女中はくノ一 ~月光に煌めく水鏡の逆桜~ (三日坊主の天才)
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一話

 澄んだ空気と麗らかな日差しの中、爽やかな風が吹いて草花が揺れている。花の甘い香りに誘われて、花の蜜を探し求める蝶々と蜜蜂が飛んでいた。

 季節は夏先。日に日に強く照りつける太陽の光を肌で感じながら、お片はせっせと庭掃除に勤しんでいた。

「まだまだある……」

 お片は広い庭園を忌々しく睨みつける。正確に言うと庭園に落ちている無数の葉を憎ったらしく眺めていた。

 宏大な敷地を誇る庭園には高低様々な木々が生い茂っている。それらの木々から何百枚もの朽ちた葉が枝を離れて、草むらにぱらぱらと落ちてくる。風に吹かれてあちらこちらに散乱した葉を一箇所に集めるのは実に苦労する作業だ。

 昼下がりの午後から始めた庭掃除も気がつけば半刻が経っていた。無言で作業を進めると時間が過ぎるのは早い。その間にお片が掃けた面積は全体のほんの一割もいっていない。明日の朝になっても庭掃除は終わっていないだろう。

「広すぎるよ! 誰、こんなに広い庭にしたのは! 見つけ出して頬を叩いてやる!」

 一向に終わりそうにない掃き掃除。気の遠くなるような作業に、お片は苛立って暴言を吐き捨てると、運悪く見回りの侍女に聞かれてしまった。

「何をぶつくさ言ってるんですか? 口を動かす暇があるなら手を動かしなさい、手を。そんなんじゃいつまでも経っても終わりませんよ」

 縁側を降りてきたのは侍女のお蘭。侍女とは主の身の回りを世話する見目麗しい女中を指すが、この屋敷では女中を束ねる纏め役も兼ねている。

 お蘭はお片の上司に当たる人物で、大人の女性が醸すピリピリとした引き締まった空気を纏っている。姿勢も素晴らしく正に出来る女といった風貌だが、おっとりと垂れた目がそういった印象を柔らかくし、女中たちに『仕事には口うるさいけど、悩みに乗ってくれる優しい人』と慕われている。

 その優しさに付け込んで、無礼なお片は口を尖らせて開口一番文句を言った。

「お蘭。一体、誰がこんなバカ広い庭にしたんですか! こんなに広い庭を二人で掃除をしろだなんて横暴ですよ、横暴。度が過ぎてます!」 

 顔はぶすっとむくれ面だ。

「いいですか。屋敷の庭はどこもかしこも広いものです。この屋敷だけが特別に広いというわけではありませんし、どちらかといえば狭いほうです」

「これで狭いほう! 嘘だ。あり得ない! 私が今まで勤めた屋敷には庭なんてありませんでしたよ!」

 これまでにも幾つかの屋敷で働いたお片は自身の経験を基にお蘭の言うことが嘘だと主張した。

 お片の経歴を知っているお蘭はお片が嘘を言っていないことを知っていて、同時に些細な勘違いをしていることにも気がついている。そして、断言するようにきっぱりと言い放った。

「それは小さなお屋敷でしょう? この屋敷のような大きくて広い屋敷には大抵、庭がつきものです」

 お片がこれまでに勤めてきた屋敷は小禄領主の小さな屋敷だ。庭なんてあるわけがなかった。しかし、今勤めている屋敷は天子のお膝元である京の都に悠然と建つ大きな屋敷だ。屋敷の主は公儀で最高官位の太政大臣を有するお上。大きな庭がないほうが不自然だろう。

「ここ京の都に建つ武家屋敷にも例外なく庭があるのがその証拠……。さあ、分かったなら掃き掃除を続けて下さい」

「うう~……」

 納得がいかないお片は口を尖らせて唸り声を上げる。顔に『嫌だ! 絶対にしない!』と書いてある。心の中が透けて見える何とも分かりやすい表情に、お蘭は呆れ顔で知らんぷりを決め込んだ。

「仕事はまだ終わっていません」

「ううう~……」

 唸り声が止めないお片のじとっとした目が何かを求めて訴えかけるが、お蘭は取り合わない。

「何も言いませんよ。さあ、早く仕事をしなさい」

 パンパンと手を叩き、『この話はもうお終いですから、仕事をしなさい』と目で語りかけたが、お片に効き目はさっぱりなかった。

「うううう~~……」 

「はあ~……。どうしていつもこうなるのでしょうね……」  

 お蘭は大きなため息をつくと、じと目のお片と目を合わせて言った。

「誰もこの庭の落ち葉を全て掃けとは言っていません。出来る範囲でいいのです。大体、私でもこの広い庭を一日で掃除するのは不可能ですし。分かったのなら仕事に戻りなさい」

 はっきり明言しないと、お片はてこでも動かないと短い日々の中で教えられた。強情を張るのに関しては人一倍だ。

「本当に! わーい、やったー! うっし! 庭掃除、庭掃除と……」

 お片はガッツポーズをして喜ぶと、意気揚々と掃き掃除を再開する。出来るだけ頑張ればいいと思うと、とても気が楽になったようだ。

「全く……。ふふふ……」

 吐息混じりに呟いたお蘭は笑みを浮かべて屋敷に戻っていた。

「ふふ~ん♪ ふんふ~ん♫ ふふふ~ん♬」

 お片は機嫌良さそうに鼻歌を歌う。苛立っていたことなどもう忘れたような振る舞い。とても現金な女子だ。逞しいというか何というか……。

「お片。お蘭が来てたようだけど……」

 お滝が箒を手に持ってとことこ歩いてきた。お滝も庭掃除を任されている。

「見回りだったよ。ちゃんと掃除してるのかなあって……。あっ、そうそう。掃き掃除は出来る範囲で良いみたいだよ?」

「それはまあ……。こんなに広い庭を二人で全て掃くのは無理な話ですし」

 お滝は『そんなこと言われてなくても分かりますよ?』と心の中で思う。

「……あれ?」

 お滝の反応が予想していた反応とは違っていたので、お片は戸惑った。てっきり賛同してくれると思っていたのだが、普通に肯定されて当惑している。

「ええと……、何かありましたか?」

 お滝も同様に戸惑っていた。普通に返事を返したら、お片が当惑した。何か変なことを言ってしまったのではないかと不安になって当惑している。

「掃き掃除って落ち葉が一杯ある場所を重点的にすればいいんですよね? 例えば大きな木の周辺とか……。違いましたか?」

 お滝は自分のやっていた方法が合っているかどうかを確認する。

 お片は手をポンと叩いて「そうすれば良かったんだね!」と明るい声で言うと、お滝は「えっ?」と驚きの声を出して目を丸くした。

「お滝って要領が良いね……。それに比べて私はそんなことも分からないなんて……。トホホ……」

 お片はお滝の頭の良さと自分の頭の悪さを比べて落ち込んだ。劣等感を抱いていることだけに、一入落ち込んでしまう。

 いまいち状況を掴みきれていない中、急にお片が落ち込んでしまい、お滝は慌てふためいた。自分が何か悪いことを言ったんじゃないかと内心で焦りに焦り、周囲をキョロキョロ見回して助けを求めようとしたが誰もいなかった。

 自分でどうにかするしかないと悟る間にも、お片はどんよりと暗い表情で俯いて、「私はなんてバカなんだろうと……」とぼそぼそと呟いている。

「た、たまたまですよ! そう、今回はたまたま、たまたま分からなかったんですよ! お片も頭が良いですよ。良いはずです! だから落ち込んでないで掃き掃除頑張りましょ! 今から大きな木の周辺を掃いたらいいんですよ!」

 落ち込むお片を必死で励ますお滝は『お片の頭の悪さは一生触れまい』と心に誓った。

「そうだよね!」

 俯いていた顔を上げたお片は屈託のない笑顔を見せた。立ち直りが早い単純な女子だ。

 お滝はその笑顔を見てほっと胸を撫で下ろした。

「ところでお片は何処らへんを掃いていたんですか?」

「私はこの砂利道の周りをかな? だから落ち葉が全く集まらなくて小石ばかり集まっちゃって……」

 お片は回遊の砂利道付近ばかりを掃いていた。『人がよく通る道はちゃんと掃除したほうがいい』と思ったからだ。目に付きやすいし、もしかしたら落ち葉を踏んでこけるかもしれない、と考えたようだ。

 質を求めるのか、量を求めるのか。その違いが二人の方法に大きな差を生み出したのかもしれない。

「それじゃあ日が暮れても落ち葉は集まりませんよ」

 お滝は口元に笑みを零した。

「だね。今から大きな木周辺を掃くよ」

「其の方が良いですよ。じゃあ、あともう少しだけ頑張りましょ」

「うん! 頑張ろう!」

 お滝は自分の持ち場に戻っていき、お片は近くの落ち葉がたくさんありそうな大きな木を探し出した。

「あの木なら一杯ありそう! それ行け!」 

 お片は風になった気分で見つけた大きな木に無邪気に駆け出す。何とか満足の行く仕事が出来そうだ。これでお蘭にも怒られずに済むだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 女中の寝所となっている大部屋。その隣の共用の休憩部屋にお片は居た。小上がりの座敷に置いてある文机に向かって文を認めている真っ最中だ。

「拝啓父上……っと。う〜ん、どう書こうかな……」

 白紙に勢いよく筆を滑らせたはいいが、そこから先が中々進まなかった。

「なんて書けばいいんだろう。分かりやすく伝えないといけないし、でもそれとなしに……。う〜ん、迷う……」

 考えが纏まらず、筆の墨は乾くばかり。書こうとしていることは決まっているのに、それを文章に落とし込めない。悶々と悩んでしまう。

 お片は頭の中で考えに考えて、考えるのを止めた。

「よし、ありのままを書こう! それが手っ取り早いし、分かりやすい!」

 分かりやすいかどうかは別の問題と思うが、お片にこの声が聞こえるはずもなかった。好きにすればいいんじゃないかな、うん。

「うん、そうしよう!」

 そう決めてから、お片は早かった。筆が軽やかに踊るように滑り、すらすらと墨字が白紙に書かれていく。ものの十数分でさくっと書き上げてしまった。お片らしい。

「これでよし。念の為に確認しないと……」

 まだ乾いていない墨を触らないように注意しながら、文章を目で追って確認する。

 お片の字は少し丸みを帯びていた。見やすく読みやすい字が、書家のような達筆な字ではない。年相応の、可愛らしく愛嬌のある字だ。

「問題なさそうだね。後は乾くのを待って、表紙に包んじゃえばお終い。表紙はもう用意してあるしね」

 墨が乾くのを待つ間、お片はこれまでの生活を振り返る。頭の中には記憶や光景が思い起こされていった。

「もう二月も経ったんだ……。年月が流れるのは早いよね、やっぱり……。それだけ毎日が充実してるってこと? 退屈してるってこと?」

 楽しいと時間は早く過ぎ去り、暇を持て余すと時間はいつまで経っても進まない。よく言われたり聞いたりするが、実際はどうなのだろうか。

「それとも単に忙しいだけ? 時間を気にする余裕もないぐらいに……」

 お片は知恵熱が出そうなぐらい深く考えたが、結局わからなかった。そうも思うし、そうじゃないとも思う。どっち付かずの曖昧な答えしか出てこない。

「何してるんですか? もしかして眠れないとか?」

 赤らめ顔のお滝がふらりと現れた。

 紺色の地に菫の花柄の華やかな浴衣を着て、湯殿上がりでしっとりと濡れたぼさぼさの黒髪に手拭いで巻き付けている。鎖骨を覗かせる襟元の肌はほんのりと赤く色付いていた。

「お水ならここじゃなくて台所だよ」

 お片は湯上がりにお水を飲みに来たんだと思ったようだ。

「いえ、水は大丈夫です……。そんなことよりも何をしてるんですか? ぼうっと天井なんか眺めて……」

「天井を眺めてた? 私が? あれ……。本当に?」

 お片は「そんな気なんてなかったけど」とぼそりと呟く。顔も少し驚いている。

「はい……。眺めてましたよ。何だか心ここにあらずといった顔で。心配事でも何かあるのかなって思いましたけど……」

 お滝は庭掃除の一件が尾を引き、心配になったようだ。

「ごめんごめん。することなくて、考え事してたの。天井を眺めてたのは無意識かな。そんなつもりはなかったから……」

「なら、良かったです。ところで何を考えていたんです? あっ、立ち話もあれですから、隣座りますね」

 お滝は小上がりの座敷に上がって、お片の隣に腰を下ろす。ほんのりと洗髪剤の芳しい香りが漂う。柑橘系の爽やかな香り。蜜柑だろうか。 

「そんなに大したことじゃないよ。私が屋敷に勤め始めて二月経ったんだなあって少し感傷にね……」

 お片は恥ずかしそうに笑みを零して言った。

「私は一月です……。確かに早いものですよね、時間が経つのは。一日一日気にする余裕もなくあっという間に過ぎていって、でもしっかりと記憶は残っている。少し不思議な気分です……」

「そうなんだよね。だから早いようで遅くも感じてね……。本当に不思議……。毎日同じようなことをしているからかな?」

「そうかもしれませんね。単調な作業を繰り返し繰り返ししていると、一日一日の記憶が曖昧なりやすいですから。慣れてきてしまえば尚更なことです。体感では早く感じるのかも知れませんね」

 お片は「へぇ~、そうなんだ」と感嘆の息を漏らすと同時に、お滝の頭の良さに興味が湧く。

「お滝って、私より年下なのに物知りだよね? 掃き掃除だって、大きな木の周辺を掃除したほうが落ち葉が集まるって分かったし……。どうやったらそんなに賢くなれるの?」

「なれると言いましても、特別なことは何も……。勉学も程々にしてきましたが、お片と変わらないと思いますよ?」

「……となると、地頭の良し悪し……? それじゃあどうしようもないじゃんよぉ~、トホホ……」

 必ずしもお片は頭が悪いというわけではない。そもそも頭の良い悪いを決めるのは難しいことだ。飲み込みの早さ、生まれ持った素質や資質、平素で培った素養、器用さや要領の良さ、記憶力の良さ、両親からの遺伝、生まれ育った環境……。そして、思考の偏りや性格なども大きく反映される。一言で言い表されない複雑かつ不鮮明、多種多様なものが混ざり合った末の個性が表面に浮き出て、個性に準じた頭脳が形成されていく。

 一括りに頭の良し悪しをいうことは不可能だ。知識や知恵、知能といった分かりやすい指標を用い、それ一点のみに注目すれば、頭の良し悪しを判断することは難しいことではない。だがそこに大きな意味はないだろう。完璧な人間などおらず、誰しもが欠陥ないし欠点を抱えて、得手不得手が存在する。当たり前のことだった。

 そんな当たり前のことを、お滝は自ずと理解している。

「そんなに落ち込むことじゃないですよ。私に出来ることがお片には出来ないかも知れないですけど、私に出来ないことがお片には出来るかもしれない。得手不得手があるのは当然じゃないですか。でも、それでいいじゃないですか。この世に完全無欠な完璧超人なんていないんですから。ね? 頑張りましょ? それにくよくよ考えて落ち込むのは日常茶飯事じゃないですか? いつもらしく元気一杯に明日から頑張ればいいんですよ。ね?」

「だよね! いつものことだよね! じゃあ、明日から元気一杯頑張ろう!」

 お片は元気を取り戻して、お滝とハイタッチした。お滝もにっこりと笑顔を浮かべている。

「ところで後ろに硯と筆があるんですけど、何かしてたんですか?」

 お滝は後ろの文机に硯と筆が置いてあるのに気がついていた。ハイタッチをした時に視界に入ったようだ。

「ん? 硯と筆……? そうだった! 家に送る文を書いて乾いているのを待ってたんだ! すっかり忘れてたよ……。思い出させてくれてありがとね、お滝」

「それはどういたしまして?」

 お滝は首を傾げて不思議そうに言った。お礼を言われることじゃないし、なぜ言われたのかもよく分かっていない様子だ。

「何を書いたんですか?」

「見せないよ。恥ずかしいもん。それに見せるような内容じゃないし……」

「どんなことを?」

「普通のことだよ。最近はこんなことありましたとか、屋敷は大きくて広いですとか。近況報告みたいなもんかな?」

「そうですか……。ちょっと面白そうですけど、見せたくないものを無理やり見るのも気が引けますし、やめときます。私は髪を乾かしに洗面所に行ってきますね」

 残念そうな顔を見せたお滝が小上がりの座敷から降りる。

「文が乾いたら私は寝るから、戻ってきてもここには居ないと思うよ」

「分かりました。じゃあ、おやすみなさい」

「うん、おやすみなさい。また明日ね」

 お片と挨拶を交わしたお滝が休憩部屋から出て行った。

 お片は文机に向き直って、文鎮で留めている文を手に取る。

「よし! もう乾いている!」

 墨字を触っても指の腹に墨がついていなかったことを確認すると折りたたんで、懐に入れていた表紙で包み込んで、懐にしまった。

「後はお蘭に渡すだけだけど、今日は無理そうだし……。明日、渡そうっと……」

「私が何ですか?」

「ひゃあああっ!」

 背後から突然聞こえてきた声に、お片は可愛らしい叫び声を上げた。恐る恐る振り返ると、髪を結い上げて上気した顔のお蘭が立っている。桜色の地に梅の花柄の可愛らしい浴衣を纏っている。

「驚かせないで下さいよぉ~。心臓が口から飛び出しそうになったじゃないですか~」

 お片は口を尖らせて言った。本当に驚いたようで涙目になっていた。

「それは申し訳なかったですね……。それで、こんな時間まで休憩部屋で何を? もう皆さん、床でお休みになっている時間ですが……」 

 現在時刻は夜四つ――午後十時――。朝の早い女中からすれば、床につき就寝していてもおかしくない時間。火の消し忘れの見回りをしているお蘭も皆が寝静まっていると思っていたので、お片が起きていることに内心では驚いていた。

「文を書いてたらこんなに遅くなってしまいました……。あっ、これ! 文です。明日渡そうかと思いましたけど、忘れたらいけないので今渡しておきますね」

 お片は懐に入れた書簡を取り出してお蘭に手渡した。お蘭は手渡された書簡を一目見て懐に仕舞った。

「確かにお預かりしました。送り先は家でよろしいですね?」

「それでいいです。ちゃんと届けて下さいよ」

「飛脚に伝えておきます。用が済んだのなら早く部屋に戻って眠りなさい。明日も早いですよ」

「はぁ~い」

 お蘭はお片の元気な返事を聞いて、休憩部屋を後にした。

「私も部屋に帰らないと……」

 お片は燭台の蝋燭と置行灯の炎を息で吹き消して、暗い休憩部屋から出て行った。硯と筆、文鎮は直し忘れたことに気付かずに……。

 

 



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二話

 薬箱が置かれている医務室の大部屋。その三つ隣のこぢんまりとした生活感のない部屋で、お片は机に向かってじょきじょきと鋏で布地を切っていた。隣には同様の作業をするお滝の姿もある。

 二人の仕事は包帯作りだ。医務室で使う包帯が少なくなってきたらしく、追加で作らないといけないらしい。そのお鉢が二人に回ってきた。

 包帯の元となる布地は古くなった軍旗。綺麗に洗濯されたそれらは汚れ一つなく、真っ白だ。

「あっ、歪んじゃった……。また失敗しちゃった……」

 手元に集中していたお片は声を漏らすと失敗作の布切れを持ち上げる。

 布切れはよれよれで、隙間風に吹かれてひらひらと揺れた。上が広く下が狭い上下違う幅に、布地がほつれて糸くずが出ている切断面。包帯として使える代物ではない。医者はさぞ使い道に困るだろう。

「なんでこうなっちゃうんだろ……」

 お片は何度試しても同じようになる布切れを見て首を傾げる。この様子だと先が思いやられそうだが、包帯作りには支障をきたしていない。お滝がいるからだ。

 手先が器用で飲み込みも早いお滝は最初の数本を失敗したが、今ではコツを掴んで綺麗で真っ直ぐな線を描いて布地を切るまでに成長した。迷いのない鋏さばきも目を惹いた。

「幅をもう少し狭く、いいえ広くしたほうが良い出来になりそう。あらかじめ筆で目印を入れたら上手くいきそうだけど、目印を入れる手間がかかるから作業量が減っちゃうし……。質を取るか量を取るか悩むな……」

 鋭い目つきのお滝は出来上がった布切れを観察している。まるで一端の職人のようだ。

 ぐんぐんと上達していき、今では幅を気にしている。幅は均等で、切断面も綺麗で糸くずも出ていない。文句なしの出来上がりだった。真っ直ぐに切ることもままならないお片とは雲泥の差だ。

「いいなあ……。お滝はあんなに上手に出来て……。一体何が違うんだろ?」

 鋏も布地も似たようなもの。使っている道具にさして違いはない。詰まるところ、道具を使う持ち主の腕前がこれだけの違いが生み出していた。

 お片も薄々と勘付いていた。自他ともに認める不器用と集中力のなさは繊細で緻密な作業には致命的だと気がついている。

「それでも頑張らないと……。こんなに簡単そうなことが出来ないと首にされちゃう。それだけは絶対に嫌だ……。よし、頑張ろ」

 気合を入れ直したお片は止めていた手を動かし、鋏を操って布地を切っていく。お滝の切り方を見よう見まねで真似してみたり、物凄く集中してみたり、ゆっくり慎重に鋏を動かしたり、色んな事を試した。お滝のように上手く出来るように努力して、包帯作りに悪戦苦闘する。

 しかし一本たりとて上手く出来ず、よれよれの布切れが出来上がっては失敗作の山に積まれていった。上達したいのに上達できないイライラが溜まり、ついに爆発して机に鋏を叩きつけた。

「大っ嫌い! 鋏なんか大っ嫌い! 誰が二度と使うもんですか!」

 勢いよく立ち上がったお片は鋏を指差し激しい怒りをぶつけた。怒りは収まらずなおも増していく。

「まあまあ落ち着いて下さい……。落ち着きましょ? ね? 少し休憩にしませんか? それがいいですよ」

 もう慣れたものでお片が突然怒ろうとも、お滝は冷静で驚きもしなかった。

 実は薄々勘付いていたのだ。布を鋏で真っ直ぐに切断する。一見単純で簡単そうに見える行為だが、実は難しい。

 例えるなら丸を綺麗に書けるかどうか。何ら難しくないことだが、実際にやってみると案外難しく、何度やっても上手くいかない。この作業は傍から見ていると分からない難しさがある。

 そういう作業をお片は不得意とするだろうと、お滝は見抜いていた。不器用さと集中力のなさが足を引っ張ると実際にやってみて感じたようだ。

「でも! どう頑張っても出来ないんだよ! 綺麗に布を切りたいだけなのに! それだけが上手くいかないの! 何度やっても、何度やっても上手く行かないの!」

 簡単なことだと分かっているのに全く出来ない。情けなくてみっともなくて、とてもみじめで悔しかった。

「どうして、どうして私だけ……。ううう……」

「え? 涙……。大丈夫ですか!? 落ち着きましょう!」

 今にも泣き出しそうなお片を見て、さすがのお滝も冷静さを失った。

「ええと、ええと……。じゃ、じゃあ、こうしましょう! 私が布の切断を担当しますから、お片は切った布切れを丸めて包帯にして下さい。そうしましょう! それだったらイライラせずにしますよ!」

「そういうことじゃない! 私は上手く切りたいの! 切りたいだけなの!」

「あっ、そういうことじゃない……」

 提案を断られたお滝は必死に思考を巡らせた。

 八割近く切ったのをお片に渡して残りを切らせて出来た気にさせる。……絶対に断られそうだし、バカにしてる。

 ちょこっと切ったのを渡して残り全部切ってもらう。……途中で同じように失敗するだけ。

 いっそのこと、お片には休んでもらって私が二人分の包帯を作る。……一番成果が出るし、お片の相手をしなくてもいいけど、何ていうか可哀相過ぎる。

 早くしないと本当に泣いてしまう。気持ちばかりが焦っていた。

「どうしよう。全然、いい案が思い浮かばない。このままだと……」

 考えあぐねるお滝がお片をちらりと見た時、がらがらと襖が開いて、お菊が入ってきた。

 お菊は医務室を切り盛りしている侍女だ。怪我の手当から応急処置、病人や怪我人の介抱、煎じ薬の調合を一手に引き受けている。面倒見が良く、女中からの評判も良い。

 また、仕事柄接する機会が多い番士の中には恋慕の情を抱く者も多く、お菊に会いたいがために医務室を訪れるバカ者もいる。可愛らしいまん丸な目が高評価を得ているらしい。

「何か大きな声が聞こえたけど大丈夫? 何かあった?」

「お菊、助けて下さい……。私、どうしたらいいか……」 

 結局いい考えが思い浮かばず途方に暮れていた所に現れたお菊がお滝にはまるで救世主のように見えた。

「えっ、何? どうしたの?」

 お菊は二人の様子を見て困惑する。何よりも気になったのは涙を溜めているお片だ。

「鋏で切っちゃった……わけはないか。うん、子供じゃないんだから、それはないよね。さすがにないよね……。本当に違うよね?」

 お菊は不安になって聞いたが、うんともすんとも言わない。辛抱たまらず歩み寄って、机に積み上がったよれよれの布切れが目に入る。思わず苦い顔をした。

「これは……見事ね。どうやったらこんなにも失敗できるのかしら。ある種の才能ね……」

「そこまでボロクソに言わなくたっていいじゃない! うえええん!」

 お片が溜まった涙を流すと、お菊は「ああ、そういうことだったの……」と瞬時に状況を理解した。

「私が悪かった。ごめんなさいね……。こんな布切れでもちゃんと役に立つから。ありがとうね。だから泣かないで。いい子、いい子……」

 ぐずる子供をあやすような口調で言うお菊は慌ても焦りもしなかった。随分と手慣れているのは何故だろうか。もしかして子供がいるとか……。年齢的に有り得そうだ。

「ぐすぐす……。本当に? ちゃんと使えるの?」

「使えるから。使うから。使い道を考えるから……。だから泣き止もう。ね?」

「ぐす……。分かった、泣き止む……」

「偉い偉い。ほら、鼻紙。鼻水垂れてるわよ」

 お菊は机に置いてある木箱から鼻紙を引っ掴んでお片に手渡すと、お片はち~んと鼻をかんだ。

「鼻紙、ちょうだい」

「ん……」

 鼻紙を受け取ったお菊は近くのゴミ箱に放り投げる。丸められた鼻紙は綺麗な放物線を描いてゴミ箱の縁に当たって畳をころころと転がった。

「あらら……。横着するもんじゃないわね」

 お菊は立ち上がって、畳に転がった鼻紙を拾ってゴミ箱に捨てた。

「お滝もそんな顔しないでしゃんとしなさい、しゃんと。あなたが頼みの綱なんだから。お片はポンコツだし」

「ポンコツ?」

「は、はい! 頑張ります!」

 気を引き締め直したお滝は姿勢を正した。其の姿を見て、お菊は口元を緩ませる。

「じゃあ、この調子でよろしくね。私はお茶でも淹れて持ってくるわ」

 お菊が部屋を出ていった。二人は少し話をする。

「二人で一緒にしませんか?」

「一緒に? いいの? 私、ぶきっちょさんだから遅いよ?」

 お片と一緒にすれば作業効率は落ちてしまうだろうが、お滝もそのことは承知済みだ。

「大丈夫ですよ。絶対にこれだけの数は作りなさいとは言われていませんし。それに、ちゃんとした切り方を知って、綺麗な布切れが出来るようになったら、互いに楽になるでしょ。損して得取れってやつですよ。だから、ね?」

 笑顔で言うお滝に、お片は恐縮しながらも頷いた。

「お、お願いします……」 

「何か変な感じがしますけど、お願いします」

 一礼したお片を見て、お滝はくすくす笑いながら礼を返す。

 互いに一礼する様は弟子が師匠に教えを請う光景と似ている。勿論弟子がお片で、師匠がお滝だ。これから弟子が師匠から教わるのは鋏で布を真っ直ぐに切る方法だ。

「いいですか。まずは布を綺麗に広げます」

「うん、広げたよ」

 二人の手元に綺麗に広げられた布地が置かれた。

「広げたら鋏を手に持って、端っこから幅5cmの所に鋏を持っていきます。こういう風に……」

「幅5cmだから……。このぐらいかな? うん、このぐらいだ!」

 互いに端から幅5cmと思う場所に鋏を持ってきた。お滝は幅5cm前後の所にあったが、お片は幅4cmほどの所にあった。お滝が一目見て気がつく。

「う~ん、ちょっと狭いですね。もう少し広めに取って下さい」

「ええと、こんなぐらい?」 

 行き過ぎてしまい、幅が7cmになった。

「行き過ぎです、行き過ぎ……。少し戻りましょう」

「じゃあ、こんなもん?」

 少し戻って、幅が5.5cmになった。少し広めだが、十分許容範囲内だろう。

「そのぐらいです。その幅を自身の感覚で覚えて下さい」

「感覚で……。難しい……」 

 お片はしかめっ面になる。本当に難しいらしい。

「じゃあ、物で代用しましょう。親指は……無理そうだから、そうだ! 持ち手の幅で覚えましょう」

「持ち手の幅? どういうこと?」

「ちょっと待ってくださいね……。んしょと……」 

 お滝は持つ手から鋏を抜くと、お片の布に鋏の持ち手を置く。お片が持つ鋏の刃とお滝が置いた鋏の持ち手が当たり、かんと甲高い金属音が鳴った。

「あっ、これって……。凄いじゃん!」

 一番幅のある持ち手の部分が端から鋏の刃の間にすっぽりと隙間なく収まっていた。これで次からは鋏の持ち手で幅を測れば上手くいくだろう。お片のうっかりミスがなければ……。

「思った以上にぴったりと、はまりました。上手くいってよかったです」

「確証なかったの?」

 お片の問いかけに、お滝は「はい」と返した。

「目測だと上手い具合に行くと思ってましたけど、実際にやってみないことには分かりませんよ」

 お片は改めてお滝の頭の良さを知った。つくづく自分とは違うんだなあと思い知らされて心が沈んだが、落ち込んでいる場合じゃないと奮い立つ。

「そうなんだ……。それでどうやって切るの?」

 お片の顔が曇ったことに、お滝は気がついたが、理由まで分からなかった。

「ん? ……じゃあ、鋏で布を切るコツですけど」

 お滝は鋏を手に取って、大きく開いた。

「鋏を大きく開いて根元で布を挟み込みます。こうですね……」

「根本で挟み込むんだ……」 

「そうですよ。根元の部分が切るのには最適ですから」

「そうなんだ。初めて知った……」

「洋鋏なんて滅多なことがない限り、使いませんからね。実際に置いてある屋敷も少ないですし」

 二人が使っている鋏は洋裁で用いる洋鋏だ。一般的に用いられているのは糸切り鋏や握り鋏と言われる和鋏だ。

 お片はこの屋敷に来て洋鋏の存在を知った。実物を見たのも初めてだった。切り方を知らないのは当然だろう。実際、洋鋏の使い方はお滝の見よう見まねだ。

 お滝は洋鋏を知っていた。幼少期、ここ京の都に訪れた父から土産物として頂いたのだ。初めは分からなかったが、使っている内に段々と使い方を身につけていった。

「使い方を知らないのなら、まずは見てて下さい。実演してみせますから」

「わかった。見てる」

 布と鋏を机に置いたお片がお滝の手元に顔を近づけて大きく開いた目で注視する。

 お滝が困り顔で「それはちょっと近すぎますね……」と言うと、お片は「あ、ごめん。つい……」と顔を少し離した。

「じゃあいきますね……」

 少し緊張した面持ちのお滝が鋏を持つ手に力を込める。ちょきちょきと布を切る特有の音をした。ものの三分少々で、綺麗な布切れが出来上がる。

 お滝は布切れを持ち上げて「簡単でしょ?」と言った。 

「見てる分には簡単だけど、実際にやるとこんなに綺麗に出来ないんだよね……。どうしてだろ?」

 お滝が実演した光景は何度も見て目に焼き付けたものと同じだった。違うのは切る速さだけ。

「じゃあ、お片がやって見せて下さい。何かあれば指摘しますので」

「わかった。やってみる……」

 両頬をぺちぺちと手で叩いたお片が緊張した面持ちで鋏を手に持つ。教えられた通り、鋏の持ち手で幅を測り、切り口に鋏の根元を当てた。

「いくよ……」

 手に力を込めて布地が切られていく。切り口が刃先に近づいた時、お滝の声が飛んだ。

「鋏をもう一度、大きく開いて下さい」

「開くの、もう一度? なんで?」

「鋏は根元付近の刃で切ったほうがすいすいと進んで真っ直ぐに切れるんです。刃先に近いほど上手く切れません。だから、切る時は鋏の根元で……。手間ですけど、その一手間で完成の出来栄えが違ってきます」

「そうなんだ……。じゃあ、根元で切り進めてみる」

 お片は鋏を大きく開けて根元を切り口に合わせた。

「上から見た鋏が真っ直ぐになっていれば、必然的に真っ直ぐ切れます。左右どちらかに刃が倒れていると、上手く切れずに布地がくしゃってなりますから、注意して下さい」

「わかった……。上から見て真っ直ぐに……。左右に倒れていない……」 

 確認を終えたお片が慎重に布地を切っていく。お滝の倍以上の時間がかかって出来上がった布切れは何度も失敗したよれよれの布切れではなく、真っ直ぐで綺麗な布切れだった。お滝が作った布切れとも何ら遜色ない出来栄えだ。

 その布切れを持ち上げたお片は目を輝かせ、嬉しさのあまり感嘆の声が飛び出した。

「わあああ! ちゃんと出来てる! 出来てるよね、お滝!」

「出来てます! 出来てますよ、お片!」

 手を取り合って喜んでいると襖が開き、お菊が入ってきた。

「お茶と茶菓子が用意出来ましたよ」

「お菊、みてみて! 綺麗な布切れ! 私が切ったんだよ!」

 お片は満面の笑みで、出来上がった布切れを持ち上げて見せた。そのはしゃぎようはまるでとても嬉しいことがあった子供のようで今にも踊りだしそうな勢いだ。

 見ているお菊も嬉しくなって、満面の笑みを見せる。

「見事ですね……。一人でやったんですか?」

「お滝に教えてもらいながらやったの!」

「そうですか……。お滝、良い手解きですよ。やはりあなたには侍女の素質がありますね」

「そんなに褒められても……。その、困ります」

 お滝は照れくさそうに頬を赤らめてはにかんだ。

「ありがとうね、お滝!」

 お片は幸せそうな笑みを浮かべる。その笑みを二人も、同じように幸せそうな笑みを浮かべた。三人の心は満ち足りている。



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三話

 お片とお滝、お菊、お蘭は座敷机を囲んでお茶休憩を楽しんでいた。夏の日差しと空気が部屋を明るく暖かく包み込んでいる。

「お二人の付き合いは長いんですか?」

 湯呑を置いたお滝はふと気になって聞いた。

「随分といきなりの質問ですね……。深い意味でもお有りで?」

 お蘭の怪訝な目つきがお滝に突き刺さる。

「いいえ。ふと気になっただけです。その、意外だったものですから」

 お滝は隣同士のお蘭とお菊に目をやった。確かに意外な組み合わせだ。続くように、お滝の隣に座るお片が口を開く。

「私もそれは思った。何ていうんだろう……。仕事上の関係はあるけど、私事ではあまり仲良くなさそうだもんね、二人って」

 お片の無邪気な言葉が癇に障ったのか、湯呑を持ち上げたお蘭が険しい顔を見せる。眉間の皺がとても深い。

「お片、言い過ぎよ。私とお蘭の仲が意外過ぎるとはいえ、その言い方はないわ。反省なさい」

「怒られちゃった。ごめんなさい」

 お片は頭を下げる。お菊の言うことに素直に応じるのは人徳があるからか、それともお蘭より優しいからか。たぶんどっちもだろう。

「まあ悪気は無いのでしょう、言葉足らずなだけで……。大目に見てあげましょう、お蘭」

「……お片、以後気をつけなさい。よろしいですね?」

「はぁ〜い」

 間延びしたお片の返事は軽かった。それなりの付き合いがある三人共が『ああ、これはきっと伝わっていないな』と感じるほどだ。事実、その通りだった。

「それで、お二人の関係は? やっぱり屋敷で知り合ったんですか?」

「……まあ、こうなりますよね」

 お滝が呆れて言うと、お片は「?」ときょとんとした顔で首を傾げる。やはり分かっていないようだ。

 これがお片の平常運転だと思えばそれまでだが、ついさっきの返事は何だったのかと問い詰めたくなる気持ちは自然と湧いてくる。しかし、口を酸っぱくして言っても変わらないことは言わずもがなだ。もやもやした気持ちが三人の心を満たしていく。

「言うのも疲れてきましたよ……。お菊、さらっと言ったほうが早いのでは?」

「奇遇ね。私も同意見よ。人はおいそれと変われるものでもないし、今後に期待しましょうか……」

「望みは限りなく薄いと言わざるを得ませんよ……」

「あははは………。はあ~……」

 お滝の乾いた笑いと深いため息が全てを物語っている。やはりお片は「?」ときょとんとした顔で首を傾げている。馬鹿に付ける薬はないとはこういう時に言うのだろう。

「お蘭との関係だったわね。まあ、一言で言えば腐れ縁ね」

「腐れ縁ですか。一体どういう……」

 不思議そうな顔をするお滝の問いかけに応えたのは、茶を啜りほっと一息ついていたお蘭だ。 

「私はとある大名の側仕えの身、お菊は巫女の下働き。互いに顔も名も知りませんでした。それが何の因果か、同時期にお上の下で働くことになったんです。ちょうどあなた達と同じぐらいの年でしたね」 

「背も胸も尻も小さくて、あどけなかったわね……」

 二人は遠い目をした。懐古に浸る顔は普段見ることのない大人を感じさせる表情をしている。その顔を見たお滝は『これが歳を重ねるということなんだ……』と思い、その表情を脳裏に焼き付けた。

「お蘭も今と違って随分と可愛かったのよ?」

「可愛い? お蘭が……。想像つきません」

「初めからこんな感じだと思ってた……」

 二人の頭には可愛らしいお蘭の姿が浮かばなかった。毅然とした態度のお蘭しか見たことがなく、それは可愛いとは縁遠い姿だ。だからか、お菊の言葉に二人とも半信半疑だった。

「でも融通が利かないのはあの頃から、これっぽっちも変わっていないわよ。口うるさくてね……」

「融通が利かないのではなく、真面目に職務を全うしているだけです」

 お蘭がむくれた顔を浮かべると、其の顔を見たお菊はくすくす笑った。

「あの時とちっとも変わらない返し文句ね。気に入っているの、それ?」

「っ! ち、違います。たまたま同じなだけですよ!」

 図星を突かれたのか、お蘭は顔を紅潮させる。その様を見たお菊はまたくすくす笑う。会話に入る隙間がなく、二人はただ見聞きすることしか出来ず、傍観する。

「本当にからかいがあるわね、お蘭は……。昔から全く変わらないっていい響きよね」

 染み染み言うお菊に対して、お蘭は心底嫌そうな顔をする。

「その悪い癖はいい加減に変わって欲しいと思いますよ、全く……。くれぐれもからかう相手は考えてやりなさいよ。悪い評判が立つとややこしいのですよ」

 屋敷に働くほぼ全員の健康を管理しているのは紛れもなくお菊だ。そんなお菊に悪評が立てば、自ずと医務室に人が寄り付かなくなり、健康に害悪を及ぼしかねない。お菊の代わりが務まる侍女は屋敷の中には居ない。

 それに、外面がすこぶる良いが中身はしっちゃかめっちゃかとはよくある話。お菊がそうであることをお蘭を始めとする侍女衆は皆知っていた。巫女の下働きをしていたのかと疑うほどに凄まじい様相を呈していると口々に言うほどだ。

 そのことを懸念して悪態をついたお蘭に、ニヤリと笑うお菊は顔を近づけて艶っぽい声を耳元で囁いた。

「大丈夫よ、あなたにしかやらないから。特別なのはあなただけだから……」

 ぞくりと冷水に打たれたような快感がお蘭の全身を駆け巡り、体が急激に熱を帯びてくる。お菊の艶っぽい声で昔の感覚が呼び醒まされたようだ。恥部から垂れた粘っこい液体が腰巻を濡らしている。

 巫女とは神聖視される清い職だ。しかしシスターのように神様に仕えるため純潔を守ることもなく、出家した尼僧のように女を捨てて禁欲するわけでもない。巫女装束と呼ばれる形式的な衣装を身に纏い、舞ったり唄ったり占ったりする、至極真っ当な女性なのだ。日々励む稽古はあるにせよ、生活の中で禁則事項があったわけではない。

 ただただ周りの人達からそういう風に見られる。耐えられる者もいれば、耐えられない者もいる。お菊は後者だった。窮屈極まりない生活が嫌で逃げ出した先がお上屋敷だったのだ。辟易していた生活から解放されたお菊の素行はすこぶる悪かった。話し出したら止まらなくなるほどに凄かった。そして、難儀したのが男も女もいける両性愛だ。

 その毒牙の餌食となった一人がお蘭だ。女人気も男人気もあるのはこういう一面が表に現れているからかもしれない。尤も、お蘭からすれば苦い思い出でしかなかった。

「………………何だか自己嫌悪に陥りました。ちょっと失礼します」

 顔色を悪くしたお蘭は徐に立ち上がり、そそくさと座敷を後にした。歩きづらそうにしていたのは見間違いではないだろう。その後姿を見たお菊は『やり過ぎちゃったかな?』と思いつつも笑みを浮かべている。

「どうしたんでしょうか? 変なものでも……。いいえ、それはないでしょうし」

 お滝は突然飛び出していったお蘭を心配した。

「大丈夫かな? 心配だからちょっと見て来るね。よっと……」

 襖に手を掛けたお片をお菊が呼び止めた。

「放っておきなさい。大方、昔を思い出して濡れたんでしょう。そっとしておいたほうが懸命ね」

「濡れた?」

「え、でも……」

「声を掛けたら怒られるわよ。大丈夫、別に体調が悪かったとかじゃないから」

 お菊は「心配いらないわ」とにっこりと微笑みかけた。全てを察しているだけに、この発言は的を射ている。

「なら、いいけど。本当にどうしたんだろ?」

 お片は首を傾げながら席に戻り、少し冷めて苦みが増したお茶を啜る。お菊も同様に茶を啜った。お滝は「濡れた」の意味が分からず、さっきから考えに耽っている。

「少し温いですね。鉄瓶のお湯もないですしお開きにしましょうか……。お茶請けの茶菓子は食べましたか?」

 お茶請けに出されたのは羊羹だ。名の通った和菓子屋で購入した羊羹は上品な甘さが特徴で、お茶とよく合う。またいつの日か食べたい一品だった。

「食べたよ! 羊羹、美味しかった!」

 元気な声で返したお片に対して、考えに耽っていたお滝の返事が少し遅れた。

「……美味しくいただきました」

「それは良かったです。後片付けは私がしますから、お二人は部屋に戻って包帯作りの続きをしなさい」

 お菊は全員分の湯呑と茶請けの小皿をお盆に乗せて立ち上がろうとしたが、慌ててお滝が声を掛けた。

「いえ、それは私たちがします。何から何までご用意していただいたのに後片付けまで……。お言葉に甘えるわけにはいきません。何かお手伝いさせてください」

 お茶の席に呼ばれてお茶請けの茶菓子も食べさせて頂いて後片付けまでして頂く。お菊が優しいとはいえ、お滝の心は許さなかった。真面目で礼儀正しさ故に遠慮が出来ない。お滝の性分なのだろう。

「ええ~……。お菊がやってくれるっていうんだからやってもらったらいいんじゃないの?」

 お片はお菊にやってもらう気満々で襖に手を掛けている。もう少し遠慮を学ぶべきだろう。

 お滝は辛坊堪らずに「お片! あなたは少し遠慮を覚えなさい!」と鋭い声を飛ばすと、お片は「だって、お菊がしてくれるって……」と泣くような声で言った。

 二人の短いやり取りを見聞きしていたお菊は『昔の私とお蘭を思い出すわね』と昔を懐かしんで口元を緩ませる。

「まあいいじゃないの、お滝。私が好きでやっているんですから。それにあなた達の仕事は包帯作りですよ。後片付けではないでしょう?」

「お菊も後片付けが仕事じゃ……」

 食い下がるお滝に、お菊は微笑みかけた。

「私は手空きです。急患なんてそう来ませんし、何かあれば医務室で待機している女中がすっ飛んできますから。医務室としても包帯作りに精を出してくれたほうが大助かりです。だから、ここは私に任せて下さい。ね?」

「そこまで言われて食い下がると、私が意固地になりますね……。分かりました。このお礼は包帯作りでお返しします」

「私も包帯作り頑張ってお礼するね! やり方も教わったし、じゃんじゃん作るよー!」

 お片は元気な声を出して明るげに笑う。お菊はくすくす笑った。

「お願いね。帰り道は分かるわよね? 包帯作り頑張って」

「分かりました」

「はぁ~い!」 

 二人が部屋から出ていくのを見送ったお菊はさっと後片付けを始めると、襖が開いた。

「忘れ物でもしたの……って、お蘭だったの」

 てっきり二人が戻ってきたのだとお菊は思って振り返ると、お蘭が立っていた。

「疼きは収まったの? 自分でしちゃった? 何なら昔みたいに私が……。ん?」

 その時、嗅ぎ慣れた匂いがお菊の鼻孔をくすぐった。特定の場所以外で嗅ぐことのない独特の匂いに心当たりがある。

「栗の花……。ああ、そう。お楽しみだったと……」

 お菊は一人だけ美味しい思いをした恋敵を睨めつける。

「ぐ、偶然ですよ! たまたまお上が通りがかって、そのなし崩し的にといいますか、なんと言いますか……」

 頬を赤らめていじらしく言うお蘭。毅然とした普段の態度が嘘のように可愛らしかった。

「その初々しさでお上を誘ったのね……。確かに私には出来ない芸当だわ。恐れ入りました……」

 お蘭の誘い技に感服したお菊は頭を下げると、冷静に戻ったお蘭が鋭く言い放った。

「バカなことを言ってるんじゃありませんよ、全く……」

 そう言いながらもお蘭の口元には柔らかな笑みが零れている。昔はこんなやり取りを日常茶飯事にしていたと思い出して笑ったのだ。

「ところで二人はどうしたんですか? 姿が見えませんが……」

「二人ならついさっき仕事に戻らせたわよ。すれ違わなかった?」

「行き違いになったみたいですね。何か言っていましたか?」

「特には何も。いい子たちじゃないの。聞いていたよりかは酷くなかったわよ」

「それ以上に酷いのが目の前に居ますから。あなたに比べたら、お片なんて赤子も同然ですよ」

 お蘭にそう言わしめるほど、お菊の女中時代は酷かった。しかしそんなお菊も長い年月を経て分別を身に付けた。今では無くてはならない存在で人望もあるというのだから、つくづく人とはどう転ぶか分からないものである。いや、それともこうなるまで辛抱強く耐えて見守ってきた者達の賜物と言うべきか……。恐らくどちらも必要だったのだろう。

「あの二人、これからどうなるのかしら。もうじき三月が経つし。心配ね」

「試練の時ですか。二人とも悩みに悩むでしょうね。特にお片は結論を出せないのは明白ですし。それが天となるか災となるか……。正しく神のみぞ知るところでしょう」

「神様も知らないでしょ? お上はどことなく知ってそうだけど……。いや、間違いなく知ってるわね」

 お上屋敷には勤め始めて三月経つと、一人の例外もなく平等に試練が突然訪れる。誰もが通る道だ。悩む者も大勢いる。内容だけに軽々しく応じる事もできない。

「私たちはただ見守るだけです。手を差し伸べることは禁じられていますよ、お菊?」

 お蘭の鋭い目つきがお菊に突き刺さった。お菊は「そうね……」と短く返した。

「本当意地悪な人よね、お上も。分かりきっているのに何もしちゃいけないなんて。歯がゆいわ、とっても」

「『成長するためには決して手を差し伸べてはいけない時がある。岐路に立った時だ。助言も不要。全ては彼女たちが自ら答えを出せねばならない。歯痒くとも、悩ましくとも、辛くとも、我らは傍観者である』。見守りましょう、お菊」

「二人のためだものね」

 二人の今後を案じるお蘭とお菊。性格を知っているだけに、手の掛かる問題児だけに、他の者達以上に心配している。

 その心配されている二人はというと、包帯作りに精を出していた。

「上手くいった! えへへ~」

「……これで良し。次の布地は……」

 試練の宣告日はもうすぐそこまで近づいている。まずはお片にその試練が降りかかる。



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四話

 竹中半兵衛は多忙な身のお上に成り代わり、お上屋敷の家政を取り仕切る職責の家宰を務めている。屋敷の地位は上から二番目。女中からすれば侍女よりも偉く、絶対に失礼があってはいけない御方だ。雲の上の人といっても過言ではない。

 そんな御方に突然呼び出されて廊下を歩くお片は首を傾げていた。

「私何かしたのかな……。素行が問題になったとか?」

 呼び出されたので間違いなく何かはしているだろうが、素行を問題視したわけではないだろう。もしそうであるならば一月以内に、いや三日以内にお声がかかっている。三月も経って呼び出されたということは別の理由からだろう。

「う~ん、思い当たる節はないけど。もしかして、仕事が出来なさ過ぎて首にされちゃうとか……」

 それは大いに有り得そうだ。首にするのなら十中八九、それが理由だろう。建前は作業の効率化を求めた首切り。実際は能力足らずの女中の足切り。尤も、万年人手不足に喘ぐお上屋敷がそのような愚行をすることもまた十中八九、あり得ないだろう。

「でもわざわざ呼び出すかな? 首にするんだったらお蘭が伝えればいいわけだし。家宰が仰々しく言うことじゃないよね。首でもないとすると、う~ん思い浮かばない……」

 皆目見当がつかないお片は思案顔で物思いに耽る。そうこうしている内に目的地に着いて、俯いていた頭を上げた。

「あっ、ついた。ここだ、この座敷だ」

 お片はお上の居室から程近い場所の座敷の前で足を止めた。この座敷は普段使い用にお上が与えた半兵衛専用の部屋。日当たり良好でそれなりに広く、執務を行うにはうってつけの場所だ。噂では秘密の抜け道と繋がる通路が床の間に飾られた掛け軸の裏側に隠されているらしいが実際の所はどうなのだろうか。秘密の抜け道さえあるかどうか不明だというのに。

 お片は深呼吸して気持ちを整える。何が起こるか分からないと思うと不安になり緊張してきたようだ。

「大丈夫。大丈夫……。絶対に大丈夫だから……」

 胸に手を当てて小声で言い聞かせたお片はゆっくりと息を吸って、声として一気に吐き出した。

「女中の片と申します! お呼び出しのご用命を賜り参上仕りました!」

 お蘭にこう言えば良いと言われた言葉を大きな声で言うと、すぐに襖の向こうから鈴を転がすような声が涼やかに聞こえてきた。

「どうぞ、入っていいですよ」

 お片は「ぎょ、御意!」と滅多に言わない畏まった返事をしてから襖を開けた。朝の日差しが差し込んで明るく照らされた室内で、小柄の女性が文机に向かっている。その女性がゆっくりと振り返った。日差しに照らされたその端正な横顔は深窓の令嬢を思わせ、長い睫毛が日の光を浴びてきらきらと輝いている。

「お片ですね。そこの座布団に座って、少し待ってなさい。私はまだ仕事がありますので……」

 緊張するお片は其の顔を一瞬見てすぐに頭を下げた。

「ぎょ、御意!」

 用意されていた座布団に腰を下ろしたお片は姿勢を正して待つ間、半兵衛の後ろ姿を見つめた。髪は結いあげて簪を挿し、恥ずかしそうに覗かせるうなじは新雪のように白く、白磁陶器のような抜けるような白さに透明感がある。身に纏う群青色の着物がその病的な白さをより一層美しく際立たせる。お片が思わず見惚れてしまうほどだ。半兵衛はうなじ美人かもしれない。

「さてこれでいいですね……」

 仕事を終えた半兵衛はくるりと体を半回転させる。半兵衛と目が合ったお片は慌てて目線を逸した。

「申し訳ありませんね。お待たせして……」

「い、いいえ……。そんなことは、ないです」

 綺麗なうなじに見惚れていたとは口が裂けても言えなかった。

「こうして顔を合わせるのは初日の顔合わせ以来ですね。お元気にしていましたか?」

「は、はい。お陰様でその、お元気です。すごくとっても……」

 お片が変な言葉を言うと、半兵衛はくすりと笑った。口を手で隠す上品な笑い方に、育ちの良さや品格を感じる。

「そうですか……。すごくとってもお元気ですか。それは何よりです。女中生活は何も不自由ないですか?」

「あ、ありません。素晴らしく良い環境で寛いでいます。心身共に……、はい。安らかです」

 『素晴らしく良い環境で寛いでいます』はおかしい。それを言うなら『素晴らしく良い環境で楽しく過ごしています』だろう。寛いではいけない。

 『心身共に……、はい。安らかです』も意味不明だ。心身共に安らかだと残り少ない余生を過ごしている風に聞こえる。お上屋敷は死にかけの婆さん爺さんの駆け込み寺ではないのだ。せめて『心身共に健康です』と言ったほうが分かりやすいだろう。

 酷く動揺していたとはいえ、本人は至って真面目に答えていた。張り詰めたような真顔で丁寧な口調で言った。それが面白おかしくて、半兵衛の口から笑い声が漏れる。

「ははっ……! はははは!」

 耐えきれず半兵衛は腹を抱えて口を大きく開けて笑った。童顔に笑い皺が深く刻まれる。気品が漂う女性も大笑いする時は人目を憚らずげらげらと笑うようだ。

 元凶のお片は「えっ、えっ、えっ。ええと、その……。は、はい!?」と頭が混乱してキョロキョロと顔を動かしている。本人に変なことを言った自覚はやはりなさそうだ。

 半兵衛はひとしきり笑うと落ち着きを取り戻し、笑い泣きで溜まった涙を華奢な指で拭った。

「こんなに笑ったのは久し振りです。良い気分転換になりました。ありがとね」

「い、いいえ! 滅相もございません!」

 そう言うお片は何で感謝されたのかも分かっていなかった。

「でも笑ったことは笑ったこととして謝らないといけません」

 半兵衛は姿勢を正して澄んだ声で言った。

「……申し訳ありません。とんでもない粗相をしていました。謹んでお詫び申し上げます」

 座ったまま頭を下げた半兵衛に、お片は「あわわわ」と慌てふためいた。

「あ、頭をお上げてになって下さい。頭を下げられるようなことをされた覚えなんてありません!」

「……そういうことはちゃんと言えますか。不思議なものです」

 小声で呟いた半兵衛が頭を上げるとあたふたするお片の姿が目に映った。其の姿が走り回る小動物みたいで可愛らしく愛くるしくて、母性を感じさせる温かい笑みを浮かべる。心なしか、目尻も下がっている。そして、不意に其の笑みが消えた。

 半兵衛はきりりとした顔に変わる。鋭く細められ力が入った目に、お片を厳しく睨むような眼差し。引き締まった頬に、薄っすらと微笑むように緩んだ口元。真面目で真剣な顔つきだ。その真剣さに吸い込まれるように、ふわふわとしていた空気はたるんだ糸をぴんと張るように張り詰めて、緊張が走った。

「今日お呼び出した件をお話してもよろしいですか?」

 半兵衛の鈴を振るような声が室内に響き渡る。声音は優しげで悲しそうだった。

 慌てふためいたお片は目を丸くして半兵衛を見つめた。騒がしかった頭は水を打ったように静まり返って、急に大人しくなる。ざわついていた心は別人のように落ち着き払っていた。

「……はい」 

 酷く大人びた声に、人形のような無機質な目。お片はまるで大人の女性のような聞き分けの良さを見せている。

「女中がお上屋敷に勤めて三月経つと、決まってある仕事の話を告げられます。一人の例外もなく平等に告げられる話です。お片も三月が経ちましたので告げねばなりません。どうか落ち着いて冷静さを失うことなく、心してお聞き下さい。よろしいですね?」 

「はい」

 お片の返答を聞き届けた半兵衛は重々しく口を開いた。

「夜伽はご存知ですか?」 

 お片の顔が固まって表情が消える。『夜伽』の意味はお片でも知っていた。勉学で教わったのだ。

 ここの『夜伽』とは寝所で女が男の相手をすることを指す。『伽』という言葉に夜が組み合わさって生まれた言葉で、大元は性的な意味を含んでいなかったかもしれないが、いつしか性的な意味を含むようになった。寝所で男女が共寝するというありふれた、しかし男女の仲が蜜月関係にあるという暗示が生み出した言葉なのかもしれない。つくづく言葉とは奥深いものだ。

「お察しかとは思いますが、これからする話はそういう内容の話になります。ですので、本当によくお聞き下さい。……ご自身の体に関わることですから」

 半兵衛の青みのある黒い目が鋭く光って茫然とするお片の顔を見つめた。幾人もの女中に夜伽を告げてきたが、顔を見る度に胸が締め付けられる。

 夜伽話を告げられた女中の反応は十人十色だ。言葉を失って絶句する者や放心状態で固まる者、聞き間違いと聞き返す者もいた。一握りは粛々と受け入れたが、皆一様に信じられないといった風貌をするのは変わらない。寄せた信頼を裏切って騙し討ちのように夜伽話を告げるのだから当然の反応だろう。 

 初めの頃、夜伽話をする度に、半兵衛は『お上の御心は何処に向かっているのか』と思っていた。幼気な少女にこのような酷い仕打ちはあまりにも残酷ではないか。家宰を辞めようかと考えたほどだが、お上の御心を理解した今ではそう思うことはない。しかし、女中を案じる気持ちは変わっていなかった。

「…………」

 半兵衛が話をしている間、お片は終始黙っていた。目も動かなかった。『夜伽』の衝撃が強すぎて頭がついていかず、話はほとんど入ってこなかった。

 

 

 

 

 その日の夜、中々寝付けないでいたお片は布団に潜り込んで考え込んでいた。勿論、夜伽話についてだ。

「七日間か……」 

 夜伽話は無理強いをするものではなかった。応じるか応じないかは、あくまでも女中の意思に委ねられている。七日間とはその結論を出すまでの猶予として与えられた日数だ。加えて期間の延長はしないときっぱり言ったので、七日間で結論を出す必要がある。

 お片は未だその結論を見出せていない。今日は仕事に身が入らず普段以上に失敗してしまい、お滝に迷惑をかけてしまった。ぼうとするお片を不審に思いつつ、お滝は何も言わなかった。話しかけてほしくないという空気を読んだからかもしれない。

「『応じるか、応じないか。全てはあなたが決めることです』か……」

 お片は部屋の去り際に半兵衛にかけられた言葉を思い出す。まるで何かを問いかけてくるような真っ直ぐな目で見つめられた。お片にはその目が何を訴えていたのか、分からなかった。

「どうすればいいのかな。正しい答えって何だろう……」

 お片は出口の見えない迷路に入り込んだ。ぼんやりと見つめる天井には深い暗闇が広がっている。

 一睡も出来ずに朝を迎えたお片の目の下には隈が出来ていた。その日も失敗を連発したのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 夜伽話をされてから三日が経った。失敗続きで使い物にならないお片は台所に飛ばされた。お滝は一人で普段通りの仕事をしている。

「突然お蘭に呼び出されたから何事かと思いましたけど、こういうことだったんだ。納得しました」

 包丁できゅうりを乱切りにしながら、お速は振り返らずに言った。目は手元のきゅうりを切る包丁に向けられている。其の後ろでお片は手持ち無沙汰で長腰掛けに座っていた。

「急に色んな事が手につかなくなっちゃいまして、どうしたらいいか……。はあ~……」

 らしくなくため息をついたお片は元気のない顔を見せる。目の下の隈は色が濃く、顔色も優れず、髪も艶を失って白髪が数本混じっている。精神的に参っているのは一目瞭然だ。

「大丈夫? 具合が悪いならお医者さんに見てもらった方がいいよ?」 

 ぬかを指先につけて振り返ったお早はくりくりとした目でお片を見た。お早は妹のお速が乱切りしたきゅうりをたらい桶のぬか床に埋めている真っ最中だ。

「大丈夫ですよ。ただの寝不足ですし。何か手伝うことありますか?」

 お片は立ち上がろうとしたが、お速が包丁を持つ手を止めて振り返る。

「こっちは大丈夫ですから、お片は用を言いつけるまで待機していて下さい」

「……そうですか」

 早速姉妹は漬物を作っている。お片はその手伝いが仕事なのだが、漬物作りの人手は足りていた。漬物用の野菜を乱切りにする人と、切った野菜をぬか床に埋める人。早速姉妹の二人で十分で、三人いても一人は手持ち無沙汰になってしまう。流し台で一緒に作業できるのも二人が限界だ。その他の仕事も二人いれば十分だ。

 何故、お蘭は仕事がない台所に飛ばしたのか。お片に休みを与えたかったからだ。青紫色の隈を見たら全く眠れていないのは分かるし、ふらふらと真っ直ぐに歩けない様を見たら放ったらかしにも出来ない。仕事中に倒れられても困るので、仕事がない台所に飛ばした。

 もう一つ理由がある。トントンとまな板を叩く包丁は律動的で、眠気を妨げるほど大きくもない。眠気を誘う音にはもってこいだ。

 暫く経った頃、お片は壁にもたれ掛かってすやすやと眠りに落ちていた。悩んでいるとは思えない気持ちよさそうな寝顔を見せているが、時折「んん~……。ん……」と苦しげな声を出している。夜伽話で精神的に負担が掛かっているのだろう。

 漬物作りを終えた早速姉妹は二人揃って振り返り、眠っているお片を見つめていた。

「寝たみたい。ちょっと苦しそうだけど、今は仕方がないね。後にも先にもこんなに悩むことはないだろうから、今の間に一生分悩んで精一杯苦しんでね……」

「皆、そうだもんね。三月が経った女中が苛んで眠りが浅くなって失敗続きになるのは風物詩みたいなもんだし。それで台所にやって来るのもいつものこと……」

 早速姉妹はお上屋敷に勤めて三年、台所専任の女中になって二年が経つ。多くの新人女中を見てきたが、お片と同じような経緯で台所に来た者は少なくない。一様に眠れなくなり仕事が疎かになるのだが、例外も居る。お早もそんな一人だ。

「そういえば、お姉ちゃんは全然悩まなかったよね。どうして?」

「う~ん、そう言われてみれば何でだろう。ちょっとまってね、思い返してみる」

 思案顔のお早は三年と八ヶ月前を思い返した。半兵衛の座敷に呼び出されて夜伽話を告げられてきょとんと首を傾げていたことやお速にぽろっと口を滑らせたこと、心配そうなお速に大丈夫だよと微笑みかけたことなど、鮮明に思い起こされていき、欲しい答えに行き着いた。

「たぶんだけど、悩む必要がなかったからだと思う」

 悩む必要がなかったから悩まなかった。……どういう意味だ? ちんぷんかんぷんだ。

「それ答えになってないよ、お姉ちゃん」

「そうとしか言いようがないよ。だって、そう思っただもん」

 お早は直感的に物事を判断する。そこに説明できる理由はなかった。そう思ったという感覚だけが残っている。不思議なものだが、お早は今までそうやって人生を歩いてきた。明確に理由のない直感に身を任せてきたのだ。だから勉学はからっきしダメで、女中の仕事も全く上達しなかった。台所専任の女中になったのは料理が楽しくて好きだったから。『好きこそ物の上手なれ』というやつだ。

 しかし、お早一人だけで人生を歩いてきたというのは語弊がある。その傍には必ずお速がいた。 

「でも、とってもお姉ちゃんらしい答えだと思う」

 お速は微笑んだ。優しげな笑みが口元に薄っすらと零れている。

「私にはどう頑張っても出来ない芸当だし。悩む必要がないなんて、私ならより一層悩みそう」

「悩んじゃうの? 何で悩む必要があるの? ないんだよ、悩む必要なんて。どうして悩むかな?」

 お早は可愛らしく小首をひねる。

「それを素直に受け入れるのはとっても勇気がいることなの。お姉ちゃんは怖いもの知らずだから問題ないけど、怖いものが嫌いな私は大問題。根拠のないものほど尻込みしちゃうからね」

「そうなんだ……。私は悩まなくていいから楽だと思うけど。悩む時間なんて嫌いだし」 

「お姉ちゃんらしいね。やっぱり私には真似できないな」

 お速は理知的に物事を判断する。理由や根拠を探し求めるためにじっくりと向き合って答えを出す。時間はかかるが納得出来るし、その過程で自分というものを分かることも出来る。でも、二の足を踏んでしまうことも多く、一歩踏み出す勇気が出ないこともあった。そんな時は必ずお早が一歩先に進んでいる。

 お早とお速は二人三脚で互いを補い合いながら、人生を歩んできた。お早の補佐という形で台所専任の女中になったお速だが、そのことで姉を恨んだことは一度もない。仲睦まじい姉妹の仲はそうやって育まれて強固なものに変わっていったのだろう。だからといって、大喧嘩をしたことがないわけではなかった。

 過去に一度だけ、そう一度だけ大喧嘩をしたことがある。今となってはどんな理由で喧嘩をしたのかも分からないが、後にも先にも類を見ないほど激しくぶつかりあったのだ。

 二人はその時のことを思い出す。光景が目に浮かんでくる。

「いつだったか、私とお姉ちゃんが大喧嘩したことがあったよね。理由は覚えてないけど」

「あったね。確か台所専任になって暫く経った頃だよね。あの時の平手打ちは痛かったよ」

 激しい言い合いの末、お速は衝動的にお早の頬を平手打ちした。叩いたほうも叩かれたほうも驚いた顔をして、互いに目を見合わして、平手打ちをした手に目をやった。

「ごめんね。ついかっとなっちゃって……。気がついたら手が出てた。自分でも驚いた」

「別にいいよ。きっと私も悪いこと言ったんだろうし……。その後、私が屋敷を飛び出しちゃって、気がついたら林の中で……」

 着の身着のままで屋敷を飛び出したお早は泣きながら走り、ふと気がつくと何処とも知れぬ林の中だった。夕焼け空が目に痛かった。暫くすると、お速が「お姉ちゃん!」と叫びながらやって来た。同じく着の身着のままだった。

「冷静になった私も大慌ててでお姉ちゃんの後を追って、何とか見つけ出したんだけど、お互い何処だか分からず、途方に暮れたっけ。そしたら大雨が降ってきてね……」 

「木陰で雨宿りしたんだよね……」

 急に天候が悪くなり分厚い雲が瞬く間に空を覆うと、突然ざざーと滝のような雨が降ってきた。二人は近くの木陰で雨宿りしたが、雨は一向に止まなかった。木陰で身を寄せ合い寒さを凌いでいると、傘を差すお上がふらりと現れて「帰るか」と一言声を掛けた。相合い傘で帰ったが、よく見ると傘からはみ出たお上の肩はずぶ濡れだった。

「日も落ちて暗くなって肌寒くもなってきて、どうしようかって思ってたら、傘を差したお上が現れた。お姉ちゃんも私も涙流して駆け寄ったね……」

「屋敷に連れて帰られると湯殿に放り込まれたんだよね。あの時の温泉、温かった。すごく温かった」

「湯殿から上がったら、座敷に通されて鍋焼きうどんが置いてあって……。海老の天ぷらにしいたけ、油揚げ、ねぎ。卵も乗ってたね。あんな豪華な鍋焼きうどん、生まれて初めて食べた」

 鍋焼きうどんを食べる二人は涙を流していた。「美味しいね、お姉ちゃん」「うん、美味しい」と口々に言いながら食べて、その日は座敷に仲良く布団を並べて寝た。

「泣きながら一緒に食べたあの味は今でも憶えてる。忘れずにちゃんと憶えてる」

 忘れっぽいお早だが大事なことは忘れずにちゃんと憶えている。だから、お速は姉を慕っている。二人で共に歩んできた記憶を共有している限り、姉妹の仲が引き裂かれることはないだろう。

「私も憶えてる。大事な思い出だもの。忘れるわけないじゃない」

 笑顔を浮かべて昔話に花を咲かせる早速姉妹。其の後ろで、お片は暖かい日差しに包まれて気持ちよさそうに眠っている。今だけは悩みを忘れてゆっくりと休んで欲しい。そう願わずにはいられない、陽気な昼下がりの午後だった。



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