魔法野菜キャビッチ3・キャビッチと伝説の魔女 (葵むらさき)
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1

「ポピ――」母が、階段の下から大きな声で呼ぶ。「支度できたあ――?」

 

「は――い」私も部屋の中から大声で返事する。

 

 下に降りると母は、大きな紙袋と小さなバスケットを私に差し出した。「はい、じゃあこれをお願いね」にっこりと笑う。

 

「はーい」返事しながら私は紙袋の中を覗き込む。「うわあ、きれい!」

 

 紙袋の中にあったのは、オフホワイトの生地。きらきらと小さな光の粒が表面に輝いている。

 

「きれいでしょ」母はさらににっこりと目を細めた。「ミヴィズで見つけたの。これをドレスにしてさ、刺繍も入れてもらおうと思って」

 

「すごーい」私は溜息まじりに言った。「ママの服?」

 

「うん、ママのはブラウス。ドレスはポピー、あなたのよ」母は指で私の鼻の先をちょんとつついた。

 

「ほんと?」私は心臓が跳ね上がるくらい嬉しくなった。すっごい! 刺繍入りのドレスなんて、お姫様みたいじゃん!「やったあ! 楽しみい」紙袋を持ったままくるりと回る。

 

「じゃあ、気をつけて行って来てね」母は腰に手を当てて言った。「バスケットの中に冷たい飲み物とクッキーとか入れてあるから。途中でつまみながらでもいいし」またにっこり笑う。

 

「うん!」私は大きくうなずいて玄関を出た。

 

 今日はツィックル箒は使わず、歩いて行くことにしたんだ。

 

 母がお使いのご褒美として、私の箒の手入れと調整をしてくれることになっている。

 

 箒もたまにはお休みさせてあげないとね。

 

「キャビッチは持ったー?」母は歩き出す私の背後からまた声をかけた。

 

「持ったよお」私は背負っているリュックを肩の上から親指で差して、肩越しに振り向き答えた。「もっちろん!」

 

「鬼魔(キーマ)に気をつけてねー」母は大きく手を振った。

 

 ――ちょっと、大げさ過ぎるんじゃないかな?

 

 私はそんな風に思って、歩きながらつい苦笑してしまった。

 

 だって、もう十三歳だよ?

 

 鬼魔に気をつけてなんて……逆に、鬼魔の方に言ってあげるべきなんじゃないか?『今からポピーが町から森へ抜けていくから、気をつけなー』って。

 

 

『さもないと、ガーベラとフリージア譲りのキャビッチスローを食らってぶっ倒されるぞー』とかね。

 

 

 そんなことを思って一人でくすくす笑いしながら歩くうち、私はキューナン通りに出た。

 

 町の中は今日も賑やかだ。

 

「あらポピーおはよう、お使い?」時々そんな風に声をかけられたりもする。

 

 店のおばさんとか、店に買い物に来ているおばさんとか。

 

 おじさん達というのはあんまり声をかけたりはして来ないけど、皆私を見つけると「おう」と言ってにっこり笑いかけてくれる。

 

 やがて前方に、高い尖塔が姿を見せ始めた。

 

 聖堂だ。

 

 ――あの辺りから、かな。

 

 私は、真っ青な空に向かってそびえ立つ尖った塔を見上げながらそう思った。

 

 何がかって?

 

 まあ、そのうちわかるよ。

 

 それから私は“ミヴィズ”の前を通りかかった。

 

 母が、この素敵な服地を買った店だ。

 

 母のお気に入りの店なんだけれど、私はこのお店の隣にある小さな雑貨屋“クロルリンク”というお店が好きなんだ。

 

 今日も、若い人から年配の人まで――全員女性だ――お客さんの出入りが多い。

 

 でも、私もなんだけどここに来る人たちっていうのは、買い物よりもお店の商品を眺めて目と心を楽しませるのが主な目的なんだよね。

 

 食器、ハンカチ、アクセサリー、時計、写真立て――小さくて、きらきらして、かわいくて、少し大人っぽくて。

 

 ――ああ、いいなあ……

 

 私は今日もつい、紙袋とバスケットを手に提げたまま――それとリュックを背負ったまま、クロルリンクの棚に並ぶ品々を眺めるため立ち寄った。

 

 ――ほんの少し、だけね。

 

 そう、心の中で自分に言い聞かせつつ。

 

 入ってすぐの正面にある『今日のおすすめ』の棚の上には、小さな箱――ジュエリーとかちょっとした小物を入れる用の――が、色や形もさまざまに、とってもきれいな形で並べられていた。

 

 私は少し前かがみになって――背が伸びたんだ――ひとつひとつ、小箱の中も外も眺めていった。

 

 ――いいなあ! 私だったら、何を入れよう……どれにしよう……

 

 そんな事を夢みたいに想いながら眺めているうちふと、その中の、高さも幅も十センチほどの白地の箱に目がとまった。

 

 その箱には、細い塔の絵がペン画で描かれていた。

 

 それを見た時、私の頭の中にさっき遠くから眺めた聖堂の高い塔が蘇ったのだ。

 

 ――行くかあ。

 

 私はふう、と息をつき、リュックをひょいっと上げて、クロルリンクを出た。

 

 さっきよりも日差しが強まっている。

 

 ――急げ急げ。

 

 私は早足で進んだ。

 

 そして、聖堂の前までたどり着いた。

 

「ポピー、おはよう」

 

 聖堂で働くお姉さんたちが箒で庭を掃きながら、私に挨拶の声をかけてくれた。

 

「おはようございます」私もにっこりと挨拶する。

 

「森へ行くの?」

 

「はい」頷く。

 

 

 ふわっ

 

 

という感じで、“そいつ”は現れた。

 

 やっぱりね。

 

 といっても、姿は見えない――まだ。

 

 どこかその辺に、隠れているんだろう。

 

 気配は全然、隠せてないんだけど。

 

「気をつけてね」お姉さんの一人が言う。

 

「はい」私は頷く。

 

「鬼魔の方がね」別のお姉さんが言う。

 

 あははは、とそこに集まっていた三人のお姉さん達が一斉に笑う。

 

 

 ふわっふわっ

 

 

 気配が、なんだかゆらめく。

 

 きっと、どきんとしたのだろう。

 

 そうだよ。

 

 気をつけな。

 

 鬼魔――あなたが、ね。

 

 私は心の中でそう警告しながら、お姉さん達と一緒になって笑い、手を挙げてまた歩き出した。

 

 

 歩きながら、わざとまたリュックをひょいっと上に上げる。

 

 この中に、キャビッチが入っている。

 

 人の手のひらほどの――大小さまざまあるけれど――不思議な力を持つ、魔法の野菜。

 

 持って来たのは、自分で育てたものを三個と、今日は特別に母のものも三個、もらえた。

 

「もっとたくさん持って行きな」母はそう言っていたけど、あんまり詰め込むとさすがに肩がこるし、これでいい、と私は断ったのだ。

 

 やっぱ大げさ過ぎだよね。

 

 まあ、親ってのはどこもそうなんだろうけどさ。

 

 親友のヨンベも『多分永久に子ども扱いされる』って言ってたし。

 

 有り難いような、重苦しいような。

 

 

 ふわ、ふわ、ふわ

 

 

“そいつ”は、建物二、三件分くらい後ろからずっと私の後をつけて来ていた。

 

 もう少し行けば、森へ続く道に入る。

 

 建物がだんだん少なくなってくる。

 

 今日もいい天気だ。

 

 私は歩きながらバスケットを開け、母が入れておいてくれたレモネードを取り出してひとくち飲んだ。

 

 これもクロルリンクで買ったガラス瓶に入っている。

 

 この中に入れた飲み物はずっと冷たいまんまで、ぬるくなったりしない。

 

 クロルリンクで売っているガラス製品には、そういう魔法がかけられているのだ。

 

 キャビッチを細かく細かく、目に見えないほどの小さな粒に砕いて、ガラスの材料の中に混ぜるんだって、前に聞いたことがある。

 

 キャビッチとあと、何かの魔石の粉、なんだけど……んーと、それは忘れた。

 

 

 ふわ、ふわ、ふわ

 

 

“そいつ”は、私が美味しそうに飲んでいるものに興味を持ったのか、しきりに動き回っている。

 

「飲みたいの? レモネード」私は顔を上に上げて声をかけた。

 

 すると“そいつ”は、ぴたっと止まった。

 

「いるんでしょ」私はそう言って、わざと大きくため息をついた。「ユエホワ」

 

 しーん。

 

 何の反応も、ない。

 

「ユエホワ?」私はいぶかしく思って、周りの木々の上の方をぐるりと見回した。

 

 鬼魔の姿は、どこにも見えない。

 

「クッキーもあるよー」私はバスケットを持ち上げてゆさゆさと揺らした。

 

 しーん。

 

 相変わらず、何の反応もない。

 

「なんで隠れてんの?」私はいつもの“そいつ”らしくない事を不審に思い、口を尖らせた。「なに企んでんの?」少し怒って、そう訊く。「ユエホワ!」

 

 

「ユエホワって、誰?」

 

 

 小さな声が、どこからともなく聞えた。



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2

 私ははっとして目を大きく見開いた。

 

 でもその前に、右手でリュックを叩いてキャビッチをすでに握りしめていた。

 

「誰?」叫ぶ。

 

 

 かさかさっ

 

 

 葉っぱの擦れる音がしたと同時にキャビッチスローの体勢に入る。

 

 けれど“そいつ”は、現れなかった。

 

 逃げたんだろう。

 

 私はキャビッチを構えたまま、しばらく周りの様子をうかがった。

 

 

 かさ、かさ、かさ

 

 

 やがて、もっと呑気そうな音が遠くから近づいてくるのが聞えてきた。

 

 でも私は、キャビッチを下に下ろした。

 

 その音こそが、私の知ってる“そいつ”の出す音だとすぐにわかったからだ。

 

 

「あっれーポピー、こんなとこで何やってんの」

 

 

 ユエホワ――本物の――は、ほんとに呑気そうに暇そうに、両手を緑髪の頭の後ろで組みながら地面の上を歩いてやって来た。

 

「ユエホワ」私は呼んだ。「あなた今、ここに初めて来た?」

 

「へ?」ユエホワは赤い瞳をくりっと見開いた。「――そうだけど?」それからぎゅっと眉をしかめる。「何だよ。そんなの持って、物騒だな」私の手の中にあるキャビッチを指差す。

 

「じゃあ、誰だったんだろ――てっきりユエホワだと思ってたんだけど」私はリュックの上の口からキャビッチをぽいと入れ直した。

 

「誰かいたのか――鬼魔が?」ユエホワは眉を持ち上げる。「つか俺だと思ったからキャビッチ投げようとしてたわけ? ひでえなそれ」

 

「いや、そうじゃなくて」私は首を振った。「ユエホワーって呼んだら、それ誰? って違う声がしたからびっくりして」

 

「お前さ」ユエホワは腕組みした。「びっくりしたら取りあえずキャビッチをぶつけてみようとか思うの、やめてくれる?」

 

「だって」私は口をとがらせた。「そうしろって教えられてきたもん。そもそも鬼魔のせいだからね、そういう、危険な世の中になっちゃったのは」

 

「あーそうですか、はいはい」ユエホワはぷいっと横を向いていいかげんに答えた。

 

「まあいいや。じゃあ、あたし行くから」私もかまわず先に進む。「あんまり変ないたずらとかしないでよ、町で」

 

「しねえよガキじゃあるまいし」ユエホワは当たり前のように私の後ろについて来る。「てかどこへ行くの? こんな森の中で一人で、危ねえ……普通の女の子だったらな」

 

「は?」私は歩きながら顔だけ振り向きムートゥー類鬼魔を睨んだ。「どういう意味ですか?」

 

「いえ、特に意味はありません」ユエホワは目を細めて答える。「最近キャビッチ技の方はどうですか」

 

「おかげさまで」私はまた前を向いて歩き続けた。「こないだ“シルキワスの呪文”覚えたよ」

 

「うわ」ユエホワは喉の奥で嫌そうに唸った。「また性質(たち)の悪いやつを」

 

「どこがよ?」私はまた頭だけ振り向いた。「すごいじゃん、あれ。キャビッチがいったん消えて、狙った奴の後ろからごんってぶつかるんだよ! 信じらんなかったよ最初見た時」

 

「誰が教えてくれたの?」

 

「――」私はすぐに教えず、じっとユエホワを見た。

 

「――何だよ」ユエホワは口を尖らせた。「お前の母ちゃんか」

 

「――」私は黙ったまま、にやり、と笑って見せた。

 

「違うのか?」ユエホワはすっかり気になって仕方なくなったようだった。

 

 ざまあみろ。

 

 私は前を向き、わざと鼻歌を歌いだしてやった。

 

「ちょっとお嬢さんって」ユエホワはしつこく食い下がる。「教えろよって。誰に教わったんだよシルキワスとか、あんな古っくさい魔法!」

 

「はあ? 失礼ね」私はまた頭だけ振り向いて怒った。「古くさいとは何よ。伝統ある魔法でしょ。うちのおばあちゃんの」そこまで言って、「あ、しまった」と口を押える。

 

「――おばあちゃ、ん?」案の定、ユエホワの茫然とした声が後ろからそう訊いてきた。「おばあちゃんって、あのガーベラって人? え、シルキワスってお前のばあちゃんが作った魔法?」

 

「ううん」私は歩きながら首を振った。「違う」

 

「え、じゃ何、うちのおばあちゃんの、何?」

 

「――教えてくれた魔法」

 

「――いつ?」ユエホワの声がますます茫然とする。

 

「だから、こ、な、い、だ」私は歩きながら、ゆっくりと区切って答えた。

 

「えっ……あんたのばあちゃんって、生きてんの?」ユエホワはもはや茫然のあまり、おじいさんのようにかすれた声で訊いてきた。

 

「生きてるわよ」私は口を尖らせた。「なんで死んでなきゃいけないの」

 

 そしてちょうどその時、私たちの目の前に、古いけれどよく手入れされた、ちょっと可愛らしい姿かたちの丸太の家が現れた。

 

 おばあちゃんの、家だ。

 

「え……こ、こ?」ユエホワの声が、少し遠くから聞えた。

 

 振り向くと彼は、とうに歩くのを止めて茫然とたちすくみ、私の祖母の家を真ん丸く見開いた赤い目で見上げていた。

 

「こんにちは――」私は構わず、大きな声で呼んだ。「おばあちゃーん」

 

「は――い」すぐに返事が聞え、数回呼吸をした後くらいに祖母が丸太の家のテラスに出てきた。「いらっしゃあい、ポピー。まあまあ、今日は暑かったでしょう」

 

「町はね。でも森の中は木陰で涼しくて気持ち好かった」私は紙袋を祖母に向けて差し出した。「これ、ママから預かってきた」

 

「ああ、これね」祖母は中をのぞいて「まあー、素敵!」感激の声を上げ、オフホワイトの生地を取り出す。「これは綺麗なドレスになるわね。フリージアもいいものを見つけたわ」

 

「すっごい、楽しみ!」私は祖母に、自分のいちばんの笑顔を見せた。

 

 祖母もとっても嬉しそうに微笑む。

 

「ところでポピー、シルキワスの呪文は練習しているの?」不意に祖母はそう私に訊いた。

 

「ん」私はテラスの木椅子に腰かけてバスケットをテーブルに置きながら答えた。「うん! 大分慣れてきたよ」

 

「そう」祖母は、私のいちばんの笑顔を見た時とは違う種類の、不敵な微笑みを浮かべた。「じゃあひとつ、その成果を見せてもらおうかしら」

 

「成果を?」私は首を傾げた。

 

「ええ」祖母は頷く。「シルキワスを使って見せてごらん」

 

「え、でも」私は戸惑いながらもリュックからキャビッチを取り出す。「何に向けて、投げるの?」

 

「あら」祖母はひょいと眉を持ち上げる。「あなたには、わからないかな? そうねえ、それじゃ」

 

 そうして祖母は右手を軽く握って肩の辺りにまで持ち上げ、その手首を軽く、くいっと曲げた。

 

 

「あいた――っ!」

 

 

 次の瞬間、悲鳴と、ガサガサガサーッという葉擦れの音と、どしーんという衝突音が響いた。

 

「えっ」私はびっくりして思わず立ち上がった。「何?」

 

 私の目に映ったのは、十メートルぐらい離れたところに生えている大きな木の根元に倒れ込んでいる、ユエホワの姿だった。

 

「ユエホワ?」私はあんぐりと口を開けた。



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3

「あらま」祖母は口に手を当てた。「ユエホワって、あのフリージアの言ってた、性悪鬼魔? あの子が?」

 

「う、うん、えと」私は祖母を見て頷くやらユエホワの方を見て口をあんぐり開けるやら、忙しかった。「森で出くわして、なんか一緒に来ちゃったの」

 

「まあ」祖母はおどけたように私から少し身を遠ざけた。「あなたたち、お友達なの?」

 

「ううん、全然」私は全身で首を振った。

 

「いてえー……」ユエホワはうめき声を上げ、背中をさすりながらよろよろと立ち上がった。「まじか。キャビッチなんて持ってなかったのに」

 

「こっちへいらっしゃいな」祖母はユエホワに向かって声をかけた。「ポピーと仲良くして下さっているそうね」

 

「違うよ、おばあちゃん」私はもう一度全身で首を振った。「全然仲良くなんてないよ」

 

 ユエホワは少しの間ものも言わず木の根元に立っていたが、何を思ったのかテラスの方に歩いて来た。

 

 ――ええー!

 

 私はなんだか心臓に汗をかくような思いがした。

 

 ――ユエホワが、おばあちゃんに何か物言うの? 何を?

 

 ……まあ、でもおばあちゃんに悪さなんか、できるわけないしね。

 

 ――大丈夫か。

 

 私はすとん、と木椅子に腰を下ろした。

 

「こんちは」ユエホワはものすごく軽く頭を下げ、低い声で呟くようにあいさつした。

 

 私は祖母が返事をするのを待った。

 

 けれど祖母は、すぐには何も言わなかった。

 

 ん?

 

 私は不思議に思って祖母の方を見た。

 

 すると。

 

「まああ」祖母は目を大きく見開き、ちかくに来たユエホワを見て声を震わせたのだ。「なんて、美しい……緑の髪、透き通るような肌、ああ、暁の燃えるような色の瞳!」それからすごく長いため息をついた。

 

「ええー」私は思わず苦笑した。「美しい? どこが?」

 

「ポピー」祖母は鋭く私を睨んで叱った。「正しき審美眼というものを養わなければなりませんよ」

 

「ええー」私は肩をすくめて俯いた。

 

 これ、私が怒られるとこ?

 

「ええ、初めまして、マダム」ユエホワの声が突然、つやのある、紳士的なものに変った。

 

 私は思わず眉をしかめてムートゥー類を見た。

 

 案の定ユエホワは、にっこりと微笑みを浮かべて腰を折り、狡猾な色気みたいなものをそこら中に漂わせながら祖母を見ていたのだ。「私の名は、ユエホワです。どうぞお見知りおきを。美しい方」

 

「また」私は思わず顔をそむけた。「ばっかみたい」

 

「ポピー」祖母がまた私を厳しく呼び、私はまた俯いた。

 

 ええー!

 

「さあユエホワ、どうぞお座りなさいな」祖母は鬼魔に椅子をすすめ、指を鳴らした。

 

 すると冷たいお茶の入ったティーポットが空を飛んでやって来て、テーブルの上にことことと降り立った。

 

「さっきはごめんなさいね、まさかポピーのお友達だとも思わずにキャビッチをぶつけてしまって」祖母はお茶をグラスに注ぎながら、性悪鬼魔に謝った。

 

「いえいえ」ユエホワはにっこりと微笑んだ。「けれど不思議なことです、マダム。あなたの手にキャビッチは持たれていなかったはずですが、あなたが手を軽く動かしただけで突然私の背中に大きな衝撃が走りました」

 

「ええ、あれはシルキワスという魔法なの」祖母は眉を八の字にして苦笑した。「キャビッチは、直接手には持っていなかったけれど、あちらの」と言って、キャビッチ畑の方を指差す。「畑になっているものを飛ばしたのよ。ごめんなさいね、手加減はしたのだけれど」

 

「おお」ユエホワは溜息まじりに畑の方に目を向けた。「あんなに離れているキャビッチを、あのように正確に操れるのですね。さすがです、マダム・ガーベラ」

 

「まあ、私の名を知ってくれているのね」祖母は頬を赤らめた。

 

「もちろんですとも」ユエホワはまたにっこりと微笑む。「偉大なるあなた様のお名前を知らぬ者はいません」

 

「うふふ、くすぐったいわね」祖母は肩を少しだけすくめて笑った。

 

 って。

 

 なんなんだ、このやりとりはー!?

 

 私はずっと黙って聞いているだけだったんだけど、もう、なんというかもう、ただただ呆れるばかりで、ものも言えない状態だった。

 

 そう。

 

 何回、いや、何万回、ユエホワに向かって「いや、ばかですか?」と返してやりたくなったことか!

 

 でも我慢した。

 

 どうせまた祖母にたしなめられるもん。

 

 にしても。

 

 ほんと、性悪鬼魔の名は伊達じゃないってやつだ。

 

 けど、どうしよう。

 

 多分母はこのユエホワのことを、悪口でしか祖母に話してなかったんだろう。

 

 けれど祖母は、人でも鬼魔でも、自分の目で実際に確かめるまでは、良くも悪くも言わない人なんだ。

 

 その祖母が今、自分の目で実際にユエホワを見て、そして。

 

 ――気に、入っちゃった。

 

 ええ――!!

 

「ところでユエホワ、あなた以前にも、ここに来たことがあって?」祖母は緑髪鬼魔に、そんな質問をした。

 

「え?」ユエホワは赤い目を丸くし、「いえ、マダム。私は今日初めてここに参りました」と首を振って答えた。

 

「そう? 一度も、来たことはなくって?」祖母は、さらにそう訊く。

 

「ええ、一度も」ユエホワも、もう一度首を振る。

 

「そう……」祖母は何かを考えるように、畑の方を見た。

 

「何か、ご心配なことでもおありですか?」ユエホワは逆に訊ねた。

 

 私も気になって、祖母の横顔をじっと見つめた。

 

「ううん、大丈夫よ」祖母はユエホワに向かってにっこりと笑いかけ、そして私の方を見て「ポピー、ここに来る途中で出会ったのは、ユエホワだけ?」と訊いた。

 

「えっ」私は目を丸くして、家を出てここに来るまでの記憶を辿りはじめた。

 

「他に、鬼魔には出会わなかった?」祖母がまた訊く。

 

「鬼魔……あ」私はやっと思い出した。

 

 

「ユエホワって、誰?」

 

 

 あの、小さな声。

 

 姿は見えなかったけれど。

 

「あの声、かな」小さく呟く。

 

「さっき言ってた奴か」ユエホワも思い出したようだった。「お前が取りあえずキャビッチぶつけようとしてたやつ」

 

「そう」祖母が頷き、ユエホワははっとして自分の口を押えた。

 

 私は思わずにやりと笑った。

 

 ほらね。

 

 どんなに紳士を装ったって、どうせすぐばれるんだよ、本性ってのは。

 

 私のことをいつも「お前」とか「ばーか」とか「うるせえ」とか言う、下品で乱暴で性悪な鬼魔の正体はね。

 

「取りあえずキャビッチをぶつけてみようとは、さすがだわ。ポピー、あなたは間違いなく私やフリージアの血を引く天性のキャビッチスロワーです」祖母は大真面目な顔で私を褒めた。

 

「あ」私は肩をすくめた。「ありがとう」

 

 ユエホワはばつが悪そうに、赤い目をきょろきょろさせて俯いている。

 

「ユエホワ」祖母はそんな性悪鬼魔に声をかけた。

 

「は」ユエホワはぴしっと背筋を伸ばした。「はいっ」

 

「お茶はお好みではないのかしら?」祖母は少しだけ首を傾げて、とても優しく微笑みながら訊く。

 

「あ」ユエホワは目の前のグラスに目を移し、「い、いえ、そんなことは」と言ってそれを手にとりぐびぐびと飲み始めた。

 

「まあ」祖母は溜息をつく。「爪の色も、なんて美しい金色なのかしら……ムートゥー類の中でもここまでバランスの整った容姿を持つ鬼魔は、そうはいないわ」

 

「――」ユエホワはぴたり、と飲むのを止め、グラスをテーブルに置き、「――あ」と何かを言おうとした。

 

 けれど、言葉がうまく出て来ないみたいだった。

 

 それはそうだろう。

 

 目の前で孫の私のことを「お前」呼ばわりしておいて、その後しれっと「これはこれは、マダム」とかってさっきのくさい芝居を続けられるほど、この鬼魔の神経は図太くないはずだ。

 

 そういうとこ意外と、気弱なんだよね。

 

「うふふ」祖母は面白がっているようだった。「いいのよ、気にしないで。だってあなたとポピーは気心知れたお友達同士なんだもの、フランクな会話をして当然だわ」

 

「え」ユエホワはまた目を丸くし、

 

「いや、ちがうよおばあちゃん」私はもう一度全身で首を振った。



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4

「まあ、あなた方がここに来る途中で声だけ聞いたというその鬼魔――恐らくね――ここ何か月かの間、私の家の周りに時々こっそり近づいて来たわ」祖母は真面目な話を続けた。

 

 私とユエホワは一瞬目を合わせ、それから祖母を見た。

 

「私もまずは様子見と思っていたのだけれど、特に悪さをしかけてくるでもなく、ただ周りをうろちょろしているだけでね。キャビッチや他の畑の作物を盗むでもなく」

 

「ふうん」私は唇をすぼめた。「何なんだろね、一体」

 

「どんな声だったんだ?」ユエホワが私に訊いた。

 

「うーん……すごく小さい声だった」私はおでこに手を当てて思い出そうとした。「人間の子どもの声に似てたけど。あとかさかさって、逃げるときの音も小さかった」

 

「小型の鬼魔か」ユエホワは腕組みする。「モケ類……は人間の言葉を話せないしな。あとはキュオリイ類とか」

 

「あのリス型鬼魔ね」祖母は頷いた。「彼らは人間の言葉を話せるの?」

 

「うーん」ユエホワは眉をしかめた。「あんまり聞いたことはないけど……でも頭のいい鬼魔だから何かのきっかけで人間の言葉を学んだとしても不思議はないかな」

 

「まあ、そうなのね」祖母はまた大きく頷いた。「なんて聡明なのかしら」

 

「うん、なりは小さくても馬鹿にはできねえ」ユエホワはもうすっかりユエホワ本来の言葉遣いと仕草に戻っていた。疲れたんだろう、気取っていることに。

 

「ううん、キュオリイ類ではなくてあなたがよ、ユエホワ」祖母は微笑んだまま首を振ってそう言い、とても愛おしげに緑髪を見つめた。「美しい上に、なんて考え深いの」

 

「ええー」私はまた思わず口にしてしまった。

 

「う」ユエホワは口の端を下げ、顔を赤くして何も言えなくなっていた。

 

「うふふ」祖母は楽しそうに笑いを湛えた瞳でユエホワを見つめながら、お茶を口に運んだ……けど、その次に「あら」と言ってグラスを置き、外の方に首を向けた。

 

「どうしたの?」私も祖母の見ている方に目を向けてみたけれど、何も変ったものは見えなかった。「鬼魔?」祖母を見て訊く。

 

「ぷっ」祖母は可笑しそうに口を押さえて吹き出した。「本人にそう訊いてみてあげて」

 

「ん?」私は意味がわからず目をぱちくりさせた。「本人?」

 

「畑の方にいるわ」祖母は立ち上がった。「まあ、今日のランチは賑やかになるわね。嬉しいわ」キッチンの方へ向かう。「私は準備をするから、ゆっくりしていてね」ユエホワに微笑みかける。

 

「畑?」私も立ち上がる。「見に行ってもいい?」

 

「もちろん」祖母は私にも微笑みかけた。「でも、キャビッチを投げるのは相手が何者かをよく確かめてからにしてあげてね。あなたのキャビッチスローももう大分力強くなったから」

 

「うん」頷いたのは私じゃなくてユエホワだった。

 

「はーい」私は横目で緑髪鬼魔を睨みながら、祖母の背中に向かってしおらしく返事した。

 

 それからすぐに、畑の方に向かって走った。

 

 私には全然わからなかったけれど、祖母にはそこにいる“誰か”の気配が感じられたんだ。

 

 けれどあの様子では、悪さをする――ユエホワみたいな――鬼魔ではない、ということなんだろう。

 

 とはいっても人間なんだったら、ちゃんと出迎えてあいさつとかするはずだし……一体、何者がいるんだ?

 

 すぐに投げるなとは言われたけれど、私はすぐにキャビッチを取り出せるよう片手をリュックの下の方に当てたままにしていた。

 

「誰なんだ?」後ろで声がしたので走りながら振り向くと、ユエホワが一緒に走ってついて来ていた。

 

「お仲間じゃないの?」私は逆に訊いた。

 

「いや……鬼魔の気配じゃない」ユエホワは走りながら首を振る。「人間だ」

 

「人間? でも」私は少し驚いた。「じゃあなんでおばあちゃん」

 

 

「やっほう」その時、目指す畑の方から声が聞えた。

 

 

「えっ」私はさらに驚いて、前に向き直り立ち止まった。

 

 私の二、三メートル先に、“その人”は立っていた――キャビッチを両手に持って。

 

「パパ!」私は叫んだ。

 

「えっ」背後でユエホワのキョウガクの声がした。

 

 パパ――私の父は、最後に見た時と同じ服を着ていて、最後に見た時よりも髭がたくさん生えていて、最後に見た時よりもかなり陽に焼けて泥んこになっていて、でも最後に見た時よりもすごく嬉しそうに楽しそうに、顔全体で笑っていた。「ポピー」キャビッチを持ったまま両手を広げて私を迎え入れる体勢を作る。

 

 ……正直私は、その泥んこの父の中に飛び込んで行くことを、少し、ためらった。

 

 けれど次の瞬間にはもう一度走り出して、父に抱きついた。「お帰り、パパ!」

 

 正直、一瞬抱きついたあとすぐに離れればいいや、と思ってたんだけど、父はすかさずぎゅーっと私を抱き締めてしまい、結果として私のお出かけ服も、泥んこになってしまった。

 

「君は、鬼魔?」父は私を抱き締めたまま、後ろで立ちすくんでいるユエホワに訊いた。

 

 その声は特に怪しむ風でもなく、普通に、例えば私の親友のヨンベに声をかける時とおんなじように陽気で気さくな声だった。

 

「──そうだけど」ユエホワは祖母の時と違って最初からいつものままの口の利き方で返事した。

 

 私は父の胸に押し付けられたままだったので父を見上げることもユエホワに振り向くこともできなかった。「パパ、苦しいよ」訴える。

 

「あ、ごめんごめん。ははは」父はすぐに解放してくれ、また陽気な顔で笑った。それから「へえー」と言いながらユエホワの頭から足下までじろじろ全身をながめ回した。「ふうーん」

 

「なんだよっ」ユエホワはいつもの、礼儀のれの字もない態度(まあそれは父も似たようなもんだけど)で、少し身を遠ざけた。

 

「いやごめん、まさかポピーが鬼魔と友達になってるなんて思わなくてね、ちょっと驚いただけさ」父はそう説明してまた、はははと笑った。

 

「いや、違うよパパ」私は泥んこの全身で首を振った。

 

「友達じゃなくて、天敵だよ」ユエホワは頭の後ろで手を組みぷいと横を向いた。

 

「はははは」父は何故か、とても楽しそうに笑った。「じゃあその天敵同士と一緒に、おばあちゃんお手製のランチを頂くとするかな。行こう行こう」私たちの方に手――の中のキャビッチを差し出す。

 

 すると私とユエホワの体は勝手にくるっと、祖母の待つ丸太の家の方に向き直ってしまい、足が勝手に歩き出してしまった。

 

「えっ」私はずんずん歩きながらびっくりして自分の足を見下ろした。

 

「うわ」ユエホワも同じくびっくりして自分の足を見下ろしている。

 

 でもその“強制歩行魔法”は、十歩も行かないうちに解けてしまった。

 

「ふう、疲れた」後ろで父が大きく息をつく。「まだ僕の力ではここまでだな」

 

「え、今のパパの魔法? どうやったの?」私は振り向き、後ろ歩きしながら父に訊いた。

 

「ふふふ」父は少し勿体つけて笑う。「今度ね」

 

「うん!」私は、父の使った不思議な魔法――これももちろんキャビッチを使って発動させたものだ――に俄然興味が湧いて、わくわくした。

 

「ちっ」横でユエホワが小さく舌打ちしたので見ると、彼は眉をぎゅっとしかめて不機嫌そうだった。「マハドゥか」



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5

「マハドゥ?」私は訊き返した。「何それ?」

 

「さっすが!」父が大きく叫んだので、私は少し肩をすくめた。「よく知ってるなあ! 物知りだね、君、えーと」

 

「ユエホワ」私が代わりに答えた。「ムートゥー類だよ」

 

 そしてちょうどその時私たちは丸太の家に到着し、テラスのテーブルの上には祖母のお手製のピザやサラダや冷たいスープなどがいっぱいに並んでいた。

 

「お帰り、マーシュ」

 

「ただ今、お母さん」父は私の時と同じように、キャビッチを手に持ったまま祖母を抱き締めようとした。

 

「あなたそれわざとやろうとしてるでしょ? そうはいかないわよ」でも祖母はすっ、と父に人差し指を向け、ぴん、と弾くように上に動かした。

 

 すると父の手の中にあった二つのキャビッチがふわっと空中に浮かび上がり、くるくるくるっと父の身体の周りを素早く回り出したのだ。

 

「うわ」「うわ」私とユエホワは同時に声を挙げた。

 

 父の服はみるみるきれいになっていった。

 

「あなたもね、ポピー」祖母がそういうとキャビッチは次に私の周りをおなじくくるくると回り出し、私の服も泥んこがきれいに落ちてしまった。

 

「すげえな」ユエホワが瞬きも忘れて溜息をついた。「これは何の魔法だ?」

 

「ピトゥイの応用よ」祖母はにこにこして教えた。

 

「ピトゥイか……なるほど」ユエホワは腕組みして口に手を当てて考え込み始めた。

 

「うふふ」祖母はそんなユエホワを見てやっぱり嬉しそうに笑う。「さあ、ランチにしましょう。皆席について」

 

 

 食事をしながら出る話題は、なんといっても父の、研究旅行中の発見談、探検談で持ちきりだった。

 

「リノマ諸島の人たちはね、キャビッチの葉をこう、一枚ずつ、一枚ずつはがしては、燃え盛る火の中に投げ込んで、鬼魔を召還するんだよ」父は手真似でキャビッチの葉をはがす所作をしながら、ゆっくりとした口調で説明した。

 

「へえー」私は、あたかも目の前に焚き火が焚かれているのを見るような気持ちでその不思議な魔法の儀式の様子を想像した。「何類を召還するの?」

 

「そうだね、ぼくが見た中で一番多かったのは、ラクナドン類だったなあ」

 

「あの海竜の?」私は目を丸くする。「すごい」

 

「あいつら鈍くさいからな」ユエホワが鼻で笑う。「すーぐ捕まっちまうんだろ」

 

「そういうことかあ」父は肩を揺らして笑った。「けどリノマの人たちはすごく大切にあがめ奉ってたよ。ほとんど神様扱いだった」

 

「ははは」ユエホワも可笑しそうに笑う。「それでただ飯食わせてもらえるんなら、もう言う事なしだよな。道理で鬼魔界の中であんまりラクナドン類を見かけないわけだ」

 

「あははは、そうなんだ」父はますます楽しそうに笑う。

 

「まあ、おほほほ」祖母までが楽しそうに受けている。

 

「へー」私の反応が一番うすかった。

 

 そう。

 

 食事をしながら出る話題は主に、父の冒険の話とそれについてのユエホワの裏話的コメントと、それを聞いて楽しげに笑う父と祖母の笑い声とで持ちきりだった。

 

 私は一人、いちばん薄い反応を返し続けていた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「あの」ユエホワがどこか――そして珍しく、遠慮がちに父に声をかけた。「マハドゥの魔法……もう一回だけ、見せてもらえるかな」

 

 私と父は立ち止まって振り向き、照れくさそうに視線を下に向けている緑髪のムートゥ類鬼魔を見た。

 

 

 それは、食事が終わりお茶を飲み、別れを惜しむ祖母に手を振って、その丸太の家を出発して、もう大分傾いた西日が少しだけ差し込んでくる森の中を歩いている時だった。

 

「マハドゥ? ああ、いいとも」父は声を高めて、なんだかすごく嬉しそうにカイダクした。「じゃあぜひ、一緒に来てくれたまえ」

 

「どこに?」私とユエホワが同時に訊き返した。

 

「ふふふ」父はなぜかすぐに答えなかった。「まあまあ、いいから。さあさあ」手招きしながら先に歩き出す。

 

 私とユエホワも、ちらりと一瞬目を見合わせた後、父について歩き出した。

 

 町中に入る少し手前で、父は森の道からはずれ、草原の中を歩き出した。

 

 たぶん、ユエホワと一緒だからだろう。

 

 それはそうだ。

 

 町の人が、堂々と道を歩く鬼魔を見て平気でいられるわけないし、ましてや「おう」と声をかけたりするわけなんてもっとない。

 

 大騒ぎになるに決まっている。

 

 まあその前に、ユエホワの方がさっさと上空に飛び上がって姿を消すだろうけど。

 

 父は、そんなにユエホワと一緒に連れ立って、歩きたいんだろうなあ……なんだかちょっと、複雑な気分だ。

 

「なんで町に入らないの?」なので私は、わざとそんなことを父の背中に訊いてみた。

 

「んー、町に入ると人に会うたびに、いっぱいあいさつしないといけないからね」父は歩きながら答え、振り向いて「めんどくさい」と付け足して、にやっと笑った。

 

 ぷっ。

 

 ユエホワが、私の隣で吹き出したので、私はびっくりしてその方を見た。

 

「あははは、わかるー」緑髪の鬼魔が、これも珍しく、楽しそうに目を細めて笑っていた。

 

「だろ? 別に嫌いとかじゃないんだけどねえ」父も笑いながらユエホワに顔を向けつつ歩く。

 

 私は一人真顔で、口をすぼめながら歩いた。

 

 何だろう。

 

 おばあちゃんにしろパパにしろ、なんだかすごく、仲良くなりつつある感じじゃない?

 

 この、性悪鬼魔と。

 

 

 どういうこと?

 

 

 やがて父は草原の上でまた向きを変え、町の方へ向かい出した。

 

 どこに行こうとしているのかは、ここまで来ると私にもわかった。

 

 私の家だ。

 

 そう、私の家の裏口に、この草原の、今歩いている方向は、続いているのだ。

 

 そしてその予想通り、私たち三人は我が家の裏庭にたどり着いた。

 

「えーと」ユエホワが、少しずつ歩幅を小さくして、次第に私たちの後ろへ下がって行く。

 

 それはそうだろう。

 

 私も、父にちゃんと説明する必要があるな、と思っていたところだ。

 

 父は恐らく――恐ろしいことに――ユエホワを、今度は私たちの家に招待しようとしているんだろう。

 

 もしかしたら、夕ご飯を一緒に食べようなんて恐ろしいことを、思っているのかも知れない。

 

 やめて!

 

 恐ろしい!

 

「さあ、来たまえよ」思った通り父は、家の裏口の前で振り向き、ユエホワを手招きした。

 

「いや」けれどユエホワは、こっちも思った通り、首を激しく振って拒否した。「俺はいい」

 

「どうして」父は目を丸くして驚いた。「遠慮なんかしなくても」

 

「パパ」私が説明した。「実は、ママが……」

 

「え」父は私の説明、つまり母がこのユエホワを心から嫌っていることを聞き「そうかあ」と、残念そうな顔をした。「あ、でも待って」そしてすぐにユエホワをそこに待たせて家の中に入って行った。

 

「無理だろ」ユエホワがぽつりと呟く。

 

 

「絶対、だめ!」

 

 

 直後、家の中から母の怒鳴り声が聞えてきた。

 

 父と母は、はたして「お帰りなさい」「ただ今」というようなあいさつを、ちゃんとかわしたんだろうか?

 

 そう思っていると、突然裏口の戸をばん、と勢いよく開けて母が家から出て来た。

 

「うわっ」ユエホワが飛び上がり、まだ何もされていないのに両腕で自分の顔や頭をかばう。

 

「こいつはね、ポピーの首を絞めて殺そうとしたのよ!」母はまっすぐにユエホワを指差して、大きな声で怒鳴った。「絶対に許さないわ!」

 

「えっ、そんなことしたのかユエホワ」父は遅れて家から出て来たが目を丸くした。「だめじゃないか、そんなことしちゃあ」ユエホワに言う……んだけど、なんだかそれは、小さな子どもが“おいた”をした時のようなたしなめ方だった。

 

「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないわ!」母は両手を広げて振りながら父に向かって叫んだ。「大体こいつは――」それから突然私の方を見た。「っていうかポピー、あなたまさか本当にこの鬼魔とお友達付き合いしているっていうの?」

 

「えっ」私も飛び上がった。「ち、ちがうよママ、まさか!」

 

「ご心配なく、俺たちは今もって天敵同士ですんで」ユエホワがかざした腕の下からそっと母を見て言った。

 

「じゃあなんで一緒に私の母の家でランチを食べてたのよ、図々しい」母は目をすっ、と細めた。

 

 私は次の瞬間、母がユエホワに向かってキャビッチを投げるのだと一瞬にして悟った。

 

 けれどそうならなかった。

 

「フリージア」父がすいっと母の前に立ったからだ。「わかった、君がユエホワに対して許せない気持ちでいることはよくわかったよ。じゃあ今日はここで解散としよう。悪いね、またねユエホワ」にこりと笑って緑髪鬼魔に手を挙げる。

 

「またね? ちょっとあなた、どういう」

 

「まあまあ、まずはお茶が欲しいなあ、君のクッキーと一緒にさ」父は構わず母の肩を抱いて家の中に連れて入った。

 

「うへー、危なかった」ユエホワはやっと腕を下ろした。「まあ、マハドゥの魔法は今度また見せてもらうとするか」

 

「見てどうするの?」私は訊いた。「まさか自分でキャビッチ使おうなんて思ってるわけじゃないでしょうね」

 

「まっさか」ユエホワは嫌そうな顔でそっぽを向いた。「防御対策の参考にするために決まってんだろ」

 

「あそう」私は目を細めた。「じゃあね。あんまり悪さしないようにね」小さく手を振る。

 

「――」ユエホワは横を向いたまましばらく動かなかった。

 

「?」私は不審に思って手を止めた。

 

「――美味しかった」ユエホワは横向きのままぼそぼそ言った。「って、言っといてくれ。あんたのばあちゃんに」

 

「え」私は目を見開いた。

 

 でもユエホワはすぐに飛び上がって素早く飛び去ってしまった。

 

 私は唇をすぼめて小さくなっていくムートゥー類の姿をしばらく目で追っていた。



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6

 その夜ベッドに入ってから、ふと“あの声”を思い出した。

 

 

「ユエホワって誰?」

 

 

 あの、小さな、幻のような、声。

 

 細くて、透き通った声だった……女の子の声なのかな?

 

 鬼魔、だったんだろうか。

 

 鬼魔……何類だろう……あんなに、控えめで、はかなげで、小さくて可愛い鬼魔なんて、いるのかな……

 

 と、そこまで考えたあと、私はすっかり眠り込んだ。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 鬼魔なら、ユエホワの事知ってるんじゃないの?

 

 

 次の日の朝、目が覚めると同時に私はそう思った。

 

 明るい朝の日差しが窓から差し込んでくる部屋で、ベッドの上に座って、まだ半分しか開かない目で、私はその日の最初に、鬼魔のことについて考えた。

 

 そういう意味では、最悪の日だ。

 

 階段を下りて行くと、母がいそいそと朝食を作っていた。

 

 いつもの光景だけれど、今日はやっぱりというか、いつもより楽しそうで嬉しそうだ。

 

「おはよ、ポピー」私がダイニングに入って行くと、母は振り向いてにっこりと笑った。「今日は久しぶりに三人で朝ごはん食べられるわね」

 

「うん!」もちろん私もにっこりと笑って、お皿やグラスを棚から出して並べる手伝いをした。「パパはまだ寝てるの?」

 

「あら、さっき裏口の方から外に出て行ってたけど。裏庭にいるんじゃない?」母は裏口の方を覗いたけれど、すぐに手許のフライパンの中のベーコンエッグに戻らなければならなかった。「呼んで来てくれる?」

 

「はーい」私は皿をテーブルに置いて、裏口に回った。

 

 

「ぼく、君みたいな息子が欲しかったんだよなあ」

 

 木のドアを開けた途端、そんな声が聞えてきた。

 

 父の声だ。

 

「──は?」

 

 それに続いて、そう答える声――それは――

 

 ユエホワ?

 

 私の眉毛は無意識のうちに、ぎゅっとしかめられた。

 

「一緒に、研究旅行に行ってくれるような、さ」父がまた言う。

 

「じょっ」ユエホワが答えようとして、声を詰まらせる。

 

「ねえ」父が笑いながら言う。

 

「冗談いうな!」ユエホワは、声を押し殺しながらだけれど、叫んだ。

 

 私は無意識のうちに、足音を忍ばせて声のする方へ数歩進んだ。

 

 それは裏口から出て数メートルほど離れた所に生えている、とっても香りの好いミイノモイオレンジの木の陰から聞えてきていた。

 

「あ、でも今のはポピーには内緒ね」父の背中が、ミイノモイオレンジの木の向こう側に半分見えた。「息子が欲しかった、なんてあの子が聞いたら、傷ついちゃうから」

 

「てか、むしろポピーを連れてきゃいいじゃんかよ」ユエホワの姿は見えないけれど、たぶん父のいる所の向こう側に立っているか、それとも葉っぱに隠れながら木の枝の上に立っているかだろう。「その研究旅行とやらに」

 

「何いってんの、ダメだよ」父は私に背を向けたまま首を振った。

 

「なんでだよ」ユエホワの声は少し怒ったように言った。「あいつなら怖いもん知らずだし、なんかそういうの行きたがりそうじゃんか」

 

「怖いもの知らずだからなおさらだよ」そう言われて父は笑った。「あの子を危険な目に合わせるわけには断じていかない」

 

「――俺ならいいのかよ」ユエホワは、拗ねたようにぼそぼそと言う。

 

「だって君は、ムートゥー類だろ」

 

「え」

 

「聡明さと洞察力と機敏さにおいて、他に類を見ない、素晴らしく有能な鬼魔だからさ」

 

「――よく知ってるじゃん」

 

「そりゃそうさ」

 

「ま、そこまでいうなら、たまーにだったら手伝ってやらんこともないかもだな」

 

「おおー、さすが! 助かるよお、ありがとうユエホワ君!」

 

 私はそこまで聞いたあと、二人に気づかれないようにそうっとため息をついた。

 

 ため息をつきながら、パパすごいな、と思った。

 

 それにひきかえユエホワは、まただまくらかされて。

 

 ばかだな。

 

「あ」

 

 その時ユエホワの声が、驚いたようにそう言った。

 

 私に気づいたのだ。

 

 

 ざざっ

 

 

 葉っぱが大きく揺れる音がして、ミイノモイオレンジの木の上にユエホワが翼を広げて飛び上がって行くのが見えた。

 

 その姿は、あっという間に空の彼方に小さく見えなくなった。

 

「おはよーう、ポピー」父はわざとらしいぐらい顔中でにこにこ笑って振り向き、腕を大きく広げて私をぎゅうっと抱き締めた。

 

「おはよう、パパ」私は抱き締め返しながら、泥はついてないよね……と心の中でだけ確かめた。「ユエホワと、何話してたの?」

 

「ん、ああ」父は私を解放してから、ユエホワの飛び去って行った方の空を見上げた。「今朝起きたら、なんか窓の外からこっそりのぞき込んできてね。マハドゥをもう一回見たいっていうから」

 

「見せたの?」私は目を丸くした。

 

「うん」父はにこにこと頷いた。

 

「ずるーい!」私は唇を尖らせた。「あたしも見たかった! 起こしてくれればよかったのにー」

 

「しい」父は片目をつむって唇に指を当てた。「だってママが、あれだろ」

 

「あ」私は口を手で押さえた。「……そか」

 

「そう」父は肩をすくめるようにしてまた頷いた。「朝から皆でわいわいと魔法ショーなんてやってたら、当然ママも見に来るだろ」

 

「――そうだね」

 

 まあ私はいつだって、父の魔法をすぐに見せてもらえるんだから、いいか。

 

 そう思い直して、私は父と一緒に家の中に入り、久しぶりの三人朝ごはんを楽しんだ。

 

 

「行ってきまーす」私は、玄関の外で並んで手を振る父と母に向かって元気よく言ってから、ツィックル箒で空高く飛び上がった。

 

 母の手入れ受けたての箒はとっても調子がよく、いつもよりも私の呪文に素早く反応してくれるような気がした。

 

 ちなみに箒の手入れというのはおもに、キャビッチの葉にミイノモイオレンジの皮の油を染みこませて、呪文をかけて、柄のところをていねいに拭くという作業だ。

 

 油分の量とか、拭き方とか、そしてもちろんそれをやる人の魔力の強さによって、箒の状態がどれだけよくなるのか、大きく差が出る。

 

 私は箒の手入れを週に一度くらいでやっているんだけれど、ひと月かふた月に一度、手伝いをしたごほうびに、母の名人級の手入れをしてもらえる。

 

 その翌日――つまり今日だ――は、いつもより家を出る時刻を十五分から二十分ぐらい遅くしても、余裕で学校の始業時間に間に合う。

 

 それだけで、どれだけ効果のちがいがあるかってのが、わかるでしょ?

 

 

「おす」

 

 

 調子よくかっとばす私の箒の後ろから、声をかけてくる者がいた。

 

 振り向かなくても、ユエホワだとすぐにわかった。

 

「おはよう」私はとくににこりともせず、答えた。「マハドゥはどうだった?」

 

「うん」ユエホワは私のツィックル箒の横にならんで、うなずいた。「なに、今日なんか急いでる?」顔をこっちに向けて訊く。

 

「へ? ううん、べつに」私は眉をもち上げて首を振った。「ふつうだよ。なんで?」

 

「なんか、いつもよりスピード速いなって」ユエホワは前を向きながらそう言った。

 

「ああ」私はうなずいた。「そうでしょ。これ昨日、ママが磨いてくれたの。だから速いのよ」顎をもち上げて横を飛ぶ緑髪鬼魔に自慢する。

 

「へー」ユエホワは少しだけ感心したような声を挙げた。「やっぱ、すげえよな……お前んとこの親」



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7

「ふっふっ」私は鼻たかだかに笑ってみせた。「いまさら何いってんの。うちのママは天下のフリージアよ」

 

「ガーベラの、実の娘……か」ユエホワは前を見ながら、小さくつぶやいた。

 

「気に入られてよかったね」私も前を見ながら、嫌味をこめて言った。「“あの”ガーベラにさ」

 

「――」ユエホワは何も言わなかった。

 

 ちらりと横を見ると、目を細めて唇を尖らせ、明らかに嫌そうな顔をしていた。

 

「また連れて来なさいって、今朝おばあちゃんからツィックル便が来てたよ」私はもっと嫌味を込めて教えてやった。

 

 ツィックル便っていうのは、私の箒の材料にもなっているツィックルの木の皮から作られたカードに文を書いて、魔法で飛ばして送るお便りのことだ。

 

 これは箒以上に速くて、しかも必ず正確に、指示した所に指示した時刻に届けてくれる――もちろん、それを使う人の魔力に比例して、だけども。

 

 だから私の祖母と母のツィックル便のやり取りなんて、本当にお隣の家同士で窓越しに話をする位の感覚といっても、決して大げさじゃない。

 

「冗談」ユエホワが苦笑しながら答える。

 

 私はもう一度横目で隣を飛ぶ鬼魔を見た。

 

「俺、お前のばあちゃんって苦手だ」ユエホワは顔をしかめていった。「お前の母ちゃんも……ついでに、お前も」

 

「知らないわよ、そんなこと」私は腹を立てた。「こっちだって、いい迷惑よ」

 

「ただお前の父ちゃんはさ」ユエホワはそう続けて、ふう、と息をついた。「すげえって、思う」

 

「パパが?」私は少し驚いた。「マハドゥが使えるから?」

 

「じゃなくて」ユエホワは片眉をしかめた。「あんだけ魔力弱いのに、よくあんな強烈な魔女たちに囲まれて無事に生きてられるな、ってさ」

 

「なにそれ」私はぐりっと首を横に向けてユエホワを睨みつけた。「いろいろと失礼ね」

 

「だって事実だろ」ユエホワはまた唇を尖らせた。「あのマハドゥだってさ、確かに使える人間の少ない、難しい魔法だけど、あの程度ならボンキー類だって簡単に弾き返せると思うぜ」

 

「昨日は弾き返せなかったじゃん、ユエホワ」私はふくろう型鬼魔を指さして反論した。

 

「そりゃ不意を突かれたのと、様子見してたからだよ」ユエホワはむっつりと私を横目で見返した。「どのていどの力があるのかを」

 

「ふん、どうだか」私はぷいっと前を向いた。

 

 学校の建物が見えて来た。

 

「じゃあ、あたし行くから。ついて来ないでね」そう言い捨てて、私は箒の先を下に下げユエホワの隣からぎゅんっと降下しはじめた。

 

 

 

          ◇◆◇

 

 

 

「おはよーう、ポピー」ヨンベが明るい笑顔であいさつしてくれた。

 

「おっはよーう、ヨンベ」もちろん私も、朝一番の笑顔で答える。「聞いてー。昨日ママに、箒磨いてもらったの!」

 

「うわあ、すごーい!」ヨンベは目を真ん丸く見開いて驚いてくれた。「いいなあー! フリージアおばさまの魔力で磨いてもらえるなんて、すごいよねえ。羨ましーい」

 

「でもヨンベのおじさんも、すごいじゃん」私は誉め返した。「ていうか、やっぱり親がやってくれると、全然違うよねえ」

 

「そうそう」ヨンベは何度も頷く。「そりゃあ魔力が違うのはわかるけど、それにしてもあまりにも効果が違いすぎるからさあ、なんか時々、あたしだいじょうぶなのかなあって思ったりするよね」

 

「うんうん」私も何度も頷く。「うれしいんだけど、なんかちょっと、くやしいっていうか」

 

「んー」ヨンベは困り笑顔になる。「やっぱ真面目に勉強するしか、ないんだろうけどね」

 

「ははは」私も困り笑顔になる。「だね」

 

 そんな他愛もない話をしている内先生が教室に入ってきて、いつものように授業が行われ、私たちはキャビッチの及ぼす効果とか、そのしくみとか、鬼魔の種類とか分類とか、お昼ご飯の後は箒の操り方とかを学んだ。

 

 早く終らないかなあ。

 

 私は一日中、そのことばかり思っていた。

 

 だって今日は、キャビッチ投げの授業がないんだもん。

 

 まったくもって、つまらないことこの上ない。

 

 ああ、早く投げたい!

 

 手をぎゅっぎゅっと握り締めたり、手首をぐるぐる回したり、肩を前後に動かしたりして、私は耐えた。

 

「ポピー」隣りの席からヨンベがそっと呼ぶ。「体がなまってるって感じだね」

 

「えへへ」私はさすがにこっそり苦笑した。「こないだ覚えたやつ、早く試したいんだよね」

 

「シルキワス……だっけ?」

 

「そうそう」

 

「あれって、なんで消えちゃうの? キャビッチ」ヨンベが質問してきた。

 

「え」私は言葉に詰まった。「、と……」なんだったっけ。最初に祖母からその魔法のしくみについて説明を受けたような気が、しないでもない。けど……

 

 なんだったっけ?

 

「まあ、いつか授業でやるかもね」ヨンベは優しいので深く追求することなく、肩をすくめて質問をテッカイしてくれた。

 

「あはは」私は再度、苦笑した。

 

 

「ヨンベのキャビッチは、順調に育ってるの?」放課後、帰り支度をしながら私はヨンベにきいた。

 

「うん。うふふ」ヨンベはいたずらっぽく肩をすくめて「お父さんの使ってた肥料で、すごくいい香りのがあってね、ちょっとだけもらっちゃった」

 

「へえ!」私は心がわくわくするのを感じた。

 

 ヨンベはとってもていねいにキャビッチを育てる。

 

 私とはくらべものにならないぐらい、きちょうめんに肥料とか水とか、日当たりぐあいとか、ちょっとでも葉っぱの具合が悪そうだとひと晩中でも介抱してあげたりして……本当、尊敬する。

 

 そしてヨンベは「いつか、私が育てたキャビッチをポピーに投げてもらえたらうれしいな」って、言ってくれるのだ。

 

 私も、その日が来るのを心待ちにしている。

 

 きっとすごい効果があると思うんだ、ヨンベのキャビッチなら!

 

 私は、ヨンベがおじさんから少しもらったというその肥料のことについて話を聞きながら学校を出た。

 

「いい香りって、ミイノモイオレンジみたいな感じ?」私がきくと、

 

「うーんとね、すごくすうーってする感じ。ティンクミントみたいな」

 

「へえー。何に効くの?」

 

「それがさ、例によって、それを使った人の魔力によるんだって」ヨンベは困ったように片目をぎゅっとつむって笑った。

 

「あー、そうかあ」私はこの“例によって”というのがなかなか実感できずにいた。

 

 ヨンベのようにキャビッチを“植える”とか、あと“煮る”“融合する”という使い方なら、それを使う人の魔力によって現れる効果の種類や強さが違う、というのはレキゼンとわかるんだろうけれど、私はもっぱら“投げる”のが専門だから……といってももちろん、投げる人の魔力によって、投げたキャビッチがどれだけ破壊力を持つか、破壊以外の効果を生むか、とかの違いはあるんだけど。

 

 なにしろ私はまだまだ投げ技じたいの習得にいそしまないといけないレベルだから、そんな細かいことはあんまり考えてないんだ……まあ、あんまり自慢できることでは、ないんだけど。

 

「でも、楽しみだよ」ヨンベはひょいと肩をすくめて言った。「初めて使うものだからさ」

 

「本当ね」私も笑ってうなずいた。

 

 本当、いつかヨンベのキャビッチを、私のありったけの魔力をこめてスローできたらいいな。



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8

 私たちは箒でキューナン通りまでいっしょに飛び、手を振って別れた。

 

 そこからまっすぐ、家にむかって飛ぶ。

 

 飛びながら……私はもう、気がついていた。

 

 

 ふわ、ふわ、ふわ

 

 

 まただ。

 

 そう、今日もやっぱり、聖堂を過ぎたあたりから、“それ”はついて来はじめた。

 

 私はあえて、急にふりかえったりとかしないでいた。

 

 そいつがびっくりして、またすばやく逃げてしまってはいけないからだ。

 

 そしらぬふりをしながら、私は自分の家にむかって飛び続けた。

 

 飛びながら……なんとなく、予想はしていた。

 

 

「おっかえりー」

 

 

 まただ。

 

 そう、思ったとおり“そいつ”も、私に声をかけてきた。

 

 何も言わず目を細めて、後から来たそいつ――ユエホワを見、そっと口にひとさし指を当てる。

 

「ん?」ユエホワは眉を持ち上げ、ほんの少しちらっと私の箒の後ろを見て、すぐに目をそらした。「来てんの?」小さく訊く。

 

 私も小さくうなずく。

 

 こういうところ、やっぱりこの緑髪鬼魔は勘がするどいんだよね……まあ誉めるわけじゃないけども。

 

 

 ふわ、ふわ、ふわ

 

 

“そいつ”――小さい方の――は、気づいていないようにそのまま私たちの後ろからついて来た。

 

 

「ところでお前のばあちゃんさ」ユエホワは後ろを気にはしながらも何くわぬ顔で話した。「なんであんな森の奥ふかくで、一人で暮らしてんだ?」

 

「さあ」私は首をかしげた。「ずっとあそこに住んでるよ」

 

「お前らといっしょに住みたくないのか」ユエホワは私をちらりと見た。「近くに住むとか」

 

「森が好きなんじゃない? 静かだし」

 

「ていうかさ」ユエホワは空中で立った姿勢のまま滑空しながら腕組みした。「ほんとに、あの人なのか?」

 

「なにが」私は、ユエホワがなにを言いたいのか察しがついたけれど、わざときき返した。

 

「だから」ユエホワは声を小さくした。「鬼魔界四天王クドゥールグ様を倒した、あの」

 

「……」私は引きつづき、わざと緑髪鬼魔に最後まで言わせてやることにした。

 

「ガーベラ、って」

 

「そりゃあ」私が胸をそらして自慢げに答えてやろうとしたとき、

 

 

「ガーベラ?」

 

 

 かすかな、ほんの小さな声が、うしろからきこえてきた。

 

 私とユエホワは、はっと目を見開いた。

 

 

「ガーベランティ?」

 

 

 また、それはきこえた。

 

「だれ?」声をはり上げながらすばやくふり向く。

 

 ユエホワも、だまったままふり向いた。

 

 けれど後ろには、だれもいなかった。

 

「どこだ」ユエホワが低くつぶやきながら目だけを上下左右に動かしてさがす。

 

 私の手にはもちろん、キャビッチがすでににぎられていた。

 

 

「ユエホワ」小さな声が続けて言った。

 

 

「誰だ」ユエホワは赤い目の上の眉をひそめて声を上げた。「俺を知ってるのか」

 

「あなたがユエホワ?」小さな声が問う。

 

「あ」ムートゥー類鬼魔は自分の口を押さえた。「しまった」

 

「あーあ」私は目を細めた。「知的で、聡明で、なんだっけ、機動力だっけ」

 

「う」ユエホワはのどの奥でうなった。「うるせ」

 

「あのムートゥー類だろ、君」私は父がそう言ってユエホワをほめていた言葉を、皮肉を込めてくり返してやった。

 

「ユエホワ」小さな声がくり返す。「ユエホワ……ソウ……ソル……サリ……」

 

「何だ」ユエホワが顔を上げる。「呪文?」

 

「え」私は首をかしげた。「知らない……聞いたことない」

 

 

「ソイティ」小さかった声が、とつぜん一段階大きくなってそう言った。

 

 

 私とユエホワは、はっと身がまえた。

 

 声の主の姿は、いまだにどこにも見えない。

 

「うん。これがいい。じゃあ、またね」声は元の大きさ――というか小ささに戻ってそう言い、それから“気配”は、ふっと消えた。

 

「――」ユエホワは無言で、私を見た。

 

 私は声の聞こえてきていた方向にじっと目を凝らしていたんだけど、とうとう何も見つけることができず、あきらめてふう、と息をつきながらユエホワを見返した。

 

「なんだったんだ?」緑髪鬼魔がそうきく。

 

「さあ……」私はそうとしか答えられなかった。

 

「……」ユエホワももう一度、声のしていた方向に目を向けた。

 

 けれどやっぱり、彼にも何も見つけられないようだった。

 

「ソイティ?」ふくろう型鬼魔は不審そうに、そうつぶやいた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 それから何日かは、特に変わったこともなく――妙な声を聞くことも、性悪鬼魔につきまとわれることも――、平和に過ごしていられた。

 

 父はしばらく家にいることにしたようだけど、時々窓の外を見やったり、裏庭でミイノモイオレンジの下から上をのぞきこんだり、空を見上げたりしてふう、とため息をつくことがあった。

 

 そしてそんな父を見て母もまた、ふ、とみじかくため息をついたりしていた。

 

 なんとなく、私にも察しはついていた。

 

 父がつくため息は、あれからユエホワ来ないなあ……という寂しさのやつで、母のつくため息の方は、またあの鬼魔のこと気にしてるのね……といういら立ちのやつだ。

 

 私自身は、息子が欲しかったと言っていた父の言葉を思うと、ちょっとだけ父の寂しさがわかる気もしたけれど、そうかといってユエホワにそんなに気軽に遊びに来られてもいやだし――母のゲキドの姿も恐いし――まあ、そのうち父もあきらめて、また研究旅行にふらっと旅立っていくだろうくらいに思っていた。

 

 

 そして次の休みの日、私はまた祖母の家に行くことになった。

 

 仮縫いのできたドレスを試着するためだ。

 

 

 また、クロルリンク製のボトルに入れた冷たいレモネードを時々飲みつつ、にぎやかな町中から森へと抜けて、のんびり歩く。

 

 あの小さな声は、まったく聞こえてこなかった。

 

 私はあんまり深く考えずに、森の中の木の葉の音や匂い、涼しい風とか小鳥の歌声を楽しみながら歩いていた。

 

 途中までは。

 

 そう、

 

「よっす」

 

 その声が、頭の上から降ってくるまでは。

 

「――」だまって、上を見上げる。

 

「今日は、一人か」緑髪鬼魔はそう言いながら、木の枝の上から私の隣にすとんと降りてきた。

 

「一人だけど」私は口を尖らせながら、バスケットの蓋を開けてずいっと差し出してやった。「食べる? うちのママの作ったプィプリプクッキー」

 

「いや」ユエホワはぷいと横を向いた。「いい」

 

「あそ」私はさっさとバスケットをひっこめた。「今日は、って、どういう意味?」

 

「親父はいっしょじゃないのかってことだよ」ユエホワは頭の後ろで手を組んで、伸びをしながら答えた。

 

「パパはうちの裏庭とかで、たぶんあなたの事待ってるよ」私はひとりでプィプリプクッキーをつまみながら肩をすくめた。「今日も来ないなあ、ユエホワくん」声を低くして、父の物まねをする。

 

「行かねえよ、お前んちなんか」ユエホワは眉をしかめた。「わざわざキャビッチの餌食になりになんて」

 

「あそ」私はひきつづきひとりでクッキーをつまんだ。「でもパパ、なんかロンブンとか書くのに忙しそうだから、あんまりお出かけするひまはないみたいだよ」

 

「論文?」ユエホワは目を丸くする。「って、鬼魔についてのか? お前の親父って学者なの?」

 

「鬼魔分類学博士だよ」私は胸をそらしていばってやった。「すごいでしょ」

 

「へえー」ユエホワはすなおに感心したようだった。「すげえな。だからあんなに鬼魔についてくわしいのか」

 

「まあね」私はますます胸をそらしてやった。

 

「お前」ユエホワはそんな私をしげしげと眺めていった。「本当にあの人の実の娘なのか?」

 

「……どういうこと?」私は訊き返しながらも背中のリュックの下に手を伸ばした。

 

「いえ、なんでもありません」ユエホワはすばやく十メートルぐらい飛びすさった。

 

「いっとくけど、うちに来なければキャビッチをぶつけられずにすむなんてこと、思わない方がいいよ」私は性悪鬼魔に指をつきつけながら宣言した。

 

「わかったよ。はい」ユエホワはわざとらしく両手を上に上げて降参のポーズをした。



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9

 やがて木々の間に、祖母の丸太の家が見えてきた。

 

「――ついて来るの?」私は、相変わらず隣を歩いているユエホワを見てきいた。「今からおばあちゃんちに行くんだよ? いやなんじゃなかったっけ」

 

「一回、ちゃんと聞いとこうと思って」緑髪鬼魔は目をそらしながらむすっと答えた。

 

「何を?」私はまたきいた。

 

「――あの戦いの時のこと」ユエホワはまたむすっと答えた。

 

「あの戦い? クドゥールグの?」またきいた。

 

「ああ」また答えた。

 

 その直後、私たちは丸太の家の前に着いた。

 

「聞いてどうするの?」私は立ち止まってまたきいた。

 

「どうするって」ユエホワも立ち止まったけど、答えにつまった。

 

「まさか仇をうつつもり?」私は目を丸くしてきいた。「その作戦を練るためとか?」

 

「いや」ユエホワは首をふった。「そういうつもりじゃねえけど」

 

「えー、どうだか」私は横目でにらみながら言い「こんにちは――」と叫んだ。

 

「お前」ユエホワは声を殺して早口で言った。「絶対言うなよ」

 

「はあーい、いらっしゃーい」祖母はにこにこしながらテラスに出て来た。「まあーユエホワ、また来てくれて嬉しいわ」両手を胸の前で組み合わせて、頬をバラのように輝かせながら言う。本当に、心からうれしいんだろうな……と私は思った。

 

「こんちは」ユエホワは少し照れくさそうに、ぺこっと頭を下げた。

 

「クドゥールグのこと聞きたいんだって」私はずばっと言った。

 

「あっ」ユエホワが目を見ひらいて私を見たけれど、じっさいそうだもんね。

 

「クドゥールグのことを?」祖母は少し驚いたような顔をして、でもすぐに穏やかな微笑みに戻り「わかったわ。お茶の用意をするわね。どうぞ座っていてちょうだい」と告げ、台所の方へ入って行った。

 

「今日は魔法で飛ばしてこないんだな」テラスの木椅子に座りながら、ユエホワが小さな声でぼそぼそと言う。

 

「たぶん、お茶の葉をじっくり選んでるんじゃないのかな」私は口をとがらせて答えた。「大切な話をするときにはよくそうしてるから」

 

 つまり、祖母はこれからユエホワに、とっても大切な話をするつもりなのだ――鬼魔の親分のことについて。

 

「へえー」ユエホワはなんだか感動したように、丸太の家の奥の方を見やった。

 

 思った通り、祖母はいちばんお気に入りのポットとカップを使ってお茶を運んできた――たぶん、クロルリンクではない、もうちょっと高級なお店で買ったものだと思う。

 

 いや、クロルリンクが低級だという意味では、けっしてない。

 

 お茶は、ほんのりとミイノモイオレンジの香りがした。

 

「さあ、お待たせ」祖母は、お手製のプィプリプケーキをお皿に乗せて配りながらそう言い、椅子に腰掛けた。「何から話そうかしら」

 

「――あなたは何歳だったんですか」ユエホワが、いつもに比べると小さな声で切り出した。「あの戦いのとき」

 

「私は――十九だったわ」祖母は眸を閉じて、懐かしそうに頷きながら答えた。「魔法大学に入って二年目の、夏だった」

 

「へえー」私は一人、ケーキをぱくぱく食べながら感心した。「魔法大学かあ。あたしもあと五年したら、受けるんだよね」

 

「大学で、キャビッチスローを学んでたんですか?」ユエホワはまた祖母に質問した。

 

「ええ」祖母は目を細めてにっこりした。「あの頃確か、成分魔法を覚えたばかりだったのよね」

 

「成分魔法?」私とユエホワが同時にきいた。

 

「そう」祖母はこくりとうなずいた。「キャビッチに含まれる、特定の成分にだけ魔法をかけて、特殊効果を得るものなの」

 

「ふう、ん」私はあいまいにうなずき、

 

「ああ、あれか!」ユエホワはぽん、と手のひらに拳を当てて納得した。

 

「え、知ってんの?」私は驚いて隣のムートゥー類鬼魔を見た。

 

「何いってんだよ」ユエホワが眉を寄せて私を見返す。「お前一回使ったじゃん、泡粒界で戦ったとき」

 

「泡粒界で……?」私はテラスの屋根裏を見上げた。

 

「たしかアシュアムっていってたやつ」

 

「まあ」祖母が目を丸くする。「それは知らなかったわ! ポピー、あなたすごいじゃないの。どうやって覚えたの? アシュアム効果魔法を」

 

「アシュアム……ああ」やっと私のノウリにもうっすらと記憶がよみがえった。

 

 そう、前に、ふとしたきっかけで泡粒界という異世界を救うために戦ったことがあって、たまたま一緒に戦うことになった学校の先生から、急きょやり方を教え込まれて、強行突破で使った魔法のことだ。

 

 キャビッチに含まれる、アシュアムという成分にだけ、魔法をかける、という。

 

「あれのことかあ」

 

「まあ、そう……泡粒界で」祖母は、私たちがかわるがわるに話すことをすべて聞き終わってから、深いため息まじりにそう言った。「そんな大変なことがあったなんて……フリージアからはなにも聞いていないわ」

 

「あっ」そこで私は初めて気づいた。

 

 泡粒界へは、母にはだまって行ったんだった、ということに。

 

「あ」ユエホワも気づいたらしく口に手を当てたけど、私にとってはそんなどころじゃなかった。

 

「あっ、あの、えと、ママにはっ」私は、連続キャビッチ投げを食らったモケ類のようにあわてふためいておたおたした。「おばあちゃんお願い、ママにだけはっ」

 

「あらまあ」祖母は肩をひょいとすくめて言ったけれど、すぐにくすくす笑って「でもそうよね、あなたたちが一緒に異世界へ行ったなんて知ったら、あの子町を破壊するぐらい怒りまくってしまうだろうから、言わない方が世の中の平和のためね」

 

「あははは」私は、母がキューナン通り――クロルリンクもミヴィズも聖堂も――をめちゃくちゃに壊しまくっている光景を想像して、泣き笑いした。

 

「うっへえ」となりでユエホワが顔をしかめる。

 

「もう!」私はユエホワに文句を言った。「あんたがよけいなこというから!」

 

「あれ、なんでそうなる?」ユエホワは目を見ひらいて反論してきた。「だって俺、お前が母ちゃんに話してないなんて知らなかったし」

 

「話せるわけないじゃん! あんたといっしょに泡粒界行くなんて言ったらあたし、ママに半殺しにされるし」

 

「お前の母ちゃんだろ。半殺しにされるなら俺の方だし」

 

「そもそも泡粒界なんてあたしは行く気なかったのに、あんたが無理やり」

 

「あれえ、いまさらそんなこと言う? 卑怯だぞお前」

 

「どこが卑怯よ」私はついにリュックに手を伸ばした。

 

「これ!」祖母が大きな声でぴしっと言った。

 

 私とユエホワは、文字どおりかたまった。

 

 弱い魔法をかけられたんだと思う……けど、大部分は祖母の声の迫力で、私たちはぴきっと静かになったのだ。

 

「おやめなさい! 泡粒界に行くのはいいけれど、喧嘩はだめ!」祖母はそう言って叱った。

 

 私たちはしゅんとしおれて反省しながらも、

 

 ――泡粒界に行くのは、いいんだ……

 

と心の中だけでつぶやいていた。

 

 ふ、と祖母は息をつき、「まあいいわ。とにかくそのアシュアムのような、成分魔法を覚えて私は……そうね、ちょっと天狗になっていたのだと思うわ」

 

「天狗に?」私は驚いた。

 

「ええ」祖母は少し苦笑いをした。「当時はとにかく、その覚えたての効果をいろいろ試したくて、暇をみつけては森や海へ行って、鬼魔を探していたの」

 

「ええーっ」私はさらに驚いた。

 

「災難だな」ユエホワもぼそっとつぶやいた。

 

「ごめんなさいね」祖母はますます苦笑いした。「若気の至り、というやつね」

 

「一人で?」私は、祖母の昔のことなのに、鼓動がどきどき早くなった。「怖くなかったの?」

 

「ぜんぜん」祖母は首をふった。「自分が負けるなんて、いちども考えたことがなかったわ」

 

「すげえ」ユエホワがまたぼそっとつぶやいた。

 

「そう」祖母はユエホワを見て、しずかな表情で続けた。「自分が負けるかも……そんな風に思ったことなんてなかった、クドゥールグと戦うまでは」

 

 ユエホワは、赤い瞳をもういちど見ひらいて、祖母をまっすぐに見つめ返した。



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10

「私がそんな、無茶で無謀なことを続けていると、やがて当然のことながら、鬼魔界にもお触れのようなものが伝えられたのね」祖母はしずかに話を続けた。

 

「――鬼魔王から?」ユエホワは訊いた。

 

「おそらくね」祖母は目を閉じてうなずいた。「そしておそらくその内容は、こうだったのだろうと思われるわ――力に自信のないものは、人間界に出るべからず。力に自信のあるものは、人間界へ行き、ガーベラというキャビッチ投げを倒すべし、と」

 

「でもどうしてそれがわかったの?」私が訊いた。

 

「強い鬼魔だけが人間界に現れるようになったからよ」祖母はいたずらっぽく笑って肩をすくめた。「私を狙って」

 

「えっ」私は驚き、

 

「まさかそれが」ユエホワは声をかすらせた。「クドゥールグ……様?」

 

「最終的にはね」祖母は遠くを見つめるような目で庭を眺めた。「彼の前にも、オルネット類だとかニイ類だとか、手ごわいのがいろいろ来たわ」

 

「……ムートゥー類……も?」ユエホワはますます声をかすらせながら訊いた。

 

「いたわよ」祖母はきらり、と瞳を輝かせてユエホワに向かい笑いかけた。「ユエホワのご先祖さま、かしらね」

 

「――強、かった?」ユエホワは、そっと質問した。

 

「それはもう」祖母は大きく頷いた。「負ける気はしていなかったけれど、何度も私のキャビッチスローを巧みによけられて、苦労したわ。本当に頭のいい鬼魔だと思った」

 

「へえ」ユエホワは少しうれしそうだった。

 

「でも結局はおばあちゃんが勝ったんだよね」私は口をとがらせて言った。

 

「――」祖母はじっと私を見て、ゆっくりと口を開いた。「ポピー。どうしてあなたはそう、ユエホワに対して意地悪を言ったりするの?」

 

「う」私は言葉につまった。「い、意地悪なんてしてないよ」

 

「あなたとユエホワとは」

 

「友達じゃ、ないよ」私ははっきりと祖母に告げた。「天敵だよ」

 

「天敵だというのならば」祖母も真面目な顔で私に告げた。「相手を尊重する気持ちを持たなければいけないわ」

 

「そん、ちょう?」私はくり返した。

 

「そう。敵ならば、その者の尊厳や権利をないがしろにしていいなどということは決してないのよ」祖母は静かだけれども真面目に、私に言い聞かせつづけた。「正しい道をはずれてまでその相手を傷つけたりおとしめたりすることは、絶対にしてはならないわ」

 

「――はい」私はそう返事したけれど、“わかりました”とは言わなかった。

 

 だって、わかってなんかいなかったから。

 

 祖母は知っているはずだ、この緑髪鬼魔がかつて私に何をしようとしたのかを。

 

 そして祖母は知らないんだ、この緑髪鬼魔が今現在、私に何をしているかを。

 

 私の心の中は、すごくもやもやしていた。

 

「大丈夫です」そう言ったのは、なんとユエホワだった。「俺とポピーはずっと、最初っからこんな感じできてるんで、もう慣れてます」

 

「まあ」祖母は目をぱちくりさせた。「そんなことを言って、いいの?」

 

「はい」ユエホワはこくりとうなずいた。「いまさらこいつに尊重とかされたら、かえって恐いです。後が」

 

「あら、まあ」祖母は口を手でおさえた。「――あ、まあとにかく、お茶が冷めてしまうわ。召し上がって」

 

「あ、はい」ユエホワはティーカップを持ち上げて、ぐいぐいとお茶を飲み干した。「それで、クドゥールグ様と戦ったときは……どんなだったんですか?」

 

「そうね」祖母はテーブルの上でゆるやかに両手を組み、昔を思い出しながら話した。「その時にはもうすっかり、町中――いいえ、国中が大騒動になっていたから、人間たちは総力をあげてクドゥールグに立ち向かおうとしていた。けれど誰も、彼を倒すことができずにいたの」

 

「うわ」私はすぐにまた、胸をどきどきさせて話に聞き入った。

 

 確かに、最後に祖母が勝つというのは知っている――世界中のみんなが知っている――けれど、最後まできちんと話をまじめに聞かなきゃいけない。

 

 そう思った。

 

 祖母も、私とユエホワが泡粒界のことを話すとき最後まできちんと聞いてくれた。

 

 つまりそれが、そういうのが「相手を尊重する」ということなんじゃないかと、思う。

 

 こんどからは、ユエホワにも――同じように――きちんと話を――最後まで、聞いて――

 

 できるわけないじゃん!

 

 私の中で誰かが金切り声をあげた。

 

「人びとはもう、ほぼあきらめかけていた――私はそれでもまだキャビッチを手に取りはしていたけれど、正直、自分が負けて倒れるところを頭に思い描いたりしていたわ」

 

「一人で、戦ったんですか? クドゥールグ様と」ユエホワは質問した。

 

「途中からはね」祖母は答えた。「他の人は皆、疲れはてて深く傷ついて、絶望の底に沈んでしまっていた」

 

「それでも、逃げなかったのは、なぜだったんですか」ユエホワはまた質問した。

 

 こんなに、人の話を真剣に聞いているこのムートゥー類を見るのははじめてだった。

 

「そうね」祖母はふたたび庭を見た。「キャビッチが、問いかけてきていたからかな」

 

「え?」私は目を丸くし、

 

「キャビッチが?」ユエホワは眉をひそめた。「問いかけるって、何を?」

 

「なんといえばいいのかしら」祖母は少しうつむいた。「そう……次は、何を試す? って」

 

「え」私はさらに目を丸くし、

 

「試す?」ユエホワは首をかしげた。「何を?」

 

「技よ」祖母はにこりと微笑んだ。「お前の持てる力を、次はどんな形で試すのか? スピードか? 変化球か? 消すのか、分散させるのか? それとも」ウインクする。「特殊効果を発現させるのか? とね」

 

「あなたは、疲れたりしていなかったんですか」ユエホワが訊く。

 

「疲れていたわ」祖母はふう、とため息をついた。「大怪我もしていたし、足はふらふらだし、頭はがんがん鳴るし、体は重いし、もうきっと死んじゃうんだろうなって、本当に思ってた」

 

「でも、じゃあ」私が言いかけて、

 

「どうして戦いつづけたんですか」ユエホワが後をつづけた。

 

「投げたかったからよ」祖母は眉をひょいと上げて答えた。「キャビッチが容赦もなく次々に問いかけてくるその課題を、とにかくかたっぱしから試したかったの」

 

 私とユエホワは、なにも言えなくなった。

 

「けっきょく私は」祖母はもういちど、庭を見た。「キャビッチ投げが、ばかみたいに好きなのね」

 

 わかる!

 

 私は無意識のうちに、顔中で笑っていた。

 

 ああ、私はやっぱりこの人の血を引く、孫娘なんだ。

 

 敵を倒すというよりも、キャビッチを投げてやるということに、幸せを感じる人間なんだ。

 

 誰が、なんといおうと。

 

「クドゥールグ様に」ユエホワが、言った。「最後に、投げた技は?」

 

「――」祖母は突然、人形のようにかたまって動かなくなった。

 

 え?

 

 私とユエホワは信じられないものを見るように、しばらく動かない祖母を見守るしかなかった。

 

「――なんだったかしら」祖母はやがて、呟くようにユエホワを見て言った。

 

「――シルキワス、とか?」ユエホワが訊く。

 

「うーん」祖母は頬に指を当てて目を閉じた。「どうだったかなあ……でもなんだか、特殊な技ではなくてまったく普通の、ストレートだったような気が、するのよね」

 

 私とユエホワはまた何も言えなくなった。

 

「そうだ、よければ図書館で何か歴史の本を読んでみてちょうだいな」祖母は思いついたように言って、またにっこりと笑った。「びっくりするくらい詳しく、私が当時戦った内容が書かれてあるのよ。私でも覚えてないような、夢物語みたいなことがね」

 

「え、それって実話なの?」私は思わず祖母に向かって失礼なことを訊いた。

 

「うーん、ちゃんと目撃してた人の話だっていわれてはいるけれどね」祖母はとくに怒ったりもしなかった――自分のことでは怒らないんだよね。でもユエホワのことになると――



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11

「じゃあ、もうひとつだけ」ユエホワは、最後の質問をした。「クドゥールグ様は、最期に何と言ったんですか」

 

「――」祖母はまたテラスの天井裏を見上げた。「彼は『次は負けぬ』と言ったわ」

 

「次は?」私が訊き返した。

 

「ええ」祖母はうなずいた。「『おのれ小娘、次は負けぬ』と言って……そのまま、息を引き取ったの」

 

「――」ユエホワは、息をするのも忘れているように見えた。けれどやがて、はあ……と、ゆっくりため息をつき「まだ、戦えると思っていたんだ……」と、小さな声で言った。

 

「どうかしらね」祖母はユエホワをしずかに見つめていた。「もしかしたらそれは、自分の次の世代の者たちがきっと勝つ、という意味だったのかも知れないし」

 

「次の――」ユエホワは繰り返しかけて、驚いたように祖母を見た。「え、それって」

 

「うふふ」祖母は目を細めて「あ、お茶のお代わりを入れましょう」と言い席を立った。「ケーキもどうぞ召し上がって、ユエホワ」

 

 祖母が奥のキッチンへ姿を消すと、ユエホワは私に向かって真剣な顔で「お前、明日図書館で歴史の本借りてきてくれ」と頼んだ。

 

「えー」私は眉をしかめてやった。「自分で行けばいいじゃん」

 

「俺が行って貸してくれるわけねえだろ」ユエホワも眉をしかめ返してきた。「あっ、それかお前の親父がそういうの何か持ってるんじゃねえか。借りてきてくれよ」

 

「それこそ自分で行けばいいじゃん」私は眉間が痛くなってきたので逆に眉をいっぱいに持ち上げて言い返した。「パパも喜ぶだろうし」

 

「それこそ俺が行って、無事に帰って来れるわけねえだろ。今度は俺が『次は負けぬ』って言わなきゃいけない破目になる」

 

「あははははは」私は思わず大笑いをしてしまい、それからはっとして口を押えた。

 

「まあ、楽しそうね」祖母が嬉しそうに笑いながらお茶を運んできた。「本当にあなたたち、敵同士なの?」

 

「ち、違うよ」私はぶんぶん首を振った。「いや、違うんじゃなくて、楽しいんじゃないよ」

 

「ほほほほ」祖母はなぜか、自分自身が楽しそうに笑いながら淹れたての熱いお茶をカップに注ぎ分け「そういえば今日は、あなたのドレスの試着をしてもらうつもりだったのよね、ポピー」そう言ったので、私もやっと本来の目的を思い出した。

 

「じゃあ、俺はこれで」ユエホワはそう言うと、祖母が入れた新しいお茶をひとくちだけすすって、それから立ち上がった。「ありがとうございました」小さく頭を下げる。

 

「あら、もう行くの?」祖母は残念そうに言った。

 

「――ごちそう、さま、でした」ユエホワはものすごくぎこちなくあいさつをした。

 

「ぷっ」私は思わず吹き出した。「変なの」

 

「うるせえ」ユエホワが赤くなって言い、

 

「ポピー」祖母がたしなめる言い方で言った。

 

 私は肩をそびやかしてうつむいた。

 

「それじゃあ、ぜひ、またね。賢い鬼魔さん」祖母はユエホワに、優しく呼びかけた。

 

「ども」緑髪の性悪鬼魔は恥ずかしそうにもういちどぺこりと頭を下げた。

 

「私があなたを賢いと思う理由のひとつはね、ユエホワ」祖母は目を細めて微笑みながら言った。「年寄りを、敬い尊ぶところよ」

 

「え」ユエホワはぽかんとして赤い目を丸くしながら自分を指さした。「俺が?」

 

「えーっ」私も思わずギモンの声をあげた。「そうかなあ」

 

「俺は、別に」ユエホワはちらりと私を横目で見ながら肩をすくめた。「そもそもあんまり人と話さないし」

 

「うふふ」祖母は楽しそうに笑った。「距離をおく、という形の敬い方も、あるのよ」

 

「距離を?」私はきき返した。

 

 ユエホワは黙っていたけど目を空の方に向けて考えていた。

 

「ごぞんじのとおり年をとるとね、視野が広くなる……つまりたくさんのことがいちどきに見えるようになるわ」祖母は自分の両目の横に両手のひとさしゆびをくっつけて、ななめ前にむけてすうっと線をえがいた。「でもそれと比例して、若いころにくらべて細かいところ、小さなものごとが、見えなくなる……もしくは、見て見ぬふりをするようになる」

 

「どうして?」私はきいた。

 

「面倒くさいからよ」祖母はひょいっと肩をすくめた。

 

「ぷっ」ユエホワが横をむいてふき出した。

 

「うふふ」祖母もまた笑った。「たくさんのことが見えるということはつまり、いちどきにたくさんのことを考えなければならないということ。だから、さしむき必要のないことはすばやく切り捨ててしまわないと、頭の回路が切れてしまうわ。けれど若い人の多くは、そうやって細かいところをやり過ごす年寄りのことを、なにも気づかない、なにもわかっていない存在だときめつけてしまって、ともするとその年寄りを自分の思い通りに動かそうとしてしまう……まるでマハドゥの行使のようにね」

 

「う」

 

「え」

 

 私とユエホワは思わず目を見交わし合った。

 

「そんなことされるよりは、敬意をもって距離を置かれたほうがずっと幸せだわ」祖母は目を糸のように細めた。「それができるユエホワ、あなたは本当に賢くて、素晴らしいわ」

 

「あ……」ユエホワは祖母を見て、照れくさいのかすぐに視線を下に落とした。

 

「笑顔もかわいいし」祖母はさらにそう言い、ますます愛しげに緑髪鬼魔を見つめた。

 

「――」ユエホワはとうとう言葉を失い、目に負けないぐらいほっぺたも赤くしてうつむいていた。

 

 ええええー!

 

 私は心の中だけでギモンの叫び声をあげていた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「歴史の本?」父は私の問いかけに大きな声で返事した。「ああ、あるとも! たくさんあるぞ! どれがいいかなあ」キッチンの天井を見上げて考える。

 

「まあ、珍しいわね」母が、夕食のメインディッシュをお皿に盛り分けながら目を丸くした。「ポピーが本だなんて」

 

「えへへ」私は思わず笑ってごまかした。「ヨンベがね、なんか肥料のこととかいいこと書いてないかなって」

 

「肥料? 歴史上の?」母が手を止めてまできき返してきたので、私はかなりあせった。

 

 たしかに、肥料のことなら歴史じゃなくて農業関係の本、だよね。

 

 けど父は、

 

「いやいや、ヨンベの視点はなかなかいいぞ。つまりはキャビッチ育成技術史について、知りたいっていうんだろ」

 

と、ますます目を輝かせたのだ。

 

「あ、そうそう」私はもちろん、それにビンジョウした。

 

「へえー」母は作業を続けながら、まだ驚きつづけていた。「すごいわねえ。そんなに熱心に調べるなんて」

 

「ママは昔もよくパパにそう言ってくれていたんだよ」父は私に向かって笑った。「じゃあ食事のあとで、地下の書斎におりよう。何冊かみつくろってあげるよ」

 

「うん!」私はほっとした。

 

 地下の書斎なら、まず母は降りてこない――ちょっと寒いし、母もあんまり本とか興味ない人だし――私は残念ながら、母のその部分を中心に引き継いだようだ――とにかく父に、本当の本の借り手を明かせそうだ。



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12

「ユエホワが?」思ったとおり父は目を丸くして、「へえー!」となんどもうなずいた。「すごいなあ彼は!」

 

「ははは」私は苦笑いした。まったく、ほめられるのは私以外の人ばっかりだ、人というか、人と鬼魔だけれど。

 

 そこは書斎、地下につくられていて、広くて薄暗くて、空間すべてが本に満たされている部屋だ。

 

 父が、生まれてからいままでに手に入れたすべての本が、ぎっしりと収められている。

 

 父は、年老いた後、この部屋で本に埋もれながら一生を終えることができたなら本望だっていうけれど、私なんかは、この部屋の中でだけは一生を終えたくないと思う。本に埋もれてって――重くて寒くて息がつまって、死ぬ前に気が狂うだろう。

 

「ガーベラ対クドゥールグの戦いについてかあ……じゃあ……このあたりかな」ずらりとならぶ本の背表紙を人さし指でたどりながら、父は一冊、また一冊、ひっぱり出す。「しおりをはさんでおいてあげよう」

 

「けど、そんなの読んで、どうするつもりなのかな、ユエホワ」私は父の動きをながめながら口にした。「あたしが『仇をうつつもりか』ってきいたら、そんなつもりじゃないっては言ってたけど」

 

「ははは」父は机の上で本にしおりをはさみながら笑った。「さすがに彼も、そこまで無謀じゃないだろうさ。何につけ、知らないよりは知っておいた方が、いいからね」

 

「っていうか、ユエホワって人間の字、読めるのかな」私は別に浮かんだ疑問をまた口にした。

 

「ああ、確かにね」父もそのときはじめて、ユエホワが鬼魔なんだということに気づいたかのように顔を私に向けた。「でも、そもそも読めないんなら、本を貸してくれなんていわないんじゃないかな?」

 

「わかんないよ、あいつずうずうしいもん」私は口をとがらせた。「鬼魔語に訳してから貸せよとか、言いそう。気がきかねえなーとか」

 

「そんなこと言うのかい? はははは」父はまた笑う。「ムートゥー類は何語を使うのかなあ」

 

「ムートゥー語じゃないの?」

 

「それが一概にそうとも言えないんだよ」父は人さし指を立ててウインクしながら説明しはじめた。「鬼魔語っていうのは、種別じゃなくて鬼魔界のどこに住んでいるかで違ってくるんだ。鬼魔界の中はだいたい十三の地域に分かれていて、たとえばビャンドルヴ地方に住む鬼魔はゴルゴイド語を使うし、その西にあるバランドロイ地方に住む鬼魔は」

 

 私の頭のなかに一瞬にして、いちどだけ行ったことのある鬼魔界の、すべてが黒味がかっていたあの気持ち悪い世界の光景がよみがえってきた。ビャンドルヴ地方もバランドロイ地方もたぶんぜんぶ、黒味がかっているにちがいない。

 

「うーん、これはぜひユエホワにきいてみないといけないな」父の中ではなぜかそういう結論が出てしまったようだった。「明日、彼に会えないかな」

 

「えー」私は、鬼魔界で嗅いだなんとかキノコのソウゼツなにおいを思い出しつつ、思いきりいやな顔をして言った。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 次の日――この日も休みだ――私は父の選んだ本を三冊リュックに入れて(キャビッチの上に乗せて)、ヨンベの家に行くと母に告げ、実のところは森へ向けて出かけた。

 

 父は少し後から、図書館に出かけると母に告げ、やっぱり森へ向けて出かけることになっている。書斎で、二人でそう打ち合わせをしたのだ。

 

 森へ、と決めたのは、そこがいちばんユエホワに出会う可能性が高いからだ。

 

 もし森にいなかったら、海とか、草原とか、そのあたりに行けば、用もないのに向こうから姿を現すだろう。まあ、今日にかぎって用はあるんだけど。

 

 

 ふわっ

 

 

 はっとして顔を上げた。

 

 何も見えない。

 

 何も聞えない。

 

 森に入って少し歩いたところでだった。

 

 木の葉がさわさわと揺れる、その音とは違う――音ではない、例のあの気配だ。

 

 そっと、リュックの下に手を持っていく。

 

 

 ふわ ふわ ふわ

 

 

 声は聞えないけれど、あの時の声の主と同じだと私は思った。

 

 そっと、リュックの下をたたく。

 

 キャビッチが手の中に、ころがり出てくる。

 

 きゅっと、にぎりしめる。

 

 

 ふわ ふわ ふわ

 

 

 気配は、とてもわずかなもので、ともすると風にまぎれてわからなくなる。

 

 私は視線を下に、落ち葉の舞い散る地面のほうにむけて、そのかすかな気配を追うことに集中した。

 

 キャビッチを投げて、はたして当たるんだろうか?

 

 目に見えもしない、その相手に。

 

 なにで投げる?

 

 まっすぐストレート……は、あり得ない。

 

 なにしろどっちへ投げればいいのかかいもく見当もつかないんだから。

 

 カーブやドロップも、同じだ。曲がる先をどこへすればいいのか決められない。

 

 分散させるか? そうすればそのうちのどれか一つは、当たるかも知れない……けど、もし相手が――今は姿の見えないそいつが、実はとってもでっかくてしかも凶暴なやつだとしたら?

 

 そんなやつに、分散させた小さなキャビッチの威力がとても効くとは思えないし、ましてやそいつが怒り狂って襲ってきたら――

 

 姿を消したままの相手に攻撃されるなんてことになったら、いよいよまずい。

 

 私はぎゅっと目をとじて、少し考え、それから目を開けた。

 

 あいかわらず、何も見えない。

 

 

 ふわ ふわ ふわ

 

 

「だれ?」私は、落ち着いてきいた。「どこにいるの?」

 

 

 ふわ ふわ ふわ

 

 

 返事はない。

 

 私は、頭をうごかさずに目だけで左右をさぐった。

 

 

「それ、ツィックル?」

 

 

 不意に、かき消えそうな小さな声が聞えた。

 

 ぴくっと手が動いたけれど、まだキャビッチは投げなかった。

 

「――」そのかわり、私はキャビッチを持っていない方の手を見た――その手には、森の外まで乗ってきた私の箒がにぎられていたのだ。私は声の聞こえた方――正面の、少し上のあたりに顔を上げ「そうよ。ツィックル。私の箒よ」と答えた。

 

「きれいね」小さな声は続けてそう言い「ユエホワも箒に乗るの?」と訊いてきた。

 

「ユエホワ」私はその名前を小さくくり返して「彼は、乗らないわ。彼自分で飛べるから」と答えた。

 

「そう。よかった」小さな声は、よろこんでいるようだった。「箒に乗って飛ばれると、ちかづけないから」

 

「え?」私は目を見ひらいた。「ちかづけない、って――あなたは、だれ? 鬼魔なの?」質問しながら、私の心はあせった。

 

 

 ふわ ふわ

 

 

 なぜかというと、そのあと急にその気配が遠ざかっていくのが感じられたからだ。

 

「ねえ、待って」呼びかけるけれど、声はもう答えてくれなかった。

 

 

 ふわ

 

 

 それっきり、気配もまったく感じなくなった。



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13

「――」私は首をかしげ、眉をひそめて手もとのキャビッチを見下ろした。

 

 リュックの上から中に放り込もうとして――もういちど、目の前にもってきた。

 

 あたりを見回す。

 

 横幅が一メートルぐらいありそうな、貫録のある木が目にとまった。

 

 私は手の中のキャビッチを一回ぽん、と軽く投げ上げて、手の平にもどってきたそのキャビッチに向けて、呪文を唱えはじめた。

 

「シルキワス」その最初のひとことで、たちまちキャビッチになにかが通いはじめる――熱をもって。「トールディク、ヒューラゥ、ヴェルモス」唱えるごとに、キャビッチがどんどんあたたかくなる。それを感じながら、ゆっくりと、肩をひらき肘をひく。「ヴィツ」肩に意識をあつめる。「クァンデロムス」空気を切るように、すばやく腕を前に投げ出す。

 

 キャビッチはすこし沈みながら、大木に向かってまっすぐ飛び、その二メートル手前で音もなく消えた。

 

 

 がつっ

 

 

 音がしたのは、その大木のうしろ側、私からは見えない位置でだった。

 

 走っていき、大木の向こうに回りこんでたしかめる。

 

 大木の、地面から一メートルぐらいのところに青緑色の丸いへこみができていた。それはすぐに元の幹の色にもどり、へこみもきれいに直った。

 

「ごめんね。ありがとう」私は大木の幹を手で撫でてお礼をいった。

 

 生きた木を練習に使わせてもらうときは、ダメージではなくキャビッチを養分として吸い込ませてあげるのがならわしだ。

 

 とはいえ、木にしたらやっぱり、痛い、のかも、知れないけど……

 

 

「なっるほどね」

 

 

 頭上から声がした。

 

 見上げるまでもなく、それはユエホワの声だとすぐわかった。

 

 ざっ、と木の葉が揺れ、ムートゥー類鬼魔は私の横にすとんと降りてきた。

 

「確かにシルキワスだ」腕組みをして偉そうに言う。「まあまあだな」

 

「いつからいたの?」私はコメントは無視してきいた。

 

「今」ユエホワは答えてふわーとあくびした。「本もってきてくれた?」

 

「――もってきたけど」私は背中からリュックをはずして言った。「もうちょっと待って」

 

「なんで」

 

「パパが来るから」

 

「――なにしに」

 

「ユエホワに会いに」

 

「なんで」

 

「何かききたいんでしょ」私は肩をすくめた。「鬼魔のこととか……ああ、鬼魔語がどうとか言ってた、きのう」

 

「鬼魔語?」ユエホワは眉をひそめた。「なんで」

 

「ムートゥー類は何語を話すのかなあ」私は声を低くして父のものまねをした。「とかって言ってたよ」

 

「ジルドラムグル語だけど」

 

「知らないわよ」私も眉をひそめた。「それより、あの声きいた?」

 

「あの声?」ユエホワはまた眉をひそめた。「いや……また出たのか」

 

「うん」私はうなずいた。「ユエホワは箒に乗るのか、ってきかれた」

 

「箒?」ユエホワは声を裏返した。「なんで」

 

「知らない」私は首を振った。「乗らない、って答えたら、よかった、って」

 

「なんで」

 

「箒で飛ばれると、近づけないからって」

 

「――誰に」

 

「さあ。ユエホワにじゃないの」私は緑髪鬼魔を指差した。

 

「なんで」

 

「さあ」私は首をかしげた。

 

「近づいてどうするんだ、俺に」

 

「だから知らないってば」私は少し怒った。「自分できけばいいじゃん」

 

「きかねえ。知りたくねえ。ふざけやがって」ユエホワは首を振って腹立たしげにいいつつ、私に手を差し出した。「本」

 

「だから、待っ」

 

「早く読みたいんだよ」ユエホワはわがまま坊主みたいに言った。「お前の親父につかまったら、また話長くなるだろ」

 

「でも人間の文字って読めるの? ユエホワ」私はまだ本を出さずにいた。

 

「お前、俺を誰だと思ってんだ」ユエホワは手を差し出したまま首を振った。

 

「ユ」

 

「ユエホワ!」私の声を乗り越えて、父がとおくから叫んだ。

 

「あー」ユエホワは喉の奥でうなった。「ほら見ろ早くよこさねえからつかまっちまった」

 

「やあ、やっぱりここでなら会えるんだね。ポピーの言った通りだ」父は陽気に笑いながら下草を踏みしめ近づいてきた。

 

「ども」ユエホワはにこりともせず、祖母のときよりさらに軽く頭を下げた。「本、借ります」

 

「ああ、どうぞどうぞ」父は私のリュックを見下ろした。「三冊じゃ足りなかったかな? よければまたいつでも借りにおいでよ」

 

「はは」緑髪鬼魔はいやそうに笑ったあと「あ、そうだ」とまじめな顔になって父をまっすぐ見た。「ひとつ、ききたいことがあるんだけど」

 

「ほう」父は、おもちゃを与えられた子どものように目を大きく見開いた――とてもうれしそうに。「何かな?」

 

「なんか最近、姿の見えないやつにつきまとわれてるんだけど」ユエホワが周囲に視線を送りながら、相談した。「何か、そいつの正体に心当たりある?」

 

「姿の見えないやつ?」父はたちまち難しい顔をして顎に手を当てた。「姿が見えないのに、つきまとわれてるのがわかるのはどうして?」

 

「気配だけ感じるの」私が答えた。

 

「えっ」父はびっくりして私を見た。「ポピーにも?」

 

「うん」私はうなずいた。

 

「それはいけない」父は首をふった。「いつからだい?」

 

「半月ぐらい前から」私は思い出しながら伝えた。

 

「半月……ぼくが帰って来たあたりから?」

 

「ああ、そういえば、うん」私はまたうなずいた。

 

「ああ」父は額に手を当ててつらそうな顔をした。「どうしてすぐに言ってくれなかったんだ。何かあってからでは取り返しがつかないのに」

 

「ごめんなさい」私は肩をすくめた。「声だけだったから、きこえなくなったらすぐ忘れちゃってて」

 

「声だけだとすごく小さい生き物のような感じだった」ユエホワが思い出しながら説明した。「攻撃してくるわけでもなかったから、あんまり危険な感じがしなかったんだよな……俺もいろいろバタバタして忘れがちだったし」

 

「優しいんだね、君」父はなぜか目を細めてユエホワに笑いかけた。「ポピーのことをかばってくれて」

 

「え」

 

「え」私とユエホワは同時に驚きの声をあげて、首を強く振った。「違う」

 

「うーん、でも何だろう……人間の言葉を喋っていたんだよね?」

 

「そう」ユエホワは考えながらうなずいた。「鬼魔だとしたら、モケ類とかキュオリイ類とかが……何かのきっかけで人間の言葉をおぼえたのかもしれないけど」

 

「うーん」父は腕組みして地面をじっと見た。「じつはぼくも、旅の途中でちょこちょこモケ類やキュオリイ類たちと遭遇はしていたんだよね……でもそんな、あたらしく人間の言葉を覚えた鬼魔のうわさなんて、これっぽっちも聞かなかったなあ」

 

「え、パパって鬼魔語がわかるの?」私は眉をおもいきりもちあげてたずねた。

 

「まあ、日常会話ぐらいならね」父は苦笑しながら答えた。

 

「すごーい!」私は父への尊敬を新たにし、

 

「てか大半の鬼魔は日常会話しかしねえけどな」ユエホワは父に合わせて苦笑しながらコメントした。「はらへった、とか、ねむい、とか」

 

「うーん」父はますます苦笑しながら考えをめぐらせた。「まあそれに、姿を消す能力のある鬼魔というのも、ぼくの知識のなかでは思いつけないんだよなあ」

 

「俺もだ」ユエホワはこくりとうなずいた。「じゃあ結論としては、鬼魔じゃないってことだな」

 

「鬼魔である可能性は、かなり低いね」父もおなじ意見だった。

 

「でも」私はうなずきあう二人の間で口をとがらせた。「じゃあ、あれはなに?」

 

 父もユエホワも、腕組みして眉をしかめて無言のまま、うつむいた。



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14

 その後父とユエホワとは別れ、私は一人森の中を町のほうへ戻った。

 

 まだ森をぬけきらないところでふいに、小さなカードがくるくると回りながら私の頭のななめ上から降りてきた。

 

 ツィックル便だ。

 

 手にとってみると、ヨンベからのものだった。

 

『ポピー、今日時間ある?』

 

と書かれてある。

 

「うん、あるよ」私はカードに向かってそう言いふくめ、上に向かって投げ上げた。

 

 ツィックル便はたちまち姿を消す。

 

 ふたたび町へむけて歩いていると、やがてまたヨンベからのツィックル便が届いた。

 

『うちに来ない? 見せたいものがあるの』

 

「うん、行く! いまキューナン通りの近くにいるから十分ぐらいで行くね」私は返事を送ってからうきうきと走り出した。

 

 あと五十メートルぐらいで森から町へぬける地点で、私は手に持つ箒を前方へ差し出した。

 

「ツィックル」

 

 箒が一瞬にして、目覚める。

 

 ――としか言いようがないんだけど、箒が、ぴしっ、とする。

 

「フィックル、ウィッウィグ、ピクィー」

 

 言い終わるか終らないかぐらいに箒はものすごい速さで私の手から飛び出し、何メートルか先に飛んでいった。

 

 私は地面を蹴って、空中にジャンプしながら森を脱出し、そのまま箒に飛び乗った。

 

 たちまち箒はぎゅんっと上昇する。

 

「ヨンベ」私は命じた。

 

 箒は『かしこまりました』というように、きゅっと向きをさだめ、まっすぐに飛びはじめた。

 

 ――ああ、パパに、キャビッチ育成、技術、史……? の本も、選んでもらっとけばよかったな。

 

 飛びながら、そんなことを思った。

 

 まあ、押し付けがましくなるのもいけないし、ヨンベが読んでみたいっていえば、聞くことにしよう。

 

 

「ポピ――」

 

 ヨンベは家の庭、ヨンベ用のキャビッチスペースのそばに立って、私に向かい両手を高く伸ばして振ってくれた。

 

「やっほ――う」

 

 私も大きく返事をしながら、彼女のそばに降り立つ。

 

「ごめんね、急に呼び出して」ヨンベは目をぎゅっと閉じて謝る。

 

「ううん、ぜんぜん」私は笑う。

 

「あのね、出はじめたの」ヨンベは今度は目を大きく見開いて教えてくれた。

 

「キャビッチ!」

 

「ほんと?」私も目を大きく見開いた。

 

「うん! ほら」大きくうなずいたあとヨンベはしゃがみ、キャビッチ畑の土の中からちいさくのぞいている、淡い黄緑色の小さな芽を指差した。「よく見ないとわかんないんだけど、今朝はじめて見つけたの」

 

「うわあ」私もしゃがみこんで、そのちいさな芽をながめた。「すごい! かわいいー」

 

「うふふ」

 

「でもヨンベのおじさん前に、早くても来年だろうって、言ってたよね。すごい早いじゃん」私は驚きの声で言った。

 

「うん。あたしもびっくりした」ヨンベも驚きの顔で答える。「もしかして、こないだ使ったパパの肥料が効いたのかなあ」

 

「あの、ティンクミントみたいな香りがするっていってたやつ?」

 

「うん」

 

「すごーい」私は何度も「すごい」ばっかりくり返していた。

 

「ね、ポピー」ヨンベは真剣な顔になって言った。「お願いがあるの」

 

「えっ、なに?」私はどきっとした。やっぱり何か、参考になるような本をうちのパパに頼むことになるのかな、と一瞬思った。

 

 けど、それはちがった。

 

「このキャビッチがもっと大きくなって、魔法行使に使えるようになったら、最初にポピーに投げて欲しいの」ヨンベは胸の前に両手を握りこんで、ますます真剣に言った。「投げて、くれるかな?」

 

「うん」私は迷うことなく、大きくうなずいた。「もちろん! あたしに投げさせて」

 

「うん」ヨンベは顔中で笑った。「ありがとう」

 

「あたしこそ」私たちは約束のしるしに両手を握り合った。「ありがとう」

 

 それまでに、もっといっぱい練習しなきゃ。

 

 私はそう思った。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 それから何日経っただろう。

 

 特に大きなトラブルも事件もなく、平和に、平凡に普通の日々が続いていた。

 

 鬼魔もとくに出て来たりせず、大人たちがざわざわうわさ話とかするようなこともなく、私たち子どもは魔法学校でまじめに勉強をしていた。

 

 ただ一人、私の父だけはなんだかそわそわと落ち着きがなかった。

 

「何か、起こらないかなあ」

 

 ときどき父が、小声でそう言っているのを私だけが知っていた。

 

 確かに鬼魔の研究者としては、鬼魔が出て来て何か悪さをしてくれた方が、研究のしがいがあっていいんだろう。もしかしたら、その方が楽しい、と思っているのかも知れない。

 

 もし身近なところに悪い鬼魔が出て来ても、最後にはきっと母がキャビッチスローで退治するのだから、対して危険とは思っていないんだろう。

 

 そういえばユエホワも、どこかで大人しく本を読んでいるのか、もう何日も姿を見せることがなかった。

 

 そのため私は、主に森の樹木たちを使ってシルキワスの練習を重ねていた。

 

 

「あら、ツィックル便だわ」

 

 その日は休みだった。

 

 でもあいにくの雨で、私は家で母といっしょにプィプリプクッキーを作っていたところだった。

 

 その時キッチンの天井近く、私と母の頭上から、ひらひらとそのカードは回りながら落ちてきたのだ。

 

 母が手をのばしてつまみ取り、目の前に持ってきて読む。

 

「ユエホワはつれていきます」

 

 私はクッキー生地を少しずつちぎりとってはうすくたいらな円形にかたちづくっていってたんだけれど、母が言ったその声を聞いた瞬間、手が止まった。

 

 ユエホワ?

 

 母がその名を口にするのを聞いたのは、それがはじめてだった。

 

「はあ? なによこれ!」

 

……と思う間もなく、母はリューダダ類鬼魔のように唸って、手に持っていたツィックルカードをべしっとテーブルの上にたたきつけた。

 

「なんでうちにこんなのが届くの? あんなやつ、勝手にどこにでも連れていけばいいでしょうよ!」母は、思わずその名を口にしてしまったことがくやしいのか、ぷりぷり怒りまくった。

 

「どうしたんだい、フリージア?」

 

 父が驚いた顔をして、二階から下りてきた。

 

 その時には私もツィックルカードを手に取って見てみていた。

 

 確かに、そこにはその名が書かれてあった。

 

『ユエホワはつれていきます。 とってもすてきな、ながい』

 

 そこまでで、切れていた。

 

「とってもすてきな、ながい?」そのまま読む。

 

「もう捨てちゃいなさい、そんなもの!」母は私からカードを取り上げようとしたけれど、それよりも父が取り上げるほうが一瞬はやかった。

 

「どらどら、何が……えっ、ユエホワが?」父は目を丸くして叫んだ。「大変だ!」

 

「どこがよ」母は首を振った。「これで町が平和になるわ。はい、これでもうこの件はおしまい」

 

「フリージア」父は首を振った。「確かに彼のしたことは許しがたいことだった、だけど今の彼がまたそんな過ちをくり返すとは、ぼくには思えないんだ。彼のあの眼を、君もいちどよく見てみた方がいい」

 

「いいえ、見たくもないわ」母は両手を上から下へぶん、と振り下ろした。「あなたは鬼魔というものの存在そのものが好きだからそんなことが言えるんだわ。あたしは金輪際、あんなやつの姿を見たくもないし声を聞きたくもないし、気配を感じたくもないのよ」

 

「フリージア」父は哀しそうにまた首を振った。「今の彼はね、ポピーを苦しめるどころか、彼女のことをさりげなく見守って、あまつさえ守ろうとまでしてくれているんだよ」

 

「嘘だわ」母が否定し、

 

「嘘だよ」私も否定した。

 

「いや、嘘じゃあない」父も意地になっているようだった。「ぼくにはわかる。なにか伝わってくるものがあるんだ」



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15

「なんにしても、ユエホワが誘拐されてしまったってことか」父は手に持つツィックルカードをもういちど見下ろして、テーブルの上に置かれていた料理用のキャビッチを持ち上げながら、うなるようにつぶやいた。「どうにかしないと」

 

「へえ」私は少し目を丸く見開いたが、それしか言わなかった。

 

 ユエホワが誘拐されるって……誰に? 何のために? とは思うけど、どうせ大したことにはならないと思う。

 

 ユエホワも一応、鬼魔だし。

 

 なんか邪悪な力を使って、立ち向かえるだろうし。

 

 自分で何とかすればいいじゃん。

 

「何もする必要なんてないわ」母は腕組みをしてぷいっと横を向いたが、それ以上、ツィックルカードを取り上げようとはしないでいた。

 

 私もそうだけどたぶん母も、何をいっても父はけっきょくユエホワを助けに行くかなにかするんだろうと予想していたのだと思う。

 

 けれど父は、そういうことはしなかった。

 

 私を見て「ポピー」と呼んだのだ。

 

「え」私も父を見た。

 

「今、ちょっと雨が小止みになっている」父はそう続けた。

 

「ほんと?」私は窓の方へ首を向け「ほんとだ」と答えた。

 

「今のうちに、おばあちゃんの所へ行こう」父はまた続けた。

 

「え」私はもういちど父を見た。

 

「おばあちゃんに知らせないと」父は、ものすごくまじめな顔で、そう言った。

 

「なんで?」私と母の二人が同時に訊き返した。

 

「おばあちゃんはユエホワをたいそう気に入っていたからね」父は私に、ツィックルカードを手渡しながら深く何度もうなずいた。「きっと、ありったけの智恵を使って彼を助ける方法を考え出してくれるに違いない」

 

「母さんが?」母は思いっきり眉をしかめた。「あの性悪鬼魔を気に入ってるですって? 嘘よ」

 

「――それは本当」私は、母と違うことをいわなければならなかった。

 

「そう、だから今すぐ、おばあちゃんのところへ行って、事情を説明するんだ」父は真剣なまなざしでもういちど私にそう言った。

 

「――」私は、母を見た。

 

「行ってはいけません」と、母が言うはずだと思っていたからだ。

 

 けれど母は、両手で頬をおさえて、なんだかぼう然としていた。「嘘よ……母さんが? どうして……あんなに、あいつのしたことを話したのに」ぶつぶつとつぶやいている。

 

「ポピー」もういちど、父が私を呼んだ。「おばあちゃんのところへ、行こう」

 

「えー、と」私は母を見て、父を見て、天井を見た。

 

 なんというか、とりあえずここから立ち去ったほうがいいかな、とそのときは思ったのだ。

 

 それと、当然父もいっしょに、祖母の家に行ってくれるものだと思っていたからだ。

 

 けれど父はそうしなかった。

 

 私が箒を呼んで、くもり空の上に飛び上がって、森へ向かって飛んで、祖母の家に着くまで、父はまったく、ついてきてくれなかった。

 

「なんで?」私はひとりつぶやきながら、箒から地面へ降り立った。

 

 箒を、テラスの上がり口の横に立てかける。

 

「あらポピー」祖母は家の中からすぐに気づいてくれた。「いらっしゃい」

 

「おばあちゃん」私はとりあえず、父に言われた通り祖母に伝えることにした。「あのね、ユエホワが誘拐されたの」

 

「なんですって」祖母は、私がびっくりするぐらい大声で訊き返した。「ユエホワが?」

 

「うん、あの」私は父から手渡されたツィックルカードを祖母に手渡した。「さっき、これが来て」

 

 祖母はひったくるように私からそれを奪い取り、それを読んで「ああ、なんてこと」と、おでこを手で押さえて声を震わせた。「ユエホワが」

 

「ママは、何もしなくてもいいっていってたんだけどね」私は肩をすくめた。「パパが」

 

「助けに行きますよ、ポピー」祖母は私の言葉をさえぎり、大真面目な顔で言った。

 

「え?」私は目を丸く見開いて祖母を見上げた。「なんで?」

 

「なんでって、もうとにかく、今すぐ行きますよ。ツィックル!」祖母はぴしっとした声で箒を呼んだ。

 

 その声でやって来たのは祖母の箒だけでなく、私の箒も一緒に、テラスの上がり口の横から飛び上がり、やって来た――えっ、なんで私の箒が、私命令もしてないのに飛んで来るの?

 

 一瞬不審に思ったけど――まあ祖母の魔法の力をもってすれば、そういうこともカノウなんだろうな……と、あまり深く追求しないでおいた。

 

「さ、早く乗って」祖母も私にあまり深く考えさせる暇を与えなかった。「行くわよ! ユエホワ、今すぐに助けますからね!」

 

 祖母と、祖母の後に続いて私とは、ぎゅんっと急上昇し、大空を箒で駆け抜けはじめた。

 

 でも、どこに行くんだろう?

 

 ていうか、なんで行くんだろう?

 

「おばあちゃん」私は祖母の後ろから飛びながらきいた。「行き先、わかるの?」

 

「ポピー」祖母は飛びながら振り向いた。「あなたのパパは、優秀なキャビッチ使いだわ」

 

「え?」私は飛びながらきょとんとした。「なんで?」

 

「これよ」祖母は言って、飛びながら手を前にさし出し、何かをつまんで私に見せた。

 

 それは、私が手渡したツィックルカードだった。

 

「あなたのパパはこのカードに、マハドゥをかけてくれたわ」

 

「えっ」私は飛びながら、目を大きく見開いた。「カードに?」

 

「そう」祖母はまた手を前にさし出して、指をひらいた。

 

 ツィックルカードはそこからするりと飛び出し、祖母の箒のさらに前を、まるで私たちを案内するように先頭に立って、飛び始めた。

 

「え、カードが連れて行ってくれるの? マハドゥで?」私は飛びながら訊いた。

 

「そうよ。マーシュはこのカードに、送り主のもとへ帰るように命令をしたのよ」

 

「すっごい!」私は叫んだ。「パパ、そんなことができるんだ!」

 

「まあ、彼の魔力では弱すぎて目的地まで飛ばすことができないので私のところへ持って来させたのでしょうけれどね」祖母は前を向いたまま、ジャッカン小さな声でつけ足した。

 

「――ああ」私も小さな声で、返事した。

 

「ともかく、もう少しスピードを上げさせるわ。ついて来てね」祖母はもういちどうしろを振り向いてそう言ったかと思うと、ぎゅんっ、とかなり前へいっきに進んでいった。

 

「うわっ」私もあわてて、箒に「急げ!」と命じ、ついて行った。

 

 

 そして私たちは、ツィックルカードに導かれ、そのカードが元来た場所、カードの送り主のすみかに、たどり着いた。

 

 それは、私がまだいちども来たことのない、大きな森だった。

 

 たくさんの背の高い樹木が、空の上から見るとちょっと近づくのがためらわれるぐらい、しずかにどこまでもどこまでも立ち並んでいる、永遠につづくかと思わせるような森だ。

 

 ツィックルカードは立ち止まりもせず、まっすぐにその森の木々の中へ飛び込んでいった。

 

 祖母も、そして私も、遅れずにつづいて飛び込んだ。

 

 森の中は、暗くて風も音もなく、まるで巨大な生き物が私たちを、ごっくんと飲みこんでしまった感じだった。

 

 私たちはその生き物の体のなかを、そそり立つ木々にぶつからないよう右によけ左によけしながら、さらに飛びつづけた。

 

「ユエホワ!」とつぜん、祖母が飛びながら叫んだ。

 

「えっ」私は飛びながら首をかしげ、祖母の前の方をのぞきこんだ。

 

 そのときにはもう、目が森の暗さになれてきていたので、前方になにがあるかはよくわかった。

 

 

 ユエホワが、大きな木の幹に、細い木の蔓でぐるぐる巻きにされていた。



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16

「ああ、なんてことを」祖母は飛びながら首をふり、ユエホワに近づいた。

 

 ユエホワは大木の、地面から十メートル以上のぼったところにくくりつけられており、両手は彼の頭上にひろげられて、体とおなじように蔓で巻きつけられていた。

 

 頭はがっくりとうなだれていて、祖母の呼びかけにもまったく返事をしなかった。

 

「ユエホワ」祖母は箒で空中に浮かんだままなんども首をふりながらなんども呼び、「ああ、なんてことを」となんども繰り返した。

 

 私は、ユエホワが死んでいるのかと思ったけれど、それを口に出して言うことは、はばかられた。そんなことをしたら祖母が狂ったように悲鳴をあげるような気がしたからだ。

 

 それと同時に、キャビッチをぶつけてみたら、ユエホワが生きていれば目をさますのではないかとも思いついたけれど、やっぱりそれも口に出して言うことは、はばかられた。

 

「この木の蔓をなんとかしてはずさないといけないわ」祖母はユエホワをしばりつけている蔓を見ながら、大木のまわりを箒に乗ったままゆっくりと回った。「どうすればいいかしら」

 

「うーん」私も考えた。

 

 祖母も私もキャビッチスロワー、つまりキャビッチを投げて対象物にダメージをあたえるのがセンモンだ。

 

 だけど、今この蔓にキャビッチをぶつけたとしても、それをゆるめたりはずしたりすることには、たぶんなんの効果もないと思われた。

 

「やはり、これをした者にほどかせるしかないわね」祖母はやがて、ユエホワの正面に戻ってきてしずかにそう言った。

 

「え、それって、だれ?」私はたずねた。

 

「もちろん、ユエホワをこんなひどい目にあわせた極悪人よ」祖母は私にふり向き、きびしい表情で答えた。「さっきのツィックルカードを送ってきた、犯人」

 

「ああ……」私はうなずきながら、性悪鬼魔が極悪人につかまえられたということを頭でおさらいしていた。

 

 どっちが正しくてどっちが悪いのか、なんだか頭がこんがらかりそうだった。

 

「さあ、どこにかくれているの」とつぜん祖母が、森の木々に向かって大声をはりあげた。「私たちがお相手するわ。正々堂々と勝負なさい」

 

「え、ハンニン、近くにいるの?」私はきょろきょろとあたりを見まわしながら祖母にきいた。

 

 祖母は答えず、ゆっくりと木々を見上げ様子をうかがった。

 

 しばらくたったけれど、私たちの前にはだれも現れてこなかった。

 

「うう、ん……」

 

 そのかわり、木にしばりつけられていたユエホワが目をさましたようで小さな声をあげた。

 

「ユエホワ!」祖母は叫んでそのそばに行き、ユエホワの頬に手を当てた。「だいじょうぶ? どこも怪我はしていない?」

 

「ああ……」ユエホワは小さくうなずいたけれど、いつものずるそうな顔ではなく病気の人みたいにあおざめてうなだれていた。

 

「いったい、だれがこんなひどいことを」祖母はやはり首をふりながらそう言った。

 

 ユエホワも小さく首をふる。

 

「とにかくこの蔓をはずす方法をみつけるわ」祖母はあたりを見回して、それから私を見た。「ポピー」

 

「え」私は箒に乗ったまま目をまるくした。

 

「あなたなにか思いつかない? この蔓をはずすいい方法を」

 

「火で燃やしたらいいんじゃない?」私はさいしょに思いついたことをそのまま口にした。

 

「まあ、なんておそろしい」祖母は箒に乗ったまま両手で頬をおさえた。「そんなことしたら、ユエホワまでいっしょに燃えちゃうでしょう」

 

「あ、そうか」私は頭に手を当てて肩をすくめた。

 

「ぷっ」ユエホワが、小さくふき出す。

 

「え」

 

「あら」

 

 私と祖母がおどろいて彼を見ると、緑髪鬼魔はあいかわらず木にしばりつけられてうなだれていたけれど、小さく肩をふるわせていた。

 

「ばーか」小さく私をののしる。

 

「はあ?」私は眉をひそめた。「なによ、人がせっかく助けにきてやったのにばかって」

 

「これ、ポピー」祖母が私をたしなめる。

 

「でもおばあちゃん、こいつ」私は反論する。

 

「箒にさ」ユエホワがほんのすこしだけ顔を上げ、小さな声で言った。「この蔓くくりつけて……そのまま飛んではずしてくれたらいい」

 

「あ」私と祖母は目を見合わせ、

 

「まあ、すばらしいわ! 本当に賢いのね、あなたって子は」祖母は両手を打ち鳴らして感動し、

 

「えー、めんどくさい」私はいやそうに言った。

 

「ポピー」祖母は私の不平を聞くことなく、ユエホワをくくりつけている蔓を指さした。「あなたはユエホワの腕にまかれている蔓をはずしておあげなさい。私は体のほうをはずすわ」

 

 私は口をとがらせながら、ユエホワの腕のまわりをゆっくり飛んで、蔓のはしっこをさがした。

 

 やがて、やっとそれはそれは見つかったけれど、そのはしっこは巻きついている蔓のなかにぎゅうっと押しこまれていて、私の力でそこから引っぱり出すのはトウテイフカノウに思われた。

 

「あー、おばあちゃん、この蔓のはしっこ引っぱり出せないよ。どうする?」私は祖母にうったえた。

 

「こうするのよ」祖母は私に向かってうなずきかけ、それから「ツィックル」と箒

 

を呼び、右手の指をパチンと弾き鳴らした。

 

 すると祖母の乗っている箒がすうっと蔓に近づき、こつん、と柄の先を蔓にくっつけた。

 

 

 きゅるきゅるきゅる

 

 きしきしきし

 

 

 そのとたん、蔓が音をたてはじめたのだ。

 

 私はびっくりして祖母のとなりに移動した。

 

 木の蔓はしばらくきゅるきゅるいっていたが、その後ゆっくりと、ぶるぶるふるえながらそのはしっこが、まるで見えないなにかに引きずり出されるように、巻きついたところから持ちあげられ姿をみせた。

 

「うわ」私は目を丸くしてさけんだ。

 

「ふう」祖母は大きく息をついた。「使いなれないからけっこう疲れるわ。やっぱり後は、こうね」その言葉が終るか終わらない内に、祖母のツィックル箒は姿をあらわした蔓のはしっこに柄の先をこつんと当てた。

 

「ポピー、下がっていて」祖母は言った。「危ないから」

 

「えっ、はい」私はあわてて箒で飛び下がった。

 

 すると祖母は、ものすごいスピードで大木のまわりをぐるぐると飛びはじめた――箒の先に蔓をくっつけたままで。

 

 みるみる蔓は巻きとられてゆき、ユエホワの体が少しずつ下にさがってきはじめた。

 

「ポピー」祖母が飛ぶのをいったん止めてまた言った。「ユエホワを、箒に乗せてあげて」

 

「え、私の箒に?」私はびっくりした。

 

 それはそうだ。

 

 そもそもユエホワは自分で空を飛べるから、もちろん私の箒に乗せてやることなんてこれまでいちどもなかったのだ。

 

 なので、祖母にそう言われたことは私にとって、すごく妙なことに思えた。

 

「そうよ。腕のほうの蔓をはずすあいだ、宙ぶらりんにならないようユエホワの体をささえていてあげて」

 

「――はい」私は警戒しながらムートゥー類鬼魔に近づいた。

 

 まあ、性悪鬼魔といえども今の姿では悪さをすることもできないだろうし。

 

 いざとなったら祖母もいるわけだし。

 

 私は自分にそう言いきかせて、ユエホワのひざの裏へ箒をさしこむようにもってきて、しばりつけられた形のまま箒にすわらせてやった。

 

「――がと」ユエホワが、ものすごく小さくそう言った。

 

「え?」よく聞こえなかったので私はきき返したが、もうそれきりユエホワはだまったままでいた。

 

 祖母はというと、ふたたびぐるぐるとすごいスピードで木のまわり――つまり箒に乗っている私たちのまわりを飛びはじめ、ユエホワの体の蔓の本数はみるみるへってゆき、ついにすべての蔓がとりのぞかれた。



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17

 祖母は次に、ユエホワの頭の少し右上あたり、私が見つけた蔓のはしっこの近くへ浮き上がり、もう一度

 

「ツィックル」

 

と指をはじいて、箒にそれを引っぱり出させた。

 

 その後はさっきと同じく、またぐるぐるとまわりを飛びはじめる。

 

「これって」私のうしろにすわっているユエホワが、小さな声で言う。

 

「え」ふり向くと緑髪鬼魔は、すわることができて楽になったからか、顔を持ち上げてくるくるまわる祖母を見上げていた。

 

「マハドゥ?」けれど声はあいかわらず小さく、元気がない。

 

 なので、飛んでいる祖母には届かないようだった。

 

「おばあちゃん、これマハドゥなのかって、ユエホワがいってるよ」私は大きな声で祖母に呼びかけた。

 

「え?」くるくる回っていた祖母はぴたりと止まり、「ああ、これね。そう、マハドゥの一種よ、だけど」と私たちを見下ろして答えた。

 

 よく目が回らないなあ、と私は感心した。

 

「私自身が行使しているものではなくて、ツィックル箒が行使するマハドゥなの。ツィッカマハドゥルというものよ」

 

「ツィックルが?」私はびっくりしてきき返した。

 

「そう」祖母はうなずいた。「さっきの、蔓のはしっこを引っぱり出すのも、今こうして蔓を柄の先にくっつけているのも、ツィックルがこの蔓、この植物に対して行使するマハドゥなの。ツィックルという木は、他の植物に対してマハドゥを行使することができる、特別で唯一の木なのよ」

 

「ええー、そうなんだ」私は目をまん丸くし、

 

「へえ」うしろのユエホワも、小さな声でおどろいたように言った。

 

「でもね、ツィックルにそれをさせるためには箒の持ち主である私の魔力と、私と箒との間の信頼関係の強さとが重要になるの」祖母の説明はつづいた。「さいわい、私の愛しい箒は今、すごく役に立ってくれているわ。めったに使う魔法ではないけれど、私も改めて箒に感謝するばかりよ」目を細めて笑う。

 

「そうなんだ」私は感動をおぼえ、

 

「さすがだな」ユエホワも小さい声で祖母をたたえたあと「お前はどうなんだよ」とつけたす。

 

 私は聞こえなかったふりをした。

 

 祖母はそれからまたぐるぐる回りを再開し、ほどなくムートゥー類鬼魔の腕をしばっていた蔓もすべてはずされ、やっとのことでユエホワは自由の身になった。

 

 ふう、とため息をつきながら、緑髪鬼魔は自分の腕をかわりばんこにさすり、調子をたしかめていた。

 

「よし」そしてそう言ったかと思うと彼は、すわっていた私の箒からぴょんと飛び下りた。

 

「あっ」私と祖母は同時に声をあげたが、ユエホワはすぐに本来もっている翼を大きく広げ、浮き上がってきた。

 

「まあユエホワ、なんてすばらしい姿なの」祖母はまず最初に感動し、それから「ああでも、だいじょうぶなの? 痛くはないの?」と心配した。

 

「だいじょうぶです」ユエホワはうなずいたかと思うと翼をばさりとはためかせ、木々の梢の方へ飛び上がっていった。「どうも、ありがと」

 

 けれどその次の瞬間、彼はシッソクしてまた落ちてきた。

 

「危ない!」祖母が叫んでツィックルを動かし、ユエホワの体を受け止める。「無理はしないで。このまま箒で送るわ」

 

「あ……」ユエホワはばつが悪そうに肩をすくめ、翼をひっこめてヒトの腕の姿に戻した。「すみません」

 

 私はその一部始終を見て、指さして笑ったりしないようにがんばっていた。そんなことをしたら祖母にどれだけ怒られるかと思うと、目の下をぴくぴくふるわせながら堪えることに全神経を集中するしかなかったのだ。

 

「なに笑いをこらえてるんだよ」けれどユエホワにはイチモクリョウゼンだったようだ。「俺はもう三日ぐらい何も食べてねえんだぞ」むすっとした顔をして小さな声で文句を言う。

 

「まあ」祖母が大きくなんども首を振る。「なんてこと」

 

「へえ」私は、さすがに少しかわいそうな気がした。

 

「それじゃ一刻もはやくうちへ帰って、おいしいものをたくさんごちそうしなければならないわ。戻りますよ、ポピー」そう言ったかと思うと祖母は、箒のうしろにユエホワを乗せたままぎゅんっと森の上へ向かって飛びはじめた。

 

「あっ、待って」私もあわてて箒の柄を上に向けた。

 

 

「ユエホワソイティ」

 

 

 その時、風がささやくように、そんな声が聞こえた気がした。

 

「えっ?」私は思わずふり向いたけれど、次の瞬間私の箒は私の命令にしたがってぎゅんっと上昇していき、声の主の姿をたしかめることはできなかった。

 

 けれど、もちろんすぐにわかった。

 

 あの、見えない気配だけの人(かどうか)だ。

 

 

 飛ばして飛ばして、やっとのことで祖母の箒に追いついたとき、祖母のうしろに横すわりに乗っているユエホワが、ぐあいの悪そうな顔でちらりと私を見て、小さくうなずいた。

 

 私も、飛びながらうなずいた。

 

 ――あの声だけの人が、やったんだ……

 

 姿も見えない、声もかすかにしか聞こえない、とても極悪人とは思えない相手とは思ったけれど、人は見かけによらないとはこういうことを言うんだ。

 

 ……まあ、見かけてもいないけれど。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 帰ったあと祖母は大急ぎで、もちろん魔法も総動員で、ユエホワのためにおいしい料理をたくさん用意した。

 

 それを待つ間、私とユエホワはいつものようにテラスで温かいお茶をいただいていた。

 

 祖母は私に手伝うようにはいわなかった。急ぐためだ。

 

 私に指示を出すひまが惜しいというわけだ。

 

 なので私もゆっくりのんびり、ごはんができるのを待っていた。

 

「姿は見たの?」そのかわりではないけれど、ユエホワに事情をきく。「あの“声”の人」

 

「――」ユエホワは小さく首を横にふった。「あいつの姿は、見てねえ」

 

「じゃあ、誰がしばったの? ユエホワのこと」

 

「それは」ユエホワは思い出すように視線を少しななめ下に向けた。「人間、だったと思う」

 

「だったと思うって?」

 

「なんか、頭からマントすっぽりかぶってたから、顔がよく見えなかったんだけど」ユエホワはそこまで説明してからお茶をすすった。「姿形は、人間っぽかった」

 

「何人?」私はきいた。

 

「ふたりいた」ユエホワはゆっくりとまばたきした。「大柄な、男のようだった」

 

「声は聞かなかったの?」

 

「あの小さな声は、最初の一瞬だけ聞こえた」

 

「最初の一瞬?」

 

「俺が森の木の上で本読んでたらとつぜん『つれていくね』とか言ってきた」

 

「――とつぜん?」私は、ちょっと恐くなった。「姿見えないまま?」

 

 ユエホワは黙ってうなずいた。

 

「テイコウしなかったの?」私はきいてからお茶を飲んだ。

 

「できなかった」ユエホワはテーブルの上でこぶしを握りしめて、くやしそうに言った。「力が、まったく使えなくなって」

 

「……」私はその場面を想像しようとした。「え、マハドゥかけられたとか?」

 

 ユエホワはだまって首を横に振った。「あれよりもっと、たちの悪い感じがした」

 

「たちが悪い?」私はぎゅっと眉をしかめた。「なんで?」

 

「マハドゥのときに使えるはずの回避方法が、きかなかったんだ」ユエホワはうつむきながら私を見た。「なんていうか、ほんとに全身から力を抜き取られるような、さ」

 

「うえ」私は気味が悪くなり、ついユエホワから体を遠ざけた。「なにそれ」

 

 ユエホワは黙って首を横にふった。「お前のばあちゃんなら知ってるかな」



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18

「なにそれ」祖母も知らないようだった。

 

「そっか……」私はユエホワを見て、謎がとけないことにため息をついた。

 

「んー……」ユエホワも首をかしげる。

 

「何にしても、卑怯で悪質なことに変わりはないわ。探し出して懲らしめないとね」祖母は肩をいからせて言い、それからテーブルの上にずらりと並べたスープやグリルチキン、柔らかく煮込んだビーフ、フルーツサラダなどなどに手を差し伸べ「そしてその前に、さあ、たんとお上がりなさいな」とユエホワにすすめた。

 

「いただきます」ユエホワはとくに遠慮もせず、ぱくぱく食べはじめた。

 

 私も食べはじめたけれど、食べながらも引きつづき、あの声の主について考えてしまうのだった。

 

 ――パパなら、なにかわかるかな……

 

 そう思った。

 

 父も、姿の見えない鬼魔についての知識はないと自分で言っていたけれど、ユエホワにかけられた不思議な力(なのか)のことは、もしかしたら知っているかもしれない。

 

 そのためには、ユエホワから父に、どんな目にあったのかくわしく話してもらう必要がある。

 

 そのためには、ユエホワを父のいる我が家に、連れて行く必要がある。

 

「うえー」食べながら私は思わず、いやそうな顔をしてしまった。

 

「あらっ」祖母が目を丸くする。「何か変な味がした? まあ、辛すぎたかしら?」冷たいお水の入ったグラスを私に差し出す。

 

「あっ違うの、ごめんなさい」私は首をなんども振った。「ぜんぶ、おいしいよ」あわてて笑顔に戻す。

 

 ふととなりを見ると、ユエホワがグリルチキンをぱくぱく食べながら目を細めて私をじっと見ていた。

 

「なんでふくろう型鬼魔のくせに鶏肉食べてるの?」私は文句を言った。「共食いじゃん」

 

「あのな」ユエホワは目を細めたまま妙にやさしい声で説明しはじめた。「ふくろう“型”鬼魔っていうだけで、俺は、ふくろうじゃありませんから」

 

「あ、そうか」私は言いくるめられて口をとがらせ、水を飲んだ。

 

「まあ、そうだったのね」祖母が胸をなでおろした。「今のポピーの言葉で、私も『あっ』と思ってしまったけれど、よかったわ」ほほほ、と笑う。

 

「あはは」ユエホワもなぜか笑って見せる。「ぜんぶ、おいしいです」

 

「まあ、よかったわ。たくさん食べてね」祖母はさらによろこぶ。

 

 私はそっと肩をすくめて食事を再開した。

 

 それにしても、どうしよう――母の目を盗んで、父とユエホワを会わせる方法は?

 

 

 食後、祖母はユエホワに「しばらくうちに居ればいい」とすすめた。

 

 そうしたら、ふたたび誘拐犯がねらってきたとしても、守れるから、と。

 

 けれどユエホワは、うなずかなかった。

 

「相手は鬼魔ではないようだし、キャビッチが効くのかどうかわからないから」逆に祖母を危険な目にあわせてしまう、というのだ。

 

 私は、なるほどと思いうなずいた。

 

 祖母ときたら、目に涙までうかべて感激していた。

 

「なんて優しい子なの」と。

 

 もう、ユエホワが「あ」と言っても祖母はなんとかしてほめる気なんだろう。

 

 でも私は、その答えがすべてではないことをちゃんと知っていた。

 

 ユエホワは、祖母が苦手だからだ。

 

 ずっといっしょに生活するなんて、まあ耐えられないだろう。

 

 私は口を手でおさえて、笑いをかくした。

 

「けれど、これからどうするの?」祖母が眉を寄せて心から心配そうにきく。

 

「ひとまずは、鬼魔界に帰っておとなしくしときます」ユエホワは少しうつむいて答えた。

 

「まあ」祖母は頬を手でおさえた。「もう、会えなくなってしまうの?」

 

「ポピーが、犯人をつきとめてくれると言ってましたから」ユエホワはそう言って、にっこり笑った。

 

「えっ」私は笑いを完全に消して口から手を離し、鬼魔を見た。

 

「ありがとう、ポピー」コウカツ鬼魔は妙にやさしく微笑みながら、私に言った。

 

「まあ、そうなのね」祖母はユエホワの話をかんたんに信じ込んだ。「しっかり助けておあげなさい」真剣な顔で私に言う。

 

 私は、違う、と言えずに、かたまるしかなかった。

 

「それじゃあ、ごちそうさまでした」緑髪鬼魔は祖母に向かいぺこりとおじぎをして、テラスから下りた。

 

「ああ、じゃあポピー、とちゅうまで箒で送っていっておあげなさい。気をつけてね」祖母はすばやく私に指示をし、私の箒をまた私の手もとに運んできた。

 

「はーい」私は返事をしながら、ああ、鬼魔界まで送っていっておあげなさい、じゃなくてよかった……と思っていた。

 

 私たちは祖母に手を振ったあと、キャビッチ畑のある方へ歩いていった。

 

「箒、乗る?」いちおう、私はユエホワにきいた。

 

「いや」予想どおり、彼は首を横にふった。

 

 私たちは畑のそばを通りすぎて森へ向かい、そのままてくてくと歩いた。

 

「お前の親父なら、なにか知ってるかな」ユエホワは歩きながらふとそう言った。

 

「――力が抜けたこと?」私はきき返した。「マハドゥよりたちが悪いやつ?」

 

「ああ」ユエホワは歩きながら考え「でも、いますぐ鬼魔界に戻りたいし……ききにいってるひまねえかな」ぶつぶつとつぶやく。

 

 そのとき、ひらひらひら、とツィックル便が私の上からおりてきた。

 

 私はそれをつかまえて読み、「あ、パパあたしを迎えにきてくれるって」とユエホワに伝えた。父からのものだったのだ。

 

「迎えに?」ユエホワは不思議そうにきく。「箒もってんのに?」

 

「うん」私はもういちどツィックルカードを見下ろした。「やっぱ心配なんじゃないの? ユエホワのこともかなり心配してたし」

 

「ふうん」ユエホワは口をとがらせてうなずいたが「そういえばさ」と顔を上げた。「俺があそこにつかまってるの、なんでわかったんだ?」

 

「ああ」私は手のツィックルカードをひらひらと振った。「ツィックル便が来たの。犯人から」

 

「なんで?」ユエホワはおどろいて眉をしかめた。「なんて書いてあったんだ?」

 

「『ユエホワはつれていきます』って」私は首をかしげながら思い出した。「あ、それから『とってもすてきな、ながい』っても書いてあった」

 

「とってもすてきな?」ユエホワは眉をしかめたままくり返した。「ながい……」斜め下を向き考えていたが、ふとその顔が、いやな味のものを食べたときのような顔に変わった。

 

「なんのことかわかる?」きいてみる。

 

「いや」緑髪鬼魔は首を大きく一回横にふった。「さっぱり」

 

「なんだろ、とってもすてきな、ながい」私はユエホワをじっと観察した。「髪?」緑色の長い髪を見て言う。

 

「いや」ユエホワはまた一回首を横にふった。「まあいいよどうでも」

 

「でもなんか手がかりになるかもよ?」私はくいさがった。

 

 なんか知ってるな、こいつ。

 

 そう思ったからだ。

 

「なんだろなー。とってもすてきな、ながい。手足? 指? 顔?」

 

「ちがうって」ユエホワは明らかにいやがっていた。「てかいいよほんとにもう」

 

「――」私は目を細めてムートゥー類の様子をうかがった。

 

 とってもすてきな、はまあさておいて、長いものって、何だろう?

 

 しかも、ユエホワがいやがるような……嫌うような?

 

 蛇? 海竜の首?

 

 キャビッチ……は、長くはないしなあ。



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19

「じゃあ俺、行くわ」ユエホワは最後のあいさつをした。「お前も一応、気をつけろよ」

 

「うん」私はうなずいた。「鬼魔界でおとなしくしとくの?」確認する。

 

「ああ、ていうか」ユエホワはばさりと翼をはためかせた。「仲間にちょっと、相談してみる。犯人に心当たりがないか、あと探すの手伝ってもら」そこでなぜか言葉を切り、私の方へふり向く。

 

 私はまばたきするよりも早く、返事の準備をした。

 

「そうだ、おま」

 

「行かないよ」はっきりと断る。「鬼魔界へなんか」

 

 ユエホワは絵にかいたようなふくれっ面をした。「なんでだよ」

 

「あたりまえじゃん」私は目をむいて言いつのった。「またニイ類とかダガー類とかに頼んで回らせるんでしょ、誰がやるもんですか、それにその前になんか鬼魔の王様のところへ行かなきゃいけないんでしょ、そんでへたしたら誰かと闘わなきゃいけなくなるんでしょ」こういうことぜんぶ、前に泡粒界へ行った時にやらされたのだ。この詐欺師鬼魔にたぶらかされて。

 

 あのころの私は、ばかだった。

 

 だけど今は、ちがう。

 

「ぜったいに、行かないから」

 

「じゃあさ」ユエホワは、けろっとして言った。「お前の父ちゃんは?」

 

「――あえ?」私は勢いをソガれて、ぱちぱちとまばたきをくり返すことになった。「パパ?」

 

「もしかして喜ぶんじゃねえか」

 

「ぜったい、だめ!」私は叫んだ。

 

 叫んでから、母が同じせりふを父にむかって叫んでいたことを思い出した。

 

「大丈夫だよ、俺がちゃんとそばにいて危険な目にあわせないから」ユエホワは、いけしゃあしゃあとのたまった。

 

「二度とそんなことを言ったら」私は背中に手を回したけれど、あっ、と思った。

 

 今日は、キャビッチをつめこんだリュックを、持ってきていないのだ。

 

「う――」リューダダ類のように、うなる。

 

「ポピ――」その時遠くから、母の呼ぶ声が聞えてきた。

 

「ママ」私ははっとしてふり向いた。父は、母の箒に乗って二人いっしょにやって来たのだ。「ここだよ――」大声で呼び返す。

 

「やべっ」ユエホワはあわてて空へ飛び上がった。「まあきいといてくれよ、じゃな」もう一回早口で最後のあいさつをして、今度は本当に飛んでいった。

 

「ああ、あそこにいた」父の声が聞えた。

 

 母の箒は木々のあいだを抜け、父は母の後ろにまたがって、二人いっしょに私のとなりに降りてきた。「遅くなってごめん」

 

「もう、どうしておばあちゃんの家で待っていなかったの?」母はむずかしい顔をしてきいた。「キャビッチも持っていないのに」

 

「あ、えと」私は返事に困った。まさかユエホワを見送りに来たなんて言えない。

 

「まあ、そんなに離れてないし、大丈夫だったからよかったよ」父はにこにこして何度もうなずいた。たぶんわかってくれているんだろう、父の方は。

 

 でも私は、父にユエホワからの伝言をつたえるつもりはいっさいなかった。

 

 鬼魔界なんて、だれが行くもんですか。

 

 父は、――たしかに父は、よろこんで行く、かも知れないけど。

 

 だれが、行かせるもんですか。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 その後私は、父と母といっしょに聖堂へ行くことになった。

 

 私だけじゃなく、ほかの子どもたち――子どもだけでなく大人も、姿の見えない声だけ、気配だけのクセモノに注意しなければならないと、聖堂から住民の皆に伝えてもらうためだ。

 

 もうすっかり夜になってしまっていたんだけど、ルドルフ祭司さまはこころよく私たちを迎え入れてくださった。

 

「森の中で」祭司さまは、私たちの話を聞いたあと、おだやかな声でしずかにそうくり返した。

 

「はい」事情を説明した私は、うなずいた。「小さな声が」

 

「ふむ」祭司さまは、瞳をとじて少しのあいだ考えていた。「考えられるとすれば」

 

「はい」私たちは、その答えを心待ちにした。

 

「妖精、と呼ばれる存在かも知れんな」祭司さまはそう言った。

 

「妖精?」私たち親子は声をそろえて聞き返した。

 

「うむ」ルドルフ祭司さまはうなずいた。「ごく小さな、よくよく注意して見ないとわからないほど小さな、森の生き物じゃ」

 

「まあ、すごい」母が頬をおさえて言った。「本当にいるんですね、妖精って」

 

「昔は、よく出会えたものじゃったが」祭司さまは昔をなつかしむように、窓の外を見た。「ここ何年……いや、何十年ものあいだ、すっかり姿を消してしまっておる」

 

「ええ、私もいちども見たことはありません」母は首をふった。「母から話には聞いていましたけれど」

 

「そうだね、ぼくも見たことがない」父も言った。「そうか、妖精か……気づかなかったな」

 

「へえー」私などは、そんな存在がいることじたい、今はじめて知ったところだった。「森に住んでいるんですか?」

 

「昔は、森に住んでいた」祭司さまは過去形で言った。「じゃが、いつしか誰も、妖精たちに会うことがなくなっていったのじゃ」

 

「でも妖精って、人をさらったりするんですか?」私は質問した。

 

 まあ、人ではないけど。

 

「うーむ」ルドルフ祭司さまは瞳を閉じて考えた。「人に対してそのような仕打ちをするものではないはずだが……して、だれがさらわれてしまったというのかね?」

 

「あ」私は言葉につまった。

 

「あの性悪鬼魔です」母がかわりに答えた。「あの緑色の髪と赤い目の」

 

「ユエホワという子です」父も説明した。

 

「おお」祭司さまは目を見開いた。「あのムートゥー類の」

 

「ああ、祭司さまもご存知でしたか」父の顔がぱっと明るくなった。「彼は非常に賢い鬼魔だとぼくは思います」

 

「うむ」なんと祭司さまはうなずいた。「あの子は賢い子じゃ」

 

「祭司さま」母が、なんども首を振った。「どうか思い出してください、あいつがうちの娘にかつてどんな仕打ちをしたのかを」

 

「うむ」祭司さまはまたうなずいた。「あのときあの子は、その賢さを間違った方向へ向けてしまったのじゃ」

 

「祭司さま」母はきびしい顔で言った。「私は決して、あいつを許すことはできません。永久に」

 

「フリージア」祭司さまは、おだやかな声で母を呼んだ。「儂もそなたに、あの鬼魔をゆるせとは、言わぬ」

 

「でも」母はまた首をふった。「じゃあ、どうして」

 

「あの時、ポピーは死なずにすんだ」ルドルフ祭司さまは、かつて起きたあのいまわしい事件のことを思い出させた。「それは、どうしてだったかね」

 

「――それは」母は、とまどいながらも答えた。「私があいつに、キャビッチをぶつけたからです」

 

 父がとなりで、息をのんだ。

 

「そして今」祭司さまはうなずきながらつづけた。「ユエホワは、ポピーを手にかけようとはしていない。それは、どうしてだと思うかね」

 

「それは」母は私を見た。

 

 私も母を見た。

 

 そういわれてみれば、確かにそうだ。

 

 ユエホワはあの一件以来、私の前にちょこちょこ姿は見せるけれど、決して私に攻撃をしかけてくることはない――私の方も、今となってはユエホワが私の命を狙ってくるなんてことをまったく、考えたり警戒したり、していない。

 

 それは、どうして?

 

「それは、そんなことをしたらまた私に、こんどこそ仕留められてしまうと知っているからでしょう」母はきっぱりと言った。

 

「そう」祭司さまはうなずいた。「そして、ポピーにも」

 

「え?」母も父も、そして私も目を丸くして祭司さまを見た。

 

「そんなことをすれば今度は、ユエホワはポピーのキャビッチを喰らって命尽きることになるだろう。彼はそれを知っているのじゃよ」



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20

 母は大きくうなずき、父は少しおどろいたように私を見た。

 

 私自身は父以上におどろいていた。

 

 たしかにしょっちゅうユエホワに向けてキャビッチを投げつけているけれど、自分が本当にあのムートゥー類をやっつけられるとは、思ってなかったからだ。

 

「彼――ユエホワは、ポピーのキャビッチ使いとしての強さを、今となっては心底認めている。またポピーのまわりにいる、ポピーを守る者たちの強さも同様に。だからこそ、彼はその者たち、つまり人間たちのことを、もっとよく知ろうと努めている」

 

「ええっ」私はさらにおどろいて大声を出し、

 

「ああ」父は感動してため息まじりの声を出し、

 

「まあ」母は憎たらしげにうなり声を出した。

 

「ほほほ」祭司さまは面白そうに肩をゆすって笑う。「もちろん儂は、彼がどれほど勉強を積んで人間への対策を打ちたてたとしても、人間が負けるなどとはこれっぽっちも思ってはおらん」

 

「当然です」母はめらめらと燃える炎のように体をゆらした。

 

「さればこそ、みずから人間という強敵に近づき、あまつさえ言葉や物腰、考え方にいたるまで人間のことについて学ぼうとするユエホワの姿勢に、深い感銘と、喜んで迎え入れたいという気持ちになるのじゃ」

 

「――」母は、黙りこくってしまった。

 

 父は、祭司さまのお話がつづく間中、何回も何回も、大きくうなずきつづけていた。

 

「これも、神がそうさせていることなのかも知れん」

 

「おっしゃるとおりです」父がしゅわしゅわとわき出る泉の水のように体を舞い上がらせた。「私は、ああ、祭司さま、おお、私も」興奮のあまり何をいっているのかよくわからなかった。

 

「それで、森の中にいる妖精はどうしてユエホワをさらっていったんですか?」

 

と、私はききたかったけどなんとなくはばかられた。

 

 すごいな。

 

 そう、ぼんやりと思っていたのだ。

 

 これで、ユエホワの味方(というのか)が、三人になった。

 

 まあ祭司さまは確かに、今にして思えば、初めて出会ったときからユエホワに対して、厳しいけれどどこか親しみをこめて接していたような気がする。

 

 それはつまり、もし鬼魔が人間に向かって牙をむいてきたとしても、人間にとっては恐れるようなことじゃないと、自信をもっているからなんだ。

 

 そうか、祖母も、自分に対してユエホワや他の鬼魔たちが攻撃をしかけてきても絶対に負けたりしないから、あんなにユエホワをかわいがったり、ほめちぎったりできるのかも知れない。

 

 父は――闘いになってしまうと危ないかも知れないけれど、鬼魔語まで喋れるぐらい鬼魔についてくわしく知っているという自信が、やっぱりユエホワに対するヨユウにつながっているのかも。

 

 じゃあ、母と私は?

 

 ユエホワを――恐れている?

 

 ううん、そんなことはない。

 

 じゃあ、攻撃されたら勝つ自信がある?

 

 うん、母は絶対そう思ってるだろうな。

 

 私はどうだ?

 

 またあの性悪鬼魔に首をしめられたとしたら、どうする?

 

 そう……まずはリューイの呪文で巨大化させたキャビッチをあいつの顔面にぶつけてたじろがせ、つづけてストレート、いやシルキワスで意表をついて後ろから攻撃し、さいごの仕上げにあごの下からスプーン投げでとどめをさしてやろうか。

 

「すてきだわ」母が叫んだ。

 

 私ははっと我に返った。

 

「ははは」父がすごく困ったときのような顔で笑っている。

 

「うむ。見事な作戦じゃ、ポピー」祭司さまがほめてくださった。

 

「えっ」私は自分の口をおさえた。「あたし、今なんかしゃべってた?」

 

「ええ、あの極悪ムートゥー類をねじ伏せる手順をみごとに描いてくれていたわ。もう恐いものなしね。ああポピー、ママはうれしいわ、こんなにたくましく成長してくれて」

 

「あ」私は顔が赤くなるのを感じた。「あはは」とりあえず笑う。

 

「でも、だからこそポピーは、天敵だと言いながらもユエホワとあんなに仲良くしていられるんだね」父がそう言って、目を細め微笑む。

 

「いや」私は首を大きく横に振った。「仲良くなんかないよ」

 

「でも今回君はみごとに彼を救い出したじゃないか」父は両手を広げてみせた。「友達でなければそんなことはできないさ」

 

「いや、あれは、おば」

 

「すばらしい」祭司さままでが声をふるわせて大きく感動した。「かの鬼魔と知り合えたおかげで、こんなにもすばらしい人間の成長というものが広がっておる。神の守護の輝きがここにある」

 

「わかりました、で、犯人の妖精は今どこに?」と話をひっくり返して元のところに引きずり戻したかったけど、やっぱりそれもはばかられた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 家に帰り、遅めのディナーのあと、私は父に、妖精についての本を持っているかたずねた。

 

 父は、いつものようにすぐに「あるとも!」とは言わず、「うーん」と天井を見て考え込み「そうたくさんはないけれど、確かどこかには、あったはずだよ。これから捜してみるかい?」と言った。

 

「もう遅いわ。明日学校があるんだから、またの機会になさいな」母が反対した。

 

「うん、でも」私はがんばって意見を言った。「妖精のことが少しでもわかった方が、安心して眠れるような気がするの」

 

「うん、うん」父は理解してくれて何度もうなずいた。

 

「仕方ないわね」母はふうっとため息をついたけれど「あんまり遅くまでかからないようにね」と少しだけゆずってくれた。

 

 そして私と父は、地下の書庫へ下りていった。

 

「あのねパパ」扉が閉まると同時に話し出す。「ユエホワから聞いたんだけど、妖精はなにか、たちの悪い力を使うんだって」

 

「たちの悪い力?」父は目を丸くした。「どんな?」

 

「ユエホワを、力が入らないようにさせて、動けなくさせて、それでさらっていったんだって」

 

「動けなく、させて――?」父は口もとに拳をあてて考えこみはじめた。

 

「マハドゥのカイヒ方法がきかなくて、もっとたちの悪い感じがしたって言ってた」

 

「ふうむ」父は腕組みした。「さすがユエホワだな。ほんの二回かそこら見ただけで、もう回避方法を探り当てるなんて」

 

「でも、きかなかったって」私は口をとがらせた。

 

「ううん……まあ確かに、マハドゥの行使には基本的にキャビッチを使うから、姿の見えない妖精が気軽に扱えるとも思えないしね」

 

「じゃあ、魔法じゃないってこと?」

 

「ぼくたちが普通そう呼ぶ力とは、別のものなのかも知れないな」父はシンチョウに答えた。「そういうのが、書いてあったっけかなあ」自信なさそうにつぶやきながら、本の並ぶ棚を見上げ書庫の奥へと進む。

 

 私も棚の、父のいる所とは反対の方向へ走り、はさみ込む形でめざす本を探し合った。

 

 その結果、妖精のことについて小さな文字でぎっしり書かれたぶあつい本が三冊と、どちらかというと子どものために書かれたような、読みやすそうな薄めの本が二冊、掘りおこされたのだった。

 

「やっぱりまずは、こっちかな」父はそう言って、薄めの本を私にわたしてくれた。

 

「こっちの本、ユエホワに貸してみてやろうかな」私はぶあつい本を見ながら思いついたことを口にし、いひひひ、と笑った。

 

「どうだろうね」父も苦笑した。「これはさすがに、彼でも苦労するんじゃないのかなあ」

 

「もしこれを、文句もいわずにぜーんぶ読んだら、あたしもユエホワのことほめてやるかも」私はまた思いついたことを口にし、けらけらと笑った。

 

「へえー、そう」

 

 とつぜん頭の上からユエホワが言った。



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21

「うわっ」

 

「おおっ」

 

 私と父は同時にキョウガクして天井を見上げた。

 

「いつのまにいたの?」

 

「ユエホワ、君大丈夫かい」

 

「うん」ふくろう型鬼魔はこうもりのように天井にぶら下がっていたけれど、すとんと下におりてきた。「まあ助かったよ、サンキュー」ぼそぼそと言いながら、机の上のぶあつい本の表紙を開いてぱらぱらと中身をのぞく。

 

「ていうか、鬼魔界へ帰ったんじゃなかったの?」私は目をぱちくりさせてきいた。

 

「ほら、あの件だよ」緑髪鬼魔は顔を上げてウインクした。「親父さんに、いっしょに行ってもらう件」

 

「いっしょに?」父がきく。「どこへ?」

 

「ぜったい、だめ!」私は叫んだ。書庫内の壁に声がひびく。

 

「俺といっしょに、鬼魔界へ行ってくれませんか」ユエホワは、まだ私の声がわんわんひびいている中しれっとして父にお願いした。

 

「鬼魔界へ? ぼくが?」父も大きな声を出して壁にひびかせた。「そんなこと、できるのかい?」

 

「大丈夫です」ユエホワはうなずき、

 

「ぜったい、だめ!」私はもう一度叫んだ。

 

「でもぼく、空も飛べないし、箒にも乗れないんだよ。それでも行ける?」父は私の方を見たいけど見ることができない事情があるみたいに、申し訳なさそうな顔をまっすぐユエホワの方だけに向けて言った。

 

「あ」ユエホワは片目をとじ、まずいことに気がついたときの顔になった。「そうか、忘れてた」

 

「ほうらね」私は勝ちほこったように胸をはった。

 

「お前乗せてってやれよ、箒で」ユエホワは私に向かって言った。

 

「ばかなこといわないで」私は大人の人がよくやるように、肩をすくめながら両手を上に上げた。「あたしは明日学校よ。行けるわけないでしょ」

 

「そうか」ユエホワは床を見て考え「じゃあ、ニイ類でも呼んでくるか」と言った。

 

「えっ」

 

「ニイ類?」私と父は目をまん丸くした。

 

「うん、あの背中に乗っかって行けばいい」

 

「おお」父は感動に声をふるわせた。「ニイ類の背中に?」

 

「何いってんの、そんなの呼んだら町中大騒ぎになるじゃん」私は父が賛成してしまわないうちに現実に引きもどした。「ぜったいだめだよ」

 

「森の中に呼べばいいだろ」ユエホワは本当に、悪さをすることにかけては天才的に次から次へとアイデアを思いつくようだった。

 

「だけどニイ類といえば凶暴な性格の鬼魔として有名だよね。それでも君の言うことならきいてくれるというのかい?」父の目は、きらきらとかがやいていた。

 

「うん、まあね」ユエホワは眉を持ち上げた。「おやつでも与えてやれば言うこときくよ」

 

「おお」父はますます感動した。「じゃあもしかして、ラクナドン類なんかも同様に、従わせることができるのかい?」

 

「ラクナドン類? ああ」ユエホワはかるくうなずいた。「そっちの方がいいなら、そうするよ」

 

「おお」父は目をぎゅっとつむり、両手をかたく組み合わせた。「すばらしい。こんな体験ができるなんて。おお」

 

「パパ」私はもういちど、父を現実に引きもどしにかかった。「ママになんていうの? ものすごく心配させると思うけど」

 

「――」案の定、父は大きく息をのんだ。

 

「大丈夫だって。すぐ戻ってくるから」ユエホワは肩をすくめた。

 

「こんな性悪鬼魔のいうことなんて」私は、びしっ、と音がするぐらい強く、緑髪ムートゥー類を指さした。「ぜんっぜん信用できないってことだけは、あたし世界中のだれよりも知ってるから。これだけは誰にも負けないよ。本当だよ」

 

「まあ、なんてことを」ユエホワは両手で頬をおさえて裏声を出した。ぜったいにそれは、祖母のものまねにちがいなかった。

 

 ああ、キャビッチ!

 

 私は書庫の中を大急ぎで見回した。

 

 どこかその辺に、この極悪最低恩知らず鬼魔にぶつけてやるべきキャビッチが、ないか?

 

 あった!

 

 父がブックエンドがわりに本の間にはさんでおいてあるキャビッチが、書棚の上の方に見えた。私はそこにかけてあるはしごに飛び乗った。

 

「あのなあ、ポピー」ユエホワが私の背中に向かって呼びかける。「いいか、俺はお前の親父に、お前の兄ちゃんになってくれと言われた男だぞ。妹は兄ちゃんの言う事を信用するもんだろが」

 

「何いってんの」私ははしごのいちばん上から赤い目の鬼魔を見下ろして言った。「兄ちゃんって、じゃああなたはあたしのママから生まれた人なの」

 

「ばかいうな」ユエホワはいやそうな顔をした。「お前の母ちゃんからなんか、死んでも生まれるか」

 

「じゃあ兄ちゃんじゃないじゃん」私はどなって書棚のキャビッチをとりあげ床に飛びおりた。

 

「まあまあ。兄妹喧嘩はやめなさい」父が両手を上げ止めようとする。

 

「ほらみろ兄妹だ」緑髪が肩をすくめる。

 

「兄妹じゃない」私はどなってキャビッチを肩の上に構えた。

 

「わーっ」ユエホワは両腕で頭と顔を隠した。「妹は兄ちゃんにキャビッチをぶつけない!」

 

「妹じゃない」私はキャビッチを投げた。

 

「ポピー」父がユエホワの前に立ちはだかってかばおうとした。

 

 けど、キャビッチは父に当たらなかった。

 

 その寸前で、ふっと消えたのだ。

 

「あいたーっ」そのかわりユエホワが父の向こうがわで身体をのけぞらせ、悲鳴を挙げた。

 

「えっ」父がびっくりして振り向く。

 

「痛いわけないじゃん」私は腰に手を当てた。「相当手加減したし」

 

「おお」父は私と、お尻を押さえてしゃがみ込むユエホワを交互に見た。「シルキワスか! 本当に使えるようになったんだね、いやあ見事だ」笑顔になる。

 

「痛えよ充分」ユエホワは顔をしかめながら立ち上がった。

 

「ポピー」父は突然、私のもとへきて私をぎゅっと抱きしめた。「ポピー、どうか今回だけ、パパの希望をかなえてくれないかな。ぼくの職業は知ってのとおり鬼魔分類学者だ。こんなチャンス、今をのがしたらもう二度とめぐってこないかも知れない。ぜひ、行ってみたい。鬼魔界というところへ」

 

「でも、パパ」私は首をふった。「危ないよ。危険すぎるよ。パパがキャビッチ投げとかできるんならまだいいけど――あ」私はふと、あることを思いついた。「そうだ、ママといっしょに行ったらいいんじゃない?」

 

「えっ」

 

「ええっ」

 

 父とユエホワが同時にびっくりした。

 

「いや、それはだめだよ」父はすぐに首をふり、その横でユエホワがほっと胸をなでおろした。「ポピーが家でひとりぼっちになってしまう」

 

「だいじょうぶだよ」私は口をとがらせた。「あたしもう、十三歳だよ」

 

「いや、そうじゃなくて、あの“妖精”のことさ」父はまた首をふった。「ぼくもママも留守にしてしまったら、万が一ポピーをさらいにあの妖精が来た時、君を守る者がいない」

 

「あ」私は一瞬納得したが、大急ぎで代わりの案を考えた。「じゃあ、おばあちゃんは? いっしょに、キー」

 

「ぜったい、だめ!」叫んだのはユエホワだった。「それだけは無理! 無理無理無理!」

 

「なんで?」私はきいた。「おばあちゃんが鬼魔界をメツボウさせるから?」

 

「いやその前に」ユエホワは首をふった。「あの人つれてくだけで、俺が陛下にぶっ殺されちまう」

 

「あはははは」私はお腹をかかえて笑った。「陛下に『次は負けぬ』って言えばいいじゃん」

 

「しゃれんなんねえし」ユエホワは眉をしかめながら苦笑した。

 

「楽しそうだなあ」父が何度もうなずく。「でもポピー、本当に今回だけ、ぼくの悪運の強さを信じて欲しい。ユエホワのことも」真剣な顔でもういちど私に言う。



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22

「……」私は上目づかいでじっと父を見た。「ママには?」

 

「うん」父はうなずいた。「いつものように、しばらく研究旅行に出る、と言うよ。だってそれが真実、真の目的だからね」にこっと微笑む。

 

「……」私はさらに時間をかけて、本当に行かせていいのかどうか、考えた。

 

 それはつまり、ユエホワを信じてまかせてもいいのかどうか、ということだ。

 

「わかった」父を見上げて、うなずく。「気をつけてね、パパ」

 

 父は何も言わず、また私を強く抱きしめた。「ありがとう。愛してるよ、ポピー」

 

「うん。あたしもよ、パパ」私も答えて抱きしめ返す。

 

 父から離れたあと、私はユエホワの方に向き直った。

 

「ん?」ユエホワはすっとぼけた顔で、両腕を広げた。

 

「誰があんたとハグなんかするもんですか」私はぶんっと音がするぐらい強くムートゥー類に指を突きつけた。「パパにちょっとでもけがさせたら、本当の本当に時間河の底にたたきおとすからね。陛下にごまする前に、そのことをようく頭の中にたたきこんどいて」

 

「わかったよ」ユエホワは不服そうに口をとがらせた。「安心しろって」

 

 わかってる。

 

 これはユエホワを「信じる」のではなくて「おどしつける」という行為だ。

 

 でもどっちだっていい。

 

 パパが無事に帰ってくることを、神さまに祈るだけだ――

 

「そうだ」私はまた思いついた。「ルドルフ祭司さまに会ってから行くといいよ」

 

「祭司さまに?」父が目を見ひらく。「それはどうして?」

 

「きっとなにか、お守りになるものを下さると思うの」私は父に、父の留守中自分がこの腹黒鬼魔と冒険旅行に出かけたことは省略して、アドバイスだけした。

 

 

 そして、聖堂に寄るのなら明日出かけようということになり、なんとユエホワは今夜ひと晩、わが家の書庫に泊まることになった。

 

 ちなみにどうして彼がここにいたかというと――

 

「通気孔から入った」

 

とのことだった。

 

 上に昇るドアには鍵がかかっているから、泥棒なんかはできなかったわけだけれど、それにしても通気孔って、たしかものすごくせまかったように思う。

 

 もしかしたら、全身を小さなふくろうの姿に変えて入ったのかも知れないけれど、ユエホワはそこまでくわしく説明してくれなかった。

 

 ともかくも、母が心配して地下におりてくる前に、私はさっさと部屋へもどって眠りについたのだった。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 翌朝。

 

 いつもと同じ時刻‎に起きた私は、いつもと同じように着がえて顔を洗い、朝ごはんを食べ、そして、

 

「フリージア。実は……」

 

とまじめな顔と声で母に話しはじめた父の声を背中でききながら

 

「行ってきまーす」

 

と家を飛び出した。

 

 ただちに箒を呼び飛び乗って、上空へとかけあがる。

 

 その間、なんとか母のさけび声や悲鳴やなんかは聞こえてこなかった。

 

 ふう、と息をつく。

 

 そうしながら、うしろからさっそくユエホワがついてくるのを察知した。

 

「おはよう」少しだけふり向いてあいさつする。

 

「おはよん」ユエホワは、めずらしく眠そうな顔で声をかけてきた。

 

 いつもは、すきあらば何かいたずらをしかける気満々なのがひと目でわかるような、ゆだんならない顔をしているけれど、今朝はなんだか、ぼけーとしている。

 

「あんまり眠れなかったの?」私はきいた。「書庫、寒かった?」

 

「いいや」ユエホワは首をふった。「羽毛があるからな、俺には」

 

「あ、そうか」私は飛びながら空に目を向けた。「って、やっぱ全身ふくろうになったりもするんだ」となりを飛ぶ鬼魔を見て確認する。

 

「まあとくに敵も危険もないときはな。それより、読んだか? あの本」ユエホワは指を立てて質問した。

 

「あの本?」私は思わずきき返した。

 

「妖精の」ユエホワは、眠そうなくせにあきれたような言い方でつけ足した。

 

「読んでないけど」私はむすっと答えた。「だって時間なかったし」

 

「だろうね」ユエホワは垂直飛行しながら腕組みして目をとじうなずいた。「そうでなきゃな。天下のポピーさまなら」

 

「今日読むわよ」私は飛びながらどなった。「学校から帰ったら」

 

「のんきな話だよなまったく」ユエホワはまたしても、あきれたような声でそう言い、しかもこんどははあ、とため息までついた。

 

「なによ」私はまたどなり、箒の先をすこしだけユエホワに向けた。でも箒はすぐに、学校の方へ自分で向きをなおしてくれた。

 

「今日の帰りまでにまたあいつらがなんかしてくる可能性だってあるだろ」ユエホワはあきれながらも私に説明した。「これから、俺も鬼魔界へ行っちまうし」

 

「それがなにか関係あるの?」私は眉をひそめた。

 

「お前ひとりじゃ、立ち向かえないと思うぜ。妖精には」ユエホワはまじめな顔で言った。

 

「なんで?」

 

「言ったろ、お前らの使う魔法とは性質のちがう、もっとたちの悪い力を使ってくるって」

 

「あ」私は思い出し、少し肌寒くなった。「そっか」

 

「ゆうべ、あの本ざっと読んでみたんだけどさ」ユエホワはまた腕組みして考えながら話した。「ちょっとだけ、もしかしたら……って、思い当たることがあるんだよな」

 

「えっ」私は叫んだ。「読んだの? あの本を? あのぶあつい方のやつを? ぜんぶ?」

 

「お前さ」ユエホワは腕組みをほどき、私を見て――もう眠そうな顔ではなく、いつもの底意地の悪そうな顔に戻っていた――「おどろくとこ、そこか? 俺を誰だと思ってんだ」とあきれたように言った。

 

「えっ、だって」私はコンランした。「えっ、じゃあ」

 

「読んだよ。ざっとだけどな」ユエホワは声をひそめた。「それで、もしかしたら、だけど」

 

「うん」私も声をひそめ、少しだけ肩をすくめた。そんなことしても、ぜんぜん隠れてることにはならないんだけど……

 

「その妖精ってやつ、誰かに、あやつられてんのかも知れないぞ」

 

「あやつられてる?」私は、ユエホワをにらむように見た。「なにそれ?」

 

「むかし妖精ってのは、ある鬼魔とつながりを持ってたらしいってことが書かれてあったんだ」ユエホワは引きつづき小さな声で説明した。「くわしいことはわからないって書かれてたけど、俺が思うに、もしかしたらあいつらのしわざかも知れないって」

 

「あいつら?」

 

「うん……あ」ユエホワはとつぜん、空中でぴたりと止まった。「やべ、もう学校見えてきた。じゃあ、気をつけてな。本も読んどけよ」ユエホワはそのまますうーっと上の方へのぼりはじめた。

 

「あっ、うん」私は少しおどろいたけれど、まあ学校に鬼魔をつれていくわけにはいかないので、そのまま進んだ。

 

「まあ、たぶんやつらの狙いは俺だから、お前に危害は加えないと思うけど」最後にユエホワの声がそう聞こえたので、飛びながら肩ごしにふり向いたけれど、もうその姿は見えなかった。



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23

 学校へ着くと、みんな建物の中には入らないで、庭で待つように、と先生たちに言われた。

 

 少しおどろいたけれどすぐに、妖精のことかな、と気づいた。

 

 聖堂から、もう学校へも、たぶんツィックル便かなにかで伝えられたのだろう。

 

 でも、はたして学校の先生たちは、妖精のことをよく知ってるんだろうか?

 

 私の父も母も見たことがないというし、ルドルフ祭司さまも、もう何十年もの間妖精は姿を見せていないとおっしゃっていたし……

 

 もしかしたら、先生たちよりもユエホワの方が、妖精についてくわしかったりして。

 

 そんなことを思った。

 

 けれどまさか、鬼魔を学校につれてきて妖精の話をさせることも、できないだろうしなあ……

 

 ああやっぱり、私がゆうべ少しでもあの本を読んでおいて、みんなに教えてあげるべきだったのかもしれない。

 

「ポピー、なにむずかしい顔してるの?」ふいにヨンベがそう声をかけてきて、私ははっとした。

 

「え、あたしそんな顔してた?」自分の頬を手でおさえる。

 

「うん、なんか鬼魔にキャビッチ投げてやろうとするときみたいに、シンケンな顔してた」ヨンベはうなずいて、まわりのほかの子たちもうなずいたり笑ったりした。

 

「あ、う、うん、えへへ」私は笑おうとしたけれど、目だけはシンケンなままだったかもしれない。

 

 ある意味では、ヨンベのいうとおりだと思うからだ。

 

 みんなに、妖精についての説明をするとしたら、どう話せばいいんだろう――そう考えはじめると、そりゃあもう、鬼魔にキャビッチを投げるときの何十倍も頭をフル回転させなければならないのだ。

 

 正直私の場合、妖精に向けてキャビッチを投げる方法を考えて説明するほうが、はるかにうまくできると思う。……ていうか、実際に投げて見せるほうが。

 

「はい皆さん、静粛に」マーガレット校長先生が大きな声でみんなに言った。「今日は最初に、みなさんにとても大切なお話を聞いていただく必要があります。これはみなさんの安全をまもるために、ぜひとも注意してほしいことです」

 

 ざわざわ、とみんないっせいにお互いの顔を見てさわぎ出した。

 

「静粛に」マーガレット校長先生はさらに大きな声でみんなに言った。「ですが、きちんと注意していれば、けっして恐れる必要はありません。では何に、どのように注意すればいいのか、これからお二人の方に、説明していただきます」

 

 お二人?

 

 誰だろう?

 

 ほかのみんなとおなじように、私もまわりをきょろきょろと見回した。

 

 一人は、たぶんルドルフ祭司さまだと思うけど……もう一人は?

 

 ふと、緑髪の鬼魔の姿が頭の中に浮かんだけれど、私は首を横にふった。

 

 まさか。

 

 妖精にくわしい、だれか知らない人間の人かな?

 

 

「遅くなってすみません」

 

 

 そのとき、空の上から声が響いた。

 

 はっとして上を見上げる。

 

 よく知っている声だった。

 

 はたして見上げた先、空の上には、よく知っている人たち――二人とも――が、箒に乗って浮かんでいた。

 

 父と、母だった。

 

「ようこそ、フリージアとマーシュ」マーガレット校長先生は地上から上空へ向けて、いちばん大きな声で言った。

 

 地上にいる私たちは、あからさまに耳をふさぐこともできず、みんなぎゅっと目をつむって肩をそびやかした。

 

 父と母は、すいっと地上に下りてきて、箒から降り、

 

「みなさん、おはよう」

 

「ぼくたちは今日、皆にぜひ聞いてほしいことがあって来たんだ」

 

とあいさつした。

 

「ポピーのおじさんとおばさん?」ヨンベが目をまるくして言う。

 

 私も目を丸くしていた。

 

「おはよう」父と母は目を細めてにっこりとあいさつした。「大切な話というのは、じつは半月ほど前から、ポピーにつきまとう見えない存在がいるということなんだ」つづけて父が説明する。

 

「えーっ」みんなはいっせいに驚きの声をあげ、私を見た。「ほんとに? ポピー」

 

「うん」私はうなずいた。「妖精らしいけど」

 

「妖精?」

 

「なにそれ?」

 

「妖精ってあの、おとぎ話に出てくるやつ?」

 

「ほんとにいるの?」

 

「皆さん、静粛に」マーガレット校長先生はクマ型鬼魔ダガー類かと思わせるほどの大声でほえた。「まだお話のとちゅうですよ」

 

 そのとなりで父は目をぎゅっとつむり、肩をそびやかした。

 

 母はというと、さすがに恐いものなしの母は、はっきりと両耳に指をつっこんでふさいでいた。

 

「はい、妖精というのは、本当にいます」父は肩をそびやかしたまま半分苦笑しながら説明をつづけた。「といってもルドルフ祭司さまによると、昔は森の中でよく見かけることができたけれど何十年も前から、姿を見せなくなっているらしいんだね」

 

 ええー、と生徒たちはささやきのような声をあげた。

 

 マーガレット校長先生は深く何度もうなずいていた。

 

「ものの本によると、どうして姿を消してしまったのか、その理由や原因ははっきりとはわかっていない……ただ妖精たちは昔、一部の鬼魔につかまってしまったという説があるんだ」

 

「まあ」マーガレット校長先生が胸をおさえおののいた。「そんなことが」

 

「鬼魔にさらわれてしまったの?」

 

「妖精は鬼魔の手下になったの?」

 

 生徒たちが質問する。

 

「それも、わからないんだ」父は首を振った。「けれど……事情があって誰かはいえないんだけど、妖精にさらわれてしまった人がいるんだ」

 

 ええーっ!

 

 生徒たちはいっせいに大声をあげ、校長先生も目と口をまん丸くあけて父を見た。「いったい、誰が?」

 

「事情があって誰かはいえないんです」父は必死でくり返した。「でも子どもではないし、その人は今はもう、無事に助けられました」

 

 人、かあ……

 

 私は眉をしかめた。

 

 まあ「人型鬼魔」を略して「人」っていうことも、できるのかなあ。

 

「それでその人がいうには、妖精は――というか妖精を操る者は、どうも魔法を使えなくさせる力を、持っているらしいんです」父はつづけて言った。

 

 ええーっ、とまた全員が(先生もふくめて)、驚きの声をあげた。

 

「まあ、なんて強力な敵なの」マーガレット校長先生はおそろしげに声をふるわせた。

 

「それで皆には、それをかけられる前に対処できるよう、マハドゥという魔法を教えておきます」父はみんなを安心させるよう、笑顔で話をつづけた。

 

 マハドゥを?

 

 私はきょとんとした。

 

「マハドゥ?」

 

「なにそれ?」

 

「マハドゥって?」

 

「おれ知ってる。相手を自由にあやつれる魔法さ」

 

「ええーっ」

 

「なにそれー」

 

「すごーい」

 

「むずかしそう」

 

「本来なら今誰かが言ってくれたように、相手を自在に操るという高度な魔法なんだけれど、今回はもっと簡単な、相手がかけようとする魔法をせき止めてしまうところまでを、みんなに覚えておいてもらおうと思うんだ」父はくわしく説明し、「じゃあみんな、左右の手のひらをこう、上に向けて」両手を肩の高さで上向きに開いた。

 

 みんなは父に言われたとおりにした。

 

 私もだ。

 

「先生、キャビッチを少し、お借りします」それから父はマーガレット校長先生に向かい、にっこりと笑って言った。

 

「はい、どうぞ」マーガレット校長先生がこころよくうなずくやいなや、

 

「キャビッチ」こんどは母が、大きな声をはり上げた。「リールムールクール、フー」

 

 その、一秒後。

 

 学校のキャビッチ畑の方から、まるで横向きに降る雪のように、小さくて丸いものが大量に、校庭へ飛んできたのだ。

 

 それはもちろん、できたてほやほやの、キャビッチたちだった。

 

 うわあ――、とみんなが、両手のひらを上に向けた状態で空を見上げ歓声を上げた。

 

 飛んで来たキャビッチは、みんなのその両手のひらの上に一個ずつ、すとんすとんすとん、と降りてきた。全員にだ。

 

「少し……?」マーガレット校長先生がとても小さな声で言ったけれど、誰もハンノウしなかった。



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24

「じゃあまず、心をとぎすませて、頭の中に魔法陣を思い描いてください」父がつづけてみんなに指示をした。

 

 みんなは言われたとおりにし始め――私も――、全員目をとじた。

 

「その魔法陣の中に、今手にしている二つのキャビッチをかざすつもりで、両手を前に差しのべて」父がゆっくりと、静かな声で、次の指示をする。

 

 みんなは言われたとおりにした。全員目をとじたままだ。

 

「では、呪文を唱えます」父は静かに言ったあと、声を張って唱えはじめた。「マハドゥーラ、ラファドゥーマ、クァイ、スム、キルドゥ、ヌゥヤ」

 

 うわ。

 

 私は目をとじたまま、眉をぎゅっとしかめた。

 

 たぶん、みんなもそうしたと思う。

 

 むずかしい呪文だなあ!

 

 こんなの、いざというときにすらすら出て来るだろうか?

 

「無理だろ」

 

 なぜか、ユエホワの声がそう言っているのが空耳できこえた。

 

「マハドゥーラ」それでも私たちはがんばってそれを唱えはじめた。「ラファ」私についていえば、そこまでがゲンカイだった、ごめんなさい。

 

「ラファドゥーマ、クァイ」まで言えた子ももちろんいた。「えっと」でもその子もとちゅうでそんなことを言ってしまったため、呪文はかき消された。

 

「わーわかんないよお」結局、最後まで唱えきれた者はひとりもいなかった。

 

「ああ、ごめん」父はたいそう申し訳なさそうに片目を強くとじた。「じゃあもういちど、少しずつ、練習していきましょう」

 

「それよりも、投げた方が早いんじゃない?」母がさえぎって言った。

 

 私は目をとじたまま、思わず大きくうなずいていた。

 

「みんな、エアリイは知っているかしら。知ってる人?」母は自分の手を上げてきいたけれど、あまりたくさんの手は上がらなかった。

 

 私は、これも祖母に教えてもらったことがあるので、手を上げた。

 

「そうね」母は手をおろした。「姿が見えないくらい小さい妖精が相手だから、このエアリイという、キャビッチを小さな球に変えてたくさんの数に分散させて飛ばす魔法が効くと思うの。マハドゥよりはシンプルな呪文だから、さっそくやってみましょう」母は右手にキャビッチを乗せ、肩の高さに持ち上げた。

 

「でも」一人の女子生徒があらためて手を上げた。「妖精に、キャビッチをぶつけるんですか?」

 

「なんだか、かわいそう」別の女子生徒も悲しそうな声で言った。

 

「うん、ちょっとねー」

 

「小さい生き物にキャビッチをぶつけたら、どうなるの?」

 

「ぺっちゃんこになっちゃうんじゃないのかなあ」

 

「ええーっ」

 

「むりー」

 

「かわいそうー」

 

「あのねえ、みんな」母は腰に手を当てて言った。「そんなこといってたら、誘拐されちゃうわよ、あのキー」

 

「フリージア」父があわててキャビッチを持ったままの手を母に向けぶんぶんと振った。

 

「あ」母は口を手で押さえた。「まあでもとにかく、エアリイの呪文を言うから、つづけてね」すぐに手を離して、右手のキャビッチを肩の高さに持ち上げる。

 

 みんなは、同じように右手または左手を上げた。

 

「キャビッチ」母は声を張り上げた。「エアリイ、セプト、ザウル」

 

 すると母の手の上のキャビッチが、たくさんの爪ぐらいの小さな球に一瞬で分かれ、母の手の上に浮かび上がった。

 

 うわあー、とみんなはキャビッチを構えたまま歓声を上げた。

 

「おぼえた? エアリイ、セプト、ザウルよ。ではみんなで」母は、手をみんなに差し伸べた。

 

「エアリイ、セプト、ザウル」みんなは声を揃えていっせいに唱えた。

 

 私もだ。

 

 私の手の上でキャビッチが、ぱん、とたくさんの小さな球に分かれ、空中に浮かんだ。

 

「うわー」

 

「やった」

 

「よし」

 

「あれえ」

 

「分かれないよ」

 

「なんでー?」

 

「うーん」

 

 みんなはというと、ちゃんと小さな球に分かれた人もいれば、二個か三個ぐらいにしか分かれていない人もいれば、まったく分かれずもとの一個のキャビッチのまま人もいた。

 

 そう。

 

 このエアリイという魔法も、じつはけっこう……というかかなり、むずかしい魔法なのだ。

 

 私も最初は、まったく分かれてくれなかった。

 

 けれどいつもの祖母の教え方「百回やってできなかったら、何か方法を考えましょう」にしたがってくり返し、たしか、七十八回目にやっと、十個ぐらいに、ぱん、と分かれたのだ。突然。

 

 今ここで、きちんと分けさせることができた人たちもおそらく、学校以外のところで、先生以外の人にすでにエアリイを教わった経験者なんだろうと思う。

 

 逆に、今日はじめてエアリイという魔法の存在を知った人たちは、当然ながら、分けさせることなんてできっこないのだ。

 

「うーん」母はみんなの様子を見回して、「そうね、じゃあ分かれなかった人はもう一回、やってみましょう」と言い、こんどは左手のキャビッチを肩の高さに上げて「エアリイ、セプト、ザウル」と唱えた。

 

「エアリイ、セプト、ザウル」分かれなかった人たちも再度、さっきよりもさらにシンケンな表情で唱えた。

 

 けれどそれでも、母以外の誰のキャビッチもスムーズに分かれることはなかった。

 

「がんばれ」母は励ました。「もう一回。エアリイ、セプト、ザウル」

 

「エアリイはなあ」父が首をかしげる。「ぼくにさえ、いまだにうまくいかないほどだからなあ」

 

「ええー」再度挑戦しようとしていた生徒たちは、がっかりしたような声をいっせいにあげてキャビッチをおろしてしまった。「じゃあぼくたちなんて、もっと無理だよ」

 

「もーう」母は父に文句を言った。「そんなこと言うからー。あなたはもともとキャビッチ投げが得意じゃないんだから、できなくって当たり前なのよ」

 

「う」父は背中を思い切りどやしつけられたときのような痛そうな顔をして言葉をうしなった。

 

「あ、あたしも投げるの苦手です」ヨンベが恐る恐る手を上げて告白した。

 

「私もです」

 

「おれもー」

 

 そして次々に手が上がる。

 

「そうねえ」マーガレット校長先生も頬に手を当ててうなずいた。「フリージア、やはりこの子たちにはまだエアリイは難しいのだと思うわ」

 

「そうですかねえ」母はまだギモンを持っているように首をかしげる。

 

「あっでも、そのかわりマハドゥの呪文はきっと、おぼえます」ヨンベはつづけて、シンケンな表情でそう宣言した。「あたしはたぶん、そっちの方が向いてると思うから」

 

「あ、私も」

 

「ぼくもです」

 

「じゃあ、おれもー」

 

「おお」父が感動して両手のひらの上のキャビッチをこつんとぶつけ合わせた。たぶん、キャビッチが乗っていなかったら両手を胸の前で組み合わせるつもりだったんだろうと思う。

 

「わかりました」マーガレット校長先生が、右手を大きく頭上に差し上げて声を張り上げた。「では本日、みなさんはマハドゥかエアリイ、どちらかの魔法を必ず習得するようにしてください。本日の授業はそれのみとします。教師の皆さんも確実に、できれば両方とも、使えるようにしておいてください」

 

 おおー、とか、はーい、とか、やったー、とかいろんな声が全員から上がった。

 

「ポピーはどうする?」ヨンベがきく。「やっぱり、エアリイの方にする?」

 

「あー、うん、そうする」私は少し空を見てからうなずいた。「やっぱり投げるほうが、やりやすいかなって思うし」

 

「うん。じゃあ、がんばろうね」ヨンベはにっこり笑って、父のいる方へ駈けていった。

 

 私もはりきって、母のいるところへ走り、左手に残っているキャビッチを持ち上げて準備した――のだけれど。

 

「あらポピー、あなたはもうエアリイ使えるでしょ」

 

と、母に言われたのだ。

 

「え」私はキャビッチを持ち上げたままかたまった。

 

「マハドゥを覚えなさい」母は、父の方を指さして指示した。「がんばってね」

 

「――うう」私はいやだとも言えず、キャビッチをおろして母に背を向けるしかなかった。



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25

 マハドゥ。

 

 その魔法の起源は古く、神がこの世にキャビッチという不思議な力を持つ野菜をお作りになり、それを人の手にゆだねたとき、最初に人びとにお授けになった魔法のひとつとされている。

 

 けれどその魔法を使える者はけっして多くはない。

 

 なぜなら、神はその魔法を行使するさいに唱えるべき呪文に、ある特別な“条件”をつけ加えたからだ。

 

 その条件とは――

 

 

「無理だよ」私は空気を求めて青空にぐっと顔を向け、思い切り息を吸って、はいて、また吸ってはいて、を、しばらくくりかえした。

 

「難しいよねえ」ヨンベが困った顔で笑いながら言う。「息つぎなしでこんな長い呪文唱えるなんて」

 

「――」私はまだ、はあはあと息をきらしながら、ただうなずいた。「無理だよ」それしか、言うことばがない。

 

 そう。

 

 この、マハドゥという魔法を呼びさます呪文というのは、べらぼうに長い。

 

 しかも、発音の難しい単語がいっぱいちりばめられている。

 

 そしてそれを、ある一定の時間内にすべて唱え終わらないといけない。

 

 決してまちがえずに。

 

 決してつっかえずに。

 

 決して息つぎをせず、一気に。

 

 もちろん、よけいな邪念をいっさい抱かず、清らかな心で。

 

 今回父が私たちに教えてくれるのは、いちばんみじかいバージョンの、初歩的な――父にいわせると“だれにでも無理なく使える”部類の、マハドゥなんだそうだ。

 

 つまりようするに、いちばん呪文が短いやつだ。

 

 それがあの例の、相手のかけてくる魔法をせき止めてしまう力を発生させる、呪文なのだ。

 

 私たちは今それを、今日中に使えるようになるために、覚えようと練習している。

 

 命をかけて。

 

「神さまはなんでこの呪文を唱える時間を、ツィックルの葉っぱが人の子どものひざの高さから地面に落ちるまでって決めたの?」私はもう、世界中の大人すべてにしかられてもいいという気持ちでそのことを口にした。「みじかすぎるよ」

 

 そう。

 

 いちばん短いこの呪文をとなえるための時間は、せいぜい数秒――地上約三十センチの高さからツィックルの葉っぱがひらひらひら、と地面に落ちていく間のその時間と、さだめられている。

 

「うん」ヨンベはますます困ったような笑顔でうなずいてくれた。「みじかいよね」

 

 ヨンベはやさしい。

 

 だって、彼女自身はもうとっくに、私の母に宣言したとおり、この呪文をそのみじかい間にきちんと最後までとなえられるように、なっているからだ。

 

 それでも決してえらそうに私を見おろして「あら、あなたまだできないの? ポ、ピ、イー?」なんてことはひとことも言わず、私のこぼす文句にうなずいてくれる。

 

 あのムートゥー類とは大ちがいだ。

 

 ふう、と私は息をつき、すう、と大きく吸いこんで、もういちどチャレンジした。ツィックルの小さな葉っぱを、ヨンベが私の膝のところから落としてくれる。

 

「マハドゥーラ、ラファドゥーマ、クァイ、スム、キル」そこで葉っぱは地面についた。「ああー、だめだ」私は空を見上げてぎゅっと目をとじた。

 

「でも、だいぶ長く唱えられるようになってきたよ」ヨンベは葉っぱをひろいながら、私を見上げて言った。「キルまでいけるもん。あと少しで、ぜんぶいけるよ」

 

「ありがとう」私は思わず笑顔になった。

 

 ヨンベといっしょにやるおかげで、この練習も私にとっては楽しいものになっていたのはたしかだ。

 

 あとはそう、本当にヨンベのいうとおり、最後まで呪文を唱えられるようにさえなれば……

 

「やったあ!」

 

 ときどき、校庭のあちこちからそんな歓声が聞こえてくる。

 

 もちろんそれは、マハドゥかまたはエアリイをマスターした生徒の発する喜びの声だ。

 

 マスターする子はつぎつぎに増えてゆき、マスターできない子はしだいに減ってゆく。

 

 私は、まだマスターできない方のままだ。

 

「もしかして、最後にあたし一人だけマスターできないまま残ったりして」ふとそんなことをつぶやいてみた。

 

「そんなことないよ」ヨンベがカンパツをいれずに大声で答える。「ぜったいできるよ、ぜったい。あたしがホショウする」

 

「ヨンベ」私はなんだか鼻の奥がつんっと痛くなってしまった。「うん。あたしがんばる」大きくうなずく。

 

「うん」ヨンベも大きくうなずいて、私の膝のところに葉っぱをセットする。

 

 すう、と息を吸う。

 

「マハドゥーラ、ラファドゥーマ、クァイ、スム、キルドゥ」葉っぱが地面に着いた。「あー」私は空を向いてぎゅっと目をとじた。

 

「おしい!」ヨンベも葉っぱをひろいながら、ぎゅっと目をとじた。

 

「なかなか苦労しているみたいだね」父が、微笑みながら様子を見にきてくれた。

 

「あとちょっとなんです」私が盛大に文句をいいはじめる前に、ヨンベが父に向かっていっしょうけんめい説明してくれた。「あと、ヌゥヤだけなんですけど」

 

「そうかあ」父はますます微笑んで深くうなずく。「じゃあ、ひとつだけコツを教えてあげよう」

 

「えっ、そんなのがあるの? もう、どうして最初に教えてくれなかったの」私は母が父に文句を言うときのように文句を――やっぱり言ってしまった。

 

「ははは」父が困り笑顔で笑う。「ほんとは、あんまり使わないほうがいいコツなんだよね。もしかしたらこれで唱えきっても魔法が発生しないかもしれないし」

 

「えっ」私とヨンベは目をまるくした。「どんなコツなの?」

 

「うん、あのね、ひとつの単語の、最後のひと文字を省略して、次の単語の最初の文字を唱えるんだ」父は説明した。「マハドゥーラファドゥークァスキルヌゥヤ、ってね」

 

「ええっ」私とヨンベはますます目を丸くした。「そんなんでいいの?」

 

「うーん、わからない」父は空に向いて目をぎゅっととじた。「でももちろん、心の中ではちゃんと最後の単語のところまで呪文を描くんだ。それでなんとか、いけるかもしれないし、いけないかもしれない」人さし指を立てて、ウインクしながら話す。

 

 なんだか、ずるいやり方だなあ。

 

 そう思ったけれども、私はとりあえず試してみることにした。

 

 ずるいかもだけど、それで魔法が使えたとしたら、ラッキーだもんね。

 

「ぷっ」

 

 一瞬、緑色の髪の者が横を向いて思わず吹き出す姿が幻で見えたけれど、無視した。

 

「やってみよう」ヨンベが葉っぱをセットする。

 

 すう、と私は息を吸った。

 

「マハドゥーラファドゥークァスキルヌゥヤ」

 

 ひらひら、ぱさ。

 

 言えた。

 

 唱え終わったあとで、葉っぱが地面に着いた。

 

 しゅるん、と音がして、私の手の上にずっと乗っていた小さなキャビッチが、消えた。

 

 魔法の力に変化した証拠だ。

 

 魔法が、発生したのだ。

 

「やったあ」ヨンベが両手を頭上に上げてさけぶ。

 

「やったあ」私もおなじようにして、ヨンベと手をぱちんと合わせる。

 

「おめでとう」父は目をますます細くしてよろこんでくれた。「ほかのみんなも、もう少しでできるようになるはずだ。そうしたらぼくも安心して、旅に出かけられるよ」

 

「あ」私は思い出して父を見た。「そうか、パパはこのあと、えーと、研究旅行に、行くんだよね」ほんとのことだよね。ほんとのこと。

 

「えっ、そうなんですか?」ヨンベも驚いた。

 

「うん、まあちょっとした、ね」父は眉を少しさげてハハハ、と笑った。



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26

「パパはさ」私はわりと大急ぎめで話を変えた。「このマハドゥって魔法、何歳のときに使えるようになったの?」父にきく。

 

「それがさ」父は、まるでその質問をされることを心待ちにしていたかのように顔をぱっとかがやかせ、人さし指を立ててウインクした。「ちょうど、ユエ」けれどそこまで言ったとき父は、はっと大きく息をのんで自分の口を手でおさえたのだ。

 

「え?」私はびっくりして目を丸くした。

 

「ええとね、十――九歳の時だったかな」父は急いで、ごまかすように早口で答え、それからなぜかハハハハ、とやけに明るく笑った。

 

「へえー」私はうなずいた。「おばあちゃんがクドゥールグとたたかったのと同じ年のときなんだ」

 

「そうそう」父はうれしそうに目を細めてうなずいた。「よく知ってるね」

 

「こないだ聞いたもん、ユエ」そこまで言ったとき私は、はっと大きく息をのんで自分の口をおさえた。

 

 となりで聞いていたヨンベや、まわりでがんばって呪文をとなえている他の生徒たちには、私たち家族のあいだで大きく息をのんで自分の口をおさえるのが流行っているのかと思わせたかもしれない。

 

 

 夕方までに、どうにか全員――生徒も先生も――が、マハドゥまたはエアリイを使えるようになり、みんなすっかり疲れはててそのまま家に帰ることになった。

 

「じゃあ、また明日ね、ポピー」

 

「うん、また明日ね、ヨンベ」

 

 手を振ってヨンベと校庭で別れたあと、私は父と母と三人で、家に向かうつもりでいた。

 

 けれど父は、ふう、と息をついてから、

 

「じゃあ……フリージア、今朝言ったとおり、ぼくはこれから旅に出るよ」

 

と、告げたのだった。

 

「わかったわ、マーシュ」母は少しさびしそうな顔になったけれどうなずいて、父を抱きしめた。「気をつけて行って来てね」

 

「うん」父もぎゅっと母を抱きしめた。「今度の旅は、そう長くはならないと思うよ。すぐに帰るつもりだ」

 

 私も父のその言葉を聞きながら、大きく頷いた。

 

 ほんと、鬼魔界なんて、さっと行ってささっと帰って来るべきところだ。

 

 どうか父も、あの鬼魔界の黒味がかった気持ち悪い風景と、つねにただよっていたくさい臭いとが、一瞬でいやになりますように。

 

「でもあなた」母がぱっと父から顔をはなして言った。「毎回出かける前にはそう言うけど、いちどたりともすぐに帰って来たことなんてないわ」

 

「あ」父は言葉をうしなった。

 

「大丈夫だよ、ママ」私は父の約束をホショウした。「今度はきっと、あっという間に帰って来るよ」

 

「あら、どうして?」母が、父の背中に手を回したまま私を見てきいた。

 

「え、えっと」私も言葉をうしなった。

 

「あ、目的がね、今回ははっきりしてるんだ、その」父は何の意味があるのか空を指差してくるくると回しながら説明した。「ある、図書館にさ、妖精についてくわしく書かれてある本が保存されているらしいんだよ。それを読みに行って来るだけだから」

 

「まあ、そうなの」母はかんたんに信じた。

 

 私と父は同時に、ほっと安心した。

 

「それで」父は咳ばらいをして続けた。「君は夕飯の支度とか、これからいろいろ忙しいだろうから、ポピーに駅まで箒で送ってもらえると助かるんだけど……いいかな?」そんなことを私でなく母にきくのは、やっぱり今回の妖精のことがあるからだろう。

 

「ああ、そうね」母は少し考えた。「ポピーも、マハドゥをおぼえたんだしね。わかったわ」にこっと笑う。「気をつけてね、ポピーも、あなたも」

 

「ありがとう」父はもういちどほっと安心したようすで笑った。

 

「キャビッチ」母はとつぜん声を張り上げた。「リールムールクール、フー」

 

 目をまるくして口をすぼめる私のもとに、十個ほどのキャビッチがただちに飛んで来た。

 

 学校の、畑からだ。

 

「あ」私は両手と両腕の中に、落ちてくるキャビッチたちを受けとめながら、言葉をうしなってこっちを見ている先生たちの方をちらりと見て、すぐに目をふせた。

 

「なにはともあれ、キャビッチがあれば安心だわ」母は、先生たちの視線に気づきもせず言った。「たくさん持っていきなさい」

 

「あ」私は目をきょろきょろさせたけれど「うん」と最終的には、うなずいた。

 

 ごめんなさい……でも、今は特別だもんね。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「駅に行くの?」私はキューナン通りの上空に飛び上がってから父にきいた。

 

「いや」父は声を小さくして答えた。「その振りをして、森の方へ回ってくれるかな」

 

「森……あ、そうか」私は、父とユエホワが話していた内容を思い出した。

 

 つまり、ユエホワが鬼魔界からニイ類だかラクナドン類だかを連れてきて、父がその背中に乗って鬼魔界まで行く、という話だ。

 

 私はキューナン通りから駅の上空を通り過ぎて、祖母の家のある森へと向かった。

 

 町はすっかり遠くなり、祖母の家も通り過ぎて、いちども来たことのない森の奥深くまで、飛んでいく。

 

 夕暮れ時のうす暗い空の下で、おおきな樹木たちがしずかにたたずんでいる。

 

 その木の枝の上ではおそらく、サル型鬼魔のモケ類やボンキー類たち、あとリス型鬼魔のキュオリイ類が夕ごはんをもとめてとびまわっているんだろう。

 

 木の下では、シカ型鬼魔のスウォード類たちが走っているはずだ。

 

 もしかしたら、クマ型鬼魔のダガー類ものしのし歩いているかも――なるほど、こんな森の奥なら、ラクナドン類を連れてきても人間たちには見つからないだろう。

 

「ユエホワはどこにいるの?」私はスピードを少し落として、きいた。

 

「うん、この辺でいいよ。目印にラクナドン類のしっぽを木の梢からのぞかせとくって、言ってたんだけどね」父は答えながら、まわりをみわたす。

 

「しっぽを?」私は眉をひそめた。ラクナドン類のしっぽって、木の梢の上に出せるぐらいまで、長いの? そう思いながらも、とりあえずさらにスピードを落として大きく旋回飛行にうつった。

 

 すると。

 

「あ、あそこだ」父がそう言って腕を上げ指さした先に、巨大トカゲのしっぽのようなものが、木々の梢のあいだから空に向かって飛び出しているのが見えた。

 

 そのしっぽは伸びたりちぢんだり、左右にゆれたりくるくる回ったりしていて、なんだか気味が悪かったけれど、そこに向かって飛んでゆくしかなかった。

 

 そばに近づいてみると、そのしっぽは本当に巨大なもので、しっぽだけで私の身長の三倍ぐらいはゆうにありそうだった――ずっと動き回っているので、ちゃんと測ったわけではないけれど。

 

「この下におりてみよう」父がそう言い、私は箒に命じて、しっぽにぶつからない距離をとりながら、梢の間から暗い森の中へ下がっていった。

 

 しっぽの持ち主はなんと、大きな一本の樹木の、梢近くのほそい枝の上にちょこんと乗っかっていて、そのおおきな全身を――私の部屋に入れるかどうかというほどの大きさだ――ちぢこまらせて、ぶるぶるとふるえていた。

 

「うわ」私は目をまるくした。

 

「おお」父はため息まじりに感動の声をあげた。「ラクナドンだ……おお」

 

「おっせえよ」とつぜん、ユエホワの文句を言う声がどこからか聞こえた。「なにやってたんだよ」

 

 きょろきょろとあたりを見回すと、ラクナドン類のいる木のななめ向こう側の木の枝の上に、緑髪のムートゥー類は片ひざを立ててだるそうにすわっていた。



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27

「ああユエホワ、ごめんごめん」父は陽気な声で鬼魔に謝った。「ちょっと学校のみんなに、あの妖精から身を守るための魔法を教えてきたから、遅くなってしまったよ」

 

「身を守る魔法?」ユエホワは片ひざを立てたまま、眉をひそめた。「何の?」

 

「うん、簡単なマハドゥと、エアリイをね」父は答えた。

 

「うわ」ユエホワは目をぎゅっとつむって横を向いた。「またよけいなことを」

 

「もう学校へは来ない方がいいよ」私は目をほそめて忠告した。「みんなにやっつけられるから」

 

「俺がとろくさいガキどもにつかまるわけねえだろ」ユエホワが肩をすくめて言った。

 

「俺を誰だと思ってんだ」私も肩をすくめて、性悪ムートゥー類のものまねをしてやった。

 

「ははは、まあまあ」父が私の後ろで、おそらく眉をさげて苦笑しながらなだめた。「ともかく、待たせてすまなかったね。じゃあ、行こうか――ポピー、申し訳ないけれどもう少し、ラクナドンの方に近づいてくれるかな? 彼の背中に乗り移るから」

 

「うん、でも」私はあいかわらずほそい枝の上でぶるぶるふるえているラクナドンを見た。「あれ、だいじょうぶなの? あんなにふるえてるけど」

 

「ああ、飛び移るまで俺の魔力で立たせとくから大丈夫さ」ユエホワが軽くうなずいた。

 

「魔力?」私はおどろいてきき返した。「今これって、ユエホワの魔力で枝の上に立たせてるの?」ラクナドン類を指さす。

 

「うん」緑髪はまたかるくうなずいた。「しっぽ上に向けさせてな。空中でずっとつりさげとくのは骨が折れるから、枝の上に置いたんだ」

 

「なんか、かわいそう」私は本心で、ラクナドン類に同情した。「こわがってるんでしょ、この子」子、というほど、かわいいサイズのものではないけれども。

 

「これやってれば文句は言わねえよ」ユエホワは黒パンツのポケットから何かをとりだして、指でぴんっとはじき飛ばした。

 

 それまでふるえていたラクナドン類が、とつじょぴたっと止まったかと思うとぐわーと大きな口をあけ、ユエホワが飛ばしたものをうけとめ、もぐもぐ、ごくん、とのみこんだ。

 

「なにを投げたの?」私は大きく目を見ひらいた。

 

「プィプリプの実だよ」ユエホワはまた肩をすくめた。「鬼魔に言うこときかせる時のマストアイテムだろ」

 

 

 ぐおぉろろろぉぉん

 

 

 とつじょ、ラクナドン類がうなり声をあげた。

 

「うわっ」

 

「おおっ」

 

 間近にいた私と父はおどろいて、箒ごとびくっと飛び上がった。

 

「ちょっと、怒ったんじゃないの?」私は叫んだ。

 

「いや」後ろで父が否定した。「今のは『おいしい』って言ったんだよ」

 

「ええっ」私はもういちどおどろいた。

 

「んじゃ早いとこ、乗って乗って」ユエホワが両手を下から押し上げるようなしぐさをして、せかした。

 

 私は用心しながらラクナドン類に近づいていった――のだけれど。

 

「あっ、しまった」

 

 父がとつじょ大声でさけんだので、思わず三メートルぐらい後ずさってしまった。

 

「うわっ」

 

「なんだよ」私とユエホワが同時にさけび返す。

 

「ルドルフ祭司さまに会ってくるの、忘れてた」父が頭に手をおいて片眉をしかめていた。「何か、お守りをくださるんだよね」

 

「あっ、そうそう」私もそのときはじめて思い出した。「そうだよ、このまま鬼魔界に行くよりはぜったい会ってから行ったほうがいいよ。どうする、引き返す?」本音をいうと、そのまま父をつれて家に帰ろうと、そのときの私は思っていた。

 

「ばかいえ」ユエホワが疲れきったようにおでこに手を当てて首をふった。「勘弁してくれよいいかげん」

 

「ああ、そう、そうだよね。うん、じゃあもう、このまま」

 

「だめだよ」父があきらめそうになるのを、私はくい止めた。「鬼魔界に行くなら、ぜったい祭司さまに会うべきだよ。でないとあたし、ぜったい行かせないから」

 

「ポピー」ユエホワがうなり声で呼んだ。「お前、どこまで俺にさからえば気がすむんだ?」

 

「さからうってなに」私も負けずに言い返した。「そもそもあんたのいうことにしたがわなきゃいけないなんてこと、これっぽっちもないじゃん」

 

「ちょっと、お父さん」ユエホワは私を指さしながら父に言った。「お宅のお嬢さんをなんとかしてもらえませんか」

 

「はははは、いやいや、まあまあ」父はすっかりコンワクノキワミっぽかった。

 

「ここで待っとけばいいじゃん」私は地面をつきさすぐらいのいきおいで指さした。「ついでに」

 

「やなこった。ぜったいこのまま鬼魔界に行く」ユエホワは赤い目にすごみをきかせて私をにらみつけた。

 

「行かせない」私も一ミリたりとも目をそらさずにらみ返した。

 

 

「ここにいた」

 

 

 小さな声が、聞こえた。

 

 かと思うと、

 

「うっ」

 

 とつぜんユエホワが苦しそうな顔と声になって、目をとじた。

 

「えっ、なに?」

 

 私はきょろきょろとまわりを見回したけれどなにも見えず、なにも見えなかったけれどすぐに気づいていた。

 

 妖精だ。

 

 

 ばきばきばきばきっ

 

 

 その瞬間、ラクナドン類の乗っかっていたほそい枝が折れてしまい、海竜型鬼魔は地面に向かって落っこち始めた。

 

「あっ」

 

「ああっ」

 

 私と父は同時に声をあげたが、ラクナドン類はすぐに自分の翼をひろげてはばたかせ、再び上昇してきた。

 

 ラクナドン類をささえていたユエホワの魔力の効果が、消えてしまったのだ。

 

「手を焼かせやがって」野太い声が聞こえたかと思うと、いきなり二人のマント姿の人間が、ユエホワの前後をはさんで空中に浮かんで現れた。

 

「ユエホワ!」父が叫ぶ。

 

「う、くっ」ユエホワはなにか言おうとしたようだったけれど、声が出ないようだった――体も、動かないようだ。

 

 私はすでに、学校の畑のキャビッチを両手に持って箒の柄の上に立ち上がっていた。

 

「マハドゥーラ」父が叫ぶ。「コンティグドゥゼイクィッキィシュル」たぶん、そう言っていた――本当はもっと長く、何か言っていた。

 

 マハドゥの呪文の正規バージョンだ。

 

「ゼアム」マント姿の人間の一人、私たちに近い側にいる方が、ひとことだけ叫んだ。

 

「くそっ」父が苦しそうに言った。

 

 なんとマハドゥのあの難しくて長い呪文が、相手のたったひとことによってはじき飛ばされたのだ。

 

「ディガム」別の方のマント姿の人間が、続けてそう叫ぶ。

 

「くっ」なんと父までもが、苦しそうな顔と声になって身動きとれない状態になってしまったようだった。

 

「パパ」私は父を呼び、それから前方のマント姿の二人に視線を向けた。

 

 私しかいない。

 

 今この者たちを、しりぞけられるのは。

 

「ゼアム」さっきさけんだのと同じ呪文を、手前のマント人間がもういちど叫んだ。

 

 私は二個のキャビッチを、両腕をクロスさせ同時に放った。

 

 一個はまっすぐ、もう一個はカーブを描いて、それぞれマント人間のみぞおちのあたりを直撃した。

 

「うぐっ」

 

「なぜ効かない」

 

 マント人間たちは上体を折ってうめいたけど、もちろんその一撃だけで相手を再起不能にさせることはできなかった。

 

 私は次のキャビッチを取り出し、再度両手にのせ、頭上たかくもちあげた。「リューイ、モーウィ、ヒュージイ」巨大化魔法をかける。

 

 両手のキャビッチ二つはくっつき合って、直径三メートルほどの大きさにふくれ上がった。

 

「ディガ」向こう側にいるマント人間が呪文をとなえかけたが、それが終わる前に巨大キャビッチが猛スピードで突撃していた。

 

 三人とも、木の枝から下に落っこちた。

 

 二人のマント人間と、ユエホワと。

 

「あ」私は思わず手をのばしたが、とてもユエホワには届かなかった。「しまった」

 

「うわあああ――」三人はどんどん小さくなっていった。

 

 

 そのとき。

 

 

 まるで光がさしこむように、木々の間を抜けてその人は飛んで来た。

 

 そしてユエホワを受けとめ、すばやく梢ちかくまで、駆けのぼってきた――箒で。

 

 それは、祖母だった。



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28

「おばあちゃん」私はぼう然と呼んだ。「どうしてここにいるの?」

 

「あなたたちがうちの上を通り過ぎて行ったから、追いかけてきたのよ」祖母は答えながら、梢近くで翼をゆっくり羽ばたかせているラクナドン類に近づいていった。

 

「あ、危ないよ」私は思わず手をさしのべた。

 

「あなた、この子を乗せてちょうだい」祖母はかまわず、ラクナドン類の背中の上に箒ごと乗りあげ、完全に気をうしなって祖母にくったりともたれかかっているユエホワを海竜型鬼魔の大きな背中の上に寝かせた。

 

 ラクナドン類は、ほえたり、身ぶるいしたりいっさいせず、だまっておとなしく祖母の好きなようにさせていた。

 

「えっ」私は目をまるくした。「なんでこの鬼魔、怒らないの?」父に振り向いてきく。

 

「おばあちゃんの右手を、よく見てごらん」父がそっと答える。

 

 言われてあらためて祖母を見ると、その右手にはたしかに、ごく小さな、てのひらの半分あるかどうかというぐらいの大きさのキャビッチが、のせられていたのだ。

 

 そしてそのキャビッチは、赤く、ふわ、ふわ、ふわとまたたいていた。

 

「かなりのダメージを受けているわね」祖母はユエホワの頬に手を当てて、様子を観察した。「これは、キャビッチでやったの? ポピー」

 

「う」私は、マント人間に魔力をかけられてもいないのに声をつまらせた。「ごめんなさい」思わずあやまる。いや、なんであやまる必要があったんだろうか。

 

「そう」祖母は、ふ、と短くため息をついた。「三人落ちていってたけど、一個のキャビッチでいちどきに攻撃したの?」

 

「う、うん」私はうなずいた。「リューイで……小っちゃいキャビッチだったから二個合わせて」

 

「うーん」祖母は腕組みして空を見た。「倒すべき相手は二人だったのでしょ。ならば合わせてではなく、一個ずつそれぞれにリューイを同時にかけて投げるべきだったわね。そうすればユエホワまで巻き込まずにすんだでしょう」

 

「はい」私はうつむいてうなずいた。

 

「けれど、ぼくは相手の魔力で魔法も身動きも封じられてしまったけども、ポピーにはそれが効かなかった」父が、首を振りながら言った。「マハドゥが……さっきポピーが学校で唱えたマハドゥの効力が、今までずっと続いていたということだ。素晴らしい」声をふるわせる。

 

「え、そうなの?」私はおどろいて父を見た。

 

「まあ」祖母が大声を出したので、私は少しびくっとなった。「マハドゥが使えるようになったのね。素晴らしいわ」

 

「あ、え、えへへ」私は少しだけ笑顔になって言った。

 

「あとはそのマハドゥと、今のリューイとを同時がけできるようになれば、申し分ないわね」祖母はなんどもうなずきながら、まるで私の今後のレッスンスケジュールを頭の中でコウチクしているかのようにぶつぶつとひとり言をつづけた。

 

「同時がけ」私は思わず眉をひそめながらくり返した。うう、またむずかしそうなことをおぼえなきゃいけないんだ……

 

 

「ガーベランティ」

 

 

 小さな声が、聞こえた。

 

 私たち三人は、いっせいに口をとざし、目を大きく見ひらいた。

 

 妖精。

 

「どこにいるの」私は一瞬でキャビッチを手にした。

 

「お待ちなさい」祖母がすばやく止めたかと思うと「ヴェニュウ」と唱え、手にしていたキャビッチを頭上たかくさし上げた。

 

 まわりが、音もなく暗闇になった。

 

「えっ」私はびっくりしてきょろきょろと見回した。

 

「闇を呼ぶ魔法だよ」父がすばやく説明する。「ヴェニュウだ」

 

「ヴェニュウ――あっ」私は思わず箒の上で半歩あとずさりした。

 

 なぜかというと、祖母の呼び寄せた闇の中、そのまっくらな中に、まっ白でごくちいさな、雪のような光が、ふわりと浮かんでいたのだ。

 

 私の、すぐ目の前で。

 

 ついに、見つけた。

 

 この光が、妖精なんだ。

 

 私は少しのあいだ、ことばを口にすることもできずにいた。

 

 とても小さく、ふんわりと輝く、妖精。

 

 その輝きは、眩くて目を向けられないというものではなく、逆に、ずっと目で追いたくなるような、とても不思議で、心をくすぐって、愛らしいものだった。

 

 私は無意識のうちに、その光に両手を丸くして差し伸べていた。

 

 光の妖精は私の望み通り、ふんわりと手の中に飛んできてくれた。

 

 妖精が羽をそっとたたむと、白い光はすうっと消えてゆき、そして妖精の可愛らしい顔が――

 

 

「こんにちは」

 

 

 私を見上げてにっこりと笑うその笑顔は、私の祖母と同じくらいの年齢の、お婆さんのものだった。

 

「うぁ」私は無意識に、目と口を大きく開き喉の奥からうめき声を挙げてしまった。

 

「あなたは私の、昔のお友達に似ているわ」小さな、雪のようなお婆さんの妖精はにこやかに私に話しかけた。「ガーベランティっていうのだけれど、ご存知かしら?」

 

「え……ガーベラ、ンティ?」私はそっとくりかえしながら、祖母を見た。

 

「ハピアンフェル」祖母はまばたきもせずその妖精を見つめていたが、消えちゃいそうな小さな声で言った。「あなた……ハピアンフェル……なの?」

 

「ええ」小さな生き物は祖母の方へふりむき、小さな頭を大きくうなずかせた。「そう、ハピアよ。ああ、ガーベランティなのね」

 

「ハピアンフェル!」祖母は両手で頬を抑えて叫んだかと思うとその両手を前いっぱいに伸ばし、私の手からその中へまっすぐに飛んでいった小さな生き物をやさしくつつみこんで、胸元に引き寄せた。

 

「ガーベランティ!」小さな生き物も祖母の手の中で叫び、すっぽりとおおい隠されながらもその中できらきらと輝いていた。

 

「友だち?」私はぼう然とそうきくしかなかった。

 

「そうだったのか」父もぼう然と私のうしろでつぶやいた。「昔の、友だちだった――妖精とお母さんは、森の中でいっしょに遊んだ仲なんだ」

 

「ずいぶん、ひさしぶりだわ……二人とももう、すっかり大人になったわね」祖母がそっと手をひらいてそう言い、うふふ、と肩をすくめて笑う。

 

「なりすぎぐらいだわ」妖精――ハピアンフェルもそう言って、くすくすと笑う。

 

「私はもう、おばあちゃんよ。さっきあなたが話しかけた子が、私の孫なの」祖母は両手を注意深く動かして、ハピアンフェルに私の姿が見えるようにした。

 

「ポピーです」私は自己紹介をして「こんにちは」さっきはきちんとできなかったので、ぺこりと頭を下げあいさつした。

 

「こんにちは、ポピー」ハピアンフェルは羽をひろげてもういちど白い光に包まれながら、祖母の手の上でふわりとすこしだけ飛び上がった。

 

「ぼくは、マーシュです。ポピーの父親です。よろしく、ハピアンフェルさん」

 

「こんにちは、マーシュ。私の本当の名前は、ハピア。でもハピアンフェルと呼んでくださるとうれしいわ」

 

「うふふ」祖母がまた笑う。「本当になつかしいわ。ハピアンフェル」

 

「うふふ」ハピア――ハピアンフェルも笑う。「本当になつかしいわね。ガーベランティ」

 

「ええと」父はその質問を、どうしても胸の中にしまっておけないようだった。「その、長い名前は――何なんです? あだ名?」遠慮がちにたずねる。



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29

「うふふ」祖母と妖精はたがいに顔を見あわせ、おかしそうに肩をすくめて笑った。「そうよ、二人とも当時は自分の名前のみじかさに不満を持っていて、それで自分たちできれいで長い名前をつけて呼びあっていたの」祖母が説明する。

 

「へえ」父は、理解はしたけど意味がわからなさそうな顔と声で返事した。

 

 けれど私は、ものすごくよくわかった。

 

「すてき!」なので私は、両手を組みあわせてさけんだ。「いいなあ、そんな名前、私もつけたい! ポピーもみじかすぎるもん!」

 

「まあ、そうね」祖母は私を愛しげにみつめた。「たしかに、フリージアときたら自分の名前が長すぎて自己紹介のときめんどくさいなんて言ってて、だからあなたの名前は短く『ポピー』にしてしまったのよ。私は反対したんですからね、あまりにもみじかすぎてかわいそうだ、って。ほらやっぱりね」

 

「ああ、そういえば」父も、母との昔のやりとりを思い出したようだった。「ぼくにも、私を呼ぶときは『フリー』か『リージ』、どうせなら『リー』でいいって、よく言ってたっけ」

 

「んまあ」祖母は嘆かわしげに額に手を当て空を仰いだ。「そんな、男の名前みたいな呼び方を」

 

「ポピーメリアはどう?」妖精――ハピアンフェルがきらきら輝きながらそう提案してくれた。

 

「わあ、素敵」私は心の底から感激した。「ポピーメリア、その名前にする! ありがとう、ハピアンフェル」

 

「どういたしまして、ポピーメリア」ハピアンフェルは空中でくるくる、きらきらと回った。

 

「よかったわね、ポピーメリア」祖母もますます愛しげに微笑んで私の髪を撫でた。

 

「そうかなあ……ポピーでいいと思うけども」父がものすごく小さな声で言ったけれど、皆聞えない振りをしていた。

 

 

「そうか……私の家のまわりに時々やってきていたのは、ハピアンフェル、あなただったのね」妖精からいままでの話をくわしく聞くことになり、祖母はうなずきながら言った。

 

 辺りはいまだ、祖母の魔法――ヴェニュウによって、暗闇に包まれていた。

 

 そうしないと、ハピアンフェルの姿を見失ってしまうからだ。

 

「でも、ガーベランティがあのすてきなお家の住人だということはまったく知らなかったの」ハピアンフェルはふわ、ふわ、と白く輝きながら話した。「ただキャビッチ畑を見て、懐かしいなって思ってただけ」

 

「そうだったの……私もてっきり鬼魔が来ているのだとばかり思っていて、あなただとは思いもしなかったわ。ねえハピアンフェル、あなたはこの何十年ものあいだ、どこにいたの?」祖母はたずねた。

 

「私は……私たちはいま、ある人たちに、飼われているの」ハピアンフェルの答えは、私たち全員が思わず息をのむほどに、おそるべきものだった。

 

「なんですって」祖母が声をかすらせた。「飼われて……いる?」

 

「なんということだ」父も、ささやくように声をふるわせた。

 

「だれが?」私は『飼われる』ということばが本当にはなにを意味するのか、たぶん父や祖母ほどにはわかっていないのだろうけれども、ただそれがすごく、妖精たち――この小さな生き物にたいして失礼きわまりない、ひどいことなのだというのだけは感じていた。「だれがそんなことを?」

 

「ええと」ハピアンフェルは少し考えた。「アポピス、類?」

 

「なんだって」叫んだのは父だった。「アポピス類――ヘビ型鬼魔の?」

 

「やっぱりな」ユエホワのつぶやき声が聞こえ、全員がそちらを見た。

 

「ユエホワ!」父が呼び、

 

「まあユエホワ、大丈夫? ごめんなさいね、ポピーがあなたにまでキャビッチをぶつけてしまって」祖母が私に代わってあやまった。いや、なんであやまる必要があるんだろう?

 

「あ、大丈夫、です」ユエホワはラクナドン類の背中の上でのそのそと起き上がり、祖母にぺこりと頭をさげた。「痛かったけど」ごく小さく、言わなくてもいいことをつけたす。

 

 私はかたく口をとざしていた。

 

「ユエホワソイティ」ハピアンフェルが緑髪鬼魔に声をかけた。「気分はどう?」

 

 全員が一瞬、おしだまった。

 

 私のなかでは、前にいちど、その名前が呼ばれるのを聞いた記憶がよみがえっていた。

 

 それは誘拐されたユエホワを森の中から助け出して、そこから脱出する直前に聞こえた声だった。

 

 あれはつまり、ハピアンフェルが呼んだものだったのだ。

 

 ユエホワは聞こえなかったかのように、返事もしなかった。

 

「ユ」父がもういちど呼んだ。「ユエホワ」

 

「俺、このまま鬼魔界へ戻ります」ユエホワはぼそぼそと告げた。「あいつら――アポピス類のこと、ちょっと確認したいから」

 

 そしてラクナドン類の背中をぽんっと叩くと、海竜型鬼魔はばさりと翼をはためかせ、ユエホワを乗せたまま空たかく飛び上がっていった。

 

「あ、う、うん」父は思わず手をさしのべかけていたが、さすがに祖母のいる前で自分もいっしょに乗せていってもらうことはできなかったようで、ちょっと悲しそうな顔をしながらも、あきらめていた。

 

 私も何も言わずにいたが、ほっとしていた。

 

「気をつけてね、ユエホワ」祖母だけがムートゥー類に気づかいのことばを下から投げかけた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 母には、ツィックル便で事情を説明し、祖母の家に私も父も泊まらせてもらうことになったと伝えた――事情というのはつまり、父が旅に出る前に祖母にあいさつしたいというので祖母の家に立ち寄るとちゅう、また妖精と、妖精をあやつる鬼魔に出くわしてしまい、祖母もいっしょに闘ってくれてなんとか撃退したが、終わったころはもうすっかり日がくれていた、という事情だ。

 

 まあちょっと、事実とはちがうかもしれないけれど。

 

 母からの返信は、すごく驚いたし心配だけれど、無事ならばよかった、おやすみなさい、お母さんありがとう、という、わりと短めのものだった。

 

 

「アポピス類に飼われることになってから……私たちは、彼らのためにいっしょうけんめいに働いてきたわ」ハピアンフェルは、祖母がお皿のうえに敷いたツィックルのやわらかい葉っぱの上にすわり、話してくれた。

 

 ツィックルの葉は、生まれたてのころはとてもやわらかくみずみずしい黄緑色をしているけれど、成熟すると黒っぽいぐらいに濃い緑色になるため、その上にいればハピアンフェルの白く光る小さな姿を見失わずにすむ。

 

「だけど、そもそもどうしてアポピス類があなたたちを飼う、なんていうことになってしまったの? いったい誰がそれを決めたというの?」祖母は、それが誰なのかわかりしだい、話し合いに出かけてゆきそうなようすで熱心にたずねた――その話し合いにおもむくときの祖母の手の上には、きっと赤くまたたくキャビッチが乗せられていることだろうと、私にはたやすく想像できた。

 

「それは、いまもわからないの……あのころは私も、ほんの小さな子どもだったものだから、ただ大人のいうことにしたがうほかなかったのよ」ハピアンフェルは少しだけつらそうな、かなしそうな顔をした。

 

 私は、だれかがそういう表情をするのを見ると、いつも胸のまんなかに剣をさされたみたいに、ぐっといたくなってしまう。

 

 そうして――

 

「当たり前に助けなきゃって思うだろ」

 

 なぜか、ユエホワの声がそう聞こえた。

 

 そうだ。

 

 以前、ユエホワにそんなことを言われたことがある。

 

 だって、それは当たり前じゃない?

 

 ユエホワはたしかそのとき、そんなことを思うのは私が子どもだからで、誰しもがそれを当たり前に思うわけじゃない……みたいなことを言っていた。



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30

「でもそんなある日、私は聞いてしまったの」ハピアンフェルは話をつづけた。「アポピス類たちが『妖精にユエホワを探させて、さらってこよう』と話しているのを」

「まあ」祖母も、

「なんだって」父も、

「ユエホワを?」私も、おどろいた。

「人をさらうなんて、私はどうしてもいやだと思った」ハピアンフェルは首を横にふった。「それでその日私は逃げ出して、聖堂の屋根のところにいたの」ハピアンフェルは話した。「あそこにいれば、鬼魔が近づいて来ないから」

「ああ」私たちは納得してうなずいた。確かに、聖堂近くにふらふら近寄ってくるわけのわかんない鬼魔なんて、ユエホワぐらいのもんだ。

「そうしたら、見つけたの」ハピアンフェルはにこりと微笑んで、私を見た。「昔のガーベランティによく似た、お嬢さんを」

「あ」私は目をまるくした。「あたし?」自分を指さす。

「ええ」ハピアンフェルはうなずく。「何かかわいらしいバスケットを持って、楽しそうに聖堂の女の人たちとお話をしてから、森の方へ向かって行った……私は、まさかガーベランティ本人のはずがないとは思ったのだけれど、もしかしたら何かゆかりのある子ではないかと思って、そっと後をつけていったの」

 私はなんどもうなずいた。

 あの日だ。

 母に頼まれて、ドレスの生地をこの祖母の家まで持って来た日。

「そうか、それであのとき『ユエホワってだれ?』って、きいたんだ」思い出しながら言う。

「そうよ」ハピアンフェルはうなずいた。「びっくりしたわ。ユエホワを知っているなんて……この娘さんは、アポピス類なのかと思った」

「ええっ」私は思わず片眉をしかめてしまった。

「まあ」祖母は両手で口をおさえて高らかに笑った。「おほほほほ。可笑しい」

「あはは、まあ確かにアポピス類も人型に姿を変えていることが多いですからね」父は眉を下げて、こまったように笑った。

 私は、自分の体がヘビ型になっているところを想像してみたが、あまりの気味の悪さに一瞬でうち消した。

 と同時に、あることをふいに思い出した。「あっ、そういえばユエホワも言ってた」

「あら、何を?」祖母と、

「へえ、何を?」父が同時にきく。

「たぶんやつらが狙ってるのは俺だから、お前に手をくだすことはないと思う、って」

「まあ……」祖母と、

「それは……」父が同時に考えこみはじめた。「ユエホワは、自分をさらったのがアポピス類だということに気がついていたんだね」

「けれどどうしてなのかしら、アポピス類はどうしてユエホワを」

「赤い目をしているからじゃないかしら」ハピアンフェルが意見を言った。

「赤い目を?」祖母と父が同時にきき返す。

「ええ。それもアポピス類の者たちが話しているのをちらりと聞いたのだけど」ハピアンフェルはうなずく。「同じ赤き目を持つ者として、あのムートゥー類の精鋭にはぜひとも仲間に加わってもらいたい、って」

「まあ」祖母と、

「おお」父がため息をついた。「さすがだな。やはり鬼魔の世界でも彼は優秀な存在として認められているんだ」

「素晴らしいわ」

 私はあえてなにもコメントしなかった。

 まあ、父の言っていることは私もなんとなく、知っているけれど。

 でもそうかといって、あの緑髪をほめる気にはならない。

 ほんの少しだけ、わからないようにため息をつく。

 あの日――ユエホワと私が最初に出会った日、あいつが私の命を絶とうとしたあの光景を、父や祖母が見たら、今どんな気持ちになるだろう?

 そしてあの光景を見たとしても、二人は今と同じようにあの鬼魔をほめたたえるだろうか?

 母は、あの光景を見た。

 見たから、今でもユエホワのことを、本当に心から憎み嫌っている。

 おそらくそれは、誰が何と説得しようと、永久に変わらないと思う。

 そう、信じたい。私は。

 私自身は――ユエホワを、憎み嫌っているのかどうかといえば、なんというか――ビミョウなところというか――ううん――

「でも私は」ハピアンフェルが話をつづけたので、私の考えはたちまち消えた。「あなたに――ポピーメリアにユエホワのことをもっと聞こうとしたそのとき、あの森で鬼魔たちにみつかって捕われてしまったの」ハピアンフェルは自分の両肩を抱いて身ぶるいした。「ひどい人たちだわ」

「そうだったんだ……でもその鬼魔の姿も、あたしには見えなかったけど」私は不思議に思ってたずねた。

「そう」ハピアンフェルはうなずいた。「アポピス類は私たち妖精の、光をあやつる力を使って、姿を見えなくさせることができるようになってしまったの」

「ええっ」私と、

「まあ」祖母と、

「すごいな」父とが同時に驚きの声をあげた。

「だけどそれをするには大勢の妖精たちが集まって、それぞれ死に物狂いで力を使い続けなければならなくて」ハピアンフェルはそこまで言うと、ぎゅっとその小さな瞳を苦しげにとじた。「中には命をうしなう者まで出るくらいなの」

 私たちは、絶句した。

 しばらく、ランプの灯火だけが音もなくゆらめいていた。

 

          ◇◆◇

 

 ミイノモイオレンジの甘い香りが温かい湯気となって、息を吸いこむと全身がとってもリラックスする。

 私は祖母の家の、陶器でできたおしゃれな花柄の湯船で、お風呂を使わせてもらっていた。

 お湯に浮かべたミイノモイオレンジの花びらが、金色に近いオレンジ色にかがやいていて、それを見ているだけでも心が安らぐ。

 ハピアンフェルのつらい話は、アポピス類が姿を消せるようになったというところまでで終わりとなった。

 祖母が、みんな疲れているだろうからまたにしましょうと決めたのだ。

 たしかにハピアンフェルは、もう声を出すのさえもつらそうに、小さな肩をふるわせて必死で悲しみに耐えていた。

 アポピス類――その名は、じつをいうと私は今日はじめて知った。

 鬼魔にも本当にたくさんの種類、種族がいて、まだまだ私の知らないものもたくさんあるはずだ。

 ヘビ型鬼魔、と父はいっていた。

 だけど人の姿になっていることが多い、と。

 あの、森でユエホワをさらっていこうとしたマント人間たちが、きっとそうなのだろう。

 人間の言葉も話していた。

 そして、何か呪文も。

 聞いたことのない、呪文だった。

 体の自由を奪う呪文と、魔法を打ち消す呪文。

 父は、知っているのだろうか。

 祖母は?

 いろいろ考えていると、なんだか頭がくらくらしてきた。

 のぼせたかも知れないと思ってあわててお湯から出ようとしたら、あやうくもう少しで足をすべらせてしりもちをつくところだった。

 お風呂からでると、祖母が冷たいレモネードを渡してくれて、ごくごくといっきに飲んだ――ああ、幸せ!

「髪を拭いてあげるわ。いらっしゃい」祖母は手まねきして私をクッションの上に座らせ、サラミモアコットンのタオルで私の髪を少しずつ取ってはていねいに拭いてくれた。

 サラミモアコットンの繊維は、水分を無限に吸い込む。

 だからどんなに拭いてもすぐにさらりとかわいてしまうのだ。

 なので洗濯をするときには普通、ミイノモイオレンジの皮油につけて汚れを吸い込ませたあと、流水の中にさらして汚れごと油分を流し出すようにする。

 けれど祖母のように魔力に長けている場合は、キャビッチを使って汚れの成分だけをとりのぞく魔法を使えばあっという間にきれいになる。

 髪をさわられていると気持ちよくて、すわったまま眠ってしまいそうになる。

 けれどそのときなぜか急に、はんぶん夢を見ていたその夢の中にアポピス類たちが出てきて私ははっと顔をあげたのだった。



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31

「どうしたの?」祖母が手をとめて、ふしぎそうにきく。

 

「おばあちゃん、ここだいじょうぶなのかな」私は肩ごしに振り向いてきいた。「アポピス類たち、襲ってこないかな」

 

「ああ」祖母は軽くうなずいた。「だいじょうぶよ。心配しなくても家がちゃんと守ってくれるわ」

 

「え」私は目をまるくした。「家が?」

 

「ええ」祖母は自信たっぷりに大きくうなずいた。「この家は、すべてツィックルの木でできているから、鬼魔が来ても追い払ってくれるわ」

 

「ツィックルで……へえ」天井を見上げ、見回す。「あれ、でもユエホワは?」

 

「彼はあなたのお友だちだから、私が排除しないように言いつけたのよ」祖母はにっこりと笑う。

 

「いや」私はあわてて両手をぶんぶんと振った。「全然ちがうよ」

 

「私がどうして町に住まないかというと」祖母は私の否定をあまり真剣に受け止めてくれなかった。「これができないからなのよ」

 

「え?」

 

「町の中に建てる家は、その二割以上はミイノモイオレンジの木を使ってつくらないといけないという法律があるの」

 

「そうなの?」

 

「そう。町を治める評議員たちが、ミイノモイオレンジ栽培協会と協定を結んで、そういう法律を作ったのよ。はるか昔にね」

 

「へえ……」

 

「だから私は森の中で、ツィックルだけを使って建てた家に一人住んでいるというわけ」

 

「でも、どうしてミイノモイを使った家じゃだめなの?」

 

「もちろん、それだけ魔法の力が小さくなるからよ」

 

「あ」

 

「ミイノモイオレンジはもちろん好きよ、お茶にしてもケーキにしても、お風呂に入れてもね」ウインクする。「ただ家の材質にだけは、申し訳ないけれどツィックル以外使うわけにはいかないわ」

 

「そうなんだ」私はうなずいた。

 

「さ、髪はこれでいいでしょう。私はあなたのドレスの仕上げをしてから寝ることにするわ」祖母はタオルを洗濯場まで魔法で飛ばし、代わりにお裁縫セットを飛んで来させた。

 

「うわあ」私は両手を胸の前で組み合わせてため息をついた。「きれーい」

 

 祖母お手製のワンピースは、しなやかで、袖がふっくらとかわいくふくらんでいて、ほんとうにお姫さまが着ているようなシルエットだった。

 

「うふふ」祖母もうれしそうに笑う。「明日からはいよいよ、刺繍を入れていくわ」

 

「わあい」私は組み合わせた手を左右にゆらした。「楽しみ!」

 

「ハピアンフェルと最初に出会ったのはね」祖母は針をすすめながら、思い出を話しはじめた。「私がまだ魔法学校に上がる前――今よりも若い木がたくさん生えている森の中で、ほかにもたくさんの粉送りたちが飛んでいるところだったの」

 

「粉送り?」私は首をかしげてきいた。

 

「そう。森に棲んでいて、木々の花粉を運ぶ役目を負う、妖精の中でもいちばん小さな生き物――虫でもなく鬼魔でもない、私たちの目にはめったに見ることができないけれど、でも確かに存在する者たち。一種の植物につき一種の粉送りが存在しているの」

 

「知らなかった」私は目をまるくした。「どうして学校では教えないの?」

 

「そうね、それはやはり」祖母はぱちん、と糸をはさみで切ると、できたてのドレスを両手で持ち上げ、椅子からたちあがった。「粉送りをはじめ、すべての妖精たちが姿を消してしまったからでしょう」

 

「そうか……」私は小さくうなずいた。「みんな、忘れてしまったのかな」

 

「そうね」祖母も少しさびしそうに首をかしげた。「アポピス類たちのしたことは、決して許されることではないわ」

 

「うん」私は大きくうなずいた。

 

「さあポピー、ちょっと立ってみて」祖母は両手の中のドレスを、立ち上がった私の方に差し出し、あてがってみた。「うん、ちょうどいいサイズに仕上がってるわ」にっこりと笑う。

 

「うん」私は、できたてのドレスを見つめてうれしく思いながらも、頭の中では祖母のいう“粉送り”たちのことを考えつづけていた。「おばあちゃん」

 

「なあに?」祖母は優しく微笑む。

 

「あたし、助けたい」まっすぐに祖母を見る。「ハピアンフェルの仲間たちを……妖精たちを」

 

 祖母は少しのあいだじっと私を見つめたあと「ええ」と深くうなずいた。「まずは、ユエホワが戻ってくるのを待ちましょう」

 

「ユエホワを?」私は、あえてきいた。

 

「そう。彼がきっとなにか、役に立つ情報を私たちに知らせに来てくれるわ」

 

「でも」私は少しうつむいた。「ユエホワも、鬼魔だよ?」また、あえてきく。

 

「だけど、アポピス類に対しては彼も物申したいところがあるでしょうし、それに」言葉をきる。

 

「それに?」顔をあげてきく。

 

「あなたのお友だちだから」祖母はウインクした。

 

「――」私は片手をあげて口をあけたけれど、もう「全然ちがう」というのもなんというか、あきたので黙っていた。

 

「ハピアンフェルはね」祖母はできあがったドレスを、ハンガーにかけながら言った。「ツィックルの木の、粉送りなの」

 

「ツィックルの?」私はまた目を丸くした。

 

「ええ」祖母は目をとじた。「私の箒は、彼女が花粉を運んで種子を実らせ、その種子から芽を出して育ったツィックルで、作ったものなの」

 

「すごい」私は目を大きく見ひらいた。「いいなあ」

 

「うれしかったわ」祖母は、部屋の片隅に立てかけてあるツィックル箒をいとおしげに見やりながら言った。「私の命がつきるまで、決して手離さないわ」

 

「うん」私はうなずきながら、ふとヨンベのことを思い出した。

 

 私のキャビッチが実ったら、最初に使ってね、と言ってくれた、ヨンベの言葉を。

 

「さあ、明日も学校だから、もう寝ましょう」

 

 祖母の言葉にうながされて、私は寝室へ向かい、天窓から星空をほんの少しながめたあと、ぐっすりと眠りこんだ。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 目ざめた朝は、ふだん自分の家で迎えるものよりもすごくしずかで、窓をあけるときりっと澄んで引きしまった空気が流れこんできて、木々と草の香りを強く感じた。

 

 いろんな、聞いたことのない鳥の声が聞こえる。

 

 そして、祖母がすでに用意してくれている朝食の、香ばしくて甘い香りが鼻をくすぐる。

 

 私は大きくのびをして、部屋から出た。

 

 そのまま庭に出て、透明なボウルにセレアの水をたくさん汲み、顔を洗う。

 

 とっても気持ちのいい朝だ。

 

 サラミモアコットンのタオルで顔を拭きながら、今日も真っ青に澄む空を見上げる。

 

「おはよ」

 

 突然そんな声が聞こえた気がして、思わず頭を振る。

 

 真っ青な空には、何の影も見えない。

 

 空耳だ。

 

 私は、ふうっと大きく息をつき、父と祖母と、小さなハピアンフェルといっしょに朝ごはんをいただいた。

 

 ハピアンフェルのごはんは、ミイノモイオレンジの果汁と、プィプリプの実を粉にしたものだった。

 

 私たちもミイノモイオレンジジュース、プィプリプのパン、祖母お手製のベーコンとキャビッチの柔らかい葉っぱのサラダなどいただいて、森の木々のさわさわと揺れる音に見送られながら、学校に向かった。

 

 父は祖母とともに、ユエホワの戻りを待つようだった。

 

 でも私はなんとなく、予想していた。

 

 にぎやかに鳴いていた森の鳥たちが、なんだか静かになっていたからだ。

 

 森の木々の梢の上を通り過ぎて、まもなくキューナン通りにたどりつくところで、その予想は当たった。

 

「妖精から何か話聞けたか?」

 

 声のした方に目を向けると、ユエホワが緑髪をなびかせながら私の箒と並んで水平飛行していた。



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32

「聞けたよ」私は答えてから「おはよう」とあいさつした。

 

 ユエホワは、とくに何も言わなかった。

 

「あいさつできないの」私はむっとしてそう言った。

 

「さっきしたじゃん」ユエホワは悪びれもせずそう答えた。「ばあちゃんちの屋根の上で」

 

「えっ」私は箒で飛びながらびっくりした。

 

 じゃあさっきのは、空耳じゃなかったんだ――

 

「んで、何て言ってた?」ユエホワはかまわず質問をつづけた。「妖精のやつ」

 

「やつって」私は眉をひそめた。「ハピアンフェルだよ」

 

「どうでもいいよ名前なんて」ユエホワは水平飛行しながら、ぷいっとそっぽを向いた。

 

 私は口をとがらせた。「くわしい話なら、直接聞けばいいじゃん。朝ごはんもあったのに、なんでさっき入って来なかったの? おばあちゃんちに」きき返す。

 

「会いたくねえんだよ」ユエホワはいやそうな顔をした。「あのちっちぇーやつに」

 

「ハピアンフェル」私はもういちど名前を教えた。「――まあ、そうかも知れないけど、でも妖精たちはアポピス類にあやつられてるって、ユエホワも知ってるんでしょ?」

 

「まあな」緑髪は空中でくるりと体勢を変え、あおむけになって両手を頭のうしろで組んで水平飛行をつづけた。「けど、なんでまた俺をさらおうとしたのかが、はっきりしねえんだよな」

 

「――」私は飛びながら、少し考えた。「あれだからじゃない?」

 

「何」ユエホワはあおむけのまま、顔だけ私に向けてきいた。

 

「赤い目をしてるから」ハピアンフェルの受け売りだ。

 

「それだけなわけないだろ」ユエホワはまたぷいっと上を向いた。

 

「あのあれ」私は、あんまり言いたくもなかったけれど、ハピアンフェルが聞いたということを口にした。「ムートゥー類の、セイエイかなんか、だからとか」

 

 ユエホワが何も言わずにいるので、私はちらりと横目で隣を見やった。

 

「あいつら」やがて、ごく小さな声で、ひとりごとのようにユエホワはつぶやいた。「まさか……な」

 

「なに?」こんどは私が顔だけユエホワに向けてきいた。

 

「いや」けれどユエホワは小さく首を横にふっただけで、それ以上はなにも言わなかった。

 

 私たちは無言で、町の方へ向かって飛びつづけた。

 

 飛びながら私は、あのマント人間たちといっしょくたにして巨大化キャビッチをぶち当てたことを、あやまらないといけないのか、あやまるべきか、知らんふりしておこうかと、心の中でものすごくいったり来たり、迷っていた。

 

「きのう」その時ユエホワが、ものすごく小さな声で、ものすごく早口で言った。「ありがとな。助けてくれて」

 

「えっ」私はびっくりして緑髪鬼魔の方を見た。

 

 でも、そういえば、そうだ。

 

 あのとき、たしかにキャビッチをぶち当ててはしまったけれど、そもそも私はこの鬼魔をあのマント人間たちから助け出すために、それを投げたのだ。

 

 そうだったのだ。

 

「うん」私はうなずいたけど、ユエホワがそのまま、何も言い返してこないので、なんだかもじもじしてしまった。「あ、キャビッチぶつけてごめん」なのでつい、ものすごく小さな声で、ものすごく早口であやまってしまった。

 

「――」ユエホワは横目でちらりと私を見た。

 

 私もちらりと横目で見返した。

 

「前から思ってたんだけど」ユエホワが言う。

 

「うん」私はうなずく。

 

「お前のリューイの呪文ってさ」ユエホワはくるりと体勢を変え前を向いて、遠くの方をながめながら言った。「ほんとキャビッチ、ばかでかくなり過ぎ」

 

「え?」私は一瞬、なにを言われたのかよくわからず、目をまるくして鬼魔の横顔をしげしげとながめた。

 

「普通、リューイの呪文ででかくさせられるのはさ」ユエホワが言いながら右腕を前にのばし、手のひらを上向きにひらいた。「この手の上にのせられる程度の大きさのもので、まあ……四、五十センチ。よっぽど魔力が強いやつでも一メートルいくかいかないかぐらいのもんだぞ」

 

「へえー」私は、金色の爪を持つムートゥー類の右手をながめながらうなずいた。

 

「それがお前のリューイときたら」ユエホワはひらいていた右手をぎゅっとにぎりしめた。「こーんなちっせえやつを、一メートル以上も巨大化させてんだろ」

 

「ああ」私は、自分がリューイを使うときのことをつらつらと思い出して納得した。「うん」うなずく。

 

「どんだけ欲が深いんだよ」ユエホワがため息まじりにコメントする。

 

「えっ」私はまた目をまるくした。「欲が深いと、キャビッチがでっかくなりすぎるの?」

 

「えーっ、そんなことも知らないで使ってたのかよ」ユエホワは片方の眉をしかめて私を見た。「基本だぞ」

 

「えーっ」私は何も知らずにいた自分をはずかしく思うあまり、すっ頓狂な声をあげてしまった。

 

「お、じゃあ俺はまた鬼魔界で情報集めしてくるから、んじゃな」ユエホワはそう言い、はるか上空に小さく影をあらわしたニイ類だかラクナドン類だかのほうへ向かって、すいーっと上昇していった。

 

「あ、うん」私はただそういって見送るしかなかった。

 

 けれど私の頭と心はすっかり、ユエホワから教えられた情報のことでいっぱいになっていた。

 

 欲が深い人間ほど、リューイの呪文をかけたときキャビッチが大きくなる――

 

 自分がそこまで欲の深い人間だったということは私にとって考えたこともなかったのだけれど、でも言われてみれば確かに、もっと強くなりたい、もっとキャビッチスローを鍛えたい、誰よりも強く、誰よりもはやく……と、そういう意味での欲はたしかに、人一倍強いのだろうと思う。

 

 だって強くなりたいもん。

 

 母のように。

 

 祖母のように。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 学校につくと、みんな校庭できのう覚えたばかりの魔法をもういちどおさらいしていた。

 

 ある人はマハドゥ、ある人はエアリイ、ある人はその両方をかわりばんこに。

 

 私も、教室に荷物を置くとすぐにまた校庭に走り出て、ヨンベや他の子たちとともに、マハドゥの練習をしはじめた。

 

 そのために使うキャビッチは、先生たちがあらかじめ取りおいたものがかごに積まれて置いてあったので、そこから各自取り出して使っていた。

 

 きっかけは何であれ、新しい魔法をおぼえることは、私たち魔法学校の生徒にとっては、やっぱり一番のよろこびだし、気持ちが高まる。

 

 みんな、鐘の音が授業のはじまりを告げたとき、いっせいにあーあ、と残念そうな声をあげた。

 

 それでも私たちは、授業の合間にも新しい魔法のこと、自分で見つけた使い方のコツとか、本で読んだり魔法にくわしい大人に教えてもらった情報なんかを教えあって、たぶん入学してから今まででいちばん盛り上がり、充実した日を送っていた。

 

「エアリイって、どうやったらいっぱいに分かれるの?」

 

 私はたくさん、その質問を受けた。

 

 そしてもちろんそのたびに、いっしょうけんめい考えて、自分がどんなふうに、どんなことに注意しながら投げているのかを、できるだけくわしく話した。

 

 まあみんな、最終的には「やっぱり、ポピーは魔力が強いもんねえ」とため息をつくのだったけれど。

 

 でも、はたして本当にそうなんだろうか、と私は自分で考えつづけていた。

 

 魔力が強いといっても、たぶんそれは、私の母や祖母が強いキャビッチスロワーだということが知られているから、その娘の私も当然強いはずだ、と見られているにすぎないのではないかと、思う。

 

 私の本当の魔力がどれほどのものなのか、私にもあまりよくわからない。

 

「子どもにしては強い」という、ただそれだけなのかも知れないし……

 

 授業中にそんなことを考えているとき、ふと私は、ユエホワの言った『欲が深い人間ほどリューイでキャビッチがでかくなる』という言葉を思い出した。



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33

 その日はいつものように、キャビッチについてや鬼魔について勉強をしたり、校庭に出てキャビッチ投げの練習をしたり、実験室で融合の試験をしたりして時間が過ぎていった。

 

 投げ技練習の時間にはやはりまた、エアリイやマハドゥの修練が行われた。

 

 みんなもう、だいぶその新しい技術に慣れてきていて、いつ妖精が襲ってきてもだいじょうぶだね、なんてことを話していた。

 

 ――まあ、本当のところは妖精が、じゃなくて、その妖精をあやつっているアポピス類が襲ってきても、ということなんだけど。

 

 そういえば私は祖母の家を出る前に、父と祖母から

 

「アポピス類については、遭遇したこともふくめて、いまはまだ学校で話したりしないように」

 

と言いつけられたのだった。

 

「皆が不安になったり、パニックになったりしてはいけないから、大人に任せるように」

 

と。

 

 私は理解し、うなずいた。

 

 でもクラスの子たちが

 

「妖精って、かわいいイメージだったけど、ぜんぜんちがってたね」

 

「そうそう。こわいよね」

 

「妖精って、最低」

 

なんてことを話しているのを聞くと、つい「ちがうんだよ」と言ってしまいそうになった。

 

 大人に任せるとはいうけれど、ちゃんと大人は、妖精が悪いんじゃないってこと、みんなにわかるようにしてくれるのかなあ……

 

 ふと、そんな心配までしてしまうのだった。

 

 

「ポピー」放課後になって、帰る支度をしていたときに私はマーガレット校長先生に呼び止められた。「大変申し訳ないのだけれど、帰る前に少しだけ、お時間をいただけるかしら」

 

 教室にいた生徒全員が、私とマーガレット校長先生を交互に見て、目をまるくしていた。

 

 私ももちろん、心臓がどきどき高鳴りはじめるのを感じながら、でもあくまでレイセイに「はい」とうなずき、かばんを持って校長先生のあとについて行きはじめた。

 

「ポピー」ヨンベがうしろから呼ぶ。

 

 私は振り向いて、にっこりと笑い「うん。だいじょうぶ」と答えた。

 

「うん」ヨンベも、心配そうな顔ではあったけれどうなずいてくれた。「また明日ね」

 

「また明日ね」他の子たちもつづけて言ってくれる。

 

「うん。また明日ね」私はみんなに手を振り、小走りでマーガレット校長先生について行った。

 

 だいじょうぶだよ。

 

 たぶん、私が知っていることを、話してくれとかなんとか言われるだけだ。

 

 別に、いまから一人で鬼魔界へ行ってきなさいなんて言われるようなことは、ぜったいないから。

 

 もし言われたとしたら、すぐに父と母と祖母に、ツィックル便を送ればいい。

 

 いや。

 

 そんなことは、ぜったいにないんだから。

 

 私は小走りについて行きながら、首をふったりうなずいたり、我ながらいそがしかった。

 

 

 マーガレット校長先生が入って行ったのは、職員室だった。

 

 先生たちが全員と、先生以外の人――私の知らない大人たちがそこに集まっていた。

 

 ぜんぶで、二十人ぐらいいたと思う。

 

 私の心臓は、ますますどきどきと高鳴った。

 

 ここで、話をしなきゃいけないんだろうか?

 

 妖精について?

 

 鬼魔について?

 

 だけど、父も祖母も、話すなって言ってたし……

 

「知りません」で押し通せばいいのか?

 

「皆さん、お待たせしました」マーガレット校長先生は声を張り上げた。「こちらがポピーです。今回、妖精につきまとわれるという経験をした生徒、そして皆さんご存知のとおり、ガーベラの孫であり、フリージアの子です」

 

 ああ、とかおお、とか声が上がり、みんな私に微笑みかけてくれた。

 

 私も微笑み、ぺこりとおじぎをした。「こんにちは」

 

「ポピー、このたびは怖い思いをしたのですね」一人の女性が首を振りながら言った。

 

「姿の見えない妖精につきまとわれるとは、さぞや困惑したことでしょう」

 

「ええ、まったくとんでもないことです」

 

「こんなことは一刻も早くなくさせないと」

 

「本当に」

 

「恐ろしい」

 

 大人たちはつづいて口々に言いはじめた。

 

 私は言葉をはさまずに、ただ聞いていた。

 

「ポピー」マーガレット校長先生が、あらためて私を呼んだ。

 

 ほかの大人たちは、いっせいに口をとざし、しずかになった。

 

「はい」私は頭の中までどきどきしはじめながら、返事をした。

 

「じつは今日あなたにお願いしたいのは、もしも他の生徒たちが実際に、あなたの両親の教えてくださった新しく強力な二つの魔法を使う場面に遭遇してしまった場合、心をどのような状態に置くべきなのかを、まずは私たち教師と、ここにいらっしゃる生徒の保護者代表委員会の皆さんに、教えてほしいのです」

 

「――え」私は、頭の中を大急ぎで整理しなければならなかった。「心、を……?」

 

「そう」マーガレット校長先生は深くうなずいた。「あなたほどの勇気、恐ろしい敵に襲われてしまったときでもその恐怖に勇敢に立ち向かえる心の持ち方を、ぜひ私たちに教えてください」

 

 大人たち全員が、深くうなずく。

 

「あ……」私は目をきょろきょろさせた。

 

 これは、アポピス類についての話ではない。

 

 そもそも、妖精についての話でも、ない。

 

 ただ、何か怖いものに出くわしたとき、どのように闘えばいいのか――自分を守るために闘う気持ちに、どうしたら自分の心を持っていけるか、という話だ。

 

 と、思う。

 

「それは」私は、話すことにした。「えーと」

 

 大人たち全員が、また深くうなずく。

 

 すごく真剣に、私の話を聞こうとしている。

 

 私の頭は大急ぎで、何を話したらいいかを考え、まとめ、コウチクした。

 

 

「どんだけ欲が深いんだよ」

 

 

 突然、ユエホワの声がよみがえる。

 

 そうだ。

 

「えっと、みんな、今よりももっと、欲深くなればいいと思います」

 

 私は言った。

 

「え?」大人たちはいっせいに、目をまるくした。「欲、深く?」

 

「はい」私は深くうなずいた。「欲が深い人間ほど、リューイを使ったときキャビッチがばかでかくなりますから」

 

 しーん、としずまりかえった。

 

「きっとエアリイとかマハドゥとかにも、おなじことがいえると思います。欲が深い人間になれば、効果が強く」

 

 どっ、と部屋中に、爆笑が起こった。

 

「えっ」私はびっくりして、右や左をきょろきょろ見回した。

 

 大人たちはしばらくのあいだ、肩をふるわせたりお腹をかかえたり、上を向いたり下を向いたりして、心底おかしそうに笑いつづけた。

 

「何がおかしいんですか?」と聞きたかったけれど、私にはその言葉を言うことができなかった。

 

 二回目、だ――

 

 そんなことを思う。

 

 緑色の長い髪を風になびかせながら、あのふくろう型鬼魔が背中を向けて、私のノウリでたたずんでいる。

 

 その顔がふとこちらを振り向くと――

 

 目を細めて、眉を持ち上げて、肩をひょいとすくめて、笑う。

 

「ポピー」下を向いて顔に手を当て肩をふるわせていたマーガレット校長先生が顔をあげ、手で涙をぬぐい、そして私の方をまっすぐ見た。「あなたは、魔力においてはすばらしい素質を持っているけれど、時々ぎょっとするような妙な考えを持ちますね」

 

「――」私は、ただだまって校長先生を見た。

 

「これからしばらくは、何か物を言う前に、もう一度胸に手を当てて、神さまに問いかけてみるようにするとよいでしょう」マーガレット校長先生はそう言うと胸の前で両手を合わせ、うなだれて瞳をとじた。

 

 部屋の中にはまだ少しくすくすという笑い声がのこっていたけれど、私はその中で、今から自分がなにをすべきか、頭の中にコウチクしていった。



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34

「すみません、じゃあ失礼します」私はその後、きちんとお辞儀をして出口に向かった。

 

 先生や保護者委員会の大人の人たちは、微笑みながら会釈を返してくれたけれど、私は入ってきたときのように微笑みを返したりはしなかった。

 

 そのかわり、ドアのところでふり向き、マーガレット校長先生をまっすぐに見て、言った。「先生、学校のキャビッチ畑からキャビッチを一個、持って帰らせていただけますか」

 

「え?」マーガレット校長先生は眉を持ち上げたが「ああ、ええ、どうぞ」とうなずき、それからすぐに「ああだけどそれを、何に使うのかしら? まさかとは思うけど、その」と言ってまわりの先生たちや大人の人たちをきょろきょろと見回す。

 

「練習です」私ははっきりと答えた。「マハドゥかエアリイか、ほかのキャビッチ技の」

 

「ああ、そうね」マーガレット校長先生は何度もうなずき「でも、どこで?」と、いまやすっかり真顔になってまたきいた。

 

「たぶん」私は少し考えた。「森の中か、海岸で」

 

「ああ、そう」校長先生だけでなく、そこにいた大人全員がなぜかほっと安心したように肩を落とした。「そういうことならば、もちろん好きなだけ持ってお行きなさい」ふたたび、にっこりと微笑みをフッカツする。

 

「ありがとうございます。失礼します」私はもういちど、きちんとお辞儀をして職員室を出て、畑に向かい、自分の手のサイズにぴったりのキャビッチを選んでポケットに入れた。

 

 それから箒にまたがり、上空へと飛び上がる。

 

 どこへ行くべきか。

 

 海岸なのか、それとも森の中なのか。

 

 それは、箒がその感性で決めてくれるだろう。

 

 私が唱えるべきはただひとことだけだ。

 

「ユエホワ」私はそう言葉をかけた。

 

 箒はたちまち向きをさだめ、元気よく“そこ”へ飛びはじめた。

 

 

 後から考えると自分でもふしぎなほどに、私は怒りにまかせて泣いたりわめいたり、金切り声をあげながら髪をかきむしったり、いっさいしなかった。

 

 だけどそれは、何の感情も持っていなかった、ということでは、決してない。

 

 ただそのときの私には、これから自分が、なにを目的としてなにに対してどう行動するか、その道すじがはっきりと、気持ちのいいくらいクリアに見えていたのだ。

 

 箒が降下しはじめたのは、“一回目”のときと同じ場所、ピンクの砂浜がひろがるチェリーヌ海岸だった。

 

 ユエホワは、そこにいた。

 

 これも“一回目”と同じで、彼は波打ち際にたたずんで、腕を組んでなにか考えごとをしていた。

 

 私はその十メートルほど後ろがわに降り立った。

 

「お帰り」ユエホワはふりむいて声をかけてきた。「よく学んできたかね」口もとをひろげて笑う。

 

「二回目なんだけど」私は「ただいま」のかわりにそう言った。

 

「何が」

 

「あなたが」私はぴしっと緑髪鬼魔を指さした。「あたしに大うそのうそっぱちを教えて、それをみんなの前で話させて、あたしがみんなに大笑いされるの、今日で二回目なんだけど」

 

「――」ユエホワがふいに、口をおさえて体を半分に折るかのように前かがみになったので、私は一瞬はっとした。

 

 また、妖精?

 

 ていうか、アポピス類?

 

「あーっはっはっはっはっ」けれど次の瞬間、ユエホワがこんどは空を見上げて体をそらしながら大きな声で笑い出したので、私はまたはっとして半歩しりぞいた。「あーおかしい最高」私がなにも言えないでいる中、悪徳鬼魔は涙を拭きながら肩をふるわせて――さっきの職員室にいた大人たちと同じように――笑いつづけた。「てか別に、みんなの前で話せとか俺言ってねえし」さらに笑う。

 

 私は無意識のうちに、そして当然のこととして、学校の畑からもらってきたキャビッチを手の上にとり出した。

 

「お、くるかリューイ」ユエホワは体の前にすっと腕を立てて目を細めた。「いつまでも俺におなじ魔法が通用すると思うなよ」

 

「リューイなんか使わない」私も目を細めた。「あんたなんかふつうのストレートでじゅうぶん倒せるし」

 

「へえ」ユエホワは少しむっとしたような顔になった。「大そうな自信家だな」

 

「あやまるならゆるしてあげるかもだけど」私はユウヨをあたえてやった。「うそついたこと」

 

「あっれ」ユエホワはぷいっと横を向いた。「俺これまでも何回か忠告したことあると思うけど」

 

「なにを」

 

「人間のくせに鬼魔の言うこと本気で信じてどうすんだ? って」

 

「――」

 

「もう忘れちゃったのかな」悪徳ムートゥー類はまた私を見てにやりと笑った。「まあお子様には特別に、もっかい言ってやろうか。人間のくせに鬼魔の言うこと本気で信じて、どうすん」

 

 私はキャビッチを投げた。

 

「だっ」ユエホワは瞬時に両方の前腕を顔の前にもってきて、その腕にキャビッチが猛スピードでぶつかった。「いだーっ」前腕を立てたままユエホワは悲鳴をあげた。

 

 私はごめんともだいじょうぶかともいっさい言ってやらなかった。

 

「今の、あんま手加減してくれてなかった」両腕をかわるがわるさすりながら、ユエホワは涙目で文句を言った。

 

「したけど」私は告げた。「手加減してなかったらもうあなたはこの世に生きてないからね」悪徳鬼魔を指さして言いすてながら、私は箒にまたがって飛び上がった。

 

「くっそ……スピードもかなり上がってきてるよな……なんとか回避……」ユエホワはまだ腕をさすりながら、ぶつぶつ言っていた。

 

 

 まっすぐ家に向かって飛びながら、私は、マーガレット校長先生や他の先生たち、さっき好きなだけ私のことを笑っていた大人たちに、今と同じようにキャビッチを投げたとしたら、どんなことになるんだろうか、なんてことを、むっつりとしながら想像してみていた。

 

 学校を追い出されて、子どもだから仕事もさせてもらえなくて、へたをすると罰として鬼魔界へ閉じ込められたりとかして。

 

 いや、頼めばクロルリンクとかでお店番のアルバイトとかさせてもらえないかな? いっしょうけんめいがんばります、とかって頼み込めば。

 

 ああ、だけど学校に行けなくなったら、もう、ヨンベとも、いっしょに勉強したりとか、遊んだりとか、おしゃべりしたりとか、できなくなるのかな……そこまで考えると、鼻の奥がくしゅっといたくなって、涙が出そうになった。

 

 いや、ならないならない。そんなことには。

 

 だって、先生や他の大人たちにキャビッチなんて、ぜったい投げたりしないから。

 

 そうだよ。

 

 あたしがキャビッチを投げるのは、鬼魔、あの悪いやつらにだけだ。

 

 さあ、気を取りなおして、家に帰って、おやつを食べて、あの妖精の本でも読もう。もちろん子ども向けの薄い方のやつを。

 

 ちょうど家に着いたとき、ヨンベからツィックル便が届いたのだった。

 

「ポピー、先生の話どうだった? だいじょうぶ?」

 

 私はたちまち、笑顔を取りもどすことができた。ほんとうに、持つべきものはやさしい親友だ。

 

「だいじょうぶだよ。怖い敵にあったとき、どんな気持ちでたたかえばいいのかってきかれただけ」

 

「えーっ、なにそれ、むずかしい」

 

「うん(私はこれを書くときカードに向かってうなずいた)。『よくわかりません』って答えた(ちょっと事実とちがうけれど)」

 

「わかんないよねえ。必死だよね」

 

「そうそう」

 

「でもよかった。また明日ね」

 

「うん、また明日ね。ありがとう」

 

「ううん」

 

 そんなやりとりをしながらついでのように母に「ただいま」を言って、二階の自分の部屋に上がったのだけど、ドアをぱたんとしめるのと同時に、私は気づいた。

 

 あ、そうか。

 

 大切な人に『無事だよ』って伝えなきゃいけないんだ。

 

 怖い敵に出くわしたとしても。

 

 ちゃんと、無事に戻って、心配させないようににっこり笑って『ただいま』って言って。『だいじょうぶだよ』ってうなずいて。

 

 それを必ずしないといけないって、必ずするんだって、そういう気持ちで闘えば、いいんだよ。

 

 私はひとり、部屋の中でなんどもうなずいた。

 

 ああ、そう話せば笑われずにすんだのに!

 

 あの、性格最悪ムートゥー類のせいで!

 

 もうにどと、口きいてやらないから!

 

 私はほっぺたを最大級に膨らませてそう心にきめたのだった。



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35

 部屋で本を読んでいると、ふいにツィックル便が上から降ってきた。

 

 手に取ると、それは祖母からのものだった。

 

「ポピー、ユエホワに会った?」

 

「あ、うん、会ったよ」私はツィックルカードに向かって返事をし、投げ上げた。

 

 ほとんど直後に、また祖母から返ってきた。

 

「どうしてうちに来ないのかしら?」

 

「あー」私は正直に伝えるべきかどうか少し迷ったけど、やっぱり伝えることにした。「ハピアンフェルに会いたくないって、言ってた」

 

「あらまあ」祖母はそう返事してきたあと「アポピス類については、何か言っていた?」ときいてきた。

 

「なにも、言ってなかった」私は、今日の朝からついさっきまで、ユエホワとなにを話したのだったか思い出して、けっきょくそう答えるしかなかった。

 

 そうだよね。

 

 そもそもユエホワは、大事なアポピス類のことを話しもせずあんなばかばかしい大でたらめしか話さないなんて、どういうつもりなんだろう。まあきっと、なんの情報も得られてないってことなんだろうな。

 

「そう」祖母はそう言った後「なにか、ユエホワがいつもと様子がちがうと感じることはなかった?」

 

「うーん」私は眉をしかめて天井を見上げた。

 

 いつもと……だいたい同じだったと思うけどなあ。なにしろあんな、大でたらめを……でも、またあいつにキャビッチをぶつけたことがわかったら、祖母にまた怒られてしまうだろうし……うーん。

 

「そういえば、なにか考え事していたよ」私は、チェリーヌ海岸であの緑髪を見つけたときの光景を思い出しながらそう伝えた。

 

「まあ」祖母はそう言ってから「あなたには、とくに何も伝えてはこなかったのね?」と確認した。

 

「うん」私はカードにうなずいて「あ、あと、きのう助けてくれてありがとうって、あたしにお礼言ってた」と続けた。

 

 そうだ、よく考えたらこれ、いちばん「いつもとちがう」ユエホワの行動だよね。思い出したらなんだか、背中がむずむずするような気がしてきた。

 

「すばらしいわ」祖母はいつものせりふを送ってきた。「だけど、彼一人にしていたら、またアポピス類にねらわれるかも知れないわ。ここに来てくれるよう、あなたから言ってもらえると助かるわ、ポピー」

 

「えーっやだ」私は正直に、キョヒした。「もう家に帰ってきたもん」

 

「しょうがないわね」祖母の送ってきたツィックルカードは、その文字をしめしながら、ふう、とためいきをついた。魔力が強いと、そんなふうにカードに“表情”までのせて伝えることができるのだ。「マーシュに頼むわ」

 

「パパ一人でだいじょうぶ?」私はつい、そんな問いかけを返してしまったのだけれど、それがたいへんな事態をまねくことになってしまった。

 

「そうね」祖母はそう言ってから「フリージアにもついて行ってもらうわ」とつづけたのだ。

 

「ママに?」私は目をまんまるく見ひらいた。「でもママは」

 

「だいじょうぶよ。それではね」祖母からの通信は、それで終わった。

 

「えーっ」私がさいごに祖母に送ったツィックル便は、そのただひと言だけだった。

 

 本を手にしたまま、私は目をきょろきょろさせて考え、それからぱたんと本を閉じて部屋を出て下に降りていった。

 

「どういうこと?」母がだれかに問いかけていた。「なんで私が?」

 

 ああ、もう祖母からメッセージが届いているんだな、と思ううちにも、母は

 

「いやよ」「ぜったいいや」「なんであんなくそったれ鬼魔をわざわざ探さなきゃいけないの」「くそったれだわあんなやつ」と、次々に悪態を口にしつづけた。もちろんそれぞれの悪態に対してそのつど祖母から返事が届いているわけだから、ほんとうにこの二人のツィックル便のやりとりは流れ星よりもすばやい。

 

「え」「マーシュが?」「もう」「なんであんなやつのこと気に入ってるの」「どこが?」「理解できない」そこまでまくしたてた後、母はふいに、言葉をつぐんだ。

 

 私はそっと、近づいてみた。

 

 けれど、母の目の前にうかぶツィックルカードに書かれてある文字は、読み取ることができなかった。

 

「わかった」ついに母は、低い声でショウダクした。「今回だけは、協力するわ。町の平和のために」そして、それまで座っていたダイニングチェアから立ち上がった。「あ、ポピー」それから私に気づく。「ママちょっと、用事で出かけてくるわ。夜までには戻るから」

 

「あの」私は少し迷いつつも、きいた。「ユエホワを、さがしに行くの?」

 

「――」母は、きゅっと唇をかんだ。「アポピス類が、妖精をあやつって悪さをしているのよね」確かめるように、私に言う。

 

「あ、うん」私はうなずいた。

 

「そいつらを倒す方法を、あの性悪鬼魔が何か知っているってことなのね」また母は確かめるように私に言う。

 

「あ、うん」私はもういちどうなずいた。

 

「わかった」母は何度かうなずいた。「今回だけ、協力するわ」祖母に言ったのとおなじことを、私にも言う。「町の平和のために」

 

「うん」私はただうなずいた。だけど、どうしてか心臓がどきどきしていた。

 

 母を見送ったあとも、私の中で不思議な感覚はつづいていた。

 

 あの母が、ユエホワをさがして、見つけて、話をして、祖母の家に連れて行く――

 

 それは、なんというか、誰も考えつかないような、あり得ないできごとだ。

 

 ほんとうに、そんなことがこれから行われるんだろうか?

 

 なにも、問題なく?

 

 なにも、事件になったりせず?

 

 なにも――そう、たとえば人間対鬼魔の戦争のようなことが起きたりせず?

 

 アポピス類がどうとかいう前に、母とユエホワが出会って話をして、あまつさえいっしょに空を飛ぶなんてこと、だいじょうぶなんだろうか?

 

 私はいつの間にか、自分の肩を抱きしめていた。

 

 だいじょうぶなんだろうか?

 

 

 考えていてもしかたがないので、私は自分の部屋に戻った。

 

 読みかけの妖精の本をひらいてつづきを読みはじめてから少したったころ、こつこつ、と、窓をたたく音がした。

 

「あれ」私は立ち上がった。「まさか、ユエホワ?」

 

 でも、ほんとうを言えば、少し前から――母が出かけてから、予感めいたものはあった。

 

 今朝もそうだったけれど、ユエホワは、ほかの人間たちからは行方がわからないようにさせていても、なぜか私のところにはちょこちょこ姿を見せる。

 

 なのでもしかしたら今回も、父や母には探しあてられず、そのかわりこっそり私のいるこの家にやって来るんじゃないか――そんなふうに、なんとはなしに、予想していたのだ。

 

 私は窓を開けた。外はもう、夕方の色になっている。

 

 私はてっきりそこに緑髪が浮かんでいて「よっす」と片手を上げるのだろうと思っていた。

 

 けれど、それはちがっていた。

 

 窓の外には、だれの姿もなかったのだ。

 

「え?」私はきょとんとして、左右を見わたした。「ユエホワ?」

 

 返事はなく、そのかわり「この娘か」そんなつぶやき声が、どこからか聞こえた。

 

 聞いたことのない声だった。



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36

「ツィックル」瞬時に私がさけんだのは、そのことばだった。

 

 さけびながら窓枠に足をのせ、外へ飛び出す。

 

 はっ、と、息をのむ声がした。

 

 だれの姿も見えないけれどたぶん、その見えない人(かどうかわからないけど)が、息をのんだのだろう。

 

 でも私はこれっぽっちも不安になったり怖くなったりしていなかった。

 

 なぜなら、私のツィックル箒がちゃんと“目ざめ”て、私が窓から落ちるその下にまですばやく飛んできてくれて、私をじょうずに受け止めてくれるとわかっていたからだ。

 

 そしてもちろん、その通りになった。

 

「キャビッチ」私はつぎにそうさけんだ。

 

 箒はぐるっとカーブして、母が世話をしているうちのキャビッチ畑の方へ飛んだ。

 

 速度を落とすことなく飛びながら、私は腕を下に向けのばして畑の土の上からキャビッチを四個ほどひろい上げた。

 

「上へ」さけぶ。

 

 箒はぐんっと上昇する。

 

 止まっちゃだめだ、と私は思っていた。

 

 森でユエホワと父に、魔法が使えなくなったり体が動かなくなったりする魔力がかけられた時のことが、頭の中にあったからだ。

 

 あの魔力にねらいをつけられないよう、あちこち飛び回っていた方がいい。

 

 けれど見えない相手に、どうやって攻撃する?

 

 やはり、母がいったようにエアリイを使うか?

 

 いやその前にやっぱり、必死で会得したあれを、発動しておくべきだ。

 

「マハドゥーラファドゥークァスキルヌゥヤ」私は家のまわりをくるくると飛びまわりながら、手に持つキャビッチに向け呪文を唱えた。

 

 しゅるん、とキャビッチが消える。

 

 よし。

 

 次はエアリイだ。

 

 だけど相手はどこにいるんだろう?

 

 とりあえず、投げてみるか?

 

 だけど今手の中には三個しかキャビッチがない。

 

 むだ使いするわけには、いかない。

 

 じゃあ。

 

 私は、自分の部屋の窓の前で箒を止めた。

 

 さあ。

 

 どこにいる?

 

 なんか、かけてきてみろ。

 

 私は止まったまま、右や左に目を向けた。

 

「あっ、いた」屋根の上からとつぜんそんな声が聞こえてきた。

 

「え」私は上を見上げた。

 

「くそ、すばしっこいちび助だ」つづけて別の声も上から聞こえてきた。「ちょろちょろ飛び回りやがって」

 

 姿はあいかわらず見えない。

 

 けど、私は見えない相手たちに向かって(つまり、屋根に向かって)どなった。

 

「ちび助ってなによ、失礼ね」

 

「ユエホワはどこだ」最初に聞いたのと同じ声が、私の正面から聞こえた。

 

「えっ」私はあわてて顔を正面にもどしたけれど、やっぱりなにも見えない。

 

 まずいな。

 

 敵が移動したのも、ぜんぜんわからない。

 

 これじゃ、キャビッチの“投げ技”では、たちうちできない。

 

 こういう時には鬼魔を召喚する“融合”とかが(たぶん)いいんだろうけど……私の融合陣はクローゼットの奥にしまってあるのだ、いつも投げることしか頭にないから。いまさら後悔しても遅いけど。

 

「効かないぞ」また声が聞こえた。「跳ね返される」

 

「なに」別の声が驚く。「報告通りだ」

 

「なぜこいつにだけ魔力が効かない」

 

 私の目の前で、見えない敵たちがあせりながら話し合う。

 

 マハドゥだ。

 

 やっぱり最初に唱えておいて、よかった。

 

 よし。

 

「エアリイ、セプト、ザウル」私は唱えた。

 

 ぱん、とキャビッチが小さな球に分かれる。と同時に、投げた。

 

 ぼこぼこぼこっといくつかの球が敵に当たる音がして、しかも当たった場所でキャビッチは消滅した。おかげで見えない敵が今どこにいるのかだいたいわかったのだ。

 

 私はすぐに次のキャビッチを持ち上げた。「エアリイ」叫ぶ。

 

 そのとき、私の頭の中に『同時がけ』という言葉が雷のようにひらめいた。

 

 マハドゥとリューイを同時がけできれば申し分ないわね。

 

 祖母が言った言葉だ。

 

 でもどうやるのか知らない。

 

 けど私は、とりあえず試そうと一瞬できめた。

 

「セプトザウリューイモーウィヒュージイ」できるだけ早口で唱える。

 

 ばん。

 

 大きな、なにかが爆発か破裂かするような音がして、その衝撃で私は箒に乗ったまま地面の方へはねとばされた。

 

「きゃあーっ」叫ぶ。が、ツィックル箒がすばやくくるりと上向きに体勢をなおしてくれる。「うわっ」私はもういちど、叫んだ。

 

 キャビッチがでっかくなって、しかもいっぱい、窓の外にうかんでいたのだ。

 

 投げなければ。

 

 でも。

 

 どうやって!?

 

「逃げろ」

 

「くそっ」

 

 敵どもの声はあっという間に遠く離れていった。

 

「ま、待てーっ」私は叫んで、とりあえずいちばん近くに浮かんでいる巨大化キャビッチ――たしかにユエホワの言ったとおり、直系一メートルぐらいにはなっている――を両手で押し出すように、肩に力を入れて投げつけた。

 

 それは当たらず、どこまでも飛んでゆき、はるか彼方でしゅるん、と消えた。

 

 敵にぶつからないから魔法のエネルギーがすべて飛行につかわれたのだ。

 

 私はつぎつぎに、浮かんでいる巨大化キャビッチたちを同じヨウリョウで投げたけれど、ぜんぶ同じようにはるか彼方まで飛ぶだけで消えてしまった。

 

 ぜんぶで、十一個あった。

 

 すべてを投げ終えたあと、私はぜいぜいと肩で息をしていた。

 

 でも敵にはぜんぜんダメージを与えられなかった。

 

 これって、超効率悪くないか?

 

 ぜいぜいと肩で息をしながら、汗をたらしながら、私は眉をしかめそう思った。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「ポピー」私を呼ぶ声がした。「起きなさい」

 

 誰だろう……ママ? いや……なんか違う。

 

「起きなさーい」

 

 パパ? ……うーん。

 

「お、き、な、さいって」

 

 おばあちゃん? でもない……

 

「おい起きろ。朝だぞ」

 

 あ?

 

 私は目をあけた。

 

 長い緑色の髪が見えた。

 

「うえ?」びっくりしながらがばっと起きる。

 

 いつの間に鬼魔界に来てたんだっけ?

 

 最初にそんなとんちんかんなことを思ってしまったのは、辺りが薄暗くなっていたからだろう。そこは私の部屋で、窓の外は日が暮れていて、どういうわけかユエホワがそばに立っていた。

 

「朝じゃないじゃん」私は鬼魔に向かって言った。

 

「だって俺はうそっぱちしか言えませんから」ユエホワは両腕で顔と胸を守りながら返事した。「お前起こしてこいってお前の母ちゃんに言われたんだよ」

 

「ママに?」私の頭の中には大きないもむしがいて、のったりのったりと、私の脳みその上をとてもゆっくりはいずっていた。「なんで?」

 

「さらわれてきたんだよ俺」ユエホワは腕組みして眉をひそめた。「お前の母ちゃんと、父ちゃんに。今日はここで寝るしかねえ」

 

 私は五秒ぐらいじっとユエホワを見て、「ここに? あたしの部屋に?」ときいた。

 

「地下にきまってんだろ」ユエホワはうんざりした顔で肩をすくめた。「それともお前が地下で寝て、そのベッド俺に貸してくれるか?」

 

「いやよ」私ははっきりと目ざめてキョヒした。「えっ、おばあちゃんちに行かなかったの? ママとパパ、ユエホワのこと見つけられたの? あっそうだ、さっき見えないやつらがここに来たんだよ。ユエホワはどこだっていってたからきっとまたさらおうとしたんだと思う」目ざめたとたんいもむしは小鳥に変わり、言葉がつぎからつぎへと口から出た。

 

「待て待て待て」ユエホワが私の顔の前に手のひらをひろげる。「ちょっと待て。ここに来た? やつらが? それ本当か?」

 

「うん」私はうなずいた。

 

「で、お前」ユエホワはそう言って、サイドテーブルに目をやった。そこには、母の畑から取ってきたまま使わずに残ったキャビッチが一個、置いてある。「追い払ったのか」

 

「んー」私は、そう言っていいのかどうかちょっと迷ったが「うん」とうなずいた。

 

「まじか」ユエホワが真剣な顔で私を見る。「すげえな」

 

「でもやっつけられなかった」私は口をとがらせた。「姿が見えなくて」

 

「あー」ユエホワは少し上を見た。「それな、ちょっと俺に考えがあるから、下で話すよ。飯行こうぜ」頭を斜め下に向けて言う。



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37

「あ、起きた? ちょっと手伝って」キッチンに入ると母がちらりと、私と私の後から続くユエホワの方を見て言った。「お皿とグラスと、そのほかいろいろ並べてくれる?」

 

「はーい」私は食器棚の上の段に腕を伸ばし、大皿を取ろうとした。すると、頭の上からぬっとふたつの手が現れて、私が取ろうとしていた大皿を持ち上げていった。

 

 金色の爪、つまりユエホワの手だ。

 

「え」私は思わず頭をのけぞらせて、その手と大皿のゆくえを追った。

 

 ユエホワはとりすました顔で、大皿をテーブルのまんなかにことりと置いた。

 

 私はちょっとぼう然として、そのさまをながめてしまったのだった。

 

「小皿は?」するとユエホワが片手を出してきてそう言う。

 

「あ」私ははっと我に返り、鬼魔にうながされるまま取り分け用の小皿を下の棚から持ち上げた。「え、と、四、枚……?」誰にともなくつぶやくようにきく。

 

「サンキュー」ユエホワはやっぱりとりすました顔で私の手から小皿をさらってゆき、テーブルの上にことことと置きはじめた。

 

 私はフォークやナイフやスプーンやをみんなの席にくばりながら――これもやっぱり四人分――この、ある意味特別な晩餐に、少し心臓がどきどきしていた。

 

 まあ、祖母の家でもユエホワといっしょに食事はしたけれど、それがわが家でとなると、これはもう、どきどきするのも無理はないと思う。

 

 母は――今どんな気持ちで、ユエホワもいっしょに食べるメニューを作っているんだろう? そんなことを心配していると、

 

「はーいありがと」と言いながら母はふり向き、ユエホワの並べた大皿の上にスパイスの香りの効いたメイン料理を鍋からひといきに移しかえた。「スープ用のお皿をこっちへ持って来て」

 

 私がふり向くよりもはやく、ユエホワの方が棚へ近づいてゆき「これ?」とききながらスープ皿を四枚持ち上げてはこび出した。

 

「ええ、そう。ありがと」母は、いつも私に言うのと同じような調子で、お礼を言う。

 

 私は、目の前の光景が、ほんとうに現実なのかどうか、どうやったら確かめられるだろうか、というようなことを、ぐるぐると頭の中で回らせていた。

 

「ああ、いい匂いだなあ」父が言いながら入って来た。「さあ、みんなで食事をいただこう」

 

 そうして、世にもふしぎで奇妙でキンチョウする食事が――私だけかもしれないけど――はじまった。

 

「ユエホワ、人間界の食事はどうだい?」父がたずねる。

 

「うん」ユエホワはふつうのお客様のようにうなずき「おいしい」と言ってちらりと母を見た。

 

「お口に合ってよかったわ」母もユエホワを見て、まるでふつうのお客様に言うように言葉を返し、さらに「鬼魔界ではいつもどんなものを食べてるの?」と、自分から話をふった。

 

「えーと」ユエホワはちらりと視線を横に向け、また母を見て「あんまり、食事中に話さない方がいいかも」と答えた。

 

「あはははは」すると母が笑い出し、私は目をまるくした。

 

「はははは」父も苦笑するように笑って「お気づかいに感謝するよ」と言った。

 

 なんだろう。

 

 これって、ふつうの、父や母の友だちがうちに来た時とおなじような感じの、食事じゃないか?

 

 私一人がとくに笑いもせず、だまって食べつづけていた。

 

 

「アポピス類のことを調べてきたんだけど」食後のお茶をいただきながら、ユエホワがそのことを話しだした。

 

「うん」

 

「ええ」父も母も身を乗りだして真剣な顔になった。

 

「あいつら……ここ何年か、王宮への税をまったくおさめていないらしいんだ」

 

「税を?」父が目をまるくし、

 

「まあ、鬼魔にもそういうのがあるのね」母は肩をそびやかした。

 

「けれどそんなことをしたら、当然王宮の方からなにかおとがめが来るはずだよね?」父は首をかしげた。

 

「それが、アポピス類はいま種特有の病気がはやっていて、それへの対策とか保障費用とかに大金が必要だからって理由で、ずっと免除されつづけているんだ」

 

「へえ、種特有の」父がうなずき、

 

「病気? まあ大変」母が眉をしかめた。

 

「そう」ユエホワはなにか考えこむように口もとにこぶしを当ててななめ下を見た。「そういわれてみれば、アポピス類の姿はこの数年、鬼魔界でもめったに見ることはなかったし、アポピス類がどうこうしたとかいう話も聞かなかった」

 

「ほう」父もなにか考えこむように腕組みしてななめ上を見た。「つまりその病気のために、外を出歩くことをひかえていたのかな」

 

「うーん」ユエホワは眉をひそめた。「だけどおかしいんだ……アポピス類の中でそんな病気がはやってることを、ほかの鬼魔たちは誰も知らなかった」

 

「え」父はぽかんとし、

 

「どういうこと?」母は首をかしげた。

 

「実をいうと俺も、この税の話を聞くまで――そんな大病がはやってるなんてこと、まったく知らなかった」

 

「ええっ」父がキョウガクした。「鬼魔界随一の情報通の君が知らないなんてこと、あるのかい」

 

「よっぽど厳重にかくされていたのか、それとも」ユエホワは声をおとした。「じつはそんな病気なんて、うそっぱちのでっち上げなのか」

 

「ぷっ」私は思わずふき出した。

 

「え」父がおどろいて私を見、

 

「なに?」母はすこしほほえんで私を見、

 

「なんだよ」ユエホワは口をとがらせて私を見た。

 

「いや、なんでもない」私は両手をふったけれど、笑いをこらえなければならなかった。うそっぱちのでっちあげって、自分もおなじことしてるくせに。

 

「で、ほかにもいろいろ聞きまわってみたところ」ユエホワは少しのあいだ私を横目でにらみながら話をつづけた。「やっぱりアポピス類はいま、鬼魔界の中にはいなくなってる可能性が高いようなんだ」

 

「いったいどこに?」父がきく。

 

「ほかの鬼魔たちに病気をうつさないようにほかの世界へ移動したわけではないということなのね?」母はたしかめる。

 

「俺が思うに」ユエホワは赤い目を真剣なまなざしにして話した。「あいつら……アポピス類のやつら、自分たちだけの国をつくろうとしてるんじゃないかと」

 

「国を?」父が声をたかめる。

 

「でもいったいどうして?」母が首を振る。

 

「んー」ユエホワはまた下を向いて、なにか思い出していた。「二十年ほど前、アポピス類の先代のリーダーと陛下が諍いをおこしたっていうのは、たしかにあった……それが直接の原因かどうかはわからないけど」

 

「ああ」父は納得したように何度もうなずいた。「イズバニア運河閉鎖事件だね」

 

「そう」ユエホワがぱっと顔をあげ、父とふたりうなずき合う。

 

「なにそれ?」母が問いかけたが「まあ今はいいわ。それで?」と取り消した。

 

 さすが。私は母のためにうなずいた。それ話し出すとぜったい、夜明けまでつづくからな……ユエホワはともかくうちの父は。

 

「それで今回、俺をさらおうとしたのはおそらく、まあ鬼魔界の動きについていろいろ情報をもってる俺を参謀的な立場として引き入れようとしてたんじゃないかと思う。赤い目がどうこうっていってたけど」と、そこでユエホワはまた私を見た。

 

「うん」私はうなずいた。「ハピアンフェルがそういってた」

 

「アポピス類ってのはヘビ型鬼魔で、ほとんどすべての個体が、赤い目をしてるんだ」ユエホワは自分の目を片手でおおいながら話した。「まあ突然変異でちがう色の個体もごく少数存在はするけど……やつらは『同じ赤き目を持つ者として』っていうフレーズを好んで使って、仲間同士の団結力を高めようとする傾向がある」

 

「ほうほう」父は生徒が好きな科目の授業を受けている時のように(たとえば私にとってのキャビッチ投げ)、目をきらきらさせた。「同じ赤き目を持つ者として」くりかえしながら、いつの間に持っていたのか手もとのノートにさらさらと書きとめる。「なるほど」



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38

「そういえばハピアも、この『同じ赤き目を持つ者として』とアポピス類が君のことを話していたと言っていたよ」父は自分の書いたメモを見下ろしながら言った。「君に、ぜひとも仲間になってもらいたいと言っていた、と」

 

「は」ユエホワはみじかくため息をついた。「勝手なことを」

 

「国をつくって、どうするつもりかしら」母は父とユエホワにきいた。「まさか、鬼魔界に戦をしかけるなんてことしないわよね?」

 

「うーん、さすがにそこまではしないと思うけど」父は腕組みをして天井を見た。「いや、でも……いちがいにはいえないかなあ。なにしろアポピス類は、妖精たちを使って姿を消すという、なかなか手ごわい技を手にいれたからねえ」

 

「あれって、妖精たちを使っているの?」母が問いかける。

 

「うん」父がうなずく。「これもハピアから聞いたんだけど、妖精たちの光をあやつる力を利用しているらしい」

 

「まあ」母は目をまん丸くした。

 

「その、姿を消す力については」ユエホワは言った。「ピトゥイで対抗できるんじゃないかって思う」

 

「ピトゥイで?」母と私は同時に、びっくりした声でききかえした。

 

「なるほど」父は大きくうなずいた。「洗濯魔法か」

 

「洗濯魔法?」私は父にきいた。いわれてみれば、ピトゥイという魔法――それは、祖母が父の泥んこだらけの服を(そして私の服も)、さっぱりときれいにした魔法だ……よく覚えてるなあ、ユエホワ。一回見ただけなのに。

 

「そう」緑髪もうなずいた。「アポピス類の体にくっついてる光使いの妖精たちを、ピトゥイで取り去るんだ」

 

「でも」母は眉をひそめる。「それは、妖精たちを傷つけたり、命の危険にさらしたりしないの?」

 

「わからない」ユエホワは首を振った。「けど妖精たちがくっついたままでアポピス類を攻撃したとしても、妖精にも同じように危害を加えることにはなる」

 

「うん」父はユエホワの話にまたうなずく。「妖精に向かってエアリイを投げるよりは、危害が少ないと思うよ」

 

 ばし、と母がいきなり父の腕をたたいたので、私とユエホワは目をまるくした。

 

「ははは、あそうだ、ぼくユエホワの寝床を用意してる途中だった」父は苦笑しながら席を立った。「ちょっとサイズは小さめだけれど、組み立て式の簡易ベッドがあってね、急なお客さん用の。あれが役に立ってうれしいよ。じゃあぼくは地下に行くよ」そう言いながら地下への階段を下りていった。

 

 パタン、と書庫のドアのしまる音がするのと同時に、

 

「ユエホワ」と母が呼んだ。

 

「え」ユエホワは、名前をよばれたことにおどろいたような顔をして母を見た。

 

 私も、おどろいた。同時に、いっきにキンチョウした。なに、なにがはじまるの?

 

「私はあなたに、謝らなければならないわ」母は静かに話しはじめた。「あなたのことを、よく知りもしないで――知ろうともしないで、ただあなたのことを嫌って、避けていた。祭司さまや私の母、そしてマーシュがあなたのことをとても高く評価するその理由がわからないと、思い込んでいた。だけど今日、それがわかった気がするわ。あなたはとても賢くて、礼儀というものを知っていて、人間がどんな振る舞いや言葉を好んでいるかをよく学んでいる。並大抵の努力ではかなわなかったことだと思うわ」

 

 ユエホワは言葉もなく、母をじっと見つめていた。

 

 私ももちろんなにもいうことはできず、見守るだけだったけれど――母はほんとうに、ユエホワの味方というのか、友だちというのか、そんな風に心の持ちかたを変えるつもりなんだろうか、と考えていた。

 

「だけどひとつだけ、教えてちょうだい」母はつづけてそう言い、とても真剣な目でユエホワをまっすぐ見た。「去年――ポピーがベベロナの家ではじめてあなたに出くわしたとき、どうしてこの子を絞め殺そうとしたの」

 

「――」ユエホワは、少しの間氷漬けになったように動かなかった。「――ガーベラ……さんの、孫だって聞いたから」糸のように細っちい声で、答える。

 

「――私の母の事を、知っていたのね」

 

「ああ」鬼魔はまぶたを伏せうなずいた。「このまま逃がしたら、いつか鬼魔界を脅かす存在になるかも知れないと思って」

 

「ええ、そうね」母は静かな声で言い、こくりとうなずいた。「それはあなたの言う通りよ。ポピーはいつか、母や私をもしのぐ、最強のキャビッチ使いになる。そして」私を見て、またユエホワに目を戻す。「あなたたち鬼魔を、一匹残らず殲滅するわ」

 

「――」ユエホワはまた少しの間、氷漬けのように固まった。

 

 母もユエホワをまっすぐに見つめたまま、真剣な顔でだまっていた。

 

 私はなにひとつ言葉をはさむことができずにいた。

 

「――助けてくれたことや、こうしてかくまってくれることには、感謝してる」やがてユエホワが、少しかすれ気味の声で言った。「けど俺も鬼魔だ。鬼魔界の存在は、全力で守る」

 

 母はだまったまま、ユエホワを見つめつづけていた。

 

「これだけは、ゆずれねえ」ユエホワもあごを引き、真剣な顔で母を見つめ返した。

 

「ポピーは、強いわよ」母が言う。

 

「うん」ユエホワはうなずく。「知ってる――さっきも、アポピス類がここに来たのを追い払ったっていうし」

 

「――え?」母の顔が、ショウゲキの表情になった。「なんですって?」私を見る。「ポピー?」

 

「あ、うん」私はなぜかそわそわと身じろぎした。「なんでか知らないけど急にここに来て、ユエホワはどこだって言ってて、それであの」肩をすくめる。「ママの、キャビッチで」

 

「でも」母は首をふりながら、椅子から立ち上がった。「そいつら、姿が見えないんでしょ? どうやって――まさかピトゥイとか、使えないわよね」

 

「あ、えとエアリイで」私はどうしたらいいかわからないまま、母が小走りに近づいて来てぎゅっと抱きしめられるのに身をまかせた。「位置つきとめて、そのあとリューイとエアリイの同時がけで」

 

「ええっ」母はがばっと私の肩をつかんで引きはなした。「同時がけ? いつの間にそんな技をおぼえたの? おばあちゃんが教えてくれたの?」

 

「あ、いや、適当に」私はがくがくと揺さぶられるため深く考えることもできずありのままに話した。

 

「適当? 適当に同時がけができたっていうの? なんなのそれ?」母はさけぶように言った。

 

「でも当たらなかった」私は頭がくらくらしながら最後にそう伝えた。

 

「なんてこと――ああ、ポピー、よかった、無事で!」母はもういちど、ありったけの力をこめて私を抱きしめた。

 

 私は苦しさに顔をしかめながら、ユエホワが

 

「じゃあ俺、親父さん手伝ってきまーす」

 

といってさっさと地下へ下りていくのを見送った。

 

 ――あんたが、よけいなこと教えるから!

 

 心の中で、そう毒づきながら。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 翌朝、起きて下におりると、やっぱりユエホワがいた。

 

 そしてやっぱり私たち家族といっしょにユエホワも朝ごはんを食べ、その後私が家を出るときには父と母のうしろの方で、ユエホワが手をふりながら見送っていた。

 

 ――今日学校が終わって、家に帰ったら、やっぱりユエホワがいるわけなのかな。

 

 私は箒で飛びながら、そんなことを思った。

 

 ――え、ずっとはいないよね?

 

 飛びながら、首をふる。

 

 ――いつまでいるのかな……アポピス類をやっつけるまで?

 

 こんどは飛びながら上を見上げて考える。

 

 ――やっつけるのは、つまり、アポピス類がつくったっていう国を、メツボウさせるってことなのかな。

 

 こんどは飛びながら、肩をすくめる。

 

 ――いや、そこまでするっていったら、かなり大変なことになるよね。

 

 こんどは首をかしげる。

 

 ――それこそママがいってた、戦ってやつになっちゃうじゃん。どうするの?

 

 こんどは飛びながら、はあー、とため息をつく。

 

「ポピー、なにかお芝居のお稽古してるの?」

 

 突然うしろからヨンベの声が聞こえ、私は箒ごと飛び上がった。



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39

「おは、おはよーう、ヨンベ」私はすぐにふり向いて笑顔でこたえた。「いや、きのう読んでた本がむずかしくってさ、あれこれ考えてたの」

 

「本? わあ、なんの本?」ヨンベは目をかがやかせた。

 

「えっとね、妖精についての本」

 

「うわあ、えらいねポピー」ヨンベは心から私のことをほめてくれた。

 

 ――うそっぱちを、言ってしまった。

 

 私は心臓のあたりに針のようなものがちくりとささるのを感じた。

 

 でも、本読んだのはほんとうだし、むずかしいのもほんとうだし……うう、ごめんなさい! 私はもうすこしで頭を両手でかかえて、ますますお芝居のお稽古をしているように見られるところだった。

 

「あたしもねえ、見て」ヨンベはそう言いながら、肩にかけたかばんの中から小さめのキャビッチをとり出した。三個。「これ、持ってきたの」

 

「えっ」私は目を見ひらいた。「これ、ヨンベが育てたキャビッチ?」

 

「えへへ」ヨンベは肩をすくめて苦笑した。「これだけが、そう」三個のなかの、いちばん小さい、うす紅色のものを持ち上げる。「あとのは、パパの畑からもらってきた」

 

「うわあ、でもすごーい!」私は心から笑顔になった。「育つの、早かったねえ」

 

「うん。パパもびっくりしてたよ」ヨンベは頬を少し赤くした。「学校の行き帰りになにがあるかわからないから、持っていきなさいって」

 

「うん、そうだね」私は大きくうなずいた。私自身も母にそういわれて、母のキャビッチをおなじく三個、かばんの中に入れてある。「うわあ、ヨンベのキャビッチって、どんなだろう。強いんだろうなあ!」

 

 そう、キャビッチという魔法の野菜は、それを育てる人の魔力だけでなく性格によっても、野菜そのものの力の強さや性質、特質が、ちがってくるのだ。

 

 ヨンベは、すごくていねいに、いっしょうけんめい考えながら育てたので、きっとこのうす紅色のかわいいキャビッチには、相当な魔力がそなわっていることだろう。

 

 もしかしたら、私が今までまったく見たことのないような、特別な力を発揮するのかも知れない。

 

「あのさ、ポピー」ヨンベの声が、頭の真上から聞こえてきた。

 

「え?」私は、どうしてそんなところから聞こえるんだろうと思いながら顔を上げた。

 

 ヨンベのあごと鼻と目が、ものすごく近くにいた。

 

 なんと私は、ヨンベの手のキャビッチに、箒に乗ったままずいっと首をのばして顔を近づけて、くいいるように見入っていたのだ。

 

「あっ、ごめん! ごめんねヨンベ!」私はあわてて身をとおざけた。

 

「ううん、だいじょうぶだよ」ヨンベは首をふり、それからそのキャビッチを持つ腕を私の方にのばした。「これさ、ポピーが使って」

 

「えっ」私は目を最大級に見ひらいた。「あたしが?」

 

「うん、だって約束したでしょ」ヨンベはますます頬を赤くしながら笑う。「最初にポピーに投げてもらうって」

 

「あ、うん」もちろん、覚えている。「でもほんとうに、いいの?」

 

「もちろん!」ヨンベは、箒がゆらぐぐらい大きくうなずいた。「あんまりキャビッチの力は強くないかもしれないけど、思いっきり投げていいよ」

 

「ありがとう」私は両手を出して、キャビッチを受け取った。「強くないわけないよ。あたしもっと練習して、最高の技で投げるね」

 

「うん」

 

「あっ、じゃあ、これと交換」私はリュックから、母のキャビッチを一個とり出してヨンベに渡した。「うちのママのだけど」

 

「うわあ、いいの? ポピーのおばさんのキャビッチ?」ヨンベは目をまるくしながら受け取った。

 

「うん」

 

 私たちはふたりとも、とっても幸せな気持ちにつつまれながら学校に着いたのだった。

 

 

 幸せな気持ちは、校庭で待ちかまえていたマーガレット校長先生の

 

「今日は皆さんにピトゥイを覚えてもらいます。今日中です」

 

という雄たけびを聞くまで、続いた。

 

「えーっ」

 

「なに?」

 

「ピトゥイ?」

 

「なにそれ?」

 

「おれ聞いたことある。たしかね、あれだよ」

 

「なによ」

 

「あの、あれ」

 

「はやくいえよ」

 

「ほんとは知らないんじゃないの」

 

「いや知ってる知ってる、えーとね」

 

「ピトゥイは千年以上前から伝わる魔法で、もともとは自分にかけられた呪いをとりのぞくための浄化魔法です」皆のざわめきを、マーガレット校長先生の咆哮がさえぎった。「とっても高度な魔法なので、本来ならば魔法大学に入るまで学ぶことはありません」

 

 えーっ、と盛大なおどろきの声が校庭をセッケンした。もちろん私も、盛大におどろいた一人だ。そんな、格式の高い伝統ある魔法に対して「洗濯魔法」と言っていた父の言葉が、とっても軽々しくて失礼なもののように思えてならなかった。

 

「そして今日は特別に、魔法大学の学生の皆さんが、特別にピトゥイを教えてくださるためわが校へやって来てくれました」

 

 おおー、とふたたび盛大な感動の声があがった。もちろん私も、盛大に感動した一人だ。

 

「では皆さん、こちらへどうぞ」マーガレット校長先生の声のボリュームが三倍ほど大きくなり、皆は目をぎゅっとつむって肩をそびやかした。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、ございますです」

 

「ども」

 

 三人の、魔法大生の人たちが校舎から出てきた。

 

 なぜか三人とも、背をまるめるようにして、肩をすくめるようにして、うつむきがちで、声にもあまり元気がなかった。まあ、マーガレット校長先生の声の後で聞いたから、そう聞こえたのかも知れないけれど。

 

「ではまず、お一人ずつ自己紹介をお願いします」マーガレット校長先生の言葉にうながされて(というかおどかされているように見えた)、三人の人たちはおたがいに顔を見合わせ、少しのあいだ自分と他の人たちを交互に指さし合って、それからやっと私たちの方を向いて話しはじめた。

 

「えーと、ぼくはケイマンといいます」マーガレット校長先生にいちばん近いところに立つ人が最初に言った。「大学では、魔法世界史を専攻しています。ピトゥイはむずかしい魔法ですが、いっしょにがんばりましょう」

 

 一瞬空白の間があいて、最初にマーガレット校長先生がばんばんばんと拍手しはじめ、皆もそれにつづいた。

 

「あ、わたくしサイリュウと申します」つぎに、三人のうちまんなかに立つ人が言った。「本来は投げ技専門なのでございますが、ピトゥイも、まあまあ使えるところでございますんで、よろしくお願いいたしますです」

 

 また拍手。

 

「ルーロっす」さいごの人はいちばん声が小さく、皆思わず首を前につき出すようにしてその言葉に耳をかたむけた。「逆に呪いの方やってるんで」そう言ってその人は、ひひひ、と声もなく笑った。

 

 皆は、首を前につき出したまま目をきょろきょろさせ黙っていた。

 

「まあ、逆にどういう風に攻めたらいいかは、けっこう熟知してるんで、……」最後の方はなんと言ったのか、とうとう誰にも聞きとれなかった。



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40

 それから私たちは、ピトゥイの練習をはじめた。

 

 ピトゥイは、たしかにとてもむずかしい魔法だった。

 

 どのくらいむずかしいかというと、お昼をまわり、もうすぐお日様がかたむきはじめるという頃になってもまだ、誰ひとりとして――生徒も、先生も――使えるようになっていなかったほどだ。

 

 魔法大生の人は三人いるので、私たちも三つの班に分かれた。それぞれに、学生の人が一人ずつついて指導してくれるというやり方だ。

 

 午前中にまったく成果が出なかったので、マーガレット先生の提案で、午後からはどの班が最初にマスターするかを競うことになった。ごほうびは、学校の畑のミイノモイオレンジで作るシャーベットだ。

 

 そのシャーベットが、学校の大きな冷凍庫の中ですっかり冷えて固まってできあがってしまってからも、やっぱり誰ひとり、ピトゥイを使えるようにはなっていなかった。

 

 ――うちのおばあちゃんなんかは、すごくかんたんそうに、指を振るだけで使えてるのになあ……なんでできないんだろう。

 

 私はすっかり疲れきった頭でそう思うのを、何十回となくくり返していた。

 

 ほんとうに、なぜ発動しないのかがわからない。

 

 呪文は

 

「ピトゥイ」

 

 これだけだ。

 

 たったひと言。

 

 一秒もかかるか、かからないかぐらい。

 

 いつものようにキャビッチを頭上に持ち上げ「ピトゥイ」とさけぶだけで、自分にかかった呪いの枷から解き放たれるという理屈のようだ。

 

 だけど使えない。

 

 発動しない。

 

 キャビッチが、いつまでも手のひらの上にある!

 

 魔法大生の人たちはもちろん、最初にお手本として自分自身でピトゥイをかけてみてくれた。

 

「ピトゥイ」彼らが叫ぶと、彼らの手の上のキャビッチはしゅるん、とおなじみの音を残して消えたのだ。

 

 魔法が――ピトゥイが発動したという、証拠だ。

 

 まあ、誰も彼らに呪いをかけてはいなかったので、その効果がはっきり目に見えるわけではなかったのだけれど。

 

 でもとりあえず、ピトゥイは発生したはずだ。

 

「ポピー」ヨンベが、すっかり疲れはてた顔で私を呼んだ。

 

「ん? どうしたの、ヨンベ」私は急いでふり向いた。正直いって、むなしい誦呪をしなくてすむことがうれしかった。

 

「妖精ってさ」ヨンベは、本当にこれ以上練習をかさねたら病気になって倒れるんじゃないかとうたがわれるほどに、ショウスイしきっていた。「呪いをかけたりするの?」

 

「う」私は思わず目をきょろきょろさせてしまった。

 

 正直いって、そこまで妖精の本を読みこんでいないから、妖精が呪いをかけるのかどうかはわからない……けどたぶん、今日のこのピトゥイの練習は、呪いじゃなくて妖精そのものをはらい落とすためのものだ。

 

 そう、ゆうべユエホワが話していた、アポピス類への対抗策だ。姿を消す力への。

 

 でも、考えてみたら私たちがそれを聞いたのはゆうべ遅くなってからだったのに、けさ学校に来たらもうすでにピトゥイの習得が決められていたっていうのは、びっくりするほど話が早いと思う。

 

 まさか、ユエホワが自分で学校に来て、マーガレット校長先生に話をするわけないし。

 

 うちの親が、ゆうべ夜中かけさ早くに、ツィックル便をマーガレット校長先生に送ったんだろうか?

 

 でもそこから、魔法大学の学生さんたちを呼ぶのも、手間と時間がかかることだろうし……

 

「うーん」私は無意識のうちに腕組みをして空を見上げ、眉をしかめていた。「どうなんだろう」

 

「どうした?」私たちのコーチ役のケイマンという人が、近づいてきた。「なにかわからないことがある?」

 

「あ、あの」ヨンベが背すじを少しのばして質問した。「妖精って、人間に呪いをかけたりするんですか?」

 

「――ああ、えーとね」ケイマンは一瞬横を見て、それからちょっとこまったように笑った。「妖精には、まあ多少いたずらをするものもいたようだけど、本格的な呪いまで使うものは、歴史上では確認されていないはずだよ」

 

「へえー」私とヨンベははじめて得た知識にいくどもうなずいた。

 

「でも、じゃあなんで今日中にピトゥイを習得しなくちゃいけないんですか?」私たちのとなりにいたほかの生徒が、質問に加わった。

 

「それは」ケイマンはまたちらりと横――遠くにいるマーガレット校長先生の方だ――「ぼくらが聞いてるのは、姿の見えない不審者から身を守るためのものだってことだけど」

 

「でも、呪いを解く魔法がなんの役に立つんですか?」

 

「呪いをかけられたら、妖精の姿が見えなくなってしまうんですか?」

 

「妖精じゃないなら、だれがその魔法をかけてくるんですか?」

 

 私たちのまわりにいたほかの生徒たちも、質問しはじめた。皆、むなしい誦呪をしたくないのだろう。

 

「ええと、それはね」ケイマンは、皆からの圧力をおさえるかのように、両手を胸の前にひろげて立てた。「ええとつまりその」

 

「呪いで姿を消してるんだよ」ルーロという人が、ケイマンにかわって答えた。

 

 でもその姿は見えず、皆きょろきょろと左右を見回した。

 

「敵の方にかかってる呪いをはらい落とすためさ」またルーロの、ぼそぼそとつぶやく声が聞こえた。

 

「ルーロ」ケイマンが、自分の真うしろにふり向いた。「俺のうしろにかくれるなよ」

 

 すると、ケイマンの背後からルーロがゆらりと姿をあらわし、ひひひ、と声もなく笑った。

 

 皆は(私も)思わず後ずさりしてしまい、だれもなにも言えずにいた。

 

「敵ってつまり、妖精以外の敵がほかにもいるってことなんですか?」ヨンベだけが冷静に質問をつづけた。すごいと思う。

 

「くくく」ルーロがまた、邪悪げな笑いをもらした。「まあね」

 

「えっ」

 

「それって」

 

「鬼魔?」ほかの皆もつぎつぎに声をとり戻した。

 

「君」ルーロがふいに、私を指さした。「ポピーっていうの」ぼそぼそと名前をきく。

 

「え」私は、まわりの皆の注目をあび、一瞬身をちぢこまらせたが「あ、はい」と正直に答えた。

 

「ガーベラの孫の?」ルーロはつづけてきいた。

 

 私の頭の中に、去年のいまわしい記憶が一瞬でよみがえった。

 

 この問いかけにうなずくと、次はどうなるか。

 

 私の腕は無意識に、キャビッチスローの構えに入っていた。

 

「ポピー」ヨンベの声が、遠くから聞こえた。

 

「おっと」ルーロはちょっとあわてたように、ケイマン同様両手を胸の前にひろげて立てた。「ストップストップ」

 

「あっ、ごめんね、だいじょうぶだよ」なぜかケイマンもあわてたように、ルーロと私の間に立ちふさがった。「お前もうあっち行け。もどれ」背後のルーロを追いはらうように言いつける。

 

 ひひひ、と謎の無声笑いをのこして、ルーロは自分の受け持ちグループの方へ立ち去った。

 

 私は、ほっと肩を落としながらキャビッチを持つ手を下ろした。

 

「ポピー、だいじょうぶ?」ヨンベが心配そうに聞いてくる。

 

「あ、ごめん」私はあわてた。「ちょっと、頭がつかれたみたい」はははは、と笑ってごまかした。

 

「そうだね、もう今日は、ここまでにしようか」ケイマンがついにその決意をしてくれたおかげで、誰もピトゥイを習得できないまま、今日の学校は終わりとなった。

 

 ミイノモイオレンジシャーベットがどうなったのか、その後先生たちから何も話がなかったので、たぶん先生たちだけで食べちゃったんだろうと思う。



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41

「おばあちゃんちに寄ってくる」ヨンベやほかの友だちと別れたあと、私は箒の上から母にそういってツィックル便を送った。

 

 帰り道のとちゅうでふと、どうやったらピトゥイを使えるようになるのか、祖母にコツのようなものを教えてもらえたら、と思いついたのだ。

 

「森の中は気をつけてね」母からの返信にはそう書いてあった。「おばあちゃんにも伝えておくから」

 

「わかった」私は返事をして、リュックの上から中に入っているキャビッチに触れ、確かめた。

 

 私の手のひらぐらいの大きさのものが三個と、もっと小さな、手のひら半分ほどのものが一個――ヨンベにもらった、ヨンベお手製のキャビッチだ。

 

 ほんの少しだけ、投げるのがもったいないような気持ちが、私の心のなかにはあった。とってもかわいい、生まれたての、赤ちゃんのようなキャビッチ。

 

 だけど、もしいま鬼魔に出くわしたら、やっぱり私はなにも考えずそのキャビッチを投げるんだろうなと思う。

 

 その方が、ヨンベもよろこんでくれるだろう。

 

 

 その森の中に入る。

 

 祖母の家はふしぎなことに、森の木々の上を飛んでいてもぜんぜん見つからない。いったん森の中、木がうっそうと生えている中に下りてみないと、どこにあるのか見えないのだ。

 

 まるで、かんたんには見つからないよう特別な魔法がかけられているかのように。

 

 ……と私は思っているのだけども、父や母――そしてたぶん、ユエホワなんかも――は、森の上からでもじゅうぶん見つけられるという。

 

 もしかしたら、大人には見えるけど子どもには見えないという魔法なのかも知れない……まあ、それをいうとまた

 

「あなたは時々、ぎょっとするようなことを言いますね」

 

とかってマーガレット校長先生に言われるから、心のなかだけにしまっておく。

 

 私は口をとがらせながら、箒から下りた。

 

 箒で飛ぶときのコツを、知っているだろうか。

 

 箒というものは、高速で飛ぶほうが、飛びやすいのだ。かんたんに飛べる。

 

 逆に、スローペースでゆっくり飛ぶほうが、むずかしい。バランスがすぐくずれて、ひっくりかえりそうになる。

 

 だから学校でも、学年が上がるごとに箒の授業で飛ぶスピードはおそくなってくる。上級生になればなるほど、テストのときなんか、みんなすごくゆっくりと、しかもぶるぶるふるえながら飛ぶようになるので、皆それを「老化テスト」と呼んでいる。

 

 ともかく、森の中に下りてしまうと木々にぶつからないようゆっくり飛ぶ必要があるわけで、私はいつも、さっさと箒から下りてしまうのだ。歩いたほうがはやく先にすすめるし。

 

 そして下りてしまうと、母からの言いつけ通り、危険度がいっきに倍増する。

 

 といっても、なんだか最近はモケ類とかキュオリイ類とかが攻撃してくることはめっきり減っている。

 

 父なんかは、それは森の鬼魔たちの間で、私の顔が知れわたってきたからだと言う。あの人間に近づくとキャビッチを投げつけられるから、姿を見かけたらなにもせず逃げろ、というふれこみが鬼魔のあいだでされているのに違いない、と。

 

 それを聞いたとき私は思わずまさかと言って笑ったんだけど、父は大まじめに「いや、じっさいそういうことはあるんだよ」と説明していた。

 

 鬼魔分類学博士の父のいうことだから、たぶん本当なんだろう。

 

 私はうす暗くなってきた森の道を、早足で歩いていった。

 

 あと少し。

 

 いつも目印にしている、古くて大きなタルパオの木が見えてきた。

 

 と思ったそのとき。

 

 のっそりと、そのタルパオの木のむこうから、大きな生き物が姿をあらわした。

 

 私ははっと息をのんで、立ち止まった。

 

 ビューリイ類だ。

 

 四足で歩く、イノシシ型鬼魔。

 

 地面からその頭までの高さは、二メートルぐらい。私の身長よりはるかに高い。

 

 私の手にはとっくにキャビッチが持たれていた。学校で、ピトゥイの練習に使っていたやつだ。

 

 すばやく頭のなかで考える。

 

「リューイ」叫ぶ。

 

 キャビッチが巨大化しながら浮かび上がる。

 

「モーウィ、ヒュージイ」完誦する。

 

 キャビッチは一メートルほどの大きさで止まり、私は両手でそれを抱えるように肩の上に持ってきた。

 

 こっちに走ってくるか?

 

 ビューリイ類は、チョトツモウシンしてくるのが特徴だ。とにかく走って攻め込んでくる。何にでも体当たりして、ものすごいパワーで破壊する。

 

 今こいつが出て来たこのタルパオの大木でも、ビューリイ類に全力で体当たりされたらたぶん、かたむくか、へたをするとたおれるだろう。

 

 弱点は、まっすぐにしか走れないところと、走り出したらなにかに当たるまで自分で止まることができないというところ。

 

 動きがものすごく単純なのだ。

 

 だからまずは落ち着くことが大事だ。

 

 ビューリイ類が走り出した!

 

 私は巨大化キャビッチをストレートで投げた。

 

 最初に出くわしたときの距離が五十メートル。ビューリイ類が走り出して私のいる位置にたどりつくまでの時間がだいたい五秒から七秒ぐらい。

 

 逆に私の投げたこの巨大化キャビッチがビューリイ類のいた位置にたどりつくまでの時間は、だいたい一秒。

 

 あとビューリイ類の体重と、キャビッチ自体の持つ魔法力の大きさと、私の手からキャビッチに流れこんだ魔力の量と、キャビッチの飛んでいくコースと、ビューリイ類とキャビッチがぶつかるときの角度と――

 

 とにかくビューリイ類は、もときた方向へ百メートルぐらい吹っ飛んだ。

 

 私の手にはすでに次のキャビッチが持たれていた。

 

 正直、私がじっさいに頭の中で考えたことは、万にひとつ、ビューリイ類がひょいっと横によけてしまった場合、その瞬間に二投めを投げなければならないということだけだった。

 

 ぱちぱちぱちぱち、と頭の上で拍手の音がした。「おみごとー」

 

 見上げなくてもわかった。ユエホワだ。

 

「いつからいたの?」私は使わずにすんだキャビッチをリュックの中にほうりこみながらきいた。

 

「来たときちょうどビューリイ類が走り出してた」ユエホワは、イノシシ型鬼魔が飛んでいった方向を指さして答えながら木の枝から飛び降りてきた。「ばあちゃんちに行くんだって?」

 

「うん」私はうなずいた。「ママにきいたの?」

 

「ああ」

 

「今日、ずっとうちにいたの?」私は歩き出しながらきいた。

 

「いたよ」緑髪は歩きながらうなずく。

 

「なにしてたの?」私は本心からふしぎに思ってきいた。「まさかお洗濯とかおそうじとか、ママの手伝いしてたの?」

 

「少しね」ふくろう型鬼魔はなんともないようにうなずく。「宿かしてもらったお礼に」

 

「まじで?」私は本心からキョウガクした。「鬼魔もそんなことするの?」

 

「お前、鬼魔のこと知らなさすぎだぞ」ユエホワは歩きながら眉をひそめて言った。「鬼魔の方が人間よりずっときれい好きでこまめにそうじとか洗濯とかするんだからな」

 

「うそだ」私は首を横にふった。「じゃあなんで鬼魔界があんなに黒味がかってくさいのよ」

 

「それは世界のつくりがもともとそうだからだよ。人間界の空が最初から青いのといっしょ」

 

「うそだ」私はまた首を横にふった。「ぜったいそうじしてないからだよ」

 

「それはそうと」ユエホワは話をかえた。「今日、あいつら来たか? 学校に」

 

「へ?」私はきょとんとした。「だれ?」

 

「魔法大生のやつら」ユエホワが答えた。「お前らに、ピトゥイを教えに」

 

「なんで知ってるの?」私はさけぶようにいった。「たしかに来たけど」

 

「そうか」ユエホワはうなずいた。「使えるようになったか? ピトゥイ」

 

「ううん」私は首を横に振った。

 

「えー」ユエホワは顔をしかめた。「なんで」

 

「むずかしいもん、あれ」私はまたさけぶようにいった。「だからこれからおばあちゃんに……って、それよりなんで知ってるの?」見えてきた祖母の家を指さし、それからユエホワを指さす。「魔法大生のこと」

 

「あいつら、なに教えてたんだ」緑髪鬼魔はぶつくさ文句を言う。「ちゃんと勉強してんのか、大学で」

 

「いや、だから」私は両手をぶんぶんふって質問しつづけた。「なんで」

 

「鬼魔だよ」ムートゥー類鬼魔はやっと私の質問に答えた。「あの三人。アポピス類。うわさの」



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42

「え」私はただひと言いっただけで、あとは全身氷のようにかたまった。

 

 いまこの鬼魔、なんていった?

 

 ユエホワは数歩先にすすんでから立ち止まり、ふり向いた。「なに」

 

「――」私は目をまん丸くしたまま、ユエホワをただ見ていた。

 

「気づかなかっただろ」ユエホワは、まるで自分が人間になりすましてまんまと学校へセンニュウしたかのように、たいそう自慢げに笑った。「目も赤くないし」

 

「あっ、そうそう」私はいまさらながらはっと気づいて言葉を発した。「あの人たち、目赤くなかったよ。アポピス類じゃないんじゃないの?」

 

「言ったろ、ごく少数、目の赤くないやつもいるって」ユエホワは腕組みした。「そういうやつらはどうしても、疎外されちまうんだよ。くだらねえけど」

 

「ソガイって?」私は質問した。

 

「つまり正当なアポピス類とはみとめてもらえないってこと。なんか邪悪な血が混じってるんだろうって決めつけられるんだ」

 

「邪悪な血って」私は眉をひそめた。「もともと鬼魔のくせになにいってんの」

 

「ひでえな」ユエホワは声を裏がえして私に文句をいった。

 

「ていうか、知り合いなの? そのアポピス類の人たちと」

 

「まあな。人脈ってやつだ」ユエホワはまたしてもたいそう自慢げに答えた。

 

「あそう」私は軽くいった。

 

「てか、まあガキの頃からの友だちってやつだけどな」ユエホワは頭のうしろに手を組んだ。

 

「へえー」私は少し興味をもった。「いっしょに遊んでたの?」

 

「まあね」ユエホワはうなずく。「全員、俺が赤い目をしてるからうらやましがって、なんかくっついてきてた」

 

「そうか、あれ」私はあることに気づいた。「そういえばユエホワってさ、ムートゥー類、だよね」

 

「それがなにか?」ユエホワは目を細めてきき返した。

 

「ムートゥー類ってみんな目が赤いの?」

 

「――いいや」ユエホワは少し遠くを見るような目をして考えながら答えた。

 

「もしかしてユエホワってさ、純粋なムートゥー類なんじゃなくて、アポピス類が混じってるんじゃないの?」

 

「――」ユエホワはだまって歩き出した。

 

「ほんとうはさ、ふくろうとヘビのハーフなんじゃないの?」私も歩き出しながらまたきいた。

 

「かもな」ユエホワは歩きながら軽くいった。

 

「えっまじで?」いい出した私のほうがおどろいた。

 

「よく知らねえけど」ユエホワは歩きながら肩をすくめた。「俺の両親、百年前に死んじまったから」

 

「は? 百年?」私は歩きながらすっとんきょうな声をはりあげた。「ユエホワっていま何歳なの?」

 

「十九歳だけど」

 

「は?」私はさらにすっとんきょうな声をはりあげた。「なんで? 両親百年前に死んでるのになんで十九歳なの」

 

「鬼魔界ではそうなんだよ」ユエホワはめんどくさそうに眉をしかめた。

 

「意味わかんない」私も眉をしかめた。「ほんと鬼魔って意味わかんない。全員やっつけてやる」

 

「お前の理屈の方が意味わかんねえわ」

 

 そしてそのとき、祖母の住む丸太の家が私たちの目の前に姿をあらわした。

 

「まだあいつ、いんのかな」ユエホワは足を止めてちいさくつぶやいた。

 

「ハピアンフェル? いると思うよ。こんにちは――」私は大声で呼びかけた。

 

「ばっ」ユエホワはたいそうあわてて、大急ぎで屋根の上に飛び上がった。「俺が来てるってこと、話すなよっ」ひそひそ声で怒ったようにいう。

 

「べつにいいじゃん」私は口をとがらせて屋根の方をにらんだ。

 

「あらいらっしゃい、ポピー」祖母が出てきてにこにこと私にあいさつをし、それから屋根に向かって「ユエホワも、いらっしゃい」とあいさつした。

 

 少しのあいだ返事はなかったけど、緑髪鬼魔はおそるおそるのように顔をのぞかせて「ども」と小さくあいさつした。

 

「さあさあ、そろそろ外は冷えこんでくるわ。中であたたかいお茶と焼きたてのクッキーをいただきましょう」祖母は屋根に向かって手まねきをした。

 

 ユエホワは、少しのあいだ肩をすくめるようにして返事にこまっていたけれど、カンネンしたようで、すとん、と下におりてきた。

 

「おばあちゃんのいうことはきくのね」私はわざといじわるをいってやった。

 

「ピトゥイが見たいんだよ」ユエホワは口をとがらせてむっつりと答えた。

 

「そういえばさっき、ビューリイ類がここまで飛んできていたけれど、あれはポピーがやったものなの?」テラスから上がりながら祖母が肩ごしにふり向いてきいた。

 

「え、あ、うん」私も上がりながらうなずいた。「あの鬼魔、どうなった?」

 

「ああ、うちの屋根に落ちてきそうになったけれど、家がはじき飛ばしたから、さらにどこか遠くへ飛ばされていったわ」

 

「うわ」ユエホワがごく小さく声をあげて肩をそびやかした。「運の悪いやつ」

 

 

「おばあちゃん、今日アポピス類が学校に来たよ」私はダイニングテーブルにつきながら報告した。

 

「まあ、なんですって」祖母は目をまるくした。「それでどうなったの?」

 

「あたしたちにピトゥイを教えに来たんだけど、だれもマスターできなかった」私はありのままを話した。

 

「ピトゥイを? まあ、アポピス類が?」祖母は大きなお皿にならべたクッキーをテーブルの上におきながらまだ目をまるくしていた。「いったいどういうこと?」

 

「ユエホワの友だちなんだって」私はさっそく何種類かあるクッキーのどれを最初にとるかケンブンしながら説明をつづけた。

 

「まあ」祖母は何回おどろいたのかかぞえきれないぐらいまたおどろいて、緑髪鬼魔を見た。「いったい、どうなっているの?」

 

「アポピス類の体にくっついて姿を見えなくさせている光使いの妖精たちを、ピトゥイではらいのけたらいいと思って」ユエホワは、なぜかいたずらをしてあやまる時のような気弱げな顔と声で祖母に説明した。

 

「ああ、なるほど」祖母は手をぽん、とうちならし、大きく何度もうなずいた。「すばらしいわ! ユエホワ、あなたはなんて頭が良いんでしょう」

 

「でも、もしかしたら光使いたちには危害を加えることになるかもしれないけど」ユエホワはますます「ごめんなさいもうしません」といまにも泣いてあやまりだしそうな顔と声になってつづけた。

 

「それはだいじょうぶだと思うわ」祖母はふかくうなずいた。「ピトゥイはただ、体にまとわりついているものを浮き上がらせて引きはなすだけだから。妖精みたいに小さなものは、すぐに風に乗って安全な場所へ飛んでいけるはずよ。それよりも、アポピス類が人間の魔法であるピトゥイを行使できるものかしら?」

 

「そいつらは、実は人間になりすまして今、この世界の魔法大学に通っているんだ」ユエホワは、祖母の話に少し安心したようすで、ほほ笑んだ。「人間と同じ教室でいろいろ学んでる」

 

「まあ」祖母の方はふたたび目をまるくした。「そんな鬼魔がいるなんて、はじめて知ったわ。でもどうして人間の大学に?」

 

「鬼魔界の大学には入れなかった……いや、入ったけど追い出されたんだ」

 

「まあ、どうして?」

 

「そいつら、目が赤くないから」

 

「目が?」祖母は口をおさえた。「けれど、それだけの理由で?」

 

「そう」ユエホワは目をふせてうなずいた。「そこは実質、アポピス類の幹部がとりしきってるようなところだから」

 

「まあ」祖母は眉をひそめながらお茶をカップに注いだ。

 

 私はそのとき、すでに六枚目のクッキーをほおばっているところだった。



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43

「そのアポピス類の子たちは、ピトゥイが使えるの?」祖母は首をかしげながらきいた。

 

 ユエホワは、お茶を飲んでいる私の方を見た。

 

「えーと、発動はしてたよ」私は天井を見あげながら答えた。「キャビッチは、消えてた」

 

「そう」祖母はあごに指をつけ、考えた。「けれど、実際に呪いが解けたかどうかは」

 

「うん、わかんない」私は首をたてにふって横にふった。「誰も呪いとかかけてないし」

 

「ピトゥイは、発動一年発効十年といわれているのよ」祖母はうなずきながらいった。「キャビッチが消えてもその真の力を発揮できるとはかぎらないの」

 

「うわ」ユエホワは目をまるくした。

 

「まじで?」私も目をまるくした。

 

「あなたも、そんなにかかったんですか?」ユエホワは祖母に質問した。

 

「私は、さいわいなことに三日で発動して三か月で発効したわ」祖母はうなずきながら答えた。

 

 私もユエホワも、うなずくことしかできずにいた。コトバモナク、というやつだった。

 

「でも今回はそんな悠長なことはいってられないということよね。ポピー」祖母は私に、真剣な顔を向けた。

 

「はい」私はおもわず背すじをしゃきんとさせた。

 

「あなたは三週間以内に発効までいくことをめざしなさい」

 

「は」私はおもわず返事をしそうになったけどとちゅうで止めたので、なんだか祖母のいいつけをばかにしたような声になってしまい、内心ものすごく汗をかいた。「え?」なので、よく聞こえませんでした、という感じにきき返した。

 

「よし」どういうわけかユエホワの方が乗り気になっていた。「じゃあ今回は俺も協力する。頼むぞ」真剣な赤い目を私に向ける。

 

「協力って」私はこんどはほんとうに半分ばかにした声できき返した。「まさかユエホワが誰かに呪いをかけてそれを解けとかいうんじゃないでしょうね」

 

「鬼魔は呪いなんかかけられねえよ」ユエホワは口をとがらせた。「そんなことができるのは、人間だけ」

 

「えっ、まじで?」私はほんとうにびっくりしてきき返した。「ほんと? おばあちゃん」

 

「まあ、私も知らなかったわ」祖母も目をまるくしていた。「だけど……そうね、考えてみれば私もこれまでいちども、呪いを行使する鬼魔に出くわしたことはないわ」

 

「まあ、出くわしたとしても呪いをかける前に倒されてただろうけど」ユエホワがそういった後で、はっとしたように赤い目を見ひらいて自分の口をおさえていた。たぶん、思わずいっちゃったんだろう。まあ私もドウイだけど。

 

「あらやだ、おほほほほ」祖母はというと、ぜんぜん怒ったようすもなく大笑いしていた。

 

「じゃあ、おばあちゃんが誰かに(私はここでユエホワを見た)呪いをかけるの?(ユエホワは目を細めた)」

 

「うーん、残念ながら私も、そういったことは学んでいないわ。それができるのは、聖職者修行を終えた者だけ――あ」祖母はなにかに気づいたように顔を上げた。

 

「あ」同時にユエホワも、なにかに気づいたように顔をあげた。

 

「ん?」私はとくになにも気づかず、きいた。

 

「ルドルフ」祖母とユエホワが声をそろえ「さん」ユエホワだけが小さくつけたした。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 そうか。

 

 そういえばユエホワはいちど、ルドルフ祭司さまに「纏(てん)の呪」というものをかけられたことがあった。私がはじめてユエホワに出くわしたときのことだ。

 

 それはユエホワが私に危害をくわえようとするとその体が動かなくなる、というものだった。

 

 私はあのときそれを、私を守るためのおまじないなのだと思っていたんだけれど……つまりはそれこそが「呪い」だったというわけだ。

 

 ちなみにその纏の呪はその後、ルドルフ祭司さまご自身の手によって解かれた――つまりあのときルドルフ祭司さまは、ピトゥイを行使した、ということだったのかな?

 

 そんなことを思いつつ、私は箒に乗って祖母の箒のあとからついて飛んでいた。私のとなりには緑髪鬼魔がならび自力で飛んでいた。

 

「呪いかあ……」飛びながらユエホワは、どこか複雑そうな顔をしてつぶやいた。「こんどはどんなのかけられるんだろうなあ、あのじいさんに」

 

「うーん」私も箒で飛びながら考えてみた。「髪も目も、真っ黒になる呪いとかは?」ユエホワの、風にたなびく緑色の髪を見ながらいう。

 

「えー」予想どおりユエホワは、いやそうな顔をした。「やだよそんな、不吉な色」

 

「不吉って」私は苦笑した。「じゃあ、うーん、顔がリューダダ類の顔に変わるっていうのは?」リューダダ類はイヌ型鬼魔なんだけれど、ものすごく凶暴そうな顔をしていて、性格も短気で怒りっぽい。

 

「まあ、それはあんまりだわポピー」祖母が前を飛ぶ箒の上からふり向いて首をふった。「こんなに美しいユエホワの顔をリューダダ類に変えるだなんて、恐ろしすぎるわ」

 

「そうかな」私は、風の音にかくれるぐらいの小声でそうつぶやいた。

 

「あはは」ユエホワは自力飛行しながら肩をすくめ、またいい子ぶり笑いをした。

 

「じゃあ、せっかくだからアポピス類に変えてもらうとか」私も箒で飛びながら肩をすくめ、てきとうなことをいった。

 

 少しの間、なにも返事は聞こえてこなかった。

 

「――そうだな」やがてユエホワがいい、

 

「いいわね、それ」と祖母もいった。

 

「えっ」私はおどろいてきき返した。

 

「そしたら、少しの間だけでもあいつらのコミュニティの中に潜入していろいろかぎまわりやすいし」ユエホワが賛成し、

 

「さらなる情報を得やすくなるわね」祖母も賛成した。

 

「えーっ」私はひとり、顔をしかめた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「なるほど」ルドルフ祭司さまは、私たちの話を最後まで静かに聞いてくださったあとふかくうなずいた。「それならば、ユエホワ」緑髪鬼魔の方に向いていう。「お前を、人間に変えよう」

 

「えっ」ユエホワは後ずさりし、

 

「まあ」祖母は両手で頬をおさえ、

 

「人間に?」私は目をまるくして祭司さまとユエホワをかわりばんこに見まわした。

 

「と、言葉でいうのは簡単じゃ」ルドルフ祭司さまはそうつづけて、ほっほっほっ、と楽しそうに笑った。「だが呪いの力そのものは、ほんの小さなものでの」

 

「え」ユエホワはまた前にもどり、

 

「あら」祖母は頬から両手を離し、

 

「小さなもの?」私は目をまるくしたまま祭司さまを見た。

 

「そう」祭司さまはうなずいた。「呪いそのもので、生き物の姿かたちや体のつくりまでを変化させてしまうことはできぬ。それを実際に行うとするならば、そう、例えば髪の色ならば染め替える、体のかたちならば飲み食いをしばらく断つことで痩せ細る、または大食いをして太らせる、そういった手立てしかない」

 

「じゃあ、顔をリューダダ類にするのは?」私は質問した。

 

「医者に頼んで手術をしてもらうしかなかろうな」祭司さまは答えて、またほっほっほっ、と笑った。「または魔力による、変身」

 

「まあ、たしかに」ユエホワがぼそぼそという。「アポピス類にも人間にも、俺が自分で変身できるしな」

 

「あ、そうか」私は思い出した。ユエホワは、誰かの体に触れるとその人の姿かたちにそっくり変身することができるのだ。

 

「まあ、素敵な力を持っているのね」祖母がふたたび両手で頬をおさえる。

 

「そう。そして呪いの力とは、そのような行為、行動をその者自身に行わせるよう仕向けるものじゃ。自身にて飲み食いを断とうとさせる、手術を受けようとさせる、あるいは変身しようとさせる」



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44

「じゃあ、前に俺がかけられた纏(てん)の呪の、体が動かなくなるっていうのは」ユエホワが思い出しながらたずねる。「俺が、自分で……?」

 

「さよう」祭司さまはうなずいた。「お前はあのあと、ポピーに危害を加えようとしたのかね?」

 

「う」ユエホワは声をつまらせた。ちらり、と祖母の方を見る。たぶん、しまったよけいなことをいっちまった、とか思っていたんだろう。「いや、してない。なあ、してないよな」つぎに私の方をすがるように見ていった。

 

「さあ。おぼえてない」私は首をかしげて答えた。

 

「な、なにいってんだよしてないよ」ユエホワはますますあせった。

 

「そうだっけ」じっさい私は、あのあとからいろいろバタバタ冒険の旅に出たり鬼魔と闘ったりしたのでよくおぼえていないのだった。

 

「まあいずれにしろ、もしあの呪いがかかった状態で危害を加えようとしたならば、その時はお前自身が自分に向かって制止をかけ、体の動きをみずから止めていたというわけじゃ」祭司さまは説明をつづけた。

 

「ふむふむ、そういうことなのね」祖母は何度かうなずき、話を理解したようだった。

 

「なので今回も、ユエホワ」祭司さまはムートゥー類に告げた。「何かの条件により、お前がある行動を自ら起こすというかたちでの呪いを、かけよう」

 

「――」ユエホワはごくり、とのどを鳴らした。「ど、んな?」小さな声できく。

 

「うむ」祭司さまはすわっていた椅子から立ち上がった。「まずは祈りの陣までともにゆこう」

 

 私たちは祭司さまを先頭に部屋から出て、祈祷室へ向かった。

 

 床に大きく描かれた魔法陣のまんなかにユエホワが立ち、向かい合ってルドルフ祭司さまが立ち、私と祖母は陣の外へ、二人を横からみまもる位置に立った。

 

「ふうむ」祭司さまはしばらくユエホワの頭のてっぺんから足のつま先までを観察していたが、やがて「名前……」とつぶやいた。

 

「名前?」私と祖母が声をそろえてきき返したが、ユエホワははっとした顔で祭司さまを見ただけだった。

 

「お前の名前を呼ぶ者の声が聞こえる」祭司さまはゆっくりとおっしゃった。「そして、お前は……その名前を聞くたび、不快な気分を味わっておる」

 

「大当たり」ユエホワはぎゅっと目をとじて答えた。「なんでもわかるんだな」

 

「なんの名前?」私はきいた。「だれが呼ぶの?」

 

 けれどユエホワは、むすっと口をとざしてこたえなかった。

 

「さすればユエホワ」祭司さまは話を先にすすめた。「その名前を呼ばれるとき、お前が苦痛ではなく、快楽をおぼえるよう、諾(だく)の呪をかけるとしよう」手に持つ杖を頭上にかかげる。

 

「え」ユエホワは祭司さまの方へ手をのばした。「ちょっ、まっ」

 

 白い光が祭司さまの杖の先から飛び出し、ぐるぐるとうずまきながらユエホワをつつみこんだ。

 

「えーっ」真っ白な光の中で、ムートゥー類鬼魔のさけび声だけがひびいた。

 

 やがて光は少しずつ下にさがってゆき、緑髪が見え、つづいて赤い目、ふきげんそうにひきむすばれた口、なにかいいたげに組まれた腕、仁王立ちしている脚、が、つぎつぎに姿をあらわした。

 

「うむ」祭司さまは杖をおろし、大きくうなずいた。「これでお前に呪いがかかった。あとはポピーがピトゥイを覚え、これを解くのを待つのみじゃ」

 

「はい」私はうなずき、それから「ユエホワ」と呼んだ。

 

 ユエホワはむっつりとだまったまま立っていた。

 

「あれ」私は首をかしげた。「ユエホワ?」もういちど呼ぶ。

 

「なんだよ」ユエホワはちらりと横目で私を見た。

 

「あれ」私はまたいった。「祭司さま、これって快楽をおぼえてるってことなんですか?」ユエホワを指さしてきく。

 

「いいや」なんと祭司さまは首を横にふった。「おそらくそうではない」

 

「あれ」私はまたまたいった。「呪いは?」

 

「ユエホワに快楽をもたらすのは『ユエホワ』という名前ではないようだ」祭司さまはなぞの言葉を口にした。「それはおそらく」

 

「おそらく?」私と祖母は身をのり出してたずねた。

 

「ふむ」祭司さまはもういちど、ユエホワを頭のてっぺんから脚のつま先まで観察した。「『とってもすてきな、ながい名前』じゃ」

 

「えっ」私は目を大きく見ひらいた。

 

「ちっ」ユエホワはいまいましそうに舌打ちしてそっぽを向いた。

 

「まあ、そうなのね」祖母はなんどもうなずいた。「それじゃあ、ハピアンフェルに会う必要があるわね」

 

「う」ユエホワはぎゅっと目をつむった。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「そういえば、ハピアンフェルはどこかお出かけしてるの? さっきいなかったけど」私は帰り道を箒で飛びながら、前を飛ぶ祖母の背中にきいた。

 

「彼女はいま、私の花壇のお花たちに会いにいってくれているの」祖母はふり向いて答えた。「病気になっていないか、無事に実をつけられそうか、発芽できているか、きいて回ってくれてるのよ」

 

「へえ」私は飛びながら感動した。「粉送りって、すごいなあ」

 

 となりでユエホワがむっつりとだまったまま自力飛行している。

 

「ねえ、ユエホワ」私は話しかけた。「すごいよね、妖精って」

 

 緑髪鬼魔は無言のままちらりと私を横目で見た。「三日」ちいさな声でいう。

 

「ん?」私はきょとんとした。「なにが?」

 

「三日で、おぼえろよ」ムートゥー類は邪悪な声ですごんだ。「ピトゥイを。ぜったいに」

 

「はあ?」私は眉をしかめた。「なにいってんの。だれがやると思ってんの? そんな都合よくおぼえられるわけないじゃん」

 

「じゃあ四日」ユエホワは、声はひそめていたけれどますます怒りくるった目ですごんだ。「それでおぼえられなかったら、痛い目にあわせるぞ」

 

「へえ、そう」私はたじろいだりしなかった。「やれるもんなら、やってみなさいよ」

 

「ねえ、たのむよ」ユエホワはがらっと態度をかえ、泣きそうな顔になった。「まさかこんな、あほらしい呪いをかけられるなんて思ってなかったよ。たのむよ」

 

「あのカードに書いてあった『とってもすてきな、ながい』のつづきって『名前』だったんだね」私はすっかり夜の色になった空の方を向いて、思い出しながらいった。

 

 ユエホワがアポピス類にさらわれたとき、うちに届いたツィックル便に書かれていたなぞの言葉だ。

 

「えーと、なんだったっけ。ユエホワなんとか」ハピアンフェルが何度かユエホワに向かって呼んでいた長い名前を思い出そうとして、私はとなりを見た。

 

 するとユエホワは、キャビッチをぶつけたわけでもないのに痛そうに顔をしかめていた。「たのむよ」死にそうな声でいう。

 

「なんでそんなにいやなの?」私はかえってふしぎに思い、そうたずねた。

 

「気持ち悪いだろそんな変な名前」ユエホワは逆にびっくりしたように答えた。「なんでってこっちが聞きたいよ。なんでわざわざそんな名前つけんだよ」

 

 

          ◇◆◇

 

 

「おかえりなさーい」小さな、だけどとっても元気よく明るい声が、私たちをむかえてくれた。

 

「ただいま」祖母がいう。「おそくなってごめんなさいね、ハピアンフェル。それからありがとう、お花たちの様子を見てくれて」箒から下りてテラスの隅に立てかけながらつづける。

 

「どういたしまして、ガーベランティ。みんな元気でなにも問題なかったわ。とってもよく手入れされていて、よろこんでた」

 

「まあ、ありがとう。よかったわ」祖母はほほ笑みながら両手をくっつけて胸の前にさしだした。

 

 どこかにいたハピアンフェルがふわり、と光りながらその手の中にとびこんできた。

 

「今日は二人、来てくれているのよ。ポピーメリアと、あなたが会いたがっていた彼も」祖母がにこにこしながら、そっとささやく。

 

「彼?」ハピアンフェルは祖母の手のひらの中からのびあがって外をのぞきこんだ。「あっ」そしておどろく。

 

「こんばんは、ハピアンフェル」私はちいさくおじぎをした。

 

「こんばんは、ポピーメリア」妖精はにっこりとほほ笑んだ――ような声で答えた。そして「ユエホワソイティ!」とつづけた。

 

 私のうしろで、ため息をつくような音がした。

 

 ふりむくと、暗闇の中でムートゥー類鬼魔が、これ以上なく幸せそうに、ほほ笑んでいた。



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45

「え」私はそのひと言しかいえなかった。

 

「まあ、笑顔もすてきだわ」祖母がほめそやす。

 

「え」私は祖母に対してもやっぱりそのひと言しかいえなかった。

 

「会えてうれしいわ、ユエホワソイティ」ハピアンフェルもよろこびをつたえる。

 

「うふふ」ユエホワは笑い声をあげたがすぐに「やめろ」と笑顔のままいって「うふふ」とまた笑った。

 

「うわ」私はおどろいたけれどすぐに理解した。ようするにユエホワは今、こちょこちょとくすぐられているような状態なのだろう。

 

「ぶっとばすぞふふふ」笑いながらいうので、ぜんぜんこわくもないしキンチョウカンもない。

 

「へえー」私はうなずきながら、テラスの上をじりじりとあとずさる緑髪鬼魔を見た。「ユエホワソイティ」呼ぶ。

 

「うふふお前までなにいってんだははは」どうみてもうれしがっているようにしか見えない。「はやく解けよふふふ」

 

「まあとにかく、大急ぎで食事にしましょうね」祖母は手まねきをしながら家に入った。「ポピーは今日うちに泊まっていらっしゃい」

 

「はあい」私はなんだか気分がわくわくするのを感じた。

 

 なんというのか、新しい遊びを発見したときみたいだ。まあ、ユエホワには悪いけど。というか、ユエホワソイティには。

 

「ああ、俺もふっ飛ばされてえ」後ろでユエホワが、泣きそうな声でつぶやく。「あのビューリイ類みてえに」

 

「おばあちゃんが、ユエホワはそうしないようにって家にいいつけてるんだって」私は教えてやった。「あ、じゃなくて、ユエホワソイティは」

 

「なんだよそれへへへ」ユエホワはまた笑顔になった。

 

「ユエホワソイティ、私はあなたに心からあやまらなければならないわ」ハピアンフェルが、祖母の手から飛びうつったツィックルの葉の中でふわ、ふわと上下に飛びながらそう告げた。

 

 ユエホワが何も言葉を返さないのでついそちらを見ると、彼はやっぱり幸せそうにほほ笑んでいた。

 

 キッチンでは、祖母に命令された調理器具たちがいっしょうけんめいディナーをこしらえてくれる音が鳴りつづけている。

 

「いくらアポピス類たちに逆らえなかったとはいえ、あなたをさらってしばりつけるだなんて……ひどいことをしてしまった。本当に、ごめんなさい」ハピアンフェルのはかなげな声が、つらい思いをこめて語りつづけた。

 

 それでもユエホワは何も答えず、もういちど見たときには幸せそうなほほ笑みも消えて真顔になっていた。

 

 なので私は「ユエホワソイティ」ともういちど呼んだ。

 

 するとたちまち緑髪鬼魔は、うれしそうなほほ笑みをふたたび浮かべた。「やめろよ」ささやくようにいう。

 

 すごいなあ! 私はただそう思った。すごい呪いだ。

 

「ああ、ユエホワソイティ」ハピアンフェルはさけぶようにいった。「どうしてあなたはそんなに、笑ってくれるの? 気にしなくていいよっていってくれるの? なんてやさしい人なんでしょう」

 

「あ」私はそのときはじめて、ハピアンフェルにすべてを話していなかったことに気づいた。「あの、これはその」

 

「ああ、そんなやさしいユエホワソイティに、なんというひどいことをしたのかしら。本当に、私はどうしたらいいのかしら」

 

 ムートゥー類はあいかわらず何もいわなかったけれど、あいかわらずほほ笑みつづけていた。

 

「さあさあ、おまたせ」キッチンから祖母がよびかける。「ディナーにしましょう。みんな、集まって」

 

 

「えっ、呪い?」ハピアンフェルは、ミイノモイオレンジの果汁をジュレにしたものを少しずつかじりながら、おどろきの声をあげた。

 

「ええ」祖母はスーブを口にはこびながらうなずいた。「けれどポピーメリアが、四日以内にピトゥイをおぼえて解くことになっているわ」

 

「え」私はミイノモイの果肉入りのサラダを食べていたが、おもわず手をとめた。

 

 私のとなりでプィプリプ入り生地のミートピザをかじっていたユエホワが、なにもいわずうなずいた。

 

「けれどそうね、そうなるとかなり集中して訓練をしないといけないから……明日から四日間は、学校を休みましょう」祖母はさらにうなずきながら考えをのべた。

 

「え」私はふたたびサラダを食べはじめていたが、またおもわず手をとめた。

 

「そうだ」ユエホワがなにかを思いついたように、祖母を見た。「ひとつ、お願いがあるんですけど」

 

「まあ」祖母の表情が、ぱっと明るくなる。「もちろん、なんでも遠慮なくいってちょうだい。なにかしら?」まるで呪いをかけられたように、うれしそうに笑う。

 

「俺の友だち……さっき話した、大学でピトゥイを学んでるやつらがこの家に来ることを許してもらえると、なにか役に立てると思う」ユエホワは説明した。

 

「まあ、もちろんかまわないわ。ぜひ来てもらってちょうだい」祖母は目をくりくりさせて手を組みうなずいた。

 

「ええと、先にいっとくけど」ユエホワは、お皿の中のハピアンフェルを見てつづけた。「そいつらは、アポピス類なんだ」

 

「えっ」ツィックルの葉の中でハピアンフェルは飛び上がった。「アポピス類? どうして?」

 

「そいつらは種族の中で孤立してつまはじきにされてる」ユエホワは急いでつけ足した。「だから人間にたいしてぜんぜん敵愾心も持ってないし、危害をおよぼしたりもしない。もちろん、妖精にも」

 

 私はすこし意外に思いながらムートゥー類を見ていた。あんなにきらっていたのに、ハピアンフェルをいっしょうけんめい安心させようとしている……

 

「なにたくらんでるの?」思わずそう質問した。

 

「えっ」ユエホワは赤い目を見ひらいて肩をびくっとふるわせた。「な、なにいってんだよたくらんでなんかいねえよ」ちらりと私を見るがすぐに目をそらす。

 

「あの三人のだれかに、呪いを解いてもらおうと思ってるんじゃないでしょうね」私はずばりといった。「だめだよ。あたしが解くまで待っとかないと」

 

「――」ユエホワは、悪いことをしたのがばれたときのように気まずそうな顔をした。「いや、なんか早くおぼえられる方法とか、知ってるかもしれないだろ。大学でなんか調べてくれるかもだし」

 

 私はじいっと緑髪鬼魔をにらみつづけた。

 

「たしかに、それは期待できるわね」祖母はまたうなずく。「その子たちの名前はなんていうの?」

 

「ケイマン、サイリュウ、それからルーロ」ユエホワが答える。

 

 私の頭のなかに、今日の朝校庭にならび立ち自己紹介をした三人の魔法大生の姿が思い出された。

 

 でもそういえばあの三人のピトゥイは、はたして発効するんだろうか?

 

 私はふとそんなことを思い、首をかしげた。

 

 そういわれてみるとたしかに、あの三人にピトゥイを発動してもらって、今このユエホワにかかっている諾(だく)の呪いというものが解けるのかどうか、見てみたい気もする。

 

「そうねそれじゃ、明日マーガレットにツィックル便を……今夜のうちの方がいいかしら」祖母はそんなことをつぶやき、

 

「まあ、アポピス類の人たちと……そうだったの」ハピアンフェルはそんなことをつぶやき、

 

「じゃあ明日、ケイマンたちに……今夜のうちの方がいいかな」ユエホワはそんなことをつぶやき、

 

「うわあ、このピザ、ハーブがきいててすっごくおいしい」私はそんなことをつぶやきながらディナーはすすんでいき、やがて終わった。



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46

 次の日の朝、学校に行かなくてよくなった私は、祖母のキャビッチ畑でキャビッチを五個ほど選び、森の中へ入っていった。

 

 きのうビューリイ類鬼魔に出くわした、タルパオの大木が見えるところまで行く。

 

 その木に向け、まずは肩慣らしでストレートを投げる。

 

 どん、と重い音がして、タルパオの幹の、ねらったとおりのところが緑色に変わる。

 

 この、木に当たるときの音が、むかしにくらべると(というと私の母は「あなたのむかしって、ついこないだのことでしょ」といってけらけら笑う)、だいぶ低く、重たい感じになってきたことが、私にとってのひそかな自慢だ。

 

 むかしは――私からみて――もっと、ぱしっ、とか、ぱん、とか、軽い感じの、あまり痛くなさそうな音だったのだ。

 

 私の投げるキャビッチは、かなり重くなってきている。

 

 これは単に、キャビッチの質の良さとか、投げるキャビッチのスピードが速くなったからだけではない。

 

 私自身の魔力が成長したのと、投げ方がスムーズになってきたのと、キャビッチへの力の伝え方がうまくいくようになったからだ。

 

 ……と、リクツではそういうことなのだけれど、私はひそかに、ただ毎日学校や森の中や海岸なんかで練習するだけでは、いまあるほどには重く、強くなっていなかっただろうと思う。

 

 ではなぜそうなったか。

 

 いうまでもなく――いったら怒られるからいわないんだけど――あっちこっちで、いろんなたくさんの鬼魔と闘ったからだ。

 

 それは偶然そうしなければならなくなってしまったせいでもある。

 

 または、ある一匹のムートゥー類鬼魔の、気まぐれ的な思いつきにつき合わされたせいでもある。

 

 その一匹のムートゥー類鬼魔はゆうべ、みんなが寝しずまったあと、金色の翼をひろげ窓からこっそりどこかへ飛んでいった。

 

 きっと友だちのアポピス類鬼魔を呼びにいったんだろう。

 

 まあ、そいつがいない方がのびのびと安心して練習にうちこめるので、しばらく帰ってこなくてもいいけど。

 

 そんなわけで、これまでのおさらいだ。

 

 リューイ。エアリイ。シルキワス。

 

「あ、そうだ」私はとつじょ、あることを思いついた。というか、思い出した。

 

 同時がけ。あれを練習してみよう。

 

「リューイ、モーウィ、ヒュージイ、エアリイ、セプト、ザウル」リューイの呪文とエアリイの呪文をつづけて誦呪する。

 

 なにも、起きない。

 

「あれ」私は、頭上にもちあげた祖母のキャビッチを見上げ、もういちど「リューイ、モーウィ、ヒュージイ、エアリイ、セプト、ザウル」ととなえた。

 

 けれどやっぱり、しーんとして何ごとも起きない。

 

 キャビッチは巨大化もしなければ分裂もせず、ちょこんと私の手の中に存在しつづけている。

 

「あれー」私はふしぎでしかたなかった。

 

 確かにいちど、この魔法が使えたはずなのに。あの、見えないアポピス類がわが家にやってきた時。

 

「リューイモーウィヒュージイエアリイセプトザウル」できるだけ早口でとなえる。

 

 が、やっぱりキャビッチはうんともすんともいわない。

 

「ええっ、どういうこと?」私は森の中でひとり、あせりにあせって叫んだ。

 

 どうしてできないんだろう。

 

 いや、逆にどうしてあの時はできたんだろう。

 

 あの時といまとで、どこが、なにがちがうんだろう。となえ方? 持ち方? 姿勢? キャビッチの質――はありえないか、なにしろこれは、伝説の魔女ガーベラのキャビッチだもの。

 

 やっぱり、現実に鬼魔が目の前にいて、自分を守るために本気で闘う必要がある場面でないと、力が出せないのかな。

 

 それとも――あんまりこんなこと思っちゃいけないかもだけど――この、伝説の魔女のキャビッチに“ばかにされている”のかも。

 

 なんであたしがあんたなんかの命令にしたがわなきゃいけないのよ、みたいな感じで。

 

 それはもちろん、祖母自身がそんなことを思っているというわけでは決してない。

 

 キャビッチという魔法の野菜は、本当に、ひとつひとつ性質が――というか性格がちがっていて、人間とおなじで、やさしいのもいれば冷たいのもいれば、がんこなのもいる。

 

 前にもいったけどその性格はあるていど、育てた人の性格をうけつぐので、まあその意味では、祖母の中にあるプライドの高さというものが、このキャビッチにも受けつがれているのはまちがいない。だからこそ、私のような子どもの誦呪になど、したがえないというのかも知れない。

 

 ああ、むずかしい。めんどくさい。

 

 でもそうもいってられない。

 

 今このことを祖母に相談したとして、返ってくる答えはわかっている。

 

「百回やってできなければ、何か方法を考えましょう」だ。

 

 ふう、と私は肩で息をついた。

 

 そしてもういちど、キャビッチを持ち上げる。

 

「リューイ」叫ぶ。

 

 ぐん、とキャビッチが五十センチほどに巨大化する。

 

「エアリイ」つづけて叫ぶ。

 

 ぐら、と、巨大化したキャビッチがゆれる。けど、分裂しない。

 

「セプト、ザウル」完誦する。

 

 ぐら、ぐら、と何回かゆれたあと、ぼん、と音がして、巨大化キャビッチは二つに分かれ、空中にふわふわと浮かんだ。

 

「うーん」私はやっぱり首をかしげた。

 

 分裂はしたけど、リューイを完誦していないから大きさもたりないし――私にしては――、なんとなく力も弱そうだ。たぶん、この二個のキャビッチを投げたとしても、ぱしっ、とか、ぱん、ぐらいの効果しか出ないだろう。

 

 むずかしいなあ。

 

「へえー、すごいなあ」背後で声がした。

 

 ふりむくと、アポピス類のケイマン、サイリュウ、ルーロ、そしてムートゥー類のユエホワがぞろぞろと近づいてきていた。

 

「あ、おはよう、ございます」私はぺこりとあいさつした。

 

 鬼魔に敬語というのも妙な気がしたけど、いちおうこの人たち、人間の魔法大学の学生さん、つまり学校的には私の先輩にあたる人たちだからな、と自分に言い聞かせる。

 

「うむおはよう」けれどなぜか、真っ先に片手を上げてえらそうに返事したのは学生でもなんでもないムートゥー類だった。「がんばっとるかね。ご苦労」

 

「君すごいね」ケイマンが、むすっとする私に笑顔で話しかける。「リューイとエアリイの同時がけなんて、はじめて見たよ」

 

「すばらしいですね」サイリュウもなんどもうなずく。「さすがはポピーさんでございます」

 

「それガーベラのキャビッチ?」ルーロが、朝から子守唄のような声でささやく。

 

「あ、うん、えと」私は、だれから返事をすればいいのかとまどいながらうなずいた。「おばあちゃんのキャビッチで……まだ練習中。です」

 

「じゃあぜひ、君のスローを見せてほしいな」ケイマンが、わくわくしたような声でうながす。

 

「ええ、ぜひ、その先をお続けになってくださいませ」サイリュウも、私の持つキャビッチに手をさしだしながらうながす。

 

「ただし俺たちに向けて投げるのはかんべんだぜ」ルーロがこっそりとつけたしてひひひ、と朝から幽霊のように笑う。

 

「あ、はい」私は空中のキャビッチに手をそえ、タルパオの木の方へ向き直った。

 

 すう、と息を吸い込み、ふう、とはき出す。

 

 もういちど吸い込みながら、両手のキャビッチを同時に肩のうしろに引きさげ、次の瞬間左足を踏みこみつつ両手を同時に前にふりおろす。

 

 二個の巨大化キャビッチはならんで飛び、右側のものはすこし沈んでから浮きあがり、左側のものは逆に少し浮かびあがってから沈むかたちで、同時にタルパオの幹の、上下にわかれた位置にばしん、とぶつかった。

 

 タルパオの梢が、さわ、と揺れた。

 

 やっぱり、ちょっとパワー的に弱い。

 

「おおー」けれど三人のアポピス類は同時に感動してくれた。「すごい」

 

「ふむ」一人のムートゥー類だけが、えらそうに腕組みする。「まあまあだな」

 

「どうも」私はにこりともせず小さく答えた。



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47

「よし、じゃあ早朝練習はこれぐらいにして、ばあさんとこで朝飯ごちそうになろうぜ」緑髪はひきつづきえらそうに、全員に指図した。

 

 私たちはぞろぞろと、森を出た。

 

 歩きながらもアポピス類の人たちは、私にキャビッチスローについてあれこれ質問してきたり、逆に私の知らなかった新しい情報を教えてくれたりして、私もだんだんこの人たちの話に興味を持ちはじめた。

 

 やがて祖母の丸太の家が見えてきた。

 

「ほら、ここだ」ユエホワがさも知ったふうに指さす。「これが、伝説の魔女のすみか」

 

「おお」

 

「すばらしい」

 

「へえー」

 

 三人はそれぞれに感動した――がその直後、なぜか三人は同時にぴょーんと上空たかく飛び上がっていった。まるで、はじけとぶ火花のように。

 

「うわあーっ」三人の悲鳴はすぐに小さくなり消えた。

 

「あ」私とユエホワはぼう然と、飛んでいく三人を見送ることしかできずにいた。

 

「あらまあ、ごめんなさい」祖母が目を丸くしながらテラスに出てきた。「うっかり、家に言いつけるのを忘れていたわ。ポピー」テラスにたてかけてある箒を取り上げながら、私を呼ぶ。「急いで彼らを連れもどしに行きますよ」

 

「え」

 

 祖母はさっさと箒に乗り、アポピス類の飛んで行った方向へぎゅんっと発進した。

 

 しかたないので、私も口をとがらせながらツィックル箒にまたがり飛んだ。

 

「なるほどなあ」なにに納得しているのか知らないが、ユエホワもそんなことを言いながら飛んでついてきた。

 

 

 三人のアポピス類たちは、森の木の梢にそれぞれ引っかかって泣きそうな顔をしていた。

 

 祖母は三人それぞれに「ごめんなさいね」と言って回り、それからケイマンを箒のうしろに乗せた。

 

 私はサイリュウを、箒で下から持ち上げるようにして梢からはずし、箒に乗せた。

 

 ユエホワはルーロを助ける係になっていたけど、彼を梢からはずす作業をしているとちゅうでなぜか「うるせえな、少しだまってろ」と文句を口にしていた。たぶんルーロがなにかつぶやきつづけていたんだろうけど、私にも祖母にも彼がなにをつぶやいていたのかはまったく聞こえてこなかった。

 

 

「みんな、お帰り」丸太の家につくと、ハピアンフェルが明るい声でむかえてくれた。

 

 三人のアポピス類は、びっくりしてあたりをきょろきょろ見回していたけど、彼らはもちろん、私たちにもその声の主の姿はすぐには見えずにいた。

 

「うふふ」祖母が楽しそうに笑い「妖精さんの声よ。さあ、中に入りましょう」と手まねきする。

 

「妖精?」

 

「おお、すばらしい」

 

「ほんとにいるのか妖精って」

 

 三人の魔法大生がそんなことを口にするのを聞いて、私は少しふしぎな感覚をおぼえた。

 

 この人たち、自分と同じアポピス類が、その妖精を使って悪さをしているってこと、本当に知らないんだな――

 

「ユエホワソイティ」私は緑髪鬼魔の名前――すてきな、ながい――を呼んだ。

 

「う」呼ばれたムートゥー類はひとことだけうなったかと思うと、にっこりと、朝のさわやかな空気に似つかわしい微笑みを浮かべた。

 

「えっ」

 

「おお」

 

「なに」三人のアポピス類たちは、こっちがおどろくほどちぢみ上がってびっくりした。

 

「うるせえ」ユエホワソイティは微笑んだまま悪態をついた。「呪いだよ」

 

「呪い?」三人はふたたびおどろいた。「笑う呪い?」

 

「ユエホワソイティって呼ぶと、なんかカイラクをおぼえるんだって」私は説明した。「それで、四日以内に私がピトゥイをおぼえて、この呪いが解けるようになりたいんです」

 

「おお」

 

「なんと」

 

「へえ」三人は目を丸くして、

 

「三日な」ユエホワソイティは微笑みながら訂正した。

 

「解かないほうがいいんじゃねえのこれ」ルーロが早口で意見をいった。

 

「ああ」ケイマンがうなずく。「俺もそう思う」

 

「そうですね」サイリュウもうなずく。「このままのほうが幸せかと思いますです」

 

「ああ」私も思わずうなずいた。彼らの気持ちは少しわかる。

 

「ふざけんな」ユエホワが怒りの表情になった。

 

「ユエホワソイティ」全員が同時にその名前を呼んだ。

 

 たちまち、ふんわりと優しい微笑みがユエホワソイティの顔にもどった。

 

「さあさあ、今日は朝からとってもにぎやかな食事になって、わくわくするわ」祖母が言葉どおりわくわくしている風な声をかけてきた。「みんな、いらっしゃい」

 

「お邪魔します」ケイマンが頭を下げながら言い、他の二人もぺこりと頭を下げて食事のテーブルにつく。

 

「ようこそ、ガーベラの食卓へ」祖母は椅子のそばに立ったままであいさつした。「どうぞ楽しんでね」それから椅子にすわりつつ、指をぱちんと鳴らす。

 

 すると、ふわっと甘ずっぱい香りがただよい、テラスの方から咲きたてのミイノモイオレンジの花たちが飛んできて、テーブルの上の方でくるくると回りだした。

 

「うわあ」私も、ハピアンフェルも、アポピス類たちもユエホワも、全員がそれを見あげ感動の声とため息をもらした。

 

「これは、ツィッカマハドゥル?」ユエホワがといかける。

 

「そうよ」祖母がうれしそうにウインクする。「覚えていてくれてうれしいわ、ユエホワ」

 

「あはは」ユエホワがてれくさそうに笑い、三人のアポピス類たちがいっせいにそちらを見る。

 

「呪い?」

 

「おお」

 

「すげえな」三人はふたたび感動の声をあげる。

 

 これはちがう、と思ったけれど私はだまっていた。

 

 食事をしながら、アポピス類なのに赤き目を持たないこの三人の生い立ちや、いま現在人間の大学で学んでいること、そして赤き目を持つほうのアポピス類がいまやろうとしていることなど、私たちの話はつづいた。

 

「そうか、ピトゥイで妖精たちをアポピス類の体から離してしまって、光の作用で姿を隠すのをできなくさせるという、ねらいなんですね」ケイマンが確認する。

 

「そう」祖母とユエホワが同時にうなずく。

 

「それで、あなたたちのピトゥイはもうすでに、本当に呪いが解けるところまで、できているの?」祖母がつづけて三人にきく。

 

「――」三人の食事の手が止まる。

 

「まだ、試したことは、ない?」祖母がまたきく。

 

「――はい」ケイマンがうなだれる。「呪われた人が、近くにいなくて」

 

「俺がいるよ」ユエホワが小さくささやいたけれど、みんな聞こえないふりをしていた。

 

「じゃあ、こうしましょう」祖母が軽く両手を打ちならす。「ルドルフにもういちど頼んで、あなたたちにも何か呪いをかけてもらい、お互いにピトゥイを使ってそれが解けるかどうか、試してみましょう」

 

「おお」

 

「え」

 

「――」三人は一瞬感動しかけたけれど、すぐに絶句した。

 

「わあ、おもしろそう」私だけがわくわくして声に出した。

 

「これ、遊びでやるのではありませんよ。真面目に考えて」祖母が注意する。

 

 なんで私だけがしかられるのかな。

 

 私は不服に思ったけれど小さく「はい」と答えた。



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48

「ではそなたたちの名を申せ」私たちの話を聞いたあと、祭司さまはひとこと目にそういった。

 

 緊張した面持ちで祭司さまの前に立っていた三人のアポピス類のだれも、すぐに答えなかった。

 

 その理由は、私にもすぐに察しがついた。

 

 たぶん名前をいったら、つぎに祭司さまがおっしゃるのはこうだろう。「ではそなたたちに、名前を呼ばれると快楽をおぼえる“諾(だく)の呪”をかけるとしよう」

 

「こちらから、ケイマン、サイリュウ、ルーロよ」なんと祖母が、だまりこんでいる三人のかわりにその名前をばらしてしまった。たぶん祖母は、三人が緊張のあまりしゃべれなくなっているのだと思い込んだのだろう。「ルーロは魔法大学で、呪いの勉強をしているそうよ。すごいでしょう」まるで自分の孫のように自慢げにいう。

 

「ほう」そして祭司さまもその話に興味を持ったようだった。「呪いの行使を望んでおるのかね」ききながらルーロに向かって軽く杖を振る。

 

「いやたぶん行使は無理だと思うけどそのしくみとか儀式の形態や歴史についてとかそっちの方の……」ルーロはものすごく早口にぶつぶつぶつと答えた。

 

「ほほう」祭司さまはすごく興味をもったように何度もうなずき、それから「ルーロ」と呼んだ。

 

「はいっ!」ルーロが背すじをぴしっ、とのばし、まるで舞台俳優のように大きな声で返事をした。

 

「えっ」

 

「おお」

 

「うわっ」

 

「ええっ」ケイマンとサイリュウとユエホワと私が、目をまん丸くして驚いた。

 

「まあ、すばらしいお返事ね」祖母は両手を合わせて感動していた。

 

「うむ」ルドルフ祭司さまも満足そうにうなずいた。「“活”の呪じゃ」それからサイリュウを見る。「お前は何を学んでおるのかね」

 

「う」サイリュウは半歩うしろにさがった。「私は、あの、ええ」

 

「彼はスロワーよ」またしても祖母が、口ごもるはずかしがりやのアホピス類の代わりに親切行為として答えた。「背も高いし、きっと強力な技を使いこなせるわ」

 

「ふむ」祭司さまはうなずくと同時に杖もいっしょにサイリュウに向けておじぎさせた。「サイリュウ」

 

「ほっ!」サイリュウはひとことさけんだかと思うと、右腕を頭の真上にぴんっと伸ばし、左腕は反対の真下へぴしっと伸ばして、同時に右ひざを曲げて胸元ちかくまでぐいっと持ち上げた。

 

「あら」これには祖母だけが目をまるくした。

 

 他の、ケイマンとユエホワと私は言葉もなく、眉をひそめてその変なポーズに見入るだけだったのだ。

 

「ほほほ」祭司さまが笑う。「なつかしいだろう、ガーベラよ」

 

「ええ、本当に」祖母は大きくうなずいた。「マルテスキ先生のスローポーズだわ」

 

「マルテスキ先生って、だれ?」私は眉をひそめたまま祖母にきいた。

 

「私が学生時代にキャビッチスローを教わっていた先生よ」祖母はなつかしそうに目を細める。「先生はこのポーズから、キャビッチを投げていたの。とても早かったわ」

 

「へえ」私はちいさくうなずいたけれど、内心ではよくこんな変なポーズから投げられるな……とふしぎに思っていた。

 

「ルドルフ、これは何の呪なの? “マルテスキの呪”?」祖母が祭司さまにそうきいたけれど、そもそも先生のポーズや名前を呪いにしてしまっていいのだろうか……と私は小さく肩をそびやかしたのだった。

 

「そうさな」祭司さまは少し考えて――なんといまこの場で決めるつもりだ――「“スモーレハーブスープの呪”でどうだろうか」

 

「まあ。おほほほほ」祖母が天井を向いて大笑いする。「いいわね。長くてすてきな名前だわ」

 

 私たち全員――変なポーズからやっと解放されたサイリュウも――は、いっせいに首をかしげた。

 

「うふふふ、マルテスキ先生はね、スモーレハーブの入ったスープが大好きで、いつもそれを飲んでいたの。まるでお酒のように、飲んでは赤くなって幸せそうにうたっていたわ」

 

「中毒じゃねえの」ルーロが、さっきの返事とは別人のように小さくとげとげしくつぶやいた。

 

「ていうか」ユエホワが、祖母にきこえないようにひそかに口にした。「こんなかんたんに、かけられるもんなのかよ呪いって……あの祈りの陣とかいうのは何のためなんだ」

 

 それはおそらく、ルドルフ祭司さまだから、だろう。祖母が、直接キャビッチを手に持たなくても魔法を行使できるのといっしょだ。決して誰にでもできることではない。

 

「さて」ルドルフ祭司さまがそういうのとほとんど同時に、ケイマンが飛び上がった。

 

「い、いや俺は、ぼくは、あの、いいです」

 

「よくねえよ」

 

「ずるいだろ」

 

「公平にいたしますことを願います」鬼魔たちがそろって反論した。

 

「ケイマン」祭司さまが呼んだ。

 

「うっ」ケイマンはとつぜん、聖堂の床の上にひざをだいてしゃがみこんだ。かと思うとつぎに「ひゃあーっ!」と叫びながら両手を大きくひろげて頭上にのばしながら、ぴょーんと上にとびはねた。

 

「“爆の呪”じゃ」祭司さまがおっしゃった。

 

「いつのまに?」

 

「いま杖ふったか?」

 

「なんとおそるべき呪いの技術でありましょうか」鬼魔たちはまっさおになっておそれおののいた。

 

「うわあ」私も、呪いをかける手品でも見ているようなふしぎな気持ちに全身つつまれていた。「すごい!」その言葉しか出てこなかった。

 

 すごい――けど正直なところ、全員妙な呪いをかけられたものだと思った。

 

「さあ、ではみんな」祖母が目をきらきらかがやかせながら言った。「さっそく、いまかけられた呪いをお互いに解きあってみましょう、ピトゥイで」

 

「あ」

 

「そうか」

 

「そうでございました」

 

 アポピス類たちは顔を見合わせてそのことを思い出し、それから三人そろって大きくほっと肩をおとした。「よかった」声をそろえていう。

 

「ちぇ」私の横でユエホワが不服そうに口をとがらせた。「ずるいなこいつらだけ」

 

「でも」私は答えた。「解けるかどうかわかんないじゃん、まだ」

 

「あそうか」ユエホワも思い出したようだった。「解けなきゃいいのに」声をひそめる。

 

 その後みんなで聖堂の庭に出ていき、三人のアポピス類たちは話し合って、ケイマンがサイリュウに、サイリュウがルーロに、ルーロがケイマンに、ピトゥイをかけることにした。

 

「じゃあ、せーのでいくぞ」ケイマンがキャビッチを右手に持ち、頭上高くさしあげて言う。

 

「はい」

 

「ああ」サイリュウとルーロもおなじくキャビッチを高くさしあげる。

 

「せーの」

 

「ピトゥイ!」三人が同時に叫ぶ。

 

 しゅるん、とそれぞれの手の上のキャビッチが消えた。

 

「まあ」祖母が感心する。「よくここまでがんばったわね」

 

「よし」ケイマンが、すごく真剣な目つきで他の二人を見る。「じゃあ、呼ぶぞ」

 

「はい」

 

「ああ」

 

「せーの」

 

「サイリュウ」

 

「ルーロ」

 

「ケイマン」

 

 三人はそれぞれ自分がピトゥイをかけた者の名前を呼び、そしてそれぞれ、「はいっ!」と返事をしたり「ほっ!」と両腕を上下に伸ばして片足を持ち上げるポーズをしたり「うっ」としゃがんだあと「ひゃあーっ!」と上空に飛び上がったりした。

 

 そしてそのあと三人は、地面の上にがっくりとひざを突いてうなだれ絶望した。

 

「ポピー」ふいにユエホワが私を呼んだ。

 

「ん?」

 

「俺を呼んでくれ。あのながい名前で」

 

「え?」

 

「いいからはやく」

 

「……ユエホワソイティ」

 

 ふわ、とユエホワの顔に、幸せゼッチョウのような微笑みが浮かんだ。

 

「よし、みんな、これからいっしょにがんばろうぜ」その微笑みのまま、緑髪鬼魔はアポピス類たちに言葉をかけた。

 

 けれど三人ともうなだれたまま、顔をあげもしなければ返事もしなかった。

 

「さあ、ポピー」こんどは祖母が私を呼んだ。「あと三日で、みんなの呪いを解いてあげてね」

 

「――」私は言葉をうしないかたまった。

 

「ルドルフの呪いは、強いわよ」祖母があごをひきながらそう言い、にやっと笑う。

 

 私は、まるでこの世でいちばんおそろしい呪いをかけられたような気分に包まれた。



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49

「ピトゥイ」叫ぶ。

 

 何も、起きない。

 

 キャビッチは、手の中にある。手のひらの、上に。

 

 それは祖母のキャビッチ畑になっていたもので、どちらかというと小さめのもの。葉の色は、うすいベージュオレンジだ。ころんとまんまるく、いかにも「野菜の子ども」といったイメージをあたえる。そしてなにより、さすがはガーベラのキャビッチというべきか、私の手のひらから伝わる魔力を、すべて、ひとしずくたりとももらさずその体のなかにすいこんでしまうのがわかる。

 

 でも、何も、起きない。

 

 ため込んでるのかな……?

 

 私はそんなことを思う。

 

 私の手から放たれる魔力の、一回分の量が少ないから――魔法を発動するのにじゅうぶんな量になるまで、貯金しているのかな? と。

 

 もちろんそんな話をいままでだれにも聞いたことはないし、学校でも教わったことはない。

 

 でももしそれが本当なら、なんというか、ガテンがいくんだけどなあ……

 

「なに考え込んでんだよ」声がかかる。「唱えてみるしかねえんだろ」

 

 私は口をとがらせて、声の主――ムートゥー類鬼魔――の方を見た。

 

 でも、たしかにあいつのいうとおりだ。

 

 どんな風にとなえるか――声のトーンとか、大きさとか、体の姿勢のとり方、キャビッチをかざす位置、そういうものに基本形とか、正しい形とかはない。

 

 人それぞれに、最高の条件がそろう(と思われる)スタイルは、ちがっているのだ。

 

 なので魔法行使の練習のときは、いろんなスタイルを試してみるべきだとはいわれている。もしかしたら、いまよりも強い魔法が出せるかも知れないから。

 

 でもそれって、いうはやすし、行うはがたし、というやつなんだよね。

 

 一回身についたスタイルは、定着してなかなか変えられない。だいたいみんな、自分がいちばん楽に使える形で魔法を使うものだ。

 

 祖母も母も、それでいいんだといってくれる。やりやすいのがベストだと。

 

 あんまり、あれこれ思いつめないほうがいい、と。

 

 その点では、あいつ――ユエホワのいう「唱えてみるしかない」は、当たっている。

 

 けど。

 

 鬼魔にいわれるのも、正直なにかしゃくにさわる。

 

 けど……まあ、やるしかない。

 

「ピトゥイ」私は叫んだ。

 

 何も、起きなかった。

 

 

 そんなことを、いったい何十回くりかえしたんだろう。

 

 日は真上をとおりすぎ、地平線に向けてすこしずつおりてきはじめていた。

 

 私は冷たいレモネードをクロルリンクのガラス瓶からぐびぐび飲み、ふあー、と大きく空にむけて息をついた。

 

「キャビッチ、消えないねえ」ケイマンがつぶやくようにいう。

 

「まあ我々も、一年かかりましたでしたからねえ」サイリュウも、うなずきながらいう。

 

「『発動一年』のまんまだな」ルーロも低くみじかくすばやくつぶやく。

 

「けど一年でも発動するって、びっくりだよな」ユエホワが首をふる。「鬼魔なのに」

 

 全員が、だまった。

 

 あれ。

 

 確かに、そうだ。

 

 この人たち鬼魔なのに、なんでピトゥイでキャビッチが消えるんだ?

 

 魔法が、発動できるんだ?

 

「まあ、鬼魔でも訓練しだいで、人間なみにキャビッチ行使に魔力が使えるってことだろうな」ケイマンが考えをのべる。

 

「なあ、これってさ」ユエホワが赤い目を光らせる。「王室学会で発表したら、大さわぎにならねえか?」

 

「確かに」ルーロがすばやくうなずく。「鬼魔界がひっくりかえるぜ」

 

「でも信用してもらえますですでしょうか?」サイリュウがうたがいの声をあげる。「我々のいいますことなんて」

 

「ははは」ケイマンが眉をしかめて笑う。「欺瞞罪で牢屋にぶちこまれるんじゃないの」

 

「お前らならな」ユエホワが両手を腰にあて、ふんぞりかえってせせら笑う。「この俺がひとこと申し出れば、そりゃ大発見の大ニュースだよ」

 

 三人のアポピス類はとくに言葉もなく、にがにがしげにふきだして笑うだけだった。

 

「しかもそれをさ」ユエホワは金色の爪の指を立ててさらにいう。「鬼魔界をおびやかしかねない、アポピス類のつくろうとしてる新興国へのけん制に使えるって話したら、どうよ」

 

「ああ」三人は、はじめてそれに気づいたかのように目をぱちくりさせた。

 

「な?」ユエホワは急に声をひそめて、三人に手まねきし近くに寄せた。「そうしたらさ」

 

「うんうん」三人もすっかりユエホワの話に心をうばわれたようで、真剣な顔になり聞き入りはじめた。

 

「王室から予算が引きずり出せるだろ……だいたい……ぐらいと見ていい……」

 

「うお」

 

「そんなにでございますか」

 

「あくどいやつだな」

 

「ばか、……ていえばもっと取れるぜ」

 

 私はクロルリンクのガラス瓶からレモネードをくぴくぴと飲んだ。

 

 前にも話したけど、この瓶に入れたレモネードは、いつまでたってもずっと冷たいままなんだ。

 

 あー、そろそろお昼ごはんか。

 

 そう思いついた私は、鬼魔たちをそこにのこしてひとり丸太の家に戻りはじめた。

 

 

「おつかれさま。どうだった?」祖母は、ランチのメニューをテラスのテーブルにならべながら、にこにことむかえてくれた。

 

「ぜんぜんだめだった」私は口をとがらせながらテラスに上がった。「キャビッチ、ぴくともしないもん」

 

「うふふふ」祖母はなぜか、楽しそうに笑う。「なつかしいわ、そのせりふ」

 

「なにが?」私は、祖母の魔法によばれてキッチンからふわふわ飛んでくる料理のお皿たちを空中でつかまえ、テーブルの上に置く手伝いをしながらきいた。

 

「私もむかし、おなじせりふを毎日ぶつぶつ口にしていたわ」祖母はひょいと肩をすくめて答える。「ぜんぜんだめ、ってね」

 

「ふうん」私は、ちょっとふしぎな感じを受けながらもうなずいた。

 

 それはそうだよね。いくら伝説の魔女っていわれても、最初っからものすごい魔法を使えてたわけじゃ、ないんだよね。

 

 私もいつか、そんな風に「なつかしいわ」とか、いえるようになるのかな。

 

 でもそうなるまでには、想像をゼッするほどの努力をしないと、いけないんだろうなあ……

 

「ピトゥイ、使えるようになるのかな、あたし」つい、ぶつぶつとこぼしてしまう。

 

「うふふふ」祖母はまた笑う。「それもよく、いってた」

 

「えー」私はとうとう、眉をしかめて笑ってしまった。「おばあちゃんも?」

 

「たぶん、みんなそうよ」祖母は最後の、冷たいお茶の入ったピッチャーをテーブルに置いた。「あなたのママも、いつも言ってたしね」

 

「へえー」私はまた笑った。じゃあ、私がいっても別に、いいのか。

 

「あら、そういえばみんなはどうしたの? いっしょじゃなかったの?」祖母がふいに森の方を見やってきいた。

 

「あ、うん」私も思い出して森を見た。「なんか、鬼魔の王様をだましてお金を出させようとかって相談してたけど」

 

「まあ、なにそれ」祖母は目をまん丸くしてふりむいたかと思うと「おほほほほ、おもしろい子たちねえ」と、テラスの天井を見あげて大笑いした。

 

 その笑い声に呼ばれたかのように、鬼魔たちも遅れて帰ってきた。

 

 私たちはテラスですずしい風に吹かれながら、ランチをいただいた。

 

 ランチのあとは、またピトゥイの誦呪だ。何十回となく。つぎの晩ごはんまで、へとへとになるまで。

 

 そういえば、さっき私が考えついたこと――キャビッチが、すぐに魔法を発動せず、与えられる魔力をじゅうぶんな量になるまで貯金するんじゃないかということ、あのセツを、学会とかで発表したら、どうなんだろうか。

 

 私たちの世界には王様という存在がいないけれど、どこかからなにかのヨサンていうものが、出たりするのかな……私はサンドイッチをもぐもぐ食べながら、そんなことを思った。

 

 が、すぐに浮かんできたのは、マーガレット校長先生の、地響きが起きたのかと思うほどの大爆笑顔と声だった。

 

 やめとこう。コンリンザイ。

 

 私はオレンジジュースをくぴくぴと飲みながら、目をとじた。



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50

 お昼ごはんの後も、私のピトゥイはイゼンとして発動しなかった。

 

 もちろん、いろんなスタイル――というのかどうか――を、ためしてみた。

 

 唱える前に目をとじて、心をとぎすませて、一点に集中して、思いきり唱える。だめだった。

 

 逆に力を抜いて、キャビッチも頭上たかくさし上げるのではなく、ひじを曲げて楽にかまえて持ち、ふだんと同じトーンで唱える。だめだった。

 

 両手で持って。だめだった。

 

 指一本の上にのせて。だめだった。

 

 手のひらではなくて手の甲にのせて。だめだった。

 

 頭にのせて。だめだった。

 

 鼻にのせて。言いにくいうえにだめだった。

 

「じゃあ次はさー」ユエホワがいう。

 

 他の三人は、それぞれ顔をななめ下に向けて口を手でおさえ、肩をふるわせている。

 

「えーとそうだな、背中にのせてさ、こう、おばあさんみたいに前かがみになって、『ピトゥイ』」最後のところはわざとしわがれ声でいう。

 

 ぶーっ。

 

 他の三人ががまんできずにふきだして、げらげらと笑いだした。

 

 私はなにもいわず、手に持っていたキャビッチ――朝に持っていたのとおなじ、ベージュオレンジのやつだ――を、ぽん、ぽん、とかるく上に投げ上げてから予告なしに投げた。

 

 ユエホワはとっさに後ろ向きになったけど、私が投げたのはシルキワスではなく普通のストレートだったので、それはそのまんまユエホワのお尻にばしんと当たった。

 

「ぐあっ」緑髪がのけぞる。

 

「うわあっ」

 

「ひえええ」

 

「おおっ」他の三人も目を見開いてあとずさる。

 

「もうやめた」私はどなった。「コンリンザイあんたたちの呪いなんか解いてやんない」

 

「まあまあまあまあ」ケイマンが必死で私をなだめる。「冗談だよ、ポピー」

 

「さいでございますですよ、ポピーさん」サイリュウも。

 

「疲れてるだろうからちょっと気休めに言っただけだよ、……」ルーロも早口でなだめたけど、最後に私の名前を呼んだのかどうかは声が小さすぎてわからなかった。

 

 けれど私の機嫌はなおったりせず、私はほっペたを思いっきりふくらませたままもうキャビッチをリュックから取り出しもしなかった。

 

「わかったよ、じゃあここからはジョークもユーモアもいっさいなしの、真剣勝負で突っ走るんだな?」ユエホワが片手でお尻をさすりながら、もう片方の手で私を指さした。「こっちもいっさい妥協しねえからな、そのつもりでやれよポピー」

 

「ふん」私はぷいっとそっぽを向いた。「やんない」

 

「なんだよ」ユエホワが怒る。「ポピー」私を呼ぶ。

 

「ポピー」ケイマンも呼ぶ。

 

「ポピーさん」サイリュウも呼ぶ。

 

「……」ルーロも(たぶん)呼ぶ。

 

「もうあたしを『ポピー』とは、呼ばないで」私は四人に向きなおると同時に宣告した。

 

「へ?」ユエホワはすっ頓狂な声を上げたが、その赤い目は明らかに『うわ、また面倒くせえこと言い出しやがったこいつ』と語っていた。

 

 他の三人は目をまるくして言葉をなくしていた。

 

「『ポピーメリア』に、変えたの。あたしの名前」私は両手を腰にあて、大人のような態度で説明してやった。

 

「――」ユエホワは目の下をぴくりと動かした。「なんだ、それ」

 

「だから、あたしの新しい名前よ」私は上体をそり返らせ、またしても大人の態度で説明してやった。

 

「『メリア』って、なに?」ケイマンが質問してきた。「どういう意味?」

 

「意味っていうか、ながい名前にしたの」私は口を尖らせた。「ポピーじゃみじかすぎるから」

 

「ああ」

 

「さいでございますですか」

 

「へえ」三人はおたがいに目を見あわせながら、わかったのかどうなのか知らないけどとりあえずうなずいた。

 

「ふうん」ユエホワは赤い目を細めて、少しの間私を見たあと「変なの」といった。

 

「はあ?」私は怒った。「どこが変よ?」

 

「長い名前か……うーん」ユエホワは腕組みをして下をむき目を閉じた。

 

 私はつぎに彼がなにをいおうと、聞こえないふりをすることに決めた。

 

「ポピーザップ」ユエホワが顔をあげていった。「で、いいんじゃねえか?」

 

 私は聞こえないふりをしていた。

 

「ユエホワ、それはないよ」ケイマンが苦笑する。

 

「呪いの名前に聞こえますですよ」サイリュウも苦笑する。

 

「俺はすきだけどなその名前」ルーロが苦笑ではなく笑う。

 

「それか、ポピーダグヴィグ」ユエホワがまたいった。

 

 私はひきつづき聞こえないふりをしていた。

 

「ユエホワ、それもないよ」ケイマンが苦笑する。

 

「酔いどれ親父の名前に聞こえますですよ」サイリュウも苦笑する。

 

「毒薬みたいでいいけどなその名前」ルーロが苦笑ではなく笑う。

 

「じゃあいっそ、ポピーポイズン」ユエホワがまたいった。

 

 私は聞こえないふりをしながらそっととり出しておいたキャビッチを投げた。「うるさい」

 

「ぶふっ」それはみごとにユエホワのみぞおちのあたりに命中し、緑髪鬼魔は地面に膝をついた。

 

 三人のアポピス類はひっと息をのんで言葉をうしなった。

 

「おま、にい、ちゃんに」ユエホワは肩をふるわせて息も絶えだえに文句をいった。

 

「にいちゃんじゃ、ない」私は腰に手をあて、ばかでかわいそうなふくろう型鬼魔にゆっくりと言ってきかせた。

 

 

「けんかをしてはだめよ」

 

 

 とつぜん、ハピアンフェルの声が聞こえた。

 

 私たちははっとしてきょろきょろとあたりを見回したけど、どこにも粉送り妖精の姿は見えなかった。当たり前だけど。

 

「ハピアンフェル?」なので私は呼びかけた。「どこにいるの?」

 

「ここよ」ハピアンフェルの声がすぐ近くに聞こえた。

 

 そういわれてもまったく見えなかったので、私は両手を合わせて丸めた。

 

 ハピアンフェルはふわ、とその中に飛びこんできてくれて、それでやっとその小さな白い光を見ることができた。

 

「森の木たちが教えてくれたのよ」ハピアンフェルが私の手のなかでふわ、ふわと上下に飛びながらいった。「女の子が怒ってキャビッチを投げてるって」

 

「え」私は思わず肩をすくめた。

 

「ガーベランティも心配してたわ。だから私が止めにきたの」

 

「う」私はさらに肩をすくめた。

 

「そうだよなんとかしてくれよこの不良娘を」ユエホワが前かがみになってみぞおちに両手を当てたまま、苦しそうに顔をしかめていった。「ガーベラさんにしかってもらってくれ」

 

「――」私はまた思いきりほっぺたをふくらませた。だれが悪いの?

 

「ユエホワソイティ」ハピアンフェルがユエホワを見てそう呼んだ。「だめだよ、仲良くしなきゃ」

 

「やめろ」ユエホワは俯き、歯をくいしばるようにしていったけど声は微笑んでいた。「二度とその名前で呼ぶな」

 

「呼ぶわよ、ユエホワソイティ」ハピアンフェルは首をふりながらまたいった。「あなたがいつまでも、子どもみたいなことをしてポピーメリアを怒らせたり悲しませたりするんならね。なんならもっとながい名前で呼ぶわ」

 

「お前」ユエホワは赤い目をぐっと上げてハピアンフェルを睨みつけたけど顔は微笑んでいた。「ぶっ潰すぞ」

 

「何いってんのよ」私は片手でキャビッチを取り出した。「そんなことさせない」

 

「ふざけんな」ユエホワは真顔に戻り怒った声になっていった。「そんな名前で呼ばれるくらいなら、時間河の底に沈んだ方がましだ」

 

「どうして?」ハピアンフェルが泣きそうな声でそう叫んだからいえなかったけど、私はもう少しで『じゃあそうしてあげる』と答えるところだった。「ユエホワソイティ」ハピアンフェルは本気で哀しそうにいった。「こんなにさわやかでかっこよくて耳にここちよくてながい名前は、他にないわ」

 

「なんでながくなきゃいけないんだよだから」ユエホワはぎゅっと目を瞑って空に向かって叫んだけどその顔はふたたぴ微笑んでいた。



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51

 それから私は、両手のなかにハピアンフェルを大切にもったまま、ものも言わず鬼魔たちに背をむけて丸太の家へ帰った。

 

 うしろでユエホワやケイマンやサイリュウや(たぶん)ルーロが私の名前――みじかい方の――を呼んだけれど、ふりむきもしなかった。

 

「もうポピーとは呼ばないで」とちゃんといい渡したわけだから、返事しなくてもいいと思って返事もしなかった。

 

 ハピアンフェルは私の手のなかでふわ、ふわ、とゆるやかに上下に飛んでいたけど、なにもいわなかった。

 

「お帰り」祖母はそういって迎えてくれて、ほんの一瞬眉をもちあげて私を見たけど、やっぱりなにもいわずにいた――いや、すぐにそのあと「もうすぐクッキーが焼けるところよ」といった。

 

「うん」私はうなずいたけど、祖母の顔を見ることができなかった。リビングのテーブルの上で両手をひらき、ハピアンフェルをときはなってから、ぱたぱたと自分用の寝室へ向かう。

 

 ベッドの上にぼすん、と座りこんで、あれこれ考える。

 

 たぶん、ハピアンフェルが森で見たことを祖母に報告するんだろう。

 

 祖母はなんというだろうか。

 

 なんとなく、予想はつく。

 

 ようするに、私がもっと大人になりなさいというようなことをいわれるんだろう。

 

 人間は鬼魔よりも賢いんだから、とか。

 

 ユエホワがお気に入りのきれいな(祖母から見た場合の話だ)鬼魔だから、傷つけちゃだめ、とか。

 

 私がもっとがんばって、さっさとピトゥイを使えるようになればいいだけだ、とか。

 

 でも、どうやってがんばったらいいのかは、自分で考えなさい、とか。

 

「ポピー、お茶が入ったわよ」祖母が呼ぶ。

 

 私は五秒ぐらいたってから「はーい」と返事をした。

 

 立ち上がる。

 

 こんなときは、甘いクッキーとお茶をいただいて、頭を休めてあげたほうがいい。考えるのをいったんやめて。

 

 今日のクッキーは、プィプリプ入りのとミイノモイオレンジ入りの二種類だった。焼きたてで、まだあったかい。

 

 鬼魔たちは戻ってきていなかった。

 

「けんかしたの? ユエホワたちと」祖母はさっそく、きいてきた。

 

「けんかっていうか」私はクッキーをもぐもぐ食べながら口をとがらせた。「変な名前で呼ぶから」

 

「変な名前? どんな名前?」祖母がまたきいたけれど、その目を見るとあきらかに、おもしろがっているのがわかった。

 

 私は肩をすくめながら「ポピーザップとか、ポピーダグヴィグとか、ポピーポイズンとか」と教えた。

 

 祖母は、「ポピーザップ」で片手で口をおさえ、「ポピーダグヴィグ」で両手で口をおさえ、「ポピーポイズン」でうつむき肩をふるわせた。

 

「もう」私はほっぺたをふくらませた。「おかしくない」文句をいう。

 

「そうね」祖母はまじめな顔をあげて言ったけど、すばやく目じりの涙を指でぬぐっていた。「彼らには、私からいっておくわ。ポピーをからかうようなことはいわないでって。私がいえばあの子たちも反省してくれるでしょう」

 

 まあ、たしかに。あいつらも、まだ本気でキャビッチの餌食にはなりたくないだろうし。

 

 そもそも、いくら祖母のお気に入りの鬼魔とその友だちだからって、伝説のキャビッチ使いという、鬼魔にとっては最大の“敵”の家に、泊りがけで訪問するということ自体、あいつらにとっては“命がけ”の行動なんだろうし。

 

 私なんかは、もう二度と鬼魔界へなんか足を踏み入れたくないと思っているのに。

 

 それを思うと、あいつらの勇気ある行動にたいして、もう少しだけ、敬意を表してやったほうがいいのかな……

 

「ぷっ」とつぜん祖母が吹き出した。「ふふふふふ、ポピーダグヴィグ、うふふふふ」両手で口をおさえる。「おほほほほ」ついにがまんできず、天井を向いて大笑いする。「おかしい」

 

 私はただもういちど、ほっぺたを最大級にふくらませた。

 

 いったい、どっちの味方なの? おばあちゃんは!

 

「私も、もう彼のことを『ユエホワソイティ』とは、呼ばないようにするわ」ハピアンフェルが、小さな声でそういった。

 

「まあ、ハピアンフェル」祖母がおどろいたように目をまるくして妖精を見た。「そんなつもりでいったわけではないのよ」

 

「ううん、そうではないの、ガーベランティ」ハピアンフェルは、ツィックルの葉っぱの上でふわりと飛び上がりながら、微笑んでいる声でいった。「もちろん私は彼をからかうつもりなんてまったくなかったし、心の底から彼にふさわしい、すてきな名前だと思ってそう呼んでいたのだけれど、それは私が勝手にそう思っていただけで、彼――ユエホワにとっても同じだなんてこと、決してありはしないのよね……そんなかんたんなことに気づかないなんて、私どうかしてたわ」

 

「ハピアンフェル」祖母は小さく首をかしげた。「私も、ユエホワソイティはすてきなながい名前だと思っていたのよ」 

 

「あたしも思ってた」私もうなずいた。呼ばれる当人はちっともすてきじゃないけど。

 

「でも彼はよろこばなかった」ハピアンフェルは首をふった。「私はきちんと、彼の気持ちを受け止めないといけないわ」

 

 三人は、少しのあいだだまっていた。

 

「お茶をいただきましょう」祖母がしばらくしてそういうまでは。

 

 

 鬼魔たちが帰ってきたのは、ディナーの少し前ごろ、日がすっかり沈んでしまったあとだった。

 

 私たちはとくに言葉をかわすこともなく、また祖母もハピアンフェルも、ディナーのあいだ彼らにお説教したり私たちに仲直りをさせようとしたりすることもなく、しずかに時間はすぎていった。

 

 そして皆、注意深く、だれの名前も口にしないようにしていた。

 

 ながい名前はかならず誰かを傷つけることになるし、ながくない名前でもそれを呼ぶと誰かが自分の意志と関係なくわけのわからない行動をとってしまうことになるからだ。

 

 私が、呪いを解けるようになるまで。

 

 でも、そんな日がくることは、いまの私にはまったく予想もつかなかった。

 

「そういえば、今日はクロルリンクムーンだったわね」ディナーの後、お茶を入れながら祖母がふといった。「みんなあたたかい恰好をして、テラスでお茶をいただきましょうか」

 

「クロルリンクムーン?」私はその言葉をはじめて聞いたので、ティーカップを出しながらたずねた。「月のこと?」

 

「そう」祖母はうなずいた。「私たち菜園界の月が満月になるときには、毎月ちがう名前がついているの」祖母が説明する。「今月の満月は、クロルリンクムーンという名前がつけられているのよ」

 

「クロルリンクって、あのお店のクロルリンクの?」私はフレッシュミルクを小さなピッチャーに移しかえながら、またきいた。

 

「ええ、そう」祖母はにっこりとうなずいた。「昔のことばで“遠くにいる大切な友達との絆”という意味なのよ」

 

「へえ」私は目をまるく見ひらいた。はじめて知ったことだった。

 

 きれいなひびきの名前だな、ぐらいにしか思っていなかった「クロルリンク」に、そんな深い意味があったんだ……

 

 それから私たちは皆、コートやストールをそれぞれはおって、テラスに出て夜空にうかぶ月を見あげた。

 

 本当に、心が洗われるほど美しい満月だった。

 

 クロルリンク、ムーン。

 

 遠くにいる、大切な友達――

 

 ヨンベはこの言葉を、知っているのかな。

 

 月のまばゆさに目を細めながら、私は思った。



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52

 ヨンベにツィックル便を送ると、すぐに返事が来た。

 

「クロルリンクムーンって、はじめて聞いたよ。私もいま見てるよ。すごくきれい」

 

「うん、ほんときれい」私はあらためて満月を見上げながら、しあわせな気持ちに全身つつまれた。「いっしょに見てるのって、なんかうれしいね」

 

「これが『遠く離れた場所にいる大切な友達との絆』だよね」

 

「うん」返事のあとおもわず「ふふふふ」と笑った。

 

 もどってきたカードには、「すごい! いま来たカード、楽しそうに空中でぴょんぴょん飛び上がったりくるくるまわったりしてるよ! ポピーの魔力ってほんとすごいよね!」と、びっくり符号がいっぱいついていた。

 

「まじで?」私はおどろいた。たぶんそれは、私の笑い声がそんな形で届けられたものなんだと思う。

 

「学校、いつから来るの?」ふいにヨンベはそう送ってきた。

 

「うーん」私の笑顔はたちまち真顔になってしまった。「ピトゥイが発動したらすぐ行けるんだけどねえ」

 

「そうかあ。でもピトゥイってむずかしいよねえ」ヨンベの残念そうな顔が頭のなかに浮かぶ。

 

「うん」私もうなだれつつ返事をした。「投げ技でもないのに、すごくつかれる」

 

「うんうん」ヨンベはわかってくれた。「たまには思いっきり投げにおいでよ。あ、学校でなくても投げられるか、でもおいでよ」

 

「うん」私はまた笑顔になった。「明日いく。それか、あさって」それは言葉にしたあと私の心のなかではっきりとした希望、意志となった。うんそうだ、明日学校へ行こう!

 

「うん、待ってるよ」ヨンベの笑顔が頭の中に浮かぶ。「じゃあ、おやすみ、ポピー」

 

「うん、おやすみ、ヨンベ」

 

 そうして私たちのツィックル交換は終わった。

 

 

「そうね」祖母は私の希望を聞くやいなやうなずいてくれた。「気分転換に、行っていらっしゃい。マーガレットには連絡しておくから。楽しんでね」

 

「はーい」私は、まるで遠足に行く話みたいに心がわくわくするのを不思議に思いながらも、やっぱりわくわくした。

 

 ユエホワが、祖母に見られないように、ものすごく不満そうな顔をして私を横目でにらんできたけど、無視した。

 

 

 翌朝、私は早起きしてとてもすがすがしい気持ちで学校へ行く準備をととのえた。

 

「じゃあ今日は、アポピス類のみんなでピトゥイの練習をするといいんじゃないかしら」祖母が朝食のとき、そう提案した。

 

「ああ、そうですね」ケイマンがうなずく。「発効するところまで」

 

「さいでございますですね」サイリュウもうなずく。「ポピーさんに負けぬようにでございますね」そういって笑う。

 

「学校行ってるあいだに先に呪い解いとくぜ」ルーロも低く早口でいってひひひ、と風の音のように笑う。

 

 ひとりユエホワだけは何もいわず、そしらぬふりで食事をつづけていた。

 

「ユエホワソ」ハピアンフェルが呼びかける――というか、呼びかけかけてとちゅうで止める。「あなたはピトゥイを使えるの?」

 

「――」ユエホワは少しびっくりしたように赤い目をまるくして、妖精の乗っているツィックルの葉っぱを見た。「俺? いや……」きょろきょろ、とまわりを見る。「使えないけど」

 

「そうだ、じゃあユエホワもいっしょに練習しようぜ」ケイマンが明るい声で提案する。「俺たちといっしょに」

 

「さいでございますね」サイリュウもうなずく。「ユエホワの魔力でもピトゥイが使えるとなりますと心強いことこの上ないかと存じますです」

 

「そうだな。ユエホワソ」ルーロが低くいい、ひひひひ、とすこし強い風の音のように笑う。

 

「いー」ユエホワは首をしめられたような声を出しつつもルーロをじろりとにらみ、それからすこしうつむいて「ああ、わかっ……」と、ルーロみたいに小さな声でこたえた。

 

 

 箒で学校に向かい飛びながら、私はやっぱりわくわくしていた。

 

 わくわくしていたけれど、同時に予想もしていた。

 

 そしてその予想通り、不真面目で悪がしこいだけがとりえの(とりえ、といっていいのかどうか)性悪鬼魔が、うしろから追いついてきた。

 

「あらどうしたの」私はちらっとだけ横目で緑髪の鬼魔を見ていった。「ユエヒン」

 

「――」緑髪鬼魔は私の箒の横を直立姿勢で飛びながら、一秒ほど私をじっと見て、それから一秒ほど目をとじて、そして一秒ほど前を向き、一秒ほど下を向き、もう一度私を見てから首を横に振り荒いため息をついた。「なんだ、それ」

 

「みじかい名前よ」私は前を向いたままルーロのように早口で答えた。「あなたの好きな」

 

「あのさ」ユエヒンは飛びながら目を閉じ、いった。「頼むから、普通に、元の名前で呼んでくれよ。な。頼むよ」

 

「じゃあハピアンフェルに、今までのこと謝りなさいよ」私はムートゥ類鬼魔をもういちど横目でにらんでびしっといった。「ぶっつぶすとかなんとか、ひどいこといってごめんなさいって」

 

「なんで俺が謝らなきゃいけねえんだよ」緑髪鬼魔は声を荒げた。「そもそも先にひどいことしたのはあいつだろ。誘拐して、縛り上げて、飯も食えなくして変な名前までつけて。お前さ、自分がそんなことされたらどう思うかって考えてみろよ。そんなことしやがった相手にごめんなさいなんて自分から謝れるか」

 

「――」私は目を空の方に向けて、考えてみようとした。

 

「自分が『ポー』とか『ピー』とかって呼ばれたら、どう思うよ」ユエヒン……ユエホワは両手を私の方に差し伸べて、あえて穏やかな声になりそう訊いてきた。「とってもすてきなみじかい名前とかいって」

 

「いやよ、そんな名前」私は眉をしかめた。「って、いう」

 

「だろ」ユエホワは両手をぱんと組み合わせて嬉しそうに言った。「わかるだろ。俺はその逆のパターンなんだよ。な」

 

「――」私は口を尖らせた。「わかった」ルーロのように低い声で、認める。

 

「ま、兄ちゃんとしては今回だけ、許してやるよ」鬼魔は飛びながら腕を組んで胸をのけぞらせた。「次からは気をつけろ」ぴしっ、と私を指さす。

 

「――」私は黙っていた。

 

「返事は?」ユエホワは私を指さしたまま首をくいっとかしげて厳しく訊いた。

 

「わかった」

 

「はい、だろ」

 

「――」私は自分の頭が、かしっ、と音を立てて四角くなるのを感じた。

 

「なんだよその目は」ユエホワという名のくそったれ鬼魔は片眉だけをひそめて腕を組んだまま偉そうに言いやがった。「返事は?」

 

「ふん!」私は飛びながら思い切り顔を鬼魔と逆方向に向け、叫んだ。

 

「お前、なんだよその態度は」ばかユエホワは怒った。「そんなんじゃ最強の魔法使いになんかなれねえぞ。ガーベラにもフリージアにもなれねえぞっ」

 

「いいもんならなくても」私は怒り返した。「あたしはポピーだもん!」そう言いながらなぜか、私の目からは涙がぼろぼろこぼれ始めた。

 

「なに泣いてんだよガキみてえに」あほユエホワは両方の眉をぎゅっとしかめた。「自分が悪いんだろ」

 

「泣いてないもん」

 

「泣いてるじゃんか」

 

「泣いてない」

 

「泣いてる」

 

「ふんっ」私は箒の柄を全力でにぎりしめ、最大級のスピードで変な色の髪のやつに背を向け飛びはなれた。「大きらい!」

 

「ポピー、まてよ」偉そうなムートゥー類が後ろから呼んだけど、むかむかするだけでちっとも待ちたくなかった。



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53

 学校に着くまでに涙は引っこんだけれど、ひさしぶりに会ったヨンベはそれでも私の顔を見るなり「おはよう、どうしたの、なんかあったの?」ときいた。

 

「あ、うん、ちょっと飛んでるときに目にごみが入っちゃって」私は飛びながら考えたいいわけを伝えた。

 

「わあ、そうなんだあ」ヨンベは痛そうな顔をした。「目が赤くなってるよ。薬草もらいにいく?」

 

「ううん、もう痛くないし、ちゃんと見えてるし、だいじょうぶ」私はにっこりと笑った。

 

「ほんと?」ヨンベも、にっこりと笑ってくれた。

 

 私はひさしぶりの学校で、思いきり勉強をして、思いきりキャビッチを投げた。

 

「きょうのポピー、別人みたいだよね」みんなびっくりしていた。

 

 私もすこし驚いていた。

 

 勉強が楽しいなんて思えるの、はじめてじゃないかな――キャビッチスロー以外では。

 

「ポピーの場合、ときどき休むんじゃなくて、ときどき学校に来たほうがいいんじゃないか?」男子の中にはそんなことまでいう人もいて、みんないちおう笑ったけど、それはさすがにどうなんだろう……と心の中では思っていたと思う、私もふくめて。

 

 でも、そんなふうに楽しいと思える一日というのはいつも、あっという間に終わってしまうようにできているんだ。

 

 私は、あの丸太の家に帰るのが、なんとなくいやだった。

 

 またあの、ばか鬼魔がいるし。

 

 また、ぜんぜんできもしないピトゥイの特訓をやらされるし。

 

 また変なこといわれて、頭にきて、いいかえしたりしたら私の方だけが怒られるし。

 

 放課後になってしまったとき、私は大きくため息をついたのだった。

 

「ポピー」ヨンベがこまったように笑う。「だいじょうぶ?」

 

「うーん」私はむずかしい顔をして考えこんだ。とりあえず「だいじょうぶ」じゃあない気がした。

 

 でもまさか、いま頭で思っている「だいじょうぶじゃない理由」は、話せないしなあ……家に鬼魔がいて、そいつたちとけんかしたら私が怒られる、なんて。

 

「ねえ、少しうちに寄っていかない? おばさんにツィックル便送ってさ」

 

「え」私はヨンベの顔を見た。

 

 私の親友は、いつものようににこにこしている。「またキャビッチが、少し大きくなったの見せたいしさ」

 

「うん」私はうなずき、笑顔になった。

 

 ツィックル便は、母というよりも祖母に向けて送った。「ヨンベの家に寄ってから帰るね」

 

「あらそう。わかったわ」祖母からの返事は、すぐとなりに立っているのかと思うほどすぐさま返ってきた。「あまり遅くならないようにね」

 

「はーい」そうして私はヨンベとともに、箒をならべて学校をあとにした。

 

 

「おや、いらっしゃい、ポピー」ヨンベのおじさんは、倉庫の中でなにか薬のようなものを作っていた。ティンクミントのような、すうっとするさわやかな香りがたちこめていた。

 

「こんにちは」私はぺこりとおじぎした。「これは、キャビッチ用の薬?」鼻からすうーっと香りを吸いこみながらきく。

 

「うん」おじさんはうれしそうに笑う。「葉が、固くひきしまって巻くようになる薬をね、開発中なんだよ」

 

「へえー」ヨンベと私は感心した。「葉が固くなると、どうなるの?」ヨンベが、私の心にも浮かんだギモンを口にする。

 

「まず期待できるのは」おじさんは指を一本たてた。「破壊力が強くなる」

 

「おお」私とヨンベは目を見開いた。

 

「それからふたつ目は」おじさんは指を二本たてた。「魔法効果が長持ちする」

 

「おお」私とヨンベは目をぱちくりさせた。

 

「そしてさらに」おじさんは指を三本たてた。「サイズが小さめになって、たくさん持ち運びできるようになる」

 

「おおー」私とヨンベは顔を見合わせた。「すごい」

 

「まあ、まだ開発中で、いますぐにそのすべての効果が得られるわけじゃあないんだけどね」おじさんは肩をすくめて笑った。

 

「いつごろできそうなの?」ヨンベは身を乗り出すようにしてきいた。

 

「うーん」おじさんは倉庫の天井を見あげて目をとじ「目標としては、来年の今ごろかなあ」と答えた。

 

「そうかあ」私とヨンベも天井を見あげた。「でも楽しみだね。がんばってね、パパ」ヨンベがおじさんをはげまし、おじさんもうれしそうに笑い、私たちはそこから畑の方へ行った。

 

 ヨンベのキャビッチは次々に生まれでてきている様子で、これにはおじさんもびっくりしていたという。

 

 私は、自分の親友がとても誇らしく思えた。

 

「のどかわいたね。あそこのテーブルに座ってて。何か持ってくるから」ヨンベが庭先に置かれてある木のテーブルを指さし、ヨンベの家の台所へ入っていった。

 

「ピトゥイの練習をしているんだって?」ヨンベを待つあいだ、おじさんが倉庫から出て来て話しかけた。「またずい分むずかしい魔法を使うことになったんだねえ」

 

「うん」私はうなだれた。「使えるようになる気が、まったくしないの」

 

「ははは、無理もないさ」おじさんは笑った。「大人でもめったに使える人はいないよ。フリージアやガーベラさんならお手のものだろうけど……そういえば、マーシュが帰って来ているんだってね」

 

「あ、うん」私はうなずいた。「家でロンブンとか書いてるみたい」

 

「そうかあ」おじさんは少し笑った。「あいさつに顔も見せないところは昔のまんまだなあ」

 

「あっ、ごめんなさい」私は思わず肩をすくめてあやまった。

 

「いやいや、それがマーシュだからぜんぜん気になんてしないよ。むしろきちんとあいさつに来られたほうが心配になってしまうさ」おじさんはそういって、はははは、と大笑いした。

 

「あはは」かわりに今度は私が少し苦笑した。

 

「そうだ、マーシュが帰って来ているんなら、また薬学関係の本を探してみてもらおうかな」おじさんは思いついたことを口をした。「彼は世界中から本を集めて来ているからね、ぼくがまったく読んだことのないものがきっと彼の書庫に眠っているはずだ」

 

「あ、じゃあ話しとく」私はうけおった。

 

「ありがとう」おじさんはにっこりと笑い「じゃあお礼に、いいものをあげよう」といって、ベストのポケットから小さなガラスの瓶をとり出した。

 

「なあに?」私はその中でゆらゆらと揺れる、緑色と金色を混ぜたような美しい液体を見つめた。「うわあ、きれい」ため息をつく。

 

「ふふふ」おじさんはほこらしげにその瓶をゆっくりと左右にかたむけた。「これはね、ツィックルの葉とシルクイザシという珍しい花の花粉、その他いろいろを合成してつくった薬だよ……といってもまあ、例によって試作段階のものなんだけどね」肩をすくめる。

 

『例によって』というのがなにを意味するのか、私にはあまりくわしくわからなかったが、まあたしかにヨンベのおじさんはいつもなにかを『試作』したり『実験』したりは、しているのだ。なので私はただ、うなずいた。

 

「これをね、キャビッチにほんのひとしずく程度、ふりかけて」そう説明しながら小瓶をわずかにかたむける。「そうしておいてから、ピトゥイをかけてみるといい」

 

「えっ」私は目を見ひらいた。「そうしたら、発動する?」心臓が、ばくばくと早打ちしはじめる。すごい!

 

「うーん」けれどおじさんはどうしてか首をかしげた。「わからない」首をふる。

 

「えーっ」私はがくりと肩を落とした。「じゃあ、どうなるの?」

 

「わからないというのは、発動するかも知れないし、または発動以外でなにかびっくりするような効果が生まれるかも知れないという意味だよ」おじさんはウインクした。「これも例によって、使う人の魔力の性質しだい、てことになるからね」

 

「あ」私はぱっと顔を上げ、「そうか」と納得した。

 

 そうだ。魔法の効果はいつもそう。絶対にこれがかなう、これだけが起きる、なんてことは、ないのだ。

 

「ちなみにぼくが使ったときはね」おじさんは当時のことを思い出すように指を立てて空を見あげながらいった。「キャビッチの葉っぱが一枚ずつ勝手にはがれていって、どういうわけかこう、縦一列にならびはじめて」説明しながら両手を上下にぐーんとひらく。「さいごの一枚まで上にならんで、手をはなしてもしばらくそのまま空中に浮かんでいたよ。縦ならびに」

 

「えええ」私はただびっくりした。「なんのために?」

 

「わからない」おじさんは完全な真顔になって答えた。「なにがしたかったんだろうね?」

 

「――」私は言葉をうしなった。

 

「おまたせー」そのときヨンベが、お茶のセットとプィプリプカップケーキを持ってきてくれた。「何の話してたの?」

 

「うん、ポピーのピトゥイに役に立つかも知れない薬をね、ちょっと使ってみてもらおうと思って」おじさんがにっこりとして答えた。

 

 役に、立つかも知れない……のか?

 

 そうは思ったけれど、私もやっぱりにっこりとしてうなずいたのだった。

 

 

 でもその薬のおかげで、丸太の家に帰るのがいやだという気持ちは消え――逆に、一刻もはやく帰って、ためしてみたい! という気持ちが強くはたらいて、私を急ぎ帰らせたのだ。

 

 そういう意味では、すばらしい効果をもたらしてくれる薬であることにまちがいはなかった。



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54

「まあ、なんて美しいのかしら」祖母は、私がヨンベの家から持ち帰った魔法薬の小瓶に目を奪われたようで、ため息まじりにそういった。「いいものをいただいたわね」

 

「これをキャビッチに?」ケイマンがきく。

 

「すばらしい」サイリュウもため息まじりにいいつつ、首をふる。

 

「シルクイザシか……見たことない植物だな」ルーロは材料の方に興味があるようすだった。

 

「本当にきれいなお薬ね。さっそく使ってみるの?」ハピアンフェルは、小瓶のまわりをくるくると回りながらきいた。

 

「うん」私は元気よくうなずいた。「やってみる」瓶を持ち上げる。

 

 瓶にはコルクの栓がはめこまれてあり、私はそれを引きぬこうとした。

 

 けれどそれはかなりかたくて、私の力ではびくともしなかった。

 

「かしてごらん」すぐにケイマンが手をさしのべてくれた。

 

「あ、うん」私は緑色の小瓶をわたそうとしたけれど、そのとき金色の爪の手がものもいわずにその小瓶をするっとさらっていったのだ。

 

「え」思わずその手の主を見たけど、私はすぐに目をそらした。

 

 その緑髪の鬼魔もとくになにもいわないまま、少しのあいだ瓶を目の前にもちあげ、少しふったりして観察し、それからやっぱりなにもいわないままコルクの栓をすぽん、とぬき取り、こんどは鼻のちかくにそれをもっていってくんくんとにおいをかいだ。

 

 私は、そっちの方をなるべく見ないようにしてはいたんだけど、目のすみにそいつがそういうことをしているのがどうしてもうつってしまうのだった。

 

「ふうん」緑髪のやつは低い声でそういい、少しのあいだ私を見ていたけれど、私がなにもいわないのでとなりのケイマンに、小瓶とその栓を手渡した。

 

「よし、じゃあさっそくやってみよう」ケイマンがうなずく。「ポピー、キャビッチを出してくれるかい」

 

「うん」私はちいさくうなずいて、テラスの椅子の上におろしていたリュックからキャビッチを一個とり出した。これは学校の授業で投げた残りで、うすい黄色の、私のてのひらサイズのものだ。重さはそんなになく、たぶんごくふつうの力をもつ、標準的なキャビッチだった。

 

「じゃあ、はい」ケイマンが小瓶を私にさし出す。

 

 私は少し緊張しながら、緑色と金色の混ざった色の液体を、ほんの一滴、キャビッチの上に垂らした。

 

 なにが起きるんだろう。

 

 けれど見たところ、キャビッチにはとくになんの変化も起こらなかった。色が変わるわけでも、ふるふると動き出すわけでも、ヨンベのおじさんのときみたいに葉っぱが一枚ずつはがれてたて並びに整列しはじめることも、なかった。

 

「ポピー」祖母がそっという。「誦呪を」

 

「あ」私は思わず肩をすくめ、ちいさく咳ばらいをして「ピトゥイ」と唱えた。

 

 すると。

 

 その黄色いキャビッチはとつぜん、ぴょーんとテラスの天井ちかくにまで飛び上がったのだ。

 

「うわ」

 

「おお」

 

「あら」

 

「えっ」全員がいっせいにそれを見あげて声をあげた。

 

 キャビッチはそれから、ケイマン、サイリュウ、ルーロ、そして緑髪のユエホワの頭の上を、一回ずつくるりと回りながら順ぐりに通りすぎていった。

 

「えっ」

 

「なんだ」

 

「これは」鬼魔たちはおどろきの顔で、自分の頭の上を回るキャビッチを見あげて声をあげた。

 

「まあ」祖母が目をまるくする。「もしかして全員分の呪いをひといきに解こうとしているのかしら」

 

「えっ」その言葉に私も目をまるくし、全員目をまるくした。

 

 それと同時に、黄色いキャビッチはしゅるん、と音をのこして消えた。

 

 全員、ぼう然とそれを見守っていたが、やがて祖母が

 

「じゃあ、みんなお互いの名前を呼びあってみましょう」とうながした。

 

「あ」

 

「そうか」

 

「ケイマン」

 

「サイリュウ」

 

「ルーロ」

 

「ユエホワソイティ」この名前はハピアンフェルが誰よりもはやく呼んだ。

 

 しーん、となった。

 

 なにも、起きない。

 

 ということは。

 

「おお」

 

「解けた」

 

「呪いが消えた」

 

「すげえ」

 

「まあ」

 

「すてき」全員が、信じられないといった顔でまばたきも忘れ口々にいった。

 

 私自身も、まったく信じられない気持ちでぼんやりしていた。

 

 これは、なにかの間違いではないのか?

 

 こんなに、あっという間にしかも全員分がひとつのキャビッチだけで、うそみたいに解けてしまっていいものか?

 

 なにか、まちがって使ってしまっているとか、このあとなにか大変なトラブルが巻き起こってしまうとか、そういうことではないのか?

 

「ポピー」祖母が呼んだ。

 

 私は顔を上げ、ぼう然としたまま「はい」と答えた。

 

「信じられないほどのすばらしい効果です」祖母はまじめな顔でしずかにいった。「けれどこれはあくまで、薬の力。あなた本来の魔力によるものではないということは、必ず肝に銘じておくように。今後も、決して鍛錬を怠るようなことがあってはなりません。そしてまた、あなたの友だちに対して、自分を特別な存在として扱うことを要求するようなことも、決して許されません。いいですね」

 

 私はうつむきながら聞いていた。「はい」ちいさくうなずく。

 

 皆、それ以上は言葉を口にすることもなかった。

 

 

 その後、アポピス類の学生三人もその薬をぜひ試してみたいというので、私たちは小瓶をもって森の方へ出かけた。

 

 鬼魔たちはあれこれ話しこみながら、祖母の畑からもってきたキャビッチに薬をふりかけていたようだったけれど、私は彼らから離れた場所で、一人すわりこんでいた。なので、彼らのキャビッチがどんな効果を見せたのか、または見せなかったのか、知らずにいた。

 

 ときどき「おおっ」とか「うわっ」とか「うーん」とか「ばかちがうよ」とかいっている彼らの声を、タルパオの幹の向こうに聞きつつ、その太い根っこの上でぼんやりとほおづえをついていると、

 

「ポピーメリア」

 

と、小さな声がふんわり聞こえてきた。

 

「え」私は顔をあげた。「ハピアンフェル?」

 

 姿は見えない。最初に会ったときと同じく、気配だけだ。

 

 だけど両手をくっつけて丸めると、ハピアンフェルはふわりとその中に入ってきて、私の手の中で白く光りながら「森のようすを見にきたの」といった。

 

「そうなんだ」私は微笑み、まわりの森の木々を見回した。「そういえばここのところ、アポピス類たちが近づいてくることってないよね」

 

「ええ、森の木たちが教えてくれるのよ」ハピアンフェルは答えた。「鬼魔が近づくと私に信号を送ってくれて、そしてガーベランティが――ツィッカマハドゥルというのかしら、木々に魔法をかけて、追いはらっているの」

 

「え」私はおどろいた。「そうだったんだ」

 

 やっぱり、祖母はすごい――祖母は強い。

 

 そんな想いが心の中に強くあらわれたけれど、私の顔はよろこびをあらわしてはいないようだった。

 

 ハピアンフェルが「どうしてそんなにかなしそうな顔をするの?」ときいたからだ。

 

「――」私はちょっとだけびっくりしたけれど、でもあわてて笑おうともしなかった。

 

 なぜだろう――たぶんいろんな気持ちが、心の中であれこれつみかさなって、とても重く感じていたからだと思う。

 

「大人はなにもわかってなんかくれない」私はうつむいたままそういった。



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55

 ハピアンフェルは、しばらく何も言わなかった。

 

 私もそれ以上のことは言えずにいた。

 

「そうかも知れないわね」やがてハピアンフェルが、小さな声で言った。

 

 私はハピアンフェルをちらりと見た。

 

「けれど、たいがいの大人は――そうね、何十年も前には、いまのあなたと同じような、つらくて苦しい思いを抱えていたのよ」

 

「――」私は顔を上げて、ハピアンフェルをちゃんと見た。

 

「大人は年をとるにつれて、昔のことを忘れていくと思われがちだけれど、そんなことは決してないわ」ハピアンフェルはにっこりと微笑んでそうつづけた。「記憶の奥底に、いつも、いつまでもそれは残っている……だけど大人には、ひがな一日その思い出をながめてひたっていることができないのよ。やることがいっぱいあって」

 

「――」私はまたうつむいた。それは、わかってるけど。

 

「ひとまず今日の食事の用意をしなくちゃいけないし、体の具合がいいか悪いかとか、明日の仕事の予定とか、もっと先の予定のこととか、たくさん考えないといけないわ……自分のためというよりも、おもに家族のためにね」

 

「――」私はまだうつむいていた。それも、わかってるけど。

 

「だからむかし、子どものころに思っていた感情というものを――いまでも変らず大切なその想いを、やすやすと引っぱり出してきて、のんきにながめてはいられないの」

 

「――」

 

「それは、そんなかた手間に、仕事しながら横目でちら見できるようなものじゃないから」

 

「え」私はもういちどハピアンフェルを見上げた。

 

「その想いと向きあうときには、きちんと準備する必要があるのよ」

 

「準備?」

 

「そう」ハピアンフェルはちいさな肩をすくめて、くすっと笑った。「だれにも見られず、思いきり泣けるように、ね」

 

「――」私はじっと白い妖精を見ていた。「なんで、そんなによく知ってるの?」

 

「うふふ」ハピアンフェルはちいさな手で口をおさえて、楽しそうに笑った。「むかし、今のポピーメリアとおんなじことを言ってなやんでた女の子がいたからよ」

 

「え」私は目をまるくした。「それって、もしかして」

 

「さあ、だれかしらね」ハピアンフェルはますます楽しそうに、ふわ、ふわ、と上下に飛びながら笑いつづけた。

 

 おばあちゃん……?

 

 私はそう思ったけれど、聞くことはできずにいた。

 

 むかしは、祖母も私とおなじだったんだろうけど、でも今は、まったくちがう。

 

 伝説の魔女に、なっている。

 

 ものすごい努力の成果ってことなんだろうけど、でもやっぱり、もともと持っている才能というのか、力が、ほかのみんなとは比べものにならなかったからだ。

 

 なにしろピトゥイが、三か月で発動するんだもん。

 

 私なんて、ヨンベのおじさんの薬を使わなかったら、もしかしたら一生発動しないのかも、知れない――

 

 

「お前、なにさぼってんだよ」

 

 

 ふいに、低い声がした。

 

 ふりむくと、緑髪鬼魔が両手を腰に当てて、タルパオの幹のむこうからむっつりとした顔で私を見おろしていた。

 

「なにぺちゃくちゃのんきにおしゃべりしてるんですか、未来の伝説の魔女?」そこで首をかしげながら、赤い目で空を見あげる。「の、ポピーさん」また顔を正面にもどして、私を見おろす。

 

「なによ」私はいい返した。「のんきになんてしてないし。ハピアンフェルに悩みをきいてもらってたんだから」

 

「なに悩みって」ユエホワは眉をひそめてきいた。

 

「ふん」私はそっぽをむいた。「あんたに関係ないし」

 

「はっ、どうせまたお子ちゃまのあれだろ、オトナハナンニモワカッテクレナイーってやつだろ」

 

「う」私は、胃のあたりにキャビッチをくらったような感じがして声をくぐもらせた。

 

 なんでわかったんだろう?

 

「そういうね、自分をかわいそうがる暇があったら、とっとと練習しろってことだよ。時間がもったいねえ」

 

 いや、きっと立ち聞きしてたんだ。

 

 いやなやつ!

 

「ユエホワソ」ハピアが私の手の中からそう呼びかけかけて、止まった。「――ポピーメリアに、つらく当たらないで」

 

「ま、なんだかんだ屁理屈こねたって、結局お子ちゃまはのんきなもんだよな。自分のことばっかり考えていればいいんだもんな」

 

「ユエホワソイ!」ハピアが叫んだ――どうしても、つけちゃいそうになるんだろうなあ『ソイティ』を――「失礼だけれど、私から見ればあなたもポピーメリアとなんら変わらない、お子ちゃまだわ」

 

「く」ふくろう型鬼魔は目を細めて小さな妖精を睨んだけど、すぐに目をそらした。

 

「それに、あなたにだってあるでしょう、だれかに、話だけでも聞いてほしくなることって。鬼魔は悩んだりしないのかしら?」

 

「俺はな」ユエホワは、金色の爪の親指で自分をさしていいかえした。「いつだって自分で、調べて、考えて、解決方法を必死でさぐってきた。大人にあまえたりなんかしたことねえぞ。ずっと一人だったからな」

 

「まあ」ハピアンフェルが息をのんだ。「かわいそうに」

 

「かわいそうとかいうな」ユエホワは腕をぶんっと横にはらった。「知ったふうに上から説教すんじゃねえ」

 

 

「あれ、一人じゃなかったじゃん、ユエホワ」

 

 

 ふいに、明るい声がした。

 

「え」見ると、ユエホワのさらに向こうに、ケイマンたちアポピス類学生がたたずんでいた。

 

「いっつも俺たちがいっしょにいてやってたじゃん」ケイマンはにこっと笑う。

 

「さいですよ、あなたの悩みも愚痴も、いつも我々が聞いてさしあげていましたでございましたです」サイリュウも、なんどもうなずきながらやさしく笑う。

 

「そうそう、あのときなんてあれだよな、……で俺らに……て泣きついてきてそいで、……ていったら……て」ルーロも、ものすごく早口でちいさい声でなにかいい、そしてひひひ、と風のように笑う。

 

「お前ら」ユエホワは歯をくいしばってうなるようにいった。「大うそこいてんじゃねえ」

 

「うそじゃないだろ」ケイマンが両手をひろげて肩をすくめる。「お前友だちいないから、いっつも俺たちのところに来てたじゃん」

 

「えっ、そうなんだ」私は思わずことばをはさんだ。「ユエホワは逆のこといってたけど」

 

「逆だよ」ユエホワは私をふり向いて大声を出した。「こいつらがはぶられてたから俺が」

 

「それは逆でございましたでしたよ」サイリュウが首を横にふる。「ユエホワがはぶられてたから我々が」

 

「はぶられるもんか」ユエホワはにぎりこぶしを上下にふりながらますますどなった。「俺はな、ムートゥー類随一の精鋭にして先鋒の存在だぞ」

 

「でも友だちいないのは確かだよな」ルーロがすばやく早口でいいかえす。「いっつも一人でいたし」

 

「あー、それでか」私はナットクした。「だからいっつも人間界に来てしょうもないいたずらしてるのか」

 

「ちがうって」ユエホワは私をふりむいていいかえした。「人間界の偵察をしに来てるんだって」

 

「それでも悩みごとがあると彼らに話を聞いてもらっていたんでしょう」ハピアンフェルがそのことをむしかえした。「それならポピーメリアのつらい気持ちをさっしてあげられないとおかしいわ。あまり変わらないとはいえ、あなたの方がほんの少し年上なんだから」

 

「俺のは悩みじゃねえ」ユエホワは悪あがきした。「鬼魔界の政策とかシステム運営上で、なんか腑に落ちないことがあったときに、改善策をこいつらに聞かせてたんだよ。なんの参考にもならねえだろうけど一応、どう思うかって、意見を聞いてやってたんだ。聞いてやってたのは俺の方だ」

 

「あれ、そうだったっけ?」ケイマンが他の二人のアポピス類を見てきく。

 

「そんな高尚でむずかしいお話などしたおぼえもございませんでしたでございますけどもねえ」サイリュウも首をかしげる。

 

「夢の中ででも話してたんだろ」ルーロがひひひ、とひそかに笑う。

 

「話したって」ユエホワはがくりと肩を落とし、うなだれた。「どんだけ記憶力ねえんだよお前ら」

 

 どうしてかまったくわからないのだけれど、私はそのとき、本当にふしぎなことに、この緑髪のムートゥー類がふと、かわいそうに思えたのだった。



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56

 ディナーのとき、祖母は「でも、まさか本当に四日以内に呪いが解けるとは思ってなかったわ。ほほほほ」と、楽しそうに笑っていった。

 

「えっ」私はミートパイをほおばるところを止めた。「じゃあ、何日で解けると思ってたの?」

 

「うーん。それはまったくわからない」祖母は首をふった。「そうとしか思っていなかったわ」

 

「あの」ケイマンがおずおずとたずねた。「もし、ほんとうに四日で解けなかったら、ぼくたちはほんとうにずっとここに住むことになってたんでしょうか?」アポピス類のほかの二人と、ムートゥー類一人をぐるりと見わたしてきく。

 

 みんなも、目をまるくしていた。

 

「まあ、おほほほ」祖母はさらに楽しそうに笑った。「それも楽しいかも知れないけれど、でも長引くとやっぱりいろいろ問題がおきそうだから、あるていど頃合いをみて私が解くことも、考えてはいたわ」

 

「……」私は口をとがらせて祖母を見た。「ほんとうは、あたしが解けるようになるなんて無理だって思ってたの?」

 

「うーん」祖母は目をとじた。「ふつうに考えれば、無理だと思うでしょうね。でもぜったいにこうだ、なんてことだれにもいえないわ」

 

「……」私は、なにもいえずにいた。

 

「なんといってもポピー」祖母は私を見てにっこりと笑った。「あなたは私の孫で、フリージアの娘なんだもの。ふつうではないことが起きる可能性は、ほかのだれよりはるかに高いと思うわ」

 

 だれも、なにもいえずにいた。

 

「うふふふ」ただひとり、ハピアンフェルだけが楽しそうに笑った。

 

「さて、それで皆に、いっておかなければならないことがあるわ」祖母はふいにまじめな顔になった。

 

「はい」

 

「なんでございますでしょう」

 

 私たちはあらためて祖母の方に顔を向けた。

 

「じつはここ最近、夜にもアポピス類がこの森へやって来ることが増えているの」

 

「えっ」私をふくめ皆、身をすくませた。「どうして?」

 

「月明かりが強いからでしょうね」祖母は窓の方へ目を向けた。「昨夜はクロルリンクムーンだったけれど、それをはさんでの数日は月がいちばん明るくなるわ。彼らは妖精に、月の光を操らせ姿を消した状態で、この森へ――そしてこの家へ、攻め込んで来ようとしているのよ」

 

「月の光を?」皆は声をそろえておどろいた。

 

「月の光をあやつるのは、日の光よりもずっとむずかしいわ」ハピアンフェルが、仲間のことを思っているのだろう、つらそうな声で説明する。「暗闇にまぎれてくるほうがまだたやすくできるのに、あえて月の光に照らされた場所で、姿を見えなくする……それはたぶん人間が、昼間よりも夜の方に不安と恐怖を感じやすいからだと思うわ」

 

「そこまでして、やつらは何をねらっているんだろう?」ケイマンが、自分と同類の鬼魔を“やつら”と呼んで、そういった。

 

「まだ俺のことねらってんのかな」ユエホワが眉をしかめる。

 

「それもあるだろうし、もしかしたら意地になっているのかも知れないわね」祖母が肩をすくめる。

 

「意地に?」皆が声をそろえてきく。

 

「ええ」祖母はくすくす笑う。「何度来ても、森の木からいやな音やにおいや強い風をふきつけられて入り込めないから、なんとしてでも入り込んでやると思っているのかも知れないわ」

 

「ああ」私はうなずいた。「ツィッカマハドゥルで?」

 

「ええ、そうよ」祖母は誇らしげにうなずく。「でも、きりがないからもう止めることにしたの。木々にも負担をかけてしまうし」

 

「えっ」私とユエホワが同時に目をまるくした。

 

「ん?」

 

「なんのことでございますでしょうか?」

 

「ツィッカマハドゥルって魔法なのか」アポピス類たちは首をかしげる。

 

「そう」祖母は、ルーロの質問に答えてうなずいた。「ツィッカマハドゥルは、ツィックルから植物に対して命令を出させる魔法――今までは、アポピス類がこの森へ侵入できないように対処させていたけれど、ここらでひとつ、来ても望み通りにはならないぞということを、しっかりと教えてあげましょう」祖母が目を光らせる。

 

 皆、だまりこんだ。

 

「おばあちゃんが」私もどきどきしていた。「闘うの? アポピス類と」

 

「森の中まではね」祖母は少しだけ首をかしげた。「この森は私の大切な住まいだから――けれどいつまでも、皆をこの中にかくまっていてあげることはできないわ。森の外に出たならば、そのときは皆で闘うことになるのよ」その瞳は、しずかに燃えているように見えた。

 

 私たちはその言葉を心の中に深くのみこんだ。

 

 私はポケットの中に入れたままの小瓶をぎゅっとにぎりしめながら、

 

 ――発動するかも知れないし、発動以外でなにかびっくりするような効果が生まれるかも知れない。

 

 ヨンベのおじさんの言葉が、頭の中でくるくると回るのを追っていた。



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57

 そして夜になった。

 

 祖母は、いつもと同じように過していればいい、といったけれど、やっぱり皆そうもいかなくて――私もふくめて――なんとなく、リビングから出て行けずにいた。

 

 ソファにすわる者、床の上に直接すわる者、窓辺にたたずむ者、皆それぞれに、不安そうな顔でだまりこくっている中、祖母はとくに不安げでもなく、刺繍をしていた――そう、私と母の服の刺繍だ。

 

「美しいでございますですね」祖母の手もとを見てそっとそういったのは、サイリュウだった。「どなたのお召し物でございますのでしょうか」

 

「うふふ」祖母はうれしそうに笑う。「これはポピーのドレスよ」

 

「おお」サイリュウと、ケイマンとルーロも私を見た。「きっとすばらしくお似合いになることでございましょうでしょう」

 

「ありがとう、サイリュウ」祖母はにっこりと笑い、他の二人にも笑顔でうなずいた。

 

 ユエホワは窓際から、ほんの一瞬だけちらりとこちらを見たが、すぐにまた窓の外に目を向けた。

 

「そういうのって魔法でやれねえのか」ルーロが誰にきくともなく小声ですばやくつぶやく。

 

「まあ」祖母は目をまるくした。「そんなこと、考えたこともなかったわ。でもそうね、ツィッカマハドゥルを使えば、できなくもないと思うわ。でも」そこまでいうと祖母は、糸をはさみでぱちん、と切り、私の服(になる予定のもの)を両手で持ち上げ、刺繍のできばえをたしかめはじめた。「それをやって、もし私がやるより上手にできたとしたら、私たぶんひどく傷ついちゃうわ。だからやらない」ほほほほ、と楽しそうに笑う。

 

 あははは、と他の皆――私もふくめて――も笑う。

 

 けれど窓際に立つユエホワは、こんどはふりむきもせず、笑っているようすでもなかった。

 

 私は、さりげなく、すこしずつ窓際へ近づき、

 

「なに見てんの?」

 

と、ふくろう型鬼魔にきいた。

 

 ユエホワは、ちらりと横目で私を見たけど、とくに何も答えなかった。そのかわり、

 

「あれ、おぼえてるか?」

 

と、逆にききかえしてきた。

 

「あれ?」私はききかえしかえした。

 

「マハドゥ」ユエホワは窓の外を見たままこたえた。

 

「マハドゥ?」私はまたしてもききかえした。

 

「学校でやったんだろ。親父さんから教わって」

 

「ああ」私はやっと、それを思い出した。「えーと、うーんと」記憶をさぐる。「マハドゥーラファドゥー、……」すぐにつづきが出て来ない。

 

 ユエホワは目を細めて横目で私をじっと見ている。

 

「クァスキル、ヌウ、……ヤ」

 

「本当か?」ユエホワがすかさずきく。「それでまちがいないか?」

 

「う」私はすぐにうなずくことができずにいた。「ん……たぶん」

 

「まあ、それは」祖母がだしぬけに声をかけてきたので、私とユエホワは同時にふりむいた。「マハドゥの初歩段階の呪文の省略形ね。すごいわ」ためいきまじりに、首をふりながらいう。「実践で使ってみたの?」

 

「あ、うん」私は正直にこたえた。「一回うちにアポピス類がきた時、使った」

 

「まあ、そうだったの」祖母は肩をひょいと持ち上げおろした。「それは知らなかったわ、無事でよかった。でも、それとピトゥイ、あとシルキワスにエアリィ、これだけの材料があれば、組み合わせ次第で向かうところ敵なしの攻防がくみたてられそうだわ」ろうそくの、ほの暗いともしびの中でも、祖母の瞳が不敵に輝くのがわかった。

 

「あんまり心配そうではなさそうですよね」ケイマンがルーロのような小声でつぶやく。

 

 たしかに、母がこのこと――私が一人で留守番をしていたとき、うちにアポピス類がやって来たことを知った時ほど、祖母はショックを受けてはいないように見えた。

 

 それはでも、私の身が心配じゃないということでは、まったくない。

 

 祖母は、私がキャビッチで鬼魔を倒すことを、疑ってなどいないのだ。

 

 もしかしたら、私自身よりもずっと。

 

 ――よろこんでいいことなのか悲しむべきことなのかは、よくわからないけれども。

 

「あ、じゃあ俺、ひとつ提案がある」ユエホワがそういい、皆が座っている方へ近づいていった。「こっち来い」ふりむいて私を呼ぶ。

 

「頼もしい参謀さんだわ」祖母はますます楽しそうに、わくわくした声でいった。「どんな提案かしら」

 

「あの」ユエホワはすこしだけ照れ臭そうにうつむき、話しだした。「シルキワス、なんだけど――もしかしたらあいつら、回避方法を身につけてるかも知れない」

 

「回避方法?」

 

「まあ」私と祖母が同時におどろきの声をあげた。

 

「シルキワス?」

 

「なんか聞いたことあるようなないような名前だな」

 

「古くからある投げ技のひとつでございますですね」アポピス類たちも同時にたしかめようとする声をあげた。「投げたキャビッチが相手の前でいったん消えまして、背後から当たってくるという」

 

「ああ」ユエホワがうなずく。「いろいろ調べて考えてみたんだけど……投げつけられたキャビッチが目の前で消えた直後に体を横や斜めに向けてたら、回避できるはずなんだ」

 

「えっ」私はまたしてもおどろき、

 

「まあ、さすがだわ」祖母は感心した。「年配のムートゥー類なら知っているはずの、シルキワス回避方法ね」ユエホワと顔を見合わせ、うなずき合う。

 

 鬼魔界で、先輩たちに聞きまわって仕入れた情報なのだろう。

 

「消える瞬間に横を向くってこと?」ケイマンがきく。

 

「ああ。シルキワスをかけられたキャビッチは消える瞬間に、そのまま飛んだ場合に自分がぶつかるはずの相手の体の点から、まっすぐ向こうに抜け出た場合の出口の点がどこになるかを記憶して、転移後その点めがけて攻撃する。けど出て来た瞬間にその点の位置が思ってた直線上からずれてると、どこに当たればいいか判断つかなくて、落っこちるか、もしくはあさっての方向にずれて飛んでっちまう」

 

「ですがシルキワスは消えるのと同時に背後から現れますから、とても間に合うとは思えませんでございますけれども」

 

「そう、だから相当機敏に動ける者でないと不可能だ。けどもし、その瞬間に姿を消されたらどうする?」ユエホワは人さし指を立てて質問した。

 

「あ」

 

「まあ」

 

「おお」

 

「うわ」

 

「ふうん」全員がおどろいたような顔になった。

 

「とてもじゃないけど、投げてキャビッチが消えて出て来るまでの間にピトゥイを発動させるなんて、無理だろ」

 

「そうね、確かに」祖母は右手をにぎりこんで口を押さえ、しばらく考えこんだ。「あらかじめピトゥイで光使いたちを離しておいたとしても、別働隊が用意されているかも知れないし」

 

「だから方法としては、ピトゥイ専任を一人決めておいて、相手が姿を消すたびに即効で発動させるってのもある」ユエホワが考えをいう。

 

「なるほど」ケイマンが腕組みをしてうなずく。

 

「けどそのピトゥイ係が攻め込まれたらどうするよ?」ルーロが早口で質問する。

 

「ピトゥイ係の護衛係をそばにつけておきますとよろしいのではないでございましょうか」サイリュウが意見をのべる。

 

「その護衛係をねらって姿を消したやつが攻めてきたらどうするよ?」

 

「ポピーがもらって帰った薬を使えば、いちどに複数のアポピス類の光使いを離すことができるわ」祖母がいう。「それをするならば、ポピーがピトゥイの専任になるけれど」

 

「えーっ」私は不満を口にした。「あたし、投げる方がいい」

 

「じゃあ俺たちがあの薬を使って」ケイマンがいいかける。

 

「え?」ユエホワが片眉をしかめる。「お前らがあの薬を使って、なんだって?」

 

 他のアポピス類たちは、目をそらして何もいわずにいた。

 

 よく見ていなかったけれど、たぶん彼らがあの薬を使っても、ピトゥイは発動できなかったのだろう。

 

 もしかしたら、魔法さえ起きなかったのかも知れない。



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58

「来たわ」ハピアンフェルが告げた。「アポピス類よ」

 

 私たちははっと窓の方を見た。

 

 なにかが光っているわけではない。

 

「四匹……いえ、五匹はいるわね」祖母が唇にひとさしゆびを当てて気配をさぐる。「畑の上空まで来た」

 

「姿は、消してるの?」私は祖母にきいた。

 

「わからないわ……でもおそらくはそうでしょうね。まずはピトゥイをかけておきましょう」祖母はそう言い、右手をひらいて肩の上にまで持ち上げ、それからきゅっとその手をにぎりしめた。「ポピー」私を呼ぶ。

 

「はい」

 

「マハドゥをかけておきなさい」祖母はうなずきながらいう。「防御魔法を」

 

「はい」私はリュックからキャビッチを取り出し、右手に乗せた。「マハドゥーラファドゥークァスキルヌウヤ」唱えると、キャビッチはしゅるん、と消えた。

 

 さっき、ユエホワにうながされておさらいしておいてよかった、と思った。あれをしていなかったらたぶん、今みたいにすらすらっと呪文は出てこなかっただろう。

 

 

「出て来い、穢れた人間のおんぼろ魔女」

 

 

 突然そう怒鳴る声が聞こえた。

 

 祖母のキャビッチ畑の方からだ。

 

 はあ、と祖母が大きくため息をついた。「なんて下品な呼び方をするのかしら。まったく」

 

「光使いたちは森の中へ逃げていったわ」ハピンフェルが報告した。「いまアポピス類たちは、姿をあらわしているはずよ」

 

「わかったわ」祖母がうなずく。「じゃあ、ひさしぶりに投げてくるわ」テラスのガラス戸を、いきおい良く開けはなつ。

 

「おばあちゃん」思わず呼びとめる。

 

「ポピー、ここで皆を守っていて」祖母は背を向けたまま私にいった。「万一あのおんぼろ鬼魔が攻めてきたら、遠慮せず投げつくしなさい」

 

「はい」私はうなずいた。

 

「気をつけて、ガーベランティ」ハピアンフェルも声をはり上げる。

 

「ユエホワ、俺たちどうすれば」ケイマンがあせったような声でいう。

 

「――」ムートゥー類は、出て行く祖母の背中をじっと見ていた。「まずは、様子を見よう」つぶやくようにいう。

 

 本当をいうと――いや、いうまでもなく、私も祖母といっしょに戦いたかった。祖母といっしょに、キャビッチでおんぼろアポピス類をやっつけたかった。

 

 きっと、あっという間にその戦いは終わるのだろうけれど――ピトゥイで姿が見えるようになっている今こそ、今度こそ、リューイとエアリイの同時がけを思いっきりあびせてやりたかった。

 

「ガーベラさんがやつらを引きつけてる間に、やつらの死角へ回りこんで攻撃するのもいいんじゃねえか」ルーロが早口で作戦を提示する。

 

「いや、その死角にたどりつく前にこっちがやられるリスクの方が高いだろ」ユエホワは首をふる。

 

「ていうか、ガーベラさん一人でだいじょうぶなのか」ケイマンが心配そうにいう。「アポピス類五匹を相手になんて」

 

 自分と同類の鬼魔を“匹”で数えるのも、私にはふしぎな感じがした。

 

 この人たち、本当にアポピス類なのかな?

 

 まさか、本当は人間なんてこと、ないよね?

 

 うん、人間だったらそもそもユエホワと小さいころから友だちだったなんてこと、ありえないもんね。

 

「――」ユエホワは少しだけ考えこんだ。「……見て、みたいよな」小さくつぶやく。

 

「ああ」ケイマンも。

 

「さいでございますね」サイリュウも。

 

「クドゥールグ様を倒した伝説のキャビッチスローをな」ルーロも。

 

「お前は見たことあるのか? ポピー」ユエホワが私にきく。

 

「なにを?」私はききかえす。

 

「だから、お前のばあちゃんが鬼魔と戦うところをだよ」ユエホワが口をとがらせる。

 

「うーん」私は自分の記憶をたどり「ううん、ない」と首をふった。

 

 そういえば、そうだ。

 

 母が戦うところは見たことあるんだけど。

 

 祖母のほうは、私にお手本としてキャビッチを投げて見せてくれるところしか、見たことがなかった。

 

「――」ユエホワはしばらく私をじっと見ていたが「行くか」とまた小さくつぶやいた。

 

「どこへ?」私はきいた。

 

「お前のばあちゃんの畑へだよ」ユエホワは眉をしかめる。「伝説の魔女の戦いを見に」

 

「えー、でも」私は反対をとなえた。「じゃまになるし、危ないよ」

 

「でも見たいだろ、お前も」

 

「うん、見たいはずだよ」

 

「さいでございますですよ」

 

「実の孫でも見たことがないんだな」鬼魔たちはすっかり見にいく気満々だ。

 

「えー、でも」私はさらに反対した。

 

 まあ、たしかに祖母が鬼魔をどう退治するのか、見てみたい気はする。

 

 私が投げるのよりずっと早いんだろうし、同時がけや成分魔法や、もしかしたらまだ私が一度も見たことのない知らない技とかも出してくれるのかもしれないし。

 

 けど私はそれよりも、もしこの鬼魔たちをつれてのこのこ畑へ出ていったら、ぜったいに私だけが祖母にしかられる、というカクシンがあったのだ。

 

 だから、行きたくなかった。

 

 私が怒られるもん!

 

「やめといた方がいいよ」なので、反対した。

 

「大丈夫だって」ユエホワが、なぜか自信たっぷりにいう。「なにしろポピーが守ってくれるもんな、俺たちのことは。ぜったい敵の攻撃なんかくらったりしねえよ」

 

「えー」私は顔をしかめた。「なにそれー」ぜったい何かたくらんでるな、こいつ。

 

「大丈夫大丈夫」鬼魔たちは私のいうことなどまるで聞く耳もたず、テラスのガラス戸へ向かった。

 

 そういえばそのガラス戸は、祖母が開け放ったままになっていたのだ。

 

「ちょっとちょっと」あわてて呼びとめるあいだにも、四人の鬼魔たちはぞろぞろとテラスへ出て行ってしまった。

 

 なので私も急いで彼らの後をおいかけ、外に出た。

 

 テラスからすぐには、畑は見えない。

 

 でもとくに何の物音――キャビッチがぶつかる音や鬼魔の叫び声なんかも、聞こえてこない。

 

 いったい、どうなってるんだろう?

 

 私たちは不審に思いながら、テラスから下り畑の方へ向かいはじめた。

 

「薬持ってきてるな?」向かいながらユエホワが確かめる。

 

「うん」私はポケットの上から小瓶のあるのを確認してうなずく。「そういえばさ、ユエホワ」

 

「ん」歩きながらユエホワが私を見る。

 

「さっきの、シルキワスの回避方法って、いつ知ったの?」私も歩きながらきく。

 

「いつ、って」ユエホワは歩きながら考える。「こないだ鬼魔界へ戻ったとき」

 

「じゃあ、うちのパパの書庫に忍びこんでたときにはもう知ってたってこと?」

 

「忍びこんでたって人聞き悪いな」口をとがらせる。「まあ……知ってたけど」

 

「そんなら、なんで回避しなかったの? あたしがユエホワにシルキワス投げたとき」

 

「へ」緑髪鬼魔は歩きながらとぼけたように私を見た。「あれ……なんでかな」歩きながら、考える。「まあ、お前が本気で投げてくるわけないしな、俺に」

 

「なんで」

 

「兄ちゃんだから」

 

「変なの」私は歩きながら肩をそびやかした。

 

「何がだよ」ユエホワはまた口をとがらせる。

 

 

「では地母神界の王として、私はユエホワを推薦するわ」

 

 

 そのとき、祖母が誰かにそう話す声がきこえ、私たちは全員、ぼう然と立ちすくんだ。



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59

 私たちは、畑から十メートルぐらいはなれたところに立つミイノモイオレンジの木の陰から、そっとのぞいた。

 

 月明かりが畑を照らしている。

 

 祖母は畑のはしっこに、私たちに背を向ける位置で立ち、右手に一個キャビッチを持って、斜め上を見上げていた。

 

 見上げている先には、祖母の言っていたとおり五人の人が――いや、人の形をした鬼魔が、空中に浮かんでいた。

 

 全員、マントを身につけている。

 

 アポピス類だ。

 

 

「どういうことだ?」

 

 

 空中に浮かぶアポピス類の一人が、祖母を見おろしながらそうきいた。

 

「言ったとおりよ」祖母が答える。「あなたたちのつくろうとしている世界に、どうしてもユエホワを連れて行きたいというのならば、王様として迎えなさいといっているの」

 

「ふざけるな」質問したのとは別のアポピス類がどなる。「おとなしくユエホワをこっちへよこせ」

 

 私とケイマンとサイリュウとルーロはいっせいにユエホワを見た。

 

 ユエホワがはっと目を見ひらく。

 

 

 どかっ

 

 

 そのとき、はでな音が聞こえた。

 

 キャビッチがぶつかる音だ。

 

 私とケイマンとサイリュウとルーロはいっせいに畑を見た。

 

 浮かんでいるアポピス類の一人――というか一匹が、どさっと地面の上に落ちた。

 

「う、わ」ユエホワが声をつまらせる。

 

「なに」

 

「どうした」

 

「なにがございましたでしたか」

 

「キャビッチスローか」みんながいっせいにきく。

 

「見えなかった」ユエホワが声にもならずにささやき返す。「でも、投げたんだと……思う」

 

 見えなかった?

 

 暗くて?

 

 いや、そうじゃない。

 

 速すぎて――だ。

 

 たしかに、祖母の右手にはもうキャビッチがなくなっていた。

 

 私たちがユエホワを見たその瞬間に、祖母がそれを投げたのだ。

 

「これが答えよ」静かな声で、祖母が言った。「まだなにか?」

 

「く」アポピス類たちは、落っこちた仲間をくやしげに見おろしたあとまた祖母をにらみつけ「ディガム」「ゼアム」と口々にさけんだ。

 

 祖母が、氷の像のようにぴたりと動かなくなった。

 

「まずい」ユエホワがあせったような声で言う。

 

「これは」ケイマンがつづけて言う。

 

「魔法封じですね」サイリュウも言う。

 

「動きを封じるやつだ」ルーロも言う。

 

 私はなにも言わず、というかなにも考えず、キャビッチをストレートで投げていた。

 

 それは残った四匹の、私たちからみて右から二番めのアポピス類の鼻面に当たった。

 

 

 ぼこっ

 

 

「ぐっ」キャビッチを食らったやつは三メートルぐらい後ろへふき飛んだが、地面に落っこちるまではいかなかった。

 

「やった」ケイマンがこぶしを握って言う。

 

「すばらしいでございます」サイリュウが感動の声で言う。

 

「コントロールいいな」ルーロがつぶやくように言う。

 

 ユエホワはなにも言わない。

 

 私もなにも言わず、そして唇をきゅっとかみしめた。

 

 音が、ずいぶんとちがう。

 

 私が投げたのと、さっき祖母か投げたのと。

 

 音の重さ、つまりキャビッチの攻撃力が、何十倍――もしかしたら何百倍も、差がある感じだ。

 

 

「やっぱり来ちゃったのね」

 

 

 祖母が、私たちに背を向けたままで言った。

 

「え」私たちはその背中を見た。

 

「頼むわよ、ポピー」祖母はくるっとふりむき、月明かりの下でにこっと笑ったかと思うとつぎの瞬間にはもういちど前を向きながら右手を下からスプーン投げの形に振り上げた。

 

 

 どかっ

 

 

 またしてもさっきと同様の重い音が響いて、左から二番目のアポピス類がぽーんと投げ上げられるかのように上空へ飛んでゆき、そのあとどさっと地面に落っこちた。

 

「え」

 

「今のは」

 

「投げたのか」

 

「速い」私の後ろにいる鬼魔たちはまたかすれ声でささやき合う。

 

 私も、祖母が投げたキャビッチは見えなかった――いや、その前に、祖母はキャビッチを、手に持っていなかったんじゃなかったか?

 

「なぜ効かない」残ったマントのアポピス類が叫ぶ。「あの小娘の時とおなじだ」

 

 あの小娘――って、もしかして私のこと?

 

 そうか。

 

 もちろん祖母も、防御魔法のマハドゥをあらかじめ自分にかけておいたのだ。

 

「効いたわよ」けれど祖母は首を振った。「ただ解いただけ」

 

「なに」アポピス類がびっくりした。

 

 私たちもびっくりした。

 

 いや、確かにやつらが呪文をとなえたとき、一瞬祖母は氷の像のように固まったのを私も見たんだった。

 

「解いただと。いったいどうやって」アポピス類が叫んだその言葉は、そのまま私が心の中で思っていたものだった。

 

「あなた今、自分がどこにいるのかわかっているの?」祖母は両腕を広げてゆっくりと横に回し、まわりのキャビッチ畑をしめした。「ここは私の手の上もおなじよ」

 

「う」アポピス類たちはあらためて自分たちの足の下に広がる畑を見おろし、見回し、声をうしなった。

 

「まあ、あなたたちにも急いでユエホワを連れて行きたいという事情があったのだろうけれど、それにしても無謀な作戦だったわね。いきなり私の家を強襲しにくるだなんて」話しながら祖母がゆっくりとその両手を上にもち上げると、土の上にいたキャビッチたちがそれにつられるようにゆっくり、空中にうかび上がった。

 

「うわ」

 

「おお」

 

「ええっ」

 

「すげえ」私たちも目を見ひらいてその光景に目をうばわれた。

 

 いったい、何個――いや、何十個、うかび上がったんだろう。

 

 畑じゅうに、浮かぶキャビッチの姿がはるか遠くまで見えていた。

 

「せいぜい選択の間違いをくやむことね。もうおそいけど」祖母はそう言ってから、両手を下にふりおろした。

 

 空中に浮かぶキャビッチが、いっせいにマント姿のアポピス類たちに向かって飛び始めた。

 

 それらのスピードは圧倒されるほどに速く、残り三匹のアポピス類たちによけるすきをいっさい与えず、四方八方から容赦なくつぎつぎにぶつかった。

 

「うわあああ」

 

「ひいいい」

 

「わああああ」悲鳴をあげながら、アポピス類たちは下に落ちることも逃げることもできず、キャビッチの攻撃を受けつづけた。

 

「うわあ」

 

「痛そう」

 

「すげえ」

 

「こええ」私たちもその光景をまのあたりにして身をふるわせた。

 

 おまけにその攻撃は、祖母が空中に持ち上げたキャビッチすべてが使われているわけではなく――その、ほんの一部のものだけが、アポピス類に向かっていったのだ。

 

 つまりキャビッチはまだまだ、彼らの周りにたくさん、ありあまるほど存在しているのだ。

 

 やがてアポピス類たちは悲鳴すらあげなくなった。

 

 そしてキャビッチの攻撃も、終わった。

 

 アポピス類たちはそろって地面にどさっと落ちた。

 

「世界壁の外に、お迎えが来ているようね」祖母は、月が照らす夜空を見上げて言った。「ここで寝かせておくのも邪魔になるから、連れ帰ってもらいましょう」

 

 そうしてもういちど、両手を高くさし上げると、空中に浮かんでいた残りのキャビッチたちが、今度はすべて動き出し、畑の上にのびているアポピス類たちを手分けしてかこんだ。

 

 

 しゅるん

 

 

 いっせいに、鬼魔の体にとりついたキャビッチたちが消える音がした。

 

 すると五匹のアポピス類たちの体は、気をうしなったままふわりと持ち上げられ、そのまま夜空のかなたへ音もなくもち運ばれていった。

 

 見えない、キャビッチたちの力で。

 

「世界壁の、外」ユエホワが、ささやくような小声で言う。「そんなとこまで、魔法が続くのか」



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60

「地母神界、というのだそうよ」祖母は、肩越しに私たちをふり向いて話した。「アポピス類たちがつくろうとしているのは、国ではなく、菜園界や泡粒界、それに鬼魔界とならぶ、世界そのものだと」

 

「ええっ」

 

「世界?」

 

「なんといいますことでございましょう」

 

「すげえな」私たちはびっくりして叫んだ。

 

「そう、そしてその世界に、ユエホワを連れて行きたいと、そういっていたわ」

 

「俺を――」ユエホワが眉をひそめてつぶやいた。

 

「ええ」祖母はうなずいた。「同じ赤き目を持つ者として、と」

 

 全員が、黙った。

 

 私はそっと、アポピス類の魔法大生の三人の方を見た。

 

 三人とも、足元を見おろしてこおりついたようにたちすくんでいた。

 

 

 翌朝、私と鬼魔たちは祖母に別れをつげて丸太の家を出た。

 

 今日、学校は休みだ。天気もいい。

 

 アポピス類の三人は、いっしょにすんでいるこの町での彼らの家に帰るといい、ユエホワはどうするか、歩きながら考えるといった。

 

 私は祖母から、よくよくユエホワを守るように、と言いつけられて、家に帰ることにしたのだった。

 

 キャビッチ畑の近くを通り過ぎるとき、皆は言葉もなく顔を横にむけて畑のようすを見ながら歩いた。

 

 畑はとくに変わりなく、朝の太陽の光をあびて、キャビッチもほかの野菜もおだやかにそこに存在していた。

 

「ふしぎな感じだな」最初に言葉を口にしたのは、ケイマンだった。「信じられないような……夢を見てたような感じだ」

 

「さいでございますね、本当に」サイリュウも歩きながらうなずく。「月夜の光が見せた、幻の世界でございましたかのような」

 

「キャビッチを投げるスピードが尋常じゃねえ」ユエホワが歩きながらうつむき首をふる。「あんなの、太刀打ちできるはずがない」

 

「ああ。あんなスロー今まで見たこともないし話に聞いたこともない」ルーロも早口で呟いた。

 

 私はだまって歩いていたけれど、頭の中ではゆうべの、夢でも幻でもない現実の祖母のキャビッチスローを思い出していた――とはいっても。

 

 あれは、キャビッチスロー、だったのだろうか?

 

 だって祖母は、キャビッチそのものには指一本触れることもなかったのだ。

 

 最初の一撃めだけは、直接持っていたものを投げたようだけど、私はそれを見ていなかった。

 

 それを見ていたのはユエホワだけだ。

 

 でも、そのユエホワも「見えなかった」と言っていた。

 

 そのスローは、私に教えるときとはまったく違うやり方のものなんだ。

 

 まあそれはそうだろう。

 

 見えなかったら、投げ方を教えてることにならないもんね。

 

 今まで私が見ていた祖母のキャビッチスローは、いったい祖母の本当の力の何分の一――いや、何十分の一、もしかしたら何百分の一、なんだろうか。

 

「それもだけど……『地母神界』てのがさ」ケイマンは歩きながら腕組みをした。「なんなんだよ」

 

「アポピス類だけが棲む世界、ってことなのか」ルーロが眉をひそめる。「いったいどうやってつくったんだ、そんな世界」

 

「さいでございますね」サイリュウもうなずく。「国、ではなく世界、でございますですからね」

 

「俺思うんだけど」ユエホワが、考えながら歩き、その考えを口にした。「一から世界をつくるなんて無理だよ絶対。だから、もしかしたら他の、今すでに存在してる世界のどこかに、やつら一族ですみついてるとかじゃないのかな」

 

「シンリャクってやつ?」私は歩きながらユエホワにきいた。

 

「その可能性もあるし、もしかしたらだれもすんでない、無人の世界を見つけたのかも知れないしな」ユエホワは引きつづき考えながら歩き、その考えを答えた。

 

「無人の世界なんてあるの?」私は歩きながら目をまるくした。

 

「どこかにはあるらしいって話は、きいたことあるぞ」ユエホワはあいかわらず考えながら歩き、答えた。

 

「さいでございますね」サイリュウが歩きながらうなずく。「たしかにきいたことはこざいますです」

 

「なるほど、だれもすんでない世界なら、地母神界とか好きな名前つけたってかまわないだろうからな」ケイマンも歩きながらうなずく。

 

「子供がおもちゃ見つけたようなもんだよな」ルーロがせせら笑いながら毒づく。

 

「妖精たちも、いっしょに行ってるのかな、その世界に」私はつぶやいた。

 

 他の皆は少しの間だまってしまったが、やがてユエホワが「そうだろうな」と答えた。「地母神界で、やつらに“飼われて”るんだろう」

 

「助けに、いくの?」私はきいた。

 

 だれも、答えなかった。

 

 私も、答えられなかった。

 

 助けにいくって、誰が?

 

 ユエホワが?

 

 魔法大生が?

 

 祖母が?

 

 ハピアンフェルが?

 

 それとも――いや。……。……。……。

 

「お前が?」ユエホワがきき返した。

 

 私は、答えなかった。

 

「おお」

 

「さすがでございますです」

 

「勇敢なヒーローだ」アポピス類たちがはやしたてた。

 

 私は、いっさい何もいわなかった。

 

 さっさと帰ろう。

 

 きっと母も父も、祖母からのツィックル便を受け取って私の帰りを待っているだろう。

 

 こんなところでもたもたしている場合じゃない。

 

 私は歩く足をはやめた。

 

「けどそうなると、こっちも軍勢をととのえて攻め込む必要があるよな」性悪鬼魔の声がななめうしろから聞こえてきたけど、私はふりむかなかった。

 

「そうだよな」

 

「でございますけれども、どなたにお願いをいたせばよろしいのでしょうか」

 

「あの呪いの祭司にでも頼むか」

 

「呪いの祭司? って、ルドルフ祭司さまのこと?」私は思わず足を止めてふりむいた。

 

 四人の鬼魔たちは、横一列にならんでいっせいにうなずき、にやりと笑った。



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61

 アポピス類の三人は、人間と見た目は変わらないから、昼日中でも堂々と歩いて通りキューナン通りを抜け、聖堂の門をめざした。

 

 問題はユエホワで、いくら姿形は人間と同じでも、緑色の髪と赤い目、金色の爪で、ひと目で鬼魔だとわかってしまう。

 

 なのでこんな明るい日中には通りを歩けない。

 

「だからってなんであたしとならんで飛ぶの?」私は眉をひそめ箒にまたがりながらきいた。

 

「おばあさまのいいつけだろ」ユエホワは私の横を自力で飛びながら答えた。「俺をよくよく守るようにって。だから俺がお前とならんでんじゃない、これはお前が俺の横にならんでくっついてきてる状況だ」

 

「はあ?」私は箒で跳びながら顔をおもいきりしかめた。「鬼魔語? ぜんぜん意味わかんないけど」

 

「お、見えてきた」ユエホワはすいっと私の前にとび出した。「聖堂だ。さあてと、呪いのじいさんはいるかな」そんなことをいいながら、するするするっと高度をさげてゆき、尖塔の上に止まる。

 

 つづいて屋根の上にたどりつき聖堂のようすを見おろすと、今ちょうどケイマンたちが門のところで聖堂のお姉さんたちに話をしている最中だった。

 

 声はきこえないけど「すいません魔法大学の者です、呪いについてお話をうかがいたいのですが」とかって言っているのにちがいない。

 

「うし、行くぞ」となりでユエホワがそう言ったかと思うと、壁づたいにするするするっと、直立姿勢のまま下へ飛びおりはじめた。

 

「うわ、ちょっと」私もあわてて箒にまたがったままおりてゆき、お姉さんたちが気づかないうちに聖堂入り口からしのびこむことができた。

 

 とはいっても、たぶん聖堂のお姉さんたちは町の人たちとちがって、ユエホワを見ても、また魔法大生がじつは鬼魔だってことがわかったとしても、あんまりおどろいたりさけんだりしないと思う。

 

 なにしろここは聖堂で、神様にちゃんと守られているし、ルドルフ祭司さまもいるし。

 

 悪意のある鬼魔など、近づくことすらできないはずだから。

 

 そこに入ってゆけるのは、攻撃する意志のない、無害な鬼魔だという証拠だ。

 

「ユエホワ、ずっとここにいればいいじゃん?」私は箒を片手に持ち、聖堂の廊下をすすみながらムートゥー類に提案した。「ここならアポピス類にさらわれることもないだろうし」

 

「やなこった」ユエホワは即答した。「ルドルフじいさんと日がな一日いっしょになんていられるかよ。息がつまる」

 

「でも人間界の勉強がいっぱいできるんじゃないの? しずかで本読むにもいいし」

 

「いや」ユエホワは歩きながら首をふった。「ぜったいそんなヒマなんかねえ」

 

「なんで? おそうじとかやらされるから?」

 

「いや」また首をふる。「ここにいたらさ、気軽に神々が遊びにくるだろ。あいつらヒマだから」

 

「えっ」私はびっくりした。「神さまがくるの? ここに? この聖堂に?」歩きながら声を高める。

 

「そりゃそうだよ」ユエホワは口をとがらせる。「そのための聖堂だろ」

 

「えっ、そうなんだ」私はますますびっくりした。「なんで知ってんの? 神さまによく会うの?」

 

「たまにな……ゆだんしてると、たまーにつかまっちまう」

 

「へえー……会って話とかするの?」私は、はじめてユエホワに会ったときのことを思い出しながらきいた。なんだかなつかしい光景がうかんできた。

 

「俺はしたくねえけど、向こうが勝手にな……あ」話のとちゅうでユエホワは立ち止まった。

 

「ん?」私も立ち止まる。

 

 ルドルフ祭司さまのいる祈りの陣の部屋までは、あと少し歩かないといけない。

 

 どうしたんだろう?

 

「あいつらに、頼んでみる方法もあるな」ユエホワは宙を見ながらつぶやいた。

 

「あいつら?」私はきき返した。「って……まさか、神さまのこと?」

 

「そう」ユエホワは私を見た。「あいつらは世界壁を越えて存在してるだろ。地母神界の情報も持ってるだろうし、古いつき合いの俺が狙われてると知ったら、きっと助けに応じてくれる」

 

「えーっ」私は眉をひそめた。「まさか」

 

「なにいってんだよ」ユエホワは肩をいからせた。「俺のこと馬鹿にしてんじゃねえぞ」

 

「ほほう」とつぜん、ルドルフ祭司さまの声が話に入ってきた。「お前は神たちと深い親交を持つ者のようじゃのう」

 

「祭司さま」

 

「――」

 

 私とユエホワは、いつのまにか祈りの陣の部屋から出て私たちに近づいてきていたルドルフ祭司さまを見た。本当に音もなく、風のようにふわっと近づいてきていた。

 

「世界壁の外へ行こうとしているのかの」祭司さまは、いつものことながらすべてお見通しのようだった。「そのために神々の力添えを頼もうと、そういうことかの」

 

「――まあ、だいたいそんなところだ」ユエホワは、なんだかむすっと不満そうな顔で答えた。「あとついでにじいさん、あんたにも手伝ってほしいんだけど」

 

「ちょっと」私はがまんできずにユエホワをびしっと指さした。「さっきから、ほんと失礼よ、あんたたち。祭司さまのことを呪いの祭司とか、神さまたちのことをあいつらとか、今だってついでにとか、失礼にもほどがあると思う」

 

「ほほほ、ポピーよ」祭司さまは肩をゆすって笑った。「それだけ悪態をついておきながら、この聖堂はなぜかこの者を迎え入れておる。安心するがよい、この者に真実の悪意はないということじゃ」

 

「――はい」私はうつむいて答えたけれど、もう少しでこの聖堂の中でキャビッチを取り出してユエホワにぶち当てるところだった。

 

 そんなことをしなくてすんで、本当によかったと思う――なにしろしかられるから。

 

「さすれば、神たちの来訪を待つこととしよう。こちらへ来るがよい」祭司さまはそういって、祈りの陣の部屋とは別の方向へ、廊下を歩き出した。

 

 私もすぐにその後について歩き出した。

 

「――」だけどユエホワは無言で、その場に突っ立ったまま動こうとしない。

 

「どうしたの」私はふりむき声をかけた。「早くおいでよ」

 

「――こっちって」ユエホワは、ものすごくいやそうな顔でいやそうな声で言った。「裁きの陣のある方向じゃん」

 

「さよう」祭司さまは元気よく答えた。「神たちが、裁きの陣にて待っておる」



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62

「俺ここで待ってるから」ユエホワは肩をすくめて言った。「神たちにこっちに来るよう言ってくれよ」

 

「なにいってんの」私はまた頭にきて緑髪鬼魔をびしっと指さした。「なんで神さまがあんたのために歩かなきゃならないの」

 

「歩けとはいってない、ひょーって飛んでくりゃいいだろが」ふくろう型はまた肩をすくめた。「神なんだから」

 

「そういうことじゃなくて」私は首をふった。

 

「ポピー」祭司さまがおだやかに私を呼んだ。

 

「はい」私は返事をして祭司さまを見た。

 

「まずはそのキャビッチをしまいなさい」祭司さまは私の手の上にある黄緑色のキャビッチを指さしておおせになった。

 

 あれっ。

 

 いつのまに私はキャビッチを持ってたんだろう?

 

「――はい」私は狐につままれたような気分に包まれながら、言われた通りキャビッチをリュックへもどした。

 

「さてそしてユエホワ」祭司さまは性悪ムートゥー類を見ておことばをつづけた。「お前はおそらく、裁きの陣へ近づくとなにか痛い目にあうということを恐れているのだろうな」

 

「――さあ」緑髪はすっとぼけたようにそっぽを向いた。

 

「そう恐れることはない」祭司さまは深くうなずいた。「お前はなにも恐れる必要はない」なぜかくり返す。「神がお前を待っておる」

 

「そうだよ。行こうぜユエホワ」ケイマンがうながす。

 

「さいでございますよ、せっかくおこしいただいているのですからまいりましょうぜひ」サイリュウもうながす。

 

「すげえよな神たちに直接会ってものがいえるんだぜ。こんなチャンスめったにねえぞ早く行こうぜ」ルーロも興奮していつもの早口が二倍ぐらい早くなってうながす。

 

「じゃあ、お前らのうしろについていくよ」ユエホワは観念したどろぼうのように上目づかいでそう告げた。「先に行ってくれ」

 

「よし。ぜったいついて来いよ」ケイマンが笑顔になって歩き出す。

 

「さいでございますよ。ぜったい」サイリュウも歩き出す。

 

「逃げるなよ。ぜったい」ルーロも早足で歩き出す。

 

「ほほほ」祭司さまはゆったりとお笑いになりながら歩き出す。

 

 私は、ユエホワが本当についてくるかどうかふり向いてたしかめながら歩き出した。

 

 ユエホワも、むすっとした顔でしぶしぶ歩き出した。

 

 そうして私たちは、裁きの陣のところまで来た。

 

 裁きの陣は部屋の中ではなく、中庭につくられている。

 

 中庭の中央に、大人の人の頭ぐらいの大きさの石がぐるりと円形――直径が四、五メートルぐらいある――に置かれてあり、その円の中に、白い粉で魔法陣が描かれてあるのだ。

 

 その陣の中にいたのは、私にとってとてもなつかしい人――いや、神さまだった。

 

 フュロワだ。

 

 私たちの住む菜園界の、神。

 

 菜園界の、どこか遠くにある森の中に、ひそやかに住んでいる、神。

 

 そう、ユエホワにはじめて出会った時――それは私にとってはいまわしい思い出だけども、この神さまにもはじめて会ったのだ。

 

 私の父よりは少し若く見えるけれど、ユエホワなんかよりはずっと大人で、優しく落ちついた感じの人――いや、神さまだ。

 

 その神はいま、ルドルフ祭司さまがいった通り裁きの陣の中に立っていた。

 

 やさしく、ほほえみながら。

 

 そしてその唇がゆっくりと開き、フュロワ神は言った――「お前ら、なにたくらんでやがるんだ。ちょっと粛清してやるからこっち来い」手まねきする。

 

 先頭に立っていた三人のアポピス類たちは、絶句して立ちすくんだ。

 

 それは私もおなじだった。

 

 あれ?

 

 こんなだっけ?

 

 神さま……フュロワ神……って……

 

「ほらな」うしろで小さく、ユエホワがつぶやく。

 

「聞こえないのか。早く来いって」フュロワがそういうと、先頭に立っていた三人のアポピス類たちの体がふわりと空中にうかんだ。

 

「うわっ」

 

「あれえ」

 

「おおっなんだこれ」三人はびっくりした声でさけんだ。

 

 それは私もおなじだった。

 

「あれ」フュロワ神はつづけていった。「ポピーじゃないか」

 

「あ」私はうかび上がった三人からフュロワへ視線をおろした。「こ、こんにちは」

 

「やあ、ひさしぶりだね」フュロワは目をほそめてにっこりと笑った。「元気にしてるかい?」

 

「は、はい」私は大きくうなずいた。

 

「あれ、こいつらってポピーの知り合いなのかな?」フュロワは自分が浮かび上がらせた三人のアポピス類を下から見上げながら私にきいた。「友だち?」

 

「あ、ええとあの、私の学校に魔法を教えに来てくれた人たちで」私は上を見上げたり三人を指でさしたりしていっしょうけんめいに答えた。

 

「へえ、こいつらがそんな殊勝なことをするのか」フュロワは楽しそうに笑い、それからさらに「あれっ」といって目をまるくした。

 

「ども」私のうしろにいたユエホワが、ルーロよりもはるかに小さな声でつぶやくようにあいさつした。

 

「ユエホワー」フュロワの目が、きらりと光った。「やっぱりおまえか」

 

「なんだよやっぱりって」ユエホワは口をとがらせて文句をいった。

 

「聖堂の裁きの陣に鬼魔がこぞって押しかけてくるなんて、おかしいと思ったんだよ」言いながらフュロワはまた手まねきした。「どうせまたお前がなんかくだらんいたずらを思いついて、何も知らない若い鬼魔をだましてつれてきたんだろ。こっち来いおまえも粛清してやるから」

 

「おお」ルドルフ祭司さまがためいきまじりに言った。「なんという洞察力か。さすが神のお力は偉大なるものじゃ」

 

「ふざけんなよ」ユエホワは怒った声で言った。「くだらんいたずらでも、だましてつれてきたんでもねえ。俺はな」そこではた、と私を見る。「おいポピー、お前からいってやってくれよ、このおっさんたちに」

 

「おい」フュロワは目をほそめた。「神にむかっておっさんとはなにごとだ」

 

「おお」ルドルフ祭司さまは手に持つ杖を持ち上げて額に当てた。「なんという大それた罪深きことを」

 

「そうだポピー、君のすばらしいキャビッチスローをまた見せてほしいな」フュロワはまた私にむかってにっこりとほほえみかけた。「ちょっとこの不届き千万な性悪鬼魔に向けて、投げてみてもらえるかな」

 

「あ」私はいそいでリュックをたたきキャビッチを取り出した。

 

「やめろって!」ユエホワが大声でさけぶ。「おい、何のためにこんなろくでもねえ裁きの陣とかまで来たんだよ! ちゃんとわかるように説明してやってくれって! 地母神界のことを!」

 

「ん?」そこでフュロワははた、とユエホワを見た。「地母神界?」

 

「ああ、そうだよ」ユエホワは大急ぎでうなずいた。「俺、そこのやつらにさらわれそうになって、今もねらわれてんだ」

 

「そこのやつらって」フュロワは目をまるくした。「アポピス類?」

 

「ああ」ユエホワはまたうなずいた。「同じ赤き目を持つ者とかなんとかわけのわかんねえこといいやがってあいつら」

 

「へえ」フュロワはうなずき、それから後ろをふりむいて「そうなの?」ときいた。

 

「え」

 

「なに」

 

「おお」私とユエホワと祭司さまはおどろいた。

 

 裁きの陣の上にはそれまでフュロワだけが立っているように見えていたが、彼がふりむいて声をかけたとたん、彼の背後に別の人影――いや、神の影が、音もなくふわりとあらわれたのだ。

 

 それは、私も見たことのない、真っ黒な長い髪を持つ、背の高い男の人――いや、神だった。

 

「こいつは、ラギリス」フュロワはもういちど私たちの方を見て、たった今姿をあらわした神さまの紹介をした。「その地母神界の、神だよ」



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63

「えっ」私は目をまん丸く見ひらいた。「地母神界にも神さまがいるの?」

 

「うん。いるよ」フュロワはなにも迷わずまっすぐにうなずいた。「といっても“神”と呼ばれるようになったのはつい最近のことだけどね」

 

「どういうことだ?」ユエホワが眉をひそめてきいた。「それまでは神じゃなかったってことか?」

 

「そう」フュロワはまたうなずいた。「鬼魔だったよ」

 

「ええーっ」私は山火事を発見したときのように大声でさけんだ。

 

「鬼魔って……アポピス類か?」ユエホワがかすれた声できく。

 

「うん」フュロワはまたまたうなずいた。「我々の許しを得て、神の仲間になり世界を与えられたんだよ」

 

「ええーっ」私はさっきよりは小さくなったけど変わらずおどろきマンサイの声で再度さけんだ。

 

「なんで許すんだよ」ユエホワは両手を肩の上に持ち上げたあと、ぶんっと下に強くふり下ろした。「なんで神にすんだよ鬼魔を」

 

「なにかご不満でも?」フュロワはわざといじわるする時のような表情で首をかしげた。「我々が神を選ぶ際に、お前の許可を取らなきゃいけない掟はないけど」

 

「うむ。まことにフュロワ神おおせの通りじゃ」ルドルフ祭司さまがこっくりと深くうなずく。「鬼魔が神々に認められるということは、まれにではあるが昔から話に聞くことじゃ」

 

「あ……そういえば」私も思い出した。以前学校の先生に、鬼魔が神さまになることもありうると教えてもらったのだ。「じゃあ、地母神界っていうのは本当にアポピス類たちだけの世界なの?」

 

「今はね」フュロワは私にやさしく微笑みかけた。「この先もしかしたら、他の生き物――あるいは鬼魔たちが、すみつくことになるかも知れないけど」

 

「でも、ほんとうにどうして、そのアポピス類を神さまにしたんですか?」私は質問してしまってから心の中ではっと思った。私もユエホワのときみたいに、冷たく答えられるのでは――

 

「それはね」だけどフュロワは、とてもやさしく微笑みつづけて私に答えてくれたのだ。「そのアポビス類……つまりこのラギリスが、鬼魔同士の争いをやめさせたい、平和な世界を築きたいと、一心に強く願い努力している姿を、我々が見ていたからさ」

 

「鬼魔同士の争い?」

 

「平和な世界?」

 

「おお」

 

 私とユエホワと祭司さまは同時にそれぞれに思うことをさけんだ。

 

「そう」フュロワはにっこりと笑ってうなずき、もういちどうしろをふり向いて

 

「くわしくは、彼本人から聞くといい。ラギリス、話してやって」と、長い黒髪の背の高い男の人――元アポピス類の地母神界ラギリス神を、私たちの方へ押し出した。

 

「――」ラギリス神は、たしかに赤い目を持ち、アポピス類とおなじ顔だちをしていた。だけどその表情はとてもおだやかで、まつ毛が長く、肌も白くてなめらかで、とてもきれいな人だった。

 

 私は一瞬、女の人――いや、女神さまなのかな? と思ってしまった。でもフュロワはたしかに「彼」といってたしなあ……

 

 そのラギリスの、つややかな唇がひらく。

 

「…………」

 

 聞こえなかった。

 

 私とユエホワと祭司さまは、思わず首を前につき出した。

 

「…………」

 

 やっぱり聞こえなかった。いや、

 

「…………つ、…………す」

 

 何個かの文字だけは、聞こえた。

 

 でも、何を言っているのかまるでわからなかった。

 

「…………と」

 

 ラギリス神の口もとをみると、その唇はたしかに上下に動いているので、おそらく、たぶん、この神さまは今まさに語っているのだろうと思われた。

 

「聞こえないだろ?」フュロワがにこにこしながら言う。

 

「聞こえねえよ」私とルドルフ祭司さまがはっきりいえないでいることを、ユエホワはずけずけとのたまった。

 

「はははは」けれどフュロワ神は楽しそうに笑う。「俺たちも最初はそういったんだけどな、どうしてもこいつ、これ以上大きな声が出せないらしいから、まあこんなもんだと思ってやって」

 

「いや」ユエホワは手を横にふった。「地母神界の状況はどうなってるのかって話だよ」

 

「地母神界はな」フュロワは腕組みをして、ふう、と息をついた。「大変な状況だよ」

 

「だから、どう」

 

「妖精たちがさ」フュロワはまた息をついた。「暴れ回ってる」

 

「えっ」

 

「なに」

 

「おお」

 

 私とユエホワと祭司さまは同時におどろきの声をあげた。

 

「そう」フュロワ神は、まじめな顔になって話をつづけた。

 

「…………」その横でラギリスもまだ話しつづけていたが、ますますそれは聞こえなくなった。

 

「アポピス類は小さな妖精たちを集めて、地母神界に連れて行ったんだが」フュロワの声だけが私たちに届いた。「その妖精たちの中でこのところ、アポピス類に対して不満をもち、闘いをしかけようとしている者たちがいるようなんだ」

 

「えっ」

 

「妖精たちが?」

 

「おお」

 

「そう、妖精たちにも人間とおなじように、優しい性格の者もいれば好戦的な者もいるから、すべての妖精たちが悪さをしているわけではないんだが……嵐を巻き起こしたり氷を降らせたり、果実を腐らせたり泉の水を枯らしたりして、アポピス類たちの生活をおびやかす連中がぞくぞくと増えてきているんだよ」

 

「妖精たちが?」

 

「なんてことだ」

 

「おお」

 

 私たちはただおどろくほかなかった。

 

 いまのいままで私たちは、妖精たちというのはアポピス類に「飼われて」いる、つまりしいたげられている状態で、いっこくもはやく助けてあげなければならないものだと思っていたのだ。そう、だからそのために今ここにこうして、神さまのお力をおかりするために来たのだ。

 

 それなのに。

 

「どうして」私はぼう然とそう言うしかできなかった。「どうすればいいの」

 

「さっき、お前がアポピス類にさらわれそうだと言っていたよな、ユエホワ」フュロワは緑髪を見て言った。「もしかしたらあいつら、妖精に対する対抗策をお前に考えてほしくて連れて行こうとしてるのかも知れないな」

 

「…………て、…………く」フュロワの横でラギリスが、うなずきながら何かを言った。何個かの文字が聞こえたので、たぶん少し声を高めたんだろうと思う。

 

「ハピアンフェルは」私はつぶやいた。「そのことを、知っていたの、かな……」頭がどくんどくんと音をたてているようだった。

 

「――」ユエホワは、なにも言わなかった。

 

「あのう」そのとき、小さな声が上の方から聞こえてきた。

 

 全員が見あげると、三人のアポピス類の魔法大生たちが空中にうかんだままの状態で情なさそうな顔をして私たちを見おろしていた。

 

「そろそろ、下におろしてもらってもいいですか」ケイマンが震える声でそう言った。



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64

 フュロワはにこにこしながら三人のアポピス類を地上に下ろしてあげたけれど、三人はおたがいにしがみつき合ってなかなかはなれずにいた。

 

「お前ら、この人が神さまだって知ってたか?」ユエホワがラギリス神を(本当に失礼なことに)指さしながらきくと、三人は無言で首を横にふった。

 

「えっ、知らないの?」私は目をまるくした。「なんで?」

 

「だって俺たち、ずっと人間界にいたから」ケイマンがぼそぼそと答える。「なにも知らないんだ……アポピス類のことも、地母神界のことも」

 

「ふうん」うなずいて答えたのはフュロワだった。「お前ら……目が赤くないから、か?」

 

 三人はだまっておたがいの顔を見合わせた。

 

「さいでございます」サイリュウが答える。「私どもはこの目のせいでつまはじきにされてまいりましてございましたので」

 

「アポピス類が鬼魔界からいなくなったのも知らなかったんだから笑えるよなまじで」ルーロが早口でつぶやいたが、もう彼の声が小声だとは思わなかった。

 

「…………」ラギリス神が(こっちは本当の小声で)なにか言った。

 

「ん?」フュロワがラギリスの口もとに耳を近づける。「あそう」それから私たちの方にむけて言う。「目の赤いアポピス類でも知らない者もいるっていってるぞ」

 

「本当に?」ケイマンが目をまるくする。

 

「…………」ラギリスがまたなにか言い、フュロワが耳を近づけた。

 

「ぜんぜんきこえねえな」ルーロがそういったので、私は思わず彼の顔をまじまじと見てしまった。

 

「この前道を歩いてたら」フュロワが説明した。「前から来た若いやつにどうしてかにらまれて、道をゆずったっていってる」

 

「えっ」全員が目をまるくした。

 

「あとその時持っていた食べ物と酒もよこせといわれて取り上げられたって」

 

「――」全員が息をのんだ。

 

「自分は神だからだまっていう通りにしたけど、そいつも神だと知っていたらそんなひどいことはたぶんしなかったんじゃないかと思うって……いやお前、それはちゃんと、裁きを受けさせろよ」フュロワは説明のとちゅうでふり向きラギリスに言った。

 

「…………」ラギリスがなにかを答えた。

 

「裁きの陣がないって?」フュロワがきき返す。

 

「おお」祭司さまが首をふりながら言った。「なんということじゃ。アポピス類たちは神をあがめ敬う方法を知らぬのか。なげかわしいことじゃ」

 

「あんた行ってやれよ」ユエホワがルドルフ祭司さまを見ていった。「裁きの陣作ってやってさ」

 

「ふざけないで」私は緑髪にむかって怒った。「鬼魔の世界になんか行けるわけないでしょ」

 

「聖堂も建てねばならぬな」ルドルフ祭司さまはなにかを考えはじめておいでのようだった。

 

「そうかあ」フュロワ神はまたあらためて腕組みをし、少しのあいだ空を見あげていた。

 

 みんなは神のおことばを待った。

 

「よし」フュロワはうなずいて腕をほどき、両手を胸の高さで上に向け、私たちの方へさし出した。「汝ら神の子よ、これから私がいうことを聞いて、そのとおりに行いなさい。まず人をたくさん集めるように。大工と、聖職者と、キャビッチスロワーをそれぞれ百人ずつ。それらをこの聖堂の庭とそのまわりに集わせ、そこから空へ向け、箒で飛び上がらせるように。そうすれば私が世界壁を特別なやりかたで開き、その者たちを地母神界へといざなおう。地母神界に到着したならば、大工は聖堂を建て、聖職者はアポピス類たちに神をあがめ祭る方法を伝え、キャビッチスロワーたちは」

 

 しん、としずかになった。

 

 みんなは神の次のおことばを待った。

 

「悪さするやつをとっつかまえて裁きの準備ができるまでしばっとくように」

 

「おお」ルドルフ祭司さまだけが返事をした。「神よ。あなたの偉大なるお考えに敬服し、感謝いたします」

 

「ええー」私はそっと、自分にできうるかぎりの小声でおどろきをあらわした。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「お帰り、ポピー」家に帰ると、母は顔いっぱいの笑顔で――だけどなぜか、どこか悲しそうな顔で、私を抱きしめた。「おばあちゃんから聞いたわ。大変だったのねえ」

 

「あ、ううん、だいじょうぶ」私は安心させるように笑った。

 

「無事でよかった」父も真剣な顔でそう言い、母とかわって私を抱きしめた。「よくがんばったね」

 

「ん、おばあちゃんがやっつけてくれたから。アポピス類を」私は笑顔で答えた。

 

「そう、アポピス類だよね」父はがばっと私の肩をつかんで引きはなしたかと思うと、さらに真剣な顔で話した。「地母神界へ、行かなきゃいけないんだ」

 

「あらでも」母がつづけた。「あなたには声はかからなかったでしょ。私は聖堂の方から呼び出されたけれど」

 

「いやでも」父はにこりともせず真剣な顔のままで母に向かい言った。「こんな事態になったのなら、鬼魔分類学者であるぼくが手をこまねいている場合ではないよ。ぜひとも一緒に行かせてもらわなきゃ」

 

「でもあなた、行ってどうするの?」母もうなずかない。「大工でもないし、聖職者でもないし、キャビッチスロワーでも、そもそも箒にも乗れないし」

 

「それは」父は当然のように言葉を返そうとしたようすだったが、それはつまった。「――ニイ類、とか」

 

「無理でしょ」「無理だよ」母と私が同時に言った。「他の人たちがびっくりしてパニックになると思う」

 

「しかしこれは歴史に残る大事件だ」父は手を振り回した。「ぼくが記録に残さなければ、いったい誰がやるというんだ。ユエホワに頼もう。彼にラクナドン類を呼んでもらって、今度こそその背中に乗って旅立つんだ、ぼくも」

 

「今度こそ?」母が眉をひそめてきき返した。

 

「あいや、その、今こそ、だ。今こそ」父は、前に鬼魔界へ母にだまって旅立とうとしたことをうっかりばらしてしまいかけたのだが、必死でごまかした。「そうだそういえば、ユエホワは今どこにいるんだい?」大急ぎで私にきく。

 

「聖堂だよ」私は正直に答えた。「魔法大生のアポピス類の人たちといっしょに」

 

「そうか」父はぱっと笑顔になった。「心強いな。鬼魔と祭司さまとが心をひとつにして世界を越え協力し合うとは。これは本当に歴史に残る偉大なできごとだ」

 

 はあ、と母はため息をついた。「わかったわ。私ができるだけあなたといっしょにいるようにするわ。とにかく今日はもう寝ましょう。明日のお昼には聖堂に行くから、家の中のことも片づけておかないといけないし。忙しくなりそうだわ」

 

「だいじょうぶ」私は微笑んだ。「あたしがちゃんと家のことやっとくから。気をつけてね」

 

 父と母がそろって私を見た。

 

 私も微笑みながら二人を見返した。

 

「あら」母が眉を上げた。「あなたも行くのよ、ポピー」

 

「え」私はかたまった。

 

「うん」父もうなずいた。「祭司さまからはそのように聞いているよ」

 

「え」私は一歩あとずさった。「なんで」

 

 父と母は顔を見合わせた。「神の思し召しだから、って仰ってたけど」

 

「え」私はさらに一歩後ずさった。

 

 フュロワの優しく微笑む顔が浮かんだ。

 

 なぜ、世界のすべては私を鬼魔の世界へつれていこうとするんだろう。

 

 それを考えながら私はベッドに入り、なかなか寝つけずにいた。



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65

 翌日、私は父と母といっしょに――父はけっきょく、母の箒のうしろに乗っていくことになった――聖堂へと向かった。

 大工と、聖職者と、キャビッチスロワーを百人ずつ――フュロワ神のいいつけどおりに、たくさんの人びとが集まってきていた。

 もちろん全員が聖堂の庭に入れるわけもなく、その周囲の道の上、つまりキューナン通りに、集められた人びとはあふれかえっていた。

 それにしても、すごいなあと思う。

 たった一日――いや、半日で、みんななにもうたがうことなく、神の思し召しのままに、こうやって集まってきて、そしてこれから世界壁を抜け、こことはちがう異世界へ向かう気持ちでいるのだ。

 しかもそれは、アポピス類――鬼魔の世界だというのに!

 みんなは、なにひとつ恐れても心配してもいないようすで、にこやかに言葉をかわしあい、笑いあいながら、祭司さまの――神さまのお言葉を、待っているのだ。

「ああ、いたわ」母が私の前を箒で飛びながら、下の方に向けて腕をのばし指さした。

 なにがいたんだろう、と思いつつ私は少し体をかたむけて、母の指さした方向を見た。

 そこには、とっても楽しそうににこにこと笑いながら私たちに向かって大きく手をふる、祖母の姿があった。

「えっ、おばあちゃん?」私は箒で飛びながらすっとんきょうな声をあげた。「おばあちゃんも行くの?」

「そうよ」母が私にふり向いて答える。「ひさしぶりね、みんなでお出かけするの」

「いや」私は首をふった。お出かけ、とは違うと、思う。

「うふふ、来たわね」私たちが地面に降り立つと、祖母はますます楽しそうに笑いながら声をかけてきた。「準備はいい?」

「もちろんよ」母はツィックル箒を頭上にかかげながら明るく答えた。「私もひさしぶりに思いっきり投げられるから、楽しみだわ」

「おばあちゃんも、祭司さまから呼び出されたの?」私は祖母にきいた。

「ええ、そうよ。私と、それから」祖母は肩からななめにかけていた小さなバッグの口をあけた。

「私も、来ちゃった」中からふわりと飛び出したのは――よくよく見ないとわからないほどほのかな光に包まれた、ハピアンフェルだった。

「あ」私は目をまるくした。

「まあ」母も目をまるくし、

「おお」父も目をまるくした。

「うふふ、しいー、ね」祖母とハピアンフェルはにこにこしながら口に指をあてた。「こんなにたくさんの人がいちどに大さわぎになると、あぶないからね」

「ああ、ええ、でも」母は声をふるわせた。「すごい……すごいわ。はじめて見たわ」声をひそめる。「妖精さん」

「本当は、畑の野菜やお花の世話があるから無理だって、いちどことわったんだけれどね」祖母は肩をすくめた。「どうしても、って……まあ昔なじみのルドルフからのたってのお願いとあらばきかないわけにもいかなくて」

「ガーベランティはやさしいのよね」ハピアンフェルがふわふわと小さく飛びながらつづける。「畑の野菜やお花は、私がお世話をすればいいのだろうけれど、一人で残っていても心配で気がかりでしょうがないだろうから、いっしょについて来ちゃったの」

「そうなんだ」私はうなずいた。「じゃあ、畑のお世話はだれがやるの?」

「ツィックルよ」祖母はなにも迷わずに答えた。

「ツィックル?」私はおどろいた。

「ええ。ツィッカマハドゥルで」

「すごい」父が声をふるわせる。

「ツィッカマハドゥルで?」私はくりかえした。

「そう。川のお水を吸い上げてほかの植物たちにも分配して、肥料や薬がいるときは森の中の生きものや薬草なんかを適当に使うようにってね」

「えっ」私はまたおどろいた。「生きものって、ツィックルが動物をつかまえるの?」

「いいえ、排泄物よ。あと虫の死骸とか」ほほほ、と祖母は笑う。

「へえー……」私は、ツィックルの木が枝をのばしてそのようなことをしているところを想像しようとしたが、それはとてもむずかしかった。

「でも世界壁の外、ていうか他の世界の中からでも、魔法行使は維持できるの?」母が空を指さしながらきく。

「うーん、わからないわ。今までやったことがないから」祖母は首をかしげる。「もしだめなら、また一から土の作りなおしね」

「ごめんなさい」ハピアンフェルが飛び上がってあやまる。「私が無理をいって」

「なにをいっているの、ハピアンフェル」祖母は肩をすくめる。「畑の持ち主の私がそう決めたのだから、あなたにはなんの責任もないわ。大丈夫、畑をだめにするなんてしょっちゅうやっているのよ、私」ほほほ、と笑う。

「なにいばって言ってるの、もう」母が苦笑する。

 私と父は、あまり大きな声では笑えずにいた。

 こういうのって、ジゲンがちがう、っていうんだよね。

 

「皆のもの、よくぞここへ集ってくれた」祭司さまが聖堂の屋根の近くから、箒にまたがって皆に声をかけた。「今から向かうは、きのう説明したとおり地母神界。鬼魔アポピス類たちが新しくつくりあげた別世界じゃ」

 皆はしずかに耳をかたむけた。

「鬼魔の世界といっても恐れるにはおよばぬ。なんとなれば、われわれにはこのたび、菜園界のフュロワ神と、地母神界のラギリス神の加護が約束されておる」

 おお、と人びとは声をあげた。

「われわれは何も恐れることなく、聖堂を建て、神の崇め方を伝え、悪行には制裁が下されるということを伝えてゆこう。皆のもの、地母神界にて存分に力を果たされよ」

 おおお、とひときわ大きな声があがり、聖堂のまわりに集まった人びとはそれぞれの箒を片手ににぎりしめ頭上にかかげた。

「では参ろう」祭司さまはすうっと上空高く飛び上がった。「神がわれわれをお導きくださる。それにしたがうのだ」

「行こう」

「行きます」

「よし」

「おお」

 人びとはつぎつぎに、箒にまたがり飛び上がった。

 上空をめざし、全員が飛びはじめる。

「ユエホワはどこにいるのかな」母の箒の後ろで、父がきょろきょろとまわりを見回した。

 緑髪も、アポピス類魔法大生たちも姿が見えなかった。

 私は飛び上がりながら、本当にだいじょうぶなのかな、と、先の見えない旅立ちにたいして少し心配していた。

 祖母は母の箒の前を、とくに急ぐわけでもなくゆるゆると飛んでいく。

 ときどき振り返って、母と話をしては、ほほほ、と笑ったりもする。

 まるで、ピクニックに行くみたいだよなあ……だいじょうぶなのかな?



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66

 世界壁は、ガラスのように透明で、虹のようにカラフルで、綿のようにやわらかく、石のようにかたく、氷のようにつめたくて、お日さまのようにあたたかい。

 こんなことを言ってもたぶん想像がつかないとは思うけれど、まったくそのとおりで、何といって説明してもそれは本当でもありうそにもなる。

 ようするに、なんと言えば正しい説明になるのか、よくわからないものだ。

 かんたんに通りぬけられるようでもあり、永久に通りぬけられないようにも感じられる。

 紙のようにうすいようでもあり、どこまでいっても終わらないほどぶ厚いようでもある。

 正体が、まったくつかめない。というのが、いちばん正しい表現だろう。

 私自身は、そんな世界壁を通り抜けることは今回がはじめてではなかった。

 何度か、くぐり抜けた経験がある――といっても自分ひとりだったわけではなく、神さまといっしょだったり、ユエホワといっしょだったりしたので、おそらく彼らの力によってそれができたのだろう。

 私以外の人びとは――父や母、祖母、そして祭司さまもふくめ――皆、今回がはじめてのようすで(まあそれが当たり前というか普通なのだけれど)、神の力によってひらかれた世界壁のすき間を通り抜けるとき、全員がため息をもらし、感動の声をあげ、きょろきょろとあたりを見回して、その不思議な風景を目にやきつけていた。

 私は――何度もいうけどはじめてのことではなかったので、そこまでめずらしがったりおもしろがったり感動したりすることはなかった。

 でも「何回か通ったことがある」と自慢することもはばかられたので、ひとまずおとなしく、皆について通り抜けるだけだった。

 それでも世界壁はやはり不思議で、この先にどんな世界が待ち受けているのかも予想できず、少しこわく、不安もあり、どきどきするのはたしかだった。

 

 そして私たちは、そこに着いた。

 地母神界だ。

 アポピス類たちが得たというその世界は、とても広く、がらんどうで、遠くにいくつかの低い山が見えるほかには、海も、湖も、川も――それどころか小川や水たまりほどの池すらも、見当たらなかった。

 そして、だれもいない。

「なに、ここ」私は思ったままそう言ったが、だれも答えもしなければ、笑いもしなかった。

 たぶん皆いっせいに思っていたんだろう。「なに、ここ」と。

「アポピス類はどこにいるんだ?」だれかが言った。

「空気がずいぶん乾燥してるな」別のだれかも言った。

「寒いな」

「陽はさしてるのか」

「空は青い……いや、赤い……いや、黄色いのか」

「昼なのか夜なのか、わからないな」

「俺たちはここからどうすればいいんだろう」

 皆はしだいにがやがやと言葉を口にしはじめた。

 私は、ゆっくりと歩いてみた。一歩、二歩、三歩。

 足元の砂はとてもさらさらしていて、踏みしめるたびに足が何センチか沈み込む。さく、さく、と心地よい音がする。

「動物も植物もいないわね」私のうしろで母がそう言った。

「うん。だれかも言っていたけど、アポピス類たちはどこにいるんだろう……地下にもぐっているのかな?」父も答えてそう言った。

「あっ」私はあることを思い出し、目を見ひらいて口をおさえた。

「ん?」

「どうしたの?」父と母がすぐに問いかける。

「――そういえば」私が思い出したのは、ここに来る前、聖堂の裁きの陣でフュロワ神が言っていたことばだった。でも。「――」私はそれをすぐに、口に出せなかった。

「どうしたの?」もう一度、今度は祖母が問う。

 私は祖母の肩にかけられてている小さなバッグを見つめた。その口から、ほんのりとした小さな白い光が、姿をあらわしている。

 ハピアンフェルだ。

 ハピアンフェルのいるところで、こんなことを言ってしまってもいいんだろうか。彼女をひどく傷つけてしまうことになるのではないか……?

「だれかが何かを話していたの?」祖母がきく。「ユエホワ?」

「ううん」私はつい正直に首をふってしまった。「えと、……フュロワ神さま」

「まあ」

「おお」

「えっ」

「なんだって」父や母だけでなく、まわりにいる大人たちが次々に私をふり向き声をあげた。

「まあ。すばらしいわ、神さまとお話するなんて」祖母は首をふって感動していた。「神はなんとおっしゃっていたの?」

「――う」私は声をつまらせて下を向いた。どうしよう。

「妖精が、この世界の泉を枯らしたり果物を腐らせたりしてるって話だ」とつぜん私たちの頭の上から声が聞こえてきた。

「おお」

「まあ」

「なんだ」

「あっ」

「うわっ」皆はいっせいに上を見上げ、そして驚いた。「鬼魔だ!」

 ざっ、とキャビッチスロワーたちがいっせいにキャビッチを肩に構える。

「待って」

「彼は敵ではないわ」

「投げないで皆」母と祖母と父が同時に叫ぶ。

 なので、空中に浮かんでいた緑髪のムートゥー類は、誰からも攻撃を受けずにすんだ。

「ユエホワ」祖母が問いかける。「それは本当なの? 妖精がこの世界の泉を枯らしたと?」

「フュロワ神がそう言ってた」ユエホワは祖母をまっすぐに見て答えた。「嘘ではないと思う」

「ポピーも、それを聞いていたというの?」母が私に問う。「フュロワ神から?」

「――うん」私は正直、先にユエホワが話してくれてよかった、と思っていた……われながらずるいとは思うけど、本当のところ言いにくいことを言わずにすんでほっとしていた。「妖精たちが、アポピス類に攻撃をしかけているって」

「ハピアンフェル」祖母は肩から提げているバッグに向かって声をかけた。「あなたはそのことを、知っていた?」

 小さな妖精は、ふわり、とバッグの口から飛び上がった。それから少しの間、人びとの頭より少し高いところまで上り、周囲の景色をぐるりとながめているようすだった。

「なんだ?」

「だれかいるの?」

「わからない」人びとがざわめきはじめる。

「しっ」祖母が唇に指をあてる。「一人の妖精がいるわ。彼女の話をききたいので、皆少しの間だまっていてちょうだい」

 しん、としずかになる。

「ひどい」ハピアンフェルは消え入りそうな声で、それをふるわせながら話した。「こんなにまでやるなんで、思わなかったわ」

「まあ」祖母は小さな妖精を見上げながら答えた。「ではあなたも知らないことだったのね」

「話には聞いたことがあるわ」ハピアンフェルはぼう然としたように空中に浮かんだままで話した。「アポピス類たちのために、たくさんの光使いたちが命を落とした。だから闘って、自由を手に入れよう、アポピス類の支配から抜け出そう、という、若い水流しや火おこし、粉送りたちが徒党を組んでいることは知っていた……だけれど私のような年寄りには声もかからなったし、彼らが実際にはどんな活動をしているのかも、くわしくはわからなかった――私が前にここにいたときはもっと、木々もお花も、湖も、たくさんあったのに」

「まあ」祖母は首をふった。「妖精たちが闘いをしかけたというのね」

「妖精たちが?」

「闘いを?」ハピアンフェルの声が届かないところにいた人びとも、祖母の声に眉をよせた。「アポピス類に?」

「そう、つまり今この世界では、ヘビ型鬼魔からの束縛に逆らうべく小さな妖精たちが蜂起しているという憂うべき事態が起きているんだ」父が両腕を横に大きく広げ、大きな声で皆に説明しはじめた。「聞いたことがある者もいるだろう、その昔菜園界にすんでいた妖精たちは、アポピス類にさらわれ、捕われて奴隷のようにこき使われていた。それに対抗する勢力がいま、妖精の中に誕生している。束縛からの解放はたしかに望むべきことだが、それにより生き物たち、たとえ鬼魔といえどもこの世に生を受けた者たちの生活が不当におびやかされるということは、決してあってはならないはずだ」

「あんたは鬼魔の味方なのか?」だれかが父に質問した。

 ざっ、と何人かの人がキャビッチをふたたび構える。

「やめて」母がすかさず父の前に出る。「この人は私の夫よ。鬼魔の味方なんかじゃないわ」

「ぼくは鬼魔分類学者だ」父が母のうしろで叫ぶ。「鬼魔について誰よりもよく知っているつもりだ」

「そもそもあんたたち、その鬼魔のために聖堂作ったり裁きの陣作ったりしにここへ来たんだろ」ユエホワが上空から言葉をはさむ。「全員、鬼魔の味方も同然じゃないか」

「我々はちがう」

「ただ祭司さまのいいつけにしたがっただけだ」

「神の思し召しだからだ」

「鬼魔のためなんかじゃない」

「あいつらが悪さをするのを防ぐためだ」人びとは口々にハンロンした。

 

「あなた方は言い争いをやめなければなりません」

 

 とつじょ、ユエホワよりもさらに上空から声が聞こえた。

 皆はいっせいに息をのんで見上げた。

 あたたかく、明るい光り包まれて、フュロワ神が穏やかに語りかけながら、ゆっくりと下りて来ていた。



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67

 人びとはいっせいに首をたれ、帽子をかぶっているものはそれを取り、女性たちは胸の前に手を組み、地面にひざまずく者もいた。

 私たち家族もいったんは首をたれ瞳をとじたのだけれど、父と母と祖母はすぐに顔を上げ「神よ」と声をそろえて質問しはじめた。

「妖精たちは悪意をもってやっているのでしょうか」

「アポピス類たちはどこに隠れているのでしょうか」

「地母神界は今どういう状況にあるのですか」

 そんなにいちどきに言われてもわかるわけない、と私は思ったけど、フュロワ神にはちゃんとわかっているようだった。

「復讐という意味づけを悪意ととらえるのであれば、妖精たちに悪意は大いにあるであろう。アポピス類たちはいま、まだ残っている湖や川のほとりへ逃げおおせている。地母神界は神の存在が知られていない無法の状況にある」

 神は三つの問いにいっきにお答えになった。

「ではわれわれはこれからどうすればよいのですか」

「どこへいって何をすればよいのですか」

「妖精はわれわれにも悪意を向けてきますか」

「妖精が攻撃してきたらどうすればいいのですか」

「神のお力で妖精を追いはらっていただけるのですか」

「妖精はどんな姿をしていてどんな力を使うのですか」

「妖精はいまどこにいるのですか」

 人びとはいっせいに神へ質問しはじめた。

 その声は、嵐のように吹き荒れて神をめがけぶつかっていった。

 フュロワ神は、すっと腕を空に向かってのばし手の指をまっすぐにそろえて立てた。

「うわっ」ユエホワが叫ぶ。「雷がくるぞ!」

「えっ」

「うわっ」

「ひいい」

「神よ」

「どうかお許しを」

「ごめんなさい」人びとはいっせいに悲鳴をあげ頭をかかえて地面にしゃがみこんだ。

 まさか。

 私はとても信じられず、父に抱き寄せられて地面にしゃがみこみながらも片目をあけて神を見た。

 フュロワはユエホワに向かってウインクをし、ユエホワも肩をすくめて苦笑いしていた。

 それで、雷というのはうそっぱちだというのがわかった。

 けれどそれをいうとまた人びとがよけいにさわぎはじめるから、私はだまっておくことにした。

「皆の者、聞きなさい」しずかに告げたのは、ルドルフ祭司さまだった。「妖精はいまこの場にはいない。しかしわれわれがこの世界に来たことはすでにわかっているだろう。われわれははじめに決めたとおり、まずアポピス類たちのところへ行き、聖堂を建てることと、神をまつる方法を彼らに伝えよう。さあ、出かけるとしよう。皆の者よ、立つがよい。箒にまたがり、空へ浮かぶように命じるのじゃ」

 

 私たちはフュロワ神についていく形で、地母神界の空を飛んだ。

 なにものからの攻撃も受けることなく、やがて私たちはアポピス類たちが逃げおおせているらしい泉のほとりまでたどりついた。

 そこにはたしかに、アポピス類たちがいた。

 人の姿をして湖のほとりにたたずむ者、すわっている者、水の中に入って遊んでいるもの、泳いでいるもの、もぐっては魚(かなにか)をつかまえている者――そして、ヘビの姿で地面の上をうねりながらすすんでいるもの、水の中にもぐっていくもの――

「うわあ」

「おお」

「うええ」

「うひゃー」

 人びとは箒にまたがりながら、めずらしがったり気味悪がったりする声をいっせいにあげた。

 そしてもちろんのこと、アポピス類たちもいっせいに上空を見上げ、私たちを見た。

 どうなるんだろう。

 攻撃してくるのか?

 けれどフュロワ神がいる。

 アポピス類たちにとって、フュロワ神はどういう存在なんだろう?

 私は、おそらく他の皆と同様にどきどきしていた。

 

「ああ、人間だ」

 

 アポピス類の一人――人間の姿をした者――が、言った。

「本当だ」

「人間だ」

「へえ、本当だ」

「へえー」他のアポピス類たちもいっせいに、のんびりとした声でつづけた。

 ヘビ型のものたちも、赤い舌を出したりひっこめたりしながら、その赤い目をまっすぐ空に向けて私たちを見ている。

 彼らが言葉を話すのかどうか、ここからではまだ確認できずにいた。

 私たち人間は、だまりこんだ。

 なんだ?

 想像していたのと、なんだかえらくちがう。

 彼らは――アポピス類は、いまここにこうして人間たちがやって来ていることに、とくにおどろきもしなければ警戒もしなければ、攻撃などするつもりもまるで見えなかった。

「うん」フュロワ神がひとり、うなずく。「ラギリスが伝えてくれたようだな。じゃあさっそく、仕事をはじめるとしよう」私たちの方をふりむいて、にっこりと笑う。「降りていこう」

 人びとはあんぐりと口をあけぼう然としていたが、フュロワ神がするすると下に降りて行きはじめるとあわてたように、一人、また一人、そして全員がつづいて箒の先を大地に向けた。

「拍子抜けってところだな」私のとなりで父がそっとつぶやく。

「たぶん、あの三人ががんばってくれたんだと思う」父の向こうがわで飛ぶユエホワが答えて言う。

「あの三人?」父がきく。「ああ、魔法大生たち?」

「うん」ユエホワがうなずく。「ラギリス神の声じゃとても皆には伝わらないから、あいつらが代弁してくれたんだよ」

「まあ、すばらしいわ」祖母がふりむいて感動の言葉を口にする。「私たちも負けてられないわね。がんばらないと」

「でもそのラギリス神と魔法大生たちはいまどこにいるのかしら」母がきょろきょろとまわりを見る。

 それと。

 私も、まわりを見回した。

「なにさがしてんだ?」めざといユエホワが、父の向こうから私にきいてきた。

「ん」私はちらりとムートゥー類を見たが、答えずにいた。

 きっとユエホワも気づいているんだろうと思ったからだ。

「“あいつら”か?」思ったとおり、ユエホワはそうつづけて、同じようにまわりをきょろきょろと見回しはじめた。



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68

 大工の人たちは、菜園界から持って来た道具で、さっそく木を切ったり石を掘りだしたり土をこねたりしはじめた。

 ルドルフ祭司さまはじめ聖職者の人たちは、アポピス類――人間の形をしたものも、ヘビの形をしたものも――たちをまわりに集めて、神さまを敬うためにどのようにしたらいいのかを教えはじめた。

 アポピス類は、私たち人間を見つけたときとおなじくどこかのんびりと――というかぼんやりとした感じで聖職者たちの話を聞いていたが、ふとその中の一人が「神さまってなに?」と質問しているのが聞こえた。

 そうか、まずそこから教えはじめないといけないのか……大変そうだなあ。

 私はやることがないので、にぎやかな地母神界の大地の上でぼんやりとまわりを見回した。

 そこはまだ――まだ、妖精たちの手がのびていないようで、湖もあるし、その向こうに森もある。森の向こうには草原が広がっていると、箒でテイサツにいった人が話していた。

「ポピー」母に呼ばれてふりむいた。

 母は十メートルぐらい離れた森の入り口近くに立っていて、そこには他にたくさんの大人たち――たしかキャビッチスロワーとしてここへ来た人たちだ――もいた。

「こっち来て」手まねきする。「みんなで、キャビッチを一個ずつ出して植えようってことになったの」

「植える?」私は小走りに向かいながら目をまるくした。「土は?」

「作るのよ、今から」母はウインクした。

「ええっ」私は母の前に立ち止まりながらますます目をまるくした。「作る? 土を? どうやって? だって土って神さまが」

 そう。

 私たち菜園界の人間は、ある年齢に達すると神さまから“土”を与えられるのだ。自分のキャビッチを植えるための、土を。

 それは神さまから「お前はじゅうぶんに勉強を積んで、オリジナルのキャビッチを作るのにふさわしいキャビッチ使いとなった」と認められるということだ。

 ヨンベはもうすでに自分の“畑”を持っているけれど、それはあくまで“練習用”で、土じたいはおじさんのものを借りている。それも“勉強”のうちになるので、問題はないらしい――人の土をだまって盗んで、許可なく使うと恐ろしい罰がくだる、らしいけど――

「いるじゃない」母は目を細めてけらけらと笑った。「神さまなら」

「あ」私は口までまるくした。

「うん」森の入り口のすぐそばで、フュロワがたたずみ、微笑みながらこちらを見てうなずいた。「土、作るよ」

 そうしてフュロワ神は大地に両方の手のひらを向け、目をとじた。

 たちまち彼の周囲に黄金の光が生まれ、人びとは「おお……」とため息をもらした。

 あたりにいい香りのするあたたかい風が吹き、私たちはえもいわれぬ幸福感に包まれた。皆の顔に優しい微笑みが浮かぶ。

 やがて大地も黄金色に輝きだし、かすかな音色、美しくすみきった、聞いているだけで心が洗われるような音が、そこから聞こえてきた。

 きらきらきら。

 神の土が、生まれているのだ。

 皆はただ、言葉もなくためいきをくり返すだけだった。

 黄金色の土は少しずつ広がってゆき、私たちの足の下も黄金色に輝きはじめた。きらきらきら、と足もとからもきれいな音が聞こえてくる。

 神聖な、土だ。

 私たちは全員、えもいわれぬ幸福感に包まれたまま目をとじ、両手を胸の前に組んで感謝の祈りをささげた。

「あれ」そのときふいに、フュロワ神がそう言った。

「え」

「ん」人びとはいっせいに目を開いた。

 一瞬のうちに黄金色の光は消え、いい香りも幸福感も、すとん、と足もとに落っこちたかのように消えうせてしまった。

「ど、どうしたんですか」

「神さま」

「土はできなかったのですか」人びとはいっきょに不安げな顔になり質問しはじめた。

「いや、だいじょうぶ」フュロワ神はにっこりと笑った。「土はできたよ。けど地下にアポピス類たちの巣があったみたいで、いっしょに巻き込んじまった」

「えっ」

「アポピス類の」

「巣を?」

「土に?」人びとは目をまんまるく見ひらいた。

「うん」神はうなずいた。「悪いことしちまったな。あっちにいるヘビ型のやつらの巣だろうな」聖職者たちが神について話をしている方を見やりながら言う。

「怒るかな」私は心配になった。「アポピス類たち」

「うーん」神は腕組みした。「ラギリスに、なんとか話してもらおう」

「それよりも」

「だいじょうぶなのですか」

「アポピス類の巣の混じった土で、キャビッチは育つのですか」人びとはそっちの方を心配していた。

「うーん」神は首をかしげた。「育つとは思うけど……今までやったことがないから、どんなキャビッチになるのかわからないなあ」

 そのときだった。

 ぼこっ、と音がして、私たちの足もとの土が何か所か、もり上がったのだ。

「うわ」

「えっ」皆はおどろいて、片足をもちあげたり飛び上がったりした。

 ぼこぼこ、と音がつづき、もり上がった土の下から、ぴょーん、となにかが飛び出してきた。

「うわっ」

「きゃあっ」人びとはおどろき悲鳴をあげた。

 出てきたのは――ちいさな、ヘビだった。

 ヘビの、赤ちゃんだ。

 長さが私の手のひらほどしかなく、太さも私の指ぐらいで――そしてそれらはすべて――

 黄金色、だった。

「な、なんだこれは」

「ヘビ――金色のヘビだ!」

「うわあっ」人びとはおどろきのあまり叫び声をあげた。

「ああ」フュロワはうなずいた。「一気にあたためちゃったから、影響受けたうえでかえったんだろうな、卵が」

「目が」だれかが言う。「赤い」

「本当だ」

「目が赤い」

「おお」つぎつぎに皆が言いはじめる。

 たしかに、今土から出て来たアポピス類の赤ちゃんたちは全員、全身が黄金色で、目が赤かった。

 なんともはでな、色合いだった。

「で、でも」私は心配になった。「いいのかな」

「うん」フュロワはあっさりとうなずく。「まあ天敵がいるわけでもないし、アポピス類は生まれたとたんに自立して巣を出て行くから、ほっといてもだいじょぅぶだろう」

「そうなの?」私は神を見上げた。

「ああ」神はにっこりと笑ってウインクした。「ラギリスもいるしね」

「ラギリス――」私はまわりを見回した。「って、今どこにいるの?」

「ああ、あっちに」フュロワは聖職者たちのいる方を指さした。「今たぶん、これが神だ、ってな感じで紹介されてるところじゃないかな」

「――」私は、キューナン通り聖堂の裁きの陣ではじめてラギリス神に出会ったときのことを思い出し「だいじょうぶ、なのかな……」そっと、つぶやいた。

 

 キャビッチスロワーたちはそれから、一人一個ずつ出し合ったキャビッチをそれぞれ神の土の上に置いた。

 しばらくはなにも起きなかったけれど、やがて一個、また一個と、キャビッチの葉がゆっくりとひらきはじめた。

「うわ」私は思わず声をあげた。

 キャビッチの葉が、だれもなにもふれていないのに勝手にそんなふうに外がわへひらいてゆくところを、はじめて見たのだ。

 でも、学校の授業でたしかに聞いたことはある。

 今後神から土を与えられたならば、まずはひとつのキャビッチをそのまま土の上に置き、心をとぎすませてしばらく待つように、と。

 そうすれば、土とキャビッチが“仲良く”なり、やがてキャビッチが葉をひらいて花を咲かせ、つづいて実をむすび、種がつくられる。

 その種を取って、土に植えるのだ。

 適度な間隔をあけて、ふんわりと土をかぶせて、セレアの水をたっぷりと与え、ようすを見ながら芽吹きを待つ。

 それから必要におうじて土に栄養をあたえたり薬をつかったりして、キャビッチを育てていく。

 私は、私のリュックから出して母に渡したキャビッチの葉が、他のものとおなじくゆっくりと葉をひらいてゆくところを、まばたきもせずに見つめていた。

「ふしぎな感覚でしょ」母がにこりと笑って言う。

「うん」大きくうなずく。

「いい練習になるよね」父もほほえむ。「なにしろ、神の手によるつくりたての土だ――しかもアポピス類の巣入りという、特別製」なんだか声がわくわくする。「ああ、ぼくもキャビッチを持ってくればよかった」

「よくいうわよ」母が肩をすくめる。「ふだんは畑の手入れなんていっさい手伝いもしてくれないくせに」

「ああ、ふふ、うう」父はなにも言い返せずしどろもどろになった。

 そうこうしているうちに、キャビッチたちは一個また一個と、丈たかくのばした茎の上にあざやかな色の花をさかせはじめた。

「うわあ」私は感動の声をあげ

「まあ、きれい」

「いい色だ」

「うん」他の人びとも、やはり感動を口にしていた。

 ピンク、オレンジ、赤、緑、黄色に青。

 いろんな色。

 咲きたての花たちはみずみずしく、ぴん、と花びらをいっぱいにひらかせていた。



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69

 かぐわしく香る色とりどりの花にはたちまち実がなり、花びらはおしげもなくはらはらと散り落ちていった。ああ、とため息をもらす人もいた。私も、こんなにあっという間に散っちゃうなんてもったいないなあ、と思った。

「フュロワ神が、時間を早くまわしているんだろうね」父がつぶやく。

「えっ」私はおどろいた。「時間を?」

「そう。花たちの時間をね」父がにっこりと笑う。「ぼくたちがあっというまに老人になったりはしないと思うから、だいじょうぶだよ」

「そうなんだ」私は少しほっとした。

 そんなささやかな会話をしている間にも実はどんどん成長してゆき、花びらたちはすっかり散ってしまって、土の上に置いてあったキャビッチの葉も土の中にとけて消えたようになくなり、人びとはあとに残った実を採って、中の種を手のひらの上に取り出した。

 それは、小さな種だった。直径が1ミリか2ミリぐらいの、まん丸い種。色は、黒いのもあれば茶色のも、白いのもある。

「この種のときからもう、持ち主の魔力が反映されているんだよ」父が説明してくれる。「持ち主っていうのは土の持ち主ってことだけど、いまここにいる皆は、おなじく神つくりたての土を使っているから、またちがった力が加味されているのかも知れないね」その声はますます楽しそうに、わくわくしているように聞こえる。

 それから人びとは、各自が種をまくエリアを話し合って決め、その中でそれぞれ種を土にまいていった。早くすんだ人は時間のかかっている人を手伝ったりして、にぎやかに、楽しげに、その作業は終わった。

 私はもちろんはじめての種まきだったので、ぎこちない手つきでしどろもどろだったが、母が教えてくれ、父がいっしょに手伝ってくれたので(父もなれていないためしどろもどろだったが)、なんとか遅れをとらずにまき終えた。

 それからフュロワは、人びとを即席のキャビッチ畑から外へ出るように告げ、畑の土の上だけに霧のようなやわらかい雨を降らせはじめた。

 清らかな水の音と、心までがきれいになるようなすがすがしい香り。

 これは、聖なるセレアの水だ。

「すばらしい」父がささやくようにいう。「地母神界はいま水不足だから、神が特別に雨を用意してくださったんだ」

「すごい」私も心から感動しささやきをもらした。

「ねえ、ところで」母はとくにささやくこともなく、ふつうに私たちにきいた。「さっきから母さんの姿がみえないけど……どこかに行くっていってた?」

「ああ、お母さんなら」父は森の方を見て答えた。「ハピアの仲間をさがしに森へ入っていったよ」

「まあ」母はあきれたように言った。「勝手にそんなことして。だいじょうぶなのかしら」

「だいじょうぶだよ」父はにっこりとほほえんだ。「伝説のキャビッチ使いガーベラだもの」

 そんな話をしているうちにもキャビッチの種は土の中から小さな芽を、あちこちでつぎつぎにのぞかせはじめた。

 人びとは――もちろんその光景を、菜園界の自分たちの畑でこれまで何度も見てきた人たちなのだろうけれども、それでもあらためて、ほう、と感動のため息をつきよろこびを口にし合った。

 神のつくりたての土と、神が特別に降らせた雨とで芽生えたキャビッチだ。それは新たな感動を呼ぶのも無理はないだろう。

 私なんかは、キャビッチの芽ぶきそのものを目のあたりにすることじたいはじめてだったので、感動もひとしおだった。

 芽はたちまち大きくなってゆき、キャビッチの葉はくるくると内側にまるまって、いつも見ている魔法野菜の姿に育っていった。

 そうして即席のキャビッチ畑は、あっという間にたくさんのキャビッチであふれかえった。

「よし」フュロワが空に浮かんだまま腕組みをしてうなずいた。「それじゃあ俺は大工のやつらの方手伝ってくるから、キャビッチスロワーの皆は手分けして偵察しておいてくれ。よろしくね」そう言い残すと、すうっと姿を消し、はるか彼方の聖堂をつくっている人たちのところから、おおお、という歓声が聞こえてきた。移動したんだろう。

「じゃあ私たちも、森の中へ行ってみましょう」母がそう言い、箒の後ろに父を乗せて飛び上がった。私もつづく。

「そういえば、ユエホワもどこか行ったようだね」父がまわりを見回して言った。

 本当だ。

 どうりで、キャビッチを植えるあいだずっとしずかだったわけだ。

「もしかして、おばあちゃんといっしょに森へ行ったのかも知れないな」父が考えをのべる。

「行ってみましょう」母が森へ向けて飛びはじめる。私もつづく。

 

 森は、菜園界にある森とはだいぶ雰囲気がちがっていた。

 私たちの世界の森は、すずしくて、さわやかな香りがして、鳥が鳴いていたり、小さな生き物がときどき走ったり木の枝から枝へ飛びうつったりしているけれど、地母神界の森は、まずすずしくも、さわやかでもない。

 背の高い木々が数多くそびえているけれど、見たところ葉っぱがあんまりついていないようだ。ついていても枯れ葉みたいにかさかさしていて、緑色をしているものはほとんどない。

 木々の下、地面の上も、落ち葉や草などはなく、かさかさした砂地が見えている。

 動物の姿もない――まあ、今ここにはアポピス類しかすんでいないということだから、それはそうなんだろうけれど――ヘビの子一匹見えない。

 箒で飛ぶのにかぎっていえば、こっちの森の方が飛びやすい、かも知れない――すきまが多いから。

「母さんたち、どこにいるのかしら」前を飛ぶ母があたりを見回しながら言う。

「うーん」父もあたりを見回す。

「おばあちゃーん」私は飛びながら、大きな声で呼んでみた。「ハピアンフェルー」ついでに「ユエホワー」

「母さーん」

「ユエホワー」母も父も、飛びながら呼ぶ。

「ここよー」どこか遠くの方から、祖母の声が聞こえた。

「あ」母は右手の方にふりむき「こっちだわ」と向きを変えてスピードを上げた。私もつづく。

 しばらく行ったところで今度は下の方から、

「ここよー」

と、祖母の声が聞こえた。

 私たちはすぐさま箒を下に向け下りはじめた。

 そこにいたのは祖母と、緑髪鬼魔と、小さな光に包まれたハピアンフェルだけだった。

 妖精たちも、アポピス類たちも近くにはいないようだ。

「ここでなにをしてるの?」箒から下りながら、母が祖母にきいた。「妖精たちは?」

「いま、ハピアンフェルが呼びかけているのよ」祖母はハピアンフェル――祖母の頭の上に浮かび、ふわ、ふわとほんの小さな光をまたたかせている――をそっと手でしめした。「この森、ひどいありさまでしょ。これも妖精が――粉送りたちがやったようだわ」

「まあ」母は眉をひそめ、あらためて頭の上の枯れた木々を見回した。「彼らはどうしたいのかしら、この世界を」

「大多数の妖精たちは、アポピス類から自由になって、あいつらと棲み分けをすることを理想としてるんだろうけど」ユエホワが答える。「でもこの森を枯らしたやつらは、それだけじゃ腹の虫がおさまらねえんだろうな。もしかしたらアポピス類を全滅させようなんて思ってるのかも」

「ゼンメツ?」私は思わず大きな声でききかえした。「そんなことできるの?」

「そりゃ、水も草木も枯れ尽くしたら、アポピス類でなくてもここで生きていくことはできないだろうよ……妖精たちはこの地母神界を、妖精だけの世界にしたいのかも」

「えっ、じゃあ、ラギリスはどうなるの?」私はまたききかえした。「妖精の神さまになるってこと?」

「さあ」ユエホワは首をかしげた。「でも神なら、水や草木が枯れても死んだりしないだろうしな。けっきょくそうなるんじゃねえの」

「ええー」私は、小さな妖精たちがふわふわと飛び回る世界の中でただ一人ラギリス神がたたずみ、ひそひそと何をいっているのかわからない話をつぶやく場面を想像した。

「いや、ラギリス神はアポピス類の神だから、きっとアポピス類たちを全力で護るはずだよ」父は首を振りながら言った。「きっと、妖精たちに対しても、なんとかして説得してくれるはずだ」

「そうかなあ」

「そうかなあ」私とユエホワは同時にギモンの声をあげた。



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70

「それで、このあとどうするの?」母が祖母にきいた。「妖精があらわれるまでずっとここで待つつもり?」

「いいえ」祖母は肩をすくめた。「どうやら粉送りたち、もうこの森の中にはいないようだから、場所を変えるわ。でもせっかくだから、ひとつやっておきたいことがあるの」そう言って祖母は、肩からななめにかけてある小さなバッグの口をあけ、中をのぞきこんだ。

 ハピアンフェルがその近くに、ふわりと降り立つ。

「出ているわ」祖母がそっと言い、ハピアンフェルを見てにこりと笑う。

「そうね。出ているわ」ハピアンフェルも祖母を見上げてふわりとまたたく。

「なにが?」私は少し首をのばしてバッグの口の中をのぞこうとしたけれど、あまりよく見えずにいた。

「うふふ」祖母はそんな私を見てまた笑い、バッグの口を大きくひらいて私の方へさし出した。

「あっ」私は目を見ひらいた。

 バッグの中にはなんと、土がこんもりとつめられており、その土のまんなかあたりから、黄緑色の小さな芽――五ミリくらいの葉っぱの赤ちゃんが二枚、ちょこんと顔を出していたのだ。

「これ……なに? キャビッチ?」そうききながらも私は、それがキャビッチの芽ではないことに気づいていた。形がまったくちがう。

「残念」思ったとおり祖母は首をふった。「これは、ツィックルよ」

「ツィックル――」私は声をうしなった。

「ええっ」ユエホワも、私の背後から肩ごしにおどろきの声をあげた。

「そう。ここに来る前に私の畑の土に種をひとつだけまいて、来る間ハピアンフェルに管理してもらっていたの」祖母はうなずく。「フュロワ神の力にふれたおかげもあって、さっそく芽吹きはじめたわ。いい感じ。どこか広いところに植えかえてあげたいのだけど」あたりを見回す。 

「でもこの森の中で、ツィックルが育つ?」母は眉をひそめながら、足もとの土をつま先で少しけずる。「こんなかさかさの土で」

「そこは神に祈るのよ」祖母はウインクする。「せっかくこんな異世界まではるばる手伝いにきてあげたんだから、何かひとつぐらいこちらに、誠意を見せてもらってもいいと思うの」

 それは――

 私は心のなかにうかんだ言葉を口に出すことができずにいた。

「それって祈りじゃなくて、脅しっていうんじゃないの?」母ははっきりと口に出した。「神さまがかわいそうよ」

「あら、そうかしら」祖母と母はそんなことを言い合いながらも、ならんで歩きはじめた。私たちもつづく。

 しばらく行くと、少しだけ広くなっている空間に出た。木々がとぎれ、家が二、三件入るぐらいの、まるいかたちの広場になっている――そしてなだらかな坂になっていて、広場のまん中が平らな底になっている。

「ここは池だったのでしょうね」祖母がその坂のとちゅうにたたずんで言う。「池の水が枯れてしまったものでしょう」

「え」私も立ち止まってまわりを見回した。

「妖精か」私のうしろでユエホワが腕組みをしてつぶやく。

「この広さだと水の量も相当なものだったろう」そのとなりで父が首をふる。「すごいな、妖精の力というのは」

「ここにするの?」母は、いちばん先頭にたって元の池の底ちかくまで進んでいたが、くるりとふり向いて祖母にきいた。「ツィックルを植えかえる場所」

「そうねえ」祖母はくるりとまわりを見回して少し考え「ハピアンフェル、どう思う?」と肩掛けバッグに向かってきいた。

 バッグの口からふわりと小さな光が飛び出してきて「そうね、ここならのびのびと枝が伸ばせて気持ちよく育つと思うわ」と答えた。

「それじゃあ、ここにしましょう」祖母はそういって、母の立つ元の池の底にまでおりてゆき、バッグを肩からはずした。

「土は?」母が首をかしげる。「そのまま植えちゃうの?」

「だいじょうぶ」祖母はなぜか自信たっぷりにうなずき、バッグを地面におくとその中に両手をさし入れて、中の土ごとツィックルの小さな芽をすくい上げた。「これをね」そういいながら、両手をそっと下へおろし、注意深くその土をかわいた地面の上にそっと置いた。

 ツィックルの芽はいきなりときはなたれた大きな世界の中で、今にも消えてしまいそうなほどに小さくたよりなく見えた。

「さて」祖母はすっくと立ち上がり、それから右手を空高くさし上げた。「水がめの神ギュンテよ、ここに雨を降らせたまえ」空に向かってさけぶ。

「えっ」私は目をまるくした。

「まさか」ユエホワもおどろきの声をあげた。

 皆が見上げる青い空の中に、ふっと音もなく、白い雲が現れた。

 そこからさあっと、とても柔らかい、霧のような雨が、私たちの立つ地面の上にふりそそぎはじめたのだ。

 水がめの神、ギュンテ。

 私はその神の名を知っていた。

 なぜなら、前に会ったことがあるからだ。

 菜園界の神フュロワといっしょに。

「ギュンテ?」私はぼう然とその名を呼んだ。「どうして?」

「まじで?」ユエホワがうたがうような声でだれにともなくきく。「なんで?」

「おう」その声は雲の上から聞こえ、そしてなつかしい水がめの神、赤くて短い髪の若い男の人の顔が、ひょっこりとのぞいた。「ひさしぶりだな」

「あら」こんどは祖母が目をまるくして私とユエホワを見た。「あななたち、知り合いだったの? まあ」

「おお」父がまた感動する。「すごい。すばらしい」

「おばあちゃんこそ、なんで知ってるの? ギュンテのこと」私は雲の上の神さまと祖母を交互に見ながらきいた。

「フュロワ神から教えてもらったのよ」祖母はふりそそぐやわらかい雨のなかに手をさしのべ、その美しいセレアの水を受けとめながら答えた。「ギュンテ神も地母神界へ水を与えるためにやってくるはずだから、ツィックルを植えるときに力を貸して欲しいと頼みなさい、と」

「すでに交渉済みだったってわけね」母が肩をすくめる。「さすが母さん、しっかりしてるわ」

「でもポピーまでギュンテ神と知り合いだったなんて驚いたわ」祖母は笑う。「鬼魔にも友だちがいて、神さまとも知り合いなんて、うらやましいわ」

「ポピー」ギュンテが雲の上から私を呼んだ。「元気にしてたか?」にこっと笑う。

「うん」私もその笑顔を見てやっと(というのか)うれしくなり、にっこりと笑った。「すごく元気!」

「キャビッチ投げも、強くなったんだろ」ギュンテがまた笑う。「そっちの悪たれムートゥー類に負けないぐらい」

「うん!」私もまた笑ってうなずく。「いっぱい技、覚えたよ」

「だれが悪たれムートゥー類だよ」ユエホワが低い声で文句をいう。

「よし」ギュンテはそういったかと思うと雲の上からひらりと飛び降りてきた。彼の腕には、以前に会ったときと同じく水がめが抱えられていた。

 ギュンテがいなくなったあとも、彼が乗っていた雲はかわらず雨を降らせつづけていた。

「見て」祖母が感動に声をふるわせる。「みるみる成長していくわ」

 祖母が見おろすその場所――ツィックルの芽が出ていた土のあるところを見ると、なんとそこには、五十センチほどの高さの小さな細木が生えていた。

「ええっ」私はおどろいた。「これ、あのツィックル?」

「そうよ」祖母がうきうきとした声で答える。「すばらしいわ。さすがは神の水ね」

「えへへ」ギュンテは赤くて短い髪に手を当て、照れたように笑った。「小一時間ぐらいで、この五十倍ぐらいにまで成長すると思うぜ。そうなったらもう、ツィッカマハドゥルもじゅうぶん通用するだろ」

「ええっ」私はまたおどろいた。「そんな短い時間で、そんなに成長するの?」

「すばらしいわ」祖母は両手を組み合わせて大よろこびした。「さすがは神の水ね」



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71

「ほい、ポピーも」ギュンテは水がめを私の方にさし出した。「またキャビッチを一個、こん中に入れとけ」

「あ、うん」私は急いでリュックをぽんとたたき、キャビッチを一個手に取った。うす紅色の、小さめのものだ。それをギュンテの水がめの中に入れる。それはすぐに、見えなくなった。

「へえ、それはどうなるの?」母が興味しんしんの顔で質問した。

「俺にもわかんねえ」ギュンテがいたずらっぽく笑う。「けどポピーの魔力だから、きっととんでもなく強いキャビッチになると思うぜ」

「すごいわ。楽しみね」母は私にわくわくした声で言った。

「うん」私もなんだか楽しくなってきた。

 ふっ、と、ため息のような音がした。

 ふり向くと緑髪の“悪たれ”ムートゥー類が、眉をしかめて苦笑していた。

 ギュンテはなにも言わなかったが、いきなりそいつの首に腕をまわしてがっきりと脇の下につかまえた。

「あだだっ」ユエホワが悲鳴をあげる。

「おいお前、また悪さしてポピーを困らせたりとか傷つけたりとかしてねえだろな? あ?」ギュンテが声を低くしてきく。

 水がめは、そんな神のすぐそばでふわふわと空中に浮かんでいた。

「してないっ、してないから離してっ」ユエホワは金切り声で必死に叫ぶ。

「まあ、ユエホワも神さまとお友だちなのね。すごいわ」祖母が感心し、

「おお……すごい。すばらしい」父も相変わらず感動していた。

「ち、ちがう」ユエホワは首をかためられたまま必死でヒテイした。「友だちなんかじゃない」

「あれー」ギュンテはいまだユエホワを離そうとせず声を高めた。「つめたいやつだなあ。何年のつき合いだよおれら」

 そんなことをしているうちにツィックルはぐんぐんと背を伸ばしていき、あっという間に私の肩ぐらいの大きさにまでなった。

「みて」母がまた足もとを指さす。「下草が生えてきたわ」

「うわ」私は目をまるくした。

 そこは、さっきまでの砂漠のようにかわいた大地ではなく、しっとりとした土にやわらかな草の芽がつぎつぎとのぞきはじめている、ゆたかな土地に変わっていたのだ。

 それらの植物はどんどん成長してゆき、草の形は少しちがうけれど私たちの菜園界にある森の景色にだんだんと近づいていった。

 これで、鳥や小動物、アポピス類以外の鬼魔の姿があったら、ほとんど菜園界と変わらない森の状態になるだろう。

 そしてツィックルも、もう私の身長の二倍ぐらいにすくすくと伸びていた。

「いい感じね」祖母がまたそう言う。「キャビッチもすくすく育っていることでしょう」

「聖堂の方も、だいぶ進んでいるでしょうね」父が遠くを見ながら言う。

「そうね」母も言う。「アポピス類たちにも神さまのこと、ちゃんと教えられたかしら」

 だれも、それには答えなかった。

「ラギリスは、うまくやってっか?」ギュンテがだしぬけにきく。

 だれも、それにも答えなかった。

「あいつさ、おとなしいだろ」ギュンテが笑いながら言う。「誤解されやすいたちだけど、根はいいやつだからさ、よろしく頼むよ」

「おとなしい?」ユエホワがきき返す。「おとなしくはないと思うぜ。ただ、何いってんのか聞こえないだけで」

「そう、だね」父もおずおずとうなずく。「なにか、言いたいことはたくさんあるようではあったけども」

「あ、そう?」ギュンテは目をまるくした。「そうか……」少し考える。

「彼は、だいじょうぶなのかしら」母が、友だちのことのように神のことを心配する。「あんな感じで、この世界を取り仕切っていけるのかしら」

「うーん」父が腕組みをしてうなる。「それにはまず、ラギリス神を深く信奉しうまく采配のとれる、祭司たちの存在が必要だね」

「祭司?」私はきき返した。「ルドルフ祭司さまみたいな人?」

「うーん」こんどはユエホワが頭のうしろに手を組んでうなる。「そんなたいそうな役割、引き受けられるやつがいるのかっていわれるとなあ」

「あの子たちは?」祖母が人さし指を立てる。

「え」

「ん」

「あの子たち?」

「って、どの子たち?」私たちは目をまるくした。

「だれ?」ギュンテは首をかしげた。

「あの三人の、賢い子たちよ」祖母がウィンクする。「まじめな魔法大生たち」

 一秒の間、しん、としずかになり、それから

「えええーーーっ!」と、私たちはそろってさけんだ。

「だれ?」ギュンテは首を反対側にかしげた。

 

 ツィックルの木が、家ほどの高さにまで伸びたのを見とどけたあと、私たちは森を抜け、元いたところへもどった。

 聖堂は、フュロワ神の手助けもあったのだろう、すっかり完成して、何もなかった大地の上にどうどうとそびえ立っていた。

「へえ。すごいなあ」

「まあ、すてき」

「ほんと。美しいわ」

「すごーい」私たちは口々にほめたたえながら、新しい建物の中に足をふみいれた。

 しずかな聖堂の床の上には大きな魔法陣が描かれてあった。

 裁きの陣だ。

 その中に、フュロワ神とラギリス神、そしてルドルフ祭司さまをはじめ数人の祭司さまたちが立っており、魔法陣の外にならべられた椅子にすわるアポピス類たちに向かって、祈りの方法を教えていた。

「みんな、がんばっているわね」祖母が感心していう。「アポピス類というのは皆、こんなにいっしょうけんめいに学ぼうとするものたちなの?」父にきく。

「うーん」けれど父はなにか疑いを持っているようすだった。「大多数のアポピス類は、政治や経済という実務的なことには長けているけれど、宗教や哲学のような精神的な分野については、あまり関心がない種族だといわれていますけどねえ。ムートゥー類なんかはあらゆる分野に造詣が深く研究熱心ですが」

「ふふん」ユエホワがえらそうにふんぞりかえる。「だろ」

「じゃあ今ここにいる皆は、そうとう無理してがんばって話を聞いているってことなの?」母がきく。「えらいわね」

 そんなことを話しているあいだに、ギュンテも裁きの陣の中に入り、三人の神さまたちは何か話し合って微笑み合った。

 それからギュンテ神は椅子に座っているアポピス類たちの方を見て、一瞬目をまるくして、それから「おいお前ら、起きろ」と声をはり上げた。

 アポピス類たちは全員いっせいにびくっと体を飛び上がらせ、それからきょろきょろとあたりを見回しはじめた。

 椅子の上からにょろにょろと這って外に出て行くものもいた。

「ああ、やっぱり」父はなぜかほっとしたような声でいった。「そうだろうね。うん。それでこそアポピス類だよ」

「あれっ、寝てたのか、こいつら」フュロワがおどろく。「全員赤い目を開けてたから、てっきり起きてるんだと思ってた」

「こいつらヘビ型だから、目は閉じないんだよ」ギュンテが肩をすくめて説明する。

「皆の者、神を敬うことについては理解したのかの」ルドルフ祭司さまがめざめたばかりのアポピス類たちにきいた。「裁きの陣の使い方、祈りのしかた、それから」

「神って、なんだっけ」椅子に座るアポピス類の一人が質問した。

「ほらな」ユエホワがせせら笑う。「永遠の時間が必要だよ」

「ははは」父が困ったように笑う。

 そのときだった。

「いたぞ」誰かのさけび声が聞こえた。

 はっとして声の方にふり向くと、そこには聖堂から外へ出る扉がいっぱいに開け放たれていたけれど、誰の姿も見えなかった。

「あいつらか」ユエホワが後ずさる。

「えっ」私はユエホワを見て、また扉の方を見ながら、無意識のうちにリュックをたたいてキャビッチを取り出していた。



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72

 がしゃ――ん

 

 その大きな音、ガラスがわれるような音は、聖堂の天井のほうからきこえた。

 はっとして全員がふりあおぐと、屋根にはめこまれていた窓ガラスになぐられたような丸い穴があけられていて、きらきらと破片がふり落ちてきていた。

「危ない」父が私をかばうように抱きすくめる。

 

 どし――ん

 

 つぎに、こんどは壁のほうから大きな音がして、ぐらぐらと床がゆれ動いた。

 

 ばり――ん

 

 さらに、壁の窓のガラスも大きな音とともに割れ落ちた。

 人びとは――いなくなった。

 逃げだした、ということなのだけれど、椅子にすわっていたアポピス類は全員、人型から一瞬にしてヘビ型へと姿を変え、いっせいに椅子の上から床をはって出ていったのだ。

 そのようすを私は父の腕の下からのぞきこんでいたが、彼らの床をはうスピードは流れ星のように速く、思わず「うわっ」と声をあげたほどだった。

「だいじょうぶだよ」父は、私が大きな音や振動におびえていると思ったのだろう、にっこりと微笑んだ。

「う、うん」私はとりあえずうなずいた。

 やつら――だれに聞かずともわかる、ユエホワをさらい、私の家や祖母の家にまでやってきた、アポピス類だ――は、いつものように姿をあらわさなかった。

 

「光使いたち」

 

 とつぜん、小さな声が聞こえた。

 ハピアンフェルだ。

 私たちは、祖母の方を見た。

 小さな粉送り妖精は、祖母の頭の上に飛び上がり、ふわふわとまたたいていた。

「光使いたち、もうやめて」またたきながらハピアンフェルは、小さな声でさけんだ。「悪い人たちのいうことをきいてはだめよ」

 だれも、ちいさな妖精の声に答える者はいない。

 本当に、その声は届いているのか?

 

 どし――ん

 がしゃ――ん

 ばり――ん

 

 音はますます大きく鳴りひびきつづけた。

 菜園界の大工たちが精魂こめてつくりあげた地母神界初の聖堂は、みるみるむごい姿にかわりはてていった。

「外へ」母がさけび、私たちは聖堂の出口へと走った。

 だれの姿も見えないけれど、そこには“やつら”が立ちふさがっているはずだ。

 だけど、父も母も祖母も、なにもためらわずそこへ向かって走ったのだ。

 私は父と母に守られるような位置で、いっしょに走った。

 なぜかユエホワも私のとなりで走っていた。

 

「ディガ」

 ばしっ

 

 入り口の方からさけび声と、それをするどくさえぎる音――キャビッチ――がした。

 

「ゼア」

 ばしっ

 

 つづけてもう一度。

「うう」私の横でユエホワがうなる。

 見ると、緑髪鬼魔は目をまんまるくしてなにかおびえているような表情をしながら走っていた。

 そう、私にもわかった。

 さけんだのは――というかさけぼうとしたのは“やつら”で、その声の聞こえるほうにすかさずキャビッチを投げたのは、祖母と、母だった。

 おかげでだれも、やつらの魔力にかかって動きを封じられたり魔法を帳消しにされたりすることはなかったのだ。

「マハドゥーラコン」父がさけぶ。

「ピトゥイ」祖母がさけぶ。

「ティグドゥゼイ」父がつづきをさけぶ。

「ピトゥイ」母がさけぶ。

「クィッキィシュル」父がつづきをさけぶ。

 そのため、アポピス類の体にはりついてその姿を見えなくさせていた光使い妖精はすべてとりはらわれ、さらにアポピス類たちの自由な動きは封じられた。

 私たちは聖堂の外に出た。

 アポピス類たちは聖堂入り口から数十メートルはなれた台地の上にあおむけに寝転んでいた。

 祖母と母のキャビッチでふっとばされたのだ。

「七……人」ユエホワが、ささやくように言う。

「うん」私はうなずいた。

 あおむけに転がっているのは、たしかに七人の、人型のアポピス類たちだった。

「投げたの、二個だよな」ユエホワがまた、ささやくように言う。

「……たぶん」私は少しだけ考えてからうなずいた。

「どうやって……?」

「投げたあとに分散魔法を効かせたのよ」ユエホワのささやくような問いかけに、母が答えた。「何人いるかわからなかったから」

「ええっ」これには私もおどろいた。「同時がけ?」

「の、一種ね。それより」母は眉をひそめ、森の方を指さした。「畑の方はどうなっているのかしら」

「だいじょうぶか」

「何があった」

 菜園界の人たちがかけつけてきた。

「こいつらは」

「何だ」

「こいつらが聖堂を?」

「ひどいありさまだ」

「なんてことを」

 つぎつぎに、倒れているアポピス類たちをとりかこみ、破壊された建てものを見やり、なげく。

「裁きの陣へこの者たちを連れて行くんだ」父が皆にいう。「そしてアポピス類たちを呼びもどして、裁きのしかたを教えるんだ」

「ああ」

「そうしよう」

「急いで」母も指示する。「うちの人のマハドゥはそんなに長く効いていられないから」

「う」父がうめく。「うん、急いで」でもすぐに気を取りなおし、みずから一人のアポピス類の腕に手をかける「運ぼう」

「ほらな」ユエホワがまたささやく。「お前の父ちゃんがいちばんすごいよ」

 私は、ほんの少しだけうなずいた。

 父のほか、大工とキャビッチスロワーの一部の人たちが聖堂に残り、あとの人たちは私たちといっしょに畑の方へ向かった。

 畑は――

「ひどい」母が声をふるわせた。

「なんてことだ」

「ああ……」ほかの大人たちも皆、ぼう然と立ちすくんだ。

 そう。

 あんなにたくさんならんでいたキャビッチはめちゃくちゃにひきもがれ、投げ捨てられ、神の聖なる水を吸ってうるおった土はほじくり返され大穴をあけられ、そして水分までも失われてかさかさの白っぽい粉のようになってしまっていた。

 そこらじゅうにころがっているキャビッチたちも、あんなにカラフルでみずみずしかったのに、すべて色をうしない、白く、あるいは茶色くかさかさに枯れかけている。

「あらまあ」祖母はあまりショックを受けていなかったが「また妖精たちにやらせたのね」と冷静に考えを述べた。

「許せないわ」母がさけぶ。「せっかく皆で立派な畑をつくったというのに、こんなふうにめちゃくちゃにするなんて」

「私たちがここへ来たことじたい、向こうも許せないのでしょうね」祖母がまた冷静に述べる。「まあ想定の内といえばそうだけれど」

「でも」母は怒りがおさまらないようすだった。「話し合うことすらせずに、いきなりこんな」

「奇襲攻撃じゃないか」別の大人の人が怒りの声で言う。

「そうだ」

「卑怯なことを」

「彼らにしてみれば、私たちが畑をつくったことこそが奇襲になるのよ」祖母がまた冷静に述べる。

 皆は、言葉をつぐことができずにいた。

 私たちは、フュロワ神の指示にしたがってここへやってきた。

 やつらは、神のご意志すらも“奇襲”とみなすのだろうか?

 それはつまり、神さまを“敵”だとみなす、ということになるのではないのか?

 私は腕に鳥肌が立つような思いにおそわれた。

 鬼魔は、神に逆らって、神と闘うつもりなのか?

「アポピス類なら」ユエホワがつぶやく。「ありえなくもない、かな……」

「だとしたら」母がしずかな声で言う。「私たちは、神さまのために力を尽くさなければならないわ……キャビッチスロワーとして」その顔はきびしくひきしまり、その目は燃えているかのように見えた。

 私は背中にまで鳥肌が立つような思いにおそわれた。

「ガーベランティ」ふいに、祖母の肩かけバッグの中からハピアンフェルが声をかけた。「これは、光使いと水流しと粉送りがやったことだわ。森の方はだいじょうぶかしら」

「まあ、そうね」祖母はおどろいたようにハピアンフェルを見おろした。「行ってみましょう」そう言うと、箒にまたがって空へ飛び上がった。

 私たちもつづく。

「火起こしたちがまだ見えないのよ」ハピアンフェルは消え入りそうな声で告げる。「まさかとは思うのだけど」

「まあ」祖母はまたおどろいたように言った。「急ぎましょう」

 けれどすぐに、ハピアンフェルの心配していることが本当に起きているらしいのがわかった。

 森の奥から、こげくさい、植物の燃えているにおいがしてきたのだ。



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73

「燃えてる」母がさけぶ。

 同時に、突然熱い風が私の顔にぶつかってきた。

「うわっ」箒にまたがって飛びながら、思わず目をぎゅっと閉じ顔をそむける。

 箒は私がそんなことになっても、木々にぶつからないようによけながら、大急ぎで前へ進んでくれる。

「ポピー止まって」母がつづけてさけぶ。

「わっ」私のツィックルはただちに止まり、私の体は箒にまたがったまま前につんのめりそうになる。

 顔を腕でまもりながら目を少しあけてみると、先の方で森の木々が炎で焼かれているさまが見えた。

 真っ赤な炎が、木々を支配するかのようにのさばり、木々の苦しみなんかおかまいなしのようすでむさぼりつくしている。

 菜園界のものとはかたちがちがうけれど、それでもさっき森の中でながめた地母神界の木々はりっぱで、たくさんの枝をつけ、りりしくそびえていたのだ。

 それらがいま、容赦なく赤い炎に燃やされ、水をすべてうしなって枯れはて、焦げて粉のようにくずれ落ちてゆきつつある。

「ひどい」母がかすれた声で言う。

 私の中にもおなじ言葉しかうかばなった。

 ひどい。

 木々が、燃えながらふるえている。

 たすけてくれと、もがいているみたいだ。

 私は目をそらすことができなかった。

 どうすればいいの?

 どうにかしないと!

 

「ツィックル」祖母がさけんだ。

 

 はっとして祖母を見る。

「水を」祖母がつづけてさけぶ。

 水?

 ツィックルに?

「ツィッカマハドゥル?」私の横で、ユエホワが眉をよせながら言う。「けど、届くのか」

 そのとき、

 

 ばりばりばりばりっ

 

という、耳をつんざくほどの大きな音――なにかが裂けるような、あるいは雷がすぐ近くに落ちたような、おそるべき大音響がひびきわたった。

「あれは」ユエホワが遠くに目をうばわれながら言う。「なんだ」

 同じ方向を見て私は言葉をうしなった。

 それは、木々をのみこむ炎のさらに上、おおいかぶさるように伸びてきた、まわりの木々の枝たちだった。

 炎のまわっていないはなれた場所から、木々が枝を炎の上へとのばしてきたのだ。

 そしてその枝についているさまざまな大きさ、色、かたちの葉っぱたちから、雨のように水がふりそそぎはじめた。

「うわ」ユエホワが小さくうなる。

「雨……葉っぱが雨ふらせてるの?」私はぼうぜんとしながらきいた。

「そう、根から吸い上げた水をね」祖母が答える。「でも足りないわ。これではあの炎を消すことはできない」

 つまり、ツィッカマハドゥルによりツィックルがほかの木々へ、枝をのばし葉っぱから水を放出するよう命じたということだ。でも地面の土そのものが乾いているから、いくらがんばって木々が根から吸い上げても、炎を消すには足りないのだ。

 

「うわーひでえことすんなあ」

 

 そのとき頭上からギュンテの声が聞こえ、見上げると空はいつの間にか暗くくもっていた。

 その直後、ざあっ、と大きな音がした。

 ギュンテによりたちまちのうちに呼び寄せられた雲が、大量の雨を空からふらせたのだ。

「うわっ」

「つめたい」

「なんだ」人々は箒にまたがったまま、とつぜんふりはじめた大雨に身をすくませた。

 私たちは全員、あっというまにずぶぬれになった。

「あ、すまねえ」ギュンテが上からあやまる。「多少の雲じゃ足りねえと思って思い切りやったら多すぎたな」

「たく、なにやってんだよっ」ユエホワが私の横で文句をいう。「ポピーが怒ってるぞ。こんな神さま大きらいだって」

「え」私はびしょぬれになって顔にはりついた髪をかきあげながらおどろいた。「なにいってんの」

「えっ」ギュンテも空の上でおどろいていた。「まじか。ごめんなポピー。うひゃーやべえ、ごめんごめん」

「ううん、だいじょうぶだよ」私は大きな声で頭上にむかってさけんだ。

「炎が消えていくぞ」

「おおお」

「神よ」

「ありがとうございます」人びとが口々にさけぷ。

 はっとして燃えていた木々の方へ目をやると、たしかに森ごとのみこもうとしているかのように見えていた大火はみるみる小さくなってゆくところだった。

 私たちの上に雨がふってきたのはほんの少しのあいだだけだったので、ギュンテの力により雲がぜんぶまとめて木々の方へ移されたんだろう。

 私はほっとひと安心した。

「ポピー、怒ってないか?」ギュンテがまだ心配そうに声をかけてくる。

「あ、ぜんぜん怒ってないよ。ユエホワは大うそつきだから信じなくていいよ」私は急いでまた上を向き答えた。

「そっか、よかった」木々の梢の向こうで、小さな雲の上に乗ったギュンテが顔だけのぞかせてにっこり笑い「ユエホワ、あとでな」と言って真顔になった。

「う」ユエホワは肩をすくめ「いや、それよりツィックルはだいじょうぶかな」と話をそらした。

「そうだわ。行きましょう」祖母が先頭にたって箒を飛ばし、皆その後につづいた。

 

「なんてこと」祖母は箒にまたがったまま、それしか言えずにいた。

 祖母のツィックルは、真っ黒にこげ、炎が消えたとはいえまだたくさんの煙を上げてそこに立っていた。

 皆、なにも言えなかった。

 この木は、自分が燃えているにもかかわらず祖母の魔法にしたがい、他の木々へ命じて水をかけさせたのだ。

 自分にも水をかけるように伝えたんだろうか?

 いや。

 たぶんこの木は、自分よりも他の木々を助けるよう命じたのだろうと思う。

 なぜなら、祖母が箒から下りて近くに来たことを見とどけたあと、その木は――真っ黒にこげた偉大なツィックルは、音もなくこなごなにくだけ、風に飛ばされて姿をうしなってしまったからだ。

「ああ」祖母はふるえる手をのばしたが、もうその幹にふれることすらできなかった。

 とても長い間、私はなにも言わずたたずむ祖母の背中を見つめていた。

 祖母が泣いているのだと思っていた。

 言葉もなく、ただ涙を流しむせび泣いているのだと。

 そう、思っていた。

 けれど、違った。

 祖母はおもむろに、右手を高くさし上げた。

 その手のひらには、白いキャビッチがのせられていた。

「ピトゥイ」祖母はさけんだ。

 ツィックルの生えていた位置の向こうがわに、とつぜん何人か人の姿が現れた――かと思うと次の瞬間、その中の一人が祖母のキャビッチを鼻先にくらってふっ飛んだ。

「うわっ」私もユエホワもほかの人々も、目をまん丸く見ひらいてさけんだ。

 母だけがさけぶこともなく、ただ祖母に続いてキャビッチを投げた。

 けれどそれは惜しくもよけられてしまった。

「投げろ」他のだれかがさけぶと同時に、皆はいっせいにキャビッチを投げつけはじめた。

 何個かはよけられ、何個かは当たり、

「ピトゥイ」

「ディガム」

「マハドゥーラファドゥー」

「ゼアム」

「うわっ」

「くそっ」

 たくさんの呪文やさけび声が飛びかった。

「ポピー、ピトゥイを」祖母がキャビッチを投げながら私にさけぶ。「あの薬を使って」

 私ははっとして、いまはじめて思い出したものを大急ぎでリュックから取り出した。

 ヨンベのおじさんにもらった、小さなガラス瓶。

 緑色と金色を混ぜたような、目をひきつけるほどに美しい色。

 ふたをあけ、キャビッチにぱぱっとふりかけて上にさし上げ「ピトゥイ」とさけぶ。

 なんということだろう。

 大地の上に三十人ぐらいのアポピス類の姿がとつぜんあらわれた。

「うわっ」

「うわっ」

「うわっ」

 私だけでなくユエホワも、他の人びとも、目をまるくしてさけんだ。

「ひるまないで」母がすぐにつづける。「投げて」みずからキャビッチを投げながらさけぶ。

 

 じゅうっ

 

 熱いフライパンの上で水が蒸発するときのような音がした。

「えっ」母がきょとんとする。

「あっ」

「なんだ」

「消える」他の人びとも、声にする。

 私もキャビッチを投げた。

 けれどそれは何にも当たることなく、空中でじゅうっ、と消え、白い煙が残った。

 一瞬のうちに、焼け焦げて灰になったのだ。



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74

「火起こしか」ユエホワが言う。

 火起こし――まだ姿を見ていないとハピアンフェルが言っていた、妖精たち。

 どこにいるんだろう――

 どうすればいい――

「ポピー、これを使え」ギュンテが空の上からさけぶ。

「え」上を見上げると、

「燃えないキャビッチだ」ギュンテはそう言って、雲の上から私に小さなキャビッチを投げてきた。

 それは、さっきギュンテの水がめに入れておいた、私のキャビッチだった。

 小さな、キャビッチ。

 その一個だけでは、たとえ燃えないとしても何のダメージも与えられないだろう。

 だけど。

 私はそれを受け取るやいなや、頭上に高くさし上げて「リューイ」と叫んだ。

 ぐん、とたちまちキャビッチが巨大化する。

 まわりの大人たちが全員息をのんでふり向く。

「モーウィヒュージィエアリイ」私はできるだけ早口でつづけた。

 ばん、と大きな音がして、最終的にキャビッチは百五十センチほどの直径となり、数は――たぶん、百個ぐらいになった。

 ギュンテの水がめに入れておいたおかげだ。

 よし。

 いや。

 これを今からどうやって投げる?

「みんな」母がさけぶ。「箒で打って」

 おおお、という叫び声があがったかと思うと人びとは、それぞれ自分の乗っていた箒を両手にかまえて、空中に浮かぶ私のキャビッチをばしばしと打ちはじめた。

 打たれたキャビッチは猛烈な勢いで、アポピス類たちを攻撃し、やつらはたちまち後退しはじめた――姿を現していないものも、おそらく。

 私も――はじめてやることだったが、自分のツィックル箒を右手から横にふり、巨大化キャビッチを二個ほど打ち飛ばした。

 手と腕が、じんじんとしびれる。

「またこんな」頭上でユエホワが、両腕を翼に変えて飛びながらその翼でキャビッチを打っていた。「あほみたいにでっかくして増やしてー」ぶつぶつ言いながら。

「ほほほ」その隣で祖母が笑う。祖母は箒にまたがって空中に浮かび、ツィックル箒の柄の先を巨大化キャビッチに近づけるだけで、そのキャビッチをものすごいスピードで遠くに飛ばしていた。ツィッカマハドゥルだろう。

 私はじんじんする腕をさすりながら口をとがらせた。あほみたいってなんだよ。それに笑わなくたっていいじゃん……

「アポピス類たち」母が叫ぶ。「勝手に来て畑や聖堂を作ったりしたのは悪かったわ。だけどなぜそれが必要なのか、私たちと話し合いをして欲しいのよ。あなたたちはそうするべきだわ。もう攻撃をしかけてこないと約束してちょうだい」

「わあ」ギュンテのそっとつぶやく声が上から聞こえてきた。「俺が言おうと思ってたことぜんぶ言われたなあ」

「今すぐにここから出て行け」怒鳴り返す声が、どこかかなり遠くから聞こえた。姿は見えない。「お前たちの作るものも、お前たちと話すことも、我々にはいっさい必要ない」

「あなたたちはラギリス神を信奉しているの」母も負けずにさけぶ――というか、怒鳴り返す。「そもそもラギリスという名前の神さまのことを知っているの」

 しん、としずかになった。

 誰も答えない――ということは、知らないのか?

「なんてことかしら」母は顔をそむけてため息をついた。「自分たちの世界をつくってくれた神さまを崇めるどころか、知らないだなんて」

「知らないことはない」アポピス類の声が、さっきよりは近くから聞こえてきたが、それはなぜかさっきよりも小さかった。「この世界が我々に与えられたのは、他でもないそのラギリスのおかげだ。そのことについては大いに感謝している。だが」そこで声はとぎれた。

「だが、なによ」母がせかす。なぜか私が内心あせってしまう。早く答えないと。

「だが、彼の役目はそこまでだ」声がきっぱりといいはなつ。「世界ができた以上は、その世界を運営していくことが重要だ。我々は今その点に力を向けている。悪いがラギリスの出る幕はもう、ない」

「なんですって」母も、他の人びともざわめいた。

「ひどい」

「なんという言い草だ」

「神の冒涜だ」

「神罰が下るぞ」

「我々はこの地母神界を、鬼魔界にも引けを取らぬ――いや、それをしのぐほどの強国にする」アポピス類は声を大きくした。「神だの聖堂だのに頼っていてはそれはかなわない。キャビッチなども我々には不要。必要なのは魔力と武力、そしてすぐれた参謀だ」

「すぐれた参謀ってお前のことか、ユエホワ」ギュンテがまた上から声をかけてくる。

「ん」緑髪鬼魔はちらっと上を見てから「ああ、まあ……らしい」と、ちょっと照れ臭そうに答える。

「ぷーっ」ギュンテは雲から顔をのぞかせて、ほっぺを大きくふくらませてふきだした。

「なんだよっ」ユエホワは肩をそびやかして文句を言う。

「では妖精たちを解放なさい」今度は祖母がアポピス類に向かって言った。「あなたたちのせいで、罪もない妖精たちがひどい行いを強いられているわ。それは許されないことよ」

「妖精たちは我々と契約を結んでいる」アポピス類はあいかわらず姿の見えないままで言い返した。「やつらにも相応の利益あってのことだ」

「ではなぜ反乱を起こすものが出ているの」祖母がきく。「契約は意味をなしていないわ」

「ほんの一部だ」アポピス類はなおも言い返す。「すぐにそいつらは鎮圧する」

「ほんの一部?」

「このありさまでまだそんなことをいうのか」

「水がからからじゃないか」人びとが口々に言う。

「いっとくけど」ユエホワが声をはり上げる。「俺は加担しねえからな。妖精退治にも、鬼魔界との戦争にも」

「世界がこうなっているのはラギリスのせいだ」アポピス類は怒鳴る。「世界をつくった神だというのなら、今のこのありさまを責任をもって修復するべきだ。それをしてこその神だろう。違うのか。我々を救いもしない者が神などと名乗ることは許されない」

「あきれた」母がまた大きくため息をつく。「自分たちの都合ばっかりね。神のために働こうという意識はまったくのところないってわけね」

「なげかわしい」

「ありえない」人びとも首をふり、ため息をつく。

「お前たちこそ情けないと思わないのか」アポピス類たちもつぎつぎにわめきだす。「なにが神だ。神にばかり頼って。子どもじゃあるまいし」

「我々は神の子だ」

「役に立たないもののどこが神だ」

 もう、カンカンガクガクという感じで、そこにいる全員が大声で怒鳴り合い、わめきちらし合いしだした。

 私はただ肩をすくめて耳をふさぐしかなかった。

「ポピー」祖母が箒に乗ったまま上から呼ぶ。「この場を離れましょう。耳がおかしくなっちゃうわ」

「う、うん」私はうなずき、ツィックル箒にまたがって祖母につづき飛びはじめた。

 なぜかユエホワもいっしょに飛んでついて来ていた。

「もうああなると、話し合いとは呼べないわねえ」祖母は飛びながら、ふう、と大きく息をついた。「子どものけんかみたいだわ」

「でも」私は飛びながら後ろをふり向いた。「ママたち、だいじょうぶかな」

「だいじょうぶよ」祖母はにっこりと笑う。「フリージアにまかせましょう。私たちは」祖母はそう言って、まじめな顔になった。「反乱を起こしている妖精たちをさがさなければならないわ」

「その、反乱を起こしている妖精たちっていうのは」ユエホワが飛びながら言う。「俺たちがこの世界に来たことに対してどう思っているのかな」

「そうね」祖母は箒の上でうなずく。「それを、直接たしかめたいわ。聖堂を壊したり、畑を荒らしたり、森の木々に火をつけたりしたのは、アポピス類に従っている妖精たちでしょうけれど、反乱している妖精たちはそのことについてどう思っているのか……あるいは、自分たちには何も関係がないとして、だまって見ているだけなのか」

「でも」私は祖母にきいた。「さがしに行くっていっても、どこに行けばいいの?」

「彼らは水を枯らしてまわっているわ」祖母が答える。「水のあるところをさがしましょう」

「でも、どこに水があるかわかるの?」

「ええ」祖母は微笑んで、箒で飛びながら上を見上げた。

「えっ」私も見上げた。

「おう」ギュンテが雲に乗って私たちの頭上を飛んでいた。「まかせとけ」



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75

 そうか。

 ギュンテは水がめの神さまだから、水が世界のどこにあるかは当たり前にわかるんだ。

 そうだよね、だからさっきみたいに水――というか雲を呼び寄せて雨を降らせることができるんだ。

 そんなことを思い、私はひとり、うなずきながら箒で飛んだ。

 ギュンテの乗る小さな雲を追って。

 私の少し前を祖母の箒が飛び、なぜか私の横をユエホワが飛ぶ。

「泡粒界に行ったとき話したこと、おぼえてるか」ふいにユエホワが飛びながら言う。

「泡粒界?」私はききかえした。「サルシャ姫のこと?」

「じゃなくて」緑髪は大急ぎでさえぎった。「あの世界が人間界の水を管理してるっていっただろ。この世界の水もそうなのかなってさ」

「ああ」私はまたうなずいた。「でもここは、人間界じゃないし」首をかしげる。「ちがうんじゃないの?」

「うーん」ユエホワは飛びながら腕組みした。「やっぱそうかなあ」

「ききにいってみたらいいじゃん」私は横目でムートゥー類を見ながらテイアンした。「泡粒界に。サルシャ姫ー、って」

 ユエホワはだまっていた。

「会いたかったよーって」

「うるせえな」赤い目がにらみかえしてきた。「だまってろ」

 私はふきだすのをこらえて前を向き、祖母についていった。

 サルシャ姫というのは私より少し年上の泡粒界のお姫様で、ユエホワがカタオモイしていた相手だ。かわいそうな鬼魔だなあ。

 

 しばらく飛ぶと、きらきらきら、と遠くでなにか光るものが見えた。

 さらに飛ぶと、それは水で、私たちのゆくてに川があらわれたのだ。

「うわあ」私は思わず声をあげた。

 川のまわりは荒れた大地で、草も少なく、生きものの姿も見えない。

 そんな中でその川は、ふしぎなほどゆたかな水をたたえ、ゆったりと流れていた。

 幅は、さっきまでいた聖堂が三つぐらいはゆうに入るほどある。

 深さは、ぱっと見ただけではわからない……水は透明で、空の色を美しく映していた。

 水底の砂や石なんかが見えないということは、だいぶ深いんじゃないかと思う。

「ここにいるのか?」ユエホワが雲の上のギュンテを見上げてきく。「妖精が」

「うん」ギュンテが顔をのぞかせてうなずく。「水の中にいる。けどなかなか苦労してるみたいだな」

「苦労?」私はききかえした。

「ああ。こんだけたくさんの水を枯らすとなると、相当の力が必要になるだろうからな……力つきて沈んでしまうやつが次々に出てるようだ」

「えっ」思わず箒の上から川を見下ろす。「妖精たちが?」

「ああ」ギュンテはまたうなずいた。「なんでそこまでしてこんなことすんのかな」

「それだけ、意志がかたいということでしょうね」祖母も、箒の上から川を見下ろしながら言う。「アポピス類に立ち向かうという、反骨の意志が」

「ガーベランティ」祖母のバッグの中からハピアンフェルがふわりと姿をあらわした。「なんとかして、このことをやめさせたいわ……どうすればいいのかしら」

「そうね」祖母は微笑む。「まずは呼びかけましょう」

 そうして私たちは、ゆったりと流れゆく川に向かって、箒の上から呼びかけはじめた。

「おーい」

「妖精さーん」

「水流しのみんなー」

「出てきてちょうだーい」

「もうやめてー」

「水から出てこーい」

 けれどどれだけ呼びつづけても、川の流れも、水面のようすも水中のようすも、なにも変わりはなかった。

「ふう」祖母がため息をつき、

「だめだあ」私が音をあげ、

「ほんとにいるのか」ユエホワが疑い、

「いるわ。存在は感じるの」ハピアンフェルが主張する。

「わかった」ギュンテが雲の上から声をかけてきた。「じゃあ、あんまりしたくはなかったが、ひっぱり上げてみよう」

 そうしてギュンテは、水がめを抱えて雲からぴょんと飛び降りた。

 はっとおどろく私たちの目の前で水がめの神さまはふわりと空中にたたずみ、両手に水がめを、逆さにして持ち、体の前にさし出した。

 すると。

 きらきらきら、とかがやく川の水が、霧のようになり、水面からどんどん上に上がってきて、ギュンテの水がめの口の中にすいこまれはじめた。

「わあ」

「まあ」

「うわ」私たちはそれぞれ声をあげた。

「みんな」ハピアンフェルは仲間たちを呼んだ。

 よく見ると、霧をなしていたのは川の水ではなく、小さな水流しの妖精たちだったのだ。

「みんな、私よ。ハピアよ。水流しのみんな、だいじょうぶ?」ハピアンフェルは、ギュンテの水がめの中にどんどんすいこまれていく妖精たちに声をかけつづけた。「私ね、今菜園界の人たちといっしょにいるの。菜園界の人たちが今この世界に、地母神界に、神さまといっしょに来てくれているの。アポピス類たちとも話し会いをしてくれているのよ。だからもう、あなたたちが命をかけてまでたたかわなくてもいいの」

 水がめにすいこまれつづけている妖精たちからは、返事が聞こえてこなかった。

「返事できねえんじゃないのか」ユエホワがつぶやく。「あんなにすいこまれてちゃ」

「そか」ギュンテは言って、水がめをひょいっと上に向けた。

 霧はさあっとまわりに広がり、きらきらきら、とこんどは上から降ってきた。

「ハピア」

「ハピア」

「おかえり」

「ハピア」

 霧の中から、ほんとうに幻のような、かすかな声がちらちらちら、ときこえ、耳にくすぐったいような感じをおぼえた。

 水流しの妖精たちだ。

「妖精さん」私は無意識のうちに呼びかけていた。「こんにちは」

「ガーベラだ」

「ほんとだ」

「ガーベラだ」

「キャビッチ使いのガーベラだ」

 小さな妖精たちがそう言って、私の頭の上や肩の上にふわふわ、きらきら、と舞いおりてきた。

「こんにちは、ガーベラ」

「こんにちは」

「あなたはすごい人だわ」

「鬼魔の四天王の一人を倒したとうわさで聞いたよ」

「すごいよ、ガーベラ」

「えと、あの」私はきょろきょろとまわりを見回しながら、口ごもった。

「その子はガーベラじゃねえぞ」ギュンテが空中から妖精たちに声をかけてくれた。「ポピーだ」

「ガーベラは私ですよ、みなさん」祖母が自己紹介をしたあと「ほほほほ」と口をおさえて笑いだした。

「ははは」ユエホワも、ごく小さく笑っていた。

「ええっ」

「あなたが?」

「鬼魔とたたかったんですか?」

「あなたが? 本当に?」妖精たちはものすごく衝撃を受けていた。

「ええ。もう何十年も前にね」祖母はうなずいたが「あらでも、ついさっきも闘ったわね、鬼魔と」と、訂正した。

「そうだぞ、お前ら」ギュンテが腰に手を当てて小さな水流したちをたしなめる。「ガーベラさんはこう見えてもものすっげえ強ええんだぞ。失礼なこというな」

「こう見えても、ってのも失礼だろ」ユエホワがつぶやく。

「ほほほほ」祖母はあまり気にしているようすもなく笑っていた。

「みんな」ハピアンフェルがあらためて水流したちに呼びかける。「もう水を枯らすのはやめて。せっかくラギリス神さまが用意してくださったこの世界を、だいなしにしてはいけないわ。私たちはアポピス類と話し合って、闘うことなく平和に暮らしていくべきよ」

 その言葉に、私たちは全員うなずいた。

 だけど妖精たちもうなずいたのかどうかは、見えなかった。

「無理だよ」

「そうよ、無理だわ」

「アポピス類は私たちの話なんか聞いてくれない」

「私たちは奴隷のようにこき使われるだけ」

「闘うしか方法はないよ」

「そう、俺たちみんなが平和に生き残るためには」

「闘うしかないんだ」

「そんなことない」私は思わず反対していた。「神さまだって来てくれてるし、聖堂もつくったし、あと裁きの陣の使い方も教えてもらえるし」

「そう」祖母がつづけて言う。「あなたたちを苦しめる悪いアポピス類は、私たちキャビッチ使いが今からこらしめるわ。だから安心してちょうだい」

「えっ」

「本当に?」

「ガーベラさんがやっつけてくれるの?」妖精たちはざわめきはじめた。

「ええ、そうよ」ハピアンフェルがうけおう。「そしてポピーも。他の皆も」

「やっつけるっていうか、裁きの陣で」私は訂正しかけたけれど、

「ポピーも、すっげえ強ええんだぞお前ら。もうあっという間にアポピス類なんか全滅だあ」ギュンテが大声でつづけたのでかき消された。

「うわあ」

「すごい」

「たのもしいな」

「お願いします」

「アポピス類を」

「全部やっつけてください」妖精たちはいっせいに水の中から飛び出してきて、口々にさけんだ。小さな声がたくさん重なって、さわさわさわ、と川の水の流れるような音になった。

「まあ」ユエホワがぽつりとつぶやく。「裁きの陣につれてかれるよりは、キャビッチくらった方が苦しむ時間が短くていいけどな」

「そうなの?」私はきき返したけど、心の中では今からいったいどうなるのか、悪い予感がしてしかたなかった。



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76

 私たちはまず、森へ向かった。

 母たちに任せてきた“話し合い”がその後どうなっているのか、確かめるためだ。

「あんまり、気がすすまねえな」ユエホワが飛びながらそう言ったけれど、私もおなじ想いだった。

 話し合いは、無事に終わったんだろうか……たぶん、終わってないと、思う。

 へたをすると、またキャビッチ投げ対アポピス類の魔力攻勢がくりひろげられているのかも知れない。

 けれど、森の中はしずかだった。

 物がぶつかる音や、呪文を叫ぶ声や、悲鳴や怒鳴り声などは、まったく聞こえてこなかったのだ。

「静かね」祖母が飛びながら言う。

 本当に静かだ。この世界の森には、鳥も、小さな動物も、大きな動物も、いない。いるとすれば、アポピス類と妖精だけだ。

 なので何の鳴き声もしないし、かさかさと動きを感じさせる音もしない。

 風の音だけだ。

「あっ」けれどとつぜん、祖母のバッグの中からハピアンフェルが声をあげた。「粉送りたちがいるわ!」

「まあ、本当に?」祖母が飛びながらバッグを見おろす。「どこにいるの?」

「この先よ」ハピアンフェルは(たぶん)バッグの中から前の方を指さして教えた。「きっと森の木を枯らそうとしているんだと思うわ」

「まあ、大変」祖母は肩をすくめた。「急ぎましょう」

「アポピス類はいないのか」ユエホワが祖母の後ろを飛びながらきく。

「いないわ、ユエホワッソ」ハピアンフェルが緑髪の名前をまちがえて呼んだけれど、自分では気がついていないみたいだった。「どこへ行ったのかしら」

「ああ」空の上からギュンテの声が聞こえた。「アポピス類たちは、裁きの陣まで連れて行かれたみてえだ」

「えっ」私は上を見上げた。

「まあ」祖母もおどろいて見上げた。

「誰が連れてったんだ?」ユエホワも見上げてきいた。

「ラギリスだあ」ギュンテは、どこかほこらしげに胸をはって答えた。「やっとあいつにも、神としての自覚がめばえたんだな」

「へえー」私は感心した。「すごい」

 あの、ひそひそひそ、とささやくだけで何を言っているのかまったくわからない神さまが、あの乱暴なアポピス類たちをひとまとめに捕まえたんだろうか。

「ほんとかよ」ユエホワはどこかうたがっていた。「フュロワがやったんじゃねえの」

「ははは」ギュンテは笑った。「まあここは地母神界だ。ラギリスに花を持たせてやろうぜ」

「えっ」私はギュンテとユエホワを交互に見た。なんというか、大人の事情があるような感じがした。

 それはともかくとして、私たちはさらに前へ飛びつづけた。

「みんな」やがてハピアンフェルがまた呼びかけた。「私よ。ハピアよ。粉送りのみんな」

 私たちは全員止まった。

「ハピア」

「ハピアだ」

「お帰りなさい」

「どこに行っていたの」

「だいじょうぶなの」小さな声が答える。

 それは水流したちのときとはちがい、なんというのだろう……小さな、植物の種がぷちぷちぷち、とはじけるような、そしてやっぱり耳にくすぐったいような、ひびきだった。

 ハピアは、水流しの妖精たちに話したときと同じく、粉送りたちにいまやっていることをやめるよう説得した。

 そして粉送りたちはやはり、アポピス類は自分たちの話を聞かないから闘わなければならないと主張し、私たちが「すべてのアポピス類をやっつける」からだいじょうぶという話になり、粉送りたちはわかってくれた。

 でも、悪いアポピス類はもう、裁きの陣につれて行かれたんじゃなかったっけ?

 あとのこっているのは、あの、聖堂でいねむりしていた、なんというか、ぼけーとしたアポピス類たちだけだと思うんだけど……あの人たちも全員、やっつけないといけないのかな?

 私は首をひねりながら、とりあえず祖母たちといっしょに聖堂へもどることとなった。

 

 もどって最初に私たちが口にしたのは、

「うわあ」

「まあ」

「へえー」

という、とにかくおどろきの声ばかりだった。

 なぜかというと、聖堂が――なんとあのぼろぼろに壊されていた聖堂が、ちゃんと元どおりの姿にもどっていたからだ。

 すごい!

「すごーい」私は思ったままを口にしていた。「魔法みたい」

「あははははは」なぜかユエホワが空を向いて大笑いした。「それうけるー」

「なにがおかしいの」私は怒ったけど顔が赤くなるのがわかった。まあたしかに「魔法みたい」なんて、三歳か四歳ぐらいの子どもがいうせりふでは、あるけれど……

「だって魔法って、あはははは」ユエホワはお腹をかかえてまだ笑う。「あれか、キャビッチ投げつけて修復したのか」

「そんなこと言ってないし」私もますます顔が赤くなるのを感じながら言い返した。

「魔法みたいだろ」ふいにギュンテがそう言いながら、ユエホワの頭を小脇にかためた。「俺たちがすこーしだけ、手伝ったからな。キャビッチじゃなくて悪かったけども」そうして私にウインクする。

「あいたたたた離してっ」ムートゥー類が悲鳴をあげる。

「あはははは」こんどは私がお腹をかかえて笑い返してやった。

「まあ、楽しそうね」祖母もほほほほ、と笑う。

 私たちはともかくも、聖堂の中に入った。

「あなたたちは」誰かの声が聞こえる。

「汝らは」小さな声がつづく。

「汝らは」さいしょに聞いた声の人が言い直す。「ここ神の地において、心をとぎすませ、神に許しを請い、そして、えーと」

「三回まわって遠吠えしろ」

「穴を掘るのではございませんでしたでしょうか」

「あれっ」私は目をまるくした。

 どこかで聞いた声だなと思ってたら。

「なにやってんだ、あいつら」となりでユエホワがあきれたように言った。

 それはケイマン、サイリュウ、ルーロの魔法大生三人組だったのだ。

 彼らは、裁きの陣のそばに並び立ち、陣の中に向かって何かことばをかけつづけていた。

「遠吠えも穴掘りもしない」声をひそめながら三人にテイセイをしているのは、菜園界の祭司さま――ルドルフ祭司さまではない人だった。「正しき道をゆき正しき行いをまっとうすることを誓わなければならない」

「ぜんぜんちがうじゃないか。頼むよ」ケイマンが困ったような顔で言う。

「そもそも人に頼らないで自分でおぼえろよ」ルーロが不服そうに早口で言う。

「でございますですが、穴を掘るのがどこかに出て来てはおりませんでしたでしょうか、たしか」サイリュウがしきりに首をひねりながら言う。

「穴掘るのはあれだろ、ビューリイ類が建てものをぶっこわした時につかう文句だろ」ユエホワがいつのまにか三人の中にすべりこんで言葉をはさむ。「『汝穴を掘ることをみずから制せよ』かなんかで」

「さいでございましたですね、ええ」

「あれ」

「お前どこ行ってたんだ」三人は目をまるくした。

「それはこっちのせりふだよ。てかなんでお前らが祭司のまねごとしてんだよ」ユエホワが口をとがらせる。

「おれたち、ここで裁き役やることになったんだよ」ケイマンがてれくさそうに頭をかきながら説明した。

「お前らが? まじで?」ユエホワは声を大にしておどろいた。

「ええっ」私もおなじくおどろいた。

「まあ、すてきだわ」祖母は感動していた。「本当にそうなるなんて、すばらしいわ」

「さよう」祭司さまが小さく声をはさむ。「今まさに、その裁きの儀式をとりおこなっておるところじゃ。静粛に」

「あ」

「まあ、ごめんなさい」

 私たちは裁きの陣からはなれた。

 よく見ると私たちの後ろにならぶ椅子には、菜園界の人たちが皆静かにすわっていたのだ。

「母さん、ポピー、ここよ」後ろのほうで母が立ち上がり、手まねきする。

 私たちはいそいで移動した。

 ユエホワはついて来ず、椅子がならぶところからは少し離れて壁ぎわに立っていた。

「すごいな、ユエホワは」父がしきりに首をふりながらため息まじりに言う。「人間界の祭司が使う裁きの祈祷句まで知ってるなんて。さすがだ」

「本当ね」祖母がふかくうなずく。「彼はすばらしいわ」

「ほんとによく勉強してるのねえ」なんと母までが、緑髪を――あれほど嫌っていたやつを、ほめる。

「それだけいっぱい裁きの陣につれてかれた苦い思い出があるんじゃないの」と私は言いたかったけど、だまっていた。



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77

 席についてあらためて裁きの陣の方を見てみると、陣の中には人間型のアポピス類たちが十人ほどかたまって立っていた。

 森で、火起こし妖精の助けを受けながら私たちキャビッチスロワーと闘った者たちの一部だろう。

 ケイマンはひきつづきそのアポピス類たちに向かい、祈祷文句をとなえつづけていた――ときどき修正されたり、つっかかったりしながら。

 そしてときどき、陣の中のアポピス類たちがうめき声をあげたり、がっくりとうなだれたり、逆に天井の方にあおのいたりしていた。

「あれって、苦しいのかな」私はそっときいた。

「うん」父が、眉をひそめて答える。「心を改めたと認められるまでは、これがつづくんだよ」その表情は、まるで自分があの陣の中で裁きを受けている者のように、苦しそうにゆがめられていた。

 父は、本当に鬼魔が好きなんだなあ。

 あんな、人間と見ると襲いかかったり傷つけたり、家や畑やなにもかも、とにかくめちゃくちゃにあらし回ることしか思いつかない、いやな生き物たちなのに。

 私は少しだけ口をとがらせた。

 ていうか、森で私たちと闘ったのはもっとたくさんいたはずだけど……どこにいるのかな?

「ほかのアポピス類たちは?」私はまたそっときいた。「森でたたかったやつ」

「ああ」父は聖堂の壁の方をそっと指さした。「つかまえられて、見張られているよ。いちどきに全員は入れないから、十人かぐらいずつ、裁きを受けさせているんだ……でも中には、まんまと逃げだした者もいるみたいだな」また眉をひそめる。「キャビッチスロワーたちが箒で追ってはいるけれど」

「あと何回やるのかしら、これ」母もそっと言葉をはさんできたけれど、その顔はあきらかに退屈していた。「ずっと座ってるのも疲れるわ」

「そんなこと言うもんじゃありませんよ」祖母が娘である母をたしなめる。「神聖で大事な儀式なんだから」

「はーい」母はうつむいた。

 そのあと、ケイマンの唱えていた文句は終わり、アポピス類たちもやっと裁きの陣の外に出ることができた。全員くたびれはてた感じでがっくりと肩を落とし、とぼとぼと聖堂の外へ出ていった。

 そして次のアポピス類が、やはり十数人ほど聖堂の中につれてこられ、全員いやがっていたが菜園界のキャビッチ使いたちにつかまえられて裁きの陣の中に立たされた。

 こんどはサイリュウが、裁きの祈祷文句を唱えはじめた。

「汝らみなさんは」

「汝らは」

「さいでございますね、汝らさまはここ裁きの陣におかれましてでございまして」

「裁きの陣において」

「さいでございますね、裁きの陣でございますここにおきましてでございまして」

「これは長いわね」祖母がそっと言う。「見つからないように外へ行きましょう」

「えっ」私が祖母を見たときにはすでに祖母と母は姿勢を低くして椅子の列から外に出ようとしているところだった。

「ははは」父がそっと苦笑する。「いちばん後ろの席がいいというからたぶん、こうなるんだろうとは思っていたよ。ポピーもついていくかい?」

「えと、パパは?」私はいちおうきいた。

「ぼくは後学のために、最後まですべてを見届けたいと思うよ」父は真剣な顔で裁きの陣の方をまっすぐに見つめながらそっと答えた。

 私はというと、神さまごめんなさい、やっぱり外に出た。

 うーん、とぬけ出した三人で思いきりのびをする。

「申しわけないけれど、つき合いきれないわ」母が頭上に腕を思いきりのばしながら言う。

「まあ裁きの儀式が終わったら、あとはもう菜園界に帰るだけでしょうから、ゆっくり観光でもしていましょう」祖母はそう言って、さっさと箒にまたがった。「大工の人たちや、ほかの祭司さまたちはどこにいるのかしら」

「ポピー」そのときどこか遠くから、私を呼ぶ声が聞こえた。

「えっ」私がきょろきょろとまわりを見回すと、

「ここだよ」また声が聞こえた。「聖堂の上」

「えっ」私はまたおどろき、母や祖母もいっしょに、箒で聖堂の屋根の上へ向かい飛んでいった。

 するとそこにはなんと、フュロワとギュンテとラギリスとがのんびりすわってひなたぼっこをしていたのだ。

「まあ、神さまたち」母がおどろいて言う。「こんなところでなにをなさっているの?」

「裁きの儀式が行われているから、祈祷の文句に答えるやり方をこいつに教えてたんだ」フュロワがラギリスを親指でさして答えた。「祈祷する方もされる方も不慣れで時間かかっちまって……悪いことしたね」苦笑する。私たちがぬけ出してきたことを知っているのだろう。

「ごめんなさい」私は目をぎゅっととじて謝った。

「まあ失礼、おほほほ」祖母は笑い、

「あ、すいません」母は肩をすくめた。

「けれどここにいるのも日が照りつけて暑くはならないの?」祖母は空を見上げ、神さまたちを心配した。

「だいじょうぶ」ギュンテが自分の水がめを両手でふりながら笑う。「暑くなったら水浴びするさ」

「まあ、おほほほ」祖母はまた楽しそうに笑った。

「ねえ、神さま」母は箒から聖堂の屋根の上に降り立ち、質問した。「この世界――地母神界って、どうしてアポピス類たちにあてがわれたの?」

 フュロワとギュンテはラギリスを見た。

 ラギリスは母をまっすぐに見て、少し考えるように間をおいた後「…………」と答えた。

「え?」母は首を前につき出してきき返した。

 祖母と私はなにも言わずにいたが、おなじように首を前につき出した。

「鬼魔界の王と対等に交流できるようになりたいと考える者がいるからだって」フュロワが伝えてくれる。「アポピス類のほかにも、ここんとこそう考える若い鬼魔たちが増えているんだ」

「まあ」祖母が目をまるくする。「時代は変わったのねえ」

「そう」フュロワはにっこりしてうなずく。「変えたのはミセスガーベラ、あなたですよ」

「えっ」私と母は目をまんまるくして祖母を見た。

「あらまあ」祖母は口をおさえる。「そうだったの」

「ええ」フュロワもギュンテもラギリスも、ふかくうなずいた。「鬼魔界四天王クドゥールグ、あいつが人間のキャビッチスローによって倒されるなんて、それまで誰も想像したことさえなかった」

「神さまも?」母がきく。

「神たちも」フュロワとギュンテがうなずく。「そしてそのことは鬼魔界すべてに知れわたり、衝撃をあたえ、歴史上の大事件として後世に語りつがれた――やがて、鬼魔王や大臣たちに任せていては、いずれ鬼魔界が人間の手によって壊滅させられてしまうのではないかと考える者が現れたんだ」

「反政府分子ね」母がうなずく。「それが、アポピス類?」

「に、限ったことではないけれど、思想として体系化することにいちばん長けていたのはアポピス類だ。彼らは鬼魔王と対等の立場になりたいと願うようになり、堂々と王に対して意見を言うようになり、ついには水面下で反乱を企てる者まで現れた」

「まあ」祖母がため息をつく。「物騒ねえ」

「人間でも鬼魔でも、若いやつってのは気持ちがはやりやすいからな」ギュンテが苦笑する。「でもラギリスは、闘うんじゃなくて平和に話し合うべきだってことを、ずっと声を大にして主張してきたんだ」

「声を大にして?」私と母が同時に同じことをきき返した。

 それこそ、想像さえできなかった。



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78

 ばさばさばさ

 

 とつぜん、鳥の翼のはばたく音が聞こえ、私たちはそちらを見た。

 すると。

「まあ」最初に声をあげたのは、祖母だった。「なんて美しいの」

 私たちが見たのは、一羽の鳥――小柄な、ふくろうだった。

 けれどそれは今まで見たこともない、色合いをしていた。

 頭から尾にかけて、緑から黄色、そして金色とグラデーションのように変わってゆき、翼と嘴もベージュがかった金色、そして目が赤かった。

 そのふくろうは屋根の上に降り立ってすぐ、人の形に変わった。

 でもそれが誰なのか、ばさばさいう音を聞いた瞬間からわかっていた。

「ふうー、やっと出てこれた」ユエホワが大きく息をついて言う。

「まあ、ユエホワ」祖母はこの上もなくしあわせそうに微笑み首をふる。「本当に、なんて美しいのあなたは」

「へえー」母も興味のある顔で言った。「本当の姿があれなのね。たしかに、きれいだわ。でも人間に見つかったらきっと捕まっちゃうわね」

「うん」ユエホワは苦笑した。「今も親父さんにつかまってた」

「まあ」祖母と母もいっしょに苦笑した。「ごめんなさい」

 私は、とくになにも言わずにいた。

 まあたしかに、色合い的にいえばきれいっちゃきれいだけど。

 別に、感動したりほめちぎったりするほどのことでもないし。

「で、何の話してたの?」ムートゥー類は子どものようにきょろきょろと皆の顔を見わたしてきいた。「平和に話し合うべきとかってちょっと聞こえたけど」

「この地母神界がどうして生まれたのか、いきさつを聞いてたところなのよ」母が説明する。「うちの母がクドゥールグを倒したおかげで、鬼魔界にクーデターの動きが出はじめたとかって」うふふ、となぜかおもしろそうに笑う。

「ああ……」ユエホワは逆に、なぜか悪いことをしたのがばれたときのように肩をすくめ、気まずそうにごまかし笑いをした。「あとさき考えないやつが多いから」

「それでアポピス類はあなたをさらっていこうとしたのね、ユエホワ」祖母が眉をひそめて言う。「鬼魔王に対抗する勢力となるために」

「うん」ユエホワはため息をつき「たく、自分勝手なやつらだよなあ」ぶつぶつ文句を言った。

「でもユエホワだってさ」私は前に一度だけ(そして二度目はぜったいにない)行った鬼魔界で見た光景を頭の片すみで思い出しながらいった。「別に鬼魔界の王様を尊敬してるとか、心からしたがってるとかいうわけじゃないんでしょ?」

「なにいってんだよそんなことねえよ」ユエホワはルーロのように早口で私の言葉をヒテイした。「俺は陛下を尊敬してちゃんとまじめに仕えてるよ」

「えー」私は眉をしかめた。「うそばっかり」

「本当だって。クーデターなんてさらさら起こす気ないし」

「平和主義なのね」母が言う。

「保守主義なのか」ギュンテが言う。

「いや、日和見主義だろ」フュロワが言う。

 ふふふふ、と風のような音がした。

 私たち全員がその方を見ると、なんとラギリスが、とても楽しそうに笑っていたのだ。

 私たちは一瞬びっくりしたあまり言葉をうしなったけれど、ラギリスはまたふふふふ、と笑って、そのあと「…………」と言った。

「え?」私と母と祖母とユエホワが首を前につき出した。

「ユエホワには感謝してるって」フュロワが伝えてくれたあと「えっ、なんで?」とびっくりしてラギリスにきいた。

「俺がきくとこだろそこ」ユエホワが口をとがらせる。

「…………」ラギリスは説明した。フュロワが伝えてくれたところによると「目の赤くないアポピス類の子たちと仲良くしてくれているから」だそうだ。

「まあ、すばらしいわ」祖母はまたしても感動に首をふる。「ユエホワは誰とでも仲良くできるのね」

「いやあ、あはは」緑髪は照れたように笑う。

 そうだろうか。

 私の顔はたぶん、すごくうたがい深い表情をうかべていたと思う。

 ぜったい、なにか情報を引き出すとか、利用するとか、そういう目的でくりくりくっついているだけだと思う。

 でも私はだまっていた。

 そう。

 怒られるもん。

 ふんだ。

「…………」ラギリスはさらになにか言い、フュロワが伝えてくれたところによると「なのでこれからも、なにもアポピス類とともに地母神界で暮らしてくれとはいわないから、どうか地母神界と鬼魔界の間で平和と友好確立の手助けをしてほしい」のだそうだ。

「ああ……まあ」ユエホワは慎重に考えながら答えた。「俺は鬼魔界の者だから、鬼魔界の平和を保つってことで、そりゃまあ、手伝いはするよ」

 ふふふふ、とラギリスがまた声もなく笑い、そしてなんと、すい、と前に出てユエホワの金色の爪の手を両手でにぎった。

「すばらしいわ」祖母はまたそう言った。「私たちが、この平和条約締結の証人というわけね」

「ちょっと大げさじゃない?」母が笑う。

「俺らもたしかに聞きとどけたからな」ギュンテが目を細める。「裏切ったりしたらどうなるかは覚悟しとけよ」

「しねえよ人聞きの悪い」ユエホワは気まずそうな顔で言った。

「お」フュロワが足もとを見おろして言う。「裁きの祈祷も、終わったみたいだな。お疲れさんラギリス、コツはつかめたか」

 問いかけにラギリスはうなずき「…………」と答えた。

「そうそう、そんな感じ」フュロワもうなずいたけれど、どういったコツなのかはまったくわからなかった。まあ人間には聞いてもわからないことだろう。

 

 そうして私たち菜園界の人間は、帰ることになった。

 魔法大生の三人は、卒業までの間はアルバイトのような感じで地母神界の聖堂にときどきやってきては裁きの祈祷の練習をするらしい。

 妖精たちは、地母神界の中で暮らしていくものと、私たちといっしょに菜園界へ戻るものとに分かれていた。

 神さまは、菜園界と地母神界の間を行き来しやすくするために特別なトンネルのような道をつくって下さり、当分の間はそこを通るときには神さまが見守っていてくれるらしい。もういないと思うけど、万一悪さをしようとたくらむ者がその道を通ったらすぐにつかまって裁きの陣へ送られてしまうわけだ。

 それを聞いたとき私はわざと、ちらりとユエホワを見てやった。

 ユエホワはすぐに気づいたけどなにも言わずにそっぽを向いた。

 

     ◇◆◇

 

 菜園界はすっかり夜になっていた。

 世界壁を抜けて最初に感じたことは「ああ、にぎやかだなあ」というものだった。

 でも夜なんだから、考えてみればどちらかというと静かだと思うほうがふつうだと思うのだけれど……それだけ、今までいた地母神界がものすごく静かだったってことだ。

 夜の菜園界には、風の音のほか小さな虫の鳴く音や、木々の葉っぱがゆれる音、こすれる音、あとそこかしこの家の中から聞こえる話し声やなにかをかたづけている音、ドアのしまる音、お祈りの文句、歌――数えきれないぐらいいろんな音があふれている。

 ほっと、私は息をついた。

「安心するわね」母がそんな私を見て笑いながらいう。「早く家に帰りたいわ」

「うん」私も笑いながら答える。

「んじゃ、俺はこれで」ユエホワがかるく片手をあげて飛び立とうとした。

 が。

「ユエホワ」なんと父が呼びとめながら、緑髪鬼魔の足に抱きついてとめたのだ。「君、お願いだからどうかぜひ、今夜うちに泊まっていってくれたまえ」

「ええっ」ユエホワは度肝を抜かれたように裏声でさけびおののいた。「なんでだよ」

「君のあの、言葉につくしがたいほど美しい本来の姿をぜひ、スケッチさせてほしいんだ。たのむよ」

「いや、俺今日は鬼魔界に戻りたいから」

「そこをなんとか。それに今日はもう遅いし、疲れているだろう。うちでひと晩ゆっくり休んで明日の朝早くにたつといい。ねえぜひそうしたまえ、ユエホワ」

「いー」ムートゥー類は困ったような顔をした。

「そうね、それに森から聖堂へつれていく途中で、何人かの反乱分子のアポピス類が逃げだしたようだから」母がまじめな顔で言う。「このまま行くのは、危ないかもしれないわ」

「え」ユエホワは驚いた顔をして母を見た。

「うん、そうだね。そうしたほうがいいよ、うん」その間に父はぐいっと彼を地上にひっぱりおろしていた。

「そうね、ぜひそうなさいな」祖母までがすすめる。

「――わかった、けど」ユエホワはうつむく。「スケッチっていっても俺、眠りこけちゃうと思うけど」

「もちろんそれでかまわないとも」父がうれしそうににっこりとする。「君はぐっすり眠っていてくれたまえ。ぼくはひと晩かけて、あらゆる角度から君を写生させてもらうから」

「――」ユエホワはことばもなかった。



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79

 私は寝る前、ツィックル便でヨンベに、菜園界へもどってきたことの報告と、明日学校でね、というメッセージを送った。

 するとすぐに返事がきて、そこには

「ポピー、お帰り! 無事でよかった! 明日も学校はお休みだから、また二日後に会おうね。ゆっくり休んでね。」

と書かれてあった。

 あ。そうか。

 明日は、今回地母神界へ行くことになった人たちのため、特別にもうけられた休みなんだ――忘れてた。

 私は肩をすくめながらすぐに

「忘れてた! また二日後にね。ありがとう!」

と送り直し、それからほっと息をついた。

 なんだか、じわじわとうれしくなってくる。

 そうか、明日はゆっくり寝ていてもいいんだ。

 わーい!

 私はめざまし時計のセットをよろこんで切った。

 そうして最後に、もういちど窓ごしに月をながめてからベッドに入り、ぐっすりと眠った。

 

 翌日はいい天気だった。朝はあっという間にくるんだよね。

 いちおう時計を見るとなんと、いつも学校に行く日より一時間以上も早くに目がさめていた。

 でも私はふたたび眠りおちたりせず、すぐにベッドから出た。

 お休みの日はふしぎと、早く起きられるんだよね。

 今からなにをしようかな、とわくわくしながら、着がえて下におりる。

 だれもいない。

 父は地下の書庫で、ふくろうのユエホワを写生しているか、疲れて眠りこけているかだろうと思う。

 けど母までが私より遅いなんてことは、もしかしたらはじめてかも知れない。

 いつも、お休みの日でも早起きして朝ごはんをつくってくれているもんね。

 なのでだれもいないキッチンで私は、つくりおきしてあったプィプリプクッキーと、かんたんにつくったレモネードをバスケットに入れ、大きな音をたてないようにしながら外へ出た。

 いい天気だから、朝の散歩をしようと思いついたのだ。

 右手にバスケット、左手にツィックル箒、そして背中には、リュックを背負って。

 庭に出て、うーんとのびをする。

 気持ちいいなあ!

 鳥が、ピイピイ、とかチュンチュン、とか鳴いている。

 ああ、菜園界の朝だ。

 そう思った。

 平和な世界の平和な朝だ!

 

「おっはよん」

 

 そのひとことを聞くまでは。

 声は、ミイノモイオレンジの木の上から聞こえた。

「ほら、朝めし」声の主の鬼魔はそういって、枝の上からオレンジ色の果物をなげおとしてきた。

 私はあわてて箒を小脇にかかえバスケットを腕にかけて、両手でそれを受け取り「パパは?」と鬼魔を見上げてきいた。

「寝てるよ」ユエホワは軽く肩をすくめた。「書庫で」

「ふうん」このムートゥー類はおそらく、あの“ことばにつくせないほど美しい”ふくろうの姿で、通気孔からどろぼうのようにはい出てきたんだろう――私は想像してふきだしそうになったけど、こらえた。

「どこいくの」ユエホワはそうきいたけれど、私はとくになにもきめていなかったので、

「別に」と答えた。「散歩」

「ふうん」こんどはユエホワがそういった。「リュックにバスケットに、大がかりな散歩だなまた」

「性悪鬼魔がすぐ出てくるからね」私はまっすぐ彼を見上げて答えた。「いつでも攻撃できるようにしとかないと」リュックをかるくたたく。中身はもちろん、キャビッチだ。

「あ、そうだ」鬼魔はするっと話を変えた。「行き先きまってないんならさ、いっしょにあそこ行こうぜ」

「どこ?」

「あのほら、あそこ」ユエホワはちらっと空をさす。「前に行ったとこ」

「ん?」私は首をかしげた。「チェリーヌ海岸?」

「いやいや」ユエホワはかるく手をふってヒテイしたあと、ばさっと木の枝から飛び上がった。「じゃあ俺について来いよ。行こうぜ」また空を指さす。

「ん?」私は首をかしげながら箒にまたがり、飛び上がった。

 ああ。

 ばかだった。

 

 ユエホワはときどき私をふりむいて見ながら、よく晴れた空をどこまでも飛んで行く。

 私は風が気持ちいいことに、微笑みまで浮かべて、なにもうたがわずその後をついていった。

 キューナン通りをぬけ、チェリーヌ海岸も過ぎ、森の上を飛びはじめた。

 どこに行くんだろう。

 一回行ったところ……前にユエホワがいちど、アポピス類につかまってしまいしばりつけられていた、あの森か?

 でもそんなところにいって、どうするんだろう?

 なにかめずらしい木とか、見たことない鬼魔の仲間とかを教えてでもくれるつもりなのかな?

 ああ。

 ばかな私はそんなことをのんきに思っていた。

 相手はユエホワだというのに。

 この、悪だくみとずる賢さにかけては鬼魔界ズイイチの悪徳ムートゥー類だというのに!

「よし」しばらく飛んだあとユエホワはそういって、こんどは上の方にむかって飛び上がりはじめた。「ここから上がってくぞ」

「ん?」私はのんきに後からついて上がっていった。

 空は本当に気持ちのいい色をしていて、箒の上で私はふうー、と大きく息をつき目をとじたのだった。

 

 そしてつぎに目をあけたとき、私は大きな門の前にいた。

 あたりはどす黒い景色に変わり、ずむむむむ、とか、ぎいいいい、とか、ごぶごぶごぶ、とかいやな音が聞こえてきて、そしてものすごく、くさかった。

「ん?」私はもはや、のんきに首をかしげてはいられなかった。

 そこがどこなのかがわかるまでに、十秒かかった。

「よし」その間にユエホワは、もはや私の方に目もくれず、門の前に片ひざをついてこうべをたれた。「陛下。私ユエホワが戻って参りました」

 ずももももも。

 三秒ほどその音がしたあと、

「ごくろう。ユエホワ」

という雷の音が鳴り響き、

 

 ごりごりごりごりごりごり

 

という耳がハカイされるかと思うほどのでっかい音をきしませて、私の前の門の扉がゆっくりと開いた。

「ここ」私は、ぶるぶるふるえながら左右にひらいてゆく扉を目で追いながら言った。「鬼魔界?」

「さすが」ユエホワはひとことだけ言い「じゃ、行こ」と当たり前に歩き出した。

「いや」私もひとことだけ答えた。「帰る」

「まあまあまあ、あいさつだけだからさ」ユエホワはなぜかにこにこしながら私の機嫌をとろうとした。「今後のほら、地母神界との平和と友好のためにさ」

「――」私は目をきょろきょろさせて考えた。

 たしかに、それは必要なことなのかも知れない――

「さ、行こ」ユエホワが私の腕をつかみ、さっさと歩き出した。

「いやよ」私は引っぱられながらハンシャテキにキョヒした。「なんでせっかくの休みの朝に鬼魔界を散歩しなきゃいけないの」

「だからひとこと物いうだけだって」ユエホワは片目をぎゅっとつむってふり向いた。「このあと、アポピス類たちとひともんちゃくあるかもだけど、これこれこういうわけでしてー、みたいな。それがすんだらもう自由にどこでも行けるしなにやってもおとがめないしさ」

「――」私はユエホワの説明を頭の中で整理しなければならなかったため、その間にだいぶ奥まで金色の爪の手によって引っぱられていったことに気づくことができなかった。「いや、べつにあたし、鬼魔じゃないから、鬼魔の王さまに物いわなくても自由にどこでも行けるし」

 やっとそう言い返すことができたとき、私はすでに鬼魔王の目の前に立っていた。

「陛下。ただいま戻りました」ユエホワがふたたび片ひざをついてこうべをたれる。

「貴様は、ポピーか」陛下が、突っ立ったままの私を見て言う。

「あ」私の頭のなかでいろいろなものごとがぐるぐると回転し、すぐに返事ができずにいた。

「このたびは、殊勝であった」陛下はそんな私に向かって、そうつづけた。



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80

「え」私は一歩しりぞいた。「なにが?」

 となりで片ひざついているユエホワはなにも言わず、こうべをたれたままちらりと私を横目で見た。

「このたび貴様は我が鬼魔界精鋭のユエホワを危機から救い、あまつさえ鬼魔同士のいさかいを食い止めたとのこと」鬼魔の陛下はそう説明した。「人間にしてはよい行いであった。ほめてつかわす」

「――」私はなんと答えればいいのかわからず、陛下ととなりのユエホワをかわるがわる見た。

「はは、陛下」ユエホワがかわりに答える。「もったいなきお言葉、ポピーは感激のあまりことばにもならぬ様子にございます。あわせてこたび、アポピス類のおこがましくもつくりし地母神界にて、私ユエホワとこのポピーは力を合わせ、鬼魔界への反乱などいっさいおこさぬよう宣告し誓わせてまいりました。今後万が一にも鬼魔界をおびやかそうときゃつらたくらむような事ございましたらば、このキャビッチ使い名手ポピーが、命にかえても鬼魔界を守護するとのことでございますゆえ、陛下におかれましてはどうぞご安心召されるようお願い申し上げます」つづけてえらく早口でそう話す。

「――」私はとちゅうから話の内容がよくわからなくなり、頭がことばを受けつけなくなっていた。

「うむ。よきにはからえ」陛下はうなずいたけれど、たぶん私とおなじでわかってないんだろうと思う。

「ははっ」ユエホワはさいごにもういちどこうべをふかくたれた後立ち上がって「ではこれにて失礼致します」とおじぎをし、くるっとふり向いた。「行くぞ」小さい声で私に言う。

「あ」私はもういちどユエホワと陛下をかわるがわる見て「さ、さよなら」といちおうあいさつし、ユエホワの後ろを小走りについて行った。

「ポピーよ」けれどもう少しでその黒味がかった部屋から出るところで、なんと陛下が私を呼び止めたのだ。

「えっ」私は立ち止まってふり向いた。

「え」ユエホワもおどろいたように小さく声をあげ立ち止まった。「なんだ」

「かつて貴様がここ鬼魔界に作りおったキャビッチ畑はその後どのような様子じゃ」陛下はそうきいた。「野菜はよく育っておるのか」

「――」私は一瞬、陛下がなにを言っているのかまったくわからなかった。

「はは、陛下」かわりにまたユエホワが答えた。「おかげさまでキャビッチは順当に、豊かにみのりつづけております」

「えっ」私は緑髪を見た。「なんのこと?」

「しっ」ユエホワがすばやく私をだまらせる。

「うむ」陛下はうなずいた。「今後もよく世話をするがよい。いちどわしも味見をしてみたいものだて」ふほほほ、と陛下はおだやかな雷のように笑った。

「ありがたき幸せに存じます」ユエホワがおじぎをする。

 私もいちおう小さくおじぎをして、やっと外に出られた。

 

「ねえなんのこと? キャビッチ畑ってなに?」私は黒味がかった鬼魔王の城……というのか、王のすみかを出たとたん、くさい庭を歩きながらユエホワにたずねた。

「おぼえてねえのかよ」緑髪(これも鬼魔界で見るとやっぱり黒味がかった緑に見える)は歩きながらはあ、とため息をついた。「前にここに来たとき、ゼラズニアってやつと闘っただろ」

「ゼラズニア……ああ」それはたしか、クドゥールグの孫とかいっていたリューダダ類だ。思い出した。

「あのとき、闘いに勝ったら鬼魔界にキャビッチ畑を作らせてもらうって宣告したろ、お前」

「ええっ」私は眉をしかめた。そんなこと言ったっけ?

「つってもまあ、実際には俺がその場ででっちあげた話だったけどな」ユエホワは歩きながら苦笑した。「まさか陛下がおぼえてたとはな。油断ならねえな」

「え、じゃあ鬼魔界に、キャビッチ畑があるってこと?」私はきいた。

「あるわけねえだろそんなもん」ユエホワは目を細めた。「たとえあったとしても半日もたたずに荒れるかくさるかするよ」

「えーでも味見したいとか言ってたじゃん陛下」私は背後に遠ざかる鬼魔王のすみかをふり向いて言った。

「だいじょうぶ」ユエホワは自信たっぷりにうなずく。「三秒で忘れてるさ」

 思い出した。

 前にここに来たときも今みたいに、鬼魔王とかその一族とか……ゼラズニアもふくめて、なんだか気の毒だなあ、と思ったんだった。サンボウのこいつにこんな風にこばかにされて、軽くあつかわれて。

 なんか、そんなに悪いやつらじゃないのかも知れないな、と。

 まあでも、人間にたいしてすごく横暴で悪さするのは、いやだけども。

「もう、帰っていいんでしょ。菜園界に」私はユエホワに言った。

「いや」なんと黒味がかり緑髪はキョヒした。「いちおうざっとパトロールしていく」

「なんであたしがそんなことしなきゃいけないの」私は文句を言った。「ユエホワが一人ですればいいじゃん」

「お前、一人で帰れるか? 菜園界に」ユエホワは目を細めて私を横目で見た。

「う」私はつまった。

「道わかんねえだろ」ムートゥー類は勝ち誇る。「しかたねえから後で送ってやるよ。だからパトロールにつき合え」

「ひきょうもの」私は肩をいからせたが、ユエホワはなにくわぬ顔で暗くよどんだ空に飛び上がった。

 しかたないので私も箒でしぶしぶついて行った。

 まあパトロールってことだから、ただあっちこっち見物しながらだまって飛んでいくだけでいいんだろう。

 そう思い直すことにした。

 が、大まちがいだった。

 

「あっ、ユエホワ!」

 最初にその声が聞こえてきたのは、城からしばらく飛びはなれたところにある黒味がかった花畑にさしかかったときだった。

「ん」ユエホワは下におりてゆき、自分の名前を呼んだ鬼魔――人間の形に化けている――を見た。「トスティか。どうした」

 私がユエホワのとなりにおり立つと、その人型鬼魔は私を見て「あっ、ポピーさま!」とさけんだ。

「えっ」私はびっくりした。「だれ?」

「私ですよ、オルネット類のトスティです」ユエホワよりちょっと年上に見える人型鬼魔は自己紹介をしたけれど、私はまったく記憶になく、眉をひそめて首をかしげた。

「前、泡粒界でキャビッチ使って大勢召還した鬼魔の一人だよ」ユエホワが私に説明し、それから「お前ももう召還魔法解けてるんだから『さま』つけなくていいよ」とトスティという人に説明した。

「あっ、そうか」トスティは目をまるくした。

「えっ、そうなんだ」私も目をまるくした。

「で、なんかあったのか?」ユエホワはトスティにきいた。

「あっ、そうそう」トスティはあたりをきょろきょろ見回して「さっきここに、アポピス類のやつらが来たんだけど」と言った。

「えっ」

「まじか」私とユエホワは同時に声をあげた。「なんていってた?」

「イボイノシシ界に来いって」トスティは大まじめな顔で答えた。

 私とユエホワは一秒の間ものが言えなかった。

「イボイノシシ界?」私がきき返し、

「あーそう、何人いた?」ユエホワはふつうに受け答えた。

「えっ、イボイノシシ界ってなに?」私はユエホワにきいた。

「あとで教えるから」ユエホワは手のひらを私に向け、ひきつづき「あいつらの姿はちゃんと見えてたか? 声だけしか聞こえないとかはなかった?」とトスティにきいた。

「えーとたしか、五人ほどいたよ。姿はちゃんと見えてた」トスティは鬼魔界のどす黒い空を見上げながら答えた。「おれ、アルフにきいとくって答えたらまた来るっていってた」

 アルフという名前はおぼえている。ユエホワがさっきいった泡粒界で、最初に敵として闘ったハチ型鬼魔オルネット類の親分だ。その後、なぜか私の召還魔法で味方にすることができたんだけど。

「そうか」ユエホワは少し考え「もしそのアポピス類たちがまたここに来たら、ユエホワが探してたって伝えてくれ。イボイノシシ界に行くのはユエホワがだめだと言ってたって、きっぱり断るんだ。いいな」

「あ、うん」トスティはすなおにうなずいた。「でも、なんでだってきかれたら?」

「有能で役に立ちそうな鬼魔はユエホワが自分で選ぶからと言っといてくれ」サンボウ鬼魔はまじめに答えた。

「わかった」トスティもまじめにうなずき、その後私たちは飛び立った。



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81

「あのう」飛びながら私はユエホワにたずねた。「イボイノシシ界ってもしかして、地母神界のこと?」

「たぶんな」ユエホワはまっすぐ前を見て飛びながら答えた。「あいつらがさらに新しい世界とか国とかをつくってるんでなければな」

 私はそれ以上なにもいわなかった。

「それにしても、あいつら陛下の目を盗んで好き勝手やってくれてるってことだな」ユエホワはにがにがしげに言った。「まさかとは思うが、あいつらに寝返る鬼魔が出ないうちにつぶしといた方がいいな」

「つぶす?」私はぎくっとした。「闘うってこと?」

 ユエホワはなにも答えなかった。

「ちょっとちょっと」私はくいさがった。「まさかまたあたしにやれっていうんじゃないでしょうね」

「いつ性悪鬼魔が現れるかわからないからね」ユエホワが声をうら返して私のまねをする。「このキャビッチがあればだいじょうぶ!」背中のリュックをたたくまねまでする。

「いー」私は思い切り眉をしかめた。

 

 少し飛んだところで川に出た。

 川、というのか……やはりそれも黒味がかっていて、ぜったいにその中に入りたくもないし、たぶん魚なんかも一匹たりともすんでいないと思われた。

 その上を横切って飛んでいるとき、また

「あっ、ユエホワ」

と声がかかった。

 下を見ると、なんと川の黒味がかった水面から、ワニ型鬼魔のキュリアノ類が顔をのぞかせていた。

「どうした、ボーロ」ユエホワが空中で立ち止まる。

「さっき、アポピス類が来たぞ」ボーロと呼ばれた鬼魔は大きな口をぱくぱくと動かして話した。「血欲しいかいとかなんとかきかれた」

「えっ」私は眉をひそめた。

「そうか。五人ぐらいいたか」ユエホワはまたふつうに受け答えした。

「いや、一人だけだった。血はいらないけど食い物が欲しいって答えたら、またくるっていってた」

「そうか。もしまたそいつが来たら、ユエホワが探してたって伝えてくれ」ユエホワはそう言い残してまた飛び始めた。

 私はもう、なんのことかとはきかずにいた。

「一人だけってことは、あいつら手分けして鬼魔たちを勧誘して回ってるんだろうな」ユエホワは飛びながらひとりごとのようにそう言っていた。「やっかいだな」

 私は、早く帰りたいなあ、と思いながら、箒の柄にぶらさげたバスケットからプィプリプクッキーを取り出してほおばった。

 

 しばらく行くと今度は林の中に入った。

「あっ、ユエホワ」また地上から声がかかる。

 見るとまた人型に化けているものだったが、何の鬼魔なのかはわからなかった。

「アポピス類が来たぞ」やっぱりその鬼魔もそう言った。「目ぼしい貝があるっていってた。貝は食べにくいから他のものがいいっていったら、ため息をついてまた来るっていってた」

 ユエホワは前とおなじようなことを言って、私たちは飛び去った。

 

 つぎは山の中に入った。

「あっ、ユエホワ」こんどはワシ型鬼魔ディーダ類で、高く黒味がかった針葉樹の枝の上から呼んできた。「アポピス類が来て、貧乏神会に来いっていわれたけど、貧乏な神さまのパーティなのかってきいたらなにも言わずに帰っていった」

 

「アポピス類のやつらも、だんだんわかってきたようだな」山から飛び去りながら、ユエホワがつぶやく。

「なにが?」私はきき返した。

「鬼魔にむずかしい話をしようなんて、どだい無理だってことがさ」

「ああ……」私はうなずいた。

「まあとにかく、さっさとつかまえてあのいまわしい裁きの陣とやらへたたきこんじまおう」

「でも、どこにいるのかな」私はまわりを見回した。「もうあきらめて帰っちゃったんじゃない?」

「――また来るっていってたっていうから、最初のトスティのところにもどって待ってみるか」

「えー」私はうんざりの顔をした。「もう帰ろうよ」

「もうちょっと我慢しろ」ユエホワはえらそうに言った。「ここではっきりさせとかないと、今後めんどうなことになる」

「めんどうって?」

「また俺をさらおうとするだろ」

「おばあちゃんのとこにいればいいじゃん」私はテイゲンした。

 ユエホワはものすごく長いため息をついたあと「いやだ」と答えた。

「なんで」私は口をとがらせた。

「お前、さっきの鬼魔城にずっと住めって言われたらできるか?」ユエホワがきき返してきた。

「いやだ」私はソクトウした。

「だろー」ユエホワはうんざりしたような声で言った。

「えーっ」私は目を見ひらいた。「おばあちゃんちが鬼魔のお城と同じだっていうの? 言ってやろーおばあちゃんに!」

「ばかお前」ユエホワは一瞬あせったけれど「――まあ、別にいいか。もうあそこに行くこともないし」と言いなおした。

「えっ、なんで?」私はつい目をまるくしてきき返した。

「必要ないしね」ユエホワは飛びながら肩をすくめる。「いちばん知りたかったクドゥールグ様との闘いの話も聞けたし、伝説の魔女のキャビッチスローもじかに見ることができたし、まあいろいろ参考にはなったよ」

「えー、もう来ないの?」

「なに」ユエホワは半眼で私を見た。「俺がいないとさびしいの」

「いや、全然」私はソクトウした。「でもおばあちゃんとパパがさびしがると思うよ」

「知るか」ユエホワはぷいっと前を向いた。「人間のおもちゃじゃねえぞ俺は」

「なにその言い方」私は怒った。「さんざん世話になっときながら。そういうの、恩知らずっていうんだよ」

「感謝はしてるよ。でも馴れ合いにはならねえ」ユエホワは指を立てて宣言した。「だからお前から、ありがとうございました、さようなら、って伝えとけ」

「なに命令してんの。自分で言いなよ」私はぷいっとそっぽを向いた。

 

「いたな、ユエホワ」

 

 呼ぶ声がまた聞こえた。

 私は反射的に下を見た。

 けれどそこは野原の上で、鬼魔はだれもいなかった。

「ん?」私は首をつき出してよく下を見た。「だれ?」

「止まれポピー」ユエホワが私を呼び止める。「やつらだ」

 それを聞くのと同時に私はリュックをたたいていた。

 キャビッチが手の上にころがり出た瞬間、私の口はかってに

「マハドゥーラファドゥークァスキルヌゥヤ」

とさけんでいた。

 なんでかってにそうさけんだのかはわからない。自分の中にそういう、決まりのような、動きのパターンのようなものができあがっていたのかも。ルーティンっていうんだっけ?

「ディガム」直後にアポピス類のさけぶ声がした。

 姿は見えない。

「あれ」ユエホワがぽかんとした声で言う。「俺、動けるけど」

「ほんと?」私はとなりの黒味がかり緑髪を見た。

「二人がけ?」ユエホワが赤い目をまるくして私を見る。

「ん?」私は首をつき出してきき返したけど、その直後に

「ゼアム」

とアポピス類のつづけてさけぶ声がしたので、はっと前を向いた。

 とくに何も起きない。

「わかりにくいな」ユエホワがつぶやいたので、なにがわかりにくいのかときこうとした時「ポピー、キャビッチにあの緑の薬かけて、俺にかしてくれ」と早口で私に言った。

「えっ」私はわけがわからないまま、とにかく言われたとおりにして小さなキャビッチをユエホワに渡した。

「ピトゥイ」ユエホワがさけぶなり、なんとキャビッチがしゅるんと消えた。

 私が息をのむのと、五人のアポピス類の姿が現れるのとが同時に起こった。



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82

「やっぱり二人がけだ」ユエホワがうなずく。「俺にもマハドゥがきいてる」

「いや、なんで?」私は思わずユエホワを見てさけんだ。「なんでユエホワがピトゥイを使えるの?」

「俺が性格のいい鬼魔だからだ」ユエホワはにこりともせず答えた。「あとついでにシルクイザシの効能と。くるぞ!」さけぶ。

 はっと前を見ると同時に箒がぎゅんっと高く飛び上がり、私がいた位置になにかきらきら光る粒のかたまりのようなものが飛びこんできた。

「なにあれ」私は箒の上からそのきらきらしたところをのぞきこみ、その正体をみきわめようとした。

「ヘビの子どもだ」ユエホワが教えてくれた。「またくるぞ」さけぶ。

「えっ」私が前方にふり向くのと同時にまた箒がすばやくよけてくれ、私にヘビの子どもの団体がぶつかることはなかった。

「ユエホワ」姿をあらわしたアポピス類のひとりがさけぶ。「我々とともに来い。地母神界でお前の力を存分に発揮しろ」

 ユエホワを見ると、口をとざしてじっとアポピス類を見ていたが、やがて「ひとつきくが、なんで俺に命令するんだ?」ときいた。

 こんどはアポピス類がだまりこんだ。

「協力してくれ、って依頼してくるのが筋だろ。なんで俺をさらったり、上から頭ごなしに言いつけてくるんだよ。うまくやりたいならやり方を考えろよ」ユエホワはしずかな声で話していたが、赤い目はきびしくにらみつけていた。

「わかった」アポピス類がすなおにそう言ったので、私は少しおどろいた。「ではお前に――ユエホワ、君に依頼する。我々とともに地母神界へ来て欲しい。そしてともに地母神界を大きく強い世界に、鬼魔王と対等の位置に立てるまでに育て上げて欲しい。どうか頼む」

「そうそう、それだよ」ユエホワは二、三度小さくうなずき「で、俺の答えはこうだ。断る」

 しん、としずかになった。

 でも私は、うなずいていた。

 まあ、そうだろう。

 相手が命令しようとイライしようと、このムートゥー類はすなおに「わかった」とはぜったいに言わない。そういうやつだから。

「きさま」アポピス類がさけび、金色のヘビの子どものかたまりを投げつけた。

「君って呼べ」ユエホワは上に飛び上がってかわしたけどその直後に「うわっ」と悲鳴をあげて体をまるくした。

 なんの攻撃を受けたのかはわからなかったけど、私はその術をかけたのだろう鬼魔に向かってキャビッチを「シルキワス」とさけびつつ投げた。

 短縮形の誦呪だけど、充分消えてくれるはずだ。

 けれど。

 キャビッチはそのまま飛んでいき、アポピス類が片手に持つ盾にがいんっと当たって消えてしまった。

「えっ」私はびっくりしてかたまった。

「光使いか」となりでまるめた体をひらきつつユエホワが言う。「シルキワスが、光使いたちによって効かなくさせられたんだ」

「ええっ」私がさらにびっくりしてさけんだとき、背中と腰のあたりにとつぜん、ちくちくちくっとなにか小さな針がたくさんつき刺さるような痛みがはしった。「いたっ!」思わず悲鳴をあげる。

 箒が大急ぎでぎゅんっとその場から離れてくれたのでちくちく痛みはすぐになくなったけれど、顔をしかめて背中や腰をさすっても、とくになにもつきささってはいなかった。なんだ?

「うわっ」またユエホワがさけんで体をまるめた。「いててて」

「ユエホワ!」私は反射的にキャビッチをかまえたけど、何に向けて投げればいいのか? ユエホワに?

 一瞬そう思って迷ったが、よく見るとユエホワのまわりにさっきアポピス類から投げつけられたきらきらの粒のかたまりがただよっているのがわかった。

 ヘビの子どもたちだ。

「エアリイ」私はまた短縮形でさけび、なるべくユエホワに直撃しないあたりをねらって投げこんだ。

「あたたたた」それでもやっぱり、分裂したキャビッチのいくつかはユエホワにあたってしまったけど、きらきらのヘビの子どもたちはちりぢりに飛んでいった。

 まてよ。

 さっきの私の背中のちくちく痛みももしかして、このヘビの子どもたちのしわざだったのか?

 まさかヘビの子どもたちがこぞって私の背中にかみついたとか?

「いーっ」私はぞっと身ぶるいした。

「こいつだ」ユエホワがにぎりこんだ手を私の方にのばしてみせる。

「なに?」私は箒を近づけて、ユエホワの手ににぎられているものを見た。

 それは、ユエホワの手から頭の先っぽと尻尾の先っぽの一センチずつしかのぞいていなかったが、たしかに小さいヘビの形をしていて、しかも色が頭もしっぽも金色だった。

「金色のヘビだ」私はびっくりした。

 でもどこかで見たことがある、と思った。

「はなせー」ユエホワの手の中でその小さなヘビはわめいた。「てめーらやっつけてやるー」子どもなのでそれは小さくてかん高い声だった。

「うるせえつぶすぞ」ユエホワがすごむとヘビの子どもはだまりこんだ。「お前らなんでキャビッチなんか持ってるんだ」

「えっ、キャビッチ?」私は目をまるくした。

「てめーらかってにはたけつくったー」ヘビの子どもはかん高い声でさけんだ。

「地母神界のやつか」ユエホワが私を見ていう。「あの畑、めちゃくちゃにあらされてたよな」

「あっ」私は急に思い出した。

 フュロワ神がキャビッチを植える前、畑の土をつくっていたときに、地下にあったアポピス類の巣をまきこんでしまったといっていたのだ。

 そしてそのあと、土の下から、卵からかえったヘビの――つまりアポピス類の子どもたちが飛び出してきて、てんでに逃げて行ってしまったんだっけ。

「じゃあそのヘビ、あのときにげてったアポピス類の子どもなのかな」私はユエホワの手を指さした。「でもなんでキャビッチ持ってるの?」

「やっつけてやるー」ヘビの子どもはそういったかと思うと、いきなり口から小さなキャビッチをぽん、とはき出した。

 ほんの1センチあるかないかぐらいの大きさのものだ。

 それはまっすぐ私に向かって飛んできたが、箒がひょいっとかわすと、私がいたあたりでふっと消えた。

「え、さっきのあのちくちく痛かったのって、これがぶつかってきてたの?」私はまたきいた。

「たぶんな」ユエホワがかわりに答える。

「うえー」私は思いきり顔をしかめた。「きたなーい」

「てめーらやっつけてやるー」

「お前そればっかりだな」ユエホワが手を見て言う。「誰にそんな言葉おそわったんだ?」

 アポピス類の子どもはなにもこたえなかった。それ以外のことばをしらないのかもしれない。

「って、あれ」ふいにユエホワが顔を前に向けた。「あいつら、どこ行った?」

「え」私も前を見た。

 ほんとだ、アポピス類の五人の姿が消えてしまった。

 と思ったら、なにもないところからまた突然きらきら光るかたまりが投げつけられてきたのだ。

「うわっ」私とユエホワはすんでのところでそれをかわした。

 が、ちくちくちくっとまた、こんどは右腕に痛みがはしった。「いたたた」私もユエホワも身をよじる。

「あいつら、また消えたのか」ユエホワが顔をしかめながらいう。「ポピー、キャビッチと薬と両方くれ」

「うん」私はユエホワにそれを急いでわたした。

「ピトゥイ」ユエホワも大急ぎで唱える。

 たちまち五人のアポピス類が現れ出る。

「くそっ」

「隠せ!」アポピス類たちがどなる。

 ちかちかちか、と彼らの姿が点滅するように、ところどころ消えたり見えたりしはじめる。

「早くしろ」アポピス類がまたどなる。



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83

「キャビッチ」ユエホワが私の方に手をのばしてさけぶ。

 私は大急ぎで渡す。

 それを受けとると同時に薬をかけつつ「ピトゥイ」とユエホワがさけび、

「エアリイ」私もさけんで投げる。

 私のキャビッチは子どものにぎりこぶしぐらいの大きさで何十個かに分散し、また姿をあらわしたアポピス類たちに、つぎつぎにぶつかっていった。

 けれどアポピス類の盾に当たって消えるものが大半で、ダメージにはつながらなかった。

 そうかと思うとまたアポピス類はついたり消えたりしはじめ、さらにきらきらした金色のアポピス類の子どもたちが小さなキャビッチを口から飛ばして私たちにちくちくと攻撃してくる。

「おい、光使い」ユエホワが大きな声で呼びかけた。「もういいかげん、そいつらの命令にしたがうのはやめろ」

「そうだよ」私もあとにつづく。「どうしてそんなやつらのいいなりになるの。やめようよ」

「お前らの仲間のほとんどはもう、菜園界に帰ってきてるぞ」ユエホワもさらにつづける。

 ちかちかとついたり消えたりしていたアポピス類たちの姿がふいに、半分見えて半分消えている状態でとまった。

 顔が半分消えているものもいれば、腕と足が一本ずつ消えているものもいれば、首から上と腰から下だけが見えてお腹のところが消えているものもいる。

「おい」

「なにをしている」

「はやく消せ」アポピス類たちはあせったようにどなった。

 

「ここの世界、光が弱いからやりにくいよ」

 

 小さな声が聞こえた。

 私とユエホワははっとしたけれど、声の主の姿は見えなかった――それはつまり、小さな妖精の声だということだ。

 光使いの。

「そうだよ、やりにくいよ」

「めんどくさいよ」

「もうつかれたよ」

「帰りたい」

「うん、帰りたい」

「もうやめようよ」つぎつぎに、小さな声が聞こえてきた。

「きさまら、さからうとどうなるかわかってるのか」

「痛い目にあいたいのか」アポピス類たちが怒ってさけぶ。

「させない」私はさけんで、キャビッチを投げた。

 どなることに気をとられていたアポピス類の一人の顔の見えている部分に命中し、そいつは悲鳴をあげることもできないままふっとんでいった――ふっとんでいきながら、そいつの見えていない部分がつぎつぎに姿をあらわしはじめたので、光使いが彼の体から離れたのだろうことがわかった。

「ああ、そうだ」ユエホワが大きくうなずく。「もう地母神界にも立派で邪悪な裁きの陣ってもんがつくられてる。そいつらがなにをしようとも、もう妖精たちを苦しめたりなんかできっこないんだ。だからもう、そいつらにしたがう必要はない」

「ほんと?」だれかが小さな声でいう。

「本当に?」

「わあい」

「じゃあやめよう」妖精たちはつぎつぎにアポピス類から離れ、ついにやつらの姿は完全な状態でまる見えになった。

「よし」ユエホワがそういったとき、私はすでにキャビッチを巨大化させていた。ユエホワがそれにすかさず薬をふりかける。

「エアリイ」さけぶ。

 ごごん、と大きな音がひびき、直径二メートルほどの巨大化キャビッチが五個あらわれた。

「うわあ」

「すごーい」

「でっかーい」妖精たちの小さな歓声が聞こえてくる。

「でかいのはいいけど」ユエホワが文句をいいながら巨大化キャビッチのひとつをおもいきりけとばす。「投げられんのかって話だよっ」

 そのキャビッチはアポピス類に向かって飛んでいったがすばやくよけられ、しかもユエホワの方もけった足をかかえこんで痛そうな顔をしていた。

「うー」私はなにも言い返せないまま、大急ぎでかんがえ、祖母がやった方法のまねをすることにした。「ツィックル!」さけびながら箒の柄のさきをキャビッチに向け、猛突進する。

「あっ、ばか」ユエホワがびっくりしてさけぶ。

 私も、猛突進しはじめた後で、そんなことしたら、がいんっとはじきとばされてこっちがダメージを受けるのではないか、ということに気づいた。

 けど、そうはならなかった。

 ツィックル箒はキャビッチに直接当たらず、なにかふわっとした見えないクッションがそこにあるかのようにやわらかく止まった。

 そのかわり、目の前の巨大化キャビッチがごうっ、と、猛烈ないきおいで飛んでいったのだ。

 それはわずかにスピンしながらアポピス類をねらい、そいつがあわててかざした盾にはげしくぶつかり、盾もろともそいつをふっ飛ばした。

「ツィッカマハドゥルか」ユエホワが声をかすらせて言う。「さすが」言ってから手に持つ瓶を見おろす。「シルクイザシ、すげえな」

「くそっ」あと三人となったアポピス類は、くやしそうにさけんだ。「まだか」

「ん?」私とユエホワはふと止まった。「まだか?」

「はやく成長しろ」またアポピス類がどなる。

「だれにいってんの?」私はユエホワにきき、

「さあ……あ」ユエホワは首をかしげたあと目をまるくした。「子どもか」

「えっ」私がアポピス類たちに目をもどすと、やつらはきらきらしたかたまりをまさにこちらへ向けて投げつけてくるところだった。

 そのかたまりの中にいるのは、小さな赤ちゃんのヘビではなかった。

 大人の胴体ぐらいの太さのヘビが、何匹かからまりあってかたまりになっていたのだ。

「うわっ」私がさけぶのと、箒がぎゅんっとよけてくれるのとが同時だった。

 ほっと息をつくひまもなく、箒がふたたびぎゅんっと移動する。

 と同時に、左のひじにごつんっとなにかがぶつかった。

「あいたっ」私は悲鳴をあげた。

 ひじを見ると、家の壁にぶつけてしまったときのように赤くすりむけていて、ひりひりと痛んだ。

 さらにキャビッチがぎゅんっと移動する。

 今度は右の耳のすぐ近くを、ぶんっと音を立ててなにかが猛スピードで飛び去っていった。耳がじん、とあつくなる。「うわ」思わず声をあげる。

 その後もツィックルは何度かよけつづけてくれて、そのたび私の体のすぐ近くをなにかが――いや、それはキャビッチだ――飛び過ぎていった。

「成長してる」ユエホワも必死で飛んでくるキャビッチをよけながら言う。「さっきの小さいヘビたちが」

「えっ」私はあらためて金色のかたまりを見た。「成長したの?」

「てめーらやっつけてやるー」かたまりの中から成長したヘビたちがさけぶ。その声はもうかん高くはなく、ユエホワや魔法大生たちと同じくらいの男の人の声に聞こえた。

「でも言うことは同じなんだな」ユエホワがつぶやく。

 そのとき、成長したアポピス類がかぱっと大きく口をひらき、その中から直径十センチほどのキャビッチがぽんっと飛び出してきた。

「うわ」私がおどろくのと同時に箒がよけてくれた。「キャビッチも成長してるの?」

「みたいだなってーっ」ユエホワが答えると同時に背中にキャビッチをくらってのけぞった。「くっそーシルキワスかよっ」

 もちろんアポピス類がシルキワスを使うはずもなく、ただ成長したヘビたちがあちこちからつぎつぎに、キャビッチを飛ばしてくるだけだ。

「もっとだ」マント姿のアポピス類がさけぶ。「もっと成長しろ」

「えーっ」私は眉をしかめた。「まだ大きくなるの?」

 けれどそうではないようだった。

 ヘビの子どもたち――もと子どもたち、か――は、大きくなるのではなく、なんと一匹また一匹と、人間の姿に変わっていったのだ。

 金色のまま。

 といっても、やっぱりちょっと黒みがかった金色だけど。

「よし」マント姿がさけぶ。「キャビッチを投げろ」

「えっ」おどろいて見ると、なんと人間化したもと子どもたちは全員、その両手に何個ものキャビッチを持っていたのだ。

「くっそ」ユエホワが深刻な顔であたりを見まわす。「八方塞がりかよ」

 私たちは、たくさんのキャビッチに囲まれていた。

 それも、自分が投げる側としてではなく、キャビッチをくらう“標的”として。

「まじで?」それは当然ながら、私にとってははじめてのことだった。



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84

 私はいっきに全身に汗をかいた。

 たぶんユエホワもそうだ。

 どうする!?

 ツィックル箒はかならずすばやくよけてくれるだろうけれど、でも万一、よけきれなかったら?

 なにしろ、まわり中アポピス類だらけだ。

 同時にあっちこっちから投げられたら――

 あれ?

 人間に化けたアポピス類の元子どもたちは、投げてこようとしなかった。

 全員、手に持つキャビッチをじっと見ている。

 左右の手を、かわりばんこに。

 なにをしているんだろう?

「なにをしている」私が思うのとおなじことを、マントのアポピス類がどなった。

「なげるって、なに?」元子どもの一人が言った。

「どうやればいいの」

「うーん」みんなで首をかしげる。

「ぜったい教えるなよ」ユエホワが低い声で私にいう。

「うん」もちろんそんなことするわけがない。

「おれたち、くちからぽーんってだしてたからさー」元子どもの一人が言う。「くちにいれたらいいんじゃないのー」

「おー」

「さすがー」

「あたまいいー」

 そして元子どもたち全員が、キャビッチを口に運びはじめた。

 けれど成長したキャビッチは、人間化した元子どもたちの口には大きすぎてはいらず、みんなかりかり、しゃくしゃく、と、キャビッチをかじりはじめるしかなかった。

「あれー」

「くちにはいらなーい」

「でもおいしいねー」

「うーん」

「おいしー」

 そして全員、へへへー、とうれしそうに笑った。

「よし、お前らそれ食ってろ」ユエホワがひょいっとアポピス類たちの頭上を飛び越していったので、私も箒でついていった。

「この、役立たずどもが」マントのアポピス類はかんかんに怒っている。

「だからー」ユエホワは言いながら、まだ空中にただよったまま残っている二メートルの巨大化キャビッチを両手で押し投げた。「鬼魔に頭使えってのが無理だっての」

 自分も鬼魔のくせに、と思ったけど今は言わずにおいて、私も箒の柄の先でキャビッチにツィッカマハドゥル(たぶん)をかけ投げた。

 けれどどちらも、ぎりぎりのところでよけられてしまったのだ。

 やっぱり、大きすぎるのはあまりよくないのかも知れない。

 使い勝手が悪いもんね。

 それよりは、手ごろな大きさで数多く分散させたほうがいいのかも。

 エアリイで、あまり小さくならないよう、できるだけ元の大きさのままキャビッチを分散させられれば。

 そう心の中で考えながら、私は「エアリイ、セプト、ザウル」とていねいに唱えた。

 ぼん、と音がして、こんどは元の大きさの三分の二ぐらいの大きさのものが十なん個かに分散した。

「うーん」私は思わず首をひねった。「やっぱり小さくなるなあ」

「じゅうぶんだろ」ユエホワがうなずきながら、私の心の中を読んだかのようなことを言う。「シルキワス行け」

 私はいちばん近くに浮かんでいる分散キャビッチをつかみ「シルキワス」と唱え投げた。

 キャビッチは、ふっと消えた。

 けれどその瞬間、私はなにか違和感をおぼえた。

 なんというのだろう――そう、自分が予測したのより、キャビッチの消えるタイミングが早かったような、気がした。

 その次の瞬間、私は背中のどまんなかに、ものすごい衝撃を感じた。

「うわあっ」思わず悲鳴をあげた。

 それは、私が投げたキャビッチだった。

「光使いか」ユエホワがさけぶ。

 シルキワスがなにか操作されて、相手のではなく私の背後から出現し、私を直撃したのだ。

 それにしても、痛い!

 息がすいこめない。

 私は顔中をぎゅうっとしかめて前かがみになった。

「ううう」のどの奥から、うめき声が勝手に出る。

 苦しい!

「だいじょうぶか」すぐ近くでユエホワの声がした。

 顔をしかめたまま見上げると、ムートゥー類は大きな金色の翼を広げて、私を囲んでいた。

 私は声も出せず、首をふるのが精いっぱいだった。

「キャビッチ食え」ユエホワは敵の方を振り向きながら言った。「しばらくこうしててやるから」

「うう」私は言われるままキャビッチをとりだし、葉っぱをちぎって大急ぎで口に運んだ。

 たちまち息が楽になり、私は大きく深呼吸した。

「俺らの気持ちが少しはわかっただろ」ユエホワは半べその私をちらりと見下ろして言った。「いっつもそれ、喰らってんだ」

「……」私は何も答えられず、もそもそとキャビッチの葉を食べつづけた。

 ユエホワの翼の中はあたたかく、キャビッチは甘い味で、なんだか今敵とたたかっている最中なのだというのがうそのようだった。

 私はふんわりと、ここちよい空間の中にいた。

「光使い……じゃないみたいだな」ユエホワがぶつぶつと言う。「盾か……あいつらの盾からなんか光が出てくるようだった……あれでシルキワスを阻害したのか」

「ユエホワ、きさまなぜ人間を守る?」アポピス類が叫ぶ。「人間の仲間になったのか」

「鬼魔を裏切るつもりか」別のアポピス類も叫ぶ。

「はあ?」ユエホワは私を囲んだまま振り向き、あきれたような声で答えた。「裏切る? 鬼魔を? お前ら、どのつら下げてそんなこと言ってんの?」

 そのとき、どん、とにぶい音がして、ユエホワの体が強く揺れた。

「あつうっ……くっ……」

 見上げると、かなり痛そうに歯をくいしばり顔をしかめている。

「だいじょうぶ?」私はキャビッチを食べながらきいた。

「いや死にそう」ユエホワはしぼりだすような声で即答した。

「キャビッチ食べる?」私はポケットの中からキャビッチを取り出しながらきいた。

「うん」ユエホワはうなずいてから「あーん」と口をあけた。

「は?」私は眉をひそめた。「自分で食べなよ」

「いや、あのね」ユエホワは目をほそめて言い返してきた。「今俺は、両手をつかってあなたを守ってるからね。なに、食べさせてもらうこともできないの」

「えー」私は眉をひそめたまま、取り出したキャビッチを持ち上げた。

「そんなでかいの口に入るかよ。そっちでいい」ユエホワは、それまで私がちぎっては食べていた方のキャビッチをあごで示した。

「えーっ、これあたしの食べかけじゃん」私はケンオカンをこめて拒否した。

「じかにかじってたわけじゃないから大丈夫だよ。ほら早く」緑髪は催促してもういちど口をあけた。

 私が眉をしかめたまま、残りのキャビッチをその口もとにもっていったとき、ユエホワは「リューイとかかけんなよ」と口早に注意した。

 私はだまってユエホワにキャビッチを食べさせ、そのあと「リューイ」わざと誦呪してやった。

「やめろよ」ユエホワは横を向いてもごもごと食べながら文句をたれた。

 私は新しく出した方のキャビッチの葉をちぎりかけたが、手を止めた。それは、ヨンベが渡してくれたキャビッチだったのだ。

「うーっ、やっぱすげえなキャビッチ!」ユエホワは目をぎゅっとつむって感動の声をあげた。「すーっと痛みが消えた」

「うん」私はうなずいた。「あたしももう大丈夫」

「よし」ユエホワは翼をおさめて、すばやく私の持つヨンベのキャビッチに薬をかけ、くるりと敵たちの方に振り向いた。「これでもう一回やってみろ」

「わかった」うなずきながら、私はなんだかわくわくしていた。

 ヨンベのキャビッチに、ヨンベのおじさんの薬をかけて投げる。

 どんなふうになるんだろう?

 ただひとつ惜しいのは、これを二人の目の前で投げてあげられないということだ。

 こんなに離れた場所――なにしろ鬼魔界だ――で、二人のまったく知らないところでこれを投げるのは、すこしだけ申しわけない気がする。

 でも。

 ヨンベから渡されたキャビッチを、てのひらのまんなかに乗せる。

「シルキワス」私は呪文を唱えた――心を込めて、キャビッチに呼びかけた。「トールディク、ヒューラゥ、ヴェルモス」キャビッチが、それを持つ手が、そして体がどんどんあつくなる。

 キャビッチからの答えを受けた私の体が、聖なる光を放ちはじめているのがわかる。そしてキャビッチも、朝一番に輝くお日様のように、黄金色に輝きだした。

「ヴィツ、クァンデロムス」叫ぶ。

 

 私の手の上のキャビッチがその瞬間、音もなく消えた。



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85

「うしろにつけ」マントのアポピス類は落ち着いた声で言った。「どこからとんできてもいいように」

「おう」別のマントのアポピス類がうなずく。「まかせとけ。はじきとばしてやる」

 私は消えたキャビッチをそのまま手のひらの中でにぎりこみ、その手をうしろに回し、箒ごと体をしずめながらサイドスローで投げた。

「くるぞ」アポピス類がさけぶ。

 そのうしろのアポピス類がうしろ向きに盾をかまえる。

 けれどキャビッチは、前からもうしろからもこなかった。

 私の投げたキャビッチは、うしろにいたアポピス類のかまえた盾の中、そいつのすぐ目の前から“きた”のだ。

 

 ごつっ

 

 くぐもった音がした。

 そのアポピス類は何もいわず、盾をかまえたまま下に落ちていき、がしゃんっと地面の上に盾を取り落としてたおれた。

「よしっ」ユエホワがこぶしを握りしめる。

「なにっ」もう一人のアポピス類が驚いてうしろをふり向いたとき、私の投げたキャビッチは引きつづきその顔面をも直撃したらしく、またごつっ、と音がして、そいつも地面に落ちてたおれこんだ。

「うわ」ユエホワが目をまるくする。「二人攻めかよ」

「なにそれ?」私は顔を横に向けてきいた。

「いや」ユエホワは私を見た。「お前のばあちゃんもやってただろ、七人攻め」

「そうだっけ」私は上を見上げた。地母神界でやってたやつ?

「くるぞ」ユエホワはまたさけんだ。

「わっ」私は大急ぎで次のキャビッチをとり出した。

 箒がぎゅんっと動き、私のいたところにキャビッチが飛んできた。

 あまりスピードは速くないけれど、箒がよけてくれなかったら確実にくらっていた。

「こうやってなげるんだー」元子どものアポピス類の声がした。

 見ると彼らは、私のスローのまねをして、キャビッチを持った手を背中のうしろに回し、ぎこちないけれどサイドスローで、投げてきていた。

 私たちに向かって。

「こうかー」

「むずかしー」

「えーい」

「あいたー」けれど彼らはまだなれていないので、私たちに当たるよりも味方同士でぶつけ合ってしまう方が多かった。

「こいつらの体」ユエホワがつぶやく。「どれだけキャビッチを中に持ってんだ?」

「ああ」私もそのときはじめて気づいた。本当だ。

 まさか、無限にキャビッチを取り出せる体なのかな?

 あのフュロワ神の力を受けたために、半分アポピス類で半分畑、みたいな体になったんだろうか?

 体の色も、金色だし。

「おい、お前ら」ユエホワが呼びかける。「地母神界に帰って、悪いやつをつかまえる仕事しろよ」

「えー」元子どもたちは全員、キャビッチスローをやめてユエホワの方を見た。「なにそれー」

「あっ、いい考え!」私は思わず手をぽんっとたたいた。「そうだよ。悪さしてるやつにキャビッチ投げてつかまえて、裁きの陣につれてくんだよ」

「そうそう。みんなからほめられるし、感謝されるし、英雄になれるぞ」ユエホワがうなずく。

「かっこいいっていわれるよ」私もつけたす。「ファンとかできるかもよ」

「ほんとー?」元子どもたちは全員、笑顔になった。

「よし、じゃあこれから全員、地母神界の聖堂に行って、ラギリス神にそう報告するんだ。あとキャビッチスローの練習もしとけよ」

「はーい」

「わかったー」

「すげー」

「かっこいいってー」

「いひひー」元子どもたちはすごく素直に(ユエホワの赤い目はどこか半分あきれたように彼らを見ていたけれど)、全員その場をはなれていった。

「ふう」ユエホワが大きく息をつく。「これでなんとか片づ――」

 

「ゼアム」

 

 そのとき、どこからかアポピス類のさけび声がした。

 私たちははっと顔を上げ、私は反射的にキャビッチを構えた。

「ディガム」続けてさけぶ声がする。

「くっ」ユエホワがかたまる。

 あと一人、残っていたんだ。

 私はすばやくまわりを見回すが、どこにもその姿は見えない。

 また光使いたちが協力しているのか?

 私はキャビッチを上に持ち上げる。

 私の体は動く。

 ディガムとやらが効いているのはユエホワだけだ。

 でも、私にピトゥイを使えるのか?

 それにさっき、ゼアムという声もした。あれは、魔法を使えなくするやつだ。

 私は今、魔法を封じられているのか?

 闘えるのか?

 投げてみればわかるのか――でもどこに向けて?

 なぜか私の目は、かたまって苦しそうな顔をしているユエホワを見た。

 そのとき、ぎゅんっと箒がすばやく動いた。

 私のいたところには、何も飛んできていない。アポピス類の魔力攻撃だろう。

 また、ぎゅんっと動く。

「くそっ」アポピス類のくやしがる声。

 あ。

 私はツィックル箒を見下ろした。

 これ――そうだ。

 あたかも箒が自分の意志で移動しているように、つい思ってしまいがちだけれど。

 いや、それはたしかにそうなんだけど。

 箒は、自分の“力”では、動けない。飛べない。

 私の魔力をエネルギーにして飛ぶのだ。

 つまり今、ぎゅんっと動けるということは――私の魔法は、封じられていない。

「おお」私は父のように感動の声をあげた。

 思わずユエホワを見る。

 あいかわらずかたまって苦しそうにしているけれど、その目がわずかに、私になにかをしろと言いたそうにしているのがわかった。

 でも彼は動けない。

 動けるようにしてやるには――ピトゥイだ。

 薬はユエホワが持っている。

 ぎゅんっと箒がまたよける。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。

 そうだ投げよう。

 私はぐるりと大きく、ユエホワの回りを飛びながらそう思った。

 やりやすいやり方で。

 得意なやり方で。

 これだ!

「ピトゥイ」叫びながら、ユエホワの背中に向かって投げる。

 私の手からはなれた瞬間、キャビッチは消えた。

「おお」直後にユエホワも、私の父のように感動の声をあげた。「効いた」自分の手を持ち上げて見ながら言い、私の方にふりむく。「どうやったんだ?」

「投げた」私は正直に答えた。

 ユエホワは息をのんで目をみひらいた。「いーっ、いや、マハドゥかけてくれ」急いで私に手まねきをして言う。

「マハドゥーラファドゥー」私は大急ぎでさけびながらキャビッチを取り出す。

「ディガム」アポピス類の声もする。

「クァスキルヌゥヤ」負けずに完唱する。

「ようし」ユエホワの声がする。ということは、ディガムははじかれたんだ。

 あとはアポピス類の姿を見えるようにすればいい。

「キャビッチくれ」ユエホワがさけぶ。

 投げてわたすとすばやく薬をかける。「これで最後だ」たしかにそのひと振りで、おじさんの瓶はからっぽになった。「ピトゥイ」さけぶ。

「リューイ」私もさけぶ。一人だけなら、やっぱりこっちだ。一メートル。

 アポピス類は私からみて右うしろの方に姿をあらわした。

 ふりむいて構えなおしていては間に合わない。

「ツィックル」私はさけぶと箒の上に立ち上がり、そこからぴょんっと上に飛び上がった。

 私の箒はたちまちぐるぐるぐるっと回転しはじめ、ばしっと巨大化キャビッチをたたきとばし、それは猛烈ないきおいでアポピス類をふっ飛ばした。

 私はもちろん地面に向けて落ちていったけど、なにも心配していなかった。

 だって。

 ふわっ、とやわらかい感触に包まれる。

「あっぶね」ユエホワが、金色の翼で私を受け止めてくれていた。「けど、さっすが」

「あれ?」私は目をまるくした。「ユエホワ?」

「なに」

「いや、てっきり箒が」そこまで言ったとき、

「うわーっ」と言いながらユエホワが遠くへふっ飛ばされた。

 私は再び落ちていきそうになったけど、こんどはツィックル箒が私をきちんと受け止めてくれた。

「ありがとう」お礼を言う。

「ひでえなその箒っ」ユエホワが遠くから文句をいう。「なんで俺まで攻撃すんだよっ」

 そう、私の箒は、ムートゥー類鬼魔が私をつかまえたんだと判断して、急降下してきてそいつ(つまりユエホワ)を排除してくれたわけだ。

 まあ私も下に落ちながら、箒がすぐに私を受け止めに来てくれると思っていた――まさか鬼魔に助けられるとは思っていなかった。

「ごめん」私はとりあえずユエホワにあやまった。「ありがと」お礼も。

 ムートゥー類は眉をひょいっと上げただけで、とくになにも言わなかった。



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86(了)

 その後、たおれたマントのアポピス類たちは、オルネット類たちの助けを借りてしばりあげ、地母神界へ引き連れていくことになった。

 その前に、私は菜園界まで送ってもらい、やっと帰れたのだった。

 菜園界はもう、お昼になっていた。

 世界壁を抜けたとたん、母からのツィックル便がひらひらと舞い落ちてきた。

「ポピー、おはよう。どこか冒険しに行ってるの?」

 届いた時間は……なんと……ほんの一時間前だった。ねぼすけさんだなあ。

 私はすぐに返事をした。

「うん、ちょっと冒険してた。おはよう」

 するとまた母からすぐに返事が来る。

「おばあちゃんの家に寄ってみてくれる? ドレスが出来たそうよ!」

「ほんと?」私は、今までの大変な“冒険”のことをすっかり忘れて踊りあがった。「うん、行ってくる!」

「じゃあ、ついでにお昼もおばあちゃん家で食べて来てね」母はちゃっかりそうつけたして、話は終わった。

 

     ◇◆◇

 

 祖母の家でランチをいただきながら、私と祖母とハピアンフェルは、地母神界のことやアポピス類のことを話した。

 私は「ユエホワから伝え聞いた話」として、鬼魔界に来ていたマントのアポピス類たち――地母神界から逃げ去ったやつら――を、ユエホワと「オルネット類たちが」協力してやっつけて、ラギリス神の裁きの陣まで引っ立てていったらしい、と報告した。

「まあ。素晴らしいわ」と祖母が言い、

「これでもう、安心ね。よかったわ」とハピアンフェルが安心して、私たちは笑った。

 ばれなくてよかった。

 まあ、ユエホワがわざわざここに来て本当のことをばらすはずないしね。

 ましてや他の鬼魔たちなんて、ここに来るだけで家にはじきとばされちゃうんだから。

 そして食後。

 私はついに、祖母お手製のドレスを身にまとうことになった!

 さらさらした肌ざわりで、軽くて動きやすい。

 うごくときらきらと輝くようで、胸元とすそに入れてもらった草花の刺繍も、とっても可愛い。

「すてき!」私はくるくると何度も回りながら、何度もそう言った。

「よろこんでくれて、よかったわ」祖母も目を細めてにこにこする。「夜なべしたかいがあった」

「ありがとう、おばあちゃん」私はもういちどくるっと回り、最高の笑顔でお礼を言った。

「本当にすてきよ、ポピーメリア」ハピアンフェルも、私のまわりをくるくると飛びながらそう言ってくれる。「お姫さまみたいだわ」

 

 そんな喜びの中、私はそのドレスを着たまま家に帰ることにした。

 ハピアンフェルも、森の木々のようすを見るため、とちゅうまでいっしょに来てくれることになった。

 私は森の道を歩きながらも、ときどき木陰の下でくるりと回ってみたりした。

 するするっ、と、ドレスはそのたびにしなやかな音を立てて揺れる。

 それがとっても気持ちいい。

 

「それ、ばあちゃんがいっしょうけんめい作ってたやつ?」

 

 ふいに頭の上から、そんな声が聞こえてきた。

 見上げると、緑の髪のムートゥー類だ。

 木の枝から飛び降りてきて、私のドレスをまじまじと見ている。

 地母神界から、もう帰って来たんだな。

「うん、そう」私は右や左に体をひねって見せてやった。「すてきでしょ」

「ふーん」ユエホワは目を細めて少しのあいだ見ていたが「けどそんなの着て鬼魔と闘えるのか?」ときく。「それ着てるときに鬼魔と遭遇したとして、キャビッチ投げられる?」

「闘えるわけないでしょ、なにいってんの」とは、もちろん答えない。

 だってこの生地を選んだ人も、これを作った人も、そしてこれを着ている私も全員、キャビッチスロワーだから。

「うん」私はふつうにうなずいた。「おばあちゃんが、ちゃんと投げやすいようにって、そで口とかわきのへんとか、背中のとことかギャザーでよゆうもたせてるっていってたよ。それに」私はドレスのわきにつけられているポケット口を手でひっぱった。「キャビッチも、十個ぐらい入るポケットをふたつつけてくれたって」

「まじかよ」ユエホワは片眉をしかめて半歩しりぞいた。「戦闘服だな」

 そんなことを話しながら、私とハピアンフェルとユエホワはのんびり森の中を進んでいった。

「ねえポピー」ふいにハピアンフェルが私に言った。「あなたはいつか、ガーベランティやフリージアを越えるほどの偉大なキャビッチ使いになるでしょう」

「え」私は少し肩をすくめた。「ありがとう」

「そしてその時、もしもあなたが自分を育ててくれた大人たちに、何か恩返しをしたい、お礼をしたいと思う日が来たら、ぜひして欲しいことがあるの」ハピアはふわふわと空中をただよいながら言う。

「ほんと? なに?」私はきいた。

「元気に明るく、前向きに生きること」ハピアンフェルはそう答えた。「それだけよ」

「え」私は目を丸くした。「でもそれって」

「いちばんの恩返しよ」ハピアンフェルはふわふわとまたたきながら言った。「大人たちがいちばん嬉しくて、喜ぶこと」

「――うん」私はうなずいた。「わかった」

「けど、わかりにくいかもな」ユエホワが口をはさむ。「それが恩返しだなんてこと……大人には」

「そうね」ハピアンフェルは上下に飛びながら、くすくす笑う。「大人は、あれこれ考えるのに忙しいからね」

「ぷっ」私は吹き出した。

「あははは」ユエホワも笑った。

「うふふふ」ハピアンフェルも笑った。

 私たちは三人で――人間と鬼魔と妖精の三人で、笑いあった。

 

 もうすぐ森を抜けるところで、ハピアンフェルとはお別れした。

「それじゃあ、またね。ポピーメリア、ユエホワス」ハピアンフェルは最後まで、緑髪鬼魔を“少しでもながい名前”で呼んでいた。

「んじゃ俺も行くわ。またな」ユエホワが草原の方へ向かって行きながら言った。

「パパに会っていかないの?」なんとなくそうきいてみる。

「別に」ユエホワは顔を半分だけこっちに振り向けて言う。「用事もないし。親父さんも忙しいだろ」

「そうかな」私はあまり父が“仕事をしている”姿を見たことがないのだ。ヨンベのおじさんみたいに何か実験するわけでもないし。

「まあ今日は、可愛い娘の新しいドレス姿を堪能したいだろ。俺は遠慮しとくよ」ユエホワはそう言いながらなぜか肩をゆすって笑う。

「でもパパはさ」私はちょっとむっつりしながら言ってやった。「ユエホワみたいな息子が欲しかったんでしょ。あたしのドレスよりも、ユエホワと話す方がいいんじゃないの」

 ユエホワは立ち止まり、くるりと振り向いて、はあ、とため息をついた。「お前、気づいてなかったの」きき返してくる。

「何が?」私もきき返す。

「お前の親父」ユエホワは目を細めて私を見た。「最初からずっと、俺と話すときにはいつも、自分から二メートル以内に必ずキャビッチを置いてたんだぜ」

「えっ」私は目をまるくした。「キャビッチを? どうして――」ききかけて、はっと気づく。

「そう」ユエホワは、私が何に気づいたかわかっているようにうなずいた。「いつでも、魔法――たぶん親父さん得意のマハドゥだろうな、発動できるように、ね」

「どうして」私は、ふたたびきいた。

「二メートル以内ってのが親父さんの、許動範囲なんだろうな」

「キョドウハンイ、って?」

「離れたところにあるキャビッチに、魔法を発動させられる限界距離のことだよ」

「――」私はまばたきも忘れて、ユエホワの赤い目を見た。

「お前のばあちゃんなんか、いわずもがなだよな」ユエホワは腕組みしながら首をふった。「いったい許動範囲何メートル……いや、何キロあるんだか」

「え」私はさらに目を見ひらいた。「おばあちゃんも?」

「はは」ユエホワは眉をしかめて笑った。

「――いつでも、攻撃できるように? ユエホワに? だって」私はジャッカン混乱した。「パパも、おばあちゃんも、ユエホワのこと」

「俺にはいつも、二人の心の声がきこえてたぞ」ユエホワはまた、ふ、とみじかくため息をついた。

「心の声?」きく。

「ああ。『ユエホワ、下手に動かないほうが、お前の身のためだぞ』ってな」

「――」私はもう、言葉もなく緑髪をただ見ていた。

「まあけど、今のところは、だな」ユエホワは手をおろし、胸をはって宣言した。「俺もまだまだ力をつけていくから、いつかは対等に闘えるようになる」

「――」

「覚悟しとけよ」くるりと背を向けながら、ユエホワの赤い目が私を横目で見てにやりと笑った。

「負けない」私もまっすぐに見返して、宣言し返した。

「んじゃ」ユエホワは片手をあげて言った後、歩き出した。

「あ、うん」私はその背中を見送りながらうなずいた。しばらく見送ったけれど、やっぱり声をかける。「ねえ、またうちに、来る?」

 ユエホワはぴたりと立ち止まり、少しだけだまっていたが肩越しに少しだけ振り向いて「ま、気が向いたらな」と答えた。

「うん」私はその答え方が照れかくしのように思えたので少し笑った。

「また明日ね」ユエホワはふたたび歩き出しながら言った。「ポピーメリア」

「うん、またあし」私は答えかけてから「えっ?」と、きき返した。

「ぷっ」ユエホワは背を向けたまま歩きながらふき出した。

「――」私は口をとがらせたけど、まあ、いいか……と心の中で思った。

 それからユエホワは翼をばさりとはためかせ、空へと飛び上がり、すぐに小さく、見えなくなった。

 私も箒にまたがり、同じように空に飛び上がって、ユエホワとは反対の方へ――家のある方へ、向かった。

 明日また、あの緑髪鬼魔が人間界にやってきて悪さをしないように、注意しとかないといけないもんな。

 そして明日学校に行ったら、まずはヨンベに話さなきゃ。

 ヨンベのくれたキャビッチと、おじさんの渡してくれた魔法の薬が、どれほどすばらしいはたらきをしてくれたかを! ――地母神界で、ということにして。

 ああ、早く明日にならないかな。

 私は笑いながら、箒でぎゅんっと飛んでいった。

          了



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