




これで幼少期編はおしまいです。
次章に入る前に少し時間を置くことになりそうです。
あと話を区切るところを間違えた気がするので、数日後に修正を入れていると思います。


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間幕
間幕:荀家の図書目録


 頭が痛い、打ち付けてしまったのだろうか。

 身動ぎを取ろうとすれば、鈍痛が身を蝕んだ。全身が痛い、動けない。痛くて辛い、きつい。

 横になったまま、やり過ごそうかな、と考えたが周りが騒がしくて眠れない。大きな声が頭に響いて気持ちが悪い。静かにしてくれないかな、と目を開けると――見たことあるような? ないような? とにかく幼い女の子の顔がすぐ近くにあった。可愛い、好き。ではなくて、随分と沈痛な顔をしている。どうやら私は彼女に抱きかかえられているようだ。そういえば、此処は何処なのか。あれ、そういえば私は一体、誰なのか?

 そのまま彼女の顔を見続けていると、ふと目が合って、きょとんとした顔を浮かべる少女に私は首を傾げた。

 

香花(きょうか)姉様!? 良かったわ、姉様が目を覚ましたわ!」

 

 少女が歓喜に叫んだ、その声が私の頭に酷く響く。

 ぐわんぐわんと揺れる頭に顔を顰めると「どこか痛むの!?」と少女は私の体を強く抱きしめながら揺すり始めた。全身が痛い。やめてくれ、本当に死にそうだ。激痛で声も出ない。そして驚くほどに力が入らない体は姿勢を維持することもできず、ぐでっと仰向けに仰け反る。その時の痛みで、ふぐっと口の端から血が垂れた。「姉様!」と叫ぶ声が本当に煩わしい。

 此処は何処だとか、自分が誰だとか、今はどうでも良い。とにかく寝かして欲しい。

 

「香花姉様、死んじゃ駄目なんだから! 姉様、姉様!」

 

 前後に体を揺するのは本当にやめて欲しい、割と本気で死にそうだ。

 いや、もういっそ殺して。善意の押し付けは容易く人を殺せるのだと悟る今日は命日だ。

 意識を失って、次に目覚めた時、三途の川を渡っているところだった。

 

 

 生きていた、どうやら私の名前は荀諶と云うらしい。

 字は友若、真名は香花。名門荀家に連なる子の一人、今は離れに隔離されている。

 療養中とのことだ。目覚めた時、床に額を擦り付ける妹の頭を撫でながら医師に聞いた話では、全身打撲に両足骨折、片腕の骨には皹が入っており、折れた肋骨が内臓を傷めているという散々な有様だった。絶対安静、身内以外は立入禁止。よくもまあ生きているものだ、と医師に感心されてしまう始末。ちなみに記憶はない。私が誰なのか、此処が何処なのか。そして人間関係も全てすっぽりと抜け落ちてしまっていた。そのことを知った関係者はみんな、気難しい顔をする。中には皮膚に爪が食い込むほどに拳を握りしめる人もいたから気にしていない体を装っている。ただまあ私が助けられたのは野盗が拠点にしていた場所であり、周囲から哀れむような、穢れたような、腫れ物を見るような視線。それに加えて、記憶を失う以前は違ったという妹の極端な異性嫌いから、なんとなく察することはできている。

 記憶喪失は自我を守る為の自己防衛機能が働いた為ではないか、というのが医師の予想。無理して思い出すものでもない、と家族からの言葉だ。それで怪我が治りかけた今でも様子観察で、未だに身内以外の面談は謝絶されている。そういえば療養中、男を一度も見ていなかった。

 まあ周りが気にしている程、私自身は記憶がないことを気にしていない。

 元がそうなのか結婚願望も低いようで、傷物扱いされても煩わしいと思うだけで惨めにはならなかった。

 

「香花姉様、これで荀家にある書籍は全部よ」

 

 書籍を両手に抱えながら部屋に入ってきたのは私の可愛い妹である荀彧、真名は桂花(けいふぁ)

 薄緑色の猫耳を模した頭巾を被る妹は、私の手が届く場所に書籍の山を置いてくれた。私は手に持った書籍から目を離さずに「ありがとう」と微笑んで告げると、桂花は呆れた様子で溜息を零して部屋を見渡した。私の寝室は荀家にある書籍の全てが集められており、気付いたことや思い付いたことは紙や木簡、竹簡に書き殴っていることもあって散らかし放題であった。

 足がまだ不自由なので部屋の整理なんてできるはずもない。

 

「まだ一人で歩けないし、部屋の中にいても退屈なのはわかるけど……もうちょっとなんとかならないわけ?」

 

 愛らしい妹も記憶を失った直後は辛気臭い顔で甲斐甲斐しく私の世話をしてくれたのに、今では妙な気遣いもなくなって当たりも強くなってきた。それでも世話を焼いてくれるのだから頭が上がらない。いつも感謝の気持ちでいっぱいで、それを抜きにしても妹のことは可愛らしくて好きだった。ちなみに私も彼女と同じ猫耳が付いた薄水色の頭巾を被っている、お揃いだ。にゃんにゃん。

 

「……桂花、整理整頓は何のために行うものだと思う?」

 

 ただ素直に褒めることも気恥ずかしかったから澄まし顔でそれっぽいことを口にする。

 

「何故って……そりゃ綺麗にする為でしょ?」

 

 怪訝な顔をしながらも、きちんと話に付き合ってくれる桂花は私自慢の妹だ。

 

「違うわよ、何処にものがあるのか把握するためよ」

 

 人差し指を指揮棒のように振りながら告げる。

 すると妹はじとっとした目で私のことを見つめながら「孫子」と呟いたので、私は山積みになった書籍の一つ指で示す。

 

「上から十二冊目、十三冊目かも」

「うわっ、本当にあるわ……もしかして全部覚えてるわけ?」

 

 引き気味に告げる妹の姿に少し心を痛めながらも「まさか」と得意顔で答える。

 

「覚えている分だけよ。ある程度、九割方?」

 

 論語、六韜、と続けられる言葉に私は一冊ずつ丁寧に指で指しながら居場所を言い当てる。

 誰かに片付けてもらったとかならいざ知らず、全て自分が置いたものなのだ。場所がわからない方が不思議だと思うのだが、徐々に顔を引き攣らせる妹の姿を見て、それが普通ではないことを理解する。特別なことをした覚えはない。見て覚えた、本当にそれだけなのだ。それが世間一般の普通から逸脱しているようだった。パラパラと適当に手を取った書籍を捲り、「史記の本記三巻、五十二頁」と告げられたので「流石に難しいわよ」と私は微笑んで頁の概略を告げる。ドン引きされた、心が痛い。

 わかるものはわかるのだから仕方ないじゃないか。ぷいっと顔を背けると盛大な溜息が吐き捨てられる音が聞こえた。

 

「まさか、この部屋にある書籍の内容を全部、憶えてるわけ?」

 

 呆れたように問いかけられた言葉に「全部じゃないわ、九割方」と返した。流石に一字一句までは自信がない。

 

「……昨日の対局は覚えているわよね?」

「ええ、勝敗は桂花の方が上。私の五勝九敗、流石は私の妹ね」

「本を片手に打ってた癖に白々しい。手を抜かれたと思って屈辱だったんだけど?」

 

 別に手を抜いていたわけではない。

 桂花は差す一手が遅いので、待っている方は暇なのだ。まあ盤上を睨みつける桂花の顔も愛くるしくて、ぎょっと驚く顔は可愛すぎで、そんな表情を見る為だけに碁や将棋、象棋を学んだといっても過言ではない。とはいえ先人達の棋譜を真似ているだけなので私自身の腕前は高いわけではなかった。

 桂花は考え込むように俯き、四局目の七十二手目、と告げる。

 

「ちょっと待って……」

 

 と私は側頭部を指先で押しながら昨日の対局を想起する。

 四局目、一、二、三、四……と数えてから丁度、七十二手目になった手を口にした。

 

「今度は時間が掛かったわね。書籍を読むよりも面白くなかったかしら?」

 

 不貞腐れる素振りで意地悪な笑みを浮かべてみせる。それに私は首を横に振る。

 

「何局目の何手目って憶えている訳じゃないのよ、流れを記憶しているだけ。一手目から諳んじることはできても、その一場面だけを切り取ることは難しいのよ」

「え、じゃあ。全て覚えているの?」 

「ええ、もちろん。可愛い妹の一挙一動を忘れるわけがないじゃない」

 

 にこにこと満面の笑顔で告げると、すすっと距離を置かれた。

 解せない。

 

 

 可愛い妹の桂花は、名門荀家の中でもとびきりに優秀な存在で外の評判も頗る高い。

 その為か彼女を求めて数多くの書簡が送られており、仕官先は選り取り見取りの引く手数多だ。対する私は部屋で書籍を読み漁るばかりで誰からも声をかけられていなかった。でもまあ、それを気にしたことはない。私は真面目な妹とは違って漢王朝の為に尽くす気持ちはないし、世の情勢に関わり続けたいとも思っていなかった。ついでに云えば、今の勝手気ままな生活を続けたい。

 しかし、それは愛らしい妹がいてこその話だ。私が今、生き続けたいと願うのは妹が存在しているからだった。

 

「香花姉様、やっぱりまだ無理だったんじゃない?」

 

 ぜぇはぁと妹の肩に手を乗せながら息絶え絶えで足を引き摺る。

 もう一年以上も太陽の下に出ていない身の上だ。よく妹が楽しそうに屋敷の外の話をしていたので、私も妹と一緒に外に出てみたいと頼み込んだのが事の始まり、意気込んで外に出るまでは良かったが私の肉体は私の想像以上に貧弱だった。妹がいうに昔の私は街中を走り回る程度には体力があったと云うが――いやはや、まさか五分もしない内に息切れするとは思っていなかった。

 なんとか、辛うじて、街中まで足を運んだが、このまま帰ることも難しかったので一度、近くの茶店で休憩を取ることになった。

 店内に入った私は空いた椅子にどかっと座って、はあ〜と大きく息を吐き出した。はしたない、と妹の苦言が聞こえたが、咎めるように睨む妹の姿もまた可愛らしい。水を持ってきてくれた女給に杏仁豆腐を一つ注文、「姉様ってお金を持ってたっけ?」と問いかける妹の言葉には答えず、にっこりと桂花のことを見つめる。愛しい妹は溜息ひとつ、自分の分として羊羹を注文した。

 注文を受けた女給が軽くお辞儀をした後、厨房の奥へと姿を消す。

 私は杯に注がれた冷たい水を胃に流し込んで、くぅ〜と身を震わせた。汗だくになった体に染み渡る。

 

「外に出ることに忌避感はないのね」

 

 ふと呟かれた妹の言葉に私は首を傾げた。

 そういえば、と自分の記憶喪失の原因を思い出す。

 

「憶えていないことに脅えるのは難しいわ」

 

 肩を竦めてみせると「そう」と妹は小さな声を零した。

 店内を流し見る妹の様子を私は無言で見守る。なんとなしに気不味い空気、沈黙は杏仁豆腐と羊羹が届けられるまで続き、机に置かれた甘味にさっそく手を付けようとした私とは裏腹に、妹はじいっと机の上を見つめたまま動かなかった。「美味しいわよ」と声をかけても小さく頷くだけだ。

 正直な話、あんまり気にしていないんだけどな。と思いながら杏仁豆腐を頬張る。

 意中の相手なんていないし、結婚願望がある訳でもない。どっちかっていうと恋人なんて面倒なだけだと思っており、私が処女かどうかを気にして想いを失う程度の相手にどう思われようがどうでも良かった。むしろ傷物と蔑んでくれるのであれば、こちらも距離を置く手間が省けるので好都合だ。

 そんなちっぽけな話なんかよりも、今は杏仁豆腐を堪能する方がよほど大事だ。

 

「私は……まだ、少し怖いわ」

 

 妹が呟くように口にする。なんか真面目な感じがしたので、ひっそりと妹の羊羹に伸ばしていた手を止める。

 

「姉様は覚えていないかもしれないけど、姉様は私を守ろうとして連れていかれたのよ」

「そう、当然ね」

 

 なんだ、やっぱり大した話ではない。と妹の羊羹を一口分切り取って口に含んだ。

 これがもし仮に可愛い妹を見捨てたとかいう話なら私は私を縊り殺さないといけないところだった。

 

「……私のこと、嫌っていると思っていたのよ」

「えっ? そうなの?」

 

 そんなことはありえない、と思わず桂花の顔を見返した。

 

「いつも煙たそうにしてたわよ」

「ん〜、あんまり想像できないわね」

 

 妹のことを嫌う自分が分からない。

 実際、記憶を失ってから初めて桂花の顔を見た時に浮かんだのは膨大な好意だった。ただ桂花が私に嘘を吐いているとも思えないから、実際に避けていたのは確かだったのだろうと思う。どうにも前の私はツンと高飛車な態度を取っていたようで、あまり桂花に良い印象を与えていなかったようだ。まあ尤も、思っていた、と妹が言っているように今は誤解が解けているのだろう。

 だって私、一目見た時から好きだったし、実際に身を呈して妹を守っている。

 

「今思えば、あれも、あの時も、きっと好意の裏返しだったのね」

 

 妹はいまいち釈然としない様子で溜息を零した。

 

「ともあれ桂花、私は貴方のことが好きよ」

「知ってるわよ」

 

 私もよ、と妹がそっぽ向いた。可愛い、と私は頰を緩める。

 

「ずっとこんな感じだったのなら私がしてきた気苦労はなんだったのよ……」

 

 ぶつくさと不貞腐れる妹に「甘味が足りてないわよ」と匙で掬った杏仁豆腐を彼女の口元に差し出した。

 

「……なにこれ?」

「姉妹なんだから良いじゃない、美味しいわよ」

 

 笑みを深めて待ち続けていると、根負けしたのか桂花が溜息を零して口を開いた。

 薄く開かれた唇の隙間に杏仁豆腐を滑り込ませる。「あら美味しいわね」と僅かに目を見開いた妹に「でしょう?」と私は目を細めながら答える。素直過ぎるのも困りものね、と妹がまた疲れたように息を零す。

 幸せが逃げるわよ。その程度で逃げる幸せなんていらないわよ。

 

 

 程なくして、私と違って勤労意欲が旺盛な妹の仕官先が決まる。

 相手は名門と名高い荀家よりも更に格上の汝南袁家。四世三公と知られる家系であり、皇帝を除外し、大陸で最も大きな権威を持つ家柄と言っても良い。今回、仕官要請があったのは正当後継者の袁術ではなく妾の子と呼ばれる袁紹だが、その評判は袁術を遥かに上回っている。袁術よりも袁紹を後継者に立てるべし、という声が袁家内で上がっているようで、現当主の袁逢は手を焼いているらしい。

 評判、能力も含めて、妹の士官先としては申し分ない。

 

「いつまでも殻にこもっているわけにはいかないわよ」

 

 何顒、と書かれた封筒を片手に妹は私を横目に盗み見てから口にする。

 可愛い妹の門出だ、祝福してやりたい気持ちはある。しかし私は知っている。桂花が本当に仕えたいと思っているのは袁紹ではなく、兗州の英雄、陳留太守の曹操の方だ。そして何顒と呼ばれる者の手紙では、荀家から誰か一人を送って欲しい、という嘆願書だということも知っている。

 何顒からの嘆願書が届いた時、荀家の有力者達はすぐに誰か一人を送り出すことを決定する。そこで名前が挙がったのは、まだ仕官先が決まっていない桂花だ。私達の母である荀緄も良い話だということで快く承諾し、今に至る。それが私達に言い渡されたのは一週間も前の話、桂花も心の整理を付けたようで今はもう結論を出してしまった。

 私になにかできることはないか。傷物と呼ばれる私は仕官を諦めており、母も家から出すことを諦めていた。

 このままでは愛する妹は私の前から居なくなる。でも今、引き止めても妹は何処かへ行くだろう。今のうちに私が妹の為にできることはないだろうか。少し考えて、ふと思いついたことがあった。どうせ妹がいなくなるのであれば――その考えに思い至った時、ふと苦笑する。

 前も、今も、結局、私は何も変わっていない。

 

「私も付いていくわ」

「姉様、なにを突拍子もないことを……」

 

 話を聞いている限りでは、こんな時、前の私ならこんな風に口を開いていたはずだ。

 

「貴方一人では心配だからよ。何時まで経っても目が離させない世話焼かせな子、さっさと成長してくれないものかしら?」

 

 桂花はきょとんとした顔を浮かべた後、厭らしく口を弧にする。

 

「何を言っているのよ。今まで姉様を世話してきたのは誰だと思って? 姉様の方こそ私が居ないと部屋の掃除一つできないんだから」

 

 ふん、と楽しそうに鼻を鳴らす妹に「ええ、そうね」とあっさり告げる。

 

「私、貴方に付いていくわよ。貴方がいないと生きていける自信がないわ」

「……えぇ、なにそれ。ちょっとは情けないとは思わないの?」

「情けないところはたっぷり見られてるから今更よ」

 

 守りなさい、と告げると妹は心底呆れたように溜息を吐いた。

 

「……まあ姉様がきてくれると心強いわね。楽をさせる気はないわよ」

「あら自信がないなんて珍しい」

「私を誰だと思って? 自信ならあるわよ、九割方」

 

 そう告げる妹は本当に自信たっぷりで――――

 

「姉様が来てくれて、やっと十割になるわ」

 

 ――私を見つめる目がとても優しかった。

 そんな真っ直ぐな瞳に見つめられて、私は気不味くって目を逸らした。

 裏切っちゃうなあ、とか、そんな感じ。

 

 

 




漸く繋がった。何顒を出した理由の一つ。
荀諶は七天の頃から袁紹√として考えており、本作で荀彧を出した理由でもあります。
本来は主人公格、でも本作では脇役になりそうですね。

正史と恋姫時空の狭間で立ち位置に悩み、いまいち扱いを決められていない党錮の禁。
でも扱わなかったら何顒の存在理由の半分がなくなる。残る半分は今、終えました。
党錮の禁を処理するには何進を進めないと予定が立たないなあ。
とかそんな感じです。

宦官メインの話が書きたかったのも恋姫二次を書き始めた理由の一つですね。
何進、張譲、董卓の三つ巴とか読みたくない? 私は読みたいので書きます。

ちなみに今、一番扱いに困っているのはアニメ版何進。
何晏として出す計画はあります。相手を猫や鼠にする薬でも作るんじゃないですかね?
何晏の上手い扱い方がわからないので、今は保留中。保留のまま消えそう。


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脈動編
拾弐.王佐の才


 あれから数年が経つ。

 袁紹、もとい麗羽は県令を経て、無事に冀州勃海郡の太守になった。

 とはいえ賊退治で上げた名声だ。冀州刺史である韓馥の要請で賊退治に勤しむことが多く、麗羽自身が勃海郡に居ることは意外と少ない。では誰が麗羽のいない勃海の土地を守るのか。それは私、つまり許攸であった。尤も私の本業は人物評論家、私自身の才覚で勃海郡を統治することは難しい。

 そこで私が取った手段というのが、人材登用。つまり文官の募集になる。

 さて、豫州と冀州における麗羽の評判は高い。仲介人である何顒に、麗羽の評判を良くするような噂を流すことはできないか、と頼んだことがある。その返事は「それはわたしから評判を買う、ということですね」というもので、工作費として定期的に金銭を渡し続けること一年間、賊退治に勤しみ続けて来たこともあり、想像以上に麗羽の評判は高くなって、今となっては冀州の英雄として語られる程にもなった。その人気は冀州刺史の韓馥を遥かに超えている。

 そんな訳だから募集を掛けた時も多くの人材が、袁紹陣営の門戸を叩いてくれた。

 その数、百を超える。

 思っていた以上に多くの人材が集まったことに喜び、そして質の悪さに嘆いた。

 文官を志望しているだけあって、読み書き算盤程度はできるが、事務仕事を任せられる者は少ない。人手は欲しいが猫の手ではできない仕事が多く、教育をするにしても教育側の人手が足りない。それで結局、集まってくれた人数の八割以上を送り返す羽目になった。残った二割の内、九割は見込みある戦力外。残る二割の更に一割が即戦力として使うことができる人材。つまり二人、たったの二人だけだ。どうせ教育する羽目になるなら若い新卒が欲しい、という気持ちがよく分かる。

 逆に云えば、二人も即戦力の人材が来てくれたことに感謝すべきか。

 

 即戦力として期待される二人の名は、逢紀と郭図。逢紀は軍務と謀略を得意とし、郭図は戦術と戦略を得意とした。昔は義勇軍、今は勃海軍の管理は逢紀に任せて、少し大きな戦になりそうな時には郭図を随伴させるように麗羽に頼み込んだ。二人とも門外漢と言いながらも政務を手伝ってくれるので重宝している。それでも太守就任直後の過渡期を抜けて、誤魔化しながら行ってきた政務に限界を感じた私は、何顒に政務の専門家を紹介して欲しいと菓子折りを持って頼み込んだ。

 何顒は少し困った様子で「紹介だけですよ?」と姿を消す。

 

 それから一月、何顒の紹介状を持った二人組の少女を勃海郡までやって来た。

 片や見覚えのある猫耳少女、片や見覚えのない猫耳少女。見知らぬ方は馬に乗っており、見知った方は徒歩で馬を引いている。共に名門荀家の御令嬢、二人合わせて姉妹猫。これでも人物批評家の端くれ貴族目録ならぬ名家目録に準ずるものを読み込んだことがあり、その家系図は粗方、頭の中に入っている。つまり片方の名前がわかれば、もう片方の名前もわかる。

 そんなことよりも懐かしい顔に、私は駆け寄った。

 

「荀彧!」

 

 バッと両手を広げてると懐かしい顔は酷く嫌そうな表情を浮かべて距離を取った。

 

「なんであんたが袁紹んとこにいるのよ」

「何故って本初のところに仕えているからだけど?」

「貴方のことだから曹操を選ぶと思っていたわ」

 

 荀彧は不意に私が飛びかかっても逃げ切れる距離を保ちながら会話を続ける。

 じりっと半歩、地面を擦れば、すっと距離を離された。クソ、これが軍師の間合いというものか。

 感動の再会というのはお互いに抱き締め合うことから始まる、と天の知識にあったのに!

 

 間合いを測ること数分、

 でもまあ、と荀彧の警戒心しかない目付きが和らいだ。

 

「貴方がいるなら、ここも楽しめるかも知れないわね」

 

 小さく笑みを浮かべながら、そんなことを告げる。

 何故だか、その目は、どこか遠くを見ている気がした。

 

「……荀彧、貴方は…………」

 

 なんでもないわよ、と彼女は頭に被った頭巾を取る。

 

「今日は姉様も一緒にきてるのよ、体が弱いから早く休める場所に連れて行って欲しいわ」

 

 そう言いながら、もう一人の猫耳少女を見やる。

 荀彧と同じ栗色の髪が背中を隠す、顔の作りは荀彧と似ているが全体の雰囲気としては何処となくおっとりとした感じだ。

 華奢な荀彧よりも更に細身の体付きで、馬に乗っているはずだが今も少し息が上がっている。

 

「姓は荀、名は諶。字は友若。文若(荀彧)の姉です」

 

 にへらと浮かべる笑みは、こちらの力が抜けてしまいそうだった。

 

「貴方が許攸さんなのね、よく文若から話を聞いています」

「姉様ッ!」

 

 まるで毛を逆立てた猫のようにフシャーッ! と荀諶のことを威嚇する。その妹の姿を顔色ひとつ変えずに受け止める辺りが、なんというか、よく知った仲なんだなって思う。姉妹なんだから、当然だけど。仲が良いなって、そう思った。

 

「そういえば何顒はどうしたの? 一緒に来るって聞いてたけど」

「近場までは送ってくれたわよ。次の仕事があるからって、どっか行っちゃったけど」

 

 ふぅん? と少し考えて、まあ何顒なら意味のないことはしない、と気にすることをやめた。

 とりあえず二人を勃海郡に新しく建てた屋敷に招待しよう。

 

 

 荀彧は呆れる程に優秀だった。

 初めて執務室に招き入れた時、荀彧は机の上に置かれた書類を手に取ると「この程度のこともしないといけないのね」と大きく溜息を零しながら次から次に目を通していった。書類を机に戻す時、机の上には最初にあった束の数よりも更に細かく分けられる。「最低限、書類分けができてるから簡単よ」と会話の片手間に仕分けを進めて「この束は一緒に処理できるわ、こっちの束は同じ問題。確か人手不足って言ってたわよね? なら、この束をそのまま下に送りつけてやりなさい。失敗しても取り返しが付くし、まあ貴方の見立てた文官が補佐に付けば、大きな問題になることはないでしょ。緊急性の高い問題はこれね。これは許攸、貴方が片付けて頂戴。この貴方が持て余してそうな難しい問題は私が貰ってあげる。量が多い? 大丈夫よ、姉様にも手伝わせるから」と半刻もしない内に指示まで出す始末だ。事前に情報を集めていたのだろうが――「この程度で驚かれても困るわよ」と私が驚き固まっているのを見て、溜息を零される。これが才能というものか、格の違いを感じる。

 斯くして溜まる一方であった書類の束は一週間もしない内に片付けられた*1

 そして今は勃海郡を発展させる為の方策を練っているところだ。

 

「逢紀と郭図だったかしら? 手伝いなさい、今は猫の手も借りたい程なのよ」

 

 私の配下である二人を執務室へと連れ込むと二人に書類の束を押し付ける。

 傍から見ても、ずっしりと重量感のあるソレに逢紀は助けを求めるように私のことを見つめたが、私は自分の机の上にある書類の山を指で差し示すことで返事をする。対して、渋々と書類の束を受け取った郭図は「どうして私が、こんなことを……」と愚痴愚痴と文句を呟いており、それを見兼ねた荀彧は「戦馬鹿が政治できなくてどうするのよ」と半ば呆れながら咎める。

 なんだかんだで二人共に荀彧には従順であり、勃海郡はみるみる内に収益を伸ばしていった。

 即効性のあるものから数年後を見据えたものまで、収益が上がった分だけ都市開発に使われるので金庫に資金が貯まることはほとんどない。まるで自転車操業のようだ、と呟けば、その単語の意味を問いただした後、「ちゃんと緊急時の資金は残してあるわよ」と溜息交じりに告げる。

 何処に? と更に問いただせば、なにかの目録を手渡された。

 

「袁家――と云うよりも袁成*2の屋敷にある財宝をまとめたものよ。それでこっちが大雑把な見積もり、大分、低く見積もってるから下回ることはないと思うわ」

 

 と、更に書類を重ねられる。

 怖いなあ、戸締りしとこ。ちなみに私が趣味で描いていた絵も何点か目録に入れられていたことに気付くのは、半年後の話になる。

 今はまだ知らない。知らぬが仏、というのはきっとこういう時に使う言葉なのだろう。

 

 さて、荀彧が仕官して来てから二週間が過ぎる。

 この日は賊討伐に出ていた討伐軍が帰還する予定の日取りであり、部隊長以上を中心に宴を催す日でもあった。こんな時でも荀彧は頼り甲斐があり、何時も私がしていた段取りを把握すると私の倍以上の速さで、費用を削った上で今まで以上に豪華な宴に仕立て上げた。しかも、それを他の政務の片手間に終わらせてしまうのである。宴の準備が見る見るうちに整っていく光景を見つめながら、暫し呆然と眺めていると逢紀と郭図が私のことを慰めるように肩を叩いた。そして「判子をお願いします」と書類の束を手渡される。この見事な仕事人間っぷりよ。嘆く暇があるなら仕事しろ、と言わんばかりだ。

 ちなみにこれは「判子を押すだけなら頭が回らなくてもできるでしょ?」という荀彧の迂遠な気遣いである。

 うーん、この、うーん……

 ともあれ、なんだかんだで逢紀と郭図は荀彧の下で着実に力を付けている。荀彧は会話を交わす前から二人を重宝していたので、やっぱり才能に満ちている人は凡夫では見えていないものが見えているのかな、と思ったり思わなかったりする。人物批評家の端くれとして、荀彧に人物批評のコツを聞き出そうとして、逢紀と郭図を例に問いかけてみたことがある。

 すると荀彧は「はあ?」と眉間に皺を寄せながら答える。

 

「あんたが新米を側近に置いているのだから最低限の能力はあると思っただけよ」

 

 うーん、この! ふっふーん!

 うざい、と言われた。辛い。

 

 荀彧が指揮を執るようになってから様変わりした執務室。

 賊退治から帰ってきた麗羽は三週間ぶりに見た執務室の光景に「まるで友達の友達の家に来たような疎外感ですわね」と零した。立場的には私が執務室の長のはずなんだけど、今や文官の全員が荀彧の指示に従っている。執務室の隅っこの方には荀彧の姉である荀諶が窓際を陣取っており、執務室の様子を眺めながら業務に従事していた。彼女も彼女で有能なのだが、荀彧の活躍のおかげで影が薄い。というよりも荀彧の活躍の前では誰もが見劣りする程であり、「彼女こそが王佐の才と呼ばれるのでしょうね」と様子を見にきた何顒に言わしめるほどだった。

 さておき、袁紹がいない間に仕官してきた者達を紹介している時、荀彧は作ったような笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。

 そして自分の番が終わった後は退屈そうに何処かを眺めていた。

 

 

 本日の業務を終えた後、柱の陰から猫耳頭巾がちょいちょいと手招きしてきた。

 誘われるままに今は使っていない部屋に招かれて、そして背中を隠すほどに長い栗色の髪を翻しながら荀諶が私に振り返る。

「どうしたの?」と問いかければ、「妹のことで話があるの」と切り出した。

 

「近い将来、大陸は戦乱の大火に包まれるわ」

 

 そして、全く別の話になる。慌てないで、と荀諶は微笑みかけてくる。

 

「少なくとも我が荀家はそのように考えているのよ、潁川郡を中心にした情報網も同じ答えね」

 

 嘯くように、口遊むように、荀諶は言葉を連ねる。

 

「その時が来た時、我が荀家は繁栄よりも存続を選ぶわ。その為の策として、広く、浅く、血縁者を各地に残しておく必要があるのよ」

「……つまり、荀諶。貴方は袁家を出て行きたいの?」

 

 この問いに彼女は首を横に振る。

 

「出ていくのは文若、妹の方よ」

「どういうこと?」

「あら、気付いているのではなくって?」

 

 荀諶は袖で口元を隠しながら、くすくすと目を細める。

 

「文若には思い定めた人がいるのよ。貴方が曹操の誘いを蹴って袁紹に付いたように、妹も仕えたいと思い定めた人がいる」

「……今、抜けられると勃海が成り立たなくなる」

「その時の穴埋めは私がするわ」

「窓際を占拠している君が?」

「明日から本気出すわよ、それで証明してあげる。こう見えて記憶力は良いのよ」

 

 まあ、と荀諶は視線を逸らしてから続く言葉を口にする。

 

「まだ会ったことはないのよね。だから実際に妹の御目に適うかはまだわからないのよね」

「なにそれ? 今更、此処を抜けてまで確認することなの?」

「妹の願いは極力叶えてあげたいのよ」

 

 それに見たでしょう、と彼女は横目に私の顔を盗み見る。

 

「ずぅっと退屈そうにしてるでしょう? 袁紹と引き合わせた後、それが露骨に表面化するようになったわ」

 

 その言葉に私は口を閉ざす。

 なんとなしに分かっていたことだ。彼女はまだ本気を出していない、情熱と呼べるものが失われている。

 勃海郡に来てからの彼女は素っ気ない、感情を露わにすることはほとんどなかった。

 

「ここにいても幸せになれない、あの態度では周りから顰蹙を買うことにも繋がる。周りも薄々気付き始めているわよ」

 

 だけど荀彧に抜けられるわけにはいかない。

 それに仕事とか抜きにしても、私個人が荀彧と離れることが嫌だった。

 ずっと幼い頃からの友達で文通相手だ。

 

「それなら、どうして袁紹に仕えるのよ」

 

 だから反論する。それなら最初から希望を持たせるような真似をするな、と。

 

「御家の都合、強いては――」

 

 荀諶は薄っすらと笑みを浮かべて答える。

 

「――何顒からの要請よ。あれがなければ私の妹は夢を諦める必要もなかった」

 

 その言葉に一瞬、頭が真っ白になった。

 思考し、反論しようとして、しかし言い訳がましい言葉しか思いつかなくて口を閉ざすしかない。

 荀諶は私のことを見つめたまま、続ける。

 

「どのような結果になろうとも私は此処に残る。これは妥協案、そして折衷案。たった一度きり機会を設けてくれるだけで良いのよ。妹のことを想ってくれるなら受けてくれないかしら?」

 

 その問いかけに私は震える声で、荀彧が求める相手って誰? と問い返す。

 

「曹操」

 

 目の前が真っ暗になるような想いだった。

 

 

 

*1
※処理中、仕事割り振った状態。

*2
袁紹の義親。




前話を出すタイミングはもっと後の方が良かったかな、と思いながら新章です。


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間幕:わがままだってわかっている。

 今日は月が綺麗ね。

 風流とか、侘び寂びとか、そういった感性にはあんまり興味が湧かないはずなんだけど、最近はそういったものを好むようになっていた。道端に咲いた一輪の花とか、視界に入れることなんて私の人生でほとんどない。というよりも下を向いて歩くことが自分にとっては稀なことであり、孤独に零す溜息が多くなったのも勃海郡に来てからのことだった。

 それが最近、袁紹と顔を合わせてから更に多くなった気がする。

 

 姓は荀、名は彧。字は文若。真名は桂花。

 四世三公と名高い袁家と比べると見劣りするが、潁川郡を拠点に築き上げて、脈々と受け継がれてきた人脈は他を圧倒する。

 その人脈から得られる情報網は、豫州は勿論、河内、徐州、兗州、冀州、荊州上部と広範囲に渡って、詳細な情報を得ることができた。伝手の伝手を頼りにすれば、大陸全土の情報を集めることも難しくはない。情報の力は強大で、簡単に大陸の秩序を破壊することもできる。故に荀家に産まれた者は荀子より、儒家思想を徹底的に叩き込まれることになる。

 人は皆、生まれ持っての悪である。故に荀家の人間は皆、努力し、修学することで善性を得ることを第一とした。

 

 あまりにも強大すぎる力は私欲によって使うべきではない、と己に強く戒める為に。

 

 天下を統一する者がいない群雄割拠の時代が訪れた時、荀子はこのように述べている。

 覇者が勝利する、と。覇者というのは力だけを持つ暴漢を意味しない。無闇に領地を併合せず、諸侯を友と呼び、滅んだ家の復興には尽力する。そうして得た友と共に歩むことで強きを挫き、弱きを助ける。そのような正義の振る舞いが最終的に天下を統一する。しかし、理想はそこにはない。絶対的な正義を示すことで天下全てを味方につけ、戦わずして勝つ状況を作ることこそが理想である。それは覇者ではなく、王者の在り方。それが現実的ではないことは分かっている。その状況を作る為にはまず勝利し、勝利の後に築きあげるものだ。高祖がそうしたように、光武帝がそうしたように。それこそが天下泰平の礎となる。

 つまり私が求める王とは、戦乱の世においては覇を唱えて、泰平の世においては王道を敷くような存在だ。

 

 荀家の情報網を使う許可を貰った時、手始めにと初めて集めた情報が曹操と袁紹だった。

 二人を調べた理由は簡単なもので、先ずは情報収集を行うのに手頃だったこと。そして名門の中の名門である汝南袁家の長子と宦官の最高位である大長秋昇まで上り詰めた曹騰の孫娘ということ。あとついでにいえば、許攸の手紙によく出てくる名前だったからだ。彼女は人が良くて間の抜けている奴だったから騙されていないかな、と思って軽く身辺調査を行ったのは内緒の話。とはいえ許攸は間抜けではあっても馬鹿ではないので、これは杞憂に終わった。

 逆に思わぬ収穫があった。それは私が望む主君の条件に当て嵌まる人間を見つけたことだ。

 つまり、曹操のことになる。

 

 治世の能臣、乱世の奸雄。

 

 かつて許劭は曹操をこのように評したと云う。

 大いに結構、それこそが私が望む覇王の在り方だ。私が目指すは天下泰平、その数百年も後にまで続く平和である。その為には先ず覇者として、いち早く天下の統一を。そして戦後は戦乱で荒れた世の中を復興を、その時に王道を敷いて後世数百年にも及ぶ天下泰平の礎を築きあげる。

 私は、その為に自らの命を使いたい、燃やしたい。乱世の覇者、治世の王者。つまり覇王を補佐することが私の夢だった。

 荀家の情報網を使って集めさせた曹操の功績や実績、その立ち振舞いは話に聞いているだけでも胸が熱くなった。曹操が注釈を入れたという孫子の写本を手に入れ読み込んだ時にはもう、顔も見ていないのに初恋のような想いを抱いていた。私が仕えるべきは、曹操だと思うようになっていた。そして、きっと許攸も曹操の才能を見抜いているはずで、私達が曹操に仕えるのは確定事項なっていた。

 だから私は成人してからも曹操に仕えるつもりで仕官要請を断り続けてきたのだ。

 

 正直なことを言えば、袁紹も悪くない。

 彼女には分かりやすい魅力がある。ただ彼女の在り方は名家の誇りの延長戦にあるものであり、どう転んだとしても王者以外の何物にもなることができない。彼女が歩いた道のりが王道となり、その敷かれた道を周りの者達が舗装する。

 それもまあ悪いことではない。実際、許攸が選んだだけあって、能力も十分にある。けどまあ許攸が彼女を選んだ理由は人柄や能力ではなくて、縁ゆえに、なのだろう。間の抜けた彼女らしい理由である。

 袁紹は余りにも真っ当で、真っ直ぐ過ぎる。

 許攸が好みそうな人柄で、そして、その道にはきっと私は必要ない。

 

 私がいるべき場所はここではない、情熱を感じない。

 

 この世の中には、仕えるべき主に仕えられる人はどれだけいるのだろうか。

 恋愛感情とはまた別の意味で人が人に惚れる理由。それは人柄、それは能力、それは意志、数多くあれども、それはきっと人が人に恋するように尊くて希少な感情なのかも知れない。自分の存在の全てを賭けても良い、と感じられる存在と出会える確率はどれだけのものだろうか。それはきっと出会えるだけで奇跡的なことであり、そういう人間の下で働けるというだけで幸せなことだと思っている。私は貴方に惚れました。と衝動だけで行動を起こしてしまうことは、それ自体は褒められるべき行為ではなくとも――きっと大切にしなくてはならない感情だと思う。

 月が綺麗だ。手を伸ばしても届かない、杯に注いだ酒に映しても飲み干せない。

 此処も悪くはない。未練はあっても不満はない。なによりも許攸がいる、それだけでもう此処で働いていくには充分な理由になる。満足している、九割方。十全を目指すのは、きっと過ぎた願いだと分かっている。

 酒を飲み、酒に酔って、酒に呑まれる。足取りが覚束なくなって、視界が揺れる。意識がまともに回っていない。

 酔っていないとやってられない。

 

 余計なことを考える優れた頭脳を麻痺させるには、酒を飲むことが一番だった。

 

 ふらりふらりと歩いていると、ずるりと視界が落ちた。

 脹脛を削る痛みに次いで、背中を強く打ち付ける。そのまま、ごろごろと全身を打ちつけながら城壁の階段を転がり落ちた。

 気付いた時には地面に俯せで倒れていた。

 全身が痛む、けど、動けない程ではない。ゆっくりと体を起こしながら、馬鹿ね、と自嘲する。このままでは駄目だということは分かっていた。優秀な頭脳は解決する手段を導き出している。今の私は恋に恋する乙女のようなものであり、現実を知れば、今の憂鬱な気持ちが払拭される可能性はあった。その時はもう未練を吹っ切り、生涯を賭けて、袁紹に仕える。もし仮に会いに行くのであれば、それぐらいの覚悟はしなくてはならない。不義理は働きを以て償わなくてはならない。それを理由に私は袁紹に仕えることに情熱を燃やすこともできるはずだ。

 問題なのは、曹操が本物だった場合だ。

 きっと私は自分を抑えることができなくなる。それこそ恋する乙女のようにまっしぐらに、想いをぶちかますに違いなかった。だが、そうなっては余りにも申し訳が立たない。私には友達が少ない、こんな性格をしているから友達が少なくなることは分かっている。かといって今更、自分を偽るようなこともできない。本質的に私は友達を必要としていない、友達がいなくとも私はきっと生きていける。寂しさで死ぬことはない。でも、こんな私だからこそ、友達という存在がどれだけ大切で希少なものなのか分かっているつもりだ。

 私はあっさりと友達を裏切れる、切り捨てられる。しかし、だからこそ私は友達を裏切るような真似はしたくなかった。

 此処でも私は幸せだ、九割方。十全を目指すことは強欲が過ぎる。

 

 翌日、全身傷だらけになった私を見つけた許攸は慌てふためいた様子で気遣ってくれた。

 事情も聞かずに先ず、私のことを案じてくれて、それから事情を問い質そうとする。

 

「階段で足を滑らせただけよ」

「それは嘘の常套句だって、私、知ってるから!」

「……いや、本当に本当よ」

 

 事実を告げても引き退らない友達にうんざりしながらも今日も今日とて淡々と業務を熟す。

 私が居なくなっても仕事を回せられるように人材の育成を重視する。

 三十代後半、四十になる前には政界から引退して、隠居しようと心に決める今日この頃。

 荀家のことは姉様と従姉に任せておけば、悪いようにはならない。

 

 最近、毎日が早く感じるから、あっという間に時は過ぎるはずだ。

 仕事以外のことで云えば、姉と許攸のことしか記憶にない。

 

 



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