山本治は幻想郷で読書をするようです (山本 治)
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プロローグ
本はいいものである。何がと問われると何と答えれば良いのか少々どころかかなり悩むところではあるが、それでも本は良いものである。
人は醜悪さと美麗さを併せ持つ不思議な生き物である。そして心の中にもう一つ世界を持つことのできる珍しい生き物でもある。人の心はその本人ですら把握できないほど複雑で、それでも理解しようともがくからよく様々なことを間違える。
間違えることは罪ではないとは一概に言い切れないけれど、それも人の独特な美しさである、と僕は思う。
人の性根は何より全てが美しいわけではない。夏目漱石の「こゝろ」で考えるなら、「先生」と「K」と「お嬢さん」の三角関係が挙げられる。ここにおいて男は「社会人」と「芸術家」の二つに分かれる。この3人ならば「先生」が「社会人」、「K」が「芸術家」である。二葉亭四迷の「浮雲」の「昇」と「文三」と「お勢」との関係にも見られるように、あの時代の小説の女性は必ず(確証は無いが)最終的には「社会人」を選ぶのである。女性は最初、独特な感性を持つ「芸術家」に惹かれていく(「こゝろ」では「お嬢さん」が惹かれていたかは定かでは無いが)が、結局の所生活が立ちいかぬ男など切り捨てられ、安定性のある男へと傾く。当たり前のことではあるが、人を愛す為にはその性根のみが理由では成り得ないのだろう。つまり「お嬢さん」は「先生」の真面目に惹かれたかもしれないが、必ずその為生じる安定をも求めたに違いない。「芸術家」は常に孤独で、悲運な最期を遂げることも多い。夏目漱石の特に優れている点は、あの3人の中なら「先生」は「社会人」だが、世間一般でみたら「先生」は「芸術家」である点であろう。「先生」は「お嬢さん」も手に入れ幸せな暮らしを手に入れたにもかかわらず、自らその命を絶つことになる。ノーマルな視点から見れば、明らかに変質者である。この二重構造が、未だに「こゝろ」が評価されている一因なのかもしれない。
とまあ色々と話したが、要はつまり読書とは人を学び自己を学ぶことなのである。たったそれだけなのである。伝えたいことはそれだけ。
僕の名前は山本治。今は「幻想郷」と呼ばれている土地でしがない本屋を営んでいる。種族は人間と言いたいけど、人からはゴリラとしか認識されない。つまるところ完全に見た目がゴリラなのである。どうしてなのかは僕が聞きたい。ある日突然こんなのになったので大変戸惑ったが、もう慣れた。
これはそんな僕が、ただひたすら幻想郷で本を読むお話である。
山本書店は、今日もひたすらに平和である。
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第1話「城の崎にて」
突き抜けるような青空、幾晩を越えても相変わらずの寂寥を匂わせる枯木。朝方、窓の外には人影も見えず、ひたすらに静寂が張り詰めていた。
冬場の朝は布団から出たくない。鳥の一つも鳴かない様な朝に、どうして体毛もほとんどない人間が起きる必要がある。僕はゴリラだけど。悔しいが、体毛フッサフサな身体は寒さをあまり感じはしなかった。それでも別の季節に比べると、寒いことには寒いのだが。その点本屋はいい。基本的に外に出ることはない。それは決して僕が引きこもっているとかそういう話では無い。外での作業などほぼ無いに等しいのである。僕の本屋では。
重い体をゆっくり起こして洗面所へ向かう。身嗜みには気を使わないので、歯磨きと顔を洗う以外にここに用はない。鏡の中の歯を磨くゴリラを見つめながら、今日一日、しっかり仕事をしようと自らを奮い立たせる。顔に全くやる気が無い様に見えるのはこの鏡が特殊な材質だからである。
それから朝食を食べ終え、8時に扉の外の掛札を「OPEN」に反転させた。
陽が天上から少しだけ傾いた頃。それまでも客はぼちぼち来ていたが、なんだか独特なお客様がご来店なさった。
目立つブロンドの髪、いかにも魔女のような黒い帽子。箒を片手に店に入ってきた(何で?)のは、それはそれは可愛らしい少女であった。ただ、それ程少女という訳でもない。20はいってなさそうな、という意味合いである(それでも僕から見れば十分少女であるので、ある意味としては正しい)。尚僕は20後半。
少女は店内を物珍しそうに見回す。それはそうで、これは僕が超苦労して無縁塚から拾ってきた本である。幻想郷ではそもそも本の出版が非常に少ないので、こうして外界の本をお取り寄せするしかない。実際無縁塚は超怖い。いつ幽霊が出てもいいように土下座の準備をしっかりしておくのが大事。その結果今迄はこれといった被害はなかった。でも本当に怖いから、出来ることなら日雇いの人でも雇いたい。
あらかた見回った少女はこちらを見ると目を見開き、つかつかと音を立てて、僕が座るカウンターに歩いてくる。読んでた本に栞を挟み、僕は立ち上がる。同時に、少女は大きな声で問うた。
「なんでゴリラがいるんだぜ⁉︎」
あっそうだ。新規のお客様だから、まずそこから入るんだ。
「喋れるので問題はありません。困った事でも?お客様」
一々元は人間だと説明したらラチがあかないと、最近やっと気が付いたのである。もう妖怪だって思ってくれてもいいよ。
「なんでゴリラがいるんだぜ?」
「えぇ...?」
なんと。堂々巡りとはこのことか。違うか。
仕方がないのである日気が付いたらこうなっていて、元は人間であったことを説明する。納得しきれてなさそうな顔をしながらも、不承不承引き下がってくれた。
「ところで店主、ここには魔道書は無いのか?」
なんとも見た目通りの商品をお探しに、お客様。そう考えてみると、ここには魔道書は無いような気がする。珍しく幻想郷産の書物であるのに、僕の書店では取扱例が少ない。一般のお客様に購入者があまりにも少ないから、入荷をやめてたところであったのをふと思い出した。
「申し訳がありませんが、現在取り扱っておりません」
「そうか...」
わかりやすく肩を落とす少女。その姿があまりに不憫であったので、僕の心の中に「なんとかしたい」という世話焼きな性根が立ち上がり始める。元来、人に世話を焼くタイプなのである。普段人に関わらないから発揮されないだけで。
しかし無いものはない。今から入荷するとなると数も少ないから3ヶ月はザラにかかる。故に真っ直ぐな思考法では辿り着けない。
魔道書が欲しい少女。
存在しない魔道書。
有り余るは魔道書でない本。
恐らく外目から見れば1、2秒といったところであろうが、ある方法を樹立できた。そもそもの「魔道書」の定義を、ズラせば良い。
無自覚に顎に当てていた手を下ろし、僕は彼女に口を開く。
「...でしたら、少々お待ちください」
「?」
キョトンとした彼女を尻目に僕はある本棚に直行する。下の方にあった一つの本を手に取ると、それからすぐに彼女の元へ戻る。
「僕の主観ですが、こちらは魔道書だと思います」
「...‘城の崎にて’?」
そう。僕の選んだ本は、外界の志賀直哉という有名な小説家の書いた「城の崎にて」という小説。
「私には魔道書には見えないぜ...」
「えぇ。お客様のお求めになっている‘魔道書’とはだいぶ違うと思います」
「?」
先程から、どうしてこのような面倒な事をするか。疑問にお思いになったに違いない。それは本屋の主人として、ただ「お客様に良い思いで帰ってもらいたい」という単純なプライドの現れである。つまるところこの行為は自己満足に帰結する。
僕は彼女に、納得のいくような説明を心がけ、ゆっくりと話し始めた。
「対象が何であれ、‘死’は魔法のような力を秘めます。それに触れた人を一瞬で変えるような、改変能力です。...この話は、その‘死’が題材なのです。‘死’と隣り合わせに‘生’が存在するわけですが、そこにも魔法がかった奇跡の力が存在します」
「...つまり、この本は、何かを変える力があるってことか?」
「それは、読む人にもよります。が、お客様には読んで頂きたい。代金は頂きませんので、どうか読んでみて下さい」
そう力説した後に彼女に本を手渡すと、存外素直に受け取ってくれた。恐らくこの子は、性根がかなり良い。少女は本をまじまじと見つめた後、僕の方を向いて笑顔で言った。
「ツケは何ヶ月かかってもいいな?」
「無論返品もOKですし、払って頂かなくても持ってて結構です。ただ、廃棄だけはご勘弁を...」
「お前面白いなぁ!私は霧雨魔理沙!ゴリラはなんていうんだ?」
彼女が気に入ってくれたみたいで満足である。安堵の息を漏らしながら、僕は彼女に自己紹介をした。
「僕は、山本治です。普通の、人間ですよ」
「私も、普通の魔法使いなんだ!」
魔法使いは普通でないと思うのは、野暮なのだろうか。
「城の崎にて」では、主人公は蜂と鼠といもりという三つの死に接し、その死と自らの生の間の距離を考える。この話は所謂エッセイである(エッセイと一言で表せるかと問われると、迷いは生じるが)。自らの身が生きていることに際し、そこには魔法的な力が働いていると思わずにはいられない。蜂と鼠といもりは死に、自分は生きている。ここにおいて生と死の間がひどく狭く感じられて、殆ど一緒な気がしてくる。少しでも転べば死に真っ逆さま。やはり生は魔法で、そんな事を考えさせる死もまた魔法である。
そんな物思いに耽っていると、先程の霧雨さんが出口近くでこちらを振り返り、大きな声で僕を呼ぶ。
「また来るからなー!」
や、やだっ!僕純情だから、勘違いしちゃうっ!
「お待ちしております」
ひたすらに紳士な言葉は、意外にもするりと出てきてくれた。一歩間違えたらヤバイやつ呼ばわりされるところだった。アレ?これも魔法?
何はともあれ、今日も一人のお客様の笑顔を見ることが出来た。その行いに何の価値がないにしろ、この経営自体自己満足にほぼ等しい様なものなのだから、損得勘定は昔に消えた。いや、言い過ぎた。本当は少しまだ持ってる。
僕は机の上に置きっぱなしだった本を手に取り、椅子に座って栞を挟んだページを開く。陽の位置は、さしたる変化を見せなかった。
今日も山本書店は、平和である。
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第2話「クジラの彼」
***
「──治。火曜日には、何があるか、わかるか?」
「狒々さまにお祈りを捧げるんでしょ?」
「そうだ。ご先祖様をお救いになった方に敬意を表すんだ」
「お祈りしたら、お願い叶うかな?」
「狒々さまなら、叶えてくれるかもしれないな」
「うんっ!」
***
明くる日の火曜日。昔の夢を見た、気がする。
火曜と木曜は、山本書店の定休日である。どうして土日でないのかというと、休日に本屋が閉まっていたら嫌だろう、という単純な理由である。そして火曜日は、山本家に代々伝わる慣わしがあるのである。
一族の話を、少し挟みたい。山本家には、伝承がある。我々の遠いご先祖様が、昔妖怪に追われていたところを狒々さまに救っていただいた、と。それが火曜日であったため、その敬意を表し一族皆が火曜日に祈りを捧げるのである。狒々さまとは、巨大な猿の様な風貌をした妖怪で、人を喰らうらしい。どうして人喰いの妖怪がご先祖を守ったのかは不明ではあるが、山本家が存在する以上、ご先祖がホラを吹いていない限りは事実なのだろうと思う。人が神仏の存在を信じるのと同じくして、狒々さまの行いを信じているのである。
とは言え狒々さまへの祈りはそれほど大それた儀式でもない。遠くに見える‘妖怪の山’の方角を向いて、二礼二拍手一礼。神社と同じ要領で狒々さまに感謝する。僕個人としては感謝することも無かったような気がするが、ご先祖が世話になっているのだ、祈らねばなるまい。
起床して身支度が整ったら、二礼二拍手一礼。1分程度の時間が過ぎ、頭を上げる。これで、終了である。有難う狒々さま。
儀式を済ませて時計の針を見やると、8時5分前程度を示していた。これから1日は、自由である。僕は今朝郵便箱に投函された‘文々。新聞’を開き、幻想郷のニュースに目を通す。大きく見出しを飾っていたのは、「玄武の沢、開発進む」の文字。玄武の沢とは(恐らく)‘妖怪の山’に水源をもつ、無数の洞穴を持つ沢である。人里から少し離れた場所であるが、この沢はその先に未だ未解明の土地が広がっていることもあり非常に注目されている。人里においても、是が非でも開発を押し進めたい‘急進派’と、環境を守る為止めるべきと訴える‘保守派’に分裂している。実際玄武の沢は開発できれば人間にとって莫大な利益を生み出す。しかしそれは河童の生息域を脅かすことに繋がる。また沢蟹などの水棲生物も多く存在し独自の生態系を築き上げている為、無闇矢鱈に開発を行うのも避けるべきなのではある。そういった意見により議論は平行線を辿っており、人数的に有利な急進派が開発を進めている現状がある。僕はどちらでもない、というか決められない。
そんな重大な決断を、僕が今ここで考えたところで結果など降ってこないのは自明である。
頭の中を無駄な思考が忙しなく巡っていた時、書店のドアが開く音がする。お客様、申し訳ありませんが今日は店仕舞で───
「よおゴリラ!遊びに来てやったぜ!」
「...あぁ、霧雨さん、ですよね」
元気の良い声でCLOSEのドアを突破したのは、先日お知り合いになった金髪魔法使い(魔法を使っているところは見たことないが)、霧雨魔理沙さん。思い返せば、いつか遊びに行こうなんて社交辞令みたいなこと言ってた気がする。本当に来てくれるなんて治さん純粋だから勘違いしちゃうっ!
冗談は置いておくにしろ、実際こういった口約束を守ってくれた人は初めてかもしれない。彼女の性根が真っ直ぐなことが伺える。僕がゴリラになる前の知り合いには、こんなに純粋な人はいないんじゃなかろうか。ゴリラ姿も、時には役に立つ。
「さぁゴリラ!外へ出ろ!」
「今からですか」
「善は急げだぜ!」
善の定義を頭の中で問い直しながら、僕は自前の黒い帽子を手に取った。
帽子の角度を気にしながら外へ出ると、箒を片手に霧雨さんが手招きをする。僕が歩いて近付くのを確認すると、彼女は箒にまたがった。
「後ろに乗るんだぜ」
おお、魔法使いっぽい。
「...僕は無事でいられるでしょうか?」
兼ねてから魔法使いの絵本にぶつけたかった思いを、目の前の魔法使いにぶつけてみる。僕の20年来の疑問がここで解決するなら、僕はすっごい嬉しいです(小並感)。
「...」
オイオイオイ、死ぬわ僕。
顔が凍らんばかりの寒波。足元は見たくない。耳にひたすら爆発音にも似たものが鳴り続け、瞼なんて開けられたもんじゃない。
帽子が飛ばないように片手で必死に押さえつけてると、身体を支えるのがもう片手のみ。心許ない。箒を必死に掴んでいるが、本日が命日になりそう。
霧雨さんはずいぶん良い笑顔してるけど慣れなのかな。つまり慣れてる霧雨さんは化物だね!この空気抵抗に耐えられる身体なら上空から落ちても平気そう。というか何喋ってるのか分からない!敢えて表現するなら「ボボボボボ!」鼻毛使って戦いそう。
それを察したのか霧雨さん、耳元まで寄って来てくれる。気遣いは嬉しいけど是非前を向いて欲しいかな!うん!
「危なかったら私に掴まるといいぜ」
こういうことさらりと言えるのも純粋な証だと思います。でも僕は紳士なので箒以外掴みません。
箒に跨り大空を舞うこと、数分。森を超えると、小高い丘の上に神社が見えてくる。その神社に向けて、箒は少しずつ減速を始める。鳥居をくぐらないあたりで地面に肉薄し、そのまま着陸した。
「到着だぜ!」
「...ありがとう...ございます...」
「大丈夫か⁉︎」
大丈夫な訳がない。僕の身体はそんなGに耐えられるように設計されていない。常時ジェットコースターに乗ってた感覚。しかしながら人に心配をかけてもらうには余りに見栄っ張りな性格なもので、平気なふりをしてしまう。
「大丈夫ですよ。紳士ですから」
「何一つ大丈夫じゃなさそうだぜ...」
先程の臨死体験より、女の子に頭の心配をされたことの方が心を深くえぐり取るのは何故だろう。地面を見つめながら若干の嘔吐感を我慢して忍耐力を高める修行を敢行していると、視界外から聞きなれぬ声が飛んできた。
「──ゴリラ?」
「おお、霊夢!面白い奴を連れてきたぜ!」
「魔理沙、面倒だから早く山に返してきなさい」
「いや...僕は妖怪じゃありませんよ...」
言って気が付く。僕はもう、側から見れば妖怪の類なのだろう。事実人間には到底見えない。
「じゃあ早くしまいなさい」
「人形でもないんだぜ、コイツは」
終いにはモノ扱いされるとは思ってもいなかったが。
霧雨さんから紹介されたこの人は、博麗霊夢、博麗神社の巫女であるらしい。名前だけなら新聞で何度か見かけることがあった。異変解決のプロフェッショナルをこの目で拝める日が来ようとは思わなかったので、今とても幸せな気持ちです。
本人は想像以上に冷めている人のように思える。個人的なイメージではパトスに溢れるアクティブな女性かと思ったが、実際はロゴスを重んじる人の様な印象を持った。そうでもないと異変解決は出来ないのかもしれない。
「で。ゴリラは何しにここ来たの」
「いやぁ僕も霧雨さんに連れられただけですから...」
「霊夢に紹介したかったんだぜ!治にも霊夢を紹介したかったからな!」
そう言うと霧雨さんはこちらを向き直し、職場の先輩みたいな無茶振りを仕掛けてくる。
「霊夢にも何か本紹介してみてくれよー」
「えぇ...」
「やめなさい魔理沙。そのゴリラが本を嗜むと思う?」
「いや嗜みますよ」
確かに野生のゴリラは本を嗜まないが、僕は養殖モノのゴリラだから本を嗜む!残念だったな!いや、そもそもゴリラではないのだが。
とは言え会って数分の他人に本をお勧めしろと。なかなかの難題を押し付けてくるものである。
数秒考えた後、無意識に顎へ当てていた手を下ろして、帽子の角度を直して質問してみる。
「博麗さん。大切な人はいますか?」
「は?」
切れ味が鋭すぎて泣きそう。しかしここで引いたら一生の恥。
「急になんなのよ」
「いてもいなくても博麗さんには、『クジラの彼』をお勧めします」
「何のために質問したんだぜ...」
「会話のきっかけを掴むことが大事ですよ」
博麗さんの目が鋭い。その目が僕のどこを見ているのか、それは分からないが、何だか心を見透かそうと試みてる目の様な気がする。恐らく急に出来た友達の友達に不信感を抱いているのかもしれない。それだけ大事に霧雨さんのことを思っている証拠なのだろう。なんだぁ、やっぱり大切な人いるじゃん!
「話だけは聞いてあげる」
「ではお時間失礼」
許可もいただいたことですので、一呼吸置いて、博麗さんにお勧めを始める。
「『クジラの彼』は短編小説集なんです。著者の有川浩さんは、自衛隊を題材にした小説の作風が有名な方なんです」
「自衛隊って何だぜ?」
「外界で‘日本’と言う地があるのですが、そこで訓練された用心棒って考えてもらえれば取り敢えずはよろしいのではないかと」
「まぁいいわ」
「で、この方は他に『空の中』、『海の底』と言う小説も書いているのですが、この『クジラの彼』はそのスピンオフ作品が収録されているのですよ」
「じゃあそれも読まないとじゃない」
「いえいえ、こちら単品でも楽しめる仕様になっております」
「おお!気が利くな!」
「本書の内容は、一言で言うならベタベタの恋愛モノです」
「私恋愛に興味ないし本にも興味ないしゴリラにも興味ないんだけど」
「ん?最後違くないですか?」
無論この人が恋愛嫌いなことは第一印象から把握している。しかし、だからこそである。
「自分で行うことに興味がなさそうだから、本で他人のを覗くのも一つの手だと思います。ハッピーエンドの恋愛モノは敬遠されることもしばしばですが、人のみが持つ非合理的な特性について学ぶことができる良いジャンルだと思いますよ」
「アンタはそれで何を学んだの?」
僕は予想外の質問に暫し考え、そしてこう返す。
「秩序より愛は強し、ですかね」
「そう、さっぱりわかんない」
「まあまあ読んでみてください。書店に来ていただければお買い求め又立ち読みできる様にしておきますから」
「...考えとく」
あっ来なそう。
自衛隊の潜水艦(図鑑曰く潜る船らしい)乗りは、例え自分の家族であるにしろいつ出発しどこへ行きいつ帰ってくるのか、何も伝えてはいけないらしい。ある男女の間には、この壁が立ち塞がる。所謂、超遠距離恋愛である。自分の愛する人がどこにいて何をしているか全く分からない状況はさぞかし辛かろう。愛の力はまったく偉大なもので、この壁を越えてまで人は愛を敢行する。いくらコスモスで縛ったにしろ、愛はあまりにも強大なのである。
僕は生来人と恋愛したことはない。本書の様に恋愛ができたら、その間が遠いにしろ素晴らしいことだと思うのである。
霧雨さんの後ろに続いて、再度擬似臨死体験に足を踏みいれようとした時。
「治、だよね」
「えぇ、そうですが」
博麗さんは僕を見つめて、真剣みを帯びた口調で言う。
「その姿、相当強い呪いよ」
「...これ、呪いなんですか?」
僕が今まで生きてきて初めて聞いた新事実。思わず身体が硬直する。
博麗さんはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに話す。
「私としては知ったこっちゃないけど、妖怪の山の頂上に守矢神社ってところがあるの。呪いは本職じゃないから、行くならあっち行ってね」
「ありがとうございます」
「...」
博麗さんに御礼を申し上げ、そのまま帰路につく。実は冷めている様で、案外優しい人なのかもしれない。
それにしても、呪い。呪いなのだから、怨恨のある人にかける物なのだろう。誰かの怨みを買う様なことをしたかと言われると心当たりはないが。
傍迷惑な呪いである。
ただこの姿をキッカケに面白い知り合いが少々増えた。憂むべきか、否か。複雑な心が生まれ、収納に困る。
山本書店は、今日も平和だ。
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第3話「死にぞこないの青」
「...」
「...」
鉛の様に落ち込む空気。ひたすらに沈黙。僕から何か話しかけるべきかとも思うが、何かを喋り出そうとする度に彼女の溜息が思い出される。元より人と関わるのが苦手なタチなのである。今はこの林道が、果てのない道に見える。
話は、今より数時間前に遡る。
博麗神社に行った日よりまた数日が経過した。
ゴリラ姿が呪いだということは把握し、守矢神社という場所も紹介してもらったのだが、何分場所が場所だけに訪ね難い。妖怪の山は多くの妖怪たちが独自のコミュニティを築き上げており、その結束が固い分余所者が入ろうものなら厳しい扱いを受けるらしい。また河童や天狗といった種族が人知を超えた高い技術を保有しているとも噂があり、一説によれば山の中には空洞があり、その中で妖怪は高水準の暮らしを送っているとか。事実関係は取れていないが、新聞がそのことを匂わしている様な気がする。何より、人喰い妖怪がいる時点で山には行きたくない。
本日もまた山本書店は休日である。その為僕は本屋兼自宅(一階が本屋、二階が自宅となっている)の炬燵でぬくぬく本を読んでいたのである。まだ太陽は東側に位置し、部屋の中には光線が差し込む。ベランダに干してある布団がよく乾きそうである。
本に夢中になると周りが見えなくなる。だから話が佳境に差し掛かった所で突然窓を叩かれると、心臓が飛び跳ねて場合によっては死ぬからやめてほしいんですよ霧雨さん。
「よぉゴリラ!今日空いてるか?」
「空いてないことはないですが...」
もしかしてまたぶらり人生途中下車の旅をしなければならないのだろうか。願わくば次はもっとゆっくり飛んで欲しいです。
「私は用があって行けないんだが、今日ゴリラには守矢神社に行って欲しいんだぜ!」
えっ行って欲しいの?
「えっ死にます」
「そういうと思って用心棒を発注したぜ」
そういうと霧雨さんはその用心棒との待ち合わせ場所時間について伝えた後、またなーと元気に何処かへ飛んで消えた。
知り合ったのはつい先日である。あんな聖人もまだこの世にいたのか...。
午前11時。人里の中の団子屋の前に集合時間5分前に到着した僕が待っていると、空から何かが降りてきた。その人は僕の目の前に着地すると、面倒臭そうに僕を見つめた。
「...アンタ飛べないのよね」
「...ど、どうも、博麗さん」
友達の友達。うわぁ、めっちゃ気まずい!いつも3人でつるんでたのに真ん中のやつ消えたら途端に会話がなくなる現象やこれ!なんか名前付いてないのこの現象?
「...しょうがないから歩くわよ」
「あっ...よろしくおねがいしまーす...」
そして今に至る。今やっと山の麓が見えてきたあたりである。人里から山まではかなりある。徒歩1時間くらい。その間無言であったこの空気を想像してみて欲しい。博麗さんがただの引っ込み思案な人なら僕が話しかければ解決だが、性格がキツそうなのである。
僕が必死に話題を探して唸っていると、1時間ぶりになんと博麗さんが口を開いた。
「アンタ何者?」
「いや急に何者かと問われましても人間としか...」
藪から棒な質問にしどろもどろに応えると、不満足な顔をして糾弾じみた質問責めを始める。
「仕事は?」
「本屋です...」
「性別は?」
「男です...」
「趣味は?」
「読書です...」
「魔理沙とどうやって知り合ったの?」
「霧雨さんは僕の本屋に偶然来たんです」
「今迄のこと本当?」
「無論です」
「解せないわね」
ここまで職務質問の様なことをしてまだ解せないことがあるのか。
「どうして魔理沙はアンタにここまでするのかしら」
「それは僕にもわかりません」
それについては確かに僕にも解せない。
霧雨さんの思考を考えてみる。彼女は純粋でいい子である。しかしどうして関係のない他人である僕にここまでするのか。他人の呪いなどどうでもいいであろう。
足りない思考で必死に考える。一つの解が導き出されるまでにそう時間はかからなかった。多分、これが解なのだろう。
「博麗さん」
「霊夢でいい」
「...霊夢さん。僕と友達になりましょう!」
「却下」
僕の解が儚く砕け散る。霧雨さん、駄目です。二人にしてもらったところで、僕たちは相容れぬ間柄でした。申し訳ありません。
「アンタみたいなおしゃべりゴリラが友達なんてぞっとするわ」
「子供のおもちゃみたいに呼ばないで下さいよ...」
「アンタは魔理沙と友達になって何がしたいの」
声色が若干変わった気がする。この質問は、多分今迄のより真剣なのだろうと、直感で感じた。でも言葉を選ぶ気にはなれなかった。正直に応えることが、何より重要に思えた。
「...本を読んだり、感想を言い合ったり、世間話をしたり」
「へぇ、そう」
それきり、博麗さんは何も話さなかった。あの答えがお気に召したのかは分からないが、冷徹な目が若干柔和になったのが唯一の救いな気がする。
山に入ると所々から目線を感じる。それが人ならざるものの視線だということはよくわかった。隣に霊夢さんがいなかったら僕はどうなっていたのかと考えると、背筋に冷たいものが走った。
太陽は天上から少し西向きに傾いている。足元の枯葉がかしゃかしゃと音を立てる。風はあまり感じなかった。茂る常緑樹が止めてくれているのかもしれない。これが本当にただの木かどうかも怪しいところなのだが。
霊夢さんと並んで歩いていると、少し霊夢さんの足取りが遅くなっているのに気がついた。ゴリラと人間では基礎体力が違う。華奢な女の子なら尚更であろう。
「休憩を挟みましょう、霊夢さん」
「何?もう疲れたの?」
「そういうことでいいですよ」
そう言って僕は近くの木に背中をもたれかける。これが人喰い樹なら僕は死んでいるが、幸いただの木であったようだ。何も信用できないね、この山。
霊夢さんも僕の対面の木に座り込んでいる。しばらく落ち着いてから行こうと座ろうとしたその時、茂みから何かが出てくる。僕は驚いてそのまま尻餅をついた。
「猿?」
「ゴリラです...ゴリラじゃないです」
辛うじてその何者かに応えると、霊夢さんがデカイ溜息をつきながらアシストを入れてくる。ありがとうございます助かります。
「...河童じゃない」
「そういう貴方は霊夢さんじゃないか。こんな所で」
知り合いなのかと思ったが、妖怪の山に入っても文句言われない時点でおかしくはないと理解した。やだ、霊夢さん凄い。
それにしても河童とは。僕は初めて会った種族である。
「私は守矢神社に用があるの」
「へぇ、珍しい。その猿は何だい?」
「猿ではないです...」
「人に本を勧めるゴリラよ」
端的すぎる説明。あながち間違ってもいないけどそのまとめ方だと動物園で展示されてそうだから勘弁して欲しい。
「珍しいもの連れてんね」
「不承不承よ」
「御免なさいお世話になってます」
「私にも何か紹介してみてくれよ」
「えぇ...」
また無茶振りである。勘弁して欲しい。本屋は人に本を勧める職業では無い。誰が最初に本なんかお勧めした。僕だ。
僕は河童さんを見て考える。見たところ小さな女の子のようではある。しかしこの世界で見た目などほぼ当てにならないのはわかっている。何せ河童である。いくら幼女に見えるとは言え、歳の取り方が根本的に違う可能性もある。
僕は無意識に顎に当てていた手を戻すと、立ち上がって河童さんに失礼ながら質問させてもらう。というか顎に手当てる癖どうにかなんないかな。
「河童さんは確か技術がとても発展していらっしゃるとか」
「ん、人間基準で考えたらね」
「でしたら、巨大事業なんかもやっていらっしゃいますか?」
「無理無理、まとまんねぇよ河童どもは」
おぅ、急に口が悪い。
「民をまとめるためにはどうしたら良いと思いますか?」
「この猿は真面目に本紹介する気あるんか?」
「大丈夫よ。コイツは基本回りくどいの」
霊夢さーん?ちょっと酷くないですか?あと河童口悪くない?
「一番効果的な方法といえば『明確な敵を作る』ことですね」
「うーむ、言われてみれば確かに」
「ええ。ですから、ある誰かが犠牲になれば他は皆まとまるのです」
「犠牲なき進歩などない!ただ前進あるのみだ!」
「そういうことです。それで、今回お勧めする小説は『死にぞこないの青』です」
「へぇ。内容を聞かしてもらおうかな」
「御意でございます。これはある少年と先生の、小学校でのお話です。小学校では、先生とは絶対権力です。それが威信を失わない為に、不満の矛先を逸らさねばなりません。その為に、先生はある行動に出るのです」
「ことの原因を全部少年になすりつけたとか?」
霊夢さん!何だかんだちゃんと聞いてるんじゃないですか!しかも当たってます!
「その通りです。ある日を境に先生は少年の迫害を始めます。するとどうでしょう、今迄先生の言うことを聞かないこともあったクラスがみるみるうちにまとまったではありませんか!」
「少年にとっちゃたまったもんじゃないね」
「その影響かどうかはともかく、少年はそれから幻覚を見るようになるのです。それはひたすらに青ざめた何か。少年はそれに『アオ』と名前を付け、そこから物語は展開するのです」
「なんだか可哀想な話だなぁ」
「無論学ぶところも多いですよ」
「うん、この猿気に入った!本貸してくれ!」
幻想郷の人は何で誰も金払おうとしないの?
「図書館じゃないですけど、本屋に来れば貸し出しもします。今度是非ともおいでください」
「このゴリラの何処に気にいる要素があるのかしらね」
霊夢さーん?
劇中での『アオ』は、過激な発言と憎しみを持った眼差しで異様な存在感を放つ。主人公のマサオは先生に迫害された影響でクラス内でも孤立が進む。しかしそれ以外は全てうまくいっているのである。先生の評判は良く、クラスも楽しい雰囲気。一人の犠牲を除けば、何も問題はないのである。身分格差とは中層の者に安心感をもたらす。「俺よりまだまだダメな奴がいる」と。いつしか人は最下層の者を虐げるのが当たり前と感じるようになるのであろう。この手法が間違っているとは言わない。しかし確実に正しくはない。その一人は、確実に地獄を見ているのである。
《頭の、ちょうど眼球の裏側あたりに痛みが走る。怒りとも悲しみともわからない塊がそこにあった。それは熱く、心臓のように鼓動した。》
その憎しみは、やがて統治者に牙を剥く。
「そういえば」
河童さんが口を開く。
「最近人間を玄武の沢でよく見かけるんだ。何かを話しているんだが、これがわからない。妙なこと考えてなけりゃいいんだが」
「もし、妙なこと考えてたら、河童はどうするのですか」
「全力で潰すよ」
...思ったより、事態は深刻かもしれない。人間は、河童の全勢力を計り知れていない。少なくとも急進派は、河童を侮っている。玄武の沢付近の人間は何を言っても今更退かないだろう。
このことが、僕の心の底に妙な塊を作った。
河童が去ってからまた歩き出す。二人でまた無言の時間が流れる。
「ねえ」
霊夢さんが口を開く。
「何でしょう」
「守矢行ったらその後ついでにこないだの本借りに行くわね」
「...お待ちしてます」
「何ニヤついてんの気持ち悪い」
何故だか、霊夢さんと若干近づけた気がして嬉しいのである。他人から見て気持ちが悪いように見えるのは、否定できない。
やはり友人が出来るのは良いことである。人との繋がりにおいて、僕は成り立っているのだろう。
山本書店は、今日も平和である。
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第4話「電池が切れるまで」
全方位からの妖怪の目線を感じ、妙な温度の風を感じつつも妖怪の山の頂点が見えてきた。日の傾き具合から夕方に突入してきていることがわかる。暗い中の下山は非常に危険である。妖怪まみれなら尚更である。
登り坂が緩やかになり始め、足への負担が少なくなった頃。久しく見ない人工建造物が視界に入り始める。
「あれが守矢神社よ」
「随分...空気が薄いですね...」
「ゆっくり登ってきたから具合悪くなんなかったでしょ」
「まぁ高山病にはなりませんでしたね」
若干の達成感からか少し口数が増えた気がする。足取りは重たいが、それでも守矢神社は近づいてきた。登山家の気持ちが少しわかった気がする。
神社の真ん前に立つと、霊夢さんは大きく口を開いた。
「早苗ー!いるー?」
暫く経つと、中からぱたぱたと慌ただしい音が響いてくる。
「はい、はい!って、霊夢さんじゃないですか!」
中から出てきたのは緑色の髪のこれまた可憐な女の子。霊夢さんっぽい服を見る限りこちらも巫女職に就いていらっしゃると考えるのが妥当であろう。頭に付いてるカエルっぽい飾りがとても気になる。
「用事があるのよ」
「へー、どんな用事で...⁉︎妖怪⁉︎」
女の子は僕の方を見るや否や即座にお札っぽいものを構えた。大変、浄化されちゃう。いやむしろ呪いならちょっとショック与えた方が離れる可能性がある...?
様々な考えが頭を巡っていたところ、霊夢さんがそのお札を遮って弁明してくれた。本日は本当にお世話になります。
「落ち着いて、早苗。普通のゴリラよ」
「何だ、普通のゴリラですか!って、普通のゴリラは帽子なんか被って二足歩行しませんよ!」
そうです、治さんは普通のゴリラではありません。喋り、本を読む貴重なゴリラなんです。いやゴリラではありません。何はともあれ自己紹介をしなければ話にならない。
「どうも、僕の名前は山本治です。貴女は何というお名前で?」
「あっ、私は東風谷早苗です...って、何でゴリラが喋るんですかー⁉︎」
ひとしきり事情を説明し終わると、東風谷さんは苦笑しながら僕達に向かってとんでもないことを教えてくれた。
「麓からここまでって、索道あるんですけど...」
「えっ⁉︎そうなんですか⁉︎」
「あっ...日頃飛んでるからすっかり忘れてたわ」
叫びだしたくなる気持ちを抑えた。どうしてあんなに危険な思いをしてまで山道を登ってきたのだろうか。道理で人間が守矢神社の話をするわけである。人間なら誰も行けないだろうにおかしいと思った。
「まぁ、帰りに使えばいいってことで...ところで、山本、さん?」
「はい」
身長差的に上目遣いされる。くっ、数年前の僕なら秒で落ちた。しかし今は女の子とほとんど関わることも無くなったので最早恋の概念すら消え失せた。故に僕に死角はない。嘘、ある。
「呪いを解きたいのですね」
「解けるかどうかは知りたいです」
「むぅ...」
東風谷さんは少し考える。それから暫くして、棒の先っちょに紙がひらひらしてるやつ(大幣?みたいな名前だった気がする)を取り出した。
一呼吸置いて東風谷さんは僕の方を向く。
「私にはその呪いをピンポイントで解くのは難しいです」
「そうですか...」
「ですから一か八かにかけてみます」
「ん?」
そう言うと彼女はその棒に力を込めるような仕草をする。僕の目には見えないが、何かたいそうなことをしているのだろうか。
「私の能力は『奇跡を起こす程度の能力』です!」
「えっ能力って何ですか?」
「後で説明するから今は黙って早苗に従いなさい」
早苗さんは僕の頭に棒を近づける。
「奇跡よ!」
「...」
「...」
「...ごめんなさい...何も、起こってくれませんでした...」
「いやいや、東風谷さんが謝ることじゃありませんよ」
「そうよ、奇跡なんて百発十中程度なんだから」
霊夢さんそれ励ましてるか貶してるかわかりませんよ。
「いやー、折角、来てくれたんですし...その...」
わかりやすく東風谷さんは肩を落とす。責任感の強い子なのだな、と思った。見ず知らずの他人にこれほど申し訳なさを感じられるのは、どこかの魔法使いさんを思い出す純粋さであった。
何かしら奇跡と呼べそうなものを探して励まそうと思い身の回りを調べてみる。500円玉は落ちていなかった。残念。
と、地面を調べていると、ふとある違和感を抱いた。地面が、遠い。身体を妙な浮遊感が包む。
僕が身の明らかな異変に気が付いた時、同時に東風谷さんも霊夢さんも僕を見て目を見開く。
「ちょっと治...?」
「霊夢さん...東風谷さん...これ...」
「...やりました!奇跡ですよ!」
何と信じられないことに、僕は、浮いていた。僕はあまりの驚きにさっきから顎が外れそうなほど口を開いている。摩訶不思議である。そのミステリーをこの身で体験しようとは思わなかった。
同時に、‘能力’に非常に興味が湧いた。ただの人間を浮かせることのできる力が一体どのようなものなのか、知的好奇心がくすぐられる。
「早苗、狙ったの?」
「...そうです!そうなんですよ!本当は浮かそうと思ったんですよ!」
「そう、天才ね、早苗は」
霊夢さんの凍てつく返しが非常に痛そうなのはいつものことだが、僕は今それどころではない。何と飛べるのである。こんなにおかしなことはあるか。
「...ところで、僕、降りられるんですか?」
「降りたいって思えばたぶん行けるでしょ、たぶん」
浮いてるだけにふわふわした説明。それで僕が月まで飛んで行ってしまったらどうするおつもりなのだろう。
「結局呪いは解けませんでした...」
「僕のために努力してくれてありがとうございます」
「お陰で空飛ぶゴリラが出来上がったわね」
落ち込む東風谷さん。何とかして慰めてあげられないものかと考えるが、なかなか案は湧いてこない。頭を撫でる、は妹又は恋人(出来たことないけど)用だし、「愛してる」と言うのもまた他人には禁じ手である。ともすれば、僕にできる事、とは。
やめようと思っていたのに無意識に顎に手を当てていたのに気が付いた頃、一つ案が浮かんでくる。先ほどの僕は浮かんでいた。
「...東風谷さん」
「はい?」
「奇跡はそうそう起こるものではありませんよ」
僕は頭の中に一冊の本を思い浮かべながら話す。斜陽が東風谷さんの顔を赤く染める。もう暫くすれば、辺りは暗くなるだろう。
「神経芽細胞腫という病気があります」
「腫って言うと──癌ですか?」
「そうです。って何で知ってるんです?」
幻想郷で癌の事例は極端に少ない。外界に比べると平均寿命が短く、また大体の人が妖怪に喰われるか結核などの感染症にかかって命を落とすからである。
「私、外の人間だったんです」
「あぁ、成る程。あぁ、確かにこの神社、外界から来たって新聞にもありましたね」
神社が来たなら巫女さんも来る。ならばこの子が外界の子だとしても不思議ではない。
「で、です。外界である女の子が、その病気にかかってしまったのですよ」
「え、その子は、どうなったんですか」
「彼女は、本当によく戦いました。常々明るく振る舞い、親戚中でも院内学級でもどこでも人気者でした。辛い治療も孤独も必死に耐え、よく笑う子だったらしいです。───ですが、残念ながら、11歳で、その生涯を終えることになったのです」
「...」
「奇跡なんてあまり起こる話ではありません。故に、人は稀に起こるその奇跡にその身を託したくなるのです」
「...」
「東風谷さん」
「ッ!は、ハイっ!」
先程の話を聞いて考えるところがあったのか、彼女ははっとして視線をあげる。
「ですから奇跡を起こせる貴女は自らを誇りに思うべきなのですよ」
「自分を...」
「ええ、そうです。何者にも真似できない偉業です」
それだけ言うと、暫くの沈黙が流れる。日は既に落ちていた。表情はよく見えなかったが、東風谷さんは声色が少し好転した気がする。
「えへへ...嬉しいです」
「ちなみに先程のエピソードは書籍化されております。『電池が切れるまで』と言う本なので、後で僕の本屋にでも読みに来てください」
「本屋やってるんですか?」
「ええ、しがない本屋ですが」
命とは限りのあるものである。ただ世の中には、その限りを最大限活用せず自らを死に至らしめる者が存在する。何と勿体無いことであろうか。合理主義に基づく純粋な損得勘定で言っているわけではない。ただこの世界を楽しめるチャンスを全て捨てている、その行為はもとより与えられた命が少なかった者への侮辱に値する、と僕は思う。死した後に天国が存在する保証などない。だから我々にはこの世界しか無いのである。彼らが亡くなった後には、彼らの生きたかった世界が広がっている。銀河の単位で考えるなら人類など数億のチリの一つであろう。しかし我々にとってはこの青空の下こそ紛れも無い世界であり、この世である。神経芽細胞腫で亡くなった宮越由貴奈さんは、自分が愛した世界が捨てられるのを悲観した。彼女の愛した世界は、我々が生きることでその姿が守られる。
綺麗事であろう。しかしその綺麗事を愛した少女がいたことを、どうかとどめておいてほしい。
「命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
命もいつかなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
(中略)
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう」
僕は空の星を見上げ、手を合わせて目を閉じた。
「後で、借りに行きますね!」
何で誰も金払わないの...
「お待ちしております」
「そういえば早苗、神奈子はいるの?」
「多分寝てます...」
どうやら他にも同居人がいるらしい。良かった、あの子一人なら随分寂しいだろう。
「そう。それじゃあね、早苗」
そう言うと霊夢さんは、ふわりと飛翔する。カッコいい(小並感)。
「今日はありがとうございました、東風谷さん。そういえば、索道はどこなのですか?」
「え、飛んで帰らないのですか?」
「いや、折角なので、使わして頂こうと思います。あの標識に従えば宜しいのですか?」
「あぁ、そうです。それじゃ、お気をつけて!」
元気な声で送り出してくれる。霊夢さんは僕の斜め上らへんで空中待機している。
「アンタ飛べるのにあれ使うの?」
「あるんだったら使いたくなるじゃないですかー。それより霊夢さん」
「何?」
僕の正直なお願いをぶつけてみる。これはこの姿だからこそできる質問で、普通の姿なら気持ち悪がられて終わりである。
「飛んでる時その...スカートの中身、見えそうなんで...降りてもらっていいですか...?」
霊夢さんはあからさまに気持ち悪そうな顔をして降りる。訂正、どんな姿でもこの発言は気持ち悪かった。いや、絶世の美男だったらもしかしたら...?
「アンタ...」
「言葉を濁さないで下さいよ...勇気絞り出したんですから...」
「死ね」
「悲しくてたまりません」
索道の中から見える星空は正に満点の星空と形容するに値した。霊夢さんは姿勢こそ冷たいものだったが、目は完全に星空を向いていた。
書店に帰り霊夢さんに約束の本を渡した後、お礼を散々申し上げて、それから家にてやっとまともな休息をとる。人間は休憩を取るべきだとつくづく感じる。
こたつの温かみや、みかんの酸味、本を読む喜び。これらを楽しむことが出来る、今。それはとても幸せなことで、愛すべきものである。かつて誰かが願ったこの世界を、ひたすらに想う。それが、生きとし生ける我々に課された使命なのであろう。
山本書店は、今日も平和である。
『電池が切れるまで』はノンフィクションです。宮越由貴奈さんのご冥福を、心よりお祈りしております。
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第5話「蠅」
昔々、僕にはニヒルな友人がいたのである。内にも外にも見事なまでにニヒリストであり、それはあまりに達観しすぎて見ているこちらが心配になるほどであった。そして彼は見た目のか細さも相まって儚く、少し風が吹いたら散って消えてしまいそうであった。
その達観が、僕に少なからず影響を与えたのかもしれない。
今ではどこにいるかもわからないが。
そんな彼が夢に出た。夢の中では何も言わなかったが。
───────────────────────
冬至は過ぎたが依然寒さは健在しており、布団は僕の身体をなかなか離してくれない。しかし僕の本屋は午前8時開店午後8時閉店の12時間営業がモットーなのである。どの時間帯のお客様を対象にすべきか考えた結果、面倒臭くなって適当に決めた。冬ともならば午後6時には日が完全に沈む。多分この営業時間で上等だと個人的には思う。
昨晩は外界の古文である源氏物語を少しだけ読んで教養を深めようとしたが、古文はなにかと難しい。当時の価値観を理解しながら読み進めなければ意味のわからないところが多く生まれてしまう。僕は母親に感謝しているが、母親そっくりの女性に恋したことはない。だから源氏物語読破は断念し、これまた無縁塚で拾ってきた電球の構造に関する本を読んでいた。思えば幻想郷に電球が生まれたのはごくごく最近のことである。ある日河童が人里に売り込んできて、代わりに野菜や魚を取引して、人間は電気の力を得た。ここ数年で人里は発展した。電気の仕組みは未ださっぱりわからないが、恩恵を享受できるだけでありがたいことなのだろう。
そんなことを目をこすりながら思い起こし、店の入り口の看板を開店中に反転する。後は12時間黙って本を読むだけである。楽な仕事と侮るなかれ。楽な仕事なのである。稼ぎは本当に少ないが。
売り物のはずの本を一冊適当に取って、店の奥の会計場所に腰を下ろす。寒い朝方は客足が遠のく。いつも午前10時あたりから人がちらほら見え始めるのだが、今日は驚いたことに開店から僅か5分後ほどで客が来たのである。
入り口からまず入ってきたのは、赤い髪の小さな女の子(と言っても幼児という歳ではなさそう)。赤い髪の時点で驚くのだが、その頭と背中には蝙蝠のような羽根が。ハロウィンはとっくに過ぎたし、そもそも幻想郷にはそれほどハロウィンの文化が広がっていないのだが。
その姿を見ただけでもいつかの魔法使いさんのような強烈な印象を受けたが、その後に入ってきた人もそれ以上の衝撃を与えてきた。紫色の長い髪に帽子には大きな三日月の飾り。僕はゴリラのためファッションには殆ど興味がないから、あのゆったりした服装はなんていう服なのかわからない。寝巻きっぽい?見た目的には赤髪の少女より僅かに歳上に見えなくもないが実質同じくらいと捉えていいと思う。
紫色の少女が少し咳き込んでいるのを赤髪の少女があたふたしながら心配している。ひとしきり咳が治ると、紫の少女は僕に向かって真っ直ぐ歩いてきた。なんだろうか。僕は何もしてないはずなのだが、恨みでも買ったのだろうか。
僕の目の前にたどり着いたその子は、良いとは言えない顔色で口を開いた。
「貴方が、山本治ね...?」
「いらっしゃいませ...。その、差し出がましいようですが、宜しければこちらの椅子にお座りになられるとよろしいかと...」
僕は立ち上がり椅子を勧める。小声でお礼を言うと、その人はゆっくり腰掛けた。隣には蝙蝠羽根の少女が立っている。
そう言えば何故僕の名前を知っているのだろうと考えてみると、その答えは言うまでもなく聞くことができた。
「魔理沙、知ってる?」
「はい、存じ上げております」
「あの子が、ここは現世の本を取り扱う珍しい本屋って言ってたのだけれど」
魔理沙さんなら妙に腑に落ちた。成る程、彼女なら顔もとてつもなく広そうである。
「確かに、現世の本を重点的に取り扱うのは珍しいかもしれません」
「とても興味深いわ」
そう言うと少女は徐に立ち上がり、胸に手を当ててこう言った。
「紹介が遅れたわ。私はパチュリー・ノーレッジ。紅魔館って言う場所の図書館の管理をしている者よ。この子は小悪魔」
「これはどうも。僕は山本治、しがない本屋です」
ご丁寧に自己紹介をしてもらったので、一応返しておく。こうまかん、と知らない地名が出てきたが、突っ込むのも野暮だろう。
「私は魔術書を主に読んでるのだけれど、現世の文学にも興味があるの。...失礼するわ」
パチュリーさんはまた椅子に腰掛ける。
「ああ、どうぞ。僕自身あまり精通しているわけではないのですが、何かしら疑問があったら出来る限りはお答えします」
「ありがとう。早速だけど、現世の文学は幻想郷とまるっきり違うのかしら」
「確かに見慣れぬ単語も飛び出しますが、根底の意識は共通する部分もあったりするのですよ」
「同じ人間が書いてるからかしらね」
「幻想郷では人間以外が書くこともありますね」
「そうね。ところで貴方は妖怪?」
「僕は人間ですよ。多分」
「ふふ、面白い人だわ」
正直今の会話の中に僕が面白い人間だと匂わせる要素は何一つなかった気がするのだが、不思議な人である。
「私、現世の本が読みたいの」
「経験は?」
「無いわ。だから、初めて読むには何がお勧めとか、あったりしないかしら」
最近、もっぱら本をお勧めせねばならない状況に直面している気がする。このままでは“お勧めゴリラ”みたいな通り名が付きかねない。
「...魔理沙さんから僕のこと何て聞いてます?」
「本のお勧めがお上手な方と聞いているわ」
手遅れだった。
僕は本屋である。個人的に本屋は、三次元の人間とそれに内包された別次元の世界との架け橋となるべき存在であると思う。基本頭を使いたくない人間には、本は避けられがちである。故にその次元に潜む奥行きや温かさ、多面性、普遍の価値に気が付かないで日々を過ごす人も珍しくは無いだろう。本は確かに想像力が求められる。だからこそ本を読んでこなかった人が急にドストエフスキーなどの本に手を出すと、さらにわからなくなり本の世界へ伸ばしかけた手を引っ込めてしまうかもしれない。そんな更なる疎遠を防ぐのが、本の世界に魅せられた人々、ちょうど本屋だったり司書だったり。僕は別に善意で本を勧めてるわけでは無い。ただ仲間が欲しいのみである。尤も今回の場合は元から読書を楽しんでいそうな方なので紹介するにも気が楽だが。
目の前の女性が何を読むべきか。何を読んだら有意義か。そういった答えの無い問いに挑むのは、難解な話ではあるが楽しいものである。やはり本を勧めるのは自己満足が顕現した結果と考えていいだろう。
そうして今日も今日とてその自分勝手な善意がある形を伴う。それは僕の手からある女性へ、本が手渡されると言う形で。
「...蠅?」
「はい。横光利一という方の著書でございます。それほど長い文章ではないので、サクサク読めると思いますよ」
正直人に『蠅』を勧める日が来るとは思ってなかった。今回の行為はとても挑戦的だと自分でも思う。しかしこれが僕の答えである。
「ざっくりでいいからあらすじとかあるかしら」
「『吾輩は猫である』という小説があるのですが、それは猫の視点から人間を観察した作品なんですよ」
「画期的ね」
「これはその猫が蠅になったものと考えてください」
「蠅視点の物語なの?」
「ええ。ざっくり言うと、馬車に乗る五人の乗客の僅かな時間の物語ですね」
「...それだけ?」
「ええ、それだけの物語です」
「...でも勧めるってことは、それだけの特色があるのでしょう」
「その通りです。何よりの特色は、観測者が蠅故に登場人物の行動について一切の心理描写が無いことです。一部を除いて」
「行動と言動のみが羅列してあるの?」
「ええ。そしてそれは蠅の目がいかに純粋に人間を捉えているのかを表します。語り手が人間や猫であると若干の心理が入ってきますが、蠅の目に映ったこの描写こそ人間のありのままの姿であると言えるのかもしれません」
「つまり、この本は人間の姿を主題としているのね」
「表向きはそうでしょう」
「裏向きがあるの?」
「この小説、十ほどの短い章で分かれているのですが、その中の七の章でこんな表現があるんです。『しかし、馬車はいつになったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることのできるものがあったとすれば、それは饅頭屋の
「?」
「違和感、感じませんか?」
「...あ、ユーモアが、ある?」
「語り手は蠅であるにもかかわらず、ここにユーモアが存在するんです。景色を見下ろしていた全知の蠅が、客観の象徴がここのみ皮肉っぽい表現を効かせてきます」
「確かに不思議ね」
「多分、このことで“語り手の自由さ”を表したかったのだと思います。純然たる全知である語り手は嘘など言うはずがない、と僕達は考えます。ですがむしろ語り手は全知であるが故に嘘でもなんでも言えるんです」
「価値を広げてくれるのかしら」
「そこもこの小説の魅力です。僕も100パーセント理解できたわけではないので、正しいかどうかはわかりません」
「読者が必死に読解した結果が真実なのよ」
「あるいは、そうかもしれません。だからこそ、貴女の様な教養が深そうな方にしか『蠅』はお勧めできないですね」
「お会計500円になります」
パチュリーさんは少し驚いた顔をする。
「割と安いわね」
「これでも多分原価よりは高いですよ。入手方法が特殊なので上げざるを得ないのですが」
後これ以上安くすると僕の生活が本当に危うい。半分趣味でやってるみたいな店だが、生活がかかっているのも事実である。
隣の小悪魔さんが財布らしきものから500円玉を取り出す。外界ではレシートなんていう便利なものがあるらしいがこの本屋にはそんな便利な機械はないので、手書きで購入証明をちゃちゃっと書く。
「領収書です。まあこれ無くても返品は受け付けます」
「随分ずさんな商売ね」
少し呆れ顔で言われる。
「多分貴女ならちょろまかしたりしないと思ったので」
「あら、それならしょうがないわね。それじゃあ、また来るわ」
「お待ちしております」
僕が深々と頭を下げている間に、二人はゆっくりと店を後にしていった。
『蠅』の瞳は、間違いなく人間を映していた。疑いようもなく人間で、非常に無駄な、そんな生命の姿。人生の意味を考え続けると、行き着くところは無意味である。我々はこの世に、無意味ながら存在している。
人々は自らの生に意味を求める。それは心底自然な欲求であり、そのことで透明なこの世に承認してもらうのである。人間はそう求めずにはいられない。しかし求めることにすら意味を感じなくなる人もいるのである。そうしたとき発生するのがニヒリズム、別名虚無主義。自らの存在を無意味なものと捉える哲学的立場。
ニヒリズムには二つの立場が存在するとニーチェは語る。それは全てに絶望し流れの中に生きる消極的なものと、その虚無を前提としてその世界を懸命に生きる積極的なものと。その二つは別々のものではあるが、考えを進めるとどちらも無常観に行き着く。人生には意味がないし、その思考すら長い目で見ればちっぽけなもので、自己の存在はまったく大した影響も与えない。
そんなことを考える人がいるほどにこの世界は難しい。だからこそ多くの生き方がある。どう生きるかは個人の自由であり、人様に迷惑をかけない限りは如何なる思想を持つことも構わない。
ただこの様な面倒臭い世の中であるからこそ、考え、考え、そして本を読む。頭を使い、無意味なことを考え、やがて枯れ果てて死ぬ。そこに無常こそあるが、同時に愉悦が存在する。自分は無意味であるが、同時に皆無意味なのである。宇宙は無意味で、何者によって観測される世界も全て等しく無意味なのである。なんと普遍的で楽しいことか。
純然たる瞳。虚無なこの世界は、今日もまた美しいのである。
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第6話「いびつな夜に」
僕はまるきり恋愛というものに縁がなかった。15の歳から姿はゴリラのままであるし、そもそも15歳以前から全く女性にそういう目で見られたことすらなかった。寺子屋で同級生の女の子達が、「理屈っぽくて回りくどいのか嫌」と僕の陰口を叩いていたのだが、それを偶然聞いてしまったことが忘れられない。そして僕の良くないところは、修正する気がないことであろうか。そもそも自覚もしてないから、直しようもない。
だから試験に恋愛小説が出てこられると本当に点が取れなかった。幻想郷でも無論恋愛小説が出回っているが、登場人物がそう発言した意図や行為に隠れた心情が、恋愛となると途端にわからなくなってしまった。
だから恋愛小説は、「クジラの彼」もそうだが、積極的に読むようにしているのである。人の心を理解することは不可能であるが、心情はともかく理屈は理解せねばならない。
僕は、本と向き合うのが職業なのだから。
パチュリーさんがこの本屋を訪れたのが昨日。本日は木曜日、定休日である。朝8時、これから限りある時間をどう使おうかと算段を立てていると、こんな朝早くに本屋の扉を叩く音がする。
思えば無警戒にドアを開けた僕も悪かったのかもしれない。こういう感じに現れるのは、いつも決まって普通の人ではないのである。
「治!おはようだぜ!」
「あ、えと、おはようございます、霧雨さん」
朝日を受け立っていたのは、あれからなかなか本を返さない(返さなくていいと言ったのは僕だが)霧雨さんであった。なかなか気温が低いのに、脚が露出している。風邪ひかないだろうか。
「さて、急で悪いが、治をお呼びの人がいるんだ」
「へ?霊夢さんですか?」
「いや、治は知らない奴らだと思うぜ」
…少し待って欲しい。何故僕は知らない人に呼ばれているんだ?
きっと呆けた顔をしていたのだろうか、霧雨さんが少し詳細を説明してくれた。
「こないだパチュリーに会っただろ?」
「ああ、昨日ですね。確かに、会いましたよ」
「それを聞いたレミリア…紅魔館の主人が、治に会いたいって言うんだよ」
また昨日の知らない地名が。しかも主人?レミリア?
「え、行かなきゃダメですか」
「行ったほうが賢明だと思うぜ」
「えぇ…、そんな危険な人、会いたくないですよ…」
「大丈夫だぜ。話はわかる奴だから、変に傷付けられるとかは無いと思うぜ。変な事しなければ」
僕は渋る。その度に霧雨さんは頑張る。僕はこの人の頼みは多分断れない。だから、2分ほどで僕は折れた。
「…わかりました。行きます」
「本当か⁉︎」
太陽のような笑顔をした霧雨さん。ああ、きっとパチュリーさんか誰かに頼まれたんだろうなぁ、なんとか説得してって。こんな良い人今時見たことがないよ。
「それじゃあ30分くらい待っててくれ!私は支度があるからな!」
そう言って霧雨さんは地平線の彼方へ飛んで行ってしまった。
それから、僕は着る服はないが、それなりに体毛を整えてみたりしてみる。この上なく無駄なことをしていると自分で思ったが、手持ち無沙汰であるから、やるべきことはないかと考えることで時間を潰していた。
これは、本当に驚いた。
本当に驚いた。
この少しの間ほど、驚いたことはない。
刹那。
空間が、裂けた。
何を言ってるかわからないと思う。しかし、本当に言葉の通りで、目の前の空間が、裂けた。
僕は何も考えられなかった。ただその割れ目の奥には目玉が大量に存在することのみがわかった。
するとその隙間から徐に何かが出てくる。
女性だった。
放つ雰囲気は明らかに通常のそれではなかったが。
女性は僕を見つめた。
僕は何を見ていたろう?
ただ硬直して、何もできなかった。
「…山本、治、ね」
口をきいた。掠れた声での返事が、やっとであった。
「…は、い」
「驚かせちゃったかしら。私、妖怪なの」
「…はぁ」
「それにしても貴方…」
すると女性は含みのある笑いをして、
「面白い人ね」
と言い放つ。
そしてその後は何も言わず、また隙間の中に消えていった。
隙間があった場所は、初めから何もなかったかのように。
「おぉ〜い!待たせたな!」
箒で飛びながら霧雨さんが来る。紅魔館まで連れていってくれるらしい。
僕は先日東風谷さんの奇跡の力で何と飛ぶことができるようになったが、霧雨さんみたいにとんでもないスピードは出ない。だから本日も、この箒にお世話になる。
「しっかり掴まってろよ」
「しっかり掴まなくてもいい速さは無いんですか」
「そんなのは知らん!」
先ほど体験したおどろおどろしい体験をかき消すかのように、箒と僕らは大空を駆けて行った。
暫く行くと、あるところで着陸した。僕が吐き気と激闘を繰り広げていると、霧雨さんは僕に後ろを向くよう言ってきた。不承不承、少し虚ろな目で後ろを振り返ると、何とそこには幻想郷とは思えぬ景色があった。
それは真紅の洋館であった。血のように赤。巨大な作りの壁という壁が全て赤かった。あまりに壮観で、言葉も吐き気も失ってしまった。
「ここが、紅魔館だぜ」
「入り口は、あの門ですか?」
「その通りだぜ。それじゃ、私はこの辺でっ」
え?
「いやちょっと待ってくださいよ。せめてもう少し見送って下さい」
「いやぁ、私、ここの連中に目つけられてんだよ…。本、よく盗むからさ…」
うん、それは霧雨さんが完全に悪いね!
「それじゃ、健闘を祈るぜ!」
箒の風が乾いた草を揺らす。
今日は厄日である。変な隙間の人と会うし霧雨さんに見捨てられたし。
正直言うとここで帰っても良かったのだが。
ただ呼ばれて行かないのは若干失礼な感じがしたので、やっぱり行くことに決めた。もとより行く気ではあったからね!
と、誰も聞いてない言い訳を構築しながら入り口まで向かう。
門の隣にはチャイナドレス(みたいな名前だった気がする)に似たものを着ている門番らしき女性が立っていた。すごい睨むから、超怖い。
「あのー…」
「…お嬢様のお客様ですね?」
そう言うと門番さんは門を開いてくれた。
「奥のメイドの指示にお従い下さい」
「あ、ありがとうございます」
極度の緊張から間抜けな返事をした。恥ずかしがる余裕もなかったので、僕は足早に館に入った。
それから、メイドさんに連れられて、応接間なるところにいる。まだここの主人は到着していないらしい。
それにしても広い洋館である。正直帰れるか心配である。
と、馬鹿なことを考えていると、メイド長さんみたいな人が言った。
「初めまして、山本治様。私めは紅魔館のメイド、十六夜咲夜と申します」
「あ、これはどうも。僕は、山本治といいます。それほど高尚な身分ではないのですが」
慌てて自己紹介をする。こう言う扱いは慣れていない。
「お嬢は到着が少し遅れます。暫くお待ちになられて下さると幸いです」
「あぁ、はい。わざわざありがとうございます」
僕はもう緊張で頭がいっぱいいっぱいだった。
早く終わらせて。
沈黙が流れる。気まずい訳でははない。むしろそれがあるべき姿だと思う。ただ緊張はしっぱなしであった。
同時に、僕はなんとも申し訳ない気持ちになった。僕を呼ぶ為だけにわざわざこのような席まで設け、このようなメイドさんまでもつけてくれる。半ば強制的に呼ばれたとはいえ、何かしなければならない気がした。それはなんとまあ、恐らくは、身勝手な正義感か。まぁ、なんと名付けるかなど、どうでもいいが。
僕は勇気を振り絞る。
「十六夜さん、でしたか」
急に名前を呼ばれて少し驚いた顔をしたが、直ぐに従者の顔に戻って返す。
「はい。何か、ご用件が?」
僕は、ちゃっかり手元に持っていた本を渡す。
「…え?」
「十六夜さん。…会って直ぐでなんですが、その、本日はこんな席をご用意いただいたこともあり、何かしら御礼がしたいのです」
十六夜さんは直ぐに言葉を出す。
「我々は為すべきことをしているのみです。お客様からの御礼はお気持ちだけ受け取っておきます」
「いや、そうだとは思うのですが、その、僕の中の何かが御礼をしろって煩いんですよ。ですから、本を、薦めたいなって思いまして」
それから付け加えるように、一言。
「これくらいしかできないもので。是非受け取って頂きたいのです」
十六夜さんは今までの従者としての顔から、少し困惑した人間の顔になる。
「言われれば、いつでもやめますので」
そう言うと、断るのも悪いと思ったのか、こう言ってくれた。
「…承知致しました。では、その、よろしくお願いします」
なんだか、これもこれで押し付けているようで申し訳なく感じる。しかしここで引いたら、いよいよ本当に訳が分からない人間になってしまう。
流れ的におかしいと思うが、この緊張が背中を貫きそうなまでに押してくる。やむを得まい、やるしかない。
「この本の題名は、表紙にもあります通り『いびつな夜に』です」
「どんな小説なんでしょうか」
「一言で表すなら、恋愛短編集です。4ページ程度にまとめられた簡素な文章ですが、そこに凝縮された世界がどんどん読者を引きずり込みます。短い間で一つの話を読み切れるので、忙しそうな十六夜さんにも合っているかと」
「恋愛、ですか」
「この小説の面白いところは、その恋愛が単純明快でない所です。非常に複雑で高度な感情が取り込まれているのですよ。
「ただの純愛ではないのですか?」
「純愛もあります。けれど実らぬ恋や実ってはならない恋などが多い印象を受けます。例えばこの『水色の傘が記憶を開いてく ずっと隠していたはずのもの』とか。これはある男性と付き合っている女性が、その男性の持っていた水色の傘を見て元の彼氏を思い出してしまう、というストーリーになっています」
「やりきれなさそうな気持ちですね」
「多分、そうですね。恋愛したことはないので心情はなかなか理解できませんが、恐らくはもう二度と返らない何かに想いを馳せる切なさが溢れてくるのを表現しているのだと思います」
「思いを汲み取るのが難しそうな小説ですね」
「僕もそう思います。だからこそたった数ページでもその読後感は圧倒的です」
「…これ、私が持ってても?」
「勿論、そのつもりで渡しました。知り合って間もない人にこうやって話して本を渡すのも変な話ですが」
「そうですね、山本様は随分口が回りますね」
「よく言われます…」
「従者としての立場を抜きに考えると、はっきり申し上げて胡散臭さを感じます」
それはそうで、今日初対面の相手に急に本勧めたり愛を語るやつとかおかしいでしょう。正直僕自身も薄々感じてはいた。しかし止まれなかった。対人関係の構築に疎く、緊張にも弱い僕はこういうことをしてしまう。今僕の心中では、反省会の設営が行われつつあった。
「その、本当に申し訳ないです。今更ですが、その、どうか全て忘れてください」
「…山本様」
「はい」
一呼吸置いて、十六夜さん。
「貴方は、愛、とはなんだと思いますか?」
その言葉を聞いて、考えた。悩んだ。身を焦がすほどの情愛も、胸を揺さぶる熱愛も、僕は、経験したことはない。
ただ、僕の、結論は。心情がわからない以上、とことん理詰めして考えついた最終結論は。
「…この上なく邪魔で、醜くて、人を狂わせるような、この上ない素晴らしい感情だと思います」
その言葉で、十六夜さんは満足したろうか。それは、彼女しか知り得ない。
「そろそろ、お嬢様がお見えになられます」
思えば、主人って女性なんだな、と思いながら、次なる失敗は避けようと一層緊張した状態でいる。
ドアの開く音がした。
僕は無意識に立ち上がって、音のする方を向いた。
それを見て、あんまりにびっくりした。
紅魔館の主人。
それは、なんと小さな女の子であった。
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第6+1/3話「二人目のスカーレット」
それでは、ごゆっくりなさって下さい。
この世界では見た目などあてにならない。人里では度々そう言われてきた。それは妖怪が見た目不相応の年齢をしていることが多いからであり、見た目を大きく上回る凶悪さを備えていることがあるからである。
ただこれほど大きな館の主人となると、髭を蓄えた老紳士か、パンがないならケーキを食べろと言わんばかりの婦人を想像してしまう。
だがやはりここは人里ではない。この館で出てきた主人は、何とまあ可愛らしい女の子であった!
だからといって「あら可愛らしいお嬢さん。飴いるかい?」などと話したらとんでもないことになりそうな、そんな直感が働いた。それに館の主人にその口は失礼にもほどがある。
動揺を噛み殺しながら、僕はあくまで彼女を目上として接することにした。
「貴方が、紅魔館の主人ですか」
すると育ちの良さそうな上品さで返してくる。
「ええ。レミリア・スカーレットよ。貴方が山本治ね」
くっ、溢れるカリスマ。こんな小さいのに何故だか人を惹きつける。
「はい、いかにもそうです。お会いできて光栄です」
本当は別に会いたかった訳でもないが、やはりこういうのが礼儀だと思う。
「呼びつけるみたいな形になって申し訳ないわ。一度パチェの知り合いと話をしたかったのよ」
口ぶりからしてパチュリーさんとは相当親しいことが推測される。
「つまらない話しかできませんが」
「質問に答えてくれればいいだけよ。あ、本はあまり読まないの。その話は遠慮してもらうと助かるわ」
マジ?僕から本獲ったら蝉の抜け殻にも満たないんだけど。
でも会話はリードしてくださるみたいです。ありがたい。
「じゃあ、仕事は?」
「本屋です…」
「性別は?」
「男です…」
あれ?デジャヴ?
事情聴取みたいな会話(なおドッジ)が終わる頃には、斜陽が里全体を照らすような時間になっていた。カーテンを開けていいか聞いてみると、メイドさんに廊下まで案内されて細心の注意を払い開けてもらった。話によると何とスカーレットさんは吸血鬼らしい。もうこんな館見たものだから何言われても驚かない。年齢を聞くのはレディに失礼なのでやめておいた。
そして客室に通された。暗い中帰宅するのは危険だということで、宿泊許可を頂いたのである。そういえば霧雨さんや霊夢さんには連絡手段が無い。どうやって帰るかも考えねばならない。うん、道はぼんやり覚えてる気がするから明日は歩いて帰ることにする。
何にせよ今日はフッカフカのベッドで寝れるらしい。先程夕食が運ばれてきましたが何事もなく美味しかったです。てっきり人肉でも入ってるかと思ったが、美味しかったので多分入ってないと思います。入ってたらもうどうしようかな。
客室に少し置かれた本を手にとってみる。「月面戦線異常なし」,「幻想郷沈没」,「そして誰もいなくなった」,……アガサ・クリスティのやつだけ知ってるが、他はさっぱりわからない。幻想郷文学に疎いのかもしれない。
それらを適当に漁っているうちに、意識は深い闇に吸い込まれていった。
・
・
・
ふと、目が覚めた。時計を目を凝らして見てみると、深夜2時。僕はこの時間に限って、なぜかお花を摘みたくなってしまった。
十六夜さんに場所は教えてもらったので、さっさと行ってさっさと寝ることにする。夜は怖い。首筋から血が抜き取られそうである。
お花を摘み終わる。いやもう隠す必要もないか。いや貫き通そう。お花を摘み終わる。そうして自室に帰ろうとしたその時のことであった。
どこかの部屋で、歌声がした。それもか細く、消え入りそうな。
僕は足を止めた。耳を澄ます。
確かに聞こえるのである。本来聞こえないだろう声が、ゴリラの第六感で。嘘。普通に小さく聞こえる。
その声に非常に興味を持った。今思えばこんな怪しい館でどうしてこのような暴挙に出たのか。
その声のする方に、歩いていってしまったのである。
辿り着いたのは、地下深くへ続く階段の、その先の重たそうな扉。ここに来て、急に帰りたくなった。
もしかしたら自分は、とんでもないことをしでかしてるんじゃなかろうか、と。
でも歌は聞こえる。この扉の奥から。
人の好奇心は人を殺すのだろう。僕は暫くそこで小さな童謡を聴いていた。
3分程して、いつから気付かれていたのか、歌が止む。
「…誰?」
ぼんやりした、女の子の声。
「…夜分遅くに申し訳ありません。その歌に、引き寄せられてしまって」
なぜ、返事をしたのだろう。生真面目な性格故か。
暫くして、ドアが少しだけ開く。
「…入って」
僕はそう言われると、すんなり入ってしまう。
先程から背中を這う、妙な悪寒に気がつくこともなく。
「貴方、だあれ?」
「僕は、山本治です。今日は、客人として招いて頂いたのですよ」
部屋の中は綺麗とは言い難かった。使い古した縫いぐるみが目立つ。継ぎ接ぎした後が沢山残っており、むしろここまで使ってくれたのなら本望に見えた。
少女はその中で、一人笑った。
「私、フランドール。フランドール・スカーレットって言うの」
「えっ」
間抜けな声が出た。スカーレット?
「お姉様には会った?」
「…レミリアさんが貴方のお姉様なら、はい」
姉妹?なら少し話題に出しても良かったのでは?今日1日でこの子は一度も話題に上っていない。
「フフフ。おさむ、おさむ……、じゃあ、
少女は嬉しそうに微笑んだ。純粋に可愛いと思った。
ただ、周囲とのミスマッチに何と言うべきか、何とも言えない感情が押し寄せてくる。
その感情を説明する暇は与えられない。
「治兄は、私と遊んでくれる人?」
「…えぇ、まぁ、多分…」
微妙な回答しかできない。目の前の女の子は、多分吸血鬼で、あのレミリアさんの妹である。何をして遊ぶのだろう。
目の前の女の子の真意を測りかねていると、少女は真っ赤な目で僕を舐め回すように見つめる。
そうして徐に言葉を紡ぐ。
「じゃあ…弾幕ごっこ、する?」
瞬間、僕の足元が吹き飛んだ。
天と地がひっくり返った世界で、僕は少女の笑顔の意味を考えた。
余裕があった訳ではない。
何が起こったかもわからなかっただけである。
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第6+2/3話「被殲滅戦」
思えば、いつからこんなことになったのだろうか。
僕はただ、平和に本を読んでいたかっただけなのである。それがある日、不思議な魔法使いに出会い、不思議な巫女に出会い、それから様々な人と出会い、関わり、空を若干飛べるようになったり、空間が裂けるのを初めて見たりした。そして不気味な館にも招待され、明日、厳密に言うと今日、帰宅してまた本を読むはずだったのである。
月明かりがぼんやり窓の外を照らし、ひたすらに静寂の中。
冷えた空気を遮断した、暖かい炬燵の中。
本を読む。それが僕の平和の形だったはずなのである。
それを甘受していた日々があったはずなのである。
***
地面を数回転がる。帽子が何処かへ飛んで行った。
少しの間は立ち上がれない。身の回りへ理解が及ばない。
上体のみ起こすことが可能になると、それまであった部屋が木っ端微塵になっていることがわかった。
周りは土塊まみれだった。地下室だったことが一層際立てられる。
僕が埋まらなかったことだけが救いか。
それよりここから出なくては、と。
本能のまま動いている気がした。多分。
随分深かったので、少し飛んでみた。なるほど、便利である。
とにかく、整理しなくては。
平らな大地に足をつけ、体の埃を払う。
背後には、ぽっかり穴の空いた館の壁。
ネズミに食い破られたみたいである。
空に昇るは紅い月。聞いたこともない。
そして月の隣に、禍々しい女の子。
真紅に光る視線。恐ろしいことこの上ない。
「私、退屈なの」
口角を釣り上げた少女の声。
「
聞き慣れた質問。返答する余裕は無い。
「どっちでもいいや!フランと遊ぼ!」
冷や汗も垂れない内に、少女は手から赤い光球を出す。
それが何なのかは理解できなかったが、非常に危険そうなことは本能で察する。
今日は本能がよく仕事をする。
喜ばしいことでは無い。
紅の光球は彼女を中心に大層な密度で周囲に放たれる。
避けろと?いや冷静に考えて無理でしょ。
迫る光。身を隠せそうな遮蔽物は無し。
僕は考えた。どうやったら生き延びれるか。
無い時間で考えた結論、「避ける」。無理なんだって。
遂に目前まで弾幕は迫る。ええい、避けずに死ぬより避けて死ね!
僕は駄目元で駆け出してみる。無論彼女のように自由自在には飛べない。地に足をつけたまま。
前後左右の至る所に勢いよく弾が落下する。
地面に小さな穴が開く。
あっ、当たったら死ぬ。
何で僕はこんな目に遭っているのか。僕は果たし合いに無償で付き合うようなボランティアではない。
命をかけてこの子の遊びに付き合う必要はない。
よし、逃げる!
その刹那、右腕を弾が掠める。
あっっっっつ‼︎
局所的に火傷したみたいである。いや実際火傷してる?
「こんなのまだまだだよ?治兄!」
この子は僕を殺す気なんだな、と実感する。
もしかしたらあの子にとっては遊びなのかもしれない。
分別もない小学生が、蟻の巣をほじくり返すように。
参った。
そんなことを言っている間にも弾は降り続ける。
館内に逃げようとしても逃げる先に弾、逃げる先に弾。
紅い月の下からは逃れられない。
「禁忌『クランベリートラップ』」
少女の声。ちょっと待って?この環境にも慣れてないのに変な新要素入れるの止めて?
そんな訴えも出来ず、少女は新たな行為を行う。
僕は先程から避けるのに精一杯で声も出ないのである。
ふと、視界の端に何かが映る。
見やれば、魔法陣みたいなもの。え、何すんの?
何とその魔法陣、中央から先程の弾と同様のものを出してきた。ふざけとんのかワレェ!
間もなく、全方位からの攻撃にシフトチェンジ。地面にいるので真下からの攻撃は受けないが、真横からの攻撃もプラスされました。
何じゃこりゃあ!理不尽極まり無い!
僕は人間だからね⁉︎霊夢さんとは違うんだからね⁉︎
あ、霊夢さんは人間か…
あ、あっっっっつ‼︎痛い痛い止めて‼︎
かするだけで凄い痛み。直撃してないだけ良くない?
あ、また!あっっつぁあいったい痛い痛い‼︎
無様だなぁ、僕。毛ごと擦りむけて、至る所に火傷。
「ねー、治兄ー」
ぶすくれたみたいな顔で少女は僕を見る。
「反撃しないのー?つまんないよー」
「ゴホッ、あ、フランドールさん?僕、その、ノーマルな、人間です。もう、勘弁してもらっていいですか…?」
「えー、嫌だー。遊びたいー」
「いや僕は死にたくないんですよ!勘弁して下さい!」
本音をぶっつけてみる。心の余裕などとうに消え失せた。紳士的な振る舞いこそ僕の信条であるが、命に関わるとなると保てるものではない。
ただ。僕はその言葉で、彼女の何かに触れたらしい。
「…結局遊んでくれないの?」
彼女の目から光が消えた。
表情は明らかに落胆のそれを表す。
「治兄も、やっぱり」
どんどん殺意が大きくなっていく気がする。
「治兄もみんなと一緒?」
みんな?
「遊んでくれないなら、おさむにい、いらないや」
…え?
足が先程から震え続けているが、ここにきて更にその回数を増す。
彼女が手を構える。
何かを持っていそうな、感覚。
そしてそれを握り潰しそうな、直感。
死の気配がした。
本能がまた働いた。
逃げ出したかった。
でも、残念。
ごめんなさい、父さん母さん。腰が抜けてもう動けません。
弾がかすった腕も背中も凄く痛い。
多分今脳内麻薬出放題だと思うが、それでも痛い。この火傷が、弾幕の威力を物語る。
「きゅっとして…」
あぁ、怖い怖い怖い。やだよ死にたくないよ。
でも死ぬんだろうなぁ、僕。
何するのか分からないけど、死ぬんだろうなぁ。
最後に、一つだけ我儘言うんだったら、そうだなぁ。
…何もないや。
我ながら、つまらない人生だったなぁ。
僕は頭を抱えて、その場にうずくまった。
「どっかーん‼︎」
冷気が漂う。静寂が空間に内包される。
彼女の声が頭に反響する。
しかし。静かである。
…あれ?何も起こらない?
なんかしたのかな、あの子。
見ればあの子、凄く驚いた顔してこっち見てる。
「…何で……壊れないの……?」
直後、背後から大声。
「何事よ⁉︎……フラン⁉︎」
「あ、お姉、様…」
館の中からレミリアさんと十六夜さんとパチュリーさんと、その他多数。
先程まで僕を殺しかけていた少女はゆっくり降下して、その場にへたり込んだ。
僕は、十六夜さんに保護された。これほど安堵した時は無い。
「山本様!ご無事ですか⁉︎」
「フラン、何をしているのよ‼︎」
「あ、あぁ、ごめんなさい、お姉様…」
声が飛び交う。それは焦燥であったり、憤慨であったり、様々な感情を帯びる。
何はともあれ助かって良かった、と安堵する。
しかし同時に、罪悪感が訪れる。
彼女が怒られるのはしょうがないような気がするが、しかしことの原因を作ったのはつい部屋に寄ってしまった僕自身である。
それなのにあの子に全責任をなすりつけるのは、人として違うような気がした。
綺麗事だと思う。死にかけたし。
ただ、僕はあくまで人間であった。
レミリアさんに怒鳴られながら泣き出しそうな女の子を見て、弁明する必要があるように感じたのである。
僕は息を整えてから声を絞り出す。
「…レミリアさん、その、この子が全て悪いんじゃ無いんです」
「え?」
「僕がこの子の部屋に行ったんです。ゲホッ。…この子は純粋に僕と遊ぼうとしただけなんですよ」
途中咳き込んだ。情けない。
フランドールさんは僕のことをずっと驚きの表情で見つめている。
そういえば話し方が大分子供っぽかったから『この子』とか言っちゃってるけど大丈夫かなぁ。怒られるかなぁ。結局何歳なの?
「…そう。貴方は、そう思うのね」
レミリアさんは僕を見てから、フランドールさんに向き直る。
「…フラン。貴女は、どう思うの」
少女は俯いて、無言。
「フラン」
もう一度、レミリアさん。
「…治兄」
「…はい?」
顔を合わせずに、僕を呼ぶ。
「痛い?」
「…ええ」
「怖い?」
「はい」
「…嫌い?」
「…」
僕は、目の前の少女が嫌いか。考える。
殺されかけた。一部皮膚を焼かれたし、命の危機を何度感じたか。
ただ。
ただ、背中を丸めている少女を、不思議と嫌いになれなかった。
子供にしか見えないからなぁ。恨めないよなぁ。
卑怯なり。うむ。
「…嫌いでは無いですよ」
「…!」
「そうですね」
僕は、思ったことを率直に伝える。
「遊び方さえ覚えれば、何も問題はないでしょう」
少女の丸い背中から、涙声。
「……ごめんなさい」
「いえ、貴女が全て悪いわけでは無いですよ。僕こそ夜分遅くに失礼して、申し訳ありませんでした」
終わり良ければ全て良し。僕も謝れたし完璧です。
あの子、フランドールさんは、暫くレミリアさんの部屋に入れられるらしい。
壊れたあの部屋は、門番さんが修理に当たるとのこと。
僕は翌朝、厳重な警備の元、紅魔館出口まで見送られた。
「待ちなさい」
帰ろうとした僕の背に、上品な声。
振り返ると、日傘をさされたレミリアさんが。
「貴方に、頼みたいことがあるの」
「僕に…ですか?」
「貴方にしかできない」
彼女は、強い口調で言う。
「また、あの子に会ってくれるかしら」
「え?」
「そしたら、あの子に、遊び方を教えて欲しいの」
そう言うと、彼女は、悔しそうに俯く。
「あの子の前で壊れないのは、貴方だけだから…」
あの言葉の意味は、この時点では分からなかった。
しかし、大層なことを任されたと思った。
きっと従う義理は無いのだろう。
事実、命懸けであるし。
でも。
あの子のお姉様が、あれほどの館の主人が。
僕に、頼みごとをしているのである。
人道的に、応えねばならないのだろう。
彼女自身の威信を守る為に。
そして、彼女の大切な妹を、助ける為に。
ふむ。
厄介なことになったなぁ、と。
長い長い溜息をついて、帰路に着いた。
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第7話「かいけつゾロリの大かいじゅう」
少しでも目を通して頂き、誠にありがとうございます。今後も精進して参りたいと思います。
それでは本編、スタートです。
個人的に、僕は馬鹿だと思う。
先日、僕は殺されかけまして。しかも、女の子に。
そして奇跡的に生き残ることが出来たのだが。
僕はそんな虎穴に再び侵入しようとしている。
右脇に本を抱え、左手で帽子を抑え、大きな門の前に立つ。
寒空の下吹き渡る風は、遠景の木々を揺らす。
あの日家に帰ってから、僕は非常に悩んだのである。レミリアさんに「フランに遊びかたを教えてあげて」なんてお願いをされてしまい、あの場では返答もできず帰宅したのだから。
従う義務はない、と頭の中で幾度となく反復した。命を投げ打つつもりか、無謀極まりなく、愚かでさえある、と。
ただそれ以上に何度も浮かび上がったのは、頭まで下げたレミリアさんと、項垂れて小さな背中をしているフランドールさんの姿。
卑怯である。見た目は完全に愛くるしい少女。
頼みを引き受けて紅魔館まで赴くか、家でのんびり本でも読むか。
迷いに迷って、一晩を明かした。
僕はチャイナドレスみたいな服を着た門番さんに話しかける。
「あの、すいません」
「Z z z…」
「…あれ」
返事はない。よく見ると立ちながら寝ているッ⁉︎つ、強者…。
通っていいのか駄目なのかだけ聞きたいので、心苦しいが肩を少し揺さぶって起こさせて頂く。
その瞬間に門番さんはすぐに起き、脊髄反射のような反応速度で90度ほどの礼。
「申し訳ありません!サボってる訳では!……あれ?」
「あ…、ど、どうも」
門番さんは僕のことを確認すると、礼を解いて先日とは打って変わったカジュアルな接しかたになる。
「なんだ、あんたか!咲夜さんかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「えぇ……十六夜さんそんな怖いんですか…」
笑いながら僕に話しかけてくる門番さん。見た目的には同い年くらいに見えるが、多分実際違うと思う。こんな館の門番ができるのだから、妖怪かなんかなんじゃないだろうか。
ならば十六夜さんは何者…?謎は深まるばかりである。
「そういえば此間は睨んでごめんなさいね。突然の客人なんて緊張してさ」
「あ、いえ、僕としてはなんの問題もございません。ところで、えーと…」
察してくれたのか、門番さん。
「紅、美鈴よ」
「紅さん。僕、この館に用事があるのですが、入ってよろしいですか?」
「紅さんなんて呼ばれたこと殆ど無いよ…。あ、用事ならわかってるよ。妹様に会いにきてくれたんでしょう?」
「あ、そうです」
割と館内でも話が通ってるのかもしれない。なら都合が良い。
「じゃ、どうぞ」
「ありがとうございます、紅さん。くれぐれも疲労のため過ぎにはお気をつけを」
「ん、ありがとうねー」
「正直、来るとは思わなかったわ」
「奇遇ですね、僕もです」
赤塗りの廊下を並んで歩きながら、背丈の低い御主人と話をする。まずこの方に会うのが礼儀だと思ったので会いに行ったら、目をまん丸にされた。それはそうだろう。妹が半殺しにした男がホイホイやってきたのだから。
「怪我の具合はどう?」
「昔から丈夫だけが取り柄ですから、もうかさぶた張ってきましたよ」
罪悪感を感じているのだろうか。僕は別に恨んでもいないし怪我の慰謝料を請求したりもしないのに。
足音が廊下に反響する。時々メイドさんとすれ違う。とても忙しそうである。そりゃあ、この中世の城にも見劣りしない館なら忙しいのは当たり前だが。
少しの世間話をしながら取るに足らないことを考えていると、気がつくと目の前にはいつぞやの扉があった。
「あれ?そういえばここって壊れてたんじゃ無いんですか?」
「あれから美鈴が直したの」
えっ⁉︎まだあれから12時間くらいしか経ってないんですけど⁉︎
「…その道に転職すれば超儲けられそうですね」
「やることはちゃんとやってくれるのよ。後は寝なければ完璧なのよね」
あぁ、いつも寝てるのか…
「じゃあ、まず私が入るからね。…本当にいいのね」
「…えぇ」
僕の頼り無さそうな返事を聞くと、レミリアさんはドアをノックして、
「フラン?入るわよ」
と言って部屋に入っていった。返事を聞かないあたりが姉妹という感じがする。僕も弟の部屋にはノックして即入ったなぁ、懐かしいなぁ…
くだらないことを考えるのが癖なのだろうか、と考えていると、レミリアさんが部屋から出てくる。
「貴方が来るって言ったわ。部屋の近くにメイドを置いておくから、危険な状況になったら何でもいいから音を立てて」
なんだか猪の檻に入る時みたいな説明受けてる。これ以上恐怖を駆り立てないで欲しい。
「わかりました…」
レミリアさんは僕の返事を聞き届けてから、階段を上がり何処かへ行ってしまった。
ドアの前に立ち尽くす。タイミングもクソも無いのだが、どうもいつ入るかを伺ってしまう。行くことは決まっているのだが、どうしても躊躇いが生まれる。
まぁ、僕が死んだらそれはそれで、自己責任なのだが。
思考がひと段落するまで、暫く棒立ち。
僕は意を決して、ドアをノックする。
「…………どうぞ」
かすれた弱々しい声がする。ん?元気が全く無さそうなんだけど。大丈夫?
ええい、何でもいいから、ノックした以上突撃しかない!
僕はドアノブに手をかけ、やたら重たいドアを開く。
「どうもー…山本治です」
「あ…」
ドアを開けて、その場に立つ僕。
部屋の隅でぬいぐるみを抱きしめてこちらを伺う、彼女。
いかん、何故だか僕が誘拐犯か何かに見えてきた。この構図は犯罪臭がする。
しかしこうして会ってみても、意外と恐怖を殆ど感じない。この子になかなかの火傷を負わされたのだが、やはり可愛いは正義、か。
場を沈黙させるのは嫌なので、コミュニケーションを試みることにする。
「…入っても?」
小さく頷いてくれたので、入ることにする。地下室というだけあって薄暗い。そもそも館全体の窓はカーテンがかかってて太陽光が遮断されているのだが、ここはそもそも差し込まない。自然が恋しい。
そして目につくぬいぐるみ。この子には少し大きいようなベッド。壁は変わらず赤い。
僕は部屋の中央に座ることにした。失礼します。
「えーと、お久しぶり、でもないですね。フランドールさん」
「…」
彼女は無言を貫いている。治さんはその無言状態に非常に弱いので何かしら喋ってもらいたい。もしかしたら嫌われてる?
そういえばレミリアさんはよく大して親しくもない男を妹の部屋に入れたなぁ。僕は何もしないけどそれで大丈夫なのかなぁ。
色々な考えが頭を逡巡して、それから次の言葉を考えていると、沈黙を彼女が切り裂いた。
「…ねぇ」
「?…何でしょう」
「怖くないの?」
この間もされたような質問。身も心も潔白な紳士なら「怖くないよ」といい声で答えそうなものだが、嘘をつくのは良くないと思ったので、正直に言わせてもらうことにします。
「…怖くないわけでは、ないですよ」
「じゃあなんで来たの?」
「あー…、レミリアさんに、頼まれたんですよ」
「断れたでしょ?」
「…」
少女は僕を見つめる。感情は読み取れない。
僕は少し考えて、結論をまとめた。
「気分を害すかもしれませんが」
「いいよ」
「可哀想だなぁ、と、思ったんですよ」
「…?」
僕は、あの日のことを回想しながら話す。
「あの日、貴女が僕に『弾幕ごっこ』でしたっけ?その遊びを仕掛けてきた時、貴女、凄く楽しそうだったんですよ。無垢な少女と言う表現がぴったりな程で」
「…」
「その後僕が拒否したら、凄く落胆したじゃないですか。あの顔見て僕、『やっちゃったなぁ』って思ったんですよ」
「あんなことされたのに?」
「あれ以外遊び方を知らないんでしょう?」
「…うん」
「僕だってそりゃあ悪人の元なんか行きませんよ。ただ、貴女は…そう、無邪気なんです。ですから、上から目線みたいで申し訳ないんですが、人を傷つけない遊び方をお教えして、もっとこの世が楽しいものと思ってもらいたいんです」
言ってて思ったが、まるで僕がこの世の全ての娯楽を知ってるみたいな言いぶりである。無論そんなことはないし、読書以外の世界は僕もあまり知らない。
ただ彼女にこの世を知ってもらいたいのは事実ではある。
「…と言うわけなんですが」
「…お人好し」
「そんなことないですよ。正義感を振りかざして自己満足に浸ってるだけです」
「ふふっ」
やっと笑ってくれた。ここまで至るのにどれだけの気を遣ったか。
「…改めて、自己紹介するね」
「お願いします」
「私はフランドール・スカーレット。少なくとも495年は生きてる、吸血鬼よ」
「…えっ⁉︎495年⁉︎」
495年もここにいたのだろうか。それは気もふれたくなる。
「女の子の歳で驚くの?失礼だね」
凄くいい笑顔で言う彼女。こんな気楽に語るその裏に、果たしてどれだけ絶望があったか。
知るすべは無い。故に僕はこれ以上掘り下げない。
「失礼。…僕は、山本治です。こんななりをしていますが、人間です」
「人間にしては面白い見た目ね」
「呪いらしいですよ、よくわからないですが」
「では、暫く僕と遊びましょう」
「弾幕ごっこ⁉︎」
「違いますよ!また僕を火傷させる気ですか⁉︎」
危ない危ない。危うくまたこの部屋が消し飛ぶところだった。
「今日はこちらを使いますから」
そう言って僕は一冊の本を出す。
「…かいけつゾロリ?」
「えぇ。今日は本の読み聞かせでもしましょう」
「えー、楽しいのー?」
「合うかどうかをこれで判断するんですよ。合わなかったら今度は別のことしましょう」
正直、本を拒まれたら何をするべきか考えてないが。
「よくわかんないけど、じゃあ、お願い!」
そう言って少女は僕の隣に寄ってくる。あ、嬉しい。
「全力で取り組みますよ。では本日の読み聞かせは、『かいけつゾロリと大かいじゅう』です!」
少女が拍手する。あぁ、子供とか持ったらこういう気分なんだろうなぁと思いながら、僕はページをめくる。
「『春の日ざしをあびて、てんごくのママへとどけとばかりに──』」
「──はい、おしまい」
「…」
あれ?微妙な反応?
「フランドールさん?」
「…治兄」
「はい?」
「本って面白いね!」
やったぁ!お褒めの言葉いただきました!
「それなら良かったですよ」
「展開が意外で凄く楽しかったよ!」
「そうですね。子供用の絵本とはいえ、侮れぬものがあります」
かいけつゾロリを所詮絵本とは思わないほうがいい。我々大人が失った、大切な何かが内包されているのである。
「ところで治兄」
「何ですか?」
「どうしてこの本を選んだの?」
「そうですね」
勿論僕はアホでは無い。理由ならちゃんとある。
「人は愚かで、一見した印象で異質だと思ったものは容赦なく排斥しようとするものです」
「…?うん、そうだね」
「ですからゾロリも、最初はこのかいじゅうをなんとかして遠ざけようとします」
「うんうん」
「ですがゾロリは途中で考えるじゃないですか、かいじゅうが本当に求めていることは何か」
「そうだね」
「その思考こそ肝心な所です。考えなしに虐げるあり方から、理解、共存の思考へステップアップします。これは「常識」のあり方を問うている書物なんですよ」
「考え過ぎじゃない?」
「まぁそうなんですけどね。それでも、学び取れるものは考え過ぎてもいいから考えるべきです。思考が人を強くします」
「ふーん。要は、人は内面を見ろ、ってことだね!」
「なんてわかりやすい…。僕はまだまだのようです」
「何で勝手に負けてるの⁉︎」
少女は僕の隣で、僕との話を続け、時々顔を綻ばせる。ようやっとフレンドリーに話せるようになってきた。
ふと、少女からこんな問いが飛ぶ。
「治兄」
「なんです?」
「もし、相手が内面をなかなか見てくれなかったら、どうすればいいと思う?」
僕は少し考えて、そしてわかりやすく、簡潔に話すのを心がける。
「笑えばいいんじゃないんですか」
「え?」
「ええ、笑えばきっと、近寄ってくれます。相手も笑ってくれます」
「…」
「万国共通ですよ、笑顔は」
「…わかった」
そう言うと彼女は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、治兄!」
僕はどんな顔をしていただろう。変な顔してなければいいが。
「それじゃあそろそろ行きますね」
僕は立ち上がる。
「えー、もう行っちゃうのー?」
不満そうな表情のフランドールさん。
「また来ますよ」
僕はそれに笑顔で答えた。今なら胸を張って、こう答えられる。
「次はいつ?」
「そうですね…、じゃあ、毎週火曜と木曜の、午後2時くらいには来ますよ」
定休日、お昼ご飯を食べてからここにくるまでの時間を考え、このような感じにした。
ただ吸血鬼なら夜行性の可能性もあるが…。まあレミリアさんは昼間でも普通に元気そうだったから、まあ良いだろう。
「…わかった。じゃあ、次までに約束」
「?」
彼女は立ち上がって僕の顔を上目使いで見上げた。
「敬語はやめて、私のことはフランって呼ぶこと!」
「えっ」
敬語を…やめるだと⁉︎あのレミリアさんの妹に⁉︎
「…それ、本当にしなきゃダメですか?」
「ダメー!」
「…わかりましたよ、次までに、善処します」
「よろしい!…それじゃあね、治兄」
少し寂しさの混じった笑顔を向ける。そんな顔されると年中ここにいたくなるからやめて欲しい。
「ええ。それでは、また今度」
僕は少女に抱えられたかいけつゾロリを見届けて、部屋のドアを閉めた。
館を出ると、外はもう星が見えた。午後6時を甘く見ていた。
僕は歩き始める。妖怪の山を登ってから僕の足腰は心なしか強靭になった気がする。1時間弱程度で家に帰れるだろう。
思えばレミリアさんは、このようなことを何故僕に頼んだのだろうか。霊夢さんや霧雨さんでも良い、というかそっちの方が本当は良い気がする。
後で聞いてみたいと思ったが、「いや別に、なんか丁度いたから…」みたいな答えが返ってきたら立ち直れなさそうなのでやっぱりやめておくことにする。
そしてフランドールさん、彼女はなんとまあ不思議な少女である。勢いで言ってしまったが、普通の少女なら排斥だの虐げるだの普通理解できない。やはり長年生きている故、蓄積された知識、価値観はかなり高度な所まで届いているのかもしれない。
しかし殆ど誰にも接してこなかった故、精神年齢はいつまでたっても変わらぬままなのだろう。
それが悲しむべきこととは言わない。そういう人もいるだろう。
ただ僕は、そんな彼女のことをもっと知りたくなった。
彼女の考えを、理解したくなった。
所々が大人びた彼女が、何を思い何を感じたか。
そして、何故あの様な場所に幽閉まがいのことをされているのか。
知るためには、敬語をやめないとである。
暗い道、僕は彼女に向けて敬語じゃない話し方をする想像をした。
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第8話「アジアンタムブルー」
白米、味噌汁、昨日の夕飯の残りの焼き魚。優雅な朝食を終えると、本日も届いた
余談ではあるが、僕はこの文々。新聞がなかなか好きなのである。この新聞はあくまで中立に、物事を俯瞰して捉えている。若干独特なセンスをした記事が多いのは否めないが、抑えるべき出来事はきっちり記載してくれている。
例えば、本日の朝刊などは、大きな文字で「玄武の沢闘争、激化」と書いてある。少し前から急進派の人間達が玄武の沢の開発を押し進めていたのだが、それが遂に河童と他の妖怪達とに咎められたらしい。しかし人々は退く気は無いらしく、現在そこで睨み合いが続いている。
玄武の沢は、あの付近の妖怪からしたら故郷のような場所である。そして人間にとっては、フロンティア開発の起点となるような場所である。どちらも一歩も譲る気は無いだろう。
懸念すべきことは、これが暴力という形に発展しないか、ということである。片方が手を出したら、恐らく全面戦争だろう。そして人間は間違いなく負ける。妖怪は元々身体能力が高いし、河童の技術力は人間をとうに超えているらしい(あくまで噂ではあるが)。万一天狗などが参戦したら、人は根絶やしされるかもしれない。
ただ現状、僕にどうにかできることでは無い。
なので、真反対方向の無縁塚にモノ拾いに行く。
歩き始めて体感半時間。少し疲れたので、道端の木陰に腰を下ろす。
天気は、晴れ。少し暖かい。日向の方が暖かそうだが、道のど真ん中で座ってるわけにもいくまい。殆ど人は通らないが。
風がほんの少しだけ木の葉を揺らす。そういえばこの木は葉が落ちないのだろうか。晩冬ではあるが、未だに葉が青々しい。
遠くの空に目をやる。
白い雲が一つ、いや二つ。
周りには誰もいない。
風の音。木漏れ日。
蒼い空。
まこと美しい、幻想郷である。
「きれいね」
真後ろから急に聞こえてきた声に仰天し、腰がねじ切れそうな勢いで後ろを振り返る。
そこには、いつか会った隙間から現れた女性が立っていた。
「幻想郷…きれいでしょ」
「…まぁ…」
僕は当惑しきって曖昧な返事を返すので手一杯であった。何故急に現れたのだろう。何者なのだろう。何の目的があるのだろう。
多くの考えが迷走しているうちに、その女性がまた口を開く。
「貴方は、気がついてるかしら?」
「…何が、です?」
女性は景色を見ながら話す。
「自分自身のことよ」
「…さぁ、わかりません」
「…そのまま一生、何にも気が付かずにいればいいのに」
「ええと、先程から、おっしゃる意味が…」
僕に読解力があれば理解できたかもしれないが、察しの悪い治さんには何一つわからない。
「…忠告だけは、しておくわ」
ここで初めて、女性が僕の顔を見る。
「貴方は、凄く面白い人。だから…永遠に、そのままでいるといいわ。…永遠に、ね」
言ってることの意味が全く掴めない。
もうちょっと具体性が欲しかったが、そのことを訴える前に既にあの女性は隙間に入って消えてしまっていた。
一体何なのだろうか。
理解できぬまま、無縁塚を目指す。
無縁塚でビクビクしながらもモノ拾いを終え、帰路に着く。本日の収穫は、古本三冊。スイッチを押すと光る赤い棒が落ちていたが、正体が掴めなかったので放置した。危険物だったら嫌だしね!
帰り道を歩きながら拾った本に少し目を通してみる。見た感じどれも幻想郷外の書物らしい。少し汚れてはいるが、字が読めないほどではない。これなら売っても文句は言われないだろう。…え、なにこの「裸のランチ」って本。チラッと見てみたけど何一つ理解出来なかったんだけど。
裸のランチを必死に読み解こうとあれこれしていると、ふと鼻先にいい香りが漂ってきた。食べ物関連ではなく、花の匂い。ゴリラになると嗅覚も発達するのだろうか。いや多分そんなことはないと思う。
今日はこの後特に予定はない。いい日和なので、少し寄り道してみることに決め、匂いの方角に歩み出す。さながら蜜蜂のようであったろう。そんな可愛らしい形容をしていいのかは知らないが。
そうして歩いて数分。視界に飛び込んできたのは、黄色。鮮烈なまでの、黄色。視覚に遅れて、嗅覚が反応する。鼻の中に広がり飽和する花の香り。
見れば、その黄色の持ち主は向日葵であった。太陽の光を求め全ての向日葵が同じ方角を向く。どれを見ても、美しい。
…いや、違う。明らかにおかしな点がある。今は晩冬である。何故この季節に向日葵が咲き誇っているのか。
状況があまりに非現実的なことをようやく実感する。
そうして、立ち尽くし、考える。
風の音だけが聞こえる。
「きれいね」
真後ろから急に聞こえてきた声に仰天し、腰がねじ切れそうな勢いで後ろを振り返る。同じ行動を先刻行った気がする。
見やれば、緑色の髪の毛をした、日傘をさしている女性が立っている。
「…ええと、僕はここにいてよろしいのですか?」
思えば私有地かどうかの確認もせずにズカズカと入り込んだ僕は泥棒同然なのではないか。里の長にでも訴えられたら僕は社会的に死ぬ。
「貴方が何の目的でここにいるのかにもよるわね」
ですよね。誤解を解かねば。
「勝手に侵入して申し訳ありません。随分いい匂いが漂っていたので、ついふらりと立ち寄ってしまいました」
「あら、蝶々みたいね、貴方」
蝶々にも例えられたが、果たしてそんな可愛らしいもので形容して良いのだろうか。蝶々に失礼な気もする。
取り敢えず礼儀正しく、身分を明かすことにする。
「僕は、山本治です。人里で本屋を営んでおります」
「あら、名乗られるなんて光栄ね。私の名前は風見幽香。こう見えて、人里では妖怪として名が通ってるのよ」
人と関わることがあまりないので、その名前は初めて聞いた。どんな評判が立っているのかは知らないが、本人曰く、妖怪らしい。
「例えば、どんな感じの…?」
「そうねぇ…、他の生き物を虐めるのが大好き、みたいな?」
え?本当?
「…僕、ヤバイですかね…」
「そうね、冗談よ」
うーむ、底が見えない人である。
「別に花畑荒らさないならとって食ったりしないわよ」
「そうですか、では僕はこれで」
僕は早口でまくし立てさっさと帰宅しようとする。
「待ちなさい」
しかし まわりこまれて しまった!
「やっぱりダメですか…?」
冷や汗を垂らしながら恐る恐る聞いてみる。
「そうね…、本当なら今すぐに勝負でもけしかけてみたいのだけれど…」
そんな物騒なことを言ってから、風見さんは道端の切り株を指差して言う。
「少し話しましょう。貴方に興味が湧いたわ」
逆らえないこの感覚は、先ほどの隙間の女性によく似ている。
「改めて。私は風見幽香、事実上この花畑の管理者よ」
「ええと、風見さんは妖怪なんですか?」
爽やかな空の下、こんな綺麗な女性と話せるなんて夢みたいである。言葉の端々に底知れぬ何かが無ければ純粋にそう思えたのだが。
「そうね、ちょっとだけ長生きの妖怪よ。貴方は見た目が妙だけど、人間の匂いがするわ」
「そうですね、僕は人間です。いつからかこんな姿になっちゃったんですけど」
すると風見さんは目を細め、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「でも貴方、何かが違うのよねぇ…」
「へ?」
「何か隠してる、か。はたまた、貴方自身も気がついていないのか」
また言われた。どうしてこう、不思議な雰囲気を持つ貴婦人達にはこういうことを言われるのだろうか。
「いまいち意味がわかりません」
「そうねぇ、まぁ今は放置でいいかしら」
今が終わったら何されるのだろう。嫌だ怖い…
「まぁこんな話はいいとして…、私、貴方と人里で会ったことないのよね」
「そうですね、基本引きこもってますので」
人里でうろつくことはなかなか無い。時々野菜や魚を求めて歩くくらいで、それ以外は本屋に篭って読書している。あれ?こんな人生楽しい?
「だから貴方がどんな人か知らないのよ。…確か、本屋を営んでるって言ってたわよね?」
「えぇ」
「本屋がこんなところまで、どうして来たの?」
そういえば、普通の本屋はこんなところまで来ないだろう。不思議に思うのも至極当然のことである。
「僕、現世の本を中心に売ってるんですよ。無縁塚に落ちてるんで、それ拾う帰りだったんですよね」
「へぇ〜。じゃあ、何か推薦図書は無いのかしら?」
あっ、またこのパターンですか。
それにしてもこの人、悪戯っぽい顔がよく似合うこと。
「…僕の趣味の話に突入しますけど、つまらないかもしれませんよ?」
「事前にそうことわってくれるのは好感が持てるわ。まぁつまらなかったら途中で切るから安心して」
わお、安心できない。
ただ、まぁ期待されたことではあるから、責任を持って応えねばならないとは思う。そういう変に意固地な所が、僕を生きづらくするのか。
花畑に視線を移す。季節外れの向日葵と、それを揺らす柔らかい風。青々と茂る葉、青いバックに黄色のコントラスト。
永遠に続いて欲しいような景色。そうしてその情景に愛しさを感じた時、人はそれに儚さを感じずにはいられない。
ならば。
「…『アジアンタムブルー』」
「あら、知ってるのかしら」
「僕に植物の知識はあまりありませんが、このアジアンタムブルーという現象を題名にした小説があるのですよ。大崎善生さんという方が書いているのですが…」
僕は手元にない本の話をする。伝わってくれると嬉しい。
「アジアンタムブルーは、まぁご存知かと思いますが、アジアンタムがもう救えないほどに枯れだしてしまう状態のことです」
「そうね。でも稀に助かる子もいるのよ?」
「そうです。その悲劇を抜け出すアジアンタムを、人に重ねたのが今回の『アジアンタムブルー』です」
「興味深そうね」
「話は吉祥寺東急百貨店の屋上から始まります」
「何処かしら」
「それは僕にもわかりません。まぁ百貨店、から察するに、巨大な物売り屋の建物の屋上って考えればいいんじゃないでしょうか」
「そんなものかしら」
「想像が大切ですよ。それで、主人公の山崎隆二という男性は、妻を癌で亡くしてから、常に虚無感を伴いながら百貨店の屋上で景色を眺めていたわけです…」
「寂しい雰囲気ね」
「そうですね、まさしくアジアンタムブルーです。で、そんな山崎が、今までどんな生涯を送り、どんな人々と出会い、妻の葉子とどんな人生を歩んできたのか、という回想が語られ、そうして、山崎はその悲しみから立ち直る、というのが大筋の流れですね」
「成る程、確かにアジアンタムブルーね」
「小説内に、『葉子が僕に望んだ優しさは、きっと普通の生活の連続の中にこそあるものなのだから。』という一節があるのですが、まぁ先程の話から大体わかるとは思うのですが、この小説は日常乖離がテーマなんですよ」
「ブルーが、非日常かしら」
「作中でもブルーの状態は“憂鬱”と形容されておりまして、主人公は妻を亡くすことでその憂鬱にとらわれますが、自分を取りまく人々のこと、そして妻との約束を思い起こすことでまた青々と葉を茂らせるのです…。この変化こそ、主題です。非日常から日常に回帰するその過程における心情変化で、人の強さを示しています。この日常乖離というテーマは、他に芥川龍之介さんの『羅生門』という小説でも用いられていますね。まぁあちらは人の無情感を示すために使われているのですが…」
「人って、それほど強いのかしら」
「それは僕には計りかねます。人によりけりですが、ただ同時に儚いものでもありますよ」
長く話し込んだ気がするが、日はまだ頂点から少し西に傾いた程度であった。
「思ったよりいい暇潰しになったわ。ありがとね」
「いえ、勝手に押しかけたのはこちらです。変にお時間をとって申し訳ありません」
僕は腰を上げて、帰宅準備を行う。
「そうね…あ、そうだ」
「?」
風見さんはふと気がついたように、僕の顔を見る。少し細めた目は、何やら全てを見透かされてそうで恐ろしい。
「貴方、そろそろ人里を出る準備をしたほうがいいかもしれないわよ」
「え?」
「近いうちに戦争が起こるわ。…無駄に長く生きてると、わかるのよ。互いに譲れぬものが生まれた時の、その行く末は」
…やはり、そういうものなのだろうか。
「…嫌なものですね」
「そうね。私も好きじゃないわ。…私が人間に忠告するなんて、割と稀よ?」
「有り難く受け取っておきます。…では」
「御機嫌よう。またいつか、今度はアジアンタムを見に来るといいわ」
「機会があれば、是非」
僕は何輪もの太陽に背を向け、人里に向け歩き出す。
人はいつから、今以上の生活を求めだしたのか。さぁ、いつからかは知らないが、しかし人は今、確実に更なる繁栄を求めている。それが強い支配欲に化けて、妖怪を、そして人自身を蝕んでいる。
人間は現状に甘んじて生きていける生物ではないことは、昔から知っていた。それは人間の特性である。そしてそれを抑制する何かが存在しなかったのが、現世の人間なのだろう。
幻想郷の人間は、妖怪という対立概念が存在する。タチの悪いことに、人は共通の敵を持つと急に団結する。
今後は反妖怪のプロパガンダが盛んになるだろう。里全体がいつかそのような空気に飲まれるだろう。
それがいつ起こるかは知らない。僕の死後かもしれないし、また明日かもしれない。時期がたとえわかっていたとしても、再三言うが、それは僕にはどうしようもない問題である。
もし、ただ一つ人間が助かる道があるとするなら、人がこの憂鬱から抜け出して、美しい幻想郷という日常に回帰することだろう。
まぁそのようなことを一部の人が悟っていたとして、口に出すことはないだろうが。マイノリティは常に迫害される。
風の音。木漏れ日。
蒼い空。
まこと美しい、幻想郷である。
これが変わらずにいてくれれば、後は何もいらないのだが。
ちなみに作中に出てきた『裸のランチ』ですが、申し訳ありませんが僕にはあらすじを説明することは不可能です。興味があれば、是非読んでみてください。
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第9話「死を悼む動物たち」
「ねえ、地獄に堕ちてみない?」
「…申し訳ありませんが、霊夢さん。急に辛辣過ぎませんか?」
度々申し訳ないが、また話は前へと遡る。
とは言え大して語ることもなく、平日真昼間に急に店に現れた霊夢さんが、急にこのようなことをのたまっただけである。
そして先程の会話へ。
「旧地獄にね、あんたに会いたいって人がいるのよ」
「旧だか新だか知りませんが、そんな物騒な所に知り合いはいませんよ」
「知り合いじゃない筈よ」
「じゃあ何で僕に?」
「おおかた魔理沙かなんかが話したんでしょうよ。どうせ客もいないだろうし、今行ってきたら?」
凄く否定したいけどできないな、その言葉。
「しかし、地獄、ですか…。まだ死にたくはないですね…」
「それは心配しなくていいわ。地獄と名は付いているけど、ただの地下世界みたいなものだもの」
「うーむ、霊夢さんは」
「私そこまで暇じゃないの。場所なら教えるわ」
「…これ、断れます?」
「あんたが一番よくわかってるでしょ」
「そうですね、断れた試しありません」
「よろしくね」
はい、地獄行き確定。父さん母さん、ごめん。
霊夢さんから渡された随分ぞんざいな地図を見ながら青空の下でウォーキングしていると、突如視界一面に穴が現れる。驚くべきはその大きさ。半径20メートルはあるかと思われた。深さに至ってはもう底が見えない。計測不可。
本日は火曜日。定休日で、先の約束もあるので紅魔館にも足を運ばねばならない。いやぁあんな不気味なところに足を運ぶのはおっくうだが、小さな女の子に愛くるしい顔で「治兄♪」なんて言われようものならもう負けである。悔しい。ロリコンではないです。
で、この穴を下れ、と地図には注釈が添えてある。
とても帰りたい。単純な感情が単純に心中に渦巻き、単純に帰りたい。
この間東風谷さんに与えて頂いた「空を飛ぶ奇跡」のお陰でふわふわする事は可能になったから、降りる事は可能なのだろう。有り難い限りである。
しかし、この暗黒に自らの身を投じる行為には抵抗がある。霊夢さんのことだからきっと嘘は言ってないだろう。でも安全とは言ってなかった。
覚悟を決めきれず唸っていると、隣に気配がする。
熊かなんかかもしれない、と恐る恐る視線だけ送る。
そして少し目が開く。
目に入ったのは、なだらかになびく緑がかった銀髪。と、輝きを放つ金髪。視点を広げてみると、それは二人の少女で、その背丈は同じくらい。そして日傘をさしている片方の子は、最近知り合った人であった。
「あ!治兄だ!こんなところで何してるの?」
「…フランドールさん。日光は大丈夫なのですか?」
吸血鬼だから陽の光には敏感だと思い、挨拶もそっちのけで訊いてみる。するとその少女はむくれたように頬を膨らませる。
「…約束破り」
「…あっ、失礼、少しお待ちを」
そういえば今日会う以外に、もう一つ約束をしていたことを思い出す。
申し訳ないことをした、と咳払いをし、仕切り直し。
「…フラン、こんにちは。そっちこそ、どうしてここに?」
「上出来!」
そういうと満足そうな顔をしてむふーと息を吐く。なにそれ愛くるしい。ロリコンではないです。
それからすぐに少女は、思い出したように質問に答える。
「あ、お日様は大丈夫!長く当たってると蒸発するくらいで──」
「今すぐ!今すぐ日陰に入りなさいッ‼︎」
何が“蒸発するくらい”ですか。そんなショッキングなことになって欲しくありません。
とにかく必死にフランちゃんを日陰に引きずり込むと、彼女はにこやかな顔で話を続けてきた。危機感というものが欠けているらしい。教育が足りてませんよ、レミリアさん。
「それでね、今はこいしちゃんを──」
すると僕の知らない方の少女が、遮るように話す。
「フランちゃん、この人は私のこと見えないよー」
そう言われるとフランちゃんは、少し残念そうな顔をする。
ごっこ遊びだろうか?触れない方がいいのだろうか?
子供の意思を尊重するのは成人の役目だと思うので、少し乗ってみることにする。
「フランはもぅー、さっきから誰のことを言ってるのかなぁ?」
「うー、そっか…。紹介したかったんだけどなぁ…」
「それじゃあフランちゃん、帰るね」
「うん…。じゃ、またね…」
ん?ここの穴に入ろうとしている?
じゃあ話は別である。この子には申し訳ないが。
「あ、遊びの腰を折るようで申し訳ありませんが、その、貴女はこの穴の中から?」
こいしちゃん?と呼ばれていた少女に問いかけてみると、不思議そうに首を傾げる。
「…あれ?見えるの?」
「え?」
「いや、私のこと──」
「…普通、見えないものなのですか?」
隣にいるフランが僕を見て仰天していたので、つい訊いてしまう。吸血鬼もいるのである。もしかしたら、この子の言うことが真である可能性も否定できない。
「…貴方、もしかして能力持ちー?」
「の、能力?」
「治兄、能力知らないの?」
そういえばそんなことを霊夢さんに訊きそびれた気がする…
「はい、全く」
「じ、じゃあフランが説明する!」
「それでゴリラさんは私に何の用かな?」
目を輝かせる少女と、傾げた首が戻らない少女。一つ一つに対応せねばならない。というかフランちゃんはどうしてそんなにキラキラしてるの。うんちく披露したい子供の気持ちですか?
まずは戻っていない首の角度を戻すのに専念したいと思う。
「僕は山本治です。今日は旧地獄に招待されまして来たのですが、足がすくんでしまいまして」
「私は古明地こいし。この下の地霊殿に住んでるんだよ」
ちれいでん。取り敢えずそこに行けば良いのだろうか。
「でしたら、そのちれいでん、までの案内を頼めないかと思うのですが…」
「いいよー。私が見える人間なんて久しぶりだからね」
承諾を得ることに成功した。となると次はもう一人の少女。
「フランは能力について知ってるのかい?」
「ふふっ、知ってるよ!」
胸を張る仕草をする。娘を見る親のような気持ちが広がる。
「…フランは、そろそろ帰らないといけないのかい?」
「いや、そんなことはないよ」
「じゃあちょっと地霊殿まで付いてきてくれないかな。能力についての説明を求めたい。こいしさん、いいですか?」
「いいよー」
「…任せて!」
また輝くフランちゃん。それ以上輝いたら君自身が日光になりかねないのでは、とくだらぬ考えがよぎったりよぎらなかったり。
思えば小さい子に声をかけて連れて行くなんて、限りなくアウトに近いアウトだが、ここにこの子を放っておいたら悪い人に誘拐されそうだからね!しょうがないね!冷静に考えれば、僕が誘拐犯にしか見えないが、不可抗力である。
何にせよ旧地獄に行くことができ、能力についても知ることができそうである。いいこと尽くめ。ただはたから見るとゴリラが幼女を二人連れているというかなり危なめの構図になるが、まあこれから先は地獄だし関係ない…かもしれない。
「それじゃ行くね」
穴へ降りるその影を追い、僕もそろりと降下した。
地霊殿、に着くまでにわかったことを簡潔にまとめたいと思う。
まずそもそも旧地獄とは、かつて地獄として機能していた跡地らしい。今も地霊殿が中心となり、稼働している施設もあるとか。
それで地霊殿とは、旧地獄中心に位置するお屋敷。「お姉ちゃんがペットたくさん飼ってるんだよー」とこいしさんが語っていたので、動物(?)もいるらしい。地獄の動物など普通であるはずがないが。
次に能力。これは原因も分からずある時突発的に生まれる、その者に付加される特殊効果のことらしい。字面通りである。フランちゃん曰く、彼女は『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』を持っているとのこと。この子の機嫌には気をつけなければならなそうである。なお、こいしさんは『無意識を操る程度の能力』で、故に他人からの意識によって認識されることがない、という。じゃあ何で僕には見えてるのか、と聞くと、「さあねー」とのこと。能力の不発ですかね…。
無論霊夢さん、魔理沙さん、レミリアさんなども能力を持っているとのこと。特にレミリアさんなんて「運命を操る程度の能力」ですって!カッコいい!
ただ人間に発生した事例は極めて稀らしい。残念である。僕も欲しかったなぁ。
「ご足労有難う。貴方を呼びつけたのは私、古明地さとりよ」
「どうも、山本治です。…早速で悪いのですが、何故僕を呼んだのか教えてもらっても良いでしょうか」
あれからこいしさんのおかげあって、なんとか地霊殿にたどり着くことができた。ただ僕は正直『地霊殿に来い』とは一言も言われていない気がする。今回偶然こいしさんに会えたのは、奇跡であった。
屋敷の一室に案内され、右にこいしさん、左にフランちゃんに固められて、紫色の髪をした少女と対面している。名字と雰囲気でこいしさんと姉妹関係であることは察することができた。少女二人を侍らすゴリラをよく屋敷に入れたものである。僕が言うことではないが。
さとりさんの隣には背の高い茶色がかった黒髪(つまり茶髪?)の女性。凄く…大きな筒のようなものを右手に装着している。正直僕を見る目が怖い。
「そうね、魔理沙が──魔理沙、知ってるよね」
「ええ」
「あの子が、『面白い人間がいるんだぜ!』なんてしつこく言うから会ってみようと思ったのだけど…失礼だと思うけど、本当に人間?」
まあ、そうなるとは思う。毎度のことである。というか魔理沙さんは良かれと思って言ってるのだろうが、本音を言うなら勘弁して欲しい。
「人間の定義が容姿にとらわれないのであれば、人間ですよ」
「まぁ本人が言うならそうなんでしょうね」
「あの、さとり様──」
女性が口を開く。
「この男は、貴女様が時間を割くほどの存在でしょうか」
初めて口を聞いたと思ったら、思った以上に重い言葉を浴びせられる。ただ、正直それは思う。
「それを今測っているの。魔理沙が言うのだから、多分それなりの人間だと思うのだけれど」
「しかし…」
ここでささやかながら、僕の意見を述べさせてもらう。
「自分で言うのもなんですが、大した人間でもないですよ」
さとりさんは視線を移し、言う。
「そこの吸血鬼が普通の人間じゃないって教えてくれてるけど?」
見れば今まで沈黙していたフランちゃん。特に何を言うこともなく僕を見返す。やだ可愛い。ロリコンではないです。
ただこの子がいることが凡人でないことの証明ということ、というのにはいささか疑問が残る。
「別に、フランドールさんがいる、だから普通の人間でない、ということは無いですよ。誤解されがちとは思いますが、この子は素直ないい子です。良く話し合えばちゃんと分かり合えますから、ここのポジションは僕以外の人間でも十分に成り立ちますよ」
するとそれまで口を開かなかったフランちゃんが、ボソリと呟く。
「…そんなことはないよ」
それから席を外し、こいしさんと共に何処かへと消えてしまう。よく分からないが、僕は失言したろうか。後で挽回する必要が生まれてしまった。
「…あの子に随分気に入られてるのね」
「あの子にとってはおもちゃみたいなもんです。直ぐに飽きますよ」
「そうかしらね…。ところで、貴方」
その言葉をキッカケに、さとりさんの眼が変わる。なんだか僕の全てを見通しそうな、僕の中の何かを見つめているような、そんな真剣な瞳。
「さっきから思ってるのだけど、貴方何も考えてないの?」
「…へ?」
藪から棒に木偶認定されてしまう。何故。
質問には答えを返すのが礼儀だと思う。
「…いや、いろいろなこと考えてますよ。例えば、生きて帰れるのか、とかですかね…」
「生きて返すかどうかは貴方を見極めて決めるわ…。たださっきから、どうも靄みたいなのがかかって、思考が読めないのよ」
ほほう、どうやら僕の思考を読もうとしているらしい。メンタリストかしら。というかさらりと生きて返すかどうか検討中みたいなこと言われたけど、僕はもう怖くて怖くてたまりません。
狙いが何かもわからず困惑し恐怖しながらさとりさんを見ていると、あることに気がつく。アクセサリーかなんかだと思っていた胸のところの目玉みたいなのが、大きく開いて僕を凝視している。
今まで割と妖怪を見てきた。この目が動くことなどにもう驚かない。
「…駄目ね。何にも読めない。何貴方、能力でも持ってるのかしら?」
「…いや、本当に普通の人間です」
再三言うが、普通の人間である。人里生まれ人里育ち、本屋の店主。
「…まあいいわ。それより、貴方自身の話が聞きたいもの…」
「…はぁ、僕自身、ですか…」
正直語ることなんて無いが、それで良いのだろうか。
なんとか外面は平静を保ちながら話を続ける。さとりさんがお名前を教えてくれた、隣の女性、
「で、ここからが本題なのだけれど」
「あ、まだ本題入ってなかったんですね…」
あらかた僕についての話を終えたところで、さとりさん曰く本題に入る、らしい。今度は何をさせられるのだろうか。
「私、本が好きなのよ。幻想郷の書物はよく読んでいてね…」
…ん?気のせいか、こんな光景を前にも見たことあるような…。
「噂によると、貴方の本屋、現世の書物を扱っているらしいわよね。私は現世の本は読んだことなくて」
あぁ、わかりました。きっと、そういうことなのでしょう。
「魔理沙が言っていたのだけど、貴方は本のお勧めが上手なのよね、山本さん」
「…いや、別に上手なわけじゃ無いですよ…」
自分で聞いてても思うが、僕の声が急に縮んだ。最後の抵抗をしている、と形容すべき様子。
努力むなしく、次の言葉。
「私に、何か教えてくれるかしら?」
あの日、霧雨さんに本をお勧めしたことを後悔する。なんであんな馬鹿なことをしたのだろうか…。
僕の心は張り詰め、針の一突きで弾けてしまいそうであった。正直、今すぐこの場を離れて帰りたいのである。なにせ周りは妖怪妖怪妖怪。完全なるアウェー戦である。
ただ、ここで断ろうものなら何が起こるか。エントランスに僕の肉塊が転がることになりそうである。
暫し目を閉じて、一呼吸。
そして覚悟を決める。
やらなければ死ぬなら、失敗して死ぬも同じ。
「…本当に、上手なわけではありませんからね」
「それを決めるのは貴方では無いわ」
そうして、脳内文庫の検索システムを稼働させる。僕の弱いOSでは処理力が足りないが、それでもなんとかしてこの人に合いそうな本を見つけねばならない。
それは、僕の命のためでもある。
しかし、この人の現代文学への接点が、この瞬間ならば。
僕は本屋の店主であるとともに、一人の読書家でもある。
…期待に応えねばならない。
周りには、妖怪。
動物も見た。
ペットを多く飼っている人、らしい。
安直かもしれないが、ならば。
「…『死を
「…タイトルかしら」
「そうです。著者はバーバラ・J・キングさん。日本人の秋山勝さんによって、翻訳されています」
「にほんじん?」
「現世においては人間の間で言語が分かれているようです。バーバラさんと秋山さんは、別の地域で生まれた人間らしいです」
「へえ、面白いわね」
「こちらの本なのですが、表題からも察せるかもしれませんが、評論本になっております」
「評論は時々読むわ。最近では『地獄の変遷に見る死者の罪』が印象に残っているわね」
「地獄にも独特な本があるのですね…。それにも興味が湧きましたが、取り敢えず、続けても?」
「話の腰を折ったわね。どうぞ」
「有難うございます。でこの本の内容なのですが、表題の通りです。まず“悼む”とはなんなのかと言うと、曰く“人の死を悲しみなげく”ことらしいです(広辞苑 第五版より)。つまりこの本は、人と同じように、仲間の死を嘆く動物のことが記してあります」
「思い当たる節はあるわね」
「沢山動物を飼われている様子なので、もしかしたら現場に遭遇することもあったかもしれません。一概に喜ばしいこと、とは言えませんが」
「それはそうよ。動物の死を喜ぶような人間だったらさっさと殺すからね」
「…一応断りますが、僕はそれなりに悲しみますからね。で、この本は確かにそう言った動物たちのことが書き連ねてあります。例えば犬猫、象、猿、イルカなど知能の高さが知られる動物から、ヤギやニワトリ、ウサギなどまで、様々です。…ところでお聞きしますが」
「?」
「人間と他の動物の違いとは、なんだと思います?妖怪の貴女に聞くのも変な話ではありますが」
「そうね…、自殺するかどうか、かしらね。時々してるじゃ無い、人間達は」
「どう思いますか?」
「愚かね」
「…確かに、その見方も誤りではありません。人の考えに間違いなど存在しませんから。ただ、一つ、知っておいて欲しいことが」
「何かしら」
「…人間以外の動物も、自殺をします。本文中にも、それが書かれているのです。“クマ農場”の話があるのですが、これはその、あまりにショッキングな話でして、動物好きの方にはお勧めできません。実際本文中でも、読み飛ばすことが勧められています」
「ここで、話せるかしら」
「…本文中の記述を少し覚えています。ただ、あまり気分のいい内容ではありません。…本当に聞きますか?」
さとりさんは無言で頷く。
「…本文中に、“壁に突進して死んだ母グマ”の話があります。本文を覚えている限り読み上げますが」
「ええ」
「“(見る人により不快感を催す可能性もありますので、引用は控えます)”」
「………ゔぇっ、お"えぇ」
「…そこらでやめな、人間」
霊烏さんの形相が一層険しくなる。それもわかる。話によれば、彼女は烏らしい。こんな話は知りたくもなかったろう。悪いことをした。
「いいの、聞きたいと言ったのは私よ…」
「…と、このような話もございます。残酷な話ですが、しかしこれが僕等に学びをもたらすのです。我々ができることは、ただこれをひたすらに咀嚼し、感じることです」
「…人間の醜さが、際立つわね」
「全ての人間がそういうわけでは無いですが、ただこういう行為が行われている事実は消せません。無論この行為が悪いとは言いません。この本は、恐らく物事の正当性については何も語っていないと思います」
「じゃあ私達は何を学んだらいいのよ」
「…抽象的ではありますが、悲しみ、だと思います。多分、これがこの本の真ん中を通る柱です。筆者が伝えたいこと、それは、悲しみは何をもって悲しみとなり、そして悲しみは何をもって測れるか。人間には正確に、他の生物の悲しみを測ることは出来ません。ある動物に焦点を当てても、あの行為をしているから悲しんでいる、と簡単には決めつけられない。そのあまりに複雑で、全貌が掴めない感情。これが、主題です」
「…哀しい本。感情なんて、私が能力で全て読み取れるのに…」
「…その読み取った感情は、特に悲しみは、果たしてそれが全てと思いますか?」
「…」
「…いや、今のは意地が悪かったです。…深淵に眠る感情は、その全貌を決して現しません。本人ですら気がつかないこともある。もとより情緒とは理論で測れないものです。だから文学は科学と分けられているのです。まあこれは余談ですが」
「…私の能力も、あまり役立ってないのかもね」
「それは、僕にはなんとも言えません。極論を言えば感情なんてものは、所詮脳に散る小さな小さな火花です。しかしそれはあまりに不可解な火花です。貴女はそれに近付くことができます。普通の人よりずっと。誇るべきことです」
「フォローのつもり?」
「いいえ、本心です。羨ましいですからね。…僕が思うに、ですが」
「うん」
「悲しみ、はすなわち未来を眺めること、と思うんです」
「未来を?」
「“死につつある者がこれからひとり歩む道に思いをめぐらす一方で、寒々とした自分の未来を心に描く。もう二度とむかしには戻ることのないあの家に自分ひとりで帰る”と。これが、多分悲しみの答えだと思います」
「本文?」
「ええ。残された者の号哭は、恐らく自分一人で歩む寒い寒い道へのもの。その先を生きることを想像するだけで、酷く重たい足枷がつくようなものです、それが悲しみで、根源です。その人を失ったことと同じく、その人がいない未来が恐ろしいのです」
「…」
「そしてその悲しみは様々な形に現れ、大きさもつかめず、どれほど巣食っているかも知れず。つまり悲しみは一匹の生物に内包されながら、宇宙を喰らい尽くします」
さとりさんは顔を上げると、僕の顔を見て少し目を見開いた。
そして、言う。
「…貴方の説明だけでは、伝えきれないのでしょう?」
「勿論です。読んで頂くのが、一番です」
「…今度、貴方の本屋に邪魔するわ。とっておいてね、その本」
「…ご予約、有難うございます」
大切な何かを失ったとき、人は悲しみを覚える。他の生物もそう、とは言い切れない。もしかしたらそう見えるだけ、かも知れない。
しかし人間以外の動物も、理論では説明できない不可解な行為に出ることもある。それはこの世におけるバグか、はたまたそれがあるべき生物の姿か。
僕らには全てを計り知ることは出来ない。何故なら測る者自体が未来を眺望し、何かを思うからである。
大切だった者が消えたある日に、一体自分達は何を思い、どんな行動に出るのか。一律に定義することは出来ず、自分がそうならなければ知ることすら叶わない。
悲しみは、それで良いのだろう。悲しみは手の届かぬ感情で、かつ常に隣にいる感情であらねばならない。
それでこそ、悲しみは悲しみたり得るのだろう。
こいしさんに感謝を告げ、地下世界から空の下へ。陽は少しだけ傾き、天上は蒼かった。
僕は隣の少女にも礼を言う。
「今日は色々ありがとうね、フランちゃん」
「…治兄は、もう少し自分に自信持った方がいいと思うよ」
少女はそっぽを向きながら呟く。先のことをまだ気にしているのだろうか。これは反省しなければなるまい。
「ごめんごめん、ほら、今日も紅魔館行くからね、許してください」
「…しょうがないな」
何だかんだ許してくれるフランちゃんは天使です。ロリコンではないです。
そしてやっと振り向いてくれたフランちゃんは、僕の顔を見て少し驚いた顔をする。
「…何で泣いてるの?」
「え?」
──そして人は、全く接点の無い何かと悲しみを共有する。
全く、不可解な感情である。
『地獄の変遷に見る死者の罪』は勿論架空の本です。幻想郷の評論とか独特で面白そうだと思います。
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第9+1/2話「デカダンな確立」
投稿も大分遅れてしまいました。申し訳ありません。
今回からお遊びで後書きを追加しました。
これはまた、数日経ってから。
朝方、僕は、人里の大通りを歩いていた。
『──我々の利権は今、侵害されている。心なき妖怪どもの魔の手から、何としてでも里の生活を守らねばならない。我々は今、戦う時なのである──』
腕が取れんばかりに身振り手振りを行う急進派の宣伝が里によく響くようになった。聞くに彼らは、回りくどいことを言っているが、詰まる所妖怪と戦争をしたいらしい。
人間が確実に勝てないことは里の人々に常識として浸透しているので、今の所宣伝はあくまで宣伝で終わっている。
しかしきっと、もし何らかの出来事があったら、それがキッカケで世論は傾くかも知れない。
不穏な予知をして強張った顔を直しながら、僕は一人里から離れた。
紅魔館地下、フランさんのお部屋にて。
「ねえねえ」
「はいはい」
「今日は何して遊ぶ?」
「平和にお人形さん遊びでもしませんか」
「やだやだ弾幕ごっこしたい!」
「そんなぁ」
僕は山本治。今日も今日とて紅魔館。
書きようによってはまるで僕が毎日ここに入り浸っているようにも思われるかもしれませんが、断じてそのようなことはありません。
時刻は午前10時をまわったところである。
で、レミリアさんから頼まれた、このフランドールさんの遊び相手を務めさせて頂いているのだが。
「弾幕ごっこしたいー!」
ご覧の通り、物騒な遊びをやたらと提案する。
僕は一体どうすれば良いのでしょう。
「お人形さんはすぐ壊れるんだもん!」
「それはまぁ仕方ないけど、弾幕ごっこは今度は僕が壊れちゃうからね」
「大丈夫!」
「何が⁉︎」
「こないだ試したけど壊れなかった!」
「いや皮膚とか擦り切れてたから。あれは反省して下さい」
「むぅー、そうじゃなくてぇ…」
不服そうな彼女。その伝えんとするところは未だ不明である。
「そもそも僕は弾幕が出せないので」
「やってれば出るよ!」
「出る前に死んじゃうよ」
「死なないの!治兄は絶対死なない!」
何故僕じゃない人が僕の命のキャパシティを断言しているのだろう。
「何を根拠に言ってるんですか」
「だって普通の人ならあの時死んでるもの」
「僕は普通の人だよ…。能力が不発だったんじゃない…?」
「ちゃんと使ったもん!」
「えぇ…怖…」
話はこのように互いに譲らず膠着している。そりゃあ僕は命をかけているのである。譲るわけにはいかない。
しかし早めに打開策を見つけねばならない。この子を退屈させるのは僕の本意ではないし、この子も退屈であろう。
とは言え僕は危険な事は遠慮したい。
しかし彼女は楽しいことがしたい。
考えつつ部屋の中を見回すと、窓のない壁が見える。
そういえば、この子は───
「──外、一緒に出てみない?」
「…外?」
「この間こいしさんと一緒にお出かけしてたからさ」
「──うん、別に、いいけどさ…」
あれれ?あんまり乗り気じゃない?こんなところにずっといるのだから、少しは気晴らしになるかと思ったのだが。
「うーん、楽しいの?外って」
ああ成る程、殆ど知らないのか。
「それを教えてあげようと思ってる」
「ふーん…、じゃあ、いつ行く?」
「ん、じゃあ、明々後日とか」
「定休日?」
「うん」
「じゃあここで集合ね」
「あぁ、そういうことで頼みます」
するとフランちゃん、ベッドから立ち上がり座布団に座ってる僕の隣に座り込む。
そうして僕の顔を覗き込む。そういう攻撃本当に弱いから勘弁してほしい。何でも買ってあげちゃいたくなる。ロリコンではないです。
「ねぇ治兄」
「なんだい」
「治兄はさ、なかなか献身的だよね」
急に何の話を始めたのだろう、この子は。
「そう?」
「だってよく考えてよ。フラン他人だよ?」
成る程、そういうことか。
確かに彼女からしたら、殺しかけた男が舞い戻ってきているのだから、そりゃあ不思議な話だろう。
「約束しちゃいましたから」
「すっぽかさないのは何で?」
「それは…」
少し言葉が止まる。
すっぽかした後が怖い、という理由も確かにあるが、それ以外の理由もあるような気がする。それこそ目の前の幼女の魅力というものもあるのかもしれないが、実際それは誰に言う訳でもない言い訳のような気がする。
果たして自らの真意は。
「…人としての義務、としか言えませんね」
「…?」
「いつか君がこの世界をもっと楽しく生きる為に、伝えなきゃいけないことはまだ山ほどある気がします」
「それを伝える時間をよくフランに割くね」
「僕は君より早く死ぬから、さっさと伝えないとじゃないですか。僕は成人だから、ほら、教育する義務もあります」
「つまり義務でやってるの?」
「…いや、僕も楽しんでますから。初めこそ使命感でしたが、まぁ日々の楽しみが増えて良かったですよ」
「…今日の治兄は話し方が下手くそだね」
「え"っ」
「つまりは、治兄がお人好しってことでしょ?」
目の前の女の子に、要約されてしまった。若干違うような気もしなくもないが、まぁ今のところはそれでいいような気がする。
なんだかさっきから僕は言い訳をしているようである。誰に対してでもなく。
とは言え僕はこの関係に理由を求める必要もない気がしたが、この少女はそれを持ちたがっている。
理由は関係性を確定するはたらきがある。それは不安感不信感の払拭にも繋がるし、関係自体を強固なものとする。
ただ僕としてはこの子が今後の人生においてこの世界で柔軟に生きていければそれだけでいい気がするから、現在において理由などでの定義は必要もないことと思われる。きっとすぐに終わる関係なのだから希薄であるべきであろう。
しかしこの子はきっと今を見つめており、「今当に」に重大性を感じるたちなのだろう。
認識の違いが顕現してきた。
それは明々後日、ゆっくりまとめることにして。
「じゃあ今日はトランプでもしましょうか」
「えー、弾幕ごっこぉ」
「明々後日のお出かけで我慢して下さいよー、お願いしますよー」
「むー、しょうがないなぁ…」
「─ということなのですが」
「いいわよ」
「あら、割とあっさり…」
「今までも出かけさせてたもの」
先の要件をレミリアさんにお伝えしてお願いしたところ、思うより簡単に承諾を得ることができた。
「あの子は随分と明るくなったわね」
「元から明るそうに見えましたけどね」
「部屋の中じゃあんまり笑わなかったのよ、貴方が来るまでは」
変化の全てが僕の所為であるような言われ方であるが、それは偽で、ことの要因はやはり彼女自身の意志が大きいと思う。
光栄ではあるが、その評価を受ける価値は僕には無い。
「買い被りすぎじゃないですか?」
「そうかしらね…。ところで、貴方」
「はい」
レミリアさんが椅子から少し身を乗り出す。
「やたらと素直じゃないかしら?」
「…さっき同じようなこと訊かれたんですけど」
やはり姉妹ということなのだろうか。
「だって貴方には利益がないじゃない。ましてや貴方の一生は吸血鬼の何分の1かしらね」
「でも頼んだのはレミリアさんじゃあないですか」
「あのまま逃げると思ったわよ」
「お願い事は断れないタイプの人間なんですよ」
「損するタイプのお人好しね」
「何とでも言ってください…。そもそも断った後が怖いじゃないですか」
「あら、私が何をすると?」
「何でもありません」
少し冗長な会話を繰り広げた後、彼女の目が少し真剣みを帯びて、このような質問を繰り出した。
「──貴方は、例えフランと出会ったのが貴方以外でも、こうして成り立ったと思う?」
不意な質問に少し面食らう。そうして僕はどこでもなく視線を巡らせ、いつかの刹那にふと止まる。
「…はい」
「…へぇ」
「僕はそれ程までに自分を特別視していませんよ。身分はわきまえているつもりですし」
「…だったら、パチェはどうして貴方を紹介したのかしらね」
「気まぐれじゃないですか? 見た目はゴリラ、中身は人間なんてなかなかいませんよ。自分で言うのもなんですが」
「そうかしらね」
「後は本人に聞いてみてください…、そっちの方が確実ですよ」
「そう…、じゃあお出かけ、楽しんでらっしゃいね」
「…? ど、どうも…」
最早見慣れた帰り道。先程までの会話を必死に咀嚼する。
全くあの姉妹との会話は非常に難解である。どちらと話していても言外に何かを感じずにはいられない。
詰まる所、二人とも僕がいる理由が知りたいのであろう。
それは約束をしたからであり、お願いを断るのが怖いからであり、あの少女にこれから楽しい人生を送ってもらいたいからであり──
色々あるのである。一つにまとめられない程に分散しているから、まぁなんと言えば良いか自分でも分からない。
僕が吸血鬼だったら何か人生的な観念が変わっていただろうか。一つ一つのことに確固たる意味を結べただろうか。
人間にそんな時間は無い。全ての物事にはぼんやりとした意味しか付与できない。だから成り行きという便利な言葉がある。
僕なりに踠いてはいるつもりである。人生に価値を見出そうと、普通の人間よりはあれこれ考えているつもりだが、それでも僕は僕の身に無価値さを感じずにはいられない。
一体どうしてそう思わざるを得ないのか。
それを考えるのに、きっとこの生涯は短過ぎるのだろう。
或いはただ、僕が真に考えていないだけか。
吸血鬼はこれから、また長い生涯を生きるのだろう。
そして僕は、とても早く老いさらばえるのだろう。
それでいて吸血鬼が今を生きて、人が未来を見るのは何という不思議なことであろうか。
『─思えば我々の歩みは、妖怪という存在により阻害されてきた─』
誰かが唱える反妖怪のプロパガンダを耳に入れながら、人里を歩く。
どうやら僕の周りは随分と変化してきたらしい。
その現在を対岸の火事のように、常々未来を見続けていたら、いつの間にか僕の全てが終わるのだろうか。
僕は椅子に座り、本を開いた。
すぐに周りの喧騒は消えた。
僕が本を好きな理由は、きっとこういうことだろう。
問
下線部「僕が本を好きな理由」とあるが、何故山本は本が好きなのか。50字以内で説明せよ。
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第10話「君の膵臓をたべたい」
読書に集中し本の世界に入ることは、自身を周囲の環境の変化や難解な思考から乖離させてくれるから。(47字)
この問題、感想として回答頂きました。その方の解答もとてもよく仕上がっており、あちらを模範解答にしても良い程でした。ご解答有難うございました。
業務連絡となりますが、twitterもやっております。気が向きましたら、どうぞお気軽にフォローして下さい。
ID:yamamoto_no_osa
────────
─────
───
─
『みつこのよ。んなじ、をきおてぶやしりのはこはよ』
…眼前はほぼ闇の中で、何かが聞こえる。明らかな意図を持って発している声だが、その意図を汲み取ることはできなさそうである。
『んなじ、たかちのそにげくみにくりりにけな。れそくさしまゅじそ。れわらのしおせわみつ』
淡々と話しているかのようで、中身が全く伴わない。新鮮な感覚である。
『みつこのよ。がんなじみつ、しなこにこ。どれかもし、がたみつりあこにこ』
ここで初めて音の主の容姿が呈される。毛の生えた巨大な腕。
『にえゆれわら、をんなじにとわんがとめ』
その音が終わると、腕は黒に消える。目の前は見えないが、本能的にもうこの場にはいないのだと悟る。
少し懐かしい感覚がした。
─
───
─────
───────
囀りが眼を開く。また何かしらの夢を見ていた気がするが、今はもう現であるから、体を起こすことにする。
歯を磨きながら自分と向き合ってみると、今日も相変わらず人とは思えぬ顔である。毛に覆われた側頭部及び後頭部、そして顔だけ黒い皮膚が露出している。眼球周りは彫りが深く、常に睡眠不足を疑われそうである。
先日の夕食の残りで朝食をとりながら、本日の予定について思い出してみる。今日があの少女との外出日であることを思い出すに、そう時間はかからなかった。別に緊張して夜も眠れないとかそういうことは幸いにも無かった。しかし、それにしても、敬語を封印せねばならないのが手痛く感じていたりする。何故だか僕は敬語を使うことで、それでいて自分な気がするのである。だから正直会話が辛い。
それを申し上げたら彼女は嫌がるのだろうか。僕にもわからない。
今日は火曜日なので、妖怪の山にいるかもしれない、姿を見たこともない狒々へ向けて儀式を行う。思えば実像の伴わない何者かを崇めるなどと、なかなか変わった話ではある。
しかし大体の里の人々は、あらゆる自然に一種の“精霊”の存在を信じ信仰している。そう考えれば一種の宗教としては別段珍しいことでもないのだろうか。
ただ人里はあまり異教徒に対して寛容的でなく、ある時には激しい弾圧の末一家を社会的に殺すこともある。その結果増えるのが所謂宗教遺児。路地裏で細々とゴミを漁って生きているような子供達である。
里は金が無い人々には救いの手を差し伸べない。それは自分たちが生きるのだけでも精一杯だからである。仕方ないが、それでも醜い。
まあ、僕も同罪だが。
何か物事を考え出すと止まらないのは悪い癖である。それらを振り払うように頭を振り、僕は出かける支度を始めた。
日頃の行いが良い自信はないが、今日は運良く快晴である。
相変わらず日の届かない地下室で、フランさんの支度を待っている。
「おはようございます」
「おはよう治兄…、敬語、抜けないね…」
少し考えたが、やはり、言うべきなのだろうとは思った。
「…あの、そのことについてなんですけど」
もののついでに一つ申し立てをすることにする。
「…やっぱり敬語は許してくれません?」
「えー、どうしてよ」
「人と自然体で接する時は決まって敬語なんですよ」
「うーん…、しょうがないなぁ、認めます!」
あら、なんと器の大きなことよ。
「治兄が自然体でいられないのは私の本意ではないからねー、特例として認めることにします。しかし!」
「しかし…?」
「あくまで対等に!これが条件です!」
「…恐れ多いですが、心に刻んでおきましょう」
そうして日傘、財布が手元にあることを確認し、レミリアさんに報告してから紅魔館を出発した。
日の下の彼女をみるのは初めてで、新鮮な気分であった。
「先ずはどこ行くの?」
「昼までは少々あるので、先に少し大自然に触れておきましょう」
「だ、大自然?」
そう、先ず僕は午前中を大自然に満たしてもらうことにした。お出かけプランを考えるのは非常に骨が折れたが、僕なりに頑張ったつもりである。もとより人と関わらない人間だから、人と出かける計画など、耽溺したと表現して良い程に練りに練った。
それでもきっと凡人かそれ以下だろうが、まあつまり努力はしたのである。誰に対する言い訳か知らないが。
紅魔館付近にはやたらと霧の深い湖があるのだが、それを抜けると森が広がっている。その林道を歩くと人里が見えるのだが、その前に少し寄り道をと別の道を歩く。
「実は先日、吸血鬼が苦手なものを調べて参りました」
「おー、熱心だね」
怪我でもさせたら切腹ものであるから、それはもう念入りに。
「先ずはニンニクですか」
「ちょっと臭くて嫌い」
あ、その程度?
「次に十字架」
「んー、それは正直言って別にどうでもいいと言うか…」
あ、人間が勝手にすがってるだけなのね。
「で、銀」
「あれでつけられた怪我って中々治らないらしいよー」
それ以外のものは大丈夫なのだろうか…
「後は、流水と」
「うん、それは火傷しちゃうからね」
ああ、流水は駄目なのか。
ん? だとしたら、気になることが。
「じゃあ風呂なんかはどうしてるんですか?」
「温水だからね」
そんなものなのだろうか。僕にはよくわからない。
「言わずもがな日光も駄目ですか」
「それは誰でも知ってそうだよねー。…で、なんでこんな事情聴取みたいなことしてるの?」
「安全にお出かけを楽しむためですよ。怪我でもしたら大変です」
そこまで言うと、木々の向こうに目的地が見える。
「ほら、見えてきましたよ」
「んー?」
先ず第一の目的地は、何も名が付いていない、ただの河辺である。風に揺れる緑色は初夏の匂いを感じさせ、僅かな音を伴い流れる水が風流を感じさせる。川の近くは短い草か砂利で構成されており、川幅は凡そ10m弱といったところだろうか。
何故ここを選んだのか、と彼女は不思議に思っているだろう。
「きっと今フランさんの頭の中には?が一杯のはずです」
「…水遊びはできないよ?」
「ご安心を、それを考慮に入れてのここです」
そう言って僕は砂利石の中から平たい石を探す。
「…昼までは後30分そこらです。ですから、これで勝負しましょう」
僕は川面に水平に、回転をかけた石を飛ばす。
それは一跳ねもせず水中に没した。ダサい。
「…本当は水面を跳ねるんですよ?」
「…プッ、アハ、アッハハハハ‼︎ 」
「わ、笑わないでくださいよ…次はちゃんとお手本見せますから…」
大口を開けて笑っている彼女にお手本を見せなければならないので(先ず見せないと競技が成立しない)、次の石を探し回る。
「これで跳ねた回数を競いましょうッ」
第2投は三回跳ねてくれた。有難い。
「ふーん、で、勝った方は何かあるの?」
「何でもすると言いたいですけど、貴女は弾幕ごっことか言い出しそうですからねぇ…。なんで、もし僕に勝ったらみたらし団子買ってあげます」
そう言うと、彼女はよく姉に似た顔で笑った。
「…乗った」
「フッ、手加減は致しません」
これこそ大自然と一体のアクティビティ。いざ尋常に勝負。
「へー、みたらし団子ってこんな味なんだね」
「アッハッハ.ソレハヨカッタデスネ」
確か僕は4回跳ねて、彼女のは対岸まで辿り着いた。僕は彼女の身体能力を甘く見ていたらしい。小さくても吸血鬼で、コツを掴んだ彼女から放たれた石は、常人のそれより遥かに回転していた。
どんな結末であれ奢ってあげるのが大人の嗜みだと思ったが、正々堂々と負けたのが悔しい。
おかげさまでこの通り、美味そうなみたらし団子を見せつけられながら僕がよだれを飲んでいるのであるが。
「んー、とっても美味しいよ!ほーらほら」
「ン-.オイシソウデスネ-.イイデスネ-」
「ふふ、冗談だよー。はい」
流石に気を使ったのか、僕に食べかけの串を差し出す。
しかし今日は気を遣ってもらうわけにはいかないのである。
「…男に二言はありません」
「強情だなぁ……えい」
「ぶほぉ」
いやん、アタシのお口の周りに甘いタレが!
「あ、ごめんなさい…」
「…身長差半端ないですからね、じゃあ、お言葉に甘えましょう」
どうやら僕のお口に突っ込む気だったらしいが、僕は2メートル10センチ程度に対し、彼女は1メートル50センチ弱。その串は不幸にも僕の顔面に激突してしまった。
僕が頑固なのもいけない。ここはおとなしくもらうべきなのだろう。
彼女に精一杯笑いかけながら、僕は団子を頬張る。
「…凄い上物じゃないですか」
「でしょ⁉︎ フランの選んだ店に狂いは無かったよ」
いや、場所教えたの僕ですけどね…
あれから食欲がそそられてしまい里で買食いを沢山してしまった。あまり里を歩いたことが無かったからわからなかったが、まだまだ僕の見たこともないものが多くある。二十余年生きてきたが、現世小説にも名が出てくる「チーズ」を食べたのは初めてのことだった。
それで今は少し体を休ませるために、僕が本拾いの帰りにしばしば寄る喫茶店でたわいもないお話に興じているのである。
その店の名前は「喫茶 No name」。なんて読むのかはさっぱりわからなかったが、僕が常連として通い詰めるうちに店主と顔見知りになり、読み方が「のーねーむ」であると教えてもらった。
後々読んだ小説にも同じような文字があり、よく翻訳してもらったものである。
そして本人も語っていたが、彼自身は現世出身らしい。
また今度現世について教えてもらいたいものである。
「ここってよく来るの?」
「そうですね、本拾った帰りによく寄りますよ。店主が若くてね、僕より年下らしいですよ」
「…治兄って今何歳?」
「老けるのがバレないのはいいですね。僕は今23歳ですよ」
…そう言われると気になるのが、目の前の少女の実年齢。なんか前に495年は少なくとも生きてるって聞いた気がするが──
まあ取り敢えずそれは置いておくとして。レディに失礼である。
僕は店主に目をやる。黒い長髪が靡く男性で、人によってはあれ目当てに訪れる人もいるんじゃないだろうか。憶測だが。
「割と美形だねー」
「割ととはなんですか、彼に失礼ですよ」
「治兄だよ」
予想外の砲撃に折角の紅茶を吹き出す。
「お世辞下手過ぎですか」
「フフッ、他のゴリラ見たことないからよくわかんないけど、よく見てると表情が豊かで楽しいよ?」
それ美形って褒めてないような気が…
「見世物じゃありませんよ。動物園でもありません」
僕は大人だが、今はこの子に負けてる気がする。
果たして大人かどうかを決めるのは生きた年数か、振る舞おうとする努力か。
「…治兄、楽しい?」
この子は藪から棒にが好きなのだろうか。
「? どうかされましたか」
「いや、さっきからフランが行きたがってるところにしか行ってないかなーって思ってさ…」
思えばこの子があそこ行きたいって言ったらそれに従ってた気がする。
「…正直、行く場所は決めあぐねてたんです」
「?」
「僕は人を連れてお出掛けなんてしないタチですから。ですが、とっても活発な少女がさっさと決めてくれたんで、僕としては楽なことこの上ないですよ」
「…それは皮肉ってるのかな?」
「いやぁとんでもない。存外楽しいものです。僕が教えるつもりになっていましたが、いつの間にか貴女に外の楽しさを教えてもらっています。寧ろこれからもどんどんリードして欲しいものです」
「ほんと?」
「嘘はつきませんよ。基本」
「えへ。ありがとう」
別にお礼を言われる筋合いはないのだが。
「んー、じゃあ次はあそこ行きたい!」
そう言って彼女が指差した先には、店の窓ガラスを通して向かいの建物が見える。それはやたら目立つピンク色の──
「…あそこは、ダメです。あそこはいけません」
「えーどうしてー」
そう言ってこの少女はニタニタ笑っている。貴様!勘付いているなッ!
「…貴女がもう少し成長してから、好きな男の人と然るべき時に行く建物です。今の貴女には早過ぎる」
「私治兄のこと好き!」
「いや、そうじゃなくてですね、その、うんまぁ、うーん」
性懲りも無くりんご飴を食べながら町中を歩く。ここは比較的大通りで一部であるが電気も通っている。まだ昼間なので消灯しているが、夜になっても明るいのはこの辺りだけである。
「うーん、今日一日だけでかなり太った気がしますね…」
「そんなことないと思うけどねー」
「こらお腹をぺちぺちするのをやめなさいやめなさい」
するとふと、視界の端に何か動くものを捉えた。
建物と建物の合間、昼間だというのに暗いその場所に、みすぼらしい少女の姿がある。きっと、なんらかの原因で一家が弾劾されたか、或いは育てることを放棄されたかは容易に想像ついた。
ああいう人々に手を差し伸べるのは、あまり良くない行為とされている。社会的には。
僕としても社会的地位は惜しいし、同様の目にあうことは避けたい。
もとより僕は臆病なのである。
「…治兄?」
ただ。
やはり、僕は。
「…ちょっと御手洗い行ってきていいですか?」
「あ、うん」
偽善者なのだろう。
他人から見て、悍ましく思える程に。
周りに人がいないことを確認して、僕はその路地に近寄る。
顔を上げた少女に、無言で食べかけのりんご飴を差し出す。
自分でも、残酷な行為だと思った。これではまるで家畜の餌付けとも言えそうな光景である。
しかしこういうことをしなければ自分の罪悪感すら拭えない、あまりにも臆病で見栄張りな性分で。
やりきれなくなる。
僕は最低である。
「…ありがとう…」
「…申し訳ありません」
弱々しい少女が絞り出す声に、罪の気配を感じずにはいられない。
その罪が足を絡め取る感覚を感じながら、僕はその場を後にした。
「いやー、お待たせしました」
「…りんご飴、どうしたの?」
「馬鹿なことに便座に落としてきました。勿体無いです」
「…ああいう子って、よくいるの?」
「…」
「…」
「…見苦しいところを」
「…そんなこと無いよ」
「…こればかりは気を遣うことも無いです。あれは酷く偽善でした」
「…でも、さ」
「…?」
「あの子、凄く有難がってたよ」
「…あの子を養う余裕もないが、目の前の罪悪感からも逃れられないんです。だからああいう卑怯な行為に出ました」
褒められたものではない。それはこの僕が一番よくわかっている。
あれから雨が降ってきてしまい、急いで近くの油屋に避難した。しかも思ったより本降りなので、傘をさしても濡れてしまうリスクを考え、止むか弱まるまでここで待つことに決めた。
今日一日とても遊んだ。これが止んだら彼女を家に帰し、僕のお勤めは終了である。
思えば今日は彼女の、思ったよりも優れた社交性が見られた。長い間地下室に閉じ込められていたはずなのに、一体どういうことであろうか、僕が人参を選んでいる間八百屋のおじさんと会話を弾ませていた。
そのことを含み、僕はこの子との関係について考えていた。
ただ、善意と思慮で構成されたようなこの子に、あくまで普通の人間で、人目を気にする自分が関係していて良いのかと。
それに、自分は数十年後には確実に死ぬ。
ここに来て尚、死生観がこびりついて離れない。
「雨降ってきちゃったね」
「そうですねー、もう少し止むのを待ちましょうか」
「…今日は楽しかったよ。ありがとう治兄」
「いえいえ、こちらこそ沢山学べましたよ。まだまだ人里には見所があるものですね」
取り留めのない会話を繋ぎながら、雨が止むのを待つ。
勢いを増す雨を見ると頭の中に先程の少女がよぎり、この空模様のように心が沈む。
眼前の少女にだけは悟られないように、僕は必死だった。
「しかしこれいつ止みますかね」
「まだ暫くは降ってそうだね」
「寒かったりしませんか? 大丈夫ですか?」
「うん、取り敢えず大丈夫だよ!」
実際気温は若干低下していた。それでも蒸し暑いと言えるほどではあったため、それが少しは救いであるか。
「ねぇ治兄」
少女が切り出す。
「次回はどこ行こうか?」
純粋に目を輝かせる少女を見て、僕はふと虚しさを感じる。
果たして僕はこんなに幸せを得て良いのだろうか。純朴の塊であるこの少女と次を確約していいのだろうか。
考えるより先に、僕は言葉を発していた。
「次──はもう、いいんじゃないですか」
「…え?」
先程と打って変わって困惑した表情。
心情の豊富さが伝わってくる。
「貴女はもう十分に社交的です。貴女に足りないものは経験だったんです。一度外に出てしまえば、もう後は人の手助けはいりませんよ」
「治兄…?」
僕は視線を決して彼女に合わせない。
「レミリアさんとの約束を果たすことも叶いました。もう僕のような一人間が関わるなど、そういったおこがましいことは望みませんよ」
「…何でそんなこと言うの?」
今、どんな顔をしているのだろう。
「フラン、言ったよね。あくまで対等にって…」
彼女の声は消え入りそうだ。
「あの日からずっと遊んできて、今日も、楽しかったよ? …治兄は、やっぱり楽しくなかった…?」
「いや、そうではありません」
そう、そうではないのである。もっと酷い理由である。
「あくまで、僕はほぼ契約の身分です。貴女の世界の一脇役になる資格は持ち合わせていません」
「資格って何? それって大事?」
彼女の声が荒くなってくる。
これはいけない。僕は彼女を悲しませることも怒らせることも望んではいない。
ならば論理的な説明で説得するしかないだろう。
それこそ、得意の本を使って。
僕は顎に手を当てる。
「…僕は自分なりの死生観というものを持ってるんです」
「…」
「その基礎となったのが、『君の膵臓をたべたい』って本なのですが、こちらは住野よるさんという方が書かれた小説です」
「…」
返答がないのもキツイものである。
「ざっくりとしたあらすじとしては、主人公の男の子がある日病院で“共病文庫”なるものを拾いまして、これをきっかけに余命宣告を受けた女の子の山内桜良と関わることになるのです」
「で、ですね。あまり言うとネタバレになるから詳しくは言いませんが、この本は一言で言うと「切ないラブストーリーとは十把一絡げに言い切れない何か」です。双方が互いに抱いていた感情は、恋愛感情、とも言い切れないですが、尊い感情であったと言えるでしょう」
「そんなストーリーですが、僕はこの本の主題は正しく“死生観”と思います」
「僕がこの小説で一番好きな一文が、『小説は、最後のページまで終わらないと、信じていた。』です」
「人の人生は、張っておいた伏線や謎が全て確実に回収される訳ではなく、ある時突然終結するものです。僕自身もこれを読むまで履き違えていましたが、人の物語は、基本綺麗に終わりません。あ、安心してください。この小説ではちゃんと救いはありますよ」
「面白いのは主人公が山内さんの名前を呼ばないことです。これは自分の中に他人の存在を定義したくない、と語られていますね。ある誰かを定義したら失うのが恐ろしくなってしまう、など、理由は多々あるそうですが。他にも本来山内さんが呼んでる主人公の名前の箇所が【秘密を知ってるクラスメイト】みたいにその時々の関係で変わる、といったように、見所は沢山ある小説ですから一度読んでみてください」
「…」
僕は一度咳払いをする。
「…貴女が気になっている本題は、ここから。先程の話で、『他人の存在を定義したくない』と語りました。資格って何、という質問でしたが、こういうことです。僕は、貴女の世界で存在を定義されてはいけません」
「貴女は純粋です。それはもう素晴らしいほどに。そして貴女は何より優しい。ですから、きっと僕のような人間の死にも感傷的になってくれてしまうでしょう。ですが…」
「…僕は、あまり褒められた人間じゃありません。一般人です。僕という存在に、いつか悲しみを抱いて欲しく無いんです。僕という時限爆弾を抱えて欲しくありません」
「僕の自意識過剰に聞こえるかもしれませんが、貴女はそれだけ優しすぎる。例え道端のアリを踏んづけてしまったとして、それに気がついたら、貴女はきっとその行為に罪を感じずにはいられません。でなければ、そんな能力を持ち合わせながら、あの地下室にこもる理由が無い」
「ご存知の通り、僕は人里の子供一人救えない愚か者です。そんな存在にいつか貴女が哀惜を感じてしまうのは、そんなの僕のわがままじゃないですか」
非常に論理的な説明だと自分で思う。ことわっておくと、僕は自尊心が無いわけではない。並の人間ほどには立派な自信がある。
ただ、まあ、並の人間なのである。この子の数十年とその先の感情を奪っていいほどの価値があるとは思わない。
「……治兄はすぐ死ぬから、関わるなってこと…?」
なんと表現したら良いかわからない感情を滲ませる少女。
「…さっきから治兄、自分の事蔑んでばっかりじゃん。やれ自分には時間をかける価値はないだ、やれ愚か者だって…」
「いや、蔑んでいるわけではないですよ。ただそれだけ僕は標準的に人間であって──」
「うるさい!黙って!」
思わず僕は仰け反る。
まさかこんな反撃が来るとは予想もしていなかったので、驚きが隠せない。
「そうやって貴方は自分で自分を卑しめてることも自覚できない、自己否定が誰も傷つけないと思い込んで…!」
「貴方の悪い所はそういうところだよ‼︎」
「標準的な人は吸血鬼の館に呼びつけられても行かないし、自分を殺しかけた少女に物事を教えようとしない!」
「貴方が死ぬなんてわかってるし、貴方を看取らなければならないかもしれないなんてこと、わかってるよ…」
「でも数少ない時間だから、精一杯一緒にいたいって、思うのはおかしいの…?」
「私は貴方が好きで、その先の哀惜なんて考えたくもないくらいだけど、貴方がそう言うなら、ちゃんと考えるから…」
「だから、だから、お願い…」
僕は、もう出す言葉が見つからない。
「私の友達を馬鹿にしないでよ…」
…
…
…参った。
関係性を定義しようと試みた時、一度も“友達”だなんて言葉は出てこなかった。そんな言葉は、最初から除外していた。僕達は、それ程までに対等とは思わなかった。
目の前の少女は、やはり今を生きているのである。そして、未来を生きているのである。
僕の過程が、甘かった?この子は既に覚悟していた?
処理が追いつかない。彼女の感情的な言葉を咀嚼しきれない。
僕は論理的な世界で一人こもっていたから、こんなに強い強い言葉を受けたのは生まれてこのかた初めてである。
取り敢えず、僕に今できることは、と考えて。
「…申し訳、ありませんでした…」
と、だけしか言えず。
「…もう、自分の事馬鹿にしない?」
「…善処します」
「…許す」
そう言って彼女は、僕のことを抱きしめた。
確かに、きっと、僕が間違っていた。
彼女を家まで送ってから、僕は自宅に帰る。
自室の中で、僕は一人考える。
彼女は僕のことを友達と言ってくれた。
それは素晴らしいことである。
彼女にとっての僕は素晴らしいとして。
他の人にとってはどうであろう。
あの孤児にとっての自分は、見て見ぬ振りの大衆の一人なのではないか。
誰かにだけ優しいは優しさではない。
彼女は僕に自身を蔑むなと言った。
ならば僕はどうすれば良い?
依怙贔屓ともとれる僕の態度は、果たして蔑まないでいられるか。
静寂な夜。
明確なカタルシスを得られないで、僕はそのまま眠りについた。
話が長いくせに本の紹介があまりできませんでした。映画化もされた有名な本なので、原作を未読の方は是非読んでみてください。
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第11話「黒猫」
第11話です。
朝方に窓を開けると、視界を重い空が覆う。鼓膜の揺らされようから、ああ今日は雨かと認識する。
僕は雨が嫌いなわけではない。外に出ることもそうそう無い身分であったから、雨が降ろうと槍が降ろうと大したことではなかった。ただ最近はこれを見ると、しばしば脳裏にかの少女等がちらつく。一人は雨が苦手な吸血鬼で、他方はみすぼらしい人の子。
僕は他人なのである。彼女等のことを考える義務もなければ、義理も無い。故に意味もない思索を取り払おうと、今は本を開いているわけで。
しかし僕はやはり、傘を持って玄関に立つ。
申し訳ありません、フランさん。
僕は、自分を責めずにはいられません。
あの日と同じ場所で、少女は蹲っている。
隣の建物から僅かに出っ張る屋根の端を雨除けにし、それでも濡れたその身体で。
これが人里の道理である。
綺麗事ばかりが人間ではない。
綺麗事ばかり語る人間が、すぐ死んでいくのである。
生きるのに自分一人で手一杯なのだから。
こんな雨の日でも、地に反射する音に紛れて聞こえてくる音。
『明確な意図をもって人を食う化け物を放置して良いのか、それで人類の安泰は訪れるというのか──』
人里は、勿論妖怪との問題も抱えている。
社会に漏れた者を救済することなど叶わない。
寧ろそれを敬遠する雰囲気すらある。
だからこの子に手を差し伸べるのは褒められたことではない。
現状の倫理はそうではない。
そうではない、が。
「…御嬢さん」
「…」
「先に断っておきますが、怪しい者ではありません」
「…?」
どうせ信じては貰えないが。
「ここはものの一つ、僕についてきてみませんか」
「…」
少女は、操り人形のように立ち上がる。
世間も、僕も、これが正当でない事は分かる。
それでも僕は、こうでもしないと。
あの子の前で、二度と胸を張れない気がする。
その少女を連れても、店内が雨音以外の何の音もしないことに変わりはなかった。
僕は店でいつも自分が座っている椅子にその子を座らせ、取り敢えず乾布を取ってくることにした。しかしいざ差し出しても何も反応が得られなかったので、仕方無く僕がせめて頭だけは拭くことにした。
歳は15歳そこらだと思う。当然そんな子の着替えなんて持っているわけもなく。そして当の本人から今のところ一言も声を聞いた訳でもなく。僕は非常に困っていた。
そして突然その子がびしょ濡れの着物を脱ぎ始めたから、まあ大変と思い取り敢えず必死で止めると、一言。
「…皆こうしてる」
夕立の前の風音の方が大きいと思えるようなか細いその一言で、彼女らの境遇を察するのは簡単だった。きっとこの子以外は皆どこかの誰かに買い取られたか引き取られたかで、その後そういう人の玩具になっているのだろう。人里の富裕層は大層悪趣味である。
しかしこの子が躊躇いも無くそうしたことに及ぶ諦観の境地を考えるに、それ迄の道程が思いやられる。
僕は掛ける言葉が見つからず、其の場凌ぎで取り繕うしかできない。
「…僕はそんな身分の人間じゃありませんよ」
「…よくわからない」
「まあ少しお待ち下さい」
僕はまた出かける準備をする。
この子の着替えを用意せねば。
店に帰るとその子は殆ど動かずにいた。心なしか首の角度すら変わっていないように思える。
その子に間に合わせの服を渡すが、またまた反応無し。できれば彼女自身で着替えてもらいたいのだが。
するとその時、店のベルが鳴る。
彼女を隠すように扉の方向を見ると、そこにはいつしか見慣れた格好の魔法使いが。
「よーっす!遊びに来たぜ!しかし、雨がひどいな…」
それこそ神の救済と言わんばかりに僕は縋り付いた。
「霧雨さん、早速で申し訳ないんですが、この子着替えさせてあげてくれません?」
「は、はぁ⁉︎」
僕は懇願する。別にこの子の着替えを僕がするくらいどうということでは無いが、それは僕が大丈夫という話であって、彼女がどうなのかは知り得ない。
もしかしたら異性(?)の僕が手伝うことでなんらかのトラウマを掘り起こすかもしれない、と考えると、同性の人に頼んだ方が幾分か安心な気がする。
よく状況が飲み込めていないという様子で、それでも霧雨さんは僕の頼みを聞いてくれる。これは本当に聖人。尊敬します。
「一体お前は何なんだ?治の子供か?」
「…だとしたら随分美人だと思いませんか?」
こう軽口を叩いても、当の少女は何一つ反応しない。
ううむ、困りものである。
「…なあ治」
「なんでしょう」
「……痩せてるな」
「…これが人里ですよ」
「名乗りますが、僕は山本治といいます。この本屋の店長です。貴女は、名前がありますか?」
「…
「…誰にでしょう?」
「…他の子達を、持ってった人に」
「そいつは酷い話だぜ」
成る程、この子はあんまりにみすぼらしいから、どの売人も手を付けなかったのかもしれない。それは幸か不幸か、しかしこうしてこの子は、今ここにいる。
「しかしその名は侮蔑の意味がこもっていますからね…」
「おい、なんかこの子に名前つけてやろうぜ!」
「勝手にそんなこと言っていいんですか…?」
とは言ったものの、確かにこの名前では呼び難い。しかし僕は女の子の名前などからきし思いつかない。頭を抱えていると、ここでもまた助け舟を出して頂く。
「それじゃあ、こうして幸運にも拾われたから、幸子!」
現世の演歌歌手(?)がよぎるのは僕だけだろうか。
「なんだよ不服そうな顔だなー。じゃあ下の字とって運子にするか?」
「それはいけません」
それはいけません。僕がその名前だったら一生親恨みますよ?
「…じゃあ“子”にこだわるのやめて、幸だけにするか?」
「──いいですね」
僕の感性がどうであれ、彼女が承諾しないことにはどうにもならないが…
「どうですか、幸」
「…」
相変わらず返答はない。
確かにここ数時間で環境が激変したのだ、無理もない。
「…えっと、じゃあ、便宜上そう呼びますから、嫌だったら申し付けてくださいね…」
取り敢えず無許可で呼ばせてもらうことにして、名前決定会議は一度終わりを迎えた。
あれから霧雨さんは本をいくつか借りて、その後は彼女の入浴をお手伝いしてくださっている。この子が一人で入れるなら話は早かったのだが、どうもこの子は服も着替えたことがなければ風呂も入ったことが無さそうである。何故この歳まで生きてこれたのかと思ったが、それをいくら考察したところで無意味であり、失礼である。そんなことを考える必要はないだろう。
後に霧雨さんから聞いた話は、鉛のように重かった。
少女の痛んだ髪をそれなりに洗い(女性の髪の洗い方は正直分からないが)、背中を流そうと思った時、改めて彼女の人生を考えたという。
まず目に付くのはその細さであって、背中からでも肋骨が見えたらしい。背骨も背鰭のように飛び出しており、皮と骨以外のものの存在が認められないような勢いであったという。
また、腿や二の腕といった目立たない場所には細かな傷跡や大振りなそれが痛々しく残されている。
当たり前だが非常に汚れており、彼女の体を流れた水は砂利が混じり黒ずんでいたとのこと。
痛ましい。美しい幻想郷に位置する人里、そのはらむ闇が凝縮されている。
ここでふと、僕は自分に立ち返る。僕は一体この子をどうしたいのか。
僕はこの子を、自己肯定の理由に使おうとしている。そしてそのことに既に、この子に会いに行く前に気がついているので、自責の念に圧殺されそうなのである。この時点で本末転倒である。
僕が僕を肯定するためには僕の正義を成す必要があるが、僕の正義という目的を達成する為に人を利用する必要がある。その行為がまた正義に反しているから、きっとこれは一生かけても成されることはないのだろう。
だから自問する。僕はこの子をどうしたいのか。
この子の一生を養うことは財産的に難しい。かと言って里の孤児施設に預ければ遊女にでもされるのが結末だろう。それに僕の勝手を人に擦るわけにもいかない。
しかしまた元の場所に帰すなど外道極まりない。
何事も中途半端なのである。それに嫌悪を抱く。
ああ、またである。
僕は何がしたい。
少女、幸の身の回りを取り敢えず綺麗にし、今は彼女を自由にさせている。あまり質問責めにしてもいい気分ではあるまい。
ただ彼女は座った椅子から一向に動かない。欠如した主体性の表れ。それを奪ったのは誰でもなくきっと環境であろう。
彼女をどうするかを決めかねて、とは言え放置することもできず、僕は狼狽えていた。
今迄コミュニケーションを図る為に、僕は何をしてきたか。
人付き合いが苦手な僕が、どうやって巫女や魔法使い、妖怪、吸血鬼と関わってきたか。
どうやって。
──そういえば。
僕は本棚から様々なジャンルの本を見繕い、彼女の前に提示する。
「…字は、読めますか?」
「…」
彼女は少し震える手で、本を開く。
思えば、僕はずっと、こうしてきた。
何かに行き詰まったら、必ず本を開いてきた。
現実から逃れようとした時も、本を開いてきた。
いつのまにか、僕の人生は本が結んでくれていたらしい。
今や、本が僕の自己を確立している。
少女は、ある一冊の本に興味を惹かれたらしい。
「…『黒猫』、ですか」
「…」
その本は、『ポオ小説全集』の第四巻。それに収録されている話の一つが『黒猫』であった。
彼女は偶然開いたかに見えるその話に、釘付けといった様子であった。
「…この話が、好きですか?」
「…この人」
「ん?」
「…お父さんに、似てる」
そう言って、微かに微笑む少女。
その様子で、僕は彼女の心の、その荒んだ輪郭を読み取ることができてしまった。
『黒猫』。
著者は
話の概要としては、主人公の「わたし」とその飼い猫「プルートー」、そしてその「プルートー」によく似た黒猫が織りなすホラー小説ということになる。
この主人公は生来優しい男で、特に動物が大好きであった。親は彼の欲するままに動物を与え、彼もまたそれらを思いやり世話をした。彼の娶った妻もまた同じような性分で、夫婦ともによく動物の世話をしていた。
そしてその動物の中に、一匹の黒猫、プルートーがおり、この猫はよく夫婦に懐いていた。
しかし「わたし」は大酒飲みであり、ある日泥酔した勢いでプルートーの片目を抉り出してしまう。そしてそのことで怯えきったプルートーに更に怒りを増し、遂には縛り首にしてしまうのである。
この心情こそがこの物語の根幹となる。眼玉を抉ったときの単純な苛立ち、そしてその罪が纏わりつくことに耐え切れず、その元を殺害。この主人公の臆病さこそ、この小説に恐怖を付与するものなのである。
真に恐れるべきは何か。幽霊、妖怪の類か、或いは気狂いな人間か。そんな安直なものを恐怖の対象に定めていたら、この小説は此れほどまでに我々の恐怖をそそらない。
この小説における恐怖は、良心である。生まれついでの大きな良心は、「あまりに気がやさしすぎ、遊び仲間のからかいの的になるほどであった」とあるように、対人関係においてはまるまる活かすことができたわけではなかった。自分の性根が人に真っ直ぐ表現できず(これは環境がそうさせたのだが)、それ故動物を愛したのかもしれないが、とにかくこの男は悪人でなく、全く思慮深い人間だった。そこに無理が生じるのは自明で、だから酒でも飲んで性格を曲げる必要があったのだろう。
対人関係における周囲への迎合からその良心を完全にはたらかせることができず、片目を抉ったときも「恐怖と悔恨の入り混じった気持ちを覚えた。だがそれもせいぜいが弱々しい、あいまいな気分に過ぎず」と中途半端な感情で、そしてそれも酒に沈めるといったように、良心の大きさに真っ向から対峙できない臆病さがあった。
その性質があるからこそ罪に耐えかね猫を殺し、やがては妻を殺す。
この男は狂える者ではないのである。
ただ人間で、あまりに優しく、有り余る良心の呵責から殺しを行ったのである。
この男を変えたのは酒ではない。酒はあくまで葛藤を誤魔化す為のもの。
むしろ変わらなかったから、狂人もどきとなった。
殺した時点で狂人と呼ばれるのかもしれないが。
もしこの子の父親がこの「わたし」と一致するなら。
彼女は恐怖を抱きながら、しかし恐怖を抱ききれない。
心底の性根を知っているから、その行為を全力で責められない。
自分に被害が及んでもなお信じていたのだろう。
こんな微笑みと共に。
「やさしい父親」を。
答えを見つけた気がした。
「…ゴリラさんは」
「ん?」
「…ゴリラさんは、私を、どうするの…?」
僕は彼女の目を見て言う。
「幸せにしたいのです」
それがいかに自分勝手としても。
良心に慄くのは、もうやめにしよう。
ホラー小説としては他にも「注文の多い料理店」や「怪談レストランシリーズ」などがありますね。
皆様は何に恐怖を抱くでしょうか。
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第11+1/2話「みつこの」
私自身、非常に忙しい時期であり、投稿がこの様にまばらになりがちです。
失踪は致しませんのでご安心を。
それでは本編をどうぞ。
「ええ、こちらはうまくやれてます」
「おかげさまで元気にしていられますよ」
「…勿論です。欠かしていませんが──」
「──何でもありません」
「…それではまた。えぇ、またすぐに」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先日、両親に一ヶ月ぶりに会ってきた。
僕の両親は、里の離れの平屋で隠居生活を送っている。歳の割にはやたらと早い隠居のように思える。
奥ゆかしい母と、僕の本屋の先代でもある、寡黙な父。どちらも進んで話をする人ではないから、幼少期の思い出はそれほど無い。
ただ誤解しないでほしいが、両親は僕に愛情を注いでいないわけではなかった、と思う。
いつか父に、森に昆虫採集をしに連れて行ってもらったことがある。父が蹴り飛ばして揺らした木から、コクワガタが落ちてきたことを覚えている。あの頃から僕は既にゴリラだったと思う。
父の昔話は少し聞いたことがあるが、母のそれは全くと言っていいほど聞いたことがなかった。両親の馴れ初めも知らない。
ただ狒々への信仰心は立派なものがあった。特に母は毎日祈っていた。その後にそれを見ている僕に気がつくと、なんだかバツの悪そうな顔で僕を撫で、それから台所へ行ってしまうのである。
狒々という存在が我が家の根底に横たわっていた。
かつて父方の先祖を救ったとされる狒々に、今でも熱心に祈る理由を訊いてみたいと思ったが、結局今の今まで訊けずじまいである。
伝統、ということなのだろうか。
何故そんなことを話し始めたのかというと、今まさに僕が狒々に向けて祈りを捧げているからである。そういうわけで、今日は火曜日。
最近の定休日は前より忙しなくなった。以前は本を読んでたら1日が終わっていたが、今ではその本を片脇に抱えて遠い館まで足を運んでいる。持って行ってはみるも、あの子は本より体を動かす方が好きらしく、結局行き帰りの暇潰しに僕が使っている始末である。
勿論今日も行く。何だかんだ僕は楽しんでいるのである。
昼前にいつもの林道を歩いていると、吹き付ける風が肌を切るような感覚を覚える。この時期には虫の一つも鳴かないが、きっとその辺りの石ころでも裏返せばてんとう虫あたりが潜んでいるのだろう。命の気配は毎季節どこかしらにはある。
数日前までの雨はどこへ行ったのやら、といった空模様ではあるが、しかし晴れた空は憂鬱な気分にならなくて良い。
僕は少し前に、雨の日は嫌いではないと言った。あの時点までは確かにそうだったのである。ただ、ある雨の日、人里の問題点を強く認識させるような光景を見せつけられた頃から、僕は雨を憂うようになってしまった。
僕の天気の好みを変えるまで影響した出来事は、今でも完全に解決したわけではない。
そう言えば、だが。
僕は幸をどうするかを考え、きちんと曲がりなりにも結論は出したのである。そして、彼女に関わろうと積極的に努力をしてきた。
彼女は始めの頃は全く話もしてくれなかったが、必死にコミュニケーションを取ろうと努力したら、素晴らしいことに僕と挨拶を交わしてくれるまでになった。子供の成長を見ているようで感激である。
そんな彼女だが、やはり人と関わるのは難しいらしく、僕と霧雨さん以外には目も合わせようとしない。
何故霧雨さんの名前が出てくるのか?
それはあれから毎日のように来てくれたからである。彼女曰く「治だけじゃ女の子の世話は無理な話だぜ」と。圧倒的聖人。尊敬します。
話が逸れたが、ともかく、彼女は今後社会で生きるにあたり対人能力を鍛えておく必要がある。僕はこの子を一生養う余裕は無いし、第一僕が先に死ぬ。
だから、結論。僕がこの子を社会で自立できるまで扶助する。一生は養えないが、少しの間ならなんとかできる。
その為に、やはりあの日から彼女が働けそうな場所も探している。
後は彼女自身をどうにかするのみである。のみなのだが、それが最たる難関であることは容易に想像できた。
生憎僕自身は荒んだ生活を送ってきたわけでは無いし、古傷の裏に刻まれた幾多の感情を読み切れるわけでは無い。そしてこの問題を更に難しくしているのが、僕と彼女が違う性別であるということである。
性別が違うとは大層な違いであり、この要因一つで両者の全く考え方が異なることも多々あるのである。女性とさしたる縁のない僕のような人間なら尚更に。
では、どう解決しようか。
女性のことは女性に聞くのが良いだろう。
「…という経緯で、その、家に今いるんですよね」
「…治兄…、それ…、誘拐じゃ…」
「…あ」
「あっはっは、冗談だよ冗談!」
「…町役場に用事ができました…」
「ちょっと待ってよ行かないでよ治兄」
僕の選んだ女性代表、フランドールさん(もとより選択肢はほぼ無いに等しかったが)に事の経緯を話すと、なんと僕は犯罪を犯していたことが分かってしまった。
とは言え実際ああいった少年少女には戸籍が存在しないので、そもそも捜索届が出されない。つまりは完全犯罪なのである。やはり犯罪である。
僕の裁判はまた後で良いとして、どうして僕がこの人に相談しようと思ったのかを説明しなければならない。
相談するにあたり何名か頭に浮かんでは来たのである。先ず博麗さんだが、あの方は面倒事を持ち込まれるのを酷く嫌う。彼女の元に率先してこの案件を持っていくのは得策では無いだろう。
続いて霧雨さん。時に幸の世話もして頂いている間柄で、最も適任かと思われたが、彼女自身、幸に寄り添い過ぎている。彼女に相談したら、恐らく「幸」という人間に酷く甘くなってしまうだろう。これは僕にも言えることであろうが。後彼女は女性というには些か独特な趣味をしている。
レミリアさんは女性として見れない。これは別に貶している訳では一切無いのだが、威厳があり過ぎてこんなこと相談出来ない。
では残ったのは、というか、最初に思いついたのだが。
そういう訳で、このお方になった。
「で、その子をもっと人になれさせたいって?」
「ええ。ただ女性が人と関わる際の術を知らないもので」
「女の子も男の子も大して変わらない気がするんだけどなぁ…」
「僕が彼女に教えられる人間だと思いますか?」
「…じゃあ、さ」
ふと彼女は話の流れを変える。
「治兄は、フランが教えられる人だと思う?」
その質問の意図があまり分からないので、ここは素直に。
「…はい」
「何で?」
「それはまぁ、僕が話しやすいから、ですかね。基本僕はあんまり口数多く無いですから」
「ふーん…」
まあ貴方以外に話せる人がいない、のもあるが。
こういったやたら含みのある返答は、スカーレット姉妹独特のものである。何を考えているのかが本のように分からない分、難しいものである。
「…じゃあ、アドバイス」
「おお、頼みます」
「──その子が、笑えば良いと思うよ」
…彼女にしては随分と漠然としたアドバイスである。
しかし…どこかで聞いた覚えがあるような。
ハッキリと思い出せないのなら、多分それ程大事なことでも無いのだろう。
であるならば、まあ取り敢えずは、彼女の助言を鵜呑みにしてみることとする。
「…伝えてみますね」
その言葉に、彼女は無言で笑いかけた。
普段より大人びたそれに、僕は不思議な感覚を抱いた。
空の青色が若干失われつつあった時刻に、僕は屋敷を出た。幸い太陽はまだ完全に沈んだわけではなさそうであったので、足下をそれ程に心配する必要は無さそうであった。
いつ来てもやたら霧が立ち込めている湖を抜けると、少しだけ林中に入り込む。帰宅の為にはこの獣道を通るのが最も良い。
僕は行きも帰りも家で留守番している彼女のことしか考えていない気がする、と思いながら、それでも彼女のことを考える。
彼女にとって人が恐ろしい存在なのは、それまで関わってきた人が悪趣味な少女コレクター達であった為であって。故に彼女は笑みを忘れたし、絶対的な幸せを自身の中に線引き出来ずにいる。
であるなら彼女が心から真に笑う為には、更に人の前でよく笑うには、と考えると、それは人になれる必要がある、と堂々巡りする。
フランさんの言うことが間違っているわけでは無い。彼女は僕よりよっぽど感情的ではあるが、それでも彼女の思考はそこらの人よりロゴスに富んでいる。
このやたら抽象性の高いアドバイスにも何らかの意図を含ませていると考えるのが妥当であろう。僕は自分で意味を咀嚼することを命じられたのである。
そういったことを考えながら歩いていると。
「ギャーッ‼︎」
と、何者かの張り上げる甲高い悲鳴。これは一体何事かと、思考をひとつ中止してその方向を注視する。
「グエッグエッグエーッ‼︎」
この辺りで恐らくこの悲鳴が人のもので無いことは予想できた。ならば何事も無かったかのように過ぎ去るのが正解だろう。
いや実際正解なのだ。
…人間というものの恐怖は無知から起こる、とはよく言ったもので、それ故人は物事の原因を突き止めずにはいられない。
そう、何と僕は茂みをかき分けその悲鳴へ向かった。この無謀さ故に僕は何度も危ない橋を渡っている。そして今回も渡る。
この時、頭の中からは幸の存在が抜けていたのだと思う。庇護する必要性のある少女を家に置いているというのに、僕は酷く無責任な行為を行ってしまったのである。
きっと本のようにスペクタクルな経験を求めているのかもしれない。阿呆な話であるが。
ともかく僕が向かった先には、一匹の子猿の様な何かと、僕の身の丈ほどもある随分大きな蛇が。
「ギィィィィ‼︎」
猿は必死に威嚇するが、蛇はにじり寄る。成る程、僕は目の前で食物連鎖を見せつけられているのか。
では偶然にもその中立に立った僕はどうするか。いや正直原因が分かったのだからそっと去ろうと思ったのだが。
何とこの猿、僕を見て同族と勘違いしたか、僕の後ろに回りやがった。
僕はまた後悔した。好奇心は何を殺すのだったか忘れたが、とにかく僕は持ち前の人間的心で今生命の危機を迎えている。
次から次へと起こる災難に、もう僕の頭はパンク寸前であった。
蛇は舌を出しながらにじり寄る。眼前のそれは丸太の様な太さで、長さだけなら僕の二倍はありそうである。明らかに普通の蛇では無い。
妖怪の類なのだろうなあ、と全く意味のない考察をする間にも蛇は僕ごと猿を喰らおうと迫る。
抵抗しないのも悪く無さそうであるが、しかし脳裏に二人ほど少女がよぎったので、一つ足下の棒切れでこやつに精一杯の抵抗をすることにする。
僕は生を諦めたわけではない。
僕はまだ死ぬわけにはいかない。
ただ死ぬかもしれないその原因が僕自身であるということに、自己責任をひしひしと感じているのである。
蛇はもう僕を喰らえる間合いである。
猿は動かない。
蛇の身体が跳ねる。
眼前に刹那で迫ったその牙に、余りに貧弱な棒切れを叩きつける。
甲斐あって蛇の進路は逸れたが、代償に唯一の武器がへし折れた。
もう次は防げない。無力さを痛感する。
蛇は素早く体を唸らせ、第二波を仕掛けてきた。
これもまた、非常に驚いたことに
蛇の身体が、宙を舞った。
僕が見たのは、木に叩きつけられた蛇と、僕の二倍はあろうかという、とても大きな大きな、猿だった。
小猿は大猿に大喜びで飛び付いた。
大猿は蛇の絶命を確認するかのようにそれを調べ、そして次は僕を見る。
暫くこちらを凝視すると、その猿は大声で、そして確実に、喋った。
「みつこの‼︎んすんぶたわがぬみつこのるあぞで‼︎」
元々どんな顔かを知らないから、今のこの状態が一体何の感情を表しているのかわからないが。
しかし、血相を変えて、という表現が最もよく当てはまりそうな、そんな表情をしている。
「みつこの、いつにれわらにおきいどりをけむかた‼︎」
何を言っているのかさっぱりわからない。
しかし、どこか聞いたことがあるような──
「すっば‼︎すっば‼︎」
不意に、巨大な猿は同様に巨大な平手で僕に手刀をかます。
どこに打たれたか知らないが、僕はここで意識を手放してしまった。
ぼんやりと、視界が帰ってくる。
体の感覚が戻り始め、上体を起こしてみると、
先程の大猿達が僕を取り囲み、
周囲の樹上に小猿。
そして僕の眼前には、
真っ白な毛の大猿が座り込んでいた。
彼は僕が起きたと気付くとこちらを凝視する。
そして、口を開き、僕の耳がおかしくなければ、一言。
「罪の子よ」
こう、確実に言葉を発したのである。
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第12話「夏の葬列」
いつからか、人生がひどく波打つようになった。それまで風一つ吹かぬような穏やかな日々を暮らしていた気がするのだが。現にこうして、僕は今巨大な猿達に取り囲まれ、理解の及ばぬ言葉で叫ばれている。
森林の奥深くであろうか、木漏れ日も無いほどに暗く、照らすのは誰が立てたのかもわからぬ松明の揺らぎのみ。そもそも気絶する前には日が沈みかけであった気がするので、当たり前の話ではありそうだが。
この明らかに特異な状況に僕はそう簡単には適応できず、指先すらも動かせない。
そして先程人間の言語らしきものを話した白髪の狒々は、更に続けた。
「罪を背負いしその身に、いかで我等に関わるや」
その言葉の意味が簡単に飲み込めず、少し考えてから一部、理解に至った。前半はよくわからないが、後半はきっと、あの猿の子に関わったことに対し言及しているのだろう。
その理由を話そうとするも、声が出ない。恐怖と言うべきか、緊張と言うべきか、如何とも表しがたい感情が、身体の動作を妨げる。
眼前の巨大な猿は続ける。
「我等は掟に従ひて
その言葉も僕から動きを奪う。この紛れもなく‘妖怪’である猿達からの罰などは想像にも及ばないし、そもそも何故罰せられるのかが理解できない。
それ以前に先程から言われている「罪」に関して何一つ心当たりが無いのである。あの蛇が神聖なものだったのであろうか。しかしあれは母(?)猿に殴られていた筈である。
不当な理由ならば、いや正当な理由としても、僕はここで終わる訳にはいかない。家には帰りを待つあの子がいる。
その存在が少し後押しになったか、僕はやっと一つ言葉を発せた。
「…あの」
狒々の表情は変わらない。
「汝はありし罪に加へて、新しき罪も作りき。このこともちて、我等は掟を行使す」
「…僕はその罪を存じません」
僕の一言で白猿は言葉を変えた。
「こものの、おがのみつをらずしとうもす!」
遠巻きの猿の声が何倍にもなる。
怒号と呼ぶべきだろうか。ある種の憎しみが感じられた。
暫し続いた周囲の絶叫を静止すると、先程よりやや目尻を上げて白猿は話を続けた。
「汝はあることそのものが罪なれど、…なほ我等の血を絶やさむとせり‼︎ くらき子孫に、犯しし罪の重みを刻まむ‼︎」
更にわからない。僕が血を絶やそうとした?存在自体が罪?
熟慮する猶予など与えぬと言わんばかりに、その狒々は巨木を振り上げた。
歓声とも感じられた声は、振りかぶられた木と共に最高潮に達する。
僕は確かに恐怖で一切動けなかった。
しかし同時にやり場のない怒りを感じていた。
どうして僕は死なねばならない。
どうして僕の存在は罪になる。
理由すらも伝えられぬまま。
まともな対話もとらぬ彼等が、堪らなく憎く見えた。
付近の猿達はひどく興奮した様子である。
この催しは祭のようなものなのだろうか。
その祭の理不尽さの標的が僕なのだろうか。
巫山戯るな、僕は帰らねばならない。
巡り合わせとはいえ拾ったあの命を。
その命の責任を負わねばならない。
この猿どもの言う罪など背負う余裕など無いのである。
僕は無駄とわかりながら、それでもその木に抗おうとせずにはいられなかった。
受け止める様に、両手を掲げる。
災害の様な音が鳴る。
痛みは無かった。
気付かぬうちに死んだのかもしれない、と目を開く。
まず目に入ってきたのは、へし折れて転がっている巨木。
そして点になった目で、黙って僕を見つめる狒々達であった。
暫く、沈黙。
そしてある時に、一匹の小さな猿が僕と白猿の間に立った。
あの、蛇に襲われていた猿である。
小猿は必死に叫び、何かを巨猿に、そして周囲に伝えている様であった。
その叫びが終わった少し後、やっと白猿は言葉を発した。
「…我等が、早まりきや」
そして姿勢を正すと、目を伏せてまた話す。
「…汝に罪はあらむ、と童語りき。謝らむ」
そう言うと狒々は片膝をついて頭を下げた。周囲もそれに続く。
先程から一変、音は何一つ聞こえない。
狒々は姿勢を変えない。僕が何か言う必要があるのかもしれない。
ただ気の利いた言葉も思いつかないし、僕自身いまだに納得のいかない点も多々ある。正直、先程まで怒り狂っていた狒々が急に謝り出したこの光景に異常さを感じている。これも掟によるものだろうか。
それに何故僕が助かったのかも分からない。単にあの狒々が外したのなら、あんなに驚いた様子を見せる筈が無い。
とにかく僕は混乱している。
ただ、まずはこのやたら重い沈黙を何とかしようと思い、対話を試みる。
「…あの、取り敢えず頭をお上げ下さい」
白猿が頭を上げると、それに周りは続く。
「…まず、恐らくそこの小猿さんが言ってくれたと思いますが、僕は彼を襲った訳ではないです。帰り際に見かけて、成り行きで一緒に蛇に襲われただけで…」
伝わっているかどうかは分からないが、当時の状況を粗方説明する。
「貴方達の掟がどうなのかは存じませんが、人道に外れた行いはしていない筈です」
「…」
「…ということを、貴方達は聞いてくれませんでしたけどね…」
「…我等は掟を守るべし」
「…その掟が僕を殺しかけたのですが、まあ一応無事だったのでいいですが…」
こうやって謝意を表されるとすぐ許す方面に揺らぐのは僕の悪い点だと思う。いつか吸血鬼の女の子に殺されかけた時然り。歳を食ったら、いつか人の言う欺瞞にでも引っ掛かりそうである。
しかし彼等の言うことから、狒々の共同体においては掟がかなり重要視されることが読み取れた。人の子一人殺すのにも躍起になる程には掟が巨大なのであろう。
狒々のコミュニティについて少し知る為にも、話を続けてみる。
「貴方はどういった立場のお方なのですか」
「…狒々の群れは人のそれとしか違わぬ。ある標の下にすだきて、それが我等となる」
「では貴方が標ですか」
「さり。最も老ひたる者が、則ち長老となるなり」
狒々の社会というものは、彼の言葉通り人のそれと大した違いはない様であった。誰かが道を作り、それに集うことで社会となる。とてもわかりやすい。その営みを人間以外の何かが行っているのだと再認識すると、不思議な感覚がするが。
「罪の子よ」
「…僕のことですか」
「いかで我等と話すべしや」
…それは「どうして我等の言葉を話せるのか」という意味だろうか。それとも「先程まで殺しにかかってきた私達とどうして話せるのか」という意味だろうか。こういう認識の違いが引き起こりかねないから、もう少し言語に現代文を取り入れてほしい。話が一切通じないよりかはマシだが。
ただこの長老の猿は、僕と他の猿とで言語の使い分けを行なっているようであるから、後者の意味ととって質問に返答する。
「…いや、だって何かしら話してないと気まずいじゃないですか。それにあの小猿に安直に近付いた僕にも、若干非があるような気がしてきましたし」
正直なところ非などほぼ感じていないが。
「この場において貴方達を非難することは非常に簡単ですが、その行為は何も生み出しません。むしろこの場の誰かが逆上して僕が殺されるかもしれない」
「何より、僕はこれから家に帰らねばならないんです。そんなことをしてる時間は無い」
つまり極論、静かに本が読みたい、これだけである。
「…わからず」
長老が口を開く。
「我等はかの時、汝をゆめゆめ許さざりき。されど、汝は我等を許すと言ふ。心得られぬ」
別に許すとは言ってないのだが、そうとられたのならまあそれでいいであろう。
で、今眼前の狒々が理解できないと言っている問題は、端的に言うと人の心のことであろう。彼等は掟に従って僕を許すことはなかった(そもそも僕は何もしていないのだが)。だが僕は同様の状況に置かれた際、彼等に対し謝罪以外を求めなかった(実際謝罪も求めてなかったが)。ここは、狒々と人間の価値観の、或いは心の相違点と言えるだろう。
こう言った人の心についての疑問は僕もしばしば抱く。そう言われると、と僕も少し考え込んでしまう。
思いついた考えを人に伝えたくなるのも悪い癖かもしれない。今回、伝える相手は人ではないが。
「…それは人の罪に対する認識が生み出すものですよ」
「?」
狒々は首を傾げる。
「貴方達狒々の社会においては、掟により全ての物事が断罪されるでしょう。人間にも無論掟は存在しますし、それに則って罪は罰へと変わります。しかし──」
長老は僕の話を大人しく聞いている。人ならざるものとのコミュニケーションとは、非常に新鮮である。
「人の罪の線引きは非常に曖昧でして、例えば同族殺しなんてのは普段確実に罪ですが、人同士の巨大な争いの際にはそれが英雄視されることもある」
「心得ぬ」
「でしょうね…。僕も、あまり良く説明できないですが、人とは不思議な生命体です。罪が罪でなくなったり、或いは誰にも認知されない罪を背負い続けたり、と」
僕はあまり確固たる持論を持ち合わせているわけではないので、これから先は本の引用に頼ることにする。
少し顎に手を当て考えて、ある小説を一つ。
「人の書いた物語に、『夏の葬列』というものがあります」
「…?」
「これは短編集でして、他にも面白いものが沢山ありますが──今回はこの表題作の『夏の葬列』について話したいのです。これは人の罪の捉え方を考える上で、非常に役に立つものとなります」
僕は少し息を整え、また壮大な受け売りを始めることとした。
「『夏の葬列』は現世の本です。著者は
「表題作『夏の葬列』は現代の青年が、久方ぶりにかつての疎開先の町を訪れたのをきっかけに、戦時中だった少年時代を振り返る話になっています。この戦時中というのは、まあ人間同士が大規模な争いを繰り広げていた最中、と解釈していただければ良いかと」
「主人公の‘彼’は当時小学三年生でして、戦火を逃れるため地方へ疎開していた児童の一人でした。ある日彼は二年年上の‘ヒロ子さん’と共に、芋畑をぬって歩く葬列を見かけます。本当かどうかは知りませんが、その列についていくとお饅頭が貰えるという話を聞き、彼はその列へと駆けます」
「ですが途端、敵国の艦載機の機銃が地上を襲い、彼は芋畑の中に必死で横たわることとなります。一旦銃撃が止んだ後、ヒロ子さんが助けに来るのですが、彼女は白いワンピースを着ていたこともあり、非常に目立ちやすい。故に──」
「彼はヒロ子さんを突き飛ばしました。刹那次の銃撃が襲い、ヒロ子さんは…」
「こう言った経緯で主人公はまず一つ罪を負うことになります。この罪は誰にも認知されません。しかし彼はその罪の存在を認め、それを背負いながら長い時を生きてきました。その罪の決着をつけるために、彼はこの町を再び訪れました。すると、丁度あの日のように、芋畑の中に葬列を見つけます」
「棺の上の写真にヒロ子さんの面影があることや、その故人は生前何一つ障害を負っていなかったことなどから、彼は自らの無罪を確信します。そして近くの少年たちに、この人物の死因を問います」
「聞くと、この女性は、たった一人の娘を戦時中この畑で撃ち殺され、それから気が狂って自殺した、とのことでした」
やたら長めな粗筋を語り終えた。正直ほぼ全て語ってしまってる気がするが、この文脈無くして主題は読めない。ここからが非常に大切なのである。
「とまあ、こういった物語なのですが。ここにおいて主人公は二つの罪を背負い込むことになりました。しかしそれは掟に明確に記された罪でもなければ、その存在を誰も知らない罪です。貴方達にとって、これは罪ですか?」
「掟によらばそは罪なり。されど誰もそを知らずは、我等は罰すべからず。さらば、罪あらずなる」
「でしょう。認知できない罪は誰にも罰せないし、罪自体の存在も疑問視される。それは人間でも一緒です。ですが、その罪は確実に当人の中に存在し、誰に責められるでもなく、それを一生罪とします。これを起こすのが、人の良心の存在です」
「良心」
「そう、良心です。人は何かその人にとっての‘悪事’を為すと、その良心が二度とそうさせぬように抑制をかけます。それが‘罪悪感’という形で現れるのです。この良心、また‘悪事’は人それぞれで全く違っていまして、一括りにするのが難しいものです。これが人の心の読解をこの上なく難解にします。例えばこの物語では人知れず誰かの命を奪うことが良心を痛めつけましたし、また僕に置き換えてみると、謝っている誰かを許さないことは僕の良心に反します。勿論されたことの程度によりますが…」
「こう言ったことを踏まえ貴方の問いに答えるとするなら、それが僕の良心であるから、というのが解になると思います」
「…我等は掟に従うことのみせらる。こは悪か」
「そんなことはないと思います。人は確かにこう言った性質を持ち合わせていますが、それに狒々が迎合する必要性は全くありません。寧ろ掟により長い間狒々社会が成り立っているのなら、それが正しい形と思います」
言いたいことは全て言えた。納得してもらえたかどうかはわからないが、少なくとも説明に全力を賭したつもりである。
彼に説明する中で僕も、人の罪に対する捉え方についていくつも疑問を抱いた。僕にも説明できないような不思議さもある。
本当は表題作のみ紹介するつもりだったが、もう一つ『十三年』という作品も紹介する。これは僅か五頁の小説であるが、誰も不利益を被っていない場においても罪を感じ、可視化されない罪からも逃げようとする、といった人の心理を的確に表していると思う。話は単純で、昔一夜のみ関係を持った人妻と十三年後に再開し、一言だけ交わすのみ。ただそれだけに、人の感情の不可思議さが詰まっている。これについて話すと長くなる為、後の解釈は任せることとする。
つまり人の罪は人により大分変わるし、その対処の仕方も異なる。それは法にのみ縛られるものではないし、寧ろ法により免罪符を受けた罪ですら進んで負うこともある。罪の存在についてはその輪郭が明確ではない故、ひとえに断罪ができるものでは無いのである。それは狒々と大きく違う点であろう。
述べた通りそれが悪いことでは無い。罪の形に多々あるように、その扱い方も多様性があってもいい。そのあり方は誰にも責めることはできないはずである。
『そして時をへだて、おれはきっと自分の中の夏のいくつかの瞬間を、一つの痛みとしてよみがえらすのだろう……』
法にない罪の取り扱いについては、その当人のみの範疇である筈だから。
長老の疑問は解消の方向に向かっており、どうやら僕のことは解放してくれそうな流れであるので、最後に一つ思い切って、気になることを問うてみた。
「そういえば、なのですが」
「?」
「先程、貴方は僕のことを‘罪の子’とおっしゃりました」
「どうして、僕の存在が罪なのですか」
「…知りているかと思ひき」
白煙の目が、また少し開いた。
「我等、狒々は掟に従ふ部族なり。なれば掟にゆめゆめ逆らはぬ」
長老は続ける。
「掟に有り、【人を思ふこと、これをいさむ】と」
「…え」
その言葉に少し嫌なものを感じる。
「昔これを破りし女ありき。かの者は人に化けて、今もなほ人里なり。我等は掟に従ひて、その童に呪ひをかけき」
「ちょっと待って下さい。まさか、それは」
「汝こそ、罪の子よ。また、呪ひを受けし哀れなる童よ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「お母さん」
「なあに治」
「どうして狒々に祈るの?」
「…それはね」
「…お願い事を、叶えてもらうためよ」
「お願い事?」
「…私の、ね…」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「さは言うとも汝は我等の童を助けけり。なれば、少しばかり呪ひを解かむ」
その言葉で僕は過去から帰る。正直非現実続きで、今は何を言われても現実味が無い。
すると突然狒々が巨大な手の平を僕の頭頂に当てる。そのまま振り下ろしたら僕が潰れてしまいそうなほど巨大な手。
そのまま暫くして、その手は遠ざかる。
「我等は掟に従ふべし。なれば今は、汝の力を返すことのみせらる。こは掟なれば、いかでか許したまへ」
すると急に、視界が暗くなってくる。
『罪の子よ。汝、掟を破りし母の子よ』
『汝、そのかたちげに醜くなりにけり。そまさしく呪詛。我等の負わせし罪』
『罪の子よ。汝が罪、ここに無し。然れども他が罪ここにあり』
『故に我等、汝を永遠に咎めん』
その言葉が終わるとともに、僕の意識は再び途切れた。
目が覚めると、林道。
ああ、ここは、あの蛇と小猿に出会った場所である。
先程の出来事は夢であったのだろうか。
もしかしたらそうであるかもしれない。
どちらにせよ、今生きていることに感謝したい。
僕の影が背後に長く伸びる。
空の紅は今にも山に隠れそうである。
足下に枯れ草の音を、鼻先に肌を切る夜の匂いを感じながら、歩く。
灰色の手を、見つめながら。
余談ですが、罪や罰などと言うと、ドストエフスキーを思い出します。ここで紹介できれば良かったのですが、お恥ずかしながら未読です。
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第12+1/2話「消極的ジレンマ」
更新の頻度は上げていきたく思いますが、今後もまとまった時間が取れるか不明な状況にあります。頻繁な更新ができないことをご納得頂けたら幸いです。
実のところ、僕は今迄女性にふられたことは無いのである。と言うと非常に聞こえはいいが、実際は告白をしたこともなければされたこともないといった、消極的な恋愛模様を美的な言葉で繕っているにすぎない。きっと今後も妻を娶ることは無いのだろうし、まして子供など星々くらいには縁の遠いものと思っている。
だから今こうして、自宅にいる少女のことを心配しながら急ぎ足で帰宅しているこの状況ははっきり言って異常である。昔の僕が見たら腰を抜かすのではないだろうか。
思えばここ一ヶ月弱で僕の周囲は随分と変わった。本屋には定期的に魔法使いが訪れるし、河童が図鑑を買いに来る。定休日には吸血鬼の館を訪ねるし、家には匿っている孤児がいる。そしてつい先程、自分が純粋な人間でないことも知った。
僕はあの小さな本屋の中で、風や花、虫、所謂季節の流れに身を置いて、本を静かに読みたかった。今迄生きてきたのもそれだけが理由だった。ただ僕は気がついたら身の回りは騒がしくなり、挙げ句の果てには自らの手で静寂であるべきこの人生に面倒ごとを持ち込むようになった。
ただその所以を考えるには僕の容量は小さすぎたようで、今の僕の頭には先ほど狒々に告げられた事実と家で待っている少女のことが廻るのみであった。
先ずは目先のことをこなさねばならない。今僕にできることは、とにかく早く帰宅するのみである。
陽は完全に落ちた。山並の隙間からわずかに明るい空が漏れるほどで、こういった時間帯になると人里は足元もおぼつかないほどになってしまう。僕の本屋が人里の中心にでも立地していれば街灯でどうにでもなったのだろうが、あの場所は土地代がばかにならない。
日中殆ど日が差さない故に冷え切っている店の裏手に回り、裏口の戸を引く。戸の外も内もその明るさに差はなかった。今までならばこれが当然であるが、ここ最近はその景色に違和感を感じるようにはなっていた。
「幸?」
僕は玄関先の電気だけつけ、それでもなお暗い室内を進む。
「幸!」
居間にはいない。台所にも。便所も見た。探せば探すほど、焦燥が走る。一体電灯もつけずに、何処に行ってしまったのか。誘拐だの迷子だの、はたまた愛想をつかされただの、考えたくもない考えが頼んでもいないのによぎる。
室内はあらかた探し、それでも見つからない彼女。一縷の望みをかけてベランダに出ると、そこに小さく地べたに座る少女の姿があった。僕はこのとき、大変安堵していたと思う。
「幸…一体どうしたんですか、明かりもつけずに」
彼女は既に僕に気が付いていたか、特に驚く様子もなく言葉を返す。
「…私のこと、捨てたんじゃなかったの…?」
小さく、そしてとげのある言葉であるように聞こえる。しかしきっと、かつての彼女の境遇を顧みるに、彼女にしてみればこの言葉は心底からの疑問であって、そこに皮肉をあしらうことなどはしないだろう。そんな彼女の言葉だからこそ、僕は真摯にとらえ、真正面から真面目に返さねばならない。
「とんでもない。むしろ僕の方が捨てられたと思いましたよ」
「…」
先のようなことを考えておきながら、我ながらひどい返しである。センスのかけらも感じない。もう少し気の利いた言葉は無かったのであろうか。
「…」
「…」
「…あ、遅くなってすいません。謝ってませんでしたね。…夜ご飯作りますから、中入りません?」
「…」
暗くてよく見えないが、おそらく頷いてくれた彼女。彼女は居間に座り、僕は台所に立った。野菜をどうしようかと考えだそうとすると、甲高い羽音が耳元に現れる。
蚊を連れてきてしまった。おかげで彼女が納得できる回答を示せたか、考えることもできない。
彼女はあれからまたいつものように、ほとんど話すこともなく寝てしまった。
雀の声が新たなる一日の訪れを告げる。昨晩は結局疲れ切ってしまって、考え事をするまでもなく落ちた。ろくに夢も見なかった。まだ節々に疲労が残っている感覚はするが、呆けている暇はない。最近僕は朝食を二人分つくる義務が生じたのである。
目覚ましに冷や水で顔を洗い、歯を磨く。身だしなみを整えた後に、台所へ向かう。と、普段この時間には見ない人影が、そこに立っていた。
「…幸?」
普段この時間はまだ寝ているはずだと思うのだが。彼女は向かってくる僕を見ても、台所からは動かなかった。
「…手伝いでもしてくれるんですか?」
冗談交じりに言うと、彼女は頷く。なんと、彼女がこうして僕と積極的にかかわりを持とうだなんてこと、いまだかつてなかったではないか。全くもって不思議なことであるが、しかし僕は彼女が変わろうとする意志を見せてくれたことがたまらなく喜ばしいものに思えた。本当に彼女と関わることは、僕をまるで親の気持ちにさせる。
「ありがとうございます。でしたら───」
橙色の空の下に、鴉が山の子を呼ぶ。南側に取り付けられた大きめの窓は、この夕を僕の理想に落とし込めることに一役買っている。
さほど忙しくもないこの店だからこそ、僕は一日をかけて自らを整理することができた。
まず幸とのことだが、今朝のようによい傾向が見られたこともありとりあえず現状維持でいいように思われる。彼女が自らの中に何かしらの形で幸せの形を描くことができたら、そして彼女が笑顔をもってしてコミュニケーションを築くことが可能になったら、彼女が自立へと向かっていける支援を僕が行っていけたらと思っている。
そして僕自身のことである。昨日の夢幻に似たあの出来事が現であるとするなら、僕は人間と狒々の混血である。して、その真偽を確かとする方法としては、その当事者に伺うのが一番であろう。僕が彼らに罰せられた原因が僕の両親にあるというなら、僕はそのことで両親を問い詰める権利があるはずである。
しかし、とはいえやはり、なんとも言い出しにくい事柄である。このことは僕の勇気の不足に起因するのであろうが、だが僕の中では確かに、真実を探究したい思いと波風を立てたくない思いが混在しているようである。おそらく僕が平穏を選ぶとするなら、このことは今後の人生において一切掘り起こされることもなく、すべてが変わらぬまま徐に風化していくのであろう。なんとなくだがそういった気がしてならない。
今日一日考えて分かったことは、僕は今山本家の岐路に立っているということである。そしてその道を選択する権利をゆだねられたのは、まぎれもなく僕なのであろう。
僕はどうすればよいのか。どうすればよい、などないだろうが、それでも僕はこの決断に明確な答えを求めてしまうほどにはひどく臆病になっていた。謎の悲鳴にはほとんど迷わず突っ込んでいったのに、自らの家族には気後れしてしまう。不思議なものである。
今は幸のこともある、おとなしくしておくべきではないのか。とこのような考えも勿論生まれた。しかし同時に本当にそれでよいのかという強迫観念に近い何かが、僕の心に巣くっている。
灰色の手のひらを見て、考えに耽る。
「こんにちは、フランさん」
「やっほー、治兄」
結局、この日まで結論は先送りにした。決断から逃げているか、或いはここでの彼女との会話が、あわよくば僕の何かを変えてくれるかもしれないとばくちとも似た観測をしたか。
取り敢えず今は小難しい事を考えずに、ただお話をするのみである。
「今日はしたいことありますか?」
「弾幕ごっこ!」
「また今度で」
「いつもそうじゃん!」
そもそも僕には弾幕などという奇天烈なものが出せないのである。どこからともなく光球が現れ飛んでいくという、未だ理解できない仕組みの遊びにはうかつに手を出せない。あと痛い。
ただ弾幕ごっこが出来ないとはいえ、そういう提案をほぼ毎回する彼女はやはり運動が好きなのだろうか。或いはそういった破壊衝動に駆られているのか。後者については初対面の時にこれでもかと感じさせられたが。
欲求不満とはときに人を道から引き摺り下ろす。解消が必要だろう。そのために僕がここにいるのだから。
「やっぱり身体を使った遊びが好きなんですか」
「治兄が来るとき以外は基本この部屋にいるから、どうしても身体がこるんだよ」
「夜とかに外出たりはしないんですか?」
「…うん。私が一人で出ると、お姉様が怒るから」
彼女がやや悲しそうな様子を見て僕はしまったと反省するわけだが、しかしその言葉は、僕にしてみれば意外な言葉であった。いつも僕がレミリアさんにフランさんを連れ出すことを提案すると案外快諾してくれるものであるから、てっきり彼女が一人で遊びにいくことも許しているものと思っていた。しかし思えば、彼女が一人で外出している様子を見たことがあるだろうか。彼女を外で見たときには、いつも僕や彼女の友人がいた気がする。
もっと言えば、僕はそもそもスカーレット姉妹が話をしているのを見たことがあるだろうか。姉が多忙であることは承知だが、それにしても妹が暴れて姉が叱っている様子を見せた初対面のあの日以外、言葉を交わしている様子をまともに見ていない。この姉妹はうまくやれているのだろうか。
だがいくら憶測を巡らしたところで、身内の問題にあまり踏み込むべきでは無いことはわかる。故にこれ以上は言及しないこととする。
「うーん、じゃあまたどこかにお出かけでもします?」
「なんとなくなんだけど、広い所に行きたい気分」
「このあたり森まみれですからね。湖は霧が立ち込めていますから、気持ちはわかりますよ」
「どこかこう、この間本で読んだんだけど、広い草原が見たい」
「本を読まれたのですか。珍しいですね、タイトルはわかります?」
「…壊しちゃった」
あらら。最近は少しはましになってきたかと思ったのだが。
「…まあ、それは、衝動なら、仕方ないのですかね…」
「折角持ってきてくれたのに、ごめんなさい」
「いやまあ、そういうことは覚悟して渡してますから、謝罪は求めてませんよ。…で、草原でしたっけ」
空気を軽くするために話題を頑張って戻す。
「うん。人里の周りって、前行ったとき見たんだけど草原じゃなかった?」
「そうですね。実家が人里の離れにあるのですが、あの辺りは背丈の高い草も大体枯れてるので、比較的歩きやすいですからいいかもしれません」
つい実家という単語を口にしてしまい、考えないようにしていたことがよぎる。その刹那といえるほどにはわずかな時間の微量な変化に、どうやら目の前の彼女は気が付いてしまったようだった。
「治兄?」
「ん、なんでもないです」
なんてことないように取り繕う。
「治兄は、家族がいるの?」
「はい。人間の父と、…人間の母が」
すると彼女は先ほど姉について話した時のような、なんとも言えない表情をして訊いてくる。
「仲いい?」
短い質問であるが込められた感情は複雑で、また質問自体にも即答はできなかった。目に見えて犬猿というわけではないものの、この真実が曖昧な仲は果たして良いものであり得るか、といった疑念はここで初めて形となった。考えて言葉に詰まり、うまく話せなくなっていたところで彼女が言う。
「何かあるんだったら、早めに解決した方がいいよ。…長引かせると、どんどん離れて行っちゃうから」
「…確かに、きっとそうなのでしょう」
やはりこの姉妹の間には、何かしらの確執が根底に横たわっている。それの原因はこの人の突発的な破壊衝動か、或いは姉側にもあったのか。僕には知ることもかなわないが、しかし彼女が自らの長年蓄積された経験をもってして僕に助言をくれたとあらば、きっと実行せねばならない。
このように発破をかけてもらわないとろくに動けない僕自身には、さすがにやや自己嫌悪したが。
「話を聞いてくれますか」
「…つまり治兄は、両親から大事なことを秘密にされているようで、それを問い詰めるのもトラブルになりそうで嫌だってこと?」
「簡潔に言えば、というかまさしくそれですね。他人に言語化されるとこう、すごくわかりやすく頭に入ってきます」
彼女が素晴らしいのか僕があんまりにややこしく考えていたか、とにかく僕はそういった風に考えていた。
「ありがとうございます。おかげで何か、重たいものが下りた気分です」
そして決意した。やはりこれは、僕が終わらせるべきものなのであろう。伸ばし伸ばしにしていつか取り返しのつかないくらいの確執を生むぐらいであれば、今僕が彼らの秘密に一歩詰め寄るべきなのだろう。無論今の関係性の破壊につながるかもしれないと考えると恐ろしさが無いわけではないし、本当なら誰かについてきてもらいたいくらいには緊張するのだが、僕は進まねばならない。
この決断のきっかけを与えてくれたのは、まぎれもない彼女である。とすると、始め僕がここに来た時にした博打のような楽観が、今回は当たったということになるかもしれない。僕は彼女に、また感謝せねばならないのだろう。
「少し怖いですが、やっぱり行くことにします。こんな優柔不断な者の話を聞いてくれて、本当にありがとうございます」
「大丈夫?あっちいってちゃんと話せる?」
母親さながらである。
「多少怖気づくかもしれません。ただ、まあ、なんとか頑張りますよ」
「ついてこっか?」
「そうですね、そうしていただけるなら…」
そこで僕は口をつぐむ。何を当たり前のようにこんな少女にべったり頼ろうとしているのか、恥ずかしい。彼女があんまり自然に聞くものだから、つい答えてしまった。
「ああ、すいません、大丈夫です。僕の問題に貴方を巻き込みませんよ」
しかし彼女はいたって真剣な目をして、
「いつ行くの?」
「いや…」
僕はその真剣さに、他に何も言うことが叶わない。
「…次の定休日、にしようかと」
「わかった」
すると彼女は一人で部屋を出て、数分帰ってこなかった。そして彼女は帰ってきて、また僕の前に座る。
「フラン、ついていくよ。お姉様から、許可取ってきた」
「いや、それは───」
気を使わなくていい、と言いかける口を遮られ、彼女が言う。
「さっきの口ぶりだと、フラン自身が迷惑だと思ってなかったらついてっていいっていうことだと思った」
「いやまあ、確かにそうは言ったんですが」
「見届けたいの」
また彼女は、いつもの子供じみた様子から一変する。
「ちゃんと、貴方達がきれいな形に戻るのを、この目で」
その言葉に、僕は彼女の同行を断る理由を見つけられなかった。これはつまり、彼女が僕の背中を押した、その答え合わせをしたいとのことなのだろう。少し長引いて歪んでしまった僕ら家族を、僕が歩み寄ることでまた正しい形へと導けるのか。この結果次第では、僕はおろか彼女にもなんらかのカタルシスをあげられるかもしれない。
「迷惑はかけないし、貴方たち家族に口を出すことなんてしない。だから───」
であるならば、この人を連れていくのは僕のわがままであって、かつこの人のわがままでもあるのだろう。
「…わかりました。でしたら、よろしくお願いします」
「ごめんね、無理言って」
「いいえ、先出は僕です」
僕が自らの運命に向き合うことには、自分自身を疑心の沼からすくい出すのみならず、正しい
その小さな姿に、決意を固めた。
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