友がみな我より偉く見ゆる日よ (サモンサーモン)
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友がみな我より偉く見ゆる日よ

あの風祭での惨劇以来、俺は西九条さんの補佐につき、ルチアと共に各国のシェルターを往来する生活を送っている。

ガーディアンに所属した俺の仕事は、ルチアの抑制剤の経過を見つつ、シェルター内でガーディアンの簡単な事務作業をこなしながら、ルチアのそばに居ること。

天職だった。普通の会社員ならまず給料がどの程度か、そんなことが第一に大切になるはずだろう。

それが結果、一番大切な自分を、所帯を持つ者ならひいては家族を守る最善の手段たるからだ。

しかし、その論法で行くのならば、俺にとって最も大切なのはルチア共に居られることだ。

ルチアと共に居られる時間を絶やさないことが、俺にとって一番大切なことだ。

その点において、この仕事はとても便利だった。

 

俺たち2人は、この1年の間に少しずつ、あの瘴気や核爆発で亡くなった20万人の市の人達全員へ慰霊の意を込めて、あの日亡くなった全ての人間の名前が載った名簿の全てに、目を通していった。ルチアきっての願いだった。

知っている人間の名前は、軒並み並んでいた。

バイトの世話を焼いてくれた、月刊テラ編集長の安西さんも。

スラムで知り合った後輩であり吉野の仲間、冬牙も。エロ本の話題で意気投合した奴、何やら妙なモンスターを戦わせて遊んでいたあの少年。

関わりが少なかったとはいえ、青春時代を共に、同じ学び舎で過ごしてきたクラスメートのみんな。

町で友情を育んだアミーゴの皆も、漏れなく、その名前が名簿に載っていた。

それは長く、辛い戦いだった...名も知らぬ罪亡き人達や、自らの知人を無差別に殺した自分に対する罰...彼女はその意識を拭えていないし、これからもそれが無くなることは無い。

だから、これからも永く続いていく戦い、あの苦しかった作業すらその一端でしかない。

俺も、名簿の名前の一つひとつを確認して行く中で、改めて悟った。

これから俺達が歩んでいく道のりの途方も無さと、過酷さを。

......だが、それがなんだってんだ。

罪か、罪でないかなど知らないが、俺はとっくに覚悟ができていた。誓ったんだ、あの日あの場所で。

俺は愛をもって、ルチアと共に歩むと。

重い荷物はルチアも含めて、俺が預ると。

そう......決めたのだから。

彼女がやりたいことに全力で付き合い、それを支えること。そんなの、これからの道のりにおいては、当たり前にやり続けなきゃ嘘になる。

そんな気持ちで、俺は名簿をめくるルチアの手を力強く握り、被害者の事を共に想った。

 

 

俺はその名簿の名前を見流していく中で、あることに気がつき始めていた。

吉野晴彦、神戸小鳥、千里朱音。

オカ研でつるんでいた人間の中で、急遽行方をくらましていた2人と、数少ない友人である吉野の名前がどこにも記載されていなかったのだ。

俺は彼らの名前を、無意識に探さずいただけなのかもしれないと思った。

割合にとはいえ、俺と親しくつるんでいた人間だけが、こうも奇跡的に助かっているのは、何かの因果関係を疑わずにいられなかった。

しかし、会長と吉野の連絡先は知らない。

小鳥のアドレスは持っている...だが、勇気がなかった。確証がなかったから、俺は彼らの所在を突き止め、生死確認をすることに恐怖したのだ。アドレスなんて持っていなくとも、あの町で暮らしていた人間の所在程度、西九条さんに頼めば即突き止めてもらえるような情報だ。ただそれは、俺の心の問題だった。

大口切った割に、俺は、目の前のことに頭がいっぱいいっぱいだった。

もし吉野が、小鳥が、朱音さんが、みんな死んでいたなら。意識しなければ耐えられる、だがそれを真実として知ってしまえば、俺は落胆してしまうだろう。

それはダメだ。今一番辛いのはルチアなのだから。彼女と共に生きるために、彼女の痛みにも寄り添うと決めた。ここで俺が折れてしまっては、本末転倒だ。だから、所在の確認は、俺が望んで拒んだことだった。今はルチアと、これからを歩むことに、全てを費やすべきだと思った。

 

 

 

先日、吉野から電話が来た。

俺は最初、耳を疑ったが、どうやらその電話の主は本当に、かつての親友...いや、腐れ縁の、吉野晴彦で間違いないようだった。

戸惑った、何故吉野が生きているのかという疑念...それもある。だが、仮に彼が生きていたとして、どうやって俺の連絡先をつきとめたのだろう。

そして...彼はなぜ、今になって俺に連絡を入れてきたのだろう、それも一年越しにだ。

俺なら怖い、死んだかもしれない知己に電話をかけるなんてことは。

それは、吉野にしたって同じことだったと思う。死んでいるかもしれない友人への連絡なんて...いや、俺は最後まで、あいつに友達だと認めては貰えなかったが。

それでも死んだかもしれない人間にかける電話なんて、本当、虚しいことだ。

アドレスを突き止めたとして、俺が吉野なら、俺に電話をするような勇気は無い。

だが彼は、それを振り切って、腐れ縁の天王寺瑚太朗に対し、連絡をくれたのだ。

俺はそれが、嬉しくてたまらないと同時に、情けなくて仕方なかった。

 

 

『よぉ...』

覇気のない声で、らしくもないしょぼくれた挨拶をする吉野。

「よ、よぉ...」

俺もそれに負けず劣らずしょぼくれたトーンで、挨拶を返した。

『.........元気かよ。』

元気か...なんて、あのころの俺と吉野の関係からは、考えられないセリフだ。

消極的な吉野の態度に、俺は少し悲しくなった。

「あぁ、元気さ。天王寺瑚太朗は元気そのものだ。この通りな。」

『そうかよ...相変わらずだなテメェは。相変わらず......飄々としてやがる。』

「そう...かな。」

『なんだ...らしくねぇ返しだな。』

「お前だって、妙にしおらしくなっちまいやがって。カザコー唯一のアウトローとしての威厳はどうしちまいやがったんだよ。」

『......あぁ。あのな天王寺、アウトロー吉野晴彦はな、あのウルフでレジェンドなアウトローはな...もう、いねえんだ』

「え?」

『ヘッ...情けねぇ話だ。俺は収穫祭の時、所用があったんで家族揃って郊外に出ていた。その日ちょうど、俺たちが帰る頃、風祭は封鎖されてやがった。そんで...自分の故郷がヤバいって時に、何も出来やしなかった。これも、アウトローなんて小さい器で胡座かいてたツケなのかもしれねぇ。孤高の一匹狼吉野様は、自分の町ひとつ救えやしねえ腑抜けだったってオチだよ、ざまぁねえ。』

弱々しくつぶやく吉野の声を聞いて、思った。

こいつは今、無理にあの頃のように話そうと努め始めている。

俺とこいつとの対話は、それでしか成り立たないと思い込んでいるからだ。

だけど、俺は今、確信した。

こんな口調ではあるが、こいつは今、自分の本心を口にしようとしている。

それはつまり、俺との本音の対話を、少なくとも拒んではいないということだ。

いいや...あいつから連絡してきたくらいだ、いい加減気がつく。それが......答えだ。

「もう...無理にチャラけなくてもいいんだよ、吉野。」

『あ?』

それを、口にした。

「今のお前と俺ならきっと、腹割って話せるよ。だから、上辺の取り繕いは、もうやめよう。お互いにな。」

『......フッ。』

吉野は不敵に笑った。それは、俺の言葉に対する肯定の意思表示だと、受け取れた。

 

それから、吉野はまず、自分がどうして俺の連絡先を手に入れるに至ったのか話してくれた。

その話にはまず、風祭に戻れず右往左往する吉野家に、突如ガーディアンを名乗る組織の者が尋ねてきたと言う話から、続けなければならないようだった。

しかし、妙な話だ。西九条さんが1番最初にその名を俺に語った時、ルチアはあれだけ過剰に反応した。そのくらい、名乗るのに慎重さを求められる身の丈なのだ、ガーディアンという組織は。秘匿にも頑固だ、俺だってその名を口にせぬようどれだけ釘を刺されたことか。

なのに何故、吉野はその名を聞き、そして俺に伝えることが叶っているのだろう。

『いいや、正確には違う。その人はあるプログラムの一貫として、教師として俺の家に来た。』

「教師ってーと...俺たちに授業をしてくれたような、あの教師か?」

『そうだ、それも俺たちと面識のある...つまりはカザコーの先生だ。』

カザコーの先生、ガーディアン、そのふたつから導き出される人物は、1人しか思い浮かばなかった。

「西九条先生か。」

『そうだ...しかし、その日来たそいつは一目でその西九条って先生なんだと識別するのが難しいくらい、高度な変装をしていた。

だから俺はそれに気づかないまま、そいつの話に耳を傾けていた。』

「その話ってのは何なんだ?」

『なんでも、風祭の災害から逃れた市民に対し、国からの補助が入ることが決定したらしい。資金的にも待遇的にも...な。主に俺と俺の親父に、その説明をしに来たんだと。』

「でも、なんでお前は西九条先生だって気づいたんだ?というか、そもそも西九条先生はどうしてそんな妙な真似を。」

『変装に気づいたというより、仕草に覚えがあった。音楽室でギグを披露したことがあったからな...実はそこまで無縁じゃない先生だったのさ。 』

「吉野のギグ...懐かしい響きだぜ。是非またあのギャグで腹抱えて笑いたい...じゃなくて、ギグに聞き惚れたいもんだ。」

『テメェ...。』

しまった、思い出すとつい癖でからかってしまう。吉野が機嫌を損ねて黙りはしないだろうか、俺達が真面目な顔して話してるなんてだけで、奇跡みたいな光景なのに...やっちまったかもしれない。

『...話を続けるぞ。』

だが、吉野は大して怒る様子もなく、そのまま話を続けようとした。

それは、今までからすると珍しい、いや、無い反応だった。

「...変わったな、吉野。」

心底感心して言った。いいや、吉野は元からこういう奴だったのかもしれない。

今まではただ、暴力というなんだかよく分からないものに、取り憑かれていただけだったのだ。

そう思うと、俺はこいつとの対話に賭けるものを、ずっと違え続けてきたのかもしれない。

こいつが、取り付かれるほどに焦がれていた、拳という手段を用いて、一度本気でこいつにぶつかってみるべきだったのかもしれない。

あの長続きの廊下で、あいつの腹に拳を沈めた時、なんであんなに虚しい気持ちになったのか。

それは俺が...本気じゃなかったからだ。力比べに対してじゃない、心が本気になれてなかった。何かを諦めて、そのままの状態で、あいつと出会った。

あいつの目に、俺は腑抜けと映っただろう。腑抜けの瑚太郎...けれど、吉野は拳じゃ俺にかなわない。

それは、俺が一番よく分かっていたから、俺はあいつの本気の挑戦を受ける度に、それを茶化して返すことで、ずっとそのことから目を逸らし続けた。

『人は変わるもんさ。』

吉野は...そう言った。けど、あいつが変わったのは、俺なんかに勝てなかったからじゃない。

巨大な、もっと巨大なものを見据えて、それに打ち勝つために、自らの弱い拳を捨てたのだ。

俺は...変わったのだろうか。多分、変わった。変わったからこそ、俺は今こいつとの対話を物にしている。

それは何故なのか...俺もまた、巨大なものを守るために、人生を駆け(賭け)始めたからだ。

だから、自ら本気になれない弱い自分は捨てた。

『お前も、変わったんじゃねえか。悪い気がしねぇんだ、今のお前と話すのは。』

それを、あいつは認めてくれたんだ。同じように、弱さを超えて進む同士として、かつての腐れ縁という垣根を越えて、あいつと俺はようやく、心を通わせることが出来た。それが、報われた。

 

 

話は続く。吉野は次に、西九条さんの変装を暴いた話を聞かせてくれた。

『俺はなんとなくだが、その声音や仕草に見覚えがあると思った。』

「鋭いな...。」

たまに思ってはいたが、吉野はあれでよく人を見ている。他人を気にかけないタチだった俺は、余計際立ってそれを感じさせられたのもあるが、それを抜きにしても凄いと思う。

『それでも音楽室で少し付き合いがあったくらいの覚えじゃ顔や名前までは一致しなくてな。違和感を感じた俺は、帰り際のそいつを掴まえて公園に引っ張っていった。』

「そこで、変装を解かせた?」

『骨の折れる作業だったぜ、吐かせるのにも相当苦労した。』

耳を疑った、あの西九条さんに吐かせただって?いいや、どこまで話させたかにもよるが...ガーディアンという名前まで引き出させたということは、吉野の粘りがどれほど壮絶なものだったか容易に想像できる。

およそ有り得ないほど、頑固に粘ったに違いない。

『先生から聞いたのは、自分が所属しているガーディアンという組織のこと、親父の再就職先と俺の進路については任せてくれて構わないということ、風祭の復興には時間がかかりすぎること、ダチの殆どは死んでしまったこと、それらの一連の出来事にガーディアンが関わっていたこと。』

「そんなことまで話してたのか...。」

『前から食えない人だと、思ってはいたが...まさか秘密組織の構成員だったとはな。さすがに驚いたぜ。』

「確かに、普通わかんねえよな。」

吉野の性格上、その話を聞いて、西九条先生に突っかからないわけはないと思う。

その話を敢えての意図があって恐らく彼は端折った。話の腰を折ることだから...理由は案外シンプルなのかもしれない、その辺の心境は想像するに留まるが。

それだけ、俺との対話に慎重になってくれていることの表れなのかもと思うと、嬉しかった。

『そして、俺の元へ来たのには...天王寺、お前が関係していること。』

「俺が...?」

『そうだ。先生は薄々気づいていたんだとさ、お前がダチを失ったことを確認して、落胆することに恐怖しているのを。だから、変装して俺の様子を見に来た、お前にそれを伝えるためにな。』

見抜かれていたのか...やっぱ、西九条さんにはかなわないな。

『俺とお前の仲については、あのパンクな1年から聞いたそうだ。「ヨッシーノと瑚太郎は仲が良い」だそうだせぜ?』

「そう映ってたんだよ、少なくとも傍目からはな。」

『俺は...お世辞にも、テメェと仲良しこよしな関係とは言えなかった。』

「それでもだよ。きっと俺たち、もっと早くこうやって話せていたなら、もっといい関係になれていたさ。」

『......かもな。』

 

そんな調子で、俺は吉野との会話を十分に堪能した。

俺はほとんどのことを吉野に明かしたが、話さなかったことと言えば...ルチアのこと。

それだけはどうしても、彼に話す気にはならなかった。

吉野は現在、西九条さんに頼み込んでガーディアンの事務の仕事につかせて貰っているらしい。

偶然なのか必然なのか、俺と吉野はお互い、同じ組織で働いていることになる。

因果なものだなと苦笑し合った。

風祭市に居たガーディアン構成員は殆どが近隣の市に再編されたが、吉野もその辺にいるらしい。両親には、就職するという話こそしたらしいが、ガーディアンのことについては話していないと言っていた。最も、ガーディアンに加わることを就職と言って良いものかは甚だ疑問だなと言うと、瑣末なことだろと鼻で笑われた。俺とは...日本のシェルターに寄る機会があれば、また会えるかもしれないとも。大きな組織だから、確率はそう高くないと思うが、『まあ、俺とお前は腐れ縁だからな』と言って、不敵に笑っていた。通話終了ボタンを押す前に、吉野は言った。

『俺は今、頑張ってる。家族を守るために、これからも、やるべき事をやるつもりだ。だから天王寺...いや、瑚太郎。お前も、頑張れ。』

俺はあんまり感動しすぎて、その場でいい返答が思いつかなかった。ただ、涙を堪えて力強く『あぁ...晴彦。』と、返した。

それは、俺とアイツなりの男の誓だった。

吉野...晴彦はそれに満足した様子で、通話を切った。

 

 

 

『仕事は順調か?瑚太郎が居ないのは寂しいけど、ちゃんとご飯作って待ってるから、頑張ってこい。』

 

ぼんやりと、ルチアから来たメールを眺めていた。

それを見ていると、なんだか無性に気が晴れて行くようで、心安らかな気持ちになれた。

「今日は災難だったわね〜天王寺くん。」

西九条さんは愛車のクーガーを走らせながら、助手席の俺に向かって言った。

「はい...いや、単に俺の力量不足です。覚悟はしていたつもりだったけど、まさかここまで役に立たんとは...。」

「あら〜?そんなことないわよ。欧米《こっち》のメンバーの新人いびりと東洋人嫌いは伝統名物なんだから。あんなのは気にしないことよ。」

「はぁ......。」

俺は今、西九条さんに着いて米ガーディアン本部に来ていた。

なんでも、これからガーディアンで働いていくにあたって、少しでも組織の気風に慣れるべきだからと、西九条さんが配慮してくれたのだそうだ。

それに、アメリカの研究室にはルチアの抑制剤の研究資料が多く残っていたそうで、その確認作業に立ち会ってみるのはどうかという思慮もあったようだ。

シェルターの外への出張になるから、ルチアを残していくことになる。俺は最初かなり嫌がったが、

『そういうことなら行ってきた方がいいと思う。勿論、瑚太郎が行きたいと思うのなら、だぞ?』というルチアの後押しもあり、西九条さんに着いていくことにした。

 

『天王寺くんは英語喋れないわよね?』

『あっ...えぇ、まぁ...。』

『いいのよ別に。今回は急に連れ出してきちゃったから仕方ないわ。ただ、今後そういうわけにもいかなくなってくるだろうから、ちゃーんと勉強しておいて欲しくはあるけどね。今日は、そうね...よし、それじゃあ屈強な男達に負けないよう、ドーンと胸を張って私の後に着いてくること!いいわね?』

 

なんて言われたものの...いざ行ってみれば、言語が通じないのをいい事に、嵐のような罵詈雑言を浴びせられた。西九条さんの仕事の様子を見て覚え込みをしたり、日本語に訳して説明を受けている時も、それは続いた。

ヒソヒソとではなく、わざと聞こえるように、流暢に英単語を文法的に連ねて、罵倒の言葉を紡ぐ。

人は何故、人を下げたりする時だけ、ああも生き生きとなるのだろうか。一方的に罵られている感覚だけが伝わってくるのはなんとも...辛いものがあった。

それに、肝心の抑制剤のデータはどうやら古いものばかりだったようで、今研究しているものは俺の体のデータを元に作成された抑制剤のため、そっちの方が寧ろ正確なデータである可能性が高いとして、取り敢えず持ち帰りはしたものの、大した成果となるかは、疑わしかった。全く...あんな屈強な米国人に、顔を近づけられ威嚇されるような日が来ようとは...夢にも思いやしなかった。結局、そういう人達に罵られ威嚇され、精神衛生上よろしくないだけの、なんの成果にもならない一日を、ただ過ごし切った。

「あの一件以来、腐りきった上層部を洗い出すことには成功したけど、超人の気風かしらね...やっぱりああいう傲慢さみたいなものは、取り払えない運命にあるのよね。皆、独善性が強いの。」

「確かに、みんな偉そうっていうか...自分が一番強いっていう自信とか、そういうものに満ち溢れた顔をしてました。特にあの金髪マッチョゴリラ...俺たちのこと舐め切った態度が滲んでましたもん。」

「うふふ...なかなか切れ味の鋭い感想ね。けど、マッチョゴリラって、あの場にいたほとんどがマッチョでゴリゴリだったじゃない?」

「アメリカなんだなぁって感じしたっすね。清々しいほどのアメリカンクオリティ。」

そう言って笑う西九条さんと一緒に、笑った。

俺の笑いには、自嘲の意がこもっていた。

元はと言えば、事務の仕事を任せて欲しいと言ったのは俺自身の要望なのだ。

もしルチアの抑制剤が完成した後に、 シェルターを出て外で暮らせるようになったのなら、俺はガーディアンを離れ、何か仕事に就くだろう。

そういう話を西九条さんにもした。

結果、この先別の仕事に就くつもりがあるのなら、仕事慣れしておくべきじゃないかという結論に至ったからだ。だというのに、こんなザマじゃ先が思いやられる。吉野だって、先を目指して頑張り始めているんだ。かつての友人が、あんなにも熱いメッセージをくれたのに、これから頑張ろうって男の誓をしたはずなのに、スタートダッシュで転んだようなショックを拭えずにいた。

こんなんじゃ、格好つかないよな...ルチア。

弱った心の隙間に、彼女のことが過った。

すると、急に心細い衝動に駆られ、先のメールの返信用のメールを打ち込まずに居られなくなってきた。

思い立って直ぐにバーを開いて、メールを打ち込む。

 

『夕飯楽しみだ!久しぶりに激辛麻婆食べたいな、アレ滅茶苦茶美味かったから。

俺も今日は寂しいです、今もう西九条さんの車の中なんだ。もうすぐ帰れる、だから待っててくれ。

仕事は』

 

そこまで打ち込んで、指を迷わせた。

順調だったよ。そう打ち込んで続ければ、ルチアに心配をかけるようなことも無い。けれど、そう打ち込んでしまっていいものか、まして打ち込みたくない自分と、心の中で葛藤していた。

なんだかその前の文からして、いやに取り繕ってる風なのが、自分で見ていて焦れったい感じがした。

結局、その先は打ち込まず、『仕事は』の文字を消してからメールを送信し、画面をブラックアウトさせた。

携帯をポケットに閉まって、窓の外を眺める。

日本じゃない場所の景色が、右から左へ逆流していく光景は、踏み入れたことの無い異国の地を堪能できる贅沢なスライドショーじみていたが、それに心を踊らせるには、些か疲弊しすぎていた。

その様子を、西九条さんは困り顔で眺めていた。

「相当キテるみたいね...早く帰ってルチアちゃんに慰めてもらわないとね?」

うふふ、と笑う西九条さんに、ふてぶてしく返す。

「いや...それは出来ないっす。」

「あら、どうしてよ?」

「ルチアに心配...かけたくないんで。」

「女の子は、男の子の方から頼られるの、結構弱いのよ。」

「そんなもんですかね?」

うんうんと、西九条さんは頷いた。

「それに、良い夫婦の秘訣は持ちつ持たれつってのが昔からの通例なんだから。天王寺くんだって、少しくらいルチアちゃんを頼ってもいいと思うわ。」

そう、諭すように言った。

けれど、俺は乗り気になれず、逃げるように窓の景色に没頭した。

多分、西九条さんには気を遣わせただろう。空気を読んで黙りこませてしまった。

普段はこんな無愛想なことしない方だと思うが...そのくらい、今日の俺は、意気消沈の様相に呑まれていた。

 

 

「昨日吉野くんから電話があったんじゃない?」

突然、西九条さんはその話題を口にした。

俺は手放しにしていた意識の襟首を引っ掴んで引き戻し、慌てて答える。

「はい、すっげー久しぶりで楽しかったです。

西九条さんのおかげです。本当、何から何までお世話になりっぱなしっすから...あはは。西九条さんにはいつか恩返ししないと。」

「あら、殊勝な心がけね。そういう態度、先生好きよ...うふふ。それで、どんなことを話したのかしら。まさかとは思うけど、興が乗りすぎて下手なこと話したりしてないでしょうね。」

柔らかい口調で言っているが、こういうことを聞く時の西九条さんは至って本気だ。

部下が下手を打った時の西九条さんは、いつまで経っても怖いままだ。

「風祭の一件以来の話とか最近の話とか...昔話もしたっす。あと向こうからは西九条先生をとっ捕まえて色々吐かせた話とか。」

「本当なら、一般人にあそこまで話すことなんて無いのだけどね。」

西九条さんは筋金入ったガーディアン構成員だ。

自らの組織の情報の秘匿は、自らの呼吸をするより大切なこととして、慎重すぎるほど慎重になる。

みだりな情報開示はそれこそ、自らの呼吸を止めることと同義になることも、少なからないからだ。

それでも俺は...みすみす自分の心臓を明け渡したかのような西九条さんの行動は、理にかなわぬものだとしても、間違いであったとはとても思えなかった。

「吉野だったから話したっていうのは、何となくわかります。」

「随分買ってるのね、吉野くんのこと。」

「あいつは凄いです。それこそ、西九条さんに口を割らせるくらいのものを、あいつは持ってるんです。」

「それは...何かしら。」

西九条さんも、アイツと対話をした身として、それをなんとなく悟っていたようだ。あまり不思議そうにもなく、淡々と聞いてきた。

「誠実さと謙虚さです。」

「あら...それは、彼が自主的に目指してるものでは無い?」

「えぇ、あいつ自称アウトローでしたから。けど、困ったことにアイツ、心優しいのが隠しきれてねぇんすよ。案外世話焼きだし、義理堅くて心情は曲げない。それに態度や素行こそ悪いものの、他人を思う気持ちは人一倍なんです。勇ましさと優しさ...男に必要なもん、本当は全部もってるんです、アイツは。けど、アイツ自身はそれを意識したりもしないし、それを振りかざしたりすることも無い。だから、自然とそれに惹き付けられた奴は、あいつの下で勝手に部下になったりしてんすよね。俺は群れないなんて言ってながら、ちゃんと部下の面倒も見てるみたいだし。

あいつは元から、すげぇやつだったんです。そいつが今、改めて俺に宣言してきたんすよ、頑張るって。

それに、頑張れって言ってきたんす。だから俺...」

「吉野くんに負けてられない、かしら?」

西九条さんは悪戯っぽく笑って言った。彼女の目から見ても、吉野はなんだか、大成しそうな、小物に収まっていられないオーラみたいなものを感じるのだろうか。吉野への期待の念が、言葉の垣間に見えた気がする。

「そう......っすね。」

多分、そうだ。かつての友人が頑張っていることに、俺は自分でも知らずのうち、焦っているのかもしれない。

「青春、してるわね〜...。」

その言葉は、空っぽのポケットを埋める、一葉の希望のように感じた。

 

なぁ、吉野......俺たちさ。ちょっと遅れてだけど、歩み始めてるのかもな。青春ってやつを。

 

 

ふと、景色の中にポツリ、花屋が置いてあるのが目に入った。

さらに言えば、その花屋の前に置いてある、明るい橙色のバラが特に気になった。

あの花は...ルチアに似合いそうだな。

彼女の毒さえなければ、あの花は彼女を彩る美しい装飾となったろう、そんなことを考えていた。

あの花を買ってルチアへの土産にでもしたいところだが、現実にはできないことも知っている。この前のシェルターで見せた向日葵のように、薬品につけて造花にすることも出来なくはないが、それを直ぐに手配するとなると難しいだろう。

「あの花、ルチアに渡したら喜ぶかなぁ。」

それでも、ぼやいていた。現実的ではないことを、今現在、現実に再現できないことを想像することを、妄想という。

俺は、妄想をしていた。

きっと喜ぶんだろう、太陽みたいに、はつらつに笑って喜んでくれる。そんな彼女の姿を想像しながら。

その想像の前に、彼女を苦しめる毒なんて、花を枯らす瘴気なんて、存在し得なかった。

彼女は日を浴びることが出来たし、大好きな向日葵にだって、生で触れる。

ただ、幸せな妄想をしていた。...いいや違う。これは妄想なんかではない。いつか、それは来る。けど今、それは今じゃなくたっていい。俺はルチアと居られればそれでいいのだから、生の花を送ることは出来なくとも、今のルチアを喜ばせる何かを選ぶことは出来る。そう、思いなおした。

しかし、そんな俺の心の葛藤が、今の言葉から伝わるわけもない。

それを言葉にして聞かせることの無神経さを憂えて、西九条さんを見た。

意外なことに、彼女はそれをクスクスと笑っていた。

「天王寺くんったら啄木さんみたいなことをするのね。」

「へ?」

タクボク...歌人の石川啄木のことだろうか。

はて、なんだっけ...確か学生の時に、授業でそんな話をしていたような。

「石川啄木の一握の砂という有名な歌集にね、

"友がみな われより偉く 見ゆる日よ 花を買ひきて 妻と親しむ"という詩があるの。授業でやっている筈よ?」

「あぁ、なんか思い出してきました...。」

それは、劣等感を感じた日。誰にでもある、失敗をしたからとかで落ち込んでしまって、自分は全然ダメだ、周りの人間はあんなにも大成しているのに、頑張っているのにという、自分に対する劣等感を抱え込んでしまう時。

そんな時は、花を買ってきて妻と親しむことで、気を紛らわそう、そして安らかな気持ちになろう、という意味合いの詩だったような気がする。

「天王寺くん、詩人の真似事をする趣味があるのかしら?」

「そんなんじゃないですってば。茶化さんでください。」

多分、吉野の話をしたのと照らし合わせ、この啄木の詩の話をしたんだと思う。

これは、俺があいつに抱いているのはなんだろう...羨望、嫉妬?似て非なるような...そういうものよりはもっと前向きな感情のような気はする。

けれど、啄木の詩にカッチリと収まる部分があるような、そんな気もしていた。

歌人というのは上手いと思う...そんな形容しがたい感情すらも、どうにかどこかに当て嵌まるよう、入口を大きく広げる、固定しない表現を用いることによって、共感を促しやすくなっているんだろう。

「けど、分かってるでしょう。ルチアちゃんに生の花は渡せないわ。」

急に真面目な顔になって言う。それはそうだ...出来ないからこそ俺は、想像に留めたのだから。

「そりゃあ勿論分かってます。けど、雑貨屋とか小物店に売ってそうな気がするんすよね。」

「...?」

そう、生の花は渡せない。しかし、この前のように造花にも出来ないとあっては、俺に思いつく手は限られていた。俺がその要領を西九条さんに話すと、彼女はニンマリ笑った。

「まぁ...いいじゃない。珍しくセンスが光ったんじゃない?無難だけど。」

「珍しくは余計でしょってか無難ってそれ全然光ってない...まあそうなんですけどね。」

「よーし!そうと決まればアクセル全開!飛ばすわよ〜。」

そう言って、西九条さんはおすすめの小物屋に向けてハンドルを切った。

 

 

 

 

西九条さんは俺を送り届けたあと、予約していたホテルに向かって行った。

その姿を見届け1人になったところで、教わった手順でシェルターを開く。

その蓋が開く時間さえもどかしいほど、今日は早くルチアに会いたかった。

「ただいま〜。」

玄関...は無いので、開いてすぐの所で言ってみる。シェルターの入口付近は薄暗く、ぼうっと薄黄色い明かりが奥に見えるだけだった。

ここからエントランスまでは少し遠いので、着いたらもう一度、ルチアにただいまを言わないと。

「おかえり、お疲れだったな瑚太郎。」

「うおぁっっ!!!」

横からの声に驚いて飛び退く。最初、暗くて見えなかったが、どうやらその声の主は最初からそこにいたようだった。

「うおぁ...とはまた挨拶だな。遅いから心配して迎えに来たというのに。」

「あ、あぁ...そうだよな。ただいま。」

ルチアは少しだけ怪訝な顔をして、俺を見たが、すぐ表情を崩して笑いかけてくる。

「うむ、おかえり。もう夕飯ができてるぞ、早く一緒に食べよう。」

「一緒にって...わざわざ待っててくれたのか?律儀だなぁ...。」

言うと、ルチアはまた不機嫌そうな顔をする。

「当たり前だ!瑚太郎と食べれない料理は本当に味気ないんだぞ?」

そうか...それもそうだ。味覚を封印されている彼女にとって、食事時の雰囲気というのは、直接味に関わる。

それを考慮せず、無遠慮な言いようだった。

「そう...だよな。遅くなって悪ぃ。」

「分かればいいんだ、分かれば。そら、早く来い。」

彼女は手を差し出してきた。俺は一瞬その意味を理解しかねた。その一瞬で、彼女は俺の手を引き、エントランスに向かって歩き始める。

戸惑う俺の手を引いて、ドカドカと前を歩いていく彼女は、我に返ったようにちらりと俺をみて笑いかけた。

その優しい笑みと眼差しに、今日一日の疲れをも全部流れ落ちていくような、報われた気持ちになった。

 

 

今日の彼女は、明らかに気をつかってくれていた。至れり尽くせり、色んなことを何から何まで、接待の如くしてくれた。

まず、メールを送ってから帰ってくるまで、それほど時間はなかった筈なのに、彼女は今夜の夕食にきっちり、激辛麻婆豆腐を仕上げてくれた。

舌が焼け付くほど辛い麻婆豆腐を二人でひいひい言いながら頬張っているのは、いつか甘いパフェを二人で頬張った記憶と重なって、あの頃の気持ちが蘇るようで、楽しい夕食になった。

食事が終わると、今度は風呂に入るよう促された。

流されるまま風呂場に入ると、染みるようなハーブの香りが、鼻の奥に突きぬける。

見れば、湯船に張られたお湯が、澄んだ緑青に染まっていた。ルチアが特性のバスボムを入れて置いてくれたらしい。ピンクの染料は避けたんだと、苦笑しながら説明してくれた。

新たらしいハーブの香りに、張り詰めていた意識を横たわらせつつ、自分の体を肩まで緑青の海に沈めた。

心身に染みる爽やかな湯の感触は、心地良い夢に魅せられるように安らかな静養を促してくれる。

こんなにもゆっくりと風呂を堪能するのは、久しく無かったと思う。

なんだか...妻でもいるような気分だった。仕事から疲れて帰ってきた夫に、『お風呂にする?ご飯にする?』みたいなベタな問いかけをする妻を連想する。

その両方用意して待っててくれる人って、やっぱり奥さんなんじゃないだろうか。

ルチアが俺の奥さん...そりゃあ、いいな。

想像したら楽しくなって、風呂場で一人笑ってしまった。ふと、浴室の外に、影が現れる。

「だ、大丈夫か瑚太郎。」

「ヒッ!る、ルチアさん?!」

「...のぼせる前に上がった方がいいんじゃないか?そのバスボム、血行促進の他に体温をあげる効能もあったはずだから、長風呂には向いてないんだろうな。着替え、ここに置いておくぞ。」

本気で心配されてしまった。誤解を解くためというか、しかし弁明しようがないから、口実を考えることに頭を悩ませながら、浴室を出た。

その思考の傍らで、着替えを持ってきてもらうほどの仲ってやっぱり夫婦っぽいなあと、少し嬉しくなったものだから、ルチアの言う通りのぼせているのかもしれないと、少し気落ちした。

 

 

風呂を満喫してから、俺はソファに腰掛けた。

隣には既に、ルチアが座っていた。

今日の彼女はラフな格好で、首の広い縦ラインの白いセーターに、黒いスキニーの着こなし。

あと、なんだか分からないが縁の無い丸眼鏡をかけて、艶のあるしなやかな黒髪を、緩く三つ編みに結っていた。その破壊力たるや、持ちうる可愛いだとか美しいだとかに類似する言葉の全てを掻き集めても、表現しきれないほどのもので、垂れそうになった鼻血を啜った。

「あの...ルチアさん?これは一体...というか、このままだと鼻血不可避なんすけど。どうしたんすかそんな可愛...くっそ鼻血が...ズズズ。」

「あぁ、いつかのようなメイド衣装はとり揃えられなかったので、瑚太郎とこの前やっていたゲームに出てきていたヒロインの衣装を参考にしてみた。どう...かな?」

ゲームのヒロイン...あぁ、この前やっていた現代ファンタジー物のRPGに出てきた、サブヒロインのことかもしれない。

ルチアが主人公を操作する傍らで、『このキャラの衣装...なんかいいよな。現代的なファッション性を取り入れつつ、このフェチズムをそそる感じがなんとも...』なんて言って、ルチアを呆れさせたことを思い出す。そんな、何の気なしに放った軽口をちゃんと意見として拾ってくれていたなんて...健気すぎて自分の心の醜さが情けなくなる。

それと同時に、俺は興奮しきってしまって、溢れだしそうな感想をなるべく簡潔に勢いよく伝えようとする。

「すっっげぇ可愛いよ!超似合ってる!」

こういう時の俺の語彙は、著しく貧弱だった。けど精一杯、大袈裟じゃないんだって思いをシンプルに伝えた。

「ん...そ、そうか。それなら...良い。」

ルチアは頬を赤らめて、俯いた。あぁ...愛い。

そりゃあ、ルチアはいつだってその...か、可愛いが...今日のルチアはやっぱり、一際違う感じがした。

「バスボム...すごい良かったよ。久しぶりに風呂を堪能したな。麻婆豆腐も超美味かったし...。」

「そうか...なら、張り切った甲斐があったというものだな。」

「あの...ルチアさん、ひょっとしなくても気ぃ遣ってくれてるよな。今日俺が疲れてるだろうからって。」

俺はついそれを口にしてしまう。なんだか、このままされるがままに世話を焼いてもらうのは悪い気がして。

だって、いつもなら二人で色んなこと、家事は特に手分けしてやっている。

ルチアがご飯を作る時は俺が洗濯も掃除もやるし、たまに俺がご飯を作る時も然り、ルチアは洗濯や掃除を引き受けてくれる。

お互い支えあって生活するためには、そういう配慮に慎重になるべきだろうと、二人で頑張ってきたのだ。

それがこうも傾くとなると...そりゃあ、悪い気にもなるというものだろう。

俺が心巡らせる傍らで、ルチアは何を言うことも無く、黙って俺の方を見ていた 。

それに気づいて、俺はルチアの方に向き直る。

ルチアは俺に向かって手を伸ばしてくる。それを黙って見つめていた...ゆっくりと、時間が急に、音も立てぬような足取りで、遅く流れる。

自分の鼓動だけが、時の流れに反比例して早まるように打っている中で、ルチアの手が、俺の首元を優しく掴んだところで、視界が横転した。柔らかい感触が肌を打つ。至福の瞬間が訪れる...全身の力を宙に預けて、天にも登るなんて全然大袈裟じゃない表現だった。

だらしなく感激に浸る俺に、優しい声が降り注ぐ。

「瑚太郎が疲れてなくてもやってあげたいくらいだ。でも瑚太郎は、普段からちゃんと一緒に家事もしてくれるから...中々機会が無くて、ちょっと困ったんだぞ。」

太腿に乗った頭をゆっくりと回転させ、声の方に視線を移した。

膝枕なんて恥ずかしくて...まともに顔を見れない気がしたのに、たまらなくルチアの顔を見ていたいと思った。

「しない方が良かったか?」

「ううん、してくれるのは嬉しかった。だから、たまにはこういう機会が欲しい。それに...」

ルチアが頬を赤らめるのを見て、思い出す。彼女が素直じゃなかった頃はよく、純白の布に覆われた拳に制裁の味を占めさせられたっけ。

そんな頑固な委員長の弱みをどうしても握ってやりたくて、チープな悪戯に奔走していた馬鹿な自分のことも。

今ではとても遠い記憶...それでも、こんなに素直に俺と向き合う彼女の姿は、俺だけが知っている特別なルチアなんだという意識を鮮明な記憶として、鮮やかに思い出させてくれる。

「それに?」

そんな懐古の情に心を傾けながら、ルチアの次の言葉を促す。

「それに...瑚太郎は結構恥ずかしがりだから、瑚太郎が色んなこと素直に言ってくれるの、貴重だから。

その...弱ってる瑚太郎から色んなこと、言ってもらいたかった。」

ルチアは口をまごつかせながら、えへへ...と笑ったりもしながら、たどたどしい口調でそう言った。

あまりの愛しさに、思考が焼け切りそうだった。

衝動的に起き上がって、ルチアの背中に腕を回して...彼女を抱き締めようとする。

しかし...このまま先をしてしまうと、ケダモノ的欲求のままあらぬ事にまで至りそうな気がして、某大泥棒三世の映画のワンシーンみたく、手を迷わせた。

刹那、俺の口を塞ぐものが、そっと唇に触れた。

甘くとろけるような、仄かに甘い、熱い血の滾る舌が、求めるように俺の舌を絡め取る。

俺は舌を這わせ、絡めて、それに応える。熱烈な接吻を交わす2人は暫く...それを繰り返していた。

存在を確かめ合うように、濃厚に、喘ぐように、ただ繰り返した。

それは、俺の昂った欲求をかえって、鎮めてくれた。

不意打ちをくらって、驚き半分だったこともあるが、それは大した理由ではない。

もっと大切なことに気づき、むしろハッとしたという方が正しい。

息が限界になったくらいのところで、俺達は顔を離した。俺はもう一度、ルチアの太腿に頭を預けて、彼女を見上げた。

そして、暫く彼女と、視線を交わし沈黙した。先に口を開いたのは俺、馬鹿みたいに真面目な顔をした。

「大胆だな、今日は。」

「......うん。」

「寂しかったよな...ルチアも。」

「...ぁ......う......。」

今日のこの行動は、寂しさの裏返しでもあった。

理屈じゃない、寂しかったのだ。俺がいないことが、ただ寂しかった。俺と、同じ気持ちでいてくれた。

「俺も今日は...寂しかったよ。」

そう言って、俺は立ちあがり、放り投げてあったカバンの中をゴソゴソと漁る。

「この前、吉野と話したんだ。」

ふと、そんな話をした。できればそれを話したくはなかった、彼女にとっては複雑な気持ちを拗らせるだけの話に過ぎないからだ。ルチアは顔を曇らせた。

今この瞬間、彼女は嫌でも思い出しただろう、あの惨劇のことを。しかし、俺は吉野のことを説明するのに、吉野の名前を上げる以外のことで表現するのは不可能だと感じた。

けれど、この説明は話を本質へと導くための、ほんの道筋でしかない。

俺はそこから本題まで、会話の舵を切った。

「アイツ、何も変わってないようですげー色んな所から、変わってたんだ。今まで邪険にしてた俺の事を認めてくれた、喧嘩やら暴力からも足を洗った。

その上であいつは、その事を全部良かったって、前向きに受け止めて進んでるんだよ。

それに比べて俺はこんなザマで...悔しかった。大人になってくアイツと、未だ進めないままの自分。多分、こういうのを嫉妬っていうんだろうな。」

思いの丈を、全て伝えた。その上で今度は、本音の本音を全て吐き出す。

「けどさ...俺、思ったんだよ。そんな、辛い思いしてさ、これから大丈夫かなって挫けそうになっても、俺には......ルチアが居る。これからもずっと、一緒にいてくれるって。そう思ったらさ...。」

そう言って、俺はプレゼント用に包装された茶袋を、ルチアに差し出した。

彼女は面食らって、それを受け取った。

「ルチアのこと、もっと愛おしくなった。これから俺が歩む未来に、たくさんの希望が湧いてきた。」

「瑚太郎...。」

「だから、そのほんの感謝の印に...な。開けてみろよ。」

「う、うん...あっ。」

袋を開け、中身を取り出す...それは黄色いバラのブローチだった。

「そのバラ、サンブライトって言うらしい。太陽が輝く...みたいな、安直だけど。ルチアに渡すならその花だって思った。」

彼女は言った、生涯日の光を浴びず生きると。それは少し...悲しいことだと思う。ならばいっそ、太陽をここに、連れてくればいい。

サンブライト、この花が、ルチアを照らす太陽となる。

その名を聞いた時、確信した。この花に惹かれたのは、きっと偶然ではなかったと。

「すごいな瑚太郎...歌人みたいなことするんだな。」

「それ、西九条さんにも言われたぜ。」

二人して笑った。付けてみろよ、とブローチを指した。

ルチアは胸に、ブローチを付ける。

「どう...かな?」

「いいね、似合ってる...よく映えてるよ。」

思った通り、よく似合っていた。それも大事だし何より、ルチアの晴れやかな顔が見れて、それが一番満足できた。満面の笑みを浮かべて俺にブローチを見せながら、ルチアは少しだけ照れた顔をした。

「瑚太郎は...ダメなんかじゃない。本当は誰よりも格好良くて...格好良かったし、前よりもずっと格好良くなった。誰かにとってはそうでなくても、私にとっての...その、おっ...王子様は、瑚太郎だけなんだ。だから、私は瑚太郎のこと、情けないなんて思わないし、思えない。」

「...あぁ。ありがとう、ルチア。」

「こちらこそ、ありがとう、大切にする。」

 

これから先、俺もルチアも、こういう葛藤に頭を悩ませ生きていくのだろう。

けれど、その度俺達は、乗り越えていけるとも確かに思うのだ。二人で居れば、寒く凍える夜さえも、いつか黄金の朝日が登るまで、暖めあって行ける。

 

俺達はそういう歩き方を、もう知っているのだから。




いやぁ...サンブライトの入れ方ちょい無理やりだった。
吉野のガーディアン入りもかなり無茶だと思ったんすけど...所詮チープな物書きの拙い創作だし?やっちまうかぁということで...やっちまいました(本当すんません反省してます)。
なるべく崩さないようにと思ったのは、着せがましい感情を取り払うこと。こたルチの二人が共に、支え合い、愛し合っていること。あとは、決して都合のいい展開にしないこと...です(吉野が生きてるだけでも十分いい展開になっちゃってますが)。
二人はこれから、過酷に耐えながら、それでもしっかり歩んでいくでしょう。世界が滅びるその日まで...という所で、締めくくらせていただけたらいいのかな。


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