夢の中なら (鈴本恭一)
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第1話:ホイナと対人解析機

 

 

 

 

 

 

 新婚旅行の初夜、ここは君の夢だ、とその青年はホイナに言った。

 

 

 青年は自分のことを、竜殺しの対人解析機と自称した。名前はミュルツ。

 

 年齢はホイナとそう変わらない、二十歳程度に見えた。

 

 

 彼のやや長めの黒髪は無造作に伸ばした印象をホイナに与えた。その髪の下の整った顔立ちは無表情で、自分は人間ではない、という彼の言葉に説得力を持たせている。

 

 

 

 

 

 変な夢を見ているなあ、とホイナは思った。

 

 

 森の中に数多の鳥獣が駆ける図を模様にした敷布が、何枚も折り重なってどこまでも広がっている。端は見えない。

 

 ホイナはその上に座り、彼女の対面にミュルツがいた。彼はまるで鎧と剣の時代から抜け出してきたような、時代がかった上下の外衣を纏っている。

 

 

 

「夢の中で、これは夢だ、って言われるのは、なんだか変な気分」

 

「夢見を悪くさせる気はない。何か欲しいものがあれば、なんでも言ってくれ。ここは夢だ。なんでも出せる」

 

 

 

 そう言われて、ホイナは自分の家にある気に入りの紅茶と、ラサギが以前買ってきて美味しかった焼き菓子を所望した。

 すると彼女の前の布の上に、ポットに入った紅茶とカップ、皿に乗せられた焼き菓子が現れる。

 

 

「お、これはなかなか便利」

 

 

 ホイナはカップに紅茶を注ぎ、それを冷ましながら口にする。記憶に違わない、彼女好みの香りだった。

 

 

 

「ええと、ミュルツだっけ。このお菓子美味しいから、あなたも食べなよ」

 

「では、お言葉に甘えて」

 

 

 

 ミュルツは革の手袋に包まれた手で焼き菓子をつまみ、口の中に入れた。それを嚥下しているときも、彼には表情が浮かんでいない。

 

 

 

「ミュルツは人間じゃないの?」

 

「違う。竜殺しが、人類社会構造体に対する情報の収集と解析を目的に使用している道具だ」

 

「竜殺しってなに?」

 

「竜殺しは竜殺しだ。竜を殺す存在だと思ってくれればいい」

 

 

 

 ふうん、とホイナは相槌を打ち、自分も菓子を頬張った。そんな彼女に、ミュルツは説明を続ける。

 

 

 

「君たちは竜を認識できないだろう。竜はかつて竜として確かに存在していた。しかし現在はその存在を変化させ、人間には勿論、竜殺しにさえ認識できないものとなった」

 

「じゃあ竜殺しは、もう竜を見つけられないんだ」

 

「いや、発見した。竜は人類社会構造体に共生する形へ状態を変化させていた。人類社会構造体が竜を使って力を得る瞬間のみ、竜殺しはそれを竜と判定する」

 

「力?」

 

「動力、と言い換えてもいい。竜は人間に使われなければ、生きても死んでもないただのモノだ。しかし人間がそれを使用し、動力を得ると、それはモノから竜へ変化する」

 

「……それは、燃料のことを言ってるの?」

 

 

 

 ホイナが訊ねると、ミュルツは頷いた。

 

 

 

「竜はある時期を境に、地下へ潜った。人間に使われる為に」

 

 

 

 ミュルツはどこからかカップを取り出し、ポットの紅茶をそれに注いで、冷ますこともなく一気に飲み干した。

 

 

 

「もし仮に、現行の燃料の代替を人間が生み出した場合、竜はそれへ成るだろう。人間が、例えば月まで支配領域を広げ、月面の鉱脈で新燃料を使い出しても、やはり竜はそれに変化する」

 

 

 

 そして、竜殺しはそれを殺しに行くだろう、とミュルツは言った。

 

 

 

「竜殺しは人間と戦うの?」

 

「それは正確な表現と言えない。あくまで竜殺しの標的は竜だ。その竜の共生相手である人類社会構造体は、竜殺しの狩猟行動の巻き添えになる、と言う方が正しい」

 

 

 

 

 

 これはいったい何の話をしているのだろう、とホイナは話しながら不思議に思った。

 

 

 

 

 ラサギと旅客飛行船で大洋を渡る旅の中に、自分はいるはずだ。

 

 だというのに、その旅の夢の中で、聞いたこともない単語の羅列をまくしたてる男と喫茶をしている。

 

 

 

 

 変な夢だ、とホイナは改めて思う。

 

 

 

 その原因は、きっと昼間のせいだと考えた。

 

 

 

 ユナという女性に出会ったせいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第2話:飛行船とユナ

 

 

 

 

 

 

 

 ホイナとその夫ラサギが新婚旅行で乗るのは、巨大な硬式飛行船だった。

 

 

 

 浮遊ガスを入れた袋をそのまま船体にする軟式飛行船ではない。ジュラルミン製の骨格の隙間に、まるで内臓のように幾つもの浮遊袋を入れ、巨大な木綿の布で船体を覆う、大型の飛行船だ。

 

 船の胴体は長く、流線型をしている。深く済んだ広い青空と、アクセントのように散りばめられた小さな白雲の下、その巨船は地上に佇んでいた。

 

 無骨な鉄塔の係留マストに舳先を繋げ、船体を無数のロープで固定し、底部を接地させている。飛行船の後ろは半円柱の格納庫があり、こちらも船体同様巨大な建造物だった。

 

 

 

 飛行場は広大な草原の中にあった。灌木の切れ目から続く緑色の地面に、何人もの人々が集っている。

 

 飛行船の運用要員、旅行関係者、警備員、見物客、そういった人々相手に商売をする人間、人間の群れ。

 

 

 

 

 

 ホイナが目を覚ますと、自動車の揺れる車窓越しに、それらが目に入った。

 

 ホイナは思わず自分の喉元に手をやった。特に何も感じ取れない。だが呼吸が乱れていた。気持ちの悪い汗もかいている。

 

 

 

「ホイナ、大丈夫?」

 

 

 

 彼女と同じ後部座席の隣にいたラサギが声を掛けてきた。ホイナの父親を前部座席の助手席に座らせ、運転席には雇った運転手、そして後部座席にホイナとラサギがいるという配置だ。

 

 

 ホイナは思わず、眠っている間に見たことをラサギへ口走ってしまいそうになる。しかしすんでのところで堪え、

 

 

 

「大丈夫。ちょっと、車に酔っただけだと思う」

 

 

 

 と誤魔化した。

 

 

 

 長い付き合いであるラサギはホイナの嘘を感じ取ったかもしれないが、だとしてもホイナの心中を察してくれたに違いなく、「もうすぐ着くから、それまでの辛抱だよ」と言葉を合わせた。

 

 

 

 

 ラサギには、ホイナの見ていた夢の中身を言うことが出来なかった。

 

 

 

 

 ヒーエが、夢に出た。

 

 

 

 結婚式を行っているときの夢だった。式に突然ヒーエは現れ、そして花嫁であるホイナの首を絞めた。

 

 

 

 

 その苦しさでホイナは目覚めた。

 

 

 

 

 

 ヒーエの夢を見るのは、久しぶりだった。夢の中のヒーエは子供の頃のままの姿をしていた。当然である。彼女はホイナが子供の頃に、死んでしまったのだから。

 

 

 

 

 ラサギがまだ、自分の村にいた頃の話だ。あの頃は、今のようにホイナは父親と彼に雇われた運転手に連れられ、奥深い森の向こうにある小さな村へ頻繁に訪ねた。

 

 都会育ちのホイナにとって、畑と家畜を相手にするばかりの村は退屈で仕方なかった。父親はこの村の出身なので、親友である村長と話が弾んでいたが、娘が寂しい思いに囚われていることには気付かないようだった。

 

 

 

 その頃父親に言われたのは、

 

 

 

「ラサギと遊んできなさい」

 

 

 

 という放任の言葉だった。

 

 

 

 将来の夫になる同い年の子供と、今のうちに仲良くなっておけという親の意図をホイナは子供心に感じた。

 

 

 

 

 だがホイナにとって、この村に来て一番の楽しみは、ヒーエという村娘に会うことだった。

 

 

 

 

 ヒーエより痩せこけた子供を、ホイナは見たことがなかった。ひどく細い手足と胴体、手入れなどされていない黒い髪、そして、街の人間には持ち得ない奇妙な光を宿した黒い双眸。

 

 

 

 ヒーエは、仕事がないときは秘密の場所にいた。ホイナは彼女からその場所を教えて貰っていたので、ラサギを連れてそこまで行く――ふたりだけの秘密の場所なので、ラサギは途中で置いていくのだが――それがいつもホイナの胸を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 いつも、ヒーエは川縁にそっと座ってホイナを待っていた。

 

 

 ホイナはそのヒーエの姿が、たまらなく好きだった。都会から遠く離れ、山村からも切り離された場所にいる、風変わりな少女の姿が。

 

 

 

 

 町でも村でもない、どこでもない場所にいる、同い年の女の子。

 

 それが、ホイナの、この村での唯一の女友達だった。

 

 

 

 

 

 しかし、ヒーエは十二歳のとき、ホイナ達が新婚旅行をする八年前に、死んでしまった。

 

 

 

 

 町にいたホイナは、ヒーエが死に、その葬儀が行われたことをラサギから聞いた。

 

 

 ヒーエの溺死体が川辺に上がっていたのを、村人のひとりが発見した。その前日はひどい雨の日であったため、増水した川の流れに巻き込まれたと推測された。

 

 

 

 村で最も貧しい家の子であったヒーエの葬儀は、とても簡素に行われた。

 

 一応作ったという棺にヒーエの小さな体を入れ、墓地に埋めた。適当な石を墓石にし、名前を彫られ、短い祈りの儀式が執り行われた。それで終わりだった。

 

 村はすぐ普段の姿へ戻った。異なる点と言えば、ヒーエの父親が村から完全に失踪してしまったことだが、彼は村ではいてもいなくても変わらない男であった為、村の住人はたいしたことだとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 その年、村はかつてないほど豊作だった。

 

 

 

 溢れんばかりに麦は実り、家畜たちもたくさんの子供を産んだ。村では病気にかかる人間がいなくなり、いつもなら冬に生まれた子供は何人か病気にかかるのだが、それさえなかった。

 

 村は豊かになっていった。森を切り開き、村を拡げることにも成功した。収穫した作物や家畜もよく売れ、暖かく穏やかな気候が続いた。

 

 

 誰も口にはしなかったが、それがヒーエが死んだ年からだということを、胸の裡では分かっていた。

 

 

 ということを、ホイナはラサギから聞いた。

 

 

 

「ヒーエは、森の神に召されてしまったんだ」

 

 

 

 当時の彼は、そう言った。

 

 

 そう言って、ホイナの前で泣いた。

 

 

 

 

 

 きっとあの村でヒーエの死に悲しんで泣いたのは、ラサギだけだろうな、とホイナは思った。

 

 

 

 

 ラサギはヒーエが死んだその年、ホイナの町へ移り住んだ。本格的に、ホイナの父親が経営する店で働かせる為だ。

 

 

 村育ちのラサギだったが、彼は要領も愛想も良かったので、店の人間達に嫌われることなく受け入れられ、ホイナの協力もあり、町の空気にもすぐ馴染んでいった。

 

 

 

 

 そんなラサギだったが、ホイナとふたりきりになると、いつも悲しみに崩れ落ちた。

 

 

 

 ラサギはヒーエの死を、ずっと悼んでいた。しかしその悲しみを決して表には出さず、よくできた婿養子として振る舞った。

 

 

 ホイナは、彼の苦しみが癒えるのを待った。だからずっと、彼の側にいた。ラサギが恥も外聞もなく泣き崩れるのは、ホイナといる時だけだった。

 

 

 

 

 

 

 ごめん、とラサギは口癖のように言った。

 

 それがホイナに対してなのか、もうここにはいない少女に対してなのか、ホイナは訊ねなかった。

 

 

 

 

 

 ただ、時が経る。

 

 

 

 

 

 二十歳になり、ホイナとラサギは結婚式を挙げた。富裕層に属するホイナの父と、豪農となったラサギの父親は盛大な式を行った。

 

 ホイナには、町の友達が何人もいた。ラサギの村の人間も何人か来た。皆、新しい夫婦の門出を祝った。

 

 

 

 そして昔からの約束通り、西の大陸へ新婚旅行をすることになった。乗るのは巨大で豪華な旅客飛行船。優雅な旅の始まりのため、彼らは飛行船の発着場へ向かった。

 

 

 

 その移動の中でホイナは眠り、ヒーエが夢に現れた。

 

 

 

 

 これは何を意味するのだろう、とホイナは不思議がる。

 

 

 

 

 そうこうしているうちに、自動車は飛行場のすぐ近くへ到着した。ラサギが先に車を降り、外からホイナの扉を開ける。ホイナはラサギに手を支えられながら、外へ出た。

 

 草の匂いをはらんだ風が、微かに吹いている。ホイナはその風がそれほど強くないのを確認すると、白い日傘を開く。

 

 

 

 そしてラサギにエスコートされ、飛行船へ歩いて行く。彼らの後ろに、ホイナの父親も続いていた。ホイナは後ろを振り向き、父親へ言う。

 

 

 

「大丈夫、お父様。ここからは私達だけで参ります」

 

「飛行船には、儂も乗ったことがない。初めての乗り物だ。十分注意しなさい」

 

 

 

 ホイナはその言葉に頷き、ラサギから離れ、父親へ小さく抱きついた。父親も娘へ抱き返す。そして彼らは離れた。

 

 ホイナの父親はラサギへ顔を向ける。

 

 

 

「ラサギ、ホイナを頼んだぞ。いつまで経ってもやんちゃが抜けんからな」

 

「お目付役の任、肝に銘じています。ホイナなら、突然プロペラを見に行こうと言い出しかねませんから」

 

 

 

 微笑と共に返す義理の息子へ、ホイナの父親は満足げに笑む。

 

 そして親子は別れた。新婚の夫婦は歩を前へ進めた。

 

 

 

 

 ごった返す人の群れをかき分けて、乗船手続きをしている場所を発見した。旅券と乗船券、その他の必要書類を係員に提出し、乗船の許可を得る。

 

 

 飛行船の底部から乗船用の階段が地上へ伸びていた。そこから船内へ入るのだと説明を受け、ホイナとラサギはそちらへ歩いて行く。

 

 

 

 

 

 間近で見る飛行船は、まさに巨獣だった。

 

 

 

 

 

 全長は二四〇メートルを超え、直径も四〇メートルに達するという。そういった数字はともかく、ふたりからすれば地上に横たわる飛行船の姿は、白灰色の巨大な長城のようだった。

 

 自分たちは今から、このとてつもなく巨大な建造物に乗り込み、そして宙へ舞い上がるのだ。

 

 

 そう思うと、ホイナは小さく身震いする。幼い頃から自分が飛行船に乗ることは知っていたが、実際に目の当たりにすると、この乗り物は相当非常識な代物だと思った。

 

 

 

 

 かくしてホイナたちは乗船用階段を昇り、その常識破りの巨船内部へ足を踏み入れた。

 

 

 

 そこは上品な廊下につながっていた。

 

 床一面に赤い絨毯が敷き詰められ、踝まで埋まりそうだ。壁に取り付けられた照明は派手ではないが、さりげなく寛ぎを与える大きさと形をしている。あの恐ろしいまでに巨大な物体の内部とは思えず、まるで高級ホテルの中へ入ったようだ。

 

 

 

 階段は折れ曲がってさらに上へ続いている。この階層は喫煙室やバー、シャワールームのある下部デッキで、客室は上部デッキに設けられている。

 

 

 

 ホイナはとりあえず階段を昇ることにした。ラサギはホイナより先に昇り始めている。ホイナより早く上へ昇り、彼女が部屋を探す手間を省くつもりのようだ。

 

 長い付き合いなので、彼のそういった気遣いはすぐに分かった。なのでホイナはゆっくりと階段を昇り、上部デッキへ辿り着くことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

「……ホイナさん?」

 

 

 

 背後から、名前を呼ばれた。

 

 

 

 ホイナはその意外な出来事に驚きながらも振り返った。

 

 白い壁と赤い床の廊下に、青い服を纏った女性が立っていた。

 

 

 

 不思議な人だ、とホイナは感じた。

 

 

 

 

 具体的にどこが不思議なのか、はっきりとは分からなかった。青い生地に枝葉や草花の刺繍がされたその大きめの外套がかなりの年代物で、現代的な廊下の中では非常に浮いているせいだろうか。

 

 それとも、編み込んだ長い茶髪の下、ひどく白い肌にある青い瞳が、どこまでも深い色を湛えていたためだろうか。彼女の双眸は、端のない天頂のような、空に似た青さがあった。

 

 その女性がほんの僅かに周囲へ発している空気は、その衣服同様に浮世離れしていた。

 

 

 

 彼女以外の乗客は、みな身なりの良い紳士や淑女で、ホイナと同様に都会の空気をそのまま引き連れていた。

 

 しかし彼女が連れてきているものは、まったく違う毛色をしていた。不作法な田舎臭さでもなく、威張った傲慢さでもない。

 

 

 

 静かにそこにいる。けれど、他のものとは違う。そういった不思議さだった。

 

 そんな女性に声を掛けられ、しかしホイナには見覚えのない顔だった。このような独特の気配を持つ人間であれば、なかなか忘れることはできないはずだ。

 

 

 

「失礼ですが、どなたでしょう」

 

 

 

 ホイナは訊く。すると女性は慌てた様子もなく、ゆるやかに微笑んで口を開いた。

 

 

 

「はじめまして、ユナと申します」

 

 

 

 女性はそう名乗ると、小さく一礼した。その動きの流れはやはり独特で、彼女がその身を動かすだけで、ホイナは今まで見たことのないものを見る感覚に陥ってしまう。

 

 

 

「知人があなたを知っていたので、つい声を掛けてしまいました。馴れ馴れしく申し訳ありません」

 

 

 

 ユナと名乗った女性は、ホイナに向かって頭を下げた。

 

 ホイナは彼女の説明に少しだけ違和感を感じたが、頭を上げるよう言った。

 

 

 

「構いません。共通の知人がいる人と同じ船に乗れて嬉しいです」

 

 

 

 その言葉にホイナは嘘を混ぜていなかった。長い旅で、知り合いを作るきっかけが出来たのは正直嬉しい。変わった相手ではあったが、喋り方や仕草は穏やかなものだったので安心できた。

 

 だから、ホイナはユナにこう訊いた。

 

 

 

「よろしければ、その知人の方のお名前を教えて頂けないでしょうか」

 

 

 

 ユナはホイナの許しに安心し、口唇を安堵で緩ませる。彼女はその小さな唇で、ホイナに応えた。

 

 そしてその名前を聞いて、ホイナは凍り付く。

 

 

 

 

 

「ヒーエ、という子です」

 

 

 

 

 

 ホイナの耳に、音でない音が聞こえた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 その音はホイナの中から発せられたものだ。

 

 

 

 

 まるで彼女の心の中に、木の板を釘打って封印した戸口があり、その釘や板が突然ぼろぼろに朽ちて崩れてしまったような、そんな音だ。

 

 そして、その扉を開くのを遮るものは何もない。

 

 

 

 

 そういう実感が、ホイナの中で生まれた。

 

 

 

 

 

「……ヒーエは、死にました」

 

 

 

 なんとか、といった重々しさでホイナは言葉を作る。

 

 対して、ユナはその静かさを崩すことなくホイナの言葉を受け止め、頷いた。

 

 

 

「存じております。その最期も」

 

「あなたは、ヒーエの村の人なんですか?」

 

「いいえ。私はどこの人間でもありません」

 

 

 

 ユナは不思議な台詞で受け答え、右手を差し出す。その細い手首には、青緑色の紐飾りが巻き付けられていた。異国風の装飾がされた手は、ホイナに握手を求めている。

 

 

 

「ですが、あなたと友好は交わしたい。あなたが不快でなければですが」

 

「……」

 

 

 

 ヒーエの心の中は、混乱していた。何年も胸裡の奥底へ放置していた扉が、今になって突然、その存在を主張し始めている。その扉を開くべきかどうか、その奥には何があるのか、ホイナには分からなかった。

 

 

 だがこの船に乗る直前、夢に現れたヒーエの姿が、ホイナの行動を決定する。

 

 ホイナは、ユナの手を握った。ユナは微笑みを浮かべる。

 

 

 

「宜しくお願いします、ホイナさん」

 

「ホイナでいいです。みんなそう呼びます」

 

「では、私のこともユナとお呼び下さい」

 

 

 

 

 ユナの笑みに、ホイナもその場では笑みを返した。心中の海にある浜辺、その波打ち際でいつまでも音を立てる白波のような騒がしさを抑え付けて。

 

 

 

 

 

 

 

… … …

 

 

 

 

 

 客室は狭すぎず広すぎず、という印象をホイナは受けた。必要充分な空間を確保しているため、彼女は部屋の大きさには不満を感じなかった。

 

 しかし客室は飛行船の船体中央に配置されているらしく、窓が一切無かった。また客室内にあるものも、二段ベッドの他は手洗い用の蛇口のみという質素なものだ。

 

 

 

「豪華客船って聞いたのに、ちょっとがっかり」

 

 

 

 ホイナはベッドの下段に自分の荷物を置きながら、愚痴をこぼす。

 

 

 

「ここは寝る時専用、という感じで使うみたいだね。だいたいはラウンジか読書室で過ごすと良いそうだよ」

 

 

 

 ベッドの上段に昇ったラサギが、下にいるホイナへ説明した。

 

 

 

「あとでラウンジに行ってみよう。遊歩道は外が見られる窓があるらしいからそれも見に―――」

 

「ねえ、ラサギ」

 

 

 

 ラサギの言葉を遮って、ホイナは彼へ呼びかける。その声質は硬かった。

 

 

 

「ちょっと降りてきて」

 

「うん」

 

 

 

 唐突なホイナの要求に、ラサギは素直に従う。彼はベッドから降り、部屋の中に立つホイナの前へやってきた。

 

 

 

「さっき、ある女の人に会ったの」

 

「うん」

 

「ヒーエの、知り合いだって言ってた」

 

「……そう」

 

 

 ラサギは、それだけしか言わなかった。ホイナは彼の瞳を見る。憂いの色合いは確かにあった。けれど、かつてのように、崩れ落ちたとき特有の揺らぎは見当たらなかった。

 

 

 なので、ホイナはラサギに再び要求した。

 

 

 

「ラサギ」

 

「なに?」

 

「ぎゅっ、てして」

 

「わかった」

 

 

 

 ラサギはホイナの、やはり唐突なその言葉へ頷いてみせる。

 

 彼は妻へ近付いた。そして丁寧に、壊れ物を扱うような動きでホイナを抱擁する。ラサギはそのまま、優しい力の込め方で、ゆるやかに抱きしめた。

 

 

 

 ホイナはラサギの胸に耳を当てる。彼の心臓の音を聞く。抱きしめる腕、そしてその根本、肩を感じ取った。そこに震えや怯えはなかった。

 

 心を壊してしまうような暴力的な悲しみではなく、もっと純度の高い、誠実な悲しさがホイナに伝わってくる。

 

 

 

 

 

 ラサギは、もう大丈夫だ。ホイナはそう思った。

 

 

 

 

 ヒーエの名前を出しても、もうラサギはふたりきりのときであろうと、悲しみに千切れられたりしない。

 

 彼を支える必要は、もうないのだ。

 

 

 

 

 ホイナはそれを実感したかった。ラサギが崩れている時に、自分まで悲しみに潰れていては、きっとどうしようもなかっただろう。

 

 

 

 

 脈動をホイナは聞き取る。それはラサギのものとは違うもので、自分の中から滲みだしたものだとすぐに分かった。

 

 

 

 その音は、あの心の中の扉から出てきたものだ。

 

 

 

 

 ヒーエが死に、ラサギが悲しみに暮れたあの頃から、ホイナはあの扉を閉じた。封印し、奥へ奥へと追いやった。見ることも思い出すこともしなかった。

 

 

 

 

 だが、ここへきて、その封は破られた。

 

 

 

 

 

 どうしてだろう、とホイナは思い、そして気付く。

 

 時期が来たのだ。

 

 

 

 

 

 ラサギが哀悼の辛苦を乗り越えるまで、時間が必要だった。そして時は経た。彼は、もう潰されたりはしない。

 

 次は、私だ。ホイナは思う。

 

 

 

 

 

 ヒーエに関するあらゆる感情は、あの扉の向こうに押し込んでしまった。それを開ける時期が来た。

 

 

 

 

 思い出すことを、自分に許そう。

 

 ホイナはそう決めた。

 

 

 

 

 

 その途端、どういうわけだか、寒気が全身を駆け巡った。

 

 

 

「……?」

 

 

 

 震えがホイナの体に湧き起こる。自分でそれを止めることが出来ない。目に見えないものが戦慄いている。ホイナはラサギにしがみついた。恐怖のあまり。加減も考えず、助かりたい一心で。ホイナはしがみついた。

 

 そんなホイナを、ラサギは優しく抱きしめる。ホイナの頭を抱え、撫でた。何度も、何度も。

 

 

 

 ホイナは、ラサギが伴侶で良かったと、心の底から思った。

 

 

 

 そして彼に抱かれながら、追いやっていた扉が少しだけ開くその音を、ホイナは聞いた。

 

 

 

 

… … …

 

 

 

 《竜殺し》の対人解析機は《輝きの霧》の大使へ警告する。

 

 

「貴殿は《竜殺し》の狩猟対象に極めて接近しており、当方の攻撃に巻き込まれる危険あり。その場からの即時退避を勧告する次第」

 

 

 

 

 《輝きの霧》側から《竜殺し》へ返答文書が送られた。

 

『貴公の当該目標への攻撃を了承した場合、旅程に大きな変更をもたらす。我が方の大使は旅程変更の必要を認めない為、貴公の退避勧告を拒否、及び攻撃中止を要請する』

 

 

 

 

 《竜殺し》の対人解析機はその返答文書を解読し、再び竜殺しの意思を返信する。

 

「攻撃行動は決定事項であり、中止はあり得ない。よって当方の攻撃により貴殿が損害を被った場合、その責任は貴殿自身である。繰り返す、攻撃行動は決定事項であり、中止はあり得ない」

 

 

 

 

 

 《輝きの霧》側は文書を再度送った。

 

『大使の旅程上でのあらゆる艱難は、輝きの霧の名の下に排される。我が大使を巻き込んでの戦闘行動は、いかなる事情があろうと、我が方への宣戦布告とみなす』

 

 

 

 

 

 《竜殺し》の対人解析機は《輝きの霧》の大使へ文書の回答を行う。

 

「当方の攻撃目標は竜であり、貴殿ではない。しかし貴殿がそれを宣戦と解釈するのであれば、当方は貴殿を竜の守護者と認定する。当方の狩猟行動を阻む者は、全て敵である」

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして《竜殺し》と《輝きの霧》側との戦闘が始まった。

 

 

 

 

 

 



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第3話:ホイナと対人解析機 ――人類社会構造体――

 

 

 

 

 

 

 その奇妙な夢の中で、ホイナはミュルツに訊ねた。

 

 

 

 

「人類社会構造体って、なに?」

 

 

「人間の集合体だ」

 

 

 

 

 焼き菓子を切り分けながら、ミュルツはホイナの問いかけに応じる。

 

 無造作な動作だったが、切り分け方は正確だった。

 

 

 

「人間は、ひとりでは単なる一生命体にすぎない。しかしそれが集団になった場合、特定の構造を有する社会生物に変貌する。形はあるが形がない、奇妙な構造体だ。これを竜殺しは、《人類社会構造体》と名付けた」

 

 

 

 ミュルツが切り分けた菓子を、ホイナは礼を言いながら食す。頬張りながら周りをさらに見回した。いつの間にか、背の低い燭台が敷布の上に置かれている。枝状に分岐した形の燭台だ。

 

 それがあちらこちらに配置されていた。蝋燭の淡い火から、何か芳しい香りが漂ってくる。蝋に香が混ざっているのかもしれない。

 

 

 

「かつて強力無比な魔剣使いがこの世に存在した」

 

 

 

 ミュルツは言う。

 

 

 

「が、人類社会構造体は最終的にこの魔剣使いを死なせることに成功した。その為、竜殺しは人類社会構造体を脅威と判定している」

 

 

 

 ミュルツは蝋燭の香りなど気にならないのか、淡々と説明を続けた。

 

 

 

「人類社会構造体は不思議な能力を持っている」

 

「能力?」

 

「人類社会構造体は人間の集まりで成り立っているというのに、当の人間ひとりひとりは人類社会構造体を感知できない、という特徴が見られる」

 

「……」

 

「これは、自分たちの属する構造体を感じることが出来ないよう、人類社会構造体がそういった能力を使用しているからだと推測する」

 

「なんでそんなことしてるの?」

 

「人類社会構造体が、構成要素に自身を損壊されない為、と考えられる。件の魔剣使いは、その気になれば山であろうと海であろうと、月であろうと両断できた。

 

 その力で構造体そのものを破壊することも可能だったろう。しかし、できなかった」

 

 

「どうして?」

 

「魔剣使いには、人類社会構造体の存在が見えなかった。そして、彼は社会的弱者だった」

 

 

 

 

 ミュルツはそこで紅茶を飲む。ホイナもそれを飲んだ。

 

 ずいぶんと時間を置いてしまった気がしたが、紅茶は全く冷めていなかった。夢の中なのだから当然か、とホイナは思った。

 

 

 

 ホイナはミュルツに訊ねる。

 

 

 

「人類社会構造体っていうのに取り込まれて、社会的弱者になったら、どんなに強くても死んじゃうんだ」

 

 

「そういった特性を、人類社会構造体は有している。自身より強力であろうと、取り込めば、もはや人類社会構造体の敵ではない。

 

 そのため、竜殺しはその姿を人類社会構造体から隠蔽している。感知されなければ、取り込まれることはないからだ」

 

 

「もし取り込んで、社会的弱者じゃなくて強者になったら?」

 

 

「強者になった場合、その力で人類社会構造体の活動領域を拡大するだろう。取り込まれた時点で、人類社会構造体を感じることが出来なくなる。

 

 つまり人類社会構造体に利益をもたらす武器のひとつに変わり、人類社会構造体はより強化される」

 

 

 

 こわい話だなあ、とホイナは他人事の感想を持ったが、そこでふと思いついたことを訊ねてみた。

 

 

 

「神様も、取り込まれたもののひとつなのかな?」

 

 

 ミュルツは応えた。

 

 

 

「おそらく。人類社会構造体の歴史の中でも古い時期に取り込まれ、長きに渡って活動領域の拡大に使用されたと思われる」

 

 

「みんなが神様を信じてた時代だね」

 

 

 

 ミュルツは頷き、言った。

 

 

 

「そうだ。しかし現在では、異なるものが領域拡大のための武器になっているようだ」

 

 

 

 ホイナはミュルツの言葉に眉根を寄せる。

 

 

 

「神様じゃないもの?」

 

 

「技術、テクノロジーと呼ばれるものだ。人類社会構造体は現在のところ複数存在するが、技術を共通基盤にして構造体同士の結合を試みている節がある。

 

 竜殺しの獲物である竜も、この技術に共生するよう変化した。それほど強力であると、竜は判断したと思われる」

 

 

 

 ミュルツは言った。

 

 

 

「いずれ技術が神に取って代わる。この世はテクノロジーの信者で溢れるだろう」

 

 

 

 私は神様を信じてないよ、とホイナはミュルツに言おうかと思った。しかし、ミュルツはもうそのことを知っている気がした。ここは彼女の夢だ。

 

 

 

 

 

 

 神を信じていないことをホイナが告白したのは、この世に2人しかいない。

 

 

 

 

 

 

 

 ラサギと、ヒーエだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第4話:発進

 

 

 

 

 

 飛行船がついに飛び立った。

 

 

 

 

 

 ホイナはラサギを伴い、舷側の遊歩道に設けられた大きな窓から外を眺めていた。

 

 窓は遊歩道に沿うよう全体に長く大きく設置され、外の景色を存分に目にすることが出来る。

 

 

 

「飛んだよ……」

 

 

 

 ホイナは小さく呟き、ラサギの腕を抱きかかえた。

 

 

 

「うん、飛んだね」

 

 

 

 ラサギはホイナへ応える。彼も、上昇に伴って高くなってゆく窓の外へ見入っているようだ。

 

 空へ浮いているはずだが、その実感はホイナにはない。もし窓がなければ、本当に空へ飛び立っているのか分からなかったろう。それほど静かな浮上だった。

 

 

 

 窓の外には、緑色の大地があった。草原と、森だ。そこに群生するようにひしめいているのは、地上に残された人間たちだ。飛行船の影がそれらの上を覆い隠す。巨大な影に匹敵できるものは、格納庫と整理された発着場だけだった。

 

 

 飛行船は浮上を続ける。あの大きな格納庫さえ小さく見えてしまうほどの高度に達し、そこでようやく停止した。

 

 

 飛行船が前進を開始する。船体に付けられた四基のプロペラエンジンが稼働を開始したのだとホイナは想像した。

 

 ラサギの説明ではエンジンは一二〇〇馬力の強力なものだというが、それが発する音はほとんど遊歩道には聞こえてこない。飛行船は静かに飛行場を離れ、西へ針路を取って進んでいく。

 

 

 

「すごい、空を飛んでる」

 

 

 

 ホイナが再び感嘆の言葉を飛ばす。下には森が広がり、少し視線を上げれば、その森の果てと蒼穹の境界線を彼女は見ることが出来た。鳥たちの視界だ。大地に足を付けたままでは、けっして見ることの出来ない世界。

 

 森の上、大空の下、風の中を、ホイナは飛んでいる。巨大なる船に乗って。

 

 

 

 ホイナはしばしの間、そんな自分に酔いしれていた。

 

 

 

 それを醒ましたのは、視界の隅に、ひとりの人物を見つけたからだ。青い服を着た、茶髪の女性。

 

 

 

「ラサギ、ちょっと待ってて」

 

 

 

 

 ホイナは夫にそう言い、遊歩道の端にいるその人物へ近付いていく。

 

 

 

「ユナ」

 

 

 

 呼びかけたホイナだが、少しだけ後悔した。なぜならユナが下界を眺めるその姿は、ひとつの完成された絵画のように見えたからだ。ユナは他の乗客と同じように窓の外を見ているだけなのだが、彼女の周りだけ空間が切り分けられている感覚をホイナは持った。しかしその感覚も、周囲と隔絶した空気を醸し出していたユナがホイナの方を振り向くと、途端に消えてしまう。

 

 

 

「ホイナ。こちらに見に来ていましたか」

 

 

 

 ユナはゆったりとした微笑みでホイナを待った。そんな彼女のもとへホイナは寄る。

 

 

 

「こちらって?」

 

「遊歩道は反対側の舷にもありますから。そちらもこちらと同様に窓から外が見られるそうです」

 

「あ、そうなんだ」

 

 

 

 ホイナはユナから、この上部デッキは客室区を囲うようにU字型に通路があり、左右どちらの遊歩道へすぐに行けることを教えて貰った。

 

 ホイナたちが眺めている窓の反対側、遊歩道を挟んで小さな仕切りの向こう側にはラウンジがあり、すでに喫茶を楽しんでいる人々の姿があった。ホイナはそのラウンジの中から、空いている席を素早く発見する。

 

 

 

「私達もお茶にしよう」

 

「御相伴にあずかります」

 

 

 

 ユナの言葉は軽やかで、その足取りも同様だった。単にラウンジへ歩みを始めただけだというのに、いちいちホイナの目を奪う。

 

 

 ホイナとユナは遊歩道との仕切りの切れ目を通り、ラウンジへ入る。

 

 ラウンジは白い壁面に世界地図が描かれ、隅にはピアノが設置されていた。その他、茶色に統一された卓と椅子。ホイナ達はそこに座り、すぐにやってきた給仕へ紅茶を頼んだ。

 

 

 

「あ、そういえばうちのひと置いて来ちゃった。まあ、いいか」

 

 

 

 ホイナは思い出したように言う。その言葉に、ユナが首をかしげた。

 

 

 

「旦那様ですか?」

 

「うん、新婚旅行なの」

 

「それは、おめでとうございます」

 

 

 

 ユナが、心の中心から放ったような輝きのある笑顔でホイナを祝う。その笑顔は、ホイナには本当に眩しかった。ユナの言葉に嘘や偽りがないと容易に分かる、そんな祝福の仕方だった。

 

 

 

「ユナは、ひとり?」

 

「いえ。一応、旅の道連れがいます。でもその人は外なんて興味ないようで、部屋で本ばかり読んでいます」

 

 

 

 やれやれ、という感じでユナが首を振る。その動作がホイナには面白く、くすっと笑ってしまった。ユナも同じように笑顔になる。

 

 共鳴するように、ユナの表情とホイナの心が一致していく。ホイナは自分でも何故なのか分からないが、このわずかな時間でユナへ心を許していた。

 

 

 

「ユナは、飛行船の旅ってはじめて?」

 

 

 

 給仕が運んできたふたつの器の片方を口元に運びながら、ホイナは訊ねる。ユナが頷いた。

 

 

 

「ええ。こんなに大きなものだとは思っていませんでした。空を飛んでいるのを見たことはありますが、実際に近くに来ると、まるで怪物のようです」

 

 

 

 彼女の口調は楽しげであったが、品の良い抑えた声だった。まるで楽器のような声音だと感じながらホイナはユナの言葉を聞く。

 

 ユナの口から突然、弦楽四重奏が流れ出しても私は驚かないぞ。ホイナはそんな突拍子もないことを思ってしまった。

 

 

 

「ホイナは、西の大陸には行ったことがあります?」

 

 

 

 今度はユナが訊ねてくる。ホイナは首を横に振って応えた。

 

 

 

「ううん、今回がはじめて。まずは摩天楼の街にいくつもり」

 

「はじめての乗り物で、初めての場所に行く。良いですね」

 

 

 

 ユナは本当に、良いことを言葉にしている嬉しさがたまらないといった風に笑う。ホイナはそのような透明な笑い方をする人間を知らなかった。

 

 

 

「ユナは、変わった人って言われない?」

 

「よく分かりましたね」

 

「分かるよ。なんだか、すごい遠い海の向こうの陸地の、そのさらに向こうから来た人みたい」

 

 

 

 ホイナが言うと、ユナはその不思議な笑顔で少しだけ首を傾けた。

 

 

 

「それほど広くはないですよ。川の向こう程度で結構です」

 

 

 

 そしてやはり、よく分からないことを言うのだった。ホイナはその言葉に深く詮索をせず、紅茶を飲んで間を作った。

 

 

 そうした一拍の中でも、ユナの仕草を観察してしまう。

 

 

 青い外套をユナは屋内でも纏っていた。本来なら室内向けのものを着込むべきなのだが、ユナがそれを身につけているのはごく自然な印象で溶け込み、その場にそぐわない違和感というものがなかった。

 

 年代物の外套ではあったが手入れは行き届き、まるで生きているような瑞々しさがあった。

 

 

 

「ホイナは」

 

 

 

 ユナも紅茶を飲み、一拍の間の後で口を開く。

 

 

 

「ヒーエと友達でしたね」

 

「……うん」

 

 

 

 ヒーエの名前に、ホイナの瞳が揺れる。目に見えないホイナ自身の部分が音もなく強張り、あの心の扉が静かに身震いするのが分かった。

 

 

 

「ヒーエは私の知人ですが、友達ではありせん。なので、私は彼女の神に興味がありません」

 

「あの神様のことも、ヒーエはあなたに話したの?」

 

 

 

 ホイナは驚きとともにユナの顔を見詰める。ホイナの強い視線と声質を受けても、ユナは変わらず涼しげだった。

 

 

 

「ヒーエのことを、たいてい私は知っています。しかし知っているだけで、共感しているわけではないのです。彼女の神は、やはり彼女だけの神なのです」

 

 

 

 ユナが青い瞳を細める。その瞳でホイナを見据えた。

 

 

 

「あなたの旦那様のいた村は、豊かになりましたか?」

 

「……」

 

 

 

 ホイナは何も言えない。

 

 ユナは構わず続けた。自分の問いかけの答えを知っている口調で。

 

 

 

「彼女が死んで、彼女の村は豊かになった。そのことを認めれば、ヒーエの神を認めてしまいます。だから、誰もヒーエのことを口にしないのではないですか? ただ、呪いのようにあの子の名前を胸に刻んで過ごしている」

 

「ラサギは、違う」

 

 

 

 喉元を絞り上げるようにして、ホイナは言う。

 

 

 

「ラサギだけは、ホイナが森の神様のところへいったと思ってる。村がああして豊かになったのも、ヒーエのおかげだと思ってる」

 

「けれども、彼には彼の神様がいらっしゃる」

 

「……」

 

「彼はヒーエの神を認めた。けれど、その神の信者にはなっていません。私もそうです」

 

 

 

 ホイナの双眸は、ユナの射貫くような、しかし激しさではなく静謐な瞳の光に眇められる。

 

 

 

「では、あなたは?」

 

「私は、神様なんて信じない」

 

 

 

 ホイナは自分で思っていたより、あっさり告白した。それは彼女が子供の頃から親にも秘密にしていることで、特別な相手でなければ打ち明けないはずのものだったというのに。

 

 しかしユナを前にすると、魔法に掛けられてしまったように、秘密にしていたものを放ってしまう。これは危ういことなのではないかとホイナは思ったが、逆らわなかった。

 

 

 

「私は神様を見たことがない。神様を信じてる人しか見たことがない。だから、神様なんて信じてないよ」

 

「ヒーエは、死すれば神がやってくると信じていました」

 

 

 

 ユナは静やかに言う。

 

 

 

「生きている間はけっしてやってくることのない神でした。あなたの言うとおりです」

 

「私は、あの子の神様の信者じゃないよ」

 

「あの子の神は彼女の生死に意味を与える存在でした。無意味な死を、あの子は忌み嫌ったのです」

 

「それは……」

 

 

 

 ホイナは言葉に詰まった。それは、おそらくラサギも同じだと思ったのだ。ヒーエは死んだ。しかし、その死と引き替えに村へ恵みを与えた。

 

 ラサギはそう自分に言い聞かせて、ここまで立ち直ったのだとホイナは自分の夫にして人生の相棒の心を想った。

 

 

 

 では、自分は?

 

 ホイナは自問する。

 

 

 

 あの村の豊穣は、ヒーエと関係しているのだろうか。ただの偶然なのか。

 

 ヒーエは何の意味もなく死んだのだと、自分は思っているのだろうか。

 

 

 ホイナは自分の心に聞いてみる。すると、待ち構えたように、心の扉から声がやってきた。

 

 

 

 あの子は、死んだ。その後に何が起こっても、それは私には関係ない。

 

 そうだ、とホイナは頷く。

 

 

 

「あの子は、自分の生死にしか興味がなかった。死んだ後のことしか見てなかった。私のことも、本当に友達と思っていたのか分からない」

 

 

 

 吹き返すように思い出がやってくる。ヒーエとの記憶だ。森の中の川縁、水音が添えられた、秘密の場所。ヒーエの教義。森の神様。

 

 

 

「でも」

 

 

 

 ホイナは頭を振る。

 

 

 

「私は、あの子が好きだった」

 

 

 

 

 

 

 甘やかな時間が、あの川にはあった。

 

 鳥の囀りや羽ばたき、木々の間をすり抜けて枝葉の匂いをふんだんに含んだ風、いくつもの色の層を光で織り交ぜながら流れる川面。

 

 ホイナはそれらを感覚の奥底、閉じ込めた記憶の中から浮かび上がらせることが出来た。大切な大切な、幼い頃の思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だというのに、どうしてか、ホイナは胸が痛かった。

 

 ヒーエのことを思い出すたびに、ずきり、と自分にしか聞こえない音が鳴る。苦みと痛み、それらが記憶と共にホイナを苛んだ。

 

 

 

「私はあの子が好きだった」

 

 

 

 ホイナはその苦しみに堪えながら、ユナへ告げる。

 

 

 

「でも、私は神様を信じてないの。みんなの神も、あの子の神も」

 

 

 

 遊歩道の展望用窓から光が差し込む。和やかな陽を浴びてラウンジが一瞬だけ輝く。

 

 その輝きの中、ユナは目蓋を落とした。そしてホイナへ頷く。

 

 

 

 

 頷きながらユナが浮かべた表情の複雑さに、ホイナは酔いそうだった。憐れみや哀しみ、淋しさや懐かしさ、そんな感情を幾重にも束ねて肉と皮膚にしたようなユナの貌。

 

 

 

 

 

 ユナが言った。

 

 

 

「それが、ホイナの未練でした」

 

 

 

 彼女は閉ざしていた目蓋を開き、青い瞳でホイナを見る。ホイナの心の芯まで見るような、あの奇妙なまでに透明な視線で。

 

 

 

「あなたに、ヒーエの死の影が見える」

 

 

 

 とユナは言った。ホイナは何故か妙に納得してしまった。この心の中にある扉から漏れた、重く硬く、それでいて形の掴めないものの正体を知った気になったのだ。

 

 その途端に思い出したのは、ある雨の日だ。

 

 

 

 

 

 

 

 そう、あの日、飛行船を見た。ホイナは思い出す。いつもの川縁、突然の雨、曇天の下の飛行船。ヒーエの嘆願。ホイナの抱擁。

 

 そして、彼女からの拒絶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出してしまった。ホイナは思い出してしまった。

 

 ホイナは思わず、自分の口元を両手で押さえた。叫びを上げそうになった。どうして忘れていたのか。あの雨の日の夜。

 

 

 

 

 

 

 ホイナはヒーエが好きだった。

 

 ヒーエは死を望んだ。ホイナはヒーエに死んで欲しくなかった。しかしその願いは踏みにじられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だからホイナは願った。雨の日の夜に憤怒で狂い悶えたホイナは願ったのだ。

 

 

 

 

 

 

「私は、あの子なんて死んじゃえ、って思った」

 

 

 

 

 

 

 

 ホイナの唇が、告白の怯えに震えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第5話:憎悪で喉笛を噛み千切れたら

 

 

 

 

 

 

 

「死んじゃえばいい、って願った。初めて、神様に願った。神様なんて信じてないのに」

 

 

 

 そしてヒーエは死んだ。

 

 

 

 

 

 神様が私の願いを叶えてしまった。ホイナはそう思った。しかしその思いは封印された。そうしなければ、自分の前で崩れ落ちるラサギを支えられなかったからだ。

 

 

 しかしラサギには、もうホイナの支えは要らない。

 

 

 

 

 

 

 ホイナは、扉の向こうの記憶を蘇らせる。

 

 

 

 

 恐怖した。ホイナはどこまでも怖さに突き抜けていく身体と魂自体が恐ろしかった。

 

 

 

「あなたのそれは、神ではありません」

 

 

 

 ユナが言う。その言葉はひたすらに静かで、震えに走るホイナの身をなだめてくれるかのようだった。ホイナはユナを見た。ユナはホイナに言葉を供する。

 

 

 

「ヒーエの死は、ヒーエの神が行いました。ヒーエにとっては神によるものでした。けれどあなたは神を信じていない。故にあなたの願いを叶える神はなく、あなたを苦しめるものも、神ではありません」

 

「じゃあ、これはなに?」

 

「死の影です。あなた自身が創造した、あなたにこびりついた、死です」

 

 

 

 ユナの言葉に、ホイナは何も返せなかった。もう紅茶を飲むことも、席を立つこともできない。

 

 

 

 時間が流れる。飛行船は飛び、進む。ユナはいつまでもホイナを見詰めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュルツは言った。

 

 

 

「現在、人類社会構造体は複数存在している。それぞれの所属者は各構造体内の価値基準で物事を評価するため、異なる構造体に属した者同士が分かり合うのは大変難しい」

 

 

 

 敷き布の上に置かれたものが、いつの間にかさらに増えていることにホイナは気付く。

 

 燭台に混じり、木の彫像がまばらに点在していた。それは鷹であったり牛であったり、竜や鳳凰のような幻想物語に出てくるものの彫り物もあった。

 

 

 

 それらを何気なく眺めながら、ホイナはミュルツに訊ねる。

 

 

 

「私は、ヒーエを好きじゃなかったのかな?」

 

 

 

 ミュルツは胡座をかいた姿勢を崩さず、首を横に振った。

 

 

 

「君はヒーエを町の人間と同じに見ていた。好意を持った相手でなければ、そのようなこと、つまり自分の属する構造体へ取り込むようなことはしないだろう」

 

「町?」

 

「君はヒーエを町の人間にしたかった」

 

 

 

 ミュルツは言い切る。

 

 

 

「問題なのは、ヒーエは村という社会構造体の中の、さらに特殊な位置に属していたことだ。君にはその構造体を理解することはできなかった。君の属する構造体にはないものばかりだからだ」

 

「……」

 

「それはヒーエにも言えた。君の構造体の中にある価値観をヒーエは理解できなかった。しかし理解は出来なかったが、自分が取り込まれることは分かった」

 

 

 

 対人解析機が言う。

 

 

 

「だから、君を拒絶した」

 

 

 

 ミュルツの言葉に、ホイナは眉根を寄せて応えた。

 

 

 

「何が言いたいの?」

 

 

 

 苛立ちを混ぜて放たれたホイナの言葉だったが、ミュルツは無表情を解くことをしない。平板な口調で言葉を返す。

 

 

 

「彼女は異なる人類社会構造体に取り込まれることを拒んだ。しかしそれが即ち、好きではなかったという結論になるかと言うと、そうではないと思う」

 

 

 

 じゃあ、と言おうとしたホイナの言葉を遮り、ミュルツは自分の台詞を言い切った。

 

 

 

「ヒーエも、君のことが好きだったかも知れない」

 

 

 

 ホイナはその言葉を聞き、思わず立ち上がる。熱く流れる何かが全身を巡っていることに彼女は気付いた。血液か、情念か。

 

 

 

「それなら、私のあの願いは何だったの? 私はヒーエが好きだった。けど私があの子を好きなほど、あの子は私の事なんて好きじゃなかった。だから、願ったのに」

 

 

 

 死んじゃえ、と。

 

 

 

 

 

「君のその願いに価値をもたらすためには、君の言うとおり、ヒーエが君を嫌っていたという事実が必要になる。逆にヒーエが君を好きだった場合、その願いはまやかしだ」

 

 

 

 

 ミュルツは言った。

 

「そしてその願いから生まれ出た君の影も、まやかしだ。しかし、君にとってはまやかしではない。君は創造してしまった。君にとって実存なら、それは本当に存在する」

 

 

 

 

 

 その創造能力は個人の中で限定的に発動されるが、と彼は続けた。

 

 

 

 

 ミュルツはホイナを見上げる。彼の瞳は徹底して揺らぐことなく、まっすぐにホイナへ視線を向けていた。

 

 

 

「人間の理の中では、個人の中でのみ実存するそれを外部へ顕現させることは不可能だ。それを可能とする領域にまで、人類社会構造体は達していない」

 

「それと、私のこの気持ちが、どう関係するの?」

 

「君が造り出したものは、他のいかなる個人も、人類社会構造体すらも干渉できない強者だ。そして死者となったヒーエは、それと同格の強者と表現できる。君は死者と同等の者を相手にしなければならない」

 

「……」

 

 

 

「もし、君が生み出したそれを打ち消す可能性があるとすれば、それはヒーエの赦しだけだろう。君の願いを赦せるのはヒーエだけだと君は思っている。少なくとも、君は君自身を許さない。そうじゃないのか?」

 

「そんなこと……」

 

 

 

 ホイナは言葉に詰まった。心の中を言い当てられた、どきりとした感覚。しかしこれはホイナの夢なのだ。つまり、ホイナの心を自分で見つめ直しているのに等しかった。

 

 ホイナは訊ねる。

 

 

 

「ヒーエの許しは、どうすれば分かると思う?」

 

「彼女は死んだ。もう応えることは出来ない。死の川の向こうにまで、人類社会構造体は領域を伸ばしていない」

 

「伸ばせる日が、来ると思う?」

 

「可能性がないわけではない。竜殺しが危惧しているのもそこだ。人類社会構造体は領域内のあらゆるものを管理しなければならない。そのために、決まりと仕組みを作った。魔術における秘儀や、科学技術の物理法則がそれにあたる」

 

 

 

 彼らは無数の仕組みを組み合わせ、巨船を空中へ飛ばすことも可能とした。ミュルツはそう言う。

 

 

 

「この決まりと仕組みが、人の理だ。それは拡大する。どこまで伸びていくのか、現段階では予測できない。いずれ死者の領域にまで達するかも知れない」

 

「そう」

 

 

 

 ホイナはそれを聞いて、もし自分が生きている間に、死者と話せるようになればいいな、と思った。

 

 しかしヒーエと会って、何を話そう、とも思う。あの雨の日の夜、自分が彼女の死を願ったことを話すのか? ホイナは力なく座り込む。

 

 

 

 微睡みがやってきた。夢の中であるというのに。

 

 

 

 ミュルツが、どこから取り出したのか掛け布でホイナを覆った。視界が暗くなる。

 

 

 

 そして、彼女はさらに深く眠った。

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ます。ベッド裏の鉄枠が見えた。ホイナは自分の部屋のベッドにいることに気付いた。

 

 ゆっくり起き上がりながら、彼女は自分の記憶を掘り起こす。ラウンジでユナと話し、その後、ラサギのところへ戻った。夕食の時間まで再びラウンジで彼と過ごし、ラウンジと反対側の舷にあるダイニングルームで夕食を取った。そして食事を終えた後、急に睡魔に襲われたホイナは、自分だけ部屋に戻ったのだった。そして今に至る。彼女は思い出した。

 

 

 

「起きた?」

 

 

 

 声が掛けられる。ホイナはそちらを向いた。ラサギが折り畳み式の椅子に座っている。その手には文庫本があった。ホイナは彼へ訊いた。

 

 

 

「ずっといたの?」

 

「たいした時間は経ってないよ」

 

 

 

 彼は遠巻きに肯定する。ホイナは口元を緩め、ベッドから降りた。

 

 

 

「夢を見たんだけど、良く憶えてない。でもなんだか夢見が良くないみたい。確かこの船、バーがあったっけ」

 

「寝酒?」

 

「一人酒。ごめんね、新婚旅行なのに放ったらかしで」

 

「慣れてる。ちゃんと戻ってきてくれれば、別にいいよ。あと君のお父さんに黙っててくれれば」

 

 

 

 ホイナは微笑して頷いた。そして硬くなった体をほぐしながら、部屋を出る。

 

 

 

 

 目的のバーは、下部デッキにあった。

 

 ホイナはまず客室区のすぐ近くにある階段を下り、その下部デッキへ移る。一番最初に、この船へ足を踏み入れた場所だ。地上とつながっていた階段は、今は閉鎖されている。

 

 

 

 赤い絨毯のある廊下は、柔らかな照明に照らされている。その光を、廊下に沿う形で設置された展望用の窓が反射している。

 

 既に夜であるため、窓にホイナ自身の姿が鏡のように映っていた。その向こうは黒一色の世界だ。暗黒の時間と空間の中を、自分たちは飛んでいる。

 

 

 廊下の一番奥の扉に、バーの刻印が刻まれている。ホイナはそれを開いた。

 

 扉の中は小部屋になっており、さらに別の扉へ続いている。そこを開けるとまたしても扉付きの小部屋に続いていた。

 

 

 

 しかしその部屋のドアは先ほどまでの部屋のそれと違い、回転式の、いわゆる気密扉と呼ばれるものだ。

 

 どのような高度であろうと室内の気圧を一定にする機能を有する気密室のドアなのだが、ホイナはそのような技術的なことに興味はないため、『気密室の扉を完全にお閉め下さい』という注意書きの通り、入ってきた扉を閉め、その回転扉の前に淡々と進むだけだった。

 

 回転扉は係員が向こう側から開けてくれた。シュー、という空気の抜ける音がし、ようやくホイナはバーへ辿り着く。

 

 

 

 

 

 

 バーは薄暗く、わずかなさざめきがあった。

 

 

 

 それほど大きな部屋ではない。カウンターと卓がいくつか、というシンプルな造りだ。

 

 この小さな部屋の中、その場にいる人間達は声を潜めて喋っている。

 

 乗客全員が、暗黙の了解であるかのように、バーに存在するささやかな静寂を守ろうとしていた。ホイナはその密やかさが気に入り、しずしずとカウンターのスツールに座ると、バーテンダーへ適当なカクテルを頼んだ。

 

 

 

 

 

 そこへ、小さな声で名前を呼ばれる。

 

 

 

「ホイナ」

 

 

 

 カウンター席のひとつに、ユナがいた。ホイナは意外だと感じてしまう。このような場所にくる人物とは思えなかったのだ。

 

 

 

 ホイナはユナの隣の席が空いていたため、そちらへ移動する。

 

 

 

 

「こんばんは、ユナ。あなたも一人酒?」

 

「ええ、手紙を書き終えたので、自分への労いに」

 

 

 

 と言っていたユナだが、突然「すいません」と頭を下げる。

 

 

 

「ひとりでお酒を楽しみたかったですよね。軽薄に声を掛けて申し訳ありません」

 

「いいよ、全然。そんなことで謝らないでよ。気にしてないから」

 

 

 

 ホイナはユナのこの謝罪に首を振って否定した。

 

 そしてふと、このような遣り取りにホイナは既視感を憶えた。好印象のある感覚。水気の混じった空気が、あるはずもないのにホイナの鼻腔をくすぐる。

 

 

 

 ホイナは思い出した。ヒーエだ。ヒーエと自分は妙なところで気にしたり謝ったりをしていた。あの、秘密の場所で。

 

 

 

「ユナはヒーエに似てる」

 

 

 

 ついユナへホイナはそう言ってしまう。ユナは小さく笑んだ。

 

 

 

「あの子と私は、別人ですよ」

 

「そうなんだけど、それは分かってるんだけど、自分でもどうしてか分からないけど、あなたたちは似てるの。その、失礼だけど、不思議な感じとかが」

 

 

 

 ホイナはいつも、ヒーエを不思議な子と思っていた。自分には見えない何かを見ていたように思う。彼女はそれを言葉にして伝えられないので説明できなかったが、確かに、何かを感じていたように、今なら思う。

 

 そしてホイナは胸が痛くなった。ヒーエのことを思い出したせいだ。あの時間のことに少しでも意識が触れようとすると、何かがホイナを責めて苛む。

 

 

 

 

 そんなホイナへ、ユナが口を開く。

 

 

 

「今となっては、あなたがヒーエに似たものへなりつつあると言えるでしょう」

 

「どういうこと?」

 

「ヒーエの神は、彼女の父親から教えられたものです。ヒーエが物心ついた頃からずっと。だから、ヒーエにとってその神は絶対に存在する、はずでした」

 

「……何が、あったの?」

 

 

 

 ユナの、大きさを抑えたその声に、ホイナは不安を覚える。ユナは少しの間ためらい、やがて再び口を開いた。

 

 

 

「あの森の神は、ヒーエの父親の創作でした。架空の、存在しない神だったのです。ヒーエは死の直前、それを知ってしまいました」

 

 

 

 それを聞いて、ホイナは言葉を失った。

 

 

 

 そのときのヒーエの気持ちを、想像してしまう。

 

 

 

 いつも森の神のために生きていたヒーエ。その教義にしか興味がなかった、村はずれに住んでいた黒い女の子。彼女は森の神を信じていた。当たり前のように信じていたというのに。

 

 

 

 

 ホイナは悲しみに血が冷たくなるのと同時、自分の頭が熱くなるのを感じた。憤りだった。彼女の十二年の人生をもてあそんだ男に対する怒り。

 

 しかしそれを冷やすかのように、ひたすらに静かなユナの声がかかった。

 

 

 

「それでもヒーエは、死ぬ時、架空の神を自分の中に創造しました。あの瞬間から、架空だった神の存在も教えも、実際に存在するようになったのです」

 

 

 

 それが、あなたとヒーエが似つつあるという理由です、とユナはホイナに言った。ホイナは彼女の言うことがよく分からなかったので、その疑問を口に出す。

 

 

 

「でもそれはヒーエのお父さんと同じように、創作でしょう? 自分で作って自分だけ信じてるってだけで」

 

「あなたの中の死の影は、誰が作ったのでしょう?」

 

 

 

 ユナが言った。

 

 ホイナは思わず口を閉ざしてしまう。

 

 

 

「それはあなたの心が作り上げたものです。そしてあなたはその存在を否定せず、逆にその存在を信じている。ヒーエと同じように」

 

「私は、自分を苦しめるこんなもの、欲しいと思ったわけじゃない。気付いたら、いた。ヒーエのように欲しがったわけじゃない」

 

「ヒーエは意図して創造した。あなたは無意識に創造した。違いはそれだけです。どちらも自身によって生み出され、実存し、そして君臨しています」

 

 

 

 ユナは自分の手元に置いておいたグラスを取り、わずかに飲む。ホイナは彼女の瞳に、少しの酩酊も見つけることが出来なかった。酔っている様子はなく、はっきりとした意識でユナはホイナに話しかけていると分かった。

 

 

 

「ヒーエは自分の中に君臨する森の神へ従い、そのため死を願いました。彼女の世界は、やはり死が前提にあったのです」

 

 

 

 ユナはそこで、「だからあなたがヒーエの死を願っても気に病む必要はない」とホイナに言わなかった。

 

 ホイナの中に生まれ出てしまった、あの心の扉の向こうに潜む者は、もはやそんな慰めとは無関係に存在していることを、ユナは理解していたのだろう。ホイナはそう思った。

 

 

 

「……あなたの中に、君臨するものはいる?」

 

 

 

 ホイナはユナへ訊ねる。ユナは頷いた。

 

 

 

「私にも、私の神がいます」

 

「どんな神様?」

 

「気まぐれな神です。恵みを与えたかと思えば、前触れもなく荒ぶることもあり、またあるときは平穏のように静かな神でもあります」

 

「よく分からないよ……」

 

「この場では無理でしょう。人の理法の中では」

 

 

 

 相変わらず理解できないことを言う人だな、とホイナは心の中で苦笑する。

 

 ユナが言う。

 

 

 

「見ることも触れることも出来ない、現れることもない神にいくら言葉を重ねて用いても、無意味でしょう」

 

 

 

 ホイナのもとへ、頼んでいたカクテルがやってきた。ホイナはそれを飲む。甘い口当たりと華やかな香りが心地よい。それを楽しみながら、ホイナはユナへ訊く。

 

 

 

「神様はどこにいるの?」

 

「ヒーエの神はヒーエの中に。私の神は私の中に。此処では、そうです」

 

 

 

 もしも、とユナは言った。

 

 

 

「もしもそれぞれの神が邂逅するとすれば、それは人間の世界の外側でしょう。つまり人間には無理な話というわけです」

 

「……」

 

 

 

 どこかで似たような話を聞いた気がする、とホイナは思った。しかしどこで聞いたのか思い出せず、彼女は酒を煽って自分を誤魔化す。一気に飲み干してしまったホイナは、同じカクテルをバーテンダーに注文した。

 

 

 

「……ヒーエは、死ぬその時しか、森の神は現れないって信じてた。あの子の村のひとたちも、死後は神様のところにいくって信じてた。なんでみんな、神様を信じてるのかな」

 

「それが世界だからだと思います。ヒーエにはヒーエの世界がありました。何もない小屋のような自分の家、小さな村、川、そして森の神の教え。それ以外は、外なるものにすぎなかったのです」

 

 

 

 ユナが言った。それと同時、バーテンダーがグラスをホイナへ差し出す。ホイナはそれを大きく飲んだ。アルコールが肉体に混ざり込むのが自覚できた。

 

 

 

「私も、ヒーエの世界の外にある、よく分からない一個の何かにすぎなかったのかな」

 

「ヒーエにとって、あなたはまさに異邦人でした。外の世界からの、異邦人」

 

 

 

 ホイナは眠気を感じる。酔いが回ってしまったのだ。視界が少しぐらりとなる。カウンターへホイナは両肘をつき、その腕の上へ頭をのせた。

 

 

 

 

「……ユナ」

 

「はい」

 

「あなたは、だれ?」

 

 

 

 

 目蓋が重い、とホイナは感じた。意識は薄くなっていく。

 

 そんな中、まるで彼女こそがこの世へやってきた異邦人であるかのように語る女性へ、ホイナは問うた。

 

 

 

 

「私は」

 

 

 

 

 ユナの上体が、音もなく、ゆっくりとホイナへ迫った。ユナの青い瞳がホイナの間近に迫る。そして彼女の唇が、ヒーエの耳に口付けできそうなほど近くへやってきたとき、ユナは囁いた。

 

 とてつもなく小さな声であったはずなのに、ホイナはその言葉を確かに聞き取る。

 

 

 

 

 

「私は、ヒーエの生まれ変わりです」

 

 

 

 

 

 ホイナの意識が形を失う。

 

 彼女の目は閉じられた。酔いの海へ沈んでいく。それでも、ユナの言葉を聞いて、「ああ、通りで」とホイナは言葉を返す。

 

 

 

 

 返したつもりだが、本当に言葉になったのかどうか、ホイナには分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホイナの意識はすぐ、夢の中へやってきてしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第6話:ホイナと対人解析機 ――竜殺し――

 

 

 その夢は嵐の荒野だった。

 

 

 

 

 どこまでも続くむき出しの地面と、枯れては折られた灌木がまばらに見当たる、荒涼とした場所だ。

 

 

 

 

 

 そこにホイナは立っていた。彼女は自分の視界が低いことにすぐに気付く。身につけている衣服を見て、自分は今、子供の姿をしているのだと理解した。

 

 

 

 どこまでも分厚く黒い雲が唸りを上げている。そして、閃光。同時に空気を破壊するような、耳をつんざく強力な轟きが起こった。ホイナはひっ、と悲鳴を上げる。

 

 そして土砂降りの驟雨。降り注ぐ雨粒は痛いほどの勢いだ。豪雨に苛まれるホイナは隠れる場所を探そうと、当たりを見回した。

 

 

 

 

 

 そしてそれを発見する。

 

 小さな岩だ。暗闇の中、雷光がそれを浮かび上がらせた。

 

 

 

 その岩に刻まれた文字も。

 

 

 ホイナはその岩に歩み寄った。そして、その刻まれた文字が読めるところまで近付く。

 

 

 

 

 

 その文字は名前を記していた。

 

 ヒーエ、と。

 

 

 

 

 

 岩だと思っていたそれは、ヒーエの墓標だった。

 

 彼女はヒーエの死後、あの村にあるはずのヒーエの墓へ赴いたことはない。そのため、ヒーエの墓標がこのような無造作なものであるのかどうか分からなかった。

 

 

 

 しかし、これが墓碑であることは直感で理解できた。自分がついに行くことの無かった、ヒーエの墓。

 

 

 

 

 

 ぎぃ、と音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 扉の開く音が、背後でする。

 

 

 

 ホイナは後ろを振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 ホイナのすぐ背後に、黒い人影がいた。

 

 

 

 

 荒野の中、人影の顔は見えない。背丈はホイナと同じ。つまり、子供だ。

 

 だれ、とホイナが口を開く前に、その人影が口を開く。粘りのある、どんよりとした暗く重い声で。

 

 

 

「あなたが、ヒーエをころした」

 

 

 

 風が猛烈に強さを増す。

 

 それはホイナに向かい風となって押し寄せた。雨の飛沫と共に烈風が彼女を引き裂き、切り刻もうとする。その中を、人影がホイナへ向かって進み出した。近付いてくる。

 

 

 

 

 

 いい知れない恐怖がホイナの中で炸裂した。彼女は思わず目を瞑り、恐怖心が破裂する勢いそのままに叫び声を上げた。

 

 

 

 

 

 その途端、誰かに腕を掴まれる。

 

 

 

「ホイナ」

 

 

 

 名前を呼ばれた。ホイナは目を開ける。そこにいたのは、ミュルツだった。

 

 

 

 

 

 周囲を見回す。敷き布がどこまでも続き、燭台と彫刻が点在する、ミュルツの間だ。

 

 

 

「今のは?」

 

 

 

 ホイナはミュルツに訊ねる。ミュルツはホイナから手を離し、

 

 

 

「君の夢だ」

 

 

 

 と簡潔に応えた。

 

 そして彼はその場に座り、用意していた器を彼女へ差し出す。器には湯気の立った薄茶色の液体が満たされていた。

 

 

 

「異国の茶だ。落ち着くといい」

 

 

 

 ホイナはミュルツに促され、ホイナは座り込む。そして差し出されたその器を手に取り、呼吸を整えながらゆっくりと飲んだ。口の中に快い香りが広がり、ホイナの気持ちを静めてくれる。

 

 

 

「君の気を紛らわすために、君とあまり関係ない話をしよう」

 

 

 

 ミュルツは言った。

 

 自分を対人解析機と名乗った人物が気遣いの言葉を作ったので、ホイナは少し可笑しく思う。

 

 

 

「竜殺しにとって、竜は敵ではない。あくまで獲物にすぎない。竜に反撃されることはあるだろうが、それは竜殺しに対する敵対行動とは思われない。あくまで竜殺しにとってはだが」

 

 

 

 ミュルツは敷き布に置かれた茶器から自分の分を器へ注ぎ、飲んだ。飲みながら、話を続ける。

 

 

 

「竜殺しにとって敵とは、竜を殺す行為を阻む者のことだ。かつて竜が単独で存在していた時代、竜殺しの狩猟行動を阻む者は、竜の守護者に位置する人外的存在や、竜を信仰する人間たちだった」

 

「竜より弱い人間が、竜より強いその何かと同じに扱われてたんだ」

 

「そうだ。彼らの共通点は、竜殺しの狩猟行動を感知し、それを否定し、妨害するという点だ。強弱は関係ない」

 

 

 

 ホイナは茶を啜りながら、さらにミュルツへ訊ねた。

 

 

 

 

「でも竜は消えちゃったんでしょ?」

 

「そう、そこが問題だった。竜は人類社会構造体と共生している。前にも言ったが、人類社会構造体が脅威なのは人外であろうと取り込む能力にある。そのため、竜殺しは彼らに発見されないよう隠れながら、竜を殺している」

 

「竜より強い竜殺しが、人間の集まりをこわがってるんだ」

 

「そう表現して構わない、と俺は思う。竜殺しに感情があるかどうかは、使われる側である俺には分からないが、脅威と感じているのは間違いない。でなければ俺に用はなく、こそこそする必要もないからな」

 

「もし見つかったら、竜殺しも負けちゃうのかな?」

 

 

 

 

 ホイナの問いかけに、ミュルツはしばし黙考し、応えた。

 

 

 

「現状、人類社会構造体の取り込み能力を除けば、彼らは竜殺しには叶わない。人類社会構造体は、無数の仕組みを利用することで運用される機械という武器を持っている。

 

 だがその仕組み自体を偽装されたものにしまえば、彼らは簡単に無力化できる」

 

 

「仕組みって?」

 

 

 

 ホイナは訊ねる。

 

 

 

「人間達はシステムと呼んでいる。これは秘術的な儀式や、数理及び物理の方程式といった決まりごと、これらをいくつも組み合わせて作られている」

 

「魔法でできたシステムって何?」

 

「かつてそういう時代があった。古代の魔術的な儀式の手順が、現代では科学技術に置き換わっただけだと思っていい。システムというもの自体は、昔から存在していた」

 

 

「なんだかよく分からないけど、魔法でも科学力でも、人間は竜殺しに勝てないわけだ」

 

「現段階では、そうだ」

 

 

 

 ミュルツは頷き、ホイナにとって奇妙な講義を続けた。

 

 

 

「このシステムが複雑かつ強力になって行くに従い、人類社会構造体は領域内のあらゆるものをシステムで表現できるようにしていった。

 

 人間の数や年齢層は勿論、風や川、雲の流れさえ仕組みの中に組み込み、利用することを可能とした」

 

 

「ええと……つまり、ああすればこうなる、っていう仕組みになんでもかんでもしたいんだ、その人類社会構造体っていうのは」

 

「一言で言うと、そうなる」

 

 

 

 ミュルツはホイナの器の茶が少なくなったのを見て、さらに茶を注ぎ込む。ホイナは礼を言い、それを飲んだ。

 

 

 

「俺の予測だが、いずれは人間の感情さえシステム内で表現できるようになるだろう。感情に単位をつけ、状況を演算し、その結果として現れる感情の成分表を作成する。対人行動予測システムだ」

 

「……なんだかなあ。なんでそこまでするの?」

 

「人類社会構造体の領域を拡大させるためだ。人間の理法はあらゆる方面へ進歩する。人類社会構造体のシステムが方程式で表現できないものを許さないのであれば、先の例もあり得る」

 

 

 

 そう言われて、ホイナは以前に夢の中で彼が言っていたことを思い出す。

 

 

 

「死んだ人と話せるようになるかもしれない、っていうのも、死んだらどうなるのか分からないのが嫌だからかな?」

 

「そうだな。生きている者が死ぬことは分かるが、死んだ後にどうなるのかは、死んでみないと分からない。それを理解するため、死者の領域にまで、人類社会構造体は拡大するかもしれない」

 

 

 

 ミュルツの話を聞いていると、その人類社会構造体という代物が恐ろしいものに聞こえてくる、とホイナは思った。

 

 実際、彼、というより彼の主である竜殺しというものが人間の集団を脅威と思っているため、それを解説するミュルツの言い方も、どこかおどろおどろしいもになっているのだろう。

 

 

 

「でも、竜殺しは人類社会構造体には勝てるんだよね?」

 

「彼らの運用するシステムの弱点は、あくまで用意された法則を読み込む、という方式を採用しているところにある」

 

「その法則を、竜殺しが用意した偽の法則にしてやればいいんでしょ? さっきも聞いたけど」

 

 

「そうだ。だが、竜殺しは危惧している」

 

「何を?」

 

「もし人間個人で限定的に有している創造能力、個人内部という枠内でのみ実存するその能力を、人類社会構造体自身が持ってしまった場合、彼らは法則を能動的に創造することが出来る」

 

「……」

 

「人類社会構造体が竜殺しの偽装法則を判別し、隠蔽を見破ってその狩猟行動を感知するほどの能力を有してしまったその時、はじめて人類は竜殺しの敵となる」

 

 

 

 

 今はまだ、そこまで成ってはいない、と対人解析機は言葉を結んだ。

 

 ホイナは茶を啜る。本当に自分には関係のない話だったなあ、という感想を持った。

 

 しかしふと、改めて考え直すと、この対人解析機に聞いてみたいことがあることに気付く。

 

 

 

「人類社会構造体の中にいる人間が、その構造体から脱出することは無理なのかな?」

 

「不可能ではない」

 

 

 

 ミュルツは即答した。

 

 

 

「正確には、別の構造体に取り込まれるという手段で、現在の構造体からの脱出を実現できる」

 

「ヒーエを、町の人間にしたかったみたいに?」

 

「そうだ。しかし、そもそも人類社会構造体に属している、という意識を持つこと自体が難しい。それをふせぐ能力が構造体にはあるからだ。それを能力の枷を突破するには相当のエネルギーが必要となる」

 

「……」

 

 

 

 ああ、そうか、とホイナは納得した。

 

 

 

 

 ヒーエは生きている間、それだけのエネルギーを生み出すことも与えられることも、ついになかったのだ。

 

 あの頃の幼い自分、否、今の自分でさえ、そのエネルギーを用意してやることはできないだろう、とホイナは思う。

 

 

 

 

「人類社会構造体は強力だ」

 

 

 

 

 ミュルツが、改めて言った。ホイナはそれに納得する。

 

 

 

 

 そして彼女の目元から、涙がこぼれおちた。透明な雫が、器に落ちて飛沫を作る。

 

 

 

 

 

 

 

 目に見えないものがいた。そして自分はそれに叶わなかった。ホイナはそれを思い知った。

 

 

 

 

 

 

 もはやどうにもならないことだというのに、ホイナは泣いた。

 

 ミュルツは、何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第7話:人の理法のほんの少し外側

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこがどこなのか、ホイナには分からなかった。

 

 

 

 

 気付けば彼女は、背の高い木々が生い茂る森の中に立っていた。深い霧が木々の間を満たし、彼女の視界を白く霞ませている。

 

 先ほどまでミュルツの間にいたはずなのに、とホイナは思ったが、深くは考えなかった。忙しない夢だな、と考えるほどには、自分は落ち着いたようだ。

 

 

 

「ホイナ」

 

 

 

 唐突に、名を呼ばれた。

 

 

 その声の方へ顔を向ける。木の陰の黒と霧の白の中に、青い人影がいた。

 

 

 

「ユナ」

 

 

 

 ついに彼女まで夢に現れた。これでラサギが現れないのだから、起きて憶えていたら叱らなければならない、とホイナは呑気に思った。

 

 そんなホイナに、ユナが問うてくる。

 

 

 

「ヒーエと、話したいですか?」

 

「……」

 

 

 

 何を言っているの、とホイナは怪訝な表情を浮かべる。しかしユナは――彼女の姿は白く薄い幕に遮られ、ぼんやりと青い輪郭だけが浮かんでいるように見えた――再び訊ねた。

 

 

 

「死んだ人間の言葉を、受け取りたいですか?」

 

「どういうことなの?」

 

「この世で、死んだ人間と話すことは出来ません。死んでしまった人間から、メッセージを貰うことも。生前の、ではありません。死後の人間から何かしら受け取ることは、不可能なのです」

 

 

 

 ふと、白い霧が流れ始める。しかしその霧が晴れることはなかった。まるで大河のように蕩々と流れ続け、ホイナとユナを包み込む。

 

 

 

「しかし、この世の法則とは異なる場所なら、それは可能です。そこなら、あなたはヒーエの手紙を手に入れることが出来ます」

 

「ヒーエが、手紙を書いたの?」

 

「彼女が人生で得た語彙では、文字で伝えることが出来ませんでした。だから、私が代筆しました。あの子が生まれ変わり、そしてあなたに会いに来た理由がそれです」

 

「その手紙は、どこなら手に入るの?」

 

 

 

 ホイナは訊ねる。霧の流れがさらに加速していった。ユナの青い影が、白く薄くなっていく。

 

 

 

「先ほども申しましたが、この世ならざる場所です。一番近くにあるそれは、私の部屋です」

 

 

 

 そう言って彼女は、自分の部屋番号を告げる。

 

 

 

 

 

 そしてついに、白霧が青を完全に掻き消してしまった。森の陰影ももはや見えない。ホイナの視界は白色に占拠され、瞬く間に自分の手足も見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 白い闇に包まれたところで、ホイナは目を覚ます。

 

 

 

「……っ」

 

 

 

 暗い。しかしホイナは自分が横たわり、誰かに抱かれてるのは分かった。暗さのせいでよく見えないが、馴染んだ匂いと気配で誰なのかすぐに分かる。ラサギだ。

 

 目が暗さになれてくると、その見当が違わなかったことをホイナは知る。ラサギがベッドの中、ホイナを抱きしめて眠っていた。お互い、服は着ている。

 

 

 

 

 ラサギに抱きしめられて、または逆に抱きしめてただ眠ったことは、彼がホイナの町に移り住んでからたびたびあった。性交には至っていない。

 

 あの頃、ラサギは純粋に温もりが欲しかったように見えた。そうでないと、自分の中の悲しさが際限なく心と体を凍えさせていくと思っていたのだろう。

 

 

 

 今、温もりが欲しいのはホイナの方だった。目を覚ました時に、誰かがいる。ホイナは安堵に胸をなで下ろす。

 

 

 

 

 

 ラサギの寝顔を見た。穏やかな表情を彼はしている。悪夢を見て眠れない、というあの頃のようなことは、もう無いだろう。

 

 ホイナは微笑む。そして彼の頬へ軽く口付けた。

 

 

 

 

 私にほんの少しの勇気を頂戴、ホイナはラサギにそう願った。

 

 

 

 そして彼女はラサギの腕から抜け出し、そのまま部屋の外へ出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廊下の空気は異様だった。

 

 

 

 

 消灯時間なので薄暗いのは当然として、そこにある空気の重さがおかしい。重苦しいかと思えば、途端に羽根のように軽くなる。そんな重さと軽さが入り交じり、終始変化しているような感覚だった。

 

 

 

 客室区は左右それぞれの中央に廊下が走り、その二つの廊下を挟む形で部屋が配置されていた。

 

 ユナの部屋はホイナの部屋から反対側の舷、その最奥に位置している。

 

 

 

 そのため、ホイナはまず二つの廊下が始まる中央フロアに出て、反対側の廊下へ移動しなければならなかった。昼間はたいしたことのない距離だったが、今はとても同じ空間とは思えない。

 

 呼吸して空気を肺に送るたび、体の感覚が危うくなるような気がした。ホイナは意図的に呼吸を浅くする。廊下を進んだ。

 

 

 

 中央フロアにやってきた。ホイナはさらに違和感を憶える。静かすぎた。ホイナは床の絨毯を強く踏み込む。何の音もしない。明らかにおかしかった。

 

 

 

 ホイナは背筋が寒くなるのを自覚する。

 

 

 しかし彼女は進んだ。フロアを抜け、反対側の廊下へ入る。服越しに廊下の空気が染み込んできた。普段ならまず無視するはずの、空気の気配を否が応にも感じてしまう。

 

 まるで冗談のように密度の薄い水の中にいるかの如く、室内の空気はホイナの全身を撫でていった。

 

 

 

 

 

 そしてホイナには、空気の密度が廊下を奥に進めば進むほど濃くなっていく気がした。

 

 閉じられた客室の扉から、目には見えないが、空気とは異なる何かの気配が滲み出ている。それらが混じった廊下を、ホイナは奥へ奥へ歩いて行った。

 

 

 

 

 自分の心臓が早く脈打つのが彼女には分かる。そして理解した。今から行くところは、尋常な場所ではない。

 

 廊下の白い壁から、視線のようなものを感じた気がした。絨毯を踏む時は、生き物の上を歩いているのに近い感覚がある。室内はどんどん変質していった。

 

 

 

 

 

 

 そうして、ついにホイナはユナの部屋へ辿り着く。

 

 

 

 ユナの部屋の周りは、それまでホイナを取り囲んでいたあの謎の気配たちが鎮まっていた。他の部屋と変わらない扉だというのに、まるで魔除けの魔法が掛けられているかのようだ。

 

 そのおかげで、ホイナはユナの部屋の前へ来て、一息つくことができた。

 

 

 

「ここから先は、入らない方がよろしいでしょう」

 

 

 

 扉の向こうから、静やかな声が流れてくる。

 

 その声は大きくも小さくもない。距離の掴めない、不思議な声の大きさだった。

 

 

 

「入れば、この世では起きないことが起きます。それがどのようなものか、私にも責任が持てません」

 

 

 

 そして何が起きようと、私は貴方を守りません、とユナは言った。

 

 

 ホイナは唇を噛み締める。ユナの声に、今まであった温度が消えていたからだ。肉のない身から発せられたような声。この奥が、本当に異常な場所なのだと理解する。

 

 それまで浅くしていた呼吸を、ホイナは思い切り深く吸い込む。握り拳を作った。そして扉の向こうへ彼女は言い切る。

 

 

 

「ヒーエの手紙を受け取りに行くよ、ユナ」

 

 

 

 自分の声が力になった。ホイナは部屋の把手を握って捻り、押し開ける。

 

 

 

 

 部屋の向こうは暗黒だった。明かりがない。ホイナは構わず、その中へ足を踏み入れた。

 

 何かが、ホイナの躯から取れ落ちる。やはりそれは目に見えないものだ。落ちてしまったそれは、きっとこの世に自分を縛り付けるのに必要な何かなのだとホイナは思った。それを肯定するように、ユナの声が暗黒に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそ、人の理法のほんの少し外側へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは暗黒の空間だった。

 

 

 部屋の中のはずだが、果てしのない広い感じをホイナは受けた。

 

 

 

 

 そして自分の足下が、川に浸っていることに気付く。川の水は乳白色で、川底は見えない。その川は微かに発光していた。

 

 川幅はそれほど広くないが、その白い川がどこから来てどこへ流れているのかは、暗黒の地平線の向こう消えて判別できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い世界に、一本の白い川。それが、ホイナのいる場所だった。

 

 

 

 

 入ってきた扉は当たり前のように消えている。ホイナは再び早くなる鼓動を落ち着かせながら、川の深さを測った。水深はそれほどではない。足首あたりまでだ。

 

 

 

 

 

 ホイナは視線を前へ向ける。

 

 

 

 白い川面の上に、青い衣を羽織ったユナがいた。

 

 彼女はその身を川の中に沈ませていない。靴で川面を踏み、白い水の上に立っていた。

 

 

 

 

 

 

 ユナの青い瞳が、ホイナを見やる。

 

 

 

「ここに、あなたの欲するものがあります」

 

 

 

 彼女は青い服の懐から、一葉の手紙を取り出す。封筒に包まれたそれが、ホイナの視線を奪う。

 

 

 

「お手に取りたいのであれば、どうぞ、こちらへ」

 

 

 

 半眼の眼差しでユナはホイナを見詰めた。

 

 

 

 そのどこまでも穏やかな声が、ホイナには不気味だった。しかし、覚悟は決めている。ホイナは川の中を進む。水の抵抗を押しやって、彼女は前進した。

 

 水の流れはひどく遅く、まるでユナの雰囲気のように穏やかだ。ユナのもとへ達するのは容易に思えた。

 

 

 

 

 

 その白い水面が波打ち始めたのは、ホイナが三歩ほど進んだ時だった。

 

 

 

 

 穏やかな流れであった川面に波紋が広がる。その波紋の源は川のあちこちにあり、川の上は複雑な波で覆われてしまった。

 

 なに、とホイナが思った瞬間、何かが川の波紋を貫いて飛び出でくる。それは次々と川の中から現れ、ホイナへ殺到した。

 

 

 

 

 それは腕だった。黒茶色にところどころ深い赤が混じった汚い色合いの細長いものの先に、掌と五指と思われるものが付属している。それらは鞭のようにしなやかにしなり、ホイナへ叩き付けてきた。

 

 ホイナの腕や肩、足がそれら茶色の腕に捕らわれてしまう。

 

 

 

「やだ、やめて」

 

 

 

 狼狽えるホイナを捉えた腕たちは、遠慮のない力でホイナの体を川へ押しつけようとした。

 

 ホイナはそれへ抗おうとするが敵わず、膝をつき、そして頭を川の中へ押し込まれてしまう。

 

 

 

 

 突然のことにホイナは藻掻く。だが束縛は消えず、彼女は「苦しい」と水中で叫んだ。川の中は白一色の世界で、川底は見えない。そんなものを探している余裕も彼女にはなかった。

 

 ホイナの肺腑が限界を叫び、気を失いかける寸前、彼女の頭は川から引き上げられる。

 

 

 

 荒い声と共にホイナは空気を吸い込んだ。窒息状態だった肺に空気は心地よいはずなのだが、どれだけ呼吸を繰り返しても、ホイナは空気というものを感じることが出来なかった。

 

 しかし肺は勝手に落ち着いていく。それがさらにホイナを不安にさせた。

 

 

 

 

 

 そしてホイナは、自分の目の前にひとつの人影が立っていることに気付く。

 

 

 

 小さな影だった。

 

 周囲の黒い空間に溶け、姿はよく見えない。しかしホイナはその人影に見覚えがあった。いつかの嵐の夢の中、ヒーエの墓の前で出会った、あの人影だ。

 

 

 

 膝を川についた姿勢にされたホイナの視線と同じ高さに、その人影の頭がある。人影はホイナよりだいぶ小さかった。

 

 それが、ゆっくりホイナへ近付いてくる。動きは遅い。重い動きだ。その一歩一歩、近付かれるたびに、ホイナは心臓が怯えに脈打つのを自覚する。

 

 

 

 ホイナのすぐそばまで、人影がきた。

 

 そこまで近づき、やっと人影の顔を見分けられる。

 

 

 

 女の子だ。長い髪にリボンを付けている。年齢は十代前半の、それもだいぶ幼い時分に入るだろう。その少女を見て、ホイナは既視感を感じた。酷く見覚えがある。自分はこの子を知っていた。

 

 

 それが誰なのかを思い至る前に、女の子はホイナの首を、おもむろに締め上げ始める。

 

 

 

「……ぁっ!」

 

 

 

 ホイナは苦悶の呻きをあげた。少女の小さく細い手を払おうとするが、ホイナの両手はあの茶色い腕たちによって封じられている。抗うことができない。

 

 ゆっくり、ゆっくりと少女の指がホイナの首に食い込んでいく。

 

 

 

 少女の瞳が、ホイナを睨んでいた。緑色をした、その眼。彼女はホイナへ言う

 

 

 

「あなたが、ヒーエを殺した」

 

 

 

 その油のように粘りと重みのある、黒々とした声を聞いて、ホイナはやっと目の前の少女が誰なのか分かった。ホイナにそんな言葉を投げつける者は、この世にひとりしかいない。

 

 

 

 自分だ。

 

 この少女は、ホイナの心の影だ。

 

 ヒーエが死んだと聞かされた日に生まれ、ずっと心の奥底に封印されていた、あの頃のホイナ。

 

 

 

「ゆるさない」

 

 

 

 十二歳のホイナが、言う。

 

 

 

「誰があなたをなぐさめても、どんなことに祝福されても、私はあなたをゆるさない」

 

 

 

 指がさらに深く食い込まれた。ホイナは苦鳴に喘ぐ。もうひとりの、幼いホイナは力をますます強めていった。

 

 

 

「あなたなんか、呪われればいい」

 

 

 

 小さなホイナは呪詛を紡ぎ続ける。

 

 そうだ、これだ、とホイナは思った。自分はこれを忘れていたのだ。この気持ち、自分で自分をどこまでもどこまでも嫌って呪い、苛む感情の塊を、ホイナは扉の向こう側へ押し込んで鍵を掛けた。

 

 

 しかし今、忘れていたはずのものは姿を現した。この不可思議な場所に、本当に自分で自分を殺してしまえる空間に、彼女は形と力を得て顕現したのだ。

 

 

 

 

 ホイナはふと、ユナの姿を探した。

 

 もうひとりの自分に絞殺されかけているホイナを、ユナは見詰め続けている。その瞳には悲しみが溢れていた。憐れみも混ざっている。彼女はホイナへ何も言わず、何も手を出さなかった。ただ、眺めていた。

 

 

 

 

 助けはない。それを感じ、ホイナは諦めた。抗っていた力が抜ける。首を絞めるその力へ身を任せた。

 

 ホイナは罪悪感に心を明け渡してしまっていた。こうして自分で自分を殺せるほど、あの頃の自分は悔やんだ。

 

 悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、しかしそれを打ち明ける相手はホイナ本人を含めてひとりももおらず、挙げ句、まるでなかったことのようにホイナは振る舞った。

 

 

 

 

 自業自得なのかもしれない、とホイナは思う。

 

 私はヒーエが好きだった。そんなヒーエの死を願った。それを後悔する気持ちさえ忘れていった。

 

 

 

 ここで自分に殺されても、仕方がない。ホイナはそう思い、目蓋を閉じようとした。

 

 死のうとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。

 

 

 

 

 

 ぴしり、と小さな音が頭上に落ちてくる。

 

 

 ホイナは薄くなった意識の中、何かと思って視線を上へあげた。

 

 

 

 ――罅……?

 

 

 

 ホイナは怪訝に思う。

 

 無明の暗黒であるはずの天頂の一部に、白い罅割れが走っている。その罅は急速に拡大し、天空全体に亀裂を生んだ。ユナも、もうひとりのホイナもそれを見上げた。何かが起きている。

 

 

 

 

 

 

 そして唐突に、空の一部が崩落した。

 

 黒い破片が次々と地上に落下する。黒い壁のようだった空の向こうは、鮮やかな赤だ。紅のように真っ赤な、空の向こうの空。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに、それはいた。

 

 黒い何か。菱形、矢じりに似た形の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユナが声をこぼす。その声はホイナが初めて聞く、ユナの苦々しく不愉快な声音だった。

 

 

 

「……お邪魔虫の《竜殺し》」

 

 

 

 その言葉で、あの矢じりのようなものの名前が《竜殺し》なのだとホイナは悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《竜殺し》が、現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第8話:竜殺し vs 魔剣

 

 

 

 

 矢じりのようだった《竜殺し》は、その表面に無数の棘のような突起を生やし始める。

 

 生やしたかと思うと、すぐさまそれを投げ放った。

 

 

 

 

 

 

 

 小さなホイナが、ホイナの首から手を離して後ずさる。喉と肺が呼吸を再開し始めるが、ホイナはそれどころではなかった。

 

 川にいくつもの槍が突き刺さっている。かなり長い、とホイナは思った。その長槍には返しがついており、狩猟道具のようだとも思えた。

 

 

 

 

 ホイナを掴んでいた腕たちが身悶えする。ホイナを掴まえていた力が消失した。

 

 ホイナはそれらの方を見る。見れば、腕らが多数の長槍に貫かれているのが分かった。そしてホイナが見たの同時に、槍が炸裂する。

 

 

 

 火炎が川面と言わず川辺と言わずに駆け抜けた。炎と爆風は夏空のような水色で、しかし強力な殺傷をともなって辺り一面を火の海へ変える。

 

 熱風がホイナの顔にかかり、彼女は反射的に腕で頭を抱えた。

 

 

 

 

 一拍の間を置いて、ホイナは腕をほどき、周囲を見る。

 

 

 

 

 青い残り火が、黒かった世界のあちこちに残っていた。火の明かりはその青さで周りの黒を容易に引き裂いている。

 

 空は罅割れ、次々と崩壊を始めている。黒から赤へ、空の色が入り交じっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 その天と地の間を、《竜殺し》が飛翔していた。

 

 

 

 

 

 ホイナの心が具現化した少女、あの幼いホイナが、《竜殺し》を見上げ、睨む。

 

 

 

 白い川の中から、再び茶色の腕が飛び出てきた。

 

 数は先ほどより多く、砲弾のような勢いで天上に伸びていく。青い光が溶けてる黒い空間をひた走り、その先には《竜殺し》が待ち構えていた。

 

 

 

 

 菱形をしていた《竜殺し》の姿が変化する。

 

 《竜殺し》は一瞬で形を菱形から逆五芒星へ変形させた。五芒星の中心には、高速で回転する立方体が一個浮かんでいる。

 

 

 

 

 その立方体が破裂した。

 

 

 

 途端、巨人のような火柱があがる。先ほどよりもさらに激しい閃光と爆風に、ホイナは吹き飛ばされた。

 

 麦色の焔が豪風となって川の上を蹂躙する。茶色の腕の群れのうち、火柱の直撃を受けたものたちは一瞬で消滅し、それ以外の腕さえ爆風で吹き散らされてばらばらになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 幼いホイナが歯ぎしりする。

 

 

 竜殺しは飛び続けていた。逆五芒星から六芒星へ姿を変えて。

 

 

 

 

 川の中に吹き飛ばされたホイナはそれらの攻防を理解する余裕などなく、なんとか濡れた体を起き上がらせ、少女姿の自分と、それからユナを探した。

 

 

 

 ユナは爆裂する火炎の嵐に対して、まったく動じていない。相変わらず川面の上に立ち、火柱から吹き出された縹色の火の粉さえ彼女には届いていなかった。

 

 青く長い外套が仄かに明るみ、その微光が破壊の熱風を遮っているように見える。

 

 

 

 

 そして、ホイナは自分の目前に、あるものが浮かんでいるのを発見した。

 

 

 

 黒い球体だ。

 

 手のひらに乗る程度の大きさをしたそれが、空中に浮かんでいる。艶が全くないため、どちらかと言えば黒い円に見えた。

 

 

 

 

 幼いホイナが三度、腕の群れを召喚する。《竜殺し》が針路を変えた。鎌首をもたげるように、《竜殺し》は加速する。

 

 早い。あまりに加速がありすぎて、ホイナの目では追いつけなかった。

 

 

 

 

 その代わりに、少女のホイナが呼び出した腕の全てが、魔法のように真っ二つになるのを見た。川からいくつも生えた黒茶色の腕が、きれいに縦に断ち割られた。

 

 切り裂かれた腕らは、風に吹かれた砂のように散り散りに崩れて消えてしまう。

 

 

 

 

 

 ようやくホイナは《竜殺し》の姿を発見した。赤と黒がタイル張りのように張り付いた空の下、それはやはり姿を変えている。

 

 小さな七角形を中心に、縦横の斜め四方へS字の枝を都合四つ生やしていた。

 

 

 

 その枝を翼のように小さく羽ばたかせ、《竜殺し》は緩やかな速度で飛ぶ。悠然と。その向かう先に、小さなホイナがいた。

 

 そしてするすると四つの枝を中心の七角形へ折り畳むと、《竜殺し》は再び菱形へ変形する。菱形の四つの頂点にはさらに細長い菱形が生え、回転を始めた。まるで風車のようだ。

 

 

 

 

 ホイナは本能的に、《竜殺し》がもうひとりのホイナを攻撃するつもりなのだと理解した。

 

 

 

 それは的中した。回転する《竜殺し》の中心から、黄緑色の閃光が炸裂する。

 

 同じ色の火の手が、幼いホイナの足下に起こる。瞬間的に膨張し、爆発。何度目か分からない爆裂の猛風が吹き荒れた。

 

 

 

 ホイナは「ひっ」と爆発に怯えて身を縮み込ませ、その場に立ちすくんでしまう。

 

 しかし彼女へ火炎の牙は襲ってこなかった。

 

 

 

 正確には、ホイナの方向にも火の手が矢のように多数、飛んできていた。だが黒い球体が小さく身震いすると、その悉くがずたずたに引き裂かれて破壊され、彼女に魔手を届かせなかった。

 

 黒い球体が自分を守っているのだとホイナは理解する。しかし、この球体が何なのかは分からなかった。

 

 

 

 

 それよりも、ホイナはもうひとりの自分を探しすことに注力した。緑黄色の爆発の中心点に、彼女の姿はない。

 

 その場所からだいぶ離れてしまった川の中に、幼い少女がいた。ホイナから、それほど遠くない位置だ。表情が窺えてしまうほどの距離。

 

 

 

「ゆるさない」

 

 

 

 小さなホイナは恨みの顔のまま呪いの言葉を吐き、川から立ち上がる。傷らしい傷は見当たらない。

 

 しかし肩を激しく上下させ、呼吸を荒げているその様子で、だいぶ疲弊しているのが分かった。

 

 

 

 

 《竜殺し》はさらに迫り来ている。風車のようだった菱形の集まりから、五角形へ姿を変えていた。そしてその五角形の本体から、コウモリに似た翼を逆向きで一対生やす。

 

 二枚の翼の下に、それぞれ矛が下げられていた。

 

 

 

「だめ!」

 

 

 

 ホイナは焦燥の叫びをあげると共に、跳びだした。小さなホイナのもとへ。

 

 《竜殺し》はふたつの矛を翼から切り離す。別たれた矛が、空中で姿を消した。

 

 

 

 ホイナがもうひとりの自分の前へ駆けつけるのと、矛が彼女らの間近に現れたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 緑色の熱風と爆撃が、ふたりを襲う。

 

 

 白い川は翠緑に占領された。青が溶ける黒の上を、鮮やかな若葉色が駆け巡る。

 

 同心円状に広がった爆破の焔光は、重く低い轟きを従僕に空間を踏み躙り、青色や小麦色の残り火さえ薙ぎ払われた。地上は緑の光で覆われてしまう。

 

 

 

 

 そして、爆破の光が収まった。

 

 

 

 

 《竜殺し》は天空を上昇し、ある程度の高さで旋回。地上を睥睨する。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ホイナは、息を呑んだ。

 

 腕の中に、小さな自分がいる。彼女は困惑の表情で、ホイナを見ていた。

 

 

 

 緑色の爆撃のまっただ中にいたホイナ達は、無傷でそこに立っている。彼女らを守護したのは、やはりあの黒い球体だった。

 

 熱風も爆風も、轟音すらもその球体は遮断してしまい、ホイナ達は爆発の中で恐ろしいほどの静かさに包まれていたのだ。

 

 

 

 

 

 球体が、少しずつ浮上する。

 

 《竜殺し》は菱形に形を戻し、徐々に加速していった。互いに対峙するように。

 

 

 

 

 

 先に動いたのは、《竜殺し》だった。

 

 

 

 菱形から、捻れた円錐に変形。その表面に無数の突起を生やす。突起は黒板にチョークを引くように、空に白線を描いた。

 

 いくつもの白い線が、赤と黒の空を区切る。白線が空を切り分け、それはすぐさま地上にも伸びた。灼かれた大地が白い切れ目で分断され、その線引きの波はホイナ達にも迫る。

 

 

 

 黒い球が、瞬間的に収縮した。目に見えないほど小さく。

 

 

 

 

 風船に針を刺したような、軽い破裂音が響いた。

 

 

 白線に黒い罅が走る。木の実が地上に落ちるのと同じ速度で、罅は白線の上を駆け抜けた。白に別たれていた世界は再び結合し、元の姿を取り戻す。

 

 

 

 

 

 竜殺しは円錐から三角形へ変化。その三つの頂点からさらに小さな四角形を生み、その四角形の頂点からさらに三角形を増殖させ、奇怪な形に変貌する。

 

 そして無数の三角と四角が、ばらばらに飛び散った。

 

 

 

 黒の球は、明滅のように膨張と縮小を繰り返す。

 

 

 

 天と地の狭間で、眩い黄色の光が破片となって散りばめられた。

 

 それは黒い球を中心に輝いて、光の輪を紡ぎ上げる。その大きな光の輪の上を、正方形になった《竜殺し》が飛び越していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 球体と多角形のこうした遣り取りを、ホイナは見ていない。

 

 彼らがホイナには理解できないことをしている間、彼女は腕の中にいるもうひとりの自分と向き合っていた。

 

 

 

「ゆるさない」

 

 

 

 幼いホイナは、なおも呟き続けている。もはや腕をあげる力さえないのか、先のようにホイナの首を絞めることをせず、ただ睨み付けていた。

 

 その瞳に込められた憎しみと憤怒は、ホイナがあの頃に抱えた後悔の重さそのものだった。ホイナはそれを理解することが出来た。

 

 

 

 あの雨の日、ホイナはヒーエに拒絶された。そして彼女に言った。「大嫌い」と。

 

 ヒーエのことが好きだった。その気持ちの深さはそのまま憎悪になり、そしてヒーエの死と共に後悔へ形を変え、今ここで姿を取った。

 

 この、どこまでも底が見えない感情の塊、嵐のように激しく吹き荒れる情念の渦。

 

 

 

 それが、ヒーエに対して持っていた自分の気持ちなのだと、ホイナは思った。それを理解した途端、目の前の幼い彼女が、どうしようもなく愛おしくなった。

 

 自分を殺しかけたというのに、ホイナはそのこと以上に、よく今まで消えないでいてくれたと思う。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 だからホイナはそう言い、腕の中の彼女を抱きしめた。

 

 

 

「ヒーエに、会いに行こう」

 

 

 

 腕の中のホイナは、見た目よりもさらに小さい。自分でさえ、今から見ればこれほど小さな子供だったのだ。

 

 ヒーエは自分よりずっとがりがりに細く背の低い子だったのを思い出す。小さな自分と、さらに小さなヒーエ。

 

 

 

 そんなに小さな自分たちは、互いのことを思い、考え、理解することなどできなかった。自分は相手が好きだから、相手もそうだと思っていた。今でさえ、そう思う時が多々ある。

 

 

 

 ホイナはヒーエを理解しなかった。ヒーエもそうだった。もっと相手のことを聞くべきだったのだとホイナは後悔する。

 

 後悔は、隔れた時間の幅の分だけ大きい。そして同時に、あの頃の小さな自分たちに、大人でさえ難しいそんなことができたとは思えないのも理解していた。

 

 

 

 しかし、それでもホイナはヒーエを理解したかった。ヒーエのことを知りたかった。

 

 自分だけでは、その行動に至るまでのエネルギーを持ってはいない。時間が流れすぎた。だが、感情のエネルギーの塊を持つものが、目の前にいる。

 

 

 

「ヒーエの言葉を見つけに行こう、私達で」

 

 

 

 時の流れは不思議だと、ホイナは感じる。時間が流れ、ラサギは感情を平静にした。自分はあの頃の感情を忘れた。時間は感情を消すのだろうか。

 

 違う気がすると、ホイナは直感でそう思った。時間は距離を作るのだ。近くにいては熱い火も、遠くなら静かな気持ちで眺めることができるように。

 

 

 距離を置いて、自分たちは考えることができるのだ。その火のことを。

 

 

 

 ホイナは、あの頃は出来なかったことを、今したかった。ヒーエのことを理解したかった。彼女のことをもっと知りたかった。

 

 ヒーエは死んだ。ヒーエとは話せない、語らえない。理解することも、本当は出来ない。

 

 

 

 しかし、此処は此の世ではない。だから、今しかない。時間と共に作られた距離を飛び越え、遠ざけていた火に近付くのは。

 

 今しかない。

 

 

 

「……」

 

 

 

 憎しみに染まった少女の姿が、黒く塗り潰される。顔だけでなく、全身が真っ黒になった。そして人の形から、無数の紐状に形を変える。

 

 その黒い紐が、ホイナの手足に巻き付かれた。重い。まるで枷だ。

 

 

 

「軽々しくは、いけないからね」

 

 

 

 ホイナは苦笑する。死人に会うのだ。その重さは、逆にホイナに力強さを与えた。

 

 そして黒い枷を課せられながら、ホイナは白い川の中を歩き出す。

 

 

 

 ヒーエの生まれ変わりのもとへ向かって。

 

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《竜殺し》と黒い球体の攻防は続いていた。

 

 

 

 

 黒い菱形から正方形へ《竜殺し》は変形し、三つに分裂。三個の四角はY字を作るように結合し、巴を描いて円回転。巴の中心で瑠璃色の光が渦を巻いて閃く。

 

 

 

 黒球がその半径を伸ばして僅かに膨らみ、そして一気に縮んだ。

 

 

 

 

 

 黒い大地に紺碧の火柱が何本も立ち昇る。青い熱波は空間をひたすらに食い破って暴れ回るが、川の中に辿り着くことが出来ない。

 

 火柱は白い川からはひとつも生まれず、川縁より外側だけをむなしくに焼き払った。

 

 

 

 

 小さく収縮していた黒球が、今度は一瞬で膨れあがる。

 

 《竜殺し》は対応するように変形。巴を描いていた四角から、正六角形の群れへ。六角形たちは辺で重なり合い、隙間を綺麗に埋めてさらに大きな六角形の平面を形成する。まるで蜂の巣のようだった。

 

 

 

 黒い球体と黒い六角形のちょうど中間で、巨大な環状の閃光が走る。

 

 光の輪は樹木の年輪のように幾重も描かれ、色はそれぞれ濃さの違う朱色。赤い光の円環たちは各々のリズムで明滅し、大地を激しく照らし出す。

 

 

 

 球体が人間の手と同サイズに戻ったのと同時に、《竜殺し》も菱形へ姿を戻す。光の輪は消えていた。

 

 

 

 

 

 ふと、《竜殺し》の姿が掻き消える。

 

 

 

 同時に、天空の赤色が変色した。鮮やかな赤から、濁った灰色に一瞬で置き換わる。

 

 罅割れた部分から、鈍い象牙色の粉末が砂時計のように降り注いだ。黒い地面はところどころで隆起し、先端部分から鼠色の破片を放出する。

 

 天地の間では亜麻色の放電現象が発生。また虚空で鉛色をした煙が噴出し、その煙は生き物のように蠕動すると、蜘蛛の巣状に広がっていく。

 

 

 

「私を狙いにここまでやってきたのでしょうが、無駄です」

 

 

 

 変貌する空間の中、ユナが鼻を鳴らし、袖口から左手を伸ばす。左手には小瓶が握られ、瓶の蓋がひとりでに開かれた。

 

 

 瓶の中から、色鮮やかな疾風が吹き出る。それは赤から始まり、紫まで様々な色を備えていた。

 

 

 

 鈍い色合いに変化していく空間に、その色づいた風は圧倒的な鮮烈さで広がっていく。滑らかに吹き出て広がっていく風は、僅かな蛍光の粉を花弁のように散らして空間を彩る。

 

 光の細片が散って消えるのと同時、まるで子供のような高い声の笑声がどこからか響いた。

 

 

 

 そうして、鈍色の空間は色とりどりの風が支配する世界へ移り変わっていく。

 

 

 黒い球体が、唐突に収縮した。

 

 無数の色が絡み合う空間の一部に、真円の穴が穿たれる。何もかも色づく世界に、無色の円が出現した。

 

 

 

 その穴の向こうに、黒い菱形、黒曜石に似た《竜殺し》がいた。

 

 

 

 無数の色を持つ風が、笑い声を伴って《竜殺し》へ殺到する。

 

 

 

 《竜殺し》は十文字に変形。さらにその十文字とは別にひとつの輪を生み、十文字と重ねる。二つの図形が重なったそれから、卍状の翼が一対、歪な形で生えた。

 

 翼持つ奇妙な十字となった《竜殺し》は、その両翼から無数の長大な突起を生やす。

 

 

 突起は火の中に入れた栗のように爆ぜ、同時に迫り来る色づいた風が、見えない何かにかき乱されたかのごとく爆裂した。

 

 

 《竜殺し》はさらに形を変える。十文字をふたつ斜めに重ねた、八方向を示す方位図のような形だ。その二重十文字の中心から、小さな四角がいくつも鎖状につながった触手が生える。

 

 触手の先端部は細い線状になっており、音叉のようにふたつに別れていた。

 

 

 《竜殺し》が無造作にその触手を振るう。大量のガラスが一斉に割れるのに近い、涼やかだが喧しい音が空間に響き渡った。

 

 

 華やかに色を塗られていた世界から、次々と鈍色の渦が生み出されていく。もとの暗黒とも違う、鉛に近い金属的な色合いだ。その色を《竜殺し》が作り出している。

 

 

 

 数多の色で出来た空気はその鉛色の渦から逃げ、集まり、疾風となって黒い球体の周囲を走った。はしゃぐ子供のような笑声が弾ける。

 

 球体が微動、少しだけ揺れた。笑い声がひそまる。そして色づく風が幾重にも連なって竜巻となり、再び《竜殺し》へ襲いかかった。

 

 

 

 《竜殺し》は窓枠のような四角形の線に変形し、無数に増殖。

 

 幾つにも複雑に重なり合った四角の枠たちが、迫り来る虹色の竜巻を迎え撃つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 ユナはこれら人外の攻防を興味なさげに眺めていた。

 

 そしてしばらくして、彼女は自分の視線を、彼らから目の前へ移す。小さく微笑を浮かべた。

 

 ホイナが、目前まで来ていた。

 

 

 

「来たよ、ユナ」

 

 

 

 ホイナは自分の息が切れているのを自覚する。黒い枷をはめられながら川の中を歩くのは、見た目以上に彼女を疲労させていた。

 

 しかし瞳に込められた力と光に衰えはない。その光がユナの双眸を射貫く。

 

 

 

「よくぞここまでいらっしゃいました」

 

 

 

 ユナが言う。言いながら、右手に持った手紙を左手に持ち替えた。無手となった右手から、青みがかった緑色の紐飾りが垂れる。

 

 

 

「あの黒い丸いのは、あなたが寄越したんじゃないの?」

 

 

 

 ホイナは訊ねた。ユナが首を横に振る。

 

 

 

「あの魔剣、黒色の球体が勝手に行ったことです。申し上げました通り、私はこの場であなたを守る気はありません」

 

 

 

 ユナがそう応えていると、彼女の手首に巻かれた紐飾りがするするとほどけ、右手の中へ入っていった。そして右手の中で、一本の剣に変化する。霊妙な淡い光を宿す、青銅の短剣だ。

 

 ホイナはユナが刃物を持ったのを見たが、気持ちは変わらなかった。

 

 

 

「私を刺す?」

 

「あなたは生者です。しかし死者の言葉を聞きたいと言う。ならば、死に近付く必要があるでしょう」

 

 

 

 ユナは言った。右手に剣、左手に手紙。

 

 

 ホイナの目は、その左手に握られた一葉の封筒しか見ていない。

 

 

 

「ユナ、あなたは私にヒーエの言葉を伝えに来たんじゃないの? どうして直接、そのまま私に言わないの?」

 

 

 

 ホイナのその質問へ、ユナは青い瞳を細める。微笑が深く、はっきりとした笑みへ変わった。

 

 ユナは言う。

 

 

 

「これはヒーエの言葉です。その為、私の口から出して私の言葉にしたくありません。また、ヒーエは死者です。しかし私は生者ですから、その言葉は死者の言葉として伝わらないでしょう」

 

「何を言ってるの?」

 

「ヒーエがこの言葉の羅列を作り上げたのは、死者となってからでした。それを伝えるためには、あなたを限りなく死者に近づけなくてはなりません」

 

 

 

 よって、とユナは告げた。

 

 

 

「あなたがこの手紙を手にした瞬間、私はあなたを刺し、戻ってくる保証のない旅路へ赴かせます」

 

「……殺すの?」

 

「あなたが戻らなければ、そうなります」

 

 

「それなら、それは殺すと言わないよ」

 

「あなたは、それを殺すと呼びました」

 

 

 

 もうひとりのホイナの言葉を示しているのだと、ホイナには分かった。ヒーエを殺したのは自分だと、確かに言った。

 

 死んでしまえば、殺したことになる。ホイナはそのときそう思った。

 

 

 

「けど、今は違うと思ってる。ヒーエは死んだ。けど、誰にも殺されてない。そんな気がする。それを確かめるために、ヒーエの手紙を私は読む」

 

 

 

 ホイナはユナへ近付く。ユナが笑みを消した。剣と手紙、両方をホイナへ差し出すように掲げる。

 

 ホイナがそれへさらに近付いた。手を伸ばせば届く、そんな距離まで。

 

 

 

「たぶん、私は死なないよ」

 

 

 

 ホイナは言う。ユナが首をかしげる。「何故?」

 

 

 

「あなたは、私を殺しにきたんじゃないはずだから」

 

 

 

 ユナは黙った。ホイナが歩み寄る。剣の切っ先が、すぐ目の前まで迫った。しかしホイナの目は、変わらず手紙だけを見ている。

 

 そして、その距離、ホイナが手紙を受け取れ、ユナがホイナをさせる距離まで、ふたりは接近した。

 

 

 

「じゃ、貰うね」

 

 

 

 ホイナは言った。黒い紐が重く巻き付けられた手で、躊躇無くユナの左手から手紙を取り上げる。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ユナは目を瞑った。

 

 そして、右手を突き出す。短剣が音もなく、ホイナの胸に刺さった。

 

 

 

 

 刺された感触がホイナの中に発生する。しかしその感触は冷たさとは逆の、何かの温度を感じさせるものだった。それが短剣の刃によるものだとホイナは理解する。

 

 理解して、そしてホイナの意識が墜落した。彼女は川の中へ崩れ落ちる。

 

 

 

 

「良い夢を」

 

 

 

 

 ヒーエの呟きが、幻のように遠く聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホイナは落下していた。

 

 頭から、逆さまに。

 

 

 

「……」

 

 

 

 周りは、暗い灰色しか見えない。落ちているという感覚だけがあった。恐怖心も焦燥感もない。自分は落ちているんだな、としか感じなかった。

 

 だが、その自分と同じように落下しているものがあった。ホイナのすぐ隣だ。

 

 

 

 黒く輝く、宝石に似た物体だった。人間大。磨き上げられた表面に、ホイナの姿が映っている。

 

 そしてその鏡像の中に、ホイナ以外の人物が映っていた。ホイナと同じ年頃の青年だ。ホイナは彼の名を知っていた。夢の中の人物だと、そのとき思い出す。

 

 

 

「ミュルツ……」

 

 

 

 ホイナが名前を呟くと、青年が無表情にホイナへ向かって手を振った。ホイナは思わず微笑する。

 

 

 

 そして黒い物体は独楽のように回転すると、急にホイナから離れていく。

 

 落下する速度が、ホイナより遅くなった。黒い姿が遠ざかる。

 

 

 

「……」

 

 

 

 励ましに来たのかな、とホイナはぼんやり思った。

 

 

 落下している感覚があるというのに、妙に眠い。ホイナは抗わなかった。目蓋を落とす。眠りの中へすみやかに入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第9話:手紙

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホイナは顔を上げた。

 

 

 

 川面に反射して煌めいた光が目に入り、それで彼女は思わず目を細めた。河風は涼しく、心地よい湿り気でホイナの肌と髪を滑っていく。

 

 川縁の木陰、樹の幹に背をもたれていたので、彼女は力を抜いて涼風の心地よさを受け取ることが出来た。

 

 どこかで鳥の羽ばたく音がする。視界の端で、木の枝がしなった。幾枚かの葉の落ちたところから、山鳥が飛び立ったのだろう。

 

 

 

 ヒーエは自分の足に重さを感じ、ふと、視線を下げる。そこにはホイナの膝を枕代わりにして、無防備に寝そべるヒーエがいた。

 

 ヒーエの寝顔は年相応に幼い。いつもは神妙な顔つきでホイナの授業を受けているため、こういった表情は貴重だった。

 

 ホイナはヒーエの黒髪を撫でる。まったく手入れをしていないその髪の毛はざらざらしていたが、ホイナはその感触が面白く、つい何度も撫でてしまった。それでもヒーエは起きない。よほど深く眠っているようだ。

 

 

 

 これ以上するとヒーエの髪の毛が取れてしまいそうだ、と思うまでホイナはヒーエの髪を撫で、いったんやめることにする。

 

 そして、自分の手、ヒーエを撫でていなかった方の手に、一枚の手紙があることに気付く。

 

 

 

 そうだ、ヒーエが文章を書いてみたというので、読むことになったのだ。当の本人は眠ってしまっているが、ヒーエが読んでいいと言っていたので、ホイナはその手紙を開いた。

 

 文字はお世辞にも綺麗とは言えない。そもそも紙の質もよくなかった。

 

 

 汚い字と粗末な紙だったが、これはヒーエの文(ふみ)だ。ホイナは小さく興奮して、大事にそれを読み始める。思ったよりも長い手紙だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ホイナへ。

 

 

 

 

 

 私が身勝手であることを、あなたには知っておいて欲しいのです。

 

 

 

 私は、昔から言い付けられていたことがあります。無意味に死ぬな、と。私は泡のようにただ消えてしまうだけの人生が、許せなかったのです。死に意味が欲しかったのです。

 

 けれど私の死に意味を与えてくれる神様は、本当はいませんでした。私の世界に神様がいないと言い放たれた時の衝撃を、言葉で表すことが出来ません。言葉にならない、としか言いようがありませんでした。

 

 

 

 だから私は神様を創りました。創らざるを得なかったのです。私は塵や芥のように消えたくはなかったからです。

 

 全て私の身勝手のせいだと、自分でも分かります。

 

 私は、神様があってこそ、この世にいることができました。神様を待ち続けて、この世にいました。死ぬのを待っていました。

 

 

 

 

 しかし、そんな中、あなたは私の前に現れたのです。

 

 私はあなたのことを何も知りません。あなたも、私のことなどほとんど知らなかったでしょう。それなのに、どうして私達はあんなにも一緒にいたのでしょう。

 

 あなたは、私の持っていないものをたくさん持っていました。絵本や服、友達、そして文字。

 

 そう、私は文字を知りたかった。あの森の神様についての本を読むため、あなたからたくさんの字を教わりました。その時間は他のどんな時間よりも楽しいものでした。

 

 

 

 あなたに分かるでしょうか。楽しいのだと自覚した時、私の中でどれだけの変化があったことか。

 

 

 

 遠い場所にあるものを読み上げるあなた、そしてあなたに教わりながらその本を読み解く私は、まるで魔法を教わっているような気分でした。ここではない、異なる場所について記された書物。

 

 あなたにはただの本だったでしょうが、私にはとても不思議な、そして計り知れない素敵な物でした。

 

 それは無数の文字でできた、ひとつの世界でした。それは時間を超えて、私のもとへやってきました。それまでの私には、今しかありませんでした。気付けば過ぎゆくうつろうものです。

 

 しかし、それらを文字で記すと、まったく違うものになると知りました。

 

 私はあのとき、はじめて世界というものがこの世にあるのだと気付きました。あの秘密の場所に流れる川のせせらぎも、村長の畜舎で飼われている鶏や豚たちの鳴き声、そういった耳に残っては消えてしまう儚いものも、文字にすれば残すことが出来ました。消えてしまうものを再び創ることが出来たのです。

 

 この世は書き記すものでいっぱいなのだと分かり、私の世界は変貌しました。

 

 

 

 

 あのときの感動を伝えることが出来ません。まるでこの世界に存在する全てのものに意味があるようだと思ったのです。

 

 青い空に張り付く白いものも、木々に踏み締められ続ける茶色の土塊たちも、私が無意味だと思っていた泡のひとつひとつさえ。

 

 

 

 私は生きても死んでもいなかった曖昧な場所から、確かに生きている場所へ乗り移ったのだと分かりました。

 

 私は変わったのです。そしてそのことを、文字を教えてくれたホイナに伝えたかったのに、私は口に出来ませんでした。そのときは自分に何が起きたのか、自分でも整理できなかったからです。

 

 今思えば、愚かなことでした。死を待っていた自分はいつ死ぬか分からないというのに、悠長にもあなたへ伝えたいことも伝えませんでした。

 

 だから今こうして、あなたへ感謝の気持ちを伝えます。

 

 

 

 私に与えられていた神様は、架空の神様でした。居た場所も、生とも死ともつかないひどくうつろな世界でした。そこでの人生は、きっと確かに無意味なものだったでしょう。

 

 けどホイナのおかげで、私は自分を、自分が生きている場所へ移せました。そこでの死なら、無意味ではありません。私は生きていたと、胸を張って言えるからです。

 

 私は生きて、そして神様を創りました。他人に与えられた架空の神様ではない、自分で創った私だけの神様です。

 

 

 

 あなたは理解できないでしょう。神様など信じていないあなたには。

 

 

 

 しかし分かって欲しいのです。私は変わりましたが、それでも神様が必要でした。神様のいない世界は、それは私にとって異界同然だったのです。

 

 だから、私は死を拒みませんでした。その死が自然的なものでも、他人からもたらされたものでも、それはどうでもいいことです。大事なのは、死を受け入れられるかどうかでした。

 

 

 

 あなたなら、きっと死を拒むでしょう。

 

 私は、死を受け入れたかったのです。

 

 

 

 その私の気持ちを、あなたは理解できなかった。私は神様を信じ、あなたは神様を信じなかった。

 

 これほど違う私達が、どうして一緒にいられたのでしょう。どうしてそれまで、これほど違うことに思い至らなかったのでしょう。

 

 

 もしも、ずっとずっと前から、あなたが私のことを理解していないと分かっていれば、私はあなたを説得したでしょうか。私は死ぬことを拒まない、ということを。

 

 しかしいくら言葉を重ねても、結局は徒労に終わったかもしれません。何しろ私もまた、神様がいなくても平然と生きていけるあなたを理解できなかったからです。

 

 

 

 私とあなたは違う。

 

 

 

 もし同じになりたければ、あなたが神様を信じるか、私が神様のいない町にいくか、どちらかが変わらなければなりませんでした。

 

 それはお互いにあり得なかったと、あなたも思うでしょう。

 

 

 

 ホイナ、あなたは人間と文字に囲まれた場所に生きていました。それは私の世界ではありません。私の周りには人間以外の、川や森や鳥が溢れ、そして文字など存在しなかったのです。

 

 自分の生きている世界に居続ける限り、私達は理解し合えないでしょう。うすぼんやりとした場所から確り生きた場所へ移って、私はそれを感じ取りました。

 

 あなたは、あなたが思っているよりもずっと遠い世界に生きているのです。私が行くには、あまりにも遠い場所。

 

 

 それでも、あなたと会うのは楽しかった。

 

 互いに理解できない世界に身を置いているというのに、信仰心も何もかも違うというのに、あなたといるたび、私の世界は色づきました。それは本当のことです。それを、伝えたかったのです。

 

 

 

 

 ホイナ、教えて下さい。

 

 

 

 神様のいない風景は、どんな世界ですか?

 

 神様を信じた私は、あなたにはどんなふうに映りましたか?

 

 この世にはいくつの人間とどれだけの神様がいて、そして神様がいなくて、信仰と無信仰はどうして起こりうるのですか?

 

 

 私はあなたと出会い、生きて、死に、こういった疑問を持つに至りました。あなたはこれらの答えを知っている気がしました。

 

 

 

 私は身勝手です。

 

 私の代わりにたくさんの世界を知っているあなたなら、こういった疑問の数々について考えることが出来るのではないかと期待してしまいます。

 

 あなたに嫌われているかもしれないというのに。

 

 私はあなたを拒んだ。嫌われてしまって当然です。

 

 

 

 

 ですが、繰り返しますが、私は身勝手です。

 

 たとえ嫌われても、私はあなたの中にいたい。

 

 

 

 

 だから私はあなたの結婚を祝います。しかし同じくらいの気持ちの大きさで、あなたを呪います。幸せなあなたを。

 

 幸せ。私の幸せはどこにあったのでしょう。

 

 私の幸せは、死後、森の神様に仕えることでした。けれどそれは架空でした。その不条理に私は恨みました。恨みの矛先をどこに向けて良いのか分からない私は、神様など無関係に幸せなあなたへ呪いを向けます。

 

 これが身勝手な私なのだと、理解して下さい。

 

 そして、私を呪って下さい。

 

 

 

 

 

 私の村の人間達は、森の神の恩寵によって私の名前を憶え続けます。しかし、あなたは村の人間ではありません。ですから、森の神以外の何かが必要でした。

 

 あなたに、私のことを忘れさせたくないのです。

 

 

 

 

 だから、私はあなたを呪います。あなたの不幸はすべて私のせいです。他の誰かからの呪いなど、全て打ち払います。私以外の呪いなど、あなたには一片たりとも浴びさせません。

 

 何か不幸なことがあるたびに、これは私の呪いなのだと思って下さい。そうすれば、あなたの中に私は居続けます。あなたは私のことを思い出し続けることでしょう。

 

 それが最後の、私の願いです。

 

 

 

 

 

 追伸。もしも、何か大いなる力が働いて、私があなたの町に、ラサギと同様一緒に住むようになったとしたら、私はどんな人間になったでしょう。想像して見て下さい。

 

 

 

 ヒーエより』

 

 

 

 

 

 

 ホイナはその手紙を読み終える。そして息を小さく漏らした。

 

 

 

「好き、って言葉が抜けてるよ、ヒーエ」

 

 

 

 ホイナは自分の膝に乗ったヒーエの頭を、再び撫でる。

 

 ヒーエは眠り続けていた。時折、もぞもぞと身をホイナへ寄せてくる。その仕草にホイナはくすりと笑う。

 

 

 

 日差しはうららかだった。穏やかな川の流れがきれいに煌めき、ホイナは湿る岩場の空気から清らかさを貰う。澄み渡る青空と枝葉の組み合わせは神秘的で、ここはふたりの秘密の場所だった。

 

 

 

「ふたりでいろんなところにいきたいね。山の向こうの町とか、海の向こうの摩天楼とか、いろいろ、いっぱい。見たことのないものが見れるよ、きっと」

 

 

 

 返事を書かないと。ホイナは思った。

 

 町へ戻ったら、とびきり美しい便箋を探そう。教本のように形の良い文字を書いて、ホイナ先生の美文を送ってあげよう。彼女はそう決めた。

 

 

 

 ラサギに、ヒーエのことを頼まなければ。ラサギはもともとヒーエを大事にしてくれている。きっと私のお願いを聞いてくれるはずだ、とホイナは思った。

 

 

 

 返事を書かなければ。

 

 そう思い、ホイナもまた眠気に誘われる。ホイナはヒーエの手を探した。見つける。

 

 肉の薄い、細い骨張った手だ。すぐに壊れてしまいそうなそれを、しっかり、優しく握りしめる。ヒーエの体温が手の中にあった。

 

 

 

 

 

 それに安心し、ホイナは眠る。

 

 やすらかさが、彼女を包んだ。

 

 

 

 

 

 

 



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第10話:幸福の旅

 

 

 

 

 

 

「……ホイナ、起きた?」

 

 

 

 ホイナは名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。

 

 ラサギが目の前にいた。薄暗い。彼の顔越しに酒瓶の並んだカウンターが見える。

 

 

 

「ラサギ?」

 

 

 

 ホイナは不思議に思って声をあげる。ここはどこだろうと周りを見回した。暗くした照明、気密室へ続く回転扉、壁に描かれた楽士たちの絵、展望用の窓。

 

 いくつもの卓には紳士や淑女が声を潜めて談笑している。カウンターでひとり杯を傾けている者もいた。

 

 

 ここは飛行船内のバーだ。

 

 

 

「その場で寝ちゃうほど飲むなんて、珍しいね」

 

 

 

 ラサギはホイナの席を通り過ぎ、彼女の隣に座る。注文に来たバーテンダーを断り、ホイナの様子を窺っていた。ホイナは自分の手元にある、カクテルの入ったグラスを見やる。

 

 

 

「ああ、そっか。飲んで、それで眠っちゃったんだ」

 

 

 

 ホイナは自分の気分がどこか浮ついているのが分かった。覚醒しきっていないのだと理解したが、ひどく幸福な気分でもあった。

 

 

 

「何か寝言を言ってたよ。夢でも見てた?」

 

 

 

 ラサギが聞いてくる。それで、ホイナは記憶にこびりついた風景、あの山奥にあった川辺の空気を思い出し、微笑みを彼へ見せた。

 

 

 

「ヒーエが夢に出てきた」

 

 

 

 ラサギは少しだけ驚き、しかしホイナの穏やかな表情を見て、「そっか」と頷く。

 

 

 

「ヒーエは何してた?」

 

「私に手紙書いてた。夢の中でも、あの子は相変わらず変な子だったよ。村が大きくなるだけじゃ我慢できなくて、私の不幸まで自分のものにしたいみたい」

 

 

 

 ホイナは涙がこぼれるのを自覚した。泣いてしまう。

 

 

 

 

 夢の中、ホイナが自分を呪うまでもなく、ヒーエはホイナを呪っていた。

 

 そのことが、ホイナを無性に、たまらなく感動させた。狂おしいまでに焦がれた心の底の底から、ホイナは涙を流す。

 

 

 

 

 

 泣いてしまうホイナを見て、だがラサギはそれには触れず、ただ訊ねた。

 

 

 

「いやなことがあったら、ヒーエを思い出すよう?」

 

「呪われてかまわないから、呪ってやる、って言ってた。あと、祝ってやる、って」

 

 

 

 その言葉に、ラサギはしっとりと湿った笑顔をホイナへ見せる。湿っていたが、それは爽やかな湿度だった。

 

 

 

「夢の中なら、ヒーエに会えるね」

 

「うん」

 

 

 

 ホイナは頷く。

 

 

 夢の中、ヒーエに好かれていた。感謝されていた。恨まれていた。呪われていた。

 

 さまざまな感情の塊をヒーエはホイナにぶつけていて、その混沌とした情動はなぜか、ホイナをせつなくさせる。

 

 

 

 薄暗いバーの中、肌で感じる空間と時間はどこまでも甘く、深かった。

 

 

 

「あれ、そういえばなんでラサギはこっちに来たの?」

 

 

 

 ホイナは涙を拭きながら、不思議に思って訊ねる。

 

 

 ラサギは普段ホイナがひとりになりたいときは、本当にひとりきりにしてくれる。ホイナもラサギがひとりになりたいときは、そうしていた。

 

 そして充分ひとりきりに満足したら、お互い帰ってくる。ホイナとラサギはそうしてきた。普段は。

 

 

 

「君の言っていたユナさん、彼女の同室のひとが、きみがバーで寝てしまったから、って伝えてくれたんだ。君が眠ってしまうほど飲むなんてなかなかないから、ちょっと心配して来ちゃった」

 

 

 

 そうして、ラサギはホイナの向こう側の席、カウンターなのでホイナからはラサギと反対側に位置する席を示す。

 

 ホイナがそちらを見ると、その席にユナが座っていた。ありとあらゆる気配を消して。ラサギに言われるまで、まったくその存在を感じなかった。

 

 

 

「気持ち良さそうに眠っていらっしゃるので、どうしようかと迷ったのですが、やはりご主人をお呼びするべきだと思いまして」

 

 

 

 ユナは静々とした声でそう言う。

 

 そうしてから、ユナは軽やかに席を立ち、ホイナ越しにラサギへ一礼した。

 

 

 

「ユナと申します。奥様にはたいへん親切にして頂いております」

 

「いえ、こちらこそ。妻の話し相手が見つかって嬉しいです」

 

「聞くところによりますと、新婚旅行の最中とか。御礼申し上げます」

 

 

 

 そしてユナはおもむろにバーテンダーを呼び、「この船で最も高価な酒を」と注文した。

 

 それもグラスではなく、封を切らないままのボトルまるごと一本を買った。彼女は袖口から魔法や手品のように、高額紙幣の束を取り出し、なんということのない動作で支払いを終えた。

 

 

 

「お祝いの品です。荷物になって大変恐縮ですが、御笑納下さい」

 

 

 

 ユナはその酒瓶を、ラサギへ差し出した。三十年物の高級蒸留酒だ。富豪であるヒーエの家でも、滅多に手に入らない高級酒だった。

 

 

 

「すごい、大富豪だったんだね、ユナって」

 

 

 

 ホイナは素直に驚きの声を上げる。ラサギに酒瓶を受け取って貰ったユナはやはりなんともない涼しい顔で言った。

 

 

 

「紙で解決するものであれば、私は万能に近しいことを保障されているのです」

 

 

 

 相変わらず奇妙なことを言う人だ、とホイナは思う。

 

 

 

「……偽札?」

 

「まさか、本物ですよ。必要とあらば偽札も御用意致しますが、それには及ばないでしょう」

 

 

 

 ふふっ、とユナは笑う。

 

 ホイナはラサギと顔を見合わせる。彼もホイナと同じ気持ちだと分かった。変な人だな、と思っているのだ。

 

 

 

 

 

 それから少しだけホイナはラサギを交えてユナと話し、そして部屋に戻っていった。二段ベッドの下段、自分のベッドでホイナは寝る。

 

 

 

 眠ってばかりな気がする、とホイナは思った。思いながら、眠りに落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度のミュルツの間は、妙に豪勢だった。

 

 

 大量の焼きパン、串焼き肉、輪切りにされた豚肉の燻製、焼かれたチーズ、大量の香料と肉と野菜が混じった炒め飯、そして様々な果物。

 

 まるで何かの祝事のようだった。

 

 

 

「どうしたの、これ?」

 

 

 

 ホイナは思わずミュルツに訊ねる。彼は敷き布の上に腰を下ろし、手近にあった串焼きのひとつを手に取った。

 

 

 

「これはきみの夢だ」

 

 

 

 以前にも聞いた台詞を彼は紡ぐ。

 

 

 

「君が、なにか祝いたいと思ったのだろう」

 

 

 

 ふうん、とホイナは分かったような気になって、とりあえず切り分けられた梨の一切れを手にし、口に入れる。淡く爽やかな甘みが口の中に広がった。

 

 

 

「実は俺の方にも、人間であれば祝い事にならなくもないことが決まった」

 

 

 

 唐突にミュルツが言う。

 

 

 

「曖昧な言い方だね」

 

「決定されたのは、潜入任務だ。竜殺し本体は人類社会構造体から変わらず身を隠すが、対人解析機は敢えて構造体に取り込まれ、情報収集活動を行う」

 

「つまり?」

 

「具体的には身分を偽装し、大学に属する学生として各地の人間社会に対する論文を収集する」

 

 

 

 淡々と彼は言い、肉を頬張った。

 

 食事というより機械の補給活動にホイナには見えたが、彼は彼で食べ物を味わっているのかもしれない。

 

 

 

「人間が人間自身に対してどう認識しているのか、それを知るためには構造体の中へ潜入しなければならない。より能動的な情報収集を竜殺しは望んでいるようだ」

 

「つまり、ミュルツの言ってる祝い事って、大学に入れたこと? 学生生活を始めるの?」

 

「竜殺しの幻惑能力であれば、ひとりの人間の身分を偽装することなど容易い。祝うに値するかは正直疑問だ」

 

 

 

 表情を変えずにミュルツは言った。

 

 その言葉に、彼女はミュルツが単なる夢の住人ではないと気付く。

 

 

 

「あなたは、だれ?」

 

「最初に言った通りだ。竜殺しの対人解析機」

 

「ここは私の夢なの?」

 

「そうだ。君の夢を、竜殺しが対人解析機と繋げた。だからこうして俺と話している」

 

 

 

 平坦な口調には何の悪意も脅威もなかった。

 

 ホイナは、ミュルツが彼女に危害を加えるためにこのようなことをしているのではないと察した。

 

 

 

「でも、何のために?」

 

「人間を知るためだ。対人解析機に人間の無意識を繋げ、その人間を解析し、人類社会構造体に関する情報収集を行う。しかし人間の夢、無意識だけでは集められる情報が限られると竜殺しは判断したようだ」

 

 

 

 よって先の潜入任務の話になった、と彼は言う。

 

 チーズの切れ端を食べながら、ホイナは考える。彼と、彼の言う竜殺しについて。

 

 

 

「竜殺しはずいぶんあなたに期待してるね」

 

「と言うより、使用できる道具が俺しかないんだ。竜殺し本体は人類社会構造体に関する情報を解析することが出来ない。そのため対人解析機を使うしかない」

 

「人間と竜殺しの中間に、ミュルツはいるんだ」

 

 

 

 ホイナの言葉に、ミュルツは頷く。

 

 

 

「実を言うとこの対人解析機は、竜殺しが作ったわけではない。貰い物だ」

 

「え?」

 

「かつて竜が単独で存在していた時代、ひとりの魔剣使いが竜に転生した。そしてその竜は竜殺しと戦った。そのとき魔剣は竜殺しに対人解析機を渡した。その解析機が、俺だ」

 

「何のために?」

 

「魔剣の意図は不明だ。しかし竜殺しは竜が人類社会構造体と共生してしまった以上、この解析機を使わざるを得ない。魔剣はそれを見越して渡したのかもしれない」

 

 

 

 ミュルツの言葉は答えになっていなかったが、ホイナは深く追求しなかった。自分には理解できない話になる予感があったからだ。

 

 それより、周りに並べられた御馳走の群れを片付けよう。ホイナは手当たり次第に手にとって口に運んだ。

 

 

 

「なんで、私の夢だけど私の夢じゃないことをばらしちゃったの? 普通隠さない?」

 

「これは夢だ。起きれば忘れる」

 

「忘れない夢もあるよ」

 

「それこそが君の夢だ。現に君は起きている間、俺のことなど忘れいてた」

 

 

 

 そういうものなのかな、とホイナは思う。とにかく、食べた。

 

 

 

「君は嬉しそうだ」

 

 

 

 ミュルツが言う。

 

 

 

「いいことあったからね」

 

 

 

 ホイナは応える。

 

 食べながら喋るのははしたなかったが、あくまでもここは自分の夢の中なので、礼儀に関しては忘れることにした。

 

 

 

「俺は対人解析機だ。使われる立場にあるため、竜殺しの決定事項に口出しは出来ない」

 

 

 

 ミュルツは単調な作業を片付けるように、規則正しい動作で食事していく。

 

 

 食べながら、彼は言った。

 

 

 

「魔剣たちが竜殺しに敗北しないことを祈ろう」

 

 

 

 何を言っているのかホイナには分からなかったが、彼女は気にしないようにする。

 

 ミュルツの間に並べられた料理の山は、果てることなく続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.... .... ....

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空中の船旅は順調に続いた。

 

 

 

 ミュルツはラウンジや喫煙室に足繁く通い、同乗した名士たちと交流を深めていた。

 

 ホイナは相変わらずユナを相手にお喋りに興じ、また窓から西の大洋を眺めたり、ピアノから弾かれる音楽の調べに耳を傾けたりと、船旅を満喫していた。

 

 

 

 ユナが読書室で手紙を書くと、ホイナもそれに倣って両親や友人に手紙を書いた。主に飛行船の中のことや、旅路で出会った不思議な女性に関して。

 

 そうして手紙を書いていると、誰かにも手紙を出さなければならないはずなのに、それが誰だか思い出せない気持ちに陥る。

 

 

 ユナにそのことを相談すると、

 

 

 

「思い出す時期というものがあるのでしょう。今はその時ではないのでは」

 

 

 

 と言った。ホイナはおとなしくその託宣(たくせん)に従うことにした。

 

 

 

 

 

 ラウンジや読書室とは反対側の舷をまるごと使った広いダイニングルームの料理は、ホイナ達を満足させた。

 

 ラサギは鴨料理を気に入り、肉にかかったペーストはなんだろう、とずいぶん細かいところまで注視していた。

 

 ホイナはメニューに記載されたどの料理も気に入り、「一気に持ってきてくれないかな」とラサギに無茶なことを言ってみた。彼は苦笑して聞き流した。

 

 

 

 ダイニングルームと言えば、ホイナはユナが料理を食べるのを見たことがある。

 

 二人がけの食卓にひとりで座り、落ち着きと静寂そのものの動作で料理を口に運んでいた。

 

 

 それはひとつの作品のように完成された姿であったが、ひとり、という事実にホイナは淋しさを覚え、旅の後半からはユナを誘って三人で食事を取るようにした。

 

 

 

「新婚旅行なのに、悪いですよ」

 

 

 

 とユナは言ったが、ホイナは譲らず、

 

 

 

「ラサギにはあとでたくさん埋め合わせするから大丈夫」

 

 

 

 と押し切った。

 

 ラサギはやはりホイナの提案を拒まず、快くユナを席へ受け入れた。

 

 

 いいんですか? とユナがラサギに訊ねると、

 

 

 

「ホイナの埋め合わせがどんなものか、楽しみが増えましたよ」

 

 

 

 と笑った。

 

 

 

 こうして旅行の半分は三人での旅になった。

 

 

 

 ホイナが談話に飽きると、ユナは詩集を持ってきたと言って読書室に誘った。

 

 普段は小説の類ばかり読んでいるホイナだが、自然を切なく讃えたその詩の韻はとても心地良く、ユナに「面白かった」と感謝した。「恐悦至極」とユナは優雅に礼を返す。

 

 

 

 

 

 そうして、彼女らは四日間を船上で過ごした。

 

 

 

 

 

 

 旅が終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終話:青空、川の匂い、新世界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天気は快晴で、風は穏やかだった。

 

 飛行場の彼方に、白く霞んだ摩天楼の町並みが見える。

 

 

 

 降り立った飛行場の周囲は、ホイナ達が出発したそれと同様にたくさんの人々で賑わい、喧噪の波を船体まで届けていた。その喧噪は微風に混ざり、飛行船を撫でる。

 

 西大陸の空気はどこか荒削りで、しかし活気を伴う若々しさも感じられた。

 

 

 

 ホイナは巨大な飛行場に着船した飛行船の階段を下り、久しぶりの地上へ足をおろす。

 

 地面は念入りに押し固められ、平坦になるよう整備が行き届いていた。使い古されたという感じは全くない。ここは新しい飛行場なのだとホイナは思った。

 

 

 

「西の大陸は新大陸。何もかも新しいよ」

 

 

 

 ホイナはその感想をラサギに言うと、彼はそう言った。そうかもしれないし、そうではないかもしれないとホイナは感じる。少なくともラサギは、新しいと思う人間なのだ。

 

 彼と意見が一致しないことを、ホイナは何故だが面白く感じる。良い旅になりそうだ、と思った。

 

 

 

「ここでお別れですね」

 

 

 

 背後から声がかかる。ホイナは振り向いた。

 

 

 小さな手荷物を抱えた、ユナがいた。彼女の青い外套姿は、この別大陸の中でもやはり異彩を放っている。

 

 しかし青空の下で見ると、その服の青い色は確かな存在感を持ってその場にあるのだと分かった。けっして風景に溶け込まず、しかしぎらついてつきはなつような荒々しさではない、落ち着いた青い色なのだ。

 

 

 

「ユナのおかげで楽しい旅だったよ、ありがとう。ここで別れるのが惜しいよ」

 

 

 

 ホイナが帰りに乗る船便にユナは乗らないことを、旅の中で聞いていた。なのでホイナは心から残念に思った。

 

 

 

「気が向きましたら、手紙のひとつでもお送りください。それで充分です」

 

 

 

 ユナは穏やかに微笑みながら言った。

 

 

 

「あ、そういえばユナの住所、私聞いてないよ。ごめん、教えて」

 

 

 

 慌てて筆記用具を取り出そうとするホイナへ、ユナが制止する。

 

 

 

「必要はありません。宛先に私の名前を記せば、それでこちらへ送られます」

 

 

 

 そんな馬鹿な、とホイナは思ったが、ユナが言うと本当なのかもしれないと考えてしまう。

 

 ユナは自分の手を口元にあて、鈴のように笑う。

 

 

 

「今度、戯れに試してみて下さいな。きっと驚きますことでしょう」

 

 

 

 ユナ独特の冗談なのか、それとも本当に宛先のない手紙が送られるのか、ホイナは唸ってしまった。

 

 

 

「ユナ」

 

 

 

 と、そこで別の声がした。ユナのその後ろから、男の声が彼女を呼ぶ。

 

 ユナは振り返り、ホイナもついそちらを見た。

 

 

 

 ひとりの男性が佇んでいた。年の頃はホイナたちと同世代、精悍で整った顔立ちだが、表情というものは浮かんでいない。

 

 長めの黒い髪は整えられておらず無造作そのものといった風貌だが、なぜか彼にはそれが相応しいと思える、奇妙な年季を感じさせた。

 

 

 その男は無機質な口調でユナに言う。

 

 

 

「俺はここで別れる」

 

「挨拶くらいしたらどうですか、ミュルツ。こちらは旅の中で良くして下さったご夫婦なのですよ」

 

 

 

 応対するユナの声音はどこか呆れ気味で、彼女のそんな声をホイナは旅の中で一度も聞いたことがなかった。

 

 ユナはホイナへ向き直り、

 

 

 

「同室者が失礼を致しました。こちらが私と同室だった、ミュルツです」

 

 

 

 と紹介する。

 

 この人物が、部屋に籠もって本ばかり読み、食事にさえ現れない引きこもり、とユナが妙に毒舌を披露した同行者か、とホイナはまじまじとその男性、ミュルツを見詰める。

 

 

 

 そしてその名前に、ホイナは聞き覚えがあった。

 

 しかしどこで聞いた名なのか思い出せず、とりあえずミュルツへ一礼する。ミュルツは小さく会釈した。

 

 

 

「ミュルツ、こちらはまだ新婚旅行の途中なんですから、何かお祝いをしてさしあげなければ」

 

 

 

 ユナが言う。唐突なことをいうなあ、とホイナが思っていると、ミュルツは数瞬の後、おもむろに手をホイナへかざす。

 

 

 そこでホイナは妙なものを見た。

 

 

 

 

 革手袋に包まれたその指先に、黒い球のようなものが浮かんでいる、気がした。

 

 

 

 

 ホイナはよく目を凝らす。

 

 

 もうその瞬間には、何も浮かんでいない。ミュルツの、大きいが何の変哲もない手だけがそこにあった。

 

 彼はさっとその手を下げる。そして無言のまま、背を向けて歩き去っていった。ホイナ達はわけがわからなかった。

 

 

 

 ユナが懐から、何かの紙片を取り出し、それを読む。そしてホイナ達に言った。

 

 

 

「どうやら、おふたりの旅の中で不幸なことは起こらないようです」

 

「なんで?」

 

「そういったものは今、祓われました」

 

 

 

 何のことなのか、ホイナ達は首をかしげる。しかしユナがこうした不思議な言動をとるのは旅の中で幾度もあったため、今更気にする必要もないと思うことにした。

 

 

 

「ではお二方、今度こそお別れです、楽しい旅をありがとうございました」

 

 

 

 ユナは深々と優雅にお辞儀する。最初に出会った時と変わらない、まるで社会の様々な煩わしさから独立した、浮世離れした雰囲気のままで。

 

 

 

「こちらこそ、ありがとう、ユナ。またどこかで会いましょう」

 

 

 

 ホイナはユナにそう言い、荷物を地面において、ユナを両腕で軽く抱きしめる。

 

 

 その動作に、ユナは少し驚いたようだ。ユナが驚くことはなかなかないので、ホイナは、やった、と思った。

 

 

 

 ユナの体は細かったが、折れてしまいそうな不安感はない。彼女の編み込まれた茶色の髪から、わずかに水の匂いがした。ホイナはそれを懐かしいと感じる。どこかで嗅ぎ続け、馴染んだ匂い。

 

 

 

 

 ああ、川の匂いだ、と彼女は気付く。

 

 

 どうしてユナからそれがしたのかは分からない。けれどユナのことだから、私は川から生まれましたと言い出しても不思議ではなかった。

 

 

 

「じゃあ、またね」

 

 

 

 ホイナはユナを離す。笑って、自分からユナを置いてその場を去っていく。

 

 

 

 荷物を再び手にしたホイナは、振り返らなかった。隣をラサギが歩く。ふたり。

 

 

 そして、ホイナは先のユナから発せられた川の匂いで、突然思い出した。

 

 

 

「ヒーエに返事、書かないと」

 

 

 

 それは夢の中の出来事であるはずだった。彼女は死んだのだ。彼女の家族ももういない。手紙を書いたとしても、送り先など無いはずだ。

 

 

 だがホイナはその行動の予定を打ち消す要素など、自分の中にまったく存在しないことを知っていた。

 

 

 

 そしてさらにおかしなことに、そうだ、ユナに送ろう、と思いつく。ヒーエはユナの知人だから、送り先も知っている気がした。同封して、彼女に頼んでみよう。

 

 

 

「……あ」

 

 

 

 ホイナはふと、遙か上、高い高い空を見上げた。

 

 

 

 果てしなく青い壁を走るように、何かが飛んでいる。遠すぎてホイナには小さな黒い影にしか見えない。

 

 

 

 

 その小さな影はすぐ見えなくなった。何だったのだろう、何かだったのだろう、とホイナは思う。彼女は地上へ視線を戻した。

 

 

 

 

 

 ラサギがタクシーの待合所を探している。

 

 ホイナは彼にそれを任せて歩きながら、町に着いたらまず百貨店や雑貨屋を巡って、便箋を探そうと決めた。できるだけ素敵な便箋を。香りの染み込んだ品の良い封筒と一緒に。ホイナは亡き親友への文章を頭の中で考え始める。

 

 雑踏の気配が彼女を包んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     (完)




最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。

今作品はかつて某雑誌の小説大賞に応募したものを、供養として投稿したものです。

「ドラゴンスレイヤーズ」「古神幻想」「夢の中なら」の3作で1セットなのですが、
だいたい読んで頂いた方からの感想が
「ヒーエの最期が報われずあまりに理不尽」
「ヒーエの父親が胸糞」
「首締めるところ最高」
と、ヒーエのところばかりピックアップされる次第で、本来の主人公であるホイナの影が薄くなってしまいました。
(とはいえヒーエの人物像は私の嗜好とか性癖とか呼ばれるものの全てを注入したので、お褒めの言葉を頂けたのは恐悦至極でもありました)

時間が経って振り返ってみると、せっかく1920年代くらいの飛行船をイメージした舞台で、あまり事件らしい事件を起こしていないのは勿体ないと反省しています。
というか駄弁りすぎなんですよね、誰も彼も…もっと船内を探検するべきでした(汗)

長々と書いてしまいましたが、読んで頂いた方のお時間に見合う価値であったことを願っております。
改めまして、最後までお付き合い下さり、心からの感謝を。ありがとうございます。


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