とこしえの日々を唄うこと (Senritsu)
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とこしえの日々を唄うこと

 

 チュンチュンという雀の鳴き声と共に起きる……というのは、現実に起こり得るのだろうか。

 そんなことを考えながら目を覚ました。朝の七時だ。

 

 いや、きっとそれなりの数いるから、この表現を私が覚えているのか。雀が多い土地でちゃんと朝早く起きれるようになったら、そんなこともざらに起こりえるのかもしれない。

 そしたらそれは、素敵なことだ。それでさわやかに朝起きれる人がいたなら、私はそれを祝福したい。

 

「んぅ……」

 

 そして、私はそんなにさわやかな人ではないので布団に潜り込む。ふつうに寒い。抜け出すのにはそれなりの覚悟が必要だ。

 外に出ていかないといけない時間まではまだそれなりの時間がある。二度寝をするほど眠くはない。昨日の私、えらい。自らの体温と共に朝起きる覚悟ゲージ(?)が上がるまで布団の中に包まっていられる。

 

 このぬくもりは、きっとしあわせのひとつだ。大切にする価値がある。

 えへへ、と私はわざとらしく笑った。

 

 

 

 

 

 朝の準備には冗談抜きで人の三倍以上の時間がかかる。具体的には早くて二時間ほど。

 何か凝った朝ごはんやお弁当を作っているわけでも、化粧をしているわけでもないのにだ。問答無用の不器用ということなのだろう。

 

 最近まで、それは悪いことだとずっと思いこんでいた。悪いこと、というか、少なくとも普通の人間には考えられないことらしいので。非効率というか、異端というか。

 けれどこの頃やっと、そんな焦りにも似た気持ちに折り合いをつけることができた気がする。もうどうしようもないと諦めた、と言った方が正しいかも。

 

「はーろ、はわゆ」

 

 昔よく聞いていた曲を口ずさみながらカバンに荷物を詰め込んでいく。

 不器用であることへの劣等感はどうしようもなく存在する。それも器用な人への嫉妬に近い悪い劣等感だ。

 ただもう、その嫉妬を感じながら朝の時間を過ごすのは、ただの悪循環しか生まないような、その先には地獄(私の中ではわりとありふれた言葉なので頻発する)しかないような気がしていた。

 

 どうしたものかと考えた結果、意識のハードルを下げてみることにした。

 とにかく、起きれたから、えらい。学校に行く準備をしているから、えらい。息をして心臓を動かしているから、えらい。みたいな……最後のは流石にまずいような気がしなくもないけれど、死にたいとか思いながら寝た次の日の朝なんかにはわりとほんとにそう思えるのでぜひ試してみてほしい。

 

 自殺してないのって、えらくない? いや、それはいろいろと思い悩んで自殺した立派な人に失礼かもしれない。

 でも、ここで自殺してたら近隣住民の方々とか親戚とかに迷惑な気がするし、奨学金という名の借金も抱えているので、少なくともそれらから解放されない限りは自殺しないのはえらい……気がする。

 まあ将来今よりもっとどうしようもない人間になったら、今自殺した方がましかもしれないけど!

 

 ……とにかく、とーにーかーく、だ。暗い方向に走りかけた思考を打ち切る。どうせ頭のキャパシティがそこまでいい人間ではないのだから、こんなことをぐるぐる考えているとすぐに病み状態へと突入してしまう。

 病み状態になると自分の余裕がなくなってしまって、リアルやSNSで不機嫌な立ち振る舞いをしてしまう。そうすると周りの空気が悪くなって、それはいつか後悔として自分に返ってくる。

 そう考えるととても怖い。しかもそのときの自分は制御できないのが困りものだ。だって、そのときの自分はその行為をどこまでも正しいと思っているのだから。

 

 ああいったふと湧いた暗い思想を振り切れるほど強くもないけれど、なにかでごまかす努力くらいはしてみること推奨……だと思う。

 ごまかせたらそれはとても幸運なことだ。そして自分えらいの理由になる。周囲に当たってしまって雰囲気を悪くすることを防いだんだよ? それってものすっごくいいことだと私は思う。

 今ここにSNSの画面を前にして理不尽な悪口を言うことをぐっと抑えている人がいたとしたら、それを手放しに称賛したいくらいだ。

 

「えらいよ。それはもう本当にすごいことだよ。それだけで生きてる価値があるんだよ」

 

 寝巻から着替えながら、実際に言葉に出してみる。語彙力……となるけど、より直接的なので届きやすいということで許してほしい。自室の中なので誰にも届いてないけどね。もしかしたら神さまの力的なのでこう……伝わっているかもしれないし。

 

 こんなことを朝から考えているから朝の支度が遅いのだろう。しかし、今日は運がよかった。暗い思考をごまかせた自分、ちょっとえらい。そしてそれを日常的にやっているであろう周りの人たち、すごすぎる。もう畏敬するしかない。

 二時間半で朝の支度が終わった。いつも通りだ。これより早い人は少なくとも私より器用なので、小さな自信を持ってください。

 

 

 

 

 

 目的地まで徒歩で行くのが好きだ。なんでかはよく分からない。一キロほど離れた場所であっても、自転車ではなく歩いて行ったりする。そもそも用事がなければ家から出ることもあまりないんだけどね。車を持っていたらそればかり使うことになりそうだけれど、そんな日は訪れるのやら、だ。

 そう言えば、シャーペンの芯やらレポート用紙やらを切らしていたんだった。授業は二限目から。その前に学校の売店へ行っておこう。

 

 てくてくと学校の構内を歩いて、売店へと着いた。そこまで人は多くないみたいだ。昼休みの時間になるとここは昼食を買う人でごった返す。あの雰囲気は苦手だ。用事を忘れずにこの時間にここに来れてよかった。

 必要なものを商品棚から手に取ってレジへと向かう──のが理想なのだろうけど、いろんな商品が目に入って足を止めてしまう。新発売のペンとか、ノートとか。そういうのを眺めるのは楽しい。

 学生をターゲットに売店を経営している生協にはさぞいいカモに見えるだろう、と冷めた考えが頭をちらつくけど、まあ学生旅行とかセミナーとかのチラシを見ているわけではないし、と言い訳をする。

 

 数分そうやって店内を物色して、ようやくレジへと向かった。店員さんがバーコードを読み取っている間に学生証を取り出そうとする。学生証に内蔵されたICカードを読み取ってもらうことで文具は安くなるから……って、あれ?

 

「が、学生証がない」

 

 おかしい。財布のいつものポケットの中に入っているはずなのに。慌てて他のポケットも確認するけど、見当たらない。いったいどこへと言ってしまったんだろう?

 店員さんは商品を読み取り終わってしまった。それなのに私はおろおろと財布の中やカバンをまさぐっている。迷惑をかけている、という感覚がみるみる膨らんで私の心に突き刺さる。

 後ろに次のお客さんが並んだことでいよいよ頭が真っ白になってしまって、私は消え入りそうな声で白旗を上げた。

 

「ご、ごめんなさい。学生証を忘れちゃいました……」

 

 すると、店員さんはそれがもう分かっていたみたいで「学生番号を教えてもらっていいですか?」と言ってくれた。そうか、それでもいいんだ。私はいつもならさらっと言えるはずの学生番号を訥々と答える。

 そのやり取りを見ていた他の店員さんが、別のレジに入って私の後ろに並んでいるお客さんの相手をしてくれた。それを見てパニックになっていた頭が少し落ち着いた。後ろの人が私のドジでいらいらするようなことがあったら、本当に消えてしまいたくなる。

 

 私が言った学生番号を精算機に打ち込んで、店員さんはその場で待機。一難去ったとほっとしていた私との間に沈黙が訪れる。一拍おいて、ん? となるあれだ。学生番号は間違えずに言えたはず。他に何かしないといけないことなんて……

 

「あのー。支払いがまだ……」

 

 ──あっ。

 

 

 

 

 

 泣きたい。すごく。しにたい(≒死にたい、だ。この感覚が分かる人はいるだろうか)。

 学校に来るときよりも重い足取りで講義室へと入る。二限目の始まりまで残り五分。他の学生たちもちらほらと講義室へと入ってくる。

 

 結局あのあとふつうに支払いを済ませて必要なものは買えたけれど、その代償はとても大きかった。店員さんには苦笑されたし、レジでいつもの何倍も時間をかけてしまったし、私の後ろにいたお客さんの相手を別の店員さんにさせてしまった。私のせいで、少なくとも三人に手間をかけた。

 その事実がとてもしんどい。本当にごめんなさいと私が内心で謝っても、彼らが面倒だなと思ったであろう事実は揺らがないのだ。

 

 他人に迷惑をかけること。それはいけないことだと親に言われ続けてきた。おかげでそれは私にとって禁忌にも等しいものとなってしまっている。

 それは一種の呪いみたいなもので、人に迷惑をかけている、と直接的に認識した時点で私はパニックになってしまう。

 

 急かされるとか、その最たるものだ。私は歩くこと以外のほぼすべての行動が他人よりも遅く、手際が悪く、かつ慎重(それで人並み以下のことをするまでがセット)なので、早く早くと急かされると「迷惑をかけている」という想いがどんどん膨らんで悪循環に陥る。本当に苦手だ。

 それが露骨に現れるのがみんなでアンケートを書いているときと、レジの支払いのときなのだ。アンケートは間違いなく私が最後に書き終わる人になって他の人を待たせるし、レジでは後ろに人が並ぶともうだめだ。昼休みの売店が苦手なのはまさにそれが理由だったりする。

 別に人が多いことそのものはそこまで嫌いじゃない。急がないと、と思わせる環境がつらいのだ。

 

 そんなことをずっと考えていると、講義室に教授が入ってきて授業が始まった。

 学生に質問を投げたり抜き打ちテストをするような教授ではないので、授業を聞いてノートを取っているだけでいい。今のように思考の切り替えができないときにはそれがとてもありがたい。

 質問や抜き打ちテストはそれだけでこちらの多大なストレスになる。これは共感できる人も多いんじゃないかと思う。ただ、その感覚は私にとって怠さではなく純粋な苦痛だ。

 学生に話し合いをさせたり質問を投げかけることによってより身の入った講義にする、などという理念を掲げて実践する教授がいるけど、あれはできれば止めてほしい。興味がある分野の講義だったならば尚更だ。それのせいで履修登録を取り消さずを得なくなる。

 

 学校の講義は効率よく知識を吸収できるので、とても優れたシステムだと思う。時間が決まっているので、自分からは決して勉強しない怠け者の私にも有効だ。できれば多く取りたい。

 宿題とテストという概念さえなければな、と常々思う。要領が悪い自分にとってはあれらが絶大な負荷をかけてくるのだ。

 授業はちゃんと聞くし、ノートもとるし、自主的に理解に努めます。いい子にしています。だから、お願いなので干渉してこないでください。私はいつもそう祈っている。

 ただ、ほとんどの人は私みたいな考え方をしないので(現に講義室には机に突っ伏して寝ている人がたくさんいる)、私の理想が叶うことはない。世知辛い……。

 

 話題が逸れていた。他人に迷惑をかけてはいけないという話。まだ終わってない。ちょっと別のことに思考を割いていたくらいでさっきの出来事を忘れてしまえるなら、私はこんなにめんどうな人にはならない。

 

 迷惑率、という概念を私は見出している。

 その人が他人に迷惑をかける頻度に、他人が感じるであろう不快感の程度、さらにその人数を掛けたもの。

 いい例としては真夜中に爆音で道路を走っていく暴走族が挙げられる。あれは個人的にかなり不快だ。大きな音が苦手なので、あれが外を走り回っていると落ち着かない。

 あの人たちも社会への不満を抱えてとか他人に自分の存在を知らしめたいとか理由があってやっているんだろうけど、あれは不快を感じる人の数がえげつないことになってしまっている気がする。もし迷惑率が実体化してその人に刺さる仕組みになれば、彼らは大きめの杭にハチの巣にされるようなことになるんじゃないかとちょっと心配している。

 一般の人はこの迷惑率は低いだろう。器用に生きていればどうということはない。

 

 ただ、その人が生きているだけで迷惑だ、と感じている人だっているはずだ。恨みや呪いというやつ。私も小学生の頃にいじめをしてきた人はこの世から消えていてほしいとずっと思っているし、当然、私も誰かからはそう思われているだろうと思う。

 SNSなどを見ていると、不特定多数を非難している人も多い。極端な話を言えば、これだから裕福な身分の学生は死んだほうがいいとか、女は自意識過剰で迷惑だとか。

 後者は流石に主語が大きすぎてピンと来ないけれど、前者は私にひどく突き刺さる。割とよく見かける意見なので、恨みを募らせている人はそれなりに多いのだと思う。

 

 もしそういった人がナイフを向けて対象を殺そうと突っ込んできたとき、私にそれをはね退ける資格はないのだろう。本当にそうなれば醜い人間なので反抗してしまうだろうけど、理想的には黙ってその刃を受け入れるべきだ。

 だって、その理論は正しいと心のどこかで思ってしまうから。理不尽ではなく必然だと感じてしまうからだ。

 少なくとも私以外の人には、その悪意をはね退ける資格がある。権利がある。「それがどうした」と反撃をすることもぜんぜん赦されると思う。襲い掛かる明確な理不尽に対して、自分の身を守ることは何も間違ってはいないのだ。私はそれを理不尽とみなせないだけだ。

 

 そういう不特定多数への恨みを持った人がいたり、過去の人付き合いとかがあるので、迷惑率がゼロという人はまずいないと思う。

 私はと言えば、たぶん周りの人よりはずっと高い。しかも頻度がずば抜けて高いという厄介なタイプだ。

 改善が見られそうにないのも難点だし、集団行動中に不快感がキャパシティを超えると暗黙のルール的なものから逸脱した行動を取るので、迷惑をかける人数も比較的多い。親にも迷惑をかけっぱなしだ。将来も彼らの負担になる予感がすごくする。

 

 あれ? やはり私は死ぬべきでは? という結論が出てくつくつと笑ってしまった。いつも至る結論なので慣れてしまった。

 生きているだけで迷惑なのに、どうして存在しているんだろう。鈍くさいせいで、こいつ死ねばいいのにとか思われた回数は人一倍、いや十倍は多いはずだ。

 

 今日はなんだか暗いことばかり考えてしまう。そういう日なのかな。晴れているから低気圧のせいということはなさそうだけど。

 教授の言葉は右耳から左耳へと通り抜けていく。でもノートは律義にとっているのでやっていることは何となく分かる。あとで出されるであろう課題が一切分からないなんてことにはならないはずだ。口頭で大事なことをしゃべっていないことを祈るのみ。

 

 さて、自分が死ぬべきなのは当たり前の事実として、だからこそ感謝というか、こんな自分が生きていけてる世界はすごいなと思わされる。

 さっき、もし後ろに立っていた人が露骨に舌打ちでもしていたら私は今よりずっと暗い気持ちで講義を受けていただろうし、店員さんがため息をつこうものならもう講義室に行く気力すらなくなって自宅へ引き返してしまっていたかもしれない。私が今こうやってへこみながらも講義を受けていられるのは彼らの寛容さのおかげだ。

 

 こういうとき、私は恵まれて生きてきたんだな、としみじみと思う。SNSなどでしょっちゅう話題に上がる理不尽な上司、クレーマー、性格の悪い知り合いは少なくとも私の身近にいない。というか、もしそれらが身近にいたらとっくに私は自殺するか引きこもりになっている。ああいうのは不可抗力なので、自分から遭遇を回避することはできないはずなのだ。本当に幸運なことだ。

 甘やかされて育っている、という見方もできるだろう。それは本当にその通りだ。ただ、私が世間から甘やかされて生きてきたとして、接してきてくれた人たちが『優しかった』という事実は揺らがない。

 中学生くらい、もしかすると小学生くらいから人生が詰んでいてもおかしくなかった私が、こうして人並みの生活を送れているのは間違いなく優しい奇跡の賜物なのだ。少なくとも私にとってはそうなんだ。

 

 昔の方がよかったなんて口が裂けても言えない。弱い人が生きる権利が僅かでも認められつつある今でなければ、私はさっさとドロップアウトしていた。

 その結果が大人になってからの身投げ自殺であろうと、借金まみれのどうしようもない人間であろうと、今まで私を生かしてきたこの世界はただただ優しかった。

 

 やたら待たせてしまったのに舌打ちをしないでくれた後ろの人、本当にありがとう。愛想笑いでも嫌な顔はせずに対応してくれた店員さんにもありがとう。あなた方の優しい反応のおかげで少しへこんだ程度で済みました。フォローしてくれた別の店員さんは天才です。私は咄嗟にそんな見事な反応はできないです。

 本当に、迷惑ばかりをかけます。優しい対応を心から感謝します。

 

 生きていてごめんなさい。でも、今まで生かしてくれてありがとう。

 

 そんな矛盾した概念を抱えながら、私はペンを走らせていた。

 

 

 

 

 

 今日も、SNSに情報は溢れている。

 昼休みの時間、お昼ご飯を食べ終わってスマホの画面をスクロールしながら、もう何十回目かも分からない思考に沈んでいく。

 

 何気ない人々の呟き、拡散されるニュース、反響を呼んでいる漫画やイラスト……それらは毎秒毎秒尽きることなく供給される。目が回るということはなく、ただ自らの気怠さに合わせて消費されていく。

 これは人類、堕落します。若者がスマホばかり見ているという年配の方々の嘆きも的を射ているところはあるのだろう。決定的な価値観の違いというものはあるだろうけど。

 この情報の大海では、何が正しいのかよく分からなくなる。いや、最近はこうやって自分の中で『正しさ』というものを定義しようとするたびに同じ結論に至る。

 

 たぶん、正しさなんて定義できない。

 何とも学生らしくない。子どもじみた結論だ。でもやっぱり定義は難しい。

 ある人の「正しい」は、ある人の「間違っている」になる。説得力のある、全く真逆の主張を立て続けに見かけることもおかしくない。

 

 私がいちばんいい例だと思うのは、年代、そして身分が違うものへの批判だ。

 今、私は若者だ。SNSでつながる人も同年代が多くなる。自然とそうなってしまう。結果として、若者の目線で捉えた世間への批判をしてしまう。

 そこから感じられる、経営者、上司といった人々への強い恨みの感情。なぜ私たち若者たちへの支援を増やさないのかという不安。それらはついつい頷けてしまうものばかりだ。

 

 もし、私たちがいまのようなコミュニティを保ち続けていて、三十年が経ったら。上司や経営者となる身分の人が増えたら、そこに在る意見は変わってしまうのではないだろうか。具体的には、若い人々への批判に。

 

 私にはそれがとても苦しい。よく考えずとも分かる。私たちが声高に叫んだ若者優遇の政策が奇跡的に通ってしまったとき、わたしたち自身はその恩恵を得ることができる年代を過ぎている。それどころか、その政策の代償として優遇されない世代に属してしまうかもしれない。

 私はそれでもいいと今は思っている。今確かに感じている生きづらさをこれからの人々が感じにくくなるのならと。ただ、実際にその状況に置かれて本格的に生活が厳しくなってきたりしたときに、そこまで献身的でいられるかは分からない。たぶん、自分に害が及んだとき、守られていないと肌で感じてしまったとき、あっさりと手のひらを返してしまうだろう。

 

 この前も、その片鱗を見た。ある小学生の親が呟いた、ある有名なゲームの難易度が高すぎて子供向けではない、子供が癇癪を起してしまうという話。

 あれへの返信には、この程度の難易度で癇癪を起してしまう子どもの方に問題がある。自分たちのころにはもっと理不尽なゲームがあったという意見が溢れていた。その意見に同調する人もたくさんいた。その意見を送っていたのはちょうど私たちと同じ世代のひとが大半だった。

 

 控えめに言って、あれは地獄だった。こうやって私たちは下の世代から拒絶され、恨まれていくのだろうなと思うと胸が苦しくて仕方がなかった。

 そして、そんな風に客観的な意見を述べる権利など、私にもないんだ。きっと、日常のさまざまなところで同じようなことを意識しないまま考えている。いや、意識して拒絶していることもある。自分で生きていくのに精いっぱい。そんな言い訳を並び立てながら。

 

 現に私たちは、いや、私だけなのかもしれないけれど、今の小学生や中学生の世代の流行りについていけない。今はもう小学生でも十分にスマホやそれに近い端末を持っていてもおかしくない時代だ。彼らは自らの「正しさ」をその流行りの中で学び、育んでいくのに。私たちもそうやって育ってきたはずなのに、理解が難しくなっている。

 不可抗力? そうなのかもしれない。人が寿命に抗うことができないように、どんなに研究者の人ががんばっても辿り着けない摂理のようなものなのかもしれない。けれど、少なくともその「理解できない」の理由の一つに、確実に、私たちの怠慢が存在している。

 自分自身、自分たちの同類以外への興味を無くすという怠慢。だってそれは、どうしようもないじゃないか。人という生き物は、そこまで勤勉にはなれないのだから。

 

 やっぱりこの手の話題は考えていると悲しくなってくる。救いようがないというかなんというか……いつか、自分なりの答えを見出せる日が来るのだろうか。それが偏見でないことを祈るばかりだ。

 

 SNSで正しくあろうとするとこうやって悲しくなってしまうので、私はあの世界の中では刹那的であろうとしている。それが私なりの正しさだと思い込んでいる、と言った方が正しいかも。

 その人にはその人なりの正しさがあって、そこに干渉するのはよろしくない。と有名な哲学の本に書いてあった。確かにその通りだ。けれど、もともと依存気質な私にとってその実践は途方もなく難しいものだ。未だに抜け出せていないどころか、どんどん悪い方に進んでいる気がしている。

 そのたびに、刹那的に生きたいという憧れは強まっていく。きっと、絶対に手に届かないから、実践なんて叶うことはないから、憧れてしまうのだと思う。

 

 せめて、せめて「好き」ばかりを呟いていけたらいい。自分の「正しさ」を振りかざして、わたしとつながっている人たちに不快な思いをさせるのはとても怖い。

 「好き」という言葉ですら、その対象によっては悪い感情を生んでしまうことがある。実際に私がそうだ。他人の「好き」を素直に喜べないことがある。とても嫉妬深くて、醜い感情だと思う。

 だから、そんなよくない感情すらも自分の「好きなことしか呟かない」という鎖で縛ってしまえたら。いつもそう思っている。

 

 

 

 そんな風にぐだぐだと考えていたら、三限目のチャイムが鳴った。お昼からの授業の始まりだ。

 担当の教授が講義室に入ってきたのを見て、スマホをしまう。普段の私ならべつにそんなことをせずに机に置きっぱなしでたまにいじったりもするのだけど、この教授の前ではそうもいかない。やたらと、いやかなり神経質な人なのだ。

 

 私はこの講義が苦手だった。今日の山場と勝手に見なしている。すべては教授が癇癪を起すか起こさないかにかかっている。私はあれが本当にだめなのだ。

 

 怒りっぽい教授であることで少なくない学生から嫌われているのだけど、この教授の担当する講義は必修だ。そのため、ざっと百人に届かないかという数の学生がここにいる。

 そして、それだけの数の学生がいれば、当然のように隠れてスマホをいじる人が出てくる。私は前の方の隅の席にいるので後ろの人は見えないけれど、たぶん最後尾にいる人なんかはほとんどそれだ。教授がそちらに注目すればすぐにばれてしまうだろう。

 

 そのせいで、毎回どきどきさせられる。どうかばれませんように、と余裕のない気持ちで講義を受けることになる。なんでスマホをいじっているわけでもない私が、と誰かは思うかもしれないけど、私は単純に教授の癇癪そのものが嫌いなので、その原因が自分だろうと他人だろうと関係ないのだ。

 後ろの席に座って明らかにスマホをいじっている学生を教授が観測したら癇癪。観測しなかったら平穏。これってなんだかシュレディンガーの猫っぽさあるな、いやないか。なんて現実逃避気味に考えていたころに、それは起こってしまった。

 

「おい! そこにいるお前!! この部屋から出ていけっ!!」

 

 叩きつけるような強い声。びりびりと講義室に響く。

 私の背中が跳ねる。手からシャーペンが零れ落ちて、からんと机の上に転がった。

 

「出ていけっ! 私の講義を聞く意思のない人間などいらんっ! さっさと出ていけ!!」

 

 もともと静かではあった講義室。今そこは痛いくらいの沈黙に包まれていた。

 教授が指さす先を横目でちらりと見る。誰のことなのか分かっていない、という感じではない。教授と目が合っているらしき男子学生がぽかんとしている。

 彼はもう一秒ほどそうしていたあとに、隣にいた友人らしき人々と顔を見合わせた。明らかに不満そうな顔をしつつも、ここで教授をさらに怒らせる得策ではないと判断したのだろう。そそくさと荷物をまとめて退室していった。

 しばらくして、何事もなかったかのように教授は授業を再開した。後ろの席にいた学生たちが流石に空気を読んだのかスマホをカバンにしまった。いや、ばれにくいような工夫をして結局いじり続けている人もそれなりにいるみたいだ。

 

 そして、私はと言えば、先ほどの大声で受けた衝撃から未だに立ち直れていなかった。

 

 思考が思うようにはたらかない。手がかたかたと震える。息すらもうまくできなくて、震えた息をようやっと吐き出す。

 

 私は圧倒されていた。

 その剣幕は、その怒号は、明らかに私の心を深く穿っていた。

 

 硬直していた心身が再び動き出すまでに、数分の時間を要した。ここから完全に影響が抜けきるまでにはたぶん四半日以上はかかる。今までの経験則上、そうなのだ。

 だめだ。私は講義の内容を追いかけることを放棄した。もはや板書をノートに写すことすらままならない。少なくともこれから一時間、私は使い物にならないだろう。さっきの怒号に捉われた抜け殻だ。

 

 怒られることが、昔から壮絶に苦手だった。

 怒声などを聞くと、体が硬直してしまう。見えない拳で思いきり殴られたかのように打ちのめされて、呆然としてしまう。それはその対象が他人に向けてのものであってもその場に居合わせていればそうなるし、自分が対象であればなおさらだ。

 

 自覚したのは五歳くらいの頃だっただろうか。幼稚園にいたとき、クラスのみんなの前でこっぴどく叱られたことがある。今思い出しても、痛い。それから、できるかぎり人に怒られないように立ち振る舞うようになった。

 それでも、親とはしょっちゅうけんかしていたし、それ以外の人にも一年に二、三回くらいは怒られた。そして私はその全てをずっと忘れることなく覚えている。

 冗談は言っていない。本当に覚えている。他の人がものすごい剣幕で怒られていたことなんかもだいたい覚えている。記憶から離れないのだ。まるで呪いか何かのように、私に刻み込まれているのだ。

 

 怒気に弱い気質。そう見なすしかなかった。

 乳幼児から甘やかされてきた代償、なのだろうと思う。それか、怒られることをできるかぎり回避し続けるという選択の末路か。改善は、今のところできていない。

 怒気だけではない。話相手のちょっとした不機嫌や、呆れ、注意などを受けてもかなり消耗させられる。

 プライドが高いから、というのは実際かなりの割合であるのだろう。けれど、それだけでは説明しきれない感情がある。

 私を打ち負かすのに暴力はいらない。ただ強い言葉をぶつけるか、不機嫌な態度を取ればいいのだ。他人の負の感情を前に、私は無力で、それなのに引き付けられてしまうのだった。

 

 ああ、もう私はあの教授を否定の目でしか見れない。嫌いだ、と思ってしまう。

 一度植え付けられてしまった印象を覆すことは決してできない。私を怒鳴った人、不機嫌をぶつけてきた人、注意してきた人(これは本当に私の方が理不尽だと思う)のことは私の記憶に刻まれて、二度と良好な関係を築くことはできなくなる。

 

 そこからの授業の進みは鉛のように重く感じた。時計が壊れてしまったのではないかと思うほどに。これから四限目もあると考えると軽く絶望を覚えるけど、サボると後で苦しむのは私なのでどうにかやり過ごしたい。

 うん、でももう帰っちゃいたいな……。布団にくるまってさっき受けた怒号の衝撃から自らの身を休ませたい。真面目に授業を受けているふりをしながら、ぼうっとそんなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 なんだかんだで四限目も受けた。休んだ次の週の講義に支障が出るのが怖いのだ。こんな年齢になっても優等生を気取る自分の心理には嫌気が差すけど、無理やりそれに抗うともっと苦しいのでどうしようもない。

 家でご飯をつくる気力も湧いてくる気が全くしなかったので、学食ですませることにした。食堂はそこまで混んでいない。五限目が終わったら人が増えるだろうし、行くなら今の内だ。

 

 ご飯を食べながら今後の予定を考える。図書室に行って課題をやっつけようかと思っていたけど、今の状態だと行っても数時間スマホをいじってお終いになる気しかしない。大人しく家に帰って、さっさと寝て明日の自分に掛けるのが最善な気がする。

 そして明日の私は、今こうやって考えている自分に失望の目を向けているのだろう。先読み自己嫌悪というやつだ。

 

 食べ終わったら食器を返却棚に戻す。やっぱりここのご飯は安定しておいしい。私の苦手とする性格の人たちはたいてい学食が嫌いなのだけど、あれはどうしてなのだろうなと考えながら食堂から出る。

 予想しているのは、私の勝手な被害者妄想だ。彼らは学食を食べている人たちを見下しているのではないか、という。ものすごく偏屈で強固な妄想なので、解くことはできないんじゃないかと自分で諦めている。

 

 

 

 よし、ぐだぐだとこの場に留まるよりとっとと帰ってお風呂に入って寝よう、と自分なりに気を引き締めていたところで、ポケットに入れていたスマホが振動した。着信。画面には「母」の文字がある。

 何だろう、めんどうな話題でなければいいけど、と思いながら電話を取る。と、明らかに不機嫌そうな声が耳に届いた。

 

『ねえ、あんた』

「な、なに?」

『荷物届いてるはずなのに、どうして連絡をよこさないのよ!』

 

 初っ端から大声で怒られる。委縮しながらも、あっと思い出した。そう言えば、先週にお母さんから荷物を送るからねとLineされていたのだった。一人暮らしの私は時折そうやって実家から荷物を受け取る。それをすっかり忘れてしまっていた。

 けれど何かおかしい。もし受け取り損ねていたとしても、ポストに不在票が入るはずだ。けれどそんなものポストに入っていたっけ……?

 そのことを話すと、あんたは郵便受けも確認しないのかと延々と怒られた。ストレスが一気に溜まって言い返したくなるけど、これは実際に私が悪い可能性が十分にある。とにかく早く郵便受けを確認するからと謝りながら電話を切って、私は足早に家へと戻った。

 

 

 

 

 

「やっぱり。不在票なんて入ってない……」

 

 家の机の上に郵便受けに入っていたチラシたちを広げて、私は眉をひそめた。チラシの中に紛れ込んでいるのかなと思ったけど、そんなこともなかった。いったい何がどうなっているんだろう?

 もう一度お母さんに電話をかけて、荷物番号を聞き出す。お母さんは終始ピリピリしていたけどなんとかなった。そして、続けてコールセンターにも電話を掛ける。

 まだ受付時間は終わっていないけど、こんな時間に掛けてくるなんてあっちの電話対応の人も嫌な思いをしているだろうな、と思うと胸が痛む。ごめんなさい……。

 こんな性格のせいで、どこかに電話を掛けることも大いに苦手だ。それでもなんとか事情を聞くと、驚くべきことが分かった。

 

「住所間違ってる!」

 

 しかも本格的に間違っている。郵便番号から違う。そのせいで届いていないのだ。

 間違った住所に荷物を運び、不在票を届け続けた運転手さんの苦労が察せられる。コールセンターの人に謝っても仕方ないけれど、とにかく謝りながら電話を切って、お母さんへと電話を掛け直した。

 

 どうやら、住所を書き間違えたのはお父さんらしい。お母さんが怒鳴り散らしているのが電話越しから伝わってくる。かなり機嫌が悪いみたいだ。

 私としては別にいつ届いてもいいような荷物なのでそんなに気にしていない。ちゃんと荷物が手配されるように手続きもしたので問題ない。けれど、機嫌が悪い時には何にでも当たりたくなるものだ。

 

『あんたもあんたよ! どうして届いてないことを早く伝えないのよ!』

 

 ずっとこんな調子で怒られ続ける。こういうストレスに慣れていない私はつい反論したくなってしまう。

 けれど、これは私が悪い部分が確かにある。私が勝手に気付いてお母さんに悟られることなくこっそり手続きをしておけばお父さんがこんなに怒られることもなかった。

 さらに言えば、お母さんの機嫌が悪いのも分かる。働いているからだ。私を含めた姉妹たちのために共働きをしている。本当は家事や祖父母の介護に集中したいといつも言っていた。それができないから、日々ストレスを抱えていらいらしているのだ。ささいなことで怒ってしまうのも仕方ないと思う。

 

 それでも、ヒートアップしたお母さんがとうとう「普通の人間だったらこうする」と叱り始めたところで、私の糸は切れてしまった。

 

「ごめん……切る」

 

 押し殺した低い声でそう告げる。『はぁ!?』という怒気を孕んだ返事が聞こえた直後に通話ボタンを切った。

 

 天井を仰ぐ。真っ黒な言葉が口から零れ出そうになって、口をわななかせた。

 けれど、それをもし電話で口にしてしまったら、またしばらく親とのやり取りに難儀することになる。以前喧嘩したときに言われたあの言葉はもう聞きたくない。

 

『誰のおかげであんたは学校に通えてると思ってるの!』

 

 あの言葉は、地獄しか生まない。私は何も言えなくなる。本当に何も、言えなくなってしまう。

 その通りだ。ちゃんとした学校に行かせてくれたのも、今私がこうやって生活できているのも、お父さんとお母さんのおかげ。直接そう言ったわけではないけれど、彼らの経済的な支援がなければ私はここにいない。

 けれど。そうだとしても。この形容しがたい感情をあえて形にするならば。

 

「私をここまで歪ませたのも、あなたたちだよ……!」

 

 彼らは、気付いてくれなかった。私の言葉にならない悲鳴に気付いてくれることは、ついぞなかった。

 

 どんなに頑張ったって、どんなに気を付けたって()()()の人にはもうなれない。手が届かない。同じ視点に立つことすら、私にはできない。

 社会不適合者(心が折れてしまったもの)。そんなものを生み出してしまったのは、あなたたちだ。

 

 反吐が出るほど甘い考えなのだろう。努力や根性が足りていないのだろう。さんざん親や他人から言われてきた。認めざるを得なかった。

 

 そう言われるたびに、胸をかきむしりたくなった。

 ()()()の人はどこまで遠いのか。なんで私はふつうになれないのだろう。そのせいで他人に迷惑をたくさんかけるのだ。生きる価値があるどころか、生きているだけでお前は人を苛立たせるのだ、と。苦しくて。

 

 

 

 苦しくて。

 苦しくて。苦しくて。わたしは────

 

 

 

 

 

 外に出よう。

 

 玄関の扉をくぐると、辺りはすっかり暗くなっていた。空模様はいい感じだ。月も顔を出している。雨だったらまた家に引っ込んでいただろうから、ほっとする。

 恰好は学校に行ったときのまま。この時間に一人で出歩くのは危ないかもしれないけれど、この街の治安の良さを信じよう。人通りは少ない方が気が散らないけど、なるべく住宅街を通るように。

 夜の散歩だ。

 

 音楽を聴きながら歩こうかと思ったけど、やめた。流石に後ろからの人の気配に気づけないのは危ないし、気持ちをごまかすのが目的ではない気がしたので、イヤホンは持って行かない。

 

 とん、と歩道に一歩を踏み出して。ふっと息を吐いた。吐く息が白く染まる……というほどのものでもない。コートを着ておけば大丈夫なくらいの寒さだ。散歩にはちょうどいい。

 私の家の近辺は、今どき珍しく開発が進んでいる街だ。だから道路や住宅は今風のデザインできれいに整備されている。散歩しやすい環境ということだ。それだけでも私にとって大きな救いだと思う。

 

 てくてくと歩道を歩く。街灯の明かりが広い道路をずっと照らしている。すれ違う人はあまりいなかった。

 余裕のない心で、それでも周囲の景色を観察する。

 

 街灯。細長い蛍光灯を突き出したようなものではなくて、柔らかな橙色の光のLED円板灯だ。見ていても眩しさはなく、けれど周囲にちゃんと光を届けてくれている。温かいデザインでありがたい。

 

 植物。開発途中なので住宅の中にぽっかりと空き地があったりするのだけど、そこにやたらと真っ赤な葉を茂らせた細木がアクセントのように生えていてちょっとびっくりした。

 小さなモミジのような葉だ。なるほど、街灯の照らす色が橙だから、他の緑色の草木と違って同じ赤系統のこの細木だけがはっきりと見えるのか。昼間に見てもそこまで目立たないだろう。なんだか一種の芸術作品のように見えて、ちょっと感動した。

 

 遠くの景色。向こうに見える小高い山々を越えた先には畑が広がっている。一度バスを乗り違えるという大ポカをやらかしたときに行ったことがあるのだけど、都会の人々が田舎暮らしにあこがれを覚えるのもちょっとわかるような気がした。

 今、山は真っ黒に見える。夜だから当たり前だ。どこかのSF映画で見た、遠くで山のように盛り上がっているように見えた景色は実はすべて敵の軍勢でした、というシチュエーションをここで思い浮かべると、なるほど確かになかなかの絶望だなと思うことができる。ちょっとおすすめだ。

 

 空。遠くの大きな町の明かりのせいで星はほとんど見えない。月だけが存在感を放っている。かろうじて見えるのはオリオン座か。目を凝らせばオリオン座の三つ並んだ星の下あたりにある何とか星雲? も見える気がする。あとは北極星か。北極星すごいな。

 

 

 

 ────あぁ。

 

 私は空を見たまま、溢れそうになった涙をこらえた。

 

 いつか社会から零れ落ちるだろう私が、代わりに手に入れたもの。それが、この感受性だ。

 正直なことを言うと、あまりいいものではない。代償があまりにも大きすぎるし、この感受性もまた人とは違うものなので、他の人と趣味が合わなくなる。

 けれど、その辺の草木を見ただけで、遠くのちょっとした景色を見ただけで、空を見上げただけで涙がこみ上げそうになるほどの感動を得られること。それだけは、本当にそれだけだけど、ふつうの人と比べて、持っていてよかったと思える。

 

 相変わらずどうやって生きていけばいいか分からない。将来のことを考えると嗤ってしまう。いつか、こんな散歩もできなくなるくらい精神的に追い詰められる日が必ずやってくる。そんな日が続いたときに、私はきっと。

 

 そんな私にしか、できないこと。そんな私だからこそ、考えられること。

 かみしめるように、呟いた。

 

 

「ふつうに生きるのは、すごいんだ」

 

 

 本当に、心からそう言える。ちゃんと相手の目を見て言える自信がある。

 

 バイトをしている。ただ仕事をしている。すごいことだ。()()()()()()()()()。自らの手でちゃんとお金を稼いで、経済を回せる。その過程で人から受けるであろう悪意や指摘をちゃんと許容できる我慢できる。それは、私がついに手に入れることができなかった才能で、本当に誇っていいことだと心から思う。

 

 不登校になった。世間一般から見れば蔑まれる対象だろう。けれど、()()()()()()()()()。それは、立ち向かったからじゃない。ただ、それのせいで人々の見る目が変わってしまうことの方が怖くて、自分を偽り続けていただけだ。

 その結果がこれだ。後戻りなんてもうできなくなるくらい拗れてしまった。学校に行く気にならないという気持ちに正直であることが、救いになるような世の中であってほしいと願い続けている。

 

 何かの悩みがある。恋とか、人間関係とか、生き方とか。それを抱えながら生きている。すごいことだ。()()()()()()()()()。全てのことから目を逸らして、その先も間違え続けてしまった。

 悩みを持つということ、それと向き合いながら日々を生きることがどれだけしんどいことかは、ほんの少しでも分かっているつもりだ。人に言うと嗤われると自覚している類のものならなおさらだ。それがどれだけその人にとって真剣な悩みなのか。伝えられないことの絶望は凄まじいものがある。

 折れてしまった私に具体的なアドバイスなんてできない。だからせめて、願う。その悩みを解決できたのなら、それは本当に誇っていいことなのだ。逃げることを選んだとしても、その先に救われる未来があることを。

 

 その生きづらさが報われることを、身勝手に祈っている。

 

 

 

 救いのない独白をさらに重ねよう。

 私のこの祈りは、聖人のそれではない。人は絶対に自分のためになる選択しかしない。どこまでも献身的な人間がいたとしても、どれだけいい人のようにふるまっていたとしても、それは何か自分の益になることを実践しているに過ぎない。言わば自己満足だ。

 今の私の心の答えは、叫びはこうだ。

 

『どうか、わたしに干渉してこないで。都合のいい存在であり続けて』

 

 怒りも、不満も、皮肉も、嘲りも、嫉妬も、悪意あるものすべて、私が観測できる範囲になければいい。そんな、絶対に叶うことのない傲慢を私はずっと抱えている。

 みんな、私を愛せばいい。そんな醜い欲望を抱えて、それを小ぎれいに見せればあんな祈りになるのだ。少しでも私に悪意を向けた存在を私は許容できない。幸せになってほしい、という対象から外してしまう。

 

 そんなことを考えてしまう自分のことが、どこまでも嫌いで。きっと私は自分を嫌いであり続けることが、自分の心を護る最善だと気づいてしまっている。

 

 

 

 歪んで、歪んで、歪んで────。

 

 それでも……それでもだ。

 

 

 

 月明かりの元、私は叫びたい衝動に駆られて、大きく口を開けて、掠れた声で叫んだ。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()は、きっと悪いことじゃない……!」

 

 

 十数年間苦しみ続けた。これが、今のところで得たたった一つの答えだ。どこまでもひねくれた私が出した唯一の逃げ道だ。

 信じるに、値するものだ。

 

 

 

 苦しいことばかりが起こった今日、これを再認識することができてよかった。

 

 

 

 

 

「……帰ろう。えへへ……」

 

 ちょっと恥ずかしくなって、照れ隠しに笑いながら帰途に就く。ふつうに不審者だ。ずっと家から離れる方向に歩いていたので、それなりに遠くまで来てしまった。帰るのにも時間がかかりそうだけど、気持ちの整理にかかった距離と考えれば安い方かもしれない。

 

 いや、別に落ち着いたというわけじゃないか。相変わらず心はざわざわしたままだし、相変わらずしにたい(≒死にたい)。散歩のせいで失った時間の分、今後の課題に追われる自分は今日という日と今の私を呪うのだろう。

 

 けれど、まあ、たまにはこういう日もあるか、と今は捉えている。それは、さっきまで悲鳴を上げていた心を確かに救った気がした。

 

 そして、今思ったことを小説に書き起こしてみよう。

 どこにでもいる塵芥のようなネットの小説書きだけれど、そんな私の作品にも感想がきて、評価がもらえるというのは本当に救いになる。せめて私の小説を読んでいる人にちゃんと感動を届けられるようにって意気込める。

 意気込みが重い? 見逃してほしい。社会不適合者特有のそれしか拠り所がないというやつなのだ。重すぎて人気にはなれないだろう。それでも、こんな自分の書くものがほんの少しでも、数人の目に留まるだけでも奇跡のようなものだと思い続けたい。

 

 

 

 ──そして、こんな自分のただの日常を書き殴っただけの小説を、こんな最後の部分まで読み進めてくれた。あなたに。

 

 この小説を手に取ってくれた、きっと心優しいあなたに、精いっぱいの笑顔で贈りたい。

 

 (とこしえ)の日々の唄。最後に、これだけを届けられるなら。

 

 

 

「──ほんとうに、ありがとう」

 

 

 





もし、この小説に深い共感を覚えるという方がいらっしゃったなら、「HSP」について調べてみてください。日本ではあまり知られていない言葉みたいです。それで一人でも救われる人がいてくれることを願います。


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