はねバド!~ラピスラズリとオムライス~ (STORICKS)
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はねバド!~ラピスラズリとオムライス~

 冬休みに入りたてのある日、泪が熱を出して寝込んだ。

 たぶん、冬の雨に打たれながらのロードワークから帰ってきて、すぐに風呂に入らずにゴロゴロしていたせいだと思う。

 去年は出られなかった選抜への出場を決めて、疲労感に気が抜けたところもあったのだろう。

 気分屋でこそあれ、バドミントンに対しては真剣な泪が二日もラケットを握らずに、おとなしく布団に収まっているのだから、それはいつもの悪い癖じゃない、と思う。

 病院での検査の結果は、インフルエンザではなかった。

 けれどひとまず泪を隔離して、同室の私は空き部屋に仮の寝床を置いている。

「──泪、入るよ?」

 珍しく鍵のかかっていない部屋に、私はノックもせずに立ち入った。

 両手が盆でふさがっているから、肘でドアレバーを押し下げなければいけなかったから。

 もっとも、物音もしていなかったし、電気も付いていない部屋で怠そうに身を起こした泪を見れば、サボリを満喫していたわけじゃないのはすぐに分かった。

「あ~……うぇ、っえ……」

 喉の引っ掛かりをふるい落とそうと、小さく幾度もせき込んでいる泪は、顔も紅くむくんでいて、たぶんまだ、回復は遠い。

 体温計は泪の手が届かないところ容器に収まっているけれど、測るまでもなく、いい数字が出ていることだろう。

「寝てな」

「ん~」

 盆をテーブルに置き、エネルギーゼリーとスポーツドリンク、それからヨーグルトを順番に泪に手渡す。

「……」

 ゆっくりとしたペースでそれらを飲み込むと、泪はまたベッドに体を沈め、上半身を捻る。

「……何やってんの」

「腰痛ぇんだよ」

 きっとまだ、熱があるせいだろう。

「今日はオフだけど、明日も休んでていいって」

「ん~……言われんでも休むよ……無理無理……」

 一応、冬休み明けの定期考査の範囲だとかを記したメモも持ってきていたけれど、これは泪が元気だったところでどうせ見ないし、あまり必要なかったかもしれない。

「……今日、何日?」

「二十四──クリスマスイブじゃん」

「知らねーよ、んなの……」

 全くどうでもいい、という風に泪は大きく咳払いをして、布団を深く被った。

 ま、確かに……。

 私だって日付は知っていても、そんな『行事』にはこれっぽっちも浮かれていなかった。

 こんな女子高の奥深くの寮で暮らしていて、バドミントンに明け暮れていれば当然、そうなる。

 引退までの猶予が一日減る、ぐらいの認識しかない。

 今のところまだ、そこまで悲壮感は無いけれど。

 まあ、でも……私なんかじゃ、大学で続けても、どうだろうな……。

「ぅえ……っほ──」

 伏せた視界の中で、泪の咳に合わせてベッドのスプリングが軋み、布団が弾む。

 あんまり長居していると、こっちまで風邪を移されてしまいそうだ。

 寮母さんは慶弔事で留守にしているし、他の寮生は今頃朝食のために、食堂に集まっている。

 風邪を移された理由が、『看病していたから』だと証明できるものは何もないし、それを疑うどこか羨望の眼差しも、ちょうど去年のこの時期のケンカぐらいから、いい加減刺さっている。

「──じゃあ、ちゃんと寝てなよ」

「うぇい……」

 

 

 

 泪と隔離される前に持ち出した、わずかな私服に着替えて、私は食堂に降りて行った。

 その中には、間違えて買ってしまい、仕方なく履いてみたら楢嵜に『最早スパッツじゃん』と爆笑された、百六十デニールのタイツも含まれている。

 どれだけ脚を見せようが、真っ黒で何の色気も発生させないそれを、なんとかベロア生地のショートパンツで補ってみたけれど、まあいいとこ二十点だろう。

 これまた色味からして重たいM65を手に、私は階段を降りると、思ったより静かな空気が流れていた。

 たまの休みにこれ幸いと皆飛び出していったらしく、そう遅い時間帯でもないのに、食堂に居残っていた寮生はごくわずかで、その中の一人に泪の状態を伝えて、私は自分のぶんの食事を用意する。

 いつものようにアイスコーヒーを呷り、それから食パンをトースターに放り込み、少し待っていると──。

「旭さん」

「──ん?」

 さっき話をした寮生が、私の後ろに立っていた。

「今日、寮母さんいないから、お昼ないんだって」

「え、マジか……」

 夕飯は間に合うかもしれないけれど、という補足を聞き流しながら、私はもう一枚余分に食パンを漁った。

 それから、さっきも持って行ったエネルギーゼリーを二つ、泪のために用意してやった。

「──足りるかな……」

 もともと泪はよく食べる方だ。

 そうでなくては、あそこまで大きく──特定の部位を除いて──なることもないだろうけど。

 手早く朝食を胃袋にしまい込んで、私は何もつけないトーストにラップをした皿と、いつ封を切ったのかは知らないけれど一応賞味期限内だったハチミツ、それからエネルギーゼリーを盆にのせて、また階段を上がる。

 朝と同じようにノックをせず、できるだけ静かにドアを開けると、少ししゃがれた寝息が聞こえてきた。

「……まったく」

 音をたてないように盆を置いて、空になったペットボトルを持ち、私はまた部屋を出る。

 

 

 

 

 唯一女子力を担保している、と私が信じている明るめの色の、ファーが付いたロングブーツに脚を差し込み、私は寮の玄関を出た。

 ところどころひび割れた煉瓦敷きを歩きながら、ポケットに手を突っ込み、そこに携帯電話と、中身の乏しい財布があることを確かめる。

 まあ行く当てもないけれど、泪のためにパトラッシュ役を務めるには勿体ないぐらいの陽気だ。

 年末の北関東にしては高い気温に、私はブーツの中が蒸れ散らかさないかと心配になりながら、大通りに出て、折れ曲がった国道をなぞって駅の方に向かう。

 まっすぐ行けばJR、右に曲がればショボい私鉄の駅に着くという交差点で信号をぼうっと眺めながら、私は今日の過ごし方を考える。

 妙に浮ついている男女の群れを見れば、ああなるほど、今日はクリスマスイブなんだと今更ながらに理解した。

 そんな中を珍しく一人で歩いてみると、店じまいした街路樹のように、ふらふらと揺れたくなる──。

(……)

 いや、やめよう。

 別に高校二年生で『まだ』だというのが特別遅いとも思わないし、そもそも多分、その証はすでに擦り切れている。

『そーゆーコト』を狙っているらしい男数人のグループに値踏みするような視線を向けられているのに気づいた。

 髪を直すふりをして左手でそれを遮り、隙間から様子を伺っていると、そのうちの一人が首を振って、視線は消滅した。

 たぶん……この厚着の上からでも、さほど面白みのない身体だとわかってくれたのだろう。

 それに、化粧もしていないようなお子様は、手慣れていそうな彼らには、ストライクゾーンの外だ。

 浮ついた気分に汚染されて拡がった蠱惑的な感情を奥に押しやって、私は横断歩道を渡る。

 サンタクロースの衣装を着たティッシュ配りの手を回避して、私はポケットから携帯電話を取り出した。

「──……出ないな」

 たぶん、泪はまだ寝ているのだろう。

 もしあれで昼ご飯が足りなかったとしても、食堂まで下りてくるぐらいの体力は、流石にあるはずだし……。

 呼び出しを切り、画面を消してポケットに手を戻す。

 冷えた指にかかる、ちょっと湿ったような手触りのボア生地が暖かい。

 二人で遊びに出ても、せいぜい買いもしない服屋に冷やかしに入ったりする程度。

 駅の反対側まで行けばバドミントンのショップもあるのだけれど、そこまで歩くのは億劫だ。

 それに、あまり気合の入っていないこの服装で、ピンク色のオーラをまとっている男女が多くいるようなところに入る気もしない。

 とりあえず、コーヒーでも──そう思って通り沿いの喫茶店を覗くと、何の変哲もないチェーン店のくせに、客席はほとんど埋まっていた。

 どのテーブルも、頭の悪そうなミックスダブルスが占拠していて、夜になったら……。

(……やだやだ)

 そういう当たり前の光景に、いつか自分も組み込まれていくんだろう、とも思うけれど。

 泪と過ごす日常は、良くも悪くもいろいろと刺激があって、全てを一緒くたに『楽しい』と思えるほどの胆力はまだ私には無いけれど、いつかそう思えるようになりたいと考えている。

 ともかく、喫茶店から目を反らし、私は何か面白いことがないかと探して回る。

 脇を追い抜いて行ったタクシーの出したウインカーを眺めていると、その先の看板が目に入った。

 ガラス張りの店内からは、青や赤の小さな光が、ランダムに漏れている。

(──……なんだろう)

 近づいて行ってみると、それはアクセサリーのショップだった。

 と言っても、よくある銀や金の派手なヤツ、というよりは、ちょっとひねくれた奴が付けているような、石ころと革がメインの、民俗的なアクセサリー。

「……ふうん」

 アクセサリーと言えば、泪のピアスは、学校内でも結構問題になったらしい。

 それでも、将来は金メダルさえ夢ではないという逸材のこと、矢板先生も泪のモチベーションを損なうことは本意ではないから、金輪際外せとは言わなかった。

 ただし、試合だとか、校外の人の目がある時は、絆創膏で穴ごと隠すように……と。

 まあそのあたりが落としどころだろう。

 泪にとっても、そこにイチャモンを付けられて大会に出られなくなる、なんてのは御免だろうし。

 私だって嫌だ。

『益子泪』が高校三年間、ダブルスで大した成績を残せなかった──と決まったわけじゃないけど、まあ……──理由を、私以外に求めてほしくない。

 野暮ったい女が似合う、その店のドアを開けると、控えめの音量でボーカルのない曲が流れていた。

 店内に他に客は居ない。

 腐ってもアクセサリーショップだというのに、不釣り合いなぐらいの老人が、レジ脇に腰掛けたまま、こちらの顔も見ずに『いらっしゃい』と言った。

「──……」

 一見さんお断り?

 まさか、飲み屋でもなかろうに……。

 ドアの前で立ち止まっている私に、その老人は怪訝な目を手元の新聞からこちらに向けて、口を開く。

「何か、お探しかい?」

「え? あ──」

 そういうタイプの店か、と私は理解した。

 ややこしいやつだ。

 来る客来る客みんな、目的をもって来店してると思ってる。

 ……とはいえ、ここで踵を返してドアを出ていくのも、それはそれで申し訳ないような気もした。

「いやまあ、ちょっと……」

「プレゼントかな?」

 少し表情を崩した老人は、読んでいた新聞を畳み、立ち上がる。

 まるで私のことを、好きな人に贈るプレゼントについて第三者に相談するのも恥ずかしいぐらいの生娘だと思っているようだ。

 まさしくその通りで、私は完全に無意識に、泪に似合うのはどれだろう──と探していたことに気付く。

「あぁ、はい──」

「相手は?」

「……同級生です。同じ部活で、ペアを組んでて──」

 薄くなった頭を掻きながら、その老人は頷き、話をもっと聞かせろと言わんばかりに、座っている椅子を軋ませた。

「まあ……大したものじゃなくて良いんですけど……」

 そこまで言ってから、私は店内を見渡してやっと気づいた。

 ここは、ショップというより、クラフトハウスだ。

 何色もの革紐が吊るされた作業台。

 壁際に架かる棚には、小分けになった、多分さほど貴重ではない鉱石が鈴なりになっている。

「あの、そんなお金無いんで…」

「ウチは一律二千円だよ。ペンダントもピアスも、ブレスレットも」

 シワの深い指で革紐を撚りつつ、老人は作業台の前の椅子に座った。

 こうなっては、買わないというわけには行かないだろう。

 まあ、二千円なら話のネタに一つ、泪にあげるかは別としても、悪くない。

「じゃあ……ペンダントかな」

「ホイきた──黒でいいかい? 紐は」

「あ、はい」

 老人は吊り下げられた紐の束から一本を抜き取って、金属製のへらで角を落とすように撫で付けていく。

「石は?」

「石……うぅん……」

 いきなり石と言われても、名前がまず出てこない。

 そりゃ、ダイヤモンドとかルビーとかは知ってるけど、そんなものが二千円と言うことはないだろうし、もっとたぶんマイナーなもの……。

 答えに窮している私を察して、老人はある質問をした。

「その子は、君の何だね?」

「っ──私の、……」

 答えを探しているのか、それとも、その答えを言い切る決心をするのに、時間がかかっているのか。

 自分でもわからないけど、老人が名もなき鉱石の引き出しを開けきる前に、私は答えを口にした。

「友達です──今は」

「今は、ね……」

 たったそれだけのことで、老人が私と『同級生』のことをどこまで理解したかは分からない。

 だから私は、補足する意味でこう告げた。

「いろんな、問題があるんです……ソイツにも、私にも。でも、後悔したくないんで。ソイツ、凄いヤツだから……」

「フムン……」

 頬のシワを手でなぞりながら、老人はさっき気まぐれに開いては閉じていた引き出しの中から、一つを選び出した。

「これはどうかな?」

 老人が手にしたのは、青紫に金粉がかかったような鉱石。

 その外見には、何となく見覚えがある。

「ラピスラズリ……?」

「ほう、よく知っとるね」

 そりゃ、まあ……この石は有名だ。

 よく漫画雑誌の広告なんかにもある、効くかどうかがひたすら怪しいパワーストーン。

 幸運を呼ぶ、のはありがたいんだけど……。

 いまひとつ納得していない私を見て、老人はふふ、と笑う。

「日本語では『瑠璃』と言うんだがね……パワーストーンなんて便利なモノは、この世にはないさ。けれど……」

 老人は、引き出しに転がっているいくつかのかけらの中から、一番大きなそれを取り出して、作業台に置き、照明をあてる。

「……綺麗」

 深い蒼色に散りばめられた白い筋や金色の点が、夜空に浮かぶ星のようで。

「幸運の石、なんて言われてるが……この石が呼んでくるのは、目に見えて分かりやすいカタチじゃあないのさ」

 試練や苦難を乗り越えた先の豊穣──ラピスラズリの『幸運』とは、そういうものなのだと、老人はそのかけらの形を小さな回転工具で整えながら、話してくれた。

 持ち主が、自らに課せられたカルマに抗い、克服していくための道標。

 パワーストーンなんてものは、所詮それだけのことだし、その拠り所になるかどうかは、本人次第。

 美しい楕円形に夜空を切り取ったような形にラピスラズリを整えた老人は、最後にその端の方に穴を開け、革紐を通す。

「ホイ、出来た」

 通した紐の両端をきゅっと結んで、老人はそれを私にくれた。

 首にかけると、少し余りが大きい。

 バドミントンをする時には外さないといけないだろう。

 まあでも──星空を見るのは、夜だけでいいや。

 レシートも出ない会計を済ませ、薄くなった財布と、ペンダントを包んだ紙袋をポケットに入れて、私は店を出た。

 入るときに目立っていた電飾が遠ざかると、反対側のポケットで携帯電話が暴れているのに気がつく。

「泪──昼足りた?」

『ぅえっほ……まぁ、ん……──シャワー浴びたら、だいぶマシになった……』

「よかったじゃん」

 部屋のユニットバスは乾燥が貧弱だから、あまり使わないようにしている。

 けれど、今日のところはまあ、許しておいてやろう。

「何か食べたいものある? 今日、寮母さんいないかもしれないって」

『まじ……、えぇ……どうしよ……──』 

「簡単なものだったら、作ってあげるから」

『……じゃあ、──オムライス』

 地味に難易度が高いそのリクエストに、私はほんの少し後悔した。

 米と卵は食堂に在庫があるし、食材は安いものばかりだから、予算の心配は無いにしても──。

『グリーンピースなしで。あと鶏肉じゃなくてハムで』

 細かいな。

「──わかった。材料買って帰るから、作ってあげる」

『……ありがと。ごめんね』

 私は思わず、携帯電話を耳から離して、画面を見た。

 そこに表示されている名前を確かめるために。

 間違い電話ではなかったことに安心していると、泪の方が通話を切ったらしく、画面の色が変わる。

 あの泪が、相当弱っているとはいえ、『わりぃ』ならともかく、人に『ごめんね』を言うなんて──その事実に驚愕しつつ、私は頭の中を整理していった。

 買って帰るのはせいぜい、玉ねぎとハム……ぐらいだろうか。

 マッシュルームの是非は泪も言ってなかったけれど、私もあまり食感が好きではないし、入れなくてもいい。

 暗くなっていく画面に表示された時計は、意外とさっきの店で時間を使っていたことを私に教えてくれた。

 早めに食材を買って帰って、そんなに遅くならないうちに、泪に晩御飯を作らないと。

 

 

 

 

「──うぅむ……」

 もう少し、家庭科の授業を真面目に受けておけばよかった。

 みじん切り、というのがこれほど難易度の高いものだとは思わなかったし、そもそもハンバーグではないのだから、オムライスに入れる玉ねぎはそこまで無理やり小さくしなくてもいい──ということに気付いた頃には、既に玉ねぎはほとんど木っ端微塵になっていた。

 ……まあ、いいや。

 こういうのは出来よりも気持ちだし。

 ハムのように切るのが楽なものばかりならいいだろうと一瞬思ったけれど、そんなSF映画の食事のようなのは味気なくていやだな、と玉ねぎとハムをフライパンに放り込んだところで、ご飯の量が案外多いことに気付いた。

「……いいや」

 卵はあるし、なんなら二人分作ってもいい。

 寮母さんが結局帰ってこないことになって、ほかの寮生はみんなコンビニに出かけて行った。

 わざわざ自分で料理を作ろうという気概があるのは、私ぐらいのものだ。

 物静かな厨房に、炒め物の音と香ばしい香りが広がる。

 薄いスウェットにエプロンは少し肌寒かったから、火を使うのはちょうどいい。

 ケチャップを適当に振りかけると、一気に色が咲き、食欲をそそる。

 少しつまみ食いして、私はそれをちょうどよく見つかった丼に移す。

 もうこの上に炒り卵を乗せてやればいいんじゃないかとも思ったけれど、その分量と、見た目を想像してやめた。

 最大の難関はこれからだ。

 卵をまな板の隅に叩きつけ、ボウルに落とす──。

「あっ、くそ」

 やっぱりというかなんというか、砕けた殻が破れた黄身に溶けて、行方が分からなくなった。

 菜箸で穿り出すが、つるつるとボウルの縁を滑るそれを、私はもう面倒くさくなって指でつまみ出す。

 けれど、こんなものはまだ序の口。

 軽快な音を立てて弾けるフライパンから水気が飛んで、私は少し顔をしかめる。

 痛覚を舐って消し去ろうとしている間に、『ふわとろ』の範囲は通り過ぎてしまっていた。

「……」

 まあ、いいかな。

 半熟卵は案外好き嫌いがあるし、……泪がどっちかは、知らないけど。

 急速に女子力を失っていく炒り卵──オムレツに、私はあわてて鶏肉の入っていないチキンライスを投入する。

 そして、重くなったフライパンを少し持ち上げて、いざ勝負。

「──……ですよね~」

 破けたオムレツが、なんとかライスの上に重なる。

 包み込む、という形容詞を使えば、たぶん詐欺で訴えられるだろうな。

 ひとまず完成として、もう一度同じ工程を繰り返し、出来がいい方を泪に食べさせることにしよう。

 味は同じはずだし。

 人間は学習する生き物だというのは本当らしく、二度目はより『包み込む』ことに成功して、私は満足した。

 綺麗な黄色、というわけにはいかず、ところどころ茶色く焦げているオムライスを皿に移し、ラップをして盆に乗せる。

 あまり熱いものを食べさせるのも、病み上がりの胃腸に負担をかけてしまうだろうけど、熱が冷めないように私は手早く洗い物を済ませて、冷蔵庫からお茶のペットボトルを二本取り出し、横倒しに同じ盆に乗せた。

──あとはスプーンと、ケチャップだ。

 

 

 

「──泪、入るよ」

 朝よりもずっと重たい盆を落とさないように苦労しながらドアを開けると、電気がついていた。

 泪はどうやら、起き上がれるぐらいには回復したようで、毛布をかぶってスツールに座り、本を読んでいた。

 まあ、そうでなきゃ、オムライスなんて食べたいとは言わないだろう。

「おーう……あ、それ──」

「あんたのリクエストだよ。それとお茶ね」

「ありがと」

 ラップを取り払い、泪はスプーンを手に顔をほころばせる。

 久しぶりのまともな食事だ、無理もない。

 と、スプーンの先端をオムライス寸前で止めて、泪はこちらを見た。

「……ねぇ、ケチャップは?」

「あ、あるよ」

 私が差し出したケチャップを、泪は受け取ろうとしない。

「旭、何か書いてよ」

「は?」

 危うく、私はケチャップの容器を握りつぶしそうになった。

「……何を」

「なんでもいいよ」

 泪は、とかくバドミントンにおいては、自分にも周りにも厳しい。

 それは知っていたけれど、オムライスにさえ要求レベルが高いとは知らなかった。

「はぁ……」

 仕方なく、私はキャップを開け、適当に太陽の絵文字のような絵を描いてみる。

「……」

 泪は無言で、それを見ていたが、私がキャップを閉じて容器をテーブルに置いたのを見ると、首を傾げながら、スプーンをオムライスに刺した。

「なによ」

「もっとさぁ……期待に応えてくれよ」

「ハートマークでも書けってか?」

 そんな子供か大きな子供しか喜ばないようなことを……。

「いや、『るい』とかさ、ひらがなで……」

「それ嬉しいの?」

 また首を傾げて、泪は速いペースでオムライスを口に運んでいく。

 いったん皿を置いて、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み干しているのを見る限り、ずいぶん体調は良くなったようだ。

「ふぅ……旭のぶんは?」

「あげないよ」

「違うよ。書かせろよ」

……まったく、もう。

 恋人同士じゃないんだから、と私は泪が出来の悪いオムライスに現実を取り戻してくれることを期待しながら、自分の皿のラップをはがし、泪にケチャップの容器を手渡した。

「なんて書くの」

「『海莉』」

「……画数多くない?」

 気持ちだけで受け取っておこう。

 あまり塩分を取りすぎると早死にするし、美容にもよくない。

 これ以上女子力をすり減らすわけにはいかないのだから。

「ひらがなでいい?」

「いいよ」

 それから、泪は細心の注意を払ってケチャップをひねり出し、『か』『い』『り』と書き上げる。

「……うん」

 満足したようで、泪は蓋を閉じないままに盆の上に容器を立てて、また自分の皿に齧り付く。

「……」

 自分のやったことの重大さには全く興味もないように口と手を動かしている泪のペースに追いつくように、私もスプーンを手に取る。

 一個目に作ったそれは、泪にあげた二個目よりも量が控えめだけど、もうそれで十分だった。

 随分とお腹がいっぱいになった気がするし、毎年恒例のショートケーキも、寮母さんが居ない今日は取りやめになって、明日に回される予定だから。

「──……うん、おいしかった」

「そう。よかったね」

 鶏肉の代わりにハムなんて、ずいぶん安っぽいオムライスだけど、こういう時に泪はめんどくさい嘘をつかないから、困る。

「ホントだよ?」

「わかったわかった」

 私も最後の一口を放り込み、塩辛いそれをお茶で飲み濾した。

 それから、泪が放り投げたラップをまとめて空いた皿に投げ込む。

「旭、風呂は?」

「まだだよ。泪は入ったんでしょ?」

 昼間の電話で、シャワーを浴びたと言っていたはず。

「んー……でも、湯船に浸かりたい」

「じゃあ、行こうか。洗い物してくるから、先に行ってて」

「ほい」

 そう言うと泪は、洗濯から上がったそのまま、畳みもせずに放置している着替え──私が別部屋に居る数日間に、寮母さんがやっといてくれたものだろう──を漁り始める。

 私は盆を手に部屋を出て、たった数日なのにずいぶん懐かしく思える、泪が私の背中を流す手つきを思い浮かべた。

 

 

 

 

 クリスマスの朝、何人かの寮生が帰省のために大荷物を抱えて出て行った。

 越境で来ている部員も多いから、そんな彼女たちがしばらくの休息を得ようとしているこの時期は、練習メニューも控えめ。

 矢板先生の教え方は、私たちに対しては自主性を重んじる──といえば聞こえはいいのかもしれないけれど、どちらかといえば彼が教えてくれることよりも、泪が教えてくれることの方が私にはちょうど良い。

 泪はもちろん、中学時代からクラブチームで鳴らしていた私や楢嵜たちにとっては、矢板先生の指導は実直でいいけれど、少し『足踏み』感は否めないから。

 昼過ぎに練習が上がりになった後、私は寮に戻り食事をしてから、泪の寝室に向かう。

 今日は寮母さんがいるから、私の手は空いているけれど、まあいつものことだ。

 ノックもせずにドアを開けると、電気はついていて、カーテンも開いていた。

「──泪、調子どう?」

「まあまあ、いいよ」

 声に反応して起き上がる所作は、昨日までの怠さもなく、こちらを振り向いた目元もはっきりとしていて、なるほど快方に向かっているのだとわかる。

 珍しく最後に風呂に入った昨日は、身体を洗うのもそこそこに湯船にじっくり浸かっていたから、そうした悪いものもすっかり流れ落ちてしまったのだろう。

「昼は?」

「食った。おじや……」

 と、どこかでドタバタと階段を転がり落ちるような音がして、それを追うように足音が通り過ぎていく。

「……なんだ、うるせーな……」

 たぶん、誰かが帰省の荷物を詰め込んだキャリーバッグを、落としてしまったのだろう。

 私はなんなら通いでもいいぐらい家が近いから、別に帰るつもりもない。

 泪の方は、帰りたい家じゃないから、また今年の年末もずっと、寮でのんびりするつもりなのだろう。

 あとで、寮の食堂に積まれているミカンでも持ってこよう。

「──今日から、この部屋戻ってくるからね」

「……ほい」

 特にうれしそうでもなく、泪は頷いた。

 テーブルに置いてある空いた丼を手に、私は部屋を出る。

 階段を下りていくと、さっきの音の原因はまだ少し散らばっていた。

 あまり関わりのない一年生のグループをすり抜けて、食堂に向かう。

 寮母さんに空いた食器と、昨日厨房を使ったことを伝えて、スーパーの袋を一つもらい、ミカンを詰め込めるだけ詰め込む。

 需要と供給がまるでマッチしていないから、別に箱ごと持って行ったって怒られやしないだろうけど、そこまで腹が減っているわけでもない。

「……」

 実が大きい方が甘くておいしいというのが一般論らしいけど、私は案外、小さくてほんの少し酸っぱいミカンの方が好みだ。

 途中から数えるのが面倒になって、多分十五個ぐらいはそんな小さい果実を溜め込んだだろうか。

 重くなった袋を手に、私は仮の寝室に上がった。

「──」

 ミカンの袋を、部屋の入口の下駄箱の上に置き、私は上履きにしているクロックスを脱いで、小さな段差をまたぐ。

 張りの悪いスプリングに体を沈めると、歯ぎしりのような音がして、それでもヤレたベッドは私を受け止めてくれた。

「……ふう……」

 そういえば、風呂に入っていない。

 布団にもぐりこんだおかげで、私の鼻に紛れ込んだ汗ばんだ匂い。

 まあ、でも、いいや。

 少し昼寝をして、寝汗と一緒に流すのがちょうどいいだろう。

 どうせまた、この布団は押し入れに突っ込まれて、防虫剤の匂いに染まってしまうのだから。

 

 

 

 何時間ぐらい眠っていただろう、と私は手探りで枕元に置いたはずの携帯電話を探す。

 いつもは必ず、充電コードがつながってそこにあるはずのそれが、ない。

「……あれ?」

 私は身を起こし、枕の裏に潜ってはいないかと手を突っ込む。

 そこにも手ごたえはなく、それでやっと、私は昨日来ていたM65のポケットに入れっぱなしだったと気付く。

「──あ」

 手を突っ込むと、先に触れたのは紙袋の方だった。

 昨日、なんだかよくわからない流れで買ってしまった、泪へのプレゼント。

 袋の封を開けて中身を確かめる。

 小さな盾の形をした、ラピスラズリ。

 穴を開けてお手軽にペンダントに仕立てたそれは、なるほど、男女の一大イベントである日にあれだけ閑散としている店が生き残っていられるわけだ、と納得してしまうぐらい、原価率の低さを感じさせた。

……まあ、あの老人が話を聞く代金も入っているのだろう、と私は薄くなった財布を慰める。

 ついでに自分自身も慰めてやってもいいかと思ったけれど、そこまで人肌が恋しくはないし、布団を汚すのも面倒だ。

「……風呂行こ」

 歯磨きからカミソリまでが一緒くたに入ったビニールポーチを小脇に、干してあった下着とスポンジを洗濯ばさみから引き剥がす。

 乾いたバスタオルをハンガーから引きずり降ろし、それから、洗濯物の入った大きなかごを漁り、──とりあえず適当に、あまりかわいくない犬の絵が描かれた黒いパーカーと、行きつけのスポーツショップのポイントで交換したよくわからないメーカーのロゴが入ったTシャツ、最後にグレーだか白だかわからない着古したジャージを探り当てた。

「……」

 いつもの寝室とは違う板張りの床に、落ちたハンガーが跳ねる。

 その行方を確かめてから、私は部屋を出た。

 

 

 

 

 誰もいない、澄んだ脱衣場で私は裸になり、それでもどこか急ぎ足で浴場に入る。

 単純に寒かったからだ。

 風呂椅子を所定の位置まで蹴り飛ばし、洗面器を掴んで湯船からお湯を掬い、控えめに脚から掛けていく。

 基本的に女子高生しか入らないはずなのにやたらと熱い設定の湯船が、私は案外気に入っている。

「──」

 ひっくり返った風呂椅子を手で起こし、周りに熱の結界を張るようにお湯をかけた後、私はお尻を着けた。

 温度を慎重に調整してからシャワーを捻る。

 最初に出る冷たい水を足元でやり過ごしてから、私はその奔流を頭から受け止めて、ひとしきり洗い流す。

 唇に絡むカルキの味に飽きてきたころ、シャワーヘッドを握って目の前の鏡にお湯を飛ばすと、肌色の関東平野が目に入る。

「……」

 同室の泪がアレだから、まだそれほどの焦燥感を感じてはいないけれど、たぶんいい年になっても、登山家はがっかりするんだろうな。

 締め付けの強いスポーツブラが悪いのか、それとも刺激が足りないのか。

 多分両方なんだろうけど、バドミントンをやるのなら胸は大きくないほうがいい。

 小さいころに見た全日本総合では、やたらと胸の大きい選手が優勝していたけど、まあ……まあ。

 上手い下手とは関係ない、と信じてる。

 シャンプーを手に取り、適当に泡立ててから大雑把に髪に擦り付ける。

 いろいろと『正しいやり方』はあるらしいけど、だいたい翌朝の結果は同じだから、もう探求心もなくなってしまった。

 お風呂における工程で気を付けるべきことは、せいぜい『剃りすぎないこと』ぐらい。

 もともと薄いのに調整をミスってしまうと、取り返しのつかないことになってしまうから。

 一度興味本位で全剃りしてみたこともあるけれど、二度とやるまいと心に誓ってある。

「……ふん」

 昔の話だ。

 何も知らなかった頃の。

 つまらないことを考えているうちに大人しくなった髪を指で漉きながら、コンディショナーを申し訳程度に塗りたくる。

 毛先に馴染ませて、少しでも朝の時間を減らせるようにと願うけれど、たぶん寝相の問題もあるのだろう。

 症状はいっこうに改善しない。

 まれに温度が低くなったり、高くなったりするシャワーに警戒しながら、私はゆっくりと髪を撫でる。

 それから──今日は、背中を流してくれる人がいない。

 腕を捻り上げて腋の具合を確かめる。

 捩れた筋肉は、泪よりも膨らみが少ない。

 器具を使った筋力トレーニングも、たまに練習メニューに入ってくることもあるけれど、矢板先生はことさら私たちをサイボーグ化するつもりはないらしい。

 それに、不用意に筋肉をつけても、身体が重くなる。

 そっちの方が、通学路を歩いて通っているわけでもない私には重要だ。

 矢板先生もバドミントンプレイヤーとしては、どちらかといえばスピードタイプだ。

 どこぞの強豪校のおじいちゃん監督とは違い、年齢にしては引き締まった身体が、それを物語る。

 ロードワークを頑張るのも別に、せめて体力だけでも泪に追いつこうという真摯な態度が百パーセントじゃない。

 身体を洗い終えて、そこら中に広がった泡の海を押し流してから、私は湯船に浸かる。

 プールにあるような大型の時計を見て、私はそれっぽい角度に垂れ下がった長針が九〇度旋回するまで、このままにしていようと思った。

 まあ……見たことはないんだけど。

 せっかく独り占めしているんだ。

 いつも順番を守らず自分の好きなタイミングで風呂に入る奴が、私も一緒にと誘ってくるときは、二人きりで入れる。

 本当は上級生から先に入る、というのが決まり事だったらしいけど、幾度かのお小言のうちに上級生も諦めたらしく、また泪も二年生になったからと言って、下級生が先に入ることを咎めるようなこともしなかったから、そのルールはいつしかなくなってしまった。

 私も別に、風呂ぐらい好きに入らせろというスタンスだから、その他の泪の行動は見咎めるところも多いけれど、これに関しては全く気にしていない。

 ただ、『上』の大会にシングルスで出場した時など、泪だけが別行動をとることも多いから、そういう時は年相応の喧騒に紛れて、にぎやかな浴場もまた楽しいもの。

 

 

 

 

 肩から肘、手首のストレッチをしているうちに、長針はほとんど天井に向かって屹立していた。

 十五分の沐浴を終えて、私は湯船を掻き回しながら立ち上がる。

 余熱を漏らさないように手早く体を拭き、スポーツ素材のTシャツを被った。

 これで、抑揚のない身体を晒さなくて済む。

 下は別に、それなりには自信がある──百六十デニールでなければ、の話だけど。

 それらをすっかり覆い隠す厚手のスウェット素材を着込んで、私は洗面器の脇に積まれているドライヤーを一つ手に取り、巻かれたコードを解してコンセントを挿す。

 熱風を直撃させないように注意しながら、私は髪が解れ、浮き上がるまでずっと轟音を我慢し続けた。

 いつからあるかもわからない古い型のドライヤーで、もっと気を使っている一部の寮生は自前のものを持っている。

 それは、壊れて数が減ってきたせいで、ラッシュの時間帯は待ちが発生するぐらい少ないかららしいけど、私はもうこれでいい。

 そよぎ始めた髪を撫でて、ドライヤーを片付ける。

 スポンジの水気を握り散らし、脱いだ服と一緒くたにバスタオルに包んで、私は脱衣場を出た。

 時計は桁を上げて、あと小一時間もすれば夕食だ。

 仮住まいを引き払って泪のところに戻れば、ちょうどその頃だろう。

 

 

 

「泪、入るよ」

 引き揚げてきた荷物を床に置き、ドアを開ける。

 泪はすっかり元気になったようで、いつものイヤホンを耳に挿したまま、こちらを振り向いた。

 表情は少し張りがないが、まあ可愛げがあってちょうどいい。

 イヤホンを剥がす泪を横目に、私はお気に入りの毛布と枕を布団に放り投げ、それからもう一度ドアの前に戻って、着替えや何かを詰め込んだかごを部屋の中に引きずり込んだ。

 空きスペースの多くなった自分の側の壁に、M65を掛ける──と、手に当たった感触に、それを思い出す。

「……そうだ、泪」

「なに」

 イヤホンのコードを丸めてテーブルに放り投げ、iPodの方は丁寧に置いて、泪は私に向き直る。

「これ、あげる」

「……なんだ?」

 手にした紙袋を泪に押し付けて、私は久方ぶりのベッドに倒れ込んだ。

 枕を抱いて顔を隠しながら、泪の様子を伺っていると、泪は断りもせず袋を開けて、ペンダントを取り出す。

「……これ、……」

「ラピスラズリ──あんたに似合うかと思って」

 少し声を潰して、私は嘯いた。

「ああ、そんな名前だった、かな……」

 角の丸い革紐を撚りつつ、泪はそれを首にかけた。

 綺麗な装丁でもないし、そう高くないものだとはわかってくれるだろうけど。

「クリスマスプレゼント……一応ね」

 きょとん、とした顔で、泪は蒼い小さな盾を握りしめる。

「──ん……」

 それから小さく呟いて目を伏せ、ひとしきり結び目を弄んでから、──いつもの泪の調子が戻ってきたようだ。

「……フツー、こういうのってシレっと置いとかね?」

「やだよ、風邪移されたくないもん」

 気恥ずかしくて見ていられなくなり、苦笑交じりに枕を壁にして、私は泪と反対側に身体を向けた。

 それから、下敷きになっている毛布を寄せて、肩を覆う。

「……ありがとな。うれしい」

「うん──」

 色違いの犬のパーカーの胸元に、泪はそのペンダントを大事そうにしまった。

 きっと、プレゼントなんて貰ったこともないんだろう。

 バレンタインは別として。

「腹減ったな……」

 その時間帯が終わったとみて、私は枕の壁を崩して起き上がる。

「もう行く? ちょっと早いけど」

「いいよ、行こう」

 ちょっと丈の短いスウェットの裾をずり下げて、泪は立ち上がり、私を促して部屋を出た。

 パーカーのフードを持ち上げて、ペンダントの紐を首に落とし込みながら、泪はもう一度呟く。

「ありがとう、旭」

「……うん」

 足音で余韻を掻き消して、私は表情を締める。

 けれど、食堂には私たちのほかに誰もいなかったから、その行為はあまり意味をなさなかった。

 寮母さんが控えめに盛ったおかずに合わせて、ご飯も控えめにしておく。

 それは、今日は珍しくデザートがあるからだ。

 人並みには甘いものが好きな私も泪も、それを楽しみに、普段より少なめの食事を手早く平らげる。

「寮母さん、貰うね」

 珍しく、泪が歩いて行き、業務用の大きな冷蔵庫から、ショートケーキを二切れ取り出す。

 色の変わったグラスを手に、私たちは乾杯をした。

「お疲れさま、泪」

「うん」

 一応、一年の締めくくりなのだから、もっといろいろと話したいこともあったけれど、泪があまりに目を輝かせているから、私はそれから先の言葉を飲み込んだ。

 少しずつ、おとなしくはなっている『益子泪』というモンスターも、こうしてみれば年相応、あるいは身体つきからすれば少し幼いとも思えるほど可愛らしい。

 喉を鳴らしてジュースを飲み干し、私が空いたグラスにお代わりを注いでいる間に、泪はフォークを取り、一番てっぺんのイチゴに突き刺す。

 口付けをするように表面に付いたクリームを舐めとって、イチゴをフォークから引き抜いた。

「──」

「……なに?」

 首を傾げた私を、聡く目に止めて、泪は口元についたクリームを舌で舐りながら問う。

「いや、最後に残さないんだと思って……」

「ガキかよ」

 呆れたように、屈託なく笑う泪。

 ああ、そうだよな。

「……そうかも」

 ふふんと得意げに笑い、ケーキを攻略していく泪を見て、私も目の前のごちそうに意識を向けようとする。

 けれど、そのあと少しだけ目尻を下げたのを、私は見逃さなかった。

 たぶん泪は、クリスマスを祝うことも少なかったのだろう。

 去年はこうして過ごしたわけじゃなかったし、独りで、今年と同じように最初にイチゴを食べたんだろうか。

 今あるものだけを、必死で搔き集めるように。

「ねえ、泪──」

「ん?」

 来年は、イチゴを最後に残してみれば?

 そう言いたくなったけれど、今はまだ、私にそれを言う資格はないと思う。

「いや……おいしいね」

「うん」

 味覚に吸い付くクリームを噛み、私は少し苦くなった心を中和する。

 泪に追いつくことはできないかもしれないけれど、その孤独の壁を薄くしてあげられたら……。

 いつか、来年はまだ早いとしても、夜空の盾を仕舞い込んで、イチゴを大事にとっておけるぐらい、泪が幸福になれればいいな。

 



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