空の境界 偽典福音/the Garden of false (旧世代の遺物)
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1/俯瞰風景 -Thanatos-
俯瞰風景/1


 初ssです。自分の中のらっきょ愛と型月愛が爆発してこのようなものを書いてしまいました。
 未熟故の文法間違いや誤字等が散見される拙作ですが作者の身勝手な妄想の産物として気軽に読んで頂けると幸いです。
 また、式を織として性転換させた影響で大幅な設定改変や捏造設定が有りますが、人物の性格は可能な限り原作を踏襲していこうと思います。



   

-Sometime,somewhere-


 

 ────焔。

 轟々と猛る業火と暗雲じみた黒煙。

 蒼天は紅く焼き尽くされ、地すら真黒に焦げ付いた。

 涼風は熱風に、茂る木々は皆木炭に加工され、かつて在った幸せな世界は微塵に砕かれ泡沫と消えた。

 揺らめく陽炎の彼方、凄絶なる地獄の果てに、二人と一体は互いを見遣った。

 救世の求道者達は魔銃の射手を見出し……。

 正義の執行者は黒衣の僧兵と太極の代用品を見定めた。

 

 二人は執行者を赦すことはできなかった。

 一体は求道者達を許す訳にはいかなかった。

 

 語るべき言葉は、まだ多分にある。その気になれば、互いに憐れみ合えたのかもしれない。

 それでも。

 彼らが彼らである以上、この対決は運命の導きであった。

 

 求道者達の一人──黒衣の僧兵は双拳を構え、もう一人の女は大太刀を抜刀する。

 抜き身の刃そのものの殺意を受けながら、執行者は引鉄を絞り込む。

 雷鳴じみた轟が大気を駆け抜けるよりも遥か先に、双影は烈風のように疾駆した。

 

 

──これは光と闇、善と悪の正典に非ず。

 それは救世を掲げ、理想に殉じた者と──

 偽りの果てに本物へ至った紛い者──。

 その二人が織り成す、絡み合う螺旋が如き相克の偽典である。

 

 

    /-

 

 

 

わたしは世界に二つある。

 一つは「彼女」の代わりに彼の底。

 もう一つはかつてのように彼の内。

 

 

わたしは本来いないもの。

 けれど確かにあったもの。

 

 

偽物と本物の間にいるもの。

 そんなわたしはまがいもの。

 でもそこにしか、わたしはいないもの。

    

 

    /0

 

 

 一九九八年八月初頭の夜、黒桐鮮花(こくとうあざか)が訪ねてきた。

 

「こんばんは。あなたがいつも通りで良かったわ、織」

 

 彼女は普段通りの笑顔で在り来たりな挨拶をする。

 

「もう、いいかげん鍵くらいかけなさいよね。あなたってば本当に無用心なんだから。少しは心配するわたしの身にもなってよね。あと、はいコレ。いつものヤツ」

 

 彼女はもう聞き飽きた小言を言うと共に靴を脱ぎながら僕にビニール袋を渡す。

 ボルヴィック製ミネラルウォーターの一リットルのボトル一つと五百ミリリットルのボトルが二つ。どうやら冷蔵庫に入れておけ、という事だろう。

 僕が億劫な気持ちで冷蔵庫にそれを入れている間に彼女は玄関から廊下へと踏み入っていく。

 

「そういえば織、 あなた今日も学校休んだでしょう。あなたなら成績はどうにかできるでしょうけど出席日数だけは後付じゃあどうにもならないわ。留年なんてしたら秋隆さんが悲しむわよ」

「知らないよ。秋隆やオレのことなんておまえには関係ないだろ」

「関係あります。第一、一緒の大学に行くって約束したじゃないの」

「そんな約束は……もう忘れたし、おまえだってトウコの所にいってるだろ」

「わたしはちゃんと学校にも行ってます。あなただってそういうところ治さないと将来苦労するわよ。そうなるとわたしが心配じゃないの。それにあなた、退院してからずっと両親に連絡もしてないんですって?」

「ああ。その必要もなかったからな」

「だめよ、あなたがそのままだとずっと会わないままになっちゃうじゃないの。そんなの放っておけるわけないわ」

「……ふん」

 

 鮮花のあまりのお節介ぶりに反論する気も無くした僕は強引に話を打ち切って自室に移動する。

 彼女もごく当たり前にそれに随伴する。

 やはりこの女の在り方は三年前から変わってはいないようだ。

 その世話焼きが僕だけに向けられているのか、それとも他人にも向けられているのかなど僕には知り得ないことだ。

 そんなたわいのないことを考えている内に僕は自室のベッドに腰を下ろしていた。彼女もその横にちょこんと座り込む。

 僕は知らずその線の細い背中を曖昧な視点で観察している。

 黒桐鮮花という少女は、僕の覚えている限りの唯一の友人であるようだ。 

 ────もっとも、覚えていないだけで彼女の口ぶりではもう一人居たという。

 何の理由なのか、大切にしていた覚えはあったのに、僕はその人物のことを名前すら思い出せないのだが。

 

 鮮花は現代の若者の中では希少とすら言えるほどの優等生である。

 髪を染めることも装飾品で着飾ることもない。当然の如く夜遊びすることなどあり得ない。

 身長は百六十より少し高い程で、黒いストレートのロングヘアを背中まで流している。

 柔和で清楚なお嬢様、といった顔立ちではあるものの、それらは彼女の本質を隠す為の装飾に過ぎない。

 何故なら彼女の瞳はいつも何かに挑み続けているような芯の強さが滲み出ているからだ。おそらくこの隠しきれない自己の強さこそ彼女を鮮花足らしめるモノなのだろう。

 僕の贔屓目ではあるのだろうが、彼女は街を歩けば通行人が目を留めることは間違いない程の美人だと思う。

 そう考えていると鮮花は本題と思わしき話を始めた。

 

 

    ◇

 

 

 両儀織はわたしの高校時代からの友人だ。

 とある雪の日の夜、何の気まぐれか散歩に出かけていた時、彼と出会ったのだ。

 黒いコートに黒いズボンという何処となく(幹也)によく似た服装は一面に広がる白い闇に際立ちまるで太極図における陰極を体現しているようだった。

 それだけでわたしの気を引くには充分だったが、何よりもその在り方に一目で魅了されてしまった。

 静謐にして凄絶な凄みを持つその黒々とした瞳。何処に居ようとも決して溶け込むことのないであろう程周囲から隔絶した佇まい。

 それら全てにわたしはこの上ない''特別性''を見出したのだ。

 その瞬間からわたしは無意識に彼のことばかりを考えるようになった。

 それから高校に進学した時、合格発表で目にした両儀織という珍しい名を覚えていると 、なんとその両儀織こそがあの夜の彼だったのだ。それも同じクラス。

 それからは誰とも関わりたがらない彼に強引と言える程積極的に関わりを持ち、彼の数少ない友人となったのである。

 ────それこそが最大の''禁忌''だったとは露ほども知らないままに。

 

 

    ◇

 

 

「飛び降り」

「ん? 突然どうしたんだ」

「飛び降り自殺。ほら、最近多いでしょう。あれって事故になるのかしら、それとも他殺?」

 

 ……僕には途方もなくどうでもいい疑問だったが、柄にもなく僕はその問いに真剣に答えてやった。

 

「……多分、事故の一種だろうな。ただ、自殺と定義されている以上自分の意志でやったことだ。だから責任は自分のもの。他殺でもないし事故死とも言えない。曖昧だな。自殺ならもっと誰にも気付かれない方法でやればいいのに。まったく、迷惑な話だぜ」

「わたし、死んだ人を責めるのってよくないと思うの」

 

 ……おまえから振った話だろう。という反論は置いておく。この返答は予測済みだった。

 こいつは特別なんてものを求めるクセにそれなりの常識は備えている。

 だからこのありきたりな返答も彼女の良識から溢れ落ちたものなのだろう。

 

「ホント、おまえらしい言い方だな、コクトー」

「懐かしい呼び名ね、それ」

「……確かに」

 

 彼女の呼び方は鮮花とコクトーというふた通りがあり、僕は普段、鮮花と呼んでいる。

 ……そもそも何故二つも呼び方があるのか、なぜコクトーという響きが気に食わないのか……自分でもわからない。

 そうして会話に空白が生まれると、彼女は唐突に話題を転換した。

 

「そういえば、兄さんには言ってないけどわたしも見たのよね」

「……? なんのコトだ」

「ほら、最近噂になってる巫条ビルの空飛ぶ幽霊。あなたは見たの?」

 

 ────思い出した。あれはもう三週間は前の話だったか。

 街には巫条ビルというかつて街のシンボルタワーだった廃墟があり、夜になると上空に浮遊する幽霊の群れが見えるという怪談だ。

 見えたのは僕だけではない以上、アレは本物か。

 あの事件で二年間の昏睡状態になり、回復してからは、僕には『見えるはずのないモノ』が見えてしまうのだ。

トウコによると見えているのではない、視えて(とらえて)いるのだということらしいが、僕にはイマイチ興味が湧かないので気にすることは無かった。

 

「アレなら一度と言わず何度か見た。まあ飛び降り自殺が始まった頃からあそこには行ってないから、 今も居るとは限らないぞ」

「うーん、あの噂が気になって何度か行ってみたけど、わたしには一度しか見えなかったな」

「おまえ、目だけは特別じゃないんだな」

 

 それはそうだけど、と納得のいかない顔をする鮮花。

 僕は知らず、''存外、こいつ視えにくいのか''と驚きの表情を浮かべていた。

 それは置いておいても、飛ぶだとか落ちるだとか、ヘンな話が噂になっているものだ。それが解ったところで意味があるのかすら解らなくて、僕は疑問を口にする。

 

「織、人が空を飛ぶ理由ってわかる?」

 

 ……こいつも全く同じことを考えていたらしい。僕も彼女も同時に首をすくめていた。

 

「少なくとも、わたしにはわからないな。もしかしたら、初めから理由なんてないのかも」

 

 ────理由がない、故に''浮遊''か、と自分でもわけのわからないことを僕は考えていた。

それこそ、意味も理由もないことだというのに──。

 

 

    /1

 

 

 八月下旬の夜。僕は散歩をすることにした。かつての自分が嗜好していた行為だからだ。

 もう二年前の話だ。

 その年の三月頃、僕は交通事故に遭って昏睡状態となっていた。雨の夜の事だった。

 幸い致命傷ではなく、傷自体は早くに癒えたそうだが、奇跡的に回復するまで意識が戻らなかったらしい。

 これまた奇妙なことにその間、僕の体は成長することも急変することもなく''静止''していたのだそうだ。

 その出来事は僕に大きな変化を齎していた。

 どうにも自分の記憶を自分のモノだと認識出来ないらしい。所々欠けてはいるものの、記憶自体はある。

 それでもそれらを自分の体験した事だとは実感出来ないのだ。そのどうしようもない違和感は僕自身がまるで『両儀織』という人物に取り憑いた幽霊であるかの様に錯覚させていた。

 そのせいで僕は記憶の通り今まで通りの『両儀織』として振る舞えるものの、生きている実感というモノがまるで無くなっていた。

 僕は夜歩きという過去の自分が行っていた行為を(よすが)にもしかしたら過去の自分に戻れるかもしれない、生の実感を取り戻せるかもしれないという期待を抱いている。 

  ……なるほど。僕は自分が思っているよりも遥かに『過去』だとか『自己』だとかいう自分にしか解る筈のない不確かなモノに執着しているらしい。

 

 

    ◇

 

 

 しばらく歩いていると、そこには巫条ビルと呼ばれる天を戴かんとしている塔のような高層建築が聳え立っていた。

 奥からは一匹の仔犬が紅い足跡を地に残しながら僕の横を通り過ぎていった。

 ……僕はその紅々とした跡を辿っていく。すると──。

 そこには、折れた百合のような、押し花のようなものが更に紅い華を咲かせていた。

 無論、押し花などではなく潰れた顔の判別のつかない死体である。 

 おそらく、例の飛び降り自殺の新たな犠牲者であろうと僕は結論付けた。

 僕はなんら表情の無い顔で塔を見上げる。

 ──その時、人らしき影が幾つも浮かび上がっていた。

 そう、事実それらの人影は浮遊していたのだ。

 その現実は僕に季節外れの寒気を齎していた。

 

「なんだ、今日もいるじゃないか」

 

 そうして、例の『浮遊する幽霊の群れ』は紅い月に嵌め込まれたかのように空を漂っていたのだった。




 最初から難産でした。ssを書くってこんなに難しいことなんですね。ss書きの方々には本当に頭が上がりません……。

 ともあれ、此処までが第一話です。
 俯瞰風景はおおよそ原作沿い(アニメ版準拠)で行こうと思います。原作からずれて行くのは殺人考察(前)以降という予定です。
 書き溜めというのもアリですが話が書き上がり次第随時投稿して行きたいと思います。

 次回は本題なので間が開くと思います。至らぬ点ばかりな本作ですが、読者の方々の暇つぶしにでもなれば幸いです。
 誤字・脱字等が有ればご報告下さい。随時修正していきます。
 もし良ければ感想、評価の程をよろしくお願いします。その一つ一つが作者の糧となり燃料となります。
 



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俯瞰風景/2

    

 

    /0

 

 

 用意された駒は六つ。

 死に依存して浮遊する二重身体者。

 死に接触して快楽する存在不適合者。

 死に逃避して自我する起源覚醒者。

 結末を観測して従属する未来測定者。

 忘却を採集して望郷する統一言語師。

 孤高に羨望して反証する人形魔術師。

 いずれ、相克する螺旋にて君を待つ。

 

 

    /1

 

 

 ──朝か? いや、もう昼になってしまったらしく、時計の針は既に十四時を指している。

 少しばかり眠りすぎたか。

 僕は今までそうしてきたように着替え、外出の支度をする。

 これまで二度異能者との対決を経てきたが、僕自身の内面とは別にこの部屋には何ひとつ変化はない。

 鮮花は部屋とはその人物の内面を表すものだと言った。

 しかしここは依然としてガランドウのままだ。

 それはつまり、幾つかの体験を経たところで僕の中身は空っぽでしかないということなのか。

 ならば、それを決定的に変える、何か大きな出来事が必要なのだろう。──この胸の穴そのものを無意味にしてしまうような変革が。

 そんな戯けた事を考えながら自室を後にする。

 昏睡から目覚めて三ヶ月近く、僕はあの人形師が工房にしている事務所に足繁く通っている。それは何の為か。

 意味など無い。そう、今の僕はまだ意味というものを手にしていないのだ。

 トウコが言うには僕には無意識にそれを求める意志があるという。

 ならば、無意味に思える事でも続ける内にいつしか意味を持つ事もあるのだろう。

 ──そうして真昼の街を歩いていると、ふと流れるニュースが耳に入る。

 

「本日、午後二時頃市内に住む都立高校二年の女子生徒が巫条ビルから転落し、全身を強く打ち死亡しました。これで巫条ビルでの転落死は四件目になります。警察は事件の関連性について……」

 

 ……巫条。

 僕には人数そのものよりもむしろ巫条という名の方が気掛かりだ。

 七月の浅上の一件といい、この街は退魔と奇妙な縁で結ばれているらしい。

 とりあえずトウコに自分だけが気付いた関連性を伝えてみるとしよう。

 

 

    ◇

 

 

「これで四人目、ねぇ。世間ももうそろそろ関連性に気づいてもいい頃なのにね」

 

 液晶を眺めている僕に珍しく眼鏡を掛けたトウコは言う。

 そろそろ話を切り出そうとしていたので、応じることにする。

 

「ああ、それなら知っている。連中は遺書を残さなかった。しかし彼女達は人目に付く方法で死んだ。その矛盾。そういうことだろ」

「流石に鋭いわね、あなたは。そう。あの子達は本当は死ぬつもりなんてなかった。彼女達は不幸にも交通事故に遭ったようなものなの。……そう鮮花ちゃんは言っていたわ」

「あいつが? ふん、確かにあいつならすぐに勘付くだろうな」

 

 僕はおもむろに視線を目の前の女から逸らし、ソファーに寝そべる少女に向ける。

 それに連動するように蒼崎橙子は眼鏡を外し、呟く。

 

「いったい、いつになったら帰ってくるんだろうね。うちのお嬢様は」

 

 少女──黒桐鮮花は穏やかに、されど氷のように冷たく眠っている。

 彼女自身の端麗さも相まってまるで絵画か彫刻のようだ。

 その有様に僕は柄にもなく見惚れていた。

 

「……巫条ビル。あんた、気付いているのか? この巫条という名が表す意味に」

 

 即座に思考を切り替え、トウコに問いかける。

 

「ああ。先月の浅上といい、両儀たるおまえの同胞、退魔の家系だろう。どうにも、偶然とは言えない領域だと思わずにはいられないな」

「やっぱりか。どうにも変だとは思っていたんだ。あの爆弾魔といい、ここまでくるともはや必然だな」

 

 僕が昏睡から回復したのは六月の話だ。それを起点として街ではこのような怪事件が相次いでいる。

 この件も合わせればその数は三つ。忽然と止まった二年前の連続殺人といい、傍目から見れば僕が元凶なのではと邪推されてもおかしくない有様だ。

 だが、同時にそれが僕の日常でもあった。

 だからこそこうして焦ることもなく考察を重ねていられるのだ。

 結局この日は話が進展する事もなく退室した。

 彫刻のように眠る少女を残したままに。

 

 

    ◇

 

「まったく、いつまで続くんだろうな、こんなこと」

「飛び降りは八人だ。それ以上はないと思うぜ」

 

 これで飛び降りは五人目。

 気になった僕は巫条ビルに立ち寄ったが、浮いていたのは八人だった。結論を出すには性急かもしれないが、あの異様さから考えて答えには近いと思った。

 

「あのビルに立ち寄ったのか。確かにあそこは時間の流れが歪んでいる。要するにあそこだけ時間の流れが遅くなっていて、本来の彼女達の時間──既に死者であるという状態に辿り着いていない。だから思い出だけの実体無き幻霊として像だけが現れる。火を消しても煙が突然消えないのと同じで、残滓だけが残っているという事さ」

 

 なるほど、本題からはずれているが解説としては充分だ。

 この女の頭の回転の速さには驚くばかりだ。僕のように直感で結論を出すタイプとは違いすぎるからだろうが。

 

「……おっと、また死者が出たのか。これで六人目だな。終わりも近いようだな」

 

 ……六人目。

 もしかして、鮮花もこの件に巻き込まれているのだろうか。

 残る二人の犠牲者。まさか、彼女も──。

 

「……そんな筈は、ない──」

 

 僕は彼女を揺さぶり、反応を窺う。

 やはり反応はない。それどころか呼吸すらしていない。体温は依然変わらないというのに。

 その矛盾した状態がなおさら怖気を誘う。

 

「原因不明の昏睡に陥って三週間。普通ならもう死んでいる筈だが、こいつは衰弱すらしていない。現実ではありえない、常識外(こっち)の話だよ。まったく、眠り姫じゃあるまいし」

「……やはり、関係があるらしいな」

「ああ、おまえの見立て通り巫条ビルに縁の強い存在の仕業だろう。どうにも、王子様のキスだけじゃ目覚めそうではないぞ」

 

 やはり僕の推測は当たっていたか、軽口をあしらって情報を聞き出そうとする。

 

「なるほどね。浅上の件もそうだが、おまえも鮮花もああいう手合いに好かれやすい傾向があるようだ。……どうあっても似たものでは穴は埋まらないというのに、それでも求めるのはそういう宿業なのかもしれないな」

 

 宿業か。確かに、僕はともかく鮮花はそういう人間と結びつきが強い。

 きっと特別なだけではない彼女の普遍性、中庸性が彼らを惹きつけるのかもしれない。

 

「さて、この私が可愛い弟子の為に一つ調べてきてやったぞ。もう結論は出たが、元凶はあの巫条ビルにある。いい加減鮮花の寝顔も見飽きただろう」

 

 行くなら好きにしろ、と言ってトウコは僕を見送る。

 僕は急ぎ足で退室しようとする。

 だが背後から声をかけられる。

 

「……焦り過ぎるなよ。時間ならまだあるんだ。そうだな、これで駄目ならその時はキスでもしてやるしかないな」

 

 そうか。聞かなきゃよかったよ。

 それだけ声に出さずに言って、僕は巫条ビルへ向かった。

 

 

    /2

 

 

 さて、事務所からだと随分遠いものだな。

 そんなこんなで僕は巫条ビルへ到着した。

 周辺を見回すと一面は廃れた建物だらけでホラー映画を連想させる街並みだ。

 そうして確かな緊張を持って内部に侵入しようとすると、背後で何かが砕ける音がした。

 

「────!」

 

 ──そんな、ことは──!

 思わず不吉な想像に駆られてその物体に駆け寄る。

 どうやら杞憂だったらしく、それは見知らぬ少女の潰れた遺体だった。

 その事実に僅かに安心して、ビルの中へと踏み入っていく。

 巫条ビルは廃墟らしい廃墟と言える。一面の錆びと充満する埃の匂い。

 確かに幽霊が潜むには相応しい場所だと言えるだろう。

 がしゃん、と錆びた壁の一部が崩れ落ちる。

 まったく、突然地面が崩落しなければいいがな。

 そう考えて振り向いた刹那──。

 

「──ねぇ」

 

 何の前触れも無く、白い女が現れる。

 

「おまえは……!」

 

 直感的に理解する。

 この亡霊の女こそ事件の元凶であるのだと。

 その姿を見るや否や女に向かって疾走し、ナイフを振り抜く。

 手応えはない。

 柵の外を見ると、そこには何度か目にしたことのある景色──地に足を着けず中空に漂う女の姿があった。

 

「あなたも行きましょう」

 

 女は儚げに微笑む。

 一面が錆びついた風景から隔絶したその美しい笑みはまるでこの世のものではないようで、知らず背筋が粟立つ。

 そうしてしばし睨み合っていると、突如として身体が引き倒される。

 なんだ、これは──。

 

「あなた、とっても面白いわ。左腕だけこんなにも触れ合えるなんて」

 

 触れ合える──? そうか。この左腕には霊体に触れられる機能が付いていたのだった。それを逆手に取られるなんて──。

 そうしてもがいても、一向に拘束が解ける気配はない。

 その間にも身体は柵の外、俯瞰の風景へと引き上げられていく。

 

「おまえ、何の目的で──!」

 

 気を窺う目的で問いかける。

 女は哀しげに語る。

 

「だってわたし──やっと空を飛べるようになったのに、ひとりのままなんだもの。こんなにも自由なのに、こんなにも孤独なんて、寂しいもの。だからわたしはおともだちが欲しいの。彼女はいつもまっすぐで……いつもユメを見てる。彼女ならきっと、わたしたちを連れていってくれるわ」

 

 そう言うと、女の周囲に七人の亡霊が浮遊する。

 

「この子達はみんなわたしのおともだちよ。みんな空を飛びたがっていたから、わたしが連れてきた。わたし、あなたの事が気に入ったわ。空っぽだけど、どこまでもユメに焦がれてる。さぁ──いっしょに来て」

 

 女は童女のような笑みで誘いかける。

 それだけで、浮遊感が強まっていく。

 やるしか、ないか──。

 

「お断りだ。オレもあいつも、そんな逃避は望まない!」

 

 この義手に絡みつく糸、これを切断するには魔眼が必要だと判断し、腕にナイフを突き立ててその部分ごと線を斬る。

 それだけで腕は切り離され、拘束から解放される。

 こちらには攻撃手段はないが、これで相手も同様になった筈だ。

 僕は少女達を引き連れた女を睨みつける。

 

「残念ね。また会いましょう」

 

 女はクスリ、と笑って蜃気楼のように搔き消える。まるで初めからそこにはいなかったように。

 ──思ったより、手酷くやられたな。

 とりあえず地に足が着いている事に安心して一息つく。

 まったく、何という未熟さだ。

 そんな自分の弱さに呆れながら、事務所に戻ることにした。

 

 




 一月中に投稿出来ないといったな、アレは嘘だ。
 取り敢えず第二話です。うーんやはり空の境界は難しいですね。今のところまだ話に動きがありませんし。
 俯瞰風景はあと2~3話はかかるかもしれませんね。
 待って頂いた読者の方々には本当に申し訳ないです。
 誤字・脱字等が有れば随時修正していきます。

※2019年9月29日 改訂しました。


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俯瞰風景/3

  不定期更新です


 

 

    /0

 

 

 ────そして彼は目覚めた。

 だが、目覚めたのはお前だけではない。

 お前は「 」(セカイ)を目覚めさせてしまったのだ。

 

 

    /1

 

 

「見事にやられたな。文字通り一本取られたってワケだ」

 

 蒼崎橙子は皮肉を言い放ち、切り取られた腕を一瞥する。

 

「お前の所為だろ。あの程度で壊れるなんて思ってなかった」

 

 それに対して青年──両儀織はそう責め立てる。

 

「まぁ、そう言うな。私の所為なら訳ないんだがね。それにあの件からまだ一ヶ月しか経ってないんだ、義肢の扱いには気を遣って欲しいものだ」

「次からそうするよ」

 

 青年は上辺だけの返答を返す。

 そうして彼は無感情に至る所に散らばった人形を一瞥する。或いはそれらを自分と重ねているのかもしれない。

 

「なあ織。人形は手間暇さえ掛けてやれば際限無く人に近付ける事が可能だ。なら、人と人形を決定的に別けるモノは何だと思う?」

「……魂、或いは自我か」

「正解だ。ソレが無ければどちらも只の器でしかないと言える。魂の無い肉体、即ち抜け殻は『(から)』でしかないんだ。嘗てのお前がそうで在った様にな」

「鮮花が此処に初めて来た時の話をまだしていなかったな。あいつはいきなり弟子にするか雇ってくれないか、と押し掛けて来たんだ。何処かの展覧会で私の人形に虜になったとな。兄の協力で連絡先も何も無い状態で此処まで遣って来た。人避けの結界が張ってあるこの''伽藍の洞''にだ。初対面の時にもあいつは人形に気が行っていた様だったよ。特にその端に座っている人形は鮮花、そして幹也のお気に入りだ」

 

 彼はそこに座っている人形に目を向ける。確かに、自分とよく似ているのかもしれないとより強く認識する。

 

「あいつはその人形にお前の()を見ていたのだろうよ。何せそんなモノに惹かれる様な奴だ、巫条ビルには近付くなと警告していたが無駄だったらしい」

 

『空』……何故か鮮花には普通ではないモノにばかり惹かれる癖があった。

 ……何故、そんなモノに興味を持つのだろうか。昔からこいつの考えている事はワカラナイ。

 

「義肢の完成は明日になる、その時にまた来てくれ。もっとも、どう使うかはお前次第だがな」

 

 そうして彼は最低限の情報を頭に取り入れて工房を後にする。どうやら先の話の事を考えている様だった。

 

 

    ◇

 

「動かして見ろ」

 

 そう言われた彼は新しい腕を振る。特に異常は見当たらない様だ。

 

「今は違和感があるだろうが、その内に慣れる。 当社比二倍。今度のは頑丈だぞ。象にでも踏まれない限り壊れない」

 

 人形師が説明を終えると同時に刃が紫煙を切り裂く。

 

「良い腕だ…それにしてもトウコの注告を無視した挙句にこれとはな。全く、自業自得だな」

 

 彼は手に入れた左腕に満足し、皮肉げに呟いた。

 

「行くのか」

 

 橙子は最早分かりきった問いを投げ掛ける。

 

「答えるまでもない」

 

 彼もまた分かりきった回答を投げ返し、黒いコートを翻して唯一つの目的を胸に雪辱の地へ向かって行った。有るのは只の明確な殺意か、或いは──。

 

 

    /2

 

 

 橙子の話では巫条ビルは閉鎖されているらしい。

 その為痕跡を残さず正面から侵入する事はおそらく不可能だろう。

 だからこそ彼は今こうして適当に選んだ周辺のビルの屋上に立っている。 

 そして此処と巫条ビル屋上の間を大まかに把握する。

 確認を終えると共に彼はその間を一跳びで跳び越え着地する。

 それを幾度か繰り返していると既にビルのエレベーターまで到着していた様だ。ソレが正常に稼働する事を確認し彼はその狭い箱の中に収まっていく。

 その密室には鏡が張っており、利用者の鏡像を見せ付けるという趣向が凝らしてある。

 漆黒のコートと同様のズボン。

 そこには全身を黒い影で覆っているかの様な服装をした虚ろな瞳を持つ人物が映り込んでいる。

 万物に対する極限の無感情を体現したかの如き虚無的な瞳。それこそが両儀織という人物を特徴付けるに相応しいモノである。

 彼はそんな自身の姿にすらも関心を向けることなく屋上へ通じるボタンを押す。

 鉄で囲まれた密室は重ねた年月を誇示するかの様に僅かに軋みを上げながら大地を離れて行く。

 僅かな間だけの密室という小世界。

 彼はこの場所が嫌いではなかった。

 今この瞬間だけは過去の自分は関係ない。外界で何が起きようと関係はなく、また知りようもない。

 その自身の無関心さを肯定してくれる様な在り方は自身の穴だらけの伽藍の心を鎮めてくれる。

 そうしてほんの僅かな安穏に浸っている間に扉は軋みを上げ昏い闇を視界へ飛び込ませる。

 巫条ビルの屋上は廃墟というには珍しい程整った光景だった。

 平坦に敷き詰められたコンクリートと張り巡らされた金網。それに加え給水タンクが設置してあるのみで他に目につくものは見当たらない。

 ただ、その風景だけは紛れもなく異質だった。

 周囲のビルよりも一際高い屋上からの光景は確かに絶景だといえる。

 ただし、それは人が持つべきでない俯瞰の視点。

 理性と意識を磨耗させる暴力の如き衝動が襲い来る異界でもある。

 そしてその最たるものとして月を背にして人型が浮かび上がっている。

 何時か同じ場所で見た、八人の少女達が。

 その中でも最前列に浮かぶ女は一際異質だった。幽霊という程不確かでなく、現実にそこにいて空を漂っている。

 何よりもソレはあまりにも美しかった。

 一点の染みもない白装束から覗く細く、同じく白い手足。絹糸のような柔らかな長い黒髪。

 まるで絵画から飛び出してきたような現実離れした女が七人の少女を従え、そこにいる。

 

「──美しい。確かにこいつは魔的だ」

 

 一瞬、心を掠め取られる様な錯覚を振り切り織は決意を固める。

 

「なら、殺さなくっちゃな!」

 

 その言葉と共に彼は一陣の突風の様に疾駆し、瞬きする間も無く二人を切り捨てる。

 その勢いを維持したまま何人かを次々と舞踏の様に霧散させて行く。

 そして上空に退避しようとする少女と同じ高度まで跳躍し、その額を短刀で刺し貫き急降下で更にもう一人を巻き込む。

 そうしている内に屋上に残っているのは織と女だけとなっていた。

 焦りを感じたのか女は隣のビルの屋上に飛び去ろうとする。

 彼はそれを──軽く十メートル以上は離れているであろう先のビルに義手に仕込んでおいた機構を起動しワイヤーをフックショットの様に飛ばし引っ掛け、巻き取る力を利用して飛び移る。

 そうして女に追いついた織は相手ににじり寄る。

 

 そして遂に二人の視線と同様に殺意もまた交錯する。

 

「──地に足が着いていない。飛んでいるのか、浮いているのか」

 先に動いたのは女の方だった。白い指先に殺意を籠め、織の姿に向ける。

 

 ──あなたは飛べる。

 

 その暗示が具現すると同時に織の体がよろめく。

 だが、崩れ落ちる事なく彼は歩を進めていく。

 それを訝しんだ女は殊更に暗示–––いや、最早洗脳と呼ぶべきものを行使する。

 それは正しく暴力と言うに相応しい衝動だった。

 それに対して織は大地に縫い付けられ何重にも縛られている自身の姿を幻視し対抗する。

 その間に織は女の''死''を確かに捉えていた。

 そうして女はさらなる明確なイメージを伴った衝動をぶつける。

 ……飛べる。自分は飛べる。昔から空が好きだった。昨日も飛んでいたんだ。たぶん今日はもっと高く飛べる。それは自由に。安らかに。笑うように。早く行かなくては。何処に? 空に? 自由に?

 ──────それは。

 現実からの逃避。大空への憧れ。重力の逆作用。地に足がついていない。無意識下の飛行。行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう────────行け!

 

 

「──オレは何処にも行かないよ」

 

 彼はその誘惑を振り切るのではなく、俯瞰する事で遠ざけた。

 

「そんな憧れ、オレにはないんだ。ガランドウなままだから、生の喜びも苦しみも知らない。だからそんな誘惑も意味が無い」

 

 ──ガランドウ、それは心が空であるということ。だから苦しみもまた、その伽藍作りの工程の一部に過ぎない。だからこそ苦しみからの解放も望まない。

 

「おまえになんて興味はない。ただ、そろそろ拠り所を返してもらいたいだけだ」

 

 その意思を贈ると同時に彼は虚空を握り締めた。すると奇怪な事に女の頸もまた締め上げられる。

 そして彼が左手を引くと、連動して女も織へと引き寄せられた。

 恐怖に駆られた女は織を怨むように暗示をぶつける。誘惑ではなく、明確な呪いとして。

 

  ──堕ちろ、堕ちろ、堕ちろ、堕ちろ、堕ちろ! 堕ちろ──!

 

「おまえが堕ちろ」

 

 落下してきた女の''死''に向かってナイフが突き刺さる。出血はない。

 あまりにも呆気なく胸を突き通された女はするりと抜け、飛散する蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のように散りながら屋上から真っ逆さまに地へと転落していく。

 その様は、まるで––––––。

 

「骨か、百合だ」

 

 

    ◇

 

 

 そうして両儀織は屋上を後にした。

 他に人影はない。只の夜景だけが人を空へと誘うかの様にそこにあった。




 更新が遅れました。申し訳ありません。ですが、やっと更新再開出来そうです。
 多分、次で俯瞰風景は終わりですね。そうしたらやっとお待ちかねの殺人考察(前)です。ここ辺りからオリジナル展開になっていきますので構想に時間がかかりますが、何卒ご容赦を……。


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俯瞰風景/4

 なんとか、間を開けずに投稿する事ができました。
 このペースが維持できれば……。


    

 

     /1

 

 

 心臓にナイフを突き刺されて目が覚めた。

 普通ではない絶技だった。あんなにも迷いなく正確に心臓を貫くなんて、あの人はとんでもない達人なのだろう。

 あれは正しく神業だった。

 無駄がなく、骨と筋肉を躱して心臓のみを潰すなんて到底真似できないことだ。

 全身を覆い尽くしていく死の感覚。

 心臓を突き破られる音と音と音──。

 

 

    ◇

 

 

 扉が開かれる音がする。

 どうやら外はまだ暗いようだった。

 診察の人が来るまでにはまだ時間がある。どうやら面会人らしい。

 

「……誰?」

 

 人影は答えない。それでもわたしは誰かが訪ねて来てくれたという事実が嬉しくて、取り留めもない事を話し始めた。

 

「良い眺めでしょう?」

 

 そうして初めてその人物は声を発する。どうやら女性の様だった。

 

「今夜は……月が綺麗でしょう?」

 

その意味の無い問いに対して、律儀にもその人は返答を返していた。

 

「やっぱり。わたし……此処からの眺めが好きなの。桜…春はね、桜がとても綺麗なの。花弁が空に散って空に花が咲いたみたいになって……」

 

 そうしていると突如として青年の声が響いた。

 

「来年も見られるといいな」

 

 どうやら来ていたのは女性一人ではないらしい。 

 そしてその声はどこか聞き憶えのあるものだった。 

  ……それは、冷酷で恐ろしい響きだった。この人はきっとわたしを破滅させる。

 

「あなたはわたしの敵ね」

 

 ああ、と女性は頷き、青年は沈黙をもって応えた。

 

「あなた達はどうしてわたしに会いに来てくれたの?わたしは何もできないのに」

 

 その問いに青年が答えた。

 

「別に、おまえに興味があったわけじゃない。ただ、おまえに似ているかもしれないヤツを知っているからな。オレは確かめたかっただけだ。」

 

 そうして女性が本題に入ろうとしていた。

 

「君の状態は知っている。だから無理にとは言わないが」

 

 その気遣いにわたしは少しだけこの人物に好感を持ったのか、知らず微笑みを浮かべていた。

 

「失礼する」

 

 そうして女性は扉を閉め、わたしの傍らにある椅子に座る。

 わたしには久しぶりの来訪者の名前を知りたいという感情が湧き上がってくるのを抑えることは出来なかった。

 

「名前を聞いてもいい?」

「蒼崎橙子だ。彼は両儀織だ」

「わたしは巫条霧絵。珍しい名前ね、二人とも。よろしく橙子さん。織さん」

「…ああ」

 

 両者共に答えを返してくれた。冷酷に見えてこの人達は存外律儀なのだろうか。

 そして橙子さんは本題に進んだ。

 

「此処に来てどの位になる」

「さあ……覚えてない。長い、長い間毎日毎日……窓の外ばかり見てた。ずっとずっと、この窓からこの景色だけ……」

「つらいのか」

 

それは同情ではないのだろうが、わたしにはそれが嬉しい。

 

「でも、この景色だけは居なくならないから……」

 

 ふと、傍らに置いてある写真を見る。

 もう何年も前にわたしを置いてどこかに行ってしまった家族のものだ。

 その現実がどうしようもなく憎かった。

 

「どれだけ憎んでもわたしには……これしか無いから」

「だから窓の外を見続けた。そしてこの風景を脳内に取り込んだと。そして俯瞰を手に入れた」

「気が付いたら、わたしの目は''空''にあった」

 

 その言葉が引っかかったのか橙子さんは確認する様な口調で話を続ける。

 

「視力を喪ったのもその頃か」

「目には何も見えなくなったけど、わたしの風景は変わらなかった」

「つまり、君の景色は空にあった。だが巫条ビルに居た幽霊が君なら、君はもう死んでいる筈だ。織が仕事を仕損じるとは思えない」

 

 やっぱりあの影みたいな人は目の前に居る織さんだったらしい。

 

「あのわたしはわたしじゃない。空のわたしは行ってしまったの。わたしは自分にさえ見限られたの」

「二重人格ではないな。君は一つの人格で二つの身体を操っていた。なるほど、二重身体者とは他に類を見ないな。おそらく君のその力を引き出した者がいるな」

 

 その言葉はわたしにとある人物のことを彷彿とさせた。

 

「二重存在。あの人はそう呼んでいた」

 

 そして織さんは少しだけ責める様な口調で口を挟んだ。

 

「なら、何故おまえは外を見ているだけで満足しなかった?あいつらを落とす必要はなかった筈なのに」

 

 ああ、あの羨ましくて可哀想な彼女達。わたしは落としたかったわけじゃない、ただ──。

 

「あの子達はわたしの周りを飛んでた。友達に成りたかったの。けれど、あの子達はわたしに気付いてくれなかった」

「意識が無いから当然だろ」

 

 織さんは呆れ気味に続ける。

 

「だから……呼びかければ気付いてくれると思ったの。''わたしはここに居る、ここに居るんだ──''って。それだけなのにどうして──」

 

 わたしは泣いていた。わたしが彼女達を死へ誘ってしまったという事実が自分を苛んでいく。

 

あいつ(鮮花)を連れて行ったのは道連れか」

 

 その言葉には怒りが滲んでいた。怖くなったのか、わたしは首を横に振る。

 

「病院の廊下で彼女に会った……。毎週毎週、同じ時間に。綺麗な花束を持って……」

 

 わたしは止めどなく涙を流していた。

 この悲しみがわたしの凍てついた心を揺り動かしている。

 織さんは何故か愕然としている様に感じた。

 

「わたしを……連れて行って欲しかった」

「そう……か。だが、生憎それは──」

 

 それは、決して叶わないユメ。決してカタチを与えてはならないものだったのだ。

 何よりもここに居る彼が許さないだろう。

 わたしは泣き続けたままだった。数年ぶりの感情の波を抑えきれなくなってしまったからだ。

 そして橙子さんは一つ言葉を残していった。

 

    ◇

 

 

 月明りだけが、生きているようだった。

 そうして二人は去ってしまった。──また、一人になってしまった。 

 先の言葉がわたしの脳裏を過る。

 

「逃走には二種類ある。目的のない逃走と目的のある逃走だ。一般に前者を浮遊と呼び、後者を飛行と呼ぶ。君の俯瞰風景は君自身が決める事だ。ただ、君が罪の意識で何方かをえらぶのなら、それは間違いだ。我々は罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を負うべきなのだから」

 

 ──それが彼女の最後の言葉。彼女にはわたしのとる結末が分かっていたに違いない。

 その言葉に聞き入っていた織さんも同様だろう。

 だってわたしは飛べなかった。ただ浮いていただけだったから。

 わたしは弱いからあの人の言った通りにはできない。だからこの誘惑にも勝てない。

 あの時感じた圧倒的なまでの死の奔流と生の鼓動──。

 わたしには何もないと思っていたけれど、あの人がわたしに残っていた大切なことを思い出させてくれた。

 けれど、あの時の様な死を迎えるのは不可能だ。だから出来るだけソレに近付こうと思う。

 それに方法だけはもう決まっている。

 言うまでもなく、わたしの最期は俯瞰からの墜落死が良いと思うのだ──。

 

 そうして彼女は再び異界の淵に立ち、浮遊ではなく最期の飛行を試みた──。

 

 

    /2

 

 

「もうこんな時間か、今日は帰っていいぞ鮮花」

 

 確かに橙子さんの言う通り時計は既に五時を指していた。

 自分はどうやら寝てしまっていたらしい。

 

「はい。わかりました」

 

 目が覚めてから暫くして、わたしは帰宅の準備を始める。 

 ……寒い。まだ八月だというのにどうしてこんなにも寒いのかわたしにはわからなかった。

 外ももう陽が暮れかけているし。こんな事なら上着を持ってくるべきだった。

 

「織、送ってやれ」

 

 そう言われた織は何故だか不満と少しばかりの安堵、それから僅かな哀しみを浮かべていた。

 そうしてわたし達は陽が暮れる前に事務所を後にした。

 

 

    ◇

 

 

 夏の夕暮れの中、わたし達は二人帰路についていた。

 織のアパートはここから近いが、わたしのアパートはここから電車で20分は離れている。

 織は何か不安でもあるのか覚束ない足取りでわたしの側をぴったりと歩いている。

 

「……なあ鮮花。おまえは自分が選んだ道で罪を背負うことが出来るか? それとも負った罪で道を選ぶのか?」

 

 唐突に、彼はそんな問いを投げ掛けてきた。

 

「難しい質問ね。……そうね、わたしに限らずほとんどの人は前者を選びたいと思うかな」

「やっぱりそうなのか」

「でもね、それってとっても難しい決断なの。だって人っていう生き物はどうしようもなく逃げたくなってしまうものだから。罪を背負うことが分かってでも自分の選択を信じ続けるのは苦しいことだもの。だから多くの人は罪から逃げてしまうのかもしれない。でもわたしはそれを否定できないし、無意識にわたしも後者の方を選んでいるのかもしれない。わたしにも前者を選ぶのは難しいかな。……だってわたしも弱い人間だから」

 

 けれど、間違っていると分かっていても自分の選択を信じたいこともあるだろう。

 でもそれはいくら決意に満ちたものであっても結局は逃避にすぎないんだ。

 だからわたしたちはどんなに無様でも愚かでも自身の行いの結末とその罪を受け入れなくてはならない。

 そしてその過ちを正さなくてはいけない。

 それはとても過酷で、強い意志がいる決断だ。

 多分わたしにもそんな選択はできないし、わたしの見解がそんなに正しいとも思えないので口に出すのはやめておいた。

 

「えーと、とにかく、正しさとか選択とかって人それぞれだと思うかな」

「……でも、おまえは違うよ」

 

 そう織は呟く。それはわたしを励ましてくれたということでいいのだろうか。

 雑踏に満ち満ちた人工のジャングルを暫し無言歩いていると、わたしの部屋は目前に迫っていた。

 

「織、今日はありがとう。また明日ね」

 

 わたしは普段と変わらない、一時だけの別れを何気なく告げる。

 

「……また、明日」

 

 それに対して織は何故だか熱の入った言葉で返してきた。

 

 夕日に遮られて正確に見ることはできなかったけれど。

 その表情は目覚めてから初めて見せてくれた時と同じ本当の笑顔のように見えた。

 

 

    ◇

 

 

「今の、飛び降り自殺でしたね」

「その様だな」

 

 目の前で惨事が起きたというのに橙子はそっけない態度をとる。

 

「なんでも、病気を苦にした自殺だとか。……悲しい話だ。そこまでして死を選ぶなんて、余程苦しかったんでしょうね」

 

 黒い眼鏡を掛けた人の良さそうな青年は実に彼らしい感想を漏らす。 

 橙子は屋上を見上げ、ありえない幻像を見るように呟く。

 

「自殺に理由はない。今日は飛べなかっただけだろう」

 

 

    ◇

 

 

「行かれるのですね」

 

 霧絵が屋上に出た時、そこには何者かが待ち構えていた。

 その声は哀しげで、憂いを含んだものだった。

 

「あなた……誰?」

 

 視力を喪失した霧絵には目の前の人物が何者かを判別する事はできないが、声色から若い男である事は判る。

 

「私は玄霧皐月。貴女を見届けに来たのです」

 

 霧絵は本能的に理解する。この青年は自分にとどめを刺しに来た死神、あるいは妖精なのだと。

 それでも、優しく穏やかに話す彼は味方にしか思えなかった。

 

「あら……嬉しいわ。会いに来てくれるのなら妖精でも死神でも大歓迎よ」

「それはどうも。お望みとあれば、いつまでも」

 

 やはり、この妖精の様な人は味方だ。

 そう確信した霧絵は玄霧と名乗る人物に興味が湧き、あれこれと質問する。

 

「あなた、''あの人''の知り合いでしょう? だからわたしを見届けに来たのね?」

「ええ。彼は理由あってあの建物からは出られない。だから彼の代行として来たのです」

 

 やっぱり。彼はわたしの選ぶ結末が分かっていたらしい。

 そうにも関わらずわざわざ代行者を送ってまで見届けるというのは、彼なりの気遣いなのか。あるいはとどめを刺す為なのか。

 

「そうね……。できればいつまでも一緒にいたいけど、わたしにはもっと強い望みがあるから……」

 

 霧絵は哀しげに微笑む。それに連動して玄霧も悼む様に目を伏せる。

 視力の無い霧絵にも理解できる程、玄霧は優しい表情をしていた。

 

「ありがとう玄霧さん。今ならわたし、どこへでも飛んで行けるわ」

 

 霧絵の体は、既に限界だった。

 ここで生き延びたとしても、半年と保たないだろう。

 それを理解しているからこそ、玄霧は彼女の望みのままに背中を押すのだ。

 せめてその最期が、報われるものであるようにと。

 

「さようなら、霧絵さん。貴女の最期が何よりも美しいものであることを──祈っています」

 

 霧絵は静かに頷き、異界の淵に立つ。

 何よりも昏く悍ましく、壮絶なまでに美しいそこに。

 そうして霧絵は空を飛ぶ。風に揺られる綿毛の様に。

 夜明けに浮かぶ白い姿はまるで百合。

 ふわりふわりと蝶じみて、紅く大地に咲き誇る。

 

「ああ、貴女は正しく──白百合だ」

 

 万感の思いと共に、玄霧は呟く。

 彼女は飛び、花となった。

 その瞬間は何よりも美しく、『永遠』にすら近しい輝きを放っている。

 ''彼''の真似事ではないが、玄霧はそれを永遠に憶えておくことにした。

 玄霧はその極限の美を──ぼんやりと、刻み付ける様に俯瞰しているのだった。

 

 

    /俯瞰風景・了

 




 これにて俯瞰風景は終わりです。インターミッションを挟んで次はようやく殺人考察(前)です。
  少しでも霧絵さんに報われて欲しかったので、玄霧先生に出張して貰う事にしました。
 両儀織がどうして男なのか、原作とどう分岐した世界なのかは前日編の『彼方を継ぐ者』にて語っていきます。
 とにかくここまで読んで頂いた方々、本当にありがとうございました!


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境界式/1 -intermission-

 今回は箸休めです。


「そうか……失敗に終わったか」

 

 暗闇に閉ざされた一室で、男は何の感情も無く呟いた。

 悩みでもあるのか男の貌には長年の苦悩の皺が入墨の如く刻み込まれている。

 その相は永遠に解けぬ難題に挑む哲学者のそれか。

 

「これで三人目。貴方にとっては無駄だった、ということ事で良いのですか?」

 

 此処に居るのは一人だけではない。男の他にもう一人、黒いスーツを着込んだ特徴の見当たらない男が傍らに立っている。

 

「無駄ではない。あの三人と相対した事でアレは自身の''起源''を自覚し近づいたことだろう」

 

 男は表情を変えることなく少しだけ歓ばしげに答えた。

 

「なるほど……つまり貴方の計画はどう転ぼうと無駄はありえないと。なら次は私の出番で決まりですね?」

「そうだ。それにお前の実験に相応しい異界も既に用立ててある。後はただ時期を待て良い。さすればお前の望みも成就するだろう」

「ええ、何せこれは契約ですからね。貴方の指示に従うとしましょう。ですが、一つだけ契約に変更をさせて頂きたい」

「……言ってみろ」

「私に貴方の望みを教えて欲しい。私は何も望まない。ただ永遠(こたえ)が欲しい。貴方はどうでしょうか」

 

 男は迷いなく明確に答えを返す。

 

「私は何も望まない。ただ結論(こたえ)が欲しい」

 

 それは、目の前の男の願いと同質に思えるものだった。

 

「それでは私達は同類という事ですね。ただ、貴方は何故そんなものを望むのですか?」

 

 男は暫し思案して返答する。

 

「……理由など、とうに忘れた」

 

 その答えに特徴の無い男は初めて表情を崩した。それは哀しみか、或いは怒りなのか。

 

「それでは望みとは言えませんね。私は貴方の望みを教えて欲しいと言ったのです。貴方は自分に忘却を与えることで理由を忘れ、自らの願いを放棄している。それは魔術師として有ってはならない忘却だ」

 

 その言葉に苦悩を浮かべた男の貌は更に曇ってゆく。

 

「……何がしたい」

「貴方の嘆きを再生する。忘却は確かに貴方の中に記録されているのだから。これを許可して頂ければ、私は貴方との契約を完遂すると致しましょう」

「これは契約だ。いいだろう、好きにしろ。だがそれに見合った働きを保証してもらうぞ、統一言語師(マスターオブバベル)

 

 その言葉を最後に二人は会話を打ち切り、統一言語師(マスターオブバベル)と呼ばれた魔術師が黒衣を纏った生ける地獄の顔に手を翳す。

 

「貴方には自身の望みを知り、結論(エイエン)を手に入れる義務がある。……貴方の目的は興味深い。私にも貴方の結末を見届けさせて欲しい。願わくは、貴方の望みが成就せんことを」

 

 斯くして苦悩する男の嘆きは再生され、忘却は追憶へと成り変わる。

 

 そうして統一言語師(マスターオブバベル)は予定通り行動を再開し、用意された舞台(異界)へ向かっていった。

 ただ永遠(こたえ)を手に入れ、この矛盾した螺旋(セカイ)の果てを見届けんが為に────




 以上です。
 感想を書いて頂ければ作者の励みになります!要望などもできる限り受け付けようと思います。
 ではまた。


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2/殺人考察 (前) -……and nothing heart.-
殺人考察 (前)/1


 不定期更新です


    

 

    /0

 

 

──────1995年3月

わたしは彼に出会った

 

 

    /1

 

 

 一九九五月四月、入学式。

 春の陽気の中、誰もが新たな生活の到来に目を輝かせていた。

 

 だが、わたしだけはとある人物のことが気がかりになっていた。

 中学最後の夜の出来事だった。

 季節外れの雪の夜、わたしはあてもなく夜の街を逍遥していた。

 その白い闇に染まった世界で、わたしはとある非日常と遭遇することとなった。

 

 死神の様な黒い影。その暗さは一面の銀色と対になっていてまるで太極図の様だった。

 今となっては何故そうなったのか知る由も無い。

 わたしはどうしようもなくその人物のことが頭から離れなくなったのだ。

 今日は散歩に出ろ、そしてその男を忘れるな、と。まるで何かがそう命じていたかのように。

 もしかしたら催眠術でもかけられていたのかもしれない。

 けれどそんなことはどうだってよかった。

 わたしにとって重要なただ一つの事実、それは──

 わたしはようやく特別(ほんもの)に出会えた。

 

 

    /-1

 

 

 一九八六年、私は君に出会った。

 

 九年、君を待っていた。

 ようやく時は満ちた。

 始めよう、世界の救済(終焉)を。

 

 

    /2

 

 ──やっと見つけた。

 彼があの夜の人物に違いないだろう。

 服装はあの時と違って黒いスーツ姿だけれどあの瞳だけは見間違えようがない。

 わたしは人混みを抜けながらその姿を探す。

 

「ねぇ、あなた!」

 

 わたしが声をかけると彼は不思議そうに反応する。

 

「やっぱり、あの時の…!」

 

 わたしは喜びを隠し切れず不躾に言葉をかける。

 まずい、少し引かれたかも。

 

「……貴女、誰です?」

 

 ────流石にこれは予想外の返答だった。

 

 

    ◇

 

 

 入学式の翌日、わたしはとある人物と知り合った。

 彼の名前は白純里緒(しらずみ りお)

 一つ上の学年でどうやら生徒会の所属らしい彼は、目立った特徴も問題も見当たらない優等生である。

 わたし達は互いに二つ共通点を持っていた。

 ''特別''なものが好きである事と、''とある人物''が気になるということだ。 

 ''とある人物''とは無論、同じクラスになることができた『両儀織』の事である。

 

 そのおかげか意気投合したわたし達は今からその両儀織を昼食に誘おうとしているところだ。

「こんにちは、織。一緒に食べない?」

「また貴女か……僕は誰かと昼食を食べる気はありませんよ」

 

 ……しかし、問題はこれだ。

 両儀織はとにかく人嫌いで、誰とも関わりを持とうとしない事だ。

 理由はなんとなく理解できる。

 もしかしたら幼い頃のわたしに少し似ているのかもしれない。

 

 このように、わたし一人で誘っても無駄に終わってしまうので、今回は先輩と二人で仕掛けることにしたのだ。

 

「……そちらの方は?」

「ごめん、自己紹介を忘れていたね。僕は白純里緒。生徒会所属で君の先輩だ。気軽に『リオ先輩』なんて呼んでくれると嬉しいな」

 

 ……そんなこと初めて聞いたのですが、先輩。

 

「知っているでしょうが、僕は両儀織です。苗字で呼ばれるのは嫌いなので織、と呼んで下さい。『リオ先輩』」

「早速友達になれて嬉しいよ、織くん」

「先輩共々これからもよろしくね、織」

「……友人になったとは一言も言っていませんよ」

 

 結果は成功だった。

 こうしてわたし達は輝かしい高校生活を歩み始めたのだった──

 

 

    ◇

 

 

 完璧だ。

 やはり黒桐さんと知り合っておいたのは正解だった。

 彼女は間違いなく僕の仲間だ。

 彼女とあの両儀だけは他の下らない連中とは違う、本物だ。

 僕はもう一人じゃない。

 彼らも僕となら誰よりも解り合える筈だろう。

 

 僕は、ようやく特別(ほんもの)に出会えた。

 

    /3

 

 

 六月。 

 季節はもうそろそろ夏に入ろうとしていた。

 高校に上がってからというものの、学園にこれといった変化はない。

 有るとすれば、生徒達の服装が春のそれから夏のそれへとなっている程度か。

 ただ、僕自身の人間関係だけが大きく変容しているのだ。

 

 僕は昔から人間という生き物を嫌悪していた。

 幼少の頃からどうしてもその醜さ、汚さ、蒙昧さを受け容れる事が出来なかったのだろう。

 しかもその自分の中の''人間''の定義には僕自身も含まれているので、自分すら嫌悪の対象だった。

 だから当然のように僕に寄りつく人間は居なかった。

 僕自身それを好ましいと思っているので、これまでの人生で自身を囲む環境はおよそ理想的だったと言える。

 しかし、突如としてその環境は破滅を迎えることとなった。

 それは高校生になったばかりの頃の話だ。

 二人程、執拗に僕と関わりを持とうとしてくる人物が現れたのだ。

 

 入学式の時に唐突にまるで知り合いであるかのように話しかけて来たクラスメイト、黒桐鮮花。

 そしてその友人らしき生徒会所属の先輩、白純里緒。

 彼らだけは何故か決して人を寄せ付けない僕に友人として接しようとしてくるのだ。

 理由は分からない。彼ら──特に黒桐鮮花には僕のような人物と関わる理由が全く見当たらないからだ。

 

 彼女には人格的にも能力的にも凡そ問題と言える部分が欠片も見出せない。

 学力試験は常に学年首位で体育の成績も女子の中ではトップクラスだ。

 交友関係も広く、率直で思いやりが深く理知的な人柄は男女を問わず大きな支持を得ている。故に同性から嫉妬を受けることはなく、異性からは高嶺の華として強い尊敬を受けている。

 その在り方は正しく理想の優等生というに相応しいだろう。

 

 白純里緒に関しては上級生であるため関わる機会が乏しく、遭遇する時は決まって黒桐鮮花と一緒にいるため情報が少ないのだが、彼女の口ぶりでは特に問題の見当たらない善良な生徒であるらしい。 

 ……それが正しいのならば、さぞ友人も多いことだろう。

 

 ──それなのに、どうして。

 どうして彼らは、僕のような異常者と関わりたがるのか。

 

 

    ◇

 

 梅雨だからだろうか、今日は午後になってから突然雨が降り始めた。

 雨の日は服が濡れてしまわないように秋隆が迎えに来てくれるのだが、今のところそれらしき車は見当たらない。

 やる事もないので昇降口で雨宿りしていると見覚えのある人影が出現する。

 その数は一人。そしてその正体は即座に判明した。

 それもよりにもよって件の少女、黒桐だ。

 白純の姿は見当たらない。珍しく今日は一人らしい。

 彼女はいつの間にか僕の傍らにただずんでいる。

「傘ないの?わたしのを貸してあげる」

「いや、必要ありません。迎えがあるので。黒桐さんも雨が酷くならない内に帰った方が良いのでは?」

「それなら、わたしも一緒に待とうかな。だってあなた暇でしょ?」

「……珍しい、先輩は?」

「今日は生徒会の仕事があるから遅くなるって…あら、織が先輩の事を気にかけるなんて。それこそ珍しいことじゃない?」

「別に。ただ、貴女達はとても仲が良さそうなのでそう思っただけですよ」

「べ、別に先輩とわたしはそ、そういうのじゃなくて……!」

 

 何を勘違いしたのか、彼女は実にわかりやすく顔を赤らめている。

 ……彼女が率直な人柄だとは知っていたつもりだが、まさかこれ程とは。

 流石に人前でもこんな風だとは考えたくもない。

 いや、思えば彼女と一対一で会話したことなどこれが初めてかもしれない。

 だからこそ行動の意図が掴めなくて混乱するのかもしれない。

 とにかく、現状では彼女の本質を知るには余りにも材料不足だ。

 

「とにかく!わたしもここで待ってるから!」

 

 僕が沈黙しているとそれを肯定と受け取ったのか、彼女は壁にもたれかかる。

 

 あくまで彼女の本質を知るための材料集めという目的だが、僕は今彼女から振られた会話には応答するつもりでいる。

 だから何を聞かれようとも無難な回答を返そうと決めた。

 

 しかし、音らしき音は雨音だけだった。

 黒桐は口を開かなかった。

 満足そうに瞼を閉じていることから、先ほどの事が堪えている訳ではないらしい。

  ──呆れた。

 どうやら唄っていたらしい。

 後に彼女に聞くとそれは''singing in the rain''という流行歌とのことだ。

 兄が歌っていたのを聴いて知ったということまで話してくれた。

 僕と黒桐は誰も居ない昇降口で立ち尽くしている。

 そんな状況で二人きりでいて会話がないことには違和感があるが、不思議と落ち着いた時間ではある。

 なぜか僕はそんな沈黙を心地良いと感じていた。

 だが、それも僅かな時間に過ぎなかった。

 ──まずい、アイツが出てきてしまう––––!

 

「黒桐さん!」

「えっ、何か!?」

 

 知らず発した叫びに彼女は沈黙を破った。

 

「えっと……どうかしたの?」

 

 彼女は不安そうに冷汗を流す僕を覗き込んでくる。おそらく、本気で心配しているのだろう。

 その時、僕は初めて黒桐鮮花という人物をニンゲンでなく人として見ていた。

 

 彼女はとりわけ容姿端麗と言える。

 大きく澄んだ、それでいて強い意志の宿る碧の瞳。

 絹の如きセミロングの黒髪。

 陶器の様なきめ細かい白い肌。

 女性的で均整の取れた身体。

 季節感のある白のワンピース。

 そのどれもが彼女を芸術品に仕立て上げている。

 しかし、その濁りのない意志とどこか尋常ではない気が彼女を何よりも人間らしく彩っていた。

 

 ふと、思う時がある。

 今まで彼女の事を''優秀''だと思っていたけれど。

 その実、彼女もまた僕と同じ''普通でない''存在なのではないのか、と。

 

「いや、何でもありませんよ。何でも……」

「そう?でも何だか少し顔色が悪いわよ?あんまり無茶はしないで。何でも一人で解決しようとするのはあなたの悪い癖よ?」

 

 いや、違うだろう。その筈だ。

 だって彼女はこんなにも人が良い。

 そんな彼女が僕などという歪な人間と同類とはとても思えない。

 だからこそ僕は彼女の二面性の様なものに反感を抱くしかない。

 

 僕も彼女もそれきり話さなかった。

 ただ秋隆の迎えが待ち遠しい。

 程なく迎えの車がやってきて、僕は黒桐と別れた。

 ──秋隆め、今のを見ていたな。

 

 

 これだけが六月中に起きた変化らしき事柄だった。




 遅れました。漸く二章突入です。
 このペースで行けば完結は何年後になるんでしょう…(絶望)

 とりあえず、二章は伏線をばらまけるだけ撒いておきましょう。
 それと先輩をかなり重要な人物として出番多めに書きたいですね。

 何よりも、鮮花カワイイ。これ一番重要。

 ではまた次回。


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殺人考察 (前)/2

 不定期更新です


    

 

/0

 

 

 七月。私はとある少年に出会った。

 酷く歪な男だった。

 食らい、消費し続ける事だけが始まりで、死に逃避する事こそが真の自己であると疑わなかったのだから。

 だが、それで良い。

 その生き汚さ故に彼は自身の罪に立ち向かったのだから。

 だからこそ私は彼に''特別性''を見出した。

 彼ならば、成し遂げる事すら望めるだろう。

 

 

 第一の事件、第一の駒。

 その先に待つのは無限螺旋。

 

 今、終焉に向け全てが動き出す────

 

 

    /1

 

 

 月の初めに父と真剣で稽古するのが両儀家の跡取りの決まりである。

 遥かな過去、退魔の一族たる両儀家の当主は魔を討つ為自己流の剣術に没頭した。

 それは現代まで受け継がれ、当然僕も習得を要求されてしまっている。

 試合を終わらせて自室へ戻る道中、秋隆が待っていた。

 使用人──執事である彼は二十代半ばの青年だ。

 おそらく僕を着替えさせる為に待っていたのだろう。

 

「お疲れ様でした。お父上は何か?」

「いや、何も。それにな、お前もオレよりも兄貴の面倒を見た方がいいぞ。結局家を継ぐのは長男なんだから」

 

 普段とはかけ離れた乱暴な口調に秋隆は微笑む。

 

「両儀家の当主は織様以外に居られません。兄上には素質が受け継がれなかったのですから。そして、貴方の特異性は今までの当主には見受けられないものであります故」

「──こんな異常性に、なんの意味がある。これで鬼やらが討てる訳でもなかろうに」

 

 

 自室に戻り、鏡を一瞥する。

 そこには当然自分だと認識できる人物が写っている。

 

「哀れだな。定められた異常者にすら成りきれないなんてな」

 

 その人物に向かって話しかける。

 話相手はいる。ただ己の内にのみ。

 ──名前のない、もう一人のシキが。

 

 基本的に両儀家の子供には同じ発音の、二つの名前が与えられる。

 陽性、男性としての名前と。

 陰性、女性としての名前が。

 しかし、僕はその中でも際立って異常だった。

 

 本来、僕は女として生まれ式という名前を与えられ、もう片方の人格の方が織であったはずなのだ。

 だが、僕は男として生まれもう片方も男のままだった。

 そこで異常なのが、どちらの人格も男でも対照的な性質を持っている事だ。

 陰性、受動的で物静かな性質を持つ人格。

 陽性、能動的で攻撃的な性質を持つ人格。

 本来女としての式が陰性を受け持ち、男としての織が陽性を受け持つはずだった。

 だが陰性である僕が男として生まれてしまった為、陰性の方が織と名付けられ、もう片方の陽性のシキには名前が無くなってしまった。

 

 しかも僕には不具合の代償か半陰陽––––性染色体異常–––性分化疾患が起きていた。

 基本、男性の染色体はXYなのだが僕はXXYという稀有な組み合わせなのである。

 それは通常、クラインフィルター症候群と呼ばれる症例であり何らかの症状を引き起こすものであるのだが、奇跡的にか必然的にか僕には何の不便も不具合も起きておらず、こうして当たり前のように男性として存在している。

 

 その異常の中の異常を両儀家の人間は大いに喜んでいた。

 父が言うには、僕は想定すら凌駕する超越者という事らしい。そして呪いを背負う者でもあるのだと。

 ……確かに、これは正しく呪いに他ならない。

 

 両儀家の後継者の中には二重人格者は多々存在したそうだが、僕の様に肉体まで変異を起こしている者は一人も存在していないらしい。

 

 詰まる所、僕は初めから異常である事が決まっていたにも関わらずその運命からもはみ出してしまった真性の異常者(イレギュラー)だったのだ。

 

 だからこそ両儀家の人間は僕の存在を祝福した。

 半端とはいえ半陰陽者が誕生し、漸く完全体が生まれたのだと。

 そういった理由で僕は兄を差し置いて次男の身でありながら次期当主として扱われている。

 

 それに不満は無い。面倒が増えるとはいえ、資産や人脈は有るに越した事はない。

 僕はままごととはいえ、こうして平穏な日常を送っていける事にそれなりに満足していた。同時にソレが偽りでしかない事もまた理解しているつもりだ。

 

 元が異常なのならば正常になど戻す事はできない。

 どれほど意味をすげ替えたって、始まりの出来事だけは変えられないのだから。

 

 

    /2

 

 

「鮮花、あんたと両儀君と白純先輩が三角関係になってるって話ホント?」

 

 わたしの友人である相川春菜(あいかわはるな)のとんでもない発言に、わたしはみっともなく噴き出してしまった。

 気管に入った飲み物の所為で咳き込みながら周囲を見る。

 幸い屋上にはわたし達以外には誰も居らず、幸い今の言葉を聞いた者はいない。

 

「あの、それどういう噂よ」

「あんたマジで知らないの?あの一年の黒桐は同じクラスの両儀君にゾッコンで、二年の白純先輩はあんたに入れ込んでるって話。あんたも両儀君も目立つもんだから学校中、その噂で持ちきりよ。で、しかもあんたが下手に白純先輩と一緒にいるもんだからこれから泥沼化するとか囁かれてんの」

 

 …噂はわたしの知らない所でとんでもない規模に膨れ上がっているようだ。

 まったく、余計な世話どころの話じゃない。

 織と先輩と知り合ってまだ三ヶ月程しか経過していないというのに、これ程話に尾ひれが付くとは。それはこの学校があまりにも平穏だという事でいいのだろうか。

 

「あのねぇ、それはとんでもない与太話よ。先輩とも織とも単なる友達、それ以上でも以下でもないわ」

「ほんとぉ? なーんかそれだけじゃないと思うけどねぇ?」

 

 春菜とはわたしが小学生の時からの腐れ縁だ。

 だからこそ経験からわたしの言葉に含みがあると読み取ったのだろう。

 

「だってさ、名前だって呼び捨てじゃんあんた。アイツがそんなの『ただのお友達』に許すとでも?」

「名前で呼んでくれって言ったのはあっちの方よ。先輩もそうしてるし、彼、名字で呼ばれるの嫌いなのよ。名字で呼ぶよりは''アンタ''とかの方がまだいいって。それはちょっと馴れ馴れしいから、名前で呼ぶ事にしたの」

「へぇ、つまんないの。面白くなりそうだったのに」

 

 春菜は至極つまらなそうに溜息をつく。

 正直、そんな期待をされても困るしかないのだけど。

 

「じゃあ六月の昇降口の事もなんでもない事なんだ。…こんなことなら屋上まで来るんじゃなかった」

「ちょっと、なんであんたがそんな事知ってるのよ?」

「そりゃ有名だからよ。六月にあんたと両儀君が雨宿りしてたって話は学校中知れ渡ってるの。なんたって、相手が相手だからねぇ」

 

 思わず深い溜息をついてしまった。

 とりあえずこの話が二人の耳に入っていない事を祈るだけだ。

 

「あと、なんであんた何時も白純先輩と行動してんのよ。そんな思わせぶりな事してるから噂になるんじゃないの?それに、先輩があんたをどう思ってるかなんてわからないのに」

「それに関してはあれよ。前に一人で織を昼食に誘った時は断られたけど、先輩と二人でトライした時に上手くいったからよ。二人なら関わりやすいってだけ。で、後者に関しては何とも言えないかな」

 

 正直、他人が考えている事なんてわかりようが無い。

 それでも、わたしと先輩には信頼があると信じたい。

 

「否定しないんだ。じゃあ先輩があんたに入れ込んでるのは本当かも知れないわね」

「それは……単に他人の感情なんてわかりっこないってだけの話よ。はいはい、この話はおしまい!」

 

 これ以上何か言われる前にわたしはこの話を打ち切った。

 これ以上問い詰められると余計な事を言いかねないから。

 

「しっかしねぇ。なんだって両儀君なのよ。あんたならもっと大人しい、優等生タイプなんかの方が似合うんだけど……あれ、白純先輩なら結構合うんじゃ……」

「織はそんなに危ない人じゃないわよ」

 

 つい反射的に口走ってしまった。

 春菜が嫌な笑みを浮かべる。してやったり、という顔だ。

 

「なーにが友達以上でも以下でもない、よ。ありゃそうそう靡かない男よ。それが判らないなんて、もうとっくにいかれてるって事よ」

「……分かってるわよ、そんなこと」

「じゃあどこがいいのよ。見た目?」

 

 確かに織は美男子だ。でもそれだけじゃなく、彼はわたしを惹き付けるのだ。

 彼はその全てが二つとない特別なのだ。

 わたしはどうしてか昔から特別に成りたくてずっと努力してきた。だから特別の塊みたいな彼はわたしの理想(ユメ)の具現の様な人なのだ。

 ……いや、それだけではない。わたしにも判らない何かが彼を一人にしてしまってはいけないと呼びかけているのもある。

 

「そうね……彼、どう見ても普通じゃないでしょう?わたし、そこが良いと思うんだ」

「普通じゃないから良いだって?あはは!あんたやっぱ昔から変わらないね!」

 

 彼女はそう言って大笑いする。

 わたしとしては昔よりずっと変わったと思うのだけれど、三つ子の魂百までと言う様に人の本質というものはそう易々と変わらないらしい。

 それでも変化を続けるのが人の在り方だと思うのだけど。

 そうこうしている内に昼休みは終わろうとしていた。

 

 

    ◇

 

 

 一学期の期末試験が終わった日、わたしは信じられない物を目にした。

 下駄箱の中に手紙が入っていたのだ。

 差出人はなんと織。それもデートの誘いというこれまたアンビリーバボーな内容だ。 

 なんと『明日、どこか遊びに連れてけ』という単刀直入にして衝撃的な内容で、わたしはその日一日中、自分でも信じられない程の高揚と混乱を抱えたまま過ごすこととなった。

 




 二章第二話です。中々難産でした。
 今回の織はかなり特殊な独自設定を詰め込みました。
 説明すると、元々は正しい歴史の流れだと両儀家の跡取りには『式』が生まれるはずだったのですが、どこかで運命が狂い男性の『織』が生まれてしまいました。
 しかも男女の人格ではなく、対極的な性質を持つどちらも男性の二重人格者として。
 その代償に彼には『式』であるはずだった名残りとしてか染色体異常が発生してしまい、歪な半陰陽者となってしまいました。(特に身体に異常は出ていないが、両儀家の技術の賜物という事で)
 つまり、彼は完全なバグキャラなのです。
 もうこの時点でこの世界は正常な歴史の流れから逸れてしまっています。

 それと、相川春菜の名前は劇場版の黒桐のクラスの出席番号一番から拝借しました。学人ポジです。

 毎度毎度間が開きますが、また次回。
 感想や意見を書いて頂けると作者の励みになります。


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殺人考察 (前)/3

 不定期更新です


 

 

/1

 

 

 ……遅い。

 もう待ち合わせの時間を一時間は過ぎている。

 やはりあの手紙を送ったのは織ではない誰かで、ただの悪戯ではないか、という疑念が頭を過ぎり始めていた。

 すると、背後から唐突に声をかけられた。

 

「オイ」

「わぁぁぁっ⁉︎」

 

 声の主は織だった。

「悪いなコクトー、待たせちまって。秋隆を撒くのに時間がかかっちまった」

 

 当たり前のように彼は言葉を紡ぐ。

 わたしの知っている彼ではない、乱雑な口調で。

 絶句したまま、わたしは彼を再確認した。

 彼の姿は服装を含めて変わらない。

 だが、その纏う雰囲気だけは輪を掛けて異質なものだった。

 

「怒ってんのか? 遅刻したことは謝るから機嫌治してくれよな。初デートなのに開幕失敗、なんて御免だぜ」

「あの、織……よね、あなた」

「もちろん。そんなことよりさっさと行こうぜ。エスコートするからさ」

 

 彼はそう言ってわたしの腕を取って歩き始めた。

 混乱しているわたしに抵抗する術などなかった。

 

 兎に角動き回っていた。

 彼はデパート内の目に付く店を次から次へと移動する。

 織は普段からは想像もつかない程喋る。

 彼はかなりハイになっているようだった。……逆に疲れすぎているのだろうか。

 四時間ばかり移動していると流石に疲れたのか、彼は食事したいと言い出し、ファストフード店に寄ることになった。

 

 混乱状態から復帰したわたしは疑問を口にする。

 

「あなた、普段はそんなにフランクなんだ」

「まぁ、オレ自身はな。普段オレは表に出ないからな。喜べ、オレと会話したのは家族以外じゃおまえだけだぜ」

 

 ……なんとなく話が見えてきた。これは、もしかして。

 

「あなた、二重人格ってヤツ?」

「ご名答。普段は織で……そうだな、オレは名無しだ」

 

 そう言って彼は濡らした指で紙に文字を書く。

 織とシキ、片仮名の方が今の彼なのだろう。

 

「オレはおまえと話してみたかった。織にとってそれは避けたい事だからな。そういう厄介事はオレが代わりにやってやってるんだ。わかるか?」

「代用人格……なるほどね」

 

 曰く、二重人格者は脆弱な自己を守る為に強固な意志を持つもう一つの自己を形成する事が多いと言う。彼もその類なのだろうか?

 いや、きっと違う。

 彼はどちらもどこかアンバランスで危うい均衡の上で成り立っているように思える。

 剥き出しの刃物のように鋭く、押せば壊れてしまいそうな硝子細工。

 わたしには彼がそういう風にしか思えない。

 

 いや、こうして半日過ごしてみても彼はやはり織以外の何者でもない。

 口調や振る舞いは違うけれど、その行動様式は織と同じものだ。

 最初に感じていた違和感も既に消えているように。

 

「でも、どうしてわたしに教えてくれたの?」

「まあ、いい加減隠す方が面倒になってきたからな。おまえが織と関わり合いになろうとするせいでな。オレはな、織が持つ負の感情を受け持つ存在なんだ。破壊だとか殺人だとか。アイツのそういう表に出せない衝動だけを押し付けられてるってワケだ。でも今まではその相手がいなかったからオレも出てくる事なんてなかった。アイツもオレも、誰にも関心がなかったから」

 

 わたしはシキの言葉に不安と僅かながら明確な歓喜を抱いていた。

 つまりわたしは、彼の関心を引いたということなのだから。

 

「……なんだ、嬉しそうじゃねぇか。こんな殺害予告めいた言葉吐かれて喜ぶなんて、とんでもないヤツだなコクトーは。とりあえず安心しろ、オレはあくまでも織だ。だから暴れたりなんてしない。口調や行動の優先順位が違うってだけだからな。……でも最近はズレが生じているがな」

「ズレている? つまりあなた達って意見の相違で争ったりするの?」

「いや、オレが何をしたとしても、両儀織は一人である以上それはアイツの望みでもある。というよりもそもそも肉体の主導権がアイツのものでしかないから、オレは勝手に動いたりはできない。オレがこうしておまえに会っているのも、アイツが会っていいと思ってるからだ。……やっぱりおまえ嬉しそうだな、ニヤつきを抑えきれてないぞ?」

 

 『会ってもいい』という言葉にわたしは笑みを零してしまっているらしい。

  ……やっぱりわたしってわかりやすいのかな。

 

「オレはおまえの素直な所はスキだぜ。けど織はそこが嫌いらしい。ズレているのはこういう所だ」

 

 つまり織はわたしの率直だと言われる面が好きで、でもそんな風に感じてしまう自分が嫌いという事なのだろうか。 

 … …ということは彼はわたしを少なからず良く思っているということなんだ!

「あー、更に顔まで赤くなってるじゃねぇか。素直だねぇ。とりあえず説明は終わりだ。今日はここまで」

 

 唐突に席を立った彼はポケットから高そうな革財布を出す。

 

「じゃあな。オレはおまえの事が気に入ったからまた会うよ」

 

 財布から代金を出して、名も無きシキは颯爽と去っていった。

 

 

    ◇

 

 

 翌日、帰りに下駄箱を見ると手紙が入っていた。

 なんと差出人は白純里緒。

 しかも内容はシキの時と同じく『休日に遊びに行こう』というものであった。

 わたしには誘いに乗る以外の選択肢はなかった。

 

 

    /2

 

 

 当日、彼は時間よりも早くわたしより先に来ていた。

 波のような人混みのなか、目立たない外見の彼を探すのは少し苦労した。

 群青色のセーターに黄土色のロングコートと黒のスラックス、茶色掛かった髪と腕時計。

 それが今日、白純里緒という人物を表す特徴だった。

 

「おはようございます、先輩。今日はいい天気ですね」

「おはよう、黒桐さん。時間通りに来るなんてキミらしい律儀さだね」

 

 他愛ない言葉を交わし、わたし達は目的地へと歩を進める。

 その目的地とは、先週シキと訪れたデパートの事である。

 正直、あのデパートにある店はシキと共に言ったために殆ど知っているのだが、そこは先輩の好みを知る為にも最適な場所でもある。

 

 ちなみに、シキとデートした事は親を含め誰にも明かしていない。

 

 

    ◇

 

 

 先輩はシキと違い、動き回るわけではないものの、とにかくよく食べる人だった。

 華奢な外見の割にかなりの量の料理を平らげている。しかも結構な料理通らしく、それなりに値の張る店を選んでいた。 

 きっとわたしと一緒でなければ何軒ものレストランを回っていることだろう。

 もっとも、高いといっても先輩の奢りなのだが。

 先輩の家は薬屋らしく、それなりに裕福なのだそうだ。

 この通り、わたしは健康体なので白純家の世話になる事は滅多になさそうだ。

 

 そう考えていると、彼は唐突に切り出してきた。

 

「そういえばキミ、先週両儀君と遊んだってね」

「⁉︎  どうして、知っているんですか?」

「どうしても何も、クラスじゃ話題だからね。感想を聞かせてよ」

 

 あれは誰にも言っていない筈なのに。

 つまり学校の誰かに見られたということらしい。

 ……もしかして春菜辺りかもしれない。

 

「まあ、色々な発見がありましたよ。普段は見れないような側面も知れたしね……」

「へぇ、彼にもそんなものがあるんだねぇ」

 

『例えば?』なんて聞いてくると思っていたけれど、彼はそれ以上聞いては来なかった。

 まさか、たったこれだけの情報で織の秘密を見抜いたわけはないだろう。

 大方、わたしが答えあぐねているのを見透かして気を遣ってくれたのだろう。

 

 気が付けばもう日が暮れようとしていた。

「おっと、もうこんな時間だね。名残り惜しいけど今日はもうここまでにしないかな?」

「ええ、先輩が良ければ。今日はありがとうございました」

「うん、また明日」

「ええ、もちろん」

 

 そうしてわたしは先輩との初めてのデートを終えた。

 

  ──この時のわたしには、それが先輩との最後の交流になるなんて、到底分かる筈がないのだった。

 

 

    ◇

 

 

 今日、黒桐さんと初めてデートをした。

 僕の中で彼女の締める割合は日に日に増していっている。

 最初は単なる仲間だと思っていた。

 僕はどうしてしまったのだろうか。

 僕は彼女を見ると、我を失いそうになる。

 僕は彼女の前でだけ、本物になれる。

 僕は彼女とだけ、一緒にいたいと思える。

 

 その感情は、両儀に抱いているものとは全く異なるものだ。

 僕の日常は、侵食されている。

 僕は両儀を羨んでしまっている。

 何故なら、僕は彼女に恋をしてしまっているから。

 どうして彼だけが、彼女の好意を受けられるのか。 

  僕だって、特別なんだ。僕と彼とが、どう違うと言うんだ?

 彼女にとって、特別とは何なんだ?

 ……わからない。

 ならば、示さねばならない。彼女にも、両儀にも。

 僕が誰よりもトクベツなんだっていう、ごく単純な事実を。

 

 

    /3

 

 

 一学期の終業式の後、下駄箱を確認するとまたしても手紙が入っていた。 

 ……多分、わたしは今彫像のように固まっていると思う。

 この手紙の内容が余りにも唐突かつ衝撃的だから。

 もう、どう反応したらいいのかわからない。

 肝心の、内容とは──

 

『放課後に屋上まで来て欲しい。伝えたい事がある』

 

 ……無論、その言葉の意味が理解できない程わたしは愚鈍ではない。

 問題はこれが誰のものなのかが不明である事だ。

 そこで、わたしはこの手紙の主があの人物ではないか、という希望を抱いている。

 両儀織。わたしの特別(ユメ)

 だが、そんな筈はない。

 彼はわたしを遠ざけようとしているから。

 誰とも、居たいと思っていないから。

 それでも、この手紙に一抹の希望を抱いてしまっている。

 ならば、答えを知らなければならない。

 おそらく、九割九分織ではないだろうけれど。

 そうであれば、回答は決まっている。

 

 わたしは意を決し、運命が待つ場へと向かった。

 

 

    ◇

 

 

「やあ、黒桐さん。キミが来てくれて嬉しいよ」

「──────しら、ずみ、先輩?」

 

 そこに居たのは、余りにも予想外な人物だった。

 白純里緒。わたしの友人。

 

「まあ、どうして僕がキミを此処に呼んだのか、なんてキミならわからない筈はないよね?」

「……ええ、もちろんです」

 

 つまり、春菜の言っていたことは正しかったという事なんだ。

 

「正直、言葉を飾るのは得意じゃない。だから僕は率直にこの感情をぶつけるしかないんだ」

 

 おそらく、この行動は彼の積み重ねてきた人生の中で最大の勇気だと思う。

 だからわたしは、彼の言葉を正面から受け止める義務がある。

 ……それが、彼にとってどんなに苦しい結果になったとしても。

 

「僕はキミを(とくべつに)してしまっている。だからどうか、僕をキミだけの特別にして、キミも僕だけの特別になってくれないか」

 

 そう、それは紛れもない彼の本心。

 だからこそ、わたしは黒桐鮮花という女としてこの返答を返さなければならない。

 ……残酷とすら言える、わたしの本当を。

 

「ごめんなさい。わたしはあなただけの特別になる訳にないかないんです。──だって、わたしは特別な人が好きだから」

 

 彼は何一つ理解できない、といった表情で立ち尽くしている。

 それでもわたしは言葉を紡ぎ続ける。

 

「だからあなたの想いは受け入れられない。わたしにはもう、特別にしてしまいたい人が居るから。──わたしは、その人の特別になりたいから」

 

 彼は呆然自失のまま、感情を露にする。

 

「どうしてなんだ、僕は、特別じゃないって言うのか」

「いいえ。あなただって誰かの特別なんです。ただ、わたしはあなただけの特別になる事ができないだけ」

「……つまりキミは、僕のことを何とも思ってなかったんだな。僕は、キミにとっては『どうでもいい誰か』でしかなかったのか」

「それは違います。あなたはかけがえのない唯一人です」

「両儀のことか。キミの特別っていうのは」

 

 やっぱり、知っていたんだ。

 それでも尚、この選択を選んだ彼の勇気にわたしは報いようと思う。

 …彼にとってはこの上なく残酷な、真実に依って。

 

「……はい。やっぱり、わたしの特別は彼だけなんです」

「……そうなのか。なら、僕と彼とがどう違うんだ。なぜ違うんだ」

「先輩は、普通の人だから。どうあっても異質な彼とは決定的に違うんです」

「異質なら……異常だから良いっていうのか、キミは」

 

 わたしは沈黙を以って肯定する。

 

「わたしは彼の苦しみは分かっていないけれど、それでも彼に寄り添いたいから。少しでも喜びと苦しみを分かち合いたいから。だから、ごめんなさい先輩。わたしはやっぱり、普通の人では駄目なんです」

 

 ……彼の呼吸は、荒い。

 

「そうか──それが答えか。こんな結果になったのは本当に残念だよ。じゃあな、鮮花」

 

 その取り繕い様のない程の混乱を抱えたまま、彼はわたしを屋上に置き去りにしたまま突風の様な勢いで姿を消してしまった──

 

 




 先輩、玉砕。
 ようやく春休みになったので執筆のペースを上げられると思います。
 このまま年内には終わらせたいのですが……無理でしょうね。

 先輩は当初は織に関わる為の手段として鮮花と関わっていましたが、やがて仲間意識が芽生え、それは愛情へと変質して行きました。そしてこの行動へと繋がるのですが、織の圧倒的異常性に潰されてしまいました。
 以降、彼は自身の特別性をまず織に認めて貰おうとある行動に出るのですが……。

 とにかく、今回は筆を進めるのに苦労しました。
 読んで頂きありがとうございます。
 ではまた次回。

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殺人考察 (前)/4

 不定期更新です


    

 

    /0

 

 

 ある男は言った。

 僕は壊れていると。

 僕は狂っていると。

 だから僕も彼と同じ、異常(とくべつ)であると。

 その男は言った。

 だから彼にもそれを分からせてやらないといけないんだって。

 僕達は、当たり前に生きていく事なんて出来ないと。

 

 僕はその言葉を聞いてクスリでも得られない程の歓喜を味わった。

 だって、僕は特別だという事が証明されたも同然だから。 

 他でもない、魔法使いがそう認めているんだ。

 その魔法のおかげで僕はこんなにも強くなった。

 これならあの二人も僕を認めてくれる筈。

 方法は僕に任せるとその男は言った。

 

 ──だから僕は、僕にしか出来ない方法で、彼を本当の自分に戻してあげる事にした。

 

 

    /1

 

 

わたしの夏休みは、一つの蟠りを抱えたまま幕を下ろした。

正直、友人のあんな姿を見て思うところがない筈もない。

わたしには、どうにか彼が立ち直ってくれることを祈るしかなかった。

 

 

    ◇

 

 

 九月。

 今日は体育祭の日だ。

 僕は程よく手を抜いていたおかげで、選抜選手には選ばれることはなかったものの、代わりに救護役に選ばれてしまっていた。

 ……中学生の頃までは本気で授業を受けていた所為で毎年選抜されてしまい、余計な注目を浴びることになっていたのだからまだマシだろう。

 ……運動部からの執拗な勧誘は本当に鬱陶しかった。

 因みに黒桐鮮花はその抜群の運動能力で複数の競技の選手に抜擢されている。

 

 面倒事とはいえ、引き受けた仕事は完遂するのが僕、延いては両儀家の主義だ。

 そうして問題がないか練り歩いていると、とある生徒と出会った。

 その生徒はどうやら他校の中等部の女生徒らしく、足を酷く挫いてしまっている様に見えた。

 だが、 不自然にもその生徒は痛がる様子も無く周囲に助けを求めようともしていない。

 その違和感から僕は、無意識に彼女の肩に手をかけていた。

 

「君、痛くないのか?」

 

 彼女は信じられない、という表情で此方に振り向く。

 そして頑なにその言葉を拒絶する。

 

 その無機質な、昆虫を思わせる瞳。

 何故だろう──彼女は僕に少し似ている様に思えてしまう。

 どこか異質で、でもその事実を認めたくない。 常識に溶け込んでいたい。そんな、許されない感傷。

 ……何を考えている。

 今はとにかく仕事を優先するとしよう。

 

浅上藤乃(あさがみふじの)……」

 

 そうして彼女の足に触れると、その傷の深さに僕は顔を顰める。……彼女は少しも痛がっていないというのに。

 これだけの傷なのに、どうして耐え続けてきたのか。

 その愚かさに我慢できなくなった僕には、言ってやらなければならない言葉がある。

 

「痛かったら、痛いって言えばよかったんだ。いいかい、傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだ」

 

 ……どの口がそれを言う。つくづく自分の自己欺瞞に嫌気が差してきた。

 一番分かってないのは、僕ではないか。

 

 その言葉に浅上は『そんなこと、考えもしなかった』といった顔をしている。

 

 そうして僕は彼女を背負い、保健室まで運んで行く。

 彼女は不思議と夢でも見ているように微睡んでいた。

 

 そうして彼女を保健室まで運び終えると、僕はそれ以上何も言わずに立ち去った。

 彼女は無機質ではない、名残り惜しそうな眼差しで僕を見送っていた。

 

 

    /2

 

 

 季節は冬。

 誘われて、昼食を二人で摂る事になった。

 場所は屋上で周囲には男女の二人組が多く、僕達の様な男二人は珍しいとさえ思えた。

 相手は白純里緒。

 今日は珍しく一人で行動しているらしく、僕は彼の誘いに乗ることにした。

 そうして呆と食事をしていると、唐突に物騒な単語が飛んできた。

「──?」

「ほら、殺人事件さ。秋から起きているって言う」

「ええ、その事件なら僕も知っていますよ」

「そう、それも被害者は四人。内容はどれも凄惨で現場は血の海だってさ」

「それも、犯人はまだ捕まっていないと聞きますが」

 ……四人、その光景を僕は。

 

「しかも起きたのは深夜。……だからキミも気を付けた方がいい。キミは深夜徘徊の癖があるようだからね。何に苛立っているのか知らないけど、だからって四人はやり過ぎだろう」

「──え?」

 

 どうして、知っている。何故、見ている?

 そんな僕の驚きを余所に、彼は明らかに作り物の笑みを浮かべる。

 とても満足そうな、あの時の僕に似た。

 

「最後かもしれないからね、キミとこうして二人で話してみたかったんだ。それも叶ったことだし、じゃあね。縁があれば、またいずれ」

 

 そのワケのわからない言葉を最後に、白純里緒は屋上から遠のいていった。

 僕はその背中を困惑したまま見送る事しかできなかった。

 

 

    ◇

 

 

 今日は満月だ。

 両儀織は黒染めのロングコートを羽織り、日課の夜の散歩に出かける。

 雲ひとつない空からは、月明かりが煌々と射し込んでいる。

 街は警官が巡回している。

 鉢合わせると面倒なので、今日は川原へと向かう。

 余りにも強烈な月明かりと炯々と輝く街灯が地面に濃い影と陰を生み落としている。

 軋みを上げる車輪の音は彼に鉄橋が近づいていると知らせる。

 そこには、一つ人影があった。

 

 彼はふらつく足取りで鉄橋に向かう。

 

 鉄橋の下は静謐そのものだ。

 街灯という人智の光も、月光という星の意志すらも拒む橋の下の空間は正しくおぞみを孕んだ深みと言える。

 その加護なのか。

 今は、そこを濡らす赤さえも塗り潰されている。

「五つ目」

 

 両手両足を切り取られ、曲げられた死体はまるで寺院を象徴する卍のように放置されている。

 ……しかしこれでは神聖どころか邪教そのものだ。

 

 ──手慣れてきた。

 それが彼の抱く感想だ。

 

 ここには、死だけが置いてある。

 織の顔は狂気を含んだ歪な微笑みを形作る。

 彼は何をするでもなく、死体を見つめている。

 ただ、死に触れているという高揚感のみが、自身に生の実感を与えてくれるが故に。

 

    ◇

 

 

 夕方になり家に帰ると従兄の大輔兄さんと兄の幹也が炬燵でくつろいでいた。

 諸々の事で疲れてはいたが、挨拶だけはきっちりとしてその狭苦しい炬燵に足をねじ込む。

 三人も入っている所為で余っている空間は少なく、必然的にわたしは寝そべる事など出来なかった。

 

「忙しいって聞いていたんだけど、大輔兄さん」

「そりゃあな、こんな短期間で五人も殺られたんだ。家に帰る暇がないからここで休憩してるんだ。もうすぐ出るさ」

 

 この人は警視庁捜査一課の刑事だ。

 お世辞にも働き者には見えないこの人が何故こんな仕事についているかなんて、わたしには知り得ない事だ。

 

 そうしていると幹也が口を挟む。

 

「犯人はまだわからない?」

「まだな。ただ、今回でやっと手掛かりが見つかった。けど、なんかわざとらしいんだよな」

 

 そう言って彼は真剣な表情を見せる。わたしと幹也は揃って耳を傾ける。

 

「とりあえず、幹也はともかく鮮花は無関係じゃないから教えとく。一人目の死体状況は教えたよな。二人目からが不可解なんだ」

 

 一人目に関しては何故か死体に陰陽を表す太極図が彫り込まれていると聞いていた。

 不可解なのは二人目からで、奇妙な事に刺し傷、切り傷に加え喰い千切られた形跡があるというのだ。

 それも三人目、四人目となると原型を留めない程に食い散らされているそうだ。

 そして五人目となると一人目と同様に宗教的なシンボルが象られていたらしい。

 

「異常者なのは分かりやすいけど、三、四人目が変ね。カニバリストなのかしら」

「いや、それが死体を切り取って食べたんじゃなくてその場で喰ったという所が変なんだ。最初は通り魔とは関係ない、動物の仕業かと思ったが、明らかに鋭利な刃物による刺し傷があるから違うと判った」

「つまりそれって通り魔が肉食獣を連れていた、という事じゃないの?」

「それなら近くに何らかの足跡や毛とか鱗なんかが落ちている筈だ。死体周辺からはそれらしい物は無かった」

 

 ……確かにこれは不可解だ。それが通り魔の仕業なら、そいつは一人で数十Kgはある肉を食べたという事になる。しかも直接肉を噛み千切って。

 そんなことは人間には不可能だ。

 あり得るとしたら、そいつの正体が映画で出てくる様な屍人(リビングデッド)という事位だけど、我ながら非現実的過ぎる。

 

「もしかして、その''喰い残し''と通り魔は別人で、実は共犯なんじゃないかな」

 

 幹也がわたしも考えていた考察を口にだす。

 

「まあ、現実的に考えばそうだよな。明らかに手口が違い過ぎる。不可解なのは''喰い残し''の方だが、危険なのは通り魔の方だな。動機もなく、法則性も無い。こいつは家に押し入ってくるタイプだ。いつかはそうなるって上の連中も覚悟してくれればいいがねぇ」

「まあそれでな、五人目の現場にこんな物が落ちてた」

 

 それは、わたしが通う学校の校章だった。私服登校が可能故に軽んじられているが、登校時は着用が義務付けられている。

 

「これ、お前んとこの校章だよな? 現場に落ちてたって事は何らかの関係があるって事だ。犯人か、或いは関係者か。どちらにせよこれで尻尾は掴めた。近い内にそっちに行く事になるかもな」

 

 その言葉を最後に彼は刑事の顔をして、己の戦場へと向かっていった。

 

    ◇

 

 

1995年12月。

 僕、黒桐幹也はとある少年に出会った。

 彼の名前は両儀織。

 久々に実家に帰った時に妹の鮮花と一緒に居た少年だ。

 思えば鮮花には親しいと言える異性など僕の知る限り居なかった。

 だからこそ僕は初めて彼を見た時に歓喜を覚えた。

 昔は人を寄せ付けず、孤立していた鮮花だったけれど、彼のような友人が自然に出来ていると思うと妹の成長を実感できる。

 それに彼の人となりはとても活発で快活だったので、僕としても彼に好感が持てた。

 彼の存在は鮮花を良い方向に動かしてくれるだろう。

 何故なら、きっと良き理解者であってくれるだろうという期待すら抱く程に、僕は彼が何処か普通でない様に思えてしまったからだ。

 

 

    ◇

 

 

 放課後。

 全員が下校したのを確かめて教室に行くと、決まって名も無きシキが待っている。

 だが、今日は違うらしい。人影がもう一つ、彼の傍らに座っている。

 

 ────あれは。

 

 確認すると、それはなんと白純先輩だった。

 それも、彼と話しているのはシキの方だ。

 わたしは気まずくなり、恐る恐る教室に入る。

「おや、黒桐さんか。久しぶりだね。せっかくだから話していかないか?」

 

 どうやら彼はいつの間にかシキとも知り合っていたらしい。

 それに、その様子ではどうやら立ち直ってくれたらしく、わたしは少し安心してシキの居る窓際の席に座る。

「……そういえばあなた達、何を話してたの?」

 

 その問いにシキが何気なく答える。

 

「なんて事はない、物騒なだけの他愛ないお喋りさ。……ああ、その様子じゃどうしてこいつとオレが知り合いなのかって事の方が聞きたいようだな」

「それは僕が答えよう。簡単な事さ。生徒会の帰りにキミと彼が此処で話しているのを見て、何処か彼の様子がおかしいことに気がついたんだ。翌日の放課後に問いただすと、なんと二重人格だって言われてね。今の彼は話しやすいものだから、ついつい話し込んでしまってね」

 

 意外だった。どうやらわたしの心配は杞憂だったらしい。

 

「そう言えば、織が人間嫌いって話したっけ」

「まあ、言われれば納得するけど……初耳ね」

「オレもそうだが、子供の時からオレ達はそうだった。……ほら、子供って無知なもんだろ。他人からの悪意なんて概念を知らず、世界の全てが発見に満ちていて、誰もが自分を無条件に愛してくれるのは当然で、死という事なんか理解出来ずに当たり前の様に明日が来ると思っている、幸せな日々の結晶…まあ、最後のは大半の人間が分かっていても解らない事だけどな」

「そうね。子供ってそういう生き物だもの。……でもわたしは一度だってそんな『誰もが当たり前に自分を愛している』なんて思ったことはないけど」

「僕も黒桐さんと同感だよ」

 

 そう二人で返答するとシキは目を丸くして、少し困惑している様だった。

 

「あちゃ、こりゃ話の腰を折られたな。……とにかく変人のおまえらは例外として、殆どの人間はそう思っていると仮定しよう。前述の様に無知でいるというのはな、すごく大切なんだよ。子供の頃は自分が世界の中心で、それしか見えないから他人の悪意になんか気付かない。それが一方的なものだとしても、愛されているという感覚があって、誰かを同じように愛せるようになる。────人間が表現したり定義できるものは、自分が理解できる事柄だけだからな」

 

 ……彼の言う様に、ヒトとはそういうものなのだろう。

 けれどわたしはそれを分かってはいるけど、きっと理解していない。

 わたしにはそういった幼少期が無かったから。

 あの時のわたしはとにかく誰よりも早く大人になって、周囲を出し抜くことで特別になりたいと躍起になっていた。

 むしろそういった''子供たち''を軽蔑すらしていたのだ。

 

 先輩は、哀しげな、けれど確かに喜びを湛えた笑みを浮かべている。

 ……この人は、一体どんな形で幼少期を終えたのだろうか。

 

「オレは当然違う。おまえらとは違う形で、生まれた時から他人を知っていた。織は生まれながらにシキという異物(たにん)を抱えていた。この世には自分と同じような人間が居て、物を考えて、趣味趣向があって、違う方向性を持っているから、自分を憎む者すら存在する事を知ってしまった。子供の頃に悪意という感情を知ってしまった織は、何時しかヒトという存在の蒙昧さを許容出来なくなった。やがて憎むことすらも放棄して徹底的に無関心になってしまった。そうして織は拒絶というカタチでしかヒトを遠ざけるしかなくなった」

 

 シキは、卑下する様に自らの在り方を語る。

 

「でも、あなたは孤独じゃなかった。シキには織がいて、織にもシキがいる。……けれどね、それは結局自分でしかないから、一人であることには変わりないの。何時かあなたも孤立するという虚しさが解るわ」

「そこまでお見通しとは、恐れ入るな。でも、それを理解してしまえばきっとオレ達は壊れるだろうよ。何せ拒絶しか知らない生涯だ、今さら孤立を認めた所でどうしろと? もう手遅れなんだよ。オレ達は孤立なんか恐れない。──恐れちゃいけない。だから孤独じゃなければそれで本当に充分なんだ」

 

 この世には自分しかない、と云うかの様に迷いなく答えるシキ。

 そこには焦りも強がりもない。

 何もかもを拒絶するのなら、傷つけるしかない。

 何もかもを否定するのなら、傷つくしかない。

 それが、わたしが夢想していた理想(両儀織)の真相。

 特別であるということは、孤立であるということ。

 でも、それは間違いだ。

 それは、ダレカとは違うもの。

 ダレカとは居られないもの。

 ……ダレカを傷つけて、自分も傷つくだけのもの。

 

 その代償は何時か必ずやって来る。

 それが過ちである気付いた時、彼は後悔することになるだろう。

 わたしは幼い時にその過ちを正せたから、まだ代償は少なかった。

 ……彼はまだ、間違えたままだ。

『孤立を恐れてはいけない』 彼はそう言った。

 彼は本当はその代償を恐れているのだ。

 だから彼はずっと気付かないフリをして、自分すら欺いたまま一生を過ごすつもりなのだろう。

 

 駄目だ。

 そんなのは、悲しすぎる。

 そんなのは、哀しすぎる。

 ……そんなのは、苦しすぎる。

 

 彼にはそんな結末を迎えて欲しくない。

 いや、このわたしが許さない。

 

「けど、最近のオレはおかしい。自分の中の自分であるオレを肯定し始めている。織はそれを否定したがっている。肯定は織の領分で、オレは否定しかできない筈なんだけどな」

 

 シキは皮肉げに嗤う。

 殺意すら滲んでいるような、歪な笑い。

 先輩はそれを見て、満足げに微笑む。

 

「おまえら、人を殺したいと思った事はある?」

 

 その時、先輩は明らかに見た事のない表情を浮かべていた。

 それは後悔なのか、歓喜なのか、──自嘲なのか。

 

「さあな……殺したい、とは思っていなかったが殴った事はあるね」

「わたしは別に。まだ殴った事もないかな」

「そうだろ、けどオレはそれしかない」

「────どうして?」

「コクトーには言ったが、オレは織の負の衝動や感情を受け持つ存在だ。陰陽で言えば能動的な人格だから陽性だな。まあつまり、オレは両儀織という人物の闇そのものだから、あいつはオレという意思を殺してきた。自分で自分を数え切れない程殺害してきた。人が表現できるのは自分が理解できる事柄だけって言っただろ? それで、真に理解できるのは体験してきた事だけだとも言える。…なら、オレが体験してきて、理解できる感情は殺人だけだ」

 

 そうして彼は窓際から離れ、足音なくわたしに近付いてくる。

 何故かその動作が、とても恐ろしく感じた。

 

「コクトー、織にとって殺人というのはな」

「シキを殺すというコトだ。あいつはシキという殺人鬼を外に出そうとする人間を、自分の為に殺してしまいたいんだ」

 

 冗談じゃないぜ、と笑いながら彼は教室を後にする。

 そして先輩は、わたしには何も言わずシキの後を追うように去っていった。

 その二人をわたしは──沈痛な面持ちで見送ったのだった。




 今回は少し長めです。
 いやぁなんてガバガバな文体なんだと我ながら思いますね。まるで統一されていない……
 なんだか、自分で書いてても鮮花の人物像がブレている様に見えますね。
 やはりラノベの中でも空の境界は群を抜いて難解に思えます。

 これからは多分半月に一回程更新出来ればいいと考えています。
 漸く終わりが見えてきた二章。 
 大量の伏線が導く、運命の終着点にして始まりとは────

 この作品では先輩は大物として成長させて行きたいと思っています。
 それにいい加減、''あの男''も本格的に話に絡ませたいです…。

 それではまた次回。
 感想を書いて頂ければ作者の励みになります。


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殺人考察 (前)/5

不定期更新です


 

     /0

 

 

「そちらは順調か?」

 

 とある病院から医師であろう男が何者かに電話をかけている。

 だが、その男は医師というには異様である。

 その、深い絶望を湛えた光というものの一切を拒絶する黒々とした瞳。全身から醸し出す重圧にも似た威圧感。

 それらの負の気を纏っている男の姿は医師というには余りにも相応しくない。

「ああ、アンタのおかげでな。このまま順調に進めばあいつは精神の均衡を崩すだろう。その時に仕掛ければ、コトは終わる」

 

 電話相手の人物は、高揚した様子で芝居がかった話し方をしている。

 彼の素顔を知る者ならば、この様な会話をしている姿を想像する事などできないだろう。

 

「それで良い。だが、決して殺しては成らぬ。そうなれば元も子も無いからな。…お前を選択して正解だったぞ。おかげで手間が省けた」

「だろう?俺は特別だからな。この力をもっと使いこなせるようになったら、あいつにも対抗できるだろうさ。その時を楽しみにしててくれ」

「うむ。それにお前には教授する事が残っている。幾年先となるか分からぬが、お前こそアレを破壊するに相応しい者と成るだろう。……期待しているぞ」

「嬉しいね。けど、話はそれだけかい?」

「本題に入るとしよう、『相克する螺旋』の建築時期が決まった。完成次第、お前は私と共に転居することとなる。そここそが、我らの工房だ」

「了解。まあいい、一人暮らしにも飽き始めたしな。何よりアンタが近くに居る方が何かと都合がいい。…終わりかい? 切るぜ」

「それと、彼女もまだ殺してはならぬ。……また会おう」

 

 そうして密談は幕を閉じる。

 ────これはまだ、造られた物語(うんめい)の序章に過ぎなかった。

 

 

    /1

 

 

 三日後、黒桐鮮花は深刻な顔をして昼食の誘いをかけてきた。

 あの忠告を受けても尚懲りないのか、と憤りすら感じたが、いつになく真剣な様子だったので誘いを受け屋上まで移動することにした。

 

 色々と言いたいことはあるが、先ず彼女の話に耳を傾けることにする。

 

「……白純先輩が居なくなったの」

「──────‼︎」

「三日前から家にも帰ってなくて、家族にも連絡してないって。だから今、行方不明者として警察が捜索しているの」

 

 なんという、ことだ。

 あの男が居なくなった?

 ……この状況で行方不明、なら考えられる解答は一つしかない。おそらくあの男はもう戻って来るまい。

 それも三日前。あの時彼が最後に会った人物はシキだった筈だ。

 あの時表層に出ていたのがシキだった所為で記憶が曖昧だが、彼と教室を出た後に何か話して別れた覚えがある。

 行方不明になったのはその直後。

 ──まさか、そんな筈は、無い。

 彼と別れた後、家に着いたのは夜だった。

 その間に何をしていたのかという記憶が無い。

 これらの状況から導き出される解答は一つ。

 

「あいつが──シキがやったのか」

「そんなことあり得ないわ。それにまだ、行方不明なんだから死んだ訳じゃない。きっと数日後には見つかるわよ」

 

 そう断言してはいるものの、彼女の顔には焦燥と不安が浮かんでいるのが判る。

 おそらく、自分自身に言い聞かせる為に楽観的になっているだけなのだろう。

 

「本当は解っているでしょう、黒桐さん。彼は僕と関わっていたからこんな事になったんだ。次はきっと、貴女の番だ」

 

 そう断言すると、彼女は少し怒ったのかやや強い口調で言い返してきた。

 

「そんなこと言わないでよ。あなたは絶対にそんなことはしない。それに先輩は行方不明なだけじゃない。何でも悲観的に考えるのはあなたの悪い癖よ」

「…貴女は一体何なんだ。貴女のその在り方は苛立たしい。どうしてシキにあれ程言われているのに、こんなに拒絶しているのに、僕に関わろうとする?」

「発端はわたしにも分からないかな。でも初めて会った時、どうしてもあなたに関わりたいと思ったの。実際、あなたと居ると楽しいのよ。理由は言えないけどね」

「僕が異常者だってことを貴女は理解しているのか」

「そうね、あなたは間違いなく特別よ。でもわたしはあなたのそんな所を一番気に入っているのよ」

「何故」

「白状するとね、織、わたしって特別なものが好きなの。それも禁忌とか言われる類のものがね。だからあなたに出会えた事は凄く幸運だったと思う。だからあなたが自分を異常だと思って蔑んだ所で、わたしがあなたと関わっていたいのは変わらないわ」

 

 ……確信した。こいつは普通じゃない。

 思えば、彼女は以前からどこか常人とは思えないと感じることが度々あった。

 そもそも普通の人間が僕という異常の塊になんて近寄ってくる筈がない。

 類は友を呼ぶ。こういった常人のような異常者こそ、最も警戒するべきだったのだ──!

 

「理解できないよ、貴女は。僕はそんな風には成れない」

 

 そうして立ち上がると、彼女は僕の腕を注視してくる。

 

「織、その傷──」

「シキが言っても分からないなら、僕が言おう。これ以上関わると、何時か貴女を死なせる羽目になる」

 

 そうして僕は振り返らずに屋上を立ち去る。

 何故か背後からの視線が痛くて、振り返ってはならないと思ってしまったからだ。

 ともかく、これで彼女は僕を見逃すだろう。

 そうでなければ、僕は────

 

 

    /2

 

 

 織の家を訪ねる事にした。

 両儀家は隣街の郊外にある所為で、見つけるのにかなり時間が掛かってしまった。

 両儀邸は竹林に囲まれている上に高い塀まである為に歩いているだけでは大きさが判らなかった。

 山道じみた道を迷いそうになりながら歩いていると、眼前に結界めいた巨大な門が聳え立っていた。

 明治以前に取り残されている様なこの屋敷にも現代的なインターホンが付いていて、安心するどころか逆に違和感を感じる。

 違和感たっぷりのそれを押して用件を伝えると、黒スーツの男性が恭しく応対してくれた。

 硯木秋隆という人物は二十代半ばの亡霊の様な青年で、織の世話人だという。

 織は外出中らしく、彼は上がって待ってもいいと気の利いた事を言ってくれたので取り敢えず十時まで屋敷で待つことにした。 

 それでも帰ってこなかったので、今日は帰ることにした。

 一時間程歩いて駅に着くと、もう日が替わろうとしていた。

 

「はあ、わたしったら何をしているのかな」

 

 人気のない深夜。

 見た事のない街並みの中、両儀邸に再び足を運ぼうとしている自分の行動原理は我ながら謎だ。今から行っても彼は眠っているだろうし、そもそも会った所でどうこうしようとすら考えていなかった。

 ……最近のわたしは何処かおかしい。いや、彼と出会ってからは何故か自分だけの意志で行動しているとは思えない事が多々あった。

 ……いや、そんなことは無い。行動を起こすのはわたしである以上、どんな行動をとった所でそれはわたしの意志に他ならない。

 それらの不安や焦燥はきっと先輩が行方不明になった事に起因しているのだろう。

 諸々の懸念を思考から消して竹林へと踏み入って行く。

 街灯など在ろう筈もなく、月光だけが先を導いてくれている。

 思えばこんな状況でこんな場所を歩くという行為そのものが、恐れ知らずだと思えてくる。

 ……誰かに襲われたらどうしよう。そんな感情が頭を支配していく。

 子供の頃から他人というものはどうしようもなく恐ろしい存在だった。

 身を守る手段を持たない子供の身では彼らの悪意から逃げることすら難しかったから。

 もし襲ってくるとしても、それが正体不明の何者かならどんなにいい事だろうか。

 いつだって一番怖いのは見知らぬ誰かの悪意であって、祟りだの霊障だのといった曖昧な存在ではないのだから。 

 一度嫌な予感を感じてしまうと、それはなかなか消えてくれない。

 そういえば、織がそんな事を言ってくれた事もあった。

 それを思い出そうとした瞬間、わたしの意識は凍りついた。

 

 数メートル先に、黒い人影が立っていた。

 黒染めの服は、赤い斑紋で装飾されている。その深紅は徐々にその黒服を支配していく。

 彼の手前にある物体が、赤い染色液を噴き上げている為だろう。

 その人影の正体は織。

 その噴水は、どう見ても人間の死体だった。

 

 何も言えない。

 でも何時か、こうなるという予感だけは付き纏っていた。

 否定はしていたけれど、彼が死体の前で立ち尽くしている光景のイメージだけは何時も鮮明だった。そしてそれは、イメージなんかじゃなかった。

 わたしのイメージ通り、織は死体の前で何をするでもなく立ち尽くしている。

 此処には、死だけが存在している。

 彼のコートは益々深紅へと変色していっている。

 血に塗れた彼の口元は歪に嗤っていた。それは、まるで無垢な子供の様。

 彼は織なのか、それともシキなのか。

 

 わたしはみっともなく顔を蒼くして、夥しい冷汗をかきながら震える事しかできなかった。

 しばらくそうしていると、不思議なことにわたしは無意識に彼に近寄っていた。

 そうすると、彼はこちらを振り向く。

 わたしはこの時少しも死の恐怖を感じていなかった。

 だって、彼の浮かべる微笑みがあまりにも美しかったから。

 この惨状には不釣り合い極まりない純粋な、生き生きとした笑顔。

 わたしはそれを見ている内に、涙すら流していた。恐怖に依るものはでなく、ただ感動していただけなのだ。

 ……知らなかった、彼がこんなにも満足そうに笑うなんて。

 

 何もできない。

 本当に気が狂いそうだった。いや、もう狂っているかもしれない。

 こんなにも恐ろしい事が起きているのに、わたしは感動の涙を流しているというもっと恐ろしい現実。

 しばらくの沈黙の後、彼は立ち去ってしまう。

 そうすると再び恐怖が湧き上がってくる。

 わたしの感動の涙は恐怖の涙へと変質し、忘れていた震えが体を包み込んでいく。

 今度こそわたしはその場に座り込んで蒼ざめたまま震える事しかできなかった。

 

 

    ◇

 

 

「本当に誰も見てないんだな鮮花」

「……見てないわ、本当に」

 

 あの後、わたしは警察官に保護されて事情聴取を受けるはめになっていた。

 保護されてからはすぐに混乱状態から復帰する事ができたものの、あの時感じた感情が気に掛かって上手く説明する事ができなかった。

 そういった事情もあって解放された頃には学校は終わろうとしていた。

 

「止めなさいよ大輔。鮮花はあんな目に会ったばかりなのよ」

「そうだな、済まんな鮮花。お前が見ていればそれで終わりなんだがなあ。……とにかくお前が無事で何よりだよ。身内を死なせちゃ俺は刑事失格だからな」

 

 大輔兄さんの問いに母が割って入る。けれど、警察がわたしを重要参考人として扱うのも無理はない。今までの事件で目撃者と言えるのはわたしだけなのだから。

 

「そうね。わたしも少しだけ、安心してるかな」

 

 嘘だ。

 本当は今だ混乱は終息していない。

 あの時、織を見たことも、惨殺死体を見たこともまだ心に澱を残している。

 それに、わたしはこうして織に関する事を隠し通してしまっている。

 ……わたしは最低だと、我ながら思う。

 

「しかし鮮花が両儀の息子さんと知り合いとは、面白い事もあるもんだ」

 

 ……両儀邸の前で起きた事件は今までの通り魔と同一犯と目されているものの、それ以上捜査の手が及ぶ事はなかった。

 なんでも両儀家は地元では極めて有力かつ重要な名代らしく、警察もそうおいそれとは手出しできない程の権力を持っているとか。

 両儀家も、わたしも織については黙認を続けている。

 その為あの件の目撃者はわたしのみ、と記録されている。

 

「大輔兄さんも両儀家の人達は調べたの?」

「いや。次男坊の織はお前の高校に通ってるからぜひ話を聞きたかったが突っ撥ねられた。家の連中も、外で起きたコトなど知らんとしか言わなかった。俺の見解じゃああの坊ちゃんは白だな」

 ……驚いた。大輔兄さんはその有能さ故に刑事という地位を保っていると噂なのに、一番怪しまれる筈の織を除外するなんて。

 

「なるほどね。次期当主ともあろう彼が通り魔殺人なんて起こそうものなら、両儀家の地位は失墜する。そういうことでしょ?」

「それだけじゃない。あんなお坊ちゃんが殺人なんて起こすと思うか? お前だって思わないだろ?」

 

 ホント、なんでこの人は刑事なんてやっているんだろう。

 けれど、彼の見解には賛成だ。この一連の事件が織の仕業ではないという確信がわたしにはある。

 だってわたしは、彼の本質がとんだお人好しだって知っているから。

 だからわたしは、彼の潔白の為に何かを為さなければいけない。

 方法は漠然とではあるものの、形として浮かんでいる。

 明日辺りから始めるとしよう。

 

 

    /3

 

 

 屋敷の前で殺人事件が起きた。

 僕はその時散歩に出ていたものの、記憶が曖昧で正確なことは分からない。ただ、その中でも憶えている事はある。

 そう、あの時僕は死体を眺めていた。僕もシキも死の匂いに弱く、ついつい流血に見入ってしまっていた。

 それが祟ったのか、想定外の人物が現れた。

 黒桐鮮花だ。彼女は何故か僕の真後ろで呆然と涙を流していた。まるで尊いものでも見たかの様に。

 彼女が何故あの場にいて、あんな意図の掴めない行動を採ったのかは謎だ。

 だが、事件発覚後、あの場に僕が居た事は誰も知らないようだった。

 つまり、アレは幻覚だったのか? あの率直な人物が殺人鬼を黙認するなんて愚行を犯す筈もない。

「シキ、君なのか」

 

 答えはなかった。そう、白純里緒が消えた時も彼は答えなかった。

 

「何故だ……どうして答えない」

''……''

 彼と僕は日に日にズレていっている。

 僕と彼は同時に存在することが可能で、どちらが表層化していても記憶を共有できる筈なのだ。

 なのに最近は、それが難しくなっている。

 僕はもう、他の両儀家の者達の様に狂っているのかもしれない。

 自分は異常なのだという自覚を持って生きてきたが、そうなる事がこんなにも苦しいなんて。

 けれども、最近それを肯定している自分がいる様な気がする。

 そう、自分が異常であることを肯定してくれる誰かが居るのだ。

 ……それは、一体誰だったか。

 

「織様。宜しいでしょうか」

「秋隆か。どうしました」

「屋敷の前で張り込んでいる者が居ります」

 

 その報告とは裏腹に彼の口調には怪訝さは感じられなかった。

 

「警察は父が追い払ったと」

「はい。警察は昨夜から撤退しております。今夜の者は件の事件とは別件かと」

「なら、僕には無関係でしょう」

「それが、あの者は貴方の学友のようですが」

 

 その言葉に連動して僕は外を窓越しに見渡す。

 竹林の中に、巧く身を隠しているものの、明らかに白い人影がある。

 

「……なんと」

 

 まさか、彼女がこんな大胆な行動に出るとは。

「放っておきなさい。あんなの、気に掛けるまでもない」

 

 僕は窓際に居るまま、秋隆を部屋から出した。

 もう一度外を伺ってみると、白いコートを着た黒桐が竹の影から門を眺めていた。気付かれないよう周囲をキョロキョロと見回しながら。

 ……彼女はこういった隠密は苦手なのだろうか。

 

 やはりあの時の黒桐は本物だ。あの時確かに居たからこそこうして家を見張っているのだ。

 大方、両儀家の誰かが犯人だと思っているのだろう。

 それを置いておくにしても、無性に腹が立つ。

 僕は知らず爪を噛んでいた。




 更新が遅れました。(隻狼にどハマりしていたなんて言えない…)
 結末まで書きたかったのですが、キリが良いと思ったので今回はこれで終わりです。
 毎回3000~6000文字を目安に書いているのですが、10000文字はあった方がテンポが良いと思うんですよね。
 いや、こうして見ると、空の境界で長編を書いている方って本当に少ないですよね。(その為こうして私がこんな妄想話を書く事になったのですが)
 空の境界ssもっと増えろ……

 しかしUAが殆ど伸びないのってこの駄文に加え、立場入れ替えIFものの需要の少なさと今作第一章のガバガバぶりのせいなんですかね……

 感想を頂ければ作者の励みになります。
 誤字・脱字・文法間違い・矛盾点を指摘して頂ければ助かります。


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殺人考察 (前)/6

 不定期更新です


 

    /1

 

 翌日、黒桐は平然と食事の誘いをかけてきた。

 それだけは毎回受けているものの、やはり白純が居ない事に違和感を感じていた。

 ……いつまでも、こんなことを続けていてはいけない。自分の為にも、彼女の為にも。

 きっと今日この場であの夜の事を問い詰めてくるだろう。

 だからこそ、きっぱりと罪を認めて終わりにしよう。

 

「織の家ってすごく大きいわね。あんなに大きな武家屋敷なんて初めて見たし、執事さんなんか相手にしたなんてちょっとした自慢話よ?」

 

 家の話はこれだけだ。

 彼女の事だから張り込みが気付かれている事は知っているだろうが、明らかに様子がおかしい。

 あの時彼女は僕を見て、泣いてすらいた筈なのにどうしてこんなに平然としているのか?

 

「黒桐さん。二月三日のあの時、貴女は確かに僕を見た。それなのにどうして警察に黙っている」

 

 彼女は表情を変え、暫し思案してから返答する。

 

「……そうね、けどそれだけじゃないの。あなたはただそこに居たっていうだけ。わたしはそれしか見てないから、あなたじゃないって信じるの」

 

 見え透いた嘘を。なら屋敷を見張る必要はない筈だ。

「そう、わたしが見たのはそれだけ。本当はすごく怖かった。けどわたしはあなたの優しさを知っているから、信じ続けていたい。……今はまだ整理がついていないから、この話はおしまいにしましょう」

 

 そう、あの時シキは間違いなく彼女を殺そうとしたのだ。

 僕はそんな事はしたくない。 ……本当に?

 彼女は、僕の優しさを信じると言う。僕も自分の良心を信じられればどんなに良い事か。

 そうであれば、こんな苦しみを味わう事にはならなかったのに……。

 

 

    ◇

 

 

 そうして、僕は鮮花を無視する事にした。

 二日程であちらも誘いをかける事はなくなったが、張り込みだけは続いていた。

 張り込みは二週間は続いているようだった。

 それほどに殺人鬼に執着しているのか、と窓から彼女の様子を見る事にする。

 彼女は、ただ門を眺めているだけだった。転々と隠れ場所を替えながら。

 誰も出てこないのを確認くると彼女は安堵するように溜息をつく。

 

 ああ、そういうことなのか。

 アレは初めから僕を疑ってなどいない。

 彼女はただ、僕の潔白を証明して安心したいだけなのだ。

 だから何事もなく一日が終わった事を安堵しているのだ。

 殺人鬼を、本当に無実だと信じ込むことで安心できるとでも言うのか。

 

「なんて────強い女」

 

 そう、知らず呟く。

 鮮花と居ると、気分が落ち着く。

 鮮花と居ると、仲間が居るのだと、一人ではないのだと錯覚する。

 鮮花と居ると、いつか自分もそんな風に強くなれるのだと、特別なままでも幸福になれるのだと幻想してしまう。

 けれど、絶対に、自分はそんな生き方はできない。

 異常であるのに、それを隠そうと隠すまいと、当たり前にダレカと生きていけると彼女は示してくれた。

 ──それは、決して知ってはいけなかった、己の弱さを認めて闘い続けるという強い在り方。

 彼女はそうやって自ら乗り越えた道を示す事で僕の弱さを剥き出しにする。僕が認められなかったもの、逃げ出してきたものを露にしてしまう。永久に自らと闘い、肯定するという過酷(しあわせ)な選択肢を僕に選ばせようとする。

 

 だから僕は彼女に苛立ちを覚えていたのか。シキという異常性を内在する自分、異常者である自分を肯定させてしまうあの女──────

 

「僕にそんな強さはない。だから独りでいい。それなのにおまえは(オレ)を逃がさないっていうのか、コクトー」

 

 (ボク)は、知らぬままでいたい。

 シキ(オレ)は、独りのままでいたい。

 彼女は決して僕を逃してはくれまい。

 初めから、関わるべきではなかったのだ──。

 

 

    /2

 

 

 三月、冬は過ぎ去り、暖かな季節を迎える頃。

 僕は放課後の教室でとある人物を待っていた。

 夕日で紅に染まってゆく教室に、鮮花がやって来た。

 こうして夕暮れ時に二人で話をするのがシキは好きだ。ある時は鮮花と、……ある時は白純と。

 ──そういえば、一度だけ三人だった事もあった。

 そうだ、元は僕達はいつも三人で他愛もないことばかりしていたのだ。 ……その一人が消えてしまうまでは。

 あの時は本当に疎ましく思っていたけれど、今となっては不思議とそう悪いと思えなかった。

 

「また誘ってくれて嬉しいわ。気が変わった様で何より」

 

 彼女は堂々とした態度で、挨拶なしに微笑みかけてくる。

 

「気が変わったというより、気が狂いそうなだけだ」

 

 僕は自分でもはっきりと判るほど乱雑な、シキにも似た口調で言葉を紡ぐ。

 同時に、彼女の顔からも喜色が消失する。

 

「貴女は僕が犯人じゃないと言ったが、それは大きな間違いだ。貴女だって見たと言ったじゃないか。それなのにどうして見逃そうとする?」

 

 鮮花は毅然とした態度で答える。

 

「見逃すですって? あなたは犯人じゃないから当然でしょう?」

「僕が認めているって言うのに! 貴女から親友を奪ったのも僕なんだぞ!」

 

 そう何度も言った話を叩きつけると彼女も憤りを覚えたらしく反論してくる。

 

「だから、先輩は行方不明ってだけでしょう! どうしてあなたはそんなに自分を追い詰めようとするの⁉︎  絶対にゼッタイに、あなたにそんな事はできない!  ──だってあなたは優しいから」

 

 何も知らないであろうにそう言い切る鮮花に、僕は反感を覚えた。

 

「優しさだって? 貴女が僕の何を見たんだ? 貴女が僕の何を識っているんだ?」

 

 怒りを言葉にして叩きつけると、彼女は何故か慈愛を湛えた笑みをうかべ、それでいて迷いなく答える。

 

「──九月。体育祭の日に、あなたが怪我をした後輩の子を背負って行くのを見たんだ。それもあんなに優しげな、暖かな顔で。それで確信したの。あなたは何時も素っ気なくしているけれど本当はとっても優しくてお人好しだって。助けるだけなら保健室の先生を呼べばいいだけなのに、わざわざ背負って行くなんて。だからあなたは、困っているダレカの手を取るっていう選択ができる人なの。たとえそれがほんの気まぐれだとしても」

 

 体育祭──あれは見られていたのか。

 

「だからって────そんなのは根拠になんてならないでしょう。それに、そんな気まぐれはこの衝動を誤魔化す手段になんて成りはしない」

 

 もう根拠を出し尽くしたのか 、彼女は暫し思案して言葉を発そうとする。

 そうして決心したのか彼女は真剣な、強い意志が宿った瞳を向けて確かに返答した。

 

「いいでしょう。それはね、わたしはあなたのことが ────好き(とくべつ)だから。だからあなたには誰よりも幸せになってほしい」

 

 それは、余りにも鮮烈にして凄絶なとどめだった 。

 余りの衝撃に絶句している僕などお構いなしに彼女は想いをカタチにする。

 

「だからわたしはあなたを信じ続けるし、あなたを一人にしていたくない。これはわたしの勝手なんだけど、あなたには誰かと一緒に居て、孤立でなくてもいいっていう喜びを知って欲しい。普通なんかじゃなくてもいい。あなたはあなた(特別)のまま、幸せに成れるの」

 

 ……そんな、そんな選択が、できるのか?

 それは、彼女が初めから僕に示し続けていた過酷な選択。逃げることを許さない剥き出しの真実(ほんとう)

 でも、それは叶わない望みなのだ。

 誰かと居れば、シキはその人を殺すだろう。

 始まりから異常であることを望まれ異常として生まれた(オレ)は、どう足掻いても正常(じょうしき)には生きられない。

 

 僕は今、多分この先の自分を決定付ける分岐点にいる。

 例え叶わない願いだとしても、僕の本当は幸福を願っている。

 なら、 出来る事は一つ。

 

「……そうだな、まだ、僕には答えは返せない。今は何も言えないけれど、貴女のことも考えておこう」

 

 そう、それは肯定でも否定でもない保留。

 彼女は自らの誇りを賭けて僕に選択の余地をくれた。

 ならばこちらもその意志に応えなければ。

 

「ふふ。今度はちゃんと答えを教えてよ? よかったぁ、全力で拒絶されたらどうしようって思ってたのよ?」

 

 彼女は念願叶ったりとでも言いたげに快活に笑う。それはまるで、花の様だった。

 

「貴女はやっぱり変だな」

「やっぱり? そう言われたのは本当に久しぶりよ」

 

 ただ夕日だけが教室を照らしていた。

 去り際、振り向かずにただ一言だけ言葉をかけた。

 

「今日は散歩には出ないから、何かが起こっても僕とは無関係だから安心して欲しい」

「──!」

 

 彼女の事だ。張り込みが気付かれていないとは思っておるまい。

 だからこの場で一つ釘を刺しておく事にした。

 

 結局、僕はきっぱりと彼女を拒絶する事はできなかった。

 それどころか、上手く言いくるめられてしまったとさえ言える。

 それでも何故か全く悪い気はしなかった。

 出来ればこのまま、ずっと何も起きなければいいのに、とさえ考えている自分が居る。

 でも、それは駄目だ。シキの事も事件の事もある以上、何時までも現状維持ではいられない。

「シキ、君はどう思う?」

 ''………''

 

 やはりと言うべきか、彼は答えない。

 しかし、虫の知らせとでもいうのか、この件だけは今夜にでも決着が付く予感がしていた。

 

 

    /3

 

 

 夜。

 夕から空を覆っていた雨雲は当然のように雨を降らせ始めた。

 雨は時間と共に勢いを増し、いよいよ土砂降りとなり始めていた。

 三月であっても夜の雨は冷たく容赦なく体から熱を吸い上げていく。

 傘ごと雨に打たれながら黒桐鮮花は両儀邸を眺めている。勿論、転々と場所を代えながら。

 鮮花とて、こんなストーキングすれすれの行為を続けるつもりはない。今日辺りで切り上げようとも思っていた。それに彼の言う通り、誰も門を開ける様子は無い。

 それでも今日も行おうと此処まで足を運んだのは彼女の意志か。 …それとも知る筈もない何者かの意図か。

「ふぅ……もう帰ろうかな」

 

 彼女はいつになく上機嫌だった。おそらく、夕の織の素振りだろう。

 肯定でもなく否定でもない中庸。それは彼が初めて見せた態度だった。

 淡い希望ではあるものの、少しだけ彼は成長を見せているように思えたのだ。

 それが何よりも、嬉しい。

 

 そう感慨に浸っていると、何者かが近寄ってきた。

 目を向けるとそこには異様な人影があった。

 織が着ている物と同じ、全身黒尽くめの衣服。

 顔はフードと包帯で覆われ、僅かにも正体を知ることはできない。

 更にその人物は何故か注視すればする程細部がボヤけてしまい、大まかな特徴しか捉えることができない。

 ソレは誰が見ても織ではない事は明白だった。

 

 もしかして、両儀家の関係者かもしれない。

 そんな事を考えて鮮花は無警戒にその人物に近寄っていく。

 ……ソレが、どれ程危険なモノであるかさえ考えることなく。

 

 彼女が腕を伸ばしたと同時に、風を裂く音が大気に伝播する。

 

「──────え⁇」

 

 意識が、追いつかなかった。

 数瞬の後、彼女は漸く自らの腕に起こった事を認識する。 

  ──切られた。なんで? 腕が?

 その認識と同じくして、鮮花の白く柔らかい腕を熱く朱い染料が染め上げていく。

 ──あまりにも現実離れしすぎていて、痛覚すらも追いつかない。

 そうやって鮮花がまごついている間にもソレはさらなる凶行を働かんと距離を縮めてくる。

 それに気付くと同時に彼女の腕に凄まじい痛みが走り、恐怖が思考の一切を掌握していく。

 

「ひぃ───────‼︎‼︎」

 

 彼女は今居る竹藪から正反対の方向、道路に向かって死力を尽くして疾走する。

 だが竹と恐怖でもたつく足が邪魔をして思った程の速度が出せない。

 そのケモノはそんなことはお構いなしに突風の如く獲物に喰らいつかんと突撃してくる。

 転がりながら道路に飛び出す事に成功するも、既に追いついたケモノが鮮花の腿を切りつける。

 

「っづ────‼︎」

 

 傷は浅いものの、恐怖と痛みによるダメージは大きくもはや彼女にこれ以上の走行を許さなかった。

 それでも、生き延びる為に本能が彼女を匍匐(ほふく)という形で引きずっていく。

 だが所詮は焼け石に水。悠々と歩くケモノは既に彼女の目前に迫っていた。

 

 鮮花は逃走を諦めて、その人物を注視することに意識を向ける。

 ……何故かその人物はどこか見たことがあるような気がしている。それも、つい最近まで身近だった者。

 そして彼女は不思議とこの人物がこれ以上自分を傷付けるつもりはないということも直感的に理解していた。

 

「あなたは…誰なの?」

「──■■■■」

 

 胡乱な頭で必死に問いを練るものの、返答は最早唸りにしか聞こえずお互いに顔を見合い続けるという奇妙な状況が続いていた。

 そしてその状態は、一陣の疾風によって破られた。

「コクト──────────‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 そう、他の何者でもない両儀織である。或いはシキか。

 彼は突如として出現し、視認すら困難な勢いでケモノに躍りかかる。

 その姿を認識したソレは隠された顔の上からでも明確に嗤い、敢えて一撃を受け容れる。

「──■■!」

 

 その速度と体重を乗せた一撃はケモノの左額を大きく抉るものの、有効打となった様子はない。

 

 コイツ──再生しているのか⁉︎

 驚くべき事に、深く抉られた傷は三十秒と待つ事なく傷痕のみを残して元の状態に戻ってしまう。

 ケモノは標的を鮮花から織に変更し、歪極まりない笑みを浮かべ無骨なサバイバルナイフを構える。

 そう、ソレが鮮花を襲ったのはただ織をおびき出す為だけのこと。

 初めから、全ては掌の上。そして恐るべき謀略は今、第二段階に突入せんとしている。

 

「来いよ……(オレ)が欲しいんだろ?」

 

 そうして彼も流麗な短刀を構える。

 その合図と共に闘いの火蓋は落とされた。

 

 何方もただ、願望を成就し己の望む未来の為に。

 黒き影と昏き影、二人の殺人鬼は刃を交える。

 先手を取ったのはシキだった。

 彼はケモノを左肩から袈裟斬りにするものの、ケモノはダメージを無視して突きを見舞う。それを見切ったシキは右側に回避した上で脇腹を膝蹴りし、大きく体制を崩させる。

 すかさず背中を刺し、さらに蹴り飛ばすことで距離を取るが、やはり致命傷には至っていない。

 それでも苦痛を誤魔化すことはできないのか、ケモノは悶絶しフラつきながら切りかかってくる。

 当然そんな破れかぶれの反撃は通用する筈もなく、十合余り剣戟を交わしてすぐに決着は見え初めていた。

顔、頸、腕、胸、腹、腿、脛。全身余すところなく寸刻みにされたケモノは戦闘を止め、心臓発作でも起こしそうな程呼吸を荒らげながら初めて人語を発する。

 

「オ■エは────完■な■■鬼じゃな■か」

 

 その、記憶にある声とよく似た呻き。

 それは、一体誰だったか──

 

「ソウだ。こレで■い」

 

 傷はそう時間を置かずして傷痕へ変わっていく。しかしソレは突如として林の中に疾走し、瞬く間に暗い闇に溶ける様に消えてしまった。

 

 ただ二人だけが、冷たい雨に打たれ続けていた。

 

「……よかったな。コクトー」

 

 鮮花は何も言えなかった。

 彼は鮮花が生きている事を確認すると、今にも消えてしまいそうな程儚く微笑み、背中を向けて語りかける。

 

「……ほら、(オレ)となんか関わっているからこんな酷い目にあった。──それと、やっぱりダメだったよコクトー」

 

 織とシキは、まるで今生の別れの様に語る。

 

「見ての通り、(オレ)は殺人鬼だから。キミの側には居られない。──こんな目に合わせて本当にごめん。──キミの想いを無駄にして悪かった」

「そんな……どうして……」

「キミが逃がしてくれないのなら、僕が消えるしかない」

 

 そうして彼は駆け出す。それに反応して鮮花も走り出す。

 絶対に、ここで逃がしてなるものか。想いを胸に痛みも出血さえも無視してただ疾る。

 

 しばらくして、シキは立ち止まり最期の想いを告げる。

 彼は、泣いていた。

 

「……キミが生きてくれていて本当によかった。だから────どうか、幸せに生きてくれ」

「だめ待って! おねがいそれだけは! いかないで──────────‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 そうしてシキは、車道に向かって舞う様に身を躍らせた。

 

 暗転────────

 

 

    序章/終幕

 

 

一九九八年六月。

 橙子さんに弟子入りして、わたしは初めての仕事を終わらせた。

 弟子としての仕事と言っても、未熟極まりないわたしには事務作業しか任されず、従業員と大差ないのだが。

 大学にも行っているのであまり時間がとれないのも半人前である原因の一つかもしれないが。…まあ、そんな言い訳をしている時点でわたしもまだまだ未熟だ。

 

「鮮花ちゃん。今日はお見舞いの日でしょ? 一応休日だし行っていいわよ」

「ええ、ありがとうございます」

 

 眼鏡をかけた橙子さんはとても親切で、何時もの厳しさは欠片も見出せない。

 今日はツキが回ってる。

 

「それでは行ってきます。おそらく二時間程で戻りますので」

「お土産も忘れないでねー」

 

 

    ◇

 

 

 週に一度、休日にわたしは彼のお見舞いに行く。あの夜から話す事も笑う事も出来なくなった両儀織のもとに。

 わたしは、彼に手を差し伸べようとして、破滅へと導いてしまった。

 その事が、今もずっと胸を締め付ける。彼の選択の理由も、解っている。

 わたしはもう引き返すつもりなんてない。わたしはこれからも勝手に彼に寄り添い続けるつもりだ。

 

 眠ったままの織は、最後の夕に見た時を思い起こさせる。

 あの黄昏の中で、彼はどうして自分を信じられるのか問うた。今でも答えは変わらない。

 ……だって織は、優しいから。

 最初から最後まで彼は、人の為に苦しんでいた。

 居なくなった白純先輩の事をずっと悔やんでいたし、わたしを拒絶する事もなかった。

 そしてあの時、身を呈してわたしを守ってくれた。それに彼は殺人鬼なんかじゃなかった。

 だから信じる。今も、そしてこれからも。

 

 ────1995年3月

 わたしは彼に出会った。

 

 

    殺人考察 (前)/了

 

 

    /0

 

 そして君は眠りについた。 

 彼女はいつ迄も待ち続ける事だろう。

 ──だが、待っているのは彼女だけではない。

 彼も、そして私も君を待とう。例え幾程の時が過ぎようとも。

 

 ──いずれ、相克する螺旋にて君を待つ。

 




 お読みいただきありがとうございました。
 これにて二章は終幕です。
 次回、第三章はなんと伽藍の洞。
 気長にお待ち下さい。
 それではまた次回。

 質問や感想があれば気軽に書いて下さい。


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3/伽藍の洞 -The hollow shrine-
偽典福音/0


  不定期更新です 
  今回は短編です


一九九七年某日

 

「久しいな。此処の住み心地は如何なものかな」

「久しぶりだな、荒耶さん。そうだな、造形や装飾は悪くないがいかんせん疲労が溜まる。床は傾いているし、妙に目に悪い塗装と照明をしてやがる。どうなってんだよここ」

 

 その返答に荒耶と呼ばれた男は珍しく皮肉げに嗤って言葉を紡ぐ。

 

「当然だ。此処は元より神殿。敢えて負担となる構造にしておくことで儀式を円滑に進めているのだ。その様では、無駄ではなかった様だな」

 

 その言葉には僅かながら喜色が浮かんでいるのが見て取れる。常人ならばこの荒耶という男の感情の起伏になど気付く事はないであろうが、彼と対面している青年は須く常人などではない。

 

「おいおい、俺の部屋ぐらいまともにしてもよかったじゃねぇか」

 

 荒耶とは対極に青年は不平を口に出す。青年は荒耶の徹底した合理性に不満を抱いている様でもあった。

 

「詮方なき事だ。もう居住者の枠は埋まっている故、空いた東棟の一室を使って貰う他無かった」

「そっか、なら仕方ないか。それより本題に入ろうぜ。まさか''顧客満足度アンケート''の為だけに態々呼びつけたワケ無いよな?」

「無論。この装置を起動する為にお前を呼んだのだ」

 

 青年は机に置いてある装置を目にするとその珍妙さに目を瞬く。

 それは頑丈な金属で造られた幾何学模様が描かれた匣であり、何故か内側に向かって映写機が取り付けられていた。

 

「なんだ、これ」

 

 当然彼は困惑する。

 この様な用途も分からないある種の芸術品じみた装置を起動すると言ってもどうすれば良いのか検討もつかないからだ。

 

「そうだな、この絡繰自体に意味など無い。だがもし事を仕損じた時に保険となるやも知れぬと思い製作したのだ」

「保険? こんな置物が? それに起動すると言っても俺は魔術師じゃないから分からねぇ」

「案ずるな。起動自体は条件を満たせば自動で行われる。必要な事項は管理者と観測者の登録のみ」

「登録ねぇ。正直、少しもピンと来ないがまあやる事はやるさ」

「この手続きはその''世界''に於いて私とお前に自我を持たせる為に必要な事だ。設定された以上の自我を持てぬ様では意味が無いからな」

 

  ──世界、装置、管理者と観測者、──匣。

 それらの単語は彼にこの匣が一体何を行う装置であるのかを推測させるには十分すぎた。

 

「まさかとは思うが、この匣ってのは」

「おそらくお前の想定している通りの物だ。起動条件は私の死亡が確定することのみ。その閉じた世界の中に在っても抑止力の影響を受ける事は避けられん。故に抑止力の影響を受けずして活動できるお前が必要なのだ。観測者として、記憶を消される事のない確固たる自我を持つ存在。その役割をお前に担って貰う為に登録が必要なのだ」

「……なるほど、面白いじゃないか。そういう事一度はやってみたかったんだ。まあ、条件からして起動することはないんだろうけどな」

「だからこそこれはあくまでも保険に過ぎぬのだ。最早この螺旋が完成した時点で抑止力は機能しない。故に我らの計画が失敗する事などあり得ぬ。これは無駄ではあるが、同時に必要でもある。…説明は此処までだ。早速取り掛かるとしよう」

 

 そうしてその世界は開闢を迎えることとなる。

 だが、彼らはまだ知らない。

 その世界こそ最後の決戦の地にして、同時に彼らの墓場でもあるという未来を。

 

 これは、一つの虚構の始まりにして終わり。

 あるいは無価値なる偽物への福音。

 

 匣は、ただ静かに待っている。

 ────その閉じた世界、そしてこの偽典(ものがたり)の運命の終焉を。

 

 

    ◇

 

 

 一九九八年六月

 

 東京都三布子市。

 何一つ変わることのないようで、その実忙しない変化を遂げつつある日常の中、一人の青年が街を逍遥していた。

 彼の名は白純里緒。社会的には既に消えた人間である。

 それもそのはず、一九九五年から翌年三月に掛けて連続殺人事件が発生した時期に失踪しているのだから。

 故に彼の生存を信じる者は極僅かな一部を除けばいる筈もなかった。

 何故そんな彼が今雑踏の中、新聞を手にベンチに座り込んでいるかと言うと、理由はあまりなかった。

 

 里緒はこの二年間の間、特に大きな行動を起こす事はなかった。

 代わりに学んだ事と言えば。

 

 結局、俺なんて居ても居なくても変わらないらしい。

 

 ただ、それだけの二年間だった。

 無論、彼とて無為に日々を浪費していた訳ではない。

 自身が師と仰ぐ人物の元で自己のあらゆる能力を引き出す修行を受けてきたし、極秘にヒトの''起源''に干渉する手管を学ぼうと研鑽を積み重ねてきた。

 だが、それでも。

「……連続殺人が起きなくなったってだけで、直ぐにでも俺を忘れちまうなんてな」

 

 両儀織が眠りに就いてからというものの、連続殺人は突如として止み、街は平穏な日々を取り戻していた。もはやあの事件を気に掛ける者など遺族を除けば居なかった。

 ……それが、彼には何よりも苛立たしくて、何よりも虚しかった。

 

 嘗て、殺人鬼の師である荒耶宗蓮は言った。

 

『この世界にはありとあらゆる死で満ちている。幾ら屍を生んだ所で、所詮は無間に等しい時間とそれを上回る屍の内に埋もれるのみよ。お前の為してきた事など、天に唾するに等しいものでしかないのだ』

 

 それに加え、『だが、必要な事ではあった。お前の力があってこそこの世界を変革する事能うのだからな』と言われたものの、過去の自分の行動を覚えていてくれる人間が殆ど居ないという状況はやはり虚しいものだった。

 

 ──今頃、家族はどうしているのだろうか。

 唐突に、そんな想いがアタマの内を過る。

 彼は薬屋の息子であり、将来はとても明るい筈だった。

 だが、彼を囲む世界の人間は誰も彼も富と名声に固執する者ばかりであった。

 勿論、両親とて例外ではなく、彼にはただ結果を出す事ばかりを求めていた。親戚や教師もまた同様だった。

 そんな世界を彼はただ冷めた目で見つめていた。

 

''どうしてこの人達はそんなにつまらない幻に縋りつくのだろう? 僕もいつかこんなに浅ましい人間になってしまうのだろうか?''

 

 それでも彼には、ただ従う他にはなかった。それは彼自身の弱さだったのかもしれないし、強さだったのかもしれない。

 そうやって無意味に日々を過ごしていた時、とある人物が現れた。

 

 そう、両儀織その人である。

 彼の存在は、里緒にとっては革命にも等しいものだった。

 何も求めず、何も憎まず、何も愛さず、何も望まない。

 その虚無にも似た無駄の無い在り方は正しく''特別''そのものだと確信した。

 

 その時里緒は、初めて人を心から美しい感じることができた。初めて人に憧れを持つことができたのだ。

 だが、誰とも関わりを持ちたがらない織と交友を持つ事は至難の技でもある。

 そうして仲間を探している内に、里緒はもう一つの運命と出会う事となる。

 

 黒桐鮮花。里緒と同じ、特別の探求者だ。

 彼女は織とは対照的に、友好的な人物であった。 

 彼女と話して初めて人と関わる事が喜びに満ちた事だと知った。

 自分は一人ではないのだと孤独を遠ざける事ができた。

 そうして何時しか、里緒は鮮花に対して恋慕の情を抱くようになっていった。

 彼女は自分と同じで、特別なモノ、不変の価値を望む者であると確信した為である。

 だが、悲しいことに彼女にとっての特別は織以外にはありえなかった。

 そう、鮮花が特別の探求者である以上、同類である自分ではなく理想の体現たる織を選ぶのは必然であった。

 

 彼は絶望した。

 自身の理想にすら敗れ、同類であると信じた者すら贏ち得なかった。

 

 そうして、彼は正しいと信じた道を選んだ。

 その結果、今まで生きてきた世界の全てを捨て去り、今に至った。

 ──果たして、あの選択は正しかったのか?

 答えはただ、彼自身が決める他なかった。

 

 あの瞬間、白純里緒は死んだ。 

 黒桐鮮花も両儀織も手に入れられないと解った以上、白純里緒は不要な存在となった。

 だからあの時、半ば自暴自棄に行動を起こしてしまった。

 だが、何の因果か彼に手を差し伸べる者が現れた。

 魔術師、荒耶宗蓮。そう男は名乗った。 

 彼と出会った事で漸く自分は特別になる道を見出した。…求めていた理想へと走り出せたのだ。

 そう考えると、あの場で彼の手を取った事、それ迄の世界と決別した事は間違っているとはとても思えなかった。

 

「まあ、どうでもいいか。あんなくだらない世界で生きる連中なんて」

 

 そう、事実彼にとっては家族なぞ最早気にかける存在ではなかった。

 ただ、それでも。

 

「……こんな姿で、会える訳ないじゃないか……」

 

 なんてつまらない、なんて意味のない、感傷。

 それは、彼もまだヒトである証明なのかもしれない。

 

 ──それよりも。

 

「両儀…黒桐…早く会いたい…」

 

 自分は強くなった。自分は特別になった。

 だからこそ、特別と信じた二人に会えない事が悲しい。

 そしてそれは、新たに生まれた弱さだった。

 

「それでも、俺は待ってるよ。だから…」

 

 ──どうか、俺を失望させるなよ?

 

 それだけが、彼の望みだった。

 その哄笑と共に彼は新聞をゴミ箱に放り込み、雑踏へと消えていく。

 行き先は無論、『相克する螺旋』である。そこだけが、彼の家なのだから。

 

 ──両儀織、未だ目覚めず。

 




 お読み頂きありがとうございました。
 今回は最終章への伏線と先輩の内面を少しだけ描写した短編です。
 できる限り更新頻度は保ちたいと思っています。


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伽藍の洞/1

 不定期更新です


 

    /0

 

 

「両儀さん、今月も目覚めませんでしたね。このままずっと、寝たきりなんでしょうか」

 

 唐突に、看護師が話題を持ちかける。

 無論、相手は医師である。

「いや、例えどれ程の時間を要そうとも彼は必ず目覚める。私はそう信じている」

 

 その医師は厳しい声で迷いなく答える。

 

「そうですよね。わたし達がしっかりしないと、黒桐さんに合わせる顔がありませんもの」

「彼女の事ならば心配は無用だ。決して諦めはせんだろう」

「でも、なんだか可哀想ですよねあの娘。二年間も両儀さんと話一つできないなんて」

 

 看護師の憐憫を聞き医師は話題を転換する。

 

「……実は私も十二年前、彼と話した事があるのだ」

「えっ⁉︎ 荒耶先生って両儀家の知り合いだったんですか⁉︎」

「如何にも。両儀家に限らず浅上家や巫条家とも縁が有ってな。私が彼の担当医となったのも、それが理由の一つだ」

「ああ、霧絵さんも先生の担当ですものね。霧絵さんも先生が父の知り合いで、医療費まで払って貰っているって言っていましたね。先生って本当に凄い人ですね!」

 

 純粋な賞賛に対し、荒耶はつまらなげに鼻を鳴らす。

 

「これはあくまで私の意志だからな。断じて賞賛に値するものなどではない」

「いえいえ、今時そんな謙虚な方って居ませんよ。前の先生なんて、本っ当に鼻もちにならない態度で威張り散らしてましたし」

 

 看護師の恨み言を聞き流しながら荒耶は廊下を歩んで行く。

 

「今日も御苦労だった。明日また会おう」

「ええ。先生こそお疲れ様でした」

 

 そうして彼は病院を去り、祈るかの様な面持ちで己の『 螺旋(セカイ)』へと帰還する。

 

 両儀織──私は待っているぞ。お前こそ、この醜き苦界を救済する弥勒である故に。

 

 

    /1

 

一九九八年三月

 

「卒業式っていってもあんまり実感わかないわぁ」

「先生の方が泣いちゃったものね」

「ってか大学まで鮮花と一緒なんて思わなかったから尚更よ。ここまでくると腐れ縁って感じね」

「……こっちもまさかあんたがこの大学に受かるなんて思わなかったわよ」

 

 そう、今日は卒業式だ。

 といってもなんだか実感が湧かず、たいした感慨も無いのだった。…春菜も同じ大学だったから余計に。

 そんなことよりもむしろ春菜がこの日本一の難関大学に合格した事の方がよっぽどビッグニュースだと思えたのだ。

 

「あ、そうだ、あんた打ち上げどうすんの?」

 

 春菜は唐突に誘いをかけてくるものの、わたしにはやるべき事があるので素直に受ける訳にはいかなかった。

 

「行くけど、遅れるって伝えておいて」

「遅れる? ああ、なるほどね。ま、また後でね」

 

 春菜はそれで理解したのか、理由を問うことなく去っていった。

 わたしも、為すべき事を為すために一束の花束を持って''彼''の居る場所へと向かうのだった。

 

 

    ◇

 

 

 病室へ向かう途中、とある医師に出会った。

 その名は荒耶宗蓮。両儀織の担当医だった。

 

「こんにちは。いつも織がお世話になっております」

「うむ。創建な様で何よりだ。ところで、今日は卒業式だと聞いているが」

 

 この人は一見無愛想で怖い人という印象を与えるが、その反面仕事に対する態度は真剣そのもので人柄も寡黙ながらどこか穏健さを感じる、謂わば人間の鑑そのものである。

 

「ええ。もうあれから二年も経っているなんて実感が湧きませんよ」

「ふむ。だが、それでもその時間は事実として存在していたものだ。君にも私にも、…彼にもな」

 

 先生は重苦しい雰囲気を崩すことなく語る。もし、織が何らかのきっかけで目覚めたとしたら、彼は己に起きた事をどう受け止めるだろうか?

 二年、或いは十年。その喪った時間を何を以って埋め合わせてあげれば良いのだろうか?

 わたしは答えの出ない問いを抱えるばかりだった。

 

「なるほど、君は彼の目覚めた後の事を案じている様だな。それでは彼も''空''になる事はないようだ」

 

 率直に言って、わたしはこの人物が苦手だった。

 何せ、余りにも人の感情を読む事が上手いのだ。不思議と彼の言う事はわたしの思考を先読みしているかの様に的を射ていて、隠している不安や焦燥を表層に炙り出しているかの如く魔的だ。

 おそらくこの人の前ではどんな隠し事も忽ち暴かれてしまうだろう。

「焦る事はない。君がそうである様に、彼が目覚める事を信じている人物は確かに存在する。例えば、今君の前に居る医師などだ」

 

 そういって彼は迷い無い瞳でわたしを見つめる。

 その強い意志を前にわたしは少し安心しているようだった。

 

「やっぱり、あなたが担当で良かった。これからもどうか、織をお願いします」

「承った。その信頼、この私が確と受け止めよう」

 そうしてわたしは病室へ向かう。 

 この行為を何度繰り返したことだろうか。

 この二年間、何かが進展したという訳でもなかった。

 それでもわたしはこの繰り返しを止める訳にはいかなかった。

 そう、わたしには確信があるのだ。どれほど年月が経とうとも、織が必ず目覚めるという確信が。

 これほど絶望的な状況で何故ここまで信じられるのかは自分でもわからない。

 もしかすると、荒耶先生の影響もあるのかもしれないが、そんな事は最早どうでもよかった。

 どちらにせよ、わたしにできることはこの螺旋の様な繰り返しだけなのだから。

 

 

    /2

 

 

一九九八年五月

 

 わたしは春菜からとある招待券を貰っていた。

 それはどうやら芸術関係のグループ展のものらしく、うちの大学のOBの画家が出展しているとの話だった。

 興味が湧いたわたしはそのギャラリーへと向かい、そこで奇妙な展示物を発見したのだった。

 人形。そう、そこには絵ではなく人型が置いてあったのだ。

 それは人形というにはあまりにも精巧すぎて、今にも息を吹き返しそうなほど活きていた。

 けれどもそれに生命などなく、だからこそ人間では届かない美しさを醸し出している。

 ──その、二律背反。

 わたしは、我を忘れる程に『それ』に魅入っていた。

 

 何故なら、そこには確かに織そのものの在り方全てがあったのだから。

 

 

    ◇

 

 

 後日、人形の出展者を調べたものの、収穫は見事に皆無だった。

 その後、情報収集能力が極めて高い兄の助けを借りたおかげで名刺を手に入れることができた為、それから先は自分で調べたところ、わたしはその人物の住処を調べる事ができたのだった。

 

 彼女の名は蒼崎橙子。

 業界きっての変人として有名な人物だった。

 人形師でありながら設計士でもあるのだが、仕事を受ける事はないというのだ。

 いつも自分から相手にコンセプトを売りに行き、報酬前払いで制作するという奇特なビジネススタイルを保っている、真性の変わり者ということらしい。

 そんな彼女に興味を深めたわたしは、今日彼女の家を訪れる事になるのだった。

 

 だが──

「あれ、此処で合ってる筈なんだけどなぁ」

 

 何故か住所である筈のビルは見当たらない。

 さらに不可思議な事なそこに近づくと『決して入るな』という警告が頭を過るのだ。

 わたしは半ば駄目元でその『禁忌』の匂いの強い方へと歩を進めていく。

 すると、明らかに他の場所と空気が違う空間へとたどり着いた。

 やはりわたしの感は当たっていたらしい。

 そこには、廃墟としか形容しようのないビルがあったのだった。

 ──まさか、やってはいけないと言われた事をやってしまう癖がこんな所で役立つなんて。

 

「というより、そもそもこんな所に人が住んでいるのかな」

 

 訝しみながらも、わたしはビルに足を踏み入れて行く。

 四階まで入った所で生活の痕跡らしき物を発見する。

 

 これは、女性の靴跡? それにダンボールが新しい。

 

 此処に誰かが住んでいることを確信したわたしは半開きになっている扉をノックをして、部屋の中へ進む。

 

 思わず息が漏れる。

 そこには、確かにギャラリーで見た人形と同一の物が置いてあった。

 

「誰?」

 

 そうして人形に意識を傾けていると、おもむろに背後から声をかけられた。

 

 

    ◇

 

 

 ──まさか、魔術の存在があんな小娘に気付かれるとは。

 それにしても、大切な人を守る為、誰かに守って貰わずとも自分の身を守る為に魔術師を目指す、か。

 魔術師としては三流もいいとこだが、魔術使いとしては上々と言った所だな。

 正直勢いで採用するとは言ってしまったものの、弟子としては中々に悪くない逸材だった。

 

 それに、魔術師でもないのに人避けの結界を通り抜ける粘り強さといい、内に秘めたモノといい、只者ではない様だったしな。

 

 ──これも何かの縁か。

 あそこで断ったところで、何時か何処かで出会う事になる。

 そんな気が、していた。

 

「なるほど、そう考えれば良い拾い物だったかも知れん」

 

 蒼崎橙子は未だ知らない。

 この出会いが、いずれ世界の命運を変える事になるのだという事を────

 

 

     /3

 

 

 その世界には、何もなかった──。

 

 

    ◇

 

 

 ────ふと、目が覚めた。

 

 ……生きて、いるのか。

 ここは…….どこだ?

 夜、ベッド……病院?

 そもそも、どうして生きている?

 確か、自分は……

 

 そこまで思い出した所で、突如として頭に激痛が走る。

 

 体が、上手く動かない…何も、思い出せない…!

 

 それに……!

 

「なんだ……これは…….」

 

 目を開けるとそこには無数の赤黒い線が走っている。

 それだけではない。

 体にも、置いてある花にも、夥しい線が描かれている。

 まるで世界が線で埋め尽くされている様だった。

 そして自分の体が、天井が、壁が泥の様に崩れ落ちていく光景を見た所で、彼は己の目を押し潰した。

 

    ◇

 

 

 朝が来た。

 受付が始まった病院は普段の賑やかさを取り戻し、廊下を歩く職員と患者達の生活音が残響する。

 だが、そんな事は今の僕には瑣末な事だ。

 昨夜、目を潰そうとしたものの関節が上手く動かず、しどろもどろしている所を巡回に来た看護師に見つかり、阻止される事になったのだった。

 僕の担当医は心療内科の医師でもあったらしく、僕は精神状態が安定するまではその医師の診察を受ける事になっているらしい。

 損傷の為何も見えない目で周囲を呆と眺めていると、その医師が病室に入ってきた。

 

「ふむ……目覚めたようだな。気分は如何かね。両儀君」

「──」

 

 その声を聞いた途端、僕は無性に懐かしいと感じていた。

 なぜだろう。

 姿は見えないのに、その独特な気配と視線、それに声質からこの人物とは何処かで会った事があるという確信がある。

 必死に記憶を探ってみるものの、ところどころ欠損していて重要な事は何一つ思い出せない。

 何か一つでも手掛かりを得ようとその人物に対して質問を返す。

 

「あんた……何時か何処かで、会った事が……?」

 

 その質問に聞いた医師は意外そうに鼻を鳴らし、表情を僅かに変えて言葉を紡ぐ。

 まるで単語の一つ一つが神託ではないかと錯覚する程の重く染み入る声の持ち主だった。

 

「ほう……私を覚えているのかね。酷く不安定な状態だと聞いていたが、その様子では面会謝絶とするには過ぎているようだ」

「……答えてくれ」

「そう、答えは是だ。一九八六年の春、私と君は出会った。こうして会うのは実に十二年ぶりとなる」

 

 確かに、彼は望む答えを返した。

 だが、引っかかるものがある。

 ──十二年前? それに春?

 記憶の欠損の所為だろうか。目の前の人物には会ったことがあるという事実を知っているだけで、こうして言葉を交わしているのにその当時の映像は何一つとして浮かび上がらない。

 

「わかった……もういい」

「それでは改めて自己紹介をしよう。私は荒耶宗蓮。君の担当医にして、旧い知り合いだ」

 

 荒耶宗蓮。

 それが彼の名前。確かにこの圧倒的な存在感を放つ男には相応しい、厳粛な響きだ。

 そうして彼は半ば機械的に僕の身に起きた事について解説し始めた。

 

「簡潔に説明しよう。今日は一九九八年六月一四日だ。君、両儀織君は一九九六年三月五日の二三時に交通事故で重体となり此処に運ばれた。道路での乗用車との接触事故だ。覚えはあるかね?」

「……」

 

 何も言えなかった。そんな事は知らない。

 今の僕の散漫な記憶から引き出せるのは最後の資料は雨の中で立ち尽くす女と、夥しい血を流す黒い何者かの姿だけだ。そこからどうなって事故に会ったかなんて、見当もつかない。

 

「ふむ、やはりそこは覚えていないか……。なるほど記憶が喪失したのではなく、損傷していると言う事か、これはやはりあの男の『言葉』が必要か……」

 

荒耶は何かわけのわからない事を呟いているが、何やら気にかかる事を言っていた。

 

「喪失じゃなくて、損傷?」

「そうだ。君の喪った記憶の大多数は単に忘却しているだけ、つまり一時的に思い出せなくなっているだけなのだが、一部分は覚えているが読み込みが不可能な状態、所謂『再生』が出来なくなっている様なのだ」

「つまり、もう識る事は不可能ってこと?」

「……喪失ならば時間に任せれば回復するだろうが、損傷となればそれだけでは難しい。再生が出来ないと言う事はそもそも何を忘却しているかすら識る事が困難だ。原因は不明だが現場我々にできる事はもうない。そうだな──いずれ君がその忘却を識る手掛かりを得る事を待つと言った所か。何より昏睡からの回復という事自体極めて稀な事なのだ。その様な奇跡があれば何らかの代償は生じよう」

 

 荒耶の言う事は正しいが、最も重要な部分を逃している。

 再生が出来ないのは確かだが、何よりも自分の記憶が自分のものであると認識する事ができない、つまり『再認』が出来ないいうことこそが最も重要な問題なのだ。

 そう考えているこの瞬間すらも自分が自分でない、両儀織の肉体を借りた誰かであると感じてしまっている程に。

 

「また、両目の傷もそう重くはない様だ。昨夜君の近くに刃物がなかった事が幸運だった。一週間も経てば回復することだろう」

 

 荒耶は少し喜んでいる様に思える。何故か目を潰そうとした理由は聞いて来なかった。

 何だか、昨日見えてしまった線の正体を知っているとでも言いたげな口調だったせいか、無性に不安に駆られてしまう。

 

「それでは、今はここまで。記憶に関しては今はそこまで悩むことはない。喪失は時間が、損傷は機会次第で解決してくれるだろうからな。君に重要な事は二年という空白を如何に埋め合わせるかという一点だろう。特にその胸の穴、それこそが最大の課題なのだろう? 織君」

「……!」

 

 ……こいつ、中々に人の深層を見る事が得意らしい。

 だが、今の空っぽな自分にはその方が好ましいと思えた。もっとも、その『好ましい』という感覚さえ借り物の様にしか思えなかったのだが。

 

「では、また後でな。君に必要なものはわからないが、この荒耶にできる事があれば行おう。ただの会話であっても、解決の糸口は見出せるやも知れぬ」

 

 そう言って、荒耶は病室を出て行った。

 それからというものの、僕は何をするでもなくただ呆と周囲を眺めているだけだった。包帯越しに見える、何もかもが脆く悍ましい世界を──




 更新が遅れました。
 今回から伽藍の洞編になります。大好きな荒耶を本格的に書ける様になったのでモチベーションはかなり上がっています。
 映画版のパンフレットによると病院に勤務していた頃の荒耶はそれなりに社交性があったらしいので、今回は少し饒舌にしてみました。
 それではまた次回。


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伽藍の洞/2

 不定期更新です。
 一ヶ月もの間待たせてしまい申し訳ございません。


 

    /0

 

 

 経過報告  一九九八年 六月一四日

 

 両儀織が目を覚ました。

 多少精神的に不安定かつ記憶に混乱が見られるようだ。

 記憶には損傷が見受けられ、私の事は具体的には覚えていないらしい。

 この様子では二年前のお前との交流は全て忘却している事だろう。

 だが安心しろ。記憶が復元すれば奴はお前のことを思い出す筈だ。

 その為の駒はもう絞ってある。後は彼らと接触すれば計画は始動する。

 ゴドーワード及びコルネリウス・アルバとの接触はもう済んでいるな? 次にお前が接触するべき者は浅上藤乃だ。まだ覚醒させるには時期尚早だが機会があれば近付くが良い。

 彼女の本質は両儀と同じ殺人鬼だ。お前も気に入るに違いない。

 私はもう少し両儀を観察する必要がある。私が居らずとも、必ずや成せ。良いな?

 

 

    ◇

 

 

「ふん、相変わらず仰々しい書き方をする奴だと思わないか? アルバさん」

 

 金髪の青年、白純里緒は報告書を手に取りつまらなげに呟く。

 口調とは裏腹にその顔は歪な笑みに満ちていた。

「その割には随分と嬉しそうではないかね? シラズミ」

 

 その言葉に反応したのは同じく金髪の青年、コルネリウス・アルバであった。

 彼の服装は深紅のコートに深紅のシルクハットと極めて目を引く物であり、この様な冷たい闇に潜み密会を行うには不相応極まりない。

 

「そりゃあそうだとも! 何せあの殺人鬼が目覚めたって言うんだからさ、それに新しい殺人鬼まで用意してくれるってなれば嬉しくない筈があるもんか! まったく、どこまでも飽きさせないじゃないかあいつらは!」

 

 白純は極めて芝居がかった口調で語りかける。

 アルバはそれを聞き、嫌悪を隠そうともしない。

 おそらくそれは同族嫌悪と言うものなのだが、アルバが気付く事はこの先ないだろう。

 

「まったく、キミの様な下賤な者を弟子にするとは荒耶も耄碌したものだな。私ならキミみたいな狂人は即刻お引き取り願うものだがね」

 

 その挑発めいた発言にも、白純はむしろ心底喜ばしいと言わんばかりに応答する。

 

「そうさ、下賤で穢れた狂人だからこそ荒耶は俺を選んだのさ! 両儀だってそうだ! 荒耶は異端こそこの世界を救うと言った。なら俺と奴はさながら救世主だってことだろう? くく、この快感はアンタにも解るんじゃないのか?」

 

 アルバは理解した。

 なるほど、これがこの国で言う''蛙の面に水''と言う事か。

 こういった手合いには何を言った所でまともな返答は無いだろう、と。

 アルバは鼻を鳴らし、椅子から立ち上がる。

 

「それではさらばだ。荒耶が会っておけと言うから来てやったのだが、やはりロクな者ではなかったな。キミとはこれで最後である事を祈るよ。それにこの国の空気は淀んでいて吐き気を催す。計画が遂行されればドイツに帰る事にしよう」

 

 その捨て台詞に初めて白純は残念そうに顔を曇らせる。

 

「そっか。ソイツは残念だ。俺とアンタは似たものがあると思っているし、中々嫌いじゃないんだけどな……。まぁ、もう会う事もないだろうが、元気にやってる事を願うよ」

 

 アルバは何も言わずに扉を開け、街へと出て行く。

 白純はそれを──僅かながら惜しむ様に見ていた。

 

 ……まったく、次から次へ変な奴らが現れやがる。

 やりたい事だけやって生きていける。今の状況は楽しいこと極まりないが、少しだけ不満もある。

 

「両儀、黒桐……いい加減恋しくて仕方がないぜ」

 

 もう彼らとの関係を絶って二年もたった。

 いよいよ我慢するのも難しくなってきたが、それでも今は耐えるしかない。

 彼は再会の喜びを想像し、身震いしながら荒耶の報告を待っているのだった。

 

 

    /1

 

 

 何事もなく、何の変哲もない朝が来た。

 朝の診察という事で病室に荒耶が入ってくる。

 午後からは家族との面会があるため、長話をするとしたら今が機なのだろう。

 彼が扉を開け部屋に入って来たというだけの事なのに何故か一気に空気が引き締まる様に感じる。

 よくこれほどの存在感がある人物が医師なんてやっていられるものだと、我ながら意味のない事を思った。

 彼がその険しい声で大気を震わせると、自然と僕も耳を傾けていた様だ。

 

「まず一つ報告を。私は明日から転勤となる。つまり私の後任の医師がこれから君を担当するということだ。どうやら年若い女医の様でな。私などよりも遥かに話しやすい人物故、気軽に接するが良い」

 

 特に思う所がある訳でもなく僕はただ素っ気なく返事するしかなかった。

 つまりこれで荒耶とは別れる訳だが、僕の知りえない何かを知っている様に思える彼をタダで逃してしまうのは躊躇われた。

 そんな意図を汲んでくれたのか荒耶は何か質問があれば今の内に、と言った。

 けれども、何も思い浮かばない。

 訊かなければならない事があるという感覚を覚えているのだけれど、記憶にプロテクトでも掛かっているのか一つとして重要な事が思い出せない。

 

 結局僕は最後まで当たり障りのない事しか訊けなかった。

 そろそろ刻限なのか彼は立ち上がり最後の挨拶を告げる。

 

「それではな。後は君の回復を願うばかりだ。……縁が続けば、またいずれ」

 

 ──何故だろう。

 僕はその言葉を何処かで聞いた事がある──?

 

 無理矢理に記憶を引き出そうと試みるが、猛烈な違和感が邪魔して先を見る事はできない。

 そうこうしている内に荒耶はもう行ってしまった。

 自分一人しか居ない病室は空虚さすら感じる程に静かだ。

 あの医師がどれほどの存在感を出していたのか、それを今になってから強く実感する。

 ……また、一人になってしまった。

 ……本当に?

 いや、考えては駄目だ。少なくとも今は。

 

 この後特に何かあったという訳でもなくいつの間にか午前は終わっていたらしい。

 

 

    ◇

 

 

 午後になって家族との面会があった。

 母と兄の二人と二年振りの会話をしたものの、とても血族だとは思えず、会話は難航した。

 苦し紛れに織の記憶通りに応対すると、二人は安堵して帰っていった。

 ──これでは、まるで擬態だ。

 なんだか、自分が自分でなく両儀織という人物の殻を纏った何者かにしか思えなかった。

 

 気が付けばあの荒耶という医師が何者だったのか、訊くべき事とは何だったのかという事すらどうでもよくなっていた。

 

 

    ◇

 

 

 翌朝。

 荒耶の言っていたであろう女医は颯爽と現れた。

 彼の後釜だという女性は胡散臭さすら感じる程に明るかった。

 

「あらあら、聞いた情報よりずっとキレイじゃないの。もっともっと(やつ)れてて亡霊みたいになってると思ってたんだけど、私好みのハンサムでラッキーってところね!」

 

 声から推測するに二十代後半らしき女性は、ベッド横の椅子に座り込むと、自己紹介を始めた。

 

「初めまして。言語療法士の蒼崎橙子です。身分証明書は持ってないんだけど、まああなたにとっては些細な問題よね」

 

 そんな事よりも何故言語療法士なのだろうか。別に失語症でもないのに。

 

「……何をしに来たんだ」

「今回はカウンセラーとしてよ。どうにも今のあなたは精神的に不安定だから改善する手助けをしろってね」

「必要ない。余計な世話だ」

「そういうわけにもいかないのよ。だって自分の目を自分で潰そうとする様な人が正常に見える? それに何だかあなた、面白そうだしね」

 

 ……何が''面白そう''だ。

 しかもそれをはっきりと口に出すこいつは果たして医者なのだろうか。

 あの荒耶の後釜だというから変人であるのも当然かもしれないが。

 

「おまえ、本当に医者かよ」

「あら心外ね。これでも医師免許は持ってるのよ? けど、あなたの疑問は正しいわ。だって本業は魔法使いだもの」

 

 ……呆れて言葉も出ない。

 なんでそんなヤツが副業で医者なんてやってるのか。

 

「後任が手品師だなんて、聞いてない」

「まあ、当然よね。あなたの胸の穴は医師でもマジシャンでも埋められない。普通の人なら一番だけど、似た様な人が居れば埋められるかもね」

 

 ──胸の穴。

 それは荒耶が指摘する以前からずっと気掛かりだったものだ。

 けれど、それは一体何だったか。

 

「前任の先生も意地悪ねぇ。本当は気付いているんでしょ? あなたは、もう一人なんだって事を」

 

 笑う様な調子で、女医は立ち上がった。

 パイプ椅子をそのままに、ゆっくりと立ち去っていく足音だけが部屋に響く。

 

「どうにもまだ早すぎたようね。今日の診察はここまで。また明日ね」

 

 出会って三十分も経たずに彼女は去っていった。

 彼女の最後の問いが頭にこびり付いて離れない。

 もうひとり。

 決定的に胸に穿たれた、穴。

 

 ──わかって、しまった。

 なんという事を忘却してしまっていたのか。

 

 居ないのだ。何度も呼んでいるのに、彼が応えない。

 眠っているだとか、そういう次元じゃない───。

 両儀織の中のもう一人の住人、裏の側面である名前の無い『シキ』が完全に消えてしまっている────。

 

 

    /2

 

 

 ──ふと、以前にも考えていたであろう自身の出生が蘇る。

 

 

 両儀織は、一つの肉体に二つの異なる方向性を持った精神を抱える二重人格者だ。

 両儀家は古代においてあらゆる''魔''を狩る退魔の家系であったが、近代化の過程で魔が衰退すると文明社会に抹殺されないように超人的な異能を放棄する事にして、発達した文明に適応できる異能だけを継承することにした。

 そう、それが二重人格、或いは二重存在である。

 両儀家は、一個の人間に無数の人格を持たせる事であらゆる分野を極められる究極の個人を創ろうと画策した。

 その為、両儀の跡取りには必ずその異能を持った子供が選ばれるのだ。

 

 僕もその血を受け継いで、長男である兄を差し置いて跡取りとなっている。

 だが、それは両儀家が本来想定していた形とはかけ離れたものだった。

 

 そう、僕は本来なら『式』という女の肉体と人格に『織』という男の人格を内包した『両儀式』という、両儀の完成作として生まれる筈だった。

 

 けれど、何処かで運命の歯車が狂った。

 何の手違いか、男の肉体を持って生まれた僕には女である『式』が生じることなく、二つとも男である人格が生まれたのだ。

 結果、陽性の男人格に与えられる筈だった『織』の名は『式』の代わりに生まれた僕という陰性の男人格が貰い受け、陽性の彼は名無しとなってしまった。

 その代償か、両儀織は特に悪影響のない染色体異常を患ってしまったものの、両儀家の者達はそれを半陰陽だと尊んだらしい。

 ……僕は生まれからして既に不具合(バグ)だったのだ。

 

 名前を奪われたシキは織の対局として抑圧された感情を受け持つ役割を果たしてきた。

 それを決して外に出してしまわないよう、僕は自分であるシキを殺して常識に溶け込んで生きてきた。

 シキ本人は名を奪われた事にもその扱いにも不満を抱いてはいなかった。

 彼はいつも眠ってばかりで、戦闘技術を磨く時にだけ呼び起こすと、特に文句もなく請け負った。

 こうして考えると別人のようだが、そうではない。

 織とシキは結局『両儀織』という個人でしかないからだ。

 シキが抑圧された感情である以上、どうあってもそれは僕の望みでもあり、結果として僕の行動は彼の望みである。

 抑圧された感情。それは殺人衝動をも含むものだった。

 そう、シキは殺人鬼なのだ。

 幸い一度も実行した事はないが、彼は人を殺す事がどうしようもなく好きだった。

 僕はそれを厭い、無視し続けてきた。

 織とシキは生まれる筈のなかった存在同士、歪ながらも巧く孤独を埋め合わせてきた。

 

 だが、突如としてそれは崩壊した。

 二年前、高校一年生だった時。シキが初めて自らの意思で肉体を使い始めたあの頃。

 そこからの記憶はあまりにもあやふやだ。

 荒耶が言ったように記憶の再生機能が壊れているのか、事故に遭うまでの記憶が読み込めない。

 

 ただ、死体の前に佇む自分の姿だけが再生される。

 赤黒く粘つく闇の中、恍惚に悶える自分の姿。

 だがそれでも、鮮明に覚えている映像が一つだけある。

 燃えるような夕陽の中、教室で誰かと話し合ったこと。

 

 織を導いてくれるかもしれなかった、あのクラスメイト。

 シキが殺したくなかった、ひとりの少女。

 シキがそうなりたいと憧れた、ひとつの理想。

 ……シキだけが本質を知っていた、ひとりの少年。

 

 それらは、ずっと昔から知っていた筈なのに。

 長すぎる眠りは、僕から二人の記憶を奪い去っていた。

 ……その名前や顔すらも思い出せなくなる程に。

 

 

    ◇

 

 

 女医は毎日午後にやってきた。

 荒耶より遥かに親しみやすい人となりである彼女との会話は、いつの間にか空虚な毎日を潰す拠り所になっていた。

 

「へぇ、名無しのもう一人の人格ねぇ。しかも本当は織って名前はそっちに付けられる筈だった、なんておもしろい話よね」

 

 誰に聞いたのか、彼女は僕の事情に詳しい様だった。

 両儀家しか知らない筈の僕の二重人格の事も、二年前の事件の事もよく知っているのは不思議に思える。

 今やどちらもどうでもいい事だが。

 知らず、僕は彼女のペースに巻き込まれているようだ。

 

「じゃあ名無しの方のシキクンは『名無しクン』でいいのかな? でも、彼はどうして何も言わずに眠っていたんでしょうねぇ。二つの人格が同時に存在できているのに、わざわざ何もせずにいるなんて」

 

 シキが眠っていた理由。それは、僕だけが答えを知っている事だ。

 彼はいつも──夢を見ていたから。

 

「でも──彼はもう居ないのよね。二年前の事故であなたの身代わりになって。だからあなたには記憶の欠損がある。彼が居ない以上、真相は闇の中ね」

「──前任者は、記憶は残っているけど再生ができないから復元できないと言ってた」

「そりゃそうよ。記憶っていうのはね、すごく主観的なものなの。その場の観測者の印象で用意に書き換えられてしまうカタチの曖昧なものだから。再生できるのもそれを編集する観測者だけだから、名無しクンの記憶は彼自身にしか再生できない。つまりあなた自身の記憶が壊れているんじゃなくて、再生機である彼が居ないから復元しようにも中身すら確認できくなって、結果的に記憶の欠損という形で現れているという事なの」

 

 ……確かにそうだ。

 織とシキが記憶を共有できているのは、両儀織という肉体に同時に存在できていたからだ。

 記憶というものはそれに立ち会った当事者だけが得られるものだ。

 かつては完全に並行して存在していられた為にどちらの人格も同じ体験をして、それを共有していたが、僕と彼がズレ始めた時期からはそれができなくなった所為で彼しか持ち得ない記憶などという矛盾が生まれたのだ。

 おそらく欠損した記憶というのはその時期だけのものを指すのだろう。

 

 黙り込んでいる間に女医は話を進める。

 

「でも、どうして名無しクンは消えたのかしら。だってあなたが消えていれば、晴れて織の名は彼のものになっていたのに。彼はどうして、身代わりを買って出たのでしょうね?」

 

 ……名前のなかった彼。生まれる理由すら持たずに生まれたモノ。

 彼が消えてしまったのは、自己という矛盾に耐えられなかったからなのか。

 でも、それは僕も同じだ。

 それに僕が消えることで両儀織が彼だけのものになるのなら、消える必要はなかったんだ。

 ……やはり、どう考えても結論は出ない。

 

 僕の思考が行き詰まっているのを察したのか、女医が椅子から立ち上がる。

 

「あ、そうだ。リハビリのお祝いにこれをあげましょう。ルーン文字を刻んだだけ石なんだけど、お守りにはなるでしょう。ドアの下に置いておくから取られないように」

 

 彼女は出口の脇にルーン石を置いて扉を開く。

 

「それじゃ、私はここまで。明日からは別の人で来るかもしれないから、よろしく。……縁があれば、またいずれ」

 

 不思議な言い回しに加え、数日前に聞いた別れの挨拶と共に女医は立ち去っていった。

 

 

 




 今回も伽藍の洞です。
 正直、伽藍の洞は改変できる箇所が少なく原作からズラす事が難しいです。
 こういう回ではやはり原作の式&織とこのssの織&名無しシキの違いを強調していこうと思います。


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伽藍の洞/3

 不定期更新です。


    /1

 

 

「両儀……だったか。彼の話をしてくれないか。いい暇潰しになる」

 

 蒼崎橙子が両儀織の名を聞いたのは、六月の初頭の事だった。

 橙子の気紛れで採った弟子が両儀織の友人で、暇潰しに彼女の話を聞いたのが発端である。

 彼は二年前に事故に遭い昏睡状態に陥り、それから目覚める気配が無いのだという。

 

「ふぅん、面白い。もっと聞かせてくれ」

 

 本当に面白そうに言う橙子の態度に、鮮花は眉を顰める。

 

「あのですねぇ……! これでもわたし、真剣に話してるんですよ……!」

「まぁそう言うな。私だって物見遊山という訳でもないんだ。幹也も(しき)りにそのシキという名を口にしていてね。心から心配しているようだったから、どんな人間なのか気掛かりでね」

 

 幹也、という名前が橙子の口から出た事に鮮花は言葉を失う。

 

「えぇ……うちの兄と橙子さんって知り合いだったんですか……。どうりであんなにあっさり見つけられる筈ね……」

「一年程前の事だったかな。あいつの通う大学から依頼があって出向いた時に縁が出来てね。私だってまさかあんなに易々と見つかるとは思わなかったさ」

「はあ、そんな事が。兄さんは馬鹿が付くほど真面目なんですから、変な事を吹き込まないで下さいよ。本気で信じかねませんから」

「幹也が真面目、ねぇ。ああいうのは真面目というよりはむしろ……。いや、今は幹也の事は置いておいて、シキという男の話に戻ろう」

 

 態度を変えずに言う橙子に、鮮花は仕方ないという風に語る。

 両儀織という人物の、極めて特異な在り方を。

 彼女と両儀織は高校時代の同級生で、入学前からその名前に縁がある彼女は両儀織と同じクラスになった時に交友関係を結んだ。

 人を避けようとする両儀織と友人になったのは彼女、それから白純里緒だけだったという。

 

「ちょっと待て。その白純里緒というのは何者だ?」

 

 突如として登場した人物に、橙子は関心を寄せる。

 

「女性だと間違われそうな名前ですけど、男性です。生徒会の(よし)みで知り合って以来、織共々親しくしていました。ですが……」

 

 鮮花は明らかに悲しげな顔をする。その変化に橙子は何らかの因縁があると推測した。

 

「……一九九五年七月末から起きた連続殺人事件から、わたし達の関係は変わってしまった。織はわたしに自分が二重人格者で、名の無い二つ目の人格を持っている事、その人格が殺人を嗜好しているという事を打ち明けました。白純里緒もまた、それを知った上で関わっていたんです。ですが二月の初めに彼は姿を消してしまった……。そして真相が明らかになる前に、織は……」

「どうなったんだ?」

「三月の初めの、雨の夜の事でした。わたしは両儀邸の近くで何者かに襲われたのですが、突然現れた織が追い返してくれたんです。すると彼は自分から車道に飛び出し、そのまま轢かれてしまいました。……その後彼の意識は戻る事はなく、わたしを襲った人物も殺人鬼も不明のまま……。それが、彼に纏わる事件の顚末です」

 

 橙子は今の話に只ならぬものを感じたのか、暫し思考を巡らす。

 

 二重人格者、殺人を嗜好する両儀シキ、姿を消した白純里緒、謎の人物、──殺人鬼。

 これらの単語は、橙子でなくとも偶然ではない何かが関わっていると推測させるには十分過ぎた。

 

「キナ臭いな。私には全てが仕組まれた事のように思えるが」

「仕組まれたって──どうして」

「だって、都合が良すぎやしないか。事件と共に失踪した友人に殺人鬼と思しき謎の人物。自ら眠りに就いた両儀。あまりにも噛み合いすぎている。まるで初めからそうなる事が決まっていた様に」

 

 鮮花は押し黙る。

 彼女とて薄々気付いていた。だが、無意識に事件に関する考察を自ら封じていたのだ。

 ……そうであれと、何かに命じられていた様に、事件の真相を考える事さえ忘れて。

 事実、彼女にとってもあの事件に関する記憶は不都合なものでもあったのだ。

 

「いや、この際事件の事はどうでもいいな。それは警察の仕事であって我々の領分じゃない。続きを話そうじゃないか」

 

 橙子はそれ以上探る事はせず、話題を修正する。

 彼女としても興味深い話ではあるが、少なくとも今真相を知ることはできない為、これ以上の考察は無意味と判断したからだ。

 

「さて、その男の名前はどう書くんだ? 漢字一文字? それとも二文字?」

「えっと、織物の織ですが」

「ははぁ、『織り成す』に『織物』か。それで名字が両儀とは、因果なものだな」

 

 橙子は立ち上がり、手近な上着を羽織り扉を開く。

 

「君の話を聞いて興味が湧いた。少し様子を見てくるから留守番を頼む」

 

 彼女は返答を待つ事なく事務所を去った。

 先程の話もそうだが、それ以前に何もかも出来過ぎている。と思索に耽りながら。

 

 ……それらは全て、ある男の選択の結果である事を、彼女達はまだ知る由もなかった。

 

 

    /2

 

 

 朝の診察が終わった後、僕が目覚めてから七日経ったという事を知らされた。

 身体も順調に回復している僕は明日退院という事になる。

 その間に得たものなど、際限なく渦巻く疑問位だ。

 家族も秋隆も、以前のまま変わってはいないだろう。だが僕が見ている彼らは別人の様に映る。両儀織という自己が変わった以上、それを取り巻くものが変質するのは当然の結果なのだが。

 意味もなく、両目の包帯に触れる。

 これが、今回新しく手に入れた唯一のモノだ。

 二年間もの間『死』に触れていた自分は、その概念をカタチとして視覚化する力を手に入れていた。

 それは線として具現化し、無機物、有機物、空間を問わず現れていた。

 それを見た時、世界とはどれほど不安定で脆いものであるかを思い知った。

 そしてそれが『死』そのものであると理解した時、僕は自ら両目を潰そうとした。

 しかし腕力が弱くなっていた僕は最後まで遂行する事はできず、途中で医者に止められてしまった。

 そうして『死』を理解できる様になった僕の前に、さらに奇妙な人物が現れた。

 荒耶宗蓮。僕の担当医だという彼には、唯一『死』が現れなかった。

 包帯越しであっても線だけは見えてしまうのだが、彼は唯一の例外のようだった。

 空間にも、無機物にも見えるのに、どうして彼だけは『死』が無いのか。

 その事実は、僕の中にしこりを作っていた。

 

「目が、治る──」

 

 確かにあんな世界を見るのは二度と御免だが、もう一度彼に会って、その『死』を確かめてみたいという欲求も芽生えていた。

 何もない世界。そこに『あった』頃はとても満ち足りていたように思える。──何故なら僕の側には、朧げな姿をした『誰か』が寄り添ってくれていたから。だから、あの場所でも耐えていけたのだ。

 それらを思えば、あそこに繋がっているこの目を潰してしまうのは躊躇われた。そうするば、荒耶の『死』が見えない絡繰りも、あの幻じみた人物が誰だったのかすら確かめられなくなってしまうから。

 

「ほう、思い留まったか。それほどに気になる事があって何よりだ」

 

 突然、女の声がする。

 こいつは──何だ?

 足音も無くにじり寄ってくる。

 この重さすら感じる威圧感と、気配が少しも感じられない不気味さは、まるで──。

 

「直死の魔眼か。そんなものを生きている内に見ることができるとはな。まったく、易々と奇跡を起こしてくれるな、おまえは」

「おまえは、何だ?」

 

 僕の問いに、ソレは笑みを零し、カチッとライターを起動する。

 

「魔術師、蒼崎橙子。おまえの目、そいつの使い道を教えてやりに来たんだ」

 

 ──蒼崎橙子。それはあの女医と全く同じ名前だった。

 

「これの使い道……?」

「そうだ。その目は知っての通り、対象を視るだけでその死を具現するものだ。両儀に限らず退魔の者達は皆『淨眼』と呼ばれる霊視能力を持つが、おまえの場合は長く死に触れていた所為で魔眼に昇華されてしまったんだろうな。それも睨むだけで万物を死に至らしめる眼という特級の貴重品に。何に使うつもりかは知らんが、破壊を免れて何よりだな」

「……目的なんてないが、壊しても意味がないだけだ」

「そうだろうよ。意味など無い。おまえの苦悩と同じでな。いい加減認めろ、両儀織。どうあってもおまえは普通には生きられないし、『両儀式』に戻る事もできやしない。なら、『幸福に生きる』などという幻想は棄ててしまえ」

 

 ……確かに、僕はどうあっても普通にはなれないし、ホンモノになる事もできない。

 でも、そうであってもいいと、ダレカが言ってくれたような気がしたから。

 覆すことなどできまいと、反論だけはしておく。

 

「僕には、どちらを選ぶ意志なんて残ってない」

「ふん。空っぽだからか? そんなのは今に始まったことじゃない。おまえは始まりから欠けていたんだよ。両儀として二つの人格を持って生まれたにもかかわらず、おまえには『女性』が芽生えなかった。この時点で歪みが生じていたんだが、それでもおまえは太極として機能を果たし、あちらの世界に到達した。おまえの肉体が純正ならざる『混ざり物』だからさ。織という人格はね、正確には『陽中の陰』でしかないんだ。男の肉体に男の人格しか持てなかったおまえは性質が違う人格を持ったところで陽極しか体現しえない。それを補う『女性の因子』が埋め込まれていたからこそおまえは完全になれたという事さ。おまえの染色体が通常とは異なる型なのもそれの影響だ。……まあ、おまえが両儀式にならなかったのも、大方その因子の所為だろうがね。 まったく、混ぜ物とはとんでもない事をしでかす輩もいるものだ」

「なん、だって──?」

「だから、両儀家は遥か昔に混ぜ物をされて純血を失ったという事さ。何処の誰がやった事かは知らんが、おまえの先祖は何らかの霊的手術を受け、その際に異物を埋め込まれたんだよ。おまえが両儀織として生まれたのは偶然なんかじゃない。……悠久より受け継がれた因果の果て。その必然。それがおまえの正体だ」

 

 あまりの事実に、僕は愕然としていたようだ。

 僕という存在が、不具合が、必然だって──?

 莫迦な。そんなこと、誰も教えてくれなかったのに──。

 

「そうだな、事故の様な事さね。話は戻るが、おまえの悩みは単純な事だ。シキが欠けたから何だ。機能の一部を喪っただけだというのに。何か大切なモノが欠けてしまったとしても、それでもおまえは両儀織なんだ。両儀式に焦がれようと、不完全な存在である自分を憎もうと、おまえはおまえとして生きていくしかないんだ。死を選ぶ意志が無い限り、望もうと、望むまいとね」

「────」

 

 ただ、静かな殺意を持って魔術師を睨む。

 そうするだけで、視力を損なった目が死を具現する。

 ──死が、そこまで迫っている。

 

「上出来だ。やはりおまえは見どころがある。……その力の使い道を教えると言ったな。実はね、今日はあまり時間が無いんだ。何故なら──」

 

 魔術師が言い切る前に、扉を開く音がする。

 ずるりずるりと、引き摺る様な足音が部屋に響き渡る。

 魔術師はそいつに対し、指先から何らかの弾丸の様なものを飛ばし、両膝を撃ち抜いて地面に倒す。

 

「──今日は、来客が多いようだからな。さあ、リハビリの時間だぞ。絶対に手を放すなよ!」

「一体、何なんだ──⁉︎」

 

 そいつが何者かとか、何でとかを聞く前に、魔術師は僕をベッドから起き上がらせ、手を引いて走りだす。

 状況を理解する暇もないまま病室を飛び出そうとした矢先、這いずっていた『客人』に足を掴まれ転倒しかける。

 

 ──冷たい。その人間としてはあまりにも温度の低い手に、驚くほど生気を感じない死んだ指に、ただひたすらに怖気が走る。

 

「放せ!」

 

 それが生きた人間でなく死者である事を理解した僕は振りほどこうとするが、見た目以上に屈強な腕は弱った体ではびくともしない。

 

「ちっ、往生際が悪いな──!」

 

 魔術師は追い討ちをかけるように中空に何らかの文字を描き、衝撃波で死者を壁に叩きつける。

 死者が動き出さない内に病室を脱した僕たちは、全速力で走りながら地上を目指す。

 途中、走りながら疑問を口にする。

 

「アレは一体、何なんだ?」

「アレはね、おまえの見立て通りの『死者』だよ。誰の差し金かは知らないが、呪詛を以って操られている。だから心臓を穿とうと、脳髄を焼き尽くそうとも、死ぬ事はない。肉体を完全に破壊するまで止まらない、厄介者だ」

「じゃあ、どうにもできないって言うのか」

「そうだ、あいにく手持ちの武装では効きが悪い。徳の高い坊主でも居れば話は別だがね」

「……そうか」

 

 死んでいる者は殺せない。確かにそれは道理だ。

 だが、一つだけ。

 一つだけ、その理を覆し得る不条理を──知っている気がする。

 ……もっとも、それを実行するのは危険かもしれないから、今は手を握っている魔術師に任せることにしよう。

 それに、今の僕には生きる意志も死ぬ覚悟も無い以上、状況に身を任せるしかないのだ。

 

 

    ◇

 

 

 病室を抜け出した二人を待ち構えていたのは、もう三体の死者だった。

 三体は何の統制も無いバラバラかつ緩慢な動きで彼らに迫る。

 

「まったく、おまえはつくづく人気者だな──」

 

 魔術師──橙子は先と同じように中空に文字を描いて死者を迎撃する。

 それはルーンと呼ばれる、古ゲルマンの民族文字であり、同時に描いた対象に文字の意味を具現する魔術刻印でもある。

 描かれた三つの文字は起動すると共に死者の脚を焼き、その場に転倒させる。

 そのまま這いずる死者に橙子は先も見せた、ガンドと言う名の呪いに、魔力によって物理的威力を持たせた赤黒い弾丸で手と頭を撃ち抜く。

 こうしてほんの五秒程度の時間で橙子は死者を無力化した。これぞ熟達した魔術師の成せる技である。

 

「あいつら、僕を狙っているのか?」

「そうだろうな。でなければ病院全体に結界を張るなんて真似はしない。呪詛で動く死者といい、明らかにおまえを狙っているよ」

「そうか……巻き込んでしまって悪い」

 

 突如として予想外の率直さを見せる織に、橙子は思わず笑う。

 

 ──空っぽだと言う割に、生死が掛かっている状況でも他人を気遣う。これは鮮花が気にかける筈だな。

 

「いいんだ。こうなることを見越してここまで来たんだ。それに弟子の頼みでね。守れない様では師として面目が立たん」

「──分かった。今はあんたに全部任せるよ」

「承知」

 

 純然たる信頼に、橙子は迷いなく応える。

 弟子の為、目の前の青年の為、或いは魔術師としての尊厳の為に。

 

 

    ◇

 

 

 今の位置は病院の三階。

 脱出を計るには階段を降りればいいだけなのだが、不幸な事に織の病室は階段から最も遠い位置にあった。その為正面出口から出るには廊下から階段まで直行するしか無い。

 だが──。

 

「おやおや、こんなにお見舞いに来るなんて聞いてないぞ」

 

 廊下から階段まで、死者の数は十二。

 若者から老人、腐敗が進んだものから新しいものまで、多種多様な死体が二人を見据えている。

 

「悪いが、面会時間は二十時までなんでね。全員お引き取り願おう」

 

 軽口を叩きながら、橙子はルーンを刻む。

 同時に、全員の体が炎上する。

 しかし、火力が弱すぎるのか即座に鎮火し、勢いを落とすことなく死者達は前進する。

 手持ちのルーンでは火力も速度も不足と判断した橙子はガンドに切り替えて彼らを迎撃する。

 その容赦ない射撃は死者達の体に穴を開けていくが、その勢いが衰える様子は微塵もない。

 そして橙子が当面の脅威であると判断した彼らは、先ほどの連中とは違う、統制のとれた動きで彼女に殺到する。

 予想を上回る知性と耐久性を持つ敵に橙子は歯嚙みする。

 

 ──まずいな。予想外に高性能だぞこいつら。それに前後を囲まれてしまった所為で逃走は困難、無力化も不能か……。

 

 橙子が一人奮闘している中、織はただ立ち尽くす事しかできなかった。

 

 ──此処で死ぬ? シキと同じに死ぬ?

 このまま殺されるというのならそれでもいい。そもそも生きている意味なんてないし、何の喜びも無いというのならいっそ消えてしまう方がマシだ。

 

 死者が、橙子に押し寄せる。

 そこで、ふと疑問が生まれる。

 

 シキは、果たして死を望んでいたのだろうか。

 いや、違う。結果はどうあれ彼はそんな事を望んではいなかった。

 それに──自分の為に誰かが犠牲になる。それを彼が容認するだろうか?

 これも違う。間違いだらけな彼だからこそ、そんな間違いは許さない。

 そして今、自分の隣で危険に晒されているのは誰だろうか。

 蒼崎橙子。僕の為に戦うと決めてくれた魔術師であり、何かと気に掛けてくれたカウンセラー。

 彼女は今、僕の為に体を張って窮地に陥っている。

 僕の為に。生きる事も死ぬ事も選べない、空っぽの器なんかの為に。

 

 ──駄目だ。

 

 織の目が、心音の様に脈動する。

 

 ──そんなこと、絶対に許さない──。

 

 包帯は落ち、その瞳が開かれる。それは正しく──

 

「生きているのなら、なんであろうと──────殺してみせる」

 

 ──『死』だ。

 

 その瞬間、橙子は背中の粟立ちを感じ、迫ろうとしていた死者の腕が突然斬りとばされた事を認識した。

 橙子は驚愕する。

 当然だ。先ほどまで弱々しかった青年が、突如として死神もかくやというべき存在に変貌していたのだから。

 

 織の右腕が突き出される。それだけで死者は胸を穿たれ、完全に活動を停止する。

 

「織、君は……」

「あんたに任せると言ったな、──あれは嘘だ」

 

 それだけを伝えて、織は疾走を始める。

 死者は躊躇うことなく腕を振るう。織はそれをいなし、ぐらついた隙に首を手刀で切断する。

 死者は標的を切り替え、織だけを取り囲むように動きだす。

 

「織! こいつを使え!」

 

 橙子は織に向かって鞘付きの短刀を投げる。

 織はそれを受け取り、速やかに抜刀する。

 そうするや否や、織は死者の群れに向かって回転斬りを放つ。

 くるりくるりと、バレエの様に鮮やかに舞う。

 それだけで、五体が両断されて地面に転がっていた。

 死の舞踏は、終わらない。

 鋭い蹴りを放つ死者に対し、織は足を踏みつけて地面に固定し、足先から寸刻みにしていく。

 このままでは全滅と判断したのか残りの六体は分散し、内三体は橙子に向かっていく。

 

「舐めるな」

 

 橙子はルーンによって結界を作り、防御体制を整える。

 そして複数のルーンを描くことによって効果を重ね、死者に魔力の斬撃を見舞う。

 魔力の刃は死者の四肢を切り落とし、戦闘不能に追い込む。

 その間に三体の死者を斬り伏せた織は、地面に転がる残りの死者にトドメを刺し、念の為病室周辺の死者も殺しておく。

 全ての敵を殲滅した二人は増援が居ない事を確認し、急ぎ病院から脱出する。

 そして正面玄関のドアを魔術でこじ開けた彼らの前に、一体の死者が立ちはだかる。

 

「……ほう、死体に怨霊を取り憑かせるとは中々考えたものだな」

 

 それはただの死者ではなく、怨霊によって操作されるより上位の存在であった。

 これは自分では足止めするのが精々だと判断した橙子は、隣に佇む死神に問う。

 

「織、アレは殺せるのか?」

「当然。死んでいようがそうでなかろうが、アレは"生きた"死体だろ。なら──殺せる」

 

 死神は、嗤いながら答える。

 そうだ。死にたくないのなら、殺られる前に殺るだけの事。そう思うだけで、空虚さももどかしさも綺麗さっぱり消え失せる。

 

「ああ──それだけの、ことか」

 

 知らず呟く。たったそれだけで、自分は目覚めた。

 そうだ。この高揚、この刺激、これだけが自分を自分だと否応なく感じさせてくれる。

 まったく、こんなに簡単なことなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに──。

 

 死者は、これまでの敵とは比較にならない疾さで織に接近する。

 織もそれに応えるように直線的な軌道で距離を縮める。

 勝負は一瞬。

 死者が繰り出した高速のラリアットに対し、織はそれより数倍速く斬撃を見舞う。

 交差する一瞬、死者の右腕は宙を舞い、重力に引かれて地面に落ちる。

 ──その前に。

 斬られた腕が宙を舞っている間、織はとても常人には捉えられない速度で背面刺しを行い、死者は堪らず倒れ込む。

 

「つまらん。出直して来いよ、おまえ」

 

 言葉とは裏腹に笑みを零す織は、掴もうとする左腕を踏み躙る。

 そして何の躊躇いもなくその喉を突き刺す。

 死者はその瞬間に死に絶えた。だが。

 

「──待て! まだ終わってはいないぞ、織!」

 

 死体を操っていた怨霊は肉体を放棄し、織に乗り移らんとばかりに飛び出した。

 ──それも遅い。

 織の肉体に飛び込む筈だった死者は、不可思議な壁によって阻まれていた。

 

「──存外に便利なものだな、魔術ってのは」

 

 織の左手には、ルーンが刻まれた石が握りしめてあった。

 そう、彼は病室を抜け出す際に扉の脇に置いてあったルーン石を回収していたのだ。

 最初に這いずる死者に足を掴まれた時に偶然目に入った為、気紛れに拾った事が彼を救ったのだった。

 

「──終わりだ」

 

 ゾッとするような笑みを浮かべ、織はルーンの結界ごと怨霊を抹殺する。

 完全に敵を殲滅した織は最後にもう一度刃を振るう。刀身に付着した血と霊の残滓を祓う為に。

 

「……平気か、トウコ」

「ああ、おまえにそんなことを言われる程衰えてはいないよ」

 

 橙子は突っ撥ねるように応える。

 やはり、おまえはどれだけ空っぽになろうと両儀織なんだ。と内心ほくそ笑みながら。

 

「……それと、約束は守れよ。オレにこの目の使い道を教えてやるって」

 

 彼の口調、在り方が定まった。魔術師もまた満足げに頷く。

 

「無論だ。ただし相応の対価は払ってもらおう。おまえには私の汚れ仕事を請け負ってもらう。生憎使い魔がなくなってしまってな。おまえなら私の片腕、良き狩人になるだろう」

 

 織はただ静かに頷き、呟くように問いかける。

 

「それって、人も殺せるのか?」

 

 魔術師は呆れたように嘆息する。

 

「当然、おまえの望み次第だ」

「いいだろう。勝手に使え。それ以外に意義もないからな」

 

 空っぽな織は戦闘の疲労の所為か、地面にくずおれる。

 魔術師は彼を介抱し、凍り付いた様な寝顔を眺める。

 そして穏やかな顔で語りかける。

 

「意義がない、か。確かにおまえには意義なんて無い。それでも、そんなことがどうでもよくなるほど素晴らしいものを持っているじゃないか、織」

 

 魔術師は妬むように、羨むように言う。

 

「まったく、なんて贅沢な男なんだおまえは。そんなに空っぽだというのなら、これからどんなカタチにでもなれるという事だろうに。この大たわけめ。おまえが手にしたものは無限の可能性、際限無く広がる未来なんだよ」

 

 思わず魔術師は舌打ちする。

 心から羨望していた自らの弱さを呪うかのように。

 ……こんな情が、私にもまだ残っていたとは。

 

 橙子は嗤った。

 人の縁の面白さを、自らの因果の奇妙さを。

 されど、彼女達はまだ知らない。

 

 この奇妙な出会いが、全て一つの意図の上に成り立っているという事を。

 

 

    /3

 

 

 穏やかな眠りを得て、夢の続きを見る。

 いなくなった名も無きシキ。初めから意義の無かったもう一人の自分。

 彼は何の為に生き、何の為に消えていったのか。

 それを、理解してしまった。

 彼は──僕に託したのだ。

 そうでありたいという理想。そうであれという望みを。

 それはどちらもあの少女が持っていたものではなかったか。

 今はもう分からないが。

 彼は最後まで無価値なまま、されど最後に意味を手に入れて消えていったのだ。

 僕だけを、別れさえ告げずに置いていったまま。

 

 

    ◇

 

 

 朝が来た。

 漸く視界を手に入れた僕は、その眩しさに何度も瞬きする。

 ベッドで眠っていた事に気付く。昨夜の出来事はきっとトウコが後始末したに違いない。……どうせ、不満を垂らしながらの作業だろうが。

 まあ、そんなのは瑣末な事で。

 僕はただ彼の事を考える。

 名も無きシキ。何一つとして与えられなかった無価値なシキ。それでも、その生涯は決して無意味なものではなかった。

 無様でも、滑稽でも、その最後に手に入れたモノはきっと何よりも尊く、素晴らしいモノだったに違いない。

 そう考えると、僕は彼のことが羨ましくなった。

 でも、それは彼だからこそ有り得た結末だったのだろう。

 この朝日に消されゆく暁の様に、儚く消えることを選んだのは、僕ではないのだから。

 

 

    ◇

 

 

「おはよう、織」

 

 傍らで鈴の様な声がした。

 そこに居るのは、遥かな昔に知った友人だ。

 黒絹みたいな髪も、海みたいな瞳も、僕の知っているそれと変わらない。

 

「わたしのこと、わかる……?」

 

 声は明らかに震えていた。

 ──そうか。おまえがずっと織を待って、おまえだけがずっと、僕を導いてくれていたんだ。

 

「黒桐鮮花。……両儀織を導く者」

 

 その呟きに、彼女は驚くべき反応を見せる。

 ぼろぼろと涙を流しながら、全力で笑顔を作る。

 それは矛盾しているようで、何よりも自然に映った。

 

「もう、二年も遅刻するなんて……! ホント、良い度胸してるじゃないの……!」

 

 できる限りの明るさで彼女は軽口を叩く。嗚咽を漏らしながらだが。

 それが、今は何よりも嬉しかった。

 泣き顔である事も笑顔である事も、鮮花は選んだ。

 無価値でありながら無意味でない事を、シキは選んだ。

 ──僕にはまだ、両方を選ぶことはできないが。

 

「……悪かったよ。謝るからほら、機嫌直してくれ」

 

 その悲しみと喜びを両立した彼女の顔を、ただぼんやりと眺める。

 そうしたところで意味は無いけれど、今はそうするのが精一杯だ。

 

 柔らかで華やかな彼女の笑顔。

 それは確かに僕の記憶にあるものと同じ、なくてはならない笑顔だった。

 

 

    /4

 

 

「漸く、全ては振り出しに戻ったという事か」

「ああ、ヤツは完璧な殺人鬼だよ」

 

 魔術師は昏く嗤う。

 部屋のモニターに映っているのは、死者を相手に圧倒的な剣舞を見せる両儀織の姿だった。

 その映像は傍らの青年──白純里緒が密かに撮影したものである。

 

「八卦を束ね、四象を廻し、両儀へと到る──」

 

 魔術師は呟きを漏らす。

 

「"いずれ、相克する螺旋にて君を待つ"ってか? 正直聞き飽きちまったよ、ソレ」

 

 青年もまた溜息をつく。会う度に同じ様なことを言う魔術師に内心呆れていたらしい。

 

「そう言うな。とにかく、これで計画は第二段階に入った。後は''あの四人,,に暴れて貰えばいいだけの事。おまえの出番はその後だ」

「つまり?」

「……おまえこそ、両儀織を破壊するに相応しいという事だ。二年前にもそうしたように」

 

 堪らず青年はくつくつと嘲笑う様な笑みを零す。

 

「それにはあと半年は待つ必要がある。それまでに命じた事は成しておけ」

「了解。早速浅上藤乃の様子を見てくるぜ。あいつ、どうにも面白い事になってるんでな」

 

 青年は音もなく立ち去り、部屋には魔術師だけが残される。

 

 ──浅上藤乃。第一の駒。

 その力、どれ程のモノか見せて貰おう。

 

 魔術師、荒耶宗蓮は静かに目を閉じた。

 

 

    伽藍の洞・了

 

 

 




 お読みいただきありがとうございます。
 これで伽藍の洞は終わりです。一・二章は瞬殺だった所為でまともな戦闘を書くのは初めてという事に……。
 橙子さんにも大活躍していただきました。
 次回からは痛覚残留になります。
 少し間が開きますが、気楽にお待ちしていただけると幸いです。
 感想等があれば気軽にお寄せください。

 


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世界・人物設定/1

 ようやく序盤も終わり、壮絶な中盤戦が始まる前にこれまでの大まかな流れや人物設定を整理しておこうと思ったので、繋ぎとしてどうぞ。
「0/彼方を継ぐ者」に関する情報は終盤に入ってから記載します。



【時系列・事象】

 

 

「0/彼方を継ぐ者」

 

 

 戦国時代中頃:荒耶宗蓮、出生。

 

 1596年3月:全ての始まり。彼は『彼女』に出会った──。

 

 1986年春:荒耶宗蓮、両儀織と出会う。織はこの時6歳。

 

 

「2/殺人考察(前)」

 

 

 1995年3月:黒桐鮮花、両儀織と出会う。彼女はまだ、真相を知らない。

 

     4月:白純里緒、黒桐鮮花及び両儀織と出会う。

 

     7月:白純と鮮花の最初で最後のデート。

      :白純、鮮花に告白するも玉砕。後に荒耶宗蓮と出会い『特別』となる。

      :最初の殺人事件が発生。荒耶の計画が始動する。

      :鮮花、名無しのシキと出会う。

 

     9月:体育祭にて浅上藤乃と両儀織が出会う。

 

    12月:黒桐幹也と名無しのシキが出会う。

       :白純と名無しのシキが出会う。

 

 1996年2月:鮮花とシキと白純の最後の会話。三日後に白純が失踪し、織が不安定になる。

 

     3月:鮮花が織に告白する。織は保留したまま応えを返さず。

      :雨の夜、謎の人物が鮮花を襲う。この時、謎の人物に彼女を殺害する意図はなかった。窓から様子を見ていたシキが彼女を救う。そして自ら車に轢かれ、昏睡状態になる。彼の真意は不明のままだった。

 

 

「?/偽典福音」

 

 

 1997年?月:『相克する螺旋』にて荒耶と白純が『匣』を起動させる。

       一つの虚構の始まりにして終わり。匣はただ静かに決着の時を待っている。

 

 1999年3月:運命の終焉。ここに無価値なる偽典への福音は確かにもたらされた。

 

 

「3/伽藍の洞」

 

 

 1998年3月:鮮花が高校を卒業。織の見舞いの時に荒耶と会話する。

 

     5月:鮮花が大学の展覧会で一つの人形に目を惹かれる。既に橙子と知り合っていた幹也の助けを借り、「伽藍の堂」に辿り着く。

 

     6月:鮮花と橙子が出会う。鮮花は織と自分を守る為に橙子に弟子入りする。

       :織が昏睡から目覚める。荒耶も彼と再開を果たす。

       :白純とコルネリウス・アルバが出会う。

       :荒耶が転勤し、代理として橙子が織の担当を受け継ぐ。

       :覚醒から七日後、死者の群れに襲われた橙子と織は病院で応戦。織の「直死の魔眼」が開眼する。

       :織が退院する。この時に彼は名無しのシキの死の意味を悟る。

       :荒耶の計画が第二段階に突入する。選ばれた六人が活動を開始する。

 

「4/痛覚残留」

 

 

 1998年7月中の出来事。

 

 

「5/未来福音」

 

 

 1998年8月中の出来事。

 

 

「1/俯瞰風景」

 

 

 1998年8月:巫条ビルで浮遊する幽霊の群れが確認される。

      :黒桐鮮花が魂を取られる。織は単身巫条ビルに向かうも、敗北。橙子にフックシュート付きの義手を作製してもらう。

      :織が巫条ビルの幽霊と再戦し、勝利。鮮花の魂が肉体に戻る。

      :一連の騒動の原因だった巫条霧絵が橙子と織との会話の後、投身自殺。直前に玄霧皐月と出会い、その死の価値を永遠のモノとした。

      :玄霧が荒耶の忘却を再生する。

 

 

【人物設定】

 

 

【両儀織】

 

 第一の主人公。

 両儀式の代用品。あるいは代行者。

 遥か昔に何らかの霊的手術を受けた結果、純血を失った両儀家から生まれ落ちた不完全な『最高傑作』。

 どちらも男の人格を持つ二重人格者であり、陽極のシキと陽中の陰の織を内包している。

 本来は女の肉体に男の人格を潜ませた『式』として生まれてくる筈であったが、男として生まれた為に『式』の片割れである『織』の名を借りる事となった。その為もう一つの男人格には名前がない。

 男の肉体に男の人格しか持たない彼では太極にはなり得ないが、受け継がれた女性の因子によって補っている。

 

 己の存在意義や価値が「両儀式の代わりである」ことに依存している事を知っている為、極めて虚無的な性格。

 自身が異常である事すら借り物だと悟った時から誰にも心を開く事がなくなったが、黒桐鮮花との出会いでその在り方に疑念を抱くようになる。

 

 

【黒桐鮮花】

 

 メインヒロイン。

 本来は1998年時点では15歳だが、本作では18歳。

 黒桐家で育てられた為、礼園には通っていない。

 ある事象が起きなかった為に兄である幹也に恋慕を抱かなかった為、織に惹かれていく事になる。

 特別である事を望みながら普通である事も体現している。結果的にその中庸とも言える在り方は織の理想となり、彼の拠り所となっている。

 

 

【荒耶宗蓮】

 

 第二の主人公。

 死の蒐集家。あるいは『彼方を継ぐ者』。

 本来の世界では孤高の魔術師として独り螺旋(セカイ)の果てに挑むが、今作ではある人物とのありえない出会いの結果、彼と彼を囲む世界の運命を大きく歪めていく事となる。

 現在では長すぎる時の中でその運命の始まりに関する事は殆ど忘却しているが……?

 

 

【白純里緒】

 

 ライバル。死に逃避して自我する起源覚醒者。

 本来なら両儀式と黒桐幹也に愛情を抱いているが、本作では鮮花に愛情を向けており、織を乗り越えるべき理想の体現として見ている。

 荒耶に見初められた最初にして最大の手札であり、その特異な起源を生かして絶大な力を手に入れている。

 今はただ、来るべき時に向けて虎視眈々と牙を磨いている。

 

 




 前書きの通りまだ痛覚残留が投稿できそうにない為、繋ぎもとい設定の整理の為の投稿です。
 まだ隠している設定は大量に存在する為、終盤に入ってから/2を投稿しようと思います。

 感想等があれば気軽に書き込んでください。全て返答致します。


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4/痛覚残留 -ever cry,never life.-
痛覚残留/1


 不定期更新です。


    /0

 

 

「どうしよう。わたし、どうしよう──」

 

 粘つくような闇の中、体にのし掛かる圧力が無くなった事を確認した藤乃は、乱れた着衣を直すと同時に胡乱だった意識を正常なものに戻す。

 彼女は近くにあるアルコールランプを灯し、自身を取り巻く闇を明るみに出す。

 足下には赤黒い雨が満ち、その上に幾つかのネジの様な肉塊が浮き上がっている。

 藤乃はそれを──昆虫じみた瞳で数える。

 

「一つ、二つ、三つ──四つ。──四つ⁉︎」

 

 どんなに数えても四つ。その事実に藤乃は愕然とする。

 ここに居たのは彼女を除き五人。それなのに肉塊は四つしかない。

 それが示す事実は実に単純だ。

 

「一人──逃がした」

 

 彼女は歯嚙みする。

 ここで彼を逃がしてしまった以上、自分の凶行が知れ渡るのは時間の問題だ。

 繰り返し彼女を陵辱した彼に警察を頼るという選択肢はないだろうが、苦し紛れに交番に駆け込む可能性も否定できない。

 ならば選ぶべき道は一つ。

 けれど──。

 

「わたし、なんてことを──」

 

 彼女は絶望する。

 自身の行いを知られたくないが為に彼を殺害しようと考えている自分と、そうしなければ破滅するしかないという現実に。

 しかし突如、彼女に声を掛ける者が現れた。

 

「キミ、どうかしたのかい?」

 

 気配もなく、いつの間にかソレは彼女の傍らに佇んでいた。

 藤乃は見られたという事とは別に、その不気味さに戦慄する。

 

「あなた、誰? どうしてここに──?」

 

 ソレはどうやら若い男の様で、獅子を思わせる金色の髪に爬虫類じみた同色の瞳は鮮烈な印象を与えている。

 そして何より際立つのはその匂い。

 腐臭と血の臭いが満ちるこの廃墟ですら消しきれない死の(かお)り。

 彼が幾度も血を浴びてきた事は明白だった。

 

「怖がらなくてもいい。俺はキミの味方だよ」

 

 男は存外に優しげな声色であやすように語りかける。

 恐怖と焦燥に囚われた藤乃はその蛇のように悪意に満ちた嗤いに気付かない。

 

「ああ、分かるとも。キミは復讐がしたい。そうだろう?」

 

 藤乃は首を横に振る。

 それは彼女の本心であるが、彼女は彼らをタダで赦すつもりもない。

 

「いいや、キミは本心に気付いていない。だってキミは──『普通』になりたいんだろう?」

 

 その言葉が、たったそれだけの単語が彼女を催眠術めいて縛りつける。

 彼女は、自分が頷いていた事に気付いていなかった。

 

「そうだろう、そうだろう! なら──彼に思い知らせてやるべきだ。キミがどれほど『普通』であるかをね」

 

 藤乃は応えない。

 確かに彼の言葉には一理ある。あれだけの事をされたというのなら、復讐を考えるのは()()()()()なら当然の事だ。

 でも──その為にもう一人殺すなんて。

 

「我慢する必要はない。()()だろう? 苦しいだろう? それはキミが普通だからだ。普通であるのなら──復讐は当然の権利だ」

 

 藤乃は自分が腹を刺されていた事を思い出す。

 瞬間、内側から捻られるような痛みが全身を駆け巡る。

 

 ああ、痛い。こんなにも痛い。

 痛いという事は普通という事。

 ──普通なら、復讐は当たり前の事。

 

「わたし、復讐しなくちゃいけないのかしら」

 

 藤乃は誰にでもなく呟く。

 その時、その口元が小さく笑みを作っていたことを男は見逃さなかった。

 

「それでいい。それでやっとキミは当たり前になれるんだ。……俺はここで。後はキミの好きにするといい」

 

 男は背を向け、足音もなく立ち去っていく。

 ──その前に。

 

「あなたは──何ですか?」

 

 男は幾許かの逡巡の後、言った。

 

「俺は何者でもない。──少なくとも今は」

 

 そうして男は去った。

 藤乃もまた、街へと歩み始めた。

 

 

    /1

 

 

 今日も街を歩くことにした。

 昏睡状態から醒めて一ヶ月。僕は未だ自分が生きている事を実感できずにいた。

 ならばせめてその空白を埋めようと、かつての自分が嗜好していた行為を繰り返しているのだが、正直時間の無駄としか思えなかった。

 それでも止めない理由は決まっている。ほんの偶然でも何か変わった事に遭遇する機会を求めているからだ。

 トウコは、今の自分が空っぽだというのなら何かで埋め合わせていくしかないと言った。

 僕はただ、それを実践しているだけなのだ。

 

 時刻は既に午前零時。

 明日が平日だからなのか、いつもは喧しくて堪らない繁華街からは光が失われつつあった。

 雨が降った後だからか、湿気を纏った熱気が肌にまとわりついて気持ち悪い。暑さや寒さに鈍感な僕だが、この瞬間だけは黒の長袖に同色のコートを着てきた事を後悔している。

 そうして眉を顰めて歩いていると、路傍にしゃがみ込んでいる人影を見つけた。

 あれは──女か。

 女は修道女の様な服を着ていて、びしょ濡れのまま苦しげに蹲っている。

 ……確かその服は礼園とかいう女学院の制服だと幹也が言っていた憶えがある。

 

「不自然だな。なぜそんなヤツがこんな時間にこんな所に……」

 

 何にせよ、そいつが普通ではない事は明白だった。

 興味が湧いた僕は女に近づいていく。

 

「……!」

 

 ──血の臭い。

 眼前の女からは間違い様のない程の死の薫りがする。

 雨で殆ど流されてはいるが、僕の鼻を誤魔化すことはできなかったようだ。

 この濃度──おそらく血を全身に浴びたのでなければ説明がつかない。

 この時、僕は自分でも気付かないほど微かに笑っていたに違いない。

 

「おい」

「──⁉︎」

 

 女は明確に息を呑み、何度も瞬きする。

 その髪は長く、前髪はきちんと切り揃えられて一目で良家の出身だと判るが、ハサミで切られたように短い左側の房が違和感を感じさせる。

 

「あの、わたしに何か」

 

 女は蒼ざめた顔で応対する。おそらくチアノーゼだろう。

 彼女は腹部を押さえ、苦しげに顔を歪める。

 

「──トラブルか? 病気か? それとも両方か?」

「…………」

 

 女はしどろもどろするばかりで答えない。

 その姿を何故か──見たことがある気がした。

 

「おまえ、礼園の生徒だろ。全寮制だと聞いたが、家が近いから外出が認められているという事か?」

「違います。家はもっと遠くにあります」

「つまり家出だと?」

「……そうするしか、ないんです」

 

 ()()()()()()()()。この血の臭いといい、女が事件に巻き込まれたのは確実だ。それも人死にが絡んだものに。

 僕は益々興味が湧き、思わずこんな言葉を口に出していた。

 収穫があって何よりだ。とほくそ笑むのを隠しながら。

 

「なら、オレの所に来るか」

「えっ⁉︎ そんなの……いいんですか⁉︎」

 

 女は縋る瞳で訊く。

 

「ああ。あいにく何もない部屋だが、寝床だけなら貸してやるよ。それでも良いなら、来い」

 

 ぶっきらぼうに返したつもりだが、女は純粋に喜んでいるようだ。

 そして言葉を掛けることもなく手を差し出す。女もゆっくりと立ち上がる。

 ──やはり、僕は以前にもこんな風景を見た経験がある気がする。

 

 

    ◇

 

 

 特に話す事もなく歩いていく。

 女は苦しげに片腕を腹部に当てているが、真顔のまま平然とした足取りでついてくる。

 その動作のちぐはぐさは違和感となって現れ、知らず柄にもない呟きを零していた。

 

「痛いのか」

「……いえ」

「そうか」

 

 女は否定するが、それが虚勢である事は明白だった。

 それ以上言葉をかける事もなく黙々と足を進めていく。

 女は俯いたまま、チラチラとこちらの様子を窺う。

 その瞳に警戒は感じられず、どちらかというと信じられないモノを見ている、という感じだった。

 

 

    ◇

 

 

 女はアパートに辿り着くなり、シャワーを貸してくれと言い出した。

 僕はここに有る物は好きに使え、とだけ言ってすぐに上着をハンガーに掛けてベッドに入る。

 

「オレは寝る。後は好きにしろ」

 

 当然寝るなんてのは嘘で、実際は女の行動を観察する為の方便だ。

 何も起きなければそれで良し。何か変事があれば収穫だと考えての行動だった。

 

 十五分程経つと女はシャワー室から上がり、濡れた制服の代わりの箪笥にあった服を着る。

 それからすぐに一応置いてあった布団を敷いて眠りに就く。

 一時間は観察していただろうか、女は本当に眠っているようだった。

 僕はそれを見て、期待外れの為か薄っすら溜息をついていた。

 死んだように眠る女に釣られたのか、僕も眠りに落ちるまでそう時間は掛からなかった。

 

 

    ◇

 

 

 翌日、僕より先に起きていた女は礼儀正しく正座していた。

 僕が視線を向けると深々とお辞儀する。

 

「昨晩は本当にお世話になりました。返礼はできませんが、心から感謝しています」

 

 立ち上がってもう一度頭を下げると、女はすぐ出て行こうとする。

 それを認識した瞬間、僕は自分でも信じられない事を言っていた。

 

「まあ待て。メシぐらい食っていけ」

 

 半ば反射で言い放った言葉に女はあっさりと従う。

 ……一応、理由には心当たりがあった。

 この女には何故か奇妙な懐かしさを感じたからだ。

 以前、何かの機会に出会った事がある……。二年の空白で読み込めなくなった記憶では思い出す事はできないが、とにかくそう感じていた。

 だからもう少し彼女を観察したくなってこんな提案をしたのだろう。

 

「とりあえずそこに座ってろ。少し時間が掛かるからな」

 

 そうすると言った手前取り消す訳にもいかず、自分から提案した癖に渋々台所に立つ。

 冷蔵庫の中を確認してから、今ある食材で作れるものを考える。

 

「……米しかない」

 

 流石に自分ならともかく他人に出すとなれば炊いた米だけという訳にはいかない。

 そうなれば必然的にそれ単体で完成する料理──粥を作るしかないという答えに達し、滅多に着ない割烹着を身に付けて調理を始める。

 

 そうしているとあれこれと意味の無い雑念が頭を過る。

 もっとマシな提案はなかったのかとか、余分な面倒を負ってしまったものだとか。

 それに────。

 

「……鮮花にだって、してやった事ないのに」

 

 そうだ、他人に料理を出すなんて経験は家族相手ぐらいのものだった。

 友人である鮮花にだって試した事がないのに、どうしてあんな見ず知らずの女に──。

 

「……何を考えている」

 

 いや、そんなのは瑣末な事だろう。今はただ目の前の作業に集中するべきだ。

 そうして完成した粥を部屋に運び、食事を始める。

 ……そういえばこの部屋には机が無いのだった。多分、自炊なんて滅多にしないからだろう。今度からこういう状況に備えて用意しておこう。

 

「わたし、本当にお礼なんてできないのに……」

「気にするな」

 

 女と黙々と食事をしていると、不意に電話が鳴り出す。しかし食事中なので無視する事にした。

 すると留守番電話に切り替わり、もう聞き慣れた声が流れ出す。

 

「私だ。ニュースは見ているか? いや、見てないか。私も見てないからな」

 

 ……ナニヲイッテイルンダ、コイツハ?

 前々から妙なヤツだとは思っていたが、まさかこれほど思考様式が異なるとは知らなかった。

 

「どうにも妙な事が起きているそうだぞ。昨夜、放置されていた地下のバーで四人の少年の死体が発見された。四人の手足は全て捻じり切られており、血の付いた男の足跡があることから現場にはもう一人いた事が分かっている。もっともそいつが生存者なのか犯人なのかは明らかではないがね」

 

 興味深い話題に耳を傾けていると、女はびくりと反応する。

 その話題が出た途端に挙動不審を見せる女を、僕は怪訝な目で観察する。

 

 ──昨夜出会った時の匂いといい、明らかに不自然な反応といい、コイツが何らかの形で殺人事件に関わっている事は確実だ。

 まさか、この事件はコイツが──?

 いや、それこそまさかだ。この細腕で四人の男を捻じるなんて出来ようもない。

 ……それでも何故かこの女がただ者ではないという確信があった。

 

 突然、女は痛みに耐えるように蹲る。

 その蒼白としか言えない顔は昨夜見たものと同質のものだ。

 

「なんで……! 治った、はずなのに……!」

 

 彼女はカチカチと歯を鳴らし始め、飛び退くように立ち上がる。

 

「おい、どうした」

「──すみません。わたし、もう行かないと」

 

 彼女は茫洋とした瞳でよろよろと部屋から出て行く。

 その瞬間、ふと頭の中をある景色が過る。

 初秋の残暑の中、顔すら定かではない誰かに手を差し伸べる自分の姿が。

 

「もう行くのか」

「はい。わたし、もう戻れない。今まで本当にありがとうございました。 ……ごめんなさい」

 彼女は懺悔するように言葉を絞り出して立ち去る。

 僕はそれをただ呆と見つめていただけだった。

 

 ──この時はまだ知らない。

 ここで引き留めておけばあんな事にはならなかった、と後悔する事になるのだと。

 

 

    /2

 

 

「織、昨晩の事件の話は覚えているか?」

「ああ」

 

 翌日、いつものように事務所に向かった彼は早速、橙子から依頼の話をされる事となった。

 

「その件についてだが──」

「必要ない」

「ほう。やはり血の匂いには敏いようだな、おまえ」

 

 昨夜起きた廃棄されたバーでの殺人事件。その結末を教えただけでありながら彼は事件の概要をおおよそ理解していた。

 

「そこで一つ依頼が舞い込んで来てね。依頼主はどうにも犯人の関係者らしく、可能なら保護して欲しいと。だがもし抵抗したならその場で殺せ、とも言っているんだよ」

「''可能な限りは保護,,か……」

 

 織は眉を顰めて呟く。

 彼の意図を知ってか知らずにか橙子は付け足す。

 

「まあ、そこはどうでもいいだろう。これだけの事をしでかすヤツだ。おそらく戦闘は避けられん。──どうするね?」

 

 つまる所、依頼内容は明快。単なる見敵必殺(サーチアンドデストロイ)だ。

 

「もし、殺害した場合はどうする?」

「心配ない。依頼主が事故として処理するさ。事実上''彼女,,は社会的に死んだ者だ。死者を殺したところで法には触れない。──さあ、受けてくれるか?」

「──無論。答えるまでもない」

 

 織は感情もなく即答して歩き始める。

 

「いいね。初の対人戦だ。精々死ぬなよ?」

「……」

 

 彼は無視するのではなく、ただ聞き入れなかった。

 

「おい待て。標的の写真と経歴書を忘れているぞ。敵を知らずに戦うつもりか? おまえは」

 

 橙子は資料を投げるが、織は受け取らなかった。

 

「いや、いい。可能な限りは保護ってことはそっちを優先しろって意味だろ。なら、顔を知ればやりにくくなる。そいつとオレはきっと同類。だからこそ顔を知らない方が本質を理解できる筈。殺すならその後だ」

 

 当たり前のように、織は意外な答えを返す。

 てっきり即座に殺し合うつもりだと思っていた橙子は柄にもなく目を丸くする。

 

「意外だな。おまえがそこまで仕事に誠実だとは思わなかったぞ」

「回してきたのはあんただろう。何にせよ、仕事は仕事だ。結果はどうあれ、最低限の義理は尽くすさ」

 

 ──最低限の義理、か。 

 それは退魔としての誇りか? いや、それだけではない。

 ほう、まさかとは思うが織、おまえは──。

 

 敢えて言葉にせず、橙子はほくそ笑む。

 言ってしまえばつまらない。むしろ放っておいた方が面白い展開に転がるかもしれない。

 そんなある意味打算的とも思える事を考えながら。

 

 織は硬質な足音を響かせ事務所を立ち去る。

 残った橙子は独りごちる。

 

「これは認識を改める必要があるのかもしれんな。あの坊や、もしや殺人嗜好症という訳でもないのかもしれんぞ」

 

 それは誰に聞かせるものでもないが、心からの言葉だった。

 

 

    ◇

 

 

 橙子の前ではああ言ったものの、実際彼は犯人に心覚えがあった。

 あの時、路傍に蹲っていた一人の女。一晩部屋を貸したあの女。

 一度は否定したものの、彼には不思議と彼女こそ犯人であるという直感があった。

 橙子からの留守電に反応した時といい、纏っていた血の匂いといい。

 それでも彼には直感を信じきれずにいた。

 なぜなら、あの女には理由がないから。

 小動物のように臆病な、何かを怖れるように震える彼女。

 彼女が何らかの事件に関わっているのは確実だが、どう考えても今回のような猟奇殺人とは無縁だ。

 彼は橙子に自分と犯人は同類だと言った。

 ならば彼女も自分と同じような理由を持っていなければ犯人には成り得ない。

 殺人を愉しむ欠落、それを求める破綻が。

 

 一応、彼は犯人を保護するつもりでいた。

 彼自身、どうしてそうしたいのかは分からない。

 ただ、もし直感通りに彼女が犯人だったら、という懸念だけが渦巻いている。

 この時、彼はまだ気付いていない。

 本当に彼が殺人を求めているのなら、このような事で葛藤するなどあり得ないのだと。

 

 

    ◇

 

 

 友人に呼び出されて大学の食堂で待ち合わせていると、ちょうどいい時間に彼女はやってきた。

 彼女の名は相川春菜。わたしの幼馴染だ。

 なんでも頼みごとがあるらしく、しかもわたしにしか言えないというのだ。

 

「……で、何? 頼みごとって」

「うん、まあ人捜しなんだけどさ。わたしの後輩で行方が判らないヤツがいるの。どうにもソイツ、ヤバい事件に関わっちゃったらしくてね」

 

 春菜の話を纏めるとこうだ。

 彼女の後輩の一人が行方不明になっていて、しかもその後輩は昨夜の猟奇殺人の被害者の生き残りだという。名前は湊啓太だとか。

 当日、一度だけ彼は友人に連絡したが、話は支離滅裂でまったく要領を得ないものだったし、クスリでおかしくなっているようだったので、その友人が春菜に相談してきたというらしい。

 

「でも、どうしてそれをわたしに? 私立探偵にでも頼めばいいのに」

「だからよ。ほら、あんた探偵事務所でバイトしてるって噂があるでしょ。大学生のくせに探偵なんて珍しいもんだから、一部の界隈ではその噂で持ちきりよ」

 

 ……バレていたのか。わたしが『伽藍の堂』に勤務していることが。

 内心、わたしは自分が弟子入りしている人物の表社会での地名度に驚く。

 まあさすがにその実態までは気付かれることはないだろうけど。

 

「何よ一部の界隈って……。で、その後輩、ドラッグとかに手を染めてるの?」

「いや、やってたのは死んだ連中だけ。アイツは多分便乗して遊んでただけだと思う」

 

 あいにくわたしはそういった連中とは縁がなく、詳しくはないが彼らの行動理念はおおよそ想像がつく。

 

「ふぅん。珍しいわね、そういう連中と関わっているくせにクスリに手慣れてないなんて。……真相が単に初めてのクスリで悪酔いしてるだけならいいんだけど」

 

 そこで春菜が付け加える。彼が使っていたのは気分が陰鬱になるダウン系のクスリだと。

 わたしの見立てでは多分安価で入手性が高い大麻(マリファナ)あたりだろうと思う。

 

「とにかく、それだけの状況が揃っているなら彼が犯人に狙われているのは確実ね。どのみち犯人が生存者を生かしておく道理もないし。……しょうがない、引き受けるわ。彼らの交友関係とかわかる?」

 

 春菜は静かに頷き、アドレスをよこす。

 そこには膨大な数の名前と電話番号、それから溜まり場が書き込まれていた。

 

「それじゃ、見つけたら連絡するから。その場合、うちの刑事に保護してもらうことになるけどいい?」

「別に構わないけど。はい、これは捜査資金ね。一応、報酬はしっかり用意しておくから。その先輩の話じゃ五、六万は出すってさ。……あんまり無茶はしないこと。いいわね?」

 

 そうして春菜は二万円を渡してくる。

 正直こういう仕事は兄の方が得意だし、関わるべきではないと分かっているけど、わたしにはどうしても断れなかった。

 ──だって、わたしが放っておいたせいで人が死んだなんて寝覚めが悪いったらありゃしないじゃないの。

 まったく、こんなことだからお節介だのお人好しだの言われるのだろう。

 それでも悪い気はしなかった。少なくともそれで誰かの命が助かるというのだから。

 わたしは早速、街へ繰り出した。

 




 お読み頂きありがとうございます。
 今回から痛覚残留です。
 ようやく藤乃を描いていくことができますので執筆が楽しいのですが、繊細に感情を描かなければならないのでペース自体は落ちるかもしれません。
 何気に初めての料理回。しかも相手が鮮花ではなく藤乃という……。一晩泊めた事といい、もしバレたら修羅場不可避な感じが……。
 このssでの織は藤乃に対して少し思い入れがある感じで描いていこうと思います。

 感想等があれば気兼ねなくお書きください。その感想一つ一つが作者の燃料になります。
 
 
 


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痛覚残留/2

不定期更新です。


 

    /1

 

 

 わたしは春菜と別れた後、真夏の猛暑に曝されている街を一人歩いていた。

 理由はもちろん、その行方不明の後輩を探す為だ。

 正直、そういう手合いの人間とは関わりたくもなかったが、命が懸かっているとなれば断るわけにもいかなかった。

 そもそもこんな焼け付くような太陽の中、手掛かりすら掴めない人物の為に歩き回るなんて事自体が気が進まないのだが。

 

「はぁ、調べるなら夜の方が良かったかなぁ」

 

 わたしは誰にでもなく呟く。

 街は人でごった返し、熱はアスファルトに集められ、蒸すように暑い。

 気付けば汗でべたべたになっている肌が不快感を催す。

 もう引き返そうかと思っていた時、どことなく違和感がする人物とすれ違った。

 その人物は少女のようで、黒い礼服じみた服を着た、いかにもお嬢様といった感じだが、違和感を感じたのはそこではない。

 その礼服の少女は片手で腹を押さえ、よろよろとした足取りで何処かへ向かっている。

 もしかして、具合が悪いのだろうか。

 気になったわたしはおもむろに声を掛ける。

 

「ねぇ、ちょっとあなた」

「──はい。わたしですか?」

「ええ。なんだか具合が悪そうだけど、大丈夫?」

 

 彼女ははっとした顔で問題ないと言う。

 だが額からは明らかに気温によるものでない汗が流れ、呼吸も少し荒い。

 このまま放っておいてはいけないと思ったわたしは咄嗟に彼女を引き留める案を思いつく。

 

「でも、なんだか疲れてるみたいよ。そうだ、あの喫茶店で休んでいかない?」

 

 彼女も疲れていたのか素直に頷く。

 わたしたちは一先ず近くにあった喫茶店──アーネンエルベに入店する。

 

「ごめんなさい。わたし、持ち合わせがないのに……」

「気にしないで。いきなりこんなこと言ったのはわたしなんだし」

 

 それからはしばらく他愛のない話に興じる。

 どうにも彼女は厳格な事で有名な礼園女学院の生徒らしく、病院の定期健診の為に外出を許されているのだという。

 わたしもまた街を彷徨いていた理由を説明する。

 

「そうね……わたしは人探しよ。ちょっと友達に頼まれてね。……こうして出会えたのも何かの縁だし、ほら」

 

 そこで名前と連絡先が書かれた名刺を渡す。

 これも突然引き留めてしまった事に対する礼というものだ。

 

「わたしは黒桐鮮花。あなたは?」

「……浅上藤乃です」

 

 彼女はお嬢様らしく上品に名乗る。

 どうやらもう体調は良くなっているようだし、ここらで別れることにする。

 

「今日は楽しかったわ。それじゃ、困り事があったらそこに連絡してね。いつでも請け負うから」

「重ね重ねありがとうございました。黒桐さん。……機会があれば、また」

 

 そうしてわたしたちは店を出て別れた。

 ──彼女は何故か哀しげな顔でごめんなさい、と呟いた。

 

 

    /2

 

 

 時刻は午前十二時。

 不夜城のように喧騒の絶えない街の外れにて、惨劇が始まる。

 それはきっと、当たり前には起こりえないこと。

 しかしきっと、当たり前にも起こりえること。

 

「■■■■────‼︎」

「啓太さんの居場所、本当に判らないんですね」

 

 冷たいコンクリートの地面に、びしゃりと生暖かい血液が飛び散る。

 不思議な事にその青年の両腕は螺子のように曲がり、ただ血液を撒き散らすスプリンクラーになっていた。

 

「な、な、なんで──⁉︎」

 

 彼女はただ立っているだけだというのに、青年の両腕は捻れ飛んだ。

 痛みよりも先に、その理解不能な状況が頭を疑問で支配する。

 

(まが)れ」

 

 浅上藤乃は呪いを繰り返す。

 その度に青年の体は次々と捻じ切れていく。

 幾度目かの呪いが、残った頭と胴体を螺旋に変える。

 ──夥しい量の血が、倉庫街の地面に赤いカーペットを敷いていく。

 

「ごめんなさい。わたし、こうしないといけないんです。わたし──復讐しなくちゃいけないから」

 

 藤乃は歪に、心から愉しげに微笑む。

 ああ──わたしは今、生きている。

 形容しがたい感覚が、背中を駆け巡る。

 

「──ふん、やはりこうなったか」

 

 背後から、聞いた事のある声が耳に染みる。

 

「あなた──」

「……浅上藤乃。やっぱり、おまえだったのか」

 

 夜の闇に溶け込むような黒い男は、足音もなく血の池に踏み込む。

 彼は少しだけ惜しそうに彼女の名を口にした。

 

「……こうなるって判っていたなら、どうして止めなかったんですか」

 

 藤乃は自分の凶行にも関わらず、敢えて止めなかった彼を咎めた。

 

「オレは確かめたかっただけだ。おまえの復讐がホンモノかどうかをな」

 

 彼はそこに転がる肉塊を睨む。

 

「だが違うらしい。おまえの殺人はただの殺戮だ。復讐するのなら、そいつを殺す必要はなかった」

「違いません! それはこの人がわたしを傷つけようとしたから……!」

「だから殺したのか。なら最初からそいつに関わらなければよかった。おまえは復讐の為に無関係な人間を巻き込んだ。殺人を最終目的とした殺人。これを殺戮と言わずに何だと言うんだ」

 

 男は藤乃を咎める。

 彼女は困惑する。記憶の中にある彼はどことなく無気力さを纏っていたのに、今は静かながら鋭い殺気に満ちている。

 

「……一応聞いておくが、このまま大人しくついて来る気はないか? それなら仕事も楽になる」

 

 つまりそれは応じなければ殺すという事。しかし応じてしまえば彼女の罪は明らかになってしまう。

 なら、採るべき選択肢は一つしかない。

 けれど──。

 

「どうして……どうして来たんですか! もう会わないって決めたのに! あなたを傷つけたくなんてないのに、そうするしかなくなったじゃないですか……!」

 

 彼女は記憶の中に居る彼の姿を消し、覚悟を決める。

 一度決めてしまえば行動は早かった。

 藤乃の紅の瞳に、赤と緑の螺旋が宿る──。

 

 

    ◇

 

 

 行方不明の後輩、湊啓太を探すにはやはり彼の同類達が活発になるであろう夜が良いだろうと考えたわたしは彼らが遊び場にしているであろう場所に行く事にした。

 正直、そんないかがわしい場所に立ち入るのは抵抗があったけど、仕事となれば仕方がない。

 最終目的は湊啓太を見つけることだが、その為の新しい手掛かりが見つかったのだ。

 なんと彼らは常習的に女子高生を脅しておぞましい行為を要求していたという。

 しかもその少女は最後の日にも彼らに同行させられていたらしく、啓太と共に行方不明になっているのだ。

 虫酸が走るような話だが、彼だけでなくその少女の身も危険に曝されていると考えるとそんな嫌悪感は瑣末にしか思えなくなる。

 そうして立ち入ったカラオケルームの店員に話を聞くと、なんとその少女はすぐ近くの人気のない倉庫街で湊啓太の行方を彼の友人に訊ねているという。

 

 ──冗談じゃない。そんなヤツの考えることなんて一つに決まってる──。

 

 それだけを聞いたわたしは、倉庫街に向かって駆け出した。

 

 

    /3

 

 

 藤乃の瞳に宿る二色の螺旋。それを認識すると同時に男──織もまたその瞳に蒼い極光を灯す。

 二つの魔眼。二人の異能が激突せんとする瞬間、ある異物によってそれは遮られた。

 

「藤乃さん……? それに織? あなた達、どうしてここに──」

 

 現れたのは白いワンピースに桜色のサマーカーディガンを羽織った女、黒桐鮮花だった。

 彼女は今の状況──床一面に叩きつけられた紅を見て唖然とする。

 

「な、何よこれ……! ねぇ、何が起きたのよ……!」

 

 よく分からない形状の肉片と街灯に照らされる紅。その上で睨み合う二人。

 それは常人より遥かに聡い鮮花でも理解不能な状況だった。

 

「ち、違うんです! わたし、わたし……!」

 

 唐突すぎる知り合いの登場に藤乃は狼狽する。

 ──彼女にも見られた。見られてしまった。

 その脅迫めいた現実が、藤乃から判断力を奪い去る。

 そして藤乃は焦りから、無意識に()()()()()()()()()()()()()

 

「────この莫迦‼︎」

 

 瞬間、骨が砕け散り、肉が弾け飛ぶ音が閑静な倉庫街に響き渡る。

 

「──嘘、でしょ、織──」

 

 だがその螺旋が鮮花を捻じ切る事はなかった。

 織がそれを認識した瞬間、持てる全ての力を速度に変えて彼女を突き飛ばしたからだ。

 だが、その代償は重かった。

 何故なら、織の左腕は肩ごと捻れ、見るも悍ましい形になっていたのだから。

 織は痛みと大量出血による血圧低下で膝をつく。

 

「い、いやぁ! お願い、しっかりして! こんなのって……!」

 

 織は痛みに呻きながらも藤乃を睨み続ける。

 どうやら自分よりも鮮花を傷つけようとした事が許せないようだ。

 彼はこれまでに見せたことがないほどの殺意を、藤乃に向ける。

 たが──。

 

「だめ! お願いだから織だけは! 殺すなら……わたしを殺してっ!」

 

 鮮花は急速に思い出した。

 自分が二年前、織に守られたことを。──自分では織を守れなかったことを。

 もう、あんな気分は二度と御免だ。今度からは──自分が彼を護る。

 そんな想いが、本能さえ超えて彼女を突き動かす。

 彼女は藤乃の前に立ち、織を庇う。

 膝は震え、歯も鳴っているが、瞳には爛々とした決意が灯されていた。

 

 藤乃は、ただ呆然と二人を眺める。

 自分を睨みつける彼。自分に怯える黒桐鮮花。

 かつて唯一手を差し伸べてくれた先輩。自分の苦しみに気付き、案じてくれた女性。

 その二人は自分によって傷つき、自分に敵意を向けている。

 

 ──傷つけたくなかった。

 ──傷つけられたくなかった。

 

 彼らの暖かさが、今は藤乃の傷となる。

 

 ……わたしの所為で二人は。……わたしの復讐が、二人を。

 わたしは、あの人達を裏切ったんだ────。

 

 その絶望的なまでの罪が、藤乃のココロを刺し貫く。

 

「ああ……ああぁぁぁぁぁぁっっっ‼︎‼︎」

 

 藤乃は叫びをあげる。その激情に伴って街灯が、コンテナが、地面さえも捻れ飛んでいく。

 

「こいつはまずいな……! 鮮花、逃げるぞ!」

「ええ! でも、それより左腕が──」

 

 織は左腕から血を零しながら、鮮花の手を引いて走り抜ける。

 目的地は一つ。あの人形師が拠点にしている地──『伽藍の堂』だ。

 

 彼は胸に(つか)えるものを感じながら、脇目も振らず疾走する。

 

 ──面倒な事になったな。色んな意味で。

 

 脳裏に浮かぶのは鮮花の事、藤乃の事、左腕の事。

 面倒事ばかりが増えた事に織は歯嚙みするが、今は左腕の治療を最優先する事にした。

 

 

    ◇

 

 

「本当に大丈夫なんでしょうか。橙子さん」

 

 使い物にならなくなった為左腕を切り落とした織を尻目に鮮花は橙子に問う。

 橙子はその代わりとなる義手を作製しながら答える。

 

「まあ、左腕に関しては問題ない。どちらかというと失血の方がまずいんだが、それも回復しつつあるとは、流石は両儀だな」

 

 飄々と橙子は語るが、鮮花は不安を拭えずにいた。

 当然だ。この一時間の間に彼女が見たものは尋常ではない。

 豹変した浅上藤乃。魔眼を煌めかせる織。

 肉片と血潮の上で睨み合う二人。

 彼女には何故そんな状況に至ったのか分からなかったが、織にとっても最悪の事態だったに違いあるまい。

 それに──。

 

「……おまえ、どうしてあんなことをしたんだ。今回は運が良かったが、本当に殺されていたかもしれないんだぞ」

 

 織は底冷えするような声で言った。

 彼が憤慨しているのは鮮花があそこに来たことではなく、自分を庇おうとした事だ。

 彼は自分の左腕が潰された事ではなく、鮮花が自らを危険に曝した事を怒っていた。

 

「──ごめんなさい。わたしが来ていなければこんな事には……」

「そこじゃない。どのみち殺し合うつもりだったんだ。おまえが庇い立てる必要なんて少しもなかった」

「だって、あのままじゃ織が死ぬかもしれないと思ったから……。あなたなら逃げられたかもしれないけど、そう考えただけで我慢できなくなった。だから」

「だから庇った。無意味かもしれないと分かっていても。……まったく、なんて無鉄砲なヤツなんだ。──でも、ありがとよ。おかげで腕一本で済んだからな」

 

 織は一応の礼をする。しかしそれだけで怒りが治ったわけではなかった。

 

「ただ、もう二度とあんな真似はするな。心臓が何個あっても足りたもんじゃない」

「はい、ごめんなさい。でも、あなたも同じよ。もうできる限り無茶はしないで」

 

 努力はするよ。と織は返す。

 これで二人とも一応納得したようだった。

 そんなどこまでも純真な二人を見て、橙子は笑う。

 まったく、こいつらは似ていないようで根は同じなのかもしれないな、と。

 

「……ずっと訊きたかったんだけど、藤乃さんとあなたが睨み合っていた理由って……」

「おまえの察する通りだよ。あの猟奇殺人事件、あいつが犯人だったという事さ」

 

 織は少しだけ残念そうな顔をする。それは何の故か。

 だがむしろ織の方が訊きたい事があるようだ。

 

「藤乃さん、だと? おまえ、あいつを知っているのか?」

「ええ。今日の昼間に街で会ってね。そこで知り合ったんだけど……その口ぶりじゃあなたの方がよく知ってるみたいね」

「ああ。その事件当日に路傍で蹲ってたもんでな、一晩だけ泊めたんだよ──っておい」

 

 瞬間、織は何ら含みを入れずに答えたというのに、鮮花は凍りつく。

 その何とも形容しがたい妙に味のある顔を見て、織は噴きだしそうになる。

 

「おまえな、別に何かされたわけじゃないんだし、そんなに驚くか?」

「……ナンデモゴザイマセン」

 

 片言で鮮花は返すが、その焦りとも驚きとも言い難い態度がなおさら面白い。

 

「何と言うかな。オレは昔から──それこそ二年前からあいつを知っていたんだよ。体育祭の日のことさ、おまえが見たっていう。あの時にオレが運んだ女──そいつがあの浅上藤乃なんだ」

「そんな……それじゃあなたは、それを知っていたから彼女を止めに?」

「いや、オレもあの時まで犯人とは気づかなかった。とてもそうは見えなかったからな」

 

 口にはしなかったものの、織は内心間違いであって欲しかったと思う。

 理由は分からない。けれど、何故か彼女を殺したくはないと思っていたのだ。

 

「できる限り無傷で連れ帰るってのがオレの仕事だった。だが無駄に終わった」

「……でもあの子、苦しそうだった。きっと不本意だった筈よ」

 

 織は押し黙る。

 ここで反論してもさらなる反論が返ってくるであろう事は想像に難くないからだ。

 

「それはともかく、あいつは無関係な人間を殺した。自分の復讐の為だと言って。多分、復讐を完遂するまであいつは止まらない。なら、今やるべきことは二つだ。一つ、浅上藤乃を抹殺する。二つ、その相手を見つけて差し出す」

「……一つ目は論外ね。二つ目も同様よ。けれどそいつの手掛かりだけは今掴みかけている所よ」

 

 織は彼女の仕事の早さに驚嘆する。というよりも、彼女が別件の依頼を請け負っていたにもかかわらず結果としてこの事件に絡んでいたという奇妙な因果にだが。

 

「なら、やるべきことは決まりだ。浅上はこれからも衝動的に殺人を犯す。そいつに辿り着くまでな。なら、おまえが先に見つけてしまえばいい。対処はそれから考える」

「ええ。ならもう待っていられない。彼女にこれ以上殺人を犯させない為にも」

 

 鮮花はすぐにでも見つけると意気込むが、不安を拭いきれずにいた。

 もし、その後輩を先に見つけて保護したとしたら。もしかしたら彼女は対処を見失った事で更に罪を重ねるかもしれない。

 それを防ぐ為には後輩を差し出すのが最善に見えるが、そんなことは契約違反どころか人道に背く行為だ。

 対して藤乃本人を殺害する。これは最悪だ。わたしは彼女の人となりと置かれた状況を知ってしまっている。そんな彼女が罪人とはいえ殺されていい道理がない。

 そして何より──織自身が露骨に殺したくないとまで示してくれているから。

 そう、彼女は自分の知る限り初めて織が手を差し伸べた人物なのだ。そんな彼の初めての優しさを──彼自身が無意味にしてしまうなんて許せない。

 しかし、説得するにしても恐慌状態の彼女に会話は通じないだろう。

 ──もう、全て手遅れなのかもしれない。

 それでも、彼女を救いたいと思った。何よりも、織自身の為に。

 

「それじゃ、行ってくるわ。あなたは大人しくしておくこと。いい?」

「ああ、わかったよ。なら急げ。何も起こらない内にな」

 

 そうして急ぎ足で鮮花は退室する。

 残された織は作業を続ける橙子と退屈凌ぎに会話する。

 

「……ふむ、おまえと浅上藤乃は旧い知己、そしてこんな形で再会を果たすとは、奇妙な事もあるものだ」

「いや、オレはあいつに名前は教えていない。そもそも知己といってもほんの一瞬だったんだ。それなのにお互い憶えてるときた。ホント、出来すぎているのかもな」

 

 織は、少し感傷的になりながら浅上藤乃という少女の事を欠けた記憶の中から引っ張り出す。

 ……駄目だな。何も思い出せない。重要な事は何も。

 ただ、彼女を背負って運んだという事実しか憶えていない。

 

 彼はそこで思考を打ち切り、今後の対処について考えていくことにした。

 どうせ何も記憶していないのだ。なら、後は鮮花が帰って来てからでいいだろう。

 

 珍しく紫煙に覆われていない部屋の中、織は一旦睡眠を摂ることにした。

 

 




 今回もお読みいただきありがとうございます。
 鮮花さん漢気全開です。
 原作とは打って変わって藤乃を殺したくないと思っている織。果たしてそんな彼の情は身を結ぶのでしょうか。
 
 感想等気軽に書き込んでください。その一つ一つが作者の燃料になります。
 それと評価していただければ幸いです。


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痛覚残留/3

 不定期更新です。


 

 

    /0

 

 

「ようやく、出来たか」

 

 仄暗い闇の中、獅子のような青年は狂気を含んだ笑みを浮かべる。

 周囲には雑多な実験器具が並べられており、中には乾燥させた植物──おそらく麻薬の類であろうものまで置かれていた。

 彼はその内の一つである紙片を手に取り満足げに笑っていたのだ。

 その紙片は全体的にピンクががっていて、所々が血を零したように赤く染まっている。

 その奇妙な代物こそ彼の発明品であり、名を『ブラッドチップ』と言った。

 

「さて、まずは試験だが、何がいいかねぇ」

 

 発明品とはいうものの、まだあくまで試作品であり、その効果は未知数だ。

 そこで彼は、部屋で飼っているハツカネズミで実験する事にした。

 

「ほら、お食事の時間だ」

 

 彼はネズミの餌に刻んだブラッドチップを混ぜ、ネズミに投与する。

 すると投与した五匹の内三匹がもがき始め、嘔吐して息絶える。

 だが、残った二匹には目に見えるほどの変異が始まっていた。

 ネズミは途端にけたたましい叫びをあげ、お互いの身体に喰らいつく。

 

「こいつは……!」

 

 なんと変異したネズミはほんの十分ほどでクマネズミ並の体躯に成長し、もはやネズミとは思えないほど強靭な爪と牙を生やしていた。

 二匹は檻を破壊するほどの力で互いに喰い合う。

 その様はもはやネズミ同士の闘いではなく、猛獣の対決だった。

 勝負は呆気なく終わった。一方の牙が相手の首に突き刺さり、そのまま骨ごと噛み砕いたからだ。

 そして勝者となった一匹は残りの死体を一息に喰い尽くす。

 それは正しく『食べる』事にだけ特化した生物でなければ成しえない光景だった。

 

「ほう、これが効果だということか。摂取した対象に俺の起源を押し付ける。だから『食べる』起源に肉体を上書きされたこいつはそれだけを衝動とする生ける現象と化した。相手の起源ではなく俺の起源を表出させるクスリとは、使い道はありそうだが、失敗だな」

 

 彼は発明品の欠陥を見抜き、失敗に終わったと断じる。

 確かに『食べる』事に特化した生命を作れば使い道もあるだろう。だが彼が求めているのはそんな陳腐な事ではない。

 

「俺は見たいんだ……。人間の本質、その存在の根底そのものを。両儀……おまえが起源に目覚めた時、おまえは何を見せてくれる?」

 

 彼が求めるもの、それは究極の超越性だ。

 彼の師は言った。両儀を筆頭とする異能者達は起源に近い故に皆それに引き寄せられ、特別な力を手にしているのだと。

 だが自分は違う。いや、むしろ起源そのもの覚醒させ肉体を支配させた自分は彼ら以上の特別だ。

 あの両儀ですら、あの魔眼ですらもヤツの持つ起源の一部でしかない。

 ならばヤツが完全に起源覚醒を果たした時、ヤツは何を見せてくれるのか。

 それだけが、気になって仕方がない。だからそれに固執した。

 今の自分には他者の起源に干渉する力はない。だからこそブラッドチップを完成させなければならない。

 それが師の望みからは外れている事は識っている。だからこの実験は誰にも知られてはならない。

 しかし止まるわけにはいかない。

 いつか奴を完全に覚醒させ──それを超える。

 ただその為だけに。

 

 

    /1

 

 

 早朝、わたしはようやく湊啓太を見つけ出した。

 兄の真似事だが、ありとあらゆる情報を積み重ねて地道な調査を行い、その果てに隠れ家を絞り込んだ。

 一応その部屋のチャイムを鳴らしてからドアノブを捻る。

 鍵は掛けられていなかった。

 

「湊啓太さんね? あなたの先輩、相川春菜に頼まれて捜しに来ました。入りますよ」

 

 できる限り音を立てずに入る。中は静謐に包まれていて薄暗かった。当然だろう。元よりこの部屋には住人は居ないのだから。

 

「──あんた誰だよ」

 

 部屋に入るとその少年は怯えきった声で問いかける。

 酷い有様だった。

 頬はこけて眼は血走り、身体も小刻みに震えている。

 春菜はクスリをやっていると言っていたが違う。

 彼はそんな外部的なものに頼らずとも正気を失いかけていた。

 多分、あの惨劇を目の当たりにしてしまったからだろう。

 

「あんた、一体」

 

 彼は繰言のように問いを投げる。わたしはある程度距離をとって答える。

 

「春菜の知り合いの黒桐鮮花よ。依頼を受けてあなたを捜しに来たの。よろしく」

 

 わたしは上辺だけの挨拶を交わし、感情を含めずに笑みを浮かべる。

 ……本当に気が進まなかった。

 何故なら、わたしは彼がやった事を知っているから。

 それでも目的の為に私情を挟むわけにはいかなかった。

 

「相川先輩の? どうしてあの人が」

「あなたが厄介事に巻き込まれたと聞いて心配してるみたいだから。保護してくれって頼まれたのよ」

 

 行きましょう、と手を差し出すと彼は激しく拒絶した。

 

「ダメだ! 外に出れば殺される!」

「ここにいてもいずれは見つかるわ。ほら、その前に」

 

 彼は充血した眼を見開いて睨みつけてくる。

 わたしは冷静である事を示す為に腕を組んで壁に寄りかかる。

 

「事件の事は大体知ってる。犯人の事も──あなた達が彼女に何をしていたかもね」

 

 彼は先程までとは違い、蒼ざめた顔で怯える。おそらく、今までしてきた所業を全て暴かれてしまっているという恐怖からだろう。

 

「事件の夜にあなた達五人は彼女をバーに連れ込んで暴行した。そしてその最中に四人が殺され、あなただけが逃げ延びた。でも──どうやって? 男五人もいて女一人にやられるなんてありえない」

 

 わたしはそんなことは既に知っているのだが、確認の為に演技をする。

 おそらく彼女が織と対峙していた時に見せたあの超常的な力。あれが彼らを葬った手段なのだろう。

 

「でも本当なんだ! 何を言っているかわからないだろうけど、オレもわからない……! あいつ、ただ『見つめていた』だけなのにみんな捻じ切れていくんだ。わけがわからなかった。そしてリーダーがバラバラにされた時、恐ろしくなっちまって逃げ出したんだ……! あいつ、初めから変だったけど、やっぱりおかしかったんだ──」

 

 これで確認は取れた。やはり彼女の特別な眼が彼らを死に至らしめたのだ。

 

「やっぱりそうなんだ。実を言うとね、わたしもその子のこと知ってるんだ。まあそのことは置いておいて、初めから変だったっていうのは?」

 

 彼は信じられない、というような表情で固まる。多分、どうしてそんな無茶苦茶な供述を信じられる、とでも言いたいのだろう。

 

「本当に変だったんだ……。何をしても無反応で、殴ってもクスリを呑ませてもけろりとしてるんだ」

「……」

 

 彼らが藤乃に暴行を働いていたのは知っているけど、益々憤りが増してくる。

 半年も暴行を受けた彼女はその報復として彼らを殺害した、というのは織からも聞いていた。だからこそ彼女は今も復讐の為の殺人を行っている。

 元はといえば彼らが原因だというのに、無関係な人が殺され、藤乃自身も止まれなくなってしまった。

 それが、どうしようもなく苛立たしい。

 

「見た目も肩書きも最高だったけど、凄くつまらなかった。なんか締まりも悪かったし。でも、あの夜は楽しかったな。仲間にヤバいヤツがいて、ナイフで軽く切っても無反応の藤乃にイラついたのか、バットで背中をぶん殴ったんだ。そうしたら派手に飛んで痛そうに呻いてた。そんな初めて見せた人間味がそりゃあもうそそるもんで。そっからはもうメチャクチャだった。もうやめて、なんて泣きながら懇願するあいつを全員でマワした。でもオレは逆にホッとしたんだ。ああ、こいつもちゃんと痛みがあるんだなあって。んで、それから──」

「──────最低」

 

 ただ、それだけを言い放つ。

 自分から感情の波が引いていくのを感じる。

 沸騰しそうな怒りとかそんなものじゃない、もっと冷たい何か。

 これ以上聞いていると自分でも何をしでかすか分からない。

 だからこそ憤るのは止めにして、目の前の人物に一切の感情を向けないようにした。

 

「ふぅん。そういうことね。警察に知り合いがいるから、そこに保護してもらいましょう。そうすればもう安全よ」

「そ、それは嫌だ! それに出て行けば殺されるんだ! あんな風に殺られるならここで飢え死にした方がマシだ!」

 

 出て行けば殺される、という言葉が引っかかる。

 待ち構えているわけじゃあるまいし、見つかるのならまだしも、いきなり殺されるというのは飛躍しすぎだ。つまり、それは監視されているのと同じということで。

 

「もしかして、この携帯電話って」

「オレ、あの時にリーダーの携帯を持って逃げたんだ。それでその後電話がかかってきた。捨てたら殺すって。しかも毎晩電話をかけてくるんだ……。一昨日は昭乃、昨日は康平を殺したって! 友達を助けたいなら会いに来いって! できるわけがない……」

「ならここに辿り着くのは時間の問題ね。ほら、来なさいな」

「やめてくれ! どの道オレは死ぬんだ! なら死ぬまでここで隠れ続けるまでだ!」

 

 もう勝手にしなさい、と言いかけたが、あくまでもこれは仕事だと割り切る事にする。

 そこでわたしはある案を思いついた。

 

「……一つだけ、助かる方法があるけど。ただし条件付きでね」

 

 その瞬間、彼の目に僅かながら光が戻る。

 ……こんな人間とはいえ、生死の境に立つ人間を助けるのに条件を提示するのは我ながらどうかと思うが。

 

「あなたをわたしの知っている内で最も安全な場所で匿う。それこそ警察よりも安全な所にね。その代わりあなたには浅上藤乃を誘き出す為の陽動役になってもらう。そしてわたし達が浅上藤乃に対処する。それだけであなたは警察に行かなくとも命が保証される。どう? 条件としては悪くないでしょう?」

 

 陽動役になる、という言葉に目に見て動揺するも、警察に行かずとも助かる、という条件は魅力的だったようですぐに了承してくれた。

 これだけのことをやったのだ、せめてその程度のことはやって貰わないと割に合わない。

 ……まあ、それでも虫の良い話だと思うが。

 一応、自棄とはいえ死の覚悟を決めていたのだからその報酬という事にしておこう。

 

 ともあれ、これで事は一歩進んだ。

 わたしは薬物中毒者のように震える後輩を連れて事務所に向かった。

 ……その道中、通行人に怪訝な目で見られていたのはかなり恥ずかしかった。

 

 

    /2

 

 

「ふむ、もう見つけ出すとは中々の手腕だな。しかも陽動に使おうとはおまえもそれなりにドライじゃないか」

「ええ。被害者とはいえ、場合が場合ですから。タダで助かろうなんて虫の良すぎる話でしょう」

 

 橙子は自分の弟子が思っているよりも打算的な思考ができる事に感心していた。

 とはいえ、実際は敢えて打算的に徹することで自分を納得させようとしているだけなのだが。

 つまり、鮮花は利益になろうとなるまいと湊啓太を助けるつもりだったのだ。

 そんな無駄だらけな、されど捨て去ってはならない未熟さに、橙子は微笑む。

 

「……それは良いが、これからどうするつもりだ?」

 

 隙を見計らって織が口を挟む。

 鮮花はやや食い気味に返すことしかできない。

 

「そうね、説得する……のが一番だと思うのだけれど」

「本気か? おまえも見ただろう、あの突発的な力の放出を。仮に対話が可能だったとしても、その最中に再発する可能性もある。そうなればもう手遅れだ。殺すしかない」

 

 彼女は何も言えなかった。

 確かに彼の言い分には一理ある。

 実際、彼女もあの時の光景を忘れることはできなかった。

 自分を見つめていた螺旋の瞳、捻じ切れた織の左腕、叫びと共に消し飛んでいく倉庫街。

 それを思い出すと──今でも足が竦みそうになる。

 本当に、浅上藤乃は手遅れかもしれない。それでも──。

 

「駄目よ。あなたにあの子を殺させるわけにはいかない。だってあなたが初めて助けてあげた人なんだもの。それを──無駄になんてさせない」

 

 織は目に見えて呆れる。

 これだけ言って、死にそうな目にも遭った癖に、彼女はまだ諦めないというのだから。

 されど、少しばかり安堵してもいた。

 やはり、この諦めの悪さがあってこその彼女だと。

 二年前もそうであったように、彼女は今も変わらない。

 その在り方に、少しだけ安心させられる。

 

「あと少しだけ、時間を頂戴。わたしもわたしなりに調べてみるから。あの子の異能、その根源が何処にあるのか、どうして今になってそれに目覚めたのかをね」

 

 鮮花がそう言うと、橙子はあるだけの資料を手渡す。それを使えということだろう。

 織は安堵したような、不満があるような複雑な表情で頷く。

 彼自身も、その内にある本心に気付かないままに。

 

「それじゃ二人とも、行ってきます。遠出になるので、今日明日は帰れないかもしれないけれど、織のことは頼みますね橙子さん」

 

 橙子は満足げに首を振る。

 鮮花は最後に、形容し難い表情で佇む織に話しかける。

 

「待ってて織。上手くいけば助けられる方法が見つかるかもしれないから。……だから、もう無茶はしないで」

「分かってるさ。……おまえは変わらないな」

 

 織は皮肉げに笑うが、その言葉には確かな信頼が含まれていた。

 

 

    ◇

 

 

「織、七人目が出たぞ」

 

 切れ味の良い刃物のような鋭さを持った口調で、橙子は織に最悪の事態を告げた。

 

「それは、関係ある殺しなのか?」

「いや、湊啓太も被害者の事など知らないと。これは完全に余分な殺人だよ」

 

 織は怒りと焦燥が綯交ぜになった表情のまま佇む。

 

「ふむ。行動するなら頃合いだと思うが、まだ待つというのか?」

「ああ。待つとも。約束……だからな」

 

 織は何をするでもなく待ち続ける。

 彼自身は今すぐにでも行動を起こしたいのだろうが、約束であらば破るわけにはいかない。

 空っぽで薄情ではあるが妙に義理堅い。それがこの両儀織という男なのだ。

 

 急いでくれよ鮮花、もう待てないかもしれないぞ──。

 

 絵の具で塗り潰されたような青い空は、淀んだ暗雲に呑み込まれようとしていた。

 

 

    /3

 

 

 吹き荒れる暴風の中、鮮花は事務所に帰還した。

 びしょ濡れの彼女を目にして橙子はきょとんとした顔を、織は安堵の表情を浮かべて出迎える。

 

「早いな。もう終わったのか」

「ええ。台風で交通機関が麻痺する前に帰ってきたんです」

 

 橙子は興味深そうな顔で成果である浅上藤乃の話を催促する。

 

「まあ、その前に一つ。織、あの子を一晩泊めたって言ったよね。その時には何か不審な点はなかった? 違和感でもいい」

「むしろ不審な点しかなかったから泊めたんだよ。そうだな、あいつ、突発的に体調が良くなったり悪くなったりしていたな。痛みが治ったり甦ったりしているみたいだった」

 

 そこで橙子は何か閃いたのか口を挟む。

 

「ああ、そうだ。藤乃が啓太のグループを殺害した時の決定打を言い忘れていたな。彼らは最後の夜に刃物で藤乃を刺したらしい。復讐のきっかけはおそらくそれだろう。彼女が腹部を刺されたのは二十日の夜。織が彼女を拾ったのもその直後だ。その時点では彼女には傷が残っていた。その二日に再開した時、彼女に傷はなかった」

 

 橙子の提供した情報はどこか違和感があるものだった。

 自身の見た記憶とその情報の食い違いに織は疑問を抱く。

 

「待て、何かヘンだぞ。刃物で刺されたと言ったな。なら傷は治るまで痛み続ける筈だ。けどオレが泊めた時からあいつは痛みが消えたり甦ったりしていた。先日会った時もそれは変わらなかった」

「何だと? ふむ、考えてみれば刺し傷が一日二日で完治するのも奇妙な話だな。つまり彼女はありもしない痛みを錯覚しているのか。治っているのに痛む傷ではなく忌まわしい記憶から生まれ出る痛みの幻視。それなら消えたり甦ったりするのも納得がいく」

「いいや違う。あいつには確かに痛みがある。オレの“眼”は誤魔化せない。あいつの体内には本物の痛みがあるんだ」

「あの、二人ともいい?」

 

 そこで鮮花が口を開く。次の瞬間には予想だにしなかった情報がもたらされることを二人は知らない。

 

「話は変わるけど、湊啓太はあの子は何をしても動じなかったって言ったでしょう。調査で知ったことなんだけど、実はね、彼女は無痛症だったのよ」

「なんだと……! 彼女には初めから痛みがなかったと。それなら傷が治ってないにしても痛みが消える筈だな。しかしナイフで刺されていないとすると、彼女に痛みを呼び起こす発端が他にある筈だ。背中を強打したとか」

「ええ。彼女は背中をバットで殴られた事があるようです」

 

 橙子はどこか快活に笑う。鮮花はそれを感情を抑えたまま眺めていた。

 

「ははあ、連中は彼女の背骨を折ったか罅を入れたというのか。その所為で彼女に痛覚が復活したと。それで初めて痛みを知った彼女はその意味を知り、憎しみという形に昇華させた。それで傷の痛みと共に屈辱の記憶が戻り復讐の動機に至った……」

「いいえ。付け加えますが、彼女は後天的な無痛症です。四歳になるまでは普通の体質だった」

「……そんな馬鹿な。脊髄空洞症ならば後天的にも成り得るが、それでは須く運動障害を引き起こす。彼女は痛覚麻痺を発症していても運動障害は患っていない。そんな特殊なケースは……。無痛症患者の多くは反復性脱臼によるシャルコー関節を発症し車椅子での生活を余儀なくされる事が多い。そして彼女にはそれは見受けられない。後天的というのもあり得ない訳ではないが、それなら前述のような脊髄空洞症になる筈だが……」

「ええ、そこは彼女の主治医も訝しんでいました」

 

 鮮花は長野の山奥、嘗て隆盛を誇った浅神家跡での出来事を端的に説明する。

 

「彼女の旧姓は浅神。古くは地域一帯に名を轟かせた名家だったようですが、彼女が十二歳の時に破産し、母親共々今の父親──分家の浅上に引き取られています。彼女は四歳までは痛覚があったのですが、特別な力を持っていたようで。物を見るだけで捻ることが出来た、と」

「──待て。浅神というのは、あの浅神なのか⁉︎」

 

 黙って座っていた織は目の色を変えて唐突に割って入る。どうやらその名は彼にとって無視できないものであるらしい。

 

「ええ。それがどうしたの?」

「まさか、あの浅神の直系とは。道理であれ程の力を行使できる筈だぜ」

 

 疑問符を浮かべる鮮花に対し、織は整然と語り始める。

 織自身、信じられないというような表情を浮かべながら。

 

「この国にはな、神代から存在し人間と敵対していた(あやかし)を討伐する為に組まれた“退魔”という組織がある。これは人工的に異能を生み出し妖を討つ一族の連合だ。その中でも「両儀」「巫淨」「浅神」「七夜」はその圧倒的な力から退魔四家と呼ばれるようになった。だが時代が進むにつれて妖も人間との混血という形で社会に適合し、退魔の必要性は薄れていった。そして七夜は完全に断絶し、巫淨と浅神は分家を残して没落。まだまだ退魔組織事態は残っているが、こうして四家は両儀だけとなった。両儀も今や組織を抜け表向きは大企業を傘下に置く企業連合盟主という形に落ち着いた」

 

 鮮花は愕然とする。

 当然だろう。妖の実在は橙子から聞かされていたとはいえ、まさかこんな身近にその敵対者、それも筆頭となる者達が居るなど夢にも思わなかったのだから。

 

「それじゃあ、あの巫条グループや浅上建設っていうのは……」

「ああ。あれも分家だ。それだけじゃない、遠野グループって知ってるよな。あれは表向きは単なる企業連合だが、その本質は混血の一族を纏める宗主なんだ。このように、オレたちの社会の上層には一般人が知らない形で(いにしえ)からの因縁が渦巻いているんだ。もしかしたらこの国に魔術協会とやらが根を張れないのは政界やら財界やらをオレたちのような人にして人非ざる者達が支配しているからなのかもしれないな」

 

 橙子は興味深いだろう、と鮮花に微笑みかける。

 鮮花は予想だにしなかったその因果に驚愕する。改めて自分の暮らす日常の世界こそが伝奇小説めいた怪奇の巣窟になっていると実感させられたのだから。

 

「オレみたいなのを作り出そうなんて考えた両儀も相当に特異だか、浅神はさらに特異だ。あの一族は戦闘で捕らえた混血を飼っていたんだが、どうにも自分達がその混血と交じり合い、最後には没落しちまったらしい。その果てに生まれたのがあの浅上藤乃──。混血と退魔の合いの子とは、改めて恐ろしいものに出会ったもんだな」

 

 鮮花は閉口する。

 本当、なんて運命なんだろう。そんな二人が同じ街に暮らし、こうして争おうとしているなんて、と。

 頃合いを見計らって鮮花は調査の続きを話す。

 

「彼女は里では鬼子と忌み嫌われていました。でも、四歳になった頃からその異能は消失していました。その感覚と共に」

「何故だ?」

「そこから彼女には主治医があてがわれたのですが、この主治医はなぜ藤乃が無痛症になったのかは知らないようなんです。それで事情を知らないまま薬品を提供した」

「提供した? つまりそれは投与したということか?」

「いえ。主治医はあくまでも提供しただけで、投与そのものは藤乃の実父が行っています。主治医自身の診察では藤乃は視神系脊髄炎の可能性が高かった為、ステロイドやインドメタシン等の副腎皮質ホルモンが流されていました。それと、藤乃の父は無痛症を治すつもりはなかったと」

 

 橙子は突然に笑いだす。

 察しの良い鮮花はその理由が理解できてしまったのか、何も言えずにいた。

 

「なんと──アレは先天的でも後天的でもない、人工的な無痛症だったのか! なるほど、浅神は意図的に感覚を封じることで能力も封じたのか。彼らは両儀や七夜とは同じ退魔でありながら全く真逆の道を選んだ。しかしその所為で彼女の能力は密かに鍛え上げられていった」

「……ふん。血の定めから逃がそうとした末路がこれか。せっかく綻びを繕ったのに、さらに大きな綻びが生じる。救えないな、オレもあいつも」

 

 織は自嘲と憐憫がない交ぜになった顔で呟く。

 きっとそれは、藤乃だけでなく全ての退魔と混血に向けられたものなのだろう。

 

「……それでどうする鮮花。確かにあいつの事は分かった。だがそれでどう対処するというんだ?」

「保護する、というのが一番だけど多分無理よね。きっとあの子はもうわたしたちを敵だと見なしてる」

「なら、戦闘は避けられないな。元より依頼主はそれを望んでいるんだ。あの怪物を殺せ、とな。あの時に止められなかった時点であいつは行き詰まりだったんだ」

 

 鮮花は言葉を詰まらせ硬直する。

 もはや、藤乃を救う手段などないという事実が彼女を打ちのめす。

 それと同時に、尋常ならざる後悔が胸の内に突き刺さる。

 そう、藤乃と街中で出会った時、彼女の異常に気付いてさえいれば──。

 

「わたしが……わたしがもっと早く湊啓太を見つけていれば……。全部、手遅れだったんだ──!」

 

 鮮花は頭を抱え、その端正な顔を苦渋に染める。

 思い出すのは一つの邂逅、二度の逢瀬、そしてこの悔恨。

 そもそも前提からして望みなどなかった。その事実が彼女を鋭い棘のように苛む。

 

「違う。後悔するのはオレだ。おまえはよくやってくれた。オレはあいつの異常性に気付いていながら引き止めることはしなかった。だからこれはオレの責任でもある。せっかく最初から犯人だと感づいていたのに、何もしてやれなかった」

 

 それを見かねた織はそれは筋違いな後悔だと鮮花を慰める。

 責任を負うべきは自分である、と言って。

 

「……織、もうそろそろ依頼主も痺れを切らす頃だろう。いい加減行動をとるべきだと思うがね」

「分かってるさ。清算するのなら今しかないって事は。それで、あいつの潜伏場所は判る?」

「一応、心当たりはある。候補は三つあるから手当たり次第に行くしかないが」

 

 橙子はそこで三枚のカードを織に渡す。それらは浅上グループの身分証明書だった。

 しかし織はそのカードに書かれた名前を見て愕然とする。

 ──荒耶宗蓮。その厳かな響きを堪えた名は確かにカードに刻み込まれていた。

 

「そいつは偽名だ。適当な名前が思いつかなかったから友人の名を拝借させてもらってね。ま、そんなことは些事だ。浅上藤乃が潜伏しているのはその内のどれかだろう。これ以上被害が拡大する前に決着を付けてしまえ」

 

 荒耶宗蓮。その名前に織の思考は釘付けとなっていた。

 口には出さなかったが、彼は橙子とあの男が知り合いだとは考えもしなかったからこその驚きだった。

 今思えば、橙子は彼の後釜だった訳で、同じ病院で勤務していたからこそ知り合いである事そのものには何ら不審な点はないのだが。

 そこまで考えて、彼は一人納得してから思考を切り替えることにした。

 

「オレは行ってくる。鮮花、これはただ運が悪かっただけだ。誰の所為でもない。無論、責任はあいつとあいつを襲った連中にあるんだろうが、それでも誰か一人が悪いなんてことなないんだ。それに──もしあいつを殺すことになったなら、罪はオレとあいつだけのものだ。──だから、おまえがそう気負う道理はないよ」

 

 織は背中を見せて鮮花にそう告げる。

 顔は見えず、どんな表情であるのかは判然としない。されど、そこには確かな後悔と強い覚悟が感じられた。

 そう──彼は藤乃の犯した余分な殺人の罪と彼女を殺す罪。その二つの咎を一身に負う心積もりなのだ。

 鮮花は掛ける言葉が見つからなかった。きっと今反論した処で意味などないだろうから。

 だから、ただ一つだけ言葉を送った。

 

「それじゃあ、気をつけて。くれぐれも無茶は禁物よ。……あなたを信じてる」

 

 鮮花に出来ること、それはただ信じることだ。

 織の良心を、藤乃の善性を、信じる。

 

「……努力してみる」

 

 そう言って彼は発った。

 空は暗く、風は強く。

 ──嵐は刻一刻と迫っている。

 




 読んで頂きありがとうございます。
 リアルが忙しくて中々執筆が進まず更新が遅れてしまいました……。
 今回は漫画版月姫で説明されていた退魔と混血の説明を混ぜてみました。
 おそらく次話で決着が着くと思います。

 感想があれば気軽にご投稿ください。その一つ一つが作者の燃料となります。


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痛覚残留/4

 不定期更新です。


 

 

    /1

 

 

 ……思い出した。

 あのどこまでも僕に似ていて、けれどどこまでも交わらない少女の事を。

 

 彼女との出会いは僕が高校一年だった年の九月、祭りめいた総合体育祭の最中だった。

 灼けつくような残暑の秋、燃えるような緋色の中、一度だけ僕と彼女は邂逅した。

 今となってはあまりにも瑣末な、けれど忘れられない出来事。

 きっと、彼女も今頃は同じ様な事を想っているのだろうか。

 僕はあの時、選手として競技に出場しない代わりに救護員としてだだっ広い校内を逍遥していた。

 そこで見つけた一人の少女。彼女は中等部に所属する生徒で、身に纏う体操服には浅上藤乃と刻んであった。

 浅上は、ただ一人で蹲り無関心な瞳で己の足元を見ていたので、その不可解な有り様を訝しんだ僕は同じく彼女の足元を見る。するとそこには酷く捻ったのか、内出血で紫に染まり、見ているだけで痛々しい程に腫れ上がった足首があった。

 僕は彼女の元に駆け寄り、無意識に肩に手を置き語る。

 

「君、痛くないのか?」

 

 何気なく湧き上がった純然たる疑問に、彼女は明確な拒絶の視線を以って答える。

 不思議な気分だった。

 何故なら、彼女は自分の足首の状態にではなく、僕の掛けた言葉の方が苦しいと示していたのだから。

 何に対してかは分からないが、彼女が我慢している事は明白だった。

 そこで僕は、あまり考えることなく言い放った。

 

「痛かったら、痛いって言えばよかったんだ。いいかい、傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだ」

 

 ……なんて、空疎な言葉なんだろう。

 本当は、僕だってそんなコトは出来やしない。

 それなのに、僕は自分すら出来ないことを音に乗せた。

 その理由はあの時は分からなかったけれど、今なら解ると思う。

 

 ──だって、彼女は僕にあまりにも似ていたから。

 ──だって、彼女は僕とあまりにも遠かったから。

 

 だからこそ、彼女には僕と同じ道を歩んで欲しくないと無意識に願ったのかもしれない。

 そしてその結末が──この惨劇か。

 当然と言えばそうだろう。

 自分ですら意味を理解できていなかった言葉が、他人に伝わる道理はない。ましてそれが自分と近い者だというのなら尚更に。

 

「痛かったら、痛いって言えばよかったんだ」

 

 かつて一度だけ放った音律が、頭の中で幾重にも残響する。

 その度に、小さな後悔が積み重なる。

 

「傷は耐えるものじゃない」

 

 その傷が、雨の夜の再開を思い起こさせる。

 結局何一つ知らずに何もしてやれなかった一夜を。

 蘇る痛みに耐えるあの顔を。

 

「痛みは訴えるものなんだ」

 

 三度目の出会い。

 血溜まりで歪に嗤う彼女と出会った時、胸を突いたあの怒り。

 突然に現れた鮮花を庇い、左腕を失った時。

 あの時は自分でも信じられないほど怒っていた。左腕の事ではなく、鮮花を傷付けられる事がどうしようもなく怖かったから。

 そして僕は衝動のままにその殺意の瞳を彼女の螺旋の瞳にぶつけた。

 その刹那──鮮花は信じられない行動に出た。

 何を考えていたのか、鮮花は僕を庇い立てたのだ。

 当然止めなければならなかったが、失血によるダメージの所為で中々立ち上がれない僕には何もできなかった。

 殺られる──そう思ったのだが、浅上は突如として錯乱し見境のない破壊を始めた。

 そしてその場を離脱した僕は左腕を人形に作り替え、今に至る。

 

「……!」

 

 ふと、左腕に痛みを感じた。

 確認してみるが、そこにはただ機能性にのみ特化した白い人形の腕だけがある。

 けれど──確かにこの腕には痛覚が残留している。

 きっと、あいつも同じ──。

 

 吹き荒ぶ暴風の中、僕は彼女が潜む橋の上へ。

 なつかしいなつのあめにうたれながら。

 

 

    /2

 

 

 嵐は、街を繋ぐ大橋を孤島じみたガランドウに変えていた。

 アスファルトは一面水没し、叩きつける横殴りの雨は鉄骨に激突しけたたましい金属音を響かせる。

 空は暗転し、あった筈の月光は闇に閉ざされている。

 

 浅上藤乃はその嵐の中、港を照らす街灯へと真っ直ぐに、身体を引き摺るように歩いていた。

 そうして彼女は出会った。

 街灯の下、明かりさえも拒絶する昏い影に。

 

「よう、こんな所で会うなんて奇遇だな」

 

 その影は、明朗に輪郭を現しながら平然と挨拶を投げ掛ける。

 見間違えようもない程に、その影は両儀織であった。

 彼と彼女は、街灯を挟んで互いを見据える。

 まるで──この刹那だけは互いだけがこの世の全てだと言うように。

 二人は、十メートル程の距離をとって語り合った。

 

「……ああ、あなたはどうして──あれで最後だと思ったのに」

「オレはそうでもないぜ。それで、復讐は順調か?」

 

 織は上辺だけの問いを投げる。そこに隠しきれない敵意を乗せながら。

 

「ええ、じきに終わります。だからどうか、そこを退いてください。でないとわたし──あなたを殺してしまう」

 

 藤乃は悔恨と憎悪が混じった顔で、彼女を知る者なら信じられない程の冷たく刺すような声を発する。

 織はそれを──呆れた目で見ていた。

 

「いいや、行かせない。その為にオレは此処に居る。それでも来るのなら──ほら」

 

 彼は彼女に見せびらかすように、作り替えられた左腕を差し出す。

 今の内なら介抱してやる、という意思であった。

 

 その白い人形の腕を前に、藤乃の歩みは止まる。

 だがそれは、決定的な崩壊だった。

 

 ──ああ、この人はどうして、こんなにも残酷なんだろう。

 初めて会った時から、あんなにも暖かいのに。

 今はただ、怖い。

 初めから冷たかったなら、恐ろしかったなら、わたしはこんなにも苦しまなかったのに。

 それでも、わたしは───。

 

「──ああ、あなたはそれでもわたしを許してくれないんですね。なら──」

 

 ──さよなら。

 その言葉と同時に、彼女は左手で目を覆い、瞳に爛と螺旋が灯る。

 

「……おまえは、莫迦だ──」

 

 斯くして二人は分かたれた。

 片や赤と緑の螺旋を、片や蒼い極点を宿し、視線と殺意を交錯させる。

 ここに、二人だけの死地が顕現した。

 

 

    ◇

 

 

 二人の距離は十メートル。

 織は藤乃の能力の恐ろしさを身を以って体験していたが故に、即座に距離を縮め、曲げられる前に無力化する手段を採る事にした。

 選んだコースは直線、ただ己の迅さのみを以って作戦を実行に移した。

 だが──。

 

()がれ」

 

 それも、遅い。

 いくら獣の如く迅いとしても、人間の動体視力には及ばない。

 藤乃としても、近付かれるより先に相手を捩じ切るつもりだったのだ。

 不可視の一撃が、織に襲い掛かる。

 

「やはりな──!」

 

 だがその程度で一撃を許す織ではない。

 彼は視界に捉えられた瞬間に着衣していたレインコートを脱ぎ捨て、藤乃の眼前に掲げる。

 ほんの一瞬、織の姿をレインコートが覆い隠す。

 

「なっ⁉︎」

 

 藤乃の視線が、レインコートを雑巾のように捻る。

 しかしその先に織の姿はなかった。

 

「あんな所に──⁉︎」

 

 そう、織はレインコートが凶げられた瞬間に方向転換し、橋の傍に向かって疾走していたのだ。

 そして彼は壁近くの街灯を蹴り、その勢いを利用して橋の壁を飛び越えた。

 確かに、対象の大きさや強度を無視できる藤乃の攻撃は強力無比だ。

 しかしその攻撃は視界全体に作用する面への表層的な攻撃であって、睨み付けた一点のみを穿つ貫通力は有さない。

 先の対峙で鮮花を庇った織は、その事を既に知悉していた故に、攻撃の瞬間に自分の姿を視界から隠す事で致命の一撃を回避したのだ。

 その上、橙子から渡された資料で大橋全体の構造も周知していた彼は、今の一瞬で正面から藤乃と戦う事を諦め、ゲリラ戦法が仕掛けられる資材庫へ場所を移す事が勝機だと判断した。

 これが──織と藤乃の戦士としての差であった。

 下から硝子が割れる音が鳴り響く。

 藤乃は織の軌道を辿り追撃しようとするが、そこに人影は無かった。

 

「なんて人──、初めからこれを狙っていたなんて──」

 

 逃げられた。いや、これも彼の計算の内だったのだ。

 今の僅かな交差で追い詰められたのは自分であり、彼を追う事は明らかに策略に乗る事であると藤乃は理解していた。

 けれど藤乃は勝負から降りるつもりはなかった。

 元より、もう一度出会う事になったのなら、きっと殺し合うのだろうと覚悟していたのだ。

 なら、今それを逃す手はない。

 確かに、自分は織には戦士として圧倒的に格下だろう。

 だが、能力者としてはどうだろうか。

 あくまでも正面から迎え撃った自分と、策略に頼るしかない彼。

 それが示す事実は唯一つ。

 

「わたしの方が──強い」

 

 藤乃は口元を歪に歪め、悠々と資材庫に踏み入った。

 

 

    ◇

 

 

 藤乃は資材庫に踏み入ると直ぐにその有り様に愕然とする。

 積み上げられた資材は大きさも形もばらばらで、まるでビル街のように複雑に敷き詰められていた。

 さらに駐車場である為に地面と天井を繋ぐ柱が点在しており、ゲリラ戦を行うにはこの上なく理想的に地形と化している。

 なるほど、ここなら彼が選ぶ筈だ。

 そう思い、藤乃は歯噛みする。

 ──怖い。

 敵が何処から現れるか分からない恐怖が、彼女の集中力を削っていく。

 このままでは埒があかない。集中を切らしてしまえば自分は即座に斬られてしまうだろう。

 そうだ、見えないのは資材の所為なのだ。ならば──。

 

()がれ!」

 

 藤乃は呪いを繰り返す。その度に鉄柱が、鉄骨が、柱が砕け散っていく。

 その時。

 砕いた資材の後ろから飛来する物体が藤乃に迫る。

 その正体は織が義手に仕込んでいた、徹底的に小型軽量化された薄刃である。

 薄く、持ち手すら廃された棒手裏剣じみた刃は機構によって手の平まで打ち出され、その生身の腕を遥かに凌ぐ出力を持つ義手と、織自身の精緻な技巧を以って恐るべき凶刃となって敵を討つのだ。

 しかし、それを赦す程彼女は甘くなかった。

 藤乃は薄刃を視界に捉えた瞬間、小さく回転軸を作り、その軌道を捻じ曲げたのだった。

 当然、刃はあらぬ位置に突き刺さり、攻撃は失敗に終わった。

 だが、それすらも織の作戦の一つに過ぎない。

 もう一本、違う方向から刃が飛来する。しかも、同時に織がそれに肉薄する速度で藤乃目掛けて突進してきたのだった。

 その二つの凶刃は、藤乃に思考する時間など与えなかった。

 反射的に薄刃を逸らした彼女は、その後ろに居た織を視界に捉えていたにも関わらず意識から外していたのだ。

 その能力故の弱点が生んだほんの僅かな隙、その一瞬を生み出し掴み取る事こそが、織の策略の本質であった。

 彼女は織を明瞭に視認する。だが彼は既に自身の必殺の間合いまで踏み込んでいた。

 その一撃は正しく必滅の刃。

 左下から右上まで袈裟に振るわれたナイフは白銀の閃光、暗闇を祓う残光となりて藤乃を両断する──筈だった。

 

「なん、だと」

 

 驚愕は織のものだった。

 信じられない事に必殺の一撃は不発に終わった。

 原因は織のミスでも藤乃の力量でもない、単なる偶然だ。

 藤乃は織が刃を振るう為に構えを取る寸前、その爛々と輝く瞳に怯え、仰向けに転倒してしまったのだ。

 その臆病さこそが、彼女の命を救ったのであった。

 

「ちっ、運のいい──!」

 

 藤乃は死に物狂いで呪いを紡ぐ。

 しかしそれよりもなお疾く織は藤乃の後方に駆け抜けていった。

 藤乃は愕然とする。

 つい先に見た、自分を斬り裂こうとする織の殺人鬼としての姿、何の感情もなくただ“殺す”為だけに存在しているかのようなあの異様な眼。

 その蒼い瞳に睨み付けられる、それだけであの時の恐怖が、痛みが甦る。

 ──痛い。

 でも、もう傷は治った筈、治してもらった筈なのだ。あの悪魔みたいな影に。

 なら、自分は一体何がそんなに痛いのだろうか、怖いのだろうか。

 

「どうして──⁉︎」

 

 藤乃は資材庫に一人残されたまま、自問する。

 ──わからない。

 どうして、彼を見ていると、痛いのか。

 ──怖い。

 そんなことはない筈。

 だって自分はこんなにも強くなって、もう誰にも傷付けられはしない筈なのに。

 それなのに、彼をこの“眼”で捉えることがどうしようもなく怖い。

 今なら解る。

 この体が、痛みだけでなく寒気で震えているということに。

 原因も理由もわからないけれど、きっと自分はもう永くはない。

 仮にここで織を殺して湊啓太への復讐を遂げたとしても、きっとその先は──。

 なら、いっそのこと──。

 

「…………わたし、は」

 

 藤乃は、そこで思考を辞めた。

 もう自分を縛るものはない。

 ならば、邪魔する者は皆消してしまえばいい。

 

 藤乃は歩く。上へ上へ、昏い空から射し込む光へ、炎に焦がれる夜蛾のように。

 生きることに貫かれて泣いてみたい──。

 そんなありえない蜃気楼を幻視しながら。

 

 

    /3

 

 

「ぐっ……ゔぁ」

 

 臓腑から、血液がせり上がってくるのを感じる。

 今の反撃は僕に無視できない程の傷を与えていた。

 できる限り口を閉じてはいるが、その隙間からも血が滴っていく。

 痛みか失血の所為でアタマは酷くクリアで、視界は殆ど真っ白だ。

 藤乃が苦し紛れに放った歪曲。自分としては完全に躱した筈だったが、どうにも現実は甘くないらしい。

 瞬時に視界から逃れたおかげでボロ雑巾にはならなかったものの、肋骨が二本程へし折られ、周囲の筋肉と血管に干渉している。

 その所為で先程から吐血が止まらず、動く度に体が軋み痛覚が悲鳴をあげる。

 こんな痛みは今まで感じたことはなかった。だからこそそれに──悦んでいる自分がいる。

 なに、何せ痛いのは僕一人ではない。

 彼女は、初めから痛かったのだ。それこそあの夜に拾った時には既に。

 そうしてここで殺し合って、傷付けあって、──ようやく彼女のことを解ってやれる。

 ああ、それはなんて──。

 

「──浅上、おまえは最高だ──」

 

 こうしている今も、僕たち二人は互いのことしか見えていない。

 僕たちは、どうしようもないくらいに似ている。

 それこそ、出会ってしまえばもう赦すことなんてできない程に。

 だからこそ、最後にはこうなると決まっていた。

 今、この瞬間だけは。

 今、この刹那だけは。

 藤乃が、ただただ愛おしい(ユルセナイ)

 だが、それももうすぐ終わる。

 だって、僕にはもう──。

 

「よく解ったよ。それがおまえの力の限界、剥き出しの『終着点』か」

 

 おまえの終末()がくっきりと見えてしまっているのだから。

 

 

    ◇

 

 

 織はゆっくりと、藤乃の前に姿を現した。

 藤乃もまた、幽鬼じみた足取りで織の前に立つ。

 

「……」

 

 藤乃は、およそ光というものがない瞳で織を凝視する。

 その瞬間に織は嗤い、ナイフを構える。

 赤と緑の苛烈な稲光りが、織を圧し潰す──ことはなかった。

 

「…………?」

 

 驚愕は、またしても織のものだった。

 その極光は織を確かに捉えていたにも関わらず、何故か彼の背後の景色のみを捻じ曲げたのだから。

 藤乃は凝視を繰り返す。

 狙いは変わらず、織一人。

 しかし彼のいる地面は、左右の壁は罅割れ軋みをあげているというのに、彼だけが一向に曲がらない。

 織は思わず困惑すると同時に更に警戒する。

 

『これはいったいなんだ──? いや、これは彼女の能力に隠されていた力?』

 

 そう、織はもう藤乃の能力の終末、死の線が螺旋に這い回っているのを見ることができるようになっていた。

 だからこそ敢えて藤乃の前に立ち、正面から歪曲の力を殺し切ることで決着を狙っていたのだ。

 だというのに、彼女は唐突に不可解な力の使い方をした。

 つまるところ、完全にアテが外れたのだ。

 そこで織は藤乃を観察する。

 ……彼女は、泣いていた。

 

「……わたし、は……」

 

 か細い声で、囁くように藤乃は告げる。

 

「あなたを……先輩をどうしても殺せない」

 

 堰を切ったように彼女は泣き崩れた。

 

「わたし……もうイヤなんです。あなたを、人を殺すなんて──」

 

 藤乃のあまりの変化ぶりに、織は戸惑う他なかった。

 完全に決着を付けるつもりだったというのに、彼女は突然戦闘を放棄したのだから。

 

「……先輩、あなたの勝ちです。だからもう────終わりにしましょう」

 

 ──今までごめんなさい。

 誰の為にか藤乃は謝り、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら天を仰ぐ。

 藤乃の脳裏に、嵐に浮かぶ孤島めいた大橋の全景が浮かび上がる。

 そうして忌々しい自分を眺め、橋の天辺と真下に回転軸を作り──曲げ切った。

 そこで藤乃の意識も途切れた。

 

 

    ◇

 

 

 落雷と形容することすら生温い(とどろき)が、織の耳を(つんざ)く。

 

「この、大莫迦────!」

 

 思考することすらなく、織は翔けた。

 藤乃の能力の最大の弱点、それは『自分が曲げられないと思ったものは曲げられない』というものだった。

 第六感でそれを察知していた織は、それを利用することにした。

 そうして二つの回転軸が彼女に到達する前に庇い、大橋を襲う歪曲から彼女を護りきった。

 鉄筋は軋み、地面は斜めに傾斜する。

 橋は、真中から割り箸のように折れようとしていた。

 織は血液が口から逆流するのも無視して藤乃を背負い、怒濤の勢いで崩れゆく大橋から脱出する。

 

「絶対に死なせないぞ!」

 

 先程まで殺すつもりだった相手を、織は助けようとしていた。

 理由は、もうとっくに解りきっている。

 

「許さない──そんなことで逃げるなんて、オレが許さない──」

 

 織は、藤乃が許せない。

 彼女がここで死ねば、その罪は、与えられる罰は、空っぽの虚無に消えてしまう。

 罪を背負うことの苦しみから、彼女を逃がしてしまう。

 それだけは──どうしても許せなかった。

 

 織は駆ける。上へ上へ、雲の間から射し込む光へ、花に焦がれる胡蝶のように。

 




 お読み頂きありがとうございます。
 エピローグまで書くと文字数が嵩みすぎると思ったので、痛覚残留はあと一話掛けることにします。
 久し振りの戦闘描写。やはり藤乃の魔眼は強すぎて遮蔽物を使った奇襲以外に近接での勝ち筋が見当たらないんですよね……。型月全体で見ても攻撃力はトップクラスですし。
 それとオリジナル要素として織の左腕に武器を仕込んでみました。
 なんだか戦闘に耐えうる義手ってすごくロマンがありますよね。実際、劇場版五章でも義手にナイフを仕込んでいましたし。これからは武器以外にも色々仕込まれた超便利義手にグレードアップしていこうと思います。
 それではまた次回。
 もし良ければ感想、評価の方をお願い致します。
 


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痛覚残留/5

 不定期更新です。


 

    /1

 

 

 ──ここは、どこだろう。

 とてもあたたかくて、とても寂しいここは。

 

 ──ふと、目を開く。

 けれど、そこには何もない。あるのはただの暗い闇。

 聴こえてくるのは風の音に雨の音、けれどちっとも寒くはない。

 わたしは夢を見ているのだろうか。

 

「……聞こえるか」

 

 間近から声が聞こえる。

 もう何度も聴き馴染んだ、優しくて冷たい声。きっとあの人に違いない。

 けれど、そんなことはありえない。

 だって、わたしはもう──。

 

「生きてるよ。おまえは確かにここにいる」

 

 ──生きている。わたしはここにいるんだ。

 でも、どうして──?

 

「気にするな。生きていればそんなこともある」

 

 何気無く、当たり前のように彼は言う。

 ──本当はもう気付いていた。

 わたしは、また彼に助けられた。

 ──彼?

 そもそも、ここはどこだろうか。

 見渡せど見えるは無明の闇。どこにいっても風は吹き荒ぶばかりだ。

 この少しばかり狭くて、けれど力強い()()。こんな()()をわたしは知らない。

 でも、今なら解る。わたしはこの場所を識っている。

 

「どうして、わたしを助けたんですか、先輩」

 

 彼は答えない。

 もしかすると、この人はもうわたしの先輩などではないのかもしれない。

 思えば、あの夜に出会ってた時から拭い切れない違和感が付きまとっていた。

 理由は知らないけど、この人は昔とは見違えていた。

 なら、きっとわたしの先輩はもうどこにもいないのだろうか。

 

「わたし、生きていてもどうしようもないのに」

 

 ……わたしは、どうして生き延びたのか。なぜ生かされたのか。

 その答えに、わたしはどうしても辿り着けなかった。

 

「そうだな、おまえはどうしようもない」

「なら、どうして! わたしには何も残っていないのに……!」

「いいや。何も残っていないというのなら、それは間違いだ。──おまえには、これからやらなくちゃならないことがある」

 

 ──それは。

 ──ああ、この人はやっぱり厳しい。

 それは、わたしが最期まで認められなくて、墓場まで持っていくつもりだったのに。

 

「おまえにはその罪が、そしてそれを贖うべきおまえ自身が残っているだろう。なら、それを蔑ろにするのは──絶対に間違ってる」

「あ────」

 

 熱い雫が頬を伝う。目頭が熱くて、嗚咽が止まらない。

 この人はずっと──この人だけが、わたしに償う機会を与えていてくれたんだ──。

 

「わたし──生きてていいんですか」

「ああ。おまえは生き抜いて、己の行いの結末を受け容れる権利と義務がある。だから──もう逃げることは赦されない。それが、おまえの咎だ」

 

 それが、わたしの罪。わたしに課せられた罰のカタチ。

 それはあまりにも苛酷で、何よりも痛みに満ちた茨の道だ。

 でも、わたしはもう見失わない。

 それがどれほど苦しいことでも、涙に埋もれようとも。

 それだけが、わたしに示された救いなのだから。

 

「ごめん……なさい……! ごめんなさい……! わたし……!」

 

 ──痛いです。すごく痛くて……こんなに痛いと、わたし、泣いてしまう──。

 そんなことすら、言葉にできなかった。

 ただ、涙を流すことしかできない。

 でも、それだけで痛みは薄れていく。

 

『傷は耐えるものじゃない。痛みは訴えるものなんだ』

 

 幾重にも折り重なるように、なつかしい言葉が残響する。

 もし、あの時。

 あの再開の夜に、そんなことが言えていたのなら──。

 あなたに会えてよかった。こんなわたしを抱えてくれて──救ってくれて、ほんとうにありがとう。

 それすらも涙に呑まれ、カタチにはならなかった。

 

「……わかった。オレも悪かったよ。もっと早く、気付いてやればよかったのにな」

 

 視界は暗くて見えないけれど、彼は悼むように瞼を閉じた。

 それが、わたしがここでみた両儀織の最後の姿だった。

 

 ──この出来事から三ヶ月。

 わたしは秋の中頃に妖精を追って学舎(まなびや)を訪れた彼と再開することになるのだが、それはまた別のお話なのだった。

 

 

    /2

 

 

 暴れ狂う嵐でも消しきれない程の轟音を聞き付けたわたしと橙子さんは、織の帰還を待つことなくブロードブリッジへと急行した。

 そうしてそのあまりの惨状を見て愕然とする。

 なんと橋は鉛筆を折るように中心から真っ二つに割れ、その大部分が水底に没していたのだから。

 そして警備員ともめている橙子さんを尻目にわたしは二つの人影を見て取った。

 

「──織!」

 

 こちらにふらふらとした足取りで向かってくる漆黒の影。その姿は茫洋としていて弱々しいものではあるが、紛れもなく織そのものだった。

 そして彼に背負われているもう一人──こちらの方もわたしのよく知る人物だ。

 

「藤乃ちゃん! よかったぁ……!」

 

 ──生きている。

 蒼白ではあるが幼子のように安らかな寝顔を浮かべる藤乃を見た途端、それまでの焦燥が嘘のように安堵の声が漏れる。

 

「悪いな鮮花。ちと遅れちまった」

 

 所々血塗れになってはいるものの、織は軽口を叩きながらわたしに向かって微笑む。

 それだけで、何もかも報われたのだと感じる。

 言いたいことは山ほどある。それなのに二人が生きているというだけで、全てがどうでもよくなってしまった。

 

「まったくこいつ、最後に透視能力まで行使しやがった。ここで止められておいて命拾いしたぜ」

 

 そうやって溜息を吐いてから織は藤乃を地面に降ろし、雨から逃れるように壁に凭れかかる。

 わたしは穏やかに眠る藤乃を眺めながら、受け取った携帯電話で急いで救急車を呼んだ。

 交通機関が麻痺しているというのに来てくれるかは賭けだが、そうなったらわたしが連れて行くことにしよう。

 そんな感慨に浸るわたしの背後で二人は聞き捨てならないことを話している。

 

「織、おまえも病院に世話になった方がいいぞ。肋骨辺りが折れているように見えるが」

「いや、行かない。あんた魔術師だろ? ならあんたが手当てしてくれた方が早そうだ」

 

 ……わたしとしては藤乃諸共病院に送りたいところだが、橙子さんの魔術があれば必要ないという意見には不思議と納得できたので何も言わないことにした。

 

「一応救急車は呼びました。呼んだ手前わたしは残りますが、二人はどうします?」

 

 橙子さんは帰ると言ったが、織はわたしと残ることを選んだ。

 彼としても、折角助けたのだから確実に藤乃が運ばれていくのを見届けるつもりなのだろう。

 

「それじゃあ、また後でな。あまり遅くなるなよ」

 

 そんな親みたいなことを言って、橙子さんは外車を走らせ去って行く。

 降り頻る雨の中、手近な倉庫で雨宿りする織の下へ、わたしは駆け寄った。

 

 時間を置かずして救急車は到着し、藤乃を運んでいく。

 わたしは思わず安堵の溜息を吐き、彼女の姿が消えるまでその光景を眺め続けていた。

 それとは対照に、織は険しくも物悲しい貌で彼女を眺めている。

 彼がそんな複雑な表情を浮かべる理由が、なんとなくだけどわかる気がした。

 

「……織。あなたはあの子を──藤乃を赦したのよね?」

「──違うな。赦せなかったからこそ、あいつは生き延びた」

 

 その言葉を聞いた途端、わたしは彼の浮かべる表情の意味を理解した。

 憂いと憤りを湛えた横顔。そこには己自身に向けられた罪悪と怒り、そして終ぞ藤乃に与えられなかった憐憫が灯っていた。

 それを見て言葉に困るわたしを尻目に、織は誰にでもなく独白する。

 

「……あいつは、大切にしていたものがあった筈なのに、何もかも見失っちまった。……きっと、オレなんぞに救いを見出したからなんだろうな。結局、オレとあいつは同類なんだ。所詮同じものでは穴は埋められないってのに、あいつはオレを特別にしていた。だからこうして道を誤った。ならオレがあいつの前に在り続ける限り、あいつは何度でも道を誤るだろう。──だからもう、会わない方がいいんだ」

 

 それは、懺悔にも似た嘆きだった。

 ただ夜を眺めながら虚無の瞳を浮かべる彼を前に、わたしはやるせないままに沈黙する他なかった。

 ……きっと自分を責めて欲しいのだろう。

 けれどわたしは彼を讃えたかった。

 だってあなたは、あの子を救って、償う機会を与えてあげたじゃないの──。

 

「そんなことないわ。あの子はもう間違えない。だって、あなたは間違った選択なんてしなかったもの。彼女を赦さないでいることも。その手を掬い上げたことも。あなたとの思い出があるからこそ、彼女はこれからも償い、生きていける。……誰にも裁かれないというのなら、良識が残っている限りその罪は永遠に抱えていくしかない。けれどあなたは彼女を裁いた。あなたが赦さないでいることで、彼女はやっと自分を赦すことができる。──あなたが裁いてあげることで、彼女は償いの道を探すことができる」

 

 予想外の反論だったのか、織は呆気に取られてわたしを見据えている。

 わたしは彼を宥めるように、慰めるように語り続ける。

 

「だから、またあの子に会って、もう間違えないようにしてあげて。あの子がいつか自分を赦せるように、その痛みを少しでも癒せるように。──あの子はね、幸福なればなるほどに罰もまた重くなる。それでも少しでも多くの幸せがあって欲しいとわたしは願うわ。……それが、どんなに辛く苦しいことでも」

「なら──精々苦しめばいいのさ」

 

 そう呪うように祝福しながら、織は微笑んだ。

 そうしてごく自然に、当たり前のように前提そのものの核心を問うた。

 

「なら、もしオレが間違ったならどうする? その罪を誰が裁き、誰が正す?」

 

 織の眼は、深海そのもののような深みを含んでいた。

 それは、織にとっては答えの出ない疑問だった。

 ──少なくとも、織にとっては。

 なら、予想外の答えを返してあげよう。

 わたしはあくまで自然体で、気取ることなく言葉を紡ぐ。

 

「そんなの決まってるじゃない。──あなたの罪は、わたしが背負う。もし間違えたのなら、誰よりも叱ってあげる。そうして参ったって言うまで、何度でもね」

 

 もっとも、そんなことにはならないでしょうけど、と付け加える。

 織はただ、愕然としたまま雨に打たれている。

 

「……おまえ、本気かよ。まったく、どうしておまえはというヤツは……」

「もちろん本気。そのくらいの度量は持ってるつもりよ。わたし」

 

 何の迷いもなく返すわたしに、織は楽しげな笑顔を向ける。

 

「そっか。ならオレも見返りを用意しないとな。オレには正しい道なんて分からないけど──もしおまえが迷いそうになったら、オレが背中を押してやる。それから──おまえを傷付けるものがあったなら、オレがそれを『殺して』やるよ」

 

 最後にとんでもなく物騒なことを言って、恥じらうように織は俯く。

 けれど、そんな織は雨に濡れていることも相まって本当に綺麗だった。

 嵐は既に去り、街は曇天に取り残される。

 消え逝く嵐の最期の涙は、わたしたちを潤し続ける。

 わたしたちはただ、安堵の内に互いを見据える。

 

 思えばそれが──彼が二年の眠りから覚めてわたしに見せた、初めての笑顔だった。

 

 

     痛覚残留・了

 

 

    /0

 

 

 ……今回は一段と楽な仕事だった。

 

 そうつまらなげに回顧しながら、男は喧騒に包まれた街を歩く。

 通りはこれだけの喧騒が渦巻いているというのに、何故か男を除いて人っ子ひとり見当たらない。

 人工の灯火が煌めく不夜城じみた夜の街、遠く立ち昇る黒煙に人々は皆、野次馬として蛾のように引き寄せられてしまっていた。

 それら全てに背を向け、優しい月明かりを独占する男こそがこのある意味秩序だった混沌を引き起こした元凶である。

 男の名は倉密メルカ。何ということはない、職業的爆弾魔である。

 ただ、『これから起こり得ることの全てを知り、実現させることができる』という点を除いては。

 そう、何の冗談でもなく彼にはある時から『未来そのものを視覚する眼』が備わっていた。

 しかもそれはごくありふれた『未来予測』ではなく、右目によって見た理想の未来を、そのための方法を映し出す左目によって確定させる、より上位の能力である。

 全てが予定され、決して覆ることのない未来(けつまつ)

 そんな世界は当然に彼から生の悦びを奪い取り、彼自身もいつしか他者の俗悪な欲望を具現するだけの機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)へと成り果てていた。

 変わり映えのない人生。変わり映えのない依頼。

 彼は今日もつまらない煽動者として一人の死人も出すことなく社会という舞台に混沌を齎す。

 そうしていつものように機械的に工房へと足を運び、手に入れた報酬で意義もなく食い繋ぐ。

 それこそが人生の目的であり、手段であった。

 

 彼は工房に誰も居らず、何も起きていないことを『視認』してから、眼前の安っぽく錆び付いた扉を開く。

 扉だけでも並々ならぬ安普請だと認識できるが、内装はさらに悲惨だった。

 罅に覆われ色の落ちた壁。穴だらけで白蟻が出入りしている襖。半ば腐っている木製の雨戸。

 これでは家というよりも廃墟と言った方が的を射ている──実際にそうなのだが──此処こそが爆弾魔・倉密メルカの工房であり、住処であった。

 彼は手に入れた報酬金を乱雑に袋に押し込むと、頭陀袋じみた座布団に座り込み、爆弾作製の道具で満漢全席となった卓袱台と向き合う。

 報酬金によって道具と材料を購入し、余暇を使って商売道具の作製と改良に着手する。

 それだけが彼の平穏であった。

 そうして安穏に浸りながらボウルと火薬を手に取った瞬間。

 

「──君が、倉密メルカか」

 

 ──地獄が顕現した。

 

「────────⁉︎⁉︎」

 

 それは、一瞬でありながら永劫に廻る螺旋にも思えた。

 この瞬間、爆弾魔の脳裏に久しく忘れていた生存本能──恐怖が復活し、同時に最早味わうことはなかった筈の驚愕すら取り戻すこととなる。

 

『何故、此処に侵入者が──?』

 

 当然と言えば当然の疑問だ。

 彼の未来視は物事の起点から結末までを見通すものである為、これまで警察や裏社会の者達に決して正体や住居を知られることはなかった。

 だというのにこの『何者か』は此処にいるというあり得ない筈の事実。

 

『尾行されていた? いや、それこそまさか。私の視界にこんなことは──!』

 

 メルカは恐慌に囚われたまま背後を向き、侵入者の正体を確認しようとする。

 しかし──。

 

「成程、それが君の能力か。ふむ、中々に優秀だ」

 

 その重く、聴く者の脳を鷲掴みにするような絶望だけが満ちた声。

 まず異様なのはその風采。

 鋼のような筋肉の鎧に包まれた黒衣の長身。それだけでも人を威圧するには十分過ぎるが、何よりも悍ましいのは貌である。

 落ち窪み、この世全ての嘆きを示すかのような亡者の瞳。殊更にそれを強調する傷痕の如く刻み込まれた苦悩の皺。

 もしこの世に一人で全ての悪を担う者がいるならば、それはきっとこの者なのだろう。

 そう思わざるにはいられない程、その男は地獄そのものであった。

 ──あらゆるモノへの関心も畏怖も捨て去ったメルカですらもそう思う程に。

 

「──、──」

 

 声すらも、喉から出せない。

 何の理屈か、どれほど凝視してもこの男からは『未来』が見えない。

 

『何故、この男には未来がない⁉︎ 生きているモノでもそうでないモノでも、こんなことは一度としてなかったというのに──!』

 

 メルカが何よりも畏怖するのはそれだ。

 彼の両の瞳には見えない未来などなく、いかなる存在にも自ずとその先行きは見えるものだった。

 だが、この男だけは違う。

 この男の未来は、完全に『静止』していた。

 

「案ずるな。君に頼みが有って探し出しただけだ」

 

 そう言った時には既に机の上には写真が置かれていた。

 たった、それだけの取るに足らない動作。それすらもその過程を認識することは叶わなかった。

 

「君に消して欲しいモノがある。その写真に写っているモノだ」

 

 そこで改めて写真を見る。

 そこには膝丈まである漆黒のコートを羽織った、山猫や鴉を連想させる怜悧な美青年の姿があった。

 

「両儀織。その写真の男だ。其奴を破壊して欲しいのだ」

 

 写真の男、両儀織の抹殺。それがこの不可解な男の望みだった。

 殺人依頼──何の幸運か、倉密メルカはこれまでそのような注文を請け負ったことはなかった。

 だが、その幸運もこれまで。

 彼はあくまでも矜持や信念を持たない、最も現代社会の需要に沿った解体屋だ。

 故に彼は思想心情で依頼を断ったのではなく、単にこの国の命の価値が高い為に誰もそんなことを望まなかっただけなのだ。

 だが、いざ依頼となれば話は別だ。

 依頼を受注したその瞬間から彼は低俗な神の劣化品、無責任な機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)として望む光景を見せ付ける為に駆動するだろう。

 それも、見合う報酬があってこその話だが。

 

「それも問題ない。先払いで五千万。遂行を確認次第、更に二億を日本円で用意しよう。無論、不満があるならば更に上乗せしよう。如何かね?」

 

 総額なんと二億五千万円。人一人の命の代価としては破格の数字である。

 この時、彼は漸く返答を下した。

 

「良いだろう、契約は成立だ。これより私はアンタの走狗として役割を果たす。それと──その両儀織とやらの資料を貰おうか」

 

 彼をそのような解に導いたのはその破格の報酬だけではなかった。

 何よりも興味が湧いたのはその両儀織という人物を語る男の態度であった。

 この何にも動じることがないであろう男をして難物と言わしめ、自ら手を下すことを厭う程の標的。

 たったそれだけのことだが、だからこそメルカの脳に関心という機能を復元するには十分だった。

 もし、この男ですら警戒する相手を何の労苦も無く消し去ってしまえたなら、眼前の魔人は如何なる反応を示すのか──。

 メルカは、自分の口元が歪に弧を描いていることに気付かなかった。

 

「良かろう。君の未来と彼の未来。果たしてその刃、どちらを先に穿つのか見ものだな」

 

 そうして男はどこに隠してあったのか、はっきりとメルカの前に莫大な価値を持つ札束が敷き詰められたアタッシュケースを提示する。

 

「それと、これは極秘に調査した奴の履歴書と行動スケジュール表。そして映像記録だ」

 

 メルカはそれを受け取ると、早速依頼を遂行する為の『未来』を組み立て始める。

 そして──。

 

「アンタ、何者だ?」

 

 それは、初めて依頼主の素性を問うた瞬間だった。

 

「魔術師──荒耶宗蓮」

 

 言葉は、神託のように響き渡った。

 その名を識った刹那、荒耶宗蓮の姿は初めからいなかったかのように消失していた。

 




 今回もお読み頂きありがとうございます。
 今回で痛覚残留は完結、インターミッションを挟んで未来福音となります。

 藤乃の答え。それは罪を抱き、裁かれながらもそれに見合う幸福を受け容れていくというもの。
 織もまた、自身の為したことの意味、その功罪を身に刻み付けながら空虚を埋めていく。
 そして鮮花の決意。彼女がその言葉の真の意味を理解するのは忌まわしくも尊い、二人が過去に置いてきた者との対峙においてのことである。──絶望よりもなお深い慟哭の中で。

 ここからは超個人的見解ですが、式ってやっぱり男にしても違和感がない程ニュートラルで寛容な人物ですよね。むしろ男だったなら、オトメンではあるもののかなりモテそう……。

 もし良ければ感想、それから評価の程をお願いします。その一つ一つが作者の糧となり燃料となります。
 それではまた次回。


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境界式/2 -2nd intermission-

 不定期更新です。
 今回は幕間です。


 

 

    /1

 

 

 ──七月の終わり。

 あの事件から一週間近くが経った頃、僕はまた夜の街を逍遥していた。

 あの後、僕は病院には行かず、トウコによる手当によって傷を癒している。

 まあ、副業とは言えどトウコは医師であるわけで、医術においてもその腕前は一級だ。

 元々僕は人一倍頑強な肉体を持っている為か、肋骨が二本折れたというのに、一週間という短時間で支障を来すことなく激しい運動をこなすこともできている。

 トウコにも鮮花にもできる限り安静にしていろ、と言われているが、そぞろ歩き程度なら良いだろうと、こうして街まで出てきたというわけだ。

 一応、今回は以前のような怪異との遭遇を求めてというわけではなく、気晴らしであるので喧しく刺激の多い繁華街ではなく、閑静で人気のない路地を選ぶことにしている。

 

 ──そこでふと、左腕に痛みが走る。

 ……なんてことはない。ただの幻肢痛()()()だ。

 浅上藤乃との二度目の逢瀬の時、僕は左腕を砕かれ、その代わりにトウコが製作した人形そのものの腕が収まっている。

 詰まる所義手であるわけだが、そのシンプルな外見に反して内部は複雑な機構で隙間無く埋められており、神経も生身の腕と同様に機能している。

 当然元の腕ではない為、人間の脳が失った四肢の痛みを誤認する現象──幻肢痛が起きることは覚悟していたのだが、トウコに言うには根底から異なる現象であるらしい。

 どうにも、僕の肉体は()()()()()()純粋すぎるらしく、本来有るべきではない物が取り付けられた所為で拒絶反応めいた感覚を催しているだけのことだと。

 

 この残留した痛覚が甦る度に、彼女──浅上藤乃のことが思い出される。

 見舞いに行ったトウコと鮮花が言うには、彼女はあの大橋に対して力を行使した所為で視力を殆ど喪失してしまったらしい。

 だが、同情するつもりなどない。

 実際、数々の要因は有れど復讐の名の下に無意味な殺戮を行ったのは彼女自身の意思であり、どんな理由が有ってもその所業の結末は己自身が見届け、背負って行かなければならないと思う。

 つまりこの結末こそが彼女の贖うべき罪で、与えられた罰なのかもしれない。

 ……だが、話はそれだけではなかった。

 なんと、視力を喪った彼女はその代わりとしてなのか、痛覚が復活したというのだ。

 そしてそれは、あまりにも残酷な罰のカタチだと言える。

 もし彼女が視力も痛覚も喪っていたならば、きっと自分に閉じ籠って逃げ続けることもできただろう。

 だがあの歪曲の魔眼の所為で、本来歓喜すべき生の実感は、(いたずら)に痛みを思い起こさせる忌まわしい断罪者となってしまった。

 きっと彼女は、これからも罪に刻まれながら、罰に苦しみながら生涯を築き上げて行くのだろう。

 ──かつて鮮花は言った。

 藤乃は幸福に生きれば生きる程、その罰は重く苦しいものとなっていくのだと。

 だから僕は答えた。

 ──なら、精々苦しめばいいと。

 

 もし、今でも浅上藤乃が許せないか、と聞かれれば僕は許せないと答えると思う。

 それはきっと彼女が僕の同類──もし一歩()()()()()()()()()そうなっていたであろう存在に違いないだろうから。

 だからこそ思う。

 ──いつの日か、彼女の罪を受け容れ、共に贖っていける者が現れることを。

 

 そんな柄でもない感慨に浸っていると、どうやら路地裏に来てしまったらしく、眼前に月明かりすら照らしきれない、粘り纏わりつくような湿気を帯びた闇が顕現する。

 

 ──おかしい、何かがおかしい。

 

 急激に深まっていく闇と、激烈に漂う鉄の匂い。

 間違いない、この闇を──この骨の随まで染み渡る悪寒を僕は識っている。

 あれは、いつのことだったか──?

 

 心拍は跳ね上がり、冷汗が総身を潤し蒸気させる。

 本能からなのか、ナイフを構え、前傾姿勢を取って狭い路地を突き進む。

 

 ──『ナニカ』が、そこに居る。

 

「おぉ、御ォ尾──◼︎オあぁ阿亜亞、キキきキ◼︎木──?」

 

『それ』は、およそ形容できるような存在ではなかった。

 犬のようで猫のような、馬とも鼠とも取れる形状で、顔は無数の膿疱と眼のような組織で覆われており、躰からは肉食恐竜のような鋭い爪が付いた腕やら猛禽のような脚やらが突き出ている。

 この世のものとは思えない、異形という概念を具現化したような姿もそうだが、何よりもその『死』の形が悍ましい。

 捉える度に明滅を繰り返す死の線。

 位置を変えながら全身を這い回るその線は、今まで見たありとあらゆる存在から外れた在り方だった。

 

「──ッ!」

 

 ソレは僕の姿を知覚した瞬間、外見からは想像も付かない程計算された軌道で踊り掛かってきた。

 そのチーターのような、舞い降りる鷲のような挙動と速度は、正しく捕食者(プレデター)そのものだ。

 アレの鉤爪と牙に触れられてしまえば、数秒と経たずに僕は餌食にされてしまうだろう。

 この饐えたような鉄の匂いは、おそらくこの異形の犠牲者のものである筈。

 なら──。

 

「──殺さなくっちゃな」

 

 勝負は一瞬だった。

 僕は先ず頑強な左腕を敢えて翳し、その牙を封じる。

 そして鰐のような顎が左腕を嚙み砕くより迅く、ナイフでその不揃いな腕を切り落とす。

 だがその勢いは止まらず、左腕が軋みを上げる。

 

「──無駄だ」

 

 ヤツの顎が僕の左腕を砕くことはあり得なかった。

 寸前に僕はナイフを振り上げ、その無数の眼で覆われた脳天に突き刺し、眼前にその存在の死そのものを具現したからだ。

 瞬間、異形の躰から種々の生物の組織が突き出し、聞くも堪えない叫びを上げながら泥のように溶解していく。

 

「……気持ち悪い」

 

 こんなものを殺した所で、高揚感などある筈もない。

 あるのは唯の不快感と、得体のしれない不安だけだ。

 それにしても奇怪な生き物だった。

 あれはこの世の摂理から外れた存在、非常識の世界にある存在だ。

 僕には当然、その正体など知るべくもないが、アレの『起源』を定義するならば──。

 

「『食べる』か──」

 

 ──この時は知る由もなかった。

 このあり得ざる怪奇は、ある男の狂気の一端でしかないということを。

 

 

    ◇

 

 

 ──今日はもう帰ろう。

 取り敢えず今目にした怪奇を織は彼の雇い主たる蒼崎橙子に報告しようと考え、歩んできた道筋を辿る。

 平常とは違う、異様な生暖かさが漂う路地裏。夏の暑さもあってビルに閉ざされた狭い道は、人工の灯火が照らすことのできる歩道を境界に異界と化していた。

 

 ──まだ、何かが居る──?

 

 気配はまだ消えていなかった。

 尚も薄まらない血の匂い。

 それは先の異形と同じ怪奇がもう一つこの場に存在していることに他ならない。

 ……そこに灯火はなく、道行く幸せな人々の騒めきも、耳障りな車の嘶きすらも届くことはない。

 その静謐に異常などある筈もないが、だからこそ悍ましい闇を育む苗床に成り得るのだ。

 そしてそこには──確かに人影があった。

 織は歩みを止めなかった。

 誘い出されていることは分かりきっている。

 けれど本能が、両儀織という個人の深層に潜む記憶の残滓が、彼に立ち去ることを赦さなかった。

 織は曖昧に闇へ踏み込み、模糊に光へ背を向けた。

 

「──!」

 

 この場に第三者など存在しないが、それでも ()()()()()()()程織は驚愕に染まっていた。

 そこに居たのは、紛れもなく人間だった。

 だが、驚愕に値するのはそこではない。

 何故なら、憶えてこそいないが織はこの状況を何度も体験していたからだ。

 つまりこの異様な邂逅は、かつて織を運命の螺旋へと誘ったあの事件の再演なのだから。

 

 ──知っている──。

 

 その人物は真鍮色の外套の下に青いワイシャツを着込み、黒のスラックスを履いている。

 フードと薄暗さの所為で顔は見えないが、立ち姿から若い男だということだけは判明した。

 何よりも異様であるのはその身に纏う血の匂いとも違う、更に別種の異端の薫り。

 それは、紛れも無くヒトでありながらヒトではなかった。

 

「──くく」

 

 声を押し殺して獣のような男が嗤う。

 忘却した筈の悪夢の再現に、織はただ当惑するしか処方を知らない。

 そう、この男はきっと──。

 

「おまえは、誰だ──⁉︎」

 

 織の疑念の発露は、虚しく空を響かせるだけに終わった。

 その純粋な問いが投げかけられるや否や男は織に向かって動き始める。

 織は脳裏に渦巻き蠢めく無数の疑問を無視し、眼前の敵対者の挙動を捉えることに集中することにした。

 だが──。

 

「捉えられんよ、おまえには」

 

 存外に流麗な声音で、楽しげに男は呟く。

 おそらく、織にとっては幾度も聞いたことのある、奇妙な日常の一部であっただろう声。

 その決定的な答えの一端は、その余りにも不可解な男の動作を前に何の意味も持たなかった。

 それは、既に人間の動きではなかった。

 織は退魔の大家で育ち、鍛え上げられてきた『ヒトでありながらヒトを超える』ことを体現した純正の人間だ。

 故に人間の構造を深く理解し、徹底的に利用することができた。

 つまりそれは自分以外に対しても同じで、相手が人型であればどれだけ速かろうとその動きのクセを摑むことは造作もないことである。

 それは超常の魔を身に宿す『混血』であれ、霊長の敵対者である『死徒』であれ人間としての構造を持つ生命体である以上、ある程度は共通する弱点だと言える。

 故に退魔に属する者たちは単一の異能を武器とし、磨き上げることで彼らに挑み、殺すことが可能となるのだ。

 ──それなのに。

 

 男は、完全に人型の制限を無視した挙動で織に迫っていた。

 不自然な角度、方向に関節を可動させ、あり得ない筋肉の使い方をすることで実現された蛇そのものとしか言いようのない疾走。

 それに山猫の柔軟性と迅さを加えた走りは、人外の魔と拮抗できる退魔の眼を以ってしても捉え難いものだった。

 更に男は織の必殺の間合いの少し手前に迫ると、突如として蛇の走法を止め、さらに奇怪な方法で織の視界から逃れる。

 

「──くっ⁉︎」

 

 刹那、織は自分が居た地面に深々と鋭利な刃が突き刺さったことを視認する。

 あとコンマ一秒遅ければ、抉られていたのは自分の脳天だった。

 久しく忘れていた死の恐怖、生の躍動に織は知らず歓喜していた。

 

 織は頭上から飛びかかられたと認識していたが、実際は違った。

 男は跳躍してなどおらず、腰を地面に擦るほど引くした状態で接近してから、獲物を捕らえる蟷螂のように急激に姿勢を高くすることで織に頭上から攻撃されたと錯覚させたのだ。

 男の爪から織を生かしたのは織が速かったからではなく、単に織がこれから行われるであろう攻撃を予測し、実行に移されるより先に背後に跳躍したからに過ぎない。

 

 織はあくまで冷静に、沈着に敵を観察する。

 その手に握られている得物は分厚く、艶のない黒一色で刀身が塗り潰された、鉈に酷似した刃物であった。

 マチェーテ、或いはマチェット。中南米で日常的に使われる万能の刃物であるそれは、時に海兵隊などが軍用に用いることもある代物だ。

 時に藪を払い、薪を割り、動物を解体する為に使われるそれは、軍に使われるだけあってヒトを殺傷するには十分すぎる威力を秘めていた。

 しかもそれを振るうのがヒトでなく人外の獣であるのだから尚のこと。

 対してこちらの武装は戦闘用の大型ナイフ。リーチの上では圧倒的に不利であることは明白だ。

 次に身体能力──これも先の接触で埋め難い差が付いていることが分かりきっていた。

 力と速度。この二点においては極めたとはいえヒトでしかない織は決定的に劣っている。

 それを埋めあわせるものがあるとすれば──。

 

「見せてやるよ。勝敗を決めるのは力や速さだけじゃないってことを」

 

 男が跳躍を始める。

 今度はビルの壁を利用した三次元の軌道で今度こそ織の頭上から隼じみた姿勢で迫り来る。

 織には当然その動きは捉えられない。だが、そんなことは問題にはならない。

 男の奇怪な動きそのものは確かに不可捉だ。だがそれはあくまでも『過程』でしかなく、最終的に攻撃という単一の結果に至るまでの計算式でしかない。

 つまり、結局のところ攻撃できる場所は一つしかないということだ。

 なら、捉えるべき場所はその一点だけだ。

 

 男が急降下を始めた瞬間、織は寸分の狂いなく精密機械のような技巧を以って薄刃を投擲した。

 単純ながらも凄まじい速度で迫る刃に、男は驚くべき技術で以って対抗する。

 その刃が男の眉間に突き立つ前に、男は首ではなく頭そのものを曲げ、完全に回避することに成功したのだった。

 

「骨格が、変形した──⁉︎」

 

 あまりにも理不尽な光景に、織は改めて戦慄する。

 あれだけの動きができる相手なのだ、当然と言えばそうかもしれないが、それでも関節ではない箇所に関節を作り出して可動させるというのは聞いたこともない能力だった。

 或いは。

 

「その能力──体内操作か?」

 

 織の推測に、嘲るように男は沈黙する。

 体内操作──混血の持つ異能としてはごくありふれたそれは、彼らを超常の存在として視覚的に表現することが多い。

 実際、織の推測は外れてはいなかったが、全てではないことは彼自身理解していた。

 ──この男からはそんなありふれたものではない『特別性』を感じる。根拠はないが、この男の持つ異能の本質はおそらくこの世に二つとないとびきりの『異常』であると。

 

 それからは、同じような対峙が繰り返された。

 男は様々な獣の術理を以って織に迫り、その度に織の精緻な技巧に押し返される。

 それは互いの技量が拮抗しているからなのか、それとも決着をつけるつもりがないのか、既に双方にすら判らない解であった。

 

「……おまえは、何なんだ?」

 

 先に口を開いたのは織だった。

 未だ正体の摑めない謎の存在。織自身、いつかどこかでこの青年と遭遇したという確信があった。

 ならば、なぜ自分を害そうとするのか。

 疑問は絶えない。

 

「……おまえさん、そこにいると死ぬぜ」

 

 織はその唐突すぎる忠告を、理解するより先に受け容れた。

 織は躰を限界まで引き絞り、バネのように解放することで瞬時に後方へ移動する。

 次の瞬間、尋常ではない轟音と爆炎が路地裏を包み込む。

 何の偶然か、織と男の間に位置していた柵には時限爆弾が仕掛けられていたのだ。

 織は爆弾が発する赤い光を察知して、爆発する寸前に回避することで難を逃れることができたのだった。

 暫くすると煙が晴れ、視界が明瞭になるが、男の姿は消えていた。どうやら爆発に乗じて逃げてしまったらしい。

 

「……また、変なのが現れたということか」

 

 この爆弾が男の仕掛けたものではないことは明白だった。

 疑問は渦巻き、消えることなく漂い続けている。

 結局、あの異形と獣のような男の正体は少しも摑めなかったが、それでも解ることはある。

 それは、この夜の闘いは新たなる敵の出現を意味するものであるということだった──。

 

 




 お読み頂きありがとうございます。
 今回の異形の外見は、何処ぞの狩人が悪夢の中で狩っているようなのをイメージして描きました。
 いよいよ次回から未来福音です。

 もし宜しければ感想、評価の程をお願いします。


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5/未来福音 -Möbius ring-
未来福音/1


 不定期更新です。


 

 

    /0

 

 

 ──これが、理想の果て──。

 

 自分はその結末を識っている。その始まりを憶えている。

 

 ──これが、人の望み──。

 

 この痛みは、嘆きは、人が求め欲するものだと。

 

 此処は何時、何処なのだろうか。

 夢か現世(うつしよ)かすら判らない忘却の中、自分はただ訳もわからず世界を傍観している。

 辺りは一面焔が這い回り、まるで篝火の中に収まってしまっているかのようだ。

 空は緋く焼け落ち、地は黒く焦げ付いていて、もしかすると自分は本当に薪になってしまったのかもしれなかった。

 そこで、行き先もなく焼けた骸で舗装された道を辿る。

 絡みつく砂利は全て骨。流れる水は全てが血。漂う死臭は三千世界を満たそうと絶えることはない。

 

 これは、僕が知り得ない筈の──けれど微かに識っている原初の風景。──本当に?

 

 暫く歩くと、人影が目に入る。

 

「────」

 

 ありとあらゆる存在が煉獄に抱擁されていく中で、その人物だけは唯一形を保っていた。

 がっしりとした長身の、黒い僧服に身を包んだ年若い男。

 かつて輝きが灯っていたであろう双眸には最早光など無く、ただ虚無だけが渦を巻いている。

 そしてその腕に力なく頽れる、白黒の小袖に漆黒の羽織を着込んだ妙齢の女。

 その傍には紅い妖気を放つ黒い刀が転がっていて、この地獄を引き起こした元凶と激闘を繰り広げた痕跡が残っている。

 女は、菩薩のような慈愛の微笑みを浮かべたまま、物言わぬ死者となっていた。

 

『例えこの世界があなたを憎んでも、わたしだけは──』

 

 そんな声が、どこからか木霊する。

 柔らかく、気品を保ちながらも仏のように穏やかな声。

 これを聞いたのはきっと僕でなく、眼前の男なのだろう。

 

『──泣いてくれるのね、■■。でも、これであなたは──』

 

 それらはきっと過去の言葉なのだろう。ならこの言葉は思い出の中だけにある筈なのだ。

 それが、この男を介して伝わって来ている。

 そこで漸く理解する。

 ここは、男の心象世界だ。

 

 ここで崩れ落ちたのは、世界だけではなかった。

 崩れ、燃え尽きたのはきっと男の全てだ。

 何故なら、この景色こそ彼の求め欲した理想の果てだったのだから──。

 

 男は、怒り嘆き悲憤悔恨後悔慚愧懺悔憤怒絶望苦痛全てが詰まったような慟哭で空を穿つ。

 空は硝子のように罅割れ、音を立てて割れていく。

 その罅は大地に伝播し、全てを奈落に呑み込んでいく。

 

 世界が最期を迎えるその瞬間まで、僕の脳裏にはあの慟哭だけがこびり付いて離れなかった。

 

 

    /1

 

 

 八月三日、晴天。

 わたしこと、瀬尾静音は父の実家に帰省する為に礼園女学院のある郊外からバスに乗り、一時間程街の風景を眺めていた。

 見えるものは、喧噪に溢れ真夏の日光が照り返すコンクリートで構成された世界ばかり。

 それらは皆この街に生きる人々なら当たり前の光景だけど、礼園という隔絶された異界の住人であるわたしにとってはこの眺めこそ異界だった。

 バスの蛇腹の扉が開かれると同時に舞い込む夏の熱風。

 そんな風景は想像するだけで、『未来』を見るまでもなく溜息が突き出てくる。

 わたしの見る未来と同じく、そんな変えようのない予測は当然のように現実となる。

 バスの扉は何の容赦もなく開かれ、予期していた通りの熱い風がわたしと乗客を出迎える。

 

 そうして冷房の効いた車内から熱気に包まれた外界に飛び出したわたしは、JR観布子市駅を目指して人の犇く街を足早に歩いていた。

 そんな中、ある一人の男の人が目に止まる。

 この蒸し殺すような猛暑の中だというのに、深紅のワイシャツの上に漆黒の膝丈まであるコートを着こなしている青年。

 その状況とそぐわない服装だけでも目を引くには十分すぎるけれど、惹きつけられたのはそれだけじゃない。

 その鴉の濡れ羽色と形容する他ない漆黒の、けれど絹のように柔らかで流麗な髪。

 とても男性のものとは思えない程、綺麗で凛々しい怜悧な美貌。

 そして──女の子であるわたしですら羨む程鮮烈な美しさを放つ、厚めの瞼と長く形の良い睫毛で飾り付けられた伽藍の瞳。

 それらのあまりに強烈な印象にわたしはつい気を取られ、振り返ってその美青年を二度見する。

 

「──あ」

 

 激烈な目眩に足が竦む。

 街行く人々は足を止め、時間の流れさえも停滞していく。

 あまりにも突然に、眼前にスクリーンが現れ映像が映しだされていく。

 見える映像はまさにマフィア映画さながらだ。

 人通りの少ない路地裏に入って暫く進んだ後、大爆発に巻き込まれ、黒砂糖みたいに真っ黒に飛び散るお兄さん。

 元々鴉みたいに黒いのに、更に肌も骨も黒焦げになってしまったお兄さんは、本当にかりんとうみたいだった。

 

「え……? 嘘……こんなのって──」

 

 どうしよう。どうしよう。どうしよう──!

 あの人、このままじゃ死んじゃう──!

 話しかけようか。でもどうやって?

 あの人のことなんて知らないけど、どことなく浮世離れした顔立ちから妙に話しかけ辛かった。

 でも、あの人はちょっと怖いけど悪い人には見えなくて、大切に想っている友達や職場の人の姿も視えた。

 自分でも訳のわからないことを言って怒られたくないだとか、笑われたくないだとかいった打算ばかりが頭を過るけど、悲しむ人達──特に生気のない顔で咽び泣く女の人の姿なんて視えてしまっては背を向けられる道理もなかった。

 なら、そのくらいの損がなんだって思う。

 

「ちょっと、待ってください!」

 

 自分が呼びかけられているとは気付いていないのか、お兄さんはすたすたと運命の路地裏に向かっていく。

 

「貴方ですよ! この暑いのに黒いコートなんて着てる──しかもすごく似合ってる粋なお兄さん!」

「──?」

 

 くるりと自然に振り向く、さっきと同じ真顔のままのお兄さん。

 

「──オレに、何か」

「ええ! お兄さん、もう少し先の路地裏に行くんでしょう? でも絶対行っちゃダメです! そこに爆弾が仕掛けられていてですね……! どっかーん、って爆発してお兄さん黒焦げになっちゃって、それで、それで……!」

 

 しどろもどろになりながらも懸命に訴えるわたし。

 お兄さんはそれを──びっくりするくらい目を丸くして聞いていた。

 当たり前だ。誰がこんな無茶苦茶な話、信じてくれるもんか──。

 

「……なんで」

 

 お兄さんは当然のように驚きを浮かべる。

 そうは言ったって、どうしてなんて、説明できるわけがない──。

 

「なんで、識ってるんだ」

「──────へ?」

 

 あまりにも予想外の返しに、逆に素っ頓狂な声をあげるわたし。

 これがわたしこと瀬尾静音と、お兄さんこと両儀織さんとの奇妙な出会いだった。

 

 

    /2

 

 

 ……あれは、夢だったのか。

 夢にしてはあまりにも鮮明すぎる焔の熱。むせ返るような焼けた肉と脂の匂い。

 そして目に焼き付いて離れない終末の光景。

 あの僧服の男とその腕に抱かれる小袖の女──。

 何故だが僕は両者を知っているという確信があった。

 そんな筈はない。

 僕はあんな地獄は見たことないし、二人の服装から推測するにあの光景はずっと昔である筈。

 それでも──僕は二人が他人とは思えなかった。

 もしかすると、彼らは両儀の関係者なのかもしれない。

 でも、どうしてあんなことが──?

 

「……こんなこと、相談したって……」

 

 目を覚ますと、カーテンの無い窓から強烈な日光が射し込んでくる。

 デジタル時計に目を遣ると、八月三日の八時を指していた。

 家のベッドとは違う、固いソファーの感触。

 それでもここは自分の知る限り最も安全な場所だ。

 ここは伽藍の堂。蒼崎橙子という超一流の魔術師が潜む工房にして事務所。

 僕は数日程前からここで寝泊まりしている。

 自分の部屋ではなく、敢えて職場であるここで寝泊まりする理由。

 それは、少々特殊な事情有ってのことだった。

 

 

    ◇

 

 

「どうしたんだ織? 荷物なんか抱えて」

「ああ。何せ暫くここに泊まるからな」

「へえ。そりゃまたどうして」

 

 橙子は思わず疑問を漏らす。

 思えば、誰かが自分の住居で寝泊まりするなんて久しいことだった。

 

「なんだって、こっちは命狙われてるんだからな」

「──ほう?」

 

 織の聞き捨てならぬ言葉に対し、橙子は怪奇の匂いを感じ取ったのか興味を示す。

 

「爆弾魔だよ。ほら、先日の散歩の時に出会した」

「ああ、例の異形の件か……。しっかし、おまえも大層恨みを買っているようだな」

 

 織は暫し思案するような素振りを見せる。大方どこで原因を作ったのか探っているのだろう。

 

「しかしねぇ、わざわざ外注してまでおまえを狙うとは、まさかとは思うが両儀家と敵対する組織の仕業か?」

「それこそまさか。あんなに行動を先読みしてピンポイントに仕掛けられる能力があるなら、本家を爆破した方が早いだろ」

 

 それもそうだな、と橙子はつまらなげに呟く。

 

「ともかく、あの爆発はすぐ人為的なもので、しかも明らかにオレを標的としたものだと判った。なんせ薄暗い路地裏だ、標的無しに爆破したところで大したメリットもないからな。そこで家ごと吹っ飛ばされるかもしれないと思って、という訳だ」

「ははあ、確かにおまえと言えど家を更地にされるのは御免ということだな。それよりも鮮花には言ったのか? あいつなら知らずに家を訪ねて、『ボン!』なんてことになりかねんぞ」

 

 鮮花、という単語を出すと織は即座に剣呑な表情を浮かべる。

 そこには、件の敵への明確な殺意が込められていた。

 

「言った。暫くあいつはオレの家には近寄らないさ。……とは言え、巻き込まれないとは限らないからな。だからこそ、さっさとケリを着ける」

「いい覚悟だ。だが相手は何処にいるかすら判らないんだ。取り敢えず、当面は調査が必要だな」

「ああ、そうする。なら、誘い出すのが一番だな。標的が憚りなくふらふらしてたらあっちも黙っていられないだろ」

 

 織は実に彼らしい、実直な行動で敵を炙り出し、情報を収集することを提案した。

 彼自身は橙子が反対すると思っていたものの、彼女は意外にも首を縦に振る。

 

「ふむ。それは一番手っ取り早い手段だな。しかし、相手の行動をピンポイントで予測し完全に位置を計算して時限爆弾を仕掛けるとはな……。もしやその爆弾魔、『未来視』ということもあるかもしれんぞ」

 

 そう言って橙子は机の引き出しを漁り始める。おそらく、その膨大で雑多な紙の中に埋もれた未来視とやらの資料を探しているのだろう。

 織は長話になると直感し、小さく溜息をついた。

 

 

    ◇

 

 

 八月三日、昼。

 僕は真夏の炎天に曝される街を逍遥している。

 理由は簡単。

 標的である僕自身を囮にすることで例の爆弾魔の正体を炙り出す為だ。

 初めての遭遇から数日、攻撃は既に三度に及んでいた。

 そのどれもが人気のない場所で、負傷者も死傷者も出ていない、一見無意味な破壊工作だ。

 もっとも、死傷者は僕一人になる()()だったのだろうが。

 そして攻撃は全てが時限爆弾による完璧なタイミングでの爆破。

 ここまでくると偶然という言葉では片付けられない必然性を感じる他ない。ほぼ確実に爆弾魔はトウコの言う『未来視』とやらで間違いないだろう。

 未来視──有り体に言えば未来予知。事象の根源となる“因”から到達点である“果”を先読みする越権行為。──因さえあれば、その事象がまだ発生していないにも関わらずだ。

 曰く、それは常人なら棄て去るものを含む、視覚で得た全ての情報を記録し、それらを統合して『これから起こり得る必然の結末』を導き出すのだと。

 そして未来視には二種類有り、予測と測定に枝分かれしているのだという。

 トウコは、予測の未来視は人として正しい者が多いと言い、測定の未来視は往々にして反社会的な危険人物だと語る。

 今回の敵は未来視、そして外注で仕事を請け負う爆弾魔、とくれば──。

 

 ──『未来測定者』か。そんなものが有ったところで楽しいのかね?

 

 僕はただ、意味もない疑問を声に出さず呟いていた。

 

 そうして今、僕は手当たり次第に人気の無い場所に近寄ることで爆弾魔の攻撃を誘発しようと適当な路地裏へ踏み込む。

 これまでの攻撃、敵は未来測定者であるにも関わらずその全てが失敗に終わった。

 そう──敵が本当に未来そのものを確実に当てられるというのならば、これはあり得ない事態だ。

 つまり、その未来測定とやらには何かしらの条件があり、弱点もまたそこに隠されている筈。

 そして僕はそれを漠然とではあるが把みつつあった。

 

 雑踏に包まれ、激烈な熱気が渦を巻く街。

 数日前から謎の爆発が相次いでいるというのに、気に留めることなく日々を廻す忙しない人々。

 現代にうず高く積もり、社会の澱として時に人々に牙を剥く諸々の闇。

 私見ではあるが、こういった危険に対する無関心、自らに火の粉が降り掛かるまで危機を危機とも思わない意識の乏しさこそがそういった闇の苗床となっているのだろう。

 もしここで僕が消え去っても、明日には誰もが忘却しているように。

 

「────! って──ください!」

 

 背後から、雑踏を突き抜けて高い声が響く。

 誰に呼び掛けたものかは判らないが、雑踏は乱れることなくある種の秩序を保ったままだ。

 それでもその人物は呼び続ける。そしてそいつが対象にしている人物の特徴を口に出した時、それが僕であるのだと気付いた。

 そうして振り向くと、高校生らしき女が恐慌寸前の顔で僕を見ていた。

 女は何やら訳ありな顔で必死に言葉を紡ごうとする。僕はただ黙って女が口にしようとしていることに傾聴する。

 そして──驚くべきことに、なんと女はこの路地裏に爆弾が仕掛けられていることを知っていた。さらに僕が最悪のタイミングで爆発に巻き込まれることまでも。

 

「……なんで、識ってるんだ」

 

 思わず疑問が漏れ出る。

 だが、何故か困惑しているのは女の方だ。

 陽の当たる雑踏と日陰となる静謐の境界。

 僕たち二人は世界から切り離されたかのように互いの姿を見合っているだけ。

 それが、僕と『未来視の女』こと瀬尾静音の出会いだった。

 

 




 今回から未来福音です。
 徐々に明かされていく因縁の全貌、現在を繋ぐある男の過去。
 そして二人の未来視が導く青年の未来とは──。

 それではまた次回。
 もし良ければ感想、評価の程をよろしくお願いします。その一つ一つが作者の血となり肉となります。


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未来福音/2

 不定期更新です。


 

 

    /0

 

 

 ──ある男の話をしよう。

 

 その男は、何も求めていなかった。いや、何も持っていなかったからそう見えたのかもしれない。

 男は全てを喪った代わりにユメを手に入れた。それだけが男の全てに成り代わった。

 男はガランドウのまま、ユメだけを手に旅立った。

 けれどそのユメは一度として男に報いはしなかった。

 そのユメに導かれるまま男は救世を掲げる。

 だがいつも傍にあるのは同じ結末ばかり。

 決して終わらぬ争乱と破壊。夢想する度に見せ付けられる現実。

 そこで男は知った。この世界では幸福の総量が決まっていて、それが配られることのない人間が必ず生まれ出てしまうのだと。 

 世界には不幸が溢れていた。どうあっても報われない者がいるのは当然だと人々は受け容れていた。男もそんな不幸な人間の一人でしかなかった。

 けれど、男だけは現実を受け容れられなかった。

 だから足掻いた。無様でも、無意味でも、男はそうするしかなかった。

 足掻いて苦しんで、その先に多くの救いを──。

 それこそが男のユメだった。

 叶うならば、目に映る者もそうでない者も、この世界に暮らす人々も獣も、この世の者でない亡霊すらも、全て総て須く悉く幸せであって欲しかった。

 確かに、そんなことは幻想だ。笑い話にすらならない、単なる妄言の類だと人々は彼を嘲った。

 けれど、彼は識っていた。

 当たり前のように滅び、やがて忘れ去られていくのが命あるものの定め。

 それでも、その過程には確かに価値がある。

 愛し、笑い、苦難の中で支え合うごく普通の人の営み。

 ただ側に居るだけで笑いかけてくる男、無邪気に世界の暖かさを享受する幼子。我が子と生きる喜びに綻ぶ女。

 そこに彼の居場所は無い。彼自身に返ってくるものは何もない。

 けれどそれこそが彼の至福、仏の微笑みにすら勝る人生の歓び/悦びだ。

 だからこそ彼はいつまでも、泥に塗れ血を流そうとも歩き続ける。──その多くの辛苦と僅かな幸福に彩られた夢路を。

 

 そこで彼は一人の女と出逢った。

 奇しくも女は自分と同じ、滅びの道を行く求道者だった。

 似ているようで、全くの真逆。

 だからこそ二人は奇妙な絆で結ばれた。

 男は女を仲間、友、兄妹、姉弟、師弟、家族とすら形容できない目で見ていた。

 女は男を同類、臣、親子、徒弟、理想、縁者とすら形容できない目で見ていた。

 二人は同じ理想を異なる理念で繋ぎ合わせ、末期の時まで共に在りたいと願った。共に生きると誓った。

 女は数奇な因果から齎された力で男を支えた。

 男は普遍の不幸から取り出した経験で女を救った。

 そうして二人は世界を救おうと動いた。

 ──それこそが、全ての過ちの種だったとは知らずに。

 

 

    /1

 

「…………ホントだな」

「…………やっぱり」

 

 ──あれから数分後。

 突然の爆発に逃げ惑う人々を尻目に、わたしたちは混沌の最中に取り残されていた。

 わたしたちはただ立ち尽くしたまま、轟々と立ち昇る煙を見上げる。

 確かに、これまでのようにわたしの予知は正しかった──ほんの一部分を除いては。

 あの路地裏には本当に時限爆弾が仕掛けられていて、刻限通りにその機能を果たした。

 それで残るものはただの爆炎と、今以上に黒いお兄さんだったモノだけ。

 けれど──お兄さんは今もここに居る。

 初めて、わたしの予知が外れた瞬間だった。

 嬉しかった。ここで消えていく運命の筈だったお兄さんはこうして生きている。

 でも、どうして? わたしの未来は、決して変えられないものだっていうのに──。

 

「……なあ」

 

 あと少し遅ければ消し飛んでいたっていうのに、お兄さんは少しも怖がる素振りを見せずに覗き込んでくる。

 ……聞いてくることは分かってる。

 

「なんで、識っていたんだ? あそこに爆弾が有ったってコトを」

 

 ……この人はほんとうに謎だ。

 普通なら絶対に信じてくれなかっただろうに、この人は少しも疑うことなく引き止まってくれた。

 それに質問もなんだかヘンだ。

 『どうしてわかる』だとかなら分かる。なのにこの人は初めからこうなることを識っていたみたいだ。

 でも、その質問にはどうあっても答えようがない。

 未来が視える、なんて言ったところで──。

 

「それは女の──」

「女の勘なんてコトはないだろ」

 

 まあ、そうですよね。ハイ。

 これが本当に“女の勘”なんていうものだったらどんなに良かっただろうか、と思うと溜息が出てくる。

 

「……わたしからすればお兄さんこそ不思議です。どうして、あんなことを信じてくれたんですか?」

 

 質問に質問で返すのは失礼なのはわかっているけど、わたしにとってはあんな突拍子もない警告を疑うことなく信じられたお兄さんの方がずっとヘンだ。

 すぐそこに爆弾があるなんて言われたところで、常人なら質の悪い冗談だとしか思わないだろうに。

 

「……いや、おまえの言うことがあんまりにも()()()()()()()もんでね。無視する意味もないからな」

 

 飄々とお兄さんは語る。

 このあまりにも超然とした物腰にわたしは心底驚嘆せざるを得ない。

 今までの発言を推測するに、この人はもしかするとわたしが言うまでもなく爆弾の存在を知っていたのかもしれない。

 だとしたらどこかおかしい。それならわたしが視た未来のように、態々路地裏に行こうだなんて思わない筈だ。

 お兄さんは腕を組んで暫し思案するようにわたしを見る。

 深く、無機質な黒い瞳。理由はわからないけど、この瞳に見つめられるだけで背中に冷たいもとを感じてしまう。

 

「──うん。おまえならいっか。実はさ、オレ命を狙われてるんだ」

「────」

 

 喉に固いものが詰まっているように声が出ない。

 驚きは発言そのものではない。

 不思議なことにわたしはなんとなくだけど、お兄さんの境遇がきっとそうなのだろうとわかっていた。

 そうしてその無根拠極まりない予知は完璧に的中したのだった。

 

「それで、さっきの続きだが、おまえさん、もしかして先のコトとか視える?」

「────はい」

 

 何の逡巡も躊躇いもなく、答える。

 本来ならこんなことは誰にも言えない筈だった。

 けれど、この人だけは今まで視てきたどんな人とも違う、異質な存在だ。

 これも根拠のない推測だけど、この人もまたわたしと同じ、常識の埒外に属する存在かもしれない。

 だから──それに一縷の望みを託したい。

 

「それならよかった。おまえの眼、一つオレの為に使う気はないか?」

 

 口角を上げてお兄さんは問う。

 その表情は自然なままで、あくまでもわたしの意志を問うだけのものだ。

 ……確かに、命を狙われている相手に付いて行くなんて、とんでもなく危険な真似だ。

 わたしが断ればこの人は何の未練もなく去っていくだろう。

 そうだ、こんなことに手を貸したところでわたしには何の利益もないんだ。

 この人がどこでどうなろうが、わたしには関係のない話で──。

 

「はい! 是非とも! わたしなんかでいいなら!」

 

 ──というのは単なる合理的な計算でしかないもので。わたしは考えるまでもなく即答する。

 ──意味ならある。

 どの道人間なんて生き物はいつかは死ぬものだ。どうせそうなってしまえばそれまで追求してきた利益や富なんて塵芥も同然なんだ。

 なら、一生の内に一度くらいは意味のあることをやりたいではないか──。

 初めから決まっていた、覆しようのない意志に対して、誰に聞かせる訳でもないのにそうやって適当に理由を付ける。

 ……はあ、こんなことだからわたしはイマイチ自分というものが好きになれないのだろうか。

 

「あの、わたし、瀬尾静音っていいます! もし良ければお兄さんのお名前を伺ってもよろしいでしょうか⁉︎」

 

 自分でも赤面しているのを理解しながら、唐突に自己紹介を済ましたわたしはついでにお兄さんの名前を聞き出す。

 どうせこれから共同戦線を張る相手なのだから、最低限そのくらいは必要だろうと思ってのことだ。

 

「オレは両儀織。苗字は嫌いだから名前で呼んでくれ」

 

 こうしてこのわたし、瀬尾静音と両儀織さん、そして謎の爆弾魔との闘いが幕を切って落としたのだった。

 

 

    ◇

 

 

 ──馬鹿な。

 

 爆弾魔、倉密メルカは一人歯噛みする。

 これまで、数度彼の未来視は失敗した。だがそれはあくまでも彼自身が直接標的を『視ていない』からこそ起こったズレであった。

 しかし今回は全くの予想外、断じて起こりえない筈の放逸である。

 何の理由か、彼自身が間近で両儀織を視ていたにも関わらず標的は生き永らえた。──これまでとは違い、爆弾に近寄ることすらなく。

 いや、理由は分かっていた。

 

 ──あの女だ。

 あの女は、私が視た未来には存在していなかった──。

 唐突に現れ、颯爽と私の攻撃を予知していったあの女──。

 彼女は完全なイレギュラー、倉密メルカが初めて遭遇した唯一の例外だ。

 そんなものはこの私の計算に有ってはならない──。

 だが、興味深くはある。

 これは推察に過ぎないが、もしやということもあるかもしれん──。

 面白い。

 

 彼は自然と口角を上げ、荒耶宗蓮から依頼を受けた時と同じく歪に嗤う。

 この時、彼の興味は両儀織だけでなくもう一人の未来視である瀬尾静音にも向けられたのだった。

 

 

    /2

 

 

 あの後、わたしは織さんに連れられてとある廃ビルへ足を運ぶこととなった。

 お父さんには予定が入って遅くなると連絡してあるので、夕方までなら大丈夫だろうと確信してのことだ。

 最初に目に入った時はとても信じられなかったけれど、織さんが言うにはこの廃墟そのものな建物が彼の職場であるらしい。

 一度手を貸した以上は一蓮托生。多分、爆弾魔はわたしのことも敵だと見なしていると思う。

 そう考えるととんでもないことに首を突っ込んでしまったと身震いするが、不思議とこの人と一緒ならどんな脅威も乗り越えられるという確信がある。

 そんなことを考えながら歩いているともうオフィスに付いたのか、織さんが少し錆び付いたドアノブを回し、ドアが軋みを上げながら中の空間へとわたしたちを誘う。

 部屋には、女の人が二人と男の人が一人居座っている。

 

「おかえり織。あれ、その娘、お客さん?」

 

 織さんに向かって全身黒尽くめの人の良さそうな黒縁眼鏡のお兄さんが柔らかに話しかける。

 そのお兄さんは人畜無害という言葉を具現化したような出で立ちで、近くに居るだけで自然と強張っていた体がほぐれていくようだ。

 同じく黒を基調とした色を纏っているのに、怜悧で鋭い雰囲気を醸し出している織さんとは完全に対極となっている。

 

「なんだ、幹也も居たのか」

 

 織さんもその空気に当てられたのか薄く微笑みながら言葉を交わす。

 人となりは正反対なのに、わたしにはこの二人がこの上なく似合っているように思えた。

 

「トウコ、おまえが言う未来視、見つけて来たぜ」

 

 そう織さんが言うと、部屋の奥の机に鎮座している赤い髪の女性が反応する。

 その均整のとれたスタイルと女性らしい体型はわたしの目を引くにはあまりにも十分すぎる。……もっとも、羨望だとかそういう類だけれど。

 

「ほう、本当に見つけるとは感心だな。つくづくおまえはそういう輩と(えにし)が深いな」

「だな。今回ばかりはオレも驚きだ。こんな強運がいつまで続くものだか」

 

 女性は値踏みするように、解析に掛けるようにわたしを観察する。

 その鋭く冷たい双眸にはただ肌を粟立てるしかない。

 

「まあ、そう固くなるな。私は蒼崎橙子。この事務所『伽藍の堂』のオーナーであり、君の隣の男の雇い主だ」

 

 蒼崎橙子と名乗った女性はにかっと笑って自己紹介してくれる。見た目に反してこの人は面倒見がいいのかもしれない。

 

「へえ。あなたも未来視なんだ。もっと達観してて冷たいイメージだったけど、案外に普通なのね。あ、わたしは黒桐鮮花。この事務所の社員みたいなもので、彼、黒桐幹也の妹よ。よろしくね」

 

 もう一人の女性、黒桐鮮花さんは華のような笑みでついでに眼鏡の人の紹介までしてくれた。

 さらさらと揺れる絹のような黒髪。海のように蒼く澄んだ双眸と完璧に整えられた貌立ち。極め付けに彫刻じみた体型と白磁のように白くきめ細やかな肌とくれば、同じ女であるわたしも思わず魅了される他ない。

 

 そんな個性的な面々に囲まれたわたしは、自分がひどく小さな存在に思えてしまうけれど、それに応えて自己紹介を行う。

 

「瀬尾静音です。織さんとは街で歩いていたところ、偶々爆弾で吹っ飛ばされる未来を見ちゃったので、つい話しかけちゃいまして……」

 

 彼ら、もとい織さんは爆弾魔への対処として未来視を持つ人間を探していたという話なので、わたしは思い切って全てを話すことにした。

 織さんと出会ってからまだほんの一時間程だっていうのに、我ながら思い切りが良くなったものだと嘆息する。

 

「えぇっ⁉︎ そ、そんなことが……⁉︎ それじゃあなたが織の恩人ってこと? ……本当にありがとう」

 

 黒桐さんはそう言って恭しく一礼してくれる。

 ……その顔を見て気づいた。この人が未来視で見えた女の人だったんだ。

 ならこの人は織さんのことを本当に大切に想っているんだろう。

 なんだか人を寄せ付けないように見える織さんだけど、こんなに大切にしてくれる人達がいることに、他人事だっていうのに少し安心する。

 

「さてと、本題に入るぞ。まず、君の未来視について具体的に教えてもらおうか」

 

 そこで蒼崎さんが鋭い眼差しで冷静に問い質してくる。

 正直に言うとわたしにとってもこの眼に関しては分からないことだらけなのだけれど、条件や期間などできる限り説明した。

 

「ふむ。期間は三日先まで。条件は不明、基本的に覆すことは不可能……という訳ではないか。君は友人達に時折助言してあげていたというのなら、これから起きる事象を知ってしまえば防止するのは容易いからな」

「ああ。もし未来視が決して覆り得ない、『確定した因果』そのものを視ているというのなら、オレはもうここにはいない筈だ」

 

 ……やっぱり、そうなんだ。

 わたしは、二年前の冬に愛犬のクリスの死を回避できなかったことからこの眼に視えた未来は変えられないものだと信じて疑わなかった。

 けれど、わたしは偶々視えた未来から友人にその結末を回避させる為の助言を幾度かしたことがある。

 つまりそれは、この眼で視えた未来は確定したものなんかじゃなくて、その場で起こり得る可能性の中で最も確率が高い出来事を映像にしているのかもしれない──。

 何よりもここにいる織さんの存在がそれを証明しているのに。

 

「織から話は聞いているだろうが、今彼はある爆弾魔に命を狙われていてね。そいつはどうにも君と同じ、未来視のようなんだ。そこで君に助力願ったと言うことさ」

「──え?」

 

 ──未来視の爆弾魔。

 その悪夢みたいな存在に、わたしは慄然とする。

 この眼を持っている人がこの世には自分以外にも居るんだっていう事実は福音の筈なのに、わたしはむしろ想像するだけで途轍もなく恐ろしいとしか思えない。

 未来を変えようとするんじゃなくて、絶対に変わらないようにする為にあらゆる手を尽くして可能性を潰す。──それも人のこれからの未来なんてものを、何の罪悪感も持たずに。

 そこで、初めてわたしは誰かを心から許せないって思った。

 

「……脅しではないがね、君が一度織を助けた以上、このままタダで帰れるとは考え難い。それも同じ未来視であるなら尚のことだ。例の爆弾魔が君を未来視だと知ったら、織よりも君を優先して排除しようとするだろうから。一応聞いておくが、織に手を貸すつもりはあるかい? 瀬尾静音」

 

 橙子さんはあくまで諭すようにわたしの意志を問う。

 ……正直言うと、怖い。

 こういう状況に陥って、改めて実感する。

 自分では自分がどれほど特別で異端な存在だと思っていても、本当は色んな人達の善意に支えられて日々を廻しているんだっていう、簡単な事実を。

 それでも、わたしは決めたんだ。

 織さんに最初に問われた時から、覚悟は変わらない。

 むしろ、爆弾魔がわたしと同じ未来視だって聞いて、腹が立って仕方がない。

 これは誰かの為なんかじゃない。わたしが勝手に抱いているだけの身勝手な憤りだ。

 せっかくこんな意味のわからない力を持っているっていうのに、誰かの為に使うんじゃなくて、誰かの未来を食い潰して自分の為だけに利益に替える爆弾魔。

 そんなヤツを許しているようじゃ、わたしが何の為に今まで苦しんできたのかわからない──!

 

「はい! もちろんです! 是非とも手助けさせてください!」

 

 それがどんなに危険なことか、未来なんて視えなくても一目瞭然だ。

 それでも、わたしは今の自分を信じていたい。

 それで、誰かの助けになれるというのなら、わたしはもう迷わない。

 

「いいね。気に入ったよ瀬尾。それだけの威勢が有ればあんな屍人に負けはしないだろうさ。オレにも一つ策がある。正直賭けだが、試してみる価値はあると思うぜ」

 

 織さんは真っ直ぐに、淀みのない瞳でわたしを見据える。

 ……単なる憶測だけど、この人はたったこれだけの時間でわたしを認めてくれている。

 わたしはこの人のことをヘンだと思っていたけれど、本当はそれだけじゃない。

 むしろヘンだからこそ、どんな人間とも対等に接することができるのかもしれなかった。

 だからこそ、この人をむざむざ死なせるのは絶対にイヤだし、ここの人達を悲しませるのも駄目だ。

 その為にも、今わたしにできることをして、不幸な未来とやらを回避してみせようではないか。

 

 期限は今日の夕方まで、一夏の未来視対決がここに火蓋を落とした。

 

 

 




 今回はここまで。
 ここに予測と測定、二つの未来の対決が始まる──。
 今作では静音の未来視をバンバン生かしていこうと思います。
 実は静音と幹也って原作で式が警戒していた程に相性が良いんですよね。
 この世界線では幹也はフリーですし、もしかしたら静音にあげちゃうかも……。

 お読み頂きありがとうございます。
 また次回お会いしましょう。
 


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未来福音/3

 不定期更新です。


    /-

 

 

 ──継ぐ者達よ、運命は汝らを彼方へと導かん。

 

 

    ◇

 

 

 その出会いを憶えている。

 あれは祖父が亡くなってすぐ、自分がまだ六歳の頃の話だ。

 両儀と深い縁故を持つ者だという彼は、祖父の葬式でその姿を現し、そこで初めて顔を合わせた。

 当時の自分がもう一人の自分を通して識っていたあらゆる感情を一つのカタチとして表したその貌は、今でも瞼の裏に焼き付いている。

 彼の名は荒耶宗蓮といった。

 

「此方、初見となる。荒耶宗蓮という者だ。君の事は父君から聞いている」

「おじさん、おとうさんのともだちなの?」

 

 当時の自分は無垢で無知だった。

 人が人を殺してはならない理由、人が一生に一度しか人を殺せない理由など知る由もなく。

 祖父が他界する直前まで、殺人という行為への抵抗感すら無かった程に。

 その自分を以ってしても尚、その男は哀しかった。

 

「おじさん、つらいの?」

「……さあな。その質問に意味はないだろう。私は既にヒトであることを辞退した存在だ。そんなモノを識ったところで、君の益にはなるまい」

 

 荒耶は初めて僕を見た時からその出で立ちには似合わない目で僕を見据えていた。

 まるで、絶望の中に見出した一筋の希望を託しているような──。

 

「おじいちゃんからきいたんだけどね、“人は一生に一度しか人を殺せない”って。おじいちゃんはもうだめだけど、おじさんはどうなのかなって」

 

 僕は何気なく、ただその貌が哀しかったから、そう聞いた。

 荒耶はその眼差しを変えることなく、迷いなく答えた。

 

「そうだな、君の祖父は多くの殺人者達と同じくカラへと消えていくのだろう。だが私はどこへも行くことは出来ない。私の使命は──消えていった者、これから消えていく者の為に道を築き続けることだからな。故に──この世界が果てるまで、果てても尚、私は道を示さなければならない」

「それじゃ、おじさんがかわいそうだよ」

 

 荒耶はじっと、今以上に、遥か彼方を眺めるようにして呟いた。

 

「……私を憐れむか。やはり君は■■(しき)の──」

「? しきはぼくだよ?」

 

 ただ、しきという名を口にして、荒耶は押し黙ってしまった。

 何故その名が彼にとって特別だったのか、今でも分からない。

 

「……君には一族の使命が、悲願が託されている。私もまた、君に全てを賭けている」

「どうして? みんなトクベツだっていうけど、ぼくとシキはなんにもできないよ?」

 

 一族の使命と悲願。僕は当時それが如何なるものか知らなかったが、荒耶の言っているものはそれとは違うものであると子供ながらに理解できた。

 

「君は、大いなる力を持ってこの世界に生まれ落ちた。君のその手には全てを救う力がある。故に私は君に賭ける。相克する螺旋の地にて、何れ来たる成就の時を待つ。君こそは始まりの一にして総て。アルファにしてオメガである。これまでの歴史と、これからの世界が渇望する救い主。それが君なのだ」

「ふーん。よくわかんないけど、みんなたすけてほしいんだね。でも、()()()()はみんなのことがキライなんだ。だからたすけにはなれないとおもうな」

 

 そこで、荒耶は微かながら初めて笑みを作った。

 今思えば、それは途方もなく奇妙な光景だった。

 

「実を言うと、私もそうなのだ。それでも私はヒトを救いたい。救わねばならないのだ」

 

 荒耶は、途轍もなく深い抑揚で自らに課せられた呪いを垣間見せる。

 今でも、何故僕が人を救うなどということが出来るのか分からない。

 だって、僕は誰も救おうとしてなんかいない──。

 

 それが、彼と僕の最初の出会い。

 そこから先のことは正直憶えていない。

 彼はそう長くは留まらず、いつの間にか僕の記憶から消えていったのだから。

 そうして──その十二年後、今年の六月に再び出会った。

 もし──また会えるというのなら、今度こそ聞きたい。

 あの言葉の意味を。彼の悲願を。……僕が持つ、僕の知らない力のことを。

 

 

    /1

 

 

 織は対決に当たってある仮説を立てた。

 それは爆弾魔が視ている未来と静音が視ている未来は同じ景色なのではないかというものだ。

 もし彼女が視た未来がそうであるのなら、爆弾魔の攻撃を全て躱し、その居場所を特定することも能う筈。

 実に単純なことではあるが、織が考案した策とは、彼自身が静音を連れ歩き、爆弾魔が未来を視認したと同時に静音にも未来を視てもらうということだ。

 確かに危険な賭けと言えるが、どの道爆弾魔を無効化しなければ静音の安全は保証できない上、同じ未来視である彼女を連れ歩くことでより効率的かつ安全に戦闘を進めることができるだろう。

 もっとも──それが真実だとしても、静音自身に未来視の条件が理解できていない為にそれ一つに頼ることはできないが。

 

 

    ◇

 

 

 伽藍の堂を出て早速に策を実行に移さんとしていた時、懐から着信音が鳴り響く。

 その音源は先程送り付けられてきた携帯電話である。

 織はボタンをプッシュし、その内容に耳を傾ける。

 

「やあ、こんにちは両儀織。貴方に対する興味は尽きないが、それよりもっと興味深い相手が出来てね。貴方に声をかけた女、まだ居るかい?」

 

 ボイスチェンジャーを通して加工された、年齢も性別も判りづらい声が耳に入る。

 織は一旦電話から耳を離し、静音にそれを差し出した。

 

「お待ちかねの爆弾魔のお出ましだ。瀬尾、どうにもおまえに興味があるってよ。相手してやれ」

「──!」

 

 静音はいつになく真剣な表情で携帯電話を見つめ、慎重に手に取る。

 

「……はい。爆弾魔っていうのは、あなたですね」

「そうだ。私は完全外注型の職業的爆弾魔。扇動(アジテート)専用の機械(オートメーション)という方が正しいかな」

 

 爆弾魔は僅かばかり高揚が混じった声音で滔々と言葉を並べる。

 その何ら己を恥じることもなく、誇ることもない、厳然たる事実のみを語る語り口に静音は違和感を覚える。

 

「君に聞きたいことがあってね。単刀直入に言うけど、君は私と同じ、()()()()()()()のできる人間なのだろう?」

 

 静音は柄にもなく皮肉げに笑みを作る。

 確かに、広義に捉えれば未来視というのは『未来を知る』力だ。

 けれど静音は橙子との会話で未来視という異能の本質を知っていた。

 予測と測定、二つに腑分けされた力の原理。そして──未来とは『知る』ものではないという、決定的な違い。

 未来視というものを『知る力』だと語る彼の言い方は、その力の本質を履き違えているように思えてしまって思わず嗤いそうになる──というのが静音の彼に対する心情であった。

 無論、実際爆弾魔は未来とは『築き上げる』ものだと知っているのだが。

 

「わたしにそんな大層な力はありませんよ。わたしにできることなんて、『現段階で起こり得る未来を予測する』が精々ですから。それに──わたしはあなたなんかとは違う」

 

 静音は言葉に棘を含ませて言い返す。

 もし彼女を知る者が今の静音を見れば、きっと物珍しさに言葉を失うことだろう。

 それ程に静音の爆弾魔への嫌悪は強いものだった。

 

「ふむ。それは確かに違うな。私はそれ以上のことができるのだから。私の未来は絶対。決して覆ることのない必然だ。この世界に存在している以上、万物の秩序、事のあらましに逆らうことはできない」

 

 静音、そして傍らで聞いていた織は確信する。

 この爆弾魔の未来視のカタチ。それが『測定』と呼ばれるものであることに。

 

「はぁ。分かっていないですね、あなた。違うというのはそこじゃないです。──あなたは、未来というものを解っていない」

「──何?」

 

 呆れたように静音は嘆息する。

 爆弾魔は予想外の応答に彼らしく合理的に思索を巡らす。

 されど、その解は決して彼には導き得ない。

 

「分からないならいいです。でも、これだけは言っておきます。──わたしは、あなたみたいに未来を見限ったりしない」

「──戯言を。未来視とは本来諦観に基づいたものだ。我々は未来を『視て』しまった以上、その場における先行きは殆ど限定されている。私も君もこれから起こり得る当然の、謂わば特定の式から導かれる解を先に視ているだけのことだ。──そこに可能性などという単語が介入する余地はない」

 

 確かに、彼の理論は完璧だ。そこには一点の穴もない。

 されど、万物には必ず例外が現れる。高速電算機が時にエラーを吐き出すことと同じく。

 完璧であるモノはそうである故にそれ以上になることはあり得ない。

 その機械的な完璧さ故の綻びは、静音という『眼』を手にした両儀織の前では決定的な弱点(ウィークポイント)となるだろう。

 織は静音から携帯電話を取り上げ、おもむろに語る。

 

「ふん、そういうことか。ならおまえの負けだな。やってみればいいさ、その未来の固定とやらを。そうすれば全て解る」

「……よく言う。アンタの死は決定している。もう状況は出来上がっているんだ。ならもはや未来は覆らない。始まりの因があれば終わりの果は自ずと見える。そこの彼女とて同じ景色が見えているんじゃないか?」

 

 織はそこで電話を切り、無言で静音を見遣る。

 静音は怯えた顔で首を縦に振る。

 

「瀬尾、この先で何が起こるか視えるか? そこだけじゃなく、起きたコトの先、そのさらに先までならもっと良い」

「えっ……と……、この道を真っ直ぐ進めば地面が爆発します。それで……橋でトラックが爆発して、その先は見えません」

「そうか、それはほぼ確実に起こるんだな?」

「はい。このまま進めば確実です。だからこの道は──っ⁉︎ 織さんちょっと⁉︎」

 

 此処から動くな、とだけ呟くと織は突然静音を置いて疾走を始める。

 烈風の如き猛進。織は少しも躊躇うことなく第一の道に突っ込んだ。

 結果、小規模な熱風と爆轟が道の一部を包み込む。未来は決して変わっていない。

 ──されど、織は立っていた。轟々と燃える焔の先に。

 彼は、その圧倒的な速力で起爆する瞬間に大砲のように脇に跳躍し、爆風の全てを己に伝えることなくいなしてみせたのだった。

 

「次は、橋か」

 

 静音が見せた未来に少しも逆らうことなく、織は爆弾魔の決めた因果に沿って道を行く。

 あともう少しで、あやふやな筈の未来は()()()()()()()()()()顕現することだろう。

 ──誰の()にも明らかな程明確に、より明瞭に。

 

 間を置くことなく、織は橋に停めてあるトラックの荷台に差し掛かる。

 爆弾魔は言い様もない違和感に歯噛みしながらも、右眼が見せる未来に従い起爆装置を起動させる。

 ──どうあっても、爆弾魔は己が完璧であると結論した未来に従うしかない。それが明らかに本能が警鐘を鳴らす類であったとしても、例外はない。

 

 先のものとは比較にならない程度の爆熱と、身を引き裂いて有り余る衝撃が橋を襲う。

 確かに織が爆発に巻き込まれる未来は具現した。だが、爆弾魔は致命的に『見るべき未来』を見誤っていた。

 例え爆発に巻き込まれる未来が当たった所で、それで対象が生きていれば何ら意味は無いのだから。

 

 織はトラックを見た瞬間に爆発に備え、その少し先の電灯に義手から出した鈎付きワイヤーを引っ掛け、爆発する寸前に急速に巻き上げることでまたしてもその悉くを避けてみせた。肩口から強靭な義手に置き換えられている影響と、彼自身の極限の身体活用が有って初めて成立する荒技である。

 無論、身体への負担は大きいが義手にエネルギーを集中させることで脳や臓器に掛かる衝撃は全て回避される。

 

 その刹那、織は初めて爆弾魔と視線を合わせた。爆弾魔は初めて織と視線が合った。

 

"ようやく会えたな"

 織の唇がそうが動いたのが、本能で理解できてしまう。

 だが、想定内だ。未来視は次の段階へ移行するのみ。

 

『ようやく、此処まで来てくれるか──』

 

 これで未来は完全なカタチを持つことができる。

 これはただ織が爆発に巻き込まれるだけではない。その先──完全に死を確認できる状態に持っていける。

 

『ともあれ、これで幕は下りる──』

 

 爆発魔は静かに嗤った。

 

 

   /2/2

 

 

「ちょっとぉ──! そっちに行っちゃダメなんですってば──!」

 

 何の理由か、織さんはわたしの視た未来を回避しようとせず、あろうことか真正面から突っ込んでいってしまった。

 わけがわからない。何の為にわたしが付いていたのか、それすらも。

 確かに、二つの爆発で彼が粉微塵になる光景は見えていなかった。

 でも、アレだけはダメだ。

 少し先の大型デパート、そこで彼は確実に最期を迎える。

 どうあっても、そこに踏み込むという状況が出来上がった時点で、如何なる手を尽くそうと未来は変えられない。予測しかできないわたしの眼にもこの上なく明瞭に映る程に。

 そこに何の思惑が会ったのかは想像だにできない。いや、明確に視えた未来を回避もしなかった時点で彼の思考様式は理解不能だ。

 わたしはただ、スクラップと成り果てたトラックを前に群衆に巻き込まれるしかなかった。

 

 

    ◇

 

 

 橋から少し離れた廃ビル、その駐車場に爆弾魔・倉密メルカは潜んでいた。

 手元には爆薬の起爆装置。最も信頼し、数多くの依頼を果たしてきた頼れる得物を手に、彼は己の勝利を確信し口元を綻ばせる。

 これまでの過程は一部を除き彼の想定内であった。

 幾度もの攻撃の失敗。路地裏での攻撃は突如として出現したイレギュラーである瀬尾静音に阻まれたが、一度その正体を知った以上、橋での攻撃は彼女によって失敗させられるものとして組んでいた。

 そうは考えるものの、よもや両儀織がそれらの忠告を無視してくるとは思わなかったが。

 回避し得る手段を持っていて尚、何故か自分の組み上げた未来に悉く沿った挙動をする標的。

 その真意は未だ謎として胸の内に燻っているが、彼がここに踏み込んだ時点で結果は同じ。

 如何なる過程を歩もうとも、彼の測定した結末(みらい)は変えられない。

 埃が充満し、密閉された空間に足音が響き渡る。

 少しずつ 大きくなっていく足音は、紛れもなく両儀織のものだ。

 倉密メルカの仕掛ける最後の爆弾は、正しく王手(チェックメイト)と言うに相応しい絡繰りだ。

 鎮座する四台の廃自動車には全てIED(自動車爆弾)が、天井には五百もの鋼鉄のベアリングを撃ち出す炸薬が三つ設置されている。

 彼が部屋の中央に入った時点で、敗北は確定だ。──これで死なない生物など、幻想種くらいのものだろう。

 メルカは、その一切がなんとか届かない僅かな安全圏からその結末を()()()()()()

 ここは、外界から完全に隔絶された一つの異界と化していた。

 

 そこに、織は無言で速やかに歩み寄る。

 彼は手に馴染んだ大型の戦闘用ナイフをコートのホルスターから引き抜く。

 部屋の中央──測定された未来の渦中に織はメルカの視界通りの挙動で足を踏み込む。

 ──これで全ての条件が揃い、寸分の余地なく未来が確定した。

 メルカは嗤う。織も嗤う。

 二人が得物を振るうのは、奇しくも同時だった。

 

 おそらくは、一秒よりも尚迅く。


 四つのIEDと三つの炸薬は同時に爆裂し、鮮烈というのも生温い鋼鉄の暴風をその身に受けた両儀織は、黒焦げた残骸となってこの世界から消え去った。


倉密メルカの視界(しかい)は真っ二つに寸断され、その未来ごと跡形もなく殺害された。

 

「っ────⁉︎ なっ、なにぃ…………⁉︎」

 

 あまりにも唐突すぎる展開。

 覆らない筈の展開。確定した因果。それらは極限の不条理を前に露と消える。

 メルカは、混乱に支配されたまま起爆装置を何度も起動させようと試みる。

 だが状況は変わらない。

 確かに、両儀織はここに現れた。

 されど、その未来を決定付ける最後の一押しである爆弾だけが起動しなかった。

 

「ばっ、 馬鹿な! 因果の逆転だと⁉︎ あ、あり得ない!」

 

 それは、メルカが久しく忘れていた完全なる未知であった。

 確かに、未来視はその場にあるファクターだけで未来を構成することが可能だ。

 だが、未来視自身が知りえないファクターは、構成される未来に含めることはできない。

『直死の魔眼』。その力の概要は荒耶宗蓮から聞き及んではいたものの、それだけではついぞその力の真髄を知ることは能わなかった。

 魔眼の真の力を知ることなく未来そのものを完全に『カタチに』してしまった時点で、彼の敗北は確定していたのだ。

 

「因果の逆転? そんなに大層なことじゃない。ただおまえが作った未来にちょいと罅を入れてやったのさ」

 

 織は滔々と語る。

 

「瀬尾の視た未来は正しかった。あいつの視る未来は予測。その場にある情報だけで最も起こりやすい光景を映像にするだけのカタチのない主観。対しておまえの未来は、因果そのものを状況に依って確定されたカタチのある概念に組み上げている。未来とは偶然で左右され、現在から脈々と続いていく連続性だ。おまえは現在と未来の間に境界を引き、その繋がりを断絶してしまった。なら──その境界を切り裂くのは容易い」

 

 カタチのある概念。そんなものは不鮮明な螺旋のネジ巻きよりは余程視えやすいものだ。

 ならばそれは、十二分に殺害対象となる。

 

「予測に留めておけば瀬尾に察知され、測定に至ったならばオレに破壊される。おまえはあいつとオレを同時に敵に回した時点でどうしようもなく行き詰まっていた。おまえが王手(チェックメイト)を掛けたのは初めから自分だったんだ」

「そ、そんな……」

 

 未来を映像として視覚化したとて、それを認識し理解するのはあくまでも観測者自身である。

 故に、その果てに待つ結末を正しく認識できないのであれば、それは未来予知足りえないのだ。

 そこで織は初めて爆弾魔と向き合った。爆弾魔もまた初めて織と向き合った。

 

「おまえ──まさか」

 

 織は予想外の展開に、魔眼を維持することすら忘れて呆気に取られていた。

 

 

    ◇

 

 

 廃ビルの地下駐車場での爆発事件は織が去った後に現実となる。

 当然のように死者は無く、その動機も全くの謎である。

 警察が現場に踏み込んだ際、そこには何の理由か廃ビルの入り口に右眼に重症を負った十四歳の少年が倒れ込んでいたという。

 

 

    /3

 

 

「本当にこんなもんで良いのか? 報酬って」

「はい! 大分無茶を言ったつもりなんですけどね、えへへ」

 

 八月三日、正午。

 わたしと織さんは最寄りの喫茶店、アーネンエルベにて休憩していた。

 その経緯を説明すると、爆弾魔を見事撃退した織さんは即座に橋に居たわたしの下に戻ってきて、事の顛末を説明してから報酬をやる、という話になり、ここに至るというワケなのだった。

 

「あの、どうやって織さんはあの未来を変えたんですか? あれは確定した筈なのに」

「ああ。爆弾魔には言ったがな、完成した未来なんてものは未知でも偶然でもない。カタチのあるモノは何時かは壊れる。だからそれを早めてやっただけだ」

 

 織さんの言うことはよく理解できない。

 というより、何だか話の前提になる情報がわたしの頭からは抜け落ちている。

 

「おっと言い忘れたな。未来なんて上等なものじゃないけど、オレの眼は特別製でね、おまえと同じく視えるものがあるんだ」

 

 不思議と衝撃ではなかった。

 何というか、この人がそういった特別に該当するというのはなんとなく判っていた。

 

「オレの眼はね『モノの死』が視えるんだ。万物には綻びがある。人間は言うに及ばす、大気にも意志にも、時間にだってだ。オレは──それを断ち切ることで殺せる。カタチのないモノは無理だけど、カタチのある概念なら殺せる。オレが未来を殺したのはそういうコト」

 

 そう言って織さんは炯々と蒼く輝く万華の瞳でわたしを見つめる。

 それだけで ──全身が粟立つ感覚が走る。

 

「それでさ、何か言いたいことがあるんだろ? 一応聞くだけ聞くさ」

 

 織さんは何気なくわたしの真意を言い当てる。

 この人は未来視じゃないけれど、それでも隠し事はできないだろうと直感した。

 わたしは意を決し、今まで抱え込んできた長年の悩みを打ち明けることにした。

 

「……わたし、怖いんです。その、何と言うか、いつかどうしようもない未来を視てしまうかもしれなくて。だから今日みたいなことは怖いです。結局、わたしはあなたの助けになんてなれなかった。……わたしなんかの力じゃ、未来は変えられなかった」

 

 ……そう、わたしの未来は変えられなかった。

 結局、最後に趨勢をひっくり返したのは単に織さんの力である訳だし。

 わたしが居ても居なくても、この人は爆弾魔になんて負けはしない。

 

「はっ、それこそまさか。言っただろ、おまえの未来は確定したものなんかじゃない。実際、おまえが居なけりゃマズかったかもしれん。あの爆弾魔が測定してくれたおかげでぶち壊しにできたが、予測に切り替えられてたらオレだけじゃどうにもならん。正直、おまえが未来を視てくれたおかげで助かったんだ」

「わたしの、おかげ──?」

 

 それは、何度も言われたことのある言葉。

 テストのヤマを当てたり、先輩の呼び出しを先読みしたりして、友人に感謝されたことは多い。

 けれど、わたしはそれがイヤだった。

 

「……違うんです。わたし、そうやって自分一人先行きを知っていることが、どうしようもなくズルいことだと思うんです。その度に、必死に努力している人達を無下にしているようで──自分がイヤになる」

「──それでも、感謝されてきたんだろ?」

 

 織さんは飄々としたまま、当たり前のように語る。

 なんてことはない、単なる事実の再確認。

 けれど、その言葉は熱く胸に残った。

 

「未来視に限らず、異能というものは治せない。なら、やるべきことは変わらない。おまえは今まで通り未来を視て、誰かの為に役立ててやればいい。例え変えられなかったとしても、きっとそいつはおまえに感謝するだろうさ」

「──」

「まあ、オレは視えないからそう言うしかないんだが。……未来が変わらないのなら、せめて後悔しないように生きる為のモノなのかもな。何よりも、壊すしかできないオレよりはそっちの方が余程建設的だ」

 

 彼が言ったことは、要するに悔いの残らないように足掻け、ということだった。

 特別な力には、特別な代償が伴う。

 彼もまた、そうやって自分の疎外感と折り合いをつけてきたのだろう。

 それに──わたしはもう、自分のやるべきこと、辿るべき道を見つけていたんだ。

 

「それじゃ、話は終わりか? なら出ようぜ」

 

 織さんは伝票を手に取り、高そうな革財布を懐から取り出した。

 

「──今日は本当にありがとうございました」

 

 心から、わたしは彼に感謝する。

 思えば奇妙な人だけども、その根底にあるのは己の運命に抗おうとする、誇り高い意志だった。

 例えその果てに何も残らなかったとしても、その時は苦笑いでもして『それもまた良し』と受け容れる。

 その在り方を──わたしは最初から知っていた。

 

「それと──最後に言いますけど、あなたにはこれからたくさんの困難が降りかかります。もしかしたらその内の一つは現実になってしまうかもしれません。でも──頑張ってください。最期まで、あなたはあなたらしく。わたしも、そうできるようにこれから頑張っていきますから」

 

 例えば──それは白い幽霊とか金髪の青年とか黒い魔法使いみたいな人とか。

 彼の行き先には無数の『死』が待ち構えている。

 けれど、わたしは彼を信じている。

 彼ならば、今回みたいにきっとそんな運命を見事打ち砕いてくれるだろうから。

 だからわたしも、最期まで足掻くとしよう。

 ──その時に、笑って過ごせるように。

 

「そっか。そいつは前途多難だな。ま、精々足掻いてやるとするかね。全く、オレも奇妙な連中とばかり縁ができるもんだ」

 

 そうしてわたし達は店を出た。

 その後は伽藍の堂に赴き、サポートしてくれた一同に感謝してから別れた。

 本当に暖かい人達だった。

 大げさなようだけど、わたしはこの日を一生忘れたくない。

 たった数時間の出会いだったけれど、それは何よりも得難い出会いだった。

 

 わたしは遠くなって行く伽藍の堂と、そこから見送る幹也さんを見届けながら、もう一度だけ頭を下げて駅へむかった。

 

 

    未来福音・了

 

 

    /4

 

 

「失礼、観布子の母というのは貴女か」

 

 雨の夜、その男は傘も差さずに袋小路の行き止まりに佇んでいた。

 男──荒耶宗蓮が話し掛けているのは、観布子の母と呼ばれる恰幅の良い中年の女性占い師だ。

 男が客であると認識した彼女は、その亡者のような異様な風体を気にかけることなく冷静に応対した。

 

「おやまぁ、アンタみたいなのは珍しいね。……なんて面構えだい。ほら、話なら聞いてやるからもっと近くに来な」

「失礼する」

 

 荒耶は亡霊のように椅子に腰掛ける。

 そのあらゆる種類の悲嘆と悲憤に満ちた貌を、占い師は真っ直ぐに見据える。

 その溢れんばかりの感情を、一つとして見落とさぬように。

 

「……アンタ、年は幾つ? 見たところ四十五って辺りだけど」

「正確には憶えていない。四百か、四百五十か 」

「はっ、そりゃ長生きなこと。で? そんだけ生きてて今更何を悩んでいるんだい?」

 

 占い師はどう聞いても嘘としか思えない言葉を受け止め、神妙な面持ちで尋ねる。

 若者向けの恋愛相談を主とする彼女にとって、このような客は珍しかった。それも、このような異様な人間かどうかすら怪しい者など、五十年を超える人生を歩んできた彼女でも初めて見る類である。

 男は少しも表情を変えることなく切り出す。

 

「私の未来を、占ってくれぬか。私とこの世界の有り様を」

 

 占い師は男の手を取る。

 固く、傷だらけの荒んだ手。

 それは彼の壮絶な闘いの日々を象徴するものだった。

 

「……こりゃ驚いた。アンタ、本当に四百年も生きてきたんだねぇ。それも、酷いことばかりだ。良いことなんて一つも……、ん?」

 

 そこで占い師は口籠る。

 彼女は見つけたのだ。男の過去、凄惨な苦しみに満ちたその生涯の最も底、そこに眠るただ一つの眩い記憶を。

 

「ほぉ……これは中々……。アンタの人生、酷いことばかりだけどそれだけじゃないさ。これはきっと後悔の記憶なんだろうけど、忘れられていいことなんかじゃない」

 

 荒耶は押し黙る。

 自身すらも忘れ去った日々。そこにかつて輝きが有ったなど、どうして信じられようか。

 

「それで、結論は如何かな。私はどうなる」

「──驚いた。こんなことも、あるんだねぇ」

 

 占い師は遠い目で、尊いものを見るように微笑む。

 ──それは男だけでは辿り着けない、ある愚かな女の祈りの結晶。

 

「悪いけど、アンタの夢は叶わない。──それでもその夢は生き続け、アンタは救われる。本物の奇跡だよ、これは」

「……そうか」

 

 男は一層影を濃くして、短く応えた。

 その福音の意味を、彼はまだ知らない。──否、知るべきではない。

 

「そうとも。どう足掻いてもアンタは失敗する。それでも、止めないと言うのかい?」

「無論、挑み続けるとも。幾度敗れようとも、必ずや悲願を──」

 

 寸分の迷い無く、男は答える。

 占い師は笑う。

 なんという諦めの悪さ。けれどこの意志が、最後には彼を“答え”へと至らせることを知っているから。

 

「そうかい。ならこれだけは憶えておきな。──例え世界がアンタを憎んでも、ある一人だけはアンタの味方で在り続ける。こうしている今も、ね」

「──感謝する、観布子の母よ。さらばだ」

 

 そう言って、男は占い師の皺が寄った瞼に触れる。

 途端、薄れていた視界が鮮明に晴れ渡る。

 驚きながらも、占い師は晴れやかな視界で男の後ろ姿を見送る。

 哀愁の漂う、哀しげな背中。

 けれども、そこには今も尚彼を支え続ける者の痕跡があった。

 

「なんだい。そんな顔も、できるじゃないか」

 

 ──最後に見えた男の貌は、ほんの少し笑っていた。

 

 




 あけましておめでとうございます。
 今回で未来福音は終幕です。
 瀬尾の導き出した未来。それは例え結末を変えられなかったとしても、せめて最後には笑っていられるように悔いなく生きるというものだった。
 そうしてまた未来に縛られた奴隷も漸くヒトに還ることができたのだ。

 次回からは本格的に過去編を進めます。
 1~3話までは以前から投稿していたので次に投稿するのは4話となります。
 それではまた次回。


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0/彼方を継ぐ者 -Gate of seventh heaven-
彼方を継ぐ者/1 -出生-


 この話はいわゆる過去編であり前日譚です。

 この話は何故この世界は原作と分岐したのか、何処がどう変わっているのか、どこで分岐したのか、という部分を補完する為でもあり、この作品の根幹に触れる話でもあります。
 それと同時に何故このssの主人公は織と荒耶なのか。その理由付けの為でもあります。

 このssのオリ設定の根幹ですので、オリキャラ注意です。



/1

 

 

「その嘆きを再生しよう。忘却は、確かに貴方の中に録音されているのだから──」

 

 夢を、見ていた─────。

 今はあまりにも遠く、もう手を伸ばすことすらできない、忘れ去った日々と嘗ての理想。

 そんなユメを、見ていた。

 

    ◇

 

 

 戦国時代も中頃、私──荒耶宗蓮は生を受けた。

 争いの時代だった。

 戦乱の炎は日本全土を覆い尽くし、数々の国々を修羅地獄へと変えていった。

 それが齎す死の影から逃れる術などあろう筈もなく、人々は例外なく苦しみに喘いでいた。

 ある者は飢え、ある者は賊に殺され、ある者は戦にて討たれ、悲痛と無念の中で死んでいった。

 力無き民達は日々愛する者を失う恐怖に怯え、搾取される屈辱に耐え、明日をも知れぬ我が身を憐れみながら生き延びていた。 

 力無き者は全てを失い、力持つ者は終わり無き闘争の果てに斃れる。

 ──それが、私の生まれた時代の日常(じょうしき)であった。

 

 そして須く私とて例外ではなかった。

 幼くして疫病にて母を失い、戦にて父を失った私はただ生き延びる為にあらゆる手段を用いた。

 銭を得る為に屍から武具を漁って売り飛ばし、飢えればそのまま喰らう事すら厭わなかった。幼少の私にそうする他に生きる道など思いつかなかったからだ。

 そうして無為に生きていた私は、死者の供養を行う為に各国巡礼をしていた僧の一団と遭遇し、私の餓鬼の様な有様を憐れんだ彼らに引き取られることとなった。

 彼らは天台密教の修行僧であったらしく、私は寺で義父の教えを受け、幼いながらも数々の叡智を吸収していった。しかしそれは半ば義務的なものでしかなかったのだが。

 それを決定的に変えたのは十五歳の時、義父に連れられて初めて戦場供養に出かけた事である。

 生きることに精一杯だった幼少期とは異なる視点で眺める戦場。

 その眺めはずっと変わらないものであるものの、成長し余裕の出来た私には全く異なるものが見えていた。

 そう、初めて累々たる死屍を見て悲しいと感じたのだ。

 それほどの悲痛を感じたのは母を亡くしてからはこれが最初だった。

 それから時を置かず、数々の戦場を巡り同様の地獄を見てきた私の内には、とある考えが芽生え初めていた。

 

 ──どうすれば、この人たちを救えるのだろうか。

 ──どうすれば、こんな事は起こらないのだろうか。

 

 それは、人を救いたいというごくありふれた様でいて、この時代には珍しい考えだった。

 この時代、僧籍であっても争いとは無関係でなく誰もが今日生き延びる事に必死で他人の 生死(いきしに)になど構っていられなかったからだ。

 そんな時代に人を救おうなどと言う私と義父の考えは奇異なものに映ったに違いない。

 そうして義父と共に全国を行脚した私は行った先々でただひたすら供養を繰り返した。

 生存者を見つけ逃す事も出来たのだが、そういった者たちは多くが繰り返される地獄の中で死に絶えていった。

 それでも私と義父は諦めることなく衆生救済へと邁進していった。いつか泰平の世が訪れる事を渇望しながら。

 だが、それも長くは続かなかった。

 義父が戦場病に罹ったのだ。

 病状は重く、満足に栄養を摂取できず、不潔な環境しか用意できないという状況では病を癒す事など到底不可能な話だった。

 己の死期を悟った義父は私と最期の会話を交わしていた。

 

「宗蓮よ。よくぞここまで育った」

「……有難う、御座います」

「……お前は強い子じゃ。それだけでなく、誰よりも優しい。故にこの先、幾度もの苦境を迎えることとなるじゃろう。だが決して己を見失うな。それがまず第一じゃ」

「……はい」

「お前には強い意志があるが、それ故''修羅''の影が見えておる。もし己を見失なう事あらば忽ちそれに呑まれよう」

「そして二つ。けっして目的を諦めることなかれ。お前ならば何時か救済を成し遂げよう。儂が居らずとも、必ずや成せ。よいな?」

「……はい、衆生救済の大業、この宗蓮が必ずや成就してみせまする」

「うむ。それで良い。……じゃが、済まぬのう。この儂が不甲斐ないばかりにお前にこの様な重荷を……」

「いえ。義父上は…私の知る限り最も徳の高い僧でした」

「……ふ、まったくお前という者は…儂もお前の様な倅を持って満足じゃ。……ではな。また六道にて相見えようぞ」

「義父上……」

 

 そうして義父は二度と口を開く事はなかった。

 彼の生涯は苦悩に満ちたものであったが、それでも最期は満足そうに消えていった。

 ……願いは、父から子へ。

 こうして私の進むべき道は定まった。

 ……義父の果たせなかった衆生救済。その未練をこの荒耶宗蓮が継ぎ果たすのだ。

 それが、どれほどの艱難辛苦の道であろうとも。

 だが私は一つ重要な言葉を理解していなかった。昔も、おそらく今も。 

 ''修羅の影''

 それが、何を示していたのかは分からない。しかしそれでも私は暗闇の荒野を突き進む他にはなかったのだ。

 

 

    /2

 

 

 戦国も終わりに差し掛かり、南蛮との貿易が始まると共に多くの物が日本に流れ込んで来ていた。

 兵器、菓子、衣服、宗教──そして魔術。

 

 私は義父の言葉に従い決して目的を諦めはしなかったものの、宗教による救済という事に限界を感じていた。

 そう、如何に経典を読み仏像を拝み仏の教えを広めた所で、救えるのはただ心だけなのである。

 心を救えたとて、経典では腹は満たせぬし仏像では身一つ守れぬし教えでは病を癒せぬ。

 故に私はあらゆる結界術と体術を習得した後、教えを捨て西から来たという妖術──魔術に傾倒していった。

 魔術というものは驚くほど便利で、魔を祓う、身を守るのみならず病を癒し心を操る事すらできるという極めて画期的なものであった。

 これならば、もしや──。

 魔術の絶対性、有用性を確信した私はこの世の救いは宗教ではなくこれにこそあると信ずるようになったのである。

 

 そういえば──寺を出たのは魔術を習得したが為に外道として追い出されたからであったな。

 

 そして二十台半ばになった頃、私は巡礼に行った先の村にて、とある女と出会う事となった。

 それこそが、数ある世界の可能性の一つを手繰り寄せる事になるとは露ほども知らずに────。




 とりあえず第一話です。
 次回から本格的に展開させていこうと思います。
 原作では荒耶は200年ほど生きている(江戸生まれ?)の設定ですが、江戸時代では農民一揆などを除きそこまで大きな戦争が起きていない様なので設定の擦り合わせが難しく戦国後期の生まれという事にしました。

 長い巡礼の果てに荒耶が出会った一人の女性。
 彼女が荒耶という男にどんな影響を与え、この世界をどう変えてしまったのか。
 そして両儀織とは何故両儀式ではないのか。
 
 一五九五年三月、私は彼女に出会った────。


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彼方を継ぐ者/2 -邂逅-

 不定期更新です


    /0

 

 

 夢のつづき。あるいははじまり。

 

 

    /1

 

 1595年3月、私は彼女に出会った────。

 

 西暦1595年。

 豊臣秀吉による天下統一が為され、大きな争いを見る事は次第に少なくなっていった。

 だが依然として農民一揆や戦など大小様々な抗争は絶えなかった。

 私は義父の想いを継ぎ諍いあらば各地を行脚して回った。

 魔術というものを身に付けた私は以前よりも遥かに多くの人を助ける事が出来た。

 時に結界で賊を遠ざけ、魔術で傷を癒し、体術で弱き者の剣となる。

 間に合った時もあれば間に合わなかった時もある。

 しかしそれでも世が少しずつ泰平へと向かいつつある事に私は安堵していた。

 そうして京から遠く信濃の戦場跡へ向かった私はそこで一人の女が立ち尽くしているのを見つけた。

 

 

    ◇

 

 

 ──あの女は何者だろうか。

 生き残りと考えるのが妥当なのだろうが、それにしては余りにも場違いなほど整った身なりをしている。

 白と黒、混ざり合う事なく分かたれた二色の着物を身に纏い、綺麗に切り揃えられた黒絹のような髪。

 そして何より──その身が放つ静謐ながら途轍もなく眩い神か仏にも似た気。

 彼女を構成する有りとあらゆる要素がこの戦場という死臭の世界から彼女を切り離していた。

 私は知らず、見惚れていたようだった。

 僅かばかりの逡巡の後、声を掛けてみる。

 

「……君はこんな所で何をしている」

 

 女は仏頂面のまま、しかし柔らかな声音で応える。

 

「あら、まだ生きている人がいたのね…。あなたこそ、何?」

「私は供養の為、それから生者を救う為に来たのだ。……どうにも君は巻き込まれた訳ではないようだが?」

「あなたも、わたしと同じ……。自らの意志でここに足を踏み入れているのね」

 

 なるほど、彼女は私と同じ目的でここに居るという事か。

 だが、それにしては服に汚れが少なすぎる。

 つまり長旅をしてきた訳ではなくこの付近に家を構えているという事だろうか。

 

「君は、この近くに住んでいるのか」

「ええ。ここから少しばかり離れた山間の村に家があるの」

 

 驚いた。こんな戦場近くに村があるとは。

 山間にあるという事が幸いしたのか、彼女の暮らす村は特に被害を受けてはいないらしい。

 

「それにしても、『生者を救う』か……。少なくとももうここは手遅れね……。わたしにできる事なんて、いつだって供養だけだった」

「……これは私の不徳だ。私さえ間に合っておけばこんな事には…」

 

 そうだ。何時もそうだった。

 私はもう、救う力を手に入れた筈なのに。

 ……それなのに、どうして誰も救えない。

 そうやって一人苦悩を顔に浮かべてあると、唐突に彼女はとある質問を繰り出してきた。

 

「あなた、旅人よね? この辺りに宿なんてないけれど、何処に泊まるつもりなの?」

「無論、野宿だが。…君には帰るべき場所があるのだろう? ならばこんな所には長居するべきではない」

「それもそうね。結局ここにあるのは屍だけだから…。提案なんだけど、わたし達目的も同じみたいだし、折角だから村に来ない? 当面の間なら面倒を見てあげられるけど」

 

 それはつまり、彼女の村の者に世話になるという事だろうか。それとも彼女自身の家に宿泊するという事だろうか。

 どちらにせよ、このご時世に何処の誰とも知れぬ者を暫くの間とはいえ住み込ませるなど余程豊かな村なのだろう。

 ……だとすれば尚更不可思議だ。

 こんな片田舎の戦場近くにそれほど余裕のある集落があるなど。

 諸々の疑問や懸念は置いておき、とにかく決断することにした。

 

「君がそれで良いと言うのならばそうしよう。だが村の者達は? 旅人など泊められるだけの余剰など無いのではないか? それに私には身分を証明する手立てなど無いのだぞ」

「それなら心配無用よ。わたしの家に泊めてあげるから。それにあなた言ったでしょう? 人を救う為にこんな辺境まで来たって。どうにもあなた嘘なんてつけそうにないし、そんな炎みたいに真っ直ぐな瞳をした屍体漁りなんている筈ないもの」

「……そうか。ならば世話になるとしよう。君の厚意に感謝を」

「ふふ、それなら行きましょう、わたしの村へ」

 

 ……(まこと)に不思議な気分だった。

 ただ旅の宿を用意して貰ったというだけなのだが、奇妙な事に私は彼女に対し強く心惹かれている様に思えた。

 彼女も私と同じ、人助けを目的にしているからだろうか?

 いや、それだけではない。

 あのあらゆる邪気を遠ざける眩い気。柔和で端正な貌に似合わぬ深海の如き昏く深い瞳。

 それはまるで、仏にも似た────。

 ……いや、錯覚だろう。

 あの女人は只者には見えぬとはいえ、人である事には変わりない。

 だが、それでも──。

 既に荒耶にはあの人物しか見えていなかったのだ。

 

 

    /2

 

 

「おんや? 当主様、見かけないお人をお連れのようですが……どうしたんですかい?」

「ああ、この人はね……ええと……」

「荒耶宗蓮。戦場供養の為訪れた旅の者だ。宿を見つけあぐねていた所、彼女が提供してくれると言ってくれた故随伴して来たのだ」

 

 あれから半刻。

 村に到着した私は村人から質問責めに遭っていた。

 無理もないだろう。彼女の様な高貴であろう人物が私の様に明らかな他所者を連れているなど滅多に見ないであろう故。

 彼女は私への好奇の視線を受け流しながら坂を登っていく。

 おそらく上にあるあの武家屋敷が彼女の家なのだろう。

 屋敷に着く前に、一通り自己紹介をしておく事にした。

 

「そう言えば自己紹介を忘れていたな。私は荒耶宗蓮。既に僧籍ではないが、衆生救済の為国中を行脚している者だ。君は?」

「わたしは天邏紫希(あまら しき)。よろしくね、荒耶」

 

 そうして彼女は枝で地面に己の名を書く。

 天邏、全く聞き慣れぬ苗字だ。ここまで珍しい名を持つ家など聞いた事がない。それなり以上に名のある武家に思えるのだが…。

 そうこう考えている内に彼女は門の前に立ち帰宅を告げている様だった。

 すると門が開かれ使用人と思しき者と共に家族であろう男が現れる。

 

「姉上! こんな時刻まで何をして居られたのだ!」

「何かって、いつもの様に出歩いていただけよ」

「それにその者は何者だ? この村では見かけぬ様だが」

「この人は荒耶宗蓮。この近くの戦場跡に供養に来ていた旅人だって。どうにも宿に困っていたようだから連れてきただけ。大丈夫、この人見かけはちょっと怖いけどきっと優しい人よ」

「姉上がそう言われるなら止めはせんが……しかしこの時勢に一人旅とは剛毅なものだな」

「私には使命がある故、一つの土地に長居する事にもいかぬでな。ここで見えたのも何かの縁。無骨な物言いしか出来ぬが宜しく頼む」

「俺は天邏家当主紫希が弟、天邏阿紀(あまら あき)。一時とはいえ寝食を共にする者だ。客人としての待遇は約束するさ」

 

 男はどうやら紫希の弟であるらしい。

 確かにこの筋骨隆々ながらもやや細さを感じる、均整の取れた体は武家の男と言うに相応しいだろう。

 しかし、長女とはいえ女の身である紫希が家を継いでいるのは如何なる事情あっての事か。

 疑問は尽きないが二人に随伴して屋敷へ進んでいく。

 

「入って、どうぞ」

「失礼する」

 

 一応挨拶を交わしてから屋敷の中へ入る。

 坂からは大きく見えたものだったが、中はそれなりに簡素なものだった。

 豪勢な調度品といった洒落た物は無くただ幾つもの部屋が襖で仕切られているだけの実に飾り気の無い、殺風景とすら言える屋敷。

 その光景に私は僅かに寂寥感を覚えていた。

 

 そうして屋敷を見ているとどうやら日が落ちたらしく、使用人が私と彼女達の分の布団を用意する。

 ともかく、これで当面の宿は確保できた。 

 どれほどの期間滞在するかは分からないが此処なら良い拠点となるだろう。

 山に囲まれた堅固な防備を持つ農村。確かに魔術師が潜むには格好の場所だ。

 彼女達も眠りに就いたらしく、灯りは既に消えている。

 私も今日は休むことにして布団に入る。

 長旅で酷使した体に対して上質な布団が齎す柔らかな感触は瞬く間に私の意識を刈り取っていった。

 

    ◇

 

 

 翌日。

 何やら良い香りがしたので目を覚まし匂いを辿って居間に向かうと、そこでは紫希と阿紀が朝食を摂っていた。

 どうやら私の分も用意していたらしく二人と同じ料理が綺麗に配膳されている。

「これは……」

「ああ、あなたが眠っていたから先に作っておいたの。遠慮なく頂きなさいな」

「かたじけない。重ね重ね感謝する。」

 

 そうして一応の礼を払い私は箸を取る。

 用意された料理は簡素ながら極めて整った盛り付けでとても見栄えがいい。

 

「……美味い」

 

 私は知らず呟く。

 思えばこれ程の逸品を口にするのは何時ぶりであろうか。 

 寺に居た頃も同じような物を食べていた記憶があるが、ここまで美味だった覚えはない。

 ……幼少期に口にしていた物など、思い出したくもないな。

 

 特に会話もなく黙々と食事を終えた後、私たちはお互いの身の上を語り合った。

 どうやら二人の両親は亡くなって久しいとの事で、今は両親の使用人たちと暮らしているらしい。

 私も覚えている限りの事を話した。

 戦と病で父母を亡くして戦場で生きてきた事。

 巡礼の僧に拾われ共に学び、旅に出た事。

 義父に託された理想(ユメ)の事。

 そして今は僧籍ではない旨も。

 流石に魔術師である事を暴露する訳にはいかなかったが。

 二人はそれぞれが全く異なる反応を示した。

 阿紀は慰めるべきか決めあぐねている様な苦い顔を。紫希は穏やかな相のままただ静かに相槌を打っている。

 私はとりとめもないことながら姉弟ですらこうも違うものなのかと内心驚いていた。

 

 しかし私の方も最大の疑問が残っていた。

 何故男である阿紀でなく女である紫希が家を継いだのか。

 私は出来る限り慎重に言葉を選び問いを投げ掛けた。

 

「……それに関しては今はまだ。何時か機会があれば答えましょう」

「……そうか。失敬した」

「けど、そうね……わたしの体質が関わっている、とだけ言っておくわ」

 

 私はそれ以上問い詰めることはしなかったが、極めて気がかりな言い方だ。 

  ──体質。それがどう関係していると言うのか。

「そうだ、ここまで世話になったのだ。何か手伝える事があれば何なりと命じてくれ。私にはそれしか返礼する手がない故」

「お礼なんてそんな……なら村の皆の作業を手伝ってきてくれないかしら」

「承った。それだけで良いのなら、行くが?」

「ええ。行ってらっしゃい」

 

 やはり二人共その風貌に相応しく謙虚な人柄であるらしい。

 私は門から出ると共にすぐ下に見える村落へと向かう。

 存外、この村には長く世話になるやも知れんと思ったので観察もしておくと良いだろう。

 

 

    ◇

 

 

  ──もうすぐ夕が訪れようとしていた。

 屋敷から下りて村人の作業を日中手伝ってみた処、幾らか奇妙だと思う点を見つけた。

 どうにもこの村はそれほど豊かというわけではないものの、これ迄見てきたどの村よりも人々に活気があるのだ。

 そう、老若男女問わず精気があり病や障害を抱えている者が一人も居ない。

 それ故か皆他所者である私にも極めて好意的で、私を訝しむそぶりさえ見せなかった。

 これは珍しいという言葉すら越した事だと思う。

 私が見た村落というものは基本的に貧しく殺伐としていて閉鎖的で、誰もが己の生を背負うのに精一杯だった。

 それにこの村の人間は例外なく心から天邏家の二人、特に紫希を心から尊敬──いや、『生き仏様』と呼び崇拝すらしている様だった。

 

 やはりあの紫希という女は只者ではなかった。

 ならば彼女は一体何者か。

 それを、知らねばならない。

 そも彼女には初めて会った時から何か鮮烈なモノを感じていた。

 そう、初めて彼女を見たあの時、私は何故か怖気にも似た感覚を感じたのだ。

 

  ''アレ''に関わってしまえば、決定的に''何か''がズレてしまう────。

 

 それは神仏か、或いはそれすら越えた存在からの警告の様に思えた。

 だが、それでも私は彼女に近付いた。

 幾許かの不安はある。

 ただ、もしかしたら彼女こそ私の理想(ユメ)の成就に必要な要素かも知れないという確信があった。

 

 私は諸々の懸念と何の根拠もないほんの僅かな希望を抱いて屋敷への帰路に着いた。

 

 

     0

 

 

 ──今思えば、アレは私にとって何だったのだろうか。

 確かに彼女は私の特別だった。

 そう、あの頃の私にとって彼女の小さな背中こそ己の全てであったのだ。

 だが、結局救いにはならなかった。

 それは何故か。

 ……いや、結論を出すにはまだ記憶が足りなすぎる。

 もう少し、夢を見るとしよう。




 今回もお読み頂きありがとうございます。
 感想を書いて頂けると作者の励みになります。
 それではまた次回。


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彼方を継ぐ者/3 -憧憬-

 不定期更新です。


 

    /1

 

 

 ──不審な者が村に入り込んでいる。

 

 天邏家に住み込んで三月(みつき)ほど経った日の事だった。

 夜中、念の為山の中に張ってあった侵入者探知用の結界に反応があった。

 私はすぐさま身を起こし、屋敷の者に気付かれぬよう支度をする。

 だが。

 彼女──紫希が居ない。

 こんな時間に一人で外出だと? 有り得ないことではないが、よりにもよってこんな時に──。

 それに何故屋敷の者達も気付いていないのか。

 嫌な予感がした私は間髪入れずに結界のある山に行く事にした。

 

 

    ◇

 

 

 ──ここか。

 どうやら既にコトは起きている様だ。

 山中の結界に続く獣道にはまだ新しい血痕がある。

 それは進む度段々と濃く多くなっていく。

 紫希、どうか無事で居てくれ──。

 

 そう思った矢先、薄っすらと人影があるのが見えた。

 

「紫希……?」

 

 そこには、初めて会った時と同じ様に何をするでもなく佇む紫希の姿があった。

 ただし、右手に紅く妖しい輝きを放つ刀を持ち、黒い羽織りを纏い、血に塗れた幽鬼の様な姿になっているが。

 不思議とそれはあの日見た眩い後ろ姿と全く同じ様にしか見えなかった。

 

 とにかく、彼女が無事なのかどうか。私にとってそれが最も重要なことだ。

 私が何かを切り出す前に彼女が口を開く。

 

「……荒耶? 駄目じゃないの。こんな時刻に一人で出歩いては……」

 

 彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま、当たり前の様に私を咎める。

 この状況もあって私の混乱は一層深くなっていく。

 

「そんな場合ではないだろう! 大事はないか? 誰にやられた?」

 

 焦りを隠せない私は捲し立てるも、彼女はあくまで平然と答える。

 

「これはただの返り血よ。それよりもっと聞きたい事があるのではなくて?」

 

 そうだった。無事であるのはいい。だがこの状況はどう考えても異常だ。その返り血も、明らかに呪詛を帯びたその刀も。

 とにかく、何か一つでも説明して貰わなければ。

 

「君はいったい何を……? その血は誰のものなんだ……?」

「そうね、ただの鼠狩り、鬼退治と言った所かしら?」

 

 そう言った彼女は刀で地面を指す。

 そこには明らかに人ではない、異形の者どもの屍が転がっていた。

 そう、彼女が戦っていたのは人ではない。

 彼女は村に侵入した鬼を討つ為に山に入ったのだ。

 当然、そんな事はただの人間には到底不可能だ。

 つまり、彼女の正体は……。

 

「そう、わたしは退魔の者よ。天邏家というのはね、退魔四家の一角たる両儀の分家。あなたも僧侶だったのなら、聞いた事がなくて?」

 

 ──退魔四家。確かに寺に居た頃に聞いた事がある。

 両儀、浅神、巫淨、七夜から成る人ならざる(あやかし)を討つ者達が居ると。

 天邏家も、その一端だと言うのか。

 

「……君は、たった一人でこんな事をしているのか」

 

 彼女は何の感慨もなく、ただ静かに語る。

 

「そうよ。でもこれはただの雑務、ただの掃除に過ぎないわ。それだけなら阿紀がやっても同じ事。魔を狩るのは退魔の本分だけど、わたし自身の役割は違う所にある」

 

 紫希は、退魔は自分の役目ではないと語る。

 確かに、それだけなら男である阿紀を差し置いて紫希が当主である必要はない。

 そこには必ず、私の知りえない事情が隠されている筈だ。

 

「でも、それは内緒。隠し事なんて嫌いだけど、これは村の外の人には知らせない決まりだから。それに謎が多い方が魅力的でしょう? 謎多き女、天邏紫希。なんてね」

 

 それは、彼女なりの深入りしない方が良いという忠告なのだろう。

 ……確かに、あくまでも部外者でしかない私にそれを教えたところで意味などない。

 それどころか秘密が漏洩してしまっては、敵対者の利になりかねない。

 秘密とは隠し通さなければ不利益に繋がるからこそ秘密なのだ。

 

「分かった。これ以上は詮索しない事を約束しよう。……ただ、次''鼠狩り''をする時は私も同行されてはくれぬか?」

 

 あまりにも予想外だったのか、彼女は目を丸くして押し黙る。

 勢い付いた私は彼女が驚いている内に続ける。

 

「私は幾度も妖の類を討った事がある上、除霊にも覚えがある。同行が無理なら代わりに私に任せるのはどうだ?」

 

 正直、勢いだけで要求した事に自分でも驚いているが、理由だけなら思い付く。

 以前から彼女には言いようのない危うさを感じているのだ。

 その明るさも柔らかさも、押せば壊れる硝子細工の様な脆い均衡の上に成り立っているとしか思えない。

 魔を祓う事は退魔の義務だと彼女は語った。

 だが、私はその様な使命感から生じた行動ではないと思う。

 今思えば、屍の山で佇む姿はひどく悲しそうで──罰を待つ罪人(つみびと)みたいに怯えて見えた。

 言い過ぎかもしれないが、これは自傷行為なのではないか。

 自身を危険に晒すことで自らを罰する。

 少なくとも、''鼠狩り''だけはそういう行動原理が潜んでいると思った。

 私は、紫希の事も天邏家の事も多くは知らない。

 けれど、もう放っておくことなどできそうにもなかった。

 だから──無理を承知で助けになりたいのだ。

 当然、彼女は厳しい眼差しで問う。

 

「──どうして? 化生を討つのは私だけの責務。あなたが巻き込まれる謂れはないでしょう」

「謂れなら、ある。……君は初めて私と会った時、''目的は同じ''と言っただろう。そうだ、それが人を救うことに繋がるのであれば即ち私の責務だ」

 

 ……そう、彼女と私は同志。

 彼女がどんな苦しみを抱え、何を思って救済を志したのかは知らない。

 思い上がりでしかないが、その理想だけならば共にできるだろうか。

 

 それに対し紫希は哀しげに、宥める様に語った。

 

 

    ◇

 

 

 ──荒耶宗蓮という男は初めて見る類の人だった。

 戦場跡で何もできず立ち尽くしていたわたしに声をかけてきた彼は、今まで見たどんな人よりも真っ直ぐで、しかし異質に思えた。

 ──同類かもしれないと。

 自らの意志で屍の山を闊歩し、弔うことしかできない現実に膝を折るその姿はなんだか鏡写しの様。

 余所者など滅多に来ない事もあって、気紛れを起こしたわたしは彼を側に置いて観察していたいと考えて連れ帰る事にした。

 

 彼と暮らし始めて暫く経ってからの事。

 わたしは彼の炎の様に一途な瞳の奥に僅かばかりの濁りを見出した。

 

 彼の内に潜む小さな、けれど確かな(くすぶ)り。

 それは、きっと憤怒と呼ばれる類のものだ。

 彼の最も奥に沈む、心の澱。

 その怒りがいつしか彼を飲み込んでしまうかもしれないという危惧がわたしには芽生えていた。

 彼はわたしを同志だと思っているようだけど、本当はわたしは綺麗な人間なんかじゃない。

 けれど彼は違う。

 彼の抱く想いは、その理想はとても純粋で美しい、剥き出しの真実(ほんとう)から生まれ出たもの。

 ……わたしが唯一持っている、後ろめたさから生まれたニセモノとは根底から異なるものなんだ。

 だから彼には綺麗なままであって欲しい。

 そう願ったからこそ、彼に余計な重荷を背負わせたくなかった。

 この件に関しても何の含みも無い、純粋な使命感から願い出たのだろう。

 そうであるのなら、わたしはそれを受け入れなければならない。

 ──それが、彼の望みなれば。

 でも、これだけは言っておかないと。

 

「……いいでしょう。同行を認めるわ。でも勘違いしないで。あなたが自身に課した責務は『人を救う』こと。決してこんな忌み事なんかじゃない。何もかもを受け容れるという事は最も不浄である事と同義よ。魔を討つ者はその業を背負う。この意味が解らないなんて事はないでしょう?」

 

 彼は何の迷いもなく即答する。

 

「識っているとも。理想を掲げ、その為に生きる、その代償を──幾度も払ってきたのだからな」

 

 全ては理解した上での行動だった。

 そんなこと、最初から知っていたというのに──。

 彼を危険な目に会わせるのはどうしても躊躇われてしまう。

 理由なんて知らない。それでも、彼が傷付けられる場面を想像するだけで肌が粟立ってしまう。

 彼が理想を掲げ続けるというのなら、わたしはそれを後押ししてあげないといけない。

 ……それは彼に綺麗なままでいてほしいという、酷く身勝手で、どうしようもなく醜い願望でしかないのだけど。認めると言った手前、そうせざるを得なくなったのだが。

 

「ならいいわ。お好きに戦いなさいな。けど、足手まといだけは勘弁願うわ」

 

 棘を含ませた言葉に彼は明確に安堵し、感謝すらして見せた。

 理由は当然決まっている。今更語るまでもないけれど。

 

 ──ああ、わたしは何て弱いのだろう。

 彼がどうしても引き下がらない事が分かっていたから、こうも易々と危地に連れて行く事を約束してしまった。

 本当に彼を想うのなら、どんな手を使ってでも止めるべきだったのに。

 

 ──ああ、わたしは何て醜いのだろう。

 そんな彼の在り方が好きだというだけで、無意味に重荷を負わせてしまう。

 ただわたしの充足の為に、彼にヒトとしての道を説いてやれない。

 

 それでも、後悔だけは無かった。

 彼を危機に陥れているのはわたしなのだけど、これからは彼を守りながら戦うという新たな責務が生じた。

 今はそれが、少し嬉しい。

 

 

   ◇

 

 

 あれからもう三月(みつき)ほど経った頃。

 私は奇跡を目の当たりにした。

 

 日が落ちて村も眠りに落ちた頃、瀕死の重傷を負った村人が天邏邸まで担ぎ込まれてきた。

 熊にでも襲われたのか骨は皮膚から突き出ており、内臓すら露出している、即死していない事が奇跡と言える程の深い傷。最早魔術ですら助からないのは明白だった。

 私はそれでも諦めまいと必死に治療を試みるものの、焼け石に水程度の効果しかなかった。

 そうして、狼狽し半ば諦めかけていた私の前に突如として紫希が現れた。

 魔術を知らない彼女ではどうすることもできないだろうと諦観している私を前に、彼女は村人の患部に優しく、子供をあやす様に触れ、念じる。

 その瞬間──彼女の手から青く淡い輝きが発せられ、瞬く間に傷が癒えていく。

 ──まるで初めからそんな傷は無かったかの様に。

 

 多分、あまりの出鱈目さに私は固まっていたのだろう。

 その間に村人は意識を取り戻し、私と紫希に感謝を告げて家族に運ばれていった。

 

 あれ程の傷を、触れるだけで癒す。そんな魔術、聞いたこともない──。

 

 当然すぐに今起きた奇跡について問い質すも、彼女は口を開きたがらなかった。

 幾許かの逡巡の後、お互い落ち着ける場所に行き、仕方ないという風に語りだす。

 

「……そう、これがわたしの本当の役割。天邏が受け継がせてきた異形の力。これはその一端」

「それが、君の……退魔としての真の異能という事なのか」

「半分は正解よ。でも、天邏家はそんなことをわたしに期待した訳じゃなかった」

 

 私が問いを投げかけるより先に、紫希は自らの出自を語る。

 

「かつて、両儀家は万能で完璧な個人を創り出す為に一つの肉体に二つの人格を住ませる事にした。陰と陽、男と女。相反する二つの性質を持つ、その名の通り『両儀』である太極を体現した人間を創る事でその悲願を遂げようとしたのよ。その分家である天邏も同じ目的を持っていた。けれど所詮分家でしかない天邏には両儀の伽藍創りの技術は無かった。そこでわたしの先祖達は『二つの人格を持たせられないのなら、相反する性質を持った二つの異能を持った人間を創ればいい』という考えに至った。その果てに生まれた完全体がわたし。目論見通りに二つの異能を持って生まれたわたしは女の身でありながら当然に当主となった」

 

 そうか……紫希が当主になったのはそういった理由有ってのことだったのか。

 彼女が隠し続けてきたもの。それがこの異能なのだろう。

 だが、それだけではない筈だ。

 

「……でも、わたしはこの力が憎い。わたしには『収奪』と『譲渡』の力があるから、それで出来るだけ沢山の人を助けようとしていたわ。けどそれは思い上がりだった。幼いわたしは無闇矢鱈に力を譲渡して、救世主を気取っていた。……無限に湧き出す力なんて都合の良いものがある筈ないってコトすら考えずにね」

 

 彼女はその端正な顔を悔恨で曇らせながら、半ば懺悔する様に言葉を絞り出す。

 

「そうして数年と経たない内に、わたしの両親が死んだ。理由は明白だった。……わたしが生命力を『収奪』していた対象は両親だったの。その事実に気付いた時、心の底から生まれて来なければ良かったと思ったわ。わたしは誰かを救えるっていう思い上がりで、名前も知らない人々の為に一番大切な家族を手に掛けたのよ……」

 

 ──知らなかった。

 彼女が抱える苦しみ。それが何であるかすら考えずに、私は紫希を人間の理想像と重ね合わせていたのだ。

 ──何という、蒙昧。

 ──何という、愚物。

 私は知らず頭を抱え、部屋は通夜めいた空気に呑み込まれていた。

 

「でも、引き換えにわたしには''道''が視えるようになった。不思議な事にこの''道''を辿っていくと、そこには門があって、中は見えないのだけどそこから流れてくる''力''を手で掬うことができた。成長したわたしは確信した。''これこそが無限に湧き出す力、世界の果てに繋がる道に違いない''とね。『天邏(あまら)』には『天を巡る』とは別に『阿摩羅識(あまらしき)』という意味がある。擬似的な太極として創られたわたしの肉体は、それに近しい何かと微弱な繋がりを持っていた」

 

 私は更に愕然とする。

 阿摩羅識? 繋がり?

 ──それは、魔術師の最終目標である『根源の渦』と同一の存在ではないのか。

 

「流れに干渉することはできずとも、わたしには流れの一部を奪い取る力がある。そうしてそれからはそれを生命力として村人達に譲渡することにした」

 

 そうか、それがこの村を覆う怪奇の真相だったのか。

 通りで傷病者が居ない筈だ。

 

「つまり、君がこの秘密を口外する訳にはいかないと言ったのは……」

「……もし村の外の者がこの力を知ったら、わたしを放ってはおかないでしょうね。村人達はわたしを手放しはしないでしょうから、大名──それも内府がこの村を焼き尽くすことになるわ」

 

 これで彼女の謎は全て明らかになった。

 だが、これで私にはもう一つ責務が生まれた。

 ──その様な非道、決して許してなるものか。

 

「分かった。秘密は必ず守る。仮に知られてしまったとしても、この村も君も、この荒耶宗蓮がどんな手を使ってでも守り通す」

 

 私はありきたりな言葉でしか表現できないが、それでも最後まで皆を守るという決意があった。

 だが彼女はむしろ私の期待とは真逆の反応を見せた。

 

「──違うの。わたしはあなたが思っている様な綺麗な人間なんかじゃない。あなたはわたしを同志だと言ってくれたけど、本当は違うのよ。……わたしはただ、贖罪がしたいだけ。そうしないと自分を許すことができないから。わたしには理想なんて無い。それは後ろめたさから生まれたニセモノでしかない。……だからあなたが眩しかった。本物の、美しい理想を抱くあなたが。身勝手にも、そうであり続けて欲しいと願っていた」

 

 彼女は半ば諦めたような苦笑いを浮かべ、自嘲する。

 

「わたしは誰かに守られる資格なんてないの……。あなたが抱える理想はいずれあなた自身を傷つけるって解っているのに、そうで在って欲しいと望む。幸福の意義なんて考えもせずに人を救う真似をする。自分が許せないというだけで、他者(ひと)を守るふりをする。──本当、何て無様」

 

 ──違うんだ。

 私はただ、誰にも傷ついて欲しくないだけで──。

 

「──それは違うな、紫希。私は……確かに多くの報われない死を見てきた。人を救えた事など、一度として無かった。それでも──後悔はしていない。私はこの理想を抱けて良かったと思っているのだ。君にこそ問おう。君はその力を誰かの為に使った事を、誰かを救った事を後悔しているのか」

 

 そう、私とて知っているとも。

 己一人幸福でいることがどれほど罪深く感じられるかなど。

 君はただ、人一倍優しいだけなんだ。

 

「……わからない。わたしはただ誰かの役に立てるんだと思いたかった。だから誰にでも力を行使した。どうして自分一人で満ち足りていられなかったかは知らない。……両親を殺した事は当然後悔しているわ。でも、それで誰かが救われたというのなら──その結果だけは悔やまない」

 

 理解した。

 君は弱くなどない。

 たとえ自分の為、贖罪の為だとしても、自らを投げ打ってでも人の助けになりたいという想いが君にはある。

 君はそれを偽善だと蔑んでいるのかもしれない。無様だと嘆いているのかもしれない。

 それで大切な何かを失くそうとも、誰かを救えたのならば受け入れる。

 そんな強さが、君にはある。

 

「君は、とても人間的なのだな」

 

 ただ、その強さと人間らしい脆さが眩しくて、知らず呟く。

 

「君は──綺麗だ。己のものでない業を負って尚、自分にも他人にも手を差し伸べる。始まりが後ろ暗いものだとしても、それは間違いなどではない」

 

 そう、彼女は美しい。

 風貌ではない。その在り方が、人としての生き方が、ただ眩い。

 他者の因果も己の業も背負い、それでも自分も人も見放さない。そんな在り方が。

 普通は憐れむべきなのだろうが、私はそうは思わない。

 憐憫も同情も、贖罪を望む彼女には傷になってしまうから。

 

「私は君を酷く勘違いしていた。君と私は全くの別物、反面と言えるのかもしれない。……私には、理想はあっても望むことが無いのだ。だが君は違う。君がニセモノだと言うそれは、理想ではなく望みだ。自分がそうでありたいというのではなく、他人にそうであって欲しいという願望。これが私には、決定的に欠けている」

 

 彼女はそんな事、考えもしなかったという風に私を見る。

 

「一聞すると、その願望は醜く感じるかもしれない。だがな、他人に尊くあって欲しいという願いとは、その人物を信じているからこそ生まれるものなのだ。しかし私にはこれが無い。私には、自分一人尊くあればいいという傲慢な理想しかない。私はつまり、誰も信じていないし興味も無い、ということになる」

 

 ──君に出会うまでは。と最後に付け加える。

 彼女はぼんやりした瞳で私を見る。

 

「わたしも、あなたを勘違いしていた。あなたの理想って何だか……とても寂しいものなのね。──あなた、わたしを綺麗だと言ったけど、わたしからすればあなたの方こそ奇跡みたいに綺麗よ」

「……はは。そうか、私たちは本当に正反対だな。だからこそ、お互いが眩しく見えるのかもしれないな」

「そういう……ことなのね。わたしたちはお互いが持っていないものを羨んでいる。だからこそ、その穴を埋め会えるのかもしれないわ」

 

 紫希は心からの『苦笑い』で結論を語る。

 つられて私も苦笑いを浮かべる。

 

「──紫希、君は綺麗だな」

「──宗蓮、あなたって綺麗ね」

 

 理想を抱く魔術師であれ、望みを抱く聖女であれ、根底にある感情は同じ。

 はじめから、自分に無いものを求めていた。

 それこそが人間の本質なのだと、私たちは苦笑いした。

 そしてそれは、その小さな手が握っていたのだ。

 

 この瞬間から、天邏紫希は荒耶宗蓮の世界の半分を占めるようになったのだった──。

 

 

    0

 

 

「私は何も望まない」

 

 目の前に佇む男に、私はそう答えた。

 ……どうやら私は、彼処に望みを置いていってしまったらしい。

 では何故、私は望みを忘れてしまったのか?

 何故、理想だけが胸の内に残っているのか?

 結論は無い。

 

 だが、それを出せる者は見つけた。

 ──両儀織。両儀の完全体たる世界の歪み。

 私は彼が『両儀式』でない事を知っている。

 十二年前、彼と出会った時から私の内面には奇妙なしこりが残り続けている。

 ……あの時は気付かなかったが、今思えばあまりにも似ているのだ。

 天邏紫希。私の半身であった彼女に。

 きっと、織が式に成れなかった因果は、彼女にこそあるのだろう。

 

 私は何者でもない。ただ結論(こたえ)が欲しい。

 故に私は夢を見る。

 遠い昔の夢を見る。

 そうしていつかの夢を織る。

 はかなく失せた、夢を織る。

 

 夜の終わりは後少し。されど夢には終わりなし。

 故に私は待っている。夜の終わりを待っている。

 

 




 以上、過去編第三話でした。

 そう、両儀織が両儀式に成れなかったのは、両儀の分家たる天邏紫希が関係しているのでした。
 理想しか持たない荒耶宗蓮。
 願望しか持たない天邏紫希。
 結局、どちらも無いものねだりなだけなのです。
 それを理解してしまったからこそ、お互いが無くてはならないと認識したのです。

 さて、漸く愛情らしきものを理解した荒耶ですが、ここからどう地獄の釜にブチ込むか悩みますな(愉悦)

 ここまで読んで頂きありがとうございます。
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彼方を継ぐ者/4 -誓約-

 不定期更新です。


    /1

 

 

 紫希が私に己の本質を語って以来、私と彼女の関係は変化した。

 以前は何処か観察するかのように、余所余所しく私を見ていたのたが、今では家族のように接してくれている。

 幼くして両親を亡くした彼女にとって、家族とは何よりも眩しく恋しいものであるのだろう。

 私をそのように扱うのはきっとそれ故のこと。

 私には大義がある為、何時までこの村に居座れるかは分からないが、それでも彼女の孤独を埋める手助けになれることを切に願っている。

 ……それに彼女には弟がいる。だから此処を去る時は、せめて意味のある思い出を残せるようにしたい。

 

 そんなことを考えていたのは、今日は何の故か眠れなかったからだ。

 紫希も召使い達もとうに寝静まった丑三時、私は一段と美しい月明かりに照らされながら意味も無く縁側に座り込んでいた。

 そうして今までの様々な感慨に浸っていると、横から涼やかな声を掛けられる。

 

「何だ宗蓮、おまえも起きていたのか」

 

 声の主は紫希の弟である阿紀であった。

 

「奇遇だな。どうにも、満月が眩いものでな」

 

 私も軽やかに返す。

 私と彼の関係は友とも家族とも言える、或いは何方とも言い難い奇妙な絆で結ばれている。

 他者の内面に深く踏み込もうとせず、飄々と振る舞う彼の気質故か、私と彼の会話は往々にして徒然なることに終始する。

 だが、今日の彼は少し違った。

 

「なあ、宗蓮。おまえ、何時まで此処に留まるのだ?」

「さてな。私には果たすべき理想、貫くべき理念が有るが、正直な所果てが見えぬ」

 

 ……確かに、大乱の世は終わり、天下は泰平に近付きつつある。

 それでも苦しむ民衆が居ることに変わりなく、まだまだ救いが必要であるのが現状だ。

 それ故に私は何時までも此処に留まる訳にも行かないのだが……。

 

「理念、理想か……。姉上から聞いたぞ、おまえのそれは『救世を為す』ことだと。ならば、おまえにとって救いとは何だ?」

 

 阿紀はいつになく真剣な、されど風に揺れる柳のように涼やかなまま問いかけてくる。

 ──救い。その定義。

 私は多くの人々と同じように苦境の中で生き、偶然に出会った僧侶達の理想を継いで先鋭化させてきただけの人間だ。

 もし、私が救いというものを定義するならば、それはきっと人々が考えているものと大差ないのだろう。

 

「……私はただ、万人が幸福であって欲しいだけだ。平等に誰もが傷つかない世界。喜ぶ者の陰で悲しむ者が現れない、そんな世界を望んでいる」

「……なんだ、それは。はは、それを人は『極楽浄土』と呼ぶのではないか。これは何とも珍妙な! 極楽を目指す者はあれど、よもや現世(こちら)の方を浄土と取り替えようとは! それでは叶わぬは道理ではないか!」

 

 彼は明朗快活に哄笑する。

 夢を笑われていると考えれば大抵の場合憤慨するものだが、私はむしろそれこそ道理であると感じた。

 そうだ。このような夢想、果てなど無いに決まっているではないか──。

 

「いやいや、まことおまえは飽きさせぬ。果ては無いと言ったな、宗蓮。いいや、おまえの旅路には確かな果てがあるとも。つまり為してしまえばよいではないか。極楽を我が手の内に。浄土を我が足の元に。それこそが理想の果てであろう」

 

 ユメの、終わり──。

 ああ、それはどんなに尊い眺めであろうか。

 もしそんなものに手が届くのだとしたら、この命など──。

 

「……少し、語り過ぎたな。すまんが話を変えるぞ。言っておくが、これは冗談などではない。心して聞き入れよ」

 

 阿紀は少し間を置いて冷ややかな表情で私を見据える。

 普段の面持ちとはまるで異なる様相に思わず躰が強張る感覚が走る。

 

「荒耶宗蓮よ。これからは天邏宗蓮と名乗るつもりはないか」

 

 ──名を改める。それはつまり──。

 

「……私を養子にしたいと言うのか君は?」

 

 座っている状態であるというのに、阿紀は盛大に滑る。

 そんなにまずい返答だったのだろうか?

 

「違うわ! 全く、なんと鈍い男なのだ……! つまりは我が姉、紫希の伴侶として共に在るつもりはないかと言ったのだ」

「──」

 

 彼の面持ちに軽薄さは微塵も無い。

 阿紀は、本気でそんなことを言っている。

 

「それこそ真逆だな。私などではアレは到底釣り合わん。それに外法の徒とはいえ私は僧侶。妻帯など以っての他」

「なればこそよ。我ら天邏とて外法の一族。姉上はその果ての存在だ。正直、おまえ以上に相応しい者など他に居らなんだ」

 

 ……だが、それでも。

 私が私である以上、彼女にそのような想いを向ける訳にはいかない。

 もしただ一人に肩入れしてしまえば、きっと他の誰かの手を掬うことは叶うまい。

 私は静かに首を横に振った。

 

「そうか。では致し方無し。……我ら退魔は真っ当な武家ではないが故、相手の身分に婚姻を縛られることはない。家としての目的も本家たる両儀より先にほぼ果たしている以上、姉上は己以上の子を産むこともなかろう。だからこそおまえが相応と考えたが……」

「今は断る」

 

 阿紀は心底惜しそうに息をつく。

 この分では当分諦めそうにないだろうと思うと背中がむず痒くて仕方がない。

 

「……それにな、これは姉上の為なのだ。姉上は、父母を喪い己の力の危険性を自覚してからは俺以外の誰にも心を開かなくなった。きっと大切な誰かを奪ってしまうことを恐れてのことだろうが。それからはただ手当たり次第の人間を救おうと力を振りまいた。人を救い続けることだけが贖罪で、存在価値だと語っていたからな。──確かに、姉上は多くの者を救ったさ。この近辺に彼女を尊ばぬ者は居らぬ程に。だが、姉上だけは。紫希だけは一人、訳も分からず与えられた力に苦しんでいる。……あの力の源は遠い『空』(カラ)とやらに有るとは言っていたが、このままではいずれ、そう遠からぬ先に姉上は……」

 

 ──知っていた。私はあの時の対話でその傷みの一旦を知っていた。

 だが、私たちは互いにその話題を避けている。

 おそらく、彼女らしい気遣いなのだろうが、それはただ逃げているだけなのではないか。

 

「だが、おまえが現れてからは変わった。姉上はおまえに家族以上の──無二の情を向けている。頼む。彼女の力はおまえの助けになる筈だ。だからどうか──紫希を救ってやってくれ。おまえにしか出来ないことなのだ。おまえだからこそ任せられるのだ」

「……紫希を私が救う……?」

 

 ──違う。

 救われたのは私だ。

 果てのない苦難の中で潰れようとした私は──彼女という光によって蘇った。

 魔術も法術も悉く無意味にしてしまう程の奇跡の持ち主。

 だからこそ、私は彼女の力を使って何か大きなことを為そうと思った。

 

「……もし、叶うのならば、私は紫希と共に世界を救いたい。そうすれば、きっと彼女の望みも、彼女自身も救われる筈だ。だから──今は、まだ」

 

 世界の救い。それが叶えば紫希も救われる。故に今は彼女だけを選ぶことはできない。

 

「ふふ……おまえという男はまったく……。ああ、おまえに叶えられないことは無いさ。初めは南蛮の仙術など法師か陰陽師の類だと思ったが、おまえは(まこと)の神通力だ。おまえの抱えている懊悩、絶望は解せぬ。だが、その瞳を見れば判る。多少の迷いはあれど少しの濁りもない、焔が如き瞳。この先如何なる地獄が待っていようと、おまえは決して折れぬ。何故ならおまえは願いを託された──『彼方を継ぐ者』なのだから」

「彼方を継ぐ者──」

 

 ──彼に、私の苦悩は理解できない。彼はその地獄を知らない。

 けれど──ちっぽけな筈のその言葉は、いつまでも胸に熱く残った。

 

 

    /2

 

 

 紫希との日々は瞬く間に過ぎて行った。

 桜の咲き誇る春、蛍の煌々と煌めく夏。そして暑さの残る秋。

 私は既に半年もの時間を此処で費やしていた。

 これこそ奇跡としか言い様のない泰平だった。

 だが先月に太閤は世を去り、その一派と内府の軋轢は強まり、決壊に達そうとしているのが現状だ。

 だからこそ、決戦の時に備えて行脚の支度を整えなくてはならないのだが……。

 それでも尚、私は彼女の元を離れることができない。

 

『あの力、その源は遠い(カラ)とやらにあるという』

 

 阿紀の言葉が、何度も脳裏を過る。

 ……その力が、天に在るというのなら──何れ涅槃に至ることも能おうか。

 もし、私がその力を世界の為に使いたいと言ったら、彼女は付いて来てくれるだろうか?

 もしもこの村のような光景を、世界全てに齎せると言ったら?

 きっと紫希は拒むまい。

 衆生の救い。それだけが彼女が己に定めた存在価値だと言うのだから。

 それでも──私は遂に一度もその話を切り出せなかった。

 私は──決定的に何かを恐れている。

 理想の成就。私だけでは決して為せない夢物語が、彼女の手なら為せるかもしれないのに──。

 

「ねぇ、今日も満月が出ているわ。肴にお団子でもどうかしら」

 

 懊悩する私に、紫希はいつものように儚い笑顔で話しかける。

 海のように深く濁りのない瞳。

 常に憂いを浮かべているというのに、楽しむべき時は誰よりも笑う。

 ──私はこの笑顔に一度も勝てたことがない。

 

「……本当に良い月だ」

 

 紫希に言われて初めて天に浮かぶ満月と、満天の星空に気が付いた。

 私が生まれてから、幾度も満天の星は現れたことだろう。

 されど、此処に来て初めて──私は泥ではなく星を見ることを知った。

 思えば、屍を見ない日など一日もなかった。

 誰も泣かなかった日は──誰も叫ばなかった日は一日すらなかった。

 それも──半年前までの話。

 紫希に出会ってから、私を囲む世界は幸せの記憶に埋もれようとしている。

 だからこそ──それが苦しい。

 誰かが今も苦しんでいる事実は変わらないというのに、私はそれから逃れようとしている。

 これを堕落と言わずして何と言う──。

 

「……今日はいつにも増して浮かない顔ね。どうしたの?」

 

 紫希は神妙に私の顔を覗き込む。

 今日は月が綺麗だからだろうか。私は己の心の澱を今にでも吐き出してしまいたかった。

 

「……怖いのだ」

「何が?」

「上手く言えない。だが……私はいずれ大きな選択を強いられる予感がする。もし、私が選んだことが間違いだったなら……君はどう思うだろうか」

 

 紫希は少し哀しげな顔で考え込む。

 欲を言えば、何もかもを抱え込んでいる彼女にもうこんな顔をさせたくなかった。

 それでも、いつかは決着を付けなくてはならない。

 

「例えば?」

「……もし私が、君を置いて此処を出て行ったとしたら──君はどう思う?」

「悲しいわ。三日は泣いてしまうかも。でも──あなたが選んだことだもの、責められる筈がない」

 

 無論、何も言わずに彼女と別れるなどあり得ない話だ。

 それは彼女の力をむざむざ手放してしまうことだから。

 それほどに私を想ってくれる彼女の純朴さが、今は痛い。

 

「……聞いてくれ、私の理想は人を救うことだと言ったな。だが、それが私の独り善がりで、実はそれが世界に仇なすことだったなら。それで私が世界全ての敵に成ったとしたら、君はどうする?」

 

 私が抱えていた恐れの根源、それは。

 己の在り方が、初めから間違いではないかという根本的な懸念。

 人を救う。そんなこと自体が誤った理想だったなら。

 私は、それを恐れてきた。

 

「──それでも、あなたが正しいと信じたのなら」

 

 紫希は透き通った声音で、私の心を打つ。

 

「──しょうがないわね。例え世界があなたを憎んでも、わたしだけはあなたの味方で在り続ける」

 

 そう言って、彼女はクスリと笑った。

 ──ああ。

 私は、この瞳に惹かれたのだ。

 

「紫希……ありがとう……」

 

 その時、私は己にまだ目頭を過剰に熱くする機能が残っていることを悟った。

 

「大丈夫、あなたの祈りは間違いなんかじゃない。もしそうだったとしても、わたしも同じよ。出来るわ。わたしとあなたなら。だから──そんな顔しないで」

 

 紫希は私を優しく抱き締める。

 その所為か、堰を切ったように感情が溢れ出てくる。

 

 そこで初めて気が付いた。

 私が彼女を手放せない理由。

 奇跡の力を持っているからだとか、()()()()()()()()ではなくて。

 ただ、その全てが救いだったから。

 世界中の誰に許されなくてもいい。それでも、彼女にだけは許して欲しかった。

 彼女の言う通りだ。私と紫希なら、きっと成し遂げられる。

 私は──決定的に壊れた人間なのかもしれない。

 それでも、もう孤独には戻れない。

 

 私も彼女を抱き締めていた。

 気が済むまで、ずっとずっとそうしていた。

 

 

    ◇

 

 

 ──初めて触れた彼の肌は温かかった。

 この温もりをわたしは遠い昔に忘れてしまっていた。

 初めて彼に出会った時。

 彼がわたしを見つけた時。

 あの人はわたしに出会うべきではなかったのだと直感した。

 何故ならわたしは彼の枷。絆という名の軛。

 わたしは彼の(のぞみ)(ゆかり)ある者にして、天を(めぐ)阿摩羅識(あまらしき)

 彼を拾った僧の姓がアラヤであったのは一体何の因果か。

 出会うべきではなかった。されど因果は(めぐ)り、わたしたちは出会った。

 

『もう、後戻りはできないわね──』

 

 驚喜しながら諦観し、達観しながら歓喜した。

 

 覚悟はできた。

 わたしの望みは罪に塗り固められた偽善だったけれど、彼の祈りは本物だ。

 だから──わたしはわたしの為に、この身を彼に捧げよう。

 

 本当は幸福になる道を探せたのかもしれない。

 それでも、その理想を汚すことだけはできなかった。

 だって、あなたに綺麗なままで居て欲しいから。

 あなたを好きで居る為に。

 あなただけに救われたい為に。

 あなたを信じ続けるなんて都合のいい言葉だ。

 こうでもしないと、あなたはわたしを置いていってしまうから。

 だから──もう手放すなんて、してやらない。

 

 月は陰り、陽は昇る。

 それでも月は空にこびり付き、消えることはない。

 

 これが、アラヤとアマラの始まりの刻だった。

 




 今回もお読みくださりありがとうございます。
 斯くして因果は巡り、いずれ始まりへと至らん。

 本作オリキャラの天邏紫希ですが、実は読みさえアマラシキなら良いと考えていて、漢字はあまり考えずに付けてしまったんです。
 そうしたらなんだか自分的に良い感じに言葉遊びができたという偶然……。

 彼女の外見に関しては黒と白の小袖を着たセミロングの「 」さんを想像していただければ……。
 元のプロットでは名前の無い、荒耶の回想に少しだけ登場するだけの人物の予定でしたが、式の男体化の設定と荒耶の過去を膨らませる為に本格的に登場させることにしました。
 オリキャラを作ったのは初めてなので(二章の相川春菜はモブなので除外)、何らかの感想を頂けると今後の創作の糧になります。

 それではまた次回。もし良ければ評価の程をお願いします。

 
 


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彼方を継ぐ者/5 -対峙-

不定期更新です。


 

    /0

 

 

 ──遥か彼方、刻の果て。

 男は目を覚ました瞬間、膨大な知識が脳髄に詰め込まれていく感覚を覚えた。

 その通常ならありえない感覚を──男は当然のように受け入れ、深く、呪うように嘆息した。

 

「やれやれ、また汚れ仕事か。まあいい、何時ものことだ」

 

 男は草臥れ、光というものの一切が消えた瞳で周囲を見渡す。

 残響する蝉の声、一面に茂る芒、そこかしこに残る熱月の名残。

 今が如何なる時代、如何なる場所であるかは自動的に詰め込まれた知識に依って理解していた。

 男の知っている限りでは──故郷であるこの国のこの時代は、後の世の趨勢を決定する大きな戦の直前であり、世は不穏な空気に支配されている筈であった。

 されど、この村にはそのような剣呑さは僅かにも見受けられなかった。

 その楽園のような穏やかさと素朴な美景は、男に遠い過去に置いてきてしまった光景を連想させるには十分すぎた。

 それ故に──これから己が行おうとしている事に、男は擦り切れた心で嘆きを漏らす。

 だが契約を違えることは許されない。他でもなく己自身がそうさせた。

 幾星霜の刻の果て、度重なる理想(じごく)の末路として、男は此処に居る。

 

「さて──世界を救いに行くか」

 

 行うべきことは変わらない。

 そうあれと願われ、そうあると誓った時から、これまでも、これからも。

 赤い外套を涼風に棚引かせながら、男は救世の戦いに向かった。

 

 

     /1

 

 

「──何ということだ」

 

 青年、天邏阿紀は村人の報告に歯噛みしながら、装備を整えて村に向かった。

 

 ある日の明け方、一人の傷を負った女が屋敷まで駆け込んできた。

 何事かと阿紀自身が対面した処、村では緊急事態が起きているという。

 

 何処からともなく現れた一人の他所者。

 異様な風体の男に一人の子供が声を掛けた瞬間、子供は血を噴きながら地に伏した。

 理由は明確。男が目にも留まらぬ迅さで子供の頸を斬り裂いたのだ。

 恐慌に見舞われた村人の中から一人の青年が武器を手に躍りかかるも、男はこれまた珍妙な形状の鉄砲で容易く青年を地に転がしてしまった。

 ──そこからは、あまりにも一方的な殺戮だった。

 男は未知の武装で家々を焼き払い、逃げ惑う者も抵抗する者も、老若男女を問わず狗のように殺していった。

 その中で辛くも生き延びた一人の女──最初に殺された子供の姉である──は、兄が男の気を引いている間に、村の支配者である天邏を頼って此処に来たということである。

 

 今まであり得なかった非常事態に、阿紀の脳裏には最悪の可能性が過る。

 

『内府か太閤方に姉上の存在を知られた? おのれ、何ということだ──」

 

 女の言葉に依ると、男は黒い鎧の上に赤い羽織を纏っていて、手には短刀と短銃が握られていたという。

 

『赤い羽織──内府の赤備えかと思ったが、黒い甲冑となれば違うか。まさか宗蓮と同じ、"魔術師"とやらか──?』

 

 状況は最悪だ。

 さらに運の悪いことに、紫希と荒耶は妖狩りに出ていて山に居る。

 屋敷から少し離れた山、そこにいる彼らが異変に気付いたとしても帰ってくるには時間が掛かる。

 しかも襲われたのは村人達。これでは紫希達の下に向かうこともできない。

 狙いは明白、間違いなく紫希だろう。

 早急に荒耶の助力を仰げないのは惜しいが、標的たる彼女が離れた場所に居るのはむしろ僥倖と言えた。

 跡継ぎでもなく、際立って精強という訳でもないが、阿紀はかの"退魔四家"たる両儀の分家の者である。

 故に──凡百の武士では彼らの積み重ねた"業"には到底届かない。

 傷ついた女の治療を屋敷の者に任せ、阿紀は僅かな護衛と共に村へと駆ける。

 その瞳を"淨眼"の極彩に彩らせながら。

 

 

    ◇

 

 

「今日はこれで終わりにしましょうか」

 

 ふぅ、と一息ついて紫希は提案する。

 

「そうだな。もう他には見当たらないようだ」

 

 私たちは今、屋敷から離れた山中に居る。

 理由は何時もの妖狩りだ。

 空を見上げればもう明け方になりつつある。妖の気配が消えたのもその為だろうか。

 

「さて、大仕事も終えたことだし、少しばかり豪華な朝食と洒落込みましょう」

「ああ。君の下女の作る煮物は格別美味い。初めて食べた時の感動は一入(ひとしお)だった」

 

 激しい戦闘の後だというのに、私たちは平然と会話を交わす。

 彼女と共に死地に立ち始めて半年は経つが、彼女の戦闘技術はとりわけ異様だった。

 両儀に連なる一族が伝えるという、退魔の秘奥。

 刀を手にした瞬間に脳の機能を切り替え、肉体を戦闘用に作り変えてしまう絶技。

 普段はたおやかな彼女すらも、一度この業を行使すれば焼け付くような殺気を放ち、私ですらも畏怖せざるを得ない程に変容する。

 それ故に私は──安心して結界による防御に全力を回すことができる。

 結界に特化した魔術適正を有する私は、鍛え上げた拳打に依ってしか攻撃することができないが故に人外の者を敵にする時は手を焼かされることが多い。

 されど、紫希の''殺し''に特化した剣技があればもはや畏るる敵は無い。

 何よりも彼女の持つ''妖刀''。それを前にして切れぬ魔は無し。

 

「……っ!?」

 

 ──突如、全身に寒気が走る。

 この感覚は──

 

「紫希、村の結界に反応がある。──侵入者だ」

「──! 何者?」

 

 村には以前から敵意を持った侵入者を探知する結界が張っておいた。

 ここは鬱蒼とした樹々に囲まれていて村の様子は分からない。

 それでも──私は今だかつてない程の焦燥を感じている。

 

「判らない。だがこの気配……尋常ではなく強大だ。……何か強烈な違和感を感じる。急ぐぞ」

「ええ。村には阿紀が居るから暫くは大丈夫だと思うけど……あなたがそこまで言うなんて、きっと途轍もない猛者ね」

 

 途端に空気が張り詰め、刃のような緊張感が充満する。

 

「正体は判らないが……この上なく嫌な予感がする。気を付けろ」

 

 本能の導くままに私たちは村へ向かう。

 ──思えばこの時が紫希と過ごした最後の平穏だった。

 

 

    /2

 

 

「莫迦な……何故こんなことができる……」

 

 村の地獄のような有様に阿紀は愕然とする他なかった。

 家々を這い回る煉獄の炎。折り重なる屍と煤が積もった地面。

 苦悶が張り付いたその死相の全ては──阿紀が見知っている人々のものだった。

 

「巫山戯るな……巫山戯るな!」

 

 阿紀は平生の涼やかさからは想像もつかないような憤怒の形相で誰にでもなく怒鳴る。

 天邏一族が築き上げてきた村が、紫希の犠牲の果てに守り抜かれた平穏が──僅か半刻で灰燼と化した。

 武士として──人として、もはや下手人を生かしておく訳にはいかなかった。

 憤怒を内に秘めたまま、阿紀は屍の一つを仔細に見遣る。

 自分と同い年の青年。最近妻が出来たと嬉しそうに語った優しい若者。

 この青年こそ──屋敷に駆け込んできた女の兄であった。

 沈痛な面持ちで青年を眺める阿紀の耳に、掠れた声が入り込む。

 

「……阿紀様……」

「! 生きておるのか!?」

「……どう、か……妹と、妻を……」

「──待て! 逝くな!」

「頼みます……」

 

 青年はそれきり動かなくなった。

 女の話では、彼が敵を引きつけてくれたからどうにか逃げ切れたとの事だった。

 

「──大義である。後はこの天邏阿紀に任されよ」

 

 今際においても家族のことを託すその気高き魂を、阿紀は敬意を以って見送った。

 

 そこで阿紀は青年の躰に残る傷に違和感を覚える。

 胴体に三発の弾。紛れもない死因である。

 

『一人の人間に三発……? 銃という武器は一度撃てば装填に時間の掛かる物だ。それを一人に三発も? それに短時間でこれ程の惨状、敵は一人ではないのか?」

 

 阿紀は青年の近くに転がる奇妙な鉛弾に気がついた。

 その椎の実にも似た珍妙な形の金属。

 青年の躰を貫通したのであろうが、それはあまりにも常識から外れた形の弾であった。

 

『球形ではない銃弾……。内府や太閤は新兵器を開発していたのか? この状況、不可解に過ぎる』

 

 違和感を拭い切れぬまま、阿紀と少数の護衛は歩を進める。

 その渦巻く黒煙の先に、彼は緋色の影を見出した。

 

「待てい! そこな者よ、貌を見せい!」

「……」

 

 声に呼応して、音も無く影は振り向く。

 その出で立ちの異様さに──阿紀達は息を呑む。

 見たこともない黒い軽鎧。血のような紅い羽織、包帯に覆われ隠された貌。

 ──何よりも、恐ろしいのは双眸である。

 包帯から僅かに覗くその、絶望に塗り潰された亡者の如き灰の瞳。

 阿紀は今まで生きてきて──このような悍ましい有様を見たことがなかった。

 

「──下手人は貴様か。仲間は何処に居る」

「──仲間など居ると思うか? 僕のような者に」

 

 包帯の下から存外に優しげな声が響く。

 間違いなく下手人はこの男であると言うのに、阿紀は彼を完全に憎み切ることができない。

 何の故か──男と荒耶の姿が重なって見えた。

 

「目的は判っておる。大方、姉上の力だろう。生憎、()()()以外の誰にも渡すつもりはない。……特に、貴様の如き()()()()()にはな」

 

 阿紀は己の"淨眼"を起動させ、男を睨めつける。

 彼には退魔の者達が保有する"淨眼"と呼ばれる特殊な眼を備わっていた。

 ある者に遠見の力を、ある者に歪曲の力を与えるそれは、阿紀に対しては『魔を視認する力』を与えている。

 紫希が躰から発する"魔の気"、荒耶が結界を作る際に放出するような不可視の動力。

 そして混血の類が纏う強烈な"魔"。

 これらは西洋魔術においては『魔力』と呼ばれる元素であるが、阿紀の淨眼はその種類や効果を識別することに特化している。

 そうした数々の経験を踏まえても尚、この男が驚愕に値する理由。それは──。

 

『この男は、"魔"だけが固まって出来ている──!」

 

 人間ではないのは明白だった。

 だが混血であろうと妖であろうと生物である以上例外なく実体を持ち、魔力はその肉体から放たれるだけのモノに過ぎない。

 それなのに、この男は思念体である亡霊ですらないというのに、魔力だけで肉体が構成されていた。

 

「貴様……何者。姉上をどうするつもりだ」

「知る必要があるのか? ──これから死ぬおまえに」

 

 男はそう言い捨てると同時に、左手の短銃を発砲した。

 耳を劈くばかりの轟音と共に、莫大な数の銃弾が吐き出される。

 阿紀は咄嗟に左右に身を躱すが、反応仕切れなかった護衛の三人がボロ雑巾のように頽れた。

 

『何だこの銃は!? このような連射ができる火器等、聞いたことがない──!』

 

 阿紀は初めて見た連射可能な銃の威力に驚愕する。

 男が人外であるのは分かりきっているが、そのような者が規格外の技術で作られた兵装を手にしている等誰が想像できようか。

 

「──滅びよ」

 

 阿紀は刀を構えると稲妻じみた速度で男に肉薄し、銃撃を潜り抜けた一人の護衛が背後から男に切り掛かる。

 前後を挟むことによる挟撃。男の頸が胴と泣き別れするのは瞬きにも満たぬ程先のことだった。

 ──そのはずだった。

 

Time alter(固有時制御)──double accel(二倍速)

 

 聴き慣れぬ異国の言葉が紡がれ、男の姿が消失する。

 瞬間、護衛の頸が地に転がり落ちた。

 

「なっ──!?」

 

 背後を取ったのは護衛だった。

 だが背後を取られていたのは護衛だった。

 何と──阿紀も護衛も認識する暇すら無く男は背後に回り込み、右手の黒い短刀で護衛の頸を寸断したのだ。

 

『行動の急激な加速──それが奴の力か!』

 

 阿紀は爆発的に放出された魔力を視認し、一目で男の行使した技の正体を看破した。

 行動の加速。速度というものは戦闘においてとりわけ重要だと言えるだろう。

 技量や筋力を基礎として成立し、その場で変化させられない基本速度そのものを爆発的に加速させられる男の能力はまさしく驚異である。

 

 男は加速した肉体で阿紀から距離を取り、銃を構えたまま出方を窺う。

 阿紀もまた男の肉体を構成する魔力とは異なる、もう一つの完成した魔力が男の体内に成立していることを視認する。

 

『あれは結界か? なるほど、己の体内に結界を展開させ、その内部を加速させることで自身もまた加速しているのか』

 

 男の加速能力の正体。

 それは荒耶が最も多用する魔術であり、退魔にとっても極めて馴染み深い"結界"であった。

 

『見たところ奴が加速による負担を感じている様子はない。代償なくアレを連発できると考えれば末恐ろしいが……何よりも危険なのはあの異様な火器だ。アレを封じなければ話にならん』

 

 阿紀は男がひたすら距離を保とうとする様子から、接近戦は得手ではないと推測して距離を詰めることに専念する。

 当然だ。こちらは刀であちらは銃。その上連射までできるというのだから、こちらの土俵に持ち込まなければ勝負にならない。

 

 阿紀は銃の射線を目視、寸前で避けられる角度を読み姿勢を低くして蛇行しながら迫る。

 鉛の嵐が間近を引き裂いていくが意にも介さずその左の懐に潜り込む。

 だが──男は距離を取らず右手の短刀で振り上げられた刀と刃を交わす。

 短刀であるというのに打刀に対してこの競り合い。

 男の予想外の技量に驚きながらも阿紀は十合、二十合と刃をぶつけて行く。

 接近戦においてはこちらが有利──そう思っていたが、むしろ劣勢に追い込まれていることに戦慄せざるを得ない。

 十の力を以って打てば一の力で逸らされ、一の力を以って逸らそうとすれば二十の力でそれを許さない。

 男はむしろ斬り合いを得手とするのではないかと錯覚する程の使い手であった。

 

Time alter(固有時制御)──double accel(二倍速)

 

 だが男は敢えて斬り合いをやめ、再び距離を取って銃撃を始めようとする。

 

「──させん」

 

 唐突な後退は予想外ではあったがむしろ僥倖だ。

 どのみちこのまま打ち合っていればいずれは崩されていただろう。

 男の後退の起動、挙動の癖を掴んでいた阿紀は男が呪文を唱えたと同時にその後退に追いすがる。

 そして一閃。男の短銃が弾き飛ばされる。

 

『これで奴は打ち合いに応じざるを得まい。後は己の腕に賭けるのみ──』

 

 刃が男の頸に迫る。

 男が短刀で防ぎにかかると見込んでいた阿紀は切り返しに備えて足に力を込める。

 しかし──。

 

Time alter(固有時制御)──triple accel(三倍速)

 

 なんと男は倒立背転しながら短刀を投擲、そのまま三倍速で後退する。

 

「武器を手放すとは、血迷ったか!」

 

 飛来する短刀を容易く弾き、無手の男目掛けて突進する。

 だが、それこそが男の狙いだった。

 男の右腕に先の短銃とは比較にならない、長大な古めかしい銃が握られている。

 

「──莫迦な」

 

 男が武器を隠している気配はなかった。 それなのに何故。

 阿紀は漸く理解する。

 男は短刀を投擲した時、同時かつ密かに己の背後に長銃を投げていたのだ。

 男が短刀で応戦していたのは、全て確実に長銃を当てられる状況を作り出す為の戦略であった。

 曇りなき戦術眼で敵を見抜いた阿紀と狂いなき戦略眼で敵を見据えた紅い男。

 その違いが二人の命運を分けさせた。

 

Time alter(固有時制御)──square accel(四倍速)

 

 男はその場で銃を構えたまま更に加速する。

 男の魔術たる固有時制御による時間操作で変速するのは単に挙動だけではない。

 その根本となる酸素の運搬速度、脳内物質の分泌速度──つまり反射速度が真っ先に加速される。

 そして──全霊で突進する阿紀の動きを、四倍速の男が捉えられない道理はなかった。

 今なお盛る焔の中、雷鳴じみた轟が木霊する。

 

「貴、様──」

 

 長銃の威力は想像を絶するものだった。

 その猛威に曝され胸を穿たれた阿紀は堪らず崩れ落ちる。

 そうして──己が始めから男の敵ではなかったことを悟り、姉を守りきれなかった無念に打ちひしがれた。

 

「すまんな宗蓮、姉上は任せたぞ……。おまえなら──きっと」

 

 薄れていく意識の中、阿紀はただ願った。

 己の最も信を置く、『彼方を継ぐ者』たる男に。

 最早、彼に思い残すことなど何もなかった。

 

「……最後に問おう。貴様は何者だ……?」

 

 何の感慨もなく去っていく紅い男に、最後の問いを投げかけた。

 男は背中を向けたまま、呪うように答えた。

 

「ただの──正義の味方のなりそこないだ」

 

 視界が白く塗り潰されていく。

 寂寥感の漂う紅い背中。

 何度瞬いても尚、その姿は荒耶宗蓮と重なって見えた。

 

「そうか……おまえも、そうなのだな」

 

 その呟きは果たして誰に向けられたものだったのか。

 紅い男はそれを理解する気はなく、阿紀も理解させる気はなかった。

 男はただ与えられた役割に、自らに課した理想(のろい)に従って()()を待った。

 

 遂に理想の成就を見届けることなく、天邏阿紀は紅い男に看取られる形で消えて逝った。

 




 今回もお読みくださりありがとうございます。
 過去編もいよいよ佳境に入りました。
 オリキャラの阿紀は正直名前があるだけのモブにするつもりだったのですが、思いの他活躍させてしまいました……。
 登場した紅い男はお察しの通りの方です。

 遂に現れた紅き正義の執行者。
 儚い幸福は露と消え、苦難の螺旋が道を示す。
 次回、正義の味方とセイギノミカタ。

 もし良ければ気軽に感想や批評等お願いします。

 

 


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彼方を継ぐ者/6 -正義-

 不定期更新です。


    /0

 

 

「────」

 

 言を絶する光景があった。

 私が幾度となく目にした景色。

 もう見慣れてすらいたそれは──私の胸に罅を入れるには充分すぎた。

 隣に立つ紫希に視線を向ける。

 煮え滾る憤怒を見せると思っていたが、そこには凍えるような氷の双眸があった。

 

「……の所為で」

「紫希?」

「──わたしの、所為で」

 

 村を包む紅蓮の焔。累々たる死屍。

 その地獄を一目見た瞬間──彼女はその元凶を理解していた。

 

「……わたしは、在ってはならないモノだった」

 

 絶望的な言葉。

 そこにはまるでこの世の全ての罪過を背負うかのような嘆きが含まれている。

 

「──違う」

 

 それは違う。

 それだけは、その言葉だけは断じて口にして欲しくなかった。

 

「そんなことを言うな。君はただ、多くの人を救っただけだ。それに──君は必要だったからこそ生まれた」

「……それは、ただの妄執よ」

「そうかもしれん。だが、明確に必要とする者が居る。──例えば君の側に居る者だ」

 

 彼女をじっと見つめる。

 ……細い双肩。こんな華奢な軀で彼女は全ての痛みを背負ってきた。

 もし、それが分かち合えるのだとしたら。

 

「以前言ってくれたな。『私の味方で在り続ける』と。……私としては本気だと思っているのだが」

「……ごめんなさい。本当に惰弱ね、わたし……」

 

 状況は絶望的としか言えないが、ともかく彼女が気力を取り戻してくれたのは幸いだ。

 敵の目的はおそらく彼女。

 ならば彼女自身にも戦力になって貰わなければこの状況は打破できない。

 だが……。

 

『私は──結局誰も救えないのか』

 

 眼前には無間地獄。足元には死屍累々。

 ──変わらない。

 今回もまた、醜い欲得が尊いモノを踏み躙った。

 胸を搔き毟る憤怒があった。泥のような悲嘆があった。それでも。

 私の胸中は不思議と静まり返り、ただ諦観だけが囁きかけてくる。

 どれほどの美景も、儚く咲く花でさえも、人は貪欲に踏み潰す。

 変わらない人の性。本質を覗かせる獣性。

 なら──もう諦めてしまえばいいではないか、と。

 

『……黙れ』

 

 この村はもう終わりだ。ここまで徹底して蹂躙されては復興すらままならない。

 何故何の宣告も無く襲ってきたのかは甚だ疑問ではあるが、そんなことは既に些事。

 私も彼女も、首謀者を叩き潰すことだけしか考えられなかった。

 

「……阿紀が居たというのに、よもやこれほどとは」

「……彼とて退魔の端くれ。その力は凡百の武士とは比較にならないわ。それでも持たなかったなんて、敵は余程の手練れね」

 

 私を信じ、姉を案じ続けた涼やかな青年。

 弟のように思っていた一人の若人。

 私は今まで特別な繋がりを持とうとしなかった。

 それ故に──知らなかった。

 喪失の痛み。傷とは比較にならない圧力。

 だから紫希はずっと独りで居たかったのか。

 この痛みを二度と思い出さぬ為に。

 

「必ずや、仇を討つ。これからどうするかはそれから考えよう」

「ええ。わたしにも誇りがある。もう何も残っていないけど──生きてさえいればやり直せる。──あなたは、連れ行ってくれるんでしょう?」

 

 静かに、深く頷き違いを見遣る。

 彼女の瞳に弱々しさはない。

 退魔としての誇り、一人の人間としての決意が、そこにはあった。

 ──負けない。私と彼女なら。

 

「──行こう。為すべき事を為すのだ」

 

 二人して焦熱地獄を歩む。

 緩やかな坂道は既に遠く。

 紅蓮に染まりし屍の道がまっすぐに世界を繋げている。

 遠い遠い、慣れきった家路にて。

 私は始まりの終端と出会った。

 

 

    ◇

 

 

 まず目にしたのは紅。

 鮮烈な色に染まった羽織り。

 命の全てが途絶えた陽炎の彼方、ソレは屹立していた。

 そして──その亡者が如き双眸と、視線が交錯する。

 

「貴様が……」

「ほう、漸くお出ましか、"太極の模造品"」

「……! あなた……!」

 

 男は紫希を見て小さく驚きを零す。

 南蛮風の装備といい、男が只者ではないのは明白だ。

 だがそれ以上に──男は異様だった。

 

「貴様、何者だ? その身、霊体ではないが実体ですらない」

「ご名答。僕は人間でも亡霊でもない、"守護者"と呼ばれる類のモノだ」

「守護者だと? これだけの悪虐を為しておきながら何を血迷った」

 

 よくも抜け抜けと。

 男が何者であるかはもはやどうでもいい。

 ただその語り口も、空気すらも癪に障る。

 

「……そういうこと。あなたはわたしを捕らえる気なんてない。確実に消し去る為に送られてきたのね」

「そうだ"ニセモノ"。おまえの存在は世界にとって危険だ。僕はおまえを殺し、世界を救う」

「莫迦な! 彼女が何をしたというのだ? 彼女の力は救いの力。それを消し去るなど……!」

 

 男は呆れたように嘆息し、鬱陶しいと言わんばかりに紫希を見る。

 まるで、『この駄目狗を黙らせろ』とでも言いたげな顔で。

 

「……ふん、何も分かっちゃいないな。あんた、話を聞いているかは知らないが、その女の力の本質は"収奪と譲渡"だ。これの意味が解らないとでも?」

「知っているとも。彼女は天邏一族の作り出した太極の伽藍。その力は遥か遠い"空"が齎す力の流れに干渉し、その流れの一部から力を取り出し、他者に譲渡する。そうだろう?」

「正解だ。だが無限の資源などという都合の良いモノは存在しない。万物には綻びがある。水にだって、大気にだって、意志にだって。"空"とは"万物の根源"。あらゆる存在は"根源の渦"から齎される魔力によって成立している」

 

 ──根源の渦。

 魔術師が追い求めてやまない存在。

 紫希の力が途方もないものであるのは知っている。

 されど──その力がよもや世界の始まりにまで手を伸ばすものだとは──。

 

「……なるほどね。わたしが力を汲み取っていたのは"根源の渦"とやらの流れから。それはつまり、本来世界に回される筈の力の一部をわたしが奪い取っていたということなのね……」

「漸く理解したか。救いの力? 莫迦莫迦しい。おまえ達の行いは世界から寿命を前借りしていただけの、決定的な破壊だ。その女は世界の敵。霊長に仇なす破壊者だ。そんなことも解らずに救いなどと──まるでタチの悪い冗談だ」

 

 何も言えなかった。

 私たちの行い。その正体は致命的な過ちだった。

 認められない──。それでは、私たちの悲願は一体何だったのだろうか?

 

「あはは……本当に、莫迦みたいね……。人を救うなんて言っておきながら、その実世界を破壊していただけだったなんて……。やっぱり、わたしは……」

 紫希は項垂れ、人形のように渇いた嗤いを零し、ただ己の愚かさを呪った。

 男は明確な怒りを湛え、激昂するかのように強く語る。

 

「人を救うだと? ふざけるのも大概にしろ! 人間を救うことなど不可能だ! 救われない者が居なければ救われる者は吐き出されない。誰かを救えば誰かが救われない。そもそも──僕がここにいるのはおまえたちが直接の原因じゃない」

「──もし大名達がわたしの力を手にすれば、より多くの力が消費される。……より世界の終末が早まってしまうから」

「その通りだ。全ての人間を救うことはできない。結局、救えるのは肩入れした方だけなんだ。十の人間が居たならば、九を救う為に一を切り捨てなくちゃならない。初めから全てを救う選択肢なんて無いのさ。なら、最小の消費と最大の効率を以って最短の内に終わらせる。救いとはそういうものだ。それすらも解らずに救いを語るなど……愚かしいにも程がある!」

 

 ──何も言えない。

 男の言い分は全てが正しかった。

 私の願いが叶わないのは当然の話だ。

 よく考えてみれば──救いとは相対的なものなのだ。

 他者よりも報われたから幸福。他者よりも豊かだから幸福。

 人間とは他者の存在があって初めて自分を実感できる。

 ならば幸福とて同じこと。

 ただ、誰かと比較することでしかその価値を認識できない。

 ならば誰も彼もが幸福であるということは──誰も救われていないのと同じこと。

 

「一つ例え話をしよう。片方の船に三百人、もう片方の船に二百人。そこで両方の船に同時に穴が開いた。船を修復できるのはあんただけ。だが両方を修復できる時間はない。どうする?」

「……決まっている。三百人を救う」

「そうだろうな。それが正解だ。これで理解しただろう? 救いとは単なる演算なんだ。誰かを救うということは誰かを見捨てるということ。ならば──今回も同じことだ。僕はその女を殺して、全人類を救おう」

 

 男の言葉は正しかった。

 けれど──大切な何かを忘れている気がした。

 

「恨むなら好きにしろ。おまえが誰かを救う度に名声は高まり、その力を巡って争いが起きる。……より多くが犠牲になる。もう諦めろ。おまえ達は僕と同じ、度し難い愚か者だ。ならいっそ、ここで死んだ方がマシだ」

「……そうかもね。結局、わたしに出来たことなんて破壊だけ。なら──」

「──!」

 

 彼女はなんら抵抗することなく静かに佇んでいる。

 男が彼女に銃口を向ける。

 後一秒も経たない内に、全ては終わってしまう。

 

「やめろ!」

 

 脳裏にふと、ある言葉が甦る。

 

『大丈夫、あなたの祈りは間違いなんかじゃない。──できるわ。あなたとわたしなら』

 

 ──男は正しい。

 人が人である以上、救いなどどこにもないことは分かっていた。

 私の追い求める理想が空虚であることも知っている。

 人は生き汚くて、醜いということも何度となく叩きつけられてきた。

 それでも、救うことには意味があると信じてきた。

 そうできたのは、人が美しいからではない。

 当たり前のように生まれて、生きて、死んでいくだけの生命。

 それでも──尊いモノはあった。

 間違いだらけで、愚かで、欲望だらけの人間。

 彼らは必死だった。必死に生きて、少しでも多くの幸福を掬い取ろうとしていた。

 変わらない、変えられない人の性。

 だが──だからこそ尊いと思えた。

 それを、彼女達は思い出させてくれた。

 

 男は正しい。

 けれど、男はそれを忘れてしまっている。

 

 私は──何を迷っていたというのだ?

 

 轟が響く。火薬が弾ける。

 鉛は一直線に紫希に向かっていく。

 されど──それは彼女を穿つことはなかった。

 

「──金剛」

 

 男は憎々しげに私を見る。紫希は愕然と私を見た。

 私が前面に展開した結界。それが銃弾を中空に縫い止めていた。

 

 

    ◇

 

 

「──宗蓮」

「……案ずるな。我らは確かに誤っていたのかもしれん。だが、あやつが正しいとも思えん」

 

 荒耶の目に迷いはない。

 その炎のような瞳は──まっすぐに『彼方』を捉えている。

 

「守護者と言ったか。確かに貴様は正しかろう。だが、何も分かっていないな。貴様は忘れている。人の尊さ、本当に大切なことの全てを」

「戯言を。あんたが正義とやらを標榜するのなら、そいつは討つべき敵だ。だと言うのにどうして守る? 何故邪魔をする?」

 

 荒耶は思い出す。

 己の半生。孤児として戦火をくぐり、僧に拾われ、魔術を学んだ日々。

 そして──運命に出会った瞬間を。

 忘れていない。否、忘れられなかった。

 眩い後姿。彼はその姿に奇跡を見た。

 

「守護者とやら。命は数ではない。貴様の救いとやらが──誰を幸福にしてやれた? 貴様はただ死をばら撒いているだけだ。それで救いなどと、それこそ片腹痛いことよ。私は変わらない。そうあると誓った刻から、これまでも、これからも。ただ眼前の人を救おうとするだけだ」

 

 ただ超然と、泰然と、荒耶は語る。

 彼は変わらない。これまでも、これからも、いつまでも。

 そして──その在り方は、ある一人の女を救うには充分すぎた。

 

「あなたは変わらないわね……。そうよね、わたしも誓ったんだもの。あなたが理想を果たすまで側に在り続けるって。まったく、わたしがこれじゃあ阿紀に示しが付かないわ」

 

 紫希は当然のように粛々と、荒耶の側に立つ。

 その瞳に、もはや儚さなど欠片も見当たらない。

 

「……識っているとも。その愚かさを、その罪深い在り方を。ああ、認めよう。おまえ達は僕と同じだと。だからこそ──ここで死ぬべきだ」

 

 守護者は呪うように二人を見る。

 二人は泰然と守護者を見定める。

 

 悠久の刻の果て、永久に遥か理想の途上。

 ここに二つの正義は逢瀬する。

 

September,1595


 

 

 

 ────焔。

 轟々と猛る業火と暗雲じみた黒煙。

 蒼天は紅く焼き尽くされ、地すら真黒に焦げ付いた。

 涼風は熱風に、茂る木々は皆木炭に加工され、かつて在った幸せな世界は微塵に砕かれ泡沫と消えた。

 揺らめく陽炎の彼方、果てなき地獄の果てに、二人と一体は互いを見遣った。

 救世の求道者達は魔銃の射手を見出し……。

 正義の執行者は黒衣の僧兵と太極の代用品を見定めた。

 

 二人は執行者を赦すことはできなかった。

 一体は求道者達を許す訳にはいかなかった。

 

 語るべき言葉は、まだ多分にある。その気になれば、互いに憐れみ合えたのかもしれない。

 それでも。

 彼らが彼らである以上、この対決は運命の導きであった。

 

 求道者達の一人──黒衣の僧兵は双拳を構え、もう一人の女は大太刀を抜刀する。

 抜き身の刃そのものの殺意を受けながら、執行者は撃鉄を引き下げる。

 雷鳴じみた轟が大気を駆け抜けるよりも遥か先に、双影は烈風のように疾駆した。

 

 

    /1

 

 

 守護者はまず紫希が握る刀を見遣った。

 金の悉曇文字が鋳込まれた黒塗りの鞘から飛び出した漆黒の刀身。その大業物が纏う紅い妖気。

 その宝具にも等しい神秘の放出に、男は敵の危険性を再認識する。

 

『あれは──なるほど、不死殺しの概念礼装か。ということはあの女は退魔。そしてこのキャリコの銃撃を防いだ結界。あの男も相当な手練れと見える』

 

 守護者たる男は所謂"英霊"と呼ばれるものに分類される存在だ。

 それは即ち世界からバックアップを受けているということであり、その無尽蔵の魔力によってどんな傷も即座に回復させることを可能とする。

 だが神秘とはより強い神秘に破れるのが常。

 宝具級の神秘性に加え不死殺しの概念を纏う妖刀でその身を断たれてしまえば英霊といえど無事でいられる保証はない。

 地球という惑星の秩序から外れた存在である異形達、その歪みを正す秩序の力こそが天邏の妖刀の本質だ。

 矛盾したことではあるが、その秩序の力は霊体である守護者にも極めて効果的に作用するのである。

 

『見たところ、女が前衛で男が後衛か。反則級の結界に退魔の剣技。この状況で僕が取れる戦略は──』

 

 そこで守護者はまず短銃を二人に向けて連射した。

 だが、荒耶が展開した"金剛"の前に容易く静止させられる。

 そして、その隙間を縫って紫希が烈風のように躍りかかる。

 

Time alter(固有時制御)──triple accel(三倍速)!」

 

 思考する隙すらも与えない筈の神速の斬撃。それを守護者は三倍速に加速することで寸前で回避した。

 

『──急激に加速した!? まさか、そんなことまでできるなんて──』

 

 紫希と荒耶は共に驚愕する。

 守護者が見せた急激な加速魔術。荒耶は魔術に精通しているが故に"時間そのものを加速する"というその超常の絶技に息を呑む。

 

『間違いなく今の魔術は時間の加速。だがそんな大技を咄嗟に行うことなど不可能だ。どうやって──?』

 

 そこで荒耶は男の体内に解析をかける。

 たった一秒、それだけで荒耶は看破した。それは結界という単一の魔術に特化した彼だからこそ可能な技巧であった。

 

『なるほど。体内に結界を展開して、その内部だけを加速しているのか。それならば己に掛かる負担は最小限で済む。考えたものだな』

 

 二人の驚嘆を他所に守護者は思案する。

 完璧に連携の取れた二人。ぴったりとくっ付いて互いの欠点を埋めあっている彼らに対して攻めあぐねているのだ。

 

『女の圧倒的な剣速に加え、男の結界の強度。これを同時に破るのは僕では厳しいか……。なら分断して各個撃破するのが最上だな』

 

 そこで守護者は二人の足元に筒状の物体を投擲する。

 瞬間、それは凄まじい勢いで煙を噴射し、一面を煙で包み込む。

 

「これは──煙玉!? これじゃ見えない……!」

 

 突如として現れた煙幕に対し二人は背中を合わせ牽制する。

 

「喰らえ」

 

 白い煙の中から紅い影が出現する。

 まず彼が狙ったのは荒耶。先に厄介な防御手段を持つ荒耶を潰そうと考えてのことだった。

 

「──させん!」

 

 だが、荒耶は振り下ろされた短刀を左腕で受け止めた。

 荒耶の左腕に埋め込まれた仏舎利。その加護が荒耶の左腕に途轍もない強度と再生力を与えていた。

 そして守護者を捉えた荒耶は彼に猛然と迫る。

 完全に攻撃を紫希に任せていると思ってた守護者は予想外の行動に瞠目するも、脊髄反射で呪文を唱えた。

 

Time alter(固有時制御)──double accel(二倍速)

 

 大きく仰け反った守護者の鼻先を、風を巻き込んで振り上げられた右脚が掠める。

 追撃として左脚が放たれるも、既に守護者は射程圏外に逃れていた。

 計算を完全に狂わされた守護者は歯噛みする。結界だけでなく超常的な破壊力を持つ荒耶の拳打。速度と技量に力の全てを依存する紫希よりも、攻防一体の戦闘を実現する荒耶の方が、返って守護者には驚異であった。

 だが守護者とは英霊。歪なれど精霊の域にまで祭り上げられた英雄である。

 なれば、この程度の修羅場を潜ることなど造作もない。

 

『僕には抑止力としての権能が与えられている。だから敗れることはあり得ないが……敵は二人だ。決着をつけるなら短期決戦で挑むべきだろう。なら、賭けに出るのも悪くない』

 

 勝負は膠着状態。一見すると互いに決定打を下せない状況にあるように見える。

 だが、守護者にはそれを覆すに足る"切り札"がある。

 一通り戦略を固めた彼はそれを実行に移す為の賭けに打って出た。

 

Time alter(固有時制御)──square accel(四倍速)!」

 

 彼は四倍という驚異的な速度にまで加速したや否や、紫希に向かって短刀を振り翳す。

 されどその程度を捌けずして退魔は務まらぬ、とばかりに紫希も容易くそれを弾く。

 紫希の手に握られているのはあらゆる歪みを正す妖刀。

 だが守護者が持つ短刀とて尋常の武器ではない。

 それは"宝具"と呼ばれる英霊を象徴する"兵器"。

 彼のそれは宝具としては平均の域を出ない代物ではあるが、その神秘性は最高位の概念礼装に値する。

 故に武器の性能においては互角。

 なればこそ、この状況は必然。

 紅い大太刀と黒い短刀が激突する度に風が巻き上がり、土が捲れ上がっていく。

 だが四倍速ですらも、肉体そのものを作り変える退魔の業の前では遅い。

 そもそも彼の本分は射手。剣を振るう者に非ず。

 拮抗が崩れようとする刹那、彼はさらなる呪文を紡ぐ。

 

Time alter(固有時制御)──fifth accel(五倍速)!」

 

 ──轟音、旋風。

 音すらも置き去りにする剣戟は、重なる度に衝撃波を巻き起こし、焼け残った家に亀裂を入れていく。

 ここに拮抗という言葉はない。

 時に短刀が頸に迫り、大太刀が胴を抜かんとする。

 優勢と劣勢、その二つが目まぐるしく入れ替わり、決着は更に遠のいていく。

 達人であっても到底捉えられない刃の逢瀬に、荒耶は近寄ることすらできなかった。

 だが、できることは残されている。

 

「蛇蝎!」

 

 荒耶が右手を翳した瞬間、二人を円形の結界が包み込む。

 途端、剣戟は目に捉えられる程に停滞していく。

 本来であれば守護者の動きはとうに停止している筈だが、人である荒耶の魔術では人ならざる神秘で構成された肉体を持つ守護者を停止させるには至らず、その動きを遅くするに留まった。

 ならば、紫希は──?

 

『やはり推測通りか。あの女の羽織りは──』

 

 停滞していく守護者を他所に、構うことなく剣撃を放つ紫希。

 そう、紫希が纏う黒い羽織り。それはただの布でなく、魔力の働きを阻害する効果があった。

 紫希だけが結界の効果を受けない理由はそれである。

 だが、守護者とて手を拱いてはいない。

 自身が減速していることを理解した彼は、それを埋めるべく次の手を打つ。

 

Time alter(固有時制御)──sixth accel(六倍速)!」

 

 さらなる加速を為した彼は容易く結界の減速を相殺する。

 この瞬間、一日を六日として過ごしていける彼の攻勢が、拮抗という停滞を打ち破っていく。

 されど、紫希は破れない。

 音すらも遅れて届く世界の中では、眼すらも頼りにはならない。

 彼女は舞い踊る風の感覚だけを頼りに、正確に刃を逸らしていく。

 

『この女、六倍速ですら喰い下がるか!』

 

 予想を超えた紫希の力量に守護者は歯噛みする。

 あと一押し、ほんの一手あれば押し切れるというのに、僅かに届かない。

 彼の戦略において最重要事項は荒耶を潰すこと。

 だというのに、その為の布石を打つことが難しい。

 

『このままでは押し切られかねないか! 仕方がない──』

 

 これまで幾度となく地獄をかい潜り、作り上げてきた彼。

 その経験の中にすらも無い未踏の領域。

 彼は世界のバックアップに任せ、迷いなくそれを実行する。

 

「さあ、ついてこれるか──seventh accel(七倍速)!」

 

 試みたこともない七倍の加速。

 結界の中にあっても尚、それ以前とは比較にならない速度で繰り出される剣戟。

 

「うおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「覇ぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 二人は共に咆哮をあげながら刃を交わす。

 だが拮抗は一瞬、さらなる停滞が守護者を襲う。

 

「王顕」

 

 荒耶が重ねた結界。

 紫希はその影響を受けないのに対し、守護者は二重に減速してしまう。

 追い詰められた守護者は、そこで切り札の一つを切る決断を下した。

 

「──神秘轢断(ファンタズム・パニッシュメント)!」

 

 声高らかに解放された短刀の真名。

 爆発的に増大した魔力が紫希の妖刀に重なった瞬間、その刃が纏っていた紅い妖気が霧散する。

 神秘はより強い神秘に敗れるが定め。

 圧倒的な魔力を纏ったその宝具が、妖刀が有する特殊効果を打ち消したのだ。

 もっとも、彼の宝具が効果を発揮できるのはあくまでも魔術回路に対してである。

 無論、刀に魔術回路などなく、故に効果を打ち消しておけるのは一瞬。

 だが、一瞬という時間さえあればそれで充分だった。

 

「──()った」

 

 真価を露わにした黒い短刀に瞠目したものの、構うことなく紫希は刃を振るう。

 その妖気の消えた黒く塗り潰された刃は守護者の防御を潜り抜け、その喉を斬り裂いた。

 勝負は終わった。

 そう確信した彼女は警戒を僅かに緩める。

 だが、それこそが守護者の狙いだった。

 守護者は多少よろめいたものの、即座に体勢を戻し倒立背転しながら後退し、結界の範囲外に逃れる。

 

「っ! やっぱりあなた、亡霊の類ね!?」

 

 斬り裂いた筈の喉には傷一つない。

 原因は明白。刃が喉を裂いた一瞬、不死殺しとしての効果を喪失していたことによるものだ。

 守護者とは世界のバックアップで現界している存在。故に致命的な損傷を受けようとも再生するのは道理である。

 そして彼は七倍速のまま、懐からもう一つの銃を取り出す。

 古めかしく長大なソレこそが、彼が生涯手放すことなく愛用し続けた、まさしく切り札というに相応しい代物である。

 

 大砲の如き轟音と閃光、それに遅れて大気を斬り裂き音を置いて行きながら鋭利な鉛が射出される。

 その圧倒的な破壊力の前に、『蛇蝎』と『王顕』は容易く打ち破られていく。

 だが、それを阻む影があった。

 

「──化勁・纏!」

 

 仏舎利の加護を纏った荒耶の左腕が銃弾を絡め取るように畝る。

 鮮烈な力のぶつかり合い。その左腕から火花が散り、電動鋸じみた不協和音が鳴り響く。

 そして──結界による減衰もあってか、車輌すらも貫く弾丸を仏の加護が打ち破った。

 

「ふん、貴様こそ化け物だな」

「左様。怪物を討つとなればこちらも只人ではいられぬでな」

 

 無事に安堵する紫希を他所に、荒耶は歯噛みする。

 

『なんという威力か──これは渾身の魔力を注がねば防ぎきれまい』

 

 そんな二人を他所に守護者は内心ほくそ笑む。

 

『女は仕留め損なったが、概ね計算通りだ。これで奴らはコイツの威力を思い知っただろう。次こそは渾身の魔力で防御してくる筈だ』

 

 そうして守護者は七倍速のまま後退し、実に三十メートルもの距離を取る。

 一瞬では詰められない距離、そこで守護者は悠々と愛銃を再装填する。──誰一人として逃れることのできなかった 、その"真の切り札"を。

 一秒が七秒に引き伸ばされた世界では、弾薬が薬室に滑り落ちていくことすらもどかしい。

 

 守護者が銃身を荒耶に向け、照星を覗き込む。

 それを視認した荒耶は魔術回路を限界まで励起させ、明快に呪文を言祝いでいく。

 

「不倶、金剛、蛇蝎、戴天、頂経、王顕!」

 

 それは彼が最も頼みにする結界『六道境界 』。

 空間と平面に三つずつ張り巡らされるそれを、彼は盾のように前面に六つ展開する。

 引鉄が引かれ、切り札たる銃弾が回転しながら結界を喰い千切らんと迫る。

 守護者はそれを見て──勝ち誇ったように嗤った。

 

「──駄目よ! 避けなさい!」

 

 一目でその銃弾の正体を看破した紫希は怒鳴るように声をあげる。

 だが、時というものは待ってはくれない。

 音速を軽く超える銃弾は、六道境界の前に容易く縫い止められる。

 だが、それは同時に荒耶の決定的な敗北を意味していた。

 全てはこの為の布石に過ぎなかったのだ。

 

「な、に、これは──があぁぁぁぁああっ!?」

 

 結界に銃弾が触れた瞬間、神経が引き裂かれたような激痛が荒耶を襲う。いや、実際に引き裂かれていた。

 守護者の真の切り札たる魔弾『起源弾』。

 それは彼自身の肋骨が込められており、触れた対象に自身の起源である『切断』と『結合』を表出させる効果を宿しており、これに魔術を以って干渉するとその性質により、魔術回路が神経諸共断絶し無茶苦茶に繋ぎ直されてしまうという、凶悪極まりない代物だ。

 そして──魔銃の威力を知ったが故に魔術回路を励起させてしまった荒耶はその起源の影響を直に受けてしまったのだ。

 

「あ、ぁ──嘘、でしょ、こんな──」

 

 荒耶は暴走した魔術回路から溢れた魔力に全身を破壊され、血を流しながら地に倒れ伏す。

 彼の軀は、既に死滅していた。

 

「これで一人。……いや、勝負ありだな」

 

 紫希にもはや戦意はなかった。

 親を失った雛鳥のように、呆然と荒耶の屍を揺さぶっている。

 

「お願い、目を開いてよ! ほら、生命力だってあげてるじゃない! どうしてよ──こんなこと、ただの一度も失敗したことなかったのに! どうして──なんで戻ってくれないの!? 置いていかれるのはイヤ! もう喪うのはイヤなの! だから……置いていかないで……」

 

 紫希は何度も何度も力を行使し、死滅した荒耶を必死に治癒しようとする。

 だが彼は死者。起源によって破壊されたその肉体は、根源から魔力を掠めとる彼女を以ってしても蘇生は不可能だ。もとより──蘇生とは魔法の領域。ただ生命力を生み出すだけの紫希では『死』そのものを覆すことはできない。

 その苦闘を見届けながら守護者は悠然と、家畜を屠殺する肉屋のように彼女に近寄っていく。

 

「……ねぇ」

「……僕に言っているのか?」

 

 小さく零れた呟きに、守護者は足を止める。

 どうせ最期だと思って余裕が生まれたのか、静かに彼は耳を傾けていた。

 

「……あなたの任務はわたしを殺すことだったわね? なら、もしわたしが消えてこの人が蘇れば……この人を殺さないでいてくれる?」

「そうだな、ありえない話だが、可能だとも。僕はあくまでもおまえが最優先さ。それに──その男はもう『死んだ』。なら生き返ったところで僕の仕事の対象にはならない」

 

 そう──安心した。

 そう呟いた彼女は、意を決したように毅然とした顔を浮かべ荒耶の胸に手を置く。

 途端、淡い蒼の輝きが紫希の軀から迸り、荒耶の軀に流れ込んでいく。

 

「これは──馬鹿な! 魔法だと!?」

 

 守護者すらも驚愕する神秘の行使。

 輝きは優しい温かみすら帯びて、煉獄を包み込んでいった。

 

 決着はついた。

 されど、これこそが始まり。

 荒耶宗蓮という一人の男を取り巻く数奇な運命は、この光景を起点としてこれからも進んでいく。

 そして──彼女が選んだ最期の願いこそが両儀式を紛い物に堕としたのだった。

 




 これで過去編はおおよそ終わりですが、エピローグが残っています。
 しかし戦闘シーンが難しかった……複数戦ともなれば尚更ですよね。

 紫希が見せた魔法。確かにそれは死をも覆すに足るものであろう。
 されど力には代償が伴うが常。彼女が、彼が支払うこととなった代価とは──。
 次回、過去編完結。両儀式と両儀織の代用品誕生の謎はここに解き明かされる。

 今回もお読みくださりありがとうございます。
 もし良ければ感想や評価の程をお願いします。


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彼方を継ぐ者/7 -始点-

 不定期更新です。
 今回で過去編は終わりです。


    /1

 

 

 ──生きて欲しかった。

 願うならば誰よりも崇高に、望むのなら誰よりも幸福に。

 あなたはたった一人生きていくと決めたわたしに違う選択をさせてくれた。

 限界ということすらも誤魔化して、贖罪という名の自傷に身を任せていたわたしに本当の理想を示してくれた。

 あなたはわたしを綺麗だと言ったけれど、わたしはあなたを奇跡だと言いたかった。

 あなたはわたしを奇跡と呼んだけれど、わたしにとってあなたは弥勒より尊いものだった。

 だから──あなたが何を言おうとも、わたしはあなたを見捨ててなんてやらない。

 

 こんなことをやればどうなるかなど分かりきっている。けれどほんの一度だけで良いからあなたをこんな風に救ってやりたかった。

 わたしの力を使えば、()()()()()()()()()ことなんて容易いことだ。

 

 ああ──わたしってば本当に酷い女ね──。

 

"例え世界があなたを憎んでも、わたしだけはあなたの味方で在り続ける"

 

 それは、なんて無責任な誓いだったのだろう。

 でも、あなたは心から信じてくれた。

 

 春、屍の荒野であなたと出逢った。

 あなたの瞳を初めて見た時、まるで炎のようだとわたしは言った。

 思えば、あの時からわたしは──。

 

 夏、川の畔りで蛍を見た。

 蛍の光に照らされたあなたの顔は少しだけ嬉しそうで、不器用なあなたらしかった。

 ……そういえば、川で行水していた時に偶々出くわしたことがあった。あの時のあなたの気まずそうな、何とも言えない表情は羞恥なんて吹き飛ぶくらいに面白かったなぁ。

 

 そして秋。

 ……耳を傾ければ蝉の声が聞こえてくる。

 そうだ、わたしたちはまだ紅葉を見たことがないのだった。

 ああ、それはきっと素敵な光景なのだろう。

 

 その次は冬。

 今はまだ遠い話だけど、ここは雪深い。

 雪が積もれば必ず雪かきが必要になる。召使い達がやってしまうから経験はないけれど、あなたと一緒ならきっと苦にもならないだろう。

 そしてその後は、囲炉裏を囲んで鍋でも食べようか。

 

 そして春。

 あなたと見た桜は何よりも綺麗で、でもやっぱり儚かった。

 そしてあなたは言った。「また此処に二人で来よう」と。

 わたしは答えた。「あなたとなら、また何度でも」

 ああ──次の春が待ち遠しい。

 

 そこで、わたしたちはまだ半年しか過ごしていないだって気づいてしまう。

 わたしたちはまだ、知らないことばっかりだ。

 

 それはあまりにも速くて、信じられないくらい穏やかで。

 感謝しようにも、言葉にするのも難しいほど幸せだった。

 わたしは今になって初めて永遠なんてモノを望んでしまった。

 

 ──ありがとう。でもごめんなさい。

 わたしはもうあなたと一緒に居ることはできない。

 けれど、想いは共にあるから。

 わたしの理想は偽物だったけれど、あなたへの願いは本物だと思う。

 これであなたは引き返す道を失くしてしまうけど、ずっとあなたのままで居てくれる。

 誰よりも綺麗で、誰よりも尊かったあなたのままで。

 

 ──その為に、わたしは今この時だけ仏であろう。

 

 

    ◇

 

 

 ──軀が熱い。

 何か強大な力が入り込んでくるようだ。

 視界は紅い。焔が周りを取り囲んでいるからか。

 眼を動かして下を見る。

 あるのは白黒の、細く儚い姿。

 私の胸元に、誰かが頽れている。

 

 その姿を知っている。

 忘れる筈もない、その姿は──。

 

「──紫希」

「……よかった、起きてくれたのね」

 

 ──私は、撃たれた──。

 だが、何処にも傷は無い。

 私が眠っている間に、何があったのだろうか?

 

「……紫、希。何故」

「あなたが中々起きてくれないからよ。わたし、こんなに頑張ったのは初めてよ」

 

 彼女に触れる。

 ──冷たい。

 その軀からは、温かみというものが感じられない。

 そこで、分かってしまった。

 彼女はもう永くないのだと。

 

「何故だ!? どうしてこんなことを……君は、何故……」

 

 嫌だ。

 こんなことは望んでいない。

 彼女を助ける為の戦いだというのに、何故彼女を死なせなければならないのか?

 

「──これって、『魔法』って言うのよね? わたし、根源(あっち)に接続してあなたの"死"をわたしの命と引き換えて貰ったの。これって、凄いことなのよね?」

 

 血色を失くしていく顔で、彼女は安らかに笑う。

 ──確かに、死者の蘇生は魔法の領域だ。だが、万物は等価交換で成り立っている。

 彼女が私の蘇生と引き換えに差し出したモノ。それは──。

 

「莫迦な! そんなことをすればどうなるか分かっていただろう!? それなのに……何故私などの為に、君は……!」

「──あなたが、尊かったから」

 

 迷いなく、彼女は笑った。

 理解できない。

 彼女は、自分の価値を理解していない。彼女は、私が何を賭してでも守るべき者なのに。──救う筈だったのに。

 ──それが、最後まで救われてしまった。

 

「──泣いてくれるのね、宗蓮。でも、これであなたは──」

 

 頬を涙が伝う。

 何もできない。私はその優しさに何一つ報いてやれない。

 私は、どうしてこんなにも無力なのか。

 

「あなたは、わたしに何もかもをくれた。ただ、側に居るだけで幸せだった。──わたしはあなたに救われたのよ。大丈夫、あなたは必ず人を救えるわ。──ありがとう。こんな言葉しか掛けてあげられないけど、本当に感謝してる。だから──」

 

 唇は震え、力は弱くなっていく。

 きっと、それが最期の言葉、最後の意志。

 決して受け入れられないものだというのに──私はその全てを聞き漏らさぬようにしていた。

 

あなたは、あなたの理想(ユメ)を叶えて

 

 ──そうして、彼女は心から笑った。

 ──そうして、彼女は何も言わなくなった。

 

「……紫希?」

 

 ……もっと、共に居たかった。

 ……もっと、笑っていて欲しかった。

 ……もっと、救いたかったのに────。

 それは、永遠に叶わない。

 

「……理解したか。それが人の望み、人の願い」

 

 紅い男が口を挟む。

 その音はするすると耳に入り、泥のように私の思考を侵食していく。

 

「この光景は人類の総意。彼女の死を以って、霊長の世は守られた」

 

 一面の焔、道を作るのは砂利でなく骨。流れる川は全てが血。

 それが運ぶ死臭は三千世界を満たそうと尽きることはない。

 

「……お前は、何なのだ?」

 

 口をついて出た問い。

 世界の総意を語るこの男は、いったい何だと言うのか?

 

「言った筈だ、僕は霊長の守護者。人の世が危機に曝された時、自動的に呼び出され原因を排除するだけの防衛装置。故に、この眺めは人々の望みの体現だ。僕はこれからも同じ事を繰り返す。人の世がある限り、人が安寧を望む限り、犠牲は積まれ続ける」

 

 それは変えようのない、幾度も幾度も思い知らされてきた人の世の理。

 ──救い難い人間の性。

 

「安心しろ、彼女は最期に僕と契約を結んだ。自分を排除させる代わりにお前には手出しさせないと。……もはや引導を渡す必要も無い。何処へなりとも行くがいいさ」

 

 そうして男──英霊は霞のように消え去った。

 私はただ一人、地獄からの生還者として取り残された。

 

「これが、人の望み……人の願い……」

 

 意味もなく、嗤いだけが溢れ出す。

 何という無情、何という蒙昧か。

 人間は救われることなど望んでいない。

 ただ生きていたいという願望の為だけに生かされているだけ。

 

「すまない……私が、無力だったから ……」

 

 ただ謝ることしかできない。

 結局自分は何も救えない。

 ただ己の矮小さを悟り、無能を呪いながら地獄を眺めるしかない。

 ──死を蒐集することしかできなかった。

 

 細く、軽い彼女の亡骸を抱えながら、許しを請うことすらできず、 その結末を脳髄に深く刻み付けるだけの自分。

 もはや翳していた正義は燃え尽き、その残骸に新たなる炎が宿る。

 

 ──昏く、憎悪よりもなお深い、修羅の炎が。

 

「これが……こんなものが正義だと云うのなら、私は──!」

 

 果てしなく昏い想念が全身を覆っていくのが分かる。

 今なら分かる。これは怨嗟。

 誰も救えず、何も守れないというのなら、せめて──。

 

「そうか──これが私の理想の果てか。確かに私では何も救えなかった。正義というものの正体も理解できなかった。だが──」

 

 ただ、生きていたいという願望の為に幸福を踏み潰すのが正義。

 ならば、今この瞬間から私は正義の敵となろう。

 

「私はもう過たない。人間は救われない。救いを望んでなどいない。それでも私が人間を救ってやろう。例え世界が私を憎もうと、私がお前達に涅槃を与えてやろう」

 

 それが私の答え。

 これから私は更に多くの死を見るだろう。更に多くの地獄を目の当たりにするだろう。

 その度に、その死を明確に記録しよう。

 その苦しみを私が生かし続けてやろう。その結末を私が憶えておいてやろう。

 生とは無意味、死とは理不尽。

 それが変えられない絶対の真理であるのなら──私が全てに意味も価値も与えてくれよう。

 

 骨を砕くように冷たい雨は容赦なく降り注ぎ、やがて劫火を飲み込み消し去ってゆく。

 その果てに見える、残酷なまでに変わらない日の出。

 それが、私が道を定めた夜明けだった。

 

    /2

 

 全てを焼き尽くした劫火は雨に呑まれ、後には黒焦げた残骸だけが形を保っていた。

 私は紫希の遺体を抱え、小高い丘へ登る。

 ──彼女と初めて邂逅した、あの丘へ。

 

「……すまないな」

 

 そこで彼女の遺体に火を灯し、深く深く弔う。

 炎は細い軀を瞬く間に焼き尽くし、彼女は小さく縮んでいってしまう。

 私はその様を、一瞬すら逃さず瞳に刻み付ける。

 安らかだったあの日々を、永遠に忘れぬ為に。

 

 やがて肉は焼け、後には白い骨だけが残った。

 私はそれを一つ残らず拾い上げ、遺灰と共に壺に納める。

 壺に納まる程小さくなってしまった彼女を眺めながら、私はその処遇に関して思考を巡らす。

 

 ──仏舎利。この左腕に宿る遺骨はある高僧に由来する物であり、見に宿すことでその加護を受けることができる。

 ならば、根源の渦に通ずる彼女の遺骨をこの軀に埋め込めば、どれほどの力を授かることができるのだろうか?

 根源の渦──万物の発端であり終焉であるそれに辿り着くことができれば、私の望みは叶う。

 人類の救い──その答えは、必ずそこに在る筈。

 

 骨壷を置いてから私は地面を掘り、丘に小さな祠を建てる。

 そして彼女が持っていた妖刀を羽織りで包み木箱に納め、設置した階段を降りた先の空間に安置する。

 刀を扱う技術は私には無い。故に──いつかこれを必要とする者が現れた時の為に残しておこう。

 そうして最後に結界を張り、退魔に属する者以外が入れぬように加工する。

 これで弔いは終わった。

 私は紫希の遺骨だけを手にして村を出発する。

 名残惜しいが、いつまでもここに留まっていることはできない。

 最後に、もう一度だけ変わり果てた村を見て、私は誓いを再認する。

 

「──さらばだ、皆。私は必ず世界を救う。その暁に私はまた帰って来よう」

 

 行き先は決まっている。

 紫希という根源に繋がる者を排出した天邏の本家である両儀。その一族が住まう都へと。

 彼女はもう帰らぬ者になってしまったが、いつか同様の者が現れた時に備えて繋がりを持っておきたいからだ。

 

 私はたった独り、側に居た彼女の名残を噛み締めながら都に向かった。

 

 

    ◇

 

 

 私が彼女の遺骨を両儀の当主に見せると、彼は自分達より先に分家が目的を達成したことに驚きながらもそれを受け取った。

 私は彼と交渉し、遺骨の半分を手にすることとなった。

 

 そうして私と当主は共に軀に遺骨を埋め込んだ。

 私はその加護を受けんが為に、彼はより優れた力を持つ子孫を作り出す為に。

 だが──これこそが決定的にして致命的な誤りであったのだ。

 

 そうして両儀との繋がりを作ってから家を去った後、私は魔道の探求に明け暮れた。

 戦場を回り、死を蒐集しながら根源への道を探す日々。

 そうして私が四十を過ぎた頃、一つの答えに辿り着いた。

 

 ──起源。全ての存在が内包する始まりの因。

 それを呼び覚ました者は、それに引き摺られる代償に途方も無い力を手にするのだという。

 躊躇いなど、あろう筈もなかった。

 より力を手にし、根源への道を探す為に私は己の起源である"静止"を覚醒させた。

 すると、その日から肉体の老化が停滞したのだ。

 これで寿命の問題は克服できた。

 私は己が少しずつ人間ではなくなっていく感覚を嫌悪しながらも、根源に至る為に全てを搔き集め、悉く犠牲に捧げていく。

 

 やがてある怪僧に出会い、己の複製を造る手管を伝授してもらった。

 これで私は死滅しても復活することが可能になり、死を恐れることもなく危険へと身を投じていく。

 

 何度も、何度も根源へと近付いた。

 そしてその度に守護者に敗れ去った。

 だが立ち止まっている暇はない。脚が動かなければ這い蹲り、口で地面を噛んででも前に進む。

 一歩、また一歩、ただひたすらに、何を省みることもなく突き進む。

 気が付けば数百年。紫希との思い出は擦り切れ、記憶の底に埋没していく。

 

 彼女は今も軀の内に宿っているというのに、もうその顔も声も思い出すことはできなくなった。

 やがて英国に渡り、魔術協会に所属する頃にはその存在すらも薄れていった。

 長い、あまりにも長すぎる年月は私から彼女との思い出を欠片も残らず洗い流していった。

 何故、人を救いたいと願ったのか。何故、根源の渦に至りたいと思ったのか。

 それすらも朧げになり、忘却の彼方に消え去っていく。

 

 ──その果てに、私は限界に辿り着いてしまった。

 私には、才能が無かった。

 

 考え得る全ての手段を用いた。

 だが最後には必ず抑止力が現れ、全てを台無しにされてしまう。

 そこで私は悟った。

 根源に到達する手段があるのではない。単に到達しえる人間がいるだけなのだ。

 如何なる叡智を持とうとも、所詮は後付け。生まれついた時点で持っているか持っていないか。それが全てだと。

 ただ絶望した。それでも諦めることは許されなかった。そうしてしまえばこれまでの全てが無価値になる。犠牲にした者達が無意味になってしまう。……彼女に顔向けすることもできなくなってしまう。……"彼女"とは、いったい誰だったかすら憶えていないが。

 

 そんな泥のような諦観が続く日々、それも長くはなかった。

 

 一九八一年二月十七日、久しく別れていた両儀家の報告を受け、私は故郷に帰還した。

 懐かしい眺め。それを目にしても何の感慨も浮かばないほど私の自我は摩耗しきっていた。

 

 だが、屋敷に入った瞬間、私は四百年前に起きたことの全てを思い出すこととなる。

 母の腕に抱かれ、安らかに眠る赤子。

 その名も両儀織。性別は男だった。

 

 その赤子は本来女として生まれ、名前も式とされる予定だった。

 だが定めから外れ、式は織という男児として誕生した。

 

 その話を聞いた時、私はあまりの出来事に絶句する他なかった。

 ──彼の軀は、不完全だった紫希と違い完全に根源に接続していたのだ。

 織が式に成れなかった原因。両儀の者達はただ当惑するばかりだったが、私だけは真相に辿り着いていた。

 

 ──単独顕現という概念がある。これは存在が確定している者を指す概念であり、根源から直接生まれついた両儀式もそれに当てはまる。

 だが両儀の分家である天邏は両儀式という『存在情報』を前借りして独断で根源接続者を創り上げてしまった。

 そしてあろうことか当時の両儀の当主はその遺骨を取り込み、彼女の因子を血統の中に混ぜ込んでしまった。そしてその因子は異物として血統の中で留まり続けた。

 

 式という女は単独顕現により如何なる状態においても存在することが確定している。

 だが天邏の一族は遥か過去に『両儀式という存在情報を有する者』を創り出している。そのままでは『過去の人物と完全に同一の存在情報を持つ人物』という矛盾が誕生してしまう。

 それを察知した抑止力は同一人物の再誕生という矛盾を修正する為に、なんと両儀式の性別を書き換え、両儀織という男にすることで別人として誕生させたのだ。

 そして肝心である男女一対の人格も不純物である紫希の因子と競合し、どちらも男という半端な状態になってしまった。

 

 これが、両儀織という異物の真相。

 かつて蒔かれた過ちの種は、四百年という長き時を超えて悪夢の如き形となって芽吹いた。

 私はこの時、運命というものの恐ろしさに戦慄するしかなかった。

 

 こうして、遥か過去に敗れ去り忘却に消え去った夢は再び私の手元に蘇ったのだ。

 両儀織。両儀式になりそこなった対極の代用品。私の内に沈む紫希の再来。

 それ識った瞬間、私は(かのじょ)を我が手にし根源へ至ることを誓った。


 

 

これが、事の始まりにして結末。

 四百年に渡る私の根源を巡る旅の一つの到達点。

 

 

八卦を束ね、四象を廻し、両儀へと至る──。

 やがて、相克する螺旋にて君を待つ。

 

 

そう、私と君こそが──『彼方を継ぐ者』なのだから──。

 


 

 

    /0

 

 

「目覚めたようですね」

 

 暗闇に閉ざされた一室で眼が覚める。どうやら、夢を見ていたらしい。

 傍らには痩身の男が佇み、興味深そうにこちらを眺めている。

 

「……なんと、貴方にあのような過去があったとは。貴方が両儀織という青年に執着する理由、それは彼女との縁にあったのですね」

 

 そう、思い出したのだ。

 彼女──紫希と過ごした日々を。忘れ去ってしまった始まりの誓いを。

 

「ああ、なんと眩く、忌まわしい過去か。……貴方は忘れてはならなかった。その祈りの源泉を。荒耶宗蓮、貴方の願いは美しい。何よりも純粋で、それ故に歪な一つの望み。そして彼女は今も貴方の中で貴方を守り続けている」

「──」

 

 その言葉と共に、魂の底で何かが共鳴する。

 これは──紫希の遺骨の為か。

 

「……これは、目覚めたというのか? だが両儀織は現在だ、ならば紫希の意識はどこから──?」

「……貴方の忘却を採集している最中、意識の断片が引っ掛かっているのを発見しました。ほぼ確実に両儀織の意識の欠片でしょう。おそらく、彼も断片的に同じ夢を見ていた筈」

 

 彼には両儀式と同じ存在情報を有する紫希の因子が色濃く表れている。

 故にその遺骨を直接取り込んだ私と彼の間には魔術的な繋がりが出来ており、こうして意識が共鳴しているのだ。

 紫希の残留思念は、半分ずつ私と彼に宿っている。

 

 つまり私の存在情報は今、両儀に近いものに変質しつつあるのか。

 

「──ならば、両儀織はいずれ私に会いに来るか。いや、そうではくてはならない。もし、私と彼が出会ったその時は──」

 

 半分ずつ残留した紫希の思念。もしそれが一つになれば、再び根源への扉を開くことも可能になるかもしれない。

 ──もしかすると、織を殺すという選択肢を採らずに誓いを果たすこともできる可能性がある。

 

「……やはり貴方達は面白い。貴方と彼ほど運命的な縁を持った存在はこの世に二つと無いでしょう。それではこれで。私はその為の舞台を整える為に彼の記憶を復元しましょう。貴方と彼の、再会の時に備えて」

「……感謝する、偽神の書(ゴドーワード)。確かに、私は忘れてはならなかったのだ」

 

 ──残った駒は三つ。

 まず眼前の魔術師は彼の敵対者にはならない。

 もう一人の魔術師は蒼崎の為の手駒だ。

 だとすれば残った手駒はただ一人、あの金色の獣のみ。

 

 決着の刻は近い。

 私は共鳴するもう一つの魂を抱えながら、静かに眼を閉じた。

 

 

     彼方を継ぐ者・了

 




 今回もお読みいただきありがとうございます。

 以上がこの世界における荒耶の過去、両儀織という異物の真相でした。
 存在情報というと分かり難い概念ですが、月姫のロアとシエルの魂の関係に近いものだと考えていただけると理解し易いと思います。

 斯くして荒耶は忘れていた始まりを思い出し、螺旋の塔にていずれ現れる根源を待つ。
 彼方を継ぐ者──それは砕け散ったユメを継ぎ、彼方への道を歩む者。
 彼らのユメは交わらず、故に別たれながらも絡み合う。
 ──まるで相克する螺旋が如く。

 次回から忘却録音です。
 もし良ければ感想、評価の程をお願いします。その一つ一つが作者の糧となり燃料となります。


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6/忘却録音 -fairy tale-
忘却録音/1


 不定期更新です。
 今回からお待ちかねの忘却録音です。


    /0

 

 

「……ここは」

 

 ──瞼を開く。

 見えるものは机と、張り巡らされたガラス窓。

 景色は紅く、燃えるような夕焼けの色。

 僕はここを知っている。馴染み深い、彼女とよく話していた教室だ。

 だというのに──僕は一度もここに来た事はない。

 それだけではない、僕はここに居てはならないという異物感が纏わり付いて離れない。

 

「──おい」

 

 背後から声を掛けられ、咄嗟に振り向く。

 涼やかで、中性的な高い声。

 

 そこに立っているのは、紅い皮のブルゾンを橙色の着物の上に羽織った──何者か。

 丁寧に切り揃えられた流麗な黒髪。光を吸い込むような人形じみた伽藍の黒眼。

 顔立ちは人間とは思えないほど整っていて、浮世離れした美を醸し出している。

 性別は──男とも取れるし女とも取れる。

 

「おまえだよおまえ。何ぼーっとしてんだよ?」

 

 着物の人物はじっと覗き込んでくる。

 屈託の無い、悪戯めいた快活な笑み。僕は便宜的にこの人物を『彼』と定義した。

 

「……君は、誰だ? 」

「はっ、それはおまえが一番分かってるんじゃないのか?」

 

 微笑みながら、少年は当たり前のように問いを返す。

 何故だろうか──この笑顔を見るだけで、とても耐え難い寂寥感に襲われる。

 この笑顔はある誰かにとって大切な、だが永遠に見ることのできないものなのだろう。

 

「分からないのなら、自分の名前を言ってみな」

 

 名前──僕の、名前。

 思い出せないのではなく、彼の前でだけはそれを言うのが憚られてしまう。

 だって、ここに居る彼こそが──。

 

「おいおい、そんなことも忘れちまったのか? それじゃ困るぜ。だって──オレが()()()()()()大切な名前なんだからな」

「貸してもらった──?」

 

 名前、借り物の名前──。

 そう、僕はそれすらも借り物なのだ。

 僕は『式』ではない。もう一つ用意された名前、それを僕は譲り受けた。

 他でも無い、眼前の彼に──。

 

「思い出したか? ならもう忘れるなよ。おまえに貸してやった以上、()()()()()()オレに名前は無いんだから」

「ああ。……やっぱり、君が本当の──」

 

 言いかけたが、そこで遮られてしまう。

 

「言うまでもないだろ? だってオレは──ずっとおまえを見ていたんだから。コクトーと一緒に居る程じゃなくても、楽しかった。こんなこともあるんだって思うと、すごく嬉しかったんだ」

 

 コクトー。この上ない親愛を込めて語るその単語は『彼女』とは違う誰か、或いはもう片方。

 その遠く、抱き締めるように細められた瞳は──何よりも満ち足りていた。

 

「"こっち"の事は心配するな。ちゃんとコクトーの奴が役目を果たしてくれているからさ。そっちはそっちなりに、出来ることからやればいいんだ」

「……よく分からないけど、ありがとう」

 

 教室の扉が独りでに開く。

 彼は窓際の机に座ったまま、にこやかに微笑んでいる。

 どうやら行かなければならないのは僕の方らしい。

 

「また会おうぜ。今度はそっちで起きた事とか聞かせてくれよな」

「……また、会おう」

 

 一言そういって、手を振る彼を尻目に扉へ向かう。

 白く、どこまでも広がる地平線の先、僕の居るべき世界へと、迷いなくただ一直線に。

 きっと、どこかでつまづいて振り返ることになった時、彼は必ず来てくれるのだろう。

 だって彼は──いつでもここにいるのだから。

 

 

    /1

 

 

 不思議な夢を見た。

 名前は結局口にしてくれなかったけれど、他人ではなかった少年の夢。

 

 カレンダーはもう十月を指している。

 今日は例外だったが、最近は奇妙な夢ばかり見てしまう。

 例えば──それは焔。

 女は煉獄の中で倒れていて、男はそれを眺めて泣いている。

 男は傷だらけで、憂いと痛みに満ちた眼をしていた。

 

 夢の内容は毎日同じだ。

 正確には連続した一つの出来事を断片的に見ているのだが。

 それがとても偶然とは思えなくて、その度に内容を記録していたのだが、手帳には既に一つの物語が出来上がっていた。

 

 自分で見た夢に言うのも何だが、まるで三文小説のようだ。

 夢に焦がれた男と、それに惹かれた女が、最後には当然のように破滅を迎える。

 そのあまりにも愚かしい顛末は、まさに炎に向かう蛾そのもの。

 叶わないユメを見て、不可能だと悟り、それでも足掻き続けて──結局何も救えない。

 

 それはまるで──まるで自分みたいで、とても見るに堪えない光景だった。

 どうしてこんな三文芝居を見てしまったのか、自分でも理解できないが、異様に現実感のあるものだったことは間違いない。

 信じ難いことだが、まさか現実だったのか?

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 そうして手帳と共に夢の記録を思考の片隅に投げ捨て、自動機械のように朝の支度を済ませる。

 時計はもう十二時を示している。

 今日は仕事の依頼らしく、昼過ぎてから事務所に来いと言われていたのだった。

 何やら途轍もなく悪い予感がするが、折角の刺激を逃す手はない。

 巫条霧絵の事件からは目立った事件も無く、退屈していた処なのだ。

 それがより怪奇であればあるほど、意味のある出来事になるだろう。

 ……七月の事件と同じように。

 

 違和感を拭い切れぬまま、秋の涼風を受けながらあの嫌味な所長の待つ事務所へと向かった。

 

 

    /2

 

 

 不思議と寒かった九月も終わり、十九度目の十月がやってきた。

 残暑もなく、信じられないほど寒冷だった先月とは打って変わって街は涼やかな秋風に包まれていて、夏の暑さなど忘れてしまうほどに快適だ。

 ……夏の暑さ。

 そう、わたしは今年の夏を一ヶ月飛ばしてしまっているのだ。

 七月の事件から暫く経ってから起きた爆弾魔事件の後、八月の初頭に巫条ビルでの連続自殺が世間を騒がせていた時から九月までの記憶がわたしには無い。

 なんと信じられないことに、わたしは一ヶ月近くもの間眠っていたというのだ。

 原因はやはり巫条ビルにあったらしく、織が自ら解決してくれたという話なのだが、下手すれば自分も屋上に浮かぶ少女達と同じ目に遭っていたかもしれないと考えると、彼と橙子さんへの感謝もそうだが、心底寒気がしてならない。

 

 ……昔は怪奇現象なんて都市伝説の中だけでのもので、笑い話同然に思っていたというのに、いつの間にかそれはわたしの日常と同化してしまっている。

 両儀織という青年と出会ってからというものの、わたしの日常は奇怪な非日常に彩られたものへと変質した。

 二年前の未解決の猟奇殺人事件。異能を宿す少女による殺人。廃ビルに浮かぶ少女達。

 その度に叩きつけられる、この世界の深層と常識に守られた日常の脆さと尊さ。

 その度に叩きつけられる──自分自身の無力と弱さ。

 わたしと、わたしを囲むこの世界はいったい──どこへ向かおうとしているのだろうか?

 もしかしたら、この先の路地裏にも何か常識では測りきれないものが潜んでいるのかもしれない。もしかしたらその建物にも──なんて不毛な懐疑がわたしの胸中には小さく燻り始めている。

 この例えようのない不安は──いったい何を根源にしているのだろう。

 そう、これは恐怖。失うことへの恐怖なのだ。

 わたしはただ、恐れているだけ。

 今の日常を失うことを。──今の非日常を続けることを。

 このまま惰性のように日々を廻しているだけでは、いつか大切なものを失ってしまうという予感が脳裏に渦巻いている。

 

 わたしにとって、最も恐ろしいもの。それはきっと──彼のことだろう。

 両儀織。二年前に出会った、文字通り誰よりも"特別"な青年。

 その在り方は抜き身の刃のようで、されどガラス細工のように鋭く脆い。

 二年という昏睡を経て目覚めた彼は、以前とは別人のように変質した人格を有するようになっていた。

 けれどその本質は変わっておらず、彼は今も優しいまま。

 思えば──わたしはどうして彼を特別だと思うようになったのだろうか。

 わたしには、その理由が分からない。

 気が付けば、わたしは彼を特別であるように思っていたのだ。

 まるで誰かに命じられたかのように、唐突に、不条理に。

 ──何度も、その時のことを思い返してみた。されど、決定的な答えは見当たらない。

 疑念は胸中を螺旋のように巡り、そして最後には始点に立ち戻ってしまう。

 ……きっと、答えを出すのはまだ早すぎるのだと、頭のどこかから声が聞こえる。

 その声に耳を傾けると──わたしはそこで思考を停止してしまうのだ。

 だって、こんなことを考えたところでどうせ結論など下せないのだから。

 丁度そこに置いてあるカラーコーンのように、終わりなく巡り続けるのが終わりなのだろう。

 

 そんなとりとめのないことを頭の中で掻き混ぜながら橙子さんの待つ事務所に向かう。

 もう慣れてしまった道程、日常の中では決して辿り着くことのなかった結界の張られた廃墟。

 わたしは慣れという力の恐ろしさを実感しながら──そのくせわたし自身も魔術師見習いなんていう怪奇現象に成りかけていることさえ忘れながら、事務所の錆びた扉を軋ませた。

 

 

    ◇

 

 

「おはようございます、橙子さん」

「うん、おはよう」

 

 事務所に入り挨拶を済ませると、橙子さんはなにやらキリッとした顔でこちらを見据えてくる。

 明らかに重要な用件がある、といった風な顔だ。

 

「……その顔ではやっぱり重要な話があるんですね? 何でしょうか」

「おまえはやはり鋭いね。それじゃあ言うぞ。鮮花は織に告白したのか、とね」

 

 ……どう考えても本題ではない質問を、彼女は真顔で口にしてきた。

 

「ええ、二年前にね。ですが了承されませんでした。あ、無論振られたわけじゃないですよ? 所謂保留ってやつですかね」

「──していたのか。からかいのつもりだったが、むしろこっちが驚かされるとはな……」

 

 橙子さんは本気で驚嘆しているようで、その整った目を丸くしている。

 ……わたしとしては何気なく返しただけなのだが、彼女にとっては大層驚きであるらしい。

 というのも、普段の織を知る者であれば彼がそんな解を返すなんて想像もつかないだろうけれど。

 

「はっ、あの坊やもおまえが相手では無下にはできないか。それにしても本当に驚きだよ。おまえ達、やっぱりとっくにデキてるんじゃないのか?」

「それならこんなに苦労はしませんよ。……その為にわたしもあれこれ講じているんですから」

 

 そう、保留どころか形だけでも了承して貰えていたら、もっと大胆に攻められていたというのに。我ながら実に一筋縄ではいかない相手に目を付けたものだ。

 まあ、そんなだからこそ特別だと思ったのかもしれないけれど。

 でもどうせなら、惚れるより惚れさせたい。今はまだ友人という段階なのだから、これはそうさせるチャンスと考えることもできなくはない。

 そう思うと、存分に恋路を楽しめる今の関係も悪くはないのかも。

 

「いやいや、おまえ達は本当に純粋だな。今のは悪かった。年に一度の失言さ、許せ」

「……この話も悪くはないですけど、そろそろ本題に入りませんか?」

「ああ、そうだったな。礼園女学院って知ってるだろう?」

「知ってます。あの有名な私立のお嬢様学校でしょう? 確か瀬尾さんも藤乃ちゃんも通ってる学校──」

 

 何の因果か、どちらも同じ学校に通っているという二人の奇妙な友人。

 思えばわたしは、あの学校との縁がないわけでもないのかもしれない。

 

「それで思い出したよ。あの二人も礼園の生徒だったな。これまた因果なことに、今度はあそこで奇妙な事件が起こってね」

「……事件? まさかあの学校の中で?」

 

 橙子さんは頷き、事件の詳細を語った。

 ほんの一週間ほど前、一年四組──Dクラスの生徒二人がカッターで切りあったというのだ。

 わたし自身は礼園の内情を知らないので何とも言えないが、瀬尾さんの話を聞く限りあそこは病的な清浄さが保たれた異界じみた場所なのだという。

 そんなお嬢様ばかり集まる場所で暴力沙汰が起こるなんて、正直考え難い。

 

 その後も橙子さんの説明は続く。

 問題はどうやらそこでなく、その処理の部分らしい。

 どうやらその事故はすぐには報告されず、保健室の記録を調べた為に発覚したのだという。

 しかも担任も隠蔽したのではなく、本当に事故そのものを綺麗さっぱり忘れていたらしい。

 それだけでも信じられない話だが、事件の原因もまた不可解だ。

 なんと二人の間には一ヶ月近くもの間、本人すら忘れていた子供の頃の秘密を書いた手紙が送り付けられていたのだという。それで幼馴染である二人はお互いを犯人だと思い、同時に切りあったのだという。

 ……そう、一番の問題は手紙には忘れていた過去の出来事しか書かれていないというこなのだ。

 不気味どころではない。自分すら知らない過去を知る謎の人物から送り付けられてくる手紙なんて、それだけでも気味が悪いのに、それが一ヶ月も続けばおかしくなるのは必然だ。

 

「橙子さん。その監視者の正体って誰なんですか?」

「判明はしているよ。妖精の仕業さ」

「──あの、すいません。聞き違えました」

「いいや合ってるよ。礼園にはおまえも知るように特異な人間が集まりやすい。目撃例もそれなりに多いそうだ」

 

 橙子さんは唖然としているわたしをよそに淡々と妖精や礼園の内情を語る。

 そうしてわたしは今度こそ驚きの声をあげた。

 だって──他ならぬ橙子さんが礼園のOGだと言うのだから。

 

「そんなに驚くことでもなかろう。あの学長が部外者に不祥事を漏らす筈もない。昨日の夜に彼女から原因究明の依頼を受けてね。私は探偵というわけではないが、別段専門外でもないしな。だが私が学園に乗り込むのもどうかとね。──そこでだ」

 

 橙子さんはにやにやとしながらわたしを見据える。

 ……何か、致命的に危険な予感がする。

 

「妖精というものは扱いが難しいものでね。一流の術者でもない限り、いつの間にか彼らに使役されてしまうことの方が多い。今回のは人の記憶を盗むという単一性能しか持たないから、おそらく妖精に似せた使い魔だろうよ。つまりは未熟者だな。修行にするには丁度良い。業務命名だ、目的は原因の究明と、可能なら排除。期間は指定なし。以上が本題だ」

 

 ……どうせこんなことだろうとは思っていた。

 わたしはあくまで冷静に、深く頷いた。

 

「……本当のことを言うとね、おまえはあくまである人物のお目付役ということなんだ。そいつが妙な行動を起こさないようにする為の監視員。だから妖精が見えないからって心配するな。おまえは頭脳として働いてくれればそれでいい。話は礼園に回してある」

 

 橙子さんは重要な部分をぼかしながら真相を語る。

 その人物のことを知らなければ話にならないと訴えたが、すぐに会えると言って躱されてしまった。

 

「それにな、この件はどうにも妙なんだ。あの学園での不祥事が漏れた事といい、すぐに私に話が回ってきた事といい、出来すぎている。まるで──誰かが裏でそうさせているかのように」

「──え?」

「だから敢えて私じゃなくそいつを送るんだ。理由は分からないが──何やら私が直接関わるべきではない気がしてね。むしろおまえ達こそ真実を知るべきだと考えてしまったんだ」

「私と──その人が?」

 

 脳裏にはやはり見慣れた影が浮かんでしまうが、即座に取り消して話を進める。

 まさか──橙子さんとて"彼"をあんなお嬢様学校に送るような真似なんかしないだろう。

 それに、橙子さんが妙だと言うほど不可解な事であれば、無視するというわけにもいかないだろうから。

 

「ああ。根拠こそないが、おまえ達がこの件に関わるのは定められた運命にすら思えてしまうんだ。だから、もし犯人とは別に裏で関与しているかもしれない誰かを見つけた時は私に知らせてくれ」

「──運命ですか。そこまで言うのなら仕方がありません」

 

 そう言って資料を受け取り、早速礼園に向かう為の準備を整える。

 だが、その前に引き止められた。

 

「おっと、交通手段だが。礼園は山にあるからバスを使ってくれ。午後十四時十五分の礼園行きのバスだ。そこでそいつと合流しろ」

 

 そう言って橙子さんはこの上なく不吉な笑みを浮かべる。

 まさか、と全身が粟立つ感覚を味わいながらわたしは事務所を後にした。

 




 漸く終盤に至りました。
 やっと本物の彼を登場させることができました。
 荒耶もかつての理想を思い出し、この偽典も終焉に向けて動き始めます。
 織を取り巻く世界の異変と、決着への布石の始まり。
 これから荒耶や先輩も表舞台に登場させていこうと思います。

 もし良ければ感想や評価の程をお願いします。その一つ一つが作者の燃料となります。


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忘却録音/2

 不定期更新です。


 

    /0

 

 

「……紫希、そこに居るのか?」

 

 返答はない。胸の内に何かが眠っているという感覚はあれど、明確に意志を持っているわけではないようだ。

 

 記憶を取り戻してからというものの、漫然と思い出に耽ることが多くなった。

 残る刺客は数少なく、もはや根源は近い。

 だというのに──私はただ有り余る時間を空費するだけに終始している。

 あれほど感情そのものを固定し、凍てつかせていた『起源』も、この迸る郷愁を止めるには至らない。

 私は──かつて理想に焦がれていた頃に戻りつつある。

 

「何を畏れる──荒耶宗蓮」

 

 暗闇の中から涼やかな声が響く。

 この部屋に灯りは無い。故に昼夜を問わず永久に闇に閉ざされた空間を形成しているのだが、その男の瞳は炯々と輝きを放ち、その獅子の如き金の髪と紅い瞳を際立たせている。

 

「何を識った? まるで縁側に座す老人のようだぞ、荒耶さん」

 

 青年はからかうように、乾いた嗤いを浮かべる。

 彼の目にもそう映るほどに、今の私は変容しているということなのか。

 

「……過去だ。遠く、忘却に埋もれていた古い記憶。あの男の手でそれを思い出した」

「過去? あんたの? 想像もつかないね」

「左様。私もそれまで忘れ去っていたのだ。……彼女のことを、両儀の因果を」

「……やはり、両儀に因縁があったのか。それで、彼女とやらも両儀の関係者なのか?」

 

 彼は珍しく真剣な面持ちで耳を傾ける。

 私はこれまで感情らしきものを彼に見せることはなかった。興味を持つのは当然なのかもしれない。

 

「然り。彼女の名は──」

 

 そうして思い出したことの全てを語った。

 私の出生、紫希との出会いと別れ、守護者との戦い、織の誕生──今に至る全てを。

 

「──驚いたな。どうも俺はあんたのことを勘違いしていたらしい」

 

 万感の思いを込めるかのように、青年は深く眼を瞑る。

 彼もただ漫然と聞いていたわけではないらしい。

 

「俺は──あんたをもっと冷酷無比な魔術師だと思っていた。だが、あんたは変わった」

「──変わらんよ。今も昔も、そうあれと願われ、そうあると誓った時から。私はただ一人の荒耶宗蓮に過ぎぬ」

 

 そう、変わらない。私はあの時から止まったままなのだ。

 起源──魂のカタチを呼び起こしたその時からずっと。

 そして眼前の青年もまた、それに目覚めてしまったのだ。

 

「しかし、よくもまあ数百年も意地を張り続けていられるもんだな。俺なら、きっと……」

 

 青年は深く思案するように顔を曇らせる。

 そう、彼にも因縁があり、だからこそ共にここに在る。

 何故なら──青年の因縁とは、元を辿れば私の蒔いた種なのだから。

 青年と『彼女』が出会ったのは偶然ではあるが、その始まりは私の計画だった故に。

 

「私が失ったのは一度だけだ。それからは何も。そうだ、何も失うものなどなかったのだ。故に私はこの在り方を貫き通してきた。おまえも同じだ。違うか?」

 

 私が失ったものはただ一つ。そしてその一つも漸く取り戻せる。

 ならば、もはや何も畏れるものは無い。

 彼も同じく、失うものを持たないからこそここまで走り抜けられた。

 

「ああ、そうだな。俺には何もない。何一つ残るものはないし、残せるものもない。……だが一つだけ、捨て去れないものがある」

 

 それは、ある偽物への執着にして、ある女への妄念。

 その狂気にも似た意志こそが、彼を"人間"のままに押し留めた。

 

「それならば良い。あと数日で舞台は整い、必要な役者も揃う。あとはただ、座して終末の刻を待てば良い」

 

 偽神の書(ゴドーワード)

 両儀を完全に戻すに必要となる最後の鍵。

 彼が如何にして蒼崎に悟られることなく両儀を誘き出すかは未知数だ。

 だが舞台はもう用意した。それは俗世より閉ざされた鋼の監獄、悪夢の妖精郷。

 あれこそがまさしく第二の矛盾螺旋と言えよう。

 

「分かっているさ。だが俺はせっかちでね。ただ待っているというのはどうにも性に合わん。奴の動向を見張りに行くとしよう。……もしかしたら『あいつ』をまた見られるかもしれないしな」

「良かろう。だが手出しは禁物だぞ」

「言われるまでもねえよ」

 

 言うが否や、青年はマンションの廊下から飛び降りて行った。

 部屋に残ったのは私だけとなる。

 

 私はやはり変調をきたしているらしい。

 あれから──私は感傷的になり過ぎる。

 そう、偽神の書(ゴドーワード)が予定通りに織の記憶を復元すれば、その後に織を迎え撃つのは里緒となる。

 そうすれば、織が里緒か、どちらが死するまで止まらないだろう。

 不思議なことに──私はそれを畏れ始めているのだ。

 

 里緒が織を仕留めれば、私は何のリスクも犯すことなく根源に至るだろう。

 織が里緒を討てば、彼と再び対面することが叶うだろう。

 この賭けに負けはない。どう転んだ処で私には成果のみがもたらされる。

 だというのに──私はそれを惜しんでいるのだ。

 

「どうしたというのだ、荒耶よ」

 

 己を叱咤するように声を漏らす。

 私は──まさかあの二人に思い入れを抱きつつあるとでもいうのか?

 最初にして最後の弟子として連れ添った里緒を。

 始まりの因果を受け継いだ織を。

 だとすれば、私は何をするべきなのだろうか?

 

「……まったく、厄介なことをしてくれたな、君は」

 

 この胸に渦巻く彼女の魂の欠片。

 それが私の起源を抑え、両儀家の特性に上書きしつつあるのだ。

 私は『静止』するに飽き足らず、『虚無』にすらなりつつあるのか──。

 

 かつて、私は理想を抱き続けるかどうか問われた時があった。

 そして私は己を貫き通す道を選んだ。

 引き返す道もあった。されど私はそれでも捨てられなかったのだ。

 ならば──迷う必要などどこにある?

 

「……迷いとは、実に私らしくもない。だが、あと数日ある。それまでにならば存分に迷おうぞ」

 

 時間ならあと少しだけ余っている。

 何せ偽神の書(ゴドーワード)のことだ。織に敗れることも、殺すことも有り得まい。

 もし仕留めてしまおうものなら、それこそ最上ではないか──。

 

 何にせよ、まだ結論を出すには早すぎるのだ。

 今はまだ、静かに彼らを見守るとしよう──。

 

 私は瞼を下ろし、再び眠りに就いた。

 夢でまた、彼女と逢えることを願って。

 

 

    /1

 

 

「……」

「……」

 

 午後十四時十五分、礼園女学院行きバスにて。

 わたしこと、黒桐鮮花は普段のイメージが崩れるのを覚悟で盛大に眉を寄せて顔に影を作っていた。

 どうしてそんなことになっているかというと──原因は間違いなく隣に座る青年だろう。

 

「……オレさ、トウコのこと常識知らずだと思ってたけど、まさかここまでとは知らなかったよ」

「ええ、寸分の余地もなく同意ね。まさか本気でやるとは思わなかった」

「だろうな。オレもまさかとは思ったが」

 

 青年、両儀織は物憂げな表情でバスに揺られている。

 窓に写るその顔は、奇しくもわたしとまったく同一の表情を浮かべていた。

 

「いや、ほんと。よりにもよってあなたをあそこに放り込むなんて、トウコさん体調でも悪いのかな」

「だろうな。余程拗らせていたんだろうよ。でなけりゃこんな発想は出てこないぜ」

 

 礼園で起きた妖精絡みの事件。橙子さん自身が関わるべきではないという理由から、わたしが送られることになったのだが、それはある人物のお目付役という名目でのことだった。

 そしてその主役となる人物こそが、眼前の両儀織なのだ。

 

 いや、正気とは思えない。

 いくら探偵という立場だからって、礼園がお嬢様学校だからって、女だけが固まった世界にこんな絶世の美青年を放り込めばどうなるかなんて、想像に易すぎるだろう。

 いや、むしろ厳しい管理体制が敷かれ、刺激に飢えている女子生徒の集まりだ。人の少ない長期休学中ならともかく、こんな時に美青年、しかも探偵なんていうセンセーショナルな存在が現れようものなら調査どころの話ではないだろう。

 

 織の話によれば、もう職員生徒には連絡がいっているらしいけれど、わたしはどうしても納得がいかなかった。

 だって、何だか凄く嫌だ。

 何がって、そう──織に見ず知らずの女達が群がるという絵面が。

 ただでさえ神経質で繊細な織なのだ。耐えかねて体調でも崩そうものならどうしてくれるというのだ、まったく。

 

「……オレはこれからどうなるんだ」

「……大丈夫よ。女子校とはいえ、お嬢様の集まりだから。そう喧しいことにはならないと思う。……保証は出来ないけど」

「取り敢えず、煩わしいのだけは勘弁だな……」

 

 バスの中に他の乗客は居ない。

 今日は平日だが、もう十四時ということもあってバスにはわたしたちだけが乗っているようだ。

 雑多な生活音が響く都心から離れ、山にある礼園に近づいて行くに連れて木々の騒めきが窓越しに響き渡る。

 もう十月だからなのか、木から落ちる葉の中にも赤や山吹色が混じっているのが見える。

 その清浄極まりない光景は、この高まる不安感を紛らわすのに十分なほど美しい。

 だが、色付く木々が増えていくにつれ、心拍は速くなっていく。

 何故なら──それは礼園が近付いている証なのだから。

 

 あれこれと先行きを案じていると、もう礼園の校門が見えていた。

 わたしたちは交互に溜息をつきながらバスを降り、迎えに来た職員と顔を合わせた。

 

 

    ◇

 

 

「こんにちは。『伽藍の堂』から派遣されて参りました、黒桐鮮花と申します」

「同じく、両儀織と申します。短い間ですが、黒桐共々お見知り置きを」

 

 わたしに遅れて恭しく挨拶する織。

 その様は途轍もなく上品かつ優美で、どう見ても完全無欠の御曹司といった所だ。

 ……何だか、昔の彼を思い出すようでどこか複雑な気分になる。

 

 そうして職員である修道女に連れられて校門を潜ると、古めかしく大きな校舎が見えてくる。

 それは尋常ならぬ広大さの森林に囲われていて、学園の森ではなく、森の中に学園があるとしか形容できないほどだ。

 校門の前から見える景色は何てことのない、ただの古めかしい校舎でしかないのに、門を潜ればまるで別世界のように空気感が転調する。

 それはまるで──結界でも張られているかのよう。

 

「──何だ、ここ」

 

 織はその外界とは隔絶されたある種異様な空間に対して違和感を感じたのか、眼を細めて警戒心を剥き出しにしている。

 環境の変化に機敏な彼のこと、きっとこの空気感の変容ぶりに不自然なものを感じているのだろう。

 

「……確かに、これなら妖精が潜むのも納得ね」

 

 これほど外界から隔絶され、密閉された空間であれば、魔術師が潜むのも道理だろう。

 ……壁で囲われ、境界で仕切られた空間とは、それだけで一つの結界なのだから。

 

「とにかく……挨拶くらいは済ませておきましょう」

 

 強烈な違和感を他所に置いて修道女に付いて行く。

 おそらく学長であるマザー・リーズバイフェの許に行くのだろう。

 わたしたちは校舎の窓から覗く生徒達の熱の篭った視線を浴びながら学長室に向かった。

 

 

    /1

 

 

 ……視線。

 すれ違う度に総身にぶつかる数多のそれは、全てが好奇と期待によるもの。

 やはりお嬢様学校と言えど年頃の少女の集まり。外界がもたらす強烈な刺激には勝てないらしく、普段の淑やかさなどかなぐり捨てるかのように方々で固まって耳打ちをしている。

 本来であればあれこれと質問責めに遭っていてもおかしくないが、教師達からの話でわたしたちから話し掛けない限りは声を掛けてはならないようになっているらしい。

 ただ、それでも異物は異物。学校に探偵なんて珍しいどころの話ではないので、こうして壮絶に浮きまくっているというわけだ。

 

「……どいつもこいつもこっちを見てるな」

 

 気怠げに呟く織。

 その黒い瞳が生徒の一人と合うと、さらに熱の篭った──黄色い視線とでも言うべき──視線が織に飛ぶ。

 

 ……やはりこうなったか。

 ただでさえ全寮生の女子校という抑圧された環境なのだ。

 探偵なんて肩書の男──それも絶世の美男なんていうものが歩き回っていようものなら、注目の的にならない筈もないだろう。

 話題には織だけでなく当然わたしも含まれているらしく、黄色い声に混じって噂話が否応なく耳に飛び入る。

 

「ねぇ、あの人すっごく綺麗じゃない? なんだか探偵っていうより女優よね」

「分かる。でも探偵っていうのもカッコいいよね。凄く頭が切れそうだし」

「でもやっぱり、あの人って……あのカッコいい人とそういう関係なのかな?」

 

 内容は殆どが他愛のない、高校生が好むような話だ。

 この学校はミッションスクールであり、敬虔なクリスチャンも多いのだが、どうやら高校から参入した生徒達は基督教に興味を持たないようだ。

 

 そんな統制された混沌の中、溜息を吐きながら歩いていると、何かの存在に気が付いたのか織が唐突に早足に歩み出す。

 

「どうしたの? 何か見つかった?」

「やっぱり、居るとは思ったんだ」

 

 そう言って織は騒めく群衆を掻い潜りながら、一人の生徒に向かって歩み寄る。

 明らかに困惑している女生徒は、くせの付いた短い茶髪とどこか弱々しい表情が特徴の、何処かで見たことのある風貌をしている──って言うか、どう見ても会ったことのある人物であった。

 

「よう、久しぶりだな」

「お、お久しぶりです……。あの……本当に織さんと黒桐さんなんですか?」

「──あなた瀬尾さん、よね」

 

 ──彼女こそ、彼の"未来視の女"。

 名を瀬尾静音と言った。

 




 今回はここまでです。
 やはり礼園に織が入ってくれば話題にならない筈もありませんよね。
 それでも騒ぎにはならないのは流石に礼園と言った所でしょうか……。
 さらに久しぶりに静音が登場。折角なので礼園ガールズにはガンガン活躍して貰おうと思っています。

 もし良ければ感想や評価をお願いします。その全てが作者の糧となり燃料となります。


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忘却録音/3

 不定期更新です。大変お待たせしました。




    /0

 

 

 ──それは、一振りの刀だろうか。

 

 どこからともなく、細い囁きが染み込むように響き渡ってくる。

 

 ″わたしは、ここにいる──″

 

 いつかの夢で聞いた、どこか馴染みのある声。

 その澄んだ響きは、果たしていつ耳にしたものだったか。

 知らないはずの、でも忘れられなかったそれは、誰に対して発せられたものか。

 

 ″あなたは、そこにいるの──?"

 

 何も言えない。

 僕はこの仄暗い闇の底で、ただ一人穏やかな微睡みに身を委ねるだけ。

 

 わたしはここよ──

 

 無明の闇を切り裂くように、紅く煌めく刀が茫洋と輪郭を現す。

 その妖しい輝きの奥、錆一つない漆黒の刀身には僕でなく、見たこともない女の顔が薄っすらと映りこんでいる。

 その人形のような、されど幾重にも哀しみが刻み込まれた面持ちは──どうしようもなく自分と似ていると思えてしまった。

 それはまるで──鏡を見ているみたいだ。

 

 ″だから──いつか会いに来て──″

 

 何も言えない。

 何もできない。

 されど、僕にはその言葉に対する返答を考えることだけは許されている。

 

 そうしていると、周囲の闇の中から画面のようなものが現れ、ノイズ混じりの映像が映しだされていく。

 

 映っているのは、穏やかな日差しに澄み切った川、一面の緑に包まれた美しい丘。

 その中心に、周囲との調和を崩すことなく一つの簡素で小さな祠が慎ましやかに鎮座している。

 その眺めは幻想的ながら、されどどこまでも現実味を帯びて確かな存在感を醸し出していた。

 この場所は、間違いなくこの世界のどこかに存在しているのだろう。

 僕は夢と現の境界、自分だけがあるこの場所で、眼前の誰かに向かって言葉を紡ぐ。

 

「必ず、会いにいくさ」

 

 口をついて出たその言葉。

 発したのは間違いなく自分なのに、自分のものとは思えない厳めしい響きが暗闇に木霊する。

 そこでふと、自分の存在を確かめるように足元を見やる。

 

 目に映るのはぼろぼろに擦り切れ、岩のように厚くなった掌と年季の入った僧服に身を包んだ長躯だけ。

 これは──いったい誰なんだ?

 今見えているのが自分でないのなら、ここにいるはずの僕は誰なんだ?

 

 そんな焦燥を余所に()()は迷いなく、信託のように高らかに──されどどこまでも穏やかに告げる。

 

「だから──そこで待っていてくれ。私もそこにいくから」

 

 ″うん。わたし──ここで待ってる″

 

 刀に映る女は今にも消えてしまいそうに儚く微笑む。

 そして黒玉のような伽藍の瞳に映し出された誰かは──まるで救われているかのように安堵して、されど地獄の業火に焼かれているかのように苦しげに頷いた。

 

 それと同時に映像は闇に吸い込まれ、半透明な階段が足元に出現する。

 僕と誰かは、その先から道標のように射す一筋の光に向かって確かな足取りで歩を進める。

 いずれ訪れるだろう夢の終わり。その最果てへ────。

 

 

    /1

 

 

 ──あの教師は──。

 

 僕たちは一旦事件が起きたクラスの担任に事情を聴取することにした。

 そこで準備室に入り、いざ顔をあわせたところ、その並みならぬ既視感に二人して面食らうこととなった。

 ──あまりにも似ているのだ。隣に立つ友人の兄である黒桐幹也に。

 それも顔立ちだけでなく、身にまとう空気や在り方までもが。

 

 まるで同一の人物が二人存在しているかのような違和感に、僕も彼女も愕然と立ち尽くすほかなかった。

 

 

「……玄霧皐月」

「やっぱり、あなたも気になるよね」

 

 どうやら鮮花も同じことを考えていたようだ。

 アレはそっくりだとか、そういう域の話ではない。

 まさしく生き写し──けれど、何か決定的に違うような。

 

「似てる、って思うでしょう?」

「まあ、玄霧の方が"ハンサム"っていうのはあるけどな」

「あー、そう言われれば確かにそうかもね……」

 

 彼女はなにやら訝しむように思案している。

 どうにも、僕とはまた違う捉え方なのだろうか。

 

「……瀬尾」

「ん?」

「瀬尾静音。あいつ、役に立ってくれるかな」

 

 露骨に話題をずらす。

 瀬尾静音。未来視の女。

 未来を限定するのでなく、可能性の高い未来を視る異能。

 二か月ぶりの再会を果たした彼女は、妙に落ち着いた態度で、何もかも知っていたという風だった。

 ……大方、見えていたのだろうけど。

 

 彼女の持つ異能はあらゆる面において強力だ。

 されどそのタイミングはまちまちで、しかも因果関係を推測する上で重要な情報が抜け落ちていることが多い。

 前回の爆弾魔の際は似て非なる能力であることを利用できたが、まったく未知の敵を探さなければならない今回はどうだろうか。

 機転が利く鮮花であれば有効に使えるかもしれないが。

 

「ええ、おおいにね。現状、魔術師について判明していることは妖精使いであること。どんどん情報を引き出していけば戦略の幅も広がると思う」

「そりゃそうか。味方は多いに越したことはないからな」

 

 記憶を奪うという、こと隠れ潜むにはこの上無く優れた能力を持つ魔術師。

 しかも本人は一切動くことなく触媒を使役して広範囲を監視できるとまでくれば、無策で向かうには無謀な相手と言えよう。

 だからこそ断片的ながらも先んじて状況を予測できる未来視が生きてくる。

 

「瀬尾と玄霧のことは置いておくとして、これからどうする」

 

 現状彼らの事を話しても仕方ない。

 玄霧が何も知らないという以上、他に事情を知る者を探すべきだ。

 

「まだ時間もあるから他の生徒の話を聞くのも良さそうね。でも午後六時以降は寮に居ないといけない規定だから、手短にね」

「それじゃ、それ以降の調査は内密にやるしかないってか。これは少々厳しくなりそうだな」

 

 ただでさえ限られた期間、平日であれば授業があるため生徒と会話する機会は貴重なものとなるだろう。

 ならば、最も多く時間を確保できる時間帯である放課後に接触するのが一番だ。

 

「今はもう四時過ぎか、それじゃさっさと済ませるか」

「決まりね。──あ、そうだ。一人助けになりそうな人を知ってるの。あなたもついて来て」

 

 ……少し嫌な予感がする。

 いや、まさか。

 

 胸に渦巻く不穏な予感を隠しつつ、何かを思いついた様子の鮮花について行った。

 

 

    ◇

 

 

「その声は──鮮花さん?」

「うん、やっぱり居ると思った。久しぶり」

 

 ……そりゃ、こうなるか。こいつもここの学生だからな。

 

 鮮花の呼びかけに振り向いたのは、白杖を手に佇む長髪の少女。

 その名も浅上藤乃。

 三ヶ月前の殺人事件にて対峙した、退魔四家に縁を持つ"歪曲"の異能者。

 ……そしてかつての後輩でもあった。

 

「……よう。その様子だとまあまあ元気なようだな」

「──織さん? どうしてここに」

 

 その混濁した紅の瞳。どうやらあの対決で視力を喪ってしまったらしい。

 それは結局、因果応報ということになるのだろうけど。

 それでも、多少思うところがないわけでもない。

 ……やはりもう会わない方が良かったのかもしれない。お互いの為にも。

 

「──ただの調査だ。一年四組で起きた事件についてのな。おまえも知っていることがあれば教えてほしい」

 

 あくまで冷然と対応する。

 その方が相手にとってもいいはずだ。

 それでもどこか気まずい空気が漂う。

 

「はあ。あのね藤乃ちゃん、わたしたちは探偵としてここに派遣されてきたの。色々訊きたいこともあると思うけど、まずはちょっとお話しましょう」

 

 鮮花は柔和な態度で浅上を宥める。

 どうやら想像以上に浅上は困惑しているようだ。

 

「……ええ、大丈夫です。その、それではお二人は探偵ということなんですね。ではわたしにもできることがあれば手伝いますので……」

 

 俯き、もう光のない瞳でちらちらとこちらを見る彼女。

 表面上は平静を保っているが、そこには隠し切れぬ無数の感情が覗いている。

 ……ここで調査を行う以上、どのみち避けては通れない相手だ。

 なら、多少なりとも溝を埋めておく方が賢明かもしれない。

 

「……そう気負うな。これはオレたちの仕事だ、負担になるようなら無視してくれたっていい」

「そうよ。別に特別なことじゃないわ。わたしたちは必要な話を聞くだけ、それだけだから」

 

 どうにも浅上はあの事件のことで負い目があるのか、どこかぎこちなく不安げだ。

 それをフォローしてくれる鮮花の存在は、他者との交流が不得手な僕にとって大変ありがたい。

 

 浅上が見ているのは僕の左腕。おそらく目の利かない彼女にとって、それはまだ喪われたままなのだろう。

 何も口に出さない彼女に対し、直接言葉を投げかける。

 

「左腕ならうちの所長が代わりを作ってくれた。支障はない」

 

 白く機能性に特化した人形の腕。

 それは大変目立つ物であり、確かに過去の痛みを思い起させるものだ。

 そして彼女も多くを失った。

 それこそが自分と彼女に対する因果、罰というものなのだろう。

 

「おまえがこれまでのことをどう思っているかはともかく、オレはただやるべきことをやるだけだ。おまえは自分の内面に正直であればいい。……解らないならそれでもいいさ」

 

 彼女も僕も、まだ多くの迷いがある。

 それでも、目覚めたばかりの頃のように虚ろなだけではない。

 幾つかの痛みや罪を目の当たりし、僅かでも何かを積み重ねてきた。

 彼女もまた、罪と同様に積み重ねたものがあるはずだ。

 そしてそれは──無価値なものなのだとしても、ただ無意味なものではないと思う。

 自分自身の内面に正直である限り、いつか残るものもあるだろう。

 ──少なくとも今はそう信じたい。

 それがどんな結果をもたらすかなんて、誰にも判らないけれど。

 

「……また必要があれば訊きにくる。鮮花、オレはちと気になることがあるから廃校舎に行ってくる。おまえは生徒への調査を続けてくれ」

「ええ……って、単独行動するつもり? ちょっと──!」

 

 どうにもあそこには異様な気配が漂っていた。

 僕は二人を振り切って旧校舎へ駆け出した。

 後には"六時までには職員寮に入るのよ──!"と言う鮮花と愕然と立ち尽くす浅上が残されていた。

 

 

    ◇

 

 

 ──結果から言えば、大したものは見当たらなかった。

 見つかったものといえば妖精一匹程度で、しかも反射的に潰してしまったせいで捕獲できなかった。

 そういうわけで、今は自分たちの為に用意された職員寮の空き部屋に居る。

 もともとこの学園は女ばかりで、男の教師はごく少数なのだという。

 しかもその希少な男教師である玄霧、そして失踪したという葉山は寮を使っておらず、実質的に女性寮となっている。

 寮の規定は厳しく、生徒の移動は午後六時以降厳しく制限されている。僕たちも同じことだ。

 鮮花は当然離れた部屋に居り、そう易々とは連絡を取り合うことはできない。

 それでもあくまで僕たちは外様だからか、他の生徒達のようにシスターが部屋を見張りに来るようなことはない。

 つまり──いざとなれば窓からワイヤーを使って降下し、外出することもできるということだ。

 それを考慮すれば実際の調査に使える時間はかなり確保できる。

 

 とはいえ魔術師もこの学園に隠れ潜んでいることを考えれば、職員寮か学生寮で待機しているだろうから、大した成果は上げられそうにないが。

 とやかく、まあ。期限は無制限なのだ。そういった緻密な調査は自分の性分に合わないし、何なら鮮花に任せてもいいだろう。

 ……幹也だったら、あっさりと発見しそうなものだけど。

 今日できることはもうない。時間も時間だしさっさと眠るとしよう。

 

 ──浅上の透視能力、もしかしたら役に立つかもしれないな──

 

 そんなことを考えている内に眠りへと落ちて行った。

 

 

    /2

 

 

 夕暮れの職員室。

 玄霧皐月は穏やかな笑みを貼り付けたまま、思案していた。

 

 ──ようやく出会えましたね、両儀織。

 

 彼らは上手く荒耶が仕掛けた餌に食い付いてくれたようだ。

 いや、偶然などではない。蒼崎橙子に情報を流し、彼らを派遣するように仕向けたのは彼自身なのだから。

 これもまた運命の導きというものなのだろう。

 

 唐突に窓を叩く音が響く。

 ブラインドを上げると、そこにはヤモリのように人間が張り付いていた。

 いや──それはもはや人間と言えるものではない。

 

 窓を開けると、一人の──否、一匹の獣が部屋に入る。

 獅子のような金の髪と、蛇を想わせる同色の瞳。

 外見こそヒトの形を保っているソレは、とうにヒトの在り方を逸脱している。

 されど、ソレにはまだ存在を表す名が残っていた。

 

「お久しぶりですね、白純里緒。荒耶の想定通り、両儀織はここにやって来ました」

「へへへ、荒耶さんのやる事にミスはないさ。それで、様子はどうだ?」

 

 瞳を紅に輝かせ、心底恍惚とした様子で青年は尋ねる。

 炯々とした瞳を向けられてもなお、玄霧は揺るがない。

 その何にも動じぬ佇まいは、見る者にある種の超越性を感じさせる。

 

 そもそもこの礼園は異界として成立し得る程に強固な警備を誇っている。

 白純がこうして容易く侵入でできているのは、彼が人外としての能力を有しているためである。

 そんな彼とそうして連絡を取り合う玄霧もまた、尋常な人間ではないのだ。

 

「変わりはないようです。おそらく想定通り彼らは黄路美沙夜を追い詰めるでしょう。そこで私の出番ということです」

「統一言語ねぇ。はは、"望郷"か。あんたも相当に特異な起源を持ってるんだな。どうりでお尋ね者ってわけね、統一言語師(マスターオブバベル)

 

 統一言語師(マスターオブバベル)。またの名を偽神の書(ゴドーワード)

 現存する中で最も魔法使いに近い魔術師。

 その定義で言えば、魔法としか言えない神秘を行使する荒耶もまたそうであるのだが。

 

「起源においては私など知れたもの。あなたや彼には到底敵わない。私はただ言葉を掛けるだけです」

 

 ──よく言うぜ化け物が。

 

 白純は彼に内心畏れを抱いていた。

 あらゆる言語を自在に司る──それがいったいどのような意味か理解しているからだ。

 起源の古さでは到底自分には及ばないそれは、それでもたったそれだけで地球に存在する万物を支配し得るのだから。

 この男は──下手すればかの守護者すらも無力化しかねないほどの怪物なのだ。

 性格上あり得まいが、この男が本気になれば両儀を殺すことなど実に容易いことだろう。

 力に固執する白純にとって、自身を遥かに上回る怪人が二人も存在することは好ましくないことであった。

 

「どうやらあなたもここに留まるようですね。くれぐれも彼女の妖精にはお気を付けを。発見されては仕事が増えますので。……お食事も控えてくださいよ」

「それこそまさかだ。何なら犬か猫、鷹なんかに化けていれば誰も気にせんだろうよ」

 

 白純が既にヒトでない所以──それは彼の起源に由来する特異な異能であった。

 起源を覚醒した者はその起源に縛られる。そして存在そのものが根源の渦より分離した時から積み重ねてきた全ての記録を手にする。

 彼の起源は『食べる』。その本質は『消費』であり、生命という存在そのものの根底となる概念である。

 そのため彼の内には五億年を超える生命としての記録が刻まれている。

 全ての前世を手にし、その力をも手に入れた『生ける概念』。

 それが今の白純里緒なのだ。

 

 彼が怪しまれることなく侵入できたのも、カラスなどの猛禽への変形によるものである。

 

「では、荒耶への報告をお願いします。私は引き続き彼らの動向を観察しますので」

「了解だ。ああそう、あの黄路という女だが……」

 

 その名について言及した瞬間、玄霧の笑みに隠されたナニカがごく僅かに反応する。

 その一瞬を、白純は見逃さなかった。

 

「……いや、忘れろ。それじゃまた」

 

 玄霧が視る隙もなく、白純は部屋から消えていた。

 ──まだまだ運命の刻は遠い。されどその舞台は順当に整えられつつあった。

 




 本当にお久しぶりです。
 およそ半年振りの投稿……実に多忙な毎日でした。
 スランプもあって一時は筆を折ろうとすら考えていましたが、なんとか一話分投稿まで漕ぎ着けました。
 これからも極めて不定期な投稿になると思いますが、何とか失踪だけは避けようと尽力します。

 それから、白純先輩の起源が『消費』になっているのは、英語版でconsumptionと訳されていたからですね。うまく食べるということの本質を捉えた名訳だと思います。

 それではまた次回。


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