一般男性VS雪女 (鴨鶴嘴)
しおりを挟む

一般男性VS雪女

 苔むした岩の勾配を、一歩ずつ踏み締める。

 額には玉の汗をかき、目に滲んだのを指で払う。こんな簡単な動作さえ、命懸けなのだから堪らない。

 

『冬の秘湯巡り!Google Earthで見つけた絶景温泉SP』

 

 ……と銘打った某テレビ局の番組のロケで、体力自慢の芸人や撮影クルーが怪我をしないよう、先んじて親綱を張るのが、俺の仕事だ。

 本当は、こんな岩を通る必要は無い。ただ、いい絵が欲しいという理由で、こんなことをしているのだ。……秘湯がメインだろ、圧倒的無駄。さながら、一塁へヘッドスライディングをする高校球児のように。と不貞腐れていると、なんだかんだでロープを張り終わった。

 

「ふっ!……よし、いいね」

 

 最終確認を終えて、後は帰るだけ。そこにきて俺は、年に数度ある気まぐれを発動した。

 

「秘湯、行くか」

 

 重い道具は岩に置き、軽くしたリュックとストックを握って山道を駆け抜けていく。……場所は頭に入っている。温泉と小川が交わる地点があり、いい具合に熱湯と水が混ざりあった場所を見つけるのに苦労しそうだ。

 

「湯気発見。いいね」

 

 小川へと近づき、指を入れてみる……冷たい。もう少し先か。それを何度も繰り返した後、ちょうどいい湯加減な場所を見つけることが出来た。俺は早速服を脱ぎ、湯に浸かった。

 

「あーーぁ……眠い」

 

 水面を境にした寒暖差が、俺の思考力を奪い、溶かし、立ち上がる決断を遠のかせる。温い方が易いのだから、仕方ない。コンタクトレンズを着けたままだが、死ぬことは無いからね。

 次第に瞼が重くなり、とうとう居眠りをしてしまう。

 

「──もし」

 

「すぅ……すぅ……」

 

「もし、そこの貴方」

 

「……ん」

 

 肩を叩かれ、目が覚める。浅い眠りの気だるさが、筋肉が軋む音を鳴らして抜けていく。そこへ、耳触りの良い涼やかな女の声が掛かる。

 

「もし、そこ──」

 

「にゃごにゃごうっさいわ!」

 

「きゃっ、いッー!?」

 

 無意識の内から、耳元を壊れたカセット音源みたく無限リピートするソレによって、蓄積し続けたイライラがついに表面化し、手で鋭く払いのけると女が悲鳴をあげる。

 どうやら鼻の辺りを裏手で殴ったらしい。というのも、殴った時の感触で冷静になり、恐る恐る振り返ると、鼻を両手でおさえて悶絶している綺麗な……コホン、常なら美人そうな女が恨めしそうに睨んでいたからだ。

 

「大丈夫ですか?その、すみません」

 

「ぎにゃい……大丈夫、れす」

 

「痛いですよね……。あ、鼻血」

 

「ひどい……こんなところを。全部見られてしまった」

 

 俺の心は、同情の気持ちでもう、張り裂けそうになった。乙女のプライドと鼻の血管を傷つけてしまったのを、どう挽回しようかと思考を巡らせ、とりあえず悶絶乙女の隣で服を着た。

 リュックから街で配られていた『献血しよう!』とデフォルメされた鳩が言っているポケットティッシュを取り出し、鳩のキャラを縦に引き裂いてティッシュを四、五枚取り出す。

 

「使ってください」

 

「どうもすみません……すんっ」

 

 目尻に光る涙のワケを、聞く勇気は俺には無い。気不味い無言と時間だけが流れ、鼻血が止まるのを待っている間に今の時刻を確認すると、ちょうど日が沈みだす半刻前だった。この季節はこれから一気に暗くなる。

 

「まずいな、早くしないと……」

 

「ッ!?そんな、私が悪いのですか!?」

 

(め、めんどくせぇ……)

 

「興奮しないでください。日没までの時間が近いので、『まずいな』と独り言をもらしてしまっただけのことです。変な女に変な場所で絡まれたな、なんて思っていませんよ。……それで、テレビ局の方ですか?私は地元の森林組合に所属している服部健吾です」

 

「……なるほど。服部さん、先程のは私の早とちりだったと、納得しました。それと、すみません。他は何をおっしゃられているのか、存じ上げません」

 

「え?えぇ……ここ、私有地の山ですよ?許可が無い人は入れない、って建前なんですけど」

 

 この人なんだか怪しいな。とは思ったが、自分の落ち度を清算したかった俺は、軽くたしなめる程度にとどめるつもりになっていた。

 このとき、もっと警戒していれば。この瞬間に、一目散に逃げていれば。後にあんな目に遇わずにすんだとも知らずに……。

 

「それなら問題ないはずです。人間ではない私には、関係の無い仕来りですからね。ってあれ?どうして貴方、服を着てるんですかッ!?……いつの間に?」

 

「悶絶してる間にです。……人間じゃないってェ!?」

 

「と り あ え ず、 ね?暗くなりますから。近くに私の住んでいる部屋があります。貴方も一緒に行きましょう」

 

「うん、いいね」

 

 

 ◆◇◆

 

 

「天井低いですね」

 

「平屋じゃないと落ち着かなくて。ワンルームなんですよ」

 

「ちょっと暗いですね」

 

「採光は、考えたんですけど。昼間は入り口の辺りが眩しいので、こう、『Ω』の形に廊下を作って、光を遮る工夫がしてあります。よく眠れますよ」

 

「なんだか、寒い気がしますね」

 

「気のせいじゃないです。一番のこだわりですから。じつは奥に氷がたくさん飾ってあるんですよ。この前も、ちょうどあなたぐらいの大きさでしたわねぇ……」

 

 ・・・・・。

 

「これ洞窟じゃん、てか天然の冷蔵庫じゃん!お前雪女じゃね?」

 

「ふふ、いいリアクション。さて、どうかしら……奥に、もっと奥に行ったら全部話すわ。奥に……もっと」

 

「いやいやいや、帰ります」

 

「私が困ります」

 

「僕は帰りたいです」

 

「そうですか……どうかお元気で。あの、最後に、握手をしてもらえませんか?理由は聞かないで、お願いします」

 

 鼻血を出していたときとは違って、今の彼女はしおらしくはにかむ美人。手を差し出したときから黒かった髪の毛が一瞬で白に染まって生物のように蠢き、目の色も人間離れした緋に染まっていたとしても、童貞を拗らせた俺に童貞を殺しにきた上目遣いの彼女の願いを断ることは出来なかった。

 

「それぐらいなら、喜んで」

 

凍氷氷(いひひ)っ♡ありがと。そのまま私の目だけをみつめて──目をみろッ!!!」

 

 彼女の緋い瞳孔が、獣のように縦に割れた。その景色を最後に、俺の視界が真っ白になる。それはまるで、写真のように焼きついた緋が、その刹那的な時間を切り抜いてしまったかのようだった。

 時間の感覚だけが平常で、体はまるで回路が断線したアクチュエータのように動かない。

 

「ムカつく男。今日から貴方は私の枕ね、いい気味。本当は湯上がりを氷らせる筈だったのに……まだ痛むわ」

 

 俺は枕にされるのか。氷になった俺には、音が聞こえるだけ。このままが永遠に続くとは思えないし、いずれ死んでしまうのだろう。ああ悲しや。

 

「前の枕は抱き心地が悪かったのよね……変なポーズで固まるから、運んでる途中で腕折れたし。これはどうかしら?……まだ柔らかい」

 

 むにっ。

 確かに柔らかい。……えっ、俺触覚残ってるの?

 ……気を取り直して、氷になった俺には、音と触覚があるだけ。このままが永遠に続くとは思えないし、いずれ死んでしまうのだろう。ああ、女の子の匂いがしてドキドキする。

 嗅覚もあるだけ、を後で加えておこう。

 

 ピシリ。

 凍っていたコンタクトレンズが自重で罅割れ、崩れ落ちる。真っ白だった視界は、たちまち色を取り戻した。

 後になって気づいたことだが、コンタクトレンズの層によって彼女の魔眼を直視しなかったおかげで、効果が半減していたのだろう。

 

 体は動かないことに変わり無いが、光明がさした気がする。

 

「いつもより、水分が少なかったからかしら?……固さを調整出来るものなのね。初めて知ったわ」

 

 この状態で、固さを調整されたらどうしよう。奇跡のようなバランスでフリーズしている現状だが、次を逃れることは物理的に不可能だ。不安の声が暴風雨のように心の中を吹き荒ぶ。

 現在思考しているということは、血液が巡っている筈。イメージでコントロールして、解凍するんだ。

 ……腕が重たい。……足が重たい。……足が温かい。……隅々まで温かい。……血液が巡る。

 

 ギンッ!

 イメージの結果、俺は勃起してしまった。

 静まれ……閉じろ俺の毛細血管……おっぱいの感触を忘れるんだ。

 シュン……

 

「とりあえず運ぶとして。よいしょ、と」

 

 ぐあはっ!目を閉じることが出来ないし、いい匂いするし、柔らかいし……あ、駄目だわ。

 ギンッ!

 

「……?なにか当たる。邪魔だから後で折ろうかな」

 

 ひぇっ……。

 シュン……

 

 〔 第1ラウンド 雪女 WIN 〕──続く




雪女との純愛を、書こうとしていたんです。()


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2話

 あの華奢な体のどこにこんな力があるのだろう。

 70はないし60kg後半ぐらいはある俺を楽々と背負って運ぶ彼女はやはり、人間ではないのだな。と再確認したところで。

 

「この辺りでいいかな」

 

 長い廊下を抜けたそこは洞窟の中だというのに、光があった。そして、凄惨な光景が、網膜を殴りつけてくる。目を背けたいが、今は自由が無い。嫌悪感に反して、冷静に観察を続けている自分がいる。

 最初は、壁のように見えた。が、まるで違った。

 ずらりと並んでいるのは、『人のような何か』……。摩耗して角が取れ、シルエットだけがみてとれる白い氷像が、見下ろすように立っている。

 これらは全て、彼女の『コレクション』なのだろう。プレデターみたいな趣味しやがって。

 俺は『先代枕』と場所を入れ替わって、葦を編んだ敷物の上に寝かされた。

 

「疲れた……寝よう」

 

 俺の体の側面と差し出した握手の手を支点に、三角形のスペースが生まれる。そこに彼女がすっぽりと収まってみたが、モゾモゾとして、腕の位置を何度も確認し、しっくりこなかったらしい。

 俺は雑に転がされ、横受け身をしたような衝撃が走る。そして、腕の上に彼女の頭が乗った。今度はしっくりきたらしく、今はすやすやと無防備な寝顔をさらけだしているようだ。

 

「すぅ……すぅ……」

 

 寝息だけが聞こえる、洞窟の中。

 昔もこんなことがあったような気がしたが、それよりも。

 辺りを見渡すが、何も見えない。彼女が俺の死角で何かをして、唯一の明かりを消していたのは覚えている。

 

 体の大部分が、動くようになっていた。

 三十六計逃げるに如かず。

 ただ、逃げるのにも戦略がある。脳内でシミュレーションをするしないでは、後の結果に雲泥の差があるだろう。

 まず、立ち上がる時。間違いなく、彼女に気取られるだろう。こっそりやればなんとかなるかもしれないが、腕の上に頭が乗ってる状態では起きられるかもしれない。そうなったら、あの膂力で組伏せられてほぼ詰みなので、彼女が起きる前提で動いた方がいいだろう。

 洞窟の中は日没を過ぎ、完全に暗闇だ。走り出すことは出来ないし、壁に手を当てて進む必要がある。……俺を凍らせた時、彼女の目は縦に割れていた。それは、夜行性の生物にみられる特徴であり、目に入り込む光の量を調整するのに長けている証左だ。俺にとっては暗闇でも、彼女からは逃げる俺を視認出来るかもしれない。

 洞窟をなんとか脱出出来たとする。その後も、彼女は追ってくるだろう。それをどう巻く?熱に弱いとかは無い、温泉の湯気を平気で耳元に顔を出していたのだから。

 あの時は、『枕が欲しい』という目的があったから遠回りな手段を選んでいただけで、目を合わせただけで人を凍らせられる彼女が本気をだしたら……。

 俺は、焦りすぎて視野が狭まっている気がする。そもそもの前提からして覆るような、何か他の方法がないだろうか。

 

「ううん……」

 

 苦しそうな顔をしている。普段から氷を枕にして眠る彼女には戻ってきた俺の体温は暑く、寝苦しさを生んでいるのだと思う。額には、うっすらと汗が滲んでいる。実際は結露が見せた錯覚なのだが、俺には知る由も無い。

 

「……ま……ぅ……」

 

「どうかしてるな、俺」

 

 空いていた左腕で、いつでも振り下ろせるように固めていた握り拳。その力を抜いて、ズボンからスマートフォンを取り出した。

 もし電波が繋がるなら、110番からこちらの位置を逆探知して俺を見つけてくれる。その時の俺が、死体だとしても。素早く画面を確認したが、洞窟の中は圏外だった。よし、殴ろう。俺は決意と共に、スマートフォンを強く握った。

 

「──ママ?」

 

 目と目が合った。気がする、暗闇だが。

 相手は寝ぼけているが、俺も混乱している。

 

「さようなら」

 

 俺は何を、言っているのだろう。

 冷気が迸り、右腕に彼女の蠢く髪の毛がマメ科の植物の蔦のように這って、絡め取られそうになる。俺は慌てて飛び退いた。そして立ち上がり、スマートフォンの明かりで洞窟を照らしながら、出口へと走る。

 

「……ぁ……行かないで」

 

 絶望を孕んだか細い声が、背中から聞こえた。体感ではそのコンマ秒後に人工的な明かりが廊下を走り、一瞬で俺を追い越した。振り向くと、彼女は俺に背を向け、氷像の一つに抱擁をしていた。髪は白くなっている。それに連鎖するように『彼女の目を見てはいけない』と得たばかりの教訓を思いだし、前を向いて走り出す。

 

 足音は二重になって、追走曲を奏で始める。

 タッタッタッタッ……

 タッタッタッタッタッタッタッタッ……

 

 目の前に突然行き止まりが現れた。道を間違えた?いや違う。これは出口付近のヘアピンカープだと思い出して減速し、体を反転させてまた走る。一瞬視界に入った彼女は、NARUTOの屍鬼封尽で両腕が使えなくなった大蛇丸のような走り方で迫っていた。真顔だったのに、その瞬間だけ笑顔になるのは心が折れそうになるからやめて欲しい。

 

 外の暗がりは、相変わらず余所余所しい。自然の中で人間は、異物になって久しい。誤魔化しようもなく、俺は地面に座り込んで動けない。

 彼女は洞窟の外に出て、俺を探している。

 そこへスマートフォンの電子音が、静寂を割って鳴り響く。

 彼女が音の鳴る方へ走り出す背中を確認したら、俺は立ち上がり、洞窟の奥へと歩きだした。

 

 ◆◇◆

 

 俺は走って逃げ切れないと、諦めていた。

 だが、生きたいという強い気持ちは揺るがない。

 その生への強い執念が、俺にある仮説と悪魔的な発想をもたらした。

 俺は洞窟の外には出ずに、ヘアピンカープの先の岩の窪み、陰が濃くなる場所に身を潜め、彼女が勝利を確信させる、ミスリードを仕込んだのだ。

 

 電話帳を開いた一番上は、気遣いのよく出来る後輩の名前で、迷わず発信してワンコールも待たずに切り、洞窟の外へと放り投げた。携帯はハードカバーで防護されているので、よっぽどの事で壊れたりはしないだろう。

 そして間髪入れずに通り過ぎていく彼女、その背中を眺めていた。携帯を投げてから十秒も経たずに、後輩からの着信音が鳴り響いた──

 

 ──天井には文明の象徴とも言える電球がぶら下がっていたが、それを不思議だとは感じなかった。むしろ俺は、納得した。仮に雪女が仙人のように霞を食べていたとしても、生きにくい世の中なのだから。

 洞窟の奥へと戻ると、改めて氷像と向き直った。表面が濁っている氷像に、車の鍵のキーホルダーに下げていた小型ライトで一つ一つを照らしていくことで、その殆どが()()()()で出来ていることが分かった。

 様子が違ったのは、たったの二つ。『先代枕』の腕がもげた熊の氷像と、美しい女性がベースとなっている氷像、だ。

 

「──それ以上近づいたら、君のママを粉々にするよ。……いいね。僕はあくまで、交渉がしたいんだ」

 

 洞窟の外から戻ってきた彼女は、地面を叩き割る勢いで地団駄し、歯軋りの音が聞こえる。……ビンゴ。きっと憎々しげに俺を睨み付けているのだろう。

 

「殺シテヤル……ッ、どうして動けた」

 

「さぁて。怖いなぁ、僕は被害者なのに。手が震えちゃうね」

 

 俺は舞台の台詞を読み上げるように朗々と話し、手に掴んだ氷像を揺らして挑発をする。

 

「触るなッ!」

 

 「立場を理解しろよ雪女ァ!!!」

 

 俺が被せるように怒鳴ると、余韻が消える頃にはとても静かになった。

 

「有意義な話し合いが出来るといいね」

 

「……この悪魔め」

 

 ドキリとした。言い得て妙だな、と思ったからだ。

 俺の心は、あの時から凍てついたままなのかもしれない──と幼稚な考えが頭を掠め、苦笑する。

 

「クハハッ……いいね」

 

 背後から固唾を呑む音が聞こえ、俺は笑みを深めた。

 

 〔 第2ラウンド 一般男性 WIN 〕──続く




次は雪女の回想から、たぶん終わる。

(なんでいきなり熊?と思った鋭いお方、熊は深夜と整合性の摩擦で生じたバグです。)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3話

 私の両親は、富士山の麓という恵まれた土地で、コテージの経営をしていた。この仕事は祖父の代から受け継いだもので、時代の流れと共に周りには新しい建物が増えていったけれど、安全面の問題から数を減らしている、薪を焚べるタイプの暖炉の存在が一定の層に人気があり、今日まで商いが続いている。らしい。

 あまり興味が無かった。

 

 富士山は、日本中の信仰を集めている霊山で、本当に、いろんな人が宿泊に利用していた。私の興味のアンテナはそこで出会う人達に向いていて、長期宿泊のお客さんが暖炉の前の椅子に座って静かに火を見つめているのを見かけると、向かいに座る許可をもらってから、私の知らない世界の、いろんな話を聞くことが大好きだった。

 中学校に通い始めると、私の世界はさらに広がった。美術部に入った私は、いろんな題材を学校でスケッチし、休みの日には身近な『信仰』をテーマにたくさんの絵を描いていた。

 

 三学期の終わり頃、私は『神木』に興味を持った。

 中洲に取り残されたサンダルのようにさり気なく、草原に一つの大木が佇んでいる場所に心当たりがあったので、思い立ったその日の放課後に、いつもは下校を共にする友達と別れて一人で向かった。

 久しぶりに見たこの木には、神様が宿っていると感じる決定的な何かがあった。注連縄があるから、年数を経てるから……ではなく、神々しいまでの生命の息吹きが感じられ、私のインスピレーションを掻き立てる。私はもっと神秘の片鱗に近づこうと、実際に手で触れてみた──

 

 

 禍津神。

 神木は神様の宿のような物だと聞く。けれど、これにはその土地や人に災いをもたらす禍津神をお鎮めする役割もあったのだ。

 

 

 ──私は、禁忌に触れてしまった。

 表現できない恐怖に支配され、泣きながら逃げるように家に戻ると、私の顔を見るや父の顔が青ざめた。

 

「何をしていたのか、話しなさい」

 

 いつもは温厚な父が怒りに震える声を初めて聞いて、私は父との心の距離がいつの間にか遠くに離れているように思えた。取り返しのつかないことをしたと気づいた私は、大声で泣きながら「ごめんなさい」と父に謝り続けた。

 気がつくと、父も泣いていた。先程の態度は決壊しそうな感情を押し殺していたのだと、気づいた私は少しだけ心が温かくなり、勇気を出してあったことを全て父に話したのだった。

 

「お前は何て罰当りなことを……神社に行くから車の前で待ちなさい」

 

「うん……お母さんは」

 

「お父さんは、今から電話をする」

 

 父はそれ以上、何も言ってくれなかった。

 父が電話でアポイントをとっていた神社に到着すると、待ち構えていた神主さんの顔が私を一目みて緊張が走った。

 

「これは……陽の氣が、陰の氣に逆転しています。今、この子に宿って居られますね。私にお鎮め出来るかどうか……」

 

「どうか、お願いします」

 

「やってみましょう。こっちに来なさい」

 

「嫌……なんだか、私行きたくないよお父さん!」

 

 怖い。という感情が、金縛りのように私の足を縫い止めた。痺れるような寒さによる意識と体が乖離していく致命の毒が、私を弱らせていた。

 

「何を言ってるんだ。お前のために」

 

「じゃあどうしていつもみたいに、美咲って一度も呼んでくれないの!?私は私なのにッ」

 

「そんなつもりは……待て!」

 

 父が言葉につまっている間。その間が悲しくて……悲しくて。

 私は弾けるように、当て所なく走り出した。美咲と呼ぶ父の声は端から意味の無い記号になって通り抜けていき、つづら折りのガードレールを跨いだ私は直線的に斜面を駆け下りた。

 

 お母さんに会いたい

「どうしたの?」

 

 お母さんなら

「私がなんとかしてあげる」

 

 いつだって私の味方をしてくれる

「お父さんとは離婚したの」

 

 私を理解してくれる

「お母さん疲れちゃった。だから」

 

 だから……だから

 ・・・・・。

 

 

「ねぇ、何か言ってよ。これじゃあずっと、独り言みたい」

 

 

 

 ◆◇◆

 

「まずは……そうだな。端に寄って地面にうつ伏せて、両手は頭の上で。指を組んでもらおうか」

 

 服を半端に捲り上げさせた上で伏せさせ、より無力化しようかとも思ったが、一か八かの賭けに出られる可能性が怖いので容赦する。

 相手の手札を残したまま、腐らせるのがベスト。とりあえずは様子をみて……と思わせればいいのだ。

 

「……した」

 

 俺の言葉に対し従順な姿勢をみせる雪女。外面菩薩とはよく言ったが、気を抜いた瞬間に夜叉の顔が牙を剥いて喉元に迫るような気がして背に汗を掻く。

 

「悪いね。まず、お互いの要求を一つずつ言い合って折衷案を探ろうか。俺は生きて帰りたい。そっちは?」

 

「お前は、生かしておけない。……だから殺す」

 

 話にならなかった。頭痛が痛い()。

 

「はぁ……もう一度だけ言うけど。お母さんが粉々になってもいいの?君の氷を一度体験した僕だから分かるけど、お母さんはまだ生きてる可能性が高い」

 

「……何を。お母さんは」

 

 ワケねーだろ。自分でやったくせに動揺しやがって。

 

「間違いなく殺した、か?過去を詮索するつもりは無かったんだけどね……思うに、母親が恋しいんだろ?『枕』なんて悪趣味も、人肌恋しさを紛らわす代用品だったりしてな」

 

「私じゃない……私はお母さんを殺したりしない」

 

「そうだ、まだ生きてるからな。俺だけが偶然にも元に戻す方法を知っているんだ。だからさっきも助かった。分かるだろう」

 

 返事を待つが、沈黙が続く。昂った感情が鎮火し、理知的になるのに十分な程度の時間が流れたときだった。

 

「服部ィ……お前の言っていることは全て臆測に過ぎない。これ以上言葉遊びに付き合うのは止めにして、もっとシンプルにしましょうか」

 

 怨嗟を押し潰したような声だった。

 彼女が、ゆっくりと立ち上がる。同時に上げた顔には、片目だけ血のように朱い瞳孔が縦に割れていて。涙が流れた跡を凍てつかせ、白魚のような指で払うとそれは粉になって宙に散った。

 そんな決意の表情を、美しいな、とその時ばかりは見惚れてしまった。俺は負けた試合の棋譜を眺めるように、あのときああしていれば……と、たらればの先の可能性を追い始めて──心が折れていた。

 

「……君が俺を殺すとして。未然に防げれば御の字で、もしも俺が意趣返しに君の母親を粉々にしたのなら、君は俺が君の母親を殺したと開き直るつもりなんだな。さっきはああ言ったけど、コレはもう死んでるよ。君が母親をとっくの昔に殺したんだよ。救える筈がない。……これは呪いだ。今から君に殺されるワケだけど、君の母親を地面に叩きつけて粉々にするのは止すとして、十字架の呪いを君に遺すとしよう。さぁ、日常を取り戻せばいい。この洞窟のように、救いの無い袋小路で永遠に苦しみ続けろ」

 

 長い負け惜しみを言い切って、力なく地面に座り込み、目を瞑る。魔眼の直視と接触が生物を凍らせる条件なのだろう、俺に出来る最後の抵抗のつもりだった。

 

「少しだけ、同情するわ」

 

 ひんやりとした指が顎を這い、スーーッと目元へ延びる。

 

「運が悪かったと──ぅ、ぁ■■■■■■!!」

 

 突然彼女は気が触れたのか、言葉にならない大絶叫を始めて、音で酔ってしまいそうな反響音で洞窟内の大気が揺れた。俺は目を開けると、目の前の彼女が二重に、常の少女の姿と雪女然とした姿に存在がぶれ(?)、終にはそれは二つに別れた。

 

『あら、弾かれちゃった。困ったわぁ……』

 

 腰を抜かしている俺、倒れ伏した黒髪の少女、傍らで見下ろす白髪の雪女の奇妙な構図。

 余裕綽々な雪女が、口を袖で隠して上品に笑った。

 

「幽霊……?なんだよ、これ」

 

『貴方、悪運が強いのね。今のこの娘より貴方の方が魂の親和性、言い換えれば私と波長が合うものだから、この娘の体から引き出されてしまった、といったところかしら』

 

 風に吹かれた綿毛のように、邪気無くふわりと浮いた雪女が近づいて、首に腕を回して纏わりついた。

 

『捕まえた♡』

 

 ゾワリ……瞬間、寒気が走る。

 

「要らないから、帰ってくれ」

 

 ノーセンキューを意思表示して、首に絡みつく腕を解こうとするが、目に見えない斥力が働いているかのように、腕が胸の高さより高く上げることが出来なくなっていた。

 

『冷たいのね。私の好みよ』

 

「雪女ジョーク、滑ってるぞ」

 

『氷みたいに?……氷みたいに?』

 

「二回も言うな。俺を巻き込むんじゃない」

 

 さっきよりずっと、人間みたいな事を言う。温泉でのやり取りみたいに。なんだかそれが、とても恐ろしいことのように感じた。

 

「その子は、どうなる……死んだのか?」

 

『?ああ、居たわねそういえば。死んだわよ』

 

「すぅ……すぅ……」

 

「生きてんじゃねーか」

 

 わざとらしく、興味が無いみたいな口振りに、まだ危機を脱していないことを確信した。憶測だが、フレンドリーに振る舞う雪女に気を許したら、体の主導権奪われてしまう気がする。

 視覚的に、首に回された腕は重なること無く、俺との境界線に阻まれているようだった。

 

『貴方のそういうところが好き、愛してる。その唇に今すぐキスしたい』

 

「は、はぁ?何言ってんだ、お前馬鹿じゃないの?」

 

 言葉とは裏腹に、目に見えて彼女の霊的な腕が俺の体にめり込んだ。

 俺の心チョロ過ぎだろ。ときめくな。Be cool 俺。

 ……まずは、状況を整理しよう。

 

「そろそろ起きろ」

 

「ッ、たい!?」

 

 鬱憤を込めてデコピンを放つと、少女は目を覚ました。

 

「ハッ、早くこいつを殺さなきゃ!」

 

 目覚めるなり俺の足に手を触れて、上目遣いにキリッ!と擬音が聞こえてきそうな視線を飛ばしてくるが、当然何も起きない。小首を傾げる少女。背後で笑う雪女。

 

「簡潔に言う。お前に憑いてた悪霊が今は俺に憑いて体を乗っ取ろうとしている。知ってる範囲で経緯を教えてくれ」

 

「えっ?……ちょっと  えっ?……それって  えぇーーーっ!?」

 

 ムカついたのでまた指を構えると、察したのかサッと両手で顔の前に十字を作る少女。俺が腕を下げると、下がるガード。そこに素早くデコピンを放った。

 

「ッ~~!たいってば!」

 

「お前さっき、悪霊とか関係無くシレッと俺を殺そうとしたのを流してやるから、さっさと話せ」

 

「……起きたばかりで記憶が混乱していてぇー、悪霊の残滓がぁー」

 

「さっさと、話せ」

 

「……はい。じつは──かくかくしかじか──なんです。ぐすっ……私は……とんでもない誤ちを……」

 

 神木に触れたら禍津神に魅入られて、父親と神主がなんとかしようとするが逃走。母親が娘を匿って実家へ逃げ、父親とは離婚したが、そこで問題を起こし、社会からも逃げ、疲れきって心中しようと包丁を握る母親に、殺されては不味いと雪女が母親を凍らせると、不眠症に悩まされ、唯一安らぐ母親を抱いて寝ていたが当然摩耗していく母親に危機感を抱き、代用品を探す枕コレクターになったらしい──というのが、懺悔するように語った少女と、背後で補足する雪女の言葉で浮かび上がった経緯だった。

 

「……うん、うん」

 

 相槌マシーンと化した俺は、この少女の今後を想像し、その救いの無さに絶望し、目頭が熱くなった。

 

「死にたい」

 

 立ち上り、幽鬼のような足取りで歩いていた彼女の手には、いつの間にか包丁が握られていた。母親から取り上げた包丁を近くに保管していたのだろういや今はそれよりも!刃先が喉に狙いを定める。間に合えッ!

 

「来ないで!」

 

 彼女は駆け寄る俺を威嚇するように、刃先が俺の方を向いた。それでも俺は、勇気を持って前に踏み込んだ。

 

「ぁ……どうして」

 

「大人の役目、だからかな?」

 

 半身をずらして脇で挟んだ包丁が、支えを失って地面に落ちた。それを皮切りに緊張の糸が切れたのか、嗚咽混じりに泣きじゃくる少女に胸を貸し、どうすればいいのか分からず俺も泣きたい気分だった。実際泣いた。

 

『……ハハ』

 

 それをただ見ていた背後の雪女のから笑いが、聞こえたような気がした。

 

 ◆◇◆

 

「あー……染みる」

 

「そうですね」

 

「命の洗濯、って感じ」

 

「はい」

 

「朝日が綺麗?」

 

「はい。とても、澄んでます」

 

「みていい?」

 

「駄目です///」

 

 あの後流れで、俺達は秘境温泉での一番風呂を満喫している。俺の目をタオルで覆って縛るという条件で、混浴が成立していた。少しからかったら、初な反応が返ってきて、少し楽しい。おっさんになったな俺。

 

「この後、俺は職場に戻らなきゃいけない。ちょっと歩くが、車が停めてあるから余裕で間に合うだろ」

 

「……そうなんですね」

 

「気のない相槌打ってるけど、他人事じゃないからな。お前はどうする?」

 

「え?」

 

「生活保護を受けるなら、手続きを手伝ってもいい。父親を探して話をしたいなら、それを手伝ってもいい。仕事をして一人で全部なんとかするなら、まぁ、頑張れってなる。それはオススメしないけどな」

 

「……」

 

「考えとけよ、着替え終わったら教えてくれ」

 

「はい。その時は、お願いします」

 

 隣で湯から上がる音が聞こえて、少し言葉が強かったかと反省する。酷だが、現実は最低限にしか優しくしてくれないものだと、分かって欲しかった。

 

「あの、タオルどこですか」

 

「あ、リュックの中だわ」

 

「リュックのどこですか」

 

「手前の大きなファスナー開けたら、多分わかる」

 

「……無いんですけど」

 

 ・・・・・。

 

「そりゃ、今俺が目に巻いてるからな」

 

「ボケカス死ね」

 

「ひでぇ!?」

 

「もういいですよ……」

 

 布の擦れる音が聞こえてくる。もしかしたら、濡れたまま服を着てるのか。

 

「濡れたままだと、風邪引くぞ」

 

「?ああ違います、貴方のシャツで体拭いてるんで、問題無いですよ」

 

「そっか。よくねーよ!」

 

 この後俺は目に巻いていたタオルで体を拭き、シャツを着ないまま車に戻るのだった。

 

「ハクション!…ズズッ…あ、携帯とか荷物を回収するの忘れた」

 

「えぇ……」

 

「いつか取りにいけばいいや」

 

「おい大人」

 

 ◆◇◆

 

『こんなの、登るんですか!うわぁ……下手したら怪我しますよこれ。秘境温泉の為に、頑張ってください!ハハハッ……よし!尚ちゃんに応援されたんで、僕頑張ります!CMの後、米田君に最大のピンチが──打った!いい当たりだ!伸びる伸びる!センター見上げて、動かない!入ったホームラ──キャー!わんちゃんかわいい!なんて種類のわんちゃんですか?』

 

 おま可愛。と思いながらリモコンを置いてテレビを眺め、味噌汁を啜る。今は居候となっている美咲ちゃんが作ってくれた夕食をぼんやり食べていると、視線を感じた。

 

「なに?」

 

「料理の感想、どう?」

 

「うん、いいね」

 

「その口癖やめて、トラウマだから」

 

「ごめん、無意識でつい。美味しいよ」

 

「無意識で?ほーん、具体的な言葉でやり直し」

 

「味噌汁が、いい塩梅だと思いました」

 

「ふ、ちょっと、作文みたい」

 

「マル」

 

「あははっ」

 

 彼女は、父親に会うことを選んだ。父親の経営しているコテージのある静岡県は、近くは無いが遠くもない。ネットで調べ、連絡先をメモに控えて彼女に渡すと、決意の表情で電話を借りると言って、話をしたのが二日前。明日、彼女は父親に会う約束になっていた。

 

「私、明日は頑張るよ」

 

「……本当に、一人でいいんだな」

 

「うん」

 

 今日日の日本では、尊属殺人罪は無い。そもそも、彼女が殺人を犯したと言えるのか、疑問が残る。

 俺は彼女に幾つか逃げ道を提示した。けれど、彼女は父親に会った後に出頭すると決めていた。その気位の高さがあまりに眩しく、同時に悔しかった。

 

『今言わないと、ずっと後悔するわよ』

 

 あれからずっと鳴りを潜めていた雪女の声が、今この時になって聞こえてきた。振り向くと、窓の外では雪が降っていた。

……どおりで寒いワケだ。お蔭様で身が引き締まるよ。

 

 

 禍津神は、災いをもたらす神なれば──

 

 

「やっぱり明日は、俺も行くよ。お義父さんにも会いたいし」

 

「いきなり、どうしたんですか」

 

「一目惚れだった。運命の人だと思った。俺と結婚してください」

 

 

 ──災い転じて福と為すのが人の意志なり。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。