カゲロウ (Mr.未来Speaker)
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1話

 恋人の定義はなんだろう、と偶に考え込むことがある。

 恋愛小説とか、特にミャクのない恋話とかが話題に上がると、頭の中でそんなテーマがグルグルと回る。

 

 多分、それは感情論で片付いてしまう話。だけれど、私はそれを理論的に証明してみせたい。出来もしないのに、大して頭がいいわけでもないのに、一丁前にそんな哲学者みたいなことを考え耽ることが、偶にある。

 

 ″あの人″と出会ったのは、私が高校3年生の時。

 受験勉強のために参考書を買おうと、近場の本屋に出かけた。

 

 受験関連本。

 そう括られたコーナーの本棚に向かい、数十冊、もしかしたら3桁超えてるかもしれないほどの本の山の中から、めぼしいものを見つけ出す。

 

 これでいいかな。

 参考書の良し悪しの基準なんてわかりもしない。まあ、わからなくても悪い影響はないだろう。

 

 一冊の本を手に取り、レジに向かう。

 その途中、男の人と肩がぶつかった。

 

「あ、ごめんなさい」

 

 手短に、頭を下げて謝る。

 

「いやこちらこそ。よそ見してた」

 

 低く、少しがなりの効いていて、けれどもけっして不快ではない声がした。

 顔を上げ、一目見て思ったのは、とても細い人だ。ちゃんと食事をしているのだろうか。

 細身の黒のスキニーパンツに、同じく黒のシャツが、その細さをさらに強調させていた。

 

 少しパーマをかけたような、ボサボサで清潔感のない髪。無精髭も生えていて、初対面では、はっきり言って良い印象を持てない。

 

 猫のような目をしたその人は、気怠げに頭を掻く。

 

「参考書」

「あ、はい。受験生なので」

 

 私が持っている参考書に目を落とす。

 

「へー。大変だな」

 

 「俺にはわかんねぇけど」と、呟く。

この辺りでは見かけない顔と袖たちだ。

引っ越してきたのだろうか。

 

「じゃあな、悪かったな」

 

 と、私が思考している間に彼は手を振って去って行ってしまった。

 猫の目をしていたが、後ろ姿も、住宅街の石垣を我が物顔で悠々と歩く猫のようだった。

 どこか浮世離れした人物だ。

 確かに目の前に存在していて、私と話したのに。

 私とは違う世界を見て、肌で感じて、歩いているような人物だった。

 

 などと、一瞬だけ会話をした人について、色々と考えを巡らせている。遠回しに、失礼なんじゃないか?

 

「あ、早くしないと」

 

 そんな今後会えるかもわからない人のことなんて、頭の中の会議室のど真ん中に置いておく必要はない。

 髪をぐしゃぐしゃに丸めて棄てるように頭の中をクリーニングした私は、会計のカウンターに向かった。

 

 

* * *

 

 

 程なくして、私と彼は再会した。

 

 学校の帰りの、楽器店での出来事だ。

 バンド活動は停止しているが、やはり音楽への情熱は消えたわけではない。

 雑誌や新しいドラムセットを見に行こうと立ち寄ったのだ。

 

 そこで彼は、1本のアコースティックギターを持ってパイプ椅子に腰掛けていた。

 

「お、この前の」

 

 私の顔を見るや否や、ははは、とどこか乾いた笑みをこぼした。

 

「どうも。あの時は失礼しました」

「いいよ、こっちの不注意でもあるんだ。お互い様で行こうや」

 

 気楽そうな声音で言う彼を見る。

 何故こんなところに。そして何故アコースティックギターを持っているのか。

 

「弾けるんですか?」

「ん?」

「それ、アコースティックギター」

「ああ、弾けるよ。下手くそだけどな」

 

 ジャガジャガ、と適当なコードを押さえて鳴らす。

 彼の素性などは全くわからないが、不思議と似合っていた。魔女が箒を持つように、鬼が金棒を持つように、革命家が旗を持つように。

 

「疑ってる?」

「はい。すっごく」

「ひどいな」

 

 彼は口を尖らせる。

 

「なら聞いてみる?」

「弾くんですか。お店のじゃないんですか」

「試し弾きで」

 

 そう言って先程とは違う綺麗な音色を奏でる。

 

 なんの曲を弾くかと思えば、レディオヘッドのCreepだ。

 しかも、ご丁寧に弾き語りときている。

 彼の歌声は地声のがなり声が少し入った、まるでイギリスのパブで雇われている、酒好きアマチュアミュージシャンを想起させる歌声だ。

 原曲のトム・ヨークの澄んでいて、どこかコンプレックスと窮屈さを混ぜたような歌声とは非常に対照的だ。

 

 僕はウジ虫だ。

 僕はここにいるべきじゃないんだ。

 

 ネガティブな歌詞が特徴的なこの曲は、トムが歌うことにより、恋の行く末を憂いている青年の悲壮感漂う高嶺の歌となる。

 

 だが彼が歌うとどうだろう。

 彼の歌声も相まって、普段はそんなことで悩んでもない明るい人間なのに、酒が入った瞬間にテーブルに突っ伏して日々の愚痴をこぼす男の歌に聞こえてくる。

 

 何がこんなにも対照的な印象を持たせているのか。

 声質?

 ジョニーの鋭いギター音の有無?

 

 ハッキリとした答えは出ないが、私は彼の立ち振る舞いや、姿から漂う雰囲気が、そうさせているのだと結論付けた。

 その答えが、1番腑に落ちたのだ。

 

 1番だけを弾き終えた彼は、どうだった?と私の顔を見る。

 

「ビックリ。ギター上手いんですね」

「いいや、下手だよ」

 

 苦笑を浮かべて謙遜をする。

 

「歌声は、なんというか凄かったです」

「へー。美声に酔いしれたか?」

 

 ギターの腕と違って自信があるのか、今度は謙遜せずに顎をクイっと上げる。

 

「まさか。その逆です。良い夢を見ていたのに、耳元で叫ばれて台無しにされたような気分です」

「うっは、ひっでぇ」

 

 豪快に笑う。

 

「トム・ヨークとは正反対な歌声」

「知ってるのか、この曲」

「はい。好きなんで、レディオヘッド」

「若いのに珍しい趣味してるな」

 

 再び適当にアコースティックギターをジャカジャカと鳴らす。

 

「ここら辺に住んでるんですか?」

「まあ住んでるといえば住んでる、かな」

 

 歯切れの悪い答えを返しながら、次はアルペジオを奏でる。

 

 前におたえがアコースティックギターを弾いて見せたことがあったが、アコースティックギターというのはとても綺麗で愛らしい音を鳴らしてくれる。

 

 エレキギターとは違った、クラシックで落ち着いていて、心が安らかになる。

 私はこのアコースティックギターの、複雑なコードを押さえてないシンプルな演奏と音が好きだ。

 アコースティックギターだけでも始めてみようかな、とも最近になって考え始めているほど。

 

「楽器店だけど、なんか楽器とか弾けるのか?えーっと…」

「沙綾、山吹沙綾です」

「ご丁寧にどうも。俺はモモセ」

 

 名前は明かさなかったが、まあいいだろう。これから会えるかもわからない人なんだから。

 

「ここにいるってことは、バンドかなんかやってるの?」

「はい。とは言っても、今は活動休止中ですけど」

「活動休止。ああ、受験か」

「はい」

 

 察しのいい人だ。

 私が話した最小限の情報で私が置かれている状況を瞬時に考察する。

 

「モモさんは何かバンドとかやってたんですか?」

「モモさん?」

「可愛らしい名前なので」

「初めて呼ばれた」

 

 見た目は近寄り難い雰囲気を醸し出してるのに、名前はとても可愛らしい。モモって。

 

「バンド。やってないし、やったことない」

「意外です」

「そう?そんなにバンドマンに見える?」

「ぱっと見は」

「モテそう?」

「いえ全く」

 

 ギャング映画の銃の撃ち合いのようなやり取りに、お互いに吹き出して笑ってしまう。

「パートはなに?」

「ドラムです」

「見えないな」

「そうですか?」

「うん。ベースっぽい」

 

 ベースっぽいだなんて、初めて言われた。ベースなんてりみりんに少しだけ触れさせてもらった時ぐらいだ。っぽい、と言われたらちょっとチャレンジしてみるのもいいかもしれない。

 

「それにしてもこんな所でも会うなんて」

「確かに。あまり広い街じゃないのに」

「運命的なやつか、これは」

「たぶん違いますよ。偶然ですよ」

「今の若い子はリアリストだな」

 

 持っていたアコースティックギターを元にあった所に置いて、椅子から腰を上げる。

軽いストレッチをすると、骨が少し鳴った。

 

「帰るんですか?」

「ああ」

「何か買わないんですか?」

「そんな金ないよ。今はね」

 

 高価そうなブラウンの革靴をトントン、と整えて歩き出す。

 

「じゃあな、ヤマブキ」

「あ、はい。お気をつけて」

「おまえもな」

 

 ヒラヒラとカウボーイみたいに手を振って姿を消した。

 通り過ぎ際、良い香りが漂った。見かけによらず、香水か何かをつけているのだろうか。

 

 真っ暗な店の外を、まだ彼の後ろ姿の輪郭だけでも残ってるんじゃないかと目を凝らして見るけど、結局は窓に反射して映る私しかそこにはいなかった。

 

 なんだか不思議な人だ。

 香澄と少し似ていて、人を惹きつける魅力があるのだと思う。数分しか話してないから、確定しているとは言えないけど。

 

 モモさんが置き戻したアコースティックギターを見てみる。興味が湧いてきたので、ネックを掴んで手に持ってみた。

 

 意外と重いものだ、アコースティックギターというのは。

 バタークッキーのように食欲をそそる色をしたボディを撫でる。真ん中に隕石が落ちた後のように空いたサウンドホールは、なんだか見ている私がその中に引きずり込まれそうだ。

 

 ネックに貼られた弦に挟まられた青色のピックを手に取り、6弦をボーン、と鳴らしてみる。

 ドラムと違ってどこか寂しくて落ち着いた音だ。

 

 今度は弦を押さえて弾いてみる。

 しっかりと色がついた音色が放たれた。

 

「おお」

 

 声に出てしまう。

 なんだか感動的だ。香澄もおたえも、こんな感動に心が支配されたのだろうか。

 

香澄やおたえの見よう見まねで、6弦の1フレットを押さえて音を鳴らす。続いて5限の2フレットを押さえて鳴らす。

そのリフレインを10秒ほど続けた。

 

そして一息つく。

肩を回し、こった首を鳴らす。

 

「やっぱ上手いよ、モモさん」

 

 変に謙遜した変な人に向けて、誰にも聞こえないぐらいの声量でそう呟いた。



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2話

 夏にしては少し涼しい風がカーテンを揺らす。

 開け放たれた窓の外からは、部活に励む同級生と後輩たちの声が聞こえてくる。

 

「進路は決まってないのね」

「はい」

 

 2つの机を重ね合わせて、私のクラスの担任の先生と対面していた。

 

「何かやりたいこととか…はあるわけないか」

「大学に行きたい、とは漠然と思ってます」

「漠然と、ねぇ」

 

 緑のふちメガネを掛けた先生は、その真面目そうな佇まいとは裏腹に、かなりラフでフレンドリーだ。

 左手でボールペンを回しながら、右手でこめかみを押さえる。

 

「あの、大学に行ったら、やりたいことも見つかると思うんです」

「まあ、そうなんだけどさ」

 

 背もたれに体重をかけて、脚を組む。

 おおよそ個人面談の時に作る姿勢ではないが、私は特に気にしない。

 

「大学ってさ、やりたいことをやって、それを伸ばして自分のスキルにする所だと、私は思ってる」

「はい」

「正直、あなたが何かやりたいことを見つけられないまま大学に入っても、たぶんそこで浮かんでるだけ」

「浮かぶ」

「そ。浮き輪みたいに、プカプカーって」

 

 先生は大学を出ているのだ。先生の言ってることは大袈裟とかではなくて、たぶん正しいのだろう。

 

「でもまあ、言っちゃ悪いけど、あなたには実家のパン屋っていうバックアップがあるからねぇ」

「そうですね」

「んー」

 

 カチカチ、とボールペンのノックボタンを机に押し当てながら、ホチキスで止められた書類を捲る。

 

「成績も中の上。素行不良もナシ。ますます悩みどころね」

 

 カチッ、とボールペンの動きを止めて、手早く捲られた書類を全て閉じてファイルに閉じた。

 

「夏休み最初の日って、あなた三者面談でしょ?」

「はい、そうです」

「それまでに、漠然と自分の将来のイメージを持って」

「漠然と」

「そう漠然と。いい言葉ね、漠然」

 

 と、どこからともなくいちごマシュマロを取り出し、手首を叩いてポン、と器用に口の中に放り込んだ。

 

「食べる?」

 

 透明な袋に入ったいちごマシュマロを差し出される。

 

「いただきます」

 

 丁重に受け取って、先生に倣って口の中に放り込んでみる。

 味は、とても甘かった。

 

 

* * *

 

 

 夏休み数日前とはいえ、夏休み中の課題の内容などは–––––ソースはどこかわからないが–––––既にリークされていた。

 

 今日は、そんな夏休みの課題の読書感想文の課題図書を取りに行くため、家からそう離れてない図書館のあるコミュニティセンターまで出向いていた。

 

 ダニエル・ジョンストンの絵が描かれたトートバッグの中からタオルを取り出し、額に流れる汗を拭う。

 

 空から容赦なく照りつける太陽に体力を搾り取られながらも、途中で自動販売機で買ったスポーツドリンクを回復アイテムにして、なんとか住宅街というダンジョンをくぐり抜けた。

 

 コミュニティセンターの自動ドアが静かに開かれると、中で溜めこめられていた冷気が私の体を押す。

 

「おほー」

 

 と、訪れた爽快感にだらしのない声を漏らしてしまう。

 

 この場所に訪れたのは中学生の時以来、数年ぶりだ。

 内装は変わってないように見える。自動販売機で売られている飲み物の種類が変わったぐらいだ。

 

 図書館へと通ずる扉を開ける。その中もまた冷房が隅まで効いていた。

 足音を最小限に、カウンターの横に備え付けられたパソコンで、本のタイトルを検索する。すぐ横の機械からレシート紙が出される。

 レシート紙に記された番号を地図として、本棚のコーナーへと向かう。

 

 幾重にも重なった本の中から目当ての一冊を取り出す。脇に抱えて、ついでに弟と妹が読むだろう絵本も取り出す。クレヨンで描かれたような、メルヘンチックで童心をくすぐられるタッチの猫が表紙を飾っている。

 

 カウンターに本を置く。

 初老の女性が眼鏡をかけて、本の裏面に貼られたバーコードをバーコードリーダーでかざす。

 

「読書感想文?」

 

 女性は静かに、けど凜としていてはっきりと聞こえる、魔法のような声量で聞く。

 

「はい」

「いい感想は書けそう?」

「読んでみないとわかりません」

「確かにそうね」

 

 裏表紙をめくり、見返しに貼られた紙に今日の日付を書き記す。

 

「期間中だから、来月の31日までに返してね。出来る限り早めで」

「はい、出来る限り早めに終わらせます」

「よろしくね」

 

 3冊の本をトートバッグに入れる。

 帰り道はバスでも使おうかな、と考えながら図書館を出ると、足元を何か影が通り過ぎていった。

 

「え」

 

 影を目で追うと、そこにはグレーの毛と、エメラルドグリーンの綺麗な眼をした猫がそこにいた。呑気にボードに貼られた自衛官募集のポスターを眺めていた。

 

「自衛官になりたいの?」

 

 なんて、聞いてみる。

 私の声に反応した猫は、ニャァ、と可愛らしく鳴くと、素早く駆け出した。

 

「あっ、こらっ、待てっ」

 

 館内であの猫が暴れたら、たぶん貴重品とかが壊されてしまう。

 そんな危機を感じた私は、猫の後ろ姿を追う。走るほどのスピードでもなく、でも早歩きよりは確実に速く追いかける。なるべく音を立てぬように。

 

 曲がり角を曲がったところで、足を止める。

 そこには、防火シャッターのように見える大きな扉が僅かに開いていた。

 あの猫の姿が周りで見えないことから、中に入ったと見ていいだろう。

 

 こんな所、見たことがない。

 昔に来た時点でも、あまり館内を探検したわけではないが、こんな所は通り過ぎた覚えもない。

 

 猫を追いかけるという目的と、18歳を迎えた私の僅かな童心からくる好奇心に背中を押され、扉の向こう側に足を踏み入れた。

 

 入った瞬間、気持ちの悪い蒸し暑さが私の肌を舐めまわした。

 灯りはなく周りは暗かったが、見上げるとその先には光があった。きっとここは階段なのだろう。

 

 手探りで探し当てた手すりにつかまり、スマートフォンのライト機能を使って、1歩1歩、慎重に段を登る。

 

 その昔、ウィル・スミスの映画で見たシーンにそっくりなシチュエーションだ。少しだけドキドキする。

 確か、ビルの中に入ってしまった自分の犬を探そうと、よくわからないモンスター達がいる真っ暗なビルに入って探すんだったけ。

 

 そういえば、あの世ってここみたいに蒸し暑い所だって聞く。もしかしたら、あの世へと繋がる天国への階段だったりするのかな。だとしたら、私は今、ツェッペリンのサウンドの上で踊ってるようなものなのだろうか。

 

 そんな事を頭の中で空想して、心の中でクスクスと笑いながら光に近づく。

最後の段を踏み終わり、光が私を包み込んだ。

 

 まず頭に入ったのは、蝉の鳴き声。ミンミンゼミだ。

 続いて肌を撫でる爽やかな風が吹く。

 

 外だった。

 照りつける太陽。どこまでも広がる青空。模様のように浮いている白い雲。

 どうやら、辿り着いた場所は屋上だったらしい。

 

 にゃーん、という間延びした声が、呆然としていた私の意識を呼び戻した。

 

 先ほど追いかけていたターゲットが、足元で私を見上げていた。

「ここはあなたのアジト?」

「いいや、俺の秘密基地」

 

 問いかけに答えたのは猫じゃなかった。ちょっと紙やすりのようにザラついた、男性の声だった。

 猫は再びにゃーん、とだけ鳴いて元来た道を走って戻った。

 

 声のした方を向く。

 手すりにもたれかかり、片手には缶ビール、もう片手には煙草というとてもガラの悪い佇まいをした男性だ。

 

 しかし、その顔に見覚えがあった。

 黒い天然パーマのようなチリチリとした髪。黒Tシャツの上に白い半袖シャツ、下は膝下まであるベージュカラーのハーフパンツ。

 

「モモさん」

 

 つい数日前、偶然にも2度遭遇した、ギターが弾ける謎のヒトだ。

 

「ヤマブキか。どうした、こんな所で」

「そっちこそ。なんでこんな所でリラックスしてるんですか」

 

 彼の今の姿は場違いにもほどがある。公共の場で、ビールに煙草。ただでさえ規制が厳しくなっている今のご時世で、こんなにも不摂生なことをしているのはおかしい。

 

「言ったでしょ。秘密基地って」

「屋上ですよ」

「誰もここには来ない。従って、誰にも迷惑はかけてない」

「私がいるじゃないですか」

「おまえが去ったら済む問題だろう」

 

 その言葉は、少し癪に触った。

 周りをまとめる役割を任せることの多い人間としては、少々見過ごせない発言だった。そして何より、悔しい。

 

「そうですか。なら」

 

 設置されていたキャンプチェアーに腰を下ろす。モモさんが「あっ」と声を漏らす。

 

「私、しばらくここにいるので」

「ふむ、考えたものだな」

 

 頷いて煙草を灰皿に押し潰す。煙がノロノロと漂った。

 

「これでいい?」

「もう片方は?」

「これはおまえに被害は及ばない。俺の肝臓が悲鳴をあげるだけ」

 

 そう言われると何も言い返せない。

「で、ここに何しに来たの。まさか職員にバレた?」

「無許可で寛いでるんですか」

「公共の場にこんなの持って来れるわけないじゃん」

 

 ある程度の常識は持ち合わせているのに、それを敢えて守らないのは如何なのだろうか。

 

「私は猫を追いかけて来たらここに着いたんです」

「猫を」

「そう猫を」

 

 缶ビールを口につけてグビリ、とひと口飲む。

 

「アリスみたいだな、なんだか」

「ならこの屋上は不思議の国?」

「ただ暑いだけだよ」

 

 缶ビールを地面に置き、軽く伸びをして再び元いた手すりにもたれかかる。

 

「モモさんはなんでここに」

「気分。偶にだけど、気分が乗ったらここに来てゆっくりしてる」

「誰も来ないんですか」

「来ないね、不思議と。来るとすれば、そうだな。悩みを持った迷える子羊とか」

 

 と、芝居掛かった声で言う。メェー、ふざけた羊の鳴き真似もしてみせた。

 

「悩み、ですか」

「そう。ヤマブキも何か悩んだりしてる?」

 

 神父を気取ってるのだろうか、十字架を描くジェスチャーをする。

 本当に、つかみ所のない人だ。

 

「んー、まあ悩みといえば悩みかな、これも」

 

 心の中で浮かんだ悩みといえば、つい先日に担任の先生から言われた言葉だ。

 

「進路、です」

「そういえば受験生だったっけ」

「はい。三者面談までに、将来の自分の姿を漠然とイメージしろって言われました」

「漠然と。面白い言葉だな、漠然」

 

 いちごマシュマロを取り出しそうな言葉だったが、特に何も取り出さず、頬を少し掻いただけだった。

 

「それが悩み?」

「はい。どうすればいいんだろう、って」

「ふーん」

 

 缶ビールを口につけて、空を仰ぎ見て言う。

 

「まあ、ヤマブキの価値観とか心情とかそういうのわからないから、あまり偉そうなことは言えないけど」

 

 意外と入念に前置きをする。

 

「わからない時は、わからないでいいと思う」

「わからないで、いい」

「そ。これは年長者からの助言だけど、世の中には答えを求めなくていいものもあるんだ」

 

 答えを求めなくていい。

 心の中で何度も反復する。スーパーボールみたいに、私の心の中で何度も跳ね返って止まらない。

 

「混乱してる?」

「はい、少し。そうやって言われたの、初めてだったので」

「思い悩んだら、ボブ・ディランを聞くといい」

「ボブ・ディラン。ノーベル賞の?」

 

 そ、と口にして、口笛で少し掠れた、夏の青空には不似合いな哀愁感漂うメロディーを奏でる。

 

 いったい幾つの道を歩けばいいんだろう

 誰からも認められる男になるまでに

 いったい幾つの海を、白い鳩は渡るんだろう

 砂をベッドに、静かに寝息を立てるまでに

 砲弾は何度、青い空を飛び交うんだろう

 人々が引き金を引かなくなるまでに

 

 その答えは風の中にあるのさ

 その答えは風の中で舞ってるのさ

 

 アカペラではあったけど、モモさんは歌った。

 元々は英語の歌詞の曲だからか、リズムが少しおぼつかなかった。

 けれども、あの楽器店での弾き語りの時と同じで、少し掠れているけど、人を引きつける不思議な歌声だった。

「今のが、ボブ・ディランの曲ですか?」

「″Blowin' In the Wind″。″風に吹かれて″っていう曲」

「良い歌詞でした」

「自己流の和訳だよ。日本語はやっぱり難しい。リズム取れなくなるし」

 

 モモさんの歌詞は、今の私を肯定してくれるような、柔らかい風の優しさなような歌詞だった。

 

「答えは風の中で舞ってる、かぁ」

 

 私の心の中でバウンドをしていたさっきの言葉と違って、その詩はすんなりと心の中で落ち着いた。

 バスケットボールで、ダンクシュートが決まったような爽快感と落ち着きだ。

 

「少し、考えてみます」

「力になったかな、迷える子羊ちゃん」

「はい。3割はボブ・ディランのおかげかな」

「引用したのは俺なんだけどなー」

 

 頬をポリポリ、とおどけるように掻く。

 

「口笛、上手でしたね。羨ましいです」

「できないの?」

「あまり得意じゃないです」

「そうなんだ」

 

 意外そうに目を見開く。どうやら私は口笛が上手そうな女子高生に見えるらしい。

 

「簡単だよ。舌を前歯の裏に付けるんだよ。で、唇を少し閉じて腹式呼吸をすれば…ほら」

 

 簡単そうにチャルメラのメロディーを奏でてみせる。

 モモさんの言う通りに、前歯の裏に舌をくっつけて、唇を少し閉じて息を吐く。

 しかし、掠れきった間抜けな音が弱々しく宙を舞うだけだった。

 

「んー、難しい」

「最初はそんなもんだよ。練習あるのみ」

「そんなもんですかね」

「ドラムのリズムキープに比べれば、はるかに簡単だと思う」

「あー、そう言われたら出来る気がしてきた」

 

 繰り返し何度も口笛を鳴らす。その度掠れた変な音が勢いなく垂れ流されるだけだった。

 

 と、そんなことをしてるうちに、チャイムが鳴り響いた。次いで、やや無機質な女性の声が響き渡る。光化学スモッグの注意報だ。

 

 その音に気づき、腕時計を見る。

 時間はもう11時を超えていた。

 

「あ、お昼ご飯作らないと」

「そうかそうか。じゃあな」

 

 呆気なく手を振る。

 ちょっとそれが私にとっては悔しくて、どこか名残惜しくもあった。

 

 足を止めていた私に、モモさんは投げかける。

 

「帰らないのか?」

「モモさん、今度私が来る時は、ここにいますか?」

「どうだろうなー。気分にやるからなー」

 

 缶ビールを口につけた、子供のような笑みを浮かべる。

 

「まあでも、ヤマブキが心の底から俺と話したいと思った時、俺はここにいるよ」

「本当ですか?」

「多分ね」

 

 缶ビールを足元に置いて、上から思いっきり踏み潰す。煎餅みたいに平べったくなった。

 

「じゃあ、また来ます」

「ああ。じゃあ、またな」

「はい、また今度」

 

 モモさんは手を振る。

 私も手を振って、閉まっていた扉を開いてその場を後にしようとする。寸前、止まって、振り返る。

 モモさんは、まだ手を振っていた。



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3話

 

 いつもよりおめかしをした私のクラスの担任は、いつもよりも背筋を伸ばして、いつもよりも穏やかな口調で話を進める。

 

「沙綾さんにはある程度イメージを持つよう、二者面談の時に言ってまして」

「そうなんですか」

「あら、もしかして聞いてない感じですか?」

「はい、何も」

 

 真夏の真昼。

 外ではミンミンゼミが鳴いていて、部活動中の、あまり顔を知らない後輩たちが練習に励んでいる声が耳に入ってくる。

 

「沙綾、大学はどこにするか決まってるの?」

「うーん。あんまり」

「イメージは出来たのかしら?」

「漠然と、ですか?」

「そうね。漠然と」

 

 何度も漠然という言葉を意識して、自分の将来姿をイメージした。でも、自分の姿は靄がかかってよく見えなかった。

 

 何度イメージしても靄がかかっていて、多分これは解決しないなと思って、結局何も出来ずに今日という日が来た。

 

 だから、私が導き出した答えは、1つだ。

 

「わからないです」

「…わからない、か」

 

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で呟いて、そして保護者を前にしているというのに、だらしなく項垂れた。

 

「まあ、なんとなくそんな感じはしたけど」

「すいません先生。でも、本当にわからなくて」

 

 だって答えは、風の中で舞っているから。

 私はまだ風を掴めてない。見えてない。聞けてない。

 答えを見つけるには、まだ時間がかかりそうなのだ。

 

「それでも、あなたが見つけた答えがそれなら、私は尊重します」

 

 先生はジャケットの胸ポケットのボールペンを取り出して、1回だけノックボタンを押す。

 そのペンで、書類に何かを書き記す。

 

「大学は、もう決まっているでしょう?」

「はい、もう、なんとなく」

「後はあっち次第ってこと?」

「そうですね」

「いいわね、楽チンで」

 

 微笑の顔で軽くため息をこぼす。嫌味とかじゃなくて、賛辞の篭ったため息だ。

 

「そうこうで、沙綾さんはこんな感じなんですけど…お母さん、何かありますか?」

「いえ、何も。私ももう、なんとなくはわかってますから」

 

 母は優しく笑う。

 私の思考を、どうやら汲んでいるようだ。

 

「では、そういうことで、沙綾さんの三者面談は終わりです。宿題ちゃんとやりなさいよ?」

「やりますよ、ちゃんと」

 

 眼鏡をかけ直して、先生は書類の整理を始める。私の後にももう1人、クラスメートが待機しているのだ。

 

「では、我々はこれで失礼します」

「はい。私もこれで」

 

 母と先生が、礼儀正しく頭を深く下げる。私も2人に倣って深く礼をする。

 

「山吹」

 

 去り際、先生が私を呼び止めた。

 妙に畏まった名前呼びのさん付けじゃない、いつもの容赦のない、自然な苗字呼びだ。

 

「これ、あげる」

 

 そう先生に手渡される。

 袋にたくさん入った白いマシュマロだ。

 

「いちごマシュマロですか?」

「んーん」

 

 右手の人差し指を横に振り、整った白い歯を見せて笑う。

 

「ただのマシュマロ」

 

 そう言って、先生は赤色の飴玉を口に入れた。

 

 

* * *

 

 

「沙綾」

 

 帰りの道の途中、母が静かに呼かけた。隣を歩いているが、母の顔はよく見えない。

 

「あなたは、やっぱりお父さん似ね」

「えっ」

 

 父の、少し間の抜けた優しい顔が思い浮かぶ。

 誰に対しても優しくて、誰からも慕われるみんなの父だ。

 

「そうかな」

「ええ。ノープランなところとか」

「もしかして、怒ってる?」

 

 なんだか、切れ味の鋭いナイフで切られた気分だ。見事過ぎて、少し拍手もしたくなる。

 

「怒ってはないわよ。でも、あなたのさっきの答えを聞いて、お父さんを思い出したものだから」

 

 そう言う母の声は、少し若返ったように聞こえた。

 思い出してるのだろう、遥か昔の、父との出逢いを。

 

「お父さんの不思議な特技に、ノープランで行っても成功するっていうのがあるの」

「なにそれ、すごっ」

「ええ、本当にすごいのよ。私へのプロポーズも、その場の勢いでしたんだから」

「うわー、ロマンのカケラもない」

 

 オンナ心をわかっていない人だな、と乾いた笑いしか出ない。顔からして、まあそういうのには鈍そうなのだが。

 

「でも、その結果があなたなのよ、沙綾」

 

 歩きながら私の頭に手を置く。

 

「あなたのノープランは、お父さんと同じで、良い方向に向くわ。自信を持ちなさい」

 

 これは、父をダシに使った、母なりの私はの鼓舞なのだろう。普段は優しくて、あまり怒らない人だから、きっとこういう時になんて言っていいのか、わかってないのだ。

 

 だから私は頭の上に置かれた母の手の上に自分の手を重ねた。

 

「ありがとう」

 

 今日、母の笑顔を初めて見た。

 

 

 夕食の片付けをしている最中、テレビから賑やかな声が聞こえてくる。

 どうやら芸能人が何処かロケに出かけているらしい。それを弟の純が食い入るように見ている。

 

「純、もうちょっと離れないと目悪くするよ」

「うん」

 

 話を聞いてない、心ここに在らずといった返事だ。

 

「お姉ちゃんー」

「んー?」

 

 呼ばれて、白い丸皿を片手に、純が座り込んでいる居間に視線を向ける。だが純は、テレビから目を離そうとしない。

 

「お姉ちゃんはさー、ひまわりって見たことある?」

「ひまわり?」

「うん、そう」

 

 ひまわり。

 大きくて、みんなを包み込むような、夏に咲く綺麗で可愛らしい花。

 

 テレビ、本、インターネット。そういった媒体では見たことあるが、実物を見たことは思い出してみれば無い。

 

「見たことないかも」

「えっ、マジで」

「マジマジ。意外と見る機会ない花なんだよ」

「へー、意外」

「ひまわりか」

 

 ノープランな父が台所から顔をひょっこりと出す。

 

「お父さんは見たことある?」

「あるよ、数回だけだけど」

「どうだった?」

「割と大きかったなー。あと、いっぱい咲いてた」

 

 40を超えているというのに、小学生ですら書かないような感想を述べる。

 

「ひまわりかぁ、見てみたいかも」

 

 見たことがないから、1度は実物を見てみたい。″夢見るSunflower″という曲を私たちで作ったぐらいだ。元ネタの花を見ておかないと、バチが当たるというものだ。

 

「香澄たちと行ってみようかな」

「えー、オレも連れてってよー」

「はいはい、余裕があったらね」

 

 香澄はもちろん、有咲やおたえ、りみりんも連れて行くと言ったら賛成してくれるだろう。

 

「ほらー、お風呂入ってきなよー」

「やーだー」

 

 嫌がる純の手を引っ張って強引に風呂場に連れて行く。

 相変わらず、我が家は騒々しい。

 

 

* * *

 

 

 バンド練習終わり。

 オレンジ色の陽が空を覆い、とても幻想的で、けれども疎外感を感じる景色となる。

 河川敷と並列している砂利道を、ドラムスティックを両手にイメージトレーニングをしながら歩く。

 河川敷の横を歩いているためか、心地の良い涼しさが暑さから私の肌を守ってくれる。

 

 すると、いつもよりも遠回りの道を進んでいたからか、図書館のあるコミュニティセンターの正門の前に来ていた。

 

 ––––––いるかな、モモさん。

 私に1つの答えを示してくれた、ちょっと変わったヒト。

 これは昨日の夜、お風呂に入りながら口笛の練習をしていた時に気がついたことなのだが、あの人とお話しをすると、とても気が楽になる。

 見た目は怪しくて、言動も正直言うと変なのだが、そこに嫌悪感というネガティブな感情は湧かない。何だろう、これは。

 

 ––––––心の底から俺と話したいと思った時、俺はここにいるよ。

 

 なんて、キザなことを言った人だ。

 今、私はあの人と話したいと心の底から思っているだろうか。

 

 ″風に吹かれて″のメロディーを口笛で吹く。

 あの日に比べて、少しは上達したと思っている。

 

 まだちょっと掠れている音色を聞いて、私は正門をくぐった。

 

 答えは風の中で舞っているのだ。

 

 

 防火シャッターみたいな大きな扉を開けて、蒸し暑い、天国への階段を登る。

 登りきって、屋上に辿り着く。辺りを見回すと、すぐ隣でモモさんがコンクリートの壁に背を預けていた。

 急に視界に入ったものだから、少し驚いた。

 

「こんにちは」

「なんだ、また来たのか」

 

 吸っていた煙草を壁に押し当てて潰す。黒い痕がグレーのコンクリートに彩られた。

 

「どうした?」

「話したかったので」

「それだけ?」

「モモさん言ったじゃないですか、話したい時にいるって」

「言ったっけ、そんなこと」

 

 惚けるように頭を掻く。

「また悩み相談?」

「いえ、そうじゃなくて」

 

 階段に通ずる扉を境界線に、私とモモさんは腰を下ろす。

 

「モモさんのこと知りたくて」

「俺のこと知ったところで、テストで良い点は取れないよ」

「元々それなりに取ってるんで大丈夫です」

「さいですか」

 

 モモさんは黒色のスニーカーの靴紐を直す。煙草を箱から取り出すが、火を付けないで口に咥える。

 

「モモさんってこの街に住んでるんですか?」

「いいや。どこにも住んでない。俺は根無しのしがない旅人だよ」

 

 旅人。

 普段の生活であればあまり聞かない単語ではあるが、不思議と彼には似合っているな、と感じた。

 

「旅人って」

「意外だった?」

「あまり」

「うーん、やっぱり旅人っぽいのか、俺」

 

 頬をポリポリ、と搔く。

 

「俺のことなんて、それぐらいだよ」

 

 胸ポケットから使い捨てライターを取り出して、火をポッと付ける。ゆらゆらと陽炎のように揺れる火をボーッと眺め始めた。

 

「わかりました。モモさんは旅人なんですね」

「ああ」

 

 私は立ち上がって、鮮明にオレンジ色に染まった太陽に向かって伸びをする。

 

「モモさん、ひまわりって見たことありますか?」

「うん?なんでまた」

「なんとなくです」

 

 オレンジ色の太陽が、ひまわりに見えた。それで昨夜の話題を思い出したのだ。世界で最も知られている花だけど、多分最も直接見る機会の少ない花。

 

「見たことはあるよ。知ってるもん、ひまわりがよく見れる秘密の名所」

「えっ、本当ですか?」

「嘘なんてついてどうすんの。ここからそう遠くはない所にあるよ」

「へー」

 

 近いなら、香澄たちを連れて見に行けるな。

 

「何処ですか、それ」

「教えない」

「え?」

 

 まさかすぎる回答に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして声をあげる。正直、予想してなかった。

 

「なんで」

「秘密は教えたら秘密じゃなくなるだろ?」

 

 言われて、不思議と腑に落ちてしまう。彼は何かそういう話術を持っているのだろうか。

 

「まあ、気が向いたら教えるよ」

「いつ頃になりそうですか?」

「さあ?」

 

 ちょっとムカついた。こうなったら気が変わるまで、若しくは気を変わらせるまでモモさんと会って話そう。

 

 カチッ、と付けていた炎を消す。その使い捨てライターを胸ポケットではなく、ズボンのスラントポケットにしまった。

 と、同時だった。

 17時を知らせる音楽が街全体に鳴り響く。哀愁さを漂わせた音色だ。

 

「良い子は帰る時間だ」

「そうですね。帰ります」

「おまえって良い子なんだ」

「意外でした?」

「あまり」

 

 悪戯っ子のような笑みを浮かべ、気怠そうにゆっくりと立ち上がり、落下防止用の鉄柵に向かって、背中を預ける。

 

「じゃあな、ヤマブキ」

「はい、それじゃあ」

 

 立ち上がって、モモさんに背を向けて歩き出す。カチッと音が鳴った。たぶん煙草を吸い始めたのだろう。

 手を振ってくれるかはわからないけど、私は前を向いたまま手を振った。階段をコツコツと降る。

 

 ″風に吹かれて″のメロディーを口笛で吹く。でも音は掠れっぱなし。残業して、その無様な音がいつもよりも良く聞こえるので、口笛をやめて、鼻歌に切り替える。

 

 仄かに暗い通路に響く鼻歌。壁や当たって弾けて跳ね返って、また壁に当たって跳ね返っての繰り返し。

 

 こんな、閉鎖的でジメジメした所に風が吹くわけなんてないけどさ。

 扉さえ開ければ、心をふわりと浮かせて、自然と笑みをこぼさせてくれる風が吹いてくれるよ。

 

 ボブ・ディランがそう言ってくれてる気がする。

 

 階段を下りきって、防火シャッターの扉を開ける。

 冷房の、冷たい風が私の体を包み込んだ。

 



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4話

 

 台風がやってきた。

 この街は強風域の少し端にかかってる程度ではあったが、その猛威は日頃の嵐の2.5倍といったところだった。

 雨は弾丸のようにアスファルトを、屋根を、壁を打ち付けた。風は家を薙ぎ倒すように吹き、我が家はまさに籠城状態だった。

 強風の轟音に怯えて泣き出す紗南を宥めて、年に数回見れるか見れないかの台風に興奮して暴れる純を治めたりと、城内も慌ただしかったけど。

 

 家族総出で純の暴動を治め、ベッドに寝かせた––––––否、縛り付けた。

 

「なぁ、お姉ちゃん」

 

 布団を被せて部屋を出ようと純に背を向けた時だった。

 体力を使い果たしたはずの純は、この時間にしては珍しくハッキリとした声と呂律で私を呼んだ。

 

「なに?」

「ひまわりってさ、倒れるのかな」

 

 外で猛威を振るう台風、その中で可憐に咲いている彼らを心配しての言葉なのだろう。

 

「さぁねぇ…」

「チューリップとか、ラベンダーは倒れるよ、きっと。あいつら小さいし」

 

 家の前で花壇に植えている花の名を言う。確かに、あそこに咲いているのは綺麗だが、小さくて細い。

 

「でもさ、ひまわりって、父さんが言うにはデカイらしいんじゃん」

「そうだね」

「どんぐらいデカイかわかんないけど、デカイならそう簡単に倒れないんじゃないかなって」

 

 純の疑問は最もだ。というか、その疑問を聞いて私も腕を組んで首を傾げたほどだ。

 スマートフォンのアプリで、ひまわり、と検索する。開いた記事によると、ひまわりは大きいもので3mにもなるらしい。

 

「ひまわりって、3mになるらしいよ」

「めーとる?」

「だいたい私が2人ぶんぐらいかな。お父さんよりは大きくなるってこと」

「えっ、マジでっ?」

 

 初めて知る事実に目を輝かせる。うん、それでこそ子供の反応だ。

 

「でも、大きくても打たれ弱い人だっているでしょ?」

「うん、父さんとか」

「そうだね、最たる例だね」

 

 私が少し小言を言っただけでショックでしばらく立ち直れなくなるほどだ。

 

「そんなお父さんみたいに、バーって風に当てられると、倒れちゃうひまわりだってあるんだよ」

「大きいのに?」

「そ、大きいのに。十人十色。倒れちゃう子もいれば倒れない子もいる」

「ふーん」

 

 私の話を聞いているうちに眠くなってきたらしい。声は間延びして、語尾もあやふやに消えかかっていた。

 

「つまり、ひまわりだって倒れるってこと。大きい花だけど、結構センサイなんだと思うよ」

「そっかぁ」

 

 はだけた布団をかけ直す。気持ちよさそうに純は笑った。

 

「じゃあさ、お姉ちゃんさ」

「うん」

「見に行ったらさ、教えてよ」

 

 普段のはしゃぎ回っている活発な顔ではなくて、子供らしい無邪気で屈託のない笑顔だった。

 

「うん。教えるよ、今度」

 

 見に行く予定なんて、無いんだけれど。

 弟の願いを叶える口約束ぐらい、作るのは姉としての役目だろう。

 

「楽しみにしてる」

 

 お湯をかけたらふっと溶けてしまう雪のように言葉を紡いで、純は目を閉じて静かに、寝息を立てた。

 

 

* * *

 

 

 ぼんやりと、ひまわりの輪郭が見えた。

 

 最初は戸惑ったけど、1回深呼吸をしたら、これは夢だ、とすぐに理解した。

 ここにいるはずなのに、何の感覚もない。固いはずの地面は、トランポリンのように弾力がある。

 

 そんなあやふやな世界で、モモさんの声が響く。笑い声。鼻を鳴らして、口笛を吹く。″風に吹かれて″のメロディーだ。相変わらず上手な口笛。

 

 拍手をしようと手を動かすけど、水の中に沈んでいるかのように上手く動かせない。

 その代わり、ひまわりの輪郭がよりはっきりと視認できるようになっていった。

 

 はっきりと見えるひまわり。

 響く口笛。

 動かない両手。

 

 陽炎は、私の前で踊っていた。

 

 

 

* * *

 

 

 

 朝、目が覚めた。思わず声に上げてしまうほどに暑かった。涼しさとか、趣が無い、純粋な暑さが肌を覆い囲んでいた。

 

 シャワーを浴びて白のショートパンツに、チェックのシャツを着て袖をまくった。3個の飴玉を手に取って、うち1個を口に放り込む。これで頭が良く回る。

 窓の外は今年で1番と言っていいぐらいに明るかった。

 

 頭の中で垂れ流しにローテーションされている″風に吹かれて″の口笛。陽炎の正体を知りたかった私は、モモさんの元へと向かおうと地を蹴った。

 

「あら、何処かにお出かけ?」

 

 店の前に散らばった葉っぱたちを、竹箒で掃いている母はそう投げかける。

 

「うん、ちょっとそこまで」

 

 行く先に向かって指を指す。

 

「そう、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 

 微笑んで見送ってくれた。

 

 

 台風一過による猛暑は、道を行く私を大いに苦しめた。自動販売機で購入したミネラルウォーターでは歯が立たない。

 

 耐えられなくなった私は、バスを使った。そんなバスなんて使うほどの距離でも無いのに、暑さというのは凶暴だ。

 バスの中には私と同じ考えをした人で溢れていた。ある意味、暑い。

 

 バスから降りた私は、汗をかかない程度に走って、コミュニティセンターへと入った。

 入った瞬間に体を包む冷気。足を止めて、2、3秒ほど冷気を体に当てた。

 

 この涼しさを、座ってゆっくりと味わっていたい。

 そんな欲を抑えて、図書室を素通りして、私とあの人だけが知っているであろう

秘密基地の道を早歩きで往く。

 

 扉を開けて、階段を昇る。覚悟はしていたけど、想像以上に中は蒸していた。「ヤバヤバっ」、と口にしながら駆け上がった。

 

 階段を昇りきって、鍵をの意味を成していない扉を開けた。熱風が顔に当たって、思わず1歩退いてしまう。

 踏み止まって、辺りを見回す。

 

「ありゃ」

 

 そこに、モモさんの姿は無かった。

 それはそうだ。今までも暑かったとはいえ、台風一過の暑さを凌ぐほどではなかった。

 むしろ、この暑さの中で、缶ビールを片手に煙草をくわえて、ここで黄昏ている方が可笑しいというものだ。

 

「まあ、そんなものか」

 

 電源が落ちたように、どっと汗が生まれて身体中に流れた。

 

「あっついなぁ…」

 

 背中を流れる汗は冷たかったが、やがて熱風が肌に当たって、まだ真っ赤な太陽が髪を焦がさんとばかりに照っていた。

 

「帰ろ」

 

 誰もいない屋上で、誰に言い聞かすわけでもなく、ダレた声でそう呟いた。

 

 

 そんな帰路の途中だ。

 この街じゃ1番大きな公園に併設されているテニスコート。そのテニスコートのすぐ隣の駐車場に、その人はいた。

 

「なんでここに」

「こっちの台詞です」

 

 白のシャツの袖をまくって、いつもの黒いパンツに身を包んだモモさんはそう言う。芸能人のようにサングラスを付けているため、その表情は伺いきれない。

 

「俺はアレだよ、アレ」

「アレって?」

「車ン中で涼んでた」

「車あったんだ」

 

 そう声を漏らすと、彼はすぐ隣に停められていた黒色のジープのドアをゴン、と叩いた。

 

「わっ、高そう」

「たけェよ、実際」

「どこにそんなお金が」

「湧いてくるの、日頃の行いがいいから」

「世界ってザンコクですね」

「どういう意味だよ、それ」

 

 サングラスを外して鼻で笑う。この類を見ない暑さだからか、いつも以上に声に覇気がない。

 

「モモさん、いつも同じカッコウですよね」

「ん、ああ、まあ、そうだな」

 

 手をパタパタと団扇がわりに扇ぐ。あまり効果は無さそうだ。

 

「もっと夏らしいのにすればいいのに」

「これしかないんだよ。いや、正しくはこういうのしかない」

「ちなみにメーカーどこ?」

「外。海外。オーダーメイド」

「さすがお金が湧く男」

 

 ますますモモさんの素性が掴みづらくなった。

 この人は人じゃないように見える。いや、人だ。それは間違いない。ただ、在り方が違う。他の人たち––––––私も含めた––––––が石だとすれば、モモさんはさながら陽炎。そこに見えるのに、掴むことはおろか、触れることすらできない。ユラユラとそこで浮いて、嘲笑うように踊っている現象なのだ。

 

 昨晩、夢で踊っていた陽炎。

 正体はわからないけど、あの時歌っていた彼ならわかるはず。

 

「まあ今日は勘弁してくれ。暑くして仕方ないんだ」

「私いま、羊です」

「迷える?」

「はい、迷ってます」

 

 面倒くさそうに息をこぼして、箱を取り出してタバコを1本くわえて火をつける。再び白き息を吐いたところで、私を見下ろした。

 

「神父は教会から出たら、無職なわけだ。十字架を持ってようがね」

「はぁ」

「つまり、ここはあの屋上じゃない。よって、俺は羊の言葉を聞く必要もない」

 

 なんて、子供みたいな言い訳を、これまた子供みたいなドヤ顔で言い放つのだ。

 

「でも、悩み事じゃないです」

「じゃあ、なに」

「話したいんです、単純に。モモさんと」

 

 今この場で作った理由でもあるけど、私の本心に従った言葉でもある。モモさんは悩ましいと言わんばかりに頭を掻く。

 

「わかったよ。なに、競馬の話でもする?」

「モモさんがそれがいいというなら」

「冗談だよ」

 

 助手席のドアを開けて、シートの上に置かれていたペットボトルを拾って渡しに投げ渡す。買ったばかりなのか、冷たかった。

 

「実は私、いま恋してるんです」

「そりゃめでたい」

「嘘です」

「進学先落ちちまえ」

 

 興味深そうに目を開いたが、すぐに口を尖らせる。

 いただきます、と一礼をすると、「ん」と素っ気なく返した。味は普通のミネラルウォーター。でもこの暑さの中だと、いつもよりも2倍も3倍も美味しく感じる。

 

「でも、気になってる人はいます」

「嘘だろ」

「ホントですよ」

 

 私のちょっとしたウソに、モモさんは疑心暗鬼だ。

 

「その人は陽炎みたいな人なんです」

「へぇ」

「嘲笑うように、私の記憶の中で踊ってるんです」

「ムカつく野郎だな」

 

 たばこに火をつける。それを見送って続ける。

 

「その人が、気になってるんです」

「オトコ?」

「男です」

「へー」

 

 思いっきり息を吸って、白い煙を吐き出す。すると、シニカルに笑って、灰を落とした。

 

「ま、そいつがラブの方で好きなら告ればいいんじゃないの」

「その心は?」

「ガキだからだよ、おまえが」

 

 人差し指と中指で煙草を持つ。モモさんは興味なさげに、アスファルトにへばりついた緑色のチューイングガムを削り取ろうと、靴底をガリガリと鳴らす。

 

「ガキは馬鹿みたいに青春してろ。笑って泣いてへこたれて、ガキだからこそ許されるんだよ、そういうの」

「逆ナンしまくれってこと?」

「それもまたいいな」

 

 私の冗談に、歯を出して笑う。

 ああ、うん。なるほどな。

 

 この人、オトナだ。

 

 当たり前の事実を、再度認識して、頷く。

 なんとなくだけど、私、この人のことは嫌いじゃない。

 

「モモさん」

「ん?」

「好きです」

 

 魚の死骸のように浮かんできた言葉を、ハッキリと読む。

 シチュエーションもムードも、何もかもを考慮してない。刹那的で衝動的な告白を、3秒と一言で済ましてみせた。

 

「バカ」

「好きです」

「バカだな、おまえ」

 

 面食らったように私を見返していたが、やがて子供のような罵倒を浴びせる。

 

「え、なんで」

「なんとなく」

「適当だな」

「適当って良い言葉ですよ」

「知ってる」

 

 私のクラスの担任の教師のように、何かないかとポケットを弄ると、飴玉が入っていた。今朝とったやつだ。

 

「いりますか?」

「いただく」

「イチゴ味がいいですか?」

「レモン」

 

 黄色い方を差し出すと、袋を開けて、飴玉を口に入れる。

 

「逆ナンですよ、モモさんの望む」

「違う。ただの告白。それも嬉しくない、な」

「嬉しくないんですか、現役JKに告白されて」

「まったく。おまえ以外なら少し違ったかもしれないけどな」

 

 飴を噛み砕く音が聞こえる。

 

「私、本気ですよ」

 

 色を帯びてない言葉を紡ぐ。

 

「嘘、だな」

 

 その言葉を真っ黒に塗り潰す。輪郭は消されて、原型はそこに無かった。

 

「なんでそんなに否定するんですか」

 

 崩れ落ちそうな灰で侵されたタバコをそっと力無く離して落とす。音もなく地に着いたそれを、先ほどまでガムを削ろうとした靴底で踏み潰した。

 

「気の迷いだよ、その感情は」

「なんで断言できるんですか」

「わかるんだよ。俺はオトナだから」

 

 特に笑うわけでもなく、無表情で無感情にそう断言した。

 その言葉はピストルから放たれた弾丸のように私の胸を撃ち抜いた。やがて染まり広がっていく血のように、その言葉は心の中を侵していった。

 

 いつだってそうだ。オトナは、正しいことしか言わない。

 お父さんだって、お母さんだって、先生だって、モモさんだって。

 

 彼から放たれた弾丸は、凶悪犯に向けられて放たれるモノと同じ意味だ。

 

「……わかりました」

 

 私のこの衝動的な恋が正しいものなのかそうじゃないのかは、たぶん今の段階ではわからない。

 

「じゃあ、デートに連れてってください」

「は?」

 

 乾いた声を上げる。

 

「ひまわり、見に連れてってください」

 

 吹いた風は涼しかった。

 答えは風の中で舞っている。

 決して陽炎のように踊っているわけではない。

 

「そしたら、答えがわかるはずだから」

 

 私の言葉を黙って聞いていたモモさんは、鼻を鳴らしてポケットに手を突っ込んだ。気取ったように親指だけを出して。

 

「ああ、わかったよ」

 

 呆れたようにそう言う。

 

「明日、行こう」

 

 車のドアを開けて、運転席に腰を下ろす。私を一瞥もせず、そこから去って行った。

 

 燃える太陽。茹だるような気温。肌にまとわりつく熱気。

 馬鹿馬鹿しい程の真夏の中、エンジン音だけが猛々しく轟いていた。

 

 

 

 



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5話

 

 山吹ベーカリーの業務用のバンとよく似た、野太いエンジン音が鳴り続けている。この車は最新型だからか、クジラの鳴き声のように篭って聞こえた。

 

 助手席の窓から景色を眺める。幼少期からずっと過ごしていたこの街。道の大まかな長さ、営業しているかわからないボロボロなラーメン屋、ブランコしか遊具がない公園、そこでサッカーをする子供たち。

 全ては見慣れていて、この街の当たり前となっている景色だ。

 でも、そんな景色も、学校へ行くわけじゃない、ひまわりを観に行くという別の目的を持つことで、全く違うものに見えた。

 

 私の隣で、黙々と前を見ながらハンドルを回すヒト。

 小洒落た青緑色のソフト帽を被って、事故を起こさないようにと気を張っているのか、その横顔はいつもよりも真剣だ。

 

「この助手席…」

「ん?」

「ここの助手席、最後に他の人乗せたのっていつ頃なんですか?」

 

 私に一度目をやった後、左手をハンドルから離して「1、2、3…」と口にしながら数える。

 

「まぁ、4、5年前か。後部座席の、おまえのすぐ後ろ。そこにはガキを乗せたことが去年あった」

「どういう経緯ですか、それ」

「トランスポーターだよ」

 

 ニヤリ、とシニカルに笑ってブレーキをかける。目の前の信号機は赤色だ。

 

 途中で立ち寄ったハンバーガーチェーン店でお昼ご飯。彼はアイスコーヒーだけを注文した。

 

「いらないんですか?」

「腹減ってないんだ」

「そんなんで後から空いても知りませんよ」

「いーの。俺は小食なんだよ」

 

 そう言ってストローに齧り付く。透明なプラスチックの管に薄黒い液が昇っていく。

 

 再び目の前に集中してハンドルを切る。たまに話しかけるが、いつも以上に素っ気ない答え方をしている気がする。

 昨日までは味があった彼の声は、リビングのダイニングテーブルに作り置きされたままの夕食のように味気が無かった。

 

 やがて話すこともなくなって、ただ外を見た。山や谷とまではいかないが、丘や窪み程度の起伏で変わっていく景色。アスファルトの色も僅かに違っていて、コンクリートに描かれたキャッチーなキャラクターのペイントアートも増えていっては消えていった。

 そんな私に気を遣ってくれたのか、モモさんはラジオを点けてくれた。FMだ。聴いていて落ち着く、低く凛とした女性の声が、初めてギターを買って弾いた日のことを話していた。

 

 曰く、ピックの存在を知らなくて、買ってから暫くは指で弾いていたらしい。アコースティックギターでは指弾きもよくするとおたえから聞いたことがある。

 遥か昔の自分を懐かしんで笑う。「さて、それではここで1曲」、と切り返す。

 相変わらずの落ち着いた声で、「BUMP OF CHICKENで天体観測」、と読み上げる。

 

 ノイズ混じりに始まった、流れ星を表したしたという7つのパンクなギターサウンド。

 青春の1つをシーンを表した青々しい詩が、正統派なバンドサウンドに乗って紡がれる。

 

「バンプですね」

「知ってるのか?」

「当たり前ですよ」

 

 何気なく呟くと、運転に集中していた彼は何気なく反応してくれた。

 

「この曲、好きなんです」

「へぇ、なんで?」

 

 彼はたぶん、私を一瞥もせずにそう尋ねているのだろう。私も彼を見てはないけど、なんとなくわかる。

 

「青臭くて。バンド始めたら、更に良さがわかったんです」

 

 絶えることなく変わり続ける景色を眺めながらそう言う。

 

「ふーん」

 

 アイスコーヒーを啜る音が聞こえる。

 

「若いなァ」

 

 誰かに言ったわけでもなく、ただ彼は空気にそう吐き出した。

 

 

* * *

 

 

 1回のトイレ休憩を挟んで、その場所に辿り着いた。

 田舎道だ。アスファルトじゃない。ずっと昔からある、純粋な土の道。

 

 人の気配はなくて、青と緑と橙色だけがあった。シンプルな配色なだけに、とても鮮烈に記憶に残る。

 

「すごい」

「穴場だよ。誰にも言うなよ?」

 

 人差し指でしーっ、とポーズをとる。

 

 すると、静かにブレーキをかけた。ギアをガチャガチャと変えて、名前のわからないレバーを引く。道のど真ん中だ。だというのに、ここが駐車場であるかのように、当たり前の挙動で車を降りた。

 

「少し歩くぞ」

「ここから?」

 

 そう聞く私に向かう方向に指を指す。

 

「こここらは道が不安定なんだ」

「…わかりました」

 

 だというなら仕方がない。彼の言葉に従い、私は歩き出した。彼も私の背後をついて行く。やがて追い抜いた。

 

 歩いて、歩いて、歩いて、歩きまくった。景色は変わらなかった。速度の違いだろうか。

 額を流れる汗を拭おうとした時だった。

 

「失礼」

 

 と、彼の声が聞こえたと同時に、視界が真っ黒になった。先ほどまでのシンプルな色合いの景色は、たった1色の、面白みのない景色はと様変わりだ。

 

「歩け。出来るだけゆっくりで」

「……」

 

 まあ、彼のやりたいことはなんとなく察しがつく。ベタだ。意外と。

 

 人質のようにゆっくりと歩き出す。背後で彼が歩きだす気配を感じた。

 1歩1歩、踏みしめる。足元が見えないということもあるけど、踏みしめなければ、これが最後になると感じたからだ。

 

 何歩。いや、何十歩踏んだかを数えたのやめた頃だ。

 

「止まれ」

 

 声だけだと本当に人質になった気分だ。

 要求通りに足を止める。

 

「目ェ閉じてろよ」

「はいはい」

 

 目を閉じる。真っ黒から真っ黒になっただけ。目を開けてるか開けてないかの違いになっただけだ。

 

 瞼から微かに感じれていた体温がなくなったのを感じた。

 手を離したのだろう。

 

「開けてみ」

 

 出来る限り勿体ぶって開けてみる。ハードルを上げている、とも言えるかもしれない。

 ゆっくりゆっくり。さっきまで歩いていたのと同じようなスピードで。

 

 風が瞼を冷やした。

 まつ毛を揺らした。

 

 黄色と緑の世界が広がっていた。

 

「わぁ」

 

 私よりもうんと大きいひまわり達。可愛らしい名前とは裏腹に、とても大きくて、意外と重圧感がある。

 森の中にいるみたいだ。きっと、ここから見上げる景色は、世界中のどんな世界遺産よりも綺麗で目に焼き付く。

 

 穴場といえば穴場だけど、もはや別世界のように感じる。

 

「すげェだろ」

 

 きっとめちゃくちゃドヤ顔でニヤついている。

 

「はい、とっても」

 

 そのドヤ顔を認めるのはなんだか癪ではあるのだけど、この絶景を否定するのは気がひける。素直に認めることにした。

 

「なんだか、違う世界みたい」

 

 思ったことを読み上げる。けどそれは機械的じゃない。とても素直な人間的な感情からだ。

 

「違う世界だと思ってる。俺は」

「なんでですか?」

「見ての通り、違う世界みたいだからだよ」

 

 そのままだ。

 自分の瞳に映る異世界に従ったが故の見識。

 

「俺はここで生まれたんだ」

 

 唐突に、そんなことを語り始めた。

 

「親の顔や名前も知らない。気づいたらここにいたらしい。たまたまここを通りかかった農家のおっさんに拾われたんだ」

 

 低く、少しがなりの効いている声。でもいつものような軽快さはなく、ただ重くて硬いだけだった。

 

 いつもよりもシリアスな語り口調。

 

「嘘ですね」

 

 でも、彼は私の前では真実なんて話さない。

 迷える子羊には答えを示す牧師だけど、ただの女の子には嘘をつくペテン師。

 

 そんなこと、私はわかりきっている。

 

 久しぶりに、彼の横顔を見る。

 への字口だったが、やがてニヤリと白い歯を見せて笑った。

 

「どうだかな」

 

 そういってタバコを取り出す。口にくわえて、慣れた手つきで火をつける。控えめに吸って、控えめに白い煙を吐き出す。

 

 スポットライトのような太陽の光に差されていて、まるで舞台の主役だ。

 

「あ…」

 

 少し前に進んで、左前付近に目をやると、くの字に曲がっている、ひときわ小さなひまわりがあった。黄色になるはずだった花弁は茶色く、まさに死体だった。

 

「あーあ」

 

 彼は他人事のように声をあげる。

 

「なれなかったんだな。悲しいこって」

 

 死んでしまっているひまわりに近づいて屈む。その花に、線香の煙のように、口から白い煙を吐いてかける。

 

「バチ当たりますよ」

 

 携帯灰皿を取り出して、その中に灰を落とす。

 

「当たってもいいよ。もう当たってるようなもんだからな」

 

 まだ充分に長いタバコを携帯灰皿に押し潰し折って強引に入れる。

 

「先戻ってる。ここからまっすぐ戻ったら車あるから」

 

 ソフト帽を深くかぶり直して、颯爽と去っていく。

 

 彼が去ってからも暫く、私はひまわり達を見回っていた。たまに聞こえる鳥の囀りは、この世界の異質さ助長している。

 

 折れているひまわりは他にもあった。たくさんあった。台風によるものなのか。それとももっと昔に折れたものなのか。わからないけど、悲しいことだった。

 

 かわいそうに。

 少し違えば、あなたも他のみんなみたいに悠々と太陽に向かって背を伸ばして、空を見上げることができたのだろうに。

 

 センサイなそれらは、私たち人間のようにも見えた。

 

「……なんて、大きなお世話だよね」

 

 遺体となったそのひまわりに、優しく語りかける。

 あなた達だって生きている。私たちと同じように。

 

 お墓を作るだなんて大それたことはできたいけど、あなたを見れてよかった。

 

「じゃあね」

 

 そう微笑む。

 緑色に囲まれた道を歩く。ひまわり達に見送られるように。

 

 壮大で雄大なその花々に背中を押されて、私は終わりを確信した。

 

 

* * *

 

 

「タバコ、吸わせてください」

 

 帰りの車。

 オレンジ色に支配された空の下で、私は禁断の味を要求した。

 

「嫌だよ」

「受動喫煙なんて今更じゃないですか」

「そうじゃない。未成年喫煙はその場にいた大人が責任を負うんだよ」

「誰にも話しませんよ」

 

 口だけでは軽い。

 彼は訝しげに私に視線を送るが、やがて諦めたように深いため息をこぼし、箱を投げ渡した。

 

「1本」

「ありがとうございます」

 

 1本取り出し、口でくわえる。火をつけてないのに、なんだか変な味がする。

 使い捨てライターを渡される。

 

「使い方わかるか?」

「わかりますよー。一応職場でよく使うので」

 

 カチッ、という音ともに火が姿を表す。先端を火につける。

 

「吸え。付かないぞ」

 

 すーっ、と思いっきり吸う。すると突然、何か引っかかる風が喉に侵入した。

 バーベキューとかでたまにある、煙を吸った時の感触と同じだ。喉が痛い。何かを出そうと咳き込む。

 

「いきなりそんな吸うからだよ」

 

 呆れのこもった声が聞こえる。

 そんな声をよそに、私は再び吸い始めた。少しだけ、控えめに吸う。辛くて苦い、まったく美味しくない味が口の中で広がった。

 口の中でただただ広がっていて、喉に入ると痛くて、鼻は犯されたように変な匂いでいっぱいだ。

 

「……あまり美味しくないですね…」

「そりゃそうだろうよ、初めてならな」

 

 これがオトナの味なんだ。

 そう思うと、オトナってすごいなと思う。こんな味を好む人だっているんだ。

 

 煙が車内に充満する。彼は窓を少し開けた。涼しい風が煙とすれ違って入ってくる。新鮮で美味しい。

 

 目の前で余裕な表情を浮かべて立ち尽くすオレンジ色の陽。彼は遮光板を下ろす。

 私はと言うと、眠気が出てきた。

 海の中で浮かんでいるような感覚に陥る。時折落ちるような浮遊感も感じながら、スローモーションに進む対向車を眺めていた。

 

「すいません……少し…寝ます…」

 

 眠気に弄ばれた私は、降伏するように、緩やかに、滑り台を滑るように眠りについた。

 まだ少し痛む喉と、味の残る舌と鼻を思いながら、意識は沈んでいく。

 

「ああ、おやすみ」

 

 ライブ中のMCのように響く彼の声は、意識の中でバウンドをしていた。そのバウンドが終わるよりも先に、何も聞こえなくて何も見えない真っ暗な世界が訪れた。

 

 

* * *

 

 

 それが最後の記憶。

 気がつくと、私は公園にいた。彼の車が停まっていたあの公園。

 子供達の声が微かに聞こえる。もう帰路についている頃なのだろう。

 

 辺りを見回しても、彼と彼の車の姿は無かった。

 少し名残惜しかったけど、なんだか許せる。

 

 幽霊みたいな去り方だけど、それもまた彼らしい。

 

 隅に追いやられたオレンジ色を目がけて、私も子供達と一緒に帰路に着いた。

 不思議と今戸惑うことなく。足が軽くなっていた。

 

 



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エピローグ

 

 上がり框に腰を下ろして、コンバースの白色のスニーカーの靴紐を結んでいると、起きたばかりの純が目をこすりながら私の背を叩いた。

 

「どうしたの?」

 

 聞くと、まだはっきりとしない口調で、純は言う。

 

「ひまわり、どうだった?」

 

 ああ、そのことか。

 先日のことを思い出す。一夏のファンタジーな思い出。作文で書いたら、賞が取れそうなヘンテコなハナシ。

 

「綺麗だったよ」

 

 そう微笑んで言うと、純は屈託のない笑みを浮かべた。

 

「そっか」

 

 私も笑ってみせた。

 

 

* * *

 

 

 あの人がこの街を去ってから数日が経った。何日かどうかは、正確にはわからない。意識して数えてないからだ。

 

 読書感想文用の本を返却しようと、再び図書館のあるコミュニティセンターに訪れた日だ。

 

 職員の初老の女性にカードと本を手渡す。「いい感想は書けたかしら?」と聞かれたから「まだわからないです」と答えた。

 図書館から出て、事務室のすぐ手前にある自動販売機で缶ジュースのオレンジ味を買った。甘酸っぱい味が口の中で広がる。

 館内はエアコンが効いていて涼しい。静かな空間だから、外で鳴いている蝉の声が耳に入ってくる。

 

 飲み干した缶をゴミ箱に捨てた。

 そこで、使われなくなった非常用階段への道のりを目で追っていたことに気がついた。

 

 蝉の鳴き声。

 職員がキーボードに打つタイピング音。

 エアコンが動いている、思いの外重々しい音。

 書類のページがめくられる音。

 

 全てが鮮明に聞こえてくる。

 そして全てが鮮明に蘇ってくる。

 

 足元を見下ろす。

 膝が笑っているように見える。たぶん笑ってないのだろうし、笑っているんだと思う。私だけでは判断のしようがない。

 そうやって立ち尽くしているうちに、足は動き始めた。ナイキの青色のスニーカーが、前に踏み出した。靴紐が微かに揺れる。

 

 きっと、私の手に及んでないココロが、体を動かしているんだ。次のページをめくろうと、私に向けて訴えているんだ。

 

 私はこのままでいいと思う。

 これで終わりでいいんだと思う。打ち切りみたいな終わり方だけど、これでいいんだと思う。

 

 妥協することって、それもまたオトナだから。

 

 ココロに語りかけるが、足は止まらない。

 きっと、聞く耳を持ってくれてない。

 心の中でため息を吐いた私は、ココロの訴えを受け入れた。

 

 わかったよ。いつもアナタの言葉を殺していたんだ。今は聞くよ。

 

 嬉しそうに頷いた気がした。

 

 

* * *

 

 

 屋上に1歩、足を踏み入れれば、日本の夏特有の憂鬱な熱気がじっとりと肌を舐めた。

 決して安全とは言えない、ずさんとも言える柵が変わらずに敷かれていた。そんな中、ど真ん中に、警察に取り囲まれたテロリストのように缶ビールが置かれていた。

 

 いつぞやの缶ビール。

 1週間前かもしれないし、台風が来る前のかもしれない。あの人が置いていった、好物の恵比寿の缶ビールだ。

 

 その間に雨が降った日もあったから、中は残されたビールと雨とのカクテルになってるだろう。たぶん、味はサイアクだ。

 

 置かれた缶ビールを通り過ぎ、あの人みたいに柵に背中を預けて、真っ裸な青空を仰ぎ見る。時折、優しく涼しい風が肌に当たる。

 

 ああ、確かにこれは気持ちがいい。

 あの人が気にいるのも納得だ。

 

 あの人はもう、私のことなんか忘れているのかな。

 私はまだ覚えちゃってる。陽炎が踊っているコンクリートの道の上にへばりつくガムみたいに、忘れようとしても忘れられずに、ずっと頭の中に在る。

 

 ここは何も変わってない。あの日から、何ひとつとして変わってない。変わったことなんて、缶ビールの味が不味くなったぐらいだ。

 

 あの人と語り合って、ひまわりを見た思い出は陽炎のようにあやふやで曖昧なモノだ。

 ひと夏の、ちょっとした不思議でファンタジーな体験だったのかもしれない。

 

 あの感情が恋だったのかは、今でも答えが出ていない。

 B5ノートの何ページ目かに書かれた式に、イコールの2つの線が記された段階で止まっている。

 

 それでもあの人は言った。

 

 –––––––世の中には答えを求めなくていいものもあるんだ。

 

 そしてあの人は歌った。

 

 –––––––答えは風に吹かれてるのさ。

 

 –––––––答えは風の中で舞っているんだよ。

 

 お気楽な歌声が聞こえてくる。

 風が吹く。髪がなびいて、木の枝が揺れる音がこだまする。

 手を伸ばして、掴んでみても、答えなんて掌には無かった。

 

 たぶんだけど、答えは風に吹かれて、渡り鳥たちと一緒にどこか別の大陸に流れてしまったのと思う。そして暫く経ったら、また私の元にやってきてはその姿をチラつかせるんだ。

 

 ″風に吹かれて″のハーモニカパートのメロディーを、口笛で奏でる。

 あまり口笛は上手じゃないから途切れ途切れになってしまう。

 

 蝉の鳴き声はあいも変わらず響いていて、どこか遠くから電車の走る音も聞こえてくる。

 

 ––––あの夏に抱いた想いは、いったい何だったの?

 

 ココロが聞く。

 

 口笛を止め、右手で作った銃を構える。照準を目の前の缶ビールに定めて、じっとラベルに描かれた、釣竿と鯛を持った恵比寿サマの眉間を見る。

 

 ––––わかる?

 

 ココロが再度聞く。

 

「わかんないよ」

 

 風が強く吹く。

 

「バーン」

 

 缶ビールは倒れた。

 



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