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第一章 神殺し 英雄ロスタム編
故郷にさよならを


 ───家出しよう。

 

 中学二年、14歳の夏。木下祐一(きのしたゆういち)は決意した。

黒髪に濃い茶の瞳。14歳にしては高身長で、鋭い意志の強そうな眼をのぞけば、どこにでも居る様な風貌の少年だった。

 

 季節は七月真っ只中。

 来る日も来る日も天気予報は快晴を示し、最高気温も目を覆いたくなるほど。

 そんな「酷暑」と言ってもいい季節の事。

 とある山の頂上で故郷を見下ろしながら、木下祐一(きのしたゆういち)は──もう、ここには戻って来ない。そんな誓いを立てていた。

 

 なぜ彼がそんな結論に到ったのか、それは彼が通う学校での出来事が発端だった。

 

 彼、木下祐一はとある中学校に在席していた。

 祐一の住む県は日本でも最下位に近いくらいマイナーで田舎県の一つだ。彼の生まれ育った「梅竹町」も多少発展しているが、"町"を抜け出せないほどでしかなかった。

 そんな田舎町にその学校はあった。

 気風は「おおらかで自由」と言えば聞こえはいいが、クラスに数名は不良少年がいるのが実情で、好き放題に跳梁跋扈していた。教師もそんな不良達に有効な対策が打てず、小さな町では荒れた学校として有名だった。

 祐一はそこで可もなく不可もなく、普通の学生生活を送っていた。予測不可能な行動をとる幼馴染達に悩まされたりしながらも「ま、悪くないよな」と思える穏やかな日々を送っていた。

 

 けれどとある日、祐一の平穏を揺るがす事件が起きた。

 始まりはひとりの友達がいじめられ、危害を加えられた事から始まった。ある日突然、脚と手に包帯を巻いて松葉杖をついて登校して来たのだ。驚いた祐一だったが、友達は曖昧に笑うだけだった。

 ふざけんな!

 祐一は納得いかずいきり立ったまま情報通な幼馴染を問い詰めた。なにがあった、と。幼馴染はやはりその一件についても事情を把握していて、笑みを貼りつけながら祐一に説明した。

 前述でも述べた通り、この町は田舎だ。どれくらいに田舎かと言うと"中学生で携帯電話を持つ"だけで奇異の目で見られるくらいには田舎だった。クラスの不良達にはうっとしい物にみえて、内気だった友人が標的になるのはそう不思議でもなかった。

 

 簡単な話だ。

 家庭の事情で携帯を持ち始めた友人。そして不良達が目障りで内気だった少年に目をつけた。

 抵抗は出来なかった。

 そしていじめは、どんどんとエスカレートしていき……。

 

 ──ふざけやがって! 

 話を聞き終わった祐一は、掌の皮を破かんばかりに拳を握りしめていた。

 木下祐一と言う少年は身内贔屓な性格だった。友達や家族を執着すらおぼえる少年だった。

 故に一旦懐に入れると何より大事にして、良く気に掛けていた。それも、かなり"病ん"でるレベルで……。

 そんな彼だ。身内に手を出されて激昂するのも無理からぬ話だった。

 どうするのさ? とニヤニヤおもしろがる幼馴染みに無言のゲンコツをキメ、すぐにとある場所へ向け歩き去った。

 目的地は校舎裏。学校の不良達がいつもたむろっている場所だった。

 祐一はたむろっている不良達に、友達の事を聞いた。なぁ、俺の友達が手を出されたんだけど……なにか知ってるか? 

 返答は、肯定と嘲笑だった。同時に祐一の堪忍袋の緒も切れた。

 気付けば、不良達が積み重なった上にどっかと座り込んでいた。ただ、心に「後悔」の二文字は無かった。

 結局、警察沙汰となり祐一は事情聴取を受けたが頑なに口を開かず、普通なら少年院行きは免れない程だったが、初犯という事もあり事件は穏便な形でおさまった。

 

 問題はこのあと。学校に復帰したときだった。

 登校して来た祐一をあらゆる生徒、教師が恐怖の目で見て来たのだ。誰も目をあわせず遠巻きに見て、ヒソヒソと囁き合うだけ。自分を見ているようで見ていない目ばかりが突きささった。

 それらを無視してあのいじめられていた友達に声をかけた。──答えは拒絶だった。

 

 変化はそれだけでは収まらなかった。

 家族である父と母、弟ですら、祐一の凶行を聞くと、よそよそしい態度で理解できないものを見る目を向けて来たのだ。

 母は口うるさかったが、いつもこちらの事を思ってくれていた。

 父は母ほど口を開かず、放任的ではあったが見守ってくれていた。

 弟は喧嘩ばかりで、いつの間にか口も利かなくなったが気に掛けていた。

 普通の家族。祐一はそんな家族が嫌いではなかった。好きか? と聞かれれば躊躇無く否定してしまうだろうが、大切な家族だったのだ。

 だからこそ家族に怯えの混じった目で見られる事が耐えられなかった。

 

 唯一の救いは四人の幼馴染達だけだった。

 

 凶行を行った祐一にも以前と変わらず接してくれた。

 彼らは墜ちこむ祐一を茶化しては、慰め、笑ってくれた。そんな幼馴染達に祐一は一緒に笑いながら、そして深く感謝した。

 

 祐一の生まれは、代々農民の家系の平凡な家系である。

 小学生の時、淡い期待を胸に著名な先祖や、凄い家宝がないかワクワクしながら、自分の家や、祖父母の家を探したがそんな物なんて全く見つからず、がっかりした記憶があった。

 家族もなんとか中流階級に入っている、まあ平々凡々と言っていい一家だ。家柄や血筋に取り柄のない祐一が持っている物があるとすれば、所属していた部活が出禁になるほど運動神経が抜群に良いくらいだろうか。

 だいぶ人間離れした身体能力を誇る祐一を持て囃す者は居ても、濃い関係になる者はほんの一握りしかいなかった。その身体能力ゆえにそれなりに他人と関わってきた彼だが、友達の数は0ではないが少ない方だった。彼の幸運は"親友"と呼べるほどの友人四人と出会えたことか。

 

 誇れるものは身体だけ。あとは頭が良いわけでもなく、なにか特技があるわけでもない、祐一を母は心配だったのだろう。口酸っぱく「友人を大切にしなさい!」と幼少のころから教えられていた。

 そんな祐一だからこそ自分に付き合ってくれる家族や幼馴染、友人たちを何より大事にすると言う人格が形成されていった。

 

 だが、今回の事件が起きた。

 

 祐一の異常性を垣間見た者達は、幼馴染を除いて悉く拒絶した。

 対する祐一は友人に拒絶され、家族には怯えられる……そんな事に耐えきれるほどまだ精神が成熟していなかったし、強くもなかった。初めての経験からくる戸惑いもあった。

 彼の未熟な感性でも、他人からの忌避を敏感に感じ取っていた。

 

 数週間ほど時がすぎても奇異の目で見られる日々は続いた。家族が余所の人間から奇異の目で見られている事は知っていた。しかし祐一は何もしなかった。また拒絶されるのがどうしようもなく怖かったからだ。人の噂も七十五日……そう言い聞かせて耐え切ろうと、いや、目を必死に背けていた。

 

 そしてまた数日が過ぎ、今度は幼馴染達にまで排斥されるしれない。そんな予兆を感じた時だった。

 限界だ……それだけは認められなかった。

 

 ──家出しよう。祐一は決意した。

 決めたら行動は早かった。手早く荷物をまとめてリュックに入れ、父の腕時計を引っ掴んで押入れに隠されていたヘソクリをくすね、家探ししている際に見つけた父のエロ本を机に置いてササッと家を出た。

 服装は学校のブレザーのまま。なんとなく私服で旅立つ気になれなかった。

 家を出た所で「ワン!」と声が聴こえ、我が家の愛犬がこちらをつぶらな瞳で見ていた。

 

「ん、桔梗か」

 

 祐一が近づくとその愛犬、桔梗は力一杯に飛びかかって来た。この落ち着きのない犬は、幼い頃に「犬を飼いたい!」と強請って両親がどこからか貰ってきたメスの中型犬「桔梗」だ。

 全体的に黒いが、鼻と足先、尻尾の先端が白く、そこが一番の特徴でもある。そして小さな暴君だ。

 全身で飛びかかってなめ回してくる桔梗を受け止めて一撫ですると、

 

「ちょっと出掛けてくるよ。もう帰ってこないかもだけど、元気でいろよ?」

 

 語り掛けた。桔梗は、そんなことなどお構い無しに祐一の手をベロベロと舐めていて、祐一はため息一つ零すと「じゃあな」と言って歩き出した。少しずつ離れて行く祐一を見詰め、桔梗は寂しげに鳴いた。

 

 振り返る事は無かった。

 

 

 この町の一番好きな場所で、みんなに別れを告げよう。

 歩きながら小学校のとき遊び場であり秘密基地にもしていた場所を思い浮かべ、その場所へと足を向けた。

 

 そこは祐一のお気に入りの場所。家の近くにある小さな山だった。

 懐かしいなぁ、この山に入るのも一年ぶりだ。

 小学校の頃は毎日ここに集まっては、他愛ない話に興じては、この山を駆けずり回っていた。時には木の棒や、自作の弓矢を持ち、チャンバラ合戦で幼馴染み達と競い合ったものだ。

 その為かそこいらの同年代のやつよりか力があるし度胸もついた……気がする。

 

 まあ……そのおかげであんな事件も起きたんだけどな……。ボソッと、祐一は独りごちた。

 中学校に入ってからはこの山にからも足が遠のき、道なき道を踏み固めてなんとか道になっていた場所は、今では立派な獣道だ。

 若干の寂寥感を覚えながら足を止めずに歩き続けた。鼻歌を歌いブレザーとローファーを着ているとは思えない動きで軽快に山道を進む。

 まるで猿や猫のように……あるいはブレザーとローファーを身に着けた"ターザン"と形容しても良いかもしれない。

 

 山をすこし登るとそこには「小さな湖」と「梅の木」があった。

 湖は群青に澄み切っていて、反射する木漏れ日が眩しい。湖畔のにある梅も、冬の季節になると、見事なしだれ梅となる。

 懐かしい光景。ここがお気に入りの場所だった。

 祐一は足を止め、懐かし気に目を細めたが、そう間を置かず歩き出した。湖からまた少し登った所に頂上がある。

 この山はそれほど標高が高いわけでは無いが、故郷を景色を一望する事ができた。頂上で座り込んで、町を眺める。

 

 小さな町だ。

 

 町の中心部は大型のデパートを軸として建物が乱立していて、車通りもそこそこといった風だ。しかし少し外れると田んぼや小山が目立ち、その間を縫う様に、ポツポツと民家が建っていた。

 典型的な田舎町。嫌な思い出が残る町。それでも祐一は、この街は嫌いではなかった。それもそうだ、祐一にとって嫌な思い出より、幸福な思い出の方が多く残っていたのだから。

 

 学校も友人も、怯える家族も、嫌いではなかったのだ。

 自分に付き合ってくれる友人を、自分を育ててくれた家族を、共に生きた人たちをなんで嫌いになれる。 

 幼馴染達なんて普段通りに接してくれた。

 あいつらには感謝してもしきれねぇな。頭をガリガリ掻きながら自嘲する祐一。

 物心付くと同時にもう遊んでいた"兄弟"みたいな存在。血は繋がらないが、家族だと、兄弟だと思っていた。

 あいつらと一緒なら、見るもの全てが輝いていた。

 

 これまでの人生はいいものだった。挫折と諦観に拘泥して悲観していた筈の祐一。だが今は、不思議と素直にそう思えた。

 恵まれた環境に居たのだ。

 それでも、今こうして家出しているのは、ただ俺が耐え切れなかっただけだ……。弱い自分。本当に拒絶したのは自分だったのは分かっていた。

 色々と言い訳していたが、結局そこに落ち着く。一番納得できる答えだった。

 

 ──だからもう、ここには戻って来ない。

 自分で拒絶したのだ。この先どの面下げて出戻るというのか? 

 

「じゃあな、みんな。お元気で……」

 

 紡いだ言葉は山々へと溶けた。絶対帰らないと決意し、故郷の景色を目に焼き付け、独りで下山した。

 

 

 ○◎●

 

 

 下山する途中の事だった。

 湖を通り過ぎる途中に、きらりと輝くものが目に入った。

 それは青々と生い茂る草木の中にあって、太陽の光を反射していてよく見えた。

 気になった祐一は足を止め、その正体を探ってみた。

 

 足下の光る物体。それは──黒く輝く石だった。

 ううん……? こりゃ黒曜石、か? この周辺にはかつて活火山があり、太古の昔には良く噴火していた地域だったらしい。

 今でこそ死火山となっているが溶岩の固まった石くれや黒曜石がたまに落ちている事もあった。手の上にあるゴツゴツとした石を見つつ、子供の時、弓矢の先に付けたり、木の棒につけては遊んでいた事を思い出す。

 そんな事もやってたっけなぁ……。

 古い記憶を思い越しつつ、少し懐かしい記憶に口元を緩める。幼少の記憶に思いを馳せ、次の瞬間には興味を失ったように手に取った黒曜石を捨て、歩き出した。

 

 

 ……その時だった。

 

 じわり……と、頭痛と吐き気が脳内を駆け巡ったのだ。

 

 

 偏頭痛か? 勘弁してくれよ……。そう零しながら、癖っ毛の頭を振ってブレザーを掻き抱いきながら、足早に下山していった。

 

 

 ───捨てた黒曜石は、消え去っていた。



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はじまりの風が吹く

 日本より遥か西方にある土地、波斯(ペルシア)。現代では「イラン」と呼ばれる地。

 そのイランでも最高峰の呼び声高いとある霊峰があった。霊峰の名を"ダマーヴァンド山"。

 

 冬になれば雪化粧をほどこし、その光景を日本では富士山に似ている事からしばしば「イランの富士」とも称される美しい山である。

 その見事さと神聖さからか日本と同じく、古くからイランの物語によく登場し古代ペルシア神話やその後のイスラーム時代に成り立った英雄譚、果てはギリシア神話などにも登場するイランを代表する大霊峰であった。

 

 ───その美しき霊峰の山頂にて、異変が起きていた。

 

 燦々と輝く太陽から、一つの大きな光球が零れ落ちたのだ。光球は真っ直ぐ霊峰の頂きへ向けて落ちると、地上にぶつかる寸前でピタリと制止した。

 光球は少しの間、そのまま制止していたが、やがて堪えきれなくなった様にグラグラと揺れ、ついには十の光球となりバラバラに弾け飛んだ。

 

 十の光球は一つとして同じ形の物はなく、牛、鳥、馬、多彩な姿を形取りながら、イランの方々へ飛び散って行った──。

 

 

○◎●

 

 

「うぬぬ……どこ行こっか?」

 

 思い立ったが吉日! とばかりに家を出た祐一だったが目的地も指針も無く飛び出し、最初の一歩で躓いていた。

 

「うーん……東に行くか、西に行くか。それとも北か南か……」

 

 宛もなく歩き続け頭を悩ませる祐一だったが、天啓が降りてきたようにとある国名が浮かんだ。

スロヴァキアか……。

 スロヴァキア。数ある東欧の国々の一つだ。

 昔、幼馴染と国名がどれだけ言えるかという勝負に負け、悔しくて世界地図とにらめっこしていた時に知った国だ。スロヴァキアの風土風俗はてんで知らないが、名前の格好良さとヨーロッパへの憧れから、行ってみたい、と童心に思った事を思い出す。

 

 「ヨシ、決めた! 取り敢えずスロバキアへ行こう!」 

 

 そう決めたらワクワクして来た。未知の国! 異国の人々! 考えるだけで、祐一の足取りは軽くなり、家を出た当初の陰気さは何処かへ消えて行った。 

 欧州へ行くには取り敢えず大陸に渡らねばならない。大陸に渡りさえすれば、後は陸伝いに行ける! ……はず。

 だけど、パスポートなんて物はもっていない。

 お金はあんまりないから公共機関は使いたくない。でも、大陸に行くには船か飛行機が居る。最悪、泳ぐ選択肢もあるがそれは最終手段にしたい。

 

「うむむ……いや、動いてから決める、行動あるのみだ!──目指す先はスロヴァキア! 海渡んなきゃいけないか港を目指す、決めたぞ!」

 

 電車に乗りこみ駅を出た先には、天を衝くような建物が割拠する街が"でん"と構えていた。

 海が近いからか、風に乗って潮の香りが運ばれて来た。胸一杯に吸い込む。潮と排気ガスの混じった匂いが、新鮮さと少しの不快さを感じさせた。

 

……俺が旅して、最初に着いた街か。街は発展しているが何処か雑然として居て、車は元より、路面電車や原付バイクがごった返していた。右も左も分からないお上りさんだったが列をなすように歩く人々に倣うように歩き出した。

 

 ○◎●

 

 

『港に豪華客船が来ている』

 

 ──これだ! 

 歩いている途中、その事を偶然小耳に挟んだ祐一は、これしか無い! と確信した。話をしていた叔父さん達に詳しく話を聞き出し、かくして、豪華客船の停泊している港へおとずれた。

 港へ着いた祐一は、巨大船舶に瞠目していた。

 

写真で見た事あるけど、実際に見たらでかいなぁ。

 まるで海に浮かぶ白亜のホテル……いや、城だった。ほえ~、と感嘆しながら祐一はキョロキョロと周りを見回す。

 

あそこが入口か。

 でもあそこは人通りも多くて入るのは厳しいぞ……チケットなんてないし。他の場所も豪華客船を見に来てる人が居るから、すぐにバレる。……昼の内は無理かな?

 だったら勝負は夜。闇夜に紛れ侵入しよう。

 

 手早く算段をつけた祐一は、時を待った。

 

 

 夜。多くの人々が寝静まり、空は闇に塗り潰される時。そんな夜の中、一つの蠢く影があった。

──少年だ。木下祐一だ。

 港に停泊する客船に侵入しようと、数時間、潜んでいた祐一。遂に、彼は動き出したのだ。

 

 警備員に気づかれないよう助走を付けて、でりゃぁ! と一気に跳躍する。船から伸びるアンカーロープに一度着地し、神懸かりなバランス感覚でロープの上を走って船へ渡る。

 そうして誰にも気付かれる事なく、祐一は船の中に侵入に成功した。

 入ってしまえばこちらのものだ。船の地図を歩き回って見つけ、機関室や作業員の寝所など人通りの少ない場所を確認する。

 

 ここだ! 地図をみて船底にだれも来ないような物置を見つけ、隠れようと決めた。

歩く時は堂々と、服装もブレザー着れてるから大丈夫! この時の祐一は、謎の自信に溢れていた。

 子供らしい浅はかな考えだったがこれが意外に上手くハマり、巡回する警備員も素通りして行くか、「もう夜も遅いから部屋に戻りなさい」と笑顔で声をかけるのみだった。

 

 流石に客船の下部は[関係者以外立ち入り禁止]の文字で溢れていたが、持ち前の俊敏さと運の良さで見つかる事なく、物置へ到着したのだった。

 

「よしよし、上手く行ったな! 後はここで隠れていればどっか外国に着くだろ。……密航なんて、映画みたいなシチュエーションだな!」

 

 思いの外計画が上手く行き、興奮した祐一はニヤニヤが止まらなかった。見切り発車の運任せ、穴空きまくりのガバガバ計画だったが、彼はここまで辿り着いた。それが全てだった。

 

 結局、祐一は夜が明け船が出港しても見つかる事なく、首尾良く(?)出国する事に成功した。

 

 ──船内にある進路計画が描かれた地図。この客船の終着地を示す場所には「Dubai」の文字が踊っていた……。

 

 

 ○◎●

 

 

 物置の中での潜伏生活は『退屈』の一言だったが、偶に外に出ては、食料や水の調達に出掛けたり、客に混じって寛いだり、祐一が今まで体験したことが無い、スリリングなものだった。

 客船は数日もすれば隣国の大きな港へ寄港していた。人々が街に降りた為に疎らになり、船内のクルーズスタッフも、何処か弛緩した雰囲気を漂わせている。

 そんな隙をついて、いまのうち、いまのうちと、祐一は隠れながら、物置に必需品や暇つぶしの書物を運び込んでいた。

 

 特に大過なく船は進み、中国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール……東アジアから東南アジアを抜け、今はインド洋の海上をゆったりと進んでいた。

 

 既に二十日以上日をまたいでおり、最終目的地のドバイへも日程の半分以上進んでいた。次の目的地は、オマーンの首都『マスカット』。

 クアラルンプールからマスカットまで、一直線に停泊せず進むため、洋上での時間はこの道程が一番長かった。

 マスカットの次の場所はドバイ。

 旅も終わりに近づいている……。船内は常と変わらず賑やかだが、何処かしんみりとした雰囲気が感じ取れた。

 

そんな、穏やかな船内で事件が起きた──! 

 

 何と不法侵入者が、船内に潜伏していたのだ! 

 下手人は、男性で日本人! まだ少年と言って良い齢で、船内の物置に、盗んだ食料を集め、潜んでいたらしいのだ! 

 ……というか、祐一だった。

 

 彼もまた旅の終わりが近いと、気が緩んでしまい、物置近くでのんきに歩いている所を見つかったのだ。

 不審に思ったスタッフが身元確認を行い、当然ながら祐一に証明する物なんてある筈も無く、敢え無く御用となった。

 祐一の引き起こした事件は、狭い船内ですぐさま話題となった。

 乗客達は笑い話で済んだが、スタッフにとっては「驚天動地」と言うほどの事件だった。

 船内に不法侵入を許したのも問題だが、祐一は食料や書物、娯楽品に至るまで、くすねては物置に集めていた。

 そして船内の一室を己の城としていた祐一に、日本から旅立って二十日以上、気付くことが無かったのだ。

 

 控えめに言って、大問題だった。

 

 スタッフは大慌てで体制の見直しを行い、対策会議が深夜まで行われた。更に発見した少年の身元確認、被害状況の確認などに奔走する事となった。

 当の祐一はというと、しこたま怒られ、即刻帰国させられる所だったが、船上と言う事もあり引き返すわけにも行かず、マスカットに着くまでは船内の雑用をさせられる事と相成った。

 一ヶ月近く潜伏していた祐一も、外で活動する事も度々あった為、顔見知りとなったスタッフや乗客もそれなりに居た。

 スタッフは怒りと苦々しさ、そして笑いの同居した奇怪な顔をして、全然わからなかったぞ、コノヤロウ! と悪態をつき、最後には笑っていた。

 良く話していた乗客も「確かに君の御両親や保護者を見た事が無かったし、いつの間にか居たり居なかったり、神出鬼没だったなぁ。まあ、何にせよ今どき珍しい無鉄砲な若者だね?」と、サーカスでショーを見ている様な表情でくつくつと笑っていた。

 たまにチョコレートをくれる太っちょの気のいい青年だった。名前は知らない。

 

 そんなゴタゴタはあったが時間と船は変わらず進み、客船はインド洋を抜けアラビア海へと入り、翌日になればマスカットへ到着する。……そして、祐一もまた日本に強制帰還させられる事が確定していた。

 

 

 

「ヘイヘイホー」

 

 そんな祐一は今、甲板の上でモップを持ち、暢気に床磨きに精を出していた。

 天気は快晴。

 波も穏やかで、本当に船の上に居るのか信じられなくなりそうなほどだ。太陽は未だ沈むにはかなりの時間を要する高さにあった。

 太陽の発する日光と甲板からの照り返しで、汗がしとどと出るが祐一は構わず床を磨いていた。

 

 

 ──予兆は、なかった。

 

 

「空が青いぜ。ヘヘ……」

 

 雑用が一段落した祐一は、甲板の隅にある椅子にもたれ掛かりながら、快晴の空を眺めていた。

 

「この旅も、マスカットに着いたら終わりかぁ。良くここまで来れたよな、普通なら捕まってるぞ……。まあ、何にせよ楽しい旅だった!」

 

 またやりたいなぁ。……などと嘯く彼の表情には、反省の色があまり見受けられなかった。

 

 

 ──異界の法則に長じる魔術師や、気候学の碩学泰斗であれば、あるいは気付けたかもしれない。

 

 

「帰ったら、間違いなく怒られるよな……。あー、……マスカット着いたら逃げようかな……」

 

 どうやら祐一は、反省も後悔もしていないようだった。ほんの数日前に、こっぴどく怒られているにも関わらず、こんな具合なのだ。

 元々彼は、オツムの具合がよろしくない。3歩も歩けば忘れる……とまでは行かないが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉は、ぴったりと当て嵌まった。

 

 

 ──周辺の異常なほどの神力の高まりに、尋常ではない気圧の乱れに。

 

 

「もう、一ヶ月か……。みんな元気にしてっかな? まあ、頑丈なやつ多いし、大丈夫か」

 

 旅立った時に固く誓った事も、一ヶ月も過ぎれば揺らぎを見せ、郷愁が心に浮かび始めていた。

 

「あんなに決心したのになぁ。だんだん、みんなに会いたくなって来たし……もう、良いのかな……?」

 

 祐一自身、自分のやっていることは子供の我儘だと分かっていた。しかし、類稀な運の良さでここまで来てしまった。

 普通ならただの妄想で終わる様な話だったが、なまじそれを成せるだけの能力と、運を持っていた為に、退くに退けずこんなアジアの果てまで来てしまったのだ。

 

 ──海中を泳ぐ魚、空を飛翔する鳥、穏やかな海、青い空。その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせていた。

 ……気付かなかったのは人間だけであった。

 

「このまま……帰って良いのかな……?」

 

 誰に問うでもなく呟く。

 そう呟いて、ふと気付いた。今まで自分は答えを探していたのか、と。

 祐一の故郷は息苦しかった。小さな枠組みに収められロボットのように同じ事を繰り返す日々。その中でも幼馴染達と居る時間は紛らわす事が出来たが、それは束の間の安らぎでしかなかった。

 ここに居て良いのか? ここに居なくちゃいけないのか? そんな疑問に悶々と悩む日々。

 

「あ、そうか。俺は自分探しの旅をしていたのか」

 

 少し、道が拓けたような気がした。

 その事に気づいた時には、帰ると言う選択肢は頭から無くなっていた。なにせ自分はなにも見つけてはいないし、何者にもなっていないんだから。家出して少しだけ非日常を味わったが、極論をいえばそれだけ。ただの旅行と変わらなかった。

 なら、まだ帰るわけにはいかない。祐一はすでにマスカットに到着してからの逃走計画を練ってすらいた。

……だが、それも全て無に帰した。

 

 

 ──だが、一人だけ気付いた人間が居た。類稀な運と鋭い洞察力を持った少年、木下祐一だ。

 

 

「ん?」

 

 何か……、騒がしい。祐一の鋭い感覚がそう囁いた。

 注意深く周囲を見る。異常は見受けられなかったが、全身を襲う悪寒は止まらなかった。

 祐一の鋭い眼光が、更に険しい色を帯びる。

 

 

 ──突然の出来事だった。

 

 

 轟、轟、轟ッ! 

 世界を砕くような破砕音とともに強烈な颶風が()()()のは。天地がひっくり返る暴風と凄まじい衝撃が豪華客船を呑み込んだ。 

 

「な、なんだッ!!?」

 

 天地がひっくり返るような……いや、そうでは無い。実際に祐一がいま見ている世界は、空と海が全くの逆だった。

 

「ま、まさか……世界がひっくり返ったんじゃねぇ! この船自体が吹き飛ばされたのか!?」

 

 ふわっ。重力から解き放たれた身体が浮き上がり、祐一は甲板から投げ飛ばされてしまった。投げ飛ばされる瞬間に、近くにあった物を咄嗟にむんずと掴む。

 手に掴んだ物の正体は救命用の"浮き輪"だった。瞬時に絶対離すもんかとばかりに胸に抱いて亀のように丸くなる。

 救命用の浮き輪には、か細いロープが結わえてあった。

 それが祐一と船とを結ぶ命綱だ。まるで地獄に蜘蛛糸が垂らされ、それに縋るような心地になった。

 か細いロープを掴み、船へ近付こうとする祐一。

 しかしどこからか勢い良く飛んで来た、鋭利な破片によって、ぶつんと救いの手は切り裂かれてしまった! 

 

 ついに船から弾き飛ばされる。船はそんな祐一に構う事なく、豪風によってクルクルと空中をきりもみ回転しながら吹き飛ばされていく。数千トンはある鉄の塊をいとも簡単に吹き飛ばす風は、人智を超えていた。

 

 祐一は縋る物もなく豪風により高く打ち上げられ、そのまま海へ投げ飛ばされた。投げ飛ばされた空中で、無我夢中に浮き輪から伸びる切れたロープを、体に巻き付ける。

 迷っている暇は無かった。

 浮き輪なしで海に投げ出されては死ぬ以外なくなってしまう。今できる生存の為の最善手が「これだ!」と直感で感じた。

 

 遠くに感じた水面が、急速に近くなる。もう、後戻りは出来ない。

 歯を食い縛る。水面を強く見据える。

 

───死にたくねぇ!!!

 

 祐一の意識はそこで途絶えた。



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あいつとの出会い

 唐突に意識が覚醒した。と同時に身体の感覚が蘇ってきた。

 そこで初めて自分が仰向けの状態になっている事に気付いた。次いで、最初に目に入ったのは、太陽。水平線に沈んでいく、赤い夕陽だった。

 

 ここ……何処だ……? 記憶がひどく曖昧だ。

 過去の記憶が思い出せない……何故か船に乗っていて、空を眺めていた気がする。その後がまるでノイズが掛かったように不透明だ。

 そのままボーッと記憶を辿ってたどって、やっと思い出した。

 そうか、海に投げだされたのか……。あれは死んだと思った。出来る事はしたつもりだった、あとは運次第。こればっかりはどうしようもなかった。

 

 もう一度夕陽を見る。

 祐一はそれをどこか他人事のように楽しめた。これほど美しいものがあるだろうか? 空も海も大地も染め上げてしまうほどの力強さ、色彩の鮮烈さ。いつもそこにあったはずの景色だったというのに、間違いなく生まれて初めて見る迫力だった。

 

 しかしその鮮烈さが、祐一に一つの確信を与えた。

 

 ……ああ。死んだのか、俺。

 だからこそ、たかが夕陽をあんなにも美しく思えたのだろう。ではここは天国か? 地獄がこんなにも美しいはずはあるまい。

 それに気分も良い。死後の苦痛もなければ鬼もいない。このあんまり快適とは言い難い砂の上なんかに寝かされていなければもっと良かったのに。天国なんだからベッドくらいあっても贅沢じゃないだろう? 可能であればクレームをつけたい。

 そこでふと気づいた。

 

 ん? ……砂? 

 天国に砂? 一つ違和感に気づけば次から次へとおかしさがこみ上げてきた。

 そしてそれを待っていたかのように、頭部から始まり全身に激痛が駆け回った。

 

「俺、死んでねーじゃん!」

 

 死後、激痛を天国まで持ち込めるなんてそんな道理があるわけない。くそったれ! とにかくこの激痛は現実で、天国じゃないとしたら──

 

「おお。気付いたか、少年よ」

 

 声がした。

 痛みが覚醒をうながし、痛みにうめいて悶え苦しみながらも祐一の頭は回転を始めた。

 

「ふふ、先刻まで半死半生であったが。壮健そうでなによりじゃ!」

 

 激痛でうめいているのに壮健もなにもないだろ! ツッコミたかったが余力はなかった。

 しかしその透き通るような声に……決して大きくない声量だというのに、痛みに悶える祐一にもはっきりと聞こえる不思議な響きだった。

 声のした方を向くと、さっき目にした夕陽が燃え移ったかのような輝きがあった。焚き火だ。

 

 その火を挟んだ向こう側に座る声の主は、祐一と同年代とおぼしき少年だった。

 

 背丈も面立ちも祐一と同じくらい。ただ不自然なまでの落ち着きと、超然とした雰囲気を感じて、遠近感が狂うような錯覚に祐一は陥った。

 初めは同年代だと思ったが……こいつ本当は何歳なんだ? 

 そもそも着ている者もまるで修行僧のように使い古された襤褸で、まるで宗教指導者のようだ。だというのに貧しさも苦しさも感じさせない涼やかな顔立ちのギャップが神聖さをかもしだす。

 そして何よりその造形はまるで作り物めいていた。男なのか女なのかすらはっきりしない───性別を超えた美しさ。傷一つつかない肌とビロードのような黒い髪。

 それに比べて自分の有様たるや……思わず自虐的になってしまうほど、一言で言えば少年は美しかった。

 

 揺らめく炎を挟んで少年と目があう。ふっと笑う。美しすぎる造形を、まるで線を引いたように『綺麗』に笑うその仕草───御仏が浮かべるようなアルカイックスマイルに視線が凍る。

 

 祐一は自分に前置きした。これは劣等感じゃない、完全な違和感だ。人間がこんなに美しいはずがない。人をこんなに不安にさせる美しさなんてあるものか。

 人を狂気にいざなうほどの美しさ……。

 砂の上に横たわり、痛みにうめく滑稽な状況のまま祐一は確信する。

 

 ───この少年の姿を、終生忘れることはない、と。

 

「えと……。あー、君が俺を助けてくれたのか?」

 

 少年の人間味のない美貌に気圧されながらも、命の恩人かも知れないからと勇気を出して問い掛けてみる。

 少年は笑みを深め、鷹揚に頷き、

 

「うむ。海の上を漂流していたおぬしを拾った、と言う意味ならば、間違いは無いはずじゃ。……じゃがおぬしの巻き込まれた"災い"を引き起こしたのは我と我が半身が出会ってしまったが為。故に、我は罪滅ぼしをしただけじゃ……感謝する事もあるまいよ」

「罪滅ぼし? うーん……よく分からんけど、君が助けてくれたんだろ? なら、感謝するのは当たり前だ。だからありがとな! 助かったぜ!」

「ふふ、気持ちのいい奴じゃ。しかし先程も申したが、礼をされる事はしておらぬ。気にせずとも良い」

「? そっか。よく分からんけど。……なあ、君はこの土地の人だよな。あっ、でも日本語喋れるって事は違うのか? それとも、日本に居た事あったり?」

 

 船が転覆した瞬間、死を確信していた。だからだろう、九死に一生を得た事実にハイになっていた。そうして気付けば、不躾にも思った事を矢継ぎ早に質問してしまっていた。

 しまった、と言う顔をした祐一だったが、それでも少年の鷹揚な笑みは崩れなかった。

 

「はは、忙しないやつじゃのうおぬし。期待を裏切るようで心苦しいが、我はこの地の民では無い。いまの我は流浪の旅人よ」

「そうなのか……。あ! じゃあさ、旅してるならここが何処かって、知ってるか? 俺、ここがどこか、全然検討もつかないんだよ。知ってたら教えてくれないか?」

「この地の名前か? すまぬが、いまこの土地が人の世で何と呼ばれているかは、我も知らぬ。……しかし、我が知っておる時代ではペルシア、と呼ばれていたはずじゃ」

「ペルシア……? って何処だ? なんか聞いた事あるけど、そんな国世界地図には載ってなかったぞ……。ムムム。ま、いっか! どこに居ても外国なのは変わらんし。わはは」

 

 難題が降り掛かってきた時は、お得意の開き直りで乗り越えるのが祐一の流儀であった。

 和やかな会話はとんとんと弾んでいき、彼らの表情も同時にほぐれていった。それを表すように微笑む少年に向けて、祐一は満面の笑みを向けていた。

 いつの間にか、そこには最初にあった少年への一握りの恐怖と緊張感はどこにもなかった。

 

 良いやつじゃんコイツ。命の恩人みたいだし警戒してたのが馬鹿みたいだぜ……あ! そこで祐一は一番大事な事をやっていなかったと思い至り、少年に話し掛けた。

 

「そう言えばさ、自己紹介がまだだったよな! 俺は木下祐一! ちょっと漂流してこんなとこに居るけど、14歳の日本人さ! 君の名前は? 君も日本語話せるんだし、日本にいた事あんのか?」

「ふむ。我がこの言葉を覚えた時期か……ふふ、はるか遠い昔の事であった気がするが……うむ、覚えておらぬ。我が名前も……やはり覚えておらぬな」

「えっ……? 覚えて無いって、それ大丈夫なのかよ!? 記憶喪失だろそれ! じゃあ、家……どこに住んでたとか手掛かりは無いのか!?」

 

 軽い気持ちでニコニコ笑いながら訊いた祐一だったが、突然飛び出した少年の答えにあんぐり口を開き、すぐさま手掛かりはないのかよ!? と聞き返す。

 そんな祐一に、少年は頬笑みながら、

 

「我の棲家、我の生地か。うむ……やはり覚えておらぬな。ここより東の地じゃったような気もするが……まあ、気にする事は無い。我が使命と最も重要な事実を知っている故な……。それを識っておれば、特に困る事も無いのじゃ」

「困る事も無いのじゃ……って、ふつう困るだろ! 名前も分かんないんだぞ。大問題だ!」

 

 何でもない様に語る少年に、祐一は盛大にツッコミを入れる。この眼の前の恩人は何処かズレてる。自分の事は棚に上げ祐一はそう確信した。

 

「ははは。なかなか良き性根を持った少年じゃの。初めて会った者でも、それほど慮れるのは良き事じゃ。その美徳は大事にせよ。おぬしの何よりの財産となろう」

 

 未だに眉根を寄せ、ジト目で見る祐一の視線を、少年は飄々とした態度で受け流し、

 

「ふふ、こちらを案じてくれるのは面映い事じゃが、本当に気にせずとも良い。先程も申したが我は困っておらぬ。それに背負う物も無いからの、この気楽な旅もなかなかに気に入っておる」

「うーん……そこまで言うならいいけどさ……。じゃあさ、使命とか重要な事って言ってたじゃないか。あれってなんなんだ? それさえわかってれば大丈夫って言ってたけど……君の記憶を取り戻す手掛りになるのか?」

「ふむ。当たらずとも遠からずと言う所かの? 我が使命は言えぬが、使命を果たす事となれば自ずと、我が名、我が生地もまた思い出すであろうな」

「そうなのか? ふぅん……。じゃあ、君はその使命を果たす為に旅をしているのか。……うん? それじゃあ君も"自分探しの旅"をしてるって事になるのか?」

 

 祐一は少年の話から、自分と同じ目的の旅をしているのでは? と、推測した。

 その言葉を聞いた少年は何がおかしいのか"堪らず"と言った風に呵々大笑し、大きく頷いた。

 

「ははは! 確かに少年、おぬしの言う通りじゃ。自分探しの旅! なるほど、言い得て妙じゃのう。我は今、自分探しの旅に出ておる!」

「ははっ、なら俺と一緒だな!」

 

 祐一はそこで素晴らしい名案を思いついたとばかりに膝を売って、

 

「なっ、良かったらさ! その使命ってやつ、俺にも手伝わせてくれよ。その使命が人に言えないくらい、君にとって重要な事なのは分かるけどさ、俺は君に助けられたんだ。なにか恩を返したいんだよ。ダメかな?」

「何と。我が旅に同道したいと申すか。律儀なやつじゃのう。じゃが……同時に無鉄砲でもある。ふむ、しかし、その純粋さは好ましくもある……」

 

 少年は己のおとがいに手を当てて、何か思案しているようだった。祐一は、断られたらどうしよっかなぁ……と考えながら、少年の審判を待った。正直先行き不透明も良いところだ。恩も返したいが、いざ異国で一人旅となると不安がいっぱいだったのだ。さっき出会ったばっかりのちょっと変なところはあるけれど、旅慣れた知り合いがいてくれるなら心強かった。

 思考が中断された。少年がおもむろに祐一へその類稀な美貌を向けたのだ。翡翠を思わせる翠玉の瞳で、まじまじと祐一を見据えて、

 

「ふむ……こうして良く見ると、見事な戦士の相を持っておるの……。それに我に"救われる運"もあるか」

 

 少年の顔がズイと近づき、その怖いほど整った顔が祐一の眼の前に現れた。恐ろしいほど整った容姿。彫りが深く、涼し気な目。

 人間味はないがなんとなく人種としては、アーリア人が一番近いだろう。そんな事を考える余裕もなく、祐一は少し赤面しつつ慌てて距離を取った。

 

「なっ、なんだよ?」

 

 朱に染まった顔を隠すように手で覆い、視線を揺らしならが問いかける。そんな祐一に少年はニヤリと意地の悪い、いたずらっ子の笑みと同種の表情を浮かべ、

 

「いやなに、おぬしが我の道連れに相応しいか、見極めていただけの事。ふふ……他意は無いぞ?」

 

 絶対、嘘だ。祐一は確信した。

 ちょっと不貞腐れながら、コイツこんな顔も出来たんだなと、最初の印象を覆しながら思った。

 

「で、どうだった? 俺は君の道行きについて行く事に合格できたかな?」

 

 ぶっきらぼうに訊く祐一の言葉に、少年は今度は一転して神妙な表情を作り、

 

「うむ。常であれば、試練の一つや二つ、くぐり抜けてこそ、我が道連れとなる栄誉を与えるはずであるが……おぬしは、どうやらそこそこの修羅場を生き抜いたようじゃ、それに我への恩返しをしたいとも言う。それを無下に返す、というのも我の好む振る舞いでは無い故な」

 

 そこで少年はまた、にやりと笑う。今度はからりとした透明な笑み。

 

「ふふ、何より気に入った! 我とおぬし、出会って数刻と経っておらぬが、中々に楽しい一時を過ごせた。そのおぬしと、この流浪の旅を同道するのも一興よ。我が一時の休息に、また変わった彩りを与えてくれそうじゃ」

「───よっしゃあ! じゃあ、一緒に旅して良いって事だな! ……ヘヘっ! 俺だって君と居るのが楽しい。日本……故郷からここまで来たけど、こんなに話したりしたのは久しぶりだ。今までの旅の中で一番楽しい! そう思う。君と旅をできるのが楽しみでしょうがないや!」

 

 笑い合う二人。ついさっき出会った二人。しかし、その様子は、永く友情を育み過ごした友人のようであった。馬が合うのだ、なんとなく。

 

 だが祐一はそこで一旦言葉を止め、一転して沈んだ口調で少年に問いかけた。

 

「なあ、俺さ、目を背けてたけど、やっぱ聞かなくちゃならない事があるんだ。俺が漂流した事……俺が乗ってた船の事何だけど……俺以外に、助かったやつは居なかったのか?」

 

 それは、祐一の意識が覚醒してからすぐに思い至った事ではあったが、答えを知る事が怖くて、今まで中々言い出せなかった事だった。

 短い間だったが、同じ船の上で笑い合っていた人々事を思い出す。

 迷惑も掛けてしまったが、楽しい一時だった、と。

 そして同時に思い出す───暴風によって煽られ、独楽の様に回っていた豪華客船の姿も。

 

「……うむ。我が気付いた時。その時には、おぬししかおらなんだ。おぬしが乗っていたであろう船の破片は散らばっておったが、人は……見つける事叶わなかった」

「そっか。そうだよな……」

 

 空を見上げた。

 何も遮るもののない荒野の空。

 ゆらゆらと揺れる炎が、夜空へ向けて長い手を伸ばしている。薪が燃えて、灰塵が火に照らされ星空に昇って行くのが見えた。

 

 正直な所、祐一には人の「死」と言うものをどう捉えれば良いか分からなかった。これまでの人生の中で「死」と言うものに触れた事が、あまり無い様にも思える。

 そもそも祐一の周りで、亡くなった人など、これまで皆無だった。

 確かに、親戚や友の親など亡くなった人は居たが、物心が付く前だったり、会った事すら無かったり、祐一に濃い関係を持った人達では無かった。

 

 だから、分からなかった。

 出会って、話して、笑い合った人達が死んだ、なんて言われても、受け止めきれなかったのだ。

 祐一はまだ14歳で、未熟な少年だった。

 

「小僧。おぬしは馬鹿じゃのう」

「えっ……? なんだよ、突然……」

「大方、己がそこに居れば何か変わったのではないかと、考えていたのであろう? ふん。人間のような矮小な身で在りながら"救えたかも知れない"などと傲慢な考えを持つものでは無い。それに、おぬしの様な只人に、何が出来たと言うのじゃ?」

「なんだよ、それ。確かに、そうだけどさ……」

「小僧。そのような傲慢な考えを持って良いのは、不死にして神聖なる存在か、鋼の英雄に連なる者達のみじゃ。……何より、過ぎてしまった事を未練がましく悩むでない。おぬしにそのような事は、似合わぬわ」

「うっ、似合わないって……」

「まあ、逝った者達も、今ごろハラー山を目指しておるじゃろう。そして、いずれチンワトの橋にて審判が下る。それは最も神聖にして、物質世界の創造者である尊き存在が定めた法則じゃ。人の生き死も、我が勝利する事も、因果の王が定めた法則じゃ。それをおぬしが横から口を出すなど分不相応にも程があるじゃろう」

「よく分からんけど……、俺じゃ役者不足ってこと?」

「……まあ、身の程を知れと言う事じゃ。死者を偲ぶなとは言わぬが、それに囚われ過ぎても、おぬし自身の心を曇らせるだけじゃ」

「……うん。……ありがとな」

 

 少年の言葉は、祐一にはあまり理解出来なかった。だが、祐一はこの少年が自分を慮ってくれている、と言う事は容易に理解できた。

 昨日まで話して笑っていた人々が不幸な目にあった事に、そして自分だけ助かってしまった事に罪悪感を感じていた祐一だったが、この超然とした、しかし素晴らしい少年のお陰で少しは前を向けそうだ。そう思えた。

 

 だからこそ、こんな事を口走ってしまったのかも知れない。

 

「なあ、君は名前がないんだろう? ならさ、名前、決めないか? 俺たち二人、旅に出るんだ。このまま「君」って言い続けるのもおかしい気がするし……」

「我の名を……? また突然じゃのう。我は名が無くとも気にはせぬが……。おぬしが困ると言うのならそれも良いか。ふふ、まったく……只人相手にここまで我が面倒を見ねばならぬとは、仕様のない小僧じゃ! しかしそれも良かろう。ふむ、我が名か……そうじゃのう……」

 

 祐一を見ながら、ちょっと呆れたようにやれやれと、少年は零した。そして少年は、祐一を旅に連れて行こうか悩む時の様に、おとがいに手を当てて己の名を考え始めた。

 そうして、あまり間を置かずに少年は口を開いた。

 

「──パルヴェーズ」

 

 少年は、静かに言葉を紡いだ。その言葉には不思議な力が籠もっているような、そんな錯覚を祐一は覚えた。

 

「パルヴェーズ。うむ、我が名はこれより「パルヴェーズ」と名乗ろう。小僧、我がわざわざおぬしの為に名前を誂えたのじゃ。この様な珍事、我が永い半生の中でもあり得なかった事じゃぞ? しかと、胸に刻むと良い」

「はは。なんだよそれ。……パルヴェーズ。パルヴェーズか……」

 

 祐一は今聞いた友の名を、忘れないように、慣らすように、口の中で転がした。よしっ、と祐一は一つ心を切り替え、少年……パルヴェーズへ向き直ると、

 

「改めて、よろしくな! パルヴェーズ! 君との旅がどんな旅になるかは、まだ分かんないけど、絶対楽しい旅になる! 断言するね!」

 

 祐一の言葉を受け、微笑むパルヴェーズ。

 そして、彼もまた、旅の相棒となる祐一へ言葉を返す。

 

「ふふ、我が行く末は未だ見えぬが、これまでの旅よりも賑やかになりそうじゃ。せいぜい、我が道連れにしたこと、後悔させてくれるなよ?」

「おう! 任せとけ!」

 

 祐一とパルヴェーズは手を差し出し、これからの相棒となる者と握手を交わした。

 

 と、そこで、

 

「あ、あれ……?」

 

 全身の活力を失ったかのように、祐一は倒れ、少年に凭れ掛かってしまった。

 身体に全く力が入らない。

 

「な、なんで?」

「まあ、漂流してすぐに助けられたとは言え、身体を休める事もなく居れば、疲労で倒れるのも当然じゃの。我もつい楽しくて失念しておった。すまぬな……」

 

 祐一は薄れゆく意識のなか、パルヴェーズが優しげな目を向け、癖っ毛の髪を撫でてくれているのを感じていた。

 

「今は休むが良い。火の番は我が務めよう。明日また語り合える事を楽しみにしておるぞ小僧」

 

 意識を閉じる最後、そんな声が聞こえた気がした。



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勝敗の行方

 翌朝。まだ夜が明けていない暁時。そんな朝とも夜とも呼べない曖昧な時間に祐一は肌寒さを感じて目が覚めた。

 全身を襲う疲労感や痛みは既になく、さっぱりとした気分で起床する事が出来た。まだ覚醒しきっていない頭で、周りを見渡す。

 なーんもねぇ……。

 薄暗い中でも、まだ残る星明かりで、周りの景色は見えた。見渡す限りの荒野と、少し先にアラビア海であろう海が見える。そんな見慣れない景色に、ここが日本では無いと唐突に突き付けられた気がした。

 まあ……今更か。とそこまで考えたところで、我が旅の侶伴が居ない事にふと気付く。見れば焚き火の火も消えており、役目を終えた炭だけが寂しげにあるだけだ。

 

「おーい! パルヴェーズ!」

 

 叫んでみるが、返事は……無い。おかしい。

 んん~? これは……ひょっとして、ひょっとするのか? 

 意識が完全に覚醒する。祐一は背筋に気持ちの悪い汗が吹き出るのを感じながら、いいや、それは無い! と言い聞かせてもう一度辺りを見渡し、彼の名を呼ぶ。

 ……だが、やはり答えはない。何処かに居る。……はず。

 そう思うが、疑う心が顔を出す。

 すぐさま打ち消すように思考をカットする。

 だが、すぐに「置いて行かれたんじゃ?」と言う考えが出てくる。──シャラップ! 

 騙されたんじゃね……? ──シャラッップ! 

 ホントは連れて行く気なんてなかったんじゃ……? ──シャァァラッッップ! 

 

 

 …………………………。

 

 

 ………………。

 

 

 …………。

 

 ……。

 

 

 

 

「おお、小僧。もう起きておったか。陽が昇ると同じくして目を覚ますとは、感心感心。やはり一日の始まりには黎明の光を浴び、朝露の雫を感じねば始まらぬのう」

「───わあああ!!!」

「なんじゃ、朝から。騒がしいやつじゃの」

 

 思考の海に埋没していた祐一は、突然気配も無く現れた(祐一視点)パルヴェーズに、それこそ心臓が飛び出るほどの驚いた。

 

「な。何でもないっ。それよりどこ行ってたんだ? 見当たら無いから心配したぞ」

「いやなに。朝食の準備を、と思ってな。ちょいとそこまで釣りをしておったまで。……ほれ、見よ。なかなか良き釣果であったぞ」

 

 言われて見ればパルヴェーズの手には、木の枝が握られており、その先に十匹ほどの、種類は分からなかったが、中々大きな魚が吊ってあった。

 パルヴェーズは手際良くまた焚き火を起こすと、釣ってきた魚を焼き始め、そう間を置かずに焼けた魚の香りが祐一とパルヴェーズの鼻孔をくすぐった。

 と、同時にぐぅ~と誰かの腹の虫が荒涼たる大地に響いた。ニヤリと、祐一へ視線を向け、パルヴェーズが笑う。

 犯人は明白であった。祐一は誤魔化すように、焼いていた魚の一匹を、むんずと掴み、

 

「取ってきてくれて、ありがとう! いただきます!」

 

 と、少し語気を強めて言い捨て、貪り食った。パルヴェーズもそんな祐一を見ながらクスクス笑っていたが、やがて焼けた魚を手に取り、口にした。

 

 ○◎●

 

「よし、小僧。腹も膨れた事じゃし、一勝負と行こうでは無いか」

「なんだよ藪から棒に」

 

 朝食を食べ終え、弛緩した空気の中にいた祐一に、パルヴェーズがそんな事を言ってきた。

 

「おぬしとあってから、これまで。我とおぬしは一度も勝負をしておらぬ、と思ってのう。言うてはおらんかったが、我は勝負事が好きな性分でな。おぬしとも競い合いたいと常々思っておったんじゃ。かけっこ、知恵比べに、力比べ。何でも良い。例え、おぬしの得手であっても構わぬぞ?」

「ふぅん。ま、いいぜ! 俺も暇だしな! それに勝負するなら、約束しようぜ」

「ほう? 約束とな。ふふ、ただの勝負事であっても、趣向を凝らそうと言う姿勢は好ましく思うぞ、小僧。それで、どのような約束じゃ?」

「名前だよ」

「む?」

「呼び方だよ呼び方。パルヴェーズはさ、俺の事を名前で呼んだこと無いじゃん? いつも少年か小僧ってしか呼ばないだろ。俺はパルヴェーズって呼んでるのに不公平じゃないか? それに俺達はもう友達だろ? もっと気安く行こうぜ! って事で、俺が勝ったら名前で呼ぶことっ!」

「ははは! 何と、そんな事か! ふふふ、我に願う事など、戦勝への祈りや、戦への加護とばかり考えておったが、このような事を申す者が出て来るとは!」

 

 パルヴェーズは一つ、強く頷くと、

 

「相分かった! 小僧……いや、我が友よ! その約束……我に勝つ事ができたなら、必ず叶えると誓おう!」

「言ったな! ……よぉし、絶対勝つ!」

 

 と最初は威勢よくパルヴェーズに挑んだ祐一だったが……。

 結局、かけっこから始まり、力比べ、将棋風の知恵比べ、遠投、水泳、魚釣り、コイントス、じゃんけんに至るまで、あらゆる勝負で全敗を喫してしまった。

 

 

 ○◎●

 

 

「あ……あり得ない……ッ!」

 

 まさに疲労困憊と言う体で、地面に突っ伏す。全敗という事実に押し潰されて。

 祐一は生まれてこの方ここまで連敗を重ねた事が無かった。

 故郷の幼馴染みとも、先程パルヴェーズと競い合ったような勝負は日常茶飯事だった。だが、勝負で一度や二度負ける事はあれど、負ければ負けるほどに意識が研ぎ澄まされ、祐一が勝ちを拾えなかった事など無きに等しかった。

 

 俺は勝ちに愛されている! 

 同世代の相手はもとより、年上であっても構わず勝ってきた祐一。これまでの人生を勝利の記憶で彩られた少年が、そう慢心するのも無理からぬ事だった。

 それがどうだ? この無残な結果は。

 この目の前に立つ華奢と言っても良い少年は、見た目と全く合致しないほど、卓越した能力を豊富に持っていた。

 かけっこ一つとっても、パルヴェーズの人間離れした特異さが浮き彫りになった。

 そもそも舗装されていない悪路でのかけっこなのだ。それに、悪道の走り方は、幼い頃から野山を駆けていた祐一の得手とする所であった。

 しかし、そんな祐一を俊敏な『いたち』と喩えるなら、パルヴェーズは『風』。それも疾風と言ってもいいほどの。──結果は言わずもがなである。

 

 出っ鼻から敗北した祐一は、勝ち誇るパルヴェーズにその後も「しつこい」と言っても良いほど挑んだが結果は変わらなかった。

 祐一もパルヴェーズとの勝負でなにも手をこまねいていた訳ではない。やがて祐一はパルヴェーズに勝つ事に主眼を置く事にして、勝負の種目を変えては果敢に挑んだ。

 そして一勝も出来ずにけちょんけちょんにやられ、こうして地面に倒れ込んでいた。

 

「うえぇ……じっとりしてて、気持ち悪い……」

 

 ついさっきまで、全力で競っていた為に気付かなかったが祐一の着ているブレザーは、しとどに溢れる汗でびしょびしょだった。

 元々祐一が着ていたブレザーは、海水に浸かってしまい昨日からずっと磯臭くなっていたのだが、その上に汗臭さまで追加され、ちょっと近寄り難い臭いを漂わせていた……。

 すでに太陽からは刺すような日光と熱気を放たれており、ここが日本では無く、遠く離れた国……それも砂漠ばっかりだと思っていた地域だと、改めて突き付けられた。

 すぐ近くの海からは、潮風と共にむせ込むような湿気が運ばれて来ており、まるで蒸し風呂の中に居るような気分に陥った。

 

 彼の脳内に、「高温多湿」の単語が浮かんでは消えていく。取り敢えず暑い。

 だが今の祐一にとって、それはほんの些細な事でしかなかった。

 地面に倒れた祐一は四肢を投げ出し、仰向けになって空を仰いでいた。地べたに寝っ転がっているから背中に当たる石が痛い。だけどそれよりも、

 ──悔しい。

 祐一の胸中を占める感情。偽りない本音だった。

 ゴロリと体勢を変え、仰向けに寝っ転がりちらりと勝者である少年に目を向ける。

 

 パルヴェーズはくずおれた祐一から少し離れた所にある小岩に腰かけ、草笛を吹いていた。

 パルヴェーズの周りには、どこからやって来たのか、その音色に誘われて小鳥や小動物たちが現れ、静かに耳を傾けていた。

 美しい音色だ。

 祐一も山で遊んだ子供の嗜みとして草笛は吹けたし、自分でも上手い方だと思っていたが、パルヴェーズと比べたら月とスッポン。本当に同じ草なのか疑いたくなるほど綺麗な音色を響かせていた。

 

「……」

 

 ───勝ちたい。

 せめて一矢報いたい。祐一自身、こんなにも悔しいと思ったのは初めてだった。

 それにこのまま負け続けたら、パルヴェーズとは対等な友人ではいられないかも知れない。そんな一抹の不安すらあった。

 あの輝かしくも尊大で心清らかな少年はそんな些細で態度を変えるとは思えないが、祐一自身が納得出来なかったし、この友人にして恩人の少年には自分の名を一度くらいは呼んで欲しかった。

 ……まあ、そんな事、絶対に口には出さないが。

 

「───よっしゃ!」

 

 一つ気合を入れ、跳ね起きる。パルヴェーズの美技に陶然としていた小動物たちは祐一の気配に驚き、慌てて距離をとった。

 パルヴェーズも、草笛を止め、こちらへ微笑みかける。

 

「ふふ……。さて、次の勝負は何をするのじゃ?」

 

 祐一は拳から親指を立てて突き出し、自信満々に笑った。

 

 ○◎●

 

 祐一とパルヴェーズはそれほど距離を置かず、お互いに向き合って対峙していた。小動物たちが「なんだなんだ」と遠巻きに二人を見守っている。

 彼らの手にはどこから拾ってきたのか、腰ほどまでありそうな少し長めの木の棒。

 そう、絶対の自信を持って祐一の選んだ勝負は「チャンバラ」だった。

 学校の帰り道、遠足の途中、ともすれば体育の授業中……己を漫画の主人公や、昔の侍に見立てて、棒や傘を振り回す、あのチャンバラだ。

 男の子ならば、生涯に一度はやるアレ。異世界に転生して、幼い頃から剣術を学ぶくらいには誰でもやるアレだ。

 そしてこのチャンバラこそ祐一が一番自信のある得手でもあった。しかし……

 

「ははは! 小僧、まさかこの我に武術で挑みかかろうとは、身の程知らずにもほどがあるぞ? それも剣術で挑むなど、古代の英雄たちですら憚った難事じゃぞ!」

 

 どうやら祐一が一番得意な事はパルヴェーズもまた長けているようだった。

 

「今度こそ、勝つ!」

 

 祐一は棒を右肩にあたるほどに、全開に引き絞り構えた。

 対してパルヴェーズは構えという物をとっておらず、軽く木の棒を振って調子を確かめていた。

 それでもどういう理屈なのか軽く振った木の枝から、軟風が疾走り、祐一の髪をさらりと撫でた。

 おいおい……ウッソだろ……? 

 たらりと冷や汗が額を伝った。ちょっと早まったかな……と萎れる心に「えぇい行くぞ!」と喝を入れ、パルヴェーズを見据える。

 

 その瞬間スイッチ切り替わったように、鋭い彼の眼光に、覇気が灯った。

 そこには瞬刻前の、パルヴェーズに気圧されていた姿は、無い。あるのは自分の勝利を疑わない、向こう見ずな戦士の姿。

 パルヴェーズは、そんな祐一を見ては、目を細めて微笑み、

 

「善き哉、善き哉。良い目をしておる。己の勝利を疑わず、勝利への道を模索する目じゃ。小僧、おぬしは善き戦士となるじゃろう。この我が約束しよう」

「当然! そんで、この勝負。俺が、勝つ!」

「ふふ、それは叶わぬ。我は最強にして、全ての勝利を掴むものなれば、おぬしが勝てる通りはあるまいよ」

 

 互いに笑い合う。

 

 舌戦はそこまでだった。祐一はかつて無いほど意識が研ぎ澄まされ引き絞った棒を強く感じていた。じりじりとした暑さが祐一を苛める……だがいまの祐一には全く気にならなかった。

 眼前に立つパルヴェーズを、強く見据える。

 そんな祐一に対しパルヴェーズは全くの自然体だった。棒を片手で持って構えとは言えないような構えで祐一と対峙していた。

 それなのに……。

 

 打ち込んで、勝てるビジョンが浮かばない……!

 すでにイメージの中では数十通りほど、パルヴェーズに打ち込んでいた。しかし全てイメージで受け止められるか、躱され、次の返す一撃で敗北する未来しか視えなかった。

 古代の英雄や、戦国時代を駆け抜けた兵達……そんな武の頂に迫らんとする者達と相対している様な、圧倒的な威圧感。パルヴェーズと自分の間には、大霊峰のごとく高く分厚い壁がある様にも思えて仕方が無い。

 ───心で負けるな! 

 祐一は、弱い己をぶん殴って、強い自分を呼び起こす。それでも、状況は変わらない。苦境を脱する道は見つからないままだ。

 

 祐一はこの時点で若干の焦りが生まれていた。

 どうにか、しないと……! 焦燥が、心の表面に浮かび上がる。

 

 その時だった。

 

 ───ゆらり……。パルヴェーズの身体が揺れ、彼の軸が振れたのだ。

 咄嗟に身体が動いた。だが瞬時に悟る。俺は動かされたのだ! と。

 体勢を崩したように見えたパルヴェーズは、祐一が動いた瞬間に、どっかと大地を踏みしめ、祐一を迎え打つ態勢に入った。

 こうなりゃ……───守りごと、ぶっ叩く……! 

 祐一の決断に、逡巡はなかった。もう動き出したのだ。これに賭ける! 

 乾坤一擲。後がなくなった祐一の、唯一にして絶対の策だった。

 

 引き絞った棒を、袈裟斬りに振り下ろす! 

 

 しかしその全力の一振りに、パルヴェーズは腕をわずかに掲げただけだった。速い。祐一には、辛うじてその動きが見えた。

 するり、と絡め取るように手に持っていた棒で渾身の一撃を受け流す。己の力を完全に流された。

 絶望的なまでの技量差。いっそ清々しいほどの美技に酔いしれそうになる。それは今まで幼馴染み達と数え切れない程チャンバラをやって来た祐一ですら感じた事の無い感覚だった。

 パルヴェーズが言っていた自信に満ちた言葉は虚言ではないと思い知らされた。

 

 重心が変わり、体勢が崩れる。そしてパルヴェーズの受け流し終え、自由になった棒が迫る! 

 速い! パルヴェーズが放つ一撃は、あり得ないほど速かった。

 そもそも、そこらに落ちていた木の棒なのだ。なにか加工されている訳でもなく、枯れてはいるが枝はそのまま付いている。中もスカスカで、容易に振れるものでは無い。

 それでも祐一は山で、長年培った経験から、この類の棒の振り方は熟知していた。そのためどれくらいの速さで振れて、どれくらいの衝撃で壊れるかも理解していた。

 しかしパルヴェーズが振るう棒は、祐一の知識に無いほど速く、またそれ程の速い速度が出るほど強く振ったのなら、確実に棒が折れると言うのが、彼の経験から導き出された答えだった。

 だが今こうしてパルヴェーズが振るう棒は折れていない。

 その事は常なら驚嘆する事だったが、この少年なら易々とやってのけても不思議じゃない。

 今までの戦歴を振り返って、祐一は思った。

 

(多分、この速度が出せるのは今回だけ。一度外してしまえば、次は無い。棒が折れる……はずだ。俺がこの攻撃を躱せるか、そこが正念場だ!)

 

 一瞬の思考。

 ここで何が何でも躱す。祐一は肚を決めた。

 閃電の如く、パルヴェーズの下からの掬い上げるような一撃が迫る。

 焦り、後悔、嫉妬、困惑。そんな、負の感情が祐一の心に溢れる。だが、そんな噴火した様に荒れ狂い、千々に乱れる心の中で、それでも乱れる感情を物ともしない、不変の想いがあった。

 

「勝ちたい」と。

「絶対に勝利を掴む」と言う、勝利への渇望が。

 

 そんな泰然とした冷徹な思考と、狂乱とした灼熱の思考が、矛盾せずに祐一の心に存在していたのだ。

 彼の生涯の中で初めての感覚。

 祐一の視界はここに至って、更にクリアとなった。パルヴェーズの攻撃の軌道が何となく感じ取れる。

 視界に入る者がモノクロへ変わり、コマ送りのように断続的になった。周囲の、音、風、物、気配、あらゆるものが、脳に伝わって来る。思考が途方も無く加速する。

 

 それは「心眼」と呼ばれる武術の奥義。その、初歩の初歩だった。

 この時、祐一は、パルヴェーズとの勝負の中で、戦士としての殻を一つ破り、果てしない武道の階の前に立った、とも言えた。

 

 迫る一撃を見切り、祐一は崩れた重心を逆に利用する。倒れる身体をそのままに、流れるようにステップを踏んで、横へ飛び退ったのだ。

 

「お……らァッあっ!」

 

 ───ヒュン! 

 空振ったパルヴェーズの一撃。その風切り音が祐一の耳朶を叩く。

 頭から地面に突っ込む。ゴロゴロと無様だが……それでもしっかりと、祐一はあの必殺の一撃を避ける事ができたのだ! 

 顔を上げパルヴェーズを見る。

 パルヴェーズの少し驚いたような顔が、痛快だった。

 にやりと笑う。すぐ様立ち上がり、持っていた棒を大きく持ち上げ、大上段に構える。

 祐一史上で最高の高揚と興奮の中にあった。

 

 驚いていたパルヴェーズも、フッと口角を吊り上げ、今度はしっかりと木の棒を中段に構える。

 祐一が不敵に笑えば、パルヴェーズは静かに微笑むそんな凪いだ、静謐な時間が流れた。

 

「───だああああああああ!!!」

 

「───フッ!」

 

 停滞は一瞬だった。祐一が『動』とするならパルヴェーズは『静』。

 祐一は大上段に棒を振り上げ、パルヴェーズを唐竹割りにしようと迫る。対してパルヴェーズは中段の構えを解き、脇構えのまま祐一へ駆けた。

 一瞬の交錯。

 祐一には勝利の確信があった。パルヴェーズの持っている木の棒は……限界だ。

 

 もう打ち合えるほどではない、と確信していた。

 そして今……全力で打ち合った! 

 勝った! それを裏付けるように片方の棒が中程から折れ、宙を舞う。

 ────決着だ。

 祐一は勝負の終局を感じ取り、静かに瞑目していた。

 ふ……と、一つ息を吐く。

 勝利を確信した祐一は、ちょっと勿体ぶって、今まで共に戦った、手の中にある棒を見る。

 

 ───中程から消し飛んでいた。

 

「───あっれぇぇぇぇぇええ!!!???」

 

 いまさら脳天に激痛が走って果てしなく広いペルシアの土地に、祐一の絶叫が響き渡った。

 



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チャイハネ

「なあ、どっか宛があるのか?」

 

 祐一は焚き火を消しながら、パルヴェーズに問いかけた。パルヴェーズは何やら食べ終えた魚の骨を小鳥たちに与えてた。祐一を見ると頷き、

 

「うむ。この者達が教えてくれた。ここから海岸沿いに北上した所に、小さな町がある。そこで、昼餉でも取ろうかのう。……おぬしの服も洗わねばならぬじゃろうしな」

「うっ……。てか、この者たちって言ってたけど、まさか鳥の言葉が分かったりするのか?」

 

 胡乱な事を言ったパルヴェーズに、恐る恐る聞いてみた。当のパルヴェーズは静かに微笑むのみで、黙して語る事はなかった。

 うわぁ……。何となく察した祐一は、無言で天を仰いだ。

 

 

 ○◎●

 

 

 昼には着く、と言っていた町までの道程だったが着いた頃にはもうとっぷりと日が傾いていた。

 元々二人とも何かに縛られている訳でも無く、急いでる訳でも無い。それ故、風の向くまま気の向くまま、気ままな旅を楽しんでいたのだ。

 一ヶ月近く船内に籠もり、地面に足をつける事すら無かった祐一。彼は紆余曲折……と言うか酷い災難に見舞われはしたが、初めて訪れた外国の雰囲気に興味津々だった。

 漂流先は何か有名な観光地や、珍しい動植物がいる訳ではない。見える風景は果てしない不毛の大地だ。

 時折、草木が生えて入るが、大部分が茶色い土や石灰を含んでいるのか、白っぽい岩が所狭しと並んでいる場所が殆どである。

 そんな不毛の荒野であっても、祐一にとって、初めて見る異国の景色であり、故郷では見る事が叶わない風景でもあった。

 全てが新鮮で気になる物があれば、一つ一つ足を止めてはパルヴェーズと「これ、なんだろうな?」と話し合っていたのだ。

 

 まあ、一番の原因はパルヴェーズが困っている人や怪我している動植物たちをどういう理屈か見つけ出しては、手助けしたり治療したりしていた為だったのだが……。

 困っている者たちに、笑い掛けて躊躇なく手を差し伸べるパルヴェーズの姿は、太陽のような明るさと優しさを感じさせた。

 祐一としても、その行為は好ましいもので、パルヴェーズに手を貸すことに否は無かった。

 

 でもちょっと寄り道しすぎたな? 頬をポリポリとかく。

 確かに歩き出しては、「助けを求める、声が聞こえる!」と走り出すパルヴェーズを見て、町に着くのは、結構遅れるかもなぁ……。とは思っていたのだ。それでも「昼食が少し遅れるだろう」程度にしか思っていなかったので、夕暮れ時になるまで遅れるとは予想外だった。

 ちょっと憂鬱そうに祐一は町までの道を歩いていたが、視線の先に見えた人工の灯りが目に入った瞬間にそんなものは吹き飛んだ。

 

 ───人が居る! 

 船が難破して、文明の気配が希薄な土地に放り出されて、一日と少し。

 短い時間だったが久しぶりに見る灯りは祐一にとって、数週間……ともすれば数ヶ月ぶりに見たようにも感じるほど特別なものに見えた。

 ……と言うか彼は遭難していたのだ。パルヴェーズが居なければ死んでいた、と推察出来るくらいだ。

 その事実を鑑みれば祐一の胸に熱いものが込み上げて仕方が無かった。家出から、難破し、遭難へ。なかなか波乱万丈の旅である。

 

 気付いた時には駆け出していた。

 逸る気持ちが抑え切れず、一刻も早く文明の息吹に触れたかった。

 

「元気じゃのう」

 

 ちょっと呆れた声音のパルヴェーズの声が聞こえたが、祐一の足は止まらなかった。

 近くは無い距離。それでも全速力で駆け抜け、やがて彼は、町に着いた。

 ───着いた先は、名も無い小さな町だった。

 町の周りにはこの地域には珍しい緑が、ぐるりと囲むように群生していた。町には、統一感のある石造りの家が立ち並び、家の外壁はアイボリーカラーで輝く、明るい印象の町だった。

 デコボコとした、しかし背の低い住宅が建ち並ぶ町で一際目につくのが、町の中心部分にある緑色を基調とした建物だ。

 その建物は町の中にあって一際高い建物だった。

 建物の頂点は神社や寺にあるような、丸い擬宝珠のような形になっており、どこか神聖な雰囲気を感じさせた。悠然と佇む姿は、己を囲む建物達を見下ろしている風ですらあった。

 

 町の外から見える人々は黒髪がほとんどで明るい髪の人間は数えるほどしか居ないように見える。

 また見る人見る人、背が高く彫りも深い顔立ちだ。多くの男性の顎には豊かな髭が蓄えたれている。

 大抵の人々は日が沈んでも続く暑さにも構わず、長袖がほとんどで、女性に至っては更にスカーフのような布で頭部を覆っていた。

 しかしそんな禁欲さすら感じ取れる町は、笑顔と喧騒で溢れ、服装の色合いも男女問わず色彩豊かだった。

 

 アラブの町だ……。

 まるで、昔観た映画の様な光景。画面の先にあった光景が、現実となって眼前に広がっている様にも見えて……。

 祐一は、日本とは遥かに毛色が異なる町を前にし、完全に足が竦んでしまっていた。ここからでも見える看板の文字なんて、日本語や英語くらいしか知らない祐一には「落書き」にしか見えなかった。

 

 なんだか、己がとても場違いな存在に思えて、足を動かせないまま、時は過ぎて行った。

 だがうんうん唸っている祐一の後ろから、てくてく歩いてきたパルヴェーズが祐一を追い抜き町に入って行った。

 

「……あっ!? ちょっと待てよ! 俺が先に入るつもりだったのに!」

 

 置いて行かれた祐一は、走って先を行くパルヴェーズを追いかけた。

 

 

 ○◎●

 

 

 ──どうやら、あの大きな緑色の建物は礼拝堂のようだ。

 街に入ってすぐに、その事に気付いた。

 なにせ街の中でも一際輝くあの建物の荘厳さを見れば、異邦人の祐一であってもどこぞの宗教関連の建物だと一発で分かった。

 それに開かれた礼拝堂からは、祈りを捧げる人々が見えたのだ。

 礼拝堂の中や入り切れなかった人々が、てんでバラバラのタイミングで、しかし同じ方向を向き膝をついて、頭を下げている様子が至る所で散見できた。

 この街の誰もが、祈りを捧げている光景。

 宗教観の薄い日本出身の祐一にとっては、馴染みが無く珍しい光景に映った。

 こんな大勢の人間が、祈りを捧げている光景なんぞ、正月くらいにしか見ない。そう見えるのも当然だった。

 

 キョロキョロと、世間知らずな観光客のように辺りを見渡す祐一だったが、ふと、隣を歩いていたパルヴェーズの姿が無い。

 またか! 今度は別の目的で辺りを、キョロキョロと見回す。

 居た。パルヴェーズは、いつの間にか住民の一人に声を掛けては、何やら話を聴き出している様だった。

 あいつ、日本語だけじゃなくて、ここの言葉も喋れるんだな……。もう何度目になるかも分からない驚きをあの不思議な少年へ向ける。まあ人間どころか動物達とすら話ていたのだ、今更か、と祐一は諦めた。

 

 パルヴェーズが話している間、祐一はその光景を眺めボーッとしていた。途中、パルヴェーズと話していた住民が、祐一を指差し何か言い募っていた場面もあった。よくよく見れば、他の住民達も祐一を見ては、ギョッとしたり、不審な目を、向けているのが見える。

 ……なんだろ? 

 頭にはてなマークが浮かび、自分の格好をじっくり観察する。……ふむ。特におかしな所はない。

 ならば、日本人だからだろうか? 

 周りを見渡し、人々を見てみる。……確かに、この町に祐一に似た顔立ちの人間は居ない。

 あ、もしかしてこの臭い、かな? 

 祐一は自分のブレザーから漂う、異臭を強く意識してしまう。思わずと言った様に、鼻に袖口を近づけて、臭いを嗅ぐ。咽た。

 

 ほどなくして、パルヴェーズが軽やかな足取りで、祐一の元へ戻って来た。

 小さく手を振りながら、出迎える祐一。

 

「なに話してたんだ?」

「うむ。この地の名や位置を聞き出しておった。まあ、我は知らずとも構わぬが、おぬしが知りたそうじゃったからの」

「本当か! ありがとな、パルヴェーズ!」

 

 やっぱり、この不思議な友人はいいヤツだ。

 祐一は、いつか絶対に恩を返す! と決めパルヴェーズと話し込んだ。

 パルヴェーズの話によるとここは「イラン」という国らしかった。祐一の頭の中の世界地図を引っ張り出し、位置を確認する。

 むーん……結構、流されたなぁ。船が転覆する時に居た場所は、アラビア海を抜け、オマーン湾に差し掛かって直ぐの場所だった筈。

 そこからかなり流されパルヴェーズが言うには、今いる土地は、イラン南東部、海岸沿いにある「ホルモズガーン」という州で位置的にオマーン湾とペルシア湾の間に位置する場所だ。

 

 そしてここは、そのホルモズガーン州の南端にある町らしい。ホルモズガーン、という単語に聞き覚えは無かったがそれでもあり得ないくらい遠くまで流されたのは良く分かった。

 ……うーん。ま、いっか! 祐一は、少し悩んだが、目的地のスロバキアに近づいたからいいや、と開き直って思考を放棄した。

 ある意味、最強のメンタルを持つ男である。

 

 更に、パルヴェーズが言うには、祐一の服装に何やら問題があるらしかった。

 祐一は、学校の制服であるブレザーを着ているのだが、どうやら、それに付随するネクタイが駄目らしい。

 この町はイスラム教が殆どなのだが、イスラム教的に、ネクタイはアウトらしい。

 周りの住民が不審な目で見てきた理由は、コレか……。

 と、ネクタイを解きながら祐一はなるほどなぁと謎がやっと解けたと言う表情と、知らねーよ……と言う投げやりな表情が同居した顔を作った。

 

 今さっきパルヴェーズと話していた叔父さんは、人懐っこい人で、話し合う祐一とパルヴェーズが気になったのか近付いて来ては、言葉の通じないの祐一にも陽気な赤ら顔で話しかけて来た。

 つるりとした禿頭と豊かな白髭に妙な愛嬌がある人だ。

 祐一も最初は警戒したが、すぐに笑顔を向け、ボディランゲージやパルヴェーズの通訳を駆使して、意思疎通を図る事にした。

 

 そんな遣り取りの中で叔父さんは、汗臭く泥と汚れまみれのブレザーをどうにかしたい、と言う祐一に、ならば私が洗ってあげよう、と申し出てくれた。

 遠慮する祐一だったが叔父さんの人懐っこさとパルヴェーズの援護射撃に折れ、ブレザーを手渡す事になった。

 

 それから叔父さんは、近くにある自分の家から着替えに着てくれ、とゆったりとした青い服を渡してきた。

 この叔父さんに遠慮したら失礼だな、と祐一はこの短い間で気付き、お礼を言って服に袖を通す事にした。

 

 窓に写った己の姿は、青い服とあんまり似合っていない様にも見え、少し恥ずかしい。パルヴェーズは、そんな祐一を見ては、クスクス笑っていた。

 それから叔父さんは、洗濯が終わるまでの時間は近くのチャイハネで過ごして居ればいい、と勧めてくれた。

 

「チャイハネ」ってなんだろう? 祐一は謎だったが、行ってからのお楽しみだな。そう思う事にして、何も聞かなかった。

 おじさんの好意は、それだけでは終わらなかった。

「宛が無いなら、うちで一泊くらい泊まっていきなよ!」とグイグイお節介を焼いてくれたのだ。

 流石にそれは不味いと、断ろうとした祐一だったが、パルヴェーズが肯ったので、結局叔父さんの家に泊まる事が決定した。

 

 確かに今夜の宿はない。今更、祐一は思い出した。

 流石パルヴェーズだ。俺も見習おう……。

 パルヴェーズの世渡り上手さに心の中で感心し、次は俺も上手くやらねば、と決意する祐一の姿があった。

 パルヴェーズが、叔父さんから貰った地図を見て、祐一を先導する。目的地は「チャイハネ」と言う場所。

 祐一はパルヴェーズと、どんな所だろうな? と話しながら、異国の町を歩いて行く。

 

 それほど、大きくは無い町だ。十分ほど歩けば、すぐのに目的地に着いた。

 中に入ってみる。

 入った途端に、何やら最近嗅いだことが無かった料理の香ばしい香りが、鼻腔をくすぐった。反射的に、腹の虫がなってしまう。

 思わず腹部を抑え、ちらりとパルヴェーズを見遣る。すると、ニヤニヤ笑うパルヴェーズが、こちらを見ていた。今朝と一緒じゃないか……、恥ずかしくなった祐一は逃げる様に、中へ視線を移した。

 

 どうやらチャイハネは、中東における喫茶店のようなものらしい。

 中に入ると、住民たちが椅子に座ったり、地べたに絨毯を敷いては、思い思いに寛いでいた。

 近年のイランでは、シーシャー……水タバコの規制が厳しくなり、減少傾向にあったが、田舎だからか、このチャイハネには、シーシャーが未だに現役で使われている様だ。

 

「サラーム!」

 

 今さっき、パルヴェーズに教えてもらった挨拶を振りまき、祐一とパルヴェーズは店内に入った。

 朝食は食べたが、その後何も口にしていない祐一達。

 早速、椅子に座り注文しようとした所で、はたと気付いた。

 

「なあ、パルヴェーズ。……俺、金持ってないけど、君は持ってるか……?」

「金? ふむ、貨幣の事ならば、人里に降りる理由も無かった故、持ってはおらぬ」

「……駄目じゃん!」

 

 遙か東方からの異邦人と、世俗から解脱していた漂泊の旅人が、イランの通貨など持っている訳もなかった。

 

「ふむ。おい、小僧。何か価値があって交換出来そうな物を持っておらぬか? あるならば、我に渡してみよ。なぁに、我に任せておけ。おぬしが心配する事など一つもないわ」

 

 パルヴェーズは胸を張り、莞爾と笑った。

 そう言われ祐一は何か役立つ物が無いか全身を隈なく探した。祐一の持ってきた荷物は船ごと海の藻屑と消えたのでポケットに入れていた物しか無かった。

 見つけたのは肌身離さず持っていた、父の腕時計と、海に浸かってくしゃくしゃになった、へそくりの封筒だった。

 腕時計は海に投げ飛ばされた衝撃で、もう時を刻む事は無かったが、何となく手放す気になれなかった。仕方なく祐一は、へそくりから紙幣を抜き出し、パルヴェーズに渡す。

 

 彼は一つ頷き、その紙幣を握って長身痩躯なのが特徴的な、チャイハネの店主へ交渉を開始した。ほどなくして、紙幣を店主に手渡したパルヴェーズは、親指を立てて拳を突き出し、にやりと笑った。

 あのグイグイくる商売上手なイラン人から、勝利をもぎ取ってくるのはすごいよなぁと、感心しながら、祐一も親指を立てて拳を突き出し笑った。

 

 肉。肉。肉。

 ここはチャイハネ……喫茶店であり、お茶を嗜むのが本来の姿だったが、このチャイハネはがっつりとした料理も出しているようで、チャイ(紅茶)はもちろんの事、キャバーブ(ケバブ)や鶏肉とトマトのホレシュ、豆のスープ、淡水魚のキャバーブ……なんてものもあり、肉料理を中心に卓に料理が並べられていった。

 肉料理と言っても、イスラーム圏の例に漏れず、豚肉は出てこない。代わりに日本では馴染みが無い羊肉がふんだんに使われているようだ。

 

 店主も気前がいいようで、明らかに注文した以上の料理が所狭しと置かれている。

 祐一が驚いたのは、チュロウと言う料理を食べた時で、チュロウとは白米に油と塩を加えた料理だった。

 この中東のイランでは「米」と「ナン」が主食らしく、祐一はこんな異邦の地で、自分の故郷の主食が食べれると思わず、チュロウが出てきた時には目を疑った。

 まあ、「米」と言っても細長いインディカ米の為、祐一がいつも食べているジャポニカ米とは全く別で、初めて食べるインディカ米に、違和感は拭えなかったが……。

 

 パルヴェーズと卓を囲み、食事を取る。

 朝、魚を焼いて食べた時も思ったがパルヴェーズはどうやら随分な健啖家らしく、満漢全席にも匹敵する量とカロリー豊富な料理が、あの細見の身体に吸い込まれるように入っていく様子はかなり見物だった。

 祐一も成長期の少年よろしくパルヴェーズに負けず劣らず、アツアツの肉料理を次々と平らげていった。

 そんな二人の様子はどうやら住民たちには愉快に見えた様で、ヤンヤヤンヤと囃し立てて来た。

 店主も店主で自分の料理をペロリと平らげて行く少年二人が気に入ったのか、頼みもしていないのに追加の料理を作っては、そのこけた頬を緩め笑っていた。

 

「パルヴェーズ、店主さんにそんなにタダ飯作って良いのかって聞いてくれよ。明らかに作り過ぎてない?」

「ふふ。まあ、良いではないか。人の好意を無碍にするものでは無い。それに、おぬしの故地でも備えあれば憂いなし、と言う教訓があろう? この先の旅はどうなるかわからぬのじゃ。今の内にたらふく食っておけ!」

「……だな! よし、おっちゃん! おかわりー!」

 

 パルヴェーズの言葉にたしかにその通りだと、宜なる祐一。憂いを無くすぞ! と、ここがもう外つ国である事など全く気にせず大声でおかわりを頼んだ。

 この木下祐一と言う少年は、とても単純であった。

 

 今、祐一の眼の前には、独特な形をした奇妙な硝子製の物品が置かれていた。その物品からは何やら怪しげな管が這い出ており、何とも言えない淫靡さが漂う一品。

「シーシャー」である。

 この店内の様子は、酒も無い筈なのにみんな酔っ払ったように、ハイテンションだ。

 肩を組み合っては笑い合い、何処から持ってきたのか太鼓のような楽器で演奏を始める者もいる。

 祐一もパルヴェーズも、勧められるままに食べては飲みを繰り返していた。そんな中、若い青年の一人が、何やら管を口につけては、ポコポコと音と白煙を出す姿を祐一は見咎めたのだ。

 

 通訳してくれたパルヴェーズが言うにはタバコみたいな物らしい。

「へぇー」と感嘆の声を上げる祐一に青年が吸ってみるかい? と管を差し出し言ってきた。店内の人たちもやってみなよと、声を掛けてくる。

 

「ふふん! この木下祐一! 知らないからと言って、上げ膳据え膳を拒むような男では無い! イーン ラーチェトォル エステファーデミコナンド?」

 

 こいつ、酔っぱらってるのか? ……そんなテンションで祐一はパルヴェーズから教えてもらった言葉を使い「これ、どうやって使うの?」と訛り全開で青年に尋ねた。

 そんな祐一に青年は少し苦笑しながらもゲリヤーンとも呼ばれる水タバコの使い方を教えてくれた。

 

 力一杯に吸い込むなよ? と言う青年におう! サムズアップして返す。

 何事にも全力で挑む少年、木下祐一。更にオツムの出来もそれほど良くは無いのだ。

 青年からの忠告を忘れ、あらん限りの力を込め、肺一杯に吸い込む祐一。

 結局、転げ回るほど咽た。

 

 そんな異国で迎えた、賑やかで愉快な最初の晩餐の一幕。



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俺はまだ諦めたくない!

 そんなこんなで異国の店で腹を満たし、大いに楽しんだ後。

 

 二人は歩きながら叔父さんの家に戻っていた。二人肩を並べて歩いて行く。

 今日は満月だ。故郷から離れたここイランでも月の明るさは依然として変わらず、街灯が無くても道がはっきり見えるほど明るい夜だ。

 そんな月明かりに照らされた道中、祐一は一枚の手のひらサイズの紙を掲げニマニマと満足そうに笑っていた。パルヴェーズは少し苦笑いして、未だニヤけている祐一に話し掛けた。

 

「何じゃ、小僧。さっきからニヤニヤしおって。それほど、その絵が気に入ったのか?」

 

 パルヴェーズの言う通り祐一の手に収まっている物の正体は、写真だった。……というのもあのチャイハネで食事を取った二人は、程良い満腹感に浸りながら、何とはなしに動く気もなれず紅茶を飲みつつ穏やかに雑談に耽っていたのだ。

 そんな二人に、シーシャーを吸っていた青年が、声を掛けて来たのだ。

 写真を撮ってみないか、と。

 

「まあな。だってさ、旅に出て初めて撮った写真なんだぜ? 俺さ、今まで旅して来たけど、形に残ってる物なんて、これが初めてなんだよ。ずっと船の上に居たから、お土産なんて買えなかったし、パルヴェーズみたいな友達も居なかったからなぁ。だから、すっごい嬉しいんだー!」

「なるほどのう。まあ、我もおぬし達と輪になり、証を残すと言うのも悪い気はせぬ。ふふ、これまで数多の彫刻、レリーフに象られて来たが、この様に人々と共に象られるのは初めてじゃのう」

 

 パルヴェーズは現像してらった写真を指の間に挟めヒラヒラと弄びながら微笑む。祐一も同じ様に笑っては飽きる事を知らない様に、写真を見ていた。

 写真には、店に居た住民が「俺も! 俺も!」と押し掛けてきて、写真の枠一杯に、人々がギュウギュウに詰め込まれていた。

 その写真の中心には、少年二人が仲良さ気に肩を組んでいる。

 少年二人は当然の如く祐一とパルヴェーズで、祐一は左腕をパルヴェーズの首に回し右の拳を突き出ては親指を上に立てて、これ以上無いほどの笑顔で笑っている。

 パルヴェーズはと言うと、どうやら隣の相棒に少し呆れ気味の様で苦笑を浮かべている。だが右腕はしっかりと祐一に回されていて、そこに嫌悪の感情など無い事ははっきりと伝わった。

 

 上機嫌笑いながら、歩いて行く二人。

 二人旅を始めて、この選択は間違いじゃなかった。どちらともなく、そう思った。

 

 叔父さんの家に着いた。

 渡したブレザーはどうやら洗濯が既に終わっている様で、庭先に祐一のブレザーが干してあのが見えた。少し小走りになって、干してあるブレザーの所へ向かう。

 ちょっと気になって、臭いを嗅いでみる。

 

「良かった。臭くない!」

 

 叔父さん……と言うか、伯母さんだろうが、どうやったのか、あの鼻を摘みたくなる悪臭と汚れを綺麗に落としてくれたようだ。

 ありがたい……。祐一は素直にそう思った。

 

 予兆は、無かった。

 

「ここの人たちって、親切な人たちばっかだよなぁ。まあ、日本人じゃ考えられないくらい話しかけてくるから、ちょっと疲れたけど……」

「……おぬしも随分と楽しんでいたように見えたんじゃがのう。まあ、良いわ」

 

 少年は頬を歪めて苦笑し、

 

「まあ、ここら一帯に広まる教義には、弱者救済の教えがあるからの。我らは傍から見れば、貧しい漂浪者と変わらぬ。故、思いがけないほど懇篤な心遣いをもらったのじゃろう」

「ふーん。あれ? この辺りの宗教ってイスラム教だよな。それを知ってるって事は、パルヴェーズもムスリムだったりするのか?」

「……違う。まあ、かなり広く解釈すれば、そうであるとも言えなくは無いが……。今ここにいる我は、勝利の具現者。

 ここに広まる教義の神とは、相容れぬ者であり、相反する存在じゃ。さらに言えば、かつてこの地にて隆盛を誇った我らを貶めたと、言っても過言ではない……、忌まわしい存在でもある。

 まあ、その教義があってこそ我らは夕餉にありつけたとも言えるがの」

 

 パルヴェーズにしては珍しくちょっと不愉快そうな、あるいは不貞腐れたような表情だった。こいつにも嫌いな物があるんだな。と祐一は驚いたようにパルヴェーズを見ていた。

 

 異界の法則に長じる魔術師や、気候学の碩学泰斗であれば、あるいは気付けたかもしれない。

 

「……小僧。おぬしは……」

「えっ? なに?」

 

 いきなりだった。

 何か言いかけたパルヴェーズだったがすぐにハッとした仕草を取った。彼は首を左右に振り、「いや、忘れよ」と己の言葉を取り消した。

 何時もの暗い夜道ならば分からなかったが、月明かりに明るく照らされ、映し出された彼の表情は寂しげな色をしていた。

 

 周辺の異常なほどの神力の高まりに、尋常ではない気圧の乱れに。

 

 そうこうしている内に二人の気配に気付いた叔父さんが家から出てきた。手招きしては己の家へ招き入れてくれる。

 叔父さんは、二人に別々の部屋を用意してくれたようでパルヴェーズとはそこで別れた。

 

「夜はわるーい悪魔の時間だから、良い子はもう早く寝なさい」と叔父さんに促され、まだ早い時間だったがどうやら今日はここまでの様だ。色々と今日も濃い一日だったな、と振り返りながらも、祐一は床に就いた。

 

 大地に根を張る草木、空を飛翔する鳥、佇む山、澄んだ夜空。その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせていた。

 ……気付かなかったのは人間だけであった。

 

 相容れぬ者、相反する存在、か……。

 どうしてもその言葉が頭にこびり付いては離れない。祐一の脳内を鬱陶しいほど何度もその言葉がリフレインする。最後に見た寂しげなパルヴェーズの顔が、何故か目蓋にこびりついて離れなかった。

 

 ……だが、一人だけ気付いた人間が居た。類稀な運と鋭い洞察力を持った少年、木下祐一だった。

 

 

 

 草木も眠る丑三つ時。

 誰もが寝静まる「深夜」と言う言葉がこれ以上無いほど当て嵌まる時間に、祐一は大きな違和感と小さな物音を聴き、ふと目が醒めた。

 パルヴェーズ……か? 

 物音はパルヴェーズのいる隣室からだった。

 耳を澄ませば聞き逃しそうなほど微かに、コツ、コツ、と言う足音が聞こえる。

 パルヴェーズほどでは無いが祐一もまた耳が良い。その彼が聞き逃しそうなほど小さな足音。

 

 トイレかな? 

 じゃあ……いっか。そう思い、寝直そうとした祐一だったがパタリ……。とドアが閉まる音が聞こえた。それから土を踏む音が聞こえてくる。

 ……どうやらパルヴェーズは誰にも内緒で外出したようだ。

 

 ──違和感が、膨らむ……

 居ても立っても居られずはね起きる。

 サッとブレザーを羽織って部屋を出る。

 

 ドアを閉めた時バタンッ! と、思いの外大きな音出てしまった。思わず肩をすくめビクリッと過剰に反応してしまう。

 バレた、かな……? だが幸い、誰も起きた気配は無かった。

 

 コツコツ。

 パルヴェーズを追って祐一も静かに、しかし足早に外へ向かう。窓にはカーテンが掛けられてあり、外の様子は窺えない。でも分厚いカーテンでさえ遮れない月光が、祐一の歩く道を照らしてくれた。

 

 慎重に音を立てないようして家の出口を、静かに開けた。

 

「……雨?」

 

 外は、雨が降っていた。風も無く、ただ、水滴が止めどなく落ちて来る。

 町に建ち並ぶ家々に激しく打ち掛かり、「豪雨」と言ってもいいほどだ。しかし、祐一は、雨が降っていることに全く気付けなかった。

 当然だ。

 ──雨音が、無いのだから。

 祐一は瞠目して、辺りを見渡す。

 

 

 雨水が、地面に打ちかかり、四散する。

 ──地面は濡れてはいなかった。

 

 満月が輝く夜空から、涙のような雫が滴り落ちてははじけ飛ぶ。

 ──雲は何処にも無かった

 

 頭上に幾条もの雷光が生まれ、空を駆けた。

 ──雷鳴は聞こえなかった。

 

 

 …………なんだ、これ。

 背に、いや全身に怖気が走った。明らかな異常事態。何が起きているのか理解出来ない。祐一の楽観的な心が『夢だ』と喚いて認めようとしない。

 そんな、訳が無かった。

 祐一は一度、似たような異常現象に遭遇している。それもごくごく最近の事。

 

 ───あれは二日前。アラビア海洋上での出来事。

 

 戦慄。そしてそう思い至った瞬間、息を呑み周囲を刮目する。ああ……人が、誰も、居ない。

 そうだ。この明らかな異常事態の中……例え誰もが寝静まる深夜であっても……誰も目を醒まさない筈が無かった。

 そもそも、生き物の気配がなかった。

 夜の街を闊歩する猫。月に向けて鳴く虫。羽を休める小鳥。そんな……いつもなら、何処にでも感じられる気配が一切ない。

 

 ただ静寂だけが流れる町。

 立ち並ぶ家々を見やる。雨水打ち付ける窓には、明かりがあるものは、一つもなかった。

 叔父さん達の家。……あれは、本当は起きた気配がしなかったんじゃなく、本当は……「居なかった」からでは……? 

 

 ───バタンッ。

 突然の突風で、ついさっき出てきた扉が閉まる。

 すぐさま駆け寄りドアを引く。ガチャガチャと動かしても扉は、まるで開くと言う事を知らないように微動だにしなかった。

 

「……なんだよこれ!」

 

 降り注ぐ雨の中、薄暗い夜空に輝く星々がどこか不気味だった。アイボリーカラーの雑多な町が、色素の抜けた灰色の、無機質な町にしか見えなかった。

 恐怖、不安、戸惑い、諦め、嫌悪、悲しみ……あらゆる負の感情が祐一を苛む。

 ただ、ただ怖かった。

 

 ───だからこそ、祐一は走った。

 恐怖で脚が震えて覚束ない。いつ失禁しても、不思議じゃないくらいだ。

 いつもの意志の強そうな眼は無く、忙しなくキョロキョロと動いていてひどく頼り無さ気で。心が萎んだ風船みたいに、萎えているのが分かる。

 

 今すぐ、逃げ出したかった。

 だがそれでも祐一は逃げる訳にはいかなかった。そう、彼は逃げるために駆け出したわけでは無かった。

 

(───こんな時に、あいつは一人で居るんだぞ!)

 

 異境の地で出会った、ちょっと変わった友人。

 いつも偉そうでどこで習ったのか使っている日本語もおかしい少年。───あの少年がこの町のどこかに居る筈なのだ。

 ほっとける訳がなかった。

 返し切れないほどの恩を、受けた。そして、まだほんの少しも、返せていない。

 

(早いとこ見つけて、腕引っ掴んで、一緒に逃げる!)

 

 叔父さんの家には戻れない。それでも、俺達は元から、根無し草のさすらい人。何処にでも行けるはずだった。

 パルヴェーズを探す為、祐一は無人の町を走り続けた。

 走って、走って、探して、探して。

 それでも一向にパルヴェーズの姿は、見つから無い。

 土砂降りの雨が止まない。だが、静寂が流れる町を、ひたすらに走り回る。

 町のそこかしこにある窓や扉は、どこも締め切られていて、開きそうになかった。

 

 ただ暗い影から、何かが、こちらを覗いている様な、視線を感じて仕方が無い。

 立ち止まる。

 ふと、気配を感じて振り向く。……何も居ない。

 少しの安堵と共に、前を向こうとする。

 

 だが、前を向けば今度こそ何か居るんじゃないか……。そんな薄ら寒さが、背筋を通り過ぎ去っていく。

 何かが、居るかも知れない……。そんな恐怖に、俯きそうになる。

 大丈夫、大丈夫! 何も居ない! 心を叱咤して、顔を上げ様とする。

 パルヴェーズ……! 震えて折れそうな心に友の顔を思い描く。グッと、胸のあたりで拳を握る。胸ポケットにある友と撮った写真に勇気を貰う。

 ───いくぞ。

 顔を上げ祐一は、また走り出した。

 

 ──タッタッタッ! 

 パルヴェーズは見つからない。

 

 もう随分と走り続けている気がする。

 はぁっ……! はぁっ……! 体力自慢の祐一でも、流石に数時間も走り続けるのは、息が切れた。

 何の手掛かりも無く、同じ様な場所をグルグル周っている。そんな袋小路に居る様な感覚に、心がどんどん冷えていく。

 胸に手をあて握り締める。綺麗になったブレザーにくしゃりと皺が寄る。胸ポケットにある、写真の存在を強く意識した。祐一はもうこの写真が無いと走れそうになかった。

 走る。走る。

 走り回っても走り回っても、それでも町に人っ子一人居ない。それどころか生き物の気配すら感じなかった灰色の町並みは、酷く陰気で、不気味だ。どこを走っても、どこを見ても景色は、全てが同じに見える。

 ただ、中央に佇む礼拝堂だけが、唯一の目印だった。

 

 どれくらい走っただろうか? 

 走り回っていた祐一は、やがて町を抜けた。パルヴェーズは、町に居ない。そう決め付け、祐一は町を出た。

 ただ怖かったのだ。あの町が。

 何か居るのではないか? 誰も居ないのか? パルヴェーズはどこ? 俺は何処を走っているんだ? 

 そんな問いが不安を掻き立て、恐怖を呼び込んで行く。心が震え摩耗していく。

 ───もう此処に、居たくなかった。

 背を向けている町は星明かりに照らされて居ると言うのにおどろおどろしい。

 何か恐ろしい魔物が矮小な己を覗き込んでいる気がしてならない。今にも無数の手が伸びていて、己を絡め取り引きずり込まんとしているかの様だ。

 町の外に出ても、変わらず雨は降り続けていた。

 

 ───ざぁ。ざぁ。そんな音が聞こえてきそうな程の豪雨。いや聞こえてこなければおかしいのだ

 絶え間なく不気味な雨が、地面を打ち付けて行く。降りしきる雨が、祐一の頬を打つ。

 

 なんて不気味さだ。祐一は思った。雨に打たれた場所は確かに祐一の肌に触れたと言うのに、四散し直ぐに露と消える。何の足跡も残さず、それこそ亡霊の如く。

 降り掛かる雨を、打ち払うように首を振る。

 祐一は空を見上げた。降り注ぐ雨を睨むように。

 

 怖くなんて、無い……! そう自分に、言い聞かせる様に。

 見上げる空は、依然として澄んでいた。

 それに空を見て、思い出した事がある。

 どうやら今日は満月だったな。ふと、そんな事を思い出す。

 夜空は月の独壇場だった。大地には船に乗ったあの港町の様な月明かりを掻き消す光源は無い。雲だって一つもない。

 月明かりを遮る物は何も無かった。そんな、常あれば美しいと思える光景。

 この不気味な雨が降っていなければ……。祐一は、そう思わざるを得なかった。

 

「え?」──瞠目する。

 

 ただ、一つ。町の中からは見えなかったものが、はっきりと視えた。

 ───黒雲だ。

 暴風と豪雨に包まれ、止めどなく雷光が胎動する雲。球体の形をした……不気味な黒い雲が見えた。

 雲一つない夜空で、まるで周囲を闇で染め上げて行くかのような黒雲は……祐一にはよく見えた。

 

 ぶるり、と全身が震える。身体の穴と言う穴に槍を突き入れられる感覚。

 祐一はこの感覚に覚えがあった。これは───アラビア海洋上で突風に襲われた時と同じもの!

 

 ───ゾクリッ! 

 気付いた瞬間だった。何かに見られているような感覚が襲いかかったのは! 

 本能的に、向けられた視線を辿る。

 

 ああ。よせばいいのに……。

 彼は、辿ってしまったのだ。

 彼は、覗いてしまったのだ。

 彼は、知ってしまったのだ。

 

 ───深淵を。

 

 その視線は空からだ。

 そう。町からは見えなかったあの「黒雲」からだった……。

 黒雲を視る。黒雲は依然として荒れ狂っていた。

 カッ……カッ……。

 地面から見上げていても黒雲の中で絶え間無く、雷光が弾けている光景はよく見えた。

 そして稲光りに照らされ、映し出されたモノを……祐一は視た。

 

 ───『目』だ。

 

 賢しげな目。人間の目ではあり得ない平べったい瞳孔。そして金色の虹彩。

 それを祐一は見た事があった。あれは動物園での事。まだ幼い頃親に連れられて来た動物園に居た動物の目。

 祐一の子供心に、珍しさと恐怖を混ぜ合わせた記憶を植え付けた動物。

 

 ───「山羊」だ。祐一を見下す目は、「山羊」の目だった。

 西洋では悪魔の眼にも例えられる『山羊』の目が、遥か高みから矮小な人間を見下ろしている。

 地べたから見上げる、人間を嘲笑っている。

 なんなんだよ、これ!? 脚が竦んだ。理解が出来なかった。

 

 ───突然の出来事だった。

 

 ぞわり……と黒雲が蠢く。その悍ましい動きは、祐一には『山羊』が身体をこちらへ向けた様にも見えた。

 煌ッ!!! 刹那、黒雲から雷光が弾けた。 

 

 紫電を煌めかせた稲妻が一直線に迫る。 

 その軌道はテレビや画像で見たようなジグザクではなかった。祐一に向かって矢の如く一直線に向かって突き進む。

 祐一には稲妻の軌道が、ひどく、とてもひどく、ゆっくりに見えた。稲妻以外の全ての物が消えさり、視界には稲妻しか映っていなかった。音速すら抜き去るほど速い稲妻が、コマ送りのようにカク、カク、と見えたのだ。

 絶体絶命の危機に瀕した祐一はここに至って、今朝やってのけた武術の奥義「心眼」発動させてのけたのだ。 祐一の潜在能力と生存本能の強さが、窮地に陥り一気に開花した結果だった。 

 

 避けろ! 今なら間に合う! 動け動け動け!!! 身体になりふり構わまわない全力の指令を叩き込む。

 ───それでも、脚は動いてはくれなかった。

 

 大気を裂き、祐一に迫る必殺の雷槌。 あんな物を受けてしまえば死は避けられない。如何に身体能力に優れた祐一であろうと、その結果は常人と変わらない。 

 避けなければ───死ぬ。

 そんなことは判っていた。判っているはずなのに……! ───それでも、身体は動いてはくれなかった。

 ただ猛り狂う理不尽の猛威に、身を縮め震えるしか出来なかった。

 もうダメだ。身体が……動かない。心が萎えていく。あの突風と、同じ気配のする存在に、彼の足は竦み、全身は震え上がった。

 知らず流していた涙と鼻水で、彼の顔は醜悪そのものだ。ただ震えて死を待つ哀れな仔羊。今の祐一の姿は、そんな言葉がスッと当て嵌まった。

 

 走馬灯が射影機のフィルムを回すように移り変わっては駆け巡る。故郷の幼馴染とバカをやって親にしこたま怒られて、そんな今まで歩んできた半生の記憶が蘇る。家出してパルヴェーズと出会って、それで───。

 そうして胸に去来した思いは一つだった。

 

 ───まだ、生きたい……! 

 

 そう思った瞬間だった。堰を切ったように感情が烈火のごとく噴き出した。

 まだだ。まだだ。 まだ満足していない。まだ何も成していない。

 まだ、故郷のみんなに謝れていない。まだ、みんなにありがとうを言ってない。

 まだ、恩を返せていない。まだ、あいつと旅をしたい。

 

 また、みんなに会いたい! また、あいつと笑い合いたい! 

 

 感情が火山のごとく爆発する。自分の胸の内から驚くほど巨大な感情の波が溢れ、その奔流に拐われそうになる。だが祐一はその奔流に負けず、心を強く持った。

 

 それでも、鉄槌の如き雷撃は止まらない。祐一は、しっかと涙に濡れた目を見開き、刮目する。

 いつの間にか涙と震えは止まっていた。心で世界に向けて咆哮する。

 

 俺は! まだ生きたい! 

 だから絶対に───諦めたくない! 

 

 ────劫ッ!!!!! 

 

 静寂を引き裂き、轟音が世界を鳴動させる。今までの静寂が嘘のような轟音に瞠目してしまう。 

 轟音の発生源は、祐一へ放たれた雷撃と何処からか放たれた鎌鼬だった。彼を死に至らしめる筈の稲妻は、横殴りの鎌鼬によって相殺されたのだ! 

 

「うっわぁぁあああっ!!?」

 

 相殺の余波で祐一は為すすべもなく、吹き呼ばされた。何十メートルもクルクルと独楽になったように廻る。

 砂塵が舞う。視界が狂う。死にたく無い。

 舞い上がった土砂を縫うように、風のような存在が疾走する。

 見覚えのある、薄茶色の外套が視界を掠めた。……手を、伸ばす。

 

「──()()()

 

 そこで意識は暗転した。



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不思議なパゥワァー!

 明朝。それもまだ優しい光を放つ月が水平線に落ちたばかりで暁闇が広がる時刻。

 もうこの時間には、熱心なムスリムだった叔父さんは「ファルジ」と呼ばれる一日の始まりのナマーズ(礼拝)を行うために起床しているようだった。

 祐一とパルヴェーズもまたチャイハネを出てすぐに床についた為か、なんとなく目が覚めて早起きしていた。

 と言っても完全に意識が覚醒しているのは、パルヴェーズのみで、祐一は低血圧なのか、普段の数倍はその鋭い目がさらに凶悪になっていた。

 示し合わせたように、同時に部屋を出た二人。

 廊下に出たパルヴェーズは、祐一を見て目を逸した気がした。

 だが、それよりも……

 

「クソ眠いです。昼まで寝ていい?」

「アホな事言うておらんで、早う顔を洗って来ぬか」

 

 パルヴェーズは、くすりと、笑った。

 今日一日、最初の会話だった。

 

 ナマーズが終われば、叔父さん家族が用意してくれた、朝食をありがたくいただく事となった。

 チャイハネで食べた料理よりも薄味ではあったものの、チャイハネの店主には悪いが、こちらの方が数段、美味しく感じられた。

 洗ってもらったブレザーを手渡され、お礼を言う。

 ───あれ、昨日返してもらわなかったっけ? 

 ふと、そんな疑問が生まれたが、祐一はすぐに忘れてしまった。

 こちらも貸してもらった服を返す。

 洗濯してもらったブレザーはどこか輝いているようにも見えて、

 

「扱い粗くて、ゴメンな」

 

 と撫でながら零す。

 何だかんだこの一ヶ月、着続けていたこのブレザーをどうやら自分は随分気に入ってしまったみたいだ。

 祐一は返ってきた服にそんな事を思いながら袖を通した。

 そうして穏やかな時は過ぎ、祐一達は町を出た。

 叔父さんはもう一泊くらいして行きなよと、引き留めてくれたが、それは流石に申し訳ないと固辞して旅立つ事にした。

 叔父さんは残念そうな顔をしたが、直ぐに笑顔になってハグをしてくれた。頬に当たる豊かな髭がくすぐったかった。

 

 ○◎●

 

 てくてくと昨日に引き続いて当てどもない旅が始まった。

 どこに行く? と祐一が尋ねればパルヴェーズが、気の向くまま、風の囁きを聴きながら進めば良い、と嘯く。ふーん。いつも通りだなぁ。祐一がそう返し二人の行き先は決まった。

 町を出て数刻ほど経った頃。

 最初は街から伸びていたアスファルトの道を歩けたので比較的楽な道行きであったが、それもパルヴェーズが駆け出すまでの短い時間だけであった。

 パルヴェーズの駆けた先には必ず何処か怪我した動物か、困っている人が居た。

 その遭遇率は百発百中で、祐一も昨日から続くパルヴェーズの「人助け」に驚くやら呆れるやらで、けれどなんだかんだで付いて回った。

 

「お前、よく見つけられるよなぁ。声が聞こえる! って言われても、俺には全然聞こえないぞ」

「ふふ。我は最強にして遍く声を聴く者なれば、当然の事。それに我の目もまた大鷲の如く、遠方の地ですら見通せる。故に千里先すら見通す事など容易い事じゃ。間違える事など万に一つもない。まあ、おぬしは只人じゃ。そう嘆く事もあるまいよ」

 

 パルヴェーズは然も当然のごとく言っていたが、どこか誇らしげですらあった。

 

 てくてくと、歩いて行く。

 もう時刻はお昼に差し掛かる所。朝から昼まで二人は、その無尽蔵な体力を発揮しぶっ通しで歩き続けていた。

 この炎天下の中、快活に動き回る二人はそれだけで普通の人間と一線を画していた。

 流石に何時間も歩き回り、暇を持て余し始めた祐一。数歩先を行くパルヴェーズを見て、ニヤリと笑う。

 手にはいつの間にか拾った棒を、引っ提げている。

 どうやら彼は昨日勝負した雪辱を果たそうとして居る様だ。辞めておけばいいのに……。

 

 抜き足……差し足……忍び足……。そろりそろりと、パルヴェーズの背後に回る祐一。今の彼の表情は、ここが街中であったならば確実に職質されるくらい嫌らしい顔だ。

 

 ゲッヘッへ。これは、貰ったなぁ! パルヴェーズ敗れたりぃー! そうニヤニヤとパルヴェーズの後ろをとり、獲物であるパルヴェーズを凝視する。その動きをつぶさに見ながらも勝った後の未来を夢想する祐一。己の勝利を全く疑わない一応は戦士の姿があった。

 腕を振り上げる。同時に、雄叫びを上げる。

 

「隙ありいいいいぃぃぃ!!!」

「───そんな物ないわ阿呆」

 

 振りかぶった棒を、大上段に叩き込む祐一。

 しかし後ろに目が付いてるのか? と疑いたくなる程の察しの良さでパルヴェーズは応じた。

 パルヴェーズの冷たい声が、祐一の鼓膜を叩く。

 ───あれェ!? 夢想していた薔薇色の未来と、残酷な現実との違いに驚愕し困惑する祐一。

 

 祐一が放つ渾身の一刀を察知し、パルヴェーズは振り向きざまに左へするりと避けて見せた。次いで、振り下ろされた彼の手をパルヴェーズは右手で掴みグイッと引く。

 

「おわわっ!」

 

 棒を振り降ろし、もともと重心が前に動いたのだ。そこをパルヴェーズが引っ張る事により、バランスを崩して前のめりに倒れ込む祐一。

 咄嗟に足でなんとか踏ん張ろうとするが、出来なかった。

 ───グイッ! 

 パルヴェーズの左足が、踏ん張ろうとした足を一息に掬い上げたのだ。

 

「ぬおっ!」

 

 前に移動した重心を片足で踏ん張ることも出来ず、顔から地面にダイブする祐一。勢いそのままに倒れて行き、そして彼は倒れる瞬間に見た。

 眼の前に掬い上げる様に迫るパルヴェーズの左拳を。幻視した未来に思わず表情が凍る。

 ゴチンッ! 現実は非常である。未来は変わらず鼻っ面に強かな一撃が見舞われた───! 

 

「のぉおおぉおお……!」

 

 倒れ伏した祐一。彼は鼻を抑えながらそのまま地面で悶絶した。絶対零度の冷たい目でその様子を見下ろすパルヴェーズ。

 今回も勝負。勝敗は明らかであった。

 くそぉ……! ……また黒星が、一つ増えちまった……! 何故だぁあああ! 

 のたうち回りながら嘆く。昨日今日ですでに二十を超える黒星を上げている祐一君。彼が旅の相棒に勝つ時は、来るのだろうか? 

 だが彼は勝敗を気にするより先に、相棒からのこっ酷い説教と扱きが待っている。

 頑張れ、祐一。負けるな、祐一。多分、来るだろう、勝利の時まで、君は戦い続けるのだッ! 

 

 ○◎● 

 

 打たれた鼻をさすり凸凹した地面に正座する祐一と、半眼でこちらを見下ろし説教するパルヴェーズ。

 もうかなりの時間、説教されている気がする……。祐一は痺れて感覚が無くなり始めた足を擦る。

 

「はい。はい。すんません」「さーせんっした」「いえ、違わないです……」

 

 そんな陳謝の声が無人の荒野に響く。

 祐一はパルヴェーズの説教を聞きつつ、長時間正座して痛む膝を擦りながらひどく反省していた。

 何故もっと上手くやれなかったのか、と。

 後悔は全くしていないどころか次の算段を付けている阿呆の姿があった。彼は負けず嫌いの前に、諦め悪い馬鹿だった。

 ほど程なくして説教も終わり、少し弛緩した空気の中。そんな折にふとパルヴェーズが、

 

「ふむ、そう言えば小僧。何故おぬしはそれほど、勝利に……強さに拘るのじゃ? 確かに、勝ちたいと思う心は判るが、おぬしは些か、度が過ぎている様にも思えるのでな」

 

 そんな質問を祐一に訊ねた。

 

「え? ……なんでって……そりゃあ……」

 

 突然の質問に驚き、そして言葉に詰まる祐一。勝負に拘る理由なんて、簡単なものだ。

 お前に名前を呼んでもらいたいから。

 それが第一の理由だった。だけど小っ恥ずかしくて言えるわけがない……。頰をかいて仕方無く第二の理由を語る。

 

「あー、俺の故郷にさ……強い奴らが居るんだ」

「ほう? おぬしをして、強い者が居ると言うのか」

「おう。全員同い年で家も近いから、良く遊ぶんだけど……。力が半端なく強かったり、無茶苦茶しぶとかったり、百発百中だったり、追いつけないくらい速かったり……まだ居るぜ? みんな強えし、勝負事になったら全力で勝ちに行く。そんな奴らばっかなんだ」

「ふふ。良き友が多いようじゃのう?」

「ああ、そうさ! 友達どころか、みんな兄弟みたいなもんさ。全員イイ奴ばっかだし、パルヴェーズも気に入ると思う! いつか故郷に行こうぜっ! そんで、故郷に帰ったら紹介する!」

「はは。それは楽しみじゃのう」

「絶対来いよ約束だ! ……ま、そんで、そいつらと勝負するんだけど……。一応、勝ちは拾えるんだ。へへっ、それに、負けた事は数える程しかないんだぜ? ……でも、いっつも紙一重でさ、いつ負けるかヒヤヒヤもんなんだ」

「ほう。おぬしに土を付ける程、強い者たちか。それも同じ年齢の……。ふふ。おぬしは良き環境に居るようじゃのう?」

「そうさ! ……で、やっぱ勝負するからには、勝ちたいだろ? 勝ち続けたい。それに、一番勝ってる俺が、どっかで負けちまったら、あいつらまで「弱い」って事になる。それだけは、絶対に、嫌だ。

 ……だから、立ち止まってられない。俺だって、旅に出て強くなってるつもりだけど、強い奴はごまんといる。故郷のあいつらだって、強くなってる。間違いねえ。だから今度あった時、強くなって、また勝負する時に、絶対勝てる様になりたいんだ!」

 

 祐一はいつの間にか握っていた拳を見つめ、自分に言い聞かせる様にも聞こえる声音で語る。

 

「……そうだ。いつか、故郷に帰ったら……。俺はこんなにも強くなったぞって、みんなに見せてやるんだ」

「ふむ。おぬしは友に……いや、好敵手たる者達と競い合う為に強く成りたい、と言う事かの? そして、その好敵手達と雌雄を決し、勝ちを収めたいと……。なるほどのう……」

 

 そこで納得した様にパルヴェーズは頷き、今度は莞爾と笑って、

 

「ふふふ。おぬしはどうも、勝利の化身たる我の心を……常勝の戦士たる我の心を()()()()……。初めて会った時から、思っておった。おぬしの、その強き瞳に見据えられると奮い立ちたくなる者は多いじゃろうな。……面白い人の子よ。その純粋な心も、勝利への渇望も、我の心を捉えて離さぬ」

「な、なんだよ。いきなり……?」

「ふっ。まあ、どの様な者であれ、おぬしの為に何かをしてやりたい……。そう思ってしまうという事じゃ。そう……この我であってもな」

「?」

「分からぬか? 要するに、おぬしに強く成れる指南をしようと言う事じゃ。力を欲し、勝利を望むおぬしに僅かばかりの助言と力添えをな」

「マジ!? やったぜっ!」

 

 祐一の顔が綻ぶ。この比類なき強さを持つ相棒から強さの秘訣を聞ける! と言う事を素直に喜んだ。一度も勝った事が無いこの友人から少しでも強さを盗み、勝利へ繋げようと思案する貪欲な祐一の姿があった。

 まあ、何だかゲームの攻略本を見ている気分になり、ちょっと引っ掛かりを覚えはしたが……。貰えるもんは貰っとけ。祐一は、素直に思う事にした。

 

「──『気』?」

「うむ。人によって呼び方は数多と形を変えるがその源は同じものじゃ。身体の臍下丹田から生み出した力のことじゃな。まあ気の説明などいまは良い」

 

 パルヴェーズは手招き一つし、祐一を促す。

 

「小僧。少し、こちらに来い」

「ん? おお、わかった」

 

 正座から胡座に変えて座っていた祐一は立ち上がりひょこひょこと近づく。長時間正座していて足が痺れていたのだ。

 パルヴェーズの前に立つ祐一。不思議そうな顔を隠しきれていない、そんな祐一を認めたパルヴェーズは祐一の腹部に拳をトンっ、と当てた。

 全く気付く事が出来なかった。祐一はパルヴェーズとのどこまでも広がる武への差に背筋に冷や汗が流れていくのをしっかり感じた。

 そしてパルヴェーズが突然……

 

「耐えよ」

「───え?」

 

 ───ボゴンッ! 当てられた掌から凄まじい衝撃が伝わった。まるで大砲をゼロ距離で放たれた様な衝撃。

 余りの衝撃に意識が吹き飛びそうになる。必死に堪えるが衝撃は顔にまで伝わって来て、首が後ろへ跳ね上がり、身体も後ろへと大きく仰け反る。

 完全に腹部に当たっていたのだ。殴る時の振りかぶる動作すらなかった。それなのにこの威力。

 激しく揺さぶられる思考の中、祐一は驚愕の渦にいた。微かに、足を動かした所だけは見えたが、それ以外は何も判らなかった。

 吹き飛んで行く、祐一。 

 ───ゴン、ゴン、ゴンッ! 地面に何度も、頭、足、頭、足と交互にバウンドしていき、10mほど進んだ地点でやっと止まった。

 

「───死ぬわっ!」

 

 思わず立ち上がり叫ぶ祐一。思ったより元気そうだ。

 

「ふふ。そう怒るな怒るな」

「ざっけんな! 誰でもキレるわ!」

 

 パルヴェーズに詰め寄ってふざけんな! と抗議する。だというのにパルヴェーズはと言うと飄々としていて笑っていた。

 こ、こいつ! 

 目にもの見せるは、最終秘伝……! とばかり心に身を任せ、少林寺の奥義をパルヴェーズに掛けようとしてそこで待ったが掛かった。

 

「はは。ほれ、小僧。いま、身体に痛む所があるかの?」

「そんなのあるに決まって……っ! ───あれ?」

 

 身体が、痛くない。身体がバラバラになりそうな衝撃と、身体が舞って地面に打ち付けられたと言うのに身体は全く痛くなかった。

 えぇ……なにコレェ……? 

 ドン引きする祐一の頭の中に、疑問が津波の様に溢れた。

 

「おぬしを吹き飛ばす瞬間に気を込め、おぬしの身体を一時の間頑強にしたのじゃ。それ故、常であれば負傷が免れぬ事であっても耐える事ができたのじゃな。

 おぬしを吹き飛ばした技も、また気を使ったもの。確かに足を捻り、内功の動きを促しはしたが、大部分は気によるものじゃ」

「うん。まったく判らん」

 

 祐一は、ばっさりと斬り捨てた。と言うかそれを俺に打つ必要はあったのか? そうありありと祐一の顔に書いてあった。

 パルヴェーズは、そんな祐一の返答にクツクツ笑い、

 

「おぬしは「習うより、慣れよ」を地で行っておるからのう。ならば身体に教えた方が早そうじゃと思ったまで。

 そおら小僧、身体を空っぽにし澄んだ状態にせよ。目を瞑り、何も考えず、何も感じるな。ただ、静かに佇む山の如く構え、己の息遣い、心の臓の音を聞き、己の中で世界を完結させるのじゃ」

「……そんなんで、今のが使えるのか?」

「よいから、やってみよ。案ずるより産むが易し、と言うじゃろう。疑わず、先ずはやってみる事こそ肝要じゃぞ?」

「……そっか! やってみるよ」

 

 開き直る祐一、彼はきっと騙されやすい性質だ。取り敢えずパルヴェーズに言われた通り、目を瞑り、何も考えず、空っぽの状態に持ち込む。

 視界を遮られるがそれに呼応する様に、他の五感が鋭くなる。

 そうしてどれほど経っただろうか。異常な集中力を持って隣に居るパルヴェーズの存在さえも判らなくなるほど、埋没していった祐一はふと気付く事があった。

 

 自分の息遣いが、やけに大きく感じる。自分がいつもやっている呼吸。吐いて、吸う。そんな簡単な動作だと言うのに今は酷く億劫だ。

 吸う空気が鉛のように重い。懸命に吸うが、肺に全く貯まらない。無理矢理息を吸っているからか頭痛さえ広がるが、そこでまた気付く事があった。

 パルヴェーズが拳を当てていた場所。腹部……へその下あたりが、なにか温かい。何か形容できない流動的で、或いはマグマの様な固体が融解し、渦を巻いている感覚。

 若干、腹下したかな……? と心配になったが全く別だとすぐに気付く。

 

「それが気じゃ。小僧」

 

 祐一の状況を察した様子のパルヴェーズが声を掛けた。

 

「……これが?」

 

 実感が沸かない。いきなり未知の力を示されても、祐一は全くもってチンプンカンプンだった。

 突然、降って湧いて来た力に戸惑うばかりだ。そもそもなんでこんな力に今まで気付かなかったのかすら、不思議である。祐一は説明を求める様にパルヴェーズを見やった

 視線を受け、パルヴェーズは我が意を得たりと頷き、

 

「ふふ。驚いておるのう小僧。今までまるで知らなかった力に戸惑っておる。無理もない」

「そりゃそうだよ。こんなの初めて気付いたし……」

「気については……まあ、簡単な事じゃ。我が先刻、腹部へ手を当てた時、同時におぬしの経穴を突いたのみ。経穴を突く事によって、気の巡りを容易にしただけじゃ。我は、ほんの少し背中を押しただけ。あとは、おぬしの才で見つけたのじゃ」

「ふーん……。って事は、俺も今さっきパルヴェーズが殴ったみたいな事もできるのか?」

「今は無理じゃのう。しかし、修練を積み、長い年月を掛ければ、或いは……。と言ったところかのう?」

「マジか! なら、早速やろうぜ! これが使える様になったら、故郷のみんなに自慢してやるんだ!」

「ふふ。調子の良いやつじゃ。一朝一夕では、出来ぬと言っておろうに……」

 

 そんなこんなで慌ただしくも愉快な旅は続いて行った。時刻は早くも夕刻に近い時間となっていた。

 少し、修行に夢中になり過ぎたかも知れない……。何度目になるか判らない反省をした。

 

 それに修行に人助けと、祐一達はアスファルトの街道から完全にそれ現在地が何処かすら見失っていた。それでも二人の足取りに迷いは無かった。

 

「ここらで、野営するとしようかのう」

 

 そんな折にパルヴェーズから声が掛かった。どうやらここで一日を終えるみたいだ。りょーかい、祐一は辺りを見渡しながら頷いた。

 とりあえず焚き火をするための薪を揃えよう。

 パルヴェーズと連れ立っては歩いて行った。

 

 ───パルヴェーズは、優しいヤツだが、不思議なヤツだ。

 

 旅を始めて二日。この二日間で祐一がパルヴェーズに出した人評だった。と言うのも前述した通り、町を出てすぐに駆け出したパルヴェーズ。

 

 その先には駱駝が脚を怪我してしまい、立ち往生している旅人が居たのだ。そこへ駆け出したパルヴェーズが現れ、駱駝を介抱するとたちまち元気になったのだ。

 旅人からお礼をと言われたが、パルヴェーズは固辞しそのまま颯爽と去っていった。

 

 そんな様子を最初は祐一も驚いて見ていたが、何度も続くと流石に慣れてしまった。昼にもなれば嬉々としてパルヴェーズの人助けを手伝っていた。

 まあ祐一も、パルヴェーズの不思議な力が気になって、折を見ていつか聞こうと構えていた。

 不思議な力を使って人助けをするパルヴェーズ。そんな光景を手伝いながら傍から見つつなんか都市伝説が生まれそうだなぁ、とそんな事を思っていた。

 

 

 何も無い丘陵地帯で枯れ木を探す祐一達。

 周りを見渡し枯木や、薪代わりになりそうな物を探すがあるのは石と砂ばかりで良さそうな物は見当たらない。

 強いて言えばパルヴェーズに不意打ちしようとした時から持っている木の棒くらいか。

 

 棒をおでこに立たせながら歩く。彼は飽きっぽかった。暇つぶしも兼ねて気になっていた事をパルヴェーズに訪ねてみた。

 

「なあ、パルヴェーズ。昨日からちょいちょい疑問に思ってたんだけど、触れた途端に怪我が癒えるのってどう言う理屈なんだ?」

 

 そこまで言って祐一はハッと何かに気付いた様子になって、

 

「あっ!? あの気ってやつと言い、まさかパルヴェーズって職業が「パラディン」だったりするのか!? 気の修行すれば俺もなれるかな!?」

 

 祐一は大声で叫んだ。パルヴェーズは「グランドクロス!!」などとほざき、サボる祐一を白い目でで見つつしかし律儀に答えた。

 

「残念じゃが違うのう。そしておぬしにこの術を教授する事も叶わぬ。確かにおぬしの言う通り、神官……マギどもとやっておる事は似ておるが、源となる力はかけ離れたもの故な」

「かけ離れたもの?」

「うむ。マギどもであれば、輝きて光栄ある存在に希う事で奇跡を為す。……が、我は違う。我は最強にして、最も癒しを與える者。千の治療、萬の治療を持って悪神を討ち滅ぼす。故、我の前ではあらゆる障碍は打ち砕かれるのじゃ」

 

 祐一は、なるほど、と一つ頷き、

 

「わからん!」

 

 そう、胸を張って言い放った。

 

「ま、パルヴェーズは不思議パワーがあるって事だな! オッケーオッケー」

 

 パルヴェーズは、はぁ……と、祐一の返答に頭を抱えたが、薪を探しに歩き出した。そうして、少年の少し後ろを歩きつつ、ううむと祐一は唸った。

 

 やはり彼のもつ手品のような異能はおかしい、と祐一の心は警鐘を鳴らしていた。

 

 それに一昨日から今までホイホイとこの少年に着いてきたが、この少年の目的は何なんだろう? 特に急いでいる訳ではないようだが、何か果たさなくちゃならない事があるとは言っていた。

 そもそも記憶喪失なのに、なんでそんな事を憶えているんだ? 今さっきの癒しの話だってそうだ。どこでそんな知識を仕入れて来たんだろう? 

 祐一の心にじわじわと疑問が沸いてきた。

 今までめまぐるしく変化する状況に流されていて疑問に思う余地もなかったが、人里に戻り、一夜明けて少し冷静になった脳がそんな問いを提示した。

 それに、この少年はなかなかに見識高い。

 すぐ解るだけでも二カ国の語学に長じているし、イスラムは敬遠気味の様だが、それでもそのを教義を知り、受け入れる雅量もある。

 

 ──それに昨晩も、己を貶められた、と言っていた。

 それは自分の来歴を知っているのでは……? 

 パルヴェーズが本当に記憶喪失なのか、祐一は分からなくなった。

 この眼の前を歩く浮世離れした少年は、よくよく考えてみなくとも謎でいっぱいだった。

 

 最初に出会った時もどうやって海を漂流していた自分を助けたのだろう? 

 船や泳いで助けたにしても船は見当たらなかったし、パルヴェーズの服は濡れているようにも見えなかった。

 ともすれば祐一が知らないだけで現地の人と協力したのかも知れない。……それなら何で起きた時、二人っきりだったんだ? 

 それに海は見えていたとは言え、それなりに離れていた。海から助けたなら何故そこまで運んでまでして、海から離れたのだろう? 

 

 唸り続けても答えは出ない。祐一の味噌っかすな脳内ではそこが限界の様だった。それに何故か考えるほどに思考が纏まらず、無理やり考えれば激しい頭痛が襲うのだ。それがなんとも腹立たしい。

 珍しく考え込む祐一を、パルヴェーズが不思議そうに覗き込み、

 

「どうかしたのかの、そのような真剣な顔をして? まったく似合ておらぬぞ小僧」

 

 疑心が一瞬で、怒りに変わった。

 

「なんやとぉーっ! 俺だって偶には真剣になる事だってあるんだぞっ!」

 

 そう言って祐一は肩を怒らせ大袈裟な所作で、パルヴェーズを追い抜いて行った。

 待て、待て、とパルヴェーズは愉快そうに笑い、祐一を追いかけた。

 まぁ、いっか。パルヴェーズが、漂流していた自分を助けてくれた事には変わりはないのだ。それにこの太陽のような少年が自分を騙して陥れるような奴には見えなかった。

 

 その時はその時、だな。追いついて来たパルヴェーズと、言葉を交わし合いながら笑い合い、いまは祐一はそれでも良いと思えた。

 



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定められた者

 この地の寒暖の差は「頗る」と言っていいほど激しいもので夏になれば最高気温が35℃を超えない年は無く、夜になれば肌寒い、と感じるほどに気温が下るのだ。

 夕刻より一時の間この荒涼とした大地から、何とか薪になりそうな物を掻き集め二人は火を起こしていた。

 

 さらば、エクスカリバー……。今日一日、手に持っていた木の棒を火に焚べる祐一。

 名前を付ける程には気に入っていたが、薪になる物が見つからない状況で贅沢は言っていられず、泣く泣く手放した。

 南無南無……。両手を合わせ、冥福を祈る祐一。彼はかなりのアホである。パルヴェーズはそんな祐一の不可解な行動に小首を傾げていた。さもありなん。

 火を囲みながら二人は町の叔父さんから、別れ際にもらった食料を食べ終えごろりと横になって星空を見あげていた。

 ふと祐一が脈絡もなくパルヴェーズの方を見て、

 

「なあ、パルヴェーズ。星座って判る?」

 

 そんな疑問を投げ掛けた。パルヴェーズは、そんな質問に「うむ」と深く頷き、

 

「無論じゃ。そもそも星空とは、尊崇尽きぬ神聖な存在が悪神を滅する為に作った、数ある武器の一つ。武に明るき我が知らぬはず無かろう」

「へー。じゃあさ、教えてくれよ星座! 俺、星座って言や、オリオン座くらいしか知らないんだよね。こんなにたくさんあってさ、めちゃくちゃ綺麗なんだ。知らないのって損だろ?」

「ふふ、己の無知をさらけ出し、この我に教えを乞うとは……なんとも度し難いやつじゃ! ふっ、しかし許そう。我もおぬしと、語らいたい故な」

 

 祐一はパルヴェーズの返答に頷き、嬉々として彼の隣に移動してねっ転がった。

 そこからはパルヴェーズの星座講義が始まった。

 ペルセウス座、アンドロメダ座、カシオペア座、蠍座、ペガソス座、牡牛座、双子座、獅子座等など。

 季節ではなく見つけられない星座もあったがパルヴェーズは多くの星座を指差しては語った。

 祐一はどの星座も同じ星の集まりにしか見えず、何を描いているのかよく分からなかった。

 でも饒舌に語る友をこのまま眺めていたくて「止める」と言う不粋な行為は最初から選択肢に無かった。

 

 古代の星座を名付けた遊牧民達も、こうして友と語らいながら星空を見上げたのだろうか。

 ふとそんな事を思う。祐一は何だか可笑しくなって笑顔でパルヴェーズの話を頷き聞いていた。

 

 ○◎●

 

 いつの間にか眠っていたようだ。薪をかき集めて燃やしていた焚き火は消え、しかしそれが必要ないほど辺りは明るくなっていた。

 まだ朝露が少し残っているようで、手に伝わる地面の感触は湿り気を帯びている。

 柔らかだが少し埃っぽい風が頬を撫でていく。

 

「あー、朝かぁ……」

 

 祐一は昨晩パルヴェーズと星座について語らいながら夜を迎えた事を記憶の箱から取り出していた。

 

 やっぱり、記憶喪失には思えないよな……顎に手をあて沈思黙考する。パルヴェーズは星座について、その星の来歴、特徴、神話、司る神、まるでその道の碩学であるような造詣の深さを見せ、祐一を驚嘆させていた。

 そして祐一はそんな知識を詳らかに開張して見せたパルヴェーズをもう記憶喪失だとは思えなかった。だが、

 

(……パルヴェーズが話してくれるまで、待とう)

 

 彼には以前から察していたが、複雑な事情がある様だった。それを無理やり聞くのは、違うと祐一は考えていた。

 友を信じて、話してくれるのを待つ。そう、固く心に決める祐一。

 だけど……面白くないな。どうやら自分はまだ三日間程度しか共に過ごしていない、この友人に随分とろうらくされたようだった。

 彼の全てを知りたいとは思わないが? 莫逆の友と言っても良い友人の事は他人よりか何か一つでも多く知っておきたかった。

 パルヴェーズに出会うまでに祐一の旅は孤独なものだった。故郷を後にし、旅に出て一ヶ月。よく話す間柄になった者はいたが、ここまで心を許した者は居なかった。

 そしてまた、力になりたいとも思った。友の力に成ろうとして失敗した苦い過去もあったが、それでも少しなりとも彼の助力のなれば本望だった。

 

 なーんてな……。そんな事を考えていて恥ずかしくなったのか、祐一はごろりと天を仰いでいた顔と体を横に倒すと───

 

 

 

 ───壮絶な美貌があった。

 

 

 ───ピッキィ──ーンッ! 

 ……そんな音が聴こえてきそうなほど祐一は一瞬で硬直した。声が出なかったのが奇跡だった。向かい合わせになった状態で、固まったまま動けない。

 どうやら祐一とパルヴェーズは添い寝するようにして寝ていたようだ。

 自然と祐一の視線はパルヴェーズの顔へ吸い寄せられて行く。まじまじとみるパルヴェーズの顔は下手な見目麗しい少女たちよりも妖艶で美々しい顔立ちをしていた。

 例えその少女たちにどんな美辞麗句を捧げても、彼の前にたったならば、すぐさま陳腐なものへと変わるだろう。

 この容姿とあの陽だまりのような性根を持ってすれば例えどんな老若男女であれ堕ちない者は居ない。……それほどだった。

 あっ、まつ毛長ーい。祐一は現実逃避気味に思った。

 別に男同士だから問題は無いがこうしてパルヴェーズの美々しい顔を見ていると、何だか背徳的な気持ちに陥ってしまう。

 視線を外す事が出来ずじぃっと見詰める。何か強い引力でも作用して居るんじゃないか? そう疑ってしまうほど祐一の目線は頑として動かなかった。

 その引力は、視線だけでは無い様だった。

 

「…………」

 

 少しずつ……少しずつ……パルヴェーズのその凄絶な顔に祐一の顔が近づいて行く。

 最初は顔だけ近づけて行ったが、だんだん体勢が維持出来なくなり、手を付き、そろり……そろり……と、近づく。

 手に、ざらりとした砂礫の感触が伝ってくる。だが、曇ったような、どこか朦朧とした思考は、目の前の少年しか認識してくれない。

 この少年の唇を奪えば、どんな快感が待っているのだろう……。

 祐一の心にそんな好奇心と情欲が混ざり合った感情が、どろり……と、もたげた。

 なんでこんな事になってんだ? と言う疑問も沸き上がったが、彼はもう止まれなかった。

 もはや祐一の自制心は、パルヴェーズの艶やかさに完全に魅了され、粉々に破壊されている様だった。

 ただ、自分本位の感情の侭に……祐一は、動いた。

 この女子と見紛うばかりの、恩人で、友人で、相棒の彼に不貞を働こうとしている……。

 嘗て無い興奮と、例えようも無い嗜虐感。

 それは彼の未成熟な心を、どうしよもなく攪乱させた。

 

 身体を更に前屈みに動かし近づく。地面に付いていた手を離し、砂を払って、パルヴェーズのほっぺに優しく触れる。

 それでもパルヴェーズは、目を覚まさなかった。ただくすぐったそうに、頬を緩めるだけだった。

 ───理性が飛んだ。

 

「はぁっ……はぁっ……っ!」

 

 パルヴェーズの、その珊瑚色の唇へ、祐一のそれが近づいて行く……。

 近づいて行く……。

 

 あと、少し…………。

 

 あと……。

 

 …………。

 

 ……。

 

 

 

 

 ───ぱちり。

 パルヴェーズの双眸が開く。どうやら目を覚ましたようだ。起き上がり一つ伸びをすると、

 

「おお、もう朝か。小僧、おぬしはよく眠れたかの? ……うん? ……何をしておるんじゃ、おぬし?」

 

 パルヴェーズからおよそ5mほど離れた場所で胸を抑えて蹲り、性犯罪者一歩手前の表情をした祐一の姿があった。

 

「き、聞かないで下さい……」

 

 変なやつじゃの。パルヴェーズは、己の唇に手を当て、小首傾げて呟くと東方より出る太陽を見ては目を細めた。

 

 さあ、今日も一日が始まるゾ! 

 

 

 ○◎●

 

 

 そんな和気藹々とした旅が始まり、今は正午。真昼の暴君たる太陽がさらに本領を発揮する時刻だ。日本と比べるとその存在感は別格で、大きさが数倍に見えそうなほどだ。

 今、見える景色は広大で果てしない。

 町を出た時はなだらかな丘陵地帯だった道も、いつの間にか逸れに逸れて行き、それに伴って険しさも増して行った。

 その光景はもはや「渓谷」と呼んでも違和感が無いほどだった。そんな道なき道を、二つの小さな影が軽快に進んでいくのが見えた。

 祐一とパルヴェーズだ。

 二人は類稀なその身のこなしをもって険しい山道や切り立った崖を踏破して行く。

 

 故郷の山で崖上りをしていなければ即死だった。そうさらりと癖っ毛をかき上げる祐一。幼い頃に踏破して来た山々や崖を思い出し、駆け登っていく姿は猫や猿などの野生動物顔負けだ。さしものパルヴェーズすらほうと感嘆の声を上げるほど。

 しかし祐一はパルヴェーズの方が自分よりも優れていると思い知らされていた。確かにパルヴェーズの身軽さは祐一のそれよりも数段上だ。それはいい。今更だ。

 だが彼の何よりの稀有な才は、道の選定の確実さにあった。彼の選ぶ道はこの不安定な渓谷であっても安全な道であり、それを彼の明敏な頭脳は逡巡も無く選びとって進んで行くのだ。

 まさに才気縦横。

 少し身体能力が良い祐一なんぞ歯牙にも掛けない、正に神童だ。その姿に密かに背筋を震わせ、そして強い畏怖と共に思う。

 そんな彼にだからこそ、勝ちたいと。

 謎多きこの少年を、いつかは降してみせ、己の名を刻みつけてやるのだ。祐一の最近できた、何としても成し遂げたい目標だった。

 

 その目標を成就する為にも暇さえあればパルヴェーズに勝負を挑み、……返り討ちに会っていた。

 今では無策に挑んでも勝ち目は無いと悟り、時機が来るその時まで鍛錬をしようと決心していた。

 パルヴェーズとしても祐一の飽くなき勝利への探求心は好ましい物で、時には手ほどきををしながらも祐一の成長を楽しんでいる様だった。

 

 ○◎●

 

「クソ熱い……。てか、ここどこなんだ……?」

 

 辺りを見渡し一面に岩山が連なる辺境の地で呟く。

 暑さに負けて、ぐっと水筒の水を呷る。

 正午を過ぎ一日の気温も最高潮と言った具合になり、温度計があれば37℃を指していただろう、この暑さ。

 その上、なかなか湿度が高い。そのため汗の量は常では有り得ないほどで、袖口やローファー辺りから淋漓と滴り落ちていた。

 ついでに言えば、水筒の水は今さっき飲んだ水で最後だった。さしもの祐一ですら何時もの騒がしさは鳴りを潜め、少し覇気が無い様にも感じられた。

 

「ふむ。ここいらで、少し休むとするかのう」

 

 そう言ったパルヴェーズだが、汗だくの祐一とは対象的に汗一つ掻いていない。

 祐一は、むっと顔を顰め、

 

「まだまだ余裕だっての! 先に進もうぜ!」

 

 そう言う彼の膝は子鹿のように震えていた。

 拳を握りバシっと膝を叩いて、無理矢理立たせる祐一。

 パルヴェーズは、半眼になって祐一の脚を小突いた。

 

「のわぁっ」

 

 情けない声を上げてバランスを崩した祐一は、耐えきれず倒れ伏す。

 パルヴェーズは一つため息を零して、祐一に説教を開始した。

 

「戦う時に戦い、食べる時に食べ、休める時に休むのは、戦士の務め。それは、なにも恥じる事では無いぞ小僧。充分な休息を取らず、弱り切って失意の内に朽ち果てる事こそ、恥なのじゃ」

「……うっ。……わぁーたよ! 俺が悪かった!」

 

 パルヴェーズは、そう喚きながら地面に腰をおろす祐一を見ていた。

 遥か天上から見下ろすかの様な姿。その様子は、どこか寂しそうで、あるいは悲しそうでもあった。

 

「そもそも、人は弱い。たった、これほどの道を歩んだだけでも、倒れ伏す。傷も、病も、疲れも、苦しみも、一つでも過ぎれば直ぐに死に至る、脆弱な存在じゃ。我々の様に造られし存在とは、比較にもならぬ。故、永遠に交わる筈も無い」

 

 パルヴェーズはそこで一度、言葉を切り、

 

「小僧。己をもっと、重んじよ。無茶をするな、とは言わぬが、己の使い所を見誤るでは無い。己が使命、果たせる時に……果たせずじまいでは、死んでも死に切れぬぞ」

「……分かったよ。……でも、何処で休むんだ? この周辺は野ざらしになってるとこばっかで、日陰なんて見当たらないし、水なんて以ての外だぞ」

 

 祐一の言葉にパルヴェーズは、少し前方を指差す事で答えた。

 彼の指差した先には、いくつもの丸い石造りの井戸が、まるで並べられたかのように敷き詰められていた。

 パルヴェーズが指差すまで、渓谷の陰になって気付かなかったが確かに井戸がそこにはあった。

 どうやらパルヴェーズはそれも見越してここまで祐一を先導していた様だった。

 

「あそこで、一休みと行こうかの」

 

 完敗だ。祐一は頷くしか無かった。

 

 

「これ、勝手に使って良いのかな? まあ、もう使ってるから意味無いんだけどさ」

 

 井戸に着いた二人は置いてあった桶を使い水を汲みあげ、喉を潤しては空になった水筒に水を注いだ。祐一がそんな疑問を零したのは、一連の動作が終わった後の事だった。

 歩きながら、汲んだ水を日に翳す。陽光を浴びて、反照する光が眩しい。祐一は、キラキラ輝く清水に目を細めながら、無断で使っている事に、ちょっと罪悪感が湧いてきたのだ。

 まあ……船に侵入し、国外逃亡を計った男の言葉では無いが、それでも祐一は気になった。

 少し先にあった岩陰に二人は腰を降ろし、涼を取りながらパルヴェーズが、

 

「構わぬじゃろう。例え看過されぬ事であっても、多くの教義、多くの禁忌よりも、限りある生命こそ、何よりも優先されるべきじゃ。

 おぬし達、定命の者どもは力弱く、儚く、そして脆い。故、禁忌破りを無法を犯そうとする事は致し方無い事なのじゃ」

 

 祐一の質問に、パルヴェーズは滔々と語った。

 正直、半分も理解出来なかったが、彼はどうやら気にしなくても良いと、言ってくれている様だった。

 

 パルヴェーズはいつも判りにくい言葉を使うよな……そう思いながら、けれども祐一にはパルヴェーズの様子がいつもと違って見えた。

 何処か寂しな視線は、祐一と祐一を通して何かを見ている風ですらあった。

 

「小僧、おぬしは只人である事に変わりはない。こうして、疲れ果て憔悴し、汗や泥に塗れる事もあろう。定められた規律や法に縛られ憂悶する事もあろう。

 おぬし達、人は移ろいやすい。それ故、審判の時、善の道へ進む事を許された者達は、抜きん出て尊いのじゃがな」

 

 パルヴェーズの言葉は、説教臭く、遠回しで分かりにくく、だがどこか温かみのある言葉だと祐一は感じていた。

 迂遠で気宇壮大な言葉だったが、そんなパルヴェーズの言葉だからこそ、祐一の心に波紋となって良く響いた。

 しかし、

 

「造られた時より、善も、悪も、名も、姿形も、権能も、己の運命さえも、総て定められた、我らとは、根底から異なるのじゃ」

 

 ───ふふ。なんとも羨ましい事じゃ。

 そう呟く彼の横顔には、隠し切れない寂しさがあった。祐一は彼と出会ってよりこれまでで、最大の驚愕に包まれた。

 常に上から目線で、謙ると言う事を知らない……不遜な少年。だがそれが赦される全てを兼ね備えた少年が……遥かに劣った自分達を羨ましいと言ったのだ。

 そんな様子が信じられない祐一だったが、それよりも花貌を寂しげに曇らせる相棒を見たくなくて咄嗟に口を動かしていた。

 

「そんなに羨ましいならさ、もっと旅しようぜ?」

「……なに?」

「ほら、朱に交われば赤くなるって言うだろ? パルヴェーズの悩みが、俺にはどうにも出来ないのは、分かるぜ。悔しいけどな……。

 でも、何か……少しでも、変えられるかもしれない。……少なくとも、俺はそう信じるぞ」

 

 パルヴェーズの少し呆けたような視線と祐一の意志の強そうな目が、交わる。だが祐一はすぐに恥ずかしくなったのか、目を逸らし頬を掻きながら、

 

「ええと……何が言いたいかって言うと……ちょっと前に見た映画にさ「バタフライ・エフェクト」って映画があってさ、それ見て言葉の意味も知ったんだけど……ほんのちょっとした変化でも、別の時間や場所じゃ、嵐みたいにドでかい変化になる話でさ……」

 

 祐一はそこで一旦言葉を切り、今日一番の笑顔になって、

 

「パルヴェーズだって旅を続けてればさ、小さな変化がでっかくなって行って……そんで何時かは、羨ましいって思ってた自分に成れるかも知れないだろ?」

 

 パルヴェーズは昨日チャンバラをした時と同じように目を瞠り、そして人をひいたように笑う。

 

「はは。何じゃ、小僧。おぬし、不遜にも我を慰めておるのか? なんとも度し難いやつじゃのう。ふふ。おぬしが、我に説教するなど百年早いわ!」

「な、なんやとー!? こっちが、心配して小っ恥ずかしい事言ってのに! そんなんなら、今言った言葉、ぜんぶ忘れろよ! 恥ずいんだぞっ!」

「はははっ。残念じゃが、我は物覚えが頗る良くての。一度聞いた事は、何があっても忘れぬのじゃ!」

「嘘つけ! それなら、記憶喪失なんて、なる筈ないだろうが!」

 

 ついさっきまでの陰気さは何処へやら、二人は何時もの調子を取り戻し笑い合っていた。祐一とパルヴェーズ、共通点は皆無と言ってい両者だったが、不思議と馬が合うようだ。

 静のパルヴェーズに、動の祐一。

 正に、好一対のコンビだ。

 祐一は、今日、初めて見た友の笑顔に安堵し、パルヴェーズもまた、得難き友に胸の裡で感謝を捧げた。

 

(故にこそ……この友とは、いつか袂を分かたたねばなるまい……)

 

 パルヴェーズは、静かに決心した。



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砂礫の波

 今日も今日とて旅は続き、町を出てから5日ほど。あれほど険しかった地形も少しずつ移り変わって行き、町を出た時の様なたおやかな丘隆地帯が続く土地へと二人は歩を進めていた。

 辺りにはゴツゴツとした砂礫に溢れ返り、そこを縫うように細々と背の低い草が生えている。不毛な土地……イランの地ではダシュトとも呼ばれる風景だ。

 イランの土地は、不毛な場所が多い。

 不毛な土地と言えば沙漠が真っ先にイメージに浮かぶだろうか。イランもまた沙漠を多く抱えた国である。

 イランの沙漠は多くの人がイメージするような、風紋が浮き上がる砂が主体の砂漠ではなく、ゴロゴロとした大きな岩が散見できる岩石沙漠や、土や粘土で覆われた土漠が主だ。

 

 まあ、何が言いたいかというと、人が住むには厳しい土地だと言う事だ。

 そんな土地でも、やっぱりどこかに人は居るもので、祐一達は、何度か遊牧民、或いは少数民族と呼ばれる人々と邂逅しては、友誼を結ぶ事に成功していた。

 まあ、大体パルヴェーズのお陰だけどな──全世界の言語、全てを扱えるんじゃないか? そんな疑問が湧くほど、パルヴェーズは流暢に言葉を操るのだ。

 言葉が通じるという事は異境の地であるならば、これほど心強い物はない。相手に意思疎通が出来ると言う安心感を与えられる。それに決して話の通じないバルバロイでは無いと胸を張れるのだ。

 まあ祐一もまた、頼りっぱなしは嫌だ、とボディランゲージで華麗に舞い、彼らの笑いを誘っていたが……。

 

 バローチ族、アフシャール族、カシュガイ族……数日の旅先で、出会った人々だ。

 どの民族も、思い思いの衣装を纏い、極端に水の少ない地域でも、逞しく生活していた。

 パルヴェーズはそんな光景に、感慨深そうに、ともすれば慈しむ様な目を向けている事が多い。そんな彼に話し掛けるのが躊躇われて、彼の胸中は分からないままだった。

 だが、祐一にはちょっと気になる事があった。

 それは、ここ最近出来た、ほんの少しの違和感。

 この5日の旅の間、彼らが進んだ道はなかなか馬鹿に出来ない距離だ。全て徒歩とは言え、身体能力が高い次元にある少年達だからこそ成し得たこと。

 

 その進んだ道の途中でも、名も知らない小さな町や「ミナーブ」と言う大きな街、多くの人々が営む場所はあったのだが相方のパルヴェーズが街へ向かう事に難色を示すのだ。

 結局、ミナーブに近づこうとも、ミナーブ郊外にある城塞跡から、遠目に街を眺めるだけであった。

 それとなく、パルヴェーズに聞いた事もあったが、「大地を思いの儘に石くれで覆い、空を汚す醜いからくり。奢侈に溺れる人間……。あまり近付きたい場所ではないのう……」そういうパルヴェーズだったが、それだけでもない気がした。

 結局、パルヴェーズの真意は分からず仕舞いだった。

 

 別にその事に不満がある訳では無いが、そのお蔭で、祐一はここ数日『文明』と言うものに全く触れられていなかった。

 

「うー……、人工物、人工物……」

「またか小僧……」

 

 言語に精通するパルヴェーズが理解出来ない呟きを、焦点の合っていない目で呻く祐一。それを若干辟易した様子で見るパルヴェーズ。

 どうやらここ数日、何度も見受けられる光景らしい。

 幽鬼の様な表情で、キョロキョロ辺りを見渡す祐一。

 だが果てしなく茶色の沙漠が続くばかりで、文明の残り香すら無い土地。人工物など望むべくもなかった。

 

「街が見えた!」

 

 蜃気楼です。こんなやり取りが何度も繰り返されているのだ。

 パルヴェーズが呆れるのも当然である。

 と言うか祐一は、かなーり限界に来ていたとも言えた。

 歩けども歩けども、見えるのは砂ばかり。そんな状態なので当然だが、風呂にも入れず、寝るにも苦労する夜。

 

 ───そして極めつけはパルヴェーズだ。

 この水も滴る、蠱惑的とも言える少年に、祐一は毎夜毎夜、精神をゴリゴリ削られていた。憔悴する祐一。

 そして、パルヴェーズ本人に自覚は──ない。

 以前の過ちを繰り返すにはいかない……! 

 ホモじゃない、ホモじゃない……。おっぱい無いから、だいじょーぶ。ここ最近、そう自分に言い聞かせてる姿が散見できた。

 そんなこんなで家出する時より精神を病んでいるようにも見える祐一。

 せめて何かで気を紛らわそうと試行錯誤している内に、方向性を見失い、何故か人工物欠乏症を患う事になったと言う次第である。

 まあ、最初は良かったのだ。

 鍛錬と勝負事で、ストレス発散が出来ていたのだから……。

 

 しかし、パルヴェーズが自負する様に、勝利の具現者のような彼に負けが続き、ついにはあの『ハルウララ』に連敗記録が並んだ所で祐一は挑むのを控え始めた。

 祐一自身としてはまだ挑むのをやめてはいないつもりだが、欠片も勝ち目がない勝負はちょっと勘弁して欲しかった。

 

「うっ……!」そう呻き、祐一のここ最近の記憶が甦る。

 

 

 ○◎●

 

 

「おぬしの拳は、素直過ぎる。虚を突くのじゃ!」

 

 そう宣ったパルヴェーズの鋭い拳が放たれた。

 マズ……ッ! 死神の鎌を連想させるほど鋭い拳に、バックステップで避ける事も出来ず、気付けば手で防いでいた。

 瞬間、快音が響きわたり手がはじけ飛んだかとほどの衝撃が襲った! 

 痛っッてェー!? 思わず叫ぶ。しかしその攻撃自体がブラフだった。

 防いだ手に意識が奪われ気付かなかったが、腹部に拳が当てられていた。思わず口元が引くついた。本命は腹部への一撃……という訳ではない。顔面と腹部を狙った二撃必殺だったのだ

 その後には打ちひしがれ膝を付く祐一と、勝ち誇るパルヴェーズの姿があった。

 

「その身体は木偶か? 木偶でなければ、一捻りに投げ飛ばされる筈がない!」

 

 クソったれェ! 手をクロスし、守りを固めていた祐一。なんとかパルヴェーズの殴打を凌いだはいいが、今度は守りを抜けてきたパルヴェーズの貫手が脇腹をしたたかに突いた。

 堪らず守りを解き、破れかぶれの一撃を見舞う。

 だが、その判断は完全に誤っていた。

 予定調和のごとく見切ったパルヴェーズが、祐一の手を取り、たった二本の指で投げ飛ばして見せたのだ。

 

 ○◎●

 

 ぐ、ガガガガガ……! 数々のブロークンでハートな思い出が心の中に溢れ、気を抜けば白目剥いて地面に膝をついていた。

 時を待つんだ……! 完全に負け犬の遠吠えである。

 気を取り直し、前方を見ればなにかキラリと光るものがあった。

 

「何か見えた!」

「はぁ……また……、ふむ? 今度は本物のようじゃのう?」

 

 今なんか輝く物が見えた! と言って駆け出す祐一。

 パルヴェーズはその千里眼とも言える眼で、祐一の妄言が間違いないと、少し驚きつつ確認する。あんな会話に何度も付き合わされたのだ、当然である。

 果たして祐一の見つけた物(?)は、人工物で間違いは無かった。

 

「おおおお!!!!! ……なにこれ?」

 

 それは、ピラミッドの様な形をした建物だった。

 高さは5、6m程度だろうか。石で出来た白い建物で、四方に人が入れそうなほどの穴が開いている。

 よく見ると、この建物一つだけではなく並ぶようにして同じ建物が一直線にどこまでも並んでいるのが見えた。

 後に聞いた話だが、この建物は連結貯水槽(アーバンバール)と言って、カナートから街に運ばれた水を溜めたり、前述の四方から開いた口から、地表を流れる雨水を貯水槽に溜めるらしい。

 イラン各地で見られる、水が少ない地方の知恵である。と言っても、昨今の近代化により、この様な昔ながらの施設はどんどんと使われ無くなって居るが……。

 

 そんな事を知る由もない祐一は、好奇心に任せて、貯水槽の周りや中身を探索し始めた。

 

「おおっ! パルヴェーズ! 中、めっちゃ涼しいぞ! それに、奥に水もある!」

「ふむ。なるほどのう、力無き只人共が、少しでも水の女神の恩寵を受け取る為の知恵と言う訳か。ふふ、小賢しくはあれど、生きる為の糧を獲ようとする行為は好ましいのう」

「パルヴェーズ! 俺ちょっと、水浴びと洗濯してくるな!」

「やめんか、小僧」

「ぐぇ!」

 

 阿呆な相棒のあんまりな行動に、流石のパルヴェーズも待ったを掛ける。飲料水と言う訳では無いのだから、あまり問題は無い様に思えるが、生活用水には変わり無い。

 この汚れ塗れの相棒を好きにさせるのは如何なものか……? そんな思考の元、パルヴェーズは祐一の首元を引っ掴み止めたのだ。

 

「水ー! 水ー!」

 

 ゴネる祐一。彼もまた何日も風呂に入れず、ブレザーも洗えず仕舞い。綺麗好きで無くとも、嫌気が差すのは当然である。

 対象的にパルヴェーズは、泰然自若としており、彼の身体には汚れが付かない法則でもあるかのように、綺麗なまま。

 めちゃくちゃ理不尽じゃないか! と嘆く。

 彼らの主張は平行線のまま続き、そしてパルヴェーズが、

 

「仕方無い奴じゃ。ならば今度川か泉があれば、そこで共に汗を流すとしよう」

「…………やめろぉ!」

「どうしたいんじゃ、おぬし?」

 

 今日、何度目かの呆れを見せるパルヴェーズ。

 一瞬心揺れた祐一は、御歳14歳。思春期真っ盛りの、純情少年だった。

 

 ○◎●

 

 そんな調子で、旅を続ける二人。

 貯水槽がある場所を皮切りに、いつの間にか大地には草木が生え始め、視界に入る景色にも緑に覆われた箇所が目に付き始めた。

 祐一が居る場所は、素通りした「ミナーブ」より100kmほど進んだ地点。

 少し前に出会った、カシュガイ族の若者が言うには、すぐ近くに「バンダレ・アッバース」と言う、大きな港街があるらしい。

 

 ふーん……海が近いのか。

 船が突風により吹き飛び、海に漂流した事を思い出す。あれからもう一週間も経ったのか。

 水の気配を欠片も感じない、海は海でも砂礫の海にいた祐一は、どこか感慨深そうに地平線を見据えた。

 ……それにしても、暑い。感慨に耽る余裕も無く思う。

 思考回路が焼き切れそうな暑さだ。

 まるで砂利を敷き詰めて、炎で熱したフライパンの上をただひたすらに、歩き続けている感覚。

 湿度も尋常じゃない。

 止めどなく出る汗と相まって、サウナの中にいる気分になる。それも、サウナストーブの石に、自分の汗を振り掛けている様なオマケ付き。

 

 空を見上げ、キッと睨む。おのれぇ……彼奴(太陽)が、憎い……! 

 正直、今すぐにでもシベリアか南極辺りに逃げたいのが本心の祐一。だが……。

 ちらり。隣の相棒を見る。

 件のパルヴェーズはいつも道理の涼しい顔だ。むしろ太陽の光を浴びて、どこか溌剌さすら感じる。

 この少年はこれほどの猛暑の中にあっても光り輝いてる。

 ク、クソ……ま、負けんぞ……! 流石に、これ以上負け越す訳にはいかない! 

『ハルウララ』すら越えた連敗記録保持者、木下祐一は心に誓う。そして勝手に勝負を始める祐一の姿があった。

 

 まあ祐一を、弁護する訳ではないが、いつも惨敗と言う訳では無いのだ。

 鍛錬を初めて数日と言う所だが、心眼をある程度任意で使えるようになっていたし、これまでの旅で飛躍的に忍耐力や体力も付き始めている。

 また、パルヴェーズから教えて貰った内功も、使いこなし始めた彼は、確実に成長していた。

 パルヴェーズに見事な戦士の相を持っていると、賛辞されるほど優秀な戦士なのだ。

 実際、あのパルヴェーズにも肉薄する事は多々あった。

 でも、何か足りないんだよなぁ……。これは最近の祐一の悩みでもあった。

 惨敗はしないが、勝ちが無い。あと少しなのだ。あとちょっと、何かを掴めればパルヴェーズの鼻を赤し、己の名を刻める。

 そう思えど、届かない。

 その少し……が、酷く遠く感じる。頭をどれだけ捻っても答えは出ないままであった。

 

 よし、気分転換しよう。煮詰まった祐一は、隣を歩く相棒に話し掛けてみた。彼は三秒以上脳を酷使すると死期が早まると名高いアホだった。

 

「なあなあ、パルヴェーズ。何でここら辺って、こんなに暑いんだろうな?」

「ふふ、なんじゃ、小僧? 流石のおぬしも、この暑さに参り始めたか?」

「ちがわい! ……えと、あのピラミッド辺りから、めちゃくちゃ暑くなったじゃないか。だから何か理由があるのかなぁって思ってさ。暇つぶしだよ、暇つぶし」

「ふふ。まあ、そういう事にしておこうかの。ふむ、暑さの理由か。それならば大体検討はついておる。あそこを見よ、小僧」

 

 パルヴェーズは、遥か前方を指差し、祐一を促した。

 しかし、彼が指差す方向には、いつの通りの丘が並んでいる光景しか見えなかった。

 おかしい所が見受けられず、小首を傾げる祐一。

 

「うーん。何も見えないぞ?」

「ふむ? 小僧には、あの山脈が見えぬのか?」

「山脈?」

 

 目を凝らすが、祐一の目には、そんな山など欠片も見えなかった。

 ふと、気になって、懐から地図を取り出す。

 前に立ち寄った町で、あの親切な叔父さんに貰った、イラン全土を簡単に示した地図だ。

 この二人旅は現在地不明なのが、パルヴェーズのおかげで常態化している。

 そのため、地図なんて使う機会が無かったのだ。意味が無いので。

 

 遊牧民の若者から聞いた、近くにあると言うバンダレ・アッバースを現在地と考えてから、パルヴェーズの指差す方向を辿る。おそらく、北西の方角。そこを、指で辿っていく……。

 ……あれ近くに大山脈なんて文字はないぞ? 。

 それから指で辿っていき……シラーズ、イスファハーン……そしてイラン国境付近に……ザグロス山脈。数百㎞先にそう描いてあった。

 

「見えるかっ!!!」流石の祐一も吠えた。

 ははは、とパルヴェーズが愉快そうに笑う。それを半眼で睨み付ける祐一。

 ひとしきり笑うとパルヴェーズは、それはおぬしの勘違いじゃ、とまだ笑みを残しながら切り出した。

 ホントか? そんな言葉を顔に貼り付ける問い返す。

 

「うむ。山脈と言っても、その様に遙か彼方の山を指している訳では無い。我が言う山脈は、このペルシアの果てから、このホルモズガーンまで伸びる大山脈、全ての事じゃ。まあ、権能を使えば、おぬしの辿った土地も、見えぬ事も無いがの」

「ええ……。見えんのかよ……。てか、どっちにしろ、俺には見えないって」

 

 祐一は、パルヴェーズの自己申告に、ちょっと引き気味で零した。

 相変わらず人間離れしてんなぁ。自分の事は、棚に上げそんな事を思う祐一。

 

「で、その大山脈がどうかしたのか?」

「うむ。どうやら、その大山脈が、北部の湖と、西部の海から吹く、水気を含んだ風の恩寵を遮っているようじゃ。故に、ここは生きるに厳しく、試練多き土地となっておるのじゃ」

「ほーん、なるほどなぁ。よく判るよな、そんな事。俺なんか、暑いってしか思わなかったぞ。やっぱ、パルヴェーズって頭良いんだな」

「なに。視野を広く持ち、順序立てて考えて行けば、自ずと答えは導き出される。森羅万象を知りさえすれば、知恵を捻らずとも良い事じゃ」

「それが、頭良いって事じゃないの? 俺だったら、すぐこんがらがって、訳分かんなくなるし。わはは」

 

 いつの間にか、暑さを忘れ、そんな遣り取りをしながら進む二人。そうして、進んでいると、パルヴェーズが突然、耳をそばだて始めた。

 

「うん……? すまぬが、小僧。今、微かに傷付き、助けを求める声が聞こえた。我は先に行く! 後から追いついて来るのじゃぞ!」

「あっ、ちょっと待てって! ……たくっ、落ち着きが無いの、お前も一緒じゃないか!」

 

 祐一の静止の声も聞かず、パルヴェーズは風の如く走り去る。それを祐一は呆れ気味に見て、自分も直ぐに駆け出した。

 

 予兆は、なかった。

 

「はぁっ……はぁっ……。クソっ! 全然追い付けない……。どんな身体してんだよ、あいつ!」

 

 パルヴェーズを追い掛けて全力疾走する祐一。いつもなら、直ぐに声の場所に着くか、少しずつ近付けるのだが、今回は声の場所が遠いのか、風のように速いパルヴェーズに、毛ほども追い付けず、見失い掛けていた。

 

 異界の法則に長じる魔術師や、地質学の碩学泰斗であれば、あるいは気付けたかもしれない。

 

「い、の、ち、を燃やせええええええ!!!」

 

 負けん気、根性、気合、を燃料に、悲鳴をあげ始めた身体を叱咤し動かす。

 例え、どんな勝負でも全力で挑むのが、祐一と言う少年だ。それが、自分で勝手に始めた勝負だとしても。

『獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす』のだ。まあ、相手は兎どころか、マンモス級だろうが……。

 

 周辺の異常なほどの神力の高まりに、尋常ではないの地殻の動きに。

 

 全力疾走する祐一だが、ここは沙漠。

 ゴロゴロと、石や岩が剥き出しの土地である。

 如何に悪路を走り慣れた祐一出会っても、

 

「のわあああああ!!!」

 

 ガラガラガラガラ……。こんな感じで足をとられ、転ぶのが必定であった。

 

 大地に根を張る草木、地を這う虫、広大な大地、青い空。その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせていた。

 ……気付かなかったのは人間だけであった。

 

 精魂尽き果てた、と言う体で寝転び、空を見上げる祐一。もうパルヴェーズの姿は影すら見えない。

 遠いなぁ……。これまで祐一は何度もパルヴェーズに勝負を挑んでいた。

 しかしまるで霞の様に勝利は掴めず、見えていた筈の彼の背中は、気付けばまた見えないくらいに、遠ざかるばかりだった。

 勝ちたい。そう思えども結果が付いて来ない。

 

 だが、一人だけ気付いた人間が居た。類稀な運と鋭い洞察力を持った少年、木下祐一だった。

 

 寝っ転がったまま、空に手を伸ばし、拳を握る。瞑目する。そうしてとある感情が、去来した。

 諦めようかな。そう思った瞬間、パルヴェーズの寂しげな表情が浮かぶ。

 

「ははは」

 

 ふざけんな。

 俺はあいつに勝つまで絶対諦めない。諦めたらそこで俺はゴミにも劣る、負け犬になっちまう。

 それは、絶対にお断りだ。

 

 ───突然の出来事だった。

 

「なんだ!?」

 

 違和感で祐一は、跳ね起きる。恐ろしい感覚がした。全身の穴と言う穴に槍を付き入れられる感覚。

 足が竦み、全身に悪寒が駆け抜ける。

 祐一はこの感覚に、何度か覚えがあった。

 

(───何度か?)

 

 唐突に浮かんだ疑問。しかし考える間も無く、異常が祐一を襲った! 

 

 ゴゴゴゴゴ……!!! 

 

 大地が、鳴動する。

 振動と共に、祐一の身体が揺さぶられ、ゴム鞠の様に身体が弾む。立っていられず、思わず四つん這いになって止むのを待つ。

 だがそんな悠長な事を、異常事態は許してくれなかった。

 次いで振動とは違う、激しい衝撃が襲った! 

 まるで巨大隕石が止めどなく、大地に衝突するかの様な凄まじさ! 

 辺りを見渡す。隕石が衝突した訳でも、何処かで噴火が起きている訳でもない。だが地震大国出身の祐一ですら、これほどの揺れを体感した事は無かった。

 

 ふと今度は視界の遙か先に、なにか見えた気がした。

 サッと振り向き、その『なにか』を確認する。

 

 ───その正体は「津波」であった。

 

「ウッソだろッ!?」

 

 はるか遠くでもわかる、見上げる程の波高を持つ巨大な津波だ。見渡す限りの地平線を埋め尽くしながら迫る、圧倒的な異常現象だった! 

 

 祐一の心は、絶望寸前だった。明確に死を覚悟するほどに。

 

 それほどこの津波は異常だったのだ。何せこの津波、海から出来たものではない。

 ───大地が捲り上がって出来ているのだから!

 

 ッゴォォオオオオオオッ!!! 

 砂礫の大津波が、祐一を飲み込もうと迫り来る! 

 

「こんなのってありなのかよッ!?」

 

 あり得ない光景にクレームを叩きつけるように吐き捨てる。祐一には目の前の津波が、現実だと認識出来なかった。

 だがどれだけ目を凝らしても消えはしない。それどころか刻一刻と迫り、否が応でもにも、現実だと突き付けられる。

 祐一にはあの津波が、死神の鎌に見えて仕方が無かった。死神の鎌は、己だけでは無くあらゆるモノを鏖殺して歩を進める。

 野生の名も知らない獣や鳥たちが巻き込まれ、鮮血を撒き散らし、引き裂かれるのが克明に見えた……。

 まるで未来のお前だと言わんばかりに! 

 

(どうするどうするどうするどうする───!??)

 

 思考が、から回る。いつの間にか答えの出ない袋小路に陥っていた。

 辺りを見渡すが何もない荒野が広がるばかりで、影に成りそうな岩すら……見つからない。

 クッソ! くるなクルナ来るな……! 

 どれだけ拒もうとも、時間は進む。しがみつき時間が止まるならどれほど幸福だろう? 忙しなく辺りを見渡し、滲む視界の中で思う。

 刻一刻と、津波が迫る。

 

(……死ぬのか?)

 

 やめろやめろ……! どれだけ乞い願おうともするりと手の平から時間は抜け落ちていく。流れ出る水を篩で掬おうとするようで……時は祐一の手をすり抜けて流れていく。

 刻一刻と、津波が、迫る。

 

(なにか……なにか、ないのか……!)

 

 ほんの少しでも良い。何か活路は無いのか……! 

 辺りを、必死で、見渡す。

 しかし、ただ……視線が滑って行くだけ。

 何も……見つけられない……。

 時間は、無情だった。津波が、迫る! 

 

(手は……何か、手は無いのか!)

 

 

 嫌だ。死にたく無い。悔しくて、涙が出そうだ。

 足が竦む。全身が総毛立つ。足の甲に、ボルトを縫い付けられた様に、足が地面から離れない。

 ……前にもこんな感覚があった気がする。

 あれは……。その時だった。

 ───ヒュンッ! 風切り音。

 津波の中から、石が出てきたのだ。その石は、一直線に祐一に向かい……ゴツンッと。

 先走りなその少し大きい目の石は、祐一の頭部を強かに殴打した。

 

「痛ってぇぇ……!」

 

 あまりの、痛みに頭を抑える祐一。蹲る様に、顔を抱える。そして、俯いた瞬間だった。

 

(カナート……?)

 

 地面の隙間から、遥か地下に続く、空洞が見えた。

 それはこの地によく見られる、地下水道だった。

 どうやらかなり以前に掘られたカナートらしく、地下水が枯れたか、水脈が変動したかで、廃棄になっているものらしい。

 それが今さっきの地震で、地表から見えるほど、はっきりと顔を出している。

 だが、祐一には、そんな事どうでも良かった。今度は、目的を持って、辺りを見渡す。

 

 …………! 見つけた! 

 カナートの入口……丸い井戸! 

 

(あそこに飛び込めば……もしかしたら!)

 

 しかし、井戸は、迫る津波を挟んだ場所にある……。

 だが、逡巡してる暇は……ない。

 生きる術はこれのみ! 全てを、これに掛ける! ───乾坤一擲だ!!! 

 おおおおおおお! 祐一は吼え、全力で駆け出した。

 地面が揺れて走りにくいことこの上ない。

 疲れ果てた身体が、辞めてくれと、懇願し、悲鳴をあげる。

 

 叱咤激励する。

 頑張れと。あと少し、踏ん張れと。

 ここで、死にたく無いと。

 ここで終わったら、俺はクソでしか無いと……! 

 

「気張れぇえぇぇ!!!」

 

 果たして津波が祐一を襲うより早く、井戸に辿り着く。しかし、井戸の穴は、長年の年月による風化で、埋まっていた。

 だが、祐一の心に絶望は無かった。なら──

 津波は、もう眼の前に迫っていた 

 

 ───飛べぇぇぇぇぇ!! 

 逡巡もなく、そのまま助走を付け、飛び込む祐一。井戸の穴に向けて、全体重を掛け跳躍する。

 

「だりゃああああああ!!!」

 

 ───だがそのとき祐一は、魔が差してしまった。

 助かるかも知れない。そう思った、ほんの少しの……気の緩み。ほんの少しの、好奇心だった。

 祐一は、井戸から視線を外しちらりと、迫りくる土くれの津波を見たのだ。

 

 そうして視てしまった。───目が、合った。

 津波の裂けた隙間から覗く、瞳。

 虚ろな目だ。黄色い耳と、黄金に輝く角持つ、雄々しい牛頭。筋骨隆々とした肉体の、半人半牛の巨人の姿がはっきりと見えた。

 

 身体が竦む。恐怖が、一瞬で祐一を蝕んだ。どれだけ、顔を背けようとしても、動かない。

 逃げろ! 身体全てが、そう全力で警鐘を鳴らす。

 言われるまでもなかった。

 必死に、地面よ近づけ! と念ずるが時間はこんな時だけ、とてもゆっくりに過ぎて行く。

 視線が重なったまま時が過ぎる。

 恐ろしい……。祐一の心は、恐怖で溢れ返った。

 だが祐一は、気丈にも恐怖を殺し、迫る魔物を睨んだ。

 

(怖く、なんて……ない!)

 

 しかし牛頭の魔人は、そんな祐一を見下ろし、見定めるように見やっては口角を吊り上げ……嗤ったのだ……。

 

 視えたのは、そこまでだった。

 丸い井戸が近づく! 必死に顔を動かし、あの異形の魔物から視線を外す事に成功する。

 そして、井戸に全体重を載せ、飛び込んだ! 

 ───ガラガラァ……。

 僥倖だった。

 おそらく地震で地盤が緩んでいたのだろう。

 着地した瞬間から、塞いでいた土は崩れ、重力は祐一を地下へ導いた。祐一の目論見は、上手く行ったのだ。

 あの、不気味な魔物から逃げられる! 

 津波から助かる喜びよりも、恐ろしい魔物から、逃げる事に成功した喜びが、いまの祐一には勝った。

 だからこそ祐一の歓喜は一塩だった。

 

「ん……?」

 

 そこでふと腹部に違和感を覚えた。安心を得た脳は、何か食い込む様な不快感を感じ取った。

 腹部に手を、当てる。……今度は掌と腹部に強い異物感。

 え? と不思議に思って、視線を落とす。

 

「は?」

 

 ───巨礫があった。

 指先から肘まであるだろうか。縦長の鋭利な「巨礫」が、ブレザーを貫きを腹部……左脇腹に突き刺さっていたのだ。

 

(ウソだ。ウソだ……)

 

 脳が理解を拒否する。全身の血の気が引いていく感覚が襲う。顔が青褪めているのが、よく分かった。

 そして口の中に、鉄のような……馴染みのない苦味が広がった。

 じわり。

 腹部を中心に、白いシャツが赤黒く染まっていく。

 信じられない。必死で目を背けるが、そこで痛覚が、己の役目を思い出したかの様に、狂乱を始めた。

 

「う、わっぁああああぁっ……ぐぁあっ!」

 

 ───ゴシャッ! 絶叫をあげそうになった祐一。だがそれより先に地下へ……硬い岩盤の上へ強かに衝突し、そこで彼の意識は闇へ呑まれていった。

 



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マイグレイン・オーラ

(……………………)

 

 ふと、意識が覚醒する。どうやら祐一は、とある空間に居るようだった。

 真っ暗な空間だ。無明の世界ばかりが広がる息の詰まる場所。例えるなら、星々が消え去った光源の無い宇宙。

 そんな空間に近いだろうか? 

 上下左右の感覚もなく暑さも寒さもない。魂が肉体と言う枷から解放されたような、そんな浮遊感だけが唯一感じ取れた。

 蕩、とただ何もない空間をただよっている。

 己も世界も、全てが一つに溶けて消えて、交わっている様な感覚。世界中の人々が、命が、魂が手を繋ぎ合って、ぐるぐる回っているような、そんな己が何処に居るのか、どこまでが己なのか、ひどく曖昧な感覚だった。

 距離の感覚も曖昧ならば、時間の流れも曖昧で、「今、何時なのか」「ここが何処か」なんて疑問すら、以っての外で。──そもそも祐一は自分の存在すら、不透明で曖昧だった。

 自分が誰なのか? 自分とは何なのか? どこで生まれたのか? ここが何処なのか? なんでここに居るのか? ここに何があるのか? 果てはあるのか? 終わりはあるのか? 

 そんな当然の疑問も沸かず、沸いたとしても答えも出ない。

 周りを見るような仕草をして見るが、何も見えなかった。自分の身体すら、無いようだ。

 だけど祐一は、そのこと何の疑問も興味も関心も抱かなかった。

 そうして無感動に、また、意識を閉じた。

 

(……………………)

 

 意識が覚醒する。……目が醒めても前と変わらない殺風景な空間が広がるばかりだった。

 前回からどれほど時間が経ったのだろうか。須臾にも満たない時間か、それとも那由多にも及ぶ時間か。

 常なら多少なりと、いや気にしなければならないことだが祐一はそんな事すら思い浮かばなかった。微睡むような時間が、どこまでも続いていく。この時間に終わりはあるのだろうか。

 ふと、思う。───なんでここにいるんだろう

 ゆらゆら揺れる意識の中、初めて出た疑問。

 結局、答えは出ないままだった。

 そうして意識は、また、沈んでいった。

 

(……………………)

 

 意識が、覚醒する。

 またか

 正直、祐一はそのままずっと眠っていたかった。

 もう何度目になるのか分からない。こうしてなにかに呼び出されるように繰り返し、意識が浮き上がってはまた深く沈んでいく。

 どこかで終わりたいがなにも出来ず、されどなにかしようとも思わない。

 輪郭のない曖昧な意識は、また静かに落ちていった。

 

 

 意識が、覚醒する。

 

 意識が、覚醒する。

 

 意識が、覚醒する。

 

 意識が、覚醒する……。

 

 意識が覚醒する……。

 

 意識が……。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………。

 

 

 意識が、覚醒する。真っ暗ないつも通りの空間。

 ただ小さな変化があった。暗い空間に、蠢き滲む影が見える。

 

(……………………?)

 

 祐一は、一瞬だけソレに意識を傾けたが、結局また意識を閉じた。

 

 

 意識が、覚醒する。真っ暗な空間にはっきりとした変化が現れた。

 蠢く影だ。以前見た時より大きく、はっきりとした影。───良く見るとそれは影ではない事に気付いた。

 祐一がそれを見るのは初めてでは無かった。だけど好きにはなれないもの。

 太陽や強い光源を直接見た後に、目を離しても視界に残像が滲む事が無いだろうか。祐一の見ているものは、それに似たような物だった。

 蠢くそれは、ゆらゆら蠢き、少しずつ少しずつ、大きくなっていく。蠢く場所は、歯車のように円を描き広がっていて、ジラジラと、周りを歪めながら蠢き輝いている。

 『閃輝暗点』───それが祐一の見ている物の正体だ。

 

(……これが出てきたあとは、酷い頭痛と吐き気が襲う)

 

 そんな記憶がぽろりと脳裏に浮かぶ。

 ──不愉快だ。祐一はなんとはなしにそう思った。

 この時。この時はじめて祐一はひとり閉じ込められた空間の中で、初めてはっきりとした感情を発露した。……それがトリガーだったのかも知れない。

「───あれ?」そこを皮切りに、あらゆる感情、記憶、記録が、堰を切ったように溢れて来る。

 名前。顔。身体。どこで生まれたのか。───答えが……分かる。

 

「あー、思い出したぞ」

 

 ポロポロと記憶が溢れ、次々に思い出す。

 母。父。弟。幼馴染。友。パルヴェーズ。みんなの顔を、思い出す。

 育んでくれた故郷の景色を、鮮明に思い出す。お気に入りの山。美しい湖としだれ梅。田舎だがそれでも大好きな街並み。

 そして思い出す。何故、ここに居るのかを。

 そうだ、俺は……。耐え切れなくなって家出して、乗った船は転覆し、遠いどこかかへ漂流しんだ。……そんで西アジアにあるイランに辿り着いた。

 助けてくれたパルヴェーズと出会い、恩を返す為に旅をして。二人で歩いて町に着き、そして『山羊』に出遭った。

 空を見上げて星座を語り、不思議な力の修行をして、四方山話に花を咲かせ、ときには舌鋒を揮って語り合い、また旅をして。

 そして最後に『雄牛』に出遭った。地下に落ちて、たぶん死んだ。

 そんな己の一生分の記憶が、湧き水が沁み出るようにスルスルと流れ込んで溶けては消えていった。

 

「────は?」

 

 いや、おかしい。全て見慣れては見知っている筈の記憶の中に、一つだけ異物があった。

 ───『山羊』ってなんだ? 

 こんな記憶、知らない。あの町に雨なんて降らなかったし、パルヴェーズを探し回ったりしていない。

 ましてや黒雲に潜むものなんて知る筈がないし、パルヴェーズに助けて貰ったなんて知りもしなかった。

 

 ハッとした。蒙が啓かれるような感覚。忘れていた記憶を思い出した時、確かに繫がるものがあった。

 パルヴェーズというピースと恐ろしい魔物というピースが、これまでの記憶と疑問とを繋ぎ合わせていく。

 

 洋上で凄まじい『強風』に襲われた事。

 真昼の遥か外洋で漂流し、陽も落ちない夕刻には、陸にいた事。

 パルヴェーズの異常な身体能力。

 町に現れた『山羊』。

 パルヴェーズが、町に近付かなくなった理由。

 大地から現れた『雄牛』。

 そして───彼の使命。

 

 祐一が旅で遭遇した出来事。てんでバラバラで、支離滅裂なはずの事であったのに、欠けていたピースを嵌めると一つの絵を描き始めた。

 こうして俯瞰的に見ると、祐一が出遭った異常現象の数々にはパルヴェーズが密接に関わっている気がしてならなかった。

 もしかしたら……。祐一の胸裡にひとつの仮説が浮かぶ。

 パルヴェーズが居る所に異常が有り、異常が有る所にパルヴェーズが居るんじゃないか? ……そんな仮説が。

 そうしてもう一つ、順を追って過去をなぞって行き、祐一はとある推論を導き出した。

 

 ───パルヴェーズの使命は、あの魔物たちを倒す事にあるのか? 

 確かに未だ不可解な点は多い。パルヴェーズが記憶喪失の理由や魔物の正体。それこそパルヴェーズの目的すら分からない。

 彼が何者なのか、すらも……。

 だが祐一はパルヴェーズが、魔物を倒す事が使命の一つなのだと確信した。

 そう考えればパルヴェーズの身体能力の高さも、納得がいった。

 

 だが何故そんな使命を彼が背負っているのだろう? 

 祐一の心に、また一つ疑問が積み重なる。それと同時に祐一は、一つの可能性に突き当たった。

 

 まさか、パルヴェーズは……。

 

 その問いが、パルヴェーズへ抱く、不信の濫觴となったのかも知れない。祐一は、パルヴェーズへ僅かなりとも、不信感を抱いてしまっている自身をひどく嫌悪した。

 そして……例え現実に戻れたとしても、パルヴェーズと今まで通り接する事が出来るのか、ひどく不安だった。

 自分が死んで居るのか、生きているのか、それすら分からない状態だ。もしかしたら現実に戻れず、この牢獄の様な空間で、消えさる運命なのかもしれない。

 そんな状況でこんな事を考えるのは、杞憂以外の何物でもないのだろう。

 だが祐一は、友への疑心を抑える事が出来そうになかった。洪水に見舞われた河川が氾濫するように疑問が溢れ、祐一の心が乱れる。

 だけど、それでも……

 

(パルヴェーズが、分からない。……でも、俺はあいつに聞かなくちゃならない。君は何者なんだって……。それが例え、俺が望まない答えが待ってたとしても、だ)

 

 そこまで考えてふと眼の前に、あの閃輝暗点が広がっている事に気付いた。

 数歩先にあるだろう、と感じていたアレは手を伸ばせば触れれそうな距離にあった。

 今もじわじわとその鈍い輝きは広がって、近づいて来る。

 なんて不愉快なんだろう。

 彼の心に沸々と嫌悪の感情が沸き、沸騰し破裂しそうなほど、感情の高まりを感じた。

 目を閉じ視界から消し去る。それでも閃輝暗点は追って来る。

 煩わしい。頭を振ろうが、意識を閉じようが、脳にこびり付いて離れない。

 身体なんて無いから、頭も目も、全て感覚だけの話だ。だが余りの嫌悪感と鬱陶しさに、手で振り払う様な動作をしてしまった。

 

 ───バチッッ! 

 

 触れた瞬間、紫電が迸る。次いで祐一の全身に素手でドアを開ける時に感じる静電気を、何百倍も強力にした様な鋭い痛みが走った。

 この空間で初めて感じた「痛み」だった。

 その紫電に照らされる様に、痛覚が脳へ信号を送る様に。手から腕へ、腕から胸へ、胸から頭へ、順々と肉体が映し出されいていく。

 手を見る。

 初めは、骨だった。

 黄ばんでいる、だがしっかりとした自分の骨が、最初に見えた。

 次は、血管。

 骨を取り巻く様に、血管が……そして神経が……一本一本詳細に精密に、映し出されて行く。

 そして今度は、肉や皮が……頭頂から雪崩込むように、一層一層波のように広がっては重なっていく。

 まるで新しく肉体が構成され、新生して行く感覚。少しずつ少しずつ肉体が構成されると同時に、痛覚もまた思い出したかのように伝わって来る。

 意識が、これまでに無いほど先鋭化している。

 己の肉体全てを完全に支配下に置いた様な、途方もない全能感。今まで無意識に動かしていた心臓や血管でさえ、やろうと思えば操れる。

 心臓の鼓動、毛細血管の脈動、細胞の一個一個の感覚、曖昧で不可侵なものが、今の祐一には鮮明に感じ取れた。

 気付いた時には、眼の前に広がっていた閃輝暗点は消え、何処にも見当たらなかった。

 ───ググッ! 

 ふと身体が何かに強く引っ張られる感覚が襲った。

「木下祐一」と言う存在が、この空間から遠ざかって行くみたいだ。身体を見えないロープで縛ってウィンチで引き揚げるように、高速で何処かへ進む。

 そんなグングンと何処かへ昇っていくような……或いは落ちて行く感覚。途方も無い距離を一瞬で駆け抜けていく。光なんて目じゃない速さ。

 どうする事も出来ず、ただ祐一は流されて行った。

 

 果たして、光が見えた。無明の闇が広がる空間に、一筋の光明が指す。

 そこへ祐一は向かっている様だ。

 それほど時間は掛からなかったが銀河すら比較にならない距離を移動した様にも感じた祐一。或いは、距離の概念すら曖昧なのかも知れない。

 

 向かう先は光の奥。……おそらく現世に戻る道を辿って居るのだろう。

 祐一は直感的に思った。

 どうやら彼の命脈は、まだ絶たれていない。

 不思議な空間に迷い込んだ祐一であったが、現実に帰還する時が来たようだ。

 

(よかった……。まだ、俺は生きてる……!)

 

 ホッと安堵の息を漏らす。

 それと同時に思う。現実に戻れば、───パルヴェーズが居る。

 祐一は、現実に戻る事に不安になる心と、旅の相棒への疑心に溢れる心を必死に抑え、顔を上げて光を見る。

 それでも抑え切れない疑心が、祐一を苛んで仕方がない。

 

(パルヴェーズ……。お前は一体、何者なんだ……?)

 

 どれだけ考えても答えの出ない謎。彼が本当に知っているかどうかすら怪しいが、彼へ問わねばならない事は多い。胸の辺りを握り叱咤する様に、心に「強くあれ」と念じる。

 

 ───ただ憚らずに言うのならば、パルヴェーズに会う事が怖かった。

 

 

 ○◎●

 

 

 目が覚める。

 意識が覚醒した瞬間、彼は節操無く動き出した。跳ね起きて、自分の肉体の感覚がある事を確認する。

 と、同時に襲う、激しい頭痛と吐き気。

 

「やっぱり偏頭痛かよおおぉぉオロロロロロロ……」

 

 そういや閃輝暗点って、偏頭痛の前兆だったぁ! そんな事を思い出し、嘔吐する少年の姿があった。

 地面に、グロテスクな吐瀉物が撒き散らされる。独特な、鼻を摘みたくなる臭いが嗅覚を襲う。端的に言って最悪だった。

 やっぱり閃輝暗点は敵だ。

 四つん這いになって、ひどい頭痛に苛まれる脳内で祐一は思った。

 そんな折に、声が聞こえた。

 

「起きたか、小僧。治癒を施したが、なかなか目を覚まさない故、気を揉んでおったが……意外と元気そうに見えるのう?」

 

 久しく聞かなかった気がする……しかし聞き慣れた声。

 そんな風のように透き通る声が、祐一の耳朶を打つ。まるで、その声に癒やしの力があるかのように、声を聞いただけで、少し頭痛が治まった気がした。

 まだ少し霞がかった頭で、声の方を見る。

 

「パルヴェ……?」

 

 一瞬、誰だか分からなかった。

 直ぐに、彼の類稀な容貌を見て、パルヴェーズだと気付いた。

 だが別れた時といま会った時の彼と、同一人物と思えなかったのだ。

 まるで初めて会った時に感じた、無機質で神韻縹渺たる雰囲気。これまで旅をして、ごく偶にちらついていた神々しさが、今はっきりと感じ取れた。

 

 パルヴェーズが微笑んでいる。初めてあったときの笑顔で。そう、───アルカイックスマイルで。

 祐一の全身をぞくりと気味の悪い悪寒が舐めた。

 思わずゴクリと生唾を飲み込む。粘ついた唾は、嚥下するのに酷く苦労した。

 

(最初に会った時よりも……生々しく、ない……)

 

 目を覚ましてパルヴェーズを見た時より感じていた、違和感。パルヴェーズの声を聞き、幾分か頭痛が和らいだ思考の中で、それは今、確信に変わりつつあった。

 以前、初めて会った時と同じ動作を彼が行った時、違和感は顕著に現れ、祐一を酷く動揺させていく。

 違和感と疑惑は、膨らむばかりだった。

 そうして、ずるり……と、脳内に一つの疑問が生まれた。パルヴェーズへの、クソみたいな疑問が。

 あの空間に居て、半信半疑で、パルヴェーズへの不信の濫觴となった疑問。

 でも、その疑問は馬鹿にできなくて、だからこそ祐一は考えたくはなかった。

 そこまで思ってふと、腹部に手を当てる。

 ───おかしい。

 巨礫が刺さり、穴が空いていた場所が塞がっている。それに、落ちて全身を強く打った筈だ。擦り傷どころか、骨が何本か折れた感覚があった。

 まあ、祐一は生まれてこの方、一度も骨が折れた事は無いので、予測でしかないのだが。

 そう言えばパルヴェーズは、さっきなんと言っていたか。治療を施したと言っていなかったか? 

 ───あり得ない……。

 確かに、パルヴェーズの治癒を与える不思議な力は知っている。祐一自身その力は、目の前で何度も目にしていたのだから。

 でもそれは、擦り傷や捻挫などの軽症がほとんどだったはず。あの時、自分が負った怪我はそんな生易しいものではなかった。生死の境を彷徨いほどの外傷だったはず。

 あの疑問が、どんどん確信に変わっていくのを、感じた。やめろ。やめろ。考えるな……。

 必死になって思考を放棄する。そうしなければこの友人を、まともに見る事が出来そうになかった。

 

「なあ……パルヴェーズ……」

 

 頭痛と吐き気のせいで、ぐちゃぐちゃな頭を必死に動かし、あの空間で訊こうと決めた事を、口にしようとした。だが……

 

「うぇぇえぇっ……! ……がぁはっ……はぁっ……」

 

 吐き気が酷くなり、また嘔吐いては、吐瀉物が辺りに広がる。……だがもう胃液ぐらいしか、出せるものは残っていないようだ。喉に胃酸のひりつく感覚がこびり付く。

 水が欲しい。誰か背を擦ってくれ。そんな声にならない思いが脳裏を走る。

 祐一の醜態を見た、パルヴェーズが祐一に近づき、

 

「大丈夫か、小僧。おぬしがそこまで弱るとは珍しいのう。どれ、背でも擦ってやろう」

 

 何処か心配気なパルヴェーズが、祐一に声を掛ける。そしてパルヴェーズは、背を擦ろうと手を、伸ばした。

 無意識だった。

 

 ───パシッ。祐一は反射的に、彼の手を振り払っていた。

 時間が止まったような、感覚。二人とも、何が起きたか分からなかった。ただただ、目を見開いては、目の前の友を見る。

 祐一の血の気が引き、あれほど苛んでいた吐き気は不気味なくらい鎮まった。

 交錯する視線。

 パルヴェーズと目が合った祐一は、直ぐに目を逸らした。常では見せない、余りにも頼りなさ気な姿。

 そんな祐一の姿を見たパルヴェーズも、視線を落とし、己の手をまじまじと見て、哀しげな表情を作った。そして何言かを独り呟く。その呟きは祐一には終ぞ聞こえる事はなかった。

 

「ちが……。そんな、つもりじゃなかったんだ……」

 

 祐一は、パルヴェーズと目を合わせる事なく、顔を俯かせて、譫言のように呟く。パルヴェーズの表情は見えないままだ。

 拳を固く握る。握った拳で、膝を打つ。

 ───死にたかった。

 比喩じゃなく、本心で思う。

 パルヴェーズに救われた命だ、ここで終わっても惜しくは無かった。

 友を拒絶した事。友に拒絶された祐一が、絶対にしたくなかった事。禁忌とも言える行為。

 それを犯してしまった祐一は、今すぐ己の首を掻っ切りたい衝動に駆られた。実際、なんの躊躇いも無く、彼はやるだろう。

 

 だけど、出来なかった。

 身体を誰かに、持ち上げられた。すぐに分かった。

 パルヴェーズが、膝を付く祐一を、背におぶったのだ。

 あの何処か神聖な雰囲気を持つ外套が、祐一の吐瀉物で汚れていく。だがそんな事構わず、パルヴェーズは祐一をおぶっては進む。

 祐一の動揺は、留まる事を知らないかのように乱れ、荒れ狂った。

 細身だが、力強い彼に抵抗出来ず、揺さぶられるだけ。

 慌ててパルヴェーズに、問い掛ける。

 

「お、おい……! 何やってんだよ! ……お、俺が今、何したか分かってるだろ! なのに、なんで……」

「ふふ、何を言っておる。我を「友」と言ったのは、おぬしであった筈じゃ。我は、苦しんでおる友を見捨てるほど、冷血漢ではないぞ小僧」

 

 パルヴェーズは、優しい声音で囁く。

 

「今は眠れ。その不調はおそらく、『雄牛』と邂逅し、あやつの神力に当てられたのじゃろう。おぬしら、人の子にとっては、莫大な神力を持つ、正に力の塊じゃ。特に、この神無き世界の者にとっては、毒も同然」

 

 パルヴェーズは、一呼吸置き「なに。我が付いておる。安心して眠るがよい」そう言うパルヴェーズの表情は、背負われる祐一からは見えなかった。だが、彼が微笑んでいる事は、容易に察する事が出来る。

 

(俺は……俺は……俺は……!)

 

 祐一は声も無く、泣いた。己が情けなさ過ぎて、消え去りたかった。自分が大嫌いになりそうだった。パルヴェーズの、外套が更に汚れていく。でも、止めれそうに無かった。

 背負われていて、パルヴェーズに己の顔を見られなくて良かった。

 啜り泣く祐一は、心の隅で思った。

 

 

 

 だが、それでもなお、パルヴェーズへの疑心は晴れない。

 

 あの牛の魔獣はどうなったんだ? 

 パルヴェーズが倒したのか? 

 神力って? 

 俺が負った傷はどうやって治したんだ? 

 何で、あの町で俺の記憶を消したんだ? 

 あの黒雲もパルヴェーズが倒したのか? 

 パルヴェーズの使命って、あの魔物を倒す事なのか? 

 

 こんな俺を友だと言ってくれたパルヴェーズを、信じ切れない自分が醜くて嫌悪すら浮かぶ。

 しかし疑問は止めどなく溢れ返り、パルヴェーズに聞きたい事は尽きない中で一つの疑問が祐一を苛むのを辞めてはくれなかった。

 恩人だと。

 相棒だと。

 友人だと。

 そう思っているからこそ、思い至ってはいけなかった疑問。

 

『パルヴェーズもまた、今まで出遭った魔物や異常の仲間じゃないのか?』

 

 そんな疑問。あの暗い空間で、微かに抱いた疑問だった。目覚めた時、パルヴェーズの変化に気付いたからこそ、心に深く伸し掛かってきた疑問。

 友人を……パルヴェーズを疑いたくない、と言う気持ちは当然ある。疑うなんて事を思うだけで、吐き気が止まらない。

 しかし冷静な思考が、弾き出した推論を声高に主張する。現実を見ろ、と。

 判断が下せなかった。

 その疑問だけですら、いっぱいいっぱいなのに、また、次々と疑問が生まれて行く。それなのに、答えは出ないまま。そんな、袋小路。

 少し治まっていた頭痛が、また酷くなっている事を自覚した。祐一の猜疑心が、パルヴェーズの治癒を拒否しているかの様だった。

 余りの痛さに意識が霞んでいく……。

 ただ不安になった心は無意識にパルヴェーズに回した腕を、強く掻き抱ていた。

 パルヴェーズがどんな顔をしたのか分からない。それでも、そっと強く抱く腕に、手を添えてくれた。

 血のように、熱い涙が、頬を伝っていく。

 

 ごめん。そこで、祐一の意識は暗転した。



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因果の糸

 バンダレ・アッバース。

 イランを代表する三大主要港の一つであり、いま祐一たちがやっとの思いで辿り着いたホルモズガーン州の州都でもある港湾都市だ。

 古くから港町として栄えて来たこの街はマルコポーロが記した『東方見聞録』にも記されるほど、歴史ある街でもある。

 主要港であるためかアラブ人やロシア人貿易商も姿もよく見る事ができ、黒人系の住民も多く以前からの人々の往来の多さを物語っている。

 この街には、ペルシア湾で取れた魚が並ぶ魚市場、活気溢れるバーザールがあり、バンダリーと呼ばれる人々……特に女性の方は、赤または黒の仮面を付けており、異国情緒を感じ取る事が出来た。

 

 街道沿いの一角にあるホテル。

 そこのホテルの一室を貸り、祐一とパルヴェーズは休息を取っていた。

 町の住民が祐一を背負うパルヴェーズを見ては「お節介」とも取れるほど世話を焼き、あれよあれよという間にホテルを貸してもらえる事になったのだ。

 祐一が意識を失って、丸一日。未だ彼の意識は戻らない。

 パルヴェーズは祐一のベッドの隣に座り、付きっきりで祐一の様子を見ていた。部屋は締め切られていて天井の蛍光灯だけが光源だった。

 祐一を見つめる彼の胸中は分からないが、祐一を深く案じている事は容易に察する事が出来た。

 若く力強いしかし細い繊手が、祐一の癖のある黒髪を撫でていく。こうする事で、昏睡状態である祐一の表情が少し和らぐのだ。

 眼差しは優しく、己が愛し子を見るかのようだ。そして、同時に何か決意を秘めた眼でもあった。

 暫くそうしている時だった。

 

「う……。んぁ……?」

 

 祐一がうめき声を上げる。深く閉じられていた目がゆっくりと開いていく。

 どうやら目を覚ましたようだ。

 パルヴェーズはホッと安心した様な、何処か弛緩した雰囲気を出す。祐一はいまだ茫洋とした意識の中で、ここが何処なのか分かっていない様子に見えた。

 彼の目にだんだんと理性が宿る。意識が完全に覚醒したようだ。そして祐一は隣に感じる気配に……気が付いた。

 

 ゆっくりと、視線を向ける。

 パルヴェーズ……。祐一は、彼に気付いたと同時に、気不味そうに目を伏せていた。疑問はまだ祐一自身を苛む事を辞めてはくれない様だ。

 祐一にはどんな顔をして顔を合わせれば良いか見当も付かなかった。

 そんな祐一を見て取ってパルヴェーズは意を決した表情を作り、口を開いて、

 

「のう、小僧……」

「なあ、パルヴェーズ……」

 

 相棒と重なった。

 祐一は顔を上げ、パルヴェーズも祐一を見据えた。視線が重なる。祐一の意識が覚醒してから、今になってやっと二人は目を合わせたのだ。

 祐一の瞳はいつもの揺るぎない意志に溢れたものでは無く、不安げに揺れていた。恐らくそれは「恐怖」だったのかもしれない。

 パルヴェーズもまたそんな祐一の瞳を見て取っては、哀しげに瞳を揺らす。

 

 ───致命的だった。

 

 何時の間にか彼らの亀裂は取り返しがつかないほど広がっていた。昨日まで笑い合っていた名残は……欠片もない。

 猜疑と恐怖。諦観と悲観。二人の心はそんな感情で蟠り溢れていた。

 ここが俺達の終着点……。

 二人は何となく感じ取った。

 祐一はこの旅の破局を感じながら、それでも祐一は聞かなければならなかった。顔を伏せ、パルヴェーズを見ることなく彼に改めて問い掛ける。

 

「なあ……パルヴェーズ。君に聞きたい事があるんだ……。オマーン湾で起きた『強風』、あの町に居た『山羊』、この街の近くに現れた『雄牛』……。俺、十四年生きてきたけど、こんな訳分からない現象、見た事も聞いた事もないよ。信じられない事ばかりが起きてる……」

 

「それに……パルヴェーズ。君もだ。あり得ない身体能力、あり得ない力……俺は、君みたいな人間にも会った事も、見た事もない。……"あり得ない"んだよ。……ただ単に、世間知らずなのかも知れないけど、そう思ってしまうんだ。君を……疑ってしまう……」

 

「なあパルヴェーズ! 君は一体何者なんだ! 普通の人間なのか? 俺の友達? それとも、ただの旅人? ──違うんだろ!? ……友達にこんな事思うのなんて、首を掻っ切りたくなりけど……やっぱり俺は思ってしまうんだよ!」

 

「君が、あの魔物たちの仲間なんじゃないのかって……! そして、君が今にでも、俺を襲って来るんじゃないかって……そう、疑ってしまうんだ……」

 

 祐一は、力尽きるように語った。

 

 

「───小僧」

 

 力ある言葉。

 グイッと、見えない引力に引かれる様に、顔が動く。祐一は、自分の意思とは関係なく、顔を上げざるを得なかった。

 視線が、パルヴェーズを捉える。

 目を動かそうにも、眼球が、動いてくれない。恐怖と共に、パルヴェーズを見据える。

 

 パルヴェーズは、微笑んでいた。

 

 感情を一切表さない神仏の類じみた神韻縹渺たる表情。つまり……、アルカイックスマイル。

 ──ああ、これだ……。祐一は、この表情が大嫌いだった。あの血の通った、太陽のような友人が、どんどんと人から外れて行く感じがして。

 大嫌いな表情。なのに祐一に去来した感情は嫌悪でも、恐怖でもなく、胸を締付ける酷い寂寥感と、狂いそうな程の後悔だった。

 

「……おぬしの言う通りじゃ。我と、あの者らは、祖を同じくする存在。なんの因果か、今は各地に散らばっておるが、元は一つであったもの。そして我が使命とは、それらを集め、元の存在へと至る事。記憶を殆ど失っておったのも、幾つも存在に別れ、名を封じられたが故に……」

 

 パルヴェーズの、冷厳とした言葉が響く。

 

「小僧……お主は我と初めて会った時に、言った事を覚えておるか? ……『おぬしを助けたのは罪滅ぼしじゃ』と。───その言葉の通りじゃ」

 

「『我』は、おぬしを襲った『強風』にして『山羊』! そして、昨日現れた『雄牛』でもある! おぬしを襲った化身は全て『我』!」

 

「そう……。おぬしを襲ったのは、危機に陥れたのは──『我』じゃ。小僧」

 

 パルヴェーズは、淡々と語る。一切感情を悟らせない声で。

 己の来歴を。己の本性を。己の正体を。今まで知りたかった事。曖昧で謎だった事が次々と明かされて行く。本来なら、驚愕するであろう事。

 だけど今の祐一にとって、そんな事は、どうでも良かった。

 祐一の心は、ある日突然、四肢を失った様な、暗澹たる気持ちだった。

 

 パルヴェーズが、決別しようとしている……! 何処か朧気に感じていた破局の時は、もう目の前に来ている。それが分かったのだ。

 ───次にパルヴェーズが口を開いた時にでも。

 やめろ。やめてくれ。

 祐一は、必死に願った。自分から拒絶しておいて、余りにも自分勝手な願い。

 だが、それでも、嫌だった。

 この一週間ほどの旅、辛くなかった、なんてお世辞には言えない。

 始まりは船が転覆して、漂流する所から始まった。

 迷い込んだ土地は、故郷じゃ有り得ないほど過酷だった。

 水の確保にも事欠く、生き難い土地。

 旅の相棒は強くて、今までの慢心や、自尊心は、粉々だった。

 行く先々では、人々に言葉なんて伝わらなくて、疎外感は何時も己の心を苛んだ。

 だけど、それでも、彼と居れば「宝石」なんかよりも大切な時間になったのだ。

 

 祐一は、今更そんな事に気付いた。

 結局、彼はその事に、終わりが来るまで気づく事が出来なかったのだ。

 くるな。くるな。

 別れの時が、近付いてくる。

 それでも、時は止まらない。祐一の後悔なんて、感情なんて、関係なく時間は進む。

 ついに、パルヴェーズの口が、開く。

 

「───小僧。ここで袂を分かつとしよう」

 

 ───ああ。どうして、こうなったんだろう。

 

「我と、おぬし。短い間であったが、良き旅路を歩めた。我の無聊を良く慰めてくれた。ふふ、気紛れに助けた人の子が、ここまで愉快な者じゃったとは、因果とは分からぬものじゃのう」

 

 祐一は、幼子のように、いやだいやだ、と首を振り続けた。もう、これ以上聞きたくない。別れの言葉なんてクソ食らえだ。

 

「『強風』、『山羊』、『雄牛』……。化身が、おぬしの前に現れる前に、討ち果たせれば良かったのじゃが……。すまぬの……。我の至らなさで、おぬしが何度も危地に陥れてしまった」

 

 ちがう。ちがう。

 俺は助けて貰ったんだ! 他でもない……お前に! そう思えど、口から出て来るのは、喘ぎ声のみだった。

 いやだ。いやだ。

 そんな思いが繰り返して溢れ、鋭い感情が胸を穿った。耳を抑える。

 

 もう、なにも、ききたくない。

 

「───祐一」

 

 頭が真っ白になった。

 パルヴェーズが、祐一の名を呼んだ。初めて、名を呼ばれたのだ。

 驚いて、顔を上げる。

 視線の先に居るパルヴェーズは……笑っていた。無機質な神韻縹渺たる表情ではない、いつもの、慈しむ微笑。

 

 ああ……

 

 ……終わりだ───。

 

 パルヴェーズの、優しげな表情とは裏腹に、祐一は思った。

 いやだ。

 祐一の頬を涙が伝う。パルヴェーズは、そんな祐一の頬に手を伸ばし、涙を拭った。

 ふふ、今度は手を払われる事は、無かったのう。

 パルヴェーズは、そんな感情が浮かんだ事が、おかしくて笑みを深め、

 

「祐一よ。おぬしは、我に勝利した暁には、名を呼べと約束しておったのう。まあ、我に勝つ事は出来なんだが、しかし、我が旅路に、珠玉の彩りを与えてくれた。

 ……感謝する。故に、これを功とし、名を呼ぶ事を褒美としよう……。喜べ、おぬしは我に、その名を刻みつける事ができたのじゃぞ?」

 

 念願が叶った。これが、常であればどんなに幸福だっただろう。

 祐一は、ぐちゃぐちゃの心の中で思う。

 本当の所、祐一にとって勝負よりも、パルヴェーズに名を呼んでもらう方が重要だった。億兆の勝利よりも、この友人に名を呼んでもらう方がずっと価値のある事だ。

 そう、考えていた。

 だと言うのに、胸には、更に増した寂寥感と、後悔だけがあった。ボロボロと情けないほど、涙が止まらない。

 

「ふふ。我が名を封ぜられて居なければ、おぬしを我が愛し子として迎え入れ、戦士として格別の加護を与えたのじゃが……。この身では、それすらも儘ならぬ。難儀な事じゃ……。じゃが、慰め程度の加護であれば、おぬしにも与えられるじゃろう」

 

 パルヴェーズは、少し悔しそうに、だが慈しむ様に笑う。

 涙を拭う手が、離れていく。

 そんな加護要らない。君が居るだけで、俺は嬉しいんだ。

 そう思っているのに。───それでも祐一の口は、開いてはくれなかった

 

「さらばじゃ、我が最愛の友よ。おぬしは、災禍蔓延る不条理な世界では……純粋すぎる。おぬしの輝きを見ていたくて旅の侶伴としたが……ふふ、やはり、おぬしの隣は我ではなかったようじゃの。それがどうしようもなく残念じゃ」

 

 そんなわけない。いかないでくれ。祐一は、離れていくパルヴェーズの手を見続けていた。

 あの手が、離れていく程に、祐一とパルヴェーズを結ぶ因果の糸が、次々と千切れていく気がしたのだ。無意識に、パルヴェーズの繊手へ手が伸びる……。

 

 ───予兆は、なかった。

 

 ゴゴゴオオオオオンンンンッ!!! 突如、凄まじい衝撃と轟音が街を揺るがした。

 

 ────GYAAAAAAAAAA!!! 

 

 今度は地獄から響くような、大音声。何かとんでもないモノが現れた。外を見なくとも、異様な気配が、祐一に教えてくれる。

 何度も異常や異変、異形に出遭い、その手の感覚が凄まじく鋭くなった祐一は、すぐに判った。

 あの魔物たちと同じ奴が現れた、と。

 それと同時に気づく。魔物が現れて、その事実が浮き彫りになった。一度気付いたらもうダメだった。

 鋭くなった祐一の感覚が、こう囁くのだ。

 

 眼の前の『少年』もまた……同じ存在だ、と。

 

 余りにも突然の事に、酷く動揺する祐一。

 当然だ。

 魔物が現れ、目の前の友人も「人」では無いと言う、確信を得てしまったのだから。

 そして今、なにをしようとしていたかも、忘れてしまった。

 そうだ……俺は……! ハッと……気付いた時には、パルヴェーズの手は、もう離れ切っていた。

 

 ───因果が、途切れたのだ。

 

 フッと。

 部屋を明るく照らしていた、光源が消失する。

 おそらく今の衝撃で、電気を供給する発電所が破壊されたか電線が寸断されたのだろう。

 突然光を失った暗い空間の中、目が慣れず夜目の利かない祐一はパルヴェーズの表情を伺い取る事が出来なかった。

 だが暗闇に浮かぶ二つの猛禽の双眸がしっかりと祐一を視ていた。どうしようもなくパルヴェーズが怖い。情けないけれど、それが本心だったのだ。

 当たり前だ。

「木下祐一」と言う少年は、例え人並み外れた身体能力を持っていても結局は……ただの「人」なのだから。

 パルヴェーズは夜目の利く目で、祐一の表情をみやり、

 

「……では、これで今生の別れだ。おぬしとの旅路……決して忘れぬ。我が与えた加護で、ここから逃げよ。ふふ……何れおぬしの肉体が滅び、そして訪れる審判の時、チンワトの橋を渡り切る事が出来たなら……。また、ともに旅をしたいものよ。……せいぜい心清く、善の道を歩めよ」

「まって、くれ……」

「我らと人の道は交わらぬもの。永遠に、な。……では、さらばじゃ……友よ」

 

 夥しい暴風が吹き荒れる。凄まじい烈風の嵐だ。だが、全てを吹き飛ばす、と思われた風は、予測に反して、何も微動だにさせなかった。

 ベッドも、椅子も、鏡も、祐一ですら、そよ風が頬を撫でるだけだ。

 しかし、咄嗟に祐一は、両腕で顔を覆っていた。

 害意を感じなかったパルヴェーズに対し、しかしそれでも過剰に防衛措置をとった祐一。それほど、彼への不信感は高まっていたのだ。

 そんな自分に、愕然とする祐一。そして、その腕の隙間から、祐一は己の目で、しっかりと見た。

 異形へと変貌する、パルヴェーズの姿を。

 パルヴェーズは、その美しい身体を、ゆらりと、ほどけさせたのだ。

 しゅるしゅると、繭がほどけるように、露と消えて行くパルヴェーズ。

 

 彼は、「人」では、無い。確信は……、確証になった。

 窓がひとりでに、開く。風となったパルヴェーズは、真空の筒に滑り込むように、外へ飛び立っていった。

 結局、祐一はピクリとも動けなかった。咄嗟に手を伸ばす……そんな動作すら、出来なかったのだ。

 そしてパルヴェーズが自分の下から……去った。

 彼は、もう、戻って来ない……。どんなに目を背けても、現実は無情にも祐一の心にその事実を突き付けてきた。

 祐一は、愕然とくずおれ、膝を付く。

 もう、友はどこにも……居ない。祐一の脳裏に、そんな現実が掠めては消える。

 

 一陣の風が、祐一の前を通り抜けていく。項垂れ焦点の合っていない目で虚空を見詰める祐一。

 

「おれは……また……。まちがえた……」

 

 無様な、自分……。残されたのは、惨めな一人の少年だけだった。



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向かい風の中で

長いです


 ──バンダレ・アッバースが、燃えている。

 開いた窓から祐一は一人、その光景を無感動に眺めていた。祐一が寝かされていた部屋は最上階に近い位置にあるらしく、この場所からであればバンダレ・アッバースを灰燼に帰そうとする下手人が良く見えた。

 

 巨大な影が、蠢いている。影は街を蹂躪しては咆哮をあげ、瞬く間に被害を広げて行く。あらゆる場所で火の手が上がりいくつもの黒煙が空へ立ち昇っていく。

 眼下に見下ろすホテル郡が燃え盛り火達磨になる。煌々と照りつける紅蓮の炎は天上に輝く太陽に勝負を挑んでいる様にも見えた。 

 蹂躪されるバンダレ・アッバースの街。暴れ回る者の正体は───『駱駝』だった。

 雄叫びを上げ、その分厚く鋭い前肢で、大地も街も人も踏み抜き破壊を齎す。荒れ狂う『駱駝』の目には、狂奔の色がありありと写し出されて、目に入るもの全てがかの魔物を神経を逆撫でて激昂させている様でもあった。 

 惑う住民もその狂気が乗り移ったかのように、誰かれ構わず、殴り、蹴り、血を流し、そして笑うのだ。

 

 これまで、現れた『強風』『山羊』『雄牛』。

 それらが現れたのは、人里離れた土地が多かった。そのため天変地異にも等しい恐るべき災いが起きた事にも関わらず、被害が多少は抑えられていた。 

 だが今回は、違う。

 ここは人々の往来が盛んな湾港都市。何十万の人間が暮らす大きな街だ。

 そこへ抗えない力を持った魔物が現れた。そて魔獣の猛威は、烈火の如くまた執拗であった。

 人々の営みが、秩序が、結晶が……。為す術なく破壊されていく。もはやこの街の崩壊は必定であった。

  

 そんな様子を窓から冷めた目で眺める祐一。彼のの聴覚を激しく刺激する音……非常事態を告げるアラームと人々の絶叫や呻吟の声が、酷く耳障りだった。

 惑う人々がいっそ滑稽に見えた。あんなものから逃げられる訳がない。ならば潔く膝を折って須く首を差し出すべきじゃないか。そんな感情さえ浮かんでくる。

 それほどのまでの諦観。祐一はいまかつて無いほど無気力であった。

 なにを見ても心が動かない。何を聞こうとも、頭が働かない。身体を動かそうとすら、思えなかった。 

 友に拒絶されるより、友を裏切ってしまう方が、よっぽど堪えていた。

 

 二度目の失敗を犯した彼は、心がポッキリと、折れてしまったのだ。

 もしここにパルヴェーズか、或いは彼の幼馴染が一人でもいれば、すぐさま張り倒し、正気へ戻そうとしただろう。だが、不運にも彼の傍には誰も居ない。

 茫洋とした思考のもと、呆けた様に『駱駝』の蛮行をただ只管眺めているのみであった。

 その様子はまるで生死の狭間の末に辿り着いた、あの暗い空間に居るようですらあった 

 

 キィィィィィン───。戦闘機だ。

 ミサイルだろうか? 戦闘機から幾条もの線が放たれた。

 なんの興味も沸かなかったが、ふとそんな事を思う。その線は、一直線に『駱駝』に向かって行き、そして悠然と構える『駱駝』に直撃し、何も起きる事なく……消滅したのだ。

 

 ───GYAAAAAAAAAA!!!! 

 

 これまでに無い大音声。

 矮小な人の子の、身の程知らずな振る舞いに、魔物は怒りの咆哮を上げた。

 赦さない、と。必ず滅ぼす、と。魔獣の眼光が、空の羽虫を射貫く。

『駱駝』が前足を振り上げる動作をした。

 たった、それだけの動き。たったそれだけの動きだと言うのに、戦場の空の支配者は粉々に砕け散ったのだ……。

 

 簡単な事だ。神速の動きによって生まれた鎌鼬が、空を滑空する戦闘機を破壊したのだ! 

 「人」が、抗える存在では……ない。

 怖気が走る。今度は無感動な心から一転して「恐れ」が生まれた。

 ただ、ただ、恐ろしかった。

 恐怖に指が、膝が、身体が震える。震えを誤魔化すように胸を掻き抱く。今度は歯の根が合わない。

 祐一の胸中に、また逃避の感情が渦巻く。

 これ以上、あの魔物を見ていたくない。目を背けたい。

 パルヴェーズにも抱いた、弱者……いや、「人」として当然の欲求。

 だが祐一は、そうしなかった。そうする事が、出来なかったのだ。

 

 祐一の鋭く、研ぎ澄まされた感覚が捉えたのだ。……いつも感じていた馴染みある、力強い気配を。

 恐れとともに魁偉を誇る『駱駝』を見やる。

 破壊の限りを尽くした『駱駝』が高らかに雄叫びを上げている。地鳴りが、遠く離れた祐一にも届く。

 同時に、瞠目する。巨大な『駱駝』に、突如現れた可視できるほどの烈風が攻め懸かったのだ! 

 

(あれが、パルヴェーズなのか……)

 

 祐一は、未だ蟠る感情に苛まれながら、あれがパルヴェーズである、と直感で理解した。

 忘れるものか。たった一週間程度とは言え、あれだけ一緒に居たのだ。間違えるはずが無い。

 可視できるほど濃密な烈風が、『駱駝』を襲う。

 しかし、『駱駝』もさるもの。不意を打って来た烈風を、まるで知っていたかの様に、巨体を揺らし、見事に躱して見せたのだ! 

 だが、烈風の攻勢はそれで終わりではなかった。『駱駝』の横を通り過ぎた烈風は、収束し、今度は蕾が花開く様にばらけ、無数の刃となり攻め掛かる。

 その数は、十や二十では利かない。

 千にも及ぶ斬撃の嵐。必中必殺の斬撃が降りそそぐ。

 しかしその狂気に満ちた瞳で見据え、見切る『駱駝』。数多の斬撃を潜り抜けては、時にはその隆々たる四肢で応戦する。

 

(あいつも、心眼の使い手なのか……!)

 

 偉駆を誇る『駱駝』の未来予知にも似た機動を見て、戦慄と共に推察する。

『駱駝』を捉えきれず、あらぬ方向へ飛んだ刃が、ビルをバターの様に容易く切り裂く。ビルが切り裂かれた箇所からズレ降りて行き、瞬く間に被害が拡がって行く。

「人」など、歯牙にも掛けない存在。もはや「大災害」そのものである。

 

(勝ってくれ……パルヴェーズ!)

 

 なんて自分勝手な願い。しかし、恐怖に呑まれた祐一は、そう願ってしまった。藁にもすがる思いで、恐ろしい化身たちの戦いを見る。

 拮抗する、2つの強大な存在。

 しかし、その均衡も長くは続かない。実体を持たず、手数の多さで勝る烈風が、ついに『駱駝』を捉える。

 新たに生まれた五つの巨大な刃。恐ろしい力を秘めた刃が、神速にも及ぶ速度で同時に襲い掛かる。心眼で見切る『駱駝』もまた、閃光の如く四肢を振り回し、応じる。

 だが、さしもの『駱駝』も手が回らない。最後の一つが鉄壁の防御を潜り抜け『駱駝』を袈裟斬りに切り裂く。

 その背瘤から腹部にかけて、巨大な裂傷が走ったのだ! 

『駱駝』の四肢にて、封ぜられていた刃も、形を変え「鉾」となり、『駱駝』を穿つ! 

 烈風の攻勢に、満身創痍となる『駱駝』。

 

 ───だが、そこまでだった。

『駱駝』はそれでも倒れない。感覚が麻痺したかのように、微動だにしていない。凄まじい耐久力で泰然と構える『駱駝』が──動く。

 

 咆哮とともにその流血滴る前脚で、烈風を叩き付けたのだ! 

 その前脚は、実体が無い筈の風を見事に捉え、痛打を与えた! 烈風は、たわんでは弾け飛び、あらゆる物を薙ぎ倒し、吹き飛んで行く! 

 烈風は、『駱駝』の一撃に、堪らず霧散した! 

 あっけない終幕だった。

 

 ──狂った『駱駝』の勝利によって……。

 

 勝利の雄叫びを上げる、『駱駝』。

 未だ遠い距離だと言うのに、咆哮でビリビリとホテルが震える。まるで、恐れ慄くように。

 ──ズル……。

 そしてまた、眼下に捉えた壮絶な激戦に、祐一は気圧され、一歩後ずさってしまった。

 引き摺る様に足を引く。

 なんだこれは……? 本当に現実なのか……。

 死の恐怖と理解出来ない物への恐怖。その感情が、知らず祐一の心を縛りおののかせる。

 

 ───ガタッ。何か動く音がした。

 

「───ッ!」 咄嗟に振り向く祐一。よく見れば後ずさった先にある椅子に、祐一の足がぶつかっただけだった。

 ホッと安堵する。と同時にその椅子に視線が吸い込まれた。パルヴェーズが腰掛けていた椅子とは別のもう一つの簡素な椅子。その上にはいつも自分が着ているブレザーが折り目正しく畳んであった。

 視線を下げ己の格好を見る。……上半身が裸だ。どうやらパルヴェーズが去り、呆然としていた自分は、半裸である事すら気づけていなかった様だ。

 

(パルヴェーズが、畳んだのか……?)

 

 ふと、思う。『駱駝』の事なんて忘れて、パルヴェーズの残した足跡に意識が大きく傾く。

 『雄牛』が放った巨礫で、大穴が空いていたブレザーは、どうやったのか穴が完全に塞がっており、状態も新品同然に綺麗になっている。そして、こうしてキチンと畳んであるのだ。

 

 あいつ、変な所で律儀だなぁ。

 

「──あはは」

 

 笑いが零れた。笑ったのは、いつぶりだっただろうか……。

 そんな考えが、脳裏をよぎる。

『雄牛』と遭遇してから、全く笑っていないんじゃないだろうか。いつも俺とパルヴェーズは笑い合っていた筈なのに。

 目をギュッと強く瞑る。息を深く吸い、大きく吐き出す。

 

(なんか少しだけ、冷静になれた気がする……)

 

 目を、開ける。

 パルヴェーズと決別し、それからずっと悔恨の感情が、重くのし掛かって全く周りが見えていなかった。

 視線を上げる。

 うじうじ悩んでる自分が鏡に写ってひどく情けない。───そして一つのとある疑問が生まれた。

 

(なんで俺は、ここに居るんだ?)

 

 あの時。パルヴェーズが去る時、引き止める事も、追う事もしなかった自分。自分は確かに別れを望んでいなかった。

 でも、拒みもしなかったのだ。

 それなのに、今こうして後悔に塗れている……。

 なんて情け無いヤツ。俺は……どうしようもないクソだ……。

 ブレザーを手に取る。

 その時ひらりと一枚の紙が落ちていった。膝を折り、床に落ちた紙を見てみる。

 それは写真だった。あの『山羊』が現れた町で、チャイハネに居た人々と撮った写真。

 写真に写る人々は誰もが笑っていた。人々も。自分も。そして──パルヴェーズも。

 

 祐一は思い出した。あの町でパルヴェーズは何をしていたのかを。

 そうだ……。彼は人知れず戦い、町を守り、自分を助けてくれたではないか……。それを誇る事も、吹聴する事も、彼はしなかった。

 そしてあの町を旅立つと同じ頃に、パルヴェーズは町を忌避し始めた。……今なら分かる。パルヴェーズは、あの町で魔物が現れた事を悔やんでいたのだ。だから、町には寄り付かなかった。

 

 そして祐一は更に思い至った。パルヴェーズが別れを切り出した理由を。

 あいつは……恐れていたんだ。

 俺が、魔物に襲われる事を。己と共に居るだけで、友が襲われ傷付くのを……酷く恐れていたんだ……! 

 

(それなのに……、それなのに……!!!)

 

 なんて下劣で、醜いヤツ! 路傍の石や、打ち捨てられたゴミの方が、何倍も価値がある。

 祐一は、吐き捨てる様に、自分への呪詛を吐く。

 拳を握る。

 ふつふつと激情が溢れて、抑えきれない。

 握り締めた拳から、血が滲む。だが気にも止めず、彼は自分の中にある激情を制御出来ず、壁へ拳を叩き込んだ。

 叩き付けた拳。

 その拳は強かに壁を殴り衝撃を受けた壁は、叩き付けられた場所を中心に、クモの巣状の罅が広がり遂にはガラガラと崩れ去った。

 

 顔を上げて、前を見る。視線の先には、備え付けの鏡があった。

 鏡に映し出された、己が見える。鏡に移る自分は、今までの自分の姿さえも写し出し、木下祐一と言う「人間」を克明にさらけ出した。

 

 友を拒絶して、その友に縋ろうとしている自分が居た。

 友が戦場に向かい、のうのうと生きている自分が居た。

 友を疑った。しかしその友に愛されている自分が居た。

 

 

 ─── ふ ざ け る な ぁ!!!!! 

 

 激昂し、祐一は吠えた。『駱駝』の咆哮すら掻き消す声量にホテルが震える。激情の発露は実体すら得て、ホテルの一室を軋ませた。

 全身が熱。身体中の血液が沸騰しているかの様だ。

 祐一を包む激情は「怒り」に他ならなかった。己への怒り。 情け無い自分への、赫怒である。

 己の情け無さが、どうしようもなく許せない……! 

 激情のままに叫ぶ! 

 

「友達を信じれない奴が、友達に怯える奴が、友達を哀しませる奴が、それのどこが友達なんだよ! ふざけんじゃねえぞ木下祐一!!!」 

 

 猛る。先刻まで、生涯でこれまで無い程の失意に暮れていた少年は、今はその暗い感情が裏返った様に、叫び、猛り狂っていた。

 パルヴェーズへ……、自分を思ってくれた友へ……! 

 酷薄な言葉を投げ、拒絶してしまった自分は、一体なんなんだよ!! 

 

 今の俺は、断じて! ───あいつの友達じゃねぇぇ!! 

 

「あいつの! パルヴェーズの! 友達名乗るってんなら……! あいつぐらい……倒してみせろおおおおおおお!!!」 

 

 あらんかぎりに咆哮し破壊の化身たる『駱駝』を指差す。そう言い捨てた祐一はブレザーを引っ掴んでは羽織り『駱駝』目掛けて、窓を飛び降りた! 

 跳躍する。当然のように、すぐさま重力が祐一の身体を絡め取り落下する。

 前述の通り、この祐一達のいる部屋は高い場所にある。それもバンダレ・アッバースの街が一望できる程に。

 そこで祐一は、身一つで飛び降りた。

 一時のテンションに身を任せて。木下祐一、14歳の夏。そろそろ盗んだバイクで走り出したいお年頃である。

 しかし、祐一は考え無しに、飛び降りた訳ではなかった。祐一には確信があったのだ。

 

 ───俺はここでは死なない! 

 ───俺はこれくらい出来る! 

 そんな絶対の自信と確信が胸にはあった。

 祐一は、しっかと目を見開く。視界に入るすべての物が停滞を始め、モノクロへ。 

 パルヴェーズが教えてくれた「心眼」。

 あらゆる武術の奥義とも言える技を祐一は使いこなしていた。

 なんと祐一はパルヴェーズとチャンバラで勝負して以来……それから一週間ほどの短い期間で、自由にその領域へ、足を踏み入れる事を可能としていたのだ。

 それは、パルヴェーズの教授の上手さもあっただろう……だが彼が成し遂げる事が出来た一番の理由は、偏に「パルヴェーズに勝ちたい」と言う一心であったのだろう。

 恐るべきは彼の、勝ちへの執着と、友への執念である。

 閃電、雷光すら見切れるほど、今の祐一の視界はクリアだった。今の彼なら、雷神……戸次鑑連の様に、稲妻だって捻じ伏せ、切捨てて見せるだろう。

 だが、それだけでは無かった。

 いつもの心眼は、どんなに速いものでも、容易く見切ってみせた。

 だが、今回の心眼は違う。

 今、不甲斐無い己に怒り、嘗て無いほど激情に溢れた祐一。

 そんな彼の心眼は、曇るどころか普段より格段に感覚が鋭くなった。それに加え、自分がどう動けば良いのか、最適解が何となく判った。

 視界にもう一つ自分の姿を……最良最高の動きをし、導く自分の姿を幻視する。

 彼の心眼は、もう1段階先へ進んだのだ。

 

(──一番良い動きが、見える!) 

 

 突然、新しい世界が拓けた。

 普段であれば、突然現れた新しい感覚に慄くであろう事。しかし、祐一の心に揺らぎは無く、凪いでいた。

 そして、ただ素直に自分の成長を喜んだ。

 怒り、歓喜、驚き、あらゆる感情の奔流が、祐一を押し流そうとする。

 だが今の祐一は、毛ほども気にならなかった。

 荒れ狂う感情の、奥には冷静に全てを見詰める、確固たる自分が居た。

 その自分は、感情どころか、筋肉の躍動、血管の動き、それすらも詳細に感じ取り、支配していたのだ。

 奇妙な感覚だった。 

 心には、煮えたぎる感情が溢れかえっているのに、すぐ横には、全てを見据え無心を貫く理性があった。

 肉体は、精神の軛から逃れようと、もがく様に、細胞が荒れ狂っているのに、億兆の細胞……その全てを、祐一は支配下に置いていたのだ。

 静と動が混じり合う。無我でありながら、狂奔に狂っている不可思議な感覚。陰陽太極図の如く、感情の奔流に必ず冷徹な思考があり、凪いだ心に必ず荒れ狂う感情があった。

 己の先を行く自分に導かれる様に、動く。

 臍下丹田より込み上げるものを、足に収束させては籠め、全力で駆ける! なんと、師事されそれほど経っていない内功であっても、今の祐一には児戯の如く容易く扱う事ができた。

 

 ビルの外壁を蹴り上げ、疾走する! 更に加速していく。祐一の蹴り上げる脚力に負け、ホテルの外壁が降り積もった雪道を進むかの様に凹んで行く! 

 あの暗い空間より、戻って来てから、己の感覚が酷く鋭くなっているのを感じていた祐一。今はそれが最高潮であった。臍下丹田より湧き上がる内功が、手に取る様に鮮明に、感じ取る事が出来た。

 心臓の鼓動、内蔵の活動、血管の脈動、細胞の一個一個の感覚、大気の流れ、遠くから響く音……暗い空間に迷い込んだ時から、先鋭化した感覚が脳へ叩き付けてくるのだ。

 だと言うのに、祐一は行動不能には陥らなかった。全てを理解し、取捨選択しては、最適解を導く。異常な事であったが、今の祐一には、不思議と成し得る事が出来た。

 

 武術の奥義たる「心眼」すら材料に、祐一は駆ける! 

 疑問は当然ある。己が強くなった理由は検討も付かない。

 どれほど考えても答えは出なかった。それに己が異常に近づいて居るのは良くわかった。

 だがそんな事どうでも良い。

 祐一の心を占める感情は、一つ。

 

(今の俺なら、あいつに並び立てるんじゃないか……)

 

 そんな淡い期待。

 しかし、祐一はそんな蜘蛛の糸にも似た、か細い希望を「絶対に離さない!」と。

「疑わない……! 信じ切る!」と決めていた。

 

(俺は、パルヴェーズの使命を手伝う。そう約束したんだ。あの日、あいつに助けられて、初めて会った時に──!)

 

 拳を、強く握る。

 

(友達との約束は、絶対に、守らなくちゃ、ならない。俺はあいつが怖くて……そんな簡単な事すら忘れていた! でも……、もう最後まで付き合う。信じ切る! そう、決めたんだ!!)

 

 今日、目が覚めてから、怒涛の展開の連続だった。

 思い出した記憶に翻弄され、友を疑った。

 そして友は「人」では無かった。

 魔物と友人は同じ存在で。

 最後には、訪れる事を望んでいなかった……決別の時。 

 正直、オツムが悲惨な祐一にとって、処理出来ない事ばかりであった。

 名探偵の如く、難問を快刀乱麻を断つ様に解決出来る智謀も、機械仕掛けの神の様に、無理矢理に幕を引く力も無かった。

 取り柄と言えば、この身体能力の高さと、少し幸運に恵まれているくらいだ。

 現状を打開出来る方法……そんなもの、望むべくも無かった。

 だから、彼は思考を放棄した。

 

(どんな理由でも、パルヴェーズは俺を助けてくれたんだ! なら俺はそれに全力で応える! ──俺は、パルヴェーズを信じる!)

 

 単純明快な考え。

 いつもの開き直りだったが、祐一は、自分が間違っていると思えなかったし、パルヴェーズがあの異形たちと同じだと思いたくなかった。

 だから、一途にパルヴェーズを信じる事に決めた。

 彼の肚は決まった。

 

 大地が近づく。

 あの時、船が吹き飛ばされ、投げ出されて以来の、身が竦む様な感覚。

 だが、祐一に恐怖なんて欠片もなかった。ただ、もっと速く駆けろ! と足を前に突き出す。

 道路に突き出た、ホテルの看板が目の前に迫る。

 

(ッいくぞっ!!!)

 

 踏み込み、看板を滑走路代わりに駆け抜け、跳ぶ! 

 我を忘れて逃げ惑う人々が、あり得ない物を見た様に呆けているのが見えた。さもありなん。

 

 ──震ッッ!! 

 

 地面への着地に成功し、すぐさま猛る『駱駝』へ駆ける! 目の前に、ホテルやビルが軒を連ねるオフィス街が広がり、祐一の道を塞いでいた。

 ───建物が邪魔だ。

 そう思い、一息に跳躍する。なんという軽功! 

 数十mはある建物を跳び越し、今度は屋根の上に着地する。

 忍者の様に屋根伝いに跳び、一直線に『駱駝』の元に向かう。 

 疾風の如く、駆け抜ける。誰の目にも捉えられない速度。『駱駝』と、どんどんと距離が縮まって行く。

 そして然程、時間も掛けずに辿り着いた。

 

 ───これは……駱駝じゃない。駱駝の形をした……『魔物』だ。 

 祐一は『駱駝』を間近で見上げ思った。

 巨駆だ。近くで見るほどに、その異様さが浮かび上がる。

 見上げるほど巨大で、乱立するビルでさえ、『駱駝』の威容を隠し切る事が出来ない。

 鉄塔に匹敵する程の、長さと分厚さを兼ね備えた四肢が見える。もし、一度その分厚い前脚を振るったならば、どんな堅牢な城塞であっても崩れ去るだろう。

 こんな生物が、世界を闊歩したならば、地球での人類の覇権は容易く奪われるに違い無い。 

 ──だが、そんな異形を前にしても、祐一の足は止まらない。

 勢いそのままに駆け、未だ咆哮を上げる『駱駝』にドロップキックをかます! 

 

「うらあああぁあぁあッッッ!!!」

 

 ──轟ッ!! 

 完全な不意の一撃だった。

 それに、そもそも矮小な人間など歯牙にも掛けない『駱駝』だ。例え気付いたとしても、碌に反応を示さなかっただろう。

 それでも祐一の一撃は、確かに『駱駝』を捉えたのだ! 

 背瘤より走る裂傷に、祐一が開戦の嚆矢代わりの一撃を突き込む! 

 そこで、気付く。遠くからで見えなかったが、『駱駝』の傷は塞がり始めている事。

 何という生命力。

 祐一は何度目になるか分からない驚愕で、顔を顰めさせた。

 ───ズズッ……! 

 祐一の一撃で、あの巨大な『駱駝』がたたらを踏む。訳が分からない。狂気に彩られた目が、見開かれ、驚愕の感情を表す。 

 だが次の瞬間には赫怒の瞳に変え、許し難き者……矮小な身の程知らずへ咆哮する! 

 羽虫や蟻……そんな存在にしてやられたのだ。その怒りは当然だった。 

『駱駝』が、その充血した眼で、下手人を探す。

 直ぐに捕えた。

 己より遥かに矮躯の人間が、蚤の様に大地を跳ね回っている。

 更に赫怒の炎を燃やす『駱駝』。嘶きを上げ、前脚を振り上る。身の程を知らない愚か者へ、裁きの鉄槌を下す! 

 

 ───爆ッ!!! 

 大地が豆腐の様な脆さで、轟音を立て捲れ上がる。『駱駝』の強烈な一撃により、局地的に大噴火したかのようだ。

『駱駝』は、ただ不快だった。化身との神聖な戦い。その戦いの中で得た、気持ちの良い勝利を汚されたのだ。それも当然だろう。

 蚤は潰した。今度は、この街を破壊し尽くそう。怒る『駱駝』の目に狂気が、再び宿る。

 だが、『駱駝』の予想に違い、蚤は屍を晒していなかった。それどころか、降りそそぐ土砂を躱しては、前脚を駆け上って来る! 

 怒りが頂点に達する『駱駝』。

 鼻息荒く、涎すら垂らし、前脚に取り付く、蚤を大地に叩き付ける。再び、噴火したかの様に大地が吹き飛ぶ。

 

 ───潰れたか。前脚を上げ、覗き見る『駱駝』。

 直後、瞠目する。何も居ない。血すら着いていない。

 

 と同時に直感が囁いた。瞬時に、首を振る。

 恐らく目があった場所。そこに3mほどの石塊が投擲された。

 直ぐさま石塊が投げ出された方向を見やる。

 そこには──不敵に笑う「人間」が居た。

 

 ───GYAAAAAAAAA!!! 

 

 余りの怒りに『駱駝』の理性が掻き消え、周囲の気温が一気に上昇する。『駱駝』の持つ、あらゆる筋肉が膨張する。

 目障りな蚤を潰す。その為だけに『駱駝』は全力を尽くす。必中必殺の絶技が放たれるのだ! 

 

(おー、これは……死ぬかな)

 

 簡素に思った。

『駱駝』を翻弄していた祐一。しかし額には滝の様に汗が流れ、左腕も曲がってはいけない方向に曲がっていた。

 正直、もう諦めたい気持ちでいっぱいだった。

 位階が遥か上位に在る「魔物」を前に、祐一は如何に「人」から外れ始めたとは言え、結局は人間。脆く儚い肉体を、酷使し過ぎていた。

 烈風となったパルヴェーズすら倒せなかった魔物だ。祐一がどれほど死力を尽くそうと届く相手ではなかった。翻弄出来ただけでも大殊勲ものだろう。

 次の一撃で、死ぬ。

 死を確信していたが、心に絶望は無かった。ただ何故か気持ちの良い充足感だけがあった。

 

 迫り来る『駱駝』。

 嘶き、両の前脚を、高く高く振り上げる。

 祐一は、それでも諦めない。

 口角を吊り上げ、足に力を籠める。初めは、溢れる程あった臍下丹田から湧き出る力も、今は掻き集め無ければならない程、少ない。

 

 此処で自分は死んでもパルヴェーズが後を引き継ぐ。

 なんの根拠も無くそう信じた。そう思うと力が湧いてくる。

 揺るぎない瞳で見据え『駱駝』と相対する。祐一の肉体はボロボロであった。しかし彼の心は、憂いも悲壮もなく、晴れ渡っていた。 

 不敵に笑う祐一。充溢する心に、満足し、笑みを深める。

 五感を研ぎ澄ませ、『駱駝』の全ての挙動を見据えた。 

 最初の一撃だ。

 祐一は、『駱駝』を見据え思う。

 もう、今にも放たれるであろう、神速の連撃を捌ける余力は、無い。

 ならば……

 

(一発目の前脚を、見切って、ぶん殴る……!)

 

 幸い、奴の動きはパルヴェーズとの戦いでも見ている。自分にも、何度か放たれた。目は、大分慣れている。分の悪い賭けでは無い 

 多分、見切れる筈だ。……いや、見切って見せるのだ!! 

 

 祐一は、自己暗示にも似た、強い思い込みで自分を奮い立たせた。

 

(俺は少しでも……パルヴェーズの隣に近付くんだ……!) 

 

 胸の奥で、ジクジクと痛む「後悔」の感情を振り払う。そして今は遥か遠い……「友」を思い描き、決意する。

 最早、祐一の心に迷いは無い。

 あるのは、強い意志。最高の未来を思い描き、掴み取ろうとする、意志のみがあった。

 

 ──轟ゥッ!!! 

 

 遂に『死』が迫る! 稲妻にも及ぶ速度と、雷撃を上回る破壊力を纏い、度し難い蚤を踏み潰そうとする。

 まるで、隕石と相対しているかの様な境地。常人なら、瞬きもできず数百回は死んでいるだろう光景。

 

 しかし、祐一は「見切れる」と信じた。

 それ以外何も考え無い……只管に「勝利」を狂信者の如く盲信する。狂人と何も変わらないほどの、思い込み。或いは強い信念。

 ──だが、戦士として当然の事! 

 

「おおおっ!!!」 

 

 祐一も、跳躍する。

 前へ……! ただ、愚直に、前へ……! 己の最良の機動を、幻視する。

 身体が、無意識に動く。意志の介在しない……もはや、無我の境地に到った祐一の意識。

 腕を振り上げる。臍下丹田から、残り少ない力を、ありったけ注ぎ込む! 

 咆哮する! 

 

「テメェは、此処でッ───!」

 

 拳を叩き込む! 

 

「───オレと死ねッッッ!!!」 

 

 矮小なる人間の一撃。

 しかし、受けた『駱駝』の自慢の前脚は、小枝の様に拉げ、叩き折れたのだ! 

 

 ───GYEEEEEEEEE!!! 

 

 絶叫を上げる『駱駝』。怒りでも、咆哮でもない。不撓不屈の化身が初めて上げた、苦痛による絶叫だ! 

 

「はっはぁーっ! ざまあみやがれ! 人間、舐めんな!」 

 

 中指を上に突き出し、堪らなくなった様に吹き出す祐一。 

 痛快だった。

 遥か上位の強者に一矢報いたのだ。その喜びは、心を歓喜一色にし、満面の笑みを作らせた。

 

 力なき人類の快挙だった! 

 

 

 ───ガァン!!! 

 何かを、強かに打ちのめした轟音が響く。

 あの強大な魔物は、脚を拉げさせても止まる事なく、空中で無防備を晒す祐一を、残る左の前脚で蹴り飛ばしたのだ! 

 ───パキィィン。 

 同時に、何かの破砕音。

 しかし今の祐一にとって、そんな物を気にする余裕は、無かった。 

 

「───ッ!!!」

 

 グシャリッ! と前脚が叩きつけられ、身体を四方八方に、引き裂かれる感覚。続く衝撃によって、骨が筋肉を突き破り、空中へまろび出るのが見えた。

 だが、彼は奇跡的にも原型を留めていた。しかし、弾丸の様な速度で吹き飛ぶ祐一。

 巨大な瓦礫すら吹き飛ばし、弾け飛ぶ。

 どんな障害物も、祐一を受け止めるには到らず、吹き飛んで行く。

 そうして、数百m吹き飛んだ所で、やっと祐一は止まった。

 酷い状態だった。

 顔、口、首、胸、腹、足……あらゆる箇所から鮮血が流れ止まらない。

 意識が無いのか、顔は俯いている。

 四肢に無事な箇所はなく、右手以外の四肢は原型を留めていない。

 あらゆる物を巻き込み、吹き飛んだ影響で、鋭利な物が突き刺さり、痛々しい。

 死体だ。

 専門家で無くとも、一目見れば理解出来るほど、酷い状態だった。

 

 ───ガアアアァァァアアアンンンッッ!!! 

 

「ぁ……ぁ……」 

 

 それでも祐一は、生きていた。辛うじてだが、それでも彼は生きていた。少しの間、意識を失っていたが、凄まじい轟音によって、意識を取り戻した祐一。 

 だがそんな瑣末事、すぐに掻き消えた。

 己の余命が幾許も無い事を悟ったのだ。

 朧気で、もう痛覚すら感じない思考のなか思う……友への別れと、懺悔を。

 

(ごめん……パルヴェーズ……。俺は、お前に一言謝りたかった……。友達から拒絶されるのが……どれだけ辛いのか、俺自身が一番知っていた筈なのに……。

 俺は、どうしようもないクソだ……。こんな力を手に入れたのに……俺は何も出来なかったよ……、パルヴェーズ……)

 

 もう一度、会いたかった。

 そんな女々しい思いが、胸に湧く。

 意識が遠のいて行く。苦痛からの開放を、己の罪からの開放を、現実からの逃避を、死が誘う。

 祐一は、それに逆らおうとはしなかった。

 ただ、友にも幼馴染にも、誰にも別れを告げつ事なく逝く……。その事に寂寞感と後悔だけがあった。

 視界が暗くなった。俯き地面しか見えない祐一にも、感じる事が出来た。 

 

(ああ……もう迎えが来たのか……)

 

 どうやら死後の世界は、三途の川や天国なんて無く、真っ暗な空間だけが有るみたいだ。祐一は暗くなって行く視界の中、そう思った。

 また、あの暗い空間に戻るのは嫌だなぁ……。

 ほんの、数時間前まで居た空間を思い出して、顔を顰める祐一。

 微睡みに居る様な、時間の流れさえ曖昧な空間は、終わりが無いのだ。またあそこに戻るのは、勘弁して欲しかった。

 

(でも、まあ良いか……)

 

 だが祐一の、酷く朧気で緩慢とした思考は、それを許容してしまった。

 もう、どうでも良かった。

 そこまで考えて、視界の闇が蠢いた。そして祐一は気付く。これは意識が無くなったから、暗くなったのでは無い。日光が翳っているのだ。

 そう。誰かが、祐一の前に立ったのだ。 

 

(『駱駝』が、止めを刺しに来たのか……) 

 

 朧気な意識のなか、予測する。

 一息にやってくれ……。 

 投げやりに諦観が覆う思考の中で思う。

 だが、予測に反し、その正体は『駱駝』ではなかった。

 

「諦めるか小僧……。おぬしがここで斃れるとは残念でならぬ……。何故……。何故、逃げなかったのじゃ……。ばかものが……」

 

 懐かしい声。

 この声を聞かなくなって、一日と経っていないのに、何故か祐一はそう思った。 

 どれほど切望したか分からない、友との再会。

 だが、その声には悲哀の色が、色濃く含まれていた。

 

 ───死ねない。死ねる訳がない。 

 

 祐一は目を見開き、顔を上げる。

 脳からの無茶苦茶な指令に、身体の彼方此方から、悲鳴にも似た痛みが走る。無視した。

 ただ、友の顔を見たい。それだけだった。

 視線の先に、パルヴェーズが、居た。

 美しい容貌を、額から滴る鮮血で染めた、満身創痍の少年が。

 パルヴェーズと祐一の、視線が重なる。

 そこに、言葉はいらなかった。

 彼は、少し驚いた様に微笑み、手を伸ばす。

 祐一も、また、全身を駆け巡る激痛を無視し、右手を伸ばす。

 

 ゆっくりと、手を伸ばす二人。

 祐一にとって、その時間は、那由多にも及ぶ永い時間にも感じられた。しかし同時に、黄金にも等しい、待ち望んだ時間でもあった。

 

 ───手を、取った。

 祐一の全身に、活力が宿る。あらゆる傷が、瞠目するほどの速度で治癒されていく。

 パルヴェーズの異能だ。

 おそらく地下に落下して重傷を負った時、使った力と同じなのだろう。

 それでも祐一にパルヴェーズへの恐怖は湧いてこなかった。

 あるのは、ただ「歓喜」のみ。

 

 ───ここに、因果は、結ばれたのだ。

 

「おせーぞ、パルヴェーズ。死ぬかと思ったぜ」

「ふむ……。ちと、旅の相棒から嫌われてのう……。傷心の我は、悲嘆に暮れておったんじゃが、道すがら獣に襲われてしまっての……?」

「うっ。ごめん……。……てか! お前が訳わからな過ぎるのが、いけないんだぞ! 事情があるなら早く教えてくれよ! 訳分かんなくて疑っちまっただろ! 「報連相」これ大事! とーちゃん、言ってた! それに名前も「小僧」呼びに戻ってるし! 戻せ、戻せ!」

「ふん。自分から、勝算もない死地に飛び込む未熟者なんぞ、小僧で十分じゃ。我が、折角与えた守護の加護も『駱駝』に蹴られ粉々では無いか。全く! あの『駱駝』の蹴りを受けて、四散しなかったのは、我のおかげじゃ感謝せよ! ……それにまた名を呼んで欲しくば、次こそ勝負で勝つ事じゃな!」

「……ふん、言ったな! 今度の俺はひと味もふた味も違うぞ! 覚悟してろよぉ!」

 

 二人は立ち上がり、軽口を叩き合いながら、肩を並べ合い笑う。

 そうして、右の前脚を引き摺り迫る、満身創痍の『駱駝』を見据える。

 

 ───ここに、両雄は並び立つ。

 

 もはや負ける通りなんて欠片もなかった。



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彼こそは英雄ロスタム!

 逃げ惑う人々が異変に気付いたのは、轟く咆哮が途絶え、大地が震えた時だった。

 ───ドシン……! 

 暴虐の限りを尽くしていた『駱駝』。その『駱駝』が巨体を大きく揺らし、たたらを踏んだのだ。

 大地を揺るがす地鳴りが燃える街に響く。

 異常事態の中で起きたさらなる異常事態に、狂気から解き放たれたように人々の目に理性が宿る。逃げ惑い右往左往していた住民の足が止まった。

 なんだ? なにが起きたんだ? 

 辺りを見渡し、地鳴りの原因を探る。……居た。

『駱駝』が暴れ回り、立ち並ぶ建築物が蹂躪され、更地になった土地で、その光景は良く見えた。

 

 あの巨大な『駱駝』に、人間が……まだ年若い少年が立ち向かっているのが見えたのだ。

 中肉中背だが引き締まった身体。

 黒髪で、黄色人種の顔立ち。

 多民族国家であるイランであっても、あまり見かけない極東の人間……異国人の容姿をしていた。

 彼はブレザーを肩に引っ掛け、2つの両足で大地に立ち、その意志の強い瞳でしっかと『駱駝』を見据えている。

 あの少年が『駱駝』を止めたのか……? 

 人々が「信じられない」と言う目で少年を見咎める。

 だが、それも長くは続かない。

 思わぬ反抗に驚き怒れる『駱駝』が、その自慢の前脚を掲げ、唸りを上げて振り降したのだ! 住民の誰もが視認する事すら敵わない、閃光の様な一撃! 

 次いで、隕石が落ちて来た様な衝撃と共に、隠れ見る人々へ土砂が降りそそいだ! 

 

 目を瞑り、必死に守りを堅める住民達。

 恐る恐る『駱駝』と少年を見ていた人々は、刻み込まれた恐怖を思い出したかのように、身を竦め隠れてしまった。

 あの少年は……、もう、ダメだろう……。

 降りそそぐ土砂から身を守りながら、誰もが思った。

 誰も、あの魔物を止められないのか……。

 そんな絶望にも似た感情が、心に重く伸し掛かる。

 土砂が止み、顔を出す。あの少年は……見えない。

 やはり『駱駝』の必殺の一撃によって、四散したのだろう。

 そう、思っていた。

 だが……

 

 

「───あそこだっ!」

 

 誰かが指差し、叫ぶ。釣られた誰もが、指を差された方向を見やる。

 直ぐに見つけた。『駱駝』の前脚……鉄塔にも及ぶ、高さと太さを持ち、この「港湾都市」に数多の災厄を齎した前脚に、取り付き跳ね回る影が見えたのだ! 

 あれはあの異国の少年に、違いない! 

 そうだ! あの必殺の一撃から逃れ、噴火のような落石すら躱して見せたのだ! 

 絶望と悲しみに満ちた人々の心に、小さな希望の光が灯る! 

 もはや誰もが諦め、逃れ得ぬ死から、一時でも逃れようと、彷徨う人々に、希望が灯る。

「生き残れる!」そんな希望が、心に湧き出てくる!! 

 

「勝ってくれ!」

「死ぬな、生き残れえええ!」

「いけぇっ! いけぇっ! いけぇぇぇっ!!」

「頑張れ! 戦ってくれぇ!」

 

 逃げ惑う足を止めた十人程の人々が、叫ぶ。

 ただ、一心に願う。あの少年の勝利を! 

 初めに抱いた猜疑の感情など、もう彼方に消え、今は一心に少年の「勝利」を願う。そして、己の生存をも。

 なんて自分勝手な願いだろうか。自分達は見守るだけだと言うのに。

 だけど、止まれなかった。気付けばもう、腕を高く振り上げ、喉よ枯れろと声を張っていた! 大地よ揺れろと、地面を踏み鳴らしていた!! 

 名も知らない、異邦の少年。

 この時、その少年は、諦めていた人々に「希望」を与えた。

 何の所縁もない土地で、孤独に戦う少年は確かに人々を魅力したのだ! 

 仕留めたと思っていた筈の獲物が、予想に違え生き残っていた事に、激昂する『駱駝』。

 我を忘れ、その容貌に宿る狂気が増す。熱に浮かされた人々は、今まで何に襲われていたのかを、思い出した様に、背筋を凍らせ固まった。

 そして、その偉駆から死神の鎌が振るわれた。

 今度もまた、誰も見る事は敵わなかった。

 前回の衝撃を上回る激しい振動が起こり、人々は遅れて気付く。

 あの前脚が振り降ろされたのだ! 

 土砂が降りそそぐ。

 そのまま突っ立って居れば、怪我は免れ無い、散弾の様な土砂の嵐。

 だが人々は、己が身を守り、隠れる事を良しとしなかった。

 だた、一点を見る。あの少年の生存を。

 ただ、一心に願う。あの少年の勝利を。

『駱駝』がその前脚を、ゆっくりとした動作で、持ち上げていく。

 民衆の誰もが、その動作が酷く緩慢に見え、焦れったかった。『駱駝』の嘲笑するような表情が、酷く不愉快で、身の程知らずにも怒りが沸いた。

 だが、それも直ぐに終わる。

 持ち上げた前脚の下は、何も居なかったのだ! 

 そう、血糊も、肉塊すらも! 

 

 そこから導き出される答えは……! 

 突然、『駱駝』が首を振る。何かを避ける様な動作。

 誰もが、魔物の不可解な行動に瞠目する。

 すぐに分かった。「石塊」だ。人の倍ほどにはある石塊が、『駱駝』の頭部を狙い飛んで来たのだ。それも、数十mはあろう地点目掛けて、一直線に。

 人間が成し得る技ではない……。だが、あの少年なら──出来る! 

 人々の心に熱い感情が沸き上がる! 

 そして、彼らは見た。

 大地に仁王立ちし、腕を組み、不敵に笑っている少年の姿を──! 

 

「───ロスタム……」

 

 誰かが、呟く。

 いつの間にか、戦いを見ている人間の数は、百を優に越え、今も加速度的に増えていた。

 人々が集まり、けたたましい雑音が鳴り響く街で、その呟きは不思議と響き、人々の耳朶を

 を震わせた。

 そして、波紋の様に響いては、その囁きはどんどんと広がって行く……。

 あれは、「ロスタム」だ……。

 イランの地にて、連綿と受け継がれる叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』に登場する英雄。

 イラン最大の英雄「ロスタム」に違いない! 

 我らの窮地に、英雄が、己を英雄足らしめる武力を持ってして、救いに来たのだ!!! 

 年若く、人種も、服装も、何もかも合致しない少年だった。だが、人々は彼こそが、「英雄」だ! と「ロスタム」だ! と口々に囁き合う! 

 

「ロスタム……、ロスタムッ!!」

「英雄ロスタム……! あいつは……ロスタムだ! 俺たちを助けに来てくれたんだぁあああ!!!」

「あいつを……、あいつを倒してくれ! ロスタム!! ……母さんの仇を討ってくれぇ!!!」

 

 人々が……男も、女も、子供も、老人も、民族も、宗教も、もはや関係ない。誰もが一心に願い、あの「英雄」に願いを託す。

 ──ただ、勝ってくれ!!! それだけを、願った。

 今『駱駝』の怒りは頂点に達し、これまで見た事のない動作で、あの少年を死に至らしめようとしていた。

『駱駝』の怒りで、周囲の気温が上昇する。何という熱さだ。気温が40℃を超える事が珍しく無い、熱さに慣れたバンダレ・アッバースの住民ですら、目眩がする程の熱さ。

 それでも、誰もが「英雄」と「魔物」の戦いを見続けた。

 熱さなんて、屁でもない! あの少年の勝利を、見届けるのだ! それまで、俺たちも倒れる訳には行かない! 

 そう、一心不乱に思った。

『駱駝』から、闘気が迸る。漏れ出る圧倒的な敵意と殺意に恐怖し、人々は地面に縫い付けられた様に、誰も動けない。

 それでも少年は、不敵な笑みを崩さず、『駱駝』を見据える。

 

『駱駝』の闘気が、最大限に高まる。

 遂に、放たれるのだ! あの魔物の全力の一撃が……! 

 人々は、瞬きすら忘れて目を見開き、戦いを注視する。

 一瞬足りとも見逃してたまるか……! 

 そう……誰もが思っていた。

 だが、誰も見る事は敵わなかった。

 一瞬の交錯! 気付いた時には、全てが終わっていた。

 少年が何言か、異国の言葉を叫ぶ! そして次の瞬間には、あの強大な『駱駝』が誇る右の前脚。その脚が小枝の如く、圧し折れていたのだ! 

 

『駱駝』の苦痛による絶叫が、街に轟く! 誰もが、その絶叫を切望し、誰もが倒す事敵わぬ、と諦めていた者の苦悶の声。

 だが今、はっきりと分かる。あの『駱駝』に痛打を与えたのだ! 

 民衆の歓喜の声が爆発した!!! 

 涙を流し、若き英雄の健闘を讃える!!! 

 我らの英雄が、やってくれた! 俺たちは、助かるんだ! 

 誰もが、英雄の勝利を疑っていなかった! 

 誰もが勝利を信じ、喜び勇んで、声を張り上げる! 

 

 それが「幻想」なのだと、思いもしなかった。

 

 ───ガァン!!! 不快な打撃音が響いた。

 ハッと、人々が顔を上げる。視界に、弾丸のように吹き飛ぶ人間が見えた。

 ──少年だった。あの『英雄ロスタム』だった。

 少年は、遙か先まで吹き飛び、瓦礫や、建物を巻き込んで行く。

 数百m先まで吹き飛び、瓦礫にしなだれ掛かり俯き、遂には立ち上がる事は無かった……。

 誰もが理解した。あれは「死体」だ、と。

 雄々しくも立ち上がり、勇猛に立ち向かった、若き英雄はここで死んだのだ……。

 人々は疑いようも無く……そう思った。

『駱駝』の咆哮が轟く! 

 あの逆徒に、さらなる鉄槌を下そう、と。己を傷付けた矮小なる者の死骸を辱めよう、と

 大地を踏み締め、一歩一歩、緩慢に、しかし確実に、「我らの英雄」に近づいて行く。

 ───見逃す事なんて、出来なかった。

 老若男女、誰もが怯えを堪え、立ち上がる。

 あの少年を、傷付けさせてなるものか、と。

 我らの英雄を、辱めてなるものか、と。

 恐ろしい「魔物」に、民衆が一丸となって、戦いを挑もうとしていた。

 それが所詮、蟷螂の斧であったとしても

 ただ偏に、あの少年の為に! 

 

 ───突然の出来事だった。

 

「民衆よ! 怯え竦み、それでもなお、戦場に立つ勇気ある民よ! 

 我が名は「パルヴェーズ」! あの若き英雄の───「友」!」

 

 声が聞こえた。透き通る様な美しい……少年の声。その声は、災禍渦巻く、阿鼻叫喚の巷の中にあっても、澄み渡るように響いた。

 人々はその声を、一言一句足りとも、聞き逃す事は無かった。

 

「我は、民衆に仇なす者を、微塵に打ち砕く者! 己が英雄へ! 我が友へ! 

 勝利を与えるのでれば、───想いを!! 

 あの「悪魔」を倒す、───力を!!!」

 

 ──とんっ。何処からか、少年が降り立った。

 あの『駱駝』と、少年が倒れている場所の間に立ち、迫る『駱駝』を阻むように──。

 そして、誰もが瞠目する。

 酷く現実離れした、『少年』の登場に。

 ──美しい少年だ。

 雑踏を闊歩するならば、道行く誰もが振り向き、目が離せない程の、整った容姿。

 ボロボロの外套を纏い、額から流血しているが、それすら一つの芸術に見えるほど。

 この世のものとは、思えない神韻縹渺たる玄妙な美しさ。そして、どこか神々しさすら感じる、超然とした立ち振舞い。

 だがそんな特異な少年であっても、民衆は恐れを抱かなかった。

 何故なら、あの少年の声には、我らの英雄を案じる感情が、隠し切れないほど、溢れていたのだから。

 少年が、友を慮る気持ちは十分な程、伝わって来る。

 

 そうだ! 

 少年はまだ、傷付き倒れ伏す、あの若き英雄ロスタムが、生きていると信じているのだ! 

 だからこそ、人々は彼を信じた。パルヴェーズの言葉を! 

 そして、肚を決める。あの若き英雄の友ならば、力を貸しても良いと! 

 手をかざす。

 力の貸し方なんて、知りようはずも無い群衆。だが身体が、まるで知っているかの様に──動いた。

 誰もが、瞳に強い意志を宿し、自分の生命の源を送る。身体から活力が、どんどんと抜け落ち、人々の顔から、生気が薄れ青白くなっていく。

 それでも人々は、手をかざし、パルヴェーズへ力を託し続ける。

 ──ただ、勝利の為に! 

 だが、誰もが力無き「人」である事に変わりは無い。そう長く続かず、限界が訪れる。

 次々と、膝を突き、倒れ伏す人々。

 それでも彼らの目には、未だ闘志は消えていなかった! 

 パルヴェーズの元に、莫大な力が託される。それと共に、あらゆる想いも、伝わって来る。

 

 あり得ない不条理への「怒り」。

 あの魔物に一矢報いれるかも知れない「喜び」。

 親しい者が、傷付き果てた「悲しみ」。

 そして……生きたい。と、ただ愚直なまでの「願い」。

 

 数多の、感情や想い、願いが空を駆け、パルヴェーズの手に収束して行く。

 ───GYAAAAAAA!!! 

 駱駝』が、激昂した様に雄叫びを上げる。

 不快な蚤を吹き飛ばし、止めを刺す寸前だったのだ。

 それを仕留め損ね逃した者。しかも、己が宿命の相手に邪魔された事に、酷く怒り猛っているのだ。

 ───ブォンッ! 

 今度は確実に仕留める、と矮躯を晒す『少年』へ、自慢の右前脚を振り降ろす! 

 何度も振り下ろされ、多くのものを屠って来た、死神の鎌が、パルヴェーズを襲う! 

 人々は、咄嗟に目を覆った。これから行われる惨劇を予感して。

 だが、パルヴェーズは、焦る事は無かった。

 その輝く翠瞳で『駱駝』を見据える──。手のひらに集まる莫大な「力」。その力が、収束しては、姿を変え、形を成していく。

『弓矢』だ。

 何の装飾も無い、無骨で、必要最低限の機能だけが備わっただけの『弓』と、一本の『矢』。

 それが、パルヴェーズの手に収まっている。それは、パルヴェーズの望んだ武器でもあった。

 

(二の矢は、───要らぬ)

 

 しっかりと、だが素早く、矢を番える。

 ピンッと張った強弓を、持ち前の豪腕で胸まで引く。

 そして、朗々と。

 

「敵」に立ち向かい、傷付いた友を心の中で案じ、聖句を謡う──

 

 ───勝利を願う聖句を! 

 

「──我は最強にして、全ての勝利を掴む者なり! 最も尊く尊崇尽きぬ者よ! 義によりて立つ我に、勝利を與え給え!」

 

 劫─────ッッッ!!! 

 

 ただの弓矢の一射。だが、放たれた瞬間には、幾条も束ねられた稲妻の如く、膨大なエネルギーを有し、『駱駝』へ迫った! 

 突き進むだけで大地が抉れ、遠く離れた民衆にも焼け付く様な熱波が伝わる。

 例え、頑強にして、不屈の化身たる『駱駝』であっても、致命の一撃に成り得るもの! 

 もし、『駱駝』が激昂していなければ。

 祐一が痛打を与え切れず屍を晒したのならば。

『駱駝』は稲妻の如き一矢を、「心眼」にて安々と躱して見せただろう……。

 しかし、不愉快な事が連続して起こり、目と心すら曇った『駱駝』に、その一撃を躱すことは──敵わなかった。

 咄嗟に、頭を振る『駱駝』。

 だが、それでも──! 

 ────GYEEEEEEE!!! 

 パルヴェーズが放った『矢』。その一矢は、狙い違わず『駱駝』に命中し、その右頭部と、小山の様な背瘤を、ごっそりと、くり抜いたのだ!!! 

 無敵を誇り、暴虐の限りを尽くした暴君が、堪らずのた打ち回る! 

 次いで、歓声が沸く! 

「あいつを倒せる!」と、誰もが声を上げ、歓喜する!!! 

 

「パルヴェーズ!」

「アーラシュ! アーラシュ!」

 

 またも、英雄の名が轟く。

 一つは、彼が名乗った「パルヴェーズ」の名。「勝利する者」の意を持つ名を! 

 そしてもう一つ、今度もイランの英雄の名だ。誰よりも弓矢の扱いに長ける弓矢の英雄「アーラシュ・カマンギー」。

「ロスタム」と同じ、大英雄の名を! 

 だが、パルヴェーズと名乗った少年は、『駱駝』へ止めを刺す、と言う人々の予想に違い、何処かへ風のように走り去った。どよめき視線で追う人々。

 そして、見つけた。

 パルヴェーズが矢を放った場所から、それほど離れていない場所。あの、「若き英雄ロスタム」が俯き、倒れている場所だった。誰もが、「死んでいるだろう……」そう思っている者の場所へ。

 人々は見た。 パルヴェーズと名乗った少年が、若き英雄へ何言か、呟く。

 そして、次の瞬間には、誰もが驚愕した! 

 あの死体同然だった若き英雄が、ゆっくりと……だがしっかりと、顔を上げていく……! 

 彼は……生きていたのだ! 誰もが、心に湧き上がるものを感じて、仕方がなかった! 

 強い意志を宿した瞳と、宝玉の如き翠瞳が交錯する。二人は、互いに頬笑み合う。

 

 ──言葉は無かった。

 若き英雄に、手を差し伸べる少年。

 なんて……美しい光景だろうか。

 二人共、血や煤で汚れ、お世辞にも綺麗とは言えないだろう。特に若き英雄は、死体と言われれば、信じてしまうほど酷い状態だ。

 だがそれでも、人々はその光景に胸打たれた。

 若き英雄は、ゆっくりと、少しずつ少しずつ少年へ、手を伸ばす。

 そして、ついに……

 ──手を、取った。

 光が零れる。民衆が捧げた力は、若き英雄を包んで行く……。

 瀕死の状態だった彼が、瞬く間に治癒されて行った。

 そんな、あり得ない光景。

 だが誰もが、その光景に魅了され、頬に涙が伝う。

 誰かが、呟く。

 

 神よ、感謝します。

 数多の絶望すら忘れられる……、この瞬間に立ち会える喜びを……。

 

 そして、二人は立ち上がり、言葉を交わす。

 楽しげに、蟠りなんて、欠片も感じない……そんな気安さで。

 二人は笑みを深めると、肩を並べて迫りくる『駱駝』を見据えた。

 ───さあ、開戦だ! 

 そんな異国の言葉が、風に乗って聞こえて来た。

 もはやあの強大な『駱駝』であっても、遠くで見守る民衆には、彼らの紡ぐ英雄譚の踏み台にしか、見え無かった。



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神殺し編
この馬の値はイラン全国!あなたはこの馬に跨って、世を救うのです!


 いま祐一は馬上にあった。見渡す限りの不毛な大地。遙か先にはザクロス山脈を構成する一部であろう大山脈が見える。

 ここは山脈の麓でもあり山脈が見えるのも当然だった。それに伴い周辺の起状はかなり激しい。

 また岩や石が絶え間なく敷き詰められた大地は、絶え間なくデコボコとしていて、祐一が駆る馬の扱いも否応無く、難しい物になっていた。

 躍動する馬の手綱を握りやっとの想いで操り進んでいく祐一。別に急ぐ旅でも無く、ゆっくり進めれば良いのだが、祐一達が駆る馬は天の邪鬼で「速度を落とせ」と言う祐一の指示を聞こうとしない。

 言う事聞け! と叩けば叩くほどこの駿馬は持ち前の駿足をさらけ出して見せ、一向に止まる気配を見せなかった。

 そんな悍馬を憎々しげに見やって、思わず口を引き結び「へ」を描く祐一。

 背中合わせにグースカ寝ているパルヴェーズが心底羨ましい……。

 祐一の偽らざる思いだった。

 最近のパルヴェーズは良く眠るよなぁ……。まあ、『駱駝』との戦いが響いてんだろな。

 と現実逃避気味な祐一。

 パルヴェーズに気を取られて油断していた彼だったが、それを見て取ったクソ生意気な馬の目が光る。

 ここぞとばかりに「隙あり!」と、跳躍し大きく背を揺らしたのだ。

 そもそも祐一が駆る馬は「裸馬」である。鞍なんて贅沢な物は付いていない。馬の口から手綱が伸びるばかりである。

 そんな中、おっかなびっくり、という体で進んでい居た祐一は、全くと言っていい程、姿勢が安定していなかった。

 

「うわああああっ!」

 

 堪らず、落馬する。落下する瞬間、口を大きく裂けさせニヤニヤ笑う馬面がはっきり見えた。

 ───ピキッ。祐一の、こめかみにぶっとい青筋が浮かぶ。

 ドシャッ。だがそのまま祐一は受け身も取れず、頭から地面に突っ込んだのだった。

 なおこの悍馬に乗り始めて2日。通算36回目の落馬である。

 普通なら軽傷では済まない落ち方。

 それでも頑丈無比な祐一は直ぐに怒り心頭と言う顔で立ち上がり、遥か彼方へ走り去って行く悍馬を見る。

 

「──ラァァクシェエエエエエッッ!!!」

 

 祐一の咆哮が、不毛の地に轟いた。

 

 ───ここは、ファールス地方。

 約2500年ほど続くイラン建国の地であり、大昔には「パールサ」とも呼ばれ、ペルシアの語源にもなった、「イランの原点」とも言える土地である。

 あのバンダレ・アッバースの街を灰燼に帰そうとした『駱駝』との死闘から、2日。

 今、彼らは先日まで居たホルモズガーン州を抜け、ホルモズガーン州から見て北西にある州、ファールス州に足を踏み入れていた。

 何故、彼らが2日の間に、バンダレ・アッバースから遠く離れた土地に居るのか? 

 それは、2日前に起きた『駱駝』との戦いから、遡らなくてはならない……。

 

 ○◎●

 

 ───白光一閃。

 パルヴェーズの放った鎌鼬が、左半分だけが残っていた『駱駝』の頭部を見事に切り飛ばした! 

 頭部を失った『駱駝』はドゥッ……と、糸が切れた傀儡の様に、地面へ崩れ落ちた。

『駱駝』の身体が透けて行き、ざぁ……と波にさらわれた砂の如く消え去った。

 

(はぁっ……はぁっ……。……やっと、終わった……)

 

 不撓不屈を体現した、あの『駱駝』を倒すのは、本当に……骨が折れた。尻もちついて、一息付く祐一。

 パルヴェーズと共に戦った時でも、もう満身創痍だったのにも関わらず、それから驚異的な粘りを見せた『駱駝』。

 本当に大変だったのだ。どれほど殴ろうが、滅多打ちにしようが、小揺るぎもしない。倒れる気配が微塵もしなかった。

 正に、不撓不屈。祐一があの時、『駱駝』の右前脚を拉げさせた一撃は、幸運によるミラクルショットだったのだと、はっきり痛感させられていた。

 こいつに痛覚が付いているのか、何度疑ったか分からない……。

 祐一が今感じている感情は、大敵への勝利の喜びよりも、延々と続く作業がやっと終わった……と言う気持ちに近かった。

 

 パルヴェーズと再会し、全快していた祐一も、『駱駝』の周りを飛び回っては、翻弄していた。それだけでは無く、偶にできる『駱駝』の隙を突いては、祐一も殴打を繰り返していたのだ。

 元々、祐一に超越存在としてのプライドを傷付けられ、猛っていた『駱駝』。

 眼の前に、宿命の存在である『少年』が居ようとも、怒気に支配された『駱駝』は、脇目も振らずに祐一へと迫った。

 そんな『駱駝』を、猿のように跳び回り、翻弄する祐一。

 祐一が跳び回ってヘイトを稼ぎ、その隙にパルヴェーズが強烈無比な力をもって『駱駝』へ攻め掛かる。

 打ち合わせした訳でも無く、二人は自然と、その流れを作り『駱駝』を、じわじわと、しかし確実に消耗させて行った。

 どれほどの時が過ぎただろうか。

 遂に『駱駝』は力尽きた。

 不死身地味た……、無尽蔵の体力を誇る『駱駝』もついに限界迎えたのだ。

 首なしなった『駱駝』が、崩れ落ちて行く。その様子を群衆の誰もが、信じられない面持ちで声も無く見守る。

 ただ英雄たる二人だけは、笑い合い拳を突合せ、勝利に酔い痴れた。

 

 赫々たる武勲を樹てた祐一。

 そんな彼はふと、「街はどれくらい被害を受けたんだろう?」と周囲を見渡した。

 そこで祐一はとある事に初めて気付いた。

 自分がいつの間にか何千何万と言う人々に囲まれていた事に。

 そして誰も言葉を発しない、そんな奇妙な静寂の中心に居る事に気付いた。

 戦いに集中し、『駱駝』とパルヴェーズしか見えて居なかった祐一。そもそも、他に人が居る事すら気付かなかった祐一は、衆人環視の只中に居る事に気付き、ちょっと……いや、かなり引いた……。

 いきなり大衆が見詰める壇上に立ったような気分になった祐一。そそくさと隅の方へ逃げ出そうと画策し、そこへパルヴェーズが「待った」を掛けた。

 逃げる祐一の腕を、パルヴェーズが引っ掴み、祐一へ耳打ちする。

 ウソだろ? と言う引き攣った顔をして、パルヴェーズを見る祐一だったが、パルヴェーズに促され周囲を見渡し、溜息一つ。

 次に顔を上げた時には、覚悟を決めた様な顔していた。

 そして止めにパルヴェーズが、トンッと、祐一の背を叩き、前へ押し出す。

 薄く頬笑みながらも、どこか悪戯っぽい表情が、人々が感じていた、彼への神聖な印象を、がらりと変える。

 民衆に囲まれ、初め真面目くさった顔をしていた祐一。だが直ぐにも、期待の眼差しで見詰める民衆を見て取り、照れ臭そうな顔になって……しかし、それでも……

 

「────俺たちの、勝ちだっ!!!」

 

 右手を掲げ堂々と……街に轟く大音声で、勝鬨を上げたのだ! 

 ───わぁああああああああああああ!!! 

 その瞬間、街が爆発した。否、爆発した様な歓声が、街を覆い尽くしたのだ。

 どこにそんなに人々が居たのか、そこらかしこから、歓声、絶叫、咆哮、の声が聞こえる。

 祐一の話す、異国の言葉は誰も理解出来なかったが、彼の所作で、あれは「勝鬨」なのだと、人々はすぐに分かった。

 遂に堪らなくなった群衆が、堰を切ったように二人の英雄の元に駆け寄り、賛辞を贈っては、胴上げしたり、もみくちゃにして行く。

 少しでも感謝を伝えようと声を掛け、少しでも御利益をと、握手を求め、胴上げに加わる。

 誰もが笑顔で、勝利を祝う! 

 

 ──疑いようも無い、人類の勝利だった!! 

 

 ○◎●

 

 あの生意気な馬に振り降ろされ、落馬した祐一。

 彼は、前を行くパルヴェーズ達を追い、全力で疾走していた。

 豹の如き俊敏さで、荒野をひた走る祐一。

 その顔にはあの馬を、今晩のメインディッシュしてやる! と、ありありと書いてあった。

 あのクソ生意気な馬……「ラクシェ」と出会ったのも、バンダレ・アッバースでの事だった……。

 

 ○◎●

 

『駱駝』を倒し勝鬨を上げた祐一達。

 そんな祐一達を、人々は口々に讃え、勝利を祝った。

 街を凱旋する祐一とパルヴェーズだったが、バンダレ・アッバースは『駱駝』の猛威によって、壊滅状態にあった。

 街の状況を見た祐一は、パルヴェーズに声を掛け、復興を手伝う事にした。パルヴェーズは「仕方ない」とばかりに肩を竦め同意した。

 途方も無い膂力を振るい、復興を手伝う二人。

 そんな二人を、流石英雄殿! と讃え驚く民衆と、いつの間にか、自分の身体がとんでもない事になっていて、驚く祐一の姿があった。

 身体を慣らす様にして動く祐一だったが、臍下丹田から湧く力を使わない限り、元の能力に落ち着く事に気付き、ホッと安堵していた。

 

(よかった……。全部が全部変わった訳じゃないんだな……)

 

 後でパルヴェーズに、この力は何なのか聞いてみよう……。そう決める祐一。

 戦っている間は、気にも留めなかったが、落ち着いて冷静になると、疑問しか生まれない。

 

(まっ、それも手伝いが終わってからだなぁ)

 

 そう結論付け、小走りに次の現場へ向かった。

 重機を使って、やっと動かせる瓦礫の山を、スポンジでも扱う様に軽々と崩していく二人。

 その上パルヴェーズなどは、持ち前の耳の良さで、助けの声を聞き分けては、的確に指示を出し、多くの救出に成功していた。

 人々を災禍より守護した両雄。

 生を諦めた民衆に、希望を与えた「若き英雄」と、太陽の申し子の如き「弓の英雄」の存在は、数刻前まで絶望の只中にあった人々を笑顔にさせた。

 だが、それも長くは続かない。

 空前絶後の異常事態。

 それを国家であるイランは見逃す訳には行かなかった。直ちに、バンダレ・アッバースの政府関係機関や、直近の軍事基地に、状況説明や情報収集を始めていた。

 バンダレ・アッバースの政府関係機関に問い合わせても、不確かで理解出来ない……妄言にすら聞こえる様な事を説明されるか、街の救世主たる二人を慮ってか、沈黙を貫くか、どちらの返答しか返って来なかった。

 痺れを切らした政府は、軍を動かした。

 命令を受けた軍隊。『駱駝』倒れた後、崩壊したバンダレ・アッバースに、軍が踏み込んできたのも、然程時間が経っていない頃だった。

 街が壊滅状態にあっても、群衆は狂乱に陥っておらず、また、誰もが興奮状態にある様だが、怒りや悲しみでは無い事に気付き、困惑する軍隊や政府関係者。

 早速、聞き込みを始め、この街で起きた事件の、ある程度の経緯を入手した軍。しかし、理解不能な事ばかりで、更に詳しい情報を得ようと、魔物を倒したと言う二人を捜索し始めた。

 そんな軍の動きに、一人の危機感を感じた住民が、二人の元に駆け付けた。

 

「え? ……ヤバくね、それ?」

 

 その一報をパルヴェーズから通訳して貰い、祐一は冷や汗を掻き、そう漏らした。

 

「ふむ……。煩わしいことじゃ」

 

 パルヴェーズも、少し思案顔で零す。

 話を聞いた民衆が、「今度は、自分達が彼らを守る番だ!」と意気込む。

 えっ……なんでそんなやる気なの? と、ちょっと引き気味になる祐一。

 祐一が引いたのには訳がある。

『駱駝』との戦いの折、彼は民衆の事なんて頭に無く、好き勝手に動き回っていたのだ。人々の存在に気付いたのも、戦いが終わってからで、声援など聞こえてすら居ない。

 そんな訳で、パルヴェーズはともかく、何で自分まで感謝されているか、判っていない祐一。

 困惑する彼と、興奮する人々。彼らの心の距離は、中々に遠いものだった。

 一戦も辞さず……と言いかねない程、こちらの肩を持ってくれる人々。その様子に危機感を覚えた祐一は、「街を出よう」と決意する。

 パルヴェーズもまた、「自分達が騒乱の種となってはならぬ」と頷く。

 街を出る……と言う彼らに、引き留める人々だったが、パルヴェーズに説得され、去り行く彼らの別れを惜しんだ。

「他の街まで、車を出そう」と、一人の中年男性が申し出てくれたが、断った。

 パルヴェーズが、顔を顰め、頗る嫌がったのだ。呆れる祐一だったが、それでも頑なにパルヴェーズは頷かなかった。

 そんな二人の前に、今度は、名も無き月毛色の逞しい巨馬が現れた。

 驚き、あんぐりと口を開け馬を見やる祐一。パルヴェーズですら「ほう」と感嘆した様に声を出す。

 パルヴェーズの前に出ては、膝を突き頭を垂れた。

 

 一人の恰幅の良い男性が、出て来て二人の遣り取りを見ていたのか、なんと「私の馬だ。……あなた方を気に入った様だ。譲ろう」という男性。

 これには祐一も驚き「どうだ?」とパルヴェーズに尋ねる。頑なだったパルヴェーズも、頷いた。

 なお祐一が、この選択を後悔するのは、そう遠く無い未来の事である。

 馬を引く二人。

 それを見た人々は「ラクシュだ!」と、口々に言うので、名前かと勘違いした祐一が、それを認めた事で、この雄々しき馬の名は「ラクシェ」となった。

 ラクシュでは無くラクシェなのは、異国の発音で祐一の耳に、そう聞こえた為である。

 二人は、受け取ったラクシェに乗り込み、急ぎ街を出たのだった。

 

 そんなこんなで、別れを惜しまれつつ、バンダレ・アッバースを旅立った二人。

 一時は袂を別った二人だったが、再び結んだ縁の紐は、更に固く結ばれている。

 

 新たな仲間を迎え、宛も無い波乱万丈な二人旅が、また始まったのだった。

 

 ○◎●

 

 バンダレ・アッバース出立してから数刻ほど。

 そこそこの距離を走っていた二人だったが、裸馬の乗り方を知らない……と言うか、そもそも乗馬した事が無い祐一は、パルヴェーズとラクシェに何とかしがみついて居たが、流石に耐え切れなくなって、根を上げた。

 

「ま、股が……。股が痙った……」

「軟弱じゃのう?」

「やかましいわっ!」

 

 大地に倒れ、天を仰ぐ祐一。

 股が痙っただけでは無く、全身の筋肉がプルプル震えている。乗馬で、普段使わない筋肉を使って居た為に、疲労が溜まってしまったのだろう。

 祐一は「すぐ復活するから!」と言い張り、大地に身を投げ出していた。

 そんな折に、ふと、こちらを見下ろす瞳と、目があった。

 ラクシェであった。

 今さっきまで二人が乗っていた馬は、パルヴェーズの横に、まるで忠犬の如く、礼儀正しく佇んで居る。

 初めて会った時から、この月毛の馬は、パルヴェーズに物凄く従順であった。祐一はと言うと……かなり無視されがちだったが。

 

 パルヴェーズが褒める様に、その首筋を撫でている。ちょっと撫でてみてぇなぁ。

 何となく、羨ましくなった祐一。

 今だに痙って、震える身体を無視して立ち上がり、ラクシェに近付く。まじまじと見ながら、

 

「馬なんて、あんまり見ないし、こうして近付いて見るの、初めてかもしんない」

「ふむ? 馬に乗るのも、慣れていないようじゃし、おぬしの故地では、馬は居なかったのかのう?」

「いや? まあ、居るけど、この国みたいに街中を走ってたりはしないかな。なんか祭り事の時に、どっかの牧場から引っ張って来るくらいじゃないかな」

「ほう。人の世の移り変わりは、早いものじゃのう。波斯、希臘、羅馬、天竺、唐土……我が知る人の世では、人と馬は切っても切れないほど、濃い関係であったはず。それが今では、あの様な醜いからくりに取って代わられるとは……」

「まっ、そう言うなよ。パルヴェーズはまだ、車乗ったことないんだろ? 乗ってみたら案外気に入るかも知れないじゃないか。今度乗ってみようぜ?」

 

 眉根を寄せ、呟くパルヴェーズに、笑顔で返す祐一。

 次第に、ラクシェを見ている事に飽きた祐一は、今度は撫でて上げよう、と静かに佇むラクシェに手を伸ばした。

 

「お前も、今日から俺達の仲間だ。よろしくな!」

 

 笑顔で声を掛ける祐一。

 ラクシェは気位の高い馬である。生来、身体が他の馬達と比べ格段に大きく、また走力のも優れ、聡明さも兼ね備えていたラクシェ。恐らく、人語を介する事も容易いだろう。

 光沢のある月毛に、美しさと頑丈さを兼ね備えており、正に、天が二物も三物も与えた「名馬」である。時代と場所が違えば、「神馬」「汗血馬」などと称えられていただろう。

 その為、人々の扱いも、丁寧で恭しいもので、当然ながらラクシェのプライドもまた、ダマーヴァンド山よりも高いものになっていた。

 ───なお、「雌馬」である。

 そんなラクシェに気安く触ろうとする、無礼千万な人間が現れた。

 気位の高いラクシェが、それを良しとする訳も無く……伸ばされた手に、思いっ切り噛み付いたのだった。

 

「ぬわ──っっ!!」

「……」

 

 絶叫を上げる祐一。興味を失ったラクシェ。

 ここから、彼らの因縁は始まった。

 両名が闘い始めるのは、それからすぐの事だった。

 

 ○◎●

 

「追い付いたぞぉ! クソ馬ぁあああ!!!」

 

 果てしない荒野を、全力で疾走する祐一。

 その走る速度は、明らかに人間の出せる速さではなかった。加えて、彼が走り始めて、もう数kmの距離に及んでいる。スタミナも尋常では無い。

 ボコッボコッと、地面を捲りあげながら疾走する。脚力一つとっても人並み外れてしまっている。

 だが、一番可笑しいのは、自分の急成長を受け入れ使いこなす、祐一自身なのかも知れない。

 ──ヒヒィンッ! 

 祐一の大喝に振り返ったラクシェが、嘲笑する様に鼻を鳴らす。そして速度を緩める事なく走り去った。

 目をカッと見開き、口をパクパクと動かす祐一。声も出ない程、激高している祐一の姿があった。

 その顔は、般若やナマハゲの様な、悪鬼羅刹を思わせる恐ろしい表情である。

 どうやら、今のラクシェの仕草を見て取り、更に頭に血が昇った様だ。殺意の波動に目覚めた祐一が、ラクシェに迫る。

 

「──往生せえええやあああああ!!!」

「──ブルウオオォォオオッ!!!」

 

 再び絶叫を上げ、追い付いたラクシェに、ライダーキックをかます祐一。

 華麗なターンを行い、その勇ましい後ろ脚で迎え討つラクシェ。

 ついに火蓋が、切って落とされた。人馬が織り成す、骨肉の争いが始まったのだ! 

 人間と馬。

 どちらの種族においても、最高峰の能力を持った者達が、全身全霊を掛けて激突した! 

 争いの理由は、とても性も無いものだったが……。

 祐一とラクシェ。一人と一匹の関係は、完全に水と油……いや、犬猿の仲と言った方が近いだろう。

 こんな彼らの諍いは、ここ2日の間でよく見られる光景でもあった。

 ちなみにパルヴェーズは、少し離れた所で、小岩に腰掛け、その様子を眺めていた。

 骨肉の争いを始めた一人と一匹に、呆れた視線を向け、溜息一つ。

 

「争いは同じ位階の者同士でしか発生しない……とは、あやつが言った言葉じゃったんじゃがのう……」

 

 そんな言葉が、荒野に溶けては消えた。

 



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美しい友

「シャア! オラァ!!! I'm win!」

 

 不毛な争いを始めて、少し。倒れ伏すラクシェと、すぐ横で拳を突き上げ咆哮する祐一の姿があった。どうやら決着が着いたようだ。

 自分よりも一回りも二回りも大きいラクシェを下し、勝鬨を上げる祐一。そんな巨馬に勝つ祐一も大概だが、「そもそも馬と戦うな」ここに、彼の幼馴染が一人でも居れば、そうツッコミを入れただろう。

 祐一に負け、悔しげなラクシェ。その瞳は、祐一への怒りで染め上げられている。彼らの争いはまだまだ続きそうである。

 パルヴェーズが戦いの終幕を見計らった様に、近づいて来た。

 

「終わった様じゃのう。であれば、早速出立するぞ。化身がいつ何時、暴れるかも分からぬ。あまりもたもたする訳にはいかぬからの」

「えっ!? た……タイム……! ちょ、ちょっと休憩させてくれよ、パルヴェーズ! 今さっきまで、全力疾走して、そんで殴り合ってたんだ! 流石に体力の限界……!」

「ヒィン!」

 

 泣き言を言う祐一に、「右に同じ!」と言う様に声を上げるラクシェ。如何に最高峰の能力を持っていようとも、限界はある様だ。

 そんな一人と一匹に、パルヴェーズは「勝手に戦い始めたのは、おぬしらじゃろう……」と極寒の視線で応じた。

 顔が引き攣る、祐一とラクシェ。

 

(パルヴェーズが、スパルタだ……。まあ、悪いの俺達だけどな!)

 

 ───ザッザッザッ。

 パルヴェーズは、もう歩き出していた。

 慌てて追う祐一とラクシェ。この光景もまた、ここ2日の間、よく見られる光景でもあった。

 旅路を急ぐパルヴェーズ。

 なぜ気儘な旅を行く彼が、急ぐようになったのか。

 祐一はその理由を、思い出していた。

 

 ○◎●

 

 バンダレ・アッバースを出て直ぐ。

 馬上で揺られる二人の姿があった。巧みな鞭さばきで、悍馬でもあるラクシェを操るパルヴェーズ。

 対して、乗馬すら初めてな祐一は、前に座るパルヴェーズに引っ付き、股できつく馬の背を挟み、ようやっと人心地付けていた。

 安定した体位を確保し、やっと余裕が出来た祐一は、手持ち無沙汰になってパルヴェーズに話し掛けていた。

 

「パルヴェーズって、馬にも乗れるんだな……。うぅむ……。脚も早いし、草笛吹けるし、色んな言葉喋れるし、道も良く知ってるし、妙な力も持ってるし。ホント、パルヴェーズって多芸だよなぁ」

 

 多芸で済ませて良いのか? 一瞬迷ったが他にいい表現が思い付かなかったので、そう褒め称えた。

 パルヴェーズが言う『化身』って奴に関係があんのかなぁと、ちょっとした疑問が生まれたが、取り敢えず流す。

 

「ふふ。我はおぬしら定命の者達と違い、永い時を生きておるからのう。それ故、多くの技能を有しておるのは、道理じゃろう。それに我は、『鋼』に連なる英雄。武術は元より、馬術の扱いに長けておる事もまた、道理じゃ」

「『鋼』に連なる英雄……?」

「うん? 『鋼』の英雄か? ……まあ、そうじゃのう……。己を剣と為し、武功を飾り、あらゆる英雄譚や叙事詩に歌われた者達の総称、と言えばよいかのう。まあ、簡単に言えば、偉業を為した戦士じゃな。それ故、武芸に長けた者が殆どなのじゃ。我も例に漏れず武芸に長じておるしのう」

 

 どこか誇らしげに、パルヴェーズは滔々と語る。

 ほーん。よく分かってない様子で返す祐一。

 すると、パルヴェーズはニヤリと笑い、

 

「小僧。おぬしも英雄と讃えられたならば馬の一つや二つ、御して見せねばならぬぞ?」

「えぇっ……。俺、今日初めて馬に乗ったんだけど……」

「ふふ、心配無用じゃ。この道中、我がみっちり仕込んでやる。もう少し進めば、一息付けよう。その後は、おぬしの番じゃ。精々、今の内に、我から技を盗んで見よ!」

 

 ははは! 愉快そうに笑うパルヴェーズに、恨めしげな視線を送る祐一。

 話題を変えよう。祐一は若干逃避気味に考え、そして、あっと何かに気付き、パルヴェーズに訊ねてみた。

 

「そう言えば、聞いてなかったけど……今度はどこに行くか決めてるのか? それとも何時もみたいに、気の向くままの自由な旅?」

「ふむ? まあ、残念ながら何時もの気ままな旅では無いのう……。我はここより北西にある地に、向かおうとしておる」

「北西? へー、珍しいな。パルヴェーズが目的地を決めるなんてさ。俺はてっきり、また倒れた棒の先が進路かなって思ってたぜ。わはは」

「ふふ。まあ、以前であれば、それでも構わなかったのじゃが……」

 

 パルヴェーズは、そこで言葉を切り、今度は一転して瞳に決意を燃やし、口を開いた。

 雰囲気が、ガラリと変わる。

 

「あの街で我が分身たる『駱駝』が暴れてしまった。これは由々しき事態じゃ。それに同じ化身たる『我』としても、「正義と民衆の守護者」たる『我』としても……到底看過できぬ事じゃ」

「パルヴェーズ……」

 

 これまで目的地なんて決めずに旅していた二人。そんな中、旅の相棒たるパルヴェーズが、目的地を決めた事を少し茶化しながら珍しがっていた祐一。

 だがパルヴェーズの、決意に満ちた言葉に、祐一は、二の句が継げ無くなって居た。

 パルヴェーズの言葉は続く。

 

「ここより遠く北西の地にて、我が分身の気配を感じる……。これほど離れた場所であっても、はっきり感じ取れるほど、強大な化身じゃ。街で暴れ出せば『駱駝』と同じか、それ以上の被害が出るじゃろう……。その化身が、何時動き出すかも……分からぬ。急ぎ、その地に向かい、我が物とせねば……」

 

 パルヴェーズは、固い決意を感じさせる声音で言う。

 

「ああ。分かった」

 

 急がなくちゃな……。祐一も、パルヴェーズに感化された様に、深く頷く。

 

(そう言えば……)

 

 祐一は、気になっていた事を思い出し、口を開いた。

 

「なあ、パルヴェーズ。化身って、あといくつ残ってるんだ? あと一つ? ……もしかして、まだ十個以上あんのか?」

 

 少し強張った声音で、パルヴェーズに問いかける祐一。

 あの恐ろしい化身が何十匹も居て、まだまだ戦いが続くとなると、背筋に薄ら寒い物を感じて仕方無い。パルヴェーズとの旅を降りる気は更々無いが、それでも確かめておきたかった。

 パルヴェーズはそんな祐一を見ながら、渋面を作った。

 

「う、む……。確かに残る化身は……多い。元々、『我』を含め、化身の数は十じゃ。我がおぬしと出会う前に倒した『雄羊』に加え、おぬしが出会った『強風』『山羊』『雄牛』。それに……先刻の『駱駝』。あやつを倒し、やっと半分を越えた所じゃ」

「ま、まじかよ……」

「うむ。然るに……残る化身は、あと四柱。『白馬』、『猪』、『鳳』、『戦士』。どれも強大無比な化身ばかり。如何に勝利の具現たる我でも、苦戦は免れぬであろう。──小僧」

 

 パルヴェーズは、後ろに居る祐一に、横顔を見せ、薄く笑う。それに、戸惑う祐一。

 

「……え? 何だよ、急に?」

 

 ちょ、ちょっとドキッとした……。祐一に笑顔を向ける、パルヴェーズ。そんな相棒に見惚れてしまったとは、口が裂けても言えなかった。

 パルヴェーズの微笑み。祐一を魅了した笑みは、どこか神々しくて、尊いものに感じたのだ。

 

「なに。おぬしの助力が無ければ、あの『駱駝』との戦い厳しく苦しい物となっていただろう。……改めて、感謝する」

 

 笑いながら語るパルヴェーズ。あの時『駱駝』に痛打を受け、一時撤退したパルヴェーズ。

 しかし、あのまま敗けて居たとは、絶対に認めないパルヴェーズに対し、こいつも大概、負けず嫌いだよなぁ……。と自分を棚に上げ思う祐一。

 

「ははっ! とーぜん、とーぜん。俺は、パルヴェーズの使命を手伝うって約束しただろ? 当たり前の事なんだから、感謝なんて必要ねーよ。まっ、色々あって、そこに辿り着くまで、すっげー迷ったけどな! わはは!」

「ふふ、それでもじゃ。……のう、小僧」

「ん? ……どうかしたのかよ、パルヴェーズ?」

 

 名前を呼んで言葉を切ったパルヴェーズ。そんなパルヴェーズを不思議に思い、小首を傾る祐一。

 パルヴェーズは、ちらりと祐一を一瞥し、今度こそ口火を切った。

 

「……おぬしは、これからの戦いに……手を出すな。如何に人を超越した能力を持っていたとしても、結局は『人』じゃ。我らの領域には遠く及ばぬ……。敵わぬ者に抗おうとしても、ただ、無駄に命を磨り減らすだけじゃ。……小僧。我らの領域は『人』である……おぬしが立ち入ってはならぬ領域なのじゃ」

「は……。いや、俺は……!」

 

 一瞬理解出来ず、呆けてしまった祐一。しかし直ぐに氷解した。

 納得行くか! 祐一は、パルヴェーズの言葉に、反論の言葉を紡ごうとして、だが出来なかった。

 パルヴェーズが、祐一の唇に人差し指を、当てたのだ。

 驚いて視線を、パルヴェーズに向ける。パルヴェーズは微笑み、祐一を見据えていた。

 とても美しい笑みだった。それは、どこか超然とした……しかし慈しむような笑みで。

 ───まるで……『人』と、そうではない『何か』の狭間にある様な……。

 

「小僧……気づいておるか? おぬしの異常な力の源を……? 我の加護の助力もあったが、あの力の大部分は、おぬしから溢れる生命力で為した物。あの尋常では無い力を発揮するには、おぬしの生命力……或いは寿命を磨り減らさねばならぬのじゃ……」

 

 パルヴェーズの声音は優し気だ。友である祐一を、強く思い遣っている様にも思える。

 だと言うのに、祐一には、突き放している様にも感じ取れた。

 

「おぬしの助力に、我は感謝の念が耐えぬ。そこに偽りはない。しかし、我の戦いにより、傷付くおぬしもまた、見ていたくは無い。袂を別つ……とは言わぬ。せめて、戦いの時は、遠く離れ身を潜めておれ」

 

 パルヴェーズの、どこか懇願する様な声。

 力ある言葉……言霊では、無い。

 だが、その声には何故か、従わなければならない。そう思わせる力があった。

 祐一に心に、従おう、と暗示を施した様に染み渡っていく。

 だから祐一は、心のままに……

 

「───やだね」

 

 簡潔に答えた。祐一は、強い意志を宿した目をパルヴェーズに向ける。その瞳には烈火の如く、輝く激情があった。

 

「パルヴェーズ、お前は俺が傷付く事が嫌だって言うなら、それは俺だって同じ事だ。てか、友達が戦ってるって言うのに、黙って見てるなんて、普通有り得ないぜ。それが出来るなら、友達なんかじゃねぇよ」

「小僧、聞いておったのか? おぬしの力は……!」

 

 今度は祐一が、パルヴェーズの唇に、人差し指を当てる。直ぐにでも、鼻っ面が触れ合いそうな距離。

 祐一は、ニカッと笑い、

 

「俺は、お前の使命を手伝う。そしてお前を信じる。そう決めたんだ。それが例え……この先の戦いで、俺の寿命が尽きても悔いはねぇよ。──なあ、パルヴェーズ。俺を、友達を見捨てた「恥知らず」にさせないでくれ。お前の力になりたいんだ……頼むよ」

「…………はぁ。酷い奴じゃのう……、おぬし。そこまで言われて断れば、我は見下げ果てた冷血漢では無いか。……仕方あるまい。我も、おぬしを恥辱に塗れさせる事は本意では無い故な……」

「それじゃあ……!」

「うむ。しかし、約束せよ。どうしようもない危地には、必ず逃げると。──よいか? 我など気にせず、なりふり構わず逃げ出すのじゃ。判ったな?」

「応! ……そうと決まれば、急ごうぜ、パルヴェーズ!」

「ふん。調子の良い奴じゃ。言われずとも、そのつもりじゃ!」

 

 駿馬を駆るパルヴェーズは、手綱を見事に操り、加速する。祐一は、振り下ろされないよう、馬とパルヴェーズに引っ付き、そして空を見上げ笑う。

 

(そうさ。俺たちなら……)

 

 祐一は、今なら何だって出来そうな気がした。

 

 

 

 ○◎●

 

 

 

(気がしたんだけどなぁ……)

 

 一瞬の回想を終え、走って先を歩くパルヴェーズの元へ駆ける祐一。

 むむむ。と顔を顰め、きっついなぁ、と思う。

 あの時感じていた感覚や、夢想していた未来とは、似ても似つかなくて、現実は厳しかった。

 二日ほど馬に乗り、手綱の握り方を学んでいたが、中々上達しないし、それに気を取られると、先刻の様にすぐに振り落とされるのだ。あと、ケツも痛いし……。

 今まで気儘な旅をしていたからか、一刻を争う……そんな旅は慣れていななくて、いつもの感覚と違い、戸惑ってしまって。

 

(そう、いつもの感覚じゃないんだ)

 

 なんとなく、「調子が狂うなぁ」そんな言葉が漏れてしまう。でもバンダレ・アッバースで起きた事を思うと放って置けなくて。

 戸惑う祐一だったが、パルヴェーズが急ぐと言ったのだ。否はない。

 祐一は、パルヴェーズとの約束を思い出し、「喧嘩して迷惑掛けたよな」と、独り言ち、「よし。もう喧嘩しない!」とお天道様に誓う。

 

(そもそも、喧嘩って言うのは、同じレベルの者同士でしか起きないんだ。圧倒している俺に、あのクソ馬が挑んで来るなんて……ちゃんちゃらおかしいんだよ!)

 

 ふっふっふ。

 影のある表情で、昏い笑みを浮かべる祐一。その姿は、とてもでは無いが、主人公には見えない。

 並走するラクシェを見やる。奴もこちらを見ていた。睨み合う両者。バチバチと、絡みあう視線から火花が飛び散る。

 ペッと、つばを吐き、顔を背ける祐一。ラクシェもまた同時に鼻を鳴らし、顔を背けた。中々お似合いのカップルだ。

 タタタッと駆けてはパルヴェーズに追い付き、話し掛ける。

 先刻、考えていた事を反芻する。いつもの感覚と言えば……アレだ。バンダレ・アッバースを出てからずっと、道を急いでいてやっていなかった事を思い出す。

 

「なあ、パルヴェーズ。道を急ぐのは良いけどさ……前までやってた、人助けはしないのか?」

 

 そう。そうなのだ。

 先日までなら、いつもやっていた人助け。パルヴェーズが声を聞き駆けつけて、傷を負っていれば癒やしたり、力仕事ならば祐一も一緒になって手伝って。

 人が困っていると、ほっとけないパルヴェーズ。まるで、天使か聖人のような優しさで、人々に笑顔と奇跡を振りまく、輝かしい少年。

 傷付き悲しむ者があれば、共に悲しみ慰め、癒す。

 彼が通った後には、決まって彼の様な、輝く笑顔が産まれるのだ。

 祐一も、最初は戸惑いはしたが、何度も繰り返すと慣れてきて、何だかんだで全力を奮って手伝っていた。

 

 人助けをして、みんなを笑顔にするパルヴェーズ。そして、パルヴェーズ自身も負けずに笑顔になるのだ。

 祐一はそんなパルヴェーズの笑顔が好きだった。

 確かにパルヴェーズは凄い奴だ。だけど、屈託なく笑い合うパルヴェーズの笑顔は、等身大の彼を映しているようで、祐一は好きだった。

 

「ふむ。人助け、か。残念じゃが、今は出来ぬのう……。時間が無いのじゃ。以前も言ったと思うが、化身がいつまた暴れ出すか、判らぬ。あまり時間を割けば、間に合わぬかも知れぬ。……分かってくれ、小僧」

「そ……、そっか……」

 

 少し意外だった。いやショックを受けた、と言っても良いだろう。

 パルヴェーズは優しい奴だ。それは疑いようも無い。───だが、違和感を感じたのも事実だった。

 己よりも、他人を慮り、親身になって、救いの手を差し伸べていたパルヴェーズ。

 そんな彼が、唐突にあの善行をしなくなるなんて……。

 祐一の感じた違和感が、膨らむ。だが、それだけだった。

 ───また、友を、疑うのか。

 心のなかに罪悪感に塗れた自分が囁く。

 祐一の脳裏に、悍ましい己の姿が映し出された。

 粘ついた黒いタールのような液体に身体の大部分を浸し、顔と左手だけが、助けを求める様に浮き上がっている。

 猜疑の視線と、掴み掛かる手が、祐一へ迫る。

 ───違う! 

 悲鳴を上げるように、声を張り上げる。

 

(俺はもう……あいつを信じるって決めたんだよ……! 今更、お前に言われなくても、そんな事しねぇ!)

 

 振り払う様に、だがどこか自分に言い聞かせる様に叫ぶ。「罪悪感」と言う名の自分がかつて友を疑い、拒絶した己を思い出させる。

 ギリギリと、歯を噛み締め、己の不甲斐なさをを思い出す。そして、もうあんな思いは嫌だと、決意を新たにする。

 

(パルヴェーズだって、本意じゃない! だから早く使命を終わらせ無いとならないんだ!)

 

 祐一は、自分に刷り込ませる様に強く思った。友を疑うなんて、まっぴら御免だったから。

 そうすると、いつの間にか黒い自分は姿を消していた。ホッと、心の中で安堵のため息をつく。

 ───それでも、少しだけ、違和感が残った。

 

「ふふ。まあ、その為にも早くこの使命を終わらせねばのう。そうすれば、おぬしとまた気儘な旅をして、以前の様に多くの者たちを救けるの事が出来るからのう?」

 

 笑うパルヴェーズ。そんなパルヴェーズに「……そうだな!」と頷き笑う。───ただ、パルヴェーズの笑顔が、とても無機質に見えて仕方なかった。

 



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試練

 ───疾ッ! 

 

 とある少年の眼前に、猛り狂う暴れ馬が迫った。

 巨躯である。迎え討つ少年もまた中々の高身長だが、それでも見上げねばならない程の。

 荒涼とした大地を雄々しく踏み締め駆け抜ける巨馬。もし、その逞しい背に乗ったならば、どんな凡夫であれ勇壮無比な兵と化すだろう。

 その暴れ馬は少年を高みから見下ろし、その逞しい四つある脚でもって、踏み砕こうとしている。

 脚の先には、硬い蹄が付いており、少年の肉体を容易く叩き割るだろう。

 交叉する四肢に合わせ、その恐るべき蹄が縦横無尽に暴れ回る。

 駿足を曝す悍馬の通った跡には踏み砕かれ粉々に砕けた石塊の破片が散乱し、その恐るべき威力を示していた。

 それはまるで迎え討つ少年の未来を、言葉も無く暗示している様でもあった。

 もう両者の距離は……近い。あと数度の瞬きもあれば、両者は交錯する。

 その結果は誰もが、「火を見るよりも明らかだ」と考え、最後まで見る事なく、目を逸らすだろう。

 ……普通であれば。

 しかし、迫り来る馬が、普通ではない様に、相対する少年も普通ではなかった。

 ──揺るぎない燃える様な意志を宿した瞳。

 ──眼の前に破壊の権化たる存在が迫ろうとも、決して崩れない不敵な笑み。

 ──靭やかでシャープな、しかし弱々しさを感じさせない躰付き。

 ──どんな相手と戦おうと、己の勝利を信じる傲慢なまでの心。

 強襲する馬も二匹と居ない類稀な馬であるが、迎え討つ少年もまた類稀な肉体と精神を持った若き俊英であった。

 そんな両者を見守るのは、少し離れた枯れ木の傍に佇む少年のみである。

 背丈、年頃はあの不敵に笑う少年と近いだろうか。

 その表情は、残念ながら木の影となって見えないが、それでもその独特な雰囲気と均整のとれた肢体は、見る者に深い印象を残し、忘れる事を許さないだろう。

 ……この少年もまた、尋常では無い様だ。

 疾走する悍馬。

 立ち塞がり、笑う少年を、容易く蹴散らさんと駆ける。

 前脚を大きく掲げ、人間程度なら為す術なく圧死させるだろう蹄を少年に向けた。

 その時だった。

 何の構えも取っていなかった俊英たる少年が、遂に構えを取る。

 手を振り上げ、その勢いそのままに右足を繰り出す。

 そう少年は、手を大空に思いっ切り掲げ、片脚立ちになったのだ。その姿は、まるで鶴が蒼穹へ飛び立さん、としている様にも見えた。

 巨馬の振り降ろした脚に、少年が右足で応えようとしている。

 普通であれば、力無き人……それも身体も出来上がっていない少年なのだ。

 そんな足掻きなど、あの悍馬ならば歯牙にも掛けず、踏み砕くだろう。

 ───しかし、出来なかった。

 悍馬の繰り出す前脚を、少年が己の右足でもって受け止めたのだ。あの人を優に越える巨馬の一撃を。

 停滞は一瞬だった。

 両者はぶつかり合う足を起点に、力を込め、同時に後ろへ飛び退ったのだ。

 軽業師の如く一回転し、着地する少年。

 四足歩行とは思えない四肢の動かし方で、背面跳びし、一旦地面に手を付き、また身体を跳躍させ身体を一回転させる悍馬。

 どちらも、重力が発生しているのか、疑問なるほどの機動であった。

 地面に降り立った瞬間、両者の姿が掻き消える。

 目にも留まらぬ速さで、相手に向かい疾走したのだ。

 まるで、電光石火。……種の最高峰である、彼らのみに許された速さで。

 そして、迅速果断。……逡巡など、毛ほども感じさせない速さであった。

 再び交叉する。

 ガラスを割った様な、鋭く、高い、耳に響く音が空気を叩く。決して生身で出せる音では無い。が、衝突する貫手と蹄からは、確かに響いていたのだ。

 正に、剥き出しの暴力。技も術理もへったくれも無い、持ち前の力とセンスを武器にぶつかり合う。そんな原始的な、しかし生物として当たり前の姿。

 次いで少年が、右拳を叩き込む。それを紙一重で、左へ避ける悍馬。

 避けされた事に構わず、そのまま流れる様に、前へ進む少年。

 すれ違う両者であったが、巨馬が、駆け抜けようとした少年に、その強靭な後ろ脚を逆袈裟に振り上げた。

 不意の一撃であった。少年は、咄嗟に右足を掲げ、守りを固める。

 だが、やはり尋常では無い馬の一撃もまた、尋常では無かった。右足を掲げた少年の守り、諸共蹴り上げ、吹き飛ばす。

 衝撃を受けた少年は、まるで棒切れの様に、軽々と吹き飛んだ。

 堪え切れなかった呻きが、少年の口から漏れる。勢い余って、数度、宙を回転しながら吹き飛ぶ少年。

 とんっ、少年は、天地が定かでは無い視界の中、何とか両足で着地に成功した。三半規管が刺激され、視界が揺れる。迫る猛り狂う馬を認め、走り出そうとするが、足が縺れ蹈鞴を踏み倒れ込んでしまった。

 驚き、右足を見る。何処かたわんだ様な、歪な己の足が目に入った。悪態を突く少年。

 立ち上がろうとするが、今度は力が入らない。

 あの悍馬の前脚を強かに叩き込まれた、右足が痺れているのだ。

 一拍の停滞。何も感じない空白の感覚。だが、すぐ後に、突き抜ける様な痛みが走った。

 再度、悪態を付く少年。もう、巨馬との距離は幾許もない。

 そこで遂に少年は勝負に出る事を決めた。

 乾坤一擲。左足に力を込め、更に右手で右足をぶっ叩き、なんとか立ち上がる。

 絶体絶命。それでも、少年は笑う。そう、大胆不敵に。

 迫る悍馬が、突き刺さる様な戦意と共に、嘶きを上げた。前脚を掲げ、蹴散らそうとする巨馬。

 少年もまた、大地に両足を縫い付け、右拳を振り上げる。

 ───ッ! 声も無く、二つの裂帛の気合がぶつかり合う。闘気渦巻く両者を境に、戦いの舞台たる沙漠の表面へ風紋が浮かび上がる。

 右拳と蹄が、衝突し、停滞する。

 なんと少年が、自分の一回りも二回りも大きい巨馬を、頑と受け止めたのだ。

 拮抗する両者。

 どちらも、負けじとその四肢に力を篭める。捻じ伏せ屈服させようとしている。

 睨み合う両者の瞳には、相手を飲み込まんばかりの、強烈な意志が宿っていた。

 ───大地を揺るがさんとする「闘志」

 ───天を衝かんばかりの「怒気」

 無垢だ。そこに、余計な感情は一切介在していない。ただ只管に、ぶつかり合う相手を一点に見据え、猛るのみだ。

 拮抗し、停滞する両者。しかし直ぐに、硬直状態は解かれた。

 巨馬が、少年を踏み潰さんと全身の力を振り絞り、押し潰したのだ。巨馬の体表に幾多の太い血管が浮かび上がる。血が駆け巡り、ひりつく熱気が少年の頰を撫でた。

 目を疑う程の膂力を見せた少年も、これには堪らず、体勢を崩した。もう、右足が限界だったのだ。

 大地に仁王立ちしていた足が崩れ、膝を大きく曲げ、崩れ落ちる。

 好機。勢いそのままに、踏みつける巨馬。

 絶体絶命の少年。だが、その眼光は未だ強い意志を宿していた。

 ───グッ。

 少年が、踏みつける巨馬の前脚を、その手で絡め取ったのだ。少年は、迫る脚の力に逆らわず、そのまま後ろへ倒れ込む。

 大きく仰け反る少年。少年は流れる様に、悍馬の放つ一撃を受け流す。

 なんと、あの強烈な一撃を、紙一重で避けて見せたのだ。

「らぁっ!」そして少年は、倒れ込む勢いを利用し、左脚を繰り出す。 

 少年の放った左脚は、悍馬の腹部を強かに打ち据えた。

 ─ッ! 痛打を受け、圧迫された肺から空気が漏れ出る。よろめき、ついに膝を突く悍馬。

 両者は距離を取って立ち上がり、再び相対する。

 一進一退の攻防。状況は、少年がやや不利か。

 互いに強力な一撃を受け、傷付く両者。しかし、彼らの目に、「止める」と言う感情は見えない。それどころか、刻一刻と戦意は高まり、留まる所を知らない様にも見えた。

 両者は、相手を見据えて、思考を巡らせる。

 どう攻略し、討ち果たすかを。勝ちへの道筋を。

 動く。震え、悲鳴を上げる四肢に力を込め、駆ける。

 今度こそ、目の前の好敵手たる戦士を降し、己が勝者である、と証明するために。

 お互いの、全力決死の一撃を放つのだ。

 彼らは、今の傷付いた状態でぶつかれば、只では済まない、と知っていながらも、敢然と前へ出た。

 

「おおおおおおぉぉぉっっ!!!」

「ブルウオオォォオオッッ!!!」

 

 ───ただ偏に、勝利の為に! 

 

「そこまでじゃ阿呆ども!」

 

 ゴチンッ! 見渡す限りの荒野に、鈍い打撃音が響いた。

 激突寸前だった両者の頭頂に、拳骨が振り降ろされたのだ。

 意識が枯れ葉の様に吹き飛びそうな衝撃と、弱い意志など一瞬で捻じ伏せる、力ある言霊が、一人と一匹の胸を穿つ。

 彼らは、心身共に痛烈な一撃を貰い、地面へ倒れ込んだ。

 勝者は、明らかであった。

 

 そのまま頭から崩折れ、大地と熱烈なファーストキスをかます少年……もとい、「木下祐一」

 同じく、頭から大地に突っ込み、顔ごと地面に陥没した悍馬……もとい、「ラクシェ」

 その様を、怒気を宿した瞳で見下ろす、もう一人の少年……もとい、「パルヴェーズ」

 戦っていた人間と馬は、祐一とラクシェ。見守っていた人影は、言うまでもなくパルヴェーズであった。

 彼らはまた性懲りもなく、喧嘩をしていた。昨日、あんなにも決意し、想いを新たにしていたのに、だ。

 まあ、祐一はまだ14歳で、ラクシェは畜生。

 感情の制御や精神の未熟さ、敵愾心を煽りに煽る両者であれば、無理からぬ事だったのかもしれない。

 それはそれとして、珍しく、怒りの感情を発露しているパルヴェーズ。何時もの呆れた表情では無く、般若の如く恐ろしい表情だ。

 どうやら冷静沈着なパルヴェーズであっても、道を急いでる中、毎日毎日喧嘩され、遂に我慢の限界に達した様だ。

 

「おぬしら……我の足を何度止めさせれば気が済むんじゃ……? この三日で何度、おぬしらの喧嘩で立ち止まったか知っておるのか……? ……我が水場を探しに、目を離した途端に争いおって……」

 

 どこからか汲んで来た水を担ぎ、見下ろすパルヴェーズ。腹に据えかねる……と言う感じで一人と一匹に、詰問していた。

 

「ち、違うんすよ……パルヴェーズさん……。悪いの全部、コイツなんすよ……」

 

 すぐに復活し、みっともなく弁明し始める祐一。

 倒れ伏すラクシェを指差し、責任を押し詰めようとしていた。汚い。

 なお、ラクシェは地面に顔を埋め、意識が無いフリをしている。なかなか人間臭い馬である。

 そんな一人と一匹を、冷厳な瞳で見据えるパルヴェーズ。

「ヒェッ……!」そんなパルヴェーズを見て、喉からしゃくり上げる様な声を出し、顔を盛大に引き攣らせる祐一くん。

 怒りの感情を感じ取ったラクシェ。そんな倒れ伏すラクシェの手足に、ゾワッと震えが走った。

 

「おぬしの不仲は、よく理解しておったつもりじゃ。だが、時が経てば軟化するであろうと考えておったが、見通しが甘かった様じゃのう……。どうやら荒療治が必要なようじゃ……!」

 

 ゆういちは にげだした! 

 ラクシェは にげだした! 

 しかし まわりこまれてしまった。

 

「座れ。小僧、駄馬」

 

 力ある言霊では……無い。しかし、絶対に従わなければならないと言う、言いようの無い圧力が、祐一とラクシェを襲う。

 祐一は、小石が敷き詰められた沙漠の真ん中で正座をし、ラクシェは腹這いになって倒れ込む。

 すぐに右足の痛覚が悲鳴を上げ、転げ回る祐一。ラクシェもまた、蹴られた部分が思い出したように痛み、ひっくり返った。

 種の頂に立つ者とは思えない、情けない姿である。

 そんな両者を見下ろし、パルヴェーズは口を開いた。

 

「よいか? これよりおぬしらには、一つの試練を与える。おぬしらが協力せねば、決して打破出来ぬ試練を、じゃ」

「し、試練?」

「そうじゃ。ここより遙か先、とある山脈に、湧き水が染み出た……小さな川がある。そこへ、おぬしらは、五日以内に協力し辿り着かなくてはならぬ。それが、試練じゃ」

「えぇ……このクソ馬とかよ……」

「ブルル……」

「聞け、阿呆ども。我はこの試練に手は出さぬ。お主らが協力せず、辿り着けず、何処かで野垂れ死のうとな。それに五日以内に辿り着けなくとも、容赦無く置いて行く。よいな?」

 

 そう言ってパルヴェーズは、祐一に一枚の羽根を渡し、ラクシェには、飲み水が入っている袋を括り付けた。

 貰った羽根を、頭にはてなマークを浮かべなが、しげしげと見つめる祐一。それはラクシェも同様だった。

 

「……なにこれ?」

「おぬしが持つ羽根は、目的地である小川まで導く針路を示す物じゃ。羅針盤が北を向く様に、その羽根は小川の方向を指すのじゃ」

「ふーん……」

「そしてラクシェには、5日分の飲み水を持たせておる。おぬしらが、小川に辿り着くまでの飲み水じゃ。この袋は、ラクシェには触れれぬ。この袋に触れれるのは、小僧、おぬししだけじゃ。言うて置くが、その小川までこの辺りに水源は……無い」

「……」

「そして、我が渡した二つの物は、おぬしらから離れぬ様、秘術を施しておる。この2つが揃わねば、例え、小川へ一人で向かおうとしても決して辿り着けぬ。おぬしらは、これより一蓮托生になった。──そして小僧、おぬしはこの試練で、己の肉体に迫る真実を悟るじゃろう。心せよ」

 

 パルヴェーズは、こちらを見つめ確認する様に言う。祐一は、頭を掻いて目を逸らす。

 逸した先には、ラクシェがいた。……ラクシェもまた、こちらを見ていた。

 どうやらラクシェの方も、パルヴェーズの視線に耐え切れなかった様だ。

 驚いた様に顔を見合わせて、すぐに「フンッ!」と、鼻息一つ。

 イヤなものを見た、と言わんばかりに、顔を背ける一人と一匹。そんな彼らを見て取り、心の中でため息を漏らすパルヴェーズ。

 

「……では、の」呆れを滲ませた声色。

 パルヴェーズそれだけ言い残し、走り去った。

 

「あ! ちょっとまっ……」

 

 手を伸ばし、引き留めようとする祐一。だが。すぐに追い付けない、と悟った。

 まるで風だ。風の様な速さで少年は駆け去り、その背中はすぐに見えなくなってしまった。

 速い。

 祐一は素直にそう思った。パルヴェーズは、時を経るごとに……化身を倒すごとに、より強くなっている気がした。

 ……だがそれでも、「追い付けない」とまで思ってしまった自分へ、苛立ちが止まらなかった。

 祐一は、そんな考えを抱いた自分を振り払う様に、首を振り、隣のラクシェを見やる。

 ───影も形もなかった。

 

「は?」

 

 目を瞬かせ、辺りを見回す祐一。すぐに、見つけた。ラクシェの姿は、荒野の遙か先。パルヴェーズの走り去った方向だった。

 まるで風だ。風の様な速さで悍馬は駆け去り、その背中はすぐに見えなくなってしまった。

 

「は!?」

 

 ラクシェは、風の吹き荒ぶ無人の荒野を走り抜けて行ったのだ。……祐一を置いて。

 

「お前は行くんじゃねええええええええ!!!?」

 

 絶叫を上げ、追いかけ始める祐一。

 前途多難な試練の始まりだった。

 




ラクシェは金色の黒王号みたいな感じです。


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まったくイランは地獄だぜ!

 照り付ける太陽! 青々と晴れ渡る空! 見渡す限りの不毛な土地! 遥か彼方に聳える山々! 颯爽と吹き抜ける風! 舞い上がる土埃。横たえられた枯木。しおれ痩せ細った草。無数に転がる石塊。鳴り止まぬ風切り音。喉を焦がす熱気……。苛み止まぬ渇きと飢え……。引き摺り覚束ない足取り……。杖を弱々しく左手……。ぐらぐら揺れる視界……。朦朧とする意識…………。

 

(………………み……ず……)

 

 試練からニ日。祐一は遂に倒れようとしていた。

 

 ○◎●

 

 試練開始直後、走り去ったラクシェを追って荒野を駆けた祐一。しかし結局ラクシェに追いつく事はできなかった。

 如何に超人的な能力を持つ祐一でも、地平線の彼方へ消えた駿馬に追いつく、と言う難事は無理があったようだ。ラクシェを追いかけ数十km走った所で力尽きてしまった。追い付けなかったとは言え驚異的なスタミナである。

 

「あ……あのクソ馬……。はぁ……はぁ……今度あったら……絶対ぶん殴る……!」

 

 息も絶え絶えに零す祐一。地面に身を投げ出し、身体を横たえていた。零す言葉は、置いて行った馬鹿者への呪詛である。

 ブツブツと譫言の様に呟く姿は、ここに人が居ればその不気味さに堪らず顔を顰め足早に去って行くだろう。

 しかし幸い人っ子一人居ない。

 全力を出し、力尽き果てていた祐一。そんな時に、ふと、右手に違和感がある事に気付いた。

 手を掲げ、手を握っては、開く。

 

 気のせい、か? 小首をかしげ、眉を顰める。

 先程感じた違和感が忘れられず、悶々としていた祐一だったが、すぐに気にならなくなった。

 喉の渇きを自覚したのだ。

 

(水……あったっけ?)

 

 息を整え、上半身を起こす祐一。

 ブレザーのポケットや、腰回りを探って水分を探す。ポケットに入っていた物は、時計、写真、羽根くらいのもので、水分どころか食料すら無かった。

 これだけしかないのか……。

 改めてこの試練への不安と走り去っていったラクシェへ怒りを募らせる祐一。

 不貞腐れたように、また寝っ転がってこれからどうするか思案に耽る。

 

(取り敢えず、水を探さねーとな……。ラクシェがいりゃあ、問題なかったんだけど……)

 

 右手で羽根を摘んで、ボーと眺めていたが、クイクイッと羽根が独りでに動いた。

 目を瞠り、驚きを露にする祐一。すぐにパルヴェーズの言葉を思い出し、疑問が氷解したした様な表情を浮かべる。

 どうやら目的地である、小川の方向を指し示しているようだ。

 なるほどなぁ……。パルヴェーズがこの羽根を羅針盤と言った意味をようやく理解した。

 

(……よし。羽根の指す方向に行こう。道中に川か何かあるだろ)

 

 祐一は何時もの見切り発車で進路決める。

 パルヴェーズが居ない今、中途半端に道を選べば、死を招くだろう。

 しかし祐一は、長い間パルヴェーズと旅を共にし過ぎていた。

 迷い無く、安全な道を選び進むパルヴェーズと共に旅をしていた祐一。

 その為、この様な過酷な土地でどう進めば良いのか等の判断力が養われていなかったのだ。……まあ、本人の大雑把な部分も多々あるが……。

 そんな風に、思案に暮れていた祐一だったが、

 

「熱っ!」

 

 背中からに猛烈な熱さを感じ、勢い良く上半身を起こす。長い時間、寝っ転がって居ると、日光によって熱された地面が牙を剥くのだ。

 

「はぁ……行くかぁ……」

 

 背中にまだ残る熱さと、潤せかった喉の渇きが堪らない。

 祐一は顔を顰めて、ため息一つ。ブレザーを日傘代わりに引っ被り、トボトボと歩き始めた。

 羽根の指す方向は遥か彼方に聳える山脈だ。

 今の祐一には、道連れも居なければ見渡す限りの荒野に人影も無かった。

 そんなたった一人の旅。

 一人寂しく旅をするのが久しぶりで、どうにも調子が出ない祐一。

 胸にじわじわと沈んだ感情が広がるのを自覚し、それを誤魔化す様に足早になって行く。

 もうあの時感じた手の違和感なんて、忘れてしまっていた。

 

 

「やばい……。水が……無いぞ……」

 

 歩き始めて、数時間が経った。

 太陽は今が丁度、一番高い場所にある。気温と日差しの強さは今がピークだ。ブレザーで遮っている筈の日光は、そんなちゃちな布など物ともせず襲い掛かって来る。汗は止めどなく出て来て、不快感が堪らない。喉の渇きは一向に収まらず、苦しいままだ。

 

「クソっ……水場なんて何もないじゃんか……!」

 

 そう。祐一は、歩き始めて数時間、ずっと水のある場所を探していたのだ。だが、水の「み」の字すら見当たらない現状に悪態をついていた。

 基本的に街から程近い場所にある貯水槽「アーバンバール」は元より、この様な水の少ない土地には良くある地下水道「カナート」や、川も池も見当たらなかった。

 一度、川が流れている様な地形を発見し、遡っていた祐一だったが、結局水なんて無かった。どうやら、雨季にのみ川が出来るだけの涸れ川だった。

 その事に気付いた時は、余りの絶望感と徒労に終わった悲しみで、祐一は膝から崩折れた。

 

『この辺りに水源は……無い』

 

 試練開始前に言っていた、パルヴェーズの言葉が脳裏を過る。

 

(あれって、俺達を協力させる方便じゃなくて、本当の事だったのか……)

 

 今更ながら、この試練の前途多難さに目眩がしそうになる。辺りには草木すら見当たらない荒野。起伏が激しく、進むのにも苦労しそうだ。

 もう、このまま穴掘って行けば、地下水脈に辿り着くんじゃないか……? 

 そんな訳のわからない、投げやりな考えが浮かぶ。首を振って、前を向く。いつの間にか弱気になっていた己に、喝を入れる。

 まだ、先は長い。こんな所で挫けてたまるか! 

 叱咤して、羽根の示す方向に再び歩き出した。

 

 夕刻。

 猛威を振るった太陽も、「定時だし、今日の仕事は終わりだ」と言わんばかりに沈んで行く。

 暑さも数刻前ほどの、死を近くに感じる程のものでも無くなっていた。それでも、暑い事には変わらなかったが。

 青褪めた空は、炎の様に明るく衣替えをし、夜の帳を降ろそうとしていた。

 感じる取れる程、気温が下がって来た事に気付き、そろそろ野営の準備をしなければ……と思い至る祐一。そんな折だった。

 少し気温が落ち、一日の終わりを自覚して、気が緩んだのだろうか? 

 祐一の足が少し震え始めたのだ。

 

(歩き詰めだったもんなぁ……)

 

 試練が始まってすぐに、数十kmにも及ぶマラソンだ。それも、故郷では考えられない程の炎天下の中。身体能力に優れた祐一だからこそ成し遂げたが、常人ならすぐに熱中症か疲労で倒れているだろう。

 それに加え、水分すら補給していないのだ。如何に類稀な身体能力を持つ祐一であっても限界だった。

 取り敢えず腰を降ろし、ひと息付く。

 すぐに、野営の準備をしなければ、陽が落ちるのは判っていたが、流石に身体が動かない。休憩の手慰みに、焚き火の準備を始める。手頃な石を集め「U」の字を作って竈にする。

 竈を作り終え、胡座をかいて頬杖をつく。

 

「なあ、パルヴェ……」

 

 今、自分は一人ぼっちだったと言う事に何とも言えない顔で、押し黙る祐一。

 一人の夜は久しぶりだ。

 船が転覆してから今日まで、傍らには何時もパルヴェーズが居た。

 数えてみれば、パルヴェーズとの旅が始まって、二週間近い時間が流れていた。その間、いつも隣には相棒が居たのだ。

 一度別離した苦い記憶もあるが、それも長い時間では無かった。

 ───パルヴェーズがいない。その事に、いつの間にか酷い違和感と、何か穴が空いたような空虚感が祐一の心に浮かび上がる様になっていた。

 

(うぅん……。もうちょっと、ラクシェと仲良くしてりゃ、良かったかな)

 

 そんな後悔にも似た感情が生まれた。

 少なくとも祐一とあの馬とが喧嘩をしなければこんな事態にはなっていないのだ。

 まあ祐一とラクシェ。

 どちらかが引けば良いのだがラクシェは妙に祐一の敵愾心を煽った。それはラクシェも同じで、いつも彼らは反目せずには居られなかった。

 

(後は、パルヴェーズだな)

 

 そう。何時も傍らで二人の争いを見守る、パルヴェーズにも原因があった。

 パルヴェーズの見ている前では、己が負けている姿なんて見せてなるものか! ……と両者共に一層奮起するのだ。それは、好きな子の前で良い格好をしようとする、男子の心理にも見えた。

 今度あったら、一発全力でぶん殴るくらいで許してやろう……。そんな結論に達し、そろそろ薪を集めようと立ち上がる。もう、太陽は沈み掛かっている。少し、休憩と取り過ぎた様だ。これは急がねばならない。

 

 ───ぐらり

 立ち上がった瞬間に、力が抜けたのだ。それは一瞬の事で、すぐに足で踏ん張り支えて事なきを得たが、足の震えが以前より増している事を自覚する。

 身体を酷使し過ぎたかな……。また、気分が落ち込む祐一。

 食料も無い。水も見付けねばならない。毒性を持つ生き物も多く居る。気を抜く事は出来ない。

 あと、どれだけ歩けばいいのか検討も付かない。遠くに見える山脈が蜃気楼では無いか、何度疑ったか判らない。

 祐一は、そんな不安要素を整理し考えるたびに、どんどん憂鬱になって行った。

 

(やめやめ!)

 

 首を振り、気を取り直す。沈み掛けた気持ちを、引っ張り上げる。

 よし! と気合を入れ直し、前を向く。

 

(当座の問題は、火を起こす事だ。……はやく、薪を探そう)

 

 早速、歩き始めた祐一。

 無理矢理に高揚させた心は、どこかスカスカで、その隙間からネガティブな感情が、流れ込んで行く気がしてならない。

 それでも、祐一は腐らず前を向いて、今やれる事をしようとしていた。

 ただ……一人の夜がこんなにも寂しいものだった事を、彼は思い出してしまった。

 

 

 ○◎●

 

 

 ────ひゅぅぅぅ……

 

 風が舞った。柔らかい風は勢いをまして行きやがて疾風へ変わる。しかし良く見ると、風ではなかった。

 少年だ。

 なんと風に思えたものは、年若く風に髪を揺らす少年だったのだ。

 少年の駆ける速度が余りにも速すぎた為に、そう錯覚してしまったのだ。

 独特な雰囲気の少年である。それに整った容貌と線の細い美しい少年でもある。

 だが惰弱さは無い。それどころか逞しくさと靭やかさを兼ね備えた理想的な戦士にすら見える。一度目にすれば忘れようも無い華のある少年だった。

 だがその華やかな少年は、苦悶の表情を浮かべていた。

 

 難儀なものじゃな……。その少年……パルヴェーズは独り、思う。

 今彼が居る場所は、彼が試練を課し、走り去った場所から遥か遠くの場所。峻厳たる山々が連なる山脈だ。

 およそ人が暮らすには過酷な土地であった。人の往来など皆無で生き物の気配すら、僅かばかりしか感じ取る事の出来ない土地である。

 ここなら誰も来ない。

 パルヴェーズは立ち止まり、手頃な岩に腰掛け思案に暮れる。

 

 ───己が、己たらしめる軛から外れようとしている……。

 それがパルヴェーズが苦悩している理由である。

 そもそも、パルヴェーズはとある存在の一欠片である。数多の化身を持つ存在の一側面を切り取った存在だ。

 なんの因果か化身がバラバラになり散り散りになってはいるが、元は尊き存在の一柱であった。

 故に、元の存在に戻る事を使命とし、イラン北部を手始めに放浪の旅に出た。一ヶ月ほど歩き回ったが、結局、一柱しか見付からず、イラン南東部へと移動しながら気ままな旅を楽しんでいた。

 己が真の存在に至るまでの、数奇な境遇を楽しんでいたのだ。

 やがて化身の気配を感じ、遥か洋上にて干戈を交え、これを見事に討ち取った。去り際、船が転覆し漂流していた人間を拾ったのは、本当に気まぐれだった。

 だがその人の子を拾った頃より、それまでの平穏が嘘の様に……まるで坂から転げ落ちるが如く、化身との戦いがあった。

 そして、いつからだろうか? 

 化身を取り込む毎に、神性が戻り輝かしい光の英雄としての神性を失って行き、そして闘争を至上とする戦神となって行く事に気付いたのは。

 奢侈に流れ、己の快楽を優先する人間達に不快さが増した。それに、いつ化身が現れるのか判らず、また箍の外れかけた己が許せず、街に近づく事を拒む様になった。

 そして、バンダレ・アッバースで『駱駝』を倒し、取り込んでからと言う物、変化は顕著になっていった。

 

 不安定な己。

 今でも揺れ動く己の神性が、パルヴェーズを苛む。

 旅の仲間に無理矢理試練を課し、離れたのも、彼らにこんな姿は見せられないからだ。

 気まぐれに拾った人の子。いつも全力で生き、足掻いては、己の隣に並び立とうとする少年。

 光の守護者としての神性を失い、名を封じられている事が口惜しい。せめて名さえ封じられていなければ格別の加護を与え、誉れ高き戦士として……いや、我が最愛の友として、迎え入れたと言うのに。

 

(ふふ……)

 

 思わず笑みが零れる。

 地上に落ち化身を集め神性が戻る毎に、何か大いなる者に呑まれ始めて行く。己の神性が歪んで行く。

 常であれば、それもまた定められた者の使命と捉え、身を任せたかも知れない。

 しかし、あの少年……「木下祐一」が居た。

 出会ってからと言うもの、あの少年を見ていて飽きる事が無かった。純粋で、愛情深く、一直線に突っ走る少年の姿は、尊き存在の化身たるパルヴェーズを酷く()()()()してしまった。

 

 それにあの「眼」だ。パルヴェーズは、思う。

 あの強烈な意志を宿す瞳は、パルヴェーズの不変の心さえも、揺れ動かそうとしていた。

 あの瞳に見詰められると、心の扉を突き破り己の奥底にある固く封をした願望を暴き立て晒しだす。

 そして「お前は、それでいいのかよ?」……言葉も無く語り掛けて来るのだ。

 

(本当に……難儀な事じゃ……)

 

 なんと言う不心得者だ。我の心を掻き乱し、暴き立てるなぞ、不届き千万。悔い改めばならぬ。

 パルヴェーズはそんな事を考える自分に、おかしそうに笑う。

 直にまた己の神性を歪めようと、魔の手が伸びて来くるだろう。厳しい戦いとなるに違いない。

 そしてパルヴェーズは苦悶に歪み情け無い姿を晒す事を、良しとしなかった。

 そんな姿を見せればあの純粋な少年の笑顔は、哀しみに歪むだろう……。それだけは避けたかった。あやつの前では、何人にも負けぬ強い存在で居たかった。

 

 ───来たか。

 己を脅かすものが刻一刻と迫っている事に気付き、表情を改めるパルヴェーズ。

 あやつもまた、己を蝕む過酷な真実を知るであろう。 ならば我もまた容易に倒れてなるものか。

 

 パルヴェーズの眼光は、友である少年の如く、鋭く前を見据えていた。

 



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限界

 試練開始二日目。まだ、陽も顔を出さない暁時。そんな朝早くに祐一はもう起床して動き始めていた。

 この二週間ほど、太陽が沈むと同時に就寝し太陽が登ると同時に起床する、と言う規則正しい生活を送っていた祐一。如何に低血圧で寝覚めが悪い彼とは言え、流石にこの生活サイクルに身体が慣れ始めていた。

 それに、やらなければならない事もあった。

 ──水を手に入れるのだ。

 こんな沙漠でも、朝方には朝露が結露する。

 祐一は、石や所々に生えている草木を見て回り、集め始めた。朝露のお陰か、カラカラだった喉の渇きは、少し和らいでいる。

 だが空腹はどうにもならない。

 仕方無く、地面に生えている草を引っこ抜き、根っこごと口に入れ、咀嚼する。

 苦い味が口の中に広がるが、少しだけでも水分が取れるし、腹の足しにはなるので、文句も言ってられない。

 朝っぱらから、ため息一つ。

 何か良い方法は無いものか……? 

 思案に耽る祐一だったが、そんな良い方法なんて出る筈も無い。

 また、ため息を付きたい気持ちをグッと抑え、また水を探し始めた。

 

「よし。行こうかな」

 

 あれから数刻。

 朝露を集めに集め、コップの半分ほど集める事ができた。すぐに無くなりそうな量だ。それに、泥を溶かし込んだ様に濁っている。まあはっきり言えば、泥水だった。

 しかし、水を持ってすら居なかった昨日より全然マシだ、祐一は素直にそう思う事にした。

 祐一は水を集められた事に、少し胸を撫で下ろし羽根を取り出す。羽根は以前と変わらず、山脈の方向を指している。

 やはりゴールはあの山脈で間違いない。

 また灼熱の一日が始まる。

 祐一は歩きながら、昨日の飢えと渇き、暑さを思い出し顔を顰めた。

 どうにか一つでも楽にならない物か……思案に暮れながら歩く祐一。

 遥か背後にうごめく影に、彼は終ぞ気付く事は無かった。

 

 ずる……ずる……。

 昨日の強行軍が響いたのか、強張る足を引き摺り気味に歩く。

 足の震えは止まってはいたが、ラクシェに蹴られた箇所を中心に、麻痺している感覚が広がっていく。

 朝起きた時には見えなかった太陽も、今ではその見を空に踊らせ、燦々と輝いている。それと共に、慣れ親しんだ熱波が、祐一を襲う。

 暑さで、右腕にじんわりと汗が滲む。

 ブレザーの下に着ている、少し黄ばみ始めたシャツが、汗で透け始めている。

 

 クソ……。己の中にある水分が、ジワジワ無くなって行く事に、良い気がせず思わず眉根を顰める祐一。ブレザーを着ながら、この地を移動するのは楽なものでは無かった。この地に適した涼しい服装に着替えれればどれほど楽だろうか、と思った事は、一度や二度では無い。

 それでも着替えなかったのは、船が転覆して、荷物を失った自分が持っていた数少ない財産の一つだったからだ。

 女々しいかも知れないが、祐一の意地でもあった。

 あとは、故郷の残り香を感じられるものだから……そんな理由もあったのかも知れない。

 いっその事、脱いでしまおうか……。

 ブレザーの袖を腰に巻き、上半身裸になって、風を肌に感じられる感触を夢想する。

 気持ちよさそうだな……。

 涼風を浴び、両手を一杯に広げ、天を仰ぐ姿を妄想する。

 だが結局、行動するには到らなかった。肌を晒した時の辛さを思い出したのだ。

 辛さの理由。その理由は日光にあった。

 何も遮るもの無いこの土地で肌を晒せば、容赦無く日光が焼き付けて来るのだ。だが、長袖長ズボンを着ていれば直射日光を防げるので、ブレザーを来ている方が楽なのは確かだった。

 故郷で、夏場でも長袖で作業している外仕事の人達を思い出し「なるほどなぁ」と納得したものだ。

 まあ……、裸になった方が涼しいんじゃないか? そう思った事は何度もあるし、裸になって涼を取りたい欲求は、今もあるのだが。

 この土地の過酷さを、改めて実感する祐一。

 暑さと、右足の不調具合に、悲観的で投げやりな気持ちに陥ってしまった。

 おもむろに懐から、朝に集め貴重な水を取り出し、空に掲げる。

 水は、少なく濁っていた。しかし、それでも今の祐一にとって、蜜のように甘く、ワインの様に深みのある、誰もが欲する垂涎物の一品に見えて仕方が無い。

 ───ゴクリ……。祐一は、目の前にある水を一息に飲み干してしまおうか……。そんな欲求と、ここで飲めば後が無くなる……と言う理性とで、激しい葛藤の中にあった。

 両肩に乗る、天使と悪魔が囁き合い、己の声に翻意させようとする。その囁きは、徐々に大きくなり、今では叫び声にすら思えた。

 うるさい……! うるさい……! 

 振り払う様な動作で、首を振り、涙を呑んで懐に水を仕舞う。何とか理性が勝ったようだ。

 だが理性が勝っても、状況は変わらない。喉の渇きは依然として、祐一を苛む。

 登り切った太陽が輝き、大地を焦がす。もう気温は「ここが地獄だ」と言っても信じられそうなほど。祐一の手から、汗が吹き出し、渇いた沙漠に滴り落ちる。

 もったいない……。思わず、右腕を掲げる動作をしようとして───出来なかった。

 

「───え?」

 

 おかしい。そんな筈はない。

 ──それでも、腕が上がらない。

 瞠目し、もう一度試す。……やはり、腕は上がりはしなかった。

 左手で、右手を持ち上げ、注視する。

 何時もの自分の手だ。特に異常は無い。その筈なのに、手は動かない。まるで、回路が通って居ない機械の様に、微動だにしない。握り締めようとしても、毛ほども動かないままだ。

 思わず叩き感覚があるか確かめる。

 ──何も、感じなかった。

 額に、暑さによる汗では無い、粘ついた様な脂汗が滲む。

 ガンガンと何度も拳を叩き付ける。……それでも痛さを感じなかった。

 嘘だ……! 動転した様に膝を折り、左手で右腕を動かす祐一。

 

「動け……! 動けよっ……!」

 

 なんだ、これ……。なんだよ、これ!? 突然動かなくなった腕に恐怖を感じた。ついさっきまで、動いていたのだ。感覚も、痛みも感じていたのに、まるで本当は腕が無いかの様に、何も感じなくなった。

 頭の中には、どうして? と言う疑問と、突然訳もわからず動かなくなった右腕への、体の芯から震える恐怖があった。心が恐怖からか、心臓が狂騒する様に落ち着かない。

 現実を認めたくなくて、何度も動かそうとするが、それでもピクリともしない。

 今、祐一は酷く錯乱していた。

 広い沙漠で、一人ぼっち。

 水も、食べ物も、無い。頼りになる相棒も、遠慮なしにいがみ合う相手もいない。

 縋れるのは、たった一枚の小さな羽根のみ。

 そして唐突に、使えて当然と信じて疑っていない腕が、動かなくなったのだ。

 そんな、今にも死んでおかしく無い状況で起きた、不測の事態に、どうしようもなく恐怖が祐一を苛んだ。

 如何に優れた身体能力を持っていたとしても、彼は14歳の子供。

 突発的に起きた、死に直結する事態に冷静に対処出来るほど、彼は成熟していなかった。

 そもそも大人ですら、取り乱す様な状況に、彼は放り出されたのだ。

 錯乱するのも、無理からぬ事でもあった。

 立ち上がり、駆け出そうとして……

 ───倒れ込んだ。

 

「あ……あああ……ああああああああっ!!!」

 

 

 右足が動かない……! まるで言葉を知らない赤ん坊の様に、意味の無い言葉を吐き捨てる。

 顔は、呆けたように口を大きく開け、目には涙が滲む。左手で、何度も何度も、右足を叩く。叩く。

 口一杯に開けた事で、喉が圧迫され、嘔吐感が襲う。

 脳が理解するのを拒否する様に、思考が霞む。

 涙で視界が滲み、何十個もの絵の具をぶちまけたキャンパスの様に、意味の無い景色を映し出す。

 理解出来ない恐怖と、崖を滑り落ちるような絶望感に、神経が狂い、失禁する。股に生暖かい感触が伝う。

 漏れ出した尿が、叩き続ける左手にも伝わるが、祐一は気付きもしない。

 ただ、現実を受け入れられず、壊れた玩具のように、呻いては叩き続けた。

 

 右腕と右足が動かなくなった祐一。

 彼の不調は、パルヴェーズと離れた事にあった。

『駱駝』との死闘で、己の生命力を削り、隔絶した力を手に入れていた祐一だったが、体系化された魔術も無く、洗練された技術や経験を持っている訳でも無い彼は、己の限界や効率の良いやり方を知らなかった。

 ただ後先考えず、精一杯に目の前の敵を倒す事しか考えていなかったのだ。湯水の如く命の泉を枯らし猛り狂った彼は、気付かない内に、もう幾許も生きられない程、弱っていた。

 それでも今の今まで不調も違和感も無く元気に活動できたのは、パルヴェーズのお陰だった。

 パルヴェーズには不思議な力がある。

 傷付いた者を癒し、触れた者に活力を与える力が。隣で旅をしていた祐一もまた、その恩恵を知らぬ間に受け取っていたのだ。

 傷の治りが早かったり、活力が無尽蔵に湧き出たり、精神が安定したり……祐一が過酷な土地でも、大した不調に見舞われず過ごしていたのはパルヴェーズのお陰、とも言えた。

 祐一自身のポテンシャルも十分高い為、一概には言えないが。

 それに加えて壊れてしまったとは言え、パルヴェーズが祐一に加護を与えた事によって彼らの結び付きは強い物となっていた。その影響でパルヴェーズですら無意識の内に、祐一へ快癒の恩寵を与えていたのだ。

 パルヴェーズは薄々とだが「己の力が祐一に流れ込んでいる」と気付いていたが。

 祐一が『駱駝』との戦いの後、休む事無く動き回れた理由はここにある。

 そんなすぐにでも傾きそうな絶妙な均衡状態にあった祐一。

 パルヴェーズが長期間離れ、受容していた恩寵を失った事により、なんとか保っていた均衡が一気に崩れたのだ。

 

 一度崩れた均衡はもう戻せなかった。

 全身に麻酔を打ち続けたまま、致命傷を負い、その痛みに気づかないまま活動していた様なものだ。

 麻酔が切れれば、突然顔を出した痛みに、誰であろうと狂う。

 祐一は、一人ぼっちで、誰も頼れない状況に居た。錯乱して当然だった。

 

「う、ぁ……」

 

 やがて疲れ果てた様に倒れ込み、彼の意識は暗転した。祐一の狂態を、うごめく影は静かに眺めていた。

 

 ○◎●

 

 今、空には太陽が輝いている。まるで天の目だ。目蓋である雲は全く見当たらず快晴の空。全てを見通す眼は、荒野を一人歩く少年を、静かに見つめ続けていた。

 数刻前には、錯乱して失神した祐一。

 それから意識が覚醒した時には、少し理性が戻っていた。

 正気に戻った彼は、己の醜態を思い出し、羞恥と後悔に震えた。弱い自分に怒りさえ沸いたが、溢れる心を抑え込み、羽根を頼りに進み始めた。

 右腕右足が動かなくなり、何時まだ動いている四肢が、動きを止めるのか、判らない。

 その恐怖を「パルヴェーズと会う」と言う欲求でねじ伏せ、再び歩き出した。

 ざ……ざ……ざ……。

 右足を引き摺り、木の棒を杖代わりに歩く祐一の姿。

 目に酷い隈が浮かび、髪や肌にはもう全く艶が無い。

 頬は痩け、浅黒い肌には深い皺が寄り、もう何歳も年を取ったかの様な顔。

 ───死相。祐一の顔には、ありありと死相が、浮かんでいた。

 彼の右手は、死期が近い老人の物と遜色ない。枯木の様に細く、瑞々しさみ無ない。今にも折れそうだ。

 視界に入れたくも無いと、ブレザーを被せ、前を見やる祐一。

 前へ……、前へ……! 

 それでも、前を見据える彼の眼光に、衰えは無い。

 

(俺は、こんな所で立ち止まってられない……!)

 

 祐一の精神は、強くなっていた。

 それは旅を始める前の、彼に比べれば顕著だろう。

 友に拒絶され、全てを投げ出した弱い少年は、もう居ない。

 

 

 それは旅の途中で友を疑った時の、彼に比べれば顕著だろう。

 友を拒絶して、全てを諦め死を望んだ哀れな少年は、もう居ない。

 何度も折れ挫けた心は、再び立ち上がり、より強靭で大きい物となり、木下祐一と言う少年を強くしていた。

 例え、死が迫り、試練を達成する事は出来ないだろう、と判っていても祐一は進む。

 ───力尽きるその時まで、戦い抜く。

 そう固い決意を心に秘めて。

 遠くに見える山は、未だ遠い。

 少しずつだが、穏やかな丘陵地帯は、起伏が増している様にも感じた。

 あと何歩歩けば、あの山脈に辿り着き、パルヴェーズと会えるのだろう……? 

 彼にまた会ったら、まずは謝らなくては……ついでに、置いていったあの馬に、拳骨をくれてやる。

 目的地に着いた時の事を思い描き、歩き続ける祐一。

 祐一は、試練を与えたパルヴェーズと、置いて行ったラクシェに、怒りは沸いたが、憎しむ事は無かった。

 

 そもそも祐一と言う少年は、身内と思った者を憎んだ事は一度も無い。

 憎まれた事が無いのだ。それも当然だろう。

 いがみ合うラクシェも、辛い試練を課したパルヴェーズも、拒絶された友人も、怯える家族も、彼は憎んだ事は無かった。嫉妬、恐怖、怒り、等の感情は抱いた事は否定出来ない。

 それに、憎い……と言う憎悪の感情が、日常生活で馴染みの無い感情である事も、理由の一つでもあったのかも知れない。

 だが、こんな状況に放り込まれ、死が近い状況にあってさえ、祐一は憎む事をしないのだ。

 強い少年だった。

 だがそれは……木下祐一と言う少年の異常性の証明でもあった。

 

 歩いて、歩いて、歩き続けて。

 祐一は、丘陵地帯を完全に抜け、山脈の麓に差し掛かろうとしていた。

 蜃気楼の様に、どれだけ歩いても一向に近づく気配が無かった山は、今では目の前に静かに佇んで居る。

 もう何度、あの山が幻なのか疑ったか分からない。四肢の半分が動かない状態で、良くここまで来れたものだ。

 祐一の喜びは、一入だった。

 目の前に聳える山へ、燃える紅玉が沈む。

 西陽が祐一を穿つが、昼の猛暑を乗り越えた彼にとって、鼻で笑える程、生温い日差しでしか無い。

 今日最後の日光に目を細め、夕日を見る。

 あんなに忌々しく思った太陽が、現金なもので、今では「美しい」とすら思えた。

 祐一は、ここまで来る時の記憶が、酷く曖昧だった。

 気付けばここに居た、と表現すれば良いだろうか。

 

「水……」

「パルヴェーズ……」

「ラクシェ、殴る……」

 

 と、譫言の様に口から漏らし、足を只管動かしていた記憶しか無い。

 後ろを振り向けば、荒涼とした大地に、消えかかっている己の足跡が見える。

 途方も無い距離。

 地平線の彼方の、そのまた遙か先。そんな長い距離を、祐一は踏破して見せた。

 だが、もう限界だ。

 

「はは……」

 

 ───パタッ……。

 祐一は小さく笑い、そのまま力無く地面に倒れ、意識を失った。

 



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真夏の夜の夢

 ───夢を見た。

 

 あの日旅立たず、故郷の地で安らかな日々を送っている夢を。

 拒絶した友人と和解し、家族とも笑い合って、幼馴染み達に感謝を伝えて……そんな誰もが笑っている優しい夢。

 水も蛇口を捻れば出て来て、朝露を舐める必要も無い。食べ物も一声掛け、ただ待っていれば、用意されていて。

 言葉も通じて、帰る家がある。

 沈む夕陽を眺めながら、郷愁に囚われる事も無い。

 学校に行くの、だるいよなぁ。今日の給食、揚げパンだったぞ。おい、何してんだ! 早く行くぞぉ! 

 そんな益体もない事を、友人と駄弁りながら、何となく将来を考え送る日々。危険なんて欠片もない日々。

 幸福で満たされた、ありふれた日常だった。

 なんて素晴らしいのだろう。

 夢は、祐一の中にあった郷愁を慰めてくれた。

 お気に入りの山から見下ろした故郷を、鮮明に映し出し、忘れ掛けていた故郷の風景を、そっと教えてくれる。

 慣れ親しんだ、我が家。子供の頃、良く遊んだ神社。裸足で駆けた畦道。びしょ濡れになって笑いあった小川。どこまで登れるか競った大木。学校の通学路にある駄菓子屋。竹林の中に作った秘密基地。

 波打ち、光を反照する、小さな湖。

 咲き誇り、魅了する、しだれ梅。

 なんて美しいのだろう。

 

 祐一は、気付けば、故郷にある家の前に立っていた。

 彼が14年間過ごした家。初めは白かった外壁も、二十年近い時の流れによって、灰色にくすんでいて。

 窓枠に嵌められた障子は、よく弟と喧嘩するから、新しく張り替えても、一週間と持たなかった。

 庭にある排水溝には、チャンバラで使うお気に入りの棒が隠してあり、子供の頃は良くコレを持って、野山を駆けていた。

 

「祐一! どこに行ってたの! 早く帰って来なさい、今日はアンタの誕生日よ? みんな待ってるんだから! 忘れたの?」

 

 母さんが呼ぶ声が聞こえる。在りし日々の懐かしい声。驚いて、振り向く。

 久しぶりに見る母の顔は笑顔で、帰りが遅い自分を、少し怒っている様にも見えた。

 白髪混じりの癖っ毛。自分の癖っ毛は母から受け継いだものだったと思い出す。

 我が家の紅一点である母の手と肌には、一家をその細腕で支えている事を示すように、皺が目立つ様になっていた。

 だが眼つきは鋭く、気の強さを顕著に表していた。

「祐一! アンタは友達を大切にしなさい! アンタは、一人じゃ、すぐ駄目になるんだから! 母さん、心配で夜も眠れないわ!」ふと、そんな言葉を思い出した。

 耳に蛸ができるほど聞いた、祐一の一番の指針にもなっている言葉だ。

 口うるさいけど、誰よりも家族を愛していた人だった。

 

 ───行かなくちゃ。

 

 母の隣には、父さんが立っていた。

 言葉は無く、静かに佇んで、祐一を見守っている。

 あと数年で齢五十に届く父は、額に深い皺を湛え、口元にはくっきりと、ほうれい線が浮かび上がっている。

 祐一が高身長な様に、彼の父もまた背が高かった。

 老境に入る年頃だったが、それでもシャンと背筋は伸びていて、高身長な祐一よりも、頭一つ高い。

 九州に生まれ九州で育った、生粋の九州男児だが、物腰は柔らかい。

 老眼が酷くなり、最近になって掛け始めた眼鏡の奥には、優しげな瞳があった。

 父さんもまた、口元を吊り上げ、不器用に笑う。

 とても、真面目で不器用な人だった。

 

 ───俺、行かなくちゃ。

 

「祐一兄ちゃん。またどっかに、行っちゃうのかよ?」

 

 弟の声だ。

 まだ声変わりしていない、若さよりも幼さが目立つ声。

 反骨心旺盛で、いつも喧嘩していた弟。

 2つ下で、顔立ちは祐一と似ていないが、目の鋭さはそっくりの少年だった。

 数年前まで、いつも後ろをついて回っていた弟の姿は無い。いつの間にか、自分の選んだ道を歩く様になっていた。

 弟は負けん気が強く、負けず嫌いな所は、祐一に勝るとも劣らない。

 そんな兄弟だから、毎日の様に喧嘩していて、近所でも有名だった。そして喧嘩すれば、決まって祐一が勝つのだ。

 まあ、それが気に入らなかったのだろう。喧嘩で負けた後は、しょっちゅう家を飛び出して、なかなか家に帰ってこなかった。

 そして母さんに拳骨を貰って、お菓子片手に迎えに行くのが、祐一の日課でもあった。

 何だかんだで、よく世話を焼いていた。

 

 ───ああ。また、行くよ。行かなくちゃならないんだ。

 

 祐一は、歩き出した。

 ここが、自分の都合の良い夢だと、気付いていたから。

 ここでは誰もが笑っていて、欲しい物がすぐに手に入る、満たされた世界だ。

 この世界で何も考えず、刹那的な快楽を得る為に、己の使命を忘れ、幸せな日常に耽溺しても良いだろう。

 己の人生なのだから。

 死期が近い彼が、末期の時を享楽的な時間に費やそうと、誰が文句を言うだろうか。それどころか、せめて最後の時くらいは、と誰であっても静かに見守るだろう。

 

 ──それでも祐一は、未練を断ち切る様に進んだ。

 

 全ては、友の約束を果たす為に。

 そう、パルヴェーズとの約束を果たす事だけは、この何でも手に入る夢の中では、手の入らなかった。

 ……いや、夢の中に居るからこそ手に入らないのだ。

 誰もが笑い合う世界。でも、この世界にパルヴェーズは居ない。ここには異国で出会った、旅の相棒は居なかった。

 一度は、信じ切れず拒絶してしまった友。

 あの時は辛かった。まるで体中をロープで縛り、同時に引っ張り引き裂かれる様な痛みと、四肢を失った絶望感で、立ち上がれなかった。

 もう、あんな思いをするのは御免だった。

 祐一の足は止まらず、振り返る事も無かった。

 ただ、心は嵐の如く荒れ狂い、溢れ出る涙を堪えるのに必死で、振り向く事が出来なかった。

 

 運命は、天命は、因果は、何時だって彼を苛んだ。

 

 祐一が凶行を犯さなければ、家出しなければ、あんな事さえしなければ、彼が船に乗る事もなく、数多の災厄に見舞われる事も無かっただろう。

 家族と共に過し、彼の愛する故郷の地で、静かで穏やかな日常を送り、精一杯生き、老いて死んだだろう。

 だが、巡り巡ってやって来た因果は、祐一に災厄と絶望と死を、何度も運んで来た。

 あの日。あの時。大罪を犯してしまった彼は、いつも死と隣合わせにあった。

 船が転覆した事も、過酷な土地に流れ着いた事も、魔物に襲われる事も、因果が彼を敵視し、牙を剥くからだ。

 それでも祐一は、持ち前の前向きさと身体能力、それと、強運で生き残り続けた。

 どれか一つでも間違えれば、死が待っている選択肢の中で、祐一は、正解を引き続けていたのだ。

 例え正解が無くても、自分で正解を作って、時には友に助けてもらって。そうして、なんとかここまで辿り着けた。

 だが、もう限界だった。

 パルヴェーズの助けは無いだろう。彼は、試練や勝負に甘い顔を見せる奴じゃない。確信を持って、そう思える。

 そして、俺は辿り着く事無く……力尽きる。

 確信を持って、そう思った。

 諦めた訳じゃない。冷静に状況を鑑みて、弾き出した結論だった。それでも……

 ───力尽きるまで、進み続けよう。

 

「祐一」

 

 父さんの声が聞こえる。深みのある染み渡る声。

 祐一は、振り向かず進む。

 

「いつか……帰って来いよ。そがん急がんで……よかけん。……お前の足で、帰って来い」

 

 寡黙な父の言葉が、祐一の胸を打つ。

 血が出るほど、唇を噛み締め、涙を堪える。

 ───ごめん。ごめん。

 ───今の俺には、あなた達より大切な人が出来てしまったから……だからもう、あなた達の所には戻れないけれど。

 ───今まで、ありがとう。……さようなら。

 目を覚ます。

 まずは感じたのは、酷い頭痛だった。気怠さと、身動きする度に走る痛みが、祐一を容赦無く襲う。

 目から入る世界の色が、痛む頭には酷く鬱陶しい。思わず目を瞑り、少しでも和らげようとする。だが、今度は痛覚が鮮明になって、頭痛を強く感じ取ってしまった。脳の中に通る太い血管の収縮が、じんじんと痛む。

 頭痛で思わず涙が滲みそうになるが、もう視界が潤む事すらなかった。

 唐突に気付く。喉や腹で暴れ狂う飢餓感を。

 喉の渇きは、変わらない。乾きこびり付いた口は、弱った祐一にとって、開く事すら億劫で疲れるものだった。口の中には、道端の草を根っこごと食べていたからか、泥臭い味がこびり付いていて、吐き気が胃から這い上がる。

 四肢に力を入れ、身体を起こそうとして、出来なかった。身体の半分が動かないのだ。すぐにバランスが崩れ、倒れ込む。

 そもそも、立ち上がれる程の力すらない。

 

(甘えんな……いくぞ……!)

 

 弱った身体は、立つことすら儘ならない。

 だが、身体は動く。這いずる様に左手と左足で、進む。

 這う左手に石が突き刺さり、鋭い痛みが走る。それでも、前へ進む。這いずっているとシャツが破け、腹部をデコボコとした砂礫がひっかいて行く。

 動かない右腕と右足に、感覚が無くて良かった。

 引き摺り、肌を晒す身体は、皮が破け、血が滲み、貪欲な大地が飲み込んでいた。一番傷付いている右腕と右足に、痛みがあれば、さしもの祐一も進むのを躊躇ったかもしれない。

 ただただ、機械の様に動く。親に貰った身体で、前へ進む。

 己の人生が終わる……その時まで、進み続けよう。

 疲れ切り膿んだ顔で、力無く笑う。

 だが目には確かに灯る、光があった。

 祐一の心は、悲しいほどに、強くなっていた。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───ラクシェは気に入らなかった。

 

 気高く、孤高。剛力無双にして、頭脳明晰。

 威風堂々とした姿は、ありとあらゆる同族を押し退け、王者の風格を纏っていた。種の頂きに立つ彼女を前に、数多の同族は家臣の如く、須らく膝をついた。

 人々もまた、惜しみ無い称賛を送った。

 月毛色の体毛は、月明かりに輝けば神々しさを表し、人々はこぞって「神馬」と囃し立てた。

 駆ければ、その魁駆に見合った力強さと、疾風の如き速さを発揮し、比喩では無く本当に千里を駆けて見せるだろう。

 古代中国の時代に現れていたならば、「汗血馬」「天馬」と称され、誰もが欲しては、世を騒がせるほど。

 まさに、並ぶ者なしの名馬である。

 そんなラクシェも、先日生涯で初めて、心からの恐怖を味わった。

『駱駝』である。

 あの破壊の化身が姿を表し、一度咆哮を上げれば、如何に最高位の能力を持つラクシェでさえ、恐慌状態に陥った。

 暴れ狂う『駱駝』。巨駆を誇るラクシェであっても、歯牙にかけない巨大な『駱駝』を止めたのは、なんと己よりも矮躯で下等な「人間」の子供だった。

 強烈な意志を宿し立ち向かう少年の姿は、誰よりも背の高い彼女には、よく見えた。

 そして、鮮烈で、猛々しく、不敵に笑う少年の姿は、ラクシェの脳裏に焼き付いた。

 同時に己が頗る情けなく、少年に対して嫉妬にも似た感情を抱いてしまった。己が、至高であると考えていたラクシェの生涯で、初めて抱いた感情でもあった。

 だが、少年は武運拙く破れ、骸を晒した。

 立ち向かった少年に鼓舞された者達は立ち上がり、魔物へ立ち塞がった。

 それは、ラクシェもまた、例外では無かった。

 迫る『駱駝』。絶体絶命。

 しかし、そこへ、「主」が現れた。

 ラクシェは一目で悟った。己はあの方の役に立つ為に生まれ、尽くし、そして死ぬのだと。

 死闘の幕が開け、遂には、倒れた少年も蘇り、参戦し『駱駝』討ち果たしたのだ。

 気付けば、足が動いていた。彼らと共に行きたい、と身体が勝手に動いていた。

 

 そうして始まった旅は、ラクシェの無味乾燥とした生に嘗て無い程の刺激を与えていた。仕える主を得て、競い合う強者も居る。悪くない時間だった。

 ただ先日の、主の不興を買い怒らせてしまった事は、反省すべきだと思っていた。試練を与えられ成し遂げる事を決意するラクシェ。だが、敵愾心を煽るこの人間と、何かを為すのも素直に肯けなかった。

 だから、試練が始まり、走り去った主を追いかけた。追い縋る人間を振り払って。いい気味だと思った。

 ラクシェには、勝算があった。己の足を持ってすれば、主に追いつけるだろうと。そして追い付けば、あの少年が持つ羽根なんぞ必要は無い、と。

 だが、すぐに気付いた。……追い付けない、と。

 なんて速さ。完全に見失ってしまった。諦め佇むラクシェ。己の足に絶対の自信を持ち、今まで速さでは、無敗だったラクシェにとって、その衝撃は計り知れない程だった。

 仕方無く、主が走り去った方向を目指す。ふと、喉の渇きを自覚し、水を取ろうとして……出来なかった。

 触れようとしても、触れないのだ。まるで靄のように、すかを切るだけ。

 目の前にあるのに、取れない。ひどい生殺しだった。

 主の言葉を思い出し、落胆した様な、仕草を取る。

 苦渋の決断だったが、引き返し人間の方へ向かう事にした。

 ぬけぬけと厚顔に、少年の前に姿を表す事は気位の高いラクシェにとって、到底不可能な事だった。

 歩く人間の遙か後ろで、己の不甲斐なさを呪いながら、ラクシェもまた歩いていた。

 

 そして今、その己に比肩する強者が倒れ伏し、情け無く地を這っている。

 もう余命が幾許もない事は、すぐに分かった。

 認めたく無かった。

 気に入らなかった。

 喉の渇きも、空腹も、屈辱も、羞恥すら忘れ、ただ祐一を睨むように見下ろしていた。

 これまで己と肩を並べ、戦える者など、出会った事は無かった。ましてや、負け知らずの己に土を付ける存在など、皆無だった。

 己に初めて、「嫉妬」や「敗北」を与えた存在。

 ラクシェが初めて得た好敵手とも呼べる存在が、弱り切り、哀れな姿を晒している。

 そんな姿を見ているの者は、己と太陽のみ。それでも、この人間が醜態を晒す事を良しとしたくはなかった。

 死相を浮かべ……しかし眼光は未だ鋭い少年に、近づく。

 どれだけ近づこうとも、少年は気付かない。

 ひたすらに左腕を動かし、這って這って、前に進む。

 ───気に入らない。

 自分が無視されたようで。鋭い眼光には、己では無く、主しか見えていなくて。

 少年は、己の矮小さを、言葉も無く語っているようにも、見えたのだ。

 右脚を振り上げる。

 蹄に少年の服を引っ掛け、すぐ横にあった小岩へ乱暴に立て掛ける。まるで、小枝のような軽さに驚く。思わず乱暴だった動きを改め、壊れ物を扱う様に丁寧に運ぶ。

 意味が解らず、目を白黒させる少年。──いい気味だった。

 見下ろし、鼻を鳴らすラクシェ。

 

「ラ、ラクシェ……か……?」

 

 状況把握が出来ていない愚鈍な人間に向け、もう一度鼻を鳴らす。

 前しか見ず、進み続けた少年は、漸く己をその瞳に捉えた。嘲りの表情を浮かべたラクシェに、ムッと顔をする少年。──いい気味だった。

 水の入った袋を、少年に向け、「取れ」と言わんばかりに差し出す。言わんとする事を察した少年が、凄まじい顰めっ面を浮かべ、諦めたように手を伸ばす。

 どうしようもない程、喉が渇いているのだろう。

 立ち上がれない少年の手は、袋に手が届かず、空を切る。

 白い目を少年に向け、膝を折るラクシェ。

 青筋を浮かべ、顰めっ面が酷くなる少年。

 遂に、袋を手に取り、貪る様に水を鯨飲する少年。

 その姿を、ラクシェは静かに眺めていた。

 どれほど時間が経っただろうか。袋の水が無くなるのでは無いか、と心配になるほど飲み続けていた少年。

 少しだけだが、顔に生気が戻っている。

 不思議な事もあるものだ……。ラクシェは、遠目に見ながら思案した。

 

「ん」

 

 飲み終わった少年が、袋を差し出す。

 

「ん!」

 

 反応を示さないラクシェに向けて、もう一度差し出す少年。

 何故そんな事をするのか分からず、ラクシェは胡乱な目を向けた。

 少年は、心底面白く無さそうな表情を顔に貼り付けて、ぶっきらぼうに言う。

 

「お前も、水、飲んでないんだろ。この袋は、俺しか触れねぇ。ここに水はねぇ! ……なら、飲めよ」

 

 いらない。ラクシェは心の中で、呟く。

 ラクシェもまた喉の渇きは、酷い。焦げ付いたような喉は、息をするのも辛く、唾を飲み込む事さえひと苦労だ。

 余談だが、馬が一日に飲む水の量は多い。おおよそ、二十Lから四十Lの水が必要だ。それに加え、ラクシェは巨駆なのだ。通常の馬がで必要な水量よりも、数倍は必要だろう。喉の渇きは尋常では無いだろう。

 それでも、この人間から何かを受け取る事を、ラクシェのプライドが許さなかった。

 王者であり、無敗を誇った己の人生に、初めて敗北と屈辱……それに、羨ましい、と言う感情を与えた存在に、助けられたくは無かった。

 睨み合う両者。

 意固地になり、反発し合う一人と一匹は、なかなか相手の好意を受け取ろうとしない。頑なであった。

 似た者同士、かも知れぬのう……。

 此処にもし、パルヴェーズが居れば、苦笑しながらそう思うだろう。

 

「……俺だってこんな事したかないけど、お前は俺を助けただろ。俺は、お前に借りを作りたくねぇ。腹立つし……。けど……、仲間を助けるのは、当たり前だ。……だから……飲めよ」

「……」

 

 渋々、と言った様子で口を近づけ、袋の水を飲む。

 最初は、ちびちびと飲んでいたラクシェ。だが、喉渇きが収まらず、気付けば、ゴクゴクと飲み干さんばかりに、口を付けていた。

 ──ぽす……。

 撫でられた様な……そんな痛くも痒くもない感覚が、眉間の痛覚を刺激する。

 そんな、おかしな感覚に、少し驚くラクシェ。

 次いで、水を飲んでいた口を止めては、何か飛んできた方向を見遣る。

 手があった。人間の、か細い手だ。

 聡明でなくとも、すぐに理解した。少年が、ラクシェに拳骨を落としたのだ。

 ラクシェはまた、胡乱な目を少年に向ける。

 少年は、落胆した表情……「至極残念だ」と言う言葉を顔に書き、舌打ちを鳴らしていた。

 

「ちぇっ。力一杯殴ってもこれかよ……。はぁ……まあ、いいや」

 

 ため息を零した少年は、ラクシェの方を見遣り、

 

「おい、ラクシェ。置いて行った事、これで手打ちな。……俺が元気なら、ホントにぶっ飛ばしてたからなっ! 覚えとけよ!」

 ……フンッ! 

「あっ、テメェ! お高く止まりやがって! そう言う所がムカつくんだよ! ちょっとはパルヴェーズを見習えっ! あいつは、確かに偉そうだけどな、めっちゃ優しくて……」

 

 何か雑音が聞こえて仕方が無かったが、ラクシェは全て無視し、袋の水を飲む事に集中する。

 久しぶりに飲む水は、喉の渇きも、もやもやした感情が蟠っていたラクシェの心さえも、癒やしていった。

 

「……まあ。……ありがとよ。これで、また頑張れるからさ。ま、礼は言っとくぞ」

 

 そう言ってまた這って進み始めた少年。もう、四肢のほとんどは動かず、唯一動く左腕で、少しずつ少しずつ進む。

 進んだ後には、黒く濁った血がこびり付いている。引き摺る手足は、かつて己と競った力強さは……無い。

 肉が削げ落ち、剥れそうな皮に角張った骨が浮かび上がっているのみだ。

 ──なんて、醜い姿。

 気位の高いラクシェは、そう思って仕方が無かった。……だが、同時に思う。

 ──頼れ。置いて行った私がそんなにも気に入らないか。

 ラクシェは、そう言葉も無く、心の中で問い掛けた。

 四肢の殆どが動かず、生命を維持する事さえ事欠く少年にを見下ろす。何か、胸から込み上げる様な、抉る様な感情がラクシェを支配した。

 それは、人であれば「悔恨」と表す感であった。

 

「あ、おいっ、何するんだよ!」

 

 気付けば、少年……祐一を、口でつまみ上げていた。

 僅かばかりの抵抗しか出来ない祐一に苛立ちと、己に敗北を与えた好敵手を好きに出来る暗い快感を感じながら、つまみ上げた少年を背に乗せる。

 フンッ! と鼻を鳴らし、歩き出す。

 だがすぐに、背に乗せていた重さが消える。と、一瞬の間を置いて、ドシンッと鈍い音がする。

 

「ふざけんな! 俺は……んぶっ!」

 

 最後まで言わせず、再びつまみ上げ、背に乗せる。

 ──ドシン。

 また、落ちる祐一。苛立った様に、嘶きを上げ、再びつまみ上げる。

 ──ドシン。

 睨み合う両者。

 戦況は、動けない祐一が、圧倒的に不利である。だが、「絶対に、コイツの手は借りん!」と抵抗し続ける。

 だが祐一も頑固なら、ラクシェも頑固だった。

 乗せては、落馬し、乗せては、落馬し……その動作を何度も繰り返す。

 どれほど時間が経っただろうか。やがて祐一は力尽き、意識を失った。

 汚れ塗れの土塗れ、全身に流血の跡が残り血塗れな祐一の姿は、まるで、ギリシアの英雄アキレスに引き摺り回されたヘクトールの如き無惨さである。

 勝者はラクシェ。おそらく、これがラクシェの初勝利ではなかろうか。

 満足した様にラクシェは、大地を踏み締め、歩き出す。そんなラクシェの姿は、どこか上機嫌にも見えた。

 

 試練開始より三日目。

 いがみ合っていた両者は、やっと同じ道を歩き始めたのだった。



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その時聞こえしものは妙なる楽の音なるよ!

「な、なにこれ……?」

 

 石だ。

 そこら辺に落ちてそうな拳大の石が、祐一の目の前にあった。

 ラクシェが持って来たのだ。

 地面に降ろされ、どこかへ行ったラクシェを待っていたのだが、三十分ほど待ち、不安になり始めた頃に彼女が帰って来た。

 その時に持っていたのが、コレだった。

 戸惑う祐一は、思わず、石を持って来たラクシェに問いただす。

 それを受けてラクシェは、顎をしゃくり上げる動作をした。

 食え、と。そう言っているらしい。

 首を振り、震える声で、

 

「ちょ……ちょっと、ラクシェさん……? これを食いなされと申すのかい? ……いやいやっ、無理無理! 腹減ってるけどこんな食ったら、絶対腹壊すって! サーカスに出て来るビックリ人間じゃな……ごはぁあっ!!?」

 

 いい加減、苛立ったラクシェは、己の前足に付いている蹄で器用に石を掴み、祐一の口へ押し込んだ。ラクシェの米神には、太い青筋が浮かんでいるのが、ありありと見える。

 突然、異物を口に入れられ、咳き込む祐一。石のザラリとした感触が、舌を伝う。次いで、泥の乾いた味が口に広がり……あれ? 

 そこで祐一は、はた、と気が付いた。

 しょっぱいぞ……これ……? 口の中にある石を吐き出し、口に残った味覚を確かめる。やっぱり、しょっぱい。

 なにこれ? と言う風に、小首を傾げ、見下ろすラクシェ見る。そして祐一は、今更気付いた。ラクシェもまた、同じ様な石を、口に含んでは、舐めている事に。

 

「あっ……」

 

 そこで祐一は、唐突に思い至った。この石の正体に。

 

「これ、岩塩ってやつか!」

 

 昔観た教育系の番組を思い出す。地殻変動によって海底の土地が押し上げられ、閉じ込められた海水が蒸発する事によって、陸地で結晶化し、岩塩として現れる事があるらしい。

 塩分を取れるのは、ありがたい。祐一は、素直に思った。

 身体の痺れと気怠さは、水を飲んでも無くならない。それに、指や足が吊って、動き難い事この上ない。

 今なら夏場に、塩分を取れ! と言われる理由が良く分かる。

 とは言え、石は石だ。

 なんとも言えない微妙な表情を作り、仕方無しに岩塩を舐める祐一。

 ラクシェもまた祐一の隣で静かに、舐め続けた。

 

 祐一とラクシェ。あれから共に歩みを進め始め、一日が過ぎた。

 今、二人は、羽根の指し示す道を、迷い無く進んでいた。と言っても祐一は動けないので、ラクシェの背に乗ってと言う形であったが……。

 視界一杯に連なる山脈。

 彼らは、二日ほど歩き続けた荒野を抜け、山脈へ差し掛かっていた。

 勾配の激しい坂道を、自慢の健脚で踏破して行くラクシェ。

 落ちないように、唯一動く左手で必死にラクシェへしがみつき、背で揺られる祐一。

 その表情は、もう諦めの境地である。

 情け無くて、投げやりな気持ちになるが、仕方ないか……とため息一つ。

 

(コイツと協力しないと、たどり着けないしな……)

 

 祐一としても、独力で辿り着きたいのが、本当の所ではある。だが、もうこのボロボロの身体で、まともに立つ事すら儘ならない。

 と言うか、ラクシェが許さない。

 馬上を降り、這って進もうとした途端に、襟首を咥えられ、背に放り投げられるのだ。何度も繰り返せば、今度は引き摺られるので、トロイの英雄リターンズである。勘弁しろ。

 そろそろ、本当に死体になるんじゃないか……? 

 二人とも頑固で意地っ張りな為、決着が着かず、行く所まで行かなければ気付かなかった。そこまで行かねば、冷静にはなれなかったのだ。

 そんな状態だから、試練の道のりは遅々として進まず、祐一の身体には生傷が絶えなかっ。

 水を飲み、ラクシェの背で休息を取って、なんとか保っていた己の命脈が尽きようとしている……。何故だ! 

 祐一は、死まであと数歩、と言う所でやっと気付いた。

 そこで遂に諦めがついた祐一が、ラクシェとの停戦協定を結ぶ事と相成ったのである。

 まあ……祐一はかなり不調なので、不平等条約になる事は目に見えていたが、涙を呑んで停戦協定を結んだ。

 こんな死に方は、流石の祐一でも勘弁して欲しかった。

 そんなこんなで、ラクシェの背に乗せられ一日を過ごし、少しは関係が改善した様にも見える、一人と一匹。

 ラクシェは、己の勘とあり余る体力を駆使し進み、祐一は、羽根を使って方向を指し示し、ラクシェのフォローに回った。

 彼女が、喉が渇けば水を与えたし、綺麗好きであったラクシェの毛並みを整えたり……若干、何でこんな事してるんだろう……? と疑問になる時はあったが、彼らの道のりは、概ね順調であった。

 ラクシェは、祐一を置いて行った事に。

 祐一は、現在進行系で助けられている事に。

 どちらも負い目があり、祐一もラクシェも、本気で対立する事に、臆病になっていた。そして、その隙を縫うように、彼らは相手の長所とも言える点を見つけ、次第に態度が軟化していったのだ。

 ラクシェは、祐一と言うお荷物を決して降ろさず、全力で試練に臨み。

 祐一は、半死半生の身体でも諦めず前を向き、そんな過酷な状態であってもラクシェへの世話を焼く。

 そんな姿を見て取っては、両者とも、言葉には出さないが「尊敬」にも似た感情を抱いていた。

 試練前半は死と隣合わせで、辛く厳しいものだった。

 だが、少しは和解し、協力し始めた祐一とラクシェ。まるで厳しい試練が、嘘のように、トントン拍子で進んで行った。

 もう試練は消化試合とも言っていいほど、緊張感がない。もう、終わりが近いのだ。

 

 今は、山脈の中腹近く。彼ら進む道のりは険しい。麓付近ですら激しかった勾配は、更に増し、「峻険な」と形容できるほど。

 両側を切り立った崖に阻まれた道は、谷の奥底を進んでいる様にも思える。

 どこか薄暗く生き物の気配が稀薄な道は、かつて英雄ロスタムが進んだ闇の世界にも似ていた。

 その時だった。

 ───川のせせらぎが聞こえた。

 バッと、勢いよく顔を上げる祐一。今確かに聞いた音を、もう一度聞こうと、耳に手を添える。……間違い無い。

 川が、近い! 

 

「ラクシェ!」

 

 言うが早いか、ラクシェは駆け出した。

 彼女もまた、川のせせらぎが聞こえたのだろう。深い谷底のような、高い壁に阻まれ、細長い道を懸命に走る。

 祐一も、振り落とされない様、必死に耐える。

 流石は駿馬たるラクシェだ。景色が、次々と後ろへ飛んでいく。高速道路を乗り回している様な感覚に、生身の祐一は、流石に肝が冷えた。

 やがて谷に囲まれた細い道を終わりが見えた。遠くに、一筋の光が見えたのだ。谷に阻まれながらも、天から届く光は確かに、薄暗い道を照らし出していた。

 

「突っ切れ! ラクシェ!」

 ───ブルオオォォ! 

 

 言われずとも分かっている! 

 そう言わんばかりに、頼もしく嘶きを上げ、更に加速するラクシェ。

 祐一も必死だ。祐一動く左手を、ラクシェの太い首に回し、しがみつく。振り落とされたら、死ぬ。本当に命懸けだ。

 果たして、一行は、谷を抜けた。

 一瞬、日光で目が眩んだが、それもすぐに治った。

 目を開ける。

 そこには、異世界が広がっていた。

 今まで歩んで来た、無機質で荒涼とした大地では無い。

 生命の息吹が溢れる土地。

 浅い沢が流れ、深緑、鮮緑、若葉色、緑の柔らかい色彩が視界いっぱいに広がる土地だ。

 さらさらと流れる、川のせせらぎ。木の枝からこちらを見る、賑やかな小鳥の囁き。忙しなく動き回る、小さな虫たち。木々の隙間から零れる、木漏れ日。

 そんな不毛の地に生まれ出でた、楽園。

 一目で判った。───ここが終着点なのだと。

 

「着いた……」

 

 万感の思いが、思わず口から漏れ出る。

 試練の前半は、死ななかったのが不思議なくらい、辛く厳しいものだった。今でさえ、左手腕以外動かない状況だ。

 もし、ラクシェが来なかったら……。

 そう思うと、冷や汗が止まらない。

 思わずラクシェの首筋を撫で、言葉にはしないが感謝を伝える。

 フンッ! いつもの鼻息一つ。

 ラクシェは聡明な馬で、今の動作で祐一の言わんとする所を理解した様だ。

 祐一は、そんなラクシェに笑みを零した。

 ラクシェが、足を踏み出す。歩く道は、祐一にとって久しく見なかった、しかし見慣れた草原。ラクシェが歩みを進める度に、草陰に隠れていた虫たちが大騒動で逃げ出して行く。ラクシェは、己の蹄に湿り気を帯びた土が付き、少し不快そうだ。

 やがて、沢に着いた。

 ここが終点だ。そんな言葉が、祐一の心にストンと落ちて来た。

 少し呆気なさを感じなくもなかったが、それでも、ここに辿り着いたのだ。

 感慨浸る祐一だったが、すぐに首っ子を掴まれる感覚に驚き、現実に引き戻された。

 ラクシェが、襟首を掴み、祐一を沢の縁にある手頃な岩に、こちらを慮る所作で置いてくれる。

 

「さんきゅ」

 

 ラクシェに礼を言い、左手を水に浸す。流れる水の冷たさが気持ちが良い。

 手で水を救い、口に運ぶ。冷たい。

 ラクシェの担ぐ袋の水は、熱波に晒され、生ぬるいものだ。こんな冷水なんて望むべくもなかった。

 ラクシェと共に、貪る様に水を飲む。身体に……乾き切った大地に慈雨が降るが如く、渇きを潤して行く。

 両手で水を救い、もっともっと、と掬い飲み干す。

 うん……? 両手……? 

 

「あれ……右手が動く……」

 

 いつの間にか、手が動いていた。握っては開き、握っては開きを繰り返す。痛覚も戻って来ている様で、擦り剥いた場所から、ピリピリとした痛みが広がる。

 常なら顔を顰める事。だが、今の祐一には、涙が出るほど嬉しい事だった。

 思わず、両手を天に突き上げ、荒ぶるプラトーンのポーズを取る祐一。

 

「動く! 動くぞおお!!」

 

 足にも、上半身から伝わる様に、痛覚が広がっていく。痛みがまた、祐一を苛むが全く気にならない。

 両足で立つ。

 久しく見なかった。己の四肢で立ち、世界を見渡す感覚。

 

「はは。わはは。はははははっ!」

 

 欣喜雀躍とした風に小踊りする。

 拗ねていた十年来の相棒を動かし、一気に跳躍。天に伸びる木々を飛び越える大跳躍だった。

 ひたすらに愉快だった。

 轟音を立て、着地する。近くで驚いた様に、こちらを見ていたラクシェの背に乗り移り感謝を伝える。

 鬱陶しい、と言う風に身体を揺らすラクシェ。

 ボチャンッ! 落馬し、川に落下する祐一だったが、笑いが止まらない。ただ、ひたすらに愉快だった。

 ふと楽の音が聞こえた。

 それは、誰かが奏でる音色だった。どこかで聞きたような旋律。

 笑いを収め、祐一はラクシェに目配せ一つ。理知的な彼女は、直ぐに察してくれた。

 祐一とラクシェは、肩を並べ歩いて行く。

 美しい景色。

 白く光沢のある木々の枝には、日光を浴び、青々と緑の葉が繁っている。こんなにも緑の多い景色は久しぶりで、目が眩みそうだ。

 その生い茂る葉からは、黄色い果実が覗き見える。まるで、神話に出てくる黄金の林檎や蟠桃会に饗される蟠桃を思い起こさせた。

 陽光が眩しい。木々から覗く光は、天へと続く階段にも見えて。

 ここが楽園に見えて仕方が無い。そこかしこに幻想的な景色が広がり、人を惑わせる精霊が居てもおかしくない……そんな場所。

 普通なら目移りして、中々先に進めないだろう景色。

 だが祐一は、一心不乱に旋律の響く場所へ、迷い無く歩を勧めた。

 一歩、一歩、草木の生える大地を踏み締め、前に。ラクシェもまた、祐一の少し後ろを静かに歩く。

 誰もが、言葉もなく、歩き続けた。どこに行くか……なんて、分かりきっていたから。

 

 そして、辿り着く。

 少し拓けた場所に、彼は居た。

 木々が取り囲み、小川が流れる場所。

 その、ほとりにある、程良い大きさの石に、彼は腰掛けていた。

 瞑目したまま、葉っぱを口に当て、美しいメロディを奏でている。

 

「───よう。久しぶり」

 

 片手を上げ、祐一は声を掛けた。

 短い言葉。

 だがその言葉は、億万もの歓喜で埋め尽くされていた。

 この試練で、死を覚悟していた祐一にとって、望外の喜び。欠片も届かない、と思っていた夢に、手が届いた様な眩しい感情が荒れ狂った。

 彼……パルヴェーズは、目を開けては、吹いていた草笛を止め、微笑んだ。慈しむ様な、笑み。試練をくぐり抜けた者達を、称える温かなもの。

 とても、美しい笑みだった。

 これまで見た中で「一番美しい」と感じたかも知れない。

 祐一もまた、底抜けに明るい笑みで応えた。

 

「先ずはよくやった、と言っておこうかのう。我が、課した試練、良くぞ成し遂げた。ここに千の称賛を送ろう」

「へへ。そんなん、いらねーよ」

 

 少し笑い、呆れ気味に言い放つ祐一。次いで、確かめたかった事を、パルヴェーズに問い質す。

 

「……なあ、パルヴェーズ。お前、俺の身体の事……知ってたのか? だから、それを俺に判らせる為に、あんな試練を?」

「……うむ。おぬしがどの様な状況にあり、この試練でどの様になるのか。全て分かっておった。……我を恨んでも、構わぬ。我もまた、謝りもせぬ。ただ、おぬしがどれほど危険な状態にあるか、知っておいて欲しかっただけじゃ」

「見くびんな。お前が、何も考えなしに、こんな事する筈ねぇ。そんな事、分かってたさ。ま、辛かっけど、悪い旅じゃなかったしさ……。こいつと少しは、分かりあえたし、な」

 

 祐一は、そう言うと笑顔のまま歩き出す。

 いつの間にかパルヴェーズに傅いて居たラクシェに近づき、首筋を撫でる。試練を共にした相棒、ラクシェは無反応だ。

 それだけの事。

 だがパルヴェーズは、「ほう」と漏らし、笑う。

 輪を囲む形となった、奇妙な一行。

 誰もが満ち足りた雰囲気を醸し出している。

 

「俺は、冗談抜きに、お前なしじゃ、生きられない。なら、俺はお前の使命を最後まで見届けてやる。……そんで、それからも旅を続けよう、パルヴェーズ」

「……後悔せぬか? その道は、数多の誉れ高き戦士ですら投げ出すほどの、辛い道じゃ。我もおぬしを守れるかわからぬ。野垂れ死んでも、不思議ではないのだぞ……」

 

「───パルヴェーズ」

 

 祐一は、パルヴェーズの言葉に、彼の言葉を呼ぶ事で応えた。

 拳を握り、そして……

 

「──俺は、やるぞ」

 

 パルヴェーズは、目を瞠った。

 彼は、気圧されてしまったのだ。人より遥か上位の位階にいる、パルヴェーズが。

 その彼が気圧されるほどの……熱。近付くだけでも、火傷しそうな……そんな、身を焦がすほどの熱量。

 

 それを感じたパルヴェーズは、深く瞑目し、

 次いで目を見開き、強く頷いた。

 ラクシェは、眩しそうな物を見る様に目を細め、顔を空に突き上げ、大きくな鼻を鳴らした。

 

 試練は終わった。

 さあ、次に目指すは、西にある大きな街。

 名も、場所も、人も、向かう先に待つ街の何一つも知らず、ただ思うままに進む一行。

 例え、この先に艱難辛苦の、茨の道が待ち受けていようと、彼らは迷うわず突き進むだろう。

 ちぐはぐで、同じ境遇、同じ故郷、そもそも同じ種族の者すらいない……ヘンテコな旅の一団。

 

 だが、彼らの間には、確かな笑顔があった。

 

 



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見上げた理想が地に落ちようと

「あと半日、と言った所かのう」

 

 明朝。出発する際にパルヴェーズが放った言葉だった。すでにあの試練から夜が明け二日ほどの時間が経っていた。

 穏やかな朝だった。試練の時の様な、今日一日を生き延びれるか、悩まなくても良い、いつも通りの朝。

 そんな朝を迎え数刻が過ぎた頃。もう彼らは、出発しようとしていた。

 朝っぱらから、元気な祐一。

 試練中の不調なんて感じさせない動きで、祐一はそこかしこを跳び回り、四肢が動く! という喜びを全身で表していた。

 試練開始前よりも数段調子が上がっているようにも見えて、今の祐一は絶好調である。

 対し、ラクシェは、仏頂面だ。

 今まで好き勝手に出来た好敵手が、元気を取り戻し、己の手から離れてしまった事が気に入らないのだ。

 ラクシェは、聡明な馬ではあるが、まだまだ感情の制御と言う物が未熟である。

 そんな訳で、試練の最中は、協力しあっていた一人と一匹だが、試練が終わり、停戦協定が破棄され事により、冷戦期を迎えていた。

 停戦協定の更新はなかった様だ。

 

 話は戻る。

 どう言う意味か分からず、頭にはてなマークを浮かべた祐一が、ラクシェに乗り込みながらパルヴェーズに問い掛ける。

 

「半日?」

「うむ 。あとどれ程も掛からず……化身の居る街に着く、と言う事じゃ」

「マジか……!」

 

 思わず拳を握る。

 いつも突発的に現れては、祐一達を苦しめてきた化身達。

 だが、今回は違う。

 こちらから化身の居る場所へ出向き、鉾を交える。攻めの一手だ。

『駱駝』が現れた時のような、突然現れ、人々に被害が出る戦いを、防げるかも知れない。

 数多居る、化身。

 そのどれが待ち受けているのか、欠片も予想出来ないが、全力で戦い抜く。

 祐一は、握り締めた拳を左胸へ持って行く。迸る決意と爆発しそうな激情を抑える様に。

『強風』『山羊』『雄牛』……洋上にて邂逅し、それから何度も祐一を翻弄し続けた化身達。何も知らず、何も判らず、何も出来ず、ただ惑っては隣を歩く友に、知らず助けて貰っていた。

『駱駝』……迷い、恐れ、震えながらも、己の意志で立ち向かった、初めての化身。一度は倒れたが、友と力を合わせ、初めて倒す事ができた。

 一歩、一歩、進んで居る。

 牛歩の歩みだとしても、友に手を引かれながら、しっかりと。

 そして、ここまで来た。ならば、次は……。

 勝てるかどうか、まだ分からない。だが、必ず勝つ。

 

「勝つぞ、パルヴェーズ。俺とお前なら、やれる」

 

 短い言葉。だが、その言葉には絶対不変の決意と、これまでの旅を確かに乗り越えて来た、と言う「重み」があった。

 

「ふふ」

 

 パルヴェーズは心せず微笑む。

 ああ、この少年のなんと気持ち良い事か。

 何度も挫け、倒れながらも、その度に立ち上がり、共に歩んで来た、我が旅の侶伴。

 頑迷固陋なまでに勝利を求め諦めない、我が愛し子たる戦士。

 友の約束を果たす為、強大な化身に立ち向かい、偉業を成した、我が最愛の友。

 いくつもの顔を見せ、戸惑い、挫けながらも、前に進む姿は、パルヴェーズをこの上なく喜ばせた。

 超越者である、パルヴェーズ。

 後ろで見守っていたはずのパルヴェーズでさえ、いつの間にか隣に立ち、共に道を歩みようになっていた。

 

「行こうぜ! パルヴェーズ、ラクシェ!」

 

 街を出て、一週間ほど。

 手綱を引く手も、少しは様になった祐一が、声を掛ける。

 パルヴェーズは、同意する様に頷き、ラクシェは指図するな、と鼻を鳴らす。

 そんな、何時もの光景。

 それを目に収めながら浮かべた笑みを更に深め、化身の待つ街へ進んだ。

 

 

 ○◎●

 

 

「ほう。以前、おぬしと伍すると言っていた者は、それほどか」

 

 出発して、一時間ほど。

 二人は馬上にあり、ラクシェに揺られていた。一時間もすれば、気を最大限に引き締めていた祐一でも、流石に集中力が持たず、気を利かせて話し掛けて来たパルヴェーズと話し込んでいた。

 天気、風景、イランの風俗、祐一の昔話、パルヴェーズの説法……話題は多岐に渡り、二人も常ならず舌が回っていた。ラクシェもまた、話せないものの、愉快気な話し声に耳を傾けていた。

 そんな、決戦前とは思えない弛緩した、しかし、一行の誰もが気の緩みなど一切ない、程良い緊張感に包まれた状態であった。

 

「おう! まぁ今でこそ仲良いけど、昔はみんな「俺が一番強い!」って思ってる奴らばっかだったからな。昔は良く喧嘩したなぁ……。

 はは。ヒートアップし過ぎて、流血沙汰なんて何時もの事だぜ。俺だって、頭ぶっ叩かれて、何針か縫った事あるぜ。まっ、その仕返しに顎に一発、強いヤツ見舞ってやったりしたけどな」

「はは。なんとも血気盛んな若者たちじゃのう。ふむ、なるほどのう。おぬしほど、逸脱した肉体を持つ者が、驕らずに居れた理由が理解できたわ」

「え? ……なに言ってんだよ。俺ほど、自分に自信あるやつなんて居ないぜ? 常に俺が一番強いって、信じてるからな」

「ふふ。そう言う事ではない。おぬしほど、能力に恵まれて居るならば、驕り高ぶるのが必定。しかし、おぬしは競合する友のおかげで、己への自信はあれど、過剰な慢心は見当たらぬ。なるほど、おぬしの故郷とは、よほど良き環境なのであろう」

「そりゃそうさ。みんな強えし、追い越したと思ったら、すぐ横に居る……。そんな奴らばっかだ。油断なんて出来るもんか。ふっ……まあでも、最終的に俺がNo.1って事で決着したけどなぁっ!!!」

 

 髪を掻き上げ、さらりと言い放つ。

 今の祐一は、パルヴェーズがこれまで見て来た中で、最高のドヤ顔である。

 

「ふふ。それにしても、おぬしと同格の者たちか。中々に面白そうな友人たちじゃのう。おぬしの故郷を訪ねる事があれば、会ってみたいものよ」

「ああ。パルヴェーズの使命が終わったら、いつか行こうぜ! まだまだ、旅は長いんだからさ! 次に着く街で、サクッと化身倒して、進みまくろうぜ!」

「旅は長い、か。うむ、そうじゃのう。ならば、この使命を終わらせ、真に自由の身になれば、おぬしの生国に立ち寄るのも悪くはないのう」

 

 そう言うパルヴェーズは、少しは寂しげに見えた気がした。だが、すぐに元のパルヴェーズに戻ったので、「気の所為か……」と祐一は流した。

 ────そこで、何かを見つけた。とある方向を指差し、パルヴェーズに声を掛ける祐一。

 

「おい、パルヴェーズ。あれ見ろよ。鹿が怪我してるぞ」

「うん? おお、力弱き者が……痛ましい事じゃ」

「助けに行こうぜ、パルヴェーズ。前みたいにさ。お前が触ってやればすぐに治るし、偶にやったって罰は当たらねぇぜ」

 

 祐一は、お気楽そうにカラカラと笑う。

 何時もなら、パルヴェーズが肯って、治療のため駆け寄って行く流れ。そう、旅を初めてからずっと続けて来た事だった。

 だが……

 

「───ならぬ」

 

 パルヴェーズは、頷かなかった。

 

「え?」

 

 困惑した。

 頭をガツンと、石塊で叩かれた様な衝撃。吐き出す言葉も、面白みの無い、間抜けたものしか出なかった。

 信じられず、問い掛ける。

 何故? と……。

 

「忘れたのか、小僧? 我らは、今、戦場に向かっておるのじゃぞ。それも、このペルシャの地、その存亡を掛けた聖戦じゃ。それを、定命の者どもの治癒などと言う些事で時間を浪費する訳にはいかぬ。更に言えば、我の力もまた、浪費する訳にもいかぬのじゃ」

「……は」

 

 

 祐一は、信じられなかった。脳が理解を拒絶する。

 困惑はどんどん、深くなっていく。底のない泥沼に嵌った様で、もがけばもがくほど、沈んで行く。絡み取られていく。ふり向いてパルヴェーズを、見る。

 彼は───笑っていた。

 非人間的な笑み。その笑みは、祐一がいつの日か、美術の教科書に載っていた弥勒菩薩を想起させた。

 パルヴェーズとその仏像に、なんの関係も思い至らないのに、「似ている」と思ってしまった。

 そう。

 それほど、今のパルヴェーズの笑みは、無機質で、造り物地味たものだった。

 いつの時か感じた、違和感が膨らむ。

 バンダレ・アッバースを出てから、何度か感じた違和感が、決戦を前にした今になって、肥大化して止まらない。

 ───疑うな! 

 祐一は叩きつける様に、自分へ一喝する。

 友と決別した苦い記憶が、己の罪を突き付ける様に浮かび上がる。

 もう、あんな思いは、死んでもゴメンだ。祐一の心は、友と別れた時を思い出す度に、膿んだ患部の如く、ジクジクと苛む。

 こんな思いは、嫌だ。

 だから、俺は……

 

 

 ───突然の出来事だった。

 

 

 地平線の彼方から、一筋の光明が見えた。

 ジェット機が真上を過ぎ去る様な、劈く轟音と共に、巨大な何かが、目にも止まらぬ速さで横切った。

 誰も、動けなかった。

 パルヴェーズの声に、凍り付いていた祐一も、

 そんな祐一を、静かに見ていたパルヴェーズも、

 誰も、動けなかった。

 

 そう。───前を見据えていた、ラクシェを除いて。

 

 



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掲げた希望は……

 ───ラクシェは、気に入らなかった。

 

 敬愛すべき主の寵愛を一身に受ける少年の存在が。

 主の第一の臣下たる私こそが、寵愛を受け、主の無聊を慰め、そして殉死するに相応しいのだ。

 そう思って憚らない。

 だが、現実は違う。

 主の側には、あの生意気な人間がいつも付いて回り、へらへら笑っているのだ。

 許せない……! そう、ラクシェは憤る。

 その感情は嫉妬すら越え憎しみと言い換えても良いかも知れない。

 確かにあの少年とは、あの試練で協力しあった。

 だが一時的な物で、試練が終われば元通り。

 いがみ合う、以前の関係に戻ると信じて疑っていなかった。

 だがそうはならなかった。

 あの少年は試練が終わっても近付いて来た。どれだけ素っ気無くしようと、構わず話し掛けて、こちらの反応を伺っていた。

 鬱陶しい事この上ない。

 主が居なければさっさと縁を切り、遥か彼方へ走り去っていると言うのに。

 ラクシェはそう思って憚らなかったが、結局拒絶しようともしなかった。ラクシェもまた、祐一の事を少しは気に入っていたのだ。

 己に敗北を与えた好敵手たる強い存在を。

 どれほど不運に塗れようと憎悪を向けない純粋な存在を。

 己と旅をし色付いた世界に引き込んだ存在を。

 

 

 ラクシェは気に入っていたのだ。

 

 そう、───己の命を賭して、庇おうとするくらいには。

 

 

 気付けば、身体が勝手に動いていた。

 背の主と友は、動けずに居るのが判ったから。

 動けるのは、己しか居なかったから。

 そんな思考を巡らすより速く、迫る死の予感に身を踊らせていた。

 魂を収奪する死神から、守る様に。

 逃れ得ぬ脅威から、身を挺し庇う様に。

 ラクシェは、その巨躯をもって、猛った。

 背に乗せる仲間を守る為に。

 次いで感じたのは、首から尾までの間を、何か鋭い物が駆け抜けた感覚だった。鋭い物は、己の誇る強靭な肉体を、産まれたての赤子の肌でも切るかの如く、容易く切り捨てた。

 一瞬、感覚が白く濁った。次いで、炉で鍛え、まだ赤々と赤熱する刃を身体へ差し込んだ感覚。

 四肢の神経が寸断され、痛覚が、けたたましく叫ぶ。

 神速で切り捨てられた四肢が、弾け飛びそうになるが、力一杯ふん縛り堪える。

 力を込めた事により、血が間欠泉の様に出る。

 それを横目で見つつ、前へ、前へ歩を進める。

 

 ───ッ! ───ッ! 

 

 鬱陶しい。

 背で、何か叫び声が聞こえるが無視する。

 もう、主の姿は、無い。

 何度も繰り返し強襲する敵へ、応戦している様だ。

 だが命を賜った。最初で、最後の命。

『小僧を、頼む』と。

 おお! 望外の幸せ! なんとしてでも、叶えなくては! 

 主の命がため、我が身命を賭して! 

 ならば私は……少し先に見える、身を隠せるほどの岩まで、背の友を運ぶ。

 それが、己に託された使命だ。

 ぐらり。

 意識が薄れかけ、脚が縺れた。情けなく、頭から地面に倒れ込みそうになる。

 

 寸での所で、耐える。

 背の声は、何を言っているのか分からないが、酷く鬱陶しく、五月蝿い。

 黙らせる為にも、速くあそこに着かなくては。

 四肢に力を込め、立ち上がる。裂けかけていた腹袋が破け、ドシャドシャと、血と臓物が溢れる。激痛に意識が、明滅する。

 

 それでも、脚は、動くから。

『仲間を助けるのは、当たり前だ』

 

 そう言った少年の言葉に従うようで、酷く尺ではあったが、「フンッ!」と鼻を鳴らし、また前へ踏み出す。

 私は、お前の言った言葉を、実行しているだけだ。

 文句を言いたいなら、あの時、私に水を渡した過去の自分に言え。

 そんな子供っぽい幼稚な考えで、突き進む己の、なんと滑稽な事か。

 そんな考えをしていると判れば、あの少年は、馬鹿野郎と怒るだろうか。

 主は、呆れた様に笑ってくれるだろうか。

 

 目が霞む。

 もう視界には、何も映らない。虚無の世界が広がっているばかりだ。

 それでも、あと何歩進めば辿り着けるかは、覚えていたから。

 主の命を果たさねばならなかったから。

 背の友を、死なせたくなかったから。

 

 だから私は、最後まで進む、のみ。

 

 一歩、一歩、進むごとに、己が生涯の情景が流れていく。

 産まれ出て数年。讃えられ、崇められさえした日々。輝かしき、栄光の日々。

 ───しかし、色の無い日々だった。

 だが、あの少年……祐一と、主が現れてから、全てが色付いた。

 薔薇色。黄金。虹色。そんな、ちゃちな色では無い。もっと美しい色に彩られた、尊き日々。

 これ以上、望むべくもない。

 

 ───そして今、最初で最後の命を受けた。

 

 何という、幸運。

 私の無価値な生にも、唯一無二の価値が出来たのだ。

 

 

 ならば……。

 

 

 身命を……賭して……。

 

 

 叶……え……ね…………ば……。

 

 

 

「おーい、ラクシェー! 何やってんだよ! 置いて行っちまうぞー!」

 

 声が聞こえた。

 ここ最近、毎日鬱陶しいほど聞いていた声。いつもいつも、私の耳元で叫んでは、振り払っていた。

 だが、嫌いではなかった。

 

「ははーん? もう、バテたんだな? ははは。ラクシェとも、あろう奴が情けねぇなぁ。おら、おぶってやろう。背中貸してやるぞ! ほれほれー!」

 

 無礼な! 私を馬鹿にするとはいい度胸だっ! 今すぐ素っ首落としてくれるっ! 

 

「やーい! 怒りん坊ラクシェがキレたぞ! 逃げろ逃げろっ!」

「騒がしいのう。おぬしら」

「おっ、パルヴェーズ」

 

 主! 聞いてください! この者が……

 

「ふふ。まあ、よいではないか。何時もの事じゃろう? ……それより、旅を続けねばの。急がねばならぬのでな……」

「だってさ。ほら、さっさと行こうぜ」

 

 そう言って、二人は歩き出した。

 私も……行こう。

 脚を踏み出そうとする。……だと言うのに、脚が動いてくれない。まるで、肉体なんて最初っから無かった様な……。

 今さっきまで、動いてた口も動かない。まるで、固く閉ざされた扉のよう。

 待って! そんな簡単な言葉さえ、出せない。

 視界が霞む。主たちが居た景色は、深い霧に溶けて行く。意識が……遠のいて行く……。

 

 置いて……行かないで……。

 私……を……ひとり……に…………。

 掠れ行く意識の中、ラクシェは哀しみに濡れながら、思う。

 

 たが、そんな意識を掬い上げる様な声が、聴こえた。

 

 

「さぁ……行こうぜ。ラクシェ……」

 

 

 ───少年が、見えた気がした。

 傷付き、今にも倒れそうで……。

 少年……祐一の、笑う様な……泣いている様な横顔。

 そして、固い決意を秘めた声が、耳朶を叩く。

 

 ああ。共に……。

 

 ───それがラクシェの、最期の記憶だった。

 

 

「───ラクシェエエエエエッ!!!」

 

 祐一の慟哭が響く。

 祐一は跪き、ラクシェに縋り付いては、喉よ裂けよと叫ぶ。

 後悔が。

 ……思いが、溢れる。

 

 ──お前を、まだ、上手く乗りこなせていないのに……! 

 何度も、何度も、ラクシェに振り落され、落馬した。

 

 ──お前に、まだ、助けて貰った恩を返してないのに……! 

 俺はあの時、お前に助けて貰わなければ死んでいた。

 

 ──お前と、まだ、何も判り合っていないじゃないか……! 

 いつもいつも、いがみ合って、歩み寄ろうとした時には……もう遅かった。

 

 祐一の胸中は、後悔で埋め尽くされた。

 どうする事も出来ず、泣き叫ぶのみ。仲間と思っていた者の死は、若い祐一にとって、初めての事で……。

 ただ、ただ、戸惑い、泣き叫ぶ事しか出来なかった。

 

「小僧! 無事か!」

 

 後ろから、聞いた事の無い切羽詰まったパルヴェーズの声が聴こえた。今さっきまで、争っていた化身の気配が無い。彼が、どうにか退けたようだ。

 しかしその対価は重く、パルヴェーズにも、左肩から腹部にかけ裂傷が走っていた。

 はっ、と祐一は顔を上げ、パルヴェーズの方を向く。

 

「パ、パルヴェーズ! ……ラクシェが! ラクシェが死にそうなんだ! 早く、早く助けてやってくれよ!!」

 

 祐一は、懇願した。

 あの奇跡を起こせるパルヴェーズなら、倒れ伏したラクシェでも、助けられるはずだ。

 そう思って祐一は、パルヴェーズの外套の端を握り締め、頼み込む。

 だがパルヴェーズは目を伏せ、首を振るのみだった。

 うそだ! うそだ! パルヴェーズが出来ない訳無い! 

 子供が癇癪を起こした様な、怒りにも似た感情が沸き上がる。

 でも祐一には、その感情を、言葉にする事が出来なかった。

 祐一も、判っていたのだ。

 血溜まりに沈むラクシェは……共に大地を駆けた仲間は、もう逝ってしまったのだと。

 ただ、その現実が余りに受け入れ難くて。

 永遠の別れ……そんな物は初めてで。

 そして、何も出来なかった己が情けなさ過ぎて。

 

 ただ、拒絶するように、泣き叫んで居ただけだった。

 パルヴェーズはラクシェの側へ、外套に血が付くのも構わず、膝をついた。

 そして、ラクシェの瞳孔の開いた目を見詰め、感謝を伝えると、労る様にラクシェの目蓋を閉じた。

 スッと、立ち上がったパルヴェーズ。そこには、死者を弔う陰のある表情は無い。これより行われる激戦に備え、闘志を充溢させる戦士の表情があった。

 祐一の如く、仲間の死に戸惑い、悲しみに暮れた顔では無い。彼は正しく「戦士」であった。

 

「小僧、おぬしは逃げよ。今は手傷を負い、退いているが、あの化身もまた、戦場での不死性を持っておる。そうそう死にはせぬ。然程時間も掛からず襲って来るじゃろう……。今のうちじゃ逃げよ」

「いやだ!!」

「……ならぬ! 今のおぬしに、何が出来る? 仲間が倒れ、心乱れ、心眼も使えぬおぬしが、化身を相手取って戦えるとは思えぬ! ここは、引け! 小僧!」

「なんでだよっ! なんでそんな事、言うんだよ!! ラクシェが! ラクシェが殺られたんだぞっ!! 仲間が……! それなのに、仇を取っちゃいけねぇのかよっ!!?」

「違う! そうではない! 数多の戦場を見てきた我には、分かるのじゃ! 今のおぬしでは、武運拙く何も出来ず、果てるのみ! 冷静さ欠いたおぬしなど、あの化身の相手では無い! ここは聞き分けよ、小僧!」

「ふざけんな! 俺は、あいつの……!」

 

 

 ───突然の出来事だった。

 

 

 ───燦めく。

 虚空に、光が生まれた。

 

 見れば、それは一つだけでは、無い。

 十や百は優に越え、幾千、幾万にも及ばんとする数。

 まだ太陽が燦々と輝く真っ昼間だと言うのに、この空間だけ夜空の星空が現われたかのよう。

 

 ───。 ───。

 

 声が、聞こえる。英雄譚を朗々と謳い上げるような。記された歴史を淡々と語り上げるような。犯してきた罪科を糾弾するような。

 何の言語なのかも、何の話なのかも、解らなかったが、祐一にはその声が酷く恐ろしく、鋭い物に聞こえて仕方が無かった。

 

 なんだ、これ……。

 祐一に疑問が湧くと同時に、パルヴェーズの驚愕した声が鼓膜を叩く。

 

「──『戦士』の化身じゃと!?」

 

 祐一は、少なからず驚いた。

 いつも、泰然自若としたパルヴェーズ。そのパルヴェーズの、焦燥感に満ちた声なんて、聞いた事がない。

 それほどまでに、パルヴェーズの声音は、余裕のないものだった。

 祐一は、ここに至って、やっと冷静になれた。

 パルヴェーズの言葉は、頭に血が登っていた祐一には、冷水に等しく、聞いた側から、正気に戻すほどの衝撃を与えた。

 最初に現れた化身の比ではない。

 絶体絶命。

 正に、焦眉の急を告げるに等しい事態だと、理解したのだ。

 

 ───ドスンッ……! 

 

 足音が、聞こえた。

 巨体を誇る者特有の、大地を揺らす振動と共に聞こえる音。威風堂々とした姿を思い起こさせる音。

 ああ。仲間であれば、どれほど心強かっただろう。

 ああ。聞こえる足音の、なんと恐ろしい事だろう。

 祐一の胸中は、絶望に占められそうだった。

『強風』『山羊』『雄牛』『駱駝』。

 今まで邂逅した化身達と、まるで気配が、違う。あの化身達は獣の如く本能的で、猛り狂う厄災の如き恐ろしさがあった。

 

 だが今回感じる気配は、違う。

 まるで『剣』だ。石から産まれ、業火にて鍛え上げられた……数多の難敵を調伏する『剣』。

 そんな恐ろしい気配を、ひしひしと感じながらも。

 だがそれでも、勇気を出して、顔を上げる。

 とある方角を睨むパルヴェーズの、視線を追う。

 そして、見た。

 

 大地を踏み締め、進む……───巨人の姿を。

 

 その姿は、筋骨隆々とした勇ましき戦士。

 背丈は、見上げるほど。そこらの木々なんぞより、ずっと高い。

 魁躯を誇り、眩く輝かんばかりの戦士だ。

 光り輝く黄金の鎧で、全身を包み込んでいる。だが、その分厚い鎧からでも隠し切れない、赤銅色の肉体が、彼の力強さを、この上なく物語っていた。

 手には何も持っていない。

 しかし代わりに、あの戦士が身を包む鎧の様な……黄金の光球が空に散りばめられている。

 その光の、なんと恐ろしい事か。

 頭部には、これまた黄金の兜を被り、赤々と烈火の如く紅い巻毛の髪が覗く。

 戦士の容貌は、面貌の如く顔を覆い尽くす兜で伺い取れないが、こちらを射竦める視線はハッキリ感じ取れて、祐一は動けなくなってしまった。

 

 その時だった。

 ──グンッ! 何か強い力で引っ張られた。

 

 ───斬ッ!  その瞬間、今さっきまで、居た場所を鋭い真空刃が駆け抜けた! 

 じっとりと、冷や汗が滲む。

 最初、何が起こったか理解出来なかった。だが、すぐに思い至る。あれはラクシェの仇だ! と。

 だが、祐一が行動を起こすより早く、祐一を引いた手は、彼を離さず何処かへ駆け出した。

 

 驚いて、引っ張られた方向を見遣る祐一。

 その手は、パルヴェーズの手だった。

 あの彼が……負けず嫌いで、己を勝利の化身と言って憚らない彼が、戦場から背を向け、遁走していた。

 呆然とする、祐一を連れて。

 思わず、パルヴェーズを見る。

 なんで……? そんな疑問の言葉を投げ掛けようとして、閉口した。

 ──その横顔が、余りにも寂しそうだったから。

 

「小僧。これより、おぬしを強風の権能で街へ送り届ける。おぬしは先に、街で待っておれ」

「は……? ……な、何言ってんだよ、パルヴェーズ……!」

「ふふ。なぁに、心配する事は無い。我の強さは、おぬしがよく知っておろう? 

 ──友を信じよ」

「うそだ!! お前、最初の化身との戦いで怪我してんだろ!? 俺、なんとなく判るんだ! お前が今、どれだけ苦境に立ってるのかも!」

 

 パルヴェーズは、微笑む。

 アルカイックスマイルでも、仏像のような神々しい笑みでは無い。

 何時も笑い合っていた、祐一の大好きな笑顔で。

 

「おぬしと出会えた事、全ての因果に感謝しよう。おぬしと出会わなければ、ただ流れる月日を無為に過ごし、迫りくるものに呑まれるだけであったじゃろう。しかし、そうならなかったのは、おぬしのおかげじゃ。

 ……感謝する」

 

 いつか聞いた、別れの言葉。

 今、パルヴェーズが紡ぐ言葉は、あの時の言葉を強く思い起こさせた。

 そんなもの、絶対に認めたくは無かった。どれだけの苦難に塗れようとも、あんな思いは二度と味わいたく無かったから。一人戦場に残ろうとする友を置いて行きたくなかったから。

 無意識に、パルヴェーズの外套を引っ掴む。そして、離すものか! と力を込める。

 

 だが、出来なかった。

 パルヴェーズは微笑んだまま、祐一の手を取り、掴んだ指を、一本、一本、剥がして行く。

 何という膂力。必死に抵抗しようと力一杯に込め、引き剥がす力に抗うが……ビクともしない。

 祐一は叫んだ。

 

「ふざけんな! ふざけんなよ!」

 

 だが、もう遅い。指は全て、離れてしまっていて……

 

「ふふ。……さらばじゃ、疾く行くがよい!!!」

 

 

 突風が吹いた。

 その風は、逃れようと藻掻く祐一を絡め取り、空中へ連れ出した。ぐんぐんと大地が……戦場が、離れて行く。

 たった一人、友を置いて、自分だけが───!! 

 独り戦場に残ったパルヴェーズは、笑っていた。優しげに笑い、去り往く祐一を見守っていた。

 

 黄金の鎧に身を包んだ『戦士』。

 神速で空を駆る金色の『鳳』。

 迫る二柱の化身を背にして……。

 

 

「────パルヴェェェェェズ!!!」

 

 

 祐一の絶叫は、ペルシアの空に溶けては消えた。

 



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去りゆく友、終生の友

 祐一はいま灰色の大地を眼下に望んでいた。

 パルヴェーズに権能で送り出されてよりずっと藻掻いていた祐一だったが、結局どれほど暴れようとも、風の拘束から逃れる事は出来なかった。

 この無色透明の檻は、どれだけ力を振り絞ろうと、柳に風と受け流し藻掻く祐一を相手にしなかった。

 悔し気な祐一。思わず握り締めた拳で空気の檻を叩く。しかし霧散したかに思えた風は、すぐに元に戻り祐一を空の彼方へ運んで行く。

 だが例え今ここで風の拘束から逃れようと、眼下に広がる大地に叩き付けられるのがオチだ。

 だが祐一はそれを分かっていても、拘束を振り払う事を辞めはしなかった。

 ──許せなかったのだ。納得なんて行く筈もない。

 今すぐパルヴェーズの元へ戻り、共に化身を倒さなければ! 

 そう思うのに、心が逸るばかりで、祐一とパルヴェーズの距離は放たれた矢の如く離れて行く。

 

「クソッ!!! 離せよ! 離せってんだよぉっ!」

 

 二柱だ。あの強力な化身が、二柱も居るのだ。バンダレ・アッバースで暴虐の限りを尽くした『駱駝』……あの一柱でさえ、あんなにも苦戦したと言うのに……! 

 

「なんで、俺を頼らねぇえんだよおお! パルヴェーズ!!」

 

 俺たちは、共に背を預け戦場をくぐり抜けた仲間じゃなかったのか? お前にとって俺は、そんなに弱い存在なのかよ! 

 そんな思いがぐるぐると沸き上がって、じっとしていられなかった。

 爛々と嚇怒に燃える瞳を宿し、檻に入れられた獰猛な猛獣の如く、猛り狂う祐一。

 理性が完全に消し飛んでいる姿は、まさに獣である。

 そして、眼下に見える景色が文明の色へ、にわかに色付いて来た頃だった。

 ───グググッ! 風の檻で閉じ込められ、身動きが取れない祐一を、何か強い力が引っ張ったのだ。

 只でさえ、強風に運ばれていると言う摩訶不思議な状況の中、突然訪れた変化に、驚愕する祐一。藻掻く手を更に暴れさせるが、やはり柳に風。

 祐一は結局、引っ張られる力そのままに、また遥か彼方へ運ばれて行った。

 

 ○◎●

 

 どれほど押し流されただろう。祐一を引っ張る力は以前変わらないままだ。

 祐一がこの力に拐われて、幾許かの時間が過ぎた。もうパルヴェーズの姿も、眼下に一瞬捉えた町も、遠い。

 祐一は、もう虚ろな顔でうなだれ俯いていた。ただ弱々しく力の入っていない手で風を切るのみ。

 いつまで続くんだ……。そう思った瞬間だった。

 パッと、今まで祐一を縛めていた風の鎖が、ほどけた。

 

「──え?」

 

 気付いた時には、遅かった。

 風の檻が無くなり、遥か天空にて自由の身となった祐一。

 

「え? えっ? えっ!?」

 

 風の縛めから解き放たれた祐一の身体を今度は「重力」と言う、同じく無色の鎖が絡め取る。

 

「ぎゃあああああああ!!!??」

 

 絶叫を上げる祐一。唐突に始まった、パラシュートなしのスカイダイビングに、為す術なく落下していくだけだった。

 それと同時に祐一のトラウマが呼び起こされた。アラビア海洋上で船から放り投げれたと言う記憶が。

 どうしようもない恐怖に、全身がガタガタ震え、意味の無い絶叫が空へ轟く。寸での所で失禁は免れたが、恐怖で涙と鼻水が止まらない。

 ──しにたくねぇえええ!!! そう思えども、どうする事もできない。

 気付けば、地面が酷く近付いていた。言語化出来ない言葉を洩らし、必死にもがく。

 だが、重力は情け容赦なく、大地に祐一を引き込んで行く。

 せめて! あそこに! 見える! 湖に……! 

 視界の端に、偶然見えた湖。群青色に輝く、大きな湖だ。

 あそこに落ちれれば……助かる、かも……! 

 そんな淡い期待を胸に、必死に手をバタつかせ近づいて行く。

 その甲斐あってか、湖の端あたりに落下しそうな事が目視で判った。

 臍下丹田にある力を、汲み上げ全身に注ぐ。気休めだが、少しは肉体が硬くなれば僥倖。

 そんな考えの下、気を纏わせる祐一。

 その直後だった。

 ───ドッボォッン! 果たして、祐一は湖へ落下した。

 

 ○◎●

 

 どれほど気を失っていたのだろうか? 

 祐一は気が付くと、湖の浜で倒れていた。どうやら身体の節々が痛むが、動けない程じゃないようだ。

 なんか、デジャヴ……。そんな事を呟き立ち上がる。

 痛てて……。だがすぐに全身に激痛が走り、思わず地面へ転がる。やはりあの高さから落ち、助かったとは言え代償は大きい様だ。

 痛みに呻き、はぁ……とため息一つ付きながら腰を降ろす。丁度いい岩を見つけ、もたれ掛かかった。

 パルヴェーズは……大丈夫だろうか……。友の身を案じる祐一。あの場に残っても足手まといにしかならない事は分かっていた。そして今から走ってもどうしようもない事も……。

 それでも、心配だった。ほっとける訳がない。

 今まで、何度助けてもらったか分からない。今まで、何度笑い合ったか分からない。

 一緒に旅して、同じ釜の飯を食い、背中を預けて戦い、夜空に輝く星空を見ながら語り合った友。

 思いを募らせるほど、吐き気がする程の不安が祐一を苛む。己の無力感に、唇を血が滲むほど噛み締めた時だった。

 

 予兆は、無かった。

 

 しょっぱい……? 噛み締めた唇。そこから何故か、塩辛さを感じてしまった。疑問が湧き上がるより先に、海に打ち上げられた以来の感覚が懐かしくて……なんとなく安堵を覚えてしまう自分が居た。

 

 異界の法則に長じる魔術師や、生物学の碩学泰斗であれば、あるいは気付けたかもしれない。

 

 空から見た時……落ちる瞬間に見えたのは湖だったから……「塩湖」? 祐一は、テレビで見た「死海」と言う塩湖を思い浮かべた。

(なら、ここは「死海」か……? 「死海」って確か……イスラエルにあった筈だよな? あんな遠くに飛ばされたのかよ……)

 イランどころの話じゃない。盤上から弾き出され、蚊帳の外にいるのだ自分は。言葉もなくこれがパルヴェーズとの差なんだと暗示されているようで心が常になく、どこまでも帳が降りて沈みきってしまう。

 

 周辺の異常なほどの神力の高まりに、尋常ではない生き物達の怯えに。

 

 パルヴェーズは街へあと少しで着く、と言っていた。だが祐一は今、飛ばされた場所から遠く離れた場所に居る事に思い至り、酷く動揺した。

 だが、どうする事も出来ず、眼前に広がる湖面を見つめていた。

 大きな湖だ。視界いっぱいに広がる湖面。

 故郷のお気に入りの湖とは、桁違いに大きく、美しい。でも、やはり故郷の湖の方が好きだな。そう思った。

 やっぱり故郷が好きだ。自分を頑固な奴と思いながらも、疲れ切った心に郷愁がもたげていた。

 

 湖を泳ぐ魚、空を飛翔する鳥、穏やかな湖、青い空。その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせていた。

 ……気付かなかったのは人間だけであった。

 

 そうしてボーと湖を見ていると、ふと湖面に黒い影が見えた。魚か? と最初思ってしまったが……大きさがおかしい。

 遠くの湖面にいると言うのに、その黒影の姿がハッキリと分かる。

 祐一は、安直にクジラかな……? と思ったが、ここは海では無いと思い至り、分からなくなった。

 

 だが、一人だけ気付いた人間が居た。類稀な運と鋭い洞察力を持った少年、木下祐一だ。

 

 嘗て感じた……恐ろしい感覚がした。全身の穴と言う穴に槍を付き入れられる感覚。足が竦み、全身に悪寒が駆け抜ける。

 瞬時に立ち上がる。全身に激痛が走るが無視する。

 先刻現れた、二柱の化身。

 最初に現れた化身は、早すぎて気配を感じる事すら出来ず、次に現れた化身は、恐ろしい感覚を感じる前にパルヴェーズが守ってくれた。

 だが、───今は違う! 

 

 ───突然の出来事だった。

 

 湖が爆発した!? そう思える程の水量を巻き込み、黒い影は湖面より這い出てきた。

 圧倒的な巨駆。容貌魁躯なほど太く、たくましい胴回り。今は湖の中にあり見えないが、その魁躯を支える四肢の強靭さは伝わって来る。

 黒い影は、闇を溶かし込んだ黒色だった。全身に黒い毛皮を持ち、塩水で濡れそぼった毛皮は、元から美しい毛並みを更に光沢のある物へと変えていた。

 影の容貌は恐ろしい。隠し切れない猛々しさが滲み出た、今にも狂奔に猛っても不思議ではない凶相。

 そして、何より特徴的なのは、その両頬辺りから突き出た、禍々しく長大な牙───! 

 間違い無い! パルヴェーズが言っていた残る四柱の化身が一つ───『猪』だ! 

 祐一は、これまでの経験を頼りに、確信に到った。

 水中から現れた『猪』。

 元々猪ないし豚と言う生き物は、以外と泳ぎが上手い生き物である。

 インド神話にて大地が水中に沈んでいるのを見たブラフマンがイノシシに変身し、大地をその牙にて持ち上げる神話や、魔神が大洪水を起こし、大地を水中に沈めた時も、ヴィシュヌがイノシシの化身へと変化し、魔神を殺し、大地をこれまたその牙にて引き上げている。

 思いのほか猪は水と関わりが深い、と言っても良いかも知れない。

 そして、アドニス、ディルムッド・オディナ……猪の出現によって殺害された神や英雄は多い。

 また「白い猪」と出会い死へと繋がった日本最大の英雄ヤマトタケル、多くの英雄達を破滅へ送ったギリシア神話に登場するカリュドーンの「猪」……直接的な要因は無い物の、死を呼び込む凶兆としても恐れられる猪。

 古代の世界では、猪は死の化身。或いは、凶兆の化身と考えられていた。

 祐一は、その『猪』の化身と対峙する事となったのだ。

 

 ───恐ろしい魔物。

 だと言うのに祐一はその威容を見て、思わず見惚れてしまった。恐怖を一時とはいえ忘却するほどの偉駆であったのだ。

 そもそも祐一には、この黒い猪が、何故か敵だとは思えなかった。禍々しく、凶相を湛え、それでいてどこか「神聖」さを感じる『猪』。

 常ならば、敵と断じて戦意を迸らせる場面。

 だと言うのに祐一はジッと『猪』を見つめるばかりで、何もしなかった。戦いの構えすら取らずに。

 パルヴェーズも、戦っている。

 ならば、自分もこの化身と干戈を交え、パルヴェーズの為に、手傷を与えるのが正しいのではないか……? 

 そんな思いも、胸に浮かび上がったが、どうしてもこの化身とは、矛を交える気になれなかった。

 

 『猪』がゆっくりと祐一に近付いてくる。『猪』もまた祐一をその猪目で見据えていた。一歩、また、一歩と近付くほどに、その威容はありありと見通す事が出来た。やはり『猪』は凄まじく大きく、街中に生えている電信柱なんて優に越える身長を持っていた。

 近付いた事により、初めて気付いたが、『猪』は何か口に咥えている様だった。咥えているものは『猪』の牙と体毛に隠れ、全容は見通す事は叶わなかったが、何か木の枝の様にも見えた。

 『猪』が近付く。もう、かの化身は目の前に居た。手を伸ばせば届きそうな、そんな近さ。

 戦いたく無い……と思っていた祐一も、流石に身構えた。

 やはり自分の考えは間違っていたのだろうか。そんな疑問すら湧いてきて……。

 迫って来た『猪』はフンッと鼻を鳴らし……果たして、祐一の横を通り過ぎただけだった。

 

 ホッと、一息付く。やっぱり自分の予想は間違っていなかった。

 どうやら、あいつにも敵意は無いみたいだ。

 敵意が無い。そう確信していた祐一だったが、実際は本当に襲って来ないか、不安に駆られていた。

 何度も化身に襲われ、窮地に立たされた祐一にとって、それは無理からぬ事だった。

 振り返って、通り過ぎた『猪』を見る。

『猪』は少し進んだ所にある平らな場所へ腰を降ろし、座り込んで居た。空に目を向け、一息付いている様だ。

 祐一には、穏やかな雲の流れを見ているようにも見えた。

 そんな『猪』の姿を見ながら、頭を掻く。そして、よしっと一つ気合を入れると、恐る恐る『猪』の方へ近づいて行った。

 そんな祐一に気付き視線を寄越す『猪』。睨む様な目ではあったが、近付いて見える、その瞳には確かな知性が宿っていた。

 近付き傍によって、立ち止まり、視線を重ねる。

 こちらを見定める様な、見通す様な、射抜く視線。激情を抑え込んだ、漆黒の瞳である。 己の強烈な意志を宿した烈火の瞳が交叉する。

 

 お前は、一体なんなんだ……?  ……敵、なのか? 

 

 そんな思いを込めて見据える。敵意は確かに感じない。しかしどこまで、信じられるのか判らない。

 祐一は、それを確かめたかった。

 ふと、何か、形容出来ない……波の様な物が伝わって来た。刺々しく、荒々しい。しかし温かみを感じる波。

 祐一には、その波が『猪』の心に思えて仕方無かった。

『猪』もまた、祐一の心を覗き込んでいる様にも見えた。そして、祐一もまた、『猪』の心を覗き込んでいた。

 どれほど視線を合わせて居ただろうか。

 祐一は、もうすっかり『猪』の事を、「敵」とは思ってなかった。それどころか、気を許しさえしていた。

 手を伸ばせば触れる距離。 そんなにも『猪』と近い場所で祐一は腰を降ろし、対座する『猪』を見ていた。

 

「なあ……。お前たちは一体何者なんだよ。人間の敵なのか? 俺、そう思ってたけど、お前見て分かんなくなったよ……。今まで出会って来た奴らは、問答無用で襲いかかって来たし……」

 

 邂逅して来た化身を想起しつつ、歩んできた過去を『猪』に独自しながら胸の内を語る。

 

「でもお前は違うのは、なんとなくは判るよ。だからちょっと、判らなくなったんだ」

 

 ふと、思い出す。

 

「……はは。そう言えば、パルヴェーズも同じ存在だって言ってたっけなぁ……」

 

 ならホントに……わっかんねぇなぁ……。 どこか諦めた様な、そんな穏やかな声音で祐一は独り言葉を零す。

『猪』はただ、ジッと祐一を見続けていた。

 

「あはは。こんな事言っても、判んねぇよな」

 

 そう言って『猪』を見遣る祐一。ただ『猪』はその理知的な瞳で見据えていた。なんだかこちらの言葉を解している様にも見えて……。

 そして、『猪』はフンッ! と鼻を鳴らした。

 ──あ……。 祐一は、その動作が強く印象に残った。

 なんだか、似ていたのだ。少し前まで、祐一を背に乗せ、躍動する四肢で大地を突き進んだ──今亡き仲間に。

 気高く、孤高。美しくも雄々しい、巨駆を誇った馬。

 そう。……ラクシェに。

 そう思った瞬間だった。今まで燻り蟠っていた感情が……、なんとか作った急造の防塁が決壊し、感情が溢れ出す。

 枯れていた涙が、止まらない。

 抑え込もうとした嗚咽が、どうしようもなく漏れる。思考が上手く働かない。心を抑え込もうとするが、止まらない。

 心が、己の手を離れていくかのよう。

 ──ピタリ……。

 ふと俯き嗚咽を漏らす祐一の頬に、触れる物があった。驚いて、手で触れる。

 白く、大きな物だった。硬質で無機質さが隠し切れない……、だと言うのに仄かな温かみを感じて。

 祐一は、その大きな物が伸びる先を追った。

 白い物は、『猪』の、その両頬から伸びていた。

 牙だ。初めて見た時には、禍々しさすら感じた牙。

 そう。『猪』が……片目だけ開けてこちらを見る『猪』が……祐一にその大きな牙を添えていたのだ。大きな牙を器用に動かし、祐一の心を繋ぎ止めるように差し出しいていた。

 ──はは。なんだか、おかしくなって笑いが漏れる。

 それから祐一は大きな牙に縋り付き、泣いた。

 決壊した思いは嗚咽と共に言葉となって溢れ出す。

 なんで、こんな事になったんだ……! 俺が、俺が何したって言うんだよ! 

 学校でもそうだ! 

 俺は、俺は……友達が傷つけられたから、ただそれが許せなかっただけなのに……! 

 なんで嫌われるんだ! 

 なんで怖がるんだよ! 

 俺を見ろよ! 

 目を逸らすなよ! 

 ああ、くそ。みんな、ごめん。秀、隆、秋、勇樹……。みんな……ごめん。

 何も言わず、勝手に出て行って。何時も一緒だったのに……。お前たちだけは信じてくれたのに……。

 でもだからこそ俺は、俺は……怖かったんだ……。お前達まで拒絶されたらって思うと堪らなく怖かったんだ……。

 なあ、ラクシェ……俺、お前に何もしてやれてないのに、勝手に行くなよ。

 本当なら、俺がお前を助けなきゃいけなかったのに。何、勝手に死んでんだよ……。

 そんなに俺が気に入らなかったのかよ……? 

 ああ、パルヴェーズ。そんなに俺が頼りないのか……。俺は、お前の為なら死ねる。嘘じゃない。俺はお前に助けてもらったんだ。ならお前の為に使って何の不思議がある? そうだって言うのに、お前はまた、俺を残して行ってしまう! 『駱駝』の時と何も変わらない! 

 俺達はそんな、弱い関係だったのかよ!!! 

 くそ。くそ。くそ。みんな好き勝手やりやがって……! 俺だって、本当に怒るんだぞ! 

 家族も、学校のみんなも、ラクシェも、パルヴェーズも……! 今度あったらぶん殴ってやる! 

 自分勝手で、支離滅裂な祐一の言葉。それは簡単に表せば……「愚痴」だった。

 祐一をこれまで、容赦無く苛んできた出来事は、彼の心を傷めつけ蝕んでいた。

 祐一はまだ、若い。

 如何に、明るく、辛い事を乗り越え、心が折れても立ち上がって来ようとも、無傷でいられる筈がなかった。

 心と言う池に沈殿する澱の如く、積み重なっては大きくなって行った。

 そして、ラクシェの死とパルヴェーズに置いて行かれたと言う事実が、極大の澱となって祐一の心を埋め尽くした。

 祐一は、もう、一杯いっぱいだったのだ。

 彼を襲う因果は、どうしようもなく彼を責め続けた。

 そうして彼は心の澱を流し出す様に、泣いては嗚咽を漏らした。

『猪』は、ただ、静かに耳を傾けていた。

 

 ○◎●

 

「なんで、もっと上手くできないんだろうな……」

 

 愚痴を言い終えた祐一は『猪』の牙に寄りかかりながら、そう語り掛けていた。

 辺りはもう日が暮れ始めていた。夕暮れ時とまでは行かないが、あと少しすれば太陽が大地を赤く染め上げるだろう。

 どうやら随分と祐一は『猪』に愚痴を漏らしていた様だ。だがそれも当然なのかもしれなかった。

 旅を続けて、精神的に強くなった祐一でさえ、今日起きた出来事は、真正面から受け止めるには辛過ぎた。

 それでも、彼は目を背けず、前を向こうとしている。

 祐一は、強い……とても、強い少年だった。

 そんな時だった。

 今まで祐一の言葉を、静かに聞いていた『猪』。その『猪』が、巨体を揺らし立ち上がった。

 わっ!? 牙に寄りかかっていた祐一は、突然振り払われ、驚いた。呆然とする祐一。

『猪』は、祐一の眼前に立ち、これまた器用に祐一を咥え、背に放り投げた。驚いた祐一だったが、持ち前の反射神経で、背になんとか着地する。美しい毛皮に触れ背で揺られる感覚に泣きそうになった。

 しかし感傷に浸る暇なく、すぐに揺れが祐一を襲った。

『猪』が走り出したのだ。

 思わず、膝を付き、『猪』に黒い毛皮にしがみつく。

 突然の事に戸惑っていた祐一。しかし、すぐに動揺も吹き飛んだ。

 まるで新幹線にでも乗ってるかのように、景色が移り変わって行く。久しく見なかった人が住む街、青々と繁る草木、人々が営む田園風景、眩く光を反照する湖、赤みを帯び始めた蒼穹……美しい光景は、暗く沈んでいた祐一の心を一気に引き上げ、高揚させた。

『猪』が進む道は大地だけではなかった。

 その意外にも華奢だった四肢が踏み締めるのは、湖面でさえも変わらなかった。水上でも構わず駆け抜け、青い大地は祐一の視界を楽しませてくれた。

 不意に、『猪』は湖へ潜り込む。

 驚いて息を止める祐一だったが、すぐに堪らず口を開ける。水が口の中に入り込むかと思われたが、結局、そんな事にはならなかった。不思議と息が出来たのだ。

 視界の隅に、どこか笑う様な色を湛えた『猪』の瞳が見えた。

 コノヤロウ。ポンッと握り締めた拳で、背を叩く祐一。『猪』は、笑う様に体を揺らした。

『猪』の出現に驚いて逃げる小魚の姿があったが、構わず駆け抜ける『猪』。湖を進む船の船底、湖面を突き抜ける陽の光、海底に沈む遺跡、忙しなく泳ぐ小魚……そうした物を目に収め、今度は海面へ向け上昇する『猪』。

 ──ドボンッ! 

 海面を突き抜け、水飛沫が上がる。だが『猪』は止まらない。

 今度こそ、祐一は驚いた。

『猪』は、なんと空中を駆け抜けたのだ! 

 すげぇ! すげぇ! まるで、その言葉しか知らないように、繰り返す祐一。

 大地も、水上も、水中も、空中でさえも駆け抜けて見せる『猪』に祐一は、惜しみない称賛を贈った。

『猪』も、全く拒む素振りすら見せず、少し誇らしげに鼻を付き上げる。

 

「ははは。ありがとな」

 

『猪』はどこかで照れる様に、そっぽを向き、大きく鼻を鳴らした。

 

 やがて、景色を見続けていた祐一だったが、とある違和感に気が付いた。

 なんだか、身体のそこかしこが無性にヒリヒリするのだ。なんだ、なんだ? と、身体を良く見ると来ているブレザーに、白い粉が付いていた。

 首を傾げ、匂いを嗅ぎ、一舐めする。しょっぱい……。

 

(そう言えば、ここ、塩湖だったっけ)

 

 今さっきまで忘れていた事実に思い至り、身体を襲う違和感の正体に当たりを付ける。

 良く見れば、『猪』の毛先にも塩が引っ付いている。

 トントンと、『猪』を叩き、どこかで洗わないか? そんな仕草を取った。言わんとすることを理解した『猪』は、方向を変え、また走り去った。

 

「なあ……お前が、ここまで連れて来たのか?」

 

 ふと、気になって尋ねた。祐一と『猪』は、両者とも濡れそぼってる。大きな河川に、降り立った『猪』だったが、如何せん『猪』も同じ様に大きい。

 祐一は、自分のブレザーと身体を水で洗いながらも、『猪』の巨体を手を使い、洗うのを手伝っていた。『猪』はどうやら悪戯っ子の様な気がある様で、その尾で水を掬い、ふざけて祐一に掛けてきた。

 驚いた祐一だったが、彼もそれに対し、少し怒ったような仕草で、しかし笑いながら水を掛けた。

 そうして笑っている内に、祐一は思い出したのだ。本来なら、祐一は街に送られる筈だった。だが、今はこんな所……街とはかけ離れた場所に居る。

 吹き飛んばされた時、感じた違和感。途中で引っ張られる感覚は、この眼の前の『猪』がやったのでは無いか? 

 なんとなく、そう予測したのだ。

『猪』は、祐一を静かに見つめ、果たして、ゆっくりと頷いた。

 

「そっか。……まあ、文句は言わないけどさ。楽しませてもらったし……。でも、何でこんな事を……? なんも、理由なしにやったんじゃ、無いんだろ?」

 

『猪』に問い掛けた。それを受け、『猪』は少しの間、瞑目した。

 そして目を見開いては、祐一を燃え上がる強い瞳で見据えたのだ。

 祐一には『猪』の一連の動きが、何かとても……とても重要な選択を選ぶ者の姿に見えて、仕方が無かった。

「ここで引いては、いけない」……そう思えてならなかった。

 この無愛想だが、こちら気に掛けて来て、そして……妙にパルヴェーズを想起させる化身は、何か途轍もない期待を己に懸そうとしている……。 そう、思えてならなかった。

 だから、だろう。

 祐一も、真正面から『猪』の瞳を受け止め、強い眼差しで応えたのは。

 

 やがて『猪』は、口角を吊り上げ、笑った様に見えた。

 そうして『猪』は、おもむろに口の中から、とある物を取り出した。

 少しだけ、見覚えがあった。

 祐一と『猪』が初めて会った時『猪』が持っていた物。

 

(あれは、「枝」だったのか……)

 

 祐一が、思った通り、『猪』の持っていた物は「枝」だった。祐一の腕程の長さで、夕日を反射して、少しだけ輝いている様にも見える……だが祐一には、ただの枝に見えた。

『猪』は、その枝を壊れ物でも扱うかの様に丁寧に扱い、不思議な力で持ち上げていた。

 器用なモンだな……。祐一は、「枝」が近づいて来る様子を見詰めながら、そう思った。

「枝」は、思いの外、素早い速度で祐一に近付いて来た。

 思わず、身構えそうになる祐一。だが、そうはしなかった。その行為は、『猪』の信頼を裏切る様で……それは、なんだか、パルヴェーズの信頼すらも裏切る様で……祐一は嫌だった。

 当たる! 

 そう思った祐一だったが、しかし、そうはならなかった。スッと、驚くほど簡単に「枝」は祐一の中へ吸い込まれて行ったのだ。

 思わず、入っていった場所を抑え、確かめる祐一。

 だが、穴なんて空いていなくて、ホッと安堵の息を吐く。だけど、なんだかモヤモヤした物は拭い切れない。

 確かに、この『猪』は敵じゃないし、自分を慰めてくれた優しいやつだ。だけど祐一も、何かよく分からないものを埋め込められる程、無条件で信じられるか? と聞かれれば、目を逸らすしかない。

 今の所、どこも異常は無い様だが、少しだけ祐一は不安だった。だが『猪』は、祐一の不安を見透かしたように、フンッと笑う。

 何処か馬鹿にした様な仕草。

 祐一は、コンニャロウ! と『猪』に吶喊する。『猪』は、そのフサフサの体毛で受け止め、愉快気な色を崩さなかった。

 じゃれ合う一人の少年と巨大な『猪』。

 ひとしきり戯れた両者は、川の畔で寝そべり、沈む夕焼けを見ていた。どこに居ようとも、この夕焼けだけは変わらず美しい。祐一は、差し込む夕日に身体を紅く染めつつ、そう思った。

 はた、と、とある事に思い至った。気になったら、止まらない。

 祐一は、背の『猪』へ訊ねる事にした。美しい毛並みを撫でながら……

 

「あ、そうだ! そう言えばさ、お前は名前ってあるのか?」

 

 そんな疑問を口にした。半日にも満たない時間。それほどしか共に過ごしていないのに、祐一はこの巨大な化身に確かな友情を感じていた。

 だからこそ、気になったのだ。彼も初めて会ったパルヴェーズの様に、この『猪』も名など無いのでは? と。

『猪』はやはり予想違わず、首を振り「否」と示した。

 やっぱりな! うんうん、と何故かしたり顔で頷く祐一。訳がわからない、と言う風に首を傾げる『猪』。さもありなん。

 あの時はパルヴェーズが、自分で名前を付けてた。けど、今回は俺が付けてもいいよな! 

 そう強引に理由を付け……

 

「よしっ! 何か名前、付けてやるよ! うーん、そうだなぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───ここにおったか」

 

 

 パルヴェーズが、現れた。

 

 その瞬間だった。

 ───ルオオォォオオオオオオオオオッ!! 

 

『猪』が突然立ち上がり咆哮を上げた。余りの勢いに、吹き飛ばされる祐一。尻もちをつき、驚いて『猪』を見る。そして祐一は凍りついた。

 ───恐怖によって。『猪』は恐ろしい凶相を浮かべていた。正に、怒り狂っている。

 その双眸は地獄の業火の如き、烈火の瞳を持ってパルヴェーズを睨み見据え。

 その口からは、地の底を這いずる様な唸り声と共に、身体の内から抑え切れなかった、灼熱の吐息が漏れ出している。

 その全身からは、可視できるほど膨大な殺意が溢れ出す。戦意や敵意、などと言う生易しい物では……無い。膝が震え、倒れ込みそうになる程の「殺意」! 

 正に、鋭く近寄り難き者! 

 敵対する者、須らく逃れられぬ牙にて穿ち、惨たらしい死を与える者! 

 全てを一撃で、粉砕し、蹂躙する断罪者也! 

 

 だが、その恐ろしき威圧を受けてなお、パルヴェーズは悠然と微笑むのみだった。

 

「え、パ、パルヴェーズ……?」

 

 祐一は、戦慄した。思わず彼の名を呼ぶが、パルヴェーズはこちらを見もしない。

 彼への違和感は、天井知らずに膨れ上がって行く。

 過去、何度か彼に恐れを抱いた事はあるが、今ほど異様な恐れでは無かった。

 それは例えるなら、知らない物への無知の恐怖だった。

 しかし今パルヴェーズに抱いている物は、違う。

 根源的な恐怖。

 まるで深淵を覗き、深淵に覗き返されている様な底知れない恐怖だった。

 

「やはりこの気配『猪』であったか。光明の気配濃きこの湖に潜み、気配を悟らせなかったおぬしが、どのような心算じゃ? まさか素直に我へ力を明け渡す気ではあるまい?」

 ───ルオオォォ……!! 

 

 『猪』は、唸り声を上げ威嚇するばかりで、パルヴェーズの言葉など歯牙にも掛けない。

 何という威容! 森羅万象の一切を灰燼に帰し、死を振り撒く、破壊の化身である! 

 祐一には、もう『猪』の恐ろしさなんて、頭の隅にすら残っていない。祐一に見えるのは、眼の前の、変り果てた友の姿のみ。

 パルヴェーズは、一瞬こちらへ目を向けた。しかし彼は祐一を見ている様で、──見てはいなかった。

 まるで路傍の石でも見ているかの様な、冷たい眼差しだった。

 同時には思い出す。最後に見た、パルヴェーズの優し気な眼差しを。

 

 致命的に何かが欠落していた。パルヴェーズがこちらを見る眼の、何と冷たく酷薄な事か。

 ───祐一は……ここに至って理解した。

 バンダレ・アッバースを出てから、パルヴェーズに抱いていた違和感の正体を。

 パルヴェーズが、何故、祐一を戦場から遠ざけたのかを。

 パルヴェーズが、手を引き、寂しげ表情を湛えていた理由も。

 別れ際、今生の別れにも聞こえる言葉を残したのかも。

 

 ──全て……理解できた。

 祐一は、思い出した。ボロボロと、パルヴェーズへ違和感を感じていた時の記憶が蘇る。

 違和感の正体は、全て、同じ理由だった。

 パルヴェーズは……化身を倒す毎に「人」から外れて行くんだ……。

 ……いや、そうじゃない。───パルヴェーズは嘗ての存在へ戻っているんだ。

 

 ──人ではない『何か』へ!

 

 そして祐一は、その解を得ると同時に……思う。

 そうだ……。あのパルヴェーズが……俺よりも負けず嫌いなパルヴェーズが、あんな変わり果てた姿になる事を座して待っていた筈がない。

 パルヴェーズは、俺の知らない所で戦っていたのかも知れない。

 そう考えると、思い当たる節があった。

 バンダレ・アッバースから、これまで、パルヴェーズは単独行動が多かった。不自然な程に。

 自分から率先して水を汲みに行ったり、道の状況を見に行ったり……。そして、よく眠るようになったり……。

 そして、顕著なのは「試練」だ。あの時、パルヴェーズは試練開始を告げると、すぐさま走り去った。まるで、何かから逃げる様に……。

 祐一は元より、あのラクシェでさえ追いつけないほど。確かに生半可な速さでは、俺達に追い付かれるのは目に見えていたが、それでも違和感は残った。

 それに、パルヴェーズの微笑み。

 あの人形地味た無機質なアルカイックスマイルが、どんどんと神々しい菩薩の様な笑みへと変わっていって……。

 試練を終えた時。あの時祐一が、一番美しいと感じた微笑みは、パルヴェーズが変化する己と戦い、辛勝を得た姿だったのでは……? 

 

 そうだ。

 やっぱり、パルヴェーズは戦っていたんだ。

 己が、何か違う……恐ろしい存在へ変わる事に抗っていた……。

 そして、パルヴェーズは、気付いたのだ。

 もう、祐一と歩む旅は終わりなのだとのだ、と。

 もう、次に会う時には己では無くなる、と。

 だから、あんな言葉を残し、祐一を遠ざけた。

 

 ──嘘だ! 祐一は、信じたく無かった。

 あんな、「さよなら」で納得できる筈がない。

 だから、それを確かめたくて……

 

「パルヴェーズ!」

 

 そう、叫んだ瞬間だった。

 だが、その叫びはすぐに掻き消された。

『猪』の、大地を揺るがす咆哮によって……! 

 ───ッオオオオオオォォンンンンンッッッ!!! 

 凄まじい轟音! 声と言う振動が衝撃波となり、ありとあらゆる物を粉砕して行く! 

 思わず、身構える祐一。

 しかし、真横に居るはずの祐一は、そよ風の様な振動しか感じなかった。

 そして猛り狂う『猪』は、パルヴェーズへ向け突進した。

 全身を、一発の弾丸にも思わせる突進力で突き進む。

 破壊神の如き猛威。突き進む大地が、踏み砕かれては、荒れ果てる! 

 何という力強さ! 

 正に、罪科に鉄槌を下す者! 

 あらゆる障碍を突き破る、力と破壊の化身である!! 

 

 対するパルヴェーズは、ただ微笑むのみ。

『猪』の咆哮など、いま祐一が感じている微風程度にしか気にしていない。歴然たる差が、そこには横たわっていた。

 

 祐一には、パルヴェーズの誇る強大な力が、彼が「人」から外れた証左である気がして、強い不快感を抱いた。

 

 だが祐一は、パルヴェーズと『猪』、どちらの側にも立つ事が出来なかった。

 ただ、茫然と、友誼を交えた者達の戦いを見ている事しかできなかった。



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英雄譚の『語り部』

 結果的に言えば、パルヴェーズが勝った。

 

 恐らく『猪』は不撓不屈の化身である『駱駝』でさえ、一撃で粉砕するだろう強力な化身だったのだろう。

 しかし、どれほど強力な化身であれ、もう過半数の化身を取り込み、王手間近のパルヴェーズに『猪』が勝てる道理は無かったのだ。

 祐一は、倒れた『猪』に駆け寄り、止めを刺そうとするパルヴェーズを止めた。

 やめてくれ、と。それだけは辞めてくれ、と。

 戦いの時はどちらに付く事も出来ず惑っていた祐一だったが、どちらかが殺される時になれば話は別だった。

 出会ってそれ程経っていないとは言え「友」となったのだ。

 看過できる訳がない。

 それに、このまま化身を取り込んでしまえば、この道を踏み外し、遠くに行こうとしている友人は、「もう、取り返しのつかない程、遠くに行ってしまう!」と、そう言う確信が祐一にはあった。

 しかし祐一の抵抗は意味の無い物だった。

 パルヴェーズは祐一の懇願など一顧だにしない。祐一を煩わしそうに、力ある言葉……言霊の力で縛り、動けなくした。

 そして、当然の如く『猪』を取り込んだ。

 呆気なかった。『猪』の神力が余す事なく、パルヴェーズへ呑み込まれていく。

 祐一は動けない身体で、『猪』の断末魔を聞いていた。

 まるで地獄。

 血の如き涙が止まらない。耳と目を、ぐしゃぐしゃに壊す事が出来たら、どれほど救われるだろう。

 動けない身体。しかし眼だけは動く身体で、祐一はその光景を見続けていた。

 力を取り込んだパルヴェーズが、調子を確かめるかの様に、拳を握っては開き、祐一へ語り掛ける。

 

「ふふ。善き哉、善き哉。人の世に降り立ったのは初めての事であるが、己が性に縛られず、思う儘過ごすとは悪く無い感覚じゃのう」

 

 そうは、思わぬか。──小僧? 

 

 やめろ! 

 その口で、その声で、俺を呼ぶな! 

 その顔で、その目で、俺を見るな! 

 声も無く、叫ぶ。

 

 どれほど眼の前の存在が、パルヴェーズと同じ声で話そうと。

 どれほど眼の前の存在が、パルヴェーズに似ていようとも。

 どれほど眼の前の存在が、パルヴェーズだと思おうとしても。

 

 祐一には、眼の前の存在がパルヴェーズとは、思えなかった。超然とこちらを見下ろし、語り掛けるパルヴェーズに、黙り込み意志の萎れた瞳で見返すのみ。

 祐一は、もう、死んでしまいたかった。

 こんな辛い現実を見ていたくなくて。

 無力な自分に絶望して。苦しむ友に気付けない愚鈍な自分が嫌で。変わり果てていく友を見ていたくなくて。いますぐにでも、死を選んで楽になりたかった。……だが、彼はそうはしなかった。

 どれほど眼の前の存在が、パルヴェーズとは思えなくても、やっぱり放って置くなんて出来なくて。

 倒れたラクシェの死に様が脳裏に焼き付いて離れなくて。

『猪』に何か託された気がして。

 そして、──最後に見たパルヴェーズの優しげな微笑みが忘れられなくて……。

 祐一の身体に、見えない鎖が、雁字搦めに絡み付いて……逃げ出そうする祐一を、頑なに許してくれなかった。

 強迫観念の如く、両肩に乗った天使と悪魔が引っ切り無しに耳元で叫ぶ。

「最後まで見届けろ!」「見届けろ! 見届けろ!」

 と、そう叫ぶ。

 

 うるさい! だまれっ!!! 

 お前たちに言われなくても……! 

 俺は最初っからパルヴェーズに付いていくって決めてるんだ! ──約束してんだよッ!!! 

 

 諦観と絶望に溺れそうな己を、寸での所で引き上げる。

 俺は、パルヴェーズを信じる。そう、決めてんだよ! 何度も、何度も、自分に言い聞かせる。

 気付いた時には、天使と悪魔は消え去っていた。

 だが、眼前には、美しい微笑を湛えるパルヴェーズのみが居た。

 違う。

 でも、──同じだ。

 もう、何を信じれば良いのか祐一には、判断が付かなかった。

 どれほど、今のパルヴェーズをパルヴェーズだと思おうと、今まで旅をした記憶が降り掛かって来て、全力で否定する。

 どれほど、今のパルヴェーズをパルヴェーズではないと思おうと、今まで旅をしたパルヴェーズの笑顔がチラついて、どうしても思い込む事が出来なかった。

 

 疑心暗鬼と言う、袋小路。

 どんどん空回っていく思考は、心を暗く沈んだ色へと染め上げていく。

 祐一は、堪らず問い掛けていた。

 

「お前は……何者なんだ。……パルヴェーズ、なのか?」 

「ふむ。おぬしの中ではもう、答えは出ていると言うのに、敢えてその問いをするか小僧」

「違う! 答えなんて、出てねぇ! ……お前を見る度に判らなくなる。見えているお前は確かにパルヴェーズなのに、でも、俺と旅したパルヴェーズじゃねぇって確信が湧く……。もう、訳分かんねぇ……。だから俺には、お前に聞くしか手立てが、ない」

「はは。愚か、愚かじゃのう、おぬし。純粋と言っても良いかも知れぬ。だが、その純粋さ、嘗ての我が好むものであったのであろうな。……ふふ。おぬしの思う通り、我は嘗ての我ならず……」

 

 身体が震えた。

 パルヴェーズの言葉に恐れ震えているのかと思ったが、そうでは無い。

 ───「畏怖」だ。パルヴェーズから漏れ出す力への! 

 今のパルヴェーズは、人などより遥かに高位で、強大な存在である。ただ、存在感すると言うだけで、災厄を齎すほどに! 

 これまで対峙して来たどの化身を上回る恐怖と、死神に出会った様な絶望が祐一を襲う。

 

「まだ、全ての化身が揃って居らぬ故、名は封じられた儘じゃが……。しかし、本質は限りなく近い。嘗ておぬしと旅をした、秩序を齎し光明と正義の守護者たる──『我』ではない!」

 

 気付けば祐一は、倒れ込んでいた。

 何かよく分からない力が、全身を絡め取るように襲い掛かって来たのだ。

 そして、倒れ込み朦朧とする意識の中……聞いた。

 友の……あまりに残酷な宣告を。

 

「今の我は、まつろわぬ身! この現世に顕現し、まつろわぬ性を獲得した、勝利と闘争を求める神! 

 ───『まつろわぬ闘神』なのじゃ!!!」

 

 耳を塞ぎたかった。

 朗々と響く友の声は、嘗ての優しげで透き通る、祐一の好きだった声とは、似ても似つかなくて。

 でも、パルヴェーズの神力に蝕まれた手は、ピクリとも動かなくて……。

 ただ、酷く耳障りな声に、耳を傾ける事しかできなかった。

 

「おお。すまぬな、小僧。我とあろう者が、人間の脆弱さを失念しておった。たったこれ程の神力を浴びせただけで沈む、弱い存在であったのう、おぬし達は」

 

 そう悪びれた様子も無く、パルヴェーズは言った。直後、フッと。ついさっきまで、祐一を蝕んでいた力が、突然抜けた。

 

「がぁっはっ……はぁっ……! はぁっ……!」 

 

 まるで、水中から引き上げられた様に、咳き込み、空気を一杯に吸い込む。

 それに気にした様子も無く、パルヴェーズは言葉を続けた。とても愉快気に。

 

「ふふ。良い事を思い付いたぞ、小僧。おぬしは何の因果か、我と現世での旅……その大半を過ごしておる。これは、中々出来ぬ事では無い。褒めて遣わす。……そして、我はその功を讃え、おぬしを、我が英雄譚、叙事詩の『語り部』とし、その功に報いよう! 咽び泣き感謝せよ、小僧!」

「か……『語り部』……?」

「判らぬか? 英雄たる我には、やはり英雄に足るに相応しき英雄譚が必要なのじゃ。そして、それを世へ語り継ぐ『語り部』もじゃ」

「それを……、俺がやれってんのかよ……」

「そうじゃ。おぬしが我と歩んだ道程、見聞きした全てを、人の世全てに語るのじゃ。はは。どうじゃ、光栄な事であろう?」

 

 祐一は、反射的に断ろうとした。

 理由なんて無い。ただ、単に嫌だっただけだ。

 だが、寸での所で踏み止まった。

 このまま断れば、因果の糸が完全に切れてしまう。そう、思えてならなかったのだ。

 約束は、守る。

 今のパルヴェーズが、嘗てのパルヴェーズと遠くかけ離れた存在で……。

 自分の事を、蟻程度にしか思って居なくても……。

 どんなに友達が変わり果てても……最後まで、見届けてやる。 

 ──俺は、パルヴェーズを、信じる。

 祐一は、あの時、固く決意したのを思い出す。

 名のもない町、バンダレ・アッバース。試練。

 何度も祐一を、苦難が襲い、その度に立ち向かい、打破してきた。そして、祐一が思いを新たにし、固く決意した誓いが、今度は彼を絡め取る鎖となって逃さない。

 俯き、血が滲むほど拳を握り締め「……わかった」そう、パルヴェーズに返した。

 パルヴェーズは、満足した様に、神々しく美しい笑みを浮かべ、 

 

「ふふふ。よい子じゃ」

 

 言いつけを守れた幼子を、褒める様に言う。

 祐一は、酷く無感動な表情で、その言葉を受け止める。

 ──心を凍て付かせて居ないと、もう、どうにかなりそうだった。

 居ても立っても居られず、祐一はパルヴェーズへ問い掛けた。

 

「それでお前、これからどうするんだよ。このまま、お前の化身を集めんのか?」

「うむ。『鳳』『戦士』は、先刻討ち果たし、我が神力へと戻った。しかし最後に残った『白馬』は、依然彼の地にて、我を待っておる。ふふ。しようのない子じゃ。我が直々に出向き迎えてやらねばのう。先ずは、ペルシアの地に戻らねば。──では、往くぞ。小僧」 

 

 そして、強風が祐一達を包み込んだ。

 不快さを感じてしまうが、結局抗う事はしなかった。

 離れ行く塩湖を見ながら、思う。 

 

(『猪』……お前は俺を慰めてくれたのに、なにも出来なくて……ごめん、ごめんな……。

 ……なあ、『猪』。お前は、俺にホントは何をさせたかったんだよ……?)

 

『猪』への後悔と、答えの出ない問を投げ掛ける。そして、やっぱり答えなんて返って来なくて。

 

 一人、これより待ち受ける未来への拭い切れない不安に身を震わせた。

 そう。

 祐一はもう、独りになっていた。

 

 ○◎●

 

 着いた場所はパルヴェーズと別れた荒野だった。

 最初、祐一にはその場所がどこなのか、てんで判らなかった。もう陽がとっぷりと暮れていたのもあるのかも知れない。

 だが一番の理由はそれほどまでにこの地が荒れ果てていたのだ。

 大地のそこかしこに長大な亀裂が走り、クレーターも数え切れないほど。何か強大な存在がぶつかりあった痕跡が、幾つも散見できた。

 ───それはパルヴェーズが、たった1人、戦い抜いた証だった。

 あいつは勝ったんだ。

 祐一は、なんの根拠も無く思う。

 でも、勝とうが負けようが、あいつは変わり果てる事に変わりはなくて……。

 祐一は握り締めた拳を、己の膝へ叩き付ける。

 

 ……そんなのって、ないよなぁ……っ! 

 だが、祐一は、膝を付き慟哭したい気持ちを必死に抑え血が滴るほど唇を噛み締めた。

 

「小僧。おぬしが旅の道から外れたのは此処からであったな。やはり『語り部』たるおぬしは全ての道程を歩まねばならぬ。なに、急ぐ旅では無い。ゆるりと行こうぞ」

 

 パルヴェーズは、傲然と笑う。

 祐一は、思わず顔を背けてしまった。

 視線の先には、やはり荒れ果てた土地が広がっていた。

 ───そして、何かが見えた。 

 駆け出す。

 今さっき見えた物。それは祐一にとってこの上ないほど大事なもので、放って置けないものだった。

 果たして、辿り着く。間違いない! 

 

 ───ラクシェ!! 

 

 やはり祐一が見たものは、戦場にて息絶えた、嘗ての仲間だった。

 縋り付き、血溜まりに沈むラクシェに振れる。ブレザーに血が付着するが、全く気にならない。

 ラクシェ。あの雄々しく逞しい肉体を誇った仲間からは、もう腐臭がしていた。この土地の強い熱波により、肉体の腐食が早まっているのだ。

 どこから湧いたのか、黒い蝿や薄汚い獣が、ラクシェの身体を這い回っていた。──思考が、白く染まる。

 

「ラクシェに……! ラクシェに、さわんじゃねぇええええ!!」

 

 素手である事にも構わず、ラクシェにたかる害虫共をこそぎ落とす。

 何度も、何度も! 

 ──グシャ、グシャ。

 湧いた獣や虫どもを叩き付け、死に追いやる。今の祐一の瞳にはありありと、「狂気」が宿っていた。

 だが、害虫も獣も諦めない。逃げ回っては、何度も湧いてきて……。

 どれほど振り払って居ただろうか。血塗れの祐一の姿が、そこにはあった。

 祐一の手は、獣とラクシェの赤黒い血で染まり、その頬もまた返り血で赤く染まっている。いや、それは祐一の流した涙だったのかも知れない。

 美しかったラクシェ。しかし、今は無惨な骸を晒していた。元々獣に貪られ、酷い状態だった遺骸。そこに祐一が怒りに任せ、害虫どもを何度もこそぎ落とし、暴れた事で、ラクシェの美しかった筈の皮膚は、ボロボロで今にも剥がれ落ちようとしていた。

 

 祐一は、目を限界まで見開き、項垂れ、呆けた様に言葉を漏らす。

 こんなのが……。 

 仲間の……。友達の……。勇者の……。

 最後なのかよ……。

 もう、心が折れそうだった。茫然と、振り払う体力も無くなりった祐一はラクシェの死骸をかき抱き言葉もなく見詰める。 

 

「満足したかのう、小僧」

 

 無感動な声が聞こえた。振り向くけばそこには、パルヴェーズが立っていた。

 闇が世を覆う世界にあっても、パルヴェーズはどこか輝いている様にも見えた。

 

「パルヴェーズ……。ラクシェが……」

「ラクシェ……? おお。思い出したぞ。あの時、我が御していた馬か。ふむ、死んだか。しかし、此奴も我の役に立てて、本望じゃろうな。ほれ、立て小僧。さっさと往くぞ」

 

 そう尊大な態度で、そう言い捨て、歩き出した。

 ああ……。あんなにも一緒だったのに……。

 今はもう、なに一つ、通らない。

 

 ──祐一は、何も言わなかった。

 

 



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その神の名は───。

 シーラーズの街へ着いた。バンダレ・アッバースからパルヴェーズが向かっていた街は「シーラーズ」であったのだ。

 そこへイランに舞い戻った祐一達は、然程時間も掛けず辿り着いた。呆気ない。そう、表現してもいい程に。

 結局ラクシェの遺体は大地に晒したままだ。

 歩き出したパルヴェーズは、待ってくれる気配は無く急がねばならなかった。

 手早く合掌し、懺悔の言葉を告げるだけに留めた。

 何も出来ない自分が酷く怨めしかった。

 ただ、ラクシェの鬣……遺髪だけは、持って来た。

 せめて、何か形見になる物を……。と思ったのだ。時代劇でよく形見として、髪を持っている描写を祐一は知っていた。

 しかし、ラクシェから鬣を毟り取る。その時の気分は、吐き気がするほど最悪だった。

 まるで、恩人の死体を暴いている様で……。もう、二度としたくない経験だった。

 

 そして辿り着いたシーラーズの街。

 シーラーズは詩とバラで有名な美しい街だ。多くの詩人を生み出し、今でも学術都市として有名な街。元はオアシスであり、過酷な土地であるイランでありながら、気候も涼しく風情のある街である。

 夜でも煌々と輝く灯りに照らされたバーザールや、美しい街並みがいくつも並ぶ街を歩く二人。

 ふと、かつてのパルヴェーズと一緒なら、楽しめたのに……。そう女々しい考えが浮かぶ。だが祐一は、そう思って仕方がなかった。

 

 パルヴェーズは悠然と歩き、祐一はその後ろをついて行く。祐一には、今のパルヴェーズと肩を並べて歩く事が、酷く憚られた。

 でも、自分とパルヴェーズの距離が開く毎に、パルヴェーズの心も離れて行く気がして自然と足早になってしまう。

 真夜中と言っても良い頃だったが、人通りはまだ多かった。

 パルヴェーズは美しい容姿をしている。どこに居ようとも、民衆の目を惹き付けれ止まない、華のある美貌を。だと言うのに、人々はパルヴェーズを視界にすら入れず素通りして行った。

 そんな違和感に気付き、眉を顰める祐一。

 

「誰も、我を見ぬ事が不思議か? 小僧」

 

 パルヴェーズが、こちらを見る事もなく話しかけて来た。それも、祐一の胸中を完全に理解した上で。

 明らかに、人間が出来る様な事では無い。

 祐一は、どこか諦めた様に……

 

「まあな」

 

 短く答えた。

 

「ふっ。我ら神が人の世に降りれば、人は何かと騒ぐからのう。煩わしい事、この上ない。故に、我が人に見る事が出来るかどうか決め、必要な時に姿を現す事にしておる」

「ああ、そう言う事か……。お前自身が決めてるんだな」

「まあ、人の前に姿を現すどころか、そもそも人間の街に降り立つ事すら、不快ではあるが……。ふふ。しかし我は今、完全なる復活を前に気分が良い。それも許そう」

「そうかよ……」

「小僧。おぬしはどこかで、夜を過ごすと良い。我もまた、戦いを前に英気を養わねばならぬのでな。彼の地にて行う最後の決戦は、やはり、夜明け。陽光が世を照らし出す朝が相応しい。時間が来れば、呼ぶとしよう。──では、一時の別れじゃ」

「あっ! 待てよ!」

 

 パルヴェーズは、そう言うと、もう消え去っていた。影も形も無い。いつ消えたのかも、本当に居たのかも、わからない。

 祐一はしばらくパルヴェーズの居た場所を見詰めていたが、やがて歩き出した。

 

 ○◎●

 

 シーラーズの街。

 その繁華街から外れ、人通りも疎らな場所に、祐一は身を潜めていた。

 もし、誰かに見つかって、素性を聞かれれば厄介だと思ったからだ。そして、警察に突き出されれば、目も当てられない。流石に祐一も勘弁して欲しかった。

 暗い路地裏の隅。

 美しい街並みの暗い部分を映し出す様に、ゴミが散乱し、壁は汚れ、薄汚い鼠達が足元を這い回る場所に、祐一は居た。

 彼は座り込み、両の手のひらで顔を覆い、表情は窺えない。しかし、悲嘆に暮れている事は容易に察することが出来た。

 

 ───俺は、どうすれば良いんだ……。

 答えが見つからない。もう、何時間もこうしている気がする。

 だが、どれほど考えを巡らせても、祐一には答えが出なままだった。

 時が経つにつれ、状況は一つ、また、一つと悪くなって行く。

 思考が空回っては、自罰的な考えばかりが浮かぶ。

 

 俺が……故郷から出さえしなければ……何も起きなかったんじゃ無いか……。そんな考えが浮かぶ。

 そうだ……。

 俺はやっぱり、最初っから何もしない方が良かった……。

 家出なんてしないで、頑張って皆の誤解を解いて……。

 そうじゃなくても、俺があいつと旅をせず、あの町で別れて、どこかの公共機関に保護してもらって、故郷に帰る。

 ……そうした方が良かったんじゃないか。

 

 悲観的で、責める様な考えが、祐一を染め上げていく。心を潰そうとする考えが浮かんで来る。

 

『パルヴェーズと、旅をしない』

 

 そんな考えが浮かんだ瞬間、全身が沸騰するかの如き、激情が弾けた。

 ──違う! 祐一は、振り払うように首を振る。

 そうじゃない! そうじゃないだろ、木下祐一! 

 俺が故郷を出なくても、パルヴェーズは化身を集める事に変わりは無かった! どうやったって、パルヴェーズは、変わってしまったんだ! 

 

 ──あの『まつろわぬ闘神』って奴になったんだ……っ! 

 

 そこまで考えて、そうだ……。と思う。

 俺が、あいつと旅をしなけりゃ、パルヴェーズの変化は早まっていた。

 『迫りくるものに呑まれるだけ』。あいつも……パルヴェーズも、そう言ってただろ……。

 俺は、あいつを少しは変える事が出来たんだ! 

 それは、祐一の自分勝手で独り善がりな考えだったが、彼はそれを信じた。もう、そんな都合のいい考えにすがっていないと、心が折れてしまいそうだったから。

 そこまで考えて、今度は暗澹たる未来へ、思考が移る。

 でも、これからどうするんだ……。

 最後に残った化身、パルヴェーズが『白馬』って言ってた化身。

 それを取り込めば、もしかしたら、あいつはもう……。

 諦観が祐一の心を満たす。

 誰もが投げ出し、逃げ帰っても不思議ではない状況に祐一は、放り投げられていた。

 だが、彼は不思議と「逃げる」と言う選択肢は取らなかった。そもそも、その選択肢自体、頭の隅にすら思い浮かんでいない。

 嘗て友を拒絶してしまった経験が、「トラウマ」と言ってもいい出来事が、彼から其の選択肢を奪っていた。

 消えて行った仲間達が。約束が。誓いが。

 祐一を強く縛める鎖となって絡め取り、逃げ出す事を許さない。

 

 ──答えを……。誰か、答えをくれよ……。

 

 故郷の幼馴染を思い出す。

 秀、お前となら、何だって出来た。不可能なんて無い。今、お前が隣に居てくれたなら、どんなに頼もしいだろう……? 

 隆、お前は強いよ。おとぎ話の英雄みたいだ。なあ隆、俺に少しだけでいいから、お前みたいな強さと勇気をくれないか……。

 秋、いつも困った時は、答えを出してくれた。そんなお前ならこんな状況でも、答えを見つけられるんだろうな……。

 勇樹、お前の明るさが羨ましい。何時も笑って前を向けるお前が。誰だって笑わせて来たお前が。

 

 答えがありさえすれば……俺は、それに向かって突っ走るから……。誰か、お願いだから……。答えを……。

 思い浮かぶ誰もが、今の自分より、強く、賢く、要領良く、強かで、頼もしく、羨ましく見えた。

 妄想の中の友人たちを思い描き、縋る祐一。

 

 だが祐一は、彼らの誰か一人にでも、今の自分の役目を変わろうとは考えなかった。

 

 祐一は、心の奥底で決めていたのだ。

 この役目は、己が果たさなければならない、と。

 絶対に譲りたく無い、と。

 それを祐一自身は気付いていなかった。だがそれは、彼の意志の強さであり、彼自身の強さを表すには十分なものだった。

 そして今まで歩んで来た旅の確かな証明でもあり、彼自身の成長の証であった。

 

 祐一は、おもむろに懐から、写真を取り出す。

 暗い路地裏でも、月明かりが少しは照らしてくれる。

 月明かりに照らされた写真。

 写真に写る人々は、誰もが笑っていた。

 町の人々も。

 祐一も。

 そして──パルヴェーズも。

 

 ああ、やはり……。写真のパルヴェーズと、今の変わり果てたパルヴェーズは、同じだった。

 どんなに祐一が、パルヴェーズでは無いと否定しようと……。

 パルヴェーズ自身が「違う」と言おうと……。

 写真をみた瞬間、祐一には「同じだ……」とストンと納得してしまった。

 パルヴェーズは、完全に別の存在へ変遷した訳ではない……。根っこの部分は同じなのだと、祐一はやっと気付く事ができた。

 パルヴェーズがどれほど変わってしまおうと、それは変わらない事実だった。

 

 ───なら、俺は今までやって来た事を、続けるだけだ。

 俺は、友達を信じる事しか出来ない。

 なら、最後まで、信じ抜く。

 それでも……。友達が……、間違え……てた……なら……。

 

 そこまでだった。

 祐一の意識が薄れて行く。祐一にとって、今日と言う一日は、家出してからこれまで、群を抜いて辛い一日だった。

 化身の襲撃。ラクシェの死。『猪』との出会いと別れ。パルヴェーズの変貌。

 これほどの絶望が訪れた時は無かった。

 もう、祐一は疲れ果てていた。

 肉体は、まだ動かせる。だが、精神は壊れる寸前だった。

 今日起きた一つをとっても、情愛深い彼には、耐えきれない絶望だった。それでもここまで耐え抜いたのは、偏にパルヴェーズへの優心故であった。しかし、ここまで耐え抜き疲れ切った心は、限界だった。

 

 これ以上傷付かないよう、電源を落とす様に、祐一は意識を閉じた。

 

 

 ○◎●

 

 

「──ここにおったか、小僧。刻限じゃ、起きよ」

「……ん、……パルヴェーズか。そうか、──もう、行くんだな」

「うむ。もうすぐ夜が明ける。はは。遂に時は来た……!」

 

 そして、パルヴェーズは微笑むと、

 

「ふふふ。少し意外であった。我は、おぬしが、逃げるものとばかり考えておったが……。ふふ、なかなかどうして、肝が座っておる。その時には打擲せねばならないと思っておったが……。はは、褒めてやろう小僧」

「……」

 

 言葉を交える度に、哀しみが心を埋める。

 笑いあった嘗てのパルヴェーズが、別の何かへ変わっている事を、強く突き付けられる。

 パルヴェーズなら……共に旅をしたパルヴェーズなら。

 あんな言葉は言わない。友を疑う言葉なんて、吐かない。

 

 だと言うのに……。

 今のパルヴェーズは、超然と遥か高みから、祐一を見下ろして居るだけだ。そして、今までの旅の記憶を忘却したかの様な言葉を紡ぐのみ。

 ──それでも……!

 祐一は、思わず現実から目を背けそうな自分を叱咤する。目を瞑って、胸ポケットにある写真を強く意識した。

 

 ○◎●

 

 ペルセポリス。

 シーラーズから北東にある遺跡である。

 嘗てはアカイメネス朝の大王宮として、ダレイオス一世が築き始めた物である、しかし、古代ペルシアの栄華を極めた王宮も、時の王、アレクサンドロス大王に占領され、大王手ずから、火を放ち灰燼と帰したと言われている。

 ペルセポリスには、多くの柱や基壇の壁面があり、そこかしこに当時の情景や、神や御姿動物を象ったレリーフが施してある。

 嘗ての栄えた、古代ペルシア帝国の聖都。イランの聖域とも、呼べる場所である。

 

 ──そこが彼らの選んだ、決戦の地であった。

 

 夜明け前。空は未だ陰り、あと幾許かで陽が登る暁時。

 祐一が、このイランの地に迷い込んで、これまで。起床する時間は決まってこの時間だった。

 

 ふと、そんな事を思い返す。と同時にパルヴェーズとの旅を思い起こしては、感慨に耽る余裕がある自分が酷く意外だった。

 目の前を歩く友は、かなり機嫌が良い様にも見えた。まるで長年探していた物が見つかった様な……そんな雰囲気にも見える。

 前を歩いていたパルヴェーズは、唐突に足を止めた。

 どうしたのか疑問に思い、周囲を見渡す祐一。気付けば祐一達は、ペルセポリスの中心地に居た。

 何かを象ったレリーフが並ぶ奇矯な遺跡群に、祐一は、少し寒気を覚えた。獣や人型のレリーフの目が、こちらを見据えている気がしてならない。

 

「───来たか」

 

 パルヴェーズが、呟く。

 おもむろにパルヴェーズは東を見遣り、右腕を振った。

 その瞬間だった。

 

 ───突然の出来事だった。

 

 曙光が弾けた! 莫大な光が、世界を照らす。

 視界一杯に横たわる大地。それを遍く照らし出して余りある光に、祐一は咄嗟に目を瞑ってしまった。

 しかし、目を瞑る瞬間、確かに見た。

 

 ──天高く聳え立つ大高峰を! ──天駆ける神馬の姿を! 

 

 赫々たる日輪の如き輝きが、視界を奪う。しかし祐一は、必死に目を凝らしながらも、化身の姿を目に収める事が出来た。

 白馬だ。全ての毛並みは白く、そして光輝いている。

 首筋よりたなびく鬣が、かの化身の威風堂々たる姿をより一層引き立てている。

『白馬』の勇壮無比なる体躯には、黄金に輝く装飾品や馬鎧が散りばめられ、その美しさは、龍に翼を得たる如しである。

 月毛色に輝き、馬と言う種族の頂に立っていたラクシェでさえ、かの神馬の前には霞むだろう。

『白馬』は、パルヴェーズを睨み据え、一直線にこちらへ駆けて来た。かの化身が走り去った天の道は、人など容易に呑み込みそうな、紅蓮の炎で溢れかえっていた。

 最後に残った化身。

 やはり今まで相対してきた化身達の中でも最高位の強大さだ……! 祐一は、戦慄と共に思う。

 

 それに対しパルヴェーズは、変わらず悠然と微笑むのみ。

 両者の距離は、瞬きする暇もなく高速で近付く。

 祐一が、その優れた反射神経を持っていなければ、見切る事は叶わなかっただろう。──だが、祐一には見えた。

 パルヴェーズと『白馬』、その両者が激突する瞬間を! 

 ──勝負は一瞬だった。

 パルヴェーズは、虚空より黄金に輝く剣を取り出し、たった一太刀を振るった。肩に力を入れていない、軽い一振り。

 しかしパルヴェーズは、その一太刀で、偉駆を誇る『白馬』を袈裟斬りに斬り裂いてしまったのだ! 

 

「───やめろぉおおお!!!」

 

 思わず祐一は、叫んでいた。パルヴェーズが、もはや取り返しの付かない所まで行ってしまうと直感で気付いたから。

 まるで、悲鳴のような嘶きを上げ、『白馬』はキラキラ光る粒子と変わり、パルヴェーズへ溶けて行った。

 

 ───呆気ない最後だった。これで、終わったのだ。

 

 パルヴェーズの使命が。

 祐一の手伝う、と言う約束が。

 彼らの旅が。

 

 同時に祐一は、思う。───()()()()()()()()()()……。と。

 

 

 ──予兆は、幾つもあった。

 

 

「ははは」

 

 

 異常気象。地殻変動。

 ヤズドに現れた謎の巨大な影。

 アラビア海で起きた、旅客船沈没事故。

 とある町の付近に残された、大量の落雷痕。

 ミナーブとバンダレ・アッバースを結ぶ道での大隆起。

 バンダレ・アッバースに出現した、怪異。

 シーラーズ郊外で発見された、不可解な痕跡の数々。

 何者かによって破壊された、ヴァン湖。

 ペルセポリスの空に現れた、二つ目の太陽。

 

「───はははははははははは!」

 

 そして、ペルシア全土に響く、恐ろしい哄笑。

 

 もはや誰もが恐怖で震え、戦慄した。

 

「ははは! ようやく、じゃ! ようやく取り戻したぞ! 人の世に顕現し、何の因果か失われておった、───()()()()!」

 

 生きとし生ける者達、もの言わぬ者達、煌々と輝く太陽、広大な大地。

 その全てが異変を感じ取り、動ける者は少しでも遠くへ逃げ、動けない者はただのひたすらに身体を震えさせた。

 そして、聞いた。───()()()()()()()()()! 

 

「ヴァハグン、ヴァルラグン、ウァサガ、アルタグン、バフラー厶……。西方での名はヘラクレス。東では執金剛、或いはインドラとも。ふふ。我が御名は数あれど……今の我には、やはりこの名こそが相応しい……!」

 

 ……だが、一人だけ逃げず、己の意志で立ち、前を見据える「()()」が居た。

 人間にして、かの軍神の友である少年

 ──「木下祐一」だ。

 

「我が名は『ウルスラグナ』!!! 

 常勝不敗の軍神にして、あらゆる障碍を打ち砕く者也!!!」

 

 おそらく……人は、それを───。

 





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祐一くん一行の軌跡です。お暇でしたら。


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天に弓引く者達

 完全なる存在へ至ったパルヴェーズ……いや、『ウルスラグナ』は、悲し気な瞳で己を見据える少年へ語り掛けた。

 

「喜べ小僧! 我は使命を成し遂げ、『常勝不敗の軍神』たる『我』へと回帰した! ははは! 何と気分の良いことか!」

「……」

「おぬしも喜びの余り、声も出ぬか! 

 ……ふふ。やはりこのような目出度い日には、人間どもは喜び咽び泣き、供物を捧げねばならぬ。そうは思わぬか?」

「供物、だって……?」

「うむ。勝利の化身にして常勝不敗の軍神たる我が求める供物。それもまた勝利に他ならぬ。闘争の中での勝利を、じゃ」

「闘争の中での……勝利……?」

「左様。おぬしと旅をして思ったのじゃが、現世には我が物顔で闊歩する人間どもが溢れておる。……安寧に微睡む者、波乱に惑う者、奢侈に溺れる者、赤貧に喘ぐ者……そして特にこの地には、多くの民族、教義、出処、性別……正に、坩堝の如く入り乱れておる」

「……それで?」

「ふふ。まあ、そう急くな。先ず手始めに、このペルシアの地全土での闘争じゃ。この地には、今言ったように、ありとあらゆる民族がおる。おぬしのような東方の民族もじゃ。それを争いに争わせ、最後に残り勝利を捧げた者が、我と鉾を交える栄誉を授かる……。はは。どうじゃ、小僧? 血湧き肉躍るであろう?」

 

 怒りに震えた。

 許せなかったのだ。

 今までのパルヴェーズと歩んだ旅を汚された気がして。

 俺は、そんな事をさせる為に、使命を手伝った訳じゃない! 俺は、お前に笑って欲しかったから! お前に喜んで欲しかったから! 

 俺は……俺は! そんな事をするお前を、見たくない……! 

 溢れる激情が祐一を、どうしようもなく苛んだ。

 知れず涙が、頬を伝う。 ───だが、眼には、燃える様な強い意志。

 

 激情を抑え込み、変わり果てた友へ……パルヴェーズへ語り掛けた。

 

「なあ、パルヴェーズ……」

 

「変な事、言ってないでさ……。旅を続けようぜ? ……まだ、俺達が見た事無い様な景色とかさ、ラクシェみたいに変な奴との出会いもあるかも知んない。先の事なんて分かんないけどさ、楽しい事や色んな人たちがいっぱい居る筈だろ!」

 

「俺、言ってなかったけど、スロヴァキアって国に行きたいんだ! 俺も良く知ってるわけじゃないけど、やっぱヨーロッパって、綺麗だし、パルヴェーズもきっと気に入るって! あ、そうだ! パルヴェーズも、どっか行きたい国ないのか? 勿論、俺も付いて行くぜ!」

 

「あ、それに、俺の故郷にも行かなくちゃな! 約束したろ? 俺の故郷に居る友達は、おもしろい奴らばっかだからな! 秀、隆、秋、勇樹……他にもたくさん居る! パルヴェーズも気に入るさっ! 約束するっ!」

 

「……だからさ、旅を続けよう! パルヴェーズ! お前との旅がこれから、どんな旅になるかは、まだ分かんないけどさ! 絶対楽しい旅になる!! 断言する!!」

 

 祐一は独り、喋っていた。 もう、喋っていないとどうにかなりそうで。

 語り掛けるパルヴェーズを、どうにか翻意させたくて。気付けば、ずっと、ずっと、喋っていた。

 だけど、何時までも言葉は続かなくて……。

 いつの間にか、言葉は途切れてしまって……。

 それでも祐一は、パルヴェーズを信じた。

 彼は、必ず戻ってくる、と。

 友は、必ず帰ってくる、と。

 ──最後の最後まで。

 

「───ならぬ。……それに、おぬしは聞いて居なかったのか? 我はパルヴェーズなどと言う名では無い。我が名は『ウルスラグナ』。勝利の具現にして、あらゆる障碍を打ち破るものじゃ。覚えておけ」

 

 冷たい言葉。

 冷たい視線。

 冷たい表情。

 

 ──ああ。昨日まで流れていた在りし日々が、酷く遠い。

 パルヴェーズの心が、何処にあるのか判らない。

 今まで、積み上げてきた物は……無意味だったのだ……。

 祐一は、悔しくて涙が出た。

 決して今まで流していた、悲しみの涙では無い。

 友達を、止められなかった……無力な己への涙であった。

 

「──なんの真似じゃ、小僧?」

 

 気付けば祐一は、拳を握っていた。

 変わってしまったパルヴェーズへ、拳と敵意を向ける。

 友を……止める。

 俺の命を掛けるくらいで、少しは止められるのなら……! 

 祐一は、一点の曇りもない強い瞳で、友を見据えた。

 

 

 ○◎●

 

 

「──よせ、小僧。人如きが、神に敵うものか。今ならばこれまでの友誼に免じ、一時の気の迷いとして許そう。さあ、拳を降ろし、また我が「語り部」として侍るがよい」

 

 ウルスラグナが、祐一へ傲然と言葉を放つ。

 愚か者、と。

 

「───やだね!」

 

 愚か者で、結構! 元から、俺は賢くない! 

 もっと賢かったら、友達一人くらい、とっくに止めれてる!! 

 

「俺は、そんなになっちまったお前を、変わってしまったお前を、止めなくちゃならない! 俺は、皆に怖がられて嫌われるお前を、見たくない! ……俺みたいに、嫌われて欲しくない……! 

 ──友達のそんな姿、死んでも見たくねぇ!!!」

「強情な小僧じゃ。ならば、仕方が無い。───我に従え、小僧。我が意思、我が言葉に従い、我が庇護を受けるが良い!」

 

 言霊だ。透明で恐ろしい力を纏った呪言が、祐一を絡め取り、屈服させようとする! 

 今までウルスラグナが何度も使ってきた力。しかし、そこには嘗て彼が説教や冗談で使っていた、暖かみは無い。

 ただ冷たく、刺々しさに塗れたコレは、全く別のモノにしか祐一には感じられなかった。

 こんなものが、あいつの力であって堪るか! 

 俺が受け入れるのは、パルヴェーズの言葉だけ! 

 こんな紛い物に従う訳がねぇ!!! 

 

「──うるせぇ! そんなモンで俺を止めようとしてんじゃねぇ! 俺は! 何が何でもお前を止めるぞ!!!」

 

 己の力に絶対の自信を持つウルスラグナ。

 当然だ。

 その力を用いて、これまで常勝不敗たる己の存在意義を示し続けていたのだから。最も多くの勝利を手中に収め、多くの悪神を討ち滅ぼしてきた、千変万化にして輝かしき無敗の軍神。

 その強大な力の一端を見せれば、どんな強さを誇る人間でも、如何なる魔神とて、膝を付き慈悲を乞い願った。

 だが今、己が誇り絶対の自信を持つ力に、罅が入った。──ただの矮小なる、人間の手によって! 

 なんと……! 

 思わず口から声が漏れ、驚愕に目を瞠るウルスラグナ。

 それは、一瞬の隙! 

 この軍神と何千何億と相対し、一度だけあるかないかの、千載一遇の好機! 

 祐一の判断は早かった。

 足元の、硬い大岩を大きく持ち上げ、驚愕に固まったウルスラグナへ殴り掛かった。

 まるで豹の如く俊敏な動きと、獅子の如き力強さで、ウルスラグナへ迫る。 

 今の彼は、全力だ。

 己の四肢に宿る全力全開の膂力は勿論、臍下丹田より練り上げた内功も加えて、木下祐一が放つ全身全霊の一撃であった。

 例え格闘技の世界チャンプや武林の至尊に至った者達でも、祐一の閃電の如き速さと、敵対者を圧倒する覇気に呑まれ、その強烈な一撃から逃れる事、敵わなぬだろう。

 そう。

 それが、───神でなければ……。

 ひらり……。ウルスラグナはまるで柳の如く、祐一の渾身の一撃を躱す。全く歯牙にも掛けない圧倒的な差。

 嘗てまだウルスラグナがパルヴェーズであった頃よりも、大きく途方も無い歴然たる差がそこには大海の如く存在していた。

 右に身体を傾け、紙一重で避けたウルスラグナが言葉を放つ。

 

「聞き分けの悪い小僧じゃ。言って聞かせ、判らぬならば、打擲し、躾ねばのう」

 

 攻撃を外し、倒れ込む祐一の耳に声が響く。嫌な予感が祐一の心を覆う。

 果たして、その予感は直ぐ様、現実となった。

 ───メリメリメリ……! ウルスラグナの均整の取れた四肢から、鋭い蹴りが放たれたのだ! 

 ウルスラグナの左足が祐一の腹部へめり込む。

 祐一は、意識が飛びそうな程の痛みと衝撃、そして身体の中で骨が軋み折れ、内臓がブチブチと千切れる様な、嫌な感覚を覚えた。

 堪らず胸に溜めていた空気が漏れ、それと共に、粘り気を帯びた唾も吐き出される。

 意識が明滅する。膝を付く。

 ──たった一撃。その、たった一撃で、祐一は瀕死の状態に陥った。

 蹲まり折れそうな心を、必死に立て直す。

 戦意を掻き集め、右手をこれでもかと力一杯握り、ウルスラグナへ掬い上げ様なアッパーを放つ。

 ──やはり、避けられる。

 次の瞬間、世界が回った。伸び切った足を、ウルスラグナに掬われたのだ! 

 地面に激突する直前に何とか手を付き、飛び退る。

 手を付いた衝撃で、腹部を中心に猛烈な痛みが走る。涙が出そうな痛みを堪え、胃から漏れそうになる吐瀉物もまた堪える。

 飛び退り、地面に着地する。

 ──その瞬間だった。全身が、総毛立つ。

 身体の穴という穴に、槍を付き入れられた感覚。

 だが、これまで出会ったどの化身と相対した時より、何倍も恐ろしい気配! 

 咄嗟に亀の如く腕と脚を折り曲げ、守りを堅める。

 目を開き見えた物は、パルヴェーズの右足……上段への回し蹴りだった。

 祐一には、大型クレーンの先に付いている巨大なフックが、凄まじい勢いで迫って来る、そんな光景を想起した。

 だが、そんな余裕のある思考は直ぐに終わった。

 世界が弾けた。それほどの衝撃。

 守りを堅めた筈の腕が、使い捨ての箸の如く叩き折れる。守りを突き向けた、回し蹴りが祐一の顔面にまで届き、吹き飛ばされる。

 反撃なんて考える隙すらない。

 怒涛の如く、流麗で、鮮烈。そして、苛烈な暴力の嵐が祐一を襲う。そこに一切の慈悲と躊躇はない。だが、祐一の息の根を止める迄には至らない。

 当然だろう。

 これは、罰なのだから。「神」と言う、神聖不可侵、絶対の存在に対して反抗した罰。己が分を分からせる為の罰である。

 死にそうなのに、死ねない。ただ只管、嬲られるだけ。

 

 そうして、祐一は軈て力尽きた。

 ウルスラグナより放たれる攻撃が止み、糸の切れた傀儡人形の様に、崩折れる。

 倒れ伏し意識が朦朧とする祐一。

 もう限界だった。

 確かに、ウルスラグナによる攻撃の苛烈さは並ではない。なるほど、彼が言っていた己が闘神と言う言葉に、嘘偽りはない。

 だがそれよりも、祐一には友であった存在に嬲られ続けると言う出来事が、只管に心を穿った。

 共に旅をし、語り合った友。助け合い、笑い合った相棒は、『ウルスラグナ』なんて言う聞いた事すら無い「神」だと言い出して。

 肉体の痛みなんかよりも、心が保たない。もう祐一は、どうにかなりそうだった。

 唐突に、首を掴まれ引き上げられる感覚。ウルスラグナが、祐一を持ち上げたのだ。

 片腕一本で小枝でも拾う様に、祐一を持ち上げるウルスラグナ。それ一つとっても、尋常では無い膂力である。

 朦朧とする意識の中、祐一は力なくウルスラグナの腕を掴む。

 もう、それだけの力しか残っていなかった。

 

「小僧。これで思い知ったか? 己の愚かさを。そして、己がどれほど矮小で、非力な存在かも理解したであろう。

 ──さあ、まだ遅くはない。己が過ちを認め、我が『語り部』として任を全うせよ」

 

 それでも、祐一の答えは変わらない。

 

「い……や……だ……」

 

 ──小僧……! 

 

 初めてウルスラグナが、感情を露わにした。その美しい柳眉を顰め、翠瞳は怒りに細めれる。

 だが、その変化も一瞬だった。

 次の瞬間には、凍てついた能面の如き無表情と、無慈悲な色を纏った双眸へと変わり、祐一を睨み据えた。

 死ぬのか……。祐一は、思う。

 こいつを、止められなかったなぁ……。

 諦めた心が、祐一と言う少年を、酷く澄んで悟った心境へと変化させた。死を前にしていると言うのに、酷く心は凪いでいて、どこか傍観者の如く、現実が遠くに感じられた。

 ──でも、まあ……パルヴェーズに……ああ、今はウルスラグナだっけ? ……に殺されるのも……友達に殺されて死ぬのも、悪くないかもな……。

 そんな諦め切った、潔いとも言える考えすら生まれてしまって。

 この旅は、辛くなかったか? ……って、聞かれたら頷くなんてとてもじゃないけどさ……。

 こいつに助けてもらって……笑い合って……。

 うん。悪くない旅だった! いい人生だった! 

 今の祐一は、胸を張ってそう言えた。

 もう血を失い過ぎて、霞がかった視界の中、最後にウルスラグナを見る。己の最後は、友の顔を見ながら終わりたい。

 そんな考えだった。

 そして、旅をして、共に過ごした祐一だから───判った。

 

 

 パルヴェーズは、悲しげだった。

 

 

 ────ッ! 祐一は激怒した。

 

 

 情けない自分に! 

 無力な自分に! 

 この輝かしい友人に、友殺しの汚点を作ろうとしていた自分に! 

 戦いなんて手段に逃げてしまった自分に! 

 最後まで一緒に居ようと思えなかった自分に!! 

 諦めてしまった自分に!!! 

 

「───うぉおあああっ!!」

 

 祐一の目に活力が戻る!  

 死の直前にあった者とは思えない、裂帛の気合が迸る。 裂帛の気合は、衝撃波の如く辺りへ拡散し、ウルスラグナの艷やかな髪を揺らす。

 ウルスラグナは、瞠目した。

 この少年と相対し、二度目の驚愕。

 あの死の淵に追いやり、全てを諦めていた少年は、遥か彼方へ消え去ったのだ! 

 今、目の前に居るのは、往生際悪く足掻き続ける、しかし気高き『戦士』であった! 

 

「──ぬぅ!?」

 

 祐一が掴んでいた、ウルスラグナの腕。その腕が、マグマの如き熱さを感じ、思わず祐一を離してしまった。

 見れば、祐一に掴まれた腕は、黒く焦げ、黒煙が舞っていた。

 止まらぬ痛みに腕を抑え、『雄羊』の権能を使う。

 そして、祐一の方を見遣った。

 再び瞠目する。

 

 ───祐一の手は燃えていた。

 否、その手に収められらた「枝」……『聖枝(バレスマ)』が燃え盛っているのだ! 

 その聖枝は、夜闇に輝く松明の如く辺りを照らす。

 祐一は日輪如き炎を燃やす聖枝を、ウルスラグナの腕へ押し付けたのだ。

 日輪───つまり、光明(ミスラ)の気配厚き聖枝を! 

 聖枝はとある神に由来する『神具』。 ウルスラグナとしても、とても縁深い光明神に由来を持つ『神具』である、それ故に祐一の持つバレスマの来歴を彼は看破した。

 

「……小僧! そのバレスマ、かの光明神が潜む湖で手に入れたか! 

 ───おのれ、『猪』め! かの湖に潜み、小僧を誘ったのはこの為であったか!」

 

 そう。祐一の手中に収まっているバレスマ。それは、『猪』が祐一へ託した物だった。

 

「しかし、その枝一つで何が出来る!? 己が命を燃やす炎……確かに、我が肉体を傷付ける事は出来ども、それで、倒れる我ではないぞ!!」

 

 確かに神具でもあるこの聖枝、名付けるなら『ミスラの松明』だろうか。

 かの光明神が石より誕生した時に所持していた2つの『神具』……かの神が戦神である事を示す「剣」と、太陽と光の象徴である「松明」。

 その後者である松明と限りなく近い物が、祐一の手中に収まっていた。

 しかし、結局はただの松明でしか無い。神を殺傷出来る能力など備えてはいない。

 

 ウルスラグナの問い。

 その問いに祐一は、嘗てパルヴェーズであった頃に見せた、不敵な笑いで応えた。

 光明神たる、彼の神の職能は多い。

 契約、太陽、光、正義、再生、戦い、秩序、生ける霊、天軍の指揮官、世界主、雄牛を殺す者、皇帝の守護者、虚偽の破壊者──

 

 ───そして、友愛である。

 

 常勝不敗の軍神たるウルスラグナの主でもある……かの光明神。

 その力は強力だ。ローマ帝国の国教であるミトラス教の主神。ゾロアスター教の創始者ザラスシュトラでさえ、アフラ・マズダーにも比肩するかの光明神の名声に危機感を覚えたと言う。

 また、東方ではとある菩薩としても知られ、東西の世界に跨がるビックネームであると言える。

 正に、常勝不敗の軍神に相応しき主。

 かの光明神の言霊一つで、()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()

 その神性溢れる松明は、まさに対『ウルスラグナ』用の神具でもあった。

 だが、神の扱う不朽不滅の神具なのだ。人間如きが扱える代物ではない。それが、──常であれば。

 しかし、祐一は条件を満たした。神具を動かす条件を。

 語らい、友となり、友情を深めると言う条件を! 

 例え力無き人であっても、神具を扱う資格を得たのだ! 

 

『猪』に託された物と意味。初めは、何が何だか分からなかった。だけど、今なら判る。

 お前が、俺に何をさせたかったのか、今ならハッキリと分かる!! 

 ───お前は、俺に賭けたんだな! 

 己の根源となる存在が狂い、人に仇なす性を持ち始めた事。それに抗う手段として、このバレスマと俺を選んだんだ! 

 祐一は、笑う。

 そう言えば……俺はお前に名前を付けてやるって言って、出来ず終いだったな……。

 彼は、更に笑みを深め、語り掛ける。

 その約束、今、果たすぞ! お前の名前は……! 

 

「来い! 『()()()』!! 俺と友情を感じているなら! こいつを止めたいって思うなら! ならば、今こそ、その軛より解き放とう! ───盟友たる、「木下祐一」の名の下に!!!」

 

 

 ───ルオオオオオオオオオォォッ!! 

 

 

「小僧、おぬし!? ───ぬ、ぐぅうううううッ!!!」

 

 咆哮が聞こえた。

 嘗て、祐一を慰め寄り添ってくれた、異形の友の咆哮が。短い時間だったが、確かに感謝し、友誼を交わした友。無力さ故に、何も出来ず、助けられなかった友。

 だけど『ラグナ』は俺を信じてくれた! 

 俺に、この大切な枝を託したんだ! 

 ──ならば、今度は俺が全力で応えるのみ! 

 

 祐一は、思い出していた。

 イランと言う異邦の土地に迷い込み、友と歩んだ道程の全てを。

 木下祐一と言う少年の人生の中で、最良最高の時間。喜怒哀楽、全ての感情がそこにはあった。死と生をこれ程、近くに実感した事はない。

 一人の友人を、こんなにも深く思った事はなかった。

 助け合い、認め合った仲間との別れも、初めてだった。

 異形の姿。……でも友達になれると知った。

 その全ての記憶を、燃え盛る炎へと燃やし、昇華させる。

 ───何が何でも、あいつを止める! 

 力を貸してくれ! ラクシェ! ラグナ! 

 祐一は、おもむろに懐からラクシェの遺髪を取り出す。

 ──手の中で輝くバレスマへ、焚べる! 

 お前の想いも、持って行く……!! 一緒に、あいつを止めよう。なあ、そうだろ……? 

 

 さぁ……行こうぜ。ラクシェ……。

 

 祐一は、道半ばで倒れた友へ語り掛ける。

 答えなんて、帰ってくる筈ない。だと言うのに……

 

 ───ああ。共に……。

 

 ラクシェの意思が、胸に伝わって来た気がした。

 ──祐一は笑みを深め、叫ぶ! 

 

「──来いっ! 『ラグナ』ぁああああっ!!」

 

 燃え盛るバレスマを大きく掲げる。祐一の叫びに呼応する様にラグナの咆哮が響く! 

 命を燃やす! バレスマの光は、もはや太陽と遜色ないほど輝いている! 

 

 ───果たして、時は訪れた。

 

 ─ルオオオオオオオオオォォッ!!! 

 

 ウルスラグナの美々しい肉体を突き破り、魁駆を誇るラグナが現れたのだ! 

 何という威駆! 何という威容! 

 だが、これほど頼もしい味方は居やしない! 

 嘗て湖で出会った時よりも、大きく、そして雄々しい姿。

 根源たる存在より叛逆し、友の元へ駆け付けた者の姿であった! 

 祐一は、ウルスラグナが誇る十の化身が一つを叛乱させ、己が陣営へ迎え入れたのだ! 

 

「──やってくれたな『猪』! そして、小僧!! 我に、造反するだけでは飽き足らず、我を傷付け、『雄羊』の化身までも穿ちおったか!」

 

 激怒! 赫怒! 忿怒! 

 ウルスラグナの怒りの感情が、反逆者たる祐一とラグナへ襲い掛かる! ───だが、その様な怒気で怯む者たちではない!! 

 ウルスラグナの言葉に、祐一は不敵に笑い、ラグナは雄叫びを上げる!! 

 

「───ふんっ! 我を出し抜いたその手腕、先ずは見事言っておこう! しかし、これしきの事で倒れる我はないぞ!!!」

 

 ウルスラグナは、満身創痍であった。

 

 腹部にはラグナが這い出てきた事によって、大穴が空いており、その穴から出る夥しい流血により外套が赤く血に染まっている。

 内部の被害も甚大だ。ラグナが這い出る際、暴れ回った影響で、幾つかの権能が上手く機能しない。一番酷いのは、ウルスラグナの不死性を支える『雄羊』の化身だ。長く休養を取らねば、欠片も使う事叶わないほど、粉々に破壊されている。今の彼に宿る不死性は、酷く薄まっていた。

 満身創痍、と言う言葉がこの上なく当て嵌まった。

 

 対峙する敵の陣営は、意気軒昂。

 無傷で立つ、強大な力を誇る破壊の化身、『猪』。

 死の淵に立っていたが『猪』の恩恵により全快した、人類最高峰の能力を持つ戦士「木下祐一」。

 ──正に、絶体絶命。

 だが、かの常勝不敗の軍神に「撤退」の二文字はない! 

 叛逆者共への怒りと、強者への戦意を昂ぶらせ、敵を見据える。

 ウルスラグナは、たまわらぬ強敵の出現に、口角を釣り上げ───笑った。

 イランの大地。

 世界を遍く照らす太陽と、嘗ての聖都のみが見守る大地にて、人と神の戦いが幕を上げる! 

 戦意を迸らせ、人知らず世界の命運を懸けた闘争にのめり込む者達! 

 

 

「───う、らぁぁあああああっ!!!」

 

「───おおおおおおおおおおッ!!!」

 

 ────ルォオオオオオオォォッ!!! 

 

 

 三者三様、雄叫びを上げ、大地を蹴る! 

 さぁ、開戦だ───!!! 

 

 ───最後の戦いが始まった! 

 

 



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最後の敗北

 ───ペルセポリスは崩壊した。

 満身創痍のウルスラグナへ、打倒せんと迫る祐一とラグナ。

 だがウルスラグナは驚異的な粘りを見せ、常勝不敗たる所以をこれでもか、と見せ付けていた。

 両陣営とも攻撃を与えども、決定的な一撃を与え切れない。

 戦況は膠着状態へ陥っていた。

 ───ウルスラグナへ挑む勇者達。一匹の神獣と、一人の人間である彼ら。

 一方はウルスラグナ十の化身が一つの神獣。圧倒的な力を見せ、一撃で全てを粉砕するラグナだ。だが今は根源たるウルスラグナに叛意を示して挑みかかっている。

 かの神獣が、その牙を、その四肢を、その声を振るえば忽ち石でできた遺跡など灰燼に帰した。ペルセポリスが粉砕された大半の原因はラグナにあると言ってもいいだろう。

 もう一方は、ただの矮小なる人間である。

 心眼を使い己が持てる、全身全霊で神へ挑む少年「木下祐一」。

 この旅で、何度も折れては立ち上がり、死線を潜り抜けてきた少年は、もう一角の戦士……いや、それすら越え、神と互角に渡り合う姿はもはや英雄に違いない。

 ……だが、どれほど彼らが奮闘しようと、所詮一人の「人間」と一柱の「神獣」に過ぎない。

「神」へと回帰したウルスラグナとの差は、埋められなかった。

 致命傷一歩手前の状態で、奮戦するウルスラグナ。

 膠着しつつも、じわじわ消耗し始める祐一たち。

 ──絶妙に保たれている天秤は、何時どちらかに傾いても不思議ではない状況であった……。

 あと、一撃! あと一撃さえ、ウルスラグナに攻撃を与える事が出来たなら……! 

 祐一は、どこか縋る様な思考と共に、戦況を見据えた。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───ルオォォォオオオオオッ!!! 

 

『ラグナ』の咆哮が衝撃波となり、大地を砕きながらウルスラグナへ迫った。

 迎え打つウルスラグナは、右脚を振り降ろし踏み抜いて地面を地殻変動の如く隆起させ盾とする。

 瞬間、衝撃波と隆起した大地が激突した! 

 砂塵が舞い、視界を覆う。

 ウルスラグナは目を凝らし、『ラグナ』の位置を探る。

 同時──直感が囁いた。

 ウルスラグナは、咄嗟に身体を捩った。砲弾がウルスラグナが数瞬前までいた箇所を駆け抜けていく。

 いや、あれは砲弾ではない。崩壊したペルセポリス、その遺跡の欠片だ。人の倍はある巨大な遺跡が、ウルスラグナへ襲い掛かったのだ。

 ウルスラグナは、遺跡の投げられた地点を見遣る。

 そこにはやはり予想違わず──戦士が居た。

 ブレザーを引っ掛け、ウルスラグナを見据える戦士。右腕を突き出し、彼奴があの欠片を投げ込んだのだと、容易に理解出来た。

 ───「木下祐一」戦士の名である。

 

 ──ルオオオオォォォンッッ!! 

 再び、『ラグナ』の咆哮が空気を震わせる。 ウルスラグナは、一瞬、祐一から視線を外し『ラグナ』へ意識を傾けた。

 その隙を見逃す祐一ではなかった。

 ──疾! 『ラグナ』に気を取られ、隙の出来たウルスラグナへ向けて。

 閃電の如き俊足はまさに古代の英雄の如き。

 その速さはもはや人間の範疇に収められる事は出来ないだろう。

 遺跡の破片がそこかしこに転がる地面を全力で走り、衝撃波がたどり付くよりも速く、一瞬でウルスラグナへ肉薄する。 

 左腕を振りかぶり、全力の殴打を放つ。狙いは、ウルスラグナの秀麗な美貌。神の尊顔へ、祐一は拳を打ち込んだ。 

 ウルスラグナが気付いた時には、もう遅い。

 躱す事が出来ないと悟ったウルスラグナが、右腕掲げ、守りを堅める。

 ───ッ! 

 驚愕は、どちらからだっただろうか? 

 ウルスラグナは、守り固めた防御を壊しかねない程、強力な祐一の膂力に。

 祐一は、頭部と腹部を狙い同時に放つ虚実織り交ぜた二撃必殺の攻撃を防がれた事に。

 両者とも、驚愕で目を見開く。だが、それも束の間。

 同時に地面を蹴り、己の四肢を用いて蹴りを繰り出す。

 ウルスラグナの長い右脚が祐一の左脇腹へ迫った。

 祐一もまた迎え討つ。右脚の膝を折り曲げ、ウルスラグナの身体ではなく、迫る右脚へ繰り出した。

 ──グギぃッ! 

 ウルスラグナの右脚が、おかしな方向へ曲がる。祐一の膝が、砕かれた。

 苦痛で表情が歪む。だが祐一は砕けてはいるが、まだ勢いの乗る右脚を開いた。ギチギチと嫌な音と激痛が疾走るが堪え、ウルスラグナの右胸部目掛け蹴りを放った! 

 しかし、その蹴りを座視し容易に受けるウルスラグナでは無い。ウルスラグナがその曲がってしまった右脚を身体ごと捻って、祐一の右脚を巻き込み振り降ろす! 

 断頭台──! ギロチンの刃が、己の砕けた脚に迫るのを想起した。

 藻掻く、藻掻く、藻掻く! だが、ウルスラグナの右脚は止まらない! 

 ウルスラグナが、笑う! 祐一が、悔し気に──笑った。

 瞠目するウルスラグナ。……何故だ、と。

 ──ゴオオオオオォォッ! 

 次いで、衝撃が両者を襲った。

 ラグナの放った咆哮 それが今、彼らの元へ辿り着いたのだ! 

 吹き飛ぶ両者。

 祐一もまた、咆哮により身体へ手酷い衝撃を受けたが、それよりも脚を失わずに済んだ喜びが勝った。

 祐一とは別方向に飛んだウルスラグナへ、猛り狂うラグナが迫った。禍々しい牙が、空中で身動きの取れないウルスラグナを穿とうとする。 

 ウルスラグナが今まで使っていた『雄牛』の権能は、ラグナに抗する事が出来ない。 何故なら、かの『雄牛』は大地へ帰依する化身だ。大地に足をついて居ないとその能力は十全に行使できない。

 今のウルスラグナは、ヘラクレスに持ち上げられ、大地から離されたアンタイオス。ヘラクレスと同一視された彼が、何と皮肉な事だろうか。

 

 ウルスラグナの決断は早かった。

『雄牛』の権能を瞬時に、『駱駝』へ切り替える。

 迫るラグナの牙へ、折れ曲がった右脚では無く、残る左脚で迎え撃つ。

 ラグナとウルスラグナ。両者の表情に苦悶の色が浮かぶ。

 ピシッ。嫌な音が響き、ラグナの禍々しい巨大な牙へ、亀裂が走ったのだ。だがラグナは構わず突き付ける。

 その意気や良し! 

 ウルスラグナは、酷薄に笑い、『ラグナ』の牙を一息に叩き折ろうとして───出来なかった。

 ──ゾクリッ!  悪寒が、ウルスラグナを捉える。

 咄嗟に、「────遅い!」

 祐一の声が響く。 それも、ウルスラグナの真後ろから! 

 祐一が地面から大跳躍し、ウルスラグナの背後を取ったのだ。砕かれていない、片足一本で。

 咄嗟に、ウルスラグナは振り払う様に放った手刀と共に、振り向く。ウルスラグナの手刀は、狙い違わず、祐一の左脇腹を切り裂く! 

 だが、そこまでだった。

 祐一は、手に持っていた神具たる「ミスラの松明」を、ウルスラグナの大穴が空いた腹部へ突き刺したのだ! 

 肉が焼ける音と、黒煙が舞う。

 ウルスラグナが苦悶にその美しき容貌を歪め、苦痛の元凶である祐一を振り払う。

 ウルスラグナの放った軽い右腕の一振りで吹き飛ばされ、次いで、ウルスラグナもまたラグナの牙の一撃で吹き飛ぶ! 

 

 かの軍神に、一撃を与えた。

 だが、浅い。ラグナの牙は折れかけていた。軍神はその程度の攻撃では倒ることはない。

 地面なんとか着地し、体勢を立て直す。ウルスラグナもまた同様の様だ。

 なんて、タフさ。浅いとは言えラグナの一撃すら耐え抜いてみせるウルスラグナ。

 バンダレ・アッバースで暴れた『駱駝』並の耐久力。祐一は、隣で心配そう覗き込むラグナへ、大丈夫だと手を振りながら、思う。

 

 ウルスラグナが──動く。祐一達もまた、呼応するように走り出した。戦況は、再び動き出した。

 

 ───焦燥、疲労、意気、闘志。

 祐一の胸中は荒れ狂っていた。しかし、それを支配する冷徹な己。

 嘗て『駱駝』へ挑んだ時の状態へと至っていた。これにより心眼と内功とを完全に操っていたのだ。

 だが、今の祐一は冷徹な思考に陰りが見え始めていた。

 いくら最高峰の能力を持った少年とは言え、やはり圧倒的に経験が足りなかった。平和な日本に居たのだ。こんな命のやり取りを……一瞬の迷いが、一つの間違いが、死を招く。

 そんな状況になった事など、数える程しかない。

 祐一の神と渡り合える程の異常な集中力は、どんどんと彼の精神を削り取って行った。

 ───そして遂に、破局の時が訪れる。

 

 ──ッ! ウルスラグナを翻弄する為、駆け回っていた祐一。先刻、ウルスラグナに砕かれた脚は、ラグナの恩恵によって治癒されている。

 しかし、その俊足を誇る脚も限界が訪れた。疲労の蓄積され脚がおもしろいように縺れ、体勢を維持できず倒れ込んだのだ。

 今まで渡り合っていた敵手が見せた大きな隙。その隙を見逃すウルスラグナではない。

 右手を突き出し、かざす。

 劫─────ッッ! 紫電が迸り、あらゆる悪神、敵意を薙ぎ倒して来た雷霆が放たれる! ウルスラグナの放った雷霆が倒れ伏す祐一目掛けて一直線に迫った。

 祐一の視界を、白一色に染上げる、膨大な光量──そして、殺意。

 倒れ込んだ祐一は動けない。動けたとしても、神速で迫る雷霆を躱す事は不可能だ。

 雷光が祐一を照らす。──祐一の目は、まだ諦めていない。必死に藻掻き、生き残ろうとしていた。

 だが、彼は動けなかった。

 

 ───果たして、時は来た。

 

 雷霆は、轟音を響かせ、敵である存在へその致死のエネルギーを放出し、霧散した──。

 もう辺り一面、余りの熱量に大地が溶け、赤熱している。熱し過ぎた大地は硝子と化し、雷霆の凄まじさを、ありありと示している。

 だと言うのに、祐一には、意識があった。

 それどころか、雷霆による痛みもない。

 祐一は理解出来なかった。……いや、理解したくなかったのだ。

 何度も、何度も、こんな場面があった。

 何度も、何度も、窮地に陥った。

 ──そして、何度も、何度も、助けられて来た。

 祐一は、己の直感の囁きに、耳を貸したくなかった。

 それを認めてしまえば……もう、心が折れてしまいそうな気がして。

 だが、戦場でそんな甘えなど、許される筈もなくて。

 祐一は、勇気を振り絞って、前を見る。

 ギシギシ……と、錆くれた機械のような動作で、顔を上げる。

 

 …………ああ。やはり。

 祐一の視界を、黒い物が覆っていた。

 

 あああ……! やっぱり……! 

 その黒い物の半分は、消し飛んでいて。

 

 ───ああ、あああ、ああああああ!!! 

 その黒い者は、自分の友達で……! 

 

 祐一は、声も無く慟哭した。

 もはや、怒りすら沸かない。ただ、己の無力さに失望し、心の中で嘆くだけ。

 己の弱さが憎かった。己が強くあれば、ラグナはこんな目に合わなくて済んだのに! 

 心がラクシェの最期を見たときの様に荒れ狂う。……だが、それも直ぐに収まった。

 心が。心が……「絶望」に慣れてきたのだ。

 嘗てなら荒波の如く荒れ狂うっていた心が、今となっては酷く凪いでしまっている。

 

 そんな自分を信じたくなかった。立ち上がり否定する様に拳を握る。対するウルスラグナは傲岸な声音で祐一へ言葉を言い放った。

 

「──やはり、因果は変えられぬ!! おぬし達が、どれほど足掻こうとも『我が常勝不敗である』と言う絶対の法則は変えられぬのじゃ!!!」

 

 確かにそうかも知れない。声もなく思った。

 祐一は仲間を殺されたと言うのに、酷く穏やかな口調でウルスラグナへ問い掛けた。

 

「パルヴェーズ……。どうして、こんな事になっちまったんだよ。俺は、お前と旅が出来れば、それで良かったのに……」

「フン。今更、それを言うか、小僧。そもそもおぬしらが造反などせねば……まあ、よかろう。

 ──おい、小僧」

 

 ウルスラグナは、祐一へ語り掛けた。

 見下しては居るが、そこに、何故か敵意はなかった。

 何を、言うんだ……。祐一は、次に放たれるであろう言葉がひどく恐ろしかった。

 

「小僧。叛意したおぬしじゃが、我はまだ遅くはないと思うておる。……今ならば、膝を折り額を大地へこすり付け許しを乞えば、一時の気の迷いであったとして許すのも吝かではない」

 

 正直、心が揺れた。

 今、彼に許され侍る事ができたのなら……また、前みたいに旅が出来るかも知れない。

 そんな甘い誘惑が、祐一の弱り切り、凍て付いた心へ舐める様に絡み付く。

 

「……ふふ。何を迷う? おぬしの仲間であった『猪』はすでに亡く、おぬしが義理立てする相手は消え去ったのじゃぞ? 

 ──さぁ、我が軍門に下るがいい。小僧」

 

 ウルスラグナの言葉が、纏わりつく様に祐一を促す。

 もう、いいんじゃないか……。そんな諦観が祐一を埋め尽す。

 でも、もう、祐一の答えは決まってしまっていたから……

 

「───いや……だ……」

 

 否定の言葉を返す。

 口が鉛の如く重い。舌に固い鉄板でも入れたかの様に回らない。諦観が、必死に翻意を促そうとする。彼と歩んだ旅の記憶が、引き返そうと囁く。

 ──それでも、言葉を紡いで、答えを返した。

 

「……そうか。───残念じゃ」

 

 無感動で、簡素な言葉を、ウルスラグナは祐一に返した。

 次いで、パルヴェーズから貫手が放たれた。

 膨大な殺意を乗せた繊手。全ての指を、槍の穂先の如く揃え、指へ突きだす。

 あれを喰らえば、確実に死ぬ! 祐一は、確信と共に、その優れた反射神経で、逃れようとした。

 咄嗟に右脚で地面を蹴って、後方へ飛び退り、距離を取る。だが、ウルスラグナの貫手は、どこまでも伸びる如意金箍棒の如く追い縋り、牙を向けた毒蛇の如くのたうち回り、執拗に追いかけて来た。

 この攻撃から逃れねば、「死」しかない! 

 祐一は、なんとしてでも逃れようと、飛び退り着地した左脚で更に地面を蹴った 

 今度は、後方ではない。遥か上空へ、駆け上がる。

 ウルスラグナの手は届かない。安堵したのも束の間だった。

 

 ───違う!!! 本能が叫ぶ。

 なんだ! 何が起きる!? 理解が追いつかない理性が、問い質す。しかし、答えは必要なかった。

 すぐに、分かったのだ。──本能が何故、警鐘を鳴らしたのかを。

 ウルスラグナの手刀が見えた。飛び上がる祐一の、更に上空で待ち構え、振りかぶっている。

 俺は───動かされた! 祐一は、戦慄と共に理解する。

 膨大な殺気を乗せていた貫手は、ブラフだったのだ。祐一を効率よく仕留める為に、張った罠。身動きの取れない空は逃げ場のない行き止まりと同じだった。

 狼に絶壁へ追い立てられた哀れな羊。それが今の祐一だった。

 

 あの最初の貫手は、受けねばならなかった……! 祐一は遅まきながら、悟る。

 ウルスラグナの手刀が、素早くも、確実に振り下ろされる。特筆して速いと感じる速度では、ない。だが、避けれると言う予測が、一切出来ない。

 手刀の鋭さも恐ろしい。

 童子切安綱、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次、鬼丸国綱……。故郷に名だたる「天下五剣」と謳われる、五振りの刀。

 そのどれもが、今、ウルスラグナが放つ手刀に比べれば、赤ん坊の玩具程度にしか映らない。

 放たれた時点で、死が確定する。正に、必殺の絶技。

 

 ──祐一は、見ていた。

 

 ウルスラグナの手刀が、咄嗟に作った己の左腕の守りを切り裂くのを。

 ウルスラグナの手刀が、己の肩口から股まで袈裟斬りにするのを。

 ウルスラグナの手刀が、己の命を断ったのを。

 

 ───ドサ……。

 糸の切れた人形の如く、倒れ伏し、虚空を見つめる祐一。その瞳に、もはや光はなく、瞳孔が開こうとしていた。

 袈裟斬りにされた箇所から、致死量の夥しい血液が流れ、祐一の身体が血溜まりに沈む。

 

「───バカモノが……!!」

 

 ウルスラグナは、何処か悲しそうな表情を貼り付け、吐き捨てた。

 そうして興味を失った様に踵を返し、歩き出した。

 



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因果律

独自設定マシマシです。ご容赦ください。



 ───意識が、覚醒する。

 

 ふと、懐かしい感覚に襲われた。嘗て何度も味わった、微睡みから覚めては沈んで行く不思議な感覚。

 目を開けた先は、真っ暗な空間だった。祐一は目覚めた感覚と同様にこの空間にも見覚えがあった。

 どこだっけ

 少しずつ、少しずつ、記憶を辿って行く。

 故郷、幼馴染たち、家族、友達、拒絶、家出、イラン、『雄牛』…………。

 ああそうか一度『雄牛』に襲われ意識を失った時その時目覚めたのがここだった

 まだ覚醒仕切っていない頭で、そう結論を出した。

 前回と違い、意識がハッキリとしている事に疑問を覚えたが、すぐにどうでも良くなった。彼の人生最期の記憶を掘り起こしてしまったのだ。

 だが祐一の心はひどく凪いでいて、波紋の一つも広がらなかった。

 最後の最後まで勝てなかったなぁ

 ただありのままの事実を受け止める様に思う。悔しさも確かにあった。パルヴェーズを止められず、力尽きた無念も。それでも……

 だけどやっぱり

 名前を呼んでほしかったなぁ

 祐一が死んでもなお残った心残りはソレだけだった。

 何度も、何度も、挑みに挑んで、それでもたった一度の勝利ももぎ取れなかった。

 まあでもいいか

 俺は全力だったんだ

 それで死んだ

 もう悔いはない

 正直な所、祐一はもう疲れ切っていた。

 もう、何度恐ろしい目にあったか判らない。何度悲しい目にあったか判らない。

 二度も心を許した者の死を見た。

 笑いあった友人と、殺し合いを演じた。

 旅を初めてから……いつだって運命は、因果は、世界は祐一を苛んだ。

 その度に祐一は折れ、それでも立ち上がって来た。

 絶望の末に、力尽きた祐一。そんな彼がここで終わっても、誰も文句など言わない。称賛と慰めの言葉を投げ掛けるだろう。

 祐一は、虚空を見ていた。

 何もするでも無く、ただ、ボーッと。

 何もない時間。それは酷く穏やかで、疲れ切った祐一の心に、安寧と言うものを齎してくれた。すべての因果の糸が切れると同時に、未練すらも切れてしまったようだった。

 もうおわろう

 だからこそもう眠ってしまいたかった。祐一は、意識を閉じようとした。

 嘗てここに居た時、意識の閉じ方は知っていたから。そして今なら、もう二度と覚めない眠りに就く事が出来ると言う確信があったから。意識がするすると溶け出し、希薄になっていくのを感じ……

 

 ……? 

 

 ふと、気配を感じた。

 意識を閉じようとした一瞬。ほんの少し前の間何かを感じとった。今まで気付かなかったのが不思議なほどの──()()()()()を。

 存在を認識した途端、意識は鮮明なものへと変遷した。気配を感じる場所は真後ろからだった。

 な、なんだ!? ……驚いて振り返るは当然の帰結だった。

 

 ───うげぇぇええええっっっ!!! 

 

 同時に、嘔吐した。胃の中に入っているものなんて無くて、息が漏れのみだったが、苦しさが尋常じゃない。首を抑え、膝を付き、空っぽの胃から、空気だけを吐き出す。

 嘔吐感が凄まじい。それと同じく、脳をバールで突き刺し、掻き出して居るような、猛烈な頭痛。

 今さっき見たモノ。

 それが今、祐一を苛む元凶だった。

 

 ───その存在は、余りにも巨大で強大だった。

 

 見上げる程の……それどころか、視界にすら収まっていない。まるで宇宙の如く、その全容は見渡す事が出来ず、強靭な自我を持つ祐一すら赤子の手をひねる様に磨り潰す強大な気配。

 目に焼き付いた存在の姿は「人」の形をしていた。

 黒いもやが掛かり、輪郭ははっきりしないが、手と足と身体と頭。それだけは確実に生えていた。

 そして、頭部。あの存在の頭部には、唯一、見覚えのある物があった。

 

 ───『閃輝暗点』あの歯車の様に渦巻く、忌まわしい光が、仮面の如く張り付いていたのだ! 

 頭痛が増す。これ以上思い出すなと警告する様に。 

 だが、脳裏に焼き付いた、あの存在の姿が忘れなれない。 

 おぞましいおぞましい! なんだアレは! なんだアレは! 

 二目と見られぬ程の醜悪さ! だが、途方も無く美しい! 

 人などと言う矮小な存在が相対して良い存在ではない! アレは神などではない! もっと恐ろしいナニカだ! 

 アレを、見てはならなかった! 

 アレを、知ってはならなかった! 

 見なければ! 

 知らなければ! 

 

 祐一は───ここで安らかに死ねたのに!! 

 

 

 いっそ、脳を砕いてしまいたい! そんな、自殺紛いの自傷衝動すら浮かぶ激痛。

 祐一は、もはや狂人と大差なかった。

 強い意志を宿した瞳は、白目を剥き、今にも飛び出そうなほど見開かれている。頭痛に耐えきれず、頭部に持って行った指は、爪を立て、ガリガリと掻き毟り、爪が剥がれ、頭皮を引き裂かれて行く。爪の中に収まりきれなかった、癖っ毛の髪が付いた頭皮が、ボロボロと落ちて行くが、全く気にならない。

 目、鼻、耳、からは、脳の尋常では無い負荷によって、出血した赤黒い血が絶え間なく流れる。

 グチりと噛み千切った舌からは血が溢れ、血と共に舌であった肉片を訳も分からず飲み込んで。

 もはや声すら出せない痛み。だと言うのに祐一を苦しめる一向に頭痛は収まらない! 

 頭痛が増す。今、祐一を苛む頭痛とは別種の痛みだ。

 脳に直接ケーブルを突っ込んだ様な、鈍痛。

 そして、そのケーブルから滲み出る物が、脳を圧迫する。許容出来ない脳を万力で磨り潰す様な痛みが、絶え間なく続く。

 知識が流れ込んで来る……! 

 まつろわぬ神。神祖。半神。神獣。鋼の英雄。地母神。生と死。蛇。太陽。簒奪の円環。冥府。不死。不滅。権能。雷霆。嵐。大地。魔術。主神。超越者。女神。幽界。アストラル体。魔女。剣。戦神。

 膨大な知識だ。訳が判らない知識の羅列に、自分を襲う凄まじい頭痛を忘れそうになる。

 だが、この知識によって、この存在の正体が判った。

 

 こいつの名は───「()()()」! 

 

 過去、現在、未来。三世に遍く存在する、原因と結果。遍在する因果! その全ての祖にしてはじめりの巨人! 全ての運命を司る者! 

 あらゆる運命、天命、巡り合せ。その全ての頂点に立つ──「因果の王」。

 因果律の存在により、その思考の上に無数に世界は広がり、存在出来る。全ての幸運、不幸は、因果律が夢見て、定められた結果である! 

 世界があるから、因果律が居るのでは無い! 

 ──因果律が居るから、世界があるのだ! 

 無始無終! 始まりも、終わりもなく、ただ存在し続ける者! 永遠の生に、ただひたすら微睡む者! 

 

 この者を起こしては、ならない! 

 この者を知っては、ならない! 

 この者を伝えては、ならない! 

 

 この者と出会っては、ならない! 

 この者に知られては、ならない! 

 この者を忘れては、ならない! 

 

 その禁忌を犯せば、どんな存在であろうと、破滅へと導かれるであろう!! 

 その禁忌を犯せば、因果律の目覚めと共に、世界は泡沫の如く弾け飛ぶであろう! 

 その禁忌を犯せば、もはやその魂が磨り減り、消え去るまで安寧など、望むべくもないだろうから!!! 

 

 

 

 全ての運命を司る、だと……? 

 全ての因果の頂点に立つ、だと……? 

 全ての運命を定めた、だと……? 

 

 お前か……! 

 お前が……!! 

 俺の歩んで来た旅も! 

 仲間の死も! 

 友が変わり果てた事も! 

 俺が、遭遇した不幸も、全て……!!! 

 

 お前の所為なのかッ!!! 

 ふざけるな!!! 

 因果律!! 因果律ッ!! 

 許さねぇ!! 許さねぇぞッ!!! 

 殺すッ! 殺すッ! 殺してやるッ! 

 

 祐一を襲っていた頭痛なんて、遥か彼方へ吹き飛んだ。

 それほどの衝撃と、憎悪が、彼を埋め尽くしたのだ。

 祐一は、これまでの生涯で、初めて「憎悪」と言う物を抱いた。祐一の出遭った、全ての絶望。その元凶が、目の前に居る。

 許せる筈がない! 

 客船が転覆し、人々が死んだのも! 

 バンダレ・アッバースが、灰燼に帰したのも! 

 ラクシェが、『ラグナ』が、死んだのも!! 

 パルヴェーズが、狂ってしまったのも!! 

 全て……! こいつの───ッ!!! 

 

 更に、知識が流れ込む。

 己の正体が暴かれる。己の罪を糾弾される。絶望の理由が明かされる。 

 

 旅の始まり。あの時、故郷の山で拾った黒い「石」。

 それに触れて、祐一の人生は全て狂った。ありとあらゆる因果から憎悪され、祐一を死へ何度も追いやった。

「イラン」と言う過酷な土地へ流され、零落し不安定なまつろわぬ神の半端者と出会わさた。

 多くの化身に襲われ、近しい者は死に絶えた。

 全ては、その石を拾った祐一を殺す為だった。

 

 あの石の正体は───「因果破断」。

 永く存在し続けた因果律が、「終わりたい」と願った時に流れ出たもの 因果律の自殺願望そのもの。

 それ故、因果律を殺す唯一の手段である。

 因果破断を持つ者は例外無く、死に直結する不幸や事件、災害に襲われる。当然だ。世界の根幹たる因果律を殺せる、唯一の存在なのだから。

 故に長くは生きられない。因果破断の担い手となった瞬間から、世界は敵へと回るのだから。

 だがどれほど抹消しようと、因果破断は不滅である。

 因果律がある限り破壊は出来ず、因果律を殺すまで存在し続ける

 因果破断もまた、因果律の意思の一つでもあるが故に。

 因果破断の形は様々だ。祐一の拾った石、道端に落ちている木、夜空に輝く星、生きた人、等など、これといった形を持たず、また移ろいゆく……。因果律を殺すと言う使命を果たすまで。

 祐一が、因果律の目の前に居る理由も、流れ込む知識が示した。

 因果破断の担い手は、因果律との親和性が高くなり、因果律と邂逅、或いは認識され、立ち入る事が出来ない因果律の居る場所へ入る事が出来るのだ。

 それが、祐一がここに居る、理由だった。

 

「───ふざけんな」

 

 正気の戻った祐一が、ポツリと呟く。

 いや、正気に戻ってなど、居ない。今までの激痛や狂気など、塗りつぶす程の狂気が祐一の中に溢れかえったのだ。

 祐一の自我さえも呑み込まんとするほどの狂気──それは「怒り」に他ならない! 

 

「ふざけんな……! ふざけんなよッ!!」

 

 もう限界だった。

 理性を保つなんて、到底できる訳がない! 自我すら押し流しかねない、感情の昂ぶりが祐一を支配する。

 祐一の生涯で、嘗てない程の怒り。

 木下祐一と言う少年の、最大最高の怒りが、彼を支配した! 

 顔を上げて因果律を真っ向から見据える。

 おぞましい! おぞましい! 忌まわしい! 忌まわしい! 吐き気が止まらない! 頭痛が襲う! 

 だが、祐一は、目を逸らさず、因果律を睨んだ! 

 その双眸には、祐一を祐一足らしめる、強烈な意志を宿した瞳! 

 

「死にたいんなら、勝手に死ねよ!! 俺を! 俺達を! 巻き込んでんじゃねぇよ!! ざけんなよ、見下しやがって! 

 俺の! 俺達の! 人生いじくり回しやがって!!」

 

 大いなる存在を真っ直ぐに見据え、宣誓する! 

 

 

「──そんなに死にてぇなら!! 

 

 

 両腕を大きく振り上げる。両の手で握り込んだ拳。その中には、いつの日か拾った、「黒い石」。

 因果破断の結晶が、手中に収まっていた! 

 円錐形の、刺し貫く事に特化した形状は言葉もなく「因果律を殺せ!」と催促している気がしてならない。

 だが、そんな事どうでもいい。

 目の前の存在を苦しめられるのなら──それで!! 

 

 

俺が、殺してやる───ッッッ!!! 

 

 

 思いっ切り、振り下ろす! 宇宙すらも霞む大きさを誇る因果律の身体。その寸毫と表しても良いほど小さな場所に石を突き刺した祐一。次いでその場所から黒いもやの濁流が噴き出し、ざぁと祐一を飲み込んだ。

 

 ○◎●

 

 意識が現実へ引き戻される感覚。

 世界の根幹たる、因果律へ攻撃しようと、祐一はまだ死んでいなかった。そもそも、因果律は攻撃された事すら気付いていないどころか、認識すらしていなかった。

 だからこそ、今、己は生きているのだと、祐一には判った。

 どこまでも気に入らねぇ!!! 祐一は、因果律が居るであろう後方を睨み、吐き捨てるた。

 

 だが、今は因果律に割いている余裕はなかった。

 祐一は、あの空間で知ったのだ。

 あの時流れ込んだ知識は、多種多様であった。世界の真理もあれば、虫の一生などと言う記憶。神の知識や家の台所の位置。正に、玉石混交と言う具合だった。

 祐一の余り良くは無い脳に、それらを全て留め置くなど不可能で、大半は右から左へ流れて行ったが、いくつか見逃せない物があった。

 記憶には今まで世界が歩んだ過去も、人々が息づく現在も、それどころか、これより始まる未来すらあった。

 そう。祐一達が歩む世界の未来が。

 

 祐一の見た未来の映像は、2つ。

 

 荒れ果て、崩壊していく世界。

 血と騒乱渦巻く、狂った世界。

 そしてその世界には中心には、元凶たる狂った神───『ウルスラグナ』の姿があった……。

 

 拳を握る。

 あいつを止める。もう、迷わない。

 あいつが……友達が人々を苦しめる姿なんて、見たくない。

 あいつが……苦しむ姿なんて、見たくない。

 

「───だから、俺は……!」

 

 絶対不変の決意を胸に、祐一は、現実へと身を踊らせた。

 

 ○◎●

 

 目が、覚めた。同時に四肢を、引き千切られた様な激痛が走る。

 だが、気にならない。あの空間にいた時の頭痛に比べれば、屁でもない! 友を止められない痛みに比べれば、何てことはない! 

 精神が、肉体を凌駕する。

 祐一は立ち上がり、踵を返し歩き出したウルスラグナへ、唯一残る右拳を振りかぶった! 

 

 ───あの空間で2つ、知った事がある。

 

 ウルスラグナを止めれなければ、世界が壊れる事。止めれなければ、故郷は、天変地異によって砕かれ、家族も友も、幼馴染も消え去るだろう。

 これが一つ目。そして、もう一つは────

 

 

「───パルヴェーズッッッ!!!」

 

 

 ───()()()()()()()()()()()()()

 

 

 どれほど乞い願おうと。どれほど絶望に苛まれようと。

 どれほど祈りを捧げようと。どれほど感謝を伝えようと。

 どれほど懇願しようと。どれほど憎しみを向けようと。

 

 

 ──全て、意味は、無い。

 

 

 全知全能の神には、聞こえない。

 

 勝利の女神は、微笑まない。

 

 一騎当千の英雄は、現れない。

 

 慈悲深い御仏は、救わない。

 

 

 まるで、祈りが届く道が無くなった様に「人」と「神」は別たれている。

 故に、祐一は、思う。

 

 ───だったら、人間で、相棒で、友達の俺が!! 

 

 ───止めるしか、ないだろうが!!! 

 

 ウルスラグナが振り返り、驚愕する。死んだ筈の少年が、立ち上がった事に! 

 

「因果破断の因子じゃと!?」

 

 類稀な神にさえ届きうる力を宿して事に! 

 そして、ウルスラグナは見た。

 祐一の眸を。それは祐一を祐一足らしめる物! 絶対不変の意志を宿した、烈火の如き双眸! 

 

 ─────ッ!? 

 

 その双眸にウルスラグナは、気圧されてしまった。思わず一歩後ずさる。

 そして同時に、記憶が蘇った。

 これまでパルヴェーズとして歩んだ旅の軌跡を。

 泣き、笑い、共に過ごした少年の姿を。

 

 ウルスラグナの絶対不変なはずの鋼の心へ、致命的な罅が走った。ウルスラグナの翠瞳が、ざわりと揺れる。

 彼の不変な筈の意志が───崩れた。

 それが、勝負の別れ目だった。

 ウルスラグナは、咄嗟に右腕を振り払った。まるで力の入っていない、その場しのぎの動作だ。

 それを、祐一は見逃さなかった。

 左手で、ウルスラグナの腕を掴む! 力では膂力無双たるウルスラグナの腕力には敵わない。だがそれは常であればの事───! 

 今ウルスラグナはこれ以上なく動揺し、権能の行使も覚束ない。それに加えかなり不安定な体勢だ。

 これまで無いほど、拙い一撃。

 それはもう死にかけの祐一ですら、容易く振り払える程だった。

 

 祐一は掴み取ったウルスラグナの腕を、力一杯、己の方向へ引き込む! 

 前のめりになるウルスラグナ。勢い付く祐一。

 

「うぉぉぉおおおおおおおお────っっっ!!!」

 

 雄叫びを上げ、全力の拳をウルスラグナへ叩き込む! 

 ───ドウゥッッ!!! 

 果たして、祐一の拳は、ウルスラグナの左胸を突き破り、核たる心臓を穿いた! 

 

 ───俺の、勝ちだッ! 

 

 ウルスラグナの驚愕した表情と共に、祐一の意識は暗転した。

 



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常勝不敗の王

最終話


 戦いは終わった。

崩壊したペルセポリスに残されたのは傷付き倒れた二人の少年のみ。二人とも寄り添う様に地面に倒れ込んでいる。意識があるのは少年の内、一人だけ。……ウルスラグナだった。

 

「ふふふ……。驚いたのう。まさか人の子が『常勝不敗』たる我に敗北を与えるとは……。いや、必然であったのかも知れぬな」

 

 とても穏やかで慈愛に溢れた表情で言葉を紡ぐ。その表情にはまつろわぬ性に狂い人に仇なす姿は、綺麗に消え去っていた。

 彼の身体はもう崩壊が始まっている。

神格の大半を傷付けられ腹部には大穴が空いている。血が流れていない箇所等ほとんど見受けられないほどだ。

 とどめに、左胸には祐一が叩き込んだ拳によって、風穴が空いている。だと言うのに治癒の権能も動く気配すらない。

 まさに死に体だった。

 祐一の状況も酷い。

 骨折、流血、裂傷、数えれば切りがない。肩口から深く裂傷が入り、左腕もウルスラグナに切り裂かれ、見当たらない。隻腕だ。

『駱駝』に蹴られ、吹き飛んだ時より酷い。無事な箇所など一つもない。戦場に斃れ壮絶な最後を遂げた英雄達でも「これほど傷付いた者は居ないだろう」と思えるほど。

 だが、それでも、祐一はウルスラグナを倒した。

 どちらも戦闘不能。満身創痍、百孔千瘡だ。普通なら、引き分けになるだろう。

 だが「人」と『神』。脆弱な「人」の身でありながら『神』を倒したのだ。

 

「……ふっ。ならば、神である我が度量を見せ、今回は敗北としよう。

 だが、この敗北は最初で最期! ハラー山を越え、チンワトの橋の向こうへ、おぬしが来た時には、存分に戦い抜き、この雪辱を果たそうぞ!」

 

「──ふふっ。随分と、この人の子を、気に入られたのですね! 

 ……ですが、ウルスラグナ様の再戦は、また今度。今しばらくの時を要するでしょう!」

 

その時。甘く可憐な声を響かせ、一人の少女が現れた。

 

「なんと、おぬしはパンドラ! 『全てを与える女』よ! おぬし、何故現れた!? 

 ……それに、我と小僧の再戦が、持ち越しとは……?」

 

「ふふっ! この子のお陰で、私達を縛っていた、かの呪法は粉々に砕けましたもの! 

 いい気味ね! こうして私が現世に降り立ち、人と神の前に現れる事が出来るのも、そのお陰なのですわ!」

 

「それにウルスラグナ様の再戦が持ち越しになった理由も、すぐに判ります! 

 何故なら、この子はもうすぐ蘇るのですから!!」

 

「蘇る……じゃと?」

 

「ええ! ウルスラグナ様が知らないのは、無理もありませんわ! それはこれより行われる秘儀……『簒奪の秘儀』を生み出して幾星霜、流れる時の中で一度も行われる事のなかった……正に秘儀なのですから!」

 

「『簒奪の秘儀』……? ……む、何故じゃ? 我が神力が、小僧へ流れ出しておる……──まさか、魔女! その秘儀とは……!」

 

「ええ! ウルスラグナ様のお気付きの通り、この秘儀は弱き人の子を、神と比肩する程の「強者」へと新生させる大秘術! 

 神を贄とし初めて成功する"神殺し"生誕の大儀式なのですわ!」

 

「──ははは! なんと! その様な、悍ましい邪法があったとは!! 

 ふふ。今日と言う日だけで、何度、驚いたか判らぬ! ふっ、運命とは分からぬものよ!」

 

「あら? こちらこそ、意外でしたわ。てっきり私は「邪法」とも言える儀式を、ウルスラグナ様の愛し子たるこの子へ施す事に憤ると思っていましたから」

 

「ふっ。滅多な事を申すな、魔女よ。小僧はまだ生を謳歌出来るのじゃ。喜びこそすれ、憤るなど以ての外じゃ。……それに生きてさえおれば、我がまた人の世に顕現した際には再戦出来るからのう! 

──ふふ。その時こそ、我が雪辱、存分に果たすとしよう!」

 

「あら。やっぱり、常勝不敗たるウルスラグナ様。負けず嫌いでいっらしゃるのね。ふふっ。やっぱり私達の最初に義息となる子は、戦いと騒乱に満ちた生を送る事になりそうね!」

 

「───さあ! これから世界は、目まぐるしく動きますわ! 『鉄』の時代は『英雄』の時代へと移り変わり、『英雄』の時代は『青銅』へ! 『青銅』は『銀』! そして『銀』の時代は、遂に『黄金』の時代行き着き、停滞した世界は、逆行して行きますわ!」

 

「ウルスラグナ様! 世界動乱の濫觴、変遷の魁となる、この子に、祝福と憎悪を与えて頂戴! 

 ───『はじまりの"神殺し"』! 神々との闘争、そして、因果律との因縁を定められたこの子に、聖なる言霊を与えて頂戴!」

 

「因果律との因縁……か。小僧には、大変な使命を背負わせてしまったのかも知れぬな……。───よかろう。魔女よ。小僧に……」

 

「──待……てよ……」

 

「……小僧! 気が付いておったのか!」

 

「あら、びっくり! 転生の秘儀は、すっごく痛いから、人の子が意識を保てるなんて思わなかったわ!」

 

「パル……ヴェーズ……。もう……行っちゃうん……だろ……? まだ……行くなよ……。お前は……まだ、約束を……果たしてねぇだろ……!」

 

「約束、じゃと?」

 

「名前……! 約……束したろ……? 俺が……勝ったら、名前を……呼ぶって……!」

 

 ウルスラグナは瞑目した。

 なんと純粋で、眩しい少年じゃ。ウルスラグナは思う。

 己が、まつろわぬ性に狂わず、光明と正義の守護者であれば、この少年と気ままで愉快な旅を続けれたのにのう……。

 そう思わずには、居られなかった。

 ウルスラグナは目を開いて、口角を吊り上げ笑う。

 

「───ふっ、よかろう」

 

 祐一は、思う。

 ああ。遂に。遂に、この時が、来た。

 どれほど待ち望んだか判らない。この目の前に居る友人の唇から、己の名が出る事を、どれほど願っただろう。

 祐一の心に、安堵、安らぎ、期待、感謝。そんな正の感情が満ち満ちた。

 それは、とても久しぶりの事だった。

 

「───祐一。木下祐一よ!」

 

「我が最愛の友にして、我が最高の好敵手よ! 神殺しへ新生するおぬしに、聖なる言霊を与えようではないか! 

 ──木下祐一。いつまでも、壮健であれ! いつまでも、笑っておれ! 何人よりも、強くあれ! そして、再戦の時まで、何人にも、負けぬ身であれ! おぬしを倒し、敗北を与えるのは、この我以外有り得ぬ故に!」

 

「ああ……!」

 

「──そして、約束せよ」

 

「約……束……?」

 

「そうじゃ! 我が、勝った暁には、我が名を呼べ! 祐一よ。おぬし、我が何度もパルヴェーズではないと、言っておるのに、無視しおってからに……。まったく、頑固な奴じゃ! 再戦し、我が勝った暁にはウルスラグナの名を呼ぶのじゃぞ!」

 

「はは……はっ……! わかっ……た……。約束だ……!」

 

 二人は額を突き合わせ、満足した様に笑い合う。

 今しばらくの別れ。

 だが、いつか必ず再会出来る、と二人は確信し、笑いあった。

 

 

 ○◎●

 

 

「あれ……? ここ、どこだ?」

 

 ふと、目が覚めた。

 辺りを見渡す祐一。どうやら周囲は、いつもの荒涼とした大地の様だ。埃っぽい風が、祐一の鼻先をくすぐる。

 今はもう、夜。

 辺りは、真っ暗闇で、星々の光が瞬くのみ。どうやら、月の姿はない様だ。新月なのか、それとも、今日一日の役目を終えたのか……今まで眠っていた祐一には、分からなかった。

 そう言えば、自分は死ぬ寸前だった筈だ。祐一は、不思議そうに、身体の調子を確かめる。

 全くと言っていいほど、異常は見受けられなかった。それどころか、絶好調と言ってもいい。全身から、漲るほどの活力が湧く。

 怪我をしていた箇所も綺麗サッパリ無くなっている。赤黒い血が付いた肌では無い。見慣れた浅黒い肌だ。失った筈の左腕もある。

 首を傾げ、しげしげと腕を、注視していた

 そこで……

 

「ハロー!」

 

 声が掛かった。振り返り、声の発生源を確かめる。

 振り返った先には、少女が居た。

 歳は、祐一と同代ほどだろうか。身長は、祐一の肩口辺りまでしかない。顔立ちは精緻で、美しいと言うより、可憐と言った方が合っているだろう。

 多分、パルヴェーズとも比肩出来るんじゃないだろうか。祐一は、少し後ずさりながら思った。

 今更で申し訳無いが、祐一は女性が苦手である。

 理由は簡単。よく知らないから。

 

「やっほー! あなたがあたしの新しい息子ね! ……うんうん。近くで見ると、やっぱり中々良い面構えしてるわね! やっぱり私達の子供はこうでなくっちゃ!」

「な、なんだよ? いきなり……? てか、君は誰だ?」

「ま! ユーイチったら、ご挨拶ね。そんな事言ったらママ怒っちゃうぞ〜! ふふっ。なんてね。

 わたしはパンドラ。初めて出来た息子の顔が見たくって人の世まで来ちゃった!」

「息子……?」

「あなたの事よ、ユーイチ。義理だけどね? だから今日からユーイチの新しいお母さん。ママって呼んで良いのよ?」

「いやいやいや、訳分かんないし……。あー、えっと……。パンドラ……さん? が俺を生き返らせてくれたのか?」

「ええ! そうよ! あなたは、神を殺し、その神を贄として、行われる転生の秘儀。その儀式によって、あなたは蘇り"神殺し"へと至ったのよ! あなたが、今、怪我が全部治ってるのも、そのお陰だからね?」

「ふーん。よく分からんけど、君が助けてくれたんだな。ありがと!」

「うん。我が息子ながら、軽いわねー。結構重要な事実なんだけどなー?」

「そうなん? ううむ……。"神殺し"、って言われても、ピンと来ないしなぁ……」

「まあ、あたしも『簒奪の円環』回すの初めてだったしねー。ま、上手く行って良かったわ。

 ……うん。伝えてはおいた方が良いかなーって思う事はあるけど、わたしと旦那の子だし、どうにかなるわよね!」

「えぇ……。君も大概、適当だよね」

「ま! 神を殺したんだから、ありとあらゆる神様たちに付け狙われるけど、頑張ってね!」

 

「───はっ???」

 

「大丈夫、大丈夫! それに抗う武器も、あなたは持ってるわ! 今は気付いてないだけ! 時が来れば、すぐに判るから!」

「マジで、てきとうっすね……。うーん……まあ、いっか。なるようになるだろ」

「そう言うユーイチも、大概、テキトーじゃない」

 

 わはは。ふふっ。

 笑い合う二人。無人の荒野で、笑い声を響かせる祐一とパンドラは、傍から見れば、奇人とそう大差は無い様に見えた。

 そこで突然、パンドラが笑いを収め、祐一を見据えた。

 

「──ユーイチ、あなたは誰にも負けちゃ駄目よ?」

「え?」

 

 祐一は、いきなり雰囲気の変わったパンドラに、困惑した視線を送る。パンドラは、その視線を受けながらも、再度微笑み……

 

「ふふっ。あなたは、ウルスラグナ様と誓ったのでしょう? 何人にも負けぬ身で居るって。だからあなたは『常勝不敗の王』として、生きなければならないわ」

 

 可憐さと蠱惑さを同居させた笑み。

 軽いノリの人だと思っていたが、とんでもない。

 彼女はおそらく、ウルスラグナと変わらない、歴とした『神』なのだろう。

 その瞳に秘められた、叡智。花貌に隠された、貶められ非業の運命を辿った記憶。蠱惑的な肢体には、古の大地母神としての過去。

 祐一の少ない記憶容量に残っていたパンドラの知識。

「パンドラの箱」を開け、世界に災厄を蔓延らせた、愚かな女と言う知識。

 そして、無鉄砲にも神に挑んだ、愚かな自分。

 なるほど。

 愚かさと言う視点で見れば、「親子」と言われても可笑しくない組み合わせである。

 祐一は、突然、変わったパンドラに戸惑いながらも問いかける。

 

「な、なんだよ、パンドラさん。そんな改まって……?」

「ふふっ。ユーイチは神を殺したんだもの。あなたに贈る言葉なんて、多くはないんだけどね。でも、これだけは言わせて?」

 

 だけど、今は、とても透明で綺麗な微笑み。

 それは、挑戦し続ける我が子を見守る、慈しむ様な母の微笑み。頑張り抜いた子供を、愛おしげに誉める母の笑み。

 

「───よく、頑張ったわね! あたしは、見る事だけしかできなかったけど、貴方の旅を、ずっと見守ってたわ!」

 

「──あ……」

 

 その言葉は、祐一の胸を打った。

 報われない、旅だと思っていた。

 誰にも知られず、自分の胸にだけ秘め、忘れ去られるだけなのだと思っていた。

 ──だけど、違った。

 この人だけは、見ていてくれた。

 この人だけは、知っていてくれた。

 俺とパルヴェーズの旅は嘘じゃないって、この人は言ってくれた。

 もう、だめだった。

 堪えていた筈の涙が、自分の意思とは関係なく、溢れてくる。パルヴェーズと別れる時には、我慢出来ていた涙が、どうしようもなく零れて止まらない。

 声にならない嗚咽が漏れる。涙を止めようと手で抑えようとするけれども、抑え切れなくて、結局、ボロボロと涙は零れた。

 情けない。情けない。

 そんな心の声が、嗚咽と共に聞こえて来る。

 ふと、気付けば泣きじゃくる祐一の頭を、誰かが、撫でてくれていた。背には、細い腕が回され、頭と同じように撫でて抱き締めてくれる。鼻水で詰まった鼻腔に、女の子の、芳しい匂いがかかる。

 まるで、揺り籠に揺られている様な感覚。

 パンドラの優しい感触が、祐一の荒れ果てた心を、少しずつ癒やしてくれた。

 

 

 ○◎●

 

 

「うふふっ。ユーイチの旅を見ていて思ったけど、やっぱりユーイチは、泣き虫さんね。今も、あたしに抱き付いて、大泣きしてたもの!」

「うわあああああ!!! やめろぉー! 恥ずいから、忘れてくれぇぇぇえ!」

 

 パンドラのからかう様な口調の声と、祐一の羞恥に染まった絶叫が響く。

 

「いいのよ、ユーイチ! 親子の絆は、大切にしなくっちゃ! さあ! もう一度、ママの胸に飛び込んできなさいっ!」

「ママー! ……って、やめろぉ! 二度目があったら、本当に心が折れるわっ!」

「いいじゃない。人の世には、『バブみ』って言うものがあるんでしょ? そんなに恥ずかしがる事じゃ無いと思うわよ?」

「『バブみ』は知らないけど、絶対に碌な事じゃない事は判るっ!」

 

 一頻りからかったパンドラは、笑いを収めると、どこか真剣な、それでいて慈愛に溢れた表情を祐一へ向けた。

 その表情は、まさに「慈母」。

 祐一は、似ても似つかない筈の、故郷の母と重ねてしまった。

 

 

「ユーイチ。あなたが背負った運命は、途方もなく辛いものよ。神々との敵対、因果律との因縁……。あなたが、これから歩む道には、幾万もの苦難が待ち受けて居るわ。何度も、何度も、心折れ、道半ばで倒れようとする筈よ。それでもね……」

 

 

「───思うままに、生きなさい!」

 

 

「例え、誰かに侮辱されようと! 例え、誰かに後ろ指を指されようと! あなたは、思うままに生きなさい! 

 ───それが、貴方達「人」の! 貴方『自身』の!! 唯一無二の正解なのですから!!!」

 

「──そして、私達の願いでもあるわ! 私は『全てを与える者』パンドラ! 

 苦難と後悔に満ち満ちた道を歩むあなたへ! 前を向き進むあなたへ! 

 絶望に打ち勝てる「喜び」と「希望」を! 

 そして、無償の「愛」を与えましょう!」

 

「あはは。うん……。ありがとう……」

 

 安堵した様な、とても弛緩した優しい声音で、祐一は答えた。

 そして祐一は、そっぽを向きながら、蚊の鳴くような声で、零す。

 

「…………かあさん」

 

 パンドラは、ニッコリ微笑み、祐一を最後にギュッと強く抱き締め、頬に口付けを一つ落とすと、空に溶ける様に消えて行った。

 

「騒がしい人だったなぁ」

 

 光が見えた。

 もう、夜明けみたいだな……。

 暁の光が、闇を引き裂き、祐一を優しく照らし出した。

 いつも隣に居た友は居ない。寂寥感が胸を締める。

 だが、もう、涙は流さなかった。

 

 祐一とパルヴェーズの旅は、終わったのだ。

 

 

 ○◎●

 

 

「さあ、行こっか。ラグナ」

 

 ──ルオッン! 

 

「どこに行くのかって? ……まあ、まだ正確な場所は判らないけど、転覆した船の生き残りが見つかったんだって。テレビで流れてたんだ。

 ……今は、ドバイに居るらしいから、ちょっと行ってみよっかなぁって」

 

 ──ルオオッン! 

 

「ああ。良かったよ。誰か生き残ってくれてるだけで、結構、救われるよな……。はは。お前もな、ラグナ?」

 

 ──ルォン! 

 

「えっ? 今度は、負けないって? 何言ってんだ。当たり前だろ? 俺たちは、あいつと約束したんだ。もう、負けないって。だから、また神様と戦う事になっても、絶対勝つぞ!」

 

 ──ルオオオォォ!!! 

 

「よっしゃー! 行くぜぇラグナ!!!」

 

 

 これから、始まるのは、木下祐一の旅。

 誰にも流されず、道を決めるのは彼自身。

 

 彼自身が紡ぐ、絶望と波乱、苦難と後悔に満ちた旅。

 

 

 だが一握りの希望と、友の約束を胸に携え、彼は進む。

 

 

 神に祈りは、届かない。

 だとしても、祈らずには居られない。

 

 

 どうか、彼の旅路に幸多からんことを──。

 

 



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第二章 世界放浪 青き狼編
ラグナ


 ひとりの少年が歩いていた。

 

 なだらかな平原が広がる地に少年がひとりだけで。地面にはまばらに淡雪が降り積もり、渺々とした大地を踏みしめ進んでいる。

 太陽は灰色の雲に翳り姿を見せず、辺りは少し薄暗い。辺りには灰にも見える欠片が舞上がり踊っていた。

 

 雪だ。

 

 雲と同色の灰雪がしんしんと降り続いているのだ。ひらひら舞う雪片は地面に降りた雪片と重なり合い、大地の灰色に色を付けていく。

 耳心地の良い音を響かせながら進んでいた少年の足が止まる。ふと、顔を上げ、灰雪を振りまく薄い雲を見やる。

 

 ひと目見れば忘れる事のない少年だった。

 

 烈火の如き意志の宿った真紅の瞳。苦癖っ毛で白髪交じりの黒髪。

 学生が着るようなブレザーに、右手には鞘に入った剣を携えて。

 すっと、左手を掲げて雲と重ねる。

 少年の容貌は整っていた。だがその表情は、どうしようもなく悲しみに彩られている。いや、悔恨だったのかも知れない。

 

 苦渋に歪められ口をきつく引き結んだ容貌には、何とも言えない色気と強い決意の色が浮かび、凡庸の域を出ない筈の容姿を『秀麗』と……そう言ってもいいほどに引き立てていた。

 

「バカが……」

 

 紡いだ言葉は、たった一言。

 

 だが、その言の葉に載せた感情には『後悔』の感情が蟠り、そして悲しげで、怒りに打ち震えていた。

 

 その言葉は、誰に宛てられた言葉だったのだろうか。

 

 ここには居ない誰かだろうか。

 

 情けない自分に、だろうか。

 

 己を拒絶した者達に、だろうか。

 

 

 だが確かな事は、今、彼は…………

 

 

 ○◎●

 

 

 

「───と言う夢を見た」

 

 ──ルオオォ? 

 

 祐一の意味不明な言葉に眉根を釣り上げ「何言ってんだコイツ?」というような声でラグナは返した。

 

 そんな盟友の姿を見ながら寝起きの気怠い思考の中、頭を掻いて辺りを見渡した。

 

 見渡す限りの青い世界。

 照り付ける太陽。

 鼻腔をくすぐる潮の匂い。

 黒い艶のある毛皮を濡らしながら泳ぐ盟友。

 盟友……ラグナの背の上で揺れる自分……。

 

 今、彼……木下祐一は()()()()()()()に居た。

 

 上半身だけ起こし空を見上げる。快晴だ。素晴らしいほどに。一点の曇りもなく。そんな太陽の光に目を細め、どこか悟った様な声音で呟く。

 

「ここ、どこだろうな……」

 

 ──ルォ。

 

「知るか」そう言わんばかりの冷たい声音でラグナは返した。

 

 そう、彼は漂流していた。二週間前とまったく同じで性懲りも無く……! 

 

 正直、祐一はこんな展開に慣れ始めていた───! 

 

 

 ○◎●

 

 

 パルヴェーズ……軍神ウルスラグナとの死闘から、三日ほど過ぎた頃。

 

 変わり果ててしまった友……ウルスラグナを討ち果たし『神殺し』へと新生した祐一は、ニ週間ほど過ごしたイランの地を離れ「転覆した旅客船の生き残りが居る」と言うドバイに祐一は向かっていた。

 

 新生直後、新しい義母となったパンドラはどうやら町の近くに移動させていたらしく、祐一はとりあえず今後どうするか考えている為に町へ入った。

 

 そこでとある事を自覚した……腹が減って仕方がないと。

 

 確かにここ数日間、まともな食事を取っていなかったが、この空腹は異常だった。

 街の中に入り周囲を見渡し、どういう訳か町には人っ子一人おらず、閑古鳥が鳴いていた。

 

 不思議には思ったが、結局空腹には勝てずこれ幸いと、露天にあったキャバーブや果物を貪り食ってしまった。

 

 祐一は知らぬ事だったが、ウルスラグナが復活を遂げた際その神威はイラン中に響きわたり人々を恐怖に落としいれた。

 その影響はこの町も例外ではなく、ほぼ全ての住民が都市であるシーラーズへ逃げ出していたのだ。

 

 罪悪感を覚えながらも、なんとか腹を満たす。

 

 身体が栄養を求めて仕方がなかったのだ。まるで、新しい()()()に変化する肉体に対応するような……。

 

 飢餓感を満たすと祐一は居もしない店主に向かいお礼を言って歩き出そうとした、その時だった。

 

『欧州連合(EU)は8日、イランに新たな制裁を……』

 

 そんな言葉が聞こえたのは。

 

 驚いて足を止めた祐一はその音声の発生源を探しはじめ、それは露天に据え付けられたテレビからだった。

 

 自分でも理解できる言語……日本語での放送なのか? そんな風に怪訝そうに聞いていたが、どうも違う。

 

 どうやら日本語ではなく、自分がペルシャ語を解しているらしい。驚く祐一だったが、これも新生した影響か! と気付き、細かい説明をする事もなく去って行った義母の放任具合に溜息をついた。

 

 特にする事もなくボーッとしていたがテレビで流れていたニュースの中で見過ごせない内容の物があった。

 

 ──祐一が乗船し、転覆した旅客船。その生き残りが居るというニュースを。そして今は()()()で療養中、とも。

 腑抜けていた表情が、引き締まる。次の目的地は決まった。急がねばならない。

 

 ニュースを知ったあとの祐一の行動は早かった。

 

 すぐに方向も考えず走り出した。頭の世界地図にあるドバイはイランから海を渡った南にあった。なら南に行けば着くだろう……そんな安直な考えだった。

 正確な方向なんて知る訳もない。それでもじっとして居るなんて出来なかった。

 そうして祐一が強い意志を滾らせた時だった。

 祐一の中に宿したとある存在が「呼べ!」と声高に叫んだのは。

 

 直感に従い、訳もわからず内から溢れ出す言の葉を編みその存在を呼び出した。

 

「我は最強にして、全ての勝利を掴み取る者! 主は仰せられた、咎人に裁きを下せと。背を砕き、骨、髪、脳髄を抉り出せ! 血と泥と共に踏み潰せ! 鋭く近寄り者よ、契約を破りし罪科に鉄槌を下せ! 

 来い、───『ラグナ』!!」

 

 恐ろしげな言葉とは裏腹に、歪んだ空間から小さな身体でひょこっと出て来たのは、ウルスラグナとの死闘の中で倒れたはずの盟友ラグナだった。

 

 ウルスラグナとの戦いの中で果てたラグナが何故生きているのか。それは義母となったパンドラが言う武器に理由があった。

 

 祐一の手に入れた武器。

 それは祐一が倒したウルスラグナに由来するものだった。

 

 祐一が新生した神殺しと言う存在は、神を殺しその神の権能を簒奪する事が出来るのだ。それを武器とし、神々と戦う事が出来る……らしい。

 

 らしい、と言うのも頭にそんな声が囁きが聞こえてきて感覚的に判るのと、今さっき権能を使った際に出てきたラグナに聞いた為からだった。

 

『ウルスラグナの十の化身』

 

 祐一とパルヴェーズが、イランを歩き回り探し回った化身そのものが祐一の簒奪した権能だと言う。

 ラグナ曰く、常勝不敗の軍神、その化身である我々を自由に使い、神を討ち果たせ。

 ラグナ曰く、化身である我々は、どれも自分勝手で気紛れなので、特定の条件を満たさないと力を貸さない。

 ラグナ曰く、神具たる『ミスラの松明』は、祐一が新生する際に、一緒に取り込まれたので、いくつかの化身の制約は緩くなっている。

 と、ウリ坊ほどの小ささになったラグナが、その蹄で器用に木の棒を持ち教師地味た所作で語ってくれた。

 胸を仰け反らせ少し得意げだ。かわいい(かわいいい)。

 ほーん。と良く判っていない声音で祐一が返し、

 

「うん。まあ、よく分かんねぇけど、お前が生きててよかったって事でいいさ!」

 

 ウリ坊化したラグナを抱き寄せ、満面の笑みで頬ずりする祐一にラグナは呆れたようにため息をつく。その様子は何処と無くパルヴェーズを思い起こさせた。

 

 そんなこんなでラグナを呼び出し、再会を喜び合った祐一達。そうして意気揚々と南へ向かって、一直線に駆け出したのだった。

 大地を征き洋上を駆け、今はペルシャ湾洋上。そこで方向を見失い目出度く漂流と相成った次第である。

 大体、自業自得である。

 

 

 ○◎●

 

 

「うーむ、方角が分からん……」

 

 再びラグナの背に寝転びながら、流れる雲を眺める祐一。彼が、ペルシャ湾に辿り着いてもう半日の時が過ぎていた。

 空には燦々と太陽が輝き、祐一の浅黒い肌とラグナの艶のある黒い毛並みを焦がしていく。

 彼が所持している物はとても少ない。

 元々、家出した時もバックに少しの着替えと十徳ナイフやら何か役に立ちそうな物を適当に突っ込んでいただけだった。

 そしてポケットには父の腕時計のみ。バックは漂流した際に失くし、へそくりも旅の途中あの町で使ってしまった。残ったのはもう時を刻まない時計だけ。

 後はブレザーの内ポケットに納めている祐一の生涯の宝物でもある写真と、試練の時パルウェーズから貰った方向を示す羅針羽に、数日分の水が入る四次元袋くらいか。

 その三つは、パルウェーズが確かに居たという証明であり、パルウェーズが残した形見も同然だった。それと同時に祐一とパルウェーズが共に旅をしたと言う確かな証でもあった。

 

 取り出した羽根を、寝転びながら眺める祐一。そうして眺めていると、クイックイッと羽根がとある方向へ向け、その先端を指し示した。

 

「ぇあ?」 

 

 この羽根が動くのは試練の時だけと思い込んでいた祐一は目を剥いた。不可思議な羽根を舐める様に見ていると、はたと気付いた。

 羽根が指す方向。

 それはドバイを指しているのではないか、と。

 

 羽根を指す方向は、何度試しても変わらず、方角を見失った祐一だったが太陽の位置から何となく「南」を指している様だ。

 どうやらこの羽根、今まで気付かなかったが所持している者が行きたい場所を指し示す物らしい。試練のゴールを指し示すだけだと思っていただけにその驚きは大きかった。

 

「シャア! これで漂流してるこの状況を打破出来るぞ! てか、この羽根あればもう迷う事なんてないじゃん! ありがとな、パルウェーズ!!」

 

 右拳を突上げ喜びを露わにする祐一。だが、彼は知らない。例え目的地が判っていても遭難や漂流は起こるのだと。

 喜び勇んでいた祐一だったがふとそこで違和感を感じた。

 

「……ん? あれれ? ……ラグナさん。今気付いたけど、身体が少し縮んている様に見えるんですが……?」

 

 ──ルォォン……。

 

「えっ! なに!? 聞こえない!! 

 ……権能の制限時間が来たなんて、全然聞こえないからねっ!!?」

 

 そんな祐一の焦燥感に溢れた声にラグナは無言で、身体を震わせるのみ。もう限界間近なのは明白だった。

 今のラグナは二十mほどの大きさ。ウリ坊サイズから二十mサイズまでなら、ラグナの意思で自由に変えられるらしい。

 それ以上になると、再召喚が必要になる、と言っていた。しかしいくら『ミスラの松明』のお陰で制約が緩くなっているとは言え、やはり制約型の権能だ。限界はある様でラグナは元の時空へ戻ろうとしていた。

 これがウリ坊サイズなら、幾らでも顕現しても大丈夫だが、二十メートルもの巨体となると、制限時間が発生する様だ。

 と言う、冷静な……現実逃避とも言う……思考で考えていた祐一だったが、正気に戻りラグナの体毛に縋りついて懇願する。

 

「ちょっと、ラグナさん! もうちょっと、頑張って! もう目的地分かったらから! あと少しで陸地に着くはずだから!! お願いしますよぉ──ッ!!!」

 

 なお、見渡す限り海の模様。

 

「やめろぉ──ッ! ここで落ちたら、漂流(笑)から漂流(真)になっちゃうよっ!! 頑張ってくれえええ!!」

 ──ルオオォォン!! 

 

 マジ、限界。『ラグナ』の悲痛な叫びが祐一の耳朶を打った。

 あ、こりゃ無理だな。祐一は悟った。

 

「おのれぇぇッ!!!」

 

 祐一の虚しい断末魔の叫びとともに、彼らは波に拐われた。




ウリ坊『ラグナ』は、原作六巻のあとがきイラストをイメージしてもらえばわかり易いかと。


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明滅を始めた世界

 その日より、世界は混沌の坩堝と化した──。

 

 神話と人の世。分かたれていたはずの二つの世界は、永き時を経て再び混じり合った。

 ありとあらゆる神話や伝承に英雄譚……数多くある物語の一部でしかなかった者達や空想の産物でしかなかった者達が、各々の神話を糧として嵐のごとく現世に現れ、猛威を振るい始めたのだ。

 

 神話という軛より外れ"まつろわぬ"存在となった者達は、物語の中では人に救いを齎す神々でさえ、世界中で禍を運び込んでいた……。

 

 

 ○◎●

 

 ──西アフリカ。海岸沿いの町にて。

 

 人々は目の前の光景が信じられなかった。なぜなら天より空を覆わんばかりに莫大な水量を宿した雨粒……いや、海と言っても過言ではない水の塊が降ってきたのだから。

 豪雨、津波、嵐。

 そんなに生易しい物ではない。確定された「死」を、天災が運んで来たのだ! 

 水塊の中心には、黒曜石の如き黒い肌と金の巻毛の神を持った老人が一人。死にぞこないのような老いた者ではなく、百戦錬磨の生き残りの雰囲気をまとったたくましい老人だ。

 そう、あれは間違いなく『まつろわぬ神』──! 

 

「呵々ッ、あの忌まわしい呪法が砕け散ったか! 愉快! 愉快じゃ! この様な佳き日には良き行いをせねば! 

 ──さぁて、地を這う定命の者共! 我が神威を忘れ、異教の神に縋った貴様らに神罰を下そうぞ!!」

 

 

 ──西ヨーロッパ。とある町にて。

 

 グウォォオオオオオオオォォ!!! 狼の雄叫びが、響く。

 体の芯から怖気が走る、不吉な遠吠え。静寂が流れていた平和な町が、たった一声によって潰乱した。恐怖に耐え切れず銃を片手に、外に出た町人達。

 闇夜が広がる街。そしてその中心に佇む恐怖の顕現が居た。闇の帳が降りる中であってさえ、不気味に輝く眼光は酷く鮮明に映った。

 雄叫びを上げた者の正体。それは狼では無かった。

 ───黒い『犬』

 その正体に気付いた時には、遅かった。

 半刻後、町は真の静寂を得た。

 

 

 ──中央アメリカ、エルサルバドル。山奥深くの農村にて。

 

 農村の中心には矯矯たる「大樹」があった。人や建物なんて比べ物にならないほど巨大な。その大樹は巨大な枝が二本突き出し、茎は真っ直ぐ天に伸び、人の形をしている様にも見えた。

 ──グシャ。

 ──グシャ。

 音がした。不快な音。耳障りで、悪い連想しか許さない音。

 何か柔らかい物が、落ちて来た音だった。

 

「ぁ……ぁ……」

 

 呻吟の声が響く。落ちて来たモノ。

 それは、──「人」だった。

 転落し、内臓や脳漿を撒き散らした人々。だが、すぐに苦痛は止んだ。身体が、時を巻き戻した様に再生したのだ。

 人々は立ち上がり、また、大樹を登って行く。全ては、崇める『神』の意思に従って。

 

 

 ……さぁ、狂乱の宴は始まったばかり。

 己を落とし込んでいた軛が外れ、原初の姿に戻ろうとする者たち。人に仇なす恐るべき者達が、世界を終末へと導く。

 

 奢侈に溺れた人々よ! 我が怒りを見よ! 嘆き震え、存分に後悔するがいい! 逃れる事叶わず尽き果てる運命なのだから! 

 

 怠惰に流れた人々よ! 我らは見ていたぞ! 己が行いを改めようと、もう遅い! 我らの手は汝らのすぐ後ろまで迫っているのだから! 

 

 許しを乞う者共よ! 遊興に耽り快楽に呑まれた、汝らを何故許せようか! 潔く、屍を晒し、禿鷹どもに啄まれるがいい! 

 

 世界は、狂気渦巻く騒乱の世界へ堕ちた。矮小な人間は抗いようもない存在に、ただ身を震わせ死を待つのみ。

 

 ──しかし、まだ、一握りの「希望」は残されていた! 

 

 人類代表の戦士! 

 人間総代たる王! 

 神を殺め、人類の守護者となった、たった一つの「希望(エルピス)」が!!! 

 だが彼はまだ己に科せられた使命を知らない。無知であるが為に、残り少ない平穏を享受するのみ。

 

 しかし、もうすぐ気付く。

 己がどれほど重大で、困難な運命の只中にあるのかを……。

 

 

 ○◎●

 

 

 どこまでも晴れわたる空の下、少し波の高い海を一艘の船が回遊していた。どんな物好きが乗っているのか、その船は今どき珍しい木造であり高々と帆が掲げてあった。機械の類は一切見受けられない古式ゆかしい、或いは時代遅れの船だ。

 

「神を弑逆した人間、か」

 

 ズンと腹の底にまで響く声が響いた。声の出どころは帆船に乗る青年からだった。

 彼は鈴木仁。生粋のモンゴロイドのようだった。その容姿は祐一の故郷に居ても違和感はないのではなかろうか。

 しかし彼の容姿は一般人と言うには首を捻らなければならないだろう……一言で表すならば「益荒男」。 

 歳は恐らく二十代半ば。艶のある黒髪を後ろで束ねオールバックに決め、顎に蓄えられた顎髭が勇ましさを際立たせている。

 

 そんな彼が何故こんな場所に居るかと言えば、とある人物に会うためだった。

 

 曰く、人の身でありながら神を弑逆せしめた者。

 曰く、神々に仇なし世界を終焉へ導く者。

 曰く、若くして人類最高峰の戦士である。

 曰く、曰く、曰く……。

 人一倍好奇心旺盛な仁は、そのフレーズを耳にしただけで興奮を止めれなかった。一も二もなく飛び出し、気付けばこんなところに居た。

 

「はてさて()の口車に乗せられここまで来たは良いが、その"神殺し"とやらは何処に居るのやら……」

 

 当てずっぽうの向こう見ず。豪放磊落で細かい事を気にしない、を体現している仁は計画性の無さがここに至って浮き彫りになっていた。

 しまったしまった、と腕を組み心底困ったと言った風だがその語調にはどこか愉快さすら孕んでいた。

 

「ん?」

 

 その時でした。海の流れに乗って、どんぶらこ〜どんぶらこ〜と土左衛門が流れて来たではありませんか。よく見れば黒髪の少年のようでした。

 

 ん? 黒髪だと? 

 仁はその土左衛門を見咎め、うつ伏せになっていたソレを櫂でひっくり返した。ぴゅー! と間抜けた所作で土左衛門が水を噴き出し、仁はよくよく見ればそれが尋ね人の特徴とよく似ていることに気がついた。

 

 なんとも言えない顔を作って、されども無視するわけにも行かず……。

 数刻後、仁の尋ね人は見つかった。

 

 ○◎●

 

「いやー! 助かった助かった! 死ぬかと思ったぜ! ありがとな!!」

「ハッハッハッ! 礼など要らん! まあ、人が海上を漂っていた時は大層驚いたが、そんなに元気なら問題ないな!!」

 

 ハイテンションな二人の男達。どちらも黄色人種で、見ようによっては兄弟に見えるかも知れない。

 一人目はさっきまで漂流していた少年……木下祐一。

 二人目はダウ船と言う木造船で自由気ままに回遊し、たまたま祐一を見つけ拾った青年だった。

 

 祐一達が居る街の名は「シャジャル」。

 アブダビ、ドバイと並ぶ、アラブ首長国連邦の第三の都市である。

 

 彼らは上陸と同時に、海岸沿いにある街に入り、食事を取っていた。

 祐一は幸運にもペルシャ湾で漂流し、ドバイに近いこの「シャジャル」と言う街に辿り着く事が出来ていた。

 悪運の強い奴である。

 シャジャルと言う街もイランと同じでイスラムの戒律が厳しく、酒は出ない筈なのだが酔っぱらい以上のテンションで盛り上がっていた。と、そこで祐一が今更だが自己紹介をしていない事に気付いた。

 

「あ、そういや、名乗ってなかったよな。俺は、木下祐一! 改めて、助けてくれてありがとう!」

 

 右手を突き出しサムズアップする祐一。それに青年は呵々大笑し、

 

「ワハハハッ! 気にするな、気にするな! 大した手間ではなかったし"海で人を拾う"などと言う経験、滅多にできんからな! ……おっと、俺も名乗り忘れていた。俺の名は、鈴木仁! 世界を股に掛ける流離い人よ!!」

 

 鈴木仁、と名乗った青年。

 日本語も達者で、異国の言葉が喋れない祐一でも、母国語を聞くと言う懐かしい感覚に安堵を覚えていた。

 背の高い祐一よりも頭三つ分は背が高く、それで居て弱弱しい印象はなくガッチリとした筋肉が服の上からでも見受けられた。

 性格は豪放磊落をそのまま人に落とし込んだ様な、豪快で明朗快活な御仁である。

 

「なるほど。遠い故郷を離れ、着いた先は過酷な大地。それは災難だったなぁ。うぅむ、俺も世界を駆け、なかなか数奇な人生を送っているが、お前も負けず劣らず、と言うところだな!」

「そーだろっ? 俺ってなかなか波乱万丈な人生を送ってるんだぜ! でも、仁さんも、こんな所に居るんだし、結構苦労してんじゃないのか?」

「なァにそれほどでもない。俺がここに居るのは、好き勝手に生きて来た結果だ! 反省しこそすれ後悔など微塵もない! 我が歩んだ道に一片の後悔はない! と言ったところだな!」

「へー、いいなぁー。おりゃあ、後悔してばっかだぁ。今までやって来た事が、ホントに正解だったのか、いっつも悩んでるよ……」

 

 そんなことをいう祐一の背を仁はバシバシと叩いた。

 

「ワハハッ!!! 悩め悩め、若人よ! それこそ若さの証明! そして悩み、立ち止まり、戸惑い、選んで、進んで行く! その苦悩の果てに掴んだ栄光こそ、何物にも代え難い物になるのだからな!!」

「おー、いい事聞いた。そーだよなぁ、なんの苦労もしないで、手に入れたモンなんて薄っぺらいよなぁ。うん、俺の歩んで来た道に間違いはなかったのかもな。ふっ、……だって俺、死んでねぇし! わはは!」

「そう!!! 生きている事こそ、全ての正解だ! ワハハハッ!!!」

 

 二回ほど生死の狭間を彷徨った男が何かのたまった気がしたが、彼ら二人は出会ってからこんな調子で騒ぎに騒いでいた。

 祐一と仁と言う男達は、重ねた時間は短かったが、何となく波長が合うようだった。

 パルヴェーズとは真逆の性格だな! 嘗て旅をした、しかし、いつかまた出会える友を心に描いてそんな事を思う。

 

「よしよし! 今日の俺はお前と言う友を得て、頗る気分が良い! 祐一、折角同じ釜の飯を食っているんだ! 酒でも酌み交わそう!」

 

 仁はそう言うとおもむろに、二つの小さな盃を取り出し、これまたどこに隠し持っていたのか、徳利を取り出し酒を注ぎ始めた。

 フリーダムな仁の行動に、流石の祐一も焦った。

 

「え? ……良いのかよ? ここ、酒はタブーみたいだし、辞めといた方がいいんじゃね?」

「───なぁに、気にするな!」

 

 祐一の問い掛けに、自信満々に仁は答え、

 

「俺がやりたいから! その理由で、全ての事は大体許される!」

「……駄目じゃねーか!」

「ふふん、良いではないか! これは俺とお前が出会った事への祝杯よ! この卓には、俺とお前しかおらん! ならば何も介在させず、気ままに酒気を浴びようぞ!」

「それも、そうだなぁ。うっし! 俺も、たまには飲むか!」

 

 そう言うや否や、仁から盃を受け取る祐一。どうやら彼は飲酒に忌避感は無い。と言うのも祐一の故郷に居る幼馴染の一人が、未成年ながらも無類の酒好きなのだ。祐一が「秀」と呼ぶ偉丈夫の少年で、祐一よりも頭2つほど背が高く、逞しい。

 その彼が、よく家から酒の類をくすねて持って来るのだ。それを用いて祐一達が、誰も来ないお気に入りの山で宴会を催すのが、彼らの楽しみであった。その為、祐一も酒には慣れている。

 ワルガキ&クソガキ共である。

 

 盃を持ち乾杯し、一気に呷る男二人。祐一は呑み込んだ瞬間目を見開き、溜めを作って……

 

「───くああ! うめええ!!」

 

 飲む瞬間、独特な臭いを感じたが構わず飲み干した祐一。そして、口の中に広がった味は、いつもの飲んでいるビールや安酒などとは全く異なっていた。独特な酸味と芳醇な味わい。今までの飲んでいた酒が、まやかしか何かだったのではないかと思えるほどの。

 

「うまいか! それは我が故郷自慢の一品だ! 美味くて当然ではあるが、喜ばれると俺も嬉しいぞ!!」

「マジうめえ! こんな酒飲んだ事ねぇや! どこで売って……いや、それよりも……仁さん、もう一杯!」

「よしよしどんどん飲め! ──ワハハッ! 酒を酌み交わし、盃を交わした俺達はもう兄弟も同然! 何も遠慮する事はない!!!」

「酒を酌み交わして、盃を交えたら兄弟……。いい考えだな、それ!! じゃあ、俺と仁さんは今から兄弟だな! わはは!!!」

 

 飲んで騒いでいた二人。余りの騒がしさで、目立ちに目立ち、店主の米神に青筋が浮かぶ。結局、飲酒がバレ、店の店主と共に、シャジャル史に残る逃走劇を披露する事となった。

 大捕物を繰り広げ、あえなく捕まった祐一と仁。すばしっこい祐一を捕まえられた店主は、職を間違えている。

 それから平謝りし、仁と夜遅くまで語り合い、いつの間にか路上で雑魚寝していた二人は、若干の頭痛に苛まれながらも己が道を進む為に別れた。

 

 

 朝から眩しい日差しが祐一を照らす。

 そんな日差しに目を細めている祐一は、シャジャルの街を抜け、もう目視で見えるほど近いドバイへ向けて歩を進めていた。

 

「仁さんか……おもしろい人だったなぁ」

 ──ルォォン。

「お、ラグナ。復活したか。……よく助かったなって? うん、いい人に助けれてな、そんで飯も奢ってもらったんだ」

 ──ルオン。

「お前も腹減ったって? しゃーないなー、飯食ってる時にとってたパンがあるから、一緒に食うか!」

 ──ルォン! 

 

 祐一の権能の一つであるラグナ。祐一に由来する存在であり、祐一が死ななければどれだけ傷付こうともラグナは何度も復活する様である。波に拐われ消え去っていたが、祐一も復活する確信があった為にそれほど心配していなかった。

 復活の時間は、おおよそ半日といった所か。

 復活可能になると何処からともなく姿を現すラグナはなかなかフリーダムな奴だった。

 そもそも『猪』の化身であるラグナを呼び出すには、厳しい制約がある筈だが、これも新生時に祐一と同化した『ミスラの松明』のお蔭で、自由に出現する事が可能らしい。ラグナ自身が身振り手振りで語っていた。

 

 さぁ、ドバイはもうすぐだ。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───ドバイ。

 世界有数の大都市に数えられるドバイは祐一が居る国……U.A.Eの首都であるアブダビよりも一歩も二歩も発展している中東屈指の大都市だ。

 人口三百万であり、しかし人口の七割から八割が外国人と言う、まさに人種の坩堝と言える街である。

 街の近くには美しいペルシャ湾が見え、街を囲むようにイランと同じく沙漠が広がる大地がある。しかしこの沙漠。イランの石ころばかりが覆う沙漠とは違い、風紋が浮かび多くの人が想起するような砂で出来た砂漠である。

 

 まあ、そんな土地だ。先日まで祐一が居たイランと、このドバイの暑さはいい勝負である。それに加えて近くに海もある為、尋常では無い湿気が襲い、外出するのを躊躇う程に暑い街でもある。

 

「ここか……」

 

 今、祐一はとある日系の病院の前に立っていた。

 ドバイに辿り着いてどれほど経っただろうか、もう日は傾こうとしている。

 祐一はやっとの思いで、この生存者が居る、と言う病院に来ていた。

 正直、暑さでぶっ倒れるかと思ったが、何だか頗る体調が良く、紆余曲折はあったが休みなしで病院まで辿り着いてしまった。

 

「よし、行くか。ラグナ!」

 ──ルオ。

 

 早速祐一はラグナと共に病院へ突撃し──追い出された。

 ペット持ち込み禁止!!! 看護婦のおばさんにそう言われ入る事が出来なかったのだ。

 

 ペットじゃねぇ! そう抵抗した祐一だったが、聞き入れて貰える筈もなく、結局、泣く泣くラグナを外でお留守番させ、中に入る事にした祐一。

 

 病院に入る前にラグナへ、一言だけ注意する。

 

「ラグナ、いいか? お菓子もらっても、知らない人について行くんじゃないぞ?」

 

 なお一番着いて行きそうなのは祐一である。

 

 

 ○◎●

 

 

 ──ガヤガヤ、ガヤガヤ。

 受付に行き、生き残りが居ると言う病室まで赴いた祐一を待っていたのは、黒山のような人だかりだった。広いはずの病室からはみ出すほどの人、人、人。それも祐一と同郷の者達ばかり。

 見れば、カメラやマイク、メモ帳を持った人間が主で、マスコミ関係者である事は容易に察しが付いた。

 どうやら"旅客船沈没事故の生存者が居た"と言うニュースは、故郷の世論をなかなか騒がせているらしい。

 

「おぉ、めっちゃ人居る……。うーむ、俺もパルヴェーズに救って貰わなかったら、あの人達に囲まれて居たのかなぁ……?」

 

 そんな事を考えながら「よし、行くか」と一つ気合を入れる。人混みを、その持ち前の身軽さで掻き分け前進した。療養中の生存者が見えるであろう最前列へ突き進む。

 

「──よっ!」

「おや、君は……」

 

 旅客船の生存者。

 果たして、その人物は祐一の知っている人物だった。

 祐一が転覆する前の船でよく話していてた人で、祐一が船に潜伏している事がバレた時に「サーカスみたいだ」と可笑しそうに笑っていた人物だった。

 

 彼は祐一の顔を視界に収め、まるで幽霊かナニカを見たかの様に目を見開き驚愕の感情を露にし……そしてその目に理性が宿ると大声で、

 

「──はい、皆さん! 今日の取材の時間は終わりです! さぁ、出てった、出てった!」

 

 今度は祐一の方が驚いたが、目の前の人物が妙に愛嬌のある仕草でウィンクをしたので、すぐに苦笑に変わってしまった。

 不満そうなマスコミ関係者だったが文句を垂らしながらも、数分もすれば病室は祐一と彼だけになった。

 

 彼は丸眼鏡を掛けた、少し太っちょの青年だった。

 眼鏡の奥から覗く瞳はぱっちりとしていて、見える肌に日焼けの跡なんてみえない。だからだろうか、どうしても幼い印象が拭い切れないのは。

 少し運動不足なのか、病室で着る服からでも分かるぽっこりお腹と首に付いた肉感が、妙な愛嬌を醸し出していた。

 だがその右手は分厚い包帯が巻かれ、ここに来るのが決して楽な境遇ではなかったのだと言葉なく語っていた。

 

 祐一と向き合い、生き残りである彼が、少し目を潤ませながら口を開いた。

 

「君も生きてたんだねぇ……! よかった……! よかったよ、本当に!」

 

 祐一の右手を取っては、軽く振り、よかった、よかった! と何度も零し、喜びを露にした。

 

 どうも感情を抑えるのが苦手な人らしい。船で出会った時も思ったが、この人の言動は結構明け透けだ。

 それだけでも祐一はこの眼の前の人物を憎めなかったし、好感さえ抱いていた。喜ぶ彼に対し、祐一は照れ臭そうに空いていた左手で頰を掻いた。

 

「おっちゃんも、生きてたんだな……。ホントよかったよ。

 ……俺は、船が転覆する前に、海に放り投げられたから何とか生き残れたんだ……。船が転覆する所を見てたからさ、もうみんな駄目だったんだろうなって勝手に思ってた……」

「そうなのかい? 僕は気付いたら、もう救急ヘリの中でねぇ……。どうやって助かったのか皆目検討も付かないんだ。それなのにマスコミの人達は根掘り葉掘り聞いて来て、困ったものさ」

「そっか……俺は漂流して良い奴に助けれたからなぁ。色々あってあの船の生き残りが居るって聞いて飛んで来たんだ」

 

 そう笑う祐一、「色々あった」そんな言葉で言い表せるほど楽な道ではなかったけれど、パルウェーズが歩んだ旅は軽々に口にして良いような旅でも無いと考えていた。

 

「……ま、お互い生きててよかった。って事で!」

「そうだね!」

 

 生き残った者同士笑い合う二人。まだまだ語り合いたい事はあったが、そう言えばまだ自己紹介をしていない事に気付いた。

 

「おっと。そういや、俺たち一緒の船に乗ってけど自己紹介してなかったよな? 俺は、木下祐一! 花も恥じらう十四歳さ! よろしくな、おっちゃん!」

「お、おっちゃん……。僕、まだ二十二なんだけどなぁ。まだ「おっちゃん」呼びは早いと思うよ僕は……。

 あ、僕の名前は八田寿。まあ今でこそ日本じゃ「時の人」になってるけど、元は只のプー太郎だよ」

 

 八田寿、22歳。独身、無職、彼女なし。おっさんと言われると、もにょるお年頃である。

 

「時の人?」

「おや知らないのかい? 日本じゃ、僕が生き残ったニュースが最近の"奇怪なニュース"を吹き飛ばす朗報らしくてねぇ。みんながみんな、悪い噂を払拭しようと必死なのさ」

「……悪い噂?」

「あれれ。君、本当に何も知らないんだねぇ……」

「うーん。転覆してから今まで、ニュースなんて見なかったしなぁ。てか、それどころじゃなかったし……」

「ふむ、君が今までどんな境遇に居たのか気になる所ではあるけど……。まあ、いいさ。教えて上げよう」

 

 そう言うや否や寿は姿勢を正して語り始めた。それは教師の様で薀蓄を語る物知りの様で、祐一はこう言うの好きなのかな? そう思わずには居られなかった。

 

「今……と言うか、3日ほど前からからかなぁ。世界各地で、おかしな者達が現れ始めたんだ」

「おかしな者達?」

「うん。それは例えるならば神話やおとぎ話に出て来る者、と言って良いかもね。ホメロスが謳ったギリシャの英雄譚、フェルドゥスィーが纏めたイランの叙事詩。インドの『マハーバーラタ』、北欧の『ニーベルングの歌』、中国の『西遊記』、カフカスの『ナルト叙事詩』。そんな神話やおとぎ話の世界に居るはずの、神や悪魔、英雄や怪物達が次々と世界各地に現れたのさ。まるで、何かの封を破ったかの様に、ね」

「神や、怪物……」

 

 心当たりがあった。あれはごくごく最近の事。

 忘れよう筈もない。漂流して助けられそれからニ週間も共に過ごした友と己が手でその旅に終止符を打ち、再会を誓った出来事を。

 あの友はなんと言っていたか。己の義母と名乗ったあの人はなんと言っていたか。

 尊い記憶を紐解きながら、今起こっている異常現象と照らし合わせていた。

 

『───さあ! これから、世界は、目まぐるしく動きますわ! 『鉄』の時代は『英雄』の時代へと移り変わり、『英雄』の時代は『青銅』へ! 『青銅』は『銀』! そして『銀』の時代は、遂に『黄金』の時代へ行き着き、停滞した世界は、逆行して行きますわ!』

 

 朧気に聞いた声。

 

『ま! 神を殺したんだから、ありとあらゆる神様たちに付け狙われるけど、頑張ってね!』

 

 そう、義母が言った言葉を思い出す。

 そして異変が起こったのは三日前。祐一が神を殺した日時と奇妙に符合していた。

 まさか……。だけど、そんな事があり得るのか……? 祐一には、全ての事が、繋がっている様に思えてならなかった。背筋に氷の塊を突っ込まれたような、酷い寒気が走る。

 寿の話は、続く。

 

「そうして現れた者達はとっても強くてねぇ。人の持ちうる力じゃ全くと言っていいほど抗しきれないんだ……核兵器ですらね。もう幾つかの町や、村が、滅んでいるよ……」

「そ、そんな事に、なってたのか……」

「うん。各国の軍隊も、最新兵器やあらゆる戦術を駆使しては居るようだけど、蟷螂の斧。全く効果がないんだって」

「ホントにそんな事が起きてるのか……? 俺、信じられないよ」

「確かにそうだろうねぇ。僕も三日前以前の時だったら信じていないだろうしね? あー、そうだ。多分、今でもテレビでやってるんじゃないかな?」

 

 そう言うと、寿はリモコンを手に取り、テレビを付けた。どうやらこの病院は、日系の病院であり日本人患者への配慮で、遠く離れた中東国家U.A.Eであっても、日本の番組が映るようだった。

 

 映る番組は、どれも世界各地に突然訪れた不気味な災厄への報道で溢れていた。

 ありとあらゆる都市、国家、大陸で人知を超えた怪異どもが跳梁跋扈していた。正に百鬼夜行。彼奴らが通った後には黒煙と血煙、焦土と瓦礫の山、死と狂気のみが残った。

 

 そのニュースを見ながら祐一は、嘗てバンダレ・アッバースに現れた『駱駝』を思い出していた。

 戦闘機が放ったミサイル。それはかの化身に何の害も及ぼさずすり抜けていったでは無いか。

 そしてバンダレ・アッバースは……。あんな事が、世界中で起きている。

 

 拳を握る。歯を食いしばる。目をきつく瞑る。全身の筋肉が収縮し、膨張する。息を大きく吸い込む。臍下丹田より溢れる力が増す。

 俺の知らない所で……いや、知ろうとしなかった俺が……! のうのうと生きていた自分に酷く腹が立った。知らなかったから。そんな言い訳が通用する訳が無い! 

 祐一は、今すぐにでもここから飛び出して、燻る己の憤りと破壊衝動を発散させたかった。

 

「───どうかしたのかい?」

 

 突然、黙り込んだ祐一に向け、寿が声を掛けた。

 ハッと……。思考の海から打ち上げられ、突然意識が覚醒した様に、目を開く祐一。

 

「……いや、なんでもないさ」

「そう落ち込むことはないよ。知らない間にこんな事態になってたんだ、無理ないよ。……えぇと、どこまで話したかな? ……ああ、そうだ。今世界は天災みたいな存在で溢れているけどね……まあ、でも、悪い話ばかりじゃないんだ」

「え……?」

「ふふふ。君は知らないだろうけど、このドバイの海を挟んだすぐ北にイランって国があってね? イランじゃ他の国と違って一ヶ月も前からから怪異現象が続いて居たんだけど……。でもその国のバンダレ・アッバースって街に現れた怪物はとある二人の英雄によって倒されたらしいんだ! 

 ……それに三日前! 恐ろしい神が現れ、イラン全土に恐ろしい宣告をして恐怖のどん底に落とし入れたんだけどね? でもどういう訳かその神様も居なくなってしまったんだって」

「神、様」

 

 その言葉を紡ぐのに祐一はどれほどの労力を費やしただろうか。再び目を瞑り、口を引き結んだ。そうしないと堪えて居たはずの、ナニカが零れてしまいそうで。

 

「そう! 神様! 何の因果か人に仇なす様になってしまった者達! おとぎ話では倒され、或いは人を救う筈だった者達! 彼らは総じて人の世に現れては、人々を苦しめ、人には抗い切れない力を振るう!」

 

 寿は、そこで言葉を止め、キラキラ瞳を輝やかせ、

 

「……でも、でもね、それでもね。まだ人類には希望があるかも知れない! イランで神様が居なくなった理由! そうさ、きっとある筈だ! 神様にだって対向出来る、ナニカが!」

「…………」

「それを今世界中の人々は血眼で探してるって訳さ! 

 ──はは! 心躍らないかい!? 力無き僕たちが、超越者たる神々に対抗できるかも知れないんだ! それはどんな方法何だろうね! それを考えるだけでワクワクするよ!」

「あはは。そっか……」

 

 祐一は寿に言葉に曖昧に笑い、そして思った。

 

 ──ああ。パルヴェーズ。

 ──なんで、こんな事になっちゃったんだろうな。

 ──俺達が、守った世界は、いつの間にか壊れてしまったみたいだ……。

 

 

 ○◎●

 

 

 夜。闇の帳が降りた砂漠の大地を、駆ける者達がいた。

 銀の毛並み、四足の雄々しい脚、禍々しい牙、紅い眼光。

 ──銀色の「狼」。

 砂漠を駆ける者の正体は、狼だった。馬かと見紛うほど、巨大な狼。その数は、百や千では利かない。あまりの多さに、もし人々の目に映ったならば、砂漠に雪崩が発生したのかと錯覚するだろう。それほどの夥しい量。

 

 その数、およそ──「十万」

 雲霞の如く夥しい数で群れ、突き進む群狼ども。

 おおよそ、砂漠には似つかない者共が、凄まじい速さで大地を踏み荒らし駆ける。

 ここが、何もない砂漠であった事は僥倖だったのだろう。そうで無ければ、奴等が通った跡にはぺんぺん草も残らないだろうから。

 

 ──ズン。──ズン。

 

 世界を揺るがし、聴くものを絶望を与える歩武が響く。それは、異様である筈の群狼の中にあっても、更に異様であった。

 月の銀光に照らし出された影。

 その影は極大だった。地平線の彼方からでさえ、ハッキリわかる大きさ。例え大都市の摩天楼でさえ、隠し切る事は叶わないだろう。

 その脚は長大だった。二本足で立っているが、人間のすぐ転ぶ軟弱な物とは似ても似つかない力強い足。嘗てイランに現れた『駱駝』が誇った四肢でさえ霞む程の威容。

 その腕は巨大だった。どんな頑強な盾でさえ、どんな堅牢な城壁でさえ、どなな難敵が阻もうとしてさえも、必ずや腕の一振りで打ち砕くだろうほどに。

 

 その存在は、「人」の形をしていた。

 つまり──人狼。

 砂漠を駆ける銀の狼。それを統べる者は容貌魁偉な「人狼」であった。

 その偉容は、凄まじい。かの存在を矮小なる人に無理矢理落とし込めば、誰もが蜀の『美髯公』、或いは、破魔の守護神『鍾馗』の如しと、惜しみ無い称賛を贈るだろう。

 

 『まつろわぬ神』或いは、それ以外の『ナニカ』か。

 

 神ならぬ身である者には判らなかったが、恐ろしき者たちが、とある大都市へ向け一直線に向かって居る事は理解出来た。

 大都市の名は「ドバイ」。

 三百万の人口を有する中東屈指の大都市───そして、神々の仇敵たる"神殺し"が逗留する街であった。



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侵略者は燎原の火の如く

 眠らない街でもあるドバイの光は、星々の煌きも月の銀光もかき消し夜闇の深くに隠してしまう。誰もが人類の繁栄と栄華を受容する、人類屈指の大都市の姿。

 

 その光を背にし、祐一はまだ病室にて寿と四方山話に花を咲かせていた。祐一も何だかんだで話し相手が欲しかったのだ。

 今まで旅をして来た異国の地には知り合いなんて皆無で、言葉が通じて、同郷で、自分に近い境遇の者なんて居なかった。それは話し相手である寿も同じ思いだった。

 夜通し話し込む勢いでよく舌が動いた。定刻になりお見舞いに来た祐一を帰らせようとした看護婦さんに「もう少し話をさせてくれ」と頼み込んで延長してもらう程には。

 

「───あれ?」

 

 そして、違和感に気付いた。

 

 何か()()()()()()()()が現れた。全身に力が充足し漲っていく。ありとあらゆる不調や違和感が糺され、意識が先鋭化する。

 何だ、この感覚は……? 

 ウルスラグナが誇る十の化身と相対した時とも違う感覚。まるで戦士が、己の故地たる戦場へ舞い戻ったかの様な感覚。己が全身全霊を掛けて、討ち果たすべき存在が現れた感覚。

 

 祐一が、生まれて初めて感じる感覚に戸惑っている時だった。

 

 

 ッゴゴゴゴゴゴゴ───ッッッ!!! 

 

 

 大都市「ドバイ」全土が、ナニカを恐れる様に鳴動したのは。

 悪寒が駆け抜け、祐一は咄嗟に窓へ駆け寄り──そして見た。視力の良い祐一で無くともその光景は容易に見通す事が出来た。平穏を享受していた者たちが一様に一点を見上げ呆気に取られている。

 それほどの異常事態。

 ドバイをぐるりと囲んでいた砂漠が、天高く見上げるほどに()()したのだ! 

 いや、あれは隆起などという生易しいものでは無い……。恐ろしく強大な存在によって「大霊峰」とも呼ぶべき峰が創造されたのだ。

 まるで世界を固く閉ざす門だ。視界一杯に広がり、天高く聳える山。それが、ドバイの住民を閉じ込める「檻」として屹立していた。

 

 祐一は、信じられなかった。

 

 不可思議な出来事に出遇った事は家出してから何度もあった。しかし、それは『ウルスラグナ』を討ち果たし、どこかで「終わったもの」だと思っていたのだ。

 しかし、今、眼の前に広がる光景は、その甘ったれた考えを粉々に打ち砕くほどの衝撃があった。

 驚き尽くしたと思っていた事は祐一自身の勝手な思い込みに過ぎなかった。まだ世界は……因果律は、祐一を葬ろうと画策していたのだ。

 

 そして流石の祐一であっても悟った。

 先日のウルスラグナとの死闘……異形の者達との戦いに終止符を打ち、旅の終わりなのだと位置付ける物では無く、果てなき闘争の始まりだったのだと……。

 

「なんだい……? あれ……?」

 

 寿が、やっとの思いでと言う声音で捻り出した声が響く。祐一には不幸にもその問いに対する答えを持ち合わせていた。

 そう。奴等の名は───

 

「『まつろわぬ神』───ッ!!!」

 

 祐一が叫んだ瞬間だった。大霊峰の頂上にて蠢く影が見えた。

 見上げる程の大霊峰。その天辺に居ると言うのに、その影の存在はよく見えた。それほど大きさ。それほどの威圧感。

 そして三日前、祐一の前に現れた者と同じ気配!

 

 祐一は確信した。間違いない、あれこそが──! 

 

 人狼だ、巨大な人狼が二本の足でしっかと大霊峰の天辺を踏み締め、人類の栄華……その象徴たる人類屈指の都市を見下ろしている。

 そしておもむろに逞しい右腕をゆっくりと空へ突き上げた。祐一にはその動作がひどく恐ろしい物に見えて仕方がなかった。まるでその緩慢な動作一つで数多の災厄を撒き散らす様な気がしてならなかったのだ。

 その直感は間違いではなかった。軽い動作だった。スッと影は腕を振り下ろした。

 

 ───オオオオォォォオオオオオッッッッ!!!! 

 

 直後、街を揺るがす恐ろしい大音声! 人狼の後ろから銀の雪崩が押し寄せた。否、あれは雪崩ではなく──夥しい数の「群狼」

 凄まじい勢いで、銀の狼達が大霊峰を駆け降りているのだ! 

 

「──逃げろぉぉおおおおおおおおおお!!!」

 

 祐一の絶叫もむなしく大都市は阿鼻叫喚の地獄と化した。

 

 ○◎●

 

 ───ドバイ陥落。

 十万にも及ぶ巨大な群狼、その突然の強襲によって人々は為す術なく屍を晒し、人々が積み上げた大都市は崩れ去った。ドバイのあちこちで闇夜を引き裂く劫火と黒煙が舞う。楽しげな賑わいから一転し絶叫と呻吟の声が広がる。

 

「ハァ……! ハァ……!」

 

 一人の青年が脇目も振らずに走っていた。後ろから迫りくる恐ろしいモノから逃げる為に。

 平穏であった筈のドバイが一瞬で微塵に砕け散った。

 青年はそれが全く信じられなかった。だって今さっきまで友人達や彼女、その四人で輪になってこのドバイの賑わいを楽しんでいたのだ。

 だと、言うのに……! ほんの数十分前に現れた銀の狼ども。奴等は自分たちの都合なんぞ知らぬとばかりに暴虐の限りを尽くした。

 瞬く間にドバイは銀の津波に呑まれ血の海と化した。

 誰もがなりふり構わず逃げた。それは自分達も例外では無かった。

 しかし無意味だった。

 一人の友人は、何匹もの狼で食い付かれ文字通り八つ裂きになった。もう一人の友人は振り返った時には頭がなかった。

 残された彼女を連れ逃げ出そうとし、出来なかった。

 ──人狼。

 およそ人の倍ほどにはある巨駆の、それも人の形をした狼があらわれたのだ。見れば一体だけでは無い。群狼と同じく何千何万とそこかしこに溢れていた。そして人狼は多種多様な武器を手に持ち、その恐ろしい体躯から出る怪力と、血に酔っている様な残虐さを持って、ドバイに暴虐の嵐を巻き押した。

 猛威は逃げていた青年とその恋人にも等しく降り注いだ。一体の人狼が自分達に狙いを定め追ってきたのだ。

 懸命に走り気付かなかったが、手を繋いでいた彼女の手が、軽くなっている事に気付いた。悪寒を感じながらも、彼女の握った手を見る。確かにそこには、愛しい恋人の手があった。そう。──「手」だけが。

 恐怖に震え振り返れば、手首から先を千切り取られ、人狼に弄ばれている彼女が居た……。

 助けねばならない! そう思うのに、人狼の威圧に耐えられず、青年は震え足が竦む。あまりの恐怖に、思わず失禁してしまった。

 人狼はそんな情けない青年を嘲笑うかのように、青年の彼女の服を引裂き、そして、その股から伸びる屹立し、グロテスクな物で──犯した。

 絶叫を上げ抵抗する彼女の骨を砕き、意思を萎えさせ、嬲る。青年は眼の前で起こっている事が理解出来なかった。青年に備わる全ての処理機能がショートしたかのよう。阿鼻叫喚の、正に地獄……。

 そして、

 ───ああああああああああああッッッ!! 

 青年は絶叫と共に駆けた。彼は逃げたのだ。

 凄惨な現実を受け止めきれなくて。

 人狼は一時の間女を犯していたが事切れ何も言わなくなった事に飽きたのか放り捨て、悠々と青年を追い始めた。

 そんな光景は、ドバイの至るところで散見できた。

 

「ハァ……! ……ハッ……ハッ!!」

 

 青年は走り続けていた。

 走っていないと、恐ろしい魔物に追いつかれていしまう。そんな強迫観念が青年の心を蝕む。それは強迫観念などではない。実際に今この時追われているのだ……! 

 路地裏の薄暗い空間を、青年はひた走る。

 なんだこれは! なんだこれは! 本当に現実なのか! 何であんな化け物が、居るんだ!!! 

 抵抗する術も無く友は殺され、何者にも代え難いと思っていた恋人は獣に犯され、一人残った青年は嘆いた。そして、祈った。──届きもしない祈りを。

 神よ! 慈悲深き神よ! どうか助けて下さい! これが罰だと言うのなら、もう十分受けましたから! どうか……!! 

 ──ドォンッ!! 

 突然の起こった衝撃に青年は為す術なく吹き飛ばされた。すぐ近くの建物の外壁に叩き付けられ、意識が飛びそうになる。だが寸での所で堪えた。意識を保たねば、二度と覚める事はないだろうから。

 衝撃により舞い上がった土煙を見る。影があった。

 銀の人狼。だが腕と口、そして股は赤黒い血に染まって……。

 ───ヒイイイイイィィイッ! 

 恐怖の顕現にまるで女子が上げるような甲高い悲鳴を上げた

 当然だ、青年は「只人」なのだ。「英雄」などでは無い……圧倒的強者に立ち向かえる勇気はない。

 どうしようもない脅威に立ち向かえるほどの、蛮勇と愚かさはない。

 そう。それが出来るのは───

 人狼の腕が青年の首を掴み持ち上げる。

 一捻りに潰せば良いそれを、青年の狂う姿を見たいが為に生かす「バケモノ」。

 人狼は手に持っていた物を放り投げた。青年の直ぐ側の足元へ転がす様に。形状は丸く赤黒い物はこびり付いた……。

 しかし青年は強い違和感と既視感を覚えて、思わず視線で追ってしまった。

 

「───あ。……え?」

 

 それは首だった。髪が長く毎日笑顔を振りまいていた人。青年の愛していた──彼女の。

 驚愕と悔恨によって異常なほど見開いた眼から、涙が零れた。呆けた様に開けていた口から、慟哭が溢れる。

 慟哭。絶叫。叫声。絶望に染められた声が辺りを振動させ、俯いた顔をゆっくり上げていく。その表情は一転して憎悪に彩られ、刺殺しそうなほど鋭い視線で人狼を睨む。

 だが人狼には痛痒にも感じなかった。圧倒的強者と言う頂きから、災いを運び眼の前にいる虫の狂う姿を愉しむだけ。

 ひとしきり愉しんだ人狼が、手に力を込める。

 死を悟りながらも、人狼を最後まで睨み付ける青年。

 そして──

 

 

『──我は最強にして、全ての勝利を掴み取る者! 

 義なる者たちよ! 勇気ある者たちよ! 立ち上がれ!!! 正義と民衆の守護者たる我が、力を! 悪魔と敵意、その全てを打ち砕く、力を───俺が与えようッ! 』

 

 

 声が響いた。

 

 若い、声。

 恐らく自分よりも一回り程は若い。だと言うのに若い声には溢れんばかりの「活力」と、自分の怒りと憎悪をも飲み込みそうな「怒気」が込められていた! 

 青年は人狼へ腕を突き出す。やり方なんて知らない……だというのに、身体が勝手に動いた。

 腹部から何か流動的で、熱いモノが込み上げてくる! それは青年の意思とは関係無く動き、まるで拳銃へ銃弾を込める様に収束する。突き出した手から紫電が迸る! 

 青年の眼光に憎悪では無く、戦意が宿る! 豹変した青年の姿に人狼が目を剥き、青年を一捻りにしようするが、もう──遅い! 

 ───劫!!! 

 青年の手から、凄まじい雷撃が疾走り、人狼の上半身を吹き飛ばした!! 

 ──ゴシャ。

 支える力が無くなった人狼は倒れ、屍を晒す。

 青年は、もう二度と醒めない眠りに付いた恋人の首を胸に掻き抱き、涙を流した。

 

 誰もが突然響いた声に驚き、しかしその声に応えバケモノどもを葬り去る。雷を放ち彼奴らが倒れた後には、炭化し黒煙を上げる骸しか残らない。

 その黒煙は人類の反撃の狼煙だった。

 だが狼どもも負けては居ない。矮小な者共の抵抗に激昂し、血に酔いながら猛り狂う。

 アラブ首長国連邦が誇る大都市ドバイ。その都市にて人魔が織り成す「戦争」が起きていた。

 

 ○◎●

 

「ぐうぅぅぅ……!!」

 

 頭を抑えて髪を握り締める。止まぬ頭痛に思考が纏まらない。目、耳、鼻。頭部の至る所から、出血が止まらない。だが辞める訳には行かなかった。

 街の人々が戦うには、己が支えねばならないのだから。

 祐一の獲た権能はラグナが言ったように、自分勝手で気紛れでとてもピーキーだった。

 街が襲われようとも答えもせず、そっぽを向くばかり。唯一ラグナだけが猛ったが、鋭くなった祐一の冷徹な直感がラグナの使い所はココでは使えないと囁いた。

 街に絶叫と呻吟が響き、人々が届きもしない祈りを捧げた時、やっと一つの化身が応えた。

 

 ───『山羊』

 イランで初めて訪ねたとある町に現れた化身。その化身が祐一の呼び掛けに応えたのだ。

 山羊。古来より角を持ち強大な呪力の持ち主。悪魔の特徴の一つ、または邪教の神その代名詞でもある魔神「バフォメット」や、ギリシャ神話の「ゼウス」もまた縁深い関係に聖獣として扱われてきた山羊。

 印欧語族の伝承にはしばしば、天を駆ける稲妻として現される事もある。

 

 また遊牧民の間では生来優柔不断な羊の中に、動きにメリハリがあり素早く行動する山羊を入れ、羊を追従させると言う"主導者的な役割"を持っていた。

 

 今、祐一がやっている事は、正にそれだった。

 行き場のない数多の感情、意志、激情。それを『山羊』の権能にて先鋭化された呪術的センスで操る。

 そのプロセスを踏み人々が力を雷と変え、対抗する事が出来ていたのだ。しかしこの力は人の「想い」だ。

 祐一が最近使い始めた、「気」「呪力」などと言う、移ろいやすく素直な力では無い。今にも暴れだし、祐一の支配から逃れようと藻掻く。如何に神から簒奪した権能を行使しようと、その数多の想いは熱く、大きく、祐一の手から溢れそうになる。

 

 群狼どもと互角に戦う人々。想いを抑え、魔術を操る祐一の負担もまた計り知れない物だった。

 業火で脳を焼かれ続けている様な痛み。いっそ頭蓋を引さ裂いて、脳を取り出した方がどれだけ楽になるだろうか。そう思ったのは一度や二度ではない。身体が異常に頑丈になったからこそ出来る無茶。

 

 だけど、まだ足りない! 

 まだまだ力を求めて入る者達はたくさん居るんだ! こんな所で挫けてらるか!! 

 

 心が折れそうなのを必死に留め、不意に視界にとある光景が掠めた。

 ドバイの美しい夜景。その光に照らされ浮かぶ───巨大な影を……! 

 頭痛が吹き飛ぶ程の光景。思わず窓に縋り付く。

 街なかで暴れている木っ端共など、比較にならない程の脅威! ───『まつろわぬ神』!! 

 祐一の居るドバイの中心部。そして、そのまた中心。「ダウンタウン・ドバイ」と呼ばれる超高層ビル街がある。

 その中でも一際高い建造物……世界一高いビルがある。その名は「バージュ・カリファ」。全高828.0メートル、階層は二百六階、幾つものビルが合わさり螺旋を描く様にに下部から上部へ細くなって行く螺旋形状のビルだ。

 旧約聖書に登場する「バベルの塔」の如く聳え立つ、ドバイのみならず人類が誇る最高峰の建築物である。

 その見上げんばかりのビルの直下に、これまた見上げんばかりの怪物がいた。

 銀の人狼だ。

 バージュ・カリファとは比べ物にならない程小さいと言うのに、その容貌魁偉な姿は、無視できる物では無く人々の目に焼き付いた。

 

 何をする気だ……! 祐一は戦慄と共に、突如現れた巨大な人狼を見定めた。

 月の銀光に照らされた銀の毛並み。神でさえも噛み砕くだろう牙と顎。逞しい胴回りに負けない程、筋肉質で膨張した腕。人狼がその巨大な腕を、ゆっくりと振り上げる。

 やめろ! やめろ! 

 祐一の思いも虚しく人狼は止まらない。祐一が、内なる化身へ向け必死に呼び掛けるが、どれもそっぽを向くばかり。

 振り上げた拳は、勢いよく振り降ろされた。

 

 ───ゴォン。鈍く低い音が、ドバイの中心部に響いた。

 

 鐘が鳴った様な音は、阿鼻叫喚の騒乱渦巻くドバイの街。その隅々に不気味なほどに響き渡った。誰もが手を止め足を止め、顔を上げて同じ方向を見上げる。それはドバイを襲う群狼も例外ではなかった。

 人狼の拳が振り降ろされた場所を中心に、蜘蛛の巣状に素早く確実に、次々と罅が広がって行く。そして、遂に……───破局が訪れた。

 

 耳をつんざく音の爆発とも言うべき大轟音。超高層ビルと言う重力を支えうる筈の頑丈なガラスやコンクリート群が、瞬く間に轟音と共に崩壊したのだ! 

 同時に「バージュ・カリファ」が崩壊し、その瓦礫の山が雪崩の如く街へ降り注ぐ──! 

 

 その時だった。暴虐を尽くす神に対して憤る祐一に向け、とある化身が応えた。

 自分勝手な化身達に思う所が無い訳ではなかったが、今はそれを飲み込み、祐一は『まつろわぬ神』と降り注ぐ破片に手をかざす。最大限に呪力を込め、聖句を謳う! 

 

「我が元に来たれ、勝利の為に──!!!」

 

 言霊は、最小限。しかし籠める呪力は膨大! 

 曙光が弾け、東方より太陽の箭が現れた! 

 ギリシャのヘリオス、ケルトのベリヌス、インドのスーリヤ。世界中に数多に存在する太陽神。その多くが神馬に乗り、御者となり空を駆ける姿で現される。ならば太陽神ミスラと縁深い関わりを持つ、かの軍神が太陽神としての権能を振るえないはずが無い! 

 街を覆い尽くさんばかりの曙光。

 しかし、祐一はすぐに悟った。

 このままじゃ駄目だ! 太陽の箭が街にまで及んでしまう! 指向性を持たせねばならない! 

 祐一は、咄嗟にイメージを変える。雲の隙間から天下る『白馬』へイメージを変化させる。イランの地で嫌というほど見た太陽のイメージを浮かべたのだ! 

 東方より降り注ごうとした太陽の箭が、寸前で進路を変える。箭は巨大な人狼と崩壊する「バージュ・カリファ」の真上より、天下った! 

 

「我が為に輝ける駿馬を遣わし給え──!」

 

 言霊を重ねる。呪力を注ぐ。

『白馬』の陽光を受け「バージュ・カリファ」であった物が一気び溶解して行く! 人々に数多の被害を齎す筈だった凶弾は消滅したのだ! 

 よし! 

 祐一は、街への被害を最小限に留められた事に安堵し、だが、それも束の間。すぐさま人狼へ向け、太陽の箭を向ける! 言霊を重ねようとして……──だが、そこまでだった。

 

 ───オオオオォォォオオオオオッッッッ!!!! 

 

 巨大な人狼。その人狼が、顎を開いた。まるで地獄の門が開いたかのよう。陽光に全身を照らされ、あまりの光に銀の体毛を白く染めながらも、猛々しく! 

 次の瞬間、祐一は目を剥いた。

 人狼の頭部が何十倍にも巨大化し、迫りくる太陽の箭にかぶりついたのだ! 

 そして、そのまま天までかぶりついて行き、遂には、太陽の箭を食らい付くしてしまった! 

 

「は……、何なんだよ……。アイツ……」

 

 祐一が驚愕している余裕などなかった。太陽を喰らい尽くした人狼が口を開いたのだ。ドバイ中に地を這う様な恐ろしげな、それでいて地震が起きたかの様な大きな振動を起こす大音声が轟く。

 

『矮小なる者共よ! 征服されるべき者共よ! 人間どもよ! そして───"神殺し"!!! 力無き身でありながら、いみじくも抵抗する姿、真に称賛に値する! ここに賛辞を贈ろう!』

 

『そして我は、その功を讃え、一度引くとしよう! そうして、我が再び現れる時は、明朝! 日の出と共に、朝駆けを行い、お前たちを蹂躪するとしよう!!! それを止めたくば黎明の時までに、我の元へ辿り着き倒して見せよ!!!』

 

『聞いておるか、"神殺し"───ッッッ!!!』

 

 凄まじい大音声に誰もが、恐れ、膝を折る。神の宣告する死に、己の死期を悟った。祐一の隣に居る友人もまた、同じ様に膝を屈していた。

 だが祐一は一切臆する事なく───

 

 

 ここに、いるぞッ─────!!!! 

 

 

 その勇ましき声が、人々の耳朶を打ち、心に火を灯していく。

 今の声こそが、自分達を脅威に抗う力を与え、叱咤し、反抗へと導いた者の声であると! 

 

『この約定呑むか、貴様が決めよ──!!』

 

「───是非もなし!! 

 お前を、必ず討ち果たす!!!」

 

 何の逡巡も無く返す! 

 そこに己が死地に向かう忌避感など一切無い。

 強大な敵に立ち向かう闘志と、災いの訪れを許してしまった己への憤りのみがあった! 

 

『──見事!!!』

 

 人狼は己が仇敵の強烈な意志に、己が相対するに値する戦士であると確信する。

 口角を吊上げ人狼は、現れた時と同様、素晴らしい威駆を誇る両足で大跳躍し大霊峰へと戻って行った。

 街を襲った群狼共もまた、波が引く様に引いていく。

 

 嵐は去った。

 だと言うのに、歓声は聞こえない。呻吟の声と、不安を拭い切れない惑った声のみが響いた。

 

 



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駆けるゴー・マイ・ウェイ

 「舐めるなよッ『まつろわぬ神』! いくぞラグナ──!」

 

 堪えきれる訳がなかった。激情のままに叫び、迫る大戦に備えて英気を養っていた盟友を呼び、窓から飛び移ろうとした瞬間だった。

 

「───待ちなさいっ!!」

 

 そのまま飛び出そうとしていた祐一の服を掴み、力一杯、引き止められた。

 八田寿。今日できた新しい友人だった。

 その彼が必死の形相で祐一を引き留めている。

 寿は只人だ。内功を鍛え膂力が並では無い祐一ならば簡単に振り解ける。そのはずなのに……、出来なかった。

 重なってしまったのだ。少し前の記憶に……二柱の化身に襲われパルヴェーズと別れた時の自分と何故か重なってしまったのだ。

 

「な、何だよ……?」

 

 胡乱な目を向けながらも、少し冷静になった祐一が問う。

 

「君はあの化け物の元に向かうんだろう! それに今さっきあの化け物と戦っての、太陽の欠片を放ったのだって君なんだよね!?」

「……だったら、なんだよ 」

「君が一体全体どんな運命を背負ってあんな怪物達と戦って居るのは僕は知らないっ! 想像も着かないっ!! でも無茶だ! 君はこの土地とは何の縁もゆかりもないだろう!? 

 ──逃げたまえ! 誰にも責めさせやしない! 僕が許さない! こんな所で命を散らすな! だから……!」

「な、なに言ってんだ!? 出来る訳無いだろうが! あんな化け物に襲われて、好き勝手やられて、黙っていられるか! 

 ──それに俺は背負ってるモンがある! 負けられねぇ! 譲っちゃなんねぇんだ、これだけは!!」

「だとしてもだ! あんな奴に相対すれば、死は必定! 君は若いんだ!! まだ生きて人生を謳歌できる! こんな所で命を粗末にするんじゃない!!」

「ダメだ! アイツを野放しにしたら、また人が死ぬ! また世界が壊れる! あいつが守ろうとした世界が……! 

 それにここで逃げたら、俺は負けちまう! そしたら、あいつとの約束まで破っちまう事になる!! それだけは、絶対にやっちゃいけねぇえッ!!!」

 

 並行線だった。祐一の頑固さは元来の物だったが、寿もまた意外なほどに頑固だった。顔を突き合わせ、相手の唾が顔に掛かる事すら気にせず己の信念を貫こうとした。

 寿はまた口を開いた。目の前の少年を翻意させようと必死に! 

 

「あれは神だぞ! 今、世界中で暴れている奴らだ! 例え先進国の強力な軍隊でさえも太刀打ちできない、強力な神……それも、

 ──『太陽神』なんだぞ!」

「た、太陽神……? おっちゃん……それって……」

 

 祐一が動揺した。祐一には検討も付かない神の正体に彼は察しがついている様だった。

 ここが、攻めどころか! 動揺した祐一を見て取った寿は唇を舐め勢い込んで舌を回す。

 

「僕は神話に少し詳しくてね、判るんだ! あらゆる神話体系にあって強い存在感を示す太陽神! 日の出と日の入り。それを古代の人々は死と再生と捉え、不死性すら獲得し、天上より遍く大地を見下ろす姿は、世界の監視者としての側面を持った者達!」

「死と再生、不死……」

「彼ら……いや、ヤツは「不滅」なんだ! そして太陽を制するのもまた、太陽! 今さっき落ちて来た太陽の欠片。あれは君が放ったんだったね!?」

「あ、ああ。……そうだ」

「なら間違いない! 太陽神であるが故に、太陽を取り込む事が出来たんだんだ!」

「───!」

「そして、彼の姿は「狼」! 狼と太陽神。これが符号する神はそう多くは無い。北欧のハティ、マーナガルム。古代中国に伝わる天空の狼。これらも、太陽を食らう伝承を持っているが、ヤツは人狼。断定するには弱い!」

「じゃあ、アイツの正体は一体……?」

 

「──『アポロン』だ! 

 かの神は、多くの聖獣を持ち、そして、狼の姿をしたレトーから生まれ、兄妹であるアルテミスもまた、狩猟神。獣とは縁深い神! ならばアポロンもまた、獣とは縁深い!」

「アポロン、だって? でもアポロンって……太陽の神様だろ?」

「そう! でもかの神には多くの名がある! 太陽神の相、その表れである『ボイポス・アポロン(光のアポロン)『アポロン・スミンテウス(鼠のアポロン)』。

 そして──『アポロン・リュカイオス(狼のアポロン)』と言う名が!!!」

アポロン・リュカイオス(狼のアポロン)……? それが、アイツの名前、なのか……?」

「そうだ。奴は狼を呼び出し、人狼の姿で現れ、極めつけに君の太陽の欠片を呑み込みんだ。この事実に符号する神なんて、アポロンを置いて他に無い! アポロンはオリュンポス十二神にも数えられる強力な神だ。弓、神託、医術、疫病多くの職能を持つ! そして、捻くれ者でもある!」

「捻くれ者だって……?」

「ああ。太陽神でありながら、嫉妬深いヘラの性で、薄暗い洞窟で生まれた者。一説によれば、アポロンが倒した大蛇ピュトン。「黒い太陽」とも称されるピュトンその物がアポロンであり、夜、冥界に逗留する姿とも言われている! 太陽神でありながら、夜を好む捻くれ者。それがアポロンの本質なんだ!」

「そうだったのか……」

「そんな恐ろしい神なんだ! 挑めば、負けるに決まってる! 早くここを離れて大人に任せなさい! 君は逃げるんだ!!」

 

 大声で叫ぶ寿。しかし、こちらを酷く慮っての言葉。「逃げろ」……今までこんなにも自分を心配し、そう言ってくれる人は、パルウェーズくらいしか居なかった。

 それでも祐一は酷く落ち着いた動作で、ゆっくり首を振った。

 ハッキリ「否」と、そう返す。

 

「心配してくれて、ありがとう。こんな説教みたいな事されたの、変わってしまう前のあいつ以来だよ……でも、ごめん。俺にはやっぱり譲れないや」

「どうしてっ!」

 

「───約束が、あるんだ」

 

 その一言で寿は、気圧された。自分より十歳近く年下の、まだ子供と言ってもいい少年に。その烈火の如き瞳に。

 なんて眼をしているんだ……! 寿は戦慄することを禁じ得なかった。

 例えるならば地獄の淵を見て来た者の眼。大業を犯し、今なお罰を受けている様な凄惨な色を宿し、それでも立ち上がり前を向く強い意志を宿した瞳。

 それは正に戦士の眼だった。

 

「───絶対、破っちゃならない……約束が」

 

 ここに至って寿は悟った。彼を翻意させることは那由多の時間を持っても不可能だろう、と。

 はあぁぁぁ……。深くため息を付く。右手で祐一の頭をグシグシ乱暴に撫でる。

 

「な、なんだよ……?」

「いや、呆れただけさ。はぁ……判ったよ。もう何も言わない。でもひとつだけ、──これだけは約束してくれ」

「約束?」

「うん」

 

 寿は強い眼差しで、祐一と目を合わせ……

 

「───勝って来い! 絶対生き残って、もう一度僕に元気な顔を見せる事! それが約束さ」

 

 その言葉を聞いた祐一は、堪え切れなくなった様子で吹き出すように笑い、そして……

 

「───当然!!!」

 

 拳を突き出し、不敵に笑って自信満々に応えた。

 そしてラグナを呼び、今度こそ仇敵の元へ向かう。空を駆り、窓際に寄ってきたラグナに乗り込む。

 そこで寿から声が掛かった。

 

「祐一くん! アポロンは、多分不死性を持ってる! 生半可な攻撃じゃ、死なない筈だ! 欠片も残さず消し飛ばすか、再生出来ないほど痛め付ける。それが、アイツの攻略法かも知れない!」

「応! ありがとうな、おっちゃん! 帰ったら、また日本の話をしようぜ! ……あ、それに俺が転覆してからの話も聞いてくれよ! ホントはすごい冒険をしたんだ! へへ、じゃ、行って来る!!!」

 

 あくまで軽い口調で、散歩にでも行くような気安さで、祐一は死地へ向かった。

 

「あはは。おっちゃんはまだ早いって言ってるのになぁ。……どうか、かの戦士に勝利を。必ず帰って来いよ祐一くん!」

 

 そう言って笑う寿だったが、その眼には何かを決意した確かな光が宿っていた。

 

 ○◎●

 

 

 祐一は『ミスラの松明』を取り込んだ影響の大きさを痛感していた。

 大きな制約が掛かっている筈のラグナを自由に呼び出し、今もこうして乗り回しているのだから。

 そしてもう一つ。

 『山羊』『白馬』。先刻、祐一が使用した化身達。その化身を使っている時でさえラグナは存在する事が出来た。祐一への負担もほとんど無い。

 本来であれば化身の同時併用、或いは、権能の同時併用は、頑丈な神殺しの肉体でも尋常ではない負担が掛かる筈である。

 しかし新生の際『ミスラの松明』を取り込んだ影響によりラグナの強い意志と補助があれば、『猪』の化身限定ではあるが、祐一が他の化身を使おうとも同時併用が可能となっていた。

 こんな身体になったことに違和感は拭えない。けれどもあのムカつく野郎をブン殴れる手札が多いことには素直に感謝したかった。

 

 ドバイを駆け抜け、祐一はラグナと共に大霊峰の麓に辿り着いた。

 

 新しい肉体を手に入れて三日が経ち、祐一はだんだんこの身体の異常さを察し始めたていた。もともと頑丈だった身体は何倍も耐久力や靭やかさが増し、傷を負っても治りは頗る早く、獣の様な直感、言語の習得さえあっという間にこなしてしまう等など……そうして挙げていけばキリが無いほど。

 権能なんて言う神に対抗出来る程の武器に目が行きがちだが、この神殺しとしての肉体も大概おかしい。

 能天気な祐一であってもこの身体のデタラメさに呆れた様に苦笑いする他ない。

 そしてどうやらこの新生した肉体は、真っ黒な空間でもはっきりと物を見る事ができるらしい。と言うのも大霊峰の天辺を見た時、それと同時に見えたのだ。

 天辺までの山の道。そこに夥しいほどの人狼の軍勢が手ぐすね引いて祐一たちを待っている姿が。

 

 その数は膨大にして千差万別。弓を満月の如く引いて構える人狼。巨駆の狼に乗り込み今にも吶喊を仕掛けそうな人狼。逆茂木、投石機、戦車。古代の戦争の道具で固め、敵の進軍を今か今かと待ち構える人狼。

 奴らは迫りくる神殺しに対し、戦争と変わらぬ装備で固め、その進軍を阻もうとしていた。

 

「突っ込むぞ───!!!」

 ルオオオオオオオォォォ───!!! 

 

 だが祐一は恐れず進む。いや彼には最初っから恐れなんぞ感じてすらいなかった。

 あんな木っ端共に、やられる俺達じゃない──! 神殺しとなって、初めて直接戦場で戦う筈の祐一。しかし彼は全く怯む事も力む事も無い。そう、祐一は神殺しとしては未熟そのものだったが……しかし戦士としては一廉の益荒男であった。 

 数で負けているなら圧倒的な質で対抗するだけだ! ラグナから飛び降り、呪力を充溢させる。

 

「──飛べ、ラグナ!」相棒に声を掛け空へ逃がす。

 

 行使するのは『雄牛』の化身。それは大地に帰依し関わりの深い権能である。

 ギリシャ神話に登場するアンタイオスは、大地の神ガイアの子であり、地面に触れている間は疲れ知らずで剛力無双のヘラクレスにも伍する膂力を発揮したと言う。

 今の祐一もまた、大地から渦巻く様な途方も無い聖なる力を受け取っていた。

 

 右脚に力と呪力を籠め、高く高く振り上げる。口の端を吊り上げ、高く振り上げていた脚を、一気に振り下ろした! 

 

 豪──ッ!!! 

 

 大地への踵落とし! だがその力は強烈の一言。

 天を支えた英雄の代名詞たるヘラクレス。その英雄と同一視されたウルスラグナもまた、剛力無双であった。

 そしてその権能を振るう祐一も変わらない!

 

 遥かに聳え立つ大霊峰を揺るがす力。比喩抜きに大霊峰を震撼させ、衝撃の震源地は巨人の一撃を受けたかの様に崩壊した。

 

 

 

「───ぶはぁっ! ……しくったっ!!!」

 

 口から砂利を吐き出し、地面から這い出る祐一の姿があった。

 群狼は土砂崩れや捲り上がった大地に押し潰され、大半は消え去った。辺りはまるで巨大隕石が衝突したかの様相を呈している。……のは良いが、自分の事は考えていなかった。

 ラグナは空に逃し何の影響も受けていないが、祐一はそのまま土砂崩れに巻き込まれ、哀れにも生き埋めになり掛けていた。

 しかしそこは『雄牛』の化身。地中に埋められた時すこぶる力の通りが良くなり、膂力も跳ね上がったのだ。

 地中で戦うとか、そんな状況あるのか……? 地面の中なら調子が良い『雄牛』に、裏ワザみたいな方法を見つけたのは良いが使うイメージが出来ず、何処かで見守る義母に仕様変更を依頼したくなる。

 

 そんな事を考えながら、地面から這い出て来た祐一。何時も着ているブレザーが、泥まみれだ。ため息を付こうとして、……ここが戦場である事を思い出し止める。

 ラグナを探して周囲を見渡し──居た。

 四体の神獣。その神獣どもにラグナが単身で果敢に攻め掛かって居た! 

 よし、行くぞ! 祐一も参戦しようと駆け出そうとして、立ち止まる。とある物を見つけたのだ。

 駆けより手に取った。それは「弓矢」だった。

 おそらく押し潰された人狼の一体が持っていたのだろう。何本も矢の入った矢筒、祐一の胸元まであるピンと弦が張った弓……。見事の一言に尽きた。

 祐一はそれを手に取り、調子を確かめる。故郷に居た頃、自作で競い合っていた弓矢と天と地ほど差がある事に苦笑する。

 幸い、使う事に支障は無い様だ。それに尋常ではない強弓だった。弦の張りが並ではない。

 弦の張り具合も、膂力無双の権能を使わねば半分ほどしか引けなかったが、今なら限界まで引ける! 

 

 矢を手早く番え、四体いる巨大な人狼を見据える。人狼どもは馬ほどの大きさがあるラグナを囲い込み、確実に仕留めようとしていた。

 翻弄するラグナ、しかし手数の差は如何ともし難く、前方と左右を阻まれ足が止まる。そして後方から迫る人狼が、矮躯を晒すラグナへ殴りかかった! 

 それを目に収めながらも祐一の心は凪いでいた。いや溢れる激情はあるのだ。

 烈火の如く燃え盛り、盟友を傷つけさせまいと強く思う自分が。しかし同時に冷徹な思考を重ね、鋭い双眸で判断を下そうとする自分もまた居た。

 ───心眼。今、祐一が振るう奥義の総称である。

 

『自分の意識と、的の気配を重ね合わせるんだ。そうすれば、距離も、場所も、見える景色も関係無いよ。南無八幡大菩薩。そう呟かなくても、スルリと的に当るからね』

 

 幼馴染みの中でも、一番の弓の名手だった友の声が蘇る。彼がその弓矢を番えれば「百発百中」。

 祐一達がどれほど逃げ隠れようとも、強力で正確無比な一矢が狙い違わず襲い掛かってきた。

 当たる事は確定しているので、その矢をどうやって叩き落とすかが幼馴染達の中での焦点だったほどだ。

 

 自分の意識と、的の気配。

 祐一は彼の声を言の葉で紡ぎながら、眼を凝らす。心眼を凝らしていく。

 すべての物が、停滞する。テレビもリモコンで、ストップボタンを押したように世界が硬直していく。

 ラグナも、殴りかかった人狼も、停滞する。

 そこで変化が現れた。人狼の姿がボヤけて行く。色が無くなりモノクロだった世界が、絵の具を水を零し、手で撹乱させたように、不透明になる。

 距離も、音も、時間も、何も判らなくなる。しかし気配は、祐一を囲む世界の気配は、鮮明に解った。

 五感のどれかを封じれば、他の五感が鋭くなる様に。五感を封じられた祐一は、第六感が……。気配への感覚が異常に先鋭化していた。

 視界は見えない。でも敵が居る場所……これだけはハッキリ視える! 敵の気配と己の意識を重ね、心眼に導かれるままに番えた矢を放つ。

 

 快音! 

 ラグナは見た。殴りかかって来た人狼の右腕。それが遠方より放たれた矢によって弾け飛ぶのを! 

 見れば姿を消していた盟友が不敵に笑っている! 

 ──ルオオオオオオオォォォンッ!! 

 ラグナも負けじと猛る! 腕を失い隻腕となった人狼の腹部へ、己が誇る二本の禍々しい牙を突きたて穿つ! 

 さしもの人狼も堪らず苦悶の声を上げついには塵と消えた。

 残る神獣は、三体。

 祐一とラグナの鋭い眼光に射竦められた、人狼共は後退る。もう勝敗は決まっていた。

 四本の矢と、牙の二振り。

 それが人狼を殲滅する為に使った動作と労力だった。「瞬殺」と言い表して良いほど簡単な作業だった。

 

 

 ○◎●

 

 

「行くぞ、『ラグナ』」

 ──ルオォォンッ! 

 

 前座の戦いは終わった。

 雲霞の如く迫った狼共も大半が消滅し、生き残りの者も祐一の赫々たる武勇に恐れをなし遠くで覚えた様に覗き込むばかり。

 そんな狼を祐一達はもう相手にしなかった。当然だ。そんなものより強大で無視出来ない存在が、この大霊峰の頂上に居るのだから。

 祐一達の姿は、泥土に塗れ戦塵を浴びみすぼらしい姿ではあったが、その闘志は乱戦を繰り広げ充溢し、眼光は衰えるどころか研ぎ澄まされていた。

 祐一はラグナに背に乗りながら、未だ黒煙が立ち昇るドバイを振り返った。そして大霊峰の頂上を見据え、

 

「──アポロン・リュカイオス(狼のアポロン)……!」

 

 激しい闘志と意志が混じり合った声で、吐き捨てる様に呟く。ラグナもまた、無言で前を見据えた。

 待ち受けるはオリュンポス十二神が一柱、太陽神アポロン。極東の民である祐一ですら知っていた……何千里も離れた土地に雷名を轟かせる勇壮にして美麗なるアポロン。

 正に、世界にその名を轟かせるビックネームだ。

 そして祐一が"神殺し"となり、初戦の相手の名前でもあった。

 

 駆ける。駆ける。

 峻険な山道をラグナは物ともせず駆ける。

 やはり、この友は頼もしい事この上ない。

 祐一は待ち受ける敵へ戦意を昂らせながらも、共に戦場を駆ける盟友に口元を吊り上げる。

 ふと見ればもう空が白み始めている。闇夜を引裂き、紅玉の太陽が顔を出そうとしている。夜明けが近いのだ。

 戦いを潜り抜け、今まで気付かなかったがかなりの時間が経った様だ。だが『まつろわぬ神』との約定には間に合うだろう。

 ───もう、頂上が見えているのだから。

 

 ──ドンッ! 遂に祐一とラグナは、頂上へと辿り着いた。

 大霊峰の山上は、頂上であるにも関わらずなだらかな平地であった。端から端へ1kmは余裕でありそうだ。そこそこに広い平地が、登り詰めた祐一達を待ち構えていた。

 そしてその中央に五つの影があった。

 目が良く夜目も利く祐一には、その姿がよく見えた。ラグナがゆっくりと歩き出し、さらに鮮明になって行く。

 四体の巨駆を誇る銀の狼と、長身な人型の影。

 銀狼は二列に並び、その奥に人影を戴き、忠実な家臣の如く頭を垂れている。奥の人影も白いフェルトの上で玉座に座り、王者の風格を漂わせていた。

 銀狼はどれも素晴らしい偉駆である。大きさは今まで戦い葬った馬ほどの狼達と変わらない。しかしその眼光は鋭く、また理知的であった。

 待ち受ける神狼どものなんと威圧的な事か。イランの旅で遭遇した強力な化身達と相対している気分に陥る。

 

 だがそれを凌駕するほどの闘気が、祐一のすぐ隣から溢れ出た。

 驚いてその発生源を見る。そこには迫る死闘に戦意を高め横溢させる頼もしい盟友。 

 何度目か分からない笑みを零すと、己の宿敵である人影──『まつろわぬ神』を見据えた。

 

 同時に驚愕した。何故なら予想していた姿とまるで異なっていたのだから。

 祐一が第一に予想していた姿は人狼だった。初めて見た姿がそれだったから当然だ。しかし街に現れた時のようにかの神は人狼の姿ではなかった。

 そして、祐一が次に予想していたのは、白く輝くトーガやマントを身に着け、金髪碧眼の典型的な白色人種だった。

 アポロンが崇められたのはヨーロッパのギリシャ、デルポイと言う土地だった。故に、祐一は漠然とアポロンは西洋人の容姿をしているのだろう、と予測していた。

 しかし違った。予想が全て裏切られた。だが祐一はその神を見た事があった。

 そう、あれは──

 

「こ、此処で何やってんだよ……───仁さん……?」

 

 震える声で問い掛けた。

 待ち受けていたまつろわぬ神は、祐一を海上で拾い助けてくれた『鈴木仁』だった。

 いやよく見れば似ても似つかない事に気付く。確かにその容貌は昨日同じ釜の飯を食べた友の顔。しかしその顔は昨日出会った彼の顔とひどく似ているが、似て非なるものだった。

 例えるなら彼が王者として年嵩を重ね雄々しくなった……と例えれば良いだろうか。偉大なる覇者の相が浮かんでいる。

 

『まつろわぬ神』が、口を開く。

 その声は、低く、野太く、そして威厳に満ち満ちていた。

 

「……おお、そんな名前を名乗っていたか……。はっはっはっ! ……しかし、大王となりながら『幼名』を呼ばれるというのも、気恥ずかしい物があるな」

 

 そう言い頬を掻きながら破顔して笑う『まつろわぬ神』。

 

「幼名……、だって……?」

 

 問い掛けた祐一に深く頷く。

 

「応! おぬしの前に現れたワシは、まだ若く草原の覇者となる前の『俺』であり、鈴木仁(テムジン)であった! 

 "神殺し"とは我々、神が近付けばすぐさま察する獣の様な存在なのだろう? 故に、趣向を凝らさねばならなかった。己が名を封じ、神性を薄めると言う細工を、な」

 

 愉快そうににやりと笑みを深めタネ明かしをする鈴木仁だった男。

 

「おぬしと出会ったワシは謂わばワシの分霊! ワシが数多に持つ神格を極限まで切り離し、人と変わらぬほどに落とし込んだ存在であったのだ!」

「なんで、そんな事を……?」

「フッ。おぬしの為よ。全ては神を殺し、定められた運命を乱麻の如く乱し……そして極め付けに因果律に抗うと言う大業を背負った戦士を見たいが為に!!! 

 ガハハッ! そして出会った戦士は中々の器量を持っていた!」

 

 有意義な時を過ごせたぞ! 木下祐一──! 

 U.A.E中に響きそうな程の声量。聳え立つ大霊峰が鳴動している……。神の充溢した闘気に応える様に。

 

「今のワシはこの大陸中を股に掛け世界を恐怖の渦へ陥れた大王! 

 ナイマン、西遼、金、ホラズム、西夏、数多の大国は、我が稜威に服した! そしてその国々を領土とし、至高の大帝国を築いた太祖!」

 

 その時、夜が明けた。

 夜通し戦い抜き、大霊峰を攻略した戦士を祝福している様にも見える。しかしそんな物はまやかしに過ぎない。

 なぜなら太陽は『まつろわぬ神』と共にあるのだから。薔薇色の暁帷が祐一と『まつろわぬ神』を照らし出して行く。そして傍に控えるラグナと神狼達も……。

 陽光に照らされ『まつろわぬ神』に側に控える四体の神狼。その狼は「銀」ではなかった。蒼く輝いて陽光をよく弾いている。

 

 色は蒼銀。つまり───蒼き狼。

 

 祐一は眼の前の『まつろわぬ神』の言葉を思い出し、遂に思い至った。その英雄は祐一でも知っている偉人だった。そして祐一が一番好きな英雄でもある……。

 世界を自由に駆け、有史以来最大規模の大帝国を築いた大王。良くも悪くも、世界に衝撃を与え、東西の世界を繋げた功労者。始祖たる蒼き狼と恐れられた草原の覇者! 

 その英雄の名は───! 

 

「我が名はチンギス・ハーン! 偉大なる『天の神(テングリ)』の子にして、『蒼き狼(ボルテ・チノ)』! 大地を征した、草原の覇者なり!!!」

 

 強大な『まつろわぬ神』が、正体を明かした! ……その時、祐一の胸に去来した思いは、一つ。

 

 ───おっちゃぁぁああああああぁぁん!!? 全然、違ったぞぉぉおおおおおおっ!!??? 

 

『そう言う間違いは、往々にしてある事さ』

 

 風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。



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やめろーッ!それ直撃ルートぉ!!?

トンデモ解釈ですがご容赦を…。


 ドバイに現れた『まつろわぬ神』。その正体は大方の予想を裏切り、モンゴルの大英雄『チンギス・ハーン』であった! 

 

「───あれェ!? 俺の戦ってたアポロンは!? アポロン・リュカイオス(狼のアポロン)は!? アポロンどこだよ!? アポロン出せよぉぉおお!!?」

 

 戦場にも拘らず動揺しまくって叫び散らす。今までのシリアスはどこへ行ったのか……。

 

アポロン・リュカイオス(狼のアポロン)(キリッ)……! ってやってた俺は、とんだピエロじゃねぇか!」

「ふむ……。そのアポロン某は知らぬが、ワシは『チンギス・ハーン』。しかと覚えておけ」

 

 そして仁……いや『まつろわぬチンギス・ハーン』は莞爾と笑うと、祐一に語り掛けた。

 

「"神殺し"の戦士木下祐一よ! おぬしは面白い男だ! ワシは鈴木仁(テムジン)であった時におぬしと酒を酌み交わし思った! 「おぬしが欲しい!」とな。ガハハ! あの時の酒はそれほどに旨い酒であった!」

「はぁ? 何言ってんだアンタ?」

「ガハハ! そしてもう一つ! 人の世に顕現し、まだそれほど日は経っておらぬがワシは確信した! おぬしは間違い無く世に災いを振り撒き、騒乱を呼ぶ者であると! 

 故に……のう、木下祐一よ! 酒席で兄弟となった我らだが、おぬし、本当にワシの……──「家族」になる気は無いか?」

「家族?」

「左様! ワシは寛大だ。おぬしは世界を終末に導く先導者にして大罪人とは言え、ワシの家族となり絆を築けば悪事なんぞ働けなくなるだろう! ……ああ、それだけではおぬしもつまらんな。──故におぬしには、とある役目を任せよう!!!」

「いや、待て待て待て! ドバイを破壊した、おまえの家族になんて誰がなるか! どんなに頼まれたってゴメンだぜ!」

「ガハハッ! 気の強い若人よ、話は最後まで聞け! ワシは嘗て地上にて世界に轟く大帝国を築いた! しかし、しかし、だ! 世界の完全征服は終ぞ叶わなかった! 故に俺はこの雪辱を果たしたいのよ! 

 ──遍く全ての世界を支配する、と言う雪辱を! 

 そしておぬしが家族となった暁には、我が軍団の先鋒! その栄誉を与えようではないか!」

「ふざけるな! そんなもん、なおさらダメに決まってるだろうが! それに、俺はアンタの家族になんて絶対になんないぞ!」

「なんと!!! 我が誘いを断るか、愚かな! 我が家族に加われば世界もおぬしの思うまま。めくるめく闘争と快楽を味あわせてやると言うのに!」

「うるせえッ! 絶対に、お断りだ!! 

 ……それに俺は決めたぞ! 仁さん……いや、チンギス・ハーン!」 

 

 気付けば、祐一は叫んでいた。

 暴虐の限りを尽した諸悪の根源、それは自分が友誼を交わした者であった事に。そして、それを見抜けなかった未熟な自分への憤りで。

 そして悟った祐一は悟った。……己の使命を。

 己が戦わなければ、『まつろわぬ神』によって、世界へ禍が絶え間なく振り撒かれ続けるだろう、と。

 己が戦わなければ、力無き人々は抗いようもない禍によって死に絶えるだろう、と。

 己が戦わなければ、嘗て友が守ろうとした世界は、あの時見た知識の如く砕け散るであろう、と。

 

 故に、人に禍を齎す神々と、そんなふざけた因果を作った因果律へ向けて……──宣戦布告する! 

 

「アンタは街の人達を苦しめた! あいつが守ろうとした世界の人達を! なら……

 ──俺は、誓ってやる! 俺はお前達狂った神々を許さねぇ! そんな世界を作った因果律を許さねぇ! 

 俺は人に仇なす『まつろわぬ神』共を悉く葬りさってやる!!!」 

 

 烈火の如き意志の籠もった目と、激情を孕んだ声で叫ぶ! 

 

「チンギス・ハーン! 先ずはお前だ! 俺はお前を倒して、その野望を打ち砕く!」

「ガハハッ! 元より言葉を尽くして翻意出来るとは思うておらん! ならば、仕方が無い! やはり欲しい物は、言葉を尽くして手に入れるのではない! 

 ──蹂躙し掠奪してこそ! 俺がおぬしを征服し、嘗てのジェベの如く、跪かせるとしよう!」

「やれるモンならやってみろ! 俺は『常勝不敗』だ! ぜってぇ負けねぇ!!!」 

「その意気やよし! だが俺は蒼き狼にして、草原を神速閃電の如く駆ける者! そう……「──この様に!」 

 

 神速! 一瞬で距離を詰められた。

 嘗てシーラーズ郊外に現れた『鳳』の如き素早さ! 

 もうあの時の様な轍は踏まない。荒れ狂った心を一瞬で復帰させ心眼で見据え──逃れられない事を悟る。 

 やはり世界を征服した大王。その武勇もまた凄まじい。祐一の脳裏に嘗てウルスラグナが祐一に語った、『鋼』の英雄の話が過ぎる。

 甘んじて、受ける。 

 新生してこれまで。この身体は嘘みたいに頑丈な事はよく理解していた。

 漂流しても、権能の凄まじい負荷にも、生き埋めになっても、「死ぬかと思った」くらいで済むのだから。

 ならば、彼の者の一太刀程度受けきってみせる。

 祐一には確信があった。

 それに、声が聞こえたのだ。心の内から「構わん! 受けろ!」と……。

 左の肩口から右の脇腹まで袈裟斬りにされた。正に、必中神速の一太刀。

 その素晴らしいほどの太刀筋に思わず見惚れてしまう。三日前、戦った常勝不敗の軍神にも伍するほど流麗にして力強い太刀筋だった。

 皮、肉、骨、すべてが寸断される。一瞬の白濁とした感覚。次いで灼熱の激痛! 

 祐一が表情を苦悶に歪め、チンギス・ハーンが笑う。

 だが、それもすぐに入れ替わった。 

 

 祐一が大地に乗せていた右脚を振り上げ、笑うチンギス・ハーンの腹部へ叩き込んだのだ! 

 その鋭さはまるで、武林の至尊や梁山泊の豪傑好漢の如し。

 祐一が叩き斬られた瞬間、とある化身が、猛ったのだ。「今こそ、オレを使え!」と。

 化身の名は『駱駝』。バンダレ・アッバースにて、嘗て友と討ち果たした化身だった。

 一も二もなく頷き、祐一は『駱駝』の化身を使った。

 その変化は顕著だった。全身を苛んでいた激痛が霞んで行き、闘志がこの上なく高まる。

 気付いた時には、右脚を振り上げていた! 

 例え、神速の使い手であるチンギス・ハーンでさえ、避け切れない必中の一撃。祐一にはどう動けば当たるのかそれが鮮明に判った。

『心眼』を使い、導かれて居る時とは、また違う感覚。何千、何万と戦い抜き、身体に戦い方を染み付かせた様な、圧倒的な超直感だった。 

 強かに打ち込んだ、不意の一撃。

 だと言うのに、チンギス・ハーンは、すぐさま立ち上がり、呵々大笑した。

 

「ガッハッハッハ! 驚いたぞ! 我が一太刀を受けたのは、この為であったか! おもしろい! おもしろいぞ"神殺し"とは!」

「ふんっ! 不用意に突っ込んで来るから、痛い目に遭うんだよ! 猪武者みたいな奴! チンギス・ハーンはもうちょっと、頭良い奴だと思ってたぜ!」

「そう言うな、木下祐一! 我が帝国が強大に成ればなるほど、ワシ自身は後ろに回らねばならなかったのでな。自由の身となった今、前を駆けてみるのも一興かと思ったのだ!」 

「ああ、そうかよ! なら次は、こっちから行くぞ!」

 

 チンギス・ハーンへ向け疾走する。神速ではないが、その速度は人の目で追い切れる速度では無い。

 祐一の手には何も無いが、しかし生半可な武器よりも強力なこの四肢がある! 

 

「はっ! そう容易くワシに辿り着けると思うな! 

 ───来ませい! 『四狗』よ!!」 

 

 控えていた四体の神獣が動く! 

「四駿四狗」と呼ばれるチンギス・ハーンが誇る誉れ高い家臣達。おそらく、山の中腹にて交戦した人狼の神獣は「四駿」であったのだろう。

 そして今、祐一の前に現れたのは「四狗」

 ジェベ、ジェルメ、スブタイ、クビライ……、チンギス・ハーンを阻む者を震え上がらせた勇者バアトル達が祐一の眼前に降り立ったのだ。 

 走り出す動作すら、どんなに動体視力に優れた者でも目で追う事は叶わないほど。この神獣たる神狼も神速で動けるのだ。

 瞬きする間もなく迫る四体の神狼。走り出した祐一をそのあぎとで噛み砕こうとして──吹き飛ばされた。

 ラグナだ。ラグナが自慢の牙と咆哮にて、迫る神狼を薙ぎ払らったのだ。

 ニヤリと笑い合い、称賛の念を送る祐一。鼻を鳴らし、前を向く盟友。そんな友に笑みを零し、そこで祐一は違和感に気付いた。

 吹き飛んだ神狼。その数がおかしい……。

 一体、二体、三体。四体居た筈の神狼が、一体居ない……。

 ───悪寒! 咄嗟に右腕を虚空へ一閃する。そして何かを砕いた感覚! その正体は「矢」だった。

 放たれた方向を見れば弓構えたチンギス・ハーンがこちらを見据えていた。残る神獣の背に乗って! 

 倒れていた狼達も立ち上がり疾走する。

 祐一達を中心とし、円を描く様に四体の神獣は神速で駆けた。

 敵の一手を封じ牽制したと思っていた。だが祐一達は容易く包囲されてしまった。

 直感が囁く! ふたたび矢が迫り祐一を貫こうとする! 

 権能の導くままに、蹴りを繰り出して砕く。それも二本。放たれる矢が増えていく。

 この死の円陣から逃れようとする祐一達だったが、チンギス・ハーンが駆る神狼ではない、三体の神狼が俊敏に動く。動こうとする祐一達の機先を制する様に、神速で襲い掛かるのだ

 

『ハハハッ! よく避ける! しかし、何時まで保つ!? 諦め潔く我が矢を受けよ、木下祐一!』

 

 チンギス・ハーンの神速による影響でボヤケたような声が響く。

 確かに、ジリ貧だ。この状況が何時まで続くのかわからない。遠からず奴の一矢を受けるだろう。

 冷や汗を掻き祐一が、どうにか活路を見出そうと状況をつぶさに見据えている時だった。

 隣から「任せろ」と言う心強い思念が伝わって来た。祐一は何十も放たれる矢を防ぎながらも、意志の強い視線

 でラグナを見据え、ラグナもまた烈火の如き瞳で応えた。

 ───頷く。 

 ラグナが猛る! そして駆け回る神狼を見据え、その自慢の牙を──射出したのだ! その牙は見事に神速で駆ける一体の神狼、その胴体を貫いた。

 流石の祐一もこれには瞠目してしまった。

 だがその驚愕は祐一だけではない。神狼もまた予想不可能な攻撃に曝され、倒れ込んだ。他の神速で駆けていた神狼も急には止まれず、玉突き事故を起こした様に倒れ込んで行く。ここに死の円陣は崩壊した。

 だが一体の神狼は逃れた。当然の如く、チンギス・ハーンが駆る神狼だ。しかしチンギス・ハーンと神狼は抜け出す為に、一瞬だけ神速を解いていた。

 それを見逃すラグナではなかった。 

 最後に残った、最後の牙を射出する! そして狙い違わず馬上……いや、狼上のチンギス・ハーンを穿った! 

 

「ぐ、おおお……! なんと、奇怪な牙か!」

 

 チンギス・ハーンが苦悶の声を上げる。すぐさま引き抜き、真紅の血が零れる。

 しかしそれも一瞬。

 まるで傷なんてなかったかのように、身に纏う民族衣装「デール」と呼ばれる服ごと再生する。

 なんだ、アレは!? 祐一は驚愕と同時に思い至ることがあった。

 強力な『駱駝』の一撃さえ、耐え抜き立ち上がったチンギス・ハーン。あれはもまた、あの異常な再生力の元に成り立っていたのではないか? 

 そんな推測を祐一の冷徹な思考が囁く。そして思い出す。ドバイに残った友……寿の言葉を思い出す。

 アポロンではない。そのため祐一は失念していたが、寿が推察した判断材料はチンギス・ハーンが起こした事実を元にしたものだった。

 太陽を呑み込んだ事も、人狼となった事も、神の名が変わろうと過去は変わらない。眼の前のチンギス・ハーンが太陽神の属性を持っている事には変わりはないのだ。

 故に、不死性もまた持っている。

 そこまで祐一は行き着き、そこでこれまで無いほどの悪寒を感じた。悪寒の方向。それは当然の如くチンギス・ハーンだった。

 チンギス・ハーンは既に神狼から降り、手に持っていた弓矢を捨てていた。彼はその逞しい腕を広げ、朗々と謳う! 

 

「おお! 蒼天(フフ・テンゲル)よ! 永遠なる天(ムンフ・テンゲル)よ! 蒼き永生の上天より、運命にて生まれたる勇猛な我を見よ! 大敵を、阻む者を、怨敵たる者を、天上に至りし我れが勇ましく射殺し踏み砕こう!!」

 

 その言霊を紡いだ効果は劇的だった。

 日輪がこれ以上ないほどに輝き、幾条もの刃となって祐一を強襲したのだ! 

『白馬』の太陽の欠片を落とす、大雑把なものでは無い。雲の隙間から光芒の如く伸び、その刃は切れぬ物なしの鋭さ! 

 咄嗟に祐一が躱す。あらぬ方向へ向かった光刃の切っ先が「大霊峰」の先にある砂漠に突き刺さり、巨大な裂け目を作っていく! 

『駱駝』による直感で、紙一重で避けていく祐一。しかし光線は放たれて終わりではなかった。

 放たれた陽光は消える事なく、祐一目掛けて小刻みに動き、切り裂こうと迫る。チンギス・ハーンもまた、光の刃を手に収束させ恐ろしいほど洗練された太刀筋で斬り掛かる! 

 ダイブしては避け、泥だらけになりながら、祐一は嘆いた。

 

「どこのラ○トセーバーだよおぉぉおお!!」

「ガハハッ! さぁ、潔く膝を折れ、我が息子よ──!」

「──Noooooo!!!」

 

 子供の頃、よく見えていた映画に出てくる武器を思い出しながらも、必死に避ける祐一。

 恐らくあれに触れた途端に、祐一の頑丈な身体と言えど、容易く切り飛ばされるだろう。

 地の利を得た師に、切り飛ばされた彼の如く。

 武器がなければ切り合えないが、あの光刃に耐えうる武器もない! 

 如何に『駱駝』の化身が頑丈になり、鋭い攻撃ができても打ち合える程ではない。 

 しかしこの光刃は『駱駝』の超直感がないと躱せない。とある化身が力を貸そうと語り掛けたが却下する。

 他の化身を変えた所で微塵に斬り裂かれるのがオチだ。

 確かにその化身に変えれば逃走も容易だろう。しかし、よしんば逃げ切れたとしても、その瞬間、この眼の前の『まつろわぬ神』は、数多の群狼を持って再びドバイへ攻め懸かるだろう。

 街も、人も、信じて待つ友も蹂躪される。祐一に退路は無かった。ラグナも残る三体の狼と交戦し、手が出せない。

 祐一は手詰まりの戦況に表情を歪め、チンギス・ハーンは勝利を確信した様に笑った。

 

 ○◎●

 

 ──チンギス・ハーンは、『蒼き狼(ボルテ・チノ)』と呼ばれる『天の神(テングリ)』の使い、その子孫である。

 

 『天の神(テングリ)』と言う神の来歴は古くアジアの先史時代より存在し、中央ユーラシアを中心に古代より信仰を集め、とくにテュルク……いわゆるトルコ系やモンゴル系部族には部族によって様々な形を取りながら信仰を得ていった。 

 テングリとは、そのまま天または神を意味する言葉だ。

 自然界との関わりが深くシャマニズムや自然信仰、アニミズムが盛んであった古代テュルクや遊牧民族は、万物の支配者であり、命の源泉である「天」を最高の神と定め祈りを捧げたのだ。

 この天神信仰には、太陽信仰や月信仰も含まれている。『白馬』を呑み込んだチンギス・ハーンは、『天の神(テングリ)』の太陽神としての属性を使い呑み込むことが出来たのだ。 

 

「高い天の命を受けて生まれた『蒼き狼(ボルテ・チノ)』と言う人があった。その妻は『黄色い牝鹿(ホワイ・マラル)』といった。バイカル湖を渡ってオノン河の源にあるブルハン山の牧地に住むうちにバタチハンが生まれた」

 

 獣祖神話とも関わりの深いこの始祖説話は、モンゴル最古の歴史書である『元朝秘史』に記された神話である。

 突厥や高車と言う騎馬民族の間にも狼を祖とする説話が見受けられる。この様な狼を祖とする獣祖神話は、トルコ・モンゴル系部族の共通の物語だった。『蒼き狼(ボルテ・チノ)』とも同一視されたチンギス・ハーンは、この神話を元に狼の神性を得たのだ。

 大帝国を築いたチンギス・ハーンは、モンゴル人のみならず多くのユーラシアの遊牧民にとって神そのものであり、人々はその威風を彼の先祖である草原の強者「狼」……『蒼き狼(ボルテ・チノ)』とも同一視した。

 そして『元朝秘史』にはチンギス・ハーンは死後、天上界に昇ったとある。モンゴル人は偉人が亡くなると、天上界に登った……ギリシャのヘラクレスやインドのカルナの如く、チンギス・ハーンもまた天に登り『天の神(テングリ)』になったと人々は考えたのだ。 

 

 故に、今、祐一が相対するチンギス・ハーンの正体は『太陽神としての属性を持つ天の神(テングリ)』=『狼の神性を持つ蒼き狼(ボルテ・チノ)』=『鋼の英雄神チンギス・ハーン』と言う、その中でも英雄神チンギス・ハーンを核とした──三位一体の『鋼の混淆神』。

 多くのキリスト教派が共有する三位一体の神……『父なる神』=『神の子』=『聖霊』似た性格を持つ強大な神性を宿した神こそ、"神殺し木下祐一"としてのデビュー戦の相手だった。

 

 ○◎●

 

「……ふむ。よく避ける。しかしもう諦めよ。ワシに忠誠を誓い、我が家族となれ。ワシは裏切り者は許さんが敵が仲間になる事は好む所だ。悪い様にはせん。……さぁ、膝を折り、恭順せよ」 

 

 満身創痍の、泥まみれ。

 降り注ぐ刃から逃げ続けていた祐一だったが、そこから先が続かない。右の二の腕、左頬から耳まで、両の太腿を浅く、腹部を横一文字に。祐一は身体の至る所を切られていた。

 しかしその傷に比して流血は少ない。刃は太陽光なのだ。赤熱した刃と相違ない。切り裂かれた途端、焼け爛れ傷は塞がった。だが、身体をジクジクとした疼痛が苛む。

 まるで、真綿で首を絞める様に、ジワジワと終わりが近付いて来る。ラグナも三体の神狼に追い立てられ、厳しい戦況だ。

 だが祐一の眼光に衰えは無い。

 正に戦士の眼光。往生際悪く生き汚くとも、活路を見出そうとする、厄介そうな瞳。

 チンギス・ハーンはここに至って理解した。

 この眼の前の戦士は己の手に負える様な、軽々な存在ではないと。この戦士は絶対に己には従わない。例え自分の陣営に加えようと、必ずその枷を食い破り叛意するだろう。

 ───だからこそ、欲しい。

 どれほど己に従わなくとも、我が手綱持って従わせ、我が器量を認めさせるのだ。

 この戦士の反骨心を叩き折り柔順な兵と仕立て上げればどれほど愉悦が待っているだろうか? 

 チンギス・ハーンは抗う祐一に対し、昏い悦楽を覚えていた。

 

「全て敵よ、我を畏れよ」

 

 言霊を紡ぎ、闘志ではなく感覚を研ぎ澄ませて行く。

 今、必要なのは戦闘を戦い抜く闘志では無い。どんな窮地でも活路を見出す嗅覚だった 

 故郷に居た頃、毎日の様に競い合った幼馴染達。その誰も彼も、新生する前の祐一に負けずとも劣らない猛者ばかりであった。

 その中で体躯や筋力で劣っていた祐一は策を講じなければ、彼らから勝利を掴む事は難しかった。

 荒木秀信、正木隆、田中秋文、原勇樹……。

 誰も彼も手強く、勝利を掴むのは酷く骨が折れた。それでも祐一が勝利してきた理由は、勝利への嗅覚に人一倍優れていたからだ。

 それは新生してからも変わらない。いや、それどころか更に鋭くなっている! 

 そして、遂に祐一は違和感を見つけた。

 祐一を今でも襲う光の刃。この光刃は正確無比で強力……そして繊細だ。あの豪放磊落なチンギス・ハーンが操っているとは思えないほどに……。 

 そうだ、おかしい。

 草原の覇者たるチンギス・ハーンならばもっと大雑把で強力な一撃を見舞う筈だ。『白馬』のごとく豪快な一撃を。

 しかし彼は光を巧みに操り、祐一を屈服させようとしている。そしてその攻撃も単調の一言。

 突き刺すか薙ぎ払う事しかしない。神速にも届く速く強力な攻撃を、今まで祐一が避け切れている大きな理由だった。

 まるで何かを傷付けまいとするかの様な……。祐一は光を避けながら、周囲を見渡す。──そして違和感は確信に変わる。

 祐一達が居る「大霊峰」。その山肌が、全く傷付いて居ないのだ。その事に気付いた瞬間、これまでの戦いの記憶が走馬灯のごとく蘇った。

 この大霊峰の中腹で戦う時……雲霞の如く迫る狼と戦った時だ。あの時、自分はどうしたか。

 山を『雄牛』の剛力にて、吹き飛ばしたではないか。

 そしてあれほど居た狼は呆気なく骸を晒した。街で戦っていた狼や最初に戦った狼でさえ、何倍もしぶとかったと思えるほどに。

 それはまるで依代になっている物から切り離されたようだった。

 このチンギス・ハーンが生み出した「大霊峰」。

 この山自体に何かあるのでは無いか……? 祐一の眼光に強い決意の色が浮かぶ。ラグナに意思を伝える。この山をぶっ壊せるか? と。

 返事はすぐに来た。───容易い。 

 口角を吊り上げ、笑う。愚問だったなぁ、と。 

 化身を切り替える。最大最強の一撃へ昇華するために純化する。同時にラグナの姿が虚空に消える。標的を見失った神狼達が戸惑う様に、辺りを見渡す。

 今まで祐一を、救けてくれていた超直感が失われ行く。

 チンギス・ハーンが放つ光が殺到し祐一の鼻先、首、肩、耳たぶ、足の甲、膝、至る所が切り裂かれて行く。だが致命の一撃からは何とか逃れる。抑えられていた痛覚が灼熱する。 

 だが、もう後戻りはできない! 

 ──ラグナお前に賭けるぞ! 乾坤一擲だッ!!! 

 

「さて、汝は契約を破り、世に悪をもたらした。主は仰せられる……咎人には裁きをくだせ。背を砕き、骨、髪、脳隋を抉り出し、血と泥と共に踏みつぶせと。我は鋭く近寄り難きものなれば、主の仰せにより汝に破滅を与えよう───ッ!」 

 

 全てを粉砕する「破壊の化身」を呼び出す、聖句を謳う! 

 大霊峰の上空。その空間が歪み、恐ろしい神獣が顕現する。ここではないどこかへ繋がる異界への扉。その扉から黒き破壊神が現れようとしていた。

 容貌魁偉を誇り、その獣皮は陽光を浴びてさえ漆黒に輝く恐ろしき「黒き神」。 

 今まで祐一と共にあった彼の化身は仮の姿。真の姿はこの世の一切合切を灰燼に帰し、死を振り撒く破壊の化身である。 

 そう。ドバイを囲み祐一とチンギス・ハーンが居る広大な大霊峰さえも───一撃で! 

 そして遂に現れる。 

 今、現れ出る猪の姿をした化身は、これまで祐一と共にあった顕身など、比べ物にならない。

 その体躯は巨大だ。全長は優に1kmはあるだろう。

 その牙は禍々しい。牙に触れた途端に数多の物は崩れ去るだろう。

 その眼光は鋭い。盟友たる少年と同等の鋭さ。

 

 ──ルォォォォォオオオオオンンッッッ!!! 

 

「おおお! この聖山を破壊するか木下祐一よ!? 何と言う出鱈目か! ぬかったわ! 

 おぬしの傍に侍っていた猪はこれほど強大であったとはッッッ!!!」 

「間違ってるぜ、チンギス・ハーン! ラグナは侍ってなんかいねぇッ! ラグナは俺の友達だ! いつも俺の隣に居てくれる俺の──「家族」さ!」 

 

 果たして時は来た。

 異界から姿を表した「黒き神」が怒涛の勢いで飛び出した。巨駆を誇る『ラグナ』が一直線に、大霊峰の頂上へ迫る! 

 チンギス・ハーンと彼が統べる四狗──そして「祐一」の見上げる大霊峰目指して! ……んんっ??? 

 

「──あれェ!? ラグナさぁん!? それ俺も直撃ルートなんですけどぉ!! 俺まで一撃で粉砕されそうなんですけど!! 

 ──え! なに!? 聞こえない! もう止まれない、なんて聞こえないからね!?」 

 

『ラグナ』が弾丸の如く、駆ける。止まる気なんて更々ない凄まじい勢い! 

 まるで巨大隕石の落下だ。 

 上空を見上げる祐一とチンギス・ハーンは計らずも、同じイメージを抱いていた。 

 

「───ぬかったわぁあああ!!!」

「───ぎゃあああああああ!!!」

 

 直後、"神殺し"と『まつろわぬ神』の断末魔の叫びがドバイに轟いた!!! 

 



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奇跡の対価

 急襲を受け未だ傷の癒えないドバイの住民達は、抗いようも無い神の宣告に震え、各々の家に閉じ籠もり意味の無い守りを固めていた。

 明けない夜はない。故に明朝に必ず訪れる死の顕現に、一時でも長く生きようとしていたのだ。

 最後の晩餐を迎え、恐怖による眠れない夜を過ごし、家族へ、友へ、愛する者へ、最期の別れを告げる人々。

 そして夜が明け、己の死を今か今か、と絶望しながら「大霊峰」を見上げている時だった。

 ──目を疑うほどの理解不能な現象が起きたのは。

 その時、ドバイの人々は見た。

 禍々しく長大な牙を持った巨大な「猪」が、一撃で大霊峰を打ち砕くのを! 

 その時、ドバイの人々は見た。

 大地を揺るがす大轟音と共に、聳え立っていた「大霊峰」が崩れ去るのを! 

 その時、ドバイの人々は思い出した。

 昨夜、空飛ぶ猪に乗り大霊峰へ向かった少年がいた事を! 

 信じられなかった。天高く聳え立ちドバイを威圧して居た大霊峰が消滅したのだ。あの巨大な猪の一撃によって。

 まさか。まさか……? 

 あの猪はあの人狼と敵対する存在なのか? なら背に乗って居た少年は、一体何者なんだ? 

 人々の中にとある希望的観測が浮かび上がる。一度縋ってしまった希望を、人間は手放したくはないものだ。誰もが口々に囁く。

 まさか……! まさか!!! 

 あの少年は今まで戦っていたのか!? 夜半に響いた大霊峰での轟音。そして中腹が吹き飛んだのも彼の仕業だったのか!? 

 まるで確証がないはずの推測を、人々は信じようとしていた。

 そして、聞いた。

 

 ───チンギス・ハーンッッッ!!! 

 

 ───木下、祐一ッッッ!!! 

 

 大都市ドバイに、若く活力漲る声が響く。人々はその声を知っていた。ドバイに狼が攻め掛かって来た時に響た声だ、と。

 我々を救けてくれた守護者は、今も戦い続けて居たのだ。あの強大な人狼に人知れず立ち向かって居たのだ! 

 

『───みなさん!!! ドバイに住み、魔物に襲われた人達! あなた達は悔しくないのか!? 自分の街が! 家族が! 友人が! 恋人が! 

 あんな訳の判らない魔物に奪われて、悔しくないのか!!!』

 

 また声が響いた。今度は肉声ではなく、街の公共放送からだ。その声はまだ若さを残していたが、理知的でありながらも抑えられない激情を孕んでいた。

 

『あの魔物と戦っている少年は! 彼は縁もゆかりもないこの街のために、死地へと旅立った! なぁ、悔しくないんですか! そんな少年に重荷を背負わせて、のうのうと生きている事が! 

 ──僕は、悔しい!! のうのうと生きている自分が!! 彼の為に何も出来なかった自分が!!!』

 

 人々は思い出す。暗闇で、空を駆ける少年の姿は見えなかったが、彼がまだ成人にすら至って居ないのは、記憶に残っていた。

 

「──悔しいッ!!」

 

 誰かが叫ぶ。とある青年の声。それは悲しみで慟哭し、枯れた声だったが、ドバイ中に響きそうな程の重みがあった。

 それはドバイの住民の代弁でもあった。

 

『お前ら、それでも何も思わないのかよ! お前ら、それでもキンタマ付いてんのかよ! お前ら、それでも人『──君! 此処で何やってるんだ!? こんな異常事態に市民を惑わさないでくれ!!』

 

 ブツ、と音が鳴りそこで音声は途切れた。

 だが人々には今さっきの放送が頭の中を何度も何度もリフレインして忘れられそうにない。

 拳を握る。歯を食いしばる。誰もが己の無力に苛まれる。

 ──そして人々は、何故か手を空へ突き上げていた。

 まるでそうするのが唯一の正解なのだと、直感が囁くのだ。

 強く願う。名も知らない少年の勝利。ただそれだけを……。億千万の「思い」が光となり何処かへ旅立って行く。

 けれどもその行き先を見届ける事は出来なかった。

 ドバイの人々の誰もが、己の中にある力を出し切った様に力が抜け、支えがなくなったように崩折れたのだ。

 

 昨夜、力無き身でありながら魔物に立ち向かい、恐怖によって憔悴した人々にとって、もう限界だったのだ。

 疲労困憊し霞む意識の中で、それでもしっかりと崩壊した大霊峰を見遣る。

 そして今も戦って居るであろう、名も知らない若き戦士の勝利を願った。

 

 ○◎●

 

「──ラグナのバカヤロぉぉおおおお!!」

 

「大霊峰」が崩れ去り、瓦礫の山となった場所に、一人の少年が地中から這い出てきた。当然ながら祐一である。

 泥まみれに、血塗れも追加され、中々酷い状態だったが祐一はまだ生きていた。改めてこの体の異常さを再認識しつつ、辺りを見回す。

 ふと、蠢くものが視界を掠めた。

 見れば、馬ほどにサイズダウンし地中に頭を突っ込んでケツだけ出している……頭隠して尻隠さずな盟友が居た。

 ため息一つ吐き、近付いて引っこ抜く。引っこ抜かれ、起き上がったラグナは、辺りを見渡し……

 ──ルオォォ……! 

 やぁってやったぜぇ……! そんな思念が伝わって来た。そんな勝手気儘な相棒に思わず流れる様にヘッドロックを決める祐一。身内に寛容な祐一も、流石に許せなかった。

 そうしてじゃれ合っていると、一つの人影が現れた。

 

「がっはっは……! 驚いたぞ! まさか玉砕覚悟で、我が半身たる聖山を打ち砕くとは思わなかったわ……!」

 

 現れた影はやはり『まつろわぬ神』。その姿はまさに満身創痍。チンギス・ハーンが着ていたデールも至る所が破け泥まみれで、祐一の着るブレザーと良い勝負だ。

 それだけではない。先刻まで素晴らしい偉駆を誇り、精強だった肉体は今では見る影もない。

 ラグナに貫かれたか、大霊峰に押し潰されたかは判らないが、その左腕は肩口から千切れ飛び、赤く染まっている。左足もおかしな方向に折れ曲がり引き摺ってる。

 しかし、かの英雄神は己の足でしっかりと歩を進めていた。

 今、チンギス・ハーンが口にした通り、あの大霊峰は彼の半身であったのだ。

 

 人は高いものを見ると信仰の対象とするのは世界中で見られる事である。古代世界の国際都市バビロンに存在したジグラットや、ネイティブ・アメリカンのピラミッド、人工物に限らず山も例外ではなく、日本では富士山や中国の崑崙山があり、およそ高く聳え立つものはよく「世界軸(アクシス・ムンディ)」とみなされた。

 その名の通り世界の中心であり、そして、天と地を結ぶ物だと考えられたのだ。

 特に山の頂上は、天と地が出会う場所だと考えられた。それはテュルク・モンゴルの遊牧民族も例外ではなく、初めは『天の神(テングリ)』は天空そのものを指していたが、やがて大地や山岳信仰に結び付いて行った。

 11世紀のマフムード・ガーシュガリーは著書である『テュルク語集成』に「異教徒は大きな山や大きな木の様に見えるものをテングリと呼んでいる」と記している。

 そして「テングリ」と言う言葉自体、天上界と言う意味を指す言葉でもあり、日本神話の高天原やポリネシアのダンガロアもテングリと言う言葉に結び付きがあると言う説もある。

天の神(テングリ)』ある所に「天上の世界」があり、両者には相関関係があった。『天の神(テングリ)』は「神と天上の世界」二つの概念を含む言葉なのだ。

 

 このドバイを囲む様に出来た「大霊峰」自体が、『天の神(テングリ)』と言う神性の顕現であった。

『まつろわぬチンギス・ハーン』は、『天の神(テングリ)』の神性を使い、己の半身にして父たる「大霊峰」を創造する事が出来たのだ。そして彼の異常な再生力もまた、『天の神(テングリ)』の太陽神の神性を受けてこそ。

 彼が己の半身にして父たる「大霊峰」を傷付けない様にするのは当然の事であった。ただ弱点をさらしながら、弱点を戦地とする豪快な振る舞いは、まさにチンギス・ハーンであった。

 

「あの光線は豪快なアンタらしくない攻撃だったからな。あの山を傷付けない様にしてるのは、すぐに判ったさ」

 

 玉砕する予定はなかった事は黙っておこう。うん、それがいい。目をそらしながら、少しだけ大人になった気がした。

 期せずして、玉砕してしまった祐一だったが、奇跡的に擦り傷で済んでいる。チンギス・ハーンに肩口から斬られた傷や、光の刃にて切り裂かれた傷はジクジクと祐一を苛んではいるが、動けない程では無い。

 戦いの天秤は、祐一の方に傾いていると言えた。

 

「フフ……あの光の刃は、我が祖たる『天の神(テングリ)』の太陽神としての神性を借り受けてこそ、振るえた力。草原の覇者たる、ワシ本来の権能ではない故、傷付ける事は元より不可能であった……。

 ──ガハハッ! しかし確かに聖山が戦場となり、傷付くのは覚悟の上であったが、まさか粉々に粉砕されるとは! "神殺し"……いや、木下祐一! おぬしはやはり世界を終末へと導く先導者に違いない……!」

 

 チンギス・ハーンは、そこで表情を改め、祐一に語り掛けた。

 

「木下祐一よ。いま一度、問おう。我が家族とならぬか? 共に卓を囲み盃を交わし、こうして干戈を交えて、更にこの想いは強くなった……。おぬしが欲しい、と。矛を交え、言葉を通わせるだけで、これほど血湧き肉躍ると言うのに……おぬしと轡を並べ、共に駆けれたならば、どれほどの歓喜が待っているだろうか……? 

 ──そしてこの気持ちはワシだけでは無いはずだ。矛を交えれば、分かる。おぬしもまた同じ様に心昂り、愉悦を覚えていたのだろう?」

 

 その通りだった。この英雄神は災厄を運んで来た討ち果たすべき敵。だと言うのに眼の前に立つ彼と戦っている時、祐一は隠しようもなく歓喜に震えてしまった。

 剣の一太刀、弓矢の一矢、騎乗の巧みさ、権能の凄まじさ、堂々たる偉駆、王者の覇気。

 そのどれもが祐一を心踊らせた。「チンギス・ハーン」と言う憧れの英雄に酔い痴れた。

 

「さぁ……、──返答や、如何に?」

 

 だが、それでも……

 

「───断る。

 チンギス・ハーン。確かにアンタは、俺が一番憧れ、共に生きる事が出来たらって、何度も夢見た英雄だ。こうして、言葉を交わして仲間に成れ……だなんて、ホントに夢みたいだ」

 

 激情を孕ませた声を、静かに紡ぐ。

 

「でも、それでも……! アンタは人々を苦しめた。……俺の友達が、守ろうとした世界を……。ならもう……答えは一つしかない!」

 

 はっきりと否定の言葉を返す。その強い意識の籠もった瞳で、仇敵を見据える。

 

「──フフ。判っていた、おぬしがそう返す事は……。ならば「言葉」では無く、いま一度───「矛」にてこの問答の決着としよう!」

 

 チンギス・ハーンの、傷付いた身体から莫大な闘気が溢れ出す。胸を仰け反らせ声を張り上げる。

 今の彼は片方の腕を失い隻腕で、左足も歪んでいる。身体のあちこちに傷が出き、内部へのダメージも深刻だ。

 ああ、しかし、何という力強い姿。瀕死だと言うのに横溢する闘志と凄まじい覇気。いや、この英雄神は決して弱ってなどいない。今こそが最高の状態なのだ! 

 

「───我が名は『チンギス・ハーン』!!! 偉大なる『天の神(テングリ)』の子にして、『蒼き狼(ボルテ・チノ)』!!! 

 草原を駆け、並ぶ者なしの大帝国を築いた覇王として……やはり、馬上にて決着を付けねばならぬ……!」

 

 来るぞ! 

 決死の覚悟と凄まじい覇気! 満身創痍であろうと、やはり神! いや満身創痍だからこそ、恐ろしい! 

 祐一とラグナはチンギス・ハーンの爛々と輝く瞳に気圧されそうになるのを必死に堪えた。

 

「──来ませい、ジェベッ!!!」

 

 チンギス・ハーンがそう叫んだ瞬間だった。先刻、祐一がラグナを再召喚した時の様に、空間が歪みチンギス・ハーンの忠実な下僕たる『四狗』……祐一達の前に現れた四体の神獣、その一体が虚空から現れた。

 かつて大陸中を震え上がらせた軍団の大将軍が、狼の姿となりふたたび祐一の前に現れたのだ! 

 チンギス・ハーンが傷付いた身体で、しかし素早く流麗な動きで乗り込む。

 

「──行くぞラグナッ!!!」

 

 祐一もまた盟友へ乗り込み、仇敵を強く見据える。

 

 ───チンギス・ハーンッッッ!!! 

 

 ───木下、祐一ッッッ!!! 

 

 ドバイ中に……いや、U.A.E中に響く大咆哮。

 それは崩折れそうな己を叱咤する大喝! 

 それは最後の決戦。その、開戦の号砲! 

 それは勝利の誓いを籠めた戦士の宣誓! 

 チンギス・ハーンが隻腕の内、残った右腕を伸ばす。

 崩れ去った大霊峰。その残骸から眩い光を放つ光球が現れた。それは砕かれた大霊峰の残滓。神性の核と言っても良いそれは『天の神(テングリ)』と言う神性の最後の意地だった。

 ──「天子」たるチンギス・ハーンを勝利に導く為の! 

 チンギス・ハーンの手中に収まった光球が上下に伸びび棒の形に変化して行く。眩い光は、鮮烈な紅へ。

 柄は、長く、太く、力強い。棒の石突は、金色に輝く。その穂先は、鋭く恐ろしい刃へと変わる。

 ───「皆朱の矛」へと変貌する。

 隻腕たるチンギス・ハーン。しかし彼は見事な馬上槍を手に入れた! その姿はまさに世界を股に掛けた大英雄! 

 

 対して祐一は何も持って居なかった。無手である。

 だが構う物か。俺には、至上の武器がある。

 拳を突き出す。親から貰った、この何物にも代え難い肉体が! 

 

 ───突然の出来事だった。

 

 …………! …………! …………! 

 声が聞こえた。憤怒、悔恨、恐怖、懺悔、信念、祈り、希望。ありとあらゆる声がまるで万華鏡の如く移り変わりながら、祐一の元へ集まって来た。

 なんだ……? 

 決着の時。この戦いの中で、最大限に集中している祐一の耳に強く響いて来た声。それと同時に、右手に仄かな暖かさを感じた。

 少し驚きながらも、祐一はその声に耳を傾けた。

 何故かそうしなければならないと思ったから。

 

『──今、誰が戦っているのかは知らない! それでも……! 何も出来ない俺を! 何も出来なかった俺を! どれだけ罵倒してもいいから! でもどうか! どうか友達の仇を討ってくれ! どうか彼女の仇を取ってくれ……! どうかみんなの仇を……!』

 

 憤怒と悔恨、絶望を込めた、酷く悲しげな声。

 

『頼む! あの化け物共を……私の愛した街を壊した化け物を、必ず倒してくれ! それ以外、何も望まない! それだけで充分だ!! だから……!』

 

 祈り、怒り、そして強い信念を籠めた声。

 

『なんで……!? 昨日までいつも通りだったのに! 寄りにも寄って、なんでこの街にあんな物が現れるんだよ! なあ……誰か知らないけど、早くあの化け物を追っ払ってくれよ!』

 

 恐怖と猜疑、そして自分勝手に縋ってくる声。

 

『すまない……! 何も出来なかった僕を恨んでくれても良い! それでも……

 ──勝て!! 勝ってくれ!! 

 そして必ず帰って来いよ! 祐一くん!』

 

 力及ばず、それでも居ても立っても居られず、ドバイ中を駆け摺り回っていた友。己の勝利を信じて待つ友の声。

 

 ああ、そうか。この声は……。

 祐一は少し前に、そんなたくさんの声を聞いた事があった。

 数多の声。かつて友と戦ったバンダレ・アッバースで聞いた人々の声。

 群衆の声。恐ろしい魔物に襲われ多くの物を失いながらも前を向く強き人々の声。

 戦う者たちの声。己の無力さに嘆きながらも、それでも何かを為そうとする人々の声! 

 数多に聞こえるその声は、強烈な意志を持つ祐一でさえ押し流しそうな熱量と煌めきがあった。

 そして声は十人十色……いや、万人万色だった。八百万の声は、色付いて一つとして同じものは無く、輝いていた。

 右手が熱い……まるで燃えているようだ。

 いや、違う。右手にある『ミスラの松明』が燃え盛っているのだ。───権能の制約が薄れていく……。

 

 祐一は、思う。目を、瞑る。

 何が至上の武器だ。思い上がりも甚だしい! 

 最強の武器なんてすぐそこにあるじゃないか! 

 想いも理由もてんでバラバラだと言うのに溢れる想い……そのどれもが、勝て! と、絶対に勝て! と言う強い願いが込められていた。

 今、祐一は悟った。

「想い」という絶対不可侵にして神聖な物を、操り、抑えよう、等となんて傲慢な考えだったのかと。

 想いはそんな事をしなくてもすぐに届く。ただ祐一は導けばよかったのだ。今、その事にやっと気付く事ができた。

 右手を天に突き出し、数多の思いを導く。

 

「──共に、勝利を掴もう」

 

 そう語り掛ける。聖句を謳う。

 祐一の手に、色とりどりの光が収束し、形を成す。

 ───その時、気配を感じた。祐一の「意識」と言う内なる世界から見守っていた『山羊』が良く出来た生徒を褒める様に微笑んだ気がした。

 祐一もまた、釣られる様に微笑む。

 

 目を開ける。

 祐一の手中には、「槍」が収まっていた。

 無骨で装飾なんぞ一つもない。柄は木からそのまま切り出した様に粗く、その穂先の刃は銀色に輝いて十文字を描いていた。

 ───十文字槍

 祐一が、託された思いから、生み出した最強の武器。

 満身創痍の若き戦士は、神にさえ抗し得る、最強の武器を手に入れた! 

 一振りして敵を見据える。

 その姿は襲来した蒙古に誰よりも前で駆けた、祐一の故地の戦士。鎌倉武士を想起させる姿! 

 

 チンギス・ハーンはその姿を見届け、やはりこの若き戦士は、己の命を懸けるに値する敵手であると確信する。

 並ぶ者なしの超帝国を築いた大王。その頂きに登り詰めた彼にとって、もう張り合いのある相手すら居なくなっていった。

 しかしいま自分を見据える戦士のなんと手強い事か。これほど心躍らせ辛酸を舐めさせられる相手など、嘗ての義兄弟にして好敵手であった「ジャムハ」以来だった。

 チンギス・ハーンは生前の輝かしい記憶を呼び起こすほど手強く厄介な戦士の登場に、心せず笑みを浮かべた。

 

 莞爾と笑うチンギス・ハーンと、強い瞳で見据えながらも不敵に笑う祐一。

『まつろわぬ神』と"神殺し"

 不倶戴天の仇敵同士だと言うのに、そこには認め合い競い合う友の様な、そんな想いの糸が二人の間にはあった。

 

 いざ、決着を───! 

 

 隻腕のチンギス・ハーンが矛を一振りし吶喊する! 祐一とラグナもまた応える様に駆けた! 

 今の隻腕たるチンギス・ハーンに嘗ての膂力は、望むべくもない。しかし速度と言う点に置いては、以前と大差はない! 

 チンギス・ハーンが槍を突き出す様に構えた! 確実な死を与える刃。可視できるほどに殺気と闘志を感じさせる鋭さ。しかし祐一は、それでも怯む事なく前へ進む! 

 そして、放たれる──神速の三連撃!!! 

 額、首、心臓を狙った必殺の三段突き! 如何に心眼を会得しようとも、神速で迫る矛から逃れ切れる訳ではない! 

 如何にラクシェやラグナの背に乗り、騎乗に慣れ始めたとはいえ、付け焼き刃も良い所。チンギス・ハーンが放つ矛を逃れる術など望むべくもない。

 だが、それでも祐一は前へ進む! 

 

 遂に一撃目が迫る! 気付いた時には眼の前に穂先があった。確実に祐一の額を貫き絶命させる挙動。

 直撃する寸前、快音が鳴った。

 音源はチンギス・ハーンの穂先とラグナの長大な牙! ラグナが自慢の牙を巧みに操り、祐一への攻撃を防いだのだ! 

 そして二撃目! 弾かれようとも蛇の如くのたうち回りふたたび迫る矛。

 今度の狙いは首。その鋭い刃で刺し貫かれれば祐一の首は為す術なく胴体と分かたれるだろう。

 しかしその時は来なかった。ラグナの2本目の牙で見事に防ぐ! 

 だが、三撃目までは、防げない! 

 その矛は見事に、祐一の心臓を抉り取った! ───だが、そこまでだった。

 ラグナを駆り、突っ込む祐一は止まらない! 

 盟友たるラグナの勢いと『猪』の権能の恩恵によって得た突進力をバネに、チンギス・ハーンへ向け十文字槍を振り下ろす! 

 槍術を会得していない祐一に十文字槍を十全に扱える技量など無い。しかし棒の振り方ならば知っている。

 

 限界まで引き絞って。

 そして、ただ、愚直に。

 一心不乱に頑迷固陋なまでに。

 

 ──思いっ切り振り下ろすのみ!!! 

 

 交錯は一瞬! 

 両者とも駆け抜け、すぐに勢いなく立ち止まった。

 心臓を突き破られた祐一と、肩口から騎乗する神狼まで真っ二つに叩き折られたチンギス・ハーンの姿。

 直後、力尽きたように神狼が砂と消え、チンギス・ハーンが言葉もなく地面に叩き付けられた。

 

 

 勝ったぞ───ッ!!! 

 

 

 勝利の咆哮が、大地を揺るがす。そして力尽きた様に、彼もまた地面へ倒れ込んだ。

 ───ここに、勝敗は決した。

 

 ○◎●

 

 倒れ伏す祐一とチンギス・ハーン。

 両者とも少しずつ意識が霞んでは消えていく。だが二人ともなんとか意識はあった。

 

「が……は……は……」

 

 喉の奥でつっかえる様に、不器用に笑うチンギス・ハーン。致命傷を受けた今の彼は、先刻の闘気や戦意が薄れていた。

 それどころか名を封じていた時の様な、自由気ままに生きている気持ちの良さすら感じられた。

 もう長くはない。それに伴いまつろわぬ性が失われているのだ。

 

「見事だったぞ、若き"神殺し"。木下祐一よ……。おぬしは、最後の、最後まで……ワシの思う通りにはならなんだ……。は……は……は……!」

「ふん……。アンタが……鈴木仁(テムジン)のままなら、少しは考えたさ……」

「ふふ、頑固じゃのう……。やはり、惜しい……。

 ──木下祐一よ。おぬしに……伝えねばならぬ……事がある……。ワシがお前の前に現れた理由……。おぬしの存在を知らせ……使嗾した者が居る」

「な……に……? 誰、なんだ……そいつは……?」

「が……は……は! それは……おぬし自身の「敵」。己の「敵」は……己自身で見つけ……ねば、ならない。

 ──だが、必ず……おぬしの前に……、現れる!」

 

 チンギス・ハーンはそこまで言葉を紡ぐと、一旦、黙り込んだ。目一杯に肺に空気を溜め、呵々大笑する。

 

 別れの時だ。

 

 祐一は心の臓を失い急速に機能を停止して行く身体を叱咤し、己が仇敵の最後を見据えた。

 

「ッははははははは───ッ!! さらばだ! 

 ───我が友! 

 ───我が宿敵!! 

 ───我が、「ジャムハ」よ……!!!」

 

 ジャムハ。祐一はいま「友」が最期に口にした男の名を知っていた。

 チンギス・ハーンの軌跡を記した『元朝秘史』には、彼が幼い時より友誼を重ね、義兄弟となった男……と記された名前。

 成長しふたたび盟友の儀を行い仲を深めながらも、とある諍いにより対立してしまった友の名前。

 何度も、何度も、彼等は戦い、果てには仲間に裏切られチンギス・ハーンに助命と寝返りの為に差し出された戦士の名前。

 嘗てのチンギス・ハーンはその行いに激怒し、寝返りを計った者共をその場で斬殺せしめ、嘗ての様に友になろうと語り掛けた好敵手の名前。

 そんな愛憎入り混じる友……祐一にとってのパルウェーズと言っても良いほどの男を。

 眼の前の英雄は、祐一と重ねて見たと言うのだ。

 

 言葉もなく驚愕に目を見開いた祐一にチンギス・ハーンはたまらないほど豪快な笑顔を向け、砂になった様に崩れ去った。……それが彼の最期だった。

 

 ──ああ、なんで……! 

 神! 何故、お前たちはそんなにも、狂う? 

 神! 何故、お前たちはそんなにも、人に仇なす? 

 神! 何故、お前たちはそんなにも、俺の心を搔き乱す? 

 祐一は薄れゆく意識の中で、言葉もなく嘆く。

 ズシン……。背に何か重みを感じた。感じた事の無い感覚。

 だが祐一はそれを気にする余裕は無かった。意識が落ちて行く。脳裡に黄金の羊毛を持つ美しい『羊』の姿が過ぎる。

 

 己が好敵手の最期……その姿を見届け、彼の意識は暗闇の中へ落ちていった。



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義理の家族、或いは、エピメテウスの系譜

 ───パンッ!パンッ! 

 

「初勝利おめでとー! ユーイチ!」

 

 何かが弾けた音と共に、可憐な少女の声が祐一の耳朶を打った。振り向くと新しくできた義母「パンドラ」が笑顔をふりまきながら手を振っていた。

 

「何やってんの……。かあさん……」

 

 顔を引き攣らせ、困惑しながら問い掛ける。おそらく彼をここまで困惑させる事が出来るのは、パンドラくらいしかいないだろう。

 

 パンドラの後ろには彼女の従者だろうか? 人の倍は有りそうな石人形が控えていた。

 

 石塊が積み重なって出来た……土偶の親戚の様な石人形、それが二体。その石塊の身体には金色の文様が至る所に描かれ、服の様なボロボロの茶色い布を肩から下げている。

 どうやら今さっきの破裂音の正体はクラッカーを鳴らした音だったらしい。と言うのも、石人形の大きな手に糸を引かれ役目を終えたクラッカーが見えたからだ。

 

 どうにかこうにか激戦を制し倒れ伏した祐一は、今どこもかしこも灰色が広がる不思議な空間に居た。

 

 友誼を交えた友との別れに寂寥感を覚えていた祐一は、ここで目覚めてからずっと寝転びながらボーッと景色を眺めていたのだが……。

 突然の義母の来訪に今まで蟠っていた悲しみとも違う喪失感と言う感傷から、困惑の感情へと取って代わられてしまった。

 

「え〜、ユーイチってばノリ悪い〜……せっかくママが初戦を勝利で飾ったユーイチを祝いに『不死の領域』から出張して来たのにぃ〜」

 

 口を尖らせ拗ねた口調とまるで女子学生の様に間延びした声音で不満を口にするパンドラ。

 

「うっ……。わ、わかったよ。……ありがとうかあさん! こ、これで良いだろ!?」

「うん! 満☆足!」

 

 どうやら祐一は義母であるパンドラの事を嫌いでも苦手でも無いが、どうしても頭が上がらない風であった。今もこうして翻弄されているのが良い証拠である。

 ……まあ、祐一自身が女性が苦手、と言うのもあるのかも知れないが。

 

「で、ここ何処なんだ? 今かあさんが『不死の領域』って言ってたのがこの不思議空間の名前?」

「残念、ハズレ。ここはね『生と不死の境界』ってところなの。ギリシャ風なら『イデア』、ユーイチが居たペルシア風なら『メーノーグ』、ユーイチの故郷風なら『幽世』ね。ま、わかり易く言うなら『もうちょっとで三途の川』みたいな?」

「ふむふむ……。うん、よく分からんけど俺が死にかけなのはよく分かった!」

「イエス、正解! でも安心して良いわよユーイチ! 今から一度キッチリ死んで、また蘇るから♪」

「んんっ!? おれ、結局死ぬのかよ!? いや待て……ううむ、心臓抉られたんだよなぁ。そう考えると、生き返れるだけ、めっけもん……なのか?」

「そうそう! ポジティブに行かなくちゃね♪」

 

 そう言うとパンドラが腕を組んで目を瞑って深く何度も頷き、

 

「うんうん。やっぱり人の身で神を殺しただけあって、『鋼』の神格でも互角に戦えるのは流石ね! 私と旦那の息子のデビュー戦だったから、皆でハラハラしながら見てたけど、心配して損しちゃったわ! ふふっ、ユーイチったら最初の実戦だったし大サービスして何か助言しようかな? って思ってたんだけど全然必要なかったわね♪」

「ああ、そうですか……。かあさん、……質問したい事は山ほどあるけど、一つだけ言わせてくれ……」

「なに、ユーイチ?」

 

 

「──見てたんなら、助けろよおおおおおおお!!!」

 

 

「それじゃあ、つまらな……ユーイチが成長しないもの! 私は義理とは言え母として子を千尋の谷に落とす思いで見守ってたのよ!」

「絶対嘘だろ! それにつまらないって言いかけたし!? ああ……もうヤダこの義理のかーちゃん。フリーダムすぎる……」

 

 嘆く祐一に、パンドラは細い腰に手を当て人指指しを振りながら持論を語る。

 

「ま、私はユーイチの義母で支援者だけど、基本的に気まぐれで無責任だし教育方針は放任主義なの。まー、世界のお約束みたいな掟に触れないくらいには助言するかもだけど、結局戦うのはユーイチだし? あんまり助けられてばっかりでもこれから先が大変よ?」

「うっ……、確かに……。……はあ。もういいや、勝ったし……それに自分で戦った勝利が一番気持ちいいし。……あっそう言えば質問なんだけど……今さっき言ってた『鋼』の神格って結局なに?」

「あら、ユーイチはウルスラグナ様から聞いていなかったかしら? じゃあ改めておさらいしましょうか。

 まず、そもそも『鋼』って言う言葉自体が「剣」そのものの意味なの。ま、簡単に言ったら大地の女神たる私達「地母神の征服者」ね。そして、妻にしたり支援者にしたり……要するに「英雄」よ」

「あー、そう言やパルウェーズがそんな事言ってたっけか……?」

 

 パルウェーズの言葉を思い出す。パンドラは何かを思い出した様に食って掛かる様に前のめりになり、祐一に叫ぶ。

 

「それに地母神の征服者である『鋼』の方々なんて大体女の敵なのよ! それはもう酷いんだから! レイプにリョナは当たり前、死姦獣姦丸呑みプレイ、何でもござれよ!」

「うわああ!!! 生々しい! 生々しいよ! かあさん!」

 

 なんか凄い単語が耳朶を打った。

 木下祐一、十四歳。純情少年であり女性経験皆無な少年でもある。

 

「いい!? ユーイチは『鋼』の方々みたいに乱暴者になっちゃダメだからね!」

 

 叫んで満足したのか、少し落ち着いた声音で語り掛けるパンドラ。少し引き気味に祐一は言葉を返す。

 

「う、うーん……。女の人は、おれ苦手なんだけど……。あー、まあ心掛けるよ。それに『鋼』って奴等が「女の敵」って言ってもチンギス・ハーンについては何も言えないけど……、パルヴェーズは違うと思うぞー」

 

 チンギス・ハーンについては「男の快楽とは何か?」と言う問いに返した言葉を思い出し、何も擁護出来なかったが、あの聖人君子を体現したパルヴェーズがそう言う事はしないと思いたかった。

 

「ま、そんな『鋼』の英雄神にも勝てたんだもの! 頑張った息子の健闘を讃えに来るのは当然の事よ♪」

「……そうでもないよ。チンギス・ハーンは俺を家族にするため為に本気で殺しに来てなかったからな……。全力だったらもっと苦戦してたはずだ。断言できる。

 あいつは最後の最後まで俺を家族にしようってしてたんだ。それでおっ死んじまったんだから意味ねーよ……。ホントにバカな奴……」

「ふふ、ユーイチは、『鋼』の神格の方々から見れば、気持ちいいくらい純粋で、未熟な戦士だもの。たぶん、若い自分の姿と重なったりするんじゃないかしら? かわいい後輩みたいな?」

「み、未熟……。かわいい後輩……。心にグサリと来たわ……。ガンバリマス……」

「たぶん、そう言う所じゃない?」

 

 そう言うとパンドラは、後ろに控えていた石人形の前に立ち、

 

「紹介が遅れたけど、この子達はデウカリオーンとピュラー! 私と旦那の娘夫婦よ! 祐一のデビュー戦を見てどうしても会ってみたいって言い出して……ま、神って訳じゃないからこうして意識を移す秘術を使ってでしかココに来れないけどね? あ、ユーイチから見たら義理の兄と姉になるわね♪」

 

 パンドラの後ろに控えていた石人形が前へ出る。

 一体は元気一杯に石で出来た手をブンブン振りたくっている。もう一体は腕を組んで祐一を見詰めていた。その視線は優しげな眼差しで自分を見据えている様にも見えた。

 どうやら元気一杯なのがピュラー、物静かなのがデウカリオーンらしい。

 

「は??? ……てか、かあさん子供いたの?」

 

 いきなり兄と姉が出来た。と言うか容姿が自分と同年代な義母に子供が居た事に驚きを隠せない祐一。

 

「そ~よ? まあ、ユーイチの義父……「エピメテウス」って言うんだけどね? ……は、今来てないの。ふふっ、自分が頑張って作った転生の秘技が幾星霜の果てに成功したのもあるけど、ユーイチの戦い振りに感動して家飛び出してカウカーソス山の頂上で雄叫び上げてるわ!」

「うわぁーい。義理のとうさんも濃い人みたいだなぁ。てか雄叫び上げてるって、そんな喜ぶ事なのかよ……?」

 

 口元を引くつかせながら祐一には義父と言う人物がどうしてそんなに喜ぶのか判らなかった。神を殺したと言っても、ただ友達を止めたかった結果でしかない。それを褒められても良く分からず首を傾げる他ない。

 

「ふふふふ。ユーイチは判らないかもね……でも、うちの旦那の喜びようも当然かも知れないわ。転生の秘技は、私も義兄も必ず徒労になるって思ってたから……。定命の者である人間が神なんて殺せないって。それもこの神も現れない世界で……。

 ──―でも、貴方は生まれてみせたわ。幾度もの逆境を潜り抜け、苦難を跳ね除け、生まれてきてくれた。

 だからもうそれだけで十分! 貴方は何も返さなくて良い、それどころか私達がご褒美を上げちゃいたいくらいなんだから!」

 

 パンドラは優しげに微笑みながらそんな事を言う。石人形に身を窶したデウカリオーンとピュラーも、言葉ないが褒めてくれている思念じみた波が伝わって来る。

 祐一はなんだかおかしな気分になった。そう言われてもやはり自分のやった事が、そんなにも称賛される事だとは思えなかった。

 自分がもっと賢ければ。

 自分がもっと強ければ。

 自分がもっと優れていたならば。

 もっと良い結果が作れたんじゃないか……そう思って仕方ない。と言うのにこの眼の前の義理の家族は、これ以上もなく褒めてくれる。嬉しい様な、歯がゆい様な、恥ずかしい様な、不思議な感情だった。

 思わず目を逸らしながら、頭を掻き、

 

「そっか……。やっぱ、俺にはよく分かんねぇや……でもそう言ってくれるの、すっげぇ嬉しい。だからって訳じゃないけど、かあさんが前に言ってくれた様に思うままに生きるよ。俺、戦う事しか出来ないし、それが一番の親孝行みたいだしなぁ」

「イエス! ユーイチは、ユーイチが望むままに生きれば良いの! どんなメチャメチャな事でも、どんな大罪を犯したとしても、ママは許しちゃう! だってユーイチはそれくらいの偉業を為したんだもの! ふふっ、旦那の頑張りが無駄にならなくて良かったわ〜♪」

 

 と言いながら惚気始める義母パンドラ。そして一緒になって身振り手振りで惚気話に答える義姉ピュラー。どうやら義理の家族は夫婦仲も家族仲も円満な様だ。その様子を見ながら祐一は思った。

 そこでポンと、肩を誰かに叩かれた。驚いて振り返れば、義兄たるデウカリオーンが居た。それも……すごい哀愁を漂わせて。

 訂正、一部を除き家庭関係は円満な様だ。義母パンドラも大概軽いが、今話に聞いた義父エピメテウスも、その二人の股の間から生まれた義姉ピュラーも相当なモノなのだろう……。

 祐一は肩身の狭そうな義兄デウカリオーンを見て、一瞬で看破した。

 

「ユーイチ! ユーイチも旦那の話聞いてく? 今ならなんで転生の秘技が生まれたかも聞けるかも〜」

「マジー!? 聞く聞くー!!」

「いい子ねー、ユーイチは! えっとね、先ずは〜……うちの旦那はゼウスにあんまり反逆しなかったって伝わってるんだけどね……」

 

 走り去って行く祐一を見てデウカリオーンは高橋紹運に裏切られた君主のごとく膝を付いた。

 祐一も義理とは言えエピメテウスの系譜。プロメテウスの系譜であるデウカリオーン側では無かったのだ! 

 

 ○◎●

 

「───うん、結構長い事話し込んじゃったし、そろそろ時間ね。ユーイチの身体も再生力し終わる頃だし」

「そうなん? なんか寂しくなるなぁ。かあさんや義兄さんと義姉さんに会えるのは、また今度か」

 

 ユーイチは、デウカリオーンの肩に乗りながら少し寂しげに言う。どうやらかなりこの義理の家族と打ち解けた様だ。

 

「ユーイチが、生死を彷徨えばすぐに会えるわよ☆ミ」

「うん、マジ勘弁」

 

 そこでユーイチは、気になっていた事を思い出した。

 

「──あ。そう言えば、かあさん。チンギス・ハーンが最後に言ってた「俺の敵」って何か知ってる?」

 

 パンドラはその質問に、首を振る動作をして、

 

「ゴメン、それ教えるの無理。かなり世界の根幹に関わってくる話だから、教えてあげたいけど掟に引っかかっちゃうのよね〜。私も一応は神だし、世界側の存在だから最低限守らなくちゃならない掟があるのよ」

「ん、そっか。ならいいや。チンギス・ハーンもいつか俺の前に現れるって言ってたし。それまで誰にも負けないくらい強くなりゃ良いか! ──よっしゃ! そんじゃ俺アッチに帰るな!」

 

 デウカリオーンから降り、歩き出しては能天気に大振りな動きで手を振る祐一。だが聞き逃がせない事をパンドラがのたまった。

 

「ふふふ。祐一はやっぱり、私達の息子ねー。ま、仮にココで教えたとしてもココで知り得た事は人の世に戻ったら忘れちゃうしね♪」

「は??? かあさん! そう言う肝心な事は初めに……てか、またこの流れかよ! なんか段々慣れて来たぞぉ!」

「まー、私は旦那も含めて、大雑把と言うかあんまり先を見ないと言うか、かなり適当なのよねー」

「知ってるよチクショー!!!」

 

 そこで、祐一意識は急速に浮上していった。

 

 ○◎●

 

 

 ふと目が醒めた。覚醒しきっていない祐一は寝ぼけ眼を擦り、目を開けた。だが何も変わらなかった。目を瞑った時と同じ様に真っ暗闇だったのだ。

 まだ夜かな? 動き鈍い思考回路でそんな予想を立てる。

 くぁあ……! と、伸びをする為に腕を伸ばそうとして……ガツン。──何かにぶつかった。

 

「……?」

 

 なんだこれ? 

 少しずつ覚醒し始めた頭で考える。とりあえず他の場所を触って確かめる。……どうやら、何かに囲まれた空間に居るらしい。真っ暗で見えないが、何か木の様な物に囲まれている様だ。

 目を瞬かせ、眠る前の記憶を呼び起こす。

『まつろわぬ神』が現れ、街が襲われた。

 なんとか反撃し、一旦、引かせる事が出来た。

 友人に『まつろわぬ神』の正体を教わり、大霊峰へ向かった。

 だが、『まつろわぬ神』の正体は予想に違い、チンギス・ハーンと名乗った。

 奮戦し勝利を収めたが、そこで自分も倒れた……。

 誰かに会った気がするが、覚えていない……。

 多分、眠ってから、だいぶ時間が経っている。そして俺は死体も同然だった……。

 ほほう、なるほど。

 ふむ。だとすれば、これは……。

 

 

「───棺桶じゃねーかあああああ!!」

 

 全力で自分を収めた棺桶を蹴り上げ、盛大にツッコミを入れた。

 棺桶を蹴りやぶり、外から光が射し込む。それと同時に、驚愕の声や悲鳴が鼓膜を叩く! 

 どうやらここはイスラム教の教会、モスクのようだ。

 見れば大勢の人々が棺桶に入った祐一を前に何列も並んでいる。

 やっぱ、葬式じゃねーか! 祐一は、心の中で盛大にツッコミを入れる。

 

「──祐一くん! 生きていたんだね!!」

 

 モスクに居る誰もが「信じられない」と言う様にあんぐりと口を開けている中、いち早く復帰した友が駆け寄って来る。彼の目元は赤く今まで悲しんでいた後がありありと残っていた。しかし今は興奮した様に、頬が上気し、仕切りに腕を降っている。

 祐一は戸惑いながらも、すぐに笑顔を浮かべ親指を立て拳を突き出す。

 そっか、俺は……。

 二人の友との約束、無事に彼らとの約束を果たせた事に祐一は口元を綻ばせた。

 

 さぁ、死者を送る葬列は英雄凱旋の花道となった! 

 狂った者共よ、人に仇なす神々よ! 

 我が守護者を見よ! 我らが英雄を見よ! 

 例え、どれだけの恐怖に震えようとも、どれほどの障碍が待ち受けようとも、我らは最期まで立ち向かう! 

 例え、お前達が幾万の災厄を運んで来ようとも、数多の命を収奪し絶望を振り撒こうと、我らの戦士は戦う! 

 

 

「あ、おっちゃん! そう言えばアイツ、アポロンじゃなかったぞ!」

「え、本当かい?」

 

 ……かも知れない。

 

 後に聞いた話では、戦いが終わり倒れた祐一をラグナが街まで背負って行ったらしい。……のは良いのだが祐一の身体の頑丈さや権能を知らない人々はボロボロの彼を当然の如く、死体だと思ったらしい。

 パンドラが言っていた様に一回死んでいるらしいので間違いは無いのだが、蘇るなんて事を知らない人々は立ち向かった少年の死に大いに哀しみ嘆いたと言う。

 そして人々は散って行った戦士に総力を上げ葬儀を執り行った。

 なおその間、ラグナは我関せずであった。

 何にせよ英雄の死と言う悲劇は喜劇に変わり、人々に希望を齎した戦士は今度は人々に笑顔を齎した。

『まつろわぬ神』の現れた被害は大きい。友が、親が、子が、伴侶が亡くなった。しかし悲しむばかりでは居られない。

 人々は何処かで区切りをつけ、再び前を向き進み始めた。

 

 ○◎●

 

「おっちゃん……。もう、行くのかよ……?」

 

 激戦より、二日経った。

 ここはドバイのクリーク沿いにある港。その港にて祐一は故郷へ旅立とうとする友人を見送りに来ていた。話によると船を使ってカタールに渡り、それから飛行機使って日本に戻るらしい。

 世界有数の大都市ドバイ。その復興スピードも並ではなかった。

 人的被害や崩壊した大霊峰の瓦礫等に目を瞑り、街への被害だけを見れば、致命的な被害は無かった。強いて言うなら群狼に荒されたスークと、ドロドロに溶解した「ハージュ・カリファ」くらいで、街のライフラインには影響は少ないと言えた。

 祐一も復興や死者への弔いに奔走していたのだが、二日経った今日海運会社が営業を再開し、同郷の友人が帰郷すると耳にし飛んで来たのだ。

 

「うん。僕みたいな怪我人が居ても復興の邪魔になるだけだからねぇ。厄介者は去るさ。まぁ……何も出来ないのは心苦しくはあるけど……。久しぶりに故郷の地を踏めるからね、素直に嬉しいよ。でも君はここに残るんだろう?」

「ああ。少しだけここの復興を手伝って行くよ。防げなかった未熟な俺に原因があるからな……。それに……あんだけ派手にやったんだ。また他の『まつろわぬ神』って奴らが来るかも知れない。やっぱほっとけないさ」

「うーん……。ウルスラグナにチンギス・ハーンか……。何度聞いても実際に見ても、中々信じられないよ。物語の登場人物や聖典の神々が、現実に形を成して現れるんだからねぇ」

「まぁ、そうだよな……。でも、現実に起きてる事なんだ。それに俺には因縁があるみたいだし……、あいつとの約束もある……。受け止めなきゃ、なんねぇよ」

「ふふ……。君は強いねぇ。僕だったらそんな使命耐え切れなくて投げ出しそうだよ。……でもココであった戦いは忘れない。そして日本に帰ってもまだ希望があるって皆に伝えて行くよ。あはは、僕は今じゃあ日本では時の人だからね? ただの法螺じゃ、終わらせないさ」

 

 そう決意を籠めた声で言うと寿は右手を祐一に差し出した。頭にはてなマークを浮かべながら戸惑う祐一。そんな祐一に苦笑して寿が、

 

「──友よ、握手を」

 

 祐一は、ハッとした様に目を見開き、自分も右手を差し出す。

 

「お元気で」

「君もね、祐一くん。僕らの英雄に、祝福を。僕らの戦士に、幸運を。僕らの王様に、勝利を。

 ……いつかまた……日本に帰って来たら、僕の家に寄って行きなよ。ふふ、歓迎するよ?」

 

 寿は、不思議な愛嬌のある仕草でウィンクし、祐一に別れの言葉を告げる。祐一も、そんな剽軽な仕草をする友人に苦笑を漏らし……

 

「ああ。是非」

 

 そう返した。

 二人は、最後に強く握手した手を握り締める。穏やかに微笑みながら、言葉を交わす。

 

حَظَّا سَعِيدًا(幸運を祈る)。友よ、武運を」

حَظَّا سَعِيدًا(幸運を祈る)。おう。生きて、また会おうぜ」

 

 真面目くさってそんな事を言う自分達がおかしくて、笑い合う二人。

 その時だった。

 

 

 ───莫大な神力の爆発! 

 

 それも、足元から! 

 咄嗟に逃れようととした祐一だったが、地面を蹴る事が出来なかった。まるで底なし沼に嵌まった様に絡め取られてしまった。見れば地面が闇と化し、暗黒の世界の扉が開いているではないか! 

 そのまま引き摺り込まれる祐一。反射的に握っていた友の手を離し、突き放そうとする。しかし寿はそれを良しとしなかった。

 

「───祐一くん!!!」

 

 祐一の手を強く握り返し、精一杯引っ張る! だが、所詮矮小な人間の力。

 まるで重力の渦に引き込まれるように抗えない強力な力によって、祐一と寿は、闇の世界へ落ちて行った。



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常夜の王国編
幽界紀行文


 

 

「お?」

 

まぶたを開いたら、妙な場所になっていた。

 

広い原野。

そのただ中に祐一は立っていた。

 

 

「これみよがしに妙な建物があるんだけど……行けってことか……?」

 

 

あばら家

 

 

ウンウン悩んでいたが

 

 

 

 

「化身とは姿形をかえ」

 

 

 

『生と不死の境界』

 

 西洋では「アストラル界」とも称され、東洋では「幽世」とも呼ばれる場所であり、幽世とは肉体より精神が上位のなんの対策もしなければ死に至ると言う、ただ居るだけでも危険な場所。人の世よりも神話の世界……『不死の領域』に近い世界であった。

 

 チンギス・ハーンとの死闘の末、瀕死の祐一が義母や義兄達と出会った場所であり祐一が死にかけた時、或いは死んだ時辿り着く場所は大抵ここである。

 

 まあ祐一自身そんな所に居る自覚も無ければ、それを教えてくれる者も居ない為、今彼らは絶賛迷走中であった。

 

『』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドバイから謎の穴にはまって辿り着いた先は海が広がる()()だった。

 海ならばドバイからも見えた。そもそもが海を渡り船で移動する予定で、しかし、今見える景色はおかしかった。

 ドバイの面影は微塵もなくさっきまで昼だったのに空の色も真っ暗闇で、それでいて少しだけ紫がかった空だったのだ。

 

 ドバイじゃない。そう気づいた途端、寿はすさまじい体調不良に陥った。

 

 空気を吸うが肺が身体が全く満たされず、まるで酸素を上手く取り込めない。頭痛も酷い。余りの痛みに視界が滲み思考にすら靄がかかる始末だ。

 なんだ……これは。

 もはや体調不良なんてものではなく死の瀬戸際に居た。

 迷い込んだ場所にまるで身体が馴染んでいないかのよう。いや、実際そのとおりだった。幽世は一般人にとって成層圏や深海……そんな人の生存圏外に放り投げられたも同然だ。

 視界の隅に同じ様にうずくまり倒れている友を見つけたが、もうそんな事を気にする余裕は今の寿には無かった。寿の意識はうすれていき、死の足音が聞こえ始めていた……。

 

 

 

「──おっちゃん!!!」

 

 祐一が目覚めたとき寿はもう既に虫の息だった。浅い呼吸を何度も何度も繰り返し、その様子は止まらないしゃっくりが続く様にヒックヒックと声が漏れていた。呼吸が上手くできていないのだ。

 指先は十本ともふるえ、顔には死相が浮かんですらいた。

 

「しっかりしろ!」

 

 祐一は一瞬でパニックに陥った。当たり前だ、こんな時にどうすれば良いのかなんて検討も付かないのだから。

 

 また友の死を見なければならないのか……ラクシェ、ラグナ、そして……パルヴェーズ。あの時みたいに……! ぜったいに、死なせなくはない……! 

 怒りが、最大限の怒りが高まった。

 怒り以外がなにもない純化された真水の如く、一本の矢のように一直線に突き進む、怒りが。

 空が、海が、大地が、恐るべきものの怒りに怯えるように震える。空間が軋みを上げ、微弱な地震すら生まれる。怒れる王──木下祐一の怒気によって。

 

『──祐一よ』

「ッ!?」

『言葉は不要。……おぬしがそのものを助けたい、というならば抜け。我という矛を』

 

 その時、今まで噛み合っていなかった歯車が綺麗に嵌った気がした。

 化身を掌握したいつもの全能感。でも化身の気配を感じない……いや化身の気配は感じるのだ。ただ、まるで祐一そのものが化身だったかの様なそんな気配に驚いた。

 不可思議な化身となつかしい友の声。

 だけど今はあえて無視した、眼の前の友を助けなければ。

 

「──()()()!」

 

 それは言霊だった。力強く、荒々しく、それでいて真っ直ぐな言の葉。

 輝ける民衆の守護者の言葉。先ほど掌握した化身……加護と祝福をもたらすウルスラグナ第六の化身『少年』の力だ。

 

「ああ、君かぁ……祐一くん……なんだか、懐かしい感覚がするよ……。昔ね。まだ僕が、学生だった……、頃にね……山梨にある、すごく高い山に登ってねぇ……」

「なにいってんだ正気にもどってくれ!」

「登山ってものを舐めていたんだろうねぇ……、バッグ一つ背負って、登ったからかなぁ……? すぐに高山病に、掛かってねぇ……、それで、どうしようも……」

 

 寿は生死の境を彷徨っていた。朦朧とした意識が駆け巡った走馬灯を意味も無くブツブツとこぼしているのだ。

 やるしかない!

 権能の行使を決めた祐一は烈火の眼で友を見据えた。

 

「八田寿、お前は、まだ生きたいか!? こんな所で命を散らさず、故郷に帰りたくはないか!? ──おい! 答えろ、八田寿!!!」

「…………そりゃあ。……死にたく、ないかなぁ」

「なら、俺に()()()()()! 例えお前の肉体が滅び、魂魄だけになろうとも、俺の下僕となり、俺の敵と戦い抜くと誓え!」

 

 それは聖句だった。祐一がいま掌握した化身の聖句。

 それは儀式だった。新たな仲間を迎え入れる儀式。

 どれほど苦難が満ちた運命であっても共に『戦い抜く』と宣誓させる"忠誠の儀"だった。

 

 寿は朦朧とした意識のなか祐一の姿を垣間見た。揺ぎない意志を秘めながら今にも泣きだしそうで頼りない少年が、いまの祐一だった。

 

 持っていた物を全部投げ捨ててたった一人で民衆の為に戦う、人類代表の戦士。

 好きだったモノを奪われ続ける、寂しげな王様。

 

 そんな悲しげで一人ぼっちの少年……だからだろう、こんな事を思うのは。

 

 あはは、僕が、支えなくちゃね……。

 

「ああ、誓うよ」

「ならば、ここに忠誠の証を立てよう。お前が俺に忠誠を誓うというのなら、俺は──!」

 

 祐一が人差し指を突き出す。

 

 次の瞬間、寿は目を向いた。

 

 その指を彼は逡巡すらする事もなく、自分の()()()()()()()()のだから! 

 ボタボタと赤黒い血が滴り落ち、残った強い意志の籠もる左眼で、寿を見据える。

 

「俺はこの眼を捧げよう!! そしてお前は俺の眼となり、耳となり、言葉となり、俺の五つの感覚に等しきものとなれ!」

「なにやってるんだい、眼を抉り抜くなんて……!」

「俺は友達が、恩人が、この位で生き長らえるなら、喜んでやる! 俺は、お前を死なせなくはない! ラクシェを……ラグナを……パルヴェーズを……! もうあんな思いは、嫌だ!!」

 

 寿はこの眼の前の少年の異常性と言うものを、今ハッキリと思い知った。彼から話で聞いた、バンダレ・アッバースや試練、神との闘争のこと。

 常人では道半ばで心折れるか斃れるだろう道を突き進めたは、この異常性もあったのだろう。

 

 それを確信し、寿は思った。嫌悪ではない。恐怖でもない。やはりこの少年を一人にはしたくはない、と。そう思ったのだ。

 

「わかったよ……なら僕はもう何も言わない。君に忠誠を誓うよ──我が、王よ」

 

 祐一は頷くと自分の目玉を寿へ向けた。寿は思わず顔を引きつかせ目を背けようとする自分を我慢した。祐一が寿に馬乗りになって、動かない様に抑え付ける。

 

「今からお前に『加護』を与える。そしてこの儀式、かなり辛い物となる。比類なき苦痛がおまえを襲うだろう。そして忠誠を誓い俺に付いてきたとしても絶望しか無いかも知れない。──それでも、やるか?」

「愚問だよ……祐一くん……!」

「その忠義、見事。──感謝する」

 

 そう言うや否や指を綺麗に揃え槍の穂先の様な貫手で持って、寿の腹部を──貫いた! 

 目を剥き期せずして吐息が漏れる。腹部への異物感と白濁とした感覚が神経を刺激する。だがそれもすぐに終わった。八田寿と言う人生の中で最高最大の激痛が襲ったのだ。

 

「────!!!」

 

 無人の大地に絶叫が迸る。

 腹部に刺さった腕から祐一の目玉が差し込まれ、それと共に腹部へ……東洋医学に置ける身体の最奥とされる臍下丹田へ……感じた事の無い何か流動的な物が流れ込む。

 

 それを受け入れる痛みは尋常ではない。掻っ捌いた腹に、硫酸を投げ込まれた様な痛み。

 『少年』の加護を与える、壮絶な儀式が始まった。ここが誰の居ない無人の土地で良かったのだろう。この凄惨にして狂気の儀式を誰にも見られる心配がないのだから。

 

 祐一が弑逆した軍神ウルスラグナ。そして、その主である光明神ミスラは古代インドに起源を持つ古い神格である。

 その信仰は西はイングランドまで及び、東では形を変え我々が住む日本にまで及ぶ。そしてミスラ自身を主神としたミスラ教と言う宗教も存在した。

 

 このミスラ教への入信は艱難辛苦を伴ったと言われている。

 

 キリスト教のとある神官が記した物には、数十日の断食、二日間皮を剥がれ、最後に二十日間雪の様に冷たい水の中に浸けられたと言う記述もある。

 このミスラ教の儀式の中には、水漬けや火の洗礼が含まれており、剣……『鋼』を鍛造過程を示しているかのようにも思える物が散見できる。

 

 祐一の掌握した『少年』の化身もまた、この艱難辛苦を伴う性格を色濃く残し、今彼らが行っている儀式でも強く発現したのであろう。

 

 

「……殺す気かぁあああッッ!!!」

「ゴ、ゴメン! それしか方法なかったんだぁぁあああ!」

 

 鬼の形相の寿と、逃げる祐一。互いに全力疾走である。

 寿の手には何処から拾ったのか、こん棒が握られていた。彼に瀕死寸前だった面影はなく元気に走り回っていた。

 運動音痴で運動不足な寿だったが祐一から受け取った『加護』なる物のお陰で陸上アスリート並の速さで動けていた。

 対して祐一は儀式の代償によって隻眼となり距離感が掴めず足取りは覚束ない。

 

「待って待って! 助かったから良いじゃん、許してくれよ!」

「判ってる! 判ってるさそんな事! でもねぇ……! あんな事するなら、一言だけでも言って然るべきだろう!? ホントに死ぬかと思ったんだぞ!!」

「や、やー……あれは……化身の副作用でハイテンションになってて……」

「結局勢いじゃないかバカ!」

「あいたぁっ!?」

 

 責め立てる家臣と、弁明する主。確かに先刻、主従関係を結んだ二人だったが、お前ら本当に主従か? と思えるほど。

まあ到底、主従関係にあるとは思えないが、それが彼……木下祐一と言う「王」とその「臣下」との形なのかも知れなかった。

 

 ラグナが呆れた様にため息を付いた。

 

 ○◎●

 

 隻眼になってしまった祐一。

 傷は治ったが再生する気配はなく、ブレザーの下に着ていたカッターシャツを破いて右目のあった場所に包帯代わりにしていた。

 寿も『少年』の加護で体調は良く、ラグナは神獣でこっちの方がホームだ。

 

 浅瀬にいても仕方ないので、取り敢えず歩き出した。あたりは真っ暗なのに細部までハッキリ認識できて、やはりここは不思議な場所だった。

 

 見える景色はグランドキャニオンさながらの赤茶けた大地が広がって、後ろを振り返れば紺碧の海から未だに見つめられていた。あとはストーンヘンジじみた大地に直立した長方形の石がいくつか見えるだけ。

 ここが自分達が生まれ育った世界とは、毛ほども重ならない異界なのだと思い知らされる。

 

 歩けども歩けども変わらない景色に辟易しつつ、食糧か水を確保しなければならないがとことん何もない土地であった。

 

「うーん……。ここが元の世界じゃ無い事はすぐに分かるんだけど、ならここは一体どこなんだろうねぇ?」

「さぁな……でもなんか来た事がある様な……そんな気がするんだよ。いつだっけなぁ? 思い出せない」

「おや、なにか手がかりが?」

「でも全く覚えていないんだよなぁ、誰かと会ってたような……」

 ──ルオ

「なんだよラグナ。多分思い出すの無理って……何か知ってるのか?」

 ──ルオオン

「いいから背中に乗れだって? どっか元の世界に戻れる場所を知ってんのかよ?」

 

 問い掛ける祐一にラグナはふるふると首を振り「否」と示す。だがラグナは何かを手掛かりを掴んだ様だ。他に何か手掛かりに成りそうな物もなく象にも匹敵するほどの大きくなったラグナへ乗り込むと彼らは風になった。

 

「なあ、どこに行くつもりなんだいラグナくん?」

 ──ルオオオォン。

「はは、君が何を言っているのか判んないや」

「あー……ラグナは人のいる臭いがしたから、そこに向かってるんだってさ」

「人が居るのかい、この世界に?」

「みたいだぜ。取り敢えずここが地獄とかじゃないって判って良かった……」

「物騒な事言わないでくれよ……薄々思ってたんだし。死後の世界って言われても不思議じゃないしねぇ」

 

 ラグナの背に揺られながら祐一はすこし前のことを思い出していた。

 

「なーんかこうしてるとパルヴェーズと旅してたのを思い出すなぁ。目的地なんて全然決めないでさ……気の向くまま風の囁きを聴きながら進むのさ……。懐かしいなぁ……」

「旅かぁ……僕は旅なんてしたこと無いなぁ。インドア派だからねぇ、基本的に家に居るんだ。偶に、原付きで隣の県までツーリングに行くけど、それくらいかなぁ」

「でもドバイに向かってたじゃん」

「一浪が確定しちゃってね、それで世を儚んでドバイに行こうと思ったら大変な事になったんだ」

「あ、分かる分かる。俺も世を儚んでスロヴァキア行こうとした!」

「やっぱり旅したくなるよね! あはは!」

 

 危機感を持て。そうこうしてラグナの背に揺られ一刻の時間が過ぎた。

 

「ん? ……なんだ、アレ?」

 

 ふと祐一が違和感に気付いた。

 違和感は平らな大地が広がる地面からだった。赤茶けた大地は気付けば緑へ。一部の隙間もないほど埋め尽くされた草原へと移り変わったのだ。

 

「──来るぞ!!!」

 ──ルオオオオオォンッ!! 

 

 過剰な密度で群生する草。その草の突先が槍の穂先じみたものへ変貌し、祐一達に牙を向いたのだ。

 

 ──ルオオオォン!!! 

 

 声の衝撃波が、迫る草を薙ぎ払う。だけど一時だけでふたたび草の津波が押し寄せる。

 マズっ!

 いかに祐一と言えど、あれに飲まれればタダでは済まない。

 化身たちに呼び掛けるが応えはない。ウルスラグナの権能は制約型。嵌まれば無類の強さを誇るが、やはりピーキーだ。

 

 そして緊張が最高潮に達した時だった。

 

「掌中の珠も砕け散った。血まみれの肺腑は地に落ちた、万物万象は四散し、世界の箍は弛んだ! さあ、無秩序を齎そう!」

 

 厳かな言葉が飛び出した……これは聖なる言霊。ウルスラグナとは違う権能、チンギス・ハーンから簒奪した新しい権能だった。

 グンッと空を駆るラグナの勢いが増し、祐一の見える視界が全て停滞していく。いや祐一達が"加速"しているのだ。

 元々隼並みの速度だったラグナが、今ではジェット機ですら追い付かない速度だ。もう人に認識できる速度ではない──神速閃電。

 どんどん加速し、草を振り切る。

 

 よし、このままこの草原を抜けるぞ。

 言葉もなくラグナに声を掛ける。──是。ラグナもまた言葉もなく肯定の意を示す。

 だが祐一達の接近を予想していたかのように、巨大に絡みあい一つの鞭となった草が待ち構えていた。それが九つ。まるで古事記にあるやまたのおろちさながらだ。

 

 草の鞭がまるで絶好球が来たバッターの様にフルスイングする。しかも完全な直撃コースで。

 祐一とラグナは焦らなかった。なんとなく直感が囁くのだ。イケる! と。

 神速を切り、躱し尽くす。これは神速ではない。その騎乗技術の巧みさによって、である。ラグナを駆る祐一は馬と共に生きる遊牧民の如く巧みな騎乗技術をさらけ出していた。

 『駱駝』を使ったときのようになんとなく判るのだ。ラグナの意思、状態、風の向き、障害物の位置、神速時の動き方、騎乗するに必要な知識が。

 草原の覇者"チンギス・ハーン"。騎馬による軍勢で持って世界を駆けた大王。

 彼から簒奪した権能は騎乗においてド素人である祐一であっても、歴戦の騎馬武者へと変貌させる権能なのだ。

 それも馬のみならず四足歩行の動物であれば、この権能の範囲内になる様だ。

 祐一がラグナで権能を行使しているのが良い例だ。

 

 草の鞭を振り切り、彼らは草原を抜けた。祐一はあたりを見渡しながら、そこで違和感に気付いた。

 

「──おっちゃん?」

 

 後ろで祐一とラグナに捕まって居たはずの寿の気配が無い。嫌な予感を感じつつ振り返れば、そこにはなんと白目向いて泡を吹く八田寿の姿が───! 

 

「あ!? おっちゃん死ぬなぁあああああ!」

 

 乗倍の車酔いを経験したのだから当然である。ガクガク揺さぶり、なんとか意識が覚醒した寿。

 

「……ゆ、祐一くんが言ってた、神速って……こんな景色なんだね……。ス○ー・ウォーズのハイパードライブみたいに色んな物がオロオロロロ……」

「ギャアアアアアアア!!!」

 ──ルォォォオオオォン!! 

 

 寿は堪らずゲロった。

 思わず悲鳴を上げる祐一とラグナ、危機的状況を脱したにも関わらず爽快さは死を迎えた。

 そんなこんなで、騒ぎながら進む一行。この幽世であっても危機感を忘れて騒ぐのだ、大した奴らである。

 

 そうして居る間にも景色が移り変わっていく。緑の土地が灰色の大地へ、今度は岩肌が剥き出しになった峻厳な峡谷だった。それだけじゃない。

 

 ──ルオォン! 

 

 ラグナに促された先には動く影あった。それも一つ二つではなく数えるのも億劫になる大量の魔物たちがいたのだ。

 二頭一身の黒い犬、一つ目の斧持つ巨人、石で出来た人型の鬼、手足が無い蛙の身体を持つ美女……悍ましい魔物たちが、祐一達を見上げ涎を垂らし見ているのだ。

 

「ここはやっぱり僕達の居た世界じゃないね……」

「ああ……。とびっきりにヤバいな、ここ」

「そうですか? 住んでみれば、良い場所だと思いますよ?」

「は?」

 

 声が聞こえ、同時に感覚が、肉体が、呪力が充溢していく。この感覚は2日前に初めて感じた物と同じ物。ウルスラグナ、チンギス・ハーン……彼等の同類、不倶戴天の仇敵たる神が現れたのだ! 

 

 咄嗟に祐一はラグナごと身を捩り、回避行動を取る。鋭い物が祐一の鼻先を掠めて去っていった。祐一の判断は正しかった。避けていなければ騎乗するラグナも、背の寿も切り裂かれていただろう。

 祐一は避けた物を看破した。──黒い刀。

 それも漆黒の刀身に妖し気な波紋が揺らめく湾刀だ。おそらく祐一にその手の知識があれば、あるいは寿が見る余裕があったならば『蕨手刀』と思い至っただろう。

 ただ、知識が無い筈の祐一だったが妖しげな気配を感じさせる黒刀には見るだけで寒気を覚えた。ウルスラグナやチンギス・ハーンと相対しているような、『鋼』と呼ばれる存在と相対している気配。地母神だと言っていた義母パンドラとは真逆の気配。

 極限状態に踏み入った祐一は、消えていた義母との記憶の断片をすくいあげて確信した。この神は『鋼』だ。

 それにもう一つ。

 ──コイツは間違いなくブッチギリに高位の『鋼』だ! と。

 

「ほう。これを避けますか、完全に虚を突いた一太刀でしたが……。ふふふ、貴方は中々の武人だ。いえ、その戦いへの嗅覚は『獣』と言っても良いでしょう。これは期待が持てそうです」

「何モンだ……、テメェ……?」

 

 祐一の眼光に強烈な闘志が色づく。

 

 

眼の前に現れた神は間違なく今まで会って来たどの敵よりも強敵であると直感が囁く。

 

 イランを恐怖のどん底へ陥れたウルスラグナ。

 ドバイを血の海にしたチンギス・ハーン。

 

 今まで出会った神々は、死を振り撒く意思のある天災そのものだった。ならば急襲して来た『まつろわぬ神』も変わらない。

 

「同郷の者と会うのはいつ以来でしょうか……。ふふ、いえ、無作法でありますが、名乗りは後にしましょう。今は貴方の見極めが先決。それに私も貴方の来訪に些か気分が昂ぶっています。御相手願いましょうか神殺し」

 

 そう飄々と嘯く『まつろわぬ神』。容姿は疑いようもなく日本人のそれだ。古墳時代を思わせる装束……白い貫頭衣を身に着けている。

 髪型もやはり同じ時代と思わせる美豆良の形だ。

 『まつろわぬ神』の容貌は、他の神と同じく素晴らしく整っている。一見すると傾国傾城の美女にも見える娥娥たる玉顔。しかしその実、勇ましさと狡猾さを孕んだ青年である事が容易に察する事ができた。

 老若男女誰もが蕩ける嫣然とした笑みを浮かべながらも上から見下ろし、それがさも当然である様にも感じられる圧倒的覇気。そしてその瞳は笑っているにも関わらず、戦意と期待に爛々と輝いていた。

 

 出会ってきたまつろわぬ神々は誰も尊大だった。だが目の前にいる神は祐一に対しても慇懃な言葉遣いだ。

 それが祐一を苛立たせた。流麗な立ち仕草も、慇懃な言葉遣いも、そのどれもが小馬鹿にされているようで敵愾心を煽った。

 しかし出合い頭の殺意を込めた一太刀。疑う余地も無く眼の前の神は……強い。

 それに内なる化身の強く警鐘を鳴らすのだ。"油断してはならない"と。化身は『戦士』、シーラーズ郊外で襲撃して来た化身であった。

 

 左目を眇め、眼光が『まつろわぬ神』を射抜く。祐一は言葉もなく『まつろわぬ神』の問い掛けに答えたのだ。──是と。

 

「ふふふ、澄んだ良き闘気です。言葉すら交えず矛を交えようとしますか。──素晴らしい」

 

 『まつろわぬ神』から紫電が舞い、掻き消える。一瞬で神速閃電の領域に踏み入れたのだ。祐一は心眼へ。しかし『まつろわぬ神』は祐一の方角ではなく、眼下に広がる険しい峰の頂上に降り立った。

 奴はあの峰を戦場にすると決めたらしい。祐一は立ち上がり、盟友へ声を掛ける。

 

「ラグナ! おっちゃんを頼む!」

 ──ルォン? 

「なぁに、勝って来るさ。心配すんな」

 

 大丈夫か? と聞いて来る心配性な盟友の気遣いをありがたく思いながら、祐一は口の葉を吊り上げながら断る。

 

「行くのかい」

「ああ」

「死ぬなよ」

「任せろ!」

 

 短く言葉を交わし、祐一は死地へ飛び立った。



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見習い魔王と『鋼』の勇者

「来ましたね、神殺し! では、──小手調べと行きましょう!」

 

 ラグナから飛び下りた祐一を見ながら、薄く獰猛に笑ってそう言うや否や『まつろわぬ神』は黒刀を揮い山肌に突き刺した。

 針峰が揺らめいた。

 その振動の強さは増し、針峰に亀裂が走る。一つ、二つ、三つ、四つ……大きな亀裂が増え、無数の亀裂となった。

 次の瞬間、巨大な山一つが一気に弾けた! 無数の破片があらゆえ方向へ飛び散る。

 

 あのデカい山を爆発させたのか!? 祐一が予想したと同時に、すぐに間違いに気付いた。

 渓谷の破片に変化が起きたのだ。

 破片の一つ一つが形を成し、無数の破片は人型となった。

 その肉体は鍛造された金属の様に妖しく光る鋼鉄の四肢。手には『まつろわぬ神』が持つ"刀"と同じ物と四角い"盾"、身体には弥生時代に使われた"短甲"と呼ばれる甲冑を身に着けていた。

 鋼の軍団だ。

 あの『鋼のまつろわぬ神』は、渓谷ひとつを軍団へ変貌させたのだ。

 

「この嚆矢を打ち、戦の始まりとしましょう! さぁ兵どもよ、攻め懸かりなさい!」

 

 『まつろわぬ神』が虚空より矢を放つ。

 つんざく音を奏でて迫るそれを避け、視線を『まつろわぬ神』の方向へ戻した時には鋼の軍団が矢を放たんと構えていた。

 飛び降りた祐一は止まらない。そのまま重力に身を任せ、余裕すら持ったままだ。

 『まつろわぬ神』が鋼の軍団を生み出して直ぐに一つの権能が使えると確信した。あの程度の軍勢ならば容易く蹴散らせる権能を。

 

「来たれ奈落の軍勢。大地を震わせ、天より駆けよ。死魔の軍靴を鳴らせ。一切の智慧を捨て、狂奔へと落ちろ! 栄耀栄華を奪い尽くせ!」

 

 祐一のすぐ背後が黒く歪み、巨大で寒気が奔る"扉"が現れた。

 黒ずんだ金属で出来た扉だ。しかし野晒しに放置され、雨風に晒された銅像のようなみすぼらしさは微塵もない。生きとし生けるもの全てに恐れを感じさせる忌まわしい気配。……死の気配だ。

 

 ───地獄の門。

 

 その威容を見ればそう例えるだろう。地獄の扉がゆっくりと開いていく。

 地獄の門から這い出る者共。それは、やはり──地獄の軍勢である。

 

 それはドバイにて猛威を振るった群狼のすがたをしていた。

 門から続々と姿を現す。おそらく『まつろわぬ神』が生み出した軍団と同数。

 馬ほどの大きさの蒼き狼……剣、斧、矛、弓、多種多様な武具を持ち現れる銀の人狼……そして狼に騎乗する人狼……嘗て人に災いを齎した者共が忠実な下僕となり付き従っている。

 "類稀な騎乗技術"と"軍勢の召喚"。それが祐一のチンギス・ハーンから簒奪した権能の全貌であった。

 

 狼が祐一へ近づく。祐一は狼に飛び乗ると、今度は一体の人狼が一間ほどはある槍を差し出した。使えと言っているのだ。

 受け取って鋼の軍団と『まつろわぬ神』を見据えた。槍を天へ掲げる。

 

「───駆けよ!!!」

 

 蒼と銀の入り交じる津波が雄叫びを上げ、鋼の軍団へと切り込む。先頭を駆ける者は軍団の首領たる、神殺し木下祐一である。

 オオオォォァァッ────ッ!!! 猿叫を上げ、獣の如く猛る。

 隻眼による遠近感の違いに戸惑いながらも戦場で研ぎ澄まされて行く直感に任せた。

 縦横無尽に駆ける祐一の勢いは凄まじい。流れ込む知識を頼りに騎乗方法で巧みに狼を操り、手に持った槍で阻む軍勢を薙ぎ払う。

 祐一に付き従う狼の軍勢も負けてはいない。まるで一つの集合体となったかのように暴れ回る。

 初めは同数であったがもはや勝敗は一目瞭然であった。

 

「はは。なかなかどうして、勇ましい。やはり若い身の上とは言え、神を殺しただけはありますね。──いえ、そうでなければ困ります」

 

 自軍が崩壊寸前にも関わらず、誰もが見惚れる笑みを浮かべる『まつろわぬ神』。そうして誰に言うともなく独り言ち、

 

「さあ、合戦ごっこも飽きてきた頃です。全て水に流して仕舞いましょうか! ──あらゆる竜蛇も水も、我が下僕であると知りなさい!」

 

 高らかに宣言する。そして今度は小さく短く悲しげに、しかし透き通る強い声で、力ある言の葉を編む。

 

 祐一は『まつろわぬ神』の背後に、目を伏せ愛おしげに『まつろわぬ神』を見る女性を幻視した。

 青を基調とした色とりどりの十二単。艷やかな黒髪は光源の少ないこの場所であっても光をよく反射し、天使の輪の如く輝いている。顔の造詣は『まつろわぬ神』と同じく日本人のそれだが瞳は大海を思わせる紺碧の色を宿していた。

 

「──吾妻はや」

 

 呪言と共に大地の到る所から間欠泉の如く水が湧き出す。大地だけではなく大気からも。大地と大気から現れた水が巨大な群れとなり、見上げるほどの大津波へ。

 現世に現れたならば関東一円全てを呑み込むだろう。

 

「クソッ!」

 

 その余りの巨大さに唖然とする祐一。『まつろわぬ神』のデタラメさに冷や汗をかいて、自軍が次々と津波に呑まれる姿に悪態をつく。

 津波は勢いを減らさず祐一へと……それでも諦めない。

 この大津波に対抗するにはあの化身しかない。あの『まつろわぬ神』に出会った瞬間から、一つの化身がずっと語り掛けて居たのだ。

 あの大罪人に鉄槌を下そう! と。

 化身の名は『白馬』。ウルスラグナが誇る十の化身、その中でも最高峰の火力を持つ化身であった。

 

「──我がもとに来たれ、勝利のために! 不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬を遣わし給え。駿足にして霊妙なる馬よ、汝の主たる光輪を疾く運べ!」

 

 太陽の白き劫火が煌めき『まつろわぬ神』が呼び出した大津波を一瞬で蒸発させ消し飛ばす。肌を焼くような熱気が伝わって来るが気にする余裕は無かった。

 太陽の箭は大津波を消し飛ばして『まつろわぬ神』へ。

 

「おお! 外道覆滅の日輪を呼び出しましたか! その箭を受ければ、如何に『最源流の鋼』たる私でも抗し得ないでしょう──ですが……!」

 

 マズイッ……何かが、来る! 

 その時、最大の悪寒が走った。いま放った『白馬』を使った攻撃が、取り返しの付かない間違いであった様に思えてならない! 

 

「如何なる火も光も、私を討つ事能わずと知りなさい! そして無用心にもそれを放った己を恨みなさい。──その因果、貴方に返して上げましょう!」

 

 祐一を嘲弄する言葉を吐きながら、『まつろわぬ神』が右手に持つ黒刀を振るう。それと同時に、流麗な滑らかさで歌を……聖句を誦する。

 

「王の所佩せる剣、叢雲。自ら抽けて、王の傍の草を薙ぎ攘ふ。是に因りて兔るることを得たまふ。故、其の剣を号けて草薙といふ」

 

 『まつろわぬ神』の眼前にまで迫っていた『白馬』の光が、見えない何かに阻まれ動きを止めた。どう足掻いても『まつろわぬ神』の守りを突破する事は出来なかった。

 相性が絶望的に悪い。焦りに表情を歪める。

 その間にも『まつろわぬ神』が、黒刀を収め虚空から手のひらサイズの石を取り出し、打ち合わせた。『まつろわぬ神』はその動作に合わせ再び呪言を口遊む。

 

「火打もちて火を打ち出で、向火を著けて焼き退けて、還り出でまして、その国の造どもを皆切り滅し、すなわち火著けて、焼きたまひき」

 

 打ち合わせた石から火花が飛び散り、停滞していた太陽の箭へ入り込んだ。

 火花と言う一滴の水によって、湖である太陽の箭に巨大な波紋が生まれた。停滞していた太陽の箭が揺らめき鏃を翻し、祐一へと向かった。

 己が権能を掻っ攫われた!? 祐一は驚愕するよりも先に逃げの一手を打った。 

 

 化身は『鳳』。シーラーズ郊外で『戦士』と共に襲撃して来た化身である。目にも止まらぬ速さを手に入れた。神速で現れた『鳳』だ、権能となってもそれは変わらない。

 全ての物が停滞し、自分は加速していく。心眼の時とはまた違う感覚。

 しかも駆け出した瞬間にすぐさまトップスピードへ……"神速"の領域へ突入する。

チンギス・ハーンの騎乗の権能では、ある程度の時間が必要だった神速の領域に『鳳』は一瞬で至って見せた。

 

 そしてこの身体に羽根が生えた様な解放感が祐一を包み、元々身軽な祐一でさえ驚くほどの超跳躍を可能としていた。一瞬にして『白馬』の射程範囲より逃れた。

 何とかなった……。

 安堵しそうになったのも束の間、心臓にズキリッと痛みが走った。

 痛みに脂汗が滲み、膝を付きそうな身体を叱咤する。おそらく『鳳』の代償か、一瞬で神速へ至る行為は神殺しの肉体であっても厳しい物なのかも知れない。

 

 祐一はそんな事を考えながら『まつろわぬ神』を見据える。『まつろわぬ神』はその眼差しに、微笑みを返すのみ。『まつろわぬ神』が剣を中段に構え、祐一もそれに応える様に飛び掛かる獣の如く身を低くする。

 祐一の表情は険しかった。

 いつもの不敵な笑みはない。対峙する『まつろわぬ神』が気に入らない事もあるが、神速下で行う……しかも不慣れな隻眼での近接戦闘に不安が拭い切れないのだ。

 今まで軍勢や大技を用いて戦っていたが、遂にこの時が来てしまった。負ける気も諦める気も更々ないが、己の直感も内なる化身達が激しく警鐘を鳴らして仕方がない。

 

 その時、静かな両者の対峙を打ち破る声が響いた。

 

「あの和歌に、あの装束。そして極め付けに蕨手刀と火打ち石……もう間違いない! ──祐一くん! 判ったぞ、その神様の名前が!」

 

 超常の戦いを歯噛みしながら見ていた寿が叫んだ。寿は『まつろわぬ神』が誦した唄を聞いた事があったから検討がついた。

 いや日本人ならばどこかで聞いたことがあるかもしれない。

 あの『まつろわぬ神』は祐一と寿と()()()()()なのだ。それも織田信長や坂本龍馬にも匹敵する、呆れるほどビックネームの! 

 

「──()()()()()()だ! 僕らの故郷で知らぬ者は居ないほどの大英雄! 数多の夷狄を調伏した倭の勇者で、並ぶもの無しの英雄神だ!」

 

 ヤマトタケル……? その名を聞いて頭痛が起きた。それと同時に膨大な知識が溢れ出す。余りの痛みに持っていた槍を地面に突き刺す。

 

 倭健命──。

 出雲、尾張、豊後など地方の豪族や大和朝廷の皇子らが混在し一つの英雄像となった姿。スサノオの神話との類似も多くスサノオを投射した姿ともされる。朝敵を征服する折に蛇殺しの剣にして王権の象徴たる鉄剣を受け取る。この鉄剣は倭健命の一側面であり、彼を『鋼』の征服神としアマテラスに奉納され王権の象徴でもある事から朝廷の威光と言う側面も持っていた。

 また、倭健命は印欧語族に普遍的に見られる伝承、ギリシャの豪傑ヘラクレスやインドの武神インドラなどの戦士と同じく、輝かしい栄光を三つの重大な罪にて汚す「戦士の三つの罪」型と呼び獲る神格に当て嵌める事ができる英雄である……。

 

「……我は言霊の技を以て、世に義を顕す。これらの呪文は強力にして雄弁なり。強力にして勝利をもたらし、強力にして癒しをもたらす」

 

 ──燦めく。

 光の無い薄暗い空間を切り裂いて星光がまたたく。空だけではない。祐一の周囲を中心として地上にも中空にも、数えるのも億劫になるほどの膨大な光球の数々が生まれた。天に煌めきを宿す星々の如く満々と、蒼穹に日輪を宿す恒星の如く力強い光球が現れ出でる。

 

 これは武器なのだ。

 祐一が掌握した化身……『戦士』が持つ言霊の剣。仇敵たる神々の来歴を暴き否定し、その玉座から引き摺り下ろし、言霊で鍛えた智慧の剣で切り裂く事こそ『戦士』の化身、その本領なのだ。

 そしてこの上なく頼もしい存在の気配が祐一を包み込み、剣を教える師が手解きする様に気配が乗り移って意識が重なり合う。力強い気配にこれほど頼もしい存在は居ないと頬を緩め、獰猛に笑う。

 

「は! 我が名を見破りましたか! 良き智者を連れている様ですね。ふふ、それと同時に新しい武器まで……! どこまでも楽しませてくれる!」

「そうだ、俺は武器を手に入れた! そして、武器と言えばやはり"鉄"! 『鋼』の神格であるアンタとも関わりの深い物だ!」

「む……これは……?」

 

 一目見てこの光球の危険性を察知したヤマトタケルが、眉を顰め飛び退り、迫る光球を寸での所で回避する。

 言霊を紡ぎながら千の刃となった光球を操り、ヤマトタケルを切り裂かんとする祐一。取り囲むようにして光球を殺到させ押し潰す。

しかしヤマトタケルもさるもの。高速で縦横無尽に迫る剣の言霊を掠りもせず、捌き切って見せた。

 やはり日本最大の英雄神だ。一筋縄では行かない。

 頭痛に苛まれ視界に涙に滲むが、気にする余裕はない。祐一は更に刃を鋭くする為、言霊を紡ぎ敵を切り裂くイメージを変えていく。

 

「そもそも神話とは古代、文字を持たなかった人々が次世代に知識を伝える方法の一つだった。世界の仕組みから、人や動物が誕生した経緯、技術に至るまで幅広く扱われた。そして、子供や後継者にそれらの知識や技術を伝える時にも物語として伝えられた。農耕、機織り……そして金属の技術も例外では無かった」

 

 金属の伝承……特に鉄を鍛える伝承は世界各地に存在している。

 ヤマタノオロチの草薙の剣、オセットのバトラズ、金屋子神の伝承……象徴的な物を扱った暗喩的な者から、具体的な技術方法まで鉄を扱う神話は世界各地に見る事ができる。

 鉄剣や鉄を使った道具。古代の世界でこれらがあるのとないのとでは雲泥の差があった。古代では鉄剣と言う強力な武器を得なければ容易く滅ぼされだろうし、農耕具で鉄を使っているのと使っていないのとでは効率が段違いだった。丁度、鉄砲が日本に伝来した時に半世紀で全国へ広まっていったのが好例だろうか。

 優れた技術を得る事は自勢力の発展と存亡に直結し、その技術の習得は急務であり瞬く間に伝播して行ったのだ。

 そして習得した技術の継承は、昔も今も変わらず重要な事であったのだ。

 

「鉱石を溶かす猛火、火を煽り強める風、赤熱した鉱石を冷やす水は、古代では鉄を鍛える上で欠かせない物だった!」

「なるほど、この幽世に漂う記録から我が来歴盗み見ましたね! それを糧とした剣の言霊……『智慧の剣』ですか! 厄介な武器を持っている!」

 

 ヤマトタケルを押し潰せなかった光球をバラけさせ、再び刃を向ける。今度は球体ではない矢のように細く鋭利な鏃となって、ヤマトタケルへ向ける。

 それを寸毫の逡巡も見せず射出する。それも絶え間なく連続で。

丁度、機関銃でも打っているかの様な様相を呈している。休む事なく光球と言う銃弾を一直線に怒涛の勢いで打ち出していく。

 

 だが、『鋼』の英雄神は向かって来る光球を捌き、そうでない物は手中に収めた黒刀で切り裂いて行く。

 甲高い金属が擦り合わせた音が周囲を叩く。ヤマトタケルの手はもはや常人では見きれないほどの速度だ。祐一が瞬きの間に百の光球を打ち込み、ヤマトタケルが顔に微笑を張り付かせ躍動し防ぎ切る。

 攻め切れない。祐一はヤマトタケルと対象的に苦々しい顔を作る。それと同時に頭痛の酷さに膝をつく。荒い息が肺腑より吐き出される。

 

「どうしました? 貴方の攻め手に勢いが欠け始めましたよ!?」

「うるせぇ! 潔く切り裂かれろよ!」

「はは! それは御免蒙りたい所ですね!」

 

 ただの一つとして当たらない。まるで霞か柳を相手に相手にしているように力押しが通じない。祐一の不調や初めて使う化身と言うのもあるが、何よりヤマトタケルが圧倒的に巧みなのだ。

 そして、かの英雄神は弾幕を物ともせず一歩一歩近づいて来る。

 これじゃダメだ。祐一は悟った。

 そして何を思ったか、彼は残る隻眼の瞼を閉じ視界を塞いだ。そのまま言葉を紡ぐ。ヤマトタケルが祐一に接近しながらも、その不可解な行動に柳眉をはね上げ警戒も露わに祐一を注視する。

 

「ヤマトタケル! アンタも火や水には関わりが深い英雄だ! 嘗て叔母である倭姫命から天叢雲剣と火打ち石を受け取ったアンタは迫りくる業火を防ぎ、逆にその火を持って敵を倒した! 怒り狂う海神の怒りを鎮める為、妻である弟橘姫を人身御供に水を克服した! そして己と言う「剣」を持って朝廷に楯突く数多の夷狄をまつろわしたんだ!」

「神殺し! 何を企んでいるかは知りませんが、両の目を塞いだ状態で相手が出来るほど、私は甘くはありませんよ!」

 

 ヤマトタケルに祐一は焦る事なく傍に立てていた槍を手に取る。それと同時に槍へ光球が殺到し覆い尽くす。手に持った槍を基盤として光り輝く槍へと。

 ヤマトタケルと言う『鋼』の英雄神を貫く必滅の槍を創造したのだ。

 

 そして祐一自身も己が内に宿る『戦士』に耳を傾ける。

 視界は塞がれていると言うのに祐一にはヤマトタケルの気配や動きがハッキリ分かった。

 『戦士』の化身の発動条件である、神への知識と神を深く理解したことにより分かるのだ。どう動くのか、どう立ち回るのか。

 何という威か……! 眩い輝きと己の根幹たる物を尽く滅する刃の気配に、知れず倭の勇者は冷や汗を流す。しかし己のお眼鏡に適う戦士の登場にいびつに唇を裂き獰猛に笑う。

 

「行くぞヤマトタケル!」

「ここで勝負に出ますか! よろしい、私も比類なき武勇を貴方に示しましょう!!!」

 

 祐一の瞼がカッと開かれ強烈な意志を宿した瞳がヤマトタケルを射貫く、ヤマトタケルもまた激戦の中でも涼し気な瞳で祐一を見返す。

 祐一が仇敵を討つ言霊を完成させる為、言の葉を編む。

 

「支援者や妻である者達から助けを受け、苦境や試練を乗り越え、鉄を鍛える火や水を克服し数多の敵を征服する。それがアンタを『鋼』足らしめる要素なんだ!」

「──来なさい"神殺し"ッ!」

 

 紫電すら迸らせ数多の神敵をまつろわした黄金に輝く智慧の槍と、烈風を纏い数多の朝敵をまつろわした漆黒の神刀を振りかぶり……

 

 

『───そこまでです、フェルグス。それに"神殺し"』

 

 突然、声が響いた。

 それも脳内に響く声だ。耳にスッと入り聞き惚れてしまうほど玲瓏で、しかし一本の強い意志を感じさせる凛とした声。

 その声に霧が晴れた様に視界が広がる。今さっきまで祐一を苛んでいた酷い頭痛が綺麗サッパリなくなった。

 

 毒気を抜かれたように思わず手を止めてしまった。それは相対する神も同様で、黒刀を下ろしていた。ただ眉を顰め少し不満そうだった。

 

「……ふむ。我らの戦いに水を差すとは興のない事をしますね……。それに、その名で呼ぶのは辞めて欲しいと何度申し上げればよろしいですかな、ニニアン殿?」

『黙りなさい。そもそもフェルグス、貴方が来訪する"神殺し"を見極める、と申したのです。それを信じ静観していれば、あれよあれよと死合にまで持ち込むなど……些か思慮が浅すぎる、と言わざるを得ませんね。

 誉れ高きフェルグスとあろうものが己の言葉を違えるとは、我が王国で英雄と名高い貴方の名声に傷が入る事と知りなさい』

 

 丁寧ではあるが言葉の節々に棘がある物言い。慇懃無礼とも言い表せる言葉使いと物怖じせず痛烈に批判する言葉に、傍から聞いていた祐一も顔を引き攣らせた。

 その冷たい言葉にヤマトタケルは困っているのかそれとも何とも思っていないのか、判断が付かない器用な表情を顔に貼り付け、顎をなで上げていた。そして小さく笑いを零すと観念したかの様な雰囲気を漂わせた。

 

「はは、これは手厳しいですな。それに貴方の言い分もごもっとも。仕方ありません、──若き"神殺し"。すみませんが、そういう訳です。ここは一先ず矛を収めてもらえませんか? ……この通りです」

 

 そう言うと、なんと鋼の英雄神は頭を深々と下げたのだ! 

 これには祐一は目を剥いた。どうにもこの神は丁寧な物腰でどこか人間臭いと思っていたが、頭まで下げるとは思っても見なかったのだ。

 出会って来た神々は例外なく自尊心が天元突破している者達ばかりで、己の非を認める様な奴らじゃないと思っていただけに、その驚愕は一入であった。

 

 奇襲を仕掛けて来た敵からの突然の申し出。

 正直な所、この申し出は祐一にとって願ってもないものであった。

 疲弊し右目の事もある。考えなしに継戦すれば破滅は必定だろう、と感じ取っていた。

 そしてこの眼の前の神は、間違いなく強大で強力だ。直観だがヤマトタケルは余力を残している。万全の状態で死力を尽くし、やっと一割から二割の勝率が生まれるか、あるいは、もっと悪いかもしれない。

 間違っても疲弊し隻眼の状態で戦っていい甘い相手ではない。

 

「……テメェから仕掛けて来てそれかよ。ちぇっ、まあいいや。アンタは頭下げた。俺も理解出来ない状況でイライラしてた。……それで、良いよ」

「ふふ。貴方が理知的な人物で僥倖でした」

「──ただし! アンタが俺の命を狙った事はそれだけじゃ許せねぇ。仲間を危険に晒されたんだ。やっぱ許せねぇよ……! だから……──アンタが持ってるこの世界の情報、それと俺達がこの世界を出る手伝いをしろ。それが手打ちの条件だ」

 

 祐一が、己の心境を一切悟らせない声音で声を張り上げた。これにはヤマトタケルも少し呆れた様子で、

 

「はは、この状況でその条件を提示しますか。非がある私が言う事ではありませんが、それは些か欲張り過ぎと言う物ではありませんか?」

「思わないね。俺達には後がないんだ。ここでアンタからその条件を引き出せなきゃ、どっちかが倒れるまで殺し合っても良い。この状況が打破出来ないなら、それくらいやってやる! 

 ……それにアンタは初め、俺を見極めるとか言ってたな。それは俺が居なくなれば困るって事じゃないのか?」

「……ふむ、これは少し喋り過ぎましたか。確かに貴方が居なくなれば困ると言うのは真実。必ずと言う程ではありませんが、しかしこの機を逃す手はない……ふむ……」

 

『──フェルグス。私は此度の、貴方の行動を認めましたが、責を取るつもりも、問うつもりも、ありません。故に貴方が判断なさい。私はそれに従う事としましょう』

 

 再びあの声が響いた。脳内に響く不思議な声は、神であるヤマトタケルであっても対等な言葉遣いで、それでいてヤマトタケル自身も己より上に置いている節がある。

 祐一は、「ニニアン」と言う人物が神に連なる者であろう……と推測し始めていた。そしてヤマトタケルと同格かも知れない、とも。

 

「おや、よろしいので?」

『構いません。そもそも彼の来訪は以前より"判っていた"事でした。そして、それがどのような結果になるにせよ"大きな波紋となる"と言う事も』

「なるほど。判りました……では私としては、彼の提案を受け、契約履行のため貴方の王国へ招待させて頂きたい。如何か?」

『よろしい。食客とは言え、救国の英雄たる貴方が客人と認めたのならば王国を統べる者の義務として、どのような素性の者であれ歓待せねばなりません。客人を王国まで道案内なさい、フェルグス』

「判りました。感謝します、ニニアン殿」

 

 会話を打ち切った彼はくるりと祐一へ向かい合い、笑顔を向けた。

 

「"神殺し"殿、そういう訳です。私の愚挙を貴方の望みを叶える事で水に流させて頂きます。そして、貴方の望みを叶える為にも貴方を王国に招待させて頂きたいのです。勿論、そこな仲間の方々も同じく歓待させて貰いますよ」

「ぼ、僕たちもかい?」

「ええ、ご迷惑おかけしたのは私です。喜んで歓待させて頂きますよ」

 

 寿が戸惑う様に問い掛け、『まつろわぬヤマトタケル』が気分を害した様子もなく返していた。ラグナは警戒を一切解かず、いつでも戦える臨戦態勢でヤマトタケルを睨み付けていたが。

 祐一は訝しんだ。神と言う存在は人と言う存在を、蟻や路傍の石程度にしか思っていない節がある。シーラーズに滞在した折の、復活に王手を掛けたウルスラグナを診れば顕著だろう。

 

 どうして不安が拭い切れない。祐一は今になって、己で案を提示しておきながら浅慮だったかも知れない、と思い始めた。

 だが罠かも知れない場所であっても飛び込まなければならなかった。この一寸先は闇とも言える暗澹たる状況で、彼らに選択肢と言う贅沢な物はなかったのだ。

 虎穴に入らずんば虎児を得ず、か。

 祐一は、口数が少く頼りになる幼馴染が、好んで使っていた言葉を思い出す。頑固で絶対に意志を曲げない、懐かしい友を思い出し勇気を貰う。

 ただ一つだけ、確かめねばならない事があった。それは……

 

「──一つだけ聞いておくぞ。アンタ達は俺達がここに来るのを知っていた様だが、どうやって知ったんだ? まさか、アンタらがココに連れ込んだんじゃねぇだろうな?」

 

 祐一の詰問に対し、涼やかな『鋼』の英雄神は気障ったらしくフッと笑い、ゆっくりと首を振る。

 

「確かに貴方達の来訪は予見していました。しかし、それは予言の力を行使したニニアン殿によって齎された物。貴方達が何の因果でこの地に現れたのかは、私であっても預かり知らぬ所なのです」

 

 一点の曇りもない瞳で、淀みなく答えるヤマトタケル。その言葉に頷くでもなく、祐一は強い意志の籠もった目でヤマトタケルを強く見据えた。ヤマトタケルもまた微笑を浮かべながらも、しっかりと見つめ返した。

 どれほど時間が経っただろうか。遂に祐一が口火を切った。

 

「……分かった。アンタを信じる事にする」

「ありがとう御座います"神殺し"。ここに契約は成りました。全力を持って契約の履行に務めるとしましょう。……おや、そう言えば我が名は看破されたとは言え、名乗って居ませんでしたね。私はヤマトタケル。小碓……男具那……私には多くの名がありますが、ヤマトタケルと呼ん貰えると嬉しいですね」

「おう、ヤマトタケルだな。ま、アンタかなり有名だしな。あんま神話とか知らない俺でも知ってるぜ!」

「ほう、我が故地を離れ幾星霜の月日が流れましたが、まだ私の名が知られているとは驚きです」

 

 そこで寿が苦笑しながら訂正した。

 

「知られていると言うか、鳴り響いているって例えた方が妥当だと思いますよ、ヤマトタケル殿」

「おや、それほどまでに我が名が広まっていますか。ふふ。喜ばしい事、と言っていいのでしょうね」

 

 ヤマトタケルは東の方角を見遣り、目を細めていた。

 郷愁を覚えているのだろうか。そう言えばコイツは同郷の者と会うのは久しぶり、とも言っていた。

 そんな事を思い、祐一は彼の姿が何だかイランにいた頃の自分と……酷く重なって見えてしまった。

 コイツは仲間諸共殺そうとした怨敵に違いは無い。しかし時代も種族も違うとは言え同郷の、それも自分と同じく郷愁の念を抱く者だと祐一は確信してしまった。

 だからだろう。気が付けば祐一は自然と話し掛けていた。

 

「なあ、アンタ。戦って思ったけど、半端なく強えぇな! まさか、俺の『白馬』が打ち返されるとは思わなかったぜ! おっと、名乗り忘れる所だった。俺は木下祐一だ、よろしく」

「おや、これは気を遣わせてしまいましたかな?」

「ん? なんの事だ?」

「ふふ。……そうですね、あの戦いは久々に心躍る物でした。ニニアン殿が割って入らねば……と思わずには居られないほどに。木下祐一殿、またいつか再戦願えますかな?」

「おう、またやろうぜ! でも、勝ちは俺が貰うけどな! あ、あと祐一で良いぜ、ヤマトの兄ちゃん!」

「ヤマトの兄ちゃん……? ……ハッハッハ! なかなか面白い呼び方をしますね祐一殿。ですがフェルグスと言う名よりもそちらの方が好ましい。……それに私も、貴方との再戦で勝ちを譲る気はありませんよ」

 

 不敵に笑う祐一と、薄く微笑するヤマトタケル。和解し、そこに蟠るは取り払われたとはいえ、やはり彼らは戦士なのだ。己が武を競い合うとするのは本能と言えた。河川敷で夕日を背に拳で語り合う奴ら。強敵と書いて友と読む類の人種であった。

 

「……あの、それでその王国へはどう行けば良いのかな……? もう、かなりの時間ここに留まっているし、そろそろ移動しないかい?」

 

 言葉もなく語り合っていた祐一とヤマトタケルに、寿がおずおずと声を掛けて来た。これには己の雄敵に気を取られ、失念していたヤマトタケルは微苦笑した。

 

「おや、これは失敬。ふふ、どうも私は戦と言う物に目がない性質でして。それに久方ぶりの戦いに些か昂って居ました」

 

 悪びれず嘯く姿に祐一はパルヴェーズを思い起こしてしまった。整った容姿と勝負事を好む気性がどうも似ている気がしたのだ。

『鋼』って奴らは、そんな奴ばっかな気がして来た……。三柱の『鋼』と矛を交え『鋼』の神格の傾向と言うか気性と言うか、そんな物が見えて来た気がした。

 ヤマトタケルは微苦笑を収めると、後ろの方向を指差した。

 

「それに、王国へは移動せずとも良いのです。もう、眼の前にあるのですから」

「え?」

 

 

 ──―ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……!!! 

 

 

 大地が鳴動し渓谷が迫り上がって行く。いや、渓谷だと思っていた物の正体は壁だった。

 天を貫かんばかりの壁が円形を描き「郭」の形を成していた。いや、事実これは郭……城壁なのだ。石塊を気の遠くなるほど積み上げ、エジプトのピラミッドや日本の石垣すら凌駕する人造の建造物。

 その人知を超えた偉容を目の当たりにした祐一たち一行は言葉を失い、ニヤリとヤマトタケルが笑った。

 

「──貴方の来訪を歓迎しますよ"神殺し"木下祐一殿」



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リラの瞳の女王

 ───ンモオオォォォォォォォォ!!! 

 ───らめええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!! 

 ───美味ししゅぎるのおおぉぉ!!! 

 

 今彼らはやっとの思いで辿り着いた、文明の薫り漂う王国にて饗された美食に舌鼓を打っていた。

 仕立ての良い毛皮の上で車座に座り込み、飲み食いを繰り返す祐一達。

 メインは豚肉を大鍋で煮たもので香ばしい香りが漂い、疲れ切った祐一の空腹をこの上なく刺激した。

 その他にも麦のポリッジ、川魚のバター焼き、とろけたチーズの乗る白いパン、豆を使ったポタージュ、彩りのあるサラダ、リンゴ酒……等などまるで祭りで催される宴会にしかお目にかかれない豪勢な料理が並んでいる。

 それを無遠慮に貪り食う祐一達の、何と下品で風情を介さない事か。

 しかし一日も経っていないとは言え、いつ何時死ぬか判らない……それも出口の見えない袋小路に閉じ込められていたのだ。彼らが鯨飲馬食してしまうのも無理からぬ事なのかも知れなかった。

 

 ここは女王ニニアンが統べる王国。

 アストラル界とも呼ばれる異界に迷い込み、やっとの思いで辿り着いた場所だった。

 

 ○◎●

 

 祐一達はヤマトタケルに案内され、地下より這い出てきた城壁をくぐり抜け、人々の喧騒が響く町へ入った。中は驚くい事に多くの"人々"でごった返していた。

 

「うおお……!」

「これは、驚いたねぇ……」

 

 まさかこんな魔境に人々が生活して居るとは思っていなかった祐一たちは感嘆の声を漏らした。

 

 目に入る誰も彼も現代では奇抜なスタイルだ。

 色とりどりのチュニックの様な上着に、その上に外套を着込み身なりの良い者もいる。下はゆったりとしたズボンを履き、くるぶし辺りで動きやすい様に紐で結っている。住民の殆どが金髪か赤毛などの明るい髪でみつあみにしたり装飾品を付けたりと思い思いの個性が現れている。

 誰もが引き締まった躰と荒々しい気配を隠そうとしない者ばかりで、蛮族と言っても過言ではないほど逞しく抜き身の刃の様な荒々しい雰囲気だ。

 それが商人や子供と言っても良い少年にまで及んでいるのだから、とんでも無い。

 誰もが右側の腰部にはベルトに吊り下げられた剣がありその気になれば今からでも戦が出来るほど。

 

 城壁をくぐる程、身なりの良い者達は増えて建物も大きく精緻になっていった。最初は日本にもある様な茅葺屋根の竪穴式住居に似た物が、漆喰が施され堂々とした威風の物に変遷して行った。

 まるで古代ヨーロッパの街並みじゃないか……! 寿は数年前に見た西洋の資料を思い起こし、ラグナを抱えながら好奇心に目を輝かせ歩く祐一。目に見える物全てが新鮮で仕方がなく立ち止まってはヤマトタケルや寿に、「これなに?」と尋ねては足を止めていた。

 

 

「おや、フェルグス様。王国で並ぶ者なしの英雄殿がこのようなあばら家へようこそ。此度はどのようなご用向で?」

 

 いくつかの城壁をくぐり抜けとある屋敷に辿り着いた。

 屋敷の主であろう人物は祐一達の来訪に気付き、こちらが声を掛けるより早く扉を開け、歩を進めていたヤマトタケルに声を掛けた。

 

 驚いた事に彼が話す言語は日本語であった。

 長い金髪を三編みに纏め背中に流した爽やかな青年だ。二十代後半の若々しくも渋みとが入り混じり、まさに脂の乗り始めた頃と言う風情だ。背丈は祐一より少し高いくらいか。

 だが寿の様に縦にも横にも長い身体では無く、ガッチリとした鍛え上げられた肉体だ。

 手は何か剣や槍の厳しい修練を続けているのか、遠目でも分かるほど変化し大きなタコが見え、手の皮が何度も破けては治りを繰り返し分厚い作りになっているのが良く見えた。

 

「エイル、貴方までフェルグスと呼ばないでください」

「これは失礼しました。どうしても嘗ての貴方の勇姿が目に焼き付いてしまって……ご不快であれば改めましょう」

「はぁ。お好きになさい……。呼び方一つで目くじらを立てるほど私は狭量ではないので」

 

 そうため息を吐き、ヤマトタケルは祐一達を見遣って再び口を開いた。

 

「こちらは先日行われた"予言の儀"の際にニニアン殿が訪れるであろう、と仰っていた旅の皆さんです」

「おっす、オラ祐一! よろしくな!」

「あ、どうもお初にお目にかかります、寿です」

 ──ルオ。

 

 元気のいい来客に金髪の青年は笑みを浮かべた。

 

「おお、彼らがそうなのですね。ニニアン様より一時の間、歓待をせよとお話は伺っております。粗食ではありますが我が妻が腕に縒りを掛け夕餉を作り終えた所です。どうぞ召し上がって下さい。ふふ、妻の料理が無駄にならずに済みました。フェルグス様も御一緒にどうでしょう?」

「ああ、すみませんエイル。申し訳ないのですが、私はこれより彼らについてニニアン殿よりお言葉を頂いて来ますので、心苦しいのですが辞退させて頂きます」

「おや、そうなのですか? 残念……ですね。ふむ……ですが、お言葉を頂いた後であれば構わないのでしょう? フェルグス様の為ならば喜んで饗させて頂きますよ」

「ありがとうございます、エイル。その時を楽しみにしていますよ。では、みなさん一時の間離れますが、私の事は気にせず楽しんで下さいね」

 

 そう言うと、ヤマトタケルの身体に紫電が迸り気付いた時にはもう影も形もなかった。閃電神速の領域へ至ったのだ。

 それを見て祐一は少し感心してしまった。彼がこんな戦いではない日常の一コマで権能を使うとは思ってもみなかったのだ。

 

 そもそも権能とは死力を尽くして戦い、友誼を交え託された物だと言う思いが強かった。故に権能は戦いに助力してくれる同盟者や窮地を脱する共に合力する戦友と言う見方が強かったのだ。

 ヤマトタケルがやった様に戦いでも無ければ窮地に陥った訳でも無い状況で権能を振るう、と言う意識がなかった。

 だからだろう、そんな事をしたヤマトタケルに呆れや拒絶より先に、「そんな手もあったのか!」と感心が勝ってしまった。

 よし、今度は俺も使ってみるか! 

 そう決意する祐一だったが、権能が戦いやある程度の緊張下でなければ行使出来ない事をまだ知らない。

 

「祐一くん、何やってるんだい? もうみんな中に入っちゃってるよ?」

「え! ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

 

 寿に声を掛けられ思考に没頭していた祐一は、慌てて家の中に入っていった。

 

 ○◎●

 

 

 薄暗い空間に、かつん。かつん。と石畳の道を一つの足音が響く。

 この空間を照らす光は、蝋に焚かれたゆらゆら揺れる篝火以外に何一つない。だが、燃える篝火はいくつも並び等間隔で足音を奏でる者の影を十重二十重に映し出していた。影の人物は、線の細いそれでいて背丈の高い青年……ヤマトタケルであった。

 ここは王国の中心部のそのまた中心。王国の中心地にして、王国の女主人ニニアンが住まう王城であった。

 そしてヤマトタケルが向かっている場所こそ───謁見の間。王国の主たる者に拝謁が叶う唯一の場所であった。 

 篝火に照らされた薄暗い空間には、あらゆる土地から献上された金銀宝石刀剣武具、思わず目移りしてしまう翼ある馬、人頭、網代模様など施された素晴らしい調度品の数々。妖しげな空間に似合わない贅を凝らした金銀財宝が所狭しと並んでいた。

 

 奥には黄金に輝く玉座があり、その傍には老執事然とした白い服を着た老人が侍っている。老人は口を固く引き結び、寡黙さと謹厳さとをこれでもか、と言葉もなく示していた。

 

 そして最奥には黄金に輝く玉座に座る者がいた。

 おそらくあれがニニアン。その女性は王国を統べる者に相応しい威厳と風格を持っていた。だが常人が拝謁する誉れが叶えば、ニニアンと言う女性の妖しい気配に呑まれ目を逸しただろう。

 確かにこの女性は一目見れば凛とした非の打ち所がない見てくれに見惚れる事請け負いだ。

 紗々の如く流れる栗色の豪奢な髪は肩まで届き、男を狂わす艶かしい薫りを漂わせ、そのかんばせも紫紺の双眸と相まって怜悧な美貌を際立たせていた。

 その肢体は豹の様にしなやかで引き締まり隙が無い。だと言うのにゆったりとした豪奢な衣の上からでも見透せる形の良い美乳と程良くしっとりと肉の乗った腰のくびれ。玉座に座りながらも分かる……いや、より一層強調された、成熟しどの様な巨漢のソレであっても受け入れるであろう張りのある臀部。

 彼女が胸に縋り付きその肉厚の唇から甘やかな睦言を紡げば、いかなる禁欲的な男であっても情欲に呑まれ貪り食おうとするに違いない。

 だが顔以外の素肌は分厚い衣を身に纏い、見透かす事は出来ない。首には黄金の首環が、手には一切の肌を晒さない白い手袋とが肌を隠し彼女の聖性と禁欲さを表していた。

 

 玉座の前まで歩み寄ったヤマトタケルが片膝をつき、恭しく挨拶の言葉を述べる。

 

「先刻ぶりでは御座いますが、この度は再び拝謁の栄に浴し──」

「フェルグス、私を誂うのは辞めなさい。貴方と私の間にその様な礼は不要、と以前より申しているはずです」

 

 ピシャリとヤマトタケルの言葉を遮った王国の主。未だに頭を下げ自分の言葉にどこ吹く風で恭しい態度を続ける戦士を胡乱な視線で見遣った。

 

「それよりも異邦より現れた者達の事です。貴方が己の言葉を違えてまで干戈を交え、よくよく見極めたのですから、かの若き"神殺し"の気性は見抜いたも同然なのでしょう?」

 

 彼女の言葉にヤマトタケルは慇懃な態度を引っ込め、顔を上げは爽やかに微笑んだ。

 

「はは。貴方はいつも私の稚気を切り捨てなさる。事を急ぎ遊びがない物は、中々上手く行かないと相場が決まっていすよ?」

「フェルグス、私は貴方の打ち立てた偉業を讃え感謝もしますが、戯言に付き合う気は毛頭ありません。私が望むのは、我が愛しき戦士の復活のみ。それを最も近い道で脇目も振らず事を為す事こそ、綿々と受け継いできた我らが使命。それ以外に受け入れる物など一切有りはしません」

「つれない事を申しますな、『神祖』ニニアン殿」

 

 ───『神祖』

 今しがたヤマトタケルが言い放った言葉は、ニニアンと名乗る女性の正体を端的に表していた。

『神祖』とは嘗ては権勢を誇った地母神の成れの果てであり、神の座から追われた女神の落魄した姿であった。

 元々死と再生を司る地母神は不滅の存在であり、神としての死を迎えたとしても神祖と言う器を得て復活を遂げる例があるのだ。

 強大な地母神を貶め神祖に身を窶す方法は限られているが、無い訳ではない。「最強の鋼」の呼び声高い、かの英雄神に力を吸い取られる、不朽不滅の神具……その創造と引き換えに不死の命を捧げる等のケースがある。

 神祖は不死ではないが不滅である為、なに某かの理由で死に至ったとしても時が流れれば何れ転生し復活する定めであった。

 しかし如何に人知を超えた知恵と魔術を手繰る神祖とは言え、神よりもはるかに下位の存在である。その為、神々には……特に征服者であある『鋼』の神格には服従の意を示し恭しい態度で臨むものだが、ニニアンと言う神祖はその限りでは無い様だった。

 

 ニニアンの紫の双眸がヤマトタケルを捉え眇められた。彼はその糾弾する様な瞳に苦笑を漏らす。

 彼彼女が並んで立てば、好一対の男女であると誰もが柏手を打って褒め称えるだろう。しかし彼らの間にそんな艶めいた雰囲気は欠片もない。

 軽口で嘲弄しようとする悪戯っ子に生真面目な教師が糾そうとする風ですらあった。まあいつもの光景であるのだが。

 

「それでフェルグス。あの忌まわしい"神殺し"は、我が王国の歯車と成り、利を齎す者足り得る者なのですか?」

「ふふ、その問いの答えは彼を王国へ招き入れ、私が貴方の前に立った事で示したと思っていたのですが?」

 

 何処か悪戯っぽい表情でニニアンの質問にヤマトタケルは答えた。ニニアンはそんな事は判っている、と言う風に頷き、

 

「ええ、そうでしょうとも。ですが、私は信じられない。如何に貴方があの"神殺し"を肯定しようと、騒乱と災いを呼び込む悪鬼羅刹の如き存在が、世界に寄り添い秩序を齎す我らの側に立つとは到底思えないのです」

「そうですね。彼は若く未だ純な心根を持っている。故に、我らの真実を知れば頑なに頷く事はなく、必ずや我々を敵視するでしょう。そして貴方の言う通り、騒乱の申し子たる彼は、己が望もうと望むまいと手を下そうと下すまいと、必ず嵐を呼び込み森羅万象は灰燼と化すでしょう」

「……フェルグス、ではなぜ彼を招き入れたのです? そこまで分かっていながら、それも我らにとって一刻が金にも等しいこの時期に"神殺し"と言う不和の種を呼び込むなど、やはり軽挙にも程があったのではないですか?」

「判っていますよニニアン殿。しかしそれは"何も手を施さなければ"と言う注釈が付きます。今ならまだ間に合います。彼は"神殺し"となり日が浅く不安定だ、そして未だ未熟な若人です。何物にでも染まりましょう。故に我らの手で道を示し、道を外れかけた彼を正道へと導くのです」

 

 ヤマトタケルは激情を孕みつつも曇りもない瞳で、淀みなくニニアンの詰問に答えた。しかしニニアンも気圧されることなく、冷たい言葉を返す。

 

「そう簡単に事が成ると? 愚かな。世の理を知り尽くした永生のフェルグスとあろう者の言葉とは思えませんね。確かにあの若き"神殺し"は、己が進む道も、己が何者かすらも気付いていない未熟者。しかしそれでも、類稀な意志を持って、神を殺し因果の王に逆らうと言う偉業を為した勝者にして災厄そのもの、と言う事に変わりはありません。そう上手く事が運ぶとは思えませんね」

「ええ、ええ、判っておりますとも。私もそう簡単に事が進むとは思っておりません。私も彼一人ならば、そうそうに諦めその首を撥ねたでしょう。……そう、彼のみであれば」

「あの"神殺し"のみ、ですか?」

「ええ、木下祐一と言う少年だけであれば、こちらに降り轡を並べる事は、人が夜空の星を掴むかの如く不可能な事でしょう。それは我らの決闘を遠視していた貴方も知るところでしょうが」

「ええ、かの"神殺し"は若さ故に融通が利かないきらいがあります。意志が強いと言えば聞こえは良いですが、あれでは失う物も多いでしょう」

「ふふ。故に私はおもしろい、と感ずるのですよ。王国と言う懐に入れてでも見る価値があると思えるほど、彼の行く末を見たくもある……」

 

 そこでニニアンは、目を眇め柳眉を逆立てて、低い声でヤマトタケルへ詰問した。

 

「……フェルグス。では貴方は、私情で我が王国を滅ぼす種を招き入れた、と?」

「ええ、まあ。しかしご安心を。彼が災いを振り撒くのであれば、我が比類無き武勇を持って、尽くを跳ね返し彼の命脈を断って御覧に入れましょう。我が言、信じるに値しませぬかな?」

「……良いでしょう。貴方が王国を救った事は事実。私はその功績を信じ貴方の行いに目を瞑るとしましょう。

 ですが、此度の"神殺し"来訪の儀は我ら王国の興亡にも関わる大事。判断を見誤り事を仕損じれば、慨嘆に暮れるのは私や貴方だけではないのですよ。その事、ゆめゆめ忘れてはなりません」

 

 フッと笑い、我が意を得たりと胸を張り頷くヤマトタケル。

 

「判っていますよ、ニニアン殿。……さて、話を戻しましょうか。若く頑迷なまでに意志の強い彼を、我らが陣営に引き込むか。その策を考えるのは中々骨の折れるものでした。なにせ私は本来『最源流の鋼』。然らばこの様な奸計は苦手でして」

「余り勿体ぶらない事ですフェルグス。私は短慮は控えるべきとは思っていますが、目に余るようであれば躊躇いなく拳と権を振るうでしょう。貴方の判断が聞き入れるに足り得ない事であればすぐに切って捨てるでしょう。故に私の裁定一つで、貴方の思惑が崩れる事を忘れてはなりません」

「ふふ……では、我が策を開陳しましょう。……と言っても簡単な物ですがね。

 今、彼の傍には仲間が居る。彼が何よりも守らねばならないと考えている臣下と、そして盟友が。私はそこに光明を見たのです」

「臣下と盟友……? ああ、あの小役人の風な男と猪の神獣ですか。私の見た所では、ただの凡夫と一つの道具です。アレらは、あの神殺しがそれほど入れ込む物なのですか?」

「ええ、彼はどうやら他の人間よりも抜きん出て愛情深い様に見えます。それも一度、懐に入れれば己の命を賭して守ろうとする程には。……おそらく貴方が、かの戦士へ向ける情念にも劣らないほどの物です」

「……その物言いは不快です。我が想いは至純にして無上、この身が何度砕け散ろうと那由多の時が流れようと不変。この想いを、あの様な不逞の輩と同じと思われるのは甚だ遺憾ですね」

「しかし、事実です。彼がどの様にして、あれほどねじ曲がった考えになったかは私の知る所ではありませんが、今この時は好都合。彼を王国の戦士団の中へ置き、住まわせ、月日が流れれば情も湧くでしょう。我々はただ待っていれば良い」

 

 滔々と語る彼の言葉に、ニニアンがムッと顔を顰め、眉間に皺がよる。

 

「待ちなさいフェルグス。あの"神殺し"が王国にそれほど長い間逗留するとは思えません。ある程度の時間が経てば、すぐさま現世に帰ろうと旅立つでしょう」

「なに。引き止める言葉などいくらでもありましょう。雑事はお任せあれ、ニニアン殿」

 

 そう自信満々に胸を張り言い放つヤマトタケル。その表情にはどうしようもない稚気が燻っていた。ニニアンはそんな彼の態度にため息をつきたい衝動を必死に抑え、王国の主として裁定を下す。

 

「……良いでしょう。些事は任せ、あの者にまつわる一切の事は貴方に一任します。

 では私はこれより招聘の儀への準備に戻ります。貴方が訪ねて来ようと応対はしない物と理解しておきなさい」

 

 ヤマトタケルがニニアンの言葉に不思議そうに顎を撫でさすり、問い掛ける。

 

「おや、彼にはお会いにならないので?」

「……如何に貴方が認めたとは言え、やはり"神殺し"。どれほど若く未熟で性根が純であろうと、彼の者が災厄を齎す恐るべき存在である事は事実であり、すぐ様追い出したいのが本心。故に、軽々にあの悪鬼羅刹の前に姿を晒す事は憚られますね。再度申し渡しますが、"神殺し"の件に関しては貴方に一任します。必要とあらばすぐ様あの首を取りなさい、よろしいですね?」

「ははは。なるほど、委細承知しました。全て貴方の御心のままに致しましょう。

 ──では私もこれにて失礼させて頂きます」

 

 その言葉を最後に、ヤマトタケルの体から紫電が迸り、一瞬で掻き消えた。

 

 

「……"神殺し"、ですか」

 

 その姿を見届け、一人呟く。その声色には隠しようもない恐れがあった。

 どれほど経っただろうか。すっくと立ち上がり歩き出したニニアン。今まで無言だった寡黙な老人が再び言葉もなく付き従う。

 

 王国を作り、王国を統べる女王ニニアン。彼女の数百年の生をささげる悲願こそ、とある『鋼』の英雄の復活である。

 そのためならば幾万の贄を捧げようと、この身を捧げようと、恐ろしい仇敵である神殺しでも懐に入れる事を厭わなかった。

 ニニアンの持つライラックの瞳には、理知的な光を宿しながらも狂い切った昏い光をも孕んでいた。



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祐一vs

「ほう。では君達はあの難所をくぐり抜けて、ここまで辿り着いたのか。……ふむ、あの土地は我が王国でも指折りの戦士しか超えられない試練の地でもある……。ハハ、なるほど。無傷とはいかなかったようだが、君達は若いながらも中々の器量を持った戦士なのだな」

 

 祐一達はささやかな歓待を受けていた。

 宴の主人は屋敷の主でもあるエイルという戦士だった。

 エイルの言った言葉に、うんうんと頷き豚肉のローストをかっ喰らい苦労話を愚痴る祐一。彼の右目のエイルが気を利かせて治療してくれたようで、今ではきれいな包帯が巻かれている。

 

「マジ大変だったんだぜ、あの道を通るの! おっちゃんはぶっ倒れるし、草原をやっと抜けたら魔物が沢山居るし、挙句の果てにはヤマト兄ちゃんが襲って来るしよー……。ラグナと権能無かったらあんな所いくら俺でも無理だったぜ。な、ラグナ?」

 ──ンモオオォォ! 

「聞けよ……」

 

 自分達の会話なんて知ったこっちゃないと飯に夢中なラグナに呆れを滲ませる祐一。そんな二人を苦笑しながら顔を見合わせる寿とエイル。そこではたと気付いたように寿が、

 

「あ、僕は何もやってませんよ? 彼の後ろに引っ付いてただけでしたから」

「いや、それでもだ。尋であれば只人がこの幽世で生き残る事こそ稀。それが隣の彼のお陰だと言うのなら、それも君の運だ。そして運も実力の内と言うだろう、君も己を卑下しなくても良いと思うぞ」

「そうそう、ホントに幽世に迷い込んで順応する人間なんて居ないんだから。はい、祐一くん。これ、おかわりね」

「あ、どうも! テスラおばさん!」

 

 そう言いながら彼らの会話に入って来た人物は銀髪の流線的な髪を持つ女性だった。エイルの妻であり祐一達が舌鼓を打つ食事を饗してくれた人物でもある。名を「テスラ」と言った。

 水晶の如き輝きを宿す紫水晶の瞳。風に靡きゆったりと揺れる銀髪。象牙を彫り上げたような瑞々しげな綺麗な肌。

 眼窩に収められた柴水晶の瞳は切れ長の眦と相まって、妖しい輝きを宿す刀剣にも思えるほど。時と場所が違えば、傾城傾国の美姫と賛辞を贈られるほど整った容姿を持った女性であった。

 

 ──と言うのは、過去の栄光である。

 嘗ては深窓の令嬢ないし汚れなき天女とも称された女性も、日々の家庭の仕事を一挙に請負い、今では人が手を一杯に広げてやっと抱え切れる丸太をブンブンと振り回せるほどの剛腕を持つ女傑へと至っていた。

 彼女のバストは豊満である。そしてウェストもヒップもまた豊満なのだ。

 昔は美人だったんだろーなぁ。とラグナのおかわりを貰いながらなかなか失礼な事を考えていた。

 と、そこでテスラが笑顔になった。目は全く笑って居ない笑顔で。カンカンカンッと祐一の心に最大級の警鐘が鳴った。

 

「祐一くん、私の事はテスラお・ね・え・さ・んで良いからね」

「Yes,ma'am!」

 

 即座に直立不動で敬礼を敢行し、許しを乞う祐一。

 寿は瞠目した。彼の余りの素早さと敬礼の見事さに。ラグナは我関せずで貪り食う。

 見兼ねたエイルが、テスラを嗜めようと口を開いた。

 

「テスラ、お前はもう『おねえさん』と言う歳でも……」

「───エイル?」

「なんでもないです。すみませんでした」

 

 即座に土下座を敢行し、許しを乞うエイル。

 寿は瞠目した。彼の余りの素早さと土下座の見事さに。ラグナは我関せずで貪り食う。

 この空間で誰が最強のなのか、一瞬で分かる光景であった。

 二人で許しを乞いテスラの裁定を待っている、その時だった。バンッとドアが勢い良く開かれ、二人の影が部屋へ入って来たのは。

 

「今帰ったぜー! 叔父貴、姐御!」

「あー、肩凝った」

 

 よく通る声でそう言ったのは長身で細見の青年二人だ。細見ではあるが痩せていると言う印象はなく、豹のような俊敏さを持っていると確信させる活力に溢れた四肢。

 その人物の闊達さと、軽薄さを表した様な赤毛の髪。

 鼻梁の整った容貌にニヤケ笑いを隠そうとせず貼り付けている。そして極め付けに彼らの容姿は瓜二つであった。

 現れた人物は双子だったのだ。

 二人の姿を見て取ったエイルが、土下座から一瞬で立ち上がり、詰問する様に声を張り上げた。

 

「エオ、ムイン! お前達、修行は終わったのか!? 私の見立てでは夜更け近くになる筈だったぞ!」

「俺達を甘くみんなよ、叔父貴!」

「そうそう、おもしろそうな客人が我が家に来てるって小耳に挟んでね。ソッコーで終わらせて来たぜ!」

「なに? 今日お前たちに課した量はかなりの時間が掛かるはず……まさかお前達今までの修行真面目にやってなかったな! ……なんて事だ! お前達が居れば必ず失礼な事をすると見越して修行場に放り込んだと言うのに!」

 

「ムイン」と呼ばれた青年は寿の横にどっかと腰を降ろしては手をヒラヒラ振りながらカラカラと笑い、ニヤついた表情でエイルに言い募った。

 

「そう言うなって叔父貴、俺たちは叔父貴と姐御だけじゃ饗すのに苦労するだろうと思って来たんだぜ? ちゃんと客人の前では、礼儀に適った態度を取るって」

「お前は自分の行動が! 今言った言葉を裏切っている事が判らんのか! その無礼な態度を改めろ!」

「へぇーへぇー」

 

 一頻りエイルを誂ったムインは姿勢を正した。辛い修行を課せられた意趣返しも多分にあったのだろう。彼の慌てぶりに溜飲が下がったのか素直に彼は従っていた。

 もう一人の青年エオは祐一の横に座り込むと値踏みする様に下から上までじぃっと見定めた。反射的に祐一も舐められて堪るかとガンを飛ばす。

 

「ふーん、アンタが客人か。……まだガキだな」

「なんだよ、お前……?」

 

 そうして睨み合う事、暫し。

 

「…………へぇ、良い眼してんじゃん」

 

 そう言って青年エオはニヤリと笑って顔に貼り付けていた軽薄さを収めると、グッと右の拳を差し出した。

 

「俺はエオ。誇り高きアルトの子にして、剣神ヌァザの愛し子エイルの義息エオだ。おもしろい客人が来てるって知ってな、見てみたかったんだ」

「あっ兄貴、ズルいぞ! 俺にも名乗らせろよ!」

 

 落ち着きのない声が聞こえた。エオから視線を外し、そちらを見遣れば、少し憮然としたエオと瓜二つの青年が祐一を見て声を張り上げた。

 

「俺はムイン! 誇り高きアルトの子にして、剣神ヌアザの愛し子エイルの義息ムイン! よし、俺達が名乗ったんだ。お前も名乗れよ!」

 

 これが此処の流儀らしい。郷に入っては郷に従え、イランでも学んだことだ。我が意を得たりと胸を張っては祐一も声高らかに名乗る。

 

「おう、俺は木下祐一! 何でこの世界に迷い込んだのかは知らないし、ココに辿り着いたかは判らないけど、それなりに修羅場は潜ってる! ま、よろしくな!」

「なに? それじゃあお前はあの試練の地を駆け抜けて来たって事か? ……ふーん。見かけによらず、すげぇ戦士なのかもな?」

「へぇ!おっしゃ、ならお前の武勇伝聞かせろよ! ……叔父貴! 一回仕切り直してくれよ! 俺たちも新しい戦士の来訪に祝福を贈りてぇ!」

 

 そう言ってエオとムインは、勝手に青銅の盃を満たすと腕を高々掲げる。祐一も最初のピリピリとした感情を忘れて笑いながらそれに答え、寿も苦笑し倣った。

 そんな自由な振る舞いにエイルは終始眉を顰めていたが、テスラの視線を受け降参した様にため息一つ。自身も盃を高々と掲げ、

 

「わかった、わかった。よし、では新たな戦士の来訪を我らは喜んで迎え入れよう! 彼の来訪が凶兆ではなく福音である事を切に願う! さあ、酒を酌み交わそう。──乾杯!」

 

 宴が再び始まった。

 

 

 

 祐一達一行はとある場所に連れられ歩いていた。

 祐一と寿とラグナ、それとエオ。ムインとエイルが少し離れた場所でどこかへ向かっていた。

 先刻、エオとムインが現れ酒をカパカパと鯨飲していた彼らだが、その席で祐一がこの王国の勇者であるヤマトタケルと一戦交えた、と零してしまった事が発端だった。

 どうやらヤマトタケル……この王国ではフェルグスと呼ばれる『まつろわぬ神』は、彼らが住む王国に於いて最強であり、救国の英雄であり、憧れの存在らしかった。

 

 と言うのも嘗て、この王国は滅亡の窮地に陥ったらしい。

 綺羅星のごとく輝く屈強な兵たちを有する王国であっても、太刀打ち出来ない存在──『まつろわぬ神』が現れたのだ。

 その『まつろわぬ神』は王国に突然現れると、暴虐の限りをつくし槍の一振りで戦士達を塵殺した。遂には王国の最深部である王城にまで手を伸ばし、王国を統べる女王「ニニアン」を手篭めにしようとしたらしい。

 王国を未曾有の窮地に陥いれた狂虐の英雄神を行く手を阻んだのが、そのとき客将として迎え入れられていた、東方の勇者「ヤマトタケル」だったと言う。

 彼は正々堂々とした一騎打ちで『まつろわぬ英雄神』と戦い、三日三晩の激しい激戦の末『まつろわぬ英雄神』を下すと、王国に平穏を取り戻した。

 彼……「ヤマトタケル」が「フェルグス」と呼ばれているのも討ち果たされた『まつろわぬ神』の名に因んだ物で、一騎打ちのあと為した偉業の大きさと名声の大きさを誇る様に、王国の民は親愛と感謝を籠めて「フェルグス」と呼び始めたと言う。

 なお、本人は嫌がっている模様。

 

 そんな彼と一戦交え引き分けたと嘯いた祐一に、納得が行かなかったムインは「あり得ない!」と言い張り、祐一がどれだけ本当だと言っても聞かなかった。

 どうやらムインはヤマトタケルにかなり憧れているようで……厄介オタクと言い換えても良いかも知れない……祐一の言葉なんて聞く耳を持たないと言う様子だった。

 そうするとエオが「拳で確かめればいいだろ?」とニヤニヤ笑いながら使嗾し、睨み合っていた両者は一つ頷くと、

 

「──勝負だ!!」

 

 と、声を張り上げた。祐一とムインは男の子だった。もうお気付きだろうが、彼らの向かっている先は喧嘩が出来る場所。

 この王国において大っぴらに喧嘩できる場所とは戦士の集う修練場であった。

 エイルは義息達の暴走に「やっぱりか!」と呻き、テスラは見透かしていたように微苦笑を残した。

 

 ○◎●

 

 饗されていた屋敷から出ると、代り映えのしない真っ暗な空があった。体感的にはもう夜だから違和感はないのだが……。

 ただ、空には星々があった。

 

「常夜の空に星が瞬いている今が、俺達にとっての夜なのさ。そして一日の始まりでもある」

 

 不思議そうに夜空を見ていた祐一にエオが声を掛けた。少し首を傾げながら祐一が問いかける。

 

「夜が?」

「ああ。何でもドルイド達が言うには、外の世界は陽が登ってからが一日の始まりなんだろう? だけどここじゃ、日没が一日の始まりなのさ。……まぁ、それがなんでかなんて俺は知らねーけどな、興味ねぇし」

「ふーん。じゃあさ、この空が真っ暗なのは何でなんだ?」

「空が真っ暗なのは当たり前……いや、外じゃそうじゃないんだったな。なんだっけな、確かこの王国は地面の中にあるらしいぜ? だから真っ暗なんだとかなんとか」

 

 地面の、中? 祐一はその言葉を咀嚼して嚥下するのに、酷く苦労した。理解した瞬間、泡を食った様にエオに問い詰めた。

 

「は、地下に!? でも海とか草原とかあったぞ! あり得ないだろ!」

「俺が知るか。あるんだから、あるんだろ?」

 

 投げやりなエオの態度に閉口し、祐一は空を見上げ「まじかよ」と呟く。確かに空は真っ暗でまるで洞窟に居るみたいだ、とはチラリと思ったが本当に地下だとは思わなかった。

 そこでポンと後ろから、肩を叩かれた。どこか遠い目をした青年、八田寿だった。

 

「彼の話は間違いないんじゃないかな。昔、ヨーロッパで此処と同じ様な文化を持ってた民族が居たんだけど、その民族の伝説に地下には神が住まう世界があるとか、井戸や湖から関連付けられて地下には水界が広がっているって考えれていたらしいからね」

「お、おう。そうだったのか」

「へー、詳しいじゃん」

 

 遠い目で語る寿に気圧され引き気味に頷く。軽い態度でそうじゃねーのと頷くエオ。寿はここがとある文明を基軸にした世界だと察しが付いている様だった。

 後で聞かなきゃな。でも先ずは……祐一は一つ頷いて視線をずらす。

 視線の先には丁度ムインがコチラを見ていた。どこか威嚇する様に犬歯を剝き出し唸っている。祐一も左手の親指を立て、首で横一直線に引き、そのまま下に向ける。

 火花を散らし合う二人に、どうしてこうなったとエイルがため息をついた。

 

 ○◎●

 

 まるでローマのコロッセオだな……。

 辿り着いた場所は篝火がいくつも焚かれた、広い場所だった。ぐるりと大きな円を描き、石造りの堅固な壁で覆われている大きな広場だ。

 広場の中には鍛え上げられた肉体を持つ戦士がたむろし、ひどく騒がしい。酒を飲んでいたり、フィドヘル……チェスの様なボードゲームやフィールドホッケーの様なスポーツに興じていたり、中心では二人の勇ましい男達が干戈を交え武を競い合っている。

 競い合う戦士の観客も何やら盛んに声援を送っているかと思えば、痛烈な罵声を浴びせている。一番人が多く賑やかなのはソコだろう。

 ここは王国の戦士たちが集い、武を競い合う「大闘技場」。女人禁制、むくつけき男共の楽園だ。

 中心で戦う男達を見る観客が興が乗ったのか、朗々と野太い声で歌を唄う。

 それを皮切りに闘技場の男達が示し合わせたように続く。野太く、勇ましい声が闘技場を震わせる。

 

 我等は歌う 戦士の歌を

 意気揚々と奮い立つ歌声

 燃え立つ炎を囲みながら

 頭上には満天の星

 来るべき戦いを待ちきれず

 夜明けの光を待ちながら

 夜の静けさの中 我等は歌う

 戦士の歌を

 

「──すげぇ……」他の語彙が無くなってしまった様に呆然と呟く。寿も目を見開いて驚きを露わにしていた。ニヤリと笑い、眼前に立ったムインが自慢げに胸を反らし、

 

「へへ、すげぇだろ! 此処が俺達の王国が誇る大闘技場さ! ……さぁ、やり合おうぜ!!!」

 

 自信満々に叫んだ。

 

 

 

 手に汗が滲む、冷たい汗が頬を伝う。目を皿にして相対する相手の隙を探る。勝ち筋を探る。

 刹那、──閃光が疾走った。

 篝火の光を弾いて橙の色が煌く。槍だ。青年の手から身長より長い柄と銀に輝く刃が一閃され、相対する少年へ一直線に飛ぶ。

 その狙いは喉。その速度、疾風迅雷。

 鋭く止まる事を知らない矢のように少年へ迫る。致命の一撃たるその槍を阻まなければ、少年の絶命は免れないだろう。しかし少年は緊張も焦りも一切見せず、槍を見据えた。

 当たる! その瞬間になって少年は初めて動いた。彼の目に強烈な光が疾走る。満腔から吹き出る闘気が右手に収束し、雷光の如く跳ね上がる。

 ───カンッ! 甲高い音が、響く。

 跳ね上がった手が穂先を潜り抜け、槍の柄を弾いて狙いを反したのだ。少年は確実に己の手が届く制空圏まで引き付け槍を弾いたのだ。

 何という胆力だ! 青年の首筋に冷たい感触が伝う。だが構うものか、青年は弾かれた槍を閃電の如き素早さで引き、またも刺突が繰り出された。左足で地面を踏み抜き、内功を巡らせた俊速の一突き。

 彼は真摯だ。歩に関してだけはいつもの剽軽な態度は鳴りを潜め、戦地にあっては枯淡自然の境地を心掛ける。若いながらも一廉の戦士であった。

 少年の元に再び、致命の一撃が迫る。

 だが、もう少年は動いていた。放たれた槍に蛇が絡みつく動きで少年の腕が柄に伸びグッと握り込む。踏み込んだ足から伝わる内功で豪腕を振るう。

 青年は堪らず槍を離しそうになるが寸での所で堪え、不安定ながらも勢いに乗った右の足で少年の足を強かに踏みつける。

 硬い! まるで金属を素足で蹴り付けた鈍い感触に青年の表情が歪む。一瞬の隙。それを逃す狡猾な少年ではなかった。

 電光石火! 俊足をさらけ出し、瞬く間に青年の懐に潜り込むと、掌底を強かに打ち付けた。ぐっ、青年の肺腑から鉛のように重い呼気が漏れ、ゆっくりとくずおれる。

 ―──おおおおおおおおおお!!! 

 少年と観衆の雄叫びが、闘技場を震わせる。

 

 勝敗は決した。

 

 

 ○◎●

 

 

 ムインから勝利をもぎ取った祐一。勝者のを称える歓声に応え、右手を上げる。そこには嘗て勝鬨を上げる事すら躊躇った初々しさはなかった。

 ムインが槍を杖の様にして立ち上がる。祐一がサッと駆け寄って手を貸す。ムインも拒む事はなかった。

 

「ヘヘ……、俺の勝ちだな!」

「やるじゃねぇか、お前。フン、まぁ……少しはお前の話を信じてもいいかもな」

 

 肩を貸していたムインが目を逸らし、そんな事を言うので思わず笑ってしまった。

 それに気付いたムインがてめぇ! とヘッドロックを仕掛けもう一戦やるぞ! と憤懣やるかたないと言う風で祐一に再戦申し出た。

 ギブギブ! と腕をタップしながら「応!」と祐一が笑顔で答え……

 待て待て、次は俺だぁ! 何を、俺が先だ! 

 ウホッ、これは良い戦士! ───イイ……。

 そう叫びながら筋骨隆々の素晴らしい漢気溢れる益荒男達が一斉に前に出て、祐一に勝負(交際)を願い出た! 男達も突然現れた異邦の戦士と、武を競いたくて仕方が無い! とばかりに駆け寄った。その姿はアイドルの追っかけ染みていて、イケメンでモテモテの祐一くんは一瞬でハーレムを作ってしまったのだ! 

 

 そんなこんなでムインと再び矛を交えたあと、ちぎっては投げちぎっては投げ。

 なんと今では十連勝目。祐一は波に乗りに乗っていた。まあ、歯に着せずに言うなら、調子に乗っていた。

 うおおおおっ! と祐一が叫べば、おおおおおっ! と観衆が応える。

 

「遂に、遂に、俺の時代の到来だぁー!!」

 安心しろ、もう来てる。

「俺が、俺が、主人公だぁああああああ!!」

 そうだよ。

「ムハハハハ!! 我、敗北を求めたり……!」

 大丈夫、もうすぐ手に入る。

 

 こんな感じで猛っているのか、調子に乗っているのか分からない謎テンションに身を任せ、エンドレスで向かってくる戦士たちを相手に存分に暴れ回っていた。

 

「──ふふ。何やら面白い事になって居ますね?」

 

 そこへ突然ヤマトタケルが現れた。その事にギョッとする戦士達だったが、直ぐにあの若者と英雄であるフェルグス様が戦うかも知れないと口々に囁き合う。

 突然現れたヤマトタケルに、エイルが駆け寄った。

 

「フェルグス殿! この様な仕儀となり申し訳ない、全ては私の不徳と致す所……!」

 

 そのまま腹を掻っ捌いて、死んで侘びる! と言い出しそうな雰囲気の彼をヤマトタケルが苦笑しながら止めた。

 

「まぁまぁエイル。彼も楽しんで居るようですし、そう早まらないで下さい」

 

 そう言って笑うヤマトタケル。そして神殺し特有の嗅覚で彼が現れた事を察知し、腰に手を当て指を指しながら祐一が叫んだ。

 

「ヘイヘイヘイッそこのヤマトの兄ちゃん! 昼の決着付けようぜっ! フッフッフッ……今の俺は無敵だァ──ッ!!」

「ははは。それはおもしろい事この上ないですが……先刻戦ってすぐさま再戦では余りに風情がないとは思いませんか? 我らの戦いはそう軽々に行うものではありません」

「ほーん、じゃあどうすんだよ?」

 

 ヤマトタケルは形の良いおとがいに手を当て、少し考える仕草をとって、

 

「そうですね……。ではエイル、お願いできますか?」

「──えぇ、お任せあれ。フェルグス殿」

 

 エイルに声を掛け、エイルもまた即座に頷いた。

 

「祐一殿。王国でも最上位の戦士であるエイルを降す事が出来れば、再び私と戦う権利を勝ち取れる。と言うのはどうですかな?」

「へぇ……面白そうじゃん……」

 

 人間と気安く会話し飄々としていても、やはり『神』。自分の安売りは絶対にしない様だ。祐一はそう思い至りそれならば障碍を打ち破り必ず自分の元に引き摺り下ろしてやる、と不敵に笑う。

 ヤマトタケルと祐一が火花を散らしていると、厳しく表情を整えたエイルがゆっくりとした動作で前に出る。

 

「君の相手は私だぞ、祐一殿? あまり他の相手を見るな、妬いてしまうだろう?」

 

 エイルが薄く笑う。今さっきまでのエオとムインに振り回されていた気配は微塵もない。それどころか祐一が幼い頃から切磋琢磨してきた故郷の幼馴染みですら持ち得ない、膨大な戦意と鋭い剣気が漏れ頬をなぜた。ゾクリ……と祐一の背筋に冷たい物が疾走る。

 

 祐一は悟った。この眼の前の戦士は只者じゃない。決して楽な相手では無い。全身全霊でもって迎え討たねばならない、と。だが祐一は構う事なく、不遜に、不敵に、傲岸に、ふてぶてしく笑う。

 山が……山が動いたぞッ……! 

 おお……遂にあの剣聖が動くのか……! 

 あの異邦の若き戦士と、戦士長エイルとのカードか……! うぅむ、これはわからん! 

 戦士たちが彗星の如く現れた若い戦士と、王国に於いて最上位に立つ古強者の戦いに、興奮した様に囁き合う。

 観衆がゾロゾロと動いて二人の為に円を描いてリングを作る。両者が同時にリングへ上がる。

 若い戦士は不敵に笑う。己の勝利を一切疑って居ない傲慢なまでの姿で仁王立ちする。迎え討つ青年は巌の様に表情を引き締めている。彼の肉体は最盛期を迎え威風堂々とし、その内側から溢れる闘気も畏敬の念が絶えない者の名代として、豪、豪、と燃え盛っていた。

 若い戦士が、ニヤリと笑って口を開く。

 

「へへ、エイルさん。アンタには悪いが、ここでアンタを降してヤマトの兄ちゃんに再戦願うぜ!」

「フッ……そう簡単にキングは取れないものだぞ、祐一殿?」

 

 軽く若い戦士の言葉を躱し、古強者の青年がとある提案をした。

 

「一つ提案がある。祐一殿、君は無手だな? そして私は剣を使う。それでは少し不公平だろう、私もそれが気に掛かって全力を振るえないかも知れない……。どうだろうか、君も剣を取って戦うと言うのは?」

「エイルさん。舐めて貰っちゃあ、困るな……。アンタのソレが安い挑発だって事はよく分かるぜ……。でもなその見え透いた罠を破ってこそ「真の戦士」なんだ! ───誰か剣を!」

 

 祐一が観衆に向け、叫ぶ。

 

「───これを使え、ユーイチ!」

 

 応えたのは、初戦の相手……啀み合っていたムインだった。装飾の無い無骨な鉄剣が祐一の足元に、突き刺さる。

 祐一は鉄剣を取って大きく掲げる。ムインは不敵に笑って言葉もなく「行って来い」と示す。隣のエオも興味深そうに見据えていた。

 

 エイルが腰の長剣を抜き放ち、胸元で水平に構える。

 祐一が肩に担ぐ様に、目一杯に引き絞って迎え討つ。

 

 ───静寂が二人を撫でた。

 やはり、我流か。それもおそろしく荒々しく大雑把な。

 エイルは祐一の構えを間近で目にし、剣の流派など収めていない、と看破した。

 確かに祐一は剣の振り方なんて知らない。故郷で棒を振り回していた事か、パルヴェーズとの旅で少し師事を受けたくらいだ。だが……

 

 ───見えない。

 一切、勝てる道筋が見通せない。あんなにも隙だらけだと言うのに、まるで底知れない恐ろしい罠が仕掛けられている様な恐ろしい気配。

 嘗て若かりし頃、エイルは『まつろわぬ神』であるヤマトタケルに、戦いを申し込んだ事があった。やはり武の道を行く者として武の極致とも呼べる境地を見てみたかったのだ。

 その時は結局、数合打ち合い容易く剣を打ち払われたのだが。

 その苦い記憶を思わず思い出してしまった。そんな若い頃の無鉄砲な記憶を呼び起こす、ヤマトタケルにも匹敵する戦士に知れず冷たい物が頬を伝う。

 だが、それでも───

 

 なんて剣気だ……。祐一は相対するエイルから伝わる気配に汗が滲んだ。隻眼で見える景色はなかなかに距離感が掴み難く、曖昧だ。だがそんな事は先刻承知。

 だが今注視している筈のエイルの剣が伸び、己の喉元に突き付けられている様に感じるのは、幻覚なのか真実なのかひどく曖昧だった。

 これは彼が放つ剣気が見せる幻覚だ。そう脳に言い聞かせても、喉元に冷たい感触を感じて仕方がない。神、と行かずとも上位の神獣と対峙している感覚に怖気が身体を包む。

 だが、それでも──

 

 ───勝つ! 相対する両者は瞳を戦意で燃やし、勝利への宣誓を心で誓い、咆哮する。

 先に動いたのは祐一だった。

 策も技もなく、ただ愚直に剣を振り下ろす。ただ、それだけ。だが速い。臍下丹田から湧き出る内功を両の腕、十の指に籠め、閃電の煌めきのごとく揮う! 

 膂力無双にして、電光石火! 常人では見切る事叶わず、叩き斬られる必殺の一撃。

 だがエイルは常人ではなかった。兵どもが綺羅星のごとく輝く王国の中にあって最上位に位置する、剣神の愛し子。 早いだけでは彼は倒せない。彼もまた奥義を習得しているのだ。─―─心眼を! 

 

「ハッ───!」

 

 振り下ろされた鉄剣を、視る。避け切れない、とエイルは冷徹に一瞬で悟った。

 だが……。算段を一瞬で整えたエイルが剣を垂直に跳ね上げ、迫る剛剣の側面を狙い剣を揮った。触れた瞬間に、剣が弾け飛ぶ様な衝撃と、地面に足を縫い付けられた様な重圧が襲う。

 だがエイルは恐れ知らずの胆力と気合で持ち堪え、祐一の剛剣を己の刃の側面を滑らせ軌道をずらそうとする。祐一もエイルの思惑に気付き、思い通りにさせて溜まるか、と豪腕を振るい、一息に押し切ろうと力を込める。

 この時、両者の見解は奇しくも一致していた。この一瞬の攻防で勝敗が決まる、と。

 故に、この攻防を制そうと瞬きにも等しい時間の中で、激しいせめぎ合いが起きていた。両者とも臍下丹田より溢れる内功にて豪腕を、修練の果てに会得した心眼で剣を、重ねた技量と経験とで相手をねじ伏せようとしているのだ。祐一が斬り伏せようと剣を振り下ろし、エイルが卓越した技量で受け流そうとする。

 

「ウォオオァァァァァ!!!」

 

 祐一が猿叫を上げる。裂帛の気合で小賢しい策を打ち破ろうとする。

 

「───ッ!」

 

 エイルが堪えきれず剛剣の進撃を許した。そのまま刃を通り抜け、鍔を砕き、エイルの腕へ……そこで祐一は勝利を確信した。─―─してしまった。

 そこで、エイルは動いた。

 大胆にも己が右腕を突き出し、祐一の剛剣を受け止めようとしたのだ。祐一が目を剥くより早く、エイルの皮が突き破られた。鮮血が舞う。……だがそこが限界だった。

 その右腕は正に鉄腕の如き堅固さ。エイルは己の腕を剣に見立て、身体ごと捻り受け流した。これには祐一も声もなく驚愕し、剣が空振ったことすら頭から消えていた。

 そしてそれこそ、最大の隙! 

 エイルは弾かれた剣を握り、スッと祐一の首元に当てた。

 ここに勝敗は決した。文句の付けようもないエイルの勝利であった。

 

 

 もう一回! もう一回! 

 駄々をこねて子供の様に癇癪を起こす祐一だったが、それを気にしているどころではない。

 あのとき果たした約束を破ってしまったのだ。

 何人にも負けぬ身であれという約束を! 

 余りのショックに、涙が滲み、怒りと哀しみと絶望とやるせ無さで地団駄を踏む。己の不甲斐なさに吐き気すら催していた。 

 まだだ! まだリベンジすれば、どうにか出来る! そう己に言い聞かせふたたびエイルに再戦を願った。

 

「ははは、何度でも受けて立とう、祐一殿」

 

 勝者の余裕で悠然と立つエイルは鷹揚に頷いた。

 そして……木下祐一、()()()()()()───! 余りの無残さに意識が飛びかけた。

 な、な、な、なんだコレは!?? 俺は今まで負け知らず、勝利に愛されている筈なのに!? 祐一は嘆きに嘆き、その時だった。

 

「──ハッ!?」

 

 その時、祐一に電流走る───!

 これまで武器を持って戦った時の戦歴が、走馬灯の如く脳裏を過った! 

 

 パルヴェーズ戦➡最後は勝ったが、あとは全敗

 

 チンギス・ハーン戦➡最初にガッツリ一太刀貰う、槍でブッ叩いて決着

 

 ヤマトタケル戦➡『戦士』が本体

 

 ───なんてこった……! まともな武技で勝利を獲たことがなかった祐一は愕然と膝を付いた。

 突き付けられた現実に、思わず白目剥いて膝をガクガク震わせ、頽れた。そんな祐一へヤマトタケルがニコリと笑い、とある提案を持ちかけた。

 

「どうでしょう、祐一殿。ニニアン殿に聞いた所、貴方方がこの世界から出るには些かの時間と労力が掛かる様です。その間、剣の修行をしてみると言うのは?」

「───マジで!? お願いします、ヤマトのおにぃちゃん!!」

 

 恥も外聞もなく飛び付いた。勝つ為なら安いプライドなんて捨ててやる。若干、本末転倒気味の男の名を木下祐一と言った。

 これにはマズイと思った寿がストップを掛けようと口を開こうとした時、くるりとヤマトタケルが寿の方を向き、

 

「八田殿も、我が王国に伝わるドルイドの秘伝……興味はありませんか?」

「───ありますあります! スゴイあります!」

 

 ウッヒャー! ヒャッホー! と叫ぶ主従を傍から、我関せずと見ていたラグナが、呆れた様にため息をついた。

 

 ───彼らの王国への逗留が決定した瞬間だった! 



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閉ざされていた世界

 ──カーン! ──カーン! ──カーン! 

 

 三度、鐘の音が鳴った。甲高い鐘の音は、現実から浮き上がり曖昧になっていた祐一の意識を明瞭な物へと変遷された。

 

「!」

 

 ──青光一閃。狙いは首筋にある頸動脈。祐一の直感がけたたましく叫び、一も二もなく首を捻り右前方へ飛び退る。風を切った高い音が痛烈に横切った。

 避けるのが寸刻でも遅ければ、或いは逡巡していれば、為す術なくエイルの揮う一太刀を浴び、首を跳ね飛ばされていただろう。

 ゴロゴロとそのまま転がり込み、すぐ跳ね起きる。

 視界の隅に、胸元で剣を水平に構えたエイルの姿を捕らえたのだ。

 あれは、危険だ。エイルの持つ剣技の中でも必殺の部類に入る物。

 それは何度か手合わせして、それはよく分かっている。

 立ち上がり、地面を蹴った所で……刹那、エイルの剣が煌いた。

 祐一の見立てでは三尺五寸五分。長大にして相応の膂力を持たねば振るえぬ剛剣が迫る。

 狙いは──脳天。胸元から一直線に突きこむ構えは何度も見た。そしてその突きの鋭さ、キレ、恐ろしいまでの伸びも……。

 穿かれれば如何にこの「頑丈」と言う言葉では収まりきれない身体とはいえ、死は免れない。

 祐一は地面を蹴ったばかりで地に足が着いてい身体はひどく不安定だ。そんな姿勢でも構わず避けなければならない。

 持ち前の胆力を持って最大限まで引き付け、首から上半身を思いっ切りよじる。

 ヒュンッ───!! 再び、鋭い音が耳朶を打つ。

 倒れ込み、うずくまった姿勢でエイルを見据え───

 

「そこまで。楽にしていい」

 

 その言葉が聞こえ、祐一はそのままドサリと地面にくずおれた。

 

「ハァッ……ハァ……!」

 

 冷たい地面の温度が、火照った身体に染み込む心地良い。だが心は真逆だ。身体はこんなにも熱く赤熱していると言うのに、心だけは氷の柱が通った様に凍て付いている。何故か? ……理由は簡単だ。

 負け過ぎている……! 

 心が冷え切ってしまった理由を喉に絡みついた痰の如く吐き捨てたい衝動を抑え、地面を苛立たしげに叩いた。

 

 王国へ辿り着いて、はや五日。祐一は剣の修行に励んでいた。祐一と寿そしてラグナは王国にて現世へ帰還するまでの間、暫く逗留する事となったのだ。

 

「流石に目が良い。身体も靱やかで俊敏だ。体力に付いては文句なしだ。フ、私の剣が悉く躱されてしまうのは、……悔しいな」

「い、や……あ、あたったら……ハァ……ハァ……死ぬじゃん……!」

 

 笑うエイルに渋い顔をしながらの何とかツッコミを入れ、ヤマトタケルに言われた言葉を思い出していた。

 現実世界への帰還には、星の巡り、地脈の流れ、呪具の準備……諸々を含め、およそ"三ヶ月"の期間が必要になる、とそう言っていた。

 三ヵ月。長い時間だ。

 祐一はその言葉を聞いた時、思わず思案に暮れた。

 家出してからここに辿り着くよりも、長い時間を過ごさなければならない。

 そう思い至った時、胸に去来したどうしようもない不安を拭い切れなかった。

 故郷は、学校は、家族は、友達は、───世界は。

 不安と自分の至らなさへのモヤモヤとした感情に、どうしても向き合えそうになかった。

 それを振り払う意味もあったのだろう。

 逗留する間、祐一はヤマトタケルの提案に乗っかり先日の雪辱を果たす為、雪辱を果たす相手でもあるエイルから無我夢中で剣術を学んでいた。負けず嫌いと言う面も多分にあるのだが……。

 

「まぁ……私も今はお前の師だ。一太刀浴びせねば師としての面目が立たないからな。どうだ、一太刀?」

「死ぬわっ!」

 

 修行を始めたのは良いものの、剣に関してド素人の祐一は剣に於いては遙か先を進むエイルにコテンパンに伸されていた。

 だがそこは木下祐一。「諦める」と言う言葉は己の辞書にはないとばかりに、毎回毎回、「絶対勝つ!」と闘志を燃やし、狡猾にエイルの隙を窺いながらも貪欲に「一つの小さな技も見逃すか」と齧り付いてエイルの講義を受けていた。

 素人とはいえ、若いながらに数多の修羅場を潜り抜けた一廉の戦士。

 幼い頃から幼馴染と競い合い、ただの棒とはいえ長物を振り回していたのだ。「剣を思いっ切り振り下ろして足を斬る」なんて事にはならないくらいには武器の扱いに関して疎くはなかった。

 相対するエイルが圧倒的に上手なだけ。敗因はただそれだけだった。

 

 ○◎●

 

 この五日間、エイルの教授する物は「剣術」だけでは終わらなかった。

 この王国の城壁から出た土地の風土、地形、水のある場所、方位の見方、偏屈な妖精のおだて方、……彼が祐一に教える知識は多岐に渡った。

 エイルと共に馬を駆り、膝ほどにまで伸び切った草が生い茂る大地を駆け抜ける。エイルによれば幽世であればイメージするだけで移動する術があるらしいが、とある理由により女王であるニニアンが封じているらしい。理由はエイルもまだ早いと教えてはくれなかった。

 王国の城壁を抜ければ鮮緑の草原ばかりが広がる世界へと移り変わるのだ。

 祐一とヤマトタケルが闘った時には寂寥感が胸を締めつけるばかりの渓谷であったというのに、王国が地下より現れた時、連られる様にこの草原も姿を現したのだ。

 その草原を馬を並べて共に駆ける。

 草原の先には神々しく荒々しい巨峰がズラリと並び、禿げ上がった岩肌は神々の武器の如く、刺々しく美しい。

 こうして見れば、なるほどエオやムインが「あの山を越えて来た」と言った時の驚いた理由が分かろうと言うものだ。

 だが、振り向けばその巨峰よりも高く聳える城壁が見える。今、己が滞在する「王国」と言う国の巨大さをまざまざと見せ付けられてしまうのだ。

 

 馬を走らせ、師事を受ける。水辺に棲むケルピーと言う幻獣の生態、王国近くに住み交流があると言うメロウが棲む湖。

 渓谷に潜む魔物共が夜になれば大挙して現れる事も、あの城壁があんなにも高いのはそれを防ぐ為だと言う事も、天の蓋とエイルが呼び、祐一から見れば北極星に見える星を使った方位の割り出し方もその時に教わった。

 講義は城壁から外側の事だけではない。

 祐一と共に時には王国の街を練り歩き常識やルールを実地で学ばせる。

 女王ニニアンの住まう王城近辺にて制度や慣習を習い、城壁に訪れては見張りの役を預かる戦士たちと言葉を交わし、闘技場へ赴けば戦士達と武勇を競って酒を酌み交わす。

 ヤマトタケルに頼まれたとは言え、それを加味してもエイルは熱心に王国で生き抜く知恵や術を叩き込み、剣術を仕込んでくれた。

 時たまに脱線し、変な方向に突っ走って行く事もあり「偏屈な妖精のおだて方」はそれの最たる例であった。

 

 というのも祐一の着ているブレザーが事の発端で、祐一のブレザーは家出してから二ヶ月近く着続け、三柱の『まつろわぬ神』と激戦を潜り抜けても、未だ奇跡的に形を保っている猛者である。

 ……とはいえ、もう流石にボロボロ状態だった。そろそろパルヴェーズが着ていた外套に並びそうなほどに。

 それを見たエイルは祐一の為に王国の普段着であるチュニックなどの衣類を用意にしようとしたのだが、当の本人が「このブレザーを脱ぐ気はない」と固辞したのだ。

 このブレザーは家出してから共にいる、ある意味戦友の様な存在だ。愛着もある。どれだけボロボロになろうと脱ぐ気はさらさらなかった。

 頑固な祐一に「せめて修繕しろ」とエイルは言い『レプラコーン』と言う、妖精で靴職人の元を訪ねた。

 靴職人とはいえ、職人としての腕は人間のそれを遥かに上回るらしい。

 服の修繕も元より、不思議な力を備えた物に変えることも可能だと言う。ただ、かなり偏屈と言う但書きが付くが……。

 おだて方とは書いた物の実際は、まず説得する為にレプラコーンを捕獲する事から始まる。

 この時点でおだて方もへったくれもないが、神出鬼没でどこぞの箒を使ったスポーツのスニッチ並に逃げるので仕方がないのだ。

 捕まえたとしても目を離した瞬間、煙の如く消え去るので捕まえるのも至難の業だ。

 苦戦する祐一だったが、エイルは王国に住む者としての長年の経験で、半刻も掛けず捕まえていた。

 そんなこんなで捕まえたレプラコーンに熱い弁舌を奮い、酒を突っ込んで泥酔させ、「祐一のブレザーを修繕する」と一時的にとは言え誓約すら誓わせていた。哀れなレプラコーンは酔いが覚めたあと、歓喜のあまり涙を流して作業に励んでいた。

 鬼だ……。自分は世話を焼いてもらっている身分だが、あまりの酷さに顔を引き攣らせた。

 しかしレプラコーンの献身()もあり綺麗になったブレザーは妖精が手を加えたに相応しい不思議なモノへと変貌していた。

 どれだけほつれても千切れても元通りになる自己修復機能に、普通の服と変わらない重さで弓の一射や剣の一太刀程度なら簡単に弾いてしまう堅固な鎧の如き防御力が付与され、まさに魔法の宝。

 様子を見に来たヤマトタケルすら唸らせ、祐一がパルヴェーズから貰った不思議な羽根や背嚢と同等の、人間が技術をいくら注いでも辿り着けない神域の魔具と化した。

 上記の様にこの五日間、エイルは祐一に知識や必要な物があれば躊躇う事なく与えていた。エイルが教える知識は王国のみならず、この幽世で生き延びる術だ。

 ───祐一がその事に気付いたのは、それから大分後の事だった。

 

 ○◎●

 

 修行が終わり、精も根も尽き果てたとばかりにぐったりと倒れ込んでいる祐一だったが、体力は有り余っている。

 彼の体力は無尽蔵なので、どれだけ走り回ろうが引き摺り回されようがへっちゃらだ。

 しかし精神面では未だ無敵とは言いがたく、負け込んでいる最近の成績不振ぶりに打ちのめされ些か参っていた。

 

「おーい! 修行終わったかー?」

「もう飯の時間だ。帰ろうぜ、叔父貴にユーイチ」

 

 振り向けば、この五日間でもう見慣れた二人組……双子の青年エオとムインがコチラの方へ歩いて来ていた。

 エオがニヤリと笑い、ムインが大きく手を振っているのが見える。

 それはエイルにも見えたのだろう。少し眉を潜めながらも、軽く手を上げ答えた。

「お疲れ、今日はどうだった?」とエオ。

「勝った? 勝った?」とムイン。

 近付いて来た彼らは開口一番そんな事を聞いて来た。

 その瞬間、苦虫を鼻から飲み込んで噛み潰したような顔になったのを見て、

 

「ヘヘ! 兄貴、今日の賭けは俺の勝ちだな!」

「クッソォ……ユーイチ、何負けてんだよ? お蔭で値打ちモンの首環が取られたじゃねぇか!」

「お前ら、ぶん殴るぞ!?」

 

 と祐一が激昂して、ぐわー! と襲い掛かれば何が面白いのか二人は爆笑しながら逃げ回る二人。

 コ、コイツら……! その細い体躯に見合った俊敏さで逃げ回り、阿吽の呼吸で変幻自在に祐一を振り切るエオとムイン。

 怒りが有頂天に達した彼は、水場の近くにあった青銅の大甕を両手に持って振りかぶった。流れる様に心眼を発動させ、ドバイで人狼に矢を番えた時のごとく標的のみを見据え───

 ブンッ! ───スコーッン! 

 見事、祐一の投げた大甕は二人を捕らえた。とんだ技術の無駄遣いである。

 

「ぬおおお、抜けねぇ!」

「おい、ユーイチ! これは流石にねぇだろ!?」

 

 投げ付けられた甕に収まり頭だけ出した二人が、抗議の声を上げる。それを祐一は耳心地の良い歌でも聞くかのように、顔を綻ばせニッコリ笑った。

 

「エオもムインも、その甕に入ったまま屋敷に転がして行くから」

「やめないか、祐一。それと……エオ、ムイン。お前達、仕事はどうした? 王国の外でまたぎ衆の手伝いを言付けていた筈だぞ、それも一両日の間は戻って来ない日程だっただろう?」

 

 その言葉にエオとムインは顔を見合わせて、

 

「いや、腹減ったし抜けてきた」

「フェルグス様も言ってだろ? 腹が減っては戦ができねぇって」

「こ、このっ……。もうお前達も一廉の戦士になろうと言うのに……それくらいの言付けくらい守れ」

 

 呆れた様に首を振るエイルに、エオがニヤニヤ笑う。

 

「そんな事言ったら、フェルグス様に頼まれた歓待を満足に出来なかったって触れ回るぞ、叔父貴」

「そーだ! そーだ!」

「クソガキ共! たたっ斬るぞ!」

 

 そんな二人の言葉に今までの泰然自若とした態度は何処へ行ったのかエイルが叫んだ。どうやらエイルは戦士としては超一流だが、父としてはまだまだの様であった。

 家族に弱いよな、エイルって……。

 ゴロゴロ転がって逃げる二人を狼狽しながら追うエイルを遠巻きに見つつ、そんな事を思った。

 

「帰って来てしまったなら仕方がない。ならばお前達、飯を食べたら座学だからな? 祐一も含め毎日、毎日、逃げおって……今日こそは逃さんぞ!」

 

 その瞬間、エオとムインそして、祐一の顔が引き攣った。

 

 ○◎●

 

 今日は薄暗いこの世界でも、中々明るい日の様だ。祐一は原っぱで空を見上げ、そんな事を思った。

 どうやら紫の空が広がる世界でも日照の違いはある様で、朧気ながらその差異がわかる様になっていた。

 昼食を取ったあと、祐一、寿、エオ、ムインの四人は原っぱに座り込み、大きな木の木陰で実は女ドルイド……ドルイデスだったと言うテスラに呪術の講義を受けていた。

 祐一と寿はこの五日間、気を利かせたテスラの薦めにより、異国の地である王国での生活の常識、風土、慣習を学び軋轢が少しでも減るように、と講義を受け続けて居たのだ。

 寿は祐一の加護で、ある程度は幽世に居ても大丈夫だったが定期的に『少年』の化身を使った儀式を行わなければならないのか……と、頭を抱えていたが、魔道に造詣の深いテスラが「幽世に身体を馴染ませれば問題ない」と、それから寿は渡されるイチイの実を食べるようになっていた。それに加え幽世ではヤマトタケルと戦った時に発動した、虚空の記録を無意識に受け取る『霊視』という現象もあるらしく、その霊視もある程度は抑えられるらしい。

 なんか冥界に連れ去られたペルセポネの気分だ……。これ、帰れるのかなぁ……? 

 少し遠い目をしていたが、毎日楽しそうに王国中を駆けずり回っている能天気な主君を見て思考を放棄した。

 

 それはそれとして寿も負けず劣らず、異国の地の……それも時代も全く違う……今まで知り得なかった知識を前に、眼を爛々と輝かせ少しでも多くの知識を蓄えようとしていた。毎日ペンを走らせ、寿の気力は充溢していた。

 なお祐一については初日に講義で、すで知恵熱でオーバヒートし、その後すべての講義から逃げ回っている。

 今日もまた講義が始まり、王国での祐一と寿、今回はやらかしたエオ、ムインの二人を加えての講義である。

 テスラは口頭での講義だったが、身振り手振りで説明し、時にはテスラの隣に座る相棒だと言う大きな犬と解りやすい講義になるよう工夫していた。

 まぁ……その工夫も虚しく3バカトリオは講義が始まった瞬間、夢の世界へ旅立っているのだが……。

 

 エオとムインは長年の経験で起こしても無駄だと知っているテスラだったが、一目見て祐一も同じ類の人種だと悟っていた。

 しかし諦めると言う選択肢は彼女にはなく、彼らが別世界に旅立つ度に文字通り教鞭を振るい、現実世界へ呼び戻している。

「言葉で言って判らないなら、身体で覚えさせるものよ?」とは彼女の言。彼女は蛮族の女傑であった。

 ちなみにエイルは祐一達を逃げない様に大岩に括り付けたあと、テスラに命じられ、晩飯の買い出しである。

 それを見送った祐一は、完全に尻に敷かれている男の物悲しい背中を見て落涙を禁じ得なかった。

 

「なるほど、それじゃあ極端に言えば呪術を使うにはその仕組みを理解し、そして必要な工程を踏めば誰でも発動させることが出来るんですね。もちろん呪力と言う燃料も備えていなくてはいけない、と」

「そうね、少なくとも私達ドルイドはそうして呪術を扱っているわ」

「ははぁ、ドルイドですか?」

「ああ、呪術師の事よ。ドルイドの役割はたくさんあってね、大前提として自然の信奉者である事から始まるけれど、呪術を使う呪術師でもあるの。

 まぁ……ドルイドと一口に言っても、私みたいに呪術専門だったり、神官として世俗から解脱している者も居たり、俗世に下りて法の番人として裁定者として王国の一端を担う知恵の蔵だったり様々だけどね?」

「ふむふむ、なるほど」

「z……」

 

 寿はやはりこの王国は島のケルトを基軸とした文化を持つ世界だと確信していた。

 勇猛な戦士たち、ドルイドの存在、綺羅びやかな装飾品、厚い自然崇拝、妖精の存在……。

 朧気な記憶に残ったケルト文化と照らし合わせ、ここが島のケルト……特にアイルランドにあった文明を基軸にした物なのだろうな……と寿は推察した。

 祐一にも一応伝えたが、ケルトとはなんぞ? と返されてしまった。

 

「それで呪術を使うにはやっぱり呪力と言う物が一番重要になるわ。呪術にとっての全ての大本……人にとっての魂や血、木々にとっての水や太陽なの。呪力を持ち扱える素養があるのか、と言うのも同じく重要ね」

「えーと……それじゃあ、扱えない者もいるので?」

「ええ、保有する呪力が少なければ当然、術は使えないし、呪力を溜め込むことができない特異体質の者もすらいるから……でも、寿は大丈夫そうね?」

「zz……」

 

 そう言われて寿も『加護』と言う形で、その力の一端に触れた事を思い出す。今でも下腹部辺り……『臍下丹田』と呼ばれる場所に渦巻く不思議な力を自覚する。

 これが呪力、か。

 寿は己の生命線でもあるこの力をよく知らなければならない、未だに眠りこけている祐一から目を逸らし頷いた。

 

「呪術と一口に言っても多種多様なの。指先くらいの小さな火を起こす物もあれば、山一つ吹き飛ばす物も、木々や動物の声を聞くもの、星や神々から予言を受け取るもの……千差万別ね」

「ふぅむ。そしてその呪術一つひとつに相応の儀式を行い、呪力を消費すると言うプロセスがあるわけですか……」

「zzz……」

 

 テスラは頷きながら、傍らに座り続ける大きな犬の首筋を撫で上げた。

 大きな犬、と言ったがそこらの大型犬とは比較にならないほど大きい。おそらくテスラより全長は長く、身体も逞しい。灰色の豊かな毛皮に覆われた身体はポニー並に大きく、人一人くらいなら楽に乗せる事ができるだろう。

 寿がその犬を初めて見た時はアイリッシュ・ウルフハウンドを想起し、そのおとなしい性格に祐一は「あの跳ねっ返りの馬とは全然違うなぁ……」と少し感傷に浸りながら零していた。

 あの犬はお伽噺で魔女が使役する猫の様な「使い魔」の様なもので、某かの契約し意思疎通くらいなら容易に出来るという。これも幅広くある呪術の一つらしい。

 相応の儀式と、それに見合う呪力、か……。うーん、錬金術の等価交換みたいなものかな? 寿はそんな事をなんとなく想起した。

 

「呪術の大きさに応じて、儀式も煩雑になるし使う呪力も大きくなるわ。だから洗練されて汎用性のある主流な物が初心者の寿には良いかも知れないわね」

「なるほど……では、主流と言えば魔術書に文字を刻んだり、妖精に頼んだりするので?」

「確かに文字も使う術もあるわ? でも主流ではないし、あんまりオススメはしないわね……。数も少ない上に効果が薄いものばかりなの。扱いやすくて短期的には良いけど、少し熟練したら無用の長物になってしまうわ」

「効果が薄いものですか……? 例えばどんな物があるんでしょう?」

「zzz……zzz」

 

 テスラは頬に手を当て少し考える仕草を取った。

 

「そうねぇ……小枝を折ったり、そよ風を起こすのが限界かしら……?」

「……あまり役に立ちそうにありませんね。それでは主流とは?」

「私達の扱う呪術の主流ね。代表的な物はヤドリギや生贄と言う触媒を使った物や、呪文を暗記し言霊にする口訣になるわね」

 

 触媒と口訣、か……。

 テスラの言葉に腕を組み、沈思黙考する寿。

 

「うーん……僕の場合文字を使う呪術から入った方が良いのかぁ? あんまりココに長く居られないし、触媒を使った物かは現世にあるか判らないし、言霊も覚えて要られるかどうか……」

「ぐぉぉぉぉ……ぐぉぉぉぉ……」

 

 寿の言葉に、少しハッとした様子のテスラは得心した様に頷いた。すっくと立ち上がり、三人の前に立つ。寿の顔が引き攣った。

 

「あら、そうだったわね。寿は三ヶ月くらいしか居られないものね……。

 でも、その期間があれば文字を扱ったものなら要諦を掴めると思うわっ!」

「痛ぇッ!」

「アダぁっ!」

「あひん!」

 

 横で起きている惨事から必死に目をそらし、寿が不思議そうにとある事を口にした。

 

「……でも、どうしてこの技術が現世では見掛けなかったんだろうね……? 

 やっぱりあれかな、創作によくあるように魔術は裏の世界では継承されているけど、世間一般には秘匿される物なのかな?」

 

 そんな疑問だった。

 

「違うぜ、ヒサシ。聞いた話じゃ現世には呪術を動かす力そのものがないんだとさ、そうだろ姐御?」

 

 その質問にテスラではなく、今しがたテスラに(強制的に)起こされたエオが訳知り顔で寿に語った。

 力そのものが、ない……? 

 エオの言葉に目を瞬かせ、首を捻る寿。確かに二十二年生きてきて、己の周りにそんな不思議な物はなかったのは事実だ。

 そう。──ほんの数か月前までは。

 

「そうねぇ……。太古の昔、神々がまだ現世を勝手気ままに闊歩していた時代には幽世や不死の領域とも束縛が薄くて、現世でも呪術を使えたらしいけど……。

 ニニアン様曰く、とある時期を境に森羅万象に遍満していた『魔力』や『気』なんて呼ぶ力の源そのものが消失してしまったらしいの」

「は。消失、ですか……」

 

 思わずポカン、と口を開け譫言の様に呟く寿。

 

「ええ。ニニアン様はとある大呪法が原因だとは仰っていたわ。

 何故、その呪法が存在したのか。その理由まではニニアン様も「掟だから」と口にして下さらなかったけれど……。

 兎に角、その呪法によって呪力は現世には欠片も存在しなかったし、それと同時に現世に居た神々や神獣の類なんかもこの幽世に送られたらしわ」

「あー、それは俺も知ってるぜ。その呪法が成った瞬間に、現世から放り出されるみたいに神様やら英雄やら魔術師とかコッチに来たんだよな」

 

 寝ぼけ眼のムインがどこか気怠そうに言う。その言葉にエオが頷く。

 

「そうそう、それにその呪法は現世とコッチを別ける壁みたいに存在してて、コッチの世界に居る奴等は誰も現世には行けないんだよ。

 それが『神』であってもな? そんで現世でその真理に気付いた人間も軒並みコッチに送られてしまうんだと」

「……なるほど、それが世界の真理。僕たちが魔術を知らなかった理由か……」

 

「───呪力がなくなるだけじゃないぜ、おっちゃん。その呪法は現世の人の願いとかも弾いちゃうらしいんだ。

 そのせいで幽世や神話の領域にいる神に祈りが届かなくなっちゃって、神様に願っても願いその物が聞こえないから呪術も発動しないし、例え願いが届いても神様が現世に手が出せないからどうしようもない。そんな感じだったらしいぜ」

 

 そう祐一が滔々と語った。

 

「なるほどねぇ……」

 

 そう呟いて、ん? と寿は固まった。バッとドヤ顔をしている祐一に高速移動すると、両肩を掴む。

 

「祐一君、なんで君まで知ってるんだい?」

 

 怒気を孕んだ声で、寿が詰め寄った。

 

「えっ? ……あー、アレだよ。前に言ったじゃん『神に祈りは届かない』って。パルヴェーズにやられて変な空間に迷い込んだ時に得た知識にあったんだよ。

 それで知ったんだ。……あれ、言わなかったっけ?」

「ああ、確かに言われたよ! でもね『神に祈りは届かない』って言われて、誰がそのままの意味で捉えるんだ!? 普通、比喩的な物だって思うだろ!?」

 

 寿は祐一が変な空間で二つの事を知ったと言っていた事を思い出す。

 世界が滅びる事と、神に祈りが届かない事の二つだ。

 ──分かるか! 

 寿自身、まだまだこの世界に関わり始めたばかりで、祐一の言葉がそのまんま世界の真理の話をしているなんて予測不可能であった。

 

「そもそもな! 神と戦っている場所で『神に祈りが届かない』なんて言われたら、比喩的なものだと思うだろう!? 誰もそのまんまの意味だと思わないぞ!」

 

 括り付けられた縄から祐一を引っ張り出し、コブラツイストを掛けながら寿は嘆いた。

 

「や、普通に知ってるって思ってた! ハハッ! ──ぐぇっ、ギブギブ!」

 

 祐一の言葉が聞こえた瞬間、今度は体位を変え、キャメルクラッチ! そして流れる様にヒサシバスターが炸裂した。

 その動きは一廉の戦士であるエオとムインが感嘆の息を漏らすほどである。

 そんな生徒の様子にテスラは構わず続けた。おそらくこの場で一番強いのは彼女である。

 

「でもね、世界を覆い永い時の中でも不変だったその呪法も、何の因果か粉々に砕け散ってしまったの。それが何故壊れてしまったのか理由は判らないけれど……」

「老朽化したんじゃねーの?」

「ふふっ、そうかもね。……だから今、現世では幽世から渡ってきた『まつろわぬ神』や神獣……現世ではおとぎ話でしかなかった存在が現れ始めた、とニニアン様から聞いているわ」

 

 その言葉に祐一と寿はじゃれ合いを辞め、黙り込んだ。

 オマーン湾で起きた海難事故。祐一と寿の身に起こった共通の異常事態を思い出す。

 なんとか命を拾い、一人はイランで冒険し、一人はドバイに辿り着いた。

 イランで起きた神と化身を巡る戦い、世界各地に現れ始めた超常現象の数々を思い出す。

 しかし……それで終わりだと思っていた彼らの予測は無慈悲にも覆され、それは只の始まりでしかなかったと痛感させられた、あのドバイでの出来事を思い出す。

 

『まつろわぬ神』、大呪法、"神殺し"……神を殺し、新生してから……いや、自分が家出をする時から、もう世界はおかしくなっていたのかも知れない。ふと、そう思った。

 己の境遇と世界の変化。奇妙に符号する幾つもの出来事。

 ──ゾク……。思考の奥底をなにか薄ら寒いモノが掠めていく。祐一はそれをまともに見る事が出来そうになかった。

 

 

 



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剣と碓とおにぎりと

 二週間が過ぎた。祐一は何かを振り払うように闘技場に毎日通い、エイル一家のみならず闘技場を溜まり場にしている戦士達とも友誼を交える様になっていた。

 人懐っこく若くとも修羅場を潜っている祐一に誰もが一目置いていて、武器の師事は元より直立した槍の穂先に跳び乗る技だとか、見上げるほど高い城壁を飛び越える跳躍の技だとか幾つかの妙技を教わっていた。

 修行が終われば戦士たちは何処からか酒や肉を持ち寄っては宴会が始まり、祐一も戦士たちと一緒になって酒を飲んでは騒ぎ、時には乱闘に参加し、……二週間の間に祐一たちは王国に馴染んでいた。

 だが万事、順風満帆とは行かず剣術については未だエイルに掠りすらせず、ここの所かなり行き詰まっている状況だった。

 今日も今日とて修行に励み、コテンパンに伸されて膝を付き白目剥く祐一。パルヴェーズとの連敗記録に刻一刻と迫り、ジットリとした物が背中を伝うのを感じて仕方がなかった。

 首を振って、気を取り直す。

 

「なぁ、なんでエイルって、こんな熱心に教えるんだ?」

 

 地面に座り込みながら油を引き剣を手入れしているエイルに問い掛けた。これは前々から気になっている疑問ではあった。

 そもそもエイルは王国に於いて重要な位置を占める戦士だと言う事は、うとい祐一でも勘付いていた。

 戦士と良く関わっている祐一には、あまり馴染みが無いがドルイドや吟遊詩人と言う王国でも敬わられるべき者達と同じ待遇である事を見れば察する事は容易であった。

 だからこそ、己の研鑽に余念がなく相応に多忙であろうエイルが何故こんなに自分に目を掛けるのか謎だったのだ。

 

「あれはお前と初めて戦った時だったな」

「え?」

 

 水面に雫が落ちるようにぽつりと声が落ちた。

 

「お前の持つ戦いにまつわる天稟の中に、輝く剣の才を見たのは。ふふ、私はお前のその才がどこまで伸びるのか、それをみたいのだ」

「俺に、剣の才?」

「ああ。……剣鬼、剣神の愛し子、無情剣。フェルグスを追う者、『鋼』の懐刀。私が剣の道を志し、いつの間にかそう呼ばれるようになってしまった……」

 

 エイルの油を引く手に、力が入ったように見えた。骨張った無骨な手は、骨が更に浮き出て節々が白に染まった。

 

「悟りを宿す菩提樹にして曇りなき明鏡の如く、心を払い煩悩に汚されないよう剣に全てを捧げてきた。……しかし私自身、そんな敬称で呼ばれる様な者だとは思っていない」

 

 エイルの心がその手に反して冷えているのが祐一には良く分かった。彼の剣は冷たい。そんなこと打ち合えば判る。

 そしてエイルの持つ剣は、薄く、鋭利で、装飾の無い簡素な物だ。

 刀身が放つ光は焚かれた篝火の橙では無く、底冷えする青い光。軽いが勢いがあり、薄いが脆くはなく、剛の中に柔があり、柔でありながら強靭であった。

 だが、どうしようもなく冷えていた。

 

「数年前までは剣の道しか知らずに居たのだ。それ以外は削ぎ落とす……そう、只の剣客だった」

 

 そこでエイルは少しだけ、力んでいた拳を弛緩させた。

 

「しかしそんな私を見かねたフェルグス様にテスラを紹介され、エオやムインと養子縁組して一人前に見える様には成ったが、元は只の剣狂い。未だにアイツらとの距離感が掴めん」

 

 彼の肩が揺れその声音にも柔らかい物を宿しているようにも思えた。ふと、故郷にいる不器用だった父の背を少しだけ幻視した。

 

「テスラは今は私の下で妻となっているが、以前なら私の様な下賎の者なんぞ手の届かない令嬢だったのだぞ? ドルイドの術者としても高名でな……かつてドルイドがまた多く居た頃には『女神ブリギットの落とし子』と呼ばれ次代を担うほどだった」

「かつて?」

「ああ、そうか。お前は知らなかったな。……もう王国にはドルイドは数える程しか居ない。王国に『まつろわぬ神』が現れた時に、ほぼ全てのドルイドは死に絶えてしまってな」

「ま、待ってくれよ! 死に絶えたって……嘘だろ?」

「嘘ではない、それほど荒ぶる神とは脅威なのだ。フェルグス様がおらねば、王国などすでに滅んでいるほどにはな」

 

 気付けば拳を固く握り締めていた。己が滅するべき『まつろわぬ神』の脅威は世界を隔てた場所でも健在だった。それを強く自覚した。

 自分がそこにいれば……などと傲慢な考えすら浮かぶが、そう思わざるを得なかった。

 祐一の様子を目の端に捉えながら、エイルはまた過去を言葉に乗せはじめた。

 

「王国に剣を捧げた戦士の大半がその時散った。エオとムインの父も、テスラの仲間も身寄りも悉く死に絶えた。それを不憫に思ったニニアン様がいっその事とテスラと私を引き合わせ、まだ幼かったエオとムインも折りを見て親戚筋である私の元へ送ったのだ」

「……いいのかよ、そんなこと俺に話して?」

「過ぎた事だ。まあ色々あったがアレらも今では吹っ切れている、気にするな。それにお前もアレらと変わらず接してくれると嬉しい」

「……だぁーもう! エイルって無茶振りするよなぁ! 判ったよ!」

 

 いきなり重い話を振られた祐一の反応にさらに肩を揺らし、また軽くなった口調でエイルは語る。今のエイルには先刻の冷たいものが薄まり、柔らかな物が宿っている様だった。

 

「私たち家族については折りを見て話そうと思っていたのだが、こんな形になってしまった。すまんな」

「ホントだよ……」

 

 ガックリとため息をついて、エイルは笑みを零した。

 

「ふふ、話が逸れたな。未だ未熟でフェルグス様の足元にも及ばない拙い剣。しかしそれでも剣鬼だなんだと持て囃され、そう呼ばれるのも私の剣が珍しいからなのだろう。……王国では長剣はあまり主流ではないなのだ。それはわかるだろう?」

 

 確かに思い当たる節はあった。エオとムインは二人ともその手に持つ物は槍だ。王国の戦士たちが持つ武器は槍が最も多く、短刀、槌や弓、投石器、と多種多様だ。

 短刀と言っても、刃渡りはエイルの剣より短い。おそらく三分の二ほどの長さしかない。それもそのはず、楯と併用して使う片手剣なのだから。

 エイルの振るう三尺五寸五分の剛剣は異端である、と言っても過言では無かった。

 

「祐一。お前は自分の剣が行き詰まって居ると感じて居るな?」

「……まぁ。そうだけど……」

 

 口を尖らせ、不承不承だが祐一が頷いた。

 

「ふふ、それは私もなのだ」

「……え?」

「鉄は、鉄と鉄とを打ち合わせて鍛え上げるもの。だが今の私には打ち合わせる鉄がない」

 

 祐一が、どういう事だ? と目を瞬かせた。

 

「切磋琢磨するにはある程度の力量を持つ者同士が噛み合わなければ意味はない。圧倒的上位の者でも得る物があるが近しい者が望ましい。少なくとも私はそう考える。鉄は鍛え上げねば、鉄のままだ。故に私は己の鉄をお前と言う鉄を鍛え上げともに練磨したいのだ。それがお前を目に掛かる理由だ……幻滅したか?」

 

 エイルは口角を吊り上げ笑った。祐一も釣られる様に、小さく笑う

 

「いや、そんなことないさ。ただ……なんつーか、結構エイルって剣バカで俗物なんだなって思った」

「ハハハ、そうだろう。私は剣の道に関しては枯淡自然の境地で臨むが、元来、欲深な人間なのだ」

 

 そうエイルは言うと、のっそりと立ち上がり、

 

「さぁ、始めるか」

「よっしゃ! 今度は勝つ!」

 

 祐一もまた立ち上がり、再び剣を交えた。

 結果は推して知るべしである。

 

 

 ○◎●

 

 

「どうですか、剣の修行の方は?」

 

 ヤマトタケルが、そう穏やかな声音で祐一に訊ねた。

 ある日の長閑な昼下り。祐一はヤマトタケルに誘われて、とある丘の上に訪れていた。

 現世ならもう季節は秋だ。それはここでも変わらないようで、夏の間は賑やかに青々と茂っていた草花も少し渇いたような、錆びたような、そんなどこか寂しげな色を身に纏う様になっていた。

 無数の草花が風に揺られ、ざぁざぁと揺らめいて独特な音色を奏でている。

 なだらかな丘の上で『まつろわぬ神』と"神殺し"という仇敵同士である二人は腰を下ろし、抜けるような空と草原を眺め言葉を交わしていた。

 寿はテスラから呪術の教授を受けていて、ラグナは時間が来たと言って一時的に異界へ姿を消している。

 だからいま祐一とヤマトタケルは二人っきりだ。『神』と"神殺し"が一緒に居るとは思えないほど……そよぐ風の音は元より、いっそ自分の心臓の鼓動すら聞こえて来る……穏やかで静かな時間だった。

 そんな風景を眺めながら、ふと、近況を尋ねて来たヤマトタケルの言葉に思わず声が詰まってしまった。

 

「うっ……、ぜ、全然だ。ここんトコずっと剣振り回してんのにエイルには掠りもしないんだよなぁ……。エイルは紙や曇と戦ってるみたいに感じるし、でも向こうの攻撃は半端なく鋭いし……。上手く行ってねぇよ……」

「ふぅむ、そうですか……」

 

 どこか意気消沈した声音で祐一は漏らし、ヤマトタケルは唸る様に応えた。出会った瞬間、殺し合った二人だが今では大分打ち解けている。

 ヤマトタケルも祐一が王国に逗留する様になって数週間の間、小まめに顔を出しては親交を深めていた。祐一もヤマトタケルも後を引かない、気っ風の良い性格であり、だからだろう……先日殺し合った蟠りはいつの間にか無くなり、仇敵である事すら忘れそうになるほど気安い仲になっていた。

 

「……ですが、そう気に病む事でもありませんよ」

「え?」

 

 そう言いヤマトタケルは神采英抜とした風貌をより一層美しく引きたてる笑みを浮かべ、祐一を驚かせた。

 その笑みは見る者を魅了し、爛々とした獰猛さを備え妖しい色香すら感じ取れるもの。荒々しいだけの益荒男には持ち得ない、春風駘蕩とした朗らかさと勇猛さ兼ね備えた笑みだった。

 

「エイルは剣神の愛し子と呼ばれるほど才気煥発な戦士。そして弛まぬ努力を以て剣技を昇華し続けた剣客。貴方も知っての通り、王国周辺には魔物が犇めいています。その中には神獣の類も居るのですが、エイルが剣を揮えば、容易く葬られる存在でしかないのです。……ふっ、私ですら剣のみの勝負なら手を焼くでしょう」

「ま、まじかよ……」

 

『神』故か、ヤマトタケルが持つその自尊心は変わらず高い物だ。しかしその彼を以て手を焼くと言わしめるエイルの技量に驚愕とも感嘆とも取れる言葉を祐一は漏らした。

 それに祐一も終ぞ為せなかった「人間でありながら神獣を狩る」という偉業すら為していると言う。

 道は遠いなぁ……。渋い顔をしながら、ガックリと肩を落とす祐一。そろそろ挽回しないと連敗記録が凄い事になるのだ……具体的に言えばハルウララと良い勝負をしそうなほど。

 ヤマトタケルはそんな祐一見ながら艶然と、しかし透明な笑みを零した。

 

「ふふ。まぁ、これでも食べて元気を出して下さい」

 

 そう言いながらヤマトタケルは懐から、竹皮を紐でゆった包みを取り出し、祐一へ差し出した。

 祐一は小首を傾げながら、紐を弛めて中身を確かめ──目を瞠った。

 

「お、おにぎりじゃん! これ、どうしたんだよ!?」

 

 そう、竹皮の包みに入っていた物は「おにぎり」だった。炊きたての様にホカホカと白い湯気が立ち、ふっくらとした新米が三角形に形作られた……祐一にとって懐かしさすら感じさせる物。

 故郷を離れて数か月。確かに異国の地でも米と遭遇する機会は何度かあったが日本でいつも食べて居る米とはかけ離れた物で……どれだけ「米だ!」と心に言い聞かせても納得出来なかった。

 祐一も米が好物と言う訳では無いが、いつも口にしていた物が手に入らないと言うのは、かなりのストレスだった。

 それがこんな現世ですらない、異界の地でお目にかかる事が出来るとは予想外も良い所であった。

 

「私の御名の一つに『小碓』と言う物があります。この小碓とは農具で米を挽く道具なのですが、それを元に少しは豊穣神としての権能を使えるのですよ。

 ……まぁ、おにぎりを一つだけ出す事が精一杯のほんの慰み程度ですがね?」

「いや、普通に羨ましいんだけど……。あー……いいなぁ、俺もそんな権能欲しいなぁ……」

 

 ヤマトタケルの言葉に、祐一がどこか羨ましそうに物騒な言葉を零した。

 

「ふふ。私を倒してみれば、もしかしたら手に入るかも知れませんよ?」

 

 そんな祐一にヤマトタケルは、垢抜けた瀟洒な笑みとウィンクを投げ、悪戯っぽい仕草を取った。

 

「うっへぇ……勘弁してくれ。ぜんぜん割りに合わねぇじゃん」

 

 げんなりした様に祐一が渋面を作る。

 

「ははは、貴方にそう言って貰えるなら、我が内に秘めたる武勇も捨てたものではありませんね」

「ちぇ……言いたい放題言うなぁ。くっそー、今度はヤマトの兄ちゃん倒してスゲェ権能手に入れてやる」

「ふふ。楽しみにしていますよ、祐一殿?」

 

 そこで、言葉は途切れた。

 

「……」

「……」

 

 長閑な時間だった。

 祐一達が滞在している王国の賑わいや、闘技場でエオやムインを始めとした戦士達の喧騒も聞こえない静かな時間。

 今、この時だけは仇敵と相対し臨戦態勢にある筈の身体もどこか弛緩して居るようだった。

 いただきます。

 そう祐一が言い、おにぎりへかぶりついた。おにぎりには何も掛かっていなかった。海苔も塩も、鮭も、昆布も、梅も、おかかも、何もない。

 ただ白米の少し甘い味が口の中に広がるのみだった。

 たけど途方もなく……うまかった。思わず、故郷を思い出してしまうほどに。

 

「うめぇな」

 

 祐一が零す。

 ヤマトタケルは何も言わなかった。

 

「うめぇ……」

 

 ヤマトタケルは無言だった。

 

 祐一は少しだけ、ヤマトタケルを不憫に思った。

 この幽世と言う故郷から遠く離れた土地で、時代も永生の時の中で移り変わり、血の繋がった肉親も居ない、記憶に焼き付いた有りもしない故郷を思い出させる物がある、と言うのはひどい生殺しではないかのか。

 それならいっその事、無い方がマシじゃないか……。祐一はそう思ってならなかった。

 

 ただ、一陣。

 

 二人の郷愁を慰める風が、そっと頬を撫でた。

 

 

 ○◎●

 

 

 ──さぁ、戻りましょうか。

 

 数刻が過ぎ、穏やかな時間を過ごしていた祐一にヤマトタケルは声を掛けた。祐一はただ頷くだけで、言葉は返さなかった。

 

 ──もうそろそろ夜になります。そうなれば、此処は魔物たちの領域となりますので。

 

 ヤマトタケル曰く、夜になると王国周辺に巣食っている膨大な魔物たちが王国付近まで跳梁跋扈し始めると言う。

 王国に辿り着く前、祐一達を地上から見上げていた者達がここら一帯を埋め尽くすのだ。

 

 ──それは……嫌だな。

 

 フッと笑って立ち上がってヤマトタケルに続いた。祐一もあの程度の魔物がどれほど向かって来ようと殲滅する事なんて容易だが、あの気味の悪い者達と進んで戦いたいとは思わなかった。

 てくてく、と二人は歩き進む。

 その間、彼らは無言だった。

 だが、別に嫌な沈黙ではなかった。なんとなく……同郷で、それでいて故郷を遠く離れた者同士のシンパシーの様な物が彼らの間にはあった。

 

 ──祐一殿、故郷へ帰りたいですか? 

 

 ふと、数歩先を歩いていたヤマトタケルが祐一を見る事なく問い掛けた。

 帰りたい。当たり前だ……飛び出したとは言え、たった一つの故郷なのだから。

 何も言わない祐一に、ヤマトタケルも変わらずこちらを見る事なく言葉を重ねた。

 

 ──あなたが望むなら、力技になりますがこの幽世から今すぐにでも現世に出る事は可能です……あなたと私が合力すれば、と言う注釈は付きますが。

 

 それは祐一にとって、心を揺さぶる甘やかな提案だった。だが……

 

 ──うぅん。確かに故郷に帰りたいけど……俺はまだ帰れるほど成長出来てないからな。それに、こんな変な身体にもなって……おいそれと帰れないよ。

 

 祐一にしては珍しく、俯き自信なさげに零した。

 

 ──そうですか。ですが、帰れる時に帰っておきなさい。故郷とは……気付いた時にはなくなっているものですから……。

 

 ヤマトタケルの表情はわからなかったが、祐一はなんとなく自分と同じ様な表情浮かべている気がした。そしてそれを、誰かに見られたくないと思っている事も。

 

 ──ふふ、先達としての忠告です。

 ──うん、肝に銘じておくよ。

 

 祐一は強い意志の籠もった眼で、空を見詰めた。

 

 ──それでもやっぱり、俺は帰らないよ。

 自分で拒絶したんだ……だから、もっと成長しないとダメなんだ……。みんなが驚くくらいにならないと、故郷に胸張って帰れない……! 

 

 拳を握り締める。焼き付く温度を孕んだ呼気と共に、灼熱の意志を伴った言霊を繰り出す。

 

 ──『信念』故に、ですか。

 

 うん。と祐一は頷いて、すぐに相好を崩した。

 

 ──ま、おっちゃんには悪いけどな? 

 ──ふふ、違いありません。

 

 彼らは肩を揺らして、笑い合う。それから半刻後に、王国に着いた。

 そこで彼らは別れた。

 



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揺るぎのない鐵

感想をくださった方、誤字報告をして下さった方、ありがとうございます。


 ──かつん。──かつん。石畳の回廊に一つの足音が響く。

 薄暗い空間を照らす光は、蝋に焚かれゆらゆら揺れる篝火だけだ。他には何一つない。

 此処はニニアンが住まう王城の中。その中をヤマトタケルは勝手知ったるなんとやら、とばかりに迷いなく進んで行く。

 もう日はとっぷり沈み、星光も雲に翳った。紫色の暗い世界でも残っていた仄かな光は何処かへ消え、王国の中心たるこの城もまた闇に染まっていた。

 ──かつん。──かつん。一歩、一歩、と踏み出す毎に、まとわりつく闇は深まっていく。

 黒い手はより昏い領域へと誘うかの如く数を増やし、何本も焚かれた篝火が、影を強く鮮明に映し出す。

 歩を進めるほどに闇は濃くなり、背中に薄ら寒い物がそろりそろりと這い回る。

 篝火に揺れ動く影がまるで形の無い手のようだ。瞬きの間に形を変え、密度を変え、場所を変え、ヤマトタケルの全身を撫で上げ嘲弄する。

 無数の手となった黒い手が、ヤマトタケルの美貌に伸びようとし──

 

『去ね』

 

 ───霞のごとく、霧散した。

 ヤマトタケルが足を止め、虚空へ視線を向ける。何もない暗闇ばかりが広がる場所。だと言うのに……()()、と人影が暗闇から這い出てきた。

 その影はまるで影法師そのものの様に捉えどころがなく虚ろで、ひどく陰気でだった。人影は現れたまま一定の距離を保ち近付く事も遠ざかる事も無い。虚も実もない不透明で不気味な影。

 しかしただ一点、わかる事がある。

 今もヤマトタケルに這い回った影、あれはこの影が差し向けたもの……それだけで友好的な者ではないと察する事が出来た。

 煌々とした篝火の光が、幽鬼の様な人影の闇を剥ぎ取り、不気味な影法師の正体を露わにする。

 それは、老人であった。

 矍鑠とした風情はない。ひたすらに陰鬱で沈んでおり生気を奪い取る雰囲気だけがあった。

 白いゆったりとした服、深い懊悩を刻んだ皺だらけの顔、節くれ立った白い服から覗く手の甲、顔の下半分を覆う豊かな白い髭。

 うち窪んだ眼窩から覗く双眸は、主君と同じく理知的でありながら濁っていた。

 この老人こそ謁見の間にて、女王ニニアンに侍っていた老ドルイドだった。

 

「……何故、あの、異物に、入れ込む」

 

 嗄れ粘ついた声が、響く。何の脈絡もない言葉だった。

 

「貴方が無関心過ぎるのでは?」

 

 良く通る清涼感に満ちた声が、響く。少し憮然とした、突き離した物言いだった。

 

「うふっ……。毎日、毎日、足繁く、通い、まるで、盛りの、付いた、情夫、だ、な」

「いけませんか? 同郷の者と出会うのは久しぶりでしてね……。忘れかけていた郷愁と言うものを思い出させてくれるのですよ」

「聊か、入れ、込み、すぎ、だ。彼奴は、神殺し。我々、とは、根本、より、違う」

「ふむ……」

「そも。彼奴を招き入れたのは……」

 

「王国の利益。……私がそう断じた為。そしてその利益とは、ニニアン殿が希求する『鋼』の復活……でしょう?」

 

 然り、然り。老ドルイドは顎髭を撫で頷く。

 

「彼奴、が、現れて、より、貴様は、おか、しい」

「おかしい、ですか? ……この私が?」

「…………」

 

 返事は沈黙だった。だがこれ以上ないほどに肯定と猜疑に溢れた返答。

 己がおかしい。確かにそうなのかも知れない。神殺しと言う討つべき存在に強い興味と好意を抱き初めているのだ。そう『まつろわぬ神』であるヤマトタケルが、だ。

 

「今、の、貴様は、真に、同士、で、ある、のか? その、念、が……吾輩、に、うず、まいて、おる」

「ふふふ。御安心なさい……貴方の危惧はすぐに杞憂であったと判るでしょう」

 

 虚ろで焦点のひどく曖昧な目線でヤマトタケルを捉え、それを柳に腕押しとさらりと受け流すヤマトタケル。

 

「ニニアン、様に、傅き……我ら、幾星、霜。志を、同じく、する、同士、に、疑い、を、持ち、たく、は……」

 

 こひゅー、こひゅー、と息を切らす老ドルイド。前のめりになり、死期が近い老人のようだがその眼光の鋭さたるや狂気じみていて、おどろおどろしい。

 ヤマトタケルと一時の間、視線を交叉させたあと。先ほどと同じく霧が晴れるように闇に溶けては消えた。ヤマトタケルは老ドルイドが消えたあともその場に佇み、沈思黙考していた。

 ほどなくして形の良い顎に手を当て、

 

「ふむ……些か長居しすぎましたか……」

 

 さほど時間も掛けずに出た言霊は、闇が陰々と広がる回廊に虚しく響いた。

 

 ○◎●

 

 祐一はあれからヤマトタケルと別れ、ひとり王国の石畳の道を歩いていた。

 辺りはもう真っ暗だ。昼であれば日常生活に支障はないほどの不思議な明かりがあるのだが、夜になるとそれも完全に喪われてしまう。

元居た世界のように電気が通っている訳でもないので街灯なんてものはない。空に輝く星々も雲に翳って姿を見せない。

 なんとなく皆の元に帰る気にならず、ぶらぶらしていたらこんな時間になってしまった。 

 もう王国の住民達も大半が床に就いている時間。例外は篝火がたくさん焚かれた闘技場くらいか。

 なんだか素直に寝る気にはならなかった。それに思い出してしまった郷愁に寝付けそうになかったにもある。素直になれない時はとことん素直になれない。夜ふかしする定番の場所でもある闘技場に真っ直ぐ向かう事なく、眠った景観を眺めながらぶらぶらしていた。

 

 ──ルォ! 

「お、ラグナ。戻って来たか」

 

 どうやらラグナが異界からひょっこり戻ってきたようだ。祐一はニコニコ笑って、ウリ坊サイズのラグナを抱き上げた。

 幽世に迷い込むと言う異常事態に翻弄され、その後も修行にかまけ、なかなかラグナと一緒に居る時間が取れていなかったのだ。意外とキューテュークルなラグナの獣皮に顔をうずめ、久しぶりにモフモフを堪能する。ラグナが嫌がって手足をジタバタさせて逃げようとするが、にやけた祐一はしっかりロックし離す気はさらさらなさそうだった。……そうしてじゃれ合っている時だった。

 

「───おぬしが木下祐一か」

 

 ふと、誰かに声を掛けられた。

 咄嗟に振り向き、身構える。知らない誰かに声を掛けられたのだから、身構えるのも当然だった。

 理由は他にもある。身体が神と相対した時ほどではないが反応したのだ。故に祐一は気付いた。その声の持ち主は──『神に連なる者である』と。

 振り向いて見遣れば、壁があった。

 否。壁と見紛うほどの容貌魁偉な巨漢が立っていたのだ。身長は、祐一よりも一回りも二周りも高く百九十cmを越えるだろう。それに見合う体軀を誇り体重も百二十キロはあるかも知れない。角刈りで一本、一本が太い針金にも思える黒髪。釣り上がった鋭い黒目。年の頃は二十代後半であろうか? 

 純日本人の容姿をした益荒男だった。

 特筆すべきはその肉体。鋼を折りたたみそのまま人型に鋳型にした様な、美々しくも雄々しい肉体。古風な甚平を着てラフな格好だが、その薄い布では全く隠し切れていない偉駆が収められていて「日本男児かくあれかし」そんな言葉が頭を過るほど。

 

「アンタは……?」

 

 抱えていたラグナを降ろし、訝しげに突然あらわれたその男に問い掛けた。その質問に彼はカラリと笑い、

 

「おう。(オレ)は叢雲と言う。おぬしに会いに来た」

 

 張りのあるよく通る声でそうのたまった。豪快な物言いと男らしく裏表のない笑みに、思わず面食らう。

 なんだこの人……。素直な感想がぽろりと口から零れそうになるのを堪え、若干引き気味にその男の言葉について思考を巡らせた。だが答えなんて「謎」の一文字しか出てこない。助けを求めてチラリとラグナを見れば、ラグナはただじっと叢雲と名乗った男を静観していた。チンギス・ハーンにヤマトタケル……『神』に相対した時は必ずと言っていいほど威嚇するラグナが、だ。

 敵じゃ、ないのか……? 少しの猜疑を残し敵愾心の薄れた表情で、だが油断しない様に表情を引き締め……そんな中途半端な気持ちで祐一は叢雲と言う男と向き合った。

 

「え、えっと……叢雲、さんですか……?」

 

 だからだろう。そんな事も相まって祐一にしては珍しく、どもり気味な言葉が口をついた。

 

「ふっ、「さん」なんぞいらん! 己《オレ》は格式張った物はあまり好かぬ。叢雲と呼び捨てにしろ、木下祐一」

 

 叢雲は戸惑っている祐一を一笑してフランクに笑い掛けた。澱みがないその笑みにまた少しだけ敵愾心が、するすると薄れていく。

 

「は、はぁ……じゃあ、叢雲。アンタはなんで俺の名前を……? それに日本人に見えるけど……この王国に居るヤマトの兄ちゃんと関係あるのか?」

「固いな、木下祐一。ふうぅむ、では(オレ)もお前を祐一と呼ぶ。お前は(オレ)を叢雲と呼ぶ。これで(オレ)とお前は対等だろう?」

 

 叢雲と名乗った大男は質問の答えよりも己の言い分を先に口にし、ふはは! と豪快に笑った。対等とは言っているが随分と強引な物言いだ、祐一は思わず困った様な笑みを零し、ラグナも呆れた様子で鼻を鳴らした。

 こういう手合いは自分の我を通さなければ振り回されるだけだ。経験則からか、そう結論付けて仕切りなおす。

 

「ん、判ったよ叢雲。これでいいだろ?」

「善哉、善哉。……しかし立ち話も何だな。祐一よ、あそこで酒でも酌み交わそうではないか?」

 

 叢雲が顎をしゃくった方向には、小さな屋台じみた酒場があった。このまま街をぶらぶらしていてもよかったが、目の前の人物への興味が圧倒的に上になってしまった。祐一はいいぜ、と頷きラグナを抱き上げ、歩き出した。

 

 酒場には祐一達以外の客は居なかった。

 闇ばかりが潜む夜は橙に輝く篝火だけが酒場を照らす光源だった。酒場と言っても屋根や壁なんて贅沢なものはなく、地面に年季の入った茣蓙が敷かれ地べたに座って注文を待つのがスタイルの様だ。

 寡黙な店主は祐一達の来訪にも口を開かず、黙々と手を動かすのみ。目線で座るように促した後は、再び作業に戻っていた。だが注文の品はすぐに来た。……愛想はないが手際の良い人物の様だ。

 二人と一匹で車座に座って青銅のコップを掲げ、乾杯する。

 祐一と叢雲がコップを手に持ち、ラグナはお猪口にも見える小さなコップで、カチンと小気味よい音を奏でる。

 そのまま三者とも一気に酒を呷る。祐一と叢雲は豪快にコップを逆さまにして、ラグナは口で器用にコップを傾けて飲み干す。

 くはぁ……っ! と肺腑からアルコール混じりの吐息を吐き出す。清酒ではなく獨酒に近い味だ。空になったコップに最初に口火を切ったのは叢雲だった。

 

「よし、おぬしの質問に答えよう。ヤマトタケルと関係があるか、だったな……ふむ、なんと言ったものか? そうだな、(オレ)はヤマトタケルの『兄弟』みたいなものだな」

 

 ……? …………??? 

祐一は目の前の人物が何を言っているのか暫しの間、理解できなかった。その言葉を噛み砕いて、咀嚼し、脳に行き渡らせるまで些かの時間を要した。

 

「は、兄弟???」

 

 何言ってるんだこの人……。祐一は失礼極まりないがそう思って仕方がなかった。線の細い若武者と筋骨隆々の益荒男と言う対象的すぎる二人。ヤマトタケルを「柔」とするなら、この叢雲と言う御仁は「剛」だろうか。

 対極もいいところじゃないか。なんだか可笑しくて一瞬呆けたあと、思わず笑ってしまった。

 

「応、あやつが弟で己が兄だがな」

「はは、何だそれ? うーん……やっぱ全然見えねぇな」

「フン、(オレ)も納得してはいない。だが数万年も共に居れば、諦めもつく」

 

 はぁ、とため息を吐く叢雲。にやにやジロジロとねっとりとした祐一の視線に顔を顰め、少し不貞腐れた叢雲は胡座を掻いた足に肘を乗せ掌に顎を乗せた。

 叢雲は『神』に連なる者らしく、身体が反応し闘志と活力が湧いてくる。だが、ヤマトタケルと共にいる様な穏やかさすら持って祐一は叢雲と言葉を交わしていた。

 なんと言うか敵意が無いのだ。この人は。ごめんごめんと少し笑いを収め、祐一は叢雲を見据えてまた口を開いた。

 

「ヤマトの兄ちゃんと兄弟って事は……神様なんだろ? でも何だろ、アンタは少し違う気がする……なんて言うか薄い、のかな?」

「ほう、それを見抜くとは流石だな。そうだ、今の(オレ)は仮初の姿でな、実際は別の場所に居るのだ。(オレ)はこう見えて芸達者でな? やろうと思えば魔女どもが使うような幽体での活動も出来るのだ」

 

 パルヴェーズと話している時を思い出してしまうほど、叢雲の言葉は難解で意味不明だった。

 わー、専門用語がいっぱい出てきたぞー? ───わかるか畜生! 

よほどその言葉を叩き付けたかったがなんとか飲み込み、早々に理解するのを諦めて別の質問に移った。

 

「ふーん。でも、ヤマトの兄ちゃんの兄って人がなんでまた俺に会いに来たんだ?」

「その事か? ……ふむ、実はな先日おぬしとヤマトタケルと刃を交えた時、(オレ)はあの戦場に居たのだ。おぬしは気付かなんだがな」

「え、あそこに? 全然気付かなかった」

「そうだろう。(オレ)はあの時眠っておった。故におぬしも気付く事はなかったのだろう」

「眠って、いた……?」

「応。永い……とても永い眠りに就いていた。(オレ)はな、あやつと共に大和から出奔し、朝鮮、中華、天竺、波斯、羅馬、果ては幽世まで……あらゆる世界を旅してはあやつと……ヤマトタケルと共にあった」

 

 胡坐をかいた上にいつの間にか腰を下ろしていたラグナの背中を撫でながら、祐一はどこか羨望の混じった目をして叢雲の話しを聞いていた。

叢雲とヤマトタケルは神に連なる者、彼らもまた不滅の肉体を持っているに違いない。永い、本当に永い時を旅してきた、と彼が今言ったとおりそれは本当のことなんだろう。それがひどく羨ましくて、羨望の言葉が漏れた。

 

「へぇ……いいなー。俺も友達ともっと旅をしたかったなぁ」

「フン、四六時中一緒に居れば見飽きてしまうし嫌気もさす。それに男二人で旅なんぞ寒気がする」

「そうか? 悪くないと思うけど」

 

 苦い声音で否定の言葉を返してきた叢雲に少し笑いながらも考えてしまった。

 パルヴェーズが……あのまま神にならず旅を続けていられたら……。そんなifを夢想してしまった。

 シーラーズを出て、次は『世界の半分』と謳われるイスファハーン、イランを出た後はトルコや東欧諸国を回って……そんな旅を夢想していた事を思い出す。

 パルヴェーズの使命を果たした後、次の旅の目的地はスロバキアだった。元々、祐一が目指していた場所がそこであったし、根無し草のパルヴェーズも着いて来てくれる筈だった。その後は色んな国を回っていつかは自分の故郷……日本に行こう。そんな約束をしていたのだ。

 酒精を浴び新たな出会いに浮足立った心が、少し沈む。あの時からずっと共にいた友は今はいない。

 何故か。

 そう。俺が───

 

 ───ルォ。

「あ……」

 

 ふと見ればラグナが上目遣いにこちらを見やり、声をあげた。頭にお猪口を乗せて、おかわりを強請っているらしい。

 はは、仕方ないなぁ……。そう呟いて、とくとくと瓶から酒を注いでいく。

 叢雲と会う前、ヤマトタケルとあんな会話をしたからか少しだけセンチメンタルになっていたらしい。

 だがそれもラグナの一声で掻き消えてしまった。ぎゅっと握り締めていた空気が霧散してしまった様に、センチメンタルな感情はどこかに消失してしまっていた。

 酒を注ぎラグナと一緒になって、手に持っていた青銅のコップを一気に呷る。叢雲は目を細めながらその光景を眺め、また言の葉を綴り始めた。

 

「大和の地を出奔してから、幾星霜。永い時は過ぎ、強固な意志を持つ(オレ)でも飽きて来た。何時しか(オレ)は眠りに就いていたのだ。そうして永い眠りは続き、もはや醒める事は無いと思っていた」

 

 叢雲は右手に持つコップを揺らし、半分まで減った酒の水面に移る自分を眺めていた。

 

「だがそれは思い違いだった。(オレ)の眠りは、おぬしという戦士の登場に破られたのだから」

「俺?」

「うむ。おぬしと干戈を交えた時に感じた身を焦がすほどの激情。正に目の醒める熱であった……。(オレ)はあの戦いで(オレ)はおぬしの益荒男振りをこの眼に焼き付け、そして、もうひとつ視えた。おぬしの中に胎動する類稀な武の天稟を。故に……」

 

 白い歯を剝き出しにして、豪快に笑う叢雲。

 

「──会ってみたくなった。この身を芯から震わせる強い戦士に。(オレ)もまたヤマトタケルと……あやつと同じ『鋼』の一党。強者と強者は惹かれ合う! ……気付けばもう動いていた。これが(オレ)がおぬしの前に現れ、おぬしの名も知っていた理由だ」

 

 そう熱く語った叢雲に、祐一は微苦笑し困った様な雰囲気で首を振った。

 

「そんな大したもんじゃないぜ俺」

「ククク、それは謙遜が過ぎると言うものだ。人の身でありながら神を弑逆する武勇。神であっても一歩も引かぬ胆力。隻眼と言う不利な状況でさえ最源流の鋼と互角に渡り合ったのだ。───なるほど、これが"神殺し"! まさに、鬼神の顕現! 羅刹の化身よ! と年甲斐もなく熱くなってしまった」

 

 膝を打って呵々大笑する大男。褒め殺し、と言う言葉があるのなら今を表す言葉なのだろう。祐一は微苦笑し、ありがとうと言葉を返した。褒められて悪い気はしないが少し大袈裟だろ、少し熱くなった頬を誤魔化す様にグニグニと揉む。逃げるようにまた別の話題を降ることにした。

 

「でも良いのか? アンタ……叢雲も神に連なる者なんだろ? 俺とは敵同士みたいなモンだし……こうして酒を酌み交わしてたらマズイんじゃないか?」

「なぁに、その事か。(オレ)は気にせん。神に連なると言っても『まつろわぬ神』に比べれば木っ端も良い所だ。それに……(オレ)の事など、どうでも良い」

 

 叢雲はコップの縁を五指で掴み、クッと目の前へ突き出した。雰囲気が変わりピリリとしたものに変わり、叢雲の双眸も鋭いものへ切り替わっていた。

 

「おぬしは此処が何処だか判っておるか?」

「……え? ……えーと、幽世ってとこで、女王ニニアンって人が王様の王国なんだろ?」

「そうだ。此処は女王ニニアンが統べる王国。幽世の中でもニニアンと言う『神祖』が統べる禁足地よ。理から外れた『不死者』や原初へ回帰した『まつろわぬ神』さえ集う場所。おぬしその人外魔境に足を踏み入れている事を自覚せよ」

「……神祖? 不死者?」

「む、その事も知らぬか……いや、無理もない。今は破られたとは言え、現世は『神人離間』の大法が為された世界であったな……人間であったおぬしが知る由もない」

 

 そうして叢雲は一拍置き、

 

「──この世は因果律がご覧になる夢にほかならない」

 

「───ッ!!! アンタ、なんでッ!?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、撃鉄を起こした様に意識が燃え上がった。犬歯を剥き出しにし、肺腑より灼熱の吐息を吐き出す。赫怒の渦巻く隻眼で叢雲を見据える。拳を握って地面に叩き付け、前のめりになる。

 膝の上にラグナが居なければ、そのまま叢雲に掴み掛かっていたに違いない。

 因果律───。

 あのおかしな空間で邂逅した、巨大な存在。己が生涯で初めて憎悪を向けた相手。「世界」と言う人形から伸びる糸を手繰る傀儡師。

 パルヴェーズ、ラクシェ、仁さん、転覆した船の人々……。

 家出してからパルヴェーズと出会い、殺し合い、ドバイに悲劇を齎し、これまでの旅を裏から操り、今も操っている仇! 因果律! 何故アイツの名が! 

 

「知っていたか。これはかつて出会ったとある智慧の神の言葉だ……そしてこの世の真理を端的に表した言葉でもある。例え神であっても逃れられぬ絶対遵守の法を定めた、大いなる存在である因果律。まぁ、その事はいい。いまの本題とは関係ない故な」

「関係ない、って! 知ってるなら教えてくれよ! 俺はあのクソ野郎をブチのめすさなくちゃ気が済まねぇ! なのに何も手掛かりがない! 何処に居るのかも! どうすれば倒せるのかも!」

「ならん。これは掟なのだ。神に連なる者ではないおぬしには因果律にまつわる事柄は答えられぬ。この掟は例え『神』であっても守らねばならぬ絶対遵守の掟。神話から外れようとする『まつろわぬ神』であっても、な」

「なら……力ずくで……!」

 

 腰を浮かし叢雲に拳を向けようとする。だと言うのに膝の上のラグナは瞑目し微動だにせず、叢雲も小さく首を振った。

 

「……そういきり立つな。(オレ)も因果律について詳しい訳ではない。知ろうとしなかった故な……興味が無かった。 (オレ)は最源流の鋼、紛う事なき剣の一党。戦いのみに注力し、刃を鈍らせる事は切り捨てて来た。そんな訳だ、(オレ)は因果律についておぬしが知っている以上の知識は持ち合わせておらん」

「ぐ……!」

 

 叢雲は睨むような視線と頑固一徹とした態度で返した。どんな強い視線を注ごうとも、大岩の如く泰然自若とし、目を眇めて口に酒を付けている。

 ギリギリ……と歯を食い縛り、俯く。叢雲からはなんの情報も得られないのを悟ってしまったのだ。

 

「話しを戻そう。今言った『神祖』と『不死者』に纏わる事だ。……いいか?」

「クソっ……判ったよ……」

 

 拳から力を抜く。浮かした腰を胡坐に落ち着ける。ラグナは瞑目していた目を片方だけ開き、祐一を見遣ると直ぐに閉じた。そのまま目が合えば思わず目をそらす事になっただろう、祐一はなんとなく想像できた。

 

「よし。……この世界は一枚岩ではない。因果律と言う大樹に寄り添い秩序を司る者。秩序を厭い自儘に生きる爪弾き者……。因果律に寄り添う者が大半だが、時たまに理から外れ思うがままに生きる者達がいる。この地に集まる人外の化生共がまさにソレよ」

「この王国に……?」

「応。この王国を統べるニニアンはとある『鋼』の復活を悲願としている。(オレ)が判るだけでも二、三百年は『鋼』の招聘のために動き、あれはもう正気ではない。そのような輩が頂点に君臨する場所なのだ……いつ何時おぬしを謀略の糸で絡みとり息の根を止めるかわからん」

「『鋼』……つまり神様を生き返らせるってこと……なのか……?」

「少し違う。神は不滅の存在故、例えこの世で滅ぼうと《不死の領域》に戻るだけなのだ。そもそも『神祖』とは地母神の成れの果て、『神祖』であるニニアンもかつては強大な女神であり件の『鋼』もまた縁深い関係にあったのだ。本来、『神祖』は女神であった頃の記憶を持たぬものだが幽世に現れたことで過去の扉が開いたらしい……あれはその記憶が忘れられないのよ。……故に途方もない執着を燃やす」

「それがこの王国の女王……『神祖』ニニアン、なのか」

「そうだ。確かに王国の戦士たちは気のいい者たちばかりだ。しかし神に連なるものはおおよそ敵と思え。常在戦場を心得よ」

「常在、戦場……」

 ──ルォ! 

「ラグナ気を付けろっていうのか? ……楽しくて意識してなかったけどここって戦場と変わりないんだよな……。なぁ、ラグナ……いまは俺の事よりおっちゃんの側に居てやってくれないか。俺はともかく、おっちゃんは普通の人間だからな……」

 ───ルォ? 

「いいのかって? ああ、いいに決まってるさ……俺のことなら自分で何とかするからさ」

 

 祐一は決断した。何よりも守らねばならない彼をラグナに任せるということを。

 叢雲に教えてもらった通りなら、ここは恐ろしい土地だ。自分の手のひらがとても小さく狭いことはよく理解していたから……ひとりだけではこぼれてしまいそうで……。

 己の身命を賭してでも、巻き込んでしまった彼は守らねばならなかった。修行しているという免罪符を携え、彼に甘えているのも自覚していた祐一はその思いをいっそう強くした。

 

「でも……なんで、そんな事を教えてくれるんだ? 俺とアンタはもともと敵同士な筈だろ。それなのに、なんで警告じみた事を?」

「フン、おぬしをつまらぬ奸計で失いたくは無かった。それだけだ。優れた戦士が謀略にて倒れる様を(オレ)は何度も見てきた。戦士は戦場でこそ、いっとう輝く。戦士は戦わなければならない……戦う者なれば」

 

 寂しげな色を孕んだ眼と声音をどこか遠くへ投げかける叢雲。旧い記憶を思い越しているのだろうか、彼ならぬ身である祐一には察することが出来そうになかった。

 

「ああ、忘れていた。実はな、ここでおぬしと会っていることはあやつ……ヤマトタケルには知らせておらぬ。そもそも奴のことだ、(オレ)が目覚めたことすら気付いておらなんだ。故、おぬしに会い来た理由にはあやつへの意趣返しの意味もあるのだ。という訳だ……」

 

 叢雲はいたずらっぽく笑って「おぬしも内緒にしてくれ」と頼んで来た。なるほどね。祐一もイタズラに加担する悪ガキの笑みをニンマリと浮かべ頷いた。悪童のようなイイ笑顔を浮かべた二人はもう一度コップを掲げ、乾杯する。そのままぐいっと一気に呷った。指切りげんまんにも見えなくもない、男同士のお約束である。

 

 いつの間にか酒の入っていた瓶は空になっていた。これで何本目だろうか? 地面に散らばる酒瓶に呆れそうになるが、酒豪である祐一と同じくうわばみであった叢雲が止まることはなかった。寡黙な店主にも原因の一端があり、酒瓶が空になれば言葉もなく手早く次の瓶を差し出すのだ。

 叢雲の手が伸びてラグナの小さな身体をわしわしと撫でる。ラグナは嫌がらなかった。やはり叢雲には本当に敵意は無い様だ。ちょっと嫉妬が湧くのを自覚しながら祐一は思った。

 

「やっぱヤマトの兄ちゃんとは長いんだな。今さっき聞いた話しでも色んな国にも行ったって言ってたし……強い奴らとの出会いもあったんだろ?」

「知らぬ。(オレ)が戦い以外のことに興味を示したのはここ数百年ほどでな……かつては戦いにしか興味を示さず、戦いばかりにかまけて来た生粋の武辺者。赫々たる武勇を誇る剣の一党だ。多くの同胞が居た。だが友人はおらん。ヤマトタケルも兄弟の様なものとは言え、言葉を交わしたのは数えるほどしかない」

 

 ふっと息を吐いた。笑おうとして失敗した様な……そんな覇気のない仕草。

 叢雲らしくないな、なんとなく……。そう思った。目の前の人物とは今さっき会ったばかりだ。だが彼の気性は直ぐに看破していた。チンギス・ハーンやパルヴェーズ……そんな方向は違えど裏表のない竹を割った様な人物に違いないのだ。まだまだ"神殺し"となり日が浅いとは言え『鋼』と何度も刃を交え、その気性を感覚的に理解しはじめていた。

 

「ひっでぇな。俺はもう叢雲の事、友達だと思ってたのによー! 盃交わしたら友達さ! 兄弟や友達が遊ぶのに理由なんて要らないだろ!」

 

 だから祐一はそんな叢雲を見ていたくはなかった。パルヴェーズがいつの日か思い悩んでいた時の表情と酷く被っていて……ほっとけなかったのだ。祐一の言葉に、叢雲の鉄の如く厳つい面貌が驚きで歪む。少し重くなった空気が軽くなった。柔らかくなった表情を浮かべ、ぐしぐしと祐一の頭を乱暴に撫でる。

 

「ふはは! そうだな、これに懲りず付き合ってくれ───我が友よ!」

 

 ニッと口角を上げて笑い、そして叢雲は姿を消した。それが彼との出会いだった。

 




原作世界線、Ex世界線、カンピオーネス世界線、ヒューペルボレア……。シリーズが長く続くと、世界も設定もたくさん増えて二次創作楽しいですね(ガンギマリ顔)
みなさんもお暇でしたら是非書きましょ(深淵からの声)


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私の勝ち!なんで負けのか明日までに考えてね?

何話かほのぼのが続きます


 刃の一閃が走り、祐一の眼前を通り抜けた。刃風を靡かせた鋭い閃光が唯一残った視界を掠めた。

 祐一は身じろぎもしない。動けなかったのではない……動かなかったのだ。

 ドンと構えた太い胆力で、薄皮一枚の際どい一閃をくぐり抜ける。過ぎさった刃を横目に、手中に収めた鉄剣を掬い上げ逆袈裟に振り上げる。けたたましく刃男がうねり、鉄剣が相対するエイルの喉元へ向かう。

 エイルもまた凄まじい胆力で切っ先を見据え、首をひねって躱す。はらりと数本の金髪が舞う。

 これじゃあだダメだ……! 祐一の隻眼が細められ、苦々しい色が混じる。

 胸元へ水平に構え、エイルは祐一を見据えた。その構えを見て取った祐一の脳裏に苦い記憶が過ぎるとと同時、眉間に皺が寄った。

 エイルと刃を交える様になって、これまで。何十、何百と打ち合い何度も辛酸を舐めさせられた物と同じ物。

 この型はひどく危険だ。祐一は手に持っていた鉄剣を八相に構え、迎え討った。同時に己が会得する奥義「心眼」を発動させる。

 くるぞ! ──瞬間、無数の閃光が煌いた。

 速い。速い。見る事すら叶わぬ、刃の大瀑布。本当に一本の剣から繰り出されているのか疑問すら湧く程の剣の波。

 それを祐一は眇めた隻眼でしっかと見据える。打ち、払い、躱し、見切る。その動作を狂気的な集中力で、何度も繰り返し撥ね退けていく。

 しかし完全に防ぎ切る事が出来なかった斬撃が身体を捉え、至る所に裂傷が量産されていく。鋭い痛みと刃の冷たい感触が痛覚を激しく刺激する。

 だがそれでも眉一つ動かさず、強い目で剣を見据え、活路を見出す。

 ──好機! 剣を振り下ろす。瞬間、鮮血が舞った。

 

 この王国の戦士は片手に剣、もう片方に盾と言うのが基本的なスタイルだ。だが相対する剣神の愛し子であるエイルは違う。

 両の腕で剣を握り、一切脇道にそれる事なく剣のみを揮うのだ。だが両腕が同時に、それも十全に扱える特異な盾も彼は持っていた。

 嘗てエイルが若かりし頃……ヤマトタケルと言う頂きへ登り詰める為、強さを求める求道者であった頃。

 彼は剣を愛し、剣を求め、剣に狂った。己の利き腕である右腕を根本から切り落とし、剣神ヌアダに捧げたのだ。

 そして生死の境を彷徨い歩き、それでもなお狂気的に剣を握りついに神に認められ手に入れたのだ───『銀の腕(アガートラーム)』を! 

 ───ギィィィィンッ! 金属の打ち合わさった甲高い音が空間に響く。この一月近くの間よく耳にする不快な音に思わず苦い顔を作る。

 エイルの右腕は外側だけは常人の物と変わらない腕だ。しかし少し皮を剥げば与えられた神と同じく神与の白銀に輝く義腕が現れる。祐一との初戦で見せ、祐一から隙を引き出し虚を突いた義腕が。しかし……

 ───構うな、剣を振るえ! 

 

「だぁぁぁあああああっっ!!!」

 

 一気呵成に、荒れ狂う激情と共に義腕を叩き折ろうとする。烈火の如き剣気がエイルの髪を払う。

 内功の扱いに長けた祐一から繰り出される一刀は、鉄を引き裂く剛剣である。切り裂くのではない、その剛力に任せ引き裂くのだ。故に、彼の一太刀を浴びれば如何に堅固な銀の義腕であっても、叩き折られる事は必定であった。

 だからエイルは取り合わなかった。右腕を捻り、風にたなびく柳の様にスルリと受け流す。翩翻と翻る旗の様に形を変え、佇む巨岩の如く不変の意志を持って、致死の一撃を軽く受け流す。

 轟音が響き、目標を見失った祐一の剛剣が大地を裂く。それを冷徹な瞳で見据えたエイルが、胸元で剣を構える。

 マズイ! 祐一も前のめりになった身体をそのまま前に捩り、飛び退く。だが……遅い。

 ──青光一閃。

 エイルの長剣が祐一に迫った。己と放たれた剣の間に、なんとか剣をねじ込み防御する。しかし不安定な体位は踏ん張る事を許してくれない。そして放たれた長剣も、鋭く重い。

 なんとか受け切り無傷だったのはいいが、剣の勢いに為す術もなく跳ね飛ばされ、手に持った剣は宙を舞った。

 また一つ、祐一の連敗記録が更新された。

 

 修行が終わり、闘技場の隅にある水場で身体を清めていた。火照った身体に浴びる透き通った清涼感のある水が、修行で昂った精神すら冷やしていく。

 見れば修行で負った傷も治り掛けている。つくづく規格外の身体だ……祐一は呆れ混じりに思った。

 視線を落とせば水面に映った自分の顔が目に入り、家出した頃に比べれば随分と精悍になったものだ、と思う。

 一番に分かりやすいのは眼の眼帯。エイルが気を利かせて持って来てくれた革製の眼帯だ。これ治るのかな? そんな疑問が湧き、一生このままだったら戦い難いよなぁと、むむむと顔を顰める。

 自分に魔術は効かなかったと言っていたテスラの話を反芻し、そこでニヒルに笑う『雄羊』が見えた気がしたが全力で無視する事にした。

 もう何度か死んで、慣れはしてきたでもないが、片目を治す為に死ぬと言うのは勘弁して欲しかった。

 

 ふと、空を見上げる。空は濃い紫を映し出して此処が故郷のある世界とは全く別物なのだと痛感させられる。

 日本では十月あたりだろうか? 

 なんとなく祐一は、家出してからこれまで何日経ったか振り返る。もう三ヶ月近く故郷に帰って居ない事を思い出し、郷愁の感情が顔を出す。

 神殺し、なんてモノに転生し数週間が経ったが「息も付かせぬ」と言う言葉が相応しい程の波瀾万丈な珍道中に、平穏そのものだった遠い故郷を想う。

 それに連られる様に共に旅をした友と、最後に果たした約束を思い出してしまった。

 ……それとこの一月の間、負け続きの記憶も。

 思わず渋面を作り、悔しさと苦い記憶を振り払う様に汗と血の滲んだ服をゴシゴシ洗う。

 旅に出た時と比べれば祐一と同じくらい、もはや全く別個のものと言ってもいいほど変わり果てたブレザーはどれだけ汚しても、破いても、元に戻る不思議な物に変貌していた。

 家事全般を担当しているテスラが洗濯してくれるので、今洗っていることすら特段必要な訳ではないのだが、礼儀としてこれくらいはしなければならないと祐一は思っていた。

 ふぅ、と一息つき濡れた顔を拭きながら、エイルの元へ向かう。と言っても、すぐ近くで剣の手入れをしているだけなので、向かうと言う程ではないが。

 彼は汗まみれで傷まみれの祐一とは違い、汗一つ傷一つ付いていない。エイルと自分との遠く離れた距離を幻視して、今度は当てる! と心に誓う。

 

「……お前は無手の方が、何倍も恐ろしいな」

 

 気配に気付いたエイルがポツリと、祐一を見ずにそんな事を呟いた。顔を拭いていた手を止め、不思議そうにエイルを見遣る。

 やっと彼は視線を寄越した。

 

「……只人であれば武器を持った方が恐ろしく感じるが、お前はそうじゃないと言いたいんだ。お前が持つ戦いの嗅覚は獣のソレだからな」

「獣て……」

 

 あんまりじゃないか、そう続けようとして、ふと自分の戦歴を振り返り「あながち間違いじゃないな……」と思わず閉口してしまった。

 

「だがその持ち味も武器を持てば途端に嗅覚を活かしきれなくなる。お前はどうも剣に意識が集中しがちだからな。私としてはお前は武器を持った方が逆に与し易い。まぁ、私の得手、と言うのもあるがな」

「ふーん……」

 

 なんとなく理解した風に答え、しかしそれに構わず更にエイルは言葉を続けた。

 

「だから祐一、お前の思い違いをしていると私は感じた。……武器は剣だけではない。靭やかで頑丈なその肉体こそ、どんな刃にも劣らない武器であり、どんな刃も通さない盾なのだ」

「……!」

 

 その言葉はスッと頭の中に入り、ストンと腹の中に落ちて、身体に沁み渡り溶けて行った。

 チンギス・ハーンとの死闘が脳裏を過ぎる。どれほど強かな一撃を受けようと耐え凌ぎ、行く手を阻む人狼達を悉く討滅してきたこの肉体こそ、一つの武器なのだと何の抵抗もなく受け入れる事が出来た。

 

「俺の身体が一つの武器、か……」

 

 エイルは静かに頷く。

 

「……それに祐一、お前の振るう剣は情が強すぎる。私が無心で揮う剣を無情剣とすれば、お前の裂帛の剣は有情……いや、激情の剣と例えていいだろうな」

「激情?」

「ああ。……私が冷徹に揮う静かな剣を『静』とすれば、お前の激情と共に振るう荒ぶる剣は『動』だ」

「『静』と『動』……? うーん、確かにエイルの剣は鋭くて静かだけど……」

「判らないか。そうだな……祐一、お前は手に持った剣で、己の意思で、罪なき人を斬り捨てられるか?」

 

 エイルがそんな事を問い掛けた。

 

「ムリだな」

 

 即答だった。有り得ないとばかりに首を振り、そもそもそんな質問をする事が理解できないと否定する。それは、日本と言う平和な国で生きてきた人間として、当然の答えでもあった。

 そんな祐一に思わずエイルが闊達に笑う。

 

「ははは。だろうな、肯かれたら困る所だった」

 

 そして一拍置いて、

 

「───だが、私は出来る。例え、女子どもであろうと……それがテスラやエオ、ムインであっても。勅命が降れば、一切の躊躇なくこの剣を揮うだろう。それが『神』とさえ打ち合える『静』の剣……無情剣の行き着く先なのだ」

 

 祐一はエイルが放った言葉に驚いて顔を跳ね上げ、彼を見た。

 彼の目は、一切の淀みがなかった。いっそ寒気がするほどに。自分の言葉が真実であり、決して妄言虚言の類ではなく、そこに嘘偽りなど無いのだと言葉もなく語っていた。

 俺には、出来ない。

 目を伏せ、強く思い知らされる。自分が何故エイルに何故勝てないのか、その答えに少しだけ触れた気がした。

 親しい者を手に掛ける。そんな境地に至るまで、祐一は剣に狂えそうもなかったし、戦いに狂えそうもなかった。それは情の強い彼にとって決して犯してはならない禁忌に違いないのだ。

 獣の嗅覚、強烈な意志、類稀な豪運、おかしな肉体……剣という土俵に於いて自分の持てるカードを幾ら並べても、エイルの出した一つのカード……無情剣に匹敵するカードは見当たらなかった。

 

「そしてお前の振るう激情の剣は確かに扱い辛い物なのだろう。その時の精神に応じてお前の剣は研ぎ澄まされもすれば、鈍りもする。

 確かに私の無情剣の様な安定感はないかも知れない。……しかしその激情と共にあれば、お前が人の身で為した偉業のように、今度は剣にて『神』をも倒せるかも知れん」

「激情で……『神』を」

「お前が神を殺した時は無手だったのだろう? ならば剣で出来ない道理はない。必ず成し遂げられる」

 

 なるほど、これが剣鬼か。祐一は悟った。

 剣神の愛し子と誉れ高いエイルは、当然の如く剣が一番強い武器なのだと信じている。

 故に無手で為せたのなら、それよりも強い剣を使っても出来るに違いない、そう信じているのだ。

 

「そして『神』とも打ち合い、果てには『神』をも斬り捨てられるかも知れない。そんな奇人の世迷い言にすら聞こえるひとつの極致がある」

「神と打ち合い、神を切り捨てる……?」

「そう。それこそ私ですら、寸毫も覗くこと叶わぬ境地。激情と無情と言う矛盾した物を渾然一体とするもの……そんな一挙両得の『極致』があるのだ」

 

 激情と無情と言う矛盾した物を渾然一体とする奥義……。

 

「剣は無情……身体には激情……か」

 

 そう口にした瞬間、うん? と祐一はそれに似たようなものが何かある気がした。

 

「そうだ。それこそ我ら剣の徒が目指す頂きの一つだ。しかしその頂きには、私よりもお前の方が一番近い場所にいる。それは我々が会得する奥義の極意に答えがあるだろう」

「そっか、心眼か」

 

 心眼に目覚めた時の、あの特異な感覚。相反する理性と本能、静と動が混じり合う、無我でありながら狂奔に狂っている不可思議な感覚を思い出す。

 陰陽太極図の如く、感情の奔流に必ず冷徹な思考があり凪いだ心に必ず荒れ狂う感情があって初めて行使できる「心眼」と言う奥義の極意だ。

 

「そう、無情と激情の極意。私は静とお前は動……私の私情を殺し尽くし、無我の境地の末に行使できる物ではなく、お前の矛盾する二つの物を共存させ、渾然一体とする物こそが相応しい」

 

 夢想剣、無念無想、無我の境地。エイルの寒気がするほどの研ぎ澄まされた剣気と冷徹な瞳の中には、静の極みとも言える極意が込められているのだろう──だがそこに祐一の持つ激情はない。

 

「剣は無情、身体は激情。冷徹にして激情のままに、戦わねば会得できぬ剣。それがお前の至るべき境地。

 その為には剣も武器の一つであり、肉体も武器の一つ。それと同じ様に四肢も剣も同じ肉体なのだ。その事、ゆめゆめ忘れてはならん」

「……」

 

 祐一は深く頷いた。

 

 ○◎●

 

 

「───俺の『百万一心』の方が合ってる!!! そうだろユーイチッ!!!」

「うるせぇ! そんなダサいのより『神狼合神テムジーン』の方が万倍カッコいいだろうがよ!!!」

「テメェの方がクソダサいわターコッ!!!」

「どっちともダセェよ……。もう『地獄の軍勢を率いるものー』とか『誰よりも前で駆けるものー』とかでいいんじゃねーの?」

「あはは……藪蛇だったねぇ……」

 

 エイル邸の広い庭で祐一とムインがボディランゲージを加えながら言い争い、それを離れた場所でエオと寿が呆れ気味に眺めていた。

 舌鋒を振るうバカ二人に気怠げなエオが手をひらひらと振る。いつもなら武で競い合う彼らだったが今は様子が違っていた。

 なぜ彼らは意味不明な単語で争いあっているのか……それは寿の一言から始まった。

 

 ───カン、カン。二本の棒が打ち合わさり、心地よい快音が耳朶を打つ。

 棒を振るうのは二人の若人、赤い髪を揺らすエオとムインだった。その俊敏さはそこらの矢玉なんぞよりずっと速く、靭やかさも豹を思わせるそれだ。

 そんな二人が鍛錬する傍ら、祐一、寿はエイル邸の庭で寛ぎながら駄弁っていた。

 

「ん? おっちゃんなにやってんだ?」

「ああ、これかい? ここに来る前からもってた携帯の充電がついに切れたみたいでね? ま、ここじゃ電波も繋がる訳ないし無用の長物なんだけどねぇ……気になってちょっと見てたんだ」

「うえ、マジかよ」

「はは、そんな渋い顔しないでよ。一応、外付けのバッテリーはあるんだ。これがあればどうにかできるし」

 

 そういって寿はゴソゴソと携帯をイジりながらからからと笑った。

 そっか。そんな彼の表情をみつつ、そっかとどこか眼を伏せながら祐一は声を返した。

 そう言えば、とそんな表情を作った寿が、祐一にとある質問を投げかけた。

 

「そういえば君の……権能だっけ? あれに名前ってあるのかい?」

「名前? ……うーん、特にないかなぁ。てか、あんま考えたことなかったし。別にあってもなくても困らないしなー」

「そうなのかい? なんだかああ言う凄い能力があったらさ名前付けたくならない? ほら、アニメや漫画でも必ずあるだろ、「かめはめ波」とか「石破天驚拳」に「水の呼吸 壱之型」とかいろいろあるじゃない」

「確かに。ぜんぜん考えたことなかった……」

 

 言われて気付いた。確かに『ウルスラグナの十の化身』とか『チンギス・ハーンの権能』やら適当に当て嵌めていたな、と今更気付く。

 これはいけない。祐一に忸怩たる思いが渦巻いた。男として、胸に宿る熱き思いがある者として、必殺技には名前がなきゃ行かんだろ! そんな思いが……! 

 早速、口を手のひらで隠すようにして沈思黙考する。

 パルヴェーズの権能は今のまんまで良いかな……でもチンギス・ハーンはホントまんまだな……。うーん、チンギス・ハーンチンギス・ハーン……蒼き狼……。

 うむむ、と唸り声を上げたときだった。

 

「へぇ、ユーイチの権能ってやつに名前付けんのか」

 

 いつの間にか手を止めたらしいエオとムインがこちらへ歩いて来ていた。ムインが汗を拭って笑いながら、

 

「あれだろ? ユーイチの奴って軍団をどっかから持ってくるって言ってたあれだろ? だったら『百万一心』! これしかないねっ!」

 

 毛利家かな? 寿はぽつりと零した。言い切ったムインの命名に、やれやれ全然判ってないぜ……と言ったふうに祐一が首を振り、

 

「ハァー……、わかってないなームインは……。やっぱりチンギス・ハーンをリスペクトして『神狼合神テムジーン』だろ? これっきゃないぜ!!!」

 

 え、リスペクト??? 思わず寿の口から驚愕の声が漏れた。彼のなかでリスペクトとはどんな意味なのかすこぶる興味が湧いたが、当の本人はもうムインと額を突き合わせ青筋を立てていた。

 

「は?」

「あ?」

 

 メンチ切る両者。程なくして不毛で得るもののすこぶる少ない戦いが始まった。

 そんなわけで話は冒頭へ戻る。

 

 もうなんだかんだ三十分は言い争っている二人と茶化すエオにため息が漏れる寿。もうじゃんけんで決めれば良いじゃないの……。そんな思いすら湧き上がってくる。

 

「さっきからおっちゃん文句しか言ってねぇーじゃん。おっちゃんもなんかカッコいい名前考えてんのかよ?」

「え、僕かい? そ、そうだねぇ〜僕はほら……あんまり奇を衒わない感じで『天地鳴動する蹂躙王の軍靴』とか……」

「ダサい」

「厨ニ病かよ」

「ないわー」

「君たちに言われたくないよっ!?」

 

 くそったれぇ……。思わず野菜の国王子になりそうな雰囲気で寿は悪態をついた。

 そんなとき、ガチャリと音がして洗濯物を両手いっぱいに抱えたテスラが庭に出てきた。目敏く見つけた祐一が手を振って声をかけた。

 

「あ、テスラ! 今俺の権能に名前付けてるんだけどテスラはなんか案ない?」

「え? 権能ってあれよね神様の力のことよね……? おもしろそうだけど、それってかなり罰当たりな気もするわね……。でもそうねぇ……祐一くんの権能は騎乗の類だったわね、なら『神鞭の騎手』なんてどうかしら?」

「へぇ、悪くないんじゃね? まぁ俺の『誰よりも前を駆けるもの』の方が良いけど」

 

 エオがおっ、と言う顔を浮かべ、寿ももうこれ決着でしょと楽観視して胸を撫で下ろした。

 しかし。ハァー……と、特大のため息を吐いたムインが鋭い眼光で祐一を見据えた。

 

「へっ、みんなダメダメだぜ! 結局、ユーイチと俺! 最初っから戦っているのは俺達だけだったみたいだなぁっ!」

「フッ、ムイン……。やはり好敵手()はお前しかいなかったか……ドラァ! やぁってやらぁぁぁぁぁ!!!」

「シャアオラァ! かかってこいやーッ!」

「あ ほ く さ」

 

 暴力はすべてを解決する! と言わんばかりの二人にエオに呆れながら芝生にねっ転んだ。

 

「へっ! 腰抜けはそこで座ってな!」

「──あ゛ぁ゛!? 今なんつった!」

 

 エオは激怒した。必ず、かの無知蒙昧の魔王と愚弟を除かなければならぬと決意した。

 さぁ、開戦だ───! 

 武器を携えた三人はそのままめくるめく闘争の渦に飲み込まれ、目出度く泥沼化。本格的に不毛な戦いが始まってしまった。

 

 三時間後、紆余曲折の末に権能の名は『神鞭の騎手』に決定した。

 

 テスラさん()の一声がなければ即死だった。

 いつの間にか槍を持たされ吶喊する直前だった寿は震えながらそう言い残した。

 

 そんな穏やかな秋の昼下り。




私が英語力皆無なので、権能名の英訳はないです。なにか良さげなものがあれば採用させて頂きます()


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世を満たす天籟の調べ

誤字報告された方、感想をくださった方ありがとう御座います。


 光陰矢の如し。

 王国に祐一が滞在する様になり、一月と少しの時間が過ぎた。祐一が剣を学び始めてもう一ヶ月ほどの月日が過ぎた、と言い換えてもいいだろう。

 元々身体能力に優れ、剣のセンスもあったのかメキメキと実力を伸ばし始めた祐一。毎度毎度、「勝ぁぁつ!!」と意気込み、連敗記録を伸ばす姿があった。

 そして祐一のみならず、寿もまた文字を使った呪術の習得に励んでいた。

 ここで言う文字とは王国の標準語であるオガム文字だ。オガム文字はドルイド達が神聖視する自然……樹木名が基礎となっている。その事はオガム文字の綴りが樹木名ですべて当てられている事からも察せられ、イラクサ、オーク、ニワトコ……と様々だ。

 文字の構成は長い縦線を軸として横線に上下や斜めの線を引く簡単な物だ。

 しかし前評判に反してオガム文字を使った呪術の習得は、難解な物だった。呪術自体は石か紙にオガム文字を刻み込めばそれで簡単な呪術書が出来上がるらしいのだが、前知識である王国の言語の習得に寿は躓いていた。

 寿から見れば話している言葉は日本語だが、実際に王国で使われている言葉は全くの別物で、そのギャップに喘いでいた。

 テスラ曰く、王国に住む者達は現世の人間より遥かに霊的なステージは高い場所におり、知らない言語でも意図せず伝える事ができると言う。

 これも呪術の奥義の一つらしく『千の言霊』と言うそうだ。祐一もまた"神殺し"に新生し霊的なステージが上昇し『千の言霊』を手に入れていたらしい。

 イランの言葉やドバイの言葉が突然判ったのは、これか……。と祐一は遅れながら理解した。

 そんな苦境のなかで寿は毎日ひぃひぃ喘ぎ、祐一はというとオガム文字を見た瞬間、目が滑りまくって認識すら出来なかった。

 まぁそれでも寿の魔導書作りは王手を掛けていた。

 

 ○◎●

 

 ───ゴロゴロゴロ……。

 ぎっしりと荷物を載せた荷車が舗装もされていないはずの道を悠々と進んでいる。車輪が回って轍のできた道を騒がしい音をかき鳴らす。

 先日まで雨が降っていたのだろうか。水はけが悪いのか道はぬかるんでいて、車輪が嵌って立ち往生しそうなほどだ。それでもこの荷車は曳き手が力持ちなのか、気にする事なく進む。

 大層力持ちなのだろうと曳き手を見てみれば、そこにはやはり四本脚で力強く、そして疲れた様子もなく進む獣が一匹。それも馬や牛ではない。大きさだけは馬かと見紛うほどだが、豊かな体毛と人懐っこそうな面構えは馬や牛にはないもの。

 その正体は『犬』だった。それもただの犬ではない。テスラと言うドルイデスが従える動物なのだから。名を「ドゥー」と言い『女神の落し子』テスラが誇る使い魔であった。

 王国じゃ、戦車を曵く馬はいるけど馬車を曵く馬は居ないってエイルが言ってたな……。

 馬は荷車ではなく戦車を曵くもの。馬か牛並みのサイズになったラグナの上で、祐一はエイルから教えてもらったことを反芻していた。

 

 祐一はエイル達と共にとある場所へ向かっていた。

 とある場所、と言うのも王国と懇意にしている部族があるらしくそこへエイル一家と祐一と寿それにラグナを連れて一行は歩を進めていた。

 荷車にはうず高く積み重ねられた荷物をロープでしばり、デコボコとした道でも落ちない様に固定されている。御者まがいの事をしているのはエイルでドゥーから伸びる手綱をよく操っていた。テスラはエイルの隣に腰掛け仲よさげに肩を寄せ合っている。

 エオとムインはと言うといつの間にか喧嘩をおっぱじめ、結局競争だなんだと叫び一足先に目的地へ向かっていた。

 こうして一家総出で出向いて居るにる事にも理由があった。何やらもう少しすれば催し物があるらしく、それに必要な品物を届けると言うのだ。同盟を組んでいる『メロウ』と言う部族は王国内でも重要な地位を占める盟友らしく、王国でも名の通ったエイルが出向かねばならないらしかった。

 距離もそれほど離れておらず、半日もあれば到着すると言う。明日には帰れる、とエイル達は言っていた。

 みんなで何かすんのって初めてじゃないかな……? もう一月ちょっとを過ごし、彼らとも大分打ち解けたなとふと思う。

 寿はこんな時でも魔術書の作成に熱心だ。隣でガリガリペンを走らせているのを見れば分かろうというもの。進捗は良く判らないが、ここの所毎日楽しそうなのは知っていた。

 辺りを見渡す。荷車がやっと通れるぬかるんだ道を背の高い草木が囲み、今にも覆いそうな勢いだ。人の手が入らなければ直ぐにでも自然の力に呑まれるだろう。

 それを少し距離感の掴めない眼で見遣る。眼帯に手を当て、不便なモンだなぁ……と独り言ちる。隻眼になって一ヶ月以上が過ぎ、流石にもう眼も慣れてきた……のだがやはり違和感は拭い切れない。

 この違和感がエイルとの戦いで、不利になっている事は判っているのだ。だけど、それを言い訳になんてしたくはなかった。

 

「おおっ、成功したぞ!」

 

 つらつらと物思いに耽っていた祐一の耳にそんな声が聞こえた。なんだ? と後ろを振り向く。そこには喜色満面の……今にも踊り出しそうな寿の姿があった。

 

「なんだよ、おっちゃん」

「ゆ、祐一くん! やっと成功したんだよ、呪術が! 異界の神秘、未曾有の叡智、僕らの希望! 現世で危機に晒されている人類の反抗の狼煙になるかも知れない呪術がねっ!」

「ふーん、そんな小さいヤツが?」

 

 彼の手に収まっている小さな紙を指差す。訝しげな祐一に、寿は全く不快感を示す事なく身振り手振りで喜びを露わにしていた。

 

「ちっぽけでも結構! これは僕にとっては大きな一歩さ! 現世じゃ誰も成し遂げられなかった呪術を僕は今使ってる! なんの取り柄もない僕が、だ! それもここ一ヶ月間学ぶばかりで、実践はまだまだで。やっと形になって、それでも成功しなかった呪術が成功したんだ! 喜んで当然さ!」

「へぇ……確かにそうかもな……神に祈りは届かないし、テスラも現世には呪術なんてないって言ってたし。……な、おっちゃん。よかったらさ、それ使って見せてくれよ!」

「勿論さ! ……と言っても少し風を起こすだけなんだけど……」

 

 へぇー! と祐一が洩らし、なら俺に使ってみてくれよと祐一が好奇心に目を輝かせ、寿も快くいいよと頷いた。

 準備が整ったのか、よしいくよと言う掛け声と共に寿は舌を転がし、呪文を紡ぐ。少し目を輝かせながら祐一は見守った。

 

「……激しき風を放つものよ! 薄明の灯火も紅蓮の業火もおまえの吐息で掻き消える。されどおまえは我が下僕、天空をゆく帆船の導き手となれ!」

 

 仰々しい呪文とは裏腹に、その規模は小さかった。うちわで軽く扇いだ程度の風が起き、微風は祐一へ向けゆるゆると吹いていく。祐一の比較対象が『まつろわぬ神』の権能という別次元である事を加味しても余りに小さい力だった。

 寿が紡いだ口訣は不可思議な力を帯びとなり、無視し得ない『何か』となって、祐一の元へと現れた。無色透明な『なにか』が全身に纏わりつこうとして───霧散した。

 

「───ん? おっちゃん?」

「あれ、呪術はできたはずなんだけど……どこか間違えたかな?」

 

 二人とも訳がわからず首を傾げる。おっかしいなぁとオガム文字を刻んだ紙をひっくり返したりとつぶさに見つつ呟く寿。壊れてんじゃないの? と祐一が投げやりに言う。

 

「少し見せてもらえるかしら?」

 

 どうやら祐一と寿との遣り取りを聞いていたらしいテスラが、どんな原理なのかふよふよと宙を漂い、彼らのもとへ現れた。

 寿から呪具を受け取ると、目を視線を踊らせ隈なく魔導書を観察していき、そしてどれほど経った頃だろうか。おもむろにテスラは顔を上げ、祐一を見た。

 

「いいえ、どこも間違ってないわ……。ねぇ祐一くん、申し訳ないけれど……もう一度あなたに試していいかしら?」

「え? いいけど」

 

 そう言うとテスラは口を動かした。声は発さなかった……否、聞こえなかったのだ。あまりにも高速で発せられた声が、声だと認識できなかったのだ。

 そして紡がれた言霊が力を帯び変質し、祐一の元でやはり霧散する。繰り返すごとに威力は増し、最初は草花を揺らす程度だったものも今では後ろに植わっている大樹を揺らすほど強力になっていた。

 何度繰り返しただろうか、祐一の眉にだんだんと皺がより、テスラもまたその度にふくよかな顔に皺が寄る。困った様に頬に手を当て、ため息一つ。どうやら結論が出たようだ。

 

「やっぱり……あなたに治癒の力が効かなかったからずっと不思議だったけれど、やっと謎が解けたわ。祐一くん、貴方は私みたいな魔術の徒と出会うのは初めてだったわね? それに……呪術も見るのも」

「え? ……うん、テスラみたいな人も呪術も初めて……かな。 あ、でも似たようなものならいっぱい見たし、相手して来たぜ」

「それは神々が振るう権能の事なのでしょう……。私達が操る戦闘魔術や呪術とはまた別次元のもの。根本か違うものなのよ」

「ふーん……」

 

 確かに寿が使った呪術はもとよりテスラが振るう呪術も高次元にあるとはいえ、脅威だとは全く思えなかったのもの事実だった。

 どうやら祐一は内包する呪力が莫大であるため、自分に放たれた人が操る魔術はもとより神々や行使する権能でさえ強い耐性を持つ、と言う規格外の肉体を持っているらしかった。

 テスラが曰く、祐一に呪術を当てようとするならば神々の権能級の威力を持って来なければ行けないと言う。あらゆる呪術の類を問答無用で弾くので、以前祐一が王国にたどり着いた時に、目の治療を施そうとしたときでさえ弾いたほどだと言う。

 眼帯に触れる。いよいよ自分の身体の異常性が浮き彫りになって来た。

 寿の呪術が成功した事は喜ばしい事だ。けれど今の祐一は純粋に喜ぶことが出来そうになかった。

 

 

 ○◎●

 

 

 チチチ、と鳴き声が聞こえた。立ち止まり窓の外を見遣る。……見つけた。

 高空を一羽の白い鳥が飛んでいるのが見える。紫色の空に、白い羽をいっぱいに広げている姿は窓から見上げていても、よく見えた。

 夕暮れ時に不釣り合いな白い鳥が空を滑空し、眼下に広がる王国の綺羅びやかな景観を目に収め、ゆらゆら飛んでいる。

 眉を顰め、顎を撫でさする。

 なんとなしに、気まぐれに、空を滑空する鳥を見ては思案に暮れ、幾ばくかの時間が過ぎた頃。

 ふっと笑って、再び歩を進めた。

 コツ、コツ、と硬質な音がひびく石造りの回廊は一見寒々しく思えるが、橙に輝く篝火とその灯りに照らされた回廊の随所に刻まれた豪奢な紋様やレリーフが寂し気な印象を一蹴させている。

 回廊に刻まれた紋様にも視線を投げ、すぐに興味を失った様に視線を外し、進んでいく。

 何度か角を曲がり、何度か扉を開けて進む。ここは広大無比にして複雑怪奇な場所。何も知らない者が入り込めば迷子になり途方に暮れる事必須だ。もはや迷宮に等しい。

 だが彼は迷いなく、それも勝手知ったるなんとやらとばかりに歩き進んでいく。

 

 果たして彼が目指す場所へ辿り着いた。

 それは背の高い彼よりも三つ分は高く、腕一杯に広げても五つ分は大きい豪奢な扉だった。

 ケルティック・ノット。

 日本で言えば網代模様と呼ばれる、糸が編まれた様な模様が円を描き、扉の表面を埋め尽くしている。その模様はケルトでは永遠……調和……そんな意味を表すと言う。誰もが圧倒される芸術の粋を集めた豪奢な大扉であった。

 彼はそれすら見慣れていると言わんばかりに扉に手を掛け、己の数倍はある石の扉をさほど力を込める事なく押し開けた。

 ギィィ……、石と石が擦れ合う音が響き扉が開かれていく。むわり……。開かれた隙間から白い湯気と芳しい香りが現れ、鼻腔と肺腑を満たした。

 扉を開き切る。

 部屋のそこかしこに充満する湯気と芳香が密閉された部屋にできた唯一の出口に我先と向かっていく。

 部屋の中心にはひとつの人影があった。

 扉を開いた気配に気付き、立ち上がっていた人影が彼の方へゆっくりと首を振り、視線を向ける。例えるならば浮世絵の見返り美人を想起する姿。

 そして、だんだんと湯気が晴れ、より一層そのシルエットが露わとなっていく。

 やはり、美しい。

 横から象牙の肌に栗色の流麗な髪。傍からでも判る、凛とした非の打ち所がない姿。その肢体は豹の様にしなやかで引き締まり隙がなく、ほどよく実った胸としっとりと肉の乗った腰のくびれ、肉付きの良い尻肉。

 蠱惑的なパンドラの様に決して華奢ではない、成熟した女性の魅惑的な肢体がそこにはあった。

 少し前まで湯船に使っていたのだろう。栗色の流麗な髪は濡れそぼり、象牙の肌は随所に赤みが現れ、彼女の持つ淫蕩さをこの上なく引き立てていた。

 しかし彼女の一糸まとわぬ肢体を見れば、誰もが目をそらすだろう。──彼女の身体の至る所に見える大小様々な傷故に。

 艶やかな肢体に吸い寄せられた男どもも、そちらの性癖を持たない者の情欲は萎えて消えるだろう。

 その傷だらけの身体の中でも、彼女の手は特に顕著だ。嘗ては「フォークよりも重い物は持てなかっただろう」と察せられる繊手は、今では手の平も甲も、裂傷から拳ダコ、骨折、切断、数多の傷に晒され無骨で歪であった。

 だが痛ましい印象はなく、勇ましさのみがあり、彼女が果てなき武術を錬磨し続けた何よりの証拠であった。

 彼女の切れ長の目が、侵入者を完全に捉えた。

 

「淑女の柔肌を不躾にも盗み見るとは、清廉と謳われるフェルグスとは思えませんね」

 

 ピクリとも表情を動かさず、ニニアンは流し目を送った。その言葉にヤマトタケルが顎を撫でた。

 

「貴方も私も、異性の裸体を見てどうこうする様な初心さなど、とうの昔に消えているでしょうに……」

「えぇ……そうでしょうとも。ですが、フェルグス。己の素肌をなんの許しもなく視姦されるというのは、不快そのものです。その事を察せられないとは、遂に耄碌しましたか?」

「手厳しいですね。ですが、それに私が返す言葉はありません」

 

 ほう、と。そこで初めて彼女は、その花貌をヤマトタケルへ向けた。

 その時にはもう彼は目の前に居た。

 ああ、もうそんな時期でしたか。ニニアンは思い至った。

 鼻先が当たりそうな距離。線が細くとも、二M近い身長で素晴らしい体躯を誇る彼は、178cmと女性でも高身長に入る部類の彼女であっても見上げなければならない。

 首を上げて、胡乱な瞳を向ける。色素の薄い紫の瞳は、例え『まつろわぬ神』であっても強い眼差しを向けていた。

 ぱさり……と衣擦れの音と共に布地が床に落ちる音が響く。彼もまた一糸まとわぬ姿となったのだ。妖艶さと勇ましさを両立させた黄金律の肉体美。八つに割れた腹筋、大胸筋も巌の如し。

 まるで限界まで打ち、鍛え上げられた刀身の様相を呈していた。

 彼がまた近づく。

 彼の八つに割れた腹部と、彼女の引き締まった腹部が重なる。鋼の如く鍛え上げられたふとももを、彼女の形の良いふとももへ差し挿れる。

「ん……」と。

 耐え切れなくなった彼女が膝裏から上下にシャープに伸びる脚を崩し、彼へ縋り付いた。

 また腹部と腹部が重なり合いって密着し、触れ合う面積が増えていく。腕を付く様に倒れ込み、けれどそれを彼は由としなかった。

 ふとももに込める力が増し堪らなくなった彼女が更に深く倒れ込む。お椀型の張りのある乳房が潰れ、身体の外側へ乳肉がはみ出る。上から見下ろす彼からは彼女のきゅっと引き締まり肉付きの良い臀部がよく見えた。

 いつもは気丈な彼女のたまらない姿に、彼は肩を揺らして笑い、彼女は耐えかねる様に非難の視線を向けていた。

 ふと今まで部屋で傅いていた者達が、遠ざかる気配を感じる。これから始まる事は既知の事なのだ。

 彼は『鋼』だ。しかも『最源流』と言う看板も背負っている程の。

『鋼』は英雄そのもの、そして英雄は戦いでこそいっとう輝く。しかし今の王国は平和だ。確かに王国周辺に蔓延る魔物達と争っているが、『まつろわぬ神』である彼が出向くまでもない。

 これでは『鋼』としてのヤマトタケルは薄れていくばかりであった。とは申せ、彼もまた『まつろわぬ神』であり、例え万の月日が流れようとも微々たるものなのだが……。

 しかし、それを彼は由としなかった。己が己でなくなるのは、ひどく厭う事なのだ。されど『まつろわぬ神』とって、それは至極当然の事でもある。

 故に、地母神の忘れ形見とも言える『神祖』を征服し『鋼』の神性を高めるという手段を講じ、己の神性の保証を行っていたのだ。そして『まつろわぬ神』ヤマトタケルは『神祖』ニニアンに頼っていた。これも彼と彼女が結んだ契約のひとつだった。

 

「貴方も物好きですね。私の様な醜い『神祖』でなくとも他を当たれば、よいでしょう」

「言ったでしょう? 女姓の裸身を見たとて取り乱す事はありません」

 

 それに、と彼は続けた。訝しげに視線を送る。

 

「私の猛りを抑える事ができる頑丈な『神祖』なぞ、貴方くらいしかいませんからね」

 

 そうですか。言葉はそれだけだった。

 

 それだけで、十分だった。

 

 

 ○◎●

 

 

「口はいけません」

 

 近づく秀麗な美貌に手を当て、押し返す。事が終われば、いつもこうだ。

 寝椅子でうつ伏せになり枕に突伏くす形になっているニニアンと、それを横から寝っ転がりキスをねだるヤマトタケルの姿があった。夕刻より夜が明けるまで何度も求めていたと言うのにまだ足りない様だ。

 稚気に溢れた……いや、意外と性格の悪い彼は好き放題にその艶やかな肢体を嬲り、気位の高い彼女を辱め、褥を共にする事を楽しんでいた。

『神祖』として新生した者として、大望を叶える者として、汚れた物に手を出す事もあった。女の武器も用いて、当然清いままでいられる筈もない。

 何度か身体を許した事はあったが、何十、何百も身体を許した者は居なかった。……この目の前の男を除いて。

 醜い身体を持つ者でも見境なく嬲るのが趣味なのだ、この男は。ニニアンは胸中で毒づく。

 

「それ以上の事をいくらでもしているでしょうに……」

 

 女心と秋の空、幾つになっても分からないものです……。彼は顎を撫で、少し呆れを含んだ表情を浮かべた。

 その言葉にキッと視線を向け、釘を刺す。

 

「勘違いしない事です、フェルグス。この心は、この唇は、あの方ただ一人のもの。私が貴方に身体を許してはいるのも、盟友と言う関係を築いているのも、その目的の為。でなければこの様な破廉恥な振る舞いをする筈がありません」

「そうでしょうか? 私には貴方も楽しんでいる様に見えましたが」

 

 近づいて来る事を気取らせない静かな動きで手を伸ばし、彼女の柔らかな頬を手を当て、クッとこちらへ顔を向ける。

 彼の言う通り今の彼女は色香に溢れていた。白皙の肌はしっとりとした汗に濡れ、赤らんで色香が増し、吐き出す息は自制せねば荒い物が出てしまう。常に冷徹な瞳は、今ばかりは陶然とし些かの熱を帯びていた。

 己の状態を今更ながら自覚したようで、目をそらし、口をきゅっと引き結んで黙り込んでしまった。

 その姿に頬を緩め、どこか気怠げな感覚を覚えながらも立ち上がる。二人が寝ていた寝椅子近くに置いてある、エナメルの水差しを取って一気に呷る。

 長く交じり合いもう明け方に近いのか、紫紺の空が白みはじめ、明度が増している。この領域に太陽なんてものはないが、星々の煌めきが光に隠れ、紫紺の世界に明度が増す今こそが朝なのだ。

 部屋に唯一ある丸窓から払暁の様子は見て取れた。

 

「……王国の近状はどうですか」

 

 振り向けば片手で前だけを毛布で隠し、身だしなみを整えながら、こちらを見ている彼女の姿があった。

 

「……ここの所、招聘の儀に多くの意識を割いていました。その間、貴方達に任せ切りになっていましたので」

「フフ、なんら変わりはありませんよ……。王国の治世に揺るぎはありません。周辺の魔物達も戦士の盾と天高き城壁と言う双璧に守られています。メロウや他の領域との交流も変わりなく良好。先の懸念事項であった飢饉の予兆もドルイド達の手によって豊作に転じました。

 ……王国の民は良くやっています。どうでしょう……貴方からも少しばかり労を労っては?」

「なるほど、民も良き働きをしているようですね。……いいでしょう、貴方の奏上を受け容れます。───二週間後のサウィンにて王国の蔵を開きます。それを以て民への慰労としましょう」

 

 頷き、ふっと一息入れる。寝椅子に近づいて、片手に持っていたエナメルの水差しをニニアンに差し出す。

 素直に受け取った彼女は口を付ける事なく、水面に映し出された自分を眺めていた。ゆらゆら、と水鏡に映る花貌が揺れる。

 

「あの者は……。……あの"神殺し"はどうなりましたか?」

「"神殺し"……ああ、祐一殿ですか。……そうですね、壮健のようで毎日王国中を駆け回っていますよ」

「……」

「ふふ……。エイルに剣術を習う傍ら、王城近くの厩舎にも何度か現れては風土を学び馬を駆っていますよ」

「王城へ?」

「おや、気付きませんでしたか? ……まぁ、無理もありません。私も彼と深く言葉を交わすまでは天災の化身と思っていましたが……どうやら彼は我々が以前予測していた様な、道理を弁えない無頼の徒ではありませんでした」

「故に私に知らせなかった、と?」

「ええ、まぁ……。ですが私も彼が暴れるようなら刃を抜く心算でした。結局、その必要はなかったのですが」

 

 そうですか。小さく粒やいて、目をそらす。

 

「ではフェルグス。現状で彼をこちら側へ引き込めそうですか?」

「如何様にも。彼はだいぶこの王国に馴染んでいる様だ。エイルに剣術で勝つ事に躍起になっていますので……ふふ、エイルも良くやっていますよ。私が声を掛けるまでもなく祐一殿の世話を焼いている。意図せず彼から親愛の情を勝ち取ったようです」

「……」

「どうでしょう、ニニアン殿。彼の性根は見えました。おそらく謁見したとしても、不埒な行いなどしないと保証します。───謁見なされては?」

 

 瞑目し、沈思黙考する。

 確かにかの"神殺し"は恐ろしい。しかし、信を置く目の前の英雄は必ずや利を齎すと言う。

 私情による拒絶と生涯を賭けた大願。天秤にかけるまでもなかった。ニニアンはこくりと頷いた。

 

「いいでしょう。彼の者が真に利を齎すと言うのなら、礼を欠いてはなりません……。私も、かの羅刹の化身と相まみえる事としましょう。サウィンにオイナハ……これから忙しい時期となる故、今日中には謁見します……よろしいですか?」

 

 その言葉に彼は穏やかに微笑んで、彼女の肩に手を回し、……再び押し倒した。

 昨晩あれほど求めたと言うのに、まだ足りないのだと言わんばかりに。余談だが古事記にはヤマトタケルの子供は六人の王子が居るとされ、ヤマトタケルの父である景行天皇も八十人もの子供が居る。

 英雄色を好む。ヤマトタケルもまた負けず劣らず性豪であり、その異名に恥じない益荒男ぶりであった。

 

「ぁ……」

 

 艶めいた吐息が漏れる。ニニアンは彼に抵抗する事はなかった。茫、とそのまま背中から倒れ込み物憂げに天井を眺めるだけ。

 かぶさっていた毛布が取り払われ、再び肌が外を覗いた時にふと呟いた。

 ───その時は女王として相応しい装いで、かの神殺しと臨む事としましょう。

 その瞬間、ヤマトタケルの美貌が引き攣った。

 



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その女、凶暴につき

ハーメルンを作る人を崇めよ……


 今は明朝。燦然と輝いていた星の瞬きも紫紺の空に隠れ、紅玉の浮かばない朝が訪れる。

 夜が開ける頃に王国も目覚め、祐一もまた同じく夢から覚めていた。今日もまた変な夢見たなぁ……。起き上がり、くしくしと顔を撫でながら独り言ちる。

 新生してから偶に、ではあるが変な夢を見る様になっている自分に少しモヤモヤとした物を感じている祐一。夢の内容も毎度同じく灰雪の舞い散る大地を歩いている自分だ。

 なにかあるのか……? そう顎に手を当て沈思黙考しても答えなんて出るはずもない。

 すぐに思考を切って、ベットから飛び降り眠っていたラグナを抱えて居間へ向かい、ドアに手をかけ居間へ入る。

 

「おはよう!」

 ──ルオ! 

 

 そう声を掛ければ、席に腰掛けたみんながこちらを向いた。どうやらだいぶ遅い到着だったみたいだ。

 

「おう、おはよう。祐一」

「おせーぞ、祐一」

「やっと起きたんだね、おはよう祐一くん」

「あら、おはよう」

 

 四者四様の挨拶に笑って手を振りながら、席に付く。

 今日もテスラが用意してくれた料理をパクつきながら、一日の日程を話し合う。どうやら今日もエオとムインに付き合って闘技場に向かう事になりそうだ。

 その隣では寿とテスラが同じ様に話をしている。寿もテスラから呪術を学ぶようで、また呪術書について学ぶらしい。

 明日はもっと有用な物を習得するんだ、と昨日の晩に目をキラキラ光らせながら意気込んでいた。

 テスラもまた辣腕を振るい、寿に呪術を教授していた。呪術……戦闘魔術を使わなくなって久しい彼女だが、女神の加護厚い彼女は才気縦横。未だ呪術の門を叩いて等しい寿であっても、遙か高みと言う物を見せ付けていた。

 本能よりの三人の真面目な話はすぐさま終わり、すぐに駄弁りに移った。

 

「もうすぐサウィンの時期かぁ……」

 

 ふとムインが頬杖を付きながらどこかぼんやりと思いを馳せるようにに言う。ん? と小首をかしげ、不思議そうに尋ねる祐一。

 

「サウィン?」

「あん? ……あー、ユーイチは知らないか。毎年この時期になると季節祭が行われるのさ」

「季節祭……──お祭りか!」

 

 エオが引き継いだ。

 

「そ、俺たちは毎年四つの季節毎に祭りを行うんだ。『サウィン』は新年のはじまりと冬のついたち。『インボルク』は春のついたち。『ベルティネ』は夏のついたち。ルーナサは『秋のついたち』って感じでな」

「ふーん……。てか、冬が先なんだなー。俺達の故郷は春からだからなんか変な感じ」

「あら、そうなの? 私達の考えではね、最初は死から始まるの。……闇から光へ。飢えと死が蔓延る冬から豊穣と生の息づく夏へ。そんな風に世界は循環して、時の流れとともに反転し、再生する。それが私たちの考えがあるのよ」

「???」

「祐一くん、これってケルトの生命の循環的思想の現れでね、生よりも強い死から再生する……そんな「死からの勝利」を現しているんだ。ケルトの神話にも好例があってね、ダーナ神族のダグザって言う神様の持つ棍棒は、片方が死を与えて片方で再生する。『破壊のあとに創造は現れる』事を示しているのさ」

「うん、もっとわかんね!」

 

 エオが少し苦笑いしながら、スプーンを持ち上げゆらゆら揺らす。

 

「ま、祭りがあるって事だよ」

「色んな奴らが集まってくるから、騒がしい王国の喧騒ももっと賑やかになるぜ!」

 

 どこか修学旅行前の学生にも似たテンションでムインが拳をつきだす。そう言われて、ふと掘り返してみた記憶の中には少しだけ答えはあった。

 

「……そう言えば、あんまり見た事ない人達が沢山いたな。メロウ達も沢山いたし……、人間じゃなさそうな奴もかなり居たっけ?」

「ああ、俺たちを奉ずる部族や同盟を組んでる部族がこの時期になるとこぞってやって来るのさ」

「ふーん……なんでまた?」

 

 朝から尋ねる事しかしてないんじゃね? そんな疑問がなんとなく胸をよぎる。

 

「サウィンはあの世とこの世の壁が取り払われ、死者がこの世に戻って来る日。だから各部族が集まって追悼する式が開かれたり、折角集まるのだから新年に向けて今年の問題は今年中にさっぱり終わらせてしまいましょう……。そんな目的があるのよ。

 私達はこの部族の大集会をオイナハと呼んでいるわ」

「サウィンはたぶん、僕たちでいうお盆みたいな感じだね」

「みんな集まっからよ、そこで各部族から我こそは! って言う奴らを集めた武闘会もあるんだ。毎年この時期になると闘技場は戦士達で一杯になるんだぜ〜」

「叔父貴もそれで朝早くから出てってるしなぁ」

 

 どうやらエイルの姿が見えないのはそう言う理由があったらしい。やはり王国でも上位の戦士、いつも修行を付けてくれるが、実際のところ想像よりも遥かに多忙なのだろう。

 

「うし、飯も食ったし行くか!」

「おっしゃ!」

 

 エオとムインが駆け出し、祐一もそれに習う様に席を立った。

 

「ごっそさん! いってきまーす!」

「忙しないわねぇ。はい、行ってらっしゃい」

「怪我しないようにね」

 ──ルオ。

「おう、任せとけ!」

 

 外で寛いでいたドゥーをひと撫でして先を行っていた二人に追い付き並んで歩く。街も微睡みから醒めたように喧騒が時を追うごとに大きくなっていく。身長が高く足も長い二人だ。普通に歩けば距離が離れてしまうから、少しだけ早足だ。追いついた祐一を見やり、突然、ムインがサッと前に出て、祐一に拳を突きだす。

 

「今日はお前に勝ってやるぞ! ユーイチ!」

 

 ニヤリと不敵に笑うムインに、ドヤ顔を返す祐一。

 

「ヘヘ、やれるモンならやってみろよ!」

「んじゃ、勝った方が俺の相手だな。ま、結果は見えてるが……」

「あー! ひでぇぞ、兄貴!!」

 

 ムインが口を尖らせ、エオが飄々と受け流す。

 

「おいおい、俺は何も言ってないぜ? 結果は見えてるってしか、な」

「ぐぅッ……! やっぱ兄貴には口じゃ勝てねえのか……!」

「バカ、勝負もだろ? 兄より優れた弟なんざいねーンだよ」

「あはは」

 

 二人のやり取りを眺めながら、なんとなく故郷の友人達を思い返す。緩んでいた口元を引き締め、吊り上げる。

 ふとそこで気付いた事があった事を思い至った。

 

「そういや、王国の戦士たちあんなに鍛えてるのには訳があったんだな。ヤケに熱心だから前から不思議だったんだ」

「おう、だけどそれだけじゃねぇ。もう一つ目的があるのさ……俺たちが鍛えての事には。な、ムイン?」

「あぁ? なんで鍛えてるのかって、そりゃあ…………なんでだろうな?」

「ムイン……」

「えぇ……」

「だぁー! もう、うっせぇうっせぇ! ドわすれしただけだっツーの!」

 

 呆れた様な二つの視線に癇癪を起こすムイン。エオが肩を竦め、人差し指を空へ突き立てた。

 

「ま、あれだ。サウィンは戦いの始まりなんだよ」

「戦い?」

「姐御が言ってたろ? あの世とこの世の壁が取り払われ死者が現れるってさ。あれ、マジなんだぜ」

「え?」

「王国に城壁があるだろ? あれが冬になると蜃気楼みたいに希薄になっちまうんだよ。存在はしているけど、魔物達が現れれば坑し切れなくなるんだ」

「は。う、嘘だろ? あんな高い城壁が!?」

「ホントさ。それが此処の法則みたいなものなんだって姐御が言ってたぜ。ま、一年の殆どを守ってくれるんだから感謝しかなけどな。そして今度は俺たちが真の意味で盾となり矛となり壁となるのさ」

「大丈夫……なのか? 俺も皆の力を疑う訳じゃないけど……外にいた魔物は万じゃ効かない数だったぞ……それこそ地面を覆い尽くすくらいにはいたはずだ」

 

 眉を顰め訝しげに尋ねる。答えたのは復帰したムインだった。

 

「へへ、大丈夫だってユーイチ! この時期に敵も増えるが助っ人も現れるのさ!」

「助っ人?」

「そう。姐御が言ってたろ死者がこの世に戻って来るって。……ホントに現れるのさ! ──死者が! そう、嘗ての相棒が! 誇り高き先祖が! 愛すべき戦友が! 

 それもサウィンの時だけじゃない。インボルグの時まで、共に在って、共に戦う。闇の半年を生き抜く力を与えてくれる!」

 

 手を一杯に広げ、大きく胸を張る若人。

 瞳は強い意志に燃え、まさに一廉の戦士であった。

 

「隣の戦友が為! 己が誇りの為! 偉大なる勝利の為! そして王国を統べるニニアン様の為! 決意、栄光、死、同胞、英霊! 全てを背負い、全てを賭けて俺たちは戦う! だから俺たちは毎年……いや、いつ何時! 武器を取り、死を恐れる事なく進めるんだ!」

 

 まるで遥か遠方の言葉を聞いているかのように、とても現実味のない言葉の羅列。だが──

 

「戦友の為……」

「そうさ! ──戦士よ戦え! 戦士よ戦え! 我らは戦う者なれば!」

 

 ムインがニカリと笑う。──その言葉は己が胸に響き、脳漿を揺さぶり、海馬に刻みつけられた事が、はっきりと自覚出来た。

 ムインはおそらくこの三人の中では、武勇が拙いのだろう。けれどもその胸に秘めたる想いは、戦士としての覚悟は、悩んでばかりで指針の無い自分よりも遥かに上を行っていた。

 それが祐一にはどうしようもなく眩しくって仕方がなかった。

 

「───おや、祐一殿。こんな所に居ましたか」

 

 凛とし玲瓏さを孕んだ声が、三人の耳朶を打った。

 ムインが今さっきまで浮かべていた不敵な笑みをかなぐり捨て、驚愕を撒き散らした顔でグルンッと振り返った。

 遅れてエオと祐一の二人も振り返る。

 やはり声の主は彼……ヤマトタケルだった。神采英抜とした風貌を春風駘蕩とした笑みで彩り、髪を靡かせ歩いて来ている。

 どれほど気楽な姿であろうとも、その覇気と神気は隠せるものではない。

 

「あ、ああ……ふぇ! フェルるるるるる……──あ゛っ……」

「ムイン? ……おい、ムイン!? そっちに行くな、戻って来い!!」

 

 咄嗟に跪こうとしたエオだったが、隣の弟に意識を割く事になった。倒れ込んで白目剥き、泡を吹いていれば流石に放っては置けなかった。

 祐一は突然のヤマトタケルの登場に目を剝いたがすぐに

 

「よ! ヤマトの兄ちゃん!」

 

 右手を上げ、返事を返した。その瞬間、白目を剥いていたムインがカッと目を見開き、一瞬で立ち上がった。

 

「お、お、お」

「ムイン?」

「おまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえぇぇ!!!」

「落ち着けよ……」

 

 ギョッとしたムインが、祐一に詰め寄って襟首を掴んでガクガクと揺らし、エオが呆れた様に零した。

 

「ふふ、賑やかですね」

「あ゛っあ゛っ! ふぇ゛フェルグス様!! 貴殿の御前にてこのような非礼、汗顔の極み! ですが、この度は拝謁の栄を賜り、このムイン! 格別のご厚情をいただいた思いでございます───ッ! この度は……」

「なんか始まったぞ」

「あれはもう俺達のこと見えてないな」

「だ、な……」

「フェルグス様とは何度も会ってるのになぁ……。近くにあの方が現れるとすぐにアレだ」

 

 ぴょんぴょんと荒ぶる厶インの後ろでヒソヒソと囁く、祐一とエオ。幾ばくか時間が過ぎムインに向け何言かを言い放ち、微笑んだヤマトタケル。

 それを受けた瞬間、後ろに倒れ込み昇天したムインの姿があった。

 ムインを一発でノックダウンさせたヤマトタケルがこちらへそのままの笑みで歩いて来た。

 

「壮健そうですね、祐一殿」

「おう、ヤマト兄ちゃんも変わりないみたいだな」

 

 立ち止まり、互いに笑い合ながら……おかしなものだ。笑みとともに思う。

 以前、邂逅した当初なら彼の笑みは癪に障る……どこか気に入らないものでしかなかった。しかし今はまったく別。戦意の感じ取れない……それどころか親愛の情すら感じ取れる笑みに、少しずつ少しずつほぐされていったのかも知れない。

 もはや二人の間には敵意も蔑む様な色は少しも含まれてはいなかった。対等……いや、認め合った戦士と戦士の姿に違いない。祐一は強い意志を籠めた視線で、頭二つ分は高いヤマトタケルを見上げていた。

 

「どうしたんだよ、ヤマトの兄ちゃん」

「祐一殿。貴方はこの王国に逗留し、どれほどの時間が流れたのでしょうか?」

「時間……? たぶん……一月ちょっとだったと思うけど……それがどうかしたのか?」

「ふふ。永生の身である私にはそれが長い時間なのか短い時間なのか、些か計りかねますが……ですが、貴方は王国に随分と馴染んだ様子」

「あー……そうかな? 確かに戦士とは毎日、戦ってるけどそんなに馴染んだとは思えないぞ……?」

「ふふ。王国にて戦功を樹てていないとは貴方は比類なき武勇を魅せました。私と対等に戦うと言う武勇を、戦士達との仕合での覚悟を、弛まぬ研鑽を積む意志を。

 ご安心なさい。貴方は名誉ある戦士だ、そして王国の者達に愛され認められています。胸を張りなさい」

「あ、ありがとう……」

「そして、貴方はとある御方から招聘されました。私が貴方の前に現れたのも、その為……」

 

 ヤマトタケルが一端そこで言葉を切り、祐一を見据えた。そこにあるのは戦士の眼光。思わず生唾を嚥下する。

 

「聖旨である。"神殺し"木下祐一。王国の首領たるニニアンがお呼びです。──御登城、願えますかな?」

 

 答えなど求めていない……有無を言わせぬ、問い。

 腑抜けていた気持ちを叩き直し、眼光を鋭い物へ。グッと表情を引き締める。

 祐一はただ静かに頷いた。

 

 

 ○◎●

 

 

 質実剛健にして堅牢無比。

 それが初めて王城を訪れた率直な感想だった。エイルと共に外側から見る城は塔を束ねた集合体にも見えたが、とんでもない。これは塔ではなく櫓なのだ。

 見上げるほど高く、石を敷き詰めた円柱状の櫓が何十と寄り集まり砦と言う範疇を越え、質実剛健な城へと至っていた。

 砦の至る所に丸窓が見え、そこから屈強な兵士達が覗く。あまり見ない顔だ。無駄に良い視力で彼らのふと見える容貌を捉えた時、気付いた。

 己が知る王国の戦士達は、闘技場で出会った者ばかりだ。だが、今見える者達は見掛けない顔ばかり。

 おそらく闘技場で研鑽する者たちとは、根っから別の人種なのだろう。なんと言うか規律や気品を感じるのだ、彼らからは。

 闘技場の戦士は良く言えば豪放磊落、悪く言えば粗野粗暴。喧嘩どころか殺し合いのない日はなく、だが、確執も蟠りもすぐさま消えてしまう戦士達だ。

 王国を統べるニニアンに最も近くで侍る戦士達。侍従武官とも言うべき、市井から戦士として生まれ、時には城壁の外へ繰り出す戦士とは一線を画す者たちなのだろう。

 そこに少しだけ疎外感を覚えてしまう。

 エイルは確かに上位に位置する戦士である事に間違いない。しかし彼は元々市井の生まれと言っていた。そして同じ境遇の戦士を統率する立場に居るのだろう。

 この二月の間寝食を共にし、気付く事は簡単だった。

 

 やがて城門が現れた。

 その威容に思わず目を見張る。ただひたすらに大きい……なんとか視界に収まった城門を見遣る。莫大な鉄を用いて鍛造された城門は、巨大な人狼の姿をしていたチンギス・ハーンも潜れる大きさなんじゃないか……? と、そう思えてならなかった。

 ───かいもーん! 

 威勢の良い声。祐一とヤマトタケルが現れた事に気付いていたのだろう。こちらが何かアクションを起こす事なく、城門周辺から人の気配が動くのを感じた。

 城門を潜り、中へ入る。

 室内に入ったからだろうか? 外よりもずっと暗い空間が祐一を待ち受けていた。確かに篝火が焚かれ、幾らかは明るさが確保されていると言うのに、底の知れない何かの懐へ入った様な感覚を覚えた。

 ふと寒さを覚えた。言い知れない……拭い切れない寒さ。

 頭を振って、前を見る。ヤマトタケルがこちらを見ていた様な気がした。

 前を進むヤマトタケルに先導され、付いて行く。彼の足取りに迷いはなく複雑な迷宮にも思える城であっても迷いはなかった。

 彼が進み、扉に控えていた戦士達が一礼と共に開く。この動作をいくつ繰り返しただろうか? もう何度目になるのか、方角がどちらなのか、ここがどこなのか、祐一には検討も付きそうになかった。

 

 やがて石の回廊に辿り着いた。

 また、寒さを覚えた。回廊には等間隔に火が焚かれ、熱さすら感じ取れる。熱が籠もらない様にするためだろう、窓もまた等間隔に作られ外の景色が見える。

 だと言うのに背筋を蚯蚓が這い回る様な気色の悪い寒さを感じて仕方がない。

『おぬしはその人外魔境に足を踏み入れている事を自覚すべきだ』

 脳裏にリフレインする声。緩んでいるつもりはなかった表情を更に引き締め、眼帯で覆った目に触れる。

 

「───ご安心なさい」

 

 見上げる高さの、広い背中。彼はこちらを見る事はなかったが、ただ一言だけ静かに語り掛けて来た。そしてそれ以上の言葉を彼は口にしなかった。

 だが十分だった。

 今まで心に吹いていた寒風はどこかへ消えてしまった。

 移り気だった視線が一所に集まる。

 年の離れた兄がいれば、この人みたいだったのかも知れない。ふと、そんな考えが脳裏を掠め、おかしくなって口元が緩む。

 王国に辿り着く前であれば考えられなかっただろうな、と頬を掻きながら思う。義母からは「仇敵同士」だと言う『まつろわぬ神』……ウルスラグナ、チンギス・ハーン……他の二柱とも友誼を交わしたがそれは完全な『神』として、ではなかった。確かに目の前の『神』と命の遣り取りはしたが、今はこんなにも近くに居る。それがおかしくなくて何だと言うのだ。

 そんなことを考えながら、どれくらい歩き進めた頃だろうか。

 かつん。かつん。二つの足音が回廊に響く。反響する硬質な音は歩を進める毎に増し、何処かへ近付いている事に気付いた。

 そうして幾ばくかの時間が過ぎ、遂にとある場所へ辿り着いた。そこもやはり門だった。しかし今まで通って来た物とは一線を画す、威容。金色の綺羅びやかなレリーフに豪奢な紋様。が刻まれここに寿が居ればケルティック・ノットと気づいたかも知れない。

 ───謁見の間。

 王国の主たる聖女に拝謁が叶う場所だ。巨大な門の前には金髪にマントを羽織り、赤い衣装に身を包んだ戦士が居た。

 

「エイル」

「おや、お着きになられましたか。ですが暫くお待ち下さい、フェルグス殿。扉が開けば、呼び出しがありますので、それからになります。……祐一と少しよろしいでしょうか?」

「構いませんよ」

 

 ヤマトタケルが微笑み、エイルが頷く。

 

「祐一、緊張していると思うがよく聞け。お前がこれから謁見なさる御方はこの王国を統べるニニアン様だ。それはわかるな?」

「ああ……。でも、俺はこんな畏まった場所のやり方なんて知らないぞ? 歩いてって頭下げりゃ良いのか?」

「焦るな、今から説明する。扉が開けば、声が掛かる。それに従い中には入れ。道はフェルグス様に着いていけばそれでいい。それでもわからなかったら、床に描いてる線に沿って進め」

「うん」

「中に入り進んだら、フェルグス様の二歩後ろで立ち止まり、片膝をついて頭を下げろ。歩く時、決して顔を上げるな。声が掛かるまで顔を上げる事も、直答も許されん。これさえ守っていれば良い。

 ……祐一、私はここまでしか着いて行けないが、粗相の無いようにな? 本当にな? 頼むぞ?」

「う、うん」

 

 そう念押しされたら不安になって来る。祐一は挙動不審になりながらも、自信なさ気に頷いた。

 手持ち無沙汰に待っていながら祐一は、そう言えばと何かに気付いた様な顔を作った。

 

「なぁ、エイル。ニニアンってどんな人なんだ?」

「……先日、王城周辺を訪れた時に教えなかったか?」

「や、王国を作った人ってのは聞いてるけど、性格とかあんまり知らないなーって」

「む、そうだったか」

 

 思案する様に撫で付けた髭を弄ぶエイル。

 

「とは言っても私も数える程しか拝謁した事は無い。余り表に出られない御方なのだ。おそらく私よりもテスラの方が詳しいだろう、テスラはニニアン様に時代を担うドルイドとして目を掛けられて居たからな」

「へぇ……テスラが……」

「そんな御方がお前に会う、と言い出した時は驚いたものだ。それも明朝直ぐに、だ。突飛な事をなさる御方はではあるが、常では見られない事。一体どういう事やら……」

 

 そう言うエイルだったが、彼の視線はこちらでは無く少し離れた所でしたよ佇むヤマトタケルに向いている。

 スッと目をそらす動作が見え、堪らずエイルと苦笑いする。

 

「基本的に全てにおいて無関心を貫く御方だ。王国を建国なされたとは言え形が固まれば王国の治世も側近の者達に任せ、ニニアン様は呪術の研鑽や大願成就に心血を注がれている。性格は下々の者でも丁寧だが、人使いは荒いな。……ふふ、フェルグス様も良く尻に敷かれているのだ」

「──エイル?」

「おっと、失敬」

「あはは」

 

 緊張何処かへ消えてしまった。いや、緊張感はあるのだが無駄に力んでいたものがフッと抜けたと表した方が良いだろうか。

 女王ニニアン。

 王国に逗留し何度も聞いた名前だ。そして、どうやらこれから会う人物はどうも人使いが荒いらしい。王国に住まわせて貰ってる以上、何か頼み事されるかもな。そんな思考がよぎる。

 コンコン、とノックする音が聞こえた。合図だ。

 ネクタイの位置を正し、気持ちを切り替える。

 

「一つだけ、気を付けておいてください」

「え?」

 

 唐突に声を掛けられた。

 

「ニニアン殿は、……なんと言いましょうか……現世の人間であるあなたから見れば、些か特殊な感性を持っていらっしゃいます。……と言う事を心に留め置いて下さい」

 

 彼にしては歯切れの悪い言葉だった。それに意識を割くより早く、扉が開かれた。

 それと同時に感じたのは、香炉が焚かれたような香りだった。鼻腔を通り肺腑へと染み渡る香りは、どこか甘く痺れさえ感じさせ、一瞬、意識を曖昧にさせた。

 いけない。頭を振って元に戻す。

 自慢するわけではないが元々鼻が良いのだ。草木の匂いは好きだなのだが、香水の香りを嗅ぐとどうも、ダメだ。

 鼻を抑えたい衝動に封をして、頭を下げヤマトタケルに着いていく。

 かつん。かつん。

 扉の中も薄暗く薫香が漂う空間は、いっそ妖しげだった。頭を下げていてよかったかも知れない、真っ直ぐ毅然と立っている事は難しかっただろう。

 横目に見える物も、視線を奪うものばかりだった。壁面は元より等間隔に並ぶ円柱さえも綺羅びやかな意匠を施されている。

 その意匠も独特だ。柱の一つひとつに人頭が彫られ、それと並ぶ様に旗が配置され、各部族の旗と首領の顔だったものを模したのだろう。

「人頭崇拝」とも言うべき思想が彼らにはあるのだという。頭部には、霊魂または生命力の宿る座であると言う考えが彼らにはあるのだ。

 脳がピリピリする。霊視だ。この空間に入ってから、今まで押さえていた蓋が外された様な……そんな感覚。

 頭蓋に金箔を施したり呪具や祭具とする事もあれば、ウェールズの伝承を編纂した「マビノギオン」にも首を切り落とそうと喋り続けると言う伝承があったのが好例だ。彼らには霊魂は不死であり、首級にその霊魂が宿ると言う考えがあったのだ。

 頭痛は一歩一歩進むごとに、ひどくなっていく。漏れ出るように知識もまた得られるが、割りに合わない。

 得た知識と今見える景色とが相まって、ひたすらに不気味な物にしか映らなかった。薄暗く陰々とした空間に、並ぶいくつもの人頭に寒気を感じて仕方がない。

 だが一番、目に引く物はそれではなかった。篝火の橙を跳ね除け白光を放つ、冷たい煌めき。刀剣武具の類だ。

 白刃の林が悠然とこちらを見詰めている。此処が戦場ならば殷々と轟き、喚声と共に血を求める者達が。

 あの白刃の煌めきが戦士として、いつの間にか出来た自負を魅了して止まない者たち。

 そこでヤマトタケルが立ち止まり片膝をついた。目移りしていた祐一も慌てて倣う様に片膝をついて頭を下げる。

 静寂が場を支配した。

 ピンと張り詰めた空間で、誰もが待っているのだ。おそらく顔を上げれば目の間に控えているであろう統治者の言葉を。

 ぴりり、と。唐突におかしな感覚を覚え、思わず顔を上げそうになった。なんとか意志を注ぎ込み、抑える事に成功する。

 視線だ。直感だが、思い至った。全身を舐める様な視線を感じているのだ。それが二つ。一つは恐らくニニアンとだろう当たりを付け、もう一つがニニアンの横に感じる気配なのだろう。

 あまり気分の良いものではないな、と頭を下げながら眉を顰める。

 

「直答、を、許す」

 

 嗄れた声が鼓膜を撫でた。老人の声だ。ヤマトタケルの動く気配を感じ、彼が恭しく挨拶の言葉を述べる。

 

「お待たせ致しました、ニニアン殿。"神殺し"木下祐一殿をお連れしました」

「──よろしい。顔を上げなさい」

 

 玲瓏な声が響いた。聞き惚れてしまうほど嫋やかで、しかし強い芯のある凛とした声。

 一度だけ聞いた事がある声。あの時はその声に当てられ、戦いで盲目的になっていた意識が鮮明になった。多分。あの声を聞かなければそのまま死闘を演じていただろう事はなんとなく思い至った。

 声に従い、顔を上げる。

 

 ────唐突だが木下祐一と言う少年は女性が『苦手』である。

 

 幼少の頃から遊んでいた友人は男ばかりで、異性との関わりや接触が悲しいまでになかったのだ。パンドラと初めてあった時を思い起こせば一目瞭然である。

 ともあれ、パンドラとは蟠りはなくなっていたし、普通に会話する程度であれば問題はない。だが、根っこの部分では女性は苦手な少年だった───。

 

 顔を上げ玉座に座している人物を目に収めようとした瞬間だった。激しい負荷が脳を襲ったのは。バチバチと音が聞こえそうなほど。

 ───とある女神の姿が視えた。戦場にてたった一人槍を振るい圧倒的な武威を誇る女神を。

 だが同時に、違和感も覚えた。

 霊視で見える恐ろしい女王の身体には装飾物が散りばめられていた。丸く特徴的なアクセサリー。視力の良い祐一だからこそ気付いた。あれは人頭を全身に括りつけ死臭渦巻く戦場にて荒ぶる姿なのだ。

 霊視でふらつき虚弱になった心にはその光景が死を司る神が生を掠奪を姿に見えて仕方がなかった。

 満腔から溢れ出る狂気と白目を剥きトランス状態になり……何人もの屈強な戦士がその凶刃に斃れていく……。未だ鮮血滴る血染めの穂先が祐一を───霊視はそこまでだった。

 意識が現実へ帰還する。朦朧とした意識の中で焦点を合わせ前を向く。だが脳裏にこびり付いたあの恐ろしい光景は拭える筈もなく……そして現実で見える女王ニニアンの姿と寸分違わず──

 

「───キャァァァァァアアアアアアッッッ!???」

 

 絹を裂くような悲鳴が響いた。陰鬱とした空間に似つかわしくない甲高い幼い少女が上げる様な声は、篝火を揺らし、場に居る人外の者達すら驚愕する。 

 不気味な空間+恐ろしい女性+霊視のコンボを一気に味わった彼の胸中は如何ばかりか。脳の許容限界を一瞬にして超えた祐一は、白目を剥いて前のめりに倒れてしまった。

 ──それは突然の出来事だった。

 誰も予測し得なかった事態。偉業を為した戦士が、ただ女性の姿を見ただけで気を失うとは───!!! 

 再び静寂のみが、残された。

 誰も声を発しなかった。発せる訳もなかった。

 

「……流石『神祖』ニニアン殿。戦わずして勝利を得るとは見事。いやはや、畏敬の念が絶えませんな」

 

 顔を俯かせ肩を揺らし、瞑目したヤマトタケルがそんな事を放つ。怒気を孕んだニニアンが睨んだ瞬間には、……彼の姿は影も形もなかった。

 

「…………」

 

 これはひどい。

 そう思いながらも老ドルイドは主君の勘気を恐れ、無言で目を逸らした。




すまない。シリアスは……苦手なんだ……


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剣と盃

 ───いやぁぁあああああ!!! 

 王国の喧騒を縫うように甲高い悲鳴が響いた。奇声を上げたのはくせっ毛の黒髪と常ならば鋭い眼光を持つ、少年。しかし今ではその光も萎え、ラグナを抱えて必死に守りを固めていた。

 ──るぉぉ……。抱えられながら盟友の変わり果てた姿に、ラグナは物悲しい声を上げた。

 あれから数日が流れ、祐一はすっかり女性恐怖症が悪化していた。ここ数ヶ月一緒に暮らしていたテスラですら近付き過ぎれば飛び退く始末。全く知らない女性であれば鳥肌と目眩すら起き、前後不覚となっていた。

 それほどまでにあの謁見の間での出来事は衝撃的だったらしい。

 見かねたエイル一家がなんとしようと立ち上がり、今もこうして街中を歩かせる荒療治を行っていた。

 いやぁぁぁ! 雑踏の喧騒を引き裂くに、訝しげな視線を送る者は少ない。街の人々にとって祐一の奇声はここ数日、聞き慣れたものなのだ。

 まさに、当たって砕けろ。彼ら王国の戦士と言うバリバリの体育会系に、繊細さなど皆無だ。

 

「はぁー、まだダメなのかよ。ユーイチ? いい加減直せよなー」

「う、うるさい! 馬鹿ムイン!」

 

 呆れた様に、無責任な事を言うムイン。

 それに犬歯を剥き出しにして、エオの背中に隠れ威嚇する祐一。その視線は道行く人々に向けられ、必死に異性を避けていた。

 

「つーか、こんなんじゃ闘技場にもまともに行けないぜ? 早いトコ治してくれよ」

「うっ……わかってるよぅ……」

 

 こっちだって好きでこうなったんじゃない。その言葉を飲み込んで、ムインの呆れた様子の言葉に、意気消沈した様にため息をついた。

 

「てか、そんなに恐ろしかったのかよ? ニニアン様は?」

「エオとムインは会った事あんのかよ?」

「ない!」

「こ、こんにゃろ……」

 

 拳を握って、青筋を立てる。

 エオが落ち着け落ち着け、と肩を揺らす。

 

「まー、あるっちゃあるらしいけど、俺達が赤子だった頃に一度だけあったみたいだぜ? 全然覚えてねーケド」

「二人も会ったら絶対ビビる……俺が保証する……」

「そうかよ。ま、何にせよ良かったじゃないか。何の沙汰もなかったんだから」

「そうだぜ、王国の民だったら捕らえられて生贄にされてるって。忘れ掛けてたけど、まだユーイチは王国の民じゃないしなー」

「……そう、だな」

 

 王国の民じゃない。その言葉今までの怯えを忘れ、思わず目を逸してしまった。

 

「ユーイチ。お前、王国に根を下ろすんだろ? てか、居ろよ。もう俺たち家族みたいなもんだしよ? ヒサシもなんだかんだ馴染んできてるし、二人とも此処に住めばいい」

「なんだよ兄貴、ユーイチを口説いてんのか? ……ま、でも良いかもな。ユーイチ達が居なくなったら寂しいし」

 

 その言葉はまさに暴風そのものだった。心が柳のように揺れ、心臓が強く脈動しているのが判る。鼓膜が心臓に変わったかと思えるほどに。

 

「あ、いや、俺は……」

 

 ──どうしたいんだろう? 

 今さっきまでからかわれて逆立っていた気持ちとは別の、とても冷たい波が現れ心をさらっていくようだった。選ばなければならない。決定的な間違いを犯す前に……でも答えは見つからない。ただ俯いて、視線を彷徨わせるだけ。かえりたい、……のだろうか? 

 一月半……友人も出来た、家族と呼んでもいい人達も出来た、師も出来た、兄と思える人も出来た。全て王国に訪れてから出来た事。でも故郷には、必ず帰ららなければ……ならない。──帰りたい。そうだ、そのはずだ。望郷の理由を一つ一つ反芻していく。

 掘り返した記憶はそれだけに留まらなかった。思い出してしまう。……あの時だってそうだった、旅の終わりなんてある訳ないって信じ切っていて、ただある幸福を享受するだけだった。また、あんな思いを……そうして行き場のない焦燥感が胸を焦がす。

 でも、このまま帰れば必ずなにか胸に大きなしこりが出来そうな気がして……。留まっていてもそれは自分とは決定的に違っている気がして……。出口のない袋小路に迷い込んだように、たった一つの疑問に心は千々に乱れて、自問する言葉に誰も答えてはくれなくて……。

 先に進むどころか、何歩も後ろに下がっている気がして……それが───情けなくって、しょうがなかった。

 

「───来たか」

 

 ふと見れば、エイルが鉄剣の一振りと共に立っていた 。もう闘技場に着いたのか。隣にいたエオもムインもいない。

 暗い感情が胸を覆いそうになるのを必死に振り払う。意識が切り替わる。

 そうだ。今は剣を握ろう。……それが正解だろうから。答えは必ず出す。

 祐一は無理矢理にでも前を向いた。

 

 ○◎●

 

 勝つ。

 刀身を額に当て、冷たく硬い感触が感覚野に広がった。額から離し、上段に構えた鉄剣が寒光を放つ。

 踏み出す。疾駆する少年の手から伸びる一本の鉄剣が殷々と鳴り響き、袈裟斬りに振るう。相対する剣士の肩口に一直線に向かう刃は、そんじょそこらの盾など叩き割るだろう。

 キィンッと、剣士を斬り裂くはずだった刃が肉体と触れる寸前に、剣士を放つ刃が差し込まれた。阻まれた己の剣が全てを物語っていた。止められたのだ……剣士の持つ長剣によって。

 心は揺らがなかった。ここで手傷を負うほど剣士を舐めてはいない。

 剣士が構えた。あれこそ必殺の型……まるでミサイルが発射されるかのように滑らかに、鋭く、速い、必殺の突き。とても目で追い切れる速度ではない……だが、少年は認識し思考するよりも速く、脊椎が反射的に反応した。

 此れこそ少年の真骨頂。戦いにおいて他の追随を許さない、正に『獣』の如き嗅覚。だが、それだけではない。

 一直線に放たれた剣が、中空を疾走る。 

 剣士の放つ刃のなんと恐ろしい事か。陽炎の如く曖昧でありながら、獲物を追う蛇の如く執拗に、一撃に命を賭ける蜂の如く鋭い。あれこそ剣士の誇る必殺の剣技。あの突きを己は何度受け、何度敗北を喫しただろうか? 

 ちらりとそんな思考が過ぎって、最大限に力んだ五指が白む。

 何度も何度も負けては、屈辱と共に身体に、海馬に、霊魂に刻みこんだ動きを踏襲する。冷静に……だが、熱く! ──心眼。視界の全てがモノクロに変わり、まるで映写機のコマ送りになる。武術の奥義を使い、迎え討つ。どうすれば良いのか、その最適解はふっと頭の中に降りてくる。

 キィンッ! 再び乾いた音が、響く。鍔迫り合いの格好となった少年と剣士。思わず口角を吊り上げる。

 臍下丹田から湧き出る呪力を踏ん張っている足と腕に集中させる。膂力無双にも及ぶ大力でもって剣士を押し潰そうと、少年は猛った。

 ……だが青年は相手にしない。裂帛の気合を放つ少年に付き合うほど素直ではないのだ。身体を左に大きく傾けるやいなや、右足を地面から離し、左足を回転軸へと変えた。ぐるり、そんな音が聞こえてきそうなほど剣士は身体を捩って逃れきった。態勢を立て直したのは、意外にも少年の方が先だった。

 己の力があらぬ方向へ逃れた瞬間、無様にも地面を蹴り、身体を放り投げたのだ。だが、それこそ唯一の正解だった。あのまま手をこまねいていれば確実に、敗北していただろうから。

 勝ちたい勝ちたい勝ちたい。激情を糧に、渇望と言う起爆剤を燃やす。

 少年がまたも疾駆する。交錯する眼光に揺るぎはない。

 強くなって、剣士を……エイルを倒す。シンプルに、だが信念を貫き通す。諦めるなんて、以ての外。

 何度も経験した敗北が、燃え盛るほど激情を灯しながらも、強靭で冷静沈着な闘争心を作り上げたのだ。

 近い。剣士は笑う。

 だが、まだだ。剣士に構えていた剣を、解く。まだまだ教えなければいけない事はたくさんある。強くなって貰わねば困るのだ。いつか合間見える、対等な戦士の登場に胸を踊らせる。

 ああ、そうだ。今日は技を捨てる事も技なのだと教えなければ。剣士は笑う。

 鉄と鉄は絶え間なく打ち合わさり、未だ鳴り止む事はない。戦士達の演舞はまだまだ終演には程遠い。

 

 

 ───カン。カン。

 快音が響く。

 

「良い調子だな 」

 

 振り上げ、下ろす。

 

「そうかな?」

 

 迎え打ち、払う。

 

「ああ、前より断然打ち合えるようになった」

 

 今の二人はとても奇妙だ。とてもゆっくりとした動作で剣を打ち合っている。例えるならば中国武術の太極拳に近いだろうか。

 ゆっくりとした動作とは対照的に、一呼吸一呼吸に神経を巡らせ一挙手一投足に全霊を込める修行。現にスタミナ自慢の祐一でさえその額には汗が滲んでいるほど。大振りになりがちな祐一に、繊細な動きを促す為に必要な修練でもあった。

 

「あ、確かに!」

 

 袈裟斬りに振り下ろした剣先が、ブレた。

 

「喜ぶのは早いぞ祐一。おまえはまだ何も為していないだろう?」

 

 隙を突くように、剣が絡み付く。

 

「むっ」

 

 ぐるりと手首を捻って、振りほどく。

 

「それに少しだけ、迷いが見えた」

 

 甘かった。振り払った力を利用し、切っ先がこちらへ迫る。

 

「…………」

 

 風を切る音が耳を掠める。

 

「なんとなく察しは付く」

 

 今度はこちらから。唐竹割りに振り下ろす。

 

「うん」

 

 半歩引いて、エイルは避けた。

 

「まだ一月半ある。答えを出すのはその時でいい」

 

 カウンターが怖い。直ぐさま飛び退く。

 

「……うん」

 

 仕切り直しだ。

 

「あとは……アレも治さなければな」

 

 胸元で水平に構える。八相の構えで迎え討つ。

 

「うっ……女の人とはちょっと……」

 

 視線が彷徨い、剣先がぶれる。

 

「はは。だが、意外だった」

 

 エイルが踏み出して来た。早くは、ない。

 

「え?」

 

 だが、いつの間にか目の前に居た。

 

「女の一人や二人、引かっけている物とばかり思っていた……わからないものだ」

 

 飛び退きそうになるのを堪え、前に出る。

 

「うるさいなぁ……」

 

 快音。打ち合わさって空気を震わせる。

 ふっとエイルが笑い、祐一が苦笑で返す。

 かなわないな……そんな思考の後に、また答えの出ない問が心に巣食った。

 ───ヒュッ! 振り払う様に剣を薙ぐ。そうだ、今はこれでいい。

 

 

 ○◎●

 

 小走りで目的の場所へ走って行く。はっはっ、と息を吐くごとに白い吐息が闇に溶けては消える。

 もう十月末で故郷で言えば霜降に当たるだろうか? 故郷でも霜が降りる時期ならば、どうやら故郷よりも季節の巡りが早いこの王国は晩秋に当たるのだろう。

 サウィンももうすぐだ。街の雰囲気も賑やかなものにいつの間にか衣替えしている。

 お祭りが近いからか、もう日の入りして久しいと言うのに街の明かりは消える事なく、ここが彼の故郷なら盆提灯の灯りに照らされちんどんと音が聞こえてきそうだ。

 そんな事に無頓着な祐一は、最近冷えてきたなぁとそんな風情もない感想を抱きながら夜道を進んでいた。

 ちょっと遅くなったかな? 

 そんな事を呟く祐一。なにやら誰かとの待ち合わせがある様子。頭に乗っているラグナが振り下ろされないか少し不安になるほど、その足取りは忙しない。

 別に詳しい時間を決めたわけでもない軽い口約束。でも、その待ち人は必ず待っているだろうと確信があって、祐一もテスラに頭を下げて夕飯を断るくらいには反故にしたくない約束だった。

 

「よ、叢雲! えーと、何日ぶりだっけ?」

 

 やっと着いた。一息入れることなく笑顔で大きく手を振って、声を掛ける。待ち人来たれり、と言った風にのっそりとその人物は立ち上がって、祐一の方を向くとふっと男臭く笑った。

 

「おう、祐一。……ふむ、確か五日ぶりだったか?」

 

 叢雲。約束の相手とは彼だった。

 ヤマトタケルと兄弟だと言う彼は、何時も一緒に居るらしいヤマトタケルの目を盗んではこうして祐一の前に現れていた。以前、叢雲と祐一……それにラグナは酒盃を上げてからと言うもの、週に一度程度だが暇を見つけては宴の席を囲んでいたのだ。

 やっと落ち合えて、一息つく祐一。叢雲もそんな祐一に肩を揺らす。

 

「ふぅ……、そだっけ?」

「ふはは。まぁ立ち話もなんだ。中に入ろう」

 

 おう! ルォン! そう言うと二人と一匹は、静かな店主が待つ酒場へと歩き始めた。

 

 トクトクと叢雲が酒盃を満たしていく。彼から注がれた酒は、何故かどぶろくか日本酒にも思えるから不思議だ。祐一の酒盃が満たされ、今度は早くしろと言わんばかりに酒盃を咥えているラグナに酒を注ぐ。

 カン、と乾いた音と共に乾杯し、同時に呷る。宴の始まりだった。

 

「そう言えば、おぬし『神祖』と会ったと聞いたが……」

 

 そう言えば、と言わんばかりに叢雲が口を開き、しげしげと祐一を見遣り「うむ」と頷き一つ、

 

「何もなかったようだな。僥倖僥倖」

「────いやいやいやいや!!! あったよ! すごかったよ! トラウマだよ!」

「ふははっ! なに、『神祖』に『不死者』、そして『まつろわぬ神』がいる四面楚歌で生きて帰れたのだ。それを幸運と呼ばずしてなんと呼ぶ? 運も実力と言うだろう、甘んじて受け入れよ」

「は・な・し・を・き・け! 俺と叢雲が考えてる事、全然違うからな!」

 

 ちくしょう! 何も知らない叢雲は、俺が気絶した事もその経緯も知らないんだ。妙に納得した風の叢雲が、少し腹立たしかった、

 苦虫を噛み潰したような顔の祐一に、叢雲は呵々大笑して相手にしていない。味方を探すようにラグナを見れば、いつの間にか三杯目に突入している盟友。自分勝手な盟友にため息を付いた。

 そうしてヤンヤヤンヤと騒ぎ飲み食いを繰り返し、もう半刻が過ぎた頃だろうか。まだまだ足りないとばかりに祐一も叢雲も浴びる様に酒をかっ喰らい、呵々大笑する。

 やっぱり違うなぁ。いま豪快に笑っている叢雲がヤマトタケルと兄弟だと言っていた事を思い出しそんな事を思った。

 ヤマトタケルの笑顔がウルスラグナと同じく美しすぎる造形を、まるで糸を引く様に『綺麗』に笑う事なのだとすれば、叢雲は真反対。チンギス・ハーンと同じく粗削りで豪快な笑み。清廉さと荒々しさがまるで羽を持つ鳥の如く、彼らは対を成している。

 方向性違い過ぎない? 決して口には出さないが祐一はそう感じて仕方がなかった。

 

「ふはは。中々の健啖ぶりだな、善哉善哉」

 

 叢雲は何が楽しいのか鯨飲馬食する祐一を見ながら笑うと、もっと食えと言わんばかりに小皿に料理を見繕って差し出して来た。ありがとう、と受け取ってせっせと口に運ぶ。

 

「ああそうだ、修行はどうだ祐一?」

「ん。まぁまぁ……かな? もう、王国の戦士には大体勝ち越してるからなー」

 

 そうか。叢雲はどこか愉快気に笑う。食べる手を止め、酒盃を片手にとる。

 

「エイルにも打ち合える様にはなったし……。それに少しくらいなら剣も届く様になった。……もしかしたら届くかも知れない!」

 

 記憶をなぞる様に口の中で転がす。少し熱の籠もった言葉が、口内から漏れる。そんな祐一を叢雲は穏やかな表情で眺め、耳を傾けていた。

 

「ふはは、それは重畳だな。それに……初めてあった時からすれば、確かにおぬしの手も少し厚くなったのではないか?」

 

 言われて手を開く。自分ではよく分からなかった。

 

「そうかな?」

「うむ、それこそ修練の証。それだけではない。背丈は変わっておらぬが、少し離れていた間に、お前は大きくなった。まさに『士別れて三日なれば刮目して相待すべし』と言ったところか。……案ずるな、おぬしは日進月歩で歩みを進めておる」

 

 そうかなぁ……この人は何時も自分を褒め殺ししてくる。いつか殺されそうだな……。頭を掻いて笑いながら、じんわりとした暖かい感覚が身体の底へ広がっている事に気付いた。酒精が周り始めたのだろうかと考えて、新生してから酔った事など皆無だった事を思い出す。

 ……じゃぁ、叢雲かな? 祐一はラグナを撫でている友人に目を向ける。なんと言うか、目の前の人物と共に居ると不思議と落ち着くのだ。居心地が良い、……のだろう。

 ふと……前を見れば対面に座った叢雲が真剣な眼差しでこちらを見ていた。酒盃を傾け、顔の下半分は見透す事はできない。しかし、その黒曜の眼光は鋭かった。

 

「おぬしは、───何故戦う?」

 

 酒盃を飲み干し、野太い腕で口を拭う。彼は脈絡のない質問と共に、祐一を見定めた。

 今まで呵々大笑としていた雰囲気もなければ、穏やかな雰囲気もない。虚偽は決して許さない……いや、心の奥底を見透そうとしている……そんな鋭さ。

 まるで研ぎ澄まされた太刀だ。叢雲の黒曜石を想起させる眼と相まって、祐一はそう思わざるを得なかった。

 

「おぬしのその貪欲な強さへの欲求にも理由があるのだろう。負けず嫌いなのもよく分かる。おぬしの情の深さもよく分かる。無駄に永く生きていないのでな、聞かずとも分かる。

 だがな、(オレ)はお前の口から戦う理由を聞きたいのだ」

 

 言われ沈思黙考する。帰るため───本当か? 咄嗟に口から出そうになった言葉を飲み込む。そうさ……そうに決まっているじゃないか。ヤマトの兄ちゃんと話した時もそう言っていただろ? ……だけど、心の底でぐるぐるマグマの如く蟠るものがあった。

 帰る為……? 違う。やっぱりなにかが、……何かが違う気がする。

 くそっ、思わず悪態を付きたくなる衝動を抑える。ついさっきまで感じていた、酒精を浴びた様な感覚は何処かへ消え、粘ついた沼に拘泥しているどうしようもない感覚を覚えた。

 叢雲はただじっと答えを待っているだけ。ラグナも叢雲の隣で静かに佇んていた。だけど、それが今はありがたい。

 こんがらがりそうな頭を振って、記憶を紐解く。走馬灯の様に情景が浮かび上がっては消えていく。

 パルヴェーズと旅をしていた時の記憶が呼び起こされる。何故俺はあんなにも勝ちに拘ったんだろう。いや、そんなの考えなくても判るじゃないか……俺はあいつに名前を読んでもらいたかったから……ただそれだけだったんだ。

 今、我武者羅にエイルに挑んでいる理由とは違うけれど、根っこのところじゃ一緒なんだ……。そうだ、一緒なんだ。俺が求めている物……それはあいつと出会った時から変わらない。

 名前を呼んでくれた友人に……俺との約束を果たしてくれた友人……報いる為には。

 もう一度、胸張って会う為には。

 ───勝利。勝利を! ただ勝利を希求せよ! 心が、信念が叫ぶ。

 そうだ、だから勝ちたいんだ……俺は。あははと笑いが漏れる。

 簡単な事だった。今まで悩んでいたのが馬鹿らしい。最初から分かっていたのに、どうして回り道をしてしまったのだろう。

 

「約束が、あるんだ……。勝って、勝って勝って勝ちまくって。エイルにもリベンジしなくちゃ、どんな敵にも……因果律にも勝って。『常勝不敗』でなくちゃ、駄目なんだ。胸張ってアイツに会えないから……。それにさ、故郷にも胸張って帰れないから」

 

 今になって……敗北を味わったからこそ、『常勝不敗』の言葉の重さが判った。友が遺した約束を、義母が贈った言葉を、故郷で誓った誓約を覆す為には、俺は決して負けてはならなかったのだ。

 祐一の言葉を聞いた叢雲が堪らなくなったように、ふはは! 莞爾と笑う。ラグナがやっと思い出したかとばかりに首を振る。

 

「ならば約束しよう。お前がその信念を持つ限り友であろうと! ───木下祐一、お前はその信念を違えるなよ! 今日この日を忘れるな! (オレ)達は今この場で真の『友』となる! お主が窮地の時には必ず(オレ)が駆け付ける! おぬしは(オレ)が助太刀するに値する益荒男でおれ!」

「当然!」

 

 口の端を吊り上げて白い歯を見せる叢雲に向け、深く頷く。

 

「此処に誓いを樹てよう! はるかな昔、騎馬の民の誓約を保証する物は盃と剣だった! ならば我らもそれに倣い誓約を樹てようぞ!」

「でも剣なんて無いぞ? 盃ならあるけど」

「心配無用! 戦士は此処にこそ剣を持っている!」

 

 ドンッとその勇ましい胸板を叩く。

 はっと現実に映る景色とは別の景色が視界に入り込む。風に靡く黒い髪を揺らし紅い目を宿した少年がひとり佇む草原で、殷々と鳴り響く剣を掲げる姿を幻視する。

 瞑目し、直ぐに目を開けて満面の笑みを作る。

 違いない! そう言って叢雲と酒盃を突き出し、乾杯する。ラグナも呆れを滲ませながらも、酒盃を突き出す。ここに誓いは成った。

 

 それから彼らは酔った。自分に。友に。未来に。

 今はそれだけで十分だった。

 

 



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ろうらく

「貴様、判って──」

「ええ、判っていますとも。あの者がこの王国に災いを齎す者である事は」

「───ならば、何故だ」

 

 暗闇がこちらを覗いていた。壁に焚かれた篝火はカランと物悲しい音をたて、役目を終えた炭へと変わる。陰々とした回廊に木霊する声と深い闇が覗く空間で、闇より暗い影法師が二つ。杖を生白き手で握り締め黄ばんだ歯を覗かせる老人と、神采英抜とした玉顔を鉄面皮で覆った青年だ。

 誰であろう『まつろわぬ神』ヤマトタケルと、ニニアンに侍る老ドルイドであった。言葉を強引に遮ったヤマトタケルに老ドルイドが気にした風もなく、更に問い掛けた。その様子を暗闇の底から幾つもの小さな影が興味深そうに観察していた。

 

「以前、謁見の間にて申した筈ですが? 私が彼の手綱を握ってさえいればこの王国に災いを齎す事は無い、と。そして彼が我らと共にあれば……ふふ、必ずや利を齎すでしょう」

 

 嘲弄じみた言葉。女王ニニアンであればため息と共に、切って捨てただろう。しかし眼の前の老ドルイドは違った。老ドルイドの杖を握り締めている枯木じみた手が白く染まる。ぶるぶると小刻みに揺れ動く。白濁とした眼球をギョロリと動かし鋭い眼光を向ける。

 

「戯言、を……! 我が占術、何度、占、おうと、結果は、同じ。凶兆しか……示さぬ!」

 

 語気が増し、ゆったりとした服がなにかに揺れ靡く。老人の輪郭はひどく朧気で、常人ならば揺らめく影としか認識出来ない霊魂じみたなにかが漏れ出していた。這いずるなにかが、じっとりとヤマトタケルを撫で回す。

 

「あの、謁見、にて、はっ、きり、した! 貴様、ニニアン様を、謀って、おるな……!」

 

 確信に満ちた声音であった。もはやそれは糾弾に他ならない。だがそれを受けても尚、ヤマトタケルは泰然自若としていた。

 

「はは、これは異な事を仰いますな。何故、盟友であり我が忠心を向ける存在であるニニアン殿を欺かねばならないのです? 貴方も知っても通り、我が目的はニニアン殿と同じくあの方が復活を心待ちにされている『鋼』の復活です。現に私は協力を惜しんでいませんし、その為に彼の者とも友誼を深めているでしょう?」

「友誼? 友誼だと……?」

 

 嘲りの色を多分に混ぜ込んだ声だった。だが、深い皺に覆われた額には太い青筋が浮かんでいる。……激情の発露であった。

 

「あん、な、もの、が、貴様、の、友、誼か! 『最源流』、た、る、貴様が! おぞ、ま、しい、ただ、媚び、諂う、凡夫、が、如し!」

「いけませんか? 彼と親交を深める事、それすなわち逗留の延長に繋がります。そしてそれは王国への愛着が湧く事に他なりません。彼が王国へ愛着が湧けば湧くほど、王国への助力は容易になるでしょう。そも、私の個人的な行動に口を挟むのは辞めて頂きたいですね」

 

 ヤマトタケルはそこで言葉を切った。だが、その言葉を聞き堪らなくなった老ドルイドが、ヤマトタケルへ杖を突き付ける。

 

「わからいでかッ!! 貴様の、異物、への、執心! 並、大抵の、もの、では、ない──!」

 

 雷が落ちた。そう思わせるほどの大喝。そして口角泡をを飛ばして言葉を続ける老ドルイド。闇に潜む者達が身を竦ませ、どこかへ隠れていく。

 

「『鋼』である、貴様が、己が、言を、覆した、事!エイルを、動かし、鍛え、させて、いる、事! ニニアン、様を、謀った、事! ───全て、眼を、疑う、ほどの、変事!」

 

 一息に言い切り、ぜぃ、ぜぃ、と息を付く老ドルイド。あまりに心が昂り、身体が追い付かなかったのだろう。

 

「我ら、相、容れぬ、者、なれど、戴く、主は、同じ! そう、信じて、おった、吾輩、が、間違って、いた……!」

 

 その言葉には激情の中に、一欠片のしかし確かな寂寥感を孕んでいた。それに対しヤマトタケルは、柳眉を顰めて目を逸らし、篝火へ目を向ける。窓があれば、その景色から以前祐一と語り合った丘を見詰めていただろう。

 

「ふふ……。同郷の彼と話すのは、楽しい。まるで遥か遠くにあった故郷に帰った気分になるのですよ……。そして彼の純な性根は、我が胸に積み重なり続ける澱を払ってくれる。故に私は……」

「その様な、一時の、感傷に、流され! 我らが、数千年の、悲願を……!」

 

 そこで言葉が止まった。ヤマトタケルの視線が、老ドルイドの眼球を射抜きそのまま心まで射抜こうとしたのだ。

 

「間違えないで貰いたい。確かに、私の心が揺れ動いているのは事実。ですが、ニニアン殿と志しを違えた訳でも、私の揮う剣が鈍る訳でもありません」

 

 そこでヤマトタケルは憂いを帯びた表情を作った。

 

「貴方も気付いているのでしょう? 外界との関わりを断ったニニアン殿擁するこの王国は、閉塞感に満ちたまま停滞している、と」

「それの、何が、悪い……!」

「このままではニニアン殿を始めとした王国の者達は、大呪法が破られ巻き起こる動乱の時代を生き抜く事は難しいでしょう、と言っているのです。我らが共に抱く悲願を成し得る事など以ての外。例え成功しようと、招聘の儀から始まる動乱に何の変化も無いまま時を迎え、苦境に立たされ滅びを待つのみでしょう……」

「……」

 

 それは老ドルイドも気付いていた事だった。悲願達成の為に、その怜悧な頭脳の大半を割いているニニアンは……ある意味盲目的な彼女はおそらくその現状が見えていない。いや、見えていたとしても意図的に目を逸らしているのかも知れない。

 その危機感を持っている者は、未来を正確に描く先見性を持ち、王国の全体を俯瞰できる位置にいる老ドルイドとヤマトタケル以外に居なかった。

 

「ですが此度の"神殺し"来訪……ふふ、停滞気味の王国へ運命の凶児が現れたのは、僥倖でした。彼こそ台風の目。騒乱の濫觴。水害、日照り、蝗害と並ぶ天災の化身。……故に、否が応でも変化を促す呼び水となるでしょう」

「変化、変化、だと? その、変化、こそ、ニニアン様の、ひいては、王国の、禍事!」

「いいえ、違います」

 

 否、と首を振るヤマトタケル

 

「これは閉じていた王国に新しい風を吹き込む……正に吉兆なのです。その為ならば多少の犠牲は仕方がありません 。我らの目的の実現もまた、より確実な物となるでしょう」

 

「───喝ッ!!!」

 

 老ドルイドの一喝が響く。我慢も限界だ! と言わんばかりに叫び、まさに王城全体に響く大音声だった。ぎぃぎぃ、と闇に潜んでいた者達が不快な声を上げては逃げ惑う。

 老ドルイドは再度ヤマトタケルに杖を突き付け、侃々諤々と言い募る。

 

「貴様の、言! それを、全て、飲み、込もうと……! 貴様の、振る、舞い! 貴様、への、疑い! 拭、える、物、では、ない!」

「……」

「見えたぞ! 貴様の狙いは"神殺し"! あの、異物、を、己、に、準、じる、位階、まで、育て、上げる、事! その、為、に、王国、を、混乱、させ、私欲、をも、満た、そうと、するか! 

 ヤマト、タケルッ! 私心、に、満ち、満ちた、貴様の、廉恥を、知らぬ、専横な、振る舞い! ニニアン、様は、必ずや、お怒りに、なられるぞ……!」

 

 

「───かまうものかよ」

 

 

 上顎と下顎が縫い付けられた感覚。二の句が継げないとはこの事であった。……気圧されたのだ。他でもない、ヤマトタケルへの言葉によって。

 

「き、きさま……!」

「はは。それでも私は彼の行く末を見たいのですよ。絶望と困難に満ち満ちた道を辿る彼は、どう立ち向かうのか、どう起ち上がるのか……私は見てみたい。そのために私は彼に力を付けさせることも厭わない。──ふふ、すっかり彼に()()()()されてしまいましたね」

 

 一言。たった一言で老ドルイドの主導権は奪われた。

 

「おそらく彼はこの王国にて更なる闘争の渦にのめり込んで行く事となるでしょう。それは占術などで盗み見なくとも、判りきった自明の理。そして王国はその渦に沈むやも知れない……。はは、王国でしか成し得ない事を抱えている貴方には噴飯ものでしょうね……。そうでしょう───」

 

 ヤマトタケルは唇をニヤリと歪め、笑う。

 

「───カズハズ殿?」

 

 その名を口に途端、老ドルイドの満腔からひりつき揺らめくナニカが吹き出た。鋭い眼光と怒気混じりの霊魂じみたそれはヤマトタケルの美貌をぶわり、と撫で上げる。

 かつてはまつろわぬ神であった者、上位の霊性を備えた半神、不死となった元人間……そう言った超越的な能力を持つ死にぞこないどもが居る。ヤマトタケルと相対するこの老ドルイド……カズハズと言う者もまた、ところ変われば妖精王、超越者、不死者……数多の異名を持つフェノメノに相違なかった。

 

「佞臣めが……!!」

 

 汚らわしい、と言わんばかりに吐き捨てるカズハズ。そこに先刻までの気圧されていた雰囲気はない。ただただ道を違えた者への敵意のみがあった。

 

「それは貴方も変わらないでしょうに? ふふ、貴方の妄執、見ていて気持ちの良さすら感じますが、些か澱みが強すぎますね……。私ですら背筋が寒くなりますよ」

「黙れ……!」

 

 どれほど敵意を浴びようと飄々とした姿勢を崩さないヤマトタケルに、カズハズがガン! と杖を地面に打ち立ててはがなり立てる。

 

「貴様が、あの首、取らぬ、と、言う、のなら! 我が、手づ、から、引導、を、渡して、くれ、よう!」

「ご心配無さらずとも、結構。余りに目に余るようであれば……その時はかねてより申し上げているでしょう? 我が武勇を以てあの首を断ちましょう。己の言、覆すつもりはありません」

「まだ、戯言を、言うか……! 先日、己が、言を、覆し! そして、先、程、の、問答! どう、して、信、など、置け、ようか……! 

 ──おお、忌まわしい、忌まわしい! ニニアン様! 必ずや、この佞臣に、変わり、やつがれが、異物へ、誅伐を……! 」

 

 その言葉を聞いたヤマトタケルが柳眉を逆立てた。

 

「───ふむ……。あまり貴方に動かれては、些か困りますね……」

 

 ヤマトタケルの靭やかな身体が、篝火の如くゆらりと揺らめいた。そして次の瞬間には、カズハズの眼の前に居た。そして気付けば……カズハズの節くれ立った手首には、禍々しく、紫に色付いた腕環が嵌められていた。

 それをカズハズが認識した瞬間だった。──腕環が蠢いたのは。

 

「───が、ぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 罅割れた絶叫が響く。カズハズが叫び上げるほどに、激情を発露するほどに、嵌められた腕環が呼応し蠕きカズハズの腕を蝕む。腕は瞬く間に変色していき、枯木じみた腕は毒々しい紫へ変わり果ててしまった。

 

「それはとあるトリックスターから奪った物でしてね。手にするだけで只人であれば呪い殺される曰く付きの代物ですが、一度その腕環を屈服させれば、従順な下僕となるのですよ……私の手ずから嵌めた者が私に敵意を向ければ、毒の棘が食い込む様に、ね」

「ヤマト、タケル───!」

「あまり昂らない方が宜しいかと。貴方の激情を糧に、腕環は肥大化しますので」

 

 そこでヤマトタケルの表情から色が無くなった。まるで完全に興味が無くなった、そう言わんばかりの顔であった。

 

「ふふ、外れる予測ばかりしか立てたれないのでは、無駄に歳を食っただけですね。───それでは」

 

 そう言い捨て、ヤマトタケルは踵を返し歩き始めた。

 ──かつん。──かつん。空虚な回廊に足音だけが響く。どれほど経っただろうか? 蹲っていたカズハズは俯きいた顔をやっと上げ、ヤマトタケルの去った方向を睨みつけた。

 

「ぐ、ぅぅ……お、おのれ……! 佞臣め……! 呪われよ、呪われよ……! ヤマトタケル! 異物め……! 呪われよ、呪われよ……! "神殺し"──ッ!」

 

 色がなくなるほど拳を握りしめる。呪詛を吐き捨て、青褪めた影法師は闇と共に掻き消えた。異形犇めく魔城にて、誰も知ってはならない一幕。

 

 戦士よ、覚悟せよ。波乱の時は近い。

 

 ○◎●

 

「整える? 短めにする? それともいっそのこと丸刈りにしてしまいしょうか」

 

 椅子に括りつけられた祐一に向け、ともすれば鼻歌を歌いだしそうなほど上機嫌なテスラがにっこり微笑む。手にはきらりと光る剃刀が一つ。ひぃっ! その刃のきらめきに気おされ、頬が引き攣った。

 

「さぁ、始めるわよ~」

 

 テスラはそのまま祐一の後方に回り、怪しげな挙動でなにか作業を始めた。その一挙手一投足にビクビク怯えながら、盛大にツッコミを入れる。

 

「なんで髪切るだけで縛られてるんだよっ!?」

「なんでって、それは祐一くんが逃げ回るからでしょ。もうずっと髪切りましょうって言ってるのに「いやだ」の一点張りで切らせてくれなかったじゃない。もうサウィンも近いんだし、ちゃっちゃと整えてしまいましょう」

「うぅ~」

「唸らないの」

 

 確かにいまの祐一の髪は伸び放題もいいとこだ。家出してからおおよそ四ヶ月ほどだろうか? その間、怒涛の展開の連続で髪を切る、なんてこと頭になかったのだ。今までは髪をエオやムインにもらった紐で縛ったりして誤魔化していたが、ついに観念する時がきたようだ。

 そうやって始まった散髪は、祐一の予想に反してとても穏やかなものとなった。テスラの手に迷いはなく、とてもスムーズに髪を切っていく。あんなにも嫌がっていたのが馬鹿みたいに、彼女は上手かった。

 

「もしかしてテスラって髪切るの、上手い?」

「さぁ、どうかしら? 確かにエオやムインの髪をまだ幼いころから切ってはいたから……下手ではないんじゃないかしら。あの子たちから文句は言われたことないから」

「そっか」

 

 こんななら早く切って貰っとけばよかったぜ、と椅子に座りながらぷらぷらと子供のように足を振る。

 そんな子供じみた姿にテスラは彼がまだ年若い少年であることを思い出してしまった。実際、彼はまだ成人もしていない十四の子供なのだ。寿から聞いた彼らの故郷はもとより、王国に伝わる半神半人の大英雄を思わせるほどには若い。

 それでも王国の最大戦力たるヤマトタケルと矛を交えて生き残り、王国に逗留を始めてすぐに並み居る戦士を悉く倒し、戦士長であるエイルには一歩及ばなかったようだが、若さに比例しない戦士であることはテスラもよく知っていたつもりだった。

 

「……悩み事があるの?」

 

 だからだろう、そんな問いかけをしてしまったのは。彼がここのところ何かに悩んでいることは、テスラも察していたし、それはエイル一家も寿も誰もが共通するところだった。その悩みの内容も、然り。

 

「え……あー、うん。悩み事ね、悩み事……まぁ、ある、かな」

 

 祐一の悩み事なんて言葉にすれば簡単なものだ。王国に留まるか否か、たったそれだけの悩み。ヤマトタケルの最初に提示した三ヵ月という期間が、これほど長くだけど短く感じるとは思わなかった。

 ここで王国に残るという選択肢を選べば、楽になれるのだろう。だけどそうすれば現世に帰る、という選択肢が永遠に失われる……そんな気さえして。ふと気づく……現世に帰ること、それはどこかで故郷に帰ることと同義になっていたのではないか、と。

 翻って今の自分はどうだろう? 確かにエイルとの修行で剣の技量も上がっている。力は以前よりも格段についたとは、祐一自身実感してる。だけど現世に、故郷に、このまま帰っても良いんだろうか。……まだ答えは見つからない。

 

「なー」

「なぁに?」

「テスラはさー、俺たちがここから出て行ったらどう思う?」

「それは、寂しいわよ。あなたも寿くんもラグナちゃんも今じゃ立派な家族だもの。まだまだ重ねた時間は短いけれど、それだけは間違いわ」

「……あ、ありがとう」

「ねぇ、祐一くん。私はねかつて……『まつろわぬ神』が出てきたとき、その猛威によって身寄りも仲間も失ったって天涯孤独になっちゃったの」

「……うん。前に、エイルから聞いた」

「あら、知ってたの」

 

 テスラはそう言って、怒りや悲しみを乗せるわけでもなく、ひどく穏やかな声音で言葉を返した。

 

「私の血族や同じドルイドもその時にみーんな死んじゃったわ。ふふっ、でもね? 前も行ったけれど、私たちは死者も生者も変わらないから……闇の半年になれば世界の境界は曖昧になるから、だからいつか会えるって思えば寂しくはなかったわ」

 

「…………ぁ……」

 

 その言葉はどうしようもなく祐一の心を打った。

だって同じだったから。自分とパルヴェーズとの最期の約束は、必ずまた会えると……そう信じたものだったから。 テスラの言葉と自分の約束、なんら変わりはないものだった。

 以前、彼らからサウィンのことを聞いたとき懐疑的でおかしなことだと口に出さずともそう思っていた自分がひどく間抜けで怒りさえ湧いた。だがすぐにテスラの言葉に、変な方向へ走り出した思考は断ち切られた。

 

「でも、そうねぇ。私たちは幽世、あなたたちは現世か。……祐一くんたちとお別れしたら、当分会えなくなさそうね。世界を隔てるもの、ちょっとやそっとじゃ移動できないし年月も掛かりそうね……。よし、じゃあ私の授業も気合を入れていかなくっちゃね!」

「うっへー勘弁してくれ、てか気が早いなぁテスラは。それに安心していいぜ、すぐに会いに行くって。世界の壁なんてブチ破ればいいし問題なし!」

 

 シャドーボクシングをしながらイケるイケるとのたまう祐一に、そう? とクスクスと笑って「はい、これでおしまい」と言って、祐一は自由の身になった。ありがと、そう言って椅子から軽快に飛んで、くるりと振り向く。

 

「ヤマトの兄ちゃんは三ヵ月あるって言ってたんだ。ま、あと一月だけどその間に答えは出すよ。じゃ、闘技場に行ってくるな!」

「はい、いってらっしゃい」

 

 ぶんぶんと手を振っていつものように駆けだした祐一を見送り、

 

「それにしても、三ヵ月ってなんのことかしら?」

 

 おとがいに手を当て零れたテスラの言葉は、そよぐ風に溶けては消えた。




聖地巡礼してきました(日光とか浜離宮恩賜庭園とか)


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オイナハ

 時が過ぎた。王国にて明日には、サウィンが始まろうとしていた。サウィンとオイナハが行われると同時に部族内でも傑出したした者が武を争う武闘大会も行われる。

 闘技場も大会に向け模様替えを施され、中心に円を描いたリングが設置され、いつもより格段に華やかだ。

 エイルは王国代表で出場するとの事でエイル一家と祐一と寿、ラグナも観戦するつもりである。

 武に自信ありな祐一も参加したがったがヤマトタケルがストップを掛け、ゴネにゴネたが許可は下りず仕舞い。

 祐一は戦わないのでその前に行われる前夜祭で全力で飲むと固い決意を固めていた。いらない決意である。

 女人禁制の闘技場も今の時期ばかりは開放され、老若男女、貴賤問わず広く開放される。そのためか前夜祭も大いに盛り上がり、祐一はここがいつも通っていた闘技場なのか疑問に思うほどだった。

 まぁ、前夜祭と言っても真っ昼間に行われるので前夜祭なのかは怪しいものだが。

 ワハハ! ふふふっ、あはは! 闘技場の至るところから楽しげな声がひっきりなしに聞こえてくる。王国中から人を掻き集めたんじゃないかとすら思える賑わいに思わず目眩がしそうだ。

 そこら中に茣蓙を敷き車座に座っては歓談に耽り、酒の力も相まって宴もたけなわ時。

 どこかで喧嘩が起これば誰もが観客へ早変わりし賭け事を始める。誰も止めはしない、ひどく享楽的で、ひどく楽しげで。

 手を振り上げては声を張り、最後には喧嘩した者もお互いに健闘を讃え、そこには部族も種族も関係ない、誰もが笑顔だった。

 以前、祐一が訪れた『メロウ』と呼ばれる半魚半人の部族も、王国の戦士と酒を酌み交わし、偏屈なレプラコーンも今日ばかりは姿を現し、飲んだくれる。こうして見ていると人間の形をしていても純粋な人は少ないのではないかとすら思えてくる。

 どうやらこの前夜祭が予選の意味も兼ねているらしく、我こそはと言う戦士たちは進んで喧嘩を売っているようにも見えた。

 

「お、ユーイチ! やっと来たか!」

「ごめんごめん、遅れた!」

 

 ムインが手を振って盛大にアピールする。ラグナが一旦異界に戻り、再び現れるのを待っていたので祐一達は少し遅れての登場だ。

 ムインの大袈裟な姿に普段なら恥ずかしさを覚えるが、今日ばかりはそうでもしないと見失いそうだ。近くにはエイルもテスラもエオもいる。闘技場で女性であるテスラを見る事なんて皆無だったので新鮮だ。

 みんな酒がもう入っているのか赤ら顔で、表情もやわらかい。エイルは王国代表だからだろうか、ひっきりなしに客人が現れては酒を注がれ、いっそ盤外作戦なのでは? と思えるほどしこたま飲まされている。エオも珍しく酔っている様子で、早く来いよ! とどこかトロンとした目で朗らかに笑う。

 

「ふふっ、私が腕によりをかけたのよ! たんと召し上がれ!」

 

 テスラも陽気に笑って遅れてやって来た祐一達に料理をよそってくれる。ありがとう、いただきます! 即オチ2コマで祐一達は快楽の虜となった。

 

「───見ろ! ニニアン様だ!」

「なんだって!? ……おお、本当だ! なんと美しいお姿か……。しかし我らの前に姿をお見せになられるのは何年ぶりか?」

「気にすんじゃないよ、今のうちに崇めとくんだよ! はぁーニニアン様ー!」

「それもそうだな! ニニアン様ー!」

 

 誰かの声を皮切りに闘技場全体がざわめく。どうやら王国の女主人たるニニアンが姿を現したようだ。祐一も過去の記憶に怯えながらおそるおそる視線を向ける。

 良かった。今回は霊視が働かなかった。そのことに安堵し、ニニアンを見ればふと視線があった気がした。

 だがその感覚もすぐになくなり、ニニアンの姿もどこかに隠れ見えなくなっていた。

 気のせいかな? しかしすぐに忘れて、談笑に戻った。

 ニニアン様が見れたぜ! と無邪気に笑うムインが食後の運動とばかりにエイルに決闘を吹っ掛け、肩慣らしとばかりにエイルも刃を潰した剣を握った。

 誰もが笑っている、そんなもうありふれたと表しても良い光景。

 

「……楽しそうだな」

 

 そんな脈絡もない言葉が口をつく。

 

 楽しい、本当に楽しい。終わってほしくない、そう思ってしまうほどに。

 祐一はいまがお祭りだと言うのに、楽しめそうもなかった。どこか遠くで喧騒を眺めている感覚。

 それもこれもとある悩みが原因だった。王国に辿り着いて一、二週間くらいならなんとも思わなかった……笑顔で手を振って、後腐れなく別れられた筈だった。

 ……いや、それは今でも変わらない。彼らならば別れを惜しみながらも笑顔で見送るのだろう。それくらい判っていた。……自分が、自分だけが、揺れている。じめじめと心の底で澱のような昏い感情が蟠っているのだ。

 

「ユーイチは楽しくないのか?」

「え?」

 

 声を掛けてきたのは隣に座っていたエオだった。

 

「あ……違うんだ。そうじゃないんだ」

 

 頭にぽんと手を置かれた。グシグシと撫でられ、吊られるように身体が揺れ動く。顔を上げれば、エイルがいた。

 

「まだ一ヶ月はある。そう悩むな」

 

 エイルは笑い、それだけ言ってまた人の輪に戻っていった。かぁ、と頬が赤くなるのを自覚する。

 

「何言ってんだ、まぁーたくだらねぇ事で悩んでんのかよ? お前はもう仲間だろ!」

 

 そう言ってエオが祐一の肩に腕を回し、闊達に笑う。どうやらここ最近の悩みはエオにもお見通しだったらしい。

 

「俺たちはなお前が貶されたなら俺は報復するし、お前が戦うなら共に鉾をとる! お前が悲しむなら俺は涙を流そう、お前が喜ぶなら共に酒を酌み交わそう!」

 

 いつものエオらしくない熱い言葉に驚く。いつもはクールでどこか斜に構えているエオが酒精もあるのだろう……それでも積極的に絡んで来るのは予想外だったのだ。

 酔っているのが笑い続けて、愉快気なエオが酒盃を突き上げ、声を張り上げる。

 

「名誉ある友に!!! 誇りある同胞に!!!」

 

 ズン、と。心の芯を揺さぶり、赤熱させる言葉だった。たった一言二言だと言うのに呪術なんかよりもよっぽど強力で、強い耐性があるはずの身体を穿いてその言霊は自分の奥深くへ辿り着いて染み渡っていった。

 

「そうとも! ユーイチは俺達の友! そして同胞さ! ───なぁ、みんな!! そうだろ!!!」

 

 ムインが叫んで呼びかける。答えは地面を揺るがす咆哮と甲高い金属音だった。叫んでいる誰もが筋骨逞しく、勇ましい者たちばかり。王国に滞在し初めてからこれまで、共に武を競い笑い合い酒を酌み交わした者たちばかりであった。

 

「みんな、ホント──だな……」

 

 俯いて、呟く。そして思う。決めたよ。……おっちゃんごめん。

 結局前夜祭が終わるまで、祐一はまともに顔を上げることができなかった。いつまでも隣に居てくれたラグナの体温が、ありがたくって仕方がなかった。

 

 

 ○◎●

 

 

 朝が来た。

 空はどこか空虚さが蔓延り寒々しい雲が漂う。もうすっかり冬となり吐く息も凍りそうなほど冷たく、手にも霜焼けが出来そうだ。否応なく季節の……時間の流れを感じ取ってしまう。森を抜けた所にある人の気配が薄い場所へ祐一と寿、ラグナは散策に来ていた。

 ここは王国の城壁は見えるものの、それなりに離れた場所ではあるのだが、お祭り特有のごった返していた喧騒がここまでこだまして聞こえてきそうだった。……だけど、そんなものは鼓膜にこびりついたまやかしでしかない。

 耳をすませば、それこそ耳鳴りすら聞こえてくる静寂が辺りを覆っている事に気付く。

 霜が降りてぬかるんだ道を、祐一と寿、ラグナは言葉もなく歩いていく。祐一の歩調は早いわけでも遅いわけでもないのに、寿とラグナは付かず離れず彼の後ろを歩いていた。

 朝早くここに来たのも寿にとある事を切り出す為だった。おっちゃんとも付き合い長くなったよな……。ふとそんな事を思う。なんだかんだでもう彼とはパルヴェーズ以上に共に居る友人となっていた。転覆した船の生き残りと言う括りでしかなかった祐一達も、今では深い友情を結んでいると言っても過言ではなかった。……だからこそ、祐一はここに来たのだ。

 今日の昼には武闘大会が始まり、それが終わればもう日没となりサウィンの始まりだ。──切り出すには今しかなかった。

 

「ここまで来るまで大変だったよなぁ……。おっちゃんは倒れるし、俺は片眼潰したし、ヤマトの兄ちゃんには襲われるし……」

 

 空を見上げ、独り言のように呟く。

 

「うん」

 

 だけどその言葉は寿に向けられた言葉に他ならなかった。それに寿は穏やかな笑顔で、耳を傾けるだけだった。

 

「意味分かんないよな。いきなり斬り掛かってきて、邪魔入ったら今度は、はいやめましょうだ。普通、突っぱねてるぜ。……でも今はどうでも良くなってるんだ……おっかしいよな……」

「……うん」

「王国についても大変なのは変わらなかったし……。エイルはめっちゃ扱いてくるし、テスラの授業は頭痛くなるし……」

「あはは、そうだったねぇ」

「ちぇ、笑うなよ……。でも剣の扱いはスゲー上手くなった。テスラのお蔭で世界の裏側の事、家事だって、色んな事学べた。感謝してもしたりないよ」

「そうだね」

「エオもムインも最初はいけ好かない奴等だって思ったけど、そんな事全然なかった。……良い奴らだった」

「うん」

「王国のニニアンって人にも会った。めっちゃ怖くてまともに挨拶すら出来なかったけど……いつか詫び入れに行かなきゃなんないなぁ」

「ははっ確かに。それがいいよ」

 

 二人は穏やかに笑う。二ヶ月近く同じ屋根の下に居た仲間なのだ。もう次に出てくる言葉なんて分かりきっていた。

 悩む時間はまだ一ヶ月近くある筈だった。でも、祐一の肚は決まっていた。……立ち止まる。

 

「なあ、おっちゃん。此処に……」

 

 

 

 

 

 

 

 ───()()()()()()()()()

 

 

 空がおかしい。雲の流れが、変わった。

 ケタケタと声が聞こえた。耳障りでどこから聴こえてくるのか、大きいの小さいのかすら曖昧な、不気味な笑い声。

 直感がけたたましく叫ぶ。眼光に剣呑な光が宿り、歯をギチギチと食い縛る。寿の傍に駆け寄り、油断なく辺りを見渡す。

 あまりにも突然の事に理解が追い付かない。だがそれでも混乱してはならない、冷静であらねばならない、思考を巡らせろ、世界をつぶさに見渡せ。

 来るぞ。何かが……! 

 以前、サウィンとは寿がお盆と言い表したが、違う。正しくはそう、それは彼らの故郷の言葉で表すとすれば───()()()()

 ハッとする。足元に広がる大地……近くの水たまりに波紋が出来ている。驟雨の飛沫でも寒風が揺らした訳でもない───大地が震えているのだ……! 

 その時だった。

 轟、と後方から烈風にも似た威圧に襲われたのは。後ろを振り向き、来た道を見返して……嘘だろう? そんな言葉が口から漏れそうになる。今さっき通り抜けて来た森が、青々と繁り無数の木々が生える森が───蠢いている。

 生命の息吹香る森は過去の姿、今では陰々滅々としたおどろおどろしい影が蔓延るばかり。

 不意に何かの気配が風に乗って届いた。ざく、ざく、と地面と木々を踏みしめる音が聞こえるのが何よりの証拠。

 寿は恐ろしい予感に震えていた。戦慄が走る、脂汗が滲む、震えが止まらない。膝をついて、逃げ出せればどれほど楽になれるだろう。奥歯をカチカチと鳴らし寿は恐怖に呑まれ、近づく人影を待った。

 ああ……。地獄の門が開いたのだろうか……。魑魅魍魎が跋扈する異界に迷い込んだのだろうか……。災いの詰まった箱を開けてしまったのだろうか……。

 だがこれだけは理解していた。その足音はここに居る誰にも、福音などでは決してない事を。

 ──現れたのは牛頭の人だった。黒い毛皮に覆われた体軀は筋骨隆々とし見上げるほどの長身で、猛々しい蛮族が如き威容。

 手には一本の巨大な鉄剣が一つ。頭部から左右に伸びる角は長大で力強かった。剣から迸る剣気は冷たく、鋭く、死を匂わせた。

 なんなんだい、アレ……。忘我した寿が至極当然の疑問を漏らす。眼球から脳に送られた映像が理解の範疇を超えていた。同時に己がその魔手から振るわれる剣戟に首を断ち切られるまで映像は止まらなかった。

 ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく────。

 百鬼夜行の歩武がさざめきの如く鼓膜を揺らす。魔物の奏でる雅楽は終わらない。

 牛頭の魔人を先頭に、雪崩を打ったかのように魔物の大群が姿を現す。どこにこれほどの数が潜んでいたのか……おぞましい魔物共が犇めき合っている。まさにワイルドハント。

 王国に辿り着く前に見た、峡谷の底に蠢く魔物達……二頭一身の黒い犬、一つ目の斧持つ巨人、石で出来た人型の鬼、手足が無い蛙の身体を持つ美女……。奴らが今目の前に姿を現し、まるで奈落の門が開いたかのように溢れていた。

 牛頭の魔人と並ぶように三体の人型の魔物が姿を現した。おそらくこの四体こそがこの魔物の軍勢の中でも最強と確信できた。

 闇から這い出て来た様な四本脚の獣に乗る銀の翼人に長槍を携えた赤い鱗持つ蜥蜴人……それが二匹。

 

 ■■■■■■■■■────!!! 

 

 居並ぶ魔物を他所に一匹の蜥蜴人が前に出て罅割れた奇っ怪な声を上げ、威嚇する……。蜥蜴の魔人が石突で地面を叩き、鈍い音が大気ごと揺らす。

 奴らは人と交わらない、交わってはならない、間違いなく───敵だ! 祐一は確信と共に眼光に剣呑な光を灯す。

 それは敵に伝わったのだろう……牛頭の魔人が剣把を握り締め、剣をこちらへ向ける。───それが合図だった。魔の軍勢がさざなみの如く動き出したのだ! 

「ああ……」諦観に呑まれた声を出したのは寿。膝をついて迫りくる死を受け入れようとしていたのだ……。

 だが思考が停止した寿とは打って変わり、祐一の判断は早かった。「バカ!」諦め切っていた寿の首根っこを引っ掴んで走り出す。

 

「何やってんだ、ふざけんなっ! 俺の目の前でもう友達は殺させねぇ!!! 今は逃げるしかねぇだろ……! ──ラグナ!!!」

 ───ルオォォォオオオッ!!! 

 

 ラグナに乗って駆け出す。王国とは真反対の方向へ全力疾走する。今は後ろを振り向く余裕もない、逡巡する猶予もない! 早く逃げねば。速く、捷く、疾く! 

 幾つもの雑音が鳴り響く。何かが動き出した音……そして音源なんて分かり切っている。迫りくる者共の他に何がある? 

 いくら権能の補助があるとはいえ未だに忘我した寿を掴んだまま、不安な姿勢での全力疾走はなかなか堪えた。地面を駆けるラグナも速度が上がらない。おそらく自分たちを慮っているのだ。

 

「───おっちゃん!」

 

 背でやっと正気に戻った寿が、倒れ込むようにラグナへ全力でしがみつく。一言だけ「バカ」と悪態をついて後ろを見遣る。「ごめん」か細い声と、寿の白んだ手の甲が見えた気がした。

 振り向いた瞬間、直感がけたたましく叫んだ! この感覚は何度も感じている、生きたいと言う本能そのもの! 

 思考よりも本能が身体を動く。ヒュン、風を劈く音が鼓膜を穿つ。紙一重で襲来した『ナニカ』を避ける。

 もはや慣れ親しんだとも言ってもいい、チンギス・ハーンと戦った時も自分が使っていた武器。矢だ。まるで豪雨の如く飛来し、気付いた時には何十、何百という夥しい数が降り注いでいた。

 目を眇め奥を見遣れば、魔の軍勢も奇声を上げ止まることなく迫って来ている。奴らは決して楽になどさせてくれないのだろう。奴らが齎す安寧は唯一つ……「死」だけなのだから。

 地面を踏みしめ進むラグナの目となり、迫りくる矢を悉く振り払う。だが、ジリ貧だ。ヒュン! また耳朶を叩く劈く音。時間を追うごとに狙いが正確になっていく、そして寸鉄帯びぬ自分にはラグナを手繰る事しか手立てがない。

 ちくしょうっ! 思わず汚い言葉が口をついてしまう。抗う武器! 矢を防ぐ武器! 軍勢を止める武器が欲しい! 

 全霊を以って全身へ闘志を叩きつける。

 臍下丹田へ! 心の臓へ! 己が宿すものへ! 撃鉄を臍下丹田へ、反抗の意志を己が宿すものものへ、神をも討ち果たす意志を心の臓へ! ──全力で以って叩きつけた! 

 ───果たして答えは、あった。

 眼に鋭い光が宿る。──戦え! その瞬間、祐一は跳躍した。唐突な行動。だが盟友は、ラグナは止まらなかった。ただ視線だけが交叉する。まるで鏡合わせの様な鋭い眼光が交錯し、小さく頷きどちらも前を向く。

 言葉など要らない。権能や契約を抜きにした……共に戦場を駆け抜けた戦友としての絆が彼らをそうさせたのだ。ならば構うことはない、憂いは友が打ち砕く。俺は俺の戦いへ向かう──それだけでいい! 

 

「祐一くんっ!」

「──いいから行け! 今はとにかく逃げろ!! そんで王国へこの事を伝えてくれ!!!」

 

 振り向きもせず言い募る。答えを求めていない一方通行な言葉。だが寿が頷いたのは見なくても、判った。友人で、同じ境遇で、そして共に過ごしてきたのだ。それくらい察する事は訳なかった。

 彼らが走り去っていくのを背で見送り、刻一刻と迫る軍勢を睨む。もう彼我の差は百Mもないだろう。だが、それでも……不敵に口角を吊り上げ、鋭い眼光を宿し前を見据える。

 ああ……これだ。祐一は思う。──帰ってきたと。

 ごめんな、祐一はふたたび笑う。

 自分ひとり剣の修行にかまけ、ほっといてしまっていた者達へ謝意を送る。

 ああ、いつも非日常は唐突に姿を現し、平穏な日々を瞬く間に駆逐していく。祐一は少しだけ肺腑に一陣の木枯らしが吹くような寂寥感に囚われ──しかしそれもすぐに終わる。……それは内なる者たちも同じ事。

 次の瞬間にはもう彼は、戦士となっていた。

 瞳に宿すは烈火の眼光。四肢には充溢する闘気をまとわせ、陽炎のごとく揺らめくオーラが九つの姿を形作る───。

 

「我は最強にして、全ての勝利を掴む者なり!」

 

 聖句を謳う。もう一月は使って来なかったというのになんの違和感もなく権能は発動した。迫る軍勢との彼我の差はもう幾許もない。だが祐一は全く焦る事はなかった。

 信じているのだ──己の権能を、己の勝利を! 

 踵を振り上げ、───地面へ突き刺す。たったそれだけの動作だと言うのにズン、と大地に波紋の様な波が疾走った。

 祐一が選んだ化身は、常勝不敗に軍神ウルスラグナが誇る第二の『雄牛』! 黄金の角持つ猛々しい雄牛が祐一へ助力する。大地から途方もなく力強い何かが流れ込む。異常な膂力が身体に備わった事を自覚する。それこそ神域の、と表しても良いほどの。

 いつの日かエオが言っていた言葉を思い出す。此処は地下だ、と言う言葉を。

 ドバイでの戦いを思い出す。地中に埋まってしまった時、まるで母の胎内に居るかのごとく安らかで、恐ろしいほど力が充溢したではないか。

 ならば使わない手はない。───行くぞ。

 猛然と突き進んでくる軍勢を見据え、気合一閃! 

 

「────だりゃぁぁぁぁあああああ!!!」

 

 轟────ッッッ! 祐一はそのまま大地をひっくり返した! 

 そして引き起こされた土砂の津波。地中に埋まった巨大な岩盤すら意に介さず、大気を引き裂いて敵へ雪崩こむ! 奴らにとっての死神の鎌。魂を掠奪する武器にほかならない。

 さしもの異形の軍勢も足が止まった。信じられないとばかりに茫然と見上げている者すらいる始末。だが土砂の雪崩は一切構う事なく進む。───轟! 

 数多いた魔物を一息に呑み込み殲滅する。ただの権能一つで、ただの腕の一振りで、なんのドラマもなく百鬼夜行は露の如くこの世から姿を消した。

『圧倒的』……その一言に尽きた。神から簒奪した権能はそれほどに強力なのだ。虐殺を齎した怒涛の波浪が歓喜したようにズン、と揺れ動きを止めた。

 ぶるり、身体が震え、己の持つ力の巨大さとそれによって齎される破壊と快楽に呑まれそうになる。

 それは一瞬の油断だった。

 ──来る! 神経を焼き尽くすかの如き速さと強さで直感が叫んだ。

 咄嗟に後方へバックステップで離脱する。だが右の太腿に鋭く冷たい感触とそれに遅れて焦がすような灼熱する感覚が疾走った。

 斬、右の後方から地面に何かが突き刺さった音が聞こえた。見れば、地面を縦一直線に亀裂が走っている。──殺気。

 咄嗟に左へ飛ぶ、ごろごろと無様だが確実に飛んできた何かを避ける事が出来た。

 今のは見えた。今度は槍。おそらく祐一の身長よりも長いだろう長槍が飛来したのだ。どんな膂力で揮えばあれほどの質量を安々と、それも異常な威力で投げる事が出来るのか。

 祐一はそのとき始めて眉間を伝う汗を自覚した。

 がらり、何かが崩れた音が聞こえ、そちらへ振り向く。──思わず生唾を嚥下する。

 百鬼夜行を呑み込んだはずの土砂に大穴が開いている。そして、そこから見えた───四つの影が……。

 牛頭の魔人と四本脚の獣に乗った翼人、二体の蜥蜴の魔人。四つの影が、祐一へ向け蠢く。

 …………戦いはまだ終わりそうになかった。

 

 

 




怒涛の展開へなだれ込みます


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斬鉄すら超えて

「──はっ! はっ! 何だコイツラ! しつけぇ!」

 

 祐一が取った選択肢は「撤退」だった。

 木々の乱立する森を全速力で駆けて行く。木の根が、枝が、石が、蔓が、窪みが、獣が、あらゆる森を構成する要素が祐一の行く手を阻もうとするが止まらない。おそらく野生の俊敏な動物でさえ追いつく事すら出来ないだろう。

「──だぁっ!」直感の叫びと時を同じくして、気合とともに前かがみに飛ぶ。髪を何かが掠めた感覚。はらりと視界に髪が舞い、ゴロゴロと転がったあとに視界を戻せば、今まで首があった場所より上がなくなった木々。まだ振り切れてなかったのか! 悪態を付きたい衝動を抑え、足をまた踏み出そうとして──動かなかった。

 足に何かが絡みついている。何だ!? と見遣れば木の根がみしりと右足を覆っていた。

 全く気付けなかった自分に歯噛みし、右足をなりふり構わず動かすが……びくともしない。耳をすませば、あの翼人の魔歌が微かに耳朶をうつ。……マズイ! 後ろを見ればナニカが蠢く気配と影を感じ、焦燥がジリジリと臓腑を焦がす。走れ走れ! 奴らに追いつかれる前に! 

 生き残った四体の魔物の攻勢は「苛烈」の一言に尽きた。土砂から這い出た魔物は一気呵成に攻撃を行った。牛頭の魔人は大剣でもって首級を求め、赤い蜥蜴人は長槍でもって心臓を狙い、翼人は魔歌でもって魂を奪おうとした。

 比類なき魔物。おそらくチンギス・ハーンの眷属にも負けず劣らずの実力を秘めた怪物達。追い付かれたら終わりだ、祐一は独り言ちる。

 だからこそこんな所で立ち止まる訳にはいかない。感覚で分かる、いま足に絡みついてる根は呪術によるものだと。俺は王国に帰らなければならない。

 テスラに教えてもらった事を反芻する──。呪術ならば……! 内包する呪力を練り上げ、一気に右足を振り払う。

 王国に帰って俺は……エイル達とまた卓を囲んで、今度は本当の戦友として、真の同胞として、

 

「盃を交わすんだ───!」

 

 振り上げた右足はなんの抵抗もなく持ち上がった。引き抜かれた根が生命も根幹を穿たれた様に力なく頽れる。祐一の新生した肉体の能力が発揮されたのだ。

 右足を大地に叩きつけるようにして、一歩を踏み出す。

 おおおお! そして祐一は駆けた。ただただ一直線に。距離を取らねば、奴らに追いつかれるから。走らなければ、奴らに追い付かれるから。

 走れ走れ疾走れ! 奴らを遠ざけろ───ッ! 

 

 そして辿り着いた。祐一が目指していた場所に。

 そこは拓けた草原だった。ふくらはぎ辺りまで伸びた青々とした草木が生えただけの殺風景な場所。広々とし、例え数百人の人間が動いても楽に動ける場所。乱戦ならば、これ以上ないほど地の利が得られる場所であった……されどそれは数の多い方の利。

 祐一が取った選択肢は「撤退」だった。そう、「撤退」だったのだ。

 恐ろしいから逃げた訳でもなければ、勝てないから逃げた訳でもない。

 奴らを王国から遠ざける為、奴らを確実に屠る為、祐一はこの死地へ奴らを誘い込んだのだ。それは天性の勝負感だったのかも知れない……背水の陣を敷き、敵を迎え討つ。

 広い草原のど真ん中で腕を組み、何の策も、何の武器も持たず、決死の覚悟を胸に秘め、前を見据えて不敵に笑う。

 それこそが木下祐一最強の構え。今、持っている最高の武器に他ならない。

 気配が近づく。

 魔物たちが遂に姿を現した。数十キロは走ったと言うのに奴らは祐一と同じく息も切らしていない。

 あるのは膨大な怒気と覇気のみ。一歩一歩踏み締め、ゆっくりと向かってくる。先頭に立つ牛頭の魔人と……視線が重なる。──鋭い眼光が交わった。

 強い。

 理論や経験なんぞではない、ただの事実として、祐一は一瞬で理解した。

 祐一という少年は……いや、戦士は普段であれば穏やかな相を見せるが、いざ戦いとなれば激しい闘争心を持つ戦士の相も併せ持つ。

 故にいまの祐一は普段の表情も、意識も、雰囲気すらも様相を一変させていた。

 ああ、そう言えば……。エイル達を始めとした戦士達は言っていた。名誉こそが何よりも価値があるのだと。ならば───

 

「───俺は誓う! 俺は必ず勝利を手に入れると!」

 

 俺は名誉を手にし、王国へ錦を飾る──。祐一の意志は固まった。

 GYAAAAAAAAA──!!! 

 先手は赤い二匹の蜥蜴人だった。

 バンッ! と言う破裂音の後には、深く抉れ土煙の上がった地面。赤い鱗に覆われた尻尾を振り乱し、一瞬で距離を詰める。

 異常な脚力……蜥蜴人の自前の力もあるのだろうが、違う。祐一には見えた。蜥蜴人の足に纏わりつき漲る呪力を。

 呪力の源、奥を見れば獣に守られた翼人。奴は英雄を讃え奮い立たせる吟遊詩人であり、戦士達の堅牢な守りに固められた呪術師なのだ。厄介極まりない、奴をなんとかしないと戦いは長引くばかりだろう。

 気を取られた、そう思った時には目の前に蜥蜴人は迫っていた。

 速い──。閃電の如く二対の穂先が煌めき祐一の喉元と心臓を抉り取らんとする。首を捻り身体を捩って、穂先を躱す。

 流麗な水が岩をスルリとすり抜けるような挙動。以前ならば躱すことも怪しかっただろう。

 が、しかし王国に逗留し戦士達とさんざんっぱら立ち合って習得した……血肉と変えた技能が祐一にはあった。

 これくらい躱せないと王国の戦士達に顔向けできねぇ! 眼光を眇め、心臓を狙ってきた蜥蜴人を見据える。一歩踏み出す。槍の柄に手滑らせ、蛇が這い回るように手の甲で弾く。

 やれる! 神々から奪い取った権能を使わなくても、今の祐一であればこの程度の脅威、振り払う事は容易だった。

 ──そう思い至った瞬間だった。左頬に烈風を感じた。逡巡の間もなく、上半身ごと後ろへ身を捩る。

 ヒュン! 見えた、今さっきまで自分の頭蓋があった場所に円錐形の飛来物が通り過ぎていった。弾丸はそのまま真っ直ぐ突き進み、奥の木々を薙ぎ倒していった。瞠目する。……なんて威力とスピードだ。

 崩れた姿勢は立て直さずそのまま後ろへ倒れ込み、バク転の要領で体勢を立て直す。前を向いて状況を俯瞰し、推察する。放ったのはおそらく後方にいる翼人。蜥蜴人が初撃を仕掛け、その隙を精密にして強烈な一撃で祐一を仕留める算段だったのだろう……。

 一筋縄では、いかない。

 祐一は頬に伝う汗を自覚した。だが一番の気掛かりはその隣に居る牛頭の魔人だった。

 戦闘が始まって一歩も動いていない……片手に持った大剣も微動だにしていない……泰然とし悠然と見守っているのだ。それが、いっそ不気味だった。

 ハッと気が付いた。今さっきまでいた蜥蜴人の一体の姿が見えない。どこだ──!? 内心の焦りをおくびにも出さず、視線を走らせる。

 影が視界を横切った。バラバラだった思考回路が繋ぎ合わさった──上か! 

 顔を上げる。遂に見つけた。隼の如く高く飛び猛禽の如き鋭さで、突き掛からんとする魔物の姿を。

 咄嗟にバックステップして避けようと目論むが、いつの間にか後方に回ったもう一体の蜥蜴人が槍を放つ。自分の心臓を狙った、的確で精妙な一撃。高い技倆を、それこそ一流の戦士ですら難しい一撃をこの状況で放って来た。

 それだけではない、翼人もまた動いた。

 ■■■■■──。

 再び魔歌と共に円錐形の弾丸を繰り出す。間違いなく祐一の急所を穿くルートで迫り来る。──三方からの同時攻撃、必殺の三撃が祐一を襲った! 

 

 まだだ、祐一は焦らなかった。

 行くぞ。意識が切り替わる。世界の色が消失し、あらゆるものがモノクロへ──。

 祐一は権能ではない一つの奥義を発動させたのだ。『心眼』と言う奥義を! 

 コマ送りの様になった世界で、全てをつぶさに感じ取る事が出来た。知覚が異常な程に鋭くなっているのだ。

 一つ。半身を開き遠方から飛来する弾丸を避ける。ジッ……と標的を見失った弾丸が鼻先を掠め過ぎ去っていく。体勢を変えた祐一に構わず、やはり二対の槍は狙い違わず迫る。

 二つ。脳天に突きこまれる上方からの槍を、左手を伸ばし掴む。GYA!? 驚愕する声が耳朶を穿つ。掴んだだけ、それだけで敵の攻撃は止まった。臍下丹田の力を振るい、膂力無双とも言える力を手にした祐一だから出来た芸当。そのまま腕を振りかぶり、槍を握り締めた蜥蜴人ごと彼方へぶん投げる。

 三つ。視線を巡らせる、最後の槍……それだけは──避けれない。悟った祐一は覚悟を決め、目を眇めた。空いた右掌で柄の部分を逆手打ちではたき落とす。狙いがそれ空を切る、──筈だった。

 しかし執念を燃やした槍は、やはり祐一を捉えて離さなかった。穿──。鮮血が舞う……。清らかな草原に赤い雫が落ちる。遂に祐一の皮を破り、血と肉を引き摺り出したのだ。

 ぐぅっ! 呻吟の声が、大気を揺らす。しかし祐一は立っていた。その眼光に衰えはなかった。──それが全てを物語っていた。

 オオオオォォ───ッ!!! 『獣』の咆哮が大地に轟く。

 自分の腹に収まった槍を、自分の意志で引き抜く。さらなる鮮血が祐一の身に付けていたブレザーを汚すが、構うものか。

 ウラァァァ!!! ──気合一閃。

 今まで自分に突き刺さっていた槍を振り下ろし、蜥蜴人へ向け地面に叩き付ける。ドンッ! 大地が揺れるほど強く叩き付けた。それでも蜥蜴人は意識を保っていた……それどころか肩がグシャグシャになりながらも槍を握り締め、反撃しようとさえしている。

 地面に仰向けになった蜥蜴人と立ったままの祐一とが槍を間に鬩ぎ合う。

 祐一の殺意に染まった眼光と、蜥蜴人の血に染まった眼光とが重なる。相対する異形の双眸は憤怒の情に染まり赤い雫が滴り落ちていた。

 ■■■──! 恐怖か興奮からか、意味の無い不快な鳴き声を垂れ流す。

 本当に執念深い、祐一はそう思った。だが、それも長くは続かない。もはやこの状況は詰みだったのだ。

 祐一が更に力を込め、蜥蜴人の腕ごと──引き抜いた。力を込めた腹部から血が噴き出る。ブチブチと肉が千切れる音が鼓膜を叩く。胴体から引き離された手は未だに槍を握り締めていた。

 蜥蜴人はとうとう呻吟の一つ漏らさず、祐一と言う重りの無くなった事を悟ると、直ぐさま抜け出そうとした。

 すげぇよ、お前。思わず感嘆にも似た感情が胸中に浮かび上がった。

 だからこそ。祐一は迷わなかった。

 奪い取った長槍を、颯と振り降ろした。中空を裂く霹靂さながらの強烈な一撃。神殺しの一撃は狙い違わず、魔物の心の臓を喰い破り、大地を刺し貫いた──。

 

 ───GYAAAAAAAAAAAAAAA!!! 

 

 魔物の断末魔が迸る。赤黒い血が零れ、貪欲な大地が飲み干していく。血の錆びた匂いが鼻腔を犯す。

 ああ……。

 酔い痴れそうになるほどの快楽。呑まれそうになるほどの力。強敵を降したと言う途方もない快感。

 知れず祐一は口元に歪な笑みを浮かべていた。それが神殺しへ新生したからか、それとも生来の性根がそうさせるのかは、判らない。

 だが今、祐一は血に酔う戦士そのものだった。

 

 ■■■■■■■■■■■─────ッ!!! 

 

 突然、甲高い奇声が響いた。

 浮き上がった心がはたき落とされる。思わず耳を塞ぐが、遅かったのか耳鳴りが止まらない。

 なんだ……? 声のする方向を見遣れば、四足の獣と共にこちらへ猛然と疾走する翼人の姿。目一杯に伸ばした右手をこちらへ向け、狂声を上げ祐一へ向かって来る。

 今まで後方で用心深く、後方で攻めに回っていた厄介な敵がどういう事か前に出て来たのだ。

 なぜ? と言う疑問より先に──好機だ。そう思った。息を吸い込み、内息を整える。臍下丹田より湧き出た力を練り上げる。突き刺していた槍を引き抜き、心眼を凝らす。

 視界が移り変わる───。色が無くなりモノクロだった世界が、絵の具を水を零し、手で撹乱させたように、不透明になる。

 ───フッ! 長槍を握り締め弓なりに引き絞った身体で、長槍を迅雷の矢の如く放つ。放った槍はまさに閃電、大気を咲き一直線に煌いた。

 破砕音が耳朶を穿ったのもそう時を置かずしての事だった。槍は獣の脳天を突き破って翼人の胸に風穴を開け、彼方の大木に突き刺さりようやく止まった。

 くずおれた二体の魔物が地面に強かに打ち付けられ、骸を晒すのを見落ろし、これで、二体。そんな呟きを口から零す。

 それを酷く冷めた目で睥睨し、祐一は牛頭の魔人へ視線をずらそうとして

 ───ッ!!! 瞬間、膨大な殺意が全身を駆け抜けた。驚いて……いや、驚く事はない。この殺意の正体なんて一つしかないのだから。

 殺意のする方向へ首を向ける……やはり間違いはなかった。闇夜にさざめく草原を疾走する赤い影。破竹の勢いで、それこそ噴き出る火花の如き駿足。速い。

 心眼を使っていなければ、見失っていたかも知れない。そんな事を想起させるほどの速度。だが、祐一の胸裡に焦燥は欠片もなかった。

 全てが、視えた。

 奴の赫怒に染まった面貌も、奴の息遣いも、奴が次の瞬間放つであろう槍の軌道も、それがただの目眩ましである事も、そして隠し持っていた剣で首を切り落とそうとしている事も。全てがつぶさに視えた。

 瞑目する。

 半身をずらす。───瞬間、風切り音。

 目を開けばもう奴は眼の前に居た。だが祐一の心はひどく凪いでいた。無限に広がる空で揺蕩う浮雲の様に、殺意すらもそこにはなかった。

 蜥蜴人が隠し持っていた鉄剣を袈裟斬りに振り下ろす。祐一は拳を放った。

 鉄剣は躊躇せず向かってくる拳ごと一息に斬り裂こうとする。

 腰を屈め、前へ出る。辿り着くのは左拳の方が速かった。

 左拳を蜥蜴人の剣を持った手首に叩き込む。剣を持った両の手から骨の砕ける感触が伝わる。苦悶の表情を浮かべた蜥蜴人が赤い瞳で祐一を睨む。

 それにも祐一は頓着しなかった。

 ハァーッ! 左拳の陰に隠していた右拳を、奴の胸部へ叩き付ける。祐一は既に放っていたのだ──二撃必殺の技を。

 終わりだ。

 祐一の拳は見事に蜥蜴人の内部を蹂躪し、心臓を食い破った。返り血が頬を汚す。ぬるりと肉の生暖かな感触と、血の温度が神経を伝わって感覚野に広がる。

 蜥蜴人の限界まで見開いた瞳から、血の涙が零れた。奴の手が弱々しく持ち上がり、祐一の頬を撫ぜる。

 祐一にはそれが最後の攻撃なのだと思った。まだ暖かさが宿る手が撫でるように頬を滑り、そして落ちて行く。

 ──■■。蜥蜴人の口から断末魔の言葉が漏れた。

 拳をゆっくり引き抜く。ズルリと、支えを失った骸は地面に頽れ、───もう起き上がる事はなかった。

 異形だった。

 敵だった。

 そして、───戦士だった。

 祐一は強敵への敬意を払う事を自制できそうになかった。必ず彼らを弔おう。そう誓いを樹て、前を見据える。

 

 ───後には人と魔だけが残った。

 

 仲間がやられた事に眉一つ動かさず、何の波風も立っていない底冷えする感情が祐一の肌を伝わった。

 相対する両者の視線が絡み合い、ふと一つの記憶を思い越してしまった。牛頭から覗く虚ろな両眼に祐一は、イランで『雄牛』と邂逅した時の事を想起したのだ。

 いいや。首を振る。

 大丈夫だ。そう心に言い聞かせる。

 あの時はなんの力も持たなくて、為す術もなく殺されてしまった。

 ──だけど、今は、違う。

 祐一は先刻討ち果たした蜥蜴人の遺骸から、蜥蜴人が持っていた鉄剣を奪い取り、正眼に構える。対する牛頭の魔人もまた剣を薙いで大上段に構えた。

 ふいに辺りは静寂に包まれた。

 牛頭の魔人は泰然とした姿勢を崩さない。猛々しい容貌からは想像もつかない、ひどく落ち着き払った姿。そこがまた底知れず、不気味で、恐るべき敵なのだと言葉もなく示していた。

 ──殺せ。殺らなければ、殺られるぞ。

 囁くような冷たい思考が脳裏を掠め、意識を敵へ近付けて行く。じりじりと意識が狭まり、ゾクリと気圧されるものを感じた。凪いだ静かな闘志に背筋を凍らせるほどの恐ろしさ。殺れ、殺れ、殺れ。生存本能と直感がけたたましく叫びを上げる。

 そんな事は判っている……! 囁きかけてくる意識に、そう吐き捨てる。どうしようもなく冷えた剣、祐一は相対する敵にそんな虚像を見出した。

 奴は確かに隙だらけなのだろう、祐一は敵を見て取って剣をやたらめったらに振るっても当たりそうだ、そんな思いを抱いた。

 だが隙が多すぎると、却って隙はなくなる。祐一はエイルと修行していた時の事を思い出した。

 今の奴は全身が空虚で、風に揺れる木々の如く捉えどころがなかった。エイルもまた似たような技を会得していた。

 この敵を見た時、祐一は思い出したのだ。あれは間違いなく武術の極致の一つだ、と。

 それをあの牛頭の魔人は、安々と演じている。思わず呼気が漏れた。短く、何度も、何度も。

 なんてプレッシャーだ。うなじから背筋へ流れる冷たいものと思考が絡み合って滑り落ちていく。

 それでも……! 

 血染めの腕が冷え、寒さを神経が伝える。血を流していた腹部の傷は塞がり始めている。

 祐一の全身は己が流した血と返り血で赤く染まっていた。薄暗い闇の世界でも赤い血は鮮烈で、心の奥底に潜む激しい情欲を呼び覚ます。

 ああ……心が熱い……身体が震える。しかし、剣を持つ指は静かに落ち着いていた。

 敵が凍てつく「静」ならば、祐一は燃え上がる「動」だった。剣把をぎしりと握り潰しそうなほど強く掴む。

 恐ろしい敵。だと言うのに祐一の闘志に衰えは見えず、それどころか昂りさえしていた。舌で唇を湿らせる。ひどく喉が乾いていた。目が滾るほど強い熱をおびていた。

 祐一の眼光が烈火となった。

 牛頭の魔人の瞳孔が収縮した。

 合図はなかった。ただ闘志がぶつかっただけだった。───瞬間、彼らは風となった。

 人が疾駆する。

 魔が猛進する。

 両者ともに常人が何歩も歩かねばならない距離を一息に詰めていく。武道の練達者が居れば「縮地」だと気付いただろう。

 祐一は吠えたけり、剣を振るった。これまでの修行は辛くも、意義のあるものだった。培った武芸が拙いわけがない。

 金光一閃。流星の光芒すら、今の刀光には及ばないだろうその力強さ。

 勝つ。勝つ勝つ勝つ!! 絶対に───勝つ!!! 

 強大な意志が世界に木霊する。遂に人魔の雌雄を決する時が来た。

 薄暗い世界で夜霧が立ち込めた。

 その霧は赤かった。──血だ。血飛沫が空を舞い、辺りを赤く染めているのだ。

 同時にいくつもの金属音が飛び交い、二つの影が際限なく蠢き踊る。豪快で俊足の剣が疾走る。精緻で軽妙な剣が煌めく。

 ─────オォッ!! 

 ─────ッッッ!! 

 青光一閃。冷たい光が煌めいた。

 大剣が刃風をなびかせ、祐一の左脇腹から逆袈裟に斬り裂こうと迫る。厄介な……祐一は眉を潜めた。

 いま奴が放っている一撃は、死角の多い潰れている右目の方向から、それも確実に生を刈り取る致命の一撃だ。

 だがそれを座視する祐一ではない。両の手に持った鉄剣を寸でのところで割り込ませる。ギィンッ、甲高い金属音が大気をとどろかす。それだけで止まる一撃ではなかった、ギリギリと骨が軋み、肉が抉られる

 祐一の二周りは逞しい巨駆を持つ牛頭の魔人が、その体軀に恥じない膂力で祐一を鉄剣ごと両断しようとする。……しかし剛力無双は祐一も同じ事であった。

 臍下丹田より湧き出る力を練り上げ、両の腕に、腰に、足に、行き渡らせる。

 

「う……ぉぉ、おお……オオオオオォォォオオオ!!!」

 

 少しずつ、少しずつ、押し返す。

 ぜりゃァァっ──! 両手で握り締めた剣をあらん限りの力で横一文字になぎ払う。

 風切り音と共に、血煙が上がる──事はなかった。

 居ない!? 瞠目すると同時に背後から殺気を感じた。もはや反射以外の何物でもなかった。鉄剣を殺気の方向へ盾にする様に割り込ませる。冷たい音と同時に、祐一は凄まじい衝撃によって吹き飛ばされた。

 

「ガッ!!?」

 

 世界がまわって背中に鈍痛が走る、意識が飛びのきかけた。ぐらつく視界がブラックアウトしそうになる。

 だが吹き飛ばされる瞬間見えた……牛頭の魔人が剣を突きこんでいた姿を。あの牛頭の魔人は祐一が剣を振った瞬間、『縮地法』に似た歩法で祐一の背後を一瞬で取ったのだ。

 クソっ、思わず悪態をつく。次いで態勢を立て直す。

 祐一は生きている。……それも無傷で、だ。それだけで十分だった。

 立ち上がり前を見る。牛頭の魔人は己の右腕を、静かに見下ろしていた。奴にとって今の一撃は意識外からの完璧な奇襲だったのだろう。

 しかし、違った。

 右腕に走る、浅い傷跡が全てを覆していた。手のひらを開けては握りをくり返す。牛頭の魔人と視線が交錯する。祐一は不敵に笑い、戦意を迸らせた。

 フッ……と、奴が笑った……気がした。首を振る、そんなはずはねぇと血と汗が滲んだ剣把をふたたび握り締める。

 

「フゥ───ッ!」

 

 内息を整え、身体に巡る気を充溢させる。スイッチを切り替えるように思考切り替える。

 ギリギリとはいえ右腕を斬り裂く筈だった刃が容易く止められた。

 鋼の肉体。

 チンギス・ハーンと戦った嘗ての記憶と共にその言葉が脳裏を過る。おそらく奴もアレと同じ類のものを持っているのだろう。

 なるほど、強いはずだ。祐一は嘗て死闘を演じた『四狗』の猛威を思い出していた。おそらくあの時、闘った神の眷属にも匹敵するプレッシャーとポテンシャルを持っている。そう、直感で悟る祐一。

 敵は『鋼』なのだ。祐一の海馬から一つの知識が蘇る。そうだ、奴は鉄なのだ。ならば───『斬鉄』。鉄を断つ剣でもって、叩き切ってしまえばいい! 

 

「我は最強にして、全ての勝利を掴み取る者なり───」

 

 聖句ではない。ただ言葉を紡いだだけ。

 だけれども、祐一は知っている。呪力の類がなくとも言霊は、己に力を貸してくれるのだと。

 祐一は知っている。

 パルヴェーズ……俺に、力を貸してくれ───。友は己に力を貸してくれるのだと。

 全く、しようのない奴じゃ! 思い出すのはそう言って尊大に笑う友。口角を吊り上げ、獰猛に笑う。

 眼を大きく見開いて、心眼を開眼する。さらに深く、さらにさらに深度を下げ、どこまでもどこまでも深く堕ちていく───。

 牛頭の魔人はその間、祐一を静観していた。まだ刃を向けるべきではないと言わんばかりに。

 されどそれも束の間、意識を浮上させた祐一は一も二もなく疾駆し……閃光と火花がまたたき薄暗い世界を照らす。

 ギィィィィン───ッ! 

 次いで、大剣と鉄剣がつんざくような大音声を奏でた。ビリビリと柄から伝わる激しい振動とよくこの鉄剣が保ったものだと感心するほどの衝撃。

 強力な膂力で打ち合わさった二振りの剣が反撥し、真反対の方向ヘはね返えり、両者はそれに逆らわず距離を取る。

 牛頭の魔人はふたたび正眼に構え───直後、剣を横一文字に薙ぎ払った。キィンッと金属音が響く。直感がけたたましく警鐘を鳴らしたのだ。くるり、くるり、と天高く舞うものは『剣』。

 誰が投げたのか、なんてわかり切っていた。眼光を眇め視線を前へ向ける。そこには腕を振り下ろし、前屈みになった祐一の姿。

 ググ……。牛頭の魔人は握り潰さんとするほど強く柄を握り締め──瞬間、祐一が目の前に現れた。

 なんて速度。確かに祐一が投擲し停滞していた時間など一秒にも満たない時間なのだろう。

 だがそれだけではなかった。

 祐一は模倣したのだ。目の前の牛頭の魔人が行使していた──『縮地』と言う歩法を! 

 ──ッ! 牛頭の魔人が驚愕するより速く、祐一が動く。

 なんて皮肉な身体だ。そう、胸中でこぼす。

 あの辛かった修行をこなしても中々身に付かなかった基礎が、技術が、心得が、おもしろいように祐一の力となる。

 数十日掛けて成し遂げた修練よりも、たった一度の実戦の方が遥かに糧となっているのだ。これを皮肉と言わずしてなんと呼ぶ? ここが戦場でなければそう嘆いたに違いない。

 だが今は好都合──! 

 獰猛な笑いをさらに深め、猛然と祐一は疾駆する。たった今、覚えた技で彼我の距離を一息に詰める。

 

『お前は素手のほうが何倍も恐ろしいな……』

 

 そうだ、エイルの言うとおりだ! 俺は剣がなくても戦える! 

 心で声高に叫び、真正面から突き進む。

 だが牛頭の魔人もさるもの。横に薙ぎ払った態勢から手首を捻り、一瞬で迎撃態勢を整えた。

 来るぞ──! 

 ──青光一閃。見事な一太刀によって大気が両断され、刃音が響く。……だがそれだけだった。

 そこに獲物はいなかった。

 そこに敵はいなかった。

 そこに祐一はいなかった。

 瞠目し、視線を巡らせ───見付けた。祐一はしゃがみ込み、身体を投げていたのだ。あの牛頭の魔人が剣を振るより、速く。

 腰を落とし、広げた足で牛頭の魔人の脚ごと一気に薙ぐ。牛頭の魔人は巨駆。普段の力では刈り取れるわけもない───ならばもっと力を込めるだけ! 

 

「でぇええりゃあああああ!!!」

 

 腹いっぱいに雄叫びをあげ、一気呵成に左から右へ薙ぐ。やにわに立ち上がり体勢が崩れたところを、ダメ押しするように頭部を殴打する。

 これには如何に巨体を誇る牛頭の魔人と言えど堪らず、コマのようにグルンと宙を舞い、強かに地面へ叩きつけられた。

 ───フッ! 一気に、跳躍する。

 銀光を反乱射し、くるり、くるり、と空を舞い落ちて来た鉄剣を、掴む。

 と、同時に左の首元に冷たく硬質な感触と悲鳴のような痛みが走った。牛頭の魔人が足掻くように放った大剣が祐一を捉えたのだ。血飛沫が舞う───だが、浅い。皮と肉を削がれたが、重要な血管には至っていない。

 いや、そもそも祐一は気にも止めなかった。

 巡る思考はただ一点を捉えていた。──ただ敵を倒す事のみを! 祐一は無手のほうが強い。それは純然たる事実だ。しかし……

 拳だけじゃねぇ……! エイルのお陰で、俺は───剣も強くなった!!! 

 

「オオオオオォォォオオオオオオッッ!!!」

 

 咆哮をあげ、剣を掲げる。乾坤一擲の攻撃が無意味に終わったと悟った牛頭の魔人が、最後の抵抗とばかりに腕をクロスさせて絶対防御の構えをとった。

 牛頭の魔人の肉体は鋼鉄にも及ぶ堅牢さを誇っているは、先刻打ち合ったときに身に沁みて理解している。鉄じゃあ……斬鉄じゃだめなんだ!

なら、神様だって斬る刃を振るうだけだ───ッ! 

 

『悟りを宿す菩提樹にして曇りなき明鏡の如く』

 

 脳裏に響くはエイルの教え。

 無心で無情で冷血な、そして穢れなき剣こそが最強であると信じていたエイルの言葉を思い出す。

 ただ剣の一本に生涯を捧げ、神の喉元に剣を突きつけんとする一人の剣鬼を思い描く。

 

 ───違う、そうじゃない。俺が目指すべき場所はそこじゃねぇ……。

 祐一には判っていた。エイルの剣の道と自分の道とでは行き着く頂きが違っているのだと。

 思い出すのは因果律の居た空間。あそこには全てがあって何もなかった。何も得る物はないと思っていた。

 しかし、あそこにこそ答えがあった。

 因果律と相対した時、祐一は因果律のあまりの巨大さと強大さに膝を屈しそうになった。だがそれでも折れなかったのは、祐一自身の強い自我があったからこそだった。

 故に、祐一は思う。

 何物にも流されず、何物も受け容れる意思こそ一番大切なのだ、と。

 悟りが、答えが、菩提樹や明鏡にあるのか? 

 そんなもの、最初っからない! たとえ辿り着くとしても、そこにはただ絶対の『無』があるだけだ! 

 ならば森羅万象を許容しろ。天地万物を肯定せよ。あらゆる感情を感じ取れ。

 意志を斥けるな! ───絶対不変の〝決意〟を持て! 

 その時だった。

 唐突に、身体が拡張されたような感覚を覚えたのは。いや、拡張されたのではない……剣がまるで身体の一部になったかのように意識が切り替わっただけ、……それだけだった。 

 故に己の意志が、剣の鼓動が、万物の呼吸が、全てが手に取る様に判った。心眼が嘗てないほど強く発動している。

 ホント……なんて理不尽な身体だよ。

 エイル、今、判ったよ……。

 祐一はここに至って『極致』へと、至った。

 眼光に炯とした強い光が宿る、同時に口角を吊り上げて傲岸に笑う。剣の柄を力いっぱい握りしめ大上段に振りかぶる。

 ここで決める! 

 全てを込めろ! 

 全身全霊を籠めてッ! 

 

 ───振り降ろせェェッ!!! 

 

「オオオオオオオオオォォォォォッッッッ!!!」

 

 ───斬。

 獣のような咆哮とともに、全てを断つ一太刀が牛頭の魔人を強かに斬り裂いた。




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両雄並び立たず

「───謀りましたね、フェルグス」

 

 玲瓏な、いっそ冷徹とも感じ取れる声が薄暗い空間に響いた。篝火の揺らめく蔭で、青味をおびた唇を動かし幽鬼のような表情を浮かべたニニアンは剣呑さを帯びた眼光とともに、正面に泰然と佇むヤマトタケルを見据えた。

 

「はて、なんの事でしょう?」

 

 顎に手を当て思案する様な仕草をとったヤマトタケルが「仰っている意味が判らない」そんな声音で聞き返した。その堂々とした姿はまるで糾弾される謂われなどない、と言葉もなく示している風でもあった。

 

「惚けるつもりですかフェルグス? "神殺し"の事です。何が『王国に利を齎す者』ですか。何が『王国に与する者になる』ですか……」

 

 眇められたニニアンの眼光は、更に鋭くヤマトタケルを射抜く。だがその眼光の強さは己の腑甲斐なさに嘆くようでもあった。

 

「──アレはそんな生易しい存在ではありません」

 

 キッパリと言い切る。

 

「謁見した際にわずかに視えたあの者の『覇者の相』。……あの時はすぐにあの者が気をやったが故に疑う事しか出来ませんでした。……ですがアレを有する者が尋常である筈がない、私はあれから常々思案していました。見極めるねばならない、と。……そして前夜祭の折、あの者の相をしかと見極め──やっと、確信しました」

「………………」

「やはり尋常ではなかった……類稀な戦士としての才はもとより、その上で王の資質を兼ね備えた者。あの者は乱世にて必ずや王国を内から喰い破り、覇を唱えようとするでしょう。それがたとえ平穏な世であっても……」

 

 ニニアンは額に手を当てかぶりを振り、沈痛そうな仕草をとった。

 

「今はまだ良い、あの者はまだ何も為していないのですから……ですが必ず偉業を打ち立て信奉を集めるでしょう。闇の半年も始まります、もはや結果は明快と表しても良い。彼がもう一人の英雄として王国に君臨すればどうなるか判らないあなたではないはず……両雄は並び立ちません。貴方にとっても私にとっても雄敵となるのは必定」

「…………」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……ですがあれは──いけません。まだ二月と経っていないにも関わらず王国の戦士達の心を掌握しつつあるあの器、あなた以外の戦士を一蹴する武勇と意志。破格、という言葉では収まりきれるものではない……」

 

 瞑目したニニアンは恐れとともに声を震わせる。

 

「あと一月ほども過ぎれば…………王国の転覆すら夢ではないでしょう……。もう猶予はありません……我々は喉元に刃を突き付けられているようなもの」

 

 瞑目を解き、怜悧な紫の双眸で俯いているヤマトタケルを睥睨した。そこには先刻まで恐怖に震えていた少女のような弱さは微塵もなく、王国と言う国の女王としての威厳に満ちていた。

 

「──釈明があるのならば聞きましょう、フェルグス」

 

 フッフッフ……。

 

 陰鬱にして豪華絢爛な空間に、一つの笑い声が響く。それは大きい声では、なかったはずなのに謁見の間によく響いた。

 うつむき顔に掌をあて、表情の窺えないまま言葉を紡ぐ。

 

「あの者の境遇、私に似ていると思いませんか?」

「は……?」

 

 ヤマトタケルの突然の言葉に、思わず理解ができない、そんな声音でニニアンは疑問の声を漏らした。

 

「フフ……強く、とても頑固で、少々愚かさが見えるあの少年……。似ている……あの頃の私に似ているのですよ……とても、とても」

 

「同郷であることも然り、故郷から出奔し行く先々で偉業を成し遂げたことも然り、私の伯母のような支援者にも恵まれることも然り……。あれほど同じだと思える存在も稀です」

 

「境遇だけではありません。あの者の性根……本質、と言い換えてもいい物もまた近しいと感じています。無邪気で、無鉄砲で、揺るがない、どこまでも真っ直ぐなあの少年……とても似ている」

 

「貴方も知っての通り、私の悲願は今の人格を廃しかつての己へ立ち返る事。はるか太古の昔に見失った原初の本質を見つけ出すことです……。ふふ。己が己ではないと言うのはひどく屈辱的で、自分が零落したようにも思えてくるのですよ……『神祖』の貴方なら解るでしょう?」

 

「……貴方に助力し、かの『鋼』復活の助力をしているのもその為。貴方だけではありません、それ以前にも数多の『鋼』と行動をともにし、同じような相を持った神格にも、ときには己の境遇と真反対のものとも旅をしましたが、全て結果は同じでした」

 

「───やはり同じ境遇の者でなくてはならない、私はそう思い至った。……それも『神』ではいけない。人間でありながら『神』を討ち果たすほどの武勇と意志を兼ね備えた『人間』でなくてはならない。それこそ『英雄』と呼ばれるほどの……!」

 

「───そして、ついに出逢ったッ!!! 私の求めた理想像の体現!!! 私の過去の具現そのものに───!!!」

 

 やおらに顔を上げ、浮かべるのは狂い切った笑み。花貌を彩るのはいつもの線を引いた薄い笑みではない……口と目を三日月のようぬ歪めたいびつな笑みだった。

 ヤマトタケルはとある権能と永い年月を生きた事によって、本質を見失ってしまった。それこそまつろわぬ性すらも擦り切れるほどに。

 妄執、とたとえても良いほどの狂気に囚われてしまったのがこの『まつろわぬ神』のなのだ。故に───

 

 

「ニニアン殿。私はね───」

 

 

 だからこそ。ヤマトタケルにとって『木下祐一』と言う存在は悲願を果たすための何物にも代えられない存在であり、そして同時に願いを叶えるただの道具としか見ていなかった。

 ヤマトタケル。

 悲願のためならば仇敵であろうと頭を下げ、世界の秩序であろうと一顧だにしない、恐ろしく利己的な人格こそが、今のヤマトタケルという神格の根幹。何者も及びもつかない強固なアイデンティティーに他ならなかった。

 

「あの者にこそ、あの少年にこそ、木下祐一にこそ、私が求める答えがあると確信しているのですよ!」

 

 ヤマトタケルは手を振り乱し、そう締めくくった。

 

 

 

「───話になりません」

 

 ニニアンはそれをばっさりと切り捨てた。

 

「あなたの妄言に付き合っていられるほど、私も王国も暇ではありません。───戦士長、勅命です。王国の領内にいる"神殺し"を追放なさい」

 

 戦士長と呼ばれた男が瞑目し、静かに頷く。

 

「今、"神殺し"は王国の外に居ます。無用な諍いを起こさず穏便に事を運ぶには今しかありません。王国の戦士団を使いなさい、テスラの同行も許可します。どうやらあの神殺しは情が深い様子。情に訴え、親しい者たちを連れて行けばそうそう暴れることはないでしょう、如何様にもなります。

……あなた達にも別れの言葉くらいは、許します。ですが決して戦ってはなりません。よろしいですね?」

「───御意」

 

 瞑目したまま、深く頷いたのは王国の戦士長であり一匹の剣鬼。その名を───エイルと言った。

 拝命しエイルはそのまま謁見の間をあとにした。

 残されたのは一人の『神祖』と一柱の『神』のみ。ニニアンは侮蔑の視線を隠すことなくヤマトタケルを見据え、ヤマトタケルも何も恥じる事はないと不遜に胸を張って佇む。

 

「では、私もお暇をいただきましょう」

「……我らの盟約を破り王国を出る、と?」

「ええ。あの者の行く末を見届けなければなりませんので」

 

 ヤマトタケルは何の感慨もなく、そう切り出した。数百年の縁をここで断ち切ろうと言うのだ。

 決別か。

 どちらともなくそう思案しなんの感傷もなく、片方は引き止める事なく見送り、片方は気にも止めず歩き始めた。

 扉をくぐる時。ただ一言だけニニアンが思い出したように声を掛けた。

 

「前々から思っていましたが、貴方はどうしようもなく……歪んでいますね」

「ふふ……。私も思っていましたよ……貴方ほどじゃない、とね」

 

 言葉の応酬を最後に、彼らは腐れ縁にも似た関係に終止符を打った。

 

 

 ○◎●

 

 

「───よし」

 

 祐一の耳朶を打ったのは、そんな声だった。

 

「…………………………ぁ?」

 

 祐一の口から漏れたのは、そんな声だった。

 

 聞こえてきたのは、とても満足気で微笑んでいるような……そんな穏やかな声。何度も、何度も、聞いていた声。いつも傍に居てくれた人の声だった。

 そのはずだった。それなのに……それなのに祐一は誰の声だったか、まったくもって思い出せなかった。

 呆けた顔で空を仰いだまま、訳がわからないといった風に小首をかしげた。

 

 ……………………………………あれ? 

 今の声って……誰の声だったっけ? 

 あれ、わかんないや……。

 よく聞いてたんだけどなぁ……? 

 うーん……。

 あはは、おっかしぃなぁ……。

 全然……。全然……ぜっんぜん、……わかっかんねぇや……。

 

 

『さて、今日は何を教えようか?』

 

 

────ひぃっ……ぐ……!しゃくりあげるような声を喉から吐き出す。身体の芯まで迫りくる寒気に、震えが止まらない。

 眼球がまろび出そうなほど見開いては、パンクしそうな思考回路を鎮めようとする。

 どく、ドク、ドク、鼓膜に心臓を突っ込まれたように鼓動がひどく鬱陶しい。

 

「ハァーッ……ハァーッ……ッ!」

 

 喘ぐのような荒い呼吸と、熱くもないというのに背中に氷柱を突っ込まれたような怖気が祐一の全身を蝕んだ。

 だと言うのに祐一は痛痒にも介さなかった。

 

 まさかまさかまさか……。

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う────ッ!!! 

そんなはずはない! 

 

 エイルなはずないッ! 

 

 そう思っているのに、祐一は決して視線を下ろすことなく。

 ……ああ、やめておけば良いものを……───否定したくて、どうしようもなくて、藻掻くように周囲を見渡した。

 最初に見えたのは、赤だった。

 墓標のごとく大地にそそり立つ槍を幻視し、その下には赤い髪を持った戦士が、倒れ伏していた。───ムインだった。

 

「…………ぁ……ぁ……」

 

 知れず、祐一は後ずさっていた。拓けた視界が、また何かを拾った。

 暗い世界でも独特の色を放つそれは、思考が無に帰しかけていた祐一の視線をすっと吸い寄せた。

 それは灰色の獣に寄りかかるようにして骸をさらす、銀の髪をもった優しげな女性だった。───テスラだった。

 

「……っ……ぁ」

 

 最後に見えたのは血溜まりに沈み、怨念を煮詰めたような苦悶の表情を湛えた戦士。───エオだった。

 

「ャ……だ…………」

 

 耐えきれなかった。

 祐一はいやいやするように首を振り、逃げ場を求めるように俯いて、下を見た。

 

「………………………………ぁ」

 

 見事な金髪を赤く染めた───エイルがいた。

 生命はすでに肉体から失せていた。戦場で散った師はまだ暖かみがあって、厳しくもやさしげだった表情はとても穏やかだった。───だがもう動くことはない。

 みんな血溜まりの上で儚くなっていた────。

 

 なんだこれ? なんだこれなんだこれなんだこれ?なんだこれ? なんだこれ

 なんなんだよっこれ───ッ!!? 

 

 アハハ。……違う。これは───夢だ。ただの夢。

 ここん所、悩んでばっかで悪い夢を見てるんだ。そうに決まってる。だったら話は簡単だ、起きればいいだけだろ? 

 さぁ、目を覚まそう。目を覚ますのなんてすぐだ、いち、に、さん、ですぐ覚めるもんだ。

 よしっ、いくぞ。いち、に、さん! 

 ん? あれ、おかしいな……? ほら、いち、に、さん! 

 あはは、あはは。あははははっ

 あはははははははははははははははははははははははははは

 おかしいな、おかしいな。おっかしいなぁ……? 

 目覚めるはずなのに。すぐ、目が覚めるはずなのに。

 覚めろ。醒めろよ。なぁ…………。お願い……だから……。お願い、だからっ、夢、醒めてくれよ? 

 

 そう何度も、何度も、何度も。心に言い聞かせる。

 そんなはずはなかった。───嘘だ。

 夢なはずがなかった。───嘘だ。

 これは現実だった。───嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! じゃないと俺は!!! 

 嘘だ。否定して、拒絶して、目を背けて……だと言うのに真実は、見聞きしたすべてのことは脳内を犯し尽くして、残酷な現実を突きつけてくるのだ。

 

「ああ……。……あああぁぁあ……っ!!!」

 

 ──ポツ。──ポツ。

 いつの間にか空には陰雲がわだかまり、空からは驟雨が降り出していた。ゴロゴロと雷鳴が近づき始めている。雷鳴と同じくして稲光が姿をあらわし、うす暗い世界を鮮烈に映しだす。

 世界は、赤で満ちていた。

 心は千々に乱れ、荒れ狂っているというのに祐一は必死に目を背けた。心は嘆きと悲しみに満ち満ちていると言うのに祐一は心に蓋をした。

 彼自身の防衛本能が無意識にそうさせたのだ。そうしていないと、己の犯した大罪に「死」を選んだだろうから。

 

 ───戦いは終わった。終わったのだ。

 

 今、戦場で立っているのは一人だけ……勝者である少年一人。家族だった者の返り血を、全身に浴びた少年一人だけだった。

 ぐしゃり、と電源を切ったロボットのように温かさの残る血溜まりに膝をつく。

 頬にへばりついた血に指を這わせる。滑らかで、すこしざらざらとした物が触覚を犯す。

 炯としていた瞳は、今ではドロリとした感情で濁り茫洋とし、あらゆる感情が溶けては消える瞳はその血に染まった指を無感動に眺めていた。

 どんなに眺めても、それこそ穴が空くほど凝視しようと。どんなに理解を拒絶しても、それこそ五感を遮断しても。

 歴然たる事実は、否応なく祐一に現実を突きつけてきた。

 ───血だ。これは血なのだと。

 戦士として生き、戦士として死んだ、益荒男の血なのだと。偉大なる戦士が散った証なのだと。

 むわりと頬をなぜた生暖かな風は、鉄錆びた匂いを孕んで。指にからみつく赤黒い血はどんどん冷たくなって。

 認識する感覚が……ありとあらゆる感覚が、彼らは───死んでしまったのだと、訴えかけてくる。

 

「ぃ……いやだっ……!」

 

 声が漏れる。

 

「……っ」

 

 エイルの亡骸を胸に抱く。

 血と雨水混じり合ってずぶ濡れになった彼の遺骸は、常ならば不快すら覚えるだろう。だが祐一はそんな事どうでもよかった、ともすれば些かも感じてすらいなかった。

 心にあるのは途方もない哀しみと、臓腑を引きちぎりそうな後悔のみ。ぎりぎりと万力で容赦なく締め付けられる感覚が全身を蝕んでいく。理性と感情がやっと足を揃え、祐一の身も心もマグマのように焦がす。

 

「…………ェ……ルエィルエイル! エイルゥゥ……!」

 

 何度も何度も何度も呼びかけてもエイルが答えを返すことはなかった。

 譫言のように何度もエイルの名を呼んでも口を閉ざすばかりで、いつも何かを教授してくれた彼はもう死んだのだと言う事実しか教えてはくれなかった。

 エイルの物言わなくなった遺骸を胸に掻き抱く。冷たくなりはじめた頬に、ぐしゃぐしゃになった顔をすりつける。

 少し前まで笑い合っていた家族は、もう話すことも、動くこと、笑うこともない。

 パルヴェーズの時とは、違う。彼らは永遠に目を覚ますことなく世界に溶けて消えたのだ……。

 

「…………ぁぁぁああああぁぁああああ」

 

 ────まただ。

 一つの思いが脳裏を掠める。灼熱するような悔恨の情が精神を焼き尽くす。

 

「……ぅああ……あああああああああぁぁああああああああああああああああああああああ」

 

 おれはまた───まちがえたんだ。

 戦場に残ったのは、慟哭にふるえる少年ただ一人。

 膝からくずおれ天を仰ぐ、愚かな少年一人だけだった。

 

「エオも……!」

 

 もう話すことのない友の名を叫ぶ。

 冷静で抜け目ない強かな戦士はもう居ない。

 

「ムインも……!」

 

 もう動かない友の名を連ねていく。

 直情的でだけど誇り高い戦士はもう居ない。

 

「テスラも……!」

 

 もう微笑まない家族に哭く。

 優しげでいつも世話を焼いてくれた彼女はもう居ない。

 

「エイルも……!」

 

 もう帰って来ない家族に嘆く

 不器用で強かった師はもう居ない。

 

 みんな! みんなみんな! 俺が、俺が……! 

 

 思いが撹拌され、洪水のように雪崩打つ。固く封をしていた物が、一気に流れだす。あのとき気付きかけていた真実をはっきりと理解した。

 そうだ! 俺はエイル達だけじゃない……! 

 

「ラクシェも……!」

 

 共に旅をした嘗ての友も。

 

「仁さんも……!」

 

 盃を酌み交わし、友となった彼も。

 

「パルヴェーズも……!」

 

 再会を約束しあった気高き友も。

 

 みんな、みんなみんな……! 

 

「───俺が、()()()()()……っ!」

 

 手に持っていた鉄剣はとうに投げ棄てられ、雨ざらしになっている。刀身を染めていた赤い雫は暴雨によって洗い流されていく。

 だが祐一の犯した大罪は水で流せるほど軽くはなかった。

 祐一は人を……家族を、その手で殺めたのだ。

 ウルスラグナの時とも、チンギス・ハーンの時とも違う……決定的な別れ。器から溢れた水はもうもとには戻らない。

 同族殺しの大業を、取り返しのつかない罪を、祐一は背負ってしまったのだ。

 胸中を占める悔恨が、やり場のない哀しみとが珈琲に溶けるミルクのように混じり合って取り返しのつかないほど激しい感情に急かされるようにまたエイルを強く抱きしめる。

 幼子のようにみっともなく嗚咽の涙が止まらない。堰を切ったように感情がざぁざぁと氾濫していく。

 なんで、なんで、とぐるぐるとループする思考が辿りついた先で思い描くのは故郷の家族と友の顔。

 いつか帰りたいと願っていた故郷の記憶が、弱りきった心に巣食う。

 父さん、母さん、裕二……。

 故郷で帰りを待っているはずの家族を思い出す。

 秀、隆、秋、勇樹……。

 気の置けない、兄弟とすら思っていた友人達を思い出す。

 

 俺は、俺は……! あの人たちに! アイツらに! 

 どんな顔をして会えばいい──!!? 

 

 片手でエイルを抱き、もう片方の手で涙でぐしゃぐしゃになった顔をおおい首を振る。

 もう祐一の心はどうしようもないほど、ベキリと折れてしまっていた。暗澹たる心には絶望のみがあり、感情を動かそうにも後悔がこびりついた心はまともに機能しなかった。

 そうして一つの事が胸中に浮かび上がった。

 それは誓いにも似た決意。

 

 俺はもう故郷には───帰らない……。

 

 どうしようもなかった。己の犯した罪は覆らない。ならばもう、光明のある場所には帰れない。

 祐一は底なしの泥濘におちてしまったかのような絶望に囚われ、濡れそぼった服は全身を絡め取る鎖のように思えて……それでも抜け出そうなどとすら思わなかった。

 

「…………ぐう、ぅえぇ……」

 

 迫り上がって来るものにたまらず嘔吐いて、ビチャビチャと胃から吐き出された吐瀉物を撒き散らす。口を手で覆う。鼻が曲がるような異臭と、酸味と苦味が口膣に広がり嫌悪が顔をだす。

 だがそんな些事どうでもよかった。ただひたすらに己の情けなさのみが祐一を灼いた。

 

 ○◎●

 

 どれほどそうしていたのだろうか。

 しとどに降りそそぐ雨は一向に収まらない。雨足は更にさらに酷くなっていくばかりで、降り止む気配は些かも感じられなかった。

 未だ祐一はエイルの亡骸を抱いて、くずおれたままだった。もう何時間、こうしているのだろか。それともじかんなんて経っていなくて一瞬だけだったのかも知れない。

 だが動くことすら億劫で、確認することも歩くことすらとてもではないが出来そうになかった。

 雨水は無気力な祐一の体温を、なんの感慨もなく酷薄に奪っていく。だが虚ろな暗い目を宿した祐一はそれをどうこうしようと言う考えすら浮かばなかった。

 

 ───しと……。しと……。

 

 ふと、足音が聞こえた。

 ぬかるんでいるはずの地面を気にした風も無くゆっくりと、そしてしっかりと近づいて来る足音。

 だがそれでも彼の心にさざなみすら起きることなく、ただ必死でエイル達の死を否定しようと藻掻いていた。

 煩わしかった。煩悶と懊悩、罪悪感と嫌悪、哀絶と後悔、いまの負の感情に呑まれた彼にとってこの場に誰かが現れることすら煩わしく、疎ましく、苛立ちが募るだけ。

 たとえ誰が来ようと黙殺する心算だった。───だが、出来なかった。

 ドクン、と傷ついた身体が波打って充溢し、萎えていた心から戦意がこぞり出された。臍下丹田にわだかまる呪力が活性化する。

 これまで何度も起きた身体の変調。とくにこの王国に逗留するようになってからは毎日のように起きていた感覚。

 故にそれだけで近づいてくるのが誰なのか、悟った。だからこそ祐一は……

 

 ……祐一は、狼狽えた。

 

 みっともなく。だが決して顔を上げる事はなく。決してそちらの方向へ顔を向けることはなく。ただ頑迷なほどに目をつぶって、俯くのみだった。

 

「これは………………。違う……! 違うんだ……!!!」

 

 歩いてきたその人が、背後で佇むのを感じた。

 べらべらと言い訳じみた言葉が口の端から漏れ、情けなさと自己嫌悪の情が喉を、肺腑を、心の臓を、脳髄を焦がす。

 だがそうまでしても、彼に、彼にだけは責め立てられたくはなかった。短い間ではあるが友誼を交わし、兄とすら思った彼には拒絶されたくなかった。たとえ味方殺しをしようとも味方でいて欲しかった。

 間違えてしまった祐一はそれだけを考えていた。それだけを願っていた。

 ただ、ひとえにそれだけだったのだ───。

 

 

「いいえ、何も間違いはありませんよ?」

 

 

「………………ぇ……?」

 

 

「───全て私が仕組んだ事なのですから」

 

 

 答えはそれだった。

 

「───は?」

 

 驚いて振り向く。その言葉に思わず背後に佇む、ヤマトタケルの方を振り向いてしまった。

 彼は───嘲笑っていた。

 片頬を吊り上げ、白くキレイに揃った歯をむき出しにして、歪みきりとても愉しそうに肩を揺らして、嗤っていた。

 

「フフ……貴方がこの王国へ訪れたことから、これまでのことまで全てのことは私の思惑通りなのですよ?」

「……? …………あははっ……………………なぁ、ヤマトの兄ちゃん……。なにを……いってるんだ……? こんなときにジョーダンいうなよ……おれ……わらえないし…………わから、ないよ…………」

 

 震える声で問いかける。常ではあり得ないほど弱々しい声で問いかける。

 理解が出来なかった。

 この人が何を言っているのか判らない。

 

「わかりませんか? いいえ、理解したくないのですか。フフ……。では一つひとつ教授して差し上げましょう」

 

 彼はひどく愉しげだった。これまで見た事がないほど、とても、とても愉しげだった。

 

「──貴方を王国に招き入れたのも、

 エイル達と友誼を交わす様に仕向けたのも、

 王国の戦士達と研鑽する様に仕向けたのも、

 貴方が王国から追放される様に仕向けたのも、

 エイルや王国の戦士達が「敵」だと貴方に思わせたのも、

 貴方が戦士やエイル達を手に掛ける様に仕向けたのも、

 ───全て私の思惑通りなのですよ」

 

 彼の独自は止まらない。嬉々として到底信じられない……信じたくないタネ明かしを滔々と語る。

 信じたくなかった。

 耳から入って来る雑音を遠ざけたかった。

 

「あはははははははははははは。…………嘘だ。ウソだ。うそだ───うそだッ! 嘘だと言ってくれよッ!!!」

 

「───はは」

 

 祐一の慟哭を彼は一笑のもとに切り捨てた。もうそれだけで、十分だった。

 掛け値なしに信頼していた。

 兄だと…………年の離れた兄なのだと思っていた。

 

「なんで? なんで、なんで……ッ! ───どうしてッ!!?」

 

 全ての正の感情が抜け落ち、嗄れた……まるで老人のような擦り切れた声で問い掛ける。

 一縷の望みだった。なにか、何か納得の行く理由があるに違いない……ただ、それだけを。

 それだけを確かめたかった───。

 

 

 

「─────ああ、その顔が見たかった!」

 

 ヤマトタケルがにっこりと笑う。

 長年の望みが叶ってよかった。そう言わんばかりの、爽やかで純真な笑顔で。

 彼は、祐一に笑い掛けた。

 白い笑みだった。何一つ汚れたところの無い純白の笑み。

 ああ……そうだったのか……。絶望とは「白い色」なのだと初めて知った。

 そして祐一はここに至って、全てを理解した。

 今まで積み重ねてきたものは全て────

 

 ───マ ヤ カ シ ダ ッ タ ノ ダ 。

 

 血のように熱い涙が零れた。喜怒哀楽、その全ての感情が追い付いた。

 煩悶。懊悩。屈辱。発狂。嗚咽。混沌。悲愴。惨劇。荒廃。汚濁。絶望。欲望。大罪。停滞。焦燥。非業。欺瞞。懺悔。暗澹。妄執。戦慄。憎悪。殺戮。愛執。断罪。悲嘆。非業。鮮烈。尊厳。代償。因果。喪失。残虐。情愛。懇願。錯乱。烈火。狂乱。衝動。追憶。希望。断裂。哀絶。贖罪。苛烈。

 感情の嵐が祐一の心で荒れ狂った。

 しかし、その中心で一つの感情が絶対不変の物として存在していた。

 ────憎悪だった。

 己に仲間殺しの罪科を背負わた者への。因果が定めた不倶戴天の仇敵への。

 彼の烈火のごとき双眸から零れる物は───赤い。

 血の涙が止め処なく彼の双眸から零れているのだ。

 瞳がつぶれ瞼で蓋をされていようが関係はない。

 食い縛った口腔からは鉄錆びた味覚が広がり、骨が軋みをあげ血が滴るほど強く拳を握り、両の頬に二条の血化粧を疾走らせ真っ赤な瞳で睨み付ける。

 その姿は、まさに悪鬼羅刹。

 ああ……そうだ!!! 憎悪とは「赤い色」をしているのだと、その時、やっと思い出した。

 

「───嗚呼ああああああ! ヤマトッ、タケルッッ!!! 殺す殺すッ! 殺してやるッ!!!」

 

 鉄剣を拾い上げ、杖のようにして立ち上がる。祐一の感情に呼応するかの如く、闇色の空が溶け雪崩を打ったかのように豪雨が流れ落ちる。

 先刻まで哀絶に埋れていた少年は、もう居ない。ただひたすらに殺意を横溢させる狂虐の戦士のみが起っていた。

 その憎悪を受けてさえ、ヤマトタケルは嬉しそうににっこりと笑い続けた。掌中には過日の戦いにて揮った黒い刀。

 

「はは! 素晴らしいですよ、祐一殿! この時をどれほど待ちわびたでしょう!? ──さぁ、願わくば私に答えを指し示して下さい!!!」

 

 憎悪と歓喜。

 おびただしい激情の発露が渦巻く戦場に起つ英雄が二人。

 魔王と神。因果律によって定められた相反する者たちは、必ず殺し合う。どれほど友誼を交えようとそれは絶対の定め。

 

「う、おおおおおおおおおおお───ッ!!!」

 

「ハハハハハハハハハハハハ────ッ!!!」

 

 咆哮と哄笑とが幽世を揺らす。さぁ、開戦だ。

 

 ───死闘が始まった。

 



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激情の剣はどこまでも

「ゼェ、ァあああ───ッッッ!!!」

 

 先手はやはり祐一からだった。

 獲物に攻めかかる猛禽のごとき鋭さで、一気に肉薄し鉄剣を横一文字に薙ぎ払う。祐一の体躯は対峙するヤマトタケルより頭二つ分は低い。矮躯なのはそれだけで不利を呼ぶ。だがこの時ばかりは祐一に利した。

 祐一は疾風迅雷の煌めきで以って、ヤマトタケルの足部へ向けて剣を揮ったのだ。瞬きの余裕すら与えない、まさに刹那にも及ぶ電光石火の攻め。

 攻めろ攻めろ攻めろ!!! 剣を揮え! 

 息をつかせるな! 奴の首を切り落とせ───! 

 胸中で狂乱の猛りをあげる。

 だがヤマトタケルもさるもの。祐一の斬撃に見事に対応して魅せた。華やかな微笑を貼りつけ天狗のようにヒョイッと地面からひとっ飛びし、祐一の鉄剣を安々とかわす。

 逃がすか! 

 剣を持ち替え、ヤマトタケルが回避した上部へ剣閃が煌めく。大気が蹂躙され、耐えきれないというようにけたたましい悲鳴が轟く。

 しかしこれでも、かの英雄神は回避してみせた。まるで見えない壁があるかのように空気を蹴り、空中でぐるり一回転と躱してみせたのだ。

 デタラメな! まるで鼬や貂さながらの素早さ。次いで感じたのは焦げたような異臭だった。理由はすぐに分かった。ヤマトタケルが空を蹴った時、あまりの衝撃に大気が焼き焦げたのだ。

 それを横目に見ながら天高く剣を振り上げた祐一の背筋に、氷柱を入れられたような悪寒が疾走った。

 そこから先は完全に直感だった。

 剣を頭上で水平にかまえ守りを固める。その動作が終了したと同時に、──鉄槌は振り降ろされた。

 ガキンッ! と鉄と鉄とが打ち合う甲高い音が周囲に響き、ギシギシと骨が軋みをあげる音が全身から鳴りひびく。

 鉄槌? 否、そうではない。これはヤマトタケルが振り降ろしただけの剣戟より他にない。あまりの膂力と威力にそう感じているに過ぎないのだ。

 そして頭上を見ればヤマトタケルが鍔迫り合う剣を境に、逆立ちしている。どんなバランス感覚だ、吐き捨てたくなる衝動を抑え、振り払おうとする。

 しかし、拮抗も一瞬。

 しゃらん、と鈴の音がなるような玲瓏な音が耳朶を打ち、一体全体どんな風に重心を動かしているのかまるで検討もつかない神技で、逆立ちのまま己の刀剣と祐一との刀身とを滑らせていく。

 ヤマトタケルの重心の動きに釣られるように祐一の体位が崩れ、横倒しになっていく。

 これが狙いか! そう気付くより先にふたたび直感に突き動かされた。全身の力をふらりと抜いて、後ろへサッと倒れ込む。

 ヒュン! と、ひとつの風切り音。

 鼻先を掠めるように駆け抜けていったそれは、死神の鎌なんぞよりもはるかに鋭く強力な、英雄神のつま先だった。

 なんとか避け切れた。祐一はバックステップで距離を取り、つかの間の安堵を覚え、仕切り直す。

 一瞬の攻防。……だと言うのに祐一の額には、鼻梁には、頬には、しとどに汗が滴りおち、肺腑からは荒い息を吐き出していた。

 ハァッ……ハァッ……───フゥッ! 

 気合を入れ直すように、呼気の乱れを律する。

 冷静さを欠くな。胸から染みでて零れ落ちそうになる憎悪に蓋をし、清廉な戦意で以って鉄剣を握る。

 己とあの英雄神との間にはどれだけの差があるのか検討が付かない……そんな一抹の不安がわだかまった。

 奴は、仇だ。

 殺す。絶対に。

 胸裏に蟠るものに言い聞かせるように心中で呟き、腰を落として、剣を下段に構える。

 祐一は確かに激しい闘争心で以っては戦う戦士だ。だがそれだけでなく、たとえ宿敵であっても友とし絆を育む……そんな度量を持った戦士であった。……しかしこの時ばかりは、この対峙するヤマトタケルとの戦いだけは───違う。

 許せるものかよ……! 絶対不変にしてマグマのように燃え滾る意志を胸に祐一はふたたび駆け出した。

 "神殺し"としての肉体で、会得した心眼と激情剣で、英雄神に向け剣を揮う。

 ヤマトタケルも変わらず柳のような微笑を顔に貼り付け、それに応えた。

 下段から掬い上げるような、逆袈裟。まさに白い稲妻のごとき剣閃。

 ───だがヤマトタケルの余裕は崩れることはない。

 己の肉体との間に黒刀を割り込ませ、ガキン! と甲高い音が響く。打ち合わされた剣が火花がまき散らし、辺りを白く照らし出す。

 今度はヤマトタケルの番だった。一撃目は剣を横一文字に振る、薙ぎ払い。狙いは祐一の伸び上がった手首。

 足を地面に叩きつけて踏み込み、体勢を崩すようにして後ろへ倒れ紙一重でかわす。

 まだ終わらない。

 ヤマトタケルはやにわに一歩踏み出し、体勢の崩れた祐一へ胴体を両断する剣を放った。

 避けられねぇ。対峙する祐一には判っていた。どれだけヤマトタケルが嘲笑していようと、ただの道具を見るような目で見てこようと、そこに相対する戦士への侮りは一切ないことを。

 手心も、慈悲すらなく、まるで祐一という鉄を鍛えあげるように苛烈で殺意に塗れた剣を揮ってくる。

 口元を引き結び、仇敵を睨みつける。

 鮮烈さと茫洋さとが同居した心眼の世界で、思いの外、凪いでいた思考はそう判断を下した。

 だからこそ受けた。しかしヤマトタケルは苛烈だった。だが鉄剣で受けたはずの防御を突き抜け、黒刀が腹部を掻っ捌く───はずだった。

 それは、一瞬の出来事だった。

 四肢に力を込め、内息を整え、気を一気に練り上げる。

 弾かれた鉄剣を翻し、伸びてきたヤマトタケルの腕に蛇がとぐろを巻くような動作でくるりと捻って絡めとる。次の瞬間、ヤマトタケルの手首は宙を舞っていた。

 すっと、まるで湯豆腐を切るようにすっとたやすく鋼の肉体を切ってしまったのだ。

 祐一が血肉とし、エイルが『神』をも斬れると断言した剣の妙技は、それを証明するように『神』を斬った。そう、斬ってしまったのだ! 

 エイル……! 万感の想いを抑えつけるように、歯をきつく食い縛る。でなければここが戦場であることも忘れ、ニヤけてしまいそうだったから。しかしその歓喜も、すぐに終わる。

 

「フフ……ハッハッハ!」

 

 かの英雄神に確かな手傷を負わせた。だと言うのに……だと言うのに、ヤマトタケルは痛快そうに笑うだけ。哄笑が体勢を立て直した祐一の鼓膜をゆらし、不快さが波濤のように広がる。

 大地に波紋が広がった。唐突な出来事。異様な現象……少なくとも祐一は地面に波打った事を幻視した。

 何が起こった……? 

 つぶさに視線を走ら、すぐに見つけた。───異常の原因はやはりヤマトタケルだった。

 背後に人型のナニカが現れ、ヤマトタケルに触れた。たったそれだけの事……だと言うのに、次の瞬間にはヤマトタケルの手首が元通りになっていた。

 

「ッハハハハハッ! なるほど、彼の教えは間違っていなかったようですね。あの拙い剣術をよくここまで昇華したものです! やはりエイルに任せたのは正解でした。……素晴らしい。ああ、素晴らしいですよ祐一殿!」

 

 感極まったように声を震わせヤマトタケルは手を握っては開いて、今亡き臣へ向け慈しむような花の咲くような笑みを浮かべた。

 一瞬で快復した手。あの英雄神に初めて手傷を負わったと言うのに無意味に終わってしまったのだ。

 だが祐一にはそんな瑣末事……どうでもよかった。

 あの言葉を聞いたとき。今、ヤマトタケルが放った言葉を聞いた時。そのとき、祐一の中で何かが───キレた。

 灼熱する。

 ふざけんな。ふざけんなふざけんな───ふざけるな!!! 

 なんで奴は笑っていやがる! ひたむきに剣に生きた戦士を! アイツに追い付きたいと願っていた戦士を! ──何故、エイルの気高い生き様を笑える!!? 

 挙げ句の果てに、殺すよう仕向けた野郎が何故───ッ!!? 

 赫怒の怒りが脳髄を駆け抜け、グツグツと煮えたぎる憎悪が遂に限界を越えた。ダムが決壊するように満腔から憎悪が噴き出す。

 

「テメェは、絶対に殺してやる───ッッッ!!!」

 

 祐一の一切合切を灰に帰すような怒りを発露したと同時だった。それと呼応するように大粒の雨が吹き荒れ、波濤のごとき豪雨が世界を満たす。

 咆哮とともに祐一は猛然と駆け出した。

 殺意の奔流が渦巻き、烈火のごとき怒気が吹き荒れる。

 かつて古代の戦場で猛威を奮った、命知らずのケルトの戦士如く! 

 ヤマトタケルは狂っている。……だが祐一もまた狂っていた。この戦場に正気なんてものはなく、血と痛みに酔った狂乱のみがあった。

 大上段から一気呵成に振り下ろし、唐竹割りを放つ。祐一の比類なき怒気と相まって、常人では身が竦みそのまま剣戟の餌食となっただろう。しかしここにいるのは常人などではない。

『神』だ。それも武神の中でも最高位の───。

 ヤマトタケルは当然のように黒刀で防ぎ、するりと受け流した。

 それで諦める祐一ではない。

 全力の一太刀が防がれた事になんの未練もないと言わんばかりに剣を引き、ふたたび剣を揮う。

 一合、二合……十合……二十合……瞬きの間に数十合を斬り結び、未だ途切れる事なく剣戟は終わらない。

 たとえ武の達人であっても最早まともに目では追いきれない程の圧倒的な速度。

 音を置き去りにし残像と血飛沫のみが残る超高速戦闘だ。ヤマトタケルが飛び退れば、祐一が息もつかせぬとばかりに追い縋って喉元に剣を伸ばす。

 火花が散り、刀身に伝う水滴が弾けて飛ぶ。

 神速にも及ぶかと見まがう程の剣戟。剣の神と人類最高峰の戦士との殺し合いを、神の身でない誰が見切れると言うのか。

 

「クッ……」

 

 血飛沫がふたたび舞う。出処は祐一からだった…………いや、出血しているのは祐一のみだった。

 頬に、肩に、膝に致命的な傷はなくとも、浅く無数の刀傷が散見された。

 如何に最高峰の戦士とは言え、やはり武においてヤマトタケルの方が一日の長があるのだ。そしてヤマトタケルもまた祐一と同じく心眼を修めている。

 祐一が一手打てば読まれ避けられ何倍も返されるのに対し、ヤマトタケルが十手打てばおもしろいように術中にはまってしまう。

 激情に囚われながらも祐一はかの英雄神に掌の上で遊ばれているような錯覚に陥っていた。

 ヤマトタケルが祐一の目を見据え、愉しげに笑う。

 

「私は感動してますよ……祐一殿。貴方が私と打ち合える程に研鑽を重ね、ここまで昇華した事に」

 

 そう嘯きながら隻眼で死角の多い右側から、強かな袈裟斬り。避け切れない。レプラコーンが修繕し頑丈なはずのブレザーが難なく斬り裂かれ、祐一の肉体にまで及ぶ。

 ……真紅の血が虚空を舞う。

 さらに笑みを深め、愉快で、愉快で、堪らないと言う風に哄笑が響く。

 

「──ハハハハハハハハハハ!!! ですが愚か! 愚かですよ祐一殿! たったひとりの臣の為に片目を潰すとはッ!」

「───ッ!」

「その話を聞かされ、失笑しなかった私を褒めて貰いたいほどです!!!」

 

 安い挑発だ。そんなことは判っていた。しかし祐一にあの誓いを穢され、それでも「見過ごす」なんて事は出来るはずもなかった。────理性が赤熱し、眼の前が真っ白に染まる。

 

「ヤマト、タケルッッッ!!! テメェェェエエッ!!!」

 

 もはや止められなかった。いや、止まる事など頭の片隅にすらなかった。理性が消滅し、破壊衝動のみが祐一を動かした。一も二もなく守りを考えない全身全霊の一撃を揮う。

 

「フフ……───その程度で討てるとは思わないことです」

 

 ヤマトタケルが足を一歩踏み出す。大地が波紋が広がった。

 先刻起きた光景の焼き増し……ヤマトタケルの背後に人型のナニカが現れる。今度はハッキリ見えた

 おそらくあれは大地の精。クー・フーリンやケルトの戦士たちに助力する地母神の系譜の者たちが、異邦の戦士とはいえ『鋼』であるヤマトタケルに力を貸しているのだ

 直感と言うには情報が鮮明すぎる。これは幽世に揺蕩う知識を無意識に受け取っていたのだろう。ピリリと微かな頭痛が閃光のように駆け巡った。

 くっ!思わず呻く……それは一瞬の隙。

 ───刹那、眼前に黒に輝く刃があった。

 ガキンッ! 刃のうち合わさった音が響く。なんとか割り込ませる事に成功した……だが、そこまでだった。

 

「───ッ!」

 

 なんという大力! 祐一が持つウルスラグナの権能が一つ『雄牛』にも劣らない強力無比な怪力。

 対抗しようにも祐一は先刻『雄牛』を使用し、早くとも十時間、ともすれば丸一日は待たなければ再び使うことは出来ない! 

 さらに力が増す。ヤマトタケルの満腔から神力が横溢し、膂力が桁違いに跳ね上がった! 

 

()ッ──────!!!」

「う、わぁぁあああああああああああ!!!!??」

 

 拮抗も束の間。尋常ではない膂力に祐一ははるか彼方へ吹き飛んでいった。

 

 

 ─────ドォンッ! 

 吹き飛ばされた祐一は、何処かもわからぬ峻嶮な山々の一つに突っ込んだ。もうもうと砂煙が舞う。

 凄まじい衝撃だったというのにまだ意識はあるようで、ゆらりと砂煙の中で影が蠢き、がらがらと音を立てめり込んだ身体が抜け落ちていく。

 落下し、祐一の受け身も取っていない身体が地面に叩きつけられた。

 

「クソっ……ヤマトタケルの野郎! 死ぬかと思ったぞっ!」

 

 無傷と言うわけでもないが、動けないほどでもなかった祐一が地面を怒りのままに殴りつけ、悪態をついて立ち上がる。

 あり得ないほど距離を飛んできたようで、地平線の先に佇んでいた峻厳な山々の一つに吹き飛ばされたらしい。

 周りを見ればそこそこ拓けた場所にいるらしく、人が十人くらい居ても充分に走り回れる広い場所だった。

 首を上げて景色を見回すと針金のように刺々しい山々が連なり、そのはるか先には蜃気楼にも思えるほど遠くに王国の城壁が見えた。

 拡がった視界の端に今まで使っていた鉄剣が落ちていることに気が付く。

 のろのろと……そちらの方向へ足を進める。

 鉄剣は拓けた場所の端にあった。歩いて端までたどり着くと、ざり……と足元から聞こえ視線を寄越せば底の見えない穴が広がっていた。

 穴ではない……ここは断崖絶壁になっているのだ。

 拓けてはいるが、山の中腹あたりに位置する場所らしく、ここだけ少し広い空間が広がっているみたいだ。

 端に立っていた祐一の足元が少し崩れて石ころが落ちていく。

 足元を崩さないよう慎重にそろりと後ずさって、一息つく。後ろを振り返って見ても、草一本生えていない寂しげな土地が広がるばかりだった。

 

「ここどこだよ……」

 

 見覚えすらない土地に飛ばされ、当然の言葉が口をついた。一言呟いて少し冷静になったからだろうか、違和感を額に感じた。

 触れてみればぬるりとした感触を覚え、どうやら頭から出血しているらしいと当たりをつける。

 いや、それだけではなく身体のあちこちに……特に叩きつけられたからだろう、背中を中心に痛みがあった。

 しかし、それだけとも言えた。

 数十Kmは吹き飛ばされたと言うのに骨折は一つもなく、戦い始めて最初に受けた、腹部の刺し傷も裂傷も治りかけていた。

 頑丈すぎるだろ……。改めて新生した身体のデタラメ具合に呆れてしまう。

 落ちていた鉄剣を拾ってみると、随分と軽くなっていた。訝しげに眉根を顰め、よくよく見ると中程からぽっきりと折れていた。

 渋面を深くして、ふっと緩める。残った刀身を撫で「ありがとうな」……そう、エオの剣に言葉を掛けて、額に刀身を当てる。

 ───戦士よ、戦え! 

 いつの日か聞いた、ムインの言葉が蘇った。

 ああ、そうだな。勝つよ……絶対。

 言葉もなく果てた友へ、誓いを樹てる。

 握りしめた拳が白み、血が滲むほど歯を食い縛る。

 

 ────安息は束の間だった。

 

 ……コツ。コツ。

 足音が聞こえた。

 この堂々たる歩武はここ数カ月の間に何度も聞いていた。かつては兄とすら親愛の情を深めていた存在……だが今では討つべき仇に他ならない。

 刀身から額を離し、顔を上げる。人影が少しずつ、露わになる。───やはり現れたのは『鋼』の英雄神。

 その纏う衣には綻び一つなく、秀麗な美貌には汗すら浮かんでいない。

 祐一とヤマトタケルの眼光が絡み合う。その闘志と殺意が不変であることを確かめ合うように。

 ヤマトタケルが片頬を吊り上げ、傲岸に笑う。

 

「フフ……やはり貴方はそうでなくてはなりません。どれほど傷付こうと起ち上がり死地へ赴く……戦士はやはりそうでなくては」

「……なに言ってやがる?」

「ハハ。貴方は本当に似ている、と言っているのですよ。ええ、本当に。本当に。───故に先の戦いでは開帳しなかった、我が秘奥をお見せしましょう」

 

 ヤマトタケルの言葉の真意を考えることさえできなかった。当然だ。尋常ではない異質な光景が、祐一の意識を奪い去ったのだ。

 空に、太陽が現れた。

 言葉にすればたったそれだけの事。いつ現れたのかすら判らないほど忽然と、音も気配もなく、まるで最初から存在していたように太陽は姿を現した。

 それは空の半分を覆い尽くす強大な紅玉。

 ───それと同時に世界に光が満ちた。

 祐一は一瞬、ここが異界などではなく、数カ月前まで当たり前のように居た元の世界に舞い戻ったかのような錯覚に陥った。

 しかしそれもすぐに霧散する。

 何故なら祐一の知っている太陽はあれほど大きくはない。

 何故なら祐一の知っている太陽はあれほど輝いてはいない。

 何故なら祐一の知っている太陽はあれほど禍々しいはないのだから! 

 

「──かけまくもかしこき吾が皇神のおおまえにかしこみもうさく…⋯剣に光なす神よ、恩寵を与え給え。遍照の神刀よ、赫々たる光輝を世に示せ」

 

 言霊が放たれ呼応するように偽りの太陽がさらに輝く。同時に途方もない焦燥感が祐一を焼き、直感がざわめく。

 黒い刀身が空に浮かぶ日輪のごとく煌き、ヤマトタケルが剣を揮った。もうその時には祐一は駆け出していた。

 それも神速で、だ。

 リスクを負ってでも、祐一は閃電神速の速さを得る『鳳』と言うカードをここで切った……切らざるを得なかった。

 総毛立つような威に、この場から一刻も早く離れろ! と化身が叫んだのだから! 

 

「──────ッ!」

 

 瞬間。───光が溢れた。

 戦慄する。音も、気配も、何もなかった。ただ光が現れ、振り向いた時には、先刻まで祐一が居た山が消失していた。

 どれだけの熱量と威力があればあんな事が為し得るのか……? 

 範囲はそれこそドバイ一つがくり抜かれ、その威力は空に浮かぶ巨大な太陽でさえ照らせないほど深い大穴が広がり言葉もなく語っていた。

 ……見えなかった。

 なにも視えなかった。

 欠片も観えなかった! ──神速の動きと視界を得ていたと言うのに! 

 つまり神速よりはるかに早い『光速』の領域。

 これまでの比ではないプレッシャーが全身を穿き、祐一は前哨戦が終わったことを悟った。そう……今までの剣の戦いなどお遊びに過ぎなかったのだ。

 

 来るぞ、日ノ本最大の英雄の武威が! 

 来るぞ、数多の神々を降した征服神の本気が! 

 来るぞ、最も鋭き剣の系譜『最源流の鋼』たる所以が──ッ! 

 

「────さあ、第二幕と行きましょう!!!」



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征服神ヤマトタケル

神話解説はクッソ適当なのでお目溢しを……。
ヒャァ!評価と感想くださった方ありがとうございます!!!


「ハァッ! ハァッ!」

 

 駆ける驅ける駈ける! もっと早く速く夙く! 走らなければ、足を動かさなければ、あの不可視の光弾に灼かれてしまうのだから! 

 どんなに祐一の身体が頑丈でも、あの攻撃の前には耐える事も許されず霞のごとく消え去るだろう。まさに必滅の奥義。英雄神ヤマトタケルが持つに相応しい秘技だ。

 

「羽持てる我を恐れよ……!」

 

 言霊を唱えながら全力疾走し、時には岩肌を土台に跳躍し、逃げ回る。

 来るぞ! 全身をふたたび焦燥感が穿き、鼓膜が心臓変わったかのような鼓動が響く。

 背後で傲然と佇むヤマトタケルが剣を揮い、また一つ光球が放たれた。二度目の攻撃でかろうじて祐一に見えたのは、稲光のようなまばゆい光だけだった。

 気付けばもう、大地は音も無く消失していた。剣先を向けた大地は綺麗な円を描き、塵も残さず消え去っていた。

 もはや隠れる、なんて悠長なことをしていても地面ごと消滅するだけ。最善手は逃走。今の祐一は避けることしかできず直感だけが頼りだった。

 ズキンッ! 心臓に強烈な痛みが走る。『鳳』の化身の副作用だ。如何に頑丈なこの身体とはいえ、稲妻と同等の速度で動いているのだ……身体への負荷は相当なものだろう。

 残された時間は少ない。『鳳』の化身を使うのは二度目だが、確信とともにそう思った。

 

「ハァ! ハァ!」

 

 だが足を止めるわけには行かない。息を付く暇なんてどこにもない。

 祐一は思考を巡らせた。苦境を打破し活路を切り開き得る一手を探すように、己の持つカードを照らし合わせる。 

 祐一の使える手札はやはり少ない。今使っている『鳳』の化身には使用すると心臓に激しい痛みが走ると言うリスクを伴う。……有用であるが制限時間がある諸刃の剣に等しい。

 しかし貴重な切り札である事に変わりなく、苦境を凌ぐ一手として祐一は惜しげもなく使っていた。

 軍団を召喚する『神鞭の騎手』も対多の側面が強く、一騎当千の力を振るうヤマトタケルには通じない。

 重症を負わなければならない『駱駝』も使えない。あの攻撃を受けた瞬間、耐えるどころか肉体ごと消滅するだろうから。

 民衆には頼る『山羊』も言わずもがな、『雄牛』も先刻使ってしまい一日は待たねばならなかった。

 切り札足り得る『白馬』も『猪』も使えない。これまでヤマトタケルが何をしてきたのかは知らないが初めて出会った当初から『白馬』の使用条件を満たしていた。……だが、前回防がれたのも事実。

『猪』の化身は……ラグナは寿とともに居る。

 ふと、ここに居ない仲間の安否を想い、思わず歯を食いしばる。無事でいてくれ……祈りは一瞬。すぐに思考を切り替える。

 残る手札は『戦士』だけだった。

 だがあの化身を使うには知識が必要だ……。前回のように霊視を使い知識を得るには、ひどい頭痛と引き換えになる。

 あれを伴って英雄神と正面切って戦うなんて以ての外。ましてやあのヤマトタケルなのだ。一瞬でも隙を見せれば先刻のように強かな一撃を浴び、今度は容易く生命を断ち切られるだろう

 どうすればいい……!? 

 現状維持以外の選択肢が祐一には見えない。そしてジリ貧のこの状況の先に待っているのもは「死」だけだ。

 空回りする思考に思わず苦り切った顔を作り、祐一はこの真綿で首を絞めるような状況に甘んじるしかなかった。

 

『フフ、よく避ける。閃電神速の領域に踏み込みましたか……ですが甘い。私がそれに対抗する術を持たないとでも?』

 

 思考を断ち切るように声が響く。ヤマトタケルのぼやけた声が耳朶を震わせ、祐一の心臓が早鐘のように鳴った。

 気付いた事がある。どうやらあの光弾は連射できるわけではないらしく、ある一定の溜めがなければ放てないようだ。

 祐一が避けれている大きな理由だ。如何に祐一が神速と直感で避けようと、光速の速度は見切れない。連続で向けられれば、問答無用であの世行きが免れない。

 そしてヤマトタケルの言葉に、今までの「どうにかなる」と言う感覚は遠いものとなった。こちらは神速で逃げ回っていると言うに欠片も安心など出来ない……拭いようのない焦燥感ばかりが募る。

 判るのだ。……ヤマトタケルもまた己やエイルが持っている奥義を使ってくるのだろう、と。祐一が死と引き換えに開眼した奥義。そう『心眼』を……! 

 次の攻撃は避けられねぇっ! 

 祐一には確信があった。故にそれは、逡巡もなく、咄嗟の事だった。

 粘つくように追い縋る眼光、計り知れない悪意を煮詰めた殺意。それを感じた瞬間、まるで身体が反射したかのように動いていた。

 カツンッと地面に落ちていた拳大の石を蹴り上げる。サッと掴み、振り向きざまにヤマトタケルへ───ぶん投げた! 

 いま権能を使った状態ならば、祐一の膂力も加味し神速に限りなく近くなる。

 ヤマトタケルの黒刀を振り下ろす腕はたしかに速い。だが、その速さは剣と剣で切り結ぶ戦いでの事。光速で動いてる訳でも、神速で動いてる訳でもなかった。

 

「クッ……!」

 

 投擲され神速の領域へと至った石が一直線に進み、ヤマトタケルの腕に直撃した! ヤマトタケルが一瞬だけうめき、切っ先が───ブレた。

 瞬間、光球が放たれた。

 だがそれは全くの見当違いの方向! 祐一にはカスリもせず、あらぬ方向へと飛んでいった。

 よし! なんとかなった事に祐一は無意識にガッツポーズを決め、束の間、無邪気に喜んだ。

 そして、それが悪手だと気付いたのは……すぐの事だった。

 祐一は見た。光球の狙いが逸れ、進んで行った軌跡を。瞼を瞬き、目を開けた瞬間には───屹立していた王国の城壁が……消滅していた。

 ゾッと、全身が泡立った。

 祐一から逸れていった光球は、なんの慈悲もなく王国を消し飛ばしたのだ。迷い込み暖かく迎え入れてくれたあの場所を……それも他でもない祐一自身が。

 また……俺は……! 

 ジワジワと心が黒く変色していく錯覚を覚え、ガタガタと身を震わせる。

 意識が削がれた瞬間だった。

 背を灼かれる感触が、痛覚から伝わってきた。足の止まりかけた祐一に光芒が降り注いだ。

 

『ッハハハハハハハッ!!! これを避けますか! そのしぶとさ獣のそれですね!』

 

 なんとか避けきれた。ヤマトタケルの不快な声が聞こえるのが何よりの証拠。

 そして心に安堵が広がったから、という理由も多分にあった。破壊された王国をよく見れば消えたのは城壁だけ。街並みは無傷で残って居る事に気付いたのだ。

 王国は無事だ! と泣き出しそうな程の安堵が胸中を占める。背に疼く痛みを振り払うように、グッと四肢に力を込めて祐一はさらに前進した。

 

『フフ、どうやら王国の状況が見えた様ですね? 城壁でも壊せば貴方の足は鈍ると思いましたが……ハハ、あの城壁には貴方が言葉を交わした戦士もいたはず、どうやら貴方にとってその程度だったようですね』

 

 挑発だ! 挑発だ! 爆発しそうな激情を抑え付け、祐一は疾走する。

 悔しげな祐一を見遣りながら、愉快で愉快でたまらない、そんな哄笑を響かせ、

 

『───では趣向を変えてみましょうか』

 

 鷹狩に興じる貴人めいた雰囲気でそうヤマトタケルは嘯いた。糸をひくように唇を裂いては、剣を空へ掲げる。

 

『───』

 

 言霊を言祝ぎ、同時に天の紅玉が赫々たる光芒を極めた。

 なんだ……!? ゾクリ、と祐一はふと既視感を覚えた。以前これと同じ様な攻撃を受けた事がある……そう思い至ったのだ。

 煌めく。

 ハッとした。記憶野に納められていた記憶が蘇る。あれは三ヶ月前、チンギス・ハーンが用いた光線と同じ物だと! 

 そう気付いた時には肩が灼熱していた。

 

「ガッ、ァァアアアアアアアアアッッッ!!?」

 

 いや、肩だけで収まっている。光線が来る瞬間、咄嗟に半身をずらす事に成功したのだ。しかし異常なほどの熱を伴った光刃に痛覚が絶叫を上げた。

 それでも祐一は脱兎の如く逃げ出した。それこそなりふり構わない全力疾走。振動するほどに肩の痛みが増すがきにするものか。

 

『神速程度の速さで逃げ切れるとは思わないことです!』

 

 ヤマトタケルの鋭い声が祐一の耳朶を叩く。早鐘を打つ心臓がひどく鬱陶しい。息も思考も全てが乱れに乱れ、落ち着くことも纏まることも無い。

 ヤマトタケルが剣をふたたび空へ掲げる。空の光芒が強く煌めく。

 死ぬ。空を仰ぎ見つつ、そう結論付けていた。

 答えは出ない。絶体絶命だった。

 一挙手一投足がとてもスローだった。心眼とは違う、まるで走馬灯が身体を包み込み、過去と現在を行ったり来たりしている不思議な感覚だった。

 脳裏に描かれるのはいつの日かイランの名もなき街でパルヴェーズとカメラに写った記憶。内ポケットに収まった一枚の写真を強く意識した。──死にたくない。

 次に描かれたのはラクシェとともに挑んだ試練で受け取った不思議な羽根。同じく内ポケットに収まったパルヴェーズの忘れ形見を強く意識する。──諦めたくない。

 そして思い出すのは最後の記憶。二人の少年が倒れ、絶対不可侵の尊い誓いを樹てた記憶! 四肢に、心に、権能に、滾るほどの力が湧く。──死んでたまるか! 

 ふと、懐に熱を感じた。

 ───半歩右へ。同時にそんなイメージが頭に流れ込んできた……直感などよりよほどハッキリとした力強いイメージが。

 イメージ通りに右へ半歩ずらせば、光線が先刻まで祐一がいた場所を通り抜けていく。

 

「え?」

『なに……?』

 

 両者の口からは驚愕が漏れていた。ヤマトタケルは必中と信じていた物が避けられた事に、祐一はその一撃を難なく避けられた事に、驚きを隠せなかった。

 ぼう、と懐の熱がさらに熱くなるのを感じた。

 なんだ!? そうやって熱を感じる物を探ってみれば、それは嘗ての友が遺した一枚の羽根。

 ああ、そうか……。

 祐一はやっと判った。祐一の進むべき道を指し示してくれるこの羽根が、友の遺した意志が、力を貸してくれるのだ。……例え祖となる神が滅びようと、恩寵を齎す羽根は祐一に力を貸してくれる。

 友は逝ってしまっても、ここに居る。それが堪らなく嬉しくって仕方がない。

 光線はさらに数を増していく。世界が明滅し、それと同時に祐一の生命を刈り取る鎌が揮われる。

 だがそのを悉くを躱していく。身をかがめ、時には跳躍し、三次元的な動きで、そこに華麗さなどなくとも泥臭くとも確実に躱していく。

 

『ちょこまかとっ……』

 

 ヤマトタケルの少し苛立った声が祐一の鼓膜を揺らす。攻撃が鈍るわけでも、和らぐわけでもないが、あの黒幕気取りの性悪野郎に余裕を取り払えたことは祐一にはひどく愉快だった。

 口角を吊り上げる。少しだけ心に余裕ができた気がした。

 無数の光線が祐一を貫こうと殺到し、それを全て予見した挙動で祐一は躱し切る。

 戦況はふたたび膠着状態に陥っていた……だが、それでもジリ貧だった。

 どうする! 祐一は未だ『戦士』の化身を使う決心がつかない。その時だった……

 

 ────抜け。

 

 声が聞こえたのは。それは、どこかで聞いた声。心の裡の芯まで沁みわたる心地よい声。とても、とても力強い声だった。

 

「アンタは……いや」

 

 何者なんだ? そう問いかけるより祐一は、勝つための思考を巡らせた。

 判っていた。声に促されるまでもなく、あの英雄神に持久戦など以ての外で、もはやリスクを背負ってでも首を切り取る短期決戦で臨まなければならない事は。

 今聞こえた声の通り、動かなければ、立ち向かわなければ、先には進めないのだ! 

 ああ、そうだ! そんなの俺の戦い方じゃない! 

 ウジウジ悩んでいた自分がひどく情けなくって仕方がない! 

 そうだ! それに! それに、だ! 

 ふところで強く熱を発する羽根を強く意識する。

 友が見守っているのだ! ならば無様な戦いなど、何故できようか! 

 

 ───迷うな! 戦え! 前進しろ!!! 

 祐一は決断した。

 

「我は最強して全ての障害を打ち砕くものなり───」

 

 バチバチと視界が明滅し、脳内で致死量の電流が流れた錯覚に陥った。世界が白み、次いで頭蓋を引き裂かれる程の頭痛が襲う。何度か経験した、イヤな感覚。

 以前の戦いでも起こったように霊視が働き脳に異常な負荷が掛かっているのだ。

 

 ……だが祐一は止まらない。

 勝つ。そう覚悟を決めたのだから! 

 

「この言霊は雄弁にして強力なり───」

 

 光球が燦く! 天空に鎮座する巨大な光球とは違う、黄金の光。空に瞬く星雲のごとく、そこかしこに光球が舞う。されどこれは剣なのだ。

 ヤマトタケルを討つ為だけの───! 

 

「ヤマトタケル! お前は数多の神々を征服し朝廷に安寧を齎す、輝ける栄光を誇った戦士だった!」

『昔日の戦いで用いた智慧の剣! フフ……やはり抜いてきましたね!』

 

 光球が瞬き、空の太陽すら負けない光を放つ。それは太陽に輝く空に星雲が現れた異様な光景に外ならなかった。

 

「世界の神話体系……特に印欧語族の神話の中には輝ける栄光を手にした類まれな武勇を誇る武神……インドラやヘラクレスのように強力な戦士がいる。そして、その戦士の多くが己の英雄譚を汚すような三つの罪を犯していた!」

 

 次々と言霊を編んで、中空を漂わせる。神速を失った祐一は光線を十分に躱す事は不可能だ。臍下丹田の力を全身にみなぎらせても、精々が音速の数倍程度の速さしか出せない。

 

「一つ目は宗教や王権への反逆や冒瀆行為! 

 インドラは神族であり祭司であったヴィシュヴァルーパの殺害という大罪を犯し、その結果、王として不可欠な威光を喪った!」

 

 ……しかし、祐一は以前と変わらず紙一重で避ける事ができていた。なんとなく判るのだ。

 

「二つ目は戦士として恥ずべき卑怯な振舞いだ! 

 インドラは不戦の誓いを立てたはずの悪竜ヴリトラを騙し討ちし、今度は戦闘に必要な膂力を喪ったとされている!」

 

 今、ヤマトタケルと言う神格の知識を得て、ヤマトタケルを深く理解して……故に奴がどう動くのか、何をするのか、何を考えているのか、未来予知にも似た動作が可能だった。

 これこそ『戦士』の化身が切り札足り得る要素の一つだった。

 

「三つ目は美女への陵辱行為! 

 ガウタマという祭司に姿を偽ったインドラは彼の妻であったアハリヤーに不貞を働き、インドラにあった肉体の美しさを喪失したとされている。

 この戦士が罪を侵すと言う神話はインド神話だけではじゃない! 北欧神話やギリシャ神話にもまた類似する神話が散見できる逸話なんだ!」

『…………』

「ヤマトタケルもまた三つの大罪を犯した戦士だった! 一つ目の罪こそ、天皇の子であり双子の兄である大碓命を惨殺した事にある! ヤマトタケルはこの罪によって果てなき戦いの旅に出なければならなかった!」

『フフ……よく学んだようですね』

 

 可笑しそうに笑い、それをヤマトタケルは祐一への返答とした。

 ヤマトタケルの輝かしい記録と、それとは裏腹に悲哀と嘆きに包まれた屈辱の記録。そして最期は運命に導かれるようについには死へと至った。

 ヤマトタケルの来歴、栄光、屈辱、その全ての知識が祐一には手にとるように判るのだ──だからこそ判らない。

 何故、ヤマトタケルが自分に拘るのか。知識ならそこかしこに落ちているのに、そこだけが薄靄のごとく不明瞭で見透かせない。

 いや、判るのだ。霊視はヤマトタケルの執着の深い部分まで教えてくれた。しかし森羅万象あらゆる知識が蓄えられたこの場所で、ヤマトタケルの追い求める本質……そこだけがポツンと穴が空いたように抜け落ちている。

 それがどうしようもなく不気味だった

 

『我が動きを見切っていますね……その権能由来のものですか!』

 

 ハッとする。余計なことに思考を削がれすぎだ。一瞬抜け落ちていた霊視による頭痛をふたたび思い出し、祐一は思考を目の前の戦いに切り替えた。

 頭痛により意識が狭窄し、それでも戦意を尖らせる。

 

『──────』

 

 ヤマトタケルが何か言っている。だが祐一には気にする余裕なんてなかった。我武者羅にイメージを研ぎ澄ませる……鋭い刃、頭上の太陽も鋼の肉体をも斬り裂く剣へ。

 

「二つ目の罪は朝敵だった出雲建を己の偽物の剣と、本物の剣を入れ替えることで騙し討ちした罪!」

 

 光球が渦を巻くように集合し、一本の大剣を形作っていく。

 祐一の頭上で黄金の大剣と化した剣の全長は、嘗てイランで現れた巨大な化身達をも超え、その刀身は天に輝く紅玉にまで及んだ。

 

「三つ目の罪を犯し、草薙剣を愛人の元へ置いて旅立ったヤマトタケルはその旅の後に死に至る。そのことはあんたの死の遠因になったんだ!」

 

 そのまま一気に振り降ろした。

 

「だぁぁああああああああああッッッ!!!!」

 

 ───金光一閃。

 天空に鎮座する光輝を、黄金の刃が斬り裂いていく。……だが、巨大な太陽は霞を斬ったように、手応えの無いものだった

 

『無駄です、先程も申したでしょう! その太陽は私を庇護する神から借り受けた物! 私を斬り裂く智慧の剣では斬れるものではありません!』

 

 ヤマトタケルが叫ぶ。頭痛に苛まれていた祐一は、先刻聞き取れなかったヤマトタケルの言葉を今更になって理解した。

 判断を誤った! 鉛にも思える唾を嚥下し、全身に氷柱を突っ込まれたような怖気が疾走る。

 刹那、無数の光線が祐一へ迫った。逡巡もなくイメージを切り替える。剣から盾へ。大剣がバラけ、祐一を中心にしてドーム状に光球を展開した。

 キンッ! キンッ! 

 甲高い音がいくつも響く。なんとか間に合った……。今、祐一が無傷で生きているのが何よりの証拠である。

 無数の光線を弾く音と、弾いた摩擦によってドーム内が加熱しはじめる。太陽光線の塊が幾万と降り注いでいるのだから当然だ。

 

『防ぎましたか、面倒な。……ですが征服してこそ我が本懐』

 

 言葉とは裏腹に、ヤマトタケルは獲物を見つけた獅子の如く傲岸に笑っていた。その眼光は鋭く、祐一と言う牙城攻略の糸口を探し求めていた。

 手を開いては握るを繰り返す祐一。死と隣合わせの劣悪な環境で豪胆な祐一といえど些かもストレスを感じないと言う訳にはいかないようだ。

 だがその中であっても祐一は冷静に思考を巡らせ、肚を決めていた。

 太陽は斬れない。それは今ので判った。

 なら、太陽の大元のヤマトタケル。……あいつを狙えばいいだけだろ! 烈火の如き眼光と、不敵な笑いが祐一の面貌に浮かぶ。

 その時だった。

 爆───ッ! 突如、地面が爆発し、祐一の思考が強制的に打ち切られた。

 地中からの……意識外からの攻撃。ヤマトタケルは無数に降り注ぐ光線を地面に潜ませ、祐一の立つ場所の真下で収束させると、一気に爆発させたのだ。

 確かに祐一の守りは堅固であった。しかしそれは空からの攻撃に対応するように展開された表面上だけの事。

 地中からの攻撃には脆いものだった。

 

「ぐっ、ぁぁああああああッ!!!」

『脆い守りでしたね。その程度、虚を突けばいくらでも崩せます』

 

 ヤマトタケルが嘲弄し、いびつに笑みを刻む。お前の武勇などそんなものだと嘲笑しているのだ。

 大地が噴火したかに思えるほどの衝撃に光球の守りが崩れ、祐一もまた為す術もなく枯れ木のごとく吹き飛ばされた。

 全身がバラバラになりそうな痛みと、幾つもの傷から間欠泉のように血が吹き出る。

 ───だが、祐一はそれを寄貨とした。

 刮目し、ズタボロの身体に鞭を打つ。前へ、前へ、前進する。祐一はもう決めていたのだ。

 仇であるヤマトタケルに一太刀浴びせてやる、と! 

 

「ヤマト、タケル!!! オオオオオオオオオオオオッッッ!!」

 

 粉塵を切り裂き、祐一が飛び出す。吹き飛んだ石くれを足場に疾走し、まるでパルクールをするような要領でヤマトタケルへ一直線に迫った。

 石くれがない場所は黄金の光球を前面に展開し、足場を形成して三次元的に進む。

 

『おお、見事! ですが───』

 

 それを座視するヤマトタケルではない。

 フ───ッ! 気合一閃。剣を振りかぶって横一文字に薙ぐ。

 尋常ではない膂力と黒刀が内包する莫大な呪力と相まって、彼の目の前の大地から根こそぎ弾け飛び、土砂を巻き込んだ衝撃が祐一を襲う。

 ───轟! 

 迫りくる衝撃と祐一の操る光球がぶつかり合い、大音声を轟かせ、大量の粉塵が空中を覆う。

 押しつぶされましたか。ふたたび粉塵が舞いヤマトタケルの視界が奪われた。

 いえ、これは……。

 直後、ヤマトタケルは己の失策を悟った。

 バンッ! と轟音が響き、祐一が粉塵から飛び出しきたのだ。光球で形成した足場を尋常ではない脚力で踏み込み、弾丸のごとく向かってきたのだ。

 彼我の距離は五十メートルはある。しかし祐一はまったく頓着しなかった。直感が、心が、化身が叫ぶのだ。

 これくらい一息で詰められる、と! 

 チャンスは今しかない、と! 

 攻撃するのは今しかない、と! 

 右手に収まった黄金の大剣がさらに先鋭化し一つの長大な剣と化す。振り下ろされたギロチンのごとく、ヤマトタケルのみを断つ刃が揮われる。

 

「ク、オォォォォオオオオオオオオオ!!!」

「ぬぅぅ……! 甘い──────ッ!」

 

 ヤマトタケルは黒刀を頭上で構え、寸でのところで防ぐ。全力の一撃がむなしく弾き返された。

 だが攻撃の手は緩めない。

 今度は一つだけではない。空中に停滞していた光球を集めいくつもの剣を創造し、一気に地表を疾走らせる。

 

「クッ、なるほど……やはり厄介だ。それに触れれば私の神格もただでは済まないでしょう……──ですが触れられなければ問題はありません!」

 

 だがそれも軽快に跳躍し、逃げ果せるヤマトタケル。武神としての面目躍如と言わんばかりに縦横無尽に振るわれる無数の剣を悉く躱していく。祐一もまた手中に数十メートルにも及ぶ長剣を作り、捉えようとするが標的が遠く離れ、狙いが大振りになっている。かすりもしない。

 前と同じじゃねぇか……! 頭蓋を砕きそうな頭痛が響く脳内で祐一はそう考え歯噛みした。

 だったらもう! 進むしか、ねぇだろ! 

 俺は───決めたんだ! 

 止まぬ頭痛、右眼に疾走る痛み、傷めつけられた肉体。祐一を構成するあらゆる細胞が『否』と答えるのを無視し、祐一は眼光に烈火の意志を灯し前に進んだ。

 それに、また声が聞こえたのだ。────『この言霊で斬り裂け』と! 

 

「ヤマトタケルの輝かしい栄光。それにはお前の持つ剣……ヤマトタケルが佩刀する草薙剣に秘密があった!」

 

 激しく全身を動かしヤマトタケルに肉薄しようとしながらも、決して休むことなく朗々と言霊を紡ぐ。

 

「嘗ては天叢雲剣としてスサノオの佩刀であったその神刀は、最高神であるアマテラスに贈られ王権の象徴となった! そしてそれを受け取ったからこそアンタはあの太陽を操れたんだ!」

 

 掌中の剣が輝きを増す。強く靭やかで鋭利に。空からの光線をすべて見切り光球で弾く。祐一が怒涛の剣技で攻め込み、無数の光球がヤマトタケルへ四方八方から斬り裂こうとする。

 

「祐一殿、私の動揺を狙っていますね! ですが無駄です! 我が来歴をひけらかそうと私は私の歩んできた道に一片の後悔はない!」

 

 しかし英雄神ヤマトタケルの武勇は並ではない。たった一本の刀で一切の間隙なく迫りくる攻撃を防ぎ切る。

 なんという技量だ! これも何度目の感嘆だろうか。しかし祐一は感嘆もそこそこに頭痛を忘れるほどの極限状態で剣を揮った。

 何十、何百、何千───。剣戟が鳴り止まない。

 

「天叢雲剣から名を変え草薙剣となった剣はアンタの佩刀となり、たとえ神々であっても張り合えるほどの力を手に入れた。それは朝廷の威光そのものだったからだ。故に行く先々で剣を振るい調伏していくアンタは征服者としての相を濃くしていく」

 

 祐一が言霊を紡げば紡ぐほど剣は早く鋭くなっていく。切っ先が少しずつ、少しずつ、ヤマトタケルへ近づく。

 

「故に、草薙剣はアンタの栄光の象徴であり、アンタの死の遠因となった! 『身に帯ばせる剣を桑の木に掛け、避れて殿に入りましき』これは「尾張国風土記」に記された草薙剣を手放すときの一節だ! そうだ、草薙剣とはヤマトタケルと言う英雄が持つ武の象徴であり、立て掛けられた剣とは、直立する鉄剣……剣神アレスにも見られる剣神の示現なんだ!」

「なるほど、私が甘かった! あなたのその権能、そこまで恐ろしいものだったとは! しかし───!」

 

 振り払うように、或いは己に喝を入れるように、ヤマトタケルが叫ぶ。

 それは前回の焼き増しだった。対峙する両者が、息の根を止めんと、頸を絶ち切らんと、剣を握る。

 数多の神敵をまつろわした黄金に輝く智慧の剣と、数多の朝敵をまつろわした漆黒の神刀が対を成すように輝きを放つ。

 ヤマトタケルの意志に呼応し黒刀……草薙剣が烈風を纏う。そして祐一もまた最後の言霊を紡ぎ、智慧の剣を完成させる。

 

「草薙剣とは征服神であり剣神ヤマトタケルの第二人格(アルターエゴ)に他ならない! ヤマトタケルと草薙剣が揃ってこその無敵の英雄神であり征服神だったんだ! 

 故に草薙剣を失ったヤマトタケルは、ブリテンのアーサー王と同じく加護を失い───死ななければならなかった!」

 

 ついに祐一が剣を完成させた。両者が示し合わせたように、一度刃を引き、構えをとる。互いに最大最強の剣技を開帳するための。

 

「オオオォォオオ!!!」

「ッハァ────!!!」

 

 祐一が大上段からの袈裟斬りを放ち、ヤマトタケルが下段から逆袈裟斬りに剣を揮う。

 ───その時だった。一つの光球が独りでに動き草薙の剣に触れたのは。

 ぷつり、と何か糸が斬れるような感覚を祐一は覚えた。…………変化は顕著だった。

 

「……な、に? 我が神力が……!?」

 

 ヤマトタケルの神力が堰を切ったように目減りしていく。潤沢に神力を収めていた器に大穴でもできたようだ。

 突然の事。

 正直、祐一には何が何だか分からなかった。だがどうでも良いとも思った。祐一には確固たる信念がある。

 ───必ず奴に一太刀浴びせ、報いを受けさせてやると! 裂帛の気合を迸らせ咆哮をあげ、強烈な一撃を放つ。

 ヤマトタケルを狙うだけではダメだ。奴を確実に斬り伏せるには───! 

 拮抗する瞬間、イメージを切り替えた。ヤマトタケルの守りである草薙剣もまた斬り裂くために。

 あの剣もまたヤマトタケルの一側面。今の智慧の剣ならば斬り裂く事は容易なのだから。

 剣の守りごと斬り裂く! これこそ必中必殺の一撃! 

 

「ッオオオオオォォォォオオオ───ッ!」

 

 ───ッ斬。

 祐一の『智慧の剣』が、驚愕に染まったヤマトタケルを強かに斬り裂いた。

 瞬間、世界が白に染まった。

 打ち合わさった知恵の剣と漆黒の神刀。その莫大な呪力を内包していた二対の剣の均衡が崩れ、凄まじい爆発が起きたのだ。

 直後、無防備だった祐一とヤマトタケルは爆発の衝撃に、為す術もなく吹き飛ばされた。

 



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必勝の策

 死ぬかと思った。

 と言うより生きているのが不思議だった。

 手を握っては開く。

 いつの間にか意識を引き裂きそうだった頭痛も鳴りを潜め『鳳』による痛みも消え、代わりに全身から思わず駆け回りたいほどの激痛が祐一を襲っていた。

 ───だが、そんな事をする訳にはいかなかった。すっくと立ち上がる。

 同時に……。

 目の前に倒れていたヤマトタケルも立ち上がった。

 

「───どう言う事です、我が半身? 数千年間黙り込んで居た貴方が今になって動くとは……。それも半身である私を裏切って?」

 

 祐一に負けず劣らずボロボロになったヤマトタケルが柳眉をひそめ、血を吐いたばかりの口を動かして低い声音で詰問した。今負った痛みなど、どうでもいいと言わんばかりに。

 問いを投げ掛けられた祐一の掌中には黒い刀が収まっていた。先刻までヤマトタケルが揮っていた剣に相違ない。

 不可解な事。……だと言うのに祐一はちっとも不思議だと驚きも、変だとも思わなかった。

 知っていたのだ。『彼』は共に戦ってくれると。

 あの日、あの時、『彼』と祐一は───約束したのだから。

 ヤマトタケルは問いかけた。それは祐一に、ではない。祐一の()()に向けそう言ったのだ。

 

『───我が半身よ……。もう、良い。もう、良いのだ。もう十分生きただろう……もう十分悲しんだだろう……もう十分悩み抜いただろう……。嘗ては清廉な戦士であったおぬしが、これ以上外道に墜ちていく様は見ていたくない……。なぁ、我が半身よ。もう我々は十分だ……もう生き飽きた。共に終わろうではないか……』

 

 声が聞こえた。ひどく寂びそうな哀しげな声音で、問いかけて来たヤマトタケルへの返答とした。

 祐一は確信が確証へと変わった事を自覚した。

 今の声は『叢雲』だ。王国で友となった益荒男であった。霊視で手に入れた知識で、やっと思い至った。剣であり、ヤマトタケルの佩刀であった彼は、人の形を取って自分と語らっていたのかと祐一は今やっと気付いた。

 

「馬鹿な……───あり得ないッ!!!」

 

 愕然としてがなりたてるようにヤマトタケルが叫ぶ。顔を手で覆い、目を見開き前のめりになって、否定の言葉を吐き出す。

 

「生きた? まだまだ数万年程度ではありませんか! 

 悩んだ? そうでしょうとも! しかしまだ答えは見つけていない! 

 悲しんだ? ええ、だからこそ悲願を果たしたいのですよ!!!」

 

 激昂。口角泡を飛ばしヤマトタケルが初めて見せた取り繕う気のない、激しい激情に祐一は思わず後ずさりそうになった。

 

「巫山戯ないでくださいッ! 私はまだ答えを見つけて居ない! 生にしがみつかねばならない! ああ、そうですとも! 我が見失った本質、見つけ出さねば、死んでも死に切れませんよ!」

 

 秀麗な美貌を血化粧で彩り、ギリギリと音がなるほど歯を食いしばるヤマトタケル。

 

「我が苦悩の日々! 貴方も知っているでしょう!? 貴方も……貴方もまた、私を見限ると言うのですかッ!?」

 

 ヤマトタケルが虚空から剣を取り出した。反りのない長大な豪剣だ。

 ヤマトタケル自身が持つ『鋼』の権能により生み出したのだろう、あれにも莫大な呪力と鋭利さが秘められている。……しかし今、祐一の持つこの刀ほどではない。

 

「我が半身よ……。貴方がそちら側に着くと言うのならば────貴方ごと切って捨てましょう!」

 

 剣把を握りつぶしそうなほど力を込め、満腔から強烈な威圧が吹き荒れる。

 その姿、まさに修羅の如し。

 

「どうして?」

 

 それに備えながら祐一は叢雲に問い掛けていた。何故、と。

 

『過日の戦いで(オレ)は確信した。神々を討つほどの武勇を持った人間の戦士……それだけでも稀だと言うのにその者は神格を斬り裂く『智慧の剣』すら持っていた。

 (オレ)はその時確信したのだ。あの者となら……祐一、おぬしとなら必ずあやつを討ち果たせると』

「そっか」

『今更、取り繕う事はせん。(オレ)はあやつに引導を渡す為……己が私情の為……おぬしを利用する。そして(オレ)は決して謝りはせぬ』

 

 その言葉に祐一は首を振った。

 何故だろうか。さっきまで激情に呑まれていた筈の自分の心が、ひどく凪いでいる事に祐一は驚いた。

 

「構わねぇよ。手を貸してくれるなら、何でもいいさ」

 

 祐一の持つ智慧の剣は神格を斬り裂く、言霊の剣だ。智慧の剣によって斬り裂かれた神格は、悉くその神性を失う。

 ──叢雲はそこに光明を見た。そうして神格を斬り裂かれ『草薙剣』としての己を捨てた叢雲はかつての神格……『天叢雲剣』へと回帰した叢雲は祐一へと宿ったのだ。

 叢雲を握る手から、そんな知識が流れ込んできた。

 まぁ、なんでもいいさ。

 フッと頬を吊り上げ不敵に笑う。漆黒の神刀……『天叢雲剣』を構え、烈火の如き眼光を灯す。

 凪いでいた心に波紋を呼び起こす。今度は憎悪でも怒りでもなく、純粋な闘志で。

 

「俺は、あいつをブッ殺せるなら、それで───!!!」

「ッハ! 甘いですよ! 貴方達が合力すれば私を倒せるなどと思い上がらないことです!!!」

 

 祐一の叫びを聞いたヤマトタケルが嘲笑し、同時にその美々しい肉体から雷光が弾けた。

 ───神速か! 

 瞬時に悟り、心眼を最大限に高めて迎え討つ。次の瞬間には刀身が眼前に迫っていた。

 大丈夫、視えてる! 

 心眼で見切り、さらに幾度となく剣を合わせヤマトタケルの剣筋を朧気ながら理解し始めていた祐一は焦ることなく天叢雲剣で受け止めた。

 激しい剣戟音があたりを駆け巡り、次いで烈風が吹き荒れる。鍔迫り合いの格好となった両者は一歩も譲らぬとばかりにせめぎ合う。

 なんて力だ……! 臍下丹田から湧き出る力を四肢に籠めても、ギリギリと押されてしまうほどの膂力に驚嘆する。

 

『我が半身よ……いやヤマトタケル。おぬしの命運はここで尽きている』

 

 拮抗する両者の間で、叢雲がポツリと呟いた。

 

「まだ言いますか!」

『応とも何度でも言う。(オレ)を佩刀とした、おぬしは無敵の英雄神と定められ、常道の手段では討つ事は敵わなかった! ……故に策を講じねばならなかった。無敵の貴様を確実に斬り伏せられる策を……!」

「……貴方も私も、策を弄する様になりましたか。───フッ、もう『最源流』の看板はお互い降ろした方が賢明かもしれませんね!」

 

 殺気がこれまでの比ではない程、膨れ上がる。祐一もまた闘志を漲らせて迎え討つ。

 

『霊視による弊害は(オレ)が引き受ける! 思う存分に戦え、祐一!』

「ああ!」

 

 一気呵成に攻め起てる両者が、示し合わせたように身を引き、すぐさま跳躍。彼らの歩武が大地を震わせ、剣戟が大気を鳴動させる。

 人類最高峰の戦士であり軽功卓越である祐一と、およそ武の頂点と称して良いほどの武勇を持つヤマトタケルであれば電柱やビルなど軽々と飛び越えそうなほど跳躍できるのだ。

 祐一が光球を足場に、ヤマトタケルが大気を蹴って、三次元的な動作で跳躍し、そして交錯。本当に剣一本なのか、疑いたくなるほどの激しい剣戟の応酬が放たれた。

 何度、死を覚悟したか判らないほどの絶技。それを受けながらに、祐一はこれまでの戦った神々の誰よりも強い、と確信していた。

 ……だがこうも思っていた。先刻ほどではない、と。

 そうだ。……ヤマトタケルは明らかに精彩を欠いている。

 漠然と、敵の力量を測ることが可能な神殺しとしての能力がそうささやくのだ。

 鋭敏な直感がヤマトタケルの放つ剣戟の気配を捉え、半身をずらす。ちり、と髪先を掠め豪剣が通りすぎた。

 以前なら紙一重、ともすれば斬られていただろう。だと言うのに余裕を以て躱すことすら出来た。

 小さく、小さく。一滴の水が湖面に落ち波紋ができるように。しかし確実に、一つ、またひとつ、と祐一の揮う剣がヤマトタケルへ近づいて行く。

 閃光が煌めき、ヤマトタケルの頬に裂傷が走る。はらりと美豆良が解け、錦糸の如き艷やかな黒髪が踊る。

 さしものヤマトタケルと言えど、今の祐一からの攻撃から逃れる事は困難だった。じわり、じわりと小さな傷が増えていく。

 私が押し負ける……? ヤマトタケルである、この私が……っ!? 

 彼の胸中に確かな驚愕が芽生え、小さくはない波紋が広がった。

 ───おぬしの命運はここで尽きている。

 その言霊が、鎖の如く身体に絡みつき、蚯蚓が這うような悪寒がヤマトタケルの全身を駆け巡る。

 ───黙りなさい!私は、私はヤマトタケルだ───ッ!!! 

 胸中で極大の叫びを上げる。……だが、その驚愕と焦りは切っ先を鈍らせた。

 そして祐一は間隙を逃すことはなかった。

 斬。───ついに祐一の剣が肩を斬り裂かれた。

 先刻、手首を斬られたお遊びの時とは違う、本気の剣だったと言うに! 

 

「グッ! いいや……有り得ないッ! 認める訳にはいかないッ! 倭の勇者たるこの私が、弱者に屈するなどと───ッ!」

 

 苦悶の声を上げ、否定の言葉を叫ぶ。剣を掲げ、一息に地面へ突き刺す。その動作に祐一は既視感を覚えた。

 ───ズン! 

 同時に大地が鳴動し、天地を逆さまにしたようにひっくり返った。前回の戦いでもヤマトタケルが用いた鋼の軍団創造の権能だ、祐一は既視感の正体に気付いた。

 

「不屈の勇士達よ、いざ号令を掛けましょう! 朝敵を悉く滅ぼせ! 雄敵の首を掲げよ! 華々しく錦を飾れ!」

 

 短甲を纏った兵団が現れ、祐一に喰らいつく。その数は千はくだらないだろう。恐れ知らず……いや、死ぬ事を知らぬ鋼の軍団が祐一へと迫った。

 だが祐一もまた死を恐れぬ戦士。

 怯む様子など欠片も見せず前へ進む。前回はチンギス・ハーンの権能は使って殲滅した。ならば今度は……

 周囲に漂う黄金の光球に念じる。集まれ、と。あの軍団を一撃で葬る姿になれ、と。

 黄金の光球がより合わさり、容貌魁偉な巨大な体軀を、勇ましく長大な牙を、黄金の毛皮を、そう、『猪』を形作っていく。

 あらゆる障碍を一撃で破壊するラグナこそ、祐一の思い描く最強の姿。祐一の創り出した黄金に耀く猪は、北欧神話に登場する『グリンブルスティ』の如き偉容! 

 

「弱者はテメェだ! ヤマトタケル───ッ!」

 

 黄金の『猪』がヤマトタケルへ猛然と突き進む。

 鋼の軍団? 千の軍勢? 不死身の勇士? 

 そんなものは、知らねぇ! と、ばかりに黄金の『猪』が猛進し、鋼の軍団を粉砕し蹂躪していく。

 ヤマトタケルは既視感を覚えた。それは古い、とても古い記憶。己が草薙剣を手放し、討伐に出た伊吹山で邂逅した白い猪を。

 黄金の『猪』と白い『猪』……全く違うと言うのにヤマトタケルは凶兆の顕現であるそれを想起した。

 思わず足が止まる。

 

「クハッ──!!?」

 

 気付けば眼前に迫っていた『猪』が、その長大な牙が腹部を刺し貫いていた。

 だが浅い。深手になる前に、牙を掴み押さえつけたのだ。しかしその衝撃は抑えきれず、吹き飛ばされる。

 ヤマトタケルの流血は激しいが、止めを刺すまでには至らなかったようだ。

 酷使しすぎたからか? なんとなくだがこの『戦士』の化身は使えば使うほど刃の切れ味が落ちていき……それは刀が斬れば斬るほど刃こぼれする刀のように、この『智慧の剣』もまた切れ味が鈍っていくのだろう。

 そんな確信が祐一にはあった。

 戦いが始まりどれほどの時間が過ぎたのだろうか? 現状は確かに祐一の方が優勢だ。しかし、

 

「ハァ……ハァ……」

「くっ……」

 

 祐一が荒い息を吐きながら、天叢雲剣を構えた。無尽蔵の体力と莫大な呪力が底を尽きかけている自覚があった。限界が近い。

『猪』に吹き飛ばされ、なんとか着地したヤマトタケルが片膝をついた。彼もまた限界が近いのだ。

 

「思ってもみませんでしたよ……」

「…………あ?」

 

 ヤマトタケルが俯き、呟いた。祐一は動き出そうとした足を思わず止めてしまった。

 

『気を付けろ祐一。今奴が何をしてくるか(オレ)にも予想がつかん』

 

 ……ああ。祐一は静かに、油断なく頷く。

 窮鼠猫を噛むと言う故事があるように、それと同じく手負いの虎ほど怖ろしいものはない。今のヤマトタケルが何をして来るのか、一切判らない。

 

「侮っていた心算はありませんでしたが、やはり貴方は「人間」……。どこかで侮っていたのかも知れません……私がここまで追い詰められているのが何よりの証拠……」

「お前、何を言ってるんだ……?」

 

 なにか不味い気がする。祐一は『智慧の剣』を集め、中空で剣を作った。

 

「フフ……あまり使いたくはありませんでしたが……これを使えば卑怯者の謗りは免れませんので……。ですが仕方ありません。祐一殿、誇って良いですよ───」

 

 ヤマトタケルが顔を上げた。そこに刻まれたのは、歪み切った狂笑……! 

 

「────貴方が私にコレを使わせた事を!!!」

『いかん祐一! 『智慧の剣』を戻せ───ッ!!!』

 

 ヤマトタケルと叢雲が叫んだのは同時だった。言われ、咄嗟に化身を消そうとして……

 

「貴方が我が剣を奪ったのは、好都合でした──!」

 

 祐一より早く、ヤマトタケルが動いた。

 息もつかせぬ動作で豪剣を投擲する。神速かと見紛うかの速度に、反射的に空中の『智慧の剣』で防いでいた。

 ……それが間違いだと気付くいたのは、それからすぐの事だった。

 不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い俺はなぜ剣を戻さなかった───ッ!!? 

 祐一の胸中に今までないほどの警鐘が鳴る。心臓が狂ったように早鐘を打つ。全身が氷で覆われたと錯覚するほどの悪寒が駆け巡った。

 

「───やつめさす 出雲建が 佩ける刀

 つづら多巻き さ見なしにあはれ───」

 

 ヤマトタケルが言霊を紡いだ。ヤマトタケルの権能が神殺しとしての呪力の守りなど知らぬとばかりに突き抜け…………その瞬間、祐一の奥底で何かが蠢いた。

 

「ああっ! あ、ぁぁあああああああ!!?」

 

 それは唐突に起きた。祐一の中からとても大事な何かが引き剥がされる感覚。視線を走らせればそこには『戦士』を模した紋章が漂っていた。

 待てっ! 

 そう言葉にするより早く、紋章が『智慧の剣』と合わさりヤマトタケルの掌中へ収まった。紋章がヤマトタケルの四肢へ溶けては消えていく。

 一瞬の、あまりにも衝撃的な出来事。

 奪われたのだ。祐一の宿した化身が。パルヴェーズが遺した物が。

 祐一と友との絆、そのものが───。

 

 あまりの怒りに意識が白濁し、明滅する。

 

「ヤマト、タケルッ! テメェェェェェェェ───!!!」

 

 大地がひび割れ鳴動する。それほどの叫びを上げ、激昂を顕にする祐一。

 地面が爆発したかと見紛うほどに、大地を踏みしめヤマトタケルへ跳躍する。

 ヤマトタケルが行使した権能。……あれこそヤマトタケルが持つ偸盗の権能であった。

 嘗てイチイの木で出来た偽の刀をイズモタケルの持つ刀とすり替え、ヤマトタケルが本物の刀で討ち殺したと言う伝承を基にした権能であり、本来ならばただ物をすり替えるだけの権能。

 神殺しの強力な呪力の守りを破るほどの強制力はなく、権能を奪うという荒業は出来ないはずだった。

 ……しかし祐一は『天叢雲剣』と言う英雄神ヤマトタケルの一部と言っても良いそれを奪っていた。

 特価交換は世の習い。故に祐一の持つ呪力の守りすら突き抜け、彼の一部である化身を奪うことが出来たのだ。

 そのことを遅れて悟った祐一は激昂した。それもこれ以上ないほどに。

 祐一だけではない。彼に残る全ての化身が猛り、怒り狂った。

 あの怨敵を斃せ! 完膚無きまでに! 塵も残さず討ち滅ぼせ、と! 

 

『──────』

 

 叢雲が何か言っている。だが認識できるほどの冷静さなど遥か彼方へ捨て去っていた。

 

「『戦士』を、返しやがれ────ッ!!!」

「ッハハハハハハッ! やはり勝つのは私だ! 貴方が剣を奪ったその瞬間、あなた方が勝機を見出したように、私の勝利は揺るぎないものとなっていたのですよッ!!!」

 

 そうです。私が負けることなど有り得ない! 

 迫りくる祐一を嗤いながら胸中で、ヤマトタケルはそう確信する。

 武神とはいえ無手のヤマトタケルが神とすら打ち合える技量を持ち、神刀すら携えたいまの祐一に相対するには厳しいものがあった。しかしヤマトタケルの胸中に一切の波紋は生まれなかった。

 なぜなら己が勝利を一心不乱に信じているからだ。

 

「私に剣が無いというのならば!!! ────私自身が剣となれば良いことッ!!!」

 

 剣を失ったヤマトタケルが見出した答えこそ、これだった。己を剣とし『剣神』としての原点に立ち戻ること。

 それこそ木下祐一と言う神殺しを斃す唯一にして絶対の策であった。

 

 我が討つのは魔王! 我が切り裂くは羅刹! 倭の勇者・倭健命これより修羅へ入り破邪顕正の御劔とならん───! 

 

 剣神の宿星へ祈願する。

 全身が赤熱しているのが判る。地面に散らばる砂鉄が蠢き、ヤマトタケルを中心に渦を描いていく。これこそ己が『鋼』の原点に立ち帰っていることの証左に他ならない。

 嘗て、太古の遥か昔にエピメテウスとプロメテウス……そしてパンドラは矮小な人間が神を弑逆したときに初めて行われる大秘儀『簒奪の秘儀』を生み出した。

 そしてそれに対抗するように生み出された古の盟約があった。しかしこの古の盟約は、()()()()()()()()()()()()()()()と言う制約があった。この世に神殺しは……少なくともこの幽世に神殺しは木下祐一、ただ一人だけ。

 ────故にそれだけでは、古の盟約は応えない。

 そんな事は百も承知。故にヤマトタケルはさらに口訣を結ぶ。

 

 因果の王よ。因果の道化共よ。最も古き盟約をいざ果たそう。

 因果破断を宿した凶児を討ち果たす刃を今ここに───!!! 

 

 幾星霜の時を越えて、世界が軋みを上げる。

 まるで錆び付いた歯車が永い時を経てふたたび動き出したかのように。

 大いなる力が、彼の心身を満たしていく。尋常ではない……それこそ莫大な呪力を持つとされる神や神殺しの何倍もの量! 

 ヤマトタケルは剣神としての使命を再確認し、古き盟約への批准を表明しただけではない。……木下祐一と言う『因果破断の因子』を滅却する事を表明する一節を加え、《因果》の後押しを受け、ついに古の盟約を発動させたのだ。

 ───それこそ魔王殲滅の大呪法。《盟約の大法》! 

 

 ハハハ、天明地祇の誰が見抜けたでしょう? この神無き世界で、神殺しが生まれる事などないとされた世界で、古の盟約……《盟約の大法》が行使される時が来る事を。

 ───そして魔王殺しの偉業を為し、このヤマトタケルこそが勝鬨を上げる事を!!! 

 いつの間にか、ヤマトタケルの手には剣が収められていた。忽然と顕われた白金の刃。《盟約の大法》の発動とともに深い深い眠りに就いていた神剣が目を醒ましたのだ。

 その刃の銘を───『救世の神刀』と人は呼ぶ。

 それは異様な光景であった。尋常の神の何十倍もの神力を内包した神が、星さえ断ち切る刃を持っているのだから。《因果》と《運命》の後押しを受けた魔王殲滅の勇者。それこそが今のヤマトタケルであった。

 しかし、そんな異常事態だと言うのに祐一は足を止めることはなかった。止まることすら欠片も頭になかった。ただ只管にヤマトタケルを斃すことだけしか眼中になかったのだ。 

 そして──。

 

 

「哈ッ────!!!」

 

 

 気合一閃。

 ヤマトタケルが嗤い、そして大上段から縦一文字に白金の刃を振り下ろし───世界を両断した。

 

「─────ッ!!?」

 

 一条の黄金の煌めきが世界を疾走し、蹂躙していく。数多の神々ですらこれほどの破壊は不可能とさえ思えるほどの破壊と衝撃に祐一は言葉もなく呑み込まれた。

 

 ────ズゥゥゥウウウンンンゥゥゥウウウウッ! 

 

 怨敵たる祐一を呑み込もうと、破壊は留まるところを知らない。王国が、幽世が、三千世界が鳴動している。

 幽世のいやはての地まで情け容赦なく両断されるほどの破壊が起きた。両断された断面には無明の闇が広がり、底を見通す事など不可能だ。

 それは正に神話の再現であった。

 ヤマトタケルが揮った刃は文字通り、世界を斬り裂いたのだ。

 

 たった剣の一振りで。

 有り得ないほどの破壊を────! 

 

「ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!」

 

 破壊され静寂のみが支配する筈の世界で、ヤマトタケルの哄笑がどこまでも響きわたった。



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永き旅路の果てに

「………………ぅ……」

 

 呻きを上げながら、祐一の意識は覚醒した。

 同時に意識を引き裂きそうな激痛に、叫びそうになる。痛い、痛い、だが祐一は弱音ひとつ吐くことなく立ち上がろうとして───出来なかった。

 首が動かせず目視できないが、感覚は繋がっているのだから五体満足なのだろう。しかし身体は祐一に叛逆を起こしたかのようにピクリとも動かない。鉛で出来た傀儡を骨の折れた指で操っているかのようですらあった。

 ここ……何処だ……? 身体を動かすのを諦め、目を走らせる。

 うつ伏せになって目覚めた場所は荒涼たる大地の上だった。見渡す限り灰色の世界が広がって、生命の息吹が感じられない……以前旅をしたイランを想起させる光景。

 なんでこんなとこに? 

 記憶が混濁しているのか、ここがどこなのか、なんでこんな所で倒れているのか、なんでボロボロなのか、疑問が水面に吹き出る泡のようにポコポコと湧いてくる。

 今さっき思い出したようにイランの荒野を想起させる不毛な地。だがイランとは決定的に違うものがあった。

 何故今まで気づかなかったのか不思議になるほどの、大きな違い。

 それは眼前に広がる巨大な穴だった。底知れぬ無明の闇が広がっていて。まるで……。そう、まるで太陽を落ちてきたかのような……。

 ハッとする、祐一はやっと思い出した。なぜここに居るのか。何が起きたのか。なぜ傷付いていたのか。

 誰と戦っていたのかを───! 

 

「───まだ生きていましたか」

 

 唐突にヤマトタケルが眼前に現れた。

 おそらく神速で現れたのだろう……身体に紫電が舞っているのが何よりの証左。手中にあった白金の刃、『救世の神刀』は何処かへ消え去り、《盟約の大法》によって得た呪力もない。

 しかしヤマトタケルが負っていた戦傷は完全に治癒していた。

 あれは穴などではなかったのだ。ヤマトタケルが先刻揮った剣によって起こされた、破壊の残骸だったのだ! 

 

「呆れるほどにしぶといですね。あの必滅の刃を受け五体満足で生き残るとは……」

 

 肩をすくめ、祐一を見下ろすヤマトタケル。祐一は動かない身体の代わりに眼球を動かし睨み据えた。

 全神経を蝕む痛みと喉からせり上がる血を堪え、かつては親愛の情を抱いていた者へ詰問する。

 

「な……んで! な……んで、なん……だ!? 俺は……! アンタを……アンタを、兄だとすら……、思って……いたのにッ!!!」

 

 慟哭が寂しげな大地に虚しく響く。その言葉には怒りや絶望、悲しみも余すところなく乗り移り、しかし、一番感じ取れるものはやるせなさ、だった。

 どうしても納得がいかなかった。あれほど……あれほど慕っていた人が敵だったなんて信じたくはなかった。かつて友としたパルヴェーズも、変り果て遂には殺し合った。

 あのときだって辛かった。胸中にわだかまる疑問はこびり付く泥のようで拭えるものではない。

 またか、またなのか……! 認めたくなかった。その出来事は「木下祐一」という少年のトラウマそのものだったから。

 なにか理由が……縋れる理由が欲しかった。

 

「ふふ。私も貴方の事を弟だと思っていましたよ?」

 

 ヤマトタケルの返答は変わらず、嘲笑だった。

 口内が干上がる。『戦士』を奪われた時にも劣らない、激しい怒りが全身を焦がす。瞳が滾って、燃え上がりそうだ。

 

「アンタがッ……アンタが憎い───ッ!!!」

 

 この世のすべての憎悪を煮詰め吐き捨てたような声。さっきまでの惰弱で弱音を吐いていた自分などどこかへ消え去っていた。底の知れない純粋な怒りが祐一を支配した。

 精神が肉体を凌駕する。

 ブチブチと筋繊維がちぎれる感触が身体のそこかしこで起こり、傷口から間欠泉のごとく血が噴き出す。

 それでも諦めようとは、欠片も思わない! 

 だが、無意味だった。憎悪と共に立ち上がろうとした祐一を一笑し、ヤマトタケルはふたたび虚空から豪剣を取り出して、軽快に揮った。

 サク、サク、サク……。三度、祐一から簡素な音が鳴る。小気味良い音だった。

 奏でたのはヤマトタケル。楽器はもちろん豪剣と祐一だ。両足の健と、左腕の神経が断たれ、糸の切れた傀儡のように地面へ倒れ込む。

 

「フフ……。無駄です、もう諦めなさい」

「殺して、やる……ッ!」

 

 豪剣を首元へ添え、最期とばかりに祐一へ語りかけた。祐一は呪詛を吐き出し、睨み据える。

 

「さぁ、もはや貴方は刀折れ矢尽き、命運も尽きました。ですが貴方は私に答えを示す事はなかった……」

 

 天を仰ぎ、無念そうに嘆くヤマトタケル。芝居がかった姿にどれほどの真実味が含まれているのか定かではない。嘲弄してしているのも嘆いているのも間違いはないのだろう。

 対する祐一が答える事はなかった。

 

「ああ、残念です……私はあなたならば答えを示してくれると思っていたのに……」

 

 ヤマトタケルの独自が聞こえているはずだが、祐一はもう怒るわけでも、足搔くわけでもなく、ただ眼光鋭く目を見開いていた。

 生きるのを諦めた訳でも、勝利を諦めた訳でも、憎しみが消えたわけでもなかった。

 

「フフ、貴方は用済みになったのですよ。ですが貴方が奮戦し、私の喉元に喰らいついたのは事実。故に貴方の奮闘に敬意を払い、その右腕に宿るかつての半身ごと我が手ずから斬り裂いてあげましょう」

 

 ただひたすらに憎悪で瞳を染め、真っ向からヤマトタケルと振り下ろされる剣を睨んでいた。

 内に巻き起こる波濤の如き激情に呼応するように、頬を冷たい風が撫ぜていく。

 祐一は刮目していた。つぶさに見定めていた。探し求めていた。

 絶体絶命の窮状に陥ってしまった己が、生き残る活路を。寸毫もないはずの活路の道をこじ開けるために。

 精神の極限まで集中していたのだ。

 

『───祐一くん! 全部……全部罠だったんだ! 王国は敵だったんだ!』

 

 その時だった。友の……今まで離れ離れになっていた寿の声が聞こえたのは。同時にひとつの───確信が湧く。

 視えた───! 光明が見える。活路が拓けた。掌握していなかった最後に残るウルスラグナの化身がついに祐一へ力を貸くれると言う、確信が! 一も二もなく化身する。 

 直後、風が吹いた。

 髪を揺らす一陣の風は次々と変化し、目を瞑らんばかりの突風から渦巻く旋風へ! 

 これこそウルスラグナ第一の化身『風』。アヴェスターに記されたかの軍神は強風の姿で聖者ザラシュストラの前に現れたと言う逸話に由来する力……友が窮地に陥ったとき、風と化して駆けつける。それがこの化身の力なのだ! 

 ウルスラグナの十の化身。そのすべての化身をいま完全に掌握した。溺れそうな全能感を振り切って、言霊すら唱えることなく呪力を叩き込む! 

 

「───むっ!?」

 

 異変に気付いたヤマトタケルが咄嗟に剣を揮うが、もう遅い。空を斬るヤマトタケルの刃。旋風が消え去ったころにはもう祐一の姿は見当たらなかった。ここに居るの一人だけ。……だだっ広い破壊し尽くされた大地にヤマトタケルのみ。

 

「………………ははは。……覆した、覆したのですか。フフ、未だ彼の命運は尽きていなかったようですね……」

 

 歪な笑みを深め、肩を揺らす。そこに悔しげな色はなく、ひたすらに愉快げで。

 

「ですが……私から逃げ果せれるとは思わないことです」

 

 どれほど逃げようが必ずや我が掌中へ……。勝利も獲物も逃したと言うのに、ヤマトタケルの面貌は歓喜に彩られていた。

 

 ○◎●

 

 

 視界を覆っていた旋風が霧散する。

 まず最初に目に入ったのは赤。祐一は何度もその色を見たことがあった。……血の赤だった。

 漆黒の獣皮にいくつも突き刺さる剣斧を見て、瞬時に悟った。あれは血まみれのラグナだったのだ。全身が総毛立って、心臓が跳ね上がる。

 次はラグナの隣にいた寿。彼は右肩を抑えているが、軽傷で済んでいる。

 やはり傷が深いのはラグナだ。五メートルほどの巨体になっているラグナの体表には、至るところに裂傷が走り、槍や矢すら突き刺さっている。だが倒れる事なく大地に仁王立ちし、後ろにいる寿を守り徹していた……祐一との約束を、果たすために。

 次いで半壊した王国の城壁が見え、そしてぐるりと囲むように戦士達が武器を構えていた。

 居並ぶ誰も見たことのない者たちばかり。おそらく王城に控える近衛兵たちだろう。囲んだ戦士達は突然現れた祐一に驚き、まだ動揺から戻ってきていない。

 

「──ッ!」

 

 強烈な視線を感じて咄嗟に目線を向ければ、そこには王国の女王たる『神祖』ニニアン。戦士を束ねるように奥に控え、しかしこの上なく厳しい表情を浮かべて祐一を睥睨していた。

 烈火の如き眼光と冷厳な眼差しがかち合う。ニニアンから向けられる純粋な殺気を全身に浴びながら、祐一もまた闘志に満ち満ちた眼光で返礼とした。

 だが、……見えたのはそこまでだった。

 ドサリ、と壊れた人形のように地面に叩きつけられ、些細な衝撃でも呻きを上げる。

 眼の前に現れて直ぐにくずおれた祐一に、混乱からいち早く立ち返った寿が駆け寄った。力の入らない祐一に肩を貸す。

 

「祐一くん! その傷は!?」

「おっちゃん頼む……! 俺を、ラグナの……ところに!」

「でも! 君は!」

「いい、から……───早くッ!」

 

 常ではありえない有無を言わせぬ、その鬼気迫る声に寿は「……わかった!」と答え、祐一を背負いラグナの元へ駆け出した。

 

「────何を、して、おる! あの、異物は、手負い、ぞ! 疾く、仕留め、よ!!!」

 

 ニニアンの隣に侍っていた生白き容貌の老人が大喝し、戦士達が我に返ったように動き出す。

 だが、遅い。ラグナと祐一達の距離は現れた時点で目と鼻の先にあった。故に、彼らを仕留める千載一遇の好機は過ぎ去っていたのだ。

 遅れてそのことに気付いたカズハズは「投擲、せよッ!!!」と挽回するための一手を巡らせた。王国でも上位の戦士たちはカズハズの下知にも見事に応え、直後、鉄の嵐が吹き荒れた! 

 それは一秒にも満たない刹那の一幕。倒れ込むようにラグナの元に着いた祐一が、己が内に宿る化身を呼び覚まし、残り少なくなった呪力を精錬して……叫びをあげたッ!!! 

 

「ラグナッッッ!!!」

 ──ルオォォォオオオオオオオッッッ!!! 

 

 祐一の意図を悟ったラグナが、覚悟を表明するように哮りを上げる。だからこそ祐一は迷わなかった。

 今、祐一が用いている化身は『少年』! 祐一の為に命を賭して、約束の為に命を賭して戦うものだけが得られる、聖なる軍神の加護! 

 練り上げた呪力を至純の『加護』へ変えた祐一が、己の血まみれの腕をラグナの傷口へ叩きつけるように──重ね合わせた。それと武器の嵐が迫ったのは同時だった。

 

「ラグナァァッ! 吹っ飛ばせェ───ッ!!!」

 

 血を吐きながら、地鳴りが起きるほど全力で叫ぶ。

 

 ────ッルオオオオオオオオッッッッッッ!!!! 

 

 直後、あらゆるものを大地は灰燼に帰す咆哮が轟いた。極大の衝撃波が鉄の嵐を、そして戦士諸共吹き飛ばし、地面の土砂すら巻き上げる。

 しかしニニアンはそれを受けてさえ無傷であった。衝撃波がたどり着く瞬間、カズハズがその見た目にそぐわない俊敏な動作でニニアンの前に躍り出てると、呪術による障壁を張り守り切ったのだ。それほどの事が起きようとも、ニニアンの視線が揺らぐことはなかった。そんな些事よりも、大事が目の前に依然として転がっているのだから。

 まるで嵐の前の静けさだった。衝撃波が過ぎ去ったあとには耳鳴りがするほどの静寂が居座り、意識をなんとか繋ぎ止めた数少ない戦士も、主を守護するカズハズも、冷厳な瞳で見据えるニニアンも、誰もが等しく同じ方向を見ていた。

 ざり、なにか巨大で力強い存在が大地を踏みしめる音が静寂を引き裂いた。巻き上がった粉塵から、圧倒的な巨駆を持つ黒い影が現れ出る。そこから導き出される答えは───。

 容貌魁躯なほど太く、たくましい胴回り……。黒い影は、闇を溶かし込んだ漆黒毛皮に隠し切れない猛々しさが滲みでた凶相を湛え……。そして両頬辺りから突き出た禍々しく長大な牙と、烈火の如き意志を宿した二対の眼光……。

 黒き神がそこには居た───! 

 力尽きるはずだった破壊の顕身が復活を遂げたのだ。なんという威容か。あれこそ聖典に記された、ヤザタの示現! あれこそ正に、近寄り難き者也! 

 今ならばどんな戦士もカズハズも、ニニアンであろうと一息に殲滅できるだろう……。だが祐一はその選択肢を選ばなかった。否、選べなかった。

 厄災が、凶兆が、───ヤマトタケルが。あの怨敵が、刻一刻と迫っている事に気付いていたのだから。逡巡する暇も、一刻の猶予もなかった。寿に支えられながらラグナの背に乗り込み、毛皮を握り締め、

 

「掌中の、珠も、砕け散った……! 血まみれの、肺腑は、地に落ちた……さあ、無秩序を……!」

 

 言霊を謡い、意思を伝える。言い様にやられ腸も煮えくり返っているだろうに友は……ラグナはいつものように応えてくれた。

 転身して王国に背を向け、走り出す。常勝不敗の化身であるラグナに無様な敗走をさせてしまった己に忸怩たる思いが心にわだかまるが唇が噛みしめ逃げを打つ。

 去りざま、ニニアンの紫紺の双眸と交錯した。

 

「────」

「────」

 

 祐一は手負いだ。だからこそ祐一の持つ激しい獣性はこれ以上なく極まり横溢していた。しかし、それでもニニアンは一切怯むことはなかった。

 傲岸に、凛と、ただひたすらに祐一を睨み据えるだけ。

 その時、初めて祐一は知った。その冷たい瞳の奥に劫火の意志が潜んでいることを。彼女がこれ以上なく激怒していることを。

 そこまでだった。

 ラグナの速度が跳ね上がっていき、幾ばくもなく神速下へ。巨大だった王国が一瞬で遠ざかり小さくなっていく。

 

「祐一くん、怪我は大丈夫なのかい!? その傷は! まさか彼奴等に!? それに別れたあの後一体なにが……! ああ、王国もどうして襲ってきたのか……」

 

 状況が、落ち着いたと思ったのだろう。寿が矢継ぎ早に問うてきた。それを遮るように拳を弱々しく、しかし力一杯に毛皮に叩きつけ呪詛を吐き出さんばかりに口を開く。

 

「エイル達は……!」

 

 首を振り、握りしめた拳が白む。

 

「俺が殺した……っ!」

 

 ハッと。

 ……寿はそれだけで多くのことを悟った。視線を落として、肩を震わせる。

 祐一の激怒し昂ぶっていた心が萎み、心臓を掴まれた冷たい感覚が巣食う。頬に走る乾いた二条の赤い跡に、ふたたび二条の雫が落ちる。透明で、淀んだものを洗い流すような雫が。

 

「ごめん……おっちゃん、ラグナ……。俺の、俺たちの……負けだ……!」

 

 寿は思わず目を伏せた。祐一の背がいつになく小さく見えて仕方なかった。いつも闊達で、笑顔の絶えない、それでも決める時はどっしりと構え、しっかり決める。そんな彼の姿とは程遠くて……。

 戦いに破れた、無様な敗残兵。それが今の祐一達を端的に現した言葉だった。

 そして───

 

 ッキィィィィィィィィィィンッッッ!!! 

 

 ───戦いはまだ終わっては、いない。

 一条の閃光が霹靂のごとく駆け巡った。ラグナが咄嗟に半身をずらす。背の祐一たちも振り落とされないよう強くしがみついた。

 ──劫! 直後、轟音が祐一の鼓膜を叩いた。ハッとして音源地に目を走らせると、先刻まであったはずのなだらかな丘が消え去り更地と姿を変えていた……。

 放たれた方向へ視線を向ける。……やはり、来た。神速で逃げる祐一達を追い、これほどの破壊を為せるものなど、そうそう居ない。

 即ち。

 倭の勇者・ヤマトタケル。かの怨敵が追ってきたのだ! 

 

「私から逃げ切れると思わないことです。文字通り、地獄の果てまで追いかけましょう」

 

 ゴロゴロゴロゴロ───ッ! 

 そう嘯くヤマトタケルはとある物に騎乗していた。翼ある駿馬が牽く、雷光を纏った二輪の戦車に。空を縦横無尽に翔けるその姿は何も遮るものなどないもないとばかりに雄々しく勇ましい。

 祐一達は神速で移動している。だと言うのにそれに追い付かんばかりに猛追するアレも、神速に及ぶ速度なのだろう。祐一はあの戦車をなんとなくだが天空神に纏わるものだと、霊視の痛みががふたたび激しくなった脳内で悟った。

 

「あいつが、天空……神……?」

 

 戦士を使う時に得た、幽世に漂う知識との違いに思わずそんな疑問が口をつく。

 確かにヤマトタケルは雷と関わりの深い神格だ。それは剣神と言う枠組みで見れば珍しくない。

 彼の死後も、その身を鳥の姿へ変え天に昇っていったと言う。正に『鋼』そのものと言ってもいい逸話だ。しかし天空神となれば首をかしげてしまう。それにヤマトタケルと翼を持つ馬を結びつける話などどこにもないのだから。

 劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫劫─────ッッッ!!! 

 思案に暮れる間にも幾条もの閃光が煌めいて、幾つもの穴が穿たれていく。

 もはやヤマトタケルは一切の手加減を捨てていた。猛攻と言い換えてもいいほどの、捕らえる事など端から考えていない殺意を孕んだ攻撃で、それでいて凌げて当たり前だと言わんばかりに苛烈な攻め。

 息つく暇もない! ──左から二つ! 上から三つ! 下から一つ! それを意思をシンクロさせた祐一とラグナが紙一重で避けていく。神速で動き、細かい動きは不可能だが、夜空に疾走る稲妻よりも軽快にジグザグと『Z』を描くように軽やかに避けていく。

 ヤマトタケルと馬上戦を演じれているのも権能の恩恵だ。おそらく騎乗の権能がなければ即座に討たれていただろう。

 だが優位なのはヤマトタケル。いまの祐一には逃げるしかなく、対抗する術はないのだ。ヤマトタケルに掌で踊らされている錯覚に陥りながら、しかし、どうすることも出来ずに逃げの一手を打つだけだった。

 どうすれば、いい!? そう頭を抱えそうになる。

 だが一瞬の油断も隙も許されない。そんなものを見せれば──劫! やはり槍が一切の慈悲なく飛んでくる。閃光が横切り、余波が肌を灼いた。

 ───フェルグス・マク・ロイヒ

 まただ。今度はハッキリわかった。フェルグス・マク・ロイヒ。王国で何度も聞いた『まつろわぬ神』の名だ。ケルトの英雄の名にして王国を襲った災厄。それが何故……? 戦場だと言うのに祐一はそのことが気になって仕方なかった。無意識に思考を割き、霊視をもっと深く得ようとして……。

 

『あれもまた、あやつの権能なのだ』

 

 唐突に声が鼓膜を揺らした。雷撃の轟音が鳴り止まないこの場でもその声はしっかりと祐一の耳に届いた。この芯から響く野太い声は間違いなく叢雲。いままで沈黙していた友の声だった。

 

「叢……雲。おまえ、大丈夫……なのかよ」

『すまぬな、少し眠っておった。まさか忘れ去られた古の盟約を行使するとは思わなんだ。あれから身を守るのは……なかなか骨が折れたからな。だが、……おぬしほどではない』

「ごめん……」

 

 だが叢雲の声に覇気は少なく、疲れ切っているようですらあった。思わず祐一は謝罪の言葉が口をついて出た。……叢雲はあの神刀の大切断を防いでくれたのだから当然だろ。生きているのが何よりの証拠だ。どうしようもなく情けなさが心に巣食う。

 首を振って、前を向く。悲観するのはあとにしろ、今はこの死地を乗り越えることだけを考えろ。

 突然響いた声にキョロキョロと辺りを見渡す寿に、大丈夫、と頷きかける。結局、寿は頷いて何も聞かなかった。

 

『構わん。祐一よ、あの権能はな、先刻あやつが振るった偸盗の権能、そのなれの果てなのだ』

「なれの果て…………?」

『応。今あやつが行使する雷の権能はあやつ自身のものではない。流れゆく時の中であやつが持っていた偸盗の権能は変様を重ね、今では敵を斃しその力を奪う、といったものへと変容していった。おぬしと近しい性質へ……神を斃すことでその神格から権能を簒奪する、といった具合にな」

「それが、あの権能の、正体……」

「そうだ。故にヤマトタケルが永き旅路の果てに獲得してきた証そのもの。しかし諸刃の剣だ。己と友誼を交えた神格と己の神格を溶け合わせるように同化させ初めて動く権能。故にあやつは自我は見失いあの様に狂った」

「そんなの、ありかよ……! ぐッ、また!」

 

 ────■■■ン

 ────■■・■■■■

 ────■■■

 いくつもの神格の名が脳裏に過ぎっては消えていく。同時に、霊視の頭痛が何度も何度も駆け巡る。

 自前の権能だけでもあれほど強力なのに、まだあいつは強力な手札を持っているという。古今東西これほど強力な神がいるのか疑問すら湧く。

 どんなに肉薄したと思っても突き放され、いくつもの隠し玉を放ち、比類なき武勇を誇る神。ヤマトタケルという神格に、呑み込まれそうな怖れがわだかまる。

 

「どうにか、出来ないのかッ!?」

『今はどうする事もできん。逃げを打つしかない』

「なら『智慧の剣』を使えばいい! あいつが権能を使ってるって言うならヤマトタケルの大本ごと斬り裂いてやればそれで……」

『無駄だ。もはやヤマトタケルと同化した神格は、溶解し鍛造された鋼の如く混ざり合っている。ヤマトタケルの一部と言っていいほどにな。すべてを斬り裂こうとすれば『智慧の剣』は何本、何十本と必要になる……よしんばそれで斬り裂こうと権能も数日程度で復活してしまう』

 

 いくつもの神格の名を割り出し、知識を蓄え、剣で斬り裂く。とてもではないが非現実的だ。例え不可能を可能にする神殺しと言えど、その難行は厳しいものがあった。

 ッゴロゴロゴロゴロ───ッッッ! 戦車の轟音が時を重ねるごとに近づいている。打開策を検討する間にもヤマトタケルの苛烈な攻めは止まらない。

 祐一の持つ異常な再生力が負った傷を時間とともに治癒していくが、燃焼し注ぎ込んでいる呪力は底を尽きかけたまま。

 それに今気付いたが、異常な熱を掌に感じた。祐一からではない……それはラグナの獣皮からだった。少し考えればわかること……神速下でもう長い時間を動いているのだ。

 車で例えるならエンジンを全開にしてフルスピードで動いているようなものだ。自身の振るう『鳳』ですら制限があるのだ、如何に神獣のラグナと言えど限界が近いのだろう。ヤマトタケルを止める手段も頭をどれほどこねくり回そうと出てこない。

 そして一番の問題は逃げ道がないことだった。いまは我武者羅に逃げているが、例え振り切ったとしても現世へ脱出する術がない。王国に辿り着いた時、三ヵ月の月日が必要だと宣告されていた。それから二ヶ月経ち、それでも一月は現世には脱出できず……いや、そもそも脱出する手段すら祐一たちは知らされていなかった。

 じゃあ俺たちはずっとこのまま身を隠すしかないのか!? このままでもジリ貧だっていうのに! 拳を握り、顔を俯かせる。万事休す、どうしようもない袋小路に閉じ込められていた。

 

「───逃げよう祐一くん!」

 

 その時だった……力強い言葉が祐一の耳朶を打ったのは。振り返れば今まで黙り込んでいた寿が、決意を秘めた瞳で祐一を見据えていた。

 

「は……? ……逃げるったって、どこにだよ!? 逃げ道すら、生き残れるかすら……俺たちはそれすらも曖昧なんだぞ!?」

 

 少しずつ治癒してきた身体に鞭打って、悔しげに寿に言い募る。口角泡を飛ばし、逃げ道なんてものはないじゃないか、とそう叫ぶ。……だが寿の瞳は揺らぐことはなかった。

 

「───海だよ!」

 

 寿から飛び出した言葉に、祐一が鼻白む。いつもは驚かせてばかりの祐一が、この時ばかりは寿に気圧されていた。

 

「…………え?」

「僕たちが初めて現れた場所を覚えているかい!? あそこは確かに海だった! あそこに僕たちが出てきたことにはきっと……いや、間違いなく理由がある!」

 

 思い起こすのは、透き通る浅瀬、白い砂浜……そして紺碧の海。確かにそんな場所だったはずだ。

 でもなぜ……? 疑問に頭を埋め尽くされた祐一に、豪快に腕を振るって寿は言葉を重ねる。

 

「ケルト神話では、海には異界が広がりそして浅瀬は異界の入口とされたんだ! 僕たちが現れた場所がまさにそれだっただろう!? ───それに今はサウィン! 異界との扉は繋がりやすくなってるはずだ……!」

「でも現世には三ヶ月必要だってあいつが……! あれからまだまだ二ヶ月しか経ってないぞ!?」

「あれはヤマトタケルが君を王国に留めるためについた嘘だったんだと思う……。テスラさんから……それどころか王国の誰からもそんな事は言っていなかった、それどころか初耳だって人もいた」

 

 そう言い切って、寿は静かに顔を俯かせる。

 

「僕だって王国に来て遊んでばかりいた訳じゃない……帰り方の目星は付いてたんだ……。けど踏ん切りがつかなくてね……」

 

 そして寿は、でも……と顔を上げ祐一と視線を合わせた。

 

「行こう、祐一くん。僕はこの選択に命を賭けるよ」

 

 歯を食いしばり常になく厳しい表情を浮かべた寿の目には、一切の迷いはなかった。覚悟を決めた男の目だった。

 安くはない……決して安くはない言葉。……しかし祐一は逡巡した。いいのか、と。もし違ったら、と。ここが分水嶺だ。額にぬるりと雫が落ち、瞑目したまぶたを伝う。

 ───友を疑うのか? 

 その時。まるで旅立つ前の自分に、神殺しになる前の自分に、あの時のパルヴェーズと引き離されたあの時の自分に……問い掛けられた気がした。

 眼を見開いて、かぶりを振る。

 ふざけるな、友を疑う? そんな訳ないだろう。友がこの局面で、決死の覚悟で、命を賭けると、そう言うのだ。──―なら応えるのが、俺だろう! 

 

「ラグナ! あの場所、判るか?」

 ───ッオォン! 

 

 任せろ! と頼もしい返事が返ってくる。

 

「よし。なら、戻るぞ……現世に!」

「うん!」

『応!』

 ───ルオ! 

 

 掻き集めた呪力をラグナに注ぎ、ギアを上げる。呪力がうなりを上げラグナが猛り狂う。持ちうるベットをすべて賭けた後先考えない、まさに乾坤一擲。───それは英雄神ヤマトタケルにもすぐに伝わった。

 

『ほう、迷いがなくなりましたね……。道を見出しましたか』

 

 双眸を眇め、喜悦が湧く。さぁ、苦境に立たされたあの神殺しはどう道を切り拓くのか。ああ、早く……見せてくれ、観せてくれ、魅せてくれ! 歓喜が疼き、逸る心が早鐘を打つ。

 ヤマトタケルのその瞳は虚ろでどうしようもなく濁っていた。

 

 背筋に氷柱を入れられた悍ましい感覚がぞわぞわと這い回る。誰に見られているのはよく判っていた……ヤマトタケルの見据える視界で、その視線を振り切るように祐一は動いた。背に受ける気色の悪い視線を無視して、加速する瞬間、ラグナに一つの指令を下す。

 

「吼えろ! ラグナッッッ!!!」

 

 ─────ル、ォォォオオオオオオオオオオオオッッッ!!! 

 

 振り上げた前肢を地面に叩きつけ、同時にこれまでで最大規模の咆哮を放つ。二つの途方も無いエネルギーが大地に衝撃となって伝わり、文字通り、地を割り天を咲いた。まるで世界が裏返った光景さながらに破壊の化身たる所以を余すところなく発揮し、地平線の彼方までその猛威は止まらず破壊は広がった。

 ダァァァァンッ! と最初に轟音がヤマトタケルを襲い、一瞬遅れて衝撃波の砲弾が迫った。さしものヤマトタケルの駆る天馬もたたらを踏み、足が止まる。だが、天馬もヤマトタケルもその肉体には───傷一つついていない。

 その程度目眩ましにも……いえ、これは……。嘲笑しようとした瞬間、ヤマトタケルははたと気づいた。岩石と粉塵が一体を覆い、一時ヤマトタケルの視界を奪ったのだ。眼を眇め幾ばくかの神力を解放し、巻き上がった土煙を一息に払う。

 やはり、ですか。祐一達の姿はもう、どこにもなかった。

 フフ、狩りですか……。はて、これほど愉しい狩りは何時ぶりでしょう? 獲物を逃がしたというのに肩を震わせヤマトタケルは急ぐでもなく、泰然と、悠々と戦車の手綱を引いた。

 

 ○◎●

 

「はぁっ……はぁっ…………はぁっ」

 

 なんとか振り切ったようだ。ぐったりとラグナの背に寄りかかり、躍動する背から落ちないように寿に支えてもらいながら確信していた。無尽蔵に湧き、全身に横溢していた呪力はもう残り少ない。

 あの目眩ましは神速で走れる力を残し、正真正銘、最後の呪力を使っての大技だった。だけどあれ目眩まし。豪快で派手ではあったが結局目眩ましにしかならない。

 祐一に備わっていた戦闘感が、確信となって囁く。あれくらいの目眩ましヤマトタケルは一瞬で、振り払い追ってくるだろう……。そんなことは二度も矛を交えその武威を脳裏に焼き付けた祐一にとって察することは容易だった。

 だが、一瞬。その瞬きの時間が、生死別つ境界だったのだ。背に感じていた舐めるような視線が無くなっていること、それが何よりの証拠だ。

 しかし代償も大きい。

 潤沢にあった呪力は今のでほとんどなくなった。ヤマトタケルに追い付かれればもう反撃も許されず、祐一と頸は撥ねられるだろう。間違いない……祐一の戦闘感も囁いていた。

 

「……はぁ…………っは……!」

 

 だからこそ意識を途切れさせる訳にはいかない。

 ここで気を失えばすべてが立ち消えてしまう。なんとか掬い上げれた小さな希望も、波に呑まれる泡沫のごとく霧散するだろうから。

 誰もが無言だった。

 祐一の息遣いとラグナの足音だけが響く。玉のような汗が血と混じって滴りおちていく。誰も彼も疲れ切っていた。それに……口を開いても苦境は覆らない……そんなことはみんな判っていたから。なら何故、楽観的な言葉など口に出せようか? 

 打てるだけの手は打った。そうだ。俺たちはやれるだけのことはやったのだ。なら、あとは天運に任せるのみ。ラグナを疾駆させながら、祐一は瞑目し、萎えかけた心を励ます。

 雷光にも及ぶ神速は草原の荒野もまたたく間に越え、遂に、始まりの場所に着いた。

 紺碧に耀く海と、どこまでも白い砂浜。見紛うはずもない。しかし、初めて訪れた時とは何か様子が変だった。

 ───紺碧の海の水面にはぐるぐると海流がうずまいて渦潮が出来ていた。どんどんと近付いて行くと何やらおかしいことに気付く。

 渦潮ができているのは水面だけだった。海面は漣を揺らめかせるだけで、あれが自然現象とは切り離された現象なのだと、嫌でも理解させられた。

 そうだ。あれは渦潮、などではない。不気味で、奇怪、未知の異界へ続く『通廊』なのだ。───だからこそ、迷いはなくなった。

 

「────突っ込め!」

 

 ────ルォォォオオオオン! 

 

 祐一の叫びに応え、ラグナが『通廊』へ身を踊らせる。

 ザパァン、と水飛沫をあげラグナの巨体が渦潮に呑み込まれ、───祐一たちはついにニニアンの領域から姿を消した。



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たった一つの逃走経路

 『通廊』の中は深い闇だけがあった。ただ暗闇だけが広がる空間。これが夜でもないことは辺りを見渡せば、星空がないので容易に察せられる。

 この世界に光源は一つだけ。奥深くにか細い一筋の光があるだけだった。

 重力が消失し浮き上がった身体が、そこへ向けて近付いていく。光は力強く、確かなものへ。……そうして時は訪れた。

 

 ────抜けた! 

 

 世界が逆しまにひっくり返る。常夜の世界が切払われ、光明の世界が顔を出す。

 はじめに見えたのは闇を払拭する夕陽だった。この赤焼けの空を見るのはいつぶりだろうか。そんな感慨が胸を焦がし、目を細める。

 

 ああ……帰って来たんだな、と。ここが現世であることを、言葉もなく教えてくれる夕焼けに、包み込むように照らしだす本物の太陽に、思わず涙が滲みそうになった。

 

「……帰って、来たな」

「うん」

 

 短く、言葉を交わす。胸に宿る想いは、同じだとわかっていたから。それ以上の言葉はいらなかった。

 王国の理は現世の理と変わらない、と教えてくれたエイルの言葉を思い出す。

 そうか。祐一はその時やっと気付いた。朝、戦い始めてもう日が傾くほどにぶっ通しで戦い続けていたようだ。

 それに『通廊』から繋がる場所も、水と関わる場所だったらしい。下を見れば水面が揺れている。

 ラグナは飛び出した勢いのままに空を翔ける。見渡す景色は、すべてが燦めいて見えた。背の高い山々は見当たらず、遮るもののない広い空と雄大な緑の大地が視界いっぱいに広がる。まるでラグナと初めて出会った時を想起するほど美しい光景。

 

 湿地のような浅瀬の先に佇むのは、石造りの古城跡。夕焼けに灼かれた風情のある城だった。その頂点には二つの旗。一つ目は赤青白にいくつかの十字が重なりあった旗、二つ目は青に白いⅩ文字が刻まれた旗、その二本が翩翻と翻っている。

 

「城、か……あれ……?」

「……みたいだね。それにたぶんあの旗があるってことはもしかして……。ちょっと待ってて。少し調べるよ」

 

 寿はそう言うとおもむろに懐から携帯を取り出してイジり始めた。以前言っていた、外部バッテリーに充電器に繋いで携帯を起動させる。幽世にいるときは意味がないので使ってもいなかったがここは現世、ついに日の目を見た。

 自然放電で携帯の方は充電が切れていたが、外部バッテリーはギリギリ残ってたようだ。よく三ヶ月も保ったものだと、震える手で動かす寿を見ながら思う。

 その間もラグナは足を動かし進んでいく。もう神速ではないがそれなりの速度だ。音速程度ならばあるのではないだろうか。だが安心は全くできない。

 

 逃げ切れるのだろうか? 逃げ切れたのだろうか? 追ってくるのだろうか? ……それこそ世界まで越えて。

 

 愚問だろう。

 祐一も判っていた、ただ現実を直視したくないだけなのだと。思い起こすのは背に受け続けていたヤマトタケルの、粘ついた視線。

 気味が悪かった……ひどく、恐ろしい。同時に、何故俺なんだという思いすら生まれる。俺より剣の上手い英雄なんて居るはずだ。武勇だけで見れば、悔しいが『鋼』の神格には一歩も二歩も劣るだろう。畜生、なんで……

 

『現世、か』

 

 声に思考が裂かれた。腕に宿った叢雲に視線を落とす。

 

「叢、雲……?」

『柄にもなく感傷的になっていた。此処に来るのは、大分久しいからな』

「……そう、だったな……。叢雲たちが現世から……追い出されて、何万年も経ってるんだっけ。……永いよな」

『ククク……ああそうだな、永かった。彷徨い歩いて、巡り巡って、どこまでも流されすぎて、ついには半身さえ裏切り、またここに戻って来るほどには』

 

 ビュウ、ビュウ、と言う風切り音とともに聞こえてくる叢雲の懐かしむような声に耳を傾けながら、祐一もまた三ヶ月ぶりの現世に思いを馳せる。

 

『あやつと世界を巡り、あやつと世界を渡り、あやつと幾星霜を生き……果てには裏切り此処に居る。……(オレ)もまた、奴と同じく狂っているのかも知れん』

「バーカ、何、言ってんだよ。叢雲は俺を……助けてくれたろ。狂ってなんて、ねぇって……」

『いや、それこそ………………。フフ、そうだな……』

「……なんだよ。なんか、含みのある言い方、だなぁ?」

『ククク、すまんすまん』

 

 どこか柔らかくなった声音で叢雲はクツクツと笑っていた。祐一も表情をゆるめ、まなじりを下げる。

 つかの間の安らぎなのは判っていたけれど、両者は一時の間だけ、戦いを忘れ語り合っていた。

 最源流の鋼である叢雲と神殺しである祐一と言う、闘争に魅入られた者たちが、戦いを忘れて笑っていた。世界の理から見れば、それは本当におかしなことに間違いはないのだろう。だがこの穏やかな時だけは誰にも侵しがたいものに思えた。

 だが、それもすぐに終わる。

 

「──ここはイギリスだ! イギリスのスコットランド、その西にある島……『スカイ島』! それが僕たちのいる場所だ!」

 

 その時だった。寿が声を張り上げたのは。すぐさま叢雲との会話を打ち切って、呻く

 イギリスだって!? 現在地の場所を聞いた瞬間、思わずそう呻いてしまった。

 都合よく日本に出れる訳がないとは、思っていた。だが自分たちが消えたドバイだろう、とも少し楽観していたのだ。

 しかし、現実は甘くはなかった。

 ギリッと拳を握り、渋面を作る。今の状況は完全に退路を断たれた憐れな兵士と代わりなかった。

 ヤマトタケルとこのまま戦えば、背水の陣ですらない……もはや勝ち目のない戦いで一矢報いることも出来ず躯を晒すだけになるのは必定。

 どうするんだ祐一! 俺は、俺たちは────どこに逃げればいい!? 

 

『────落ち着け』

 

 胸に響く声が鼓膜を揺るがした。スッと、揺らぎ惑っていた心が、焦点を合わせる様に定まっていく。

 

『ひとつ考えがある。……この世界には『地脈』と呼ばれる大きな呪力の流れがあるのだ。それはこの星に血管のごとく行き渡り、海流のように巡っているの。──これを使う』

「地脈……?」

『言葉にするよりこちらが早いか───()()

 

 叢雲の言葉を理解するより早く、それは現れた。彼に促され視た世界は、様相を一変させていた。

 先ほどまでは赤焼けに包まれていた大地が、今では暗闇に染まってどこまでも広がり、その暗闇を煌く光点が川のように流れている。その川は空からうかがう祐一からでさ見通すことができないほど巨大で雄大な流れ。光り輝く光点と相まって、まるで夜空に浮かぶ天の川が地上に現れたかのようだった。

 

「なんだ、これ……?」

『これが地脈だ。おぬしの呪力が全身に満ち駆け巡っているように、この星もまた随所に呪力があふれ遍満しているのだ。それこそなにかの拍子に『神』が生まれるほどには、な』

「これが……」

 

 世界に遍在する呪力の流れ、叢雲が眼を貸してくれたお蔭で今こうして視ることが出来ているらしい。

 数多に輝く呪力の流れの中でも、いっとう大きく雄大な流れがあった。いっそ、いままで気づかなかったことが不思議なほど凄まじい呪力の量。まるで運河だ。

 おそらく呪力を弾く能力をもつ神殺しであってもあの流れに乗れば間違いなく移動できるだろうと思わせるほど大きな。そして叢雲は、これを使えと言っているのだ。

 

『神々や神祖の間にも地脈に従って移動する術は、いくつもある……。祐一よ、(オレ)がその地脈までの『路』をこじ開ける! その後どこへ繋がるのか(オレ)にも判らん! が、しかし今この窮状であやつから逃れるにはこの一手を置いて他にない!』

 

 叢雲の策はどこか遠い国の言葉を話しているかのように現実味がまるでなかった。呪術や世界の理の知識がおぼろげにしかない祐一にとってひどく曖昧で荒唐無稽な言葉にしか聞こえなかったのだ。

 鉛のように重い生唾をなんとか嚥下する。こんな選択肢しか選べない未熟な自分に忸怩たるものを感じて仕方がない。ラグナ、寿、叢雲。途方もない重みを感じて仕方がなかった。まるで権能を得たときのような、目に見えないナニカが祐一に重みを感じさせている。

 ───だがその通りなのだ。

 今、祐一の双肩には彼らの命が掛かっていた。

 決断せねばならなかった。一呼吸も満たない逡巡のあと、祐一は答えを出した。

 首肯く。

 

「分かった。……結局、俺たちが逃げなきゃいけないのは間違いねぇんだ。なら───避けろラグナァァッ!!!」

 ───ッルォォオオオオン!!! 

 

 祐一とラグナが叫んだ瞬間、それは来た。

 

 ッギッィィィィィィィィィィンッッッ!!! 

 

 膨大なエネルギーを宿した、一筋の霹靂が駆け巡った! 阿吽の呼吸で示し合わせ、一息に神速下に達したラグナがギリギリのところで避けた。首筋を熱波がチリチリと灼く。

 いぃぃぃぃん……。狙いを逸れた雷槍がドップラー効果を残して過ぎ去っていき、次の瞬間、先刻まで居た場所で爆発! 祐一の視界を白く染め上げ、爆風にラグナが堪えきれずガクガクと揺れる。あのラグナが揺れている……あの強靭で比類なき力強さをもつラグナが! 

 爆風だけではない威力も尋常ではなかった。あそこにバンダレ・アッバースや王国があれば、間違いなく消し飛んでいただろうことは容易に察せれる程の威力。

 あの雷槍は何度も見たことがあった。違う点はただ一つ、シンプルに一つだけ、これまで放たれた中でも桁違いに威力が跳ね上がっていることだ。

 後ろを振り向く。

 古城の最上部に立つ黒い影が、こちらを見据えていた。

 ───英雄神ヤマトタケル。あれは仁王立ちしたヤマトタケルに相違なかった。

 

 追ってきた……! 世界すら越えて! 

 

 何という執念。もはや何度目になるか判らないヤマトタケルの執拗な追撃に、恐れすら抱く。

 それにこの背筋が凍る感覚……あまりに距離が離れ、その視線の向かう先は見通せないが、それでも全身を舐めるような感覚は忘れようもなかった。

 視られている───。

 まるで怖ろしい瞳術に魅入られたかのようだった。ともすれば自然界で王者として君臨する猛禽に狙われる矮小な鼠にも思える……そんな錯覚に陥るほどの眼光。

 

『満腔より溢れる我が猛りよ。紫電の紐となりて路を紡げ。幸多き野原も百花繚乱の谷も悉く討ち滅ぼせ』

 

 言霊を紡いだヤマトタケルを中心に、中空のいたる所に紫電が疾走った。まるで中空をキャンパスに黄、赤、紫、黒、色とりどりの絵の具を叩きつけたよう。

 しかしそんな生易しいものではないことは身体に刻み込まれていた。

 来るぞ、雷撃の嵐が! 

 ラグナと意思を重ねて一気に駆け出し、次の瞬間───何十、何百、何千と雷槍が祐一たちへ殺到した。荒れ狂う雷霆に飛び込んだと錯覚ほど凄まじい数。

 それほど時を待たずして、周囲の温度が跳ね上がっていき、寸での所で避けるラグナの美々しい毛皮が黒煙を吐く。ただの人間である寿にはもっと辛く、皮膚が赤く爛れ始め、それでも彼は苦悶の声を出すことなく必死に耐えている。

 すべての意識を集中させ権能を動かす。意識を共有したラグナとともに全力で疾走する。

 右の斜め後方から、天頂から、真後ろから、三方向から一気に、そして変則的な動きを混じえ雷槍が突き進んでくる。

 僅々のものはそれだけと言うだけで、その後ろにも夥しい数の雷槍が祐一たち目掛けて迫っていた。

 前を向き全力疾走するラグナの目の代わりになって、最小限の動きで躱すイメージをラグナとトレースし悉くを躱していく。

 狙いを見失った雷槍が、あらぬ方向へ向かいやにわに爆発。眼下に存在していた標高百メートルはあったはずの山が一瞬にして豪快に吹き飛んだ。

 それがバケツをひっくり返した土砂降りのごとく降り注いでいる。紙一重で避けてはいるが、それも限界がある。いかに神殺しとして強靭な肉体を持ち、無尽蔵の体力をも兼ね備えた祐一であっても人間だった。限界は間違いなくある。

 現に、だんだんと視界がかすみ、意識が朦朧としていることが良い証拠だろう。

 まだか! まだ着かねぇのかよ!? 胸中をどうしようもない焦りが撫ぜていく。

 あらゆる場面で窮地に陥った。それはヤマトタケルの強さや狡猾さで、祐一の至らなさも多分にあった。

 

 だけど祐一たちはここまで辿り着いた。誰もが未熟な身でありながら、あらゆる神話群でも強大な強さを兼ね備えた『最源流の鋼』英雄神ヤマトタケルを相手取って。

 凄まじい戦果だった。類稀な武勲だった。赫々たる戦功だった。だからこそ、祐一は思う。そう、どこまでも強欲に! 

 

 死にたくない。いや、まだ死ねない! 帰りたい! みんなとまた笑い合いたい! だから、何がなんでも生き残ってやる!!! 

 

 想いが活力と変わり、生命を燃やす。呪力が尽き果てた祐一に残された最後の選択肢だ。

 自分たちが生き残れるかはここが正念場だ。ぶっ倒れそうな己に喝を入れ、目を凝らす。最後っ屁だのなんだの言われようが、生き残ってやる! 祐一の眼光にはこれまでで一番輝きを放っていた。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおッッッ!!!」

 

 あと少し! あと少し! 

 暗澹たる暗闇の中でもがき続け、光明を見つけた心持ちだった。地脈まであと少し、距離にすればあと十キロほどか。神速ならば刹那の瞬きでたどり着ける距離! 

 

 走れ! 奔れ! 疾走れ! 速く! 疾く! 夙く! 

 

 必死に己を鼓舞し、寿と肩を抱き、叢雲を胸に抱き、『ラグナ』に振り落とされないよう縋りつく。

 

 

 もう、眼の前だ───。

 

 

「───あなた方は甘いのですよ……。《因果》と《運命》を敵に回すという意味を理解していない……それがどれほどの事なのかあなた方は寸毫も理解していない…………故に私が、教授してあげましょう」

 

 

 我、討つのは魔王。我、切り裂くは羅刹。倭の勇者・倭健命これより修羅へ入り破邪顕正の御劔とならん……。

 

 

 謡とともに希望と言うものをごっそりと奪い尽くす悍ましい感覚が全神経を焼く。しかもこれが初めてではない、ついさっきも感じた二度目の感覚にぶるりと慄く。

 莫大な神力の爆発。一気に神力が溢れ出し……、幽世で動き出した《盟約の大法》が神殺し四、五人分だったとすれば今はそれすら越えて十人分へと達し、そして……。

 

『馬鹿な! 辞めよヤマトタケル! それをこの世界で放てばどうなるか判らぬ貴様ではないはずだッ!!!』

 

 祐一は少なからず驚いた。叢雲の常では絶対に有り得ない、狼狽えた声に息を呑む。

 流石の祐一でもヤマトタケルが何をしようとしているのか悟った。奴はまた破壊を齎そうと言うのだ。

 ニニアンの禁足地で行使した、あの《盟約の大法》と己を『剣』とすることによって初めて使用可能となる───世界を斬り裂く大切断を! 

 

 もう、遅い────。

 

 そんな声が、鼓膜を揺らす。

 

 祐一の冷静な部分が結論を出していた。ヤマトタケルの揮う剣の切っ先は、唯一の逃げ道である地脈へ向かっている、と。そしてこのまま地脈へ飛び込めば、そのまま祐一たちごと跡形もなく消し飛ぶだろう、と。

 ───ッ! 

 逡巡さえなかった。それまでの努力も奇跡もすべてかなぐり捨てて、祐一はとんぼ返りを打った。生き残るための最善を尽くすために。神殺しになる以前から備わっている鋭い直感が祐一を生かそうとけたたましく警鐘を鳴らしたのだ。そして祐一もそれに逆らうことなく従った。

 

 ───それが間違いだと気付いたのは、それほど時を待たずしてのことだった。

 

 祐一は思い違いをしていた。

 

 自分の双肩に乗っているものは仲間だけじゃなかった。それこそこの世界……全人類の命運そのものが乗っかっていたのだ。

 

 立ち向かわなければならなかった。

 死力を尽くさなければならなかった。

 知恵を振り絞らなければならなかった。

 

 喩え、仲間がみんなみんな死んでしまおうと、戦わねばならなかった。どれほどの絶望に苛まれようと、どれほど敵が恐ろしかろうと、逃げ回ってはいけなかったのだ。……戦わなければならなかった。

 

 そこに気づけなかった代償は途方もなく大きなツケとなって返ってきた。

 どれほど後悔しようと、どれだけ嘆いても、もう遅い。 ……結局、いまの祐一にそれを止める手立てはなかったのだから。

 

 

 因果の王よ。因果の道化共よ。最も古き盟約をいざ果たそう。

 因果破断を宿した凶児を討ち果たす刃を今ここに───!!! 

 

 

 その日───

 

 

 ───()()()()()()()()()()()

 



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魔王であるが故に

 ───世界に激震が疾走った。

 

 比喩ではない。途方も無い衝撃が地球と言う星そのものに襲い掛かったのだ。

 

 それはまさに神話の再来だったのだろう。ヤマトタケルが放った星をも堕とす聖なる剣の一振りは、文字通り、地球という星を斬り裂いた。

 

 スコットランドのスカイ島に鎮座する古城ダンヴェガン城を起点に、スコットランドを無情にも斬り裂いたあと、北海へ伝わり海を裂き、北欧の国々へ襲い掛かると、最後にロシアを呑み込んだ。

 

 

 誰もが抗うことなんて出来ようはずもなかった。

 時間にすればどれほどだったのだろう? おそらく一分と経たずして、夥しい数の生命を掠奪しロシアの中心部にあるノヴォシビルスクに至り、そこでやっと止まった。

 

 まるで壁が現れたようだった、とそれを見て幸運にも生き残った人々は口を揃えて言う。

 

 その壁は大気圏を抜け、地球の周回軌道を回り続ける人工衛星からでも見通せるほど巨大なものだったのだから、見る事のできた人間は多くいたのだろう……そして生き残った人間は限りなく少なかった。

 

 ()()は壁などではなかった。

 

 壁に見まがうほど巨大な呪力の波であり、何人も抗えぬ強烈な衝撃波であり、神を殺し運命に抗う大罪人を裁く断罪の光であった。 

 あとに残ったのは壮絶な破壊の残滓だけ。そして、その残滓は巨大な溝だった。

 

 直線距離にするだけで五千キロは下らない超長大な距離と、ナイル川やアマゾン川に匹敵するほどの幅を持つ、突如として創られた溝だ。

 

 幽世で創られた物と同じように、その底はあまりの深さに見透すことは出来ず、その周辺ではありとあらゆる生き物が原型を留められないほど無惨に躯を晒していた───。

 

 

 ○◎●

 

 

「………………な……にが……?」

 

 最初、地面に転がっていた祐一には何が何だか分からなかった。意識を失っていたらしく、だけど何で意識を失っていたのかどれくらい意識を失っていたのか、ぼんやりとしていてよく判らなかった。

 

 地面に触れている手が砂利の硬い感覚を伝えて、焦げたような臭いが鼻腔を通って脳内に広がっていく。

 どうも体中そこかしこがオカシクなっているようで、手足はピクリとも動いてくれない。周囲を見渡せば、ラグナと寿が寄り添うように寝ていた。まるでラグナが寿を庇うようにも見えた。

 

 どうしてこうなったんだっけ? そう思って頭を振って記憶を手繰ってみても、何も掴めない。

 

 小首をかしげてもう一度、箱をひっくり返すように記憶を探る。けれど一向に、記憶野に収められている物は出てきてはくれなかった。

 ……ああ。でも、こんな感覚が、初めてじゃないのは、なんとなく判っていた。

 

 

 ───■■■!!!

 

 

 ■■……■■■…………。

 

 

 ■、■■───。

 

 

 なにかが聴こえた気がした。

 いくつもの声が聴こえた気がした。

 そして祐一はこの感覚に覚えがあった。

 誰かが近くで出す肉声じゃないのはなんとなくわかっていて、それは空気を震わせず、自分の脳内だけに届く……そんな不思議な声だった。

 

 あ、これ『山羊』の化身から伝わる声だ。

 

 唐突に理解が広がっていく。そうして理解が追いついた途端、波がざぁぁとなだれ込むように一つ、またひとつ、記憶がフラッシュバックしては蘇っていく。

 

 あの白金の刃による一撃は止められなかった事。

 ヤマトタケルが放った刃をギリギリの所で避けきれた事。

 避けれたは良いがラグナが力尽て身体が小さくなり、祐一たちは投げ出された事。

 そして、そのときに見た。果てしなくどこまでも続く破壊の残滓を。

 

 

 その時、祐一は悟った。この大地は───ヨーロッパは両断されたのだと。

 

 なぜ気づかなかったのだろう。あの『山羊』から伝わる声、それこそ名も知らない人々の、悲鳴で、慟哭で、呻吟で、────断末魔の叫びに他ならなかったのだ。

 

 ドクン! ドクン! 

 心臓の音がやけに大きく聞こえた。まるで鼓膜が心臓にすり替わったかのようで。

 嚥下するツバがマグマのように熱く重く、飲み込めない。吐き出す息がどんどん粗く、そして脂汗が止めどなく溢れる。

 犬の声。鳥の声。虫の声。魚に蛇に蛙に猫に、そして……人の声。ありとあらゆる生物の断末魔の声が、祐一の脳内を揺さぶって犯して惑わして、消えていく。暗澹たるという言葉は今の祐一を表した言葉なのだろう。エイル達をその手で殺めしてまったときのように逃避しても否定しても、どれほど現実から目を背けようと意味はなかった。

 

「………………ぁぁ…………あぁっ………………ぁっ…………!!!」

 

 突きつけられた現実に感情が追いつく。己が何をしたのか、己が何を出来なかったのか、剥き出しの現実がありのままの姿で祐一の心に突き刺さった。

 その杭は、皮を貫いて肉を裂き心臓を食い破って、祐一のヤワラカイ場所まで行きついて粉々に蹂躙した。

 瞬間、彼の正気はちぎれ飛んだ。

 

「うっわぁぁあああああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!」

 

 視界が赤に染まる。見聞きするすべてが真っ赤に染まっていた。

 感情の波が波濤のごとく荒れ狂って、その時、祐一は初めて本当の意味で理解した。

 

 神々を弑した罪の重さと因果律に反逆すると言う事の意味を。チンギス・ハーンと戦った時、ドバイが焼かれ神々を討滅する決意を樹てた。だがそんなものでは足りなかったのだ……。今起きている惨状が何よりの証拠だった。

 

 ぷつり、と糸が切れた。それは理性と感情の糸だったのだろう……その瞬間、怒りも悲しみもどこかへ消え去っていた。頭を掻き抱いて、身を丸める。見開かれた眼窩からは止めどなく涙が零れ、

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 

 口をつくのは誰かへの謝罪の言葉。誰でもない顔も合わせた事もない誰かへの言葉だった。

 

 祐一は"神殺し"だ。

 強靱な肉体や神々から簒奪した権能に加え、精神の強さもそこらの一般人とは比較にならないほど強い。しかし神々に立ち向かえるのは己だけと言う状況で、それでも惨劇を止められなかった己への自責の念で押し潰されそうだった。

 彼はまだ若かった。どれほど苦難を乗り越えようとまだまだ心を守る殻は弱く、剥き出しの場所ばかりだった。

 

 茫洋とした瞳にもはや光はなかった。痛烈な現実が、祐一の強靭な意志を完璧にたたき折ってしまっていた。

 

 ああ……嘆きが聴こえる……。

 ドバイの時と同じだった。名も知らぬ人々の悲鳴が『山羊』を通して聞こえ、祐一はそれに応えた。

 だがいまは違う。応えることすら出来ない。

 

 俺が弱いばっかりに人が死んでいく死んでいく……今だけじゃない、エオ! ムイン! テスラ! エイル! みんな……みんなみんな俺が殺した……! 

 

 帳が降りる。

 心が深い闇に覆われたかのような気すらして、雁字搦めに縄を打たれそれでもどうにか抜け出そうとすら思えなくて、茫洋な瞳で虚空を見つめるばかりだった。

 そして帳が落ちたのは祐一の心だけではない。祐一の嘆きに呼応するように、地平線の彼方へ太陽がゆっくりと沈んでいく……。

 恐ろしい神の神威を怖れるように、太陽が世界の裏側へ身を隠した。

 

 ───そう。日が()()()()()……世界が逆しまにひっくり返る。紅玉の輝く昼から、月光の瞬く夜へ。

 それだけではない。

 理もまた裏返っていく。光の半年から闇の半年へ───()()()()()()()! 

 

 

『───戦士よ、戦え!』

 

 

「え……?」バッと顔を上げる。今のは幻聴だったのだろうか? いや、そんなはずはない。

 ただの声じゃない、『山羊』から聞こえる声でもない。何度も聞いて耳に染み込んだ聞き覚えのある……でも、もう二度聞くことの叶わないと思っていた声。周囲を見渡すが、依然として見えるのはラグナと寿だけだった。

 だが……

 

『へへ! なにボサッとしてんだよ、祐一! こんなとこで立ち止まってんじゃねーよ!』

 

 今度ははっきり聴こえた。今度ははっきり見えた。

「…………ム、イン……!」腰に手を当て胸を張り、見事な赤毛を揺らして闊達に笑う友の姿がそこにはあった。

 不思議なことに彼の姿は半透明で、後ろの景色すらうっすらと見透かすことが出来た。まるで幽霊みたいだ、混じりっ気のない驚愕に満ちた思考の端でぽろりと思う。だけど、ひどく朧げで儚くとも、たしかに彼はそこに居たのだ! 

 

 だがムインの言葉を聞いても表情は晴れず、うつむき涙が零れた。

 ごめんごめんごめん。おれはおまえたちを……

 何故? と言う疑問よりも祐一の口からは謝罪の言葉が漏れていた。嗚咽混じりの声が響く。

 

『なーんだぁ? お前また泣いてんのかよ? 相変わらず泣き虫は治んねぇなー!』

 

「エ、オ…………!」頭をグシグシと撫でられる感覚に思考が途切れた。見上げればやはり昔日の勇壮な友の姿。また謝罪の言葉が漏れようとして、バーカと遮られる。

 

『謝んなよ、あの死力を尽くした俺の戦いを汚すつもりか? ……なんてな。ま、あんまりお前頼りねぇーからよ! サウィンのついでに戻ってきちまった! 貸し一つだぜ、ユーイチ?』

 

 そうか、サウィン。いつの日かテスラに教えてもらった言葉を思い出し、やっと理解することができた。

 彼らは帰ってきたのだ。死と再生、その循環する流れに乗って。

 

「エオ……ムイン……。俺、お前たちを殺しちまった。どんなに、謝っても……許されることじゃ……」

『バッカ気にしてんじゃーよ。なぁ、ユーイチ……俺たちは死なねぇ。たとえ肉体が滅んで霊魂となって仲間とともに戦う。そういうもんなんだぜ?』

『そう! 兄貴の言う通り! だからさ……ユーイチ───勝てよ!』

 

 そう言って彼らは微笑みを残し、夜に揺蕩う蛍の如く銀の紐となって祐一の右腕に吸い込まれていった。そう、天叢雲剣の宿る右腕へと。

 

 エオとムインだけではない、祐一がその手で殺めた戦士たちが彼らのあとに続くように現れて、笑みを浮かべてほどけていく。

 

 不甲斐ない祐一に誰もかれもが笑みを向け、戦えと、意志を紡げと言葉もなく語り掛けては消えていく。一人じゃとことんダメな自分が情けなくって、でも嬉しくって仕方がない。

 

『祐一よ。あやつは、ヤマトタケルはいま二度も《盟約の大法》を行使した代償で動けずにいる。正当な使い手でないあやつがかの大呪法を使ったのだから当然だ……。

 そしてもう一つ。あやつは(オレ)を失い焔への耐性がかつてないほど弱まっている。──今こそが千載一遇の好機!』

 

 そうか……前回の戦いのときには叢雲がまだ草薙剣で、それを使って防がれた。でも、草薙剣を失った今なら……! 

 

 一つの化身だけではダメだった。

 一つの権能だけでもダメだった。

 一人だけで戦っても勝てなかった。

 

 ならば今、嘗てないほど怒り狂っている化身達……同胞たる『戦士』を奪われ、さらには民衆を悉く虐殺した罪科に鉄槌を下せ! と叫んでいる彼らと合力し、最大最強の一撃を放てばいい! みんな思いは同じだった。

 

『大丈夫、あなたならできるから……胸を張って?』

 

 背から優しく抱きしめられる感触を覚えたと同時に、全身を覆いつくすほどにあった傷がみるみる治癒していく。

 テスラ、そう言葉がもれて、涙が零れそうになるのを必死に堪える。グッと四肢に力を込め立ち上がり、胸を張って前を向く。

 

 振り向くことはしなかった。

 祐一はもう戦士だった。故郷を飛び出した時の無鉄砲さも、かつては仲間を失い錯乱するような未熟さもなくなって、どんな困難が道を阻もうと前を向き、突き進む一廉の戦士だった。

 

 右腕が陽光の如くまばゆい光を放つ。彼を中心に莫大な呪力が渦巻いている。先刻まで底をついていた祐一の呪力ではない。

 

 これはサウィンで現れた死者の力と、ヤマトタケルの一撃によって斃れた民衆……それも人間だけじゃない、草木も山も、鳥も虫も、いくつもの生命が、無慈悲にも掠奪された者たちが力を貸してくれているのだ。

 

 ありがとう……。それに、みんなごめん……。最後まで情けなくって。頼りない戦士のままで、ゴメンな……。

 

 でも、勝つから……絶対、勝つから! 

 

 だから───俺に敵を斃す力を貸してくれ! 

 

 『ミスラの松明』が煌々と輝き、夜が支配する世界で空に輝く星々や月光にも負けないまばゆい光を放つ。右腕に途方もない熱と、いくつもの権能を行使している弊害か脳神経が焼ききれそうだ。

 

 だが構うものか。

 ここで立ち止まってしまうほど俺は、弱くも、恥知らずでもない! 

 

 木下祐一は"神殺し"だ。

 それは神々が自儘に振る舞いおかしくなった世界で、世界の命運を握ったに等しい事だった。それをやっと本当の意味で彼は理解した。

 

 その宿業はたった十四歳の子供が背負うにはあまりにも辛いもの。

 

 だけど、それでも。

 祐一はにやりと唇を精一杯に広げて……───不敵に笑う。

 

 祐一は魔王だった。魔王であらねばならなかった。

 己のために散っていった生命があった。

 己のせいで散っていった生命があった。

 己に捧げられた生命があった。

 だけど、どこまでも傲岸に、傲慢に、不遜に、ふてぶてしく! 

 そうでなければいけなかった。彼らに恥じない戦いぶりを示さねばならなかった。言い訳など、謝罪など、後悔など、以ての外だったのだ。

 

 昔日の……いつもどおりだった日々を胸に描いて、あの頃の面影を宿した表情で前を向く。

 

 ───勝つ。

 

 心眼を開眼する。──視えた。はるか先、古城の上で膝をつくヤマトタケルの姿が視えた。

 距離なんて気にする必要はない。ただ鉄を打つように意志を精錬し、前を見据える。──ただそれだけでいい! 

 

『よし。……それでいい』

 

 後ろで短く、本当に短く言葉を残して、彼は解けていった。

 頷く。……ああ。判ってるよ、エイル。

 

「天叢雲、抜刀」

 

 右腕から光が消失する。光を宿していたのは祐一の右腕ではない……右腕に宿った天叢雲剣だったのだ。黄金に輝く、一振りの神刀が彼の手に忽然と姿を現した。

 

 鋼断つ刃を呼び起こすために、誓いを果たすために、みんなに報いるために、言霊を唱える。

 

「爰に須佐之男命、国を取らんとて軍を起こし小蝿成す一千の悪神を率す──……」 

 

 化身達が叫んでいる! 数多の生命を掠奪した大罪人に裁きを! 民衆に仇なす者に鉄槌を下せと! 化身達がそう叫ぶのならば! 

 

「一千の剣を掘り立て、城郭に楯篭もり給う──……」 

 

 叢雲が叫んでいる! 成すべき事を成せ、と! ここに約定を果たし、比類なき鋭き刃で斬り裂けと! 相棒がそう叫ぶのならば! 

 

『応! 是所謂、天叢雲劔也! ちはやぶる千剱破の鋼なり!』

 

 心が叫んでいる! 内に秘めた約束の数々が、一心不乱に勝て! と。俯くな、前を向け! と叫んでいる! 

 

 だったら! 諦めるわけには、負けるわけには……いかないだろうがよッ!!! 

 

 右腕の輝きはとどまるところを知らない。どこまでもどこまでもまでも輝いて、常闇を払拭するほどの光へと──。 

 

 大上段に構え、弓なりに引き絞る。

 奴のもたらした厄災は計り知れない。どれほどの命が散ったのか想像もできない。だからこそ奴を赦すことなどあってはならない。

 

 怒りの刃を叩き付けるために……───因果を返してやる。報いを受けろヤマトタケル!!! 

 

『「すべての敵は我を───勝利の化身(ウルスラグナ)こそを畏れよ!!!」』

 

 黄金の波が一直線に疾走する。どこまでも伸びていく黄金は、地平線を越えて───。

 

 

 確かな手応えとともに祐一の意識は、今度こそ急速に落ちていった。

 

 

 

 ○◎●

 

 

「クハ……ッ」

 

 中空に浮いたヤマトタケルが、血を吐いた。

 

「ックハハハッハハハハ…………! なる、ほど。これが彼の力の一端ですか。フフ……しかと堪能しましたよ……」

 

 楽し気に嘯く彼の下半身は跡形もなく消滅し、四肢も右腕だけしか残っていなかった。

 だが、流石は最源流の鋼と言うべきか。なにせあの一撃を強かに浴び、まだ生き永らえているのだから。

 

「引き分け……いえ私の負け、ですね。かの大呪法を二度も用いても仕留め切れなかったことも然り。彼の底力を見誤っていたことも然り。……それに些か傷を負いすぎました。フフ、このまま決闘へ洒落込むというのも悪くはありませんが、どうにも風情がない」

 

 クツクツと涼やかな笑い声が響く。

 

「ここは引きましょう……。ああ……祐一殿。願わくば再戦のときにはもっともっと相対するに相応しい益荒男となっていてくださいね」

 

 薔薇色に彩られた花貌に笑みを浮べ、はるか遠くに居るであろう"神殺し"を見遣る。

 

 笑う、嘲笑う、嗤う。愉快で愉快でたまらない。聞く者を恐怖させる哄笑をどこまでも響かせながら、ヤマトタケルは現世から姿を消した。

 

 

 ○◎●

 

 

「ハァっ……ハァっ……!」

『もうよい、人の子よ。ヤマトタケルは去った! お主も満身創痍だ、いいから休め!』

 

 二人の人間が暗い夜道をふらつきながらも足早に歩いていた。否、正確には一人。意識を失った少年を担いでいるのだ。

 だがおかしな事にどこからかもう一つの声が聞こえ、二つの声が夜道に響いていた。

 

 もう何時間、歩いているだろうか。あの破壊の後に地脈の流れが大幅に変容し、寿は遠く離れてしまったそこへ死力を尽くし、目指していた。

 

「でも、確実じゃないんだろう……!? あんなにしつこい奴がそうそう諦めるとは思えない! あいつがまた追ってきたらそれこそ終わりだ! それにあんな派手に戦ったんだ、またチンギス・ハーンみたいな『まつろわぬ神』が現れてもふしぎじゃない……!」

『それは、そうだが……』

「叢雲さんって言いましたよね。彼はね……友達なんですよ。年下でまだ子供で今まで出会ってきた中でも一番無鉄砲で、しょうが無い奴さ! でも、友達なんだ……! 死なせたくない……絶対に……」

『おぬし……』

 

 もう寿の眼は何も映していないことに叢雲はやっと気付いた。だがその足取りはふらつこうと迷いはなく、執念がそうさせるのか意識を繋ぎ止め、一歩一歩前に進んでいた。

 便りは道案内をするかのように先を進むラグナだけ。ラグナも力を使い果たし、もう消えてしまいそうだったがギリギリまで見届けんとしていた。

 

「それに……彼は、希望だ。僕みたいな、にわか仕込で魔術が使えるようになっただけの木っ端なんかじゃなくて……ホンモノの……神様にだって立ち向かえる……人類最後の希望なんだ……!」

 

 ウリ坊サイズになったラグナが心配げに時々振り返りながら見守る。

 寿の足が止まることは、ない。

 

「だから……! 絶対に死なせたくない! 死なせちゃダメなんだ!」

『見事……』

 

 やがて、辿り着いた。叢雲が神力を解放し、道をこじ開ける。

 言葉を最後に紡ぎ糸の切れた傀儡のように倒れ込んだ。祐一と彼を背負った寿は雄大な地脈の流れに呑み込まれていく。

 行き先は未だ誰にも判らない。

 

 

 

 ○◎●

 

 

 

 たった一柱の『まつろわぬ神』によって齎された、破壊。だと言うのに今世界各地で起きているどの災厄よりも激しいものだった。

 当然だ。かつて太古の昔に盟約が行使されたのだから。

 無論、それは地上を自儘に歩む神々にもそれは伝わった。

 ある教会に座する筋骨逞しき天使が、青雲を翔ける勇ましき鋼が、とびきりの異形の姿を持つ神々が、世界に現れ出でた神々が余すところなく感じ取り、そして同時に悟った。

 

 開戦の狼煙が上がった事を───。

 

 

 祐一たちが地脈にて逃走を計った頃。

 同刻、王国にて。

 

「驚きましたよ。あれほどの災いを齎したはずの私を再びこの王国に招き寄せるとは。ねぇ……──ニニアン殿?」

「───黙りなさいフェルグス」

 

 二人の美男美女が言葉を交わしていた。どちらも美しい容姿をしているというのに、そこに艶めいた雰囲気はない。さらに言えば先刻、決別したというのに彼彼女はいつも通りの気安さだ。と言っても気安いのは男の方……ヤマトタケルのみだが。

 

 『鋼』たるヤマトタケルは流石と言うべきか、四肢の多くを失っていたというのに、もう戦傷の殆どが快癒している。それとも何れかの神から奪った権能に依るものなのか。

 ともかくヤマトタケルは完全な状態でニニアンの眼前に立っていた。

 

「フフ、この私をふたたび呼び戻したい、とは並のことではないのでしょう。ですがよろしいので? 昔日のごとく、私は貴方の背中を刺すかも知れませんよ?」

「……構いません。今回の王国に降り掛かった災いの大半は私の失態による処が多く占めますので」

「ほう」

「これもまた戒め。貴方と言う鋼を御しきれなかった私の責。故にその失態を悔い改め、ふたたび貴方を懐へ置こうと言うのです」

「ハハ。いつになく能動的ですなニニアン殿? ですが貴方が私を王国に縛れるほどのものを提示できますかな? でなければ不躾にも私を呼び付けた貴方の首を取り、王国を去るのみですが」

 

 ヤマトタケルの言うとおり、彼が王国に居座る理由はない。正確には王国に居るより大きな理由が見付かった、と表すべきか。

 

「少しだけ未来を紡ぐ糸が視えました」

「ほう……?」

 

 ニニアンの興味深げに両の眉を上げる。言葉を紡いでいだニニアンはヤマトタケルを見てはいなかった。どこかここではない遠くを見るように、虚空を見つめていた。

 ニニアンは預言者としての側面も持っている。以前、王国に神殺しが訪れるという予知をしていたのもこれのお蔭。

 今回も預言者としての力が期せずして、振るわれたのだ。それは王国のため……否、己自身の未来のために。

 

「あの者……"神殺し"はそう時を待たずして異界へと旅立つでしょう。それは過去でも未来でもなく……おそらくこの地上ではない……『平行世界』と呼ばれる我々でも手の届かぬ場所へ、です」

「なんですって?」

 

 眼を眇めては柳眉をひそめ、その花貌にとある激情をのせる。

 

「バカな! そんな事はあってはならない! 私の掌から抜け出そうなどと!」

「故に、我らの合力が肝要となります。アレの最後に見せた『風』の権能……直接、目にすることによって霊視がおりました……あれはあの者にとって価値のある人間の窮地へ駆け付けるもの、それも世界すら越えて……」

「…………」

「ならばあの者の……そう、あの者の───()()にて騒乱を起こせば良い。そして我々にとっても意義のある騒乱を起こします……。即ち、あの者の故郷にて『招聘の儀』を執り行うこと」

 

 おもむろに取り出したのは、錆びつきくすんだ一振りの古ぼけた剣。それは神具であった。ニニアンの悲願として抱く『鋼』の復活、そのための。

 

 思わず笑みが零れた。どこまでも凄惨を極めた狂笑を。

 

「……ククク、ッアハハハハハハッ───! ああ、素晴らしいですよニニアン殿! いいでしょう! ここに契約は成りました! 今一度、私と貴方、手を組むとしましょうか!」

 

 ニニアンは鷹揚に頷き、スッくと立ち上がり、王城のテラスへ躍り出た。

 

 そこには静寂のみがあった。

 

 眼下に見下ろすのは、己を信奉する王国のすべての民。彼らは一様に、黙り込み一言も漏らすことなくはなくニニアンの言葉を待った。

それこそ水の跳ねる音すら聴こえそうなほどに。しかし、その胸中には、煮えたぎる激情を秘して。

 

 その視線を受け、気負うことなくニニアンは言葉を紡ぐ。百万一心、すべての者の思いを同じくして。

 

 

 エーリゥの戦士達よ───!

 

 ミールの子供たちよ───!

 

 我が王国の戦士達よ───! 

 

 時は来たれり。かの神殺しはクアルンゲの雄牛に等しき我が宝物たる王国の戦士達を掠奪し、我らが同胞に暴虐の限りを働きました。

 

 なんという非道、許してはなりません!

 

 ならば答えはただ一つ!

 かの神殺しに報復を! 目には目を! 血による罪には血の贖いを!

 神殺しの故地にて思う様に掠奪を!

 

 ───さぁ、トーイン(襲撃)を始めましょう!

 

 凛とした声が遍く民の耳朶を打てば、幽世を揺るがさんばかりの歓声が轟く。

 

 次なる決戦の地は、日本。

 幽世、現世……世界は混迷を極め、彼の戦いはまだ終わらない。

 



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英雄挫折編
奇跡の国


 ───その国は"奇跡の国"と謳われていた。

 

 災害や傷病はもとより小さな諍いすら起こることすらなく、温かい陽射しが休む事なく降りそそぐ、そんな国。

 大地には緑が広がり、人々は空腹になることはなく、どんな怪我を負ったとしてもたちまち快復した……今までの常識ではあり得ない、奇跡と幸福がそこには満ち満ちていた。

 とある『神』が統治するような幸多き国の記述をなぞるように、あらゆるものが恙なく、なんの憂いもなく、希望だけを胸に生きることが出来る、そんな国だった。

 まるで地上に現れた楽園、人々は口々にそう噂した。そしてこうも囁いた───これは我らが神の齎した奇跡に違いないと。

 けれど最初から「奇跡の国」と呼ばれていた訳ではない。今は季節は十一月の初めごろで、半年も遡れば中欧に存在するただの一国家に過ぎなかった。

 天の御国と見まがうほどになったのは最近の事……七月の()()()()を境にしてからだった。

 

 ───始まりは盲目だった少年の視力が突然快復した出来事であった。天からきらめく光球が降りそそいで、少年のまぶたの上で弾けたのだ。言葉にすれば、これだけの事。けれど少年は次の瞬間から景色も、色も、何もかもを見ることが出来るようになっていた。

 すぐに少年は直感で理解した。この奇跡は日が昇るたびに欠かさず祈り続けていた『いと高き御方』のおかげであると。

 

「どれだけ言葉を尽くしても足らない事は分かっています……ですがこの喉が掠れ破けてでも感謝を捧げ続けます……」

 

 涙ながらに感謝を捧げ、その信仰心を不動不変のものとした。

 奇跡の波はそんなもの些事だと言わんばかりに瞬く間に西から東へ、北へ南へ……あらゆる場所へ広がっていき、そしてあらゆる物が好転しはじめたのだ。奇跡の波ははじまりの国にとどまる事なく、隣国であるオーストリアやハンガリーなどの中欧諸国にも影響を及ぼした。最初の奇跡から半年が経ったいまでは、奇跡の国とは中欧一帯の事を指した。

 

 そうして幾ばくかの時が流れた頃。加熱する信仰が最高潮に達し、中欧のとある都市の人口が百万を越えたあたりだっただろうか。とある教会の空に()()()は現れた。

 純白のゆったりとした衣と肩から伸びる赤いマントで着飾った者。並み居る大柄な人間でさえ歯牙にかけない二メートルを超す巨躯に、寸毫のたるみさえありはしない筋骨隆々とした身体。大柄だけれど賤しさや粗野な雰囲気は微塵もなく、顔には常に安らぎを与える柔和な笑みを浮かべた男が。

 オールバックの淡い黄金の御髪は金糸さながらで、騎士さながらの勇壮さと清廉な神父のごとき聖性を共在させた美丈夫でもあった。

 特筆すべきはその背中から見えるもの。赫々たる太陽の輝きかと見まがうばかりの光を放つ翼を何枚も背に背負っていた。

 ───天使。使いの者。御使い……人々は、そう謳われる存在であることをすぐに悟った。

 それだけではない。彼の背に抱く羽根の数はなんと三十六対、彼らが信仰する宗教において最高位とされる天使のさらに上を行く者であった。

 そうして気付いた。あの翼の光と降りそそいだ光は同質のものであると。

 ……ゆえに理解した。今までの奇跡はやはり信仰する『神』によるものであったのだと。慈悲深き御方が我らに施しを与えて下さっていたのだと。

 その事を知るやいなや人々は先を争って天使を仰ぎ奉り、ミサがあろうとなかろうと連日教会を訪れては、勤労に励み、絶え間ない祈りと感謝を捧げた。そうすると、その行いを見ていたぞと言わんばかりに奇跡はまた多くの人々のもとへ降りそそいだ。

 それはヨーロッパを襲った大災害のあとも変わらない、それどころか満ち満ちた慈悲深さにって守ってくれさえいたのだ。彼らもまたその悲劇を知り、己が大いなるものの庇護下にある幸運を噛みしめ、いっそう信心を厚くし救済と加護を与えてくれる尊崇尽きぬ天使に感謝を捧げた。

 

 我々は幸いである。天なる神に従い生きてゆけば間違いはない。

 そして我々は十分に愛を受けた……ならば今度は隣人に幸福を広めよう。

 そう誰かが歌えば多くのものが頷いて善行をなし、西へ南へ北へ南へ、幸福と奇跡の波は広がり止まるところを知らない。

 人々は讃える。天使と主と「奇跡の国」の名を。

 

 中欧のスロヴァキア共和国を中心として絶頂を迎える「奇跡の国」。それはこれまで騒乱や流血とは遠い場所にあった国であり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。有為転変は世の習い。嵐と悲劇を誘う少年の来訪は、否応なく奇跡の国に変化をもたらす事となる。

 

 

 ○◎●

 

 

 ──コツ。

 

 ──コツ。

 

 一つの足音が聞こえる。

 雑踏のガヤガヤとしたざわめきを縫って、確かな足音がひとつ。

 足音の主は、いまだ若い少年である。幽鬼のごとく面貌を翳らせ陰鬱とした表情を前髪で覆い隠すのは、木下祐一。人類に残された一握りの希望(エルピス)と目された人であった。

 

 祐一はここ数日の間、たったひとりで何処とも知れぬ場所を歩いていた。独りで、だ。他には誰もいない。……眷属たるラグナも。相棒たる叢雲も。友人たる八田寿も。そばには居なかった。

 ヤマトタケルとの凄惨な死闘から一週間以上の時が流されていた。あの死闘の消耗は激しく、神殺しの祐一といえどすぐには目覚める事はなかった。それはラグナも同じで、異界に戻って以降それから姿を見せず、右手に居るはずの叢雲もまた冷えた鉄のように黙していた。寿は──

 

 おっちゃんは今ごろ飛行機に乗っているだろうか……。寿と別れて幾日か。虚ろな思考の中で、ポツリとそんな事を思う。

 

 ヤマトタケルとの戦いのあと、数日間、どことも知れぬ森の中で倒れていた二人だったが目を覚ませば異常な回復力を持つ神殺しである祐一はもとより寿もまた不思議な事に傷は癒えていた。

 理由は分からなかったが好都合だったのは確かで、目覚めてすぐに祐一は寿へ言い募ったのだ。足手まといだから帰れ、と。何か諍いがあった訳ではない……ただもう寿とは、只人である彼とは一緒に居られない。そう思った。

 当然、寿も強く反発したがそれでも頑として肯く事はなかった。最後には寿も折れ、

 

「必ず! 必ず、あそこで彼らから学んだ知識は役に立てて見せるから! だから必ず日本でまた会おう!」

「ああ。俺は俺の戦い方で戦うから、おっちゃんはおっちゃんの戦い方で戦おう。……そんで『まつろわぬ神』からこの世界を取り返そう」

「ああ!」

 

 最後に会話を交えて二人は袂を別け、───取り繕えたのはそこまでだった。

 エイルや救えなかったものたちの意志を受け継いだ。王として立たねばならなかった。

 それなのに、そうあらねばならないのに。思えば思うほど、死者を生み出した『まつろわぬ神』と力のない自分に憤って前が見えなくなった。

 かつては強靭な意志と無邪気さを介在させた陽とした瞳は、どろりと澱の沈殿した水底のように濁り、自責と仇敵への憎悪で身を焦がす復讐者と化した。今にも崩れそうな累卵のような危うさを抱き、少年は歩き出した。

 戦場に残ったのは、ただ独り……一匹の羅刹だけだった。

 

 ──コツ。

 

 ──コツ。

 

 ──…………ドサッ。

 

 とある裏路地で祐一は腰を降ろした。寿と別れから一週間以上の時がすぎ、その間休むことなく歩き回っていた彼はついに立ち止まった。歩き回るだけだったが無意味という訳でもなかったようで、道行く町での会話やテレビ・ラジオから情報を得るに、どうやら此処がスロヴァキアなのだと悟った。

 

 スロヴァキア……スロヴァキアか……。だから、なんだよ。

 

 俯いた顔を押さえながら胸中で吐き捨てる。

 旅をはじめてからずっと行きたいと言っていた熱は消え去っていた。喜ぶべき出来事は彼の心にさざなみすら起こす事なく空虚に溶けては消えた。

 彼の心には罅が入っている。砕けた筈の破片を集めて蒐めて塗って貼り付けて、やっと治した心はやはり壊れていて大きな亀裂が走っていた。

 罅は入れども心は不感症。もう日常のなかで彼の心に変化をもたらせる物はない。

 あるとすれば、世界の変化……『まつろわぬ神』による災厄と悲劇が蔓延した世界の悲報だけが、ギリギリと彼の心を万力のごとく締めつけ壊れそうな心を抑えつけていた。

 戻ってきた世界は壊れていた。

 他でもない『まつろわぬ神』が本格的に動き出した事によって。アフリカ最大の火山、フォゴ山の大噴火に日照りによる黒海の渇水……目に付いたものを掬っただけだがこれらは氷山の一角にすぎなかった。

 あらゆる国家や都市で『まつろわぬ神』によるものであろう事件が頻発していた。大陸の国家もひどいが、それよりもひどいのは島嶼の国家だ。

 オセアニア諸国や東南アジアの国々の五分の一は海に還った。ハワイはその逆で海面が次々と上昇し、かつても数十倍の広さになっており、なおも隆起は収まっていないという。日本やニュージーランドは目立った被害はないがそれも時間の問題だった。

 この未曾有の非常事態に各国は必死の対策に走ったが、世界に名だたる覇権国家ですら何の対策も打てず、この三ヶ月の間に四度も首脳陣がゴッソリと入れ替わったという。

 そしてトドメにヤマトタケルが放った星を砕く一撃。

 あれは人類の終焉を象徴するものだと誰もが悟った。ラグエルのラッパが鳴らされ黙示録の訪れたのだ、地獄の釜が開いたのだ、と真の意味で理解した。誰もが神に縋って許しを乞うて逃避した。……ただ一人を除いて。

 

 俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだッ! 

 

 拳を握った。歯を食いしばった。目をきつく瞑って全身の筋肉を強張らせる。昂ぶる感情が戦意を研ぎ澄ませ精錬し、臍下丹田より力が漏れ出す。

 逃げる事も、畏れる事も、縋る事も、許しを乞う事も、そのどれも祐一は選択しなかった。両耳から無造作に入り込む情報に、ただひたすら己を責立てた。

 

 俺があそこで……! エイルたちの所で遊び呆けて現世に戻ろうとしなかったから……! 

 

 居ても立っても居られなかった。何かしていなければ気が狂いそうだった。

 今、祐一を突き動かすのは焦燥感と怒りだけ。償いをしなければならないという焦燥感と、人類に害をなす者たちへの怒りだけだった。『まつろわぬ神』をこの世からすべて討滅する……それを動力源に今の今まで動いていた祐一であったが、『まつろわぬ神』に関しての情報は何も得ることができず、元々擦り減っていた精神と肉体が強い休息を求めたのだ。

 

 いつの間にか黄昏時も終わろうとしている時間。黒い影はより一層深度を増し、昏い領域のものどもが影から姿を現し、形の無い手のように祐一の面貌へ触手を伸ばす。瞬きの間に形を変え、密度を変え、場所を変え、祐一の全身を撫で上げ嘲弄する。

 無数の手となった黒い影が、祐一の眼口耳鼻から入り込もうとして───

 

「誰だ……出てこい!」

 

 ───霞のごとく、霧散した。

 虚空へ叫んだ祐一が即座に立ち上がって、存在感の増したその昏い場所へ視線を向ける。声に反響したように震えた影は……人影をゆっくりと形作って、暗闇から這い出てきた。

 その影はまるで影法師そのものの様に捉えどころがなく虚ろで、ひどく陰気で、虚も実もない不透明で不気味な影……それは老人であった。矍鑠とした風情はない。ひたすらに陰鬱で沈んでおり生気を奪い取る雰囲気だけがあった。

 白いゆったりとした服、深い懊悩を刻んだ皺だらけの顔、うち窪んだ眼窩から覗く双眸、節くれ立った白い服から覗く手の甲、顔の下半分を覆う豊かな白い髭。

 祐一はその老人に見覚えがあった。

 

「テメェ! あの女の……ニニアンの腰巾着じゃねぇか!」

 

 そう。いま眼前に居るのは幽世に存在する影の王国……それを統べる女王ニニアンに侍っていた老ドルイドだった。

 なぜこの老翁が現れたのか祐一にはとんと心当たりがなかった。しかしただ一点、わかる事がある。いまの影はこの老人が差し向けたもの……祐一にとっての吉兆ではない事は明らかであった。

 

「そう、血気、に、逸る、な。木下、祐一……先刻、の、は、ただ、の、挨拶、代わり……これ、くらい、の、稚気、は、許し、て、くれ。加え、いま、ここ、にいる、のは、やつがれ、だけ、よ……影の、女王、も、大和、の、勇者、も、今は、いない」

「なら尚更怪しいだろ。なんでテメェが此処にいる? 事と次第によっちゃあテメェの首、落ちるぜ」

 

 祐一は最大限の警戒と戦意をもって言葉を放った。前屈みとなり、犬歯を剥き出しにする姿はまさに手負いの獣。餓狼さながらであった。

 その様子を見ながらしかし、いや、やはりと言うべきか、カズハズは肩を揺らすだけだった。分厚い影が一歩伸びる。人の姿を取ってはいるが、この者も人などよりはるか高みに居る。

 

「怖い……怖い、な……木下、祐一。心胆、寒か、ら、しめる、ほど、恐ろ、しい、覇気、よ、な……しかし、それ故、頼も、しい」

「はあ? なにを言ってるんだテメェ?」

 

 思わず、といった風に問い返してすぐに「しまった」という顔を作る祐一。会話のイニシアチブを安々と奪われてしまった。薄い笑みを引っ込めたカズハズは祐一ではなく虚空を見つめながら独自するようにぽつぽつと語り始めた。

 

「少し、昔、話を、しよう。やつがれ、は、おぬし、も、知っての、通り、ニニアン様に、侍る、一番の、忠臣、よ……。仕えた、年月、は、ニニアン様、が、神、祖、と、なる、以前、から、成る……もは、や、言葉、では、言い、表せ、ない、年月、よ……」

「で?」

「老体、を、そう、急くな」

 

 ひゅー、ひゅーと過呼吸気味の息を整えるカズハズ。その姿は見た目通りの老人そのもので、王国にて戦士を纏め上げ、寿とラグナを追い詰めていたドルイドの長には見えない。

 

「ニニアン様の、悲願、は、焦が、れた、鋼、の、復活。神祖、と、なろう、と、神祖、として、幾度、死んで、転生、しよう、とも、ニニアン様は、成就、に、尽力、され、た、のだ……」

「アンタとあの女の苦労自慢なら付き合う気はねぇぜ」

「ここ、から、が、本題、よ……やつがれ、は、ニニアン様の、その、姿に……どこ、までも、突き、進む、御姿に……恥ず、かしい、話、だが……いつしか……恋い、焦がれ、て、しまった……」

「はあ?」

 

 カズハズから転がり出た予想外な言葉に、期せずして素っ頓狂な声を上げてしまう。敵意を剥き出しにしていた相手が、それもこんな老体が恋だのなんだのと言われれば当惑するのは当然だった。

 恋に年の差は関係ない……? え、いや、そもそもそういう話なのか? 色恋沙汰にはとんと疎い祐一は混乱の渦に叩き込まれ、ひたすら瞠目する他なかった。

 カズハズは続ける。

 

「転生し、お生まれ、に、なられた、白痴、ニニアン様を、探す、こと、五度……求め、られる、神具に、呪具が、あれば、与えた、こと、数、知れず……やつがれ、こそ、が、ニニアン様、第一、の、臣。それは、使命感、も、あったが、気を、引く、意味、合いも、無き、にしも、あらず、で、あった……」

「お、おう」

「しかし、今では、只の、茶くみ、よ。あの、フェル、グス……いや、ヤマト、タケル、が、現れて、より、な……!」

 

 ヤマトタケル。その単語が耳に届いた瞬間、祐一はさっきまでの動揺を奈落に落とし、殺意ばかりを横溢させた。気付けばカズハズの今にも折れそうな細っこい首を掴んでいた。

 

「その名前を言うんじゃねぇ……不快だ」

「そう! 不快、なの、だ! おぬしもやつがれも思う所は同じ……!」

 

 ぜい、ぜい。と首を絞められた上に語気が荒くなり始めたカズハズは酷く息苦しそうに喘ぎ、外見も相まって今にも召されてしまいそうだ。実際、彼が幾年月を生き永らえているのは執念が大部分を占めるのは真実だった。

 

「一時は、同志、として……そして、英雄、として、信服、して、さえ、いた……だが、見よ。この、腕、を」

 

 そう右腕にはと禍々しく紫に色付いた腕環が嵌められていた。その腕輪は休むことなく胎動し、宿主を害しているのが初見の祐一でさえ見て取れた。おそらく病的な白さであっただろう枯木じみた腕は、まっさらな用紙に墨を叩きつけたかの如く、毒々しい紫へ変わり果ていた。

 

「これはあの者に掛けられた"鎖"よ」

 

 カズハズ言葉短く言う……これはヤマトタケルの仕業なのだと。欺瞞は感じ取れない、少なくともあの腕輪とそれを嵌める彼からは。直感で判る。

 

「木下、祐一よ……神、殺しよ……恐る、べき、クロム・クルアハよ……。おぬし、も、あの者、を、恨んで、おる、の、だろう? 消し、去り、たいと、願って、おる、の、だろう……? やつがれ、も、なのだ……」

 

 もはやカズハズの独壇場であった。真偽はともかく眼の前の妖老の口から出ることは、祐一の利害を犯してはおらず、それどころか合致さえしていた。

 

「神、殺し……いや、王よ……伏して、申し、上げる。やつがれは、おぬしと、手を、組み、たい。やつがれ、は、あの者、を、排除し、ふたたび、ニニアン様、からの、寵愛、を取り、戻し、たいが、故に」

「ハッ! アンタの言ってる事は判ったよ……だけど、信じられると思うのか? 俺が、お前を! 王国の外道を!」

 

 おそらく稀なるカズハズの嘆願。……しかし祐一はふん、と鼻で笑った。殺意の濃密に入り混じった怒声を叩き付ける。柔らかな夜風に揺れていた外套が、大きく()()()()

 

「そんなにも手ぇ貸したいってんなら王国へ連れて行きな! あの外道共が何を企んでいるのかも吐いていけ! それを知った上でテメェ等の目論見全部ぶっ壊してやる!」

 

 その姿、まさに悪鬼羅刹。だがカズハズもさるもの、飄々とした姿勢を崩さず肯んじることもなかった。

 

「それ、は 難しい」

 

 掠れ声の言葉がせまい裏路地でいやに響く。祐一は無言で手の力を強めた。

 

「逸、る、な……これで、二度目、だな。やつがれは、もう、あの、王国、から、逐電、して、おる。おぬしに、有益な、報を、持って、これ、なんだ、事は、汗顔、の、至り……しかし、仮、に、王国、に、居た、として、も、ニニアン様の、不利、は、出来ぬ。()()

 

 祐一は眉を顰めた。不自然に言葉を切ったカズハズはどこか大きく見えた。

 

「ひとつ、『まつろわぬ神』、の、居場所、を、教授、しよう。今の、おぬし、は、『まつろわぬ神』、を、探して、おった、で、あろう? やつがれ、に、一柱、心、当たり、が、ある」

「探し回ってた? ならなんでもっと早く声を掛けなかった?」

「仕方、なか、ろう、今の、おぬし、以上、に、猛って、おった、のだ。言葉、も、交わす、事、なく、首を、落と、される、と、確信、する、ほど、に……やつがれは、そこ、まで、豪、胆、では、ない、ゆえ」

 

 確かにそうかも知れない。冷静な部分が囁いた。数日間歩き続け、体力の消耗と比例して頭が冷えていく自覚は祐一自身にもあった。だからだろう、彼はむやみやたらに声を荒げず、舌打ちするにとどめたのは。

 

「判ったよ……じゃあ早く教えな。テメェが持って情報ってやつをな」

「よろ、しい。なに、報、と、いっても、大、した、もの、では、ない……その、神、が、坐す、のは、此処、から、遠く、は、ない。この、国の、都……その、とある、教会、に、幸福、を、振り、まく、天使、が、いる、のだ」

「天使?」

「うむ。この、報を、持って、おぬし、への、手土産、と、したい」

 

 そうかよ、と吐き捨てた。 血を吐くかのごとく。

 

「お前が一体どんな思惑を持って俺に接触してきたかは知らねぇ……だがいいぜ。俺が動いてアンタの利になるってんなら勝手にしな。だけど───俺はただ『まつろわぬ神』どもを殺す! 全て! この手でな……ッ!」

 

 強烈な意志が、吹き荒れる。一面に広がっていた黒が、鮮血じみた赤へ変わったかと見紛うほどの。

 少なくともカズハズの眼に幻覚を起こすほどの"威"が存在していた。

 

「おお……なん、と、いう、荒、ぶる、闘、気。神、殺し、の、『獣』……因果、を、乱す、者……荒ぶる、クロウ・クルアハよ……だが、よいのか?」

「なにがだ?」

「この、神は、人々に、奇跡、を、齎す、稀、なる、神。この、累卵、さながら、の、世界に、降り、立った、『救世主』やも、知れぬ。それ、でも、行く、という、のか?」

「当たり前だ……『まつろわぬ神』は殺す!」

 

 もはや嘗ての祐一ではなかった。旅立ったばかりの純粋な少年は、数多の死地を乗り越え、しかしその先で失意と憎悪に塗れてしまった。

 話は終わった、そう思った祐一はカズハズの首を放り捨てて歩き出した。まだ疲労の抜け切っていない足取りは、まるで幾重にも絡まった糸を強引に引き摺るよう。

 振り向く事なく後ろにいまだ佇むカズハズへ声を投げた。

 

「テメェは付いて来るんじゃねぇぞ、俺がその天使とやらを倒すのを見てればいい。……俺はお前を信用していない」

「それ、も、いい、だろう。だが、気を、付けよ、木下、祐一……その、先に、待ち、受ける、は、神の、創り、出す、地獄。おぬし、の、行く、道先に、幸、多か、らん、事を……」

 

 不穏な言葉に憐憫と期待をかすかに滲ませ、影法師じみたカズハズの姿は闇に溶けて消えた。

 祐一は最後まで振り向く事なく、最後まで耳を貸す事はなかった。無人の裏路地から人気のまばらになった街道へ躍りでる。

 

「行かなくちゃ……」

 

 そうして一歩を歩き出した瞬間だった。声を掛けられたのは。

 

「そこのお兄ちゃん大丈夫!? 酷い顔してるよ!?」

 

 祐一よりも少し幼い……十二、三歳ほどだろうか。焦げ茶色の髪を持った少年が慌てた様子で駆け寄ってきた。

 平凡な少年だ。闘争だとか、運命だとか、因縁だとか、そんな言葉からは程遠い、日々を懸命に生きるただの少年にしか見えなかった。だから祐一も剣呑な態度を取ることはせず、振り払うように手を振った。

 

「邪魔すんな……」

「そう言われたって放っておけないよ……ね、これ食べなよ。お腹が膨らめば元気になるもん。お水だってあるよ」

「お、おい」

 

 生来の気性なのか初対面にも関わらず少年はにっこりと笑うとこぶし大のパンとペットボトルに入った水を差し出してきた。

 思わず面食らう。

 これまで流浪者じみた祐一におっかなびっくりに声を掛けるものはいたが、ここまで直球ではなかった。笑顔が眩しくて視線を逸してしまう。

 

「この国は神様のご加護がどこよりも厚い場所。だから飢えはないし、飢えちゃいけないんだよ。それはお兄ちゃんも例外じゃないよ」

「…………。…………、俺はこの国の人間じゃない……」

「あはは、気にしないでよ。お兄ちゃんみたいな人は沢山来るんだ。そういう人には食べ物を分けて上げてるんだ"汝、隣人を愛せよ"ってね」

 

 絶える事のない実りに湧くこの国はどうやらこう言った()()が常識となっているらしい。用意が良い、と思ったらそういう事か。この国の素晴らしさを語る少年をぼんやりと見やりながらそう思い至る。

 

「ボクはジズってんだ! お兄ちゃんは?」

「……祐一」

「へぇ! ユーイチ……ってアジアの人だよね? どこの国なの?」

「さぁな」

 

 いまだに食べ物を受け取らないぶっきらぼうな祐一に、ジズと名乗った少年は嫌な顔一つ零す事はなかった。それどころか興味津々といった体で質問を投げかけてくる。祐一はそのすべてを無視して一つの質問を返した。

 

「お前、この国の人間ならプラチスラヴァの天使を知ってるか」

「あ、もしかして天使様にお会いしに来たの? わぁー! やっぱりあの御方はすごい! ボクたちのような只人を救って下さっただけじゃなく、遠いアジアまでその名を轟かせているなんて!」

「おい」

「あっ、ごめん! 天使様のいらっしゃる教会ならバスで行けば半日も要らないよ!」

「なら……今すぐ行き方を教えろ、それで縁切りにしよう。……あんま俺に関わんな」

「何言ってるのさ! 天使様のいらっしゃる所まで道案内するに決まってるじゃないか! でも今日は遅いし明日にしようよ、ボクの家に来なよ! ちょっとオンボロだけど雨風はしのげるよ!」

「はあ? いや……」

「それに多くはないけど食べ物もまだまだあるんだ! 身体も清めよう! 飢えてみすぼらしいまま天使様に会せたら、ボクは一生天使様に顔向けできないよ!」

「気持ちはありがたいがな……だけど」

 

 と、そこでグルルルゥ……と誰かの腹の虫が盛大に鳴った。その誰かは火を見るより明らかで……思わぬ味方の裏切りに劣勢となった祐一は、結局ジズの説得に折れるしかなかった

 

 到着したジズの家は確かに本人が言うようにオンボロだった。外観はすわ台風か地震にでも遭ったのかと見紛うほど、外壁は崩れ、建物そのものが傾いていた。たしかに雨風は凌げるがそれだけといった建物だった。それに……

 

「ここ教会じゃないのか。お前、家は?」

「何言ってるのさ、ここがお家なんだ。誰も使ってないから掃除するなら使っていいって特別に許可を貰ってるんだ」

 

 祐一はすぐに己の失言を悟った。教会を見た時点で気付くべきだったのだ、彼に家族が居ない事に。

 

「気にしないでよ」

 

 ジズはにっこりと変わらぬ笑顔を浮かべた。枯れ枝を揺らすようなひどく透明な笑みだった。

 目をそらして、気のない返事をする事しかできなかった。

 中に入ると見掛けよりずっと手が行き届いているのが分かった。蜘蛛の巣なんてどこにもなく、埃やゴミもほとんどない、建物自体が酷く傷んではいるものの拙いながらも修繕の跡が散見できた。

 声に出さず驚いていたが、表情から読み取られたらしくジズは自慢気に胸を張っていた。

 その後は多くはない食べ物で腹を満たし、井戸の水で身を清めた。寝室は教会の礼拝堂にある長椅子で、そこにゴワゴワの毛布を掛けて横になった。まぁ雨風凌げるだけでも上等か、これまでの旅路を思えばそう思えた。

 

「明日、楽しみだね」

「そうか? まぁ、お前はそうかもな」

「そうだよ。天使様はね、目の見えなかったボクを癒して頂いて、とても慈悲深い方なんだよ! ……ボクだけじゃない! この国のみんながその奇跡に大小にかかわらず恩恵を受けてるんだ!」

「…………」

「慈悲深く、尊敬の尽きない、いと高き御方。だから少しでも報いなくちゃいけない! 天使様を見習ってボクも君みたいに行き倒れている人を助けてるんだ」

 

 あまり体力がないのに勢い込んで言葉を並べたジズは頬が上気させ少し肩で息をしているのが容易に想像できた。

 

「あはは、でもちょっとだけ下心もあるんだ。お兄ちゃんが天使様に会いに行くから、ボクも久しぶりに御姿を見れるかも知れない……って。ダメだよね、もっと清い心をもたなくちゃ」

 

 祐一は目を瞑って、結局返事を返す事はなかった。恩返し、それに私欲か……そうだよな。風が窓ガラスを叩いていた。砂漠に描かれた風韻は形を定める事はない。ジズの言葉に最後まで耳を貸さず、耳を塞ぐように毛布に包まった。

 

 何が幸福だ……奴らは……『まつろわぬ神』は……──災厄しか運び込まねぇ! 

 その激情を最後に死んだ様に深い眠りに就いて、翌日の朝早くに崩れそうな教会を出た。辿り着いたのはスロヴァキアの首都だというプラチスラヴァ。古き良き町並みを思わせる石の町を一歩、一歩と進み、蒼く装飾された教会が現れた。少年の先導で、石畳の敷き詰められた道を、ただ、歩く。

 

 ああ……()()

 

 此処は『まつろわぬ神』……天使が坐する領域だ。神殺したる祐一は、色濃く残る不倶戴天の仇敵たる気配を確かに感じ取っていた。空は雲ひとつない晴天。

 

 騒乱の時は近い。



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胎動する光輝

 ブラチスラヴァ、聖マルティン大聖堂。

 晴天のもと、教会の頂上付近にある部屋でオーク材の椅子に腰掛けなら穏やかに俗世の書物に目を落としていた『まつろわぬ神』たる天使は、傅く者たちが用意したらしき紅茶の入ったティーカップを置き、パタンと本を閉じた。

 ふわりと幾重も重なった神々しい翼が揺らめく。ついっと優雅な動作で顔を上げるのと扉が勢いよく開かれるのは同時だった。

 

「ジズ」

「天使様! ああ、私の事を覚えていて下さっていたとは! ……いえ失礼しました、お久しぶりです天使様!」

 

 来訪者は彼にとって既知の者。元気の良い声で満面の笑みを浮かべなら近づいてくる少年はジズだった。これ以上ないほど爛漫な笑みに天使もまた応えるように見る者を心を落ち着かせる笑みで返礼とした。

 

「君に会うのは一月ぶりになるか。どうしたのかな? 君には飢えた人々への施しを申し付けていたはずだが」

「も、申し訳ありません! ですがどうしても天使様にお会いしたいと言う人が居て……!」

「なるほど。いや、そう言った事情があるなら構わない。君の信心深さには私も感じ入るものがある。これからも変わらぬ信仰を捧げてくれたまえ」

「……はい! あなたが奇跡を起こして私を救ってくださった時からずっと、あなたは私の救世主です」

 

 偉大なる神の使いお敬虔な信者との神聖にして犯すべからざるやり取り。見るべきものがこの場に居れば斯くありたいと心打たれ羨望にに焦がれただろう一幕。

 今この時だけは『まつろわぬ神』と彼を崇拝する少年、二人だけの時間だった。ジズは己の幸運に感謝しながらこの上ない至福に身を委ね……

 

「───ところで、私の後ろにいる彼が件の人物かな?」

「え?」

 

 

「死ね」

 

 

 ッ轟!!! 簡潔な声が投げ捨てられると同時、教会の頂上部分が派手に吹き飛んだ。

 下手人は勿論、祐一。体得した心眼と縮地法で一気に背後を取った祐一は、全身全霊の一撃を叩き込んだのだ。凄まじい衝撃を受け止め切れなった壮麗な大聖堂は頂上部分を中心に崩壊していく。崩壊にあわせ濛々とけぶる煙を振り払って現れたのは太陽さながらの輝かしい天使。さらに先刻の奇襲による手傷は皆無であった。

 それどころか片腕には只人であるジズすら抱いて、助け出すほどの余裕さえあった。

 轟音とともに崩壊する教会を仰ぎ見ていた民衆は、奉じる天使が少年を抱え降り立った事に困惑の色を隠そうとせず──数瞬遅れて現れた黒い少年の登場に瞠目する事となった。

 コイツが『まつろわぬ神』か。『まつろわぬ神』を改めて視界に入れると同時、殺意が噴き上がった。戦意ではない。殺意のみが果てしなく横溢した。拳を握って、奥歯を噛む。もはや彼は何も視えてはいなかった……眼の前の『まつろわぬ神』を置いて他に。

 輝かしい天使もまた突如奇襲を仕掛けてきた者の正体を看破していた。だが殺意を滾らせる祐一とは対照的に、あくまでも穏やかな姿勢を崩すことは無い。

 

「この悪しき気配……君が噂の"神殺し"と言うものなのかな。この岩漿のごとき荒ぶる闘気、なるほど言い得て妙だと言える」

 

 ささやく優しげな声。だが不思議とその場にいるすべての耳に余すところなく届いた。悪しき気配……奉ずる御方がそうおっしゃったのは両の耳が捉えていた。ゆえに今現れた存在は御方の敵であり、ひいてはここに居並ぶすべての者たちの敵でもある。

 だがあまりにも異様な少年の登場は、民衆を例外なく凍り付かせてしまった。例外があるとすれば……

 

「───騙したなっ!」

 

 いの一番に上がった声……その声はいまだ成熟にするに到っていない少年のものだった。以前は盲目だった少年……だが今はしっかりと立ち上がり平凡となるほど快癒した少年の。

 声を張り上げると同時、ジズはひどく拙い動作で手のひらにあった石を投げた。投擲された石が放物線を描いて、凶兆の化身さながらの少年に命中した。

 ツゥ、と陰気な少年のこめかみから赤い一条の雫が零れた。血であった。人の。理外の存在ではないと言葉なく物語る、赤い色をした血だった。

 

「出ていけ悪魔!」

 

 少年が叫ぶ。その言霊は今まで気後れしていた民衆の枷を取り払う呪文に等しく……ハッと我に返った神父が声を張り上げた。

 

「怖じ気づくな! 御使いさまは彼奴を悪しき者とおっしゃった! ならば我々の敵も同義であるッ! 勇気ある少年に続け!」

 

 音頭を取った神父の声は大義名分を与え、そして悪しき存在への躊躇を消し去った。悪しき存在へ石は当然として腐った果実に大きな木片……はたまた矢まで飛んでくる始末。あらゆるものが投げつけられ、傷付け、汚しされていく。

 

「神父様とあの子の言うとおりよ! 出て行きなさいよっ!」

「この国に何しに来やがった悪魔め! お前が居て良い場所なんてどこにもないんだぞ!」

「消えちまえ! お前はここには居ちゃいけねぇ悪魔なんだよォ!」

 

 口汚く罵る民衆。彼らはこの行為こそが正しいと信じて疑わなかった。当然だろう、この行いこそ紛うことなき正義なのだから。しかしそれでも薄汚れた復讐鬼はただ一点を見据えていた。仇敵たる存在……ただそれだけを。余計なものなど眼中に収めていなかった。

 随分と見窄らしくなった祐一を睥睨し、民草に向けるものと同質の微笑みを浮かべる天使。

 

「私の民が失礼した。名乗りは必要ないようだな、私も興味はない。では、はじめよう……君からの勝利を主へ捧げるために。我が大願成就のために……」 

「神は……殺すッ! 俺が、すべてェ──ッ!」

 

 さぁ、開戦だ。火蓋は切って落とされた。

 

 ──初手は祐一でも天使でもなく、一台のトレーラーだった。

 無人のトレーラーがぐるりと囲む民衆をかき分けるように猛然と突き進んできたのだ。祐一を排除せんと誰かが動かし、直前で飛び降りたのがチラリと見えた。直進するトレーラーは進行方向にいる人垣を裂いて祐一に迫る。

 けれど、祐一の心にさざなみすら起こる事はない。迫りくるトレーラーも、悲鳴を上げる人々も、なんの揺らぎももたらす事はなかった。ただ、良いものが見付かった、そんな思考が浮かんだけ。

 

「力ぁ貸せ、『雄牛』」

 

 次の瞬間、『雄牛』の怪力でもって突っ込んできたトレーラーを片手で受け止めると、そのまま上空の天使へ───投げ飛ばした! 

 数十トンを超える大質量が大力によって投げ飛ばされ、今度は天使へと牙を剥く。祐一にとっては大型トレーラー程度どうという事はなく、路傍の石程度の価値しかなかった。

 だがそれは祐一と同格、あるいはそれ以上である天使もまた同じ。緩慢な動作で右手を横に振れば、天使の身体にたどり着く前にトレーラーが──蒸発してしまった。

 天使の右手を見遣れば空間をゆらゆらと揺らす()()()()。あれがトレーラーを灼いたのだと言外に示していた。

 なんだ? 透明な炎……いや、剣……? 

 数十トンはあった鉄塊をまたたきの間に蒸発させたものの正体は超常の戦いを潜り抜けてきた祐一でも見通せなかった。ただ、あの()()()()を見て取った時、かすかに右腕が疼いたのを確かに感じていた。

 

『警戒せよ。あれは『鋼』すら融かす灼熱の剣……触れれば如何に頑丈なおぬしとて塵も遺さず燃えさり消える。何処ぞの神かは知らぬが厄介なものを持っている』

「叢雲、起きたか」

『うむ。おぬしの昂ぶりによってな』

「今、お前"剣"って言ったよな。やっぱり剣なのかあれ?」

『然り。少なくとも神刀たる鋼の(オレ)に近い代物なのは間違いない』

 

 分かった、と頷いて表情を引き締める。

 

「倒すぞ」

『応』

 

 短く意志を固めて一歩を踏み出した瞬間だった……出鼻をくじかれたのは。

 

「倒、す? 私を? …………フフ、可笑しなことを言うな君は。ただの贄であると言うのに」

 

 天使が柔和な微笑みを絶やさずのたまったのはそんな言葉。ハッと空を仰ぎみれば、天使が両翼を太陽さながらに輝かせていた。警鐘がワンワンと右耳から左耳へ駆け抜けていく。

 激情に呑まれ無策に攻め入った己を悔い改めなさい。これが愚かさの報いです───。

 ただのささやき声……けれどひとひらの言葉が紡がれるごとに"威"が"重さ"が加速度的に増していく。直後、ガス栓を抜かれたように力が抜け膝からくずおれてしまった。

 

 なんだ!? 呪力が一気に目減りした!? 

 

 内包する呪力が底の抜けた桶のごとく減っていく。未知の減少に混乱する祐一の視界に天空で変わらずゆったりと佇む天使が収まった。ただ一つ、異なっている点は天使の薄く見開いたまぶたの隙間から紅玉の輝きが二つ覗いている事。あれが祐一の呪力を奪った原因。魔眼、霊眼、邪視……そう言い表される権能をあの天使は持ち得ているのだ! 

 

「私は数多の神敵を滅ぼした破邪の光……その威光をもってすればあらゆる邪悪は力を失うのは道理。そして億千万の瞳もまた持つ私には手に取るように分かるぞ……君の弑逆した者が」

「なに……?」

「フ、君に弑逆された神はどうやら我が遠い同胞、いにしえの私とも主従にあったようだな。なら……」

 

 不吉な言葉を呟いた『まつろわぬ神』に、問い返す暇もなく立て続けに天使はアクションを起こした。それは決して祐一にとって吉兆であるはずもなく。

 叫んでいた、直感が。決定的な何かを放つと、神殺しとしての戦場感が! 祐一は咄嗟に()()を回避しようとした……けれど叶わない。言霊は放たれる。

 

「我が意志、我が(イコン)、至高の神告に従い、世に奇跡を為せ。原初の輝きよ──悪徳に堕ちた正義を呼びもどせ」

「ぐぉ……ッ!」

 

 翼の輝きがいっそう強まった。驚愕する暇も、抵抗する隙もなかった。今度は『雄牛』が……いや、ウルスラグナの権能そのものがスイッチを切ったように微動だにしなくなったのだ! 

 なんだ! なにがどうなってやがる!? 常に傍に感じていたラグナとの繋がりさえ希薄になった状況に、祐一は混乱の極地へ叩き込まれた。

 

「テメェ! 『雄牛』とラグナに……俺のモンになにしやがったァ!?」

『言霊で権能を封じたのだ! 相応しい権威と威光を持つ『神』であれば今のような芸当は可能だ……おぬしの『智慧の剣』の如くに───祐一!』

 

 相対する敵手は怨嗟の声を上げる余裕さえも与えてくれはしなかった。右手を上げ、振り下ろす。それだけの動作で祐一の全神経がぞわりと逆立ち、直後、あの透明な()()()()が高速で降りそそいだ。

 四の五の考える暇もなく駆けだして、だがやはり追いつかれた。直撃する寸前で直感のままに水路へ飛び込んだ。どうやらその判断は間違えていなかったらしい。

 大量の水に()()()()が触れ、いっせいに気化した水は大爆発を起こす。水蒸気爆発が起きたのだ。当然、祐一も吹き飛ばされたが直撃は避けられた……ゴロゴロと無様に転がり火傷まみれの泥まみれになりながらクソったれッ! と吐き捨てて頭を振る。

 甘えていた自分を殴り殺して、強い自分をたたき起こす。怒りに濁っていた双眸に、戦意に燃える烈火の意志が灯った。

 流転し続ける戦場に目が回りそうになるが、ただ確かな事は天使の紅い瞳と輝く翼がなにがしかの力を放って己を窮地に陥し入れたのだと悟った。それによって呪力は抜かれ、ウルスラグナの権能は使えないこと。そしてもう一つは『戦士』の時のように奪われた訳ではないこと。……それだけは救いだった。

 

「我が剣と遊んでいなさい。私は君にかかずらっている時間はないからな。……だが死なないでくれると助かる。君の()()はこれより行われる儀式に必要なものなのだから」

「おい! なに言ってんだどこへ行く!?」

 

 結局、黄金の羽根持つ天使は問いに答えることなくどこかへ飛び去ってしまった。待てっと追おうとした祐一に、かげろうの剣が音もなく振り下ろされた。直撃は避けたが、ふたたび爆発。

 

「またかよォ! あぢぢぢっぢっぢぢッ!!!」

 

 今度は街の一角ごと盛大に吹き飛んだ。当然、祐一も為すすべなく巻き込まれた。

 けれど、戦場運はまだまだ尽きてはいないらしい。上空へ放り投げられた祐一の視界に、共に打ち上げられたらしき一台のバイクが目に入った。

 あれだ! 膝打って空中遊泳し、ハンドルに手を掛ける。黒で統一されたネイキッドタイプのバイク……ホンダ謹製のホーネットに乗り込む。日本から遠く離れた中欧でもHONDA車は流通しているらしい。爆発の影響か、かなりの損傷だが原型さえ残っていれば問題はない。

 

「掌中の珠も砕け散った! 血まみれの肺腑は地に落ちた! 万物万象は四散し、世界の箍は弛んだ! さあ、無秩序を齎そう!」

 

 役目を終えようとしていたしていたはずの無機質な機械が、命を吹き込まれたように駆動音がうねって雄たけびを上げる。鍵なんて必要ない。いや、言霊こそが権能こそが鍵なのだ。ハンドルに触れた瞬間にあらゆる知識が降ってきた。『駱駝』や『戦士』を行使した時と同じく。

 息を吐くように爆煙さながらの排気ガスがマフラーから噴出し、目を覚ましたようにヘッドライトに光が点る。ブォンブォン! とアクセルを回せば、空中という道なき道を疾走しはじめた。

 これこそ祐一の所有する大王チンギス・ハーンから簒奪した第二の権能『神鞭の騎手』である。

 爆発による粉塵の嵐を裂いて、一気に脱出する。巻き起こった砂塵が素肌には不快感だった。やはりこの権能、速度と機動力に関しては無類の強さを誇る。()()()()はなおも追跡して来るが、追いつけない。

 右手は右ハンドル、左手には黒刀を握りしめそのまま切り抜けた。けれど決してその厳めしい表情を解くことはない。

 視界が拓け、見えた景色は異様であった。先刻まであった平和な姿はどこにもなかった。

 あたりはまだ昼だと言うのに夜闇が至るところに顔を覗かせ、先刻まで中天で輝いていたはずの太陽が消え去っている……否、太陽は以前変わらず空に鎮座している。だが太陽から放たれる光は世界を照らすことなく、地上に集束し、まるでたつまきのように一本の()となっていた。

 それを為したのは間違いなくかの天使。柱の中心にてその気配を感じ取った。

 

「光……いや、違う。熱が奪われているのか、あの天使に?」

 

 祐一の言うとおりだった。家々の屋根や欄干に目を走らせれば、まるで冬至が唐突に訪れたかのようにそこかしこで霜が降りはじめ一帯を覆い尽くそうとしていた。確かに季節は十一月で冬が近づいている季節だ。下降気流が起きたか氷河期でも現れたようなこの寒さはあり得ない。 

 だからこそ祐一は思い至ったのだ。天使は「光」だけでなく「熱」さえも奪っているのだ、と。やはりあの『まつろわぬ神』も慈悲深い奇跡を齎す存在では決してない、祐一は奥歯が砕けそうなほど噛みしめた。

 

「あいつ……あんなもんを集めて何をやるってんだ……?」

『知らぬ。が、あの集束している場所に燻る気配は神の新生……神が生まれる時の気配に似ている』

「神の、新生だって……?」

 

 叢雲からの応答はなかった。彼も判らないのだ……あの黄金の天使が何をしようとしているのか。スキール音を鳴らして屋根づたいに飛び移ってホーネットを疾走させる。

 地上に近づいたことによって街の様子はよく見えた。熱はありとあらゆるものから奪われていた。つまり、祐一は神殺しとして抵抗力があるため何ら変わらず活動できるが……どうやらただの人間たちはそうではないらしい。おびただしい数の人間が、そこかしこで蹲って苦悶の表情を浮かべながら凍り付いている。

 

「……………………」

 

 けれど祐一はすべてを無視して駆け抜けた。何万人の人間が寒さに凍り付こうと、凍える子供が倒れていても、勝てばいいと……そう言い聞かせて。

 ───ブォオオオオンッッッ!!! エンジンを一気に吹かして走り出す。

 ここで考えてても状況は変わらねぇ! なら中心に行くしかねぇだろ! 戦いで沈思黙考するなど愚の骨頂だと判っていた。だから祐一はふたたび空を飛翔し、神速で渦中へ向かう。

 予想に違わず竜巻……いや、焔の柱は凄まじかった。まだそこそこの距離があるというのに高い耐性をもつブレザーがちりちりと焼けはじめていた。だからなんだ! 眼球の水分が急速に失われようとカッと目を見開いて、怯むことなく前に進んだ。

 

「永生たる天空の蒼より降りし誇り高き狼よ! 我が手足となり、我が道先を示せ!」

 

 言霊を放って、呪力を燃やす。エンジンの駆動音をかき鳴らし、排気ガスが吹き上がる。

 この権能は騎乗という点において常識ではありえない速度や技量をもたらす……つまり走りさえしていればどこまでも加速できるのだ。

 祐一は加速した。柱を中心にして円を描いて流星のごとく。猛禽よりも軽快に、そして雷光の如く素早く。その範囲は一周するごとに外皮を削るように狭まっていき、速度も危ういほどに跳ね上がる。ジェット機なんて目じゃない速度によって生みだされた衝撃波が街へ落ちては余波をもたらす。窓ガラスはすべからく割れ、街灯も弾け飛ぶ。

 遂になにものも視認できない一条の銀閃となり───今! 己が出せる最高速度に達した瞬間、『まつろわぬ神』のいるであろう橙の柱へ突っ込んだ。

 神速での突撃というシンプルだが強力な一撃。

 大きな溜めが必要という欠点はあるが祐一が現状放てる最強の一撃は隕石が衝突するエネルギーにも匹敵し、柱ごとあの天使を磨り潰そうとする。

 だが……

 

「ぐああっ!?」

 

 柱を眼前にすると途端に温度が跳ねあがった! あまりの熱量に思わず悲鳴を上げる祐一。摂氏一億℃はあるという太陽フレアにでも巻き込まれた熱さは、いかに祐一でも耐えがたく堪らずハンドルを切って、空の彼方へ身を投げた。

 けれど、その判断は間違ってはいない。なぜならあのまま突き進めば肉体は跡形もなく燃え尽きていただろうから。現に柱の方へ突っ込んだバイクはドロドロに溶解してしまっている。それこそ()()()()に灼かれたトレーラーと同じように。祐一も無傷では済まなかったブレザーは焼け焦げそこかしこに穴が開き、顔半分が焼け爛れて眼帯が落ちた。

 失敗した……。畜生、どうすればいい!? 

 落ちた眼帯を握りしめ、ジクジクと絶え間なく痛みを送ってくる痛覚を無視する。こうして手をこまねいている間にも状況は刻一刻と変化していくのだ、かまってられない。

 今もまた新たな現象起きた……空に鳥のような(イコン)が浮かび上がる。それだけではない。見れば橙に輝いていた柱はさらに変遷していく……夕刻のあたたかな橙から底冷えするような蒼へ。

 そして天高く立ち昇っていた柱は球体へと形を変え、それはさながら蚕の()ようで、円形に形作られた()のようで、途方もない焦燥感が背中を舐めた。

 危険だ、危険だ、危険だ。警鐘が鳴り止むことはなく焦燥感に知れず拳を固く握りしめていた。

 そもそもあいつは何の『神』なんだ? 

 疑問がゆらりと落ちてきた。無色透明のかげろうの剣、呪力を奪う瞳、ウルスラグナの権能を封じる言霊、何十もの翼持つ天使……。点としての要素は浮かべど線となることはなく、答えは遥か彼方にあって見えることはない。

 こんな時におっちゃんがいれば、答えを教えてくれたのだろうか。寿とラグナが居ないこの状況は両腕をもがれたも等しい気持ちだった。

 知らずのうちに噛んでいた指から血が流れた。焦燥感ばかりが背筋をつたわる。熱波だけではないひどい喉の渇きを覚えた。

 

 どうする……。いまだ打開の糸口は見つからない。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───人類に残された時間は限りなく少ない。

 とある『まつろわぬ神』がその確信を得たのは地上に顕現してすぐのことであった。地上に現れてより、己がもつ見えぬ者なしの眼で世界を俯瞰し、得た情報は惨憺たるものだった。

 ……暗黒の深淵におとされたサタン、静謐な雷光を騒擾するベリアル、昼を弄ぶ黒衣の混沌王……世に知られた悪魔どもが跋扈するなんともおぞましく暗澹たる晦冥の世界。昨日までは牧畜が草を食んでいた豊穣の地も、日を跨げば災禍と死屍に埋め尽くされ鬼哭啾啾とした大地へ様変わりする惨状に、滅びの時は近いと確信を持って言えた。

 そして地上に顕現し、この窮状を打開する策を求めていた時"啓示"は訪れた。──騒乱を鎮める『救世主』を呼び、災禍の息の根を止めよ、という啓示が。

 

 それからずっと頭蓋のすみにこびり付いて踊る『救世主』の文字。お前が暗黒の時代を迎えた世界の露払いをせよ、という世界の言葉に他ならないと己が此処に遣わされた理由を識った。

 ならば疾くいにしえの冠を捧げ、あの御方を招聘せねばならない。そう『まつろわぬ神』は……黄金の翼もつ天使は独自する。

 その為には『火』が必要であった……かつて光明の盟主であった()()()たる『火』が。──しかしそれも揃った。ならば、いまだ周囲で鬱陶しく舞う羽虫を焼き払い、いと高き方のもとに昇る狼煙を上げねば。

 

 破滅の時は、刻一刻と迫っていた。

 



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SACRIFICE

「──来たれ奈落の軍勢ッ!」

 

 神殺しの肉体でさえ耐え切れない熱を持つ難攻不落の卵を前に、ついに攻略が糸口を見つけたのか祐一が口訣を結ぶ。

『神鞭の騎手』のもう一つの側面が浮かび上がり、四方八方から地獄の扉が現れ、人外の軍勢が姿をあらわす。しかしこの権能を発動するには満たさなければならない……大多数の敵が存在し、且つ、その同数しか召喚できないという条件を。

 だが目の前にいる敵は天使一人だけ、通常なら不可能……けれど祐一は軍勢を召喚した。そこかしこにいる民衆すべてを敵と認識することによって。常の彼ならば絶対に認めないと断言できる、窮状を脱するためのなりふり構ない策であった。

 そして呼び出された軍勢の数は、およそ百万。呪力がゴッソリ持っていかれたが構わない。先刻の一点突破が駄目だったなら圧倒的な物量で叩く。

 それが祐一の考えであった。

 

「───撃て!」

 

 祐一の号令に従い百万を超える軍勢による手によって矢が、砲が、飛礫が、次々と繰り出される。空を覆い尽くさんばかりの圧倒的で一方的な攻撃。

 ……だが祐一自身でさえ近づけなかった超高温の卵だ、そう易々と攻撃が通る訳がない。触れる以前に近付いたそばから融けて消えた。

 チッ、これもダメか……。当然の如く一筋縄でいかない窮状に、祐一はこれまでの戦いにヒントがないか反芻していた。

 ウルスラグナとヤマトタケルの戦いからヒントは得られなかった、ならばチンギス・ハーンとの戦い……あれはどうだったか。あの戦いの最中、『白馬』を行使した攻撃はいま思い出しても苦笑いしてしまう方法で切り抜けられた……そう、太陽ごと呑み込むという手段で。

 と、そこでハッと思い至るものがあった。いま眼前で難攻不落の要塞のごとく構えるものの大部分は太陽の光を奪ったもの……そう、あの卵も元はと言えば"太陽"なのだ。ならば……

 

「叢雲」

『確かにできる、(オレ)の力添えがあればな。しかし(オレ)を介する事で(オレ)という『鋼』の性質に引っ張られる事になる。あの焔を呑み込めば露と消えるぞ』

「鋼の弱点は火、か。……なぁそれなんだけどよ、あの卵みたいなのの中身は『鋼』なんじゃないのか?」

『どういう事だ』

「だってあの天使も『鋼』なんだろ? あいつが何かを生み出そうってするなら、そりゃあ似た存在になるんじゃないか?」

『む』

 

 それにあの灼熱の渦を見てとって思ったのだ、あれは産湯のようなものではないかと。強い鋼を生み出すには熱が必要、それは『鋼』という強力な神性を持った英雄神であろうと……いや、だからこそ逃れ得ぬ宿命なのだ。

 祐一はそれを直感で理解していた。それは彼がこれまで幾柱もの鋼の英雄たちと鎬を削ってきたからこそ得る事のできた答えだったのかもしれない。

 

『……鋼を融かすのは火だが、鋼を育むのもまた火、か。なるほど盲点であった、一考の価値はある』

「そんでお前の力を借りれば…………どうだ、行けそうか?」

『やってみなけれ分からん。が、おもしろい。出来ぬとも言わん』

「それだけ聞ければ十分だ。合わせろ」

『応』

 

 行動は早かった。

 

「我が眷属よ!」

 

 祐一の一声で卵を囲む様に布陣していた人狼たちが一点へいっせいに駆けだす。百万の狼たちが寄り集まり、一匹一匹が一つの細胞となって、一体の大巨狼へ。その威容は北欧で謳われたフェンリルさながらで、あの卵さえ一息に呑み込みそうなほど。

 ……だが、このままでは無意味に終わる。だからここでひと手間加える。

 

「爰に須佐之男命、国を取らんとて軍を起こし小蝿成す一千の悪神を率す!」 

 

 彼らが行使しているのは叢雲の持つ模倣の権能……ヤマトタケルへ最後の攻撃を叩き込んだ時にも見せた模倣の権能を使ったのだ。祐一のもつ権能を神刀に()()()()事で変化をもたらす。

 

「一千の剣を掘り立て、城郭に楯篭もり給う──」 

『応! 是所謂、天叢雲劔也! ちはやぶる千剱破の鋼なり!』

 

 叢雲と祐一が朗々と言霊をひとつにする。すると銀の毛並みを持った大巨狼は瞬く間にその姿を変化させ黒曜の毛皮もった漆黒の狼へと変貌を遂げた! 

 黒曜の狼となった大巨狼の大咢が開き、そして───嵐が訪れた。

 まるで重力嵐(ブラックホール)。大巨狼の咢を起点とした大旋風が巨大な卵へたどり着くと、かつてチンギスハーンがそうしたように引き込み、呑み込み、嚥下していく。

 祐一と叢雲はかつて太陽を呑み込んだチンギス・ハーンをイメージしながらそれを模倣、アレンジし、太陽ではなく『鋼』を呑み込む権能へ変化させたのだ。

『神鞭の騎手』はチンギス・ハーンが持つ戦闘神としての権能であり、太陽神として限りなく薄い。ゆえに叢雲が力を貸さねばならなかった。

 しかしそうする事で『最源流の鋼』たる天叢雲剣という神性に引っ張られるのは当然であり、そして鋼の弱点は「火」。

 接近すれば太陽の温度にも匹敵する卵をそのまま呑み込めば融けて消えるのが必定。しかし、中身のまだ神となって居ない『鋼』だけを呑み込めば、あるいは。

 それが作戦の全容であった。

 博奕ではあったが状況は好い。このまま順調にいけばあの天使の目論見を阻むことができる……そう祐一が口角を吊り上げた時だった。

 ───りぃぃぃん。

 鈴の音が鳴るような透きとおった音が祐一の鼓膜に届いたのは。

 ハッと音の方へ視線を巡らせ……「卵」の頂点から高速で何かが飛び出してきた。祐一はそれを見てとった時、嘗てイランで邂逅した『鳳』のごとき神鳥が現れたのかと錯覚した……けれど違う。あれは敵だ。仇敵だ。───黄金の翼持つ天使が飛び出したきたのだ! 

 

「悪あがきを……するなァ───ッ!」

 

 天使から放たれた大音声がプラチスラヴァを震撼させる。同時にその逞しい剛腕が大巨狼に向けてふり抜かれた! 

 

「う、ウソだろ……」

 

 祐一が思わずそう漏らすのも無理はなかった。その一撃の前に、黒曜の大巨狼は跡形もなく粉砕されてしまったのだから。

 もうもうとわだかまる土煙が晴れ、現れたのは光輝に満ちた容貌魁偉。依然として神々しくある天使であった。しかし以前と打って変わってその表情は鬼気として恐ろしげなもの……仏教の明王のごとく怒髪天を衝くという言葉がこれ以上なく当てはまる彼は羽根を広げると一直線にこちらへ飛翔してきた。

 音速を超える速度はすぐさま祐一を捉え、右拳が放たれる。祐一には戦艦から発射された砲弾にしか思えなかった。泡立つ直感に従いギリギリで躱した祐一だが纏う拳圧によってたやすく吹き飛ばされた。

 クソっ! 今は『駱駝』も使えねぇ! マズいぞ! これ以上なく追い詰められている自分にみすみすここまで追い込まれた自分に、そして打開策すら用意できない己に、怒りが沸いた。

 ふざけんな! 神は殺す! 俺がやらないで誰がやる! 

 意志を横溢させ、それがきっと撃鉄。意識がガラリと切り替わる。心眼の開放。次いで、武の〝極致〟へ一足飛びに到った。

 ふっ飛ばされた祐一に追撃をかけた天使が、徹甲弾じみた剛腕の次に靭やかな蹴りを繰り出した。寸毫でも触れれば肉は削げ、細胞から粉微塵にされる致死の蹴り。しかし祐一はそれを"容易く"と形容していいほど流麗に受け流した。

 

「この私に徒手空拳を挑むというのか! 愚かだなお前は!」

 

 祐一は最後まで耳にする事なく、そして言葉ではなくカウンターによって返答とした。鋭く荒々しい手刀で。底冷えするほど冷たい手刀は眼前の敵を捕らえ鋼の肉体がザックリと切れていた。鮮血が舞う。

 これには天使も瞠目した。天使は『鋼』の一党であり、その肉体もまた鋼鉄並みの……いやそれ以上の強度を持っているのだから。

 

「鋼すら断つ斬鉄を、手刀で為しただと!?」

「俺の師曰く拳でできた事が剣にできない訳がないそうだ! ならその逆もありえて当然だろ!」

「粋がるな!」

 

 髪を逆立て初見時の穏やかさとは考えられないほど感情を発露させた天使は忌々し気に吐き捨て、ふたたび拳を放った。

 拳を避けると、続けて悪寒が走った。

 上空をみれば振り切ったはずの()()()()が天空から霹靂さながらに進撃していた。マズイ。

 悪態をつく暇もなく、祐一はあの権能をふたたび行使した。叢雲の言うように透明な()()()()も『鋼』に連なる剣だと言うなら……祐一は天使の一撃で巨狼から残骸と化していたものへ、意思を送った。

 すると残骸はふたたび万の眷属へと成り代わり、空へと駆け上った。眷属の群れは()()()()にすがりつくと身を溶かしながらも行く手を阻む。まるでオオスズメバチに取り付いて我が身もろとも殺そうとするミツバチの如く。

 あれ(かげろうの剣)はこれでいい、あとは! 

 眼前に迫った拳の大海嘯を見据える、あまりの速度と打数にまるで大波が陸を呑み込むかのよう。聖人に見紛うほど清廉な天使は、その見た目に反して優れた闘士だった。

 この苛烈さ、間違いなく『鋼』だ。祐一は拳を見切り手の平で受け流しながら、確信を抱いた。

 おそらく彼の神話のもととなった宗教は排他的な一神教、その姿を切り取り示したように彼もまた苛烈なのは当然であった。

 過去、数え切れないほどの異教徒どもを下し、世にはびこる悪意や悪魔を滅してきたのだ、武勇に秀でているのは当然と言えた。

 だが、祐一がそれらと同じように滅される理由はどこにもない。生来の負けん気と生き汚さで、天使の拳をくぐり抜けていく。

 

「我が刃を受け止め、私に血を流させたその武勇は認めよう! 私が滅してきた混沌王やデイモンにも匹敵する存在であると!」

「ああそうかい!」

 

 二つの拳風が天を咲いて地を割った。神を拳で弑逆した者と、神敵を滅して来た者と、超常の存在がぶつかり合い世界が砕け始めている。一呼吸の間に、何千、時には万を超えるほどの打撃が両者から繰り出され、中世の趣を残すヨーロッパの古都は急激に崩壊へひた走る事となった。

 およそ人間の位階から大きく外れた戦い……しかしその中でも祐一は善戦していると言って良かった。

 なにせまだ決定的な一撃を受けていないのだから。祐一も激しい攻勢に傷が増えていく一方だが、そればかりではない。小さいといえど天使にも着実にダメージが入っていた。彼の成長を思わせる快挙であった。

 

「──だが誤解しないで欲しいものだ。私は手心を加えている……君を殺すわけには行かないのだ。なにせ君はこの"招聘の儀"の要だからな」

「招聘の、儀? 要だと?」

「分からないだろう。それも当然だ。いいだろう哀れな君に冥土の土産としてひとつ私が得た預言を教えてやるとしよう」

「預言?」

「そうだ。その愚劣な耳に我が言葉を刻み込め……──()()()()()()()()()()()

 

 間抜けた声を出さなかったのはひとえに争いの只中だったからだ。訳の判らないことを言い出した目の前の仇敵に、思考が停滞してしまう。

 普通ならバカを言うなと切り捨てる戯言だ。……けれど、あの時から、パルヴェーズと戦っていた時から……その事を知っていたような気がして。

 反駁する言葉が浮かんでこなかった。

 天使が言葉を放ち、いつの間にかどちらともなく、拳を収めて睨み合っていた。

 

「理由は君でも察しがつくのではないか? 各地で自儘に活動する『まつろわぬ神』ども……これ以外の原因をおいて他にはない。

 そしてあと幾度かの月の満ち欠けをを経て、さらにこれまでの何倍もの規模で『まつろわぬ神々』は地上へ現れ、世界は終末へと導かれるだろう」

「何倍もの、規模だって……? 馬鹿が、信じられるか」

「フ、ならば神がなぜこの世に現れるか知ってるか。悪しき者よ?」

「知るか、俺が聞きたいくらいだ」

「そうだろうな。君たち、蒙昧なる人がどれだけ頭をこねくり回そうが答えは出ないだろう。───教えてやろうその理由を」

「………………」

「民衆の願いによって? いや、そんなはずがない。ならば天地星辰の運行による歪み? ……いや、いや、そうではない」

 

 小さく首を振り否定する天使。

 祐一は睨みながらも、天使の言葉に耳を貸すしかなかった。臨戦態勢を解くわけにもいかず無視する事もできない、そんな状況に陥っていた。

 彼が言葉を重ねるほど、声が、感情が、波打っていく。

 

「正解は──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。終末に向かう己を救う者を求め、そのために気まぐれに我々を呼び寄せているのだ」

 

 なにを馬鹿な。そう、一笑のもとに切り捨てられない説得力がその言葉にはあった。

 否定するにはあまりに見聞きした風聞は酷いものだったから。世界が悲鳴をあげて、救いを求めている……それは何ら不思議な事ではない。そう思えてしまうほどに。

 

「では『救世主』とは誰か? 世界を救済できる存在など少し考えればわかるだろう……世界を救済できるのは"世界を創造した存在"のみ──"天なる父"をおいて他にはいない。彼の御方を招聘する事こそ世界の意思なのだ」

 

 どこか上擦ったように天使が言葉を言い切れば、鼓膜をつんざくような歓声が飛び込んできた。視線をずらすと、どこに居たのだろうか? いつの間にか周囲は熱狂する民衆によって埋め尽くされていた。

 どうやら人々はあの演説じみた天使の言葉を余すことなく聴いていたらしい。

 けれど、天使は民衆に一切の関心を示すことはなかった。

 

「『まつろわぬ神』は己の欲望のままに世界を自儘に搔き乱す存在だ。地上に現われる事で己の定められた神話から外れようとするが、結局は些細な変化しか起きず、神話に縛れたまま、我が天なる父に帰依する事など決してない。

 ───そんな傍迷惑な者共はいない方がマシなのだ! 仰ぎ見るべき御方がたった一柱(おわす)ればそれでいい!」

 

『まつろわぬ神』はいない方がマシ。敵の言葉なれどその言葉は少なからず、いや、大いに共感するものがあった。

 天使のまぶたが完全に開かれ、紅玉の瞳が現れた。紅の双眸は祐一という存在をはじめて見咎めた。

 呪力を削られる! 咄嗟に呪力を横溢させ身構えたが、結局その時は来なかった。だけど己の来歴を……毛の一本、細胞の一つひとつまで舐めるように見透かされる感覚を覚えた。

 

「私の視えぬ物なしの瞳が教えてくれるぞ……君は持っているな? 私が古き盟主であった頃の象徴を。かつて、原初の光であった『私』に立ち返ることのできる道標を」

「! お前の狙いはまさか」

「黙れ、何も言うな、私が理解していれば十分だ。そう、今このとき、君が()()を持って現れた事こそ、主の思し召し……」

 

 悪寒が止まらない。祐一には、今からこの敵が何をしようとしているのか察する事ができた。

 己に宿る赫々たる光明を宿したものを、『ミスラの松明』を、訳の分からない儀式に使おうというのだ。

 

「今日この時! 天なる父をこちらへお迎えすることが出来る……! さあ、万民よ喝采せよ! 約束の日は来たれり!」

 

 天使の宣告と民衆の狂い切った声とともに再び火蓋は切って落とされた。天使が飛翔し瀑布さながらの乱打を放ち、弾かれたように祐一も縮地法で距離を詰めて応戦する。

 

「おおおッ!」

「ルァァアァアアアアアアッ!!!」

 

 五月雨じみた弾雨を、岩をすり抜ける流水の如く駆ける。当たれば致命となりうる攻撃を、"神殺し"としての戦場感と極まった心眼で見切り突き進む。だが偉躯の天使もさるもの、中空を舞う紙のように捉えどころのない祐一の急所を正確に見抜き、確実で効果的な打撃を繰りかえす。

 拮抗状態にある両者だが、先ほどとは違い全力で打って出た天使が自力で勝り、僅差とはいえ祐一を押していた。

 

「果てよ"神殺し"! 人類と世界の『救世主』となるのはこの私とあの御方! 貴様はそのための礎となれ!」

「んなの認められっか!」

「愚かな! ならばこの私が引導を渡してくれる!!!」

 

 一瞬の迷いと些細なミスが命取りの両者にとっては薄氷を歩く事と同義である絶戦、しかしながら鉄と鉄が打ち合わされるように激しさと温度も増していく戦いのなかで、一方が大きく動いた。

 動いたのは黄金の羽根持つ天使。彼は大願成就を目の前にして血気に逸ったか、感情の昂ぶりにまかせ乱打を捨てると、拳から焔の権能を呼び水として凄まじき劫火を両腕から発射した。

 今回の戦いにおける最高火力の投入。しかしそれは祐一にとって、何重にも織り込まれた豪奢な絨毯が途端にほつれたような歪みであり、敵手が初めて見せるそれは紛う事なき隙に見えた。

 直後、"神殺し"としての呪力の耐性を限界まで引き上げる。これから行う技は、故郷の友人がたわむれに見せてくれただけの遊びのような技。けれどそれを()()に出来なければ己は灰と化す。

 いつもの事だ、祐一は口角を吊り上げ、腰を深く落とす。そのまま迫りくる劫火へ向けて手を伸ばした。

 猛火の勢いに、腕の皮膚は一瞬で焼け焦げ、あまりの熱量と激痛に意識が飛びそうになる。だが祐一はひるまなかった。猛火を手に受けて、そのまま回転。放たれた猛火を散らしていく。

 ──技の名を、廻し受け。手遊びか机上の空論でしかないそれを、彼は実戦で成功させた。

 これにはさしもの天使でさえ目を剥いた。それは決定的な隙だった……常人でさえ好機と思えるほどの、必殺の間隙。

 

「叢雲ォ!」

 

 虚空より漆黒の神刀を呼び出す。皮膚がただれ骨すら焦げた手で、愛刀の剣把を掴み、大上段に振りかぶる。天使はそれをただ見ている事しか出来なかった、再三言うが普通の人ですら反応できるほどの絶対の隙なのだから当然だった。そう──()()()()()()()()()()

 

「──危ない!」

 

 年若い声が戦場に響いて、既知の少年……ジズが飛び出してきた。結果的に祐一はこの絶好の機会を逃す事となった。これが知らない誰かなら……いや、結果は変わらなかっただろう。

 結局祐一は、振り下ろすはずの剣を、止めてしまった。

 

 形勢逆転したのはその瞬間──趨勢が決したのもその瞬間であった。



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鬼哭啾々

 一瞬だった。天使は割り込んできたジズを風圧で吹き飛ばすと一気に距離を詰め、祐一の四肢に秒間およそ六万五千五百三十六発の拳撃叩き込んだ。

 ……祐一はそれを余すことなくその身で受ける事となった。

 

「けはっ……」

 

 掘削機がコンクリートを割るような甲高い音が止んだあとには、抜け殻のようにグッタリと襤褸雑巾となった祐一が出来上がった。力を失った祐一をゴミでも捨てるように投げ、そのまま踏みつける天使。

 

「過程は気に食わないが、まあいい……。さあ仕上げだ」

 

 言葉が聞こえた瞬間、頭を掴まれた。

 

「ぐぁがっ、ガガガ!?」

 

 その瞬間、まるで幽世で無理やり霊視を行ったような、途方もない頭痛に呻吟をあげた。

 嗚咽によって血とともに歯がいくつか地面に転がった。

 どうやら頭へ直接、映像を流し込まれたらしい。……だが、おかしい。まぶたの裏に映し出されたものは全て既知のものであったのだから。

 その映像を視たのは祐一が"神殺し"となる前のこと……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と酷似したものだった。

 なぜ、これが……? 抵抗する力を奪われどうしようもなくなった祐一は、そんな疑問を浮かべるしかできなかった。

 

「それは幽世にたゆたう過去、現在、未来、あらゆる記録のうちでも"未来"の出来事。そして幽世に漂う未来の中でも、"最も確度の高い未来"のものだ。……そう、いま私が見せた記録は間違いなく起こりうる未来なのだ」

 

 否定の言葉を返すには、これまでの風聞が重石のように蓋をして口を動かす事ができなかった。

 苦悶の声を漏らしているのは祐一だけではなかった。その映像を……いや、"霊視"を見せられたのは祐一だけではなかったのだ。

 そこかしこに居た只人もまた、無理やり霊視を与えられのたうち回っていた。……敬虔な信徒であるジズでさえ。

 

「あ、うぁ……痛い痛い……。お、お助けください……天使様……」

 

 どろりと穴という穴から血を流し、足元で懇願するジズ。今気づいたと言わんばかりに視線を落とした天使。その視線は鬱陶しい小蝿でも見るかのようにひどく冷たい。

 これまで浮かべていた人々に安らぎを齎す笑みは、未開の地に教えを広めにきた宣教師さながらの笑みは、どこかへ消えていた。

 

「お前は本当に鬱陶しい奴だったよ。ただの()だと言うのに私の周りをうろちょろと……この聖戦にさえ首を突っ込んでくるのだから呆れる。まあそれはお前たち人間どもすべてに言えることだがな」

 

 呻吟ばかりがあたりを覆うこの場所で、通りの良い彼の声は誰の耳にも届いた。いっそ清々しいほどに。呻吟や苦悶に、悲痛な嘆きが加わったように思えた。

 

「お前たちに奇跡を与えたのは成り行きだ。招聘の儀の為には生け贄が必要だったが、贄に相応しい地母の裔たる乙女などこれまで『神に連なる者』には閉ざされていたこの世界では望むべくもなかったからな。仕方なく与えていたにすぎない」

「成り行き……贄……そんな……」

「"質"が駄目なら"数"で補うしかない。お前たちはその為に集められただけの存在だ。奇跡はそれを呼ぶ為の誘蛾灯に過ぎん」

「う、嘘でづ……!」

「嘘なものか、こうして百万を超えるほどお前たちは群がって来ただろう。……まったく鬱陶しい。お前たちに纏わり付かれ何度叩き潰そうとしたか分からない……だがそれも終わりだ……」

 

 紡ぐ言葉のひとことが重くのしかかる……。今までの能面がまったくの嘘であったかのように歯列をギラリと剥き出しにし、澄んだ湖面さながらであった気配も荒ぶる雷雲の如く。悪魔、と呼んでも違和感がないほどの凶相がそこには浮かんでいた。

 紅い二つの眼光が祐一を射抜く。祐一の烈火の眼差しとは似て非なる双眸。……そこで初めてコイツが己を見たのだと気付いた。今までの視線は、自分を見ているようで見ていない、祐一の大嫌いな目だったのだ。

 

「私の持つ『剣』と君の持つ『松明』があれば、全知全能たる"かの御方"を招聘出来る! 招聘を願う『私』と『人柱』、『剣と松明』があれば、後は全能たる御方が自ら、お出向きになられるだろう!」

「や、やめろ……──やめろぉ!!!」 

「───ありがとぉぉうッ! 君がおかげですべての鍵が揃った!!! 礼を言わないといけないなァ"神殺し"ィ!」

「お前はッ悪魔だッ!」

 

 血を吐きながら言葉をぶつける。ボロボロの身体に鞭打ってがむしゃらに暴れ、天使の拘束から逃れようとする。

 

「違うなァ!」

 

 だが暴れる祐一に一切構うことなく天使は彼の顔面を強かに殴り飛ばした。

 もはや人類側にとって状況は絶望を越え、暗澹という惨状だった。豹変した清廉な天使は哄笑を上げ、地面を這っていたジズを掴んでは空に放り投げた……天まで届けと。

 

「『救世主』だよ……───人類のォォォッ!!!!!」

 

 ───同時、人間はすべて赤い花となった。

 同時に、渦中である祐一たちを中心に莫大な呪力の爆発。変化は顕著だった。発生したエネルギーは寄り集まって卵と同化するとと大きく胎動し、たたずむ卵は揺らいで「蒼」から中天に輝く太陽さながらの「白」へと変遷する。

 

「ぐ、……ぐっぐぁ……ぐぅうう、ぉぉおおおおおおおおおお───!!」

 

 その惨劇を見ながら、ただただ無念の声を上げるしかなかった。

 また! また! 悲劇を止められなかった祐一は自意識が揺らぐほどの無力感に苛まれた。

 まるで刻む時が永遠になったかに思えるほどゆっくりした時間。走馬燈を見ている時だって、もっと時の流れは早かった……そう思えるほど拷問じみた時間。 

 

 声が聞こえたのは、そんな時だった。

 

 ──力を貸そう木下祐一──

 

「その声は……カズハズ……!? なんでお前が……」

 

 朦朧とした意識の中で、既知の声を聞いた。カズハズの真意が分からない祐一は覇気のない口調で問い返した。

 

 ──今こそ先日の約束を果たそうと言うのだ。やつがれもあの者による『救世』は本意ではないゆえ……──

 

「……! まさかあいつを倒してみんなを救う方法があるのか!?」

 

 ──それは叶わぬ。それが出来るのは全能の神のみ。やつがれはただこの招聘の儀を搔き乱す事のみ──

 

「クソっ! だったら、なあ、この招聘の儀って何なんだよッ!」

 

 ──招聘の儀は『まつろわぬ神』を地上へ降ろす秘儀にして、およそ三つのものからなる儀式……狂信的に『まつろわぬ神』の招来を請う"司祭"と、神に"所縁のあるもの"、そして才能のある"巫覡"……これらを揃える事でこの儀式は成る──

 

 ──司祭は当然、あの最も神に近しい黄金の天使。そして最も近しい天使であるが故に、所縁のあるものもまた天使なのだ。

 最も神に近しいがゆえに、原初の彼奴が生誕した逸話でもあるあの(岩石)からでも彼の神は孵える事が出来る──

 

 ややこしいがつまり、まつろわぬ『天使』も招聘する『神』も、ひどく近しい存在なのだという。あの天使が生誕した逸話……それをなぞれば招聘が可能なほどに。そして。

 

「最後の巫女、ってのは……まさか……」

 

 ──そう、この都市に住む人間全てだ。彼奴はこの一帯の人間全てに啓示を行き渡らせ観せる事で一時的に巫覡としての位階を引き上げたのだ──

 

「ふざけんな……。そんな無茶苦茶な事、なんでできる……」

 

 ──無茶苦茶、そう、この無茶苦茶で穴だらけの儀式だからこそ介入の余地がある──

 

「介入……?」

 

 ──この儀式の要は狂気的に願うあの天使。ゆえにそこを突けば、砂上の楼閣のごとくに儀式はまたたく間に瓦解する。

『ミスラの松明』はあの天使が原初の光に立ち返るための道標……そして『ミスラの松明』を内包する者として組み込まれたおぬしは搔き乱す事のできる唯一の存在──

 

「ッやれるんだな! 俺が! あのクソ野郎の目的をぶっ壊せるんだな! 教えてくれカズハズその方法をッ!」

 

 ──猛れ。祈れ。激情のままに。それだけでいい……己しか見ていない神に()()を届かせるのだ──

 

 そこでカズハズの声は終わった。

 

 残ったのは俯き、黙して瞑目する祐一だけだった。小さく、小さく震えていた。つまりこれは凪、嵐を起こすための。津波を起こすための、引きの波。

 

「もうこれ以上…………」

 

 フツフツと、胸中にわだかまる灼熱のマグマがとぐろを巻いていくのが分かる。

 自身の中にある固い殻を食い破って粉々にして掻っ攫うように。己を繋ぎ合わせる大事なくびきを蹴飛ばすように。

 ──祐一は後先も考えず、盛大にブチ切れた。

 

「俺とパルウェーズが守りたかった物を、奪ってんじゃねぇぇええええええええ!!!!!」

 

 まるで火山の大噴火。咆哮とともに鋭く巨大な意志が渦巻き、瞬間、自我すら押し流しかねない感情の昂ぶりが司祭たる天使の狂気的な祈りに影響を及ぼす。

 その奔流を受け、卵が大きく胎動する。中天に輝く太陽さながらの「白」から、アネモネが花開いたようなへ「緋色」へ変遷していく。

 

「な、なんだこれは!? ……貴様の仕業か神殺し! 一体なにをしたァ!」

 

 異変にやっと気付いた天使が言葉を投げかけて来るが時はすでに遅く、盆から溢れた水のようにを一度起きたものは覆らない。……その変化は卵の頂点から瞬く間に広がっていき。

 

「よせ! やめろォ! ──それに触るんじゃなぁい!!!」

 

 あの天使が狼狽え、色を失って飛んでいく。変化の源は祐一自身なのだ、彼を止めればいい……それなのに平常心を失った天使は翼を広げて、卵の方へ直進する。

 滑稽だった。傍から見ていた祐一が憐憫の情さえ覚えるほどには。

 地面に打ち付けられながらも、呆然と祐一は呟いた。

 

「や、やった……のか……?」

「──ああ、()()()()()

「え?」

 

 現れたのは、カズハズだった。……だが祐一はすぐに分からなくなった。なぜならその身に纏う雰囲気はまったく別のものだったから。

 ……瞳に迸る強烈な意志はまるで、祐一を上回るかと見紛うほどで。以前の草枯た雰囲気はかけらもなく、己の決めた道をどこまでも突き進む「求道者」さながらであった。

 そう、外観は枯木じみた老人だというのに、()()()()()()()()ように強烈な意志を横溢させている……それこそ『まつろわぬ神』にも匹敵しうるほどに。

 ゆえに祐一は真っ先にこれはカズハズではないと確信を抱いた。

 

「お前、誰だ……?」

 

 カズハズの姿をした何者かは、その問いに答える事はなかった。

 

 カズハズの異様な雰囲気に圧倒され気付かなかったが、彼は一人の見た事もない『まつろわぬ神』を伴っていた。

 その神もまた傑出していた。

 一目で判る、コイツは『鋼』だ……それもとびっきりの『最源流』。

『まつろわぬ神』は見事な白髪を結わえて簡素な鎧を身に纏う、これまた齢を重ねた老人であった。カズハズとは違って武人のようで、しかし、その身はどうしようもなく憔悴に塗れていた。

 いの一番に目に付くのは巨大すぎて余りある片手に握った大剣だろう。大剣の刀身は目算ではあるが祐一より背があった。長く、太く、鋭く、一刀のもとに大海ですら縦に割って斬れそうな大剣。

 彼の体軀は大きい、だが衰えている。かつては容貌魁偉、巨象のような体格にして獅子さながらの雄々しさを兼ね備えた、世に二つとなき肉体であったであろう名残を残すのみだ。

 彼もまたカズハズと同じく疲労しきった肉体を、類稀な意志で支えていた。表情には拭いようのない憔悴の跡、だがそんなもの歯牙にもかけぬ強烈な自我。

 彼は間違いなく『鋼』である……だが錆び切っている。それが祐一の第一印象で、目だけは、その眼光だけは、こちらを呑み込まんばかりに爛々と輝いていた。

 例えるなら、自我の怪物。それが二柱も現れたのだ。

 年経た老英雄神が件の「卵」を見やりながら口を開く。

 

「善哉、善哉、いい塩梅じゃ。──うんじゃ、始めるかのう」

 

 言い終わるが先か、老神を中心にして神力と闘気が爆発した。同時に、老神は剣を振り上げて名乗りを上げた。

 

「呵呵ッ! いざ参る、我が名はロスタム! 白髪のザールの息子にして蛇王ザッハークの玄孫なり! ゆえあって……一太刀馳走仕る──!!! 

 

 横一文字の一閃。

 素晴らしい剣筋であった。多少剣に通じる祐一が状況を忘れて見惚れてしまうほどには。今まで斬り結んできたエイルやチンギス・ハーンにヤマトタケルでさえも未だ辿り着けていない剣の極地がそこにはあった。

 祐一の激情剣など子どものチャンバラにしか思えなくなるほど極まった剣の冴えに怖気が走る。それをあの老神はドアノブをひねって開けたかのように難なく繰り出していた。剣の一撃は、刀身がとどく範囲を当然のように超えて眼前に鎮座していた卵へ直撃──煌めく白刃によって横一文字にきれいに両断されてしまった。

 太陽エネルギーと大量の人間を贄として形作られていた卵は力の塊だ。些細な外因でも弾け飛ぶのは危うさを秘めていた。

 その上、老神の斬ったものは目に見える物体だけではなく天使と卵の繋がりさえも綺麗サッパリ両断してしまっていた。制御できるものは誰もいない。

 一瞬の静寂を挟んで起きたのは、人類史でも類を見ないような強烈な爆発。ゆえに……

 

 その日──「奇跡の国」は滅亡した。

 

 

「……ああ、また俺は………………」

 

 白痴が根差した無音の世界がどこまでも横たわっていた。

 祐一はそれをどこか遠くの出来事のように認識しながら、自分がまだ生きていて、さっき起こった出来事にさめざめと悲しんでいる自分がいることに気付いた。

 悲しみの源泉は、いまは起きた惨劇にではなく。止められなかった悲劇に、手から滑り落ちていくものに……まったくココロ動かされない自分に、悲しんでいたのだ。

 まるで自分が冷めた鉄のように温度の無い人間になったようで、それが酷くかなしい。

 己が生き延びた理由はすぐに判った。ラグナが封じられていた権能を無理やり動かして異界から出現し、祐一を守ってくれたのだ。身体の半分が損壊した黒い獣皮は見覚えがあってすぐに悟った。

 後ろを振り返れば緋色に染まった瓦礫の都。

 前を向けば大きく体積を減じた卵と、自失した天使が倒れていた。

 そして……ロスタムと名乗った剣の老神と、カズハズだけが何も変わらず立っていた。

 あまりの惨状に祐一は何度も地面を殴打した。

 

「何なんだよこれ……! 神様ってのは何なんだよ……! 人間を殺してそれで満足なのかよ! 神様ってのは人の願いを叶えてくれるんじゃないのかよっ!」

「お前が言ったんだろう。()()()()()()()()()()

 

 答えたのはカズハズの姿をした何者か。一国を滅びへ導いた者であった。犬歯を剥き出しにして堪らず祐一は詰問した。

 

「お前だなッ! お前がこんな事になった原因なんだなッ!? 人間を、俺たちを、そんなに滅ぼしたいのかよ! お前はなんなんだ……なにが目的なんだよ! 何者なんだよッ!」

「──救世主

 

 は、と声が漏れてしまった。あまりにも埒外な言葉に巡っていた思考が事故を起こしたらしい。二の句が継げず、冷厳な眼差しを向けてくるものへ視線を返す事しかできなかった。

 

「信じられんようじゃが真の事ぞ、"神殺し"。まあー、儂はこやつほど真面目ではないゆえ、勝手気ままに物見遊山で来ただけよ。"ロスタム"と波斯の地で称えられた戦士がいると聞き及んで一目見ておきたかったのもあるがの」

「ロスタム……?」

「応、自身の名で称えられた戦士がいると聞けば興味が湧くのは尤もなことじゃろう?」

 

 陽気な雰囲気から一転し、ロスタムと名乗った老神に酷薄に笑った。虎が牙を剥き出しにしたような。

 

「しっかし情けないのう……そぉーら、気張れよ若造ぉ? "ロスタム"という《廻る天輪》に操られた戦士の名を冠したのじゃ。おぬしに降りかかる苦難はまだまだ始まったばかりぞ? それ、景気付けにもういっちょ足してやろう」

 

 言い切るが早いか、ロスタムはいつの間にか目の前に立っていた。いつ足を動かしたのかも、どう動いたのかも、全く見えやしなかった。

 ロスタムは満身創痍で動けない祐一の懐に手を突っ込むと、ある物を取り出した。

 それは、一枚の羽根。とある軍神が少年のために遺した二つとなき(よすが)であった。

 

「お、おい……なに、を……」

「呵呵」

 

 ロスタムは軽く笑うと、巨大な剣を軽快な動作で振って羽根を真っ二つに切り落とした。ゆらり、と。半分になった友の遺品が落ちて来た。

 

「あ?」

 

 茫然自失とはこの事だった。あまりにも唐突で起きた出来事をうまく理解できない。

 忘我する祐一の事などすぐに興味を無くしたらしいロスタムは羽根を掲げて、灰へと変えた。それは狼煙、玄妙なる霊鳥を呼び出す天に届く狼煙。

 

「さぁってと。あれ()を運ばねばならぬでな、この羽根貰い受けるぞ。ま、真の羽根ではないゆえ完全にとは行かんじゃろうが……──そうれ、来ませいシィムルグよ!!!」

 

 ロスタムの呼び声に応えたのは一羽の巨鳥。イランで語られる心に平成をもたらす美しさをもった堂々たる霊鳥が天空の何処かより現れ出でた。

 

「我が願いを聞きとどけ給えスィームルグよ! 勇ましき鉤爪をもって全能者にしてあらゆる崇高の上に在す者を疾く運ぶのだ!」

 

 ロスタムに請われた霊鳥がけたたましくも美しい鳴き声を上げ、あの灼熱の球体を掴むとそのたくましい両翼にて持ち上げた。

 残骸といえどもとは鋼で巨大なだったのだ。それを重さを感じさせず持ち上げたスィームルグと呼ばれた神獣。さらに象の体軀をもったロスタムと枯木じみたカズハズも、悠然とした動作でスィームルグの背に乗ると霊鳥はなめらかな挙動で飛び上がった。

 その間、祐一はその背を見詰める事すらせず、ただただ、目の前に落ちて来た羽根を穴が空くほど見詰めているだけだった。

 爆発が直撃し、いまの今まで気絶していた天使が目を覚ましたはそんな時。

 ……目が醒めた彼は驚愕するより他になかった。自分が手塩にかけて創り出した卵を何者かが攫っているのだから。

 

「貴様ら! なにを!」

「呵呵、決まっとろうが。おぬしと同じ、この先に続く『救世』じゃよ」

「待てっ!」

 

 天使の言葉を一顧だにする事なく『まつろわぬ神』を乗せた霊鳥は凄まじい速さで飛び去った。速い。神速には届かずとも音速は軽く超えている。

 

「くっ、このままでは我が大願成就を為すことができん! そんな結末認めるものか!」

 

 それを良しとするはずもない。天使もまた両翼を広げ、空に飛翔し──

 

「どこへ、行く気だァ……ッ!」

 

 悪鬼が、覚醒した。

 いまだ祐一は傷付きうごけない。大地に四肢を投げ出したまま、しかし、その眼光は餓狼さながらに爛々と仇敵を睨み据えていた。必ず殺す。怨敵滅殺の激情を湛えて。

 

「カズハズもロスタムって奴も絶対に殺す……『まつろわぬ神』はみんな殺す……でも今は、今この時は……──テメェを真っ先にブッ殺してやるッ!!!」

 

 叢雲を握りしめて踏ん張り、杖にして立ち上がる。心は焔となって激していた。

 例え傷付いて膝を付こうと、心擦り切れ滅びに近づこうと、そして《廻る天輪》に奈落の淵へ落とされようとも、挫ける事のない黒曜の刃がそこには在った。



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戦士よ、戦え。

「黙れェ! 貴様にかかずらっている暇はない!」

 

 祐一が怨嗟の声をあげようと天使はさして気に留める事なくスィームルグを追い駆けようとした。

 当然だ、祐一はとどめを刺すまでもなくボロボロなのだから。しかしその判断は地上に現れてより、何の間違いも犯さなかった彼が犯した、最初で最後、そして最大の決定的な間違いだった。

 

「叢雲ッ! アイツを! あのクソ野郎をッ……確実に……完全に……撃滅できる策を! ──俺にくれッ!」

 

 勝利のために──因果と廻る天輪の反逆者は叫んだ。

 勝利のために──稀なる闘争と不運の寵児が希った。

 勝利のために──エピメテウスの落とし子が欲した。

 ひとえに勝利を。そして彼の佩いた神刀は静かに応えた。

 

『おぬしの持つ軍神の骸……それを使えば確実にあの天使を討滅することができる』

 

 叢雲の錆びきった声が木霊する。その言葉を理解するために、しばしの時を要した。

 

「むくろ……?」

『先刻、かの『鋼』に斬られた神具……おぬしが波斯の地にて殺めし、勝利の軍神が遺した"羽根"の事よ。あれは彼の神がもつ"導きの神"としての側面を形作ったもの……あの神具と(オレ)が合力すれば必ずや討滅出来る』

「───────」

 

 魂を削る選択の時であった。あの羽根は友の魂そのもので……友の魂は己の魂で。

 己の理性が脆弱な砂岩のごとく落剥していく。友が遺し、友の声を聞き、友の存在を感じ取れるものを……。

 大脳皮質の最奥でかすがいによって打止められ、オブラートで包んで、黄金に輝くあの日々を……あの旅のよすがとなるものを取り上げられるなどと──

 

「ッ構う、ものかよォ!」

 

 即答ではなかった。逡巡もあった。どこか投げやりな感情もあったのかも知れない。けれどもう、祐一は我慢ならなかった。

 何度も何度もすくったものは手のひらから零れ落ちていって。あの日から……人類の戦士となった日から世界は壊れていくばかりで、だと言うのにこの世にのさばる『まつろわぬ神』どもは一向に、減る事も、行いを悔い改める事もない。

 もううんざりだった。神の勝手を止められないのも、人が目の前で死ぬのも。

 だから、ここで、必ず殺す。友のよすがを無に帰そうとも。

 

『良いのか? あの羽根は完全に潰える事と……』

「俺に従え叢雲」

 

 返答はなかった。ただ、漆黒の波紋が揺らめいただけ。面積を減じた『ウルスラグナの鵬翼』がひとりでに浮いては湖面に雨粒が落ちるがごとく黒い刀身に溶けては消えた。真実、湖面に波紋が広がるように刀身が揺らめき、呪力が変容していく。

 そうする間にも天使の飛翔は止まらない。視力のすこぶる良い祐一でさえ視認が難しい距離。で、それが? 

 

「堕ちて、死ね。地獄で詫びろよ」

 

 祐一の血錆びた聖句。次いで───()()()()()。そう錯覚するほどの強風が崩壊したプラチスラヴァという都市を全方位から急襲した。

 颶風の原因は雨のそそぐ隙間さえないほどの黒い孔だった……広い空の彼方から此方までびっしりと埋め尽くす、黒い孔。指先でつぶせそうな孔。拳ほどの孔。大人が入れそうな孔。胎動する孔。落ちる孔。収縮と膨張をくりかえす孔。奈落の淵につながっているような億千万の孔であった。

 真実、それらは間違いなく奈落へつながっているのだろう……まるでブラックホールに呑み込まれるかの如く、強力な引力が嵐を作り、黒い孔へ瓦礫や車両がことごとく吸い込まれていく。

 風、風、風。孔、孔、孔。クジラが魚群を平らげるがごとく暴食っぷりを発揮し、四方八方あらゆるものを飲み込んで行く。

 

「こ、これは……異界に繋る孔か!? 再び邪魔立てするか悪しき者め! そんなにも欲するならば! 息の根をこの手で確実に止めてくれるッ」

 

 突如として現れた黒い孔と嵐に、瞠目し詰問する天使だったが原因が祐一であると悟ると、すぐさま方向を反転させ、撃滅しようと拳を構えた。だが、いつもならその素晴らしい翼の羽ばたきで瞬く間に距離を詰めれるはずの天使が、今はどうしたことか、全く前に進めてはいなかった。

 美しく力強い翼もむなしく空を切るばかり。そればかりか刻一刻と孔に引きずられて行く。

 一向にたどり着けない……いや、それどころではない。祐一へ向け飛翔していた天使は、いつの間にか吸引の力から抜け出せなくなっていた。懸命に黒い孔から伸びる見えない魔手から逃れようと羽根を降りしきる。

 

「ぐ、ぉぉおおお……ば、ばかな……!」

 

 あまりの吸引力に叫ぶ事すらできず全身を縄で縛されたような呻き声を上げる。けれどそれも短い時間。逃走は叶わず天使はついに黒い孔に捕らわれた。類まれなる膂力ももって足掻こうと、もはや意味はない。瞬く間に天使の身体は吸い込まれ、たくましい胸から下はすぐさま視認出来なくなった。

 

「"神殺し"……いま己が何をしているのか判っているのか……? 人類が助かる唯一の道を……それを自ら閉ざしてしまうのだぞ……!?」

 

 伏せた顔から白い息がけぶるとともに、小さな小さなささやき声が耳朶を打った。遠く離れて、騒音すら酷い有様なのに、言の葉が風に流されて、耳から脳へ埋め尽くされていく。

 

「赦さん……断じて貴様を赦さんッ! 貴様の剣の矛先に禍あれ! 暗黒に沈みゆく世界とともに穢れて堕ちよ! 民衆の怨嗟に塗れながら死を迎えよ! 貴様のすべてに呪いあれェェェ────!」

 

 憎悪のしたたる声を咆哮を上げ、こちらを紅い双眸で睨み据える姿は悪魔や妖魔の類よりも悍ましく恐ろしい。

 祐一はただただ気圧されるばかりであった。激情はより強い激情に呑み込まれる……妄執とも言うべき激情に。

 それを感じ取った瞬間、祐一の中で激していた感情が一気に氷点下へ落ちた。それは自慰したあとに来る虚しさにも似ていて……つまり祐一は醒めてしまったのだ。

 先刻、激情のままに強行した所業の数々が酷い後悔とともに伸し掛かってくる。

 重なり合った視線はどれほどもなく途切れることとなる。天使の身体は、黒い孔へ沈み消えて行ったのだ。

 ──あとには、ふたたび深閑とした白痴の世界が訪れた。静寂と残穢ばかりが残る戦場跡に、ひとり祐一は居た。 

 

「終わった、のか……?」

 

 呆然とつぶやく。実感がなかったのだ……あの恐ろしい大敵があれだけで討ち果たせた……否、退けられたなどと。

 ゴミ箱から拾った糞みたいな勝利とは、この事を言うのだろうか。勝利の余韻は毛ほどもなく、誰一人護れず怒りに呑まれ暴れるしかなかった自分が惨めで仕方なかった。なまじっか、友の遺品であった羽根まで考えなしに失ってしまったのだからなおさらだった。だが。

 

「あは」

 

 笑い声が木霊した。

 

「あはは……あはハ……アハッ!」

 

 笑い声は狂していた。

 

「アハハハッハハハハハハハハハッ! やったぞパルヴェーズ! 見ろよ勝ったんだ! また約束を守る事が出来たな! なあそうだろ!」

 

「エイル! エオ! ムイン! テスラ! 俺は勝ったぞ! そうだ……そうだよ……俺はお前たちの仇を討つ! あの天使が最初の餞だッ!」

 

「俺は殺すぞみんなみんな『まつろわぬ神』どもを! 殺されたお前たちの分まで! あはっあはははっははははっ!」

 

 静寂の中で祐一の空しい笑い声だけが戦いの終結を告げていた。狂ったように勝鬨を上げるのはたった一人の孤独な少年。

 笑いながら漆黒の剣に縋って吼えたける。黒刀が痛ましげに揺らめいた気がした。

 

「そうだ! みんなみんなッ…………みんな…………」

 

 哄笑をあげ続けていた少年の頬に一条の涙が伝った。

 

「───死んじまった……」

 

 祐一はそれがなにか分からなくて頬に触れて、拭って凝視して、それがなにかやっと理解できた。

 

「………………う、あ。…………、……はは」

 

 今度は乾いた笑いが木霊する。止められなかった。笑っていると束の間の安息を噛み締めることができたから──だがやはり、その安堵は束の間だった。

 ドサリと後ろから音が響き、ふり向けば黒い孔から()使()()()()()()()()()()()

 どのような手段を用いたのか、先刻見た時よりもどこか色褪せ煤けてはいるが、あの天使はふたたび戻ってきたのだ。きっと、祐一への復讐を携えて……。

 地面に叩き付けられ、立ち上がる気力すらないのか伏したままだったが顔をゆっくりと傾け、眼窩に収まった紅い瞳を向けた。

 いまだ瞼にこびり付く憎悪に満ちた目に、五臓六腑がすくみ上がった。

 

『落ち着け祐一……もはや奴に戦意はない』

「え?」

『あの孔はたしかに異界へのつながっていた……それも遥か遠い遠い異界へな。あの『まつろわぬ神』は永い……それこそオレとヤマトタケルが歩んだ時よりも長い時間を旅し、悠久の時を経てここに戻って来たのだろう』

「ならなおさら……」

『いや、よく見よ。もう奴は己が自我を保つことさえやっとの状態よ。当然、戦意もまつろわぬ性もとうに擦り切れておる』

 

 叢雲の言葉通り、こちらを見やる天使に戦意や憎悪はなく、どこか空虚な眼差しを送っていた。空虚、と言うよりは悟りを開いた仏……俗さや烈しさの一切を捨て去った神聖さの介在した眼差しだった。以前の彼では持ち得ない……そんな眼差し。

 けれど敵意がないなら何故、俺の前に? さらなる疑問が生まれた。

 

「木下祐一、と言ったな。私は君に託さなければならない事がある……私はその為に最後(いやはて)の地から那由他の道を越え、ここへ舞い戻って来た……」

 

 寝そべった姿で力なく口だけを動かし、天使は言葉を紡いだ。その姿はひどく穏やかで、幼い頃、まだ故郷にいたときに見た涅槃図を想起させた。

 

「俺に、託さなければならない事……?」

「そうだ……君は"義務"を果たさなければならない」

「義務、だって?」

「"使命"とも言い換えても良い……。世界は滅びに向かっている……他でもない神々の手によって」

「……………………」

「ゆえに私は託そう"神殺し"木下祐一……あれら(『まつろわぬ神』)から、迫りくる災厄の手から、人類を守れるのは、神を殺せる君だけ」

「や、やめろ……それ以上言うな……ッ! 言わないでくれッ!」

「故に……──()()。人類を救う『救世主』として。狂ってしまった世界と神々を糺すのだ」

 

 それがお前へ贈る祝福(呪い)だ……。空を、いや、その奥にある遠いものを見つめ、天使はどこか柔らかな表情を浮かべ、穏やかに呟きはじめた。

 

「ああ……長う御座いました……。主よ……いま、あなたの御許へ……」

 

 その言葉を最期に、名前も知らぬ一柱の『まつろわぬ神』は滅びた。全身が石となって、風化したように崩れていく……。

 同時、祐一の双肩にチンギス・ハーン以来のなにか降りかかるような重さが去来して、とけては消えた。なんてことはない重さだったはずなのに……祐一は耐えきれず膝をついてしまった。

 

「今、あいつ、なんて言ったんだ……『救世主』だって……? ハハ、なにかの悪い冗談だろ」

 

 乾き切った笑いのあとに去来するのは失ってばかりの記憶。地面へ、強く強く、拳を打ち付ける。拳が壊れるほどに。

 

「また……! 俺のせいで人が死んだんだぞ……誰も救えやしなかった……ッ! だって言うのに俺が『救世主』になんてなれる訳がないだろ……!」

 

 うずくまったまま地面へ向けて叫ぶ。物語から外れ、居ても居なくても変わらない傍観者になりたかった。力もなく意志もない、罪のない民となって超越者の築く屍山血河の一滴となりたかった。

 おれ、なんで戦ってるんだろう? 偽りのない疑問……茫洋としてゆらめく瞳は、己を疑問視している事がどうしようもなく本音なのであると物語っていた。

 故郷にも帰れず、今まで傍にてくれた友はすべて己のせいで死を迎えるか、自分が拒絶して離れていった。

 死者の遺志を継ぐ。綺麗な言葉だ、だけどそれが何になる。生者の……残された者の独り善がりな考えではないか。

 疲れてしまった。立ち止まってしまった。帰りたかった故郷に。

 心は真夜中の静寂のように凪いでいて、能動的な行動も、楽天的な思考も、すべてが消えてなくなっていて。

 誰もが夜空にあまねく天の星だったとして、まわりの星々は時の歩みとともに少しずつ進み続けるといのに、自分だけ取り残されていた。天体という抗いようもない運命に張り付けられた存在にでもなったかのよう。

 抜け出したかった。この地獄を再現したかのような現実と己の使命から。こんな未来も結末も望んじゃいなった。けれども、もう変えようとすら微塵も思わなかった。

 ゆるゆる、と。転がっていた叢雲を手に取って、切っ先を腕へ向ける。

 

『正気に戻れ』

 

 腕の自由が利かなくなった。支配権を奪われたのだ、叢雲に。自傷を選ぼうとした少年から……戦士ではなくなった者から支配を奪うことなど偸盗の権能さえ持ちうる叢雲にとっては児戯に等しいことだった。

 

『お前は(オレ)と約束したはずだ。亡き友に誓った常勝不敗の約束、その誓いと約束を忘れず戦い続けると。(オレ)はその誓いに力を貸そうと』

 

 平坦な声だった。

 

「……なら叢雲!」

 

 血を吐くような声だった。

 

「俺にこれ以上何をしろっていうんだよ!? 友達は死んで殺して、心を通わせた者には裏切られた! 果てには守るべき人たちはみんなみんな死んだ! 死んだんだ、死んだんだよッ! これ以上どうすりゃいい!?」

「………………」 

「もう、折れさせて、くれよ……。挫けさせてくれ……。膝を付かせて地に伏せさせてくれ……」

 

 剣を腕へ押し込もうとして……刀身が半ばから折れている事に気付いた……まるで祐一の心が折れたように。けれども、まだ、《廻る天輪》は、《因果》は祐一を捕らえて絡めて休ませてはくれない。

 

 ──戦士よ、戦え! 戦士よ、戦え! 戦士は戦わなくてはならない! 

 ──汝は、戦う者なれば! 

 

 頭の中でわんわんと壊れたレコーダーのように鳴りひびくのは友の言葉。かつての友が矜持とし、祐一もまた倣った戦士としての言葉。

 俺には……無理だ……! 

 友の言葉も、仇敵の言葉も、すべては祐一を縛める枷でしかなかった。耳を塞ぐ。

 パルヴェーズ……どうしてこんな時、お前は隣に居てくれないんだ……。

 かつて友がいた。誓いも、約束もあった。けれど残ったのはそれだけだった……。胸に手を当て、そこにある友との写真を強く意識する。縋れるものは、頼れる人は、笑い合える友は──

 

「──やっと、隙を見せたな。因果律に歯向かう異物……永かったぞ」

「…………カズ、ハズ……」

 

 突如、眼前に現れたのは陰々とした老人であった。常ならば幽鬼が朽ちた死者を動かしているかと錯覚するほど病的な彼……だが今は一転して嬉々とした感情が朧気に伝わってくる。

 カズハズは長い間この時を、この間隙を、ひたすらに待っていたのだろう。

 

「もはやおぬしが知ってもどうにもならぬ事だが教授してやろう……先刻、おぬしの斃した天使の滅びの預言は間違ってはいない……この世は確実に滅びへ向かっている」

「滅、び……」

「そう……『まつろわぬ神』による天災、それも確かにあろう。だが否。違うのだ、判りやすい理由が他にある……──他でもない木下祐一……お前が『天人離間』の呪法を破った為にな」

「俺のせい……?」

「ああ、そうだ。"神殺し"はそこに居るだけで秩序を乱す存在。世界の癌だ。現にこの世界でも多大な犠牲を払い為したあの呪法を……そしてその上に成り立っていた平穏を素知らぬ顔で握り潰したッ赦せるものか巫山戯るなッ!」

 

 カズハズの纏う雰囲気も口調も一変していた。おどろおどろしく勿体ぶったものから、酷くぞんざいなものへ。

 声の張りも荒々しく、そして幾分か若々しい。けれど体力がないのは変わらず、まるで阿片を吸い絶頂に至ったように、息を深く吸っては細かく震えるカズハズ。

 祐一はその異様な老翁に気圧されるばかりであった。そして意気の萎えた彼には差し出される小枝じみた人差し指をよける事すらできなかった。指が近づいて額に触れ、パリン、と何かが弾ける音が脳から響いた。

 その瞬間、記憶が滝へ落ちる水へ代わったかのように片っ端から崩れては白濁していく。誓いも、約束も、戦う意味も、剣の握り方も、優しげな友の顔も、みんなみんな消えていく……。

 その様を見遣りながらカズハズは何事かを口遊んだ。すると驚くことに先刻、天使を呑み込んだ黒い孔が再び視界を覆うほど現れた。

 今度は大規模なものではなく、祐一とカズハズ、二人が居れば狭く感じるほど小規模なもの。けれどその権能が、劣っている事を意味しない。強烈な乱風が吹き荒れ、二人の衣服を大きくはためかせた。

 

「この先はお前にとって最も困難な《運命》が待ち受けるどこぞの平行世界。異物なんてものは潰さず取り除くのが常識だろう? ──俺が舗装し、俺の定めた道を進んで滅びろ、木下祐一」

 

 その言葉を最後に、彼は現れた時と同じく一瞬で姿を消した。影に溶けるように。

 轟、轟、轟。制御できない無数の眼にも思える異界の扉が距離を詰めてくる。───逃げ出せない……だが祐一は決して逃げ出そうともせず、ただ力の奔流に身を任せた。

 

 

 ○◎●

 

 

 やっとか……。

 カズハズ……いや、カズハズの姿を借りた何者かは、肩の荷が下りたように安堵のため息を付いた。その面貌に刻まれた懊悩の色は濃く、拭えないほどであった。

 彼はいま鳥上の人であった。同盟神たるロスタムが呼び出したスィームルグの背の上にいるのだ。

 どうやら彼らを乗せたスィームルグは南東に向かっているらしい。吹きすさぶ風の中でも全く気にする事なく超越者たちは、静かに言葉を交わしていた。

 

「呵呵呵、これで満足か兄弟?」

「満足もなにもあるか。だがまあ、胸のすく思いは無きにしもあらずか……あれをこの世界から放逐する為に幾つもの手を打つ羽目になったからな」

「素直に喜ばんかい、万歳万歳万々歳じゃろうが。これで儂らも思うままに動けるというもの、まぁーったく、好き勝手出来んとは窮屈すぎて肩が凝るわい」

 

 かつては象にも見紛う巨駆だった体から伸びる細まった腕を回して闊達に笑うロスタムに、カズハズは苦笑を漏らした。頬を緩めるだけの小さな笑み。

 

「ロスタム、貴様は変わらんな。その無謬の性根……『天人離間』の法が崩れ、猫の手も借りたい状況であったが……貴様が覚醒めてより手を出させなくて正解だった」

「じゃろうなあ。儂ぁ場を引っ掻きます事には右に出る者はおらんと自負しとるしの」

「自負ではなく自他ともにと言え」

 

 ──半年以上も前、とある極東の島国にて『因果破断の因子』を持った少年が現れ、決して犯してはならぬ呪法に罅が入った時は絶望する他なかった。異変に気付き対処しようとしたときには、時すでに遅く、綻びを見せた呪法の孔から、『まつろわぬウルスラグナ』が顕現するにまで到ってしまった。

 世界の静謐を脅かす、二つの要素……。ウルスラグナと極東の少年。秩序をもたらす者として看過する訳にはいかなかった。

 けれど、それがなんの因果か? ウルスラグナの残り滓と件の少年は出会い、なにかに導かれるかのごとく、或いは、因果に操られる様に……少年は神殺しを為した。

 当然、座視していた訳ではない。

 ウルスラグナが顕現した際、十に別けたのはこの者のであり、異物と異物で潰し合いをさせようと少年と化身たちとが邂逅したのはこの者の仕業である。

 だがそれもすべては無為に終わった。恐れていた事が起きたのだ。

 あの少年……木下祐一の"神殺し"への新生により綻びを見せていた大呪法は粉々に砕け散ってしまったのだ。

 これにより今まで閉ざされていた『不死の領域』と幽世とが現世が繋がり、軛の無くなった神々は幽世より世界を渡り歩いてた。自儘に権能をかざす『まつろわぬ神』が、世に溢れ返ってしまったのだ。

「暗澹たる」とはこの事であった。だが諦めはしなかった。出来やしなかった。

 チンギス・ハーンを使嗾してはドバイでぶつけ、幽世にあるニニアンの禁足地へ誘ったのは誰であろう、この者である。何度も何度も殺そうとした。けれど結局、どれも叶わなかった。

 殺せない、ならば追い出せばいい。そう考えを改め、策は遂に成った。

 歪みさえ居なくなれば後はどうとでもなる……再び世界のあるべき形へ戻す事ができる……。未だ三位一体であった嘗ての己を取り戻せて居ないといえど、世界救済は為さねばならぬ。いや、成し遂げるのだ。

 

「忙しくなるぞ」

「呵呵、儂らはまつろわぬ性なんぞとうに擦り切れるほど長い付き合い。その誼で儂は使われておるんじゃ、上手く使って見せろよ兄弟」

「退屈はさせん」

「そりゃ重畳」

 

 かつて秩序を敷いていた者は薄く笑った。

 

 ○◎●

 

 ざぁぁ……。そこは穏やかな波が打ち寄せる砂浜だった。耳を澄ませば絶え間なく潮騒が聞える場所。……ここはどこまで紺碧の海原が広がる───『島と海の世界』。

 そこで膝小僧を抱えながら、茫、と水平線に沈む紅玉を眺めている少年がいた。

 こうするとなにか懐かしい気持ちがして、失ってしまった何かを思い出せる気がするのだ。

 

「祐一、こんなとこで何してるんだ」

「あ、護堂さん」

 

 少年を呼ぶのは若い声だった。

 黒髪黒目の純日本人然とした青年。名を草薙護堂と名乗った。彼もまた少年と同じく類まれに奇怪な運命を持つ"神殺し"なのだという。

 

「もう日も落ちる。そろそろ行こう」

「ほーい」

 

 踵を返した護堂。祐一も立ち上がって頭一つ分は高い、恩人の背を追いかけた。

 

 

 ここからはじまるは再起の物語。"神殺し"と"神殺し"が交叉する物語。

 一握りの希望と友の約束を胸に携えた彼は、酷薄な現実の前に倒れた。 

 それでも神に祈りは、届かない。ならば信じられるのは己のみ。

 

 ───戦士よ、戦え。

 



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第三章 異界遊興 ヒューペルボレア編
英雄界ヒューペルボレア


 耳を澄ませば絶え間なく潮騒が聞こえる。此処はどこまでも紺碧の海原が広がる──『島と海の世界(ヒューペルボレア)』。

 晴れ渡たり日本とはどこか趣を異とする突き抜けるような青い空の下、水平線を飽きることなく眺めている少年がいた。

 服装は普通の学生が着るようなブレザーで、容姿も整ってはいるが飛び抜けているとは言い難い。けれど、人混みの中に放り込んでも埋もれてしまう事はない特徴を持っていた。

 苛烈、といってもいいほどの意志の籠もった瞳を。……さながら烈火の如きその()()()()に、誰もが目を奪われるだろうから。

 彼こそ当代の"神殺し"木下祐一、その人である。

 

 祐一は今、穏やかな波が打ち寄せる砂浜に一人いた。前回のスロヴァキアでの戦いから一ヵ月、カズハズによって異界へ放逐されたはずの祐一が流れ着いた場所だった。

 

「ここに漂流してから一ヵ月か、早いもんだぜ……。しっかし俺も運がいいなぁ、()()()()()()()()()()こいつは死んだー! と思ったらこんな所に打ち上げられるんだからさ。まっ、連絡手段もねぇし、帰る宛てもないんだけどな! わはは!」

 

 お気楽に笑う祐一。

 けれど、その言葉にはおかしな部分があった。彼は"神殺し"になってこれまで、船には乗っていない……ならば船とはどの船を指すのか。

 それは彼が"神殺し"となる以前の……イランに漂流する前に乗船していた船の事を指した。

 必然、"神殺し"になるまでの旅も、"神殺し"になってからの冒険も、勘定には入っていなかった。

 けれど祐一に冗談を言っている雰囲気はない。実際、彼の記憶は家出して乗り込んだ船が転覆したところで途切れている。

 簡単に言えば木下祐一は()()()()となっていた。

 

 確かに神殺しという偉業を為した強者……けれど彼はまだ十四の子供だった。精神も完全な成熟には至っていない、そんな少年だったのだ。

 若さ故に情が強く、感情は揺れやすい。だからこそ神殺しを成せたとも言えるが……今回は裏目に出ていていた。

 その不安定さに漬け込まれ、カズハズの姿をした何者かによって記憶をいじられたのだから。

 

 ともかく今の祐一は"神殺し"としての矜持も、友との誓いすら忘れ、ただの家出少年に戻ってしまっていた。

 

 

「えぇと、荷物は全部流されちゃったみたいだし手元にあるのはこれだけ、か……」

 

 呟きながら目線を落とした先には三つの物があった。

 ひとつは家出した最初から持っている父の腕時計。

 ……これはどうやら漂流した時に壊れてしまったようで針が動かない。でも捨てるにも惜しくて腕に嵌めている。

 

 もうひとつはバッグの代わりに持っていた背嚢。いつの間にか懐に入っていたこれはすぐにでも破れそうだったが、意外と頑丈で、見た目に反してよく物が入るので重宝していた。

 

 最後は、いつ取ったかも分からない一枚の写真だった。取った覚えはないが自分は確かに写っていて、けれど仲良さげに肩を組む少年も、アラブ人に見える人たちも、とんと記憶になかった。

 

「うむむ……これじゃあどうしようもないよなぁ。せめて方位磁石とかそんなんが残ってりゃ言う事なしだったのに」

 

 己の惨状を再確認し、がっくりと項垂れる祐一。

 手に持った写真をひらひら振りながら何気なく写真を眺める。

 たまに、意味もなくこうしてしまう自分に酷く戸惑う。それにこうすると、懐かしい気持ちがして、何か……とてつもなく大切な何かを思い出せる気して、気付いた時には写真を眺めてしまっていた。

 

「ぬあぁー! こんなウジウジしてるのなんて俺じゃねぇぜ! ──よっしゃ! さっさと用事済ませて帰るか!」

 

 頭を掻き毟り叫びながらと立ち上がると、祐一は勢いよく走りだした。

 

 

 ○◎●

 

 

 祐一が漂流してから流れ着いたこの場所は、小さな群島からなる不思議な島だった。

 人の足なら半日は掛かるが、それでも一日足らずでぐるりと回れる広さだ。

 果物を始めとした食べれる植物はふんだんにあり、食に困る事はなかった。

 漂流する前はオマーン海付近にいたはずで、そこは照りつける太陽とむせかえるような湿度に目眩がしそうだったが……この島の気候は穏やかそのものだ。適度に雨は降るものの、昼間に太陽が顔を出さない時はない。

 常春の島、と名付けるに相応しい場所だった。

 

 あとは、どうやらこの島は絶海の孤島らしく、視力の良い祐一があたりを見回しても障害になるものはなく水平線が見えるばかりだった。

 人との関わりが断たれてはいるものの、それは無人島という事を意味する訳ではなくて、一人だけとはいえ島に住む人間がいた。

 

「じっちゃーん!」

 

 手を振りながら声を掛けた人物は、白髪交じりで枯れ木をそのまま擬人化したような人物だった。だった。赤褐色の外套と年季の入った貫頭衣に簡素なサンダルといった出で立ちだ。

 この老人はこの島に住み、羊飼いをするただ一人の人物で、海岸に流れ着いた祐一を拾った恩人でもあった。

 祐一が居候させてもらっている家……というより遊牧民の天幕じみた場所はなだらかな草原が広がる場所で、傾き始めた太陽に、頭を垂れて祈りを捧げていた老人は、帰ってきた祐一を見遣っては頷いた。

 

「ほら見ろよ、今日もこんだけ獲ってきたぜ! へへ、俺の手に掛かればざっとこんなもんよ!」

 

 ニカッと笑って、担いでいた背嚢から鳥やら魚やら今日の獲物をとり出す。

 胸を張って自慢する祐一に、老人は邪険にするわけでもなく静かに頷いた。切り株に立てかけていた斧を手に取ると、寄る年波によって刻まれた皺にうずもれてしまいそうな細い目をどうにか開いて天幕の方へ歩き出した。

 祐一を拾ったこの人物は寡黙すぎるほど寡黙な人で、祐一も一月は一緒に暮らしているが肉声を聞いたことはなかった。それこそ長い一人の生活で、他人との会話を忘れてしまったのかと錯覚するほど。

 けれど祐一もそんな彼とはそこそこの時間を過ごしている。同居人の意を得たと天幕の方へ駆けて中に入ると、天幕の中心にある土を掘った簡素な炉に座りこんでどこか手慣れた手つきで火を起こしはじめた。

 日も落ち始めたこの時間、蝋燭すらない彼らにとっては夕餉の時間だ。

 ここの生活時間は元居た日本のそれとは全く違うもので、ここに来た当初は戸惑いもあった祐一だが、今では日が昇る時に目覚めて日が落ちる時には眠りに就く生活を気に入っていた。

 料理、と言っても野菜や肉片を煮込んだだけの簡単なもの。けれど自然の恵みをたっぷり受け取った食材は日本で流通するそれとも遜色なく、祐一はこの食事の時間が一日のなかでも最大の楽しみだった。

 

「いやぁー! やっぱここのメシはうまいな、故郷に帰っても食べ続けたいくらいだぜ! 自然の味、つーのかな? あ、そう言えばじっちゃんは今日何してたんだ?」

 

 夕餉を胃の中に掻き込んで満腹になった祐一は忙しなく、向かい合った老人に話しかけた。老人は問いかけに、天幕の入り口付近に立てかけた斧を見やった。

 

「あ、分かった、あの斧で木を切ってたんだろ。なんだよ言ってくれれば手伝ったのにー、ここに来てからなんだか身体の調子がめちゃくちゃ良いし、じっちゃんより俺の方が動けるんだから、大変な仕事は俺に任せてくれよ! タダ飯食らいはゴメンだしな!」

 

 祐一が少し口をとがらせても、老人は小さく肩を震わせるだけだった。

 

「でさ───」

 

 それからも祐一と老人の会話は続いた。語り手は祐一だけで老人は一言も喋らずうなずくばかりだったが、それだけでも会話は十分成立していた。

 

 それから一刻が経っただろうか。日も完全に落ちてしまい、すっかり辺りは真っ暗だ。

 祐一たちも炉の火を消して、就寝する。その時になっても、祐一は天幕に居る事を許されていた。祐一は居候の身だ……それは現代日本と違って身分を証明するものも、なにも保証するものない此処で、赤の他人を懐に入れるという自殺行為に等しいものだ。

 命も財産も根こそぎ奪われないとも限らないというのに、あの老人は一番無防備になるこの時でさえ祐一を家から追い出すことなく、家の敷居をまたがせ寝食をともにしていた。

 まだ若く、そういう事に疎い祐一でも、彼の寛容さは理解していた。

 

「警戒心、無さすぎるぜ。じっちゃん……」

 

 寝床で見慣れた天井を眺めながらぼんやりと呟いた。

 

 ここに来て一ヵ月ほど。

 なんにせよ祐一は現代人であるにもかかわらず、辺鄙とも表してもいい此処で、随分と馴染んでいた。

 

 

 ○◎●

 

 

「にしても此処、どこなんだろうな? じーちゃんは確かに新しいものに興味はなさそうだけど、こんなにも文明の匂いがしないのはちょっと異常だぜ」

 

 海を眺めながら思案していた祐一はぽつりと零した。居候先の老人が言うには「日本」という言葉も、そもそも「国」という概念すらも聞いたことがないと言った風だった。

 文化水準もおそらく千年以上前……もしかしたら紀元前ほどかも知れず、今日日、アマゾン奥地の民族ですら電子機器を持っている世界でこれはちょっと異様だった。

 

 それに島に流れ着いてから、異様な感覚がずっと傍にあった。まるで"世界に後押しされている"ような感覚。

 言語化が酷く難しいのだが……そうとしか表現し切れない全能感が、島に住み着いてからまとわりついていた。 

 そんな不思議な島だから、不思議な作用が働いていて文明を……いや、人を寄せ付けない場所となっているのかも知れない。そんな馬鹿げた思考すらしてしまう。

 

 空転して明後日の方向に飛んでいった思考に苦笑いしながら、広大無比な海原へふたたび視線を向けた。

 欠片も似ていない綺麗な場所なのに、ノスタルジックさゆえか故郷にあるお気に入りの山を想起させた。

 この海岸は祐一の記憶のなかに眠る故郷の記憶を呼び覚ます鎹のような場所であった。海からやって来た温かいもやさしい潮風は目に沁みて、封をしていたはずの郷愁を呼び起こしまった。

 

「帰りてぇなぁ……もう帰らないって誓ったはずだけど。……父さんに母さん、祐二、それに秀、隆、秋、勇……みんなに会いたいぜ……──ま、どうにかなるか!」

 

 無理やりに楽観を口にする祐一だったが、現状の打破を諦めたわけではなかった。こうして本当はこの海岸によく来るのも船が通り掛かるかも知れない。そんな淡い期待を抱いての事。

 

 ふと思い立って懐からひとつの写真を取り出した。何時撮ったのかも、どこで撮ったのかも、誰と撮ったのかもまるで分からない写真……けれどなぜか思考の中にしこりのように蟠って、意識を拭おうとどうにも後ろ髪を引かれるこの写真を。

 

「なぁ、アンタ誰なんだよ……? 俺はなんでか見た事も会った事もないはずのアンタを知っている気がするんだ……絶対忘れないって誓ったような気もする……でも全然思い出せない。だから思い出せない自分にめちゃくちゃイライラしてる、んだと思う……」

 

 左手に写真を持ちながら、彼の右手は白く染まり骨が浮き上がっていた。

 記憶の暗幕が晴れない。勿体ぶるようにチラチラと知らない過去を幻視し、それが祐一には途方もないストレスだった。

 

 気を紛らすように、視線を変えてみる。

 視界に映りこむ水面は紺碧に輝き、影を曳く船もない単調な海面は常と変わらず綺麗だった。

 

「ん……?」

 

 ──いや、おかしい。波が()()のだ。

 まるで流れのなくなった湖のごとく海面は微動だにせず羊羹や寒天さながらにぴったりと固まり動いていない。完璧な凪。

 こんな現象、これまで一度もなかった。少なくとも一月近く、ここに通っていたはずの自分が知らない異常事態と断じてもいい超常現象であった。

 

 変化の波は、それだけでは収まらない。

()()()()()()()()()()()。腹部……臍下丹田と呼ばれる場所からなにか蠢く力が噴き出て全身に満ちては闘争心がこぞり出された。

 なんだ、これは? 

 外界だけでなく内でも起こった変化に戸惑いを隠せない。急転する状況。

 

 それでも──である祐一は、動揺や不安を表にして隙を見せるという愚を犯しはしなかった。なぜならこれは日常茶飯事で、いつも隣り合わせにあった事なのだから。

 

「……いつも隣り合わせ……?」

 

 呆然と呟く。

 不可解な事が立て続けに起こって戸惑いを隠せない。焦燥と不安に心拍数を上げる身体とは裏腹に、思考はいっそ氷点下を下回るほど冷徹で、状況をつぶさに観察していた。

 否、心拍数が上がっているのも焦燥によるものではない……高揚感だ。久方ぶりの"故郷"への帰還に、心の底から歓喜し、激して、喜悦が抑えられない。

 

 誰だ、俺は。なんだ、これは。

 

 肉体と心、そして思考にまで置いてけぼり。混乱の真っ只中、最悪のタイミングで……その存在は現れた。

 

「──お初にお目に掛かる"神殺し"」

 

 唐突も唐突。

 咄嗟に振り向いた時には、灰色づくめのボロボロの外套で身を覆った男が立っていた。それだけでも異様なのに、身長は驚くほど高く、祐一でさえ腹部あたりにしか届いていなかった。

 面貌には獅子の意匠が刻まれた黄金の仮面が被せられ表情は要として知れず、そんな異様な男の登場にまったく気付けなかった。

 ───いや本当にそうか? 

 自己がふたつに別れていた。どちらも本物の自分だとお互い知っていて……年相応の少年と、一廉の戦士が、木下祐一という自我を奪い合っていた。

 今の祐一は最新鋭の戦闘機に中学生が乗っているようなもの……そんな状況で最高のパフォーマンスなど不可能だった。

 

 現れた灰色の男もまた不可解も不可解だった。

 雰囲気が異様そのものだったし、船で渡ってきたような気配はなく、さりとてそれ以外に島を訪れる手段などなく……。

 そもそも何故この目の前の人物は俺にまるで知古のごとく語りかけてくるのだ? けれど個人を見ている訳ではなく、俺を通して別の存在を見ているような態度で。

 疑問が乱舞する。

 

「えぇと、旅の人だよな? ……初めまして、でいいのかな」

 

 ──だから祐一はそれを全て無視した。いつも通り普通の対応をしよう、とそう決めた。

 ただ単にゴチャゴチャ考えているのが面倒になったのだ。それに木下祐一という少年はよほどの事がなければ初対面なら笑顔を向けるし、どんな相手でも友誼を交えようとする性根を持っていた。……それが最大級の悪手であるとも知らずに。

 

「愚かよな……余を前にしてもその楽観とは。豪胆ゆえか、無知ゆえか、若く未熟ゆえか。致し方ないとはいえ些か癪に障る──しかし今は好都合」

「え?」

「嗚呼、どれほどの時が流れたか。少年よ、少しだけ昔話に付き合ってくれ……」

「む、昔話?」

「かつて……最早記憶すらも霞む遥か昔に余は……一柱の神であり、輝かしき太陽神であった。忘却の彼方でさえ煌々と輝くあの太陽だったのだ。

 恋しい。狂おしい。余は何故、()()の神などに甘んじ、果てには世を彷徨う亡霊に落ちぶれてしまったのか……!」

「太陽神だった……て何を」

「そうだ! 余は太陽神だったのだッ、だが余はその職能を失陥した──敗北によって! 

 敗北とは即ち、死だ! 死とは不滅である太陽神にとっては滅びではなく、肉体と魂魄を別つ儀式に他ならぬ!」

 

 気付けば目の前の灰色の男は、祐一の首を掴んでいた。片手で首を捻られ軽々と持ち上げられる。もう片方の手は、灰色の男が自ら嵌めている仮面に当てられ、指が仮面を砕かんばかりに白んでいた。

 

「故に余はふたつの存在に分かたれた。魂魄となった余は神霊となり時の中で零落し"灰色の霊"となり……亡骸は在りし日を取り戻すための"神具"となった!」

 

 常の祐一であれば……いや、"神殺し"の記憶の刻まれた彼の身体なら避ける事など容易いはずだった。

 けれど、出来なかった。

 誰でもない祐一自身が、無理矢理に動こうとする自分にブレーキを掛けていたのだ。反骨心の塊である祐一は、勝手な動きをする自分を許さなかったのだ。今の祐一と身体は致命的なまでに噛み合っていなかった。

 

「しかし余は遂に、まつろわぬ神として甦りを果たす! そなたを"贄"としてなッ!」

「───!?」

 

 男の狂った声に呑まれ、祐一は忘我して動きを止めた。

 だがそれが新たな冒険に誘う──分水嶺となった。

 

 最初に感じたのは異物感だった。ひどく乾いて節くれだった手が、無理矢理、口の中に押し込めらた。

 そして手からさらに押し込まれた"何か"を嚥下する。まるで自分に"種を撒かれた"……そんな感覚を覚えた。

 

「フ──睨もうとどうにもならん。そなたには我が滋養となってもらうため大地の権能を種子を飲み込ませたのだ……根を張り、力を喰らい、強大になる大樹の種子を」

「────!」

 

 言葉は嗚咽しか許されなかった。必死に吐き出そうと喉に手を突っ込み……しかし嘔吐が喉をせり上がってこようと状況は好転する事はない。

 体内で何かが蠢くのを感じ、全身の虚脱感が加速度的に増えていく。

 変化は顕著だった。

 肉体の内から爆発的に植物が飛び出す。祐一を苗床とするように口や鼻にはじまり、耳や肛門、毛穴に至るまで、穴という穴から枝葉が伸び、勢いは天井知らずに増大していく。

 

「余は余の復活のために秩序を乱そう。逆縁を手ずから呼び起こう。勝者(神殺し)敗者(サトゥルヌス)の身分逆転の狂宴を催そう。

 ──漲るぞぉ神殺しぃ! そなたの呪力が大樹となり、そなたの権能が実となっていく!」

 

 灰色の男が言うように祐一の内包する呪力を糧として、最初は産毛ほどだった新芽も今では樹齢数千余を越えるほどの大樹へと。

 大木が一斉に枝を四方八方に伸ばす様はさながら素裸の山神が背伸びをするかのごとく壮観であった。

 それだけではない。伸びた枝葉の先には神々しか食する事を許されないという蟠桃や黄金の林檎かと見紛わんばかりの黄金に輝く果実が揺れていた。

 祐一が見る事にできた光景はそこまでだった。緑の氾濫はどこまでも勢いを減じる事なく、祐一は樹皮の波に呑まれて埋もれていった。

 

「余の求める『太陽』を持つ"神殺し"が未熟で僥倖であった……光を得た上で、厄介な"神殺し"を封じ、力を蓄える事のできる一石三鳥の策がこうも上手く運ぶとは」

 

 哄笑する灰色の男の存在感が増す。記憶喪失とはいえ祐一の潜在的な意識下で、舐めてかかっても瞬殺できる相手だと思っていた。それがどうだ。今では同格の存在と認識できるほど。

 

 灰色の男……いや、まつろわぬ神は外套を脱ぎ捨てた。

 そこにあったのは、幾重にも包帯を巻かれたミイラさながらの悍ましい姿だった。かつては神なりし者であった者の残滓が永き年月と壮絶な妄執を以って、恥辱に塗れながらも足掻いていた姿だった……。

 しかしそれも過去の話。大樹という半身から享受した莫大な呪力によって瑞々しく美々しい往年の威躯へと変貌していく。

 

 灰色の男は夢想した。

 己が太陽さながらの『まつろわぬ神』へ至り、嘗ての栄光を取り戻す。そんな再誕を幻視して──

 

 

 ──ところがぎっちょん。

 記憶を失っているとはいえ、仮にも木下祐一は"神殺し"……人間の身でありながら神を殺した戦士だ。

 いつまでも良いように掌で踊っている事があるだろうか? 言い様にやられても右往左往し指を咥えて待っている堪え性があるだろうか? ──いいや、そんなものはない。

 

 灰色の男が異変を感じ取ったのと、大樹内部で呪力の大噴火が起きたのは同時だった。大樹の内部で幹に埋もれていた祐一はひたすらに激怒していた。

 ふざけるな、と。

 

 この結果はなんだ木下祐一! 俺が! この俺が! あんな訳の分からねぇ輩に言い様にされて良いのか? ───言い訳がないだろうッ

 

 端的に言ってむかっ腹が立っていた。

 赫怒の怒りに意志が精錬され、それが何かの引き金を引いたかの如く、カチリ、と()()が嵌まった気がした。

 同時に胸の奥から口腔へ湧き上がってくるものがあった。血でもない。呼気でもない。これは──言霊! 

 

「汚れなき御身の為、光の柱たる我れが名代となり剣となる。貴方の権を振るう先の一切の悪意と悪魔を焼き尽くす為に。我が燃えさかる焔と見透す瞳が不浄を祓い清めよう」

 

()()の理屈も記憶も祐一は知らない。けれど使い方だけは、この武器の振るい方だけは、幼い頃から親しんだ物を扱うように手に馴染んでいた。

 未知の力でも祐一はなんだって良かった。超常の御業を振るうあいつに、対抗する術があるのなら是非もない。

 一矢報いてやる……逆襲の武器があるのなら、それがミサイルだろうとパルテノン神殿だろうと使ってやる。それほど後先考えない獣性を瞳に爛々と湛えていた。

 ───パキパキ……。

 大樹の軋む音が海岸中にうつろに響く。祐一の行使したらしき超常の法理が作用したのか、海岸に突如として現れた大樹は内部から焔に焼かれたように灰となり枯れ落る。

 そして枝に実っていた数多の黄金の果実は──()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 祐一は湧き上がる力に任せて大樹から這いだして、灰色の男を鋭く睨んだ。もはや和解や友誼など惰弱な事を言い出す雰囲気は皆無で、己を害した者への敵意で満ち満ちていた。

 

「やはり若く未熟でも"神殺し"! 余の思惑通りには進まぬか! あと一歩の所で拒むとは!」

「この野郎……さっきから訳わからねぇ事をべらべらと!」

 

 気炎を吐きながらまつろわぬ神を睨み据える。

 

「つーか手前ェ、俺に何かしやがったな? 大事なものを奪いやがったな!? 

 覚悟しろよ……手前ェの身体バラバラにして諸々吐かせたら、舌根っこ引っこ抜いてその首落としてやるッ!」

 

 一色触発。

 戸惑いはしたが、あいつは己の命を取らんと画策し、実際に、あいつのせいで大切な何かを失う羽目になったのは確かだった。

 この時点で許す気持ちも、退くつもりも、綺麗さっぱり消え去っていた。

 なぜだかそもそも敗ける気が全然しない、そんな気持ちが胸中を占めているからか祐一は大胆な態度で臨んでいた……と言っても敗ける気がしたら態度が変わるのかと言われれば口を噤むしかないが。

 けれど思惑を外して憤懣やるかたなしと憤るのは灰色の男も同じ。

 

「まだ終わらぬ! 先刻、おぬしから力を奪い、余は『神』に伍するほどとなった! 『まつろわぬ神』となった余がそなたを討ち果たし、余はさらなる復活を臨もう!」

「──おっと」

 

 その時だった。異常事態に似つかわしくない泰然とした声が、灰色の男と祐一との間に割って入ってきた。

 驚く事にその声の主は祐一と同じく東洋人……それも日本人のようで年齢は二十歳程度か。容姿は整ってはいるが、こんな修羅場に似つかわしくなく、平凡な域をでない青年だった。

 

「そこまでだサトゥルヌス。ただでさえ面倒な事になってるんだ。……その上、アンタがまたパワーアップしてもらったら困るんだよ」

「おお、やはり余を追ってきたか忌まわしき仇敵草薙護堂よ! ……やんぬるかな! 今の余はまだそなたと対決できるほどの力を取り戻しておらん!」

 

 現れた青年を見咎めた瞬間、サトゥルヌスと呼ばれた異形はさっきまでの臨戦態勢を一転させた。

 

「……ゆえ再戦は預け、ここは一端退かせてもらおう!」

 

 捨て台詞を吐いてそうそうに大地の中に溶けて消えた。どうやら逃走したらしい。

 その後に訪れたのは先刻までの喧噪は嘘かと錯覚するほどの静寂だった。

 

 なにがなんだか呆然とする祐一に突然の乱入者……祐一と同じく日本人で、祐一よりも頭一つ分は背の高い好青年は笑い掛けてきた。

 まるでさっきまでの出来事が日常であると言わんばかりに、気負いなく。平凡、とは評したがすぐさま祐一は撤回しなければならない……祐一は確信した。

 

「あんたも巻き込んじまったみたいだな……まあ、俺たちはそういう星の下に生まれた様なもんだし許してくれ」

「えと、あんたは……?」

「おっと名乗りが遅れたな。俺は草薙護堂。よろしくな()()()

 

 その笑みは何故か獣が牙を見せる威嚇じみたそれに見えて仕方がなかった。



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草薙護堂という先達

今作で初めてカンピオーネという単語を使った瞬間である───(ここまで50万字超)


「俺がカンピオーネ……ですか?」

 

 サトゥルヌス急襲を経た祐一と草薙護堂と名乗った青年は、二人で乗るのが精一杯な小早舟で大海原に出ていた。

 波音と櫂がきしむ音ばかりが響く洋上に、小首をかしげながら祐一の不思議そうな声が重なる。

 

 あのあと祐一は、サトゥルヌスのせいであちらこちらに飛び散った権能を追うという護堂に連れられ、自己紹介や説明もそこそこに島を出た。

 世話をしてくれた老人には礼と言葉を残し、出て行く祐一にあの老人は何も言わず、護堂が兄弟ではないと見抜いている風だったが、やはり頷くだけだった。

 

 手漕ぎの小早舟でこの島まで来たらしい護堂は、祐一と一緒に舟へ乗り込み、海に出るとやっと詳しい説明を始めた。

 

 ──この世界には世に禍を齎す『まつろわぬ神』と言う存在がいて、海岸に現れたあのミイラ男も『まつろわぬ神』だと言う事。

 ただ、祐一の力を奪う前は『まつろわぬ神』未満の存在だったらしい。

 

 ──そして『まつろわぬ神』のライバル関係にある神を殺した人間……誕生の経緯によって必然的に神々と因縁を持つ『カンピオーネ』が居て、護堂も、そして祐一自身もまたカンピオーネである事。

 

 ──極め付けに祐一の持っていた"権能"と呼ばれる神々から簒奪した力が、灰色のミイラ男……サトゥルヌスの奸計によりこの世界の方々に飛び散ってしまった事を。

 

 正直、到底信じられる事ではなかったが、先刻の出来事や己の肉体の変調などを鑑みれば信じない訳にも行かなかった。

 俺がカンピオーネってやつに新生した、っていわれてもなぁ……記憶なんてないぞ? 一抹の疑問が降りかかった。

 記憶喪失になっている祐一にとって護堂の話はなんともチンプンカンプンで、正気を疑うような目を護堂を向けていた。

 

「俺が神を殺したなんて本当ですか? 俺、そんな事やった記憶なんかないっスよ」

 

 バスケ部を首になったとはいえ、にわか体育会系な祐一は、年上に見える護堂にはこんな調子だった。

 二十歳くらいに見える護堂だが彼曰く、結構おっさんだそうで、正確な年齢は知らないが年上なのは確実。助けてもらったらしいし礼儀として敬語で喋る祐一だったがどうにも喋り慣れないのか、たまに地が出ていたが。

 

「間違いないさ。身体もカンピオーネのそれだし、何より権能だって持ってるしな」

「ふぅん……」

「ま、呼び方なんて場所や時代でまちまちだから祐一の世界じゃ呼び方が違うんじゃないか?」

「呼び方、スか」

「俺が見聞きしたのは神殺しの『獣』とかエピメテウスの落とし子、ラークシャサ、堕天使、デイモン、混沌王、魔王、羅刹王あたりだな。

 一番メジャーなのは"神殺し"か。……心当たりはあるか?」

「神殺しだの獣だの物騒なのしかないすね……。聞き覚えは……うーん、ないっス」

 

 護堂の口から飛び出て異称の数々に思春期特有の少年少女が罹患する病がチラついた祐一だったがとりあえず首を振る。特に気にするでもなく護堂は肩を竦めた。

 

「そうか。でも現にお前はカンピオーネになってしまっているからなぁ。カンピオーネってのは普通の人間がなんの奇跡も因果もなく成れる代物じゃない。必ずとんでもない事をやらかしてる筈だぞ」

 

 腕を組みながら小一時間唸っていた祐一だが、結局それらしい答えは出ないまま。

 櫂を漕ぎながら祐一の様子を見て、護堂は質問の切り口を変える事にした。

 

「そう言えば家出したって言ってたな。それまでは普通に暮らしてたのか?」

「そっスね。家出して船に乗ってたらすっごい嵐に巻き込まれて、海に放り出された所までは覚えてるんスけど……」

「気付いたらここに居たのか」

「ですです。あー、そう言えば俺が転覆したのは確かオマーン湾あたりだったはずで、翌日にはオマーン首都のマスカットに着くはずだったんですけど……ここって中東のどこかなんですか?」

 

 そこで櫂を漕ぐ手を止め、護堂は眉をひそめた。

 

「何言ってるんだ、ここはそもそも──()()()()()()()

「…………???」

「此処はな『ヒューペルボレア』っていう並行世界で、それも神話の世界だ。俺たちが生まれた地球よりも神話や幽世に近い世界だぞ?」

「ひゅー、ぺるぼれあ?」

 

 ざわりと耳元で風が唸り、今日何度目かの「今明かされる衝撃の真実」に思わず頭を抱えてしまう。

 確かにあの島は未開の地で、知っている文明とは隔絶した場所に居るとは思っていたが、それは絶海の孤島ならではだと思い込んでいたのだ。

 けれど眼の前の、その道に詳しい大先輩は此処が地球なんかではなくヒューペルボレアという異世界だという。

 此処が"並行世界"? 神話や幽世に近い世界? 意味分かんねぇ……てか並行世界とか神話世界ってなんだよ! 

 百面相をする祐一に護堂は得心がいったと少し微苦笑しながら頷き、

 

「祐一、お前はもしかして記憶喪失なんじゃないか?」

「え? 俺が記憶喪失?」

「ああ。まあ神を殺すなんてとんでもない事になるから記憶がぶっ飛んでも不思議じゃない。もしかしたら神殺しを幽世でやったのかもなぁ。ドニの阿呆もそんな感じだったらしいし、それでこんなとこまで流されたのも得心がいく」

「ドニ?」

「ん、知り合いの剣バカなカンピオーネさ。そいつは幽世って場所でカンピオーネになったらしくてな……そっち(幽世)の記憶がこっち(現世)に持って来れなかったか、単に忘れてただけなのか分からないが、最初は記憶喪失だったらしい。

 幽世からヒューペルボレアに来たって事なら十分可能性はあるんじゃないか?」

「はぁ……てか護堂さん以外にも居るんすねカンピオーネってやつ」

 

 そりゃあな、とどこか哀愁を漂わせながら護堂は肩を竦めた。

 

「でもただの人間が神を殺すなんていうハードルの高さだからけっこうレアなんだぞ? 一世紀に一人居れば良い方だそうだ」

「ほーん」

「でも俺がカンピオーネになった時は"当たり"の年でな、俺以外に六人も居たんだ。ドニって奴も同期の一人さ。

 ま、カンピオーネになる連中なんて大抵ろくな奴じゃないからなぁ……ドニってやつも出会った瞬間斬りかかって来るし、他のカンピオーネもそう変わらないくらい頭がおかしい奴らでな……」

 

 どんどん話が逸れていき苦虫を口いっぱいに入れて噛み潰したような渋面を作る護堂。ざぶん、と一際高い波が舟を揺らし、祐一はその異様な雰囲気にちょっと引き気味になった。

 

「え、てことは護堂さんもカンピオーネですしその人たちと同じくらい……なんでそこで目を逸らすんですか護堂さん?」

 

 カンピオーネの特徴を聞き、ふと気付いた事を指摘すれば対面の大先輩は、肯定も否定もせずただ目を逸らした。

 

「剣バカだけで判断するのは早計だ、あれは色々狂ってるからな。えぇと、あとは……偽悪家な皮肉屋とか、キザな仮面ヒーロー、無自覚な天災とか……適当で大雑把、行き当たりばったりな人格破綻者ばかりだな……」

「自分で弁明しながら結論付けた……? てかそれ、もしかしなくてもダメ人間なんじゃ……だからなんで更に目を逸らすんですかっ!?」

 

 この人も見かけに依らずヤバい人なんじゃ……てか俺もか!? 俺もなのか!? 

 薄っすらとだが知り得た同族とやらの人柄と悪行に自分もそういう括りなのかと戦々恐々とする祐一。

 大丈夫、お前も同じ穴の狢だ。

 

「ま、まぁ神と戦うんだし、普通の精神じゃやっていけないんだ。記憶も何かの拍子で思い出すかも知れないし、そのうち思い出すだろ」

「そ、そうですね!」

 

 深く追及してたら墓穴を掘りそうなので話の流れごとぶっちぎる二人。その大雑把さがまさにカンピオーネのそれである。

 話題を変えるのと同時に、櫂の漕ぎ手も交代。

 漕ぎ慣れない祐一は、一回転したり蛇行してしまって護堂の笑いを誘っていた。不貞腐れた祐一がぶっきらぼうに、一つ質問を投げた。

 

「で、今どこに向かってるんでしたっけ。此処が神話世界ってのはとりあえず置いといて飛び散った権能? ての探すんですよね。場所分かるんですか?」

「さぁな。権能がどこに行ったかなんて分からないに決まってるだろ」

「は?」

「そんな顔すんなって。心配しなくても大丈夫さ、権能なんて物は爆弾なんだ。どうせすぐ大騒ぎになってるだろうし、街に向かえば噂を拾えるだろう」

「な、なるほど……!」

 

 こ、これが……カンピオーネか……! 考えてるようでほぼ何も考えていない行き当たりばったりな護堂に祐一はひたすら戦慄した。

 そんな祐一に護堂は手をひらひらと振った。そんな心配するなという風に。

 

「そう馬鹿にしたもんじゃないんだぞ。俺もカンピオーネになって長いけど、このやり方がけっこう嵌るんだ」

 

 懐疑的な視線を送る祐一をよそに、護堂は懐からとある物を取り出した。

 球体に見た事のない世界地図が描かれた地球儀で、地球儀の頂点に羅針盤の針じみたものが浮かんでは遥か遠くの一点を指していた。

 

「ほら。こいつはマーキングした方向を指しつづける代物でな、世界のどこに居ても……それこそ世界が違ってもその場所だけを指しつづけるんだ。近くの街をマーキングしてるから、この矢印の方向に進めばいい」

「それは分かるんですけど護堂さん、それ浮いてません……?」

 

 祐一の言うとおり護堂が取り出した代物は、置いたはずの船床から数十センチほど浮き上がっていた。

 揺れる船体とは関係なく磁力に浮くような姿はまるでおとぎ話にでも出来そうな魔法の道具そのもの。祐一は信じられないと目を剥いた。

 

「……それも護堂さんの権能ってやつなんですか?」

「いや。このヒューペルボレアって色んな並行世界と繋がったりすんだ。それに、海のそこに古代文明も沈んでるなんて噂もあって、だからたまにこういう妙な代物が流れてくるんだよ」

「ほーん……?」

「祐一は魔術師って訳でもないから、呪具の類についても知識はないんだったな」

「みたいですね?」

 

 イマイチ理解できず曖昧な答えを返してしまう。

 

「説明すると長くなるし面倒だから便利な道具って事にしておけばいい。……というかお前も持ってるんだぞ? その背嚢からもかすかに神力を感じるし、たぶん神具か呪具の類だ」

「え、こいつが?」

 

 護堂が祐一の腰に引っさげている背嚢を指差してそんな事を言い出した。

 驚いて背嚢を手にとって、しげしげと凝視する。全く気付かなかった。

 

「いつの間にか持ってて、確かに見た目以上に入るから便利だなーって思ってましたけど……そんな大層な代物だったんですか」

「なんだこの海から拾った訳じゃないのか。ん、背嚢だけじゃないな……お前の着てるそのブレザー自体相当高位な呪具になってるみたいだな……」

「えっ、このブレザーまで?」

「ああ。権能も一つだけじゃなさそうだし"なりたて"って訳じゃなさそうだ……祐一、お前なんで記憶無くしたんだ?」

 

 不思議そうにそんな事を聞いてくる護堂に、祐一としてもこっちが聞きたいですよと肩を竦めた。

 だよな、と護堂も苦笑する。遠い空で鳥が鳴いていた。

 

「そう言えば俺って呪具だけじゃなくてサトゥルヌスって奴に狙われるくらい"凄いもの"も持ってるんでしたっけ?」

「それか、すっかり忘れてたな。サトゥルヌスが欲するもの、か。それが権能なのか呪具なのか俺もまだ分かってないんだよな……アイツ、なにか言ってなかったか? ヒントが欲しい」

「えーと……あ、そう言えば太陽神に立ち返る事ができえる光明? ってのを手に入れられる。そんな事を言ってました」

 

 サトゥルヌスの台詞を反芻してみると、それらしい言葉が見つかった。

 

「太陽神に立ち返る事のできる光明、か。……もしかして、あの神に由来するものを? ならアイツが狙うのも分かるが……祐一、心当たりあるか?」

「全く」

「だよな……。じゃあ、このヒューペルボレアに来てからおかしな感覚はないか? 例えるなら、誰かに後押しされているような感覚とか」

 

 そう言われたらピンと来るものがあった。誰かから大きな後押しを受けているような感覚、それを感じて仕方がなかったのだ。

 

「……! あります! なんて言えば分かんないですけど、すっごい調子が良くて、でも自分のものだと思えないような……他に誰かの意思があるような変な感覚が!」

「なら、決まりだな。お前の持っているそれは太陽神に関連するもので、そして、このヒューペルボレアにおいて大きな意味を持つ代物なんだ。サトゥルヌスが襲ってきたのもそれが原因だろう」

「そんなものが? でもどこに?」

 

 思い当たるような持ち物といえば、あとは腕時計しか思い当たらず、どこかに引っ付いてたりするのか? と身体を隈なく探す素振りをしてみる。当然そんなものはなかった。

 

「もしかしたら身体の中にあるのかもな。物は見えないが、あるのは確実だろう。お前が感じてる身体の変調だけじゃなく……あの島にも分かりやすい影響が出てたぞ? お前に呼応するように島はデカくなってたみたいだし、春や秋みたいに絶え間ない実りに満ちてただろ?」

「え! じゃあまずいじゃないですか!」

 

 島の恵みは己によるもの。そう言われて思い浮かぶのは島唯一の住民である老人だった。

 祐一が、いの一番の思い至ったのは自分が居なくなった影響で枯れ果てる木々と飢える老人の姿。放っておけなかった。

 

「いいのか、お前に釣られる形でサトゥルヌスのやつが現れたんだぞ? あの島に戻ればまたサトゥルヌスの奴がまたお前を狙って来るかもしれない。それに別の『まつろわぬ神』が現れないとも限らない」

「…………」

「数多の神々が欲するほど、このヒューペルボレアにおいて()()は重大な意味を持つんだ。なんせ持ってるだけで、今お前が感じている世界の後押しってのを無条件で獲られるんだからな」

 

 そんな代物を持っているなんて到底信じられなかった。でも現に『まつろわぬ神』であるサトゥルヌスは現れた。

 それに到底信じられはしないが、祐一は不思議と疑う事はなかった。だってその通りだったから。あの神はヒューペルボレアの主とも言うべき神で、不滅の火で。

 祐一は知っていた。神殺しになる以前から……会ったことはないが盟友が神具を託され、間接的に神を殺す遠因になったのだから。そう、神の名を──

 

「──ミスラ」

 

 右腕に、熱が生まれ、火が灯った気がした。

 

「ミスラ、やっぱりか」

 

 祐一のつぶやきに護堂が得心したように頷いた。

 詳しくは分からないがミスラに関連する何かが厄介事の種らしかった。でも手放そうとは全く思わず、祐一はこのおかしな状況をどう切り抜けるかを考えていた。

 結局、考えても答えが出ることはなかったが、はたと何か思い出したように祐一が手を打った。

 

「あ、忘れてた。他にも記憶にないもんがあるんですよ」

「そうなのか? でもお前からはもう呪具の類の感じはしないぞ」

「たぶん呪具とかじゃないんだと思います。いつ撮ったかも分からない写真で……なのに俺は写ってるし、何かの手がかりにならないですかね」

「写真? 見せてくれ」

 

 内ポケットから件の写真を取り出すと、護堂に手渡す。

 

「! これは……」

 

 受け取った写真を見て取った瞬間、護堂は息を呑み、小さく言葉を漏らすとすぐに黙り込んだ。

 穏やかな波と共に揺れる舟は、口のなかで溶けていく飴玉のようにゆったりとした静寂を紡いでいた。

 そう長い間、自分の映った写真を見られると気恥ずかしい。祐一はたまらず問いかけた。

 

「あの、なにか分かったんですか?」

「いや。でも、そうだな……お前はきっと。……まあ、なんだ、これもなにかの縁だろう。ちょっとだけ手を貸すだけのつもりだったけど、最後まで付き合ってやるよ」

 

 護堂は写真を返しながら愉快そうに笑っていて、何かを悟った風に零した。その間、なにがなんだかといった風に祐一は目を白黒させていた。

 誤魔化すようにひとつの質問を投げかけた。

 

「えーと、護堂さんはなんであのサートルヌスを追ってたんですか? なにか因縁もありそうでしたけど」

「ああ、その事か。サトゥルヌスって奴とは一度やり合って倒してもいるんだ。あいつとの因縁を遡ると俺の姐さん……が居るんだけど……まぁ、今はいいや」

「はぁ」

 

 ……姐さん? どうも同族らしい固有名詞に一瞬興味をそそられたが、護堂の「聞くな」と言っているような雰囲気をビンビンと感じて口を閉ざす他なかった。

 

「でも倒したんでしょ? なんでまた現れたんです?」

「それはな『まつろわぬ神』ってのは基本不滅なんだ。例え死んで、肉体が滅んでも、神話の世界に帰るだけで本当の所じゃ死んでないのさ。本当に滅そうとするとするなら神話ごとか人間ごと抹消しなくちゃならないかもな」

「はえー、不滅……。うーむ、流石神様というかなんというか……」

「はは、神様の出鱈目さと理不尽さには驚かされるぞ。それ以外にも『サトゥルナリアの冠』なんていう神具があったり、農耕神で死も司ったりしてるから、なんて理由もあるんだけどな」

「ほーん」

 

 まるで実感がないのでふわっとした理解のまま曖昧な返事をする祐一。とりあえず神様は不滅、祐一はそれだけを頭に叩き込んだ。

 

「護堂さんって本当に神様とやり合ってるんすね。神を殺すってあんまりイメージ付かないっすけど、でも、どうやって戦ってるんですか? 殴り合いで殺せるもんなんです? それとも、神話を攻撃したりとか?」

「死なない神様でも死ぬくらい殴れば死ぬには死ぬな」

 

 酷い話だった。

 

「そんな顔するなって。さっきのは冗談にしても基本的に神様から簒奪した権能で戦うんだぞ。お前だって無意識だろうけど権能を使ってただろ」

「え……?」

「サトゥルヌスに襲われた時も、それを行使して凌いでたじゃないか。でも制御出来てなさそうな上に無自覚みたいだし……いわば枷の外れた核爆弾みたいな状態だな」

「えぇ……?」

 

 櫂を漕ぐ手を止めてなんとなく自分の右手を見る。自分を「核爆弾」と形容されてムッとする気持ちもあったが、己の中にある"モノ"が先刻邂逅した『まつろわぬ神』と伍するならばそう言われても仕方がないのか……? と、納得できる部分もあった。

 

「ま、兎にも角にもまずは権能を掌握するんだな」

「へーい」

 

 祐一に反論の余地はなかった。

 鳥の鳴き声が耳朶を打つ。時を追うごとにその叫声は大きくなっていく。身を切るような突風が船体ごと祐一を揺らしていた。

 

「権能の掌握かぁ……護堂さんも持ってるんですよね、その権能ってやつ」

「ああ……。ま、俺のは使い勝手が悪いんだ」

 

 どうか自嘲気味に答える護堂だったが、視線は祐一を見てはいなかった。だんだんと風の密度が増してきた空をながめて雲の動きを──いや、違う。

 たしかに護堂は天を仰いでいる。けれども空や雲、そんなものを視界に収めてはいない。

 本当に視ているもの、それは……

 

「俺の権能は日常の中じゃまず使えない。使えるのは──こんな時さ」

「え?」

 

 言い終わるが早いか護堂は舟を飛び出した。それも羽根があるのかと見紛うほど大跳躍! 

 空を見据えていた護堂の目、あれは空や天気をうかがう様な、そんな腑抜けたなものじゃない。あれは──戦士の眼光。 

 

「なんだ、あれ……。黄金の、鳥……?」

 

 地平線の彼方から一筋の光明が見えた。祐一は護堂を目で追う事でやっと気付く事ができた。

 なぜ気付かなかったのか。元から良い視力と異常なまで高まった動体視力が()()を捉えた。

 あれは神速で空を駆る、金色の『鳳』! 長大な翼を広げて蒼天を滑空する、金色の羽毛を持つ猛禽だ! 

 その翼長は羽の端から端までを測れば五、六十メートルはあるだろう。

 あのサトゥルヌスと同じく人知を超えた怪物。それも人型ではなく判りやすい姿をして現れたのだ。

 ……けれど不思議と怖れる気持ちは微塵も湧かず、それどころか親近感すら抱いていた。

 

「まさかあれって俺の権能……ってやつなのか……?」

 

 呆けたように呟いた言葉が、枯れ葉が落ちるように大気に溶けた。だが、内なるものが執拗なほどに囁いていた。あれは己がものなのだと。

 戦いはやはり尋常ではなかった。そこかしこで海が裂かれ、津波が起き、天が割れた。疾風を纏った護堂と『鳳』の颶風に舟がそれバラバラにならないよう祈りながら、天空の闘争を見据えた。

 

「なんだよあれ……すっげぇ……!」

 

 身体能力はともかく平凡な日常を送ってきた祐一にとって埒外の戦い。けれど祐一はまるで特撮ヒーローを見る幼子さながらに目を輝かせていた。

 疾風だけでは捉えきれないと察したのか、護堂がもう一つの武器を抜いた。掌中に現れたのは──黄金の剣。

 

「ぐっ……!?」

 

 直後、凄まじい頭痛が脳を構成するあらゆる細胞全てに大電圧の負荷を掛けられたかの如く。まるで脳内の血管が弾け飛ぶような激痛に、たまらず膝を付いてしまった。

 

「クソっ、護堂さんはっ!?」

 

 空を見渡せばもう戦闘は、幕を迎えていた。

 護堂が黄金に燦めく剣を揮うと、『鳳』と両翼が泣き別れし、きりもみ回転しながら墜落していく。

 

 不思議が起こったのは同時だった。

『鳳』の身体は余さず、光の粒になると一塊となって鳥を模した(イコン)となると祐一目指して一直線に向かって来た。

 祐一はそれを拒否する事なく、さながら水が高い所から低い所へ流れるが如くその球体を受け入れた。

 身体に衝撃とが疾走る。全身に張り巡らされた経絡が脈動した。

 

 黄金の剣を見たときに似た頭痛が襲い……まぶたの裏に見知らぬ誰かの後ろ姿が浮かんでは、薄靄のなかへ消えていった。知らない誰か……でもなぜか見慣れているようで、自然で、滑らかに、スッと心の奥底へ入ってきた。

 これが喪っている記憶の断片だってのか? 権能と記憶が一緒くたに降って湧いたからか、ひどくふらつく。

 ……けれど膝をつく無様しなかった。

 

 なにせ──。

 顔を上げると『鳳』を斬り捨て、疾風を完全にコントロールした護堂が、舟に降り立った。

 

「大丈夫か祐一、今のがお前から飛び散った権能のカケラだ。力が戻って辛いなら横になっても良いんだぞ?」

「冗談……!」

 

 口角を吊り上げて容姿の平凡さなど露とも感じさせないニヒルな笑みを刻んだ。

 ──これが、"神殺し"。カンピオーネってやつなのか。

 震えていた、知らず知らずのうちに手が。小刻みに。緊張でも不安でも、況してや、恐怖なんかでもない。そうだ……これは武者震い。

 見せつけられた。魅せつけられた。魅せられてしまった。どうしようもなく。

 なにせ彼はまるで空想のヒーローかなにかの様に突然現れては、奔放に自在に己の"力"を繰り、迫りくる敵を倒したのだから。

 そして同等の力が自分自身にも宿っているのだという。──これで燃えなきゃ、男じゃない。

 身体に流れる血のざわめきが、やけに耳に届いた。

 

 草薙護堂はカンピオーネである。それも熟練の紛う事なき強者だろう。だがカンピオーネのキャリアや倒した『まつろわぬ神』の数なんて関係なかった。

 護堂と祐一の間に埋められない溝があろうとも、生来の負けず嫌いな祐一には、それを覆してやると言わんばかりの負けん気という武器があった。

 笑いかけて来る……いや、挑発してくる護堂に祐一も負けず犬歯を剥き出して、笑った。

 

 ……と、その時だった。

 

 

 ──ピシぃ! 

 

 

「ん?」

 

 護堂が降りた場所を起点に船体を別つ特大の亀裂が疾走った──。

 どうやら戦闘の衝撃はこの小さな小早舟では受け止め切れなかったらしく、護堂が降り立った負荷がトドメとなったようだ。

 

 ──ザザーンっ! 

 

「おぉ、津波だ」

「津波ぃ……ですねぇ……」

 

 さざめく音に視線を向ければ、そこには大津波が……! さっきの戦闘によって出来た大津波が遅れて祐一たちの場所に馳せ参じたらしい。

 

「ちょちょちょっちょっと護堂さん! これどうにかする手立てがあるんですよね! ね!? てかおい黙ってないで早く無敵の権能パワーでなんとかしてくださいよォ──ッ!!」

 

 狼狽える祐一に対し、護堂はひどく泰然としていた。

 

「言ったろ、俺の権能はピーキーで使い所が限定されるんだ。だからこんな時はどうしようもない。ま、俺たちは大雑把で適当だからこういう事はしょっちゅうなんだ。諦めと慣れが肝心だぞ?」

「ちくしょーっ! やっぱカンピオーネなんてダメ人間じゃねぇか──っ!!!」

 

 祐一の断末魔を最後に人類代表の戦士たるカンピオーネ二人は海の藻くずと消えた──!



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"神殺し"二人

「生きてる……! 俺生きてる……!」

「死ぬかと思ったけど、壊れた舟の木片使ってなんとか辿り着けたな」

 

 海から紅い双眸を涙に潤ませる少年とどこか慣れた雰囲気を漂わせる濡れ鼠が二匹が這い上がってきた。

 言わずもがな木下祐一と草薙護堂である。『鳳』の戦いから二日ほど、彼らは舟が大波で完膚なきまでに破壊された後、はぐれたり合流したりまた流されたりサメに襲われたりしながらも、どうにか舟の破片を拾って陸まで流れ着いたらしい。

 

 祐一たちが辿り着いた島はどうやら護堂の目指していた目的地のようであった。さすがの悪運である。どうやら今度の島はグァムや沖縄本島ほどの大きさはあるようで、祐一の最初にいた島の数百倍はありそうだ。

 土地が大きく豊かであれば人も多く住むもの、そして人が多ければ当然町が存在する。おだやかな内湾に面した町はもと居た世界とは比べるのもおこがましいが、世帯数百戸前後、人口五、六千人のささやかながらも港のある町だ。

 波止場には丸太を結んだ筏、獣皮を使った皮船、そして原始的ながら帆船も係留されていた。それらの船をまとめると、優に四、五十隻はあり、それだけでも街の発展具合を察せられるというものだ。

 

「この世界にもあんなに人が居たんですね……」

 

 そう呟く祐一の視線の先には数十人の人間が往来する街のメインストリートを向いており、一月ほど賑わいとは隔絶されていた祐一にはひどく新鮮に映った。

 行き交う者は男女とも、しっかり衣服を着こんだ人々ばかりで羊毛の織物とおぼしき外套、毛皮の外套。男はその下に貫頭衣や長ズボン、サンダル姿がほとんどで、女は少し華やかなものだ。

 

「そりゃあな、ここ以外にもいくつかデカい街はあるんだ。……ん。そんな話は置いといて、とりあえず飯にしよう」

「め、し……?」

「この町は姉え……知り合いの勢力圏でな、飯くらいなら出してくれるんだ。戦ったり漂流したりで腹が減った」

「飯が食べれるんですか!? ヒャッホウッ! さすがッス護堂さんんっ!!!」

 

 二日も碌なものを食べていない二人。どうやらこのヒューペルボレアという地にはおかしな法則があるらしく、美しい動物が海を漂っていて、それを殺すとなんと島になったり食料になったりするのだ。

 護堂が言うには『犠牲の獣』なんて言う神話の再現なんだといっていた。神話世界、なんて場所ゆえに地球にはありえない法則が成り立ってしまうらしい。

 驚きはしたがそういうものなのだとすぐに諦め食いつないできたのだ。

 ともあれ久々の料理だ。護堂の提案に祐一が飛び跳ねて賛同し、衆目を集めてしまった。

 

 メインストリートの脇にある家々は木造の掘っ立て小屋で、港町よろしく無秩序に軒をつらねていた。

 その中には露天商もあって、地べたに布を敷き品々を広げる商人が少しでも高く売ろうとや舌鋒を振るっていた。

 護堂が案内した食事場所もそんな一角にあった。木造の掘っ立て小屋に比してそこだけは何故か二階建ての柱や外壁にはどこか動物を思わせる模様さえ施されてあった。

 護堂が家主らしき人物に何事か伝えると、祐一たちは二階に通された。

 その一室は十畳ほどのそこそこ広い部屋で、左の窓際に机と椅子が、反対側には硬そうなではあるがベッドが置かれ、さすがの祐一でもかなり良い部屋なのだと察していた。

 椅子に腰掛け、程なくして料理が運ばれてきた。

 漁港ゆえかメインはやはり魚で、焼き魚はもちろん、他にも野菜や貝類を煮込んだスープに葡萄を使ったらしい酒まであった。どこか中華料理の風情で、祐一の食欲を大いに刺激した。町の雰囲気や発展具合に見合わないので違和感はあったが、そんな細かい事よりも今は空腹が勝る。出されたそばから、祐一と護堂はさながら馬か鯨のごとく料理を平らげていった。

 

「はは、いい食いっぷりじゃないか」

「あったり前ですよ! 腹減ってたのもあるんですけど、此処に来てからずっと料理っぽい料理食べてませんでたしたから」

 

 それから一時の間無言で食に走った。一段落して護堂が懐からとあるものを取り出して、イジりはじめたのはそんな時だった。

 

「海に浸かって完全にお釈迦になってるな……。まぁ、ここの所充電する手段もなかったから必要ない事はないんだが……」

「なんすかそれ」

「ん? ああ……スマホだよ。見た事あるだろ」

 

 護堂が当然の物として語るスマホの説明は、祐一とって怪訝な顔をより濃くする結果となった。

 

「スマホ……? うーん、田舎だからかも知んないっすけど俺は見た事ないですねそんなの」

「そうなのか? ふぅん……俺とお前とじゃ、たぶん時代の進みがちょっと違うのかもな。俺の世界の方がスマホが普及している分、少し発展してるのかも知れない」

 

 おとがいに手をあてて呟く護堂に、対面の少年がキラキラと目を輝かせて反応した。

 

「じゃあ、これ未来の道具って事ですか!? すげぇな、よく見せてくださいよ!」

「別にいいけど充電のない電子機器なんてただの鈍器だぞ? ……祐一と俺の世界はわりかし近そうだとは睨んでいたけど、近い世界でもたまにこういう所で差異が出るんだよなぁ」

「ちょっと未来の世界かぁ……てか、世界ってのはそんなにあるもんなんですね」

「まぁな、それこそ星の数ほどあるぞ。ヒューペルボレアや俺の世界にも、たぶんの祐一の世界も、『まつろわぬ神』が当然のように居たんだろうが……逆に『まつろわぬ神』や俺たちカンピオーネが居ないなんて世界もザラにあるしな」

「へぇ。でも護堂さんと会うまで『まつろわぬ神』やカンピオーネなんかが居るなんて知らなかったですし、元の世界に神様なんて居なかったかも知れないっすね」

 

 護堂から受け取ったスマホを弄くり回しながら、感慨深げに別の世界に思いを馳せる祐一。

 

「SFチックで宇宙にも自由に出掛けれる世界もあるって事か……ワクワクするなあ」

 

 夢想するように天井を仰ぐ祐一に微苦笑する護堂。数多の世界を渡り歩いてきた彼が反芻する記憶の中には祐一がいったように荒唐無稽な世界が無きにしもあらずだったからだ。

 

「並行世界ってのは存在すれば存在するだけ形があるからな、どこかにあるんじゃないか? 俺はまだ行った事はないけどな」

「いいなぁ、楽しそうで」

「波乱万丈だけどな。世界を渡る気ならこの言葉覚えておけ。『この世は因果律がご覧になる夢に他ならない』……世界なんて所詮泡沫のようなもの、一期一会で億千万の世界が生まれて結んで消えていくんだってな」

「? どういう事です?」

「ま、世界なんて星の数ほどにあるから一々どうなっていようと気にするなって事さ。滅びを迎えそうな世界もいれば、滅んじまって風と砂だけの世界もあるんだ。このヒューペルボレアも大洪水で流された後の世界、なんて言われてるしな」

「え、そうなんすか」

「ああ、だからその度に足を止めてたら如何に俺たちの寿命でも終わっちまうからな。気の向くまま旅をしろって事さ」

「ふーん。でも因果律、ですか? なんか聞き覚えがあるようなないような……。そいつも『まつろわぬ神』なんですか?」

「ん。まあ《運命神》の大元、或いは、兄弟神みたいなやつさ。因果律はそのまま因果を司ってる神で、とにかく強大で巨大なのさ……世界があるから因果律が存在して、因果律いるからこの世界は存在する、といった風にな」

 

 どこか聞き覚えのある単語を問えば、壮大で巨大な神の話に思わず祐一は目を剥いた。

 

「『まつろわぬ神』ってそんな奴までいるんですか!?」

「いるっちゃいるが、そいつは破格らしいぞ。出会う事も出来ない、どんなに歩いても辿り着けない遠い場所にいて、伝承にも少ししか残ってないような概念みたいな奴さ」

「話のスケールがデカすぎてよく分かんねぇ……」

「さっきも言ったが出会う事なんてないだろうしな。気にしなくていいと思うぞ?」

 

 ふぅん、とよく分からず頷いた祐一だったが、どうにもその因果律という単語が無視しえない何かのように引っかかって仕方なかった。頭を振る。護堂も気にすることはないといっている、とりあえず忘れる事にした。

 

「そういや護堂さんってずっと一人で旅をしてたんですか? 俺みたいに流れ着いたって訳じゃないんでしょ?」

「まあな。今でこそ"神域の旅人"なんて呼ばれてるけど、昔は嫁さんたちと戦ったりしてたんだぞ。今は一人だけどな」

「…………YOME………………???」

「あれ、言ってなかったか? 俺はもう結婚もしてるし子供も居るぞ」

「マ、マジかよ……」

 

 見かけに似合わずかなりの年上だ、とは思っていたが……よもや結婚していて、さらに子持ちであるなんて予測しておらず慄く。

 持っていた肉がボトリと落ちるまで、放心してしまった。

 

「失礼な奴だな。俺もいい年だし嫁さんくらいいるさ」

「あはは……てか、カンピオーネって子供できるんですね。漫画とかでよくあるじゃないすか、長命種は子供が出来難かったり、そもそも出来なかったりとか」

「実際その通りだぞ。俺も子供が出来るまでかなりの年月が必要だったし、ウルディンっていうカンピオーネもハーレムを作ってたみたいだけど子供がいる気配、なかったからな」

「えっ、護堂さんってまさか普通のハーレムでは為し得なった事を為し遂げた、ただのハーレムじゃ及びも付かないハーレムを超えた超ハーレムを築いた──ドン・ファン!?」

「わけわからん! あと、その言い方はやめろ!」

 

 何やら異世界から電波を受信したらしい祐一がハッとして立ち上がり、邂逅以来初めて護堂が声を荒げた。

 その後すぐに腕を組んでだんまりを決め込み肯定も否定もしない彼に、下卑た笑みを浮かべながら祐一は確信を抱いた。

 

「男の夢ですもんね、ハーレム」

「うるさいぞ。というかそう言う祐一はどうなんだ? 見てくれは悪くないし、モテない訳じゃないんだろう?」

「や、俺は生まれてこの方男やもめで色恋はさっぱりっす。へへ」

「ふぅん……まあ、どうせ今だけだと思うぞ。お前がカンピオーネだって知られれば魔術組織やらが放っておかないだろうからな」

「えぇ……?」

 

 やけに実感の籠もった言葉に、困惑する祐一。普段の日常生活程度なら問題ない彼がだが、色恋となるとほぼ経験皆無な祐一はいつか訪れる未来に及び腰だ。

 そんな風に四方山話に花を咲かせていると、

 

「お休みのところすいやせん」

 

 ドアの外から声が掛かり、男が入ってきた。料理を運んできた者たちとは、些か出で立ちを異とした白い頭巾をかぶるガタイの良い男だった。

 男は護堂のもとへ来ると何事か囁いて、見掛けによらず慇懃な態度で退室していった。

 

「いまの誰です?」

「前にも言ったろ姐さんがいるって。その部下の人さ」

「はぁ、なんでまた」

「この街に来た目的さ、お前の権能がここらに飛んできてないかと噂でもいいから聞いてたんだよ」

「あーなるほど。で、どうだったんです?」

「どうやら空振りみたいだな、異常気象や神獣が現れたなんていう変わった事はないらしい」

「神獣?」

「前の『鳳』みたいなこの世ならざる神の眷属さ。まあ早々ないんだが権能が形になった時、象徴となる物の形を得やすいんだ」

「ふぅん……」

 

 神獣、その言葉に考えを巡らせた瞬間、まるで記憶の蓋が開いたようにいくつかの単語と情景が飛び出てきた。

 方々に散らばった恐るべき神獣……イラン……化身……。

 脳の奥深くに埋まっている記憶が、なにかを声高に叫ぶ。けれど祐一にはノイズ掛かったラジオを聞いているようで、未だ秘された記憶はようとして知る事はなかった。

 

「ここら一帯を版図にしている姐さんも今は留守らしいし、こりゃ参ったな。また別の島に行って、地道に探すしかないか」

「姐さんって、その人に聞けば分かるもんなんです?」

「ああ、武術の達人だけど魔導も極めてるからなあの人。神獣の所在くらい知ってるだろ……簡単に教えてはくれなさそうだけどな。俺も旅して長いが、俺が知る限りで最強のカンピオーネさ」

「最強のカンピオーネ! へぇー! そそる響きじゃないですかー! 会ってみたいなー」

「ははは、やめといた方がいい。冗談抜きで命がいくつあっても足りないからな」

 

 と、そこで外がやにわに騒がしくなった。護堂と顔を見合わせ窓から外を覗き込めば町の外で人集りができていた。

 どうも妙だ。突如現れたらしい集団は皆例外なく武装しており剣呑な雰囲気を隠そうともしていない。人数もそこそこで五十人は超えそうだ。

 

「ん、賊か?」

 

 護堂が怪訝な顔を作ると同時、さきほどの白い頭巾をかぶった男が入室してきて事情を説明してきた。なんでも護堂の義姉がこの町を勢力下においた時に追い出された者たちが、たびたび町を取り戻そうと町に現れるらしい。

 ただこちら側の人数は十人にも届いていない、数の上では圧倒的に不利だろう。

 

「数の利は向こうにありそうだな……」

「手貸します? 護堂さんなら蹴散らせるでしょ」

「さあ、どうかな。俺の力は前も行ったけどピーキーだからな。ああ言う手合いには弱いんだ。楽勝はできないさ」

「……へー」

「面倒な事になりそうだな。飯も食ったしさっさと町から離れて……って、あれ?」

 

 特にも縁もゆかりもない土地、面倒事はごめんだと声を掛ければすでに祐一の姿は影も形もなかった。

 

「───待て待てぇい!」

 

 どうやら窓を飛び降りたらしい祐一がメインストリートを疾走し、一色触発だった二つの集団の眼前へ踊りでいた。

 

「なにやってんだあいつ……」

 

 道連れの独断行動に、頭が痛いと思わず眉間を揉んでしまった。

 

 跳躍し人垣のど真ん中に着地した祐一が躍り出た時は、先鋒の槍と槍が繰り出される瞬間だった。普通ならば槍の両手が生えて終わりだろう……けれど祐一にはなんてことはない。

 優れた反射神経に物を言わせて二本の槍を掴むと、あらん限りの力で引き、明後日の方向へ槍を放り投げる。

 誰もが動けなった。水を打ったような凪が、戦場へと変わるはずだった場を支配する。

 おかしな事が起きていた。戦闘に慣れている筈の男どもが、まだ年若い少年一人に釘付けとなってしまったのだから。

 祐一の紅い烈火さながらの眼光に射すくめられると、皆一様にたじろぎ、後退った。だが町を取り戻そうと武装集団を率いていたらしい男だけは、祐一の鋭い眼光に怯まず前に出た。

 

「なんだお前は? どうやらその恰好、ここらの人間じゃなさそうだが……」

 

 男の問い掛けに、よく聞いてくださいましたと腕を組んで胸を張る祐一。

 

「おう、俺は木下祐一! ついさっきまで漂流してたんだけど、この町で飯を食わせてもらって世話になったんでな、加勢しに来た! あと私情! この街を攻めるってんなら俺を倒して行きな!」

 

 眼前の集団だけでなく、白い頭巾をかぶった男たちにも叫ぶ。祐一の口上に理解できないと男が首を振る。

 

「要はよそ者だろう。そこそこ腕に覚えがあるようだが、青臭い感情で関係ない奴がでしゃばるんじゃない! 退きな!」

 

 たしかに祐一は部外者で、関わり合いになる道理なんてない。護堂のように町からさっさと離れた方がこの場合何倍も正しいだろう。

 だがそれでも祐一は前に出た。今は記憶をなくし命のやり取りなんてやった事もないただの少年であるはずだが、彼は前に出た。

 それは祐一自身の性根が純で放っておけないのもあったし、護堂への対抗心という感情も大いに後押しした。

 

「言ってるだろ、そんなに争いたいなら俺を倒せばいい。その後でなら好きに争えばいいさ」

「テメェ、命が惜しくないのか? ……ふん、だがいいだろう。死ぬ覚悟は出来てるんだろうからな」

 

 雲が晴れ中天に輝く陽光をうけて、刃が波打つ水面さながらに煌めいた。

 男は間違いなく巨漢の部類に入る。齢十四で一七五㎝と年齢にしては背の高い祐一をして見上げるほどに高い。得物も振るうに相応しい鉄斧で、膂力に任せて振るえば大木でさえたやすく唐竹割りにしてしまうだろう。

 尋常の男ではなかった。いや、間違いなく尋常ではない。なにせこの男には神の血が混ざっているのだから。

 此処は神話世界、つまり神と人が近しい世界なのだ。神の血を引く者がゴロゴロいても不思議ではなかった。

「坊主! お前武器は!」と白い頭巾をかぶった男が剣を掲げて問いかけてきたが、ニヤッと笑って拳を突き上げた。

 

「無手か?」

「おう! 武器の振り方なんて知らないしな!」

 

 そう言って酷い違和感に襲われた。俺は武器を振るえない……本当にそうか? 

 居並ぶ戦士たち……男たちのむくつけき匂い……吹き抜ける戦意……冴えわたる剣……。

 まただ。

 なにかの拍子で奇跡的に電波を拾ったテレビのように見知らぬ情景が……いやそれだけでなく匂いや歓声までが瞼の裏に広がる。

 突如姿を見せた記憶のカケラに、思考を巡らせる事を強いられる。ここが戦場である事すら忘れてしまうほどに。

 そして一廉の戦士はその隙を見逃しはしない。

 

「──祐一!」

 

 護堂の叱咤がひびき、意識が現実に足を着けた時には男はすでに動いていた。鉄斧が大気を裂いて唸り、祐一を両断しようと迫る。鈍重そうな見た目からは想像できない速さ。

 銀光一閃。

 だが結局、鉄斧は獲物を捉える事はなかった。祐一は寸での所で躱す事に成功していたのだ、カンピオーネとなる以前から持ち得ていた比類なき軽捷さをもって。

 

「やるな」

 

 男の小さな称賛が風に溶けた。風は祐一の意識を研ぎ澄ますヤスリとなって、頬を緩めさせた。

 不思議だった。自分は喧嘩はしょっちゅうだったが鉄火場や死線など経験皆無だったはず。

 けれどどうだ、これは。まるで恐れる事はないと言わんばかりに恐怖心は生まれず、意識は戦いへ先鋭化し、心は熱を上げていた。

 躱す、躱す、躱す。

 都合八度の風刃がわななき、しかし祐一は悉くを避ける事に成功していた。祐一自身驚くほど研ぎ澄まされた反射神経と直感がそれを可能としていた。

 

「あいつもカンピオーネ、って事か」

 

 祐一の戦いぶりを遠目に見ながらカンピオーネとしての一端を視た。同時に気付く。どちらの集団も、いや、いつの間にか集まっていた町の人々も二人の戦いを注視している事に。

 戦いは佳境へと向かっていた。

 体力が無尽蔵の祐一はいいが相手の男は重い鎧に鉄斧を振り回して息切れしはじめている。長い戦いには向かず、勝負に出るはずだった。

 祐一の足が止まる。人垣の作る円陣で逃げ回っていた祐一だったが、相手の狡猾さに嵌められたらしい。

 後ろには人垣、もう退く訳にはいかない。ついに逃げ場をなくしてしまった。

 

「ハ! 往生しなガキ!」

 

 口角泡を飛ばしながら、これまでで最高の冴えを見せた鉄風が振り落とされた。大上段から真下へ稲妻さながらの一撃! 

 少年の最期を幻視した人々が、そこかしこで悲鳴を上げる。

 

「ごめん、やっぱ借りる!」

 

 男が祐一を嵌めたように、だがこの位置もまた祐一としては都合のいい場所だった。祐一の闊達な声が響くと、真後ろにいた白い頭巾の男から鉄剣を引き抜いたのだ。

 

「へぇ……」

 

 祐一が剣を握った。

 その瞬間、護堂は感嘆の声が喉を越える事を禁じ得なかった。まるで今まで相対した武を極めた同族や『鋼』の剣神武神にも似た()()を感じたから。

 祐一自身、驚嘆していた。剣を握った瞬間、剣把が掌に癒着したかと錯覚するほど手に馴染んだのだから。

 まるで身体が剣の分だけ拡張されたかと思うほど。

 あとはもう身体が動くに任せるだけだった。

 

「おおおっ!!!」

 

 振り下ろされる鉄斧が、瞬きの内に八つに泣き別れする。

 歴戦の魔王たる草薙護堂は知っていた。祐一の揮った剣、あれは無情の剣ではない。……あれは激情の剣。歴戦の"神殺し"たる護堂でさえ怖気を走らせる神を屠る刃。

 

「あいつ、やっぱり"なりたて"なんかじゃないな」

 

 確信とともに呟く。サルバトーレ・ドニが振るう無情剣と同じく神さえ斬り伏せる剣に、自称平和主義者は知れず口が弧を描いていた。

 神の喉元に届きうる剣。そんなものを神の血を引き、戦い慣れているとはいえ抗し得る訳もなく……

 

「ま、参った」

 

 得物と闘志を完膚なきまでに叩き折られた男は、手を上げて負けを認め、敵味方関係はなく魅せられた者たちの歓声が町に轟いた。



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黒曜石の戦士

 祐一との勝負で最も強い戦士が負けた彼らは、これは敵わないと大人しくお縄となった。あとは、ここら一帯を治める支配者であり護堂の義姉である白蓮王の裁定を待つ事となるらしい。

 とはいえ件の白蓮王は世俗にはあまり興味を示さない人物らしく、攻め入った彼らも元はこの町の住人という事で、ひどい沙汰が下されることはないだろう、というのが大方の見方である。

 酷い沙汰が下るようなら義弟たる護堂も口添えしてもいいと言っていて、命を奪われることはほぼないという。

 とりあえずは当面の間、町のために働く事になるだろうが、ゆくゆくは町に住む事を許されるだろうとの事。

 そんなこんなで、護堂と祐一を交えた新旧の街の有力者による話しがつく頃にはもう日はとっぷり暮れていた。祐一たちが家を出るとメインストリートの先にある街の中心では何やら篝火が焚かれ、人だかりが出来ていた。町の人々と元賊たちが一緒になって、食事の準備やら飾りつけやらをしている。なんだなんだ、と祐一が小首を傾げた。

 

「あれ? なんかやるんですか?」

「あの人たちも元はこの住民だからな、もうわだかまりはないって喧伝するためにもこっち持ちで祭りをするんだよ。というか祐一、お前話を聞いてなかったな?」

「意識が落ちないでいるのに必死でした……へへ……」

 

 活発闊達常時落ち着きのない少年である祐一にとって長時間椅子に座る行為は、石抱をさせられるに等しいらしい。護堂が白い目で見てくるので、咄嗟に目をそらす。性根は真っ直ぐではあるが真面目ではないのが祐一という少年であった。

 

「お、戦士様が来なすったぞ!」

 

 どうやら顔を憶えていたらしい住民や元賊たちが、祐一が顔をのぞかせた途端わらわらと寄ってきた。そこには恐怖や隔意はどこにもなくて、純粋に優れた武威をもつ戦士への称賛だけがあった。あえなく掴まった祐一は、抵抗する間もなくもみくちゃにされてしまった。

 それからどれほどの時間が経っただろうか。盛大な歓待をうけてヘロヘロになった祐一がふらふらと護堂の元に来たのは祭りが一段落して人もまばらになりはじめた頃だった。

 護堂が座る場所はあまり人の目に入らない場所で、狭い広場でも根気よく探さねばならなかった。篝火の明かりと闇夜とが交互に入れ替わるような場所、そこに護堂はいた。

 祐一が近づいてくるのに気付いた護堂が手元にあった青銅の器を放った。難なく受け取ると、隣にどっかと座りこんだ。

 

「つ、疲れたぁ……」

「はは、だいぶお疲れみたいだな。遠目から見ても熱烈だったしな」

「おもしろがってますね……というか護堂さんも巻き込めばよかった。俺と同じくらい強いって言えば、みんな寄っていったはずだし」

「はは、残念だったな。でもお前よりはこういう経験はあるからな、流し方や、壁の花になるのは得意なのさ」

「年の功ってやつか」

「うるさいぞ。ま、それにお前はきっとカリスマがあるんだろ……人が、放っておけず何故か見てしまって気にかけてしまう何かがさ。あの一騎打ちの時もそうだったし、俺だったらあそこまで派手にやれてないと思うぞ」

「はぁ、そんなもんですか」

 

 ぼんやりと言葉を返すとそこで護堂は言葉を切った。二人して原始的ではあるが十分酒精の含まれた葡萄酒を呷って、注いでは返す。夜風に火と影が揺れている。

 横目に見る護堂は笑みを滲ませていてひどく年の離れた人物に見えて仕方なかった。この人はどんな旅を歩んできたのだろう……ふと気になった。先達のカンピオーネとは聞いているし、結婚もしていて子供もいるらしい事も聞いた。

 だけどこの人が一体何歳で、どこで生まれて、どういう経緯で神を殺したのか、家族がいるならなんでこんな所で一人旅をしているのか、考えれば考えるほど謎は多く、答えが見つかる事もなかった。そしてそれを軽々に尋ねる事も憚られた。

 

「記憶はまだ戻らないか?」

 

 旅の道連れに思いを巡らせていると、篝火に照らされ橙に賑わう町を見ながら件の道連れがぽつりと問いかけて来た。

 突然の問いに、反応が遅れる。思わず持っていた杯を落としそうになって落ち着きのない奴だな、と笑われてしまった。篝火で顔を照らされた顔はどこか既視感のあるものだった。

 

「えっと、まだみたいです。……でも、偶にぼんやりとした記憶が浮かんでくるんです。昼間だって戦う直前に、俺の見た事ない景色が出てきて……剣を握った事なんてないはずなのに、なんだかとても馴染みのあるものような気さえして……」

「ああ、それで呆けてたのか」

「っスね」

 

 問われるままに答えながら、昼間の失態、というわけではないが不意を打たれた訳を話す。少し前から気になっていた事を、せっかくだからと訊いてみる。

 

「俺って、本当に神を殺したんすかね?」

「は? なんでそんな事を聞くんだ?」

 

 どうやらその質問は不意打ちだったらしい。素っ頓狂な返事が返ってきた。質問を質問で返されながら、ポリポリと頬を掻きつつ口を開く。

 

「確かに変な記憶もあるし不思議な力があるのも感じるんスけど……でも人に言われて"はいそうですか"って納得できないっスよ」

「そういうものか」

「権能ってのもあやふやだし、記憶もあるんだかないんだか、とにかく確固たる何かがある訳じゃない。だからけっこー疑問なんすよ」

 

 そんな問いに護堂は何がおかしいのか、クツクツと肩を揺らして笑いはじめた。夜は音がよく響くと言うが、護堂の笑い声を聞いたのは祐一だけだった。

 

「祐一、お前って頭空っぽみたいで実はめんどくさいやつだろ」

「えぇっ?」

「まあ、あれだよ。たぶん他のカンピオーネ連中ならお前と同じ状況でも、なんだかんだ受け入れて、疑いなんてしないだろうからさ」

「そういうもんですか」

「少なくとも俺の知ってる奴らはな」

 

 でも、そうだな……。笑みを柔らかいものに変えた護堂は、今度は空を見上げた。一緒になって見上げた空は、篝火に負けない星の輝きが瞬いている。良い夜だ。

 

「お前は間違いなく神を殺してると思うぞ」

「どうして?」

「そりゃあ勘だ……ってそんな顔するなよ。なんていうんだろうな、俺が思うのは、お前に負けん気やずば抜けた強い意志があったから、だな。だからお前は神を殺したんだなって確信したのさ」

「負けん気に意志、ですか?」

「ああ。その二つはな、俺が『まつろわぬ神』を初めて弑した時に欠かせないものだったんだ。奇跡や偶然ってのも多分にあった。

 でも、そいつがないと俺は()()()の呪縛から逃れる事は出来なかった。最後の最後で踏ん張れずそこで終わってただろうからな」

「あいつって?」

「俺が初めて弑逆した神様だ。……だから俺は確信を持ってる。ま、意志だけじゃなく力や知恵に機転、幸運に度胸と根性、どれも欠かせないものなんだけどな」

「プッ、なんすかそれ」

 

 護堂の滅茶苦茶な理論にたまらず吹き出してしまう。屈託なく笑う祐一を視界に収めながら護堂は口にはしなかったがもう一つ、彼をカンピオーネだと確信させるに足るものがあった。

 

 カンピオーネになる者は良くも悪くも頑固者だ。その強固な精神や考え方がカンピオーネになった()()で早々変わるものでもなく、また元来の性根はもとよりその悪癖もまた引き継がれているのは道理だろう。

 例えば東欧の老王がその戦好きゆえに同族との同盟がほぼ不可能だとか、英国の黒王子が偏屈な性格ゆえに敵を作りやすいだとか。

 

 祐一もまたその悪癖を持っている。強みがあれば弱みもある。

 強みと弱点は表裏一体。それがカンピオーネなんていう俗物ならばなおさらだ

 短い付き合いだが、護堂は見抜いていた。

 

 祐一と旅をした時間は短いが、それでも彼は慕われやすくカリスマもある少年だという印象を護堂は抱いていた。

 彼が現れれば人々は彼から目を離せなくなり、いつしか頼って、信頼してしまう。祐一もまた人々を見て。慈しみ、信頼に応えようと奮起するのだ。

 けれどそこが彼にとっての長所であり最大の弱点なのだ。

 確かに民衆から力は獲れよう。『山羊』と相性が良いのは言わずもがな。

 確かに彼を排する者は少ない。それどころか我らが勇者よ! と称えるだろう。

 確かに仲間は増えていく。彼こそ正義と民衆の守護者たる彼の後継者に違いない。

 しかしそれが足を引っ張るのだ。これが護堂の知る同じカンピオーネたちでも民衆や知人が死ねば悲しむだろう……けれどだからといって心を大きく乱されはしない。最悪、数日心に留め置けば良い方だ。

 だが祐一はそれ(無視)が出来ない。なぜなら民衆を"見て"しまうから。嘆きの声を、恐怖による心の震えを、死による無念の叫びを、正義と民衆の守護者たる彼はどうしても聞いてしまう。それが一つ。

 

 そして……。

 

 こいつの最大の弱みはきっと"精神の脆さ"なんだろうな。雲一つない夜空を見上げながら、護堂は正解を引き当てた。

 

 祐一は確かに人より何倍も強い意志がある……けれども生まれながらの意志の化け物、そんなものでは決してない。

 人類史でも上から数えた方が早いとはいえ、元来、彼はそんな化け物じみた存在ではない。一見すれば普通の少年と変わらない。

 ではそれを神を殺すにに至るまで押し上げたものとはなにか? 

 それはきっと、折れた事に由来するのだろう。己の苦難に満ちた境遇もあるだろう、友の死もあったのかもしれない。虐げられた民衆が居たのかも知れない。過去でだれかと紡いだ想いが、記憶が、その極致まで引き上げたのだ。

 突き詰めれば人間の範疇に収まる精神を持つ祐一がそう言った苦境に遭い、心を折れ、跪く。そうして折れながらも、立ち上がったエネルギーこそが祐一を"神殺し"へと至らしめた要因なのではないかと、そう護堂は睨んでいた。

 

 例えるなら『黒曜石』か。黒曜石は石の一種……だからこそ硬いのは当然として脆く、砕けやすいのが特徴だ。

 だが黒曜石は、砕ければ砕けるほど、鋭利な刃と化す。その鋭さは自然界でも最高峰。

 今は記憶を失うほど叩きのめされ、打ちのめされている祐一。だが、だからこそ、そこから這い上がる事ができればこいつはきっと── 

 

「護堂さん、最初の神様ってどんなやつでした?」

 

 と、そこで沈思黙考していた護堂の思考を裂いたのは、祐一の声だった。似合わないちょっと真剣そうな雰囲気に少し面食らって間が空いてしまう。

 

「……なんでそんなこと聞くんだ?」

「やっぱり聞いたらマズかったです?」

「いや、そうじゃなくてどういう神様を殺したかなんて自分の手札を晒してるのと同じだろ」

「あ、あー……たしかに」

 

 じゃあいいです、と簡単に引っ込めようとする祐一を護堂は制した。

 

「まぁでも、俺はお前の権能を知ってるからな……そうだな、変な奴だったよ。出会ったのはイタリアのサルデーニャって島で『民衆と正義の守護者』……それがあいつだった」

「なんかいい奴そうですね」

「まぁな。あいつも最初はそんな言葉が相応しい奴だった。あいつが居ればどんな奴も笑顔になって、傷付いてる人や困ってる人が居れば放っておけないような太陽みたいなやつだったよ」

「太陽……聞いてる分じゃサトゥルヌスと全然違いますね?」

「はは、それには訳があるんだ。俺が会った時、そいつはまだ完全な『まつろわぬ神』じゃなかったのさ。別の神と争って傷を負い、零落した姿で、イタリア中に散らばった自分の半身を集める旅をしていたんだ。だから『まつろわぬ神』の歪みの元凶……まつろわぬ性が薄かったのさ」

「つまりバラバラになってたからまともだったって事ですか? デタラメですね……」

「『まつろわぬ神』なんて皆そんなもんさ。それで一つ、またひとつと、力を取り戻すごとに『まつろわぬ神』である以上逃れ得ない宿命に……「まつろわぬ性」に呑まれていったんだ。結局、俺とあいつは最後に殺し合って、俺はカンピオーネになって終わったんだ」

 

 どこか懐古の情を織り交ぜながら護堂は語り終えた。

 

「まつろわぬ性に、『民衆と正義の守護者』か……。護堂さん、なんでか分かららないんですけど、俺、そんな風な似た誰かを知ってる気がするんです……」

「……そうか」

 

 護堂は何かを言葉にしようとして、結局、彼の喉から声が越える事はなかった。何か知っているのか、祐一も問い掛けようとして───

 

「──ッ!」

 

 気配。前兆。前触れ。

 祐一が言葉を生みだすより早く、そいつは現れた。

 場所は上空……中空に一対の双眸が浮かんでいた。平べったい瞳孔と金色の虹彩。

 祐一はそれを見た事があった。 ──山羊だ。あれは悪魔の眼をもつ賢しげな獣。祐一たちを見下す瞳は山羊の目だった。巨大な『山羊』の目が、遥か高みから見下ろしている。

 

「来たな。お前の権能の欠片──『化身』のおでましだ」

 

 気付けばいつの間にか空には星々の明かりさえ掻き消す、黒雲が一部の隙もなく覆い尽くしていた。空からもたらされる光源は、一対の双眸と雲のなかを疾走る雷光のみ。

 いつの間にか驟雨が降りそそぎ、篝火を消し去って、闇を生んでいた。祭りの賑やかさは露と消え、恐怖による動揺と悲鳴とが、町を包み込んだ。

 唐突に現れた強大な気配に、無力な人々は跪き、戦士が己の非力さに切歯扼腕する。

 平時と変わらないのは、たった二人だけ……いや、それどころか血気盛んに空を見上げてさえいた。

 

「あの山羊も俺の権能の一部、ですか」

「そうだ。探すまでもなく、お前に惹かれてやってきたらしいな。……なあ祐一」

「なんです?」

「ちょっとしたお節介なんだが……お前、自分がまだカンピオーネって事が疑わしいっていうなら──俺が片付けてもいいんだぞ?」

「はは! ──冗談!」

 

 護堂の提案を笑い飛ばす。あれは、俺の獲物だと言わんばかりに。

 

「俺はね、護堂さん。アンタが『鳳』と戦う時にどうしようなく魅せられちまったんだ。だから俺がカンピオーネでもカンピオーネじゃなくても関係なく……」

 

 なにも憚る事はないと護堂の眼を見据えて、宣誓するように。

 

「どんな強敵でも苦難でも撥ね退けて、俺は、アンタと同じ土俵に立ちたいんです」

「──おもしろい」

 

 実質的な宣戦布告に、思わず笑みが零れる。烈火さながらの双眸で見据えられ、戦意が零れてしまう。

 平和主義者を自称する歴戦のカンピオーネは喉をひりつかせる覇気に、くすぶる闘争心を抑えるのに必死になった。

 

 

 ○◎●

 

 

 跳躍。

 あらん限りの力を行使して、中空の「山羊」へ向け大跳躍をする。全力の跳躍は軽く人間の限界を超えていた。おそらくビル一つなら軽く飛び越してしまうだろう。

 だが山羊のいる場所は上空千メートルはありそうだ。どれだけ跳ぼうと、飛ばなければ決して届かない距離。けれど構わない、奴を堕天させるには───充分。

 佩刀する武器は、どこかから拝借してきた粗末な剣一本のみ。祐一はあの山羊を仕留めるのはこれだけで足りると確信していた。

 山羊もまた座視している訳がない。黒雲がひときわ強いかがやきを放ち、闇夜を裂いて紫電が迸った。大気をけたたましく叩き、雷が直進する。

 それに対して祐一が取った行動は一つだけだった。

 

「───退けぇ!」

 

 祐一がその口から言葉を紡いだ途端、雷は弾かれたように明後日の方向へ消え去った。祐一には何故か確信があった……あの雷は己の言霊に逆らう事はできないだろう、と。

 もちろん、ただの言霊ではない。今の祐一は化身の力を行使していた。

 化身の名は───『少年』。支配と加護を司る化身で、祐一が先刻行使したのは言霊による支配であった。

『少年』の化身は、祐一と対象者が命を賭けられるほど近しい存在でなければ行使できない厳しい制約がある。

 しかし今回、その制約はほぼ無意味なものと化していた。

 当然だ。化身とはすなわち木下祐一の半身同然なのだから。

 ゆえに祐一の言霊ひとつでどんな強大な力であっても、化身由来ならばすぐさま封じる事が可能なのだ。

 

 サトゥルヌスが化身を奪おうとして引き剥がせず、最後に残った三つの化身。そこに『少年』の化身が残っていたのは偶然でもなんでもなく、その繋がりの強さからだった。

 いかなる理由か、ウルスラグナから簒奪した『少年』の化身は祐一と深く溶けあい、どんな外的または内的要因が作用しようと決して別たれる事がないほどにその繋がりは強いものとなっていた。

 化身の掌握はその制約の厳しさから遅れてしまったが、祐一自身が化身そのものであるかの如く、その繋がりは深い。

 一番最初に呼応したのが『少年』だったのは必然であった。

 跳躍の頂点に達したところで佩いていた剣を抜き放ち───投擲! 

 振り抜いた剣は亜音速を超え、一息に肉薄すると山羊の眉間へしたたかに突き刺さった! 

 

 GYAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!! 

 

 激痛による大音声がビリビリと大気を鳴動させ、くずおれた山羊はそのまま大地へ向けて落下した。場所は町の郊外にある山だ。ズズン、と墜落した衝撃によって町どころか島全体を振動させる。

 すぐさま立ち上がった『山羊』の背に、祐一が飛び移った。気配を本能で察知した『山羊』は、勇壮な角から雷を放電するが───

 

「───邪魔だッ!」

 

 徒労に終わる。

 動きの止まった『山羊』はもう隙だらけであった。そのまま背を伝って頭部まで疾走すると、握った拳で角をへし折った。二度目の激痛に、悍馬さながらに身体を振り乱す。

 

「う、おぁっ!」

 

 これには祐一はたまらず振り落とされる。

 地面に着地した祐一と、すでに満身創痍の『山羊』。息の荒い『山羊』に対して、祐一は不敵に笑うのみ……勝敗はもう誰の目から見ても明らかだった。

 体躯で圧倒的に劣る祐一が、もう勝利を掴み取ろうとしている。

 だが、それで敗北を認める『山羊』ではない。稲妻も封じられ進退窮まったとはいえ、まだ四肢は健在。『山羊』はその長大な巨躯をもって祐一に向けて吶喊した。

 いかに膂力に優れる祐一であろうとあの質量は止められない。

 轢殺される、そういつの間にか見守っていた住民の誰もが思い至った。……だが、その未来が訪れる事はなかった。

 

「我は最強にして全ての勝利を掴む者なり」

 

 内から湧き上がってきた言葉を結ぶ。脳裏をよぎるのは黄金の勇壮なる牛、同時に大地から莫大な力が供給されるのを感じる。

 なるほど、こいつが権能か。これまで曖昧なまま行使していたものを、今度はしっかりと自覚する。麻薬を打ったような万能感と使い古した剣を振りかぶる感覚が混濁する。とてもではないが自分が敗けるビジョンが浮かんでこない。

『山羊』はもう目の前。だが慌てる事ない。犬歯を剥き出しにして深く腰を落とし、迎え撃つ。

 

「ゼァァアア!」

 

『山羊』の進撃が止まる。ガッシリと化身で得た膂力で見事に受け止めたのだ。

 もうこの時点で”詰み”であった。

 抑えていた頭部を地面へ叩き付け、再び跳躍。高く飛ぶためではない──勢いを付ける為に。己が拳をより強烈なものとするために! 拳を振り下ろす先は、突き刺さった剣! 

 

 GYAAAAAAAAAAA!!!!!!!! 

 

 三度、絶叫が響く。そしてそれが断末魔となった。頭部を起点にして巨大な『山羊』の姿は無数の粒子となって、祐一の肉体へ溶けていく。あるべき場所へ還ったのだ。

 と、同時に町でワッと歓声が生まれた。戦いの結末を見届けた人々が喜びの声を上げているのだ。脅威が去ったのだから。

 歓声を背中に受けながら、祐一は俯いたまま。拳は白く染まるほど固く握りしめられていた。

『山羊』がもとに戻った時、『鳳』の時と同じようにノイズのような記憶が現れたのだ。

 

『───忘れよ』

 

 ボロボロの外套。艷やかな黒髪。優しげな労る様な声……。これは思い出すたびに自分の無力感と情けなさに襲われる、屈辱の記憶。友でありながら、対等ではなかった記憶。命を助けられながらも怒りに打ち振るえてしまう、そんな記憶。

 ふざけんな! ああ、ふざけんなよ! 俺がお前を……忘れられるわけがないだろがッ! 

 嵐が去り、雲が晴れていく。歓声に沸く人々に囲まれながら、雨に濡れそぼった少年は深く俯いていた。

 

 その姿を護堂だけが見ていた。



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魔王殲滅の太陽神

 くだる、下る、降る。

 ここは陰々滅々とした気配と、どこかに近寄りがたい神秘さを共在させた昏く深い場所……例えどれほど赫々たる武功を上げた戦士とて、例えどれほど智謀冴えわたる賢者でも、例えどれほど信心深い狂信者でさえ、生者である限り、たちまちの内に立ち消える……ヒューペルボレアにて『冥府の谷』と呼ばれる場所。

 

 そこを、ボロボロに擦り切れた外套を纏う者が下へ下へと向かっていく。辺りは灰色の荒涼とした大地。歩を進める地面は蛇が地面を引き摺ったように均され、そこを言葉もなく、黙々と。

 外見は未だ木乃伊じみた姿を残しながらも満腔より滲む神々しさに満ちている。このとびきりの異形は誰であろう、今回の事件の元凶たるサトゥルヌス。

 サトゥルヌスは冷気と土埃の舞う冥府の道なき道をこともなげに歩き進めた。なにせ此処は彼の本領。彼は農耕神であり、農耕とは豊穣と同義である。そして生を司るという事は死もまた司ると同義。ゆえにこの『冥府の谷』は彼の根城でもあった。

 冥府と一口にいっても広大無比であり、人がどれだけ歩いても果てには辿りつかない場所だ……当然、冥府を司るサトゥルヌスにも手の届かない領域があり、いま歩を進める道もまたそう言った場所であった。

 サトゥルヌスには目的があった。……でなければいかに冥府の神とはいえ、こんな辺鄙な場所に近付かない。

 彼もまた仇敵である"神殺し"と同じく化身集めに? 

 いや、そうではない。なにせ彼はすでに二柱もの化身を掌中に収めている。本命である化身は……太陽を宿す化身は、まだ手に入れていないが焦る事はなかった。

 くだる。降る。下る。

 それからどれほど時間が経った時であろうか? 唐突に視界が拓けた。なにもない拓けた場所……──いや、本当にそうか? 居る……何かが。

 姿かたちは見通す事はできずただ漠然と感じるだけだが、巨大な()()のようなものが蜃気楼のように辺り一面に巣食っていた。あまりにも強大で巨大すぎて只人には認識できないもの……『まつろわぬ神』が。

 

「──やはりここで眠りに就いていたか()()()()

 

 サートゥルヌスはそれを前にしても泰然とし、それどころか喜色を帯びた声で言い放つと、眼前の存在を畏れることなく歩を進め手を伸ばした。そしてサトゥルヌスはその異形に似つかぬ猫なで声で語り掛けはじめた。

 

「余は幾星霜にもおよぶ因縁を絶ち切る為、此処を戦場と定めた。討ち果たすべき敵は二人の"神殺し"ども……大地とともに永きにわたる静寂にあった君を起こしてしまうのは些か心苦しいが……余に力を貸しておくれ?」

 

 サトゥルヌスの言葉が終わり、幾ばくの時と静寂が流れた。短くはない時間。

 だが、一度変化が訪れると静寂は立ち消えた。何かが身を起こす気配と、筋肉の収縮や呼気が場を満たし、最後には鐘を鳴らすようなどこまでも響きわたる咆哮が冥府を揺るがした。

 姿の見えない「力」としか称しようのない『まつろわぬ神』はそれを回答としたのだ……"是"と。

 幾星霜、眠りに就いていた主の激情に呼応するかの如く冥府全域が鳴動する。

 

 口元で弧を描く。

 祐一たちが二柱の化身を手に入れた時を同じくしてかの神もまた二柱の化身を収奪し、さらに同族さえも従えていた……準備はととのった。

 あとは本命たる化身を揃え、王手を掛けるのみ。

 サトゥルヌスにとっては思惑通りであり、祐一たちにとっては最悪一歩手前の未来が待ち受けている事を示していた。

 

 

 ○◎●

 

 

「……マズイことになった」

 

 それは『山羊』を倒し、名も知れぬ町を離れてから一週間の時が流れた頃。

 海を渡って……というか漂流してというべきか。ともかく濡鼠になりながらも新たな街を訪れ、白い頭巾の者から情報を得た護堂の第一声であった。

 

 今回訪れた街は以前いた町と比べてずっと栄えていた。道はたんに土を固めたのでは無くて石で舗装したしっかりしたもので、街を取り囲む壁も厚く、高いものだ。中身の街並みも背の高い建物が見え、モニュメントさえあるほど。

 人通りの多いメインストリートで立ち止まって居たからか、はたまた装いが珍しいからか奇異の視線を投げかけられてしまった。とりあえず人通りの邪魔になるので歩き出す。

 

「マズイこと、ですか?」

 

 難しい顔をする護堂に、未だ理解が及んでいない祐一は相方の言葉を鸚鵡返しするしかなかった。

 

「ああ、サトゥルヌスの目論見は薄々感付いていたが……話を聞いて確信を得たよ」

「……」

「祐一、俺たちの前に現れたあのサトゥルヌスが農耕神なのは知ってるな?」

「それくらいは。種撒かれて苗床にされたくらいですし」

「そうだったな。でもな、サトゥルヌスにとって農耕神ってのは()()()姿()()()()()のさ」

「正しい姿ではない?」

 

 農耕神が正しい姿ではない、と言われてもピンと来なかった。そもそも正しい神様の姿っものがいまいち理解できなかったのだ。

 

「ああ、例えば日本の妖怪だって元は土着の神様だったって奴がごまんといる。ギリシャ神話の怪物メドゥサだって、アテナの一側面だったていうのは有名な話さ……サトゥルヌスも同じで、かつての姿から零落して農耕神に甘んじているんだよ」

「あいつ、言ってましたね。農耕神から太陽神へ回帰するって……それがあいつの正しい姿?」

「だろうな。サトゥルヌスは四輪の戦車で現されることがある……四輪の戦車(クアドリガ)っていうのは太陽神の乗り物でな、これこそサトゥルヌスが()()()だったよすがとされてる。

 つまりサトゥルヌスはソルやヘリオス、アポロンなどなど……これら古代のギリシャやローマで信仰された太陽神の一柱であったらしいんだよ」

「あ、あー……それで農耕神から太陽神に戻ろうと俺がもってるていうミスラを狙ってたんですか」

「そういうことだろう。確かに今じゃお前の力を奪って『まつろわぬ神』と伍するレベルにまでいるが……結局、本来の姿に戻れてないのさあいつは。そうだ、アイツにとって農耕神という現状は屈辱以外の何ものでもない」

 

 神なんてものに至っても、未だ悲願の途上。サトゥルヌスの喪ったものの巨大さに祐一は少しだけ同情を覚え、その大きさだけサトゥルヌスの強さにも等しいのだと想いを新たにした。

 

「サトゥルヌスはかつて神王で、天空すら統べた神だった……しかし暴政を見かねた子供たちによって覆され転落し、化外の地へ追い払われた。

 太陽神だった彼の神は大地という鎖に繋がれ囚われの神となった。一年に一度、解放される時もあったが七日間だけで、それも太陽神を復活させてはじめて行われるお祭り(サートゥルナーリア)がないと解放されなかったらしい」

「なんか不自由な話しっすね」

「そうだ、サトゥルヌスは不自由な神なのさ。だからあいつは何が何でも復活したい」

 

 サトゥルヌスがなぜ自分を襲ったのか、その理由の一端がやっと分かった。

 過去を取り戻したいのだ。それはきっと祐一と同じように。

 

「ここまでが前提の話だ」

「長い前提だぁ……」

 

 ガックリと肩を落とした。自分に纏わる話なのだが、正直授業を聞いているようで眠気と嫌気がさした。だけど寝てはテスラからの鞭が飛んでくる気がして、頬をはたいた。誰かの名前を思い出した気がしたけど、記憶の暗幕がすぐに覆った。

 

「でもサトゥルヌスの元となった太陽神って何なんでしょうね? たくさん候補はいるのは良いですけど……」

「それはきっと、サトゥルヌスのやつが此処に来た事が大きなヒントだろうな」

「此処……?」

「ヒューペルボレアさ」

 

 英雄界ヒューペルボレア。それがサトゥルヌスの正体を暴くひとつの鍵だった。

 そして神殺しである彼らの天敵を生み出すことも可能にする聖域でもあった。

 

「ヒューペルボレアが神話でどういう風に語られるか知っているか?」

「いやぁ……俺、神話は疎くって。ヒューペルボレアって言葉もサトゥルヌスなんて神も護堂さんに聞いてから知ったくらいですし」

「普通はそうだろうな。知ってる奴なんて神話の勉強をしてる奴か、よっぽどの物好きくらいだろうからなぁ……」

 

 祐一の答えに責めるでもなく護堂は苦笑気味だったが、今度は一転して真面目な表情を浮かべた。

 

「ヒューペルボレア伝説は北海を起源とするもの、デロス島を起源とするもの……いくつかあるんだが、その多くがアポロン崇拝の盛んな描写があるんだ。だからヒューペルボレアは"太陽神アポロンの故郷"だって話がある」

「アポロン? ……ってギリシアの神でしたっけ。じゃあそのアポロンって奴がサトゥルヌスの正体?」

「いや違う」

 

 ははーん、アポロンだな? と飛びついてみればバッサリ切られてしまった。

 あれ……なんかこの感覚、似たような事が前にも……。なぜだろう、祐一はひどい既視感を覚えた。

 見上げた空に、転覆した船で知り合ったおっちゃんがイイ笑顔をしてサムズアップしている気がした。

 

「ギリシャ神話の神々には土着の神とは別に、いわゆる外様の神様が結構いるんだ。アポロンももとを辿れば外様の神なんだ。

 起源はいくつもあって絞れないが、アポロンの母レトは小アジアで信仰された地母神だった。で、それに随伴するように()()()アポロンの崇拝あったとされている」

「植物神?」

「そうだ。そして祐一、お前は『犠牲の獣』って覚えているか?」

「そりゃあまあ。ここに来る前に何度かやりましたよね、海に漂ってる牛とか獣を殺して食べ物にするの」

「ああ。そしてこうも言ったろ……神話世界だから神話に沿った法則がある、ってな。『犠牲の獣』は確かに神話があって、そしてとある神様に纏わる神話なんだ」

「それって?」

「"雄牛を殺すもの"ミスラ。神話には犠牲の獣の体から効能あるあらゆる薬草や植物が生まれ出て、大地を緑で覆ったなんてものもある……そしてアポロンとミスラは同じ太陽神であり酷く似通った神様なんだ」

 

 互いに似通った神性を備えるミスラとアポロン。"太陽神アポロンの故郷"とは、アポロンのいにしえの姿を表すものでミスラこそが祖であったなら、ヒューペルボレアの真の主とはつまり……。

 真相は不明だが、アポロンにしろ、ミスラにしろ、ヒューペルボレアにおいては太陽が重大な意味を持つ。なんせ世界の主たる神様が司るものだから。

 

「そしてミスラとサトゥルヌスも遠い縁戚みたいなもんなんだ。最初は別々で全く無関係でも、時代を下るごとに文化や民族がぶつかり合って合わさっていく過程で習合した事があるんだ」

「ふーん?」

「まだローマ帝国があった時代、冬至の季節にサトゥルヌスにまつわるお祭りとして「サートゥルナーリア」っていうクリスマスの元祖ともいえるお祭りがあったんだ。

 開放的な祭りでな、奴隷と主人が立場を入れ替えてバカ騒ぎをする。そんなお祭りだった」

「そんなお祭りがあったんですか? 知らなかった……」

「はは、まあ古いお祭りだしな。で、このお祭りはさっき言ったことに繋がって来るんだが囚われのサトゥルヌスを解放するお祭りだったんだ。一年に一度、冬至節に七日間このお祭りは開催され、親しまれた」

「へー」

「それともう一つ、クリスマスの起源と言われるお祭りがあった。それは十二月二十五日に行われ、"不滅の太陽が生まれる日"を祝うお祭りだった」

「不滅の太陽? ってなんか大仰な名前ですね……」

「実際太陽が登らない日なんてないからな、古代人たちはよく太陽を不滅に象徴として祭り上げてる。太陽と不滅はイコールで、不滅の太陽とはローマ帝国で信仰されたミトラ教の主神"太陽神ミトラス"を指し、つまりミトラスを祝うお祭りだったのさ。

 ……時代が流れて行くごとに良く言えば寛容、悪く言えば適当なローマ人の間で、その二つのお祭りは習合していく。祭られる神様もまた同一視される事となったんだ」

「……」

「そう……つまりミトラスあるいはミスラこそ、農耕神サトゥルヌスが回帰しようと目指している太陽神の正体なんだ」

「ミスラ……」

 

 ミスラ。何度も聞いたような記憶があった。

 思い出せないが、それは祐一にとって聞き覚えのある神の名で、これまでの道程をともにしてきた"なにか"と同じ名前をしている気がした。

 

「ミスラとサトゥルヌスの関係はなんとなく分かりましたけど、でも、今のサトゥルヌスは農耕神なんでしょ? そんな簡単に別の神格に変われるんですか?」

「もちろん簡単な話じゃない。でも不可能でもない。覚えておくといい……『まつろわぬ神』ってのは神話をなぞるように贄を捧げたり、儀式を繰り返す事で、狙った神性へ回帰する事ができるんだ」

「…………」

「一番手っ取り早いのは自分に由来する神具を使って道標とするのだが……そんな都合のいいものあるはずないし、だからサトゥルヌスもお前の権能を狙ったんじゃないか」

「今度はあいつの好きなようにはさせません」

 

 祐一は言い切った。護堂も同意するようにうなずく。護堂はサトゥルヌスが次に打ってくるであろう一手を思案しはじめた。

 何度も耳にした太陽という言葉。そう聞いて電流じみた映像が脳を駆け抜けた。黄金の首飾り。聖なる白。逞しき四足の獣……。

 

「太陽を、日輪を運ぶ白い神馬──常勝不敗の闘神第三の化身『白馬』……」

 

 祐一は知らぬ事であったがウルスラグナは神話ではミスラと主従関係にあってミスラという日輪を乗せて導く神だった。

 神話や讃歌でも合わせて語られる事も多く、太陽を司る『白馬』はミスラの一部と言っても過言ではなかった。故にサトゥルヌスを太陽神に導くには打って付けの化身ともいえた。

 

「『白馬』、か。馬は太陽を運ぶ聖獣。あいつはお前が持つ『白馬』もまた狙っているんだろうな。今まで姿を見せなかったのも、そういう訳かもな」

 

 護堂は顰めた顔を隠すように手で口を覆い、苦い思考をそのまま口から零した。思わずつられて神妙な顔になってしまう。

 

「そういえば他にも神話をなぞったり再現することでも回帰できる、ってましたよね。そっちはどうなんです?」

「最後の手段になってくるはずだ、なにせ手っ取り早いやり方がまだあるんだからな。

 あくまで二の矢、胸に留めて置けばいい。神話を再現して神性を高めるやり方なんて……かなりの大事だ。それこそ新しく神を招聘するに等しい。きっと人間を何千何万と生贄にしてやっと、ってほどにな。生半に出来る事じゃない」

「でもサトゥルヌスも俺たちにちょっかい出してきたって事は、生半な覚悟じゃないって事でしょ」

「そうだな。あいつの目的は今も昔も変わらない。……かつての太陽神だった頃へ回帰すること。今のような半端な豊穣神ではなく、完全な太陽神へ」

 

 現状、サトゥルヌスの求める権能は確かに存在し、チャンスもしっかりある。だが祐一達が先に取り返し、二の矢に頼らざるを得なくなれば……やるかやらないかで言えばやるだろう。

 サトゥルヌスに限らず、自我と自尊心に怪物たるまつろわぬ神は例外なくその選択肢を取る。

 

「話の続きだ。サトゥルヌスがお前の『白馬』を手に入れたその時、それを呼び水にミスラに限りなく近い太陽神としての神格を取り戻すだろう。

 果てにはヒューペルボレアという世界において"無敵の太陽神"として復活してしまうと俺は予測してる。

 なんせただ権能を持ってるお前でさえ、恩恵を受けてるらしいからな……此処の創造神に近い存在となれば相当だ」

「無敵って……そんな弱腰、護堂さんらしくないですね」

「ミスラは強い。侮りは控えた方がいい。俺が以前遭遇した、太陽神であり最強の『鋼』であったミスラは、カンピオーネやそれこそ同胞である『まつろわぬ神』でさえすべてを殲滅する凄まじく強力な神格だった」

「すべて!?」

 

 驚愕する祐一。信じられなかったのだ、そんな途方も無い武勇と根気を持つ神がいるなど。

 だが護堂は静かに、そしてしっかりと頷き、それが間違いのない真実なのだと言葉もなく語っていた。

 護堂はふたたび口を開くと、これまでの話をまとめはじめた。

 

「このヒューペルボレアにおいてミスラは間違いなく強大な権威と力を振るえる神格だ。そしてサトゥルヌスは子であるユピテルに追われたとはいえ元はといえば主神だった神格……それくらいの力や権威があっても不思議じゃない」

「……」

「サトゥルヌスが太陽神へ至ったが最後、このヒューペルボレアにおいてカンピオーネすら歯牙に掛けない、最大の天敵である『魔王殲滅の勇者』が誕生する事になる」

「魔王、殲滅……」

 

 魔王殲滅。その単語が鼓膜を打った途端、全身の肌が粟立った。己の過去はいまだ判然としないがそれが忌むべき言葉なのだと直感的に理解できた。

 

「それに今は冬至節。サトゥルヌスが解放され、もっとも力を強めている時期……サトゥルヌスのやつがこの期を逃す事はまずない。『白馬』が現れた時、激しい争奪戦になるぞ。覚悟しておけ」

 

 護堂の静かで確信の籠もった言葉に、新たなる騒乱を予感し、鉛じみた生唾を嚥下した。

 

「と言っても今の俺たちになにか出来る訳じゃないしなぁ……とりあえず飯食うか」

「うわぁい、さっきまでの神妙な雰囲気ぶん投げましたね?」

「よく言うだろ? 腹が減っては戦はできぬってな」

 

 話に夢中になり気付かなかったが、いつの間にか大きく赤々しい中華風の建物の前に立っていた。中からは香ばしい香りが漂ってくる。どうやら料亭らしい。

 

「そういうもんですか」

「そういうもんなのさ」

 

 

 肉、肉、肉、肉。以前いた町とは打って変わり今度訪れた街は魚や野菜は邪道と言わんばかりに肉尽くしであった。というか全体的に赤い。調味料がふんだんに振られ、まるで元いた世界で饗されるような満漢全席といった風情である。

 豪勢な料理にならんで祐一たちの居る部屋も豪奢なもので部屋は広く、内装やグラスの一品に至るまで趣向を凝らされ、金銭感覚が庶民の祐一は部屋に通されるなり目を回す事となった。

 どうやら此処は白蓮王という同族が坐す本山に近いらしく、それに伴って白蓮王の影響力がかなり強いらしい。そのため白蓮王の義兄弟という護堂を迎える歓待は盛大なものとなった。

 まあ色々思惑が絡んだ結果であっただろうが饗されるならば遠慮はいらないと健啖家二人はさながら餅を突くようにして、手に箸に料理を取って一息に胃へ収めていった。

 食事のあとにはうら若い乙女ばかりが舞い……透けるように白い肌を持つ者も居れば、褐色のエキゾチックな者も居て、年代も様々だった。祐一や護堂の同年代もいれば年上年下とまさによりどりみどりである。

 饗される料理が落ち着いて行くにつれ、祐一は嫌な予感をひしひしを感じていた。踊り子たちが来る前に逃げよう。席を立とうと意識を切り替えた時には、すでに数多の乙女たちに囲まれてしまっていた。カンピオーネの直感は万能ではなかった。

 

「あばばばばばばb……」

 

 これまで何度か言及したが木下祐一は女性が苦手である……饗されているはずの立場である彼が大いにキョドってしまうほどに。

 

「祐一……お前そんなに女性ダメなのか……」

 

 呆れた、と言うより少し意外そうに護堂は零した。護堂の印象としては老若男女美醜問わず誰でも別け隔てなく突っ込んでいく性根を持っている、というのが祐一という少年であった。

 

「いや! 普通なら全然大丈夫なんすけど! そういうふいんきになると! ……てか、アッー! 誰か触った!? ……俺も! 以前はここまで酷くなかったんですけど……イッ! キャー!」

 

 彼の言うとおり常ならば彼もここまで動揺する事はない。だが動悸、目眩、吐き気……これも記憶を失った事に関係が!? 俺はどんな修羅場を潜り抜けてきたんだッ!? 

 どこぞの幽世で邂逅した神祖の正装が記憶を失おうとも深く大きな傷跡となっているらしい。そんな過去など忘却している祐一はどんな大敵を相手にしてきたのかと戦慄していた──! 

 

 

 ○◎●

 

 

「──おや? 青筋を立ててどうかなさいましたかニニアン殿?」

「……いえ、何者かが私を貶めているような気がして……」

「はぁ。神祖たる貴方が言うのならもしかするやも知れませんが……ですが行方知れずであった貴方の腹心であるカズハズ殿も戻って来たのです。我らの大願とトーイン(襲撃)を成就させる為にも、しっかりして欲しい物ですね」

「フェルグス、貴方に言われずとも承知しています。それ以上言葉を重ねるのは止しなさい」

「まあ、いいでしょう。……それとフェルグスと呼ぶのは止めてくれと何度いえば判るのですか?」

 

 とある幽世の片隅にてそんなやり取りがあったなど祐一は知る由もなかった。

 

 

 ○◎●

 

 

「ふーん。でも今まで異性と関わりがなかった訳じゃないんだろ? 思い出せる範囲で異性との交流を思い出してみたりしたらどうだ?」

 

 祐一に話しかけながらうら若い女性たちを受け流しながら侍らす護堂。その姿に記憶を探りながらも「やはりドン・ファン……!」と戦慄する祐一。

 

「うむむ……。元々クラスの女子とかそんなに関わってなかったしなぁ……」

「ふぅん。なら思い出しはじめた記憶の中はどうだ?」

「喪った記憶の中……──あっ! 今ピンク色の髪を持った元気のいい女の子が脳裏をよぎったような……!」

「よし、これ以上の詮索は止めとくか」

「え?」

 

 イイ笑顔でストップを掛けられた。

 

「まさかとは思うが、神話世界だからってひょっこり出て来そうだしなあの人……」

「?」

 

 ボソリ、と呟かれた言葉は祐一の耳に届く事はなかった。それはそれとして、護堂と自分を客観的に俯瞰し、深く思い悩む仕草をとる祐一。

 ろくな事を考えていないのは短い付き合いだがなんとなく分かった護堂。

 

「うむむ。護堂さんはこんな時でも泰然自若としている……俺はこんなにも心を乱されてしまうと言うのに……ハッ! まさか護堂さんの強さの秘訣って女性慣れ──!?」

「あー……まあ何度も助けられたし、女性は味方に付けといて損はないと思うが……。同じくらい窮地にも陥ったけど」

「なるほど! ──オレ判りましたよ! 自分が弱い理由がッ!」

「そ、そうか」

 

 だァラッシャーッ! 我こそが夜の魔王じゃー! 威勢よく飛び込んだ祐一。だが気合で上手くいくなら彼はこんな場所に迷い込んでいない。

 女性陣に言い様におもちゃにされると、半刻も持たず宛てがわれた部屋へ逃げ込む事となった。

 

 

 ○◎●

 

 

 薄明の朝、空が滲んで太陽がいまだ顔を出していない時間。不思議と祐一はこの時間に必ず目を醒ました。この世界に漂流してから自然と早く目覚めるのだ。

 これも過去が原因なのだろうか? と少し靄のかかった脳内で思案する。

 部屋を出ると、護堂と鉢合わせする事となった。彼も早起きらしい。

 

「よう、夜の魔王」

「なんの事ですか? 俺、過去は振り向かない主義なんで……」

 

 祐一が目を逸らすと、クツクツと護堂は笑った。

 

「ま、いつか慣れるだろ」

「う……。まぁ、情けなさこの上ないですし、頑張ってみます」

 

 朝の軽いやり取り。この会話が少し先の未来にて大いに影響を齎すことになるとは、神ならぬ二人には見通せる筈もなかった。

 

 昨夜と同じく、同じ料亭で饗される事となった。朝、というよりまだ夜に近いのだが、街はにわかに動き出していた。二人が席に付くと同時に、粥や肉饅頭やら次々と皿が置かれていく。相変わらずカラフルだなぁと、どう見ても朝食の量ではない朝食を口に放り込んでいく。

 

「あ、ふぉうだごふぉーさん」

「頼むから飯食ってから喋べってくれ」

 

 お約束と言うべきか口にものを詰めながら喋り始めた後輩に、苦笑いする。

 

「んぐ、……えと、この街に来る時に、『駱駝』と遭遇して倒したじゃないですか。それで前の記憶をちょっとだけ思い出したんすけど」

「へぇ、よかったな」

 

 実は祐一と護堂はこの街に向かうその道中で、化身の一柱である『駱駝』と遭遇し、これを倒して手中に収めていた。

 とはいえその戦闘の余波で祐一たちの乗っていた船はあえなく転覆し、この街を訪れた時、濡鼠になっていたのはそういう理由だった。なんやかんやあって記憶を取り戻した事を忘れていたらしい。

 この二人旅で二度目となる漂流に「もう二度と護堂さんとは船に乗らない」とは祐一の弁。なお護堂は「カンピオーネなんて言う台風の目が二人も雁首揃えばそうなるんだって」とどこか悟った風な主張をしているようだ。

 閑話休題。

 

「やっぱ俺、何回か神様連中と戦ってたみたいっす」

「だろうな」

「もうちょっと驚いてくださいよ……。まぁ俺も今のままで忘れてたんですけど」

「お相子だろ。で、どんな神様だったとか憶えているのか?」

「えっと確か……初めて"神殺し"になって戦ったのはドバイでした。そこで襲って来たチンギス・ハーンと戦ったり、迷い込んだ幽世って場所でヤマトタケルと殺し合ったり……記憶が途切れてるのはスロヴァキアで天使と戦ってからですね。その戦いの余波でトンじまったみたいで」

「へぇ、なかなかの戦歴だな」

「でしょ? でも戦ってばっかで何を喋ったのか、何をそんなに笑って怒ったり、悲しんでたりしてたのか、全然思い出せないんですよねー。

『鋼』や神祖、あとは神様の名前や出会った人の名前、その辺りなら問題なく記憶を出し入れ出来るのに、その人がどんな人物で、どんな事を話たのかになるとてんでダメなんですよ」

「なるほどなぁ。記憶喪失でも種類があるっていうし、段階的に思い出してるって思えば少しは前進してるんじゃないか?」

「お、いい考えっすねそれ」 

 

 と、その時だった。東方に眩い曙光が迸ったのは。

 

「今のは……!」

 

 祐一が勢いよく立ち上がるのを尻目に護堂は見えない糸を手繰るような仕草を取った。

 

「ああ。現れたぞ『白馬』と……」

 

 ───神殺しよ。時は来たれり───

 

「ッ! サトゥルヌス!」

 

 ──一つ、提案がある。余もそなたらも、彼の化身を前にして邪魔立てされるのは本望ではない……そうであろう? ──

 

「何がいいたいんだ? 本題を言えばいい」

 

 ──フフフ……。ここでひとつ雌雄を決しようではないか、と言っているのだ。余とそなたらで覇を競い合うのだ──

 

「つまり俺たちとアンタが勝負して、どっちが『白馬』を手に入れるか戦おうって訳か」

 

 ──左様。なに、勝負といってもどちらが『白馬』を先に奪取するか、それだけが条件の簡単なもの。……如何かな? ──

 

「ハンッいいぜ、受けて立ってやる! クビ洗って待ってな!」

 

 ──フ……東の大地にてお待ちしよう──

 

 そこでサトゥルヌスの言葉は切れた。売り言葉に買い言葉で、思わず叫んでしまったが冷静になるとやっちまったと顔に書いて護堂の方を見た。けれど彼は咎めるでもなく、苦笑するばかりだった。

 

「まあ、虎穴に入らずんば虎子を得ずってな。勝つぞ」

「うす!」

 

 

 ○◎●

 

 

「現れたか。"神殺し"たちよ」

 

『白馬』のいる街の郊外。サトゥルヌスの指定した東の地に祐一たちは歩武を鳴らして現れた。

 サトゥルヌスは見晴らしの良い場所に、一人立っていた。サトゥルヌスは以前の記憶よりも、力を増したように見えた……何か、深く暗く昏いなにかの気配をビリビリと皮膚に感じる。凍えるような凍気に、昨夜の話がひどく疑わしく思えた。

 彼を見咎めた瞬間、祐一と護堂の肉体が力と闘志で満たされる。東方の空には、太陽とは別に輝く、黄金の光明。祐一の直感が囁いている、あれが『白馬』なのだと。

 

「フッフッ……余の復活の準備は着々と整っておる。おぬしたちも気付いておるのだろう余の思惑を? おぬし達は愚かではあるが馬鹿ではないと承知しておるゆえな」

「まあ、あんたが懲りずに太陽神へ立ち返ろうとしてる事くらいは、な」

「そうでなくてはな我が因縁、草薙護堂よ。あの日輪を運ぶ神馬を掌中に収めれば、余は嘗ての権勢を取り戻し、このヒューペルボレアの地においては無敵の存在となろう。だがそれを為さずとも、余はそなたらを討ち取る事も難しくはないと考えている」

「へぇ、神様ってのは冗談を言うんだな初耳だぜ。ま、全くおもしろくないけどな」

 

 割り込むように声を発したのは戦意と怒気と横溢させた木下祐一である。護堂には長年の因縁があるように、祐一にもサトゥルヌスにはいいように利用された借りがあった。彼を前にして穏やかになれるものではない。

 押し留めるようにして護堂が前に出た。

 

「この場じゃそっちはアンタ一人だけで数的にはこっちが有利なんだ。それに、まだ『まつろわぬ神』に成ったとはいえ完全に御してる訳でもないんだろう?」

 

 サトゥルヌスの返答は沈黙のみ。沈黙は肯定と同義であった。

 

「なぁ、ここは大人しく引いた方が身の為だと思うぞ?」

「だからそなたらは愚かだと言うのだ。草薙護堂、宿敵を前に余がこれまで無為に過ごしていたと思うのか? ──姿を見せるがいい、余の伴侶よ」

「!」

「なんだぁ!?」

 

 大地の鳴動、そして亀裂。そこから現れたのは一体の巨大な銀色の竜であった。竜、とは言ったがその姿はどこか蝶や蛾を思わせる鱗翅目の羽根で、胴は蛇じみた流線的な身体であった。

 "神殺し"の肉体と直感教えてくれる。これは化身のような神獣などではない……歴きとした『神』なのだと。

 

「驚いたかな? そなたらの言うとおり数では余が不利だったゆえ、冥府を下り、余の妻を揺り起こしたのだよ……木下祐一と言ったか、おぬしの化身の収集なぞほんの片手間にすぎぬ」

「ふん、そーかよ」

 

 サトゥルヌスの妻……という事はオプスか。護堂は記憶の奥から知識を引き出した。おそらく従属神や眷属神と呼ばれる存在だろう、『まつろわぬ神』には一歩譲るが侮れる相手ではない。

 

 草薙護堂、木下祐一。サトゥルヌス、オプス。

 二人の魔王と二柱の『まつろわぬ神』が睨み合う……ここはもはや神代の戦場。覇気と神気に烟る戦場。

 だが臆病者風に吹かれたものはいない。それどころか戦意を横溢させる者がいるばかり。

 

「いいな、神に神獣! 今度は竜か! 退屈しねぇな!」

「フッ……ま、そういう事だ」

 

 死線を目前に控えながらそんな事をのたまう同族に思わず吹き出してしまう護堂。だが、すぐに目をグッと細めた。

 

「サトゥルヌスの奴は俺が相手をしてやる。祐一、お前はあの龍……オプスをどうにかしろ!」

 

 同じ戦場で肩を並べながらも、二人は同じを場所を見てはいない。言葉はなく犬歯を剥き出しに威嚇するような笑みで応えた。

 この日、神話世界ヒューペルボレアにて二人のカンピオーネと二柱の『まつろわぬ神』がぶつかりあった。



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狂騒の宴

 ヒューペルボレアの大地。常春の楽園とも貧困の蔓延る土地とも言われるそこで、尋常ならざる戦いの銅鑼が鳴った。

 先手は誰であろう木下祐一。おそらくこの四人の超越者の内、もっとも未熟で、しかしもっとも軽捷なのが彼だった。

 呼気で気を練って、大股に一歩を踏み出す──その時だった。ぐらりと身体が揺れ、無様に倒れ込みそうになった。

 なんだ、力が!? 異常はそれだけではない。なぜ気付かなかったのか……敵に視線を戻せば視界は何重にもブレ、ひどい酩酊感に襲われた。三角規範がミキサーでシェイクされたのかと錯覚するほどの不安定さ。

 

「ぐ!?」

「息をするな! あいつらが空気中に何かを撒いてる! それが原因だ!」

 

 護堂に言われあたりを見渡せば霧のように花粉じみたものがそこら中を漂っていた。それもただの粉ではない……目を凝らせば、それ一つひとつが極小の蝶のような姿をしている。

 眼前にたたずむオプスと酷く似た姿に、やっとこれは奴らの攻撃なのだと悟った。

 コイツが身体の中に入っちまってるのか……! 戦慄すると同時、己の不覚をひどく恥じる。そもそもこの舞台を用意したのはサトゥルヌスたちだ。用心して然るべきだった。現に備えていたらしき護堂にはなんの変調も起きていない。

 

「呪力を高め続けろ! それでどうにかなる!」

 

 膝を付きそうになっている祐一へ、護堂は厳しい視線をそのままに声を張り上げた。歴戦の戦士である護堂は対処方を知っているらしい。

 呪力……そうか! 祐一もまた悟った……いや、思い出した。断片的な記憶のなかで、己の肉体が呪力を無効化する特性を持っている事を。歯を食い縛り、臍下丹田から呪力を練り上げ……

 

「──愚かな。それをさせると思うか?」

 

 中断させられた。立ち止まって力を高めるなどこの戦いに於いては致命的な隙である。声の方向に振り向けば、銀龍の長大な尻尾が眼前に現れた。いち早く酩酊感から逃れていた護堂は脱することに成功したが、

 

「ガぁ!?」

 

 意識がいまだ朦朧としていた祐一だけはそのまま吹き飛ばされてしまった。

 吹き飛ばされた祐一へ一瞥もくれる事なくオプスは『白馬』の方向へ飛び去っていく。それを看過できる訳もなく護堂が走り出そうとして……サトゥルヌスに阻まれた。

 

「行かせると思うか草薙護堂? ……しかし君の相方は未熟であるな。あの程度で脱落するとは。我が妻に討ち取られるのも時間の問題ではないか?」

「さて、それはどうだろうな」

 

 初手ではしてやられた、か。そう護堂は胸中で独り言ちる。

 だが悪くはない、とも思っていた。カンピオーネは良くも悪くも我が強い。それなりの時間を一緒に旅し上手く盟を結べた仲だが、共闘ができるかは疑問だった。

 分かれて戦えるならそうすべきだ、と護堂は睨み合いながらもそう思案する。それに……。護堂はこの戦いの要は祐一にあると直感していた。同時に彼が十全に動ける舞台を整えることこそが己の役目だとも理解していた。

 

「今日ばかりはあいつに華を持たせてやるか。……だからって訳じゃないが、付き合ってもらうぞサトゥルヌス」

 

 フッ、と。カンピオーネである己が己以外のカンピオーネに戦局を委ねるおかしさに大きく口角を吊り上げた。

 

 

 ○◎●

 

 

「あいってぇ……! クソッ、あの龍モドキめぇ……街までふっ飛ばしやがって!」

 

 ガラガラと瓦礫を持ち上げて、姿を現した祐一。オプスの尾から繰り出された攻撃で盛大に吹き飛ばされた彼は数キロは離れていた街まで舞い戻り、モニュメントに激突する事でやっと停止した。

 攻撃の豪快さや建造物破壊などの被害に比して、祐一はわりと元気だった。距離が離れたのもあるだろうが、護堂の言うとおり呪力を高めてみると痛みが引いていく。

 深く息を吸って、吐く。ここには鱗粉は届いておらず、気にする事なく肺に空気を満たせた。呼吸は気を練るにあたって重要な動作だ、それを示すように臍下丹田に気が満ちて行くのを感じる。呼吸は戦いと生命活動の基礎であり要、精神を落ち着かせる作用もある。

 

「よし」

 

 立ち上がると、祐一は戦士の顔に戻っていた。それと同時に、文字通り、突然ふって湧いてきた祐一に驚愕する人々の視線が突き刺さった。

 どーもどーも、と手を振り、空を見る。視力がすこぶる良い祐一の視界には、悠然と空を滑空しながら『白馬』を追う竜……オプスの姿がハッキリと見えた。

 野郎ォ……。だが走ってても間に合わねぇどうする? 走ってては間に合わないが『鳳』を使っても制限時間が発生してしまう……だがここで手をこまねいている訳にもいかない。

 そうして思案する彼の目に飛び込んできたのは御者のいない一台の()()であった。一頭の馬がひく、小さな馬車。それを見て取った途端、あれだ! と祐一はモニュメントから飛び降りた。

 馬車へ乗り移って手綱を握る。その瞬間、さながらスイッチが切り替わったように手付きと眼光とが鋭いものとなった。

 馬車をひく馬の思考や吐息にコンディション、馬車の性能から空気の流れに、目標への最短ルート……あらゆる知識や情報、経験さえ降ってきた。祐一は権能と行使したのだ、第二の権能『神鞭の騎手』を。

 手綱を打つと意を得た馬が大きく嘶き、そのまま疾走を開始した。

 

「すまねぇ! これ借りるな!」

「あっ! ちょ、ちょっと!?」

「いつか返すからー!」

 

 持ち主らしき人物に手を振って、言葉が帰ってくる時には馬車の影も形もなく、ただ二本の黒焦げた轍のみがあった。

 

 

 祐一の『神鞭の騎手』は『鳳』のように瞬間的に神速には到れぬものの、アクセルを上げていく事で神速に到達する権能である。

 彼のひく馬車は権能の加護のままに音速の壁を超え、そのまま一気に神速下へ到達した。神速は稲妻の速度と同等。ならば当然、視界に入る距離にいたオプスに到達するのは容易く……馬車と祐一は勢いをそのままにオプスの横っ腹に激突した。

 

「どっせぇぇぇぇい!!!!!!!!!!!」

 

 ───KULUAAAAAAAAAAAN!!! 

 

 神速にはいくつか種類があると言われている。一つはAの地点からBの地点までに掛かる時間と短縮したり、距離を縮めたりする方法。

 祐一のもつ『鳳』はこの部類に入り、エイル、祐一がたびたび使っている縮地法も歩法で距離を縮めるもので応用の部類に入るだろう。

 だが『神鞭の騎手』は違った。前者のように何かを技術や魔術で操作するようなお行儀の良いものではなく、ただひたすらに呪力と気合を叩き込んで速度をブーストしていく、とても頭のわる……もとい、凄まじく実直なで男らしいやり方なのである! 

 また、時間や距離を操作するのではなくそのままスピードを上げていくので祐一+騎乗する物体が神速の弾丸になるという事に等しい。

 それは神といえど咄嗟に避けれるものではなく……オプスはその莫大なエネルギーを余す事なく受ける事となった。これにはいかに頑丈な『まつろわぬ神』であろうと堪らず、力を失ったように墜落していく。

 ズズん……大地に巨大な質量が激突した鈍重な音がビリビリと馬車を揺らす。

 

「これでお返したぜオプス! ──次はお前だ『白馬』!」

 

 再び手綱をひいて今度は本命である化身の方向へ駆け出す。祐一はふたたび高速で車輪を回しはじめた。『白馬』も神獣とはいえ神速で移動している訳ではない。

 ならば今、神速に準ずる速度を出せる祐一であれば追いつくのは赤子の手をひねるように簡単な事。

 獲った! 

 以前と変わらず勇壮な姿をした白き神馬へ手を伸ばし──その瞬間、悪寒が走った。

 直感に任せ、一気に左へ旋回する。結果的にその判断は大正解だったらしい。何かが後方を駆け抜けた感覚……すぐさま振り向き、驚愕した。

 

「空に、爪痕!?」

 

 見ればさっきまでいた場所が大気ごと綺麗に削られている。それだけではない……まるで真空を埋めるように周囲の大気が穴の開いた箇所へ吹いていく。

 地上を見ればオプスが爪を振り降ろした体勢で、祐一を見上げていた。誰の仕業かは一目瞭然。

 これは権能なのだ……そして紛うことなき攻撃! まとも命中すれば間違いなく馬車は粉々になり、よしんば掠ってもそこから真っ二つに引き裂かれて居ただろう。

 どんな権能なんだ、と考える暇もなくふたたび悪寒が背筋を舐めた。

 ガリガリ、幾重もの爪痕が生み出され疾走しても無視できない突風が吹き荒れる。

 ちくしょうッ『白馬』は今は手が出せない──先にオプスを! 

 そう考えてオプスに目標を切り替えるが……いない。先ほどまで虎視眈々と祐一の命を狙っていたオプスが消えていた。

 目を凝らして地上を俯瞰すらと、オプスらしき者の背が地上へ浮き出ていた。まるで海を悠々と泳ぎ、海面に突き出るサメの背ビレだ。

 厄介なことに奴は地中を高速移動して攻撃しているらしい。大地を司る者としてこんな事は些事のようだ。いや、大地の神を司る……? 

 

「そうか! オプスは地母神と言っていたな」

 

 そこではっとする物があった。あの攻撃は風でも爪でもない。

 大地の神が空に唯一影響を及ぼせる力──()()。地母神とは地球という大地そのものの神……ならば重力を自在に操っても不思議ではない。

 そして重力の本質は空間を歪ませる事ならば、オプスの攻撃にも筋は通る。

 

「って、んなもんどうやって防ぐんだよ!」

 

 攻撃の正体に気付いたはいいが、それを知ってもどうしようもなく鉄槌の豪雨は降り止まない。

 どうすっか。鉄槌を避けながら、窮状とまではいかないが難しい局面に思案する。

 オプスの速度はそれほどでもないはずだ。神速が出せるなら既にこの戦いの決着は着いている。ならば神速を引き出せる祐一が圧倒的に有利なはず……この場の勝利条件は──ッ。

 しかし相対する敵は、考える時間を与えてくれるほど優しくはない。オプスの莫大な重力の爪に阻まれ思うように走れない。

 そして。

 またか! あの特有の酩酊感に襲われた。周囲を見なくても分かる、狡猾なあの竜は鱗粉をいつの間に散布していたのだ。

 だが祐一もまた"神殺し"の戦士。同じ手を二度は食わない。呪力を横溢させ、祐一は脱した……が、馬は抗う術がない。鱗粉を吸い込み肺をはじめとした内蔵がズタズタになった馬は、力なく頽れた。

 

「しまっ──ぐッ! 掴まったか!」

 

 重力の爪が馬車の荷台を掠った。ただそれだけでブラックホールに吸引される星のごとくバラバラになってひも状に吸い込まれていく。

 今にも命脈の尽きそうな馬に加護を与えてつなぎ止め叱咤するが……。

 

 

 無類の自由度と即応性を誇る『神鞭の騎手』。

 騎乗するものを選ばない自由さはあるが、性能差は如実に現れた。眷属でも神獣でもないただの馬では思うように出力が上がらない。

 

 ここで終わるのか? ……いいや、まだだ! 祐一は両眼を眇め、決意を固めた。

 加護はあれどただの生き物には神話の戦いは厳しい……なら──十全に揮える力を与えてやればいい! 

 なにを思ったか祐一は、崩れゆく馬車を捨て、馬へ乗り移った。

 

「死魔の軍靴を鳴らせ!」

 

 口訣に呼応し、騎乗していた馬の姿形が変化する。首は縮み、顎は伸び、果てには長大な牙さえ生える。体毛が銀へと変わり、鬣の長さへとあふれるほどに。その姿は勇壮なる銀の毛並み持つ"狼"。

 

「すまねぇ、もうちょい付き合ってくれ! ──駆けよ!」

 

 オプスと祐一の競り合いは佳境となり、『白馬』への距離はもう幾ばくか。この戦いの趨勢が決まろうとしていた。

 

 

 ○◎●

 

 

 接近戦に持ち込まれた、か。

 サトゥルヌスから放たれる連撃を、持ち前の直感で躱しながら護堂は胸中で独り言ちた。サトゥルヌスは農耕神という前評判に対して、意外にも優れた戦士であった。舗装のされていない泥濘んだ地面で軽快にステップを踏み、拳を縦横無尽に振るう。その上、揮われる拳も危険な代物だ。

 地面の触れたならば途端にあたりが芽吹き、花開き、実を落として枯れていく。動物ならば成長し、老いていき、死を迎える。

 まさに生と死の循環を早める拳だった。生もまた突き詰めれば死を早める事になる……過剰な生命活動を促す「生」の拳であると同時に「死」をもたらす拳でもあるのだ。

 それを直感と経験に任せてひたすらに躱す。

 

「逃げてばかりだな草薙護堂? 余の武技に手も足も出ぬか」

「まあな、それにアンタがステゴロも出来たことに驚いてるんだよ」

「愚昧な。己が祖は武威を鳴らす光の英雄たるミトラスぞ? ならば余の武技も遅れをとるものではないと自負している」

「そういやローマの人たちって寛容で適当だったな……」

 

 過去の戦いで知り得た知識を思いだしたのか、呆れたように苦笑する護堂。古代のローマ人はよその神話をそのまま持ってきて自分たちの神話に当て嵌めるほど寛容で、適当だったらしく、サトゥルヌスもその影響を受けているらしい。

 というか、それがなければサトゥルヌスもただの農耕神で終わっていたかも知れないな……と遠い目になった。

 

「嘗て此処とは違う世界にて神ならぬ身の余がそなたと争った時には無碍にも袖にされてしまったが……今度ばかりはそうはさせん。必ずや太陽神として復活を果たし、そなたを打ち砕いては、この幾星霜も続く因縁に決着を付けるとしよう」

「させると思うか?」

「フフフ……そなたには幾度も余の思惑を阻まれた。が、今度ばかりは上手く運ぶと思わぬことだ……」

 

 サトゥルヌスの瞳は獅子の意匠の刻まれた黄金の仮面に覆われ、見透す事はできない。けれど鉛とコールタールの入り混じった重苦しく鋭い眼光と、視線が交錯する感覚を覚えた。視線の重さと同等の重い拳が放たれる。

 

「ああ、憶えているぞ……昔日の敗北を。君もまた持っていただろう? あの若き"神殺し"と同じく日輪を運ぶ神馬を」

「…………」

「なんと数奇な事だろうか? 余が欲する太陽を携える者が二人も現れるとは」

 

 サトゥルヌスの言葉によれば、護堂のもつとある権能と祐一の権能は似通っているらしい……日輪を運ぶ神馬、『白馬』と酷く似た権能があるほどに。

 護堂は無言を貫いた。右腕を軽く振るう。

 

「更に言えば、此処にはあの麗しき神殺しの気配も感じ取れる……そなたをここで討ちあの神馬も手に入れれば我が宿願は此処で終わる!」

「そういうのを取らぬ狸の皮算用って言うんだぞ」

 

 無言だった護堂がそこで言葉を返した。風が吹き、護堂の髪とサトゥルヌスの外套を静かに揺らす。

 そこで痺れるような酩酊感が、全身を駆け抜けた……護堂ではなく()()()()()()に。サトゥルヌスは驚愕に目を剥いた。

 

「馬鹿なッ! これは我が妻のもの……ではないな!?」

「当たり前だろ。同じものを使ってアンタに効く保証はないし、それそれじゃあ芸がないからな」

「憶えがあるぞ! まつろわす鋼の具現を示す神刀! おのれ忌まわしい!」

 

 護堂はとある権能を保有している……一度受けた権能を模倣するという権能を。

 最源流の鋼に由来したその権能を介することによって、草花を枯らす鉄粉として現出させたのだ。金剋木。鉄の斧が大木を切り倒す事ができるように、地母神に『鋼』の英雄が天敵であるように、木にとって鉄は天敵。

 ゆえにサトゥルヌスもたまらず跪いていた。

 

「おのれ草薙護堂! 抜け目のない!」

「……なぁサトゥルヌス、アンタさっき俺から『白馬』を奪うのもいいって言ってたよな?」

「む……!?」

「──なら、奪ってみるか?」

 

 護堂の嘲弄する言葉。しかしサトゥルヌスは、そこに憤慨する余裕をたやすく奪われた。……なぜなら目の前に、いま己が一等欲する『白馬』が突如として現れたのだから。東の空より天下る薔薇色の曙光に、思わず瞠目する。

 

「こ、これは!?」

 

 サトゥルヌスにとって到底無視しえない出来事……悲願達成の最後の鍵へ、手を出さない訳には行かなかった。

 なぜなら手を伸ばさなければ、そうしなければ、己がアイデンティティが崩れ去ってしまう。

 

 現在のサトゥルヌスは『まつろわぬ神』の域にいるとはいえ、不完全な身の上だ。まともに他の神や"神殺し"とぶつかれば善戦しつつも敗北するだろう。

 だがそれを仮にも従属神を従え、"神殺し"二人を相手取るほど押し上げているのは、偏に自我の強さであった。

 太陽神へ回帰する。"神殺し"へ復讐を果たす。不動にして絶対の目的があったからこそ、強者で居られたのだ。

 しかし、だからこその陥穽……本願へ一途に真摯に突き進むなかで、目の前に欲するものが現れたならば、例え罠であろうと手を伸ばさずには居られなかった。

 

 サトゥルヌスが手を掲げ、『白馬』の光に触れる。触れた指先から、手へ、そして腕へ……太陽さながらに光り輝いていく。ささくれだった皮膚やむき出しだった筋肉が、瑞々しく力強いものへと変わる。

 

「おぉお……ッ!」

 

 思わず歓喜の声を漏らす。

 

「ハッ……ハハハッ! ハハハハハハハハッ! つ、掴んだぞッ! 悲願の夢をここに掴んだッ! 我が野望、ここになれり!!!」

「──ああ、掴んだな?」

「な、に!?」

 

 変化が、止まった。『白馬』を掌中に手に入れ、太陽神と化していたサトゥルヌスの両手が、『白馬』の光明ごと悉く夜のような晦冥の黒に染まっていく! 

 それだけではない……この影は、蠢いている。光り輝くものの存在を許さじ、と言わんばかりに光をもつ場所を片っ端に押さえつけ拘束していく。『太陽を喰らう者』(Sun Stealer)、そう名付けられた護堂の数多ある権能の一つであった。

 

「俺とアンタ、一回休みだ。ま、後輩がせっかく張り切ってんだ。ここで観戦してようぜ?」

「草薙ッ……護堂ォ!!!」

 

 両腕を影にて縄打たれ、大願成就の寸前でお預けをくらったサトゥルヌスの絶叫が空を揺るがした。

 

 

 ○◎●

 

 祐一たちが滞在していた街。その住民は超常の戦いが始まり、それなりの時が流れようと、誰一人として危険だから逃げようとした者はいなかった。

 それは"神殺し"たる白蓮王が治める地ゆえ、という訳でもすべての者の肝が座ってる、という訳でもない。強いて挙げるとすれば土地柄か。

 此処はヒューペルボレアという神話世界で、人と神の距離が限りなく近い世界なのだ……それこそ現代人では考えられないほどに。

 超常の者たちが街に訪れては、時たま覇を競う。

 そういったのは慣れっこで、だから彼らは遥か天上で織り成される神話の戦いを、かつてローマのコロッセオで開かれた催し物のように観戦する事ができた。

 戦いは激化し、地を割り、天を裂く。同じ日に三つもの太陽が現れては紫電が舞い、竜と戦士の咆哮が万物を揺るがし、人々は熱狂した──

 

 

 なにか……あと一手……あと一手が欲しい! 

『白馬』を追いつつもオプスの執拗と形容していいほどの重力の弾雨から逃げ回る祐一、けれど現状を打破する一手が足りず苦虫を噛み潰したように顔を顰めていた。

 祐一も必死だがそれはオプスも同じ事。地中を征き重力を従えるオプスと空を翔ける祐一は絶妙な綱引きの間で、一進一退の攻防が繰り広げていた。

 負けたくない。

 祐一の胸中に偽りない声が木霊した。

 何歩も先を行く先達に追いつく為、心も奥底で声高に叫んでいる常勝不敗を成し遂げる為、こんな所で足踏みしてられない。

 そう祐一が意識を切り替えた瞬間、試してみるか? 今まで気付かなかったのが不思議なほどハッキリと内なる者が囁いているのを聞いた。

 言葉もなく頷く。

 最後のピースがはまった気がした。

 

 

 ──恐怖でも、不安でもなく……神とそれに匹敵する戦士の戦いに、人々は魅せられていた。安全圏で覗き見える超常の戦いは、娯楽の少ない彼らにとって一大イベントだったのだ。

 人々は正直なところ、正確な事はまるでわかっていない。当然だ、人知を超えた戦いなのだから。戦っているのがなんの神なのかも、そもそも何故戦っているのかも知るところではない。ただ二つの強大な勢力が相争っている、ただそれだけしか理解できなかった。

 であれば。

 

「我は最強にしてすべての勝利を掴む者なり───」

 

 ──みんな、力を貸してくれ。二つの勢力のうち、声を上げた方へ味方するのは必定であった。

 祐一の行使した化身は『山羊』。民衆を導き、民衆の支持を力と変える権能であった。

 頑張れよ、もっと派手にやってくれ、毎日やって欲しいなぁ……なんとも身勝手な声援と力が、興奮と少しの恐怖を携えて、祐一の手元へやってきた。

 権能の同時併用の障害で、凄まじい頭痛に襲われながらも、可笑しくなって笑みが浮かぶ。

 ──勝つぞ。ふたたび声にすれば、また一際大きな力が祐一のもとへ訪れた。

 

 

 同時にその声は、護堂にも聞こえていた。サトゥルヌスを抑えるために身動きの取れない彼だったが、遠くで起こった戦況の変化に目敏く気付き、ニヤリと笑った。

 

「へぇ。祐一のやつ、『山羊』を掌握してたのか。……なら、力を貸してやるか。──言霊の技を以て不義なる者、邪なる者を征す。声なき者よ、義なる者を救けよ。民衆に仇なす悪意を挫く一助となれ」

 

 護堂は語りかけた。祐一のいる街の人々ではない、すでにあの街には祐一の声が届いている。いまさら護堂が声を上げても仕方がない。

 ……ならば誰に? 

 それは、声なきもの。そこら中に広がる緑の一つひとつに、自然界に生きるすべての者たちに、護堂は語りかけたのだ。

 草花も風も大地も、護堂の言葉に耳を貸した。

 草木にこれと言った意思があるわけではない。けれど『まつろわぬ神』と"神殺し"が闘うというのは、それだけでも十分な脅威なのだ。

 だから彼らは本能のままに力を貸した。一つだけ見れば塵芥に等しい力、けれど億を超える命の奔流は祐一のかき集めた力とは比較できないほど膨大なものとなった。

 それが幾年月を掛け、完全掌握した『山羊』の真髄である。

 サトゥルヌスという神を抑えながら『白馬』と『山羊』そして『太陽を喰らう者』(Sun Stealer)の行使という三つの権能の同時行使以上の難業だ。未熟な祐一では到底なし得ない離れ業であった。

 

 

「こいつは……──護堂さんか!」

 

 護堂から手渡された力の奔流は、余す事なく祐一のもとへ雪崩込んできた。当然の過剰な負荷にぶわりと汗腺が開いて、苦悶に顔を歪める。

 

「ぐおおォ……! スパルタだなッあの人ッ……でも!」

 

 だが、それでも、操作を乱す事だけはしない。高速下で鉄槌の弾雨を躱しながら、手元に呪力を凝縮させる。

 莫大な呪力の高まりに本能的に危険だと察知したのだろうオプスがさらに苛烈な重力雨を起こす。その様相はもはや嵐と言っても過言ではなく、抜け道はひどく小さい。けれど祐一は至る所に細かい傷を作りながらも躱し切った。

 時は祐一の味方だった。膨大なエネルギーを祐一が掌握しはじめている。焦ったオプスは本領である大地から飛び出し、天空へ駆け昇った。

 己を脅かす元凶たる祐一を、己が手ずから引導を渡すのか……そう思われた。しかしオプスは、予想に反し祐一に向かってくる事はなかった。

 当然だ、オプスの目標は最初っから『白馬』に他ならない。だが。

 

「──我は最強にして、全ての勝利を掴む者なり! 最も尊く尊崇尽きぬ者よ! 義によりて立つ我に、勝利を與え給え!」

 

 オプスが『白馬』へ手を下すより先に、祐一の掌握が完了した。祐一の手のひらに集まる莫大な「力」が収束し、形を成していく。それは一張と一本の弓矢だった……何の装飾も無く、無骨で実直な弓と、一本の矢。それが、祐一の望んだ武器。

 流れる動作で弦に矢を番え、限界まで引く。その姿はさながら伝統的な演武の一つである流鏑馬を思わせるほど堂々としていた。両の目を炯と変え、瞬きのうちに『心眼』へと到らしめる。気付けばもう矢を放っていた。気負いのない軽い動作、しかし放ったそばから極大の稲妻へと変貌していた。

 

「往生しろオプスッ!」

 

 大気の壁を無理くりこじ開けながら晴天の霹靂がオプスを強襲する。例え『神』であろうと必ず屠る、必滅の一矢は獲物を呑み込まんと迫った。──しかし従属神とはいえオプスもまたさるもの。大地も天空も変わらぬとばかりに変幻自在に空を舞い、祐一渾身の雷撃を回避する事に成功し……いや、違う。

 そもそも祐一の雷撃はオプスを狙ったものではなかったもだ。稲妻はオプスの脇を駆け抜けると、そのまま先にいた『()()』へ直撃した。有り余る熱量をその身に受け、白き化身は光の粒子へと姿を窶した。稲妻は見せ札だったのだ。真の狙いは『白馬』のみ。オプスと祐一、見ている物は同じだったのだ。

 光芒が祐一の身体へ取り込まれると、態勢を一気に反転。神速に至ると護堂を拾った。

 

「護堂さん! 『白馬』手に入れました!」

「よし。じゃあ逃げるか」

 

 仇敵二柱を振り向きすらせず、二人の王はそのまま疾走した。祐一と護堂、鮮やかな撤退である。

 

「逃したか……。まぁいい」

 

 閃光と化した宿敵を見送りながら短くサトゥルヌスが零す。その声色は色が欠片もなく、彼の胸中を鑑みる事はできなかった。

 

 ───KURUAAAAAAAAAAAN!!!!!!!! 

 

 ただ、オプスの大音声だけがヒューペルボレアを揺るがしていた……まるでサトゥルヌスの激情を読み取ったかの如く。

 

 

 ○◎●

 

 

「護堂さん、俺思い出しましたよ。俺が何者なのか……」

「……そうか」

 

 残る化身は一柱。……二人の旅も終わりが近づいていた。




残り三話でヒューペルボレア編は終わりですわ。


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因果律の正体

独自設定、強引な内容、捏造etc…の坩堝となっております。すみません……。


 足から浸したさらさらと流れる湯は、いささか熱いように感じられた。けれど戦塵にまみれた身体を洗い落としてほぐすには丁度いい。

 あたりは夕暮れ、見上げればすっかり星が輝く頃。冬至も近く、日が落ちるのも早いが此処ヒューペルボレアは常春の世界。凍えるほどの寒さはない。

 かすかに鼻腔を刺激する硫黄と酒精の匂いは眼前に広がる野天の温泉に相応しく、湯船には風に運ばれてきたらしき瑞々しいトベラの葉や花が泡のように浮かび、波紋に揺れていた。

 トベラの開花はおよそ四月から五月で、常春の地たる此処では年中咲いては散るそうだ。トベラは古くからトベラの枝を戸口に挿して鬼払いをした風習があり、トベラの名は扉から由来するともいう……どうやら温泉を囲むようにして茂るトベラも人払いの結界の役割も兼ねているらしく、人が迷い込んでくる事は滅多にないらしい。

 

 化身を巡る争奪戦を見事に潜り抜けた祐一は、護堂に連れられるままに、とある火山付近にある天然の温泉を訪れた。

 護堂が言うようにここら一帯は白蓮王の支配下で、今回やってきた温泉は彼の王がお忍びで尋ねるほどの場所らしい。

 二人して肩までお湯に浸かり、いっときの間、口を開くでもなく穏やかな時間が流れた。故郷にあった温泉と全然違うなぁ……やっぱり場所かな? 手のひらに湯を掬してぼんやりと物思いに耽る。

 

「……少しは気がほぐれたか?」

「ええ、まあ」

「で、今度はなにを思い出したんだ? 腹を割って話でもしてみろよ。ウジウジして黙っててもしょうがないだろ」

「いいんですか? つまらない話ですし、厄介事に巻き込むかも知れない」

「それこそ今更だろ。それにさっきまでバカみたいに明るかった奴が不景気そうな顔してたらそっちの方が寝覚めが悪いってもんだ」

 

 明け透けに言うなぁ……そんな風に零して決心が付いたのか、表情を引き締め、ゆっくりと話しはじめた。

 思い出したのは戦いと過去の鮮明な記憶。

 イラン、ドバイ、幽世とイギリス、中欧を渡り歩いては至る所に戦いの爪痕を残し、天使の姿をした『まつろわぬ神』と死闘を演じていた記憶。

 そして戦いの最中に現れた二柱の『まつろわぬ神』に記憶を奪われ、このヒューペルボレアへ放逐された過去だった。

 

「化身を集めてかなりの記憶を取り戻せた。でも、ダメなんです」

「ダメ?」

「ええ。……一番最初に殺した神様の名前。それが思い出せない……」

「…………」

「一番思い出したいはずの記憶なんだ、なのに、思い出せない……()()()の顔が出てこない。約束したはずなのにッ、忘れちゃいけないのに!」

「落ち着け」

 

 驚いたな、護堂は気取られない程度に目を瞠った。"神殺し"である彼が、誰かに対して強い執着を抱いている事に驚いてしまった。

 大小はあれど"神殺し"の特徴としておおらかで大雑把というものがある。戦いならともかく、誰かに対して強い執着をもったり、思い悩んだりしている者は稀だ。

 だから少しだけ珍しいと言える同族の精神構造に少し面食らったのだ。

 おおらかで大雑把なのは祐一も変わらないのだろうが、彼自身のもつ情の深さが他の同族のような考え方を由としないのだろう。

 

 それに、()()()か。

 一つ、さらに一つ、と祐一が化身を取り戻すほどに記憶を取り戻していくと同時に、祐一自身も雰囲気が様変わりしはじめていた。

 少年から青年へ。

 外観は変わらなくとも精神の変調は確かに起こっていて、かつて似たような境遇の者と出会った護堂には良くわかった。

 

「祐一、お前はきっと記憶をいっぺんに取り戻して心が乱れてるんだ」

「そう……、かも知れません。でも、思い出したらもう止められない」

 

 祐一の激情を映したように水面が揺らぐ。

 

「俺は一敗地に塗れてて、それを忘れて一ヶ月もの間、安穏と過ごしてた……!そんな自分が酷く情けなくて憎くてたまらないんですよッ」

「……」

 

 記憶を失っていたのはそういう理由か。

 詳しくは読み取れなかったが、手酷い敗北によって記憶を喪った祐一は、このヒューペルボレアへ放逐されたらしい。

 

 "神殺し"である彼の記憶が、消えたのか消されたのか分からないが……状況や過程は違えど護堂にも憶えのあるやり方だった。

 一瞬の隙を突かれ、"神殺し"である自分でさえも駒と変えられた過去を思い出す。

 

 獣や怪物に例えられる"神殺し"といえど、そういった事例は皆無という訳では無い。しかし神殺しの記憶を消し、放逐するなんて所業……並のまつろわぬ神には難しい御業だろう。

 記憶を取り戻す事でハッキリと見える様になった、祐一の手足から伸びる何十本もの《運命の糸》。護堂はその先に強大なまつろわぬ神の影を幻視した。

 

「お前は背負い込みすぎなんだよ。やっちまったもんはしょうが無いし、その時はその時だろ。やられたらやり返す。

 どうせ俺たちは神様が暴れてからぶん殴りにいく、後手に回る運命なんだ。だったら、やられても後から帳尻を合わせるって考え方を持ってもバチは当たらないと思うぞ」

 

 ニヒルに笑って、薫陶を受けた。決して褒められたものではないが、今の祐一には何より必要なものだった。

 祐一は目を瞠った。

 納得は完全にはできない。多分、根本的な考え方を変えるなんて祐一にはできない。けれど()()()()考え方もあるのかと衝撃が生まれた。

 

「こんな機会なかなかないんだ。自分で言うのも何だがカンピオーネになってそこそこ色んな物を見聞きして来たからな……そこらの魔術師よりは知識があると思う」

「え?」

「分からないなら聞いてみろ。悩みがあるなら吐き出しちまえよ。大サービスだ。知ってる事ならなんでも応えてやる……一時、とはいえ旅の道連れにそれくらいのことはしてやるさ」

 

 ありがたい申し出だった。

 今まで祐一に核心に近い話を知っていて、話してくれる存在なんて皆無だったから。気付けば口からこれまでの疑問がついて出た。

 あとから振り返れば、相談というより愚痴が近い口調だったかもしれない。

 

「……そもそも俺のいた世界は『まつろわぬ神』が現世に全く現れず、魔術も呪力も存在しない世界だったらしいんです」

「なに? 『まつろわぬ神』も"神殺し"も、それどころか呪力すら存在しない世界だって?」

「ええ。『神に連なるもの』もの総てを認めない『天人離間』の大呪法ってのが世界を覆ってて『神』もいないから当然、"神殺し"もいない人間だけの楽園……パンドラ義母さんは『鉄の時代』って言ってましったっけ」

「かなりの数の世界を回ってるつもりだが、そこまで徹底してるのは聞いた事がないな……ミスラがいた世界だってまつろわぬ神とカンピオーネだけを皆殺した世界だったし」

「パンドラ義母さんが言うには"神殺し"……カンピオーネになった人間も、有史以来俺だけだって話でした」

「じゃあ今は『天人離間』って大呪法はもうないのか?」

 

 うなずく。それは『まつろわぬ神』が現れ、祐一が新生した事実が何よりの証拠だった。

 

「詳しくは分からないんですけど、もともと大呪法には皹が入っててその隙間から神様が現世に現れてしまったらしいんです。

 で、その後俺がその神様を弑逆して"神殺し"として新生すると同時に崩れ去ってしまった……って聞いてます」

「ふぅん。大呪法の罅ってのから神様が現れたのか……神様が現れたから罅が入ったんじゃなく。だったら罅が入った原因ってのは?」

「それがよく分からないんですよ。時間が経って綻びができたんだろうなって思ってましたけど、俺の記憶を奪った野郎は、俺が原因だと言ってて……正直、何が正解かなのか全然分かんねぇっす」

「分からないことだらけだな」

「ですよね……。で、大呪法が消え去って今までの揺り戻しをかけるみたいに『まつろわぬ神』が世界中に現れた。なんて話を聞きました」

 

 簡単にもといた世界の事情を掻い摘んだが、要領を得ないのは自覚していた。部外者である護堂はもとより、当事者である祐一自身でさえ分からない事が多すぎた。

 

 言葉が切れる。

 水面に浮くトベラの花が、風にくるくると回っている。

 ふと、不透明な情報のなかでも、確実で一番の懸念しているものが思考をかすめた。

 以前なら荒唐無稽だからと口にするのは憚られたが……けれど邂逅した何柱もの『まつろわぬ神』が言及し、悲惨な現状に目を向ければ宜なるかなと納得できるものだったから。

 

「世にまつろわぬ神が溢れて、世界はめちゃくちゃになっていって……俺だって戦いましたけど全然追いつかないくて。そんな中でスロヴァキアで邂逅した『まつろわぬ神』どもが、あの場にいた三柱の神が、全員が言ってたんです。()()()()()()()()()()()()って」

「世界の崩壊? たしかにまつろわぬ神が大勢で押し掛けて来れば滅んでもおかしくはないと思うけど……お前はそれを信じているのか?」

「いくつかビジョンを観ました。滅んでいく様子を。そして世を救う『救世主』が必要なんだって語りながら、『救世主』を求めてたり、あいつら自身も『救世主』を気取ってたりして……」

 

 だから疑えなくなったんです、そう小さく零した。

 当然、そんなものあってたまるか、という感情は強い。けれど理解と納得は別だった。

 

「きっと、その予言は本当なんじゃないか」

 

 護堂は祐一の苦悩を蹴り飛ばして、事も無げに言った。

 

「どうしてそんな事が言えるんです?」

「俺たちカンピオーネってのは嵐と災いを呼ぶ、災厄の申し子なのさ。俺たちにとって世界の危機なんて日常茶飯事だ。俺たちが滅びを持ち込むこともあれば、巻き込まれる事もある」

 

 俺自身何度も経験してきたしな。なんでもないように答える彼だったが、その言葉は軽い口調とは裏腹に、いくつも危機を乗り越えた重みがあった。

 

「『この世は因果律が御覧になられる夢に他ならない』なんて言葉もあるくらい世界は沢山あるし、滅んでいく世界もあるんだ……世界はどうあっても平穏無事じゃいられないのさ」

「!」

 

 因果律。久しく聞いていなかった憎き仇の名を、他でもない護堂の口から聞き、思わず色めき立って立ち上がった。

 それにさっきの言葉は叢雲がかつて語った言葉と全く同じで、大人しく座っている事なんてできるはずもなかった。

 

「護堂さん、もしかして因果律の野郎を知ってるんですかッ!」

「お、おいおい。どうしたんだよいきなり?」

「俺は因果律ってやつと因縁があるんです……知りたいんですよ。俺にこんな道程を用意したあの野郎を……またあいつの前に立って、ぶん殴ってやらないと気がすまない!」

 

 口角泡を飛ばす祐一が喋り終わるまで、護堂は口を閉ざしたままだった。落ち着きを取り戻した祐一は頬を掻いて気炎を収めると、静かに湯を仕切る岩に腰かけ……

 

「因果律に纏わる事柄は神に連なる者の間じゃ、禁忌とされてるらしい。だけど俺は神なんかじゃないからな、そういう制約とは無縁だ。知ってる事を教えてやるよ」

 

 護堂が話はじめたのはそんな時だった。

 

「因果律ってのは、俺が以前戦った印欧語族の運命神みたいな《運命の担い手》と似通った存在だとは聞いている」

「《運命の担い手》……?」

「人は大いなる神や大自然の前になすすべなく翻弄されるべし。宇宙のはじまりから終わりまで、あるべきように物事が進み、つつがなく歴史の糸が紡がれるべし……。

 そう言った確固たる意思と思想をもつ『神』がいるのさ、どの世界にも一柱はな」

「どの世界にも……」

「ああ。それらは《運命》を決まった通りに運行する役割を持った『神』で、特定の神だけがやるって訳じゃないんだ。だからそういう役割を負った神様を総じて《運命の担い手》と俺たちは呼んでいるな」

「じゃあ、因果律も《運命の担い手》って事なんですか?」

 

 祐一の言葉に、しかし護堂は首を振った。

 

「いや、違う。因果律はそれら《運命の担い手》とは似てはいても非なる存在らしい」

「似て非なる存在?」

「そうだ……《運命の担い手》はあくまで創り出された《運命》という概念を、手繰り、織り込む、紡ぎ手にすぎないんだ。

 ──だけど因果律は違う。紡ぎ手である《運命の担い手》に対して、因果律は運命や因果を創造する創り手なんだよ」

 

 つまり《運命の担い手》は決められたレールをそのまま運行する役割をもった神だ。

 ならば決められたレールを定め、創り出したものとは一体誰なのか? あらゆる森羅万象を形作った神とは? 

 その巨大すぎる権能を握るのが因果律という神であった。

 

「因果律は名前の通り《因果》っていう《運命》とはまた違った力さえも創り司っている神様なんだ」

「《因、果》……」

 

 原因があれば結果が生まれる。故に因果。運命よりも単純明快な法則だ。

 そして祐一が旅をするようになって、よく聞く言葉だった。もしかすると『神に連なる者』のいう因果とは《因果》の事だったのかもしれない。

 かつて因果律の領域で邂逅した、全容を見通す事など不可能だと思えるほど凄まじく巨大な彼の存在……因果律が思ったよりも近くにいた事に少なからず驚いた。

 

「まつろわぬ神を従わせ、俺たちカンピオーネですら容易には抗えない、《運命》や《因果》すらも生み出す因果律は力の塊みたいな存在らしい」

「力の塊ですか」

「ああ、理の外にいると言ってもいい。神なのかどうかも分からないが、括る分類がないからな無理やりカテゴライズされてるみたいなもんだ」

「無理やりって……」

「でも厄介なことに理の外にいるのに根幹でもあると評してもいい。せいぜいが両手で数えるくらいの世界を管理するのが精一杯の《運命の担い手》に対して、因果律は億千万すべての因果と運命が手のひらにあるって話だ」

「イ、インフレも極まれりって感じですね」

「だから、世界があるから因果律がいるのではなく、因果律がいるから世界があるのか……。どちらが原因で結果なのかすらも曖昧らしい」

 

 酷い矛盾だろ、と苦笑いする護堂。因果律は巨大で強大、とは認識していたが思った以上に桁外れの存在だった。

 

「因果律が物凄いやつ、ってのは判りましたけど、そういや、あいつが出てくる神話なんてあるんですか? さっきは無理やり括ったって言ってましたけど」

「うーん、そうだなぁ……原初の神なんだから無理矢理当て嵌めるんならカオスだったりヌンするんだろうが……」

「違うんですか?」

「そうだな、もっと相応しい神格がある」

 

 護堂は空に浮かぶ月に手を翳しながら呟くように語った。

 

「話は変わるが、ヒューペルボレアには『犠牲の獣』って概念があるだろう? 牛をはじめとした神の血を引く聖なる動物を殺す事で、大地が広がり恵みが生まれる概念が」

「たまに海に流れてる奴ですよね。何度も助けられましたっけ。食べ物や島を産む、動物の死体」

 

 祐一の言うように二度の漂流で祐一たちは海を漂う聖獣を殺すことで食料を食いつないでいた。

 聖獣である獣を殺し、大地を広げて、恵みをもたらす。そういった特異な事象がこのヒューペルボレアにはあった。

 

「そして『犠牲の獣』にはいくつか()()した話があるんだ。それも世界中にな」

「類似した話?」

「……インドではプルシャ、イランではガヨーマルト、北欧ではユミルがそうだな。

 印欧語族の神話だけじゃなく、シナ・チベット語族にも中国神話には盤古、ミクロネシアにも類話がある」

「…………」

「原人、或いは、『はじまりの巨人』。そんな神話があるのさ」

「はじまりの巨人、ですか」

「内容は『犠牲の獣』と変わらない。巨人の死体がそのまま世界になったりする死体化生をモチーフにした神話だ。

 それが、因果律に相応しい神話じゃないか、と俺は考えてる。世界のはじまりにいた途方もなく大きな巨人……俺たちは今この時も、因果律という巨人の上に立っているようなもんだからな」

 

 祐一はふと視線を地面のはるか先に送り、生唾を飲んだ。

 

「今現在の因果律は、有り余る時間に飽きて、とても永く、そして深い眠りのただなかにいるらしい」

「眠ってる……そういえば以前会った時も、意識があるのかどうか判然としませんでした。……もし目覚めたとすれば?」

「分からない。だがプルシャという巨人には、バラバラになった身体がふたたび集まった時、宇宙の終わりだって説もある」

 

 最悪じゃないか、頭を抱えたい衝動をどうにか抑えて目線で促す。

 

「だから目覚めたが最後、大地も宇宙も、魂や肉体も、気化するみたいに溶けてなくなるってるのが一番有力なんじゃないかと見てる。夢は目が醒めれば消えてなくなるからな」

 

 祐一は護堂の言葉を、一つ、ひとつ、丁寧に噛み砕きつつ、頭蓋の奥底へ忘れることのないよう刻み付けた。

 ただ、知れば知るほど彼我に横たわる"圧倒的"という言葉すら生ぬるい那由多の差にめまいがする。

 それに加え、件の元凶はそもそも倒せる存在ではないという。ゲームでいうステージやギミックみたいな破壊不可能なオブジェクトであり、電源そのものだった。破壊しでもすれば足元が崩れ去って虚無へ解けていく。

 

「……倒し方、って聞いてあると思います?」

「ないな。というかまず試そうとした奴が有史以来いない」

「確かに。そんな事をする奴は、とんでもない狂人か愚か者だ」

 

 カラカラと笑いあう。

 

「倒し方、か。……一つだけ、心当たりがある。モチーフになった『はじまりの巨人』の神話だが、世界になった巨人はみんな()()なんだよ。死体が世界になったんだから当然だよな。……だからこそ因果律も死んでいるべき、なんだ」

「でも、あいつは生きている……?」

「眠りが一時的な死、って考えも無きにしもあらずだろうけどな。でも、真実は違うんだろう。人の足では"永劫"歩き続けなければならない巨きさに、"無限"と例えていいほどの力を持っている。だから、だから因果律は()()()()のさ」

 

 死体の上に世界があるはずなのに生き続けてしまった。

 存在そのものが因果逆転の矛盾を抱えた者。巨大すぎてどうしようもない敵。死んでいるべきなのに死ねない存在。耳にするたびに思い知らされる因果律の巨大さに頭を抱えたかった。

 

「だけどこうも考えられる。因果を生み出す因果律が矛盾を抱えているんだった……もしかすると因果律自身も死にたがってるんじゃないか、てな」

「死にたがっている……?」

「ああ。因果律が全にして一で、あらゆる因果や運命、そして神話を生み出し定めたって言うなら、自分も死んでなくちゃおかしい。あるいは死ぬために生み出したのか。

 真相は分からないが……馬鹿げた生命力で"死"の概念を覆してはいても、因果律を"死"に至らしめようとする因果は確かに()()のさ。それが──」

「──因果破断の因子?」

「知ってたのか。そいつは神々の中でも秘中の秘ってやつで、俺らカンピオーネでも知ってるのは極々少数なんだけどな」

「え、持ってますよ俺」

「何だって……?」

 

 護堂がポカンとした表情を作った。

 "神殺し"となる以前に因果律の領域を訪れた事。

 そして因果律と邂逅した事。

 そこから因果律と祐一の因縁が定まった事。

 因果律との因縁を語り、先に言え、と白い目で睨まれながら祐一は少し思考に耽った。

 死んでいながらも、生きている。死にたいのに、死ねない。

 少しだけ、因果律の事を憐れだと思ったのだ。

 思えば因果律の領域で、やつは死にたがっていた……あの時の自分はそれに激昂して、あの石を突き刺したのだったか。

 

「……戦わず、関わらず、放置しておく。それが一番いい付き合い方なんだが……お前はそんじゃないんだろ」

「……ええ」

 

 小さく、しかし、しっかりと頷く。

 翻す事はない。そう心を燃やしながら。

 

「ならあとはお前自身が探さなくちゃならない。因果律へ拳を届かせる方法を」

「…………」

「だけどその鍵は祐一、お前はもう持ってるんじゃないか。だってお前は偶然にしろ何にしろ、辿り着いたんだ……誰も辿り着けなかった場所に。──因果律の領域に」

 

 大きく、今度は獰猛な笑みを添えて頷いた。憐れみを覚えようと、情けや容赦を介在させるつもりはさらさらなかった。

 

「最後だ。お前が元の次元からヒューペルボレアくんだりまで飛ばした敵……お前の来歴を見知って、思い至ったよ」

「!?」

 

 驚くべき言葉だった。護堂は知っているのだと言う……祐一が検討もつかなかった敵の正体に。

 カズハズの姿をしたまつろわぬ神と、ロスタムと名乗った武神。その詳しい情報を彼は知っている。

 知れず固唾を呑んで言葉を待った。

 

「話は戻るが、さっき俺が……『この世界は因果律が御覧になられる夢に他ならない』……世界は平穏のままじゃいられないって言ったろ?」

「言ってましたね、その後の情報が半端なくて忘れてましたけど」

「お前な……。まぁいい。

 とにかく因果律は意志に惹かれるんだよ。喜怒哀楽……感情なら何でもいいが、激しい情動に目を奪われるのさ。夢のなかで俺たちを見ながら、な。

 誰だって、楽しくて波乱万丈な物語をみたいだろう?」

 

 因果律は意志の発露を好み、夢を見るためにより深い眠りに就く。

 喜怒哀楽を孕む激情とは、やはり波乱や闘争のなかでこそ一等輝く。それゆえ平穏だけではダメなのだという。

 

「因果律は夢のなかで俺たちを見てる、ってんですか。確かに因果律の領域へ至ったのは俺がブチ切れたからでしたけど……でも、あまりいい気持ちはしませんね」

「まあな。でも因果律は見ている、今だってな」

「…………」

「……そしてそれを逆手に取って夢は夢のままで、因果律には眠ったままで居て欲しい()()がいるのさ」

「眠ったままでいて欲しい連中……。それって一体、どんな奴らなんです? 因果律側なら会う事も、戦う事もあるかも知れない」

「《運命の担い手》と同じで、これといった『神』はいないんだ。俺も世界を旅する中でそんな連中に請われて力を振るったり、逆に闘う事になったりしたからなぁ、それなりに知っててな……」

 

 月が雲で翳り、二人の顔を影が覆った。まるで凶兆のごとく、口にするのを憚るかのごとく。

 

「そいつらは世界の運行に携わってたり、秩序の神が成りやすいらしい。

 ……因果律が目覚め、世界が泡沫のように弾けて飛ばないよう適度に騒乱を起こして平穏を望むんだとさ」

 

 秩序と安寧を望むからこそ騒乱を起こす、それも秩序の神が。皮肉なもんだろ? 護堂は酷薄さを織り交ぜた笑みを浮かべていた。

 

「きっと、そいつらは祐一の世界にもいたんだろう。因子をたずさえ勝手気ままに世界を放浪していたお前は、やつらにとって目の上のたんこぶだ……お前を放逐したのも間違いなくそいつだろうな」

「それが、俺の敵。俺を放逐したやつの正体……。護堂さん、そいつらって何か名前があるんですか?」

 

「──《 ()()()()()() 》」

 

 祐一が相対していた敵のベールが剥がれた気がした。期せず拳を握り込む。名を聞いたあとの聴覚を、血の潮騒がわんわんと揺らしていた。

 

「なんて、俺が勝手に言ってるだけだけどな。因果律を夢の中で楽しませるだけのピエロとなり、輝かしい誇りを捨てて身を窶した者たち……だから《因果の道化師》、あるいは、因果律の道化。名前なんてそんなもんでいいさ」

 

 因果の道化師、因果律の道化。口の中で転がした途端、口腔が傷だらけになった感覚を覚えた。

 

「俺をヒューペルボレアに飛ばした二柱の神はロスタムとカズハズ、そう名乗ってました。じゃあ、あいつらが因果律の道化?」

「……どうだろうな? ロスタムは生粋の『鋼』の英雄だろうし、カズハズなんてただのドルイドだったはずだ……きっと誰かが裏にいるんじゃないか?」

 

 俺が出会った道化どもは表に出ず黒幕気取りが多かった、と付け加えた。

 祐一も納得がいった。戦場に現れたカズハズは違和感が鳴り止まず、カズハズであってカズハズではないと直感的に感じていた。

 

「ふぅ、これで俺が持ってる知識は打ち止めだ。あとはお前が見付けて行くんだな」

「ありがとうございます護堂さん」

 

 途方も無い借りができた、だけど悪い気はしなかった。礼の言葉と一緒に深く頭を下げた。

 護堂は何も言わず、ただお湯に浸して温まっていた酒を注いでは寄越した。もう月が出ている。雲一つない静かな月見酒だった。

 

 

 なあチンギス・ハーン。アンタが言ってた敵、どうやら見付けたみたいだぜ。時間かかっちまったな。

 

《因果の道化師》がなんだ。

《因果》が、《運命》がなんだ。

 俺はそんなもん全部ぶっ飛ばして、彼奴に……因果律に、こんな因果をくれやがったアイツに報いを受けさせてやる! 

 

 

 ○◎●

 

 

 温泉から人里に下り、小さな宿屋で十分な休養を取って英気を養った。いつものように早い朝を迎r、護堂が厳しい表情を湛えて祐一のもとに来たのはそんな朝だった。

 

「祐一、悪い知らせともっと悪い知らせがある。どれから聞きたい?」

 

 自然と祐一の表情も引き締まる。戦いが近い、それも最後の。

 

「どっちも悪いんですか……でも、こういうのって良い方から聞くもんですよね、聞かせてください」

「よし、じゃあ言うぞ。サトゥルヌスを見付けた、場所は『冥府の谷』……あいつの領域だ」

 

 冥府。農耕神であるサトゥルヌスや地母神たるオプスにとって庭も同然。彼らの牙城で矛を交える事になる。厳しい戦いになるのは簡単に予測出来た。

 

「それで、もっと悪い知らせってのは?」

「……あいつは民衆を連れ立って冥府を下っている。冥府下りを為すことで冥府にある光を持ち帰り、太陽神ミトラスとしてじゃなく──()()()()()()として蘇ろうとしているんだ」



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冥府を降るオルフェウスたち

 十二月、冬至である。

『白馬』争奪戦に敗れたサトゥルヌスはヒューペルボレアでも最大の陸地にあるという『冥府の谷』を目指していた。

 道連れは多い。妻たるオプスだけではなく、オプスの眷属と思わしき仔竜が、背に数多くの人間を乗せ、空を飛んでいた。自身もまた四輪の戦車(クアドリガ)を仔龍にひかせ空を征く。

 サトゥルヌスはただ『冥府の谷』に向かっているのではなく、遠周りと寄り道を繰り返しながらゆっくりと歩を進めていた。

 

 ヒューペルボレアという神話世界の地には不思議な法則が存在する。"海をながるる聖なる獣を殺さば、大地が広がる"という不可思議な現象が。

 

 サトゥルヌスは何を思ってかその行為を繰り返していた。空を征きながら行きがけに聖獣を見つけると、弓を構え、虚空より矢を抜いて、そうした海上をただよう獣どもを強弓による一矢で息の根を止めた。

 聖獣を殺し、その後には恵みにあふれた大地が広がる。すると、大地を広げ恵みをもたらしてくれる通りすがりの神をヒューペルボレアの人々は諸手をあげて迎合した。

 

「雄牛を殺し、大地を広げる者!」

「光を持ち帰る者!」

「みごとなる姿の御方!」

 

 龍を従え、民を従えたサトゥルヌスが降り立つと、人々は惜しみない讃美を言祝ぎ、彼もまた否定するでもなく鷹揚にうなずく。

 

「さぁ、ついてまいれ。遅れるでない。余の英雄譚はまだはじまったばかり。……最期まで見届け、詩に、絵に、子々孫々末代に至るまで語り継ぐのだ」

 

 その言葉を聞いた者たちは雪崩を打って、サトゥルヌスに追随した。オプスが一声鳴けば、地上から逞しい仔竜が続々と姿をあらわし、人々を背に乗せてた空へ飛びたった。

 

 この一連の流れをいくつもの島や街で繰り返せばヒューペルボレア中でサトゥルヌスを称える讃歌は止む事なく、尊敬と信仰を集める事となった。

 

「人の子らよ、時は満ちた! 余はこれより冥府にて聖なる『火』と聖なる『光』を持ち帰る!」

 

 そうして人の数が千を越える程になった頃。サトゥルヌスは民衆へ向けて雄々しく宣言し、わずかな興奮と色濃い不安が広がった。

 

「なに心配はいらぬ。余が死なぬ限り余の加護によっておぬしらは死ぬ事はない」

 

 優しげな声音で慈悲深い言葉を掛ければ、空に歓声が鳴り響いた。彼らの熱狂とサトゥルヌスの進撃は未だ翳りなく、英雄譚が止まることはない。

 

 ──ところでヒューペルボレアでは聖獣を殺し《大地を広げる者》という称号で讃えられる、神や英雄がしばしば現れる。

 この者たちはヘラクレスやイザナギに見られるような冥府下りの逸話をなぞるように冥府へ赴き、多くのものがそこで無残な死を遂げた。

 だが後に相応しい贄……民衆や聖遺物など……を捧げる事により死した英雄は『火と光』の神性を得て復活し、一度は敗れた相手に逆襲を遂げることで《光を持ち帰りし者》の称号を授かった。

 

 これは決して眉唾な話ではない。

 ヒューペルボレアという地はそう言う、所謂、ヒーローズジャーニーが繰り返される場所なのだ。

 サトゥルヌスの狙いはこれだった。冥府にて地母の龍たるオプスに殺される事によって死に至り、引き連れた民衆を贄とする。最後には冥府帰りを果たす事で《光を持ち帰りし者》となって光明神ミスラと至るための。

 

 余の宿願が果たされる時は近い……。仔竜の牽く四輪の戦車に乗ったサトゥルヌスは仮面の下でほくそ笑み、幾百幾千とも知れぬ民を引き連れて『闇』の中へ吸い込まれていった。

 

 

 ○◎●

 

 

「あれだな」

 

 サトゥルヌスが民衆を連れて闇のなかへ入り、一刻ほど。噂を聞きつけた祐一と護堂二人は『冥府の谷』に訪れた。

 谷底から溢れかえる瘴気は氷さながらで、生者を忌避させる風でありながら生者を招き寄せる()()()()がそこかしこに蔓延っていた。身にまとう服が重苦しい瘴気を吸ったかと錯覚するほど重さを感じ、知れず肩に力が入ってしまう。

 

「あの中に入るんですか……? なんかくぐった途端、『しんでしまうとはなさけない! 』とか言ってパンドラ義母さん出てきそうですよ」

「お、当たりだ。あの中は黄泉とか冥府なんて呼ばれる場所だからな。死んでしまうのと同義で、死者になるんだよ」

「は?」

 

 茶化したら予想の上を行く言葉で肯定され、思わず間の抜けた声を漏らしてまった。だが護堂の言うとおり、あの中は冥府で、そこに入るという事は死ぬ事と同じなのは当然であった。思わずギョッとする祐一。

 

「何度か死にはしましたけど、そこに行ったら明確に死ぬって言われてんのに突っ込みたくないですよ俺……」

「俺だって死にたくないさ。ま、死ぬと言っても仮の死者になるだけさ」

「仮の死者?」

「そうだ。だから……祐一、ひとつ忠告しておく。あの中に入ったが最後、地上に戻ってくるまで決して()()()()んじゃないぞ。そうすれば生者のままで居られるからな」

「振り向くな……って振り向いたらどうにかなるんです?」

「今度こそ本当に死ぬ。つまりその禁忌を犯さない限り俺たちは地上にいるのと活動ができて、生者で居られるんだ」

「あー……ちょっと違いますけど、なんかそう言う話ありましたよね。オル……オル……オルフェンズ?」

「オルフェウスな」

 

 つまり見るなのタブーである。その類の話は古くからあり、それも世界各地にあった。祐一たちの言うオルフェウスの逸話やイザナギとイザナギの神話、聖書にも似た話はあった。

 

「そういやパンドラさんも似た逸話を持ってたな」

「あ、それ知ってます。パンドラの匣っていう話ですよね、開けちゃいけない箱を好奇心に負けて開けちゃうやつ」

 

 愚かな女とも称された我らが義母殿。彼女は祐一の言うように神に与えられた箱を開け、世に災厄を齎した……。

 と、そこまで言って寒々しい木枯らしが肺のなかに吹いた気がした。彼らの義母たるパンドラもまた見るなのタブーを犯した逸話を持っている……そして自分たちは義理とはいえ息子たち……。

 

「嫌な予感しかしねぇ……」

「言うなよ……」

 

 義母とはいえ親類がそんな逸話を持っている事に思わず渋面を作ってしまう二人。ボヤきながらもグズグズしてられないと結局、『冥府の谷』へ降りる事にした。

 

 変調は、すぐに襲ってきた。思わず呻いてしまいそうになるほど身体が重くなり、闊達だった精神すら低調になった。これでは本来の実力の半分も出せるか怪しい。

 仮の死者になるって、こういう事か! 

 よろけそうになりながら、だが、ちらりと隣にいる護堂に視線を送れば、彼の雰囲気にまったく翳りはなく、ならば「こなくそ」と祐一もやせ我慢で取り繕った。

 闇をくぐるとその先は急な坂道だった。気を付けなければどこでも転がって行きそうな坂だが、それに足を取られるような運動音痴はいない。坂を下りながら落ち着いて辺りを見まわすと森閑とした荒涼の地のみがあった。目にはいる色は灰だけ。聞こえるのはうるさいほどの耳鳴りと、自分たちの足音のみだった。岩や風すらも死んでいる無味無臭の無機質な場所であり、能動的なものはなにもない場所であった。

 

「こんな所に『火と光』があるんですか? 薪になるような物も、生き物も、何もないじゃないですか。そんなものあるなんて酷い眉唾ですよ」

「ある。というか此処でしか手に入らないんだよ。……ここに入る前、サトゥルヌスは聖獣を殺し回ってるって言ったろ」

「大地を広げるため、でしたよね」

「そうだ。動物……特に牛は古代の人々にとって最も神聖な生き物だったんだ。雄々しく、美しく、また多くの人の腹を満たせる捨てる所がないほど珍重された。だから牛は、他の動物たちよりも上位の存在だったのさ。

 地母神のみならず神には牛を聖獣としたり司る神が多いのはそこらに関係してるらしい」

「ふぅん」

「その聖なるものを焼く。その行為は当然、神事となる。牛を焼く焰と焼かれる牛を人々は崇めるようになった……いつしか聖獣を殺すものと火を御すものは合わせて考えられるようになる……そして崇めるならばその受け皿になった神もまたいる。

 居るのさ。牛を殺す逸話を持ち、光と火を司る神が」

「そいつが光明神ミスラ、ですね」

「そうだ。そしてサトゥルヌスもミスラとは無視できない関係があるのは以前も言ったよな? 殺した聖獣が向かうのは当然、冥府。

 殺された聖獣は冥府でも贄となって冥府下りを行う神や英雄へ、焔とともに捧げられる。火と光は不滅の象徴であり、捧げられた彼らは《光を持ち帰る者》となる。それをもとにアイツは太陽神としてのミスラやミトラスではなく、『火と光』を司るミスラへ至ろうとしているのさ」

 

 なんて執念深さ、幾度の敗北や恥辱に塗れようと宿願を果たそうとするサトゥルヌスの姿に、思わず敵であるはずなのに称賛を贈りたくなった。

 護堂も祐一と同じことを思っていたのか小さく笑みを浮かべていた。猛っているのだ。しかし、すぐに笑みを引っ込めた護堂は訝しげな表情を作った。

 

「……だが妙だな」

「え、なにがです?」

「サトゥルヌスの奴が太陽神に回帰する事を諦めたのがさ。神の強さ……というかしぶとさは権能の多さでもないのは知ってるだろ」

「自我の強さ……アイデンティティでしたっけ?」

「そうだ。神格や権能の数なんかじゃない。どれだけ強力で、神王とすら怖れられていても確固たる意志がなければ宝の持ち腐れに等しいからな。俺たちの脅威にはならない」

「まあ、確かに」

「でもおかしいんだ。これまでのサトゥルヌスの目的は一貫していたはずだろ? 太陽神へ回帰する事と、俺を倒す事。だからこそサトゥルヌスは不完全な上に復活仕立てでも従属神を従えるほど強力な神として振る舞えたんだ。

 でも今回のアイツの動きは妙だ。確かにミスラという同じ神には回帰できるとはいえ、神具や由来する権能なんていう道標がなければ、太陽神としての相は薄くなってしまう筈」

「じゃあそれを曲げたアイツは弱くなってる?」

「……どうだろうな。もしかすれば───」

 

「ん──護堂さん?」

 

 声が唐突に途切れた。驚いて辺りを見回したが護堂の姿はどこにもなかった。ポツリと自分の問いかけた声がだだっ広い暗闇に落ちた。

 

 

 ○◎●

 

 

「見失った訳でも、居なくなった訳でもない、か……」

 

 姿が見えなくなった護堂を探し、歩き回っていた祐一だがやはり見つからず諦めたように息を吐いた。探してもいいが先に進もうが先決だろうな、祐一は思考を切り替えた。向こうも探さなくても勝手にやるだろうし、殺しても死ななそうなあの人だ。心配は無用である。

 

 それに逸れようと自分たちの目的が変わることない。サトゥルヌスの野望を阻む事、それのみ。

 そう考え、とりあえず辺りを進んで見るが、歩けど歩けど景色が変わることはなかった。縹渺たる灰色の無機質な土地は、生き物である祐一にとって酷く疎外感を刺激する場所だった。

 地理も目的地も分からない場所に放り出され、少しだけ心細い。

 

「こんな時に叢雲だけでも居てくれたらな」

 

 いつも内にあって、物知りで以外と多弁な相棒を思い出す。堅く古臭い口調とは裏腹に面倒見がよくて、今ではすっかり相談役となっていた相棒がいない事実が寂しい。

 叢雲ってもう人の姿にはならないのかなぁ、たまには呑みたいけどなー。などとつらつらと益体もない事を考えながら……後ろから声が聞こえたのは、そんな時だった。

 

 ──久しいのう小僧──

 

 声。どこかで聞いた声。短い間だったけれど出会ってから聞かない日はなくて、耳によく馴染んでいた声……友の声だった。思わず顔を上げ、瞠目する。

 

「ッ! そ、その声は……!」

 

 声とともに後ろへ振り返ろうとして、そこでハッとした。思い出したのだ……この場所での禁忌を。

 それに少し冷静なれば、この声の主はいるはずがないと……友はもう逝ってしまったのだと、歩んだ過去を思い出す。

 顔も名前も思い出せない、かつての友は死んだのだ……他でもない俺自身の手によって。

 

「お前は、俺の知ってる誰かじゃない! お前は誰だ! 姿を見せろッ!」

 

 どこか自分に言い聞かせる声音だった。祐一の叫び。しかし、後ろの声はクスクスとおかしそうに笑うだけだった。

 

 ──何を言っておる? 我こそ正義と民衆の守護者にして常勝不敗の軍神。そしておぬしの友である──

 

「違う!」

 

 ──何も、違わぬ。相変わらず仕方のない奴じゃ、この声を聞いてわからぬか? そら、振り向いて我の顔を確かめてみるがいい──

 

「違う……違う! あいつはそんな事は言わない!」

 

 ──違わぬ。我は変わらぬよ……そして小僧、おぬしはあの頃から()()()()。神へ回帰する我をただただ見ていたあの時から、のう──

 

 違う、違う。

 これはきっと幻聴に違いない。

 

 そう自分に言い聞かせても、振り向いて、後ろにいる誰かの顔を確かめたい欲求は拭えなかった。

 淡い期待を捨て去るにはあまりにも甘やかな幻だった。

 

 あの声の言うとおりだった。自分はまつろわぬ性に呑まれていく友をただ見ていた時から何も変わっていなかった。

 ……だってこうして有り得ないと、別人であると、脳が結論を出して声高に叫んでいるというのに、心は諦めきれずにいるのだから。

 

「そうだな……。俺は変わらないよ……弱いままだ……」

 

 ──そうであろう。我から勝利を掴み取り、常勝不敗の名を我が物としたというのに、おぬしは未だこのような所で燻っておる──

 

「ああ、そうだな。俺もそう思うよ……"神殺し"になって流浪する間にもっと弱くなった気がする。俺の通った道で起きた惨劇の中には、因果律以上に、俺が弱かったせいもあるんだろうな……」

 

 祐一は気付けば奥底にわだかまる引っかかりを吐露していた。

 語る相手は、友なはずがない。けれども声があまりにも懐かしくして、厳しくも優しくて。話していた……自分の弱音を。

 

「俺はいつも誰かを追い駆けてた。誰かの背中を見てた。お前の時もそう……ヤマトタケルの時も、エイルの時も。今でもそれは変わらないよ……護堂さんを追い駆けてる」

 

 言葉は返ってこなかった。

 

「きっと、それは楽なんだろうな。誰かの敷いた道を迷いなく我武者羅に進む。だって、その先には必ず正解があるんだから」

 

 言葉はまた返ってこなかった。

 

「──でもそれじゃあダメだ」

 

 言葉が返って来なくても構わなかった。

 傍から見ればただのひとり語り。それでも祐一はよかった。

 

「俺は誰よりも前を行かなくちゃならない」

 

 俯いていた顔を上げる。胸を張って、天を見上げた。

 

「だって、神様が現れるあの世界で、みんなが頼れるのは俺という"神殺し"しかいないんだから。……強く、ならなくちゃ。

 誰も彼も救う事ができて、並居る敵を薙ぎ倒してみんなが進む道を作れるくらい、強い人類の希望(エルピス)に…………」

 

 ──その先で、おぬしは再び道を誤るかも知れぬ、或いは、さらなる惨劇がおぬしを打ちのめすかも知れぬ。よしんばおぬし自身が打ちのめされるのは良かろうとも……無辜の民が、父が、母が、兄弟が……我らの同族によって、或いは、おぬしの手によって無惨にも死に絶えるかも知れぬのだぞ? ──

 

「それでも……。それでも、俺はこれが正解だと思うから。俺はやっぱり突っ走るだけだよ」

 

 ──おぬしはそれで納得できるのか──

 

「ああ、できるさ。納得してやるさ。俺の信念は変えられない。

 ──俺は思うままに生きるよ。そして今度は俺が誰かを導く。()()()()()()、お前がそうしてくれたように!」

 

 ──進むか。修羅の道を──

 

「そうだ、俺は行くよ。お前とまた再会した時、恥ずかしくないように……胸を張って、語り合えるように──そしてお前にまた、勝ちたいから!」

 

 ──……まったく。馬鹿者が──

 

 かつて友がいた。誓いも、約束もあった。残ったのはそれだけだった。でも、だからこそ、それが何より大切なのだ。

 

 パルヴェーズの幻と言葉を交わすなかで、まだ人だった頃の自分を見れた気がした。

 見えた自分と今の自分は、笑ってしまうほど変わっていなくて。でも背負っているものだけは、体積と重量を増していて。

 これじゃあ、潰れてしまうのも仕方ないよな。思わず苦笑が浮かんで、すぐに消えた。

 

 先へ、進まなければならない。なら、どうする。

 変化を、望め。……いや、変化するのではない()()するのだ。

 もうこんな思いをしないでいいように。俺はさらに一歩、踏み出さねばならない。

 

 変化する──もう誰かに利用されないように。

 進化する──もう誰かを取り零す事のないように。

 新生する──もう誰もかもを己の剣で守れるように! 

 

 名前も知らない天使さんよ。アンタがどんな経緯や思惑があって俺のもとに戻ってきたのかは知らない。

 でも、感謝するよ。アンタが世界のために命を賭してくれたように……幾星霜の果てに俺へ言葉を遺してくれた事に……俺は報いるよ。

 俺は、俺の信念を貫いて、世界を救う! 勝って、勝って、勝ち続けて! 俺は、──常勝不敗の『救世主』になってやる! 

 

「その為にはサトゥルヌス! お前が邪魔だッ! 俺が征く道を塞ぐっていうんなら……俺はお前を斃して──先へ征く!!!」

 

 冥府が鳴動するほどの咆哮……いや、産声なのだ。

 戦士から王へと。少年が殻を破り青年へと。新生した木下祐一という益荒男の産声なのだ。

 己の内に存在する化身をはじめとした、あらゆるものが己を認め、惜しみなく言祝いでいる。清々しく、誇らしい。

 だけど、まだだ。まだ足りない。それを埋めるには……

 

「すまない……お前はずっとそこにいたんだな! 俺が気付かなかっただけで! 

 鋭く近寄り者よ、契約を破りし罪科に鉄槌を下せ──来い、ラグナ!」

 

 ──ォォォオオオオンンンンッ!!! 

 荒ぶる大音声とともに地底を砕いて勢いよく光球が飛び出してきた。光球の内に宿るは容貌魁偉なる黒い巨神。

 祐一がうなずくと光球はそのまま彼のもとへ直進し、そのまま溶けて同化した。やっと帰ってきた盟友に笑いかければ、獰猛に笑い返された感覚を覚えた。

 そして……

 

「お前もだ──叢雲ォ!」

『応!』

 

 虚空に手を掲げれば、冥府の彼方から漆黒の神刀が姿を現す。弾丸さながらの速度で向かってきた相棒を掴み取った。

 もう離してなるものか。ああ、そうだ。距離なんて関係なかった友は……だって友は最初っからそこに居たのだから。ただ、自分が気付かなかっただけ。

 

 失われたピースがはまっていく。記憶も、友も、化身も揃っていく。あとに残ったのは『雄羊』と『風』の二つの化身、それらを取り戻すだけだった。

 手のひらに、火を灯したような光が宿ったのは、そんな時だった。

 

「『ミスラの松明』が……」

 

 気付けば右腕を起点として燃え上がるように熱かった……それに冥府に入った時から伸し掛かっていた身体の重さも綺麗サッパリ消えている。

 この感覚には三度ほど、覚えがあった。どちらも記憶に焼き付くほど印象深い出来事。

 一度目はウルスラグナとの最終決戦の折、光明神の力で彼の神に綻びを入れた際に。

 二度目はチンギス・ハーンとの決戦の折、『山羊』を行使した際に。

 三度目はヤマトタケルへ最後の一撃を放つ折、『白馬』と『山羊』、叢雲が合力した際に。

 けれど、今まで感じたどの熱よりも、熱く、激しい。かの光明神の気配厚き神具が、ここぞという時に祐一を助けてくれた物が、大きく変貌を遂げている。

 

「へぇ、興味深いな。神具が活性化……いや、進化したなんてな」

「うわ、護堂さんいつの間に」

 

 思わずのけぞる祐一。いつの間にやら護堂が隣に立って、興味深げな視線を送っていたのだから仕方がない。

 

「ちょっと前にな。一人でブツブツ呟いてたあたりだっけ……でも、見つけたあとに傍観しといて正解だったな」

「見てたんなら声掛けてくださいよ」

 

 呆れても護堂は微苦笑するだけだった。

 

「声掛けてたらお前は変わらないままだったかも知れないだろ。それに俺の助けなんか邪魔になるだけだって」

「そりゃあ……そうかも知れませんけどぉー」

「はは。……でもお前は運が良い」

「運が良い?」

「ああ、お前やサトゥルヌスはヒューペルボレアの《運命》の繰り糸ってやつに選ばれてたんだよ。どっちも“力ある者”だし、ミスラにも縁を持ってるしな」

「へー。で、選ばれたらどうにかなるので?」

「まあなんだ。そいつらは冥府に下ると本来の力を発揮できなくなる上に、必ず苦難に見舞われて、よほどの僥倖に恵まれない限り敗北して死ぬ、って言われてるんだが……どうやらお前はそのよほどの幸運ってのを持ってたらしいな」

 

 ふぅん……。祐一は良く分からないと言ったような答えを返した。ただ、あのままでは死んでいたらしい事は分かった。

 まあ過ぎた事だしいいか……と気持ちを切り替わる祐一。目下の興味は『ミスラの松明』に向かっていた。

 

「でも進化ってなんでまた」

「さぁな。要因は分からないが心当たりはあるんじゃないか?」

「まあ、なくはない……か?」

 

 先刻、起こった自分の精神の変調……そのあとに何か、内に秘めた者たちに認められた感覚を覚えた。

『ミスラの松明』もその一つだったのかも知れない。祐一が成長したように、"神殺し"となった折に己と溶けあい同化した、この神具も進化したのだろう。

 

「神具ってのも色々でな、神がかつての姿に回帰する標榜としたり、意思を持つものもある。サトゥルヌスが何度も復活する原因も、『サトゥルナリアの冠』っていう神具のせいだしな。

 神具は不朽不滅なものも多いし、権能みたいに強大な力を持ってるのも少なくない……『ミスラの松明』も、もともとは制約の大部分を取り払うくらいには強力な神具だったんだろ? なら"一つの権能"ってほど、昇華されてても不思議じゃないと思うぞ」

「一つの権能……って、また大きく出ましたね」

「お前の持ってるその神刀も、大別すれば神具なんだぞ?」

「え、叢雲が? へぇー」

「他に考えられるのは神具ってのも結局、神様由来のものなんだ。持ってる権能に似通った神様のものがあれば引っ張られて少なからず影響を受けてもそれほど無理筋って事にはならないんじゃないか」

「うーん、なんか適当っすね」

「はは、長くこっちに身を投じてれば分かるけどそんなもんさ。神様の元になってる神話も、地域や時代によってまちまちだし、同じ神でも全く別の性格を持った神様に出会うことだってある。

 それに俺たちの持ってる権能だってアバウトなものじゃないか。できると思ったら大概の事はできるし、神様から奪って俺たち用にチューニングするし、何でもありだぞ」

「はぁ、そんなもんですか」

「どんな変化をしたかは分からないが、お前から発せられるミスラの気配がより濃くなった気がするなぁ……。過去に一度だけ邂逅した事があるから、覚えがある」

「ミスラ……俺は会った事ないですけど、確かにこの光と熱はまるで太陽みたいだ。生命力、ってやつですかね、それが溢れて止まらない」

 

 これまでが地下から染み出た泉とすれば、今は瀑布が満たす湖だ。

 冥府特有の身体への負担がなくなり、意気軒昂なのがその証拠だろう。手を握っては開く。すると手のひらにちらりと赤い火がのぞいた。

 

「精神の変調はいいとして権能の影響があるとすればウルスラグナの『白馬』に、おそらくお前のその瞳もだろう」

「瞳? ……って、そういえば今まで隻眼だったのに復活してるし紅くなってる!?」

「いま気づいたのか……。まあ、いいや。今まで『ミスラの松明』と混ざって曖昧だったから気付かなかったが、細分化された事で分かったよ。

 お前が戦ったっていう天使はミスラと関わりの深い天使だったんだろうな。ミカエル、メタトロン、もしかすればゾロアスター教のヤザタのどれかだったかも知れない……とにかく、それらのどれかから簒奪したに違いない」

「…………」

「そしてその二つに呼応して『ミスラの松明』は変容したんじゃないか? ミスラ、或いはミトラスは『不滅の太陽神』とすら言われたんだ……冥府の神にとっては天敵。不死性の象徴とも言えるその光があるから冥府でも問題なく活動できてるだと思うぞ」

 

 護堂は静かに結論づけて、語り終えた。新生の時も講釈の時間も終わり、次なる局面へと。

 

「さてとりあえずは……」

 

 脇道に反れてしまったが本来の目的を果たす時が来た。『冥府の谷』を訪れ、それなりの時間が経つ。時が熟すには十分な時間だ。戦いの気運が満ちている。

 

「居ますね」

「ああ」

 

 短く意思疎通する。新生した戦士にとって、第一の障害が現れたのだ。

 肉体が戦いへ向け最適化されると同時、地を砕く轟音をともなって冥府の巨竜が彼らの前に立ちはだかった。



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新たなる旅路

 濃密な死の瘴気があたりに満ち、祐一と護堂を包み込む。ここは地母神の本領である死の世界。冥府を司るものとしての権能を振るえば、万の事象を思う様に操れるのだ。

 だが二人は動じなかった。こんなもの攻撃の内にも、ましてや、危機にもならない。

 

「汚れなき御身の為、光の柱たる我が名代となり剣となる。貴方の権を振るう先の一切の悪魔を焼き尽くす為に。我が燃えさかる焔と見透す瞳が不浄を祓い清めよう」

 

 厳かな詠唱が紡がれると、祐一の眼窩に収まる紅い両の目が、淡く力強い光彩をはなった。これは、破邪の光。闇夜を切り裂く夜明けの光が、おどろおどろしい不確かなものを詳らかにし、滅していく。瞬きの時も要さず、瘴気は姿を消した。

 これこそ祐一がスロヴァキアにて天使から簒奪した権能であり、斉天大聖がもつ火眼金睛と同じく破邪の力をもつ聖なる瞳であった。

 サトゥルヌスの急襲を受けた折には、祐一は訳も分からず行使していた権能、だが今では完全な掌握に成功していた。

 

「へぇ、能力は違うがヴォバンの爺さんやアテナの『輝く瞳(glaukopis)』と同じ系統の能力か」

「お、いい名前ですね。それ、いただき!」

「適当だなぁ……」

 

 新しい権能の名前を軽率に決めていると、状況が動いた。瘴気が晴れれば、次にやって来たのは前回と同じ鱗粉。この鱗粉は瘴気とは違い、祐一の『輝く瞳(glaukopis)』。だが何度も受けた攻撃だ。対処するのはたやすい。

 

「また鱗粉か。叢雲、吹きとばせ」

 

 突風が吹きすさぶ。彼方から此方へ吹き荒れる突風により鱗粉は何処かへと飛ばされる……かに見えたが、そうはならなかった。

 なぜなら突風では吹き飛ぶ事のないほど、鱗粉じみたオプスの仔竜が巨大化していくのだから。花粉並みに小さかった眷属が中型車程度の大きさとなり、冥府の地を埋め尽くすほどへ──。

 

「おいおい……神様ってのは何でもありだな……」

 

 その様子を見ながら祐一は零し、護堂は苦笑を深くした。雲霞のごとく並みいる竜たちのはるか奥で、オプスが大音声を上げた。

 それは開戦の号砲だった。見渡す限りの仔竜が一気に雪崩打った。それらを視界に収めようと、彼らは休み時間に駄弁るような気安さを捨てなかった。

 

「前も言ったけど、俺は多数を相手にするのは得意じゃないんだけどなぁ」

「ならここは、俺の勝ちですねっ!」

 

 そう言うなり祐一が駆け抜けた。

 なんという軽捷さか。所狭しと並ぶ敵の隙間を流水さながらに進む。

 踏みとどまる事も、掠る事もせず、二百メートルほどの距離を三秒も掛からず駆け抜けると直後、一帯の仔竜の首が飛んだ。根切りである。

 

「俺の勝ち! 何で負けたか、明日まで考えといてください!」

 

 いつの間にやら勝負をはじめ、その上で「勝った勝った」とドヤ顔晒してサムズアップする同族に、護堂の反骨心とが激しく刺激された。というかイラッときた。

 

「アイツ、調子に乗ってるな……」

 

 我は……。護堂が何事か呟く。

 確かめなくても分かる、それは言霊。護堂は権能を行使したのだ。次いで大地から際限ない力が供給されはじめた。

 

「眷属を大きくしたのは失策だったなオプス、的がデカくなっただけだぞ」

 

 言い終わるが早いか護堂は足を振り上げると、そのまま一気に地面へ──叩きつけた。豪快な破壊音が冥府中に轟いて、次の瞬間、盛大に厚い岩盤がひっくり返った。土砂の大津波が群れをなしていた仔龍を呑み込んでいく。即席の天変地異になすすべもなく、生を終えるオプスの眷属たち。

 

「うお! なんて剛力! これも護堂さんの権能ですか! ……てか周りの事考えろォ!」

 

 天狗になっていた祐一も色を失って、慌てて退避するハメとなった。味方を味方と思わぬ荒っぽさに顔が引き攣ってしまう。

 あとは消化試合だった。生き残った仔龍を切っては殴打し投げ飛ばす。死地を死地と思わぬ闊達さで悲壮感は欠片もなかった。

 カンピオーネは我が強い。そのため同じ戦場に居合わせれば例え味方同士でも、我の強さや権能の強大さによって間接的に殴り合いが生じてもおかしくはない。

 けれども祐一と護堂は、不思議と息はあった。いつの間にやら背中合わせになりながら、お互いをカバーし合いながら危なげなく倒していく。

 きっと今だけの偶然なのだろう、と二人は悟っていた。

 後ろを振り向いてはならないという禁忌に多数の敵、現在保有する権能、気分etc……それらが奇跡的に噛み合ってこの状況を生み出しているのだと。

 

「はは! こりゃいいや!」

「そうだな」

 

 護堂がうなずく。それが無性に嬉しい。

 

「でも振り向くなって縛り、いい加減鬱陶しくなってきたな……」

「なら、やるか」

「ん? なにか秘策が?」

「ああ」

 

 楽しい時間は過ぎ去るのが早い。一抹の淋しさを残しながらも、彼らは締めに入った。

 

「合わせろ祐一。……お前にひとつ、面白いものを教授してやる」

 

 獣染みた表情を貼り付けた護堂の手には、いつの間にか黒い刀が握られていた。三尺三寸五分、『蕨手刀』に似た漆黒の刀身に妖し気な波紋が揺らめく湾刀。祐一はそれに酷く見覚えがあった。

 

「あれは叢雲……いや、天叢雲剣?」

『なんと。共にあの権能と、(オレ)すら持つか。おぬしと彼の王、どこまでも似通っておるな』

「それってどういう……」

 

 叢雲に問いかける時間はなかった。護堂が天叢雲剣を地面に突き刺し、彼らを中心にして凄まじい呪力の大噴火が起きたのだから。

 気付けば空には、冥府の闇よりも昏き"暗黒星"が浮かんでいた。雲や星々の存在しない暗闇ばかりが覆う空に、ぽっかりとそこだけ穴の開いたような黒い星。一目で凄まじい神力を宿した危険な代物なのだと直感的に理解する。

 

「暁の秘録よ。俺に女神の叡智を授けてくれ」

 

 言霊が、妙に響いた。

 空の暗黒星がにわかに動き出す。ぎゅうん、ぎゅうんと回転を始め、速度を徐々に上げて高速回転。

 あの不吉な暗黒星がただ回るだけのはずがない……周囲の石も塵芥も大地も仔龍すらも、等しく超絶の吸引に吸われ呑み込まれていく。

 つまりあれは擬似ブラックホール……それだけでも破格の権能であった。

 

「叢雲」

 

 護堂が天叢雲剣を使った権能を使うのなら、こちらも天叢雲剣を出すのが正解だろう。祐一もまた護堂に助力しようと叢雲を地面に突き刺した。だが。

 

『む。なんだこれは……複数の、おそらく三柱の神々が絡み合い、混沌の坩堝と化しながらも一つの権能にまとまっておるのか?』

「何だそれ、そんなんで上手く機能すんのか?」

『到底不可能なはず。しかし現に成り立っておるのも事実』

 

 あの権能、最源流の鋼である叢雲ですら唸る代物らしい。どういう経緯で手に入れたのか全くの謎だが、あれが草薙護堂という遙か先をいく先達の切り札なのだ。

 欲しいな。

 そう思案する祐一の眼光に、卑しい盗人の欲のような色はなく、ただ強かな戦士としての鋭さのみがあった。

 

「やれそうか」

『愚問。かの秘奥、偸盗の剣たる(オレ)の沽券に賭けて盗み取るとしよう』

 

 遅ればせながら祐一と叢雲が合力した。祐一はひたすら呪力を注ぎ込み、叢雲は制御に回る……そうする事で加速度的に権能が本格的に発動し、破壊力も増していく。

 祐一と護堂という二人の"神殺し"がバカスカ呪力を叩き込んでいるのだ、当然だろう。

 姿は見えずともオプスの焦燥が見えるようだった。

 祐一はふと思った。この莫大な呪力を注ぎ込まれたエネルギー塊がこのまま破壊力を増し続ければ、破壊という点において、ヤマトタケルの為した『大切断』と比肩できるのでは、と。

 そして、その考えは現実のものとなり───

 

「千の蛇よ、千の龍よ──。今こそ集まり劔となれ」

 

 ───『冥府の谷』はその日、崩壊した。

 

 

 ○◎●

 

 

「いや……縛りが邪魔だとはいったけど、『冥府の谷』ごとぶっ壊すなんて無茶苦茶もいいとこだろ……」

「結果的に同じだし、いいじゃないか」

「まあそうですけど……」

 

 こんなの絶対おかしいよ、となんだかんだ無傷で瓦礫の山に立つ二人。どうやら連れて来られた民衆はとっくに地上へ逃がしていたらしい、はぐれた折に彼らと遭遇していた護堂が手を打ったのだという。

 

 白い目を「はよ言えよ」と意思を籠めながら向けると護堂は素知らぬ顔で目を逸らした。随分と馴れた動作だった。

 どうやら先刻の大破壊でオプスは欠片も残さず散ってしまったらしい。崩壊する際に断末魔らしき声が聞こえた気がした。そして。

 

「…………………………」

 

 轟。瓦礫の山を吹き飛ばしてサトゥルヌスが姿を現した。無言である。しかし言葉はなくともその心理、推し測るのは容易だった。

 護堂が臆した気配もなく、サトゥルヌスの前に出た。

 

「惜しかったな。オプスに殺され、民衆を贄として光明神へと蘇ろうとしたんだろうが……結果はこの通りだ。観念するんだな」

 

 フフフ……。忍び笑いが木霊する。聞くものを忽ちに恐怖へ陥れるくぐもった笑い声だった。

 

「まだだ」

「なに?」

「まだ……まだ終わっておらぬと言ったのだ! 草薙護堂ッ!」

 

 沈黙から一転、燎原のごとき激情の大火が、質量を伴って祐一と護堂へ降りかかった。吹きすさぶ威が、大きく髪を揺らす。

 

「『火』ならば! 『光』ならば! そこにあるではないか!? 木下祐一! そなたの手の中で煌々と燃えがっておるッ!」

 

『ミスラの松明』を見てとって口角泡を飛ばすサトゥルヌスは、怖ろしくそして不吉だった。狂瀾怒濤の激情を発露させる彼の神を中心に、死の瘴気が濃くなっていく。オプスなんていう従属神のものより、遥かに強力で濃密な。

 祐一の『輝く瞳(glaukopis)』を行使していても、外気に晒した肌から凍傷になるのを抑えられない。

 

「最初から《光を持ち帰りし者》などという称号も! 我が妻たるオプスも! 余を奉ずる民衆も! すべてどうでも好かったのだ! 余の祖たるの光明を得れればそれで!」

 

 妄執。それ以外にこの情動を指す言葉が見つからなかった。まるで自我の奴隷だ、祐一は強大な敵を前にしながらも些かの憐れみを覚えた。

 

「この『冥府の谷』を決戦の地としたのも、民衆を連れ立ったのも! 全ては木下祐一、光明を宿すそなたこそを我が本領へ呼び寄せるための餌よ! 

 闇が深ければ当然、光も強くなるのは必定! 否定はできまい、余の思惑通り、そなたの光明は嘗てとは比較にならぬほど燃え上がっておる!」

「ふーん、今までの流れが予測通りだったって? それでこのあと俺を倒して『ミスラの松明』を奪うって寸法か? ……いいぜ、相手してやるよ。最後までテメェの思惑通りに進むと思うなよ」

 

 そういう黒幕気取りは大嫌いなんだ、そう吐き捨て、むせかえるほどの瘴気を浴びてなお、気炎万丈なるは若きカンピオーネ「木下祐一」。

 戦意と殺気を横溢させる両者に、しかし待ったをかけるものが居た。

 神域の旅人とも呼ばれる特異なカンピオーネ「草薙護堂」である。

 

「盛り上がってる所悪いが、アンタが倒すべき敵ってのは俺なんだろう?」

「フハ……フハハッ、ハハハハハハハッ! そうだ! それがいい! 我が本願はそなたを討ち果たし復讐を果たす事! 草薙護堂、そなたの首を取り余は輝かしい太陽神へ回帰する!」

 

 護堂は臆さない。そして、光球が燦めいた。

 

「……『鳳』を斬り裂いた黄金の剣か。ん? これって智慧の剣じゃ?」

 

 祐一はこの光を知っている。『戦士』の化身、祐一が過去に奪われた今はなき化身であった。

 

「そう上手く行くかなサトゥルヌス。俺や姐さんに敗れる以前に、アンタは神話の中でも決定的な敗北を喫しているじゃないか」

「ッやめよ! ふたたび余の、闇に沈めた恥辱の歴史を詳らかにするか草薙護堂!」

「ああ、そうさ。そろそろアンタとの因縁も飽き飽きなんだ。ここらへんでスッパリ切っとこうと思ってな」

 

 サトゥルヌスの怒気に大地が呼応する。地盤を砕き割って幾百もの巨大な大樹が飛び出し、しなっては鞭さながらに護堂へ強襲を仕掛ける。だが護堂は泰然とした姿勢を崩さない。

 

「アンタと同一視されたクロノスは子であるゼウスに敗北したってのは少し神話を調べればすぐに分かる事だ。その後オリンポスを追われたアンタはイタリアへ地へ逃げ込む事となる……イタリアのラツィオという州はラテン語でlazio、つまり「隠れる」を意味する言葉で、クロノスであったアンタが逃げて来たことから名付けられたんだ」

「その口を閉じよ! 余の敗北の歴史、軽々に語れるほど安くはないぞ!」

 

 地上に現れた星雲さながらだった光球が寄り合わさり、八本の長大な御剣と化す。

 空中を自在に駆け、自在に敵を切り刻む神剣だ。津波の如く迫りくる樹木の大波を寄せつける事なく切り刻む。

 

「その後イタリアに来住したアンタはローマのカピトリヌスの丘に神殿を築いて王となった。その先でオプスを娶り、未開で野蛮な民に農業や有用の技を教えて、太古の黄金時代を築いた……アンタが農耕神として崇められる経緯だな」

 

 祐一と護堂は同じで智慧の剣を所持している。しかし、祐一のそれよりも護堂の方がはるかに卓越していた。同じ武器を持ち、だからこそその差が如実に浮き上がった。

 

「でもアンタはそんな惨めな神ではなかったはずだ……子たるゼウス、或いは、ユピテルにその玉座を奪われ、数多の権威と権能を奪い去られてさえいなければ……力ある神王として振る舞えた。

 けれどアンタは敗北したが故に農耕神としての権能を有する事しか許されなかったんだ」

 

 咆えながら護堂の口を閉ざそうと力を振るうサトゥルヌス。しかし護堂が止まる事はない。

 強い自我のもと、しぶとく、何度も手を焼かされたサトゥルヌス。だが結局、彼の神は権威と権能を奪われ栄光を喪った神で、戦闘神としての側面も薄い農耕神だ……真っ向勝負となれば歩があるのは"神殺し"の戦士たる護堂の方だった。

 

「つまりサトゥルヌス───あんたは()()()()()()()()()()()()()()()()()()……嘗ての栄華を、神々を統べた()()()()()()()()を取り戻したかったんだ」

「おぉ……! 余の凡てを明らかにし、宿願すら貶め、根幹すら脅かすか! 忌々しい駄剣め!」

 

 最後に決定的な言霊を紡ぎ、智慧の剣は完成した。

 

 切れ味の増した剣に、サトゥルヌスが攻め手を変えた。これまで量で押していたやり方を変え、質へと。

 大地から樹木を途切れる事のないほど溢れ出させながら、自身の身体に纏わせていく。時を重ねるほどにその密度は厚く、巨大になっていった。最後には三百メートルを越す大樹の巨神と変貌を遂げた。

 

「デ、デケェ……」

 

 あんぐりと見上げた祐一の口から驚愕の声が零れた。かつて人狼の姿で現れたチンギス・ハーンより数倍の巨体なのだ。

 しかし護堂は立ち止まる事なく、八本の神剣をさらに重ね合わせると刃渡り八メートルはある大剣へ。

 そのまま巨神と化したサトゥルヌスへ放つ……しかし攻め切れない。『戦士』は強力な手札であるが、決め手にはなり得ないのが数少ない決定であった。それに何より敵が巨大すぎる。まさにティターンの名を持つに相応しい。

 螺子を動力とするからくりじみた動作で、ゆっくりと樹木の巨神は動き出し、そのままその腕を護堂たちのいる場所へ叩きつけた。あまりの衝撃にこの大陸が、裏返ったかと錯覚するほどだ。

 機動性を捨ててまで巨大化し、しかし傷付けた傍から修復していくのだ……状況に変化の兆しが見えず、なら、あと一押しするか。

 なんてことはないと示すように護堂はふてぶてしい笑みを浮かべ、そこに新たな権能……いや化身を加えた。

 

「主は仰せられた、咎人に裁きを下せ。背を砕き、骨、髪、脳髄を抉り出せと。血と泥と共に踏み潰せ! 鋭く近寄り者よ、契約を破りし罪科に鉄槌を下せ!」

 

 天と地が、震えている……。恐るべき神獣の来訪を予感して。中空に現れた黒い渦から、黒き神が招来される。

 

「ラグナと同じ『猪』か……。もう分かったぞ。なるほど、どーりで似たような気配を感じるわけだ」

 

 疑惑は確信へと変わった。自分と護堂、どうやらかなり酷似した権能を持っているらしい。その事に気付いて呆れを滲ませた笑いが漏れる。

 ただあの『猪』、祐一の盟友であるラグナよりも数段、荒々しく禍々しい。まさに暴れん坊と呼ぶべき威容だ。

 

『猪』という砲弾が射出され、サトゥルヌスの巨体へ激突した。あれこそ一撃で、全てを破壊する荒ぶる神獣。

 サトゥルヌスがそのありあまる勢いに押され、無様に後方へ倒れ込んでいく。加え、サトゥルヌスの後ろには『冥府の谷』の残骸……深い深い谷が大きく横たわっていた。

 サトゥルヌスの巨体が谷の中へ放り込まれても『猪』は未だ猛りながら、その牙を突き立てていた。だがサトゥルヌスも黙ってはいない。その巨腕で『猪』を掻き抱くと、そのまま圧し潰す。

 堪らず限界を迎えた『猪』が嘶いて、風に消えた。

 

「お疲れさん。よくやってくれた」

 

 そこで『猪』の出番は終わった。十分に役割を果たしたが故に。

 ここは戦場、倒れた者は敗北と同義。背中を大地に横たえたサトゥルヌスは直感的に立ち上がろうとして……もう、全てが遅かった。

 

「──この言霊は雄弁にして強力なり。それこそ我なり!」

 

 朗々と言霊が編まれた。直後、谷底で仰向けになっているサトゥルヌスの胸部に、極光を放つ神剣が強かに突き刺さった。『猪』に抉られ穴の開いた身体だ。刀身は容易くサトゥルヌスを穿いた。

 ッッ!? 声なきサトゥルヌスの絶叫が、森羅万象を揺るがす。力づよく生命力に溢れていた樹木の四肢が、枯れ果て腐れ落ちては土に還ってゆく。

 サトゥルヌスの巨体から光が流れだし、祐一の奪われていた化身が帰ってきたのもそのタイミングだった。

 

 巨神の肉体が滅び、ふたたびサトゥルヌスが現れた。彼も幾度の構成に消耗しているのか、もう以前のような強壮さはどこにもない。

 擦り切れた外套は消え去り、瑞々しい肉体は須らくミイラさながらの痩せ細ったものへ戻っていた。……だがその眼光、未だ衰えず。

 

「恐るべき魔獣に恐るべき智慧の剣! そして恐るべき戦士、草薙護堂! そなたの猛々しさは嘗ての敗北の記憶をさらに色濃く塗り潰した! 

 ──しかしまだ余は死んではおらん! 余が不死であるが為に! 死は余であり、余が死であるが為にッ!」

 

 手を振り乱し、叫ぶサトゥルヌス。しかしそれが虚勢である事は傍観していた祐一でも察する事ができた。

 護堂はといえばまだ戦う気でいるサトゥルヌスとは対照的に、全ての矛を収めていた。

 

「そうだな。アンタの言うとおりだ……なら、死を与えてやるよ。俺の言霊で冥府の神格を喪ってるアンタにそこ(冥府)は耐え切れるのか?」

「何ッ!?」

 

 サトゥルヌスが立っているのは崩壊した谷の底……つまり冥府そのものである。『冥府の谷』という場所が壊れようと、冥府の存在自体は揺るがないのだ。

 そうして、サトゥルヌスは、()()()()()。振り返ってしまった。

 極寒の冷気が、地上より溢れ出す。それはサトゥルヌスを……禁忌を犯した者を縛める縛鎖であった。

 

「お、ぉぉおおおおおおおおおおおおッ!!!?」

「賑やかで馬鹿騒ぎするお祭り(サートゥルナーリア)は終わりだ。今日という冬至の日が終わるようにな」

 

 気付けば太陽は姿を消し、黄昏が空を焼いていた。夜が近いのだ。

 もう手を下すまでもなかった。百を超える無数の手が、サトゥルヌスを絡め取っては掴み取って、深い深い闇へ誘っていく。

 

「じゃあなサトゥルヌス。見るなのタブーを犯したのは俺たち(パンドラの系譜)じゃなくてアポロンとも縁続きのあんた(オルフェウスの系譜)だったみたいだな」

 

 護堂の言葉は、農耕神サトゥルヌスの聞いた最期の言葉となった。サトゥルヌスは断末魔の声も、怨嗟の声も上げる事すら赦されず黄泉の住民となった。

 執念深く"神殺し"二人と闘ったサトゥルヌスは死を最後に、ヒューペルボレアでの戦いは終わったのだ。

 

 

「やっーと終わりましたね」

「だな。あそこまでしぶといとはなぁ」

 

 強敵を降し、祐一たちはその場で腰を下ろし気の抜けた会話を交わしていた。戦いをくぐり抜けた心地よい疲労感に身を任せ、口調も穏やかなものだった。

 サトゥルヌスやオプスを倒したが、どちらも権能は増えていない。

 カンピオーネ同士が共闘した為にパンドラに認められなかったのかも知れない。護堂はそう言っていて、神を倒しても権能が獲られない事例はわりとあるそうで、共闘の他にも義母であり支援者たるパンドラを喜ばせる戦いをしなかった場合などがあるらしい。

 

「残念ですね。せっかく倒したのに」

 

 スポーツで頑張ったけど賞が貰えなくて残念だ、そんな口調で祐一が笑い、護堂も肩を竦めた。手札が増えるに越した事はないのだろうがそこまで固執するものでもないらしい。

 

「権能なんて厄介なものをたくさん抱えても仕方ないからなぁ……俺はこれでも平和主義者なんだよ」

 

 護堂に至ってはそんな事を嘯いていた。

 

「あはは、面白い冗談ですね。ファッションみたいなもんですか?」

「いや、本気だぞ」

「え?」

 

 冗談だと思って相手にしなかったら、わりと真剣な顔をされ本気と来た。「アッハイ」と祐一は返すしかできなかった。

 

「ま、忙しない旅だったけど悪くなかったよ」

「ええ、俺もです」

 

 握手を交わす。

 もうそろそろ別れの時が近い

 

「祐一。最後にお前に助言だ。お前のもつっていう『因果破断の因子』。あれの使い方を学んでおけ」

「『因果破断の因子』を?」

「ああ。それは因果律打倒を目指すお前にとってなくてはならないもので、今後の戦いにもきっと役に立つだろうからな」

「確かに。肝に銘じておきます。……最後まで、ありがとうございます」

「気にするな」

 

 運命が交差し、出会った同族草薙護堂。彼と歩んだ奇妙な旅路は祐一に大きな影響とを与えた。大きな収穫を得た事に満足し、別れを惜しみながら、それぞれの道へ向かった。

 めでたし、めでたし。……──と、そうはいかないのが彼らの業である。

 

 

 ヒュゥゥ……と一陣の風が吹いた。風。風、風、風。極寒の冷気を纏った陰風が、二人の身体に纏わりついては流れて消える。

 白い息が、口から洩れ出る。

 常春のヒューペルボレアにおいてありえない現象……だがこの冷気、覚えがある。

 冷風の発生源はすぐに分かった。谷底だ。先刻まで『冥府の谷』だった場所から、流れ出ているのだ。

 サトゥルヌスの果てた場所。そちらへ視線を送れば黄昏時に見たそれより、闇が濃くなっている。夜の帳が降りてこの世ならざるものの封された彼岸と此岸との"通廊"が結ばれている。大口を開けて息を吐き、吐息が地上に満ちる。

 

 呼気は闇と化し……闇が凝縮され、人の形を成す。

 空の天蓋には真円の輪を衣装とした黄褐色の星が、祐一たちの言葉で『土星』と呼ばれる星が、陰々と張り付けられていた。

 闇を凝縮した人型……サトゥルヌスが星光を浴びて、はっきりとした線を見せた。姿は変わらない。しかし、不吉である。ひたすらに。

 彼の宿星たる土星は、中世の医学や占星術の間では、人々を瞑想や観想に没頭させ、憂うつな気分や狂気に向かわせる影響があるとされていた……その不吉さを人型にしたかのよう。

 

 語るでもなく黙り込んで直立していたサトゥルヌスの黄金の仮面が剥がれ、風化しては消えた……『サトゥルリアナの冠』が滅んだのだ。

 太陽神サトゥルヌスの縁たる神具の滅び。つまり太陽神への道は、完全に途絶えたのだと言外に示していた。

 が、それは太陽神へ至る道を喪ったと言うだけのこと……サトゥルヌスが滅んだという事にはならない。今のサトゥルヌスは輝かしい太陽神でも、楽しげな祭りを捧げられる農耕神でもない。

 現に『サトゥルリアナの冠』と入れ替わるように、彼は死を溶かしこんだ、闇色の底冷えする死の大鎌(ハルパー)を携えていた。仮面を失い白い髪が落ちる。その髪を掻き分けた先に見える面貌は老人のもの。

 その容貌は多くの者がイメージする死神の姿。

 死を吐く鎌持つ白髪の老人……それが()()()()を果たしたサトゥルヌスの姿だった。

 

「随分と感じを変えたじゃないか。イメチェンかサトゥルヌス?」

 

 すでに祐一と護堂は、戦士の顔であった。前に出て、軽口を叩く護堂だが、その瞳に一切の遊びや諧謔の色はない。油断なく大敵の一挙手一投足を見定めていた。

 サトゥルヌスは軽口を相手にせず、静かに独自しはじめた。

 

「余は一度、真の死を迎えた……。不滅たる太陽の完全なる死。……それにより余の太陽神へ回帰する道は……悲願への道は閉ざされたのだ……」

 

 平坦な、なんの波もない言葉だった。

 

「だが、フフフ……。草薙護堂、死をそなたから与えられた事で、余はさらに"死"と近しい存在となった……そこには感謝するとしよう」

「…………」

「死んでも死なない不死性……地母神や死と再生の神って奴とは初めて戦うけど、しぶとすぎんだろ」

 

 このしぶとさ、生き汚さには定評のある祐一が思わず頭を抱えるほどだ。その上、サトゥルヌスはパワーアップすら果たしたという。

 完全復活したこの大敵を殺し尽くせるビジョンがなかなか見えなかった。

 

「我が妻たる地母神オプスを贄とし、農耕神としての相が強くなった余は時の神としても職能を得るまでに至った……。

 それのみならず冥府に漂っていた地母神たる妻の魂魄を捧げる事でより強力な『鋼』の神性すらも獲ることができたのだ」

 

 サトゥルヌスや、彼と同一視されたクロノスは混同されやすいが本来は時の神ではない。しかし、農耕という一年を通して「種を蒔く」「育て実りを待つ」「収穫する」などを繰り返し、毎年の周期は重要なものであった。

 サトゥルヌスは周期を司る。周期を司るとはつまり、繰り返される時間の事……過去、現在、未来を司るに等しく、農耕神として相の濃くなった彼が『時』すらも掌握したのにはそんな理由があった。

 ただ、農耕神とはいえ豊穣の相は限りなく薄まってしまった。それが新たな権能を獲たサトゥルヌスの代償であり、決意の表れ。

 

 加え、サトゥルヌスの掌中に収まる剣……鎌と呼ぶ方が近いかも知れない……ハルパーと呼ばれる剣は、その刃で付けた傷は癒えることがなく、不死者の討伐にも用いられた武器である。"死"と『鋼』を両立させたアダマスの剣。それは今のサトゥルヌスを表すに相応しいものでもあった。

 

「なるほどな。冥府に突き落として倒したと思ったら俺はみすみすアンタをパワーアップさせちまったのか」

「左様。そして余は余の定めた誓いを完遂するまで()()()()。草薙護堂、余はこの姿となり必ず復讐を果たそう……。余は時の職能を用いる事でな。今のおぬしが倒せぬと言うのならば、()()()()()()()()()()()()()()()

「なに?」

 

 見ればサトゥルヌスの身体が白く発光していた。宵闇の化身さながらである彼に、白い光は不釣り合いに見えた。

 おそらくあれは時の権能。時を操り、遥かな過去へ旅立とうとしているのだ。

 

「余の宿願を果たす為であれば、その途上でいくつ世が滅び、民草が死んでしまおうと、構わぬ。草薙護堂、そなたは過去の己が死に絶え、いつ消滅するかも分からぬ恐怖に震え泣くがいい……」

 

 それを止めたくば追ってこい、言外にそう言っていた。その言葉を最後に、サトゥルヌスは虚空に消えた。

 

 あたりにはふたたび静寂が満ちた。しかし、平穏とは程遠い空気を残して。

 急がねばならなかった、そうでなければサトゥルヌスの鎌が己の首を掻き切ってしまうだろうから。

 ふぅ、と息を吐く護堂。厄介事が終わるどころか、さらに重量を増して帰ってきたのだ、宜なるかな。

 

「俺たちの旅もここで終わりだな。帰らなくちゃいけなくなったみたいだ」

「──待ってください護堂さん」

「ん、なんだ? 連れて行けって言っても無理だぞ」

 

 祐一の言葉に、護堂は自分の故郷たる世界に連れてけ、そう言っているのだと予想した。だからすぐさま拒否した。

 祐一はたしかにヴォバンやドニのような気性のカンピオーネではない。が、ただでさえカンピオーネは騒乱を呼ぶ存在。認めたくはないが護堂自身もそうなのだ、もう一人追加は勘弁してほしかった。

 

「そうじゃないです。──サトゥルヌスは俺に任せてもらえませんか?」

「はぁ?」

 

 祐一は一歩前に出て言い放ち、突拍子もない無理筋な提案に、考える間もなく素っ頓狂な声が出てしまった。

 

「何言ってるんだ、サトゥルヌスは俺を狙ってるんだぞ? そんな事できるわけないだろ」

「分かってます。……でも、そうじゃないと、俺はきっと前に進めない。俺も、サトゥルヌスも、冥府に落ちても果たすべきものの為に冥府を克服した……なら、俺とサトゥルヌスと同じです。同じ場所に居るんです」

「…………そうかも知れないな。だが……」

「さっきの戦いで、護堂さん言ってたでしょ。"因縁を切る"って。あなたとサトゥルヌスの因縁はあの戦いで終わったんです、そうでしょ?」

「…………」

「これから先は俺とサトゥルヌスとの因縁だ。俺とあいつ、雌雄を決し、強い方がそれを呑み込んで、前へ進む事ができる。俺は先に進まなくちゃならない……みんなの為にも……これだけは譲れません」

 

 酷いこじつけ理論の押し付けだった。

 目の前の同族は、こっちの命が狙われていると言うのに、それを知っていながら役を譲れという。

 なんて身勝手……だがそう無茶苦茶でもない、か。護堂は沈思黙考した。

 サトゥルヌスには祐一と護堂、同じく因縁があった。そして一度は倒し、因縁を清算したと考えれば、少しは納得するものもあった。そう感じた自分がおかしくもあった。

 

「判ったよ。好きにすればいい」

「え、言っといてなんですけどいいんですか?」

「良い訳あるか、俺は命が掛かってるんだからな──だから必ず倒せ。お前が敗けたらあの世に行ってでも祟ってやる」

「……」

「でも、勝ったなら、それで今までの貸し借りなしにしてやるよ。こんだけ言ってるんだ、必ず勝てよ」

「敵わないなぁ……」

 

 祐一は苦笑いを浮かべた。そんなもので借りがなくなるほど護堂から貰ったものは安くはない。その上で発破まで掛けられた。これで負ければ祐一は古の武士のごとく切腹せねばなるまい。

 

 勝たねば。祐一は覇気と戦意を滾らせた。……もう、決して殺意や憎悪などではなく。

 

「奴が、サトゥルヌスが向かったのは俺が生まれた世界だ。気張れよ、相手は死と時の神だからな……厄介さじゃ、他の神より飛び抜けてる。

 ……それに、あっちにも笑えるほど厄介な奴らがいるしな」

 

 祐一がうなずくと、護堂も満足そうに頷いた。そしてふてぶてしい笑みを浮かべた彼は、祐一の肩に手を置いて……

 

()()()()()()

「? なにかしました?」

「この先どうなるか、俺の目では見通せないが……まぁ、先達からの餞別だ。上手く活かせよ」

「はぁ……」

 

 良く分からない。ただ、護堂がなにかの権能を行使した気がした。彼なりの深謀遠慮があるらしい。

 身体と心がひどく軽くなった気がして、悪いものではないのだろうと思い、先を急ぐことにした。

 

「それじゃあ、いってきます」

「ああ、死ぬなよ」

「あはは。……叢雲、頼む」

『応』

 

 

 ○◎●

 

 

「また新しいカンピオーネに出会ったぞ。闊達で抜けてて、目が離せない奴だったよ。変な奴だったけど、悪い奴じゃなかったかな。まあ変じゃないお仲間なんていないけどな」

 

「女じゃないって。でもなんていうか、人間らしいカンピオーネだったよ……小さな事でも一喜一憂して、泣いたり笑ったり忙しい奴で。

 でも戦いとなれば強かな戦士になる。……例えるなら黒曜石の剣か。折れて砕けたその先で、比類ないほど鋭くなった刃を振るう戦士だった」

 

「驚くなよ、そいつ俺と同じ神を弑逆したらしいんだ。そんなんだから、変なお節介焼いちまった。……俺がお人好しだからだって?」

 

「人間らしいカンピオーネ、とは言ったけど、あいつは倒すなんて概念があるかどうかも分からない因果律を倒すつもりでいるらしい。だからあいつも、どうしようもなく愚か者なんだろうな」

 

「ま。今度会うときは敵か味方かは分からないが、敵でないと好いくらいは思ってるよ」

 

 

 ○◎●

 

 

 かくして戦士は再起した。

 少年だった彼は、過去を受け入れ青年へと近づいた。未熟な戦士は着実に刃を砥いでいく。

 

 しかし未だ彼の旅路は波乱に満ち、休息の時が訪れることはない。








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三つ巴編
廻る歯車


【三月 イタリア・ミラノ】

 

 ──草薙護堂。サルバトーレ・ドニ。両王ミラノにて相対す。

 戦いは引き分けにて幕を閉じ、草薙護堂は本国へ帰国、サルバトーレ・ドニは傷を癒すため、一時、行方をくらます。

 

 

【三月 イタリア・ローマ】

 

 ──ラツィオ州にあるサトゥルヌスの神殿にてまつろわぬサトゥルヌス顕現。

 同日、ローマの騎士団らが持ちあぐねていた神具『ゴルゴネイオン』を強奪。

 草薙護堂のもとへ襲撃を仕掛けようとするが、同じく異界から現れた木下祐一に阻まれ激しい戦闘となる。

 草薙護堂の首級を上げんとするサトゥルヌスとそれを阻む木下祐一の両者は、三日三晩戦いながら欧州を北上していく事となる。

 

 

【三月 ドイツ・ザクセンアンハルト】

 

 ──自然公園の奥地で大地震が発生。

 人的被害は皆無であったが後日、巨大なクレーターが発見され、隕石の衝突を噂される。

 

 

【三月 デンマーク・エスビアウ】

 

 ──突如、昼夜が逆転する前代未聞の不可解な現象が発生。

 その後、集団幻聴が発生し雷光が夜を引き裂く怪現象が重ねて起きる。

 

 

【三月 ノルウェー・ベルゲン】

 

 ──戦闘と北上を続けていた両名であったが、木下祐一が一瞬の隙をついてサトゥルヌスからゴルゴネイオンを奪取。

 以後両者ともに身を隠し、状況はしばし停滞する。

 

 

【四月 ノルウェー・ベルゲン】

 

 まつろわぬアテナ、入国───。

 

 

 

 

 

 

 ○◎●

 

 

「───では各々方、ここに誓約をなされよ。

 我ら三名、古の《蛇》……ゴルゴネイオンを勝者の冠とし矛を交えんと。戦場はこの北欧の地、あくる夜を刻限として、全身全霊をもって勝利を希求せんと」

 

「俺は構わねぇ。アンタらが俺からゴルゴネイオンを取れるとは思わないしな」

 

「愚昧な。その傲慢と僭越、高くつくぞ。そなたらを降し、古の蛇を手中におさむるは余を置いて他にはなし。必ずや我が宿願を果たしてみせよう」

 

「血気に逸るのも結構だが、今はご自重なされよ"神殺し"、そして我が祖父殿。……我らが雌雄を決するのはふたたび太陽が隠るる明夜。その時に思う存分に猛れば宜しい」

 

「……良かろう。しかし、アテナよ。そなたもまた覚悟せよ。余と戦うというのならば、いかに武で鳴らすそなたとはいえ我が宿願の礎となるのは必定ゆえな」

 

「血の気が多いなアンタ。じゃあ、俺は行くぜ。用もないのにアンタらと顔を突き合わせていたくないからな」

 

「待て、"神殺し"よ。そなたが懐に収めるゴルゴネイオン、ゆめゆめ失くす事なきよう。それは妾が半身にしてまつろわぬ妾に権威を授ける古の《蛇》。妾が求め、必ずや妾が手に取り戻すものゆえ」

 

「そうかい。いっそ、ぶっ壊せれば良かったんだけどなァ……」

 

 

 若い声を最後に、三つの影は闇に溶けた。

 

 

 ○◎●

 

 

 HRが終わり、終業の鐘が校舎に響いた。

 張り詰めていた気配がぷつんと消えて学校中からため息が吹き出たようだった。復活祭(イースター)の連休明け、気だるさを隠しきれなかった生徒たちが活力を取り戻して三々五々に下校していく。

 連休明けの学校は午前で終わり、これから街へ繰り出そうという生徒も珍しくない。それに今日は金曜。週末も近く教師陣すら気楽な空気を隠せていなかった。

 そんな雰囲気の流れる校舎でチェリー・U・ヒルトはひとり、誰もいなくなった教室で空を仰いでいた。

 窓辺で頬をついて空を見上げると、腰までとどく黒い髪が風にゆれた。春の空気だ。長い冬が終わりあたたかな季節の先触れが心地よい。生徒が浮かれ気味なのも春の気配に当てられているからだろう。

 

 ただ、チェリーは世間の流れに逆らうようにどんよりとした気分を味わっていた。

 イースター休日になるとノルウェーの人々は、ハイキングやスキーに出掛けるか、家で探偵小説でも読みながらゆったりとした時間を楽しむものだ。現に彼女の友人も北部の街トロムソへスキー旅行に出掛けたまま帰ってきていない。

 チェリーもまたそれらに倣うようにハイキングか家で読書するか楽しみにしていたのだが……。

 

「魔力に魔術、極めつけに神様なんてのがいるなんてね……。まったく、眉唾もいいところじゃない」

 

 チェリーのどんよりとした気分の元は、この言葉に集約されていた。

 魔術。

 それはあらゆる地域の古代社会のなかでもシャーマンらの存在とともに現代にいたるまで継承される概念だ。人がいと高き存在たる神とより高度に交信するために生まれたものもあれば、敬虔な信者が神話や逸話に残されたかすかな伝承をもとに行う儀式もある。

 黄金や不老不死を求めた魔術がいまに続く科学や技術に繋がっていることを知る者も多いだろう。

 けれど魔術なんて現代では空想や与太話にすぎない。彼女のいうように眉唾もいいところだった……()()()()()。 

 今年のイースター休日の予定を親に聞いてもはぐらかされるばかりで、怪訝には思っていたのだ。いたのだが……蓋を開けれてみれば己が家の秘密や世界の裏側に横たわる真実を教えられる始末。

 ワクワクしながら連休を楽しみに待っていたというのに、魔術なんていう理外の法則があって、神様なんていう超常の存在がいるという裏側の真実を告白され、休日を潰される羽目になったのだ。憂鬱になるのも仕方がないし、好意を抱けと言われてもちょっと難しい。

 

 十四歳をすぎてイースターというひとつの節目を迎えたから、という事だったが、わざわざうら若き乙女の休日を潰すとは何事か。己が家業とやらに私怨まじりの怒りを覚えた。

 

 それに当然だがそんな与太話、到底信じられなかった。……というか今でも半信半疑だ。

 しかし彼女の家は代々続く魔女の家系で、目の前で空を飛ばれれば信じないわけにもいかなかった。

 

「アタシも魔術なんてものが使えるようになるのかしら? それはそれでおもしろそうではあるけど……」

 

 母曰く、いつかは自分も習得する時が来るらしい。そんな言葉を思いだしては渋い顔を作った。

 魔術だなんだと言われてもすぐさま実感が湧くものでもなく、未知のものに対するワクワクがない訳ではないが……現状では新しい習い事が増えるのか、程度の認識しかなかった。

 だから娘にすべて教えるぞー! と張り切っていた母には申し訳ないが、チェリーはわりと冷めていたし休日を潰さないで欲しかった。

 

 オマケに、話によればチェリーの生まれたヒルト家はおおよそ千五百年ほど昔の六世紀頃、ヨーロッパにフン族がやってきた時代に興った家だという。

 動乱のなかで東欧あたりで宗家が建てられ、それから現代まで血を受け継いできた由緒ある家である。モンゴロイドの血も入っているらしいが遠い昔の話で、すでにコーカソイド化しているのだが……どうやら宗家は開祖から続く高貴な血統を守ることを主眼にしていたらしく、数千年後の子孫である彼女にも先祖がえりし黒髪が流れていた。

 

「……それにこのお守りも()()だったなんてね」

 

 空にかざしたお守りは、首から下げられた一つの黄褐色のペンダントだった。装飾のほとんどない簡素なペンダントで、形はペンデュラムに近くどこか鏃に似ていた。

 彼女のペンダントは彼女の家の興りから血とともに連綿と受け継がれて来たのだという。

 

「生まれた時からママがアタシに持たせてて愛着もあるし、呪具っていう曰く付きの代物だからって外したりしないんだけどね。

 外したら外したで、めちゃくちゃ体調崩しちゃうし」

 

 どうやらこのペンダント、母が言うには呪力を吸いとる性質があるらしい。それだけなら胡乱な質をもったまさに呪具というべきものなのだが、チェリーをはじめとするヒルト家の女人は優れた……いや、優れすぎるほど優れた魔女としての素質をもって生まれてくるらしい。

 過ぎたる才は人の身を滅ぼすのが、世の常。それを抑え、また他の魔術師たちから隠すためにもこのペンダントは必須であった。

 ペンダントを指で弾いて、踵を返す。

 

「ま、いいわ。めんどくさそうなら全部ほっぽりだしてやめればいいし」

 

 あまり一つの考えに固執するのが嫌いな彼女は、深く考えすぎる前に思考を打ち切ると手を叩いて教室を出た。

 

 

 

 ──ノルウェーにベルゲンという都市がある。

 古くから交易で栄えた港町で、ノルウェー第二の都市でもある。七つの山とフィヨルドに囲まれ、半島型の港湾部をもつ美しくも珍しい街は、それだけで一見の価値があった。

 ノルウェーのなかでも有数の観光地であるベルゲン。外国人も多いのは当然で、けれどそんな街でも綺麗な長髪を靡かせ歩く少女は目立つもので外国人観光客や、近所の顔見知りに、学校の生徒と、よく話掛けられる。

 

「よう、チェリー。近々スウェーデンのストックホルムに引っ越すって本当か?」

 

 今日も例外ではないみたいだ、ギターケースをもったお兄さんに声を掛けられ足を止めた。

 

「別に引っ越さないけど……でもスウェーデンに旅行に行くのはホント。旅行に行くのもストックホルムじゃなくてルンドだけどね」

 

 間違いを訂正したあと、挨拶程度に言葉を交わす。ノルウェー人はシャイで独特だと言われるが、チェリーは人付き合いに隔意はなかったし世間話が好きだった。

 ……ちなみにルンド観光とは表向きの理由で、実はスウェーデンのルンドに行く理由も家業に関わることだった。

 ノルウェーを含む北欧地域は有名な北欧神話やルーン文字を有する独自の魔術体系が根付く土地だ。それほどの下地があれば、名門や旧家と呼ばれる力をもった大家や、古く力のある魔術結社がひしめき合うのは当然であった。

 ルンドにはそれらをひとくくりにした情報共有や利益調整を主目的とする互助組織が存在する、という話だ。

 一応、魔術師たちの末席に座っているヒルト家も例外ではなく、そこそこの年齢になったチェリーも顔見せに行かなければならないらしい。

 

「ルンドに行くのはいいけれど、魔術師なんて連中と会うのは面倒ね……」

 

 お兄さんと手を振りながら別れて、ボソリとつぶやく。自分もその仲間である事を棚に上げての発言である。

 そもそも魔術師なんて人間を一昨日まで知らなかったのだ。いきなり会えと言われても、今から頭が痛かった。

 

 チェリーが十四になるまで、裏側の事情に触れていなかった理由はもちろんある。

 そもそも彼女のヒルト家は、北欧生え抜きの家という訳ではなく、もともと東欧あたりに存在した家だった。だがおよそ三百年ほど前に激化する戦乱に存続を危ぶんだ当時の当主が血を残すために、分家を作ってその分家が移り住んできた家であった。

 ヒルト、という名前も別れた折に宗家から押し付けられた名前で、宗家のもつ本来の名とも異なっている。

 いわゆる外様。北欧魔術の呪術組織とは距離を置かれていたし、こちらも関わる気もなかったという。

 時が流れると、時代の激流のなかで本家は途絶え、傍流であるこちらが細々と生き残る事となってしまった。先祖の判断は間違っていなかった。

 そんなこんなで、魔術師でありながらも彼ら一族の意識はかなり低く、表舞台に立つことなくできれば在野に埋もれていたい──。

 それが家の考えであり、チェリーに十四まで家業を黙っていたのも考えの表れだろう。

 

 できればそのまま忘れ去って欲しかった。

 堅苦しいのが嫌いなチェリーとしても、名門だの名家だのとその手の輩は忌避感を覚えるもので、母たちの考えは大いに頷けるものだった。

 本家は魔術師たちが"王"とすら仰ぐものの血を引いているなどと言っていたらしく、それがもし本当ならチェリーにもその血が流れているらしいが正直知ったこっちゃなかった。

 これからの出来事にワクワクがなくもないが面倒さが勝ってしまっている。

 はぁ、とため息をついて不機嫌さを隠しきれなくなりはじめたチェリーは「こんな時はあそこに行きましょ」とうなずきいて、のっしのっしと歩きはじめた。

 気分転換するにはお気に入りの場所に限るのだ。

 

 

 ○◎●

 

 

 

 小さな広場に据えられた石の椅子に座って、賑やかな景色を一望する。チェリーはここから見る景色と時間が好きだった。

 

 ここはブリッゲン地区と呼ばれる世界遺産にも選ばれた場所で、見える景観はとにかくカラフルで独特だ。

 ベルゲンは観光都市であり、ブリッゲン地区はそのまま街並みが観光名所であった。

 三階建てに傾斜した屋根、と造りは同じだが、白にオレンジ、深い赤など色を補完し合った建物がならぶ景色はそれだけで目を楽しませてくれる。

 

 観光客に、地元の人々……。忙しなく歩き回る様子は生まれ故郷の賑わいをこれでもかと教えてくれて、根っからのベルゲンサー(ベルゲンっ子)なチェリーにとっては誇らしくもあり、面映ゆくもなる、そんな場所だった。

 上機嫌に鼻歌を歌いながら、背伸びをする。

 

「んん、今日は特別にいい天気ね」

 

 ベルゲンは雨が多い地域だ。半年以上も雨がつづいた年もあるほど。

 海流のおかげで冬でも比較的温暖、という利点もあるがその代わり湿った大気が山々に当たり、雨が非常に多い土地なのだ。

 

 だから今日のような不思議なほど快晴で、雲が一つもない天気は珍しい。珍しい日だからいつも訪れているブリッゲン地区も、衣装を様変わりさせたかのようで、チェリーの目には新鮮に映った。

 

 太陽のおかげか雑踏を行く人々の表情もよく見える。

 

 北欧というイメージ通り、金髪碧眼の者もいればラテン系の者もいる。ベルゲンは貿易で栄えた都市であり、ネグロイドやイスラム圏の人間もまた珍しくはない。

 観光客だろうか、黒い髪のアジア人もたまに視界をかすめた。雑踏を行き交う人々は、多種多様で、まさに人種の坩堝といった風情だった。

 

 

 そして。

 

 

「───」

 

 

 ふと、視線が吸い込まれた。

 ……否。そう表現しなければならないほど、その()()は、凄絶に、鮮烈に、美しかったのだ。

 

 肩まで伸びた夜闇に降りそそぐ銀光を編んだような髪に、さながら冥府にまで繋がっているかと見紛うほどの妖しき黒瞳。容姿は精緻を極め、服越しでもその肉体は黄金比なのだと分かった。

 服装は少女の冠絶とした美しさに比して、セーターにスカートを纏い、青いニット棒を頭に乗せていた。

 きっと、歳はチェリーとそう変わらない。同い年か年下で、年上という事はないだろう。ただ、チェリーにも残る愛らしさは欠片もなく、酷薄なまでの美々しさと強かな戦士を思わせる泰然とした貫禄が備わっていた。

 

 銀色の少女が、チェリーの凝視に気づいた。

 類稀なる少女が口を開く、口角を吊ったような微笑をのせて。

 

「ほう……。妾が見えるか、小娘」

「はあ?」

 

 知れず身構えていたチェリーだったが、飛びて出してきた突っ飛な言葉に、思わず眉根を寄せた。

 どこからどう見ても存在感の濁流じみた少女に「自分が見えるのか?」と問われれば、当然の反応かもしれない。

 

 ただ、その言葉で気付かされた。

 よくよく見れば、周囲の誰もが目の前の少女を見ていない。こんなにも目立つ存在だというのに、自分以外、ただの一人も。

 疑問が、困惑と不審に変化するのを自覚する。

 

「なに、これ……。どうなってるの……?」

「娘、そなたは妾のような存在と出会うのは初めか。ならば覚えて置くと良い……妾のような不死の者はただ"見るな"と思うだけで定命の者の目から外れるのだ。ふふ、この妾が直々に教えてやったのだ。感謝するといい」

 

 良く分からない単語をつらつらと話す少女は、最後に疑問の答えを教授したことに感謝しろと尊大に言いきった。出会って一分もしない内に、記憶野へ焼きごてのごとく印象付けていく少女に、思わずポカンと呆けてしまった。言葉は通じているはずなのに、言っている言葉が荒唐無稽に過ぎて、異国の言葉を語っているのと変わらなかった。

 

 けれど。

 あぁなるほど、と合点がいったようにチェリーは手を叩いた。

 

「ね。貴女、もしかして魔術師っていう連中なの?」

 

 類を見ない異質な少女に最初は戸惑ったチェリーだったが、最近知った異質な者たちの存在を思い出した。魔術師なんて輩は親以外に見た事はなかったが、けれど眼前の少女の異質さがどこか似通った性質に見えたのだ。

 するとどうしたことか、少女はクツクツと笑い出した。やはり年不相応な態度で。

 

「妾がヘルメスの弟子どもだと……? フフフ、無知とは恐ろしいものだな」

「え、違うの? ならごめんなさい」

 

 どうやら少女は魔術師の存在をしっているが、どうやら違うらしい。

 失敗したかしら、とすこし申し訳なさそうに頬を掻いて謝意を述べた。なにせそう思えるほど特異な少女だったのだ、むべなるかな。

 けれど魔術師であることは否定しても存在は知っているらしい少女に、チェリーはさらに疑問が深まった。生半可な知識しかもたないチェリーは、眼前にいる少女の正体が全くもって見抜けなかった。

 

「ああ、その通りだ。妾はそのような低俗な輩ではない。侮辱にも等しき言葉だが……しかし非礼も一度は赦そう」

「許してくれるの?」

「うむ。そなたは気持ちの良い少女だ。妾に使命さえなければいにしえの戦士や巫女のごとく加護を与えていたかもしれん。それに……そなたは妾の眼鏡に叶うほど巫女としての才を有しているゆえな。誇れ、妾が側女として仕えさせても良いと案ずるほどの才ぞ」

「巫女……?」

 

 こちらの分からない頓珍漢な事ばかり宣う少女に、何度目かの疑問が口からついた。そんなチェリーに関せず、少女は微笑をささやかに深めた。嘲りでも慈愛でもない無味乾燥とした笑み。

 

「そうだ。妾たち地を統べる母なる神とそなたは遠い遠い縁続きの間柄。そなたは古き地母である妾とも遠い裔といえるだろう」

「遠い……裔……?」

 

 ──直後、頭痛が起きた。

 まるで射影機が映しだすコマ送りの映像をそのまま頭蓋に押し付けられている感覚。

 最初に覗き見たのは人々が崇め奉り、大地を治めた偉大なる女神。次に映ったのは剽悍無比にして血気盛んな力ある英雄の登場。英雄と女神が覇権を争い、最後には敗北し貶められた女神の姿。

 そう、これは貶められ虐げられた忌まわしき過去……。かつて地母の女神として権勢を振るい、冥府すら統べた偉大なる女神の、凋落の歴史。智謀冴えわたり、比類なき武を持つ、智勇を兼ねそなえた戦女神。

 その神の名を──。

 

「なるほど。娘、そなたはなかなかに優秀な"先祖帰り"と言うわけか」

 

 そこで野放図だった思考は一刀両断された。

 

「一目で妾の忌まわしい過去を見抜いたその眼力は女神たる妾を以ってして称賛に値しよう」

 

 だが。

 と少女が言葉を切った。

 

 銀色の少女と視線が繋がる。こちらを見据えた彼女の瞳は顕著なまでに変化していた。……猛禽や蛇のように鋭く怖ろしいものへ。

 銀色? なにを馬鹿な。少女の背後にわだかまる濃密な死の気配が見えないのか。ああ、あれこそ死の装飾、闇色と例えるに相応しい。

 

 チェリーは驚いた。気付けば手が震え、身体を掻き抱いていた事に。

 こんなこと、人生で一度だってなかった。

 

 寒い。寒い。寒い。とんでもなく寒い。まるで永久凍土の中に閉じ込められたかのよう。いや、それよりももっと酷い。

 いつの間にか奈落の奥底に叩き落された感覚。暗澹たる荒れ野にチェリーは放り出された。

 そう、これは、──()()。人が誰しも持つ根源的な恐怖を叩き起こされているのだ──"死"の恐怖を。

 

「妾の過去を覗き見る事は罷りならぬ。先刻も申したように妾には使命がある。そなたにかかずらっている暇はないゆえ一度は赦そう……しかし」

 

 言葉は最後まで届く事はなかった。あとに残ったのは舞い上がった梟の風切り羽根。身軽な羽根が舞い、地面に落ちる。……それが何よりも雄弁に語っていた。

 

 そうして羽根と威圧が虚空へと消え失せる頃には、周囲はいつもの喧騒に戻っていた。

 

「な、なんだってんのよ……」

 

 荒い息の合間に絞り出した声は、震えていた。恐怖が、肉体を器として滴り落ちそうなほど満ちていた。臍下丹田のあたりがひどく重苦しい。心臓は早鐘を打つのをやめない。まるで筋繊維を引きちぎるほど動かなければ瞬く間に停止してしまうと錯覚したかのように、死から寸毫でも遠ざかるように。

 

「はぁ……はぁ……さっきのって、白昼夢? でも、そんな訳ない」

 

 あれは決して夢や幻などではない。今でも肌を泡立たせている寒々しさはどうしようもなく現実のもので、あれは間違いなくリアルだったのだと訴えかけてくる。

 周囲の喧騒も忘れ、また膝を抱えて身体を掻き抱いた。

 

「寒い……」

 

 短い一言。だが言葉が耳に届いて虚空に消えるまで、ひどくゆっくりだった。

 時の流れが緩慢になっていく。

 五感が永久凍土に押し込められ刺々しい冷たさに覆われると、今度は時間の感覚が溶けて消えていく。

 彼女の自己と世界の境界線がひどく曖昧になっていった。

 

 

 

 

 それからどれほど時間が経ったのだろう。あたりはもう夕暮れで、……声を掛けられたのもそんな時だった。

 

「──なあ。君、ずっとそこで伏せってるけど大丈夫なのか?」

 

 力強い声にハッと、弾かれるように顔を上げた。

 最初に想起したものは二つの太陽……でもすぐに間違っていると気付いた。

 なにせ、あれは目だったから。烈火と例えて良い、意志を宿した紅い瞳がこちらを見据えていただけだったのだ。

 

 声を掛けて来たのは同い年か年上に見える少年だった。

 だけどそれとは裏腹に、どこか疲れているようで、なにか重しを背負っているようで、それでいて錆びついた剣にも思えて。

 泥の中の星。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。イメージの定まらない少年は、無言を返すチェリーに困ったように頬をかいた。

 

「えと、俺は木下祐一。君が辛そうだったから声を掛けたんだけど……。よかったら君の名前を教えてくれよ」

 

 あ、ナンパとかじゃないぞ。そう付け加えて声を掛けてきた来た彼はまた微笑った。

 

 

 少女の数奇なる人生は、今このときより始まる。しかし彼女はまだ扉を叩いただけの旅人ですらないただの少女。

 

 それは、運命の気まぐれ。

 少女と、少年。運命が交差し、廻る天輪はきしみを上げる。

 

 

 ──廻るはずのない歯車が、噛み合った。



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魔術師

 変な奴。胸中で独り言ちながらチェリーはカフェの一席で、エスプレッソを口に運んだ。

 

 空はもう夕暮れ時をすぎて、仄暗い闇色に染まっている。

 いつもなら家で夕食を軽く食べて夜食を……と言いたい所だが、今日は色々あって夕食の時間をとっくに過ぎ夜食の時間。

 帰るにもいささか遠く、早々にあきらめたチェリーは家に一報を入れ、外で食事をとる事にした。

 

 それに、()も居るし。

 コーヒーカップに口を付けながら、対面で遠慮なく料理を頬張る少年を見た。あまりの食いっぷりに、ふふ、と微苦笑してしまう。

 

「いい食べっぷりね。気に入ったかしら」

「美味い。久しぶりにこんなまともな飯を食ったよ……でもいいのか、奢ってもらったりして」

「気にしないで。あなたに声を掛けて貰ってなかったら、きっとあのままだったでしょうし。それにアタシもお腹減ってたしね」

 

 軽い口調で返すと、そっか、と食事に戻った。生魚であるサーモンの切り身をためらいもなく口に運んでは咀嚼する彼は、さっき声を掛けてきた少年で、木下祐一と名乗った。

 旅慣れているらしく、どこか雰囲気が独特でチェリーが接した事のないタイプの少年だった。

 それに物怖じしない気性でもあるらしい。初対面のチェリーの前でも気持ちいいくらいの食べっぷりを見せ、一息つくと、うなづいて微笑を浮かべた。

 

「この店、本当に美味いな」

「でしょ? 安いし穴場なのよ」

「へぇ……ちょっと驚いたよ。俺も何度かこの国のご相伴に預からせて貰ったけど、必ずと言っていいほどじゃがいもとサラダが出てきてなぁ……あんまり料理の種類がないのかって思ってたから」

「それは、まぁ……仕方ないわ。もうひとつの主食みたいなものだし。でもサーモンだって食べるし料理も豊富じゃないかしら」

「そういや俺の国でも北欧の魚を輸入してたなぁ」

 

 そうでしょうそうでしょう、と豊かな胸を張って自慢げなチェリーに、祐一と名乗った東洋人は少し苦笑い気味になった。

 

「それにしてもあなた、東洋人なのに英語だけじゃなくてノルウェーの言葉も話せるのね。ベルゲンって方言が強いから、あなたみたいに滑らかに話せる外国人なんて稀よ?」

 

 まるでネイディブだわ、今度はチェリーは感心したように零した。

 元々ノルウェーは歴史的にイギリスと関係が深く、英語に明るい国民が多い。その為、チェリーも英語に難はなく観光都市であるここで外国人観光客と話すときはもっぱら英語である。

 それ故、祐一と話す時もはじめは英語だったのだが……どうも彼はノルウェー語も難なく話せるらしい。

 ベルゲンは訛りが強い。というより"ノルウェー語"と一口に言ってもノルウェーという国の成り立ちから、大きく分けても二つあるのだ。

 これでもまだ整理された方で、一昔前なら、ひとつ山を超えれば全く別の言葉を話していたりしていたらしい。

 けれど祐一という少年はそんなこと関係ないと、ベルゲンの方言すら完璧で驚かずにはいられなかった。チェリーの称賛に祐一は、困ったように額を掻いて目を逸らした。

 

「ん、生まれは日本だしノルウェーに来たのもはじめてだよ。まあ言葉に関しては、ちょっと色々あってなぁ……話そうと思えばなんでも話せるぜ」

「大した自信じゃない、旅人って感じがするわ。……でも、へぇ、ジャパニーズなのね。チャイニーズなら珍しくもないけどジャパニーズは偶にしか見たことないし、話すのも初めてじゃないかしら」

「ま、遠いし日本人はシャイらしいしな」

 

 あらそうなの、とクスクス笑い合う。

 

「けれどそんな極東の島国から地球の反対側にある北欧まで何しに来たの? 観光?」

「うんにゃ、ちょっと人を探して……というか追っていてな。気付けばこんな所まで来ちまったんだ。最初はイタリアに居たんだぜ」

「なにそれ」

 

 義務教育中の自分とそう変わらなそうな身空で諸国を遍歴しているという彼に首を傾げてしまう。けれど、そう言われると彼の独特な雰囲気にも納得がいった。

 

「そう言えばあなたっていくつなの? アタシ達ってそんなに年が離れてる訳でもないでしょ」

「あー、たぶん十四歳……だったはずだ」

「はずってなによ。でも同い年だったのね、ちょっと年上かしらって思ってたから意外」

「そうなのか? それはこっちも同じだな。まぁなんだ、君はその……見た目が成熟してるだろ? だからもう少し年上だと思ってた」

 

 目を逸らしながら言いにくそうに彼は言い、チェリーも得心したように声を漏らした。

 身長も百六十を越え、その容姿からも幼さは消え去ろうとしていた。自分から年齢を言い出さなければ高校高学年だと思われるだろう。

 そして彼女のバストは豊満である。

 無遠慮な視線を向けてしまった祐一に、警告じみた素晴らしい笑顔を向けると、彼はあっさり降参して頭をテーブルにぶつけるくらい下げ、チェリーは苦笑しながら許した。

 

「アタシはそうね……。初めて見た時からあなたがあんまり表情が柔らかくない、というか張り詰めて笑わないから少し年上に見えたわ。表情だけで判らなくなるんだもの、東洋人が年齢が分からないってのは本当ね」

「はは、明け透けにいうなぁ。でも……笑わない、かぁ」

 

 二人とも同い年と聞いて驚いた。外見に雰囲気ともにパッと見ただけでは分からないほど年不相応だったとも言えた。

 チェリーの言葉になにか思うところがあったのか、彼は頬に手を添えて、何かを思案しているようだった。

 

「こうして日本人と接するのは初めてだから……日本人はシャイで礼儀正しいって聞いてたけど、あなたそうでもなさそう」

「そういう君だって。ノルウェー人もシャイって聞いてたし、話した人もそんな印象だったけど……君はなんていうか、奔放で明け透けだ」

「あら、よく言われるわ」

 

 肩をすくめて笑う。

 

 それからの彼と彼女の食事はなんだかんだ終始和やかものだった。

 祐一が評した通り、思った事をズバズバいう気性のチェリーだったが、対する祐一はとくに気にする風もなく、それどころか打てば響くように答えるチェリーを好ましく思っているようでもあった。

 もしかするとそういう、遠慮なんていう概念がない環境に身を置いていたのかも知れない。

 チェリー自身、その気性ゆえに相手を怒らせる事も少なくなく若干自分に辟易する気持ちが無きにしもあらずだったからか、同じように遠慮のない彼との時間は心地良かった。

 

 楽しい時間は矢のように過ぎていき、チェリーの門限が近づいたころに彼らは席を立った。店先で別れる寸前、祐一が妙な事を言い出した。

 

「俺はもう行くけど……明日、もしかすると今夜にもここベルゲンで大きな災害が起きるかも知れない。だから……逃げれるなら逃げといた方がいいぜ」

「なにそれ。冗談にしては全然おもしろくないんだけど」

「冗談とかじゃなく本当なんだって。一宿じゃないけど一飯の恩義だ、忠告くらいさせて欲しいし聞いてくれ」

 

 荒唐無稽な事を言い出した彼だったが、その視線は真っすぐで嘘を付いているようには全く見えなかった。

 でも、だからこそ、チェリーはなおさら頑として首を振った。

 

「バカね。もしそれが本当だとしても、此処はアタシが生まれた街なのよ? だのにどこに逃げるって言うの。あなたが同じ状況ならそうするの?」

「───」

 

 そう、だな……と酷く驚いて絞りだすような声音でかすれた声を出した。チェリーにとって当たり前の事、でも彼にとっては驚天動地にも等しい……いやそれ以上の衝撃だったらしい。

 あまりの取り乱し様に、こちらが心配になって肩を叩いた。

 

「あなた大丈夫なの? ちょっとおかしいわよ?」

「……そうだよな、親も友達もいるのに逃げるなんて……本当に……。

 ……いや、なんでもない。俺が間違えてたって反省していただけさ」

「それならいいけど……」

「なあ君……いや、チェリー。もし……もし、何か強大でどうしようもない脅威が迫って逃げ場がなくなった時は──俺の名を呼べよ。そしたら俺が風にのって助けに来れるからさ」

「あら、新手の口説き文句?」

 

 さっきまでの重い空気を振り払うように冗談交じりにクスクスと笑い、彼は仏頂面になってそうじゃねーよと不貞腐れていた。その顔がおもしろくて淑女らしからぬ笑い声をあげてしまった。

 

「ごめんなさい、冗談よ。……ユーイチだったわね。いいわ、憶えておいてあげる。ま、私がピンチになる事なんて早々ないけどね」

「はは。そりゃあ助け甲斐がありそうだ」

 

 じゃあ、また会おう。そう言い残して彼は踵を返した。振り向きもせず何事もなかったようにその歩みに迷いはなかった。

 

「悪い奴じゃなかったけど、やっぱり変な奴……って、あら?」

 

 道端に何かが落ちていた。外灯の光を反射してチカチカと存在を主張している。

 よくよく見ると、それは円形のメダルだった。何やら蛇と女の意匠が施された古ぼけたメダル。それを手に取った瞬間、何やらひどく懐かしくて、手に馴染んで溶けていくような感覚を覚えた。

 

「……これ、アイツが落としたのよね」

 

 眉根をよせ、去っていた少年の方向をみる。

 

「まったく世話の焼けるわね──ユーイチ、ちょっと待ちなさいよ! アンタ、何か落としていったわよ!」

 

 声を上げたが、瞬きの間にまるで風に溶けるように彼は姿を消していた。

 放っておく訳にもいかず、チェリーは素早くメダルを胸ポケットに仕舞うと、すっかり夜闇に満ちたベルゲンの街へ駆け出した。

 

 

 ○〇●

 

 

 すっかり暗くなった街は、見慣れた風景だというのに距離も時代もはなれた異国の地に思えた。

 珍しいことに人っ子ひとりいない。ノルウェーの夜は寒いといえど、これほど人気のないはずがなかった。

 

「もう……。なんだって言うのよ、どこにも居ないじゃない」

 

 呟く声もどこか覇気がない。ベルゲンの見せたことのない顔にあてられたか、おかしな魔力に吸い寄せられたか、普段なら行くはずのない路地裏へチェリーはさそいこまれていった。

 そして、いつの間にか見知らぬ道に立っていた。薄暗い路地。閉め切られた窓。灯りのない家。見渡す景観は不気味を通りこして異様であった。

 

「───おや。そこなお嬢さん、そんなに急いで何かお探しかな」

 

 ふと、横合いから声を掛けられた。

 建物の間から現れた若い声は、歳若い青年のものだった。しかし祐一とは違い、ひどく陰気臭く親しくなろうとは思えない雰囲気を宿していた。

 弱々しい街頭の光に照らされフードから覗く。容姿は美男子のように思えたがどこか浮ついた風情のあるラテン系の男だった。

 疑惑と警戒を隠そうともせずチェリーは誰何の言葉を投げた。

 

「誰? アタシ、急いでいるから大した用がないなら打て合わないわよ。それにあなた、すっごく胡散臭いし」

「これはこれは……中々はっきり物をいうお嬢さんだ。私はビアンキ。ダヴィド・ビアンキ。ここで占い師をやっていてね……」

「占い師?」

 

 そうだよ、と囁きビアンキと名乗った青年は足音も立てずのっそりとチェリーの前に立った。影の揺らめくような足取りで。

 無意識に一歩だけ後ずさりそうになって……けれど、足は金縛りにあってしまったように言う事を聞かなかった。

 おかしい。肌が泡立つ。

 それを意に介さずビアンキは何を思ったか、その生白い手を伸ば、頬に触れた。

 

「アンタ、断りもなしに女性の肌に触れるなってママに教わらなかったの? 育ちがよっぽど悪いのね」

「本当に気丈なお嬢さんだ。しかし、ふむ……。君の歓相を見させてもらったよ、中々におもしろい相を持っているね」

「相、ですって……?」

 

 ああ、今度は分かった。……世俗から大きく外れた言動に不気味な雰囲気。先祖もその家系であり、不本意ながらも自分もまたその一人であるらしいそれ。

 この青年もまた、同じ類の人間なのだろう。

 

「アンタ、魔術師なのね」

「おや、これは失礼。君も同じ穴のムジナだったか。それなりの気配は感じていたが……君が同輩にしてはあまりにも稚拙で気付かなかったよ」

「それはそうでしょうとも。魔術師なんて知ったの、つい最近だもの。でも……魔術師ってのは情けない奴らなのね。私みたいな小娘ひとり留めるために、こうやって縛らなきゃいけないらしいわ」

「大した虚勢だな」

 

 チェリーの侮蔑にビアンキ某ののっぺりとした仮面が剥がれた。ずるいと剥がれた先には傲慢さの隠しきれない鬱屈とした青年の容貌があった。

 何が目的かは分からない。けれど弱みを見せてはならない。

 魔術師は人の心につけ込む術すら有するという……引いては呑まれる。母の教えだった。

 

「アンタ、占ってやるって言ったわよね。なら教えなさいよ。アタシみたいなか弱い小娘を縛った上に自分の言葉を翻すほど情けなくはないのでしょう?」

 

 ビアンキから舌打ちが漏れた。

 どうやら正解を引き出せたらしい。チェリーは内心ほくそ笑み、身動きの取れないままでも気丈に振る舞った。

 意志に翳りはない。少しでも弱みを見せてはならなかった。状況が好転すると信じてビアンキを睨んだ。

 

「いいだろう、教えてやる。君の尋ね人はふたたび君の前に現れる」

「あっそ。こんな事する三流占い師の占いなんて信じられないけど、外れない事を祈るわ。じゃあお代はどうしましょうかしら? アンタの鼻っ面に拳を叩き込むってのはどう?」

「ふふふ……お代は気にしなくていいよ。どうやら君は興味深いものを持っているようだ……それを対価としよう」

「ッ! アンタ……!」

 

 いの一番に思い当たったのは彼が落としたメダルだった。なぜそれに思い至ったのか、それは自分でも分からない。

 ただ、あのメダルは彼ら魔術師しにとって大きな意味合いを持つのではないか。そんな直感に似た確信が、瞳を駆け去っていった。

 ビアンキがこちらに手を伸ばす。

 と同時に意識は白みはじめる。クロロホルムを染み込ませた布を口に当てるより鮮やかに意識は奈落へ落ちていく。

 

 それでも……言い様にやられてたまるか! 意識が消える瞬間、渾身の力で目の前のいけ好かない男にツバを飛ばした。これが精一杯の抵抗だった。

 このクソア……とぼんやりとした怒鳴り声が聞こえて、頬に熱が生まれた。

 鉄錆びた味覚を味わいながらザマアミロとせせら笑い、意識は完全に消え去った。

 あとに残ったのは倒れ込んだチェリーと肩を怒らせ頬をぬぐうビアンキだった。

 

「フン、まあいい。僕はこんな女にかかずらっているほど暇ではないからな」

 

 チェリーの懐をまさぐり、とある物を探し当てた。チャリ、とかすかな金属音が裏路地にひびく。

 ビアンキは奪い取った品を手のひらで弄びながらほくそ笑んだ。

 

「……やはり高位の呪具か神具の類か。なぜこんな代物をこの小娘が持っているのかは知らないが……コイツに持たせておくのは勿体ない。私が有効活用してあげよう」

 

 笑みもそのままに、ビアンキはベルゲンの闇へ消えていった。

 

 それから幾ばくかしてチェリーは目覚めた。

 泡を食って周囲を確認してみたがビアンキの姿はどこにもなく、身体を調べても服の乱れはほとんどなかった。特に乱暴をされたわけでもないようで、安心したのも束の間……

 

「な、ない!」

 

 ただ、あの拾ったメダルがどこにもなかった。

 

「あ、あいつ! やってくれたわね……!」

 

 怒りに瞳を燃やし、すっくと立ち上がった彼女はベルゲンの街を駆け回り……結局、ビアンキと名乗った男もメダルも見つかりはしなかった。

 

 そしてこの一件こそ後に続く、彼女を異なる世界へ誘う濫觴であった。



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因果逆転の夜

三つ巴編は祐一くんの知能が若干高めなのですがこれまでの経験を糧としたということで一つ。


 そろそろだな、伽藍とした人気のない広場に祐一はひとり呟き立っていた。時刻は日付けがもう間もなく変わるかといったころ。そんな夜更けの、誰もいない広場に彼はいた。

 待ち人がいた。自由奔放を地で行く彼でも、決して無視できない待ち人たちが。

 と、やおらに闇夜の濃い影からゆらめきが起きた。異変であった。かげろうさながらの揺らめきは波紋となって強弱を得て、最後には人型となった。影の暗幕を破って現れ出でた影は、ひとつではない。ふたつの人影が示し合わせたように揃って現れた。

 

「驚いたな……二人一緒に御登場かよ」

 

 小さく笑みを浮かべながら、ちょっとしたからかい混じりに待ち人を迎え入れた。

 俺の思っていた以上に神話の関係ってのは深いらしい。笑みは獰猛だった。獣の笑みだった。

 待ち人はごとごとく特異である。片方は隠し切れない不吉さをもつ背の高い年経た老人で、もう片方は銀月を溶かした髪色をもつ幼さを宿す少女。とびきりの異形と、とびきり美しい者。それが彼の待ち人だった。

 

「不快だぞ神殺し。余とそこな小娘の間にはそのような親類縁者の情は芥も持ち合わせておらん。余は余の刻む時のままに出向いたにすぎぬ」

「なるほど。当代の神殺し殿はどうやら諧謔の才がないらしい」

 

 両者が揃って否定するものだから祐一は内心苦笑した。けれどそれも束の間、瞬きを終えると瞳を燃え上がらせ、戦士としての覚悟を終えていた。覚悟。つまり戦いが始まるのだ。

 "戦と智慧の女神"アテナ。

 "死と時の神"サトゥルヌス。

 "神殺し"木下祐一。

 この場に集った超越者どもの狙い同じ所にあり、彼らが求めるのは揃って()()()()()であった。

 名をゴルゴネイオン。ここに集う一柱……女神アテナの半身であり、彼女が奪還せんとする神具である。

 

 しかしゴルゴネイオンを求めるのはアテナだけではない。サトゥルヌスと祐一もまたゴルゴネイオンを希求した。

 

 サトゥルヌスはゴルゴネイオンを質として強大な地母神であるアテナを従えんと目論んだために。

 

 祐一はゴルゴネイオンという餌があれば二柱をある程度コントロールでき、上手く立ち回れば一掃できると目論んだために。

 

 当初、ローマの魔術結社が持て余すばかりだったゴルゴネイオンだったが同地に現れたサトゥルヌスによって感知、奪取されてしまった。サトゥルヌスと祐一のみに終始していた騒乱は、渦中へゴルゴネイオンが投げ込まれたことを切欠にアテナを呼び込み、ノルウェーはベルゲンを舞台として拡大を続けていた。

 そして今宵。

 肥大する騒乱に終止符を打たんとゴルゴネイオンを掌中に収めた祐一によって、決戦が為されようとしていた。

 誰もが安眠を貪るなか人知れず集った超越者どもは、息を殺して雌伏していた己に別れを告げ、本来の姿へと立ち返らんとしていた。

 寂として風も吹かず、雲もない空っぽな夜だった。夜空に掲げられた下弦の月が驚くほど映える夜だった。

 

「刻限だ」

 

 透徹とし乾いた夜闇に、嗄れた声が重なった。サトゥルヌスが手を広げて雄々しく宣告する。

 

「約定に則り、古の《蛇》を希求する我らは鉾でもって雌雄を決する。勝者には冠たるゴルゴネイオンを、敗者は賭した己が命を、我らの武威によって弄ぶのだ」

 

 言葉は静かであり簡潔であった。けれども死の神であり『鋼』たるサトゥルヌスは、猛っている。宿敵たる草薙護堂に二度目の敗北を与えられ、屈辱と妄執によって冥府より黄泉がえりを果たしてより、それほど時は流れていない。まだ一度も月の満ち欠けは終わっていないだろう。

 ならば内より吹き上がる火柱さながらの熱は、いささかの衰えもなく、それどころか熱量を増すばかりだった。

 

 今ここに宿敵・草薙護堂はいない。しかしいにしえの故地ヒューペルボレアで奇縁にして逆縁を結んだもう一人の神殺しは、執拗にサトゥルヌスの覇道を阻んだ。ならば前哨たるかの戦士を討ち、本命たる宿敵を滅ぼすのみ。

 

 気炎万丈。振りあげた手には昔日の禍々しい鎌……ハルパーが収められ、漏れでる死の気配に草木が枯れ落ちた。

 祐一は言葉もなく目を眇めてよく応えた。先刻まで寸鉄も帯びていなかった祐一の掌中に黒い刀が忽然と現れ、剣把より伝わる重みを切欠として戦意が肉と血を満たした。あとは一心不乱の死線にのめり込むのみ。

 

「待たれよ」

 

 そんな両者に"待った"をかける者がいた。誰であろうアテナである。

 

「我らが鉾を交える前にひとつ確認しておこうか。なあ、当代の神殺し」

 

 彼女は気色ばむ二人を横目に、戦意を高めるでもなくただ事務的に確認事項を祐一へ問いかけてきた。これにはさしもの祐一も鼻白んで、気勢を削がれる思いだった。ともすれば智慧の女神、これが意気込みを奪う策略かと疑いすらした。

 なんだよ、と三白眼で睨めつけながらつっけんどんに問い返した。

 

「なに、そう大した事ではない。古の《蛇》……ゴルゴネイオンをこの目で確かめたいのだ。ああ、妾がゴルゴネイオンを掠めとるなどと下衆な勘繰りはするな。

 そなたが真にゴルゴネイオンを有しているならば、妾も武威と智慧を用いた奪還に否はない。ただ、確たる証を見たいのだ」

「ゴルゴネイオンを? ……まぁいいぜ。そんなに言うんなら見せてやるよ。ほら、ゴルゴネイオンなら此処に………………──ん?」

 

 訝しげにアテナを見ていた祐一だが、拒否するのもおかしな話かと結論づけて応じることにした。と、懐をまさぐっていた祐一だったが、素っ頓狂な声をだし首を大きく傾げた。

 

「こ、ここにぃ……置いて、たん、だけどぉ………………?」

 

 あれェ!? ついには叫び声をあげてしまった。サトゥルヌスはアテナの意図するところを察した。どうやら祐一は紛失してしまったらしいのだ……ゴルゴネイオンという特級の神具を。

 ゴルゴネイオンはもともとアテナの半身と言っても過言ではない代物である。故に祐一の手元にないことは一目見れば看破するのは容易である。アテナは呆れたようにため息を吐いた。

 

「妾は申したはずだぞ、ゆめゆめ無くす事のなきようにと。だのにこの不始末とは……非難は免れぬと知れ"神殺し"」

「ぐぐ、ぅ……」

「クク、流石は愚か者たるエピメテウスの義息だな。嘗てそなたには愚か者であるが馬鹿ではないと申したが……撤回せねばなるまい」

「コイツラぶった斬りてぇ……ッ」

 

 フルボッコであるが残当である。だがここで反論したり暴れても恥の上塗りでなので甘んじて受け入れるしかなかった。内心では目の前の仇敵をボコボコにしつつも、それくらいの分別と冷静さは保っていた。

 欲するものは失われていた、ならばこの場に用もない。三者三様散るばかりと思われたが、意外にもアテナは言葉を続けた。それも祐一にとっては意表を突く提案をたずさえて。

 

「しかしこうなっては致し方あるまい。我が半身たるゴルゴネイオンがこの地のどこかにある、というのならば……神殺しに祖父殿よ。ここはひとつ余興をせぬか?」

「余興だって?」

 

 然り、とアテナは頷いた。祐一は失態に苦い顔を浮かべながらも耳を貸すほかなかった。失態を犯したのは自分であったし、この者たちを野放しにもできなかったからだ。

 

「神殺しの過失もあるがゴルゴネイオンが姿を消したのはなにかしらの天意にも思えるのだ。運命の見えざる手によってゴルゴネイオンは喪われ、そのまま永久に妾たちの前に現れぬやもしれぬ……と智慧の神である妾と託宣の神である妾が警鐘を鳴らしておるのだ」

「俺たちが手に入れられない? 運命なんてもので? 馬鹿な」

 

 アテナの言葉を一蹴しようと言葉をぶつけるが、アテナは呆れたように肩をすくめるだけだった。

 

「ではあなたの手からゴルゴネイオンが喪われた理由はなんとする。あなたはそれほど間抜けた男ではないと妾は見るが?」

「……」

「異論はないようだな。妾もまたオリュンポス十二神に名を連ねる姫女神にして地母を司り秩序をもたらす者。

 ……だが、その運命の繰り糸に沿うことだけは到底認められぬ。ゴルゴネイオンは半身なれば、それを取り戻すことこそ何事にも代え難き使命。ゆえにモイライどもの紡いだ糸であろうと敢然と抗いたいのだ」

「まつろわぬ神のアンタが、ね。だけど忘れてないか? 俺はゴルゴネイオンなんて危なっかしいものを葬るのも目的の一つなんだぜ?」

 

 ゴルゴネイオンは多くの神具のなかでも高位の枠に入るだろう。不朽不滅にして闇と大地を統べるアテナの半身であり、女神を更なる高みに至らしめる権威を持っているのだから。

 

「アンタの半身だっていう不朽不滅のとんでもない代物が永遠に消え去るかも知れないって言うんだ。俺としてはそのまま手出しせずに放っておきたいね」

「ほう。このような事態を招いたのはそなたであるというのにか? それにどうやら当代の神殺しは運命に唯々諾々と恭順するのが好みと見える」

 

 アテナの挑発に激発して飛び出さなかったのは、ひとえに戦士として鉄火場をくぐり抜け、忍耐と経験を積んだからだろう。

 運命や因果やらに人生を狂わされてきた祐一だ。運命に踊らされるのを酷く嫌い、隙あらば反抗しようとするのが彼の性分といってよかった。

 こめかみに青筋を浮かべながらもなんとか舌打ちだけに押しとどめる事ができた。

 

「チッ……で、それは分かったがどうすんだ? 当然、策はあるんだろ」

「うむ。妾は智慧と加護を與る女神であり、同時に多くの戦士や英雄を導いてきた戦女神。妾に信仰を捧げ、宣誓する者たちには格別の加護と誉れ高い勝利を与えてきた。ゆえに妾は宣誓による悲願の成就も職掌としているのだ……妾はこの権能にて覆そうと思案する」

「なに? 宣誓と成就の権能で?」

「……なんと、得心したぞ。アテナよ、そなた因果を逆転させようというのか。原因から結果を生むのではなく、結果を縛りつけ原因を歪ませようと企んでおるのか」

 

 宣誓。

 古来より戦場において戦士たちは勝利と名誉を獲るため神に使命の告白とそれの成就を誓った。そのアテナが誓いの神としての権能を行使するという。

 ただし常道の方法では意味がない。オリュンポスの姫女神であるアテナの権威と力によって、原因ではなく結果を先に確定してしまおうというのだ。そうすれば如何に運命であっても覆せない。どのような過程であれ、行き着く先は同じ場所に帰結するのだから。

 これにはサトゥルヌスも驚嘆した。時という運命に近しいものを司る彼だから驚きは一入だった。

 

「《運命》という巨大な潮流を覆すことは容易ではないが、しかし、妾のみではなく重ねてここに集うそなたらも合力すれば不可能ではないと思案する」

「合力? まさか俺たちに、力を合わせて運命を覆しましょう、とでも言うつもりか」

「左様。この場に集うものらは悉くが並では収まらぬ。まつろわぬ神であり三海に名を轟かせた妾と、かつては神王であった祖父殿、荒ぶる神殺しの獣たるそなた。我ら三名が合力すれば如何に《運命》であろうと覆ると言っているのだ」

 

 ここに至っては余興どころではない、と察した。アテナは一撃必殺の策でもって運命に風穴を開けんとしていた。しかしながら智謀縦横たるまつろわぬアテナの提案である。まつろわぬ神に完全な信を置けるはずもない祐一は、鋭い目をさらに眇めて口を手のひらで覆い隠した。だが悩んだのは祐一だけだった。

 

「よかろう。アテナよ、余はそなたの余興に乗るとしよう」

 

 即決即断が心情の祐一を差し置いて最初の同意を示したのは意外にもサトゥルヌスだった。彼の胸中にいかなる策謀が張り巡らされているのかは見通せない。

 しかし彼もまた時の神としての眼力からなにかを読みといたのかアテナに賛同していた。

 

「天意、《運命》ね。…………ま、俺もそういうのに抗うのは嫌いじゃないぜ」

 

 祐一も思うところはあったが、己の過失が原因であったし、それに運命に抗うという謳い文句に興味を引かれた。

 それだけではなくゴルゴネイオンは特級の神具だ。現時点ですら自分を含めた超越者が三人も雁首を揃えている有り様、手をこまねていれば鼻のきく神々や同族が参戦をしてくるかもしれなかった。

 

 祐一もまた決断した。場にいる全員が肯定を示した。あとは為すべきことを為すのみ。

 アテナは満足したように大きく頷き、天を仰いだ。その手には蛇を模した大盾が掲げていた。

 

「妾は天地神明あらゆる森羅万象に布告しよう。

 この北欧の地にてあくる新月の夜、古の蛇にして勝者の栄冠たるゴルゴネイオンは妾ら三者のいずれかの手に渡り、敗者は悉く滅び去ると。

 我が名はアテナ。ゼウスの娘にしてアテナイの守護者。永遠の処女。

 ここに誓う。新月の夜、アテナはふたたび古きアテナとならん!」

 

 サトゥルヌスが、天を仰いだ。その手には夜闇すら塗りつぶす漆黒の鎌を掲げていた。

 

「余はサトゥルヌス。敗北し貶められ、恥辱の淵にある古の神王。

 余は誓おう。アテナイの戦女神も、光明と勝利の神殺しも、力及ばず余がもたらす死と時によって鏖殺されると。勝利と冠を贄として復権を果たすと!」

 

 祐一が、天を仰いだ。その手には美しき波紋たなびく黒の湾刀を掲げていた。

 

「俺は木下祐一。常勝不敗を目指すもの! 救世を望まれたもの! 

 俺は誓うぞ! このベルゲンで好き勝手しようとするアンタらを悉く討ち滅ぼし、ゴルゴネイオンを葬りさってやるってな」

 

 風。風が吹いた。

 高き所から地表へと天下った颶風は木々を揺らし、地を抉りながら、彼らの元へと馳せ参じた。風は雄々しき宣誓をその身に乗せると、再び天空へ吹きあれ、最後には四方八方へ身を割いては遍満した。

 

 運命を覆す宣誓が世を覆った。誓いを司る神アテナが天地万物へ、ゴルゴネイオンは誰かの手に渡ると布告した。それを強大な神であるサトゥルヌスと神殺したる木下祐一が連名し、原因や過程を無視して"新月の夜にこのベルゲンにて、ゴルゴネイオンは彼らの誰かが勝ち取り、敗者は滅びる"という結果は()()された。

 祐一が口約束で決闘を画策し、二柱が集ったところまではよかった……が、その目論みは失敗に終わってしまった。

 しかしアテナの余興によってもはや今夜のような結果は二度とありえない。新月の夜、避けようもない必然としてベルゲンは戦場と化すだろう。

 宣誓が終われば用はなかった。神々は闇へ溶けて、早々にその場を辞した。

 

「新月……って言うと今日から一週間後か」

 

 自分以外誰もいなくなった広場で、下弦を湛えた月から微光を浴び、決戦の時刻を悟った。

 

「しっかしクソっ、不味ったぜ……」

 

 苛立ちのままにそばに立っていた街頭を叩きつける。

 神とカンピオーネの戦いは人類にとってあまりにも被害が大きすぎる。なんの保証もなくまつろわぬ神と戦えば、街は壊滅し人は死ぬ。祐一はこれまでの経験則で結論づけていたし、まつろわぬ神という存在を全く信用していなかった。

 ゴルゴネイオンはまつろわぬ神を縛るキーアイテムだった……だからこそ唯我独尊を地で行く神々でさえ祐一の言い分をある程度聞き入れた。

 

 ……こうして人の居ない場所を選んだと言うのに無駄に終わってしまった。 

 痛恨を舐めつつ、だが、ここで後悔しながら手をこまねいてる事こそ最も唾棄すべき行為だった。

 祐一もまた夜に染まるベルゲンへ走り出した。

 

 

 ○◎●

 

 

「見れば見るほど素晴らしい呪具……いや、神具だな。

 噎せかえるほどの濃い大地の気配だ、もしかするとローマの連中が何者かによって奪われたと大騒ぎしていると噂のゴルゴネイオン。そう見て間違いないだろう」

 

 ダヴィド・ビアンキはひどく上機嫌だった。

 なにせ先刻、彼にとって目も眩みそうなほど良い逸品が手に入ったのだ。逸品とは、ゴルゴネイオン。古の()を空に翳しながらビアンキは満足そうに頷いた。

 彼の手にゴルゴネイオンが巡り巡ってきた経緯は昨夜チェリーから奪ったからで、大した労もなくこれほどの逸品に巡り会えたと無邪気に喜んでいた。

 ゴルゴネイオンと断じたのも少しばかり小耳に挟んだ噂があったからだ。イタリアのカラブリア州にある海岸に打ち上げられたという神具を、何処かのまつろわぬ神が強奪したという珍事件。ローマのみならずイタリア全土の魔術結社が崇め奉る王の不在に行われた強奪事件は、管理に持て余していたローマ魔術結社の懸命な箝口の努力もむなしくのまたたく間に広がりこんな辺境にいるビアンキの耳にも届いていた。

 そして今、自分の手の中にある神具は、まさに件のゴルゴネイオンかと見紛うほどの力を宿していた。かつては『地』の位を極め、最高位の魔女と呼び声高いルクレチア・ゾラにすら見込まれた彼だ。神具が大地に属するものであり、尋常のものでは無いと看破するのは容易かった。

 だからこそビアンキも思い至ったのだ……これはゴルゴネイオンではないか、と。

 

「なぜこれがこの地にあり、あの小娘が持っていたのかは謎のままだが……ぼくの元に巡ってきたのもなにかの縁だろう」

 

 愉快だった。

 これほどの力を秘めた逸品があれば、己の復権と矜恃の復活も円滑に行われるだろう。それだけではない。イタリアを逃げだす羽目になった元凶である、東方の神殺しに復讐出来るかもしれない。

 その未来を夢想すると背と腰から羽が生えるようでビアンキの思考は天まで浮き上がった。いままで堪えていた屈辱が、にやけへと変わって止まらずそびやかすように肩を震わせた。

 

「ふふ……フフフ…………ハハハ、ハハハッ! ついにぼくにも運が回ってきたぞォ……! どうせローマの連中が持っていても持ちあぐねて、あの愚かな王に渡す事になったに違いない。ならばいっそぼくの元で有効活用するのがこの呪具も幸せだろう。

 さぁて、どうする。これを依り代に大地に属する竜を喚びだし使役するもよし、神秘を調べあげ独自の至高の術式を生み出す礎としてもよし、なんでもできるぞ。……ふふふ、やはりぼくの手にゴルゴネイオンがある方が活用できる!」

「うむ、それには同意しよう。()()()にその大地に属する神具があれば、大いに役立てることが出来ると」

「───」

 

 声は唐突で、ひどく厳かなものだった。そして声は"死"に満ちていた。ビアンキは後方からやってきた空気の振動が耳に入った直後、全身の血が凝固したと錯覚して立ち竦んだ。

 声とは魔術において重要な意味をもつ。

 魔術を行使する際にも口訣や詠唱という工程は必須であり、重要な意味合いを秘めているのは魔道を齧ったものであれば理解できるだろう。

 専門が地相術であり本領からいささか離れているビアンキといえど魔術の造詣は深い。一定の理解はあって、だからこそ声の主が尋常のものではない事は瞬時のうちに看破できた。

 声の方へ振り向いた瞬間、ビアンキはもう生を諦めた。真実、魔術で心を覆っていなければ心はベッキリと折れていただろう。そこで死を迎えなかった事こそ彼が一流に準ずる技量をもっている何よりの証左となった。

 なんのことはない。ただ、奈落の淵があったのだ。

 

「ま、『まつろわぬ神』ぃ……!」

 

 奈落の淵は人のかたちをしていて襤褸を纏い大鎌をもった老人であった。けれどただの老人であるはずがない。異形である、根源的な恐怖を呼び起こす死に満ち満ちた老神である、一目見れば限りなき不吉と避けようもない死を賜う使者である。名を──サトゥルヌスと呼ぶ。

 かち合わぬ歯がカチカチと音をかき鳴らす。股に生暖かい温度を感じながら、無意識に視線を巡らせた。地相術師である彼は、長年脳細胞と手足に染み込ませた動作で地相を読もうとした。そこに必ずや血路があると信じたのだ。

 だがおかしかった。地相はあまりにも野放図でデタラメを描いていたのだ……まるで異界にでも迷い込んだか、天変地異が起きたあとのように。ビアンキはすぐさま眼前のまつろわぬ神によるものだと確信し、ふたたび絶望した。か細い蜘蛛の糸は無残にも断ち切られていたのだから。窮余の一策と縋っていたものが砂上の楼閣のごとく消え去ったならば、人はどうするだろう。

 

「うわぁぁあああああ!!!」

 

 恥も外聞もなく色を失って半狂乱になりながら駆け出した。ビアンキは逃げたのだ。彼自身気づかなかったが頭髪はいつの間にか色素が抜けて白髪頭へと様変わりしていて、整っていた容姿は十年も二十年も老け込んでしまっていた。

 

「膝を折れ」

 

 厳かな囁き声。静かだが不思議とよく透る声は目に見えずとも確実な力を宿してビアンキに作用した。足から今生において聞いたこともないような怪音が鳴り響き、そのまま地面にすがりつく事となった。

 

「あがぁっ……! だ、誰かぁ……助けて!」

 

 痛みからかビアンキは諦めていた生にしがみついた。無様にもがいてもがいて手を伸ばす姿は、足の届かない水中で溺死しかかっているようであり整っていた容姿泥まみれ、往時の傲慢ながらも胸を張り輝いていた姿は見る影もなく、尊厳は打ち捨てられていた。

 死神の歩みは止まらない。逃れられぬ死は目前に迫っていた。

 どこで間違えたのだ。ビアンキの折れた心に走馬灯が駆け巡った。

 魔道を志し、天の采配によって一介の魔術師よりは優れた才をもっていた。『地』の位を極めた高名な魔女にすら師事を受けていた輝かしい過去。

 しかしいつの間にか肥大した自尊心は際限なく自分の誠実さや真摯さを喰らっていって功名餓鬼に堕ちて行って……最後には絶対に抗ってはならない超越者にまでちょっかいを出しては、築き上げたものの一切を喪う羽目になった。情けなくてこんなはずではと涙に鼻水に止めどなく溢れた。

 

 だが。ビアンキにも運はあった。

 彼にとっての幸運は愚かにもまつろわぬ神に伍する存在に挑み、僅かなりとも彼らの赫怒の片鱗を垣間見たことだろう。

 あまりに愚かしい行いであり、無謀であり、誰もが忌避する愚行。そして生き残った者はさらに少ない。なんの因果か、ビアンキはその枠に当てはまる稀有な人物であった。

 その経験があったからこそ彼はサトゥルヌスと謁見しようと生存し、正気を保つことが出来た。でなければ比喩ではなく奈落そのものをその眼で見たというのに死なずに済んだ説明が付かない。

 

 一度生き残ってしまえば死は少しだけ遠ざかった。山を越えたとも言ってもいい。死を僅かなりとも乗り越えたものは強い、目付きから大いに変わる。

 生への渇望からか、満腔の経絡がカッと大口を開けて気が充溢していた。ビアンキは我知らず、決死の覚悟を決めていた。

 けれども死神は矮小なる人間の極小な変化なぞ一顧だにしなかった。ビアンキの握りしめたメダルのみを注視し、固く握ったビアンキをまるで地虫を払うかのように煩わしいとばかりに死を与えんとした。

 神の裁定には人間は抗えない。不変の順縁であり、ビアンキの覚悟も虚しく、潰えるだけだった。──常であれば。

 

「おっと」

 

 ふと、死神の姿が掻き消えた。少なくともビアンキの目にはそう映った。

 しかし違った。

 掻き消えたのではなく、何者かが突如としてあらわれ遮ったのだ。もう目と鼻の先に迫っていたサトゥルヌスを阻むものの登場……ここに至り、果たして救いの主は現れた。

 ビアンキとサトゥルヌスを挟むようにして立つ人物は、黒いブレザーと黒髪をもった少年だった。その横顔からのぞくのは、恐怖に凍てついた心を溶かしきる太陽さながらの紅い瞳。

 肩越しにみえるまつろわぬ神が酷薄な笑みを浮かべ、その少年もまた応えるように不敵に笑った。

 

「やらせねぇぜサトゥルヌス。誰一人だってアンタには奪わせない。ゴルゴネイオンだってアンタには渡さない」

 

 ああ、まつろわぬ神を前にしても泰然としたその胆力。たとえ神であろうと変わらぬ傲慢さと不遜さ。観相術において一流といってもいい力量をもつビアンキは、その特異な相に覚えがあった。

 かつて一度相対し、彼我の力の差を測れず南欧を追われる理由となったのだから忘れるはずもない。

 善も悪もどちらの運気も深く、そして激烈にため込んだ類稀な相。名称を覇者の相。そしてそれを持ちうる者たちを…………ああ、いや。だがそんなもの、見るまでもなく、悟った。

 

 そうだ、間違いない。

 

 彼こそ────

 

 

「──()()()()()()……」



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死と時の翁 サトゥルヌス

「ありがとな、拾ってくれて。昨日失くして探してたんだ」

「違う! 違うんだ!」

 

 勘違いして感謝の言葉を送ってくる祐一に、罪悪感に押しつぶされそうになったビアンキは間髪入れずに否定を叫んだ。まるで聖人を前にした罪人が懺悔するかのように。

 

「わ、私がこのゴルゴネイオンを拾ったんじゃないんだ! ゴルゴネイオンを拾ったのは黒髪の小娘……少女で、私は奪いとっただけなんだ!」

「奪い取ったって……───!」

 

 会話は断ち切られた。まつろわぬサトゥルヌスが動きだしたのだ。

 

「奈落の獣、顕れよ! その人をどっか安全な場所へ!」

 

 言霊とともに異界の門が開くと二メートルほどの人狼が飛び出してきた。人狼はすぐさまその逞しい腕でビアンキの首っ子をひっつかむと一目散に駆け出した。

 きんっ、振り向きざまに刃を受け、火花と甲高い金属音が散った。叢雲を通じて極寒の冷気が四肢を通りぬけた。

 

「こうして打ち合うのも何度目だっけな? そろそろ終わりにしたいもんだなサトゥルヌス」

「そのようなつれない事を申すな。余はそなたとの死闘を楽しみたいと言うのに」

「ほざけ!」

 

 ハルパーを縦横無尽に揮って心臓を付け狙ってくるサトゥルヌスを切り払う。オプスを喰らい強固な『鋼』となったサトゥルヌスだが、戦い方はどこか粘性を帯びていてこれまで鎬を削った英雄たちとは毛色が違った。

 だが鋼は鋼。一息に数十合と打ち合いながらも、祐一とサトゥルヌスの戦いは互角であった。

 目線が交錯する。サトゥルヌスの眼光に狡猾な色を観た。なにか仕掛けるつもりだ、武技では埒が明かないのは何度か刃を交え知っている。

 ──咆。

 サトゥルヌスから呼吸が漏れだす。ただの吐息ではない。豊潤で滴り落ちるほど"死"に充ちた吐息だ。祐一はそれを屈むように避け、手で口を覆いながら凌いだ。

 農耕神であり零落した太陽神であったサトゥルヌスだが、いまはそれらを喪い、しかし喪った代償に得た力は──死と時間。

 非常に強力な上に厄介な神となってサトゥルヌスは黄泉帰りを果たした。迂闊に踏み込めば取って食われるのは必定だ。

 深追いせずバックステップを踏み、一旦距離を置いて……しかし直ぐに悪手だと悟った。

 地面に投げ捨てられていたゴルゴネイオンに、サトゥルヌスが文字通り飛びついたのだ。

 足じゃ間に合わない。

 悟った祐一は飛び退る勢いを利用しながら、剣を捻りあげるように逆袈裟に振って剣風を放った。()()()()()()()()()()も後押しして大きく砂ぼこりが舞い、ゴルゴネイオンが吹き飛ぶ。

 サトゥルヌスの手は空を切った。

 

「…………なんだ、いまの」

 

 転がったゴルゴネイオンを見やって、普段なら「惜しかったな」と煽りのひとつでもいれるはずだが、異様な違和感に手と足が止まってしまった。

 

「そなたも気付いたか」

「……どういうことだ」

「微かな違和を得ようと、まだ悟れぬか。疑問に思わなかったか? ……ヘルメスの弟子とはいえ、定命の者から大地に属する神具(ゴルゴネイオン)を奪い去ることが叶わなかったなどと。大地を統べ、地底の深淵にある冥府より帰ったこのサトゥルヌスが」

「つまりなんだ。アンタがゴルゴネイオンを手に入れられなかったのは、俺が来たからじゃなくて、もっと別の理由があるてことか?」

「左様、でなければゴルゴネイオンを希求する余が手をこまねく道理もなし」

「……」

 

 一理ある。それに思い当たる節はあった。

 さっき剣を振るった折に"妙"だと思えるほど都合よく吹いた風。

 あれは決して天然自然のものではなく、天意を乗せ天下った、まさに天来の風と表現してもよかった。

 そしてこんな事象が起きる原因など……

 

「アテナのやつが提案した宣誓ってやつの影響か……?」

 

 サトゥルヌスの唇がいびつに歪んだ。祐一の言葉を(うべな)うように。

 

「かの宣誓は《運命》を覆すことを由しとしながらも、以前より深く《運命》の介入とやらを赦す結果となったに等しいのだ。まったく鬱陶しいことよ」

「……ぁん? 《運命》の介入を?」

「我らが為した宣誓はつまるところ因果の"固定"だ。しかし結果を縛り付けることによって我らはひとつの代償を支払わなければならなくなったのだ。

 過程はどうであれ結果を"動かすことは出来ず"、そこに辿り着くまで"至ることもできない"という呪縛をな」

 

 それを定めた我々であれば猶更だ、とサトゥルヌスは言葉を止めた。祐一もここまで講釈を垂れられてようやく得心した。

 

「じゃあなんだ? 俺たちが新月の夜に決着を付けるってのは決まったけど……それ以外じゃ決着は"付けられない"し、ゴルゴネイオンも"手に入れることができない"、そういいたいのか?」

「然り。それがモイライどもの介入だ。

 木下祐一よ、そなたに問おう。我々が先刻まで奪い合っていた神具は、真にゴルゴネイオンなりや? いや、そもそも神具であった?」

「なに?」

 

 もう一度訝しみながらゴルゴネイオンを注視した。けれど贋作のようには見えない。神具のように見える。

 しかしサトゥルヌスの言葉が正しければ、ゴルゴネイオンは手に入れられないはず。だったら、今、奪い合ったゴルゴネイオンの真贋さえ疑わしくなってくるのは当然だ。

 我らは誤認している可能性はないか? サトゥルヌスはそう問いかけていた。

 

「確かに我々の目には疑いようもなくゴルゴネイオン。しかしこの裏に蠢動するは《運命》の繰り手ども……運命の(つかさ)たるモイライの介入を許したとあっては……」

 

 モイライ。聞き覚えがあった。

 あれはヒューペルボレアで運命神と対峙したと言っていた護堂の口から出た言葉で、《運命の繰り手》という言葉も同時に頭蓋からゆらりと陰を濃くした。

 

「彼奴らは(したた)かよ……如何なる『鋼』であろうと地母神であろうと絡めとる。彼奴らを侮ることなかれ。神王たるゼウスに唯一敗北を味合わせた余ら(ティターン神族)の末弟たるテューポーンにすら敗北の原因を作りだしておる」

「敗北を、作り出した?」

 

 サトゥルヌスは忌々しそうな顔を隠さず、左様、と頷いた。

 

「ゼウスとの戦いのなかで勝利を確実なものにせんと、テューポーンはモイライどもの守護する"勝利の果実"を求めた。そしてテュポーンは紛うことなく本物の"勝利の果実"を手にし、食したのだ……しかし気づけば"()()()()()"を食していた。

 分かるか? モイライどもはこう定めたのだ……テューポーンが食した果実は総て"無常の果実"になる、と。手に入れたものが"勝利の果実"であろうと意味はなく、"無常の果実"を食したという結果のみが残ったのだ」

「……」

「余らもまた同じよ。明くる新月にのみゴルゴネイオンの所在と勝敗が決定されるのならば、よしんばゴルゴネイオンを見出し、手に入れようと、ゴルゴネイオンでは()()()()という因果が生まれてしまったのだ」

 

 それが因果を歪めた代償。

 つまりこれから一週間ほどゴルゴネイオンも決着も取り上げられた形となった。どれほど目を凝らそうとゴルゴネイオンは見つからず、刃を振るおうと宿敵の命脈を立つことはできない。

 結果は決定したものの状況は停滞し、これから七日間、彼ら三人は手を拱くしかなくなったのだ。

 と、そんな現状を把握しようと、祐一はどうでも良さそうには肩を竦めるだけだった。

 

「で、それで? アンタはなにが言いたいんだ。

 あれは偽物かも知れないから、だから、ここは退け。そう言いたいのか」

「余の真意を汲み取るとは察しが良くなったきたか神殺し」

「ふん、それで俺がおめおめと引き下がると思うか? 結局、あれが本物のゴルゴネイオンじゃないって確証はないわけだ」

 

 ゆらりと叢雲でゴルゴネイオンを指し、そして肩に担いだ。ふてぶてしい笑みを浮かべながら。

 

「それにどうせ抜け道があるんだろう? 俺たちには手に入れられないがさっきの魔術師は触れることができた。……なら眷属にでも拾わせて新月にまで()()()()()()()()()()、とかな! ──ラグナ!」

 

 言うが早いか盟友たるラグナを呼び出した。

 サトゥルヌスの口が弧を刻み、対応は迅速だった。分かっていたぞと言わんばかりに。

 

「ようやくそなたも脳に知恵が巡りはじめたか!」

 

 嘲弄する言葉が放たれると同じくして祐一とラグナへ凶刃が迫った。祐一は肩に担いだ叢雲で難なくサトゥルヌスの刃を弾いた。

 次いで、ゴルゴネイオンの元へ向かっていたラグナも咆哮で()()()()のサトゥルヌスを振り払った。

 

 現状を正しく認識できるものがいれば驚愕する事となるだろう……なにせサトゥルヌスが同時に二人も存在していたのだから。

 決して幻影でも、質量をもった残像でもない。正真正銘、もう一人のサトゥルヌスの顕現。

 だが祐一は驚くでもなく冷静に対処した。何度か見ているのだ……この"時"の権能を。

 まつろわぬサトゥルヌスは時の神であり、時は彼の支配下にあった。つまり時そのものがサトゥルヌスと言っても過言ではなく、別の時間軸にいるサトゥルヌスさえ現在に呼び出すことが可能なのだ。

 

「……だけど、分からないな。アンタは時の神なんだろ、未来なんて軽く見通せるんじゃないか? なら、俺に会うまでもなく出し抜けばよかったはず。

 なのに、まるで"警告"でもするように現れて、情報を与えていくなんて……何を考えている?」

「フフ。たしかにそなたの言うように、余はそなたとこの地で決戦を臨む姿を()()()()。時神サトゥルヌスたる余であればそなたを出し抜き、姦計に嵌め、縊り殺すことなど容易い」

 

 サトゥルヌスはまるで舞台劇の役者さながらに大きく胸を反らした。かの神の物言いと仕草は一々大仰だ。しかしそれを許される威と格が彼にはあった。

 

「だが否、否だ。余が望む戦いは至高の闘争。余とそなたは同様に黄泉帰りを果たし過去を呑み込まんとする同士であり好敵手である。……ならば余は対等の立場でそなたの上を征き、完膚なきまでに討ち滅ぼすこともまた使命の一つと心得ておる」

「フェアプレイで俺を降したい、ってか」

 

 勝利をなによりも希求するなら圧倒的なアドバンテージを有するサトゥルヌスが祐一を出し抜くだろう。祐一は手探りのまま決戦に臨むこととなり勝利は容易かったはずだ。

 だがサトゥルヌスの自尊心がそれを許さない。

 宿願を果たし栄光を取り戻すなら、強敵を降した先にある輝かしい勝利に執着したのだ。

 舐められている、とは思わない。それがサトゥルヌスという神の在り方なのだ。だが──気に入らないのも事実だった。

 

「光輝に満ちた勝利は余のもの」

「そなたが勝利と勝者の戴冠を獲得すること能わず!」

 

 二重の声とともに二対の凶刃が祐一とラグナを襲う。

 祐一は叢雲で、ラグナは長大な牙で、漆黒の鎌を受け止めた。赫々たる眼光が煌めき、聖句を謳った。

 

「日輪の輝きよ。我が宿敵の正しき姿を暴き出せ」

 

 呪力の爆発とともに静かな言霊を放てば、一体のサトゥルヌスの姿が掻き消え、現在の時間軸のサトゥルヌスだけになった。

 再誕した現在のサトゥルヌスを構成する主な神性は三つの柱。ひとつは『鋼』、ひとつは"時間"。そして"死"だ。

 つまりヒューペルボレアの冥府の谷において再誕したサトゥルヌスは、太陽神と農耕神としての相を失う代わりに、強力な"死"の神性と時の権能を得た。

 

 鋼と時間は地母神であるオプスを捧げたために、そして、死は己自身を己自身へ捧げたが故により強く掌握するに至った神性であった。

『サトゥルナリアの冠』は太陽神であったサトゥルヌスが死を迎えたことで太陽神であった肉体が変じて生じた神具である。

 ──しかし太陽神は不滅であり、死は滅びを意味しない。であれば肉体と魂魄を別かつ儀式じみたものでしかなかった。

 だが、いくら神とはいえ肉体と魂魄を分かたれれば弱体化は免れむもの。

 かつて太陽神であったサトゥルヌスの肉体は太陽神を復活させるだけの『サトゥルナリアの冠』という神具となり、魂魄となった神霊は長い時のなかで零落し復活を目論むだけの神具の精となった。

 そしてヒューペルボレアにて一度は合一し、まつろわぬ神としての復活を果たしたが……草薙護堂の活躍によって『冥府の谷』にてサトゥルヌスは太陽神としての完全なる死を迎えた。

 当然、『サトゥルナリアの冠』は滅びさり……しかしサトゥルヌスは諦めてはいなかった。

 

 死によって再び分かたれた肉体と魂魄は、蘇りをなす為に一計を案じた。己自身を捧げ、己自身を蘇らせるという策を。

 策は成り、また、護堂の一撃で死に瀕していた地母神オプスと太陽神のよすがであった肉体を贄と捧げることで、豊穣と死の神性を備えていた魂魄は"死そのもの"として復活を果たしたのだ。

 そしてサトゥルヌスという神が死ぬ折に、ひとつの神具を遺された。

 名を死神の鎌(ハルパー)。故にサトゥルヌスがもつハルパーは己自身であり、分身でもあった。

 

 こうして、かつては太陽神であり農耕神であったサトゥルヌス。敗北の末に太陽と豊穣の神性を捨て去って"死"と"時"という神性でもって黄泉帰りを果たしたのだ。

 祐一がヒューペルボレアで《光を持ち帰りし者》ならば、サトゥルヌスは《闇を持ち帰りし者》と呼ぶべきか。

 ゆえにサトゥルヌスは死と時を司り、時間跳躍に未来視、過去改変、生命強奪、不死などなど厄介な手札をごまんと切れる難敵だった。

 しかしだからこその陥穽。

 時間跳躍すらも手札としあらゆる時間軸を回遊するを可能とするサトゥルヌスだが、祐一のいる時間軸に"縛り付け"られる。

 なぜなら光は闇を照らし出す。

 その法則に則ってサトゥルヌスへ『輝く瞳(glaukopis)』を打ち込んでサトゥルヌスを縛り付けたのだ。『輝く瞳(glaukopis)』は簡単にいえば目の形をした"太陽"だ。視界に入った不浄の一切を祓い、曖昧なものを暴き出す。

 霊眼は生命の象徴たる太陽そのものであり、死の極点たるサトゥルヌスと()()に位置していた。であればこそ、時の遍在すら無視して、正しい姿を暴き出すことを可能にした。

 時の神として、ではなく、死の神として相対する。

 それが祐一が時神サトゥルヌスにつけ入る唯一の手段だった。

 

「光のあるところに闇はあり、闇あるところに光あり。世界の真理で……それは俺たちの関係ともいえる。そうだろ?」

「左様。余が冥府より"闇"を持ち帰ったならば、そなたは"光"を持ち帰った。我らは互いに相食む存在ならば、離れることなどできようはずもない。

 元よりそなたのもとを去るなど、余の誇りが許さぬがな」

 

 つまるところ彼らが結んだのは神性による契約だ。ヒューペルボレアにおいて対となるように光と闇を手にした彼らは、気づかないうちに一つの契約を結んでしまった。

 光と闇の関係にあるからこそ、争わずにはいられない相剋の関係に陥る。故に抜け出せず、逃げ出せない。

 

 しかし好都合だった。

 時の権能を使わせずサトゥルヌスを同じ土俵に上げたい祐一と、対等な舞台で祐一を下したいサトゥルヌスの思惑は合致していた。

 ただ、大きく有利なのはサトゥルヌスであることに違いない。

 まつろわぬ神とは誰もが一筋縄ではいかない厄介ものばかり。如何に神殺しといえど基本的にまつろわぬ神の方が地力が勝っているのもの。

 そんな魑魅魍魎の一柱であるサトゥルヌスだ、アドバンテージを捨て"対等な決闘を"と、うそぶく裏にはかならず企てがあるはず。それでも突き進まなければならない、なぜなら己は──

 

「──常勝不敗の救世主にならなくちゃいけないからな! 俺は勝つぜ……鋭く、近寄り難き者よ!」

「っ!」

 

 長期戦は不利だ、祐一はこれまでの戦いは反芻する。

 黄泉がえり後のサトゥルヌスとの戦闘はこれが初めてではない。それどころか幾度となく矛を交えている。

 何度も闘い、理解している。言うまでもなく時間はあちらの味方で、時間を掛ければ死の腐食にさえ蝕まれる。

 だからこその短期決戦。迅速果断な速攻──いつも通りだ! 

 

 呼び出していたラグナを吶喊させる。

 現在のサトゥルヌスは祐一の眼によって死の相を濃くしている。

 正確な予知ができずラグナの凄まじい急襲に対応できなかった。ラグナの体躯は大型犬ほどで、本来の十分の一にも満たない。

 だが、だからこそ俊敏さは跳ね上がっていた。

 地面を蹴りあげ土砂が舞い、ラグナの脚からジェット噴射かと見紛う呪力が噴いて、ロケットさながらの挙動でサトゥルヌスに突っ込んだ。

 そのまま禍々しさの横溢する牙でサトゥルヌスの刺突に成功し、腹部を抉りぬいた。

 

「く……、なんたる猛りか!」

 

 さしものサトゥルヌスでさえ苦悶をあげ……

 

「……しかし、ハハハッ! そなたの眷属たる神獣も、猛るならば生者。余が掠奪する魂魄のひとつとなり下がるがいい!」

 

 それでもサトゥルヌスは斃れる気配を微塵も見せず、やはり口に弧を浮かべた。

 

 ──ル、オオオォォおおおおン! 

 

 濃密な冥府の気配にさしものラグナが苦しんでいる! あのタフさと獰猛さが売りの盟友が! 

 それでも直ぐに決着が着かなかったのは、あり余る生命力とタフさで文字通り死神の冷たい手から抗ったから。

 

「疾ッ」

 

 サトゥルヌスがラグナにかかりきりになっている隙を突き、祐一が抜き身の一刀を放った。

 死の神であるサトゥルヌスを倒すにはどうするか。祐一はクールで冴えた答えを持っていた。身体を刺しても死なない。冥府に落ちても死なない。

 ならどうするか? 簡単だ──()()()()()()()()()()()()

 

「愚かな……不死とは死なぬが故に! 死を遠ざける術もまた幾万と持ち合わせておるぞ!」

 

 神獣の牙と神刀を腹に埋めてもサトゥルヌスは、意に介した様子もなく酷薄に叫んだ。

 黙らせる、とラグナと息を合わせ刃と牙を腹の中で反対方向へ向け──横一文字に一閃。さらに大上段に構え直し、そのまま力任せに振り下ろした。

 脳天から唐竹割りにしようと試み、今度は防がれた。

 打ち合った得物こそサトゥルヌスが冥府より持ち帰ったハルパー……実った農作物を刈り取るための道具であり、立派な剣でもあるそれは、農耕神であったサトゥルヌスの死によって遺され、今では死の象徴たる神具へ成り代わっていた。

 鉄と鉄が火花を熾し、またたく間に隙が消えたのを悟った。ラグナとともに距離を取る。

 

「ハルパーかッ、今度はその鎌ごとぶった斬ってやる」

「ほざくな。ハルパーは余の分身、そしてそなたがどれほどの余に傷を負わせようと意味は無い。この問答の間ですら余の傷は塞がったぞ?」

「それでも、斬るだけさ……それ以外にねぇ」

「愚昧な。そなたの剣に斬られ易々と死に絶えるほどサトゥルヌスは甘くはないぞ」

 

 サトゥルヌスも押されるばかりではない。サトゥルヌスは比類なき死を司る。それは命をもたない無機物でさえ死をもたらすほど。

 受け身という状況が既にサトゥルヌスの術中であった。半身ともいえるハルパーから烟る死臭が吹き荒れ、神刀と謳われる叢雲ですら、波紋がくすぶり刀身の輝きがかすんでいく。

 死は終わり。

 叢雲でさえ剣戟を重ねるほど、死を重ねて刀身はなまくらとなる……ちょうど『戦士』の智慧の剣がそうであったように。

 

 叢雲の連撃を凌ぎ、速度が鈍る。その隙見逃さず、いざ反撃とサトゥルヌスがハルパーを振り上げ──その時だった。怖気を呼ぶ言霊が、耳に届いたのは。

 

「──手中の珠も砕け散った。血塗れの臓腑は地に落ちた。さぁ、無秩序もたらそう!」

 

 いつの間にやらラグナの背に騎乗した祐一の姿。騎猪たるラグナは前脚で地面を叩き、莫大な呪力と殺意がサトゥルヌスの背筋を凍らせた。

 ラグナの突進という隕石の激突にも匹敵する運動エネルギーが開放される。サトゥルヌスの腹部へふたたび長大な牙が突き刺さり、穿いたまま遥か先の山に突っ込んだ。豪快な破砕音が鳴り響き、眠りについていたベルゲンを地響きが揺り動かす。

 

 ……後にベルゲン郊外で"謎のガス爆発が起きた"と噂される要因となった巨大クレーターの誕生である。

 

 だがまだだ。まだサトゥルヌスは倒れない。

 それどころか無傷なままもうもうと舞い上がった土煙の中から這い出てきた。

 死の神に死は訪れない。死そのものであるが故に。故に敗北はないと言わんばかりに。

 

「なんという荒々しさか! だが余を侮るなよ!」

「ああ、侮っちゃいねぇさ!」

 

 猪の化身は神獣の召喚だけではない。祐一自身も猪さながらの強烈な突進力を得るのだ。

 ラグナの背で前傾姿勢をとった祐一は左右の足を踏みしめ、猛然と駆けだした。背をぬけ、踏み込んで、その先にいるサトゥルヌスへとタックルを決めた。

 勇猛な祐一に、しかしサトゥルヌスは傲岸に笑った。狂ったか、と。

 

「死たる余の懐に飛び込むとは見事。だが血迷ったか、自身を用いた一撃が仇となったな木下祐一!」

 

 死の気配とともに粘つく死臭を放つハルパーが祐一の腹部をかき切った。途端に濃密な死が体内を犯し尽す。決定的な勝機を見出し、一転。

 

「──今こそ我は十の山の強さを、百の大河の強さを、千の駱駝の強さを得ん! 雄強なる我が掲げしは、聖なる駱駝の蹄なり!」

「っ、な!?」

 

 重症を負うからこそ行使できる化身がある。名を『駱駝』 強烈な打撃によるカウンターと、我慢強さを手にできる化身だ。

 気づけばハルパーを持っていた腕が空を飛んでいた。祐一の目にも留まらぬ迅雷の"蹴り"で切り飛ばしたのだ。それだけでは終わらせない。そのまま蹴戟を繰り出し、サトゥルヌスの四肢を砕いた。

 飛び退いて距離を取る。『駱駝』のお蔭で耐えきれているが死の神による攻撃を真っ向から受けたのだ……タイムリミットは少ないと見ていいだろう。

 しかし現状、善戦していると言っていい。こちらの攻撃は総て嵌り、敵の攻勢はそれほどではない……しかし手応えは皆無。

 明らかにおかしい。サトゥルヌスがこれほど手温い相手ではないことは身に染みて分かっている……なら、奴は何かしらの奸計を忍ばせている、そんな確信があった。

 なんとかしなくちゃな。祐一は目を眇めた。

 

「そろそろ終いにしようサトゥルヌス」

「……何を申す。木下祐一よ。まだ戦いは開戦の火蓋を落としたばかり……これまでと比しても、余らの争いは序の口ではないか」

 

 剣を担ぐように構えて、サトゥルヌスに語りかけた。

 

「そうだな……俺とお前はベルゲンに着くまで無数の斬り合いをやってきた……。でもその中で気付いたことがあるんだよ。やっぱおかしい、ってな」

「ほう? そなたが余の前に立って挑んでいる事が、か?」

「なわけないさ、でも近くはある。……俺が気付いたのは人間の延長でしかない俺がまつろわぬ神と……『鋼』であるアンタと()()()()()()()。それ自体がもうおかしいのさ」

 

 たしかに祐一の言うとおりだった。祐一は戦いの才、というより地力的に上であるまつろわぬ神を弑逆する巨人殺し(ジャイアントキリング)の才能は溢れているものの剣の才能は今ひとつというところだった。

 イランでの旅で、棒を振ったことはあれど剣は一度もなくチンギス・ハーン戦まで武器を選ばない戦士だった。それが変化し、剣一本に変わり始めたのは幽世に居を構える王国に流れついてから。

 さらに付け加えるなら剣神と『戦士』で切り結び、剣の師を得て師事が始まってからだった。

 

「そんで数ヶ月の覚えたてでにわか仕込みの剣でヤマトタケルと対等に斬り合い、スロヴァキアの天使なんて手刀で切ったこともあった。

 流石に思うぜ、おかしいってな。昔、師匠のエイルにも言われたんだよ。お前は剣を振るうより、徒手空拳の方がよほど恐ろしい、って」

「ふむ……では、そなたの剣には理由がある、と?」

「ああ。最近何となくわかったんだ……俺は剣神ヤマトタケルと最初に斬り合った時から、その剣を受け取る為に身体が馴染んでいってたんだって。

 ……"引っ越してきた"剣を最初から手足の延長線と思い込んで扱えるような、身体と頭になるように」

「そうしてそなたは『鋼』の軍神らとも伍する力を獲るに到った、か。

 氷解したぞ、そなたの剣理の根源は極東の神刀だな。なるほど、最源流の『鋼』を裡に宿したからこそそなたは神々と切り結べるほどとなったか」

 

 "神殺し"木下祐一、第三の権能『天叢雲剣』。

 主となる権能は偸盗を軸にしたコピー能力や合成能力だが、祐一にもたらしたものはそれだけではない。

 "刀"という武器の形状とカンピオーネは権能を十全に使い熟すという特性がミックスされ、祐一自身気づかないまままつろわぬ神ですら対等に戦えるほどに到っていた。

 

「それで、そなたは何が言いたいのだ。そなたは余を弑すること能わぬが、余は武ではそなたを殺せぬ。だから今宵は打ち止めとし終わろうとでも?」

「まぁ、なんだ……──ただの時間稼ぎだ」

「──っ!」

 

 気付けばサトゥルヌスの土手っ腹に漆黒の神刀が埋まっていた。サトゥルヌスはせせら笑った。おそるるに足らず、と。

 

「どれほど余に傷を与えようと無意味! 余は不死なれば!」

「ああ、だからここで()()()させて貰うぜ……爰に須佐之男命、国を取らんとて軍を起こし小蝿成す一千の悪神を率す。一千の剣を掘り立て、城郭に楯篭もり給う!」 

『応! 是所謂、天叢雲劔也! ちはやぶる千剱破の鋼なり!』

 

 光輝が漆黒の刃を染め上げる。闇にはとことん光を。鉄には熱を。

 叢雲が灼熱に染まり『鋼』すら溶解させる熱さを放つ。天叢雲剣と化身『白馬』の融合すれば『鋼』討滅のための剣となる。光は闇を照らしだし、縛るもの……叢雲の刀身から、溶けだす蝋さながらに光の鞘がいくつも流れだしサトゥルヌスを絡め取り、縛り付けていく。

 ラグナ! という掛け声ともに、二本の牙が勢い良く射出された。もがいていたサトゥルヌスの心臓へ牙が打ち込まれ、サトゥルヌスを地面へ縫い付けた。

 ここに至ってサトゥルヌスは祐一の狙いに気づいた。祐一は元から、打倒ではなく拘束を目的としていたのだ。光という概念と地面に縫われれば、如何にサトゥルヌスであろうと抜け出すのに時間が掛かるのは必定。

 

「ぬかったか!」

「ここは、退かせて貰うぜ……! ゴルゴネイオンも一緒にな……ッ」

 

 勝利条件はゴルゴネイオンの奪取。使命に焦がれ、目的を見失ったサトゥルヌスは出し抜かれた。

 腹をかっ捌かれ息絶え絶えになりながら、戦場に踵を返してサトゥルヌスの元を去った。ゴルゴネイオンとともに。

 

 ○〇●

 

 フロイエン山の麓から伸びる鉄塔の上に、ひとりの少女が佇んでいた。山中のそれも強風の吹き荒れる高所で、どんなバランス感覚を保持しているのか微動だにせずある一点を……神と神殺しが死闘を繰り広げていた場所へ視線を送っていた。

 

「祖父殿も神殺しも迂遠なことをする……事は単純明快だというのにおかしなものだ──このアテナがゴルゴネイオンを手に入れる。それは動かしようのない事実」

 

 ゆるやかな微笑を浮かべ、微笑は凄みを増し、大きくつり上がっていく。

 

「しかし彼奴らの騒乱は妾にとって都合が良い。精々足掻けよ……妾がゴルゴネイオンを手にするまで」

 

 戦女神たる己の闘争心に火がつき、愉快げに声をあげて笑いだした。我求めるはゴルゴネイオン。新月の夜、最強最古の地母神は復活を遂げる……今から楽しみだ。

 幼い童女さながらの笑い声が、北欧の山でやまびことなって響き渡った。

 

 ○〇●

 

 倒れ込んだのはオレンジの華やかな建物がある場所だった。人に見つかりにくそうな草むらに身を潜め、うつ伏せになりながら腹に受けた傷に呻いた。肩で息をし、顔色は最悪だ。死期が近い。

 それでもまだひと仕事残っていて死ぬ訳にはいかなかった。

 祐一はラグナの持っていたゴルゴネイオンに瞳を凝らした。するとぼやけた水彩画のような膜が溶け──直ぐに悟った。

 これはゴルゴネイオンでは無い。そして見覚えがある。

 

「……これはあの女の子……チェリーって子が持ってたペンダント、か……!」

 

 ずだん、と地面を殴りつけ、投げ出すように天を仰いだ。

 

「ちくしょうっ、サトゥルヌスの言う通り俺たちはゴルゴネイオンを手に入れられないか!」

 

 彼の神の言うようにチェリーのもつペンデュラムの形をしたペンダントだった、ならサトゥルヌスの言葉の真贋は……。

 意識が霞む。意思の力ではどうしようもない終わりが訪れた。

 

「限界か……」

 

 サトゥルヌスの深い死の毒だ。抗うことなど、今の祐一には出来ない。

 あとは頼むぜ……。

 この権能を使う時は、成功するか否か、いつも博打を打っている気分に陥る。黄金の羊を思い描き、深淵に旅立った。





はぁはぁ……割烹でも言ってましたが権能名決めました……おかしかったら感想か誤字報告で教えてください……

ウルスラグナから簒奪『勝利する者(Parviz)
チンギス・ハーンから簒奪『 神鞭の騎手(Wargs domination)
スロヴァキアの天使から簒奪『輝く瞳(glaukopis)


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契約と狼男

 帰りついたのはもう空も白み始めたころだった。路地裏で寒さに震えながら飛び起き、急いで帰ったのだが結局こんな時間になってしまった。

 帰り際、ショーウィンドウで顔を写してはたかれた頬を覗いた。よっぽど力加減がうまかったのか、痕は残っていなくて、今だけは安心した。

 予想通り玄関にはカンカンに怒った父と母が立っていて、アタシが悪い訳じゃないのに……と悶々としながら事情を説明する訳にはいかず、探し物をして遅くなったと誤魔化しベットへ飛び込んだ。

 寝つきは最悪だった。それでもなんとか眠りについて、翌朝。

 昨晩の無理が祟ったのか起きてみれば、酷い体調不良に襲われていた。

 

「端的にいって最悪ね。こんなに憂鬱な朝は久しぶりだわ……」

 

 寝癖のついた髪を乱暴に掻きながらうなだれ、キッと目付きを鋭くした。

 あれもこれも昨夜もケチがつき始めたのはあの不思議な銀の少女とであってからだ、と憤懣やるかたなしと顔を顰めて──銀の少女なんて出会ったっけ? 

 うんうんと首をかしげて、おかしなことが続くなぁ……と手早く朝の準備を終えリビングに向かった。

 

「おはようチェリー」

「今日も一段と綺麗だな我が娘よ!」

 

 着替えてリビングに向かえば、両親がいつものように迎えてくれた。昨晩はこっ酷く怒られたはずだが、ちょっと諍いがあっても一晩明ければいつも通り、それがヒルト家のスタイルだ。

 母は少しのほほんとした雰囲気がある女性で、父は少し暑苦しいきらいのあるビジネスマン。

 母はスラリとして背も高く、父もまたノルウェーの平均身長を超えてガタイも良い。……というかヴァイキングと言われても納得出来る体躯だ。

 結婚の経緯は家の意向、というやつだったが元々親戚関係だったことも手伝って夫婦仲は極めて良好だ。娘のチェリーが辟易するくらいには。

 

「おはよ〜」

 

 黒髪を揺らしてぐでーんと椅子に座ると両親も席に着いた。

 

「ちょっとチェリー……あなた顔色悪いわよ。今日は学校休んでおく?」

「うぅん大丈夫。でもブルーベリーのジュースちょーだい」

 

 机に倒れかかるように手を差し出す。いつもならコーヒーなのだが、カフェインが体調の悪い身体のトドメになりそうでブルーベリーのとろみのあるジュースを口に運んだ。ジュースというよりスープに近いが、体調の悪いときや風邪気味にはこれが効くのだ。

 うん、ちょっと元気になった。朝の活力をえて心のなかで握り拳を作った。

 ふと向かい座る父を見ると新聞を読みながら難しい顔を浮かべていた。どうやら朝刊の一面を飾るなにかがあったようだ。

 

「ふぅーむ……物騒な事件があったのものだな」

「物騒な事件? なにかあったの?」

「ああ。昨晩、ベルゲン郊外で大きなガス爆発が起きたそうだよ。どうにもその辺りはしばらく立ち入り禁止らしい。ここからも近いからなぁ……チェリーちゃん、出歩く時は注意しなさい」

「ん、分かったわ」

 

 チェリーが頷くと、彼女の父ルーカスは考え込むように顎に手をあてさらに唸りはじめた。

 

「しかし先週も南のほう……イタリアからデンマーク辺りで大規模な災害が連続して起きている。もしかするとこの国にも"来て"いるのかもしれないな」

「どうやらそうみたいですよ。そのせいで霊脈が大きく荒れているらしくて、ルンドもオスロも蜂の巣をつついたような騒ぎらしいですから」

「身も凍るような恐ろしい話だな。もしかするとこの街にも訪れているかも知れないのか……」

「? なんの話?」

 

 主語を抜いた父と母の話についていけず小首を傾げてしまう。それに常になく難しい顔をしている両親に驚きもした。

 いつもなら柔らかな笑みを絶やさない二人なのだ、珍事といってもいい出来事に困惑を隠せなかった。

 

「ああ、いやなんでもないよ。あれらやあの方々に遭うことなんて早々ない……それこそ雷に打たれるくらいの確率だからな」

「そうね、気にしなくていいわ。でも……そういえばチェリー、あなた昨夜はベルゲンを駆け回っていたんだってね。娘の帰りが遅いとパパやママは心配なの、今日は早く帰ってきてちょうだい」

「え──。そんなこと言われたって。昨日の落し物を探すつづきをしなくちゃいけないのに……。だから見つからなかったら今日も遅くなっちゃうかも」

「だったらパパも探そう。ひとりよりふたりの方が断然いい」

「あら、ママも手伝うわよ。それにチェリー、あなたは今日は体調を崩してるじゃない。無理しちゃだめよ」

「もう、いいってば。だって失くしちゃったのは私のせいだもの、それくらいしなくちゃ」

 

 手で制止ながら断固拒否した。なにせ魔術師といざこざがあったなどバレれば大事になるのは間違いない。

 何としても隠し通さねば……チェリーには変な使命感が芽生えていた。

 

「大丈夫よママ、今日はスクールも早く終わるし、陽もあるからちょっと探せば見つかるわよ」

「そうなの? その……日本人の男の子が落としたっていうメダルだったかしら」

「うん。だからすぐ見つかると思うの」

 

 ふんす、と安心させるように握りこぶしを構えた。

 

「はッ忘れていた! まさかその男の子が一目惚れしてチェリーちゃんの気を惹くためにわざと落としたんじゃないだろうな!? おのれ、かわいい娘をどこともしれない馬の骨に近づける訳には行かん!」

「もうパパったら、そんなんじゃないわ。色恋どころか今度会ったら、鼻っ面へし折ってやるつもりよ!」

 

 胸を張り握り拳を作ったチェリーは猛々しく笑い「なら大丈夫か! ガッハッハッハ!」と父は豪快に笑った。魔術師ビアンキ某をぶん殴るのは決定事項だったが、落し物をしてめんどくさい状況を作ったユーイチと名乗った少年にも一言申さねば気が済まなくなっていた。

 母の心配はどこへやら、ストレスを怒りに変えて虚空にシャドウボクシングし、我が娘の荒っぽさに少し心配になって母ルイセは額を抑えてしまった。

 

「あなたの頑固さと気の強さはどこから引っ張ってきたのかしらね……」

「ママが、っていうかうちの家系の女性陣がのほほんとしすぎなの。アタシが割を食って()()()としてるだけ」

 

 ヒルト家の本家では優秀な魔女を輩出してきたという家系だからか、それとも生来の気性か、目の前の母や祖母を含めた縁戚にある女性一同はおおよそどこか浮世離れしていて、マイペースなきらいがあった。男性陣は熱血漢というか野性味溢れる者が多いのだが。

 チェリーの気性は男女のそれを入れ替えたようで、とは申せ、彼女の気の強さと頑固さはヒルト家全体を見ても群を抜いていた。

 

「……チェリー。もう何度も言っているけど、探し物も言いけれどペンダントは肌身離さず持っておいてちょうだいね」

「え?」

「え、じゃないわよ。あなたに物心ついた頃からずっと言ってるでしょう? あのペンダントはあなたの魔女としての素養を抑える役目を持っているの、失くしでもしたら大変よ。最悪、立てなくなるくらい体調を崩しちゃうんだから……」

 

 冷や汗をかきながら胸元に手を当てて──ない。昨日まで首から下げていたペンダントが影も形もない。どうやら昨夜落としたか、件の魔術師に盗まれたのかも知れない。

 

「あはは〜…………ちゃんとあるわよママ〜」

 

 目を逸らしながら「うんうん」頷いて、逃げるように家を出た。

 そんなぁ……。空を見上げながらため息をついた。尋ね人の男の子に魔術師、落し物のメダルに加えて、なくなったペンダント。

 さらに増えた心配のタネにガックリと肩を落とした。

 

 

 チェリーの通う学校は山の麓にあった。

 ベルゲンの中心部からはすこし離れていて、観光客が訪れることも、ベルゲン急行の騒がしさも届かない、閑かな場所だった。

 春を迎えたこの時期、北欧の厳しい寒さもどこかへ去って暖かくなりはじめると山は緑の活気をすこしだけ取り戻す。

 青と緑が調和して、そうすると体感的な涼しさではなくて目で見る涼しさを感じとることができた。

 チェリーは毎年見れるこの景色を気に入っていた。

 それに緑の自然のなかに埋もれるようなオレンジと赤を混ぜたような校舎はどこか御伽噺めいていて、それもお気に入りの風景だった。

 校門をくぐって教室へ向かうと声をかけられた。

 

「やっほ。久しぶりだね」

「あらリヴ。帰ってきてたのね」

 

 級友で幼なじみのリヴだった。

 帰ってきた、というのも少し前までノルウェーは復活祭(イースター)で学校も合わせるように休校だったのだ。

 日本では馴染みがないがノルウェーを含めたキリスト教圏では重要な祭事で、休日や大型連休となることが多い。日本でいうGWみたいなものだ。

 

「うん。まあまあな休暇だったかな」

「リヴは北のトロムソに行ってたんだっけ」

「スキーをやりにね。記録更新した、イェイ」

 

 トロムソはノルウェー北部にある街で、シーズンにはスキー客で賑わう日本でいう小樽のような旅行地だった。

 金髪をかきあげながら眠たげな目でサムズアップする級友がいつも通りでチェリーは笑顔になった。ちょっとだけ気だるげな雰囲気あるリヴだが暗い性格ではなかった。

 

「それにしても旅行から帰ってきても相変わらずね。リヴが革のジャケット以外を着ているの見たことがないわ」

 

 暗くはないが物臭ではあった。十年ほど友達をやっているチェリーだが、リヴの服装はパイロットが着ていそうな革のジャケットばかりで他の服装を見たことは少ない。チェリーの言葉にリヴは癖のない綺麗な金髪を掻き「着慣れてるからね、防水もしてるし」とうそぶいた。

 雨の街であるベルゲンではいつ降るか分からない雨に怯えなくてすむ効率のいい装備で、物臭な彼女は愛用していた。

 

「"悪い天気なんて存在しない、あるのは悪い服装だけ"って諺にもあるじゃん。雨に備えていればベルゲンの雨なんて怖くないのだ」

「そうはいっても4月に入るくらいからずっと雨なんて降ってないじゃない」

「そーなんだよね。いつもなら雨ばっかりなのに。不思議だよね」

「不思議だよね、じゃなくて着飾ったら? っていってるのよ。もう、ものぐさなんだから」

「へっへっへ」

 

 見てくれは整っているのに本人がこんな調子だから宝の持ち腐れもいいところだ。いつかショッピングに引っ張って着せ替え人形にするのがチェリーの密かな野望であった。

 

「悪いの? 具合」

 

 そうやって密かに燃えていると、隠していた具合の悪さを看破された。どこか間抜けた雰囲気の彼女だが、そういった機微の嗅覚は人一倍だった。

 

「……まあね。昨日無理しちゃって、それが祟ったみたい」

「あいやお大事に。じゃあ学祭の準備には来れなさそう?」

「あ、忘れてた」

 

 基本的に行事なんてものがない学校なのだが、学校の設立とイースターの時期も近いこともあってこの時期になると小規模な学祭が催された。

 お祭り好きな性質のチェリーはいつも音頭をとるポジションで、率先して駆け回るのが毎年のことだったが……僅々のなんやかんやですっかり忘れていた。

 

「しょうがないなぁチェリーくんは。BKBのコーヒー一杯で変わってあげるよん」

「BKBって……ここら辺で一番高いカフェじゃない。一杯50クローネよ50クローネ*1

「わたしの人件費は高いのだ。わっはっは」

「あーもう、この子は。ここぞとばかりに足元見て……」

 

 そんなこんなで高級コーヒーを奢らされる約束をしつつ、彼女たちは教室へ入っていった。

 

 一時限、二時限……チェリーの体調は好転することはなかった。それどころか時間がすぎるほど身体は負荷を増していき、時間感覚が鈍化していった。

 あと一時限を乗り越えれば学校も終わる……。移動教室で席を立とうとしたとき、気が抜けてしまったのか足がもつれて倒れこみそうになった。

 

「いい加減にしな」

 

 予想した衝撃はこなくて、誰かに支えられていた。顔をあげるとあまり見ないすこしだけ苛立った表情で見下ろすリヴがいた。そうして強く手を引かれて、教室から連れ出された。

 

「あ、授業が……」

「言ってる場合?」

 

 じろりと睨まれてさしものチェリーも押し黙った。

 あとは保健室のベッドに寝かされて安静にしてろというありがたいお言葉と強めのデコピンを受けて、チェリーはやっとあきらめた。

 

「なにやってるんだろ」

 

 情けない自分を見せないために空回ってしまった自分にボヤいて目を閉じた。

 

 

 

 ○〇●

 

 瞼をたたく照明の光がチラチラとうるさい。

 目が覚めても変わらない気だるさに辟易しつつ、鉛でも釣りさがっているような重い瞼をやっとこさ開いた。

 どうやら学校の一室にある簡素なベッドに寝かされているようだ。

 基本的にヨーロッパの学校に保健室や保健医はいない。具合が悪くなれば家に帰るよう促されるし、それ以上なら救急車を呼ぶのが一般的だからだ。

 家に帰るのも少し眠れば治ると固辞し、救急車を呼ぶのも忍びなかったチェリーはベッドを貸してもらい結局……

 

「夜になっちゃった、か」

 

 カーテンからのぞく外は真っ暗だった。

 カチ、カチ、カチ、と時間を刻む秒針の針だけが耳に届いて、いつも騒がしい学校の喧騒はどこにもなかった。

 目線をずらすと枕元に「dum(ばか)」と走り書きされた紙とシーベリーの飴がひとつ置いてあった。リヴの字だった。

 ちょっと意地張りすぎたかな、と困ったように胸まで伸びる毛先をいじりながら俯いた。ただ、まなじりは下がっていた。

 ここでジッとしていても仕方がない。

 飴玉を口になかに放り込んで起き上がる。立てかけてあった白のシンプルなカーディガンを羽織ってのそのそとドアへ向かい外へ出た。白濁としたリノリウムが続く廊下には誰もいなかった。

 

「あ。バッグ、取りに行かなくちゃ」

 

 リヴに連れられて教室を抜け出したから荷物はロッカーに置いたままだ。帰るには荷物を取りに行かなくてはいけなかった。

 きっと、それがひとつの分岐点だったのだろう。

 

 校舎は血の流れと骨の軋む音が聞こえるくらい(しず)かだった。廊下に照明は灯っていなくて月明かりだけが光源だった。でも不思議と月から届くあわい光だけで事足りた。

 チェリーの教室はさっきまで眠っていた部屋とおなじ一階にあって、反対側の校舎にあった。少しだけ距離を感じながら夜という見慣れない学校の表情をのぞき歩いた。少しだけ、澱んでいた気分が晴れた気がして──

 

 ──くちゃ。くちゃ。

 

 粘ついた音が耳朶を打った。

 足が無意識に速度を落とし、自分から出す物音を最小限に抑えた。

 なにかに勘づいた訳でもない。

 なにかに思い至った訳でもない。

 けれど、ただひたすらに悪い予感がうなじと背筋を這っていた。

 引き返そう。そうすべきだったけど何故か足は、後ろへ向くことも、立ち止まることもなかった。きっと好奇心が恐怖をクレバスに覆いかぶさった雪のように隠しきってしまったのだ。

 

 ──くちゃ。くちゃ。

 

 咀嚼音だ。

 歩を進めるたびに濡れそぼった音が鮮明になって、あるところで唐突に理解した。

 なにか得体の知れない者が水気のある食べ物を砕いているのだ。恐怖もある、不安もある、葛藤もある。でも好奇心は止まらなかった。

 痛いくらい握りしめていた拳に今更気づいて手首を擦ってゆっくりと開く。温度のない壁に手をついて曲がり角の先から聞こえる音源を……見た。

 

「───────」

 

 声をあげなかったのは奇跡に近かった。廊下の先は──"赤"だった。

 壁と床にぶよぶよとしたピンク色の塊がこびりついて、波打つ赤の上に猛禽の羽が散乱していて揺れていた。まるで鶏舎の屠畜場。鶏糞と獣臭、そして鉄錆びた熱の篭もった空気に思わず口を塞いだ。

 でも死骸を晒すのは鶏ではなくて、夜を領域とする"梟"だった。

 そしてなによりも。

 やはりなによりも目に付いたのは、廊下の真ん中に座り込む大きな影だった。

 

 影は、捕食者だった。

 梟を喰らう口元は真っ赤に染まっていて、フクロウを握りつぶす手もまた赤だった。口に手……捕食者は人の形をしていた。人並みの体躯を持っていた。

 でも、人ではなかった。

 人外は顔中に銀色の剛毛を生やし、筋骨逞しき四肢にも同じような銀毛が生えていた。

 チェリーは眼前の人外に当てはまる言葉を持ち得ていた。それはヨーロッパに広く知られた怪異、ノルウェーに於いては──狼男(ウールヴヘジン)。そう呼ばれるもの。

 疑問や絶望はあとだった、生存と逃亡を成功させなければならなかった。自分の体調不良も目的もなにもかも吹き飛んで、気取られないことを祈りながらゆっくりと来た道を引き返した。

 

 

 

 

 

「……! かはっ……!」

 

 水中から浮き上がって空気を求めるように胸をかき抱いて肺に溜まりきった空気を吐き出す。

 そもそもどうして気付かなかったのか……あたりを見渡せば人っ子ひとりいないではないか。まったくの無音の世界。自分の心音と息遣いしか存在せず、いくら下校時間をすぎた学校とはいえ異常の一言に尽きた。チェリーは今更になって異常さを認識した。

 そしてこれまでの常識をひっくり返す、とびっきりの異常……いいや、あれは怪異だ。廊下で見たものの姿は、脳裏にこびりついて瞼を閉じても離れることはなかった。

 普段見慣れた廊下。日常の一部だからこそ、そこに居座っていた怪異がおぞましい。

 

 でも生きている。恐怖が安堵に代わると、体調を正しく認識できるようになった。コンディションは最悪なのに、なんでもやれるという全能感があった。

 どんな脳内麻薬が出ているのか身を焦がす全能感は凄まじいの一言に尽きた。

 心臓が鼓動を打つたびに身体が跳ねて、血管を裂かんばかりに血が暴れだしている。脳髄から脊髄をなぞる微弱な生体電磁パルスが致死の電流に思えた。

 

「あれは人狼ではなく……恐るべき大王の軍勢の戦士。征服神の切り取られた一側面……。征服神であり天より遣わされた意志の示現……大王とは天より来たりて覇を為す草原の王者……」

 

 口から漏れ出すのは理解不能な言葉の羅列。なにかの知識を口ずさむたびに、さらに体調は急降下して頭痛が加速度的に増していった。

 壁に寄りかかるように歩かなければ、すぐさま立ち止まって昏々と意識を失ったに違いない。

 猫背になりながら何とか這うように校舎から抜け出した。ドアを出て、オレンジ色の外壁に身を預けながら一歩ずつ校門を目指した。

 気力はすでに削れ切っていた。最後の一歩。チェリーが朦朧とする意識のなか気力を振り絞って、足を踏み出し──

 

 ──むんず。

 

()()()()()()()

 

 

「……………………………………………………」

 

 

 意識に空白が生まれて、ちら……と頭を抑えていた手をズラして足元を見れば、どうやら倒れ込んでいた少年の顔を踏んずけていたようだ。

 ちょっと意味が分からない……。

 認めたくはなかったが、さっきまで確かに存在していた恐ろしい非日常をぶち壊された思いだった。

 これまでの頭痛とは別の頭痛が訪れて、若干痙攣しているのに気がついたチェリーはススっ……と時を巻き戻したような挙措で足を引っ込めた。

 

「痛ってて……」

 

 けれど手遅れだったようだ……呻きながら足蹴にしてしまった少年は目を覚ました。

 

「ンだよぉ、手荒い起こし方だな……こんな起こされ方、ムインやエオのいた王国以来じゃないか……」

「あ」

「? お、君はどこかであったな……チェリーっていったっけ?」

 

 少年が起き上がって目を合わさると、果たしてそれは既知の人物だった。特徴的な目の色をした赤色の瞳の少年。そしてチェリーの尋ね人のひとり。

 たしか名前を木下祐一といっていた。

 

「う、く……」

 

 と、そこが限界だった。

 頭痛が暴風さながらに脳で荒れ狂って、視界が白に染まった。力が抜けきった身体が祐一へ倒れかかるように崩れた。

 当の祐一はというと、死から目覚めると目の前に既知の少女がいて、いきなり倒れかかってきたという状況に……

 

「………………俺こういうときどうしたらいいか分からないの…………」

 

 正直意味がわからず泣きが入っていた。

 残念ながら対女性クソ雑魚魔王には荷が重かったようで挙動不審になっていた。

 

『おぬしは仮にも王であろう。おなごの1人や2人で心乱されるとは情けないのぉ』

「なんだよ叢雲ぉ、俺が女慣れしてないからってイジんなよ……

『くっくっく』

 

 憮然としつつ、とりあえずチェリーを横にしてブレザーを脱いで枕にした。

 

 まだ忍び笑いをもらしている叢雲に構わず、あたりを見渡した。夜の、学校……のようだが何かがおかしい。

 

「ここ何処だ? ていうか何でこの子が?」

『それより祐一。おぬし、身体に違和はないか』

 

 辺りをキョロキョロと見渡していると叢雲に体調の有無を問われた。こちらは『雄羊』で全快しているのだ、元気に決まって……

 

「別に普通………………いや、めちゃくちゃ怠いな? というか今にも死にそうだ……なんだこれオェ」

『何故自覚がないのだ……』

 

 堪らず地面に身を投げ出した。拳を作ろうとするが力が入らない。死を得た筋肉が硬直するように抵抗力を憶えた。

 

「『雄羊』を使ったんだぞ……。俺は1度死んで生き返ったはずじゃ……?」

 

『雄羊』を行使すれば必ず完治する。過去一度もなかった現象に祐一は戸惑いを覚えた。

 

『おそらくサトゥルヌスによる死を受けたからであろう』

 

 言われて服を剥いだ。腹部を見れば、バッサリとサトゥルヌスに切り裂かれた痕が残っていた。痕は蠕動を繰り返し、呪いの如く全身に伸びていた。

 呪痕、と言うべきか。

 

「うえ、気持ち悪……。闇を持ち帰りしサトゥルヌスの、冥府よりも深い死ってやつか」

『彼の王も申していた通り、彼奴は死そのものとなった。おぬしは先刻"死"を植え付けられたのではないか。かつて農耕神であった彼奴がおぬしに種を植え付けたように』

 

 叢雲の考察を聞きながら苦々しい顔を作った。化身でも無力化できない濃密な死とは恐れ入る。

 小一時間唸りながら呪力を練った。そうでもしなければ波涛のごとく迫るサトゥルヌスの死から抵抗できそうになかった。

 けれど、どれだけ呪力の壁で阻んでもちっとも良くならない。悪化するばかりだ。臍を噛みながら、それでも祐一にはひとつの解決手段があった。

 サトゥルヌスの死に唯一抗えるのは、同じく冥府より持ち帰った──光。古来より闇を払う篝火こそが唯一絶対の鍵なのだ。

 

「牡牛を喰らう聖別のゆらめきよ。我を焚べよう、聖餐としよう。我が一切の不浄を打ち払いたまえ」

 

 呪句を口ずさむと右腕から青白い火が熾って腹部へ伸びた。腹部の傷を沿うように熱を感じる。治癒されていく快楽を受け取りながら、死が遠ざかっていくのを感じた。

 そのまま暫くすると彼の息遣いも落ち着いたものへと変わった。だが祐一は首を振った。

 

「ちっ、ダメだな。死にはしなくなったけど本調子には程遠い。化身たちも応えてくれない……不味いな」

『オレの見立てでも今のおぬしは人の範疇に収まる程度の厄介さしか感じぬ。権能は一時使えぬものと考えた方がよかろう』

「てぇと……当分アイツらとの接触は避けた方がいいか」

 

 苦虫を噛み潰したように渋面をつくり唸った。サトゥルヌスとの戦いは終始祐一が押しているように思えたが、サトゥルヌスの策略だったのかもしれない。充分有り得る。やつは時の神で、望めば全知に等しい存在にも成れるのだから。

 祐一は相対していた宿敵の先見と胆力に唇を噛んだ。

 

『それに祐一よ、あたりを()()みよ』

 

 返事を返す前に、叢雲の真意を汲み取った。

 

「なんだこれ、まるで"幽世"じゃないか」

 

 その呟きに集約されていた。死による倦怠感とは別の……薄ら寒い気配に眉根がよる。

 この場は異界だった。祐一のいう"まるで"という表現も正しく当てはまった。

 現世とも幽世とも異なった雰囲気があたりには漂っていて、蛇の気配が渦巻く夜気に満ちた世界だった。

 

 蛇と夜の気配が巣食う世界。

 そして、そんな神性をもつ者など一柱しかいない。

 

 アテナが近くにいるかもしれない。焦りが死と火の均衡を崩した。

 酷い倦怠感がぶり返してきて「おぉん……」と、のたうち回っていると二つの目と視線が繋がった。

 

 いつの間にか目を覚ましていたらしいチェリーだった。

 彼女は祐一と目が合うと、頭痛に苦しんでいる事実なんてなかったように起き上がって胸を張りニヤリと笑った。

 カッと目を見開いた祐一も身を起こすと、張り合うように腕を組んで胸を反らした。

 

 無理をなさらないことですわお身体に障りましてよ……は? 無理なんてしてないんだが……それより君の顔も真っ青だし横になった方がいいんじゃないか? 

 

 眼力をバチバチ飛ばし合いながら煽り合い──数分後には二人仲良くオェー! していた。

 あ、阿呆かおぬしらは……。さすがの最源流の鋼も引いていた。

 

 

 祐一にとって呼吸とは一つの術と言ってもいい。

 外気を内にいれ臍下丹田に気を満たす、循環させ代謝を促し体調を戻す……常に繰り返しありふれた呼吸だからこそ、いつ何時であっても行える術だ。

 

「……」

 

 祐一は異界に満ちる外気を内に入れ馴染ませることで抵抗力を得た。みるみる顔色を戻し、一息つく。

 いつの間にか自分も遠いところまで来たなぁ……と遠い目になりつつ、横を見ると必死に立ち上がろうとするチェリーがいた。

 

「俺はズルしただけだから対抗しなくていいって。お前は寝てろ」

「あうっ」

 

 人差し指でおでこをついて身体を倒させた。人から外れた自分と張り合う気概は大したものだと認めるが無理はさせたくはない。

 苦笑いしていると寝転んだチェリーが不貞腐れた顔で祐一の指を払った。

 

「アタシだっていつも通りなら……。今はペンダントをなくしちゃってちょっとだけ体調を崩しているだけよ」

「ん、ペンダントってこれか?」

 

 祐一の言葉に目を瞬かせていると彼は懐から黄褐色のペンデュラムを取り出した。間違いない。見慣れたペンダントだった。受け取った彼女は早速首に下げた。すると見違えるほど血色が改善した。

 

「……あなたが拾ってくれたのね。というか拾ってたなら早く返しなさいよ」

「ごめん忘れてた」

「アンタねェ……」

 

 頭をかいてたははと笑う彼に、憤懣やるかたないと肩をいからせたが直ぐに首を振った。

 

「色々言いたいことはあるけど、でも最初は……ありがと、そして、ごめんなさい。情けないところを見せたわね」

「なに、気にすんなって。お互い様だ」

 

 手をひらひらと振って、なんてことないと微笑っていた。気負いのない態度に少しだけ肩から力が抜けた。

 

「あ、そういや君。これくらいのメダルを見なかったか? 蛇の意匠が彫ってあるやつで、どうも君と別れてから無くしたみたいでな」

 

 祐一から質問が飛んできた。蛇の意匠を象ったメダル、と聞けば思い当たるのはひとつで、けれど、手元にはもうなかった。

 

「それは……ごめんなさい。あなたと別れたあと拾ったんだけど……」

「なくした、か?」

「ええ。なくしたというより盗られちゃったんだけどね」

 

 ビアンキと名乗ったいけ好かない魔術師を思い浮かべながら、そう言えばと彼に確認しなければいけないことを思い出した。

 

「ねぇ。あなたも"魔術師"ってのなんでしょ?」

「あー……まぁそんなもんだな」

「やっぱり。最初は気づかなかったけど、あなたから感じる気配は昨晩会ったビアンキって魔術師と似てるもの」

「ビアンキ?」

「ええ。アタシからメダルを盗った魔術師よ」

「盗った……魔術師……ははーん、なるほどわかったぞ。あの時"違う"って言ってたのはそういう事か。……でも君も魔術なんてもの知ってたんだな。なんというか、君からはこっち側の独特な臭いがしないからさ」

「日が浅いんだし仕方ないわ。魔術師なんて言葉を知ったのも先週あたりじゃないかしら?」

「道理で……」

 

 そこでチェリーは申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「あのメダル大切なものだったんでしょ? ビアンキって魔術師探すのよね、良かったら手伝わせてくれないかしら。アタシにも責任があるもの」

「ん、いや気にしなくていいよ。昨晩、俺はその人に会ったし、ペンダントしか持ってなかったからな。きっと、あのメダル……ゴルゴネイオンはあの夜に失くしてしまう《運命》だったんだ」

 

 運命、ゴルゴネイオン……。 

 強調されたわけでもない、ありふれた単語が、いやに耳に残った。問いかけたが、はぐらかしそれ以上は語るつもりはないらしい。

 ま、イイケド。チェリーは嘆息し、ちょっと身を乗り出して彼と目を合わせた。

 

「で、あなたはこんな所に倒れて何やってたのよ? 詳しくは知らないけど、ここって"オカシイ"の。だからこそ、こんな所で吞気に眠ってたあなたが不思議で堪らないわ」

「まあなんだ。信じろとは言えないけど、ちょっと死んでた」

「…………まぁ……いいわ」

 

 まともな答えが返ってくる期待はしてなかったが、予想の斜め上をいく回答に思考がフリーズしてしまった。

 死んだ、なんて彼が言うものだからキョロキョロと辺りを見渡して、この不気味な空間を見やった。夜気に満ちた世界を。

 

「……ここってまさか天国ってワケじゃないんでしょ?」

「違うと思うぞ。胸に手を当ててみな、動いてるだろ。正直、ここが一体何なのかは俺にもよく分からん」

 

 叢雲えもんわかる? と彼はどこから取り出したのか白い長刀を取り出した。あまりに突飛なことに目を白黒させているのと、声が聞こえたのは同時だった。

 

『さて。しかし異界などというものは得てして"歪み"から生まれるものだ』

「歪み?」

『応。祐一、おぬしは世界がひとつではないことは知っておろう』

「まあな。ヒューペルボレアだって、護堂さんの此処だってそうだろ」

『左様、世界は無数にあるもの。そして時折、世界は枝葉のごとく別れることがある……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 矛盾を生み出した因果におぬしは心当たりがあろう? まつろわぬ神やおぬしが合力し、定められた運命を覆しでもすれば容易く"歪み"は生まれる。偽のゴルゴネイオンとやらも、おそらく、この異界が生まれたのも"歪み"によるものだろう』

「自業自得。いや、因果応報……か」

 

 ため息をついていると肩を叩かれた。

 

「で、結局ここから出れるの? 出れないの?」

 

 チェリーが憮然とした膨れっ面を作っていた。

 

「話の半分もわかってないけど、アタシ達が入り込んだって言うんなら入口があるんでしょ。入れたのなら出口もあるんじゃないの?」

「言いにくいけど、知らないんだよなぁ。ここに迷い込むのも初めてだし、どんな法則でこの領域が動いているのも分からないんだ」

「そうなの……?」

『だがこの異界は"歪み"を核として発生している。少なくとも(歪み)を排除してしまえば、消滅するだろう』

 

 ふぅんと祐一がいつもの分かったのどうか分からない相槌を打った。

 

「……ちょっと。軽く流してたけど、もしかしてこの声ってその剣から出てるの? 腹話術じゃなくて?」

「おお。俺の相棒で叢雲ってんだ、正真正銘の剣だぜ」

「ムァークォ? 変な名前ね」

(オレ)も永い生を歩んできたが名を誹られたのは初めてだ……』

「わ、ホントに会話できるんだ。インテリジェンスソードってやつね。チェリーよ、よろしく」

 

 悪びれた様子もなく気安い態度で日本の名だたる神刀と会話をするチェリーに肝が太いなぁ……と眺めていた。

 

「あ、そうだ。君はここを探索してたんだろう? なにか心当たりはないかな、さっきまで寝てた俺よりかは詳しいと思うし」

「探索ってほど大したものじゃないわよ。帰ろうとしただけだし……でもそうね。いたわ。人の姿をした狼の化け物がね」

「狼?」

「ええ。おとぎ話や空想にしか出てこないような……歪みなんてものが何か知らないけど、きっと歪みがあるっていうならアレじゃないかしら? 勘だけど」

「ありがとう。闇雲に突っ走しらずにすみそうだよ」

「ね、あなたに付いていってもいい? 下手に一人になるより固まった方が良いと思うし……アタシだってあのメダルを無くしちゃった責任があるもの、手伝いたいわ」

 

 本当に肝が太いな、と苦笑した。

 

「いいや、付いてこないでくれ」

「どうして?」

 

 訝しんで吐いた言葉には自分でも驚くほど険が篭もっていた。それでも彼は一切の変化を見せなかった。

 

「下手に関わると君が()()()()に目を付けられてしまう。この異界なんて場所にもアイツらがいないとも限らないからな……巻き込まれれば君は命を落とすかもしれない。だからやめといた方がいい」

 

 また、運命。正直に言ってその言葉が癪に障った。追いうちのように白い剣も意を揃えた。

 

『娘、祐一の忠告に従っておけ。おぬしの(かんなぎ)としての素養はオレから観ても優秀を超え、もはや異様なものだ。……まつろわぬ神と出会えば、貪られ滋養とされるか、巫女という隷属を強いられるであろう』

「ニニアンやテスラから感じる気配に似てるなって思ってたけど……そんなにか?」

『是だ。娘の首飾りは巧妙に隠されてはいるが、"鋼"の神性を帯びておる。大地とは天敵の神性をな。おそらく娘の、人の身には過ぎた才を抑えるのではなく殺すためのものだろう……才を殺すことで生まれる不調よりも、才があることで生まれる不調の方が、上回るほどのな』

「とびっきりの巫女としての才能か。まつろわぬ神に出会いでもしたら、なんて考えたくもないな……」

 

「──ユーイチ」

 

 静かだが怒りを孕んだ声に一人と一本は口を閉ざした。

 

「アンタたち、なにか勘違いしてないかしら? アタシが"異界"なんていう場所にいる時点でもう巻き込まれているって……そう思わない?」

「それは、そうだが」

「いいえ、間違いなくそうよ。アタシが出会った校舎の怪物はね、これまでの人生で見たこともない狼の怪物だったのよ。

 恐ろしかったわ……ええ、認めましょう。ママが昔、話してくれた狂った狼の毛皮をまとった戦士(ベルセルク)さながらで、心臓を掴まれたみたいに竦みあがったわ。だからアタシは情けなく逃げ出した」

 

 チェリーは大きく鼻を鳴らした。

 

「でもこれはいいわ。納得したげる。あのまま見つかっていたら爪に肌は裂かれて、牙に首を砕かれていたに決まってるわ」

 

 祐一の鼻っ面を指をさす。

 

「でも命を落とす()()()()()()? バカね、そんなこと言ってたら何も始まらないじゃない。

 まともじゃない運命に巻き込まれる()()()()()()? だからなに? アタシはまだ訪れてもいない未来に怖がったりしないわ」

 

 赤色の烈火の如き双眸を見据えた。負けず劣らずの苛烈な意志を宿した瞳でもって。

 

「それにねアタシはメダルを無くした、でも、だから責任を取るんじゃないわ……責任を取らせなさい。思う存分巻き込みなさいよ」

 

 言い切った彼女に祐一はそれでもと首を振った。

 

「それでもだ。ここは君の故郷なんだろ? 親だっているはずだ、友達だって……なら、そうすべきじゃない」

「でも、それこそ、アンタはそうするの?」

 

 どうだとばかりに鼻を鳴らすチェリーに、祐一はというとクツクツと肩を揺らして笑い始めた。それを言われたら引き下がれない。

 

「アンタおもしろいな。うん、()()()()よ」

「ちょっと、なに笑ってるのよ」

「ああ、すまん。昔を思い出してな……。

 そこまで言うならガッツリ巻き込ませて貰うぜ……昨日から考えてた事があったんだ」

『おい、祐一!』

「いいじゃないか、先ずは話だけでも。……チェリー、俺がお前とあった日に"人を追ってる"って言ったの覚えてるか? んでさ、そいつがこのベルゲンにいるんだ」

「人探しにアタシにも手伝えっていうの?」

「話が早くて助かる。……そいつは厄介なことに、こんな異界なんてものを作れたり、さっき言ってた狼の化け物だって多分一蹴してしまうくらい強いやつときた」

「……」

「それだけじゃないぜ。巧妙さも持ってて、ベルゲンのどこかに身を潜めていて簡単には探し出せないんだ」

「……そこで地理にも詳しいアタシを? いいえ、それだけじゃないわね。アンタたちがさっき言ってたわね。アタシはそいつらに見つかりでもしたら()()()()って……つまり、アタシに釣り出す"生き餌"になれ。そう言ってるんでしょ?」

「そうなるな。どうする、いまならまだ降りれるんだぜ」

 

 祐一にとっても不思議なのだが、このチェリーという少女に張り合ってきたら張り合い返してしまいたくなる捻れた好意を抱いていた。

 打てば響く、というより打てば殴り返してくる彼女に敵愾心にも似た感情を向けてしまっていたのだ。

 だから"コイツはどこまで付いてこれるのだろう"という興味が尽きなかった。そんな感情を下敷きにしていたから、挑発を吐きながら犬歯を剥いて笑っていた。

 

「アタシはあんた達(魔術師たち)の界隈に入って日が浅いからわからないけど、それって怪物が人を襲ったり、街を壊したりもできるんでしょ?」

「一夜で海に沈めるのも、疫病の街にするも、なんでもござれさ」

「……要するに放っておいたらベルゲン(アタシの街)で好き勝手するってことじゃない」

「そうなるかな」

「そ、ならいいわ。上等よ。あなたがいう"そいつ"ってのにアタシが狙われてあげてもいいわ。でもその後はどうするのよ」

「心配すんな。俺がくる」

「ふぅん……。ちょっと頼りないケド……いいわ、巻き込まれてあげる」

 

 祐一をまた指差すとまとめるように言った

 

「アタシは逃げる、アンタはさっさと助けにくる」

 

 シンプルでいいじゃない。とチェリーは愉快げに肩を揺らした。そこに臆した様子はない。神殺しの威嚇を前にしてさえ、自分を貫く人間なんてどれほどいるだろう? 

 

「いいね。やっぱアンタ、悪くないよ」

 

 祐一の笑みはもはや獣の威嚇と変わらなかった。

 コイツこんな顔を隠してたのね、と呆れた。もう第一印象にあった柔弱としたイメージはもうどこにもなかった。

 

「期間は新月の夜まで。六日間だな。アンタは逃げる、俺は狩る」

 

 これが前提条件で、二人の交わす契約だった。

 

「敵が襲ってくるのは何時か分からない。ただ、ここは夜の気配が濃いから、毎夜、異界に迷い込むことになると踏んでる」

『そして娘、おぬしはその有り余る巫の才によって必ず異界へ誘われるだろう』

「何よ。どっちを選んでも変わんないじゃないの」

『申し出を蹴り、この地を去る選択肢もあると言っておるのだ。この騒乱に首を突っ込めば、死ぬのは必定』

「ベルゲンを捨てて逃げる? 冗談キツいわね、アタシの決心は変わらないわよ」

 

 どこまでも気の強い言葉に、口角を吊り上げて笑った。

 

「じゃあ短い間だが俺たちは仲間でも味方でもないが、二人三脚のバディだ。……よろしく頼むぜ相棒」

「いいわ、やったげる。欲しい未来は自分から歩いて行かなくちゃ辿り着かないもの」

 

 そうしてどちらともなく差し出された手をとった。

 彼の手は冷えた鉄を思わせるほど硬い掌だった。同年代とは思えないほど節くれだっていて、若さを見失うほど戦塵に塗れた手に、彼の自信を裏打ちする正体を垣間見た気がした。少しだけ、唇を噛んでしまう。

 

「で、お前の言ってた狼の怪物ってあれか?」

「えっ」

 

 不意に祐一が指さした。

 自分ではなく肩越しの背後を射抜いていて、慌てて振り向けばさきほど邂逅した狼の怪物が直立していた。

 銀の毛並みは月光に晒され、悟った。

 銀色だと思っていた毛並みはどこか青みを帯びていて、例えるなら蒼銀。蒼さを秘めた狼だったのだと初めて気づいた。

 

「人狼、あるいは狼男って言や、変身や月が重要なファクターになってくるんだが……この北欧じゃちょっと毛色がちがうみたいだな」

 

 化け物を目前にしても祐一はいつも通りの声音で、ともすれば世間話でもするように語り始めた。

 

「もともと人間ってのは動物の毛皮を被ることによって肉体的、又は、霊的な力を獲れると考えていたらしい……シャーマンや巫女が動物の仮面をかぶってたりするのはそれだな。

 そしてこの北欧でもその考えはあって動物の中でも多かったのは強壮な熊、そして恐れを知らない()だった」

「へぇ、詳しいのね?」

 

 昔の家族や友達教えてもらってな、祐一は目を逸らしながら頬をかいていた。

 

「象徴となった狼の霊力を得るために毛皮を身につけるようになった。狼の毛皮(ウルフへドナー)なんて単語が残るくらいメジャーだった狼のすがたをした狂戦士は現代にいたるまで語り継がれて……」

「……──あの人狼にまで影響を与えてしまった?」

 

 今度は祐一が訝しむ番だった。チェリーを見れば瞳に光はなく、トランス状態に陥っている様子だった。

 霊視か。祐一はかつて自分にも起きた異変を思い出し、ただ、彼女の霊視はとても()()なものだった。自分のような雑で無理やりといった様子はなかった。

 

「あれは決して神々の戦士たるベルセルクじゃない。奈落(タルタロス)より来りて覇を為す──蒼き狼。ベオウルフと蒼き狼は同じく狼、互いに影響しやすく枷を喪っていたあの人狼は伝承におけるベオウルフの狂気に呑まれてしまった」

 

 前評判どおりの巫女の才能。これはまつろわぬ神じゃなくても欲が出てしまう。

 ペンダントによって巫女の才を抑えられてしまっているらしいが、その枷が無くなればどうなるのか。と言ってもペンダントを外せば先刻のように不調に陥るので詮無いことだが気になった。

 

「人狼の根源とは草原と天。そして人間を統べる恐るべき大王(アンゴルモア)の名は──"チンギス・ハーン"」

「ホンモノの霊視ってのはすげぇんだな……一目観ただけで正体を喝破できるなんて。でも、ちょっと寝てな。俺も霊視を下ろしたことあるけどスゲェ負荷だったし」

 

 すぐ終わらせて元の場所にもどしてやるよ、と笑った。

 声に促されるように緊張の糸が切れ、くずおれた。

 チェリーが意識を失うの見届けると、背を向けた。只人にとっては恐るべき怪物もとへ、なんの気負いもなく。

 

「すまなかったな……サトゥルヌスにやられて、お前の手綱を離しちまった」

 

 月光に照らされた影が不自然に蠢く。足元から伸びた影が矢のように走り、人狼が飛びずさるより早く、影が人狼を捕らえた。

 

「迎えに来たぞ。……さぁ──帰ってこい」

 

 そこからもう波乱はなかった。人狼は影におおわれ、闇のなかへ帰っていった。

 

「おかえり。いっちょ上がりだ」

 

 祐一の言葉が引き金となったのか、呼応するように空間がねじれ世界はもどってきた。

*1
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徒然

 

「alea jacta est」

 

 無明のくらやみに響く緩慢な呟き。大地を降り降った果ての場所で、冥府は重苦しく息を吐いた。

 

「余は種を撒き終え、アテナの仕込みはとうに終わっている。木下祐一はやはり無知のまま突き進み……」

 

 澱の底。何人も感知出来ぬ場所で死と時を下僕とするまつろわぬ神は呟いた。

 

「あとは天命を待つのみか」

 

 巨神、未だ動かず。

 

 ○〇●

 

 結局、目を覚ました時には祐一のすがたはなかった。

 校舎のベッドにふたたび寝かされていて「夢だった」といわれてたら、やっぱりか、と信じてしまえそうだった。

 

「でも、違うんでしょうね」

 

 首からつり下がったペンダントが動かぬ証拠だった。決して記憶が白昼夢や幻覚ではなかったのだと訴えかけている。

 

 人狼も、異界も、そして彼も、嘘なんかじゃなかった。そして彼と結んだ約束も。

 

 唇を引き結ぶ。人狼と彼がどうなったかは分からないが、自分がまだ生きているのなら彼が決着をつけたのだろう。

 そして、まだあんな怪物との邂逅が続いていく。

 彼は六日間と言っていた。昨日は人狼で、あと五回は繰り返されると考えていい……そして夜には必ず巻き込まれるとも。

 

「いいわ。来るなら来なさい……返り討ちにしたげるわ」

 

 瞳に反骨心を滾らせながらまだ見ぬ敵とやらを睨んだ。

 

 家に着いたのは二十時になる前で、意外と時間は進んでいなかった。

 日を跨いでないからセーフ! とポジティブに帰宅したがカンカンに怒った母に吊し上げられる現実は変わらなかった。アタシ……悪くない……。理不尽さと祐一への怒りを滾らせながらその日は就寝した。

 

 

「いってきまーす!」

 

 夜が明けて午前の十時。

 疲労からか寝過ごしてしまったがイースター休暇が終わってはじめての休みだ。

 目が覚めると早速、日課のランニングに出た。

 非日常が続き、これから続くらしいが日課をサボる理由にはならない。というより非日常が訪れるからこそ、やらなければ。

 昨晩、痛感して得たものは"体が動かなければ何も出来なくなる"という教訓だった。ここぞという時に、疲労や体調不良で倒れるなんて展開もうごめんだった。

 

 今日のベルゲンも晴れていた。

 ただ、雲の面積がいつもより大きくて気温は低い。季節は春だが、日本だったら十分冬と言い張れる気温でもある。

 昨日までは鬱陶しいほどあった日差しが今日は鳴りを潜めていて、やっぱりベルゲンの天気は気まぐれねーっと白い息を吐きながら空を眺めた。

 チェリーの住居はベルゲンの中心部から少しはずれたオルスタンドという自治体にあって区画整理こそされているものの雑多な住宅街がならぶ。

 冬には家に引きこもっていた人達も春になり暖かくなって活動的だ。

 

「あらチェリーちゃん、おはよう。今日はちょっと遅いわねぇ、探し物は見つかったのかしら?」

「うん!」

 

 ニカッと笑ってペンダントを掲げる。ランニングに出れば必ずと言っていいほど近所の住人に声を掛けられるし、いつの間に探し物をしていたことも広まっていたみたいだ。 

 白い息を吐いて、ときおり挨拶して、いつも通りの故郷を楽しんだ。……でも思考を占めているのは昨晩のことへ帰結した。

 

 昨日を含め、六日間。つまり新月まで自分はいつ襲われるとも知らない身に陥った。襲撃者は昨夜のような怪異、魔物……そう呼ばれる毛生の類だという。

 命の安全はなく、さりとてやらなければ死人が出るかもしれず、ベルゲンも脅威に晒されるらしい。

 安請け合いではなかったが一時のテンションに身を任せて即断してしまい、今更ながら思うところが出てきた。

 分からないことが多すぎるのだ。

 敵とはなんなのか。

 祐一と敵対する理由はなんなのか。

 なぜ六日なのか。

 なぜベルゲンだったのか。

 

「それにユーイチが言うには夜も昼も関係なく、いつ何時襲ってくるかもしれないのよね……。というかアイツもアイツよ、何も言わずに立ち去るなんて。"泳がせる"なんて言ってたけど監視してたりするのかしら」

 

 疑問は波涛のごとく湧き出て、走りながらぼうっとするというのもおかしいが思考に埋没しすぎて、気づけばブリッゲンにまで来てしまった。

 ベルゲンはモザイクが多くて、暖色系な景観もともなって街全体に温度を感じ取れた。

 時刻はそろそろ十一時。気づけば1時間近く走り続けていたらしい。

 ブリッゲンの商店も「OPEN」の板を下げて、観光客で賑わいはじめている。いつもと変わらない景色、でもいつもより張り詰めている自分に気づいた。

 四六時中気を張っていても仕方がない、いつも座っているベンチで休憩しよう。そうしていつものベンチへ向かった。

 

 ベンチには先客がいた。

 深くベンチに腰掛けて後ろへ倒れかかるように……もはやエビ反りになって眠っている少年がいた。というか祐一だった。

 

「………………………………」

 

 タッタッタッ………………ツカツカツカ。

 

「アンタ何やってんのよ」

「うごっ」

 

 げしっ。

 ランニングは中断だ、のんきに眠っている自称相棒にベンチごと蹴りを入れた。爆睡中の人間がいきなり起こされたような反応をみせ緊張感もなにもない祐一に、消えたはずの頭痛が舞い戻ってきた気がした。

 彼はチェリーに気がつくと、ヘラヘラと笑いかけてきた。

 

「お、チェリーじゃん。昨晩ぶりだな。……ってかなんだよいきなり」

「アンタねぇぇ……昨日あんなもの見せられてアタシが真面目に悩んでたのにアンタはぁぁ……」

 

 肩を怒らせて……風船が萎むようにがっくりと項垂れた。目の前の少年のとぼけた顔をみていると馬鹿らしくなってしまった。

 

「もう。アンタが寝てる間に昨日みたいな怪物に襲われたらどうするのよ」

「そうはいってもな。言わなかったっけ、俺は()()()って。いつもなら元通りなんだけど、今回は相手が悪くってなぁ……」

「どうしたって言うのよ」

「ん。臍下丹田つって……呪力とか魔力そんなものを生み出す力の源に、手酷い傷を受けててな、まだ本調子じゃないのさ」

「頼りないわねー」

「そう言うなよ」

 

 だから休養と力を蓄えているんだ、そう祐一は右腕をさするような動作をしながら嘯いた。

 祐一の隣にどっかと腰を下ろして半眼で見やる。

 

「昨日も思ったけど、死んだ、って言われて"はいそーですか"ってなると思う?」

「思わんなぁ」

「でしょ?」

 

 そうはいうチェリーだったが、なんとなく……本当になんとなく、祐一の右手の奥深くに"松明に焚かれて燃え盛る聖なる火"を観た気がした。

 

「死んでも死にきれないくらい、俺と、俺が追ってるやつは因縁があるってことさ。理解してもらおうとまでは思わないけどな」

「そ。アンタの話ってなんかデタラメすぎてもう話半分で聞くことにしたわ」

「はは。それくらいの開き直りがいいかもな」

 

 彼は太陽をみた。不思議なことに彼の赤い目が太陽と繋がると、空にあったはずの雲が姿を隠していった。

 

「まあそれに……いったろ? 相手が悪いって。それは俺だけじゃなくて向こうも同じでな……俺は光で、あっちは闇。きっと今度会ったらどっちかが死ぬまでやり合うことになる。おいそれと手は出して来ないはずさ」

「死ぬまでって……穏やかじゃないわね」

「いつものことだよ」

 

 肩をすくめる祐一に、彼と握手を交わしたときの感触を肌が思い出した。もしかしたら彼の言葉に嘘は無いのかも知れない、そんな気持ちが芽生えた。

 でも修羅場をくぐって来たみたいだけど、今はアタシだってそうなんだから。チェリーはなにも特別なことじゃないと彼の前でも気負うことはしなかった。

 

「それで。ユーイチ、アンタが追ってるやつは一体何人いるわけ? ひとりって訳じゃないんでしょ」

「……どうしてそう思った」

「あら。ホントにひとりじゃないんだ」

「カマかけかよ。趣味が悪いぞ」

「失礼ね。ちゃんと予想してよ、カマかけもちょっとだけあったけど」

 

 小さく笑いながら晴れていく空を彼女も眺めた。

 

「最初はちょっとした違和感。追ってるって人は確かに一人を指してたけど……アタシを狙ってくる奴はそれだけじゃないように思えたの」

「…………」

「それに、あなたは私を泳がせるんでしょ? それってちょっと迂遠だなって思ったよ……まるで沢山の追っ手を誘き寄せる、釣りでいう撒き餌釣りみたいなものだなぁって。違う?」

「……そうだ。お前という見せ札があれば、あいつらの"どちらか"が引っかかってくれるかもしれない。そう考えたんだ」

「どっちか、ね。っていうと二人いるのね? あなたたち三人は、なにが目的は知らないけどこのベルゲンでよからぬ事を"やらかそう"としてる」

「ま、俺の目論見はアンタですら分かったってことはご破算になったけどな」

 

 やっぱ策を弄すんのは苦手だ、とぼやいた。

 

「でもアタシの価値が損じたわけでもないでしょ。その二人にはアタシは餌になれる。そしてベルゲンが危ないっていう事実も変わらないわ。なら降りもしないわ」

「……ホント、肝が据わってるよ」

「でも教えて。アンタ達三人はなんなの? アタシが最近見知った魔術が絡んでるのは間違いない。その上でこのベルゲンで私の素養やゴルゴネイオンっていったかしら? を奪い合って、何をしようっての? 

 アンタがベルゲンを守るっていうんなら、アタシを使いなさい、でも荒らすっていうならアタシはこの話から()()()わ」

「……勘違いするな、俺は奴らを止めに来たんだ。俺が言わなきゃいけないのを言ってないのも自覚してるし、巻き込んだうえで詳しく言えないのは申し訳ないと思ってる。でも、俺は話すつもりはない。……知らない方がいいと思うから」

「アンタねぇ──」

「そんでこれだけは断言する。お前の街は決して()()()()()。それだけは俺の友と、共に戦った同胞たちに誓おう」

 

 彼は虚空で剣を取って掲げる仕草をし、心臓を叩いた。こちらを真摯に見据える祐一はそれまで雰囲気を一変させていた。決して違えないと言外に訴えていた。

 だからこそチェリーの表情は険しいものとなった。

 祐一は"それ"をするほどの大敵と事を構えていて、ベルゲンを壊しうる確固たるなにかがある……そう汲み取れたからだ。

 少なくともチェリーはそう捉えた。なまじ人なんて赤子の手をひねるように殺せそうな人狼を降したらしい彼だからこそ、信憑性がいやに高く思えた。

 

「でも……そうだな。これだけは教えとくよ」

 

 姿勢を崩して少し気だるそうに背もたれに寄りかかった。

 

「俺が落としてお前が拾ったあのメダル……ゴルゴネイオンっていうんだが……そのゴルゴネイオンを、俺たち三人は奪い合ってる」

「ゴルゴネイオン……。それってアンタたちが命を懸けてまで奪い合いほど大事なものなの?」

「俺はどうでもいいんだがな。……だけど奴らにとっては格別の代物らしい」

 

 肩を竦め、だからそこに俺はつけ入るんだ、と零した。

 

「でもゴルゴネイオンはどこにあるか分かんないんでしょ? もしかして"あて"があるの? ……あの異界とかいう場所にあるとか、勘だけど」

「鋭いな。俺もそう睨んでるよ、歪みから生まれる異界。そして異界なんてものを生み出すほどの歪みと格を持ってるものなんて、渦中の"ゴルゴネイオン"くらいしかないからなぁ」

「異界を生み出す歪みにゴルゴネイオンね……。ま、分からないことだらけだけど、アンタだって分からないことだらけだってことは分かったわ」

「そーかい」

 

 そこで『ぐるるる……』と腹の虫がなった。

 チェリーは朝食を軽く食べていたし、空腹を覚えていない。であれば……。ジト目で隣の相棒とやらをみた。

 

「いや……飯がなくてさ……。色々あってカロリー使ったし、めちゃくちゃ腹減ってんだぁ……」

「買えばいいじゃない」

「ふっ、流離いの旅人は余計なものを持ち歩かないのサ……」

「バカじゃないの? ここどこだか判ってる? ノルウェーよノルウェー、物価が高くて有名な。そこに素寒貧でやってくるなんて何考えてるのよ、ちょっと前の気温で野宿してたら死んでるわよ。あっきれた奴」

「あ、あの、すいません……言葉でぶん殴るにももうちょこっと手心をいただけると……」

「は?」

「あ、なんでもないッス」

 

 立て板に水をかけ塩撒いたような対応に非の打ちどころしかない祐一は黙り込むしかなかった。というか彼は神殺しを為して以降ずっと無一文だった実績がある。よくこれまで生きてこれたものである。

 

「日本人って、アンタみたいなのばっかなの?」

「そうじゃねーの?」

「…………そう」

 

 チェリーのなかで日本人観が大きく歪んだ音がした。

 

「ま、アンタに倒れられても困るのはアタシだし。いい話があるんだけど、乗る?」

「聞きましょう」

「よろしい」

 

 

 

 〇●◎

 

 

「おーい、この荷物はこっちに置いていいのかー?」

「いいわよー、あとこっちに大物があるから中庭の中央に持ってって」

「ほいほい」

 

 チェリーの話に乗ってホイホイ付いて行った先は彼女の通う学校だった。

 ノルウェーではイースター休暇も終わると特に催し物もなかったのだが、彼女の学校では有志で集まって学祭を行うのが伝統だった。といっても広場の中央で大きなたき火をして、火を囲みながら踊ったり話したりするだけなのだが。

 暇なものが顔を出すくらいの準備だったが参加者にはコーヒーとホットドックなども振舞われ、祐一はそれを目当てにダッシュでやってきた。チェリーが戦力になる人材をもってきたと教師にわたりを付ければ、食った分働いて返すと話はとんとん拍子に決まった。

 チェリーの言っていた大物とはたき火……キャンプファイヤーの方がニュアンスが近い……を組むための木材だった。寄ってみると中々の重量なのか運ぶというより引きずるといった方が正解に近く四苦八苦していた。

 

「手伝うよ、ほいっと」

「おおー。細いのに力あるな東洋人」

「飯食わしてもらったからな働くぜ! あとユーイチってんだ、よろしく」

 

 言語の壁もなく持ち前の気安さを発揮し、祐一は秒で溶け込んでいた。異邦人ゆえの物珍しさと好奇に晒されながら、それを拒まない振る舞いと明け透けで素直な態度はどうやら好印象を勝ち取ったようだ。

 正直、意外だった。

 祐一の第一印象や、昨夜見せた特異さ。これまでの祐一を鑑みるに普段の彼は気難しいきらいがあると思っていたし、張り詰めた雰囲気がプンプンしていただけに彼が優れたコミュニケーション能力、もしくはカリスマを持っているとは思わなかったのだ。

 

 なんとなしにその様子を眺め、中庭に植わっている花々に水をかけていると、

 

「へー。ああいうのが好みなんだ」

 

 いつの間にか隣に誰かが立っていた。おでこのところで庇をつくり賑やかな様子をうかがう友人、リヴだった。

 

「あーら、リヴったら愉快なジョークですこと。でも私の好みではないかしら」

「照れるな照れるな」

「突っつくのをやめなさい」

 

 人差し指でちょいちょいと小突いてくるリヴをはたきつつ適当に相手をする。

 学祭に花かんむりを作るのだ、材料は今、水をやっている草花なのだから邪魔しないでほしい。チェリーはそういった意味でそっぽを向いた。友人の視線がいつまでもうっとおしかった。

 

「男の子に声を掛けられないって日がないくらい話してるのに男気のなかった君がねー」

「違うつってんでしょ、その耳全然役に立ってないから早急に取替えることをオススメするわ」

「えっへっへ」

 

 リヴは悪びれもせず軽快に笑いながら祐一の方へ歩いていった。

 

 彼の肩に手を置くと──

 

「よろしく、チェリー・U・ヒルトのお気に入りさん」

「は?」

 

 ──と言い残した。

 

 その瞬間、時間が止まった。

 誰も彼も微動だにせず、視線だけを巡らす奇妙な空間だった。特に男子。

 謎空間を作りだした犯人は、その反応に満足したのかにやりと笑って金髪を揺らしながら颯爽と去っていた。

 ただ、「我らが姫君は力の持ちの人が好みらしいよ~。ハッーハッハッハ」と言い残して。

 

 

 ──その日、男たちは光明を見た。

 

 

 ──チェリー・U・ヒルトという少女は校内……いやベルゲンでも"かわいい"と評判な高嶺の花だ。

 容姿は端麗にして明眸皓歯。流線的な黒髪をなびかせ歩く姿はその1フレームをただの風景から芸術品へと様変わりさせた。そして、そのバストは豊満である。

 

 

 ──それでいて性格は気は強いが分け隔てなく、多くの男を「これ、ワンチャンあるんじゃね?」と思わせてきた。

 

 

 ──だが、ダメ……ッ! 飛びついた男たちは悉く葬られ、後続の哀れな者たちを墓場から眺めながら、審判の日を待ち受けるのみだった。

 

 

 ──しかし。しかし。はじまりの福音来たる(初めて好みが判明した)ッ! 

 今日こそ我らの涙の日、灰の中からよみがえる日!!! 

 

 

 一時の沈黙の後……。

 

 戦闘準備──ッッッ!!! 

 

 男たちの声なき咆哮とともに"ばっ"と身に着けていた上着が天高く舞った。その下からマッシブな筋肉が現れ、中天にまたたく太陽の光を反射して燦然と輝き、「うおっまぶしっ」と祐一が腕で目を抑えるほどだった。

 フロントダブルバイセップスッ! モストマスキュラーッ! サイドチェストッ! 無駄にアピールの激しいハッスルがマッスルであったっ! 

 

「す、すげぇ……! ここまでの熱気、王国の闘技場並みだぜ……ッ!」

 

 祐一は戦慄した。かつて鎬を削った益荒男たちに負けず劣らずの闘志に、彼の心にも火が灯った。

 うおおおおお俺も負けてられねぇぜ! ブレザーを投げ捨てて筋肉の乱気流へ身を投じた!!! 

 

 ──筋肉千年王国(ミレニアム・キンニクダム)が誕生した瞬間だった! 

 

 

 一時間。

 校舎の敷地内は死屍累々となっていた。いつもと変わらずピンピンしているのは祐一だけ。筋肉千年王国史は幕を閉じた。筋肉千年王国(ミレニアム・キンニクダム)ってなんだろう……。

 GJ! 楽しいセンセーションだったぜ! 祐一は戦士たちにサムズアップし、彼らも息絶え絶えに返し、墓場にもどった。

 彼らの敗因は一つ、体力お化けのバカを相手にしてしまったことである。

 

「空が青いわ……」

 

 チェリーはすべてを見なかったことにした。ただリヴは許さない、それだけは心に誓った。

 

 

 〇●◎

 

 

「おもしろい学校だったなぁ」

「常日頃からあんな愉快なワケないでしょ。というか学祭の規模が夏至祭並みになったんだけど……」

 

 夏至祭はノルウェーで一番のお祭りである。

 さきほど催し物なんて例年通りなら十数人集まれば御の字レベルなのだが、今年は誰かがハッスルにハッスルを重ねたので全校生徒を集めても問題なさそうな規模だ。

 精を出し、もう夕暮れに近い時間だった。

 学校のみんなと別れた二人は静かなカフェに腰を下ろして注文を待っていた。

 

「それにしても意外だったわ、アンタって人とまともに関われたのね」

「言い方ァ!」

「あ、違うの。そういう意味じゃないわ、きっと昨日を引きずってたからそう思っちゃったのよ。アタシもアンタもピリピリしてたじゃない」

「ああ……。あの時は非常事態だったからなぁ、ちょっと気ィ張ってたんだ。いつもはそんなことないさ」

「へー、"いつも"ね。今まであんなノリで旅してたの? ……そう言えば前はイタリアに居たって言ってたけど日本からノルウェーまでどんなルートで来たのよ?」

「んあ、最初はスロバキアに行くつもりだったんだけどなぁ……日本で客船に忍び込んだら転覆してイランに流れ着いちまったんだよなぁ」

「忍び込んだ??? 転覆???」

「間違えた。違う便に乗っちゃったんだよガハハ」

「誤魔化せてないから」

 

 湯気のたったドリップコーヒーが運ばれてきた。

 コーヒーってあんま飲んだことないな……と思いながら砂糖を二ついれ、祐一はそのまま口に運んで「苦っがい……」と呻いた。

 

「まあなんだかんだ色んなトコ回ったな。イランにドバイにスロヴァキア……イギリスやイタリアあたりは1日もいなかったけど、記憶にはちゃんと残ってるよ。マイナーだけどヒューペルボレアなんて場所にも行ったなぁ」

「ヒューペルボレア? 知らない国ね」

「だろうなぁ。でも面白いトコだったぞ? 舟で何回か難破したけど。……お前は活動的みたいだし海外にはよく行ってそうだな」

「そうでもないわ。北欧諸国にアメリカとドイツくらいは回ったけど、アンタみたいに一人旅はした事ないわ」

「そっか。でもいい経験になるぜ、一人旅」

「お断りしますわ。ベルゲンから離れたくないもの。代わりに旅の無事を祈ったげる、あなたに神の御加護をあらんことをアーメン。………………なにその苦虫を口に突っ込まれたような顔は」

「いや神様に祈られるのはちょっとな……」

 

 変なの、と首をかしげた。さらに十字を切ったら吸血鬼が太陽をみたかのように悶えはじめた。

 

「呆っきれた。せっかくアタシが直々に祈ってあげてるのにケチ付けるなんて、神様にぶん殴られでもしたの?」

「神様にも天使にも、顔の原型なくなるくらい何度もな」

「何それ」

 

 祐一としては真実しか言ってないつもりだったが、また訳わかんないこと言ってる、と流された。

 

「日本には帰らないの?」

「んー……どうかな。実は家出して日本を飛び出してきたんだよ」

「家出? アタシにはちょっと理解できない世界ね……」

「うっせ。だから帰りにくいってのもあるし、まだやり終えてない事も多いし、もう帰ってもいいんじゃないかっても思うけど。自分でもわっかんねぇや。踏ん切りが付かない、ってのが1番しっくりくるかな」

「ふーん」

「帰り方もわっかんねーしガハハ」

 

 豪快に笑いながら、テラスから外の景色を眺めた。

 

「四月か。もう桜も散ったかな。……お、そう言えばお前の名前もチェリーだよな」

「あらご明察、由来はそれよ。日本人ってほら、どこにでも桜の木植えるじゃない? ニューヨークに出張に行ったパパがね、それを見てチェリーにしようってきめたらしいのよ。それで変な名前になっちゃった」

「ふぅん。変な名前って……フルネームがチェリー・U・ヒルトだったっけ?」

「そうそう、ファーストネームだけ英語よ英語。まぁこっちの言葉だとゴツくなっちゃうからいんだけどね……」

「こっちで桜つったらコルスバーだったりシッシュバイブロムステルだったか……確かにゴツイな」

「でしょ?」

「じゃあミドルネームのUってのは?」

「普通はアタシもキリスト教徒だし洗礼名を入れるんだけどご先祖様の……開祖っていうの? の名前を当ててるらしいわ」

「へぇ、いいね。俺の家系はずっと農家だったらしいし羨ましいや。名字もどこにでもありそうなやつだし」

「あら、魔術師の家系でじゃないの? よく知らないけど家業みたいなものでしょ、魔術師って」

「俺はちょっとそこらへん訳アリでなー。魔術師っていうのとは……」

 

なにををしてるのかな

 

 肩に手を置かれて祐一の口は強制的に塞がれた。

 お、俺が背後に立たれるまで気づかなかっただと!? と戦慄とともに冷や汗が喉を伝った

 驚いて振り向くとクランプス(西洋版なまはげ)に見下ろされていた。神殺しになって以来、はじめてチビりそうになった。

 

「あらあら〜? あらあらあらあら〜?」

 

 その後ろにはチェリーが綺麗に歳をとったらこういった容姿になるのだろうなという女性が眩い笑顔を浮かべて祐一とチェリーを見比べていた。

 え、なに? なんなの? 祐一は素で恐怖した。

 

「パパ、ママ……」

「この人たちがぁ!? ……って、うぉぉおおおお!?」

 

 林檎くらいなら片手で握り潰してしまいそうな大男が迫ってきたのだ。思わず祐一は立ち上がってがっつりと組み合いの姿勢になった。

 おぉーと他の席から歓声が上がる。

 ヴァイキングに居ても違和感のなさそうな益荒男と、服の上からは線の細くみえる少年の取っ組み合いはなかなか見応えがあった。

 

「ぬぅ、なかなかの膂力! しかしこれだけで認めるられると思うなよ、ちょっとOHANASHIをしようかァ!」

「なんで!? 落ち着きましょうよ()()さん!」

誰がパパだ糞ガキィ!!! 

 

 そんなこんなで。

 とあるカフェの一角にて、とある席は異様な雰囲気に包まれていた。他のテーブルに座る客は、時折、視線を送りながらヒソヒソと唇だけを動かし密談を交わしていた。

 当のテーブルではお皿とフォークの擦り合う音だけが妙に響いて、あとは誰も微動だにせず静まり返っていた。

 テーブルに座るのは四人の人物。

 上座に座る少女をレフェリーとするかのように、左手にクランプスと微笑みを絶やさない女性、右手には異様な雰囲気を意に介さず食事をしている少年がいた。

 クランプスの質量すら伴っていそうな視線を浴び続ける少年だけがいつも通りで、近くを歩いていた不運な若者が悲鳴をあげていた。

「あ、珈琲くださーい」どうにでもなーれ、少女は諦観と傍観の姿勢を決め込んだ。

 

「それでぼうふら、おっと失礼。魚肥、エフンエフン! あー、馬のほ……んん! 君はどうやって娘と知り合ったのかな?」

 

 はじめに重苦しく口火を切ったのはクランプス……もとい、少女の父。ガタイのいい巨漢がテーブルに肩肘をついて凄む姿は、完全にマフィアかなにかであった。

 

「ブリッゲンを歩いてたらさベンチで気分悪そうにしてたもんだから気になって。治るまでちょっと話て、んで飯を奢ってもらったんだ」

「チェリーちゃんの弱ってるところに漬け込んで、その上お食事デートまでしただァ!?」

 

 祐一の回答は最悪の部類だった。しかし全て事実である。

 というか金銭を持ち歩かない彼はもう何度もチェリーに飯の面倒をみてもらっている。弁明の余地もなくヒモとそう変わらないのでは……? 

 そして親馬鹿フィルターを通したパパの耳は超越した解釈を見せるぞ! パリんと共振現象ゆえか、声の質量ゆえか、テーブルのコップが音を立てて割れた。

 そんな状況でも料理を口に放りこむ祐一は、なるほど大物である。

 あ、一番星見っけ。渦中の彼女は珈琲を口につけながら遠くの夕暮れの景色を楽しんでいた。

 

「見たところイワシ野ろ……ユーイチくんと言った感かな? 君は東洋人のようだが、まだ若い、というよりも幼いじゃないか。母国に帰れば義務教育を受けている時期だろう? それを放ってノルウェーくんだりまで、なにか理由があるのかな?」

 

 コップが割れたのでこぼれた水をチェリーの母が拭き、割れた破片をクランプス、もといチェリーの父が嚙み砕いて嚥下した。人間……なのか? 

 

「えっと、ノルウェーには探してた奴がいて……だから来たんだ」

「探し求めていた女性(チェリー)がいたから、だとォォ!!?」

「あらあら!」

「なあチェリー、お前の父さん母さんだいぶ愉快だな」

「っるさいわよ、話しかけないで」

「ゲフンゲフン! それで貴様、いや、君は娘とどんな関係なのかな?」

「……!」

 

 祐一はここに至って悟った。不可解な問答無用……しかし、戦場で培った勘が囁いている。

 ──ここは正念場なのだと。

 彼女の父の言わんとするところ……関係とはつまり、昨夜結んだ二人の関係ッ! 

 命を預けるほど重い契約を結んだ、相棒同士になったことを指しているのだとッ! 

 

「ふ……どうやら見抜かれてしまっていたようですね」

「なに?」

「彼女は……チェリーは俺が探し求めていた辿り着きたい(誰も不幸にならない)未来のために必要な人間だったのです。だから一時とはいえ、旅の道連れになることをお願いしたのです!」

「辿り着きたい未来(結婚)のために必要な道連れ(伴侶)、だとォォ!!?」

「まあまあ!」

 

 父は青筋をデカデカと、母は頬をテカテカと、祐一の放った言葉に感情を爆発させていた。

 しかし、怒りに呑まれながらつぶさにユーイチという少年を観察すると、特異な印象を受けた。隙が全く見えないのだ。

 魔術師の家系に生まれ、ヴァイキングの流れを汲む父は武への理解が深かった。だからこそ気づけた違和感。どんな手段でタマを取りに行っても、赤子をあやすように抑えられるだろう……と戦士のみが持つ直感が訴えかけていた。

 改めて祐一の双眸を覗き込む。激情から冷静さをもって見据えた目は、瞳の奥に蠕動するなにかを感じ取って仕方なかった。

 この眼光……まさか黄泉の淵を観てきたとでもいうのか! 

 眼前にいるのはどこかの馬の骨ではない。類稀な技量と並々ならぬ覚悟を秘めた戦士なのだと拳を握りしめた。そして問い掛けた。

 

「君に(娘を)守れるのか?」

 

 やっぱりか。祐一は確信した。

 ベルゲンの住人として、守護すべき民として、そしてチェリーの父として、彼は問いかけているのだ。お前なんかがベルゲンを守護れるのかと。

 俺は……試されているッ! 

 気圧さそうな威圧感に腰を引きそうになったが、歯を食い縛って耐え切った。

 だけど、俺は逃げない。どんなに糾弾されることになっても。祐一は不敵に笑って、肩をすくめるのを答えとした。

 

「守ってみせるさ(ベルゲンを)。俺の身命を賭けてな……それはもう彼女(の前で俺の友と同胞)に誓っている」

「──!」

 

 瞳に秘めた、折れず使命を成し遂げようとする不断の意志! チェリーの父、ルーカスはどこか諦観をもって……しかし清々しい気分で瞑目しながらうなづいた。

 なるほどな。ふ、娘が手元から離れるのは存外早いかも知れんな。

 二人は固く熱い握手を交わした。

 

「今は……一先ずこれで由しとしよう。だが、分かっているな?」

「ああ、分かっている。必ず守護ってみせるさ」

 

 こいつらに必要なのは守護ではなく主語である。

 

 ともあれ──木下祐一、一次面接突破ッッッ! 

 

 

「あ、このサバのバターソテーってのくださーい」

 

 チェリーはすべてを見なかったことにした。休日なはずなのに、ただ、ただ、心だけはひどく疲れていた。



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トロル

 家族三人で家路につく。

 祐一はあのあと"やることがある"と言って颯爽を姿を消し、劇画風の厳めしい顔になっていた父はなにも言わず見送った。

 なお、大変飲み食いしていたが支払いは全部こちら持ちである。

 

「アイツ……散々騒いで奢らせて……今度会ったらホントどうしてやろうかしら……」

「あらあら? アイツってあの男の子の事かしら! もう! チェリーったらあんなboyfriend(ネイティブ)を隠してたなんて隅に置けないわー! ママってばあなたにあんまりにも男っ気がないからって、お見合いの準備しなくちゃと思ってたのよオホホ!」

 

 母が嫣然と微笑みながら胸元から男性の顔が写った写真を五枚ドローしスっと掲げた。

 

「違うつってんでしょママ。……うちの家族でまともな耳を持ってるのアタシだけ?」

 

 無駄にテンションが高い母にチェリーがため息をつくと、父(劇画調)がぬっと身を乗り出してきた。

 

「チェリーちゃんも中々男を見る目はあったようだ……。だが……だが、パパはまだ可愛い娘を嫁に出す気はさらさらない。そしてあの木下祐一という男の子もまだまだ認めるわけにはいかなオごっ」

 

 訳の分からない事をのたまう父に無言でレバーブローを入れた。もう誰も信じない、親も友達もみんな敵。周りには敵しかいなかった。

 ああ、なんて残酷な世界……。

 涙を堪えるように見上げる空は星々が瞬いていて──()

 

 騒がしい一日に気を取られて、チェリーは自分がなにに巻き込まれているのか思い出した。

 どうして忘れていたのだろう。非日常がすぐそこに横たわっていて、目の前に危険が迫っているというのに。

 

 ぴぃん、と。

 糸を張ったような感覚とともに、決定的ななにかが変わった確信が襲来した。景色は同じなはずなのに紫を混ぜたように影が圧力を増した。

 未知が手ぐすねを引いている錯覚を覚えた。

 肌を泡立たせる重力とはまた違った重みと、空気に棘が生えたような痛み。……この感覚には覚えがある──異界が現れたのだ。

 

「パパ、ママ、急いでここから離れ……──ッ!」

 

 

 

 ──ずん。──ずん。

 

 

 鈍重な足音。()()()()が、家屋から身を乗り出したのもそんな時だった。

 おとぎ話にしか出てこない一つ目の巨人……それも二体。苔むした岩肌の肌もつ巨人が三人を見つけては指さし笑い、水晶じみた虹彩と、空洞の眼窩が、こちらをギョロリと覗き込んだ。

 

「あれが、今度の"歪み"なの……」

 

 あれが歪み。この夜の元凶。

 奇妙なことに二体合わせて目玉を()()()しか持っていなくて、空洞の眼窩のおくには覚えのある蛇の気配……ゴルゴネイオンが茫、と浮かんでいた。

 

 チェリーは巨人の正体に心当たりがあった。

 北欧でならあまりにもポピュラーな怪物で隣人ともいえるものたちだったから。

 それは子供が捲るような絵本にも描かれる愛嬌のある怪物たち。しかし眼前に現れた怪物は、荒々しく猛々しい。

 

「あれは……トロルか!?」

「どうしてこんな街中に!」

 

 異常事態に両親が悲鳴じみた叫びをあげ「ォォオオオオ!」とトロールが雄たけびをあげて手に持ったこん棒をぶん投げた。

 

「飛びのけ!」

 

 父の強い一言に弾かれるようにジャンプして直後、こん棒が地面に突き刺さった、衝撃で地面を転がる。ぱらぱらと飛礫が服と髪に飛び掛かって砂塵まみれになった。

 汚れを払っている時間はない。両親を連れて逃げなければ。

 トロルが投擲だけで満足するはずもない。

 巨人を睨みながら逃げようと後ずさって──人影が槌をトロルの顔面へ強かに打ちつけた。

 

 飛びかかった人物は果たして父ルーカスだった。屋根づたいに跳躍し、トロルへ接近するとそのままの勢いで殴りつけたのだ。

 いまの彼は普段の姿ではない。

 まるでヴァイキングの戦士のような兜と盾に鎧をまとい、トロルと対峙していた。槌で盾を叩いて、威嚇しながらジリジリと後退していく。

 

 ギギ、と今度はとなりから音が響いた。振り向く前にすぐ傍を迅雷ごとき矢が駆けて、トロルの足を地面に縫いつけた。迅雷さながらの一矢から、真実、紫電が迸りトロルを苦悶させる。

 隣には母ルイセが矢を放ったすがたで戦場を見ていた。

 

 チェリーは正直驚きを隠せなかった。たしかに魔術師の家系だと聞いてはいたし、両親が魔術を使うすがたを見たこともあった。

 でも怪物に立ち向かえるほどだとは思っていなかったのだ。日常の象徴だった父母が戦場赴いている姿が受けれがたかった。

 

 がチッがチッ! 

 

 異音。ガラスを打ち合わせた異音の起きた方向へ視線を巡らすと、盲目な方のトロルが歯を鳴らしていた。

 いぶかしむ三人に構わず、地面に縫い止められた目のある方のトロルが、突然目玉を()()()と引き抜いてもう一体に投げ渡した。

 異常な光景だ。しかし驚きの声をあげる暇を与えてはくれなかった。

 放りなげられた目玉を見事にキャッチし、眼窩へはめ込んだトロルはさっそくとばかりに父へ殴りかかった。

 

「──逃げて!」

「え……」

「未熟なあなたがここにいても邪魔になるだけなの! 弁えなさい!」

「で、でも……!」

「早くッ」

 

 人生で初といっていい母の激昂に驚いて、後ろ髪を引かれながらもチェリーは走り出した。それを見送って、交戦中の伴侶のもとへ向かう。

 

「チェリーは行ったか」

「ええ、聞き分けがあって助かったわ」

「愚図ると思ったがな」

「私たちの娘だもの……どう?」

「現役を退いて久しいからなあ……だが」

 

 

 〇●◎

 

 

 走っていた、ベルゲンの街を。

 遠くから聞こえる轟音と光に心は不安を覚え、同時に安堵していた。

 音が途切れないかぎり父と母の生存は保証されているのだから。後ろの景色は振り返るたびに光が別の光を呼ぶように形を変えた。

 走っているから身体はこれ以上なく温まっているはずなのに、心と指はひどく冷え切っていた。

 

 逃げ出してよかったのだろうか、あのまま踏みとどまって何かできることがあったんじゃないか。そうした疑問がぐるぐると頭の中を空回って仕方ない。

 

 でも、あそこでできる事なんてなくて、両親を思うならば退くのが正解だった。

 即決即断で見切りの早い、という鉄火場では長所である。だけど自分の気性が今は恨めしくて心に澱みを生んだ。

 止まらずに走って、気づけば潮の匂いが鼻についた。

 どうやら知らぬ間に海沿いの波止場に来ていたらしい。貨物船の行き交うこの場所は雑多にコンテナや船があって身を隠す場所には事欠かない。

 

 失敗した。チェリーは唇を噛んだ。身を隠す場所は多いがこの先は海しかない。だから……

 

「……行き止まり。引き返さなくちゃ──」

 

 ──どおん! 

 

 突如、天地を揺るがす大震動が襲った。チェリーはわけもわからずつんのめりゴロゴロと地面を転がった。……だけどそれは僥倖だったらしい。転がった勢いでうまくコンテナの影に挟まったのだから。

 痛みに呻きながらもうもうと土煙のあがる場所をみれば、トロルがいた。屈伸するように膝をまげた姿勢で。

 おそらく空からトロルが跳躍し、降ってきたのだ。黒髪が見る影もないほど汚れてしまったが身を隠すことに成功したのだから文句は言えない。

 

「でもトロルが来たって……じゃあパパとママは……!?」

 

 いいやそんなはずない。首を振って父母の生存を信じた。

 それより自分だ、チェリーは息を殺して怪物が自分に気づくことなく過ぎ去るのを待った。荒々しくコンテナをひっくり返して探し回るトロルにみつかれば一巻の終わりだ。

 

「…………」

 

 幸運にもトロルはチェリーに気づくことはなかった。トロルは去ったが状況は変わらず、頼れる者もいない……これでは昨日の焼き増しになるだけだった。

 チェリーは下唇を食いしばって目を閉じた。

 

「ここで、こうしていても、ダメ。

 考えなさいチェリー、頭は生きている間にしか使えない。気張りなさいチェリー、生き残らなくちゃ全部無意味よ」

 

 

 

 トロルは苛立っていた。

 やっと見つけだし飛びかかったはずの小人の姿が土煙に巻かれて見失ってしまったのだから。

 目を皿にしてあたりを覗き込む。大地に属し、闇と関わりの深いトロルは夜目が効くのだ。

 

 がチッがチッ! 

 

 硝子を打ち合わせたような音。あれは同族が目を求める音だ。

 もう小人を片付けてきたのかと驚きながら振り向き……眼前に投光器のレンズと目が合った。ここは波止場で投光器を乗せた船が多く停泊している。目の合ったレンズに目蓋を大きく押し上げ驚いると──白光。

 

 ぐるぉう……! 

 

 網膜を光で焼かれ、目を抑えた。目を瞬かせるが視界は一向に戻らない。苛立ちを強めながら周囲を荒らし。

 

 がチッがチッ! 

 

 また硝子をカチ合わせた音が鳴った。

 このトロルは大方のイメージに違わず、力はあるがあまり頭がよくなかった。

 トロルはやっぱり相方が助けに来てくれたのか! と嬉しそうに目玉を抜き取ると、目玉を放りなげ──

 

「──ナイスパスよデカブツさん!」

 

 チェリーは自分の上半身ほどありそうな目玉を両手でキャッチした。影も音を鳴らしたのも彼女だったのだ。

 目玉の重さは大きさき反して軽く発泡スチロール程度。多少邪魔だがこれならはしれなくもない。

 トロルの戸惑う姿を後ろにアメフトの走者さながらに全力ダッシュで逃げ出した。

 

「さーてこれからどうしましょ……」

 

 目玉を盗みだすのは成功したがその後のことは何も考えていなかった。高揚と焦燥が入りまじり冷や汗を掻きながらも唇を湿らせる。

 頭を使うのは嫌いでもないし、決断力も体力も運もある方なのだが……経験上、土壇場に行きつくと結局行き当たりばったりになりやすいのがチェリーだった。

 それに後ろを振り向けば……

 

「あのトロルはなんで短距離走者みたいな走り方してんのよ!!!」

 

 我を取り戻して後方から迫るトロルはゾンビのようなのろまではなく、ウサイン某氏のような俊足だった。イメージから完全に外れファンタジー的な恐怖から痴漢的な恐怖に取って代わられるのを納得いかないとキレ散らかしつつ思考を巡らせた。

 ベルゲンは彼女にとって庭だ、地理は頭のなかに入っている。

 全力で走りつつ道沿いにあるポリバケツや看板を蹴った喰ってトロルの妨害をしつつ、ハリウッド映画さながらの逃走劇を見せながら、なんとか追いつかれずに辿り着いた。

 ここは港で、ちょっと走れば灯台が据えられた岬があるのだ。そこまでトロルを誘引した。けっして追われて追い詰められた訳ではない。

 

「でぇい!!!」

 

 無駄に男らしい掛け声とともに海へ目玉を投げ込む。放物線を描いた目玉はそのまま夜の海原へ呑まれて消えた。

 ぉぉおおんんん……! と、なんとも哀愁を誘う声をあげながらトロルがチェリーを飛び越えて、ベルゲンの海へ入水した。

 目玉を盗んだ挙句海へ投げ込んだ下手人よりも、目玉が完全に失われてしまう方が問題だったらしい。

 

「よっしゃ勝った! 第三章、完!」

 

 チェリーが勝鬨をあげた。トロルが自分を優先するか目玉を取るか、ちょっとした賭けだったのだ。単純な戦力差でみて勝ち目はないし、だいぶ冷や汗ものだった。拳が開かないのも手のひらから伝う汗も疲労からではなかった。

 

 安堵は束の間だった。

 

 ……ざぱんっ、と水の跳ねる音とともにトロルが海坊主さながらに海面から這い上がってきたのだ。その形相は怒髪天をつく明王かと見まがうほど。

 

「やっば……」

 

 顔を引きつらせ後ずさって更なる逃走劇へ身をなげようとした、その時だった。

 

「トロルっていや色んな種類がいるらしいな。妖精みたいに小さいやつ、巨人みたいにでかいやつ」

 

 声が降ってきた。次いで、迅雷じみた人影がトロールの上空から駈け落ちた。チェリーも、トロールも、時も、波も、動けない。突如、推参した少年に圧倒されている。

 場を支配した少年は不敵に笑いながら、刀を肩に担いだ。

 

「その巨躯だ。お前は巨人の種類に入ってしまったんだろうな。荒っぽくなったのも、巨神だったていう"あいつ"に引っ張られた、そんなところか」

 

 つぶやきながらスタスタと歩きトロールの眼前へ立って、黒い剣の突先をトロールへ向けた。

 

「相方はもうお縄についたぜ。……まだ、やるかい?」

 

 

 〇●◎

 

 

「あんた今までなにやってたのよ」

 

 苛立った様子を隠さずにチェリーは問いかけた。祐一は悪びれた様子もなく肩を竦めた。

 

「そう睨むなよ。異界が生まれたのに気づいて慌てて戻ってきたんだんぜ。アイツらがいないか駆けずり回って、姿は見えなかったし、気づいたらトロールに襲われてたから急いで駆け付けたんだ。お前の両親も助けたよ」

「それホント!? パパとママが! よかった……」

「ケガもなさそうだったぜ。で、すぐにお前のとこに行こうとしたんだけど、俺が追い付くのに苦労するくらい見事な逃走劇やってたから時間かかったんだよ」

「褒め言葉と受け取っておくわ」

「もうそれでいいよ……。ま、なんだかんだ無事でよかった」

 

 祐一の労わるような言葉にチェリーはちょっと感心してしまった。人をエサにすると公言するような男が紳士じみた行いをするとは思ってもみなかったのだ。

 

「ふぅん。アンタにもそんな殊勝なところがあったのね……大発見だわ」

「ンだよ……。俺だってなぁ故郷に帰れば、近所でも素直とか裏表がないと評判だったんだぞう。旅に出てからも騙されやすいっていわれるくらいで……」

「はいはい言ってなさいな。……で、なにやってんのよ」

 

 祐一は隻眼だった方のトロールが持っていたゴルゴネイオンを前に、便所座りしながら頬杖をついていた。

 

「お前、これなんに見える?」

「ゴルゴネイオンじゃないの? なーんだ、見つかって良かったじゃない」

 

 だよな、っと祐一も肩をすくめるように同意した。

 どこからどう見ても以前拾ったメダル……ゴルゴネイオンで、彼がなぜそんな質問をするのか謎だった。

 どこから拾ってきたのか木の枝でゴルゴネイオン(仮)をつつく祐一に、どういう意味だろうと問いた出そうとして──違和感が襲った。

 ビリビリと大気が振動している。祐一の眼光が輝きを増していた。

 

「でも違うんだろうな。前も見たんだよ、ゴルゴネイオンだけどゴルゴネイオンじゃないものをな。"歪み"はトロルでゴルゴネイオンでもあった。なら……日輪の輝きよ。偽りの蛇の正しき姿を暴きだせ」

 

 言霊と、何かが弾ける音が響いた。すると、あたりに遍満していた肌を刺す気配が溶け、いつも通りの夜空が戻ってきた。

 

「これが戻って来た感覚なのね。昨日は倒れちゃったから感じられなかったけど……なんかヤな気分」

「陸に上がった魚か淡水から海水にぶち込まれた魚って感じするよなわかるわかる……それより見てみろよ」

「なによ? …………ひゃぁ!」

 

 促されて手元を見てみると、思わず喉から常ではださない声が出てしまった。慌てて取り繕うように咳払いしつつ改めて手元にあるものを見た。

 なんと先程まであったメダルは姿を消し、トロルの巨大な目玉が現れたではないか。

 

「トロルの目玉よね、それ?」

「ああ、間違いない」

「どうしてそんなものが……。さっきまでゴルゴネイオンだったし、アタシが奪った目玉もそこにノビてるトロルに返したでしょ?」

 

 そこでハッとするものがあった。

 

「……もしかして最初っから目無しトロルなんていなかったの? この目玉が、隻眼だった方のトロル本来の目なのね。……それが異界や歪みのせいでゴルゴネイオンに見えていた……」

「たぶんな。俺も詳しいことは分からんが、異界が生成されるときに夜や大地と関わりの深くて相性のいいトロルを呑み込んなんだろ。

 で、異界には歪みとゴルゴネイオンが必要だから手ごろにあった目玉を依代にしたんじゃないか」

「歪みがなくなったから異界もなくなって、目玉も元に戻った、と。なんかややこしい話ね、ゴルゴネイオンも手に入らないし」

「歪みぶん殴って、偽物のゴルゴネイオン分捕る。要は勝ちゃあいいんだよ、難しいことはないさ」

 

 ひらひらと手をふった。

 OSが蛮族なのよねコイツ……と祐一に胡乱な視線を送った。

 

 

 トロルに目玉を投げ、手を振りながら別れた。普段なら大人しいものたちらしい。

 

「ご苦労さん。たぶん近くに両親がいるだろうから安心していいと思うぞ。じゃ、また明日」

 

 帰ろ帰ろ、と踵を返そうとした祐一だったが首っ子を掴まれてつんのめった。振り返ると、チェリーが愕然とした顔で一点を指さしていた。

 視線を巡らせると眩い金銀が満載された手桶があった。それもふたつ。手桶といっても祐一の腰くらいまではあって、ちょっとした一財産だった。

 

「え、なにこれ……」

「もしかしてトロルじゃないかしら? ほら、おとぎ話の最後には金銀財宝ざっくざく! めでたしめでたし……みたいな展開よくあるし」

「そうは言ったって……。この量だぞ、実際困る……」

「ホントね……」

 

 金銀財宝を前にしてみこの反応。ある意味無欲な少年少女である。

 おぉーい! そこでチェリーの両親たちの姿が見えた。

 よし、大人に任せよう。子供の特権を発動することに祐一は即決即断した。今度こそ踵を返そうとしたが、首っ子を掴んだままの相方に阻まれた。

 

「ちょっと、この量をどうやって運ぶっていうのよ。アンタも手伝うのよ」

「えぇ……もう寝たいんだけど……」

「山分けよ山分け! ほら、半分もつ!」

 

 チェリーも手桶の片方を持ち上げようとしたが……重い。地面から数cmあげるくらいが限界だ。

 そこそこ膂力には自信があったが、鉛といい勝負な重さをもつ金。正直、まだ未熟な腕では上がりそうになかった。

 なお、祐一は面倒くさそうに人差し指で持ち上げ、小さな背嚢に突っ込んでいた。面積が釣り合ってないがあれも呪具だろうか。

 思わず半眼でその様子をみやった。

 

「もう両方持っていきなさいよ、アンタ素寒貧なんでしょ? アタシいらないから、重いし」

「俺だっていらないよ嵩張るし……」

「さっきから思ってたけど、アンタってやっぱり蛮族とか野生児やってた方が性に合ってるんじゃない?」

 

 正直、どっちもどっちである。

 駆け寄ってきた両親の驚愕の声を聴きながら、現実へ帰還したのだと実感をえた。

 

「明日もやるのね……。もう、今度は早く来なさいよ? 今度遅刻したら承知しないからね」

「わかったよ」



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現状把握

「おーい起きろー! 朝だぞー!」

 

 肩を揺さぶられて強制的に起こされた。朝っぱらから溌剌とした声が鬱陶しい。

 チラリと目を開けると誰かがいて、全開に開かれたカーテン、それに白を基調とした殺風景な部屋が見えた。

 日照不足になりがちなベルゲンだから窓は大きくて、晴れている今日は目いっぱい陽の光が部屋を満たしていた。

 あんまりものを持たない主義のチェリーだから自然と部屋もならうように何もなくて、遮るものもない。そして白い部屋で黒髪と藍のブレザーを着る少年は浮いていた。

 起こしに来たのが誰か察したチェリーは、昨日も一昨日も変な事件続きで鈍った思考のままシッシと手を払って、毛布で頭を隠した。

 

「っさいわねー……もうちょっと寝かせてよ……」

「ったく、今日は学校なんだろ。ランニングだって早朝の日課だって聞いたぞ」

「うー……アンタに言われなくたって判ってるわよ」

「そうかい。俺は起こしたからな、早くリビングに来いよー」

 

 そういって彼はドタバタと部屋を出ていった。彼も同じように事件の当事者だがいつも通りの元気の良さだ。

 アイツの体力は底なしね……。寝ぼけた頭でぼんやりと考えてつつ、ふたたび睡魔に身を委ねた。

 昨日は大変だったのだ。今日くらいゆっくりさせてほしいもの……だ………………あれ? なんでアイツが…………? 

 

「──ッ!??」

 

 

 ○〇●

 

 

「──なにぃッ!!! ヒモ野郎がチェリーちゃんの部屋に押し入った上に寝顔を覗いただァ!!!??」

 

 

 

 往生せえやあああああああッ! 

 

 ぎゃああああああああああッ! 

 

 

 

「ちょっとママ! なんでアイツいんの!?」

 

 どこからか段平を取り出した父がアホを追いかけましていたがそれよりもだ。なぜあのアホが家にいるのかキッチンにいた母に詰問した。

 耳まで真っ赤になってギャンギャン叫んでしまったが淑女なのだ、当然である。着崩れていた肩紐を整えてながら、追いかけ回されているアホとのほほんとした母を睨んだ。

 

「あら、忘れたの? 昨日トロールから彼が助けてくれて、それで話を聞いてたら今晩泊まる所がないって言うから招待したじゃない」

「招待したじゃない……って、そこまでは覚えてるけどアタシの部屋に入ってきた理由は!?」

「もう! そっちの方が喜ぶかなって気を使ったのよ!」

「喜ぶか──! そしてアタシのプライバシーが息してなーいっ!」

 

 窓ガラスが割れそうなほど絶叫が響いた。

 照れなくていいのよ、ママは応援してるからね! と付け加えて背中をバシバシ叩いてくる母に、縁切りを本気で考えた。

 なんだなんだ、と近所の住民もやってきて、事情を知るとにやにやと祝福の言葉は投げてきた。

 これが絶望……なのね……。

 暗澹やら絶望やら縁遠かった感情を初めて思い知らされた。

 朝っぱらから肩で息をしていると、学校に遅刻しそうになった。

 

 ○

 

「さて、チェリーちゃんも学校へ向かった。少し私の話に付き合ってもらえるかな木下祐一くん」

「なぁ……その前にこの縄解いてくれないか……?」

 

 部屋は天然由来のものが多くて、木材がよく目についた。北欧デザインなんてよく聞くが、ノルウェーは少し毛色が違うらしい。どこかシックで実用的なデザインだ。

 機能性を重視し、目立たないことを重きを置く、お国柄だとかチェリーはいっていた。

 そして木造りの椅子に縛り上げられた祐一と対面に座るヒルト夫妻の姿はなかなか見応えがあって、さらにシリアス持っていこうと夫妻ともども表情を引き締めているから更に味わい深かった。

 

「改めて感謝を。昨晩、君が"異界"と呼ぶあの人智を超えた場所で、私たち家族を救ってくれたこと、本当に感謝している」

「気にしないでくれ、当然のことさ。あとは、なあ……縄を……」

「……君の立ち振る舞い、少なからず戦場に立っていた私でなくとも只者でないことは分かる。かつてルンドで見た大騎士や聖騎士にも劣らぬ技の冴えだった」

「もういいよ……」

 

 冗談もそこそこに、三人は日常では決して浮かべない裏の顔になった。つまりは魔を知るものとしての顔を。

 この時には祐一も縄から抜け出していて、机を指で叩く仕草をとった。

 

 今は一線を退いているとはいえルーカスは欧州を飛び回った戦士だった。そのルーカスでさえ記憶をさらえば身震いするほどの刀身のきらめき。

 あれを娘と同じ年頃の少年が抜き放ったという事実に驚嘆を隠せなかった。

 

「…………」

「それに君は剣以外にも術にもその齢では考えられないほど長けているようだ。我が家にはいくつか魔術的な仕掛けがあってね……それが悉く解呪というよりねじ伏せられている」

 

 若き天才、という言葉で括れるのか怪しいほどの少年。そんな若く力のある少年が……場所が場所なら名のある魔術結社が秘蔵っ子としては囲われていそうな子が、ベルゲンに身一つで現れた。

 

「だから分からない。それほどの使い手である君が、何故、この街に現れたのかが」

 

 秘された世界を多くを知るルーカスとしては、裏を感じずにはいられなかった。ベルゲンは都市といえどオスロやストックホルムなどという都会には劣るし、呪術的な価値もあまりない土地だ。

 いっそ娘が目的で、という理由ならどれほど良かったか……いや、それはそれで深刻な()合いが発生するのだが。

 

「もうひとつ、分からないことがある。昨晩の出来事だ」

「異界、か」

「そうだ。私もこの地に代々根を下ろす魔術師のひとりとして……"異界"と呼ぶ現象がベルゲンに元々あったものではなく、昨日今日"何者かの気まぐれ"で出来上がった現象だ、ということは理解している」

「…………」

「そして、知っているか? 最近欧州全体を騒がせている災害の数々を。起きる災害はバラバラだが、示し合わせたように……それこそ意志を持つように北へ、北へと向かっていた不可解な事件を」

「風聞でなら」

「……ここ一週間ほど動きがなかった。そして他の魔術師にも連絡をとると"次があるとすれば……北端のノルウェーになる"と結論付けていた。そこへ現れた超常現象。……だから私はひとつの……到底、信じたくはないが……仮説に行き当たった」

 

 大柄な体躯に似合わないほど躊躇いまじりにルーカスはたどたどしく言葉を選んだ。確定されてしまうのが怖かったのだ、握った拳が白むほどに。

 魔術師としての見識と、奇怪な現象に巻き込まれた者としての視野が、彼にひとつの答えを与えた。つまりは。

 

「知っていたら、でいい。答えなくても、いい。ただ聞かせてくれないか……。

 あの方々が……まつろわぬ神……が、このノルウェーに、いや、ベルゲンに(おわ)す。そう見て間違いないのか」

 

 返ってきた答えはひどく簡潔だった。

 

「ああ、()()

 

 乾ききった舌を引きずって吐いた言霊が容赦なく切り捨てられた。祐一の断言を聞いた二人の反応は顕著だった。沈痛と絶望。痛ましげにかぶりを振ったのちに重苦しく息を吐いた。

 

 祐一はその姿を新鮮な気持ちで眺めていた。

 まつろわぬ神が存在しなかった世界の住人である祐一にとって、彼らの反応は未知だった。

 元の次元で、神に対する人々のリアクションは様々だった。崇拝はもちろんだが巨大人狼となりドバイを襲ったチンギス・ハーンには畏怖と絶望、スロヴァキアの天使には奇跡の対価とするように熱狂と信仰……突如現れた"未知"の災害に手立てもなく無防備にただ縊り殺される他なかった。

 

 しかしルーカスたちの感情はそのどれにも当てはまらない。

 "既知"の災害の恐怖を心に刻み込まれていながらも、()()()という選択肢が取れるほど経験と知識に裏打ちされた態度だった。

 

「なぜ、と言っても意味はないか。かの方々は意志持つ天災の具現……私たちは結局その荒ぶる猛威に、岩陰に潜んで身を低くし、祈りとともに凌ぐしかないんだ」

「凌ぐだけか? 次の瞬間にもベルゲンが消え去ってもおかしくないってのに」

 

 怒らせるつもりもなく、ただ純粋に疑問と困惑で作られた問いかけだった。

 

「きっと、あんたたちの子供なら……チェリーなら立ち向かうとおもうぜ。出会ってからそう長くはないが、あの胆力と気丈さは大したもんだ」

「そうだろうな。どこで教育を誤ったのか、抗えないと知っても娘は立ち向かうだろう」

 

 少しだけ柔らかくなった表情でルーカス同意した。右手の甲を左手の親指で擦りながら、彼は言葉を続けた。

 

「……だが、それはあの方々をよく知らないからだ。……一度会ってしまえば、一度でも会ってしまえば、もう何もできなくなる……かつての私がそうだったように」

 

 一度会ってしまえば、か。

 祐一はまだ自分が人の範疇にいた頃の記憶が滲み出た。かつて友が、本来の自分に立ち返ろうとしているのに何も出来ず、唯々諾々と後ろをついて行くだけだった苦い記憶を。ルーカスもまた出会ってしまったのだろう。

 

「私も過去に一度だけ、遭遇したことがある。それだけで私の心は完膚なきまでに折られた、身をかがめて岩陰に身を潜め息を殺し、彼らが去るのを祈るしかなかった」

「ああ、分かるつもりだ。その感情は」

 

 自分もそうだった。変わっていく友をただ眺めことしか出来ず、心も折れて、気も萎えて、膝を抱えながら夜を過ごした。

 

「君も遭ったんだな。ならわかるだろう無力感が、決して抗ってはいけないのだと。だから……」

「──だから()()()()()()()。このベルゲンで誰も死なせたくはないから」

 

 ルーカスは眉間を火打ち石で叩かれたように、目をカッと見開いて眼前の少年を見据えた。

 眼前の少年の技量をルーカスは知っている。ともすればまつろわぬ神ですら一撃することも可能かもしれない。

 最初高い技量を誇るがゆえの傲慢さから"戦う"と、そういっているのだと思った。

 だがそうではない、そうではないのだ。

 人間がどれだけ技を高めようと、格が違いすぎて人としての本能が戦うことを拒否する。逆に高い技量を持つものだからこそ、彼我に横たわる圧倒的な溝を自覚して、入念に心折られるのだ。

 一度会えば恐怖と畏怖を刷り込まれ、反抗の意志を踏みつぶされる……それがまつろわぬ神。

 

 木下祐一は口ぶりからして神と遭遇したことがあるのは間違いない。その上で彼は、瞳を逸らすことなく言い切ったのだ。並みの胆力もつ者ではなかった。

 人は神には敵わない。今更説く必要もない法則だ。

 しかし何故だろう……あまりにも無謀だというのに言葉に言い表せないなにかが、烈火を宿した祐一の瞳が、ルーカスから反論を奪い取った。

 そしてひとつの推測が眉間から全身へ駆け去った。

 

「君は、まさか…………」

「え?」

「あ、ああ。……いや、なんでもない、そんなはず、あるわけないからな」

 

 手を振ってそれきりルーカスは黙り込んでしまった。あとを引き継いだのは妻のルイセだった。いつも浮かべている柔らかな笑みはない。

 

「娘は、チェリーは累代のヒルト家でも類を見ない素養をもって生まれてしまいました。きっとあの子がまつろわぬ神に出会えば私たちの手か零れ落ちてしまうと確信するほどの才です」

「…………ああ、あれの凄さもしってるつもりだ」

 

 もし、ペンダントが奪われ祐一が返したあの空白の間に、彼女がまつろわぬ神と邂逅していたら。その未来に怖気を覚えるほど彼女の才は豊かだった。

 

「だからこそ私たちはあの子の才を知った時点で、かつて宗家が保有していた蛇殺しの呪具を蔵から出し、あの子に与えました。けれどなんの因果か、呪具は先日あの子の元を離れてしまった……」

 

 鼻梁にしわを蓄えることも厭わず祐一を見据えた。母の瞳であった。

 

「本当にあの子はまつろわぬ神と出会って居ないのですね? 

 私は恐ろしい。何よりも恐ろしいのは……あの子が手か零れ落ちてしまう未来。そして何も出来ずに見ているしかないかもしれない未来が」

 

 母という存在は、祐一にとって尻込みさせるに充分な存在で……珍しいことに彼は忌避から顔を背けた。目線をさまよわせ、吐いた言葉は独り言じみた言い方だった。

 

「会ってないって保障はできない。チェリーは危険に飛び込むことに躊躇しない性格らしい。俺が間に合わず、あなたがたの心胆を脅かすことだってあると思う」

 

 祐一は言葉を切って今度こそ視線を合わせた。

 

「でもこれだけは信じてくれ。チェリーは死なせやしない。……まつろわぬ神に出会ってても、出会ってしまっても関係ない。信じられないかもしれないけど、でも俺はあいつに誓ったんだ──俺はこのベルゲンを守るって。

 ベルゲンは、チェリーで、そしてあなたたちだ。街も、そこに住む人達も、あなたたちも、そしてチェリーも、俺が守る。だから任せてくれないか」

 

 祐一は言いながら思いを強くした。

 彼は民衆を無視できない王だ。であればこそ、いつ戦場になるかも知れない地で民と縁と情を交わせば剣把を握る手にもより力が籠もろうというものだった。

 

 心の火はいっそうに勢いを増していた。

 

 

 〇

 

 

 放課後、チェリーは図書館へ訪れていた。広い机に分厚い本をいくつか重ねて、黙々と読みふけった。すでに一時間は経過しているがページを捲る指に衰えはない。

 普段なら図書館に訪れることはあまりない彼女だったが、ここのところ立て続けに起きる事件にそうも言っていられなくなった。

 人狼、トロール、そして異界。

 最近見知った言葉を思い出しながらそれがページにチラリとでも載っていれば手にとって、細いアーモンドアイをさらにすがめて字を追った。

 本の種類は絵本、ゴシップ雑誌、オカルト本、新聞、学術書、とバラバラであるが取り扱った内容はオカルトじみて胡散臭いものばかりだった。そんなものを可憐な少女が山と積んで執心しているのだから傍から見れば異様な光景に映っただろう。

 それからどれほど経っただろう。ふと、彼女の手が止まり、頬杖をついた。

 

「分かってたけど……そう簡単には見つからないわね」

 

 本には魔術や神秘について事細かな記述があるものもあった……けれどそのどれもがチェリーの求める記述はない。どれも歴史書の域を出ないものばかりだった。

 つまりは秘されている。平穏な日々を送るものは知りえない、知ってはならないという事なのだろう。

 裏側に横たわる澱じみた世界。あれが広く認知されているのなら、チェリーだって母に教えてもらうまでもなく知っていただろうし、関連の書籍はそれこそ雲霞のごとくあるはずだ。

 だが、どれだけ探してもないのなら厳しい情報規制をされているに違いない。

 

「ダメだわ。きっと、ここでどれだけ探しても私の欲しい情報なんて拾えない」

 

 どうしよう、とこめかみを解す仕草をとるチェリーだったが宛がないでもない。

 一番手っ取り早いのは昨日から住み着いた居候に問いただすことだ。けれど闊達でやかましいと思えるほどの彼だが、そちら側となると途端に口を閉ざす。

 彼がどんな経験をしてきたかは知らないが、非日常や人命となると臆病さや慎重さが顔を出し、力のない人間は遠ざけたい、関わらせたくないという気持ちが透けて見えた。

 

「アタシは関わるって決めてるのにユーイチのやつ……。というか契約云々はアイツから言い出したんじゃないの」

 

 憤懣やるかたないと肩を怒らせるが知識も力もないのも事実で、そう思うと頼ろうにも頼れないのかもしれないと肩を落とした。

 次点で親がいるが、危険なことに関わっている自覚はあるし、過保護な両親だ。きっと知ってしまったらNo! を突きつけられるのは目に見えていた。

 最後に残ったのが自分で調べるだったのだが……捗らない。まるで裏側へ繋がる道をごっそりとくり抜いたようにページを捲っても情報は落ちていなかった。

 

「あ、もうこんな時間……そろそろ出なくちゃ」

 

 きぃ、きぃ。

 席を立ったのと、ずらりと並んだ本棚の奥から金属音が聞こえてくるのは同時だった。金属音はか細くて、車椅子の車輪が回る音だと気づいた。

 

「おや?」

 

 はたしてチェリーは車椅子に乗った人物を知っていた。

 出会ったのは昼ではなく夜。街灯の置かれた道でもない暗がりだったが、忘れようはずもなかった。

 決して親しいわけでも友好的でもない。けれど今のチェリーにとって喉から手が出るほど欲しい情報を握る人物ではあった。

 魔術師ダヴィド・ビアンキ。因縁の相手との再会だった。

 

「アンタ、まだベルゲンに居たんだ」

 

 逸る気持ちを抑えて口火をきった。先日彼には()()になっていたが、情報源であることは違いない。機嫌を損ねないよう注意を払って言葉を選んだ。

 ビアンキはつまらなさそうに、肩を竦めた。

 

「ふん、僕もさっさとベルゲンから出ていってアメリカにでも高飛びするつもりだったけどね……。僕なりに思うところがあって残る事にしたのさ。用が終われば出ていく手筈なんだ、関わらないでくれるとありがたいね」

「その用って……もしかして"異界"のこと?」

 

 不貞腐れた顔が驚愕に歪み、ビアンキはすぐに周囲を見渡すと無人だったことを確認し、安堵を浮かべた。それからチェリーの裾を掴み、車椅子に乗っているとは思えない強引な力で引っ張った。

 

「ちょっと来たまえ」

 

 

 図書館から強引にチェリーを連れ出したビアンキは人通りの少ない道のベンチに腰を下ろした。むっつり口を引き結んで、なにか印を切るような仕草をとって、チェリーは黙したままぼんやりと眺めていた。

 

「なにしてるの?」

 

 何かをやり終えたビアンキは答えず、少ししてやっと息を吐いた。

 

「人払いと防諜の結界だよ。魔術は秘匿が基本なのは常識だろう……まさか知らないのか?」

「……えっーと、ママがそんなこと言ってた気がするわね…………。ねぇ、もしかして本を漁っても魔術の情報がなかったのってそういうこと?」

 

 その様子に埒が明かないとため息をついて、彼の方から話し始めた。

 

「当然じゃないか。科学が幅をきかせてる時代に、魔術が実はあったなんて言ったら大騒ぎになるだろう」

 

 少しだけ間を置いて、ビアンキは問いかけてきた。

 

「……ぼくは君からいただいた、いや奪った、か。ともかくメダルの件で糾弾してくるとばかり思っていたけど、そうじゃないのかい?」

「……そうね。アタシもそうしたいのは山々よ……でもね、あなたに話があるの。他でもない、魔術師であるダヴィド・ビアンキにね」

「なるほど。感情ばかりが先行する猪女かと思ったが存外、冷静さは備えているらしい」

「こ、今度こそ、張っ倒すわよアンタ……!」

「ふん、冗談だ。それで、話とは?」

「ゴルゴネイオンって言えば分かる?」

 

 ビアンキは後悔した。やはり迂闊に関わるべきではなかった。言霊は実際にあって、無意識でも作用する。脳裏に描かれた染み付いた、まつろわぬ神との邂逅などという馬鹿げた恐怖劇を思い出すだけで、震え出した指を噛み締め押さえつけねばならない。

 

「ちょっとアンタ震えてるじゃない」

「……ッ侮らないで、もらいたいね」

 

 指で唇を拭いつつ息を吐けば、震えは次第に去っていった。

 

「僕なりの推測だが、君ははじめ異界と言ったな……。それは夜に起きている異変のことなんだろう? そしてゴルゴネイオンが関わって、君は巻き込まれている、だから情報が欲しかった。そうなんじゃないか」

「さすが魔術師。話が早いわ」

「僕も地相術に携わる徒として、この地で起きてる異変について()()()程度は把握しているつもりさ……何が知りたいんだ、早く終わらせてしまおう」

「一切合切を、よ。ゴルゴネイオンだけじゃないわ。あなたたちの言う()()について知りたいのよ」

 

 神の存在を知っていたのか、とビアンキは苦味を帯びた表情を浮かべた。

 

「不本意だけどここ数日で、アタシの環境は変わったわ。アタシ自身もね。……まだ数える程しかないけど、あなたたちの霊視って呼ぶ現象も起きてるの。それでみえてしまうのよ……観たくなくてもね」

 

 霊視を何度も受けているチェリーは十分な知識はなくともトロールや人狼をはるかに超える存在がいる事実に、薄らとだが勘づいていたのだ。

 そして母や父、祐一の口の端からもれる単語を繋ぎ合わせてたどり着いたのだ。秘すべき真実に。

 

「なるほど。それで神の存在にたどり着いた、と」

「最初はなんのことだかちんぷんかんぷんだったけどね。……でも、アタシは知らなくちゃいけない。だからあなたに危害は加えないわ、アタシの欲しい情報を知ってるあなたにはね。

 教えてちょうだい。ベルゲンで何が起きているのか、誰が居て、何を起こそうとしているのか」

 

 ビアンキの口は引き絞られ割られることはなく、風に揺れる街路樹に視線を送るばかりだった。

 

「アタシはこの街が好き。守りたい。でもなあんにも知らないままじゃ駆け出す方向も、拳を振り下ろす先だって分からない。

 ベルゲンで起きてる事件をパパやママも、それにアイツだって、詳しいことはなんにも教えてくれないの。だからアタシは自力で探し出さなきゃならない。ベルゲンを守るためなら憎いアンタにだって頭を下げるわ」

 

 目を瞑って、小さく息を吐いた。

 

「勘違いするな。このぼくがきみの告白に胸打たれただとか義侠心に突き動かされたとかじゃない。これは盗みを働いた罪の清算からくる忠告で懺悔だ」

「それじゃあ……」

「──ベルゲンにはおそらくニ柱のまつろわぬ神がいる」

「二柱……。つまりそいつらがベルゲンで争ってるっていうの?」

「ああ。それも君が所持していたメダル……ゴルゴネイオンと呼ばれる"神具"を欲したゆえの争いなんだ。ゴルゴネイオンは神代の魔導書とも言われる代物でね、不朽不滅にして神の半身ともいえる高位の神具だ。神々が狙うなんて当然のことだったろうね」

 

 自嘲気味にビアンキ肩をすくめた。なにか思うところがあったらしい。

 

「神々の争いって、止められないの? 魔術師のあなたでも?」

 

 当然の疑問だった。

 

「世界中の軍隊を向こうに回しても敵わないそうだ」

「世界中?」

「そう。世界中の軍隊、魔術結社、武術組織、それら全て糾合し、たった一柱のまつろわぬ神に挑んでも無傷で勝利する。例え核兵器を使ったとしてもね」

「そんな馬鹿げた存在がふたつもいるの?」

 

 誰もが言っていた"ベルゲンが滅びる"という言葉が信憑性を帯びてきた。神なんてものの前評判どおりの出鱈目さに目眩がしそうだった。

 

「そう、二柱も。だがそれは()()()、であったらの話だ」

「え?」

「君はカンピオーネを知っているかい?」

「カンピオーネ……チャンピオンってこと? たしか、イタリア語で勝者って意味よね?」

 

 なんとなく授業で習ったことを反芻しつつ答えた。ただ、ビアンキが何故そんな単語を口にしたのか訝しみながら。

 

「意味はそれだけじゃない。我々魔術師の間ではカンピオーネとは極めて重要な意味をもつ称号でもある」

「称号?」

「そう。人の身でありながら神を弑逆し、まつろわぬ神に対抗する手段を得た絶対の覇者……神殺しを為し、神の権能を簒奪したフェノメノ、あるいは魔王に贈られる称号なのだ」

「まつろわぬ神のお次は、神を殺した人間ですって?」

「信じられないかもしれないがね。だが間違いなく存在するんだ。欧州だけでも三人。イタリアにはとんでもない大バ……失礼、剣の王が。イギリスには神速の黒王子が。東欧には最古の魔王が、と言った具合にね」

「眉唾も大概ね。神様殺すなんて、どんな人間なのか予想もできないわ」

「時たま現れるのさ、そういう特異な存在が。特に今の……世紀末と呼ばれる時代にはね」

 

 防音の術も、人払いの術も、自らなの手で張ったというのにビアンキは背をかがめて声を潜める仕草をとった。

 

「実際にぼくは会ったのさ、その魔王殿にね。僅々では御三方の王にお会いした。一人はイタリアに君臨する剣の王に。もう一人は同地イタリアで誕生なされ、かつての師によって引き合わされ……我が身の恥を晒すようだが……イタリアを追われる羽目になった」

「分かってきたわよ。……ベルゲンにいるのはまつろわぬ神だけじゃない。だったら、もう一人は」

「ああ、ぼくは期せずして拝謁の栄誉を賜ったのさ。このベルゲンでね」

「…………」

「推測だが今世紀に誕生した方々とも、日本の最新の王とも違う、まったくの無名の王だった。これは恐るべきことだ……先月にも七人目の王が新生し、魔術界はてんやわんやの大騒ぎになったというのに相次いで()()()の王が人知れず誕生していたことになるからね。欧州のみならず全世界の魔術界を震撼させる大事件だ」

 

 チェリーには魔術界だとか、七人目や八人目の王だとか、正直どうでも良かった。なにせ目前に、確固とした脅威が迫っているのだから。目線で話の続きを促した。

 

「ぼくは幸か不幸か、若き魔王陛下とまつろわぬ神の戦いの場に居合わせた」

 

 ぼくが君からメダルを奪ったすぐにね、というビアンキの言葉を彼女は驚きをもって受け止めた。

 もしかしたら自分が倒れていたすぐ近くで神と魔王とやらの戦いが起きたかもしれないというのだ。

 皮肉を言うでもなく、身を乗り出して俯くビアンキを覗き込んだ。

 

「どうなったの?」

「死にはしなかったさ。生き残った代償がなんなのかは見てわかるだろう?」

 

 車椅子に視線を送り、分厚い包帯を巻いた足を軽く掲げた。

 そして間近で見たからこそ、まつろわぬ神の真名を看破せしめた。彼は驚嘆すべき偉業をなしたというのに驕るでもなく謙虚に語った。

 

「あの時のぼくは為す術なく、半生を捧げたはずの熟れた術の行使だって望むべくもなかった。得意の観相すら見ることはできなくて……でも必要なかったんだ。

 観相なんてなくてもわかるほど、まつろわぬ神は不吉を体現した"奈落そのもの"といっていい存在だった」

「奈落そのもの?」

「奈落とはすべからく死者の赴くべき場所である。そして()()のなかにある昏く深淵い底……。つまり()そのものがまつろわぬ神だったんだ」

「大地に、死……?」

 

 言いながら頭の隅っこでチラチラとなにかが視えた気がした。輝かしき太陽の凋落と玉座を追われる老いさばらえた老人の姿が。

 チェリーの考え込む様子に構わず、ビアンキは投函の術でとあるものを呼び出した。それはひとつの地図だった。ただの地図ではなく、砂礫や草木、水をふんだんに使った立体的な地図で、実際の地形を反映したものなのだと一目で判った。

 

「大地と死の権能を司る神はあらゆる神話体系で散見されるため特定は困難を極める……だが、ぼくにはひとつだけ心当たりがあった

 かの神が武器としていた鎌にも似た剣。剣というにはいささか特徴的すぎ……だから思い至った。あれは神話で語られるハルパーと呼ばれるものではないか、と」

 

 地面に置かれた地図にビアンキは砂を振りかけた。イタリア、それもローマと文字のはしる場所に落ちた粉は、驚くことに盤上をズルズルと這い回りはじめた。

 

「これは僕がまだ、イタリアにいた頃手に入れたものでね。ローマのとある神殿から発掘された石版を粉末状にしたものだ」

「神殿……っていうと神様の祀られる場所よね。ならそこには神様の力が宿ってる……?」

「そう。まつろわぬ神はおびただしいほどの力の塊だからね、極小の台風といってもいい。追跡も容易なものさ、容易とはいうものの命懸けではあるがね」

 

 ビアンキの語りを聞き流しつつチェリーは盤上の粉を注視した。イタリアを北上しはじめた粉は、ドイツを通り過ぎるとデンマークまで一気に昇った。

 

「ハルパーとは湾曲した剣であり、鎌と言い替えてもいい。鎌は実った麦を刈り取るための道具で、命を劫掠し富を得るための聖なる祭具。現代では死神のイメージと結びつき死神もつ武器とされているが、それ以前はとあるローマ神話の農耕神のアトリビュート……ヘルメス神の杖だったり正義の女神の天秤のように関連を持つものだったという話だ」

 

 そして海を渡った粉は、北欧のある国にたどり着きチェリーがよく知る名の記された街で止まった。

 ──ベルゲン。この街だ。

 

「神殿の名はサトゥルヌス神殿。神もまた祭り上げられた神殿に準ずる神なのだろう」

「じゃあベルゲンにいるのはサトゥルヌスって神様なのね。聞き覚えがあるわ……ローマ神話に出てくる神様よね? 我が子を喰らうサトゥルヌスって絵画はアタシでも知ってるもの」

「サトゥルヌス神が何故ゴルゴネイオンを求めているか、そこまでは流石に分からない。どのような深淵な考えがあるかなど人の身である僕たちに知る術はないからな」

 

 前進したのを確かに感じ取った。二柱のうち、ひとつの正体が暴かれたのだ。

 

「じゃあもう一柱の方は?」

「……名は僕でも分からなかった」

「へぇ。名前以外はあたりは付いてるって言い方ね」

「そうだね……確信はないが……」

 

 ビアンキにもったいぶるつもりはないのだろうが、一々躊躇いを見せる彼の話し方は焦れったくて仕方なかった。

 

「ゴルゴネイオンを欲する神は限られている。ゴルゴネイオンは()()()系譜の女神のみ、原初へ至らせる道標でね。だから限られた神々しか欲することのない神具なのだ」

「とある系譜……。それに纏わる女神様がもう一柱の神様、ってこと?」

「少なくともぼくはそう睨んでいる」

 

 そこで首を傾げた。

 

「ゴルゴネイオンが原初へ至らせる道標? って言うのはわかるけど……どうしてそんなものを神様が欲するのよ? よく分からないわ」

 

 こちら側に来たばかりの素人なら当然の疑問だろうね、とビアンキはイラッとする笑みを浮かべた。

 

「チェリーと言ったか。きみはまつろわぬ神がなぜ"まつろわぬ"と呼ばれるか知っているかい」

「さぁ。でも言葉の意味を考えたら、服ろうことのない……従わない神様ってことになるのかしら? 

 だったらそうね、従わない神様はきっと主に従わない異教の神様ってことじゃないかしら。……あるいは、言葉遊びだけど異郷の神様だったりとか?」

「おもしろい解釈だな、そして少しだけ正鵠を射ている。まつろわぬ神々は神話という異郷からやってくる……君の異郷の神というのもあながち間違いではいのかも知れないな」

「それで正解は?」

「まつろわぬ神は現実ではない神話の世界から現れるのさ。神話に語られる存在でありながら神話にまつろうことのない神。それ故に──まつろわぬ神」

「…………」

「そしてまつろわぬ神はぼくたちの知る神話から外れようとする……いや、すでに外れた存在なのさ。彼らは文字通り神話から"抜け出した"存在だからね。

 神話内にいるべき彼らが現実にいる……それだけでもう神話に叛いていることを意味し、まつろわぬ性を獲得してしまう」

「神話に従わないから"まつろわぬ"神ね。結局、言葉遊びじゃない」

「どうやら君とぼくとでは認識大きな齟齬がありそうだな。話しを戻そう。……そうしてまつろわぬ性を獲た神々は、神話に縛られていなかった自由な姿に立ち返ろうとする。おそらく今回の一件もそれが顕著に現れたものだろう。

 ゴルゴネイオンとは、神代の魔導書であり数多くの女神にとって、原初に近い、いにしえの自由だった己に立ち返るための道標なのだから」

 

 身勝手な話だ。

 人に祀られ人に試練と無償の愛を与える神が、自儘に欲しい物のために周囲のことは考えず奪い合い、絶大な力を己のためだけに振るう。

 チェリーは事件の真相に近づき、争うものたちの動機を思案するたびに、原始的というより幼さを、激情的というより純粋さを、そして生々しい人間らしさを覚えた。

 胸元で十字を切る。信心はあまりないが自分の奉ずる神だけは、人に仇なす存在ではなく愛を与える存在であってほしいと願わずにはいられなかった。そうでなければあまりに救いがないではないか。

 

「結局、最後の一柱はサトゥルヌスに似た相をもつ女神かもしれないってこと以外分からないのね」

 

 息を吐いて思考を現実に戻す。

 頬を人差し指の腹でとんとんと叩きながら、ビアンキの言葉を噛み砕いた。

 

「まぁだいたい分かったわ、神様ってのは基本的に神話とかなかった時代の自分に戻りたくて仕方なくて……それでゴルゴネイオンはその昔の自分が事細かに書いてある道具。

 つまり神様の設計図みたいなもので、だから力ずくでも奪い合ってる、ってところかしら」

「…………君の設計図という表現に物申したい気持ちはあるが、よすがだったり、標榜だったり、難解な言葉では理解ができないというなら、それでいい」

「なによ、シロウトなりに噛み砕こうとしてるのよ」

「変に例えを持ち出して、物事を矮小化すべきではないとぼくは思うがね……特にこの一件に関しては……」

 

 小さく息を吐いて、ビアンキは表情を引き締め、これまでの総括をはじめた。

 

「大地の神サトゥルヌスと、ゴルゴネイオンを追う地母神。そして神殺したる八人目のカンピオーネ。これら三柱の超越者が相食み、闘争の舞台となっているのがベルゲンの現状だ」

 

 つまりは、三つ巴。

 彼の推測は神の視点から見ても多くの正鵠を射ていた。ビアンキの術師としての腕は確かなのだろう。

 

 ふと。

 

 彼の話に聞き入っていたチェリーに思い至るものがあった。ゴルゴネイオンを拾う以前の記憶を。あれはビアンキにも祐一にも出会う以前、ブリッゲンで……──? 

 その瞬間、海馬から脳の中枢へ激烈な痛みがはしった。ふらつく頭を抑えながら横切ったのは月を溶かしこんだ銀の髪。

 チェリーは思い出せなかった。嘗ての記憶が。思い出すなと耳目が叫び、脳が悲鳴をあげ、触覚が荒野の冷たさを思い出しせた。

 瞑目と沈黙のなか己が裡を探りあげ、記憶の扉に行き着いた。記憶を遮る扉は、固く、重い。

 手をかけ、懸命に押し、隙間から覗いた月の光にも似た光明が、視界を焼いて。

 

「ゴルゴネイオンを追ってる女神って……」

 

 疑問が口からでるより早く、何者かの、針の鋭さをもった視線に気づいた。

 

 それもひとつやふたつではない。

 身体ごとかぶりをふって、視線を翻した。どうして気づかなかったのか、こちらを見やっていたのは闇にうごめく無数の──金色の眼。

 

 気づけば日はとっくに暮れ、夜を迎えていた。始まるのだ、今夜の狂宴が。

 

 おびただしいフクロウの群れが、地を這うネズミに向けるものと同質の視線で二人を見下ろしていた。



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少女の真価

 フクロウ。

 古代では冥界と現世を渡る力を持つともされる夜空の支配者だ。現在ではイギリスやイタリアをはじめとする国々で、日本でいう猿のような愛嬌のあるポジションを獲得し、プラスイメージのあるフクロウだがはじめからそうであった訳ではない。

 暗闇のなかを自在に滑空し、奇声を発する異形のフクロウは、その生態が詳らかになる以前は世界的に見ても災いを連想させる凶鳥であった。

 しかし不吉さだけではなく知恵の女神アテナの聖鳥として知恵の聖鳥としての側面も備えており、聖と凶を同時に備えるのは蛇もまた同じである。

 

「──ねぇ! 今! その! 説! 明! いる!?」

「ぼくのありがたい講釈にそんなケチをつける人は初めてだね」

「うっさい! ペラペラ喋る余裕あるなら逃げ道考えなさいよ!」

 

 賑やかなチェリーたちだが、そこそこピンチだった。後ろを振り返れば夜空を覆い尽くす雲霞と評していいフクロウの大軍が迫っていた。

 まるでイナゴの大軍じみていて、チェリーはビアンキの乗る車椅子の取手を掴んで一目散に逃げ出していた。ベルゲンは港町で坂が多い。道路もモザイクが多く、決して進みやすい道ではない。

 でも、四の五の言ってる場合じゃないでしょ! 親から貰った脚で懸命に走った。短距離走スタイルでトロールから逃げ切った女傑といえど、ビアンキの助勢をしながら空を飛ぶフクロウを振り切るのは至難の技だった。

 チェリーも体力自慢ではあるが、どこかのイランの熱波降り注ぐ荒野を一日中走り回れる体力バカほどではないのだ。

 

「ビアンキって言ったっけ! アンタ、魔術師でしょ、あれどうにか出来ないの?」

「無茶言わないでほしいな。まつろわぬ神に比べるのも烏滸がましいとはいえ、あれらは神の使い。非力な人間じゃとてもじゃないが太刀打ちできないさ」

「偉そうに言うなバカ!」

 

 あーもー! と頭を掻き回したい衝動に駆られながら肩越しに後ろを見れば、凶鳥の軍勢はさらに距離を詰めていた。一際目を引くのは身の丈十メートルはありそうなフクロウ。巨大フクロウが先行し、鋭く長大な嘴が目に入って。頬が引き攣るのが分かった。

 

 ドォルンドォルン! 

 

 軽快なエンジン音が鳴り響いたのも、その時だった。

 

「──どおりゃああああッ!」

 

 フクロウの横合いからバイクが飛来した。まぶたが仰け反るように目を剥いたチェリーを尻目に、中空で棹立ちになったバイクはけたたましいエンジン音を吹かし巨大フクロウに突貫した。

 濁った悲鳴を下敷きに着地したバイクからスキール音が轟く。地面に叩きつけられバウンドし転がっていくフクロウに構わずバイクはチェリーたちに横付けしてきた。

 

「オッス! 遅れてすまん!」

「遅い! いっつもいっつもアンタは遅いのよ!」

「そういうなよ。これでもお前の親父さんからバイク借りてかっ飛ばしてきたんだぜ」

 

 あっはっはと笑う祐一に半眼をくれつつ、後方を見ればフクロウが距離をとっていた。まるで何かを恐れるように。……距離をとるというより、後退っている? 

 

「離したまえ」

 

 訝しんでいるとビアンキの常にない真剣な言葉が飛んできた。チェリーは自分でも不思議だったのだが、素直にしたがって車椅子の取手を離してしまい、後からハッとなった。祐一もバイクを止めた。

 

「アンタどうするつもり?」

「少しばかり思うところがあってね。受け取りたまえ」

 

 投函の術で呼んだらしい鞄を投げてきた。ずっしりとした重さに落としそうになったが何とか受け取る。

 ジッパーを開けて見れば呻きそうになった。黒々とした銃器で溢れていたのだ。

 

「魔術師は呪力を失えば能無しになってしまうからね、気休め程度の対策さ。セーフティはそこだ、外せば撃てる」

「外せば撃てる……ってそんな問題じゃなくて!」

 

 車椅子から立ち上がったビアンキは背後に迫るフクロウへ、手を伸ばした。もう距離はあまりない。祐一の登場で、進行速度は格段に下がったとはいえ前進しているのには変わりないのだ。

 

「鳥は地磁気を感じる能力があると言われていてね……天空の支配者であるフクロウといえども、あれらは地母神の使いだ。ならば大地とは切り離せない関係にある」

 

 決然としたビアンキの言葉が何を意味するのかチェリーには分からなかった。ただ、大地が蠕動する錯覚を覚えて……直後、フクロウの群れが大きく割れた。

 

「それにぼくは恩を受けた。ぼくは人の正道をはずれた魔道の輩といえども、人の心までは手放していないつもりでね……足は折っても、引っ張るのは死んでもごめんなのさ」

 

 止める隙もなく車椅子に腰をどっかと下ろし、車椅子は独りでに動き出した。ビアンキが離れ、それを追うように多くのフクロウが後を追った。

 

「ビ、ビアンキ某……!」

 

 祐一は正直、状況が掴めてなかったが決死の覚悟を見せる男が好きだったのでちょっぴり好感度が上がった。

 チェリーは心配そうな視線を送った。色々と気に入らないやつではあるが死んで欲しいとまでは思わない。

 

「ねぇ、あいつ大丈夫なの?」

『あの者はひたすら逃げの一手を打つ心づもりだった。あの手の輩は早々死にはせん』

「一応ラグナも付いていかせたし大丈夫だろ」

「ふーん」

 

 よく分からないが、大丈夫そうだ。祐一の言葉はともかく叢雲の言葉は一本筋が通っていて信じてもいい気持ちになった。

 

「…………あれ、ムラクモはどこにいるの? 姿が見えないけど」

『オレは祐一の佩く刀剣。故に祐一の中に眠り、祐一自身が鞘なのだ』

 

 解説、と視線を送れば祐一は肩を竦めた。

 

「まあ、普段は身体んなかにしまってるってこと」

「……アンタって大概愉快な身体してるわね」

「うるせぇよ」

 

 などといういっている間にフクロウは目前まで迫っていた。

 

「残りのヤツらが迫ってきた、後ろに乗ってくれ」

 

 祐一が言うので渋々、乗り込み肩に手を置いた。ヘルメットを探したが、ない。

 休日になると父の後ろに乗って親子デートしていたので愛用のヘルメットがあるはずなのだが……キョロキョロと座席付近を見回していると、急発進によるGで首がもげそうになった。

 きゃああああああ! と尋常ではない加速に悲鳴をあげる。肩に置いていた手をたまらず腰に回した。

 視界に入るすべてが置き去りになる加速……体感だが100km/hは優に越えている。ギネスに申請を出せば通りそうな加速度、乗りなれているはずのバイクが異次元のマシンかと錯覚した。

 

「う、うちのバイクが……魔改造されてる……!?」

「俺が乗り物に乗ったらだいたいこうなるんだよなぁ……」

「元凶はアンタか」

 

 非常事態なので大目に見るが……愛車が寝盗られたとあって心中穏やかではないチェリーだった。彼女の密かな野望は免許を取って父からこのバイクを受け継ぐことである。

 

「バイクの調子とかもわかるんだぜ。よく手入れされてるけどタンデムステップとクッションが擦れてんな、いっつも重いもんを載っけてるみた……ぐはぁ!」

 

 気がつけばレバーブローを打ち込んでいた。ミラー越しに訴えかけてくる祐一に、なにか、と素晴らしい笑顔を向ければ、ナンデモナイデスという言葉が聞こえた。よろしい。

 

「ねぇ、どこまで行く気?」

「街を抜ける。厄介なフクロウを振り切らなくちゃいけないからな」

 

 祐一の言葉に後方を見やった。驚くことにフクロウはまだ後ろにつけていた。

 スピードメーターは振り切れているし速度も200km/hは下らないはず。それでもフクロウを引き剥がせない。ビアンキのいっていた神使という言葉が脳裏をよぎった。

 

「強さは雑魚って言ってもいいけど数が多すぎる。ビアンキ某が数を減らしてくれたとはいえ、増え続けてるしなぁ」

「雑魚って……」

 

 本当だろうか。祐一に疑わしげな瞳を向けつつ焦りを感じられない彼を見てとって、判断に困った。

 本当に雑魚であるなら一掃してしまえばいいものを、何故そうしないのかわからなかった。それは昨晩のトロールの時だって同じで……。

 

『まだ彼奴の呪縛は祓えぬか』

 

 呪縛? 唐突に言葉を差し込んだ叢雲に首をかしげた。言葉の意味を考えるなら、本来の力を封じられている、なんてことになるのだろうか。

 そういえば昨日、祐一は言っていた。太陽光を浴びながら"傷を癒す"と。

 

「アンタ、もしかして……万全じゃないの? どこか怪我してるのね……まだ傷が治ってない昨日言ってたものね」

 

 断定的な言葉に、祐一は苦笑で返した。

 

「大丈夫なのよね」

「心配すんな、いつもの事だ。絶好のコンディションや万全の体勢で戦うってのはなかなか出来ないもんなんだよ」

 

 祐一は戦歴を振り返りながら苦笑を続けた。

 ヤマトタケル戦は策に嵌り、まともな精神状態ではいられなかった。その後も『戦士』の化身を奪われて以降、祐一のなかで万全や完全の文字は消えてしまった。

 スロヴァキアの天使戦では初手から呪力を目減りされるデバフ、サトゥルヌス戦では記憶喪失真っ盛り。万全を期した戦いなどチンギス・ハーン以来ない。

 いや、デバフかかりすぎでは……。祐一は己の戦歴を思い返しつつ遠い目になった。

 

 なおカンピオーネは神と相対した時点で様々な恩恵を受けられているので、そんな考えを持っているのは祐一くらいだが本人に自覚はない。

 

「目には目を歯には歯を。数には数を……軍勢でも出せればいいが、権能も使えないしそうもいかない。どうにか元を叩ければいいが……」

「あれじゃないの、フクロウの出処って。……というか今夜の歪み?」

 

 フロイエン山の頂きを指差した。祐一は訝しみながらそちらへ目を向けると──最初、山頂から噴煙が立ち上っているのかと錯覚した。

 けれど、違う。

 あの夜闇を塗りつぶす黒より黒い煙は噴煙ではない。更にいえば煙ですらなかった。

 煙かと見紛うほど密集したフクロウがフロイエン山と雲までの空を埋めつくしているのだ。まるで洞窟に潜む蝙蝠が、逢魔が時に天空を覆い尽くすがごとく。

 

「違いない。しっかし、よく気づいたな」

「変って感じしない? "見えないけど見える川"が地面のなかを流れてて、なんかあそこだけ通りが悪いっていうか、吹き溜まってる感じがしたの」

 

 もしかして地脈のことを言っているのか……? と祐一は眉をひそめた。覚えがあった。かつてヤマトタケルの魔の手を振り切った逃走経路こそ地脈の流れだったのだから。

 地脈の存在を、無意識ながらチェリーは第六感的な感覚で捉えているのかもしれない。破格だな、コイツは。呪術に纏わる知識なんて皆無だが、経験からチェリーの異常さを悟った。

 

「また増えてきたんですけどー!」

 

 難しい顔を浮かべる祐一に、相棒はいっそ能天気と言っていいほどあっけらかんとした声を張り上げた。

 祐一は悩むのを放り投げる理由ができたと思考を切り替え、サイドバックを叩いた。

 

「さっき銃貰っただろ、ぶっぱなせよ!」

「無茶言うわね全く!」

 

 ガサゴソと銃を取り出し、構えた。

 実は銃を持つのははじめてではない。ノルウェーでは毎年九月になると狩猟が解禁されるので、父に連れられ一通り銃の扱いを教わっていた。

 的を狙う必要はない。

 的が多すぎてセーフティを外して引き金を引けば、あとは必ずどこかへ命中するのだから。

 弾がなくなるまで打ち、群れが少しだけ怯んだ。だが少しだけ。大した牽制にもならず、フクロウはついに祐一たちを捉えた。

 弾切れの銃の引き金にかけた指が強ばり、びっしりと背中に汗をかくチェリーだったが、予想に反して怪我ひとつ負うことはなかった。

 祐一が神懸りなハンドル操作で、フクロウの避け続けたのだ。豪雨のごとく迫り来るフクロウを変態じみた挙動で捌ききった。

 

「わ、わ、ひゃぃやあああああぁぁ!」

「しっかりつかまってろ! あと喋んな、噛むぞ!」

 

 そういうならもっと丁寧に! ……と声を荒らげる余裕もない。グッと腕に力を込め、背中に額を当てて堪える体勢になった。

 重力のかかり方が逆さまになったり浮遊感を覚えた気がしたが、あまり考えない方がいいのだろう。

 少しすると三次元軌道も収まって、顔をあげた。フクロウはもう追いつけないほど後方にいた。

 現在、フロイエン頂上に走るケーブルカーの線路を進んでいるようだ。線路上をバイク免許でやらされる一本橋の要領で疾走する。しかしタイヤと線路が磁石でくっついているかのような凄まじい安定感だ。

 ホッと安堵の息を吐く。

 

「上手いものね。そういえばアンタ、いつバイク免許の取ったのよ」

「俺はまだ14だから免許取ってねぇよ」

「え?」

 

 街を抜け、フロイエン山へと快走を続ける彼らだったが、頂上に近づくほどふたたび鈍足になった。フクロウの軍勢が再びやってきたのだ。

 今度は頂上からやってきた軍勢で……数はもはや壁さながら。そこに至り、ついに祐一は剣を抜いた。

 一閃がきらめくたびに刀身の長さを完全に無視した場所で斬撃が起きた。それを数度繰り返せばフクロウは瞬く間にすり潰され、姿を消す。

 直感だが、一匹一匹が昨夜のトロールより脅威が上に思える。神使とビアンキがいっていたから、格が違うのだろう。

 

 ではそれを鎧袖一触する祐一は何者なのか? 

 

 先刻耳にしたとある称号の名前がチラついて仕方ない。黙りこんでいたが首を振る。

 ここで考えても仕方なかったし、だからといってベルゲンの脅威は変わりない。

 

「今度の歪みってやつは一体なにかしら……フクロウの親玉?」

「どうやら違うらしい」

 

 言葉を切って視線を頂上へ。フクロウが密集し、とぐろをを巻くひとつの影を垣間見た。蜥蜴よりも蛇に近く、イメージによくあるような翼はない。そして手足もない。

 だがそれも些細な問題だろう。全長はおそらく五十メートルはくだらない長大な巨躯を前には、強靭で流麗な鱗の前には、ぞろりと生え揃った牙の間から吹き上がる毒と火の前には、地球上のあらゆる生物が平伏すだろうから。

 その種であるというだけで神獣に列せられる空想の産物。翼も手足もなく、だが、ひと目でわかる猛威。あれこそ──

 

「──ドラゴンだ」

 

 

 ○

 

 

『彼の目は赤加賀智(あかかがち)の如くして。おお、古より流れる(オレ)の鉄血が疼くぞ』

 

 どこか馬を思わせる爬虫類の頭部と長大な蛇の胴。牙から火を吹き出す、炎の目を眼窩に嵌め込んだ典型的なドラゴンに、右手に握った叢雲が蠢動している……というかワクワクしている。

 顔があればニッコニコだろう相棒に呆れながら、今夜の歪みをあらためて確認した。

 黒煙さながらのフクロウから伸びる無数の眼光、眼光、眼光。だが一際凄まじい圧力を放つのは、やはり竜の眼光だ。

 古代日本において目の表現に"カガチ"という言葉が使われ、カガチとは蛇の異称ともいわれる。メドゥサがそうであるように蛇の目を恐れるのは東西共通の恐怖なのだろう。

 そして竜の片方の目に埋まっていた。古の《蛇》……ベルゲンを騒がす元凶たる神具が。

 

 フロイエン山の頂きで悠然と地上と彼らを見下ろす竜。その視線に晒されながら、チェリーはずっと肌に触れていた気配が強まっているのを感じた。つまりは、知恵と死の気配を。ダヴィド・ビアンキの語ったように、ある意味でフクロウと似通った相をドラゴンは従えるのだ。

 

「ドラゴンか。ヒューペルボレアで戦って以来だな」

「戦った事があんのね……」

 

 呆れながら相槌をうつ。彼の武勇伝にもう驚くのはやめた。

 

「オプス、つってな判りやすくドラゴンだった。ドラゴンにはいくつか種類があるが……顕著なのは東洋と西洋の違いだな。東洋は細長い蛇みたいな龍と、西洋は翼のある蜥蜴みたいな竜。前者はいいやつ、後者は悪者ってな感じで」

「説明端折ったわね」

「どっちにしろ俺は薙ぎ倒す選択肢しかないし……」

 

 竜といっても東西での違いは周知の通りだろう。これは東洋と西洋でも姿かたちのよく似た"蛇"の影響を受けていると考えられる。

 かつては東西どちらも脱皮を繰り返し、"死と再生"を循環させる蛇は神秘さと絶対性から信仰の対象となった。

 

 西洋ではキリスト教文化に教化されたことで人祖アダムとイヴを唆し、楽園を追放される理由の一端をになった罪深いものたちの一党と認識される。どの時代においても一貫して蛇は天使に踏みつけられる姿で描かれ、英雄譚での討伐対象になる格好の悪役だ。

 

 対する東洋において蛇の地位は高い。蛇は田はたを荒らす鼠を喰らい、古代の人々は田はたを守る神と考えた。東洋の田とは多くが稲作であり、水との関係が切り離せないもので、田はたを守る蛇神は水神と結びつけられていった。

 そうして時代が下りすがたの似た龍と習合すると、龍は水と関わりが深い威厳のある姿で描かれた。

 東洋においても時代がくだり謎多き蛇への理解が進むと、絶対性が薄れ、征服神話が生まれる……氾濫する河川を荒ぶる大蛇に例えたヤマタノオロチなどだ。

 しかし征服神話はいくつかあるものの、水を司る蛇や龍は依然として重要な地位は変わらなかった。

 これに対して西洋では逆に狼とともに森林を開墾する邪魔者でしかなくなり、征服するべき悪へとその地位は落ち、そのまま悪の象徴となった。

 

「西洋においては討伐され征服されるべきドラゴン。そして西洋のドラゴンにも種類がある」

 

 メジャーなのは四肢と翼を生やす蜥蜴のドラゴン。聖ゲオルギオスが討伐した悪竜や、ウェールズの旗に描かれるドラゴンたち。

 そしてもうひとつが、ワームやサーペント、リントヴルムなどと呼称される手足のない蛇に近い姿をした竜。ノルウェーでリンノルム(linnorm)、またはレンオアム(lindorm)と呼ばれる蛇に酷似した竜だ。

 

『滾るぞ! 黄泉と大地を舞う梟の気配にまぎれておったが悟ったぞ──大地と火に属する蛇か! 此処で会ったが百年目! 怨敵調伏・外道覆滅の時ぞ、我が武勲のひとつとなるがいい!』

 

 唐突に叢雲が叫んで、チェリーの表情筋が引き攣った。

 

「な、うわぁ……なんか叢雲のテンション高いんだケド……」

「『鋼』つってな、ああいうドラゴンとかワームみたいな竜蛇を倒すのが生業の一党なんだよ、叢雲は」

「物騒ね……」

 

 蛇を討伐する『鋼』、蛇、そして叢雲。それらの単語郡は聞き覚えがあった……というか先刻図書館で見知った言葉だ。スサノオという日本の神が、暴れ回る八俣の大蛇を討伐した逸話。首を切り落とした大蛇の尾からは一本の鉄剣が見つけたという。名を──

 

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)?」

 

 表情は見えない。だが彼の背が少し強ばったのを見逃さなかった。それもすぐに雲散霧消し、肩越しにみえる祐一の目は頂上のリンノルムに向けられていた。

 リンノルムはベルゲンを見下ろし、体を小刻みに動かし蠕動運動を繰り返した。まるで蛇が、脱皮を果たすように。

 その傍からフロイエン山の頂上が赤く染まっていく……かつて北欧全域で用いられていた古ノルド語でリン(linnr)は火を意味した。大地と火のかけ合わさった神獣が山に聳えれば──フロイエン山は火山と化す。

 身震いするほど溶岩が飛び散り、フクロウごと山の中腹へ落ちていった。時間をかければ溶岩の砲弾はベルゲンに落ちるまでになるだろう。

 

「やるしかねぇか。あの竜を倒さなきゃベルゲンがお陀仏になっちまう」

 

「──ダメ」

 

 待ったをかけたのは誰であろう、チェリーだった。今日までずっとベルゲンを守るといって憚らなかった彼女が祐一の袖をとって首を振っている。

 バイクを止め、振り返る。少しばかり苛立たしげに彼女へ言い募った。

 

「ダメ、って……お前状況分かってんのか? ここで止めなきゃあのドラゴンはベルゲンを壊しちまう、お前の街だって傷つくんだぞ?」

「それでもダメ……ダメなのよ」

「いい加減にしろ、何がダメなのかハッキリ言え!」

 

 叩きつけられた言葉に反発するようにチェリーは顔をあげ、祐一を睨んだ。

 

「アンタこそ分からないの! 街を傷つけたくないなら尚更……倒しちゃダメなのよ! あの子を傷つけたら街も傷つく……だって、あの子がベルゲンなんだから……」

「あの子?」

 

 言葉もなく彼女は指で中空を差した。その震える指の先には、リンノルムがいた。

 

「何言ってるんだ……あのドラゴンが、ベルゲン?」

「そうよ……。いたい、いたい、くるしいって泣いてるじゃない聞こえないの!?」

「お、おい!」

 

 ヒステリックな叫びとともに頭を抱えるようにうずくまった。いや、いや、と駄々をこねる赤子のように彼女は地面に膝をついてしまった。

 ただならぬ様子に祐一はバイクを降りて、彼女の背をさする。

 

「どうやらただ倒せばいい簡単な話じゃ無さそうだ」

『応。あの蛇は大地の地脈が凝り固まり形となったもの。あれを斬れば、この地は死の大地と化すだろう』

「ねぇ……叢雲サン……? キミさっき斬ろうとかなんとか言ってたよネ……?」

『己最源流之鋼也! 故蛇見敵蛇即斬必定世倣!』

「バカ!」

 

 物騒な叢雲も右腕に収納しながら、地脈を俯瞰した。ヤマトタケルの追撃から逃れる折にみた、雄渾な大地の命脈が河川さながらに張り巡らされている。

 地脈の血管。ベルゲンをベルゲンとする、人では見ることの適わない大動脈だ。

 どうやら地脈はフロイエン山を源とするようで、呪力に似た土地の精気が吹き上がって、それがベルゲンの街に流れこんで()()()()()

 だが今は、歪んでいる。

 正常に運行されるべき流れが、フロイエン山を取り巻く部分を中心に、流れが堰き止められ澱んだように黒ずんでいる。澱み黒ずんだ塊こそ、蛇の神獣だった。

 神獣を殺せば間違いなくベルゲンに甚大な被害を及ぼすだろう、最悪滅ぶかもしれない。

 

 どうする、祐一は苦々しい顔を作った。

 木下祐一は神殺しだ。それ以上でもそれ以下でもない。騒乱と厄災ぼ運び手……つまりは破壊者で、創造も出来なければ、維持も出来ない闘争の獣。

 ベルゲンに被害を出さないためには、彼自身が動かない事が一番の正解だった。

 

「ちくしょうっ……──ん?」

 

 懊悩している間に、うずくまり瞑目するチェリーに異変が起きているのに気づいた。

 才気縦横……とはいえ、ただの少女であるはずのチェリー。しかし彼女を取り巻く光景は異様なものへと様変わりしていた。

 

「アイツ、なにやってやがんだ? 大地の精気を吸ってるのか……?」

 

 地脈の黒ずんだ澱を総て己が引き受けると言わんばかりに全方位から地脈の力を裡へと流し込んでいく。まるで湖の水底に穴が開いたように力が少女の胸へ向かった。

 澱みは流れとなり、流れは勢いを増す。堰き止められた呪力が渦を作り、少女は渦の中心にいた。

 

 膝をついた彼女は手を組んで堪えるな姿勢を取った。まるで祈祷。荒ぶる神に贄となった巫女が、寛恕を乞い願うような。

 だがそれは姿だけ。どこにそんな容量があるのか……フロイエン山に満ち満ちる大地の精気を飲み込まんとしていた。

 

『……およそ人の成せる所業ではない』

 

 叢雲の呟いた一言が静寂に包まれる夜闇に響いた。

 

 

 ○〇●

 

 

 うずくまり悲観しながら、頭の片隅では思考を止めてはいなかった。あの子を助ける方法はないか、ベルゲンそのものであるあの子を癒せないか。

 知識も、知恵も、彼女には微笑まずただ空転する思考だけが勢いを増していく。自分だけでは何も出来ない……非力な人間としての限界が、チェリーの願いを阻んだ。

 

 そして隣にいる祐一では駄目だった。

 

 彼は生粋の破壊者……破壊し殺し尽くすことでしか解決手段を持たない獣だ。

 神獣を傷つけることはベルゲンそのものを刃で切り刻むことと同義。圧倒的な武威を誇る彼だが、現状彼用いた解決手段はなかった。

 アタシが……、アタシに何とか出来ないの? 

 誰もが口々にする豊かだという己に秘められた魔女の才。母曰く、魔女とはかつて大地の化身だった竜蛇を奉る聖なる巫女だったらしい。

 しかし蛇の零落によって、かつて存在していたと思われる蛇巫のように、嫌悪と排斥に晒され魔女と呼ばれるに到った。

 であればこそ大地の子たるリンノルムを救うのは魔女であり巫女にも成りうる自分しかいないのだ。

 

 決意した──その時だった。()()が彼女に降りたのは。

 

 ──…………か? 

 

 ──す……か? 

 

 悲観と思考の埋没した意識のなかで、割り込むように確かな声が落ちてきた。何故だろうか、聞き覚えがある。

 涼やかで玲瓏。だが確かな威厳を備えた声は間断なく囁き掛けてくる。

 削れた言霊、穴の空いた言葉。……理由は分かっていた。己が雑念にまみれ至らないからだ。息を整え、心を無へ近づける。

 まっさらな紙片さながらに、全てを受け入れる器の如く……今度ははっきりと耳朶に捉えた。

 

 ──すくいたいか? 

 

 誰を、なんて分かりきっていた。

 

「ええ、救いたい。当たり前じゃない」

 

 語りかけてくる誰か。名も顔も知らない誰かにチェリーは言い放った。声の先にいる誰かの力を借りれば解決の糸口になる、そんな直感が彼女を導いたのだ。

 相手の目的は知らないし、何をさせるのか、何をしたいのか、想像もつかない。でも今この時のみ、利害は一致していた。選択肢は他になく、そして、道は拓けたのだ。

 

 ──ならば妾に委ねよ。妾の導くままに大地の祝福を受け取れ。

 

「受け取ったら……どうなるの?」

 

 ──妾の呼びかけに応え、そなたの最奥に眠る蛇が身を起こすだろう。そうすれば妾の眷属にして、賢き蛇の裔たる蛇は、妾たち地母に属する愛子とも呼べる子は、一時、そなたの中で身を横たながら傷を癒すこともできよう。

 

「いいわ、あの子が助けれるならやってやるわよ──!」

 

 

 ○〇●

 

 

 大地が鳴動している。だが増大する大地の揺らぎに反して、火山の頂上にいるリンノルムの動きが緩慢になっていく。ゆっくりと巨躯が解け、赤と緑の混じった光の集まりと化していく。

 大地の精が根こそぎ奪い取られ……いや、引き込まれているのだ。還るべき場所へ還るように……チェリーという少女の胸のなかへ。

 

「すげぇ……」

 

 祐一はそれしか言葉が出なかった。なにせチェリーの為そうとしている業は、祐一が手を伸ばしても遥かに届かないものだったから。

 神殺し木下祐一。新生してから一年も経過していないものの戦歴はもはや歴戦と評してもいいほどだ。相対し、弑逆した神々はどれも強力な『鋼』と『太陽』ばかり。

 だが、地母神に纏わる権能は皆無。そもそも遭遇も数える程しかない。ゆえに鋼の性に引きずられるように竜蛇とは相性が悪く……熱意はあれど術はなく現状、彼は右往左往するしかない。

 だからこそ感嘆がもれた。地に愛された者の一人であるチェリーは、祐一にとって不可能な御業を為そうというのだから。

 

 だが。

 人の身に過ぎたる才は身を滅ぼすもの。

 

『不味い、大地へ深く結びつきすぎておる。あれでは大地の精と意思が一体化し、目を覚まさなくなるぞ』

「目覚めなくなる……って嘘だろ、おい、チェリー!」

 

 叢雲の危惧に、祐一は意識を切り替えざるをえなかった。

 瞑目をつづけ滝のような汗を流す少女の肩を揺らす。歯を喰いしばり、瞼を強く瞑る彼女は今にも目覚めてしまいそうだったが、眉間のしわが増えるだけでそれ以上の変化はない。

 なんとかできねぇのか、拳を握る。ベルゲンも救い、彼女も無事に終わる、そんな未来を掴めないのか。力はあれど、悲劇を振り払えない自分に怒りが沸いた。

 ……その時だった。

 右腕に宿る松明が熱を帯び、またたいた光が彼女の胸元に下がるペンデュラムへ光を灯したのは──。

 

 

 

 落ちていく。落ちていく。

 声に答えてからずっと墜落する感覚を味わっていた。陽は遥か上空に過ぎ去り、クレバスの陥穽へ足を踏み外したように晦冥の奈落へ。

 はじめは転落しているのだと思った……けれど違う。天から大地へ落ちているのではない。それは()()()()の領域ではない。

 蛇は死と再生を這い、梟は大地と冥界を飛翔する。

 つまり豊潤な命の大地から、昏い死の待つ奥底へ誘われているのだ。

 

 唐突に視界が開けた。

 

 とはいっても暗闇に染まった空間は見通せない。落下と息苦しい感覚が消失し、そう思い至ったのだ。

 チェリーはその底で一際濃い闇をまとい、とぐろを巻く()()()を観た。のそりと蠢くそれは落ちてきた少女を認識し、首をもたげてきた。

 

 指先も目線も動かせない。当然だ、畏怖すべき祖たる者を前にしたのだ。だから敬い、傅き、彼の者の意のままに従わなければならない。

 

 故に、ひとたび意識を向けられたなら己を差し出しさらけ出し、詳らかにしなければならぬ。己の意思は介在せず、介入は許されぬ。

 事実、彼女の茫洋とした目には生気は宿さず、なすがままを由としていた。

 

 彼女は蛇を奉る巫女。蛇を宿す者。()()()()と導かれたもの。

 まつろわぬ神は才が絶大であればあるほど人の子を畏怖で縛るもの。少女は抜け出せない闇に囚われた。

 

 ──茫。

 

 もたげられた鼻先と額が触れ合う瞬間、胸元から光が弾けた。心に()()()()()いた闇が切り裂かれ、瞳に意思が戻った。同時に闇を切り払われすべてを顕された空間が眼前に現れ出でた。

 語りかけてきた者の正体は──翼ある蛇。

 

『妾の眷属にして、賢き蛇の裔たる、蛇は妾たち地母に属する愛子とも呼べる子』と声の主は語った。竜を眷属とし蛇を裔や愛子と呼びあらわすなら、予想できた姿。そして己にもまた蛇に属する性を秘めている、自覚を獲た。

 秘すべき姿を覗き見られた彼の者は、色を失ったように体躯を起き上がらせた。波動を放つかと錯覚するほど怒気を孕んだ咆哮が、小さきものの身を揺るがし──

 

「──おい! 生きてるか、生きてんなら返事しろ!」

 

 頬をはたかれる鋭い感覚に、意識が急速に鮮明になった。

 

 

 瞼を開けると祐一が厳しい表情を湛えて、見下ろしていた。

 レディを叩くなバカ、と拳を軽く彼の頬に当てた。頬をいじられ変な顔を作った彼は、厳しさをほどいて安堵を浮かべた。

 

「目、覚めたか」

「ええ、ちょっとだけあの世にいってただけよ。そんな心配することじゃないわ」

 

 胸を反らしてふふんと笑う。

 でもすぐに笑みは引っ込め、辺りを見回した。地脈の澱だいぶ薄まり、頂上のリンノルムも活動を止め、巨躯の半分は消失している……それでも、まだ終わっていない。歪みは取り払えていない、ならば為すことを為さねば。

 隣の祐一が視線で訴えかけてきた、やれるのかと。

 

「今度はちゃんとやるわ」

 

 しっかりと頷いて、ふたたび瞑目した。彼の者との邂逅は、多くの知識を自覚もないままチェリーに与えていた。

 蛇の本質、死と再生、蛇と鋼の対立、大地の理。

 もう間違わない。知識が土台となり知恵が躍動する。大地へ語りかける……我がうちに眠り、休息とせよと。深く、深く、大地へもぐり、澱んだ大地を馴染ませあるべき姿へ戻す。

 

 もう声は聞こえなかった。

 

 ただ、為すべきことを為す。

 

 その一念を以ってベルゲン(大地)を受け入れようとし、そして()()()()()()

 

『──ほう。()()はここまで到ったか』

 

 死を。

 

 

 ○〇●

 

 

 Aaaaa……。

 

 リンノルムが啼いている。生が尽き果て、死を目前にして、断末魔をあげている。

 誰も動けなかった。天与の禀質を備える少女も、神殺しも、戦女神も、誰もが死を見届けるしかなかった。"死"が元来、無慈悲なものであるように。

 

「サトゥルヌス……」

 

 祐一の言葉が虚しく響く。状況は詰んでいた。

 死の神が視線を動かした……たったそれだけの身動ぎで、ベルゲンは死んだ。地脈の示現たる蛇とともに。偽りの古の《蛇》とともに。

 

 チェリーは後ずさった。

 

 上手くいくはずだったのに。

 すべて解決する未来が指先にかかって、あとは掴むだけだったのに。

 強ばったの指を頬に這わせて、痛いほど皮膚に食い込ませた。

 

 たすけて、たすけて、しにたくない、しにたくない。

 

 声が、声が。幼子の痛ましい断末魔が、フロイエン山を満たし、少女は死にゆく故郷の嘆きを余すところなくその身に受けて。

 

「嫌……いや……いやぁぁああああああああぁぁぁ!」

 

 意識を喪った。



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雨降って地固まる

 唐突に意識が覚醒した。と同時に身体の感覚が蘇ってきた。そこで初めて自分が仰向けの状態になっている事に気付いた。次いで、最初に目に入ったのは、太陽。水平線に沈んでいく、赤い夕陽だった。

 

 ここ……何処……? 記憶がひどく曖昧で、過去の記憶が思い出せない。

 確か船に乗っていて、空を眺めていた気がした。そのままボーッと記憶を辿ってたどって、やっと思い出した。

 アタシは船から海に投げだされた……んだったわね。風が吹いて、船が横転して。

 間違いなく悲劇が起きたはず。でもすべてが他人事だった。心が動かされず、なんだかDVDに収められた映像を見ている気分だった。

 もう一度夕陽を見る。

 空も海も大地も染め上げてしまうほどの力強さ、色彩の鮮烈さ。いつもそこにあったはずの景色だったというのに、間違いなく生まれて初めて見る迫力だった。

 

 しかしその鮮烈さが、彼女にひとつの確信を与えた。

 

 ──ここはきっとベルゲンじゃない。

 

 快晴。見事なまでに快晴なのだ。だからベルゲンではないのだろう。

 チェリーは知っている。ベルゲンに生を受け、まだ十年余しか経っていない身空であるが、街を取り囲む七つの山を練り歩き、特色豊かな港に足繁く通い、大地に親しみ、同じほど空を見上げた彼女にはわかるのだ。

 ベルゲンにこれほど強い太陽など存在しないと。

 

 これがベルゲンならば許容しがたい違和だった。

 赤道直下での雪。無音のニューヨーク。風のないモンゴル。まるでノルウェーに浮かぶ太陽そのものが別の国の太陽に取って代わられ見上げているような気持ち。

 でも故郷に馴染んだチェリーには分かった。先頃から快晴の続くベルゲンに浮かぶ太陽と、眼前の太陽は同質なのだと。

 すり替えられた別の国の太陽は、きっと荒涼とした乾いた国のもの。だからこそ湿潤で極北であるノルウェーとは合わない。灼熱の国は例えるなら……

 

「……ペルシア。神聖なる日輪の故地こそ……」

 

 口ずさんだ言葉は正鵠を得ていた。そうして充満していくイメージのなかで、硬質な地面の感触を覚えて身を起こした。

 そばには橙に灯る焚き火の炎が揺らめいていて、自分の向こう側には誰かがいた。視線を向けるより早く向こう側の誰かは口を開いて。

 

「おお。気付いたか、()()よ」

 

 涼やかな声が聞こえ──夢から醒めた。

 

 

 瞼をまたたいて身辺りを見回した。意識を失って目を覚ますのにもこの数日ですっかり慣れてしまっていた。焦りもせず冷静に情報収集に努めた。

 そばには祐一が座っていた。彼はブレザーを脱いでいた。

 頭に伝わる感触は、折りたたんだ上着を枕にしているようで、首を傾ければ彼の匂いが香った。鉄のにおいだった。

 身を起こそうとして、ふらついて地面に手をついた。

 

「よう」

 

 目覚めに気がついた彼が、穏やかな、それでいていたわるような声で覗き込んできた。

 紅く、赫い瞳はさきほどまで見ていたペルシアの夕陽に重なって、少しだけ見詰めて直ぐに逸らしてしまった。意志の篭った目をまともに見れなかった。

 きっと、先程の夢は夢ではなくて、誰かの記憶が紛れ込んだもの。そして誰かにとっての起源なのだ、と直感が語っていた。

 

「あなたの目は太陽なのね」

 

 恋のささやきにも似た言葉。けれど、チェリーは真実と本質を語っていた。彼の瞳は太陽そのもの。だから彼の瞳が翳ることのない限り、空には雲は現れない。ちょうど快晴の続くベルゲンのように。

 

「そうだな」

 

 目を伏せて小さく肯定した。

 寝かせられた場所は見覚えがあって校舎の裏山だった。彼女の生活圏の中心ともいえる場所……そして森はもう息をしていなかった。地面に手をつき触れている草木はすべて枯れ果てていた。水気も精気も抜け落ち、死骸を曝していた。

 大地は鼓動を止めて、空は濁っていた。陽光だけを放つ太陽だけがいつも通りで、(いびつ)そのものだった。

 ベルゲンは死んだ。おそらく都市も賑わいを失い人々も去っていくだろう。

 地脈が死ぬとはそういうことなのだ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 乾いて枯れた枝葉にすがりついて、少しでも潤そうと涙を零す。はらはらと流れた雫はすぐに降り終わって、荒い息へと変わった。

 悲しみは怒りへ。

 チェリーは糾弾せねばならなかった。騒乱と厄災の運び手を。誓約を破った戦士を。

 

「あなたの目的はなんなの……。あなたはアタシを、ベルゲンを護ってくれるって言ったわよね……だったら……だったら護りなさいよ! あなた強いんでしょ!」

 

 吐き出す言葉が止まらない。言うつもりのなかった言葉が喉奥から滑りだし舌を通って彼へ滑落していく。いつの間にか距離を詰めていて、彼の襟元を掴んで縋りついていた。

 

「アタシは知ってる……あなたがカンピオーネなんて()()()だってことを。まつろわぬ神を殺した怪物だってことを……!」

 

 超越者による三つ巴。魔術師ダヴィド・ビアンキの語ったベルゲンで暗躍する三勢力の一角は、目の前の少年であることはもうチェリーは悟っていた。

 自分よりもはるかに優れた技量と知識を誇る魔術師すら敬い、神使や神獣ですら躊躇も恐れも見せず立ち向かう胆力。それで気付くなという方が無理があった。

 

「どうして……? どうしてアンタが居ながらベルゲンが死んでいくの……誰かが傷ついていくのよ……。

 ──ちゃんと護んなさいよ! 人間の代表なんでしょ! 最強の戦士なんでしょ! なのにどうして……!」

 

 

「ああ。俺は強いよ」

 

 

 二人だけの空間は影ばかりで、尚更彼の双眸に埋まる紅玉は異様だった。一切の闇と不浄を赦さぬ炯とした瞳。

 獣は火を畏れる。

 太陽もまた火、ただ巨大すぎて捉えることができないだけなのだ。しかし人から少しずつ外れ始めたチェリーには、ほんの少しだけ全容を捉えることができた。できてしまった。

 

「でも……護りたかったものを護れたことなんて、一度もない」

 

 友達も。家族も。矜恃も。約束も。ひとつだって。

 俯いて唇だけがささやいた呟きをチェリーは聞き逃さなかった。烈火の双眸と視線が繋がる……たまらず縋りついていた手を離して少女は身をすくめた。

 

「それでも俺は戦い続ける。常勝も、守護者も、もう胸を張って名乗れないけど……救世主だって本当は心の底じゃなれるのかって疑ってるけど……諦められない。俺の目の届く場所で誰かが死んでいくのを見逃すことなんて、目をそらすことなんて出来やしない」

 

 怯えを浮かべながら身を離していく少女に、祐一は過去の自分と重ねてしまった。まだ人間だったころ、旅を始めたころの自分に。チェリーを通してバンダレ・アッバースで自分とパルヴェーズに訪れた出来事を見たのだ。

 ただ、立場は逆で今度は自分がパルヴェーズだった。

 だからチェリーの惑い、恐れる姿が、過去の秘めておきたい情けない自分のようで、それに少しだけあの時のパルヴェーズの心を理解した気になった。

 

「お前がやりたくないって言うなら、契約は破棄だ」

 

 祐一は立ち上がって、つとめて優しい声音でいった。あの時のパルヴェースを思い出しながら、そして友の思慮を追体験しながら。

 でも俺は、きっとお前にはなれないんだろうな。目を眇めて、鼻梁に皺が生まれた。

 勝つことも護ることも貫けなかった俺が、お前みたいになるなんて……きっとチェリーも俺にはなれない。

 

「お前は、家に帰れ」

 

 決定的な一言だった。

 

「あとはやっておくから……ベルゲンももう奴らの好きにはさせねぇ、今夜カタを着けるさ。地脈だって何とかする……だから帰れ、帰ってくれ。日常に。お前の帰れる場所も家族もなくなった訳じゃないんだからさ」

 

 頭を抱えてうずくまる少女を見つめる。

 

「やめて……止めてよ! ──もう、アタシにそんな言葉掛けないでっ」

 

 太陽さながらの双眸に見下され圧壊しそうだった。祐一と己に横たわる彼我の関係を言外に伝えるように重くのしかかる。太陽と同等の距離と質量を持っているかと錯覚するほどその差は大きくて。

 痛かった。千切れそうだった。踏み潰さそうだった。

 過去が呪わしい……青い衝動に身を任せて軽々に超常の争いに首を突っ込んだ己が呪わしかった。

 

「──私の友達になにしてる」

 

 不意に圧力が消え去った。

 ハッとして顔を上げると祐一はどこかあらぬ方向へ顔を向けていて、遅れて耳に残った乾いた音の残滓に気づいた。

 陽光が翳っていた。

 少年より頭ひとつ低く、でも毅然とした姿勢で立つ影が遮っていたのだ。……誰かが祐一の頬を張ったのだと遅れて気づいた。そして聞き覚えのある声は、常になく冷淡だった。

 

「リヴ……」

 

 姿はいつも通り。変わらない飛行機乗りが着るようなジャケットを着込み、でも体躯はいつもより大きく見えて。眼差しは熱く滾っていた。

 

「もう一度聞く。私の、友達に、なにしてる」

 

 罪人への弾指と等しい視線の鋭さで祐一を睨みつける。

 無言の祐一に業を煮やしたように手を振りかぶって、チェリーはその手を取った。リヴの瞳がまたたいて、強ばっていた肩から力が抜けた。

 

「いいの。もういいのよ。……ありがとう」

 

 リヴの頬にキスを落として、祐一に向き直った。

 目を合わせた祐一はどうしてだろう、ひどく羨ましそうな顔を浮かべていて……目を合わせた途端に視線を切って顔をそらした。

 

「ねぇ」

「じゃあな」

 

 止める間もなく、呟いて踵を返した。チェリーとリヴは言葉もなく見送り、彼の肩は小さく見えた。

 

 

 

 ブォン、ブォン、単気筒のエンジン音が大気を振動させる。一騎のライダーは街角で、住民が顔を顰めるのも構わず爆音を鳴らしながら街を走った。

 ひっぱたかれるのは、いつぶりだろう。張られた時の熱さはとうに過ぎ去って、今は引き攣るほどの冷たさがじんじんと伝っていた。

 ヘルメットに押し込められた祐一の表情は無を湛えていて、風の冷たさが頬から伝達されるたびに唇が震えた。

 上手くいかない。道が拓けない。

 既視感のあるどうしようもなさが、思春期真っ盛りの少年が抱く悶々としたものを腹に呼び込んで、自然とアクセルグリップをにぎる手に力が篭った。

 それから気の済むまで走って、不意にバイクを止めた。ヘルメットを叩きつけるようにシートへ置き、逃避行中の少年じみた近寄りがたさを撒き散らしながら欄干に凭れた。

 

 辺りはすっかり陽をなくして、微かな月光があるだけ。陰陽太極。弧を深くした弓張月が濃密な夜を呼び、月のアルベドだけが昼のよすがだった。欄干の真下に打ちよせる波だけが耳にとどく静かな夜で、祐一は目を瞑りながら力の充足と集中を計った。

 

『良かったのか』

「何がだよ」

 

 ただ、すぐに打ち破られた。右腕から伝わる問いかけに無視も居心地が悪くてぶっきらぼうに質問で返した。

 苛立ちは隠しきれなくて嘆息する気配を感じた。予想通りの返しだ、と言いたげな叢雲に顔を顰めた。

 

『あの娘のことよ』

「俺は悪くねぇ」

 

 言い終わって、自分が矮小になった気がした。でも理不尽さが心に巣食って、訂正することはなかった。

 だってそうじゃないか。誰しも完璧じゃない。それは人だけじゃなくてカンピオーネだってそうで、先達である護堂も、まつろわぬ神だってそうだ。自己防衛の理論武装をしていると、

 

『青いな』

 

 バッサリと斬られた。流石は鋼、痛いところを突く妙は心得ているらしい。

 うるせえ、とヤケになって怒鳴り返そうとしたが、また自分が小さくなりそうで仏頂面を深めるにとどめた。

 

『憎からず思っていたのだろう、あの娘のことを。躊躇いもなく危地へ飛び込んでくる姿を好いていたのだろう』

「なんで好いた腫れたの話になんだよ……」

 

 叢雲の口から男女の情を含む言葉が出てくるとは思ってもみなくて、大分毒気が抜かれてしまった。年の功なのか、それとも古兵ゆえなのか。戦場でなくとも冷静さを保つ秘訣を知っているらしい。

 

「俺にそういうのは分かんねぇよ。それに苛立ってたのだって……結構堪えるんだぜ? 自分じゃ手の出しようのない領域で、何も出来なくて、そんで糾弾されるの」

 

 土地神ともいうべき神獣を鎮めて地脈に戻すなんて芸当、生粋の戦士である祐一には逆立ちしてもできない。どう考えても縊り殺すか斬り殺すか殴り殺す末路を辿っていただろう。

 

「だから、あいつならもしかしてって期待して……結局、俺のポカであいつを傷付けちまった。俺はまつろわぬ神を殺すしか能がないのに、サトゥルヌスの壁にならなきゃいけなかったのに……尚更、堪えたよ」

 

 殴って倒して大円団……なんて展開は祐一の歩んで来た道にはそうそうなくて、まつろわぬ神の策に嵌められにっちもさっちもいかない状況に喘ぐのが大半を占めた。

 最後の最後で一矢報いることに成功してはいるものの……それでも鬱憤は溜まるばかりで。

 今だってそうだ。

 智慧の女神と全知といっても過言ではない時の神の術中に嵌っている気がしてならない。

 

 そんななか、明け透けで、奔放で。どんな苦境でもぶつくさ言いながら共に立ち向かうチェリー・U・ヒルトという少女は見ていて痛快だった。

 異界に巻き込まれても神殺しである彼に食らいついてくる胆力や知恵、どうしようもない状況でも活路をどこからか拾ってくる運と才能。そして家族や友達、そして帰るべき場所。

 神殺しだが神殺しでしかない祐一に、少女の持っているものは多く見えた。

 

「振り返ってみてさ。多分、あいつはさ……仲間でも、味方でも、なかったんだと思う」

『仲間でも味方でも、だと? 娘はあれほどおぬしに尽力し、命まで賭けたというのに?』

「ああ。パルヴェーズや、おっちゃん、エイルたち。あの人たちに似た気持ちをたしかに懐いたよ……でも、俺は根っこじゃコイツは味方にも仲間にもなってくれないって思ってた」

『何故』

「あいつの根っこは、結局、ベルゲンっていう故郷を守ることにある。最初から最後まで徹底してるよ。俺を助けるように動いているのも、俺にベルゲンを守れる武力があるからなんだ」

 

 だから、契約や協力関係を結べても総てを放り投げて助けようとはしないだろう。祐一がチェリーにそうしないように。

 

「じゃなきゃ、関係もそう簡単に切れないさ」

 

 ひらひらと手を振って、肩をすくめた。

 

「俺は見てみたかったんだよ。エイルたちを手のひらから零した俺とは違って、まだ全部持ってるあいつが守り抜けるのか、俺と同じ末路を辿るのか……。そんで、同じだったらきっと……」

『だが離れるのか』

「はは、守るって契約を違えたのは俺だ。契約の破棄は俺のせいなんだよ、これ以上どんな面して会えって言うんだよ」

 

 これでいいか、と叢雲に問いかけたが答えはなかった。少しはほぐれた頬に手を当てて、夜を待って──

 

 

 

 

 

「──見つけた」

 

 背に投げかけられた声に驚き、祐一は肩越しに黒髪の少女を捉えた。疑問が目をまたたかせて、隣の欄干に並ぶように凭れたチェリーに言葉を掛けられなかった。

 契約は破棄したはずで、友達と一緒に日常に返したつもりだった。祐一の顔は険しいものとなった。

 

「お願いがあるわ。もう一度契約を結んでくれないかしら」

「…………。なに?」

「だって、アタシが決めたことだもの。偉そうにベルゲンを守るんだってアタシ自身がいったのよ。それを翻すなんてできっこないわ」

 

 不用意な言葉をぶつけるのは憚られた。具体的に言うならば、一方的に否定し"帰れ"と告げる言葉を。

 

「だけどお前に何が出来る? 武術の心得も、こちら側の知恵もない。きっと踏み潰される……力ってもんはそういうものだ」

 

 慎重に言葉を選んで、翻意させようと試みた。彼女だって見たはずだ……サトゥルヌスの強大さを。それに伍する女神と神殺しの恐ろしさを察したはずだ。

 だというのに。

 

 トン、と。少女は軽やかなステップを踏んで祐一の目の前に立った。

 

「たしかにそうね。でも、あなただってそうじゃない」

「なんだと?」

「力はあるけど力だけしかない、って言ったのはアンタよ。昨夜だってあの蛇を斬るしか手段がないって悔しがってた」

 

 白皙の細い指で祐一の腕をとんとんと小突いた。稚気混じりに微笑を浮かべる少女は、変わりゆく友に懊悩した祐一と違って、一息にふところへ入ってきた。

 

「でもアタシは違うわ。力がない……でもだからこそあなたには出来ないことが出来る」

「あの時、やろうとしたことをまたやるってのか?」

「ええ。だから最後までカッコつけさせてよ」

 

 淡い月光の下で、微笑をつづける少女は王国で見かけたフェアリーさながらだった。

 けれど笑みのなかには紛うことなく染まることの無い決然とした色があって、翻すもりは毛頭ないのだと言外に語っていた。

 

「もう一度、契約を結びましょう。ベルゲンは守るのは変わらない……でももうアタシを守るのは止めてちょうだい。代わりにアンタはアタシの出来ないことを、アタシはアンタに出来ないことをやるの」

「……対等な契約を結ぶって言うのか、カンピオーネである俺と?」

「そうよ?」

 

 そうか、と彼は頷きもしなければ首を振ることもしなかった。

 夜が二人を染めて、対峙しあった。手を差し出したのは、祐一の方が先だった。挑むような笑みを浮かべて少女も手を伸ばした。

 

 手を取り合うのを合図と捉えたか──世界が変わった。

 歪みは一目で判った。白い熊だ。だが熊というには体躯は巨大にすぎ、ベルゲンを囲む山のひとつウルリーケン山が哀れにも寝所となっている。身を起こせば異界の夜空に浮かぶ月に届きそうなほどだ。

 フィルギャ。ヴァレモン……北欧において逸話もつ白熊があの神獣の正体なのだろう。

 双眸が鬼灯のごとく揺らめきはしって、二人を捉えた。すっくと身を起こした白熊は四肢で大地を蹴った。勇ましい歩武が鳴り響き、地面が小刻みに揺れている。まるで身震いするかの如く。

 

「見えるか?」

「ええ」

 

 白熊のなかにゴルゴネイオンが見える。チェリーの目には分厚い毛皮も重厚な筋肉も意味をなさず心臓の位置にあるゴルゴネイオンを見透すことが出来た。祐一は満足気にうなづいた。

 

「行くぞ」

 

 チェリーをバイクの後部に乗せ、市街地を抜け、山道を一気に走り抜ける。チェリーも口を引き絞って文句も言わず、彼の無茶な運転に付き合った。

 接敵まで1分もかからず、敵の接近に白熊は助走をつけ跳躍する要領で、逞しい前肢を大地に振り下ろした。木々の裂ける音と土砂の裏返る奇妙な音の二重奏ともに馬鹿げた質量の雪崩が壁となって迫った。

 

「すまねぇな。容赦なしだ」

 

 忽然と刀を取り出した祐一が、そのまま地面に刀身を突き立て"待"ってたぜェ!! この"瞬間(とき)"をよぉ!! の体勢になった。

 サトゥルヌスとの戦いから三日が経過していた。ならば馬鹿げた生命力を誇る神殺しがいつまでも死の呪縛に囚われている筈もなし。

 内部の死と太陽の均衡が傾き、死を押しやって権能を行使させる隙を作った。

 

「我は最強にして、すべての勝利を掴み取る者なり」

 

 チェリーは観た。大地から膨大な力の渦が祐一へ供給され、右腕へなだれ込んだのを。祐一が急ハンドルを切り、地面に突き刺した剣をごと盛大に振り上げた。

 瞬間、あらたな土砂の壁が生み出され大気のうねりと共に白熊の土石流を迎え打った。

 地面と地面による横綱相撲、という超常現象を目の当たりにしつつ、大地の壁は対消滅した。白熊は予想外のことに呆け、対する祐一はバイクから降り、前かがみになった。まるで獣が獲物に飛び掛る前準備のようで、事実それは間違いなかった。

 地面を蹴って、祐一はチェリーの視界から消えた。しかし白熊もさるもの、高速で駆け抜けてきた祐一に即応し、拳を振り上げた。だが悪手。待っていましたと叢雲も虚空に消し去り、振り下ろされた拳を取って小山ほどはありそうな白熊を投げ飛ばした。

 

「アイツでたらめね……」

 

 強い、とは思っていたがこれほどとは。縛られるもののない彼は強いのだとまざまざと見せつけられ、チェリーは呆れを覚えてしまった。祐一はそのまま一閃し、白熊は行動不能となった。

 

 白熊の輪郭が希薄になって力の塊だけが残った。

 ここからは彼女の仕事。白熊という地脈の塊はただの純粋な力と変わって彼女の眼前に。

 チェリーは最初、その力の塊を飲みもうとした。昨晩、誰かに導かれるままやったように……けれど、すぐに悟った。

 それではダメなのだ。それでは瞬く間に息切れしてしまう。それでは──

 

「──ベルゲンは本当に死んじゃう……」

 

 そうだ。ベルゲンの命脈は尽きかけている。……なら歪みという形で最後の一滴まで神獣という具象となり生まれた力を、裡に取り込めばベルゲンの滅びは早まるだけだろう。けれど力をベルゲンに戻せれば、少しだけ延命できるのではないか。

 息を整える。やってやる、胸に押し抱いた手を開いて、力へ手を伸ばした。

 力は力。ただ在るだけ。

 でも想いなら。ベルゲンを守りたいという意思を一滴でも落とせたなら。力は応えて想いへと変わるのではないか。

 さっき見た祐一の権能を反芻しながら地上にわだかまる力に触れる。

 

「ベルゲンにまします小さな神よ。どうか私の願いを聞き届けて」

 

 語りかける言霊が意思を生む。呼応するように右から左へ……ぐるりぐるりとゆっくりと回転を始め、鱗茎の薄皮が剥がれるように大地に満ちていった。

 

「──生きて」

 

 チェリーを通じて想いへと変遷した力は、循環をはじめ──。

 

 それからどれほど経っただろうか。巨大な力は姿を減じてメダルだけが残った。

 一息ついていると後ろから祐一が歩みよってきた。腕を組んで肩をすくめる彼に、ニッと歯を見せて笑った。

 二人の交わしたハイタッチの音が軽快に夜空に響いた。

 

 ○〇●

 

「あの白熊が歪みねぇ……おとぎ話に出てきそうな王冠被った白熊だったじゃない。もしかしたら白熊王ヴァレモンだったのかしら?」

「白熊王?」

「トロールの魔女の魔法で白熊に変えられちゃった王様よ。ま、呪いも解けてお姫様と三人の子供も作っちゃうんだけど」

「へぇ……そういやノルウェーはそういうの豊富だったっけ。子供のころ読み聞かせられた、がらがらどんもノルウェーの民話なんだったか」

「ふふん、うちの国ってスウェーデンと合併する前の時代の民話やおとぎ話を復活させるのに力を入れてるもの。……ユーイチはそうね、灰坊アスケラッドかしら。灰をつついてばかりの男の子が機転と運だけで王国の半分とお姫様を手にれちゃうのよ、ピッタリじゃない」

「国もお姫様はいらねぇなぁ……」

「夢のないやつ〜」

 

 さっきまでの不和はどこへやら、軽口を叩き合いながら歪みとなったメダルを見やった。

 

「よし、さっさと消して異界から出るか」

 

 

 

「──その必要は無いぞ木下祐一」

 

 光が死を迎えた。命が急速に生を吐き出し尽きた。言葉が冷気とともに耳を凍らせる。肉体が充足し、あらゆる細胞に内包する呪力が活性化する。

 声の主が誰かなんて分かりきっていた。気づけばチェリーを抱えて大きく距離を取った。

 

「ここで来るか……サトゥルヌスッ!」

 

 塞翁が馬。禍福あざなえる縄の如し。物語は障害なくして進まず、そして終わらない。

 故に──()()()()

 

 

「っ!」

 

 祐一の焦りを帯びた表情と死の気配に腕のなかのチェリーが息を呑んだ。不吉さを満腔より吐き出す白髪の老人。はじめてのまつろわぬ神との邂逅……本当にそうだったか? 

 

「フフ……今はそれでよい。チェリー・U・ヒルト」

「え?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 瞠目するチェリーとは裏腹に、祐一は焦りとは違う焦燥感に総毛立った。瞳をカッと見開きサトゥルヌスを凝視する。チェリーを下ろし、前傾姿勢のまま思考を巡らせた。

 まつろわぬ神であるサトゥルヌスが、仮にも人でしかないチェリーを見ている? 

 自然、チェリーを後ろへ押しやり庇う体勢になった。

 

「そなたらの不和も雨を以て固まった様子。その未来に到ったそなたらは多くない。まこと慶事である、時であり時を見上げ時を見下ろす余が寿ぐとしよう」

「…………」

 

 何を考えている。

 尋常ではないサトゥルヌスの様子に、吹き出す冷や汗が止まらない。白熊相手に権能を行使したのは失策だった。肉体の震えがはじまり意思では制止できない。先日受けたサトゥルヌスの死の呪詛に蝕まれたままなのだ。

 その上、背後の相棒も気にかけなければならない。圧倒的不利な状況に歯噛みする。

 それにサトゥルヌスの態度も妙だった。これまで相対してきたサトゥルヌスは時の神としての相を戦闘面でしか表さなかった……ともすれば死の相を前面に押し出していたのだ。

 

 だが今は違う。

 すべての過去現在未来を見通せる全知紛いの知識から企てた策謀をずるりと剥き出しはじめた。時の神に許された全ての時間軸への存在というアドバンテージを行使しているのだ。

 

 撤退。頭にチラついた唯一打開の策。恥も外聞もなく相棒を抱えて飛び出そうとし──

 

「これは褒美だ、受け取るといい」

 

 ──失敗に終わった。

 サトゥルヌスがしわがれた長い指を振った、ただ、それだけで。

 どさ、と後ろで誰かが倒れる音がして己の不覚を悟った……大地に身を横たえた相棒に駆け寄り、眼前の宿敵に気を取られすぎた自分を恥じた。

 

「サトゥルヌスッ、てめぇッなにを……!?」

「言ったであろう。褒美だと。娘は死んではおらぬ……ただほんの微かながら余の叡智を受け与えただけのこと。そういきり立つこともあるまい」

 

 サトゥルヌスの言葉通り、チェリーは直ぐに身を起こした。

 焦点の合わない茫洋とした目が異常を訴えかけていた。サトゥルヌスは紛い物の全知。しかしアカシックレコードを身に宿していることには変わりなく……ならばささやかとはいえ、知識を贈られて無事な人間などいるだろうか。

 自分の甘さに歯ぎしりしている所で、彼女の瞳に力強さが戻り、理性も帰ってきた。ふらつく頭を抑えて、祐一の手を振りほどいた。

 

「大丈夫。霊視で知識を渡されただけみたい……妙なものは受け取ってないわ」

「知識?」

「ええ、アンタ(カンピオーネ)のこととか、アンタが簒奪した権能とか、権能を十全に使えないこととか」

「────」

 

 祐一が息をのみ言葉を放つより早く、チェリーはブレザーのネクタイを引っ張った。

 首っ子を掴まれたように引かれて、頭一つ低い少女の目と艶やかな唇が目に入った。

 

「今からあいつ……サトゥルヌスって神様と戦うんでしょ?」

「あいつと俺は相剋だ……。そして出会っちまったなら……殺し合わないとならねぇ」

「なんの為に?」

「……あいつと俺、俺たち二人の業と訣別するために。約束と誓いのために」

「それはベルゲンも守るってことなんでしょ? だったら……」

 

 ネクタイを更に引かれ、身体を引き寄せられた。唇に柔らかな感触を覚えて、これでもかと目を見開いた。

 割られた口の隙間から吐息が送られ、舌から喉奥をすべって──これは経口摂取。

 神殺しは通常あらゆる魔術や権能を弾く特性を備えている。強大すぎる呪力に尋常の呪力や権能では太刀打ち出来ないのだ。

 だが例外がある。鎧さながらの特性も、内からならば素通りできるのだ……つまり口腔から魔術を注げばカンピオーネでも術が発動する。

 チェリーはそれをサトゥルヌスから教授された。無理な霊視によって一瞬気絶したが……知識と術を知ることができた。つまりは……サトゥルヌスの死毒を払う賦活と解呪の術を。

 

「だったら、構うな。アンタはアンタのやり方で、思う存分()んなさい」

 

 敵の策だろうが手立てがないならやるしかない。賦活の術を送り、期待と信頼を込めながら相棒の尻を蹴りあげた。

 

 

「睦言は語り終えたか?」

「趣味が悪いぜ。それにサトゥルヌス……あんた力を隠してたんだな。全知なんてとんでもないものを隠し持ってて……随分余裕じゃないか」

「余にも余の目指すべき未来がある。全知ゆえに目指すべき未来がな……だが青いな。見ていて微笑ましくなる光景だった。何度も未来を見通して垣間見てはいたが。……ほう、接吻も初であったな」

「なんでも知ってるらしいが出歯亀に使ってちゃ全知が泣くぜサトゥルヌスさんよ」

「クク、そう言うな。若人の恋路は老いさばらえ余には眩しく映るのだ。そなたなの色恋への潔癖さと殊勝さを余の愚息もひと欠片でも持ち合わせていて欲しいものだったな……そうは思わぬか? ──アテナよ」

 

 御名が零れた途端、気温が下がった。月光が勢いを強め、祐一だけではなくサトゥルヌスの口元からも漏れはじめた白い息を照らし出す。

 居る。神具の奪取を目論んだ最後の一柱が。

 彼らの傍に立っていた背の高い木の枝に、一匹の梟が止まっているのに気づいた。梟は羽を広げると瞬く間にその姿を変じて、銀の少女となった。

 

「繰り言を。……それに、いささか饒舌になったか祖父殿」

「もはや全てやり終え天命に任せた故。あとは因果の小車に身を任せるほかないのだ……舌がなめらかになる程度許して欲しいものだ」

「ふん、口は災いの元という。早晩、あなたのもとに災いが訪れよう、妾という闇と冥府を統べる災いがな」

「余そのものもまた不吉にして厄災なれば、より強い厄災が呑み込むだろう。ゆえにその心配は無用だ」

 

 アテナの手にいつの間にか漆黒の大鎌が現れ、サトゥルヌスは光を喰らうハルパーを構えた。祐一もまた叢雲を握って、呆れたように頭をかいた。

 

「約束の日は明後日。まだ新月には早いぜ……俺たち三人が雁首揃えてるあたり、どうしようもないな」

「違うな。妾らは誘引された、そこな老人によってな」

「…………」

 

 策謀巡るベルゲンに訪れた五日目の夜。

 故意か、偶然、必然か。

 今宵──三柱激突。



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猛き恒星の末路

 夜風を切って戦場から離れる。既視感のある狼の毛に捕まりながら、戦いへ赴いた相棒へ思いを馳せた。

 勝てるだろうか、あいつは。強さを信じていない訳じゃなく、敵の強さを目の当たりにして唇を噛んだ。

 

 ──オオオオオオォォォンンッ! 

 

 ───GYAAAAAAAAA! 

 

 ────Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr! 

 

 凄まじい大咆哮が背中に叩きつけられ慌てて振り返った途端、顔が盛大にひきつった。なにせウルリーケンの山を舞台として()()()()()が繰り広げられていたのだから。

 猪。蛇。巨人。

 どれも五十メートルは下らない巨躯を誇り、噛みつき牙を立て刃を振るい、覇を競い合って、山一つが崩壊に向かっていた。

 

「アイツ、大丈夫なんでしょうね……。死なないとは思うケド……」

 

 

 ○〇●

 

 目が合った。

 輝板(タペータム)を嵌め込んだ猛禽の瞳が、闇を宿し縦に割れた蛇のものへと変わる。大地母神アテナの蛇と死が形を成した万物を石へと変える邪視だ。

 辺り一面が灰色に染まる。灰とは石の色。石は死と停滞。

 神話においてアテナは蛇の魔物であるメドゥサの討伐を頼み、加護を與える立場であった。英雄ペルセウスによって刈り取られたメドゥサの首はアイギスに埋められ武勇の象徴となった。

 しかしこの逸話こそアテナとメドゥサの絆の証。かつて古き時代……北アフリカからギリシャへ招聘される以前の時代、アテナとメドゥサは同一の神であったという。

 その悪名高きメドゥサの瞳を初撃で切ってきたのだ。

 

「乱戦での定石を知っているか神殺し。一番弱いものを狙うこと。あなたが如何に人の身でありながら我が同胞を弑逆を為し、権能を簒奪しようと所詮は定命の人の子……不死なる我らに敵う道理はない」

 

 世界を支えた巨人アトラスですら石へと変える邪視が祐一を襲う。手の甲が石になり、手を起点として全身にまで呪詛が食指を伸ばす。

 

「それはどうかな」

 

 手を振る。それだけで石は剥がれその下からつるりとした新しい皮膚が顔をだした。神殺しとして"それなり"の戦歴を辿ってきた彼は自身の特異な肉体の使い方というものを熟知している。だからこれくらいの芸当できて当然だった。

 

「あらゆる呪詛、魔術を拒む、"全てを与えられた魔女"に与えられた肉体。……あなたたちに呪詛や言霊で命を刈り取るには体内へ送り込まねば駄目か。矛を交えるのは数百年ぶりになるが厄介さは変わらないらしい」

「あんたは不死じゃない俺らを見下すけど、定命ってのも悪かないぜ? 上手くいきゃあ弱くてもあんたらみたいに永い時間をダラダラ生きて見下してくる奴らをぶっ殺せるんだからな」

 

 自慢の瞳を受けても小動ぎもせず軽口を叩く祐一に女神としての沽券に関わるのか目を細め顔をしかめた。サトゥルヌスも邪視の圏内に入っていたが纏う衣がいささか変色した程度で実体には何ら影響を及ぼしてはいない……サトゥルヌスはアトラスと同じ巨神族(ティタン)であると言うのに! 

 

「まこと忌々しく穢らわしい! ここに集ったものの悉くが妾の導いた英雄らを喰らい尽くす魑魅どもか!」

「ふん、言ってろ。あんたのターンは終わりだぜ……。今度は俺の剣を味わっていけ──よッ!」

 

 夜闇が時を追うごとに深くなる中、剣戟の火花で垣間見えた。両腕から繰り出される刃。鋼すら容易く断ち切る一閃と雄牛を宿した怪力に、さしものアテナもその苛烈さに気圧され気味になった。

 

「くっ……なんと荒々しく激烈な剣筋! そして我が同胞ヘラクレスにすら匹敵する膂力!」

 

 しかし闘神アテナもさるもの。如何なる武技の妙か、牡牛を載せた一撃に、つかの間押し出されたものの大鎌で受け切った。逸話に残るギガントマキアでシチリア島を投げつけたという膂力は並ではない。

 

「妾にも引けを取らぬこの恐るべき大力も権能のひとつか。若くともその齢でこれほど技量を練り上げたとなれば権能の数も一つや二つではあるまい?」

「さぁてね」

 

 飄々と嘯く宿敵に、アテナイの守護女神は猛々しく笑った。血と狂乱を好む軍神アレスと違い、知略を好み野蛮な武は好まぬといえど、戦女神であることに変わりない。

 挑まれれば喜んで矢で返そう、勇ましい兵がいるならば戦いにも興じよう。それが戦神でありまつろわぬ身である彼女のスタンスだった。

 戦女神であり英雄を導く相を有するアテナだが、捻くれ曲った性根をもつ神殺しらにしては、珍しく真っ当な戦士に傾いている筈の祐一に好意を抱けない要素があった。

 

「ああ……忌々しいその瞳。堪らぬな……冷たい冥府の女王たる妾を光の下へさらけ出し、辱める光明の瞳。抉りとって闇で穢し永久の牢獄へ送ってしまいたくなる」

 

 ポセイドンとは仇敵である、と神話内では語られてはいるもののアテナ自身は海を嫌ったことはない。生命を生み出す海は大地と関わりが深いために。

 闇を統べ、冥府を領域とし、フクロウの女王たるアテナが真に嫌うのは太陽。眩い天空の玉座こそ彼女の天敵であった。

 アテナへ更なる苦痛を強いるため聖句を唱えようと喉咽を湿らせた瞬間だった、首元にチリチリとした焼け付く感覚を覚えたのは。

 鍔迫り合いを放棄し、横転するように身体を倒せば、サトゥルヌスのハルパーが首のあった場所を駆け抜けていった。

 ぬら、と背筋を生温かな水が這う感覚が伝わった。

 手に触れれば鮮血が流れ出して、サトゥルヌスの一撃をその身に受けたのだと遅まきながら悟った。深手だ。実体験をもとにするなら頚椎にまで達している……。

 

「嘘だろ、俺が致命傷を避けられなかった……?」

 

 瞠目しながら呟き、直後、思い出したように負傷のダメージが襲った。頚椎は聞くまでもなく人体の主要基幹だ。いかにカンピオーネという人外、非常識の権化と言えどそこを斬られたとなれば……。

 脳から伸びる糸が全て寸断された。力が抜ける。重心がぶれる。意識を保てているのが不思議なほど。地の底からは重力が手を伸ばし、絡めとる腕を増やしては、地面に倒れ伏せと声高に叫んでいる。

 

「なるほど、全知とは……これほどか。智慧の女神の妾ですら避けえぬ」

 

 かの女神もまた傷を負っていた。頸動脈から赤い血がとめどなく溢れだし、肩まで伸びる銀月の髪を染めあげている。

 神殺しと地母神、誰もが彼も一筋縄ではいかない強かな戦の徒どもだというのに、ただの一撃で致命傷を負わされた。恥でも、不覚でもなく、兵どもの強かさを一蹴してしまうサトゥルヌスの武にやられたのだ。

 そんな折にあっても木下祐一は膝を屈さず、背を曲げず、直立不動を崩さなかった。眼光は一心に怨敵へ注がれたまま。烈火とは、彼を指し彼を為す言葉に他ならない。

 そんな折にあっても女神アテナは凄絶な美しさを誇った。銀髪が血に染まる様子は銀月が赤い月に変わる姿を連想させ、血化粧という言葉があるようにアテナの白皙の面差しに朱が混ざり、艶やかさを備えた。

 

「我こそ光を持ち帰りし者。闇に沈もうと日はまた昇る」

 

 祐一が聖句を唱える。少女の献身のおかげで先刻までなら手すら出せなかった新たな可能性を掴みとった。彼の内に宿る。太陽の神性が活性化をはじめる。

 ……これは輝く瞳とは違う、火と光を源とする力。ひとつの権能とも言うべき神具の"力"を掌握した証左であった。

 頚椎の傷が沸点に達するほど熱を帯び、滴り落ちる血液が火へと変わる。揺らめく火は全身まで燎原のごとく広がり、一陣の烈風が吹いた。

 少年の爪先の一片まで燃え盛っていた火が掻き消える。

 

 炎のなかから少年が踏み出た。残ったのは少年の遺灰ではなく、まるで健在な戦士のすがただった。

 いま彼を苛めるものは奈落の澱……そして彼もまた奈落より光を持ち帰っていた。

 ミスラの火。一切の不浄を焼き、光明をもたらす火であった。敵対者を塵も遺さず焼き尽くし、同盟者には生命を與える火によって、不死鳥がごとく身を焼きあらたな肉体を得て、祐一は戦場に立った。

 アテナもまた、傷は塞がっていた。不死なる女神は首を切り落とされようが死ぬことは無い。そもそも冥府という同源の神だからこそ、サトゥルヌスの呪詛など心地よいそよ風程度にしか感知していない。

 

「二兎どころか、一兎も獲れぬか」

「そうそう上手くいかれちゃ、俺の積み上げてきた武功に武勇が泣くんでね」

「それよりもだ祖父殿よ。あなたの呪詛を我が身に受けて悟ったぞ……あなたは贄としたな? 我が古の同胞オプスを喰らい復活したのだな? だからあなたは嘗ての輝かしい過去から掛け離れた姿となったか」

 

 サトゥルヌスは無言だった。しかし沈黙こそが何よりの肯定であった。アテナは空を仰いで嘆いた。

 逆縁という成り立ちから殺し合うことを宿命付けられた神殺しとまつろわぬ神が出会えば戦いが始まるのは必定……そして神々の間にもまた大地母神と『鋼』の武神には因縁がある。

 だがその総てを相手取るという戦いは戦女神アテナをしてもそうそう出会えないものだった。

 

「死と時を司る神にまで転落した祖父殿と、若くとも抜け目ない神殺しか。冥府と大地を統べる心は悉く打倒せよと叫び、しかし、闘いと智慧の心は矛を交える機会に歓喜と悦楽を覚えてもいる。悩ましいものだ」

「好きモンだなあんた」

「ふん、あなたが言うか神殺し」

 

 三者とも口の端に弧を描きながら夜闇を駆ける。途中、林に入り木々を縫った。それだけで幹が裂け、枝葉は枯れ落ち、荒涼とした野だけが残った。周囲に光源はなく、光が生まれようと冥府の闇が刈り取る。月光すら振り切る疾駆のなかで鉄の打ち合う音と火花だけが超常のものたちがぶつかり合ったよすがだった。

 ウルリーケンの山はもう原型を留めるので精一杯だった。おそらく異界から現実に帰還しようとその影響から逃れられるか疑問を抱くほど。だがまつろわぬ神と神殺しという巨人たち戦いによる余波は甚大なものとなって当然だった。

 そして同時に幸運でもあった。

 視線を動かせばベルゲンがあり、比喩抜きに視線ひとつで街を滅ぼせる超越者たちが殴り合っていながら未だ形が残っている時点でもう奇跡だった。

 きん。きん。きん。

 常人では闇の中で蠢く気配すら読み取れない暗闇を、山猿さながらの軽捷さではね回り、豪の速度で干戈を交える。ウルリーケンがまだ形を保っていられるのは、権能ではなく迫撃が主体だからだろう。

 だが規模が小さいからといって温い訳ではない。闇の女神と死の神がいるだけで濃い夜と闇を呼び込む。闇と夜は視界を奪い、ならば例え無明であっても見通せる夜目を持たねば戦闘の資格無し。直ちに闇に潜むものの手が迫り絶命に至るだろう。

 太陽の瞳、邪視、冥府の闇……各々が権能を保有し、劣悪な状況下でも戦いは成立していた。

 女神の大鎌が防壁となり、剣の一振が空間を詰め、死が首を撥ねんと忍びより躙り寄る。戦いは次第に膠着状態へ推移していった。鉄の一振が、闇の蠢きが、澱の蠕動が、陣地の取り合いはじめる。

 前哨戦でありながら前哨戦ではない全力の死闘。迫撃戦における全ての手札を叩きつけて仇敵どもより先んじて一手を繰り出そうと鎬を削った。

 

 アテナは戦女神であり守護女神の名に恥じぬ戦いぶりで不用意に攻め込まず防衛を主体とし、攻め込まれると強烈な逆襲を返した。

 

 祐一は逆に縦横無尽に振舞った。化身は『鳳』、速度ではなく副次的に獲られる軽捷さに焦点を当て、猿や猫さながらの動きでひとつ所には決して留まることはない。気がつけば急襲し、気がつけば撤退し、気がつけば切られている……速さでもなく、早さでもなく、捷さでもって翻弄した。

 

 それらを加味しても異様なのはサトゥルヌスだった。まず何より、無傷である。何も攻撃を受けていない。神殺しと戦女神アテナを前にしてそれを為すとはどれほどのことか。

 擬似的なれど全知というアドバンテージは凄まじいの一言だ……祐一の釐の太刀すらかいくぐり予測不可能の挙動すら機先を制される。アテナという難攻不落の要害すら容易く抜かれ、反撃の一手さえ見切られる。

 

 まるで手のひらの上で踊らされている感覚。指が欠け、瞼が裂けた。右耳が機能を止め、八重歯が折れた。

 劣勢である。敗色濃厚である。

 だが、"相手が全知だから"……それだけで敗北を喫する彼らだろうか? 

 ……否。そうでなければ神話に謳われていない。

 ……否。そうでなければ神など殺してはいない。

 

 一呼吸で神速域へ到達し、サトゥルヌスへ肉薄する。黒曜一閃。すり足で挙動を悟らせない歩法で懐に飛び込むと横薙ぎの一刀を繰り出した。

 そして時を置かず後方からアテナの一矢が飛来した。何十、何百と打ち合いながらはじめて祐一とアテナの一打が噛み合ったことを意味した。

 必中の二撃でさえサトゥルヌスはよく応えた。半身を逸らして矢を躱し、その流れのままハルパーの柄で剣を払う。

 凌がれた。必中だろうがなんだろうが、剣の一振が裾を()()だけで終わった。それでも喜ぶべき事に、二人の攻撃はサトゥルヌスに触れることが叶った。快挙、といっても良い武勲であった。

 

 当たった……なぜ? 

 

 だが相対する二人の戦の申し子は眉を顰め、訝しんだ。喜びではなく違和感を抱いていた。

 これまでの戦闘で、サトゥルヌスがここまでの隙と接近を許したのは初めて……亡霊じみた動きで柳のように祐一の柔剛もアテナの智慧も受け流してきた。

 戦女神の智慧が、神殺しの直感が、チャンスを嗅ぎとった。

 

 ──サトゥルヌス自身の"武"はそれほどじゃねぇ。

 

 ──全知とはいえ紛い物。完全なる未来予知ではないと見た。

 

 彼の神は強い。それは間違いない。だが『鋼』の神性はにわか仕込みで、アダマスの鎌と謳われるハルパーを得たことで獲得した、しかし片手間で獲た神性でしかない。

 これまで矛を交えた『鋼』の鋭さに比べると一歩劣る程度で、ヤマトタケルらならば歩法や身のこなしで躱せる攻撃も、時の神による未来視で確実に避けている……ならばそこに付け入る隙がある。

 

 そして全知も不完全。

 時間であり、時間の存在する場所に遍在するサトゥルヌス……しかし無限遠に広がる過去未来とは違い、現在という唯一無二の概念には必ず存在せねばならない縛りがある。ならば。

 泰然とするサトゥルヌスを向こうに置いて、自然とアテナと祐一は肩を並べる形になった。この場で一番の大敵はサトゥルヌス。

 死地で垣間見えた弱く儚い光明、しかし賭けるには、十分。体勢を立て直し、期せずして彼らは同時に切先をサトゥルヌスへ向けていた。

 言葉すら交わすことはなく、悟った事も思った事も別──だが為すことは合致していた。

 

 先んじたのはアテナ。託宣の女神として最良の霊視に導かれ戦神の心が囁くままに大鎌を振るう。祐一も呼応するように踏み出し、死域へ至った。相乗りする形で一閃を抜き放ち──完璧な息を合わせた二条の雲耀がサトゥルヌスを捉える。

 

「疾ッ」

「ふゥ──!」

 

 さしものサトゥルヌスも避けきれない。二双の刃に首を断たれ、致命傷を負った。

 アテナは霊視による未来視。祐一はそれに追随する形で一撃を放つ。それは如何に全ての時そのものであり全ての時を知る全知であろうと回避不可能な攻撃だった。

 だが冥府そのものを宿す彼の神は、終わらない。裂かれたそばから修復され、刹那の後には無傷を誇った。

 

「恐ろしいな。そなたらの二振りの刃に、我が根源までもが撥ねられた未来もあった……」

「やはりな。あなたは全知に近い存在ではあるが、あくまで近い存在でしかない。全能でもなく未来を選び取れる訳でもない。……あなたの未来視はいくつもある未来の可能性から、より確実なものを選び見ているに過ぎないのだろう?」

「うむ、そなたの申す通りだ。余は唯一無二の現在からいくつも枝分かれする未来を観ることしかできぬ」

「全能に近いまつろわぬ神と可能性の化け物である神殺し。両者が揃い、同時に剣を振るえば、それだけであなたの見える未来は無限遠に広がり読めなくなるのは道理よな? あなたが斬られたのが何よりの証拠だ」

「余は全知全能ではない故。フフ……流石は音に聞くアテナよ。見事だ」

 

 そして未来の見えなくなったサトゥルヌスはアテナと祐一の攻撃に対応出来ない。地母神を贄にしたとはいえ、黄泉帰りの()()()()に『鋼』を得たサトゥルヌスの限界だった。

 勝機は見えた。アテナは傲岸に笑い、逆転されたサトゥルヌスも陰気に口の端で弧を描いた。

 しかしそこで待ったをかける者がいた。

 

「盛り上がってるトコすまねぇな。アテナさんよ、あんたとの共闘はこれっきりだ」

「ほう?」

「さっきのサトゥルヌスの言葉を信じるわけじゃねぇが……あんたと共闘してサトゥルヌスを倒したとあっちゃぁ、先輩に胸を張れないんでね……。まあ、あの人ならゴミ箱から拾った勝利でも、勝ちは勝ちって言うんだろうけど」

 

 叢雲の切先を下ろし、地面へ向けながら呟いた。

 

「それに何よりサトゥルヌスと決着を付けるのは、()()()()()()()()()()()()。誰かの力を借りて戦ったんじゃ駄目なんだ。

 ──それが俺を宿敵と認め、相対してくれたサトゥルヌスへの礼儀だ」

 

 アテナはその言葉に興を削がれたように鼻を鳴らした。ただ、どこか拗ねている様子にも似ていて彼女の持つ英雄を導く性がそうさせるんだろうか、とふと思った。

 

「ふん。真面目だな、のちのち苦労しよう……それに誤解するな神殺し、もとよりそのつもりだ。あなたがたのような獅子を食い殺しかねん『獣』など身中においてはおけぬよ」

「木下祐一よ。余もそなたの心遣い嬉しく思う。だが思い上がりだ、今のそなたが余に勝てるなどと!」

 

 サトゥルヌスの言葉を訝しむなか、祐一の頸を斬った刀身に付着していた神の血が重力に従って地面へ零れ落ちた。

 

「……遥か極東にて武を鳴らす最源流の一党よ。縁もゆかりも無いが余の武具へと身を窶せ!」

 

 ぐらり。瞬間、地面が大きく揺れ、血の一滴を地面が吸い取ったのを皮切りに大地が盛りあがった。

 驚きながらも冷静にあたりを見て、自分を中心に半径数十メートル程の場所で局地的な地震が起きているのだと悟った。

 大きく跳躍し、地震の範囲外へ出る。振り返れば地面が巨大な人型をつくって、土砂を払い除けながら這い出ていた。

 

「なんだありゃ」

『ぬぅ……おそらく(オレ)と彼奴の血を混ぜ合わせ、鉄と巨人の相を併せもつ眷属を生み出したのだ』

「……え。叢雲、パパになっちゃったん?」

『……すぞ』

「言ってやるな神殺し。強姦とは違った悪趣味極まりない反吐が出るやり方だ、我が同胞の男たちはそういったやり方を好むのだ。どうしようもない」

「あー……そういやあんたにも似たような神話があったな」

「不快だぞ。忌々しい過去を思い出せるな」

 

 話している間にも大地の上昇は終わらない。それどころか明確な形を描き始め、ついには人型を宿して武器を担ぎ──巨神(ティターン)。鉄の剛直を伝った血の一滴が地面との交合を為し、神の眷属を生じたのだ。

 

 Arrrrrrrrrrrrrrrrrrr! 

 

 巨人の手には二振りの大剣。それを構えて……咆哮激震。祐一とアテナの居る場所へ大剣を振り下ろした。

 

「闇と不死なる蛇の眷属よ」

「鋭く近寄り難きものよ」

 

 一柱と一人は避ける仕草も止める動作もみせず、言霊を吐き、大剣の一撃を素通しした。轟音と粉塵が撒き散らされ、もうもうと巻き上げられた土の霧が晴れれば、そこに居たのは引き裂かれた肉塊ではなく雄々しく美々しい神獣であった。

 とぐろを巻く銀の蛇。

 漆黒の毛皮を備える猪。

 彼らに呼び出された神獣は人の建てたビルを易々と崩壊せしめてしまう巨人の剣を難なく受け止めた。鱗で、毛皮で。

 神とカンピオーネの眷属に相応しき格を備えた三体の神獣が叫ぶ。巨人が再び鉄剣を掲げれば、させじと蛇は長い胴体で足と腹と腕を絡めとり、猪は蛇も巨人も諸共打ち砕かんと吶喊する。まさに怪獣大決戦がはじまった。

 

 

 

 

 

 

「余らの眷属は互角の様子。どうやら千日手に陥ったらしい」

「冗長に流れたなぁ」

 

 しかし幾ばくかの時間が流れても決着のつく気配は見受けられなかった。轟音の鳴り響くウルリーケン山は悲鳴をあげているようだった。

 どうするか、と思案しているとアテナが前へ出た。

 

「ではひとつ妾の御業を御覧に入れよう。『鋼』には蛇殺しの言霊があるように、妾にも許された鏖殺の言霊があるのだ、()()()()()()()がな。

 ──我がパラス・アテナの名のもとに誓おう。我が前に立つ如何なる巨人も骸を晒すと。皮は鎧となり、盾となると」

 

 言霊が放たれた途端、強壮を誇った巨人が苦悶をあげ膝をついた。そして直ぐに息絶えると、分厚い皮膚は剥ぎとられアテナの防具となった。アテナを守護せんと巨人の皮が姿をかえて銀沢の戦衣装と盾となったのだ。

 

「余の眷属を掠めとったか、抜け目ないことよ」

「チッ! 退け、ラグナ」

 

 形勢の不利を悟った祐一がラグナを送還し、ふたたび三者は向き合った。

 こりゃあどうにも……祐一は頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。戦いが始まりそれなりの時が流れたがおそらく一番厄介なサトゥルヌスは無傷で、それに比肩するアテナもパワーアップを果たした。眷属もいる。贔屓目に見ても一番不利なのは祐一だった。

 

 だが勝機は、ある……絶対の()()が。それまで"待ち"しかねぇ。烈火の瞳に不屈を焚べた。

 

 ふと、サトゥルヌスが指を鳴らした。何もかも謎だが、おそらく更なる攻勢を仕掛ける仕草に違いなかった。

 

「時に木下祐一よ。人の繁栄とは目覚ましいものがあるな、空を股に掛けその指先を宇宙にまで触れてしまった。余がラツィオで農耕を教授した頃より驚くべき進歩よな」

「なんだぁ? こんな時に文明批判か? 進歩する人間は間違ってる、とでも言いたいのか?」

 

 ウン、ウン、とアテナがいいことを言うじゃないかと頷いている気配がしたが見なかったことにした。

 

「いいや。ただ、宇宙に投げ捨てられたものを活用しようと言うのだ」

 

 ひゅうぅぅ……。

 上空から風を切って何かか落ちてくる音が聞こえた。嫌な予感に任せて慌てて飛び退ると、ズズん! 

 何かが降ってきた。地上に突き刺さった"それ"は独特なフォルムをもつ未来的な……具体的に言うなら衛星軌道上をせっせと回っているよう物体で……つまり()()()()だった。

 目を点にした祐一はそのまま上空へ視線を向けて、空はいくつもの赤い点で煌めいていた──成層圏を抜けてくる大小さまざまなデブリの弾雨によって。

 

「人類のバカヤロ──!」

 

 すべてのデブリは祐一とアテナ目掛けて落下しており、しかも落としているのは時の神。高速で駆け回り、類稀な直感を持つ祐一でさえデブリの雨は捕捉した。

 

「やはり行き過ぎた文明など……!」

 

 デブリの雨で眷属が滅ぼされ、何やら憤懣やるかたなしで世界を滅ぼしてしまいそうな気配を撒き散らす女神が見えたが、何も見えなかった。こちらはこちらで手一杯なのだ。

 

「禍福あざなえる縄の如し、なれど土星を司り不吉の象徴たる余の訪れは凶兆の前触れ。すべての縄は禍に転ずると知れ」

 

 呪いの言葉が吐かれ不幸が襲う。先の戦いで刀を振りました折に切り倒した木の切株に足を取られて、盛大にすっ転んだ。悪因悪果。些細な悪因であれサトゥルヌスの権能で、最悪の結果と化す。

 

「加減ってもんを知らねぇのかサトゥルヌスゥ!」

 

 大地と背中合わせになりながらデブリの豪雨を捌く。成層圏で赤熱され飛来するデブリは、カンピオーネの身体でさえ容易く穿った。構えた腕に刺さり肉と骨を焼く、踏ん張った腿を裂く、髪と頭部の皮膚が持っていかれる。

 

「無駄だ、これくらいの傷……我こそ《光を持ち帰りし者》闇に沈もうと日はまた昇る」

 

 腕が、腿が、傷ついていた全ての箇所から火の手が上がる。血を焼き、皮を燃やして、だが森羅万象に逆らうように傷は塞がった。

 

「ヒューペルボレアの冥府のなかで持ち帰った光か。余が持ち帰れず、《闇を持ち帰った者》である余ではありとあらゆる未来で手に入れることの叶わぬ、いにしえの盟主であった頃の火……」

「ああ、この不滅の火こそあんたと対等に戦い、対抗出来る唯一の手段。こいつがある限りそう易々と不覚を取らねぇぜ」

「……ヒューペルボレア……光と闇……不滅に……ほう、なるほど」

 

 アテナが何やら得心し、サトゥルヌスが目を眇めたが、結局、両者とも何もアクションを起こさなかった。

 いつの間にやらデブリの雨は止んでいた。時間は戦闘開始から数時間が経過し、それでもなお誰もが無傷という異様な状況。この場に集った超越者どもは不死に連なるもので、それに準ずる力を有するものばかり。当然といえば当然だった。

 

「だが埒が明かぬのも事実……ならば余はそなたらの討滅に動こう。光明と火によって余の打倒を試みるならば真なる闇を開帳しよう。深く昏い大地の奥底……冥府にて番たる地母神オプスを贄とし持ち帰った闇の本領を開陳しよう」

 

 来るぞ。祐一は背を低くして構えた。

 来るぞ来るぞ来るぞ! サトゥルヌスの全開が来るぞ! 強烈な悪寒そうさせるのだ。

 サトゥルヌスが手を掲げた。指先から正体不明の闇色の球体が生まれて……いや、違う。あれは。なんだ。見覚えがある。

 

「先刻の衛生落としは余の真髄たる御業のほんの手遊び程度でしかない……では我が力の源泉とはなにか? 

 わかるか木下祐一、アテナよ……大地の底、冥府の淵で獲得した力。奈落の澱の逃れえぬ枷にして万物が持ちうる力だ」

 

 ……光が、消えていく。

 夜の数少ない光源だった月光が、消えていく。光源から放射され四散していくはずの光がサトゥルヌスという一点に収奪され収束していく。

 指先に現れた球体は肥大化し、サトゥルヌスを中心に闇の渦が生じる。否、生まれているのではなく光が食い散らかされているだけなのだ。

 ──シュバルツシルトの闇。

 事象の地平面の先に、光すら蹂躙される領域があるという。生命活動など望むべくもない真なる暗黒。物理法則しか蠢くこと赦されぬ万物の澱にして檻の奥に。

 

「奈落の底から伸びる引力……それが祖父殿の闇と死の根源。そなたら人の子らの言葉を借りるならば()()と言ったか」

「っざけんじゃねぇ……! 重力? そんな生易しいものであってたまるか……ありゃあ()()()()()()()じゃねぇか!」

 

 かつて太陽神であったサトゥルヌスが凋落し、大地の神となった。

 大地の神は復権を誓いながら夢破れ、しかし未だ諦めることを知らぬ。妻を喰らい、光輝の道を閉ざされようと。

 故に到りて、ひとつの扉を開け放った。新たなる玉座の獲得。齢を経た恒星の末路(ブラックホール)こそ、サトゥルヌスの力の源であった。

 

 ベルゲンに三柱が揃ってより前哨戦は何度かあった。しかし三つ巴の形で本格的な戦いは今夜が初めて。

 特にアテナと祐一はほぼ顔見せ程度で、まともに武器権能を手にとるのは初めてだ。矛を交え、被せていた薄衣を取り払って手札の見せ合えば、やはり一筋縄ではいかぬと確信を覚えた。

 だが祐一とサトゥルヌスは何度も殺し合っている。だのに全知以外にもこれほどの奥の手を隠していたとは。

 祐一はサトゥルヌスの秘めた力を察せられなかった己が不覚に歯噛みした。サトゥルヌスは猫を被っていた……強力なカードもひた隠し、性格も偽っていた。感情的で思慮が浅く、しかし使命に一途なのだと偽っていたのだ。

 以前の欺瞞に満ちたサトゥルヌスだって強大ではあった。しかしどこかに必ず隙があって、そこに付け入ることが出来た。

 だが今はどうだ? 

 隙など見出せない。打倒できるビジョンが浮かばない。直感がささやき見せるビジョンで骸を晒しているのは己だった。歯噛みする祐一を尻目にサトゥルヌスが動く。

 

 重力嵐が──吹き荒れる。

 

 一息に生命を摘み取られなかったのは一重にカンピオーネの対抗力ゆえだった。そうでなければ、今、眼前に広がる光景のように……ベルゲンを囲む七つの山のように空へ浮き上がり、重力の渦のなかで藻掻いていたに違いない。

 だが、これは、ジリ貧だぞッ! 叢雲を地面に突き刺し、身も世もなく地面に縋りつく。軋むような異音が轟きはじめた異界が悲鳴をあげてるのだ。硝子細工の擦れる音に似た音とともに月の浮かぶ夜空が割れる。

 地にへばりつくしかない祐一と違い、重力の乱気流に晒されようとアテナは立っていた。先刻、巨人の皮で作った闇色の盾を頭上に浮遊させ、盾を頂点としてアテナの小柄な体躯を囲むように結界が編まれていた。

 中にいるアテナは外界の影響などに微塵も干渉されず髪の一本も揺り動かされることはない。

 守護女神として崇められた彼女にとって防衛こそ本領でありこれくらいのこと為せて当然なのだ。

 

「《救世の神刀》すら阻む草薙護堂の《黒の劔》かつてヒューペルボレアで余を嬲った大法を参考にさせてもらった」

 

 闇の引力によって集められた土砂や木々がゆっくりと形を生して、巨大な黒腕となった。変化する合間にも腕には木々が折り重なり、腕自体が強力な重力を有しているにだと言外に語っていた。

 そして巨人の腕の使い道なんてひとつしか思い浮かばなかった。

 

「おいおい嘘だろ……」

 

 大きく振り上げられた腕は敵の居る場所へ振り下ろされる。轟音のあとに肉体を粉微塵にされたかと錯覚する衝撃が襲った。

 事実、耐えきれない程の衝撃が体のなかで暴れた。左腕が拉げ、肘から先の感覚が消失する。絶叫をあげる暇もなく咽喉に冷たい金属の感触が割って入ってきて、言霊を吐き出せない。頭蓋が砕ける。足の爪先が鼻先と出会った。

 それでも死なない、全身が燃え上がって新たなる生命を贈られる。中空に投げ出され、敵の追撃はすぐにやってきた。

 二振り目の巨腕にふたたび捉えられ肉体が四散する。圧迫され肺から押し出された空気が口から出るよりさきに咽喉から漏れ出た。

 襤褸雑巾になりつつ地面に叩きつけられ、アテナの足元近くに放り出された。

 無様だな神殺し、と再生しはじめた鼓膜がなんとか声を拾った。黙れ、と返したかったが顎から下がなくなっていて喋れなかった。

 

「そなたら両名を一纏めにしてしまおう」

 

 水平だった大地が盛り上がった。祐一たちを取り囲む四辺がサトゥルヌスの意思によってもち上げられ、最後には風呂敷の口布を結ぶように引き絞られた。

 捕まった、その悪寒に応えて周囲がどんどん狭まっていく。推し潰そうというのだサトゥルヌスは。ブラックホールを形成するほど莫大な重力でもって。

 

「これは……山羊と巨神の皮楯すら危ういか」

 

 楯や鎧でも、刀剣や矢などの攻撃から身を守るには一級品だ。とはいえ重力という永続的に全方位から圧壊しようとしてくれ攻撃には分が悪いらしい。

 

「一蓮托生みたいだぜアテナさんよ」

「ふん、あなたを助ける義理はないが……妾の御業をその特等席で観覧できる栄誉を与えよう」

 

 アテナが手を振った。それだけで奇跡が起きた。

 止まる。止まる。止まる。

 サトゥルヌスの神力が寸断されアテナの神力が割り込む……これは停滞の呪いだ。冥府から這い出した冷気が万物に霜を降らせ、退化させ、朽ち果てていく。

 星の終わりにはいくつか種類があると言われてる。莫大な質量によってブラックホールと化すもの。超新星爆発を起こすもの。そして全ての活動を止め、極寒の白色矮星となるものだ。

 活動を起こすエネルギーを総てを使い果たし、冷却し続ける星の終わり。冷たいほど年老いた白き天体。

 絶対零度の白き星。古き太母神であったアテナであればこそ、そう言い表すに相応しい。

 サトゥルヌスの猛威が崩れ落ちる。眼前を覆っていた重力の壁が停止する。

 空間すら歪める物理法則が重力ならば物理法則を停止させる。それが冥府の女王たるアテナの解答であった。

 

 三者はふたたび顔を合わせる形になった。

 

 睨み合うアテナとサトゥルヌスを他所に、対抗できず右往左往する置物に徹していた祐一は思った。

 

()()()、と。

 

 アテナの停滞の冷気を火によって振り払いつつ、勝機の到来を予期した。

 戦闘開始からどれほど経っただろうか。異界の発生は夜のはじまりに起き、三つ巴が始まって戦闘時間は数時間は経過している。時間が動けば、世界は動く。陰陽は入れ替わる。

 

 故に──

 

 ──時は、()()()()

 

 東方より曙光が燦めく。

 日ノ本にて聖なる方角たる東を背にし、暁を背負って祐一は傲岸に立った。

 化身たる『白馬』が嘶き、眼窩に収まる浄眼が朱と紅を濃いものにした。右の手のひらに火が熾り、それを包むように握り締めた。

 アテナとサトゥルヌスはそれだけで劣勢を悟った。

 

 天敵。

 この時、二柱は本当の意味で理解した。

 

 彼は天敵だ。神殺しだから、という理由ではなく死と闇と冥府という彼彼女らが司る領域の対極こそが眼前の少年なのだと悟ったのだ。

 これが夜ならば。闇の領域でならば善戦できたであろう。だが狡猾な神殺しは、ひたすら耐えに耐えた。戦況の天秤が傾き、一気呵成にまつろわぬ神どもを討滅できるその瞬間を狙って。

 それが、今だった。太陽が一番力を増す時刻。闇夜を切り裂き、光を齎すのはこの時を置いてほかにないのだから。

 朝のお訪れに三つ巴すら耐え切った異界が、食い破られ消滅する。

 

「退きな。今なら見逃してやる」

 

 場を支配した祐一が低い声で布告した。

 

「どうせ宣誓で決着はつけられないんだろう? なら太陽が出て異界もなくなった今が落とし所だと、俺は思うぜ」

 

 そして否を唱えるものはこの場にいなかった。

 

「幕引きか」

「……これ以上の闘争は不死たる妾でも分が悪いか。決戦に響くやもしれぬ。ならばあなたの提案に従おう」

 

 己に絶対の自信があるが故にまつろわぬ神は強大な強さを獲られる……だから太陽が昇ろうと敗けるとは微塵も思わない。

 しかし、曙という天敵たる太陽が最も力を増す 現在(いま) にやぶ蛇をつついて火傷をする愚を二柱は選ばなかった。

 

「だがゆめゆめ忘れるな神殺し。

 今夜の戦は分けただけ。それも妾が譲ったからに過ぎぬ……新月の夜こそそなたが光とともに冥府へ帰る時と思え」

 

 アテナの言葉を最後に彼らは闇に溶けた。太陽に引き裂かれ払われる夜のごとく。

 大きく息を吐いた。凌いだ。

 勝利の余韻も生き残った感慨などなく、祐一は肩を下ろして地面に倒れ込んだ。



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不和

 二柱のまつろわぬ神が退いたあと、幾分か快復した祐一は、狼を呼び出してチェリーの通う学校を訪れていた。

 よ、っと。音もなく着地したあと大きく伸びをした。さっきまで乗っていた狼が影に沈んでいく。祐一自慢の権能のひとつだ。"類稀な騎乗技術"と"軍勢の召喚"を可能にする大王チンギス・ハーンから簒奪した第二の権能『 神鞭の騎手(Wargs domination)』である。

 普段なら盟友ラグナを喚ぶのだが、昨夜の戦いで消耗している。軍神ウルスラグナから簒奪した権能『勝利する者(Parviz)』は多彩で戦略の幅が大きく広げられるといえど、厳しい制約が課せられていてひどくピーキーだった。といってもミスラの松明という神具のおかげで幾分か緩いものとなっているのだが。

 

「ん、なんだ。元気そうじゃないか」

 

 目線をぐるりと回して、一人の少女を見つけた。昨夜相棒を逃してそれっきりだったが、彼女はいつものように登校していた。

 それを見下ろしながら生徒で賑やかな学校の屋上で、一安心、一安心、と心のなかで呟く。

 あぐらをかき、座禅の姿勢になった。

 

 呼吸を重ね、気を巡らせ、身体を整える。

 それと同時に階下の雑踏に耳を傾ける。会話の端々に上がる話題は普段通りで、異界の戦いの影響はないように思えた。

 ここから見えるベルゲンの様子も変わらない。だが遠くから眺めているから分からないだけで小さな綻びはそこら中にあって、聴こえる会話にも不穏な言葉が混じっているのに気づいていた。

 停電や配管の破裂、地盤の歪み、岸に打ち上げられた魚……生徒らはハッキリと認識していなくとも昨晩確かに()()()が起きたのだと薄々察しながら、しかし、それを振り払うように普段通りの日常を努めていた。

 見て見ぬふりとも違う、"何か"の存在を感じ取りながらも粛々と災いに対処する。どうにもそれがまつろわぬ神々と人の付き合い方のようだ。

 

「それが正しいのか、変わっているのか。俺にしたらちっと違和感はおぼえるけど……勉強にはなるな」

 

 異なる次元から訪れた神殺しは、力なき人々が生き残るための処世術を察しながら呟いた。空をながめて、まつろわぬ神の猛威に耐えるしかない故地の人々に思いを馳せる。

 

「せっかく異次元くんだりまで来てるんだ。俺も何かを得て、役に立ちそうなもん持って帰らなきゃな。

 そのためには──燃えさかる焔は双眸。砂を焦がし、塵に還すもの。聖なる億千万の瞳が不浄を祓い清めよう」

 

 権能を行使し、瞳を開眼する。それだけで空にまばらにあった雲は掻き消え、快晴となった。

 中欧にてとある大天使から簒奪した一切の不浄を赦さぬ瞳『輝く瞳(glaukopis)』。敵は悉くが闇と冥府を司る神であり、戦いの鍵を握るのはこの権能と言っても過言ではない。

 さらに指を尖らせて手の甲を裂く。当然、鮮血が吹き出し、赤に染まる。

 しかし飛び散った血が地面へ落ちるその寸前で、青白い火となり傷口にも血の代わりに火が駆けた。そうして火の収まった後には無傷の肌が残った。

 かつて彼がまだ人間であった頃『ミスラの松明』という神具を手に入れた。それは神殺しへと新生した時点で肉体へと同化し、ミスラと関わりの深い彼の権能へ大きな影響を与えるに到った。

 そしてヒューペルボレアで光を持ち帰り、ミスラの松明は火となり権能にさえ準ずるものとなった。ミスラの火は太陽と同義であり、持ち主に不滅を齎すものでもある。闇を持ち帰った不死なるサトゥルヌスと対を為す、宿主に不滅の與える神具であった。

 

「違和感もない……権能はもう十全だな。いつでも、やれる」

 

 決戦を。

 最後の一言を声に出さず、拳を固めるだけに留めた。手から力を抜くと、身体を床に投げ出して空を仰いだ。青い空だった。

 

「ベルゲンを訪れてもうそろそろ半月……約束の日も、もう明日か」

『気負うておるのか?』

 

 独り言ちた言葉を叢雲が拾って、問いかけてきた。苦笑しながら首を振る。

 

「なわけないさ。俺は勝つだけだよ……でもベルゲンにはなんだかんだ居着いちまったからな、ちょっと寂しいなって」

『ならばこの一件が終わったあと、休めば好い。おぬしは此処に至るまで艱難辛苦を耐え抜いて来たのだから』

 

 叢雲の言葉にさらに苦笑を深めた。

 第三の権能といっていい叢雲。主となる権能は偸盗を軸にしたコピーや合成能力で、武の才すら齎すカタログスペック上では戦闘方面に大きく偏った権能だ。だが、祐一というまだまだ青い神殺しにとって一番の真価は、鉄火場はもとより、こういった日常のフォローや助言にあった。

 過去、どういう経緯があったかは詳しくは知らない。だがヤマトタケルとの対話不足による失敗もあって祐一に甲斐甲斐しく世話を焼いた。最源流たる叢雲が、争い以外でも口を挟む異常事態はそれの表れに他ならない。

 神々との殺し合いが宿命づけられた彼に好き好んで手助けようとするお人好しは少ないし、命を狙ってくるものの方が圧倒的に多い。そんな、右も左も分からない状態で正しい知識や真っ当な指南を授けてくれる存在など皆無で。ましてや慮ってくれる存在など。

 だから叢雲という相棒のありがたさは権能という目に見える力以上のものがあった。

 ありがとう、と笑って首を横にふった。

 

「でもカズハズ……いや、因果律の道化といったほうがいいのか? ……にヒューペルボレアへ飛ばされて放浪してもう二ヶ月近いからな……」

『しかし、帰り方のあてはあるのか?』

「それなんだよ……。ヒューペルボレアからはサトゥルヌスの権能を叢雲が間借りしたから来れたようなもんだし、帰り方どころか次元の超え方なんてそうそうある訳ねぇよな……でもま、どうにかなるだろ」

『ほう、その心は?』

「スロヴァキアの天使、覚えてるか? 次元の果てにまで飛ばしたっていうのに、あいつは帰ってきた……それも5分も掛からない時間で。あいつの中でどんなに永い時が流れていたとしても、な」

『可能ではある……が、それは彼奴の狂的な執念があったゆえに。おぬしが為すことが出来るかどうか。分の悪い話であろう』

「それでもやるのさ。俺は帰る、絶対に、死んででも。そして強くなってな……因果律の道化は俺に比類なき困難が訪れるといった。でも俺はその苦難を撥ね退けて、呑み込んで、さらに大きくなってやる……」

 

 異なった次元に行くなんて機会は今だけだろう。

 天使の前例を鑑みれば時間を気にせず遊興に耽れるのも今だけだろう。

 記憶を取り戻し、ヒューペルボレアを駆け抜けてきてからずっと思っていた。

 俺は弱い。ヤマトタケルに因果律の道化をはじめとする一癖も二癖もあるまつろわぬ神々……奴らに対抗するには足りないものが多すぎると。

 ならば力を付けねば、武器を研がねば。

 因果律の道化は自分を地獄へと落としたつもりだったらしいが、己にとって現状はボーナスタイムに等しい。

 草薙護堂との出会いを皮切りに、カンピオーネの流儀や世界の裏側の知識、これだけでも元の場所では得られない凄まじいアドバンテージだ。

 あいつは時間無制限の修練場に送り出してくれたんだ……だったら俺は有難く強くなることに励むだけさ。目を眇めて、犬歯を剥いた。

 

「それに、一期一会。帰っちまったら多分二度とこっちの世界に来る事もなさそうだからな……此処で見たものは心に焼き付いえておきたいんだ。魔術師、なんて輩が町中を闊歩してんだぜ? 考えられねぇよ、何人か攫いたいくらいだぜ」

『クク、我らの世には呪い師は幽世にでも行かねばおらぬからな。しかし攫うならば……おぬしには奇縁あるではないか』

「あん?」

『娘のことよ。(オレ)はあれに類稀な素養はあるとは思えど、我らの戦いに足を踏み入れてくるなどと思ってはいなかった。あれほど胆の据わった女子なんぞ(オレ)は知らぬ。攫うならば(オレ)はあれを推挙しよう』

 

 叢雲の言葉は全くその通りだった。

 巫覡としての才が彼女は抜き出ている。人間には過ぎた力で……それもまつろわぬ神や神殺しにさえ通用するほど。欲しがる者は後を絶たないだろう。彼女が自分の故郷である世界に来てくれればどれほどの益になるか……それは今現在の戦いでも十分に証明されていて。

 ふと、祐一ははじめてチェリーに対して欲が湧いた。まつろわぬ神々や魔術師たちが彼女に向けるものと同種の欲が。

 首を振って、邪まな考えを霧散させる。

 彼女の目的は故郷ベルゲンを護ることだ。だからきっと彼女は自分の誘いには乗らないだろう。祐一に手を貸すことはあっても、次元の壁を越えてまでは……。

 件の人物を見つけようとして首を巡らせ……

 

「…………あれ、アイツどこに行った?」

 

 ○〇●

 

 

「もう準備は万端ね」

 

 腰に手を当てながら満足気にうなづいた。

 チェリーは授業が終わると、校舎のなかにある広場に顔を出していた。お祭りの準備だ。例年行われるイースター休日のあとのささやかなお祭りだが、どこかの人外健康優良男児によって想定以上の規模になってしまった。開催は明後日だというのに気の早い者たちが露店でホットドッグを売っていて、焚火を熾して騒いでいた。

 苦笑いを隠せず、ここにあいつがいればもっと騒がしくなったのだろう、と思考がよぎった。期せずして脳裏に現れた相棒に、少しだけ驚く。

 

「もう、ユーイチの奴、午後になっても会わなかったけど死んでないでしょうね?」

 

 どこか拗ねたように道端の石ころを蹴った。戦いが本格化する前に狼に連れられ戦域を離れて息をひそめていたのだ。それから朝日とともに異界が解かれると件の相棒を探してはみたのだが、結局見つからず寝不足のまま日常へ戻っていた。

 不思議なことに両親はなにも言って来ず、チェリーもやぶ蛇は突つきたくなかったので触れなかった。

 ベットで白い天井を見上げ、悶々としながら睡魔に身を委ねた。疲労もあってか寝付きは嫌に良くて、でも頭の片隅にはを見ることも許されなかった事実が少しだけ引っかかって心に痼を残していた。

 戦場に居て何も出来やしなかったどころか、足手まといだっただろう。けれど理屈ではないのだ。誰かがベルゲンの為に戦っている、それが相棒と認めた人物なら尚更で、自分の力不足にため息が出た。

 それに契約の期日も、今日を含めてあと二日しかない。神々と神殺しの三つ巴が約束され、ベルゲンの去就が問われる時刻は二十四時間と少し。こんな調子でいいのだろうか、という想いは全知ならぬとも日常の裏を知る少女には当然の疑問だった。

 

「とにかく。サッサとあいつを見つけ出して昨日の顛末を聞き出さなきゃ──」

「チェリー」

 

 呼び止められた。淡い金髪にパイロットジャケットを着込んだ気だるい印象をもつ少女リヴだった。

 

「あらリヴ、どうしたの?」

「……」

「え、っと……具合悪い? この頃、地脈のせいで……じゃなくて季節の変わり目で体調崩す人が多くなってるっていうし気をつけてよ。

 アタシはお祭りの準備も担当のところはだいたい終わったから申し訳けど今日はここで帰るわね。……あ、あと明日なんだけどもしかしたら手伝いに来れないかも知れないから…………」

「"あいつ"の所に行くの?」

「───」

 

 友人の言葉に絶句して、視線を巡らせる。いつも気怠気な目は少しだけ剣呑さを宿していて、有無を言わせない気迫に呑まれそうになってしまう。Barneskole……小学校のころから仲の良いリヴ、でもこんな表情は見たことがなかった。

 

「あいつに会っちゃ、ダメ」

「会ったらダメって……もしかして前の事を気にしてるの? 大丈夫よ、あの時はアタシが動転しててリヴを誤解させちゃっただけなんだから」

「そうじゃない」

「どうしたのよ……あ、でも、それにね。アタシはあいつに会いに行くわけじゃなくて息抜きにいくのよ? 最近いろいろあって気が張ってたからブリッゲンで潮風でも浴びてこようかなって」

 

 あなたも来る? と問いかけたけれどリヴは剣呑な目をいつの間にか止めていて、表情を見通せないほど深く俯いていた。唇が動いたのはどれくらいの時間が流れてからだろう。

 

「だって」

 

 それ以上の言葉は出てきそうになくて、どうしようもなくて、ごめんなさい、と一言添え逃げるように彼女のもとを離れた。

 ただ。肩越しにちいさな声が聴こえた気がした。

 

 ──あいつからは死臭がする。

 

 

 

 ブリッゲンを訪れていた。頭が煮詰まったり、嫌なことがあればベルゲンでも賑やかなこの場所へ足を運ぶのは彼女の常だった。

 それにゴルゴネイオンを取り巻く契約も終わりが近い。契約の終わりは、三つ巴の終焉を意味するに違いない。事件の全貌を知らない彼女だったがそれだけは理解していて、同時に、今日登校して日常を送れたのは嵐のあとの凪で、凪は嵐の前の静けさでもあるとも理解していた。

 だったら普段通りをするだけよ、チェリーはブリッゲンを思うまま散策することにした。常在戦場などという言葉はあるが、常に気を張っていられる人間などいないのだ。

 要は切り替え。スイッチをON/OFFするように心を入れ替えることが肝要なのだとチェリーは思う。

 最近はゴタゴタしていて来れなかったブリッゲン、雑貨屋に顔を出し、露店を冷やかし、いつものベンチに腰掛けて雑踏を眺めた。

 

 普段通りに身を置いてなお、やはり、非日常の光景が思考の隅にこびりついて。戦場に立てない弱い自分というしこりと、リヴの顔が常に這いまわっていて。ちっとも気が紛れなかった。

 ふと、道行く人の中に銀を垣間見た。よく見ればそれは銀光を編んだような髪で、小柄な少女だった。

 銀髪の下には黒瞳があって、セーターと青いニット帽という出で立ちの少女。

 なぜだろう、見過ごせない。それに既視感があった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 それもこのブリッゲンで、それもこのベンチで。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 慌てて立ち上がり、少女の傍に駆け寄った。眼前に立って……間違いない。自分はこの少女を知っている。確信だった。

 

「あなた。何処かで会わなかったかしら?」

 

 二言の言葉を捻り出すのに大きな労力と強い決意が必要だった。なぜなら銀の少女は、ひどく圧倒的で、相対するだけで切り裂かれる感触をおぼえる美しさがあったから。

 目線が自分を捉えるために動く。ただそれだけで月が落下してきたのだと錯覚した。押し潰されそうな圧迫感は質量を伴っていて、肺から空気を追い出して、骨を軋ませた。

 

「ほう。多少は目付きが変わったか」

 

 返された言葉がチェリーの思考を硬直させた。なにせ全くの初対面であると言うのに、少女はまるで以前出会ったことがあると言うように小さな笑みさえ添えて言葉を返したのだから。こんな少女と出会っていない、出会っているはずがない。出会っていたら存在感の暴力さながらの少女を忘れるはずがない……本当に? 

 自分に疑問が浮かんだ。忘れるはずがない。遭っているという確信もある。でも忘れている。

 

 ならば答えは一つ。おかしいのは──自分なのだ。

 

 そうだ、銀の少女と相対している"この"感覚は初めてではない……。さらに言えば喉にまで何かが出かかった感覚も初めてではない。

 ゴルゴネイオンの事件に巻き込まれて以来、幾度となく呼び起こそうとされ、しかし、全て阻まれふたたび忘却の霧へ包まれえいった過去。だが今なら見える。夜霧が阻んでいたものは──銀の少女なのだから。

 

「あなた、五日前にブリッゲンであった子よね? …………いいえ待って。もっと大切な何かを忘れてる……?」

 

 記憶。記録。過去。地上と冥府を統べた女神の歴史が、()()()

 以前は未熟だった。阻まれてもいた。盗み見ることを赦されなかった。……でも今は違う。女神に纏わるあらゆる歴史に一切の壁も扉も錠もなく開かれていている。かつて北アフリカのリビアで信仰を得た古き太母女神。やがて女神は民族の移動とともにエジプト、カナン、地中海にまで信仰を広げ、ギリシャにまで招聘され崇拝を受けるまでになる。

 信仰の薄まった世でも今だ世界に名を轟かすオリンポスの十二神が一柱。その神の名を──

 

「まつろわぬ、アテナ……」

「然り。そなたの言葉通り妾はアテナ。そしてこの北欧の地でゴルゴネイオンを求める三柱のひとつでもある」

 

 霊視による体力の消耗か、息が切れる。みっともなく喘いで一目散に逃げ出したい衝動を殺して、気丈に胸を張った。言葉は一度目では出てこなくて、二度目でやっと喉が鳴った。

 

「……ここで、事を、起こすつもり?」

「否と答えよう」

「信じられないわ」

 

 鉄塊じみた重圧がさらに増す。

 蟻だった。かの女神の前ではあらゆる人間が蟻に身を窶す、そこに例外はなくオリンピック選手も、軍人も、魔術師も総じてちんけな蟻になる。まともに対峙できる者など人間ではない、それができる者はどこか壊れているのだろう。だから神を殺す機会をつかみ取れるのだ。

 

「異なことを言う。そなたが信じようが信じまいが妾は止まらぬし、指先を振るうだけでそなたの愛する土地は灰燼に帰すだけ」

 

 酷薄な御言葉にチェリーは悲壮な覚悟を固めた。自分の抵抗など壁に投げたヨーグルトのようなものだろう。しかし黙って見過ごす、などという選択肢は取れなかった。

 

「そう気色ばむな。常ならば女神たる妾を不遜にも咎めた罰として、前言の通りに文明をいにしえの時代に回帰させても良い。が、しかし。そなたには妾らの聖戦を恙無く執り行う戦場をしつらえた功がある。ならば妾はその功に免じ見逃すとしよう」

「戦場、しつらえた……?」

「フ……そなたは知らずとも良い。それとあなたの問いだが……そなたも知っていよう? 妾は昨晩、三つ巴の大戦を為した。二柱の強敵を相手取り、戦塵に塗れ、しかし戦神たる妾はそれなりに満足しておる」

「……」

「妾はアテナ。闇と大地を総べる女王。故に大戦を終え、それから日も沈まぬうちに我が神威をひけらかそうとは思わぬ。

 我求めるはゴルゴネイオン。妾は古の《蛇》を希求する。しかし、いかに使命に燃えていようと闇と大地をしろしめす女神としての振る舞いも忘れてはならぬのだ」

 

 アテナの言ってることは正直半分も理解できなかった。

 

「いいわ、あなたの言葉を信じる」

 

 だが、彼女が今暴れる意思はないということは理解できた。それだけ確認できれば肩からドッと気が抜けて、深い息が出た。

 今日はOFFのつもりだったのに何故タイトロープを全力疾走する羽目になっているのか、運命とやらを操っている者がいるなら文句を付けたい気分だった。

 

 こうなったら何が何でもOFFを味わってやる……! でもこの女神さまも無視できないし……。

 そんな二つの思考が悪魔合体し、チェリーは唐突にあたりをキョロキョロと見渡して……

 

「ね、あなた暇だったらクレープ食べてみない? ちょっとお腹空いちゃって……あ、でも神様ってクレープなんて食べれるのかしら……?」

 

 この申し出にはさしもの智慧の戦女神さまも虚を突かれたように目を瞬かせた。

 

 

 露店で二人分のクレープを買ってベンチに腰かけた。出来立ての生地と生クリームの芳香がたまらない。早速口に運び……となりをふと見てみると、女神さまも口に運んでいて、もっきゅもっきゅと食べる姿はなかなか愛らしい。

 そこで思考を読まれたように……実際読まれたのだろうが……アテナが鋭い視線を向けてきた。

 

「なにやら不快な思念を感じたぞ」

「あはは……。ね、それよりどうかしら? アタシのおすすめなんだけど」

「悪くはない。しかし甘味も天然由来ではなく、賢しらにも鉄を組み、結晶とした人の生み出したもの……地母の女神たる妾の口には合わぬな」

「ふぅん」

 

 はじめ大地に属するから彼女だから鉄で拵えた科学調味料が嫌だと言っているのだと思った。けれど違うんだろう。彼女は嫌いなのもっと別、それは……

 

「あなたって……人があんまり好きじゃないのね」

「左様、だが当然であろう。人は妾をはじめとする母たる地母神からの恩を忘れ、忌々しい天空神へ容易に鞍替えした。

 人は己にとって有益であるならばそれまでの縁など総て忘れ去れて飛びつく恥知らず。その上で厚顔無恥にもアテナイの守護女神に据えたのだ、好きになる道理がない」

「そう……。でもアタシは守りたいわ……人をね。いいえ、こう言うべきかしら? ベルゲンに住んでいる人達を」

 

 女神に面と向かって否定されようとチェリーは毅然と応対した。確固たる意志とともに。

 

「……都市の守り神に据えられた身とはいえ、守護女神たる妾にはそなたの心意気は好ましく思える。妾に使命がなければ、そなたともっと深く語らい、あるいは愛し子として加護を与えていたかもしれぬな」

「最初にあった時もそう言ってたわよね。加護なんてちょっとよく分からないものいらないけれど……」

「妾は崇高にして何者にも阻むこと赦されるぬ使命の只中におるゆえな。しかし妾の加護は不要と申すか、数多の戦士英雄らが欲した戦女神の加護を。ふふ、しかしそう断られればいっそ小気味よい……その不遜、今ばかりは許そう」

「ふふ、なにそれ。でも……ずっと思ってたけど、そんなにゴルゴネイオンが大事なの? 街を壊してでも、人を足蹴にしてでも?」

 

 アテナは目して語らず。視線のみが胸元に向かった。

 おそらく首から下がるペンダントに目線が落ちたのだろうか、とペンデュラムの形をしたペンダントを握った。

 幼少のころから肌身離さず付けているもので、人に過ぎたる才を持つ彼女には文字通りこれが無くしては生きていけない半身と言ってもいい宝物だった。

 だから、アテナの言わんとするところを、チェリーは察した。目の前の女神もそうなのだ……生誕してから常に共にあった半身こそがゴルゴネイオンなのだ。

 

「そうね……アタシもこれがなくなったら、きっと……」

「──何してる」

 

 割り込んで来たのは祐一だった。音も、気配も、気取らせず次の瞬間にはもう剣を構えた姿で立っていた。

 漆黒の刃はアテナの首筋に向けられて、眼光は剣呑そのもの。彼のときおり見せる戦士の、それも全開の姿がそこにはあった。

 

「どうやら潮時のようだ」

「あ、待って……」

 

 言葉を待たずにアテナは闇に溶けた。後に残ったものなど何も無く、鳥が羽ばたいたのだと悟った。

 それでも祐一は警戒を解かず、辺りを見渡したあと、チェリーの肩を掴んだ。

 

「お前! アイツに何もされなかったのか?!」

「なによ。アタシたちはただクレープ食べてただけよ……」

「──ンなわけねぇだろうが!」

 

 祐一の怒声がブリッゲンに轟く。道行く人が一斉に振り向いたが一顧だにせず肩を握る力を強くした。

 

「相手は"あの"アテナだぞ! まつろわぬ神にとってお前は格好の餌で、使い勝手の良い道具なんだよッなにもされてない訳がない!」

 

 ここまで怒りを露わにする彼は初めてで、少しだけ気圧されそうになった。肩に食い込む指が痛い。馬鹿力、と小さく罵る。

 

「お前、今なんに巻き込まれてて、誰に狙われてるのか分かってんのか!? 自分の立場ってモンをいい加減分かれよ!」

「ちょっと、痛いってば……」

「あいつらはお前が護りたいっていってるベルゲンをぶっ壊そうとしてるんだ……! 昨晩の戦いだって異界だったからいいものを、現実だったらベルゲンは終わって」

「──痛いっつってんのよッ」

 

 肩を握った手を強引に振り払った。そのまま彼から距離を置いて、指差した。

 

「アタシは、アンタと対等の契約を結んだわ。でも、仲間でも、味方でも、ましてや小間使いになったつもりはないわ!」

「お前ッ!」

「アンタの言い分に全部"はいそーですか"って頷づいたりしないわ! 。アタシが嫌だったら突っぱねる、それが対等ってもんでしょう!」

「こ、こんのッバカ女ッ!」

「バカとは何よ! アホユーイチ!」

 

 中指突き立てて走り去った。

 去っていく背を見つめながら自分の短慮を恥じてため息をついた。

 何時からだろう、まつろわぬ神となるとカッなってしまう自分が出来上がっていて、戦いの時にもそこに付け入られたのは一度や二度ではないのに。

 

「だけどチェリーもチェリーだ、目的も分からねぇ敵と仲良くしようだなんて。アテナがヤマトタケルみたいな奴だったらどうするんだ……」

 

 歪みもどんどん強力なものになってるのに……こんなんで乗り切れるのか? 一抹の不安が胸に巣食った。

 

 

 ──その日、いくら待っても異界が現れることは無かった。



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二柱の謀略

 夜を回っても、朝を迎えても、日が昇り切ろうとも……異界が現れることはなかった。

 

 ブリッゲンを離れ、チェリーの家に行きもせず夜を明かした。

 宣誓を為した人気のない広場のベンチにひとり、祐一は俯いていた。時刻は午後三時ごろか。そんな普段ならティータイムに洒落こんでもおかしくない時間帯に彼はいた。苦渋を孕んだ表情を湛えて。

 ドクン、ドクン。

 口元をおおって、異常なまでに目を見開く。時間を刻むほど心の臓の脈動は強さを増し、激しい焦燥感が臓腑を焼いた。

 

「まずい…………不味い不味い不味い! 嵌められた嵌められた嵌められた! ──神に、嵌められたッ!!!」

 

 胸中に吹き荒れるのは屈辱と悔恨だった。

 なぜ安穏と神の策謀を受け身に構えてしまっていたのか。"異界の発生"という超常現象は"毎夜必ず起こる"ものだと勘違いしていた……異界の発生条件は"因果逆転の宣誓"によって歪みが生まれ、連鎖的に引き起こされた現象なのだと、そう()()させられていた。

 ……だが昨夜、異界は現れず、その誤認は覆された。

 ならば異界の発生条件は単純に"因果逆転の宣誓"によって歪みが生まれたから、と断ずる訳にはいかなくなってしまった。

 

「じゃあ、一体なんなんだって言うんだッ!? 異界の生まれる理由ってのは……!」

 

 三つ巴による霊的な影響? 

 馬鹿な。三つ巴の舞台となってさえ崩れなかった異界が、その程度で揺らぐはずがない。

 

 異界の発生を感知できなかった? 

 あり得ない。魔術師でも勘付く大規模な異常を見逃すとは考え難い。

 

 三つ巴以外の第四の介入者が現れた? 

 それもない。現状介入できる超越者などまつろわぬ神か同族しかおらず、その上彼らは台風だ。それほどの力の動きに気付かないわけがなく、況してや決戦の近いこの火薬庫(ベルゲン)で潜伏など不可能だ。

 

 何故もっと思慮深く、何故もっと疑い深く……! 

 祐一は血を流さんばかりに拳を固め、まつろわぬ神々の策謀に気づけなかった己に忿怒を向けた。

 暗幕に覆われた真実は知的とは程遠い彼には見通せず、しかしながら対する智慧の女神も、全知の老神も、嘲笑うかのように総て見通している。

 

 だからこそこの現状。

 もどかしい気持ちを抑えるように深く息を吸う。呼吸は生命活動のために必須の動作で、容易に安心を得られる動作だ。意識しながらただ呼吸を繰り返すだけで心は鎮静に向かった。

 

「先ず考えるべきは……そうだ、違いはなんだ? 昨日とそれ以前の違いだ。そこを探れば何かわかるかも知れない」

 

 祐一は落ち着いて、昨夜と昨夜以前との違いを比べることにした。

 決定的な差異はやはり三つ巴だろう。異界の中で、とはいえ神々と神殺しが全力でぶつかり合ったのだ……それがベルゲンに影響を与えてしまった可能性も十分に考えられる。

 だがそれは違う、とささやく直感がその結論へ安直に飛びつくのを躊躇わせた。

 

「もっと遡って考えてみよう。異界が生まれたのは……異界化が初めて起きたのはいつだった? 校舎で人狼が歪みとなった夜……あれが最初だったか?」

 

 たしかに異界という蛇と夜の気配が満ちる空間に誘われたのはあの日が最初だった。自分の眷属が手から離れ、宣誓という歪みを一身に受けて"偽物のゴルゴネイオン"になってしまった……。

 だから歪みという核が生まれ、異界が生まれたのだ。トロルの夜も、リンノルムの夜も、ヴァレモンの夜もそうだった。

 異界化の起きなかったのは宣誓の夜と昨夜。それ以外は必ず異界化が起きている。

 

「なら……その決定的な違いは俺自身の──()()にある 、のか?」

 

 前者は祐一が十全に権能を振るうことが可能だった。

 後者はサトゥルヌスの死毒によって権能は機能不全に陥っていた。

 だからこそ祐一はチェリーという協力者を得なければならず、トロルの夜には武技だけで臨まなければならなかった。

 

 ならば己の権能に解決の糸口はあるのだ。

 彼の持ちうる権能の多くは戦闘方面に振り切ったものが大半で、文明を後退させたり居るだけで街が発展するなどといった外界に影響を及ぼす権能はないはず──いやあるではないか、ひとつだけ。

 恒星に等しき権威と、太陽を翳らせる事を赦さぬ権能が。アテナとサトゥルヌスさえ退ける眩い光さながらの瞳を。

 そこで叢雲が独りでに現れた。彼もまた知恵を貸してくれるらしい。

 

『夜とは光がなく()()()()()()()()()()をいう。そして異界化は必ず夜に引き起こされる。ならば』

 

 ……ならば祐一の『輝く瞳(glaukopis)』が健在なうちは完全なる夜など訪れない。と叢雲は推察した。

 

『そして異界は、"夜と蛇"の二つの気配が満ち満ちた空間』

 

 叢雲の補足に祐一はハッとした。『輝く瞳(glaukopis)』が健在で夜が欠けていた前者の夜では、異界が生まれる条件が満たされなかった? 

 

「じゃあ……まさか異界ってのは"夜"と"ゴルゴネイオン"の交錯によって引き起こされる現象だっていうのか?」

 

 導き出した推論は正鵠を射ていたし、祐一もこの説に確信を持った。

 現実に昨夜は異界化は起きなかったのもある。それに三つ巴の折、はじめて歪みの除去ではなく別の方法で異界が崩壊したのだから……そう、"太陽の到来"によって。

 それに権能を封じたのはサトゥルヌスであったから。

 サトゥルヌスの死毒によって権能が封じられ異界化などという現象が生まれたのならば、全知であり死の神であるサトゥルヌスの策謀であると踏んだ方が納得出来た。

 

『だが筋が通らぬ』

 

 そこへ叢雲が割って入ってきた。否定の言葉とともに。

 

(オレ)は三つ巴を経て確信した。

 神々とおぬしの全力ですら崩壊しなかった、あの異界を造り出すには"偽物のゴルゴネイオンでは役不足だ"と』

「役不足?」

『うむ。考えてもみよ。神々の大戦すら許容する異界が、矛盾にて生じた歪みたる"偽わりの古の《蛇》"で生み出される道理なし』

「それじゃあ、もっとおかしいじゃないか。異界化には本物のゴルゴネイオンがなければいけなくなる……あの異界にはゴルゴネイオンはあっても偽物しかなかったんだぞ?」

 

 "歪み"は"偽物のゴルゴネイオン"で、人狼の時も、トロルの時も、リンノルムの時も、白熊の時も現れて……

 

「──ん? "()()"の、ゴルゴネイオン?」

 

 ちょっと待て……()()は一体なんなんだ? ふとした疑問だった。

 異界化はたしかに祐一の権能があっては発生しない……しかし、偽物のゴルゴネイオンはいつからあった? 異界化とともに出てくるものだったか? 

 

「いや、違う。宣誓の夜、俺はサトゥルヌスと戦ったんだ。そしてその発端は"偽物のゴルゴネイオン"だった……」

 

 ダヴィド・ビアンキが所持していたチェリーのペンダントを、祐一も、ダヴィド・ビアンキも、そしてサトゥルヌスさえも、本物のゴルゴネイオンだと()()した。彼らには間違いなくゴルゴネイオンに見えていたのだ。

 

「だったら俺はあの宣誓の夜、異界化していたってことに気づいてなくて……いや、俺とサトゥルヌスが戦った舞台は間違いなく現実だった。

 戦えば分かる。あんな()()()()()()()()()()()()()()()()()()早々間違わない。だったら異界化はまず起きていない。……でも偽物のゴルゴネイオンは現れた」

 

 あの宣誓の夜、『輝く瞳(glaukopis)』があることで異界が生まれるには条件が満たされなかった。

 ……しかし偽物のゴルゴネイオンは現れ、偽物のゴルゴネイオンが生まれる条件は満たしていた?  

 

「俺はとんもない勘違いしていた……まさか異界化と偽物のゴルゴネイオンの発生の条件は"別"にあるのか……?」

 

 異界化は、"夜"と"古の()"の交錯によって。

 歪みは、叢雲の言葉を借りるならば矛盾によって。

 

『先刻も申したように偽物は偽物だ。偽物のゴルゴネイオンではあれほどの異界を生み出すには格が足らぬのだ』

「だったら……」

 

 だったら、簡単なことだ。異界の中には本物のゴルゴネイオンが存在したのだ。祐一が気づかなかっただけで異界のなかに在ったに違いない。

 その動かぬ証拠こそ、三つ巴すら耐えうる異界の顕現なのだから。

 

『しかしそれでは異界のなかに二つのゴルゴネイオンが……真作も贋作も在った、ということになるぞ』

「ああ。俺たちがどんなに探してもゴルゴネイオンは偽物しかなかった。本物の在り処なんて見当もつかねぇ。まったく別の物をゴルゴネイオンだと思い込んでたんだし……」

 

 そこで、はた、と思い出した。俺はいつから異界のなかにゴルゴネイオンは偽物しかないなどと思っていた? ゴルゴネイオンの所在が思いつかないなどと思い込んでいた? 

 あの時……チェリーにゴルゴネイオンの所在を問われたときこう答えたではないか。

『歪みから生まれる異界。そして異界なんてものを生み出すほどの歪みと格を持ってるものなんて、渦中の"ゴルゴネイオン"くらいしかないからなぁ』と。

 

 

「──いつからだッ!」

 

 

 祐一は誰に向けるでもなく叫んだ。

 

「俺はいつからッ! 本物のゴルゴネイオンは異界になくて、偽物のゴルゴネイオンしかないなんて認識になったッ!?」

 

 そして連鎖するように記憶が励起した。以前、サトゥルヌスが語ったモイライとテュポーンの神話を。

 テュポーンの逸話は勝利の果実が無常の果実だと誤認していたから敗北した。それを今の現状に当て嵌めるなら偽物が本物に入れ替わっていたから、祐一は勝利から遠ざかった。

 因果を覆したのならば、大元である運命からカウンターのごとく運命をねじ曲げられるのは道理だとサトゥルヌスは語り、そしてそのねじ曲げられた運命とは、別の物体をゴルゴネイオンだと誤認させるものだとサトゥルヌスは偽物のゴルゴネイオンという確固たる証拠とともに提示した。

 それは祐一がベルゲンを駆け回るなかで根幹となる考えになっていた。

 

「サトゥルヌスッ! あいつ……ッ!」

 

 落ち着け、落ち着け、と心に念じる。雑念や激情は思考を鈍らせる。だから必死に走り出したい衝動を堪えた。

 

 異界の時と同じように整理しよう。

 偽物のゴルゴネイオンがあったのは宣誓の夜と、次の人狼の夜──? 

 

「──初めて異界に迷い込んで人狼が歪みだった夜に……偽りのゴルゴネイオンなんてあったか……?」

 

 座っていたベンチを転がすほど勢いよく立ち上がった。

 

「俺はサトゥルヌスとの戦いで人狼の掌握が疎かになってしまって……手を離してしまった……。

 そして異界のなかで歪みと化した眷属を取り戻したんだ。身体()のなかに還元した……。でも偽物のゴルゴネイオンなんて」

 

 ない、と口しようとして再び思考の逆転が起きた。

 

「俺は、いつから"歪み"が"偽物のゴルゴネイオン"とイコールなんだと認識するようになった?」

 

 トロルの夜だ。ゴルゴネイオンが異界のなかにあると睨んでいた自分は探すまでもなく、トロルの目がゴルゴネイオンになっているのを見つけて……。

 

「それも異界で──幽世に限りなく近い世界で?」

 

 叢雲は異界は"幽世に似た世界"なのだと。祐一もはじめ幽世だと勘違うほど似通っていたのだ。

 幽世は肉体よりも精神が上位にくる世界で──それは異界にも適用される、としたら? 

 つまり()()が大きな役割を果たす世界だとしたら。

 

 歪みとは結局のところ矛盾だ。神に連なるものである叢雲が断じ、ならば異界で歪みと呼称してたものの正体は矛盾そのものだったのではないか。

 例えば、"存在しない"ものを"存在する"と()()した末に生み出されたものなのでは? 

 

 暗幕が揺れている。

 真実を覆い隠していた分厚い布が、取り払われようとしている。

 

 そうだ。こんな誤認による矛盾だったら偽物のゴルゴネイオンという歪みは生まれるんじゃないか。

 ──"本物のゴルゴネイオンが自分以外にゴルゴネイオンがある"と思い込んでしまったら。

 

「誤認していた……異界の核であり主であるゴルゴネイオンが……。それも幽世に近い……認識が大きな力を発揮する世界で……」

 

 そして異界を生み出し統べる主が、創造した空間に法則をもたらすのは道理。

 異界の主は祐一では無い。だって祐一という神殺しはいつも異界に現れてはいた……いたが来訪者でしかなかった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 人狼のときは目が覚めたら異界だった。

 トロルやリンノルムの時も発生しを察知し、飛び込んでいった。白熊王の時なんて気づけば異界となっていた。

 そして。

 

「誤認していなければ歪みは生まれない……なら真相を知っているはずのアテナやサトゥルヌスは外れる?」

 

 全知の神と知恵の女神が、己の使命の真っ只中に起きている現象を誤って認識などするだろうか。

 それどころか詳らかに理解し、己が目的のため利用するに決まっている。

 

「いや待てよ……。そもそも異界の主が()()していたってことは、そこには意思がある。思考がある……?」

 

 誤認が()()()には現状をある程度認識していなければならず、そして()()ができなければならない。

 

「だったら……あくまで道具でしかない意思のない神具も主じゃ……ない?」

 

 ゾワ、と髪が逆立つほど総毛立ち、汗腺からしとどに粘性を帯びた汗が噴き出した。

 真相に気づきたくない想いと、辿り着かなければならない使命感、という相反する想いが肉体に震えを呼んだ。

 

「歪みが生まれるには異界の主が誤解"しなければ"ならず……誤解しなくちゃならないなら、思考が"できなくちゃならない"」

 

 総てが繋がった気がした。思わず天を仰いで叫んだ。

 

「……だったら異界の主は、まさか主ってのは──()()、なのか……!?」

 

 自分じゃない。さっきも言った通り異界へは訪れただけだけの来訪者でしかないし、自分はカンピオーネで太陽の相をもっていて、夜から生まれる異界に真っ向から相克する存在だから。

 

 思い浮かんだのは少女の貌だった。

 人にあり余る巫女としての才をもった、巻き込まれただけのただの()()。そう、思っていた。

 思い起こせば、歪みが偽物のゴルゴネイオンとなったのもトロルの夜で……その日だった。あの問答をしたのは。

 

『でもゴルゴネイオンはどこにあるか分かんないんでしょ? もしかして"あて"があるの? ……あの異界とかいう場所にあるとか、勘だけど』

『鋭いな。俺もそう睨んでるよ、歪みから生まれる異界。そして異界なんてものを生み出すほどの歪みと格を持ってるものなんて、渦中の"ゴルゴネイオン"くらいしかないからなぁ』

 

 なんという迂闊。いっそ自害したくなる程の恥辱を覚えた。サトゥルヌスの遅効性の毒は、臍下丹田だけでなく脳まで犯し、少女をも飲み込んでいた。

 全て神の手のひらで踊らされ、いいように道化を演じていたのは自分だった。

 

 そうだ、異界の主はいつだって──

 

「居るじゃないか……いつも、総ての夜に異界に現れて、無いはずのゴルゴネイオンを"在る"と誤認していた()()が!」

 

 ──隣にいた。

 

 

「畜生ッ!!! じゃあゴルゴネイオン持っているのは──」

 

 ッ!? 背後から急襲してきた一矢を直感で避けた。こんなタイミングで、攻撃を仕掛けてくる者など二人しかいない。

 そして矢の一矢、それだけで祐一は悟った。おそらくこの絵図を描いたであろう蛇の知恵を宿した食わせ者。

 

「──まつろわぬ……アテナッ!」

 

 街灯の上に、その少女はいた。その立ち姿は壮絶な美しさを孕んでいて、獰猛さと蛇じみた狡猾さを混在させた笑みを湛えていた。

 

「テメェ! あいつに何しやがった! 昨夜やっぱりテメェはあいつになにか碌でもない事をやりやがったんだなッ」

「フフ、妾は虚言は弄さぬ。昨晩、妾は間違いなくあの娘になにもしてはおらぬよ」

 

 アテナは飄々と嘯いた。そしてすぐさま酷薄な笑みで面貌を彩った。

 

「だが神殺しよ。──あの娘と出逢ったのが己が先などと、何時から思い込んでいた?」

「なん……、だと!?」

 

 可憐な容貌からは想像できないほど凄惨な笑みを浮かべ、アテナはネタばらしを朗々と語った。

 

「あなたと娘が出逢うほんの数刻前に、妾と娘は出逢っていたのだ。妾はそこであの娘に目をつけた。あなたの予想は全くその通り。あれほどの逸材放っておくなどあり得ぬ。

 そしてあなたが妾と出逢ったあとだったからこそ、あの娘の変調に終ぞ気付くことはなかった」

「お前は……いったい、何を……ッ!」

「昂っておるな神殺し。だがそういきり立つな、なんのことはない。妾はただ、己の神話にそった行いをしたまで」

「神話にそった行い?」

「左様。優れた素養をもつ者に加護を与え、導くことこそ妾の本懐。ならばあの娘にも加護を与えただけのこと……」

「ンなわけねぇだろうが! 俺の化身たちが言ってるぜ……テメェはよからぬ事をやりやがったてな! 答えな、アイツになにしやがった!」

「おお。なにやら義憤の怒りと正義の光を感じるぞ? 叡智を司る妾が囁いておる……そなたの瞳に隠れ、内にも忌々しい太陽を宿した権能を備えておるな? この地より遥か南東の……」

 

 答えようとしないアテナに、祐一は横殴りの一刀を繰り出した。

 

「猛るな。まだ宵には早い」

 

 容易く躱され、大きく跳躍した。アテナはすぐ近くにあった別の街灯へ着地した。

 

「先刻、語った通りだ。妾はこの地で出会ったあの娘にささやかな加護を与えただけだ。ただし、妾には使命があった……ゴルゴネイオンをこの手に取り戻すという使命がな。

 故にあの娘には英雄や巫女に與えるような愛し子としての加護ではなく、ゴルゴネイオンを守護する守り手としての加護を與えたのだ」

「守り手だと?」

「左様。宣誓によりゴルゴネイオンは今宵に至るまで妾らのものには決してならぬ因果が生まれてしまった。しかし、その法則には抜け道があるのは知っておろう?」

 

 知っている。あれは宣誓の夜にサトゥルヌスが示し、祐一もそれをもって偽りのゴルゴネイオンを奪取したのだから。

 

「俺たち三人じゃない……眷属でも、協力者でもいい……。別の誰かに持たせること……」

「然り。故に妾は一計を案じた。手に入れられないなら決して見失わないすぐに手の届く場所に納めておけばいい、とな」

 

 あなたの考える通りあの娘はゴルゴネイオンを持っておる、とアテナは今度こそ真実を語った。

 

「妾がそう仕向けたのだ。守り手の加護とはつまり古の《蛇》を納めるに足る"匣であれ"という妾の願いだ。そして娘は我が願いの成就のためその身を徐々に変質させていった」

 

 アテナは真実を語り、だが、それが何になる。

 時、既に遅し。

 アテナの仕込みは終わってしまっている……過去は覆せない。時の神ならぬ身の祐一には。

 

『氷解したぞ。地脈の竜が現れた夜に、膨大な力を呑んでも小揺るぎもしなかったのは"匣であれ"とおぬしが願ったからか』

「遥か極東の鋼よ、その問いに妾は是と答えよう。妾としてはこの地が死に染まろうが枯れ果てようがどうでも良かったのだが……異界が生まれ、妾の眷属にして地母に属する愛子とも呼べる子も形となったのでな、助力したまでのこと」

『悍ましい。白熊王の夜、三つ巴におぬしが誘引されたと述べたのは、娘の前にふたたび現れたサトゥルヌスに慌てて駆けつけたからか。昨夜も共にいたのは匣の点検と言ったところか』

「饒舌だな最源流。そして総て肯定しよう。異界にて我が祖父殿が、匣である娘の前に二度も立った時はさしもの妾でも焦りを覚えたものだ」

 

 ああ、異界といえば……。アテナは口元を隠してほくそ笑んだ。矮小で愚かしい人間の無様を嘲笑うように。

 

「あなたの行動は逐一フクロウを通して見ていた。フフ……古の《蛇》を求め、求めているものは目の前にあるというのに、右往左往するあなたは滑稽であった。なかなか面白い寸劇であったぞ……」

 

 殺す。今すぐここでたたっ斬りたい。だが今は相棒が先だった。神速で飛んでいって彼女の宿したゴルゴネイオンを──

 

「無駄だ」

 

 思考を読まれたか、アテナが断じた。

 

「肉体が変質したと言ったであろう。変化は完了している。比類なき才を秘めていたあの娘はこれまで以上に、蛇と大地に結びつき、蛇たるゴルゴネイオンは娘の心臓と()()()となったといっても過言ではない。

 別かとうとすれば即座に心臓は破け、娘は死に至るだろう」

「…………」

「そなたにゴルゴネイオンの所在が看破されてしまおうが構わなかった。強かな戦士と認めはするが菓子のごとく甘いそなたはあの娘を殺せぬ。殺されるのも許容はできぬ」

「…………」

「後悔しても遅い。時はとっくに逸しておる……宣誓の夜、あの娘の心臓にゴルゴネイオンは埋まっていた。あなたと祖父殿が戯れている間にすべては終わっていたのだ」

「…………」

「宣誓の夜。そなたの瞳があったが故に異界は生じなかったが"偽りのゴルゴネイオン"は在った……理由は簡単だ。

 あれはゴルゴネイオンを埋め込まれた娘が魔術師に"ゴルゴネイオンを奪われた"と誤認したからだ。そして娘の首飾りは贋作となり、祖父殿はあなたへの仕込みとしたのだ」

 

 アテナの語る間、祐一は俯いていた。決して目を合わせなかった。そうでもしなければ赫怒を煮詰め、腹に溜めたものが一気に溢れ出しそうだった。

 

「あなたから深い怒りを感じるぞ。意志の化け物だな。あなたが何故人の身でありながら神を弑逆できたのかその一端を垣間見ているぞ。あなたは激情にて弑するに到ったか」

 

 だが。

 

「そなたがどれだけ猛ろうと、あれは今宵死ぬるが定め。何故ならば今宵、ゴルゴネイオンは我ら三柱のいずれかが手にするのだから。

 そう、己が咽喉で、己が口で、己が意思で──宣誓しただろう神殺し?」

 

「お前……は」

 

 黙り込んでいた祐一が重い口を開いて、すぐに閉じた。叢雲の切っ先をアテナに向けた。

 アテナが苛立たせているのはわかっていて、だが祐一には衝動を止められなかった。

 ここで踏みとどまれるならば、神など殺してはいない。エピメテウスの落し子などと呼ばれてはいない。

 烈火の瞳が眩い陽光を放ち始める。

 

「……忌々しい太陽の光。おのれ、三つ巴でも苦渋を飲まされたその双眸をえぐり抜き、木っ端微塵に砕きたくなる」

「…………」

「今宵、この北欧の地が騒乱の戦場となるのは必定。しかし未だその機運は満ちず……しかし、神殺しよ。あなたが望むのであれば手助けしてやろう──最高の形でな」

 

 不穏な言葉にハッとして駆け出した時には、アテナの姿はとうになく梟の羽だけが舞っていた。

 

「ッ、しまった!」

 

 アテナがどこに行くかなんて疑問を挟む余地もない。奴の目的地などひとつしかない。

 騒乱の中心たるゴルゴネイオンがある場所。つまり──チェリーのもとだ。



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黄昏の決意

 神々を包み隠す異界のベールは消え去り、人類はその日知ることになる。自分たちがあずかり知らぬうちに北欧の地でいったい何が起きていたのかを。

 

 ──三つ巴の終焉。

 ──新たなる王の存在。

 ──二人の少年少女の結末。

 

 この日を境に運命の潮流は否応なしに勢いを増していく。神殺しとは嵐の目。それが異次元から現れた変わり種ならばなおのこと。

 異なる文明同士が接触し、犠牲を伴いながらも世界は進み続けていく。その故事に倣うように、異次元より解き放たれた神殺しの『獣』が騒乱を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 ○〇●

 

 己に科せられた定めも、己に秘められた真実も知らずにチェリーは苛立ちを覚えながら一日を終えようとしていた。

 新月の夜。今夜こそ決戦である、というのに彼女は安穏と日常を送っていた。昨晩、異界に巻き込まれなかったのは祐一がなにかしたからだろう、と安易に思い込んで。

 あいつ、まさかアタシを追い出すつもり? 異界化したかどうかなど彼女には判断できず、だから除け者されたのだと思い込んでいた。ほっぽり出しすならただじゃおかないわよ、と祐一に対する怒りを深めていた。

 少し未来の彼女が振り返って、なんて幸せな勘違いだったのかと笑いたくなるほどだった。

 一日の授業が終わり、日が傾き始めたころ。騒乱の波は彼女に辿り着いた。

 それはホームルームが行われている時……ドアが勢いよく開かられ黒髪の少年、祐一が転がり込んできたのだから。

 

「──チェリー! 無事か!」

 

 大声で叫んだ彼にクラスの全員の視線が集まった。

 誰もが動きを止めた教室でガタ、と音を響かせ立ち上がったチェリーが憤懣やるからなしというように怒気を募らせた。

 

「あ、アンタなんで学校に……てか、アタシを困らせるための嫌がらせでもしようっての!」

「違う、そうじゃない!」

 

 あまりの剣幕に二の句を継げなくなった。

 みんな動けなかった。教師も生徒も。彼の満腔から横溢する闘気と覇気が場を支配し尽くしていた。

 ツカツカと大股でチェリー歩み寄った祐一が焦りを交えて真実を語った。

 

「あのメダルの場所が……ゴルゴネイオンの在り処が判ったんだ。ゴルゴネイオンは()()()()()()()()

「ちょ!? ここでそんな話……って嘘、そんなわけないじゃない」

「いや、間違いなくお前が持っている」

 

 異界化や歪みは誤認によって生まれていた。ならば正しい認識こそそれらを防ぐ術になる。

 さらに言葉を尽くそうとして……だがその途中で誰かが彼の胸ぐらを掴んだ。

 

「何しに来たの」

「リヴ!」

 

 チェリーを庇うように金髪の少女が踏み入った。話の邪魔だ、祐一は仕方なしにチェリーを連れて校舎からの脱出を選択した。

 

「すまん、構ってられん……はなれるぞ」

「ちょ、ちょっと……」

 

 リヴを強引に振り払った祐一に手を引っぱられて千鳥足になりながら足をもつれさせた。

 状況がさっぱり呑み込めていなかったチェリーはリヴへ手を伸ばして。リヴもその手を掴もうとして──

 

 ──()()()()()()()()

 

「え?」

 

 人も、時も、光も。あらゆるものが停止し、仮初の死が訪れた。

 石。石。石。

 瞬きの時間を挟んだ間に、生を謳歌していた世界が一転、石の世界へと変貌していた。学校や地面だけではない。生あるものどころか無機有機の別無く……人も、木々も、風さえも……視界に入るすべてが石へと変わっていた。空を滑空していた鳥が地面に叩き付けられ四散し、くぐもった音を鳴らす。

 その中にあって一点、変わらず心臓の鼓動を止めていないのは()()()()()()だけだった。

 

「リヴ?」

 

 手と手が今さら触れ合った。指先に伝わる硬質な感触は、ほんのりと人肌の温度があって……精巧な石の彫刻となった友人を見つめて、触れて、理解できなくて、冷たくなっていって───

 

「い、嫌ぁぁっぁあぁああああああぁぁぁあっ!」

 

 突きつけられた絶望に絶叫をあげた。絶望を撃鉄としたかのように、死の惨状を生み出した元凶が悠然とした足取りで石畳を歩きだす。

 動いているものは数少なく無音に限りなく近かったから、直ぐに気配に気づけた。

 

 誰かが窓の外にいる。歩いている。ここは校舎の二階だというのに。空を踏みしめ、奇妙な足音を鳴らし、ゆうゆうと歩いている。

 

「そんな、うそ、まさか、あの子が……?」

 

 チェリーはその足音の主を知っていた。知遇を得たのは僅々のことで、昨夜出会い、語らったはずの少女だった。

 しかし、その双眸は昨夜とはまるで別のもの。過去ブリッゲンで猛禽の眼光にも見えた瞳は今にして見れば蛇そのものだった。

 頽れてへたり込んだ足が動こうとしない。縋りついた友の石像から離れる気が起きなかった。震えは止まらず、無気力になった。

 

 ぱん。

 

 彼女の頬を、誰かが張った。

 祐一だった。彼はこんな状況でも烈火を宿した瞳を翳らせることなく、前を見ていた。戦士の目だった。

 

「バカ、何やってる! 逃げろ!」

「でも……街が……学校が……友達……リヴがっ!」

「早く行けぇッ! 死にてぇのかッ!!!」

 

 常になく激しい言葉を叩きつけた彼のお陰だろうか、今まで血の流れが止まったかのような足が活力を取り戻した。彼の言霊に従ってチェリーは何ふり構わず学校を駆け抜けた。

 

 あとに残ったのはアテナと祐一だけだった。

 

「あの娘を逃がしたか。古の蛇を奪えば良かったものを。もはや心は折れ、早々に立ちすくむであろう……采配を誤ったな」

「そうか? 中々気骨のある奴だと思うぜ?」

 

 アテナの嘲笑を鼻で笑いながら、叢雲を構えた。

 窓辺に立っていたアテナが素早く後方へ跳躍し、校舎のグラウンドへ降り立つ。祐一もそれを追い、対峙する形となった。

 

「さぁて、ここから先は行き止まりだ……通りたきゃ俺を倒して行きな。あんたにゴルゴネイオンは、いや、俺の相棒は渡さない」

「妾から古の《蛇》を遠ざけるか神殺し。妾から古の《蛇》を遠ざける者はすべて敵、とあなたも知っているはずであろう。

 妾はアテナ。敵対者には微塵の容赦ももってはおらぬ。それに乱戦ならばともかく、一対一の果たし合いであなたが常勝を誇る妾に勝てる道理はない」

「ふん、だからなんだ? 俺があんたと戦わない理由になんのか? それに……俺の目の前で、あんな巫山戯た真似やらかしてくれた礼はしなくちゃなんねぇ」

 

 グラウンドの地面に、祐一を中心として蜘蛛の巣状の罅が生まれた。

 

「タダで済むと、思うなよ」

 

 ただ彼が感情を曝け出しただけで。感情の名は、赫怒であった。

 類まれなる烈火の意志と己が天敵たる赫々たる太陽の輝きがアテナの肌を灼く。

 周囲の死の大地と化した世界を眺め、去り際の相棒の顔を思い出した。気丈でいつも自信満々で笑っている彼女の、絶望に染まった顔など見たくはなかった。

 そして、アテナに対する想いをひとつだけ強くした。

 

 ──()()()()

 

 強かな戦士との真っ向勝負。沸き上がる喜悦のままにアテナは雄々しく笑った。

 

 

 ○◎●

 

 

 黄昏時。

 赤に染まった街を、走り抜ける少女がいた。否、走っているのではない。逃げているのだ。

 歯がカタカタと揺れ、指先は小刻みに震えていた。走っているはずなのに、まるで地面が風船のようで景色がたわんで見えた。

 

 心に刻みつけられた絶望と、海馬に植え付けられた理不尽な記憶が、チェリーを発狂させようと手ぐすねを引いていた。いや、これは防衛本能なのだ。

 正気を保つために狂わなければ、本当に狂ってしまうから。その防衛本能が躁鬱にも似た精神状態に陥れ、必死に平静さを保とうとする思考を阻み続けた。

 

「いやぁ……みんなが……みんなっ」

 

 彼女の逃げる先は自宅だった。いつも歩き慣れた場所が地獄と化している。そんな中を走らなければならない。

 いつも挨拶を交わしていた人が、庭先でいつも尻尾振っていた犬が、ハロウィンでお菓子をくれたお婆さんが、魚を値切ってくれた露天のおじさんが、ギターケースを背負った気のいいお兄さんが……誰も彼も息を止め、死を迎えていた。

 閉ざされている。石と氷の石室にベルゲンが押し込められたかのよう。

 北端の国であり冬は極寒を迎えるこの場所で、つい先ごろ春を迎えた。というのに酷く寒くて仕方がなかった。当然だ、肉体ではなく心が冷え切っているのだから。

 走る度にベルゲンで生きてきた過去を引き裂かれ、それを無視し続ける自分の心までも千切れていく思いだった。

 隣にあったはずの平穏が、雲よりも遠くにあった。見慣れた故郷の街を走っているというのに、無味乾燥とした氷上の世界を走っている感覚に襲われてしまう。

 

 家に辿り着いた。

 総て忘れ去りたかった。ドアをこじ開けて自分の部屋に向かう。

 ベットで毛布に包まって、祐一が総てを解決してくれるのを待とう。それが非力な人間の限界なのだから。

 部屋のリビングに入ってそこから繋がる階段を登ろうとした。そこで足が止まった。階段を一歩だけ登ったところで足が止まった。

 

 窓から入る陽光に照らされてリビングはよく見えた。だから()()もよく見えたのだ。

 

 目を瞑った。正気ではいられなかった。石に変わり果てた母を見てしまえば、狂ってしまうと思ったから。

 指を噛んだ。強く噛みすぎて血が漏れ出た。

 

 ──天にまします我らの父よ。

 ──願わくは、御名をあがめさせ給え。

 ──御国を来たらせ給え。

 ──みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

 

 ──我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

 ──我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

 ──我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

 ──国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。

 

 ──Amen。

 

 十字を切って祈った。もう縋るものが神様しかなかったから。食事の前のお祈りは欠かさなかった。ミサにも毎週通った。

 それでも全なる父はお救いにならない。

 逃げ、逃げなきゃ……後方から迫る闇をふり払うように逃避の言葉が幾度となく口をついた。

 玄関先で蹴つまづいて転げた。立ち上がろうとしたけど、足が棒に変わったようで、衣服が鉛に変わったようで、指さえ動かせなかった。

 

 このままじゃ、逃げられ…………どこに? 

 

「逃げ、る?」

 

 どこに逃げるというのか、この街を捨てて。

 今までなにを守るために、自分は奔走していたのだったか。

 知らず、もがいていた体は動きを止めていた。ふたたび動き出した時、身体全身が小刻みに震えていた。恐怖でも悲しみからでもない激情はによって。

 拳を砕かんばかりに握りこむ。震えた喉から出てきたのは、乾いた笑い。

 

「う、ふ、ふふ……」

 

 己はこの夜までいったい何をしてきたのか。

 ベルゲンを守る為に奔走してきたのではなかったか。

 そして覚悟は出来ているなどと言っていなかったか。

 

「逃げるですって? このアタシが? ベルゲンで育ったアタシが、ベルゲンから? パパもママも……リヴも……ブリッゲンの人たちも……クラスのみんなも……石にされたって言うのに?」

 

 長い髪が目元をおおって、ただ髪の合間から覗く口元だけはハッキリと歪に吊り上がっていた。

 顔を上げて、深く息を吸った。肺に空気を満たして、手を振り上げる。

 

「ざっけんじゃないわよ!!!」

 

 大音声を繰り出すとともに拳を地面へ思いっきり叩きつけた。鈍い痛みも、血が滲むのも、かまいやしない。

 ひたすらこの死の充満した世界を、認めるものかと訴えかけた。

 

「神様も救っては下さらなかった……当然よねぇぇ……。──だって神様がこれをやったんだから!」

 

 それで神頼みとは、お笑いだ。チェリーは自嘲気味に肩を揺らした。

 

「いいえ、それ以前に、この街は……このベルゲンは、アタシの縄張りなのよ……アタシが守るって決めていた場所よ! それを見捨てて訳の分からない連中に好き放題させるですって? ──恥を知れ!」

 

 要は彼女はブチ切れていた。理不尽と理解不能のダブルパンチに振り回され、許容範囲を超えたからキレた。ただそれだけ。

 でもそれが良かった。理不尽による怒りが、大いなるものへの恐怖に打ち勝ったのだから。

 ああ、平静さを取り戻す事はもうやめだ。きっと、今、冷静さなんて相応しくない。この騒乱と狂気のなかで冷静さを取り戻すなど、それこそ基地外の行いだろう。

 ならば、激情に身を任せよう。ならば恐怖だって受け入れよう。ならば──怒りのみを心に宿そう。

 一番いけないのは呑まれること。萎えてしまえば、何も出来なくなる。

 心を枯らせばアタシはきっと死ぬのだ。だから絶え間なく押し寄せる波涛に身をゆだねて、意志を切らさぬよう突き進むのみ。

 

「やめてやる」

 

 ひとひらの言葉が風に溶けた。

 

「……やめてやる……やめてやるやめてやるやめてやる! ──振り回されるのは、もうやめるッ!」

 

 それは産声だった。古い己の殻を蹴飛ばして、新たなる強い自分へと生まれ変わった"人間"の産声であった。

 惰弱な色は駆逐され、今は高潔にして強烈な意志があった。

 

「アテナがなによ。サトゥルヌスなんてしらない。カンピオーネだからなに?」

 

「ユーイチは言ってたわよね……ゴルゴネイオンはアタシが持ってるって。それが本当なら……だったら結局、この一週間アタシからゴルゴネイオンを手に入れることも、アタシを殺すことも出来なかった奴らじゃない」

 

 口にしてみると話は単純に思えた。

 本当に彼らが謳われるように神話の軛から外れ、原初の姿に回帰するというのなら一も二もなく自分は死んでいるだろうし、ベルゲンは終焉を迎えているはずだ。

 でも、そうなってはいない。

 ならば彼らのなかにも破ってはならない法や戒律、矜恃があって、彼らもまた不自由な存在なのだろう。

 確かにまつろわぬ神や神殺しも、強力で強大で、人類が総出で殴りかかっても勝ち目のない連中だ。

 だけど、きっとまつろわぬ神も全能ではないし自由でもないのだ。

 

「アンタたちが強くて、アタシなんて歯牙にもかけないって言うんなら、やりようはあるわ……」

 

 例えば、サバンナを闊歩する象が蟻一匹を認識できないのと同じように地を這う人など彼らは認識できない。それが三つ巴などという状況ならば尚更。

 

「見てなさい。アタシに守るものを失わせた報いを受けさせてやる……。

 引っ掻き回して引っ掻き回して、アンタらの企みぶっ壊してやる──!」

 



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女神と神殺し

 静寂に包まれるベルゲンで、まつろわぬ神とカンピオーネは対峙した。風切り音が吹き抜け、それを合図としたように戦闘開始の火蓋が落とされた。

 先手を取ったのは祐一。疾駆してアテナに肉薄しようとし、

 

「させぬよ」

 

 だがそれは叶わない。

 アテナが眼窩に宿ったゴルゴンの呪いを開放したのだ。石化だけではなく極寒の冷気まで伴った呪詛が、足を強張らせ、肉体を硬直せしめんと蝕む。

 呪詛というより蛇の毒。さながら蛇咬傷によって細胞ごと壊死するかのごとく身体が死に近づいていく。

 これにはさしもの祐一も足を止め、神殺しの肉体特有の抵抗力をあげることに努めた。だが、勢いが強い。真正面にいるアテナだけではない……注意して辺りを見回せば、地面に、壁に、影に、蛇の目が浮かび上がっていた。

 こいつら全部、アテナの目か!? 

 かつてペルセウスは蛇の魔物メドゥサを討伐した。それはメドゥサの眼窩におさまる一対の目に対策を講じればそれでよかった。

 けれど現在、祐一に向けられた目は十を下らぬ数であり、足も、手も、背も、三百六十度すべてがアテナの視界に収まっていた。

 

「退け、神殺し。新生しそれなりの死線をくぐって来たように見えるが、しかし、あなたでは妾に死をもたらすこと叶わぬ。……それは妾が祖父サトゥルヌスと互角を演じた三つ巴を知るそなたも知っておろう」

「ああ、あんたの智謀ってやつもな。……地母神って奴らとまともにサシでやり合うのははじめてだったか。アプスは従属神ってやつだったし、義母さんは義母さんだしなぁ」

 

 肩を竦めて、しかし──ふてぶてしく、大胆に、不敵に笑う。

 

「だがアテナさんよ。だけど一つ言っておくぜ……俺はな、地母神って輩には──滅法強いぜ」

 

 アテナ自慢の呪詛。なれどそれがどうした。しぶとさに掛けては神を凌駕する神殺しに、それだけでは致命打足りない。木下祐一は潰えない。

 

「汚れなき御身の為、光の柱たる我が名代となり剣となる。貴方の権を振るう先の一切の悪魔を焼き尽くす為に。我が燃えさかる焔と見透す瞳が不浄を祓い清めよう」

 

 聖なる浄眼を開眼した。この瞳の前にはあらゆる穢れはたちまち祓われ、闇も影も消え去ってしまう。光輝が闇を切り払って、アテナへと突き進んだ。しかし、アテナへ辿りつく直前に女神の影が体積を増していき、あらゆる光を阻む闇の障壁となった。

 

「あなたと同じように、妾もまたあなたの視界に入れば動きを制限されるか。面倒なことだ」

「名前も知らない天使さまから簒奪した『輝く瞳(glaukopis)』ってんだ……たんと味わっていきな」

「ふん、妾を愚弄するか神殺し? 天空の鳥王でもある妾の瞳を、その忌々しい光と混同するなど……耐え難い侮辱だぞ」

 

 最初、なんのことだ? と訝しんだ祐一だったが合点がいったのかおかしそうに失笑した。

 

「ああ、そういやあんたにも同じ異名があったんだったか。だけど名付けた人もあんたと戦うことになるなんて思ってなかったんじゃないか?」

「ほう? ならば妾と出会う以前に付けられた名か。名づけたというあなたと縁をもつ人物は中々見どころのある者のようだ」

「ああ、草薙護堂っていう王の中の王だぜ。ま、同族なんて一人しか会ってないけど」

「草薙護堂……ふむ、覚えておこう」

 

 まったく関係ないところに流れ弾が飛び、おしゃべりは終わりだとアテナが天を指さした。ただそれだけで太陽と共に光は追われ、夜が訪れた。目を瞬かせる祐一を尻目に、アテナは背から斑の浮かぶフクロウの翼を生やし空へと飛び立った。

 

「有翼の女神ニケは妾の従属神。その飛翔に主たるアテナが劣る道理もなし!」

 

 夜を自在に飛び交うフクロウはアテナの聖獣だ。本来地母神であり地に属する彼女だが、闇を統べる女王でもある彼女が思うさまに飛び回れる領域こそ夜空なのだ。

 追うしかない、か。

 天空はアテナの領域……だが祐一はその死地へ飛びこまねばならなかった。天を味方にし稲妻を放つ『山羊』は力の源である民衆が悉く仮初めの死という眠りに就いていて使用不可。

 おそらく弱点に刺さるであろう太陽を射つ『白馬』という手もあるが神殺しとしての直感が行使を躊躇わせた。『輝く瞳(glaukopis)』も空全体と広範囲になれば効果も薄れてしまい決定打になりえない。

 祐一は影から一匹の狼を呼び出すと、『 神鞭の騎手(Wargs domination)』を行使した。チンギス・ハーンから簒奪した騎乗技術を格段に向上させる権能は、優美さを備えながら自由に舞うアテナに劣るものではない。

 

「おお、あなたにも空を翔ける"足"があったか! 猪突にみえて存外小器用らしい!」

「やかましいわ!」

 

 フクロウの女王でもあり戦女神でもあるあのアテナだ、権能の補助があるといえど飛翔技術や空中戦では一日の長がある。権能の手助けはたしかに便利でありがたいものだが、結局のところ神々と戦いうるために補助輪を付けているようなものだ。渡り合えども素人である事実には変わりない。

 空に上がった途端、祐一は容易に翻弄されはじめた。鎌の黒い一閃。黒曜石の鏃をつけた一矢。極寒の冥府の風。三次元的に攻勢を仕掛けてくる空の支配者は一瞬でも気を抜けばたちまち死を賜うだろう。それほどの開きが彼我の間にはあった。それでもなお祐一が死んでいないのは補助輪のおかげだった。

 跨るものを通じて風の向きや最適なルート、騎乗するものの状態まで伝えてくれる補助輪があればこそ祐一はギリギリのところで踏ん張れていた。しかし、それも時間の問題……相手は智神であり戦神なのだ。ヒット・アンド・アウェイを繰り返し、捉えることを許さないアテナも、必ず決定打を放って祐一の命脈を断ちにくるだろう。

 

「狙ってくる。だったら……掌中の珠も砕け散った。血まみれの肺腑は地に落ちた、万物万象は四散し、世界の箍は弛んだ! さあ、無秩序を齎そう!」

 

 いくらアテナの飛翔技術が長けていようと神速の速さには追い付けない、それが祐一の手札のなかで唯一優っている点だった。

 俺は競わねぇ! 

 一気に神速域へ突入し、轟音を引き連れて空を荒らしまわる。音は光と同じように何もない場所では四方に拡散していく性質を持ち、そして同じように闇への恐怖心を薄れさせることもできる。ゆえに祐一はひたすら音をかき鳴らしながら、夜闇に潜むアテナに捉えられない速度で駆けに駆けた。

 たまらずアテナが闇から姿を現し、その指先から黒い本流を放った。漆黒の濁流は千を超える大蛇の姿に変じると、そのまま天を呑み込む勢いで規模を増し、神速域の祐一ですら回避不可能な面の攻撃となって迫った。

 ヒット・アンド・アウェイという点の攻撃から面の攻撃へ切り替えたのだ。

 

「──そいつを待ってたぜ!」

 

 咆哮とともに急反転。千の蛇が虎口を開ける濁流へ突っ込んだ。莫大な呪力を投入しながら流れに遡って黒い奔流の始点であるアテナ目掛けて一騎駆けを敢行した。

 視界は黒の奔流に覆われ、死毒が蝕んでくる。

 でも現状打破にはこれしかない。闇を統べるアテナは夜空ではなおのこと居場所が割り出ず、嬲り殺しのされるだけだったのだ……なら、どうせ死ぬのなら"死なばもろとも"の意気でアテナを撃滅するほかない。

 単純明快で愚直な答え。それが祐一の導き出した答えだった。

 

「おお! その意気や良し!」

 

 いっそ愚かといっていいほどだがアテナは「ここまで猪突を貫けば痛快よ」と嘆声を漏らし、喜び勇んで迎え撃った。

 両の手を大きく広げ、直後、一気に挟み込む仕草をとった。それだけで千を超す蛇の大群が圧縮され、神速で速駆けする祐一の足を鈍らせる障壁となった。黒の奔流の正体とは、地母神アテナの賜う死そのものだ。

 触れるだけで如何にカンピオーネであろうと被害は免れぬ死毒。そしてアテナの目論見通り祐一の足も鈍った。当然だ、そんな毒が眼球や口、耳に毛穴に至るまで穴という穴から入り込んでいるのだから。その間にアテナは万全の防衛を固めた。先ほどまで手にしていた鎌が、小柄な体をすっぽりと覆い隠してしまうほどの大楯へ。祐一は遡る奔流の隙間からその大楯を垣間見て、即座に看破した。

 アイギスか──! 

 守護女神たるアテナに誉れ高き無敵の盾あり。前回の三つ巴でも見せた絶対防御を誇るあの盾をここで投入してきたのだ。構うもんかッぶち抜く! 

 

「だりゃぁぁあああああああああああ!!!」

「ぐッ! やはり不滅を宿すあなたには妾の《死》であろうと足止めにしかならぬか! 隕石の落下にすら比肩する一撃──見事なり!」

 

 速度は落ちている。勢いは削がれている。熱量は下がっている。

 それでも『 神鞭の騎手(Warg dominate over the world)』は比喩ではなく世界を震撼させた大王から簒奪したもの。無敵のアイギスがあろうと全く無傷とはいかない。

 

「だが、その一撃をこの身に受けて妾も理解したぞ!」

「ッ!」

「テングリ……いや、チンギス・ハーンか。遥か東方の草原より来襲した最強最悪の侵略者、妾の領域たる地中海にまで版図を広げた劫略の大王を殺めたか! 不俱戴天の仇敵たる天なる神テングリを宿す軍神を殺めたのだな!」

 

 激しい戦闘中でも変わらぬ怜悧なる智慧に寒気を覚えた。戦いの神は掃いて捨てるほどいる。知恵の神もおなじように存在する。……だが両方を併せ持ち、智神としても戦神としても信仰を得る神となると途端に数を減らす。そして相対する敵としてこれほど厄介な敵もいないだろう。

 

「だがアイギスの守護を抜くことは能わず! そして妾はまだ余力を残しているぞ──わが写し身のひとつ、メドゥサよ! 今こそ怨敵の時を止めるがいい!」

 

 死毒と石化。二重の呪詛が祐一をかぶりつかんと毒牙を向けた。死毒だけで祐一の体表の四割は紫へと変わり、息も荒い。刻一刻と敗北の足音が大きくなっていく。……だが烈火の瞳に陰りはなし。

 祐一は騎乗していた狼から右手を離して、顔へと近づけた。訝しむアテナに構わず──()()()()()()()()

 

「狂ったか神殺し!」

「あんた言ってたろ! 俺の目ん玉抉り抜きたいってな、だから叶えてやったぜ!」

「これは!?」

 

 抜き取られた眼球が眩い光を放つ。太陽に等しい権威をもつ瞳が、闇と冥府を統べる女王の神威を打ち払う。

 

「我、不浄を赦さぬ三十六万五百の目、七十二の炎の柱。主の代理人、主の玉座に侍る御使い也───行くぞ叢雲!」

『応!』

 

 光は闇を祓うもの。目とは不確かなものを詳らかにするもの。『輝く瞳(glaukopis)』とは魔を浄化する権能であり──故に模倣すれば"破邪の劔"を化す。

 

「妾の神力が掻き消えていく、だとッ」

 

 確かにアイギスは無敵の盾だ。死毒も厄介で、石化もまた然り。

 だから祐一は真正面から対抗するのを止め、"兵糧攻め"に打って出た。かつてスロヴァキアの天使は邪視によって呪力を刈り取り、その瞳を簒奪したのなら模倣できない道理なし。神具も権能も、強力であろうと源である力がなければ木偶と化す。

 アイギスが力を失ったのを敏感に嗅ぎ取った祐一は、狼の四肢へ激烈なまでの呪力を注ぎ込んだ。ロケットの点火を思わせる激しさで再び速駆けは放たれた。

 交錯はあっけなく、力を失いふたりは打ち合わせしたように同じ格好で墜落した。

 

 激突しようと死には至らず、上空から地面に叩きつけられようと彼らは致命打になりえない。アテナと祐一は一瞬の気絶状態から覚醒し、よろよろと立ち上がった。どちらまだ闘志を萎えさせることはなく獰猛な笑みを浮かべていた。

 

「クク……やはり戦いはよい。侮りはしていなかったがここまで楽しめるとは思っておらなんだ」

「ふん、失礼なやつだ」

「あなたや妾のような戦の輩にとっていくさ場での一時は、王宮で過ごす百日と千の言葉を交わすよりも勝る一時となる。今宵、はじめてあなたと果たし合いにて語らい理解しはじめたのだ。許せ」

「へぇ、まだ一時間も経っちゃいないと思うが……あんたは俺のなにを理解したんだ?」

 

 アテナの言葉を面白がるように問うた祐一に、彼女もまた口角を釣り上げた。

 

「あなたには()()()がある」

「おごり……?」

「そうだ。妾にはわかっているぞ。あなたと二度の戦いを経て、あなたはおそらく四つの権能を有する神殺しだ」

「……」

「ああ、権能の数を見抜いたから権能の数の多寡がどうという話ではない。妾がいいたいのはあなたの権能はすべてが、()()()を変化させる、または、異能を纏うものばかりだと言っているのだ。

 神殺しが我らの同胞から簒奪し発現する権能は十人十色でまったく統一性はないが、しかし、一応の法則はある。

 ふふ、意外そうな顔をしているな。

 ……教えて進ぜよう。なに簡単なことだ、法則とは気質や技能を反映する形で発現するというだけのこと。しかし、だからこそ神殺しの"人となり"というものが見えてくるのだ」

「俺の人となり?」

「そうだ。あなたの権能はどこまでも己"のみ"に帰結するものばかりだ。化身、騎乗技術、神刀、太陽の瞳……。あなたは他人を、人を信用していないのだな。他の神殺しと同じくあなたは傲慢さをもっておるよ。あなたにとって人は戦場にて轡を並べるに値しない、か弱く守るべき存在なのだ……故に戦場に立つのは己独りで良いと」

「──黙れ」

 

 それ以上の言葉を祐一は許容しなかった。ああ、まったく、正鵠を射ていると頷いてしまったからだ。

 それも仕方のないことだ。祐一の生まれた次元は、神殺しは祐一のみでありまつろわぬ神々が我が物顔で闊歩する世で人類の対抗手段足りえるものなど彼しかいなかった。

 立ち向かったものも居た、対策を講じたものもいた、轡を並べようとしたものもいた。だけど誰も帰ってこなかった。頼れると思った者には裏切られた。

 だからこそ彼は単身戦うことに特化した権能を獲得し続けるに至ったのだ。

 

「踏みにじられた過去を盗み見るだけでキレてたあんたが、人様の過去をなじるとはな」

「ふふ、これもまた戦の知恵だ。そう怖い顔をするな、妾を守護するものたちがいきり立つではないか」

 

 気付けば祐一は四方を囲まれていた……無数の蛇とフクロウによって。神であるアテナを守護せんと眷属たるものたちが集ったのだ。

 

「一人で戦う、か。そうかもしれねぇ……でもあんたはまだ俺の権能の全貌を見ちゃいねぇだろ──来たれ奈落の軍勢。大地を震わせ、天より駆けよ。死魔の軍靴を鳴らせ。一切の智慧を捨て、狂奔へと落ちろ! 栄耀栄華を奪い尽くせ!」

「ほう! まだそのような隠し玉をもっていたか!」

 

 祐一の後方から黒ずんだ銅の扉が現れた。これこそ『 神鞭の騎手(Wargs domination)』』のもう一つの側面。

 使用者を大群の長とする軍勢召喚の権能だった。敵の数が多くとも関係はない。軍勢を呼びだせる数に制約は一つだけ、敵と同数という一点だけである。

 

「まだだ」

 

 言うなりやおら祐一は懐に持っていた右目を掲げ──握りつぶした。

 陽光さながらの光輝が弾け、門に降り注ぐ。時を置かずして扉が開く。現れ出るは人狼の軍勢……しかし、その姿は常とは装いを異としていた。

 蒼銀の毛並みを薪とするかのように全身から青白い炎が立ち昇り、一歩を踏みしめるだけで同じ数だけ敵対者は後ずさった。

神鞭の騎手(Wargs domination)』だけでなく『少年』を行使し、祐一に絶対の忠誠を誓う戦士たちに加護を与えているのだ。外道覆滅の太陽の加護を。

 

「行け」

 

 祐一の短い号令により蹂躙は始まった。存在が弱点そのものと化した狼たちにアテナの従僕は為すすべなく、壁に打ち付けられた豆腐さながらに砕け散った。

 

 

「だが、それでもだ神殺し! 妾の見立てに間違いはない!」

 

 劫。蹂躙劇も呆気なく終わりを告げた。

 

「あなたのそれは敵軍と同数の軍勢を呼び出す乱戦封じの権能と見た。つまり、果たし合いを強制させる権能。意志なき眷属を従えることで余人の介入を封じようとする魂胆が見えるぞ!」

 

 大気を引き裂いた雷鳴によって太陽の天軍は滅び去った。下手人は当然アテナ。そしてアテナの誇るアイギスによって消し飛ばされたのだ。

 アイギスとは山羊の皮で造られた楯と言われている。またゼウスの身に纏う鎧の肩当ての部分だとも。

 山羊は祐一の化身がそうであるように雷との関わりが深く、ゼウスもまた天空神であり稲妻を司る神。

 ならばアイギスもまた稲妻を手繰る術を持っていると考えるのが自然だ。

 さてどうするか、神話に名高き不抜不落のアイギスをどう攻略するか唇湿らせ、しかしアテナは動かなかった。怪訝な視線を送る祐一から意識を外し、アイギスを止めて黙考する。

 

「我らの闘争はここまでのようだ。なかなか楽しめたぞ」

「あん……?」

 

 唐突な言葉に怪訝な声を出し、すぐに氷解した。戦いにのめり込みすぎて気づくのが遅れた。

 古の《蛇》を求める者はこの場にいる二人だけでは無い。失念していた。全知と謳われる彼の神が、新月の夜にまで動かないとは考えられない。

 

「サトゥルヌス!」

「出来ることならば万全のそなたと死合うてみたかった。そなたは剣を失っておる。叡智と戦士たる妾が、そなたに警戒を促しながら恐るるに足りずとも侮るのはそれゆえか」

「……見抜かれてたか。だがそりゃアンタも同じだろ? ゴルゴネイオンを手に入れた真のアンタとやり合ってみたかったよ」

「なに。今宵その望みは叶うであろう……あなたがそれまで生きていればの話だが」

「は、何言ってるんだ。あんたはゴルゴネイオンを取り戻せないに決まってんだろう」

 

 舌鋒を最後にふたりの姿は消え去った。これが彼らの──今生の別れとなった。

 

 

 

 

 ○〇●

 

 

 バイクが山道を疾走していた。運転手はヘルメットも被ら長い髪をさらけ出し風にされるがままにしながら、アクセルグリップを握った。運転手は誰であろうチェリーだった。

 彼女は父の倉庫から引っ張り出したバイクで、フロイエン山を向かっていた。引っ張り出した、というより言葉を飾らずにいえば盗んだバイクであるが。

 移動手段がこれしか残されていなかったのだ。祐一に一時とはいえ支配下に置かれた影響か、不思議なことにアテナの邪視から逃げおおせていた。

 バイクの免許など持っておらず運転も見よう見まねだったが、バイクを譲り受けるという野望を秘めていた彼女はちゃっかりと運転をマスターしていて、その証拠にこれまで一度もコケることなくここまで走らせていた。

 

 場所はもうフロイエン山の麓道。

 まばらに植わっていた木々が数を増し、アスファルトで舗装されていた道路がコンクリートに変わる。最後には何もない土だけの山道になった。

 当然、人の生活圏からも離れたものとなる。それが彼女の狙いだった。祐一の言を信じるならばゴルゴネイオンは自分が持っている……なら、自分こそが大戦の渦中であり、ベルゲンから離れてしまえば余波から守ることが出来る。悲壮といっていい覚悟だったが、チェリーは前だけを向いた。

 

 唐突に、夜が訪れた。先ほどまで傾いていたとはいえ確かに太陽が昇っていたのに、それが掻き消えた。

 ユーイチとアテナの戦いだ、超常現象の原因を看破した。光源はバイクのライトだけになり、草木が道にまで茂る山道を無理やり進む。オフロードバイクではないため思うようにいかない。転ばないは幸運以外の何ものでもなかった。

 それでもできる限りの速度を出し──そこで眼前にまつろわぬ神が現れた。

 

「──ッ!」

 

 声をあげる暇もなく反射的にハンドルを切った。それなりのスピードが出ていたのだ……無理やり捻った車体は慣性を流しきれず、チェリーもろとも空に投げ出された。

 ぐるり回る視界。そして衝撃。

 米神と肩をしたたかに打ち付け、目を開けば視界は赤く染まっていた。額が切れている。

 だが気にする余裕はない。赤に染まった視界でただ一点、死を煮詰めたような黒点はひどく異様に移った。黒点は老人……いや、まつろわぬ神は未だそこに佇んでいた。

 陰惨で濃密までの死の気配。黒曜の輝きを放つ鉄剣とはまた気配を異にした漆黒の大鎌。地母のどこか慈悲を残した闇ともちがう死臭。

 教えられなくても分かる。見覚えがある。この気配を知っている。あれがまつろわぬサトゥルヌス。アテナ、祐一と相食む三つ巴の一柱。

 サトゥルヌスが一歩踏み出した。ただそれだけで周囲に繁っていた草木は枯れ落ち、地を這うにいたった。

 

「娘、そなたは持っていよう……古の蛇を。余はそれを欲しておる。その胸を開き、差し出すのならば、褒美として安らかな死を賜うとしよう……」

 

 言葉は呪言だった。死を纏う言霊が、チェリーを捉え、心を折らんと心の臓へ手を伸ばした。

 

「いやよ……──嫌!」

 

 従ってなるものか、ここで終わるものか。その一心で、彼女はささやかな偉業を成した。つまり神言を退ける偉業を。

 チェリーは隠れる場所の多い木々の生い茂る林へもぐり込むように走り出した。肉体が入れるだけで肩が焼けるように痛い。間違いなく折れている。骨折はしたことが無い彼女だったが、これまで感じたことのない痛みに確信を覚えた。でもじわじわと痛みは引いた。極度の興奮状態ゆえかアドレナリンが大量分泌されているらしい。

 走って、見えない段差に足を取られる。立ち上がって、傍にあった枝でかすり傷を負う。

 すぐに悟った。林に入ったのは失敗だった、思うように進めないのだ。

 その上、樹木の枝葉は本来、光を得るためにその体積を広げる。光源の少ない夜において森のなかは一寸先も霞む闇の領域と化していた。

 空に不思議と大きくも妖しく輝く星明かりが、チェリーの縋る光源で……

 

「何よ、あれ」

 

 おかしい。なんだあれは。太陽や月がいつも浮かんでいるはずの天蓋には、巨大な輪を有した黄褐色の星があった。

 土星。

 欧州においては不吉の象徴として忌み嫌われる凶星に、天から見下ろされている。星光が道を照らしだしている。

 悟った時には遅かった。瞬きのあとには目の前にサトゥルヌスが立っていて……すべてがこの老人の掌中だったのだ。死手が伸びる。

 奇跡か、必然か。背中に風を受けながらチェリーは自分でも驚くほどの俊敏さで避けた。

 

「──ぬ。もう刻限はわずかだが未だ結果が訪れず……()()の余では古の《蛇》は手中に入らぬか」

 

 何やら得心した様子のサトゥルヌスに構わず距離をとって、向き合った。

 

「ほぅ、自ら死を選ぶか」

 

 返答は弾丸だった。ビアンキから受け取っていた銃を護身用に隠し持っていた、のだが。

 

「神様って銃も効かないわけ? どうやったら死ぬのよ」

「余に死は訪れぬ。死が余であるがゆえに。余の訪れこそが死なのだ」

 

 手を広げた。サトゥルヌスの背後で闇が衣のごとく翻り、老人の体躯を何倍にも大きく錯覚させた。

 

「余はゴルゴネイオンを手に入れられぬ。しかし、ゴルゴネイオンであるそなたが自ら向かってくるというのなら話は別。さぁ、我がかいなで抱いてやろう。そなたの宿すゴルゴネイオンを奪い去ってみせよう」

 

 サトゥルヌスの言霊と威風に晒されようと、チェリー・U・ヒルトは雄々しく尊大に笑った。

 追い詰めた? 馬鹿を言わないで欲しい、自分は誘い込むために……自分を餌として、人気の無い場所までまつろわぬ神を()()()のだ。

 

「いいえ、断固お断りよ! アタシが追い詰められたのは活路を手に入れるためよッ! ピンチってこれで十分でしょ──ねぇ()()()()!」

 

 それは約束。契約を結ぶ以前に交わした軽口にも思える口約束だった。

 来てくれる確証はない。到底信じられないようなただの軽口だった。だがチェリーはその約束に賭けた、それも全身全霊を賭して。

 祐一はアテナと戦っている。来てくれる保証は酷く低い。それでも、彼女は叫んだ。

 

「アンタ言ったわよね! アタシがピンチの時、名前を呼んだら来るって! ……なら、早く来なさいよ! アタシは今は人生最大のピンチってやつで、今にも死にそうよ!」

 

 風。風が吹いた。

 天から落ちる天籟が、サトゥルヌスとチェリーのもとへ──一陣の風が吹いた。

 

「──こんな偉そうな呼び方すんの、これからも多分、お前だけだぜ」

「ッ!」

 

 黒い『風』がサトゥルヌスとチェリーの間を疾走した。神ですら捉えることの敵わない風は刹那、サトゥルヌスの右腕が斬り飛ばした。

 握っていたパルパーごと右腕は彼方へ吹き飛び、サトゥルヌスがそちらへ気を取られていた隙にチェリーの首っ子捕まえて一も二もなく遁走した。

 

「クク……これはこれは我が祖父殿。あの娘に足元をすくわれたご様子」

「……アテナか」

 

 サトゥルヌスのもとの、もう一人の死神が訪れた。祐一たちを追う機会は失われ、チェリーの目論見は成功した。

 

 



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覚悟

「企みは上手く運んだか祖父殿」

「ふむ?」

 

 祐一たちが遁走したあと、二柱のまつろわぬ神は争うことも追うこともせず呑気にも話し合っていた。逃げた者など何時でもゆるりと狩りに行けるとでも言うように。

 

「祖父殿。あなたは究極的にいえばゴルゴネイオンは必要ないのであろう? 古の《蛇》は、アテナである妾を初めとした古の太母神に連なる系譜には大きな意味をもち、古の己に至るための道標ではあるが……結局のところ、それだけだ。サトゥルヌスであるあなたにはなんの必要もない」

「浅薄だな。確かにそなたの言は正しいやもしれぬ……しかし、古の《蛇》を質としてそなたを従えてもよいし、鋼として蛇を喰らい滋養としてもよい。使い道など腐るほどある」

「しかし、あなたの目論見の成就にはまったく()()()()()

「!」

「ふん……もう猿芝居も止めよ祖父殿。興が冷める」

 

 サトゥルヌスの驚愕にアテナは冷たい視線を向けた。

 

「あなたは時の権能を獲た()()()とはいえど、紛うことなき全知……未知など存在しない。この会話も、古の《蛇》を奪ったのも、妾を北欧の地へ誘ったのも、神殺しを逃がしたのも──あなたの筋書き通りなのだろう?」

 

 返答はない。返答はない……が、弧を描く口元をみれば誰もがサトゥルヌスの本心を分かろう、というものだった。

 

「あなたの企ての深いところは知らぬし、興味もないが、どうやらあの神殺しに執心しているらしい。神殺しと古の《蛇》を求めるあなたと妾は手を組むにさしたる障害はないと考えるが……如何か?」

 

 

 ○◎●

 

 

 追ってこない。

 後方に意識を向け、神様や神獣らのセンサーといっていい神殺しの身体が反応せず、ふたつの強大な気配が同じ所にとどまっているのに不審な顔を浮かべた。

 だが、今は丁度良かった。どうせ逃げても追いつかれるし逃げ切ったところで状況は好転しないだろう。何処かで迎え討たなければならず……それに相棒へも告げなければいけないことがあった。

 

「ちょっと雰囲気変わったかお前?」

 

 気休め程度だが身を潜められる木陰で、やっとチェリーを下ろした。

 運ばれている間、周囲を見渡して常になく黙り込んでいた彼女はどうしてだろう……暗澹たる状況だというのに瞳には意志があった。

 祐一の言葉にやっと瞬きをしたチェリーは、少しだけ苦笑いを残して、でも真っ直ぐに祐一へ目を合わせてきた。

 

「守りたかったもの全部失っちゃったんだもの、雰囲気のひとつやふたつ変わるわよ。……それより答えて、みんなは元に戻るの?」

 

 祐一は答えなかった。目を逸らすのに失敗したように深く瞑目した彼を見れば答えはわかった。

 

「黙ってるのはうなづいてるようなものよ。……でもアンタの口から聞きたいわ、だって巻き込んだのアンタでしょ」

 

 穏やかだけど厳しい言葉だった。糾弾はされたことがあっても、優しく問い掛けられるのは初めてで……ぐぅの音も出ないな、と目を開けて小さくうなづいた。

 

「……その通りだ。俺はアテナの呪詛を解く方法を知らない。俺の太陽の眼は、対抗はできるけど解呪はできないし使えそうな知恵の剣も奪われてる。……現状、手立てがない。情けないことだがな」

 

 チェリーは頷くだけだった。ただ、喉が低く鳴ったのを聞き逃さなかった。

 彼女の胸中はいかばかりか。ベルゲンだけではなく……でも、現状を、彼女に伝えなければならない。彼女が置かれている現状を。

 彼女と目線を合わせて瞳を覗き込んだ。

 

「チェリー、落ち着いて聞いてくれ」

 

 今度こそ真正面からチェリーの瞳と向かい合った。

 

「俺たちが今まで探してたゴルゴネイオンは……実は。お前の中に、ある。それも……お前の、()()に在るんだ」

「心臓、に」

「ああ」

 

 彼女は少し驚いて事実を確かめるように胸元へ手を置いた。彼女の脈動を続けるその部分に、探し求めていたゴルゴネイオンがあるなどと祐一自身信じられない。

 でも彼女はどこか得心がいったのか、うなづいていた。

 

「うん、なんとなく判るわ。ちょっと前から……かな? そうね、ゴルゴネイオンを拾った夜からだった。鼓動を打つたびに違和感があったから」

「多分、そうだな。アテナが言うにはその夜にゴルゴネイオンを埋め込まれたらしい」

「そう……だったらあの時ね。ビアンキに意識を奪われて倒れちゃった時に……アタシのなかにゴルゴネイオンは埋まっていったのね」

「…………」

「あの日から変な感覚はあったの。……ペンダントが奪われたからかなって思ってけど……ゴルゴネイオンがあったからなのね」

 

 ゴルゴネイオンの所在を確信して、彼女は訊ねた。

 

「取り出す方法は?」

 

 すぐには答えられなかった。彼女を取り巻く現状は、強い意志が売りの祐一でさえ多くの決意と思慮を要した。

 

『娘。古の蛇はおぬしの心の臓と深く……』

「叢雲」

 

 割って入るように叢雲が説明し、祐一はそれを声で制止した。意図は察していた。酷薄な真実を、叢雲が代弁しようとしたのだろう。

 でも許さなかった。これは自分の役目だ、と祐一は唇を引き結んだ。

 

「……ゴルゴネイオンはお前の心臓と一体化しちまってる。取り出すには、心臓ごと抜き出すしかねぇ」

「要するに、ゴルゴネイオンを取り出すには心臓ごと……つまり取り出したらアタシは死ぬってことね」

 

 祐一は肯定するように俯き、そして首を振った。

 

「それだけじゃない。俺たちは今晩、三人の誰かがゴルゴネイオンを()()()()()()()()()なんだ」

「どういうこと?」

「そういう契約なんだよ。あの夜、サトゥルヌスとアテナと俺、俺たち三人はゴルゴネイオンを奪い合っても絶対にゴルゴネイオンを手に入れられない運命を察知してしまった。今となっちゃぁ……何が真実だったのかも分かんねぇけど、でも、だからそれを覆すため……俺たちが必ず誰かの元へ渡るよう仕向けるため、結果を固定して因果を歪めたんだ」

 

 気づかない内に言葉が長くなって、意味は迂遠なものになった。彼女に真実を語るのを厭うよに口は滑った。

 でもチェリーの瞳に理解の色が浮かんでいて、正確に理解出来ているのだろうと上唇を噛んだ。

 

「つまり、ゴルゴネイオンはアタシの元から必ず離れる、のね。アンタがそんな顔してるってことは、心臓も一緒に」

「ああ……そうだ」

 

 過去が呪わしかった。

 軽々に神の企てた契約になど乗るべきではなかったと切歯扼腕する……でも全ては遅きに失した。

 全てはあの夜には決まっていて、結果を定めたあの夜には、彼女の終わりも定めらていたのだ。

 俺はこの子を殺したも同然だ、言い訳はしないが……祐一は己への怨嗟を止めらなかった。まつろわぬ神への糾弾はそのまま自分に返ってきた。祐一もまた彼女殺しの共犯なのだ。

 

「避けられないの?」

「すまん。俺には方法が見つけられねぇ……一度歪めた因果をそう何度も歪められるとも思えない。神だったらなにか方法は知ってるかもしれないが……奴らが手伝ってくれるはずもない」

 

 淡々と、彼女は問い続けた。

 

「時間は?」

「今夜の零時」

 

 余命はもう半日もなく暗澹、といってあまりある惨状に、しかし、彼女は絶望などしなかった。

 

「そ。だったら……アタシはアタシを貫くだけよ」

「怖く、ないのか?」

「怖いわよ、当たり前じゃない。なんでって思いもするし、ふざけんなって怒りたいわよ」

 

 当然でしょ、と呆れたようにいうチェリーには悲壮感など感じられなくて運命を受け入れて、それでも、最後の最後まで足掻き続けるという決死の意志を瞳に宿していた。

 彼女の瞳は澄んでいる。……けれど祐一をもってしても、呑み込まんばかりの意志が燃え盛っていた。指で祐一の胸板を数度叩いて、綺麗に笑った。

 

「でもね。アタシにはもう護るものも、縋るものもないから。だから、アタシはアタシのやりたいことを好きな様にやるだけよ」

 

 あくまで気ままに、どこまでも自分勝手で奔放に、それでも自分を見失わないくらいに。

 決死とは死を覚悟した先にあるものをいう。けれどチェリーはそれを帯びてもなお、これまでの日常や夜と変わらない態度で臨んだ。

 

「ユーイチ、アタシは今夜死ぬわ。だったらこの命は、ベルゲンを救うために使って」

 

「そんな顔しないで、それアタシの使い道だって捨てたモンじゃないわよ? ゴルゴネイオンをアテナとサトゥルヌスが奪いに来るっていうなら、引っ掻き回せるわ」

 

「ね。これがアタシたちの結んだ本来の契約だったでしょ? アタシが逃げて、アンタが狩る。これまでと何も変わらないわ?」

 

「そして、だから、必ず勝って──この三つ巴に。できるなら……ベルゲンを救ってあげてね」

 

 言葉の間、チェリーは笑っていた。なんてことはないように。だけど祐一には理解る……彼女がどれだけ決意の下にその言葉を紡いでいるのか。まだ人間だった頃の自分に、彼女が重なった。

 

 死なせたくない。

 

 祐一はここに至って認めた。彼女は戦士であると。

 女だとか、非力だとか、関係ない。これほどの心の強さをもつ者などどれほどいるだろうか。

 この土壇場でこれだけの覚悟と意志を保てる者など自分は知らなかった。故郷を奪われれば自分ですら怪しいだろう。

 一時の短い間の相棒。

 仲間でも味方でもないけれど、共に轡を並べた戦友として、死なせたくはなかった。

 

 ──()()。一つだけ。

 

 そして祐一の脳裏にひとつの策が閃いた。いや、策と言っていいのかも疑わしい……でも彼女を数刻生きながらさせる一つの手段。

 

「だったら、せめて()()を持ってけよ」

 

 握っていた拳を開く。手品のように手のひらに火が瞬いた。淡い火は、光となって彼の手のひらで漂い続ける。弱々しくとも決して消えず翳らない光だ。

 

「これは?」

「俺が冥府から持ち帰った光で、火の宿った松明さ。生命の象徴。不滅の証。この火が燃えている限り、お前は死なない」

 

 これこそ死を恐れながらも立ち上がった戦友に贈る祝福だった。かつて己自身が、盟友から贈られたように。

 ごめんパルヴェーズ、ラグナ。俺はお前たちが贈ってくれた祝福を手放すよ……。

『ミスラの松明』もヒューペルボレアで持ち帰った《火》も……どれもが自分を語り、形作る上で大切なものばかりだ。

 でもそれを手放し、贈ってでも彼女には、数秒でも長く生き長らえて欲しかった。

 

 そんな大層なものの割にはちょっと頼りないわね、クスクスと笑って……すぐに瞳に怜悧な知恵の光を宿らせた。

 

「死なない……か。でも裏があるんでしょ? そんな美味しい話、あるわけないもの」

「お前の賢さが羨ましいな。でもちょっと残酷だと思うよ……。

 ああ、そうだ。この火が消えない限りお前は死なないが、この火が消えればお前は死ぬ」

「何時?」

「明朝。多分、朝日が登れば消えるはずだ……太陽は世に二つもないから」

「上等じゃない。アタシの寿命は12時に終わるのが定めだったんでしょ? だったら十分どころか上の上よ」

 

 からりと笑って、チェリーは手を差し出した。

 こんな方法でしか彼女を延命できない自分が悔しかった。忸怩たる思いを抱え、うつむき謝罪の言葉を口にしようとして、唇に指を添えられた。

 

「いらないわ」

 

 小さく首を横に振った。

 

「それに、それ言ったら、きっと怒るわ。怒ったアタシはアンタに協力もしないで勝手に逃げて、勝手に野垂れ死ぬわよ?」

「そりゃあ……困るなぁ」

「だったら頼んなさいよ。アタシはアンタの仲間でも味方でもないけど」

「ああ、今日まではお前は俺の相棒だ」

「ずっと痼だったのよ。対等な関係だっていってもアンタに寄りかかったままで……だけど今度はアンタが頼んなさい。アンタはサトゥルヌスと因縁があるみたいだし、アタシはアテナに用があるわ。だったら……」

「ああ、わかってる」

「うん。アンタがサトゥルヌスを倒す間、アタシはアテナを引き付けてあげる」

 

 光が彼女の腕を通って、ゴルゴネイオンのある心臓で留まった。たとえ因果によって彼女からゴルゴネイオンが喪われても、明朝まで心臓の役割を果たす。

 

 いつかのようにタッチを交わし、二人は真反対の方向へ走り出した。

 

 

 ○◎●

 

 

 サトゥルヌスは識っていた。

 現在から伸びる無数の未来のなかで、多くの場面でこの先に祐一が待っていることを。

 木々を抜い、悠々と歩く。

 横溢した闘気と、苛烈な死の気配が、草木を枯らしそれだけで死の大地が生まれた。

 

 サトゥルヌスは賭けに出ていた。

 

 時の神サトゥルヌス。あらゆる時は己であり、全ての時間軸に存在する彼は擬似的な全知ともいえる。広大無比な時に横たわる己。

 しかし全にして一。過去と未来が全ならば現在という概念が唯一無二なもの。……つまり時に遍在するサトゥルヌスだからこそ唯一無二の現在には"必ず"存在しなければならない。

 故にサトゥルヌスは未来を知り、求める未来があろうとも一足飛びに辿り着くことを許されず、全てを知った身でありながら、未だ"たどり着きたい未来"への途上にあった。

 つまりサトゥルヌスは全ての未来と過去を知りえながら、望む未来を選び取らなければいけない立場にあった。

 

「我求るわ──の未来」

 

 無数に遍満する未来。次々に到来する選択肢。

 あらゆる未来を見通し、あらゆる知恵を駆使し、サトゥルヌスは()()未来を選んだ。

 選んだ、とはいっても未来は無数にありそれこそ蝶の羽ばたきひとつで別の未来に置き換わる可能性もあって……実際、望まない未来へ進んだ己がいた事もサトゥルヌスは知っていた。

 

 ゆえに、賭け。

 あらゆる根回しと、無限の試行錯誤と、暗躍の果てにサトゥルヌスはこの先に待ち受ける未来を望み、勝ち取れる権利を得た。

 ローマのサトゥルヌス神殿に降り立ったのも、ゴルゴネイオンを奪いアテナを誘引したのも、ベルゲンを決戦の地としたのも、因果を歪める宣誓すらも、すべては仕込みであり同時に賭けだった。

 現状上手く進んでいるといっても良かった。

 祐一は無知のまま望む方向へ突き進み、ベルゲンは石と変わり、アテナとの話は付いた。

 もうすぐだ。逸る気持ちを抑え──唐突に開けた場所へ出た。

 いや、木々が切り倒されていて闘技場とされた場所だった……これも何度か"観た"未来で。

 

 その中心でひとり佇むのは剣を佩く少年だった。月なき夜気の満つる場所であっても、彼の紅い眼は鬼火のごとく光を放った。

 サトゥルヌスは時の神であり、同時に、死の神でもある。それは冥府より《闇を持ち帰った者》となり決定づけられた。

 

 だからこそ、闇があれば光があるように宿敵は《光》を獲た。

 だからこそ、対極をなす《光》の存在を感じ取れた。

 だからこそ、祐一が《光》を持っていないことを感じ取れた。

 

「そなた……もしや《光》を捨て去ったのか」

 

 サトゥルヌスは咽喉を震わせて問いかけた。だが喉を絞って出た言葉は、かすれ声になってしまっていた。

 それでも宿敵の耳には届いたようで、気づいたか、と困ったように頬をかいた。

 

「捨てた訳じゃないけどな……。ああ、手放したよ。ヒューペルボレアで手に入れてあの《火》は、相棒に贈った」

 

 欲していたあんたには悪いことしたなサトゥルヌス。と微苦笑する少年。

 サトゥルヌスは震えた。怒りではない──()()()()()()

 この未来こそ全知であり、総てが既知と化したなかで己が欲した世界だった。瞳から溢れ出した滂沱の涙は、頬を伝って白く豊かな髭を湿らせた。

 驚く祐一に構わず、大地を揺るがす歓喜の声をあげた。

 

「あの《光》を手放したかッ! 木下祐一よ!!」

 

 瞠目した祐一がまたたいたあと、瞳に剣呑な光を宿すと獣が唸るような声を発した。

 

「……まさか今から奪おうってのか。アイツに贈った《光》を……ッ」

「馬鹿なッ、そのような()鹿()()()ことなどしない!」

 

 理解が出来ず訝しむ祐一を一蹴しつつサトゥルヌスは胸を逸らして叫んだ。

 ああ、我が宿敵よ。知らぬならば応えよう。望むならば教えよう。

 我らに枷られた"永劫の宿業"を……神殺しであるそなたとまつろわぬ神である余ですら逃れえぬ──今は消え去った宿業を! 

 

「ヒューペルボレアにおいて我ら二人は、"光と闇"を持ち帰った。

 そなたは《光を持ち帰った者》として、余は《闇を持ち帰った者》……そして神々ですら死を齎す冥府より獲得した強大な力は、我らを"果てなき闘争"に誘った」

 

 不死である神すら死を与える冥府。その聖域から力を持ち帰ったならばそれに準じる力を獲るのも然り。それは宇宙的大火(エクピロシス)だったり不滅と不死であったり。

 どれも比類なき力でまつろわぬ神や神殺しである彼らですら多大な恩恵と影響を受けることができた。

 しかしサトゥルヌスはそれを歓迎しなかった。

 

「光あるところに闇はあり。そして、逆もまた然り。時の司たる余は現在という唯一無二の概念に縛り付けられ、その上で、現在とは相克たるそなたのいる時間軸……」

 

 祐一の眼前にサトゥルヌスが立った。完全な間合いに入ってなお、二人は戦わなかった。

争い合うべき老人と少年の対峙は、本来ならば間隙すらなく殺し合うのが定めだった。さながら出会えば反撥する永久磁石のように。

 サトゥルヌスの告白が祐一の衝動を抑えこませた。今までなら顔を合わせれば殺さずにはいられない、そんな衝動が心を占めたのに。 

 

「我らは陰陽。決して離れられず、決して終わらず、決して滅びぬ。それを表すように完全なる不死と化した余に呼応し、そなたも無欠なる不滅を獲得してしまった」

「俺が、アンタのような不滅を……?」

「左様……──判るかッ!? 光と闇は反撥しあい、争うもの……そして我らは決して()()()()! その意味がッ」

 

 不死と不滅による永劫続く、終わりなき戦い。

 まるでゾロアスター教の神話にあるアフラ・マズダーとアンリマユの戦いのように、祐一とサトゥルヌスは陥ったのだ。冥府という深淵にて、比類なき力と蘇りを果たしたものたちが支払うべき代償こそがこれ。

つまり彼らの戦いは──

 

「──未来永劫、終わらぬものとなったのだ!」

 

 そして多くの時間軸において祐一は《光》を手放さなかった。

 神具である『ミスラの松明』は友から贈られ、逝ってしまった友のよすがであったから。《光》はどん底に落とされながらも答えを見出し示した"救世"への決意の証だったから。

 ……そして、もうひとつの理由から決して手放す訳にはいかなかった。

 サトゥルヌスもまた己に科した使命や妄執を振り払うことは自己の否定に繋がり《闇》手放すなど出来ず……故に彼らは永劫戦い続けた。どこまでも続く手口のない無限螺旋にいたる未来が()()()()()

 

 だが、そこへは至らなかった。

 サトゥルヌスがそれを良しとしなかった。あらゆる可能性を鑑み、見出し、思考し、冥府の呪いを覆したのだ。

 そして《光》が喪われた今、サトゥルヌスはひとつの事が許されるようになった。

 

「そなたが《光》を手放したならば、余もまた《闇》を手放そう……」

 

 襤褸を羽織ったサトゥルヌスの巨体から、底冷えする冷気に包まれた《闇》が漏れだす。黒と紫の集合体は、風にゆらされ弾けて流れてどこかへ消えた。

 光がなければ闇は生まれない。ならば。

 

「宿業は、ここに、消え去った」

 

 感無量であった。

 誰もが理解できない……全知である彼のみが知り得る歓喜に打ち震えた。

 

 祐一は呆然とその姿を見送った。

 

「不可解だと、思っていたんだ……。冥府から黄泉帰ったあんたは強くて、俺の寝首を掻くことくらいやってのけると思ってた」

 

 遍在する時はサトゥルヌスならば、と祐一は何度も疑問に思った。まつろわぬ神を憎めども侮りはしない彼だからこそ、サトゥルヌスへの警戒は一入だった。

 

「宣誓をやった夜、腹をかっさばかれた時だって『雄羊』じゃ生き残れるか怪しいくらいの死毒で、死ななかったのは正直おかしいって思ってた」

 

 サトゥルヌスの神具『ハルパー』は、太陽神であり農耕神サトゥルヌスが死んだことによって生まれた。神を蘇らせるなんてとんでもない代物だった『サトゥルナリアの冠』が反転したような神具。

 だからこそ『 古の蛇(ゴルゴネイオン)』や『ミスラの松明』と伍する程の神具だった。

 それは死の象徴と言ってもよく、不死や蘇りの権能があろうと無為に返すほど強力なものであった。その神具によって致命打を受けたのならば。

 

「でも違うんだな……。あんただけじゃなくて俺まで死ななく……いや、死ねなくなっていたのか」

 

 祐一は少しだけ項垂れて、そしてサトゥルヌスに対して畏敬の念を抱いた。

 

「俺たちは死ねない。片方が生きている限り死ねず、決着は付かない。使命に燃えるあんたにとっては地獄のような状況。そして……」

 

 祐一は唇を噛んだ。

 

「そして、サトゥルヌス。あんたは俺と決着をつける為だけに……この場所に到る為だけに……」

 

 気圧されそうになった。

 サトゥルヌスという宿敵の大きさに。

 数多のものを失いながらも雄々しいその姿に。

 そのすべてが己との決着のためであると理解して。

 

 死と時の神。

 そうとも、字面にすればなんと手強そうで、強大に思えるだろう。だがサトゥルヌスは元々、神王であり、太陽神ですらあったのだ。

 敗北し凋落し零落し、また喪い奪われたその果てで、彼は最後に残った死の神性すら捨て去ったのだ。

 すべては前座に過ぎない筈の祐一と──ただ一度の決着をつけるために。

 

「何故だ」

 

 祐一は問いかけた。

 

「なんであんたは俺にここまでできる? あんたの目的は、護堂さんで、その先にいる白蓮王だったはずだろう。やろうと思えば一足飛びに挑めたはずだ。それなのに」

 

 祐一の疑問にサトゥルヌスは不自然なほど穏やかな声音で返した。加えて出来の悪い生徒に、ものを教えるような表情も浮かべて。

 

「違うのだ木下祐一。余がもしも"時"としての神性を獲得せねば、そうしていたやもしれぬ……」

「時?」

「そうだ。時の神性を有した余が、全知にも匹敵する知識を得る運びとなったのはそなたも知っている通りであろう。……そしていくつもある一つの未来で、そなたに()()()()()

 

 サトゥルヌスが指先を祐一の額に伸ばした。彼の神の手は大きく、指は長大であった。望めば一息に屠ることも叶う節くれだった指を、祐一は避けることをせず向き合った。

 

「かつて辿るはずだった未来で、そなたは語った。余とそなたは光と闇などという力を獲る以前から、同じ場所に居るのだと。

 それまでの余は、そなたの言うように草薙護堂や麗しき神殺しへの打倒を阻む前座としてしか捉えおらなんだ」

 

 それは何度か経験した、霊視の感覚だった。でも頭痛や祐一に不利になものは一切現れなかった。

 額に当てられた指からひとつの情念がなだれ込んでくる。

 

 これは……サトゥルヌスの記憶。いや"過去"のサトゥルヌス記憶か。

 眼前に立つ"今"のサトゥルヌスより、より無知だった頃の記憶。彼にとっての原記憶なのだ。

 太陽神にはもはや至れぬ身なれど、使命は完遂するという烈火の決意。麗しき黒髪の神殺しへの慕情にも似た殺意と、草薙護堂への絶対の敵意。

 星の終焉と創成には、凄まじいエネルギーを要するという。それが感情へ変換されたかのごとく、サトゥルヌスの使命への激情と本道に立ち帰れぬ失意は深かった。

 そして祐一という神殺しを占める感情は酷く小さかった。

 

 額に当てられた指から、感情のみならず、ひとつの情景がなだれ込んできた。

 

 それはベルゲンで。月のない夜で。月光が必要ない夜でもあった。

 ベルゲンは燃えていた。

 人など顧みぬ超常の戦いの舞台となって絶命していた。神と神殺しの戦いが終わらない。しかしそれに巻き込まれる世界は甚大な被害を被る。彼らは災厄であった。

 

「そなたと戦い、戦いの果てにこの地は灰塵と化した。何も残らなかった。人も、瓦礫も、自然も。

 それでも決着はつかず、余は早々に見切りをつけ、そなたの元を去ろうとした。そなたを後回しにし未だ未熟であろう草薙護堂の下へ向かおうとしたのだ……しかし……」

 

 燃える街。瓦礫の山に囲まれたなかで、不自然に傷もなく身綺麗な少年と老人が対峙していた。互いに不死で不滅。傷を負うわけがなく、災厄を齎すだけの存在と成り果てていた。

 サトゥルヌスは無言で背を向けた。ヒューペルボレアでは欲さずにはいられない太陽の欠片をもつ者だが今では無価値の存在だったから。

 荒い息遣いだけが響く荒野で、瞑目を解いた少年が口を開いた。サトゥルヌスは時と死であり闇をも掌握する神。逃げを打たれると追う手段がない。

 だがきっとその時間軸の自分に、打算があった訳じゃないのだろう。

 

『逃げるのかよ……』

 

 サトゥルヌスの足が止まった。

 

『ベルゲンを焼いてまで戦ったのに。そして俺とお前は同じ場所で《光》と《闇》を持ち帰った、対といってもいい存在じゃないか。それなのに決着がつかないからって理由だけで』

 

 それでも、足が止まっただけで振り向きもせず、心はまだ草薙護堂と麗しき神殺しへ向いていた。

 けれど……祐一は焦りもせず、ただ、語りかけるように呟いた。わからず屋を諭すような声音ががらりと変わる。

 

『なぁおい、サトゥルヌス!』

 

 いい加減気づけよ、と苛立ちを隠さず呟いた。烈火の瞳を迸らせて、背を向けるサトゥルヌスに"逃げるな"と思念を乗せて。

 

()()()()()()()()()()()()()。《光》だとか《闇》だとか関係ねぇ……俺たちはどうしようなく敗北して、一敗地に塗れてヒューペルボレア流れ着いたんだ! そして俺たちは再起した──俺たちは隣合わせの新しいスタートラインに立っていたんだぞ!』

 

 サトゥルヌスが振り返った。驚愕と屈辱で彩られた表情を刻んで。

 

『──だって言うのに、お前は逃げるのか!?』

 

 祐一はついに叫んだ。

 

『あんたは俺を前座だという! ああ、それもいい……勝手にしろ──だけどなぁ! 

 その前座さえ踏み越えられないあんたが、護堂さんに挑んでも結果は見えてるだろう!』

 

『──俺からの勝負に逃げた"腑抜け"のあんたが……未熟だろうが、四肢をもがれていようが、勝てるほど……草薙護堂っていう戦士が甘くはないのはあんたがよく知ってるだろうが!』

 

 その言葉がサトゥルヌスの楔となり、祐一との絆となった。冥府より持ち帰った力は、己の過去を語る。

 それだけではなく過去と決別するために、同じ場所に立っていた者を降すことこそ真の決別となる。

 そう思えばこそ、彼らが《光》と《闇》を手放さない最大の理由だった。

 

 

「そなたを降さず草薙護堂と相対した時点で負け。一点でも非を抱え、曇った余に使命を全うできる道理なし。ああ、まったく腹立たしいほど道理よな……」

 

 光と闇。サトゥルヌスと祐一は、決着はつくことはない……しかし、つけなければならない。なぜならそうしなければ我らは一歩も前には進めないから。無限螺旋に囚われたままだから。

 

「決着はつけねばならず、しかし、我らは対。どのような因果が加わろうが決着はつかぬ。……だからこそ《光》と《闇》は捨てねばならなかった」

「でも」

「フ、すべてを知っていればそなたは手放したか? いいや、手放さぬ。無知であろうと既知であろうと関係はない。余の策謀なくば手放さなかったであろう?あれはそなたに取って代わりのない……逝った友が遺した絆の証。余にとっての太陽に等しい宝物なのだから」

「……。ああ」

「故に慎重を喫した……思考が及ばぬようアテナを巻き込み、チェリー・U・ヒルトを巻き込み、異界と偽りのゴルゴネイオンとそなたらの絆を絡め──そして()()()

「………………」

「全能ならぬ全知とはなんと不自由なのか!(現在)には関係の無い(過去)(未来)(木下祐一)が雁字搦めにしてくる……全知でなれば、そなたのことなど知らぬと闇を抱えたまま草薙護堂の寝首をかけたというのに!」

 

 その叫びは、嘆きであり歓喜であった。果てなき途上で足踏みをしなければならなかったサトゥルヌスの大願成就のための一歩。

 

「今この時ッ──邪魔者(光と闇)は消え去った!」

 

「故にこそ我らは真の決着をつけることができるッ! 

 草薙護堂も素晴らしき宿敵であった、麗しき神殺しも思慕にも似た殺意を覚えた。しかし余はそなたとの宿業を望もう」

 

 祐一は震えた。これほどの武者震いは初めてだった。

 

 輝かしき太陽神であった過去を消され、かつては神王であった栄光すら奪われ、復権の道筋すら失い、妻を贄と捧げ、得たはずの死すら捨て去って……。

 言葉もない、飾らずにいうならそれしか言葉が見つからない。

 

 それでもなお、かの神は折れることなく宿敵との死闘を望んだ。使命に身を燃やすことを選んだ。

 数多に備えていたはずの神性は、もはや時と『鋼』しか残らず、最後に残った神性である時を司る武神として、敢然と立ちはだかった。

 サトゥルヌスが胸を反らして叫ぶ。悲願を果たそうと。

 

 

「──()()()()()()()()()()()()ッ!」

 

 

 祐一は戦士として最大の誉れを覚えた。

 鳴々、眼前の宿敵のなんと雄々しく美しいことか。

 サトゥルヌスの比類なき決意と、それを一心に受ける幸運な己に感慨が溢れた。

 応えねば。この宿敵に。全身全霊をもって。

 

「時の神サトゥルヌスよ……あんたの執念と武を競えあえる幸運に感謝しよう……」

 

「誇り高き敗者の王サトゥルヌスよ。あなたの気高き敗北に、常勝を望む俺は敬意を払おう」

 

「そして我が最高の宿敵よ! 俺は誓おう──我が全身全霊をもって、貴様を殺すッ!」

 

 

 ──我ら求めるはただ一度の決着。

 











ウルスラグナ「ズッ友だょ……!!!!!!」
チンギス・ハーン「家族になろうよ!!!!!!」
ヤマトタケル「滅茶苦茶痛めつけ絶望を与えれば答えが見つかるかも……」
天叢雲剣「半身との心中に付き合って!!!!!」
スロヴァキアの天使「那由多の時を掛けようが久遠の果てにいる君に辿り着く!!!!!!」
New→サトゥルヌス「我らの永劫続く終わりなき戦いに決着をぉぉおおおお!!!!!!」

やったね祐一くん!『鋼』の激重勢がまた増えたよ!



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因果の収束点

 瞬間、感じたのは灼熱と衝撃だった。ふくらはぎに受けた衝撃が肉体を引っ張って、勢いを殺しきれず無様に山道を転がった。斜面を転がって泥まみれになりながら足を見れば、一本の矢が突き刺さっていた。

 

「んぬぁあ!」

 

 もう何度目になるか、突き刺さった矢を気合いで引き抜く。馬鹿みたいな痛みに涙が出そうになる。だが、血が出るより早く傷口に火が点って治癒され痛みも消えた。

 これも見慣れた光景と感覚だった。

 

「不滅の火か、神殺しも面倒なことをしてくれる。その火がある限りそなたはどんな目に遭おうが死にはせぬ。……これもモイライどもの仕業か?」

 

 木の枝で立ったままチェリーを見下ろすのはアテナだった。手には弓矢が握られ、矢を放った下手人はアテナであった

 こうして嬲られ続けて、どれくらい時間が流れたか。瞳は夜闇を狩る猛禽のそれで、地を這う鼠の気分を思い知らされる。

 

「しかし仮初の不滅を手に入れたとはいえ、よく粘る。刻限までそなたを磔にし、余裕をもって古の《蛇》を得ようと思案していたが上手くいかぬものだ。フフ、戦女神たるアテナが直々に褒めてやろう」

 

 完全に狩人気取りね、圧倒的な上位者になぶられる獲物の気持ちを食ませられながらアテナを睨めつけ、彼女はふたたび駆け出した。

 息が切れる。もう時間の感覚も曖昧だが、一時間以上走り続けている確信はあった。

 

「愚かよな。潔く敗北を認めれば、痛苦など無縁に居られたというのに……親兄弟同胞たちや街とともに石の骸となり、仮初の死を受け入れれば全ての苦痛から解放され、悩む必要もなかったであろうに」

 

 食い縛った口から血が滲んだ。

 あの女神様にとって自分の言が侮辱や挑発に値するなどと思いもしないだろう。それどころか声をかけているだけで褒美に等しい、とすら考えていそうだ。

 屈辱と怒りに耐えていると、そろそろか、とアテナが呟いた。

 

 瞬く星明かりが次々と光を失っていく……ふと気づいた。夜が影を伸ばし闇が濃い深夜だったから見えなかった。

 木々に止まるフクロウが、茂みに潜む蛇が、アテナの御前にて頭を垂れている。戦士が凱旋する花道にして崇高なる儀式の祭壇を形づくる。これは真なるアテナの復活を予感した眷属の礼なのだ。

 十二時が近い。奔走し続けて時間の感覚を失っていたが、もう終わりの刻限はすぐそこに来てしまった。

 眷属と刻限に応えてアテナの満腔より湧き上がるは、鬼気と歓喜。それらは視認できるほどの圧力を伴い、しかしチェリーにとっては死の予兆に他ならなかった。

 自分には祐一から贈られた不滅の火があるはず。

 だと言うのに冥府への黄泉路をひた走っている感覚に陥ってしまう。だと言うのにドイツの黒い森を走っている感覚に陥ってしまう。

 

 焦燥感に焼かれる。恐怖が背筋で息を吐く。精神が削れると体力の消耗も倍するのものとなる。走っていた足が覚束なって、息が絶え絶えにふらつく。

 それは油断で──ふと、足首に鋭い痛み。

 

 蛇だ。

 

 皮を貫き、肉を押し退けて……牙が突き立てられていた。毒蛇が動きの鈍った少女という獲物を食んだのだ。

 畜生ッ、と悪態をつきながら毒蛇を蹴って、手当する暇もなくふたたび駆け出す。だが上手くいかない……足に尋常ではない熱が生じている。痛覚が消えていく。果てには転げて、地面に叩きつけられた。

 

「無様よな……さて、戯れは終わりだ。妾の見出した匣としての役目を果たせ。疾くその心の臓を差し出すといい」

「絶対、に、嫌!」

「愚かな。自然の理にも従わず、妾の言葉にも逆らうとは……人の愚かさと傲慢はここまで(うずたか)く積もったか。もはや慈悲はみせぬ……妾が真なるアテナとなった暁には、人の世の終焉を望もう」

 

 もう何度目になるか、神の言霊を振り払う。その様子を興味深そうに眺めながらアテナが左手を差し出した。そこから闇が生まれ、蛇の形を成して、少女に取り憑く……それでも死なない。死ねない。振り払うことも出来ず、冷気と毒を浴び続けた。

 死毒が頬を紫に変色させていく。吐く息は青い。指先から黒ずんだ皮膚が剥がれて腐臭を吐く。

 

 

「お、愚か、愚かって!」

 

 それでもなお、彼女は気丈だった。

 

「そんなんだから、あなたは、人間()()()に足元をすくわれるんでしょうね!」

 

 青い息を吐きながら嘲弄する声を掲げる。アテナは一切の反応を見せなかったが構うものか、反応しないならそれはそれでいい。

 

「アタシが今までただ逃げてるだけだと思ってた? だったらお笑いね、知恵の女神なんて看板も名前負けもいいとこじゃないッ」

「ほう……?」

「だって、アタシの考えを見通してたなら戯れなんてしない筈よ!」

「──愚かさも過ぎれば不遜だな」

 

 傲岸にのたまう少女にアテナが背後から急襲した。

 避けれたのは、反射だったのか、直感だのか、それとも運命だったのか。だが確実に言えることは、チェリーは女神の一撃を()()()()()

 それこそ未来へ到る条件のひとつ。

 宣誓の因果はまだ残っているか、アテナは舌打ちした。

 

「そなたの企てだと? 非力なそなたに出来ることなどたかが知れているだろう。それに考え違いをするな。そなたにまだ息があるのも妾が戯れに生かしているのと、宣誓の影響という望外の幸運ゆえ」

「……」

「そうやって妾を挑発し、未曾有の危機に己を突き落とすことで神殺しめを権能で呼ぶつもりだったか? 

 しかし、彼奴は来ぬよ。妾と祖父サトゥルヌスは盟を結び、彼奴のもとに死神が向かったのだ……逃げおおすことなど如何に神殺しであろうと難事。死とは決して逃れられぬものなれば」

 

 耳を貸すな。

 言葉を吐けば悟られる。

 顔を見せれば気取られる。

 今はただひたすらに前に進め。

 

 ──ぴぃん。

 

 転がり、泥だらけになった先……違和感を覚えた。まるで世界が張り詰め、異界に迷い込んだかのような感覚。

 時間の感覚が曖昧になって、アテナの気配が消失する。走っているのか、動いているのか、存在しているのかすら曖昧になって、朦朧とする意識のなかでチェリーは()()()()()を幻視した。のっそりと影から這い出してきた人物は、チェリーに目を合わせゆったりと語りかけた。

 

『チェリー・U・ヒルト。誇るが良い』

 

 人物は闇色の襤褸をたなびかせる老人だった。サトゥルヌスが現れた……チェリーは最初そう思った。

 ただ、おかしい。違和感と確信があった。

 眼前に現れた老人は、サトゥルヌスであってサトゥルヌスではない。そんな違和感と確信があった。

 それにアテナの言を信じるならばサトゥルヌスは祐一のもとへ言ったはず……なら眼前の人影はサトゥルヌスではないのだろう。

 確証はないが確信だった。

 

「誰、あなた?」

 

 誰何の声に答えず、その老人は低く笑って少女に賞賛を贈った。静かでゆったりとした挙措で手を叩いて拍手を送った。不可解さと不気味さが拭えず、チェリーは尻込みしそうになった。

 

『チェリー・U・ヒルトよ。未だ何者かも定まらぬ、何者でもない、運命を知らぬ少女よ。此処までたどり着いたお前は、()()が初めてだ。そしてお前の人生に於いて、此処こそが最大の分水嶺』

 

 サトゥルヌスの姿をした老人は拍手を止め、チェリーに危害を加えることも無く、泰然と佇んで静かに語りかけるのみだった。

 

『だが』

 

 あれはサトゥルヌスではない。少なくともチェリーの見たサトゥルヌスではない。

 ではなんだろう。疑問を覚え、途端、霊視が降りた。

 

 あれは彼の神に酷似した闇。

 死の結晶。

 命を刈り取る者。

 そして生を刈り取り、死を與えるがゆえに、()()()に現れる者。

 そして分岐点そのものがあの死神なのだ。

 

『この先に待ち受ける未来に安住はなく、安眠など望むべくもないと知れ』

 

『早々に夢敗れ、己が変わり果てた骸を荒野に打ち捨てるのみと知れ』

 

 サトゥルヌスの姿をした"なにか"が抱擁をするようにかいなを大きく広げた。呼応するように闇色の襤褸が体積を増していき、陰翳を揺らめかせる。

 襤褸のなかでスクリーンに映し出された映画さながらに未来が描かれはじめた。それはいくつかの情景。でもそのどれもが己の死を示していた。

 腹に鉛玉をぶち込まれて死ぬ。首をナイフで掻き切られて死ぬ。体を唐竹割りにされる。

 どれもが無残な亡骸を晒して、これから突き進む路の末路に、ろくなものはないのだとどうしようもなく語っていた。

 それでも進むのか、と言外に問うているのだこの老人は。

 

『畏怖れば喰われるぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『観れば盲るぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『聴けば腐るぞ』

 

 一歩を、踏み出す。

 

『触れれば死ぬぞ』

 

 一歩を、踏み固める。

 

 反響する言霊と暗澹たる未来を、時間を引き伸ばしてまで延々と見せられる。観客席でベルトに羽交い締めになって、頭を固定され、眼球をこじ開けられ、決して目を逸らせない。

 それでも少女は踏み進んだ、恐怖を蹴散らして蹴飛ばして──死神に手を伸ばした。

 

「黙れッ、アタシはそれでもッ」

 

 暗澹たる未来? 

 安住? 

 安眠? 

 

 ──知ったことか! 

 

 今、この時。故郷は石の骸となっいて、親も友人も悉く仮初の死を獲ている。今更、自分に待ち受ける試練がなんだというんだ。そんなもので翻させれると思うな。決死とは死を覚悟した先のものを言うのだ! 

 

『ならば死を賜う神たる余が祝福しよう』

 

 笑うように。

 

『ならば生を刈る神たる余が認めよう』

 

 嘆くように。

 

『余は死の象徴。死が濃密であればあるほど、生は輝きを増す。深淵に咲く一筋の光の如くに』

 

『一夜の担い手よ。──余がそなたの生を一等輝かせん』

 

 闇がほどけて本来の姿を現す。

 夜に隠れていた一振の刃を少女は見つけ出し、掴み取った。余人にとっては、絶望……。

 

「従えッ──ハルパー!」

 

 少女にとっては──希望を! 

 

 祐一に切り飛ばされ吹き飛んでいた死の具現を、彼女は求め、掴み叫んだ。

 刃が大きく湾曲し、剣よりも鎌に近く……それ故に神話においては不死の神々ですら効力を発揮すると謳われる死の象徴。そしてハルパーはその装いをこれまでより異にしていた。

 大人の背丈ほどはあった大鎌(サイズ)は、刃渡り三十センチ程のシックルへと変じていた。

 

 チェリーは今までハルパーを見つけるために奔走していた。祐一がサトゥルヌスを切り飛ばした際、飛んでいくハルパーを見たのだ。

 祐一に背負われサトゥルヌスから逃れる際、不自然なまでに無言を貫いたのも戻るための道を覚えるためだった。

 逃げ道ではなく活路を。

 まつろわぬ神々への対抗手段は限りなく少ない。だから彼女は急転直下を続ける苦境のなかで、彼女はひたすら状況整理に務めた。

 神ですら無視しえない武具が飛び交う戦場……だからこそ、人である自分にもいつか手にするチャンスが訪れると確信して。

 元の持ち主であるサトゥルヌスが拾うかどうかは賭けだった。それでも賭けに勝った。ハルパーは手の中にある。

 

 ハルパーを手に入れると、手のひらに激痛が生まれた。

 本来ならば冥府の冷気が凝縮され、死の具現ともいえるそれに触れれば定命である人など瞬く間に生を終えるはず。神々ですら当たり所が悪ければ死するのだ、当然の理。

 しかしチェリーは躊躇いもせず恐れることなく、触れ、握り、そして構えた。アテナへ向けて。

 

「アタシが今、どんな目に遭っても死なないっていったのはあなたよ!」

 

 心臓から沸き立つ不滅の火が、滅相の冷気と拮抗している。ヒューペルボレアという異界から持ち去られた火でもって、ハルパーの冷気を押さえつけた。

 祐一も、アテナも、誰も立ち向かうなどと考えてはいなかった。零時になるまでの時間稼ぎをしてくれれば、足掻く姿を見せてくれれば、それで御の字だと……そう思っていた。

 だがチェリーは違った。どんな理不尽が襲ってこようが抗うために走った。まつろわぬ神に敢然と立ちはだかった。

 

「ほう、ハルパーか。先刻まで気配を見せなかったが……そなたの手に顕れたか。なるほど、我が祖父の鎌であれば妾をあるいは傷つけれるやもしれぬな。

 しかし闘神アテナに剣一本で挑みかかるつもりか? 如何なる戦士も憚った蛮勇にも劣る愚の極みだぞ?」

 

 アテナの嘲笑を、彼女も笑い飛ばした。

 

「いいえ! アタシは──()()()()っ」

「企みがある、というわけか。しかし娘、その見事なる意気も意地も意志も無為に終わる。全ては遅きに失した……」

 

 暗夜の森のなかでアテナの眼光が満月さながらに浮かび上がる。闇はいっそう濃くなり、夜気が朝焼けの霧さながらに辺りに満ちる。銀月の髪がうねり蛇のごとくのたうった。

 異界の源は夜と蛇。

 祐一との出会い以降、常に這い回っていた気配を纏う女神は今夜の"異界の主(歪み)"に思えた。

 

『獣』の眷属──ウルフへドナー

 

 御伽の魔物──一つ眼トロール

 

 土地の神獣──リンノルム

 

 白熊王──ヴァレモン

 

 そしてまつろわぬ神──女神アテナ。

 

 ああ、確かに段階を踏んでいる。歪みの根源ともいえる。全ての元凶だ。物語の終着に蓋をする怪物だ。

 だが神獣からまつろわぬ神とは一足飛びに飛躍しすぎではないか。

 強大な冥府の気配にチェリーは後ずさりそうになった。

 

「刻限は来たれり。神殺しも祖父もこの場には居らず運命は妾を選んだ。──我、ゴルゴネイオンを得たり!!!」

 

 人など歯牙にもかけないと傲岸に宣告した。

 

「──()()()()()()!」

 

 それを阻んだのは誰であろうチェリーだった。ハルパーをアテナへ向け、まつろわぬアテナが何するものぞと声を張った。

 

「アテナ。あんたに……いいえユーイチにだって、ずっと言ってやりたいことがあったわ。

 あんたたちってホント舐めてるわよね。まつろわぬ神とかカンピオーネとか、出会ってからみぃーんな言ってることが一緒なのよ。口を揃えて人間がとか、死ぬぞとか、関わるなとか、諦めろとか……」

 

 大いなる存在を前に人に許された対抗手段など少ない。そしてそのひとつは"言葉"なんていう武器ですらない概念で。

 チェリーは億さず、躊躇うことなく嘯いた。

 言霊は偉大だ、神様を前にしても勇気を取り戻してくれる。この窮状では減らず口だって大いなる言霊だった。言霊は鼓舞だった。

 

 シックルとなったハルパーを大きく大上段に構えた。

 始めよう! 乾坤一擲、起死回生の一手を! 気取られるな、口を回せ! 思う存分侮ってくれ──! 

 

「ふん、アタシにそんなの関係ないわ。運命や因果なんて知ったこっちゃない。アタシはアタシの好きな様にやるだけよっ」

 

 チェリーは振りかぶったまま大きく大地を踏み込んだ。窮鼠猫を噛むという故事のごとく、泣きの一撃にアテナは慈心を見せた。

 愚かな人間の足掻きを受け止めようと、動き止め、手を掲げ──それこそ活路が拓けた瞬間だった。

 

「人だからとか女だからとかそんなのどうだっていい───()()()()()()()!」

 

 そのままハルパーを振り降ろした。──()()()()()

 

 

 

 

 ○〇●

 

 祐一とサトゥルヌスがヒューペルボレアの冥府の谷から持ち出した《光》と《闇》。それは相克する属性でありながら、どちらか一方が生き残ればまた片方も生き残るという永続性を備えていた。

 ゆえにサトゥルヌスは幾つもの策略をもって祐一から《光》を引き剥がさねばならず、引き剥がしたあとは彼自身も《闇》を捨て去った。

 

 永劫の戦いすら可能にさせる両翼一対の力。

 しかし、勝ち取った彼らはそれらを捨て去り──では手放された《光》と《闇》はどこへいったのだろうか? 

 

 霞のごとく消えたのか? 風に溶けて消えたのか? 

 いいや、そうでは無い。

《光》は消えたわけではなく贈られた──少女の延命として。《光》があれば《闇》もあるように、《闇》もまた捨て去られたあとも存在し続けた。

 

 ではどこへ消えたのか? 

 あるではないか"死の具現"と称され冥府の闇を宿すにふさわしい器が。ヒューペルボレアでサトゥルヌスが死を迎える事で顕現した神具が。

 サトゥルヌスが不死ならば祐一も不滅。そして祐一が『ミスラの松明』を持っていたように、対となるサトゥルヌスも神具を持ちさった。

 己の死によって形作られた死の結晶を神話において──『ハルパー』と呼ぶ。

 

 そして────。

 アテナが恋焦がれて追い求めた半身にして神具は、一体どこにある? アテナはなにを匣とし、今の今まで追っていたのか。

 そう、彼女の心臓にこそ、古の《蛇》にしてゴルゴネイオンは在る。

 

 サトゥルヌスの死骸が変異した──『ハルパー』

 木下祐一の冥府から持ち帰った──『ミスラの火』

 アテナの半身にして原初への標榜──『ゴルゴネイオン』

 

 そのすべてのが彼女に収束した。

 チェリー自身はただ巻き込まれただけだ。一体誰が、舞台のど真ん中に彼女が躍り出てくるだろうと考えただろう。

 それに彼女自身に、深い考えがあった訳ではない。ただ単純に、奪われてアテナを喜ばすより、手元にあるとんでもないもの同士ぶつかり合わせてぶっ壊してやろう。それくらいの考えだった。

 守るものがなくなってやけっぱち気味だった彼女は「どうせ死なないし、やるだけやってみよう。死なないなら自殺じゃない、だったら教義にも反してないし〜」くらいの軽い気持ちで行動を起こした。

 

「ぐ、ぅくううう……!」

 

 当然、チェリーは自身の人生史上最大の激痛に見舞われた。彼女のなかでは……これもまた当然だが……激烈な変化が起こっていたのだから。

 不滅を與える神具と、死の具現である神具が打ち合わさったのだ。神であろうが不死だろうが問答無用で死を與えるハルパーは十全に力を発揮し死をもたらした。ゴルゴネイオンが堪らずひび割れ、死毒の進撃はそれに止まらずゴルゴネイオンを内包し一体化していた少女をも飲み込もうとした。

 しかし死毒を阻むものがあった。祐一の贈った不滅の火。不滅を與える終わりなき蘇りを為さしめる神具であった。

 不滅の《光》は《闇》の跳梁を良しとせず、苛烈に燃え上がった。

 ただの人間の胎内で《光》と《闇》の戦場となったのだ。それは太陽と夜という天空の終わりなき闘いにも等しい。

 当然、激変する肉体は瞬く間に死に向かった。

 内臓を蹂躙し、筋繊維を断裂させ、血を沸騰させ、皮膚を壊死させ、髪を引き裂いた。

 だが、死ねない。死んでいるのに蘇らされる。循環する夜と昼のように彼女は生死を繰り返した。

 まさに生き地獄。ただの人の身では、高位神具の鎬合いに耐えきれない。繰り返される生と死に、肉体は消し飛んでもおかしくない。精神の崩壊は間近にせまっていた。

 

 だがチェリーは耐えた。

 なぜなら少女はもうひとつの()()を内包していたが故に。

 

 "死神の鎌"と"光明神の松明"。争い合い、相食む戦いのなかでもうひとつの神具が機能した。つまり古の《蛇》、またの名を、ゴルゴネイオン。

 ゴルゴネイオンは先刻砕けたはず。しかし不朽不滅の神具にとって、それは終焉を意味しなければ機能停止も意味しない。

 密かに修復と再生を繰り返した。そして《光》と《闇》の対決を目の当たりにし、ひとつの結論に至った。

 このままでは宿主は崩壊する、と。

 ……人の身では耐えきれないと判断したゴルゴネイオンは機械的に最適な動作を行った。暴れ回る相反する力に、神代の魔導書にして古き地母神へいたる標たる神具はとある道を示した。

 

 つまりは……

 

『ゴルゴネイオンはその原初ってやつに立ち返れる道具……つまり()()()ってことね』

 

 人の身体で耐えきれないならば──神に近づければ良いのだと。天にて《光》と《闇》が争うならば、それをも支える骨子たる土台(大地)を作ればいいのだと。

 大地は地母神の半身たるゴルゴネイオンの領分である。地母神の半身にして古の《蛇》と謳われるゴルゴネイオンが──生死を結ぶ『死と再生』を冠するのは当然。

 

 それはゴルゴネイオンに刻まれた叡智とゴルゴネイオンが『三位一体』を号する神具であったからこその奇跡。

 

《光》と《闇》を調和させる《蛇》としてゴルゴネイオンは機能した。

 不滅の光()冥府の闇()ゴルゴネイオン(死と再生)の三位一体が少女のなかで形作られたのだ。

 

 それはチェリーの肉体のなかで世界が生まれたにも等しき三つの神具からなる──()()()が織り成した奇跡。

 

 

 破壊と再生を繰り返すチェリーは、人から外れだした。壊死した皮膚の下から瑞々しい肌が、荒れ果てた頭髪は銀光を宿した銀髪が生え揃い、千切れたはずの筋繊維はしなやかで強靭なものへと。

 崩壊した脳は再生をはじめ、神代の記憶が流れ出した。主神から生まれ落ち、母を喰われ……いや、それよりも以前、かつては大地を総べる女王だった女神が英雄たちに敗北した屈辱の記憶が満々と溢れだした。

 

「妾は謳おう……」

 

 微かに残った自意識が自分がなにごとか喋っているのに気が付いた。意識は霞んでいているのに自分の意志とは関係なく明確に謡を口遊む感覚はおぞましい。自分が自分でない何かに乗っ取られる感覚が恐ろしい。

 自分の意識は、脳になくて、まるで魂魄になり果てたように皮膚の上を滑っていた。視覚も支配権を奪われていてなにも見通せない。口ずさむ感覚だけが明確にあって、煩わしい。

 だからチェリーは指のひとつを奪い返した。意地でもこの言葉を止めなければと決めて──指一本を、口に入れて舌を止めた。

 言葉が止まると指を起点にして自分を取り戻しはじめた。吐いた言霊を振り払うために、言霊を叫んだ。

 

「違う……違う! 私はっ、メティスでも、メドゥサでも、アナトでも、アシェラトでも、ネイトでも──ましてやアテナでもないっ!」

 

 言霊が力となる。本来の主は誰だったのか肉体が思い出す。ならば変わり果てた少女の瞳に宿るは人の意志。

 

「妾は、私は、わたしは、アタシはッ──チェリー・U・ヒルトだッ!」

 

 それは今宵限りの一夜の奇跡。

 なんという運命の悪戯か、三柱の超越者が企てた因果改変の宣誓は──たった一人の少女へ帰結した。

《運命》も《因果》も神の記憶もねじ伏せて。ひとりの人間、チェリー・U・ヒルトはまつろわぬアテナと対峙した。

 

 

 

 アテナは呆然と、この有志以来、稀にして奇っ怪なる現象を見ていた。理解は及ばなかった。智慧の神である自身が、忘我するなど何時ぶりだろうか。知恵の女神として生じて以来、途切れることの無い思考と知恵がはじめてぷっつりと切れた。

 

 光と闇と蛇。三つの神具が彼女のなかで溶け合い、絶妙なバランスと不可思議なまでの強固さで結びついてしまっている。事象はすべて正しく認識していて、だが、何故そうなったのか理解に苦しんだ。

 ただ、分かる事がある。……手にするべきゴルゴネイオンはするりと立ち消え、目の前の乙女のなかに消えてしまった。例え眼前の乙女を喰らおうが己は、古きアテナに立ち戻れることはないだろう、と智恵の女神は酷薄な悟りを獲た。

 

 ああ、祖父殿の失意が手に取るようにわかる。失意と虚無が無理やり感情の器に流し込まれ、自死すら視野に入ってくる。アテナの胸中はいかばかりか。彼女の心に浮かび上がったのは、怒りではなかった。

 因果を弄んだ報いだろうか……という過去への嘆きで、ゴルゴネイオンはこの世から消失したのだという虚無。

 しかし女神であり、知恵を司る聡明な彼女は、現実を受け入れた。

 

「クク……アハハハッ」

 

 口から湧き上がったのは怨嗟でも怒号でもなく高笑いだった。童女のように、幼く、甲高い笑い声。ここが深夜の森のなかではなく昼間の公園かと錯覚するほど無邪気な声だった。

 己は狂ってしまったのだろうか。アテナは笑いながら冷徹な頭で奇行にはしった自分を見下ろした。

 ああ、確かに運命は覆せなかった。アテナたる己にはもはや永劫ゴルゴネイオンは訪れぬ。すべては少女……チェリー・U・ヒルトという隠れ潜んでいた特異点に覆された。

 アテナは彼女と出逢い、加護を與えた瞬間から間違えていたのだ。加護を與えないか、あるいは、巫女ではなく愛し子としての加護を与えねばならなかった……その間違いがこの因果を産んだのだ。

 

 だが疑問もあった。

 これが運命という廻る天輪の望んだ結果だろうか? 嘲笑っているのは本当に善因善果悪因悪果を紡ぐ因果の小車なのか? 

 いいや、否だ。

 

「なる……ほど。神も、運命も、因果も、順縁すらも。全てを飛び越えたのは娘……いいや、チェリー・U・ヒルト。()()()であったか」

 

 ならば称えねばなるまい、すべての上を行ったこの少女を。

 賞賛とともに見事であると。

 嚇怒とともに不遜であると。

 

「見事だ、チェリー・U・ヒルト。希臘にて至高の女神たるアテナがあなたに讃辞と憎悪を贈ろう……されど、どれほどあなたが神に近づこうがやはり無意味! 不死なるアテナを弑することなど叶わぬ!」

「さぁどうかしら? アタシのなかの蛇が言ってるわ……今のアタシはゴルゴネイオンによって原初のあなたに近づいた偽物。でも偽物であってもあなた自身なんだってね。だからあなた(本物のアテナ)が為した因果改変の宣誓にだって()()()()()

 なら──いくら不死で他人に殺せないあなたでも、自分の手に掛かったなら話は別なんじゃない?」

 

 愛嬌のある表情で恐ろしいことを言う、堪えきれない喜悦に獰猛な笑みを浮かべた。賢しらに退くこともせず、愚かしく挑みかかってくるならば、全力で相対するのみ。

 

「よろしい。ならばチェリー・U・ヒルトよ、後悔するがいい! かつて妾に挑んだ人間アラクネのごとく、そなたの傲慢も打ち砕いてみせよう!」

 

 

 

 時の神──サトゥルヌス。

 

 神殺し──木下祐一。

 

 戦女神──アテナ。

 

 そして偽りのアテナ──チェリー・U・ヒルト。

 

 すべてのキャストは出揃い、舞台は整った。ベルゲンにて人知れず行われる戦いは最終局面を迎える。









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巨神の維持





 

 閃光が駆け抜けた。仕掛けたのは祐一、開放した権能は太陽の瞳。一切の不浄を許さぬ滅相の瞳だった。

 "観る"という動作は何よりも先に来る。故に最速の攻撃足りうる素養があった。

 

「闇を捨て去った余はもはや光など怖れぬ!」

 

 死神の大鎌すら失ったサトゥルヌスは無手だ。己が肉体のみで祐一の眼光へ挑み手刀で切り払った。

 雷切どころか光すら切り捨てた。出鱈目だ。時の王たる彼に速度など意味を為さないといえど、こうも容易く切り捨てられるとは。おそらく死の神としての職能を喪いそのリソースは『鋼』の神性に振り分けられたのだ。戦闘能力も格段に向上している。

 容易に踏み込めば取って食われると思わせるほどに。警戒レベルを最大に上げ叢雲を八双に構え……サトゥルヌスは祐一の警戒など取り合わなかった。

 

「祖を同じくする光明から別れ、唯一神に膝をついた天使より簒奪した権能。そなたは"太陽"と豪語する瞳は、真の太陽に敵うか──?」

 

 初手を様子見に使った祐一とは対照的に、サトゥルヌスは大きく仕掛けてきた。散りばめられた光の粒子が円を形成し、暗黒を映し出す。

 既視感と直感が囁く。あれは時空の扉だ。

 自分がヒューペルボレアからこちらへ渡ってきた折にくぐったものと同じで、ラグナや奈落の軍勢を呼び出す際に現れるものと同質の機能をもつゲートなのだと。

 ならばあの奥に見える光景は、サトゥルヌスの召喚するものの住まう場所。

 読み取れ、あの予備動作から情報を読み取るんだ。

 目を眇めて闇を見据え……しかし闇があったのもつかの間、すぐに切り替わった。

 拍子抜けした祐一は、直後、目を()()()()。最初に感じたのは極大の光。祐一の輝く瞳という太陽さながらの瞳でさえ視力を失うほどの極光。

 

「──は?」

 

 祐一は驚愕とともに、サトゥルヌスが一体何処……いや、なにを招来したのか看破した。

 権能であり太陽神の一端ですら眩ませるもの! 見えぬものなしの瞳を焼く眩い光! そんなもの世にひとつしかない。

 つまりは──()()()()()()である! 

 

「馬、鹿、か、お前ぇぇぇぇええええええええ!!!」

 

 太陽!? 太陽をぶつけてきやがったのか!? 此処でェ!? 

 確かに祐一にも『白馬』という太陽の欠片をぶつける権能はある……確かにあるのだが……断じて、正真正銘の太陽をぶつける訳では無いのだ。勢い余って地球が滅亡しそうな威力は流石にないのだ! 

 加減しろバカ! 叫びたい気持ちを殺して、対処に追われた。コズミックなスケールから繰り出される大熱波が大気を焼き焦がし、祐一を喰らわんと牙を向いたのだ。

 逡巡などもってのほか。一も二もなく『鳳』の手札を切ろうとし──疑問が湧いた。

 

 ここで退いたらベルゲン……どころか北欧が吹き飛ばないか? 

 それは走馬灯だった。正直、思い出したくもなかったが過去、怨敵ヤマトタケルがヨーロッパで仕出かした大災害を思い出した。

 太陽は地球の倍する質量をもち、太陽フレアだけでも地球を飲み込む広さと威力があるという。それで地球は無事で済むのだろうか──否である。

 

「こん、ちく、ちょぉぉぉおおおおおおお!」

 

 祐一は決断した。『輝く瞳(glaukopis)』を全開にして真なる太陽と拮抗させる。

 突如、欧州の夜に光が生まれ昼同然になり、世の魔術師達が北欧での異変に気付いたのだが、それはそれとして祐一は現状打破に思考を巡らせた。拮抗は不味い。権能にも呪力にも限界はあるのだから。

 呪力が一気に目減りしていく。ただの一手でサトゥルヌスは一気に有利になってしまう……それでも祐一は止められない。サトゥルヌスの祐一の性格を読み切った作戦勝ちであった。作戦とは。

 

 どうにかしなければ……! と、そこで一つの思考に繋がった。自分は隻眼だ、と。

 元々、この権能を簒奪する以前から隻眼で、『輝く瞳(glaukopis)』を簒奪すると共に快復した……だったら試す価値はある。

 瞳が無くなったのは権能の消失を意味しない。権能の根源は己が呪力であり、太陽。故に拮抗ではなく──融和を選択せねばならなかったのだ。

 

 祐一は一度目を瞑って、両の瞼を見開いた。右の瞼から空洞の眼窩が現れ、同時に太陽光が降り注いだ。

 ブ、ボボッ! 光線が少年の前でわだかまり、熱の塊となって火球へと変じていく。眩い光輝は根こそぎ祐一の瞳に奪われていった。

 その日、太陽が日食さながらに光が消失し、地球は北半球のみならず南半球までも少しばかり夜に閉ざされた。

 ふたたび目を開いた後には生え揃った双眸。大量の冷や汗をかいてしまったが凌いだ。太陽すら退けた自分を褒めてやりたい気分もあったが、咄嗟に叢雲を構え──強襲。

 

「凌いだが、それでこそ我が宿敵」

「わざわざ、瞳を取り戻してくれるなんてな! これもどうせ想定内なんだろう!」

「左様! アテナとの小競り合いでそなたは瞳を消費してしまった……余が打ち倒すそなたは万全のそなたでなければ意味がないッ」

「は! 言ってくれるぜ」

「そなたの奪われた智慧の剣も、余ならば取り戻すことも容易だぞ?」

「敵に塩を送るのもそこまでにしなッ、剣が鈍る!」

「その意気や良しッそれでこそ我が好敵手!」

 

 祐一は死域へ入った。剣を構える。大上段。八双の構えを捨て去った。命を捨てた。

 サトゥルヌスの全力を垣間見て、自分がまだサトゥルヌスを甘く見ていたことを悟り恥じた。

 命を投げ捨てるこの構えこそ、サトゥルヌスへ対峙するに相応しいと思った。

 最源流の『鋼』を内包する祐一と、時と『鋼』以外削ぎ落としたサトゥルヌスの戦いが野山を砕く。刃の嵐が吹き荒れる。拳の弾雨が舞う。

 サトゥルヌスは徒手空拳をつらぬき、手刀と貫手、殴打で神刀と渡り合った。祐一は苦渋を浮かべた。武器というアドバンテージがあろうと、『鋼』としての武もあるが未来視による先読みが刃の接近を許さず掠らせない。

 前傾姿勢をとって剣を振れば、躱される。未来視で、構えただけの拳が頬に突き刺さる。右脚で横っ面を蹴りあげようとすれば、待ち構えていた肘と膝で挟み撃ちにされる。容易く背後を取られ、貫手が脇腹を貫いた。

 全ての挙動が見透かされている。

 過去のサトゥルヌス戦など児戯だったと悟らせるほど剣は外れ、相手の拳はおもしろいほど決まった。

 

 これじゃぁ、駄目だ。鼻をおさえ鼻孔に溜まった血を抜く。どうせ生殺与奪権を握られているようなものだ、愚かしく自分の命を護っても仕方がない。

 出し惜しみもなしだ。今度こそ『鳳』を行使する、ただし神速域には入らない。

 

「ほう、此度はウルスラグナの権能……『鳳』に化身したか」

「……」

「神速とはそのままただ単に速度をあげるものもあれば、距離や時間を歪めるものもある。強大な権能で法則をねじ曲げるのだ。そして『鳳』は後者の部類に入る。それも到達時間を限りなく縮めるものだ……つまり囁かながら時間操作の権能でもある」

 

 祐一は剣で口元で隠しながら下唇を噛んだ。全知への脅威は十分に理解していたつもりだったが、手強いなんてものじゃない。まるで子供と大人が喧嘩しているような歴然たる差があった。

 

「余の未来視にもいささかズレが出るやも知れぬ。侮りはせぬよ……そなたは神殺し。可能性の化け物。そのズレをこじ開け、勝機とする勝利餓鬼。それを発端に倒れた余がいることも識っておる」

 

 サトゥルヌスが何かアクションを起こす前に祐一は疾駆した。懐に入って腹部をかっ捌こうとして──指の腹で止められる。

 驚愕で瞠目する。神速で振るった剣を指で止めるなど如何なる武神も躊躇う難事だ。完璧なタイミングと完全な動作、そして運さえ噛み合えば確かに可能性はある……が、出来るかどうかは別だ。サトゥルヌスの底知れなさに総毛立つ。

 サトゥルヌスが硬直した祐一の目を覗き込んだ。深淵と狂気を介在させた瞳からはなにも読み取れない。

 

「弱いな。命を捨てても余の前に手も足も出ぬとは……いささか買いかぶりが過ぎたかな」

「ッ!」

「それでは──故郷を焼かれるのも、やむ無しというもの」

「…………なんだと」

 

 声が低く唸った。獣の唸り声だった。

 それは祐一にとって聞き捨てならない言葉。決して帰らぬと誓いながら忘れられない祐一にとっての聖域。

 挑発でも乗るしかなかった。故郷を焼かれるなどと。虚言であっても許すことは出来ない。

 

「故郷が焼かれる、と言ったのだ。何度でも言うぞ、そなたの故郷は焼かれる。そなたの親兄弟友同胞総ては死に絶える」

「巫山戯るな!」

「余は策を弄そうとも虚言は弄さぬ。故郷は略奪され劫火に焼かれ、滅びの浮き目にあう。それもヤマトタケルと王国の聖なる劫掠──トーイン(襲撃)によって」

 

 ヤマトタケル。

 その名を聞いた途端、総ての猜疑は千の言葉を語るよりも信じるに値する答えとなって彼を一撃した。

 奴が来る。奴が来る。奴が来る──故郷に。

 祐一の全身に悪寒と震えが走った。彼の神は祐一にとって忌むべき存在であり、憎むべき存在であり……いや、簡潔に言うならばトラウマだった。

 

「本当に来るって言うのか……あいつが……」

「逆に問おう。来ない理由があるか?」

 

 祐一の剣が完全に止まった。沈痛な表情を浮かべて苦悶した。

 これがサトゥルヌスの揺さぶりならば、大したものだと叫んで唾したかった。今すぐにでも此処を飛び出して、故郷に舞い戻りたかった。

 しかしサトゥルヌスが薄く笑う。

 

「意趣返しだ。かつて余が去ろうとし、鎖を繋げたそなたへのな。余がそなたを打倒した後、草薙護堂や麗しき神殺しという大敵が控えているように、そなたにもヤマトタケルや因果律の道化どもと相見える未来が待っている」

「…………」

「そう思えば 、そなたは先刻のような腑抜けた剣は振るえぬだろう? 命を捨てだけの剣など揮えぬだろう!」

 

 ああ、そうだ。ここで終われない。終わってたまるか。闘志と活力が満腔より溢れて風を作った。

 

「それでこそ我らの死闘は成る──さあ時としての力は十分に見せた。ならば余のなかに眠る巨神(クロノス)としての力を見るがいい!」

 

 クロノス。ギリシャ神話の神で、かつてはウーラヌスを降して全宇宙を統べた神王だ。子たるゼウスに敗北しタルタロス、或いは、カピトリヌスの丘に追われた逸話が残る……サトゥルヌスと同一視された神。

 ローマ人は神話をギリシャから輸入し、神々もそれらに対応する形になった。ゼウスならユピテルが相応となる神で、クロノスであればサトゥルヌスが相応する。

 ならばサトゥルヌスも巨神(クロノス)としての力を揮えるのだ。

 

「天空神ウーラヌスより余は王位を簒奪した。ならばそなたが化身し、天空を飛翔する『鳳』の羽根をもいでしまおう」

 

 直感と悪寒が、距離を取れと叫んだ。しかし遅い。己の内から『鳳』の絶叫が聞こえ、両翼をもがれた神鳥を幻視した。

 

「隙だらけだぞ木下祐一! 『戦士』を奪われたのも己の不甲斐なさ故だったのは忘れたか!」

「クソ!」

 

『鳳』の羽根はサトゥルヌスが獲て、サトゥルヌスは神速に入った。速い。いや、速さもさることながら変幻自在だ。

 緩急をつけ、神速から停止を繰り返し、姿を消しては再び現れる。まるでこれが本来の使い方だと言わんばかりにサトゥルヌスは祐一を翻弄し、ついでと言わんばかりに右肩を砕いた。絶叫しながら片膝をつき、たまらず権能を行使した。

 

「草原を駆け抜け威風を散らせ、蒼き大王の前肢よ!」

 

 狼を呼び出す。『 神鞭の騎手(Wargs domination)』だ。

 逃げ出そうという祐一にサトゥルヌスが腕を振る。神の意思に応えて大地が盛り上がり、祐一の進路上に剣山が誕生した。それを突き破って、天空を駆け抜ける。

 

「逃げに徹するか!」

 

 サトゥルヌスの叫びが胸を打った。己の不甲斐なさが口惜しい。

 血が滲むほど奥歯を噛んで──愕然とした。後方から膨大な神力の高まりを察知したのだ。

 サトゥルヌスが逃げを許すはずがない。全知であれば必ず先の手を打つ。そして祐一には見えた、天を覆うほどの光の粒子が輝いているのを。

 

「そなたが稲妻に匹敵する速度で逃げを打つと言うならば、余は、頭が星を摩し、手を一方に伸ばせば西の涯、他方は東の涯にも達する()()で壁としよう」

 

 天が堕ちてくる……いや、大地が広がっているのだ。ガイア(大地)の歓喜に呼応して。天を降せと叫んでいるのだ。

 

「来ませい、"ガイアの怒り"よ!」

 

 光の粒子の先に、()()()が居る。火を放つ赤加賀知の眼光が、ひび割れた夜空から這い出してくる。腿までは人の形を保った異形が、粒子の扉に手をかけてずるりと蛇がのたうつように顔を出す。

 

「さぁ、木下祐一よ! 応えてみせろォォ!」

 

 サトゥルヌスの咆哮が忘我しそうな祐一を現実に引き戻した。眼前の光景があまりにも非現実で、空想に逃げたのか本気で疑った。

 しかし敵がいる。宿敵がいる。サトゥルヌスが居る。ならばここは間違いない現実なのだ。

 

我ら(巨神族)の意地ッ、最後の足掻きッ! 我ら(巨神族)と、我らを奉じ敗北し虐げられた人間の怒りが生み出した希臘最大最強の威容を見るが良いィ!」

 

 ───"怪物"テュポーン、招来。

 

「サトゥルヌス、お前!」

 

 星にも等しき巨神が、堕ちてくる。世界を容易く呑み込む巨体が北欧を押し潰さんと降ってくる。

 逡巡などなかった。身体が無意識に動いた。ここで動かねば、ヤマトタケルの大切断のごとき破壊が起きる。それを許せば……己が居た次元と同じく()()()()()()()

 

「──────」

 

 口訣は絶叫だった。言霊は咆哮だった。聖句は祈願だった。呪力だけではなく生命の根源(オド)すら権能に叩き込んだ。

 余力など一切考えない一点突破。現状祐一が持ちうる最大級の一撃でテュポーンへ吶喊した。

 一条の閃光がテュポーンの胴体に突き刺さり、勢いを殺しきれなかった巨神が"く"の字に折れる。

 

「お、ぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおっっっ!」

 

 それでも止まらない。完全に脅威を消し去るまで祐一の進撃は止まらない。果たしてテュポーンを光の先へ突き返した。余力は少なく、だが、休む暇もない。

 遥か大地の上でサトゥルヌスが、空の戦いを見上げていた。距離はそれこそ天と地ほど離れている。それなのに──目が、合った。

 

「我が末弟を押し返したか。その一騎駆けはやはり恐ろしい……「──しかし、足が止まってしまえば木偶だ」

 

 サトゥルヌスが眼前に現れた、それも、光の粒子を伴って。祐一は悟った。テュポーンは陽動だったのだ。あの巨神を足止めだけに使ったのだ! 

 ……サトゥルヌスは端からテュポーンで決着をつけようなどと考えちゃいない! 

 

 騎乗していた狼を影に戻し、大気を足場にステップを踏んで距離をとる。

 光の粒子がサトゥルヌスに随伴しつづけ、とぐろを巻いている……アレはまずいッ、距離を置こうと跳躍し見てしまった──サトゥルヌスが銃を構えている姿を。あの銃には見覚えがある……あれはビアンキからチェリーが受け取っていた銃だ。

 何故、今あれを。

 疑問に思うより早く撃鉄が鳴り響いて、()()()()が発射され……触れた途端、意識は白に溶けた。

 

 

 

 

 ○〇●

 

 

「サトゥ……ッ!」

 

 飛び起きて走り出そとし──盛大に転けた。

 

 ドンガラガッシャーン! 頭から箪笥に突っ込んで家中に豪快な音が鳴り響いた。畳の敷かれた床に身を横たえて、打った場所を擦る。

 っ痛ぇ……ってかここ何処だ? 辺りを見渡す。

 ここは木造建築の屋内で、小さな部屋のなかにいるらしい。どうにも寝かされていたようで手元には指に引っかった毛布があった。

 

「ここって……」

 

 知らない場所、()()()()

 見覚えがあった……すぐには気付けなかっただけで。だってここは二度と帰らないと決めて、二度と敷居を跨ぐことはないと諦めていた場所。

 此処は家だった──懐かしい故郷の我が家だった。

 

「何やってんだよ兄貴。朝っぱらからうるさいぞ」

「祐、二……?」

「は? なに寝ぼけてんのさ?」

 

 引き戸を開けてひょっこりと顔を出したのは、弟の祐二だった。何故、という疑問が溢れるより先に目頭が熱くなって毛布で顔を隠した。懐かしい匂いだった。記憶に残った自分の布団の匂いだった。

 震えた。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなサトゥルヌス。

 

 なんなんだこれは。

 

 

 実家だった。母も父もいた。愛犬の桔梗もいた。

 慣れ親しんで記憶に染み付いた景色は、眼前にたしかにある光景と寸分の狂いもなくて、逆に脳が混乱してしまう。

 二階の子供部屋から下りて、一階に行くと父が家の仏壇の前でお経を唱えていた。信心深い人ではないけれど習慣だからと笑って、欠かさず念仏を唱えるのが日課だった。線香のにおいが鼻先へきて、まだ幼い時は正座する父の膝にのって念仏を唱えていたなと記憶がよみがえった。

 母は弟と朝食を食べていて、さっさと食べなさいと促されて席についた。記憶と全くおなじで混乱が酷くなった。箸を使うのは久しぶりで、少し覚束ない手つきで口に運んでいたら"お母さんの作ったご飯が気に入らないの"と母に睨まれた。

 記憶で知ってる母そのままだった。

 疑問が渦巻いて、母から今日は学校だと言われてブレザーを渡されバックを持たされると逃げるように玄関を出た。

 庭先には桔梗がいて、出掛ける時は一撫でしていくのが日課だったから、それを期待して膝に飛びかかってきた。

 毛皮の模様も、獣臭も、毛触りも、はしゃいで噛み付いてくる仕草も、全部既知のものでおかしくなりそうだった。

 学校へは徒歩で通学していた。距離が遠ければ自転車通学が許されるのだがギリギリ範囲に入ってなくて祐一は徒歩だった。

 

「おう祐一! 今日も歩きか!」

「…………。秀?」

 

 自転車に乗ってあらわれたのは親友の荒木秀信だった。

 乗っている自転車が可哀想なほど大柄で、磊落な気性を隠す気がない故郷の友人の一人。大きな手で今日も背中をばしばし叩かれた。痛みは本物で懐かしいものだった。

 

「なんじゃあ、たった一日で親友の顔も忘れたとや? 薄情なやっちゃのう」

「……すまん」

「は、とことんらしくなかの」

 

 ケツん乗れさ、と言われて腰掛けると人1人を背負ったというに抜群の安定感で漕ぎ出した。大柄でいつも制服をパンパンにしている彼の背中は大きく、でも知っていた。

 腕が太すぎてよく制服を破いてしまって、特注にしなくちゃいけないから小遣い減らされた、と落ち込んでいたのを覚えている。

 

 白南風が髪をさらう。風のささやきが世界の奥行を語った。此処は本当にサトゥルヌスの作り出した空間なのだろうか……疑念が渦巻いて呼吸を潰すような唸り声を出していた。

 友人の顔が、いや、故郷の顔ぶれが記憶のそれと同じどころかそれ以上の彩度と精度をもって祐一を一撃しつづけた。

 心のやわらかい部分を引き裂きながらも、痛みの後にはしる快感が、どうにも脳裏に焼き付いて、求めてしまって避けがたかった。

 

「お、おいおい。祐一、靴のまま校舎に入るやつがあるか」 

「え?」

 

 ああ。そういえばそんな習慣もあったな、と思った。思考の海から浮き上がったらもう下駄箱にいて、リノリウムの床を土足で歩いていた。

 ずっと海外生活……と言っていいのか分からないが日本から離れていて忘れていたな、と笑って。

 

 ショックを受けた。

 

 変わってしまった。忘れたくないと思っていたのに、気づかないうちに。顔面から熱が失われていくのを感じて蒼白になっているのだろうか、とぼんやり思った。

 

「お前今日おかしかぞ、帰って休んだらどうや?」

「…………。そうだな、そうさせてもうらうよ」

 

 先生に……言っといてくれ。そう言い残して足早に校舎を抜けた。秀の視線を背に受けたまま。

 近所の顔見知りが挨拶してくる。忘れ物したのかと巡査が声をかけて。原付に乗った秀のおやじさんが手を振ってきた。

 全てを無視した。避けるように進んで家から遠ざかって、自分と幼馴染みたちしか知らない通り道を走って、町の喧騒から逃げた。家には戻らなかった。山を登った。

 

「なんなんだよこれぇ……ッ」

 

 お気に入りの山のてっぺんで故郷を見下ろすと、耐えきれずに崩れ落ちた。

 

「なんだってこんなに懐かしいンだよ此処は……! 匂いも風景もみんなの顔も、全部一緒なんだ……糞がッ巫山戯んなよッ!」

 

 梅の木に縋りつく。手触りも忘れかけていた枝の形も葉の色も鮮明になって目の前にあった。

 

「此処は故郷じゃないんだよな、頼む戻してくれ、戦場に! 頭が……頭がおかしくなりそうだッ!」

 

 くずおれたまま項垂れて叫んだ。これは精神攻撃なのか、だったらもう十分だ、やめてくれ。

 仕向けた下手人であるサトゥルヌスにすら懇願し、どれだけ時間が経っても、救いの手は現れなかった。

 

 

 時を置いて、家に戻ると桔梗が飛びついてきた。わんわん、と聞き慣れた鳴き声で祐一を呼んで、仕方なしに傍によって撫でてやる。

 

「もう帰らないって決めたのにな」

 

 呟きに構わず桔梗はなんでか撫でていた右腕に噛み付いてきて、右腕に佩いた叢雲がいたらどう反応したのだろうと笑った。

 ここは故郷そのものだった。違和感を感じ取れない郷愁を慰めてくれる素敵な場所だった。

 それが虚飾と汚穢に満ちた世界でも。祐一は現状を受け入れた。家出する気になれなかった。

 受け止めた想いと力を腹に溜め込んだ。

 

 

 

「喧嘩しよう」

 

 秀信に空き地に呼び出され姿を現すと、彼は腕を組んで言い放った。

 

「なんで」

 

 だ、と困惑気味に問いかけようとしたら最後まで口にする事なく秀信の拳が頬に突き刺さって吹っ飛んだ。秀信の吼笑が轟いて、祐一は頬を抑えながら立ち上がった。よくも、と。

 

「おいどんの喧嘩にそがんたいそうな理由が必要かぃ!?」

 

 すると秀信の叫びが突き刺さった。

 でも荒木秀信という友は人間という範疇から逸脱した、例えれば時代を間違えて生まれた傑物だった。でもだから、木下祐一という存在と友誼を結べた。しかし人間でしかなく……そうか、と唐突に悟った。自分はいま神殺しの身体じゃない。なら、コイツとガチの喧嘩ができるじゃねぇか! 

 

「いらねぇなぁ! やろうぜ!」

 

 祐一は深く考えるのを止めた。そうだった、ウジウジ考えているのだって"似合わない"とパルヴェーズにも言われたじゃないか。

 秀信は両拳を構えて、殴りかかった。空手で言う山突きという二撃必中の拳だ。

 顔面への一撃は首を振って、腹に向かった拳は手のひらで受け止めた。防御は反撃。拳に打ち込まれた力の流れを、そのまま貫手として秀信に返す。白刃取りで止められ、馬鹿げた膂力で投げ飛ばされた。

 2.3メートルほど飛ばされて流石、と笑っていると眼下で不穏な動きをする秀信を捉えた。こうか? と呟いて息を吸いながら地面を蹴りあげた。

 内息で力を溜め、地面を蹴った反動を力と変える。それは『気』の基礎中の基礎で。

 秀のやつ、俺でも一週間はかかった『気』の使い方を見様見真似の一発で! 

 

「やっぱお前バケモンだよ!」

 

 巨体が数メートルも跳躍して迫る姿は素直に恐ろしい。それでも臆さない。『鋼』と鎬を削った祐一には見慣れた光景でもあった。

 祐一は愉快げに笑いながら鉄槌さながらの蹴りを掴んで、体を捻って地面に叩きつける。

 

「おいがバケモンなら、おいを投げ飛ばして笑うお前はなんや!」

 

 と秀信は全く気にした様子もなくすっくと立ち上がって呵呵大笑した。

 友の明け透けな大笑いを聞いて、耐えきれず笑みを吹き出す。なんだか吹っ切れた気がした。家出する前の、まだ無邪気で純粋だった頃の自分に戻れた気がした。

 

「なぁ秀! 最強の守りってなんだと思う!」

「後ろ向きじゃのぉ! 攻撃こそ最大の防御」

「はは! お前らしいや!」

 

 拳戟と打撃音がそこかしこに響いて、祐一は友の想いと記憶を腹に溜め込んだ。

 

 

 お気に入りの山にまた呼び出された。今度は別の友人で正木隆と言った。秀信といい勝負のガタイの良さで、彼もまた時代を間違えて生まれた少年だった。

 胡座をかいて、町を見下ろす。口数は少ないが彼がなにか話したい時、上機嫌な時はこうして語らうのが常だった。

 

「ふ、ボコボコにやられたらしいな」

「俺だってやり返しました〜! ぷっぷくぷ〜!」

「そうか。だがこれは染みるな。失敗だったか」

 

 そう言って懐からおもむろに出した代物を、二人の間に置いた。人を殴り殺せそうな品のある一升瓶だった。

 

「吟醸じゃん! って、どうやって買ったんだよ?」

「少し足を伸ばしてな。地元でもなければ子供には思われん」

 

 確かに190cm越えの巨漢を14歳だと思う人間はいない。

 

「金は?」

 

 ふっと笑って誤魔化した。祐一もニヤっと笑って隆の持ったお猪口に注いでやる。町を眺めながら、少しだけ世間話をして、記憶に差異や誤差もなくて……此処が居心地良くてたまらない。自分が戦士であった過去すら忘れそうになる。

 

「なぁ……最強の守りってなんだと思う?」

「守りか」

「ああ」

「どんな目に会おうが……最後まで立っていることだな」

「そっか」

 

 一息に呑み込んだ隆からお猪口を渡されて、受け取ったら注いでくれた。祐一も一気に呷って、喉を焼く酒精は傷口に染みた。

 

「それじゃあやるか」

「は?」

「まあなんだ。俺はお前や秀ほど勝ち方に拘らない」

 

 唐突な言葉に言葉を失っていると、隆が口角を釣り上げる不器用な笑みを浮かべた。獣じみた笑みだった。

 

「だからなかなか勝ちを拾えん好敵手が弱っているのなら、叩く」

「こ、こんにゃろ……」

 

 あとはいつも通りだった。

 祐一は友の強かさを腹に溜め込んだ。

 

 

 

「あはは。酷い顔だ」

「う、る、さ、い」

 

 今日は田中秋文に連れられ大型ショッピングモールを引きづり回された。

 

「はいこれ持って」

「怪我人だぞテメー」

「僕は殴らないから許してよ。

 それにさ、祐一くんも秀信くんも隆くんも勇気くんも、みんな頑固なくらい服一着しかお洒落しないじゃない。制服かジャージがあったら死んでも着てそうなくらい無頓着なのどうかと思うよ」

「そ、そ、そんなことはないぞ?」

 

 目、泳いでるよと秋文は笑って商品を眺めはじめた。彼は祐一の旅を知らないはずなのに、的確に痛いところを突いてくる。勧の目、と言うやつだろうか。

 穏やかで平凡な風だが侮れない。そんな少年だった。

 小一時間してベンチにぐったりと腰掛けた。人の買い物に付き合うことほど疲れることない。

 服なんてちんちん隠せれば襤褸切れや腰蓑だけでもいいと思っているナチュラルボーン蛮族な祐一にとって苦痛でしかないのだ。

 

「お疲れ様」

「もう付き合わせんなよ」

 

 肩を揺らして秋文はにっこり笑った。こいつ……と苦笑いして。

 

「変な質問するんだけど。秋はさ、倒せない敵が出てきたらどうする」

「本当に変な質問だね」

「そう言ったろ」

「そうだけどさ。……うーん、倒せないなら戦わない。話し合えばいいんじゃないかな?」

「話し合いかぁ……めんどくさいな。殴った方が早そうだ」

「その蛮族思考ホントにどうかした方がいいよ?」

 

 馬鹿とは言わない友人の優しさに苦笑いしつつ、祐一は友の優しさを腹に溜め込んだ。

 

 

 

「この青い電線が低圧線っていって100/200Vの電気が流れててー、上の黒い線が6600Vくらいあるから気を付けてね」

「それは分かったが……俺は一体何をさせられているんだ?」

 

 祐一は友人のひとり森勇気とともに、電柱を登っていた。どこから調達したのかヘルメットを被ってひょいひょいと猿みたいに登っていく。

 どうせろくでもない事なんだろう、と半眼でついて行きながら天辺に到着した。

 

「で、何しに来たんだ」

「ここからだと見えるんだよ!」

「なにが」

「女湯!」

 

 パコん! 一も二もなくぶん殴った。

 ほら見ろこれだ、野放しにしてたらろくな事をしないが、監視しててもろくな事をしない。

 サムズアップして白い歯を見せる友人をここから突き落とせと心が叫んだ。

 

「はぁ……もういいよ。なあ、勇気はさ、全部知ってる敵と戦わなくちゃならなくなったら……どうする?」

「相手より早く殴ればいいじゃん」

「ダメダメ。全部攻撃は見透かされて防がれちまうんだ」

「それかー、だったら……」

 

 うんうんと考えいる勇気を眺めながら答えを待っていると、地面の方から大声が叩きつけられた。

 ヘルメット返さんかい悪ガキども! という言葉に友人を振り向けば、姿はなかった。

 

「あ、てめ!」

「わはは!」

 

 どんなバランス感覚と身軽さがあれば可能なのか、電柱の1番上から伸びる電線……架空地線をタイトロープに見立てて隣の電柱に走っていた。

 祐一が自分も、と立ち上がろうとすると勇気の眼光に怪しい光が点った。

 

「させない! ──必殺ッ"1万キロカロリー・血糖値スパイク"ッ!!!」

「ブハッ!!」

 

 どこから取り出したのかシュークリームを手にした彼は、素晴らしいアンダースローで投げつけ、見事祐一の口の中に叩き込んだ。

 

「さっきの答え! 僕なら相手の手の届かない場所まで逃げるよ、今みたいにね!」

「そーはよ!!!」

 

 シュークリームの甘みを味わいつつ、下の方で叫んでいる現場作業員のおっちゃんをどう宥めるか頭を痛め、祐一は友の奔放さを腹に溜め込んだ。

 

 

 何日も経って、心に巣食うのは敵の倒し方だけだった。どこまでいっても神殺しなのだと、そう悟らずにはいられない自分の惨状に苦笑いを零した。

 

「ありがとう……ここが何処だがわかんねえけど答えは見つけたよ。行ってくる」

 

 俺は前に進む。死地でもなんでも前へ。

 腹に貯めた力を解き放つ。激烈な力の奔流が祐一の瞳に集中収束し、こめかみから目にかけて血管が浮かぶ。目は対象を詳らかに観測する器官だから、まがい物の真実は見にて破られる。

 破邪の瞳がサトゥルヌスの神力を断ち切った。

 

 

 ○〇●

 

 

 夢。夢を見ている。

 なだらかな荒野に自分だけがいて、さくさくと小気味良い音を鳴らして歩を進めていた。地面にはまばらに淡雪が降り積もり、渺々とした大地を踏みしめ進んでいる。

 太陽は姿を見せず、辺りは少し薄暗い。

 ふと、彼が足を止めた。目の前にはいつの間にか断崖が聳えたっていて先へ進むには登るしかない。

 顔をあげる。影がさした顔が顕になり真紅の瞳が覗く。苦癖っ毛の黒髪には白髪が交じり、学生が着るようなブレザーには少し不釣り合いだった。

 右手には忽然と現れた刀を手にし、彼は──敵の前に立った。

 

 断崖の上には人影があった。ひとつではない。両の指ではおさまらない数の人影。

 雲に隠れていた太陽が顔を覗かせる。光が未知を切り払う。人影を知っていた。人ではなかった。神だった。

 ヤマトタケル。

 影色の女闘神。

 カズハズと同じ瞳をもった若き神。

 ロスタム。

 見覚えのある神々だけでも半分には至らず、まつろわぬ神群に祐一はたった"独り"で対峙していた。

 夢。これは夢だ。

 けれど決して幻想などではなく、いつか起こりうる未来の映像なのだ。

 

「お前たちとの戦いはまだ()()()

 

 祐一は彼らに向けて言い放った。

 

「先約があるんでな……帰らせてもらうぜ。でもいつかお前らは倒す。だって俺は──"神殺し"なんだから」

 

 そうだ、己はどこまで行っても"神殺し"。在るべき場所へ、弑する神のいる場所こそ自分の居場所。神々と逆縁を結ぶからこそ戦場は棲処であった。

 神殺しの『獣』は不敵な笑みとともに首へ黒い剣を添えて自刎した。

 

 

 ○〇●

 

 

 視界はあるべき場所へ戻っていた。戻ったのだ、戦場へ。目の前にはサトゥルヌスが傲岸に立ち、ふらつく祐一を睥睨していた。

 

「……甘い夢、ってやつか……」

 

 昔、イランの荒野で似たような夢を見た記憶があった。あの時は、父と母と弟がいて……今度は故郷だけじゃなく出逢った人達まで。

 いい加減、自分の女々しさに頬が焼かれそうになる。

 

「でも……。感謝するよサトゥルヌス……少しだけ昔を思い出せた」

 

 祐一の言葉にサトゥルヌスは視線を向けるだけで、すぐさま襤褸を翻して貫手を構えた。

 

「……よく、戻ったと賞賛すべきか」

 

 湧き出る宿敵の殺意に懐かしさすら覚え、叢雲を大上段に振りあげ──悟った。腕が、鈍ってやがる!? 

 

「夢だと思ったか。しかし実際にその身体を、実在する"未来"へ送り込んだ……神殺しとしてではなく、人の子としてな」

 

 あの日々はそのまま現実だったってことか! あの時間……およそ数日の間、カンピオーネでなくなってた。つまりカンピオーネであるあらゆる恩恵が寸断されていた事を意味する。

 カンピオーネに新生すると身体だけでなく神経や思考すらも変容する。常に戦いに備え、休息時や眠っている間でも戦いが思考の片隅にあるのだ。それが一時、人の身体となった。つまり。

 常在戦場が崩れ……──っ! 

 

「必殺の一撃を揮うは──()()

 

 サトゥルヌスは必勝の策は成った。

 膨大な神力の開放。光の粒子が周囲に煌めき、その先には人影がいくつも立っていた。人ではない。眷属でもない。神殺しの肉体が反応している。あれら総てが──紛うことなき神。

 

──テーテュース

──オーケアノス。

──コイオス。

──クレイオス。

──ヒュペリーオーン。

──イーアペトス。

──テイアー。

──レアー。

──テミス。

──ムネーモシュネー。

──ポイベー。

 

 そして──巨神(クロノス)であるサトゥルヌス。

 

 

 ティタノマキアを引き起こしゼウス率いるオリンポスに喧嘩を打った十二の神々による絶大な猛威が無防備な祐一を襲った。

 



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千日手

 空が昼間のように明るくなった。衝撃波と熱波が光源から吹き荒れ、太陽さながらの……いや太陽そのものを彷彿とさせる巨大な引力が、彼女らを光のもとへ引き寄せんと手ぐすねを引く。

 

「祖父殿と神殺しか。派手なことだ」

 

 木々や大気が浮き上がろうとアテナとチェリーは地面から離れることは無かった……引力など、どうということは無い。重力とはもともと地母神の司る力の一つなのだから。

 妾もはじめるとしよう、という言葉を置き去りに暗夜の森を颿る二条の銀光となった。アテナの疾走に遅れもみせず追随するチェリーは人間離れしている。筋繊維や靭帯、神経回路に至るまで人間のそれとは隔絶している。

 

「くっ……邪ッ魔!」

 

 だが元は人間だ。走るたびに木々や岩に激突する。正直、オーバースペックといっていい体を持て余し気味だった。

 神の肉体と人間の思考。とんでもないギャップに振り回されるのは必定だった。

 挙動が大振りになりがちだと言うのに、森の中という繊細な動作を求められる戦場。地の利は相手に譲る形となった。

 それでもチェリーは奮起した。石ころを蹴りあげ、アテナへ投擲する。木の枝を渡っていたアテナの着地地点へ、寸分違わず。

 

「路傍の石を死へと変えたか」

 

 アテナがただの石を手ずから振り払った。手の甲には霜焼けがおり、死を宿したものだと如実に語っていた。

 女神の足が止まったのを見計らい、一気に跳躍。シックルを振り下ろす。容易く大鎌に防がれつつ、別の木の幹へ着地。さらにふたたび跳躍。圧倒的な身体能力に任せて三次元的な躍動を見せた。

 

「おお。その太刀筋、妾のものとも違うな」

「…………」

 

 少女の会心の一振りが女神の髪を拐う。興味深そうに彼女の攻勢を睥睨しながら、アテナは血を流した。傷口が塞がる気配はない。

 ハルパーとは大地の太母神ガイアから授かった不死殺しの魔法の剣。それを同じ地母神であるアテナが防ぎ切れることは無い。

 少女(偽りのアテナ)とハルパーによって首を切られれば妾も危ういか、肩口を切られながらアテナは笑う。

 

「あなたは苛烈さを宿している……知恵や守護に傾く妾より、狂奔や蛮勇に寄る軍神アレス、妾の系譜であれば大地を血に染めた女神アナトに近いな」

「…………」

 

 武に静動があるとしたらアテナは静だ。その比類なき知略で敵の急所を見極め、苛烈な逆襲の一撃にて屠るのだ。

 しかしチェリーは完全な動だった。アテナの言葉通り、かつて夫を殺され怒りのまま人間を虐殺し、血の海を創り出したアナトに近しい。

 アテナの血痕を頬へ血化粧としながら、アテナの言葉に耳も貸さず肉薄した。黙々と攻勢を仕掛けてくるチェリーに、アテナは違和感を覚えた。

 

「ふむ? 先刻から黙り込み……らしくないではないか」

「…………」

「先程までの威勢はどうした。妾に挑みかかる愚を今さら悟り、妾自らの賞賛に打ち震えて声すらでぬか?」

 

 首を振った。細い枝の上でふたりとも絶妙なバランス感覚で鍔迫り合いをしながら、それでも言葉を交わし合う余裕があった。

 コミックや映画によくある展開で、一度戦えば相手がどんな人となりをしているのか考え方をしているのか朧気ながら理解出来る、なんてものがある。

 アテナとチェリーにも似たような感覚は存在し、しかし、鍔迫り合った刃の交感は酷く正確だった。

 

「アテナ。あなたの深い悲しみを感じるわ」

 

 黙り込んだのは今度はアテナだった。

 

「言葉で誤魔化さないでよ。この触れ合った刃から伝わってくるの……ゴルゴネイオンを失い、夢を叶えられなくなったあなたの悲しみが」

「…………」

 

 目を細め、瞳孔が縦に割れるのを見逃さなかった。肩が震え出している。感情の発露だ。

 アテナはまつろわぬ神だ。それも上位に位置する強さを備えた……なら、自尊心が強さに直結する女神様が、人間などという矮小な存在にすべてを奪われ、挑発されて黙っていられるだろうか。

 

「言い訳はしないけれど、それでもアタシはあなたから大切なものを奪ってしまった。あなたの半身で、至るべき道さえも」

「──囀るなよォ小娘ッ!」

 

 アテナはついに嚇怒の咆哮を上げた。

 

「妾の過去を盗み見だけでも罷り通らぬというのにその挙句、我が赤心をはかるか!? チェリー・U・ヒルト、貴様はどれほど罪を重ねれば気が済むのだ!」

 

 絡みついたハルパーを大鎌で薙ぎ払い、少女の言霊を忌々しげに踏み潰す。危険だ。この少女の言霊は如何なる障壁があろうとも、きっとそれこそアイギスがあろうとも、容易く入り混んでくる。

 

「でもアタシは、あなた(アテナ)だから」

 

 わかるの、と目線だけで言葉にした。アテナは顔を小さく仰け反ぞらせたあと深く俯き……小刻みに肩を震わせた。屈辱に打ち震えるように、嗚咽を堪えるように。

 

「そうだ……あなたの語るように妾は哀絶に暮れている……。真なるアテナに至るための標を。そして、比喩ではなく半身をもがれたのだがら」

「そうよ……あなたがベルゲンでやった事はアタシの半身をもいだに等しいこと。血を別けた親を食い殺される気持ち、あなたも分かるでしょ?」

 

 アテナの小さな身体から放たれた激情によって前髪が揺れる。木々がざわめく。怒りに打ち震えている。かの知恵を司り静謐を好むアテナが! 

 

「あなたの半身もがれただと!? 罪を重ねるのも大概にせよ……貴様と妾が対等とでものたまい、妾を愚弄するかッ!」

「違うわッ、怒るなら怒りなさいよ! 復讐を望むなら復讐をしなさいよ! 悔しくないわけないわッ、ただの人間に使命を奪われて、言い様に弄ばれて! 神様に日常をぶち壊されたアタシですらそうなんだから!」

「貴様はなにがしたい……なにが目的だ! 人である貴様と対等に闘うことで、三海に覇を唱えた妾を貶め、闇と冥府の女王である妾を恥辱に塗れさせるのが狙いか!?」

「いいえ」

 

 アテナの言葉をチェリーは退けた。アテナとチェリーは二体同心。分かたれていようと同源だ。

 近くに居るだけでその胸襟は窺い知ることが出来た。それでもアテナが質問を繰り返すのは、少女の意志を拒むが故。だから。

 

「アタシはただ潰し合いたいだけ……アナタの怒りも誇りも全部叩き潰したいだけ! 

 だから全部アタシが受け止めてやる。アタシもあなたには遠慮しない。アタシは意気消沈したあなたに勝っても納得しない!」

 

 だからチェリーは女神に言葉を叩きつけた。目を逸らし、前も見ない臆病者へ。傲岸に立つしか己を律しきれない半端者へ。

 

「──全力で、潰し合いましょう」

 

 土俵に上がって来いと。

 悪鬼顕現。しかし向かい合う両者のどちらが悪鬼だったのか、激情を孕んだ烈風が吹き荒れ、天が真っ二つに割れていく。

 

「小娘がァ──ッ!」

 

 五指を伸ばし引っ掻く技も権威もあったものではない、なりふり構わない一撃。だがシチリア島を投げつけた膂力を誇るアテナならば無視できないものとなる。

 側頭部を狙った攻撃に、両腕をL字型にクロスさせ衝撃。容易く空へ吹き飛ばされ、天地が逆さまになった所へ──追撃。

 アテナの豪快なかかと落としがチェリーの腹部に突き刺さる。地面に叩きつけられ……それでも彼女は死んでいなかった。それどころか意識すら保ち、アテナを睨んだ。内臓が傷ついたのか口元から血が滲み出た。血を拭って地面に飛ばす。血の一滴を核として一匹の神獣を生み出す。

 

「行くわよリンノルム……ベルゲンの子よ!」

 

 ──GYAAAAAAAAAAAAAAA! 

 

 大地が盛り上がって蛇の神獣が推参した。チェリーの血肉から生み出されベルゲンから生まれた蛇は、アテナにも危害を及ぼす。アテナに追随する影を喰らい始める。影とは闇の女王たるアテナの化身にしてそのもの。偽りのアテナが生み出した蛇が真のアテナを大口で喰らい尽くしていく姿はウロボロスと例えてもいい。

 鋭い牙を尖らせ口を開ける大蛇を鼻で笑った。神獣の牙は盛しい仔犬が噛み付いてくるとの変わらない。

 

「貴様はこのアテナと同一と叫び……それは逆もまた然りだぞ」

 

 手を掲げた途端、蛇が割れる。頭部の真ん中から亀裂が入り、裂けていく。制御権を奪われているのだ……偽りのアテナであるチェリーが生み出した蛇の眷属なら、本物のアテナが奪い去れぬ道理はない。

 双頭の蛇となった大蛇が喰らい合い、雄叫びを上げながら暴れ回り、噴煙が舞う。夜と煙を切り払ってチェリーが飛び出してくる。シックルを全力で振り下ろし、アテナの頭蓋を叩き割らんと肉薄した。

 

「侮りだなチェリー・U・ヒルト」

 

 だがそれは悪手だった。闇はアテナの領域ならば奇襲はありえず、武において彼女に並ぶ者はいない。容易く打ち払られ、アテナは蹴りを叩き込みとリンノルムを完全に支配下に置いた。

 

 ──その瞬間、大地が蠕動した。

 

 アテナとチェリーの動きが止まる。振動の発生源は揺れている地面ではなく──二人は天を見上げて、女神は嘆声をあげ、チェリーは硬直した。

 夜空は消えていた。北欧の地など身震いひとつですり潰されそうなほどの蛇の鱗に取って代わられていた。あれはなんだ。あれもアテナの仕業なのか、と訝しんだが当のアテナは薄く笑うだけだった。

 

「ほう……あれは……」

 

 何やら得心したアテナと置いてけぼりのチェリーを尻目に、空の異変は拡大を続け、呼応して大地が腕を振り上げ、()()()()()。偽りのアテナとなったチェリーには大地のけたたましい歓喜が聴こえた。

 大地がうねり続け、土砂の荒波は絶叫する60度と恐れられる海域の猛威と変わらない。実際、大地と奈落が領域であり地中を自由に行き来できる彼女たちにとって海そのものだった。

 いけ。空に現れた怪物がなにかは知らないが、チェリーはアテナへの攻撃をやめなかった。地中に潜行し土砂を操って、同じく地中に入ったアテナを押し潰す。馬鹿げた質量の津波が小柄なアテナを四散せんと迫り、「去ね」アテナの言霊ひとつで掻き消えた。

 お次はアテナによる矢の雨だった。一つ一つの鏃が死の結晶となり、チェリーでもあれに触れればただでは済まない。

 

 アテナとチェリーが戯れている間にも直上の戦いは終わりを迎えていた。一条の閃光が、人身蛇尾の怪物に突き刺さり、鬼気迫る様子で押し返し始めたのだ。

 さしものアテナも手を止め、喉を鳴らして感嘆した。

 

「あれを押し戻すとは……あれの一騎駆けは見事なものだ。しかし打ち捨てられた空に満ちる神力を捨て置くには惜しいな」

 

 人から外れた少女の瞳が、空に蟠る()()をはっきりと捉えた。()()は双頭の蛇に降り注ぐと、蛇の頭部にひびが生まれた。まるで卵の殻を破って新しい生命が生まれる光景を思わせ、殻を食い破って這い出してきたのは……九つの頭部だった。

 

「ヒュドラー……」

 

 知っている。自分はあれを知っている。《蛇》の叡智が語りかけてくる。"怪物"テュポーンの子にしてヘラクレスを苦しめた不死の蛇。

 

「アテナや妾らの系譜とは異なる力だ。そなたには干渉できまい」

 

 アテナの言う通りだ。古の《蛇》とは全く別の系譜からなるヒュドラーに、抵抗できない。

 ヒュドラーの口腔から毒霧が噴出し、木々を溶かしながら辺り一面に広がる。裡から湧き上がる火で何とか死を堰き止めつつ──脳裏に閃きが散った。

 そうだ、何故気づかなかったのか。最初からこうすれば良かったのだ! 

 

「ヒュドラーにアタシは干渉できない! でも──あなたの力なら()()()ッ」

 

 地面に手をついてベルゲンを覆うアテナの神力を──()()()()。ベルゲンにある神力とはつまりゴルゴンの呪い。街を石と変えた蛇の呪いだ。……アテナでありメドゥサによる力ならば、それに連なる少女はかき回せる。

 神力が失われ、石の檻が砕けて人は体温を取り戻す。奪った神力をベルゲンの大地に叩き込んで新たな神獣を呼び出した。

 大地を割って(ほら)から出てきたのは禍々しい毛皮で覆われた熊。月無き夜に夜色の大熊が身を起こす。ウルリーケン山に鎮座していた白熊王がその装いを漆黒に染め上げて、少女の元に馳せ参じたのだ。

 チェリー渾身の、街の解呪と神獣を呼び出す一石二鳥の策だった。

 咆哮と咆哮がぶつかり合い、蛇と熊の巨体が激突する。

 でもこれが時間稼ぎにしかならない。そして彼女には時間がない。アテナを絶命させうる切り札がないのだ。

 

「なにか……アテナを倒せる、手立ては……!」

 

 焦燥が体を蝕み始めた頃だった。声が聞こえたのは。

 

『太陽を探したまえ!』

 

 頭蓋に言葉が届けられた。頭に直接、という訳ではなく大地を踏む足をとおって、青年の声が届いたのだ。

 

「ビ、ビアンキ……? どうして……」

『ぼくは地の位を極めた魔女を師に持つ。どういう経緯かは知らないが、地母神に連なる者になった君に声を届けるくらいはできる……アテナと戦っているらしい君に助言くらいはできる』

「!」

『冥府と大地に君臨する地母神が、光に弱いのは当然だ。闇を暴き夜を切り裂く光とは──』

「──太陽。知ってるわ。《蛇》が教えてくれる……地母神の多くは天空神や武神によって討ち取られ、武勲や褒美として陵辱されてきた過去があるって』

『そうだ。そ──に──君は──う──陽を持って───』

 

 ビアンキの言葉がかすれ、ハッとして戦況を覗けばこちらの熊が崩れ死骸を晒していた。ヒュドラーは勝どきをあげ、矮小なチェリーに牙を向く。

 

 神獣という人間にとって手足もでない脅威でも、今のチェリーにとっては赤子のような存在だった。不死殺しを冠するハルパーを縦横無尽にふるえば九つの首は吹き飛びヒュドラーは絶命した。

 

「ヒュドラーすら相手にならぬか。さすがは妾の半身を喰らっただけはあると賞賛しよう」

 

 なれど。アテナが大鎌を構えた。チェリーもハルパーを握る力をぐっと強めた。やはりアテナの首は武器でもって刈り取らねば。

 跳躍し、肉薄する。

 しかし接近戦で首を狩らんとハルパーを掲げても全てを見透かされる。瞳を交わせば思考が読み取られる。一挙手一投足すべてがアテナの知るところであり……しかしそれは此方も同じ。

 まるで未来予知じみた映像がダイレクトに脳へ殴りつけられ、思考の全てがなだれ込んで来るのだ。

 入念な打ち合わせをしたかと見紛うほど完璧な動作で、相手の武器を振り払った。人間では目で追えない大きく外れた戦いをしながらまったくの無傷。

 まるで剣舞だった。あらかじめ設定された動きをなぞる様にすべてを見透かし、権能でさえも支配権を奪い取った。それは他者が己にとけていくような現象で、いっそ途方もなく官能的で、男を知らない少女とアテナが番のようにすら思えた。

 

「はぁ、はぁ」

「…………」

 

 スペック上では同等。動けば動くほど馴染む肉体に時間も加勢していると言ってもいい……しかし経験や知恵という確固たる差がチェリーを苦しめた。

 それに太陽が昇るまでという絶対の終わりがある以上、時はアテナに味方している。

 アテナもそれを看破しているだろう。だがそれを良しとはしなかった。アテナの思考がなだれ込んでくる。

 今宵、この娘を絶命させる。己が手で息の根を止める。それが女神アテナに挑んだ大罪への罰と、使命を喪い自棄をとどめた少女への返礼と報いだった。

 

 故に、千日手。

 自分たちでは、決着は付かない。少なくとも一夜という息切れを考えなくて良い短期決戦では膠着状態しか望めない。戦闘にのめり込んで、時間の感覚が消失していく。

 

 唐突にチェリーが膝をついた。虚をつかれたアテナの一撃が空振る。

 ああ、いつの間にか空が白みはじめている……夜明けが近い。

 

 決着を。

 このまま時間切れで勝ち逃げさせてなるものか。

 

 アテナとチェリーの思考は全く別の方向を向きながら、同じ決意を宿した。

 

 ──その時だった。

 

 東方の稜線より薔薇色び曙光があらわれたのは。

 陽の塊であり極点である太陽だ。冥府と夜の女王アテナも、そして、偽りのアテナであるチェリーも最大の弱点。

 だが、故にこそ、千日手を終わらせるもの足りえる。

 

「………………!」

「………………っ」

 

 二人は合図もなく、咎人を焼き尽くす清めの焔へ身を躍らせた。



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ただ一度の決着

 意識があった。脳が残っている。

 息ができた。肺が残っている。

 視界が生まれた。目が残っている。

 音が聞こえた。耳が残っている。

 拳を握った。手が残っている

 

 ──なら、戦える。

 

「生き残った、か。我が必勝を期した一撃を受けて」

 

 祐一の身体には分厚い黒鐡の鎧で覆われていた。一部の隙間もなく聖なる鋼と蹄の鎧を身にまとい絶命必至の一撃を凌いだのだ。

 

「侮りだったか……そなたは《光》や《闇》がなくとも異様なほど()()()()のだと。そなたの次元にて『救世の神刀』の担い手たるヤマトタケルから逃げおおせたのも、そのしぶとさ故だったな。誇れ。この未来に辿り着いたそなたは少ないぞ」

 

 サトゥルヌスの言葉が聴こえる。でも何故だろう、聞き覚えが……いや、()()()()()()()

 次の言葉はなんだったか。ああ、そうだ……俺が攻撃を凌いだ種明かしをしたんだったか。

 目に違和感があってたまらず、何度も瞬いたせいだろうか? ……世界が二重にブレて観えた。

 

「ここで天叢雲剣を消費したか。頼りになるが、そなたの化身を盗むのは骨が折れると聞き及んでいるぞ。一度の戦闘で一度使えばもう使えぬはずだ……それは化身も同じだったか」

「…………」

 模倣したのは『駱駝』か。過去……いや、未来と言うべきか。そこで幾度か見た。『雄牛』であれば膂力と鉄腕を與え、『駱駝』であれば頑強な鎧と予知さながらの直感をもたらすものとなる。必殺で臨んだ一撃を耐えたのはそれゆえ……しかし」

 

 もう動けまい。

 サトゥルヌスの言う通りだった。倒れて仰向けになったまま空を見上げて、しかし、心は凪いでいた。

 地面に倒れ横たわった祐一にサトゥルヌスが忍び寄る。途端、土が盛り上がって見事な直刀が現れた。『鋼』としての神性が、大地を血に染めるための刃を与えたのだ。

 

「…………ああ、そうだ」

 

「まだ諦めぬつもりか? ──っ!!」

 

 トドメを刺そうと不用意に近づいたサトゥルヌスは反射的に飛び退った──怖れとともに。

 祐一は答えた。サトゥルヌスの問いに。

 しかし、それは言葉にしたあとの過去の質問ではない……言葉にする前の()()()()()に対してだ。つまりは。

 

「識っておるぞ……そなた、未来を読みはじめたな? 

 太陽の神性を宿す徒が一様に宿す目。かつて我が祖たる光明は、監視者であり契約の神であった。シャマシュと呼ばれた太陽神は天罰神であった。そしてそなたの故地にも"お天道様が見ている"という言葉があったな? 

 太陽神とは東西に関わらず多くの者は監視者なのだ」

「…………」

「この土壇場で掌握したか……そなたも権能の祓魔も太陽も、表層に過ぎぬ。その真価は、現在も過去も、そして未来すらも見透かす千里眼」

「御託はいいサトゥルヌスッ殺りあおう!」

 

 喉を枯らして咳き込み、叫んだ。血を唾と一緒に吐き出す。

 動けば動くほど身体中の孔という孔から血とオドが噴き出す。しかし構うものか。よろよろと大地に片膝をついて、満身創痍のまま立ち上がる。

 いつもの事だ。俯いて、前かがみになって、叢雲を杖にしながら大地を踏み締めた。

 

「俺とあんたの楔は、枷は、絆は」

「──違うぞ木下祐一ッ」

「言葉で語られるほど安いものなのか!?」

 

 ──疾ッ! 

 サトゥルヌスが身構える前に瞬歩法で肉薄し、真っ向から攻めかかる。

 

「だったらァア!」

 

 回避も許さず、どてっ腹へパンチが突き刺さった。

 これまで一度だって通らなかった一撃が、いともたやすく。

 サトゥルヌスが膝をつく。彼にだって余力は少ない。先刻の一撃は、必殺を決意した全力の攻撃だったのだ。神々をテュポーンを含め、十二柱もの神を招来するなどいくらサトゥルヌスでも多大な消耗を要する難事だ。

 動きのにぶったサトゥルヌスは、未来を読み始めた祐一の攻撃を躱しきれない。

 

 どんなに消耗し、不利に陥ろうが、サトゥルヌスは時の王。これまではそれでも関係なかった。だが、そうも言ってられない。

 

 見よ、あの獣を。

 満腔から吹き荒れる絶え間ない闘志を。

 気を抜けば気圧されるほどの鬼気に、しかし、サトゥルヌスの表情にはただただ喜び勇んだ歓喜だけがあった。忌々しさも憎々しさも介在してはいなかった。

 

「ついに開眼したか。その瞳こそ──『輝く瞳』の本領こそ余の予知に対抗しうる、唯一の手段! いくつかの未来で余はそなたとその瞳に敗北を喫した!」

「あんたが手に入れられなかった太陽だからなぁ!」

 

 技もへったくれもない目一杯の力で振り下ろした剣をサトゥルヌスは巨腕で受け止めた。

 対等だった、この時より。互いに呪力を減じ十全とは言い難い。そして一方的なアドバンテージも消え去った。

 頭突きせんばかりに額を近付けあって睨み据える。ここからの勝負は気合いと根性と意地だけだ。

 

「だが未だ勝利には程遠い!」

「だが近づいたさ! 見えるぞ……アンタの見えてない未来がなぁッ」

 

 本番だ、祐一は奥歯を噛み締めた。

 だけどこれこそ──俺と奴が望んだ戦いなんだ! 

 大地を踏み込む。反撥する力が足を伝わり胴で倍され殴打にて放たれた。ぱん、と水風船の割れる音が響く。拳とサトゥルヌスの手のひらが打ち合わされた音だった。

 祐一の拳を投げ捨て、巨体をどう折り曲げれば可能なのか、背丈が倍はあるサトゥルヌスが懐へ潜り込んでくる。

 強かな殴打が祐一の腹部へ打ちこまれ、そのまま空中に掬い上げられる。

 

「手で庇ったか」

 

 サトゥルヌスの言葉通り、腹部に突き刺さる前に手を差し込むことに成功していた。代償は小さくない。手が痺れ、骨にも罅くらいは入っていそうだ。それでも震える掌に喝を入れるように拳を固める。

 地上で異変が起きた。凄まじい爆音と巻き上げられた土砂、姿のないサトゥルヌス……それだけで祐一は後方からの手刀を看破した。

 頭上高く振り上げられた手造りの刀。しかし神剣にも劣らぬ鋭さを誇る。凌げたのは『駱駝』の直感と『輝く瞳』のおかげに他ならない。

 完璧なタイミングで右腕を掲げ、ガードが間に合った。叢雲と『駱駝』が合力した手甲がガリガリと削られていく。『鋼』ですら意に介さぬ破壊力。これが生身だとすると骨まで達していたと悟り、ゾッとするものが背筋を這った。

 しかしチャンスが生まれた。下へ力が流れるなら、反撥する力が上行く……つまりはカウンター。『駱駝』の本領発揮である。

 異常なまでに力を蓄え膨れ上がった太腿が、爆発力を生み、怨敵を縊り殺す一陣の脚風となった。

 サトゥルヌスへの有効打。さしもの彼の神も許容範囲を超えたのか、吐血して苦悶を浮かべた。

 

「まだァ!」

 

 叫んだのはどちらだったのか。空中での長い長い肉弾戦が始まった。落ちていても地面に激突する前に空に吹き飛ばされ降り出しに戻る。三次元的な挙動で肉弾戦……いや最早、空中戦といってもいい戦い。

 血が吹き出し、歯が折れようと、彼らは満足だった。

 嗚呼、終わってくれるな。これこそ落魄せしサトゥルヌスが望んだ終わりのある終わりの見えない戦い。

 怨敵よ、死んでくれるな。宿敵よ、止まってくれるな。願いを込めながら全力の殺意を以て、少年に殴り掛かる。

 そして祐一もまた良く応えた。サトゥルヌスの血潮は煮えたぎる熱湯じみて祐一の戦士としての心を焦がした。

 誉れである。戦場で、華だの無粋だの、貴卑だのと言うつもりもないが……この大敵と巡り合い、宿敵と見初められた幸運に感謝した。

 

 もつれ合い、サトゥルヌスが祐一の腕を掴んだ。取った、と思った。そのまま地面に叩きつけんと腕を振り──しかし、先に投げ飛ばされたのはサトゥルヌスだった。

 敵を投げ飛ばすには、腕で掴まなければならない。しかし、逆にいえば、手を離さなければ相手に()()()()()()状態と同じだ。祐一は戦場勘でそれを思いつき、豪快にサトゥルヌスを投げ飛ばした。

 大地へ叩きつけたのは祐一、叩きつけられたのはサトゥルヌス。ダイナマイトの爆発さながらの轟音と衝撃が吹き荒れ、無理やり着地させたサトゥルヌスの両足の骨を砕き切った。

 

「見、ごとォ!」

 

 それでも折れぬ。倒れぬ。諦めぬ。

 身体中の骨が砕けようと、肉が削がれようと、五感が奪われようと──敗者の王は倒れない。

 勝たねば。常勝不敗を掲げるならば、誇りある敗者の王に恥じぬ勝利をせねばならない。

 

 祐一を起点にして覇気と呪力が弾け飛ぶ、若き神殺しは此処で勝負に出た。

 

「往くぞッサトゥルヌス! ──我がもとに来たれ勝利のためにッ!」

 

 東方より(きた)る。外道覆滅の化身──『白馬』推参。

 絶叫ごとき言霊を吐いて聖なる方位たる東を背負って──西で待つサトゥルヌスへ。

 此処まで来た、此処まで来た、ヒューペルボレアから始まったサトゥルヌスとの因縁。何度死線を超えたか分からない。何度倒したという確信を得たか分からない。

 それでも彼は足掻いて足掻いて、最後には再び立ち上がった。まるで神殺したる己がまつろわぬ神にやってきたように。

 泥臭く、ヘドロを吸ってでも、偏に使命を果たさんが為に。

 

 だが、此処で、必ずッ! サトゥルヌスの想いを踏み躙ってでも祐一は退かない。呪力を叩き付けるように注ぎ込む。

 帰らねば、帰りたい、帰り着く──故郷へ! 皮肉にもサトゥルヌスの必殺の策は祐一の狂気的な郷愁を呼び覚ました。

 

「ぐ、ぅおおおおおおおおおおお!!!」

 

 フロイエン山を完膚なきまでに破壊する聖なる一撃がサトゥルヌスへ到達し、今度こそサトゥルヌスは絶叫を上げた。

 

「懐かしき聖なる光輝ッ、慾さずにはおられぬ熱! 堪らぬ! 我が身が、我が身が焼ける──()()()ッ」

 

 余は太陽への未練を捨て去った! 

 肉体が完全に溶解する前に、地面に沈みこんだ。祐一は驚愕した。あの太陽に焦がれ使命に魂魄すら捧げたサトゥルヌスが、太陽を目の前にして逃げを打ったのだ。

 直後、大地が震えた。地震ではない。巨大なものの身震いで、地面が動かされているのだ。闇を捨て去り、時も破られたサトゥルヌスに残った最後の神性の発露──。

 大地(ガイア)の殻を蹴破って這い出て来た『鋼』を宿す大いなる()()。その身は凹凸のないつるりとした鋼鉄を纏い、面貌すらも、のっぺらぼうを思わせるほど装飾のない……ただ敵を倒す為だけに生まれた『鋼』の武神であった。

 

「「「オォォォオオオオオオオオオ! ──木下祐一よ、我が想いに応えて魅せよォォオオオオッ」」」

 

 何重にもやまびこが折り重なったような大きな声がベルゲンを揺るがす。それを一身に受けるは、圧倒的に矮小短躯な一人の少年。

 巨神はその巨躯に見合わぬ俊敏な動作で祐一へ肉薄し、撃滅の拳を振り上げた。拳の大きさなど電柱の高さにも匹敵する。何の衒いもなくシンプル。故に恐ろしい。あれをまともに喰らえば死は免れない。

()()()、温存していた切り札は──ここで! 

 

「鋭く近寄り者よッ契約を破りし罪科に鉄槌を下せ! 来い──ラグナァァアアアッ!」

 

 影が黒に塗り変わり、異界の扉が開く。影はまさに砲塔、祐一の放つ巨人殺しの石たるラグナが一直線にサトゥルヌスへ激突した。

 拳の矛先が入れ替わる。祐一からラグナへ向かい、拳の一撃でラグナの半身は文字通り消し飛んだ。

 それでも倒れぬ。祐一の盟友にして不屈の化身たる『猪』は倒れない。盟友たる祐一の意を汲んで──咆哮。

 

 ───ォオオオオオオオオオオオオオオンンンンッッ! 

 

 音の鉄槌が質量を宿してサトゥルヌスの巨体を浮かす。間髪入れずにラグナが長大な牙で掬いあげた。見るものがあれば瞠目は必須であろう、サトゥルヌスの巨体が空に放りあげられた。大地の子であるティターンは空では力を発揮できない。ヘラクレスに持ち上げられ縊り殺されたアンタイオスのごとく。

 ダメ押しに腹部へラグナの牙が突き刺さる。巨神の力が大きく減していく。

 

 それでも、まだ終わらない。まだ奴は死なない。

 ならば往かねば。"路"があるのなら。気力もあるのなら。──敵も見えるのならば! 

 からんと乾いた音を立てて纏っていた駱駝の鎧を放り投げる。邪魔だ。護りなど必要はない。

 手に持つは、たった一本の───愛刀のみ! 

 祐一は"路"をひた走った。敵の元へ到るためにラグナの背を駆け上がった。

 直上に聳える巨体へ向けて、躊躇もなく前進した。加速、加速、加速。重力が反転したのかと見紛うほど圧倒的な加速。ブルジュ・ハリファを頂点から落下して駆け抜けるかのごとく──サトゥルヌスの元へ! 

 

「ッサァァアアアトルヌゥゥゥウウウスッ!!!」

 

 血反吐とともに宿敵の名を叫ぶ。奴はまだ倒れていない。倒れるはずがない。立ち上がらないはずがない。

 この手で引導を渡していないのだからッ! 

 

「木下祐一ィィイイ────ッ!!!」

 

 大音声がベルゲンに残響する。巨神の体から瘤が生まれ、瘤を砕いてサトゥルヌスが飛び出した。

 サトゥルヌスは時の神。祐一の前に時の権能は破れたとはいえ、権能は行使できる。ならばここから逃げ出して再び挑戦を乞う、あるいは、幽世で隠遁するという選択肢も取れた。

 フ──無粋! サトゥルヌスは口元で弧を描き、敗色濃厚の戦いに躍り出た。

 

 大地を蹴りあげ五指を振り上げ。地より昇るはサトゥルヌス。

 跳躍しながら剣を掲げ。天より降るは木下祐一。

 

 迎えるは、最後の交錯。

 

 今こそ『極地』へと──絶対不変の〝決意〟を以て! 

 祐一の剣の腕は確かに叢雲の補助があってこそ。だが、彼が戦場で血肉と変えた技量や師の教えまでそうだった訳では無い。

 温存していた総てを解放する時が必ず来る。故にこの場所に到るまで秘めていた。激情の剣が血潮と汗を蒸発させる。心眼によって精彩さを増した世界が広がる。

 サトゥルヌスの貌が、予想より早く目の前にあった。相手が早いのではない、自分が速すぎるのだ。

 サトゥルヌスは速度に取り合わなかった。五指を揃えて貫手の形とし、速すぎて繊細な制御のできない祐一の到来を待ち構えた。

 おそらく最適解。祐一の視界にも見える未来の映像のなかでサトゥルヌスの貫手に刺し貫かれた己が見えた。そして狙い違わずサトゥルヌスの貫手が、祐一の首を捉えた……皮を剥いで、肉を削ぎ、頸動脈へ達して。

 

 だが、そこまでだった。

 

 まだ首は繋がっている。なら、まだ戦える。剣を振れる。前に進める。

 

「俺の勝ちだサトゥルヌス───」

 

 白光一閃。

 おお。サトゥルヌスは感嘆してしまった。己を必ず殺すという余すことなく己に向けられた殺意に、未来を追い続ける宿敵の姿を……そして嗚呼、見よ。

 久遠の時のなかで、あれほど殺し合った我らですら放ち得なかった雲耀の一振を。

 

 サトゥルヌスは、ふと、思ってしまった。あの一振の前になら、死んでしまってもいいと。遍在する時であるサトゥルヌスを何人も弑することは不可能。しかしサトゥルヌス自身が合意してしまった。眦を、下げてしまった。

 雲耀の刃が見事に首を捉えサトゥルヌスの首を──斬り飛ばした。

 

 

 

 

 ○〇●

 

 寂寥感が溢れた。

 敵は倒れ、喜ぶべき慶事だ。なのに何故だろう……崩れることない壁が崩落していくのに一抹の寂しさを覚えずには居られなかった。

 宿敵の首が泣き別れする姿を目に焼き付け、最後に残った力が喪われていく。敵の討滅と、勝利を確信し──時─間─が─引─き─伸──ば──さ──れ────世界は止まった。

 

 意識と目線以外の総てが静止した世界。動くものの居ない世界で、祐一とサトゥルヌスは対峙した。

 

「時間を……止めたのか?」

「否。時間の流れを限りなく緩慢にしただけ……我らは須臾の中にいる」

「どうして」

「そなたと……どうしても、そなたと語らいたかったのだ。余は使命に魂魄をも捧げた身。死の間際にしか語り合うこともできなんだ」

 

 不器用だな。戦いの熱が身体中から抜けきっていく錯覚を覚えた。もう戦意はとうになくて、穏やかさすらもってサトゥルヌスの目線を受け止めた。

 

「俺もだよ。あんたにずっと聴きたかった……あんたは総てを見通せたんだろう? それに時の神で、死の神ですらあった。全力のあんたなら、俺だって労せず倒せたんじゃないのか?」

「フ……それは買いかぶりというものだ木下祐一。所詮、余はユピテルやゼウスなどの主神には何歩も劣る三流神……」

 

 胸が締め付けられた。自尊心を無くした神とはこんな表情もできたのか、と思った。

 憑き物が落ちたとはきっと今の彼を言うのだろう。

 久遠の旅を終え、最期(いやはて)の地へ辿り着いてしまったもの貌なのだ。かつて悠久の果てにスロヴァキアへ舞い戻った天使を想起させた。

 

「だが、その未来がありもした。そなたを降し、草薙護堂を排し、麗しき神殺しも打ち破る未来が……」

「だったら、何故?」

「私怨だ」

「私怨……? 俺への、か?」

「それもある。だがそれだけではない……木下祐一、そなたは余の辿った道程を最もよく知るもので、最期を看取るものでもある。

 それを踏まえて問う。余の人生をどう思う?」

「どう思うって……」

 

 酷いものだと思う。オブラートに包まずに言うならそれが一番当て嵌る。

 自分もそれなりに酷い環境にいるとは思うがサトゥルヌスは格別だ。輝かしい栄光からの転落、転落、転落。そして最後には敗北。言葉もない。口を開こうとして、制された。

 

「言わずともわかる」

「……すまん。ガキの俺にはいい言葉が見つからない」

「フ……それでよい。そなたを以てして、かける言葉見つからない程の生だった。

 しかし、余は最後に敗北しようとも歩みきってみせた。それだけは誰にも汚せぬし否定は出来ぬ」

「ああ。あんたは強かった。あんたの生き様は穢さねぇ。それだけは誰にも否定はさせない……あんたにだってな」

「礼を言う木下祐一。その言葉は余が帰るべき場所へ帰っても胸に刻み、誇りとしよう。

 ……だが望んだ訳では無い。復権を望んでいたし勝利も希求した。しかしそのどれもが必ず骸を晒す終いとなった。

 だからこその私怨。このような運命を寄越したモイライどもに、全知たる余は復讐を目論んだ」

 

 知っている感情だった。祐一自身、そう思えばこそ因果律に喧嘩を打っているのだから。

 

「聴かせてくれサトゥルヌス。全知のあんたには何が見えたんだ……俺だって《運命》や《因果》って奴が憎いのは同じなんだ」

 

 萎え果てたサトゥルヌス。けれどその時、その言葉を吐く一瞬だけは、勝者である祐一でさえ身構える程の熱を帯びていた。

 

「"不可知の未来"へ、辿り着くこと」

「不可知の未来?」

 

 耳慣れない言葉だった。けれど何となく……因果律に関する言葉なのだろうと直感があった。

 

「左様。運命神すら見て見ぬふりをし、全知すら思考を及ぼすことを厭うそんな未来があるのだ……故に余はその不可知へ辿り着くことこそ復讐になると踏んだ。

 そして"不可知の未来"が存在するのはそなたの次元の先にある──そなたも知りえておろう……六年後、そなたの世は滅ぶことを」

「…………。俺の次元に? ……いや、それよりもあれは本当なのか?」

「誤魔化すな木下祐一……そなたも心の奥底では里っていよう? そして、その真実と因果はもはや誰にも覆せぬ。そしてそなたの故郷にもトーイン(襲撃)は必ず訪れる」

「!」

 

 戦いのなか、サトゥルヌスが言及した故郷への襲撃。あれが本当ならばヤマトタケルとの戦いは必定だろう。

 しかし今更焦っても仕方がない。祐一は一呼吸置き、サトゥルヌスに質問をぶつけた。全知を称するサトゥルヌスへ。

 

「ヤマトタケル……あいつは一体なんなんだ」

「あれは求道者よ。貴種流離の鬼。偸盗の成れ果てたる、弑した他の神と同化していく権能によって……真なる己を見失ったと()()()()()()()求道者」

「思い……込んでいる?」

「そう。彼奴に"真の己"などという答えなど何処にもない。そなたも幽世で虚空の知識を探ったのであろう」

「……ああ。智慧の剣を鍛えるためにヤマトタケルの追い求める本質、ってやつを俺は覗こうとした。……でも、何もなかった。そこだけがポツンと穴が空いたように抜け落ちてた。あれは俺が未熟で才能がないせいだと思ってたけど」

「いいや。それが真実なのだ。ヤマトタケルという英雄に確固たる来歴などありはせず、真なる己などないのだから」

「己がない……でもあいつは求めてる」

「そうだな。強いて言うならば、答えのない答えを求めて永劫彷徨い歩くことこそ彼奴の答えなのだ……」

「…………叢雲」

 

 ズン、と右手に握った刀から冷え切った鉄の温度が伝わってきた。刃に顔はない。『鋼』に表情は必要ない。しかし心はあるのだ。祐一は痛ましげな視線を叢雲に送った。

 

「だが求道者ゆえにやつは強い。そなたの次元において《最強の鋼》と呼んでも差し支えないほど……それがそなたの右腕に帯びた天叢雲剣を失い制服神としての資格を失陥しようが変わらぬ真実」

 

 少しだけヤマトタケルという不気味な神を知れた気がして、やはり理解が出来そうになかった。

 

「話を戻そう。完全に確定された未来。すべての時間軸に存在する余であっても、滅びを回避した未来はなかった……あらゆる世界で滅びを回避する時間軸など、ひとつやふたつあって然るべきだというのに」

 

 重苦しくサトゥルヌスは目を眇めた。

 

「全知である余が保証しよう……異様だよ、そなたの故地は」

「異様つったって、わかんねえよ」

「例えば……此処だ。草薙護堂の故地たるこの次元はまつろわぬ神や神殺しが跋扈するとはいえ健全に運行されているといえる。神を弑する魔王が生まれようが、それは神々人の世に顕れる以上、起こりうる奇跡……しかし翻って、そなたの次元はどうだ?」

「…………」

「『天人離間の大法』という神どころか呪力の存在すら許さぬ結界を張り、人間の楽園を築き上げた。ゆえに神殺しも生まれぬ。それだけでも狂っているというのに、滅亡すら完全に確定しておる。

 その上、大呪法を何者が成したのかを窺い知る"道"さえ閉ざされている。知り得たのは妄執と狂気のみ。時という表層からはそれだけしか読み取れなんだ」

 

 自分の故地が狂っている。薄々気づいていたが遍在する時であり、総ての時空を知るサトゥルヌスのお墨付きをもらってしまった。

 

「滅びの確定された世界……しかし余は仮説を立てた。もしや時間軸が存在しないのではなく、未だ誰も到達していないのではないか、と。

 現在から未来に繋がった時空があらねば余は知ることは出来ぬ……ならば因果の道化どもによってその"道"を抹消されているのではないか、とな」

 

 因果律の道化。世に適度な刺激をあたえ因果律を楽しませる道化に身をやつしたものたち。狂気的なまでに道を阻むカズハズの姿をした誰か、あれが滅びを避ける未来を閉ざしているのかもしれない……そうサトゥルヌスは言っていた。

 

「故に不可知の未来だ。もしもその先に世界を抹消するほどの未来があったならば? もしその先に運命の曼荼羅を吹き飛ばす未来があったのならば?」

 

「フフ、心躍らぬか木下祐一」

 

「運命が否定し、因果が拒む、誰も到達しえぬ時間軸……その先に誰かが到る逆縁こそ、運命への余の復讐だったのだ」

「だけどできるのか? あんたですら否定した未来が?」

 

 できる、とサトゥルヌスは断じた。

 

「鍵となるのは──因果破断」

「!」

「因果律の紡いだ不動の順縁をくつがえし逆縁を為す、あの力こそ到達不可能なはずの"不可知"へ至る唯一の鍵」

「だけど俺は」

 

 扱えない、という言葉にする前にサトゥルヌスに止められた。酷く柔らかい口調で、生徒にものを教える教師のようにサトゥルヌスはささやいた。

 

「行使していたよそなたは。下弦の月の夜に、我らは因果逆転の宣誓を為した。それこそ因果破断の証明。如何に強大な三柱のまつろわぬ神と神殺しが揃おうと因果は覆すことなどままならぬ」

「あの宣誓が……」

「どうやらアテナの思惑通りにならず、我ら三者の元にはやはりゴルゴネイオンは現れなかった。……とはいえ曲がりなりにも因果を歪められたのはそなたが居たからこそ」

「……」

「ゆえに因果破断だ。草薙護堂にも言われたであろう……鍛えよ、と。少し先の未来……ベルゲンを離れた後、そなたは出会うであろうヤマトタケルとも因縁のある彼の『鋼』を最強足らんとさせる神に。打倒するにはそなたの力がなければ、この次元は滅ぶと心得よ」

「また滅びか。世界滅亡のバーゲンセールだな……」

「クク……それこそ"この世は因果律の御覧になられる夢に他ならない"だ。世界の滅亡などありふれたものだ……」

 

 サトゥルヌスは言葉を切った。語ることを語り終えたのだ。世界が加速……いや、本来の速度へ戻っていく。サトゥルヌスの皮膚が、端から徐々に灰色に変色していく。何度か見た……まつろわぬ神の死だ。

 

「余の復讐をそなたが引き継ぐかどうかは自由! だが継ぐというのならば──木下祐一よ! 我が宿敵よ!」

 

「──進め、未来へ! サトゥルヌス(過去)を糧とし、踏み越えて、()()()へたどり着け!」

 

「そなたの呪われし道先に──幸多からんことをッ!」

 

 祝福の言葉を投げかけて、口を引き結んだ祐一に笑みを浮かべながらサトゥルヌスは滅びた。

 残された祐一は少しだけ瞑目し、肩を揺らしてゆらゆらと笑った。

 

「"不可知"の未来、だって? ……馬鹿だよ、あんたは。

 なあ、だってさ、あんたのいう復讐には決定的な穴があるじゃないか……。あんたが言ったんだ、自分の使命は決着をつけることだって」

 

 サトゥルヌスの目的は貫徹している。彼は死の間際までその使命を決して翻すことなく、望む場所へ辿り着く未来の一点しか見ていなかった。復讐など……望んでいなかった。

 

「あんたは、もう、やり終えてた。総てを俺との決着に捧げてた……これ以上もこの先もないくらい余力も残さず。取ってつけたような言葉くらい……それくらい……命のやり取りをすれば()()()()

 

 大きく、大きく、ため息をついた。

 

「復讐なんて、嘘じゃないか」

 

 やりきれなさとサトゥルヌスという偉大な敵に改めて感謝を送る。あれは自分への餞なのだ。これから苦悩と苦痛の旅を往く勝者への……。

 

 さらばサトゥルヌス。そして、ありがとう。

 肩に去来する重み。この重みは、いつも苦手だ。

 

 いつだって神々は祐一に何かを見出し、祝福(呪い)を残し、満足しながら去っていく。

 本当にいい迷惑だよ。

 

 曙光が闇夜を切り裂いて、サトゥルヌスの総てが塵へと帰っていく。まるで太陽という故郷へ帰っていくように。

 朝日が目に染みて、眩しくて堪らなくて、手で(ひさし)を作って……彼はしばし自分の顔を隠した。

 

 

 偉大なる敗者の王は散った。

 神王の座を奪われ追われながらも、辺境の地で王を崇める敗者を束ね、黄金時代を統べた拝者の王は此処に本懐を遂げたのだ。



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はじまりの物語

シャイニング


 煌々たる日之出の到来──。

 

 女神の領域たる永劫の闇を燃やし尽くす天上の劫火がフロイエン山に降ってきたのだ。本来であればこの一撃は地母神アテナ覆滅のため放たれたものではない。フロイエン山のもう一つの戦場で、サトゥルヌスを討ち果たすために抜かれた陽光の刃であった。しかし、アテナとチェリーは躱すこともせず、それどころか愚かしく渦中へ飛び込んだ。

 

 胸中にあるのはただ一重に"決着を"という決意のみ。

 

 人間にここまでの辛酸を舐めさせられ、挙句に時間切れでの勝利など三海に覇を唱えた女神アテナの誇りと自尊心が許さない。

 アテナの沽券に賭けてこの人間を喰い破り、完膚無き勝利を収めることで、自死すら考えた己を赦す事ができる。そして萎えた己を立ち直らせた少女への返礼と罰となるのだ! 

 

「オ、ォオオオオオオオオ!」

 

 太陽はアテナにとっての最大最悪の弱点。さしものアテナも苦悶を上げ、しかし、見事に凌いでいた。その手に"絶対"を誇る二帖の楯が握られていたために。

 右手には大鎌を変化させた光を遮断する闇の障壁。左手には絶対防御を誇るアイギス。

 アテナの自慢の楯でもって太陽に対峙した。大人気なくとも全力で、チェリー・U・ヒルトを縊り殺す。獅子は兎を狩るにも全力を出すという……アテナは少女を兎程度には認め、故にこそ本気で相対した。

 

 対するチェリーは、一切の防御をもたず青白き陽光に飛び込んだ。

 

「──────────────」

 

 声にならない大音声が響き渡った。アテナの比ではない絶叫をほとばしらせ、馬鹿げた苦痛が少女を苦しめた。常人であれば絶命まで追いやる激痛に心折られるに違いない。……だが、彼女は折れない。そしてこうでもしなければ勝機はない。地力で劣っている自分がアテナを上回るにはアテナ以上の度胸と無茶をしなければ。

 

 それに防御を選んでは唯一打倒の武器が納得しない。

 この()()()()は目覚めない。

 

 だからチェリーは身一つで飛び込んだ。防衛の術も纏わず、悪神を浄化してきた太陽王の劫火に身を投げた。

 アテナは瞠目した。なんという愚かしさ。

 命知らずの少女は命を投げ捨てていた。弱点である太陽に灼かれながら、一歩を踏み出す。血反吐を吐きながらアテナへ肉薄する。さしものアテナも楯を握る力が増し、動揺をみせ──だが、止まらない。

 がつん、がつん! 雄叫びをあげながらハルパーを振り下ろして、二帖の楯を殴りつける。アテナが苦悶を浮かべる。

 なんなのだこの娘は! アテナが理解できないものを見るように瞠目し、執拗なチェリーの打撃に耐えきれず、二帖の楯の間に小さな隙間が生まれた。焦りを覚えながら、隙間を塞ごうとし──()()()()()()

 

「Here's Johnny!」

 

 隙間をこじ開けて薔薇色の曙光とともにチェリーがずるりと這い出してきた。苛烈な太陽光に気を取られた……一瞬の隙をついてチェリーは己が支配力をアテナの闇へ伸ばす。

 チェリーにも楯があったなら、防御を寸毫でも考えていたなら、アテナにも付け入る隙があった。だがこの眼前の狂った乙女は吹き出す血塊がまたたきの間に蒸発する炎熱地獄で、苛烈な意志を瞳に宿らせ突き進んできた。

 ──見事。

 敵の攻撃を防ぐ時、握りしめる手をゆるめれば盾が飛ぶのは当然。アイギスも闇の障壁も、太陽の猛威を受けて吹き飛んだ。それでもアテナへの強襲はまだ終わらない。

 

「アタシの縄張りに手ぇ出した報いを受けなさいッ」

 

 太陽の槍とともに懐へ飛び込んできた少女に対応できず──アテナの頬に少女の拳が突き刺さった。それを皮切りに日輪の蹂躙が本格的なものへと変わる。

 二人の意識と視界が白に染まった。

 

 

 太陽の蹂躙が終わった。

 神馬の運んだ日輪が帰り、空はふたたび夜が覆った。焼き尽くされ原型を失った荒れ野で、人型の物体が倒れ伏していた。

 それも、二つ。

 驚くべきことにチェリーとアテナは未だ肉体を保ち、塵に還ってはいなかった。だがどちらも虫の息……いや、片方は息をしていない。

 見よ、空を。徐々に白み始めている……日の出が近い刻限が近い。少女の裡に宿り、生を保証していた《光》が揺らめき翳っていく。

 

「ま、だ、だァ……!」

 

 先に立ち上がったのはアテナ。鎌を杖としながらもかの女神は立ち上がった。やはりどれだけ人間が神に近づこうと神との地力の差は大きい。

 少女は立ち上がれない。意識を保つのがやっとだった。不甲斐ない少女へ向けて、アテナは悲痛な声音で叫んだ。

 

 ──何故立たないチェリー・U・ヒルトッ!? 

 ──見よ、妾は立ち上がったぞッ! 

 ──妾に煮え湯を飲ませ本懐すら奪われ……それでもなお……

 ──立ってみせたぞッ! 

 

 悲愴と失望を織り交ぜた、血を吐くような叫びだった。

 

 ──貴様はそこまでの器であったか! 

 

 見下ろされチェリーに意識はあった。

 うるさい。アテナの半身である彼女にはアテナの叫びは余すことなく伝わっていて。

 でも疲れていた。

 指のひとつも動いてくれないのだ、声のひとつも出てくれないのだ、息のひとつもできやしないのだ。……だが。

 

 ──ごめんなさいアテナ、無様を晒して。

 ──ああ、待ってなさい。

 ──すぐに立ち上がる。

 ──あなたに勝ってみせる……()()()! 

 

 意志のひとつも翳っていないのだ。

 彼女はなにを思ったか《光》のもたらす生命の躍動を自ら拒んだ。今にも尽きそうな、神具から伝わる生命の火と己の生命の火。どちらを最後に頼るかなんて迷うことなどなかった。

 急速に萎えて崩壊していく自身に構わず、己が意志のみで大地を踏んだ。目を開き、大地に手をついて、よろよろと立ち上がった。

 

「それでこそッ」

 

 アテナの歓喜が聴こえる。でも精一杯だった……もう一歩も動けない、武器を振るなんてとてもではない。

 けれど"諦める"なんて、縁遠い感情など一切心にはない。勝利と反骨心だけが苛烈に燃え上がっていた。

 顔をあげて敵を睨み据え、威嚇するように犬歯を剥き出し──犬歯で噛み締めた()()()()()()()()()。今まで本来の姿を覆い隠していた黄褐色の"衣"が剥がれ落ち、真の姿を現す。それは一つの"鏃"で……チェリーが生まれてから共にあった──()()

 

 ヒルト家。大昔に欧州へフン族が来週した折に興った家と言われ、チェリーの一族たる開祖はテュールの剣や騎馬の民と竜をひきいし大王であったと逸話が残る……それが本当であれば魔術師たちのなかで王族の如く扱われる家だ。

 そして家が残ったという事は、子を為したという結果が必要だ。本来であれば"異種族交配"では子はできにくく、何十人も女を囲っていた王でも長らく子ができなかったと言われている。しかし偶然か、またまた、運命の悪戯か。いくつかの要因はあったにせよ、ともあれ開祖は子を為した。底知れぬと称された魔女との間に、子を為した。

 話によれば豊かな……いや、豊かすぎる才を備えた子だったという。そして過ぎたる才は身を滅ぼすのは世の常。

 だから開祖は妻との子にひとつの物を与えた。

 それを考えついたのが、開祖だったのか妻だったのか、真相は歴史の闇の中であるが……兎も角、己の有する"力"の中から、魔女の才を抑えることに特化した道具を創り出した。

 

 子に与えたペンデュラムの名を──『ルドラの鏃』と呼ぶ。

 

 彼女が幼少より携えていた神具は、巫女を守護する物ではなく、力を吸い尽くす『鋼』の武具なのだ。数千年続く一族の呪力を喰い尽くしても、太陽の光を喰らってでも、胸元のペンデュラムはまだ満足しなかった。ならば。

 

 ──いいわ、大食らいッ! 

 ──アタシのベッドをすべて賭けるわ! 

 

 総てをつぎ込んでやる。満腹だと吐き出すなよ、と豪快に笑いながら、最後に残った生命の火と、贈られた『ミスラの火』を焚べた。

 

「──ルドラの矢よ! 日輪の輝きを寄越しなさいッ」

 

 アテナと互角で千日手になるというのなら、別の力を使わなければならない。その認識は彼女とアテナのあいだで同一の見解だ。

 そしてチェリーは、ビアンキの残した言葉の端から胸元に下がるペンダントが、まったく別の神から由来する武器なのだと看破した。

 掲げた鏃が光と化し、焔と閃光の矢を放つ。闇と冥府を司るアテナの天敵たる太陽の箭を! 

 

「おのれ、偽りのアテナが真なるアテナを上回るか!」

「いいえ、違うわ!」

 

 傲岸に、尊大に、雄叫びをあげるのだ。勝利の勝鬨を歌うのだ。偽物だとか本物だとか、関係はない。そうだとも、勝ったのは──

 

「勝ったのはこの()()()! チェリー・U・ヒルトだッ!」

 

 

 

 

 

 ○〇●

 

 

 

 

 

 黄昏色の空。

 二日月が顔を出してはすぐに姿を隠そうとする霜枯れた夜に、その学校の校舎では大きな篝火が焚かれ、橙の光に照らされた白煙が空に昇っていた。

 どうしたことか、ベルゲンに住まう総ての住民に新月の夜の記憶はなくて、目が覚めるとベルゲンを取り囲む七つの山が緑を取り戻していた。

 つい先程まで"ベルゲンは死んだ"なんて噂が流れていてから、人々の顔には笑顔がもどった。

 それはとある少女の通う学校も同じで"復活祭(イースター)を祝うお祭り"なんてただの建前だったが少し前まで緑が死に絶え前途がようとして知れなかったのだ。

 学校中の生徒のみならず近所の住民も巻き込んでの大騒ぎだった。

 

 そんな様子を校舎の裏山から眺めつつ、祐一は寝っ転がりながら星を眺めていた。昨日までベルゲンを共に駆け抜けた少女の姿は隣にない。

 彼女の命の刻限である日の出も迎えてしまった。サトゥルヌスと戦ったあとになって思い出し慌てて探したが、死体も見つからなかったのは……そういう事なのだろ。

 アテナの気配も、ゴルゴネイオンの気配も消えてしまった。サトゥルヌスの言葉を信じるならばアテナは目的を達せられなかった、とのことだがその顛末は知る由もないし知る気もなかった。

 ただベルゲンはアテナの気まぐれか、石の呪いが解呪されていて、平穏を享受している。それだけで十分だった。

 でもそれを望んだ相棒はいなくて、祐一は目を瞑って、かつての相棒に黙祷を捧げ……

 

「ここに居たんだ」

「んぁ? ……え? あ、ああ」

 

 驚きすぎてそんな言葉しか返せなかった。

 焚き火も星明かりも届かない薄暗い影から、身を起こすように少女が現れて「生きてたのか」とかそんな安っぽい言葉が出そうになって口を噤んだ。

 どんな経緯があったか知らないが彼女は生きているのだ。亡霊としてでも、幻覚でもなく。大地に足をついて。

 なら、それ以上の言葉は侮辱になると思った。

 アタシは今の今まで寝てた……いいえ、多分死んでたみたいけど……。アンタは違うんでしょ? 

 と物騒なことをサラリといいながら眼下に広がる賑やかなお祭りを指差した。

 

「あっち。行って楽しんできなさいよ」

 

 お前は、と問いかけようとして気づいた。よく見てみると彼女が影に隠れていた理由が明らかになった。

 彼女の服装はボロボロで人前に出れる格好ではなかった。

 祐一は身を起こしてブレザーを脱ぐと、彼女に放って渡した。彼女は、ありがと、と皮肉を言うでもなく肩に羽織った。

 

「大丈夫よ、異邦人のアンタだって誰もダメだって言わないわ?」

「いいよ、俺は。ここで見てる。……約束も誓いも守れなかったし……折り合いも悪いしな」

 

 そ、と草むらに彼女も声を下ろして篝火の明かりが彼女を照らし出した。

 月光を宿す銀色の髪がたなびく。瞳は闇色の紫紺に染まっていた。

 以前から整った容姿だったのは知っていた。

 でも今の彼女は人並み外れていて、どこか神に連なるものの無機質さが介在していた。もしかしたら人から外れたのかも知れない。祐一は巻き込んでしまった少女の末路に目を落とした。

 

「家に……帰ったか?」

「まだよ。言ったでしょ、さっきまで寝てたのよ? それも死にかけて」

 

 返す言葉も見つからず、チェリーも言葉を続けなかった。しばしの間、二人の間には沈黙が下りて。

 

 ──As I was a-gwine down the road,

 

 ──With a tired team and a heavy load,

 

 ──I crack'd my whip and the leader sprung,

 

 ──I says day-day to the wagon tongue.

 

 オクラホマミキサーの愉快げな音楽が聞こえてきた。どうにもさっきまで二人の間にあった、どこか重苦しい雰囲気には合わなくて。どちらが先だったのだろう。二人で肩を揺らして大笑いしてしまった。

 

「はい」

「なんだよ」

 

 ひとしきり笑ったらチェリーが何かを寄越してきた。それは彼女が首に下げていたペンデュラムのようで……見覚えがあったが、形が変わっていた。

 

「アンタが贈ってくれた『ミスラの松明』って……大切なものだったんでしょ? 死にかけた時にね、見えたの。アンタとアンタと同い年くらいの子が金色の馬に乗って旅をしているのを」

「…………!」

「もうあれは返せないみたいだから……だから、アタシの大切なものを受け取ってよ。交換、って訳じゃないけど、それでも、受け取って欲しいわ」

 

 祐一は目を瞑って、俯いた。その言葉は、祐一の胸を打った。

 

「ああ……そうか……」

 

 報われない旅だった。誰にも知られず、自分の胸にだけ秘め、忘れ去られるだけなのだと思っていた。そうして義母が知ってくれて……そして今、義母以外にも逝ってしまった友との旅を知ってくれている人がいる。

 だったら、もう十分だった。友との絆を贈ったことに、もう、なんの後悔もなかった。

 

「ほら、立って」

 

 いつの間にかオクラホマミキサーは終わっていて、どこかタンゴを思わせる陽気なものへと変わっていた。農民たちが収穫を祝ったり、春の訪れを喜ぶ歌だった。

 踊りましょ、と祐一の胸中なんてしらぬとばかりに手を取って立ち上がった。釣られるように立ち上がってしまった祐一だったが困惑を隠せず、頬をかいた。

 

「い、いや……俺踊ったことなんてないし……」

「あら、レディに恥をかかせるのが日本の男の子の嗜みなのかしら?」

 

 目を細めて笑みを消しきれない彼女は首を傾げながら問いかけた。服もボロボロで、一見しても誰か分からない髪も姿も変わり果てた少女の願いだった。

 聞いてやらねば男が廃るぜ、とエオから肩を叩かれた気がして、わかったよ、と小さくうなづいた。

 手と手をとって、えっちらおっちら歩いて回って踊って、下手ね、と彼女が笑えば、うるさい、と不貞腐れてそっぽを向いた。

 

「ねぇ」

「なんだ」

 

 手を引かれ同じ方向を向いて、目は合わせずに問いかけられた。

 

「サトゥルヌスはどうしたの」

「たおした」

「そ」

 

 だからもうベルゲンは大丈夫。わざわざ言葉にしなくても肩の下がった彼女を見たら必要はなかった。

 

「なあ」

「なに」

 

 揺れる銀の髪と隠れざる蛇の気配。

 手をとって同じ方向を向いて、目は合わせずに問いかけた。生き残ったとはいえ変貌を遂げた少女に。

 

「……お前も家に帰らないつもりなのか」

「そんなわけ無いじゃない。アタシはアタシよ」

 

 音に合わせてチェリーがくるりと回って、頬に指をあて、笑った。毅然として、凛として。迷いなど一片も見せずに言い切っった。

 そうか……そうだよな、と小さく何度もうなづいて。どうしたのよ、と不思議そうな彼女に笑いながら。

 

「いや、俺も帰ってみようかなってさ……」

「家に帰るのなんて当たり前でしょ」

 

 本当に、その通りだ。別に難しく考えなくてよかったんだ……自縛自縄になってただけで。

 帰りたい。帰ろう。あの場所に。サトゥルヌスの計略は神々との闘争で霞んでいた望郷を思い出させた。

 

「俺も、家に帰るよ」

 

 カラッとした間抜けていて明け透けな笑顔。大人びた印象を受けたが、きっとこちらの方が素なのだろう。

 

「なんだ、普通に笑えるんじゃない。そっちの方が好きよ」

 

 下手なダンスを踊る彼の腕をとって、頬にキスを落とす。馬鹿みたいに紅くなる相棒をからかって愉快な笑い声が木霊する。

 そんな二日月の夜だった。

 





ここまで読んでくださってありがとうございます。三つ巴編はこんな結末になりました。
感想とか評価とかいただけると嬉しいです。ほな……また……。







これはどうでもいい作品語りなんですが、チェリーは神を殺すしか能のない祐一くんと対比で、総てを持ちながら総てを守りきるというコンセプトで創作したキャラでした(家族、友達、神具、才能、血筋etc……。
彼女の存在と三つ巴は最初期のプロットから考えていて、まあ当初の想定より大幅にズレてしまいましたが書ききれて満足しています。
オリキャラという異物が原作に入り込んだらバタフライエフェクトで全く新しい神殺しが生まれる作品がひとつはあってもいいよなーっていう私の逆張りと偏見から生まれたキャラでもあるので、眉をひそめられる読み手さんも多いと思います。すみません。


次章の運命殴打編(仮)はカンピオーネ祭りとなっておりますのでキャラ解釈でいつも脳内バトルで殴りあってる作者にとって一番の試練となっております……お楽しみに……。


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