暗夜を往くもの ~特務隊誕生秘話~ (海羽)
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第一章 セキレイの里
(一)


 鬱蒼とした山の中に延々と刻まれたつづら折り。

 九葉にとってこの道は、巨大な蛇の食道のようだった。

 大きな口を開けてひっそりと獲物を待ち続け、一度飲み込んだら決して外に出さず、緩やかに消化する。哀れな獲物は、気が付く頃には、その巨体の一部と化しているのだ。

 歴史の影法師の中に生きる者たちの里は『神垣ノ巫女』の結界のみならず、このような天然の要害にも守られていることが多い。それにしても、この山道はいささか以上に不気味だった。

 陽の光は一応届くものの空は狭く、どれだけ上っても目に映るのは、好き放題に伸び、ねじくれた木、木、木。いつまでも同じ道を歩いているような錯覚に陥る。

 それに、ざわざわ、ざわざわ、と風でこすれ合う葉の音がしつこく耳に残り、聴覚はおろか、他の感覚すらも狂わされそうだった。

 しかし、それはあくまでも、九葉一人の感想だ。彼の連れは、心臓破りの急坂を、まるで飛び跳ねるように駆けあがってゆく。

「九葉ーー! くーよーうーーー!」

 少女というよりも童女に近い、甲高い声が遥か先方から九葉を呼んだ。

 華奢で小柄な女だ。

 声の質を裏切らず、小さな顔からは学生じみた幼さが抜けきらないが、彼女は九葉と同じ二十四歳だ。一般的な評価を当てはめるなら、可愛らしい、といったところか。

 大きく身振り手振りをするたびに、癖のある長い黒髪もふさふさと動く。細い腕をブンブンと振る姿は、飼い主に散歩を急かす子犬のようだった。

 溌溂とした笑顔は、今日がとても素晴らしく、そして、明日はもっと素晴らしいと、信じて疑わない。

 九葉が追いつくと、女は、両手に手を当て、ぷっと子供っぽく頬を膨らませた。

「もう、だらしないわねえ! こんな坂道でへばっちゃうなんて。君、最近運動不足なんじゃない? ずっと書類仕事ばっかりしてるからよ」

「そうだな、お前の言う通りだ。すまん、早華(そうか)

 さして言い訳をする理由もなかったので、九葉は素直に女―――早華に謝った。

 すると、早華のふくれっ面は、瞬く間に満面の笑みになった。つん、と少し横を向いて、お姉さんを気取る。

「いいわ、許してあげる。だって、わたしのために無理してお休みをとってくれたんだから」

 二人は再び歩き出した。今度は、歩調をそろえて。

 早華は愛おしそうに目を細め、青い空を蝕む木々を見上げた。

「懐かしいなあ…。この道を歩いたのは、十二年前。里を出て、霊山の小学府に入学するときだったわ」

「それほどに久方ぶりの帰郷なのか」

 しみじみとした早華のつぶやきに、九葉は驚きの声を上げた。

 この不気味なつづら折りを上りきると、セキレイというモノノフの里がある。そこは、早華の生まれ故郷だった。

 セキレイの里は霊山より遥か西に位置し、片道だけで十日もの日数を要する。往復で二十日、滞在するなら月のほとんどを費やすことになる。いくら早華が書記官という比較的時間に融通の利く職に就いているとはいえ、それほどの長い暇を作り出すのは難しい。しかし、まさかそこまで間が空いていたとは。

「十二年も無沙汰をしていた娘がいきなり戻ってきて、しかも、見ず知らずの男を伴っていては、先方は困惑するのではないか?」

「大丈夫よ。だって、全然ご無沙汰じゃないもの」

 九葉の心配を、早華はけろりと一蹴した。

「手紙のやり取りはしょっちゅうしてたし、おじさんは定例会議でよく霊山に来るから、その時は必ず会いに来てくれたわ」

 早華の伯父・堂衛(どうえ)はセキレイの里のお頭だ。彼のことは、彼女の口から聞くよりも以前に九葉は知っていた。『西の堂衛』といえば、霊山にもその名が轟いた剣豪である。

 九葉も先日の御前会議の折りに遠目からその姿を見た。威風堂々とした佇まいと鋭い眼光は、確かに他のモノノフとは一線を画していた。

「お父さんとお母さんも、年に何回かは遊びに来てくれるし、去年は一緒に新年をお祝いしたわ。百合(ゆり)おばさんはおみやげに唐の珍しいお菓子をくれて、いとこの鳳翼(ほうよく)(すい)ちゃんとは……」

 早華は家族や親族の思い出を懸命に九葉に話して聞かせる。彼女の頬は紅潮し、僅かに吊り上がった大きな黒い瞳はキラキラと輝いていた。

 血のつながった家族は、早華にとってかけがえのない存在なのだ。

「―――その都度、君のことはみんなに話してたから、困惑したりしないと思うわ」

 長い長い話を、彼女はこの一言で締めくくった。

 九葉は再び目を剥いた。

「私はそのようなこと、聞いたことはないが?」

「話そうとしても、君が『忙しい』とか『後にしろ』とか言うからでしょ!」

 早華がキンキン声で反発するので、九葉は難しい顔で首を傾げた。

「む……、そうだったか」

 まったく、と、早華は肩を竦める。

「…ところで、家族にはどう伝えてあるのだ、その……私のことは」

 九葉は神妙な面持ちで早華に尋ねた。

 彼女の話を聞いて、この先に待ち受ける「御役目」の難易度を、できる限り正確に把握しておきたくなったのだ。

「もちろん君のことは『いい人』って伝えてるわ」

 早華はこともなげに言った。

「上司を毒殺して後釜についた、とか、対立してた先輩が突然クビになったのは君の仕業だ、とか、君のことを色々と言う人はいるけど、わたしはどれも真実だとは思ってないわ。だって、君はとっても優しくて、いろいろなことを教えてくれるもの」

 釈然としない九葉に、早華は大切な宝物を取り出すように、ひとつひとつ告げる。

「空はどうして青いの? 風はどこから生まれるの? 鳥はどこへ飛んでゆくの? 全部君が教えてくれたわ。君といると、これまで不思議だったことが不思議じゃなくなって、世界がどんどん広がって、とっても面白いわ」

 早華はぱちりと片眼を瞑ってみせた。

「大丈夫。君の『ありのままの姿』を、みんなはちゃんと知ってるわ。きっと仲良くなれる」

「『ありのまま』、か……」

 九葉は呟いた。ひどく遠くを見つめながら。

「もちろん、寝言が凄いこともね」

 早華が意地悪い顔でニヒヒヒと笑う。九葉は露骨に顔をしかめた。

「ねえ、九葉」

 改まって、早華が呼びかけた。

「なんだ」

 九葉は仏頂面で応える。先ほどの意趣返しに皮肉の一つでも続けようとしたが、とどまった。

 いつも煩いくらいに明るい彼女の横顔が、寂しげに沈んでいたからだ。

 ぽつり、と、小さな唇が語り出す。

「里を出るとき、お父さんとお母さん、それにおじさんがずっと霊山までついてきてくれたわ。その時わたし、とってもつらくて、寂しくて、悲しかった。みんなと離れ離れになっちゃうから」

 当時の気持ちを思い出したのか、早華は大きな黒い瞳を閉じ、きゅ、と唇を噛みしめた。

 何かを堪えるようにしばらく黙り込んだ後、九葉に笑いかけた。

「でも、今はとっても幸せよ。嬉しいの、君とふたりでこの道を歩くのが」

 そう告げたときの彼女の笑顔は、明るい太陽のようでありながら、どこか大人びていた。

 この身に降りかかった悲しみを受け入れ、慈しみ、これより訪れる幸せへの期待と希望に満ちた、幸せな「女」の顔だった。

「すごく楽しみだわ、家族のみんなに、君との……、……」

 そこまで行って、早華の声が萎れた。明るく笑う顔がみるみる下を向き、赤らんでゆく。

 九葉は首を傾げた。

「どうした、私との、なんだ?」

「だから、その…あ、アレよ……ほら……わかるでしょ」

 早華は舌を向いたまま、歯切れの悪い口調で言う。

 はて、と九葉はしばし考え、ああ、と声を上げた。

「婚約報告か」

「わー! わー! わー!」

 さらりとした九葉の一言を掻き消すように、早華は叫んだ。手足をバタバタと動かし、顔をさらに赤らめて。

「なんだ、違うのか」

「ち、違わない! 違わないけど! でも、はっきり言わないでよ、もう! 恥ずかしいじゃないの!」 

 叩きつけるように言い、赤い顔でキッと九葉を睨みつける。

 九葉は無言だった。ただ、勝ち誇ったような笑みで以って婚約者に応えた。

 その時、早華の中で、何かが臨界点を越えた。

「もうっ……、九葉のおバカーーーーーー!」

 甲高い声が、深い深い森を突き抜け、蒼天へ駆け抜けた。

 

 



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(二)

 深い山を歩いていたら、目の前に突如、絢爛たる異境が姿を現した。

 それが、セキレイの里を一目見た九葉の感想だった。

 里を守る白亜の壁の内側には瓦葺に純白の漆喰の壁を持つ木造建築が整然と並んでいる。しかも、どれもこれもが二階建て、もしくは三階建てで、外様の外国人居留地でしかお目にかかったことのないガス灯が至る所にそびえ立っている。

 堀を渡り、この里では唯一の出入り口となる巨大な正門の前で九葉と早華は三人の人物に迎えられた。

 五十代と思しき年配の夫婦と、少し離れたところに、従者めいた背の高い初老のモノノフが控えめに立っている。

 夫婦は人のよさそうな顔で穏やかに微笑んでいたが、早華の姿を見るなり表情を崩し、駆け出した。

「早華……!」

「お父さん、お母さん……!」

 三人は堀にかかる跳ね橋の真ん中でひしと抱き合った。

 夫婦は早華の両親だった。

「おかえり、早華。お仕事ご苦労様…!」

 母が、皺の目立つ目尻から涙をこぼしながら言った。彼女の印象は一言でいうと「三十年後の早華」。真新しい萌黄色の小袖に包まれた体は小さく、頬の肉のたるみこそ隠せないが、大きな黒い瞳と小さな唇は早華にそっくりだった。髪も、肩口で切りそろえ、側頭部を中心に白いものが目立つが、つむじの位置やすとんとした太ましい質感が早華と同じだ。目じりに小じわが目立つ顔は化粧をしているが、乗り方がぎこちない。久方ぶりの娘の帰郷のためにめかし込んだのだろう。

「よかった、無事に帰ってきてくれて…! お前の道中がずっと心配だったんだぞ…!」

 噛みしめるように父が言った。褐色の着流しを身に着けた体は、長身だがひょろりとしている。短く刈った髪は半分以上が白い。彼は、里のお頭・どうえの弟にあたるが、威風堂々とした兄と比べると貧相な男だった。しかし、人当たりがよく、娘を腕に固く抱きしめ、人目も憚らず涙する顔には人間味が溢れている。

「ただいま、お父さん、お母さん。わたし、帰ってきたよ……!」

 早華は両親の腕の中で、声を上げて泣き出した。

 これまでずっと堪えていたものが一気に弾けたような泣き方だった。

 たった三ヶ月先に生まれたからという理由で、常に九葉に対して年上ぶり、寝ているとき以外は子犬のようにキャンキャンと喧しい彼女だが、愛する家族と離れ離れの暮らしによる不安と寂しさは、彼女自身が思っていた以上に大きかったのだろう。

「早華、道中で危ないことはなかった? 最近は霊山の近くにも鬼が出るなんて聞くから」

 再会の感動が落ち着いたところで、母は娘の髪を撫でながら訊く。

「大丈夫よ、お母さん。旅はずっと順調だったわ。鬼は出なかったし、天気も良かった。それに、わたしひとりじゃないから」

 早華は母に対して満面の笑みで頷き、九葉を振り返った。

「お初にお目にかかります。早華殿とお付き合いをさせていただいております、九葉と申します」

 普段の哄笑を封印し、できるだけ優しく笑みを浮かべ、穏やかに会釈をした。

 早華『殿』が引っ掛かったのか、更衛の肩越しに見える早華がブッと吹き出したが、敢えて無視した。

 夫婦が顔を輝かせ、駆け寄ってきた。

「早華からお話は伺っておりますわ。母の詩音(しおん)です」

「私は父の更鵠(こうこく)と申します。霊山から遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」

 両親は九葉の手を取り、それぞれ名乗った。こちらを見上げる二人の表情は明るく、目は熱く潤んでいる。今のところ、悪い印象は抱かれていないようだ。

「この度は親子水入らずで過ごすところ、参上の許可をいただき恐れ入ります」

「とんでもない! 私たちのほうこそ、お会いしたいと常々思っておりましたのよ!」

「よかったなあ、母さん。真面目でしっかりした方じゃないか」

「そうね、お父さん。この方なら安心だわ」

 二人は娘の未来の夫を口々に褒めそやした。

 九葉は戸惑うばかりだった。婚約者の両親の心象は芳しいに越したことはないが、恨みや憎しみ、妬みなど、負の感情との付き合いに慣れた彼は、これほどに歓迎されると、逆に居心地の悪さを感じてしまう。

 やがて、九葉への手放しの賛辞は若いふたりの霊山での日々に対する興味へと移り変わった。

「九葉殿は軍師見習いとして本部にお勤めだそうね。お仕事は遅くなりがちなの? 娘はこう見えて寂しがりだから、結婚したら早めに帰宅していただけると嬉しいんだけれど、いかがかしら?」

「娘はしっかり勤めておりますか? 明るくて心の優しい子ですが、そそっかしいところがありますから私はいつも心配で」

「更鵠様、奥様」

 九葉が辟易し始めたころ、控えめな、しかし冷えた水のように染み渡る男の声が夫婦に呼びかけた。

 これまで無言で控えていたモノノフが、初めて口を開いたのだ。

 彼の印象は、一言でいうならば地に伏してまどろむ獅子。

 筋の通った高い鼻と薄い唇に、水色の瞳。短い白銀の髪は後ろに無造作に流し、額のあたりがやや薄くなっている。

 年齢は五十代の半ば。体にぴったりと張り付くような軽鎧を纏う肉体は、夫婦と違って引き締まっており、佇まいは柔和でありながら隙がない。彼の肩に担いだ長身の銃の裏に、九葉はいくつもの過酷な戦場を見ることができた。

 早華の出迎えとして夫妻に同道させられるとは、お頭からかなりの信頼を得ている人物なのだろう。

 彼は高いところにある頭を恭しく垂れて進言した。

「恐れながら、早華お嬢様とお客様は長旅でお疲れのご様子。続きは『お城』のほうで伺われてはいかがでしょうか」

 ここで夫婦は我に返った。

「まあ、いけない。私ったら…」

「大変申し訳ない、九葉殿。一人娘の十二年ぶりの帰郷故、つい…」

 二人は自分たちのはしたなさを恥じ、九葉に謝罪を繰り返した。

「私のことはお気になさらず」

 九葉がたしなめると、二人はますます平身低頭した。 

「まったくもう、お父さんもお母さんも、はしゃぎすぎよ」

 早華が両手を腰に当て、やれやれ、とため息をつく。

 目が合うと、彼女は照れ臭そうに笑った。

 

 

 

 出迎えのモノノフは璃庵(りあん)と名乗った。

 この璃庵の案内で、九葉と早華はお頭の屋敷へと案内された。

 その道中は、珍妙奇天烈な夢のように異様であった。

 今日は平日で、特別な祭りはないというのに、人々は上質の着物を身に着け、洒落た装飾品で身を飾り、大勢が行き来している。

 里を貫く大通りの両脇に並ぶ店の軒先に並ぶのは、パン、白や桃色の薔薇、純白で華奢な西洋茶器、ソファと呼ばれる西洋の長椅子、白くヒラヒラとした絹を襟足や袖にふんだん詰めて花弁のように波立たせた、ドレスという衣服、紅玉や青玉の宝飾品に、象という大陸に住まう巨大な生物の牙…

 いずれも『鬼ノ府(モノノフ)』に属する里の者たちにとっては、いや、歴史の表で暮らす人々にとっても入手が難しい品ばかりだ。

「このような田舎の山里に、なぜ西洋の品が、と疑問にお思いですかな?」

 唐突に、璃庵が歩きながら話しかけてきた。

「いえ、そういうわけでは…美しい町並みに見入っておりました」

 九葉が畏まると、璃庵はおっとりと笑った。

ちゃり、ちゃり、と、彼の広い背中の上で、銃の固定具が鳴る音がやけに大きく聞こえた。

「わたしもびっくりしちゃったわ、璃庵」

 早華が九葉の横から声を上げた。彼女の態度は気安い。この璃庵という男、この里で長くモノノフとして勤めているのだろう。

「おじさんやお父さんから話には聞いてたけど、こんなにごろっと変わっちゃってるなんて思わなかった。昔は建物もお店もずっと小っちゃくて少なかったのに」

 この里のありさまは、彼女の故郷の記憶とも大きな隔たりがあるらしい。

「お頭主導のもと、十年ほど前に大規模な区画整理と再開発がなされたのです。より民の暮らしを豊かにせんという計らいでございます」

「ふぅん…。おじさんのすることって、凄すぎて、時々分からなくなるわ」

 ふっすー、と、早華は鼻から大きく息をついた。璃庵は歩を止めぬまま、穏やかに言う。

「早華お嬢様には馴染みなきものが増えておりましょう。明日にでも、九葉殿とともに散策されるのが宜しいかと」

「明日?」早華は目を瞬かせた。「今日じゃいけないの?」

「私が同行することはすでに決定事項なのか。と言うか、まだ歩くつもりか」

 九葉がすかさず口を挟む。長い山道を越えたばかりで、こちらは疲れ切っているというのに。

「君はもともと運動不足気味なんだから、ちょうどいいわ」

 早華はこう言うものの、客観的に見て、あの長く険しい山道は、常人をはるかに凌ぐ脚力を誇るモノノフであっても容易いものではない。

 彼女にとって帰郷とは、旅の疲れもなかったことになるほど嬉しいものらしい。

 その感覚が、九葉にはわからない。

 璃庵は軽やかな笑い声をあげた。

「いけない、というわけではありませんが、もうじき日が暮れます。それに、お頭がお二人のためにささやかながら宴の用意をしておりますので、まずはそちらにご参加いただければと」

 宴と聞いて、早華は、やったぁ、と歓声を上げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。それを見ながら詩音と更鵠は、

「いつまでも子どもなんだから…」

 と、嫁入りの決まった我が子に対し、どこか懐かしさを含んだ笑みを漏らした。

「さあ、着きましたぞ」

 璃庵が足を止めた。

 九葉は―――いや、九葉と早華は、言葉を失った。

 異様がひしめくこのセキレイの里であるが、その最たるものは、目的地たるお頭の屋敷であった。

 その高さと広さはさることながら、きつく反り返った石垣に囲まれ、物見櫓がいくつも並び、塀には狭間(鉄砲や弓で攻撃するための穴)まで開いており、名古屋や松本にある、外様の領主の居城の如き威容で里を見下ろしている。九葉は璃庵がお頭の住居を『お城』と呼んだのを思い出した。

 それでいて、屋根や窓、外壁から覗く庭木など、至る所に西洋の意匠が施されおり、まさに この里の象徴と呼ぶべき建造物であった。

 驚きのあまり立ち尽くす娘のそばで、

「おや、そういえば早華には伝えていなかったか」

「先々月に完成したばかりですからねぇ」

 早華の両親がほのぼのとした口調でそんな会話をした。

 問うように早華が振り返ると、更鵠はこう説明した。

「このお屋敷はお頭の住まいだが、『鬼ノ府』本部と『神垣ノ巫女』の御座所が統合されているんだよ。有事の際に、より速やかに命令伝達が行われるようにね。最近はどの里も大きな戦がないから、こういう補強は疎かにしがちだが、我々は歴史の影に生き、”鬼”の脅威を知るもの。常に戦いに備えておかねば」

 彼の口調は終始得意げだった。

 はー…と早華は感心したため息をついたが、九葉は内心穏やかではなかった。確かに理屈は正しいかもしれない。しかしこれでは、お頭の権限が過剰に強まる恐れが―――…

 そう思った時、巨獣の咆哮に似た大音とともに、大手門が開いた。

 夕刻に差し掛かりともされた大量のかがり火の中心に、威風堂々たる様子で立つ男があった。

 はっきりとした目鼻立ちは弟の更鵠と似ている。しかし、全身から放たれる太陽のごとき覇気は、弟には、いや、この里の誰にも持ち得ぬものであった。

 五十も半ばに差し掛かる年頃だが、肩口で切りそろえられた髪は黒々としてつやがある。黒を基調とした豪奢な外套の上からでも、その体躯は逞しく引き締まっていることが見て取れ、西にその人ありと謳われた大剣豪がいまだ健在であることを物語っている。右頬と左のこめかみに走る大きな傷跡が、歴戦の猛者だけに与えられる勲章めいて彼の熱い面構えに猛々しさを添え、その堂々たるたたずまいは大きな黒獅子を彷彿とさせた。

 間違いようもない。この人こそが、セキレイの里のお頭・堂衛(どうえ)

 その面貌は見知っていたが、正対すると、威圧感は倍増しになる。

 意志の強い太い眉の下の鋭い眼が姪の姿を見つけ、

「戻ったか、早華」

 声もまた、獅子の如くに逞しく太かった。

「ただいま、おじさん!」

 早華が弾んだ声で応えると、どうえは、うむ、と大きく頷いた。

 次に、一家のそばに控えめに立つ璃庵に目を向け、

「璃庵、ご苦労だった」

 労いの声をかけられると、璃庵はしめやかに一礼して、その場を去った。

 そして、覇気に溢れた双眸は、次は九葉に向けられた。

「貴殿が九葉殿か」

 九葉は恭しく頭を垂れた。

「お初にお目にかかります、お頭。この度は…」

「あー、よい、よい」

 ざっくばらんとした口調で口上を遮られた。と思ったら、どうえの巨体が、風音を立てて影のようにぶれ、その一瞬ののち、九葉のすぐ目の前に彼の姿があった。

 がしり、と太い腕で首根っこを捕えられる。

「堅苦しい話は抜きだ。まずは飲め! そして食え! すべてはその後だ!」

 堂衛は高らかに叫び、豪笑した。そして、呆気に取られる九葉の首を捕えたまま、どかどかと屋敷の中へと歩き出した。

「我が姪の慶事と若き二人の門出だ、盛大に祝ってやるぞ!」

 早華は「ちょっと九葉、待ちなさいよ!」と、なぜか九葉に抗議し、彼女の両親にして堂衛の弟夫婦は「兄さんは相変わらずだなぁ」「ええ、相変わらずにぎやかですこと」と、まるで他人事のように笑っていた。

 堂衛に引きずられ、家人たちの好奇の目を一身に集めながら、九葉があらかじめ集めておいたセキレイの里の情報を思い出していた。

 西の辺境に位置するその里は、発祥から八百年強と、歴史は比較的深い。西側における外様の情報収集拠点としての役割を長らく担い、外交員たちに仮の生活の場を提供することで発展してきたが、夷狄(いてき)の襲来により外様の情勢がここ数十年で大規模な変動を遂げ、その煽りを食らって先祖代々のお役目を別の里に取り上げられた。

 川は流れているが、食用の魚は乱獲の末ほぼ姿を消した。農業に適した土地はなく、里を取り囲む山の木々は木材とするには不向き。結果石を埋蔵する山を背にしているが、硬度の高い鉱石が複雑に混ざっているため採掘は不可能。また、この百年近く、里周辺に際立った異変もないため、周辺の堀の補強や砦の新設など、軍備増強の候補に挙がることもなかった。

 気候や各々の歴史により、里の文化に差異はあるが、この里は異常だ。外様に、しかも欧州にかぶれていた。

 早華の反応からわかるように、少なくとも十二年前はこうではなかった。この著しい変化が、険しい山に閉鎖された里の内側から自然に起こるとは思えず、これほどの規模の街並みを、手前の資産だけで拵えることができるとも思えないが…

 



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(三)

 璃庵の予告通り、屋敷では早華の帰還と九葉の歓迎、そして二人の婚約を祝う『ささやかな』宴が催された。ただし、ささやかと呼べたのは、宴に参加した人数のみであった。

 主役たる九葉と早華の二人に、早華の両親である更鵠(こうこく)詩音(しおん)、お頭の堂衛、その妻である百合(ゆり)、息子の鵬翼(ほうよく)と娘の(すい)。この八名だ。要するに、親族ばかりだ

 しかし、九葉たちが通された客間は、全国のお頭たちを収容しうる御所会議が開かれる、霊山本部の大広間に匹敵する広さを持ち、目の前に並べられた料理は、到底八人で平らげる量ではなかった。

 巷では幻と謳われる美酒の数々に、牛や豚の肉が山と盛られた西洋の料理。近海で獲れた新鮮な魚は職人が目の前で捌き、さらには、いかなる手法でこのような山里に持ち込まれたのか、氷菓子までもが山と振舞われた。

 食だけではない。天女もかくやという美しさの芸伎たちが艶やかに舞い、唐土の曲芸師が次から次へと現れては人間離れした技の数々を披露し、更にその西方より来た者たちは虎や獅子などの猛獣を使役し、芸をさせた。

 里の者たちへの慰労にしても十分に破格といえる催しだが、これらはすべて、九葉と早華の為だけに手配されたものだという。

 霊山はおろか、日の本を探しても、これほどの贅を尽くした宴は見られないのではなかろうか。

 九葉は驚きを通り越して恐ろしささえ感じたが、主賓の片割れたる早華は、出される料理に悉く箸を突っ込んでは舌鼓を打ち、目の前で繰り広げられる美技・奇術の数々に目を輝かせ、しきりに拍手と声援を送っていた。

「よ~ぉ、飲んでるぅ?」

 (しん)より渡ってきた楽士が優美な二胡を奏でていると、お頭の長男、鵬翼が、葡萄酒の瓶を脇に抱え、千鳥足で九葉に近づいてきた。

 年は確か、九葉より二つ下といったか。

 かなりの酒が入っているのか、顔は赤の染料に顔を突っ込んだように血が上り、目はうつろで、だらしなく見える。栗色の癖毛はばさばさに乱れ、玉虫色の着流しが大きくはだけていていても気にするそぶりはない。衣服から覗く胸板や手首は薄く、文官の九葉のほうが逞しいくらいで、あの歴戦の猛者たる堂衛の血を引いているとはとても思えない。

 とうい辛辣な評価を、九葉は能面じみた微笑の裏に押し隠し、

「堪能しております」と言った。

「ぎゃっはははははは! まっじめ~~~~!」

 鵬翼はなぜか九葉を指さして爆笑した。

 しかも、それだけでは飽き足らず、勧められてもいないのに九葉の隣にどかっと腰を下ろし、馴れ馴れしく肩を組んできた。完全に酔っぱらっている。

 強烈な酒の臭いが鼻の奥を刺し、九葉は思わず顔をしかめた。だが、鵬翼はわかっていないのか、それともわざとやっているのか、葡萄酒の瓶をぐいと煽り、大きく喉を鳴らして飲み干し、酒臭い息を九葉の顔めがけて、はぁ~~~~、と、長い時間をかけて吐きだした。

「親父から聞いたんだけど、あんたさぁ、霊山では結構できる方なんだって? なんか天極(てんぎょく)さんも一目置いてるとかぁ」

 天極(てんぎょく)。その名を聞いたとき、九葉は顔を強張らせた。

 霊山軍師・天極。霊山内の最大派閥の長にして『霊山の大天狗』の異名を持つ老獪な策略家。彼の意には霊山君も逆らうことは難しい、『鬼ノ府』における事実上の最高権力者である。

「とんでもない、天極様は私のような若輩にとっては雲上の―――」

「やっぱり将来はアレ? 霊山出世すんの? ぎゃはっ、霊山出世て、霊山出世てなんだよ!」

 鵬翼は九葉の話を遮って言い募り、そして勝手に笑いだした。『霊山での出世を狙っているのか?』と、彼は問いたかったらしい。

 九葉は「程々に」と答えようとしたが、それが音になることはなかった。なぜなら、鵬翼が長く大きなげっぷをしたからだ。それが下水じみた悪臭を放っていたため、息を止めざるを得なかったのだ。

 しかし鵬翼は九葉の沈黙を一顧だにせず、一方的に喋り続けた。

「だったらさぁ、あんた、俺と仲良くしておいた方がいいよぉ? だってぇ、俺ってぇ、次のお頭だからぁ」

「お頭?」

 九葉は首を傾げた。

 捉え方によっては、鵬翼の発言は不穏極まりないものであったからだ。

 現在のお頭たる堂衛に健康上の問題があるという話は聞いたことがない。にも拘らず、自分こそが次のお頭などと断言するとは、まるで彼が、実父の更迭と、お頭選儀の不正操作を同時に企てているようではないか。

 それを理解しているのかいないのか、鵬翼は「そう、お頭~~」と、呂律の回らない口調で言い、

「俺のじいちゃんがお頭でぇ、その次に親父がお頭になったからぁ、流れ的に次は俺っしょ~~」

 ゲラゲラと笑った。

 九葉は困惑した。

 里のお頭は、まず、希望者が推薦人を集めて立候補し、数週間の選挙期間を経て、里の者たちの投票で決定される。歴史の影法師に生きる人々にとってはごく当たり前のことだ。

 いくら酒の席とはいえ、お頭の世襲制を明言する鵬翼の気持ちが、九葉には全く理解できなかった。

 もちろん、彼とてセキレイの里の住人だ。堂衛が何らかの理由で職務の遂行が不可能になれば、速やかにお頭選儀が執り行われ、その際には彼にも立候補する権利が生じる。最大票を獲得できればもちろんお頭になれるわけだが…もしそうなってしまったら、里の者たちへの同情を禁じ得ない。

「お頭になりたいなら、まずはその酒癖を直し、毎日の鍛錬に出席しろ」

「いででででででで!」

 ずん、と二人に影が差し、同時に鵬翼が悲鳴を上げた。いつの間にか堂衛が背後に立っており、息子の耳を容赦なく引っ張ったのだ。

 鵬翼は悪態をつきながらふらふらと逃げ出し、たまたま近くにいた見目良い女中に絡み出した。

 やれやれ、と堂衛はため息をつき、息子が座っていた場所にどかりと腰を下ろした。すなわち、九葉の隣に。

「すまんな、悪い奴ではないのだが、あの酒癖はなかなか治らん」

「明るい酒を知らぬ私を気にかけてくださったようです」

「気を遣うな、もうじき家族になるのだから」

 堂衛は太い笑みを浮かべた。息子と違い、彼は酒に飲まれていない。

 彼は大きな手に徳利を持ち、九葉に酒を勧めた。

 いただきます、と九葉は頭を下げて空になった硝子の杯を差し出した。

 堂衛はそれになみなみと酒を注ぎ、次に自らが持ち込んだ大枡にもいっぱいに注いだ。そして、豪快に煽った。

 九葉は杯の縁に唇をつけ、飲む素振りだけをした。

 この酒は間違いなく逸品だが、こうも節操なく振舞われては、せっかくの風味は潰れ、ただの劇物となり下がる。

 はーーーっ、と、堂衛は酒精の籠った息をつき、

「どうだ、この里は」

 おもむろに九葉に訊いた。

「素晴らしい里です。街並みは美しく整えられ、人々には活気が溢れている。これはお頭の計らいだと璃庵殿から伺いました」

 九葉は居住まいを正し、本日通りかかった街並みを眼裏に描きながら答えた。

 ほう、と堂衛が軽く目を見開く。

「特に西洋文化を積極的に取り入れ、これほどまでに里の暮らしに溶け込ませるとは。私もについては日々研究を重ねておりますが、お頭の手腕はお見事と言うほかありません」

 九葉が見解を述べ終えると、堂衛は太い苦笑を漏らした。

「胸を張りたいところだが、これは軍師・天極の方針だ」

「なんと」

 驚きの声を上げると、堂衛の黒い瞳が、鯉口から覗いた白刃めいた光を放った。

「今、夷狄の軍隊が外様の界隈を騒がせていることは知っているな」

 九葉は頷いた。

 知っている。ここ数年、大海を越えた先にある諸外国の船が押し寄せ、日の本を我が物にせんと画策しているらしい。その対応で『表』の事実上の統治機構たる江戸幕府は大わらわだ。

「真に恐れるべきはその軍事力よ。幕府の大老は一指揮官の前に容易く膝を屈した。奴らの強さは、もしかすると我々の持つ力をも凌ぐかもしれぬ」

 夷狄どもの航海技術、未知の戦術と兵士たちの練度、大砲を始めとする銃火器の威力、射程距離。長らく鎖国体制を取っていた日の本が進化の波から取り残されたこともあいまって、歴史の表の人々にとっては理解をはるかに越えるものだった。まるで“鬼”のように。

「近いうちに、日の本が大きく様変わりする凶事が起きよう。その余波は我らの体制にも及ぶ可能性が極めて高い。いや、それだけならまだよい、我々『鬼ノ府』も外国に食い荒らされるやもしれぬ。それだけは断固回避せねばならん」

 これに関しては九葉も同意見だった。列強諸国は卓越した技術力に支えられた圧倒的な軍事力で以て世界の国々を征服しているという。その文化を破壊し、財を毟り取り、民を虐殺し、あるいは奴隷として使役している。奴らが『鬼ノ府』に目を付けたならば、モノノフも、ミタマも、神垣ノ巫女も、これまで歴史の影で培ってきた奇跡の数々は根こそぎ奪われ、そして失われるであろう。

 そうなったとき、人は、”鬼”と戦う手立てを失う。

”鬼”の侵攻を長らく止め、”鬼”と戦う術を知るのはモノノフだけだ。

”鬼”を知らぬ夷狄どもが、”鬼”と戦う術を知るはずがない。

 すなわち、『鬼ノ府』の滅びは、人の世の終わりを意味する。

「故に、天極殿はこの里を夷狄どもの防波堤とすべく、我らに再開発を命じられたのだ」

 曲がりなりにも、この里には外様との極秘裏の対話系統を担ってきたという歴史がある。西洋の列強と渡り合うには、まず西洋を知らなければ何も始まらない。堂衛はそう語った。

「天極様の慧眼には、恐れ入るばかりです」と、九葉は相槌を打った。

「まったく同感だ」

 堂衛は深く頷き、静かだが、強い口調でこう言い放った。

「父祖より受け継いだ歴史を、英雄たちのミタマを、我が家族たちを、夷狄どもに蹂躙させはせんぞ。この堂衛の命にかけて」

 彼の黒い瞳が鋭く光る。ここにはない遥か遠くの敵を見据えて。

 家族を守る、その言葉には強い決意が宿っていた。

 やがて堂衛は我に返り、九葉から目線を反らして照れたように笑った。熱く語ったことが、今更ながらに恥ずかしくなったようだ。彼はそれを誤魔化すように、改めて九葉に話しかけた。

「なあ、九葉殿、家族はいいものだぞ。剣しか能のなかった荒くれ者の俺に、希望と責任感を与えてくれた」

 堂衛は少し離れたところで宴を楽しむ家族に目線を向ける。その眼差しは、先ほどとは打って変わって、穏やかで優しいものだった。

「家族は、無条件で己の命よりも大切だと思える、数少ないものだ。いかな大義名分を掲げようとも、結局人は己が血に拠り所を求める。血の為に奮い立ち、血の為に優しくもなれる。故に俺は願うのだ。俺の子、孫、そのが豊楽長久たれと」

 早華が女中への狼藉が過ぎた鵬翼を叱っている。目下の者には横柄な男だが、早華には頭が上がらないらしい。

 堂衛は一度くすりと笑い、身体ごと、九葉に向き直った。

 そして、深々と頭を下げた。

「お頭」

 九葉が慌ててたしなめるが、堂衛は我が子ほどに年の離れた青年につむじを見せたまま、頑として動かなかった。

「九葉殿、くれぐれも早華を頼む。あいつは俺の姪で、幼いころからよく知っている。俺の息子と娘にとっては姉のような存在だ。どうか、あいつを幸せにしてやってくれ」

 九葉が知る剣豪・堂衛の評判は、力ばかりを恃みに、眼前の全てを蹴散らす猛者であった。しかし、真実は違うようだ。家族を想う心こそが、彼を中つ国きっての豪傑たらしめていたのだろう。

「肝に銘じます」

 九葉は、静かだが、よく通る声で告げた。

 ようやくお頭が顔を上げた。二人の目線に、爽やかなものが行き来した。その時、

「殿方同士の難しいお話は終わりまして?」

 ねっとりと絡みつくような女の声が割って入った。

 堂衛の妻・百合(ゆり)と、娘の(すい)だ。

 百合は女の割にはすらりとした長身で、濃い化粧の載った貌は、五十近くという年齢にも拘らず美しい。若い頃は数多の男を虜にしたことは、想像に難くない。花鳥風月が飛び乱れる極彩色の打掛を纏い、量の多い栗色の髪はたくさんの宝石や羽飾りで彩られている。

 早華の母・詩音とは対照的であった。

 娘の彗は母親の雛型のようないでたちで、違う点と言えば顔が百合よりも若く瑞々しいことくらいか。

「これは、奥方様、お嬢様」

 一歩退いて頭を下げる九葉を二人の女は、値踏みするような目で九葉を見下ろしていた。

「ようやくお話しできますわね、九葉さん。早華ちゃんからあなたのことを聞いて、ずっとお会いしたいと思っておりましたのよ」

 百合が満面の笑みを浮かべて言った。先ほど詩音にも似たようなことを言われたが、こちらには、蛇の女怪めいた気味の悪さを感じた。彼女もかなりの酒が進んでいるせいだろうか。

「この度はお忙しい中、私のような余所者のご来訪を許可していただいただけでなく、このように過分なおもてなしまでいただき、恐悦至極に存じます」

 九葉が深く頭を垂れて謝意を述べると、百合は艶然と微笑んだ。男に傅かれることに慣れている。

「ふぅん、近くで見るとイイ男なのね。私の香蘭(こうらん)様には負けるけど」

 そう言って、膝をつき、にじり寄ってきたのは娘の彗だ。

 彼女も酔っているのか、秋華によく似た美しい顔はとろりと虚ろだ。

 金粉や宝石の欠片で彩られた長い爪が九葉に伸び、まるで海外の珍獣でも愛でるように頬をつつく。

 九葉は居住まいを正すふりをして彗から距離を置き、

「彗様、この度は、百鬼隊一番隊副長・香蘭殿とのご婚約、誠におめでとうございます」

 と、改めて頭を下げた。

 彼女は九葉たちに先立って、将来を嘱望される霊山の俊英との婚約が決まっていた。九葉としては、ここで敢えて婚約者の名を出すことで彗をけん制したかったのだが、残念ながら彼女には通用しなかった。

「そうなの、香蘭様ったら、私にぞっこんなのよ!」

 と歓声を上げ、ますます九葉ににじり寄った。

 しかもそれだけでは飽き足らず、九葉の腕に絡みつき、目にも痛い桃色の振袖の奥の乳房を押し付けてきた。

 九葉はすんでのところで舌打ちを堪えた。

「ふぅん、文官って聞いてたから、鵬翼兄さまみたいにひょろっとしたのを想像してたけど、意外と筋肉ついてるのねぇ」

 九葉の胸に無遠慮に手を伸ばし、べたべたと触り始める。

 見かねた堂衛が口を開こうとしたとき、

「ちょっと彗ちゃん! 九葉は私のなんだからね、触らないでよ!」

「きゃあ!」

 金切り声と同時に彗が九葉の腕から引き剥がされた。

 早華だった。

 彼女は尻もちをついた彗をつり上がった黒い瞳でキッと睨みつけ、九葉の腕に強くしがみついた。

「なによ、早華姉さまったら、そんなにムキにならなくても…ちょっと触っただけじゃない」

 彗が起き上がりながら早華を睨みつけると、

「ちょっとでもダメ! 絶対ダメなんだから!」

 早華は九葉にますます強くしがみつき、顔を真っ赤にして怒鳴った。

 彼女はいつも、九葉に対しては「まったくもう」「しょうがないわねぇ」と、何かにつけて説教をしたがるが、彼の近辺に異性の影が近づくと、このように烈火の如き悋気を見せる。

 それは、昔から知っている妹のような女性に対しても変わらなかった。

 早華の剣幕に触発され、彗が眦を吊り上げて何かを言おうと口を開いたとき、

「彗」

 ようやく堂衛が割って入った。

「今日の主役は早華と九葉殿だ」

 低く落ち着いた、しかし厳しさをわずかに効かせた声でたしなめると、

「…、はぁい」

 彗は頬を膨らませ、引き下がった。

「それにしても九葉さん、お若いのにしっかりしてらっしゃるのねぇ、感心だわぁ」

 今度は入れ替わりに百合が話しかけてきた。彼女はしなを作って酒を勧めてきたが、九葉はさりげなく杯を遠ざけてこれを断った。

「今日だって霊山のお仕事を休んでセキレイくんだりまで来てくれたんでしょう?」

「薄給故、婚儀では大掛かりなおもてなしができぬと思い、挨拶ばかりは早めにと馳せ参じました」

 慎ましく頭を下げると、百合はころころと笑った。

「大丈夫よ、お金なら私たちが出してあげるわ。早華ちゃんの晴れ舞台だもの、霊山の姫君にも負けないくらい豪勢なお式にしましょう」

「ちょっと母様、それって私の時よりも?」

 彗が眉を吊り上げて話に割り込む。

「まさか。あなたたちの結婚式は、必ず母様が世界一にしてあげるわ」

 と、娘を宥めた後、百合は、そうだわ、と手を叩いた。

「あなたたちと、早華ちゃんたち、二組同時に式を挙げるのはどうかしら!」

「それはいい考えだわ、母様! 一層華やかになるものね!」

 母の提案に娘は顔を輝かせて頷いた。

「ねえねえ、一の服飾師を呼んで私たちの衣装を仕立ててもらうのはどう!?」

「それなら菓子職人も呼んでお菓子を作らせましょう。この広間の畳を全部埋めるくらい」

 母娘の話は、九葉にとってはちらと予想するだけで頭痛を伴うものだった。いったいどれほど金を使うつもりなのか。

 それだけならまだしも、

「じ、じゃあ、わたしはねぇ、わたしはねぇ、キラキラした宝石たくさんつけて、ふわふわした白くて甘い…くりーむ? をたくさん使ったお菓子が食べたい!」

 早華が九葉の腕からするりと離れ、女たちの話に加わった。

 酒も回っているせいか、女たちは話を大きく膨らませてゆく。こと宝飾と甘味に関しては、先ほどまでいがみ合っていた早華と彗華でさえ肩を組み、あれやこれやと出し合った互いの企画を褒め合っている。

 普段、好き嫌いや食べ残しを目ざとく見つけて注意する彼女は、霊山の書記官仲間からは「家庭的」だの「いい奥さんになりそう」などとからかわれ、本人もまんざらでもなさそうにしていたが、こういうところを見ると、この家の一員なのだな、と九葉は実感する。

 …いや、本当は目くじらを立てる必要はないのかもしれない。言葉にするだけならば自由だ。そもそもが、酒の席の戯言なのだから。

 九葉は自らにそう言い聞かせたが、

「俺は甘味は好きじゃないんだがなあ」

 と、素面に近い堂衛の苦笑交じりの一言に、うすら寒いものを感じた。

 それにしても…と、九葉はふと思った。

 飽食の罪をそのまま形にしたようなこの宴は、いつまで続くのだろうか?

 ただ飯を食らっている分際でこう言うのもなんだが、そろそろ愛想笑いを浮かべるのも疲れてきた。

 角を立てずにここから抜け出したいが、何かよい方法はないものか?

 一人密かに頭を悩ませていると、背後から、しくしくとすすり泣く声が聞こえてきた。

 何事かと振り返ると、百合たちの苛烈な贅沢討議から一歩退いたところでほのぼのと酒を飲んでいた詩音が泣いていた。「おいおい母さん」と、夫の更鵠が慰めている。

「どういたしました、お体の調子が悪いのですか?」

 九葉はすかさず詩音に声をかけた。驚いたのは事実だが『これ幸い』という思いもあった。話の運び方によっては、彼女の体調不良を理由にこの極彩色の喧騒をお開きにできるかもしれない。

 という九葉の願望は、更鵠の人の好い笑顔よって無残に打ち砕かれた。

「お気遣いなく、九葉殿。妻は泣き上戸でしてね」

 詩音は手拭いで目元を拭い、

「ごめんなさいね、びっくりなさったでしょう。でも…嬉しくてねぇ…、あのお転婆な早華が…お嫁に行くなんて…」

 詩音の涙はあとからあとから零れ落ち、留まることがない。

 そうして、一度ぐすりと鼻をすすり、彼女はこう言った。

「ほんとに、生きててよかった…」

 彼女の声は、注意を払ていなければ聞き逃してしまうほど、小さな声だった。

 しかし、その瞬間、早華を除く家族一同が、はっと息を呑んだ。

「ちょっとお母さん、大袈裟過ぎよ、まだ式も挙げてないのに。こんなところで泣いてたら、孫が生まれたりしたら病気になっちゃうわよ!」

 早華は母の肩を叩いて笑った。少なくはない酒を含んだ彼女は、家族の些細な変化には気づかなかったようだ。

 直後、かしゃーん! と、陶器が割れる甲高い音が響いた。

 更鵠だった。杯を手からこぼしてしまったようだ。

 艶やかな白磁が粉々に砕け散り、中身が膝や新しい畳を濡らしても、彼は見向きもしない。顔からは酒気も血の気がうせ、大きく見開かれた瞳は、愛娘を凝視していた。

「そ、早華……、まさか、お前、もう……」

 蒼白になった唇で、更衛はそう言った。

「へ?」

 訳が分からず早華は首を傾げた。

 しかし九葉は頭痛を覚え、額を抑えた。

 更鵠の脳裏をよぎった言葉に察しがついたからだ。

 違う、断じて違う。これは、言葉の綾だ。

 彼は婚約者の父にそう訴えたかったが、委細を口にするのは憚られた。生々しくて。

 早華が問うように九葉を見たが、無言を貫いた。

 彗が「あっ」と息を呑む。どうやら分かったらしい。彼女はぎりぎりと歯噛みした。

「嘘でしょ!? お子ちゃまだとばかり思ってたのに、先を越された…!?」

 彼女の化粧が濃い顔に、九葉は憎しみを抱いた。

 さらに、鵬翼がねちっこい笑みを浮かべ、なれなれしく九葉の肩に腕を回した。

「なぁるほどねぇ~~~、むっつりしてても、やることはきっちりやってるってわけかぁ~~~」

 と、含みを持たせた口調で言った。

 九葉は彼の薄い胸板を思い切り突き飛ばしそうになるのを必死になって堪えた。

 早華の表情が変わった。

 ぽかん、と口を開け、次いで、頭の先からつま先まで、さぁ~~っと赤くなった。

 ようやく空気の流れを理解したらしい。

 父はこう訊いたのだ。

 孫は、もういるのか?

 お前の、腹の中に?

「お…お…おバカぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~~~~!」

 早華は、広大なお頭の屋敷はおろか、セキレイの里中に響くような大声で叫んだ。

 彼女のキンキン声は、五感を痛めつけられた九葉にとって眩暈がするほど喧しかった。

「ちちちちちち違うわよ! 今のは、あくまでこれからの予定って意味で、私はまだ…!」

 早華は顔を赤らめたままバタバタと座敷を走り回り、妊娠を否定したが、他の者たち―――主に堂衛一家は意味ありげな笑みで頷くばかりだった。

 九葉はその小煩い寸劇を、醒めた内心で見守っていた。

 そんな風に慌てふためきながら違う違うと並べ立てても、カモにしかならない。

 そもそもあり得ないのに。早華と自分の子どもなんて、絶対に。万に一つも。

 彗がひどく冷静な声で、早華に蜂の一刺しのような一言を放った。

「じゃあ、シてないの?」

「――――――」

 早華が凍り付いた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!」

 更鵠が白目を剥いて斃れた。

「お、お父さん、しっかり!」

「お前たち、何をぼさっとしているの! 気付け薬を早く!」

 詩音が悲鳴を上げ、百合が厳しく女中たちを叱りつけた。

(……頃合いであろうな)

 九葉は内心で呟いた。

 大わらわとなった現場で、九葉は鵬翼の腕からさりげなく抜け出してさっと立ち上がり堂衛に尋ねた。

「少々酒が過ぎたようです。厠をお借りできますか」

 下世話な話の標的にされて居心地の悪さを感じた未来の婿。それが今の自身の役どころだ。

「ああ、構わんよ」

 彼は、同情的な苦笑を浮かべて頷いた。

 許可を得るや否や、それでは、と、九葉はそそくさと客間から逃亡した。

 襖を閉め切ると「待ちなさいよ、九葉!」と早華の金切り声が飛んできたが、聞こえないフリをした。

 



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(四)

 客間から離れ、喧騒が遠ざかったところで、九葉はどっとため息をついた。

 ようやく人心地着いた、という感じだ。

 もともとああいう喧しい場は好きではないうえに、お頭一家の目にも胃にも重い贅沢主義にはついていけなかった。

 ヒヤリと冷たい廊下が足裏に気持ちいい。春先の風の冷たさが、節操のない酒と料理で痛めつけられた身体を癒す。

 城に案内された頃には青空が残っていたが、今はすっかり闇で閉ざされている。すでに日付は変わっているようだ。

 九葉は客間に充満した酒気でヒリついた双眸を叱咤し、前を見据えた。

 この里はおかしい。

 このセキレイの里の在り様と、お頭一家と過ごしたひとときを総括し、九葉はそう結論づけた。

 まずは、里の異常な西洋化。

 軍師・天極の命により外国への備えとして改革を行った、とお頭は説明した。しかし、外国の脅威に対抗するためにまず手をかけるべきは軍事面であるべきなのに、里にそれらしきものは見られなかった。銃火器をはじめとする防壁の備えはここより小規模な里と比べても後れを取っているし、里の外周の堀も、里の近くを流れる川も、ろくに整備されていなかった。

 市井の経済を活性化させることで外貨を稼ぐつもりか? にしても、店先はあまりにも享楽的に過ぎる。

 次に、お頭一家の金遣いだ。あの宴に供された諸々の人や品、技の費用を相場で計算すれば、通常の里の半年分の運営予算に匹敵する額となる。しかしあの一家はそれを当たり前のように消費し、まだまだ余剰があるそぶりすら見せていた。

 この地理条件で、この規模の市場で、この収入?

 あり得ない。

 うちでの小槌でも手に入れたのか? それとも、座敷童でも囲っているのか?

 そんな冗談を持ち出さなければ説明がつかないほどに、あの一家には金が集まっている。

 何か仕掛けがあるはずだ。しかも、とてつもない仕掛けが。

 いつしか九葉の足は、宴会場から遠く離れた回廊を歩いていた。

 ここから先は照明の数が少なくなっている。そのせいか、空気ががらりと変わった。

 塵ひとつなく磨き上げられた、真新しい回廊を縁取る朱塗りの柵が暗がりにぼんやりと浮かび上がり、向かう先に闇が溜まっている。

 九葉はそれに誘われるように先へ進んだ。

 一歩踏み出すごとに、物音が、生き物の気配が薄くなってゆく。

 外に目を向けると、広い池泉にかぶさるように楓が伸びた純和風の庭園がひっそりと闇に沈んでいる。

 空は雲がかかっているため月は見えない。

 九葉は廊下を歩く足を速めた。

 与えられた時間は少ない。

「道に迷いました」という言い訳が通用するのは一度きりだ。

 これからの行動が、これから目にするものが、今後の己の運命を決定づける。

 見つけなければならない。

 この里の矛盾の象徴となる、何かを―――

―――がさり。

 庭で、枝が大きく揺れる音がした。

 九葉はすかさず近くの柱に身を隠した。

 野の鳥にしてはあまりにも大きな音だった。

 空き巣か? それとも、お頭の密偵か?

 柱の陰からそっと池を窺う。

 風が出て雲が流れ、月が姿を現した。

 庭園が―――池が、植木が、青白くその輪郭を縁取られる。

 そこにいる人物も。

 九葉は目を瞠った。

(子ども……?)

 そう、子どもだったのだ。音の正体は。

 十歳前後と思しき少年が、池泉の上に長く伸びた楓の太い枝に腰を下ろしていた。

 彼は一切着物を身に着けていなかった。裸だった。

 暦の上では春になったとはいえ、夜になると冬の寒さがしつこく息を吹き返し、しっかり着込んでいても出歩くと震えが来る。そんな中、彼は生まれたままの姿に冷たく澄んだ月の光を受け、ぶらぶらと足を遊ばせていた。

 彼はそうやって気ままにはらはらと葉を落として、水面に波紋を描いていたが、何を思ったか、勢いをつけて枝から飛び降りた。

 九葉は柱の陰から飛び出した。少年の小さな体は、夜の冷気で冷やされた水中に落ちると思ったからだ。池が深ければ溺れてしまう。

 しかし―――大きな水しぶきはあがらなかった。水面は、ひときわ大きな波紋をいちど広げ、少年の体を受け止めた。

 彼は水の上に立っていた。

 夢か幻のような光景から、九葉は目を離すことができなかった。

 足の指先で水面を蹴って小さな波を立て、そこに浮かぶ白い月や庭木の影を乱して戯れ、なにか興味をそそるものでも見つけたのか、水面に裸の膝をつき、身をかがめた。

 長い射干玉(ぬばたま)色の髪が水面に触れ、錦のように広がる。

 指先が水面に映った月に触れ、そのまま深く片腕を水中に差し込み―――顔を上げた。

 立ち上がり、振り向いた―――水上から九葉を見た。

 ふたりは、互いを認識した。

 九葉は息を呑んだ。

 少年の顔は、これまで九葉が見たどの人間よりも、美しかったからだ。

 一つ一つでも十分に見る者の目を惹きつけて離さない流麗な造りの目鼻が、子どもらしい柔らかな輪郭の中、これ以上はないという絶妙な配置で納まっている。

 小さな平たい体は、少年ながら柔らかな筋肉を纏い、均整が取れており、濡れた白い肌は自ら淡く輝いているかのようだった。射干玉色の長い髪がなだらかな胸やまろい肩に貼り付き、一層白さを際立たせている。

 白と黒。彼を作る色彩はただそれだけでありながら、その美しさは洗練されていて、ただ彼がそこに佇むだけで、陰鬱な庭すらも、超越した存在を降ろすための舞台のような神秘性を宿した。

 九葉を見つめる双眸は、髪と同じ射干玉色。見つめていると魂を吸い込まれそうで第六感が警鐘を鳴らすが、しかし、目を離すことができない。

 一糸纏わぬ姿を見知らぬ相手に晒し、平然としている様子がまた、人ならぬ異様さを醸し出し、九葉でさえ気圧されした。

 長じれば、女おろか、男すらも虜にし、道を狂わせるであろうことは想像に難くなかった。

 傾国、否、傾世の美。

 美貌、否、魔貌と呼ぶべきか。

 そもそもこれは、人なのか…?

 そのような疑問が胸中で頭をもたげたとき、整いすぎた唇が、動いた。

 話しかけたのだ、九葉に。

 天上の琴のように高く澄んだ声で、彼はこう言った。

「あなたも、僕と同じなの?」

「なに……?」

 どういうことだ?

 この子どもは、何を言っている?

 九葉は無意識のうちに身を乗り出した。

 すると少年は、深淵を思わせる瞳で九葉を見つめたまま、こう続けた。

「心を殺して、嫌なモノと絡み合ってる」

 気を抜けば逃してしまいかねない小さな声だった。しかし、確実に聞こえた。

 ぞわり、と、心臓が毛羽立った。まるで、超越した存在に瞬く間に生皮を剥がされたかのように。

 そして、九葉はここで初めて気づいた。犯しがたい輝きを放っていると思われた彼の肌の至る所に、大小の痣が散っていることに。特に華奢な手首と喉許には、締め上げられたような跡がくっきりと刻まれている。その形はまるで―――

「おい、そこで何をしている」

 背後から厳しい声をかけられ、九葉は体を強張らせた。

 気が付けば、武装したモノノフの一団に包囲されていた。

 ざっと見たところ三十人はいる。

 こう見えても九葉はモノノフ訓練生だったこともある。故に敵の接近には睡眠中でも勘付くが、彼らについては、声をかけられるまで気付かなかった。自分で思っている以上に酒がまわっているのか、あの少年によほど意識を奪われていたのか、それとも…彼らが隠密の技に長けているのか。

 彼らは思い思いの武器を構えて九葉に敵意の目を向けている。遠くから矢をつがえ、狙っている者もいる。しかし、防具は揃いだ。槐色の袴といぶし銀の胸当てに、くるぶしまでを守る月白の佩楯に、薄く鍛えられた藍鉄を何枚も重ねられた肩当ては、左側だけに大きな鬼の角が固定されている。

 少年のほうに目を向けると、こちらも確保されていた。二人のモノノフが池泉に入り、彼の両脇を抱えて引き揚げていた。

 ここで初めて、少年が立っていた場所に、池泉から小さく頭を出している庭石があることを知った。

 水上に立っているように見えたのは、こちらの勘違いだったのだ。

 手間かけさせやがって、だの、早く上がれ、だの、乱暴な口調で急き立てられ、少年はぺたぺたと濡れた足跡を残して奥へ消えた。

 その姿を見て、なんだ、人間なのか、とどうでもいい感想を抱いた。

 誰何の声を放ったのは、部隊の先頭に立つ、黒髪を無造作になでつけた、無精髭の大柄な男だった。背丈だけではなく、体つきも九葉より一回り大きく、手足も長い。

 彼は一切の交渉を拒むように盾を構え、剣の切っ先を九葉に向けている。

 異国人を思わせる彫の深い顔にはいかなる表情も浮かばず、ただ、九葉を見据える暗褐色の瞳ばかりが冷たい。

 九葉はゆっくりと両手を高く上げて抵抗の意思がないことを示し、慎重に口を開いた。

「あなた方は、セキレイの里のモノノフか」

「いかにも」

 答えたのは、例の大男だった。他の者たちは、九葉に得物の切っ先を定めつつも、じっと男の動向を窺っている―――号令を待っているのだ。どうやら、彼がこの部隊の長のようだ。

「あなたは早華様の許嫁だな。このようなところで、何をなさっておいでかな?」

 九葉のことは知っていたらしい。それでいてこの対応である。早華の名を盾にしようとも、返答を誤ればこの身はあの剣の錆となり果てるだろう。

 九葉は早速例の言い訳を使った。

「厠を探していたのですが、道に迷いました」

「道に、ねぇ…」

 男は剣を向けたまま訝しんだ。

「不思議なことがあるものだ。豪壮絢爛たる霊山本部にお勤めのお偉方が、こんな片田舎の成金屋敷で道に迷われるとは」

「本部には通っておりますが、未熟者故、隅の一角にしか出入りを許されておりませぬ」

「なるほど……」

 男は何かを含んだような声で独り言ち、しばし探るように九葉を見つめ―――剣を納めた。

 それに倣い、他の者たちも得物をしまった。男が軽く目配せすると、彼らはいっせいに退いた。統制の取れた動きである。

「ついてこられよ、厠へ案内して差し上げる」

 静かになった回廊で、男は短く九葉に言った。

 今回は大目に見られたらしい。

 

 無精髭の男は途南(となん)と名乗った。

 彼は本当に九葉を厠へ連れて行き、用を済ませた後も、客間までの付き添いを申し出た。これ以上の勝手は許さぬ、ということらしい。

 九葉としても、今日は探索を続ける気がなかったため、大人しく従った。

「先ほどの対応だが、悪く思われるな。あれが我々の仕事なのだ」

 客間へ続く廊下を歩きながら、途南はそう言った。

「私は人相が悪いと、早華によく言われます。やはり、ならず者に見えましたかな?」

 九葉が自嘲気味に言うと、

「そうではない。神垣ノ巫女・弥紗(みしゃ)様のご命令だ」

 と、途南は説明した。

「弥紗様はいま、病に伏せておられる」

「なんと」

 九葉は驚きの声を上げた。

『神垣ノ巫女』は、霊山からモノノフの里へ派遣される、超常の力を行使する女性たちのことだ。通常、一つの里に一人が派遣され、そこで「結界」を張り、人々を”鬼”の侵攻と瘴気から守り、「千里眼」を用いて残留思念から遥か彼方を見通す。

 その能力・職責故に彼女たちは人々からの尊崇を一身に集めている。また、里ではお頭に次ぐ権限を持ち、何らかの理由でお頭の座が空席となった場合は、次のお頭が決まるまでの間、(まつりごと)を担うこともある。

 その『神垣ノ巫女』が病床に臥しているとは、里にとっては一大事である。にもかかわらず、九葉は初耳だった。早華からは、一言も聞かされていない。

「巫女様の加減はいかがですか?」

「芳しくない。手は尽くしているが、悪化するばかりだ」

 途南は眉間にしわを寄せ、苦いものを含んだ声で答えた。

「故に弥紗様は、結界の維持のみに集中したいため、御座所へは鼠一匹通すなと我らにお命じになられたのだ」

「あれより先は、巫女様の御座所だったのですね」

 呟きながら、九葉は先ほどの彼らの剣幕を思い出す。戦に備えねばと嘯くこの里で、初めて戦の香りがするものを見つけたが、それは鼠取りだった。

(鼠取りも豪華なところは、贅沢主義なこの家らしい)

 という皮肉は口には出さず、

「知らぬとはいえ、申し訳ないことをしました」

 改めて謝罪した。

「以後気を付けていただければ、それでよい」

 途南はそう言って微笑みかけた。無精ひげに半分を覆われた顔が、くしゃりと人懐っこく崩れた。

 彼は笑うと、がらりと印象が変わる。目尻にぐっと深いしわが刻まれ、愛嬌が出る。歳は堂衛と同じくらいかと思っていたが、こうして見ると三十の半ばほどのようだ。

 二人の間の空気はようやく柔らかみを帯びた。

「そういえば、さっきの子は?」

 ふと思い出したように、九葉は尋ねた。

 途南は、ああ、と疲労のこもった息をついたた。

「…阿羅彦(あらひこ)は、お頭が数年前に旅の途中に拾った子だ。あれと…あれの両親が鬼に襲われているときに」

 あの子どもは、阿羅彦という名らしい。

「手強い鬼でね、俺たちの腕でもあれ一人を助けるのが精いっぱいだった」

 当時のことを思い出したのか、途南の表情が暗く沈んだ。

「お頭が不憫に思い引き取ったのだが、目の前で父母を鬼に食われたせいか、心を病んでしまって、奇行が絶えん。いきなり訳の分からぬことを口走ったり、自分で自分を傷つけたり、先ほどのように、夜も深まった頃に裸で徘徊したり」

 九葉は頷きながらも、内心は首を傾げていた。

 僅かな時間での邂逅であったが、あの少年―――阿羅彦の足取りはしっかりしていた。

 口調もはっきりとしていたし、話の内容はきちんと意味をなしていた。

 そして、体に刻まれていた無数の痣。

 あれは本当に、自傷によるものだろうか?

 手首や喉にぐるりと巻きついたあの跡。

 あの形は、大人の手のそれにしか見えなかったが…。

 九葉は湧いて出た疑問を胸の内だけにとどめ、「気の毒なことです」と言った。

 途南は、これまで阿羅彦によって被った苦労を思い出したのか、ふー…、と疲れきった溜息をついた。

「周りの迷惑にならんようにと、できるだけ人目から遠ざけ、俺たちが持ち回りであの子の面倒を見ているが、いやはや、八歳にもなると鬼よりもすばしっこくなって」

「やはり、子どもとは難しいものですか?」

 話を変えるために九葉が問うと、途南はくすりと笑い、

「女子はどうか知らぬが、少なくとも男子は。お覚悟めされよ、夫君」

 と、からかうような口調で返した。

「ところで、先ほどはあの子と何か話しているようだったが?」

 今度は途南が九葉に問いかけた。

 友人同士の世間話のように軽い口調だったが、彼の褐色の瞳の奥が、ほんの一瞬、剣の切っ先めいた鋭さを帯びるのを、九葉は見逃さなかった。

 脳裏にまざまざと蘇る。月明かりを受けて白く輝く肌が。深淵の如き双眸が―――澄んだ幼い声が。

―――あなたも、僕と同じなの?

「…………」

 九葉はしばし口をつぐみ、

「何か申しているように見えたのですが、声が小さく、聞き取れませなんだ」

 と、答えた。

 途南の表情は僅かに緩んだ。安堵したようだった。

「もしもあの子が粗相をしても、先の事情ゆえ、ご容赦いただきたい」

「承知いたしました」

 九葉は落ち着いた微笑みで以て応えた。

 



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(五)

 客間に戻った九葉は、堂衛から宴がお開きになったことを告げられた。更鵠の意識が戻らず、さらに、鵬翼が酔いつぶれて行動不能に陥ったためらしい。

 呆気ない幕切れであった。

 九葉と早華は別々の寝所に案内された。

 布団に横たわると、全身にどっと疲れが湧き出てきた。

 四肢が布団に根を張り、指を動かすのも億劫だ。しかし頭だけは冴えていて、なかなか寝付くことができない。

 敵地ではいつもそうだ。

 九葉は本日の出来事を振り返った。

 異常なセキレイの里と、お頭一家。途南率いる怪しげな部隊。そして―――

(阿羅彦……)

 ひとたび思い出してしまえば、彼の姿は本日見聞きしたものすべてを褪せさせ、九葉の心を占めて離さない。

 あの射干玉の双眸に、いまだに見つめられている、そんな気がするのだ。

「九葉……」

 寝所と廊下を仕切る障子の向こうから、か細い声が聞こえてきて、九葉は我に返った。

 少しだけ障子が開き、早華が顔を覗かせた。

「早華? どうした、このような時間に」

 慌てて半身を起こし訊くと、早華は睫毛を伏せてもじもじと身じろぎした後、

「そっちに行ってもいい?」

 上目遣いで、彼女にしては歯切れの悪い、弱々しい口調で訊いてきた。

 九葉はそれだけで彼女のおおよその用向きを悟った。

「………ああ」

 と、頷いて彼女を招いた。

 こちらも確認したいことがあったから、丁度いい。

 早華はそそくさと障子の隙間をすり抜け、用心深く締めた後、九葉の布団の傍らにちょこんと腰を下ろした。

 香油でも使ったのか、彼女の髪から花のようなにおいが漂ってくる。

 華奢な体を包む閨着は、この季節に身につけるには生地が薄いものだった。ほっそりとした首筋と鎖骨が晒され、小ぶりな胸の形がくっきりと浮き出ている。

 九葉が灯した行燈の明かりを受けて、幼さが残る白い頬に、長い睫の影が伸びている。

 彼女は何かを求めるようにちらちらと九葉に視線を投げかけるが、敢えて気づかないふりをした。そのせいで、二人の間の空気は必要以上によそよそしいものになった。

 沈黙は永遠に続くかと思われたが、

「あ、そうだ」

 早華が思い出したように声を上げ、頬を膨らませて九葉を睨み付けた。

「さっきはよくも、私を置いて一人で逃げてくれたわね」

 先ほどの宴で、彼女がいとこたちにからかわれたときに、九葉が厠に行くと言って席を立ったことを怒っていた。

「すまん」

 九葉は素直に謝った。彼女を見捨てたことは真実だった。

「あの後、ほんとに大変だったんだからね。鵬翼はうざいし、彗ちゃんはみんなの前で根掘り葉掘り聞こうとするし。そもそも、婚約者を一人置いて逃げるなんて非常識…ねえ、九葉、聞いてるの?」

 九葉はうんうんと頷くばかりだ。

 あそこで気まずい思いをしたのは九葉も同じなのだが、彼女の辞書に気遣いという言葉がないのもまた承知している。

 ある程度彼女の罵詈雑言を流した後、

「早華、途南というモノノフを知っているか?」

 と、九葉はおもむろに聞いた。

「誰それ?」

 早華は首を傾げた。

 九葉は途南の風体を説明したが、彼女は「知らないわ」と首を左右に振った。

 彼は、早華が霊山へ発った後にこの里のモノノフになったらしい。

「その人がどうかしたの?」

「先ほど厠を探していたら道に迷ってな、偶然通りかかった途南殿に案内してもらったのだ」

「そうなの」

 早華の反応は上の空だったが、構わずに九葉は話を続ける。

「その途南殿から聞いたのだが、現在『神垣ノ巫女』が病床にあると、お前は知っていたか?」

 早華が、あっと息をのんだ。

 このことはまだ早華の耳には入っていないと九葉は予測していた。しかし、彼女は具合が悪そうに口を閉ざし、大きな黒い瞳を、なにか縋るものを探すように辺りを彷徨わせ、

「……うん」

 しばしの沈黙ののち、小さく頷いた。まるで、隠していた失敗を見咎められたかのように、表情を沈ませて。

 この様子だと、里帰り以前から知っていたようだ。

「なぜ黙っていた」

 別に黙っていたからどうというわけではないが、九葉は明日の朝、神垣ノ巫女への婚約報告を兼ねた挨拶を計画していた。大抵の里ではそれが暗黙の了解となっているからだ。

 特に、早華はこういった「常識」を守りたがる性質だ。故に、彼女が巫女の病を知っていながら報告しなかったことを不思議に思ったのだ。

 早華を責めるつもりはなかった。しかし彼女は、まるで厳しい叱責を受けたように肩を落とし、俯いた。そして、今にも消えそうな声で語り出した。

「……だって、弥紗ちゃん、すごく美人なんだもの」

 九葉は怪訝な顔をした。

 そういえば以前、セキレイの里の神垣ノ巫女は絶世の美女だと、霊山で噂になったことがあった。ついでに、早華がその時、その有名人と自分は幼馴染で、昔はよく一緒に遊んでやっていた、と自慢していたことも併せて思い出した。

 しかし、それが今更なんだというのだ。

 ぽつり、ぽつり、と、早華は語る。

「それに、頭がよくて、性格もすごくしっかりしてて…弥紗ちゃんに比べたら、私なんてお豆粒みたいだし…」

 膝の上で、小さな手がきゅっと閨着を握りしめる。

 どういうわけか、小さな唇からこぼれるのは、彼女らしからぬ後ろ向きな台詞ばかりだ。

「九葉が弥紗ちゃんに興味を持って、会ったりしたら…心変わりするんじゃないかって……」

 九葉はようやく彼女の心中を理解した。つまり。

 だから、弥紗の名を極力出さぬようにしていた、というわけだ。

 九葉は呆れた。ここまで来て、そのようなことが起こるはずがないのに。

 しかし、早華は震えていた。そのような裏切りが起こりうると、本当に信じていた。

 女は(男にも起こりうるらしいが)結婚が近づくと、唐突に情緒不安定になることがある、とどこかで聞いたことがある。九葉を家族に紹介し、結婚の現実味が一段と増したことで、その落とし穴に嵌ったのだろうか。

「くだらん」

 九葉は鼻で笑った。

 早華の表情が傷ついたように揺らいだ。

 こういう時の対処法は、このように伝えられている。すなわち「軽く流す」。

「その弥紗とやらがどのような女かは知らぬが、私がお前以外の相手と婚約など、ありえんことだ」

 目の前の黒い瞳が大きく見開かれた。と思った次の瞬間、

「九葉……!」

 早華は九葉の胸に勢いよく飛び込んだ。

 急な出来事だったため、九葉は動くことができなった。倒れぬように懸命に踏ん張り、それが早華には嬉しかったようで、彼女はますます強くしがみついた。

 薄い胸が胸板に強く押し付けられるのを、九葉ななすがままにしていた。

 どうやら、彼女は最も欲しい言葉を得られたようだ。

 早華は婚約者の逞しい肩にしばし顔を埋め、やがて顔を上げた。

 熱を溜めて潤んだ黒い瞳が、近いところで九葉を見つめた。

「ねえ、九葉…。わたしね、一人っ子で、ずっと『姉さま』って呼ばれるのに憧れてた…」

 飛びついた拍子に薄い閨着が大きく乱れ、華奢な肩と二の腕がむき出しになっていた。控えめな胸元も…。しかし、早華はそれを恥じることも、隠すこともしない。

 彼女はすべての体重を九葉に預けていた。彼が自身のすべてを受け止め続けると信じて疑わなかった。

「彗ちゃんとか鵬翼とか、近所の子たちは『姉さま』って呼んでくれたけど…でも…ちゃんと、本当の弟か妹が欲しかったの……」

 弱い明かりの中で、幼さの残る頬に紅が差す。

 中途半端に薄衣を纏った細い体が男の胸の上で身じろぎする。

 いつものキンキン声が弱々しく震えて、それが無意識の婀娜となり、男の本能の部分に揺さぶりをかける。

「だからね…、わたしたちの子どもには、きょうだいがいっぱいいて……たくさんの子が『姉さま』って呼ばれるようにしてあげたい……」

 露わになった薄い胸が、九葉の胸板に擦り付けられる。

 小さな唇が行燈の弱い明りを受けて艶めき、熱のこもった小さな息をひとつ漏らす。

「だから…わたし……、赤ちゃん、たくさん欲しいな…ねえ、九葉……」

 早華が求めていることは明白だった。婚約者ならば、応じてやるのが正しい選択だろう。

 九葉は早華の華奢な双肩を手のひらで包み込んだ。

 男のぬくもりに早華は驚いたように軽く身を縮こまらせたが、そっと仰のいて、瞳を閉じた。

 九葉は彼女の小さな唇に己がそれを近づけ―――

―――自分を殺して、嫌いなものと絡み合ってる―――

 頭の中に、少年の澄んだ声が鮮烈に響いた。

 気が付けば、九葉は両手で早華の体を引き剥がしていた。

 目の前で呆然とする早華を見て、胸の奥に苦いものが広がるが、もう後戻りはできない。

「今日は疲れている。明日でもよいか」

 できるだけ優しい声音で告げると、早華の顔がくしゃりと歪んだ。

 彼女はまるでそれを隠すように俯き、誰にも触れられることのなかった唇を強く噛みしめ、そして、

「……わかったわ」

 と、消え入りそうな声で応えた。

 彼女は俯いたまま、乱れた閨着を整えた。このまま立ち上がるかに思われたが、

「九葉……、同じ布団で寝てもいい?」

 断れば、今すぐ倒れてしまいそうな声。問いというよりも懇願に近かった。

「……ああ」

 九葉は頷いた。

 明かりを消し、早華に背を向けるように身を横たえると、彼女は早速布団に入ってきた。

 拒絶するように向けられた背中に早華はぴったりと身を寄せ、ほどなく小さな寝息を立て始めた。

 背中に縋り付く早華の体温に罪悪感が募る。しかし、九葉はとても彼女を抱く気にははれなかった。

 彼の心はいまだに、巫女の座所に通じる回廊にあったからだ。

 そこで出会った、阿羅彦という少年。

 静かな池の上に佇み、じっと九葉を見つめる美しい貌が―――深い闇を思わせる瞳が、いつまでも頭から離れなかった。 

 

 

 

 同じころ、セキレイの里のお頭・堂衛は、城の一角にある四畳半の茶室にいた。

 彼は一人ではなく、二名の部下を伴っていた。璃庵と、途南だ。

 茶室は狭く、ここに坐せば、否応なしに膝を突き合わせ、話し声は必然的に小さなものになる。

 堂衛は堂々と胡坐をかき、璃庵が点てた茶を一口すすり、訊いた。

「あの男、お前たちはどう思う?」

 九葉のことである。宴では親しげに言葉を交わしていたというのに、今、彼の口調は重く厳しかった。

「早華お嬢様の婿に相応しい、良き青年だと思いますよ」

 茶器を片手に、璃庵がのんびりと見解を述べた。

 その隣、肩が触れ合うほど近いところに正座する途南も頷いた。

「尻に敷かれているところも含めて」

 冗談めかして言うと、璃庵はくすりと笑った。

 しかし、主たる堂衛の表情は晴れない。

 彼の大きな手は名物の茶碗を傍らに置き、代わりに懐から手紙の束を取り出した。

 何度も折り曲げられて皺くちゃになった京和紙の書面に厳しい目を落とす。

 宥めるように、途南は堂衛に告げた。

「此度の件は、まぁ…天極様の考えすぎという気もします。歳をとると心配症が極まると言いますからなぁ」

 璃庵も薄い唇を綻ばせた。

「その通り。だから、年寄りの私は見張りをつけて、しばらく見守ることにするよ」

 薄い青色の瞳がすっと細められて途南に向けられ、途南は悪びれもなく、璃庵に笑みを返した。傍目には皮肉の応酬に見えるが、二人の交わす目線は長年の戦友のように気安く、それでいて力強い。

 堂衛はしばらく口を閉ざし、書面を睨み付けていた。二人の腹心の話は聞こえている。途南の見立てや璃庵の提案を否定するわけではない。しかし…。

「早華はあれに惚れている。手荒なことはしたくない…たとえ、天極様のご命令があっても」

 堂衛は重苦しく口を開いた。それは、部下二人への命令であり、願望の吐露でもあった。

 彼の手の中に納まっている手紙は、昨日、極秘裏に天極から届けられたものだった。書面には国籍を問わぬ様々な文字が滅茶苦茶に書き散らされ、しかもあちこちが墨で黒く塗りつぶされている。

 したためた者の正気を疑うような書面であるが、しかし、これを彼らだけが知る法則に当てはめて読み解くと、意味のある文章が出来上がる。

 こう記してあった。

 

『九葉を抹殺せよ』

 



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第二章 辻斬り
(一)


 翌朝、二人は城の騒がしさで目を覚ました。

 里の住人から『お城』と呼ばれるお頭の住居は、モノノフ本部と神垣ノ巫女の御座所が統合されている。故に、毎日多くのモノノフが出入りし、多少の慌ただしさは常であろうが、お頭一家の客室までそれが届くとは、ただ事ではない。

「ふぁ……、もう、なんなのよ…。昨日は九葉の寝言がひどくてあんまり寝られなかったのに…」

「起き抜けに私の頬を踏みつけていたお前に言われたくはないな」

 寝ぼけ眼(まなこ)の早華と、寝起きが芳しくない九葉が揃って客室を出た。そのとき二人を迎えたのは、山の豊かな生気を吸い込んだ清々しい陽光―――ではなかった。

 ドタドタドタ! と荒々しい足音を立てて、数名のモノノフが廊下を駆け抜けた。

 寸でのところでぶつかりそうになった早華は「きゃあ!」と悲鳴を上げて飛びのき、その拍子に躓いて思い切り尻もちをついた。しかし、誰も彼女を振り返らなかった。

 全身を武具で固めており、慌ただしい足音には具足同士が触れ合う音が伴った。まるで、鬼討ちに行くようだ。

「ど、どうしたのかしら……?」

 ぶつけた尻の痛みも忘れ、早華はモノノフたちが消え去った方に首を巡らせて呟く。

「まさか、鬼の襲撃か…?」

 九葉は鋭い瞳で辺りを見回した。神垣ノ巫女・弥紗の身は病床にある。現在彼女は全身全霊をかけて結界を維持しているというが、逆にそれは、この里が、いつ最悪の事態に陥ってもおかしくないという状況にあることを意味する。すなわち、結界の消失―――

「あら、遅いお目覚めね、お二人さん」

 軽やかだが、心にざらりと引っかかる女の声が二人にかけられた。

 振り返ると、そこには早華の従妹・彗がいた。

 藤色を過剰に濃くした生地に、金粉であしらった大ぶりな蝶がいくつも踊る派手な小袖を身に着けている。その色彩は、寝不足の脳には針でつつかれるように痛いが、平和そうではある。

 彼女は化粧で美しく彩られた顔に意味ありげな笑みを浮かべていた。昨日はお楽しみだったようね、と言いたいようだが、いちいち否定するのも面倒だ。

「彗ちゃん、お城が騒がしいみたいだけど、何かあったの?」

 早華が訊くと、彗は化粧の載った眉根を寄せ、言った。

「……辻斬りよ」

 辻斬り…と、早華は物騒な言葉を口の中で反芻する。

 彗は二人の表情を交互に見ながら言った。

「今、うちの里に戒厳令が出てるのは、二人とも知ってるわよね」

「ええと、夜に出歩くなっていう、あれ?」

「そうよ」

 この里には、夜になると、出会った者を無差別に斬り殺す辻斬りが出没するらしい。そのため、お頭の堂衛は住人に夜間の外出を固く禁ずる戒厳令を発した。

 九葉と早華はそれを、就寝前に璃庵から聞かされた。滞在中、くれぐれも夜間は外出せぬように、という注意を添えられて。警告があの時間帯になったのは、宴に水を差したくないという彼なりの気遣いだろう。

 彗は声を潜め、話を続ける。

「ゆうべ、また出たみたいなの。しかもまずいことに…殺されたのは、外様の商人だそうよ」

 九葉は息を呑んだ。その一言から事態の深刻さを読み取ったのだ。

 この里では「西洋化」を推し進めるために、外様の商人や技術者、幕府や朝廷の高官の出入りが例外的に許されている。犠牲になったのはそのうちの一人だ。戒厳令を無視して彼が何をしていたのかは見当もつかぬが、里の改革には間違いなく悪影響が及ぶし、対応を誤れば、深刻な外交問題に発展しかねない。

 それだけではない。軍師・天極の特命により外様文化を積極的に取り入れているセキレイの里だが、『鬼ノ府』は原則として歴史の『表』の人々との交流を禁じている。故に、事件の捜査は秘密裏に行われるはずだ。つまり、禁軍を始めとする外部からの応援は望めず、捜査から犯人の逮捕、更には外様への対応まで、すべて里の中だけで完結させなければならないのだ。

 堂衛は今頃頭を抱えていることだろう。

 という九葉の予測を裏付けるように、

「だから、今の父さまはすごく気が立ってるわ。用事があるなら璃庵を通したほうがいいわよ」

 と、彗は二人に助言し、じゃあね、と軽く手を振って二人に背を向けた。

「彗殿、どこへ行かれる」

 九葉は彗を呼び止めた。彼女の派手な出で立ちは、まるで―――

「どこって…買い物だけど?」

 彗は立ち止り、予想通りの答えを返した。なぜ呼び止められるのかわからない、という顔で。

「辻斬りはまだ捕まっておらぬのでしょう。外を出歩くのは危険ではありませんか?」

「平気よ。だって、辻斬りは夜にしか出ないもの」

「何故、そうだと?」

「これまでずっとそうだったから」

 それが何か? という口調で告げ、彗は今度こそ立ち去った。

 何とも言えない表情で派手な後姿を見送る九葉の隣で、早華は黙り込んで中空を見つめていた。そして、

「九葉、おじさんのところに行こう」

 と、言った。

 黒い瞳からは眠気が跡形もなく消し飛び、真っすぐに九葉を見つめてくる。

 それだけで、彼女が何を言おうとしているかを量ることができたが、

「…一応聞いてやる。何故だ」

「もちろん、犯人を捕まえるためよ」

 私たちの手で。

 彼女の口から出たのは、思った通りの言葉だった。

「やめておけ」

 と、九葉は言った。

「お頭を始めとするモノノフたちがこの里にいるのだ、文官風情の我らに出番はない」

「九葉」

 早華は強い口調で九葉の言葉を遮った。

「わたしはこの里が好き。ここに生まれてきて本当に良かったと思ってるし、育ててもらって感謝してる。その里に人殺しが潜んでいるなんて、絶対に許せないわ」

 お前は人の話を聞いていたのか、と九葉は言いたかったが、すんでのところで堪えた。

 これまでの経験から、こういう物言いをするときの早華は、聞く耳を持たない。

「それに、家族の誰かが困ってるなら、助けてあげなくちゃ」

「まったく…」

 九葉は一度、呆れたようなため息をついた。

「…確かに、一宿一飯の恩を返さぬ道理はないな」

 内容はさておき、と言う枕詞を胸の内だけで添え、九葉が言うと、早華は幼さの残る顔を輝かせた。

「よぉっし! それじゃあ、すぐにおじさんのところに行きましょう!」

 早華は威勢良く拳を振り上げた。そして寝巻のまま、堂衛がいるお役目所へ突入しようとしたので、断固阻止した。

 



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(二)

「駄目だ」

 身支度を整えてお役目所に向かい、部下のモノノフたちに忙しく指示を出していた堂衛を捕まえ、意気揚々と協力を申し出たところ、間髪入れず切り捨てられた。

 九葉は秘かに安堵した。ここで堂衛が諸手を上げて姪を迎え入れていたら、彼のお頭としての資質を疑うところだった。

 しかし早華は、断られるとは夢にも思っていなかったようで、伯父に抗議した。

「どうして、おじさん!」

「この件はモノノフ部隊で捜査を行う。お前たちは下がっていなさい」

 堂衛は強く早華をたしなめた。

 彼は苛立っていた。早く話を切り上げて仕事に戻りたいのに、姪が邪魔で仕方がないようだ。

 御役目所はモノノフや職員の出入りが激しく、慌ただしい。皆が足早に行き交い、話し合う声も厳しさばかりが目立つ。昨晩目にした霞んだ金銀の武具―――途南の部隊の者も多く確認できた。耳に入る単語から察するに、ここにいる全員が辻斬り事件の捜査に加わるようだ。

 つまり、里の戦力の大半を動員するほどの大事なのだ、今回の事件は。

 その中にあって、自分たち素人の居場所は皆無だ。それどころか、彼らにとって自分たちは、ひどくお気楽で、場違いで、ただそこにいるだけで神経を逆撫でしかねない。

 そう思っていないのは早華だけで、彼女はますます伯父に食い下がった。

「確かにわたしはモノノフじゃないけど、でも、この里で生まれ育った家族なのよ。私だってみんなのために力になれるわ」

 凛と背筋を伸ばして早華が訴えたとき、とうとう堂衛は声を荒げた。

「城に帰れ。今は、お前の遊びに付き合う余裕はない」

 しん、と、束の間、御役目所が静まった。一瞬、人々の視線がこちらに集まり、その後、誰もが気まずそうに視線をそらし、各々の仕事に戻った。

 早華は青ざめて息を呑んだ。好意を無碍にされただけではなく、いつも優しい伯父に公衆の面前で怒鳴られ、少なからず衝撃を受けたようだ。

 黒い陣羽織を身に着けた逞しい背中に、小さな唇はもう一度何かを言おうと動いたが、結局は何も言い返せなかった。

「お頭」

 それを引き継いで、九葉は落ち着いた口調で堂衛に呼びかけた。

 彼は煩わしそうに振り返った。

 気持ちはわかる。しかし、早華の婚約者という立場から、せめて彼女を援護する姿勢だけは見せておかなければならない。

「捜査の人員に加えろなどと無茶は申しません。せめて、昨夜のおもてなしの返礼をさせていただきたい。何かできることはありませんか?」

 堂衛は、まるで憎しみを抱いているかのような瞳で九葉を睨み付けた。

「首を突っ込むな。それが一番の返礼だ」

 低く唸るように告げた声は、九葉に口を噤ませた。

 火に油を注ぐ結果となってしまった。

 堂衛に用があるなら璃庵を通した方がいい、という彗の助言を、九葉は今更ながら思い出した。いや、彼がいたところで申し出が受け入れられたとも思えないが…。

 などと考えていると、

「お頭」

 本物の璃庵が現れた。

 彼は足早に堂衛に駆け寄り、二人の姿を見つけると一歩引き下がったが、堂衛が「構わん」と短く言ったので、近くに寄り、耳元で何かを囁いた。

 もちろん、声は九葉たちには届かない。しかも璃庵は口元を隠していたため、唇の動きを読むこともできなかった。しかし、堂衛は一瞬、驚いたように目を見開いた。

「…わかった、すぐに行く」

 話が終わると堂衛は重々しく頷き、挨拶もなしに二人に背を向け、璃庵を伴って足早に去っていった。

 九葉と早華は途方に暮れた。

 何人ものモノノフが、風を切ってすぐそばを通り過ぎ、誰も、二人に見向きもしない。

 そんな中、早華はいつまでも動かなかった。

 唇を噛みしめ、いっぱいに見開かれた黒い瞳はうっすらと水の膜が張り、かかとの高い下駄のつま先を懸命に見つめている。

 伯父からあのように邪険にされたのは、これが初めてだったのかもしれない。

「…早華」

 九葉は控えめに声をかけた。

「残念だが、ここは里のモノノフたちに任せた方がよかろう。お頭のあの様子から察するに、例の辻斬りは相当に厄介な相手のようだ」

 早華は身じろぎはおろか、一言も漏らさない。堂衛の剣幕がよほど堪えたようだ。

 九葉はできるだけ優しい声音を作り、さらにこう語りかけた。

「お頭は昨晩、お前は我が子と同じくらい大切な家族だと仰せになった。結婚を控えた身にもしものことがあってはならぬと思われたのだろう。それ故に、自らを悪役に仕立ててまでお前を遠ざけたのだ。もどかしいかもしれぬが、ここはお頭の気持ちを汲んで差し上げろ」

「…そうよね。おじさんは、そういう人だわ」

 早華がぽつりと呟いた。その声は泣き出す直前のように掠れていた。

 長めの前髪の影の中で、小さな唇がほのかに笑い、そして、ごしごしと目元を拭い、

「行くわ」

 顔を上げて、早華は言った。

「昨日璃庵殿が言った通り、町の見物にでも行くのか?」九葉が訊くと、

「町には行くわ。でも、遊びのためじゃない。みんなから情報を集めるのよ」

 早華は言い、少し赤目が差した瞳で、慌ただしい御役目所を、まるで挑むように見渡した。

「待て、堂衛殿の気持ちを察したのではなかったのか」

 九葉がぎょっとして問うと、早華は力強く頷いた。

「だからこそよ。それがおじさんの本当の気持ちなら、尚更見過ごすわけにはいかないわ。それに、事件が解決すれば、おじさんも、みんなも、何も心配しなくてよくなるもの」

 九葉が何かを言い募ろうとするのを遮るように、早華は彼の手を引き、歩き出した。外の爽やかな光が差し込む、御役目所の出口を目指して。

「行こう、九葉。わたしたちで辻斬りを捕まえるのよ」

 

 一方その頃、堂衛は途南と璃庵を伴って御役目所の小さな面談室にいた。

 客が来ていた。

 頭頂部が禿げ上がった、小柄で痩せた老人だ。

 堂衛は彼のことを知っている。大通りの団子屋の主人だ。

 老人はしょぼしょぼした瞳を迷い犬のようにあちらこちらに彷徨わせ、落ち着かない。

 無理もなかった。面談室はきれいに掃除が行き届いているが窓はなく、鉄の扉でしっかりと閉ざされた密室で、お頭の堂衛と、体格のいい護衛のモノノフ二人と、たった一人で向き合っているのだから。

 話を切り出したのは堂衛だった。

「昨晩、辻斬りの姿を見たというのはお前か」

 と、彼は老人に問うた。

 老人は「は、はい」と掠れた声で答えた。緊張しているようだ。

「夜間は固く外出を禁ずると、お触れが出ていたはずだが、なぜそれを破ったのだ?」

 次は璃庵が問うた。口調は静かだが、じっと獲物を見つめて佇む獅子のような静かな威圧感がある。

 老人は恐る恐るといった様子で答えた。

「飼い猫が家の外に逃げてしまいまして、探しに行ったのでございます。心配だと孫が泣くものですから…」

「夜間の外出禁止令はお頭直々の命であるぞ」

 途南が低く唸るような声で老人を咎めた。

 老人は、ひぃっ、と悲鳴を上げて身を縮こまらせた。背が高く、肩幅もある途南の前では、老人は少年のように小さく、逆に老人の目には、途南は鬼のように大きく恐ろしく映る。

「途南」

 堂衛は厳しい口調で部下をたしなめた。

 黒い瞳が何かを訴えるようにじっと途南を見つめると、彼は自らを封じるように、胸の前で長い腕を組んで一歩下がった。

「すまんな」

 堂衛は穏やかな瞳になり、老人に短く声をかけた。それだけで、老人は体の力を抜き、小さく安堵の息をついた。

「早速だが、話を聞かせてくれるか」

「は、はい」

 老人は頷き、話し始めた。

「あれは確か、亥の刻だったと思います。路地裏で猫を探しておりましたら、悲鳴と、男たちの怒鳴り声が聞こえてまいりました。物陰から大通りを覗いてみますと、恰幅のいい外様の旦那と、お付きのお侍衆がお腰のものを抜いておりまして―――」

 外様の一団は果敢に応戦したが全く歯が立たず、一人、また一人、と凶刃に斬り伏せられていったという。

 さらに老人は、ガス灯の明かりのおかげで、辻斬りの人相、体格、犯行当時の出で立ちなどをはっきり見ることができたと言い、覚えている限りのことを堂衛に伝えた。

「よく知らせてくれた、礼を言う」

 話を聞き終えた後、堂衛は太い笑みを浮かべて老人に礼を述べた。

 逞しい手にぽんと肩を叩かれ、老人は、飼い主に褒められた犬のようにしわくちゃの顔を輝かせた。

 ふと思い出したように堂衛が訊く。

「ところでそなた、その見聞を誰ぞに話したか?」

「いいえ」

 老人が首を左右に振ると、

「あいわかった―――途南」

 短い呼びかけと同時に、途南が剣を抜き放ち、老人の首を断った。

 光が瞬くような一閃であった。

 老人は、悲鳴すら上げられずに絶命した。

 なぜ、と疑問を抱く暇すらなかったかもしれない。

 堂衛と璃庵は、矮躯からあがる血しぶきを、冷えた面持ちで見ていた。

「また一人、罪のない者が『辻斬り』の餌食になった」

 血の海に沈む亡骸を乾いた目で見下ろしながら、堂衛はまるで他人事のように呟いた。

 慣れた動きで刃の血を払いながら、途南は軽く肩をすくめた。

「まったく…困ったものですな、『あれ』の奇行には」

 



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(三)

 九葉は早華と手分けして里の住人に聞き込みを行った。

 今日は日差しの暖かい晴れ日で、人々の表情は明るく、里は活気に溢れている。昨晩の惨劇など、なかったかのように。

 店番をする男、赤子の面倒を見る母親、諸国を漫遊する武芸者、軒先で世間話に興じる老人たち…。

 昨日の事件については、彼らは異口同音でこう言った。

「知らない」と。

 さもありなん、と九葉は思った。

 今回の犯行現場は里の北側の通りで、お頭の館からほど近い場所だ。そちらは早華が担当しており、九葉が担当した区域は里の南側だった。現場から離れすぎている。

 だから九葉は、過去に起きた辻斬り事件に的を拡げた。

 こちらは様々な情報を集めることができた。

 犯行は決まって夜に行われる。

 辻斬りは里の至る所に出没する。

 殺人が始まったのは一年ほど前のことで、発生頻度は平均して月に一、二回。多いときは週に一度以上起き、一晩で十数人もの遺体が上がることもある。

 犠牲者は老若男女、鬼内、外様と、分け隔てがない。

 遭遇したが最後、助かった者はいない。

 お頭の堂衛率いるモノノフ部隊は長らく事件を捜査しているが、進展はない。

 つまり、かなりの腕前を誇るということ以外は、まったく謎の人物というわけだ。

 そのせいか、住人たちの間でその存在は怪談めいたものになっており、姿を見た者も三日以内に命を落とすだの、目玉が三つあるだの、尻尾が生えているだの、翼が生えていて空を飛ぶだの、言いたい放題であった。

 そして、朝から三時間ほど歩き回り、辺りの食事処から漂ってくる昼餉の香りに腹の虫が刺激される頃、九葉は一つの結論に達した。

 手掛かりは、ない。

 それが、怪しい。

 早華の成果を聞かぬまま決めつけるのは早計かもしれぬが、彼女の調査能力を鑑みると、大した収穫は望めない。よって、現時点で得た情報をもとに状況を整理、考察してゆく。

 この辻斬り騒動には矛盾がある。

 それは、手掛かりがあまりにもなさすぎることだ。

 まず、お頭の堂衛は戒厳令を敷いて、住人に夜間の外出を固く禁じている。さらに、犯人は小回りが利く単独犯もしくは二、三人と仮定する。そうすれば、情報の少なさは一応の説明がつく。

 だが、「ない」ということは、ありえない。

 というのも、この里の人間すべてが戒厳令を遵守できるとは思えないからだ。急な病など、夜間の外出を余儀なくされる局面は必ずある。今回に限れば目撃者はなかったかもしれないが、約一年の間、件数が積もれば、何人かはその姿を目にしているはずだ。

 しかし、誰一人として見ていないという。これが妙だと九葉は思った。

 その理由は、姿を見た者はすべて殺されているからだと、聞き込みの中でそう語った者がいた。

 だが、ここにも矛盾がある。

 辻斬り本人と正対してしまえば生還は難しいであろうが、遠目に姿を見た者ならいるはずだ。実際、過去の事件において姿を見た者はいた。しかし、彼らは一人残らず亡くなっていた―――後日に殺害されていた。

 彼らは口封じのために殺害されたと考えるのが妥当である。

 その際、辻斬りは自身の人相や背格好が噂として広まる前に素早く目撃者を捜し出さなければならないが、これほどの規模の里でそれをするには、土地勘に加え、少なくとも十数人の人手が必要になる。

 しかし、それほどの大所帯になると、手掛かりを残さず一年以上も里に潜伏し、凶行を続けるのは不可能に近い。

 鬼の攻撃か? ならば事件はここまで長期化していない。この里のモノノフたちの腕は侮れないからだ。

 では、呪詛の類か? ならば尚更、判りやすい痕跡が里のどこかに残るはずだ。

 せめて、犠牲者の遺体を見ることができればよいのだが。その傷口から単独犯か複数による犯行か、見極めることは可能であろうが、堂衛が許さないだろう。遺体はすべて、彼の管理下にある。

 単独犯のように証拠を残さず、組織のように目撃者を速やかに抹殺する。それを可能とする犯人とは…

 思考を巡らせていると、遠くから、甲高い声が聞こえてきた。

 少し離れたところに小さな古い社があり、その周りで里の子どもたちが遊んでいた。

 古い鍋の兜をかぶり、細い木の棒で拵えた刀を振り回し、モノノフごっこに興じている。辻斬りによる死者が出たばかりだというのに刀遊びとは、暢気なものだ。などとひねくれた感想を抱きながらも、九葉は彼らをぼんやりと目で追い続けた。

 昨日出会った少年…阿羅彦を思い出したからだ。

 年の頃は同じくらいだ。彼らは阿羅彦を知っているだろうか?

(いいや)

 九葉はふと浮かんだ考えを、すぐに打ち消した。阿羅彦が里の子どもたちと戯れる像が、脳裏に浮かばなかった。

 子どもたちはやがて、わあわあと声をあげながら通りを走り去っていった。

 無人となった社に九葉はなんとなく近づいた。そこで、柵で閉ざされた道を見つけた。

 里の通りのように舗装されているものではない。雑草や木々の枝が両脇からぼうぼうと伸び、大きな石がごろごろと転がる、荒れた細い下り坂だった。

 九葉は柵を乗り越え、細道に進入した。

 どうせ捜査は手詰まりなのだから、寄り道してみるのもいいだろう。

 背の高い草や木々が溜めた雨水だか朝露の名残に髪や衣を濡らされながら進み、この里の地理を思い出す。

 山の中腹を切り開いて築かれたセキレイの里。

 お頭の屋敷がそびえる最北端は切り立った崖になっており、西は山肌を縦断する深い谷があり、底には急流がある。里はこのように北と西を天然の要害に守られ、南と東に深い堀を巡らせ、鬱蒼とした山から人の住処を切り取っている。

 このまま進むと、堀の底に辿り着きそうだ。

 長らく鬼との戦いから遠ざかっているこの里の堀に、目を引くものあるとは思えない。まあ、不法投棄されたごみぐらいしか見つからぬであろう…などと、軽い気持ちで底に辿り着いた九葉は、思いもよらぬものを目の当たりにした。

 ごみの山は確かに見つかった。しかし、その麓に居を構えている人々がいたのだ。

 しかも、一人や二人ではない。十人、二十人、いや、もっと…百人近く。

 集落、と言ってよかった。

 彼らごみから掘り出したと思われる廃材や、近くの渓谷から拾ったと思しき流木を組み立てて作った粗末な小屋に住み、纏う衣は継ぎはぎだらけで、誰もが痩せ細り、薄汚れていた。

 同じ里の中だというのに、堀の上に住む人々とは雲泥の差だ。

 あばら家の前には、あちこち繕われた網が干してある。漁に使う網に見えた。この渓流の魚は取り尽くしたと聞いていたが、実は、細々と漁は続いているらしい。

 集落がにわかに騒がしくなった。いや、騒がしくなったと言うには語弊がある。生気のない顔で歩いていた人々が、か細い悲鳴を上げ、まるで大魚に蹴散らされる小魚のように次々に近くの家に引っ込んでいくのだ。

 あっという間にほとんどの住人が消え去り、最後に残ったのは九葉と、十二、三歳くらいの少女一人、そして、二人のモノノフの男だった。

 少女はこの集落の住人のようだ。対するモノノフはどちらも体格がいい。霞んだ金銀の武具を身に着けている。途南の部隊の一員のようだ。

 モノノフ二人は少女を取り囲み、大声で怒鳴っていた。

 聞こえてくる単語から察するに、少女が押していた荷車が泥水を跳ねさせ、それが彼らの装備にかかったようだ。

 少女は必死に謝罪しているが、親を殺されたかのような剣幕での恫喝は続く。

 とうとう男の一人が足を振り上げ、少女の腹を思い切り蹴った。

 彼女は為す術なく泥水の上に倒れ伏した。男たちはそれでも容赦せず、痩せた体の至る所に蹴りを見舞い始めた。

「待たれよ」

 九葉は駆け寄り、声をかけた。

 モノノフ二人は足を止め、胡乱な目線を九葉に向けた。

 ちらりと少女に目を向けると、彼女は泥水の真ん中で蹲っていた。咳き込み、むせび泣く声が聞こえてきた。命はあるが、怪我の程度まではわからない。

「貴殿らは、途南殿の部下だな。私刑は規則で固く禁じられている。その女に罪咎あらば、まずは『鬼ノ府』に届け出るのが筋ではないか」

 正論であるが、本人たちはこれが悪事だとわかってやっているから、聞き入れられるはずがない。むしろ、邪魔者を問答無用で排除しにかかるであろう。

「かっこいいじゃねえか。もちろん、俺らを『雪月花(せつげっか)』とわかってて喧嘩売ってんだろうな」

 モノノフらは邪魔者に声をかける程度には紳士的だった。

 九葉は口をつぐみ、じり、と二人を睨みつけた。義心を奮い立たせて声をかけてはみたものの、次の一手に詰まった、という顔をしてみせる。

 否、実際に九葉は詰んでいた。文官の彼に、複数のモノノフに武力で勝ち切る算段などない。だが、彼らの反応から、この里のモノノフ部隊の()(よう)を測ることができる。

 それに―――自分の予測が正しければ程々で済むはずだ。命までは奪われない。

 二人のモノノフは勝ち誇ったように笑い、鞘に納めたままの太刀の先で、九葉の肩や頭を小突いた。

「なんだよこの服、霊山のボンボンか」

「身ぐるみ剥いで吊るしてやろうか」

 ゲタゲタと笑いながらそんな話をする。過去において、それを行ったことが幾度もあるような口ぶりだった。

 辺りから視線を感じる。あばら家に逃げ込んだ住人たちが経緯を見守っているのだ。

途南の部下たち―――『雪月花』というらしい―――は虫の居所が悪くなるとここに足を運び、立場の弱い人々を痛めつけて憂さ晴らしをする。それが習慣化しているようだ。こうなると、少女が装備を汚したという話も疑わしい。

 そして住人達は、『雪月花』が来たら、標的になる前に速やかに最寄りの家に避難すると取り決めているようだ。

 間に合わなければ、いたぶられる。あの少女のように―――いや、今の九葉のように。

 モノノフの一人が九葉の胸ぐらを掴んだ。

 唇が、にたり、と歪む。

「世間知らずの坊ちゃんに教えてやるよ。ここでは、てめーの尻は誰も拭いてくれねえ。出した糞は、てめーで舐めるんだよ…こんな風になぁ!」

 男が拳を振り上げた。九葉は痛みと衝撃を覚悟し、歯を食いしばった。そのとき。

「待て」

 短く、決して大きくはない、しかし、水のようによく通る声が辺りに響いた。

 いつの間にか、璃庵がそこに立っていた。

 驚いたのは九葉ではなく、モノノフたちのほうだった。

「ふ、副長…!」

「璃庵殿!」

 彼らはすぐに九葉から手を離し、その場で踵を大きく鳴らし、敬礼した。

 璃庵は底の読めぬ水色の瞳をまずは九葉を、そして二人の部下に向け、

「お前たち、そのお方がお頭の姪御、早華様の婚約者であらせられると知っての乱行か?」

 と、尋ねた。

 璃庵の表情は静かなものだった。口調もまた落ち着いていた。しかし、モノノフたちは一瞬で青ざめた。

 そして、崖から飛び降りるような勢いで膝をつき、九葉に向かって深々と頭を下げた。泥で大切な装備が汚れても顧みず、地面がえぐれるほど強く額を押し付けて。

「た、大変失礼いたしました!」

「どうかお許しください!」

 つい先ほどまで嘲弄し、暴行を働こうとした相手に対し、泣くような声で許しを乞う。

 九葉は呆然とした。人は、これほどまでに変わることができるのか…。

 言葉を失った九葉に代わり、璃庵が短く「去ね」と命じると、二人のモノノフは情けなく何度も頭を下げながら、おぼつかない足取りで去って行った。

 狐につままれたような顔で彼らの背中を見送り、九葉は思った。

 この里における善悪の基準は、お頭との縁にあるらしい。

(……いや、そうでもないか)

 お頭の姪の婚約者。それを聞いたとき、住人たちの目線が一斉に変わった。九葉が最も慣れ親しんだものに。

―――憎悪と、敵意。

「帰りますぞ」

 璃庵が、今度は九葉に告げた。

 彼の口調は静かなままだったが、こちらに向けられる視線には有無を言わさぬ圧力があった。

 ここでの探索は、これで終いというわけだ。

 颯爽と歩きだす璃庵に、九葉は無言で続いた。

 去り際に一度だけちらりと集落を振り返った。

 あばら家からちらほらと人が出てきて、少女に集まってゆく。幾人かが介抱しようと手を伸ばすが、彼女はいまだに起き上がることができない。…軽い傷では済まなかったらしい。

 一方、九葉を先導する璃庵は凛と背筋を伸ばし、踏み出す足には迷いがなく、その姿には非の打ちどころがなかった。まるで、この荒れ果てた集落が―――この理不尽が、目に入っておらぬかのように。

 

 帰り道は、九葉が見つけた細い坂道を使った。

「璃庵殿、礼を申し上げます」

 歩きながら、九葉は礼を述べた。先ほどは一応助けられたことになる。

「これが私共の仕事でございますから」

 璃庵は振り返らず、事務的に返した。

 会話が途切れ、サクサクと荒れた道を歩む二つの足音だけが響く。

 九葉は遠慮がちに璃庵に尋ねた。

「さっきの集落はいったい…お頭はあの場所をご存じなのですか?」

 職務の一環として、九葉はいくつかの里を訪れたことがある。同じ里の住人でも貧富の差は存在するが、これほどに顕著な例は初めて見た。

「天極様の命により、お頭は里の近代化を急速に進めてまいりました。しかし、荒れ果てた地を疾走すると車輪に(ひず)みが生じるは必定。あの者たちはその歪みでございます」

 と、璃庵は説明した。

「変化を恐れる者、外様を忌み嫌う者、過去の因習にしがみつく者……我々も根気よく説きましたが、聞く耳を持ちませなんだ。彼奴らは生まれ育った里に背を向け、かといって巫女の結界の外で生きる意気地もなく、あの堀の底に流れ着いた次第でございます」

 あそこの住人はお頭の方針に反対し、対立の末、自ら住居を手放した人々だという。話の辻褄はあっている。

 左様でございますか…と頷きながら、九葉は先ほど目にした集落の人々を思い出していた。

 自分が早華の婚約者であると明かされた時に向けられた、強烈な負の感情は、こういうわけだったのか。彼らは皆、反対者を容赦なく排斥したお頭と、その体制にただならぬ憎しみを抱いている。両者の溝は深い。恐らく、里の終焉の瞬間まで埋まることはないだろう。

「ところで九葉殿、いかなる用向きであの場に参られたのですか?」

 今度は璃庵が問うた。彼の冷静な口調には、咎めるような響きがあった。知らなかったとはいえ、お頭に対して強い反発心を持つ集団の中に、今の九葉が近づくのは確かに得策ではなかった。

「それは……」

 九葉は言い淀んだ。

 辻斬りの手掛かりを探していた。などと、璃庵に対しては打ち明けられない。

 しかし、彼はこの沈黙からおおよそを察したらしい。失望したようなため息を一つつき、こう言った。

「早華様の思し召しであると承知の上で申し上げます―――自重なさいませ。次は、お救いできかねます」

 璃庵の語り口は穏やかだが、芯には底冷えするような怒りを湛えていた。

 申し訳ない、と九葉は小さく頭を下げながら、こう心得た。

 これは最後通告だ。

 たとえ早華の名を振りかざそうとも、これ以上嗅ぎまわるならば命の保証はない、と璃庵は言外に告げていた。そしてこれは、堂衛の意志でもあるだろう。

 それにしても、と同時に思う。先程の璃庵は、九葉にとって早すぎず、遅すぎず、ちょうど良いところで姿を現した。

 やはり、見張られているという前提の言動を心がけたのは、正解だった。

 



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(四)

 九葉は璃庵によって城の前まで送り届けられた。彼は御役目があるからと早々に立ち去り、入れ替わりに早華が戻ってきた。

 事件現場周辺の捜査を担当した彼女の収穫は、案の定、なかった。

 殺人が起きたのは昼間の人通りが多いところであったため、遺体も血痕も、里のモノノフたちが速やかに片づけてしまったらしい。

 しかも、聞き込みの途中で買い物中の彗と出くわし、捜査はそっちのけで存分に買い食いを楽しんだようだ。

「…それでね、襟のあたりに桃色の大きな飾り紐がついてて、これ、リボンってうんだって。とっても可愛いの! 彗ちゃんと色違いのを買ったから、あとで見せてあげるわ。それとね、粉屋の五朗さんのお店が揚げ菓子を作ってたんだけど、すっごく美味しかったの! そうだ! ここにもう一本あるんだったわ。食べてみて。冷えちゃってるけど、ほんとに美味しいんだから!」

 九葉は遠慮した。

 早華は顔を輝かせ、外様風に生まれ変わったセキレイの里巡りがいかに楽しかったかを熱心に、延々と語って聞かせた。

 辻斬りに係る報告は一言、二言で終わった。

 しかし、九葉に早華を責める権利はない。彼もまた、婚約者には「手がかりはなかった」という報告しかできなかったのだから―――堀の底に追いやられた人々の集落と、そこで自らが体験したことは、伝えなかったのだから。

 その後、九葉は当たり障りなく過ごした。早華の「本日の戦利品」の展示会に付き合い、鵬翼のいまいち要領を得ない女性談義に適当な相槌を打ち、百合の蒐集品(おもに西洋の珍品)自慢に巻き込まれ、御役目所で埃をかぶっていた蔵書を手に取り―――やがて、夜が訪れた。

 

 人々が床に就く時間、城の門に、二つの人影があった。

 早華と、九葉である。

 櫓の陰から早華がひょこりと顔をだし、見張りの姿がないのを確認し、

「九葉、こっちこっち、早く」

 小声で呼び、懸命に手招きした。

 頭貫によじ登っていた九葉は、それを見て門の外に飛び降りた。

 肩には、腰帯をいくつも結び合わせ、先端に百合の蒐集品からこっそり拝借した西洋の燭台を括り付けて作った即席の鉤縄を巻きつけている。門をよじ登るときに使ったものだ。

「もう、何やってるのよ。そんなにのろのろ動いてたら、おじさんのモノノフに捕まっちゃうわよ」

 櫓の陰に滑り込み、合流を果たすや否や、早華は頬を膨らませ、黒い大きな瞳で九葉を睨み付けた。

 九葉は何も答えなかった。憮然とした表情で縄を丸めて櫓の陰に押し込んだ。

 その様子を見て、早華は気まずそうに唇尖らせ、

「…何よ、怒ってるの?」

 と、小声で訊いた。

「私は反対した」

 九葉は目を合わせぬまま低い声で言った。

「お前に何かあっては、元も子もないのだぞ」

 夜半を過ぎたころ、早華が言い出したのだ。

 辻斬りを探しに行くわよ、と。

 昼間の調査では何一つ手掛かりが掴めなかったのだから、夜の里を見回り、直接辻斬りを捕まえるしかない。と、彼女は力説した。

 九葉は反対した。あまりにも危険すぎる。

 しかし、彼女は聞く耳を持たなかった。

 昼間、食べ歩きを堪能したことで、辻斬りへの関心は薄れたかと思っていたが、見込みが甘かったようだ。

 それどころか、早華は一振りの太刀を押し付けてきた。万が一、辻斬りと遭遇した時のために、と言って。

 九葉が道中の護身のために身に着けていた太刀だった。城に招かれてからは使用人が預かり、それきり帰ってこなかったものだ。何か理由をつけて取り戻さなければと思っていたが、まさかこんな形で叶うとは。

 早華は一度こうと決めたら梃子でも動かない。これまでの経験からそれを承知している。だから九葉は諦めた。

 当然のことながら、堂衛の許可は得ていない。夜間外出禁止令を破って捜査を行うのだから人の目を盗んで城を抜け出さなければならず、このように下手な泥棒の真似事をしている次第だ。

「…仕方ないじゃない。犯人を捕まえるには、これしか方法がないんだから」

 早華がぽそりと言い訳したが、九葉の怒りは消えなかった。

 稚拙極まる策につきあう覚悟をしたとはいえ、機嫌はどうかというと、それはまた別の話だ。

「さっさと始めるぞ」

 九葉は口調に若干の苛立ちを込めて早華に告げた。

 戒厳令は出ているものの、城の周辺は堂衛配下のモノノフが見回りを行っている。二人は彼らの目を盗んで長い階段と跳ね橋を一気に駆け抜け、近くの民家の路地にさっと身を潜め、大通りの様子を確認した。

 ここは、昨晩の事件現場だ。

「…誰もいないわね」

 早華の言う通り、大通りは無人だった。そして、時が止まったように静かだった。

 多くの人が行きかい賑やかな昼間の様子を知っているため、まるで知らない町に迷い込んだような錯覚すら抱く。

「昨日の今日だからな」

 様子をうかがいながら、九葉が応えた。

 皆が眠りにつく時間ではあるが、些細な生活音すら聞こえない。

 ここに立ち並ぶ建物は商売に特化した店舗ばかりで、店主たちの生活の場はこの通りより奥まったところにある。よって、夜間、この辺りは無人になる。

 しかし、里を包む空気は、何か音を立てることにすら怯えているようだった。

 人々は日中、犯人のことを妖怪かなにかのように語るが、事件が起きた次の夜ともなると、少なからず恐怖心が芽生えるようだ。

 九葉はちらりと隣の早華に視線を向ける。彼女は緊張した面持ちで塵ひとつ舞い上がらない通り見つめていた。

「どうする、引き返すか?」

 ぼそりと声をかけると、小柄な体が驚いたように小さく飛び上がり、

「とんでもないわ! ここで会ったが一年目よ、必ず捕まえてやるんだから」

 それをごまかすように、黒い瞳で強く睨み付け、彼女は声量を抑えたキンキン声で反発した。

『一年目』なのはお頭たちのことだがな…という正論は胸の内にとどめ、九葉は立ち並ぶ店の軒先が刻む陰の中を、足音を立てずに移動し、二軒先の西欧風の雑貨店の看板の裏に身を潜めた。早華も彼に続く。

 区画整理の賜物で、道はまっすぐに伸び、見晴らしがいい。今夜は雲がなく、月が明るい。それにガス灯も煌々と光を放っているため、視界も良好だ。

 もしも犯人が現れたら、遠目でもその姿をはっきりと確認することができるだろう。

 光の当たる通りをじっと見据えながら、九葉は身に着けた太刀の硬い感触を意識した。

 胸がざわめく。

 神経が研ぎ澄まされ、静寂が重くのしかかる。

 今宵、辻斬りが出没するという保証はない。今このとき跋扈しているとしても、出会う確率もまた未知数だ。

 しかし、九葉の胸には根拠のない予感があった。

 相見えるであろう、と。

 

「まったく…困ったお姫さんだよ」

 同じ頃、背の高い店舗の屋根の上で嘆く者がいた。

 霞んだ金銀鎧のモノノフ―――途南が隊長を務める精鋭部隊『雪月花』の一員だ。

 闇の中でもよく利く彼の双眸は、影から影へコソコソと飛び移ってはしきりにあたりを見回す九葉と早華を映していた。

「俺は、彗お嬢様よりはマシだと思うけどな。早華お嬢様はどうでもいいことで俺たちに八つ当たりしねえし」

 隣で周囲を警戒していた、同じく霞んだ金銀鎧の男―――彼の相棒だ―――が異論を述べると、

「ぁあ? どこがだよ」

 男は目を吊り上げて反論した。

「彗お嬢様の八つ当たりなんてほんの数分我慢してりゃ終わるし、適当に持ち上げときゃ大人しくなるんだよ。それに比べてこっちは…」

 物陰で、九葉に向かって何事かをまくし立てる早華を見て、彼は一度舌打ちした。

『雪月花』の一部の隊員は現在、お頭・堂衛の命で、久方ぶりに帰郷した姪の早華と、その婚約者の九葉の監視を行っている。堂衛は九葉を警戒しているようだが、人相は悪いもののこれといって問題はなさそうだ、というのが携わった一同の共通の見解だ。

 ただ、姪の早華が辻斬り事件に興味を持ったことで、この仕事は煩わしいものになった。九葉は早華のわがままに巻き込まれ、しぶしぶ事件の捜査を行っているが、昼間はその過程で面倒なところに足を突っ込んだ。それに加えて今夜の無断外出である。監視する側としては苛立たしいことこの上なかった。

 相棒の男は監視対象の二人に目を向け、

「…確かに、悪気が一切ねえってのが性質(たち)悪いよな」と、ため息交じりに言った。

「大した力もないくせに、変に使命感出しやがって。こっちの仕事が増えるっつーの」

 男はお頭の姪とその婚約者を忌々しそうな顔で見遣った。

 そして、声が届かぬのをいいことに、彼はしばらく早華を始めとするお頭一家の子女への不満をぶつぶつと漏らし、そうだ、と、何かを思いついたような声を上げ、相棒を振り返った。

「なあ、今ちょっと考えたんだけどよ。もしも『不幸な事故』が起こったりしたら、俺たちの仕事は終わりじゃねえ?」

「いや、さすがにそれは駄目だろ」

 男の言わんとすることを悟り、相棒は慌てて首を左右に振った。

「殺すってわけじゃねーよ。ただ、指の一本でもなくなったら、あのお転婆姫もちっとはお淑やかになるだろって話」

「早華お嬢様には毛ほどの傷もつけさせるなってのがお頭の命令だ。たとえ本当に事故でも、俺たちの首が飛ぶぞ」

 冷静な指摘を受け、

「っあーーー、そうだった。くっそーめんどくせーなー」

 男はガシガシと髪を掻いた。

 一方、路地裏では、触れてもいない桶が動き、その物音で早華が大げさに飛び上がって九葉の背に隠れた。ちなみに、犯人は鼠だった。

 その様子を見て男は鼻を鳴らした。

「馬ッ鹿じゃねーの? 辻斬りなんて、いくら探してもいないっつーの。なぁ?」

 同意を求めて振り返り―――彼は目を見張った。

 相棒が、姿を消していた。

 彼は離れるときは必ず一声かける男だし、屋根からうっかり滑り落ちるような間抜けでもない。

 男は立ち上がり、腰から音を立てずに双剣を抜き放った。

 注意深くあたりを見回すと―――ひゅっ、と、目の前を小さな影が通り過ぎた。強風に流される黒煙のような、人によっては目の錯覚と片付けてしまいそうな希薄な影だった。

 それが、彼の見た最後の光景になった。

 男の首と防具の隙間に細身の刃が滑り込み、顎の下の柔らかい肉から頭蓋の中の内容物を通り抜け、脳を貫いていた。

 男の命が消え、その肉体が屋根を転がり落ちる様子を見る者はいなかった。下手人はほんの僅かな時間で、神業といってもいい素早さと精度で彼の急所に刃を突き立て、すぐに立ち去っていたからだ。

 どさり、と鈍い音を立てて、男は壊れた人形のように地面に崩れ落ちた。

 その様子を、彼の相棒は虚ろな目で見ていた。

 軒先に逆さ吊りにされ、喉から夥しい量の血を流しながら。

 



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(五)

 ―――遥か遠くから、何か大きなものが落ちるような音が聞こえた。

 九葉は腰に履いた太刀の柄に手をかけ、辺りを見回した。

「ど、どうしたの、九葉?」

 早華が躊躇いがちに声をかけると、九葉は―――早華を引き倒し、振り向きざまに太刀を抜いた。

 キィン……! と、硬い者同士が強くぶつかり合った音が響き、暗闇を湛えた路地に反響した。

 咄嗟に抜いた刃は何者かによる刺突を弾き返した。

 九葉は二歩、三歩とよろめいた。まるで疾風が刃を持ち、そのまま突進してきたかのような、鋭く、そして速い一撃だった。接触の瞬間、相手の姿が全く見えなかった。

 襲撃者は、仕損じたと見るや、山猫のような身軽さで大通りに飛び退き、態勢を整えた。

 月の明かりが、ガス灯の光が、()の姿を照らす。

「――――――」

  九葉は、言葉を失った。

 驚きはしなかった。()と辻斬りとを結びつける根拠は得られていなかったにも拘らず、やはりそうか、と、ごく自然に思った。

 さらりと揺れる射干玉の長い髪。幼い子どもながら、整いすぎた顔。

(阿羅彦―――)

 昨夜、あの回廊で出会った美しい少年が目の前にいた。

 九葉は固唾を飲んだ。さりげなく、早華を背にかばいながら。

 彼が今、この時に、この場所にいること。

 子どものそれでしかない細い腕が、まるで体の一部のように翻している、刀身三寸ほどの、鍔のない抜身の直刀。

 先ほど自分たちを襲った鋭い一撃。

 これらが意味することはつまり―――

 そこまで考えた時、九葉の体を言いようのない悪寒が貫いた。

 とっさに体が動いた。

 己が体で早華への到達経路を絶ち、重心を落とし、刀を立てて右手側に寄せ、左の二の腕心の臓を庇う。

 ほぼ同時に、厚めの刀身が一度甲高い音を立て、衝撃が二度来た。

 次ははっきりと見えた。

 阿羅彦は素足で舗装された路面を不規則に、そして音もなく疾り、跳びあがる蛇のように湾曲した軌道で九葉の太刀に刺突を二撃与えた。

 九葉はこれを受けて、死を覚悟した。

 阿羅彦の動きは見えた。しかし、その一連の動きは、恐ろしく速かった。そして、鋭く、重かった。あの不相応に大きな刃を、彼は九葉以上の腕前で操って見せた。

 しかも息は上がらず、美しい顔は乱れない―――余力を残している。

 つまり、彼の剣はこれ以上の威力で以って九葉に襲い掛かることになる。

 九葉は辺りの気配を探った―――自分たち以外、誰もいない。

 自分には常に何人か監視がついているはずだ。しかし、この期に及んで誰も姿を現さぬとは…これを機に亡き者とするつもりか? いや、違う。自分はともかく、早華がここにいる。ならば―――

(斬られたか)

 九葉に先立って、阿羅彦の餌食となったらしい。

 阿羅彦はいったん距離を置き、直刀を翻しながら探るようにこちらを見つめている。

 彼の装束はおろしたてさながらに眩く白い。血の汚れはおろか、埃すら見当たらない。

 監視どもを切り伏せるのは、きっと、容易いことだったのだろう。

 最早、彼を幼い子どもだとは思えなかった。

「早華、逃げろ」

 剣先を阿羅彦に向けながら、九葉は背後の早華に告げた。

 勝てない。たとえ、命と引き換えにしても。

 九葉は速やかにそう結論付けた。

 初撃を生き延びたのは天祐。二撃、三撃目は、あちらの手心。九葉の力量を測るためのものだ。

 次で仕留めにかかるだろう。

「近くの民家に駆け込め、私もすぐに追いつく」

『詰み』の状況であることに変わりはないが、彼女が逃げるだけの時間は稼げる。

 しかし、早華は一歩たりとも動かなかった。

「早華」

 苛立ちを込め、今一度呼びかける。

 肩越しの彼女の様子を確認し、九葉は目の前が暗くなった。

 早華は蒼白になって震えていた。黒い瞳を大きく見開き、尻もちをついたまま。

「あ……あ……」

 立ち上がらないのではない、立ち上がれないのだ。他者から殺意を向けられたのは生まれて初めてなのだろう。恐怖のあまり、身動きはおろか、ろくに声すら出せないようだ。

 ふわり、と、少年の長い髪が揺らいだ。

 次の瞬間、彼は疾風になった。

 九葉は我武者羅に太刀を振り回した。

 気が付けば、身体がそうしていた。自棄になった、と言っても過言ではなかった。

 あの直刀が必ず自分の肉を断つ。心の臓を貫く。あるいは首を裂く。その瞬間はいつ来るのか。そればかりが思考を占めていた。

 突進の速さを載せた一突きが太刀の筋に突き立つ。

 弾かれた勢いを使って右腕を翻し、直刀が複雑な軌道を描いて見るものを幻惑する。

 そうして上段から振り下ろされた一撃が、たまたま思い切り振り上げた刃のものうちにぶつかり、威力を相殺する。

 とん、と軽やかな足が一歩横に流れて音のような速さで繰り出された払いを棟で受ける。刃同士が耳障りな音を立ててこすれ合い、火花が散る。

 そうやって、六合ほど斬り合った。と言っても、九葉が一方的に打ち込まれるだけだったが。

 必死に阿羅彦の剣を受けながら、一つ、九葉は気づいた。

 阿羅彦は、早華を殺そうとしている。しかも、九葉を殺さずに。

 早華を斬りたければ、それを邪魔する九葉をまず除くのが常道だ。なにせ早華は今、腰を抜かして動けないのだから。

 しかし、阿羅彦はそれをしない。彼にとっては造作もないはずなのに。不便を差し置いてまで九葉を残そうとしている。それはつまり―――九葉に用があるのだ。殺害以外の目的で。

 ならば…!

 九葉は一歩踏み出した。雄たけびを上げ、阿羅彦めがけて斬りかかった。

 この一撃が空振れば背後が疎かになる。その時こそ早華の命が奪われる。

 それでも…!

 キィィ…ン! と、この一戦で最も大きな音が夜の里に響き渡る。

 初めて阿羅彦が受けた。

 九葉は華奢な直刀に、太刀を介して体重をかける。

 刃越しに、二人の視線が交わった。それは、互いに圧し合い、噛み合う刃が上げる軋みに似ていた。

 阿羅彦は動かない。しかし、動けない、と言うわけではなさそうだ。

 射干玉の瞳を大きく見開き、九葉を見ている。その白い顔は、汗ひとつかいていなかった。

 こちらは心臓が暴れ、ごうごうと肺が唸り、唾を飲み込むと血の味がするというのに。

 理不尽な怒りが胸の奥に沸き、九葉は怒鳴った。

「故なく人を斬るか。血を流せれば、誰でもよいのか、阿羅彦!」

「――――――!」

 阿羅彦が息を呑んだ。今度こそ本当に驚いたようだ。九葉を弾き返し、彼がたたらを踏んだ隙に大きく飛び退いた。

 遠くから呼子笛が鳴り響いた。まずは一つ。さらに共鳴するように一つ、二つ。甲高い音はやがて、遠くで、近くで、幾つも聞こえるようになった。夜警のモノノフたちがようやく騒ぎに気付いたようだ。

 阿羅彦がものすごい速さでこちらに駆けてきた。九葉は反射的に太刀を構えたが、ふたりが再びぶつかることはなかった。

 九葉の目の前で、たんっ、と素足が地面を蹴り、小さな体が跳躍した。

 夜を生きる鳥のように軽やかに闇夜を舞い、洋風の店舗の屋根に着地、そのまま駆け出した―――逃げた。

「待て!」

 九葉は叫び、阿羅彦を追った。

「私も行くわ、九葉!」

 早華が立ち上がり、ともに駆けだした。

「お前はモノノフ部隊と合流し、事の次第をお頭に報せろ」

 九葉は言った。彼女が戦えないことは十分に証明された。犯人逮捕は自分たちの力では無理だとわかったはず。これ以上は九葉にとっても、彼女にとっても得るものはない。 しかし、

「嫌よ! せっかく辻斬りを見つけたのに、こんなところで引き下がらないわ! 絶対についていく!」

 早華は走りながら首を左右に振り、キンキン声で言った。涙の残る黒い瞳で、高く跳躍する阿羅彦を強く睨みつける。

 腰を抜かしたのがよほど悔しかったらしい。

 九葉は何も言わなかった。押し問答をする暇が惜しかった。

 屋根から屋根へ飛び移る阿羅彦を追い、二人で夜の里を駆けた。

 障害物のない屋根の上を駆ける阿羅彦が圧倒的に有利だ。どんどん二人を引き離してゆく。

 一方の九葉は路地裏のごちゃごちゃとした障害物に行く手を阻まれ、しかも早華の走力に合わせているため、思うように動けなかった。置いていけば、阿羅彦が転身し、再び彼女を襲う可能性があるためだ。

 果たして、里をあちこち駆けまわった挙句に、二人は城の近辺で阿羅彦の姿を見失った。

「子どものくせに、なんて逃げ足なの…!?」

 息を切らしながら早華が言った。

 九葉は肩で息をしながら、辺りを見回した。見失いはしたが、彼の拠点は城のどこかにあるはずだ。モノノフたちから逃げきるにはそこに帰るがいちばん手っ取り早い。しかし、堂々と正門をくぐったりはしないだろう。ならば…。

 九葉は城を目指して進んだ。店と店の間の、大人一人がようやく通れる狭い隙間を抜け、城をぐるりと囲む石垣に突き当たった。

 不思議そうな顔をする早華を尻目に、九葉は石垣を調べた。

 大通りと城壁から届く弱い灯りを頼りに、両手でべたべたと探る―――質感の違う石を見つけた。周りの石と違い、埃や苔が少ない。

 力を込めて押すと、ごとり、と、音を立てて石垣がくぼみ、大人がしゃがんで潜り抜けられる大きさの穴が空いた。

 背後で早華があっと息を呑んだ。

「こんなところに隠し通路があるなんて…」

「この規模の城は、万一に備えていくつか脱出口が用意されているのが常だ」

 九葉は淡々と答え、懐から手燭と油の入った瓶を取り出し、手早く灯りを用意した。それを見て早華は固唾を飲んだ。

「…九葉、行くの?」

「辻斬りがここを使ったことは間違いない」

「それは、そうだけど…」

 早華は口ごもった。

 背中に、彼女の何か言いたげな視線を感じる。我が家と思っていた城の麓にこのような隠し通路を見つけ、しかもそれが殺人犯に使われていると知って、少なからず衝撃を受けているのだろう。

 これが平時ならば、こちらから「何か気になることがあるのか」と尋ね、彼女の胸の内を聞いてやっているところだが、今回は気づかないふりをした。時間が惜しかった。

 灯かりを穴の中に挿し込んで穴の中を確かめながら、敢えて彼女の胸の内から一段ずれた質問をする。

「ちょうど城の近くに来たのだ、今からでもお頭のところに帰るか?」

「まさか。ここまで来て、引き返したりしないわ。あんな子ども、すぐに捕まえて、お尻ぺんぺんしてやるんだから」

 早華はキンキン声で言い放った。

 阿羅彦が引き起こした事件は「お尻ぺんぺん」で済むものではないのだが、話の主旨はそこではないので黙っておいた。

 二人は隠し通路に進入した。

 



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(六)

 入口の小ささとは裏腹に、中は広かった。大人でも背筋を伸ばして歩けるほどに。

 中は暗く、黴臭かったが、蜘蛛の巣や動物など、歩くうえで障害になるものはない。それはまさしく、人が往復した痕跡であった。

 延々と一本道が続いたため、迷うことはなかった。

 ここを抜けた先に、阿羅彦がいる。しかし…

 九葉は己に対し、ある疑問を抱いていた。

 阿羅彦に会ったら、自分はどうするつもりなのだろうか、と。

 刃を交え、成敗するのか?

 捕獲して、堂衛に引き渡すのか?

 …だが、九葉はそれが可能だとは思えなかった。圧倒的な力量差が根拠の一つだが、それ以上に、直感が囁くのだ、それは違う、と。

 ならば、話をしてみればよいか?

 なぜ人々を殺した?

 なぜ、自分たちを襲った?

 …問うたところで、知ったところでなんになる?

 この期に及んで言語道断の疑問である。それでも、足は止まらない。手燭の小さな灯りを頼りに、九葉は闇の中を進む。

「ねえ、九葉」

 早華が控えめな声で話しかけてきた。

「すまんが後にしてくれ」

 九葉は短く彼女の話を断った。

 話声でこちらの存在を悟られることがあるし、再度の襲撃に備えて気を張っており、余裕がないのだ。

 しかし、早華は口を閉ざさなかった。

「九葉、あの子のこと、知ってたの?」

 ぽつりと呟かれた一言に、九葉は足を止めた。

「『あらひこ』って、あの子の名前だよね。九葉、どうして知ってるの? それに、お城の中にあの子が逃げ込んだことも最初から知っているみたいだった…どうして?」

 早華は重ねて問うた。迷いなく闇を進む婚約者の背中を見つめながら。

 彼女は辻斬りに刃を向けられて腰を抜かした。九葉に加勢しなきゃ。そう思うのに体が動かなかった。けれど、その金縛りを解いたのは、他ならぬ九葉の一言だった。

―――故なく人を斬るか。血を流せれば、誰でもよいのか、阿羅彦!

 その瞬間、彼女が抱いたのは、疑問ではなく、疑念、だった。

 わからないことをわかろうとするのではなく、彼女は九葉という人に対して疑いを抱き始めたのだ。

 九葉は肩越しに振り返り、冷えた声で言った。

「…私が辻斬り犯の仲間だと?」

「違う! わたし、そんなこと言ってない!」

 早華は叫んだ。違う。言いたいのはそんなことじゃない。

 まるで発作のような早華に反応に対し、九葉は冷静だった。

「ならば、それについては後で―――」

「今答えて!」

 金切り声が、暗闇に反響した。

「九葉、何か変よ? 私の知ってるキミとは別の人みたい。辻斬りについて、なんでも知ってるみたいだし、なんか、いつもよりムキになって…私のことよりも、あの子のことばっかり考えてるみたいだし…」

 気が付けば、早華は泣いていた。

 わかってくれない彼がもどかしかった。

 自分が嫌いになりそうだった。

 この先には辻斬りのアジトがあって、彼の言うとおり、今はこんな言い争いをしている場合じゃないのに。

 しかし、目に浮かぶのだ、あの少年と刀で切り結んでいた九葉の顔が。

 わかってる。彼は自分を守るために戦ったのだ。

 でも、誰かとあんなに一生懸命関わる九葉は初めて見た。

 耳の奥に響くのだ、あの少年を引き留めようとしたときの、彼の声が。

 わかってる。ようやく見つけた犯人が逃げようとしたから叫んだのだ。

 でも、あんなに強い口調で誰かに声をかけた九葉は、初めて見た。

 九葉はこれまで、自分に対して必死に何かをしようとしたことは、一度もなかった。

―――裏切られた気がしたのだ。

 九葉は小さくため息をつき、早華をたしなめた。

「お前は本来の目的を見失っている」

「……!」

 早華は目の前が熱くなった。

 九葉の言う通りだった。

 みんなを悩ませる辻斬りを退治して、里に平和を取り戻したかった。

 だから伯父に怒られても諦めず、反対する九葉を無理やり引っ張って捜査を始めた。

 それなのに、努力が実を結び始めたとき、二人の気持ちは逆転していた。

 彼はいつでも正しくて、自分に何でも教えてくれる。でも今は、その賢さがもどかしかった。

 本当は、この隠し通路に入るのは嫌だった。また辻斬りに襲われるかもしれないから。ここの存在を伯父に伝えるために、帰りたかった。

 それでも早華が強がって九葉についてきた理由は―――怖かったからだ。

 将来を誓い合ったはずの彼が、自分を置いて、遠いところに行ってしまうような気がして…。

 だから、答えがほしかった。

 いつものように、教えて欲しかった…安心させてほしかった。

 空はどうして青いの? 風はどこから生まれるの? 鳥はどこへ飛んでゆくの?

(…あの子のことを、どう思ってるの?)

 そして早華は―――もう少し、自分のことを嫌いになった。

「教えてくれないなら、わたしはもう歩かない」

 立ち止まり、そう九葉に告げた。

 子どものようなわがまま。九葉は激怒するだろうと―――この時だけはあの子ではなく、自分を見てくれるだろうと思ったのだ。しかし。

「…ああ。もう、歩く必要はなさそうだ」

 彼はあっさり頷いた。

「隠し通路は、ここで終わっている」

「――――――」

 九葉の言った通り、通路は行き止まりだった。代わりに、壁に梯子が立てかけてあった。

 早華は頭を殴られたような衝撃を受けていた。

 きっと彼は、ここに行き止まりではなく、道が続いていたら、自分を置いてひとり進んでいたことだろう。それが、わかってしまったから。

 呆然とする早華を捨て置き、九葉は梯子を上り、突き当たった床版をずらして、そっと顔を出した。

 ひやりと、草の匂いが鼻孔に流れ込んできた。

 用心深く辺りを見回す。そして九葉は気づいた。闇に沈む庭園―――ここは、初めて阿羅彦と出逢った場所だった。

 床版と思っていたものは、庭石だった。

 辺りにモノノフたちの気配がないのを確認し、九葉は庭へ出た。

 近くの木の陰に素早く身を寄せ、辺りを見回す―――もちろん、あのときのように阿羅彦はいない。しかし、彼はここを通ったはずだ。

 早華がごそごそと隠し通路から這い出、九葉に倣い木の陰に身をひそめた。彼女はじっと顔をしかめていた。何か、痛みを懸命に我慢しているように。

 言いたいことはわかる。聞きたいことはたくさんあるだろう。しかし、今の九葉に、彼女の相手をしている余裕はなかった。

 昨日の同じ時間に盛大なもてなしを受けたこの城は今、九葉にとって敵地となったのだから。

 九葉は改めて辺りを見回した。一本道だった隠し通路と違い、この城は広大だ。昨晩は早々に途南に見つかってしまい、ろくに見回ることができなかった。だから見つけなければならない。阿羅彦に通じる痕跡を…

「……?」

 九葉は眉を眇めた。

 女がすすり泣く声が聞こえたのだ。遠くから。

「…今、声が聞こえなかったか?」

 隣の早華に問う。

「…別に、何も聞こえなかったけど」

 早華は感情のない声で答えた。

 しかし、九葉は空耳だとは思えなかった。木の陰から抜け出し、音もなく庭を横切り、手すりを飛び越えて廊下に降り立つ。

 泣き声がはっきりと聞こえてきた。

 九葉はその声を辿ることにした。

 途南の話によると、ここから先は『神垣ノ巫女』の御座所だ。立ち入らせるなと彼女が厳しく命じたというが、しかし、九葉は足早に進んだ。泣き声は、御座所の方向から聞こえてくるのだ。

 昨晩は足を踏み入れることのなかった闇に身を浸すと、幽世に足を踏み入れるような薄気味悪い錯覚を覚えた。

 不思議なことに、見張りには遭遇しなかった。辻斬りの対応に追われているせいか。

 いくつもの分岐に遭遇したが、声のおかげで迷うことはなかった。

 聞こえてくるのは、自分たちの足音と女の声ばかりだった。

 御座所の内部に足を踏み入れると香のにおいが漂ってきた。意識の奥底をざわめかせ、判断力を奪うような、甘く、妖しい香りだった。

 胸騒ぎがした。この先に何か、ひどく危険なものに誘い込まれているような…

 肩越しにちらりと早華を見る。

 彼女は眉をしかめ、じっとうつむいて、無言でついてきていた。

 おざなりな対応をしたせいでへそを曲げてはいるが、辻斬り逮捕の信念はいまだに折れていない。あるいは、ついていくことで意地を通そうとしているのかもしれない。

 少なくとも、周囲の異様な空気は、気にしていないようだ。

(この鈍感さ、見習うべきなのかもしれぬな…)

 九葉は密かに苦笑し、自らをそう戒めた。さもなくば、進む足が鈍り、却って危地を招くかもしれぬ。

 ―――しかし、九葉の予感は的中した。

 九葉と早華はやがて、拝殿と思しき広い吹き抜けに辿り着いた。

 香のにおいはますます強くなり、女の声が、いっそう大きく聞こえてきた。

 緩い階段状になった舞台の最上階、白絹を金糸で彩られた天幕の向こう側がその源だ。  

 ここまで来てわかったことだが、女の声には、荒い息が混ざっていた。病で苦しんでいるのか? 

 九葉は久方ぶりに早華と目を合わせた。

 早華は緊張した面持ちで、小さくうなずいた。

 九葉は足音を忍ばせて舞台を登った。早華も続く。

 舞台は磨き上げられ、埃ひとつ見当たらなかった。それもそのはず。神垣ノ巫女の御座所の最奥は大抵、巫女の御座所だ。そうでないほうがおかしい。しかし、九葉は細い糸のようにまとわりつく違和感を拭いきれなかった。

 そして、最上階にたどり着き、そっと天幕の隙間から奥を覗いたとき。

 二人はおぞましいものを見た。

 まるで祭壇のように大仰に飾られた床で、男と、若い女がまぐわっていた。

 いや、まぐわっていた、というのは語弊がある。

 男は、泣いて嫌がる女を組み敷き、浅ましく腰を振り立て、汚い手で無遠慮に白い肌をべたべたと穢していた。

 強姦、と言って差し支えなかった。

 男は、時折零す卑猥な言葉の端に見える訛りから、外様であるとわかる。

 そして、女は…長い白い髪に、赤い瞳…

 九葉の体の芯が、瞬く間に冷えた。

 脳裏に、ある仮説が浮かんだ。

 ここはお頭のお膝元。この里で最も安全な場所だ。そこで、このような「大逆」が繰り広げられているということは…

(ありえぬ…)

 これまで培った常識が一斉に悲鳴を上げた。

 そんなはずはない、と。

『彼女たち』は奇跡を起こす神聖な存在であり、いかなる理由があろうとも侵してはならない。歴史の影法師に生きるものならば誰もが知っている。

 それなのに、まさか、そんな…

 あまりにも道を外れた説を否定しようと、九葉は様々な可能性を絞り出そうとした。しかしその努力は、早華の一言によって粉々に打ち砕かれた。

弥紗(みしゃ)……ちゃん……?」

 弥紗。

 セキレイの里の『神垣ノ巫女』。

 重病の床にあり、結界の維持に専念しているはずの。

 それが、あそこで男に犯されている女だというのか……?

 間違いないのか、と、九葉は早華を問いただそうとしたが、やめた。

 蒼白になって震えている彼女を見れば、それがいかに愚問であるかがわかった。

 弥紗は彼女の幼馴染だ。見間違えるはずがない。

 脳が揺れるような衝撃を受けつつも、九葉は己の中で、破片と破片が合わさって徐々に輪郭をなしてゆくのを感じていた。

 この家に集まった異常な富…神垣ノ巫女の御座所…外様の男…白い髪と赤い瞳の女…。

 これらの意味するものは―――

 また九葉は、涙で乱れた女に既視感を覚えた。

 あの女の顔、どこかで…。

(まさか…)

 突如、背後で陶器が割れる音が響いた。

 九葉は内心で歯噛みした。驚きのあまり、他者の接近に気付けなかった。

 巫女の世話係か何かだろう。思いもがけぬ侵入者を目の当たりにして、運んでいたものを落としたようだ。このままではモノノフ部隊を呼び寄せられる。どう対応すべきか。懸命に思考を巡らせて振り返る。

 その瞬間、その場の空気が凍り付いた。

 背後にいたのは二人の女中だった。彼女たちの顔を、九葉は―――そして早華は知っていた。

 早華の叔母・百合と、母・詩音だった。

 詩音の足元に、純白の陶器の破片と一緒に、酒と肴が散らかっている。物音の正体はこれだ。行為の後、男に供するつもりだったのだろうか。

 宴席で見た二人は、出で立ち、性格ともに正反対だったが、今は揃いの質素な巫女装束を纏っていた。

 彼女たちがここでの給仕や神垣ノ巫女の世話を務めているのだろう。

 さもありなん、と九葉は痺れた頭の片隅で思った。

 自分の予測が当たっていれば、この役を務めるのは彼女たちを以って他はあり得ない。

 二人は蒼白になって、立ち尽くしていた。

 彼女たちにとって、最も他者に見せたくないものの一つだったであろう。とりわけ、早華には―――

 九葉は我に返った。

(しまった、早華)

 慌てて彼女に声をかけようとしたが、遅かった。

「お母さん……?」

 早華が母を呼んだ。

 小さな顔からは血の気が引き、声は、掠れていた。そして、光の消えた大きな黒い瞳から、ボロボロと涙を流れた。

 いくら彼女とて、目の前に並べられた光景のひとつひとつを理解できぬほど愚かではない。

「そ、早華……」

 詩音が掠れた声で娘の名を呟いたとき、早華の中で何かが音を立てて切れた。

 彼女は自分よりも低いところにある母の両肩を掴み、母に食って掛かった。

「ねえお母さん、これはどういうことなの!? 弥紗ちゃんは病気じゃなかったの!? どうしてあんなことをされてるの!? お母さんはこれを知ってたの!? 答えてよ、お母さん、お母さん…!」

 早華は泣いていた。泣きながら母を問い詰めた。

 詩音は答えられなかった。娘の剣幕に圧され、やがて、声をあげて泣き崩れた。

 早華はしかし、母を容赦せず、詰り続けた。どうして、どうして、と。

「し、詩音さん、早華ちゃん、落ち着いて…まだお客さまがいるから…」

 百合が慌てて二人を宥めにかかるが、二人に声は届いていない。

 御簾の向こう側で、人心地ついた男が「何事か」とこちらを振り返った。

 九葉は―――その場から駆け出した。

 この里の仕組みのおおよそは理解できた。しかし、踏み込み過ぎた。

 九葉さん! と百合が呼んだが、応えてなどいられなかった。応えられるはずがなかった。

 舞台を駆け降り、拝殿から飛び出す。

 早華を置いてきてしまった。しかし、気にしてなどいられなかった。そもそも早華はこの件で危害が及ぶことはない。

 問題は九葉自身だ。早華の名の加護が及ばぬ領域に、不用意に触れてしまったのだから。

 回廊を全力で走りながら、この城の回廊、隠し通路、里の構造を脳裏に思い描く。そして考える。脱出するには、あるいは、身を隠すには―――

 しかし、その答えが得られぬまま、九葉は足を止める破目になった。

 隠し通路がある庭の一歩手前で、霞んだ金銀鎧のモノノフ部隊、『雪月花』に包囲された。

 彼らは昨晩と同じく、各々の得物を抜き放ち、九葉にその切っ先を向けていた。

 昨晩のように言い逃れるための言葉は、ない。

 自らの「詰み」を認めた九葉の前に、部隊を代表して途南が立った。

 彫の深い無精髭の顔には、いかなる表情も見出すことはできない。わかることは、昨晩のような友好的な笑顔が向けられることは二度とない、ということだけだ。

 彼は九葉見下ろし、を巨大な盾と剣を長い両腕に下げながら、冷え切った声で告げた。

 

「残念だ、九葉殿。俺はあんたを気に入り始めていたのに」

 



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第三章 真実
(一)


 九葉は『雪月花』に捕らえられ、城の地下の座敷牢に監禁された。

 即刻切り捨てられることも覚悟していた彼にとって、これはせめてもの救いだった。もちろん、太刀は取り上げられたが。

 四畳半の広さの牢は薄暗いが、こういった施設独特の異臭は薄い。建造からあまり時間が経っていないせいか。

 当たり前だが、窓はない。房の中にあるのは薄っぺらな茣蓙(ござ)のみ。

 九葉を外界と隔てる鉄格子の隙間は、腕が一本通る程度。鍵は複雑な造りで、手持ちの道具では開きそうにない。開けるには、専用の鍵が必要だ。

 床には用を足すための簡素な穴が空いているが、ここから身体は入りそうになかった。

 格子越しに見えるのは、同じ構造の空の座敷牢。質の悪い油で灯された明かりは弱く、目と鼻の先しか照らさない。その向こう側は泥のようにねっとりとした闇が広がっている。

 こうも暗ければ、時間の経過もわからなくなる。閉じ込められて一刻か、ニ刻か、それとも、もう夜は明けているのか。

 一度、鉄格子を強く蹴ってみた。

 もちろんびくともしなかったが、音は遠く伸び、戻ってくることはなかった。かなり広い。

 人の声は返ってこなかった。収容されているのは九葉一人のようだ。悪事を働く者自体が少ないのか、あるいは、とりわけ「回転」がいいのか…。

 九葉は暗闇を忌々しく睨み付けた。

 隠し通路から御座所までの、自身の立ち回りに後悔していた。

 早華を連れてきた時点で、すでに詰んでいたのだ。

 やはり、阿羅彦に斬られるのを覚悟して、彼女を適当なところで撒いたほうがよかった。

 早華とは弥紗の拝殿で別れて以来、顔を合わせていない。しかし、特に心配はしていない。彼女に命の危険はないし、九葉よりも遥かに良い待遇を受けているはずだから。

 問題は自分だ。とりあえずその場で切り捨てられることこそなかったものの、早々に脱しなければ命はない。しかし、その方策が、どんなに考えても一向に見つからない…。

 暗闇の奥に、星のように小さな明かりが揺らぎ、足音が聞こえてきた。

 草履の音だ。歩幅は大きく、強いが、重くはない。恐らくは、男。体格のいいモノノフ―――

 九葉は片膝を立てて身構えた。

 現れたのは―――堂衛だった。

 セキレイの里のお頭にして、この里の裏で行われている大逆の、主犯―――

 罠にかかった獣のようにじっと見を固くし、敵意の眼差しを向ける九葉を見て、堂衛は苦笑いを漏らした。

「さて、これは何のつもりだ?」

 まるで、やんちゃをして憲兵のご厄介になった息子に対するように、鷹揚な声だった。

「あなたがそれを問うか」

 九葉は鋭く返した。

「ご自分がなさっていることをわかっておいでか? あのような―――」

 拝殿で外様の男に犯されている神垣ノ巫女・弥紗の姿を思い出し、今一度背筋が凍った。

 この里の異常な西洋化。この家に集まった大量の富。その正体は、神垣ノ巫女・弥紗だ。

 彼女は売春を強要されていた。お頭の堂衛を始めとするセキレイの里の首脳陣に。

 客は、外様の支配層。幕府や朝廷の高官に、各地の大名、豪商といったところか。

 この一家の(たが)が外れた金遣いの理由がようやくわかった。外様の貨幣や品は歴史の裏側の世界では高値で取引される。闇市場に流せば価格はさらにその倍。金など、今の彼らにとっては井戸で水を汲むように容易く手に入るのだ。

 昨晩、自分が嫌々ながらも飲んで食った酒と料理は、すべて、彼女の―――

 九葉はひどい吐き気を覚えた。まるで、人の内臓を喰わされたような気分だった。

 胃の中身が喉元までせり上がったがどうにか押し戻し、九葉は堂衛を糾弾した。

「あのような所業、同じ人とは到底思えぬ。霊山君もお許しになりませぬぞ」

「明るみになれば、な」

 堂衛はさらりと言った。九葉の糾弾に対して何の痛痒も感じていないようだった。このようにありきたりな非難は予想のうちだったのだろう。

 それどころか彼の武人らしく精悍な顔は「なんでも答えてやるぞ」と、まるでへそを曲げた年頃の息子に対する抱擁力のようなものまで覗かせていた。

 九葉は無言で堂衛を睨みつけた。

 腸が沸騰するようだった。

 あれを罪と思わぬ彼の態度に。そして、自分のような若造一匹、いつでもどうとでもできるという余裕に。

 しかし、九葉は敢えて怒りを抑えた。今のところ、ここを脱する足掛かりは、この男との会話にしかないのだから。

 まずは当たり障りのないことを訊いてみた。

「…早華は、いま、どこに?」

「自宅だ。あれの両親とともにいる」

 

 

 堂衛は真実を九葉に伝えていた。

 早華は、彼が言った通り、彼女の実家に帰されていた。父の更鵠、母の詩音とともに。

 彼女の実家といえる更鵠負債の家は、城の敷地にあるこぢんまりとした離れだった。

 新築家屋独特の資材においが濃く漂うものの、夫妻の人柄をそのまま映した簡素な内装で、十二年前の早華にもなじみ深い家具がかつての面影を伝え、ぬくもりと懐かしさを醸し出している―――と、昨日までの早華であればくつろぐことができたであろう。

「早華、これを飲んで、美味しいわよ」

 囲炉裏の前で、まるで無理やり連れてこられた仔猫のようにじっと膝を抱え込む早華に、詩音は湯飲みを差し出した。無理に作った明るい笑顔を添えて。

 昨晩の宴で彼女が大層気に入っていた、チョコレートという飲み物だ。雲を摘み取ってきたような、ふわふわのクリームも載っている。

 しかし早華は泣き濡れた瞳でそれを一瞥し、すぐに顔を背けた。

 何も口にしたくなかったし、両親の顔も見たくなかった。

「ねえ早華、覚えてる? この器ね、あなた、とってもお気に入りだったでしょ。あなたが戻ってきた時のためにとっておいたのよ」

 チョコレートの器を指して、詩音は不自然な明るさで一人娘に話しかけた。

 早華はぞわりと寒気を覚えた。母の顔を見ると、先ほど見た光景が脳裏にまざまざと蘇るのだ。あの、汚らわしい光景が…。

「そうだ、早華。お前のお気に入りだったお人形もあるんだよ。持ってきてあげようか」

 更鵠がぎこちなく笑い、告げる。

「いらない」

 早華は怒鳴るような口調で突っぱねた。

 両親は、顔を見合わせた。傷ついたような顔で。

 二人とも、とても悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔で遠巻きに早華を見つめていた。

 しかし、早華に言わせれば、傷つけられたのは自分の方だった。

 この十二年の間で、何もかも変わってしまった。

 早華の知る家族は、みんな、いい人たちだった。少なくとも、こんなひどいことをする人たちではなかったのに。

「……んで」

 小さな唇か羅、掠れた声が上がった。娘が声をかけてくれたと、両親は顔を輝かせた。

 早華はその様子に嫌悪の籠った瞳を向け、涙の滲んだ声で訊いた。

「なんで、こんなことをしたの?」

 

 



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(二)

「金のためだ」

 座敷牢にて。

 言語道断の所業に手を染めた理由を、堂衛はこう説明した。

「この数十年の外様の情勢の変化で、俺たちの里は主だった収入源を失った」

 以前、このセキレイの里は対外様の情報収集拠点として存在していたが、この数十年で歴史が大きく動き、他の里にお株を奪われた。というのは九葉も知っている。

「民は職を失い困窮し、『鬼ノ府』に『神垣ノ巫女』の御座所の維持…里として最低限の体制を整えることすら難しくなっていた。親父の代から幾度も霊山に掛け合っていたが、相手にされなかった。ここ百年近く、この辺りが戦場になったことがないという理由でな。この里はあまりにも霊山から見放されすぎた」

 堂衛の淡々とした口調の裏には、霊山への深い恨みと不信感が深く染み渡っていた。しかし、九葉は鼻で嗤った。それとこれとは話が別だ。

「かつて西にその人ありと謳われた大剣豪が、詭弁を弄されるか」

「俺たちの苦しみは、俺たちにしかわからん」

「それを詭弁と申し上げた」

 九葉は軽蔑を込めた一言で堂衛の言い分を一蹴した。

 堂衛が顔をしかめた。この座敷牢から脱出しうる数少ない手立てである彼の機嫌を損ねたが、しかし、九葉は怯まなかった。

「あなたはすでに里を救うには十分に過ぎる財を成しているにも拘わらず、鬼畜の所業から手を引く気配がない。もはや大義は形骸化し、良心も誇りも失っている。故に、あなたの言う『困窮』と『苦しみ』は詭弁に過ぎない」

 徐々に険しくなる堂衛の表情を見ながら、九葉はさらに皮肉をぶつけた。

「『西の堂衛』殿にお伺いしたい。どれほどの時間、あのか弱い巫女を男どもの汚い手に穢させておいでか?」

 

「…弥紗ちゃんは、いつからあれをしているの?」

 同じ頃、早華は両親に尋ねた。

 早華の記憶では、弥紗が巫女の資質を見いだされたのは十三年前。彼女は極めて優秀で、年少でありながら、たったの一年という異例の速さで教育課程を終え、早華が霊山の小学府へ入学するのと入れ違いに、セキレイの里の神垣ノ巫女に就任したと聞いていた。

 しかし、それは嘘で、日々笑いあいながら過ごしていた両親は、伯父叔母は、いとこたちは、裏ではこのような非道の行いをしていたのではないか? 

 そんな疑いがあとからあとから胸に湧き出てくるのだ。

「……これを始めたのは、お前が霊山へ発ってから二年後のことだったよ」

 父の更鵠が沈んだ面持ちで答えた。

 早華は愕然とした。自分が霊山に発ってから二年後ということは、弥紗は十年も…。

「…弥紗ちゃんの体は大丈夫なの? 十年もこんなことを続けて、平気なはずがないわ」

 続けて問いかけたとき、両親の顔が強張った。それを見て早華は後悔した。

 やはり、弥紗の体には悪い影響が出てきているのだ。…訊くんじゃなかった。また一つ、家族の罪を知ることになってしまった。

 両親はしばし、口を閉ざした。しかし、娘の厳しい瞳に耐えられなくなった更鵠が、重苦しい声で答えた。

「弥紗様は何も仰らないよ……仰ることができないんだ」

「お、お父さん」

 詩音が慌てて更鵠に呼びかけた。伝えてしまってよいのか、と、そんな声が聞こえた。

「…母さん、いずれ打ち明けなければいけないことだ」

 更鵠は妻をたしなめ、有罪判決を受けるような顔で娘に向き直り、告げた。

「弥紗様は、ご心労から、お心を病んでしまわれた」

 神垣ノ巫女・弥紗は、度重なる凌辱に耐えられず、正気を手放してしまったのだ。

 



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(三)

「馬鹿な。それでは、この里の結界はどうなっている?」

 堂衛から『神垣ノ巫女』の容態を聞かされ、九葉は思わず声を上げた。

 鬼や瘴気を撥ね退ける結界の生成は『神垣ノ巫女』だけがなしうる奇跡だ。ただしこの結界は、ひとたび張ってしまえば延々とそこに存在するわけではなく、巫女本人が支えなければならない。よって、彼女が里から遠く離れたり、病などで人事不省に陥った場合は、結界が消失する。

 しかし、今の弥紗は到底力を行使できる状況ではないにも拘わらず、結界は正常に作用していた。里を囲む結界子は健常な光を放ち、問題なく守られている。今、この瞬間でさえも。

 この結界はどうやって維持されているのだ?

天極(てんぎょく)様から借り受けたカラクリの力だ」

 と、堂衛は答えた。

「どういう仕組かは皆目見当もつかぬが、そのカラクリには一度張られた結界を維持する力がある。つまり、今この里を守っているのは十年前に弥紗様が張られた結界というわけだ」

 九葉は密かに生唾を飲んだ。やはり、この不正は天極が絡んでいたのか。

 恐らく天極は、売り上げの一部を秘密裏に受け取っている。対外国の政策の一環としての西洋化、外様との例外的な交流という隠れ蓑を用意したのも彼だろう。

 この下劣極まる金策を持ち掛けたのは、堂衛か、それとも天極か…しかし、今はそんなことはどうでもいい。

「ところで、なぜ俺がお前にこうもあっさりと秘密を話すか分かるか?」

 今度は逆に、堂衛が訊いた。

「ご親切にも、冥土の土産を拵えてくださっているのですか?」

「違う」

 敵意を剥き出しにした九葉の答えに、堂衛は苦笑した。

「部下たちの間では『冥土の土産としろ』という意見もないわけではないがな。むしろそちらのほうが多数派だ。しかし俺はお前を殺したくない」

「…殺したくない?」

 九葉は思わず聞き返した。命を奪うに値する秘密を知ってしまった自分を生かして、彼は何をするつもりなのだ?

 堂衛は暗く湿った石畳の上に胡坐をかき、九葉と目線を合わせた。

「俺とお前、男と男、腹を割って包み隠さず話したかったのだ」

 と、堂衛は言った。罪人とは思えぬ、まっすぐな目で。

「早華はお前に心底惚れている。それに、俺はお前のような才気ある若者が好きだ。お前を家族として迎えたいという思いは今でも変わらん」

 九葉は厳しい眼差しで堂衛を見返したが、内心は唖然としていた。

 彼は、昨晩の宴で「早華を幸せにしてくれ」と頼んだ時と同じ目をして、こう言ったのだ。

 この、身の毛もよだつ悪事に加担しろ、と。

「私が承諾するとでも?」

「ああ」堂衛は至極真面目な顔で頷いた。「お前は早華の許嫁だからな」

「ご自分の姪を人質とするおつもりか?」

「そうではない」

 堂衛は首を左右に振り、こう言った。九葉の目をまっすぐ見つめて。

「家族とともに豊かに暮らすこと。これから生まれてくる子や孫が幸せであること。これが早華にとって最も幸せな道だからだ」

 九葉は冷ややかな態度を崩さない。

 堂衛は、ふっと体の力を抜き、柔らかく笑った。

「九葉。俺はな、実をいうと、外様の騒乱も、夷狄の脅威も、どうでもよいのだ。俺の家族さえ幸せであれば」

「この里を砦として、夷狄の侵略からこの里や『鬼ノ府』を守るという話は、嘘だと?」

「『鬼ノ府』の体制が崩れれば、外様にすり寄る。夷狄の侵略を受けたならば、その支配の中で暮らす術を探す。その時に金は役立つだろう。俺の矜持や評判など、家族の幸せに比べたら軽いものだ」

 この里の支離滅裂な西洋化の理由を、九葉はようやく理解できた。歴史の流れも日ノ本の情勢も、『鬼ノ府』の存続も二の次。堂衛はただ、財を集めたかっただけなのだ。己の子や孫、その子孫を豊楽長久たらしめるために。

 嘘の上に嘘を積み上げ塗り固めた彼という存在の中で、これだけが真実であり、核なのだ。

「そのご家族のために、女を辱め、幼い子供も餌食となさるか」

 九葉が冷たく問うと、堂衛は目を瞬き、直後、笑って頷いた。

「ああ、そういえば、お前はすでに阿羅彦に会っているのだったな」

 九葉の腹の中にどす黒い感情が湧いた。

 阿羅彦。堂衛が旅の途中で鬼から救ったと途南は説明したが、九葉はもう信じていない。あの話は嘘だ。万が一、彼が部外者の目に留まった時のために用意された作り話だ。彼は―――

「あの子は、神垣ノ巫女・弥紗様の子ですね」

「うむ。お前は察しがいいな」

 堂衛は九葉を褒めた。まるで父親のように。

「この程度で察しがいいなどと、冗談も大概になされよ」

 九葉は醒めた声で返した。薄っぺらい世辞である。察しも何も、弥紗と阿羅彦の顔はそっくりだった。

 父親のことは聞きたくなかった。女を犯した下郎のことなど。

 堂衛は黒い瞳を輝かせ、上体を前に傾けて九葉を覗き込んだ。

「ほう。ならば、お前はこれ以上に何を『察した』のだ?」

「此度の辻斬り騒動、犯人は阿羅彦であり、阿羅彦ではない。彼が手にかけたのは犠牲者のうち半数程度。残り半数を殺めたのはこの里のモノノフ部隊ですね」

「ふむ」

 面白そうに頷く堂衛に嫌悪感が募る。九葉は露骨に顔をしかめたが、話は止めなかった。

「あなた方は辻斬りの捜査に多大な労力と時間を割いた。しかしそれは犯人を逮捕するためではない。犯人につながる証拠を隠滅するためだ」

 一年も犯行が続いている割に、手がかりが異常に少なかった理由はこれだったのだ。

 阿羅彦が人を斬る動機は定かではない。しかし、これだけは言える。彼は、無差別に人を斬っているわけではない。そう見えるのは、堂衛率いるモノノフ部隊が目撃者や事件の真相に気付いた者を秘密裏に処理しているからだ。

 もちろん、人々はそんなことは知らない。堂衛の指示で殺された者たちもまた辻斬りの犠牲者だと思い込んでいる。実際、堂衛はそのように説明しているだろう。

 これが、夜な夜な出歩き、出会った者を無差別に殺す『辻斬り』の正体というわけだ。

 そして、堂衛がそうまでして阿羅彦を法の裁きから遠ざける理由はひとつしかない。

 彼と初めて出会った夜が脳裏に蘇る。子どもの白い肌に刻まれた、いくつもの痣。あれは―――

「あなたは、阿羅彦にも『客』を取らせていますね」

「まったく、お前の爪の垢を煎じて(せがれ)に飲ませてやりたいよ」

 堂衛は九葉を褒め称えた。場違いなほど晴れやかな笑みで。

「此度の件といい、あれには生まれた当時から悩まされっぱなしだ。ひどい難産で、弥紗様は女としての機能を失ってしまった。しかし、禍福とは糾える縄だ。阿羅彦はあのように美しく生まれつき、客にもすこぶる受けがいい。弥紗様はもう子を望めぬが、まだ阿羅彦がいる。あれが設ける子もまた、美しく育つだろう」

 身の毛もよだつ展望を、堂衛はまるで、馬の飼育の話でもするように語る。

 彼はこれからも、弥紗と阿羅彦を、そして、その末裔たちを延々と辱め、飼い続けるつもりなのだ。下劣な商売の道具として。他ならぬ、自分たちの富のために。

 とうとう九葉は声を荒げた。

「あなたという方は」

「鬼畜だ、と言いたいのだろう」

 堂衛は九葉の言葉を遮った。

「血も涙もないと思ったのだろう。しかし、家族のためなら俺は鬼にも畜生にもなれる。血も涙も差し出す」

 堂衛の低い声には―――強い眼差しには、揺るがぬ覚悟が宿っていた。

 たとえことが明るみになり、裁きの場に引き上げられても、この態度は崩さぬことだろう。

 そして彼は、九葉に今一度言った。加われ、と。

「九葉、この世は常に、何かの犠牲の上に成り立っている。いくら綺麗ごとを並べようとも、世を支え、守るのは結局のところ犠牲だ。そして、生贄の血を捧げる仕事を、誰かがやらねばならん。お前には俺と共に戦ってほしい。愛する者たちを守り、幸せにするために、血に(まみ)れる道を歩んでほしいのだ」

 



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(四)

 一方その頃、早華は声高に両親を非難していた。

「ひどすぎるわ! 弥紗ちゃんはわたしの友達なのよ!? 小さい頃はよくうちに遊びに来て、お母さんが作ったおやつを一緒に食べてたじゃない! 毎年夏には、お父さんと、彗ちゃんと鵬翼と、五人で川釣りに行ったじゃない! それなのに、こんなことをして平気なの? 二人ともなんとも思わないの!?」

「そ、早華……」

「触らないで!」

 早華は差しのべられた父の手を、思い切り払った。まるで汚物かなにかのように。

 いや、実際、彼女は二人に対し、汚物に対する、いや、それ以上の嫌悪感しか抱くことができなくなっていた。

「あんたたちなんか、親でもなんでもないわ! 汚らわしい罪人よ! わたしが大好きだった家族はもう、いなくなっちゃったのよ!」

 もう、何も信じられなかった。

 ここで自分が見たものは、愛する家族によく似た姿を持つ犯罪者と、彼らが弥紗を人身御供に作り上げた虚構の都だった。

 娘からの非難と否定の言葉を浴びながら、更鵠は苦しそうに俯き、詩音は無言で涙を流していた。

 その姿を見て、早華の嫌悪感はさらに増した。

 二人とも、まるで被害者のような顔をしている。自分たちの罪を棚に上げて、愚かな娘に心無い言葉で傷つけられて、それでも耐えている健気な両親という役目に酔っているようにしか見えなかった。

「あんたたちは鬼よ! 鬼は、同じ鬼に食われて死んじゃえばいいんだわ!」

「早華!」

 更鵠が声を荒げた。

 家そのものが壊れるような大声だった。

 早華は驚きのあまり、びくんと体を跳ねさせた。

 これほどの声を上げる父を、彼女は二十四年生きた中で、初めて見た。

 更鵠は肩で息をしながら告げた。

「こんなこと…なんとも思わないはずがないじゃないか。私たちが、好きでこんなことをしているわけが、ないじゃないか…!」

「だったら、どうして…!」

 早華が問うた。

 更鵠は、妻によく似た大きな黒い瞳からはらはらと涙を流す娘の顔を見つめた。

 そんな彼の顔は、この数時間でひどくやつれてしまっていた。

「……母さんな、お前がいない間に、病気になったんだ」

 早華は目を瞠った。

「うそ……」

「…今から七年くらい前のことだ」

 初耳だった。目の前にいる詩音は健康そのものだ。一昨年、霊山で一緒に年を越した時もそんなそぶりは少しも見せなかった。

 本当なのかと、問うように詩音を見ると、彼女は恥じ入るように俯いた。

「そ、そんなこと、わたし何も」

「お前はあの頃、昇級試験を控えていたから、母さんに口止めされていたんだよ」

「――――――――」

 早華は呆然とした。全然知らなかった。自分が試験のことばかりに頭を悩ませているときに、母は……。

「この里にも、他の里にも、霊山にも、治せる医者はいなかった。だが堂衛兄さんが外様の、異国の高名なお医者を連れてきて―――」

「やめて!」

 早華は叫んだ。そして、耳を塞いだ。

 母を救うために、名医を呼んだ紹介料は。治療費は。薬代は―――

 聞きたくなかった。

「もう、やめて……」

 弥紗に対するあまりにもひどい仕打ちに、優しい両親が協力するに至った理由。それは、一度命を救われたからだったのだ。

 伯父の汚れた金がなければ、母は今頃、この世にはいなかったのだ……。

 詩音が声を上げて泣き始めた。

 泣き崩れる妻を見て、更鵠は痩せた頬を、静かに涙で濡らした。

 それを見て、早華は泣いた。

 弥紗を憐れむこともなく、両親の罪を責めることもなく、ただ、声を上げて泣いた。

 悲しかった。家族なのに、何も知らなくて。

 痛かった。自分の無力さを思い知って。

 苦しかった。心の行き場が、どこにもなくて。

 きっと二人も、今の自分と同じ気持ちだったのだろう。

 とても重いものを背負い込んでしまって、でも、後にも退けず、誰にも打ち明けられず、ずっと、何年も抱え込んでいたのだろう。

 それを思うと、涙が止まらなかった。

 こんなことになってしまっても、やはりこの人たちは、自分がよく知る、優しい父と母だった。

 真実を分かち合った家族の嘆きは、夜が明けるまで止むことはなかった。

 互いを慰めることはなく、しかし、一家は互いの心を余すところなく理解しあっていた。

 同じ悲しみから流される三人の涙を、小さな家だけが黙って受け止めていた。

 

 



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(五)

 九葉は、堂衛の再三にわたる誘いに「否」と答えた。

 ここで口先だけでも「(はい)」と答えていれば、あるいはこの座敷牢からの脱出は叶ったかもしれない。しかし、九葉は拒んだ。

 常ならば息をするように嘘をつくことができるのに、今回ばかりはできなかった。それほどに心は堂衛たちへの怒りに支配されていたのだ。

「惜しいな、その気骨。やはりお前は早華の婿に相応しい」

 と、堂衛はまるで優秀な息子を愛しむように目を細めた。

「ならば、どうなさる。今ここで手討ちになさるか」

「気長に待つさ、お前の心がほぐれるまで」

「気が変わらぬ時は?」

「待ち続けるさ。…ただし、部下の不満を抑えるのは、限界があるがな」

 堂衛は年長者らしく落ち着いた穏やかな笑みを浮かべて言い、立ち上がって九葉に背を向けた。そしてそのまま、座敷牢を去った。

 九葉は闇に消えてゆく広い背中を厳しい眼差しで睨み付けた。

 きっと、自分がここに長く監禁されることはない。時を置いて、堂衛か途南、もしくは璃庵が、再びここに足を運ぶだろう。九葉の意思を確認するために。

 口を封じられるとしたら、その時だ。それまでにここを脱しなければならない。

 今一度よく考えろ、と堂衛は言った。

 言われずともそうするつもりだ。考える、ここから脱出する手立てを。

 九葉はまず、自分の身に着けているものを今一度検めた。武器はとうに取り上げられた。手元にあるのは…髪の結具と、霊山から持ち込んだ、自身の替えの衣服。とりわけ良いものではない。

 せめて一つでも値の張るものを身につけておけばよかった。そうすれば看守を買収できたものを。

 腰帯をするりと抜いて目の前にかざし、ひとり落胆する。いちばん高いものといえばこれだが、看守はおろか、子ども一人であっても釣ることはできまい。

 そういえば、看守の姿が見当たらない。ここに放り込まれてから、一度も目にしていない。どうやら配備していないようだ。またぞろ辻斬り事件の証拠隠滅に追われているのだろうか。

 座敷牢の鍵を今一度検める。やはり先ほど見た時と同様に、その作りは複雑で、当たり前だが、時が経ってどこかがほつれるなど、あるはずがなかった。

 この牢を破るには、鍵を手に入れるしか道はなさそうだが、さて…。

 そうやってしばらく考えていると、再び足音が聞こえてきた。

 ただし、堂衛が戻ってきたわけではなさそうだ。足音はぺたぺたと弱く、重心が定まらない。

「暗ッ、臭ッ、濡れてて気持ち悪ッ!」

 再び、遠くから声が聞こえてきた。座敷牢の環境に悪態をつく、軽く姦しい男の声。これは―――

「よ、元気?」

 鉄格子の向こうから、堂衛の息子、鵬翼が片手をあげて挨拶した。

 彼は九葉が監禁された牢を見回し、

「うっわ、狭ッ。あんた、よくこんなところに入ってられんな。そこの穴ってもしかして便所? 無理だわー。俺、絶対そんなところでできねーし」

 と、聞いてもいないのに感想を述べた。

「何か御用が?」

 冷やかに問うと、

「ん、ああ…」

 鵬翼は曖昧な返事をして、九葉と向かい合う形で腰を下ろした。

 今気づいたが、彼は大きな荷物を背負っていた。

 荷をほどき、目の前に大きな風呂敷を広げ、その上に、荷の中身を一つ一つ並べ始めた。

 巨大な意思がいくつも連なった首飾り、金と銀でできた豪奢な冠、外国の神々と思しき金の像、夢のように鮮やかな小鳥の剥製…以下、洋の東西を問わぬ宝物、珍品が続々と並べられてゆく。

 二十点ほど並べたところで鵬翼は顔をあげた。

「…これ、俺が持ってる中で一番高いやつ。どこ探しても手に入らないと思うぜ」

 行商でも始める気か? と、内心で首をかしげる九葉に鵬翼は言った。真剣な顔で。

「俺たちの仲間になってくれたら、全部あんたにやるよ」

 九葉は顔をしかめた。

 目の前に並べられた煌びやかな宝物はすべて、弥紗と阿羅彦の(みさお)から生み出されたものだ。これを使って買収を図るとは、悪趣味極まりない。

 しかし鵬翼は本気だった。いつもヘラヘラと笑っている顔は引き締まり、あの宴で人を見下していた双眸には真摯な光が宿り、まっすぐに九葉を見つめていた。

「足りねーならもっと持ってくる」

 鵬翼は再び言った、真剣な眼差しのまま。

 九葉のしかめ面を「足りぬ」という意思表示と捉えるのは、実に彼らしい。

 という皮肉は胸の内に秘めておき、

「一族の所業はご存知か?」

 九葉が静かに問うと、鵬翼は俯き、

「…知ってる」

 と、小さな声で答えた。

「あんたの言いたいことはわかるよ。俺も、ひでーことしてるって思ってる。でもさ、仕方ねーじゃん。みんなで幸せに暮らすには金が必要なんだから」

 最早これについて(ただ)すつもりはない。この一族には何を言っても無駄だと、すでに心得ている。だから、代わりに九葉はこう言った。

「お父上の言いつけで私を説得に来られたのか?」

「違う」

 鵬翼は即座に否定したが、

「ならばお伝え願いたい。この九葉、たとえ素っ首落とされようとも、決して(くみ)せぬ、と」

 九葉が無視し、首筋を見せつけるように襟元を大きく広げて冷たく言い放つと、

「そうじゃねーよ!」

 と、声を荒げた。

「親父のことは関係ねぇ。早華(ねえ)のためだよ」

 どうやら鵬翼は、彼の独断で説得に赴いたらしい。

 無言で話を促すと、鵬翼は語り始めた。

「早華姉は、ガキの頃から一緒だった。いつもうるさくて、乱暴で、すぐ説教垂れるけど、…でも、俺と(すい)にとっては大事な姉貴なんだ」

 鵬翼は慣れない様子で、たどたどしく訴える。お世辞にも巧みだとは言えないが、懸命さが伝わってきた。このような事情でさえなければ、多少この男を見直したかもしれない。

「あんたって、お高く留まってて生意気だけどさ、でも、早華姉はあんたに惚れてるんだ。きのうの宴では、すげー幸せそうだった、今まで見たことないくらい…あんたがいなくなったら悲しむんだよ、俺たちの姉貴が。だからさ…」

 頼むよ、と、鵬翼は勢いよく頭を下げた。

 早華のために降れと、彼は懇願している。自分にとって最も大切なものを捧げてでも、姉を悲しませまいとしているのだ。

 とことん頭の悪い男だが、目の前に並んだ醜悪な宝物は彼なりの誠意だ。

 お頭という里の最高権力者を父に持つ彼は、普段、人に頭を下げることはない。余所者の男に、このように頼みごとをするのは、一大決心だったことだろう。しかし、

「だからといって、貴殿の一存で私の身柄をどうにかできるとは思えぬ」

 九葉の返答は冷え切っていた。

「なんだよ、それ」

「私はお頭の怒りを買った。処刑は免れぬ」

「だったら俺が一緒に謝ってやるよ」

 鵬翼が懸命に言い募ると、九葉は鼻で笑った。

「よもや、ご自身になんらかの影響力があるとお思いか? ならばそれは勘違いだ」

 鵬翼の顔が歪み、さっと赤らんだ―――怒りで。

「馬鹿にすんなよ、せっかく人が心配してここまで来てやったってのに」

「口だけならどうとでも言えましょう」

「ざっけんな! 俺は本気だ! その証拠に」

 鵬翼は口泡を飛ばして叫び、懐からあるものを取り出し、九葉に掲げた。

「見ろよ、ここの牢の鍵だ。あんたが仲間になるっつったら、すぐにここから出してやれるんだ」

 鍵、だった。

 九葉を閉じ込める、この、座敷牢の。

 伝家の宝刀のように鵬翼が見せびらかしたそれを、九葉は無感動な目でしばし見つめた。そして、

「………、……」

 小さな声で、何かを呟いた。

「あ? なんだって?」

 鵬翼は聞き返した。

 九葉は今一度呟いた。

「………、…殿」

 先ほどよりは声量が増したが、それでも鵬翼の耳には届かなかった。

「だから、よく聞こえねーし。声小せーよ」

 鵬翼が鉄格子に耳を寄せた―――九葉に顔を近づけた。

 九葉の両腕が、届くところまで。

 三度目を、九葉は言わなかった。代わりに、素早く動いた。

 手にした帯紐を鵬翼の首に巻きつけて、締め上げた。

 締め上げられた拍子に、鵬翼の体は鉄格子に強くたたきつけられた。

 鉄格子が大きな音を立てて揺れ、宝の散らばる美麗な音がそれに重なった。

「――――――!!」

 鵬翼は声を上げた。いや、上げようとした。しかし、舌は思うように回らなかった。

 鉄格子の隙間に顔を挟まれ、鵬翼は鬼の形相で暴れた。がしゃんがしゃんと体が鉄格子にぶつかる。

 紐を引きはがそうと喉を掻き毟り、それができぬとわかると、次に九葉に手を伸ばしたが、彼の頸動脈を絞める帯紐は長く、指先が衣服をかすめるばかりだった。

 程なくして、鵬翼は失神した。

 九葉は肩で息をしながら、鵬翼の指に引っかかっている鍵を取り上げ、牢の扉を開いた。

 外に出て、散らばった宝の上に崩れ落ちている鵬翼の体をまさぐる―――やはりというか、この鍵以外に有用なものは持ち合わせていなかった。

 帯紐を締め直し、速やかにその場を去った。

 暗い地下牢を壁伝いに進みながら、九葉は思い出す。

 先ほど彼は、鵬翼に小声でこう告げた。

―――申し訳ない、鵬翼殿。

 彼の弱さにつけ込む形になった。あれは、堂衛に対しては通用しない方法だった。

 罪悪感を抱いているわけではない。鵬翼は死んでいない。失神しているだけだ。時間が経てば目を覚ます。

 しかし、今度こそ九葉は早華の加護を失った。

 今まで里の中を自由に動き回ることができたのは、早華の婚約者という立場があったからだ。怪しい動きをする九葉をこれまで堂衛が生かしておいたのも、彼女の存在があればこそだ。

 大切な家族に危害を加えた九葉を、堂衛、そして早華は許さぬだろう。

 これより先は、より慎重に動かなければならぬ。この里のすべてが九葉の敵となったのだから。

 九葉は自問する。今、己にできることは何か? 

 里を脱するか、それとも、戦うか。

 手元に武器はない。使えるものは、大きな怪我もなく、自由に動くこの体。他には―――

 そこまで考えた時、闇の奥から近づいてくるものがあった。

 九葉は足を止めた。辺りを見回し―――歯噛みする。隠れられる場所はない。

 看守が戻ってきたのか。相手がモノノフであれば一巻の終わりだが…

 暗闇の奥底からぼんやりと人影が浮かび上がった。

 九葉は固唾を飲んだ。

 鬱屈とした闇の中、その姿は光を放っているように美しく、音もなく歩く様は人ではない、なにか美しいものに宿る神のようだった。しかしそれは、生贄を欲する神だ。右手に握る直刀から滴るのは、鮮血。

 ねっとりとした暗闇も不愉快な湿気も、すべて遠いものになる。

 長い髪がさらりと流れる。

 整いすぎた白い顔の中、射干玉色の瞳が、じっと九葉を見つめている。

 九葉は無意識のうちに、彼の名を呟いた。

 

「阿羅彦……」

 



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第四章 阿羅彦
(一)


 牢を破った九葉は、脱出の途上で阿羅彦と遭遇した。

 九葉は無言で彼を睨みつけ、身構えた。

 背中を嫌な汗が流れる。

 いい歳の大人がたかが八歳の少年に対して、これは過剰な反応であろう。しかし、九葉は阿羅彦を子どもとみていない。むしろ、最も忌避すべき展開の一つだった。

 じわじわと脳裡に甦る。先ほど九葉たちを襲撃した、羅刹のような斬撃が。それを受け止めたときの両腕の痺れが。死を覚悟した、その時の気持ちまで。

 先ほどは、彼に九葉を殺す意思はなかったようだが、人の意思など時と共に移ろうものだ。彼がその気になれば、今の九葉はひとたまりもない。なにせ今は丸腰だし、こうも正対してしまっては逃げようがない。

 阿羅彦は射干玉の瞳を見開いてじっと九葉を見つめた後、

「あ…、一人で出られたんですね…」

 ぽつりと呟いた。声変わりを迎えていない高い声は、重い闇の中では一際涼やかに響いた。同時に、美しい顔が、はにかむように笑った。

 しかし、九葉は彼の一挙手一投足に見惚れる余裕はない。彼が次に踏み出す一歩は、九葉に直刀を見舞うための踏み込みであるかもしれないからだ。

「何をしに来た。私を仕留めに来たのか」

「あなたを助けに…閉じ込められたって聞いたから」

 慎重に問うと、阿羅彦はそう答えた。

「助けに、だと?」

 九葉は眉を眇めた。

「先ほど私に刃を向けたお前が、今度は私を助けに? 意味が分からんな」

 揶揄すると、阿羅彦の整いすぎた顔が悲しげに沈んだ。まるで父親から叱責を受けた少年のように。

「ごめんなさい。あの女だけを斬りたかったけど、上手くできなかった」

 やはり、先ほどの攻撃は早華だけを狙っていたようだ。同時に九葉は内心で安堵する。九葉は殺さないという阿羅彦の方針は、今も変更はないらしい。

「何故、あれを殺そうとした?」

 九葉は再び問う。今度は、まるで幼い少年に対するように、穏やかさを心がけて。

「ずっと、あなたを助けたいと思っていました。あなたは僕や弥紗と同じだから」

 阿羅彦はぽつりと言った。

「お前はこれまで、お前たちを穢した者を斬り続けていたのか?」

「優しいひともいました。僕に剣を教えてくれたひとみたいに。でも、僕たちを殴ったり、ひどいことをする奴もいた」

 彼の剣は、客の一人が寝物語に少し教えた技を我流で磨き、さらに斬り覚えたものらしい。それにしても、あの強さはただ事ではない。あるいは神垣ノ巫女の血を引くゆえか、何か剣技以外の力が働いているのかもしれぬ。

 阿羅彦はさらに語る。

「あなたはひどいことをされた弥紗と同じ顔をしてたから。苦しくて、つらくて、ずっと我慢してたから…」

 それは、幼い少年の持ちうる、純粋な善意だった。

 そう語ったときの阿羅彦の表情もまた、年相応の顔をしていた。

 つまり彼は、九葉が早華の性の玩具となっていると思い込んでいたのだ。自身や弥紗が毎夜辱められているように。

 九葉は唖然とした。早華と過ごす自分は、凌辱された女と同じくらい悲惨な表情をしていたというのか。

 阿羅彦の解釈には仰天するばかりだったが、しかし、彼の境遇を思うとそれもまた無理からぬことだと思い直した。

 交わるか、斬るか。彼は、これ以外の接し方を知らぬ―――これ以外を教えられなかったのだ。

 なお、一連の辻斬り事件の真相は彼の話で余すところなく補完された。

 阿羅彦が人を斬る動機は、床で己や弥紗にとりわけひどい仕打ちをした者たちへの報復だったのだ。

 九葉は半ば呆然としていたが、やがて苦笑した。

「それはお前の勘違いだ」

 阿羅彦は目を見張った。驚く少年に九葉は説明する。

「私はお前の母のように意思を奪われているわけでもなければ、何も考えずにつらさを我慢しているのでもない。望むものを手にするために、自らの意志でこの境遇に身を堕としているのだ。あのような小物どもに、なす術なく命を搾られ続けるお前たちとは違う」

「…………?」

 阿羅彦は射干玉の瞳を瞬いた。九葉の話が理解できないらしい。いくら大人をはるかに凌ぐ剣の腕を誇るといっても、権謀術数の話は不得手のようだ。

 九葉はこれ以上説明しなかった。その代わり、阿羅彦に尋ねた。

「ところで、お前はこの里の地理は熟知しているな?」

「え…?」

「道に詳しいかと聞いた」

 阿羅彦はおずおずと頷いた。

 こちらの言葉は理解されている。それを確認し、更に問う。

「人が寄り付かず、なおかつ見張りが厳しいところはあるか?」

「見張りが多いのは、弥紗の部屋と、それと…そうだ、里の外れ…川の下流にある祠が…」

 神垣ノ巫女の部屋に、里の外れの祠……。

 九葉は口の中でこの二つを繰り返した。

「私を助けたいと言ったな。ならば、その二か所に案内しろ」

 と、言った。

 阿羅彦は大きく頷いた。

 弱い明かりの中の白い顔は、気のせいか、紅潮しているように見えた。

 九葉は阿羅彦の案内で地下を進んだ。小さな足は迷いなく動き、しかも、九葉にとっても速かった。さもありなん、あれほど素早く斬りつけ、里を跋扈するのだから。しかしながら、時折ちらちらとこちらを振り返る顔には、まるで父親と散歩をするような、年相応のあどけなさがあった。

 道中、座敷牢の中に蹲る複数の男たちを見つけた。皆、死んでいた。身なりから察するに、彼らは看守のようだった。

「これはお前の仕業か」

「僕の邪魔をしましたから。この地下には、ここしか道がないから」

 九葉が男たちを指して問うと、阿羅彦はなんでもないことのように言った。

 恐らくは堂衛が去った後に斬ったのだろう。遺体は灯かりの届かぬところに押し込まれており、この暗がりでは、危機感のない鵬翼は気づくまい。

 阿羅彦は城に張り巡らされている隠し通路を数多く知っていた。何の変哲もない石畳から迷うことなく上階へ続く階段を出現させ、九葉はあっという間に地下牢を脱し、さらに取り立てて特徴のない壁をまさぐって通路の入り口を開いた。

 ふと思い出す。途南が「八歳にもなると鬼よりもすばしっこくなって」とぼやいていたのを。

 阿羅彦はこれらを駆使して『雪月花』の監視の目をかいくぐり、辻斬りをしていたのだろう。

「あ、そうだ」

 狭い隠し通路を通りながら、阿羅彦が声をあげた。

 立ち止まり、九葉を振り返る。

「あなたは僕を知っているみたいだけど、僕はあなたを知らない」

 と、言った。

 射干玉の瞳が、じっと九葉を見上げる。

 そういえば、阿羅彦にはまだ名乗っていなかったと、九葉は今更ながら思い至った。

 不思議なことに、彼に対しては、数年ほど共に行動しているような感覚があり、名乗るのを忘れていた。実際は出会って数日しか経っておらぬというのに。

「私は九葉。…霊山軍師・九葉だ」

 ぽつりと名乗ると、その瞬間、阿羅彦の深淵の瞳の底に、光のようなものが差した。

「なんだ、私の名はおかしいか」

 妙な反応だと思い声を上げると、阿羅彦は懸命に頭を左右に振り、

「そうでは、ありません…。全然、おかしくなんかありませんよ……九葉様」

 小さな唇が九葉の名を呼んだ。涼しげな声には、切なさというか、熱のようなものが籠もっていた。

 



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(二)

 九葉はまず、阿羅彦の案内で弥紗の拝殿に立ち寄った。

 そこは九葉と早華が凶行を目の当たりにした寝所であったが、その道中は、昨日、気を張り詰めながら進んだのが嘘のようにあっけないものだった。

 神器を安置する祭壇のように飾られた最上階に、神垣ノ巫女・弥紗は、真新しく上質な寝具の中に横たわっていた。客はなく、香のにおいも薄い。彼女は、純白の絹に橘色の飾り紐で飾られた『神垣ノ巫女』の衣を纏い、弱々しい寝息を立てている。

「…これが、弥紗です」

 阿羅彦はそっと弥紗の枕元に片膝をつき、声を抑えて言った。

 九葉はいたたまれない気持ちで彼女を見下ろした。

 昨日は遠目でよくわからなかったが、近くで見る彼女の姿は痛々しい限りだった。

 目鼻立ちこそ阿羅彦と同じく美しいが、顔には血の気がなく、頬はこけ、眼下には影が刻まれ、白く長い髪にはつやがなく、首も肩も細い。

 彼女は衰弱していた。白粉で誤魔化していたのだろう。

 弥紗の長い睫毛が震え、痩せた瞼が開いた。人の気配で目を覚ましたようだ。

 赤い瞳がぼんやりと辺りを見渡し、

「あ…あぁぁぁ、あああああああッ……!!」

 九葉を見つけた時、弥紗は悲鳴を上げた。

 まるで恐ろしい鬼にでも遭遇したかのように床から飛び出し、逃げようとするが、足腰が弱っているのか、立ち上がることができない。細い足で床を擦りながら懸命に九葉と距離を置こうともがいている。

 九葉は身を強張らせた。外には見張りがいる。彼女がこのように騒いでは彼らが駆けつけるかもしれぬ。

「弥紗」

 阿羅彦が慌てて腕を伸ばし、母の痩せた体を抱きしめた。

「弥紗、この人は九葉様だよ、いい人だ。大丈夫、大丈夫だから…」

 薄い胸に抱き寄せて、懸命に囁く。母というよりも、小さな妹に対するような接し方だ。背をさする手の動きも慣れている。また、これだけ騒いでも見張りのモノノフは一向に駆けつけない。彼女がこのように錯乱するのはすでに珍しいことではなくなっているらしい。

 弥紗は、九葉がどうこうというよりも『男』が恐ろしいようだ。心を壊されても、男に対する恐怖ばかりは残ってしまったらしい。そして、このような状態に陥っても、凌辱は続けられている。

 衣の裾がはだけ、細い足があらわになった。

 股の間から液体が漏れ、裏地を汚していた。異臭がするが、尿とは違う。精神のみならず、肉体も病も患っているようだ。

 この拝殿に焚かれた香は、催淫作用だけではなく、認知能力を低下させる効果もあるようだ。そのようにして異臭と弥紗の衰えを誤魔化していたのだろう。

 彼女は死が近い。直感的にそう思った。

 なるほど、阿羅彦がいかなる凶行に走ろうとも、堂衛は庇わざるを得ないわけだ。

 九葉はゆっくりと床に両膝をつき、次いで両手をついた。

 そして、恐怖で顔をひきつらせ、幼い息子の胸にすがって泣く神垣ノ巫女に、深々と頭を垂れた。

「九葉様?」

 阿羅彦が戸惑いの声を上げた。

 神垣ノ巫女と呼ばれる女たちは、自らの命を削って力を行使し、里を守護する。古くから続くこの仕組みに疑問はあるが、それでも、彼女たちが万民からの尊敬を受けるに値することは確かであり、少なくとも、このような場所で欲望のはけ口となるべきではない。

 弥紗はこれまで、敬意を受けることも、役目を放棄して自由を得ることもできなかった。だから、せめて敬意ばかりは捧げておこうと思ったのだ。

 彼女は阿羅彦の胸にしがみつき、ひたすら泣き続けていた。

 九葉は静かに頭をあげ、怪訝な顔をしている阿羅彦に静かに告げた。

「お前の母は本来、このように傅かれるべき存在だ」

「母……?」

 阿羅彦は不思議そうに首をかしげた。

「お前をこの世に産み落とした女のことだ」

「それは知ってるけど…弥紗が、僕の……?」

 少年は呟いて、目を丸くして弥紗を見下ろした。

 彼が実母を名前で呼ばわることに違和感を覚えていたが、どうやら、弥紗との血のつながりさえも知らなかったらしい。

 堂衛は、この母子に性玩具としての役目以外は何一つ与える気はなかったのだ。

 胸にこみ上げる苦いものを押し殺し、九葉は阿羅彦に問うた。

「この辺りで、使い方のわからぬ怪しげな道具を見たことはないか?」

「……怪しげな道具って、なんですか?」

 阿羅彦は首を傾げて聞き返してきた。

「この里の結界を維持しているカラクリだ」

 と答えておきながら、九葉もまた、結界維持のカラクリがどの程度の大きさでどのような形をしているかは皆目見当もつかなかった。

 阿羅彦は不思議そうな顔で、今度は逆の方向に首を傾げている。城の隠し通路を熟知している彼が、怪しげな道具と聞いてこの様子では、神垣ノ巫女の拝殿は「はずれ」とみていいだろう。

 念のために九葉は拝殿を一巡りしてみた。しかし、それらしきものは見つからなかった。

 となると、カラクリは、里の外れの祠にあるのか。

 九葉は弥紗の台座に戻り、阿羅彦、と声をかけた。

「私の望むものに興味があるか?」

 弥紗を宥めていた阿羅彦が顔をあげ、躊躇いがちに、こくり、と頷いた。

「ならば見せてやる」

 と言って、九葉は―――笑った。

 眉間に深いしわを刻み、唇の端を歪に吊り上げ―――その笑みはまるで、仮面を取り払ったかのように自然で、男に似合っていた。

「まずはこの里に風を通す―――結界を維持しているカラクリを破壊するぞ」

 



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(三)

 モノノフを統べる霊山は今、天極(てんぎょく)という一人の男の私物と化している。

 霊山にとっての(まつりごと)とは、天極とそれに連なる者に更なる栄華をもたらし、安寧を盤石たらしめること。霊山にとっての悪とは、天極に異を唱え、その権力に牙を剥き、進路を妨げるもの。

 九葉は、霊山君の威光すら蔑ろにする天極を除き、『鬼ノ府』(モノノフ)をあるべき姿に戻すためにこの里に来たのだ、と言った。

「結界を消失させ、その混乱に紛れてお前の母を奪還し、堂衛の裏帳簿を入手する。これを証拠として、堂衛と、裏で糸を引いている天極を糾弾するのだ」

 九葉は計画の大筋をこのように語った。

 弥紗への惨たらしい仕打ちの数々は、別の『神垣ノ巫女』が千里眼を用いれば立証できる。裏帳簿は売春による収入・支出を管理する上で必要不可欠であり、そこには堂衛が天極に納めた賄賂も記してあるはずだ。

 阿羅彦はぽかんとした顔で九葉を見つめていた。いくら剣技にて大人たちを圧倒するといっても、権謀術数までには理解が及ばないらしい。

 それでも少年は男の語ったことを理解しようと懸命に頭をひねり、そして、

「結界…?」

 ぽつりと呟いた。

「モノノフの里は本来、神垣ノ巫女による結界で鬼から守られている」

 と、九葉は説明した。阿羅彦は、モノノフの里の者たちが当たり前のように知っている『結界』についての知識を一切持ち合わせていなかった。

「しかし、お前の母があのような状態では結界の発動も維持もままならぬ。故に現在、この里の結界はカラクリによって維持されている。それを消失させると鬼がこの里を襲う。堂衛たちモノノフ部隊はそちらの対応に追われるだろう。その隙に乗じて目当てのものを手に入れるのだ」

 阿羅彦は整った顔を難しく歪めた。

「でも、結界が消えても、鬼は都合よくこの里を襲いにきてくれるでしょうか?」

「それよ」

 少年からもっともな指摘に、九葉は唇の端を吊り上げて笑った。

「霊山を発つ前に耳にした、面白い話を思い出したのだ」

 その話は、要約するとこうだ。

 今から二十日ほど前。このセキレイの里よりはるか南で鬼門が開き、強力な大型鬼が複数出現した。霊山は速やかに百鬼隊弐番隊を派遣、これの討伐に当たらせたが、鬼のうち一体を討ち漏らしてしまったのだ。

 本来ならば速やかに任務失敗を報告し、討ち手を増やして早急に対応するべきところだが、このところ失敗続きだった隊長は、自らの保身のために「鬼は全て討ち取った」と上層部に虚偽の報告をし、自身は秘かに逃げた鬼を追う旅に出たのだった。

「その鬼は北へ逃げたそうだ。しかも、鬱蒼とした森を好む性質の鬼でな、今頃はこの里近辺に辿り着いているやもしれぬ」

「この辺りに着く前に、その隊長さんが鬼を討ってしまっていたら?」

「それはない」九葉は断言した。「あそこの隊長は私も知っているが、あれの実力では数年かけても討てん」

 ふぅん、と阿羅彦は射干玉の瞳を瞬かせた。

「じゃあその鬼は、結界さえ消してしまえば、この里にやってくるんですね」

「その通りだ」

「なるほど……」

 少年はこっくりと頷く。そして、何気ない口調で、こう続けた。

「それじゃあ、弥紗を連れて行くのは、どうしてですか?」

 九葉は愕然とした。この少年は、母をあの牢獄から救い出そうと思わないのか?

「弥紗は怖がりだから、ここにあるいろんな建物や人を見たら、驚いて泣いてしまうと思うんです。それが心配で…」

 この少年には、自分たちの境遇が、ただ搾取され蹂躙される、家畜以下の扱いであるという自覚がなかったのだ。

「……堂衛たちの、お前たち母子に対する扱いは、間違っている。だから連れ出すのだ」

 九葉は強い眩暈に襲われたが、どうにかそれを堪え、やっとそれだけを言った。

「しかし、まずは我々が祠に辿り着かなければ何も始まらぬ」

 九葉は身を潜めている大籠に空けた穴から、外を見渡した。

 すでに夜は明けていた。

 陽の高さから時間帯は早朝であることが窺える。この時間、辺りの家々からは朝餉の香りが漂い、店では開店の準備で人々が忙しく動き回っているのが常だ。

 しかし本日、里は静まり返り、本来の活気は重苦しい空気に追いやられていた。

 里のモノノフ部隊が里の至る所に立ち、警戒を行っていたのだ。『雪月花』の姿も目立つ。

 すでに九葉の脱獄と阿羅彦の脱出は堂衛の耳に届き、里には「いかなる時にも、いかなる事情があろうとも、外出を禁ずる」という戒厳令が敷かれた。

 堂衛や隊長からよほど大きな雷が落ちたのか、モノノフたちの動きには隙がなかった。

 祠にたどり着くには、この厳しい警備をかいくぐらなければならない。

 よって九葉と阿羅彦は、用を足すときのように深く座り、店の裏に放置してあった巨大な籠を頭からすぽりとかぶって身を隠し、見張りの視線が逸れたところで中腰になり、籠を被ったままカサカサと進んだ。見張りが近くを通るときは再び座り込んで籠の中でじっと動きを止めてやり過ごすのだ。

 傍目には間抜けな構図だが、しかし阿羅彦はたいそう気に入ったようだった。

 動くにしても、身を潜めるにしても、さっきからクスクスと笑いっぱなしだ。

「かくれんぼをしているわけではないのだぞ」

 目の前を通り過ぎる歩哨をやり過ごし、九葉は小声で阿羅彦を叱りつけたが、

「『かくれんぼ』がなんなのか知らないけど、これに似てるんだったら、すごく楽しそうですね。九葉様、あとで一緒にやりましょうよ」

 と、悪びれることなく阿羅彦は返した。

 籠は、人間二人が入れるほどの大きさだが、身をぴったりと寄せ合わなければおさまらない。故に阿羅彦は現在、九葉の背におぶさるような形になっている。

 確かにこんな阿呆のようなことをしていれば、遊んでいると子どもに勘違いさせるもの致し方ない。しかし、今はなかなかに大変な状況なのだ。

「作戦を成功させなければ、かくれんぼなどできぬわ、阿呆が」

 九葉は小さく毒づいて、今一度、大籠の穴から大通りの様子を窺った。

 一区画ごとに五人の見張り。奥まったところにある民家にも一軒ごとに最低一人がつき、三分から五分おきに歩哨のモノノフが通り過ぎる。

 とりあえず身を隠すことには成功しているが、進行速度があまりにも遅い。時間がかかればかかるほど、こちらの危険度は増すというのに。

 …などと考えていると、歩哨が遠ざかり、見張りの視線がそれたので、二人は中腰になり、家一軒分ほどの距離をカサカサと進んだ。

「じゃあ、作戦がうまく行ったら、一緒に『かくれんぼ』してくれますか?」

「かくれんぼでも鬼ごっこでも、何でも付き合ってやる。だから目の前の作戦に集中しろ」

 改めて厳しくたしなめると、阿羅彦は無駄口を止めた。しかし、楽しそうに笑っているのが気配で伝わってくる。

 やはり、彼に事の重大さを理解させるのは無理があるのか。それとも、鍛えた大人の男たちを、まるで庭を荒らす害獣を駆除するかのように切り伏せてきた彼にとって、この程度は笑いごとに分類されるのか。

「ところで、例の祠はどの辺りにある?」

 気を取り直して尋ねると、

「堀の集落からさらに南に抜けて、川沿いを二里ほど歩いたところです」

 阿羅彦の返答を受けて九葉は押し黙った。

 つまり、結界で仕切られている里の境界が目的地となるわけだ。まだまだ距離がある。

 この調子では、いつまで経っても祠には辿り着けない。何かいい方法はないものか…。

 そう思った時、目の前を、挙動が不自然な歩哨のモノノフが通り過ぎた。

 彼は歩きながら、不自然な動きであちこちを見回している。

 藤色の胸当てと同じ色の軽い脛当てに、目元を仮面で覆っている。『雪月花』ではない、一般のモノノフ部隊の装備だった。

 注意して見ていると、やがて彼は周りの仲間の目を盗んで、いそいそと店の路地裏に入った。

 九葉と阿羅彦は、このモノノフの後をつけた。

 彼は速足で狭い路地を進み、やがて、人気のない空き地の茂みに辿り着いた。

 そして、せわしなく下半身を寛げ、用を足し始めた。

 このようなことで人目を気にしなければならぬとは、堂衛たちは、用を足すことも禁ずるほどに、部下を厳しく締め付けているらしい。

 九葉はそろそろと籠から抜け出し、音もなく背後から忍び寄り―――羽交い絞めにした。

 モノノフは死に物狂いで暴れた。脇腹に何度も肘を入れられ、皮膚に爪を立てられた。しかし、大きく咳き込み、腕から血が流れようとも、九葉は必死に締め続けた。

 頸動脈を圧迫すれば僅かな時間で相手の意識は落ちるが、その『僅かな時間』がひどく長く感じた。

 勝ったのは九葉だった。

 モノノフは意識を失い、力なく地面に崩れ落ちた。

 身体に残るほとんどの力を使い切ったような顔でそれを見下ろす九葉に、阿羅彦は、

「僕が斬った方が早いのに」

 と言った。

 少し離れたところで暇を持て余すように直刀をぶらぶらと振る少年を九葉は見遣り、

「剣士の剣とは、何を斬ったかによって価値が決まるものだ」

 と、荒い息の下で告げ、たった今墜としたばかりのモノノフの装備を剥ぎ始めた。

 それを見て、阿羅彦は、九葉が何か面白いことを始めると思ったのか、目を輝かせて手元を覗き込んだ。

「何を斬れば価値が上がるんですか?」 

「強大な力を持つ敵だ」

 阿羅彦の問いに、九葉はそう答えた。

 モノノフの装備を剥ぎ終わると、次は自ら衣服を脱ぎ始めた。

 阿羅彦は意外そうに射干玉の瞳を見開いた。文官でありながら、露わになった九葉の肩は逞しく、太かった。

「強大な敵って?」

 軽い口調で問われたとき、服を脱ぐ九葉の手が、束の間、動きを止め、

「『鬼』だ」

 と、答えた。

 阿羅彦は目を瞬いた。

 九葉の声は決して大きくはなかったが、その一言には、決して短くはない時間で培われた、単純ではない、言霊めいて強い何かを感じ取ったのだ。

「時空を跳梁し、因果を捻じ曲げ、人の魂を喰らい、地を穢す異形のモノたち。『鬼』を討つことは、我らが祖先より脈々と受け継いだ使命であり、『鬼』より人の世を守ることが『鬼ノ府』(モノノフ)の存在意義だ」

 それは、阿羅彦に語って聞かせているようであり、心の内を掬い取った独白のようでもあった。

 九葉はモノノフから剥ぎ取った衣や武具をてきぱきと身に着けてゆく。

「鬼を討ち、この戦いを人の勝利で終わらせる。たとえ、どんな犠牲を払おうとも。その本懐を遂げるために、私はここに来た」

 阿羅彦は九葉の話を、まるで異国のお伽噺か何かのように聞いていた。

 初めて出会った時、九葉は自分たちと同じだと思っていた。けれど、彼は自分とは全く違うものを見て、まったく違うことを考えて、全く違うことを成し遂げようとしている。

 そんな彼のいる世界は、少年がこれまで知りもしなかったものであった。

 少年は夢想する。研ぎ澄まされた刃のような九葉の瞳は、何を映しているのだろう。彼の見つめる世界で、自分は、そして弥紗は何をしているだろうか、と。

「それとは別に、今は極力流血を控えよ。後に、いやと言うほど流すことになる」

 九葉は長い白髪を高い位置で結い上げ、仮面を装着し―――

「…少々(くさ)いが、我儘を言える状況ではないな」

 仕上げにそう呟いて、太刀を佩いた。

 こうして、セキレイの里のモノノフへの偽装は完了した。

 この姿であれば、堂々と里を出歩いても、顔見知りにでも出会わない限り、正体を見破られることはない。

「九葉様、僕のは?」

 と、阿羅彦が言った。

「お前に似た体格のモノノフは、この里にはおらぬであろう」

 九葉は仮面の下からにやりと笑った。

 なんだかずるい、と不満そうに少年が呟くと、

「お前は屋根から私の後を追い、後ほど合流しろ。これより祠へ向かうぞ」

 と言って、セキレイのモノノフの姿を借りた九葉は颯爽と歩き出した。

 



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(四)

 里のモノノフになりすますという策は的中し、道のりは随分と楽になった。

 この里を訪れて日が浅い九葉は、モノノフたちとの面識がない。人相や背格好は全部隊に通達されているであろうが、仮面で顔を隠し、既定の装備をきちんと身に着け、あたかもこの里のモノノフであるかのように背筋を伸ばして堂々と振舞えば、見咎められることはなかった。

 注意すべきは『雪月花』だった。堂衛、もしくは璃庵あたりの命令で、早華と里に到着した直後から九葉の監視を命じられていた者たちがいるからだ。しかし、彼らの装備は一般のモノノフ部隊と大きく差があるため、遠目にもその存在がよくわかる。彼らが近づいたときは、九葉はさりげなく建物の影に消えるなどして、容易く視界から遠ざかることができた。

 阿羅彦は九葉に命じられた通り、屋根を伝って進んでいる。この里の屋根―――とりわけ大通り沿いの店の屋根は、煙突や天窓、風見鶏など、趣向を凝らしているものが多いため、彼の小さな体を隠すにはうってつけだった。

 もうじき大通りを過ぎようかというところで、さりげなく向かい側の屋根に視線を巡らせると、阿羅彦が煙突の影から身振り手振りでしきりに何事かを訴えていた。

―――隠れろ、と言っていた。

 近くに『雪月花』はいないはずだが―――?

 怪訝に思いながらも、九葉は不自然に見えぬ歩調で路地裏に身を隠した。

 その直後だった、身を隠した店の扉ががらりと開いたのは。

 どかどかと、荒々しい足音を立てて、複数のモノノフが店から出てきた。今日はどの店も営業はできないはず…ということは、里にあるすべての建物を検めているのだ。

 物陰から外の様子を窺う。

 店から出てきたのは途南だった。異国人めいて彫りの深い髭面をしかめ、忌々しそうに辺りを見回している。

 九葉は肝を冷やした。阿羅彦の警告がなければ、彼と鉢合わせていたところだ。

『雪月花』の隊員が数名、途南に駆け寄ってきた。

 彼らは敬礼し、きびきびと用件を述べた。

「隊長! 先ほど、第八哨戒部隊の者が装備を奪われたとの報告が入りました!」

 途南の表情が険しくなった。

 同時に、九葉の表情も厳しくなった。先ほどのモノノフは、両手足を縛り、口を塞ぎ、人目につかぬ場所に閉じ込めてきたのだが、思っていたよりも早く発見されてしまった。

「これだから下の部隊の者たちは…」

 途南は忌々しげに舌打ちし、

「全軍に通達、敵は里のモノノフに扮して潜伏している。至急身分を検めろ!」

「はっ!」

『雪月花』は踵を大きくならして敬礼し、機敏な動きで四方に散った。それを追うように、途南たちも足早に店舗を離れた。

「…もしかして、変装しているのがばれてしまったんですか?」

 背後から突然高い声で話しかけられ、九葉は思わず身をひきつらせた。

 いつの間に移動したのか、阿羅彦がすぐそばにいた。

「ああ、そのようだな」

 九葉は驚いて早鐘を打つ心臓を宥めつつ、頷いた。

「それはそうと、先ほどはお前の警告がなければ危機に陥っていた。礼を言わせてもらおう」

「あの時、窓から途南たちの姿が見えたんです」

 礼を述べると、阿羅彦は白い顔が満面の笑みを浮かべた。

 褒められて喜ぶ顔は、蘭陵王の幼き時分はこのようであったかと思わせる、他とは一線を画す美しさであるが、それでも血の温もりが感じられた。

「九葉様、これからどうしますか?」

「これほど早く見破られたのは計算外だが、道のりの半分以上を消化することができた。あとは身を隠しながらでも進めるはずだ」

 話しながら話しながら九葉が歩き出すと、

「待って、そっちは―――」

 阿羅彦が声をあげた。しかし、一足遅かった。

 彼が呼び止めるのと、ほぼ同時だった。狭い路地の曲がり角で、彼女と遭遇したのは。

 長い黒髪と小柄な体。

 少し目尻のつり上がった大きな瞳が驚きで大きく見開いていた。

「九葉……」

 名前を呼ぶのは、少女というよりも、童女に近い声。

 九葉もまた、驚きのあまり立ち尽くした。

 昨日、巫女の御座所で離れ離れになった婚約者・早華が、目の前にいたのだ。

 



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(五)

 のちに九葉は振り返る。この一件において、これは最も悪い偶然であり、失態であった、と。

 この里の屋外で活動しているのは自分たちを除けばモノノフ部隊ばかりだと思っていたし、こんなところで早華と鉢合わせるとは夢にも思っていなかった。

 阿羅彦は高みからこちらを見下ろしていたためか、早華の位置を把握していたようだが、警告する前に鉢合わせてしまった。

 座敷牢で堂衛が語った通り、早華は無事だった。投獄された九葉と違い、彼女は自宅で一晩過ごしたためか、怪我はなく、身綺麗にしている。しかし、その表情は冴えず、彼女の代名詞といえる、やかましいほどの活力はなりを潜めていた。彼女も、実家の暗部を知ってしまったのだろう。恐らくは、阿羅彦のことも含めて。

 傍らに立つ阿羅彦の顔から表情が抜け落ち、射干玉の瞳が氷のように冷えた。手の中でくるりと直刀を回転させて手首を柔らかくしながら九葉を背に庇うように立ちはだかる。

 それを見て早華は怯えたような表情になり、一歩後退した。

 九葉は阿羅彦を背後に押しやり、早華に話しかけた。

「早華、ここで何をしている?」

「君を探してたのよ。……逃げたって聞いたから」

 早華の様子はぎこちなかった。この様子では、彼女もまたすべてを知ったのだろう。この里を急激に栄えさせた忌まわしき仕組みも、阿羅彦の出生も、そして恐らくは、九葉の鵬翼への仕打ちも。

 九葉は注意深く観察する。

 堂衛が彼女を九葉・阿羅彦捜索の人員に加えるとは思えない。やはりおなじみの独断行動であろうか。となると、用件は限られてくるが、それでも九葉は敢えて訊いた。

「私を探して、どうするつもりだ」

 早華は気まずそうに黙り込んだ。

 片腕で阿羅彦をけん制しながらじっと待つと、

「もう知ってるんだよね、おじさんたちがしてたこと…」

 やがて、早華がぽつりと訊いた。

「…ああ」

「これから、どうするの?」

「この里で行われていた悪事を暴き立て、阿羅彦とその母を救出する」

 九葉は隠すことなく決意を述べた。

 早華の黒い瞳が大きく見開かれ、しだいに目尻が悲しげに下がった。

「そう…だよね。普通は、そうするわよね…」

 早華は弱々しい声で呟いた。

 薄暗い路地裏で向かい合う男と女の間に、障害物は何一つあり得ない。しかしこの瞬間、両者の間の空気は、冷たく、そして重苦しいものになった。まるで、分厚い鉄の壁のように。

「お前はどうする、早華?」

 今度は九葉が問うた。

「我々とともに悪事を暴くというなら、拒みはせぬが」

 早華の幼さの残る顔が歪んだ。まるで、鋭い棘に全身を刺されたかのように。

 その痛みを堪えるかのように、彼女はしばらく、じっと唇を噛みしめて俯き、やがて真っすぐに顔を上げ、九葉を見つめた。濡れた黒い瞳に、決意を宿して。

「九葉、わたしたちと…いいえ、わたしと一緒に来て」

「それはつまり、この言語道断の所業に加担せよ、ということか?」

「違うわ」

「お前たち家族を幸せにするために、他の家族に人以下の扱いを強いろ、と言うつもりか」

 言葉を変えて問い直すと、

「違う、そうじゃないわ!」

 早華は金切り声で否定した。

「わたしだって、本当は許せない。悪いことだってわかってるの…でも…仕方なかったのよ、みんなにはお金が必要だったの。わたしのお母さんは、そのお金がなきゃ死んでたから…。みんな好きでこんなことしてるわけじゃないわ。本当はやめたいと思ってるの」

 早華は語る。黒い瞳に大粒の涙を溜めて。

 自らを落ち着かせるように、一度深く呼吸をし、

「だからわたしは、弥紗ちゃんを犠牲にしなくても、みんなで幸せに暮らせる方法を、この里で探すわ。みんなも本当は苦しんでるの。だから、いつの日か必ずやめさせてみせる。わたしたちは『家族』だから、助けてあげなきゃ」

 だから共に来てほしいと、早華は言った。

 彼女は伯父を見誤っている、と九葉は思った。あの一家は弥紗のために自分たちの生活水準を引き下げるつもりはない。罪悪感などとうの昔に失い、取り戻すことも決してない。阿羅彦を使って弥紗のような性玩具を繁殖させようとすらしている。それこそ家畜のように。

 そして、早華の決意が早々に挫けることも容易に想像できる。家族を何よりも大切に思う性格からして、彼女はこの里の異常な環境に飲み込まれ、伯父たちと同化するだけだ。

 しかし、九葉はそれを説く気はなかった。彼女が聞く耳を持たないことはすでに承知している。だから、霊山でそうしていたように、彼女の話に耳を傾け、解決に向けて冷静に問題点を指摘した。

「具体的にどうするのだ?」

 問うと、早華はひどくまっすぐな瞳で九葉を見つめ、

「わからないわ。だから君の力が必要なの」

 と、言った。己の決断に一切の疑いを抱かぬ、強く、真摯な口調で。

「君ならきっと見つけられるわ。弥紗ちゃんも、おじさんたちも、どっちも救えて、みんなで幸せになれる方法を。時間はかかるかもしれないけど、わたしたちなら、必ずできるって信じてる」

 早華の表情には笑みこそなかったものの、彼女が語るような、明るい未来を確信していた。まるで、厳しい嵐で磨き上げられた空のように澄み渡っていた―――まだ、何も乗り越えていないというのに。

「だからお願い、九葉、力を貸して。…本当は、みんないい人たちなの…」

 最後に早華は、もう一度希(こいねが)った。

 九葉は終始能面のような無表情を保ったままだった。

 早華は知らなかった。彼女の言う『誰も犠牲にしなくてもよい未来』を作り上げるだけの力を、彼女自身が持ち合わせていないことを。

 彼女は危うかった。理想を語りながら、肝心の方法については九葉頼みにしていること、そして、なぜか九葉が彼女に協力すると信じて疑わないことが。

 矛盾、不明、理不尽は山ほどある。

 しかし、今更指摘したところで何になる? 早華とはもともとそういう女だったではないか。

 だから九葉は、指摘を一つにとどめた。

「その方法を見つけるまでの間、弥紗と阿羅彦は男たちに姦され続けるのか」

「そ、それは……」

 早華は言葉に詰まった。とっさに反論できなかったし、何より、九葉の返答があまりにも早華に対して冷たく刺々かったからだ。

 九葉はこれまでにも、早華の思い付きに対していつも冷静な意見を述べたが、それは、彼女を手伝ったり、危険から守るためであった。しかし、今の九葉からは、一切の思いやりが感じられなかったのだ。

「もうじき弥紗は死ぬ。その後はここにいる阿羅彦が一人で凌辱を受けることになるのだぞ」

 阿羅彦が驚いたように見上げてきたが、九葉は話を続けた。

「お前は年端もいかぬ子どもを生贄に得た金で飯を食いながら、その方法とやらを考えるつもりか」

「だ、だったら、尚更急いで方法を―――」

 早華は途中で言葉を失った。

 自身を殺そうとした辻斬りの顔が目に入ったのだ。美しい目鼻立ちは、幼いころの弥紗に―――記憶の中の幼馴染がそのまま現れたようにそっくりだった。

 そうして気づいたのだ。自分はいま、これからも体を売り続けろと、本人の目の前で語ったに等しいことに。

 違う、そんなつもりはない。私はそんな、ひどい人間じゃない。いくら辻斬りの犯人とはいえ、こんな小さな子どもにそこまでひどい扱いをすることは、望んでいない。

 私はただ、みんなが幸せになれる道を探したいだけ。

 どう言えば、九葉にきちんと伝えられるのだろうか。自分の想いを。みんなの本当の願いを。

 こんなに強く思っているのに、彼にきちんと伝えるための言葉が出てこない。

 そんなもどかしさと早華が格闘していると、九葉は一つ、小さなため息をついた。そして―――歩き出した。

 無言で早華とすれ違った。

「く、――――――」

 早華は言葉を失った。

 ばさり、と、彼が身に着けたモノノフ装束の衣擦れの音が大きく聞こえた。それは、何か大切なものが切れる音のように不吉で、体の芯を凍らせた。

 すれ違う瞬間に見えた九葉の顔からは、一切の表情が消えていた。そしてそれは、隣に並ぶ阿羅彦と、判で押したように似通っていた。

 慌てて振り返ると、九葉は振り返りもせず、淡々と言い放った。

「婚約者として、私がお前に伝えるべきことはすべて伝えた。さらばだ、早華」

 早華は呆然と立ち尽くした。

 堂衛ほどの上背はないが、広く厚い九葉の背中が見えた。何度もおぶさったはずのそれは、今はまるで、早華の悉く否定している壁のようだった。

 みんなが幸せになる道を探りたい早華。

 第一に阿羅彦と弥紗を救い出そうとしている九葉。

 どちらも悪いことではないのに、共存できない願ではないはずはなのに、しかし、早華はこの瞬間に自覚した。

 自分たちの道は分かたれた―――九葉との関係は絶たれてしまったのだと。

 あまりにも唐突で、理不尽な終わりだった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 彼はいつだって何でも教えてくれて、いろいろな難しい問題をあっという間に解決してくれた。出会ったころから、ずっとそうだったのに。

 少年の華奢な背中が目に入った。

 阿羅彦。弥紗の息子で、里を脅かし、伯父たちを苦しめていた人殺し。

 その彼を、九葉は付き従えて征く。婚約者である自分ではなく。

 とかく悪評を買いがちな彼を一番理解してあげていた自分をひとり薄暗い場所に置き去り、出会って数日足らずの、殺人鬼の少年の手を取って。

 二人の後ろ姿にはなんの違和感も見いだせなかった。まるで何年も共に戦った主従のように。

 この里を訪れたのも、最初からこの二人連れであったかのように。

 

 ピィィーーーーーーーーーーーッ!

 

 路地裏に、甲高い呼子笛の音が響いた。それは建物と建物の間で反響し、路地裏から大通り一帯に溢れた。

 九葉と阿羅彦は驚いて振り返った。

 早華だった。早華が、呼子笛を吹き鳴らしていた。

「こいつ……!」

 阿羅彦が唸り、斬りかかろうと刃を振りかざすが、

「やめろ、阿羅彦。時間の無駄だ」

 九葉はそれを止めた。

 今更早華を斬ったところで事態は変わらない。機は既に逸していたのだ。

 遠くから複数の男たちの怒声と足音が聞こえてきた。

 二人は弾かれたように路地裏を走り出した。

 



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