るろうに範馬 (北国から)
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鬼の拳と天狗の刃

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年はろくすっぽ自分では何も書かずに読み専門でいたのですが、一応ちょこちょこ書いてはいました。

 これはその一つで、アニメ化と北海道編、ついでに筆者のまあ……アレな事件やなんかがあって、いろいろ印象深かったもので書いてみたものです。

 コンセプトは剣対拳。もしもるろうに剣心世界の未来が刃牙の世界だったなら……です。

 最初はそれぞれの世界における最強キャラ対決です。

 最も、刃牙サイドは勇次郎ではなくご先祖様のオリ主ですが……

 ひとまず、メインは剣術対格闘技という事で今後、多めにスポットが当たるのは贔屓の左之助。

 剣心よりも刃牙よりもこいつの方が格好いいと思っています、はい。

 よければ、つたない作品ですが読んでみてください。

 


 

 幕末。

 

 徳川三百年の歴史が終わり、後に明るく治むると書いて明治と呼ばれる政府が幕府にとって代わり、後々の歴史に明治時代と呼ばれるようになる直前の時代。

 

 日の本において特に社会の在り方が変わった革命の時代。

 

 その一面として、侍最後の時代という側面もあった。

 

 腰に二本を差して練り歩き、剣腕あれば名を残せる、出世ができると武勇を持て囃した戦国時代は彼方たる三百年の太平は終わりをつげ、時代は激動の革新を迎えつつあった。

 

 しかし、革新の時において侍の力は既に変わり果てた。時代遅れとして刀は神棚に置き忘れられて、西洋伝来の銃器が幅を利かせるようになるのが時流となりつつある。

 

 そんな中で刃が最後に活躍した時代……それが幕末、明治維新の一側面である。

 

 歴史の中の、そんな一幕。そこに彼らはいた。日本の、激動の時代に彼らはいたのだ。

 

 

 

 

 

 滝つぼの前に二人の男がいる。

 

 滝つぼの前にある岩棚の上で、二人の男が真正面から向き合って対峙している。

 

 どちらも、大きな男だった。

 

 背が高く、肩幅が広く、その全てにみっちりと筋肉が詰まっている男たちだった。

 

 生半可な男では、前に立つ事も出来ずに目をそらしてこそこそと逃げていくことしかできない迫力に満ちた男たちだった。そんな二人が向き合って、一体何を始めようというのかは言うまでもない。

 

 立ち合いだ。

 

 決闘、果し合い、勝負。いろいろな呼び方があるが、つまりはどっちが強いのかを腕づくで決めようとしていた。

 

 滝を背にしている男は、長髪で白いマントを羽織った奇妙な格好をしている。筋骨隆々で野放図に伸ばした髪を後ろでまとめているが丁寧に髭を剃っているせいか不潔な感じはしない。滝の前に立つのが絵になるような益良雄だった。

 

 手には白鞘を一振り持ち、鯉口を切って抜かんとしている姿が憎い程様になっている。

 

「白鞘か……」

 

 対峙しているもう一人の男が、その姿に何を見とがめたのか。滝の音にも拘らず周囲に届いた太い声が不満さを隠しもせずに相手に届いた。

 

「不満か?」

 

「押しかけたのはこっちだ。文句はねぇよ」

 

 言葉と内心に大きな差異がある事が声色でありありとわかる。その様に、しかして白鞘を構えた男はにやりともせずに背後にある滝つぼの底のまた底のような静かさを保ち続けている。

 

 水底のような剣士と対峙して不平面をしているのは、炎のような男だった。

 

 剣士は身長にして6尺を超えるだろう。それにふさわしい隆々たる筋肉を備えている雄姿は、およそ日本人離れをした体格だと言っていいのだが、相対している男もまた同様に常人の域を超えた益荒男であった。

 

 身長も同じ程度はあり、筋肉に至っては剣士を上回っている。真っ黒な彼の服装が何故だか清国の支那服に似ているおかげでそれがよくわかる。支那服に、支那靴……奇妙な服装だった。この日本で殊更にそんな恰好をするよほどの変わり者なのだろうが、服装の印象を消し飛ばすような強烈さが男自身にあった。

 

 男の力強さの具現のような四肢の上には太い首があり、その上にある顔は線の細さとは無縁の太さがあった。獅子か虎か、野獣のような力強さを見せつけるような容貌だ。

 

 その彼の頭髪は驚くほどに赤く血のようであるが、時折風に吹かれる様は炎のようでもある。

 

 いいや、獅子に例えられる容貌の為に鬣のように見えるのだ。

 

 獅子の王冠のような髪が紅の為に、あるいは日本人ではないのかもしれないと思わせるが顔立ちは間違いなく日本人の物だ。だが日本人だ異国人だと言うよりも先に、人は彼を見れば自ずと一つの物を連想せざるを得ない。そういった容貌をしている。

 

 赤い髪、雄々しい体躯、太々しい面構え。

 

 鬼。

 

 剛力の妖怪を思い起こさずにはいられない男だった。

 

「負けた時にそれを言い訳にする男だったら、それはそれで構わねぇからな」

 

 言いながら、鬼のような男は笑って両手を広げた。熊が立ち上がって威嚇する時のような恰好だった。

 

 構えたのだ。そうだ、武器を持った男の前にもう一人男が立っているならば、戦う以外に何もない。

 

「吠える小僧だ」

 

 剣士はゆっくりと見せつけるように白刃を抜いた。滝の水飛沫を切り裂きそうな銀色の煌めきが男の腕から伸びている。胴ががら空きの無防備とさえ言えるような体勢だが、鬼にはそれを怯む様子は全く見られない。それどころか明らかに恐ろしげな顔をさらに恐ろしく見せる笑顔を浮かべる。

 

 いや、これは笑顔ではなく獅子のように牙を剥いているのだ。

 

「いいねぇ……抜いたら倍の大きさに見えるじゃねぇか」

 

 刃と牙がぶつかり合って、刹那に鎬を削る時間が始まった。

 

「飛天御剣流、第十三代目継承者……比古清十郎」

 

 白刃は顔の横で霞の構えを取る。

 

 あるいは一般的な霞構えではなく、彼の言う飛天御剣流に伝わる独特の派生を持つ構えであるのかもしれないがそれを同門以外が知る事はできない。

 

「昨今じゃ“陸の黒船”なんて呼ばれている飛天の継承者様が御大層な名乗りをくれて悪いが……俺はそんなものは持っていなくてな」

 

 赤毛の男はどう見ても素手だった。本身の輝きを前にして素手で挑むなど、正気の沙汰ではない。彼が来ている上着も袖は短く、上下ともに体の線を出しているので隠し武器を仕込んでいるようにも見えない。本気で、刀相手に素手の勝負を挑もうとしているのだ。

 

「姓は範馬、名前は……勇志郎」

 

 だが、男は笑っている。物がわかっていないのではなく、虚勢でもなく、本当に楽しそうに笑っているのだ。

 

「この俺を相手に、本当に無手で挑むような馬鹿がいるとはな。今ならまだ、斬らずに見逃してやれるぜ?」

 

 笑いもしない比古の言葉は挑発ではない。刀剣に対して素手で挑むなど愚の骨頂、尻に帆をかけて逃げ出すのは無様ではなく賢明と言える話だ。しかも持っているのが腕に覚えのある一流派の看板を背負っている男であるのなら挑むのは奇抜な自決、挑まされるなら処刑だ。

 

 しかし、死を免れないはずの現実を前に鬼のような男、範馬勇志郎は何も言わずに笑みを深めた。これからお前を頭から貪り食ってやるぞという鬼の笑みだった。

 

「……言っても無駄か」

 

 刀そのものの鋭い面差しが身の程知らずめ、と言っている。

 

 ふう、とため息一つついた比古は眼を鋭くして細めて範馬をにらみつける。それだけで場の空気が一層張りつめ、ただの素人なら首を締めあげられたような息苦しさを感じて喘いでしまう雰囲気が作り上げられた。まるでその場は音がするほど引き絞られた弓弦のようだった。

 

 その中で範馬はにい、と笑い続ける。刀も比古清十郎も飛天御剣流も、その全てが何するものぞと笑っている。

 

 範馬の笑みを両断するように光が奔った。それは残像以外は人の視界に残さないような高速の一太刀だった。目にもとまらぬという言葉が当てはまる見事な脳天唐竹割の一閃……それは赤い鬣を無造作な程にあっさりと真っ二つにした。

 

 だが彼の白刃は腕に何の重みも返さず、正に手応えがない。残像を瞳に映し出す一太刀が切り裂いたのは、それもまた残像だった。

 

 自慢の一閃を軽々と躱された驚きに目を見開いた比古が見たのは黒い背中だった。 

 

「!」

 

 その背中が地震にあったかのように揺れた。

 

 右側から二の腕に強烈な衝撃が襲ったと比古が自覚したのは、自分に向かって背中を向けつつ右足を伸ばした範馬を見つけたからだった。全てが見えるほどに範馬の広い背中がどんどんと小さくなったのは、巨躯の比古が一丈も蹴飛ばされたからだ。

 

 比古が足を踏ん張って自分を留めなければ、更に倍も距離は伸びていた事だろう。まるで冗談のような常識外れの脚力だった。剣士として徹底的に心身を鍛えている上に天与に恵まれている比古の太い腕でなければ簡単にへし折れていただろう。

 

「……気持ちよく飛ぶには、ちょっと手加減しすぎたか?」

 

 範馬が背中越しに嗤った。

 

 自分を軽く見ていた相手に対する強烈な挨拶だった。

 

「……その場で背を見せて回る事で刀を躱し、更に蹴りに繋いだか」

 

 比古の顔は仏頂面に隠された憤激が透けて見えるようだったが、素直にそんな感情を相手に出すほど男の面目は安くない。そうやって敢えて努めての平静を装っているが、腹の底では倍返しを確定していた。

 

「わざわざ片足になるような間抜けがいるとは思わなかったぜ? 好んで安定を欠いてどうするよ」

 

 武芸の生まれた戦場では乱戦が基本であり、足場も常に悪いのが当たり前だ。転びやすく、動きづらい片足立ちなど好んでやるのはあり得ないと言っていい。攻撃は常に刀か槍であり、手がそれを使って足は体を運ぶものというのが基本である。範馬の攻撃は、それら全てを無視していた。

 

「まあ名付けるとすれば……後ろ回し蹴り……ってところか?」 

 

 だが、比古は同時に今だけならこの技が有効だと認めていた。

 

 回転する事で斬撃を躱し、体の陰から意表を突いた蹴り足が飛んでくる。大いに癪に障るが、自分でなければ急所に命中して一撃必殺となりかねないと認めざるを得ない。足の攻撃がこれほどの威力を持っているとは、剣術家の比古清十郎には想像もしていなかった、あるいは想像の必要もなかった事実だ。

 

「さあな、名前なんざどうでもいい。それよりも重大なのは……俺の強さとお前の強さだ。まさか、これっぽっちで見せ場もなく終わるつもりじゃないだろう」

 

 笑う顔は、いかにも嘲っている。

 

「飛天御剣流ってのは、よく飛ぶからついた名前じゃねぇだろう?」

 

 誰を?

 

「若造」

 

 比古清十郎を。

 

「おまえはちょっと」

 

 飛天御剣流継承者を。

 

「図に乗りすぎだ」

 

 それは、許しておけるわけもない。

 

 そんな腑抜けが、刃を振って人を殺すはずがない。嘗められたのを見逃せるようなら、人を斬るような真似はしない。人を殺すような奴は、嘗められるのを許せない。

 

 範馬の嘲弄を払拭するには、それごと斬る以外の選択肢など剣士は持ちえないものだ。あるいは、持ってはいけないと言うべきかもしれない。

 

 比古は湧き上がる衝動を止める意図などみじんも持ち合わせず、むしろ衝動以上の意思をもって加速した。その身ごなしは巨躯でありながらも飛燕のごとく一足飛びに彼我の間合いを踏みつぶす。範馬も棒切れではなく即座に反応して拳を振るが、それを振った先にいるはずの飛天御剣流当代は霞のように消え果てて、思わず面食らう。

 

 その刹那の隙間に彼を影が覆った。

 

 なんの、誰の影かと言われればそれは言うまでもない。

 

 比古は目の前に立つ鬼さえ出し抜いて一瞬の内に宙を舞った。

 

 どこから見ても身軽とは思えない巨躯の比古が人並外れた範馬の頭よりも高い位置に一瞬で飛び上がり、そこから両手で目いっぱいに膂力と体重、そして落ちる力そのものを籠めて脳天を両断するべく振り下ろす。それは正に一刀両断、人を脳天から股間にまで一直線に叩き切る埒外の一刀だった。

 

 宙を舞う剣の技など人の為す事ではない、翻る白も翼のようでその有様は天狗の如し。鬼のような男に、天狗のような男が切りかかっている人外魔境さながら、おとぎ話の果し合いが人知れず行われている。

 

 風を置いていかんとする太刀、それを範馬は見上げていた。もちろんこのままでは死を免れない。

 

 だがなんと、躱せないのか微動だにしないで見上げる範馬の目の前、紙一枚分で比古の一太刀は止まっていた。

 

「……避けないのか、それとも躱せなかったか?」

 

「躱す必要がどこにある」

 

 範馬は目の前にある白刃を怯みもせずに見上げている。いや、怯むどころか怒りさえ感じられる形相になっている。

 

「放つ闘気、踏み込みの位置、振り下ろす速さ、悉くが偽り。止める事など最初から分かっていた」

 

 今の神速でどうすればそこまで見抜く事ができるのか。あり得ない慧眼に比古は笑いを浮かべた。面白い、と笑っていた。

 

「この俺を侮り、嬲る為に太刀を止めたかぁっっ!」

 

 大喝一声、屈辱に震える範馬の仁王立ちする様は正に鬼の如し。だが万人が恐れ怯え震え上がるに違いない範馬を見てなお、比古清十郎はむしろ笑っていた。

 

「その通りだが?」

 

 鬼であろうと何するものぞ、と笑い続ける比古はしてやったりと顔に来ている。自分の意図を見抜かれたのは失敗だったが、矜持が思いの他に高いらしい鬼は顔を真っ赤にして怒りを顕わにしている。コケにされた仕返しは十分に果たされた。

 

「……バラバラにしてそこの滝つぼに放り込んでくれるわあっっ!」 

 

 範馬はそのまま拳を作った。

 

 よく日に焼けた浅黒い腕に血管が浮かび上がり、腕の筋肉が盛り上がる。その様はまるで山脈が隆起しているようだった。力こぶなどという呼び方が的外れでしかない、皮一枚の下にある筋肉は鋼の発条でできていると言われても思わずうなずけてしまうだけの迫力があった。

 

 それが互いに引き合い、縮めあい、一体どれだけの握力を生み出して自分の拳を握りこんでいるのかミシミシといやな音がしてくる。そんな自分の手から聞こえてくるうめき声のような音を心地よさそうに聞きながら、範馬は腕を大地に全力で突き下ろした。

 

「ぬうっ!?」

 

 そして、大地が揺れた。

 

 泰然自若としている比古だったが、音と同時に繰り返し揺さぶられている自分に、驚愕の声を隠せなかった。範馬の振り下ろした拳一つで、まるで小さな地震のように彼らの立つ地面が揺れたのだ。

 

 周囲で鳥が飛び立ち、葉が舞い散り、石が転がっていく。ずしん、とひときわ大きな音をたてて一抱えはある岩が落ちていった。

 

「…………」

 

 揺れはほんの一瞬でおさまった。しかしそれが錯覚ではないという証明が判のように大地に刻まれていた。範馬の拳を中心に、巨大な罅が岩に深く広く刻み込まれている。範馬当人が大の字になって覆いかぶさっても収まらない程の巨大な罅は、彼の引き起こした小さな災害の力を理不尽に物語る。

 

 人間の所業ではない。それだけの力を発散してもなお範馬の怒りは解かれた様子はない。範馬勇志郎の怒りは矜持と同様に天井を持たないようだった。

 

「まるで鬼のような剛力だが……」

 

 それでも比古清十郎は笑う。

 

 範馬の怒りは天井知らずなら、この男の強気も天井知らずだ。

 

「古来より、鬼は侍に退治されるものさ」

 

 なるほど凄まじい強力。

 

 あの拳に殴られれば、頭や胴なら一撃で死んでしまうだろうし、手足はへし折れる。それどころか場合によってはちぎれ飛んでしまうかもしれない。

 

 で、それがどうした?

 

 ただの拳でそんな威力を持っているのは、なるほど瞠目に値する。だが、刀は同じ事かそれ以上の事が出来て当然だ。

 

 刺せば死ぬ。斬れば死ぬ。手や足を斬れば切り離せるし、そうなれば待っているのは失血死か、痛みでさっさと死ぬかもしれん。

 

 強力ごとき、畏れるに能わず。ただ、ようやく刀に追いついてきたというだけよ。

 

 それが目を見張る怪力であろうともごまかされず、当たり前の事実だけを比古は見つめる。いつも通りの振る舞いをいつも通りにすればいいだけだった。

 

 殺られる前に殺る、いちいち口に出す前もない当たり前の事だ。

 

「先ほど言っていたな? 飛天御剣流とはこんなものかと」

 

 滝の飛沫が白刃へと飛び散り、なんと弾けるのではなく断ち切られていった。

 

「特別に飛天御剣流を教えてやる」

 

 いたって冷静なままの比古であったが、すまし顔をいつまでもしているわけにはいかなかった。飢えた獣のようにがっついた範馬が、勢いに任せて比古に襲い掛かってきたからだ。見せつけてきた力を思うがまま振り回す姿は、武芸者ではなく獣という方がよりふさわしい。

 

「図に乗るな、比古清十郎ォッッ!」

 

 一直線に突っ込んでくる有様は、熊とて逃げ出すだろう。それを受けとめる比古の胆力は尋常ではなく、それを支えるのは腕前への自負心であり、その為に比古は範馬の突撃を躱しもしなければ迎え撃ちもせず懐まで呼び込んだ。逃がさないという決着の意思と、入られてもどうにでもできるという自信だ。

 

 範馬はその心そのものを砕く為に影を置いてくるような勢いで下から蹴りを出した。

 

 横蹴りは槍のような鋭さで比古を貫こうとするが風のように素早く身をひるがえした剣士は、むしろ足を切り落としてやると刃を閃かせる。それに対して範馬は引くことなど思いもよらないという鬼気迫る様でなんと光る刃へと一歩踏み込み、一気に懐にまで入り込んだ。

 

 素手で刀に挑む大馬鹿者と承知してはいたが、まさかここまで引く事を知らない男と思わなかった比古は、見事に左手で柄本を抑え込まれてしまった。

 

 にい、と範馬はここで笑った。バラバラにしてやるという宣言を実行するぞと顔に書いて、彼は空いた右手を拳にして握りこんだ。

 

 形勢はここで逆転する。素手と刀、有利不利は間合いによって大きく変わる。比古はそれを知識で知ってはいたが、素手で彼に挑むような無謀は今まで一人もいなかったために対応が遅れてしまった。

 

 刀は一本、しかし丸腰は五体全て悉くが武器であるのだ。

 

「吻っ!」

 

 拳がアバラに抉りこまれる。その重さに比古は痛みよりも先に驚きを感じた。

 

 斬られるのとは違う、殴られるという痛みの異質。もちろん殴る蹴るを知らないわけではないが、チンピラの喧嘩とは違う、技術として成り立っている拳は痛みと重みが違った。

 

 比古の聞いた事のない音が体内でしたが、肋骨がへし折られた音だと直感で理解する。

 

 その勢いのまま吹き飛ばされそうになる比古だったが、範馬は逃がすものかとばかりに腕を離さない。

 

 いったいどれだけの力を秘めているのか、比古清十郎という男は一挙に吹き飛ばされてしまい、彼の腕をつかんでいる範馬もまた糸に繋がっている凧のように影を重ねて飛んでいく。

 

 大の男二人を自分自身の拳一つで吹き飛ばす冗談じみた光景は、見たもの誰も信じられはしないだろう。それぞれの足を使っているのだと決めつけるのがせいぜいだ。

 

 しかし嘘偽りなく打撃でまとめて吹き飛んだ二人……正確に言えば吹き飛んだ一人と吹き飛ばした一人は三歩分ほどの距離も低く宙を舞い、そのまま着地する……かと思いきや、やにわに比古が捕まれた腕を何と逆用して範馬を背負い、地面に叩きつけるようにして投げ落とした。

 

「ほう?」

 

 しかし、それをやすやすと食らう範馬ではなかった。そもそも腕を捕まえているのは彼なのだから、逃れるには手を離せばいいだけだ。未練なくそれを実行した範馬は巨体を猫のように軽々と地面へ下ろしてみせる。そこへ間髪入れずに、比古は襲い掛かった。

 

 範馬が音もたてず着地している間に、納刀した得物を腰だめに構えつつ鬼へと突進する。

 

「居合か」

 

 居合とは剣を鞘から抜くための動作だ。基本的には無防備な納刀の状態から素早く身構える為の技である。しかし、当の昔に抜刀している男が一体何を考えてそんな真似をするのか?

 

 面白い、とおもちゃを見る子供の目で比古を迎えた。さあ、何をやるのだと心を弾ませている。それを目ざとく見付けた比古もまた、目の玉をひん剥かせてやるぞと勇んでいた。自分の命を賭け金にして繰り広げられている屍山血河だ。

 

「!」 

 

 間合いに入った途端、比古は出し惜しみなどなく直裁に刀を抜いた。その速さに範馬は目を見開いた。

 

 抜刀が、著しく速くなっている。勘違いではなく、間違いなく速い。刹那の間で仕組みを考える余裕などないが、事実は事実として認識して範馬は赤毛に包まれた頭を振った。刃先の目標は彼の顔面、下から上へと切り上げる一太刀が鬼の面を襲った。

 

 だがその風を切り裂く正に疾風の一閃が切り裂いたのはあくまでも風のみ、範馬の髪一本たりとも切り裂く事は出来ずに鋼は伸びていく。体を開いて寸前で光を避けた範馬は、にやりと笑いながら目で軌跡を追う。

 

「!」

 

 範馬は軌跡の後を追いかける影を確かに視界の端に見た。見えただけであり、既に動いた後の身体ではそのままなす術はなかった。

 

 大きく開いた直後の右半身から重たくて鈍い音と共に、その日一番の衝撃が鬼を横殴りに襲った。

 

「!?」

 

 強烈な一撃は大熊の平手打ちでも受けたかのようだったが、其れの半分よりも細く鋭い物だった。肘の急所を的確に狙うあまりの力を受け止めきれず、自身を吹き飛ばすあまりに強烈且つ予想外の一撃に驚きつつも、範馬は決して比古から目を逸らさないで睨み続けて自分を襲った一撃の正体を見つけた。

 

「鞘か!」

 

 比古は右の手に刀を、そして左の手に鞘を握って双方を共に振り抜いていたのだ。

 

 範馬の知る琉球の“手”と言う体術に諸手突き、他にも夫婦手と言われる技があるが似ていると思った。最初の一閃を躱した後に続いて時間差をつけて襲いくる隠し矢のような一撃はまさしく心の隙を突く。刃であれば腕が落ちて当然と言う苛烈な殴打は、範馬の鋼の糸を束ねたように太い腕でなければ二度と腕が使えなくなっていても不思議ではなかった。

 

「くふっ」 

 

 この恐るべき比古の……いいや、飛天御剣流の技の冴えを前にして範馬はじくじくと痛みを訴える腕をさすりつつ俯いた。

 

 バラバラにしてやるとまで言い放ったのを遠くへ置いていくほどに 慄いているのか。

 

 恐れているのか。

 

 いや、そんな男ではなかった。 

 

 そんな男を指して、誰が鬼のようだと思う物か。

 

 鬼のような男であれば、このような時には……そう、むしろ笑うのだ。

 

 顔を上げた範馬は笑みを浮かべている。だがそれは牙をむき出しにしたというか、さもなくば獲物を喰い尽くす為に口を開けたとでもいうべきか、そういった野獣じみた印象が目立つ笑顔だった。

 

「面白れぇなぁ、比古清十郎」

 

 打たれた肘を見下ろし、さも面白いと掲げてみせる。そこは赤く痣ができており、おそらく青黒く内出血してくるのは明白だった。骨折しているのかもしれず相当な痛みはあるのだろうが、それを範馬は笑っていた。

 

「飛天御剣流、思っていたよりも面白そうだ。腕自慢と喧嘩もしたし、御大層な看板を背負った武士もどれだけぶちのめしたか知れやしねぇ……だが俺の体にこれだけきっちり打ち込みやがったのはお前しかいねぇ」

 

 範馬勇志郎、道場破りの常習であると告白する。実を言えばこの男、その筋では知る人ぞ知る悪名高き有名人であったのだ。

 

「初耳だな。それだけ自慢の腕なら、いくら山暮らしの俺でも耳に入っていそうだが?」 

 

 言いながらも嘘ではなかろうと思っている比古だった。彼の見たところ、この範馬という鬼のような無頼の男はそこらの町道場など鼻息で吹き飛ばすほどの武芸達者だ。

 

「知るか。大方袋叩きにしようとした無手に、弟子も含めてまとめて負けたのが恥だったのではないのか?」

 

 道場破りをする際には、古今無事に帰れるはずがないというのは当たり前である。何しろ看板を掛けての一大勝負、負ければ恥さらしの笑いものとして袋叩きにされ、勝ってもこのまま帰してなるものかとやはり袋叩きにされるものだ。

 

 そんな目に合わない為にあれこれ策を弄したりするのが当然の不文律なのだが……範馬勇志郎という男、なんと天下の江戸をはじめとして乗り込んだ道場は全て本当にふらりと乗り込んでいる。

 

 目についた道場に気まぐれのように殴りこんで師範代を叩きのめし、逃がしてなるものかと囲んでくる道場の門下生も道場主も、悉くを当然のようにぶちのめす。手に持っているのが竹刀だろうが木刀だろうが、果ては真剣でもお構いなく嬉々として返り討ちにした。

 

 この暴風のような男は看板などに興味はないので死屍累々を背中に悠々と帰っていくのだが、負けた方は素手にボロ負けした挙句に流派の誇りを形にした看板なんぞ知った事ではないと放り出されていくので何重にも立つ瀬がない。

 

 よほど口の軽いもの以外はだんまりを決め込むので、結果として知る人ぞ知る災害のような道場破りの誕生となったのだ。

 

「確かに恥だな」

 

「安心しろ、すぐに同じ穴の狢にしてやる」 

 

 不敵に笑う範馬だが、比古にとっては強がりもいいところだった。それだけの手応えを感じていた比古がちらりと見降ろしたのはヒビが入った白木の鞘だった。

 

 殊更に頑丈という訳ではない上に中が空の鞘だが、それでも破損するほどの勢いで急所に打ち込んだのだから無事で済むはずがない。骨の折れた感触こそしなかったが、確かな痛打は与えているのは必然だ。

 

「強がりと言いたいが……戦う事を楽しむ輩か。腕を折られてもそれは止まらないか」

 

 比古の声には小さく、しかして確かに嫌悪か軽蔑のような色が混ざったのを範馬は感じた。

 

「いけないか? 戦いを愉しむ事」

 

 対して範馬もまた同じような色を声に混ぜた。

 

「貴様は戦いの中に余計な何かを混ぜ込むのを良しとするのか」

 

 範馬は苛立っている。理由が何かを半ば理解しつつ、比古はそれ以上考えるのをやめた。相手の考えを察する事は出来ても共感ができそうになかったからだ。

 

「飛天御剣流の理は時代の苦難から弱き人々を守る事。戦いに楽しみを見出す事などない」

 

 同時に、比古にしてみれば楽しいと思うような戦いは一切なかった。

 

 彼は強く、その強さにとって戦闘は悉く作業でしかなかったからだ。

 

 飛天御剣流は近年では“陸の黒船”などと言われるほどに圧倒的な強さを誇る流派であり、比古清十郎は更に彼自身も強かった。

 

 体格に恵まれ、その結果として力に恵まれ、剣術そのものも類稀な勘であっという間にモノにした。生まれながらに強者である男が、強い剣術と出会った結果が比古清十郎という圧倒的な強者を生んでいた。

 

 圧倒的すぎる強者の比古清十郎にとって剣を振るうという事は作業のようなものであり、血沸き肉躍るという感覚は幼いころにどこぞの道端にでも置いてきてしまった。そこらの食い詰め野盗崩れを斬っても、この範馬のように飛天御剣流に興味を抱き挑んでくる兵法者に出会っても、湧き上がる興奮も背筋を奔る戦慄も無縁の強者だった。

 

 はっきりと言えば、範馬とのやり取りは彼にとって異例ともいえる苦戦だった。体に数度撃ち込ませるなどいくら拳でとは言っても未体験もいいところだ。

 

 範馬の拳が刀であったのなら、あるいは……と考える自分を密かに笑った。今ここにある現実に“もしも”などない。

 

「闘争が目的ではなく手段か」

 

 範馬勇志郎。

 

 縁もゆかりもない、突然現れたこの男を前に刀を握っているとこれまで感じなかった感情を覚えてしまう。

 

 背筋に何かが奔るような、腹の底から何か熱いものが沸き上がってくるような……

 

「貴様は確かに強いが……どうやらそれだけか。惜しい話だが、俺とは合わんようだな」

 

 逆に範馬は、決して闘志を失ったわけではないがどこか詰まらなさそうに冷めてきている。つばでも吐きそうな、そんな顔をしていた。

 

「残念であり、つまらん話だ。貴様に斬られただろう侍も報われねぇな。戦いに甲斐も見出していねぇ男に負けたとあっちゃあ立つ瀬がねぇ」

 

「勝手に押しかけてきて喧嘩を売った男が、勝手な事を抜かしやがる」

 

 興奮は抑え込んだ。

 

 剣を振るうのであれば、それは手かせ足かせになる。ただいつものように斬れば、それでお終いになる。

 

「勝手、か。ああ、そうだな。勝手な物言いだ。それじゃあせめてもの詫びに……いい物を見せてやるよ」

 

 範馬はひどく虚しい気持ちになった。

 

 比古清十郎は強い。強いのに、その強さに、自分との仕合に何も感じていないようだった。

 

 それだけでもおかしいのに、こいつは自分の強さにもこれといった思い入れとか感慨とか言うものを抱いていないのかもしれないとさえ思った。

 

 負けるつもりもないだろうし、強さに自信はあるのだろうが、こいつは自分とは違う男だと範馬は比古に見切りをつけた。

 

 これだけ強くてもつまらない男がいる、だなんて範馬は思ってもみなかった。

 

 惜しいな、と思っている自分に気が付かないままに二人はそれぞれ戦いを終わらせると決めた。

 

 徐に範馬は右腕を持ち上げた。打たれたはずの腕だったが、痛みを感じている様子もなく拳を作っている様子に比古は顔には出さずに済ませたが内心では驚いていた。

 

「双龍閃を食らった腕をあえて握るか」

 

 双龍閃とは随分と御大層な名前だと思った。自分の一閃を龍に例えるとは、随分と大げさで驕った奴らだと範馬は飛天御剣流そのものを笑った。強がりなど一切ない、本当に鞘の一撃が効いていないと語る顔だった。

 

「白鞘が失敗だったな……鉄ででも拵えておけば俺の肘でも肩でも壊せたかもしれんだろうが……」

 

 白鞘とは基本的に使わない際に保管する為の鞘だ。当然頑丈さなど求められてはいない。対して通常の鞘は頑健さを求められ、場合によってはそこに様々な仕込みをしている侍もいる。

 

 だが、言わずもがな木だろうと鉄だろうと剣術を修めた男に打たれて平気でいる範馬の方が異常という方が適切である。

 

「次は壊すなどと優しい事は言わん。切り落としてやるさ」 

 

「……フン」

 

 比古が口にする挑発に範馬は乗らなかった。いや、乗らなかったのではなく心に響かなかったのだ。

 

「さて、お前が見せてくれるいい物ってのは……まだか? まさか打たれた右腕を構えたのがいい物ってわけでもないだろう」

 

 比古は露骨な範馬の内心の動きを感づかないほど鈍感ではない。悟った範馬の変化に無自覚ながら焦りと憤りをかき混ぜて一つにしたような強い気持ちが湧きだしていた。

 

 ケンカを売ってきたくせに、そんな顔をしているんじゃない。俺を嘗めるな、全霊で挑んで来い。

 

 言葉にすると、そんなところだろうか。

 

 範馬が比古清十郎に失望しているのが、腹立たしかった。それは当たり前だが、同時に比古清十郎がそれまで作業でしかない闘争に前のめりになるような愉しさを見出し始めたという先触れでもあった。だが、当人がそれを知らん顔だった。

 

 いや、実をいうと気が付いていないという訳ではなかった。

 

 ただ、そうあってはならないと押し込めたに過ぎない。

 

 それは、飛天御剣流の継承者として不適格な心の動きだからだ。

 

 弱者の為に剣を振るという御剣の理は、およそ異端だ。世の剣人は悉くが自身の為にこそ武芸を磨く。立身出世のため、勝ちたい相手がいる、単純に強さに飢えていたなど、様々な理由はあれどその根本には自分がいる。

 

 例外はそういう家に生まれついたから習うのが当然という道場や名家の跡取りなどだろうか。

 

 飛天の剣は異端にして最強。己以外の為に剣を振るうのは代々の継承者たちが見出した最強としての自負の表れかもしれない。

 

 そして、培われてきた自負が比古清十郎を縛る。

 

 果たして、自分自身忘れてしまう程に長い剣術追及の遍歴の中でこれほどまでの強敵と出会った事があっただろうか。

 

 幼いころに出会った敵わない壁としての大人たちではない。

 

 自分に敵う事など一つとしてなかった同年でもない。

 

 彼以外の誰もが当たり前に何度も出会っている真っ当で対等な敵手。

 

 そうだ。

 

 比古清十郎にとって、この突然現れた素手の男は数多の侍では届かなかった対等の相手だ。よもや出会えるとは思っていなかった好敵手という奴なのだ。

 

 自分自身気が付かずに求めていたかもしれない、いつしか諦めていた稀有な出会いだったが、素直に乗るには飛天の理が足かせとなった。己の思うまま天狗のように飛ぶには、他者の為の剣であれという尊い志が邪魔だった。

 

「冥途の土産だ。せいぜい……」

 

 範馬は比古の内面を全て洞察した訳ではない。

 

 飛天の理など彼にとって知った事ではなかったからだが、自分との闘争に愉しさも意義も見出しておらずただ火の粉を振り払うための作業に過ぎないとだけはわかった。

 

 それがひどくつまらない。

 

 なまじ比古清十郎が強いが故になおさらに詰まらない。

 

 まるで名画が汚されているような、上等の好物に蜂蜜でもぶちまけられてしまったような心境だった。名画であればあるほど、好物であればあるほどに台無しの感が強くなる。

 

 今の範馬が果し合いを捨てないのは、始めたのだから終わらせなければならないという義務感と、台無しになってもなお比古清十郎は強いのだという捨てきれない魅力故にだ。

 

「目の玉ひんむけや」 

 

 範馬は徐に上着を脱ぎ始める。比古が不意打ちを仕掛けてくるとは思っておらず、もし斬りかかってきても対処できるという自信から敢えて隙を見せていた。

 

 両腕は使えず、一瞬顔も隠れたが比古はあえて何もしなかった。待ちの態勢を取っているのは、彼自身の葛藤に四肢を縛られているからでもあった。

 

 現れたのは見事なまでの肉の鎧だった。

 

 比古清十郎がこれまで見た事がないほどの見事に作りこまれた肉体、丹念に作り上げられた理想的な……いいや、戦闘の中でこそ磨かれていった理想的な闘技者の肉体美がそこにある。剣術ではなく無手で戦うこそ出来上がった強靭でしなやかな筋肉を頑健で巨大な骨格に限界値まで積み込み、最も理想的な配分で張り付けている。

 

 なるほど見事だ。

 

 さあ、ここからどんな“いい物“が出てくる。

 

 こいつは、一体どんな技を持っている?

 

 比古が恐々とではなくむしろその真逆な自分の内心に気が付かないまま、範馬のとっておきを待ち構えていると、彼はなんとその場で背を向けた。

 

 無防備にもほどがあるが、それを隙と斬りこむなど比古にはできなかった。無粋、というのが最も近いだろうが少し違う……自分の命を狙い、勝利を奪おうとする敵手を面白いと待ち受ける剣にいかれた馬鹿者の考えが飛天御剣流継承者である男の中にはっきりと生まれていた。

 

 範馬は、その期待に確かに応えた。

 

 めりぃ、とかみしぃ、とかいう音が聞こえてきた。範馬の中で肉と骨と腱が、軋んだり擦れ合ったり膨らんだりしている音だ。 

 

 誰もが何度となく自分の体内で聞いた事のある音だ。それが外界の空気を震わせている。範馬の背中から聞こえてくる音だった。

 

「ただひたすらに戦い続けて幾程か……一体いつの頃からか、自分でも知らない内に俺の背中に棲みついていた……鬼だ」

 

 背中の筋肉が膨れ上がっている。

 

 全力を放つために、本気となったが故に打撃の要、腕に力を与える背筋が盛り上がっているのだ。

 

「…………」 

 

 比古清十郎は、範馬勇志郎の背中と目が合ったと思った。

 

「肉の面、か……」 

 

 声が震えていないのはさすが飛天御剣流継承者、比古清十郎。しかして声を発するまでに一拍於かざるを得なかったのは、むべなるかな。

 

 範馬の背筋が、比古の目の前で見る見るうちに異様な形へと変質していた。

 

 盛り上がった筋肉の形が、さながら人の顔のように見えるのだ。背中一杯に浮かぶ巨大な肉の面が比古をにらみつけているかのようだった。まぎれもない異形に瞠目せざるを得ない。

 

 人が人ではない何かへと変貌するという意味では、西洋における伝説の狼男の変化にも似ていたかもしれない。この異様さは実際に目の当たりにしなければわかるまい。

 

 ただの肉が面らしく見えるのではなく、そこから感じる熱を持っているかのような強烈な圧力は肌に感じるようだった。

 

「これがお前の本気か」

 

 範馬の背中から、陽炎が漂っているかのようだ。

 

 まさか妖気だとでも言うまいが、それもおかしくはないとついつい迷信深く信じ込まされてしまいかねない異様だ。

 

 頬に汗がにじむのを冷や汗などと比古は断じて認めなかったが、元々持ち合わせていない油断という愚物をさらに自分の中から欠片も残すまいと喝を入れざるをない。

 

 その為に、比古は自分も一つ披露する事にした。

 

「そっちが御大層な開帳をしてくれたんなら、俺も一肌脱いでみようか」

 

「ああ?」

 

 比古のやった事は、いたって平凡だった。肩にかかっている白外套を脱ぐ。それだけだ。

 

「ほう……」

 

 範馬はそれに感嘆の声を上げた。地面に落ちた外套が、布切れ一枚とは思えない重たい音をたてたからだ。音から察するに最低でも五貫以上あるに違いないと思わせる重量感。こんなものをつけて常人の域を超えた戦闘を繰り広げた比古清十郎は、人の域を超えているに疑いない。その事実に範馬は喜と哀の感情をそれぞれ同量分増やした。

 

 面白いと思い、惜しいと思う。

 

「飛天御剣流継承者に代々受け継がれている白外套……重さは十貫、筋肉に反したそりの発条を仕込んである。まあ……力を抑えるため……と言えば貴様は怒りだすだろうがな」

 

「ふん……」

 

 範馬は怒りを見せなかった。自分を甘く見ていたことに腹が立たない訳などないが、やはり比古清十郎は自分とは別種であるという意識が怒りを湧かせなかった。これほど強い男であるにもかかわらず、自分の中から沸き立ってくる高揚感がないという考えもしなかった事実に範馬は自分自身で驚いている。

 

 戦いの中に、それ以外の目的をもって立つ。それがどうしようもない不純で不真面目なものであるのだと、範馬は比古を見ていると怒りではなく不快さを禁じえなかった。

 

 比古は腕を振るった。

 

 無造作なそれに、大地が切り裂かれる。いや、切っ先が触れていなかったのを範馬の慧眼は見逃さなかった。かすめてさえいない、純粋に風圧だけで何寸の切れ込みを刻んだのか。

 

 範馬はそれを見て、こみ上げてくる熱い気持ちに興奮を禁じる事が出来なかった。しかし同時に、何をあれこれ考えているのだと自問し、自答した。

 

「下らぬことを、いつまでも考えていたようだな」

 

「………」

 

「貴様が何であれ、何を考えていようとも、俺にはどうでもいい事だった」

 

 ただ、強ければそれでいい。

 

「それ以外の何もかも……こういった会話そのものも……」

 

「!」 

 

「闘争を物に例えるなら……不純な混ざり物だ!」 

 

 大きく振りかぶった見え見えの一発が比古を下から突き上げるように襲う。本来ならそれは卓抜した剣術家である比古清十郎どころか素人の喧嘩自慢でも簡単に避けられるほどの大振りでしかないはずだった。

 

 だが、気が付けば比古はすさまじい衝撃を体に受けていた。まるで牛の体当たりでも受けたかのような強烈な衝撃に痛みよりも先に驚きが彼を貫く。

 

「見えん、だと……っ!」

 

 刀は切っ先の速さにおいて人の視力を超える。

 

 それは竹刀であろうとそれ以上に重たい真剣であっても変わらない事実だ。比古はそれが一度に複数であっても間合いから逃げるのではなく間合いの中で楽々と躱す超人であるのだが、その彼が見切れないほどの速さ、そして強さで範馬は襲い掛かってきたのだ。更にそれは一撃では終わらず、連撃……絶え間ない上に比古の予想もしない場所、角度から襲い掛かってきた。

 

「ち……」

 

 熱い。

 

 比古の体に青あざではなく裂傷が刻み込まれていく。打っているのではなく、切り裂いているのだと範馬の手首から先の様々に変化する形が突き付けてきた。

 

 かろうじて急所だけは守りながら、比古は面白いと思った。

 

 自分の知らない技、自分と真っ向からぶつかり合える力。それを併せ持った範馬との戦いのさ中、純粋に面白いと思ってしまった。

 

 飛天御剣流継承者としては恥ずべきかもしれない。だが、そんなこんなを考える余裕などないはずの火花散る戦いの真っただ中で比古はまじりっけなしに面白いと思ってしまった。

 

 痛く、苦しく、自分の命を狙う凶拳に襲われながら、流す以上の血が全身に行き渡り、煮えるほどに沸き立ってならなかった。

 

「喝っ!」 

 

 沸き立つ衝動そのものを籠めた一太刀が範馬に向かう。疾風のようにという言葉のままに迫る銀光を範馬はそれ以上の速さでもって飛び上がって躱す。比喩抜きで猿のような敏捷性だったが、比古は追いかけもせずに息をついた。

 

 範馬に追いつかないと思ったのではない。

 

 身をひるがえして着地した範馬の胸に、袈裟懸けの傷がばっさりと刻まれているのだ。

 

「躱したと思ったが……見切りが甘かったか」

 

「飛天御剣流の肝は見切りと速さだ。躱し切ろうなんぞ愚の骨頂よ」

 

 比古の全身には数多の傷が刻まれている。だが出血量において一太刀で五分へと持っていった。刀とは、切り裂くとは殴ると一線を画したこういう意味を持っているのだ。

 

「その割には血が滴っていい男になっているな」

 

「気色の悪い」

 

 無数の小さな傷をこしらえた範馬。一太刀で全てを逆転した比古。

 

 不公平とはどちらも思っていない。そう思うなら最初から範馬は刀でも槍でも持っていた。何なら銃でもいいだろう。素手がいいから、範馬はこの道を生きているのだ。自分の五体が何よりもいいからこそ、丸腰で戦っているのだ。

 

「お前の強さは認める。さっきの攻撃も、その前の立ち合いも、全てそこらの剣士じゃあ一撃で殺せていただろう。躱すも受けるもない。俺でなければ、一呼吸で勝負は終いだ」

 

「…………」 

 

「だが、俺の方がもっと強い」

 

 範馬は何も語らない。これ以上の語らいは闘争ではないからだ。闘争であるのなら、闘いで全てを語るべきだ。

 

 それでも、やはり上向きになる口の端を抑える事は出来ず、そもそもそんな我慢などするつもりもない。

 

「証明してみせな」

 

 笑う。

 

 確かに面白い。

 

 刀とはこれだ。

 

 武器とはこれだ。

 

 一太刀で何もかもが覆る攻撃力。そんなものをぶつけあうたった一つの些細な誤りが致命に至る、自分と相手の作り出した運命の細工を完璧に紐解かなければ生き残れない難事。

 

「見せてやるさ、この一太刀……いいや、この技でな」

 

 そう言って、比古は得物を正眼に構えた。

 

 がちがちの基本的な構えをとるのはここまでの攻防で初めてだった。

 

「…………」

 

 対して範馬は両腕を熊のように高く掲げる。

 

 果し合いを始めた時と同じ……いや、更に絞り込んだ両手で天を示すような構えだった。

 

 正統派の比古のそれと対照的に、いかにも異端で隙も多い体勢だった。

 

 両者の間に横たわる空気がかき回され、渦を描いて中間点に収縮しているかのようだ。そこでは陽炎のように揺らめいて妖気のように澱んでいる。

 

 一触即発。

 

 比古清十郎が外連味たっぷりに技を見せてやると嘯いた時から、幕引きは始まっていた。

 

 さあ、今がその時。

 

 双方は五体に満ちる闘志を解放し、全身余す事無く使い切って生み出した巨大な力を殺意を籠めてぶつけるべく最初の踏み込みを一歩。

 

「あひゃはひゃひゃひゃは!」 

 

 まるで夏場の背後から飛んでくるやぶ蚊のように唐突に、彼らの気迫と闘志に冷や水をぶっかける甲高い奇声が下品に響いた。

 

「ああ?」 

 

「あん?」

 

 揃いも揃っていいところで極めて無粋な冷や水をかけられたおかげで、露骨に険悪な形相になった両雄はそれぞれ声がしたと思しき滝の方を見上げた。

 

「わひゃひゃひゃは……げほほっ!?」

 

 何やら笑いすぎてむせこんでいるらしい赤毛の小僧がいた。年の頃は十程度だろうか、痩せぎすで小柄、眼下の屈強な二人とは対照的に華奢な少年である。

 

 滝つぼを見下ろす位置、ちょうど淵のあたりで身をよじりながら大笑いしているのは非常に危険だが、不幸にもそういった点を気にするような大人はおらず、ただ不機嫌な眼差しを子供に向けているだけである。

 

「おい、あの小僧は何だ」

 

 まさに決着の一瞬を踏みつぶすには最適の瞬間に水を差してきた小僧に、範馬は大人げなく犬歯を剥きだす。顎で示された比古は比古でひどく冷めた無表情で滝の上を見上げた。

 

「……知らんな」

 

 双方構えを崩す事はないが、共に闘争の空気を見失いつつあった。

 

「……ここはてめえの地元だろうが。あの珍妙なガキがお前の息子かなにかでなけりゃ、こんな山の中に降って湧くか?」 

 

「知らんな。あんな頭の逝った目をして奇声を上げるようなガキは俺の目の届く範囲に置きたかない」 

 

 心の底からの本音を答えて、比古はどうしようかと顔には出さずに困り果てた。

 

 今、正に決着の一瞬をものの見事に台無しにする絶妙の合いの手を入れてきた小僧にはいっその事見事とまで言いたくなるほどだが、褒美の拳骨をくれてやるには場所が遠すぎた。

 

「……ちっ」

 

 実に忌々し気に舌打ちする範馬も朧げに双方の関係を察しているようだが、いずれにしても一体どうするべきなのかこの両雄をしてどうにも決断しがたい白けた空気が流れてしまった。

 

「なんだ、あのガキは。酒でも飲んでいやがるのか」

 

「もしも俺の酒をくすねたってんなら叩き切ってやる」

 

 傍目に見ても頭がおかしいとしか思えない目つきの小僧に二人は揃って似たような表情をする。せっかくの場を壊した小僧を殴るか斬るかしたいところだが、自分たちの腰にも満たないちび助にむきになるのもしょうもない。

 

 そんな顔だ。

 

 さて豪傑二人を困惑させるという偉業をなした小僧だが、なんともふらついた足取りで目は虚ろ、けたたましい奇声を上げ続けており、なるほど酔っぱらっているというのもうなずける有様だった。しかし、彼は殊更にちび助と言われるような子供であり酒を飲むなど様々な意味で言語道断である。

 

 いずれにしても千鳥足の見本かもしれない優雅とは正反対の足取りで、あっちへふらふらこっちへふらふらと耳障りに笑いながら歩き続ける彼をどうにかしないと、決着もくそもない。

 

 さて、一体どうしてくれようかと件の少年を苦々しい気持ちで見上げた比古だったが、彼の鋭敏な聴覚が異音を捕らえた。がり、という小さな音が滝の水音にまぎれて消えていったのだ。

 

「!」

 

 咄嗟に仰いだ比古の目の前で、件の少年が滝つぼに飲み込まれていった。

 

 とうとう足を踏み外しやがって、あの阿呆!

 

 内心を口に出すだけの間もなく、比古は問答無用で滝つぼへと身を躍らせた。咄嗟に、命とも言える流派伝来の宝刀さえも手放して。

 

「剣心!」

 

「…………」 

 

 範馬は自分に目もくれずに消えてしまった男に何を思ったのか、ただただ太くため息だけをついた。

 

 怒りはなく、失望もなく、ただ苦虫をかみつぶした仏頂面で、彼はゆっくりと身をひるがえした。その遅さの分だけ彼の内心の未練はうかがえたが、後ろを振り返る事だけはしなかった。

 

「……ち……なんだか知らねぇが、拍子抜けさせてくれやがって……なんだあのガキ、酒でも飲んだか、おかしな茸でも食ったか?」

 

 らしくもなく独り言をぶつぶつとぼやきながら、彼はのったりと猛獣のようなしなやかな動きでその場を後にした。去っていく広い背中の向こうで、水をさんざん飲み下した赤毛の少年を抱えて濡れ鼠となった比古が滝つぼから這い上がっているが目をくれる事はなかった。

 

「…………」 

 

 その背中を呼び止めるような真似を取れるような男ではない比古清十郎の胸に、苦々しい敗北感に近い思いがじんわりと血のように滲む。

 

 奇しくも、打ち合わせたように範馬も心臓の奥に同じような疼きを感じていた。

 

 決着のつかない、放り出された勝負。

 

 それがどうしようもなく、強者二人をこれ以上ない程に煮え切らない苛立ちの中に放り込んでいる。

 

 双方、他に類を見ない強者であり腹の中にくすぶるものを抱き続けるなど、人生においてこれまであったかどうかさえ疑わしい。

 

 一体どうすればこの気分が晴れるのか。

 

 互いに決着を付ければよいとわかってはいたが、ここで追いかける事も振り返る事もできるはずがない。彼らはそういう男たちであり、そうあり続けたい男たちであったからだ。

 

「ち……タンスイ? とやらでも探してみるか……?」

 

 風に吹かれて赤毛の鬼は立ち去った。

 

 その背後で、比古はずぶぬれの少年を米俵のように抱えつつ……二度と互いが出会う事はないだろうと確信に近い思いを噛みしめていた。同時に、強く深い悔恨も。

 

 なんと惜しい機会であったのかと、完全に手を離れてしまった今なら素直に思う事ができる。

 

 果たして、いつ以来だろうか。

 

 ワクワクする。興奮する。充実するという刹那の瞬間を味わったのは一体いつだろうか。

 

 それも対等の、いたって真っ当で他愛のない勝負でこんな楽しさを味わったのは、一体いつ以来だろうか。

 

 比古にはついぞ思い出せない。

 

 台無しになってしまった刹那があまりに惜しい。

 

 壊れてしまったのは決して珍妙な乱入のせいではない。ただ、比古清十郎が勝負に誠実ではなかったからだ。

 

 比古清十郎が。あるいは飛天御剣流そのものが。

 

 いや、飛天の剣ではないのだろう。弱者を守るための剣と勝負に誠実である事に両立は不成立ではないのだ。

 

 ただ、そこのところを強すぎた比古清十郎が勘違いをしていたにすぎない。

 

 間違いだった。今ならば、手放してしまったからこそ素直にうなずける。

 

 間違いは、正さなければならない。

 

 どこの誰とも知れない赤毛の鬼との邂逅は、その為の教訓として比古清十郎の中に苦味のある記憶として刻み込まれた。

 

「あひゃひゃあ! ひゃひゃひゃ! ぼげ!?」 

 

 なんとなくいい拍子で笑い声をあげている小僧にとりあえず拳骨をくれてやると、少年の懐から茸が一つ二つ転がり出てきた。閉じかけの傘のようなけったいな形状を見た比古は思わず呆れてしまった。

 

「……このクソガキ……ワライタケを喰いやがった……」

 

 ワライタケ。

 

 遠い先の時代、彼らの子や孫が老人となっている平成という時代においてマジックマッシュルームなどと言われ禁制品となっている毒キノコの類である。

 

 食べると数時間は笑い出したり踊りだしたり、あるいは幻覚を見たりするが子供でも命に支障はない。

 

「もっとも、そんなのが滝に落ちれば死んで当然だがな……」

 

 未だに笑い続け、自分が命の危険にさらされていたという自覚が全くなさそうな少年を疲れ果てた似合わない眼差しで見下ろし、比古は疲れ果てたため息をついて既に見えなくなった赤毛の鬼を思い返す。

 

 逃がした魚は大きい、という言葉が訳もなく頭を過ぎり、彼は少年にもう一度先程よりも強く拳骨を振り下ろしたのであった。

 

 



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最新人型UMA 範馬刃牙

 
 今回は現代編。

 原作主人公の登場です。

 ……刃牙、アメリカ大統領誘拐したり世界生中継の中で最強親子喧嘩やったり……おいおい。

 あんた、なんで普通に学校通えているんだい。

 いや、それはいいけどクラスメイトやなんかが何も知らなさそうなのはどうして……?

 不良たちにしてもあれだけ伝説の不良みたいに幼年編で話題になっていたのになんで知らないんや。

 まあ、サザエさん時空だし、ツッコむのは野暮……なのかなぁ……

 
 誤字報告適用しました。 ふたばやさん、ありがとうございます。


 

“都市伝説”という言葉がある。

 

 赤城山に隠された徳川埋蔵金。

 

 人類月面未到着。

 

 つちのこ、各心霊スポット、ネッシー。

 

 ネット、書物、或いは口コミで語り継がれる玉石混淆の噂話。とるに足らないその中で、根強く語り継がれる特殊な伝説があった。

 

 最強親子伝説。

 

 その内容は概ね次のようなものだ。

 

 東京のどこかの地下に、秘密の闘技場が存在する。

 

 武術家、格闘技者、競技者が集い最強中の最強を決めている。ルールは極めてシンプルに“素手である事”だけ。

 

 蹴る、殴る、間接、投げはもちろん金的、噛みつき、目つぶし、全て解禁の決して公式に認められることはない過激すぎるルール。

 

 その誇張なしの過激な闘争において頂点に立つのは、なんと……まさかの十七歳の少年! しかも、ぶっちゃけチビ。

 

 そんな近代格闘技とは一線を画する世界において君臨する少年だったが、そんな彼をも畏怖させる男がいるらしい。

 

 そう……父親である。

 

 背中一杯に大きな鬼の入れ墨を背負っているらしい。大国さえ顔色をうかがうような力を持っている……らしい。

 

 国家も畏れる力、それも……単純な、腕力。

 

 そんな男が、そしてその息子がいるという都市伝説。

 

 そして、その伝説はこう〆られていた。

 

 近頃、この二人が険悪だ!

 

 

 

 

 

 

 とある区立図書館で司書を務める真壁京子がそんな話を聞いたのは、一度や二度ではなかった。

 

 職業柄、本やインターネットと接する機会は多い彼女だが、本人がその手の話を好んでいるのもあって半年に一度はどこかでそのような話を見ている。

 

 もちろんフィクションとして楽しんでいるのは当然だ。

 

 埋蔵金だのオカルティックな生物など、いるわけがない、あるわけがないと承知の上で楽しむのはまあ、この手の話では暗黙の了解である。逆に、本気で埋蔵金を掘り当てようと汗を流しているような誰かと出会ってしまえば彼女は他人行儀の見本の態度をとって逃げ出すだろう。

 

 それが健全な社会人というものだ。

 

 そんな話を真に受けるのは、少年誌をかかさず読んでいる時期の小中学生で卒業しなければならない。

 

 そういう意味では彼女はいたって健全だったが、最近、事情が変わった。

 

 世の中、本当に小説よりも奇な事実はあるのだと教えられたのである。

 

 先程の話、最強親子伝説の噂が真実であるのだと、白日の下の晒されるという一大事件があったのだ。

 

 冗談ではない。

 

 間違いでもない。

 

 正真正銘の事実である。

 

 ある日の夜……何ら前触れなく災害のように唐突に、一つの親子喧嘩がニュースとして日本全国、しまいには世界を駆け巡った。

 

 始まりは一本の報道番組。

 

 親子喧嘩でホテルが閉鎖され、新宿区にあるホテルが機動隊と自衛隊の手によって封鎖された。

 

 おまけにそこには怪獣に踏みつぶされたような車があり、喧嘩でホテルから落下してきた親子の下敷きになったからだというのだ。ついでにその車は総理専用車だと言うが、それはこの場合どうでもいい。

 

 ともあれ、そんなニュースが流れて人々はもしや、と思った。

 

 噂で聞いたアレ。

 

 冗談の類としか思っていない、都市伝説の一つ。

 

 最強親子が険悪だ! いつか親子喧嘩が起こるぞ!

 

 とうとう始まったのではないか!?

 

 多くがそう思った。そして興奮に突き動かされて我先にと殺到した。

 

 それは例えて言えば、ネッシーの実物が見られると確信したのに近いのかもしれない。

 

 誰もそれが空振りするとは思っていなかった。

 

 なぜなら、その少し前にも似たような話……つまり、嘘から出た実を体験していたからだ。

 

 往年の伝説たるプロレスラー、アントニオ猪狩とマウント斗場が人知れず二人だけで戦うという眉唾が唐突に生放送の電波に乗って、日本の午後を駆け巡った事がある。

 

 そんな話は全く伝わっておらず、普通に考えれば質の悪い冗談以外何物でもない所だったが……それを信じた都内近郊にいたプロレスファンはそれまでしていた仕事も放り出して場に急行した。

 

 そして報われる。彼らは長年待ち続けていた日本の看板レスラーが繰り広げるドラマチックな一戦の目撃者となる事が出来たのだ。さすがにカメラなどを用意する事が出来ずその一戦は公共の電波に乗る事は出来ずに幻となり、駆け付けられなかった遠方のファンや信じなかった常識的なファンは悉く血の涙を呑んだものである。

 

 ちなみに電波に乗せたタレントはその話だけで食っていけるようになった。

 

 その時、幻を目の当たりにできたラッキーマンは柳下のドジョウの二匹目を逃がさんと、あの日見逃した常識人は今度こそとしがらみも何もかも振り切って駆け付け、見事に史上最強親子の喧嘩を目の当たりにすることができたのである。

 

 しかも今回は携帯やらテレビカメラやらが寄ってたかって四方八方から撮影し、開始直後以外の全てを白日の下にして記録した。

 

 都市伝説が空想ではなく、まぎれもない現実だったのだと証明されたのである。

 

 京子は別段、格闘技など興味は全くない。プロレスもボクシングも総合もほとんど区別がつかないくらいの門外漢であり駆け付けたりはしなかったのだが、都市伝説が事実であったという意外過ぎる事実は否応なく記憶に刻まれている。

 

 つまり、繰り広げられた超人闘争に周囲が声も出ない程唖然としているのを見ても何が何だかわからずに一人おろおろとしていても、その点だけはしっかりと理解していた彼女にとって件の親子喧嘩はいわば空想と現実の垣根が破壊された事件だったのだ。

 

 今までは、ツチノコなんていないと思っていた。でも、実はどこかにいるのかもしれない。

 

 今までは、埋蔵金なんてあるはずがないと思っていた。でも、もしかしたら本当にあるのかもしれない。

 

 ネッシーはでっち上げ、雪男も以下同文。

 

 日本各地の怪獣伝説なんて客寄せの観光ネタに過ぎないし、幽霊なんて枯れ尾花。UFOは写真のトリック。

 

 子供だましの嘘っぱちが、俄然真実であるかのように思えてきたのだ。

 

 もしかして……もちろん全部が全部本当だなんてどれだけ脳みそがゆだっても考えやしないが、もしかして……もう一つくらい、本当の噂がないかなぁ……もしかして……本当にネッシーがいたりは……しないかなぁ。

 

 それ以来、彼女を含めた多くのリアリストは少しだけロマンチストになった。

 

 どこぞの山では財宝探しのにわかが増えたり、どこぞのテレビ局では真面目腐って都市伝説検証の番組がやたらと増えたり……そしてそれを世間は楽しんでいる。

 

 噂ではアメリカ大統領が時差で早朝であったにも関わらずテレビにかぶりつきであったとも言われるし、親子喧嘩の現場には現職総理大臣が機動隊の用意した装甲車の上に特等席まで用意して見物している姿がちょこちょことカメラの端に映っていたりもして、それが新たな都市伝説の種にもなった。

 

 そんな時代になって、彼女もその流れにむしろ嬉々として乗った。

 

 ……そんな彼女だから、職務に勤しんでいる最中に現れた少年を見た時、ついついあれ? と思った。

 

 

 

 

 

 

 季節は夏。

 

 茹るような暑さの午後2時ごろ。ちょうど一番暑い時間帯に涼みに来たのか、一人の少年が京子の座るカウンターに一冊の本を無造作に置いた。

 

 タイトルは『明治期の政治家』。いたってシンプルで、本当に読ませようと言うつもりで出版されたのかも怪しい。

 

 少年は年の頃はせいぜい高校生くらいであり、よほど奇特な趣味人でもなければ好んで読む本には見えない。

 

 きっと学校の宿題か何かに使うのだろう。彼女が座っているのはレファレンスルームのカウンターなので単純にそう思った。

 

 

 少年は男性としては小柄だが薄手のシャツから伸びる腕や襟から覗く首筋は筋肉が発達して盛り上がっており、文科系と体育会系の天秤がどちらに傾くかは一目瞭然だったからでもある。学校の宿題か何かでなければ図書館に来るようなガラには見えないのが失礼ながら本音だ。

 

 おかしいな、と思ったのはどこか見覚えのある名前が名簿に記入されたからだ。

 

 範馬刃牙。

 

 はんま、は読めたが下の名前は何なのか。近年、いわゆるキラキラネームが増えたおかげで読み方を教わっても無理があると言わざるを得ない気の毒な名前の持ち主が増えたのだが……彼もその類なのだろうかとついついかわいそうになった京子という名前の彼女だったが、ふとこれはこれで聞き覚えのない珍しい姓の方が気になった。

 

 聞きなれない珍しい名前のはずが、どこかで聞いた事があるような気がしたのだ。

 

 芸能人にそんな名前の人がいたかしら? などと思った彼女を少年が訝しんでいた。

 

「あの……なんかしました?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

「はあ……」

 

 受け答えものんびりしたもので、どうにも切れがない。しかし、顔をどこかで見た事があるようなないような……例えばテレビカメラ越しならすぐにわかっても、実際に直で会ってみると芸能人でも誰だろうとわからないという事はあるというから……やっぱりそういった? もしかしてスポーツ選手だろうか?

 

 相手が自分の素性を詮索しているなど想像もしていないのだろう、のんびりした態度を変えずに少年は本をもって適当な席に腰を下ろす。

 

 閑散としているおかげで見ようと思えばいくらでも観察できるが、さすがにそこまで不躾で非常識でもなく、眉間に深いしわを寄せてあからさまにあくびをこらえている少年に苦笑しつつも自分の仕事を再開する京子だったが……十分もしない内にそれらは再度中断せざるを得なくなった。

 

「おーい、バァキィ~♪」 

 

 とても不躾で非常識な大声が、本のページをめくる音しか聞こえない静寂を踏みつけるようにして響き渡ったからだ。

 

「!? !?」

 

 びっくり仰天。

 

 目を白黒とはこういう自分を指すんだなぁ、と数秒遅れで思いついた京子の眼下には、やけに小柄で禿頭の老人が満面の笑みを浮かべて手を振り上げている。見ている方が楽しそうになるが、場所が図書館内では論外の言動だ。

 

しかし注意の一つも出来なかった。それというのも、その老人を囲んで守るように黒服のごつい男が三人も立っているからだ。

 

 貧弱な図書館職員の女など一捻りできそうなのがご丁寧に黒いスーツなどを着こんでいては、声をかけるに掛けられない。目を合わせただけで、真っ当な人生を送ってきた彼女では想像もしないような方法でどうにかされそうである。夜道で会ったら即座に防犯ブザーを鳴らすべきだろういかつさであった。

 

 老人も老人でいかにもな和装をしているが、もしやヤクザの大親分とかそういう類なのだろうか。

 

 いったい何の用なのかは知らないが、図書館などと似合わない場所ではなくて賭場にでも行っていてほしいと心から思う。

 

「……図書館で大声上げるなよ、ジッチャン」

 

「おお、すまんすまん」

 

 悪びれない様子の老人に声をかけたのは……というか最初に声をかけられたのはなんとあの範馬という少年だった。

 

 ばき……刃に牙と書いてバキと読むらしい。字面だけでも物騒だが、ヤシの実でも咬み千切りそうな名前である。

 

「……ん?」

 

 そこまで考えて、ふと思い出した。

 

 ばき。

 

 刃牙。

 

 聞いた事がある名前だった。

 

 そして、そこまで思い出したところで彼女の中で電撃的に記憶が直結する。古い記憶と、今しがたの記憶が交差してがっちりとかみ合った。

 

 どこかで見覚えのある顔。

 

 なんだか聞き覚えのある名前。

 

 はんまばき。

 

 そう言えば、あの夜から繰り返し繰り返しあちこちで見る事になった最強親子喧嘩の息子の方! そう言えば、物見高いオーディエンスが歓声の中で叫んでいた名前は範馬刃牙だった! 

 

 声を上げなかったのは、純粋に高度な職業意識のたまものである。

 

「……地上最強?」

 

 目だけ見開いた彼女の前で、老人は年齢に見合わない機敏な動作で刃牙に駆け寄った。館内で叫ぶわ走るわ、まさしく好き勝手の見本である。もしも彼女が黒服マッチョに怯えていなければ冷酷で氷柱のような注意が飛んだだろう。

 

「だから、図書館で走るなってぇの……俺、この後ここで宿題やる予定なんだぜ? 居づらくなるような事するなよな」

 

「どうせワシらしかおらんのだ。固い事言うなやい」

 

 まるきり悪びれない老人に白い眼を向けて、刃牙は少しカウンター向こうにいる京子に頭を下げた。思わずびくりと震えながら、彼女は護衛としてなのか出入り口付近にいる黒服と残りの一か所に固まっている不審者集団を見比べて息を呑んだ。なんというか、自分がおかしな危険地域に放り出されたのだと遅まきながらに気が付いてしまい、出るに出られなくなっているのに泣きたくなる。

 

 もちろん黒服の男に彼女を拘束する意図も権利もないのだが、彼女はそう思い込んでしまった。もしもこそこそ出ようとすれば押し戻されたりどこかに連れ去られてしまうのではないのかと思い、身動き一つできなくなっている。これこそまさに蛇に睨まれた蛙だ、と自嘲しながら硬直した。

 

「そういう問題じゃないだろうに、ったく……いったい何の用なんだよ、こんな所にまでわざわざ……というか、どうして俺が図書館にいるなんて知っていたのさ」 

 

「元々おぬしを探しておったんじゃがの。下宿に行ったら図書館だとこずえちゃんから聞かされての」

 

「入れ違いか」

 

「まあの。それにしてもあの子も元気そうで何よりじゃわい。お付き合いしとるんじゃろ?」

 

 にたつく爺さんの冷やかしに、刃牙は顔をしかめる。年寄りの冷やかしを好きな若人なんぞいるわけがないのだ。

 

「なんでそんなこと聞いてくんだよ。カンケーないだろ」 

 

「わしはあの子を父親の代から知っておるからの。あながち無関係という訳でもないわい」

 

「親の代ぃ? 初めて聞いたよ、そんなの」

 

 老人は刃牙の懐疑に呆れを隠さずに返した。

 

「なぁにを言っとるかい。あれの父親は地下闘技場の闘士じゃったんだぞ。それがこの徳川光成の知らん相手なわけがあるかい」

 

 そう言えばそうだった、と今更な顔をする刃牙に呆れる老人。

 

「仮にもわしは東京ドーム地下格闘技場のオーナーじゃ。後楽園の地下にあったころから今に至るまでエントリーした格闘家たちのプロフィールはもちろんのこと、家族のことだってきちんとこの頭に網羅しておるわい!」 

 

 一歩間違えなくてもストーカー行為のような気がした刃牙だったが、ツッコむと面倒くさそうだったので適当に流した。

 

「ふうん……じゃあ今度、こずえちゃんのお父さんの話でも聞かせてよ」

 

「おう! 今じゃなくてええんか?」

 

「ここは図書館だよ……そもそもこんなとこまで追いかけてきて、なんの用だよ」

 

 言わなきゃよかったと思ったのは、待っていましたと顔に書いたからだ。

 

「それ、宿題に使う本か? またえらくタイムリーなもん借りたの。儂が話したいのはまさしくその時代の事じゃ」

 

 刃牙がろくに開きたくもなくなるような厚みの本を顎で示すと、彼は一転不思議そうな顔をした。

 

「それにしても、どうしてお前さんだけ宿題なんてやっとるんじゃ? こずえちゃんの方はどうも暇そうじゃったぞ」

 

「うっさいなぁ……アメリカに行って大統領誘拐したり、ミスターと刑務所で喧嘩なんかしていたから出席が大変なんだよ……宿題山積みと補修の嵐でどうにか……」

 

「……地上最強のガキも高校生らしいところがとんだ所にあったんじゃな。そう言えば、アイアンもプロモーター共の嫌がらせにめげずに結構頑張っているそうじゃぞ。あそこで会ったんじゃろ?」

 

「こないだまた一つランクが上がったね。噂で聞いたけど、そのつまらない嫌がらせをジッチャンが止めさせたって?」

 

「その手の話は全て潰しておるわい。事がボクシング世界チャンピオンなら断じて許さんわ」

 

 大統領を誘拐しただの刑務所で喧嘩しただのは断じて高校生らしくはない。

 

 彼ら以外の話が否応なく耳に入ってくる立場の第三者は、こぞって無表情を保つのに苦労しながら内心で断言した。

 

 ちなみに京子は、そう言えば一時世界中を騒がせた時の米国大統領誘拐事件の犯人、謎の東洋人少年の顔……放送直後以外はアングラでしかモザイクなしでは拝めなくなった顔が目の前にあるような気がしたが……必死になって見ないふりをした。

 

「だからあんまり長話ももめ事も困るんだよ。今日は一体何なのさ」

 

 そっけない口調の少年に、老人は全く気にした様子もなく満面の笑みだ。

 

「刃牙よ。おぬし、人斬り抜刀斎という男を知っているか」

 

 突然出てきたおかしな名前に刃牙は目を瞬かせた。

 

 随分と時代がかった、御大層な名前だが口にしているのがそのままでも時代劇に出れそうな老人なので違和感がない。

 

「人切り……? 時代劇? オサムライの話」

 

 対して時代劇などろくに見た事がないだろう少年がとりあえず思いついたことを口にすると、徳川光成は大口を開けて呵々大笑してみせた。

 

「かっかっかっ! まあ、そんなもんじゃがな。しかし今言ったように時代劇ではなく幕末から明治時代の史実じゃよ」 

 

 全く話が見えてこないおかげで刃牙は適当な態度でしかいられない。さっさと宿題を終えて帰りたいとさえ思っている。

 

「その昔、人斬り抜刀斎という新選組などと渡り合った維新志士がいたらしい」

 

 新選組はともかく維新志士と聞いてもピンとこない刃牙だった。少し時間が経ってから坂本龍馬や西郷隆盛を思い出す。そう言えば、どちらも剣の達人であったらしい。

 

 

「元々は影で天誅ー! なんて岡田以蔵みたいな事をやっとったらしいが、そっから護衛や遊撃なんかの方に任務が移って日の目を見るようになったそうじゃ……この男がまたえらく強かったらしくての。今は廃れてしまった古流の一子相伝流派、飛天御剣流という剣術の使い手で、特に複数の敵を相手取る事に長けていてばっさばっさと多くの敵を切り捨てていたそうじゃ」 

 

「まるで時代劇」

 

 強い、という言葉で少し乗り気になったようだが、まだまだ真剣みの足りない刃牙に光成は笑い続けている。これを聞いてまだそんな事が言えるかな、という顔だった。

 

「その飛天御剣流と範馬の血族の間に因縁がある、という噂があるのじゃ」

 

「……範馬とそのお侍の因縁? 一体どんなのさ」

 

 姿勢を改めて座りなおした刃牙に笑みを深める光成はもったいぶろうとしたものの、結局は自分の衝動に負けてあっさりと肝をばらしてしまった。

 

「なんでもな、この人斬り抜刀斎の師匠……飛天御剣流十三代目継承者の比古清十郎という男、件の人斬り抜刀斎よりもさらにずんと強かったらしいんじゃが……ある日、ふらりと現れた男と派手に一戦交えたらしいんじゃ。その男は当時じゃなんとも珍しい事に素手で比古清十郎に挑んできたらしい」

 

「………」

 

 刃牙の顔が大体のあらすじを察して神妙になった。ますます気をよくした光成は舌を滑らかに語り続ける。

 

「その男との勝負はどういう訳か決着がつかなかったそうじゃが、件の男はまるで鬼のような偉丈夫でたいそう強かったと言われており……名前を範馬勇志郎といった」

 

 地上最強の生物として世界中に知られてしまった男の名前が範馬勇次郎。地上最強の少年の名前は範馬刃牙。他人の空似と言うには聊か……というのは強引だろうか。

 

「それが俺のご先祖様だっていうのかい?」

 

 刃牙は強引だと思った。いつだったかのように無理やりすぎるわと言いたくなってくるが、どうにも光成当人は間違いないと確信しているらしい……というよりもその方が面白いと思っているのがありありとわかる。

 

「件の男はまるで燃えるような赤毛だったそうじゃ。おぬしもそうじゃが、特に親父の勇次郎は殊更に鮮やかなもんじゃろ。それで侍が最後の輝きを見せるような時代に素手の強者とくれば、のう」

 

 刃牙の髪はどちらかというと茶髪という方が正しいが、それでも角度によっては赤毛にも見える。しかし、彼の父親……都市伝説曰くの大国さえ怖気づく範馬勇次郎という男は確かに染めているのではと思えるほどに鮮やかな赤毛である。彼らの人相は件の親子喧嘩の際に世界中に知られているおかげで傍で聞いていた面々も言われてみれば、と思った。

 

「……もし仮にそうだったとしても……だったら何さ。別に俺はご先祖の事なんて興味はないし、それはオヤジもそうだろうさ」 

 

 そういうのは歴史学者でもやればいい話だ。刃牙はどう考えてもそんな道に興味はなかった。

 

「…まあ、儂だって面白い話だとは思うが……それだけだったらお主に話はせん。してもせいぜい、何かの用事で会った際にツケ足しするくらいじゃろう」

 

「……じゃあ」

 

「かつて件の範馬勇志郎……未だおぬしらの先祖だったかどうかもわからんが、そうだったと仮定して……それと真っ向渡り合って決着のつかなかった謎の強者、飛天御剣流が今も生き残っているとしたらどうじゃ」

 

「今さっき、廃れたって言ってなかった?」

 

 揚げ足を取りつつも、刃牙はもう一段興味を引かれている。地上最強などという子供の冗談のような称号を本当に本気で冠しているだけあって、闘争や強さという言葉には何をどうしたって興味を引かれる他ない。

 

「本家本元の飛天御剣流はな。範馬勇志郎と渡り合ったという十三代目は一体どう思ったのか……維新という時代のせいなのか、飛天御剣流を己の代で終わらせてしもうた。ただ、先ほどの人斬り抜刀斎の息子……名前は父親が緋村剣心、息子は剣路だそうじゃが……この剣路が大した才能を持っていたようでな。不完全ながらも母方からの流派を継ぎつつも飛天御剣流を物にしたらしい」

 

「不完全? それに母親?」

 

「母親は維新後の東京で道場を開いていたらしくての。父親が伝説の古流崩れ、母親は当時新進気鋭の剣道家だったようじゃ。儂が知ったいろいろな記録はそこから……まあ心得のない素人の覚書みたいなものみたいで、いまいちしっかりした記録とは言えないのが玉に傷……ともかく十三代目はどうも、明治維新の際に件の人斬り抜刀斎と師弟喧嘩で物別れだったそうじゃ。どうも、少年緋村は血気盛んに明治維新に参加しようとしたが、師匠はそれを止めたらしいの。で、無理やり飛び出しちまって喧嘩別れ。どうも緋村剣心はきっちり修業を終えきったわけではなくて未完成だったとの話じゃ……この辺も流派が廃れたのと関りがありそうだが、ともかくそれを息子が継いだ……んじゃないのかの。いまいちその辺の資料は見つからんかったんじゃが」

 

 刃牙はそれを聞いて、へえ、と思った。喧嘩別れだのなんだのは正直どうでもいい。大昔のどっかの誰かの身の上話に興味なんかはない。

 

「半端者でも御大層な名前で呼ばれるくらいに強いんだ、飛天なんたら流っていうの……」

 

「人斬り抜刀斎と言えば、影じゃ京都で切ったはったで命を賭けとった佐幕の兵が震えあがったそうじゃ。最も今日では人斬り以蔵なんかと違って全然名前は知られとらんがの。どうも、日陰稼業が長い上に斬りすぎたせいで外聞が悪くなった明治政府が隠したとか、あるいは本人が人斬りのし過ぎで参ってしまって要職に就くのを避けて姿を消したとか……まあ、その辺の事はわしらにはどうでもいい話じゃろ」

 

「……そうだね。話がずれそうだけど俺にとって重要なのは今もいる飛天って剣が強いのかどうかだ。今の話じゃ結局は修業最中の半端者が伝えた技なんだろ? それって強いのかよ。いや、そもそもまだ続いているのか……結局の所、その辺はどうなのさ」

 

 刃牙の追及に、光成はにやりと人が悪い顔をして笑った。

 

 禿頭で目ばかりがぎょろりとしている眉も薄い老人なので、そういう顔をすると奇妙な両生類じみて見える。

 

「そこは実際に見てのお楽しみじゃ。昔から言うじゃろ、百聞は一見に如かずとな。じゃが修業途中と言ってもどこまで修めたかははっきりしとらん。案外殆ど完成されていたのかもしれんぞ。大体、半端者なんぞ激動の幕末で新選組に代表される凄腕剣士と真っ向から切ったはったはできるまい」

 

 わざわざ図書館まで追いかけてきたくせにもったいぶって遊んでいる思わせぶりな光成に、刃牙はしょうがねぇなと腐った。それぞれ二人の顔にはいつもの事と書いてある。

 

「それに、登場人物はまだ出揃っておらん。範馬と渡り合った伝説の古流……だけならず、その範馬の系譜もまた密かに明治維新の頃には確かに息づいていたそうじゃ!」

 

「まあ、それは……俺がここにいるんだし、その範馬勇志郎……だったかな? いまいち冗談みたいな名前だけど、本当に俺のご先祖様だって言うんなら子孫の俺との間がいなけりゃおかしいじゃん」

 

 当たり前と言えば当たり前の話だが、そんな刃牙を光成は責めるような目で見た。血の巡りが悪いおつむだ、と言いたいのだ。

 

「そういう意味ではない! つまり、明らかに範馬勇次郎、範馬刃牙、そしてジャック・ハンマー以外に連なる範馬の血族がいたようじゃという話よ。そして、なんと驚いた事に範馬勇志郎の弟子もな。儂が言いたい肝はそれじゃ! 地上最強の地下格闘技場チャンピオン範馬刃牙と、明治に分かれた範馬の一族、範馬の弟子、そして範馬と渡り合った謎の古流剣術! そのスペシャルマッチを見てみたいんじゃ!」

 

 とうとう人目もはばからずに絶叫し始めた爺様に対して、本来それを注意しなければならないはずの職員はというと、なんだか聞いてはいけないような事実を会ってはいけない人物たちが語り合っているのを蚊帳の外とはいえ聞こえてくるおかげで精神的に一杯になりつつあった。

 

 彼女がその時内心で思っていたのはたった一つである。

 

「帰ったら、人型ツチノコか人型ネッシー見たって自慢しよう……あ、雪男かな」

 

 雪男そのもののような怪猿が日本にいる事を、彼女は知らない。

 

 

 



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ぐらっぷらぁ左之助

 FGOガチャ、アラフィフさんが来ました。

 ……持っていなかったけれども、ええ、まあ……沖田か武蔵が出てきてほしいと思っていたのに……しくしく。アサギアリーナもFGOも、終了の噂が出てきて課金意欲も失せている……

 今度は北斎様を祈願しつつ投稿します。

 

 さてさて、るろうにサイドのキーパーソンとしてスポットを当てている左之助、強化されています。

 素手の武術をあれこれ身に着けた格闘家になっています。

 具体的には刃牙ワールドの技は元より、他の格闘漫画の色々な技を使ったりします。

 例えば陸奥圓明流、陣内流柔術、南王手八神流、梁山泊豪傑の技、他にもいろいろ思いつくままにあれやこれや。

 何をどう言っても範馬、の一言で納得していただきたい今日この頃。

 
 ……斎藤との対面が楽しみ……そこまで書けないだろうけど、端折って一気に志々雄まで行こうかな


「刃牙の奴、いまいち乗り気じゃないの……やっぱり当人と直接会わせるより他ないか」 

 

 その日の夜、光成は一人広大すぎる自室で腕組みをしつついかにも古臭い書を見つめていた。

 

 徳川光成。

 

 かの水戸黄門、徳川光圀の子孫でありにして総理大臣をも平身低頭するという世界有数の資産家。“ご老公”などと先祖そのものの呼び名で、古い映画なんかで黒幕をやっていそうな立場のとんでもない爺様である。

 

そして当代きっての格闘技愛好家として名高い老人であり、強者同士の名勝負を見る為ならば金に糸目をつけずに何でもする稀代のもの好きである。

 

 本当に何でもする。

 

 例えば一口で大の大人を丸のみにできるギネス記録以上の大蛇を闘技場に放り込んでレスラーと戦わせたり、パンダやトキよりも貴重かもしれない飛騨のUMAを空手家と戦わせたりもしている。資産価値として十億円以上する古代ローマパンクラチオンの優勝者に与えられたベルトを自身の開催したトーナメントの景品にしたりもした。

 

 他にもスカイツリーの下に秘密基地を作ったりもしてとんでもない悪戯を試みているという話もあるが……何よりも彼らしい代々受け継いできた悪戯がある。

 

 それが、地下闘技場。

 

 彼、徳川光成の一族が寛永の頃から守り続けている格闘技者の聖地。かつては後楽園、現在は東京ドーム地下に建造された密かな“ゆうえんち”だ。地上最強を求める格闘技者と今の時代でも変わらず強者に憧れる徳川の一族が三百年間、綿々と維持し続けるお伽の国。

 

 どっかに似たような何かが不定期に開かれているらしいが、それは偶然の一致に違いない。

 

 かつて都市伝説の霞の向こうにあり、今は確かに実在していると実証されて多くのマニアが追いかけている徳川の莫大な財力が成立させている悪戯の最たるものだ。

 

 そんな悪戯者の彼の自室に相応しく、球場よりも広大な自宅のまともな庶民の一軒家よりも広そうな総面積の自室において、平均よりも小柄な彼は腕組みをしつつ神妙な顔をして一人ぼやいた。

 

 昼間の歓談は彼の臨んだ反応を刃牙から引き出せなかったからだ。もっとこう、手に汗握る反応をしてほしいというのが語り手の本音なのだが、刃牙は鼻息一つを吹いた後は宿題を始めてしまった。

 

 最も、その辺りの冷めた反応を光成は気にしていなかった。半ば予想していたからだ。

 

 刃牙にはどうもそういう所があるらしく、何か楽しみを見つけると興味なさそうにふるまう事が多いのだ。

 

「あの死刑囚の時もそうじゃったな。顔を合わせた時なんか、わざとらしくあくびなんぞしよってさっさと帰りよってからに」

 

 いや、意外と本当に乗り気ではなかったのかもしれない。

 

「ピクルの時は結構乗り気じゃったな。オリバの時なんか大統領を白昼堂々かっさらってまで会いに行った程……あの時は、勇次郎に挑むのに力を付けんと必死じゃったし、また話は違うか」

 

 鼻息荒くため息をつく。

 

「さて、この侍の末裔は地上最強のガキをその気にさせうるかどうか……」

 

 そう言った光成の前には、数冊の博物館にでも飾ってありそうな和綴じ本と一冊の新書があった。

 

 それは光成が最近手に入れた江戸末期から明治初期のある剣術一門の記録とそれらを現代風に書き直させた自費出版の一冊である。

 

「なかなかいい出来じゃの。機会があれば勇次郎に……いや、せいぜい刃牙だけにしておくか。本人が言い出さなければ……」

 

 ぶつくさ言いながら本を取る。光成自身が書き直させた方だ。

 

『神谷活心流流派心得書 門外秘出』

 

 御大層な名前に反してきっちり出しているのは、時代の流れと下品ながらも金銭の力だろう。そのうち、ほとんどがタイトルの通りに流派の精神性を解説したものだが、前半には流派の歴史とそれぞれに関わってきた個人個人についても言及している。

 

 まず神谷活心流は神谷越路郎が創設した流派であったが、彼は幕末から維新にかけての戦争で行方不明……今でいう所のMIA(戦闘時行方不明)となっており、残された一人娘の神谷薫が開設された道場を守っている。その間になんと辻斬り騒動が起こり、下手人は殊更に大声で自分を神谷活心流の人斬り抜刀斎などと名乗って世間を騒がせたおかげで没落。

 

 娘一人になった所でふらりと現れた正体不明の流れ者が人斬り抜刀斎を退治したら道場の土地目当ての偽物と判明……流れ者はそのまま居ついたが、なんと彼こそ偽物を捨て置けぬと現れた本物の人斬り抜刀斎であったのだ。

 

「くっふふ……まるで時代劇じゃの」

 

 記録らしく面白みのない文章でその辺りが書かれているが、光成からしてみれば他の流派の記録によくある“とある大会に出場し好成績を収めた”だの“何年に後の高名な達人である何某かが入門した”などと比較して、書かれている内容がやけに講談じみており面白い。

 

 剣術流派の心得などと銘打っているくせに表ざたになっていない大事件とそこに介入した剣豪、強者の名前がごろごろ出てくるのだ。

 

 誰それが辻斬り事件を起こした際に巻き込まれた。どこぞで連続暗殺事件が起こり、そこに介入した。特に派手なものでは未然に防いだクーデター事件まである。これが公表されれば、さぞかし世の表現者たちの創作意欲を刺激し歴史研究家に飯と頭痛の種を与えるだろう。

 

 実際に光成もこの門外秘出に書かれている様々な事件の裏取りをさせているところであり、本人の資産に比べれば微々たるものとはいえ大金を支払っても惜しくはないと言えるほどに入れ込んでいる。

 

 人斬り抜刀斉とは何者か、という細々としたところが書かれている辺りは昼間刃牙に長々語ったのだが、これらの隠された歴史の真実という奴が描かれているおかげでそれ以外の所も実に面白い。

 

 強者が何より好きな光成としてはあくまで記録としてつまらない書き方をされていてもワクワクとして仕方がなく、もう一度読み直してみようと思った。隠された真実というのは純粋に読み物としても面白いのだ。

 

「比古清十郎、緋村剣心、志々雄真実、四乃森蒼紫、十本刀、新選組の斎藤一……正により取り見取りじゃ。沖田や土方がおらんのは実に惜しいが、漫画家や小説家を雇ってシリーズでも書かせてみたいの」

 

 事件の背景に大した興味は持たず、光成の興味はもっぱら人にこそ向いている。歴史物語というよりは剣豪小説を読んでいるのに近い感覚だ。

 

「ふうん、まずは範馬勇志郎の弟子と思しき喧嘩士……いいや、喧嘩屋の相楽左之助からじゃな」

 

 喧嘩屋、相楽左之助という人物はこの本の中で否応なく光成の興味を引く一番である。何しろ、剣術流派の歴史を語っているはずの記録に何故だか部外者の喧嘩屋が入ってきているのだ。

 

 剣豪の向こうを張って戦う素手屋という点だけでも興味を引くには十分すぎるが、彼にはそれ以上のとんでもない看板が付いている。明記してある格闘技……あるいは喧嘩術の師匠の名前が範馬勇志郎なのだ。

 

 この男、件の流れ者こと人斬り抜刀斎、緋村剣心が神谷活心流道場に居着き、後の神谷活心流の看板剣士となる東京府士族の少年、明神弥彦が入門というかヤクザに使い潰されていたところを引き取られた後にひょっこり現れて剣心に喧嘩を売った。

 

 なんでも剣心が居着くきっかけになった辻斬り濡れ衣の地上げ騒動に下手人に依頼されての話だそうだが、それ以上に二重三重に剣心に挑む理由があったらしい。

 

 曰く、手ごたえのない相手ばかりであり強者を求めているとの事。

 

 曰く、相楽の姓は赤報隊隊長相楽総三から与えられたものであり、彼は偽官軍の汚名を着せられ処刑された赤報隊の準隊士であった事。

 

 曰く、己の師匠はかつて飛天御剣流十三代目の比古清十郎と戦ったが勝負預かりとなって結着がつかなかったらしいとの事。

 

 その全てが維新志士であり、強者であり、飛天御剣流である緋村剣心に挑む理由となる。

 

 当初は乗り気ではなかったらしい剣心だったがそこまで言われては引くに引けず、とうとう受けて立ったらしい。

 

「時代を超えて、世代を超えて因縁の勝負! 見てみたかったのぉ~! この相楽左之助も一体どのような男であったのやら……」

 

 光成はいつの間にか自然と瞼を閉じていた。

 

 意識が向かうのは想像の彼方、空想の向こう側にある明治の名勝負。

 

 果たしてどのように打ったのか、どのように斬ったのか。

 

 ……時代の向こうに思いを馳せていた光成はいつしか眠りについていた。

 

 そして、夢を見る。

 

 彼が想像していたそれとはまた違う、奇妙にリアルな見知らぬ男たちの名勝負の夢。

 

 

 

 

 

 

 光成は、自分がどこか知らない所に立っていると自覚した。

 

 明るい日差しは早朝の頃か、寝間着に着替えた覚えもなければ寝床に入った記憶さえないというのに、自分はどこか屋外にぽつりと立っている。一体いつ、どうやってきたのかを全く覚えていない夢遊病のような気分だが、不安感が全くなかった。

 

「こりゃ、夢じゃな」

 

 なんとなくそう思った。

 

 明晰夢、という奴だろうか、夢の中に夢であると自覚している自分がいて頭も至極はっきりしているというのは老人である彼の人生においても初めての稀な経験だった。

 

 そうとなれば、楽しまなければ損である。改まって周囲を見てみると、足元はアスファルトではなく田舎道のようなむき出しの地面で、周囲の街並みも京都か奈良のそれのようにいちいち年式が古い。まるで時代劇のセットだが、日光江戸村よりも使用感がある。

 

 つまり、本物臭い。

 

「ほお」

 

 光成は見慣れない物を見た。

 

 人力車だ。

 

 今時観光地でなければまず見ないような古い時代の名残を引いて、若い男がえっほえっほと掛け声を上げて近づいてくる。

 

 小柄な光成が見えないかのようにどんどん駆け寄ってきて、あわや衝突となったが光成は全く慌てていなかった。

 

「ひょひょ」

 

 思った通りに自分をすり抜けて通り過ぎていった人力車を目で追って、嬉しそうに笑う。どうやら光成はこの夢の中では幽霊の仲間か何かのようだ。

 

「さて、ルールも大体わかったし……それでここはどこかの」

 

 ぐるりと見まわしてみれば、彼の邸宅のそれと比較して小さいにも程があるが門があった。

 

 とある道場の正門だろう。既に門が開いているところを見ると、朝稽古でもしているのか。

 

「神谷活心流……ほお?」

 

 見覚えがある名前に光成はにんまりと笑った。なんとなく、筋書きが読めてきたからだ。

 

 実に面白そうな表情で門を覗き込むと、すぐに広い背中を見つけた。

 

今時、随分と正統派な門構えの道場前で男たちが顔を突き合わせて剣呑な空気を周囲にまき散らしているのだ。

 

「こりゃあええわい! さすがは夢、絶好のタイミングのようじゃな」

 

 その剣呑な空気を忌避するどころかあからさまに歓迎しながらそそくさと忍び込んだ光成だったが、やはり先程の車屋の男のように誰も彼には気が付かない。

 

 完全に観客である彼の耳に涼やかな声が聞こえてきた。

 

「全く隠そうともしない馬鹿正直な闘気を感じたと思ったら……」

 

「喧嘩、しに来たぜ」 

 

 そう言ったのは眼光鋭い男。赤いハチマキに白いサラシ、諸肌の上に印半纏と昔の大工とも祭りの衣装とつかない恰好をしているが、印半纏の背中に大きく悪の一文字が記されているのが特に奇抜で特徴的な若い男だ。肩に担ぐように細長い包みを持っており、中にあるのはちょうど物干しざおくらいの長さをしている。

 

 せいぜい成人前か少し超えた程度と思えるが、見るからに威勢も気風もよさそうな粋な雰囲気を漂わせている。

 

 奇妙に収まり悪くあちこちに飛び跳ねた髪を左右に揺らして首を鳴らしている姿はどこか素人臭い印象を与えるが、反面、立ち方は奇妙に重心が安定して何かの心得があるのではないかと見る目のある者にならば想像させるだろう。

 

 地下格闘技場を経営し数多の超一流に熱狂し続けた光成には、彼が間違いなく強者であると見える。

 

 そんな彼の眼の先にいるのは奇妙な三人組だった。

 

 少年というにも幼い子供、年頃の娘、そしてどうにも年齢のよくわからない優男の三人だった。

 

「この間の……!」

 

 血相を変えたのは対峙している三人の紅一点である少女だった。

 

 華やかでもなく清楚でもなく、凛々しいという言葉が似合う稀に見る美少女であり、華やかな着物でありながらも高島田などの髷ではなく流した黒髪、それをまとめるリボンの取り合わせが江戸時代というよりも明治か大正に生きる女性らしさを醸し出している。

 

「やはりお主か」

 

 疲れと呆れがごちゃ混ぜになった顔をしてため息とともに呟いたのは年齢不詳の優男。

 

 短身痩躯の優男で絵に描いた侍の格好をしており、ご丁寧にも腰には真剣まで佩いているが、背中まで伸ばした赤毛を無造作に束ねているのはこの時代において奇抜と言ってもいい。

 

 ただ、髪などよりもよほど印象深いのは男の頬傷だった。左の頬にやけに深く鮮やかな十字傷が刻まれているのである。明らかに刀傷と思しきそれを刻まれているにしては前述の通りの優男ぶりで、とても荒事の世界に身を置いているようには見えない。

 

 むしろ雰囲気は温厚そのものであり、剣を持って襲い掛かられれば話し合いか逃走かの二択しかなさそうだ。

 

 だが光成は、彼もまた侮りがたしと睨んだ。一見すると華奢で少女と大して変わらないような体格だが、それでも稀に見る強者であってもおかしくはないのだと彼は知っている。

 

 それに、この男は格闘士ではなく剣客であるのが明らか。であれば体重だのリーチだのは前提条件として大きく意味が変わってくるものだ。

 

 なんとなくだが、徳川の末裔は対峙している二人が何者であるのか察していた。

 

 神谷活心流道場で対峙する強者二人など、彼には一組しか想像できない。

 

 しかし、それにしては奇妙なところがある。青年の担いでいる包みだ。

 

 大きさ、形状からしておそらく槍などの長物の類と考えられるが、記録を読んだ限りでは喧嘩屋相楽左之助は素手が流儀の腕自慢のはずだ。てっきり喧嘩を売っているこの青年は相楽左之助であると踏んでいたのだが、実は人違いなのだろうか。

 

「喧嘩は遠慮すると言ったはずでござるよ」 

 

 何やら因縁でもありそうな様子だが、同時に殊更に悪縁という訳ではなさそうだ。喧嘩を売りに来たと馬鹿正直に明言しているがそこには陰惨さが全くない。

 

 売る側はあまりにもあっけらかんとしているし、買う側は押し売りに困っているだけで購買意欲は何らなさそうだ。

 

「そうはいかねぇんだ。こいつは喧嘩屋としての喧嘩。こっちも引くわけにはいかねぇ」

 

 そう言って、喧嘩屋を名乗る男は一歩踏み込んだ。喧嘩屋と名乗るとは、やはり件の青年は記録にあった男なのだろうか。

 

「ましてや相手が伝説の維新志士……緋村抜刀斎なら尚更な」

 

 青年のセリフに三人組が悉く顔色をそれぞれの色に変えた。特に少年の変化が大きい。だが、彼らの見えない所で誰よりも顔色を変えたのは光成に他ならない。もう喜色満面の笑みだ。

 

「やっぱりそうか! なるほど、これが人斬り抜刀斎! 想像したよりもずっと小さくて細いの~」

 

 もちろんはしゃいでいる光成の方がはるかに小さくて細い。

 

 それはさておき、一応ご先祖筋から鑑みれば敵対関係なのだが、全くそれらは意識していない。

 

 光成自身世界でも有数の大富豪であるし、そもそも彼にしてみれば父親さえ生まれていたかどうかという時代の話だ。はっきり言えば他人事なのだろうが、維新志士である緋村抜刀斎がもしも知ったらどんな顔をするやら。

 

「長州派維新志士、緋村抜刀斎。使う剣は古流剣術“飛天御剣流”。その剣の腕を買われて“人斬り”として腕を振るう。働いたのは14歳から19歳までの五年間。前半分は文字通りの“人斬り”。闇に蠢く非情の暗殺者。後の半分は新選組なんかの幕府方剣客集団から仲間を守るための遊撃剣士として。本来なら陽の目を見ないはずのあんたが今日、最強の看板を背負って有名なのはこっちの働きのせいだな」

 

 つらつらと相手の情報を語る喧嘩屋に、光成は“花山とは違う”と密かに思わずにいられなかった。

 

 花山……光成が彼の時代において直接面識を持つ喧嘩士であり、若いながられっきとした極道の組長でもある青年だ。本名は花山薫といい、ことさらに天井知らずの矜持を持つ事でも有名な益荒男。

 

 平成の日本において最強と呼ばれる喧嘩ヤクザは、強者として生まれた自分に鍛える権利も小細工をする権利もなしとしている。

 

 相手の事をこまめに調査するような真似など考え付きもしないような男だ。だからこそ下が苦労する事も多いが、ともかく喧嘩屋はそんな喧嘩士の真逆を行っている。

 

「そして天下分け目の戊辰戦争。第一線の鳥羽伏見の役に勝利したのち失踪。そして今は流浪人、緋村剣心として生きる」

 

 戦闘スタイルなどではなく人生そのものを調べている。

 

 喧嘩屋と聞いて光成は花山薫と同じような男を想像していたが、どうやら全く違うようだ。拍子抜けしたと言えばいえるがこれはこれで面白いと気持ちはあっさりと切り替わる。要するに何でもかんでも強ければそれでいいのである。

 

 大体彼の闘技場でチャンピオンを張っている刃牙だって、試合の前には相手のスタイルを入念に調査してくるものだ。

 

「本当の喧嘩ってェのは相手を知るところから始まる。知った上で戦い方を決める。わざわざ幕末動乱の中心だった京都にまで出向いて調べたんだ、大体当たりだろ?」

 

「……それで戦い方は決まったでござるか?」

 

 緋村抜刀斎は穏やかさを決して失ってこそいないが、どこか鞘に納められた刀のように緊張感を醸し出し始めている。まさしく異名のごとく居合い抜きのようだとも言えるかもしれない。彼の言うようにわざわざ京都くんだりまで出向いて自分の事を周到に調べ上げた相手の本気を理解したのだろう。

 

「そこよ、問題は! 調べても分かったのは大まかな経歴だけ。肝心の飛天御剣流ってのがどんな剣術なのか、非情の人斬りが殺さずの流浪人に変わったいきさつとか肝心なところは一切わからねぇ。師匠もそこんところはさっぱり教えちゃくれなかったしな」

 

「師匠……?」 

 

「わからねぇからこうして正門から正々堂々ッ! 真っ向勝負に出たって訳さ」

 

「…………」 

 

 しばし両者は見つめ合う。にらみ合うとまではいかないが、ただ眼を合わせているわけでもなく、探り合うというのが最も適切な目の光だった。互いに互いを観察している二人だったが、数秒もしない内に剣心が徐に言葉をかけた。

 

「拙者も分からぬ」

 

 見た目同様に男性にしては高めで通りのいい声だった。

 

「お? なんだい」

 

 青年はそれを待っていたようだ。話したいネタがあるのだと構えている。

 

「弱い者イジメを見るのも聞くのも嫌うお主が、何故に喧嘩屋なんて理不尽な生業をする? 何故にこれ見よがしに悪一文字などを背負ったりする?」

 

 剣心にとっては重大な話のようだが、傍で聞いている光成にしてみれば先程の青年の調査も含めて妙な事を気にするものだと不思議にさえ思った。

 

 最強の剣客、人斬り抜刀斎が何をごちゃごちゃと語っているのか。目の前にいるのは、強者たる自分を見据える挑戦者だというのに、口を動かしあれこれと相手の過去や内情に踏み込んで、それが戦う男になんだと言うのか。だらだらと舌を回し続けて柄に手をかける事さえしないのか。

 

「性根は真っ直ぐなはずなのに、今のお主はひどく歪んでしまっている。何がお主をそのように歪ませてしまったでござるか」 

 

「何がって……やめた。そんなしけた話は勝負の前にするもんじゃねぇ。どうしても知りたけりゃ俺に勝ちな! つうか、喧嘩屋だって別に理不尽な生業っても思わねぇけどな。あんたがぐだぐだ気にしているのだって、結局人それぞれで済むだけの話だ。いちいち首を突っ込む話でもないだろ? もっと別の事を聞いてこいよな」 

 

 光成は全く同感で、いい加減に不貞腐れた様子でため息までついている。プロレスのマイクパフォーマンスよりもずっとつまらないやり取りなどを続けていないでさっさと丁々発止に始めてほしいものだ。

 

「別の事……? 今しがた口にした、師匠とやらの事でござるか」

 

「おうよ」

 

 今度こそ我が意を得たり、と青年は笑った。

 

「飛天御剣流って名前を聞くのは今回が最初じゃねぇ。俺の師匠はあんたの師匠……ああ、比古清十郎って言ったか? そいつと因縁があるのさ」

 

「け、剣心の師匠!?」 

 

 驚いたのは後ろの少女であり、剣心当人は少々眉を潜めた程度だ。

 

 それはまあ、おかしくもない。剣術流派の看板を背負った男なんぞ四方八方に因縁を背負っているのはむしろ必然的だ。自分ならともかく師匠に因縁がある知らない誰かなんぞどれだけいるのかいちいち考える方が不毛だろう。

 

「ちなみに聞いた話じゃ、師匠はあんたともまるきり見知らぬ仲でもないらしい。まあ、顔見知りがせいぜいってところらしいけどな。あの人は聞いた話じゃ途中まで維新志士の側についていたらしいんだよ。なんでも国外に興味があったから当時鎖国を行っていた江戸幕府が邪魔だったらしい」

 

「……拙者とも? 異国に興味……?」 

 

「心当たりはないみたいだな。だがネタばらしは……喧嘩の最中にでもしてもらおうか」 

 

 それが当然と誰もが理解する。

 

 師匠とやらが剣心と知り合いだというのなら喧嘩屋の戦い方もかなりの確率で判明してしまう。喧嘩屋と腕利きの維新志士の中でも半ば伝説となっている人斬り抜刀斎ではそもそも格が違っているというのに、更に輪をかける真似をする必要はない……見た目で言えば評価は真逆になるのだが。

 

「しかし、師匠とはやはり範馬勇志郎か? それにしてはやはりあの長物が気にかかる……この男は本当に面白いのう」

 

 気楽な第三者が見ているなど想像しているわけはないだろう両名は静かに見つめ合う。

 

「……引くつもりはなさそうでござるな」

 

「応よ。さっきの師匠の話だけじゃねぇ。それ以外にもあんたと俺との間には因縁があるんだぜ? 最強の維新志士さんよ。さすがにこんな所で人様に迷惑をかけるほど短気じゃねぇが、断ると言われてはいそうですかとひっこめる話じゃねぇ。悪いがこの喧嘩、一つ押し売りさせてもらうぜ」

 

 にい、と笑う若者に剣心は仕方がないとため息をついた。これはてこでも引かない、とこれ以上の押し問答の不毛を悟ったのだろう。

 

「因縁、でござるか。生憎と拙者には心当たりがない。お主の因縁は維新志士全てに、でござるか?」

 

「……維新志士って奴が俺は信じられねぇ。四民平等だの新時代だの、全て嘘っぱちのまがい物。自分たちのやる事なす事何もかもに正義の看板をぶら下げて真実は歪め、都合の悪い事は人に押し付けて力づくで悪党の看板を背負いこませ貶めるッッ! そういう糞みたいな連中の集まりだと思っている」

 

 背負う悪一文字に一体どんな思い入れがあると言うのか、それまではどこまでも飄々としていた青年の表情には語る内にどんどんと鬼気迫るものがまるで滑突くほど濁った泉のように湧いてきている。

 

「そんな維新志士の中で最強と謳われている伝説の“人斬り”を、俺は心底ぶっ倒してみてぇのよッッ!」

 

 大きい小さいではなく長年かけてこれ以上なく強固に凝り固まったような怒りが彼の芯から表面に出てきた。対峙している少年少女の背筋に冷たく重たい物を奔らせたそれの直撃を受けた剣心は一体内心でどう受け止めたのか。

 

「その背負う悪一文字、我ら維新志士が背負わせたものだという事か」

 

「…………」

 

「……わかった。受けてたとう」

 

 とうとう勝負を受けた剣心に、冷汗を垂らしてこわばったままの表情をした少女が名前を呼んだが、それを剣心は意に介さなかった。本来はそんな真似をしそうな男には見えないが、今だけは既に第三者が割り込んでいい領域の話ではないのだ。

 

「だがその前に一つ答えろ。この喧嘩の仕掛け主は比留間兄弟でござるな」

 

「ご名答。よくわかったな」 

 

 特に気にする様子もなくさっさと依頼主をばらしてしまった喧嘩屋から、先ほどのどす黒くぎらついた怒りはすでに消えている。

 

「わかるさ。この街で拙者の素性を知る人間は限られている。それに……そこの板塀の影に奴らの薄汚い殺気が漂っている。隠れていないで出てこい」

 

「へえ。さすがは超一流の剣客。おい、観念して出てこい」

 

 剣心はともかく、依頼主のはずの兄弟とやらを追い込む喧嘩屋の顔には全く悪びれるところがない。困ったものであるが件の兄弟はそれどころではないだろう。いつまでたってもリアクションがない事にイラついたのか、二人の顔に殺気じみたものが出てきた。剣心など剣の鯉口を切っている。意外と短気なものだ。

 

「出て来いって言っているんだ」 

 

 異口同音の最終通告だと理解したのだろう、すごすごと青ざめた顔をした二人組が出てくる。

 

「髭の大男にチビ……わしと変わらんじゃないか。これが兄弟だとしたら、義兄弟なんじゃないのか?」

 

「よしよし、それでいいんだよ」 

 

 そう言って笑う喧嘩屋だが、彼らは客である。

 

「ほれ、出しな」

 

「は?」

 

「は、じゃねぇよ。懐に呑んでいるこいつだよッッ!」

 

 財布でも要求するつもりなのか手のひらを差し出す喧嘩屋にきょとんとするのは小男の方だが、有無を言わせず懐に手を突っ込むと中から財布にしては妙に大きく重たそうな物をつかみだした。

 

「あ!」

 

 拳銃である。光成の目からしてみればいかにも旧式然として弾丸がきちんと発射されるのかも怪しい鉄と鉛と木材の集合体だが、傍観者以外から見ればそれなりに新しい形式の恐るべき武器だ。

 

「やっぱりな」

 

 もっとも、取り上げられてしまえば意味はない。

 

「おめぇら髭だるまや似非恵比寿の考えることくらいは、気が読めようが読めまいがお見通しだぜ」 

 

 手に持ったそれは重量にしておよそ0.5~1㎏の金属製だ。内部は空洞と隙間だらけで純粋な鉄塊程に頑丈ではないが、少々の事で砕けるようなものではない。そんな貧弱は武器として失格である。

 

「この喧嘩の売り手は確かにお前らだが、買った以上はもう俺の喧嘩だ。ふざけた横やりは……」

 

 決して、両拳で挟んで破壊できるような代物ではない。

 

「絶対に、許さねぇぜ」

 

 尋常ではない力を見せつけられた上での凄みある眼光に貫かれて青ざめる小男に、少女があからさまに沈痛な表情で声をかけた。

 

「……喜兵衛」

 

 何やら因縁があるのはすぐに察せられた。それがこの喧嘩の発端なのだろうと血の巡りが悪いわけではない光成には簡単に察せられる。

 

「……この土地屋敷は必ずいただくぞ、小娘」 

 

「…………」 

 

 喜兵衛とやらが憎々し気な表情で口走った一言で因縁の理由は察せられた。今更思い出したが、そう言えば人斬り抜刀斎が神谷活心流道場に居着いた理由である騒動は地上げの嫌がらせが発端だった。

 

「となると、この二人が偽抜刀斎騒動の犯人で……それじゃあやっぱりこの若者が相楽左之助か?」

 

 手に持っている長物のせいでいまいち腑に落ちないが、そんな不思議も一つの楽しみである。

 

「ったく、場がしらけちまったな。詰まらねぇ水差しやがって……ここじゃあなんだし、河原にでも場所を移すか? ええ、おい」

 

 

 

 

 

 道場を荒らされるのを好むわけがない一行は、近くの河原まで珍道中を開始した。

 

 殊更に目立つ一行は周囲の珍獣を見るような視線に晒されつつ居心地悪げに往来を縦断していく。その後ろで物珍し気にお上りさんをしている光成がいるが、それについて一行はもちろん街の誰も気が付きはしなかった。

 

 光成も光成で、ことさらにリアルな時代劇セットに目を見張る。街のどこを見ても現代の物が何一つとして見当たらない。まるで本当に時代劇の中に入り込んでしまったようだ。

 

「夢か現か、それとも化かされているのか……くくく、本当にかの幕末、維新の時代に紛れ込んでしまったようじゃな。それにしてもこれが明治の街並みか……わしの爺さんの世代、かの?」

 

 不安や困惑などなく、純粋に楽しんでいる光成は能天気と言うか図太いというか判別しがたい。大目に見て、器がでかいと称するべきなのだろうか?

 

 そんな気楽な老人など知った事ではなく、移動の最中に緋村剣心と脇を歩く少年……明神弥彦というらしいが、彼は緋村剣心が人斬り抜刀斎だと知らなかったらしく、その辺りを語り合い、どうやらこれと言ってこじれることなく穏便に解決したらしい。

 

 隣にいるのが剣の達人にして多くの人を惨殺してきた人斬りであると知れば背中に竹刀を括り付けている少年にとっては様々に影響強かろうが、彼はどうやらそのまますとんと器に落とし込んだらしい。

 

 なかなか大きな少年じゃな、と生霊のように得体のしれない老人に感心されているとは知らず、彼はむしろこちらの方が重大事だと潜めた声で剣心に言及した。

 

「そんな事より、剣心の方こそ大丈夫なのかよ」

 

「おろ?」

 

「おろ? じゃねぇだろ! あいつの手に持っている得物! あの長さはどう見ても槍だぜ。槍に剣で立ち向かうには相手の三倍の技量が必要だっていうじゃねぇか」

 

 神妙な顔をしている少年のいう事は最もである。

 

 光成の頃には剣道三倍段と言われているように、素手で剣に立ち向かうには相手の三倍は力量がいると言われているが、同様に剣で槍を相手にするのも同様に言われているのだ。いや本来は長物を相手に剣で立ち向かうには相手の三倍の力量がいるというのが先であるのだが、いずれにしても間合いの上回る得物を持った敵手に勝利するには相応の力量が必要なのだ。

 

 伝説の人斬りと街の喧嘩屋……格の違いは露骨な程だが、それを承知で入念に調べ上げて挑んでいる上に、何やら思い入れや因縁まである様子の喧嘩屋に弥彦は勝算ありなのかと不気味なものを感じてしまう。勝負というものに慣れていない幼い少年だからこそ特にそんな不安を感じているようだが、それを煽るように聞きつけた喧嘩屋が振り返った。

 

「槍じゃねぇよ、ボウズ」

 

 ニヒルに笑う男の顔には確かな凄みがあり、光成などはそれにワクワクとしてしまう難儀な性質だが弥彦はそれに少々飲まれてしまった。

 

「こいつはもっと、いい代物よ」

 

 

 

 

 

 一行は大して間を置かずに河原に着いた。

 

 いかにも決闘におあつらえ向きで、相対している二人を特等席で見ている光成には当事者の格好のせいで日頃見慣れている試合というよりも正に時代劇である。認識されていれば非難の目で見られること間違いなしの顔をして今か今かと開戦を待ち望んでいた。

 

「そういや、お互いに自己紹介もまだだったな」

 

 赤いハチマキがひときわ強い風に煽られて旗のようになびく。河原の風は冷えてどこかうすら寒いが、それはもしかしたら二人の人間が醸し出す決闘前の雰囲気によるものであるのかもしれない。

 

「俺の名前は相楽左之助。裏社会での通称は“斬左”」

 

 包みがほどかれ、現れた“槍よりももっといい代物”を目の当たりにし、一同は剣心一人を除いて揃って驚嘆する。

 

「斬馬刀の左之助。略して“斬左”」

 

 彼が手に持つのは身の丈を超える巨大な鉄の延べ板としか言いようがない何かだった。

 

 それだけで身の丈を超えるような大きい鉾の先端に、無造作に持ち手が付いている……そんな風に言えば何とか説明がつくだろうか。斬馬刀、と呼んでいるが刀には到底見えない異形にして巨大な得物を右手一本でまるで包丁のように軽々と持っている。

 

「斬馬刀!?」

 

「なんだよ、斬馬刀って!?」

 

 仰天している剣心の側に立つ二人は白目をむかんばかりだ。彼らも槍ではないとは聞いていても、まさかこんなものが出てくるとは想像もしていないに違いなかった。

 

「騎馬武者を馬ごと斬り倒す目的で作られた、数ある刀剣類でも最大、最重量を誇る代物よ! 戦国時代以前に作られたと聞いているけれど、あまりにも大きく重すぎるせいで完全に使いこなせたものは一人もいないと言われているわ」

 

「これが噂に聞いていた斬左の“相棒”か……」

 

 おそらくは、刀剣というものが完成を見る過程で作り上げられて消えていったうちの一振りなのだろう。運よく戦火の中で折れもせずかろうじて生き残ったそれが未だに現役でいるとは、打ち上げたどこかの鍛冶屋も想像すらしなかったに違いない。

 

「応仁の乱の頃の骨とう品で、手入れなんか全然してねぇから、斬馬刀なんて言っても切れ味はねぇに等しい。だが叩き潰す事は今でも可能だぜ」

 

 刃長だけでも成人男性に近い長さの鉄の塊だ。そんな物で殴られれば、生きているだけでもほめるべきだろう。ましてや、それを軽々と扱っているような怪力と言える腕力で殴られたのであれば猶のことだ。

 

「しかし、やはりこの青年が相楽左之助じゃったのか。しかしそうなると、範馬の弟子というのはどこに行ってしもうたんじゃ。あのどでかい得物もそれはそれで見ごたえがあるが……なんだか話が違うのぉ……」

 

 見ている光成としては事前情報との違いに眉をしかめざるを得ない。範馬の血族の弟子、という看板は彼にとってただでかいだけの斬馬刀よりもよほど重いのだ。正直、肩透かしな気分だ。

 

「流浪人、緋村剣心。逆刃刀でお相手いたす」

 

 そう言って剣心が抜いたのは、これまた異形の刀。

 

 なんとも奇妙な事に、本来は峰である部分に刃が、刃である部分は峰のようになっているのである。機能的にはまるっきりの無駄だ。足を引いていると言ってもいい。どこの職人がこんな珍妙な刀を打ち上げたのか。

 

「……とは言っても、おぬしの事だ。既に調べてあろうがな」

 

 構えながら語る眼差しに隙はなく、真っ当とは言えない武器の照りを映す目は道場の前で見せたお人よしの面影さえない。小柄で痩せぎす、にも関わらず鋭く冷たい迫力ある姿はなるほど刀の如しと言える。

 

「ああ、だから一言忠告しておく」

 

 大してこちらもそれを受けて怯んだ様子はない、

 

 相楽左之助。

 

 伝説の人斬りに挑もうとする青年もまた、全身に闘志を満たして打ち掛からんと構えている。その熱い闘志のこもった圧は光成の知る数多のグラップラーたちと確かに重なっているように思えた。

 

「不殺なんて甘い考えは今すぐ捨てな」

 

 全身の肉が力を貯めている。しなやかな筋肉が発条のように力を貯めている。

 

「さもねぇと……」

 

 発条は縮めばすぐに力を解放して飛び跳ねるもの。異形の刀を携える喧嘩屋の手足もまた、ため込んだ力を即座に解放した。

 

「死んじまうぜッッ!」

 

 光成にしてみるとバットのように構えられた斬馬刀と共に左之助は一つの塊となって走った。その速度に大男と少女が目を見張る。ただ走ったのではなく斬馬刀という重りを付けての速度としては異例なほどの速さだったからだ。

 

 そして、芸もくそもなくただ全力で振り下ろされる斬馬刀。相楽左之助、長身でこそあれ決して筋骨隆々という訳でもないすらりとした体型だが、巨大な鉄の塊を普通の竹刀と変わらない速さで振り下ろしている。

 

 正しく剛力。古代の英雄譚で語られる剛力無双のような膂力で振り下ろされる斬馬刀は、剣心の持つ刀が小枝のように頼りなく見える重兵器としての外見に過たず見事に大地を“弾け”させた。

 

 石だらけの河原がその下の土まで含めて周囲にまき散らされる。土どころか石まで砕かれて舞っている中に、黒い鞘もへし折られて無残な姿を晒していた。

 

 土埃の中でもどうにかそれを見つける事の出来た少女が顔を青ざめさせる。斬馬刀の石を無造作に砕いた一撃が剣心をも砕いたか、と……そう思ったのだ。

 

 だが彼女が悲鳴を上げるよりも先に事態は動いている。飛び散る石に巻き込まれるように飛んでいるのは鞘だけではない。その主もまた跳んでいた。

 

「!」

 

 猫のように飛び掛かる剣心は既に左之助の間近にまで入り込んでいる。宙を舞いながら喧嘩屋の左側面という剣を振るうに絶好の間合いで、彼もまた存分に一刀をお見舞いした。

 

 肉が鉄を打つ鈍い音が響くよりも先に、左之助は物の見事に吹き飛ばされて地べたを背中でこすりつけていった。小兵の剣心が踏ん張りの利かない空中で放った一閃の結果としては恐ろしく強烈であると光成は驚嘆する。

 

 鉄の棒であれだけ見事に吹き飛ばされれば、おそらく打たれた箇所は骨折して当然。下手をすれば内臓破裂の恐れさえあるだろう。

 

「人斬りが殺さずなどと言っとったのは意外じゃったが、本当に死んどらんのか、これ?」

 

 冷や汗を流して呆れる老人がいたが、彼以外はあまり気にしていなさそうだった。これが時代の違い、明治を生きる世代というものなのだろう。大したものだと光成は感心した。

 

「やった! そうだぜ、いくら斬馬刀がすごくても当たらなきゃ意味がねぇ! 剣心の圧勝だ!」

 

 弥彦が手に汗を握りながらもはしゃぐが、剣心の眼は鋭さを微塵も失わずに倒れる左之助を見据えている。

 

「さすがに強えな……伝説になるわけだぜ。だがよう」

 

 土煙の向こう側から平然としたまま左之助が現れた。汚れこそあれ、悠然と戻ってくる動きに支障らしいものは見当たらない。

 

「き、効いてないのか……?」

 

「まずいわ……」

 

 鯉のように口を丸くしてから少年が呟く言葉に答えたのは隣の少女だった。彼女もまた歯噛みをしながら分析をしている。

 

「私たちはあの男の強さを見誤っていた。あの男の本当の強さは、大男を指一本で倒す怪力でも、その怪力に利した斬馬刀の剣撃でもない。眉間に寸鉄を受けても微動だにしなかった、あの異様なまでの打たれ強さ!」

 

 ほう、と光成は彼女の説明に再度感心をする。

 

 なかなか面白いエピソードがあるようだがそれはそれとして、分析もそこらの小娘の物ではない。そもそもこのような争いを目の当たりにしている事自体、決めつけだろうが古き良き時代の女性としては異例の気丈さだ。

 

 おそらく、元々一目で察しはついていたが彼女こそが創始者が行方不明になった後も流派を守り続けたという神谷薫その人なのだろう。

 

「今まで全ての敵を一撃で倒してきた剣心の飛天御剣流。その一撃がこの男には通じない!」 

 

 驚愕を露わにする薫をよそに、光成は脅威だとは思えなかった。同時にそれが格闘家と剣客の違いなのだろうとも思う。確かに見事な打たれ強さではあるが、一撃で勝負が決まらないのはむしろ当然なのが格闘家の試合。

 

 殴られようと、蹴られようと、絞められようと圧し折られようとも、格闘士であるのなら意識がある限り立ち上がる。それは地下闘技場でオーナーを務める光成にとっても当然の話だ。

 

 立ち上がるのは格闘家の本能とさえ断言できる。それに驚くのは、やはり彼らが剣に生きる侍だからだろう。

 

 刃物はどこに当たろうと大きな痛手となり、悪ければあっさりと死ぬ。防ごうとしてもおいそれと防げるものではなく、掠めただけでもいずれ出血多量で死に至る可能性もある。

 

 つまり一撃必殺は当然。

 

 対して格闘家は空手に代表されるように一撃必殺は目標、夢だと言われている。力量に圧倒的な差があるならともかく、一流同士であればまず成立しない夢物語だ。

 

 結論として、少なくとも一撃の威力と意味において武器の有無は大きな差を生んでいる。だからこそ、彼らは立ち上がってくる敵に驚くのだろう。

 

「喧嘩ってえのは真剣の斬り合いと違って、剣に強え方が勝つんじゃねぇ。倒れねェもんの勝ちなのよッッ!」 

 

 以前、平成最強の喧嘩士が語った持論がある。

 

 何をどう言おうとも喧嘩は所詮ダメージの与え合い。最後に物を言うのは体力である。

 

 なるほど、明治の喧嘩屋が口にしている言葉にも通じるものがある。

 

 人斬り抜刀斎が逆刃刀などという珍妙な得物を使っている時点で、攻撃は斬撃ではなく打撃になっている。それなら、相楽左之助の打たれ強さを生かす余地は存在している。

 

「さようなセリフは、最後まで立っていられた時に口にするものでござるよ」

 

「ちげぇねぇ。それじゃさっさと勝って、でけぇ面するとすっかぁッ!」

 

 だが、それでも今のままで勝ち目はないだろうと光成は踏んでいた。

 

 緋村剣心は短身痩躯、つまり華奢で打たれ強さとは全く無縁と言い切っていいだろう体格からして喧嘩ならば左之助の圧勝とて有りうるのだろうが……

 

「いける! 抜刀斎の一撃を受けてもビクともせんとは……これならもしかして……」

 

「お前は本当に頭が悪いな!」

 

 ざぱっと切り捨てられた髭男がショックを受けて殊更にユーモラスな顔をする。凶悪なご面相だが、そうすると凄みもへったくれもなかった。だが対照的に小男の方は光成もよく知る類の陰険さを感じる顔つきに成り果てていた。

 

「虎の子の斬馬刀が難なく躱されたんだぞ。どう転ぼうと斬左に勝ち目はない!」

 

 全く持ってその通り。

 

 これが素手の勝負であれば左之助の打たれ強さから疲れ果てて剣心の腕が上がらなくなるまで耐え続けて反撃……剣心の薄い胸板を左之助の怪力で打てばそれこそ一撃で決着もありうる。そのような流れも無きにしも非ず。

 

 だが逆刃だろうがなんだろうが、鉄棒で殴られ続ければすぐに限界はくる。一撃だけどうにか耐えても、石でも鉄でもない人間の限界値は剣心にとって高い数値ではない。打たれたところを捕まえようにも斬馬刀で両手は塞がっている上に相手は速さ自慢。

 

 とどのつまりは時間の問題。

 

 似たような体格の二人が出した結論は同じだった。

 

「それじゃあ喧嘩第二幕! いくぜぇ!」 

 

 当然ながら戦う左之助がそんな負け犬の思考を抱くはずもなく、彼は再び斬馬刀を振りかぶると威勢よく振り回した。

 

 すぐ横でしている会話は対峙している剣心に集中して聞こえなかったのか、それとも聞こえていても意に介さないのか彼は意気揚々としたままだが、剣心は自分の一撃を耐えた程度の男にはいちいち驚きもしない。仮にも人斬り抜刀斎、その戦歴は維新志士最強と言われている男なのだから。

 

「!?」

 

 今度は薙ぎ払うように振られた斬馬刀だったが、今回はただ虚しく空を切るしかなかった。腕に伝わる感触など何も存在せず、影も形も見当たらない。巨大すぎる斬馬刀の影が剣心の跳躍を左之助自身から隠してしまう皮肉に彼が気付くよりも先に、剣心の低めた声がかかった。

 

「斬馬刀はその超重、巨大さ故に攻撃の型がどうしても限られる。打ち下ろすか、薙ぎ払うか二つに一つ」

 

 なんと緋村剣心、正に天狗のように斬馬刀そのものに颯爽と乗っているではないか。

 

 両刃で奇妙な程に幅広い斬馬刀の刀身に着地する離れ業を見せた剣心の鋭い眼光は左之助を射すくめんばかりとなって切っ先に乗った。

 

「至極、読みやすい」

 

 払い落そうとする斬馬刀から飛び降りた剣心は、その隙を逃さず一気呵成に襲い掛かった。俊敏な動きは猿のごとく、飛天とは空を飛ぶとの意味であると知らしめる。

 

「第二幕ではなく、これにて終幕でござる!」

 

 一撃は肩を打ち抜き、左之助の顔色が変わる。だが今度は喧嘩屋も吹き飛ばずにこらえて斬馬刀を横に薙ぎ払う。

 

 しかしてその動きは剣心の語る通りに読みやすく、相手が少々身を屈めるだけであっさりと躱される。その顔に戦慄が刻み込まれて背筋を凍らせるよりも先に、飛天の剣は喧嘩屋に襲い掛かった。

 

「斬左、おぬしに一撃は効かぬ。ならば!」

 

 逆刃刀が様々な角度から絶え間なく左之助の全身至る所を打ち据える。袈裟、逆袈裟、切り上げ、打ち下ろし、胴、逆胴、一つとして同じ強さと角度はなく、速さ優先でとにかく当てる事を考えた攻撃がまるで蜂の群れのように。

 

 連撃。

 

 至って単純な選択肢だった。一撃が通用しないのなら効くまで続ければいい。岩でもあるまいに一撃でも決して完全に通じていないわけではないのだから、数を重ねればそれだけで終わる。

 

「飛天御剣流、竜巣閃」

 

 一撃、ニ撃、三撃、積み重ねられた痛打の波に押し寄せられて、いつしか斬馬刀は音をたてて河原に屍さながらに横たわる。石と鉄のぶつかる音は肉と鉄のぶつかる音の中にまぎれて消えた。

 

 力はむしろ欠けている攻撃だが、とにもかくにも絶え間なく打ち込み反撃の余地を与えない連続攻撃の速さは特筆に値する。これを竹刀はともかく真剣で成立させるのは力と技量が高度に釣り合わなければ成立しない。

 

 この小さく細い体のどこにそれだけの力があると言うのか、もはや不思議でさえある。光成の知る最強のガキは背丈こそ低い物の骨格についている筋肉は著しく発達しているのだが、緋村剣心は華奢でしかない。これほどの高速で絶え間なく延々と刀を振り続けるなど身体構造の時点で間違えている。

 

 あり得ない技を成立させている、これが飛天御剣流の理にして剣にかける侍の執念なのかもしれない。

 

 これで決まったか。

 

 誰もがそう思った。

 

 傍で見ている見物人も、技を繰り出した剣心も確信を抱いた。もちろん剣心は残心を忘れてはいなかったが、元よりこれで倒せると踏んで繰り出した技なのだから自信を持っていて当然だった。

 

「呼っ!」

 

「!?」

 

 その自信が過信であると証明したのは連撃の直後、最も無防備な一瞬を狙いすまして飛び出した左の拳だった。それは鈍い音をたてて剣心の薄い胸板に突き刺さり一撃で肉と骨に深刻な痛手を与えた。

 

「ぐあっ……!?」

 

 軽く華奢な剣心は拳一つであっさりと吹き飛ばされて地べたを嘗めた。その姿を周囲は理解さえできずに呆気に取られて声もなく見つめている。

 

 剣心とて一流の剣客として当然ながら残心はしていた。だが、その警戒心を自分の技に抱いている自信が上回ってしまった。いや、ここは左之助を褒めるべきか。

 

「ぬう……」

 

 油断していた剣心に左之助の拳は殊の外響いた。胸の中央を射抜いた拳は骨身に堪えたようで歴戦の雄が苦痛も露わな呻き声を隠せない。

 

 かの人斬り抜刀斎の打ち込み、それも飛天御剣流の技を一介の喧嘩屋風情が見事耐え抜いて痛打を浴びせる。これは確かに番狂わせの偉業だろう……誰もが度肝を抜かれ驚愕の眼差しを注ぐ中で、左之助は一人不敵な笑みを返した。

 

「さすがは人斬り抜刀斎。すげぇ攻撃だ。これが逆刃刀じゃなけりゃ、今頃血だるまでお陀仏だったぜ」

 

 口ではそう言いながらもまだまだ意気軒高、散々に達人の奮う鉄の棒で打たれているというのに全身から闘志はこれまで以上に漲っていた。

 

「あの立ち方は……もしや、三戦立ちか!?」

 

 左之助は明治の武芸者、悉くが見た事のない奇妙な立ち姿で周囲を睥睨していた。

 

脇を締め、肘はわき腹に付けてある。右足を前に出し膝と両つま先を内向きに立っている。

 

 板についているその立ち姿に光成ははっきりと見覚えがある。全身の筋肉を締めて攻撃に備える空手の基本、防御に長けた型の一つとして懇意にしている実践空手界随一の雄が引き入る流派もよく使う形だ。

 

 しかし、空手は明治期においてまだ本土には全く伝わっておらず沖縄にとどまっているはず。

 

「斬馬刀に執着することなく、よもや拳で来るとはな……それに、竜巣閃に耐え抜くとはさすがに拙者の予想を超えていた」 

 

「今まではともかく、今回あんたは斬りかかってきたんじゃなくて殴りかかってきたんだ。そいつは大きな違いだろう?」

 

 さらりと言うが、鉄棒でタコ殴りにされて立っているのは尋常ではない。

 

 とは言っても、彼はけして平然としているわけではなく全身に痣と出血のオンパレードで満身創痍もいいところだ。誰が見ても、あと一押しで倒れる……剣心は駄目押しを好まなかったが、左之助に打ち込まれた胸の痛みが彼の背中を押した。一介の喧嘩屋と油断してはならない男であると認識を強制的に改めさせられたのだ。

 

「終幕と言ったが、まだまだ第二幕は終わらねぇよ。続きといこうぜ!」

 

「いや、もう一度言おう……これにて終幕でござる!」

 

 赤毛の燕が翼を広げて飛び掛かる。それを迎え撃つ喧嘩屋は、しかして足元の斬馬刀に手を伸ばす様子も見せずに両の掌を顔の前に揃えて構えた。その構えはどこか翼を畳んでいる鳥のようにも見えた。少なくとも光成にはそうだった。

 

「今度は前羽の構えか!」

 

 空手において防御随一の構えであり、これまた光成はよく知っている。彼の知る当代随一の実践空手家には遠く及ばない物の、左之助の堂にいった構えに胸が弾む思いだった。彼が何者であるのか確信が抱けた。

 

「しっ!」 

 

 緋村剣心の閃く銀光を左之助は素手で迎え撃った。明治の一同が訝しむ奇妙な構えから円を描いて動かされる掌が、刃ではないと言っても影さえ見えない人斬り抜刀斎の斬撃を見事に空かし、躱し、逸らして見せた!

 

 三つ。

 

 唐竹、胴、逆袈裟の連続を見事に往なしてのけた喧嘩屋はそのまま両の掌を打ち下ろして逆撃を狙う。

 

 見事な離れ業に意表を突かれて体も流れてしまった剣心だったが、そこは身軽さと速さこそが身上の男、かろうじてだが打ち下ろされた掌をかわして間合いを外してみせた。

 

 それが中国拳法の中でも特に実戦的な近接主体の拳法、八極拳の一手だとは誰も知らない。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

 観戦している面々は悉く大口を開けて間抜け面を晒している。斬馬刀を捨てた上での左之助の動き、技、何よりもそれが人斬り抜刀斎に通じている信じがたい事実に度肝を抜かれたのだ。

 

「廻し受け。師匠曰くあらゆる受け業の要素が籠められた最高の受け技。矢でも鉄砲でも……もちろん槍も刀だって持ってこいってな」

 

 光成が背筋に奔るものをこらえきれずに浮足立って身が震える。達人の振るった刀を素手で往なしてみせる秘技、格闘家を愛する彼が奮い立たないわけがない。

 

 周囲が戦慄し驚愕している中で部外者の彼だけは興奮してあらゆる意味で場違いだった。

 

「お主……まさか、流儀は斬馬刀ではなく無手でござるか」

 

 さすがに歴戦の男、驚いているのは確かだが動揺はなく神妙な顔をして油断なく身構えている様子に隙は無い。だが彼の片袖は破れて腕にはかすかに出血が見受けられた。完全に躱し切れたわけではないのだ。それを見てとった左之助はにやりと不敵な笑みを深めた。

 

「応よ。やっぱり喧嘩は素手でやるもんだろ?」

 

「はあぁ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げたのは髭の大男である。

 

「ちょっと待てよ、お前、二つ名は“斬左”だろうが! 詐欺か、それ!」

 

「外野がうっせぇな。斬馬刀が目立つからそんなあだ名がついただけだ。大体二つ名なんて自分で決めるもんじゃねぇだろ」

 

 まあ普通に考えて、自分で二つ名を名乗るような人物は痛々しい。

 

「あんまり弱っちい奴は素手で優しく撫でてやるんだけどな。数だけ多い時やそこそこの強さの奴の場合は薙ぎ払えば済むこの斬馬刀が便利なのよ。元々こいつは力を鍛えるのに具合がいいから持っているんだしな」

 

 大層な驕りを口にした左之助は、それが大言壮語ではないと証明するように適当な岩に斬馬刀を突き刺して無造作に片手で持ち上げてみせる。まるで岩が空の木箱であるように軽々とした動作で振り回すと、風を起こして斬馬刀は翻った。

 

 天然の石に切れ味がないと言っている斬馬刀を突き刺しただけでも驚きだが、それを軽々と振り回すとは、なかなかに人間離れしていた。

 

「でぇ! あぶねぇ!」

 

 岩は途中で割れて唖然としている見物人の足元へと飛んでいく。大層な勢いで振り回されたそのままに地べたを嘗めた半欠けの岩は大きな砂埃を上げて勢いを主張した。

 

「普通の石や岩よりも、こいつの方が持ちやすいんで重宝しているぜ? ただまあ、こいつは今さっき言われたそのまま……こういう一対一の強者相手にはいまいち向いてねぇ。ただ……お前さんが逆刃刀なんてけったいな代物を使っているんだ。こっちも相応にしなけりゃ五分ってわけにはいかねぇからな」

 

 どうやら相楽左之助にとって、斬馬刀は主武器ではなくバーベル代わりであるらしい。という事は、彼はバーベルを振り回して戦っているという事でまるでプロレスラーの場外乱闘さながらである。妙に似合っているような、いないような絵面が頭に浮かんで仕方がない。

 

 いつだったか、死刑囚の一人にバーベルで散々殴られたと言っていた日本プロレス界のカリスマを思い出した光成は思わず腹を抱えて笑った。

 

「ヒールもベビーフェイスもできそうじゃな、こいつ。やたらとタフじゃし、アントンが欲しがるかもしれん」

 

 これからこの奇妙珍妙な喧嘩屋の本領発揮を拝めるようだと、光成は自分のテンションがどんどん上がっているのを自覚する。これまでの様子からすると空手を学んだようだが、中国拳法も知っているようだ。

 

 果たしてそれは一体誰からなのか……そこに、範馬勇志郎という男の影と正体への手がかりを見つけて楽しみで仕方がない。

 

「……拙者の逆刃刀に合わせてくれた、と?」

 

「不満そうだな。けど実際にその刀はただの刀よりも得物としちゃ一枚落ちるだろう? 峰に刃、刃に峰なんてのはどう考えても不自然だ。たとえあんたが鍛え直して逆刃刀でも昔より強くなっていたとしても……やっぱり普通の刀に持ち直した方が強いだろ」

 

 剣心が逆刃刀に思い入れがあるのは誰でもわかる。そうでなければこんな奇妙な得物を好んで携帯なんぞするまい。

 

 特に明治期は廃刀令が施行されたばかりで、発足された警察もその辺りの取り締まりに躍起になっている時期だ。にも拘らず人目を憚っていない辺りよほど大事なものであるというのは明らかだ。

 

 それが足を引いていると言われてしまえば聞き逃せないのはもちろんだろうが、左之助のように相対している男には剣心の事情など知った事ではなく、ただそんな刀で戦う事を憤るか付け込もうとするかのどちらかだろう。

 

「そう思ったからあえて斬馬刀を使ったんだけどよ。さすがは往年の人斬り抜刀斎。幕末最強の人斬りは伊達じゃねぇな……こうまで歯が立たねぇ以上は四の五の言ってられねぇ。ここは俺の本当の流儀でやらせてもらうぜ」

 

 どちらでもなく自分にも枷をはめようとする左之助は馬鹿を通り越した大馬鹿であるに違いはない。

 

「……拙者の逆刃刀は恩人より授かった人斬りではなく流浪人である証。おぬしが本当の流儀で来ようとも、おいそれと後塵を期するつもりはないし弱くなったつもりもない……が、一つわかった事がある」

 

「へぇ」

 

「勝負の前に口にしていたお主の師匠……斬馬刀を使う剣客にも喧嘩士にも心当たりがなかった為にわからなかったが……無手の拳法がお主本来の技と聞けば話は変わる。いや、無手で闘うような男に心当たりは一人しかいないと言うべきか。剣林弾雨、殺意ひしめく幕末の京都で寸鉄一つ身に着けずに笑いながら駆け抜けていった男など、拙者はあの鬼のような男しか知らぬ」

 

 戦国の世は終わり、太平の世が来てから三百年。

 

 再び巻き起こった動乱の時代を生き抜いた中で重視されたのは刀ではなく銃器などの舶来品。そんな時代に銃器どころか刀剣類さえ持たずに戦場に立つような男はいない。そもそも刀は武士の誇り。それを持たずに街を歩けば笑いものとなるのも必然なのだから、いざ戦場となれば携えないはずがない。

 

「……かつて維新志士も幕府方も問わずにただひたすらに戦い続けた奇怪な男が幕末の京都にいた。全ての陣営に属さず全ての陣営を敵に回してひたすらに戦い続けた男は圧倒的な強さで戦場に立つ全ての男たちを蹂躙していったが、戦う目的さえ定かでない。ただ災厄のようにふらりと現れては戦場をかき回していく姿を我らは疎み、その理不尽さを呪い、伝説の鬼の如しと呼んで忌み嫌った……」

 

 光成はおお、と胸を震わせた。そんな真似をする人間、そんな真似ができる男など、そんな真似ができる血筋などこの世に一つしかないと確信していた。

 

「しかし、ある日突然混乱の日々は終わった。それまで戦火の巻き起こる所、悉くに首を突っ込んできていた鬼は霞のようにふらりと消えてしまい、それきり現れる事がなかった。結局何者であったのか、何を目的としていたのかは終ぞわからないままであったが……あるいは戦うことそのものを目的としていたのかもしれないと噂されていた……その不可思議さのせいで人によっては本当の鬼ではないのかと半ば本気で信じられていたが……そこまで言われていたのは刀も槍も、例え西洋式の訓練を受けた最新鋭の装備に身を固めていた一個中隊であろうとも彼は棒切れ一本持たない素手で真正面から叩き潰していたからでござる」

 

 剣心の脳裏に、人知れず赤い風が吹いた。

 

 全身にねっとりと絡むような風はかつて幕末の京都で絶えず吹きすさんでいた血風に他ならない。それは一人の男が吹かせているかのようだった。

 

 思い起こされるのは、垣間見た広い背中。振り返った貌に刻まれている犬歯をむき出しにした怖い笑み。

 

「名前も知れないあの男とお主の戦い方には大きな違いがあるが、拙者も知っている無手で戦う男となれば他にはいない」

 

 剣心の語りに周囲は驚きを隠せない。素手で刀はおろか銃器にまで勝る……それも多対一の一の側でなど本当だとは到底思えないが、口にしているのが他ならない人斬り抜刀斎。つまらない冗談を言うような男でもない。

 

「……違いってのは?」

 

「お主の戦い方は確かに洗練されている。拙者も多少話に聞くだけだが、それはおそらく琉球の方に伝わる“手”と呼ばれるものであろう……対して目の当たりにしたあの鬼の戦いは正にむき出しの暴力。ただ思うままに手と足を振り蹂躙していく様は獣か、其れこそまさに鬼のごとくだった」

 

「……へぇ……洗練だなんて誉め言葉は初めてだぜ。どいつもこいつも、技を使う前にへたばっちまう根性無しばっかりでな。その内に俺まで鬼だなんだと不釣り合いな綽名をつけられるんじゃないかと冷や冷やしていたところよ」

 

 左之助の雰囲気が変わった。

 

 それが周囲の誰しもに伝わった。

 

 す、と流れるように引いた足は自然な前後の半身となっている。重心はつま先に置かれ、前に出した肩が顎を隠してもう片方の腕は拳を顎の高さに置いている。緩く握られたそれは利き手であり、いつでも相手を殴れるようにと備えられている。

 

 突き出した肩から伸びている手は緩く開かれている立ち姿を見て、光成は興奮が最高潮に行きつくのを感じた。

 

「刃牙の……チャンピオンの構えじゃ! ここでそうくるかぁ!」

 

 彼が幽霊のような何かでなければ町中に響き渡るような大声をあげて、歓喜を天地に訴える。

 

「本領発揮、でござるか」

 

「不公平だなんだと言われるのは癪だ。あんたもその刀を捨ててもっといいのを持ってくるか、せめて刃を返しな。そうでなけりゃいつまでたっても言いわけが付きまとっちまう」

 

 本気になれば俺が勝つ。

 

 既に散々に殴打された分際で暗に言い切った左之助の強気を誰も笑えないのは今の剣心の語りのせいか、それとも左之助自身から発せられる、まるで彼が二回りも大きくなったような圧力のせいか。

 

「繰り返すがこの逆刃刀は拙者が人斬りではない証明……おいそれと捨てるつもりはないし、負けた言い訳にするつもりもない」

 

「そうだ、大体剣心が喧嘩屋なんかに負けてたまっか! バッキャロー!」

 

「どっちも威勢がいいねぇ」

 

 弥彦の声援と自身の誇り、握った逆刃刀に籠められている何かを譲らない為に剣心は刀を構えた。その表情には左之助を上回る凄みがあった。

 

「そっちも一応は本気になってくれた、か……」

 

「ああ。生憎とこの刃を返す気にはならぬし、捨てる気にもならぬが……だからこそ、ここからは本気で行かせてもらう」

 

「そりゃあいい。勝っちまえばそれで何もかもチャラだ。俺が何を言っても負け犬の遠吠えにしかならねぇな。最も……」

 

 ちらり、と目線をくれた先にあるのは屍のように転がる真っ二つになった鞘だ。

 

「人斬り“抜刀斎”が鞘を失くして、不利に輪がかからなけりゃいいけどな」

 

「ふうっ!」 

 

 目線を一瞬逸らした隙を剣心は見逃さなかった。剣を抜くまではむしろ人が良すぎるほどにしか見えなかったような男が、ためらいなく小さな隙を見逃さない……なる程、本気だった。

 

「おおっとぉ!」

 

「やはり誘いでござるか!」

 

 目線はあくまでも罠。百も承知で乗ったのは相手の力量を今一度確かめる為だった。

 

 剣心の閃かせる銀色の光は左之助に若干危なっかしくも避けられ、下から滑り込むような左拳が彼の顔目掛けて蛇のように襲い掛かってくる。剣心はそれをさらりと危なげなく躱してのけた。互いに同質の攻撃を放った一瞬の交差は双方に彼我の力量差を教え、それは周囲にも伝わっている。すなわち、剣心有利に左之助不利。

 

「ち……」

 

「…………」

 

 それぞれの顔色を伺うまでもなく差は周囲に知れ渡る。それだけ歴然としていた。何回振り回そうともかすりもしない斬馬刀と違って惜しいところまではいくものの、後わずかに届かないのが小さくも決定的な差だ。

 

 小さな差は、繰り返し積み重ねていけば大きな差となっていくのが自明。この交差を続けていけばいずれは左之助が倒れてお終いとなる。明暗が分かれつつあると観衆が踏むのも当然だが、緋村剣心は違った。

 

 そんな単純な話で終わるわけがないと確信に近い予測をしていた。

 

「へっ……もう一丁!」

 

「ふっ!」

 

 次は左之助の側から出てきた。剣心の呼吸を読んだ見事な拍子だが、剣心は危なげなく打ち込まれる拳を躱し……そこから飛蝗のように大きく飛びのいた。

 

「こいつも避けるかよ」

 

「……右拳か」

 

「刀は一本、手は二本。固さも長さもそっちが上だが、数だけはこっちが上だぜ」

 

 左の拳を撃ち込み、そこから流れるように右の拳。継ぎ目のない連携はむしろ自然にして必然的だったが、回転の速度が剣心の想像をはるかに上回っていた。すなわち、相楽左之助の拳に刻み込まれた練度が剣心の想像を上回っているのだ。

 

 剣心は鼻先に熱さを感じていた。二番手に打ち込まれた左之助の拳が微かに掠めたのだ。

 

「……」 

 

 剣心は驚いていた。

 

 左之助の力量と、そんな男と唐突に出会った運命の奇妙さに、だ。

 

 問題は多々残されているが一応の落着を見たはずの明治の世に相応しからぬ、むしろ戦国か幕末のような激動の時代に似合いそうな技量の男と、こんな所で戦おうとは想像もしていなかった。仮に強敵に出会うとしても、かつて幕末の激動でもまれた何者であるかとばかり思っていたが、ほぼ無名に等しい青年がこれほどまでに強いとは……

 

「まだまだいくぜぇ!」 

 

 頑健、強烈、剛力、俊敏、鋭利、巧み、さまざまな言葉が一瞬に剣心の脳裏を通り過ぎていき最終的に一言で占められていく。即ち“強い”の一言だ。

 

「!」

 

 小兵の剣心、長身の左之助。だが左之助は蜥蜴のように低く構えて剣心の懐に入り込んだ。その稀なる動きに対してさすがは人斬り抜刀斎、咄嗟に考えるよりも素早く切っ先を突きこんだのは無駄のない見事な対応だが、それに“流浪人”剣心の顔色は変わった。

 

 殺してしまいかねない一撃を咄嗟に出してしまったのは彼にとって不覚以外の何物でもない。咄嗟に切っ先を逸らしたのは無理やりの悪あがきに過ぎたが、左之助はこのぶれにぶれる奇妙な攻撃を鮮やかに躱して伸びあがる拳を披露する。

 

 必殺の一撃を崩す為に自分の体勢も崩した剣心を迎え撃つ拳が縦一直線に突っ込んでくる……いや、そこから更に横殴りの拳が挟み込んでくる。視界の影をそれと知らずに見て取った剣心は舌打ちをする間も惜しんで宙を飛んだ。その高さたるや何たるか、長身の左之助が見物人をやっているさらなる大男の肩に立ってもまだまだ届かない、正に飛天。

 

「なにぃ!?」

 

 自分の目線のはるか上まで飛んでいった剣心と拳を見比べた左之助は思わず唖然とした。見せつけられている並々ならぬ人間離れした跳躍が、絶妙の瞬間に彼の拳を踏み台にして拵えられた逸品だと残る草履の感触から教えられたのだ。

 

「飛天御剣流、龍槌閃」

 

 静かな声が五月雨のように降ってくる。

 

 その瞬間に背筋を奔った何かをどう言葉にすればいいのか左之助はわからなかったし、わかりたくもない。

 

 彼にわかったのは静かな声音と反比例する鋭くも重たい何かが高速で頭上から迫っているという物理的な事実だけだ。それが何かを理解するよりも先に、左之助は五体を的確に動かしていた。

 

 そう言えば、いつだったか言われていた。頭はぼんくらだが身体はそれなりに賢いようだなどと!

 

「ちいぃいっ!」

 

 彼はとっさにその場で逆立ちになった。両手をつくのではなく左手だけで体を支えて前のめりになり、すると必然、そのままの動きで踵が振り上がる……それはまさしく胴回し回転蹴り、と呼ばれる空手技の変形だった。

 

「!」

 

 左之助の頭部目掛けて両手と全体重を籠めて渾身の逆刃刀を叩きつける剣心は、目当ての頭部が移動するのについていけず空振りする。身動きの取れない空中で、刹那に脇腹目掛けて襲い掛かる踵を目で追えただけでも大したものか。

 

 躱しも受けもできずに成す術なく抉りこまれて蹴り飛ばされた剣心は、肉と肉がぶつかり合う馴染みない音を引き連れて衝撃に揺れる視界の中に唖然としている薫と弥彦を見つけた。

 

「るぁぁあっ!」 

 

 剣心が宙を飛んでいる間に態勢を整えた左之助が駆けだすが、さすがは剣心。猫のように身を翻して音もなく着地して刀の切っ先を突き出してけん制してのけた。

 

「ちっ…やっぱり宙にいる相手じゃ蹴りきれなかったか」

 

「……龍槌閃を倒れる事で躱すとは、正直驚かされた。おまけに脇に蹴りまで入れられるとは、拙者も初めての経験でござるよ。なるほど、剣客にとって武器とはこれ刀。しかしお主にとっては五体全てが武器であるか。右も左も、手も足も区別はない」

 

「へ……」 

 

 宙を飛んでいる的を蹴り飛ばして力を集約させるのはなかなかに至難。ましてや相手は受けまいとする人間であれば……蹴鞠よろしく飛ばされた剣心だが、蹴鞠は蹴とばされてもそうそう壊れないものだ。痛手でこそあれ、骨身に染みてはいなかった。それよりも、かくも斬新な方法で必殺の打ちおろしを躱された事の方が驚きだった。

 

「これだけやって、当てたのはたったの二発……か……刀を相手にこれじゃあでかい口は叩けそうもねぇな……さすがだぜ」

 

 素手と剣では攻撃力が違う。にも拘らず相手に当てる事が出来たのはほんの二発……実質は一発かもしれない。対して左之助は防御しても痛手は受ける。とにもかくにも、素手は武器よりも数多く当てなければ話にはならず、同時に悉く相手の攻撃は避けなければならないものだ。不平等と言ってしまえばそうだが、それがそれぞれの選んだ武術の道である。

 

 にも拘らずの体たらくに苦笑いさえ出てこない。これで相手が剣心という小兵だからこそまだましだったが、相手が肉体的に恵まれている男であれば少々当てたところでたかが知れている……

 

「そちらが本領発揮してからは拙者もろくに入れる事ができてはおらぬ。さすがなどと言われてはこそばゆい」

 

 剣心は剣心で、よもやこれほどまでに苦戦するとは思っていなかったおかげで思い上がりを心から恥じ入っていた。少なくとも渾身の一撃を既に胸板に刻み込まれているのだ……拳でなければそれで絶命の可能性は大いにあった。そんな“もしも”に意味がないとは百々承知だが、それでも胸に恥じ入るものは湧いてくる。

 

「ふ……」

 

 恥じ入る、とは滑稽な事だった。己の剣は強さを誇示する物ではない……それはいまも昔も変わらないたった一つの真実。だと言うのに苦戦を恥じ入るなど増上慢にも程があった。

 

 そこまで思い至ると、一体何をやっているんだと火付きの悪い考えが湧いてきた。だが同時に、引いては何もならぬとも思った。

 

 この勝負は無意味な戦いでしかない。だが、戦わなければこの男は引かない……わざと負けるわけにもいかない。そもそも負けてしまえば左之助に喧嘩代行を依頼した二人が卑劣な手を道場に伸ばす。

 

「だが、そろそろ終わらせるべきでござろうな……この戦い、拙者にとっても道場の二人にとっても無意味に過ぎる」

 

「つれねぇ話だ。腕に覚えがあるんだろうに、盛り上がっちゃこねぇのかい」

 

「それほどに喧嘩が好きでござるか」

 

「ああ、喧嘩の世界はわかりやすいからな。強いか弱いか、勝ったか負けたか……だけど、あんたら維新志士の作った今の時代はごちゃごちゃしている上にいう事がころころ変わりやがる。正しいも間違えてるも明治政府ひいてはあんたら維新志士の都合で真っ逆さまの摩訶不思議……振り回されて生きてきた俺は、それが好きにはなれねぇのよ」

 

 二人の間の空気が奇妙に濁った。

 

 闘争にかき回されていた空気が、双方が期せずして作り上げてしまった沈滞に落ち込んで淀んでしまっている。そんな空気が作り出されていた。

 

「……それは、お主の背中の悪一文字に関わる事か」

 

「まぁな。だが、それは維新志士のあんたには言いたくねぇし、聞いたところで無意味な話に口を割らせるほど野次馬根性持っているわけでもないだろ」

 

 明治維新とは日本の歴史上一大変換期の一つである。

 

 その大きな変化は歴史上でも特筆すべき大きな動きだったが、だからこそ実際の政府の方針や政策は様々な問題点を孕んでいた。

 

 何しろそれまで主流であった徳川幕府を大きく締め出した一種の革命政権である。不手際も多く人材不足、国際法などにも疎く成熟した政府だなどとは到底言えない。である以上、急激な変化も相まって政策の犠牲となった民衆も数多いのだ。

 

 それを顧みることない維新志士もいれば、幕府のままでいるよりはよかったのだと目を逸らす者もいる。

 

 相楽左之助もまた見てみぬふりをされたうちの一人なのだろう。

 

「……だから維新志士である拙者を倒したい、か……詳しくは語ってもらえないか」

 

 維新志士に維新志士なりの苦労や苦悩があった事は間違いないのだろうが、それを免罪符にして納得してくれるのはよほどの阿呆以外にはいない。

 

「……まあな。話してどんな顔で何を言われたって腹が立つに決まっている。そもそも、ここであんたに身の上を語ろうが、それでなにがどうなる? あんたの一言で維新政府の歴々が動いて事が解決するのか? それはそれでふざけるなって話だ。それっぽっちの安い話で俺たちゃ踏みつぶされたのかって逆に腹もたつ。じゃあ、明治政府に反旗を翻して、先の西南戦争みたいなマネを繰り返すか? それなら最初から鹿児島に行っているさ……」

 

 薫にしても弥彦にしてもただの一般庶民であり、政府に何をされたという感覚はない。平成、昭和の庶民のように情報過多で穿った見方をするわけでもない。だから左之助の言っている事が理解できなかった。

 

「結局、どうやってケリをつけていいのかなんて俺にだってわからねぇ。わからねぇから、せめてあんたに勝ちてぇ。何をどうしていいのかも分からず、だけどなかった事にもできず燻っている毎日から、せめて一歩前に出られるような気がするんでな。わりぃがその為にはそこらの腐った偽維新志士なんかじゃない。最強の維新志士である人斬り抜刀斎からの勝ちが必要なのよ!」

「…………」

 

 子供の八つ当たりと言ってしまえばそれでおしまいだ。

 

 だが、そんな言葉で踏みつぶしてしまえるはずもない。

 

「……わかった。決着を付けよう」 

 

 静かな声に一体どんな決意や感情が籠められているのか。ただそれ以上は何も言わず、あるいは何も言えずに剣心は刀を構えた。

 

 左之助にもむろん否やはあろうはずがなく、彼もまた構えた。拳と刀、双方が再びの交錯を予感させて空気に張り詰めた糸の緊張感が甦る。弾ける瞬間を待ちかねている二人の隣で、緊張感に耐えかねた誰かが息を呑んで後ずさった足音がした。

 

 次の瞬間、二人は一気に弾けた。

 

「おおおおっ!」

 

 剣心の刀が弧を描いて左之助を打ち据える為に高速で飛来する。

 

「うらああぁっ!」

 

 そして迎え撃つ左之助の両拳も、剣心を骨まで抉りこもうと縦横無尽に四方八方から襲い掛かる。

 

 どちらも素人の目どころかそこらの玄人どころでも見えない程の高速連撃、正に意地の張り合いというべき攻防。ここで譲っては一挙に負けを喫すると考えた二人は気合で負けるかと言わんばかりに声を張り上げて、さらに加速した両雄の攻防が交錯する。

 

 左之助の両拳と剣心の逆刃刀が共に相手を凌駕する為に様々な軌跡を描き、時に肉を抉り時に髪の毛一本の差で躱された。その交錯に周囲はただ口を開けて見守るのみ。

 

 度肝を抜かれている一同は、左之助がここまで剣心に食い下がれるとは思っていなかった。

 

 何をどう言おうとも、人斬り抜刀斎の雷名の前に喧嘩屋一匹など霞んで同然。双陣営、互いに期待も不安もあれど結局最後は剣心が勝つという結論に疑いを持っていなかったが、蓋を開けてみれば剣心にまぎれもなく見事な痛撃を浴びせている。

 

 光成は範馬の弟子であるかもしれないと期待をかけている為に例外だが、ネームバリューで既に期待感はなかった。

 

 蓋を開けてみればよもやの結果に大男が唖然として小兵にお伺いを立てている。

 

「あ、兄貴……斬左の奴これ、もしかして勝っちまうんじゃないか……?」

 

「馬鹿言え! あれだけボロボロにされてもせいぜい一、二発当てただけで勝てるわけがあるか! どうせ最後は抜刀斎が勝つに決まっている!」

 

 ちなみに彼らは左之助に喧嘩を依頼した側である。お互いにどうにもこうにも困った間柄だった。

 

「ここはやはり儂の策通りに……」

 

 こそこそと言っている二人を光成はどうにも冷めた顔をして眺めていた。せっかく面白いところだと言うのに、冷や水をかけられた気分もいいところである。

 

「策だなんだと……どうにもつまらないマネをしそうじゃの……儂の時代だったら何とでもしてやるところじゃが……この喧嘩、どうケリがつく事やら」

 

 よく見るつまらない欲ボケの形相にため息さえ出てこない光成の白い眼差しなど知る由もない二人組は、いかにも胡乱な表情であくどい事を考えている様子だった。正に時代劇で毎週繰り返しやられる小悪党の鑑のようである。

 

「まったく、少しはこの二人を見習えと言うに」

 

 そんな小悪党どもに比較して、なんと見事な立ち合いを見せる男達であろうか。

 

 緋村剣心、相楽左之助。

 

 果たしてこの奇妙な邂逅が夢か幻かはどうでもいい。何よりもまず素晴らしい勝負ではないか。

 

 光成の価値観からするとどうにも左之助に肩入れしたくなるが、彼とて日本人。侍という言葉、日本刀という武器には思い入れがたっぷりとある。正直、どっちが勝っても負けても満足である。

 

 どっちが勝とうがどうでもいいのではなく、どちらが勝っても素晴らしい勝負に出会えるのは、きっと稀なる幸運に違いない……のだが、それを汚しかねない無粋の見本にはうんざりとする。これが光成の生きる平成の日本であればどんな手段を用いてでも取り押さえてやったところだ。

 

 いや、それ以前にこれほどの名勝負を台無しにするなど当事者含めてそこら中から叩きのめされてしかるべき愚行である。

 

「これほど見事な勝負を前にしてもなお詰まらん事を考えるもんじゃ」

 

 交錯する両雄は見事な超人技を披露しており、光成にとってその値千両万両と言えるお宝だ。よくも俗な願いを優先できるものだと感心さえする。価値観の違いというものは時としていかんともしがたい。

 

 そんな外野など知った事ではないと左之助も剣心も互いに集中していた。少なくとも、左之助はそうだった。剣心はともかくとして自分で言っていたように左之助にはこの勝負に入れ込む明確な理由があるのだ。

 

「しゃあッ!」

 

 しかし、それは気負いを呼んだのだろうか。左之助が繰り出した拳の中に、一つ大ぶりで雑な打ち下ろしが混ざった。

 

 無論のこと、それを見逃すような剣心ではない。雑な打ち込みを霞のように躱しながら、出来上がった隙へと吸い込まれるように鋼の光が残像を引いて振るわれる。

 

 ごしい、という音がした。

 

 振り下ろされた袈裟懸けが容赦なく左之助の肩に食い込んだ音だった。

 

「やった!」

 

「すげぇ音がしたぜ、あれならいくら頑丈なあいつでも立てねぇ!」

 

 歓声が上がる。

 

 これでこの勝負もようやく終わると喜びの声を上げる少年少女だったが、剣心はその声に応えられなかった。代わりに左之助のしてやったりという雄叫びが響く。

 

「捕まえたぜぇッッ!」

 

 なんと左之助は一撃打ち込まれて怯むどころかその場で剣心の小柄な体を鷲掴みにして捉えたのだ。両手で頭を抱えるようにしてがっちりととらえる姿はムエタイの首相撲に似ているが、正に肉を切らせて骨を断つ。これもまた、剣心の持つ刀が逆刃刀だからこそできる無茶な勝負だった。

 

 こうなると小兵の剣心は一気に不利となる。

 

「今の大振りはわざとか……!」

 

「こうでもしねぇとあんたは捕まえられねぇ。頑丈さには自信があるし、踏み込んで鍔元じゃ刀の威力は出ねぇからな。勝負に出る価値はあったぜッッ!」

 

 左之助の得意そうな説明に薫は漸く気が付いたようだったが、左之助は打たれる瞬間に躱そうとはせずにむしろ一歩踏み込んで刀を受けたのだ。

 

 打撃であろうと斬撃であろうと力が最も乗る個所というのは必然的に存在する以上、そこからずれれば威力は比例して下がる。威力があるのは外側であり、内に行けば行くほど威力は下がる。

 

 誰でもわかる理屈だが、逆刃刀と言っても達人の持つ日本刀の攻撃に突っ込んでいくなど正気の沙汰とは思えない命知らずである。

 

「そこまでして勝ちたいか、斬左……!」

 

 影となって誰にも見えない剣心の顔は悲痛でさえあった。だが、左之助は対照的なほどあっけらかんとしている。

 

「あたぼうよ。さっきも言ったじゃねぇか、最強の維新志士に勝ちたいってなぁッッ!」

 

「最強の維新志士に勝つ……その為なら、なんでもするのでござるか」

 

 肉を切らせてなんとやらまでやる左之助の覚悟に対して剣心は無残ささえ感じて寂寥感を抱いたが、左之助にしてみればまるきりの見当違いだ。

 

「何でもとは言わねぇが、この程度は当たり前だろうがッ! 強すぎてその辺ずれてんじゃねぇのかッ!? 抜刀斎ッッ!」 

 

 売られた喧嘩と売った喧嘩、胸に帰するものに差がありすぎた。

 

 いや、それ以前の問題か。

 

 光成の見たところ、左之助はこの喧嘩を純粋に楽しんでいる。最強の維新志士に勝利する事に対する思い入れこそあれど、それ以前に戦いそのものを純粋に望み、楽しんでいる姿は彼の知っている格闘士たちと何も変わらなかった。

 

 強くありたい、強くなりたい、その蓄えた力を思う存分奮う機会が欲しい。

 

 今、敵わないかもしれない格上の相手に存分に拳を振るう喜びを一挙手一投足に感じた。

 

 だが剣心は、不真面目でもなければ手を抜いてもいないだろうが剣を振るう事に充実感など一つも感じてはいないようだった。戦う事に対して興奮や喜びなど一つも覚えず、彼が抱いているのはむしろ疑問や悲哀などの湿っぽい感情に思える。

 

 もちろん勝手な憶測にすぎないが、いずれにせよモチベーションに差がありすぎた。

 

 それは左之助も感じていた。身勝手に売った喧嘩、相手のやる気にケチをつけるなどお門違いだろうが……身勝手ついでに全くやる気のない剣心がどうしても腹立たしい。

 

 その違いを振り払うように、左之助は首を支点に剣心を振り回した。

 

「ほう、首相撲か!」

 

 ムエタイの首相撲とは少し違うようだが、せいぜいが個人差程度の違いだ。やはり彼の師匠というのはただ者ではなく格闘技の知識が深い……それも時代を考えればあり得ない国際的な知識が豊富なようだった。それとも……天才的なセンスがたまたま技法にたどり着いたのか。

 

 あの男の先祖であるのならば、こと闘争に関する限りどんな理不尽も“範馬だから”有りに思えてしまう。

 

「ぬううぅ!」 

 

「剣心!」

 

 苦悶の声に、甲高い悲鳴が重なる。それらをかき消すように肉と肉がぶつかり合う太い音が空気をかき回す。

 

「おらぁ!」

 

 天を真っ直ぐに突き上げるような膝蹴りを繰り返し剣心に打ち込んでいる。その音が一呼吸ごとに重く響いた。

 

 重く、鈍い音はそのまま威力を物語る。膝で人を蹴るという攻撃をこの国の住人は知らず、その重たい音と剣心の声も出せない苦悶の表情に顔色が白くなる。

 

 鳩尾、脇腹、腹と危険な箇所に鋭く突きこまれる膝に、剣心は痛みと驚きを感じていた。

 

 蹴りという攻撃、更にその中でも膝を使うという技、首を捕らえて組打つという形の技法全てに驚くほどの斬新さを感じる。

 

 仮にも剣術一流派を学んだ身として組打ち術も知らないわけではないが、こんな技は初めてだ。大体にして剣術の中にある無手の技は戦場において活用するものが前提であり、蹴り技もなければこのような組み技もほとんどない。

 

 投げる、崩す、打つ、悉くの全てが最終的には刀で相手の首を掻き切る為の技だ。一瞬で相手を倒し、即座に首を斬るようでなければ、乱戦では第三者に後ろからばっさりやられてお終いだからである。

 

 このように、がっちりと一人の相手をとらえて離さないという技は異質だ。ましてやそこに蹴り技を加えるなどと、一対一を追求した結果の技とも言える。

 

 飛天御剣流は戦場で練られた剣術であり、それはそのまま多対多、多対一という状況に直結する。正に相反する状況の為の技であり、今この瞬間の為の技だ。

 

 だが、飛天御剣流が多対多の剣術だとしても一対一に通用しないわけではない。いや、通用しないなどとしみったれた話ではなく、このような状況下でも確かに実力を発揮して勝利を掴み取る剣術なのだ。

 

 幕末の人斬りを驚愕させている喧嘩屋であったが、彼はことさらに薄い剣心の胸板に固い膝を打ち込みながら欠片の油断もしてはいなかった。相手は知る人ぞ知る人斬り抜刀斎、彼がただ遠くから戦場を客のように眺めて震えていた子供の頃には既に戦い抜き、生きた伝説となっていた男なのだ。間違いなく、すぐさま対応してくるに決まっている。

 

 確信めいた反撃の予感に今か今かと身構えていた左之助だったが、一発、二発、しかし三度目に痛みと共にもっと固く異質な音へと殴打の鈍い音が変化する。

 

「ぐお!?」

 

 蹴りを打ち込む側の左之助が呻いた。

 

「刀を盾にしたのか!」

 

 舌打ちをする鋭い眼が見たのは、胴と膝の間に入り込んだ鋼鉄の棒だった。鎬を膝にぶつけるように盾としているのを見つけて舌打ちをしたが、それは膝蹴りを防がれたからではなく。この期に及んでも刃をたてずにいる剣心の意思だった。

 

「いつまでもちんたらと……いい加減に本気で勝負してもらいたいもんだなぁ!」

 

 それに対し、怒りを込めた肘を剣心の脳天目掛けて振り上げた。これだけ打ち込んでもまだ譲らない意思を強いと認めるか、それとも自分が嘗められていると感じるか。

 

 左之助は彼我の間に横たわる大きな格の違いを理解しているからこそ後者だと判断した。本気であるなら、自分の力を嘗めているのでなければこの密着した間合いから剣客である剣心が抜け出すには刃を使う以外ないのだから。

 

「先ほども言ったが、今はこれが拙者の本気。二度と人は斬らぬという誓い。それを証明するためにもこの勝負を負けるわけにいかぬ!」

 

 これまでで一番強い意志の籠った気迫の言葉と共に、左之助の鳩尾に強烈な衝撃が走り、息が詰まった。肘が止まり、片手になっていた事で緩んでいた拘束から剣心がついに抜け出した。

 

「ぐっ……」

 

 左之助は脳に染み込んできた痛打の感触から見えない攻撃の正体を予測した。

 

 痛みの感覚は小さく鋭い。拳のそれではなくもっと小さな何かを突きこまれたのだ。真っ先に思いついたのは切っ先だったが、長い刀の先端を突きこむには密着している間合いが近すぎる。となると他の手段は刀を殊更に短く持ったか、柄や鍔でかちあげたかだ。普通に考えれば後者、特に細く抉りこまれた感触からして柄と見た。

 

「そういや忘れていたぜ……鍔迫り合いの際には柄で相手を押したり小突いたりするのは基本だったな……」

 

「お主こそ強すぎるおかげで、これまでそれを知る必要はなかったと見える」 

 

 語る剣心の声はどこかひび割れている。

 

 数発入った膝蹴りがよほどの痛苦だったと知らしめているが、同じように左之助もまた一撃で大きな痛手を受けていた。

 

 胴体部最大急所である鳩尾に刀の柄を深く抉りこまれたのだから、場合によっては死んでいても不思議ではない。だが、人を殺すつもりは公言しているからこそないと言い切れる……この痛打も左之助ならば死なないと確信しているからこそだろう。

 

 だが、これでまかり間違ってしまったらどうするつもりなのか光成は意地の悪い事を考えた。

 

「強すぎるねぇ……確かにどいつもこいつもちょいと小突き回しただけで吹っ飛んでいっちまうような弱っちぃ奴ばかりよ。全く、ずっとどこかにいい猛者がいねぇか探していたところさ……待っていた甲斐はあったな」

 

 にやり、と左之助は口元を綻ばせる。

 

 彼が心からこの勝負を愉しんでいるのは明らかだった。

 

 維新志士に対して心の底から淀んでいる怒りはあるが、それと同時に喧嘩を愉しんでいた。

 

 五体に刻み込んだ技と力を全霊で奮う事にゆがみも淀みもない清々しささえ感じる喜びを見せていた。

 

 その姿に、薫は上達を願い一心に剣を振るって汗を流す少年たちを見た。そう、ちょうどいま彼女の隣にいる弥彦の日一日と強くなることだけを願う真っ直ぐな姿に似ていた。

 

「あんたはどうだい? 俺は伝説の人斬りの相手として、どんなモンだい。ちっとは楽しませてやれているか?」

 

「あいにくと、喧嘩を愉しむような趣味はないでござるが……強さで言えば、かつての幕末でもそうはおらぬだろう。今のような太平の新時代にお主のような男がいるとは思ってもみなかった」

 

「ああ?」

 

 左之助は若い。

 

 新時代の明治においてこの若さでありながらも飽くなき意思で強さを追い求めている男がいるなど、剣心は考えてもみなかった。

 

「斬左、お主の力と技が生中な修練では身につかぬ事はよくわかる。だがお主、なぜそこまで力を求めたでござるか。今は明治、動乱の時代である幕末の頃にならばともかく、この時代にお主のような若者が力を求めて」

 

「つまんねぇ野暮言うねぇ……あんた、剣を振っても戦っても、楽しかった事はねぇのか?」

 

「……」

 

 答えないのは、答えられないからなのか答えたくないのか。左之助は自分の中にある燃え盛るものに若干の水をかけられたと自覚した。

 

「師匠がしかめっ面して言ってた事がよくわかるぜ」 

 

 剣心にとって剣とは殺人の手段であり、力を奮う事の喜びや強敵に勝利する充実など感じた事はない。

 

 雄敵との戦、死線を超えた事などいくらでもあるが、こりごりだと思っても今一度と思った事はない。強い敵に勝利する充実感など覚えてはいない。

 

 剣技の上達に喜びを感じた事は遠い昔にこそあったが、それ以外は……いや、決着がつかなかった相手にいつかは、という思いならばある。

 

 日ごろは忘れていても、ふとした拍子に歯痛のように甦るその思いは何度対峙しても決着がつけられなかった二人の男を思い出す度に消えずにくすぶり続けている。

 

「あんたは俺をよくわからねぇようだけど、こっちもこっちであんたがよくわからねぇな。剣も戦いも好まねぇならなんで刀を帯びてんだ。廃刀令が施行されたのに気が付かないような世捨て人って訳でもねぇだろ。自分は人斬り抜刀斎だから廃刀令なんぞ守らなくてもいいなんて言う話か?」

 

「ほ、法に関しては……逆刃なのだから大目に見てほしいところでござるが……拙者にとって、刀を振るうのは人を守る為。戦いを愉しむためでも勝利を得る為でもない、ただ目の前にいる人を守りたいがために拙者は剣を振っているでござる」

 

 なんだかんだと言っても、国法よりも自分の意思や目的の方を優先しているという事だろうか。

 

「へえ。人を守る為とか言わなきゃ危険人物だな。斬馬刀持っている喧嘩屋が言う事じゃねぇか」

 

 へらへらと笑う左之助だったが、言っている事は間違いではないおかげで剣心も居心地悪げだった。

 

 光成はこれらの話を聞いて、ふうんと息をついた。

 

 理解できないという訳ではない。

 

 武術とはそもそもが護身に端を発するとも言われている。わが身を守るために、あるいは家族を友を守るために生まれた武術も世の中にはごまんとあるに違いない。

 

 だが……この男の剣を振るう理由にどうにも納得がいかないと言えばいかなかった。ストイックや献身的というよりも、戦いを愉しむことをよくない事、と断じている節をありありと感じるのだ。

 

 これが弟子だけでなくかつて範馬と戦ったと言われている師も同様だとすれば、それは範馬の先祖も戦って詰まらなかろう。なまじ強いからこそ惜しいと思う。

 

 以前、とある喧嘩士と光成の間で現代に甦った原始人について言及した時に喧嘩士が言っていた。

 

「なんだかんだ言ってもあいつはこっち側。比べっこが好きって事ですよ」

 

 左之助はこっち側、そして剣心はあっち側、という事だろうか。一般的に考えて、むしろ剣心たちの方が正しいのかもしれない。いや、正しいのだろう。

 

 傷つけ合い、時には殺し合う事さえ厭わずに俺の方が強いと比べあう。そこにはなんら生産的な行為はなく、自分の身を守る為でさえない。生き物として、人として、間違っているのは闘争に愉悦を見出す側なのだろう。

 

 根本的に生き物は長くこの世に存在し、増える事を目的としているのだから相反している。

 

 だが、それがどうした。

 

 それが面白いと思うのもまた本能的だ。であれば、生物として正しいのだろうしそもそも正しいも間違っているもどうでもいい。

 

 しかし、剣心はそれを受け入れられないのだろう。純粋な競技まで否定するほど極端でもないだろうが、徳川の開く闘技場の事を知ればいい顔はしないだろうし、事と次第によっては妨害や停止を求めるかもしれない。

 

 まあ、それはそれで仕方がない。お互いに合わないから、離れていようと言うだけの話だ。左之助は維新志士に思い入れがあるから剣心に依頼を口実にして挑んだが、今回で互いの種類が違うとわかった以上は決着の形次第だがもう喧嘩は売るまい。

 

 ついでにわからないのは、何故剣心が刀を持っているのかという素朴な疑問だ。

 

 動乱の幕末ならともかく、廃刀令が施行された明治となれば争いを厭うている剣心は刀を置くのが自然ではないだろうか。よしんば自衛のためと言ってもこれだけ強いのであれば木刀や竹刀で十分だろうに、わざわざ峰と刃が逆転しているような奇刀珍刀を拵えてまで持っているのは一体何のつもりなのやら。

 

 所詮は動乱直後、まだまだ木刀程度では心もとないのか……そう言えばあれは人からの贈り物と言っていたか? あんなけったいな刀を作るからには相当の変人だろうが、それを官憲に目を付けられるだろうに堂々持ち続けるのは律儀を通り越している。せめて袋にでも入れるか偽装して隠し持てと言いたい。

 

 結局、彼も動乱から抜け切れず新しい時代に馴染めない徒花なのだろうか。

 

 明治という改編の時代を理解できていない光成には、緋村剣心という青年もどうにも理解できなかった。しかし行動、感性が理屈で片付かないのが人間であるのだから矛盾も間違いも当然と言えば当然なのだろう。

 

「いけねぇな。どうにもあんたにつられて詰まらねぇ話をしちまった。喧嘩の最中にぺらぺらと舌を回すもんじゃねぇし、大体お互いに昔話や人生について語り合う間柄ってわけでもねぇわな。これじゃあ空気がどっちらけだ。仕切りなおさせてもらうぜ!」

 

 左之助は顔の前で両手を交差させると、強く息を吐き始めた。

 

「カアアァ……」 

 

 そのまま両腕を振り下ろしながら最後に鋭く息を吸う。空手の呼吸法、息吹だった。

 

 それと知って習ったのか、それともただの偶然か。ここまでの左之助の見せた技は、光成の肥えた目から見て空手を基本としているように思える。もちろんそれだけではないが、打撃を中心とした武術にその筋が濃い。

 

「……ここにきて空手の息吹……なんと言うか、結構伝統派の格闘家っぽいの……範馬の弟子というなら我流の色が濃いと思ったんじゃが……いや、伝統派もこの時代ではまだまだ新興。これは個人の差か時代の差か」

 

 範馬勇次郎にしても範馬刃牙にしても、平成の時代に国家クラスとまで言われている格闘家である範馬の血族はどちらもあらゆる格闘技に精通し、勇次郎に至っては更に軍事を中心に数多の知識と技術を高度な水準で保持しているが、その上でそれぞれが独自の格闘技を磨いているのだ。

 

 光成は刃牙に対しては範馬刃牙流格闘術と適当に名付けてみたが、確かにそれは本質だけを端的に表している。

 

 対してこの男、相楽左之助は多少毛色が違うが真っ当な空手家のようにも見えるのだ。掴んで膝蹴りなど変則的ではあるが、ムエタイの専売特許ではないのだからおかしな話ではない。

 

「この時代、格闘技はまだまだ未発展。日本諸藩に門外不出の御留流という形で伝えられている武術はあれど、それが日の目を見ない時代だったはずじゃ。素手の武術は取手術や柔術、甲冑組打ち術など様々な名前で伝えられ、隠されていたと言われているが……剣術が主で素手はあくまでも添え物程度。武士と言う階級がなくなり、廃刀令によって失われた力を別の形で取り戻すために講道館柔道のような武道が生まれたとも言えるんじゃが……そんな時代に空手家じみたこの男は確かにおかしいの」

 

 だからこそ面白いと言う光成の前で二人の益荒男は正に終幕を迎えていた。

 

 剣心はあくまでも隙なく無造作な立ち姿で太刀の出所を見抜かせず、左之助はこの勝負に於いて三つ目の構えを取った。

 

「なんだよ、あの構え。まさかあのまんま拳を出すつもりか!?」

 

 弥彦が馬鹿にしやがってと吠える。

 

 喧嘩屋はそれほどわかりやすい立ち姿をしていた。

 

 腰を落とし、体を半身にして左の拳を大きく引く。弓を引くように下げられた拳を前に、剣心は幕末の頃に同じような構えをしている男に出会ったなと既視感を覚えた。

 

 同じように、光成も既視感を覚えた。今の構え、そして先程の構えと同じものを見せた男を彼は自分の所有する闘技場でよく知っていた。

 

 そしてまさか、とも思った。その男はこの分かりやすい構えから尋常ならざる特別な技を繰り出したが、まさか同じ技を左之助が……と思った。

 

「空手を使っている男じゃ……同じ技にたどり着いても決しておかしな話ではないが……」

 

 左之助と同じ構えをした男が地下闘技場で見せた技は剛体術。

 

 打撃の使う際の関節を命中の瞬間、完全に固定する事によって打撃の威力を増す、空手の極みとも言える秘伝。言うは易く行うは難しの見本であるその一撃は、繰り出された拳を術者の体重と同じ重さの鋼鉄に変えると言われている。

 

 だが、もしもあの時のチャンプと同じことをしようものならば、悪手と言わざるを得ない。

 

 ここまでの戦いで既に判明しているように、緋村剣心は速さが売り物の剣士である。左之助にしてみれば攻撃を当てることそのものが難しい相手である。

 

 剛体術はあくまでも威力を上げる技だ。むしろ、全身の関節を固定する為に攻撃そのものは隙が多くわかりやすい。

 

 もしも光成が想像したように左之助が剛体術を繰り出そうものなら、あっさりと躱されてお終いだ。それはそれで、追い詰められた選手が大技に頼ると言うよくあるパターンである為に納得のいく展開だが……

 

「……まるで、そのまま拳を打ち込むと言わんばかりでござるな」 

 

「あんたやそっちのボウズの言う通りさ。この拳、そのまま打ち込む。こいつに勝負を賭ける」

 

 馬鹿正直に答えるそれがハッタリや引っかけの類なのか。弥彦も薫も、先程不穏当な密談をしていた二人も判別ができなかった。普通に考えれば打つと見せかけて違う手を仕掛けてくるところだろうが、このおかしな喧嘩屋なら馬鹿正直な構えから、本当に馬鹿正直に拳を打ち込んでくるだけではないのかと思えてしまうのだ。

 

「素直な男だ」

 

 いや、剣心は既にそう確信しているようだった。

 

「ひねくれ者とは言われ慣れているが、素直たぁケツが痒くなるぜ」

 

 もちろんただ左拳を振ってくるだけではないだろう。打ち込むそれには左之助が決着の決め手に選んだ理由が籠められているだろう。

 

 だが必然的なそれは誰にも読めない一手だった。あまりにも左之助が明け透けすぎて、歴戦の剣心にも彼の狙いが読めない。本当にただ拳を振り抜くだけのようにさえ見えてしまう。

 

「おい、薫! あいつ本当にあそこから殴ってくるだけなのかよ。いくら何でも嘗めすぎだろ、そんなモンが剣心に当たるか!」

 

「それは私だってそう思うけど……あいつは私たちの知らない素手の武術の凄腕よ。いくらなんでもそれだけとは思えない、けど……」 

 

 そこまで凛々しかった顔が急に自信無げに変わった。

 

「なんて言うか、本当にただ殴ってくるだけのようにも見えるのよね。武術云々駆け引き云々じゃなくて本人の性格で」

 

「ああ、なんか結構頭悪げだもんな」

 

 聞こえていないつもりのようだが、丸聞こえである。左之助はもちろん、剣心も光成も緊張感を台無しにする二人に迷惑気だった。

 

「ったく、こういう茶化しがあるから喧嘩中にあれこれ舌を回すのはいけねぇ。あんた、少しはガキどものしつけをしておけよ……この勝負の後に、無事でいたらな」

 

 壊された空気をもう一度壊して作り直した左之助、ガキどものくくりに薫も入れられているような気がした剣心もそれに素直に乗った。

 

「………無論、拙者は無事に薫殿と弥彦のもとに帰る。しつけ云々は遠慮しておくつもりでござるがな。あれはあれでいいところでござるよ」

 

 両名の間の弛緩しかけた空気が今一度引き締まる。

 

 次の交錯が勝負の決定になると誰もが予感した。光成も長く地下闘技場の砂被りに座っている経験から二人は確かにここで決着をつけるという空気を感じ取っていたが、同時にそこから何かが覆る起死回生の一手を一流以上の格闘家たちは常に持っているとも知っていた。

 

 左之助の剣心もここで決着をつけるつもりはあるだろうが、双方例えこの一撃に後れを取っても諦めない。そういうものだと思っていた。

 

 だからこそ熱狂する。一人一人の格闘家たちが日ごろから磨き上げてきた全てをぶつけあう姿に光成を初めとして格闘技を、勝負を愛する人々は血を滾らせる。

 

「こういう時、侍ってのはこういうもんだったか?」

 

 緩く脱力した拳を後ろに構え、膝を曲げて若干の前傾姿勢を取った喧嘩屋が粋な笑みを浮かべた。

 

「いざ!」

 

「!」 

 

「尋常に、勝負ッッ!」

 

「……応!」

 

 剣心は左之助の古式ゆかしい名口上にらしからぬ笑みが浮かんでくるのを自覚して一瞬以下の短い時間、戸惑った。同時に腹の底から湧いてくる奇妙な熱さをこらえきれずに口を開いた時、その熱さは応、という気持ちのいい喚声、いいや鬨の声になっていた。

 

 自分でもそれに驚いていた。それは彼の人柄を知る弥彦と薫も同じだった。強さは彼らの知る中で一番だが、同時に戦いを好まない点も随一である緋村剣心がはっきりと熱さと喜びを表に出しながら喧嘩屋の仕掛けてきた身勝手な勝負を受けてたったのだ。らしくない、と言わざるを得ない一面に驚いている。

 

 だが、剣心当人にしかこれはわからなかったかもしれない。

 

 尋常に勝負、という文句そのものを示すような相楽左之助という喧嘩屋との勝負に陰惨さも惨たらしさも遠い話だった。駆け引きさえ感じられない、ただ真っ直ぐに力量をぶつけあうだけの試合は正しく真っ向勝負。これこそまさに尋常なる勝負だろう。

 

 幕末の頃に粘ついた血のような陰惨さばかりの暗闘を繰り広げていた緋村剣心、背後には主義主張どころか利害関係、恨みつらみと好悪入り混じって血の粘りを更に強く志士たちの骨の髄にまで染み込んでくるような戦いばかりを繰り返していた彼にとって、隠し切れない維新志士へのギラついた怒りや恨みこそあれそれでも溌溂とした真っ直ぐさを失っていない左之助との勝負は新鮮でさえあった。

 

 これが、左之助の言う愉しさであるのか。

 

「!」 

 

 傍から見ている第三者にとってさえ体捌きでさえ目が追い付かない程の速さで駆け抜けた剣心は、左之助の前でこれまでにない低い体勢を取った。膝を曲げて刀の鎬に手を添えている体勢は明らかに伸びあがる様な一撃を狙っていた。

 

 左之助は明らかに虚を突かれていた上に、元々彼の方が剣心よりも長身で手足も長い。素早さを活かして懐に一気に入り込まれてしまえば後にできる事は木偶のように一撃を食らう事だけだろう。

 

「おおおぉっ!」 

 

 男にしては高い声で吠えるように叫ぶ剣心は、まるで昇竜のように天へと跳躍した。全身を使った跳躍は小柄かつ華奢な剣心でも尋常ではない破壊力を発揮できる。両手で支えるように掲げられた刀身が左之助の顎をめがけて一直線に銀光を閃かせた。

 

 鈍い音がした。

 

 鉄と肉と骨がぶつかり合う、聞いている人間の歯の根に嫌な気分を残す音だ。

 

 剣心が左之助の頭よりも高く飛び上がり、観衆にのけぞった左之助が見えるようになった。

 

「やった!」

 

 弥彦の歓声は、一瞬と経たずにかき消された。

 

「まだだぁッッ!」

 

 首が吹き飛んだのではないのかとさえ思えた左之助が自らに活を入れるようにして叫び、宙に舞う剣心に目掛けて握りしめた拳を真っ直ぐに突き出したのだ! 腰の入っていない見るからに軽い拳だが、その速さは正に影も置き去り自由落下の状態だった剣心に襲い掛かる。

 

「!」

 

 水月。

 

 胴体中最大急所であり、突き込めば素手でも死に至る箇所だ。

 

 左之助の拳は狙い過たず直撃し、伝説の人斬りは吹き飛ぶのではなく威力を余さず逃せずに胃袋に伝えられて血反吐を吐きつつ左之助の足元に撃墜された。

 

 見事、一介の喧嘩屋は伝説の人斬りを打ち落としてみせた。

 

「かはっ……!」 

 

「へ、へへ……肉を切らせて骨を断つってな…」 

 

 にやり、と笑った左之助は眉間から血を流して今にも倒れそうなほどふらついていた。だが、その顔は勝利を確信して喜びに満ちている。

 

「なんとまあ……あれだけ御大層に拳を見せつけておいて、打ったのはただのジャブかい……」

 

 呆れたように口では言う光成だが、なるほどこれこそ最適解だと実は納得していた。

 

 ジャブはボクシングの基本であるが、同時に平成の格闘技界で最速の技であるとも言われている。

 

 威力は完全に度外視して、まず当てる事を主軸にした速さだけが旨の拳技はなるほど剣心には最適だろう。いや、より適切に言えばこれしかないと言うべきか。

 

「力を無視してとにかく速さだけをとことん追求したのがこの“刻み打ち”……こいつが当たらなけりゃ、もうどうしようもなかったぜ……だがいくら速さ重視と言っても何度も膝くれたところを狙ったんだ、もう限界だろ……」

 

 空気を石のような沈黙が支配する。

 

 誰もが予想を超えた展開に大きく動揺していた。腹を隠してくの字に横たわり、それでも刀だけは手放さない執念の姿を見せる剣心を信じられない思いで見つめて一言も出ない。太陽が西から上るのを見てしまったような気分だった。

 

「……そうでもござらんよ」 

 

「剣心!」 

 

 よもや命の危険が、と嫌な予感が脳裏をかすめていた薫が涙ながらに声をかければ、ゆっくりと剣心が刀を杖にして起き上がっていた。未だ膝をついての頼りない姿だが確かに生きている。

 

 それどころか、戦おうとしている。

 

 剣心の見せる執念に、左之助は驚きを隠せなかった。

 

「……あんたがこれ以上戦おうとするとは思っていなかった。理由もないんだ、そのまま寝ているかと思っていたぜ……ああ、道場の事なら聞いてンが心配すんなよ。俺は余計な手は出さねぇし、出させもしねぇ。なんなら、後で警察にしょっぴけばいい……つうか、こいつら脱獄したみたいだしな。そろそろお縄じゃねぇのか?」

 

 ふぁっ!? と間抜けな驚き顔をしているが、脱獄囚が散々目立つ面子と一緒に堂々通りを歩いていたのだから大体そんな末路だろう。

 

「それは朗報でござるが……引く気にはなれぬ……自分でも不思議でござるよ。お主に当てられたのか、結局は拙者も剣客という事か」

 

 目を丸くする喧嘩屋を他所に、ふう、と深呼吸をしながらゆっくりと立ち上がる。その動作を遮る余力を左之助は持ち合わせていないようだった。

 

「効いたでござるよ。斬られた事はある、蹴られ殴られた事もないではないが……拳法家に殴られるのは随分と珍しい」

 

 左之助は油断なく構えながらも剣心の時間稼ぎに付き合っていた。自分自身足元がおぼつかずそれしかできなかったとも言えるが、同時にそうやって力を回復させて勝利しようという意思が嬉しかった。

 

「龍翔閃を躱すどころか自ら当たりに行って威力を殺し、空中で拙者の油断を突く……確かに拙者も空中ではそうそう自由には動けんでござるから、そこであの速い拳を打ち込まれれば成程、躱すに躱せない。初見であれば猶の事……しかしそれにしても無茶苦茶でござるな。額で受けたようだが、それでもよく……」

 

 呆れたように分析を語る剣心のおかげでようやく流れを飲み込めた一同、左之助の命知らずというのも生易しい阿呆な戦法に畏怖とも呆れともとれる目を向けるが、当人は全く問題にしていなかった。

 

「峰打ちされてなおびびっていられるかよ。そんなこっちゃ真剣相手になったら息もできねぇ」

 

 喧嘩慣れしていなければ棒切れ一本でも怯える。喧嘩慣れしていても光り物を恐れなければ単なる馬鹿だ。

 

 刃が返されていようとも刀を前に顔面を晒してそれが言える左之助の肝っ玉、並ではない。正に、馬鹿を通り越した大馬鹿である。

 

「ったく、何を下らん事をごちゃごちゃと……さっさと終わってしまえ!」

 

 小声でぼそぼそと呟く小兵の事など誰一人目もくれず、彼が密かに懐へと手を伸ばしたことも気が付いてはいなかった。

 

「……そろそろ、どうだい。お互いに少しは休めたと思うんだけどよ」

 

「そうでござるな……」

 

 まだやるのかよ、という顔を弥彦はしていた。

 

 双方ともに満身創痍、弥彦とて育ちは悪く荒事と無縁な生き方をしたお坊ちゃんではないがここまで戦う執念は見た事がなかった。

 

 よってたかって私刑の的にされた誰かが泣く事も呻く事さえできずに地べたに転がっている無残な有様の姿なら何度も見たが、それと変わらない程にボロボロでなお戦う意思を捨てていない。

 

 これが剣客であり、これが闘争なのだ。

 

 そう思い至った弥彦は背筋に奔るものを感じた。

 

 尻の穴から背筋を辿って口の中で歯の根を浮かしてしまうようなたまらない感触を覚えた。

 

 戦慄というのか、興奮というのか、それともまだ少年の知らない名前の何かか。

 

 その正体を知りたいと痛烈に思った。

 

 逃げ出したくなるような、抱え込みたくなるような不思議な気持ちの正体を知る為に、剣心のように強くなりたいと幼い少年は思った。

 

「見ている嬢ちゃんや坊主にゃわりぃが、俺は引かねぇ。俺は……相楽の姓に賭けて、絶対に負けられねぇんだ……見せたくないようなもんから守りてぇんなら、今の内だぜ」 

 

「相楽の姓に賭けて、か…お主の背負った悪一文字、今の一言で少し察せられてきた……維新志士である拙者を憎む理由、負けられないとここまで体を張る意地の出所……その上で言わせてもらう。拙者は負けぬ、拙者が勝つ」

 

 左之助の眼光が凄みを増した。

 

「相楽の姓を聞いて、よくもまあ言うじゃねぇか……最強の維新志士さんよぉッ!」 

 

 彼の周囲の空気が歪んでいるようだった。

 

 喧嘩屋の中に燃え上がる怒りが実際に周囲の気温を上げてさえいるような、そんな錯覚を覚える。実際に左之助の体温は怒りを燃料にして周囲の気温を上昇させるほどなのかもしれないと、ありえない妄想を抱いてしまう程だ。

 

 だが剣心に怯みも恐れもない。忘れてはならない、彼こそ幕末最強と謳われた人斬りなのだ。

 

「相楽左之助……赤報隊の生き残り……」

 

 目は鋭く、表情は静かに、一振りの刀であるかのように冷たく左之助の怒りを受け止めている剣心が何を考えているのか、誰にも分らなかった。

 

「今度こそ、決着をつけるでござるよ……」

 

「上等だッッ!」

 

 双方、満身創痍の身の上ながらも意気軒高。己の信じる最大の武器を握りしめ、それぞれが笑う膝に力を籠めて構えた。

 

 息は荒く、内出血の痣と出血の赤が混ざり合い不気味なまだら模様を表皮に描いているが、それらを全て圧倒する最後の気迫が両人の中間でせめぎ合っている。

 

 空気の弾ける乾いた音が聞こえてくるかのようだった。

 

「……」

 

「……」

 

 喧嘩屋と人斬り、いや流浪人にもはや残る余力はなく最後は互いが自分の最も信じる一撃、自身の酷使について来てくれた五体を信じて動くだけだろう。

 

 互いが互いの呼吸を読み、自分の中に残ったわずかな何もかもを束ねて最後の一瞬を待つ。その空気に薫も、巨漢も、そして幼いながらも竹刀を背負った弥彦も格闘を愛し続ける光成も固唾をのんで見守っている。

 

 誰かの喉が、ごくりとなった。

 

「ああああぁぁっ!」

 

「らああぁぁぁっ!」

 

 双方ともに精いっぱいの力を振り絞った、正に最後の一合に武術を嗜む一同は手に汗握る。

 

 なけなしの力をどうにか形にしただけの二人は、それまでの周囲の目も追いつかない度肝を抜くような動きが嘘のように緩慢で稚拙だ。それこそ素人でもどうにか抑え込めるだけの力しか既に持ち合わせていない。

 

 だがそれでも互いを打ち倒すために彼らは動く事も出来ない疲労の鎖を断ち切り、一体どこから感じるのかさえ分からない程に至る所から五体をがんがんと突き回す痛みを振り払って前へと突き進む。

 

 剣心は冷徹に相手の急所を殺さない程度に打つという意思をもっていたが、左之助にはそんな単純なプランさえなかった。

 

 ただ、的に向かって拳を打ち込む。

 

 そんな単純な考えしか持ち合わせていなかった。いいや、考えとさえ言えないだろう。本能に導かれるまま五体の望む動きをしているに過ぎない。

 

 もっとも馴染んで力を発揮する動きをしているに過ぎない。

 

 だが、それこそが正解だ。

 

 力みも気負いもなく、骨の髄にまで刻み込んだ拳を打ち込む。

 

 それまで抱いていた怒りも恨みも全て置き去りにして、無心に繰り出した右の拳が相楽左之助にとっての一番。

 

 剣心はそれをはっきりと見ていた。

 

 自分と相手、どちらも力尽きて弱々しく鈍間な動きしかできないが眼と頭の鋭利さはまだ失っていない。だからこそ見てとれたのは相楽左之助が繰り出した拳の凄さ、素晴らしさだ。

 

 何も考えずにただ身体の赴くままに繰り出していると一目瞭然の技が日々少しずつ積み重ねた弛まぬ修練の証だと、剣心は一目で看破した。そこらの素人にはただの打ちだとしか思えなくても、武に生きる人間であれば積み上げてきた修練に感心する他ないという“こうであるべき”拳だ。

 

 対して自分はこの十年、鈍らない程度のお遊びに終始しており強さを求める修練など遠かった。

 

 かつて宮本武蔵が鍛錬とは百日千日、万日弛まず続ける事だと残したらしいが、程遠い日々。

 

 自分がそんな毎日を過ごしている間に、この青年はどんな毎日を過ごしていたのだろうか。彼の察している通りならばあの赤報隊の生き残りに違いない青年が、その無念と怒りを抱えて一体……

 

 洞察力を鍛え相手の動き、思考さえ読む事を目的の一つとしている飛天御剣流の使い手である剣心には、左之助が文字通りに無心である事がわかっている。

 

 その白さが、眩しかった。

 

 同時に、そこに泥のような汚れを付けた維新志士の過ちが嘆かわしい。

 

 だからだろうか、ここまで必死に決着を付けなければと思わずにいられないのはそういう思いからなのか。

 

 そうである気もするが、全く違う気もする。

 

 自分の内心をはっきりと理解はできないままに、緋村剣心は逆さの刀を振りかぶり……そこで、かつて慣れ親しんでいた薄汚い殺気が混ざりこんでくるのに気が付いた。

 

「!」 

 

 咄嗟に向ける目線の先に見えた黒い穴を脳が認識するかしないかの際で、剣心は自分の腕が愛刀をそちらに向けて盾にしているのに気が付いた。反射神経が意志を凌駕して我が身を守るための適切な行動をとったのだ。

 

「死ねぇ、抜刀斎!」

 

 聞き苦しい奇声が挟まったおかげで、状況を理解できる間があった。

 

 悪党二人の小兵が剣心に向かって拳銃を突きつけたのだ。

 

 ずっとこの時を狙っていたのだろう、左之助の健闘に手を出しあぐねていたのだろうが……結果として最低の瞬間に引き金は引かれた。

 

「剣心!?」 

 

「いやああぁっ!!!」

 

 乾いた音、紫煙を吐く銃口、突如あらぬ方向にのけぞった剣心。様々な情報が一緒くたに少年少女の目を通して脳に事実の認識を突きつける。

 

 彼らの口から悲鳴が突き出たのは必然だった。

 

 だが、相手は腐っても人斬り抜刀斎。

 

 幕末の剣林弾雨を駆け抜けてきた男が、満身創痍の上に不意打ちとは言ってもこんな男の無造作な銃撃に沈むだろうか?

 

 答えはもちろん、否である。

 

 じゃりじゃり、と草履履きの足が河原を削る音に誰もが目を見開く。小兵に鋭い眼光が突き刺さり、緋村剣心の健在を伝えた。

 

 刀の鍔に弾丸が突き刺さり、真っ二つに割れたそれぞれが共に落ちた事で何が起こったのかがようやくわかる。

 

 少年たちの顔が歓喜に輝いた瞬間……

 

 左之助の最後の拳が剣心の顔面を打ち抜いた。

 

 ただでさえ小柄な剣客は藁のように崩れて地べたを嘗めた。そのままピクリとも動かない剣心に誰もが呆然として悲鳴も上がらない。認識が最も追いついていないのは、ただ無心に拳を振るっていた左之助だった。

 

「……あ?」

 

 いきなり奇妙な動きをした剣心に自分の拳が会心の当たりをした。

 

 左之助がわかっているのはそれだけだった。卑怯な横やりなど彼の眼には入っていなかった。

 

 仮に狙われたのが左之助であったなら、彼の人生はここで終わっていただろう。狙撃銃撃、奇襲に罠が当たり前の戦場を闊歩した人斬りと喧嘩屋の違いが浮き彫りになった結果だった。

 

 左之助はまず自分の拳を信じられないように荒い息で見下ろすと、そのまま周囲を見回す。呆然とした顔は、彼が何もわかっていない事を如実に表していた。

 

 その顔が、拳銃を前にして一変する。

 

「てめぇ……比留間ァッッッ!」 

 

 このワンピースで何が起こったのかを把握する事など誰でもできる。想像力の欠如している人間でもわからないはずがなかった。

 

 ぎりい、と酷い音がする。

 

 左之助の歯がきしむ音だった。そういう音をさせる恐ろしい表情で、彼は一歩ずつゆっくりと小兵に近づいていた。彼の背後で少年少女が青い顔をして剣心に駆け寄っているが、巨漢も含めた三人共に意識の外だ。

 

「つまらねぇ水を差してくれたなぁ、この糞野郎がぁッッ!」

 

 拳銃が目に入らないかのように堂々と仁王立ちする左之助は仁王どころか鬼の形相だが、比留間と恨みと怒りのごちゃ混ぜになった熱い色の感情をぶつける場所と自ら成り果てた阿呆はその怖さを理解できないように笑った。

 

「それに乗じてきっちりぶん殴ったくせにいまさら何を言うか! 手助けしてやったんだから、礼の一つも言ってほしいところよ!」

 

 彼の隣に立つ巨漢は自分よりもよほど細くて小さいぼろぼろの男が発散する怒りに怯え切って総身が瘧のように震えているが、それに気が付いていながらもなお勝ち誇り、笑っている。

 

「てめぇみたいな下種野郎の物差しじゃその辺がせいぜいか? ゴミ屑と一緒にするんじゃねぇよ!」

 

「ほざけぇ! 素手で銃弾をしのげるか! この距離なら絶対にはず……」

 

 左之助との距離、拳銃はともかく拳でも蹴りでも程遠い。

 

 斬馬刀は剣心との勝負最中に手放しており、今となっては足元に転がっている。なるほど比留間の言う通り左之助と言えど銃弾を素手で受けも躱しもできるまい。

 

「ぼげぇ!?」

 

 だが、醜い悲鳴を上げたのは比留間の方だった。

 

 宙を舞い、顎を変形させて血を吐いている彼の意識がないのは明らかで我が身に何が起こったのか当人には分らないだろう。

 

 最も、他の面々にとっては一目瞭然だった。

 

「斬馬刀の柄を踏んだ!?」

 

「なんちゅう横着……」

 

「あ、あにきぃ!!」

 

 足元に転がっていた巨大な斬馬刀の柄を無造作に踏みつけると、でこぼこの河原という事もあり梃子の原理で見事に跳ね上がったのである。

 

 左之助にしてみれば、その先端が見事に拳銃を突きつけていた不逞者の顎を跳ね飛ばしたのはもちろん計算ずくだったがどうにも間抜けが過ぎる絵柄だと笑う気にもならなかった。

 

「おい」

 

「へ?」

 

 おろおろと小さすぎる兄貴とやらを抱えている大きすぎる弟に一応一声かけてから、脳天に斬馬刀の鎬を叩きつけて有無を言わせず気絶させるとひどく寒々しい気分でため息をついた。倒れる二人の顔が間抜けに過ぎるのもそれに拍車をかけている。

 

 彼の背中はまるで砂漠のように乾ききった虚しさを滲ませており、一部始終を見ていた光成は大きくため息をつくと半眼でゴミを見るような眼差しを元凶の二人に向けた。これほどの名勝負、下劣な横やりで台無しにするこの二人組にほとほと嫌気がさしたし怒りを抱かないわけがない。

 

「お主の……勝ちのようでござるな……」

 

 そんな寒々しい背中の悪一文字にどんな顔をして何を言えばいいのかさっぱりわからないのは複雑な立場の神谷道場二人組だったが、いまいち聞き取りづらい声が彼ら以外から掛けられて血の気を顔に戻した。

 

「剣心!」

 

「無事だった……でもねぇか、顔がこぶとり爺さんみたいになってるぞ」

 

 顔を真っ赤にして、少女など涙を大きな瞳からぽろぽろとこぼして喜んでいるが剣心の顔を見ると揃って渋面になった。大体、弥彦が言った通りだからである。

 

「ははは、大体喋りづらいでござるが……まあ、そのくらいで済めば御の字でござるよ」

 

 ゆっくりと身を起こして顔を触り、腫れあがった頬を顰める剣心に罵声に近い声が左之助から浴びせられた。

 

「ふざけんな! こんな勝ち方納得できるか! 続きだ、立て! 立てねぇならもう一度怪我を直してから再戦だ! あんたにだって負けられねぇ理由があるって言っていただろうが!」

 

 左之助のセリフは光成にとっては納得のいく尤もなものだった。

 

 このふざけた形で終わった勝負、あまりにも惜しい。不完全燃焼という言葉はまだ明治にはないだろうが、この勝負に納得がいかないのは左之助だけでなくむしろ地べたを嘗めさせられた剣心のはずだ。

 

 それは光成にとって当然の話だったが、同時にこの奇妙な剣客がそれを良しとはしないだろうとは顔を見れば察せられた。

 

「……それはもうなくなったでござるよ」

 

「ああ!?」

 

 そろそろ破落戸になってきた左之助だが、さすがに今の剣心を見ると強気にはなりきれないらしく自分自身の疲労や怪我の程度もあってそれ以上躍起にあるわけにはいかなかった。おそらく持ち合わせていないだろうが、仮に持っているとすれば彼の辞書にも恥という文字は存在するのである。

 

「……維新志士に恨みを持つお主……相楽という姓……お主は赤報隊の生き残りであろう?」

 

「…………」

 

 勢いを失くした左之助だったが、その隙を突くようにガサツそうな彼の数少ない繊細な部分に触れる核心を口にされてしまい更に口を閉じた。徒に貝になるような男ではないが、それでも口にするには憚られる話は誰にでもあって当然だ。

 

「赤報隊? 薫、それなんだ?」

 

「え? ……ええっと、赤報隊っていうのは幕末に……」

 

「偽官軍の汚名を付けられてしまった政府の正式な部隊でござるよ、弥彦」

 

 まるで細君のように自分を支える薫に言わせるには気が引けた剣心は、事を知らない幼い少年に含みのある分かりづらい言い方で教えた。

 

「偽官軍!? なんだ、悪党かよ……ってあれ? 政府の正規部隊で偽官軍? ええっと……」

 

 含みを理解した弥彦が混乱している前で、左之助と剣心がそれぞれの表情で見つめ合っている。見ている薫には、何か事情に通じているからこその理解と同時に、薄くも強固な壁のようなものが二人の間にあるように思えた。

 

 先程まで丁々発止にやり合っていた二人だからか、まるで剣の試合で切っ先を突きつけ合っているような、そんな緊張感を感じる。

 

「どういう事なの? 私は確か、維新の最中に勝手に年貢半減令だかを触れ回って混乱を招いたせいで処刑されたって聞いたけど……」

 

「なんでそんなモンを勝手に触れ回らなけりゃならねぇんだ」

 

 声を荒げはしなかったが、内心が如実に表れている仏頂面で喧嘩屋は無造作に薫を遮った。

 

「え……」

 

「総督府に命令されなけりゃ、そんな真似はしねぇってェの」

 

「え? 総督府? え?」

 

「本当に悪党の偽官軍なら、年貢半減令なんて触れ回らねぇでもっと違う事するもんだろうが。徴発とかな」

 

「う、ううん……」

 

 ぶっきらぼうで様々に不機嫌さを露わにしている左之助だったが、何も知らない薫に直接怒りを向けるつもりはない。彼の器に剣心は安心したように口元を微かに綻ばせた。

 

「赤報隊は元々偽官軍などではなく正式な政府軍の一員でござったよ」

 

「ええ!?」

 

 今知ったばかりの弥彦はともかくとして、それまで当然と思っていた事実が実はまるきりの嘘八百だった知って素っ頓狂な声を上げた。それを見た弥彦が若い娘のする顔じゃねぇな、とませた事を言っている。

 

「俺たち赤報隊は当時、政府軍の命令で年貢半減礼をそこら中に触れ回っていた。国民を味方につける為に人気取りの手段としてな」

 

 舌打ちと同時に目いっぱいの軽蔑と恨みつらみが左之助の鋭い眼に籠められているのを見てとり、薫は息を呑んだ。

 

「だが、所詮政府軍はそんな命令を支えるだけの金はなかった。そりゃそうだろ? 官軍だの政府軍だのいった所で、結局は昨日までは薩摩、長州の田舎侍の集まりなんだからよ」

 

 偏見ではあるが、維新という革命を起こした彼らに……いいや、日本そのものに安定した財源など望むべくもないのは確かだ。

 

「言うだけ言って、実際にはどうしようもなくなった連中は俺たち赤報隊に全部押し付けたのさ……ご丁寧に偽官軍の悪党なんて看板まで背負わせてな。俺たち赤報隊は元々農民や商人の出が多いから、切り捨てるにも面倒がなかったんだろうな……」

 

 傍で聞いていた光成はふうむと腕を組んで鼻息を吹いた。昨今では件の年貢半減令は施行前に既に取り下げられており、赤報隊がそれを聞かずに触れて回ったという説も出ている。

 

 命令書や実際の行動の日付などでそのような説が考えられたらしいが、こうやって当事者から通説が真実であると聞くと何とも言えない気分になろうというものだ。

 

 歴史の事実というものの前には後の学者が繰り広げる仮説や推察は時として滑稽で見当はずれになるものも多いが、その中には楽しめる物と楽しめない物がある。今回のそれは悲劇が芯にあり、どうにも楽しめない類で……ヨモギを噛みしめるような苦さだけが口の中に残る。

 

 淡々とした様子にも拘らず、左之助からにじみ出る雰囲気がそうしていた。

 

「赤報隊の件に拙者は直接関わっておらず、あくまでも人づてに聞いた話に拙者の推測交じり……だがお主の言動からして外れてはいるまい……ならば、お主の怒りは正当なものなのだろう……同時に、今の時代晴らしようのない怒りでもある……それがわかっているからお主は鬱屈していた……違うでござるか?」

 

「…………」

 

 左之助は何も答えなかった。

 

 しかし否定の言葉を返さなかった分、彼の本音はよくわかる。

 

 巷に流布する醜聞を覆そうにも、その知恵も力もない。

 

 明治政府に喧嘩を売るだけの力もなく、犯罪に走るほどの悪漢にもなれない。かといっても忘れるなんてできるはずもない。宙ぶらりんの自分を持て余していた。

 

「そんなお主が拙者に勝ってしまったらどうなるか……それで気が済めばよし、そうでなければ……そう思えば、拙者も負けるわけにはいかなかった……」

 

 緋村剣心と戦う、その結果彼の鬱屈が発散されればいい。だが左之助の鬱屈に拍車がかかり暴発した結果どうなるか……戦う中で左之助の力量が彼の想像を上回る度に危機感は増した。

 

「維新志士だとしても……いいや、維新志士だからこそ拙者にはお主を止めねばならんでござるよ。赤報隊に悪名を背負わせた維新志士だからこそ……生き残りのお主をそのような道に進ませてしまえば……拙者、赤報隊の諸氏に申し訳が立たぬにも程がある……」

 

 それは偽善である。

 

 顔も見た事のないと明言している相手に、その汚名を被せた一派の一人である男が汚名を晴らしもせず、晴らそうともせずによくもいうものだ。

 

 恥知らずの偽善以外の何物でもないだろう。

 

「……あんた……まさか、赤報隊の為に負けられねぇって言ってたのか!?」

 

 だが、赤報隊の看板の事など左之助は全く考えていなかった。よりにもよって維新志士にそれを教えられたのが衝撃的だった。

 

「最強だなんだと言われても拙者とて所詮は人斬りに過ぎない。おまけに今となってはただの流れ者。政府を動かし赤報隊の汚名を晴らす事など出来ず、かと言って維新志士を怨むお主を放っておくこともしたくはない……さりとてただ拙者が殴られればそれでよいという話でもない。そんな真似をすればお主はただただ怒るだけであろう? であれば、体を張って受け止める事しか思いつかなかったのでござる」

 

「………」

 

 まるで自分がガキであるようにしか思えない。左之助は自分が癇癪を起してあやされているガキのように思えてならなかった。

 

「だが斬左、どうやらそれは杞憂であったらしい」

 

 剣心は痛々しくはれ上がった顔を歪めた。一応、微笑んだつもりらしいが傍で見ていた薫が一瞬肩を震わせるような笑顔である。

 

「お主はこの勝負の中で、あくまで真っ向からのぶつかり合いにこだわり抜き、そして戦い抜いた。卑怯な振る舞いは一切なかった。お主の真っ正直さに比べれば、確かに我々維新志士の方がはるかにえげつない」

 

 勝たなければならない。

 

 勝てば官軍、という言葉はちょうどこの明治期……正確には戊辰戦争の頃に生まれた。将来的に勝ちさえすれば過程はどうでもいい、という風に曲解されることが多くなる言葉だが、そんな誤解を招くほどに勝利という結果は過程をねじ伏せる力を持つ。

 

 勝つためならば何をしてもいい。

 

 勝ちさえすれば、卑怯卑劣は全て帳消し。

 

 ある意味真理とも言えるが、左之助は剣心との勝負において悉くその論理に逆らい続けた。剣心は、そんな青年が自分の危惧するような暴走はしないだろうと確信できた。

 

「であれば、もはや剣を振るう理由はない。御覧の通り、しばらく立てそうもないし……ここは大人しく負けを認めるでござるよ」

 

「…………」

 

 悔しさなど微塵も見せず、むしろ安心したとでも言いたげなほっとした表情を見せる剣心に左之助は正に苦虫を噛み潰して歯ぎしりせんばかりだ。渋面の見本を見せつけ、彼はその場にどっかりと胡坐をかいた。

 

「ああ、くそったれ! 俺の負けだッ!」

 

「……おろ?」

 

 剣心、薫、そして弥彦と神谷道場の面々はきょとんとしているが……第三者として勝負の一部始終を見ている光成はさもありなんとうなずいた。

 

「そりゃ、こんな形で勝ちを譲られたら男として突っ張らざるをえまいよ。気の毒な話じゃ」

 

 わかっていない間抜け面を三つ並べている辺り、緋村剣心という男はやはり剣客として武術家としての精神を持ち合わせていない……あるいは未来においては兵士のような側面が強いのかもしれない。

 

 勝ちは掴み取るものであり、そうでなければせめて盗むものだ。あるいはそれ以外、様々に手に入れる形はあれども……はいどうぞと譲られる場合だけはあり得ないのだ。

 

「元々峰打ちされていたようなもんだし、それでこれだけぼこぼこにされりゃ本当なら滅多切りのなますだったんだッ! その上とどめの一発もどさくさ紛れで、おまけにこんな事を言われっちまったら口が裂けても勝ちだなんて言えねぇよッ! 喧嘩売ってきた相手にどんなおせっかいだ、この野郎ッ!」

 

 歯をむき出す左之助だったが、剣心はどこ吹く風と笑っている。

 

「はは……だが拙者はこれでなかなかいい気分ではござった。真っ当な勝負というのはこれで気持ちのいい物でござるな……これもまた、薫殿の追い求める活人剣の一端といったところでござるか」

 

「だから、真っ当な勝負じゃなかったって言ってんだろうがッ!」

 

 左之助がむきになるが、光成はそんな一同を見てため息をついた。

 

 既に勝負の空気はない。

 

 互いに負けと言ってしまい、勝負なし。

 

 それがこの喧嘩の結末なのだろう。

 

 あるいは、この先再戦もないのだろう。緋村剣心の性格、今回の決着、それらを考えれば……彼らは二度と戦うまい。相楽左之助は煮え切らない想いを自分の中で消化するより他あるまい。

 

「なんとまあ……しゃっきりせんのう……なまじ名勝負だっただけに残念この上ないわ……」

 

 はあ、とため息をつく。

 

 光成はこの勝負を台無しにしてくれたろくでなしコンビの頭でも蹴飛ばしてやろうかと、夢か現かわからないような有様の分際で足を進めたが……そんな彼に誰かの声がした。

 

「つまらなそうじゃねぇか。この喧嘩じゃ、楽しめねぇってのかい?」

 

「そりゃそうじゃろ。相楽左之助と緋村剣心、どっちも逸材なだけにこんな不完全燃焼は殺生この上ないわ! つくづく横やりを入れたこの馬鹿どもが恨めしい」

 

 げし、と蹴りを入れるつもりで空振りをした光成はそこでようやく気が付いた。そう言えば、今の自分は幽霊もどきだった、と。

 

「……今儂に声をかけたのは誰じゃ?」

 

「おいおい、贅沢な爺さんだな。さすがは徳川の血筋ってか?」 

 

 質問を無視する形で声を重ねてきたのは何者か? 周囲を見回す前に、一帯がまるで突然日食にでもなったかのように真っ暗になった。

 

 そこで思いついた。自分が幽霊まがいなのではなく、或いはこの世界そのものが幽霊で生きているのが自分だけなのではないのか?

 

 改めて暗闇を見回せば、不思議と自分の手足は見えるのに足元は暗く、すぐそばにいた悪党二人組も少し離れた場所で顔を突き合わせていた喧嘩屋と剣客一行もいない。

 

「……夢の終わり、かの」

 

 光成はすぐに落ち着きを取り戻した。

 

 元々ここまでの状況がおかしかったのだ。おかしなものが正常に戻るだけなのだと、何とはなしに安心していた。

 

 それは、今の奇妙な……未だに顔も見せない声の主に察しがついたからかもしれない。

 

「また次の夜か、次の次の夜か……まあ、期待しておるぞ? 相楽左之助やい」

 

 どこかで血気盛んな青年がにい、と白い歯を見せて口元を綻ばせているのがわかった気がした。

 

「まかしとけ!」

 

 それはきっと、空耳ではない。

 

 爽やかな朝日が和室の障子を通して光成を照らす。

 

 光成はきちんと寝間着を身に着けて畳に如かれた愛用の布団にくるまれながら目を覚ました。

 

 奇妙に寝ざめがよろしく、さわやかな日差しと雀やカワラヒワなどの小さな鳴き声が穏やかな空気を作り出している。正に、絵にかいたような素晴らしい朝だ。

 

「……着替えた覚えも寝床に入った覚えもないんじゃがのう……ふふ……」

 

 もちろん光成は自分の脳機能の低下を心配してはいない。深酒をしたわけでもない。

 

「これからしばらく、寝るのが楽しくなりそうじゃな……かっかっ! 我ながら何とも贅沢な話じゃ!」

 

  

 

 

 

 



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幕間 師弟

 今回は幕間、ちょっとした小話。

 ちなみに、範馬刃牙のアニメ、みなさんは楽しめました?

 私としては作画には大いに不満有り、ストーリーはおいおい、SAGAやった上でここで切るのかよ! といったところ。

 声優だけがめったやたらと豪華で、もったいないくらいのナレーションに噴出した覚えがあります。
 
 前作の幼年編が一番良かったんじゃなかろうか。

 


 これが終わったら、最後の北斎ガチャ10連を引く……頼む、我がカルデアに来てくれい! 爆死だけは勘弁してください!

 


「よう」

 

 河原で喧嘩、などという馬鹿な真似をした日からはや三日。

 

 しれっとした顔をして相楽左之助は再び神谷道場に顔を出していた。

 

「へ?」

 

「おろ」

 

「はあ!?」

 

 縁側でくつろいでいた神谷道場の三人、来訪を悟っていた剣心はともかく弥彦と薫は驚天動地で目を丸くして奇声を上げた。

 

「あんた、喧嘩屋斬左!」

 

「まさかまた喧嘩を売りに来たのか!?」

 

「ちげぇよ」

 

 ふう、とため息をつきながら上げた右手には風呂敷包があった。

 

「差し入れだよ、おめぇらに。抜刀斎は怪我人だし、ボウズは育ち盛り。食いモンに多すぎはねぇだろ」

 

「へ?」

 

「ええ……そりゃあ、助かるけど」

 

 戸惑ったり面食らったりの二人を他所に、左之助は剣心の前に足を進めると鼻から大きく息を吐きだしてみせた。

 

「ひでぇ面だな」 

 

「包帯塗れなのはお互いさまでござるよ」

 

 お互いにお互いが言う通りの顔をして、苦笑いをぶつけあった。そのまま左之助は風呂敷包みを薫に渡すと、縁側にどっかりと座り込んだ。

 

「勝った男に会いに来るのもばつが悪いがよ。お前の怪我、少なくとも顔の一発はけじめをつけなきゃなるめぇからな。しばらくは滋養にいいもんを持ってくらぁ……ここも偽抜刀斎事件以来寂れてんだろ?」

 

 かちん、と来ることをさらりと言ってくれる。よりにもよって喧嘩屋として件の地上げ屋兄弟の側についていた左之助に言われた薫は、せめて一言いい返さずにはいられなかった。

 

「大きなお世話! 剣心と弥彦の二人くらい、食い扶持に困る事はないわよ!」

 

「薫、さっき水墨画売り払おうとしてなかったか? 知られた画家だったっていう爺さんの書いた奴」

 

 弥彦の一言に、薫が石のように固まった。

 

 その有様を見た左之助、思わずしみじみと彼女を憐れんだ。

 

「……嬢ちゃん、苦労してんだなぁ……抜刀斎、おめぇさんどのくらい稼いでんだ?」

 

 石像がもう一つ増えた。

 

「…………い、いつかまた賑やかになるもん」

 

「…………せ、拙者は流浪人故……」

 

「……坊主、所詮は喧嘩屋の俺が言うのもなんだが……やっぱ、それなりに稼ぐのは真っ当に生きるのに必要なこったぜ? 世の中、金で丸く収まる事ばかりじゃねぇが金さえなけりゃ飯も食えねぇんだからよ……」 

 

 俺は裏稼業で真っ当に生きているわけじゃねぇのに、なんでこんなこと言ってんだろうなぁ……とため息をついてしまう左之助だった。

 

 いろいろな意味で面目を失った二人がどうにか精神的な再建を果たし、そそくさと土産をもって厨に逃げていった薫を見送った後、剣心と左之助という大喧嘩……というよりも果し合いを繰り広げた二人は庭先で素振りを始めた弥彦を眺めつつ、薫の入れてくれた茶をすすりながら談笑を始めた。

 

 その光景を、弥彦は汗を流しつつ奇妙に思いながら見ていた。

 

 ほんの三日前にあれだけ派手に拳と刀をぶつけあった仲だと言うのに、この穏やかな空気は何だろうか。

 

「んで、抜刀斎。具合はどうだい? しこたま腹を蹴ったり頭を殴ったり……やった俺が言うのは何だが剣客が打たれ強いわけねェし、医者には行ったのかい」

 

「はは……お主も随分打たれた上に龍巣閃に龍翔閃、飛天御剣流の技を随分と受けた。こっちからするとお主の方こそ心配でござるよ」

 

「言うねぇ。さすがは幕末最強の人斬り抜刀斎」

 

「……剣心と呼んでほしいでござるよ。人斬り抜刀斎の志士名、既に十年も前に捨てた」

 

「……そうか」

 

 果たして、捨てたと言って捨てられるものなのか。

 

 それを良しとしているのは、当人ばかりではないのか。

 

 そんな気になるが、自分が心配するのはおせっかいもいいところと口を挟まずに流す。いずれ緋村剣心の過去を人斬り抜刀斎が追いかけてくるとしても、それは彼自身がけじめをつける話。

 

 自分が嘴を挟むには互いの浅い関係が少々敷居を高くしている。

 

「ま、それなら俺も左之助と呼んでくれや。“斬左”なんてのは自分で言いだしたわけでもねぇし」

 

「わかったでござるよ」

 

 わだかまりを感じない二人に弥彦はあれだけの勝負はどこに行ったのかと聞きたくなったが、口に出したのは別の事だった。

 

「よお、左之助」

 

「って、ボウズがかよ!」

 

「俺は坊主じゃねぇ! 東京府士族、明神弥彦! 特別に弥彦って呼ばせてやらぁ!」

 

 糞生意気な小坊主だったが、左之助はそれを殊更に咎めなかった。苦笑いをして見逃してしまうようなところがこの少年にはあった。もしくは単純に、自分に似ているのが気に入ったのかもしれない。

 

「へいへい……そんで、弥彦? でいいのか。何の用でぃ」

 

「確か、喧嘩の前に気になる事……言ってたよな。剣心の師匠とか、お前の師匠とか」

 

 それを聞いて、剣心はどうにもおかしな表情をした。話を聞いてみたいような、聞きたくないような……そんなしゃっきりとしない顔だった。

 

「おう、まあな。俺も話に聞いただけだが、師匠が昔痛み分けっつうか、勝負なしの水入りで終わったのが飛天御剣流の継承者だけなんだとよ」

 

「それが剣心の師匠なのか?」

 

 二人の顔が回答を知っている唯一に向かうと、形容しがたい表情のまま曖昧にうなずいた。

 

「飛天御剣流の継承者は師匠しかいないので、それは間違いないでござるよ……しかし、師匠と痛み分けになったとは……正直、驚いているでござる」

 

「剣心の師匠か……そりゃあ、いるよな」

 

「おろ? 拙者に師匠がいるのがおかしいでござるか?」

 

 飛天御剣流を学んだ以上、師匠がいないわけがないのだが……弥彦の知る中で最も強く、かつて幕末で最強と謳われた男の師匠となると、子供に過ぎない弥彦には違和感がある。

 

「そうじゃねぇけどよ……剣心が誰かの下で修行している姿が想像つかないって言うか……俺は剣心のガキの頃を知らねぇからな」

 

「おろ」

 

「剣心だって最初っから強かったわけじゃねぇさ。師匠がいて、その下で汗を流して弱かったのが強くなったんだよ。まあ、言わんとしている事はわかるけどな」

 

 弥彦も自分の感じているものをうまく言葉にできず、剣心も弥彦の言わんとしている事がよくわからない。戸惑う双方に左之助が見かねて口をはさむ。

 

「どういう事でござるか?」

 

「まあ、あれだ。弥彦にしてみればおめぇさんの今の姿以外は想像できねぇんだろ。爺さんの髪が黒々した若いころは想像できねぇし、大人がガキンチョだった頃もあるのはわかっていても想像できねぇ。そんなもんだろ。剣心にしても、それこそ自分の師匠が未熟だった頃なんて想像しづらいんじゃねぇか?」

 

「言われてみれば……」

 

 我が身に置き換えて、ようやく話が飲み込めた剣心である。

 

「確かに、師匠は拙者の中ではいつまでも強い。弥彦の中で拙者がそのような位置にいるかと思うと、なんとも面はゆい物でござるな」

 

 それこそ照れくさそうな顔をして眉間にしわを寄せた弥彦が、生意気に腕組みなんぞして目を逸らす。顔を赤くしている様に少年らしく素直になれない可愛気を見出して剣心は口元を綻ばせ、左之助は意地悪くにやついた。

 

「だあ、もう! にやにやしてんじゃねぇや! それより! 剣心の師匠とか左之助の師匠とか、その因縁の勝負とか、どういう話なのか教えろよ!」

 

「あん?」

 

「……確かに拙者も知りたいでござるな」

 

 四つの眼を向けられた左之助は別に隠す理由もなく、いたって普通に了承した。

 

「……っても、俺は講談師じゃあるまいし、うまく話せる自信はねぇぞ」

 

「まあ、それはお互いさまでござるよ」

 

 剣客と喧嘩屋、それは口舌の徒を期待する方が間違えている。

 

「……そんじゃ、弥彦の頼みなんだから剣心から話してやれよ。俺も俺で飛天御剣流の継承者は興味あるしな」

 

「そうでござるか?」

 

 弥彦は珍しく素直にうなずくと地べたにどっかと胡坐をかいて話を促した。もったいぶらずに素直に口を開いた剣心だったが、言葉が声になるより先に甲高い声が乱入して思わず口を閉じた。

 

「斬左ーッ!」

 

「おろろ?」

 

 はしたないほどの大声に面食らった男三人の視線にも気が付かず、薫が飛び込んできた。彼女の手には先ほど左之助の渡した風呂敷包があった。

 

「なんでぇ、嬢ちゃん。若い娘が大声上げて走ってくるとかいくら明治の世だつっても、はしたねぇぞ」

 

「うっさい! それよりあんた、この風呂敷包みの中身は何事よ!」

 

「あん? なんか傷んでたか?」

 

 薫が勢いよく突き出した風呂敷包みの中身を見て、剣心と弥彦が感嘆の声を上げた。中にはこの時代にして珍しくも高価、あるいは滋養にいい食材ばかりが集められていたのである。

 

「……問題なさそうじゃねぇか?」

 

「そうじゃない! あんたこんな高価なものばっかりどうしたのよ! 喧嘩屋なんてヤクザな仕事でこんなのポンポン買えるほど儲かるわけ!? 手にお縄がかかるようなまずい事したんじゃないでしょうね!?」 

 

 元々の気質もあって元気に騒いでいるが、魚に野菜はともかく肉類は明治時代ではあまり庶民の食卓に上るものではない。それらをドンと喧嘩屋に渡されてしまえば取り乱すのも無理はないのかもしれない。

 

「今回は迷惑かけたから奮発したんだよ! 詰まんねぇ事言ってんなら持って帰っちまうぞ!」

 

 失礼極まるセリフを流してやるほど左之助も温厚ではなく、この見るからに気の強そうな嬢ちゃんならいいだろうと一喝して台所まで帰らせた。

 

「なあ、喧嘩屋って儲かるのか?」

 

「ん? 今回は比留間兄弟のヤサから迷惑料込みでごっそり頂いただけよ。おかげでしばらく羽振りがいいぜ」

 

「…………」

 

 何の気なしに聞いた弥彦への返しに剣心は二の句が継げなくなった。ちなみに、件の比留間兄弟はあの喧嘩の後できっちりお縄になっている。娑婆に出てきた後は隙間風が吹く塒を前に呆然とすることだろう。

 

「ま、それはそれとして嬢ちゃんが飯を作ってくる間に話を続けようじゃねぇか」

 

「あいつに作らせんなよ!」

 

「……まあ……いいでござるが……師匠の話でござったな」

 

 弥彦のセリフは二人の耳には入らなかったらしい。後悔するのはすぐの話。

 

「ひこ、って言ったか」 

 

「比古清十郎……これは本名ではなく継承者が名乗る隠し名のようなもので、初代は戦国時代に生まれ、現在は十三代目でござる」 

 

 瞳を閉じ、瞼の裏に思い返す師匠。その背中を見つめる剣心は……思わず眉間にしわを寄せた。

 

「剣腕は拙者の知る中で文句なく最強。世を知った幕末の頃も師匠と比肩しうる強者には出会う事はなかった……それだけに、左之の師匠が五分を張ったと聞いて驚いたでござる……まあ、あの御仁ならと納得もした。確かにあの鬼に抗するならば師匠しかおらず、師匠と対峙するならあの鬼のごとき御仁しかおらん。悔しくもあるが、納得のいく話でござる」

 

 弥彦は釈然としない気持ちだった。

 

 彼の知る中で最強の剣士、伝説の維新志士人斬り抜刀斎が敵わないと認めている。それが師匠である比古清十郎ならともかく、無名の鬼のような男……それも、素手が流儀などと言われると自分の中の憧れが無碍にされているような気持になるのだ。

 

 左之助はまだいい。目の前で激闘を繰り広げたし、本当ならば敵わなかったと左之助当人が認めている。だが、どうにも人間的に褒められるわけではなさそうな傍若無人で暴力的な男が強いと褒められているのが奇妙に腹立たしい。

 

「一体どんな奴だったんだよ、その鬼って」

 

「拙者も詳しくは知らんでござるよ。あの喧嘩の折にも口にしたが、幕府方でも維新志士側でもなく正体不明であった。当時は散々に引っかき回された苦い思い出しかないでござるよ。正直、随分と傍若無人な印象しか残っておらんし、左之の師匠であると言うのはいまだに信じがたい」

 

 思い起こして甦るのは、圧倒的な暴力。

 

「……まさしく鬼のような筋骨隆々たる体躯、髪は鮮やかな程に赤く、顔は常に牙を剥いた獣のような男でござった。およそ、弟子を取るような柄には見えなかったが……」

 

 更に言えば、剣心は左之助の流儀が気になった。

 

「記憶にある限り、あの男は獣のように暴力で蹂躙する男。決して拳法家ではなかった。左之助の師匠という男、本当に拙者の知るあの鬼か……人違いをしているかもしれないと疑わしく思っているところでござるよ」

 

「人相風体の特徴はそれで合っているぜ」

 

 写真など簡単に取れるような時代ではないので、確認は難しい。相手がほとんど面識ない程度の相手では猶の事だ。

 

「そうだな……師匠の名前は範馬勇志郎。見た目は今剣心が言った通りで、鬼みてぇに強いってのは当たってる。つうか、本人からそういう事をやっていたって何度か聞いた事があるから人違いって事もねぇだろ」

 

「……範馬勇志郎」

 

 口の中で噛みしめるように名前を呟く。幕末の頃、幕府方にも維新志士にも本当の妖怪のように思われていた男にも名前があるのだと聞くと、なんとも不思議な気分になった。

 

「あの時も言ったっけか? 師匠は今国外にいるんだよ。海の向こうで戦っているって一度だけ手紙が来たっけな」

 

 どこからどう見ても手紙などというガラではなかったので驚いたのを覚えている。

 

「……国外?」

 

「新大陸……亜米利加って言ったか? なんか向こうじゃ今、ひでぇ荒れているらしくて首を突っ込んで暴れているとか何とか……二年位前にだったな」

 

「……異国にまで行って暴れているのでござるか」

 

 眉をしかめる剣心は、自分自身の場合を思い起こし不愉快さを感じずにはいられなかった。

 

「何でも向こうじゃ英吉利だのが新大陸開拓だなんて言って乗り込んだらしいが、元々住んでいるなばほ、だかあぱっち? とかいう連中を銃で脅して住処から追い出したり面白半分に狩りの獲物よろしく殺して回ったりで、随分とひでぇ有様だそうだ。あと、遠い海向こうの暗黒大陸ってとこからも人を攫っては奴隷として酷使して惨たらしく殺しているらしいぜ。航海で疲れ果てた連中を暖かく迎え入れてくれたって話なのに、思いっきり恩を仇で返してんだとよ。胸糞わりぃ話だ」

 

「なっ……!」

 

「もちろんやられっぱなしじゃいないみたいだが、それまで狩りはした事があっても戦争なんてろくに知らない……そういう連中らしくてな。数こそ少ないが銃を初めとする兵器には敵わなかったんだとよ……西部開拓だったか? そんな話らしい」

 

「……」

 

「なんだよ、そりゃ! むなっくそ悪ぃ話だぜ!」

 

 それぞれがそれぞれの顔で義憤を抱き顕わにしている。彼らにしてみると、多少話を聞いてみただけでも許すべからざる蛮行だった。

 

「なんでも、連中にとって人間は肌が白い奴だけで、残りは……俺たちなんかも“人間によく似た猿”なんだってよ」

 

「んだ、そりゃあ!」

 

 顔を真っ赤にしてそれこそ子猿のように喚き散らす弥彦に、しかし左之助の顔は冷めていた。

 

「喚くなよ、日本だって同じような事を蝦夷でやってんだ。アイヌって聞いた事ねぇか?」

 

 新たな土地を開拓するのは結構。しかし、元々住んでいる土地の住人を迫害して取り決めを無視し、自分たちの思うがままに振舞うのは開拓ではなく侵略だ。

 

「それを江戸幕府の頃にやって、今でも知った事かと開拓を進めている。向こうの地元さんは元々住んでいる土地で肩身を狭くしているって話だ。そしてそれを国民は知りもしねぇ……それこそ胸糞悪い話よ」

 

「…………」

 

 剣心も政府を作る側であった一人……苦い思いを口には出せない。

 

「性質が悪いのは知らせない官か、知らない……知ろうともしない民衆か……どっちにしても、おめぇが知らない所で声も出せずに踏みつぶされているような悪事も山ほどあるって事よ。同じような事はそれこそ比留間兄弟がこの道場にしていたらしいが、奴らがやれば豚箱行き、お上がやれば国が大きくなって目出度し目出度しってな……」

 

 三日の間に赤報隊の逸話を剣心より聞いていた弥彦は、何もわからない子供なりに左之助の背負っている重さを察して何も言えずにいた。ただ、剣心はそういう重さを何とかするために流浪人になったのだろうと彼なりに憧れた男の行いを汲んだ。

 

「で、師匠は新大陸で今、向こうの官軍と派手にやり合っているらしい。あぱっちとかなんだかの部族の間を渡り歩いちゃ、騎兵隊を相手に真っ向から喧嘩を売って潰して回っているとか何とか……」

 

「はあ?」

 

「……相変わらずめちゃくちゃ……騎兵隊の規模によるが、むしろ輪がかかっているような……」

 

 辛気臭い空気がいきなり壊されてしまい、素っ頓狂な声を上げる弥彦と呆れる剣心であった。

 

 剣心も大概素人相手に超人だなんだと思われている口だが、その彼にしても欧米の最新装備の軍勢なんぞまともに相手できるはずもない。やるとすれば暗殺以外にないだろう。それを真っ向からとは……噂話半分にしても人間離れの度が過ぎる。

 

「なんだよ、そりゃ。聞いた限りじゃ滅茶苦茶な奴だって話だけど、なんか……向こうのその……元々住んでいた連中を助けているのか?」

 

「いんや、強い方を殴っているだけだろ」

 

 ………幕末で件の男を直接見ている剣心はすごく納得がいった。

 

「言われてみれば、あの御仁……傍若無人の権化のようであったがそこらの女子供には手を出さなかったような……しかし向かってきた相手は徹底的に殺していたでござるな」

 

「弱い奴には興味なし。ひたすらに強い奴と戦いたいっていうのが師匠の本音だろうからな。“戦場は俺の遊び場にすぎん”ってのはいつ聞いたんだったか……」

 

 その戦場で四苦八苦していた剣心は何を言えばいいのか分からず、沈黙しかできなかった。やはり妖怪ではないだろうかという考えを、頭を振って追い出す。 

 

「でもまあ、おかげで上手く向こうの連中とはやっているみたいだぜ? 思えば、俺が弟子としてくっついていた間もそんな感じだったな。基本、強い悪党をぶちのめして回っていたから、そいつらにひどい目にあわされていた弱い奴らからは随分と好かれてんだ」

 

「…………とても、複雑な気分でござる」

 

 似たような事をやって維新後の十年を過ごしていた男は内心を吐露するとがっくりとうなだれた。内心ではあまり好いていない……というよりも災害のようで嫌っていた男が自分と同じことをしている……自分は野蛮人であっただろうかと悲しくなる。しかも向こうは世界規模となると、負けた気さえしてくるのだった。

 

「日本にいた頃は全国あちこちに顔を出しては、それぞれの藩で隠されていた秘伝の武術を倒したり技を盗んだり道場やぶりをしたりしていたみたいだけどな。剣心の師匠とやりあったのも、大体そんな時だろ」

 

「むう……どこの藩でもそれぞれ戦国の頃から隠し続けてきた武術がある、という話は真しやかにささやかれているでござるが……それを集めていたでござるか」

 

「そんなモンがあるのか……」

 

 その辺りは剣を習い始めた弥彦にも興味深い話だった。隠された秘伝の武術……なるほど、武芸に生きる者なら確かに燃える話だ。

 

「そのせいであっちこっちから恨みを買っているみたいだけどな。まあ無理もねぇか! だっはっは!」

 

「笑い事じゃないでござるよ……」

 

 剣心はあんな鬼のような男に喧嘩を売られて秘伝を奪われた全国の猛者たちに同情した。同時に、それができた異常な力量とそこまでやる貪欲さに警戒心を抱かざるを得なかった。

 

「俺がこないだの喧嘩で使ったのもその一端……あれは主に琉球の“手”なんて呼ばれている技よ。他にも清国の拳法なんかも習ったな……もちろん、お国の技もきっちり教わっているぜ」

 

「………日の本の秘伝を身に着けているだけでも驚きであるのに、琉球ならまだしも、清国……呆れたものでござる。どうやったらそんな事が出来たでござるか」

 

「さあな? まあ、師匠もあれこれいろんな技は身に着けて、それを自分の一番いい形に噛み砕いているんだが……その上で、力で喧嘩するのが好きなのよ。剣心が俺と師匠の喧嘩の仕方が違うってのは、まあその通り。俺だってあれこれ考えずに馬鹿みてぇに殴り合うのが好きだし、師匠はその気になれば恐ろしく技巧を凝らす事もできる……あんまり技使った所を見た事ないけどな」

 

「馬鹿みたいつうか、まんま馬鹿にしか見えねぇけどな」

 

「やかましい!」

 

「これこれ……しかし、使うまでもなかった、という事でござるか」 

 

「単に好き嫌いの問題じゃねぇか? 前に技自慢を相手にこれ見よがしに高度な柔を使ったのを見た事があるな」

 

 当時の事を思い返し、仲間も犠牲になっていた為に強く忸怩たる思いを抱いた剣心であったが、左之助はそうではないと返した。しかし、好き嫌いと言われるのはあまり救いにならない。

 

「どうやってそんな滅茶苦茶な奴の弟子になったんだよ。つうか、よくなろうって気になったな」

 

 弥彦にしてみれば、強さはわかっても憧れるような男には思えない。いったいどうすれば話に聞くだけでも傍若無人な男の弟子となり、その技を教われるのか? 

 

「……師匠と出会ったのは赤報隊処刑の折よ」

 

「!」

 

 喧嘩屋の声が一段低くなる。剣心と弥彦の顔に真剣みがググっと増した。

 

「赤報隊の処刑は、ひでぇものだった。隊長たちは縛り上げられて三日三晩晒し者……見張りがいて、俺は近づく事も出来なかった。そんな相楽隊長はよってたかって民衆に罵られて笑われて……そして首を刎ねられた。さらし首まで嘲笑われたあの日の事は、きっと一生忘れられねぇ……」

 

「………」

 

 だが、そんな中でも救いはあった。

 

「師匠と出会ったのはその中だ。あの人は弱い物いじめは大っ嫌いでな。有利不利があるなら必ず不利な側につくのがいつものお決まりよ。縛り上げられ、獣のように繋がれた隊長たちが無責任な民衆に罵られ、石まで投げられている様が気に喰わないと処刑上に乱入。一喝して糞たれな連中を追っ払うと、隊長たちを小突き回していた兵士たちをぶちのめしてくれた……」

 

 衆愚というのは常に醜い。何より醜いのは、それを自覚していない事だった。その弱さ醜さを、その鬼は特に嫌ったのだろう。

 

「その後、隊長たちを助けてくれるのかとも思ったが……何か言葉を交わした後、あの人は唯一その場に残っていた俺の傍に来て……刑は執行された。隊長は、助けを拒否したんだ」

 

「なっ……」 

 

「隊長が何故そこで刑を受け入れたのかはわからねぇが……そもそも偽官軍と断じられて出頭を命じられた時にあの人は明治政府に逆らうわけにはいかないと応じた。それを最後まで貫き通したのか、それとも……他の理由が何かあったのか……それはわからねぇ。ただその後、隊長たちの首が晒されて師匠は刑の邪魔をした廉でお縄になる所だったが……全員叩きのめした上に近くの蕎麦屋で悠々ともり蕎麦食っていったな」

 

 その後、左之助は赤報隊の末路を見届けた後にどうにか件の鬼を見つけ出し、弟子入りを乞うたと言う。

 

「力が欲しかった。あの時、隊長を……赤報隊を守るだけの力がなかった事を何より悔いた俺にとって、あの人の持つ力は天啓だった」

 

「…………」

 

「尤も、師匠もああいう性格だしそもそも自分の目標があった。国外に出る準備が整うまでの一年強ってところか、暇つぶしみてぇに技を教わり、鍛え方を教わり、港で旅立つ師匠を見送ってからは喧嘩屋になって今に至る……ってところだな」

 

「……範馬殿はそもそも何をしに国を出たのでござる?」

 

「喧嘩しに行ったんじゃねぇの?」

 

 結論を出したのは左之助ではなく弥彦である。そんなわけがあるかと言いたいところだったが、なんだか間違えていないような気もする剣心だった。

 

「日本は一応平和になったし、めぼしい奴は大体倒した。これ以上居ても面白い事はなさそうなんで、世界を回って最強を獲ってくるって言ってたぞ」

 

「やっぱり喧嘩しに行ったんじゃねぇか!」

 

 打てば響くように叫びつつも、最強、という言葉にはどうにも惹かれる弥彦だった。

 

「つうか、めぼしいところは倒したって言っても剣心とは勝負してねぇんだろ! それに剣心の師匠とは決着つかずって言っていたじゃねぇか!」

 

「まあ、剣心については当人に聞くとして……師匠については横やりが入って台無しになったって聞くしな……それに、剣心の師匠ってんなら一辺勝負が流れちまえば二度目をやろうとは思わねぇんだろ……見ている物が違うからな」

 

「どういう意味だよ」

 

 どこか剣心とその師匠が馬鹿にされているように思った弥彦が膨れた顔から真剣な顔に変わったが、それに応えたのは左之助ではなく剣心その人だった。

 

「……飛天御剣流の理は苦難に喘ぐ人々を守る剣である事。戦いを愉しむという行為はおいそれと認められないのでござるよ。それは、殺人を愉しむ事にも通じる故に……」

 

「師匠も似たような事を言っていたし、俺もそれは感じた。剣心も、それに話に聞いた師匠も、飛天御剣流の剣客は皆、そういうもんなんだろう。勝負を愉しめない飛天御剣流は俺や師匠みたいなのとは種類が違うってこった」

 

 弥彦はどちらがいいのかと考え込んだ。

 

 戦いを愉しむ、と言えば悪い事のように思える。だが、強さに憧れる気持ちは彼の中にはっきりとある……それは悪い事なのか。

 

「戦い、強さが目的であるのか手段であるのか。まあ、その辺は人それぞれだし何が正しいか間違っているかとかは言うのは野暮だろ」

 

「剣心に、無理やり喧嘩売った奴が言っていいセリフじゃねぇな」 

 

 全くであった。

 

「だからもう売らねぇよ。大体、負けは認めただろうが」

 

 舌打ちをする左之助は、いろいろな形で苦虫を噛みしめる。自分の勝手で始まった喧嘩である自覚はしているのだ。

 

「みんなー! ご飯できたわよー!」

 

「お!」

 

 薫が景気良い声をかけてきた。なるほど、いつの間にか魚の焼ける匂いが周囲に漂っている。結構話し込んでいたんだなと思いながら左之助は一番に腰を上げた。

 

「おう、どうした? 怪我人の剣心も育ち盛りの弥彦も滋養は大事だろうが、なんか妙に神妙な顔をしてねぇか?」

 

「はは、そんな事はないでござるよ」

 

「あいつ、なかなか帰ってこないと思ってたらホントに飯を作ってたのかよ……せっかくの豪勢な飯が台無しじゃねぇか……」

 

 憎まれ口でも減らず口でもなく、なんだか心から悲しそうな顔をしている弥彦に左之助は嫌な予感がせずにはいられなかった。

 

「……あの嬢ちゃん、もしかして料理駄目なのか?」

 

「……喰えばわかるぜ。捨てるのはもったいねぇし、我慢して食うべ……」

 

「……あぶく銭とはいえ奮発したんだがよ……我慢しなきゃ食えねぇのか……」

 

 勿体無い精神に溢れた二人を、剣心は笑って見送った。

 

「お前も来いよ!」

 

「いや、拙者はこの間の一発でなかなか物を食べるにも難儀で……」

 

「怪我は飯で治すんだよ! バリバリ食ってればその内治るわ!」

 

 だいぶん腫れは引いたが、まだ収まりの悪い顎と傷の治らない口内を理由に避けようとしている剣心だったが、その悪あがきを左之助は一蹴し、襟首ひっつかんで剣心を茶の間にまで連れて行くのだった。

 

 

 

 

「……まじぃ飯」

 

 ぴき、と空気が固まる音を剣心は聞いた。

 

「駄目だぜ、嬢ちゃん……ちっとは料理の修行もしとかねぇと。なんなら、俺が教えてやろうか?」

 

 薫のこめかみに青筋がたったように思える剣心だった。なまじ、左之助にからかう雰囲気は存在せず至って真面目に言っているようだったので剣心も口をはさみづらく、薫もいたたまれなさと腹立たしさに拍車がかかる。

 

「剣心、おめぇも毎日これじゃあ辛ぇだろ。それに、仮にも一道場を預かってんだ。自分で食う分だけじゃなくて人に食わせる分、やっぱり飯炊きはきちんとできねぇとな。下にも教えらんねぇだろ、弥彦しかいねぇけど」

 

「なんだよ、俺も飯炊き覚えろってか? つうか、お前が飯炊きってガラかよ」

 

「他所がどうだか知らねぇけど、俺は赤報隊にいた頃は飯炊きとかの雑用は俺ら準隊士の仕事だったしな。範馬の師匠に弟子入りした時も飯の用意は俺の仕事で、戦うモンには戦うモンの為の飯があると教わったよ」

 

 それを聞いて、困った顔をしていた剣心も思いっきり大口を開けて驚いた。

 

「あ、あの鬼が料理!? 本当でござるか……」

 

 なんとなく、猪や牛を丸焼きにして食っている印象があった剣心は露骨に驚いた。弥彦も彼なりの印象を抱いていたようで意外さを感じているようだった。

 

「話に聞いた限りじゃ、なんつうか……飯屋でさんざか食って勘定踏み倒していそうな感じだけどな」

 

「ツケにはしても踏み倒した覚えはねぇぞ。まあ、なんつうか……別にそっちは手取り足取り教わったわけじゃねぇが、あの人は意外と飯にはこだわりがあるんだよ。強くなるにはまず身体作りから、身体を作るには何よりも飯だってな」

 

「……ううむ」

 

 自分の作っていた人物像と実物との乖離にどうにもついていけない剣心は唸るが、そこでこれまでの会話全てが面白くない薫が割って入った。

 

「ちょっと、さっきから男三人だけでいったい何を話してんのよ! って言うか、料理が下手で悪かったわねぇ!」

 

「おろ!?」

 

 せっかく作った料理にケチを付けられるわ、自分だけわからない話題で盛り上がっているわでいい加減に彼女の忍耐も底を尽きたらしい。尤も、左之助にしてみればせっかく仕入れた食材が無残な有様なのでお互い様だった。

 

「ま、まあ拙者と左之の師匠の事で先程盛り上がって……」

 

「そういう大事な話で私だけのけ者にしないでよ!」

 

「だい、大事でござるかぁ……?」

 

 小娘に襟首つかまれて前後左右に振り回されている姿は、とても名のある剣客には見えなかった。

 

「……俺の首相撲よりも効きそうだな」

 

「もう既に目が回ってるぜ、剣心の奴……」

 

 情けないと言ってしまえばそれまでの風体に、さすがの二人も何を言えばいいのか見当もつかず、目の前の(まずい)飯に再び箸を伸ばすしかない。

 

「これが痴話喧嘩って奴なんだな」

 

「この喧嘩だけは俺も関わりたくねぇわ……」

 

「おぉろぉ~~」

 

 二人は肴にもならない姦しい有様を横目で見ながら、巻き込まれないように少々卓をずらすという姑息な真似を妙に息の合った呼吸で行ったのだった。

 

 

 

 ちなみにその後。

 

「……結構いけるな」

 

「だろ? 何しろ、まずい飯作ったら殺されるとガキん時は本気で思っていたからよ。上手くなる他ねぇって」

 

 まず、夕餉は左之助が腕を振るい。

 

「……剣心の方が料理上手いのは知っていたけどね……」

 

「ま、まあ薫殿の飯も食べれば食べるほどに味を増す、いい料理でござるよ」

 

「さっき左之助が、それじゃあクサヤみたいだって言っていたわ……」

 

 朝餉は剣心が包丁を握ったおかげで、神谷薫は年頃の乙女として大いに屈辱と敗北感を噛みしめつつも美味も噛みしめたのであった。

 

 どっと払い。

 

 

 

 

 

 

 

「ところでよ、左之助」

 

「あん?」

 

「お前の師匠と剣心の師匠、勝負の決着がつかなかったって聞いたけど……なんでだ?」

 

「ああ……なんでも果し合いの最中に変なガキが奇声を上げながら滝壺に落ちていったのを、剣心の師匠が勝負を捨てて助けに行ったとか何とか…剣心は何かそれらしい話を聞いてないか?」

 

「……いや、拙者も何の事やら?」

 

 



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帰国予告……いざ、試練の時

 るろうに剣心を中心に、範馬の影響を受けた左之助の行動が変化して、結果としてストーリーの方向が変化する……という構想で書いております。

 ただまあ、戦闘シーンメインで行くのであちこち端折っていきますが。

 阿片騒動のあたりで少々の変化、志々雄編で大きな変化が生じるつもりですが……ううむ、その間の月岡津南による内務省襲撃事件、どうしよう。

 まあ、おいおい考えていきます。
 

 これを投稿したら、さっそく紫式部のFGOガチャを引くのさ。頼む、なんとしても来てくれい!

 ……ネット見たらあれこれ書いてあるけど、RAITAのデザイン嫌いじゃないし、大人の黒髪美女はとっても大好きだから、ぜひとも! ぜひともぉ! おいでくださいませぇ!


 相楽左之助の朝は、これで意外と早い。

 

 早朝、春夏秋冬問わずに日の出と共に目を覚ますとそこから町内一周を走り出すのだ。

 

 文明開化の明治と言えども、そんな真似をする男はなかなかおらず……特に幼い時分はともかく体が大きく育ってからはあれこれ重りを付けてもいるので、実は本人が知らない所で結構目立っている。

 

 その後、あれこれと石ないしは岩やどでかい斬馬刀などを駆使して身体を鍛えているところも含めて、彼が住み着いている長屋では朝のお決まりとなっているのだ。

 

「よう、左之さん。今日も精が出るねぇ」

 

 そんな彼に声をかけてきたのは長屋の顔見知りである。左之助はまだまだ若いながらも特に目立つ男で、結構顔が広い。若い衆にはよき兄貴分として慕われていたりもするのだ。

 

「おう、どうした。いつもはお天道様が上ってからようやく起きだすおめぇさんがこんな朝早くによ」

 

「はは、最近仕事を変えたんですがね。今は手紙の配達なんかをやっているもんで……っと、そうそう。左之さんに昨日手紙が届いていたんすよ。留守にしてたんで預かっていたんす」

 

「俺に手紙? どこの誰でぇ」

 

 左之助は心当たりがないようで、訝しがりながらも素直に手を出した。見たところ特におかしなところはないが、表面に大きく左之助のあて名が書かれているが差出人の名前はどこにも書かれていない。

 

「そんじゃ、確かに渡しましたよ」

 

「おう、手間ぁかけたな」

 

 次があるのか、配達人の男はさっさと行ってしまった。彼の忙しない様子に喧嘩屋家業は気楽なものだと思いながら、手紙を開く。人間違いではないようだし、どうせ中身を見れば差出人もすぐにわかるだろう。

 

「!」

 

 飄々としていた顔がこわばり、脂汗がにじみ出るのは手紙を開封してすぐだった。

 

 日ごろの左之助を知っている長屋の面々が見れば驚くだろう、表情は露骨に引き攣り、彼の有様はまさしく蛇に睨まれた蛙さながらである。

 

「…………やべぇ」

 

 一言だけ、誰にともなくつぶやいた左之助は手紙を懐にしまい込むと、即座にその場を後にした。

 

 らしからぬうろたえっぷりを見せる喧嘩屋の脳裏には、左の頬に大きな十字傷をこしらえた赤毛の剣客の事が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

「剣心ー! いるかー!」

 

「おろ?」

 

 すっかり馴染みの一つになってしまった神谷道場に左之助が汗をかきながら慌ただしく飛び込んできたのは、それからすぐの事である。

 

「どうしたでござるか、左之。やけに慌てているようでござるが……」

 

「剣心! おめぇ、この間の黒笠につけられた傷、癒えたか!?」

 

 質問を無視して質問で返す、妙に殺気立った様子の左之助に剣心は何事かと訝しがった。

 

 この相楽左之助という男、剣心から見て感情豊かではあるが慌て者でもない。それが随分なうろたえぶりを見せているのには正直に言って、驚いた。

 

「問題ない。左之の方こそ、貫かれた腕の傷は癒えたでござるか?」

 

「ああ、ごらんの通りだ! なら、問題ないんだな!?」

 

「今しがた、言った通りでござる。して、その慌てぶり……何事でござるか」

 さては何ぞの一大事、と身構える剣心に、左之助は懐から先程受け取ったばかりの手紙を取り出した。

 

「……今しがた、俺に届いた手紙だ」

 

「……拝見しても?」

 

 律義な断りに無言でうなずいた左之助。神妙な様子に一体この中身には何がしたためられているのかと恐々としつつ開封して……きっちり十を数えた後に彼も凍り付いた。

 

「……」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

 大の男二人、ようよう上り始めたお天道様に照らされながら、紙切れ一枚を見下ろして石のように固まっていた。

 

「あ? どうしたんだよ、二人とも。門の前で金縛りにあったみてぇに固まっちまって。なんかすげぇ変な顔してんな」

 

 そんな二人を見つけたのは、朝稽古の後なのか滝のように汗を流している弥彦。少年剣士は爽やかに汗を拭きながら、さわやかさの欠片もない様子の二人に近づいていく。

 

「弥彦ー! 汗を流したら雑巾がけ忘れないでー! って、二人ともどうしたの?」

 

 続いて現れたのは稽古着の薫。彼女も一目見て様子のおかしいのがわかる程に奇妙な男二人に面食らっていた。

 

「……さ、左之。よかったでござるな、久しぶりの再会でござろう?」

 

「……それで済めば俺はこんなに慌てていねぇんだよ」

 

 師弟の言葉を聞いた風もなく引き攣った笑みを浮かべる剣心に業を煮やした弥彦が、無作法に剣心の手の中で開かれっぱなしになっている手紙を覗き込んだ。

 

「なんだよ、これ。手紙?」

 

「こら弥彦! 人の手紙を覗いたりしない!」

 

 弟子の無作法を咎める薫だが、彼女も興味津々な内心は隠せていない。

 

「……あ~~…近々帰国する。一言だけかよ! これ……名前はなんて読むんだ?」

 

「……範馬勇志郎、でござるよ」

 

 剣心がひび割れた声で答えるのを聞いた薫が、若干の間をおいて記憶の中から聞き覚えの少ない名前の持ち主を引っ張り出す。

 

「範馬……って、左之助の師匠の名前じゃない!」

 

「……おうよ」

 

 師弟の再開が約束された割には、いまいち精彩に欠ける返答だった。

 

「その……幕末の頃にはいろいろ苦い記憶があるらしい剣心はともかくとして、どうして左之助がそんな顔をしているの? 師匠なんでしょ?」

 

「…………師匠は師匠だが、そんな嬢ちゃんと弥彦みてぇな甘い関係じゃねぇんだよ」

 

 世間一般から見て、滅茶苦茶で理解不能な師匠なんじゃないかと思う左之助だった。

 

「俺は弟子入りする際に、師匠との間に一つの約束をした……たぶんだが、その約束は今回の帰国で履行されると考えた方がいい……と思う」

 

「もったいぶんなよ、一体何を約束したってんだ」

 

 身にまとう空気が沈痛を通り越して悲痛にさえなってきた左之助に剣心も薫も声をかけるのに抵抗を感じざるを得なかった。その辺りをものともせずに核心をついてしまう弥彦の強さを、大人二人はいっそうらやましく思いさえする。

 

「……将来、必ず師匠に挑む事……もちろん、本気でな」

 

「お……おお、これが噂に聞く師匠越えって奴か」

 

 まあ、その通りではあるのだが……剣心は正に俎板の鯉を見るような目で左之助を見てしまう自分を止められなかった。

 

「左之……今のうちに遺書を……いや、逃げた方がいいでござるよ」

 

「遺書って言わなかったか、おい!」

 

「すまぬ、ついつい正直なところが……時に、どうしてそんな約束を?」

 

「ごまかしてんじゃねぇ! 死んでたまっか、くそ!」

 

「まあまあ……いくらなんでもそんな死ぬの殺すのって、師匠に腕を見てもらうのなんて普通でしょ? どうしてそんな悲惨な話になるのよ」

 

 あまりな物言いと稚拙な話のそらし方に思わず地団太を踏んで子供じみたところを見せてしまったが、薫にも嘴を挟まれて大人しくせざるを得ない。

 

「弟子入りの条件だったんだからしょうがねぇだろ! あの人はそういう人なんだよ!」

 

「どういう人よ?」

 

 左之助の危機感は薫にはいまいち伝わっていないようだった。当人を知らないのだから無理もない、と左之助はいっそ羨ましがるような心境で口にした。

 

「いいか、嬢ちゃん。これは嬢ちゃんが考えているような気楽な腕試しなんかじゃねぇ、文字通りの命がけ。失望させりゃ、弱けりゃそのまま首根っこを引っこ抜かれちまうんだよ」

 

「どんな師弟関係よ!?」

 

 いい加減な事を言うなと顔を赤くして怒る薫だが、左之助は冗談を言ったつもりは毛頭ない。

 

「左之……それはいわゆる、あれでござるか? こう……命を賭けた認可、免許皆伝のような……」

 

「違う。ただ単純に、師匠の楽しみってところだ」

 

 何とか理解を示そうとする剣心だが、左之助の言葉にますます理解ができなくなる。

 

「自分が多少なりとも手ほどきをした俺が弱いのは許せねぇし、あの人が喧嘩を愉しみてぇんだよ。師匠が俺に手ほどきをすると決めたのは暇つぶしと、育てて将来の退屈しのぎにしようってハラだったそうだからな……失望させればどんな目にあわされるやら…殺されるのは確定だがな」

 

 洒落にならない物騒なセリフが一から十まで丸々本気であるとわかったのは、件の師匠を知っている剣心一人である。

 

 それにしても、暇つぶしに退屈しのぎとはなんともひどい話である。それを左之助に率直に言ったとなると酷さに輪がかかる。

 

「随分と酷い話であるが……それはそれで納得がいくと言えば……言えるか……」

 

「って、師匠としてあり得ないでしょう!? あんた、それでいい訳!?」

 

「まあ活人剣を志す薫殿にしてみれば正に対極の考えでござるからなぁ……」

 

 剣をもって人を活かす。それは即ち教育である。対してまだ見ぬ師匠とやらは、あくまで薫から見てだが弟子の教育に不真面目すぎる上に、自分を愉しませなければ殺してしまうとまで言われる滅茶苦茶な輩らしい。

 

 父が考え、自分も受け継いだ考えに背を向けて全力疾走しているようなまだ見ぬ左之助の師匠の行いに、薫は憤りを感じずにはいられなかった。

 

「いいも悪いもねぇよ。最初にそう言われても弟子入りしたんだ。そして強くなれた。だったら今度は俺が筋を通さねぇと駄目だろうが」

 

 左之助は活人だのなんだのには興味がない。自分が強くなれればそれでいいので、正直なところ薫の憤りなど知った事ではない。と言うよりも、関わっている暇などない。

 

「つう訳だからよ、剣心。いっちょ頼みがある」

 

「助っ人でも頼むのか?」

 

 弥彦が口をはさむ隙があったのは、同様の答えに行きついた剣心の返答に間があったからである。そこにちょっと本音が垣間見える。

 

「あの御仁は拙者にも少々ならず荷が重いが……お主の命が掛かっているとなれば、さすがに見過ごせぬでござるな」

 

「いや、そうじゃねぇ。それはそれで師匠が喜びそうだが巻き込むつもりはねぇし、喧嘩はやっぱり一対一が基本だろ」

 

 むしろ、そんな真似をすれば血相を変えている薫に殺されそうである。

 

「では、何を?」

 

「なんかほっとしてねぇか? まあいいや。他でもねぇが、鍛錬に付き合ってくれ」

 

「鍛錬?」

 

「おうよ。俺も決して遊んでいたつもりはねぇが、師匠がやってくるとなるとまだまだやるべき事は腐るほどある。つうか、何をどんだけやっても足りるって事はねぇからな。となると、鍛え直すにはおめぇの手を借りるのが一番いい」

 

「……なるほど。承知したでござるよ」

 

「えー!」

 

 頓狂な声を上げたのは他ならない神谷薫師範代殿である。

 

「なんだよ。おかしな声上げて」

 

「だって、剣心は私の時には全然相手してくんなかったのに!」

 

「ま、まあ飛天御剣流は殺人剣ゆえ、活人剣と交わるのはどうかと思ったのでござる」

 

「だったら左之助は何で!?」

 

 人目もはばからず剣心に噛みつく薫の前を遮ったのは、もちろんこれで話が流れたりするのは困る左之助であった。

 

「いいじゃねぇか、どうせ剣心は働いていねぇんだから暇人だろ!」

 

「お、おろ?」

 

「暇じゃないわよ! 買い物に洗濯に掃除にご飯の支度に、してもらう事なんていくらでもあるんだから!」

 

「お、おろろ?」

 

「母ちゃんかよ! こいつは幕末最強の人斬りだった男だぞ!?」

 

「今は居候の流浪人だからいいの!」

 

「……」

 

 頬傷のあたりに感じる弥彦の視線が大概に辛くなってきた剣心だった。

 

 

 

 

 

 それからどうした。

 

「剣心! 剣心ー!? ねぇ、どこー?」

 

 薫はお気に入りの着物姿で家じゅうを歩き回り、居候の剣客を探し回っていた。

 

 一体どんな用があるのか知らないが、彼に貸している部屋は元より彼がよくいる井戸端や厠まで探し回る始末。おまけになんとも真剣な顔をして、まるで一大事の不安を抱え込んでいるように見えた。

 

「変だな……どうしたんだろ。どこにもいない……どこに行ったんだろ……」

 

 顔色がどんどん悪くなってくる。いったい何を想像しているのか、神妙な顔は徐々に青くなってきている。

 

「剣心ならさっき左之助に連れられて出かけていったぜ」

 

「え?」

 

 竹刀を担いで通りがかった弥彦がさらりとかけた声に、彼女はホッとする……訳でもなく疑わしげな顔をした。

 

「本当?」

 

「嘘を言ってどうするよ!」

 

 信用してねーな、と憤る弥彦を眼中に入れず、薫はようようほっとした顔を見せた。

 

「なんだ……てっきり今度こそ本当に流浪の旅に出たのかと思ったわ。よかったぁ」

 

 そんな師匠に向かって、弟子は白い眼で寒々とした視線を刺した。

 

「前から思っていたけどよぉ、お前ちょっと心配症が過ぎねぇか? そんなんならいっそ剣心に首輪でも付けとけよ」

 

 ため息交じりの揶揄であるが、薫は怒るどころか顔を赤くして頬に手を当てて照れている。控えめに言ってもどうかしているだろう。

 

「いやん」

 

「何を想像してんだ!? “いやん”じゃねーよ! 真面目に考えんな!」

 

 こんなのに剣を習って大丈夫だろうか、と密かに弟子が悩んだとかそうでもないとか。

 

「で、で? 剣心達はどこに行ったの」 

 

 苦悩するような弥彦の表情に自分の醜態をやっと自覚した薫が気まずさを誤魔化しつつ(もちろん誤魔化せてなどいない)少しは落ち着いての質問に、弥彦は誤魔化せてねぇぞと呆れた顔で鼻息一つ吹いた。

 

「集英屋とかいう料亭。今日、そこで賭場が開かれるんだとさ」

 

 薫の目が点になり、もう一度落ち着きを失って金切り声を上げた。

 

「と、賭場ぁーっ!?」

 

 木立から小鳥が泡を喰って飛んでいくほどの大声だったとか。

 

 

 

 

 神谷道場の師範代が淑女としての自分を打ち捨ててしまった大声をいつものように上げている頃、彼女の関心の的は弥彦の言う通り、料亭を借りて開かれた賭場で何とも言えない表情をしていた。 

 

「どっちでぇ」

 

 そんな彼の肩をつつきこそこそと声をかける悪一文字はいたって平然とした、むしろ普通に楽し気な顔つきだ。

 

「……五―六の半」

 

 肩をつつかれ、目を閉じたまま答える剣心の顔には呆れや疲れが垣間見える。賭場に連れ込まれたことに納得できていないのがありありとわかる。

 

「それでは勝負! 五―六の半!」

 

「おっしゃあ! さすがは飛天御剣流。剣の読みが博打にも通じるとは、ありがたいねぇ」

 

 謎の理屈で見事に勝ちを手にした左之助が大喜びで正体不明の技術を使い勝たせた剣心の肩を叩くが、音がする程に叩かれた恨みでもあるまいが十字傷の剣客は冷めた目で喧嘩屋を見ている。

 

「左之……賭博はご法度でござるよ。ここの処は修業に励んで、たまには息抜きをしたいと言うから来てみれば……もう少しなかったのでござるか?」

 

「何言ってんだよ、お前の刀だってご法度だろ。廃刀令違反」

 

「……そーでござるな」 

 

 そこを言われてしまうと弱い剣心は、何も言えず黙りこんだ。そんな剣客と無理やり肩を組んで、喧嘩屋はいたってあっけらかんとむしろ忠告するような態度で言葉を重ねる。

 

「ったく、おめぇはいちいちかたっ苦しくていけねぇよ。今回はあくまでも仲間内のお遊び、生業賭博じゃねぇんだ。こいつらは皆俺のダチよ。こういう時くらいは気晴らししねぇと人生楽しくねぇだろうが!」

 

「……」

 

「ここらでおめぇもパァッとやって! シケた気分もしんき臭い顔は今日でお終いにしな!」

 

 そう言われて、剣心は思わず真顔になると左之助の横顔をまじまじと見つめた。

 

「……薫殿に聞いたでござるか? 刃衛の最期を……」

 

「さぁな」

 

 鼻歌交じりの左之助が、もう一度肩を組んで剣心に次の予測を促す。再度の予想も見事に当てて歓声を上げる左之助にため息をつきながらも顔は多少のゆるみを加えていた。

 

 たまの楽しみに彼らの元へ新たな騒動が転がり込んでくるのは、日ごろの行いか運が悪いのか。

 

「ところでよぉ、今日は飴売りの宵太はどうしてぇ。あの博打好きが顔も出さねえとは」

 

 勝ちに勝ちまくり有頂天の左之助がご機嫌のまま札を弄びつつ何の気なしに口にした名前が……場の空気を一変させた。

 

「左之さん、知らないんですか」

 

「あん」

 

「宵太は今月の初めに死んだんですよ」

 

 左之助の呆気にとられた表情は即座に真っ青に変わった。

 

「あんだとぉ!? 死んだって事故か!? 病気か!?」

 

 左之助の心当たりはいたって真っ当だったが、現実はその斜め上を行った。

 

「阿片です。あいつ、誤って一気に大量の阿片を吸ったとかで……」

 

 左之助は愕然とした。

 

 ここのところ鍛錬に精を出したり様々な事件を起こしたり首を突っ込んだりとしていた間に友人は人生を踏み外し、そのまま転落してしまった。左之助は葬式にさえ出なかったのだ。

 

「……馬鹿野郎が……阿片なんぞに手を出しやがって……」

 

 左之助は腹の底でぐるぐるとかき回されているやり場のない感情に拳を震わせた。

 

 阿片などに手を出した挙句に死んだなど、自業自得とも言える愚挙だ。だが、友人として死は悲しく売人も許しがたい。できる事なら、好んで阿片に手を出したとは思いたくない。

 

「妙でござるな……阿片はかなり高価であるはず。死んでしまうほどの量をおいそれと買う事など出来るとは思えないが……」

 

 死者とは何ら面識さえないからこそ剣心は冷静でいるが、このような話を放置するわけもなく刀を抱きながら眼を鋭くしている。

 

 彼らそれぞれの空気に押され、それまで盛り上がっていた空気があっという間に冷えてしまい乾いた沈黙が場を支配する。その場の一同はいたたまれなさを感じて気まずげに顔を見合わせるが、幸いというべきかどうか、この空気はあっという間に壊される運命にあったようだ。

 

 彼らのいる料亭の一室を目がけているのかいないのか、バタバタと騒々しい足音が一直線に近づいてくるのに室内の一同はむしろホッとした顔で迎える。

 

 襖をぶつけるように勢いよく開いて賭場に顔を出したのは、汗をかき息荒くした若い女だった。

 

 黒髪を真っ直ぐ伸ばして切れ長の目が美しい女だが、場の誰も心当たりがない顔らしくそれぞれ近くの者と顏を見合わせている。

 

「誰でぇ、あんた」

 

「おろ?」

 

 声をかけたのは左之助だったが、彼女は続いて声を上げた剣心……正確には、彼が抱える刀を見て目を光らせた。

 

「助けてください!」

 

 悲痛な声を上げて、なんといきなり剣心の首に音をたてるほど勢いよくしがみついた。

 

「おろ!?」

 

 さすがの剣心も若い女がいきなりしがみついてくるとは思っておらず、目を白黒させる。何を言おうにも口を挟むよりも先に彼女は焦りに怯えを重ねてまくしたてた。

 

「悪い輩に追われているんです! お願い、助けてください!」

 

「はあ……そう言われても」

 

 お人好しでもって鳴る……というよりもあえてそのようにあろうとしている剣心だがさすがに状況が分からず、おいそれとはうなずけずに困った。

 

 そんな悠長な躊躇いなど許さんとばかりに続いて先程の三倍は騒々しい足音が一同の耳に不快な振動を伝える。

 

「恵、てめぇこら!」

 

「もう逃げられねぇぞ!」

 

 続いて入ってきた……というよりも襖を破って押し入ってきたのはいかにもやくざ風の男二人だった。手にはそれぞれドスを持ち、荒事上等でございと主張している。

 

「次から次へと……何なんでぇ、てめぇら」

 

 もちろん、仮にも喧嘩屋相楽左之助がちんけな光り物を持っている程度のヤクザに腰が引けるはずもない。むしろ友人の訃報に気がたち眼光鋭くにらみつける左之助の方が、そこらのチンピラ風情よりもよほど恐ろしいご面相だ。

 

「うるせぇ、引っ込んでろ! さっさとその女を渡せ! さもねぇと……」

 

 触れるな危険、と顔に書いてある男に噛みつくには、やくざの片割れは弱すぎた。

 

「ぶべ!」

 

 問答無用で繰り出された拳が熊髭に隠された顎を跳ね上げ、一撃であっさりと昏倒する。それを見ていたもう一人は汚くも唾を噴き出して硬直する。

 

「俺は今イライラしているんだ。口の利き方には気を付けな」

 

 率直に言って、やくざが十人揃うよりも凶悪な左之助に睨まれ、件のヤクザはすがるようにドスを持ちながらへたり込んだ。

 

「お、お、お、お、おひょ!」

 

 何か言おうとしたが、恐怖のあまりろれつが回らず倒れた男の割れた顎を見て萎縮さえしていたが、拳を握りしめた左之助に怯え切った男は破れかぶれという風に脅しをかけてくる。いっそ見事という他はない阿呆ぶりだった。

 

「お、お、お前、こんな事してただで済むと思っているのか!? 俺たちゃ観柳さんの私兵団だぜ!? 俺たちにたてつくって事は観柳さんを敵に回すって事に……」

 

「口の利き方に気を付けろってんだよ、雑魚助ッッ!」

 

 へたり込んだ脳天を踏みつけると蛙のようになって意識を失う男は、正に小物の見本というべきだった。

 

「観柳……って事はもしかして武田観柳の事か?」

 

「おい……こいつはやべぇよ」

 

 しかし、左之助はともかく彼の友人には通じていたらしく周囲からは狼狽えた声がちらほらと聞こえ始めてきた。

 

「武田観柳とは何者でござるか?」

 

 心当たりがない剣心が誰にともなく尋ねると、盛大な一発をお見舞いして左之助が落ち着きを取り戻した声で答えた。

 

「街外れに住んでいる青年実業家……って奴らしい。今風の言い方をするとな。だが裏じゃ何をやっているんだか、この数年で急に財力を増やし始めてな。今じゃ自分の為に私兵団なんてものまで築いている相当にうさんくせぇ野郎さ。この街じゃヤクザから政治家まで観柳との争いは避けている……で、こいつらが私兵団の一員ってなると、あんたは奴の情婦か?」

 

 えらく率直な物言いに、しかし恵と呼ばれた女性は怯え切った表情でいながらもはっきりと否定する。

 

「違います! 私は本当に何も知らないんです! 観柳なんていう人の事も…」

 

 控えめに言って、それはあり得ない話だった。追ってきた男たちは彼女の名前を呼び、はっきりと彼女だけを追いかけている。それで知らぬ存ぜぬなど通るまい。

 

「嘘はいけねぇな、高荷恵」

 

 甲高い声が彼女の嘘をはっきりと指摘した。声を上げたのはいつの間にか部屋の角に胡坐をかいて座り込んでいる見知らぬ男だった。含み笑いをしている顔はどこか蛇のように思わせる年齢不詳の小男が女の名前をはっきりと口にしていた。

 

 一体いつの間に現れたのかとどよめく一同を他所に、剣心だけは男の侵入経路だろう外された天井の板を見上げて厳しい顔をしていた。

 

「監視役がニ人だと思って逃げ出したんだろうが、お前は常に“御頭”の配下に見張られているんだよ。寝間でも、風呂でも、用便の時でもな」

 

 およそ露骨に痴漢行為を口にして含み笑いをするなど控えめに言っても変質者以外の何者でもない。

 

 おそらくは女性である彼女に威圧感や絶望感を与える為にそんな脅しをかけたのだろうが、賭場の一同には随分と気合の入った変態だな、としか思われていなかった。

 

「ふん……でも観柳の情婦じゃないっていうのは本当だよ」

 

 恵と呼ばれた女は髪を一振りすると、急に蓮っ葉な言動で小兵に指を突きつけて啖呵を切った。

 

「帰って観柳に伝えな! 私は絶対に逃げ切ってみせるってね!」

 

 こちらが素なのだろう、先ほどまでは怯え、儚げな様子を見せていたものの芝居がかっていたが今の彼女はいたって自然体だ。しかし、自分を鼓舞する為なのか単純に追手の二人が倒されたおかげか、自分を追いかけてきた相手の前に無防備に突っ立って声高らかに叫ぶなど、迂闊が過ぎて褒められた話ではない。

 

「ククク、可愛いねぇ……逃げ切れると思っているところが特に、な」

 

 そんな恵の無防備さを能天気と嘲笑う男は懐から奇妙なものを取り出した。

 

 小さく、男の手に隠れてよく見えないそれを差し出すように持った男の指がかすむと、恵の髪を左右に一度ずつ翳めて何かが彼女の後ろに立っている男達の肉を抉った。

 

「ぎゃ!?」

 

「うぐ!?」

 

 何が起こったのかはわからないが、突然自分の体に痛みと熱さが生じた男二人は悲鳴を上げてそれぞれの痛みの元を抑えて蹲る。顔と肩、二人の抑えた手の下から赤い血が流れ出てきたのを見てとった左之助が友人たちの名前を読んで血相を変えるのをよそに、男は凶器を恵に見せつけて笑みを深めた。

 

「螺旋鏢。次は両足を射抜く。お仕置きも兼ねて、な」

 

 手の中で弄んでいるのは一見すると団栗か何かのような形、大きさをしている。おそらくは手裏剣などの飛び道具の類。礫の一種だろう。螺旋の名前の通りに螺子のように溝が刻まれており、貫通力を上げる工夫がされている。

 

 今更ながらに恵の顔が青くなる。男が自分を追いかけてきた敵なのだとわからないわけでもあるまいに、悠長に無防備に啖呵を切っている阿呆を自覚したのか。

 

 直接的な暴力に晒されて硬直している恵の両足に、宣言通りに礫が襲い掛かる。だが、その前に猫のように飛び込んできた影があった。

 

 状況を飲み込めない為に後手に回り、怪我人二人ができるのを見過ごしてしまった緋村剣心。臍をかみつつも三人目を出すまいと、奇妙な男たちの敵に回る決意を持って間に飛び込み女の前で片手を突いた。

 

 すると一体どういうコツがあるのか、彼らの前に壁のように畳が跳ね上がり盾となった。二回、小さく鈍い音をたてて畳は礫を受け止めた。

 

「事情はよく呑み込めぬが……拙者、人を殺めたり傷つけたりするのを黙って見てはおれんでござる」

 

「嘗めるな! 俺の螺旋鏢を畳一枚で防ぎきれると!」

 

 鋭い眼差しは訳の分からない乱入者に対する厳しさに細められている。その言葉か眼差しか、それとも両方にか反発して頭に血を登らせた小男は勢いよく立ち上がると剣心に向けて再度礫を放とうと構えて……怒りに燃えた左之助が突進してくるのに気が付いた。

 

「野郎、よくも俺の仲間をォッッ!」

 

 狙いを咄嗟の切り替えた刹那、左之助を追いかけて剣心もまた男に突撃する。愛刀は既に抜かれ、飛ぶように暴漢へと斬りかかる。

 

「へ? え?」

 

 左右挟み撃ちに男は間抜け面を晒して対応もできないが、もちろん悠長に待ってやるわけもない。握りしめられた拳骨と逆刃の刀が男を同時に捉えて潰れた蛙のように叩きのめした。

 

 白目をむいている三人の乱入者を見下ろし、左之助の友人たちは血の気を失う程に青い顔をした。

 

 それもそのはず、先ほど左之助が剣心に語ったようにこの街のやくざ者どころか政治家さえも武田観柳に手を出すのは控えているという評判だったではないか。

 

「気にすんな、おめぇら。野郎の私兵団とやらが銃器をごっそり持っていようと、百人や二百人いようと、その程度なら俺一人でおつりがくらぁ。仮に潰した後で官憲に訴えられようと、知ったこっちゃねぇや。そん時ゃ金持ちの悪党には手を出せねぇ腑抜けの警察署も潰してどっかにトンズラかましてやるぜ」

 

 左之助が胸を張ってとんでもない事を口にすると、彼の仲間たちは笑うどころかホッとしてお互いに目を合わせる。彼が口にしたのが嘘でもハッタリでもない、確かな本気だと知っているのだ。

 

「はは、左之さんならできるでしょうけどそいつは寂しくなりまさぁ」

 

「いや、ついでに野郎の金庫をごっそり迷惑料にしちまうのはどうですか?」

 

「そいつはいいな。まあ、その話は後にして知と銀二を医者に連れて行ってやんな!」

 

 そいつはいい、と笑う彼らは肩の力を抜くと、そろそろ医者に連れて行ってくれよと嘆く仲間二人に肩を貸し始めた。

 

「左之……いくらなんでも警察署を襲うのは勘弁でござるよ」

 

 困ったように笑う剣心は本気で襲うとは思っていないが、それができるとは知っていた。左之助もヤクザとの喧嘩はともかく銃器を備えた官憲との戦闘となると無傷という訳にもいかないだろうが、それでも最後には勝つだろう。そうなると、日本史上に燦然と輝く、単独で警察署を壊滅させた一大犯罪者の出来上がりである。

 

「ふうん……本当に強いのね。特に剣客さんの方は無敵そう……」 

 

 どうにか落ち着きを取り戻した場の空気だったが、そこに火種を放り込んだのは騒動を持ち込んだ恵だった。彼女は狡猾に品定めをしてから徐に剣心と左之助に声をかけた。

 

「どうかしら、坊やたち。私を観柳から守って逃がしてくれない? 報酬は十ニ分に支払うから、ね?」

 

 その態度、剣心はともかく左之助にとってはいかにも癇に障るものだった。彼女の巻き添えで騒ぎに巻き込まれ、あまつさえ怪我までした仲間たちの事をないがしろにしているにも程があるし、ついでに彼ら二人の事も嘗めて軽く見ている事は簡単に見てとれた。あるいは芝居だとしても腹立たしく目に余る。

 

「……嘗めてんのか、この女」

 

「え?」

 

 彼女は本気で意表を突かれたような無防備な顔をした。それもまた喧嘩屋の癇に障る。

 

 彼の鋭い目は一瞬運ばれていく彼の友人の元へと注がれた。この女は散々こっちをひっかきまわした挙句に、巻き込まれてけがをした仲間たちに見向きもせずに自分の安全を図る提案をした。

 

 詫びも事情の説明もなく、そんなふざけた態度が左之助には許しがたかった。

 

「こちとら仲間が二人も怪我をしたってェのに、巻き込んだてめぇは事情の説明もなく詫びもなく“金を払うから力を出せ”だぁッ!? ふざけてんのか! まずは説明くらいしやがれ!」

 

 彼女が指を立てた腕が無性に癇に障り、思わずその腕を強く握りしめると恵は顔をしかめた。元々剛力を越えた怪力をもって鳴る左之助の腕力で華奢な女の腕を掴まれれば、加減はしていると言っても無理もない。

 

「痛いってば! 馬鹿力でつかまないでよ!」

 

 細腕でも振りほどけたのは頭に血が上っていても最後の一線を保っていたからだが、その拍子に彼女の袖口から白い何かが幾つも転がり落ちた。

 

「あ!」

 

 血相を変える恵の様子にただ事ではないと踏んだ剣心が素早く近寄って摘み上げる。白いそれはいわゆる薬包だった。

 

「……報酬とは、もしかしてこの阿片の事でござるか?」

 

「!!」

 

 中身を確認し、それが粉末と見てとった剣心が半ば以上思い付きでハッタリを口にしたが……それに対して否定の言葉はなかった。

 

  

 

 



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平成、神谷道場の彼ら

 今回は久々に平成にカメラを移します。

 と言っても刃牙は出ないで、光成と神谷道場の交流……交流?

 平成の神谷活心流、刃牙の対戦相手が出てきます。

 もちろんオリジナルキャラですけど、できれば温かく見守ってやってください。

 
 
 前回のガチャ、爆死ではないけれども手持ちの石と符、32連では紫式部は来てくれなかった……どうすればいい、課金か? それともこれから手に入れる呼符に賭けるか!?


 

 その日、徳川光成は珍客を迎えていた。

 

「不躾なお願いで申し訳ありませんが、本日お邪魔させていただいた理由は他でもありません。弟があなたに売った当家の文書……買い戻させていただきたいのです」

 

 一体何十畳あるのかぱっと見では見当もつかないような広すぎる客間で、これまた大層な芳香漂わせるお茶に手も付けず、光成に対して挑むような凛々しい表情で要求を口にしたのは一人の若い娘だった。

 

 若干釣り目の凛とした面差し、後頭部はポニーテールにしてまとめているが、どこか日本人形を思わせるまとめ方をしている艶やかな黒髪のおかげで昨今の小娘とは一線を画す品格を纏っている。正座している姿勢もよく、光成は彼女が何らかの武道に手を染めていると考えた。

 

 いや、彼女の素性を聞いたのだから察するのは簡単な話だ。 

 

「神谷活心流道場の神谷薫さん……じゃったな」

 

「はい」

 

「ご先祖様と同じ名前じゃのう。ご先祖さんは緋村とも聞いとるが」

 

「真偽はわかりませんが、三代目が父親との折り合いが悪いために姓を戻した、というような話もあります。私の家では、名前などご先祖様にあやかる事が多いのです」

 

 ぴくり、と若干太めの眉を動かした彼女は硬質な声で応えた。どこか硝子を思わせる固い声だった。

 

「それをご存じなのは本を読んだからですか」

 

「興味深く読ませていただいたよ。おんしのご先祖様は随分と波乱万丈な人生を歩んだものじゃの」

 

 ぐびり、と緑茶を呷ると、光成はぎょろりとした目で薫を見た。

 

 彼女はその眼に負ける物かとわかりやすく気を張っていた。元々、やたらと広すぎる和室に招かれた上に高級すぎる調度品に圧倒されていたのだが、そんなものは外観からでもわかっていた事。気圧されていては取り返せるものも取り返せはしないのだと、どうにか取り繕うより他はない。

 

「そのご先祖様の手記、記録。一度売ってくれたものをもう一度返してくれというのは……あまりいい話じゃないのう」

 

「おっしゃることはわかりますが、その本は先祖の大切な記録。元々売るつもりはなかったのを弟が勝手に家から持ち出してしまったのです。そもそも売り物になるとは思いもしませんでしたが……」

 

「ふうん」

 

「……お返し願えませんか」 

 

 わざとらしく顎を撫でさする光成に、彼女は内心で苛立ちを覚えつつも低姿勢で臨んだ。

 

「ちなみに弟さんは今日のところ、どうしておるんじゃ?」

 

「家で謹慎中です」

 

 さぱっとした答えに思わず笑ってしまう光成。このどうにも涼やかな清涼感漂う娘をあまりじらすのはよくない、と思った。

 

「件の本、返すのは構わんよ」

 

「本当ですか!?」

 

 顔が輝く娘の素直さ、率直さには笑みが深まる。

 

「爺としても、これ以上若い娘さんを困らせるのはよくない。もちろん、金は要らんよ。ほんの五十万ぽっち、借り賃って事で、小遣いにするがええわ」

 

 そう言われては薫も困る。

 

 正直彼女にとって五十万円など大金もいいところだが、これほどの豪邸の持ち主にとって正真正銘はした金なんだろう。はっきり言えば転びかけたが、はいそうですかとうなずくにはいろいろと踏みとどまる理由がある。

 

 その最たるはそう言われて素直にうなずくような借りを作るのが怖いという庶民的な防衛行動だった。

 

「いえ、そのような真似はできません。弟が家の物を勝手に持ち出して手に入れた金銭をそのまま懐に入れては悪癖が付きます。なにしろ、未成年の私が言うのもなんですが弟は輪をかけて分別のない年頃ですから」

 

「親御さんはどうしたのかな」

 

「お、親にはまだ話がいっておらず」

 

 ふうん、と息をつく光成に薫はいたたまれなさを感じて身を縮めた。

 

「弟さんを庇っておるのか? それはよくないのう。まあ、高校生から古い本を渡されてほいほい金を渡した儂が言えるこっちゃないか」

 

 わはは、と笑われて薫は目の前の老人と家で大人しくしているか定かではない弟の二人に、内心で五寸釘を木づちで打ち込むような恨みを抱いた。大体、どうして自分がこんな見知らぬ屋敷で神経を使いつつ恥をかかねばならんのか。

 

 悉く弟のせいであり、目の前の金持ちすぎて鷹揚さと引き換えに分別がないらしい老人のせいでもある。大体責任は八対二で弟が悪いのだが、この老人も大人であるなら子供と商取引などしてほしくはないし、ポンポン大金を渡してほしくはなかった。

 

「その……どのような形でうちの弟とお知り合いになったんでしょか? それも、物を売り買いするような関係に……」

 

「大したことではないんじゃがの。儂の趣味で出向いた場所に、たまたまあの坊主がおっての。いかにも気乗りしなさそうだったんでちょいと声をかけてみたんじゃ。そうしたら話が進むうちにいつの間に何やら小遣いの話になっての?」

 

 ちなみに、趣味の場所というのはもちろん武術に関係している。率直に言うと、現在光成が知る中で最も危険な人斬り剣士の道場であった。

 

「あんの愚弟……」 

 

 薫の言葉は口の中で消えたが、羞恥心に赤い顔を見れば彼女の内心はわかる。

 

「まあ、そんなこんなでいったい何を思いついたのか家に伝わる“いいもの”を買ってくれと言う話になったんじゃ。儂としてはいつの間にそんな話になったのかとも思うが、この光成を煙に巻くとはなかなか大した坊主じゃの」

 

 絶対に嘘だ、と薫は確信する。あの愚弟は決して愚鈍じゃないと思う(希望)が、それでもこんな大きな屋敷に暮らしていける老獪な大富豪を手玉にとれるはずがない。これほど大きな屋敷に暮らしているのだから、きっと見た目や年齢では計り知れないような海千山千の妖怪に違いがないのだ。

 

「儂としちゃあ別の事でバイト料を払うつもりだったんじゃが……こっちの予定がすっかり外れてしもうたわい」

 

「……別の仕事、とは一体何ですか?」

 

 待ってました、と光成が笑うのを見て、薫は嫌な予感を腹の底に感じた。背中を向けて逃げ出すのは恥だろうか?

 

「儂は強い者が好きなんじゃ。先祖代々武芸を愛し、武芸者を愛し、強者に戦う場を提供する。それが、水戸徳川のありようなんじゃよ」

 

「…………」

 

 この時、薫は頬に冷汗が流れるのを自覚しつつも思った。

 

 もしかして、消費者金融に借金した方がマシなくらいのどうしようもない未来が口を開けて待っているんじゃなかろうか。

 

 ……その予想があっているのか間違っているのか。彼女の未来はこの時点ではまだ五里霧中の彼方だったが……丁度その頃、何やら妙な悪寒に苛まれていた赤毛の少年が細い肩をすぼめて繁華街を目指してのんびりと歩いていた。

 

「びえっくしょい! ああ、ああ、懐寒いと背筋も首筋も寒いってところかぁ……」

 

 奇妙に姿勢がよろしい小柄な少年だった。

 

 線は細く、身体は肉付きがよろしくないやせっぽちで貧相と呼ばれるか呼ばれないかぎりぎりの線という所だろう。

 

 本人もそれを理解していると見えてゆったりとした服装で決めているが、不良少年などからみると顔立ちと体格、それらが総じてカモに見せている事は間違いない。夜の盛り場などに行けば、時と場合によっては小銭目当てのろくでなしに囲まれること請け合いで、人気のないところを歩かない方が無難なのは間違いない。

 

「よう、兄ちゃん」

 

「ちょっとお話いいですか~」

 

 少年がそんな自分をどこまで自覚しているかはわからない。だが、多少きな臭くもぎらついた雰囲気になってきてすぐにおかしな三人組に絡まれるのは彼としても想像の外ではなかろうか。

 

「お話っすか……」

 

「そうそう、お話お話」

 

 そう言ったのは、少年よりも青年よりの年頃の大柄な男だった。馴れ馴れしくも肩を組んでくるのは少年を逃がさない為だろう。

 

「待ちゆく若い人たちへのアンケートにお答えくださ~い」

 

 人を酷く馬鹿にしたような裏返った声で話すのは、あちこちにピアスをして髭を生やしている坊主頭の男だった。はっきりと言ってしまえば全身でろくでなしの屑であると主張している、十年後も何も変わらずに屑でい続けているような類だ。大きな声と無責任さで真っ当な小市民を脅しつける事だけは長けていそうな生きる値打ちのない屑である。

 

「差し支えなければお坊ちゃんのお財布の中身を教えて下さ~い」

 

 次に声を上げたのは、茶髪を肩まで伸ばしている男だ。メンズ向けのファッション雑誌に出てくる典型のスタイルで固めており、身動きする度にチャラチャラとアクセサリーが鳴って鬱陶しい。夜の盛り場で似たような尻軽にへらへらとしているのが定番と言えば定番のスタイルだと一目瞭然のタイプだ。

 

「差し支えあっても教えてくださ~い」

 

 最後の一人は髭面に帽子。不貞腐れたように斜めを見ているのが印象的であるが、そいつが懐から何かを取り出した。カチャカチャと鳴らしているのはいわゆるバタフライナイフ。チンピラ定番のアイテムを少年に見せつけているのはもちろん金銭目的の脅しだろう。

 

「ふう~ん……見た目通りに華奢だねぇ、ぼぉくぅ」

 

「そりゃあ、この間の奴みたいにマッチョがいてたまっかっての。お前なんか腕掴まれて一回転させられてたじゃん。たかいたかいした後みたいに足から綺麗に下ろしてもらってよぉ」

 

 何が面白いのかゲラゲラとヤニで汚れた汚い歯をむき出しにして笑っている。

 

「あんなのは一回だけだろ、一回だけ」

 

「そうだね」

 

 そう答えたのは、三人組ではなくて少年だった。意外に思った三人の馬鹿笑いがぴたりと止まる。

 

「人、いないね」

 

 彼らの周りには人気が無かった。こういう場所に飽きずに網を張っていたのだろう屑どもの暇さ加減には呆れさえ感じる。 

 

「こういう場所を見つけて、ずうっと待ってたんだ。随分と慣れてるんだ」

 

 少年はそんな事を言った。そこで三人組は初めて気が付いたのだが、この少年はずっと姿勢よく前を向いているままで彼らに絡まれている間も下を向かずに目も逸らさなかった。それどころか、刃物をちらつかせているのに顔色一つ変えてはいない。

 

「こんなに早くに来たのは初めてかもしれない。うん、入れ食いって奴だね」

 

「ああ?」

 

 何を言っているのか理解できないまま、ほとんどただの条件反射で脅しつけようとするナイフ持ちが最初に狙われた。

 

「それ」

 

 ごん、と音がした。

 

 それを理解する事も出来ず、男は白目をむいて膝から頽れた。

 

 それを支えたのは少年だった。彼がナイフを持った腕を掴んでいた……より正確には、彼がナイフを持った腕を掴んで柄尻をこめかみに叩きつけるように誘導したのだが、それを男は全く理解できないままに意識を失った。

 

「?」

 

「どうしたんよ、お前」

 

 急に膝をついた仲間にきょとんとしているチンピラの残り二人を、少年はつまらないものとして見上げていた。その表情のままで彼の手が動いたのにチンピラたちは気が付きさえしなかった。

 

 顔の前に何かが来た。

 

 首のあたりに何かが来た。

 

 たったそれしか彼らは認識できず、意識を失ったと同時にそれもこれも忘れた。

 

「ケーサツが来る前に、さようなら」

 

 しれっとしてそう口にした少年だったが、彼は一体いつの間にやら財布を三つお手玉のように弄んでいた。ぽん、ぽんと片手で器用に繰り返し中に投げては受け止めてを繰り返していたが、彼らから少々離れたところで財布から徐にごっそりと中身を抜き出して中から札も小銭も根こそぎにすると残りをそこらの路地裏にバラバラに捨てた。

 

 その間、一切足を止めることなく顔色一つ変えない。妙な慣れさえ感じる一連の動きは躊躇いも淀みもなくスムーズに行われ、少年は顔色一つ変えずに平然としたまま街の明かりの向こうに呑まれていく。

 

「姉さんに小遣い没収されたし、これからはいつも見たく地道に稼ぐしかないのか……いい話はないんだなぁ」

 

 ぬけぬけと口にした少年は地道という言葉に喧嘩を売っている自覚があるのかないのか、相変わらずの姿勢を維持したままのっそりと歩く少年だったが、三歩と歩かない内に足を止めた。彼の顔はおかしなものを見た、というような表情をしている。

 

「どちらさまで?」

 

 彼の声を合図にして人影がゆっくりと現れた。

 

 少年から見て右に駐車場がある。そこからゆっくりと一人の男が歩み寄ってきたのだ。

 

「ヤクザ? それともケーサツ?」

 

「どっちでもないがね」

 

 男は少年の上げた職業の極端さに苦笑いをしながら少年の対面にまで来ると愛想笑いを浮かべた。すぐに殴りかかってくるような要件ではなさそうだったが、少年は油断できないと思う。

 

 男が大きいからだ。小柄な少年よりも頭一つ半分ほど大きく、体格もいい……それもただ大きいだけではなくて五体全てが分厚い筋肉で構成されているように見えるほどに鍛え上げられている。細い少年の薄い胸板などパンチ一つで貫通してしまいそうな強さを感じた。

 

「俺を見てたよね」

 

「ああ、探していたんだ。神谷剣心君」

 

 少年は一歩下がった。

 

「おじさんは誰で、何の用で俺を探していたのさ。名前を知っているってどういう事?」

 

「怪しい者じゃない、といっても信じられるわけはないな」 

 

 体重を後ろにかけて、この奇妙な男から逃げられるように少しでも距離を稼ぐ。一人とは限らないが、周囲を探る余裕はなかった。

 

「まず、私の身分と名前を明かしておこう。名前は加納秀明。とある方の下で親衛隊長をしているんだ」

 

「親衛隊長?」

 

 奇妙な肩書に、思わず逃げようとする気が吹き飛んでしまった。

 

「ヤクザ? それとも暴走族……って今時いるのかな」

 

「今も元気がいいのはいるよ。背中に立派な入れ墨をしているのとかがね。でも私は特攻隊長じゃない。ごらんよ、いいスーツを着ているだろう?」

 

 まあ、言った通りのご立派なスーツは少年の貧しい目線から見ても立派そうだった。本当にそれしかわからなかったが、きっと彼に知らないご立派なブランドの物なのだろう。

 

「そんなのはわからないし、ヤクザって真っ当な勤め人よりもいいのを着てるんじゃないのかな」

 

「ははは、疑り深い子だな。だが、そういうのはいい事だ」

 

 うだうだ言っているはずの少年……神谷剣心だったが、それを咎めも苛立ちもせずに加納は笑った。剣心はそんな加納を見て警戒心の段階を一段上げた。子供にこんな生意気な口を利かれて怒らないどころか笑うような大人なんて、腹に何か隠しているに決まっている。

 

「だが、私は怪しい者じゃない。君が先日とある古本を売った方に雇われているんだよ」

 

「……あの賑やかな爺さん? 人斬りサブの道場で会った……」

 

 剣心の正直で遠慮のない物言いに、加納はついつい笑ってしまう。それが剣心の警戒心をほんの少し緩めたのは望外の収穫だった。

 

「はは、そう。そのご老人に仕えている身でね。言うなれば助さん格さん……というのは言い過ぎだな」

 

「水戸黄門なんて見る歳じゃない」

 

「ふうん……という事は、君はあの人の素性も知らずに家伝の一品を売りに出したのかい」

 

「どうせただの古本でしょ」

 

「君のお姉さんはそう思っていない」

 

 剣心の表情に少なからず剣呑な色が宿る。隠さない辺り、まだまだ幼いのだと加納は見切った。

 

「姉さんが何を?」

 

「当家に来訪され、返却を要求されたよ。もちろん払った料金は返すと言うがね。だから私は君を呼びに来たのさ。当事者の片方がいなければお話にはならないだろう? あとからごたごたはごめん被る」

 

 そう言われては、少年もこれ以上突っ張る事はできない。せめて姉との電話連絡を要求したがあっさりと叶い、彼女はいたって平然とした……というには大いに怒気の籠った声色で自分の所に来るように命令する始末。

 

「……わかったよ。でも、おかしな事になったら力づくでも逃げ出すからね」

 

「少年、そういう事は腹の底だけでとどめておくものだ。そして静かに実行するのがいい」

 

 牽制と挑発のつもりだったのに丁寧に忠告までされて、少年は腐った。自分の不貞腐れる幼い様子を見ながら、加納が内心で訝しがっていたのを彼は知らない。

 

 つまり、この少年があのチャンピオンと戦えるだけの強さを秘めているのか、と……

 

 

 

 

 



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隠密御庭番衆

 
 ちょっと長い前書きです。

 ここからしばらく、読む人によっては納得のいかない展開になるかもしれません。

 内容は読んでからというところですが、あらかじめ書いておくと……私は“るろうに剣心”のストーリーの中でも後半の中核に位置する部分に納得がいかないところがあるんです。

 人斬りの過ち、その償いという点に対する剣心の考え方に共感できません。

 人斬り時代に殺めた人々への償いとして、結局どうすれば償いになるのかはわからないけれども、罰を受け入れるのは今じゃないし、とにかく最後まで剣を使って人々を守る戦いの人生を全うする。

 これが人斬り時代を過ちとして考えた剣心の見出した答え。

 論理の展開がよくわからねぇよ! 結局先送りじゃんか! 自分のやりたい事をやる為にこじつけているだけじゃないか!? 

 その辺決めるのはお前じゃないだろ! 何で周りは感心したり感動したりしているん!? 償いするんなら被害者か遺族にするものだろ!? 何が償いになるのかは被害者や遺族、ひいては法が決めるこっちゃあ! 
 
 関係のない人間にまで手を出したのは問題だけど、総合的には縁の言い分の方が理解できます。
 
 本当の復讐者がせいぜい鯨波ぐらいしか他にはいなかったから、巴が許嫁の清里を忘れて(というと言い過ぎかな)剣心に絆されたから丸く治まったけど、これで非の打ちどころがない復讐者が出てきたらどうするのだろうか。

 縁が巴の心変わりに混乱するのも理解できないのもそりゃそうだと思うし、結局放り出された形になった清里氏がただただ哀れ。考えたらこれって踏み台でNTRじゃないか…

 人斬りについては、まあ……怨まれるのは道理だけど、状況が状況。維新に関係のない民衆を斬った訳じゃないんだから過ちとも言い切れない。“武士の宿命”って奴ですね。

 剣心の根本的な過ちは、師匠のいう事を聞かずに中二病丸出しで深い覚悟も考えもなく維新に参加した事じゃないのかな……

 なんて言うか……結局上手く復讐される剣心を肯定する結論が作れなかったんじゃないのかね、和月先生……と思ってしまいました。

 剣心よりも左之助や蒼紫の方が好きなんですが、この辺り共感できないのが理由です。似たような悩みを抱いているヴァッシュとかランデルとかは好きなんですけどね。

 そういう考えを作品に反映させているので、読んでいてそれこそ納得いかない人もいるかもしれませんので、予め書かせてもらいました。

 大人になると、少年誌のヒーローよりも悪役の言い分に納得がいく事も増えてくる……これが汚れるって事なのか……(笑)


 
 


 その日、徳川光成は奇妙な夢を見た。

 

 それは、数日前に見た剣と拳の名勝負の続きのような夢だった。

 

 しかし、多少異なるのは今度の勝負は喧嘩ではなく……もっと殺伐とした“戦闘”であるらしい。

 

「……ここは、橋、かの? なんか人が随分と集まっておるのぉ」

 

 果たして一体どこであるのか、彼が目を覚ましたのはどこぞの川を見下ろす道端であり、周囲には大勢の人混みがあった。

 

 戸惑いは数秒でしかなく、二度目ともあれば不思議な事でも慣れ始めていた順応性が高い老人であったが……周りには人が多すぎて何が目当ての人だかりだか小柄な彼にはよくわからない。

 

「緋村剣心や相楽左之助はどこかのう」

 

 きょろきょろとその辺を見回てもらちが明かない。幸いというべきか、前回同様人にも物にも左右されない身の上であるようなのでちょろちょろと視界が開ける場所を求めてうろつきまわり……ようやく野次馬が注目している何かを見つけられた。

 

「警官が検分している筵敷きか……溺死という線はないかのう」

 

 彼の知る未来でもありがちな野次馬の理由である。筵の隙間から遠目に人の手足が覗いているのが見えた。しかし、一体何をどうしてこんな事故現場か何かに自分は招かれたのやら。

 

「……さっきの観柳の私兵じゃねぇか……」

 

「酷いでござるな……」

 

 聞き覚えのある声、口調に振り向くと背後にはいつの間にやら人斬り抜刀斎と喧嘩屋の姿があった。彼らの後ろには見覚えのない女性がいるが、そちらは光成にとってはどうでもよかった。

 

「役に立たない者は容赦なく切り捨てる……観柳のいつものやり方よ」

 

 見知らぬ女性がそんな事を言う。

 

 奇妙に訳知りな様子の若い女性とこの二人、あからさまにもめ事の気配……それらを統合して光成は悟った。

 

「なんともすごく時代劇じみた話の渦中のようじゃな」

 

 この後はきっと、自分のご先祖様が顔を出して印籠を悪党に突き付けるに違いがない。

 

「しかし、儂がいるからにはやはりここは強者がいると思うんじゃがのう」

 

 ……言うまでもなく不謹慎な光成がきょろきょろと再び周囲を見回している。つくづく自分の欲求を隠しもしない爺様である。

 

「!」

 

 そんな光成の希望に沿うた訳でもないが、やにわに剣心が顔色を変えて橋の方を見た。野次馬が鈴なりになっている人ごみの真ん中あたりに鋭い視線をぶつけた。

 

 左之助と女性、そして光成もそちらにつられると、向こう側には彼の視線を引き付けた男が三人、警察の検分を見下ろしているようだった。

 

 一人は中年程度の男で、白いこの時代風のスーツを着ている。眼鏡をかけて青白く、明治時代の起業家という風体だ。目を細めてにこにこと笑みを浮かべながら死体の検分を上機嫌で見下ろしているのが異様と言えば異様だ。

 

 もう一人はその男よりも一回り程度若く、ついでに頭一つほども背が高く鍛えられた様子の若者だ。人ごみのせいで他には白いコートを纏っていること以外はさっぱりわからないが、ただ静かな佇まいだけで只者ではないという雰囲気がプンプンとしている。

 

「…………」

 

「…………」

 

 剣心とその男が鋭い視線を交錯させた。互いに油断ならないやつだと目星をつけ合っている様子がありありとわかる。

 

 最後は、青ざめた顔色をして脂汗まで流している小兵。

 

 鶏みたいな男じゃな、と光成は辛らつに評した。鼻のあたりに何か当てているところを見ると怪我人のようだったが、何やらコートの男に話しかけられるとこちらに気が付いたようで、血相を変えて何かを投げようとして……男に制止されていた。

 

 その後、何を言い含められたのか人ごみの向こうに消えていく。

 

 そんなやり取りを他所に、スーツの男はどこかがらんどうな目で剣心……より厳密には彼の後ろにいる女性に注目した。不躾な目線に気が付かない女性はおらず、ようやく男たちに気が付いた女性が顔色を変えて叫んだ。

 

「観柳!」

 

「本当だ。剣心、見ろ。向かって左の奴が武田観柳だ」

 

「それより右の方……あれは何者でござるか?」

 

 うんうん、と強い者にばかり興味がある光成も彼らの足元でうなずいている。光成の見たところ、あのスーツの男は明らかに下卑たろくでもない気質であり、彼のよく知る小物の枠を出る事はなかった。

 

 ハッキリ言えば興味を持つのも勿体ないような俗物であり、後ろのコートを着ていてもなかなかに鍛えているのが一目でわかる男の方がよほど大切であった。

 

「さあ……私兵団の団長かなんかじゃねぇか?」

 

「ほお、それにしてはなかなかに雰囲気ある男じゃのう……とてもそんなちっぽけな男には見えんが……」

 

 剣心と左之助の両方、ついでにおかしな座敷老人から値踏みされている男もまた、二人……正確には剣心を重視して見つめている。このご時世に人目も憚らず帯刀している男が何者であるのか、一挙手一投足を油断なく品定めしているようだった。

 

 警官もちらちらと剣心を見ているようだったが、今は筵の下が大事なようで放置されている。容疑者扱いされなければいいが、剣心も左之助もその辺りはまるっきり意識を割いていなかった。

 

「違うわ! あれは……御頭!」

 

「……鯛か?」

 

 左之助が思わず口走った阿呆すぎる戯言は誰も聞いてはいなかった。

 

「私兵団とは別の……最近になって観柳が雇い始めた元隠密“御庭番衆”を束ねる男……その中でも明治維新寸前に歴代最年少、齢十五にして御頭になった天才隠密……四乃森蒼紫……!」

 

 女性が血相を変えての説明に、左之助は驚くよりも先に訝しがった。あまりにも大物すぎる上に場違いであるとも思った。

 

「……なんでそんなのが観柳の配下なんぞに収まっているんでぇ」

 

「どうでもいいじゃろ、そんな事は! 忍者じゃ、忍者! 面白くなってきたのお!」

 

 足元で、神谷道場所縁の書物に明記されている強者の登場に喜んでいる老人はさておき確かにおかしな話ではある。

 

「……さあ……しかし、こちらの方がよほど難敵でござるな」

 

 肩書なくとも佇まいだけで十分に強敵であるのは知れた。その裏付けまでされた以上、重視しないわけがない。

 

「なんにせよ、胡散臭い実業家に危険な御庭番衆……これは、恵殿を放り出すわけにはいよいよいかなくなったでござるな」

 

「だったら、ここでちょいと話でもしてくらぁ」

 

「は?」

 

 剣心と女性……恵の間抜けな声が重なったが、そんな二人を放り出して左之助はずかずかと向こうの陣営に“挨拶”をしに行ってしまった。

 

「おお、前哨戦か! いいのお、実にわかっとる!」

 

 楽しそうなのは一人だけである。

 

「ね、ねえ……あいつ、大丈夫なの?」

 

「いや、さすがに左之もこんな所で喧嘩を売る事はないと思うでござるが……警官もいる事でござるし」

 

 恵は元より、剣心さえも常識外れな左之助に呆気に取られて見送ってしまった。仮にも維新志士にして影の人斬りたる緋村剣心にしてみれば、こんな白昼堂々と立ち回りをするなど思考の外である。

 

 しかし剣心も、そして恵も見誤っていた。

 

 相楽左之助という男の直情さと、何よりも友人を死に追いやった阿片に対する怒りを。

 

「よお」

 

 まるで友人に声をかけるような馴れ馴れしさで左之助は二人に歩み寄る。

 

「…………」

 

「おや」 

 

 だが、真っ直ぐに彼らに向かって悠々と歩いていく左之助に何を感じたのか、周囲の人混みが割れていく。ひょこひょこと後ろを楽しそうについていく光成も前に回って納得した。

 

 今にも暴れだしそうな剣呑な目をしているからだ。何ら関わりのない死体検分に夢中なはずの野次馬が大名行列に出くわしたように避けてしまう迫力に満ちている。それを横目で見ても観柳、蒼柴はそれぞれ顔色さえ変えない。蒼紫は自分の力量に自信があり、観柳は蒼紫の実力と、何よりもこんな衆目の眼前で何をしてくるわけもないとたかをくくっているのだ。

 

 それでも、ここまであからさまに剣呑な雰囲気を醸し出している喧嘩屋を前にして薄ら笑いを張り付けていられるのは意外と大した人物であるのかもしれない。

 

「あんた、武田観柳。そっちが四乃森蒼紫……流行の青年実業家に最近雇われた元隠密御庭番衆の頭……なんだってな」

 

「…………」

 

「ええ、あなたはどちら様で?」

 

 蒼紫はあくまでも雇い主の後ろに立ち、会話を行うのは観柳……左之助は一言だけで相手がこちらを見下しているのを敏感に悟った。より正確には、相手の男が隠そうともしていなかった。

 

「相楽左之助……ごらんの通りチンピラの破落戸、あそこに転がっているあんたの私兵団を賭場でぶちのめしたのは俺の仕業よ」

 

「へえ」

 

 真っ直ぐに左之助を見る事もせず、横目で左之助に目をやりつつ適当な相槌を打つ。その間、蒼紫は左之助と剣心、恵を同時に視界に入れる位置から動かなかった。その恵はもちろん二人に近づこうとはせず、剣心もそんな彼女を守るために動けない。

 

 例えば、この場で喧嘩が始まっても止めるに止められない。左之助はやりたいようにやれる状況を作っていた。

 

「それはそれは。おかげでゴミの後始末にいらない手間をかけられました。手間賃なんかを頂きたいもんですねぇ」

 

「こっちはこっちでお楽しみの最中に騒ぎに巻き込まれたんだ。蹴破られた料亭の襖の代金も建て替えたんで、こっちこそ迷惑料をもらいたいもんだ」

 

「迷惑料ねぇ……おいくらで?」

 

「なぁに、ちったぁ舌回りのいい油を使ってくれりゃ水に流してやるよ」

 

 目だけは剣呑さを失わずに左之助は愛想よく笑った。実に異様な表情だった。

 

「それはお得ですねぇ、お得な話は大好きですよ……商売人ですからね」

 

「そいつはいい」

 

 しらじらしい雰囲気にやじ馬が一人、また一人と散っていく。いつしか彼らの周りは閑散としていた。

 

「この街で今一番大きく阿片を取り扱っているのはあんたの所かい」

 

「私は真っ当な商売人ですよ? そんな恐ろしい話は聞いただけで身震いが出ますねぇ」

 

「武者震いか」

 

 しらじらしさの見本であり、左之助は拳に力が入るのを止めるのに努力を必要とした。

 

「あんたの私兵団が追いかけてきたあの女……高荷恵。たまたま女狐の尻を追いかけてきたわけじゃねぇ、あいつらは女の名前を知っていた。ちゃあんとあいつを探してきてたんだ」

 

「ふむ」

 

「あの女は結構な量の阿片を持っている。となると妥当なところはあんたの所からの盗人だわな。私兵団の適当なのを垂らしこんでかと思ったんだが……そっちの兄さんの御庭番衆ってのがいらねぇ事を口走ったから話は変わる」

 

 ぴくり、と蒼紫の眉が密かに動いた。小さすぎて左之助は気が付かなかったが、不快を示していた。どこの誰に対しての不快感かは推して知るべし。

 

「いつでもどこでも見張っているから逃げられやしない……だっけか。ただの盗人ならそんなことをしねぇやな、御覧の通り、殺しちまえばそれでお終い。男二人だろうが女一人だろうが差はねぇ。人間一人捕えておくのは扱いをどんなに雑にしたって手間も金もかかるだろ? 見たところ飢えてもいなけりゃ傷もないとなると、意外と悪い扱いだったわけじゃなさそうだ。殺せない理由と手放せない理由……そしてたまたま手に入れたにしては多すぎる阿片。あの女狐は阿片の何かを握っているわけだ……作り方? 盗んだと考えてその隠し場所? ま、その辺はどうでもいいか」

 

 相楽左之助、基本的に直情径行で一見すると頭が悪そうだと薫にも弥彦にも言われるような男である。だがこの男、これで意外と血の巡りがいい。

 

 頭が悪いと言うよりも小難しい事を考えるのに使いたがらないと言うべきで、その気になれば意外と鋭く物事を推し量る事はできるのだ。問題はなかなか使わない事と、使わなさ過ぎてそのうち本当に頭が悪くなるかもしれないという事だ。

 

「……どうでもいいので?」

 

「俺にとって大事なのは別の事だ。あの女は何をやっていたんでぇ?」

 

「……それ、大事ですか?」 

 

「あの女狐があんたらに取っ捕まって何か脅しでもされていたってんなら、見逃してやるし守ってやらねぇでもねぇ。気に喰わねぇ性格しているみたいだけどな。だが、例えばあんたらにとっても裏切り者に過ぎない、あるいは上前を掠めようとした盗人だってんなら話は別だ。まとめてこの場で警官に突き出して、仲良く豚箱に放り込んでもらおうじゃねぇか。最後は揃って処刑台に立たされりゃいい」

 

 左之助のセリフは静かになり始めた橋の上ではっきりと周囲に聞こえる。それはもちろん剣心も恵も例外ではない。橋の下にいる警官さえ気が付き始めて注目をしているほどだ。

 

「…………」

 

 恵の顔色が青ざめる。先程まで煙に巻いて利用してやろうと考えていた腕っぷしだけの若造が、いざとなれば自分を容赦なく死刑台に送る事も辞さないと言い切ったのだ。

 

 不思議と言えば不思議だった。怨まれる事、憎まれる事、軽蔑される事にあまり慣れていなさそうだ。阿片を所持するなど、どう考えても日陰者であるにも拘らず奇妙に感じるほど慣れていない。

 

「で? どっちだ。そろそろ舌を滑らかにしてもいい頃じゃねぇか」

 

「さぁて……本人に聞いてみればいいじゃないですか。今会ったばかりの私よりもまだ信じられるでしょう?」

 

「阿片を隠し持っているような女、誰が信用するか!」

 

「阿片に何か恨みでもあるので?」 

 

「仲間が阿片で死んだ。それだけだ」

 

 それを聞いた観柳は初めてまともに左之助を見ると、にんまりといやらしく笑った。

 

「それはお気の毒……しかし、自業自得じゃありません?」

 

「ナニィ!?」 

 

 左之助の薄っぺらな取り繕いはあっさりと消えて中身の煮えたぎる激情が露わになるが、それを向けられた男達はどちらも小揺るぎさえしない。

 

「阿片なんておっかないもの……買って吸う方が悪いんですよぉ……ねぇ、そうでしょう? あなたもそう思いませんか? 高荷恵さん」

 

 蒼紫がさりげなく一歩踏み出した。今の左之助に危険すぎる兆候を感じ取っていないのは誰もいない。

 

「例えば、どこかの誰かが作った阿片でたくさんたくさん人が死んでも……そんなのは買う方が悪いんですよ。ああ、でも……相楽さんでしたか、あなたはやっぱり作った方も悪いって言いますか? そうですね、それはそうでしょうね。私もそう思いますよぉ」

 

 さらりと前言撤回し、左之助の名前を出しながらも彼の眼は恵に向いている。剣心の後ろで庇われている恵にこそ語りかけている。

 

「例えば今更……罪悪感に駆られて逃げ出しても、例えば今更に怖くなって逃げ出しても、例えば今更実は知らなかったんだと言っても……そんな言い訳、通る道理はないでしょうねぇ? だって、そいつが作った阿片でたくさんたくさんの人が苦しんで、たくさんの人が死んだんですから。今、この時も!」

 

 口にしながら一歩、また一歩と恵に近づいていく。その一歩ごとに恵の顔色は青ざめていった。もはや白くさえあり蝋人形の有様だ。

 

「そんな言い訳を口にして、死者が黙るわけはないですよねぇ。怨んで夜毎に枕もとで恨み節を歌うのが筋ですよねぇ。そちらのお兄さんのように、死んだ人のお友達やご家族が今更ふざけるなって怒りますよねぇ?」

 

「それ以上、恵殿に近づくな」

 

 無論、それを黙って見ている緋村剣心ではない。観柳と恵の間に盾となって割って入ると糾弾者の足が止まった。

 

「貴様が阿片売買の元締めであるなら、先ほどの言葉は全て貴様に返るものでござる。恵殿を声高に罵れる立場ではない」

 

「まあ、阿片売買なんて私の預かる所ではありませんが……“もしも”そうだとすれば、確かにその通りかもしれませんねぇ?」

 

 ぬけぬけと口にしながら、徐に葉巻を取り出してのんびりと火をつける。緋村剣心、帯刀している男を前にしても、彼は悠然とした態度を崩しはしなかった。

 

「でも……まあ、もしも仮に? 私が悪党だったとして……それが彼女の罪を帳消しにする理由にはならないでしょう? だって今更ねぇ? 死人は生き返らないんですから、何をやっても償いようのない悪行でしょう」 

 

 それを口にした瞬間、剣心の顔色が変わった。目の当たりにした観柳が意外に思う程だ。

 

「黙れ!」

 

 鋭く剣心の手が鯉口にかかっている。薫や弥彦が見れば驚くほどに彼の血相が変わっていた。まるで、彼こそが糾弾されているような態度だった。

 

「随分と剣呑ですねぇ、お侍さん。でも、あなただってそうは思いませんか? 人殺しなんてひどい事、許せませんよねぇ? 取り返しがつかないですよねぇ?」

 

「……それ以上恵殿に近づくなと言ったぞ」

 

 剣心の警告に素直に足を止めるも、観柳は楽しそうに笑いながら恵を見た。

 

「いやいや、ただ殺すよりも酷いですよねぇ? もしもその作り手に家族がいたなら……真っ当な人たちなら罪悪感でまとめて首を吊ってもおかしくはないですよねぇ?」

 

「…………っ!」

 

 恵の膝が折れた。それを見た観柳がにっこりと一見朗らかに笑うが、更に言葉を重ねるよりも先に元々短気で今は頭に血が上りやすい左之助がその肩を掴もうと駆け寄ってくる。

 

「てめぇ、さっきからぺらぺらと……」

 

「舌を動かせと言ったのはお前の方だと思うが?」

 

 立ち塞がったのはもちろん蒼紫だった。激情に突き動かされている喧嘩屋を前にして、至極冷静に眉一つ動かす様子もない。

 

「これ以上近づくなら、俺は護衛の任を全うする。怪我をしたくなければ下がれ」

 

「上等だ、この野郎ッッ!」

 

 左之助のような男にとって、蒼紫のセリフは警告ではなく挑発にしかならない。芸のない台詞を口走りながら蒼紫に向かって突き出した拳だが、こちらには隠密の頭が顔色を変えるような芸があった。

 

「ほう……」

 

 下から蛇のように迫る拳に天才隠密の顔色が変わる。御庭番衆とは護衛を任とする事が特に多く、その任務の傾向からして武闘派ぞろいである。その頭にして天才とまで言われている男に左之助の拳が襲い掛かった。

 

 最初はそれを見切って躱そうとした蒼紫だが、顔に目掛けて打ち込まれた拳をつまらなさそうに躱せば、下から死角を狙って突き上げてきた一撃を咄嗟に受け止めさせられた。

 

 腕から肩までを浸透する重さを感じいる蒼紫の脇腹へと間髪入れず、肝臓の位置を目がけて襲い来る左拳は足を軸として全身を独楽のように回して打ち込んでくる。全身を使って力を発揮しつつも鋭く小さな円を描く拳は避け難く、蒼紫の腹をかすめて熱のような痛みを残した。

 

 直撃すれば悶絶は必至。

 

 さらにそこから、今度は背負い投げのような覆いかぶさる軌道で上からの拳が降ってくる。

 

「!」

 

 この一撃に蒼紫ははっきりと度肝を抜かれる。先に打ち込まれた拳に気を取られた絶妙の機に背中に隠された剣で言う所の背車刀のような一撃は、彼の技量をもってしても躱すのは容易ではなかった。

 

 みしり、と鈍い音が彼の中に響く。だが左之助こそ目を見張った。必中を確信したはずの拳が、肩で受け止められている。

 

「重く、鋭く、多様。驚いた。本当に只のチンピラか?」

 

「全部防いどいて何を抜かしやがるッ! ごらんの通りのチンピラよぉッ!」

 

 構えた二本の腕で左之助の拳撃を悉く躱し、受ける。慣れさえ感じる防御術に左之助の顔色が変わった。

 

「おっらぁッ!」

 

 埒が明かないとその場で背を向ける。目の前に広がった悪一文字に蒼紫が気を取られた瞬間、下から突き上げるように後ろ蹴りが襲い掛かった。狙いは金的、まさしく一撃必殺の急所となるが、左之助の踵は重ね合わせた蒼紫の腕に受け止められた。

 

「ちッッ!」

 

「……ここまでの拳、今の蹴り、どれも修練した拳法家の物。両腕でなければあるいは折れていたかもしれんな」

 

 蒼紫は自分の体が一瞬とはいえ浮いたのを自覚していた。止めるつもりでいたにも関わらず自分の五体を浮かせた威力はなかなかに大したものだ。

 

「きっちり危なげなく防いどいて、よく言うぜ。顔色一つ変えやしねぇ」

 

 忌々しそうに口にする左之助だが、逆に蒼紫は無表情ながらもどこか楽しそうな雰囲気が醸し出される。

 

「面白いな」

 

「ああ?」

 

「俺が躱せずに受けに回らなければならないような実力……剣客ならともかくとして、そんな拳法家に出会えるとはな。それもまだまだ本気じゃなさそうだ。お前が何者か……本当に自分で言うようなただのチンピラとは思えん。この強さには興味がわいた」

 

「ふん……こっちは胸糞悪い話のせいでちっとも面白くねぇ。やるんなら、くだらねぇ話は抜きにしてやりてぇところよ」 

 

 蒼紫のここまで見せた技術は悉く素手である。一向に攻勢に出ないせいで断定はできないが、この男はもしや左之助と同じく拳法を使うのか。

 

「おい剣心! さっさと観柳をぶっとばしちまえよ! そこの女狐の持っている阿片とまとめて警官に突き渡しちまえば万事目出度しだろうが!」

 

「……それは出来ぬようだ」 

 

「ああ?」

 

 まさか、恵を庇うつもりか。

 

 蒼紫をけん制しつつ訝しがる左之助だったが、目の前で剣心が身を翻したのを見て納得する。どこの誰とも知らないが、奇妙な程に印象に残らない何の変哲もない男が剣心に向かって殴りかかったのだ。

 

「御庭番衆か!?」

 

「当然だ」

 

 さすがは剣心。男の拳を見事に危なげなく半ばまで抜いた刀で受け止めた。この男も油断ならない拳法使いであるのか、間近に迫った拳には見事なまでの拳ダコがある。

 

「……できる」

 

 思わず口にした剣心の言葉通り、まるで背景のように人の意識に残らない見てくれをしている男は外見に相反して感心するほどの技量を持っているようだった。少なくとも剣心は、今の奇襲には少なからず驚かされた。

 

「さて、そろそろお終いにしてもいいでしょうか? 私もこんな人目のある所での騒ぎは勘弁してほしいんですよ」

 

「……左之」

 

「テメェみたいな奴をぶちのめすのに、人目も糞もあるか! 巻き込みそうな奴もどこにもいないだろがよッ!」 

 

 確かに言う通り、立ち回りが始まった途端に野次馬は三々五々にばらけて遠巻きになっている。それを幸いとして左之助は完全にいきり立っている。だが、そんな彼に観柳が冷や水をかけた。

 

「巻き込みそうな人はいませんが、首を突っ込んでくる警官ならいますよ?」

 

 確かに、現場検証を置いてこちらに駆けてくるのが二人ほど。それを見て観柳は慌てもせずに卑しさを前面に出して笑った。

 

「先ほど我々に喧嘩を売ったのはあなた。そちらには廃刀令違反者もいますねぇ……そして、阿片を隠し持った女狐も一匹……さて、官憲にお縄になって不利になるのはどちらで?」

 

 ぬけぬけと口にしているが、実のところ恵を捕まえられて困るのは同様である。だが、それをおくびにも出さずにしゃあしゃあと交渉材料にしているふてぶてしさは褒めるべきかもしれない。

 

「ッ!」

 

「この女はお前らの仲間……なんてありきたりのセリフは吐かないでくださいよ? 今行動を共にしているのはあなた達です」

 

 剣心も左之助も、一度や二度お縄になったところで大した問題ではない。お互いに真っ当な人生を送っておらず、豚箱に放り込まれてもそれがどうしたと笑っていられるような男たちだ。しかし剣心は左之助を制止した。

 

「引け、左之。我々が官憲に捕まれば、薫殿や弥彦にも迷惑をかける」

 

「ッちい……」

 

 最近出入りをしている神谷道場は辻斬り事件が起こったばかりだ。濡れ衣と判明してもどうしても警察のあたりは強い。

 

 濡れ衣を着せたのだから逆に気を使われるのが道理かもしれないが、古今東西、官が失敗や間違いの責任を取るかとらないかの天秤は官に都合よく民に不利益な方に傾くのが常だ。平成の時代でもそれは変わらず、ましてや明治の頃など語るに及ばず。

 

「頬に十字傷、か……昔、幕末の京都にそんな風貌の維新志士がいたと聞いたな」

 

 蒼紫が初めてしっかりと剣心に相対する。彼の風貌で、何か……幕末の伝説に思いを馳せているようだったが。剣心はそれに何も応えなかった。

 

「引け」

 

 蒼紫の命令に特徴のない男は静かに身を引き、そして遠巻きにしている人ごみの更に向こう側へと消えていった。

 

「そこ、さっきから何をやっているか!」

 

「警官の前で騒ぎを起こすとはいい度胸だ! さてはこの事件の関係者か!?」

 

 決めつけに過ぎないが、あながち間違えてもいない警官たちの追及に眉を潜めると観柳はさっさと身を翻した。

 

「やれやれ、警察向けの鼻薬に……また費用がかさみますねぇ……嫌だ嫌だ」

 

 はあ、とわざとらしくため息をついて歩きだすが、そこでさも思いついたように首だけ振り返ると未だに膝をついたままの恵に笑いながら声をかけた。

 

「今更、変な夢は見ない方がいいですよ? あなたの事を庇うのは、似た者同士の脛に傷持つような輩が同病相憐れむか、無責任なお人好しが適当な事を言うくらいですから。そうでなければ、私の同類……まともな人には白い目で見られるだけ。あなたはもう、どこに出しても恥ずかしくない罪人なんですし……潔く、頭まで泥に浸かりましょうよぉ」

 

「…………」 

 

 蒼紫は剣心と左之助双方を値踏みするように見つめた後、静かに……そして隙のない動作で彼らに背を向けた。

 

「くそったれがぁ!」

 

 いきり立つのは左之助だけであり、恵と……そして剣心もまた沈痛な表情のまま佇む。

 

 詰問の為に警官が彼らを取り囲む中、光成は一人だけ蚊帳の外……というよりも無責任な立場のままで腕組みをしつつ鼻息を吹いている。

 

「腕のたつ輩がいるのはいいが、どうもどろどろとした雰囲気じゃのう……この間の一戦のような清々しい真っ当な喧嘩は……あまり見られんのかもしれんな」

 

 光成にしてみれば、罪だの罰だのややこしい事情はいらないのでただ純粋に強さを競って真っ向から戦ってほしいのだが、どうやらそれは叶わないようだ。

 

「死刑囚みたいな勝負事で発揮されるえげつなさも時々ついていけない事もあったもんじゃが……あれはあれでまあ……ありじゃと思うが……こういうのはちと、のう…」

 

 世界有数の大富豪である徳川光成にとって、この手の悪徳はむしろ見飽きた感がある程慣れた話だ。しかし、汚物処理に慣れる人間はいても好きになる物好きはそうそういない。光成はいろいろと物好きな酔狂者だったが、そういう趣味は持ち合わせていなかった。

 

「しかし、あの蒼紫という男はどうやら強者との勝負を望んでいる節があるな……それなら……期待できそうじゃ!」

 

 だがしかし、それでも彼はやっぱり物好きの一人ではあった。

 

 それも、かなり困った類の酔狂者である。

 




 
 FGO、遂に課金してしまった……

 その石さえ完全に溶かし切って、ようやく紫式部嬢お出迎え。完全爆死よりはほっとしたけど……

 ……キアラどうしよう。ひょっとしたら新しいキャラクターも追加されるかもしれない……諦めて福袋に期待しようか。


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守るべきは何か、裁かれるべきは誰か

 
今回から少しずつ原作乖離開始。

 それにしても、ちっとも範馬がでてこない。これじゃタイトル詐欺になりそう。

 でも、出したら無双以外ありえないんだよなぁ。


 武田観柳。

 

 隠密御庭番衆、阿片。

 

 橋ではどうにか警察を煙に巻き、どこか沈痛な雰囲気で神谷道場まで戻ってきた一行は、そこから夜まで各々の時間を費やした。

 

 とは言っても明らかに騒動に巻き込まれているのだから遊んでいる暇などない。その辺りの事情を消沈している様子の恵から、まだ余裕はあっても同様に何か苦悩している様子の剣心が聞き出したのをこそこそではなく堂々と立ち聞きしている光成だった。

 

「……武田観柳の言葉が正しければ」 

 

 剣心が徐に口にした疑問に、恵が表情を強張らせる。ひどく余裕のない有様が、あの問答にあるのは言うまでもない。

 

「あの阿片は恵殿が作ったものでござるな」

 

「…………」

 

 余裕があれば舌を出して剣心をコケにするくらいはしたのかもしれないが、今の彼女は周囲を威嚇する猫のような顔で自分を守ろうと言ってくれているお人好しをにらみつけるだけだった。

 

 自分の悪事を知られたくないのだと、誰から見ても一目瞭然の姿だった。

 

「わ、私はあなた達が戦い易くなるように喋っているのよ! 阿片の事は関係ないわ」

 

 殊更に声を荒げる恵を、剣心は静かに見返す。

 

「余計な事を聞かずに、ただあいつらを追い払ってくれればいいのよ!」

 

 守ってもらう側の分際で、随分とふてぶてしい立場ではある。しかし、彼女の立場は目の前にいる剣心のお人好しに胡坐をかいているから保障されている程度の弱々しい物であるにも拘らず随分な態度だ。おそらく内心では自分たちに見切りをつけているに違いがないと剣心は考え、それは正にその通りである。

 

 彼女は隠密御庭番衆を高く評価している。

 

 この二人、先ほどの立ち合いであっさりとやられるほどではないが本気を出した御庭番衆には到底敵う訳がない。一対一でも危うい上に数が違う。ましてや他の私兵団まで加われば結果は火を見るよりも明らかだ。

 

 一度事が起きてしまえば、残るのは廃墟になる神谷道場しかない。

 

 少なくとも、観柳にしてみればこの道場を潰してから警察に嗅がせる鼻薬と阿片による売り上げとを天秤にかければ阿片に傾く。

 

 逃げてしまうのが最上。

 

 恵自身、この結論の根本にあるのが観柳と……そして左之助から逃げたいのだと自覚している。目の前の随分とお人好しな剣客はともかくとして、あのガラの悪い男は自分にはっきり恨みを抱いている。

 

 友人の仇と言ったか……阿片と恵の繋がりは明言こそしていないがほとんど言ったも同然だ。はっきり自分の口から肯定の言葉が出れば、恵にとってはどんな形であっても破滅しか待っていないだろう。

 

 ここにはいられない。

 

 御庭番衆との争いが起こっている隙に逃げ出す……恵はそう結論づけて、おそらくは今夜中にやってくるだろう御庭番衆の襲撃を徹夜してでも待ち受けるつもりだった。

 

 一体いつ来るのか……恵は何やら表でがやがやと言い合っているらしい男女の声につられた剣心が退室すると、そのまま壁に背中を預けた。

 

 彼女の想像では、御庭番衆は隠密らしく陰から彼女を音もなく拐そうとしてくるだろう。最悪なのは、そのまま行方知れずに気が付かれず観柳の屋敷に連れ込まれてしまう事だったが……それだけは避けたい。

 

 せめて戦って時間稼ぎくらいはしてほしいものだ、と彼女は神谷薫が聞けば怒髪天を突くような事を考えていた。

 

「!」

 

 そんな彼女の耳に轟音のような音が聞こえてきた。

 

「……来た」

 

 ひどく寒々とした声が口から出た事に、彼女自身が驚いていた。

 

「今の音は門からだな!?」 

 

「隠密ってのがこんなでかい音をたてて殴り込みにくんのかよ!」

 

 恵の内心などに付き合う事もなく事態はどんどんと動いていく。

 

 轟音を聞きつけて駆け付けた神谷道場の一同が出会ったのは、奇妙な巨漢だった。そいつが、門の横を豪快に破壊して内部に侵入してきている。

 

「う、うちの門がぁ!」

 

 惨状を見て薫が顔色を青くしているが、剣心も含めて誰も彼女を見てはいなかった……気の毒な話である。

 

「大人しく恵を渡しな。そうすりゃちったぁ手加減してやるぜ」

 

 安っぽい脅し文句に耳を貸すような腰抜けは、この場には一人もいなかった。薫などは怒り心頭、率先して挑みかかりそうな有様である。

 

 しかし、脅し文句は安っぽくても口にした当人はなかなか見る事のない奇人だった。

 

 およそ見るからに人間離れしている大男で、特徴的なのは左之助でさえ胸元程度に脳天が来る圧倒的な上背と無造作にだらりと下げているだけで地面に着きそうなほど長い両腕。

 

 半面、腕と引き換えのように短い脚である。上半身裸で突き出た太鼓腹がむき出しだが、それよりも更に人目を引くのは威嚇のつもりか剥いている歯が上下合わせて四本程度しかないという事だ。げっ歯類のように並んでいるそれが、奇妙に印象に残る。

 

 異様ではあるが、行動も含めて隠密という言葉が全く思い浮かばない様な男だった。門横の壁をわざわざ何らかの手段で破壊して侵入してきたらしいのは大きすぎて門をくぐる事も出来ないからかもしれないが、こんな人目を憚らない真似をしていいと思っているのか。

 

「御庭番衆でござるな」 

 

 剣心が確認を口にしたのは隠密らしさが一つも感じられないからかもしれない。

 

「おう、御庭番衆が一人。ひょっとこ様とは俺の事よ!」

 

 嘘かもしれないが名乗っている……隠密とは何だったのだろうか。

 

「ひょっとこだぁ? ……似合いもしねぇ。いや、意外と似合う間抜け面かもなぁ」

 

 左之助の揶揄に怒りもせずに笑うと、ひょっとことやらは二人の前に堂々と仁王立ちする。見る者が見れば、一目で暗黒大陸に住むと言う現存する中では最大の霊長類を想像する姿だ。

 

「さあて、一体どっちが相手だ? まとめてでも一向にかまわねぇぜ」

 

 そういうひょっとこは素手である。むき出しの腕で筋肉が盛り上がっている事、裸でいる為に隠し武器というのも想像しがたい為に腕力に物を言わせる輩にしか見えず左之助はその通りだと判断するが、剣心は仮にも御庭番衆がそんなものかと疑念を抱く。

 

「何でも構わねぇッ! 叩きのめして阿片の真相を洗いざらいぶちまけさせてやらぁッッ!」

 

「まずはこっちか」

 

 今日一日の鬱憤を全てここで発散するために、左之助は威勢よくひょっとこに殴りかかった。なんでもいいから力に任せて暴れたくて仕方がなかった。

 

 短慮以外の何物でもない暴走は、笑みを深めたひょっとこにより即座に報われることになる……もちろん悪い方向で、だ。

 

 突撃してくる左之助を見てとったひょっとこが、見せびらかすようにばきばきと指を鳴らして拳を思い切り振りかぶる。

 

 互いに自慢の腕を繰り出して拳が交錯するが、己よりも遥かに長い相手の腕をあっさりと掻い潜った左之助が見るからに柔らかいひょっとこの腹に痛打をお見舞いする。深く突き刺さった腕にひょっとこがわずかながら反吐を吐いて、呻きさえ上げられずに苦悶を顕わにする。

 

「そんな大振り、当たるわけがねぇだろ」

 

 最近は特に剣心という俊敏さが売り物の剣士と丁々発止に鍛錬を積んでいるだけもあり、左之助の見切りは格段に上達していた。頭に血が上っていようとも、神速をもって鳴る飛天御剣流の剣士との鍛錬に勤しんだ彼にとっては当たる方が難しい。見事、髪の毛一本程度の見切りでもって交差法の拳を打ち抜ける。

 

 決して鍛え上げられているわけではないひょっとこの柔らかい腹に左之助の拳は重過ぎた。

 

「どんな剛力だろうと、当たらなけりゃ意味はねぇんだぜ?」

 

 あっさりとしすぎた勝利だが、左之助はそれを当然と思い足を止めた。

 

 見るからに戦いには向いていない体格のこの男、殴る以外に戦闘ができないと踏んでいたのだ。

 

「ぐふう……ありがたい事よ。わざわざ射程内に入ってきてくれるとはなぁ」

 

「!?」

 

 左之助は自分の判断が早計であり、剣心の疑念こそ正しかったのだと思い知る。

 

 一体何をする気かはわからないが、とにかく咄嗟に跳び去ろうとした左之助だったが深く踏み込みすぎたおかげでそんな間もなかった。

 

「んなあッッ!?」

 

 左之助は目の前に急に赤い何かが広がったとだけしか分からずそれに面食らい棒立ちとなったが、傍で見ていた剣心はひょっとこがなんと、口から火を吐くのをはっきりと見てとった。

 

「おお、火遁の術かッ!?」

 

 珍妙な老人が素っ頓狂な声を上げるが、そこに物珍しさに端を発する喜びがあるように思えるのは気のせいだろうか?

 

「左之助!」

 

 人が口から火を吐くなど想像もしていなかった上に、当然ながら人が焼かれるところを始めて見た弥彦が顔を照り付ける熱に血相を変えながら喧嘩屋の名前を呼ぶ。

 

「おおらぁッ!」

 

「ぶごぉ!?」

 

 応えた訳でもないだろうが、威勢のいい雄叫びを上げて左之助の拳がひょっとこの顔面を横から急襲した。

 

「あぶねェな、この野郎」

 

「ぐう……必殺火炎吐息、よく避けたな」

 

「け……人の一張羅を台無しにしやがって」

 

 そう言った左之助はいつの間にやら上半身が裸であり、苦々しい目つきでひょっとこの足元に目をやると愛用の悪一文字が燃えている。

 

「だが、もう避けられはするまい。足を痛めたのは一目瞭然、今の拳もその前と比べて弱かったぞ」

 

「ちっ……」

 

 ひょっとこが言うように左之助はあちこちが焦げており、特に左の大腿部に強い焦げ目ができている。最も、一時的に少々痛みを感じる程度で尾を引くような火傷などはないようだった……派手に火を噴いてはみたものの人間を焼き殺すほどの火力はないのだろう。それは当たり前で、どんな方法をとってもそんな高い火力を口から吐き出せば敵よりも先に自分が大きな痛手を受ける。

 

 火炎放射器は古代のギリシアや中国などで使用された歴史を持つが、期待される効果は即座に焼き殺すと言うよりも砦などを燃やす、あるいは閉じこもった敵を焼殺、酸欠に追い込むという使い方が基本だ。つまり、この男は左之助や剣心を倒すと言うよりも神谷道場そのものを焼き討ちするのが目的であるに違いない。

 

 それがどうして正面から単独で殴り込みをかけてきているのかは不明だが……あるいは、手柄を欲する功名心の類なのか。

 

「くくく、さぁて……」

 

「どっちを見ている。お主の相手は拙者でござるよ」

 

 左之助にとどめを刺そうとご丁寧に指を鳴らすひょっとこに向かって刀を突きつけるのは無論、緋村剣心。

 

「ふん……焦らずともまずはこいつを焼却してからだ。お前もきっちり焼いてやる」

 

「そんな大道芸では拙者の髪の毛一本燃やせはせぬよ」

 

 目つき鋭くひょっとこを見据える剣心に、自慢の火遁を大道芸呼ばわりされたひょっとこがいきり立つが……声を発するよりも先に左之助が剣心を止めた。

 

「ちょっと待てよ、剣心。助太刀はありがてぇが、俺はタイマンを逃げるつもりはねぇぞ」

 

 左之助がひょっとこを見据えながら前に出る。仮にも喧嘩屋、一対一の喧嘩で多少不利になったからと言ってそうそう簡単に助太刀をしてもらうなど男の沽券に関わろうと言うものだ。

 

「左之……」 

 

「今の火吹き芸で頭に上っていた血も逆に下りたぜ。悪いがここは、仕切り直させてもらう」

 

 左之助の表情を見た剣心、ここは決して引くまいと見てとり大人しく一歩下がる事にした。ここで自分が前に出るのは左之助にとっては大いに屈辱だろう。

 

「わかった。ここは任せるでござるよ」

 

「応よ! 任せろやッ!」

 

 そんな男同士のやり取りに納得がいかないのは、やはり現実的な女である。

 

「ちょっと二人して何を格好つけているのよ! 左之助、足に怪我をしているでしょうが!」

 

「この程度、へでもねぇよッ! 俺を甘くみんねぇッ!」

 

 薫が後ろから怒っているのかそれとも心配しているのかよくわからない態度で二人のやり取りに食って掛かるが、左之助はそんな彼女の心配を知った事かと見向きもしない。

 

「ああ、もう! 男っていうのはどうしてこう……」

 

 せっかくの黒髪を掻き毟りそうな薫だったが、その時、彼女は偶然に横目で視界の端に人影を捉えた。

 

「!」

 

 剣心達が戦っているのをしり目に、恵が建物の影にこそこそと隠れているのが見える……それを見た薫は何か嫌な予感がした。女の勘、というにはいろいろと足りない彼女だが放置はできないと足音を殺して忍び寄る。

 

 剣道家である彼女に忍び足など技術として用いる手段など全くないが、ここが彼女の自宅であり相手がど素人なら話は別だ。

 

「何処へ行くのよ」

 

 恵が身を翻す……一人逃げ出そうとしている事は明らかだった。ただ立っている姿であれば颯爽とした佳人でありながら、こそこそと逃げ出す姿はその面影もない惨めなものだ。同性である薫にはそれが殊更に強く感じられて見ていられもしない程だ。

 

 それでも声をかけずにはいられないのはあまりにも誠意のない選択を彼女がしたからだ。

 

「剣心も左之助も、あなたの為に戦っているのよ? 巻き込んだ癖にそんな風にこそこそと逃げ出すの? あなたにはこの勝負を見届ける義務があるはずよ」

 

 彼女もまた武術に生きる人間である。

 

 活人だの殺人だのと言う区分け以前に、一般人……恵のように戦わない人間にとっては厳しくも恐ろしい義務を突きつけてくる。だが、間違えてはいない。彼らを巻き込んだのは他でもない恵、その彼女が一人こそこそと我が身可愛さに逃げ出すなど言語道断だ。

 

 恵もそれはわかっている。

 

 だが武術を身に付けているわけでもないただの女にこんな滅茶苦茶な荒事の世界は荷が重すぎた。ましてや渦中にいるのは他ならない恵であり、彼女が引き起こした争いであり彼女を巡り合っているのだ。

 

 正論を口にして自分を恐ろしい世界に留めようとしてくる薫を恵は憎んだ。それが他でもない彼女の身勝手であるなど自覚しているが、恵に全てを受け止める器はなかった。目の前で繰り広げられている暴力と、そして自分のしでかした事の責任から逃げ出したくてたまらない。

 

 それを認めず、引き留める薫が厭わしくてたまらなかった。

 

「戦った所で無駄よ。相手は御庭番衆の中位隠密。下位隠密の癋見とは訳が違うわ」

 

「いいえ、勝つわ」 

 

 恵にしてみれば当然の話を、薫は一刀両断に切って捨てた。

 

「剣心も左之助も、ただの剣客でも喧嘩屋でもない。あなたは彼らの実力を知らないだけよ」

 

 仲間の強さを信頼する薫の声色も表情も、今の恵にしてみればただただ疎ましい。そこには逃亡を妨害される苛立ち以上に、そういう相手がいる事への嫉妬もあった。

 

 彼女の前で、あの粗暴な男が身の程知らずに御庭番衆に挑もうとしている。

 

 一度焼け焦がされた分際で何を、と無謀さを嘲る。あの男が勝たなければ危ういのは自分だが、まだお人好しの剣客がいる。だから、自分にとって危険な男はやられてしまえ。

 

 いっそ怪談じみた目で自分を睨んでいる恵になど気が付きもせず、左之助は火傷などという物珍しい不覚傷を与えてくれたひょっとこに向かって、お前に臆するところなどただの一つもないと態度で示す。

 

「ふん、素直に二人がかりで攻めてくればいいものを、つまらない意地で骨まで焼き焦がされたいか」

 

 痛めた足など何するものぞとゆっくりとした足取りで向かってくる若造を、ひょっとこは滑稽な阿呆と笑って見下した。

 

「一発芸のちんどん屋が何をふんぞり返って偉そうな面してやがんでぃ。お前の火遊びなんぞ、二度も三度も通用する馬鹿はこの世にいやしねぇよ。もちろん、この俺含めてな」

 

 にやりと笑う顔を強がりと判断するのが恵、自信と受け取るのが神谷道場の一同。そして、侮辱と受け取ったのがひょっとこだ。

 

「火遊び……一発芸だと?」

 

「他に何があるってんだ? 隠密だ? 芸人小屋にでも行ってこいや」

 

 ぶちり、と奇妙な音を全員が聞いた。正確には、聞いたような気がした、だった。間近にいる左之助と剣心はもとより、薫や恵の耳にも音ならぬ音は届いた。

 

「殺してやる……俺様自慢の技を手品だ大道芸だと言うような奴は……どいつもこいつも火葬してやる!」

 

 大きく息を吸い込み、かちり、と音が口元から聞こえてくる。それが火術の種なのだろうが、左之助はまるきり意に介してはいなかった。むしろ、相手の攻撃を正面に立って待っているようにしか見えない姿に剣心はため息をつきたくなった。

 

「先の火炎、まともに喰ったのがよほど悔しかったと見えるでござるな……やれやれ」

 

 炎そのものを待ち受ける左之助に向けて、困ったものだと思いながら剣心はそれでもひょっとこが道場そのものに害をなそうとするなら一瞬もなく止める為に内心ではきっちりと身構えていた。

 

「左之! 道場を燃やされるような羽目になるなよ!」

 

「わかってらぁッ!」

 

 剣心の喝に意気揚々と気合十分で応える左之助を血走った目でにらみつけ、胸と腹を河豚よろしく膨らませたひょっとこが肺に溜めた酸素と二酸化炭素の複合を一気に吐き出した!

 

「焼け死ねぇッッ!」

 

 業火が帳の降り掛けた道場を一瞬だけ昼間以上に照らし出す。明治の闇に慣れた一同の目に厳しいほどの眩しさだ。

 

「しゃらくせぇんだよ、放火魔野郎がッッ!」

 

 目を細める恵は、そして彼の戦っている姿を知っている弥彦と薫もまた左之助が素早く避けようとするものだと思っていた。だが、彼はしっかりと地面を踏みしめて両手を眼前に構える。

 

 その構えを見た時点で左之助の意図を察したのは緋村剣心と見物人で火遁の術だなんだとはしゃいでいる老人だけである。

 

 掲げられた左之助の腕が複雑な動きで様々に円を描く。素早い動きで振られる腕が人を一人を飲み込めるだけの炎をかき回し、速すぎる故に炎に焼かれさえしない。

 

「!」

 

 ひょっとこがかき回される火炎という常識外れの光景を見て、火を吐き続けて声を出せないままに仰天の表情を見せる。

 

「マ・ワ・シ・受・ケ……見事な……」

 

 その顔が見たかった、と左之助はにやりと笑い、剣心は神業の披露になんだか奇妙に片言な感心をした。

 

 既に随分と昔のようにさえ思える河原での果し合いにおいて、喧嘩屋が見せた飛天御剣流の剣さえ捌いてみせた鉄壁の防御。

 

 しかし、よもや拳や刀どころか炎までも捌ききるなど想像さえしていなかった。まあ、普通に考えれば炎を武器にするような敵などいるはずもないのだから当然だが。

 

「おおお……路上で死刑囚のドリアンを相手取った時の独歩バリじゃあ……実に素晴らしいッッ!」

 

 興奮も露わな歓声など聞こえはしないひょっとこは対照的に貌を青ざめさせている。

 

 呼吸に限度が来たのか火炎を収め、青ざめた表情を更に悔しさに歪めて左之助を睨みつける。

 

「馬鹿な……この俺の火炎吐息を、ただ腕を振り回すだけで払いのけるなど……そんな馬鹿な事があるか!」

 

 叫ぶおかげで口の中が丸見えとなっている。そのおかげで種も見えた。

 

「あれは……火打石に、何かの管か。左之! おそらくその男、口の中に歯のように加工した火打石と油のようなものが出てくる管を仕込んでいるぞ! おそらく、腹の中に袋でも仕込んでいるでござる!」

 

「へっ……どうせそんなこったろうとは思っちゃいたが、まさか本当にそこまでやっているとはなぁ」

 

 一瞬でよくもそこまでわかるものだと感心せざるを得ない分析である。確かに左之助の言う通り、口から火を噴くなど他にはそうそう手段がないだろうが、そうすればできるとわかっていても同じ真似をするようなものはいない。ひょっとこが選択したのはそういう手段だ。

 

「そこまでして火なんぞ噴きたいもんか? そんなもんよりも、拳骨で殴った方がよっぽど早くて強いって事を教えてやるぜ!」 

 

 一気に駆けだす喧嘩屋の強襲にひょっとこは見るからに太くて力強い腕を振り上げるが、それよりも左之助が潜り込む方がはるかに先だった。

 

「はや……ッ!」

 

 ひょっとこの目が追い付かない速さで懐に跳び込んでみせた左之助がにやりと笑う。その笑みを確かに見たひょっとこは怒りに任せて横殴りの拳を見舞うが、何の感触も伝わりはせずあっさりと躱される。 

 

 ひょっとこは姿そのものさえ見失ってしまったが、彼にしてみれば霞のように見えてしまった喧嘩屋の若造は、その場で蛙のようにしゃがみ込んで拳を躱していた。

 

 ひょっとこ自身の太すぎるほどに太い腕が左之助の動きを隠してしまったのは、正に皮肉としか言いようがない。

 

「おおらぁッッ!」

 

 足の痛みなどなにするものぞ。

 

 左之助はしゃがみ込んだ事で膝に蓄えた力を全て一気に開放し、伸びあがるようにひょっとこに襲い掛かる! 両の掌を何かを捧げ持つような形で頭頂に構え、その掌打を打ち込むというよりも全身を砲弾のようにしての体当たりに近い、重たすぎるほどの強烈な一撃がひょっとこの顎を真下から襲う。

 

 その攻撃を目の当たりにした剣心は、自身の身に着けた飛天御剣流の技の一つ“龍翔閃”に似ている技だと思った。もしや、あの河原の勝負で正にその技の威力を身をもって知った左之助の編み出した彼なりの龍翔閃なのかもしれない。

 

「まだだぜッ!」

 

 いや、左之助の攻撃は更にとどまらず、肉と肉のぶつかり合う独特の重たく鈍い音が消えぬ間に頭頂部に構えた掌打をもってひょっとこの顎を捕まえて頸部を支点にして一気に跳ね上げた。顎を思い切り打たれて骨まで響く痛恨の痛手を受けたひょっとこに追撃をこらえるだけの力などあるわけもなく、かち上げられた顎と重たい頭蓋そのものが頸椎に負担をかけ、同時に脳震盪を併発させた。

 

 ひょっとこは物も言わずに白目を剥くと、その場に大の字になって倒れる。同時に背中で木の折れる音がすると、彼を中心にじわりと液体がにじみ出て広がった。

 

「あん?」

 

「これは……」

 

 相対していた神谷道場の面々からは見る事が出来なかったが、どうやらひょっとこは何かを背負っていたらしい。倒れた拍子に持ち主の重すぎる体重に潰されてしまったようだ。

 

「油でござるな」

 

 しゃがみ込んで指にそれを塗り付けた剣心にぬるりとした感触が伝わり、独特の臭いが鼻につく。

 

「ふうん……これが手品の種かい。小便かと思った」

 

「…………左之……勘弁してほしいでござるよ……」

 

 率直かつ嫌すぎる左之助の感想に、さすがのお人好しも渋面をした。手に着いた油を払い落とす動作もどことなく乱暴である。

 

「ま、楽勝だったな!」

 

「その割には丸焦げでござるよ」

 

 失言を誤魔化すつもりなど毛頭存在せず、そもそも気にしていない左之助が意気揚々と見えを切るが、剣心は仕返しもつもりはないが苦笑いを浮かべつつもあえて苦言を呈する。彼が油まみれだった指で示すのは既に炭になりつつある左之助の一張羅。

 

「あの御仁が見ていたら笑うか怒るか、どちらでござる?」

 

「んが……」

 

 “あの”師を出されてはさすがに二の句を告げられない喧嘩屋が間抜けな顔を披露しているのを横目に、薫も勝利に目を輝かせて感心していた。彼女も一流派を守る身として、そこらの素人よりもずっと今の攻防の凄さを理解できるのだ。

 

「勝っちゃった……やっぱりなんだかんだ言っても強いわねぇ……」

 

 彼女の声が滑稽な程に的外れと聞こえるのは恵である。

 

「強いなんてものじゃないわよ……なんなの、あいつ……」

 

 二人が強いと言った所で、所詮はそこらの剣客とチンピラ。御庭番衆相手に勝ち目などないと踏んで時間稼ぎが関の山と踏んでいた恵だったが、彼女の予想を外して左之助は御庭番衆の中堅どころを一蹴。剣心は戦ってさえいない。

 

「あの二人は自慢の、仲間よ」

 

 誇らしげに微笑む薫だが、恵にしてみれば笑えもしない。剣心だけならまだしも、自分に敵意をむき出しにしている左之助までがあれほど強いだなどと、むしろ追い詰められた気分だ。

 

「……仲間」

 

 そして、それ以上にその言葉が身に染みた。

 

 彼女自身が敢えてそんな言葉から縁遠い生き方を選択しているという自覚はあったが、それでも“そうありたかった”訳ではないと叫びだしたくなる時もある。そんな弱々しい自分が表に出そうになるのを必死になって誤魔化し、今後の身の振り方を考えて意識を逸らす。

 

 あの二人は強い。

 

 左之助の強さは証明されたし、剣心の方も間違いなく強い。たった二人だというのに、あるいは……と希望を持てるほどにだ。だが、剣心はともかくとして左之助の方は明らかに自分の素性と行いを察して敵視している。

 

 今、彼が自分に手を出してこないのは恵を手繰り糸にして観柳を手繰り寄せようと考えているからにすぎないだろう。

 

 剣心はどうやらただのお人好しとして自分を救おうとしてくれているようだが……その手にすがるか、それとも左之助の敵視を考慮して逃げるか。

 

 ……逃げる事ができるのか。このまま道場に身を寄せていた方がよくはないか。左之助は剣心達に抑えてもらえば安住の地を手に入れられるのではないのか。

 

 ……いつまで留まれるのか。そもそも普通に考えて観柳の私兵団と隠密御庭番衆に二人で勝てるはずがない。腕に覚えがあっても数が違いすぎる。その上、今回は真正面から喧嘩を売りに来たが、それに失敗した以上はからめ手は必至。

 

 あの手この手で嫌がらせを受けたら? それに今回はたまたま勝てたが負けてしまえば? 仮にその時捕まらなくても、一度負けてしまえばいくら剣心がお人好しでも大した縁のないような自分を無償で守ろうという気はなくなるに違いない。

 

 右にも左にも身の振り方を決められず、風に吹かれる草のように方針を左右に動かす棒立ちの恵だったが、彼女は……そして剣心達も当たり前の話を忘れていた。

 

 敵は一人とは限らない。

 

 ひょっとこがあまりにも乱暴な手段で正面から来たために、そんな当たり前の話を忘れていた。忍ぶはずの隠密が、いったいどうしてこんな馬鹿のように殴り込みをかけてきたのか。

 

「!」

 

 陽動、と断じた剣心の顔色が変わった時にはもう遅かった。

 

「気を付けろ! まだ何者かが潜んでいる!」

 

「ぶっ殺す!」

 

 叫び声に目を向ければ、道場の塀にかかる太い枝の上で小兵が一人身構えている。

 

「そこか!」

 

 癋見という名前を剣心は知らないが、賭場に恵を取り戻しにきた御庭番衆の一人であるのはすぐにわかる。同時に、その男の武器もまた思い出していたが……もちろん、もう既に遅かった。

 

 指一本弾くのにどれだけの時間がいるか。少なくとも、一瞬以上は決して必要ない。剣心が飛び上がって阻止しようとしたその時には、もう既に小さな牙は放たれて標的に突き立つために宙を舞っている。

 

 剣心、左之助はもしや自分が狙いかと思い身構えたが、男の眼はなんと取り戻すはずの恵に向かっている。

 

「しまっ……」

 

 遅い。

 

 剣心はもちろん左之助、薫、誰も何もできずにただ暗がりと小ささで見えもしない鏢が人の命を奪う為に飛んでいくのを拝んでいるしかない。無為、正にそれ以外の何者でもない無様な傍観者の眼前で、守ると決めたはずの命が奪われる。

 

「あぶねぇ!」

 

 それを正に紙一重で救ったのは、なんとここまで誰からも顧みられることがない少年、明神弥彦だった。飛び出してきた少年は、果たして小さな礫の襲来が見えていたのか偶然か、受け止めるように突き出した細腕を見事盾にして恵の命を救ってみせた。

 

 はっきり言ってこんな真似は十に一つもできれば驚きの世界であるが、だからこそ“ぶべ”と潰れた蛙のような声を上げて地べたを嘗めた彼は間違いなく殊勲者だろう。

 

「なにぃ!? つうかあのガキ、どっから出てきやがった!?」

 

 ハッキリ言えば今までまるっきり眼中になかった子供が急に飛び出してきたので仰天する癋見だった。隙だらけだが、剣心も左之助も腕から血を流して倒れた弥彦に注意を引かれていたので彼を狙いはしなかった。

 

 その弥彦、どうやら鏢に腕を抉られたものの小さな傷に過ぎず、心配して叱責する薫に向かって負けん気強く言い返せる程に元気であったが……突然白目をむき、物も言わずに倒れた。

 

 顔色は悪く、意識を失い呼吸も荒くなっている。明らかな異常事態に全員の顔色が変わる。

 

「毒!?」

 

「まずい!」

 

 一目瞭然の非常事態に左之助と薫の顔色が青ざめた。はっきり言って喧嘩屋と剣道家に過ぎないこの二人は、このような事態には無力だ。解毒しようにもそのいろはさえ知らない。

 

 そんな右往左往する事しかできずに血相を変えている二人を見下ろして、件の男が楽し気に笑いだす。己は安全圏にいると考えて、実にいい気なものだった。

 

「ククク! 出しゃばった報いだぜ! そのガキはあと一時間と保たねぇ! 毒殺螺旋鏢! こいつが御庭番衆癋見の真の技よ!」

 

 技も何もただ得物に毒を仕込んだか仕込んでいないかの違いに過ぎないが、そんなケチな手管を誇らしげに技と呼称した阿呆はまるで歌舞伎役者のように樹上で大見えを切って喜んでいる。

 

「手前ら全員、毒に染めてやる! 次はお前だ、赤毛やろ―」

 

 もちろん、そんな間抜けをこの男が見逃すはずがない。

 

 この高さに剣客や喧嘩屋など手出しできまいと正に高をくくっていた隠密は、油断を一瞬のうちに強烈な痛みと共に思いしる間もなく意識を失う事となる。

 

 悠長に勝ち誇っている間抜けがようやく次の標的を探し始めた時には気絶しているひょっとこ以外は誰もいない有様であり、思わず間抜け面を晒した自分の頭上から、憤怒の形相をした剣心が得物を振りかぶり襲い掛かっているのに、自分が影で覆われてからようやく気が付いた。 

 

 恐ろしい何かが来た。それ以上彼に思考する時間は許されなかった。

 

 もちろん、そんな状態から逃げる事など癋見には断じて不可能。

 

「ぐべぇ!?」

 

 一撃で地べたに叩き落した隠密にそのまま切っ先を突きつけようとした剣心だったが、なんと地べたに転がっているのは件の隠密ではなく人の上着を着こんだ細めの丸太。

 

「!?」

 

 驚く間もなく引かれるように倒れたままのひょっとこへと目を向けると、そこには気を失った癋見の襟首を捕まえた一人の男がひょっとこを剣心から庇うように立っている。

 

「…………」

 

 一体いつの間に、と口にしないのには力が必要だった。

 

 剣心の前に立っているのは正に幽鬼のような男だった。

 

 衣装の細かい名前など知らないが、なるほど他の二人と比較すれば隠密らしい服装に身を固めている。だが両腕には何故だか派手な横縞模様の入れ墨がされており、顔を隠す為だろう被っている面はなんと歌舞伎などで使われている般若面ときた異様の極み。

 

 暗がりに静かに佇む姿はまるで怪談で、子供など夜に見てしまえば泣きじゃくること請け合いだが、卓越した剣客である緋村剣心の眼には男の佇まいの一つ一つから察せられる隙の無さこそが不気味だった。

 

「剣心、弥彦が! 弥彦がっ!」

 

「おい、弥彦! てめぇ、しっかりしろ! 弥彦!」

 

 薫の泣き叫ぶ声と、左之助の慌てふためく声が剣心に逡巡を許さなかった。毒の処置など剣心も心当たりがない以上、下手人を確保するより他に弥彦が生き残る術はない。 

 

「くっ!」

 

 歯噛みする剣心は、自分が弱くなっていると自覚した。

 

 剣腕の話ではなく、勝負勘や戦場の把握などが著しく衰えている。ひょっとこの無暗に派手な登場も、かつての自分なら陽動だと気が付いて当然だった。昼間の賭場でも恵は庇えたが、その前に左之助の友人が傷つくのは止められなかった。

 

 そして、今度は弥彦……失態にも程がある。断じて死なせない、と決意を抱き前へ踏み出す。

 

「!」

 

 だが、彼が踏み込む前に般若面が“ここまで”と言わんばかりに手で阻む。

 

「よそう。これ以上戦っても高荷恵奪回は無理と見た。自分としては倒れている二人を回収して、一刻も早く御頭に報告したい」

 

 実に勝手な物言いとしか言いようがない。

 

「そちらから攻めてきたんだ。引き留めはせんよ。だが、小さい奴は弥彦の解毒の為に置いていってもらう」

 

「敵方にそうまでする義理はない」

 

 これは納得がいくが、同時に剣心からすれば引く理由は消えた。

 

「ならば、是が非でも置いていってもらう!」

 

「…………」 

 

 鋭い眼差しに奇妙な敵と切っ先を映しながら切りかかる剣心を前に、男は冷静に身構える。左之助のように徒手で構えた男が、冬でもあるまいに手袋をしているのに剣心はそこで気が付いた。

 

 剣と拳がぶつかり合い、鈍い音ではなく鋭い音がした。

 

 般若面は剣心の太刀を根本付近で右裏拳をもって受け止めると、そのまま押すように往なしてみせた。 

 

「!?」

 

 躱すようにして往なすのならともかく、鋼の太刀を受け止めてから押しのけるなど普通ではありえない。これではまるで太刀の鎬合いだ。

 

「涼しげな顔の割には、なかなか激情家だな」

 

 顔色などわかるはずがないが、余裕を持ってさえいる平然とした声色に無理は感じられない。

 

 逆刃とは言っても真剣を拳で受け止めてなお平然としている般若面についつい驚く剣心の顔面に向かって、横殴りの左拳が空気を切り裂いて襲い掛かる。

 

 刀を右で捕らえたままの般若は的中を確信していた事だろう。だが、今度は彼が驚く側だ。

 

 拳に感じるはずの頭部の重たい手ごたえがない。しまったと思った時には既に遅かった。

 

 さすがは幕末の雄、緋村剣心。

 

 顔面に襲い掛かる拳をかろうじて躱しながら、咄嗟に柄を男の胴に打ち込んでのけた。けして勢いはなかったが命中したのは肝臓、人体急所の一つだ。

 

「ぐっ!」

 

 苦痛の呻きは一言だけだった。両者勢いのままに分かれてにらみ合うが、それぞれ驚きを胸に隠していた。

 

 般若は言うまでもないが、剣心も先ほどの拳は余裕をもって躱したはずが頬に熱さを感じるほどにギリギリ過ぎた事に驚いていた。ここの処しばらくは左之助相手の稽古で無手の相手は慣れたつもりだったが、まだまだ甘かったという事か。

 

「今日はここまでだ」

 

 般若は距離が開いたのを幸いに仲間二人を抱えると、そのままふわりと重みを感じさせない動作で飛び上がる。抱えられる程度の小兵はともかく、己よりも遥かに大きい大男を背負っての動作としては驚くべきだ。

 

「焦らずとも高荷恵を匿う以上は、いずれ戦う時は来る。勝負の決着はその時までお預けだ」

 

「待て!」 

 

 当然待つわけもなく、剣心が間合いを詰めて追いすがろうとした間一髪で般若面の隠密はまさしく妖怪さながらに闇へと消えた。

 

 失態に次ぐ失態。だが剣心に歯噛みをするような暇などない。

 

 泣き叫ぶ薫の元へと駆け寄り、腕に抱かれる弥彦を見れば白目をむいて青ざめている姿が否応なく剣心の危機感を煽る。

 

「どうでぇ?」

 

「どうと言われても……」

 

 率直に言ってしまえば、打つ手がなかった。かつて幕末の京都で闘争に明け暮れた頃も腕のたつ敵、火薬や罠を使う敵などに出会った事はあっても毒を使う敵など滅多に会う事はなかった。

 

 要人を暗殺する際に毒を盛るという話はあるが、剣心は元々暗殺稼業として仕掛ける側だ。護衛だった頃には幸いそんな手を使う相手に出会う事はなかったが、結果として今は手立てに迷っている。人生万事塞翁が馬という話もあるが、あんまりと言えばあんまりな話にすぎる。

 

「刀創傷や骨折の処置なら経験があるが解毒となると……とにかく、まずは毒を吸い出さないと」

 

「わかった!」

 

 下手人は一時間もたないと言っていたが、それを鵜呑みにはできない。おまけに弥彦は子供で体が小さい。たとえあの一言が正直なものだったとしても実際にはより短い時間しかもたないだろう。

 

「止しなさい!」

 

「!?」

 

 だが、そんな拙速しかないような状況で薫の肩に手がかけられる。振り返れば、手を伸ばしている恵がそれまでの様子と一変して毅然とした態度で彼らを……正確には弥彦を見下ろしていた。

 

 それまでの蓮っ葉な様子でもなければ、出会った際のように作った儚さでもない別人の顔だ。

 

「弥彦を見殺しにしろっていうの!? あなたは引っ込んでいて!」

 

「お馬鹿! 傷口から毒を吸い出すのは細菌の感染を引き起こして反ってよくないのよ!」

 

 一同、訳の分からない事を言われて目が点になった。

 

 毒を吸い出すのは解毒の一般的な初歩。それを駄目だなどと言われても何がなにやら。そもそも、細菌とは何ぞや。

 

「素人の出る幕じゃないわ」

 

 困惑する一同を置き去りにして恵は弥彦の額に手をのせると緊張感をもって、しかし務めて冷静に彼の様子を観察している。いや、これは容態を診察していると言うべきか。

 

「これは……曼荼羅葉の毒!」

 

 弥彦の状態を確認しただけで即座に毒の種類を特定すると、彼女は薫に医師の手配、剣心に治療の場を設営、左之助に氷の用意を指示する。やけにテキパキした様子に驚きと困惑を隠せない一同の尻を叩くように凛として叫ぶ。

 

「解毒治療は時間との勝負よ! 急ぎなさい!」

 

 こんな状況、この相手だというのに逆らい難さを叩きつけられた一同は追い立てられるように四方へと散った。

 

 そして、すっかり夜も更けて日付も変わろうかという頃。

 

 薫の呼んだかかりつけの医師による手当の甲斐あって弥彦の容態は安定し、危機は脱していた。ただし、医師曰く自分の腕だけではなく予め記されていた薬の調合まで記されている記書きのおかげだと言う。

 

「……」

 

 弥彦が寝ている傍で何やらワイワイとやっている明かりを見つめながら、まるで彼岸に足を踏み入れたような表情で恵はひっそりと佇んでいる。まるで波間にそのまま姿を隠してしまいそうな、そんな不吉な印象を与える姿だった。

 

 ちょうど光の向こうにいる薫たちとは真逆。暗がりの静かな恵と明るみで賑やかに騒いでいる薫と左之助。きっと弥彦が峠を越えたことに安堵した薫がはしゃいでいるのだろう、と当たりを付けた彼女はそのまま幽霊のように身を翻した。

 

 あの少年が持ち直したのであれば、これ以上はいるべき理由はなかった。

 

「どこへ行くのでござる?」

 

「!!!」

 

 いきなり目の前に現れた剣心にそれまでの愁いを帯びた様子を一変させて飛び上がって驚いた。まあ、無理もない。

 

「女性の夜歩きは危険でござるよ」

 

 などと抜かす剣心だが、驚かされた恵は胸を押さえながら頬を引きつらせていた。ほとんど幽霊を見たような顔である……実は彼女も剣心も知らない話だが、彼らの足元には勝負は終わったらしいがいつになったら帰れるんじゃろうか……などとぼやいている妖怪がいるのだった。

 

「……あの少年に付き添わなくていいの?」

 

「大丈夫。あれで弥彦はなかなか根強い男でござるよ」

 

 それはそれとして二人の会話は続いていく。

 

 剣心が言葉の訛りで見抜いたのだが、どうやら恵は会津……あの白虎隊で名高い会津(福島県)の生まれであるらしい。先祖代々医術を志している一族らしいが当時としては驚いた事に男女の区別なく医学を学び、技術と知識の向上、そして何より治療のためなら誰にでも平等に何でもするという当時の身分制度からすると鼻つまみ者でもあった。 

 

 更には西洋を忌避する幕府の政策に喧嘩を売るような真似までしており、なんと西洋医学……当時蘭学と呼ばれている最先端の医学を学ぶために一家揃って脱藩までするという過激な真似をしたそうだ。

 

 しかし純粋な技術を惜しまれた一家は奇跡的に免罪されて国許に帰る事が出来た。が、運命の悪戯……というよりも必然か。帰参した直後に合図では戊辰戦争が起こり一家は離散。

 

 おそらく、戦争を見越して彼らの医療技術を必要としたから帰参の許可が下りたのだろう。思惑通りに恵以外の家族はそろって戦争の中で医術を振るい藩の人間を助け、そして死んでいったそうだ。

 

 ただ、死亡がはっきりしているのは父親だけであり母と二人の兄はあくまでも行方不明……そこに一縷の希望を見出し、それにすがりながら彼女はやがて上京してとある医師の助手になった。

 

 この医師が、観柳と裏で繋がり阿片を製造していたのだと彼女は言った。

 

「それでうまくいっていたらしいわ。あいつが“これ”を作り出すまでは、ね……」

 

 袖口から彼女が取り出したのは、あの時剣心が拾った物と同じ薬包だった。

 

「通称“蜘蛛の巣”。精製方法が特別で、従来の半分程度の材料で作れる上に依存性は従来の倍……つまり四倍の儲けが出せる、本格的に出回れば、東京を五年で阿片漬けにできる代物よ」

 

 まさしく麻薬ならぬ魔薬である。

 

「大量販売を考えた観柳が精製方法の公開を迫ったけれども、医師は利益独占の為に口を割らなかった。その内に商談は暴力を用いるようになり、加減を誤った観柳たちは医師を殺してしまい、あいつらは助手として精製に携わっていた私に目を付けた……」

 

 恵はひょっとこが壊した壁の横に力なく凭れた。自分がどうしようもなく卑しい女だと言葉にして語ると思い知らされるから、力など出てくるはずがなかった。

 

「自分が作っていた薬が、人を助ける為ではなくて人を破滅させるその真逆だと知らされた時には死のうかとも思ったわ……」

 

 目の下から熱いものが湧いてくる。声が震えて割れる。

 

 泣くな、そんな資格は自分にはない。

 

 そう自分自身に言い聞かせている恵だったが、それでも止められずに込み上げてくる熱い滴が頬を伝い始めた。

 

「でも、死にきれなかった……生きていれば、医学に携わっていれば、離れ離れになった家族といつかは出会う事ができるかもしれない……そんな希望を捨てきれなかった……そんな勝手な希望にすがって……人を死に追いやる薬を三年間も……」

 

 ぽろぽろと、ぽろぽろと涙の滴が頬をとめどなく伝っていく。

 

 気の小さな手弱女の涙でもない、蓮っ葉な女狐の涙でもない、おそらくはこれが本当の高荷恵の涙なのだろう。

 

「けれど、恵殿が未だ観柳に追われているのは未だにその製法を知る者が恵殿以外にはいないからでござるよな」

 

「え……」 

 

「“蜘蛛の巣”の生産量を最小に抑えて、せめて犠牲者の数を最小に抑えようと罪悪を放り出さずに敢えて自分一人で抱え込んだのでござろう?」 

 

 剣心はそんな彼女に手を差し伸べた。

 

 彼の言葉はまるで筋が通っていない。敢えて恵を庇う為にこじつけているに過ぎない。ただ、剣心の笑みは恵にとって縋りたくて仕方のないずっと待ち伸びていたものだ。

 

 お前はよく頑張った。

 

 許してやる。認めてやる。守ってやる。

 

 そんな全てがこもっているように恵には思えた。

 

「そうして三年間も苦しみ続けたのなら、そろそろ許されて自由になってもいい頃でござるな」

 

 三年間、人を地獄に陥れる薬を作り続けた時間を剣心は恵が苦しみ続けた時間であると言った。それは恵にとって意外過ぎる救いの言葉だった。

 

「いずれにせよ、連中がやすやすと手を引く訳がござらん。もうしばらく道場にいた方がいいでござるよ」

 

「でも……」

 

 壊された壁を見れば、とてもそんな図々しいマネはできない。そもそも、こんな真似をされて家主であるらしい少女がそれを許すとは思えない。

 

「いいでござるな? 薫殿」 

 

 そう言った剣心は顔を向けた方を見ると、門からぞろぞろと薫、左之助、そして先程薫が呼んだかかりつけの医師である老人が次々に顔を出した。彼らが恵の告白を聞いていたのは明らかだった。

 

「!」

 

 そしておそらく、全て剣心の狙い通りだったのだろう。薫は赤い顔をしながらいかにも不承不承という様子であったもののしっかりと了解した。こんな懺悔じみた話を聞かされて、しかも剣心が彼女を守ると言っているのに……そこで撥ねのけられるほど情がない娘ではないのである。

 

「事後承諾はいい性格をしているのぉ」

 

 誰にも聞こえない光成の言葉通り、そこに付け込んでしまう緋村剣心はなんだかんだ言ってもいい性格をしていた。

 

「あとは観柳たちをどうするかでござるな」

 

 さらりと口にして、剣心は彼女を先導するように門をくぐっていく。それに引かれる恵と薫、そして医師の姿が暖かい光の下へ消えた中で一人だけ残っている男がいる。

 

「…………」

 

 相楽左之助が、険しい顔を崩さずに一同を見送っていた。

 

 詳しい事情などは知らないが、この顔はまずい。光成は明確にそう感じて大きく息をついた。今の自分は幽霊のようなもので、何をどうしたところで干渉できるものは何物もないのだが……こんなつまらない理由で類稀なる強者たちが歪んでしまうというのは認め難かった。

 

 だが、そんな思いは関係ござらぬ喧嘩屋は舌打ちを一つすると……寒々とした空気の中を切り裂くように踵を返してどこかへ消えていった。

 

 

 

 

 件の襲撃から一週間。

 

 事態は穏やかに緩やかに停滞している。

 

 あれから御庭番衆が攻めてくることもなく、恵が神谷道場に少しずつ馴染んでいくだけの穏やかな日々が続いていた。

 

 襲撃当日、翌日、二日、三日……時間が経つにつれて剣心はともかく弥彦、薫の警戒心は目に見えて落ちていき、恵もまた少しずつだが確かに警戒心は薄れている。

 

 そんな事はあり得ないのに、だ。

 

 武田観柳が高荷恵、引いては阿片を諦めるなどありえない。少なくとも、今はまだ損害と利益の天秤が利に傾いている内はまだまだ終わらない。それは誰しもがわかっている事だが、剣心以外は時間の経過と共に喉元を熱さが過ぎ去ってしまっていた。

 

 今も、恵が作ったおはぎを次から次へと頬張って、師弟揃って栗鼠か猿のような有様である。

 

 何やら剣心が口を滑らせたらしく薫に殴られ、それを恵が大胆にも膝の上に乗せて何やら艶っぽく囁いている。それを見とがめた薫が彼女に食って掛かるが、きっちり言い負かされて落ち込む……随分と平和な光景だった。

 

「朝っぱらから何を滑稽劇してやがんでぃ」

 

 冷めた様子ながらも棘を残した声をかけてきたのは、左之助だった。

 

 手には白い薬包を弄び、呆れた顔で現れた左之助は無造作にそれを剣心に向かって放り投げる。

 

「爺の鑑定許可が出たぜ。そいつは間違いなく巷を騒がせている新型阿片だってよ」

 

「そうか……ところで、朝飯もまだであろう。どうだ?」

 

「いらねぇよ。阿片女の作った物なんざ嬢ちゃんの手料理以上に喰いたかねぇ」

 

「…………!」

 

 ぎろり、と刺し貫かんばかりの鋭い眼差しは恵の緩みかけていた心魂を鋭く突き刺す。同時に薫の女心も音をたてて軋む。

 

「ちょっと待ちなさい! 今のは聞き捨てならないわ!」

 

「ま、まあまあ」

 

 何とか剣心が取り押さえるが、そのまま彼ごと引きずっていきそうな勢いである。

 

「昨日一晩寝ていねぇンだ。寝間を借りるから半ドンなったら起こしてくれや」

 

 知った事じゃねぇやとさっさと尻に帆をかける左之助に恨み言をぶつける薫を何とか押しとどめる。殊更に強烈な力に引きずられそうになり自身の非力を疑う剣心であったが、どちらかと言えば少なくとも今現在の薫が規格外という方が正しい。

 

「恵殿も気にするなでござるよ」

 

 更に恵の落ち込みようにそちらにも言葉をかける。なんとも忙しい事である。

 

「恵殿が阿片を作ったと聞いても過去の素性も諸共に聞いてしまい、責めるに責められなくなった。おまけにあれから一週間、観柳一味の動きも全くない。握った拳の振り下ろしどころがわからなくなってしまった。そんな感じで苛立っているのでござるよ……しばらくは、そっとしておくのがよかろう」

 

 さらに付け加えると、御庭番衆の襲撃に備えて剣心との日々の稽古も軽めにせざるを得ない事も左之助にとっては不満であり、力が有り余っていた。

 

「…………」 

 

 井戸端で皿洗いなどの食後の始末をしている恵の脳裏に、左之助の強烈な怒りや侮蔑が繰り返し甦る。

 

 阿片女。

 

 彼女を端的に示す蔑称が繰り返し脳内に木霊する。それは最初こそ左之助の声だったが、いつの間にか剣心を筆頭とする神谷道場の面々の声に……そして、彼女の記憶の彼方にある離れ離れになったままの家族の声に変わっていた。

 

 自分が酷く鬱になっている自覚がある恵は何も考えずに手を動かす事に専念しようとして……そして、彼女に声がかけられた。

 

「ごめんください」

 

 びくり、と顔を上げた彼女が出会ったのは人のよさそうな老人だった。何か大きな荷物を背負い、のんびりとした様子で敷地に足を踏み入れている。

 

「毎度どうも御贔屓に。貸本屋です」

 

 書物はまだ高価な時代であり、個人個人で本を賃貸する商売が成立している時代だった。

 

「新本がたくさん入りましたよ。どうですか?」

 

「はあ……」

 

 商売人らしくずかずかと入ってきつつも、決して不快にはならない。そういう距離を意識しているらしく恵も戸惑いながらも無下にするわけにはいかないと立ち上がって応対をする。

 

 それが無防備だと、そもそも一人でいること自体が気抜けしすぎだと彼女は気が付かずに致命的な失敗をしてしまった。

 

「お姐さん、最近よく見ますねぇ。ここに新しく住むんですか?」

 

「いいえ、そんな。ただの居候で……」

 

「そうですか」

 

 荷物を下ろして広げようと蹲っていた老人が、手を拭っている恵に向かって顔を上げた。

 

「それはよかった」

 

 突き付けられたのは、般若面に覆われている顔。

 

「!」

 

 声を上げる暇もなく、口は手で覆われて突き付けられたのは一本の試験管。

 

「お静かに……下手に騒げばそこの井戸にこれを投げ込みますよ」

 

 般若の声が先ほどの好々爺と同じなのが酷く不気味だった。持っている試験管の中で不気味に光るそれが水銀であると悟った恵にとっては不気味さに輪がかかる。

 

「武田観柳が話をしたいと言っています。なに、話だけで連れて帰る気はないとの事。しばしご足労願えますか」

 

「…………!」

 

 恵は脅迫に屈した。

 

「……話って何よ」

 

 御庭番衆が見繕ったのだろう、剣心にも見つからずいなくなった事を怪しまれない程度のちょうどいい位置に観柳は待ち構えていた。

 

 観柳は悠々と煙草を燻らせて、毛を逆立てた猫の子のように警戒している恵に声をかけた。

 

「言うまでもないんじゃありません? そろそろ戻ってきませんか。犬猫でも飯時には戻ってくるものですよ。あなたもいい加減に、家出もお終いにする頃合いでしょう」

 

「……誰が。あなたの所に帰るくらいなら、死んだ方がマシよ」

 

「そうですか」 

 

 恵の言い分に、観柳は眉一つ動かさなかった。ただ気が強いだけの女と笑う影が透けて見えた。

 

「あなたが戻らないんなら、神谷道場に焼き討ちしますよ。ああ、毒を井戸に投げ込むのも忘れちゃいけませんね。周囲も含めて、流行病で済ませるのも御庭番衆なら簡単……残った土地は私が安く買い取って、後々有効に活用させてもらいましょう。勿体ないですから」

 

「なッ!」

 

「できないわけじゃありません。準備も後始末もいろいろ面倒でしょうが、むしろ損得考えたらここで一気に勝負をつけるのも悪くはないです。御庭番衆筆頭に、私兵団とやくざ者を五百人も動員すれば蟲一匹逃れる隙間もないでしょう。火をかければそれでお終い……まあ、生きて逃げられてもその先は一体どうやって生きていくんでしょうね? どれだけ幸運でも大火傷でその後の暮らしは立ち行かないでしょうね」

 

 剣心がいくら強くても、左之助がどれだけ腕がたっても、結局数の暴力には敵わない。何よりも、守らなければならない人間も拠点も多すぎる。守る側と攻める側では、当然守る側が不利に過ぎる。

 

 そもそも、神谷道場は防衛のための施設ではなく、そこにいるのは警官でも兵士でもないのだ。こうやって、恵が簡単に誘い出されている時点でお里が知れる。

 

「鳴かないのなら、殺してしまえホトトギス……織田信長でしたっけね。こんな言葉を残したとかいうのは……まあ、真偽のほどはともかく今回はそれに倣いますよ」

 

 張り付いた笑みを消し、笑みを消して見せたのはひどく不気味ななんとも言えない表情だった。観柳というどうしようもない人間の素顔がそれであるのかもしれない。

 

「もう、夢を見るのはやめにしましょうよ」

 

 彼はもう一度にこやかに笑みを浮かべた。とってつけた面のように不気味な笑顔だった。

 

「何をどう言おうとあなたが阿片を作ったのは事実。ばらまいたのは私でも、まさか自分が一方的に被害者だなんて思っているわけじゃないでしょう? 私に全部の悪徳を求めるのはいいですが、それで騙せるのは貴方自身と貴方の味方をしたい人間だけですよ」

 

 恵の顔が青ざめる。観柳がぬけぬけと口にしたセリフは決して極端な過ちではない。それを口にしたのが言っていい人間ではないという根本的な間違いがあるが、セリフの中身自体は決して間違いと切り捨てられはしない。

 

「あなたと阿片は既に一蓮托生。そして私もね。あの喧嘩屋さんでしたっけか? 揃って縛り首になれ……なんて言ったのは。まあ、そんな目に遭うつもりは毛頭ありませんが、確かにあの男の言う通りに我々はもはや切っても切り離せないんですよ。お互いに人の不幸に付け込んでいる悪党仲間としてね」

 

 いや、生み出していると言った方が正解ですか? などと嘯いた男はそこで恵の返事は聞くまでもないとばかりに背中を向けた。

 

「今更真っ当になろうとか手を汚したくないとか考えても、何もかもが無駄なんです。悪党は悪党らしく、最後までそれらしくしましょうよ」

 

 くすくすと彼女を嘲笑う声が遠ざかる。

 

「そうそう、焼き討ちの予定は今晩の零時です。時間はあんまりないから、それまでに決めてくださいね」

 

 汚れるのも気が付かずに膝をつく恵の中で一つの言葉がこだまする。

 

 恵の中で生まれたそれは右に左にと彼女の中で転げまわり、その度に大きくなっていく。

 

 左之助の声が言った。

 

 阿片女。

 

 剣心の声で言った。

 

 阿片女。

 

 弥彦の声で言った。

 

 阿片女。

 

 薫の声で言った。

 

 阿片女。

 

 観柳の声で言った。

 

 阿片女。

 

 恵の家族が声をそろえた。

 

 阿片女。

 

 そして、恵自身がこう言った。

 

 阿片女。阿片女。多くの人を不幸にしてなお我が身惜しさに逃げ回っている卑怯者の悪党。

 

 誉れ高き高荷の恥さらし―……

 

「あは」

 

 宙を見た。

 

 恵はこんな気分だというのに、たかだか女一人の心中など知った事ではないお天道様が爽やかな日差しを大地に恵んでいる。

 

 それに照らされ、どうしようもない絶望感を顕わにした顔を剥き出しにして恵は一人笑い続けた。

 

「あはは、あははははは……」

 

 それは奇しくも、彼女が観柳と共に作り上げてきた阿片患者のような虚ろな笑い声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、薫は恵に割り当てた部屋で手紙を見つけた。

 

 そこには観柳の手が途絶えたようなので故郷へ帰ると書かれており、薫は素直に受け取って若干拍子抜けと言うか意気消沈したが……一緒に読んだ剣心は顔を青ざめさせて手紙を握りつぶした。

 

「しくった!」

 

「剣心?」

 

「会津に帰った所で、恵殿には行く当てもなければ待つ家族もいない! 拙者らが知らない間に観柳が接触して脅しをかけたに違いない!」

 

 あるいはそれでも帰りたいのが故郷という物かもしれないが、不気味な沈黙を守る観柳一派を思えばそうとは思えない。大体恵にしても、どれだけ気を抜いたところで観柳がこのまま大人しく手を引くなどと考えるほど能天気でもないだろう。

 

 剣心は度重なる自分の失態に臍を咬まずにはいられなかった。

 

 隙が多すぎる。戦いの勘が、読みが、鈍りきっていた。

 

「左之! 観柳の屋敷の場所はわかるな! 行くぞ!」

 

 後悔している暇などない。彼女が一体いつ出ていったのか知らないが、既に屋敷に到達していると考えた方が無難……いや、計算などどうでもいい。とにもかくにも急がなければならない!

 

 だが、返ってきた答えは意表を突いた冷たさを持っていた。

 

「行けよ」

 

 腕組みをした左之助の眼は極めて厳しく彼らを見ていた。

 

 恵が攫われた事への危機感など全くない、酷薄な光は以前剣心と対峙した際に維新志士への怒りと軽蔑と顕わにした際と同様に輝いている。

 

「あの阿片女の為に俺が動かなきゃならねぇ理由がどこにある」

 

「てめぇ、いつからそんなダセェ事言うように……」 

 

 見知らぬ知人の知人よりも目の前の恵である弥彦が少年らしい真っ直ぐな義憤を左之助に向ける。だがそれを手で制した剣心が、まるで悪党と対峙している時のように厳しく鋭い眼差しを左之助に見せた。

 

 それを見た薫と弥彦は背筋に寒い物を感じて息を呑んだ。剣心が確かに怒っているとはっきり感じた。

 

「いい加減にしろ、左之。お前らしくもない」

 

「……うるせぇよ。あの阿片女のせいで俺の仲間は死んだんだぜ? それなのに俺が動かなきゃいけねぇ理由がどこにある」

 

 直接向けられているわけではない二人が怯んだ剣心の怒りを真っ向受け止めた左之助だったが、彼は全くひるまず怒りには怒りで返して彼の眼を見返した。

 

「ましてや、俺はお前ほどお人好しのつもりもねぇんだよ!」

 

 双方の眼光がぶつかり合う。

 

 剣心の鋭い怒りと左之助の燃えるような怒りが鎬を削る。双方決して譲るまいと強い意志が見ている二人を圧倒した。

 

「……左之。おぬしは恵殿の瞳を見ていなかったでござろう」

 

 緋村剣心、喧嘩屋の怒りと恨みの籠った目も受け止めて、ただ己の心情を率直に口にする。いっそ不器用で、加えて頑固な本質が表われていた。

 

「いつも気丈にふるまっているが、ほんの一瞬寂しそうな目で拙者たちを見ていた。心許せる家族を、それに等しい仲間を探している捨てられた子犬のような目でござる」

 

 身を翻した。教えてくれぬのであれば、行かぬと言うのであれば一人で行く。態度でそれを示し、最後に一度だけ振り返った。

 

「人が動くのに理由が必要であるのなら、拙者の理由はそれだけで十分でござる」

 

 そのまま足を進めて出ようとした剣心に影がかかる。

 

「ふざけんじゃねぇ!」

 

 左之助の怒りが拳に籠められて剣心の顔面を捉えた。怒りに任せていまいち伸びがないが、冗談ではない正真正銘に本気の一撃だった。

 

「!」

 

「左之助!」

 

「おい!」

 

 剣心は殴られると想像もしていなかったために、らしくもなくあっさりと顔面を痛打されて膝をついた。非難の目を向けた薫と弥彦だったが、二人の前にいる左之助の鬼さながらの形相は彼らに二の句を告げさせなかった。

 

「ぐっ……」

 

「剣心、おめぇは分かって言ってんのか。寂しそうだ? 仲間を欲しがっているだ? そんな理由であの女の罪をなかった事にする気か!? あの女が作った阿片で苦しんでいる連中を、俺の仲間が死んだのを無視して踏みつぶすってのか!」

 

「違う! だが恵殿も観柳の被害者であろう! 彼女は望んで罪を犯したわけではない!」 

 

「諸悪の根源があの似非実業家様でも、手を貸していた事は事実だろうが! 家族や仲間が欲しいだ!? その前につけなきゃならねぇケジメがあるだろうが! その気がなけりゃやらかした事もなかった事にするってのか!?」

 

 弾かれるように顔を上げた剣心の言葉は左之助にとって心の琴線に触れる物ではなかった。

 

「ちょっとやめなさいよ、左之助! 今はそんな事をしている場合じゃないでしょ!!」

 

 剣心との間に立って彼を庇う薫だが、その実彼女はかすかに震えているのを隠せはしなかった。だがそれでも立派なものだろう。そこらの小娘どころか大の男でさえ、今の左之助には声をかける事さえ憚られるに違いない迫力に満ちている。

 

 そんな彼女をこれ以上怯えさせるのは、さすがに頭に血が上った左之助でもできない。そもそも、そんな真似はただの八つ当たり以外の何物でもない。

 

「……観柳は俺の狙いの本命だ。野郎の屋敷に殴りこむってんなら是非はねぇ。だが、俺はあの女に同情しているつもりもなければ守る気なんざぁさらさらねぇ」

 

 左之助の目から見て、彼女は我が身可愛さ以外に何もない。本当に罪の意識を持っているのであれば自首をするか、そうでないにしても何らかの償いの道を模索するものだろう。だがその様子が全く見えない。

 

 剣心達はあの女を守る事しか考えていない。そしてあの女自身も結局は我が身惜しさ以外になさそうだ、と左之助は思っている。そこに偏見や思い込みが混ざっている事に、彼自身は気が付いていなかった。

 

「どうしてもあの女を助けたいって言うんなら……お前らで勝手にやれッッ!」

 

 そう言って左之助は踵を返す。後に残されたのは粘りつく泥のような沈黙だったが、剣心はすぐにその後を追った。彼にも何をどう言えばいいのか全くわからないが、ここで足を止めていては何もかもがご破算になってしまうのだ。何をどうしようとも、止まる事だけはできない流れだった。

 

「って、待てよ! 俺も行く!」

 

「弥彦! 待ちなさい、あんたが行っても足手まといになるのがせいぜいよ!」 

 

 無鉄砲な少年の襟首を半ば予想していた薫がすかさず引っ掴む。じたばたともがく少年に言い聞かせるが、彼は師匠の言葉に耳を貸さない悪い弟子だった。

 

「うるっせぇ! 俺はあの女に一度命を救われたんだ! 命を懸けてでもこの借りを返さねぇで、何が活人剣の神谷活心流だ!」

 

 掴まれた襟首を振り払った弥彦の生意気な子供の戯言とは切って捨てられない気迫に薫が一瞬とはいえ飲み込まれ、それに乗じた弥彦がさらに言葉を重ねた。割と小さな声で。

 

「つうかよ、今のあの二人だけにしていくのも駄目だろうが! さすがに途中で喧嘩なんかしないとは思うけどよ」

 

「う……」

 

 先程の左之助の怒りぶりを思い出すと、弥彦の懸念もあながち杞憂と言えない。

 

「だ、だったら私も!」

 

「いや、薫殿には道場を守っていてほしいでござるよ。それと、すまないが帰ってきたら飯と風呂がほしいでござるな」

 

 これは剣心の気遣いだった。

 

 流れ者の自分や裏稼業の左之助はともかくとして、この街に根を下ろしている真っ当な剣術道場の主人が表向きは青年実業家という看板を掲げている相手に殴り込みをかけるのはいくら何でも後が怖い。できれば弥彦にも残っていてほしいが、彼の顔を見るに梃子でも動くまい。

 

「薫の飯かよ……ちゃんと作れるんだろうな」 

 

「言ったわね、弥彦! 見てなさいよ、だったら腕によりをかけて美味しいのを作ってやるんだから!」

 

 敢えてはしゃぎまわり、もめ事に沈んだ自分の心を励まそうと空元気を出しているようにしか見えない剣心は、表には出さないがそんな二人をありがたく思った。

 

「……こんな風にぶつかり合ったのは……一体いつ以来か。ああ、師匠の時以来か……」

 

 剣心は殴られた頬の奥で歯のぐらつきを感じながら、自分と喧嘩屋の関係もこの歯のようにぐらついているのだと遅まきながら自覚した。

 

 目の前にいる虐げられた人を守りたいという己の意志が間違えているとは思わない。だが、なぜこうもぶつかりあうのかが彼にはわからなかった。わからないから繰り返した、とわかるのはたったそれだけだった。

 

「何を黄昏ていやがる、剣心! 左之助一人で突っ込ませる気かよ!」

 

「ああ、すまんでござる……では、行くぞ!」

 

 気まずさを噛み潰して戦いに集中するのは造作もない。ただ、それが後々を考えてもいい事であるのかそうでないのかまでは、剣心にもわからなかった。

 

 例え分からなくともわからないなりに、暗闇の向こうへと踏み出す彼の歩みには強さがあった。

 

 ただ、その強さが本当にいい物であるのかどうか、それは誰にも分らない……いいや、緋村剣心にこそわからない事だった。

 



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不協和音のままで

 やれやれ、やっと書き終わり。FGOもアサギも貯めに貯めた石がかすりもせず、ルヴィアもクローンアサギも手に入らなかった歎きが……いや、関係ないか。

 でも300弱まで貯まった石を、20枚近く貯めた符をゼロ枚と70個強まで減らしてそのざまよ。泣いてもいいよね……引かなきゃよかった……次回のイベントと今後の夏はどうしよう……

 でもこの後、なけなしの石でクローンアサギを引くんだ……っ! とにかく来てくれ、虹色SR!



 とまあ、愚痴と言うか泣き言は置いといて。

 いつの間にやら40000字強。というか50000字弱。今回までは左之助にスポットが当たり、次回は剣心と蒼紫がメイン。

 その次からはしばらくオリジナルで話が一気に端折られる予定。

 どこまでいけるか、いつ書ききれるのか。夏には……終われなさそうだなぁ……


 ふたばやさん、さっそく誤字報告ありがとうございました。

 


 

 武田観柳邸は神谷道場のある街の外れに位置し、壁に囲まれた広大な土地に西洋風の屋敷……いわゆる擬洋風建築の邸宅を構えている。森一つが入っているのではないかと錯覚させる巨大な前庭を真っ二つにする道の前には大きな門があり、そこは常に守衛……というよりも門番に固められていた。

 

 街の庶民一同が嫌う“一体どれだけの金をかけているのかわからない大きすぎる嫌味な屋敷”である。

 

 最も、街の荒くれから官にまで恐れられているような男の屋敷。嫌われてはいても直接手出しをするような馬鹿はいない。おかげで夜の門番は徹夜こそきつい物の至ってのんびりとしたいい稼ぎの楽な仕事だった。昼間の方が、時に来客を失礼のないように……あるいは嘗められないように迎えなければならないので面倒な程である。

 

 だが、今日に限ってはそうでもなかった。

 

 屋敷から十日間強も家出していた金の卵を産む雌鶏が自分から正面切って開き直った顔をして帰ってきたのを、門番が目を白黒させながら迎え入れたのがつい先ほど。

 

 それだけなら引き渡しておしまい、彼らにとっては問題なかったのだが……どうも中で騒々しいと思ったら、彼らが通した女が一体何をとち狂ったのか屋敷の主に隠し持っていた短刀で斬りかかったというのだ。

 

 幸い主人は護衛の手により事なきを得たが、凶器を持った女をそのままあっさり通した門番たちは面目丸つぶれ。更には減給か、もっと直接暴力的なお咎めが待っているだろうと今から首をすくめて沙汰を待っている。

 

 尤も、彼らはそんな沙汰が下りるのを待つ必要は永遠にない。

 

「よう。いい晩だなぁ」

 

 飄々と声をかけられた門番が前を見ると、そこにはどこかで見たような若い男が何やら長い包みを担いで立っている。

 

「……」

 

 その後ろからは腰に刀を差した剣客……と何故だか木刀を背負った子も一人。

 

 前二人なら殴り込みとまではいかずとも何かの剣呑な用事で顔を出した“お客様”と察せられるが、なんともいかにも生意気そうな子供を連れているせいで妙に目的がぼやけている。

 

「なんだ、てめぇら」

 

「こんな夜中にガキを連れ回しやがって。大人だったら夜更かしするガキは叱って寝床に放り込めや、おう! 肝試しかなんか知らねぇが、こんな街外れにまで連れてきやがって。迷子になったり明日寝坊したらどうすんだ!」

 

「お、おろ……」

 

「誰が迷子だ、こんにゃろー!」

 

「……すげぇ真っ当な事言われちまったな」

 

 やりづれぇな、と頭をかいて近づいてくる男達に反省のそぶりは見えず、ここは一つ腰を据えて説教をしてやらねばとこっちからも歩み寄った男は先頭切ってやってくる男の顔がやはりどこかで見知っていると思えてならなかった。

 

「……なんか……どっかで会った事があるか、あんた?」

 

「なんでぇ、知り合いが差し入れにでも来たのか?」

 

「ん~……」 

 

「おう、兄ちゃん。肌寒いから差し入れなら熱燗なんか頼むぜ」

 

 一体どこから出せと言うのか、なかなかに無茶を言う。

 

「いや、知っている顔は顔なんだが……そのトリ頭……背負ってる妙に長い包み……ここまで出ているんだけどなぁ」

 

「おいおい、傷つくねぇ。ここらじゃちったぁ知られた顔なんだけどよ」

 

「あん? 有名人ってか、てめぇ」

 

「!」

 

 顎に手を当ててしげしげと左之助の顔を覗き込む男の後ろで、酒だなんだと本気か冗談かわからない顔で与太事を吐いていた男の方が顔色を変えた。

 

「おい、そいつ……もしかして……」

 

「あ?」

 

「……喧嘩屋、斬左?」

 

 答えは、月を隠した斬馬刀の影だった。

 

「妙な見張りだったな。つうか誰がガキだっての!」

 

「これこれ」

 

 頭にたんこぶを作って地べたを嘗めている二人の頭を蹴とばす弥彦を止めた剣心が、眼付きを鋭くして鯉口に手をかけながら門の向こうを見る。彼の眼差しの向こうにいるのは、人を人と思わぬ死の商人とそれを守る天才隠密のなれの果て。そしてその配下。

 

「さて……」 

 

 しかして往年の人斬りはそれに気負いはせず、ただ確かに高ぶる自分を御して目指す先を見つめるだけだ。

 

「んで、どうすんだよ」

 

「少人数の奇襲に巧遅は無用。拙速であろうとも一気に本丸へ攻め込むでござるよ」

 

 ちなみに、剣心が口にしているのは彼のような人物以外がやると即座に失敗して殺されてしまうような愚行、あるいは無謀である。

 

 そもそも三人で武装している大人数の拠点に攻め込む事態がどうかしており、普通はまず忍び込むという考えから始めるものだ。潜入口を恵が道場に転がり込んできた時から密かに探り、万が一の場合に備えるくらいは当たり前なのだが……それをせずに毎日を平常に過ごしていざ事が起こればたった三人で殴り込み……いい加減にしろと真っ当な軍人辺りが金切り声を上げて怒り出しそうな愚行だが、それを力づくで成し遂げてしまうのが緋村剣心という剣の達人なのである。

 

 控えめに言っても頭がおかしい。戦力と戦術を引き換えにして差し引きゼロにしているような愚行である。

 

「おい、左之助」 

 

「あん?」

 

「遅れを取るんじゃねーぞ、いいな!」

 

 本来だったら拳骨一つも見舞う所だが、弥彦が敢えて日ごろの態度を貫いているのだとわかっている左之助はせいぜい頭に平手打ち程度で許してやった。最も、脛に蹴りを入れてきたので即座に丁寧に防御して向こうに痛みが奔る様に返してやったのだが……

 

 そんな滑稽劇が繰り広げられていると知らない邸内では、結構な人数が邸内でそれぞれ適当な得物を片手に屯している。見るからに破落戸と言った風体で、暴力に対する忌避が善良な市民と比較して大きく下がりそうな見てくれからわかるように観柳の私兵団だが、見回りというのではなくそれぞれ勝手にそこらをうろついている番犬のような体だった。最も、適当にうろついているだけの彼らでは熱意も能力も番犬ほどの頼りにはなるまい。

 

 そんな頼りにならない破落戸どもだが、門の前をうろついていた三人がおかしな音を聞いた。

 

 文字にするとかきぃん、とでも言うのが妥当なところだろうか。それが二回。はて、なんぞと適当に周囲を見回した時には既に手遅れの見本のような状態だった。

 

「なんだぁ?」

 

 咥え煙草をした男の訝しんだ声に被せられたのは巨大な破壊音だった。引き付けられるように目を向けた一同、なんと屋敷に相応しい巨大で豪勢な造りをした門が外側から粉みじんに砕け散るのを見る。周囲には粉塵が立ち込め、一体何が起こったのかなどわからないがともかく一大事であるのは間違いない。

 

「!?」

 

 だが破落戸風情に危急の際の心得などあるはずもなく、巨大な音と突然の破壊に度肝を抜かれた一同が思わず瞠目する中、濛々と立ち込めた土煙の向こうから三つの影が飛び出してくる。

 

 未だに門を見つめて呆然としている破落戸どもに向かって、影の一つが一気に飛び込むとそのまま彼らを吹き飛ばした。

 

 影の名前は、緋村剣心。神速をもって鳴る飛天御剣流の使い手の面目躍如、一気呵成に最も人が多い箇所に矢のように突っ込むと逆刃刀を縦横無尽に繰り出して一度に三人五人と叩き伏せる。そこらの素人の目にはただ薙ぎ払っているだけの太刀の悉くが見事に急所を打ち据え、避けようとも防ごうともその全てが叶わずに昏倒させられていく。

 

 正に天狗の仕業のような飛天の神業は赤毛の男の影さえ残さずに私兵団の一角を蹂躙させる。彼らが打ち倒されて地べたを嘗めた時には、既に件の男は影さえ踏ませない遠い彼方だ。

 

「なんだぁ、ありゃあ……」

 

「人間? に見えたぞ……?」

 

 疾風迅雷、飛燕の如く。

 

 その勇ましくも陳腐な言葉が人の形をして観柳邸の前庭を蹂躙している。 

 

「っだ、こらぁ!」

 

「門をぶっ壊したのはてめぇか、こらぁ!」

 

 伝説の人斬りの影を置き去りにする神速の的にならずに済んだ幸運な団員たちは、その次に悠然と顔を出した男に目を付けた。

 

「神谷道場の門のお返しじゃねぇけどよ」

 

 そう言って笑った男の顔には、私兵団員ごときではどうしようもない程の凄みがあった。肩に担いだ常識外れの突拍子のない大きさ、形状のだんびらが月を隠して影を落とす。

 

 相楽左之助の前に立った男たちは、先ほどの風のような男とは違う、重苦しい圧迫感のようなものを感じて背筋を寒くした。

 

「お、おい……あのでかいの、もしかして……斬馬刀って奴か?」

 

「見た事ねぇけど……他にねぇよな? じゃあ、あいつが喧嘩屋の…」

 

 こそこそと呟きながら顔を見合わせる私兵団たちを前に容赦するような男ではなかった。

 

「おいおい、殴りこんできた俺を前によそ見をするなんざ随分と余裕じゃねぇか」

 

 肩に担いだ斬馬刀を振りかぶると、それだけで風が起こる。剣心が疾風ならこの刃風は豪風だ。

 

「ぼやぼやしてっと……怪我じゃ済まねぇぜぇッッ!」

 

 彼らがそれを聞いたのは、巨大な鉄の塊に弾き飛ばされて小石のように宙を舞っている時だった。

 

 そのまま独楽のように斬馬刀を振るうと、巻き込まれた私兵団が次々と跳ね飛ばされていく。

 

「ぼぎゃあ!?」

 

「ぶげっ!?」

 

 汚い悲鳴を上げて次々と宙を舞う仲間の姿を見て、団員たちが顔を青ざめさせる。剣心の場合は正しく目にもとまらぬ速さだが、こちらの方はしっかりと目に映る為に余計に恐ろしい。

 

 そもそも大の男が子供のおもちゃよろしく吹き飛ばされるなど空想の中でも彼らは考えた事がなかった。講談のネタでなければ、ほとんど事故か小さな災害である。

 

 ただ鉄の塊が襲い掛かってくるだけでなく、吹き飛ばされたおかげで落下がおまけでついてくる。腕やあばらが折れるだけではすむまいが、阿片売買で肥え太った屋敷で荒事を生業としているような男たちに同情や手加減をするつもりはなかった。

 

「左之助!」

 

 最後に、ひと際小さな影が息を荒げて走っている。

 

「遅れを取るんじゃねーぞ!」

 

「……まぁだ言うか、あのガキャア。意地っ張りめ」

 

 呆れた左之助は振り向きもせずに、だがしっかりと弥彦の近くに行きそうな私兵団員を叩きのめす。尤も、剣心と左之助のような規格外の二人を前にして子供に構うような余裕を誰も持ってはいなかった。

 

「つ、つえぇ……この二人組、強すぎる!」

 

「三人組だ、バーロー!」

 

 いきり立って叫んでも気にもされないような有様である。捕まえられて人質にされないだけマシなのだが、誇り高き東京府士族たる弥彦にしてみればいない者のように扱われるのは噴飯ものであった。

 

 さすがに二人で全滅とはいかず、そもそもそんな意図はない為に生き残る事が出来た団員が笛を吹いて応援を呼ぶが、その悉くが寄らば斬れと駆け抜ける剣心を止められず叩き伏せられるか風のように通り過ぎていくのを見送るしかできず、背中を見送ったころに現れた左之助の斬馬刀に吹き飛ばされると言う無残なさまである。

 

 剣心が切り込んだ線を左之助が広げ、観柳邸の正門から玄関まで一直線に死屍累々の有様は正しく常識外れ。これをたった二人とついでに子供一人でやったなどと誰が信じるだろうか。

 

「うわあああああッッ!?」

 

 まるで妖怪に出会ったかのような悲鳴を上げる私兵団だが、被害だけを見ればあながち間違いではない。剣心も左之助も、それぞれの意味で妖怪じみている。

 

 その妖怪たちの蹂躙により、警官たちさえおいそれとは手出しできない私兵団のほとんどがあっという間に片付いている。そこらにはおのおの好き勝手な格好でのたうち回り、あるいは息をしているかも正直怪しいような無残な屍寸前が転がっており、見回す弥彦に死屍累々の意味を実地で教えている。なんともまあ物騒な実地教育もあったものだが、これも剣客というものかもしれない。

 

「ヤクザと剣客は大体殺った!」

 

 一応、死人はいない。

 

「あとは……銃士!」

 

 事前に恵に聞いていた私兵団の内訳を思い出しながら周囲を見回すと、おそらくヤクザや剣客との同士討ちを恐れて下がっていた拳銃を装備した一隊が整列して得物を構えていた。生意気にもまるで警官のような恰好をして、訓練も積んでいるのか構えもそれなりに堂に入っている。

 

「撃ち方、構え!」

 

 銃器類は強力で、訓練も刀剣や素手に比べてまだしも短い期間で物になる。おそらく御庭番衆が雇われるまで彼らが観柳本来の切り札だったのだろう。

 

 だが、例え構えられているのが石だろうと弓矢だろうと、そして拳銃だろうと緋村剣心は怯まない。怯むどころかなお一層の神速を振るい、銃口の前に躍り出た。

 

 影さえ残さない目にも止まらない速さで一気に銃士隊との間合いを詰めると、駆け抜けながら四人を叩きのめす神業を前に、彼らは引き金にかけた指一本さえ動かせない。

 

「なんて奴だ。銃口を前にして怯むどころかなおさらに加速するなど……」

 

 常識外れ、正気ではない。そんな言葉も切り伏せられた累々たる屍寸前の前には全く空しいだけだ。

 

「! 止まったぞ、いまだ撃ていッッ!」

 

「左之! 弥彦!」 

 

 切り返しの為に仰々しい邸の扉前で止まった剣心に、これ幸いと指揮官は命令を下すが矢継ぎ早に声を出したのは剣心の方だ。彼の声を聴いた左之助はふん、と鼻息を鳴らすと担いでいた斬馬刀の切っ先をなんと並走していた弥彦の襟首に引っかけて持ち上げてしまった。

 

「おら、弥彦」

 

「はあ!?」

 

 いきなりの事に目を白黒させる弥彦もろとも斬馬刀を槍投げよろしく構え、思いっきり……

 

「おいちょっと待て、まさかおい!」

 

「活躍してこいやぁッッ!」

 

 まとめて放り投げた。

 

「でええぇぇぇッッ!?」

 

「ほぎゃあっ!?」

 

「ごげげッ!?」

 

 見事に放物線を描いて銃士たちの真ん中に放り込まれた斬馬刀付き弥彦、ないしは弥彦付き斬馬刀は不幸な銃士達を巻き添えにし、重量感のある音をたてて地面に突き刺さる。

 

「このガキがッ! ……ああ……大丈夫か?」

 

 見事に斬馬刀の下敷きになった弥彦がぴくぴくと痙攣している有様に、思わず心配の声を上げてしまった指揮官の男だった。

 

「……てて……おう、すまねぇな」

 

「いいって事よ……なわけあるかぁ! いつの間に掏りやがった、このガキ!」

 

 思わず差し出した手を捕まえようとする弥彦が、もう片方の手に拳銃を持っているとすれば話は別である。 

 

「ったく、あれだけ嫌だったスリ時代の技がこんな所で役に立つたぁ、わからねぇもんだぜ」

 

「もう夜半だってのに何を黄昏ていやがる! ガキのおもちゃじゃねぇんだから返せ!」

 

「……ふん」 

 

 手を突き出す男を生意気な顔で見ると、そのまま銃口を突きつけた。

 

「っておい、こら! 本気か!? なんって危ないガキンチョだ!」

 

 悲鳴を上げる男にしてみれば、いくら何でも子供が銃を使うだなどと想像もしていなかった。だが弥彦が引き金を引けば、それだけで男の頭蓋骨に風穴があく。

 

「ばん!」

 

「うひぃっ!?」

 

 泡を吹いたまま素っ頓狂な悲鳴を上げて気絶する男が膝をつくのを、弥彦は冷めた目で見ていた。尻もちをついたままの彼と同じ高さに降りてきた傷一つない顔に向かって偉そうに嘯く。

 

「俺は剣士だぜ。拳銃なんざ頼まれたってつかわねぇよ」

 

「知るか、クソガキ!」 

 

「優しくしてやってりゃ調子に乗りやがって、この!」 

 

 生き残りが弥彦に拳銃を突きつけるが、正当な報復を行う前にさらなる強襲が人斬りと喧嘩屋の形をとって襲い掛かってきた。

 

 物も言えずに耳障りな打撃音を引き連れて地べたに沈んだ無残な二人をしり目に弥彦は自分をとんでもない目に合わせた喧嘩屋に食って掛かるのだが、相手はそれを適当に聞き流して笑う始末である。ますますいきり立つ弥彦だったが、内心では少し安どしていた。

 

 左之助も剣心も、意外と息があっている。下手をすれば喧嘩別れのような形になるのではないかと身構えていただけに、ほっとした思いを気安さに変えて左之助にぶつけていきり立った。子猿のように鼻息を荒くする弥彦は適当にあしらわれてますます野犬のような有様になる。

 

 普段はそれをとりなそうとするはずの剣心は何も言わずに屋敷に目を向ける。

 

「観柳!」

 

 彼の眼の先には、二階の窓からそれまでの余裕ぶった表情を一転させて青ざめている死の商人がいた。

 

 目を見開き、歯まで鳴っている鴉に狙われたネズミのような有様はとても彼らの知っている不気味ささえ感じる死の商人、観柳ではない。あるいはこれまでが仮面に過ぎず、その影に隠されているのはこんな卑屈な顔に過ぎなかったのか。

 

「後ろに御頭まで居やがるな」

 

「高いところから見降ろしやがって」

 

 毒づく二人の前に立ち、剣心が観柳を下から睨みつける。殺さずと謳うはずの流浪人のはずだが、鋭い眼差しの彼はまるで人斬りそのものだった。

 

「年貢の納め時だ、観柳。恵殿を連れて、ここに降りてこい」

 

 まさに切っ先を突きつけられたような錯覚に陥り、過呼吸を起こして引き攣る観柳だったが、唐突に芝居がかったように笑い始める。

 

「は、はは……ははははははは」

 

「あんだぁ?」

 

「……とうとうイカれたか?」

 

 高いところから見下ろしてくる観柳は芝居がかった動きで両手を打ち合わせて、冷や汗を流し始める顔に愛想笑いを張り付けた。だが、はっきり言えば引き攣りを隠せていない。こういうのを、蛇に睨まれた蛙というのだろうか。場所も合わせていかにも芝居がかっているのだが、逆にそのせいでこっけいささえ感じる惨めな姿だった。

 

 橋の上で出会った際の余裕ある不気味さを見せた男ではなかった。

 

「素晴らしい! まさか私兵団五十人をこうも簡単に息もつかせぬ間に倒してしまうとは! さすがは音に聞こえた伝説の人斬り、緋村抜刀斎!」

 

「あいつ、剣心の素性を……」 

 

「一週間もあったんだ。隠密とか言っているんなら調べるのは容易だろ。俺でもわかったくらいだ」

 

 最も、喧嘩屋の場合は依頼人が素性を知っていたからこそ、である。

 

「まあ、これでちんたらしていた理由もよく分かったな。藪をつついて鬼の人斬りが出てきたおかげでビビッていたってわけだ。あの余裕綽々の態度が嘘みてぇに……けッ!」 

 

 不気味さは怖いもの知らずの裏返しに過ぎなかったと悟った左之助が無様さに舌打ちをするほど、今の観柳は滑稽だった。もはや見るに堪えないと視線を後ろに立つ御頭に向けようとした左之助だったが、観柳の白い上着の袖が斬れて内側から血が滲んでいるのに気が付いた。刃物傷のようだが、あの男が刃傷沙汰など起こすだろうか。

 

「……まあ、どっちでもいいか」

 

 それよりも重要なのは御頭、四乃森蒼紫である。観柳はただの小物と言い切っていいようだが、こちらはとても油断できる相手ではない。

 

 先の左之助との手合わせで見せた動きは確かな強者のそれでありながらも、まだまだ本気には程遠いのは明らかだ。彼一人いるだけでも高荷恵の奪回は困難を極める。

 

「見事です。その剣腕、気に入りましたよ! 御庭番衆に加えてあなたまで私の傘下に加わってくれれば正に最強!」

 

 汗をだらだらとかいて小物となり下がった死の商人は、指を五本立てて剣心に見せつけた。

 

「私兵団五十人分の報酬を支払いましょう! どうです、ぜひ私の用心棒に!」

 

 ちなみに倒れている私兵団全員の給料は役立たずとして未払いのまま放りだす予定。この期に及んで損をゼロにする方法を咄嗟に思いつく辺り、生粋の商人ではあるのかもしれない。

 

「降りてくるのか来ないのか、どっちなんだ?」

 

 いずれにしても、この状況で買収が効くと思っているあたり、頭骨の中身は相当に煮詰まっていると考えていいだろう。

 

「で、では百人分!」

 

 剣心の足が無言で一歩前に出た。

 

「に、二百人!」

 

 もう一歩、前に出る。

 

 後ろに立つ左之助と弥彦は露骨に呆れた目を向けた。こいつもこれだけでかい邸宅を構えているのだから相当なやり手であるはずだが、いったいこの体たらくは何なのか。これだけふざけた買収が通じるような奴しか商売相手にはいなかったという事か。

 

「わからん奴だな。緋村抜刀斎は買収に応じるような男ではないという事だろう」

 

「!」

 

 あまりにも見苦しい姿に嫌気がさしたのか、蒼紫が口を挟む。いいや、嫌気がさしたどころか声には笑いが含まれていた。

 

 滑稽さに笑ったのか。

 

 それも違う。

 

「金や地位を求めるのであれば、今頃は陸軍の大幹部にでもなっているんじゃないか? たかが破落戸百人や二百人の食い扶持などに今更目が眩むものかよ」 

 

 蒼紫の唇はうっすらと綻び、この鉄火場を楽しんでいるように見えた。いいや、事実楽しんでいるのは間違いあるまい。目は冷たく輝き、唇だけが小さく弧を描いている表情に一体何を感じたのか死の商人はほんのわずかだが沈黙する。

 

 その短時間で一体何をどう考えたのかは彼以外にはわからないが、保身や損得の勘定を算盤弾いているのは弥彦の目にも明らかであり、同時に何をどうしようとも手遅れな事は観柳以外の誰にとっても明らかだった。

 

「わかった! 私の負けだ! 高荷恵は手放そう!」

 

「!?」

 

  一同、突然潔い事を言い出した観柳に驚き、戸惑った。率直に言ってしまえば、これまでのそろそろ人生が終わりであるかのような見苦しさに似合っていない。

 

「ホントにイカレタのか?」

 

「殴れば元に戻っちまうかもな」

 

 石でも投げつけてやろうかと探し出す左之助と弥彦だったが、手ごろなのが見つからないのでやめておいた。弥彦はともかく左之助にとっては友人の仇の根本であるので、石ころ投げつけるよりはもっと盛大に殴りつけたい。

 

「だが一時間待ってくれ! こちらにもいろいろと準備がある。一時間後に高荷恵は必ず送り届ける! 今は大人しく引いてくれ!」

 

「……実は馬鹿なのか、あいつ」 

 

 必死な形相から出てきたのは信用するしない以前の与太事であった。麻薬商人の準備なんぞ、誰がさせるだろうか。一時間の間に逃げ出すのか、それとも重要な証拠の隠匿か、拷問にでもかけて製法を無理やり吐き出させるか? 

 

 いっそ警察を呼んで三人を逮捕させると言うのもありかもしれない。何しろ彼らはただの殴り込みを仕掛けているのだから、大義名分は実際の所は向こうにある。

 

「誰がそんなもん待つか! 渡すんなら潔く今すぐに連れてきやがれ!」

 

 呆れる左之助といきり立つ弥彦だったが、そんな彼らを他所に、なんと剣心は逆刃刀を鞘に納めてしまい踵を返す。

 

「はあッ!? おい剣心!」

 

 びっくり仰天、弥彦は裏返った声を彼の華奢な背中にぶつけるが剣心の歩みは止まらない。まさか、本気で今の与太事を真に受けているのか。

 

「ちょっと待て! いくら何でもお人好しが過ぎるぞ、おい!」

 

 もしも本気であの男を信じているのであれば、まさしくお人好しどころか馬鹿であろう。だが、仮にも幕末の動乱を生き抜いた男が剣腕だけの馬鹿であろうか。

 

 いいや、そんなはずがない。

 

「?」

 

 腹の底で下劣かつ底の浅い算段をしているのがよくわかる顔をしている観柳だったが、剣心がガス灯の横で足を止めた事でほくそえんでいた表情を消した。

 

 明治文明開化の象徴とも言えるガス灯を個人で所有しているのは、この街で大商人である観柳だけである。そもそも個人で所有するという考えが普通ではない。この異様に大きな邸宅を照らすのに不要ではないが、邸の巨大さも含めて観柳の見栄、自己顕示欲がよく表れている。

 

 大きさは小柄な剣心の倍以上ある。土台部分は石で出来ており、購入と維持に幾らかかるのかは知らないが、剣心と左之助の一年の収入を合わせても十倍では足りるまい。

 

 そんな観柳ご自慢のガス灯横で、剣心は鯉口を切った。

 

「!」

 

 距離のせいでそこまでは見えないが、鍔元に手をかけたのは何とか見てとった観柳が直感的にこの先を悟って引きかけていた冷汗を即時倍にして顔を濡らす。

 

「はあぁッッ!」

 

 気合の一閃、鞘奔らせた愛刀の逆刃が胴より太い石を硬い音を上げて見事に両断する!

 

「どぎゃひいいぃぃ!!!」

 

  いいや、さすがは緋村抜刀斎と言うべきか。胴ほどの太さの石を両断するなどそれだけで神業だが、なんと自分の倍以上もある巨大なガス灯を斬った勢いのままに観柳佇む二階の窓横にまで弾き飛ばしたのだ!

 

 果たしてこのガス灯、いったいどれだけの重さがあるのか。轟音たてて窓横のレンガに巨大な罅を入れ、自分が張りぼてではないと強く主張するガス灯が無残にひしゃげて地べたに落ちると灯のガラスが無残にも粉々になる。

 

「…………」

 

「…………人間じゃねぇ」

 

 予想以上の離れ業に観柳は声も出せずに腰を抜かし、地べたに横たわっていた私兵団の面々まで耳元で雄鶏の鳴き声を聞いたよりも強烈な音に跳び起きて、見せつけられた惨状に唖然としてしまう程だ。石を両断したのはともかく吹き飛ばすとはいかなる術か。小柄で痩せぎすの剣心が、一体何をどうすればこんな力を出せるのか。据え物斬りだとしても常識外れどころか人間の限界を超えている。

 

「一時間以内にそこへ行く! 心して待て、観柳!」

 

 苛烈な視線と叫びに足元を払われた案山子のように、麻薬商人はしりもちをついた。どうにか立ち上がりこそしたものの、膝が笑っている。

 

 そんな観柳が立ち上がり始めの赤子よりも頼りなくふらつきながら窓枠に手を突いた直後、再度轟音が響き今一度尻を痛打した。

 

「げへ! な、なんだ!」

 

 痛みが活になったおかげで普通に起き上がった邸の主が表を見下ろすと、なんと正面玄関の戸が木っ端みじんに破壊されていた。

 

「はあああっっ!? いくらしたとおもっているぅぅ!!?」

 

「知るかよ、糞野郎が」

 

 悲痛な叫びをむしろ心地よく笑いながら聞いたのは左之助。巨大な斬馬刀を肩に担いで、惨事の犯人が誰なのかを思い切りよく自白している。

 

「この無駄にでかい屋敷をちったぁ住みやすく縮めてやろうか? 工事代はタダだ。好きだろ?」

 

「ふ、ふ、ふじゃきゅりゃりゃああっ!」

 

 一瞬で大和民族以外の誰かになった観柳を相手にして、久方ぶりに楽しそうに笑った左之助はおまけとばかりに相棒を振り回してもう一段階玄関の修理費を格上げすると、大股で先陣を切った。

 

「なあ、剣心。こいつら神谷道場に火をつけようとしたんだろ? こっちもそれぐらいしてもいいんじゃねぇ?」

 

「恵殿も巻き込まれるかもしれんでござるよ。それに後々証拠品になる阿片が燃えてしまうのも……」

 

「それさえなけりゃ燃やしてもいいとは思ってんだな。つうか警察じゃねぇんだし証拠とかいるのか?」

 

 なかなか鋭い少年剣士のセリフを背中に新しい戦地に踏み入った左之助だったが、一歩目で即座に足を止めさせられた。

 

「こいつは驚いたな……」

 

「お主は、あの時の般若面……お主程の使い手がまさかの一番槍でござるか」

 

 扉をくぐった……正確には破壊した先にある開いたホールで一同の前に立ちはだかるのは、一週間前に彼らの前から襲撃者たちを見事回収してのけた般若面の男だった。

 

 相変わらずの異相が腕を交差させて腹の前に構えて、面の向こう側に闘志を秘めて三人……正確には二人を油断なく見据えている。

 

「だから言っただろう。すぐに再会する事になる、と」

 

「一週間も待たせやがったくせに何を言っていやがる」

 

 足を止めたのは一瞬。すぐに喧嘩屋の足は前に出た。

 

「左之!」

 

 呼びかけに喧嘩屋は応えるどころか見向きもしなかった。

 

「……お前が俺の相手か」

 

「なんでぇ、不覚を取った剣心でなけりゃ不満か? あいにくと待たされすぎてイライラしてんだ。表のザコじゃ何十人ぶっ飛ばしても弱い者いじめにしかならねぇし、ここらで猛者と喧嘩をやって憂さ晴らしをしてぇのよ」

 

 ぎらついた目だった。腹の中に鬱屈した感情を貯めこんで、それを解放する場所がなくてイラついている。そんな内心を率直に見せつける凶暴な目だった。

 

「いや、それはそれでこちらの思惑にも沿う」 

 

「ああ?」

 

 それをどう受け止めているのか、少なくとも般若は表面上静かに牙を剥きだした狂犬の様な目を受け止める。

 

「そういうこったよ」

 

「!」

 

 新しい声が聞こえたとともに、風切り音が左之助の鼓膜に届く。

 

 目を向けた左之助が見たのは自分の視界一杯に広がる巨大な鉄の塊だった。

 

「おおッッ!?」 

 

 さても伊達に喧嘩屋を生きてはいない。度肝を抜かれながらもどうにか斬馬刀をかざして出所さえわからない鉄塊を反射的に受け止めるが、やはり虚を突かれたのは誤魔化せずに相棒は弾かれて宙を舞った。

 

「おわっ!?」

 

「ちっ……」

 

「ち、じゃねぇよッ! 得物を吹っ飛ばされてどうするよ! 俺の鼻先かすめているぞ、こらッッ!」

 

 吹き飛ばされた斬馬刀が自分の足元に突き刺さった弥彦にしてみればたまったものではない。間近で見てみれば自分をすっぽりと隠す巨大さなので余計だ。

 

「うるせぇぞ、ついでだからそのまま預かってろ。ビビんなよ」

 

「ビビッてねぇよ!」

 

 馬鹿にすんなといきり立った弥彦だったが、勢い任せに斬馬刀に手をかけると倒れてきた鉄板にそのまま押し潰された。

 

「ぬおおおお!? なんだ、この! け、剣心! この程度、屁でもねぇからな。絶対に手ぇ出すなよ!?」

 

「……生憎と二対二。済まぬが頼まれても手を貸せないでござるよ……頑張れ、弥彦」

 

 剣心がそう言った際の弥彦の顔を見て見ぬふりをしたのは、まあ、武士の情けだ。

 

「いまの般若面のセリフから察するに……お主が拙者の相手でござるか」

 

 代わりのように剣心の鋭い眼光を受け止めるのは、上半身裸の巨漢だ。

 

 総髪で、全身の至る所に刀傷が刻まれている筋肉隆々たる男が一抱えはあるだろう巨大な鉄球を付けた鎖を持って佇んでいる。

 

 剣心とは見るからに対照的な男だった。

 

 上背高く、肩幅広く、何よりも骨格の限界を極めたとしか思えない程に積み上げた不自然な程に膨らんでいる筋肉。獅子の鬣のように波打つ髪の下で小さな目が剣心と左之助を品定めするように輝いていた。

 

「俺は式尉。元は江戸城本丸警護方を務めていた。噂に名高い人斬り抜刀斎と会えたのは光栄だが、生憎と相手は俺じゃあない。俺の相手はほれ、そっちの斬馬刀の方がお似合いだろうぜ」

 

「……」 

 

 ちらり、と般若に目をやる。なるほど、この男はこれまでに二回剣心と交戦して勝負なしになっているという因縁があった。

 

「生憎だが、俺でもない」

 

「……何?」

 

「行け。上の階で御頭が貴様を待っている……伝説の人斬り抜刀斎、幕末最強の伝説と戦う時を、な」

 

「まあ、そういうこった。美味しいところは上に譲るのが定石ってものだろ?」

 

 男二人、そう言って剣心に道を開いた。両手を広げて武器からも手を放して壁に背をやる姿は本当に道を開けようとしているようだったが、それにうなずくつもりはない。

 

「面白れぇ。あの男と白黒つけられねぇのは惜しいが、するってぇ事は俺の相手はお前らって事か」

 

 剣心の危惧をそのまま口にする左之助はむしろ乗り気だった。やる気を見せて指を鳴らし、ずい、と前に出る。語らずとも手を出すなと背中が言っているのだが、はいそうですかと言える剣心ではない。一対一ならともかく、これでは袋叩きだ。

 

「心配せずとも、これから行うのは一対一の勝負だ。詰まらない真似はしない……身につけた技と力、奮う機会が欲しいのは御頭だけではないのでな」

 

「……力を奮う?」

 

「御頭は万全の状態でのあんたとの勝負を望んでいるんだよ。ここで俺たちがやるって事は、御頭の勝ちに傷がつく」

 

「ざっけんな、この傷ダルマ! なぁが御頭の勝ちだ! てめぇら全員相手にしたって剣心が負けるかよッッ!」

 

 顔を真っ赤にしたのは斬馬刀の重さ故ではあるまい。この少年らしい怖いもの知らずに何を思ったのか式尉は弥彦を見下ろして面白そうに笑っている。

 

「どっかの誰かを思い出させるような小僧だな。懐かしい気分にさせてくれやがる」

 

「何笑ってんだ、この!」

 

「おう、すまねぇな」

 

 取り繕った真顔があからさまで、ますます頭に血が上る弥彦。そこはかとなく、動作が子猿っぽい。

 

 剣心は元より左之助もそうだが、弥彦という少年の威勢のよさは大人の男にとっては生意気さが鼻につく事も多いが好ましく思える。ただしそれは器がそれなりに大きな男に限る。

 

「ま、気を付けるのはいいがあんまりうちの御頭を待たせてほしくはねぇな。さっさと行きな……そっちだって待たせている女がいるんだろう。今は観柳を止める奴は一人もいねぇんだから早く決着をつけるに越した事がねぇのはむしろそっちの方だぜ」

 

「…………」

 

 それを言われてしまえば否も応もない。剣心の目的は御庭番衆を倒す事ではなく、まず第一に高荷恵の救出だ。御庭番衆にかまけている間に彼女が拷問死でもしてしまっては、本末転倒とさえ言えない。

 

「行けよ」

 

「左之……」

 

「こいつらと二連戦だろうがニ対一だろうが、どっちにしても負けるつもりはねぇ。こちとらいずれは大一番が待ってんだから、むしろちょうどいいぐれぇだ」

 

 式尉がふん、と鼻を鳴らして迎えた大言壮語を吐いた左之助の声は冷たい。

 

 弥彦はわだかまりが消えたのかと錯覚しているが、彼らの間に生まれた罅は決して消えてはいない。ただ、それとは別に左之助はこと荒事に関して自分が足手まといのように扱われるのは許せない。

 

 ここで、相楽左之助ならば心配ないと言わせなくてどうするというのか。

 

「……一つだけ確認したい。拙者と戦いたいと言う御頭の本意は何だ」

 

 剣心にしてみれば、隠密の御頭……それも江戸城を守護する任についていた御庭番衆などかつて幕末で争っていた際に剣を交えた記憶などない。

 

 あるいは彼が斬った誰かとの間に繋がりがあったのかもしれないが、そんな事まではさっぱりわかりはしないものだ。

 

「今ほど式尉が口にした通り。求めるのは最強の看板を背負った人斬り抜刀斎との勝負、そして勝利に他ならない」

 

 剣心は表情にこそ出さないが、内心では忸怩たる思いを抱いた。強さを求める自体に無理解なわけでもないが、彼にとっては人斬り抜刀斎という最強の看板など一つの重みもない。そもそも最強など求めてもいなければ、真の最強として未だ敵わない男として彼が直接知るだけでも師匠がいる。そんなものを求めて自分に挑むなど、彼にとっては滑稽さか虚しささえ感じる迷惑千万であった。

 

 ましてやそれが今回の争いを助長させている節があるともなれば……

 

「先ほど語ったように、我々は隠密御庭番衆として江戸城の守護をしていた。だが、我々はあくまでも最後の防衛線。戦乱の中で薄々と察してはいたが、潜入してきた者たちを排除するのがせいぜいで、最後の将軍こと徳川慶喜は早々と降伏。ついに戦う機会などなかった」

 

 当たり前の話だ。

 

 そもそも江戸城に攻め込まれるなど敗戦が確実。それも江戸の町全てが薩摩、長州の軍勢に蹂躙されていると言う前提である。徳川十五代目将軍、徳川慶喜はそんな事態を招いてでも戦いに固執しなかっただけ理性的な将軍と言える。

 

「それは将軍として正しい選択なのだろう。それは街を戦渦に巻き込まなかった正しい選択なのだろう。だが……その結果残された我々はどうすればいいのか」

 

 拳を握りしめ、顔の前で構えた。大きく、ごつい、手袋をはめている中に何かを仕込んでいるらしいが、それを差し引いても鍛えられているのが剣術に生きる剣心にもよくわかる手だ。

 

「我らは何よりも、欲しいのだ」

 

 声には狂おしい熱情が籠められている。

 

「力を奮う機会、身に着けた技を存分に奮う機会、その相手が欲しいのだ。だから、武田観柳のような男に雇われもした。血反吐を吐いて磨いた技、力ッッ! 我々に平凡な市井に溶け込んで生きる道がなかった以上、その力を奮う事も出来ずに腐らせていくのは耐え難い。耐え難いのだッッ!」

 

「…………剣を振るうのは弱き者の為。この国と民の安息の為。幕末の時代、維新志士と幕府侍、敵対しつつもそれぞれがそれぞれの信念のもとにそれだけは貫き通して戦った。断じて力を奮いたいがためではないっ!」

 

 だが、剣心はそれには共感できなかった。

 

 身に着けた力を奮いたい。戦いたいという衝動、それが剣心にはない。

 

 力を奮うのは戦いの場なのだ。その犠牲となるのは常に弱い民草、飛天御剣流の剣客として、維新志士として、流浪人として……緋村剣心を構成するありとあらゆる全てにおいて、それをいったいどうして認められようか。

 

「お前たちの望みが幕末の頃に叶っていれば、犠牲となるのは江戸の民。今は多くの人が、恵殿が阿片の犠牲となっている。悪事に加担していたとしても構わずに貫く、お主らの力を揮いたいだけの欲望を見過ごすわけにはいかん!」

 

「……なんとでも言えばいい。我等にしてみればかつて存分に剣を振るって屍山血河を築き、今も剣を振るいながら旅を続ける貴様がそんなセリフを吐くなど笑止千万よ。それを世迷言としないのなら、まず剣を捨ててから口にするものだ」

 

 力を揮ってきた男が力を否定しているなど矛盾している。

 

 ……そんな自分の理屈などへ理屈に過ぎないのだと般若とてわかっていないわけではないのだろう。

 

 何をどう言おうとも、阿片密売人を守る仕事など下衆だ。

 

 本丸に攻め込まれるなどよほどの見事な奇襲か、引き時を間違えた取り返しがつかない程の敗戦の場合しかない。

 

 最初から分かっていた事なのだ、御庭番衆に戦の中で腕を振るう機会などない。

 

 更に、隠密が戦の中で力を奮いたいなどと考えること自体が間違えている。

 

 ……隠密とは戦で勇名を馳せる武士とは違う、正しく陰に潜むものなのだから。

 

 ただ、それでもどうしても“もしも”を考えてしまうのだ。自分たちが戦えば、思うがままに戦場を駆ける事ができれば勝てたのではないか? 

 

 女々しいと言えば言え、どうしてもその思いだけは捨てられない。常に忘れかけた頃に苦々しい思いと共に蘇ってくるのだ……特に、天才と謳われた御頭ならば猶の事に強く。

 

 だからこそ、最強の維新志士として名を馳せた男に力をぶつけてみたいのだ。御頭にその力を揮う機会を与えたいのだ。

 

 御頭は自分たちのように“日向の路で生きることができない”部下に付き合ってくれているのだから、せめてそのくらいはしたいのだ。

 

「これ以上の口舌は無意味だ。いずれにしても、我々はお前たちに挑む。我々はそこの喧嘩屋と戦い、お前は御頭の元へ行くがいい……戦わずに切り開かれる道などおまえにあるはずがないだろう。何より高見恵が囚われている以上、時間を掛けたくないのはむしろそちらのはずだ」

 

「…………」

 

 伝説の人斬りとはまさにこれぞという眼差しが般若面の奥に突き刺さるが、隠されている素顔はともかく隠密の仮面はいっかな揺るがない。

 

「左之……あとは任せた」

 

「弥彦も連れていきな」

 

 手を出すとは思わないが、それでも必ず相手の方に余裕が生まれる頭数差を考慮した左之助だった。しかしそれを弥彦が声を大にして断る。

 

「俺はいい。まずは頼りねぇ左之助の喧嘩を見守ってやるぜ。何しろニ対一なんだからな! お前がやられたら、次はこの明神弥彦様が相手をしてやらぁ!」

 

 問答の間にどうにか立ち上がり、斬馬刀を杖にして鼻息荒く生意気な事を口走る弥彦だが不思議と左之助は怒らなかった。

 

「……つうか斬馬刀が重くて動けねぇんだろ?」

 

「そんなわけがあるか!」

 

 一目瞭然であるので、なんとも情けない少年の強がる姿に左之助は白い目を向けるほかなかった。

 

「この明神弥彦様が見届けてやるから、潔く死んでこい!」

 

「誰が死ぬか、アホ」

 

 ひょい、と軽々斬馬刀を持ち上げて壁に立てかけると、ほとんど同じように弥彦の襟首をつかみ猫の子と同じに剣心へと放り投げた。

 

「俺の喧嘩を見るよりも、剣客の勝負の方がためになんだろ」

 

「人を物みたいに投げんじゃねー!」

 

 子猿を押しつけられた剣心であるが、彼は彼で左之助に対して何を口にしていいのか分からずにいた。

 

 元々緋村剣心は人との付き合いにおいては剣と比較して未熟もいいところである。

 

 育ちは山中で師と一対一。その後は十代半ばで山を下りて暗闘に戦争、生き延びてからは十年余りも一人流浪の旅を続けた。だから彼には決定的に欠けている物がある。

 

 物腰柔らかく低姿勢なので目立たないが、ハッキリと言ってしまえば誰かと仲たがいをした際に和解するような真似が彼は非常に下手だった。

 

 事が彼の信念などに関わってくると譲る事など全くできない。その辺りが理由で彼は師と喧嘩をし、十年前に破門同然の身で山を下りて以来顔も合わせてはいない……師匠が相手でもこれである。

 

 この点において、緋村剣心はもしや弥彦並かもしれない。

 

 そして、相楽左之助もまたどこからどう見てもそんな器用な男には見えない。むしろ老成すれば頑固オヤジになるのは今から目に見えているような男だ。

 

「……さっさと行きな」

 

「……わかったでござる」

 

 ようよう口を利いたかと思えばこれである。剣客も喧嘩屋も、どう考えても器用さとは無縁な生き方しかできないような男しかいないのだろうが、見ている弥彦の方がイライラしてくる。尤も、彼もいざ当事者になれば明らかに人の事は言えない似た者同士だ。

 

 つまり、剣心も左之助も一度意地を張ってしまえば子供同然という訳である。

 

「なんだか妙にぎすぎすしてやがるねぇ」

 

 初対面の式尉に言われてしまう程に彼らはぎくしゃくとしていた。

 

「うるせぇ、ほっとけ」

 

 御庭番衆二人の間を油断なくすり抜けている華奢な背中を見送る左之助にしてみれば、みっともないの一言だ。自然と言葉にも棘が入る。

 

「敵陣で悠長に仲間内の喧嘩なんざしやがるとは、いくらなんでも素人臭さがまるだしでなっちゃあいねぇな。なぁ、喧嘩屋斬左」

 

「……」 

 

 左之助の通り名を聞こえよがしに口にした式尉が分厚い唇を上向きにひん曲げた。

 

「自分の名前が知られているってぇのは驚きかい? そこの般若が人斬り抜刀斎のついでに調べたのよ。お前さん、この辺の裏社会じゃ結構名前が通っているみたいじゃねぇか。まあ、不意討ちとはいえあっさり相棒を吹っ飛ばされるようじゃ……大したことはないのかもしれねぇけどな。まあ……三下相手でも暇しているよりはまだましってものよ」

 

 これだけコケにされて笑う程、相楽左之助という男が大人しいわけがない。喧嘩屋などというやくざ稼業を選んだ大バカ者が血の気が少ないなどあるはずがない。

 

「勘違いしてんじゃねぇぞ、このツギハギダルマがッッ!」

 

 ばん、と音をたてて拳を自分の掌に打ち込む。

 

「俺は喧嘩屋、本領はこの二本の腕と拳に他ならねぇ! 三下で我慢してやるのはこっちの方だッッ!」

 

「ほう……仮にも江戸城本丸警護方まで勤めてみせたこの俺に対して、三下とはねぇ……面白れぇ」

 

 笑いながら、鎖を落とした。金属の重く硬い音が静かになった廊下を響き渡る。それがどこか不吉だったが、この場に残った三人の男たちは誰もがそんな“不吉”などに左右されるような軟弱ではない。

 

「強がりなのかどうか、ここは一丁文字通りの“腕比べ”と行こうじゃねぇか」

 

「……おい」

 

 勝手に決められては納得いかないのが最初に待ち構えていた般若面である。だが式尉には彼の言い分がある。

 

「お前はもう二回もこいつらとはやっているだろうが。橋と相手の根城でだったか? だったらここは譲れ」

 

「ほんの一回二回拳を交えた程度を一戦に数えられてたまるか」

 

 仲間内ではやはり違うのか、まるで怪談の中から湧いて出てきたような般若面が人間味を感じさせるやり取りをしている。左之助にしてみれば、阿片売買に関わるような悪党の手下がそんな顔を見せるのは意外であり、同時に複雑な気持ちにさせてくれた。

 

 ただ当たり前に喧嘩を売ってくればいくらでも買った。

 

 果たし状を送ってきてもいい、ただ街中で声をかけてきてもいい。いっその事、いきなり物陰から殴りかかってきてもまだましという物だった。

 

 こんな胸糞の悪い事件の中で交えた拳などに、愉しさも爽快感も全くない。

 

「どっちでもいい、さっさと来な。どうせ二人とも相手にすんだからよぉ」 

 

「ほう」

 

 舌打ちせんばかりの左之助の強気なセリフに、もはや問答無用とばかりに式尉が前に出る。後ろで諦めた般若面がため息をついていた。

 

「それが口先だけの強がりじゃねぇ事を祈るぜ、若造」

 

「上等だ、行くぜッッ!」

 

 駆けだした左之助を、式尉が真っ向から受け止めた。共に両掌を差し出してがっぷりと四つに組み合う。いわゆる手四つと言う形だ。

 

「おらぁ!」

 

「むん!」

 

 ぶつかり合った掌を通して腕から肩までびりびりと痺れに似た波が走り抜けていく。その感覚に式尉は驚いていた。

 

 筋肉の塊たる大男の自分と比較して、喧嘩屋と名乗る小僧は頭半分ほど上背が低く五体も細身だ。だと言うのに、予想を遥かに上回るこの手ごたえは驚きだ。驚きを感じ、そして喜びも感じる。

 

 いい手応えだ。

 

 本職でもあるまいに自分と相撲ができそうな強い奴は、久しぶりだ。

 

 だからか、ついつい体が動いちまう。

 

 式尉は自分が意識するよりも先に、のしかかるようにして生意気な小蔵の鉢巻きに向かって額をぶつけているのに気が付いた。ごす、という重たくて鈍い音がしたのを聞いてから後悔した。

 

 ついつい体が動いてしまったが、これでは脳を揺らされた相手は動く事さえできなくなるだろう。医者のような事はできないが、経験則で頭に強すぎる衝撃を与えればしばらく動けなくなる事は知っていた。

 

「おっと、すまねぇな。俺の人生これ悉く戦いなんでな。ついつい体が動いちまっ……」

 

 そこまで口にした式尉の膝が折れた。

 

「あ?」

 

「なぁに、いいって事よ……」

 

 目線が下がり、ちょうどお互いに同じ位置に顔が来る。頭が割れて血を流している男の顔が奇妙に波打っているように見えた。

 

「お互い様だ」

 

 この状態は知っている。今までに、何度となく味わってきた事態だ。頭蓋骨の中で、中身が揺れている状態!?

 

 そこまで思いついた式尉の背中に衝撃が来た。ふらついて背中を壁にぶつけたのだと気が付くまでにたっぷり五秒は必要として、前を見れば同じようにふらついた若造がこちらを睨みつけている。

 

「こ、てめぇ……」

 

 舌がうまく回らずに訳の分からない寝ぼけた与太事を口にしてしまったが、ふらついた脳みそでも話は分かった。この野郎が、自分の頭突きを真っ向から受けてたったのだ!

 

 向こう側も十分にふらついて何もできないらしくお互いに数秒の間を回復のために過ごし、やがて同時に拳を握りしめた。

 

「……お前は話を聞いていなかったのか。その男は得物を使わなかったとは言っても、御頭と渡り合っていたのだぞ。わざわざ鉄球を捨てるから何の策があるのかと思えば……」

 

「ぬ……」

 

 仲間の苦言に渋面を作った式尉だが、すぐに気を取り直す。この男、喧嘩屋なんてちんけな生き方をしている割にはなかなかに見事な強者ぶりだ。てっきり頭突き一発で相応の痛手を負わせられると踏んでいたのがどうしてどうして……面白い。

 

「ふん、今のはただのあいさつ代わりよ。その華奢な形で俺と組んだ挙句に頭突きにもひるまねぇで頭突き返すとは思った以上に楽しめそうじゃねぇか」

 

「……今のは、返したと言うよりも受け止めたと言うべきだな。上からのしかかるようにぶつけたお前の頭突きに対して、全身をがっちりと固定して受け止めた……お前はいわば、突き立った棒に頭を打ち付けたようなものだ」

 

 それはいわゆる退歩、という技法の変形だった。足を後ろに引いて体を固定する……言ってみれば自らつっかえ棒になるような技である。

 

「け……さすがに傍で見ていりゃ見抜くのも簡単かよ」

 

「見事な技だ。しかし、あまり聞かない類の技法ではある……噂だけならお前は斬馬刀頼りの豪腕自慢かと思っていたが、実際に見た通り違ったようだな」 

 

 自分の技を敵に丁寧に解説され舌打ちをする左之助だが、般若面の言葉には確かな礼があった。強い男、それも天性のそれではなく修練の骨太さを感じさせる左之助に敬意と闘志を抱いているのがはっきりと分かった。

 

「相棒は相棒なりに便利なんで重宝しているだけよ。俺の本領は拳骨! それが男ってもんだろぉが」

 

 左之助の威勢のいいセリフを聞いた式尉がにやりと口元を綻ばせた。笑みというよりも犬歯を見せつける行為に思える振舞だった。

 

「なかなか気風のいい台詞じゃねぇか」

 

 ごきりごきりと指を鳴らす。骨の噛み合う感じが心地よいと感じている。そのまま拳を握りしめて、豪快に腕を振りかぶった。感じている心地よい物を力いっぱいに握りしめて、そのまま叩きつけたかった。

 

「おぉらぁっ!」

 

「あめぇッッ!」

 

 振りかぶった拳は威力があるかもしれないが、同時に回避も防御もしやすくなる。概ね、素人同士でもなければそうそう当たりはしない。相楽左之助、喧嘩の場数も武術の修練も素人とは程遠い強者として滑るように軌道の内側へと入りこんでそのまま肘をあばら骨に向かって突き込んだ。中国の超近接用拳法、八極拳における肘技、裡門頂肘と一致しているが、それが偶然であるのかどうか本人さえも知らない。

 

「ごっ……」

 

 硬い肘が強い踏み込みと共に体重を乗せて肋骨に突き刺さる。その痛みと衝撃が式尉の脳天を直撃する。まず息を詰まらせる衝撃と、数瞬遅れで強烈な痛みが頭に届いた。

 

 その際に、ごきりと音を聞いた気がする。自分の中に響いたその音は、もしや肋骨が折れた音ではないのかと半ば確信に近い思いを歴戦の御庭番衆は抱いた。骨が折れた事も肉を斬られた事も一度や二度ではきかない彼にとってはなじみ深いとさえ言える感覚に、涎が唇の端を垂れていっても気にできない程だ。

 

「逃がさねぇぜ」

 

 それよりも気にしなければならない事があるのだから、当然だ。痛みに悶えている暇があれば、戦わなければならない。

 

「野郎ッッ!」

 

 撃ち込まれた肘が脇腹から離れるよりも先に、さば折りを決めてやった。深く肘を打ち込んでいたせいで、まとめてしがみついてしまえばいくらもがいても簡単には逃げられない。この徹底的に密着した状態では蹴りも無駄だ。

 

 残った腕一本で目玉を抉られても放すまいと肚を決めた男は、己は油断ならないのだと痛みを付けて教えてくれた喧嘩屋に時間を与えてたまるかと剛力に物を言わせて持ち上げた!

 

「おわッッ!?」

 

「お返しだぜッッ!」

 

 裏投げの要領で、脳天を壁に叩きつけてやった。皮膚から骨を通して神経を痺れさせる、全身にびりびりと感じる衝撃に心地よささえ感じてしまう。御庭番衆の中では最も力が強いと自負する男が全身を使った投げ技を受け止めた邸、廊下そのものが揺れてパラパラと漆喰が天井から落ちてきた。

 

 間に一本だけ自由な腕を入れたのだろうが、建物そのものが抜けかけた乳児の歯のように揺れるほどの衝撃をそんな程度で受け止められるものか。

 

「ごがっ!?」 

 

  式尉にとっては必然とさえ言える予測は脳天に食い込んできた衝撃によって覆された。横で見ていた般若面も同様に考えていた為、度肝を抜かれた。

 

「白目をむくどころか脳天に肘、だと……ッッ!?」 

 

 常識外れの頑健さだった。

 

 相楽左之助、脳天を壁にひびが入り建物沿物が一部とはいえ揺れるほどの衝撃を生む勢いで叩きつけられたというのに……大方の予想に反して白目をむいて気を失うどころか自由に動く最後の一本である腕一本を式尉の脳天に叩きこんで反撃さえしてのけた。そのまま思わず怯んで緩んだ拘束を、壁を蹴って抜け出す。どん、と音をたてて、もう一度それぞれ壁に背中を打ち付けた。

 

「が、ふ……」 

 

「こんの……野郎がッッ!」

 

 互いに脳天を打ち付けられて打ち据えられて、それぞれが悪態をつきながら眼光鋭く相手を睨みつける。互いに相手の額辺りに垂れ落ちてきた赤い血を見つけた。

 

「頑丈な野郎だぜ……」 

 

「そりゃこっちのセリフだ!」

 

 浮いた不安定な状態から肘を落とされた式尉よりも、壁に叩きつけられた左之助の方がよほど厳しい目に合っている。頭だけでなく頸椎まで傷めているのは間違いないだろう。今も向こうっ気を強く出しているが、膝が笑っているのを式尉はともかく横で見ている般若面は見逃していない。

 

 だが、あえて言わなかった。

 

 それが正々堂々だなどとは言わず、式尉が勝つと信じているわけからでもなく、飢えのように五体に滾る全てをぶつかるに値する相手との戦いに茶々を入れたくはないというだけの身勝手なまでの話だ。

 

 隠密だの御庭番衆だのはもはや関係なく、五体に刻み込んだ力と技を絞りつくしたいという願いだ。

 

「続きだ」

 

「来いや!」

 

 先程の交差で打撃の技術は左之助が上回っていると認めた式尉は最大の持ち味である剛力を活かす手段をすぐに見つけ出していた。

 

 組む。

 

 他にはない。ここまでの戦闘で最も有効だったのが掴まえてからの投げだ。組み付いてしまえば自分の力に敵いはしないと確信できる。投げていい、絞めてもいい、潰してもいい。どんな形でも自分の力なら自在にできる……確かに相手もなかなかに剛力だが、それでも明らかに自分の方が上だと先程の手四つの感触でつかんだ確信がある。

 

 遠くから殴ってくるなら、耐えてその手を掴まえる。組んでくるならそのまま終わらせればいい。自分の筋肉は力と言う武器を生み出すだけでなく、骨も内臓も守り抜く鎧でもあるのだから、いくら打たれても耐え抜いて捕まえてしまえば……勝ちだ。

 

 もちろん木偶でもあるまいに、ただ殴られっぱなしでなどいない。受けも躱しもするのは当然だ。あいつよりもずっと大きくて重たい自分なら、何発打たれようとも……沈みはしない!

 

 開手で顔の横に構えた式尉は体を丸めて防御を固め、唯一の不安材料である金的を庇う為に足を開いて膝をたわめた。半身になって、蹴りを入れてこようともさせない防御は忘れない。来るなら来いと万全の態勢で待ち受ける敵を前に、喧嘩屋はゾクゾクと背筋を奔る奇妙な高揚感を覚え、堪能していた。

 

「弱い者いじめは詰まらねぇ……気分が悪い。やっぱ、喧嘩はこうじゃなくっちゃよ」

 

「何事も強い奴に勝つから、面白いんだよなぁ?」

 

 決闘、果し合い、試合、喧嘩、勝負……一対一の、外連も含みもない真っ向勝負は、常にそういう物だと……そうあるべきだと示し合わせたように男たちは思っていた。敵対して向かい合っているはずなのに、奇妙にわかり合ったような気分だった。

 

 そして、それが気に入らなかった。

 

 勝ちたいのだ。負けたくないのだ。それが戦っている最中にわかりあったような顔をしてどうする。

 

「そういうのは、俺が勝った後だよなぁ」

 

「ぬかしやがれ」

 

 互い以外にはわからない、お互いにも本当のところはわかったような気になっているだけだ。それらも何もかも、実際の所はどうでもいい事だ。

 

 大切なものは現実に、目の前にいる相手をどうやってぐうの音も出ない程に叩きのめすかという事だけだ。

 

 両方の間で、空気が淀んでいるようだった。お互いの体から発する熱が押し合い引き合い、空気がそれに引きずられている。傍で見ている般若から見て、そんな印象だった。

 

 面の下で、男は思った。

 

 勝て、式尉。

 

 そして同時に思った。

 

 早く俺の番になれ。

 

 矛盾したそれに葛藤など抱かず、それぞれをごく自然に腹の中に抱きながら彼は戦いを見守った。手を出すどころか口を出すつもりもこれ以上はない。見れば見るほど、この勝負に余計なものを一欠片だって混ぜ込みたくはなかった。

 

 面の下で爛々と目を輝かせる男の前で、両雄は先ほどと異なりじりじりと間合いを詰めていく。それはまるで、剣豪同士の果し合いにも似ている姿だった。一歩、一寸、緻密に間合いを詰めていく姿は指一本の違いが勝敗を分けるのだと如実に語り、雑に殴る蹴るだけの喧嘩屋という印象を覆すものだった。

 

 二人の間合いがじりじりと近づき、やがて腕を伸ばせば掴まえられる位置にまできた……ただし、それは式尉だけだ。彼の方が明らかに背が高く、その分はっきりと腕が長いのだ。だが、まだ手は出せない……それは防御を崩す事を意味する。その隙間に拳を撃ち込まれるなどと言う間抜けを晒すつもりは毛頭なかった。

 

 左之助が腕を伸ばす。それに式尉が一寸の隙も見せずにゆっくりと応えて、双方の指が正に紙一枚ほどの隙間もない距離まで近づいた。

 

「!?」 

 

 式尉の表情が驚きに染まる。左之助が伸ばした腕が、式尉の防御をすり抜けるどころか彼の構えた掌そのものを捕まえてきたのだ!

 

「こういうの、聞いた事もねぇだろう?」

 

 次の瞬間、にやり、と笑ったまま喧嘩屋は驚いた隙を逃さずに蛇のように敵の五体を絡めとった。相楽左之助の見せた姿に般若面は二の句が告げられず、式尉などは自分がどうなっているのかもわからなかった。

 

「立ち蔓……なんでも御式内とか言われている流儀には畳の上で座ったまま敵を取り押さえる技があるって師匠に聞いちゃあいたが……こいつはその真逆。立ったまま相手を捕まえて関節を極める技よ……もっとも、技は俺の思い付きだけどな」

 

 五体で絡みつく蛇のように左手と左足を固め、右手同士をしっかりとつかみ合わせて離すまいといる相楽左之助の見せた技は、戦場で生きる技術を追求してきた御庭番衆には未知の技術だった。拘束こそできてはいるが、こんな真似を戦場でやれば背中をバッサリと斬られてお終いか流れ矢を脳天に当てられて死ぬ。この状況下でしかできない技だった。

 

 左之助は真正面に般若面を置いているが、それは狙ったわけではなくどうも偶然そうなっただけのようで意識が式尉だけにしか向いていない無防備な状態だ。偏に彼の未熟だが、般若にしてみれば自分が襲ってくると考えてもいなさそうな隙だらけの青臭さはこの時に限っては清々しかった。ただし、後で当人は自覚して剣心との喧嘩と同じような失敗を繰り返していた自分の成長のなさに苦虫を噛み潰したりもしたのだが、それは余談だ。

 

「~~~~ッッ!」

 

「無駄だぜ」 

 

 手足を圧し折るわけではなく、首を絞め落とすわけでもない半端な技だが全身に自分の類稀なる力を籠めても式尉は動けずにいた。てこの原理、など技を掛けている方も掛けられている方も全く知らない話だが、共に“こうすればうまく力が乗らないから振りほどけない”とだけは経験則で知っていた。

 

 みしみしと、みしみしと体内で骨が鳴り……いずれはへし折れるのではないのかという痛みと危機感を覚えた式尉は、自分の額に汗を感じた。動いたから出てきた汗ではなく、痛みで出てきた脂汗だと自覚して屈辱に歯噛みした。

 

「こんな技で俺に勝てるとでも思ってんのか、小僧……ッッ! 俺たち御庭番衆は痛みに屈服はしねぇ! 殺すどころか圧し折りもしねえ技で勝ちが拾えるかッッ!」

 

「けっ……こいつはてめぇ向きだからちょいと使ってみただけだ。気のつえぇセリフはひん曲げられた腰を真っ直ぐにしてから抜かしやがれ! できやしねぇけどな」

 

 コケにされて引けるはずもない男の面子にかけて力を振り絞るが、口から泡まで吹きながらどれだけ力を籠めても骨身に軋む音をたてながらこたえる痛みが増すばかり。どこにどう力を籠めようとも、日ごろは熊にも勝ると自負する剛力が全く力を発揮しなかった。

 

 殺す為でも破壊する為でもなく、捕まえる為の技など考えた事もなかった。御庭番衆として侵入者を捉えなければならない場合は多々あったが、縄を使うか足をへし折るか、それとも腱を斬るか。自分の肉体で絡めとるなどろくに考えもしなかった。

 

「こんな締め付けるだけの技が俺向きだと……? ふざけるのも大概にしやがれ!」

 

「嘘もフカシもねぇ! てめぇ、筋肉が太すぎんだよッッ!」

 

 考えもしなかった左之助のセリフに式尉が目を見開く。

 

「どうやったのか知らねぇが、てめぇは元々でかい図体しているのを差っ引いても肉が付きすぎだッッ! だからこういう固める技がよく効くんだよ! ついでに身体もカテェな!」

 

「!!」

 

 ぎちぎちと体内で肉が軋み骨の鳴る音に、反論ができずに歯ぎしりをする。自慢の筋肉が弱点になっているなど断じて認めたくはないのだが、足元を見る事しかできない自分の惨めで屈辱的な姿を客観的に想像してはもはや何も言えない。実力で返さなければ百万の言葉を思いついたとしても意味が全くないのだ。

 

 だが抜け出そうとしても、確かに振りほどく事さえできない。力を入れにくい形に五体が固定されている。

 

 だが、例え成す術なく翻弄されていようともたかが関節を極められている程度で命は奪われない。それでも反撃の道を探さないほどに骨まで腐ったわけがない。

 

「ぐおっ!?」

 

 一つ、自分らしい起死回生を思いついた。この状態でも力を籠められる一手があった! 左之助の手で握りこまれた右手、こちらからも握りしめていると言えるそこを全力で握りしめる。

 

 みしい、と言う音と共に左之助が悲鳴を上げた。一気呵成に置く場を噛みしめ、血管が浮き上がるほどに力を籠めて小憎らしい喧嘩屋の手を握りつぶしてやるぜとこれまでの鬱憤を籠める。

 

「こんだけ筋肉膨らませたおかげでよぉ……薬にまで頼ったおかげでよぉ……握力だけでも大逆転だぜぇ!?」

 

「嘗めんなあッッ!」

 

 左之助も負けじと締めるが、式尉は全く怯まない。互いに根競べの形になっているが、般若の目から見て明らかに式尉が有利であり、その証拠に軋む音は左之助の手からの方からしている。なかなかに興味深い技を使う男だが、ただ単に握りしめているだけの式尉に追い詰められている姿は技に溺れていると言えた。

 

「これは痛快だ」

 

 この声を聞きとがめた左之助の顔が歪む。一転して自分の技を利用され窮地に追い詰められた滑稽さは彼が一番理解していた。

 

 格闘技の技術体系と言うのは、大きく分類すると打撃系と組み技系に分けられる。空手と柔道のようにそれぞれの分野に特化して磨き上げられる場合もあれば、軍隊格闘技やパンクラチオンのように総合的に学ぶ格闘技もある。相楽左之助と言う男の学んだ武術は後者に属するが、その中でも彼はどちらが巧いかと言えば打撃に偏っていた。

 

 それは性格による好みなどもあるが、同時に組み技は相手がいなければ上達が極めて難しいからでもあった。これまでも喧嘩などで試してはいたもののそこらのチンピラと左之助では地力が違い、有意義な鍛錬になったとは言い難い。

 

 それらが今の苦境を招いていた。

 

 もしも左之助の師匠が今の体たらくを見ていれば、怒りに怒髪天を突きながら侮蔑して言うだろう。

 

「半端な技を仕掛けおってッッ!」

 

 呆れてさえいる声をまるで実際に聞いているかのように頭に思い浮かべて、喧嘩屋は奮起した。己に挑めとまで言われている師匠にそんなセリフをぶつけられるなど、たとえ自分の空想に過ぎないとしても許せない。

 

 半端かどうか、見てみやがれッッ!

 

 そう思った男の五体は、何を考えるよりも先にしなやかに動いていた。

 

 握られていたままの手を捨てるつもりで支点にすると、そのまま相手の腕にぶら下がって足で首を絞める! いわゆる三角締め、特に立っている相手にぶら下がるから飛び三角と言う奴だ。柔道ではそれなりに知られた技だが高度かつそれを使わなければならない状況には早々ならない為においそれと使われる事はない技だ。太い首にしっかりと食い込んで頸動脈まで抑え込んで血流を抑えている。

 

「ぐううッッ!?」

 

「おらぁッッ!」

 

 双方、手と首を締めあげられて互いに苦痛の声を上げるが力は緩めない。ここが勝負どころと見込んでいるわけではなく、ただ単に意地になっているだけだ。喧嘩屋はともかく、隠密御庭番衆のとるべき行動としてはいささか疑問を覚えるべきところだろう。

 

 いや、さすがに式尉はそこまで冷静さを失っているわけではなかったのか、技が変わり解放されたもう一本の腕で左之助の悪一文字をがっしりとつかんだ。両脚は踏ん張り、互いの体重を危なげなく受け止めている姿は正しく仁王立ちよ。

 

「覚悟しておけよ。こっからは……ちぃとひでぇ目に合うぜ」

 

 締め付けられてくぐもった声で告げられた左之助が理解するよりも先に、式尉は己の怪力に物を言わせて彼を軽々と振り回した。まるで人形のような扱いだが、相楽左之助と言う男は決して軽くはない。むしろ長身で筋肉質の彼は、食うや食わずがまだまだ珍しくない明治の世間一般の標準から見て重たい方だろう。

 

 だがまるで弥彦のような子ども扱いでいいように振り回される。

 

 怪力の面目躍如、相手にしがみつく形の左之助はまるきり対抗する事も出来ずに面白いように振り回されると、後頭部にとんでもない衝撃を感じた。

 

 声を出す事も出来ずに視界が揺れるに任せる他はない。頭が砕けているのではないのかという痛みと共に何が起こったのかを察する。例え彼に想像力という物が欠如していてもすぐさま察せられるだろうが、壁にもう一度叩きつけられたのだ。

 

 しかも先ほどよりも強く遠心力を乗せられている状態で力いっぱい振り回された痛手はまるきり比ではない。力を籠めて締めあげていた結果、たまたま舌を咬まなかったのは幸いだが受け身も取れずに後頭部を硬い壁に打ち付けられては常人であれば最低限脳に障害を残す痛手を受け、時と場合によっては死んでいるかもしれない……いや、その可能性の方が明らかに高いだろう。

 

 それだけの力だった。

 

 般若面が見守る中で、同輩はそのままの格好で静かになった。勝ったのだな、と確信を抱いた彼は胸中に仲間の勝利を祝う気持ちと自分の出番がなかった事を惜しむ気持ちを双方噛みしめて足を踏み出す。

 

 すると、まるでその振動が伝わったからのように式尉の膝が折れた。ずしゃり、と二人分の肉が重たい音をたてて床に沈む。その音が、壁に打ち付けられた破壊音よりも激闘の証明であるかのように思えた。

 

「…………」

 

「式尉?」

 

 そのまま立ち上がるでもなく膝をついている彼を訝しがり声をかけると、重なり合った人影が動いた。

 

「っしゃあああッッ!!」

 

 ゆっくりと立ち上がった喧嘩屋が天井を振り仰ぎ、喉も裂けよとばかりに快哉を上げた。

 

「どんなもんでぇ……」

 

 般若面の方を向いてからにやり、と笑った顔は血にまみれて壮絶であったが、勝利がもたらす活力に満ちている。派手に壁に叩きつけられた男とは思えない、やせ我慢をしているにしても驚異的な頑丈さだった。

 

「……そうか。振り回した事で食い込んだ足がさらに首を絞めたのか……」

 

「へへ……ついでに言うと、元々こいつはオチる寸前だったのよ。俺の足はただ喉を絞めた訳じゃねぇ、首のところを奔る血の流れを食い止めていた。絞めて抑え込んだのは息じゃねぇ、血の流れだ。そうすると、人間はあっさり気を失っちまうんだ」

 

「……頸動脈」

 

 左之助は部位の名前までは憶えていなかった。言われたような気がするような、しないような……名前よりもやればどうなるか、その方が遥かに重要だった。今般若面が口にした名前を、そう言えば師匠は口にしていたような気がした。

 

「あぁ……そんな名前だったっけか」

 

「……普通、庶民はそんな名前は知らぬ」

 

「ああん?」

 

 般若は少しだけ動いた。これからの闘争に式尉を巻き込まないように、距離を置いたのだ。

 

 左之助もそれを察して、素直に応じた。気を失った男を巻き込むのは本意ではないし、純粋に邪魔と言うのもある。更に、どこかで意識を取り戻して乱入されるのを嫌った。

 

 双方、にらみ合いながら油断なく距離を測りつつ場所を移す。やがて彼らは少々開けたホールについた。ご立派な赤絨毯を敷いた階段があり、その上に大きな扉がどっしりと構えているのが見えた。

 

「……この間の御頭と剣心達は今、あそこでやりあってんのかい」

 

「そうだ」

 

「ふうん……加勢する気は毛頭ねぇが、見物にはいきてぇところだ。さっさと済ませねぇと、終わっちまうのは格好がつかねぇな」 

 

 歩いている間に回復してきたおかげで意気軒高。強敵からの勝利に闘志を燃え上がらせている喧嘩屋は、さらなる一戦に疲弊や怯みなど全く見せずに勇んで拳を握る。般若もまた、例え相手が既に疲労していようとも傷ついていようとも手心を加えるつもりなど一切ないと証明する隙のない構えで応じた。

 

「相楽左之助」

 

「ああ?」

 

「この街で喧嘩屋として裏稼業では有名な男だった。背中には悪一文字、斬馬刀を使って喧嘩代行を生業とするやくざ者……だが、そんなお前が確かに洗練された拳法を使った。いや、先ほど式尉を締めあげた関節の技から見て、明らかにただの拳法家という訳でもない……お前は何者だ?」

 

 左之助は笑ってただ構えた。幽霊もどきの光成が王者と同じ構えと称した構えもまた般若面から見て独創的でありながらも隙がない、堂にいった構えだった。

 

「師は……師は誰だ? 打撃が主だが、極めも締めもする技は、流派の名前は何という」

 

 知りたいと思った。御庭番衆として調査をしてもわからなかったこの男の技の根は一体なんだ。

 

「……流派なんざねぇよ」

 

 左之助はどうしたものかと少々考えたようだが、すぐにどうでもいいと割り切った。あれこれ駆け引きをするよりも、ただ昂った闘志を解放したいのだ。いや、発散と言う方がより正しいのか?

 

「こいつは剣心に聞いた話だが……幕末じゃあ京都の鬼、なんて物騒な綽名で呼ばれていたらしいぜ」 

 

「……ッッ! 鬼……あの幕末の鬼だと!?」

 

 御庭番衆でも禁忌とされていた正体不明の怪物がいた。

 

 正体不明、争う二つの勢力の間に乱入しては見境なく暴れまわる奇怪な男。正体、行動の目的を探るべく幾度か近づけた忍びは悉く発見された上に人知を超えた力で無残な屍に変えられて、やがて大きすぎる損害に触れるべからずとされた災害と人間の合いの子のような怪物。

 

「……あの鬼に弟子がいただと……? 信じられん……」

 

「俺だって師匠が鬼だなんだと呼ばれているなんて知らなかったぜ。まあ、信じられねぇってんなら拳で思い知ればいいじゃあねぇか? なぁ」

 

 それ以上の何があろうか。そもそも、ここで対峙しているのはひたすらにお互いのみ。師匠など関係ない。

 

「……そうだな」

 

 般若面はがつりと拳をぶつけ合わせた。ごつん、と肉と骨で出来た手ではありえない硬い音がしている。

 

「甲か。そう言えばお前、剣心とやり合った時に何度も太刀を受けて怯まなかったな。我慢比べが得意って訳じゃなくてそういう事か」

 

「何か不服か?」

 

「いや、まったく。好きにやりゃあいい。皆それぞれ、てめえのやり方を貫くだけでしかねぇ……あれこれ言うのは野暮だろ」

 

 例え銃が手元にあろうとも、相楽左之助は素手で戦う。

 

 別に誇りとか正々堂々とかいう背中がかゆくなるような理由ではなく、そっちの方が好き、それだけだ。あるいは長年鍛えてきた拳の方が、見た事しかない程度の銃などよりもずっと信頼できるという理由もあるか。

 

 だから相手が武器を使いたければそうすればいい。

 

 大人数だろうが武器だろうが、それが強さだと思うのならそうすればいい。違いやり方を好むから自分はそうしないが、人に向かってあれこれぐちゃぐちゃ言うのはそれこそ好ましくない。毒だの人質だのは認められないが、それ以外なら卑怯だなどとは口にしない……あえて受け入れて勝つ方がずっと格好いいと稚気交じりに思う。

 

「ならば」

 

「おうよ」

 

 双方、拳を握りしめて大きく一歩を踏み出した。

 

「御庭番衆密偵方“般若”。御頭の命により、そして俺自身の望む戦いの為に……おまえを倒すッッ!」 

 

「来いやぁッッ!」

 

 大喝一声、腹の底から咆哮した両名は解き放たれた闘犬のように一気に間合いを詰めて己の牙を突きつけあった。共に突き出した拳は交差し、肉が打たれ湿った鈍い音がする。

 

「!?」

 

 一撃を綺麗に受け仰け反ったのは左之助だけだった。喧嘩屋の拳は避けられ、隠密の拳は眉間を綺麗に捉える。頭に響く強烈な衝撃と手ごたえのなさにそれを悟った左之助は、驚きを見開いた目で表しながらたたらを踏んだ。

 

「……」

 

「……」

 

 どうにか体勢を立て直すと、こちらに踏み込もうとしていた般若がそれを見て足を止め、双方無言でにらみ合う。

 

 今の攻防、左之助は自分こそ相手の拳を紙一重で躱して痛打を浴びせると思っていた。だが、きっちりと命中されたのはこちらの方で挙句にその衝撃で彼の拳は外れた……交差法で増した手甲付きの打撃は散々に打ち据えられた頭にさらなる痛手を追加させてふらつかないのがやっとだった。

 

 見切りを間違えたのか。遅くはないが、手甲を付けている重みのせいで決して速いとは言えない拳だった。おかげでむしろよく見えていたはずだが……何かあると左之助は踏んだ。

 

 たった一回の交錯で結論付けるのが早計なのかどうかは、これからの攻防が決めるだろう。

 

「今の……目くらましみてぇだな。もしかして、隠密の技かなんかか?」

 

「さてな……」

 

「なんだか安心したぜ。お前らはどいつもこいつも、隠密らしさが全くなかったからな」

 

 痛打など既に忘れたと言わんばかりに凄みをもって笑うと、今一度突っ込んだ。一見して無造作に、そして事実、無造作以下だった。

 

 先程の焼き増しのように真っ向から突っ込み、そしてもう一度自分だけが殴られてのけぞる。だが般若は同じで済ませるつもりはなく、そこから更に追撃の裏拳が襲ってきた。

 

 ただ真っ直ぐに打ってくるのではなく裏拳を選んだおかげで、ほんの少しだが隙が生まれた。左之助は間を逃さずに体勢を立て直すと相手の攻撃を迎え撃つ。

 

 大きな軌道の裏拳、通常ならば余裕をもって躱せるような攻撃だったが……彼の横面は弾かれ、強制的に壁の模様を見物させられるに至り、遂に確信を抱いた。

 

「……ようやくわかったぜ。三発もくって、ようやくな」 

 

 半ばこうなる事を予想して歯を食いしばっていたおかげで、大きな隙を見せる事無く態勢を立て直せた。

 

「理屈はわからねぇが、お前の腕が俺の見切りよりも少しばかり伸びてんな。肩や腰を入れているとかそう言うんじゃねぇ……俺の見切りが下手くそとかそういう話でもなさそうだ……そうだな……うまく言葉にゃできねぇが、腕そのものが急に伸びているような感じだ」

 

 これが緋村剣心であれば、より早く理論的に見抜いているだろう。緋村剣心は速さと読み、見切りが売り物の男であり、また根本的に喧嘩屋と剣客では間合いと見切りの重要性が桁違いだからだ。間合いを一瞬でも見損ねれば死に捕まえられてしまう剣士にとって、仕組みは正体不明だがこの男の奇妙な術は大きな障害だろう。

 

「確かにようやく、だな。剣客であればもっと早くに気が付いていたぞ」

 

「ふん……その分、俺はもう攻略方法を思いついたぜ。剣客には無理な事でも、喧嘩屋の俺にはできるような手だ」

 

 ハッタリととったか、それともどちらでも構わないととったか、般若は拳を前に突き出して勢いよく踏み出した。全身を使って体当たりのように狙うのは、水月。鳩尾とも言われる胴体中最大の急所であり、深く抉りこまれれば時として素手でも死を招く危険部位だ。

 

 手甲を付けているとどこを打っても相当の痛撃となる物だが、小さな急所を狙うのには不向きとも言える為に最も大きな急所を狙うのは、確かに物の道理だった。

 

「キィエエエェェィッッ!」 

 

 手を伸ばす、という奇妙な術に自信があるのか他には何一つ小細工ない愚直なまでの一撃で襲いかかる。それに対して相楽左之助はどう出るか。

 

 いっそ楽しみにさえしながら鬼の様な男が突き出した拳に感じたのは、ずっしりと重たい石のような感触だった。 

 

「鳩尾狙いが見え見えだったぜ? へへ……躱せねぇんなら受け止めりゃいい。それだけの話よ」

 

喧嘩屋は鳩尾の前で両手を交差させて、重たい一撃を受け止めていた。

 

 般若は驚いていた。彼にしてみれば、そうそう受け止められるほど自分の拳は遅くもなければ軽くもない。そんじょそこらの男の腕ならば簡単に弾き飛ばしているはずだが、現実はごらんの通り。ミシミシと嫌な音をたててはいるが、喧嘩屋は見事に般若渾身の一撃を受け止めている。

 

「見事ではあるが!」

 

 だが、驚こうがそれで止まるほど彼の胆力も経験も安くはない。

 

 一瞬の停滞もなく横殴りに繰り出した一撃は左之助の顔面を簡単に打ち抜いた。見ようによっては腕一本で左之助の両腕を封じているとも言えて般若の強みになっている。

 

「ごっ! ぬぐっ!」 

 

 一発、二発、重たい一撃が顔面を打ち抜く。肉とその向こう側の骨を打つ感触が般若の骨身に響いてくる。

 

 全力で打っている。

 

 全力の攻撃に、この男はどこまで耐えられるのか。自分はどれだけ打てるのか。

 

 自分の全霊にこの男はどう応えるのか。御頭は、こういう物を求めていたのか……自分はそれに倣っているのか。

 

 よくわかる気がする。だが少し違う気もするのは何故だろうか。

 

 私心を押し殺すのは忍びの当然であるが、それでも自分が、仲間が積み重ねた全ては無駄ではないのだと声を大にして叫びたいのだ。

 

 違和感など噛み潰せ。隠密御庭番衆は、御頭が我らに与えてくれた全ては、無為に歴史の闇に消えていいものではないッッ!

 

「散々ぼかすか殴りやがって、この……」

 

「何!?」

 

 三発目の拳が頬にめり込んだ時、左之助がぎろりと狂気じみた恐ろしい目で頬に拳をめり込ませたままに睨みつけてくる。それは般若にとっては信じがたい光景だった。

 

 自分の拳はただの拳ではない。

 

 拳法家としての修練を積み、更に手甲までしている。重みがあるせいで当てる難易度は上がるが、比例して威力も上がっているというのにそれを三発も喰らって睨み返してくるだと!?

 

「これが対抗策そのニ……根性入れて、耐えりゃあいいッッ!」

 

 対抗策も糞もない。

 

 策などと言う知的な言葉を使ってはならないと言う程に、いっそ滅茶苦茶な選択だった。ここに剣術少年がいれば、頭の中まで筋肉になったのかと声を大にして罵倒するだろう。だが般若は素直に男の打たれ強さを認めた……自分の打撃は安い根性論などで受け止めきれるほどに軽くはないからだ。

 

「どらぁッッ!」 

 

 そのまま力づくで相手の懐にもぐりこみ、超が付くほどの接近戦を挑む。ごきり、と握った拳が速やかに小さな円を描いて般若の肝臓を抉りこむように打った。

 

「……ごはっ!」

 

 痛撃が腹を貫通したようだった。もしやまさか、打たれた箇所に穴が開いてやしないのかとさえ錯覚する強烈な痛みを覚える。痛みが強すぎて意識を失うどころか逆にはっきりとしてくる中で、悶絶するのを必死にこらえながら般若は同じ個所をより鋭く抉りこまれた一週間前の夜を思い出した。

 

 狙ったのだ、間違いない。違うにしてもそのくらい技量が高いと考えておいた方がいい。

 

 距離を取らねば、と痛みにガンガンと殴られている脳が警告を上げるが、そうはさせじと追いかけてくる影がある。

 

「くっついちまえば距離も糞もねぇだろうが!」

 

 両腕で頭だけは庇いながら突っ込んでくる喧嘩屋に、一見では頭が悪そうであるが実に合理的でわかりやすい手段をとってくるのだと感心する。

 

 確かにその通り、距離を謀る為の術ならば距離など関係ない手段をとればいい。なるほど、斬られる前に斬る為に間合いが重要な剣客では逆にできないような戦い方だ。

 

 そのまま肩をぶつけられ壁へと叩きつけられるのを、壁を両足で蹴って防ぐ。そのまま宙に飛んで逃げるが、腹に重たい痛みが残った。

 

「しゃあっ!」

 

「!」

 

 しかし、その痛みに構うような余裕などない。背後から気合の声と共に風切り音が迫ってきたからだ。咄嗟に全身をひねると、顔のすぐ横を何かが通り過ぎていったのが見えた。足袋を履いた足……まさか、飛び蹴りをしてきたと言うのか。

 

 般若面のせいで見えづらかったが、振り返った隠密は宙を舞い、こちらにしなやかに蹴り足を伸ばした喧嘩屋を確かに見た。

 

「剣心相手ならともかく、俺だって飛び技の一つや二つは出来るんだぜ?」

 

 同時に着地した両雄は共に身を翻して向き合う。と、左之助の蹴りが掠めていたのか般若の面が翻る勢いに負けて音をたてて飛んでいった。

 

「!!?」

 

 肝っ玉が太いこと東京一かもしれない喧嘩屋が、血相を変えた。

 

「おまえ……」 

 

 二の句が告げられない、と思わず隙だらけにさえなってしまった左之助だが般若はそこに付け込もうとはしなかった。

 

「ふん……化け物を見るような目で見るな。これでもこの顔は便利なんで気に入っているんだ」

 

 頭巾だけになった彼が晒した面相は、喧嘩に血を燃やしている左之助に冷や水をかけてしまう程の異相だった。

 

 唇、鼻など顔のあちこちがこそぎ落とされ、頬も一度骨を砕かれたのか潰れている。右目も瞼を失っているのか真円を描いており充血して血走っていた。

 

「……拷問でも受けたのか」

 

 左之助がそれまでの興奮が一挙に消え去った冷えきった声で口走った言葉が、彼を最もわかりやすく表している。他者を傷つける事に狂的な執着を抱いている者が行い、受けた犠牲者が狂気に至るほどの苛烈な拷問を受けたとしか思えないような面相だった。

 

「拷問か……ふふ……まあ、確かにそう考えるのが一番わかりやすいんだろうがな……あいにくとそいつは違う」

 

「何?」 

 

「この顔は、自分でやった。結構便利なんでな、気に入っている」

 

「…………」 

 

 言葉の意味が、しばらく脳に染み込んでこなかった。

 

 理解してすぐに思ったのは、聞き間違いか言い間違いだろうという至極真っ当な考えだった。

 

「俺は御庭番衆の中でも特に密偵方。どんな場所にも潜り込めるように、どんな顔にでもなれる必要があった。だから自分で耳を落とし鼻を削ぎ、唇は焼いて頬は砕いた」

 

「…………」

 

 二の句が告げられなかった。

 

 左之助はあまりの壮絶さに圧倒されていた。頬を冷汗が伝い、背筋に寒気がしてならない。きっと顔色が青ざめているだろう。

 

「そこまでやるかよ……」

 

 思わず口に出る。自分でそんな真似をするなど、言葉にならない壮絶な意志の強さが必要だが、そもそもそんな真似をしようなどと言う考えが浮かぶ事そのものがありえない。いったいこの男はどこまで御庭番衆に懸けているのか。

 

 冗談でも比喩でもない、正しく文字通りの命懸け。その壮絶さが相楽左之助を圧倒している。

 

「するさ。この程度、御頭の為と思えば大したことじゃない」

 

 強がりでも何でもない、そう言い切れる凄まじい精神とそれを作り出した土壌が恐ろしい。

 

「私の生まれた地方は貧しくてな。そう言った村ではいまだに裏で親が子を殺すような風習が横行している。私の生まれた村では“子返し”……と呼んでいたかな」

 

 まるで何でもない事のように口にするが、その重さは左之助の想像をはるかに超えている。それをさらりと口にできるのは、彼の中にそれ以上の拠り所があるからなのだとは容易に察せられた。

 

「運よく生き延びても、そこで人生はおしまい。帰るところを失った子供のいきつく先は獣同然の生き方だけ……そのはずだった」

 

 握りしめた拳が掲げられる。

 

 圧倒されながらも骨身に染み付いた闘争本能が左之助に構えを取らせた。

 

「だが、御頭はそんな私を拾ってくださり、隠密と言う生きがいと御庭番衆と言う仲間をくれた!」

 

 踏み出した一歩が、これまでにない力強さで般若を前に突き出している。

 

「戦っていて、どこかしっくりとこない物を感じていたが……今こそはっきりと自覚した。私は、ただ強い者と戦いたかったのではない! 仲間に、そして何よりも御頭に、強者から奪い取った勝利を届けたかったのだな!」 

 

 ぺらぺらと舌を回すなど、戦いの最中に隠密がする事ではない。

 

 だが、語るごとに自分の中に石のような何か固い物が出来ているのがわかって止まらなかった。自分は、自分の芯にあるのは闘争への喜び、あるいは力の開放の喜びではない。

 

 勝利を仲間に捧げたかったのだ。

 

 掴み取ったものを仲間と分かち合いたかったのだ。

 

 それも、できる事ならばより高い価値を持つ勝利を!

 

「伝説の人斬り抜刀斎、そして伝説の鬼の弟子! お前達からの勝利、御頭に捧げるに万に一つの不足もないッッ!」 

 

 血走った目に強烈な眼光が宿った。

 

 己の中で何かがはまったような音を感じた般若は、己の中で沸き起こる力を拳に籠めて真っ直ぐに突き出す。左之助もそれには応じたが、やはり間合いの違いはいまだ直せず防御の為にかざした腕の横を通り過ぎていく。

 

 受け止められてしまった一撃とは違い、この拳の狙いは読まれていないのだ。

 

「もらったぞ、鬼の弟子よッッ!」

 

 これで勝負が決まった。そう確信した拳が伝えてきたのは骨身を打ち抜く重たい感触ではなく、受け止められたびりびりとしびれるような感触だった。

 

「なんだと!?」

 

 般若の拳は左之助が受け止める為に構えた左の掌は華麗に躱している。だが、その後ろに控えていた右の掌に受け止められていたのだ。

 

「へへ……どんなもんでぇ」

 

 これまでさんざん殴りつけてきた拳を受け止めた左之助は得意げに笑う。驚いた般若が大きく飛び退るが、今度は追いかけてはこなかった。

 

「そら、もういっちょ来いや」

 

 にやり、と自信ありげな顔を見た般若は今回に限って追いかけてこなかった理由を悟った。

 

「我が伸腕の術、破って見せると言うか!?」

 

「しんわん……? それが間合い崩しの正体か。しんわん、しんわん……意味がわからねぇな」

 

 伸びる腕と書いて伸腕。漢字を当てはめられなかった左之助だったが、そんな自分の識字能力についてあれこれ考えを巡らせる間もなく般若が襲い掛かってきた。

 

「ならば身体で思い知るがいいッッ!!」

 

「もうさんざか思い知ったってェのッッ!」

 

 迎え撃つ左之助の構えがこれまでとは違う事を般若は見てとった。

 

 奇妙に縮こまり、両腕を付かず離れず揃えているのだ。通常であればそれぞれの腕は別個に動かして攻防に備えるものだが、敢えて揃える事にどんな意味があるのか……いいや、意味は今しがた身体で体験したではないか。

 

 もう一度、次も真正面から拳を振る。顔面を打ち抜くつもりで突き出す拳は、大きな動きで躱された。だが相手が大きく動くおかげでこちらも次の攻撃が間に合う。

 

 一度回転して虚を突いての裏拳。これは当たる、と確信を抱いて繰り出した拳に相手の喧嘩屋は驚いた顔をした。防ごうと手を伸ばしてくるが、正に一瞬前に逃れる。すり抜けた裏拳を次に待っているのは貌を打ち抜く感触のはずだった。

 

 だが聞こえてきたのは重たい音ではなく乾いた音。顔面を目掛ける手の甲……そこに、割り込んできたのは揃えて構えられている腕のもう一本だった。

 

「ッラァッッ!」 

 

 そのまま腕を捕まえられ、伸び切った肘に下から拳で突き上げられる。強烈な痛みと衝撃、みしりと嫌な音が体内を駆け巡り、腕が壊された事を思い知った。だが、この般若と言う男は痛みに屈する事はない。

 

 自分で自分の顔を削ぎ落すような男だ。その程度は当然だろう。

 

 だが、喧嘩屋の攻撃は一撃では終わらなかった。そのまま流れるように肘を般若の脇に抉りこみ、更に逆の肩から体当たりをすると同時に足をすくい、三連撃の勢いをそのままに般若の鍛え抜かれた肉体を宙に吹き飛ばした。

 

「ぬおぉぉっ!?」

 

 天井近くにまで吹き飛ばされ壁に向かって激突した般若は全身にこれでもかと言わんばかりの衝撃を受けたが、のたうち回るどころか痛みを無視して転がって距離を取り左之助を睨みつけた。

 

「へっへへ……なかなか効いただろ? 今のは仙台藩の秘伝で陣内流って流派の技だそうだ」

 

「秘伝、か……そんなものまで身に着けているとはな」

 

「開祖の逸話が気にいったとかで、師匠が特に念入りに学んだだとよ。珍しく奪ったんじゃなくて教え合ったらしいや」

 

 般若は得意げな顔を見ながら、自分の腕が使い物にならなくなったことを自覚した。肘が曲がらず、だらりと下げておくより他にない。拳を握る事も出来なかった。

 

「……あの手を揃えて構えるのも陣内流とやらか」

 

「いや……あれは夫婦手っていう琉球の手らしいぜ。片手が躱されても空かされても、もう片方の腕が出来た女房よろしく助けてくれるんだとよ」 

 

 面白い冗談を口にした、と言って笑う左之助に般若はにこりともしなかった。唇がないからと言うのではなく、それだけの余裕がないからだろう。

 

「そうか……随分と素直にいろいろ話をしてくれてありがたいが……それに報いる真似はできないな」

 

「気にすんな。いい喧嘩が出来ただけで俺は満足よ。なにしろ、技を使えるようなつえぇ奴はなかなか会えねぇからな。しかもそれが素手同士ってなると尚更よ」

 

 左之助のそれは冗談でも何でもなく、確かに本音だった。

 

「光栄という所か」

 

「これで素直に真正面から喧嘩を売ってきてくれるんなら、もっと楽しかったんだけどな。阿片密造なんて胸糞わりぃ事に絡んでんじゃねぇよ」

 

「すまんな」

 

 これは般若の隠密らしからぬ本音だった。

 

 私情で任務を放り出しも手抜きもしないが、それでもやはり好き嫌いはあるものだ。あの武田観柳と言う男も、そいつが仕切る阿片密造を初めとした下劣な商売も好きにはなれない。自分は所詮隠密と様々に割り切ってはいるが、好意的に見る理由はかけらもない。

 

例え隠密だろうと、汚いよりは綺麗な方がいいのは当然だった。

 

だが、どうしても彼は隠密であった。

 

一度勝つと決めた以上、どんな手段でも使わずにはいられない。

 

謝罪はこれから行う手段への物でもあったのだ。

 

「鉤爪か」

 

 般若の手甲から、拳の倍ほどもある長さの巨大な鉤爪が生えていた。遠い天竺では“虎の爪”などと呼称される武器があるが、それと同系統の武器だった。

 

「そうだ。ここからは拳法家としての闘いではなく、隠密としての戦。お前には悪いが、私には何よりも御頭に、そして御庭番衆に勝利を捧げると言う使命がある。その為ならば、手段は択ばんッッ!」

 

 鬼気迫る般若は自ら削り取った顔のせいで表情などはわからないが、それでも声色一つで籠められている気迫と意思が左之助の全身にひりつくほど強烈に伝わってくる。その姿を見て、左之助は何故だか自分を重ね合わせてしまった。

 

「気にするこたねぇよ。俺だってそういうのはあった……そういう何より大事で、なりふりなんざ構っちゃいらんねぇ。命に代えても惜しくねぇものは確かにあった……俺のはぶっ壊されちまったけどな」

 

 理解あるようなセリフを吐きながらも、身体は闘志をもって構えていた。相手の事情を慮って手を抜くような真似は、ただの論外と言うのは彼にとって当たり前の考えだ。

 

「むしろ、あれこれ理由つけてそいつを引っ込め続けられたら、そっちの方が気分がわりぃ。本気ってのは徹底するもんじゃねぇか」

 

 そう言った彼は、先ほどの夫婦手とやらを使うよりもさらに縮こまった構えをしている。両手は顔の前で手の甲を相手に向けるようにしている……まるで怯えて頭を抱える一町人のような格好だが、手の間から見える瞳はぎらぎらと輝いている。

 

「陣内流甲冑組手が一、斬鉄の構え」

 

 刃物用の構えなのだと、元々そちらにこそ慣れている般若はすぐに気が付いた。

 

 手首などの急所を守るために甲を前面に出し、身体を丸める事で刃物に接する面積を少しでも小さくする。甲冑組手と言ったこの構えは、きっと戦国時代から明治までの刀剣が活きた時代を素手で駆け抜ける為の術理に違いない。

 

 一本死んだ半端な腕で、この構えから出てくる技にどこまで勝負できるのか。いや、弱気になるな。

 

「行くぞ、鬼の弟子! いいや、喧嘩屋相楽左之助ッッ!」

 

「きやがれ、御庭番衆ッッ!」

 

 共に気勢を上げて前に出る。踏み込む足よ折れよ、しかしてその力を拳に与えよと言わんばかりの気迫を籠めて突っ込む両者の間合いは一瞬で零になる。

 

 相楽左之助の顔面に向かって繰り出した鉤爪は、半ば想像通りに彼の手の甲に払いのけられて無様にもかすり傷一つもつけられはしなかった。そうだ、ここまでは予想通りだ。

 

「ぬああぁぁッッ!」

 

 苦痛の声が喉を裂けよとばかりに吹き出てくる。決して苦痛に屈しないはずの男があげるならば、そこには果たしてどれだけの苦痛が籠められているのか……常人ならば気を失っているのかもしれないような強烈な痛みだろう。

 

 それを選び、堪え、ついに般若はへし折れたはずに肘を酷使して通常の打撃と変わらない速さで破壊されていたはずの腕を左之助の頭目掛けて振った。

 

 およそ傷ついた腕では人を倒すような拳打は出せるはずがない。だがこの男には重さと単純な硬さで大いに威力を上げる甲がある。

 

 側面から投擲のように大きく振ったそれは拳を打つのではなく甲をぶつけるのが狙いであり、痛めた肘を伸ばして負担をできるだけ少なくしつつ遠心力を籠めたそれは、並の格闘家ならば急所を捉えた上での話だが倒す事も不可能ではない。

 

 だが、そんな極端な大振りがおいそれと当たる物だろうか。

 

 答えは否。

 

 たとえ鉤爪の攻撃を囮としている前提でも、彼の攻撃は大振りに過ぎる。般若の攻撃は一歩前に進んで懐に入った左之助にあっさりと躱され……

 

「ごっ!?」

 

 遠心力に任せて折り曲げた腕が左之助の後頭部に命中した。

 

 般若の描いた絵図はここまであったのだ。振り打ちなどがこの男に当たるわけもないのは百も承知、それでも当てて倒す以外に道はない隠密が刹那の間にひねり出した苦肉の策である。

 

 これ見よがしに出した鉤爪を囮とし、肘を破壊された腕を本命にする……と見せかけて懐に入ってくる動きを読んだ上で曲がらない肘を遠心力込みで無理やり曲げて急所の後頭部を打つ。

 

 極めて危険で殺意の高い攻撃だった。

 

 西洋において拳で戦う代表競技のボクシングでは、後頭部を禁じ手としている。人体の構造上、前頭部や側頭部と比較して脳そのものへのダメージが大きく、簡単に深刻な被害が起こりかねないからだ。

 

 だが、ここはルールで守られたリングの上ではない。文字通り、何でもありの生死を賭けた決闘場である。

 

 左之助の膝がガクンと落ち、そのまま倒れ伏すのだと察した般若は力を抜いた。

 

 強敵だった。死力を振り絞り、これほどの敵と戦って勝利し御頭と仲間たちに捧げる瞬間のなんと満たされている事か。怜悧冷徹であらねばならないはずのこの身が、思わず生き延びた拳を握り興奮を顕わにしてしまう。それ自体がどうしようもない程に心地よい。

 

「な、ろぉ……」

 

 全てが油断であると叩きつけてきたのは喧嘩屋の呻き声だった。

 

「貴様!?」

 

 当たれば、いかに頑丈なこの男でも必ず倒れるという確信があった。

 

 元々自分と仲間が散々に頭をぶん殴っているのだ。そこにさらなる追撃を掛ければ、無理やり繰り出した苦し紛れの打撃でもこの男を倒しうるのだと半ば願うような気持で判断した。

 

 だが喧嘩屋は、願いは願いでしかなく現実がそれに従う義理はないのだと言わんばかりに意識を留めていた。

 

「おおらぁぁッッ!」 

 

 それどころか、一瞬で態勢を立て直すとそのままがっつりと般若の腰にしがみつき、力に物を言わせて持ち上げた。西洋相撲などとも言われるレスリングの基本、いわゆるリフトと呼ばれる技術だった。

 

 リフトとは、簡単に言えば持ち上げてしまうこと。相手の腰や胴の位置に組み付いて持ち上げるという一見すれば素人でも力づくでできそうな技術だが、実際には玄人の行うそれは素人にはわかりづらくも深く高度な技術が必要とされている。

 

 ただ単に組み付いてもち上げようとすれば、肘でも落とされて痛手を受ける。あるいは振り解かれてしまうだろう。そうさせない為には、とにもかくにも素早く持ち上げるのが第一だ。持ち上げてしまえば仮に打たれたところで打撃は弱体化する。

 

 後はそのまま、床ないしは地面に叩きつけてしまえばいい。試合の最中ならばあり得ないが、近くに壁があるならそれこそ先ほどの式尉のように叩きつけてもいい。いずれにしても、一撃必殺の大打撃となる。 

 

 般若は小柄ではないが、骨格に限界とも思えるほど筋肉を搭載した式尉のような巨漢ではない。斬馬刀を片手で軽々と振り回す左之助の腕力であれば技術がなくとも持ち上げられる。そして技術が伴えば、反撃を許さない高速の連携が可能だった。

 

 般若は自分の全身に鳥肌がたったのを自覚した。これはまずい、この流れはまずいと腰の下にある左之助の頭に肘を打つが、体勢も相手の位置も悪く全く力が入らない。そういう位置取りの技術なのだと理解はしているが、それでも無抵抗ではいられずに万が一の可能性に賭けてもがくが……所詮万が一は万に一つしか引き寄せられない細やかな可能性に過ぎないのだ。

 

「せいぃッッ!」

 

 気合一閃、腰に強烈な圧力を感じると同時に般若の視界が高速で変化していった。壁を見ていたはずが天井を見つめ、自分がどうなっているのかを一瞬以下の高速で理解する。

 

 だが、理解しても抵抗は出来なかった。

 

 視界が激しくぶれるのと、自分の中に固く鈍い音を聞くのは同時だった。そしてほんのわずかに遅れて痛みが後頭部からしたような気がすると同時に……彼は意識を失った。

 

 日本人なら裏投げと呼ぶだろう。

 

 だが西洋人ならバックドロップと呼ぶだろう。

 

 まるで橋のように見事に体を逸らせた左之助の投げが一閃で、いかなる苦痛にも屈しない般若の意識を絶っていた。

 

「直伝、岩石落とし……もう聞こえてねぇか……」

 

 硬い床に後頭部がめり込んでいるのではないかと思えるほどの有様で、左之助がゆっくりと起き上がってからも首を支えにして数秒だけだが態勢を維持していた程だ。

 

 どさ、と意外と軽い音と一緒に大の字になった御庭番を見下ろし、喧嘩屋は自分の口から無意識にため息が出ていたのを自覚した。

 

「……なんだかな……どうにもこうにも、勝ったって……喜ぶ気がしねぇや」

 

 戦いを望んでいたはずの相手と死力を尽くした勝負。しかも共に珍しく素手の強者相手の喧嘩、普段の彼ならば勝利に心を弾ませていた事だろう。だが、どうにも心は晴れ晴れとはせずに鬱屈した気持ちが前に出る。

 

「……だぁからごたごたがくっついてくるような話は嫌いなんだよ……剣心の奴も、こんな気分だったのか……?」

 

 ここの処、懐に飛び込んできた女狐のおかげでぎこちないすれ違いが続いて半ば喧嘩にさえなりつつある友人だったが、元々あれだけの腕を持ちながらも殊更に闘いを忌避する彼が理解できなかった。

 

 闘争を好まない性質の人間がいるという事自体はごく当たり前の話として理解できる。しかし、名うての剣客として名を馳せた男がそうだとは……才能と好みが合わないのだと言う話は理解できるが、ならばどうして人斬り抜刀斎などと呼ばれるほどに人を斬ったのか。

 

 戦う事が嫌いなら、そんな事はしないはずだろう。

 

 周りに強要される? それほど強い男に誰ができるか。よしんばそうであっても本気で人斬りを忌避しているなら断れるだろうし、そうしなければならない話だ。

 

 そう思っていた。

 

 ただ、今は少し共感できる。

 

 阿片密造だの、協力を強要されていた医者だの、そのせいで死んだ馬鹿な友人、その全てが重苦しくてやるせない重りとなって彼の手足に絡みついているような気分だ。

 

 なるほど、こんな気分になるなら戦いを空しい物、できればやりたくないものとしたくなるのもわからないではない。戦いの中に喜びを見つける自分とは違う物をあの男は見つめ続けてきたのだろう。自分と剣心の違いは殺人刀と活人剣の違いと同質だ。

 

 今まで考えた事もなかったが、自分はどうやら神谷道場で剣心の帰りを待つあの少女と似たようなところがあるらしい。人を育てる事など考えた事もないが武術を愉しむという所は共通しており、それは剣心が知らない事なのかもしれない。

 

「あいつはどうして飛天御剣流を始めたんだ……?」

 

 剣を好まない男が何故飛天御剣流を志し、それを修め切ったのか。そして、何故それを活かして維新志士になったのか。争いを忌避しようともどうしようもない時代の本流に飲み込まれただけなのか、それともかつてはそうでもなかったのか。

 

 殺して殺して殺しまくった人斬り抜刀斎が、一転して殺さずの流浪人などとを志したのは一体どういう訳なのか。

 

 今まで考えた事もない事が急に頭をよぎっているのは、剣心と言う個人を理解しようと考えているから……ひいてはぎこちなくかみ合わない今の関係をいい加減に何とかしたいと思っているからだが、今もって彼にその自覚はなかった。

 

 それはむしろ幸いだったかもしれない。もしも自覚してしまえば、無暗に意地を張った可能性も無きにしも非ずだ。

 

「!?」 

 

 くらくらと未だに揺らぐ頭をどうにかこうにか抑えて彼らしからぬ他人の過去を詮索するような真似をしていると、まるでそれを怒鳴りつけるような爆音が轟いた。

 

 未だに衝撃が抜けきらずぼうっとしていた頭を貫いたのは、これまでに聞いた事がないような音だった。文字にするとバリバリ、やガリガリ、と言う風になるかもしれないおかしな音が連続して絶え間なく巨大な邸一杯に響き渡ったのだ。

 

 雷とは違う、何かが崩れたような音でもない、何かを斬ったり殴ったりと壊した音とも違う訳が分からない音だったが……何とはなしに嫌な音だと思った。

 

 耳障りだとか言う理由もあるが、ひどくイラつく音だと思った。轟音の間を縫うように聞こえてくる甲高い男の笑い声が混ざっているからだろう。

 

「男がたけぇ声を出しているんじゃねぇ」

 

「同感だ」

 

 うお、と驚いた左之助をよそにのっそりとした動きで起き上がったのは小山のような筋肉の塊だった。

 

「もう目が覚めたのかよ」

 

「あんなでけぇ音にあんな気持ち悪い声が重なったんなら、寝ていたくても起きちまわぁ……般若の顔の方がよっぽどいい気つけだぜ」

 

「どいつもこいつも……」 

 

 そう言ったのは喧嘩屋ではなく、揶揄されていた当の本人だった。軽口の出汁にされたのが気に入らないのか、面を付け直している。

 

「目を覚ますのがはえぇよ!」

 

「こんな音を聞いてしまえば否でも目が覚める……これはおそらく……ガトリングガンという奴だな。簡単に言うと幕末三大兵器と呼ばれたものの一つで、相当の弾数を連射できるライフルだ」

 

 親切丁寧に説明してくれた般若はそれ以上喧嘩屋に目もくれずに馬鹿馬鹿しいほど巨大な音源を目指す。

 

「……御頭が待っているか」

 

「待ってはいない。己の力で戦い抜く方だ。ただ、我々が行くだけだ」

 

 それに続いて億劫な様子を隠さずに、しかして素早く立ち上がった式尉が肩を鳴らす。これから待っている何かに備えて体を解している。

 

「よう、俺はほっとくのか?」

 

「わかっていて聞いているだろう。真っ向勝負で負けた我々が、どの面下げて今更お前と戦える? 二人で袋叩きにしろとでも? ……そんな事よりも蒼紫様が心配なんだ」

 

「……思ったよりもいい男じゃねぇか」

 

 からかったつもりだったが、質の悪い冗談は真っ当な返しに跳ね返されてしまい言った当人がばつの悪い気分になった。

 

「皮肉にしか聞こえんよ。ほら、行くぞ」

 

「うん?」

 

「お前だって行くのだろう。あの音は人斬り抜刀斎が出す音でもない、もちろん蒼紫様でもない。であればおそらく観柳の手だ……そちらには童もいるんだろう」 

 

 左之助よりも先に弥彦を慮っている。般若の気が利くのか左之助がガサツなのか。

 

「まあ、死にそうにはねぇ二人だがほったらかしって訳にもいかねぇよな」

 

 ほったらかしだった斬馬刀を軽々と担ぎ上げて、答えを聞かずに走り出した二人の後に続く。

 

 先程まで死闘を繰り広げていたにも拘らず、駆けだす彼らの背中にわだかまりは感じられず奇妙な連帯感のようなものさえ存在している。

 

 それは正しく呉越同舟と言う言葉の見本だ。簡単にちぎれ、簡単につながる程度の物であるのだろう。ただ、そこから奇妙に強く繋がる縁という物も世の中にはあるのかもしれない。

 

「なんだ、ありゃあ!?」 

 

 馬鹿のように大きな音だったおかげで騒ぎの元に赴くのは迷わなかった。きっと最速最短でそこにはたどり着けただろう。

 

 大きな両開きの扉が開け放たれている部屋があったが、そこに着いてみればたかだか一介の喧嘩屋に過ぎないような男には見た事もないなんとも不吉な形状の兵器が轟音を上げている。

 

 彼らがたどり着いた側とはちょうど正反対の位置にも扉があり、そこに大砲に似ているが先端が通常の銃口程度の大きさである兵器が大きな顔でふんぞり返って、備えられたハンドルをぐるぐると回して弾を絶え間なく吐き出させながら屋敷の主である青年実業家が極めつけに下品な顔をして高笑いをしていた。

 

 まるで彼自身が阿片に頭をやられているとしか見えない光景だった。

 

 頭が逝かれた男の銃撃に晒されているのは、彼らの想定……あるいは希望通りに三人の青年と少年達だった。

 

 幸いな事に一人も欠けてはいないが、おかしな話だ。彼らと兵器の距離は二十メートルも離れてはいないのだから、本来あっという間にひき肉になっているはずだが……御頭の両足から血が流れて膝をついている以外、剣心と弥彦は無傷だ。剣心は血を流して痣だらけだが、これは明らかに刀傷と殴打の痕だから御頭との戦傷だろう。

 

 このままでは蒼紫は殺される、と踏んだ式尉が前に足を踏み出そうとするが……ちょうどその前に轟音がやんだ。

 

 見れば、悠長な事にこれ見よがしに葉巻に火をつけて味わってなどいる。顔はいかにも得意げで、露骨に余裕ありげに振舞う姿はいかにも小物臭い。

 

「おや、あなた達も着きましたか。まさか全員揃ってやってくるとは思っていませんでしたが、裏切りですか?」 

 

「余裕ぶってんじゃねぇよ、似非紳士ぶりが鼻につくぜ。さっきみたいなイカレタ面でこっちは構やしねぇよ」

 

「こんなところで派手に弾丸をばらまいていては警護どころではないのでな……そんな事よりも蒼紫様の傷、いかなる理由か教えてもらうッッ!」

 

「どんな理由があっても見逃すつもりはねぇけどな」

 

 般若の言は皮肉と言うよりも当たり前である。それに同調する式尉はボキボキと指を鳴らしていたが、観柳は隣に据え付けられているガトリングガンがよほど頼もしいらしく歯牙にもかけてはいない。

 

「ふん……まあいいでしょう。危険人物はここでまとめて終わりにして、後は悠々と今回の損失を取り返しますか。まったく……払う金も高ければ雇い主を雇い主とも思わないような看板倒れの御庭番衆なんて雇うんじゃありませんでしたねぇ」 

 

「貴様……」

 

 御頭を銃撃され、更には誇りそのものである御庭番衆をコケにする観柳に、式場、般若、そして誰よりも蒼紫から体が倍にも大きくなって見えるほどの強烈な怒りが発散されるが観柳はそれを察する事が出来ないようで、平気な顔をしてにたついている。

 

「やれるもんなら、やってみせやがれ! このくそったれの阿片野郎がッッ!」 

 

 左之助もいきり立っている。

 

 彼にとっては恨み重なる友人の仇で、どれだけぶん殴ってもあとくされのない悪党である。橋の上で逃げられたお返しはここでお釣りを付けた上でぶちかましてやると拳を握りしめている。

 

「阿片、ですか……生憎と私はそんな程度で収まろうとは思っていないんですよ」

 

「ああ?」

 

「阿片密売なんてのは私の野望のほんの足掛かり……私はこの世で最も儲かる商人になりたいんです。まあ、喧嘩屋なんてちっぽけなあなたには理解できない話でしょうけどね」

 

「うるっせぇ! んな話に興味なんざねぇよ!」

 

 観柳と左之助、懐具合を比較すれば左之助も剣心も百万人いても叶いはしない。そもそも彼らの懐は基本、空っ風が吹いている。

 

「まあ、そう言わず。私の目標はいわゆる“死の商人”。つまり、武器商人になる事なんですよ。これからの時代、この日本は正に激動の時代を迎えていきます。維新が成って明治になったから平和になるだなんて馬鹿な話……そこらの連中ならともかくあなた方ならありえないってわかっているでしょう? 人斬り抜刀斎に御庭番衆」

 

 剣心は何も言わずに弥彦の襟首をひっつかみながら観柳の隙を伺っていた。鋭い視線からみれば自分で鉄火場に顔を出した事もない武器商人など隙だらけもいいところだが、それを差し引いてもガトリングガンの性能は脅威だった。

 

「これからの時代、日本は世界に開かれ、世界は日本を受け入れ、どんどんと西欧化が進みます。その最先端は何か? 文化などではなく、何よりも武器なんですよ!」

 

 芝居がかった動作で腕を振る。大きな隙だが、それでも剣心が飛び掛かるにはガトリングガンは強敵だった。

 

「このガトリングガンは大枚をはたいて手に入れた目玉商品! こいつを足掛かりにしてその筋に殴りこむのがこの私の脚本! これからの時代、間違いなく戦争が起こる! これは必然です! 露西亜、清、あるいは他の西欧列強!? いずれにしてもこれから十年、遅くとも二十年の内にこの国は外国との全面戦争を迎えるッッ! その時に主流となっているのが私の目的!」

 

 ぶふう、と鼻から勢いよく紫煙が吹き出る。いかにも得意げで、子供が珍しい虫でも自慢するような態度にしか見えず、実際にその通りなのだろう。

 

「まずはちんけな裏組織からでもいい。やがては国家中枢の御用達にまでなっているのが私の目的、いいやあるいは諸外国を相手取った国際的な大商人! いいですねぇ、国際的! 実に新時代の商人に相応しい!」

 

 自画自賛が実に目障りだが、なるほど時代の流れはその通りであるのかもしれない。今後、日本は必ず富国強兵と言う流れへと到達していくのは剣心も薄々察していた。

 

 平和とは、次の戦争への準備。

 

 そんな言葉がかつて幕末の動乱を駆け抜けた男の脳裏をよぎっていく。

 

 だが、彼はそんな理も利も認めたくはなかった。

 

「……貴様、そこまでして……人の命を、そして人生を食い物にしてまで金儲けがしたいか」

 

「食い物? どこがですか? 別に私が戦争を運んでくるわけじゃありません、時代の流れを読み、そうなった際に商売を行うと言うだけ。むしろ人助けじゃありませんか? 戦争中に武器弾薬がなくなって敗北してしまえば、悲惨な事になるでしょうに……その辺、あなた方の方がよっぽど詳しくて釈迦に説法もいいところでしょうけどね」

 

「諸外国を相手にすると言った口でぬけぬけとよくいうものだ。それは即ち、この日本だけでなく相手国も含めて商売をするという事だろう。そして、貴様のような輩のせいで戦争は煽られて戦火は本来のそれよりも大きく長く燃え続ける。そうするように仕向けるのだろう。死の商人とはよく言ったものだ」

 

 剣心の洞察が的を射ているかどうかは当人の下品な笑みが何よりも語っている。

 

「んな事はどうでもいい話だ」

 

 左之助が前に出た。今の得意げな話を聞いて表情が師匠のようになっている。

 

「今この場でぶっ飛ばしちまえば、そんな話は妄想で終わっちまわぁ。大体、阿片の時点で人を食い物にしているじゃねぇかッッ!」

 

 人を食い殺す猛獣のような恐ろしい形相だったが、そんな怒りに満ち満ちた喧嘩屋などとるに足らぬと死の商人志望は嘲嗤う。

 

「ぶっ飛ばす? この私を? 手に持っている古ぼけた鉄の塊で、ですか!? いやあ、滑稽ですねぇ! そんなどこぞの蔵で無価値と眠っていたような粗大ゴミでこの最新鋭の! 毎分二百連発のガトリングガンに立ち向かおうと言うのですか! いやあ、これは滑稽滑稽! 剣なんかで銃に勝てるわけがないでしょう!」

 

 これ見よがしに甲高い声で笑う商人に、喧嘩屋よりも先に少年剣士が歯ぎしりする。床に盛大にばらまかれている薬きょうから察するに、先ほどから散々銃弾のおもちゃにされていたのだろう。

 

「んだと、このいかれ阿片野郎! 剣心は下でてめぇの手下どもの銃をいくらでもぶっ飛ばしてんだ!」

 

 同時に、剣が銃より弱いと言われてしまうのが許せない。

 

 見るからに鍛錬など他人事と思っている男が得物の力で大口を叩くなど許せるはずもない。力とは鍛錬を繰り返して汗を流して手に入れるものであり、武器があればいつでも誰でも剣豪達人に勝てるなど少年にとっては自分の日々を否定し憧れをコケにする、正しく許すべからざる話だった。

 

「まあ確かに、そこらの拳銃風情じゃ相手が伝説の人斬りとあってはせいぜいそれが関の山……しかし抜刀斎、あなたがいくら超人的に強くてもそれを手に入れる為に支払ってきた時間と労力はどれだけの物です? それに、そんな力は鍛錬を積めば誰でも手に入れる事が出来るわけでもないでしょう?」

 

 観柳のいう事は正解だ。

 

 この場にいるのは弥彦以外剣術家、あるいは格闘家として一流かそれ以上の実力を備えた強者ばかりだ。しかし、誰もが誰もそうなれるわけではない。

 

 残酷な現実だが持って生まれた素質を初めとして自身に合った武術との出会い、優れた師匠との出会いなど時として努力ではどうにもできない縁や生まれといった要素に強く左右される。ただがむしゃらに時間だけ長く竹刀を振っていても強くはなれない。

 

 それらの自力ではなかなか覆せないような素質などの問題を前提とした上で、時間をかけて懸命に努力して、ようやく達人と言えるほどに強くなれるのだ。時として、その時間は老境に達するほどに必要とされる。

 

 そして衰えは必ず、しかもあっという間に訪れる。

 

 それが残酷な現実だ。

 

「しかし、金さえあればこうやって貴方以上の力は簡単に手に入る! 汗一滴流さずに! 金こそ真の最強! それが文明の時代なのですよ! 皮肉ですねぇ、人斬り抜刀斎。あなたが血と汗を流して作った時代が、あなたの汗を否定したんですから。剣など、あなた達などもはや無用の時代なんですよ!」

 

「……新時代が拙者の人斬り剣を否定するのは結構。だが、断じて貴様の悪銭などを肯定した時代ではない」

 

 観柳の言葉には一抹の真理がある。

 

 道具の発展、即ち時代の発展は便利さを求めて労力を否定する流れだ。素手よりも剣、剣よりも銃、そして更に想像もできないような強力で簡単に扱える兵器の時代になっていくのだろう。

 

 兵器は金銭でやり取りされ、より高性能、より安価を求められ、そして広く流通していく。

 

 その時代に、おそらく剣術など無用の長物として忘れられていくに違いにない。だが、剣心の顔にそれを嘆く表情はなく、観柳を肯定する色もなかった。

 

「そもそも剣術が隆盛を極めた時代は戦国より徳川三百年の間に彼方へと過ぎていった。時代はとうに殺人剣ではなく活人剣へと移っている。むしろ幕末の時代こそ剣術最後の徒花。そんな事は貴様ごときがペラペラと語らずともすでに自明の理でござる」

 

 握りしめたのは異形の刀。廃刀令は既に施行されて長く、刀は時代にそぐわない過去の遺物だ。

 

「だが、拙者が目指したのはあくまで平和の時代。剣術が無用の長物になろうとも仕方がないが、阿片やガトリングガンなどと言うおぞましい物が幅を利かせるような時代なんぞごめん被る!」

 

 観柳の言う通り、せっかく作り上げた平和はあっさりと外国との戦争によって破壊されてしまうのか……そんな事はわからない。

 

 いや、目を逸らしても仕方がない。そもそも今の維新政府が幕府を倒そうと志したのは海外からの圧力に幕府が押され、明らかに捌き切れていなかったからと言う一面もあるのだ。当時は異人と蔑称して外国人を目の敵にしている武士はいくらでもいた時代でもある。

 

 つまり、諸外国との争いは幕末の頃から明治に至るまで引き継いできた流れ、今が小康状態であるとも言えるのだ。

 

 だが、それが観柳の悪行を認める免罪符になるわけがない。

 

 時代の流れを読もうがどうしようが、人を食い物にしていい道理はないのだ。

 

「ごめん被るのなら、この場で退場すればいいでしょう? この新時代を象徴するガトリングガンで、古臭い刀ごとまとめてひき肉にして差し上げますよ!」

 

「剣心の刀だったらさっき蒼紫とやっている最中に落としてそのまんまだ、バーロー!」 

 

 弥彦がやけっぱち気味の顔で罵り返している間に、御庭番衆がどうにか手傷を受けた御頭を取り戻そうと目配せをしていた。

 

 互いに神妙な顔をして、いかにも覚悟完了と言う風である。般若は面のおかげでよくわからないが。

 

「俺が囮になる。お前が御頭を抱えて走れ」

 

「あいよ。いざとなったら盾になってやらぁ……俺の筋肉なら、多少食らっても御頭を守れる」

 

 互いに阿吽の呼吸で命を捨てる算段をしていた。

 

 先ほどまでの左之助とのやり取りは正にじゃれ合いに過ぎないのだと言わんばかりで、非情の隠密としての側面が強く出ている。命を懸ける覚悟ではなく、もはや命を捨てる覚悟を当然のように抱いている。

 

 忠義と言うにも重すぎる覚悟を抱いた隠密二人、自ら敬愛する御頭の為に命を捨てんと足を踏み出そうとする。だが、そこに待ったをかけたのは一本の斬馬刀だった。

 

「ちょいと待ちな。いくら何でもそいつは見逃せねぇよ」

 

 二人の前に相棒を突き出して通せんぼをする眼光鋭い喧嘩屋がいた。

 

「……邪魔をすんな」

 

「他に方法はない」

 

「馬鹿野郎。今お前らの前にあるのが一体なんだと思っていやがる。弾丸は俺が引き受けてやらぁ」

 

 左之助の発言がよほど驚きだったのだろう、二人は緊迫した事態に直面しているにも拘らず目を丸くしてまじまじと喧嘩屋の本気を伺った。

 

「……なんでそこまでする。俺たちもお前らからすれば悪党だぞ」 

 

「どっちみち、剣心はともかく弥彦があそこにいるんじゃ他に手はねぇ。だったらお前らが便乗しようがどうしようが変わりゃしねぇよ。死人が減る方がいいだろうが」

 

「……」

 

「恩に着る」

 

 確かに斬馬刀は盾にするには十分な大きさを持っているが、何分見るからに骨とう品……最新式の銃撃にいったいどれだけ耐えられるのかは正直なところは賭けだ。それも、命を賭ける勝負だ。

 

「式尉が御頭。般若、代わりに弥彦を任せんぞ。俺が盾になって、剣心が刀を取り戻して斬りこみ……どうだ?」 

 

「俺は元々そのつもりだったんだ。構わねぇ」

 

「俺もいい。囮の礼だ、童は必ず守り切るからお前もやりきるまでは死ぬなよ」

 

「けっ……やり切った後も死なねぇっての」

 

 既にあれこれ逡巡している時間はない。躊躇いを踏みつぶす決断力は特筆に値した。

 

「行くぞ!」

 

「応!」

 

「剣心、弥彦は般若に任せろ! 刀だッッ!」 

 

 最低限伝わるかどうか程度の事しか言えなかったが、叫ぶや否や一挙に三人バラバラに走り出す。

 

「!?」 

 

「わかった!」

 

 素人の観柳は突如動き始めた三人に全く対応できていなかったが、歴戦の剣心は違う。左之助の言葉を即座に理解して、弥彦を手荷物のように放り投げてそのまま愛刀の元へと駆け出す。

 

 それを受け止めた般若は彼を小脇に抱えて我が身を盾にしつつも安全圏目掛けて走り、式尉はもちろん俺が大将を助け出す為に般若や剣心には劣るものの躊躇いのない速さで駆けて銃口に身を晒した。

 

 そして左之助は愛刀を盾に一直線。怨敵目指して雄叫び上げてひた走るッッ!

 

「おおおあぁぁぁぁッッ!」

 

 銃口に身を晒す、仲間の命を背負う、喧嘩野郎として生きてきてもこんな修羅場はそうそうない。怯みそうになる情けない自分を鼓舞する叫びに身を任せ、一直線に何も考えずに奔った。

 

 自分に迫る鉄塊に恐れをなしたか、ようやく狙いを決めた観柳が照準を定めてガトリングガンに弾を吐き出させる。無機質なそれが吐き出す、殺人には強すぎる力を応仁の乱から生き延び続けた鉄塊が受け止められるか否か。

 

 相楽左之助一個人だけでなく、仲間と敵の命さえ背負った勝負が始まった。

 



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あばよ

 ようやっと御庭番衆編は終了!

 展開やキャラクターの考え方、行動にはいろいろな意見があるんでしょうね……

 これが筆者なりに“こういう風になるのもありじゃないかな”という一つの形です。

 次回からはオリジナルを交えて志々雄編に入る予定。

 他の方々が書いた刃牙作品を最近幾つも読みましたが、やっぱりこう……違うなぁ。

 強者同士の繰り広げる戦いの為の戦い……あれこれ葛藤を描くような話よりもそっちの方が書いていても読んでもらっても楽しそうだ。

 次回からはぐだぐだ言わずに、今まであった看板に偽りがあった部分を取り返せるように書いていこう!


 あ、ぐだぐだと言えば、まさかFGOでぐだぐだが今更来るとは思っていなかった。今年の水着イベントの為に石を貯めていると言うのに、うごご……新規キャラと配布は一体誰が現れるのか、葛藤する……

 でも今は、新規投稿したらまず対魔忍RPGの水着を引くんだ! 来てくれ、水着サマーイングリッド……! 


 ふたばやさん、誤字報告ありがとうございます。恥ずかしいほど一杯だぁ……


 緋村剣心と四之森蒼紫。

 

 二人が対峙したのは観柳の豪邸でも特に大きなホールでだった。

 

 周囲に遮蔽物もない広い場所で、まるで道場のように真っ向勝負ができるような有利も不利もない場所と言えた。

 

 三階に通じる階段の前で腕を組んで待ち構えている白コートの男を見据え、剣心は静かに呟くように声をかけた。

 

「……お互い、顔は見知っているが言葉を交わすのは初めてだったか」

 

「そうだったかな」

 

 蒼紫の顔は正しく鉄面皮と言う言葉の見本だった。一対一の勝負の場を用意しているにも拘らず、表情に闘志が感じられない。強者、剣客というよりも兵士と言うべきに見える……しかし、それはあくまでも見てくれだけだと剣心は考えている。

 

 腹の中に戦いへの強い執着がなければ、こんな戦う場を用意して待ち構えたりはするまい。

 

 左之助との小競り合いだけではこの男の真価などわかりはしないが、真っ平でだだっ広いだけの空間に得手不得手を生かすも何もない。

 

 それとも、隠密と言うだけあって剣心にはわからない罠でも隠しているのか。

 

 ……置いてきた左之助がどうなっているのかが今更ながら気にかかったが、それを考えるのを剣心はやめた。目の前の男は紛れもなく集中を徹底しなければならない強敵だった。

 

 蒼紫を見ると、まず体格はよく均整がとれている。手足は長いが体幹は一本筋が通っている。見たところ武器を携帯しているようには見えないが、仮にも隠密の……それも御頭が素直に得物を悟らせると考える方が間違えているのだろう。

 

 だが長物は確実にないだろう。となるとコートの下に隠せるような……隠密らしく手裏剣の類か。あの式尉と言う男も名前も知らない飛び道具の男も、そしてひょっとことやらも真っ当とは言えない武器ばかり使っていたのだから、その御頭と言う蒼紫もこちらの度肝を抜くような奇妙奇天烈な武器を使ってくるのかもしれない。

 

 それとも、般若と同じような手甲の類か。

 

 左之助とは無手の格闘術で戦っていたが、あれが街中だからという訳でもなく主な戦闘術だと言う可能性もないではない。彼らは護衛を主とする御庭番衆……となると、屋内……それも江戸城を含む幕府方の重要拠点において貴人の護衛を勤めていたはず。となると、巻き込みかねない武器の類はむしろ禁じ手であったのかもしれない。だったらひょっとこは元より式尉はいいのかと言う意見もあるが、そこはきっと任務の采配次第なんだろう。

 

「……できれば無用の戦いは避けたい。恵殿を返してほしいだけでござる。そこをどいて、恵殿と観柳の場所を教えてはくれぬか」

 

「ふざけた男だ。あるいは傲慢か? 俺に任務を放り出せと言っているのだからな」

 

 腹の中でどんな感情が渦巻いているにしても、それをうすら寒い程に表には出さず彼はコートを開けて脇を晒した。

 

「二人の場所は腰の刀で問え。俺はこいつで応えよう」

 

 彼のコート下には般若のそれと同じ独特の忍び衣装。その腰にぶら下げられているのは、一本の小さな刀だった。

 

「って、ふざけんな! 脇差一本で勝負する気か、てめぇっ! 人を嘗めんのも大概にしろいっ!」

 

 いきりたったのはそれまで大人しくしていた弥彦である。だが蒼紫はあくまで剣心だけを見据え続けている。その姿には一切の油断も隙もない。

 

「お子様は引っ込んでいろ」 

 

「んだと、てめぇ!」

 

 目も向けずにバッサリ斬り落とされて、この負けん気の強さなら誰にも負けない少年が大人しくしているわけがない。だが、熱したやかんよりも真っ赤になってそろそろ白い蒸気さえ吐き出しそうな少年に後ろからも待ったがかかる。

 

「拙者もできればそうして欲しいでござるよ」

 

 その前に、子供をこんな所に連れてくるのは大人としてどうなんだろうか。これも剣の道における厳しさかもしれない。

 

「勝手にしろい、コンチキショー! ったく、どいつもこいつも!」

 

 いきり立った弥彦から脳天にばしり、と活入れされた剣心がやれやれと見送り、がにまたでずかずかと二人から距離をとる少年剣士は思い出したように振り返って、またぞろ生意気なセリフを抜かす。

 

「いいか、剣心! たかが脇差なんかに手こずってんじゃねーぞ! さっさとすませろよな!」

 

 小僧の嘗めたセリフにも蒼紫は眉一つ動かさず、ついでに筋一本も動かさず距離を開けるのを見送った。隙を突いて、と言う本来は当然のはずの考えを持っていないらしい。少なくとも、今、この時だけは。

 

「まあ……あれが脇差であれば手こずらずに済むのかもしれんでござるがな」

 

「……小太刀の特性を、理解しているようだな」 

 

 困ったように息をついて少年を見送り、改めて向き直る。その顔にはまだ刃のような鋭さは宿っていなかったが、静かに鯉口を抜く動作に隙はない。

 

「小太刀?」

 

「一口で言えば、太刀と脇差の中間の刀でござるよ。刀より短い分、攻撃力では劣るが軽量で小回りが利き、防御に回れば非常に堅固。いわば盾として使える刀が小太刀でござる」 

 

 御庭番衆は護衛が任務。なるほど、その御頭が防御を旨として使える武器を選択するのはある意味正しい。

 

「あれを攻めるのは相当に難儀……」

 

 剣心は弥彦の知る中で最も強い剣客であり、彼は少年らしい純粋さで彼こそ日本一と本気で信じている。その男が攻めあぐねると言い切った事で若干の驚きを感じ、血が上っていた頭が冷える。

 

「そうか。ではこちらから攻めていってみよう」

 

「何!?」

 

驚きの声を悠長にあげている暇もあればこそ。それこそ速さが身上の剣心を驚かせるほどの速さで一気に間合いを詰めた蒼紫が、いつの間にか右手に構えた小太刀で剣心の喉元目掛けて斬りかかってきた。もちろん緋村剣心、そうやすやすと一太刀受けるような間抜けではなくきっちりと鎬で受け止める。

 

 だが、それが蒼紫の狙いだった。

 

 防御用という特性を謳われた小太刀で敢えて繰り出した一撃を剣心は受け止めたが、これは失敗だった。避ければよかったのだ。

 

 だが意表を突かれたおかげで反応が遅れ、躱す事が出来ず受け止めるしかなかった。これは見方によっては、蒼紫が剣心の太刀を封じたとも言えるのだ。

 

「!?」

 

 自分の顔に何かが襲い掛かってきたと見てとった剣心だったが、それを防ぐことも躱す事も出来ずに木偶のように食らった。のけぞりながらも自分の頬傷の上に痣を拵えたのは蒼紫の右内回し蹴りだと何とか見てとったが、間髪入れずに更に襲い掛かってきた左拳の連撃を悉く胸板に食らった。

 

 息が詰まるのをどうにか堪えた剣心が跳ね返った毬のように飛び、速さ重視で三つ太刀を繰り出してみるがあっさりと本領を発揮した小太刀で受け止められた。

 

「……そうか。小太刀で防御し、般若と同じ拳法で攻撃する型か……」

 

 交差して一瞬眼差しを交えた二人は今の数合の明暗を分けつつ距離をとる。相手の戦法を口にした剣心の頬は腫れ、上半身のあちこちにずきずきと痛みを訴えてくる痣が拵えられている。

 

 最初の攻防は一方的だった。

 

「一つだけ間違えているな。般若に拳法を教えたのはこの俺だ。型が同じと言っても重さも速さもまだまだ俺の方が上。結果まで同じと思っていれば痛い目を見る」

 

「…………」

 

 確かに痛い目を見ている剣心が、それを顔に出さずにいるには少なからず努力が必要だった。

 

 骨身にずしりと残る重たい痛み、斬られる痛みには慣れているがこういう種類の痛みはあまり受けた事がなかった……しかし、それは幕末の頃の話だ。最近は、とある加減を知らない上に必死になっている喧嘩屋のおかげでこういう痛みは大分馴染みがある。

 

「本気を出せ、緋村抜刀斎。無用の戦いは避けたい、などと腑抜けた事を言っている貴様を倒しても意味はないんだ。そんな男に剣を振るって何になる」 

 

「…………般若も言っていたが……力を奮う機会が欲しい……とはお主らの本音でござるか」

 

「その通りだ。でもなければわざわざこんな場を設けたりはするまい」 

 

 剣心の声には自然と鋭い物が混ざっていた。だが棘と言うよりも刃の様なそれに対しても、蒼紫は怯む様子など全く見せなかった。

 

「私怨はないが、かつて最強と呼ばれた維新志士である貴様には……この場で死んでもらうぞ」

 

「最強の維新志士であるが故に、か……ならば拙者もあの時般若に返した言葉をお主にも返そう。あの時代に戦った全ての人が求めたのは平和な時代に他ならぬ。ただ力を奮う機会を求めて観柳などと組んだお主らに、拙者も志士として、流浪人としてどちらの意味でも負けるわけにはいかぬ!」

 

「……平和な時代を求めて真摯に私欲なく戦った者など実際にはどれだけいるのか。自分でも信じてはいない綺麗ごとを抜かすな、緋村抜刀斎」

 

 突きつけられた切っ先にも鋭い糾弾にも眉一つ動かさない蒼紫は、むしろくだらない話をするなと一蹴した。新時代の為に、平和の為になどと命を懸けた男などどれだけいるのか? もちろん理想に燃えた男たちの存在を否定はするまいが、それが如何に空々しい口先だけかは今の堕落しきったかつての維新志士と作り上げた新時代が示しているではないか。

 

 しかしてそれならば、腹の底から今のセリフを口にしているように見える最強の維新志士はあくまでも末端の男に過ぎない……という事か。自分たち御庭番衆と同じ、あくまでも人を斬る生きた道具に過ぎないという事だ。十年前に政府要人となることなく野に放たれているのがその証拠……

 

 いや……あえて野に降りたからこそ、このようなセリフを吐ける純粋さを未だに保っているのか。

 

 純粋さ……散々人を斬ってきた大の男に付けるべき言葉ではないが、蒼紫はそれがこの奇妙な十字傷の男に似合っているような気がした。

 

「だが、未だにそんな青臭い綺麗ごとを口にできる貴様は、今の見る影なく腐り果てた……いや、あるいは化けの皮が剥げたかつての維新志士どもと違ってまだまだ意気がいいという事か」

 

 初めて口元が綻んだ。

 

 それを見た弥彦が背筋を寒くした。目が笑っていない男が口だけ笑う顔がこんなにも不気味だなどとは思ってもみなかった。少年が見た事のない、鮫が大きな獲物を見て興奮するとこんな顔をするのかもしれない。

 

「来い」 

 

 静かなままの挑発に剣心は乗った。元より恵を救うためにこの男を避けては通れないが、それを差し引いてもなお見逃せない危険さを剣心はこの男に感じている。

 

 阿片売買などに手を貸すほど見境のない、強力な戦闘集団の長にして自身も強力な戦闘者。動乱の幕末にも滅多に見なかった程の強者が戦いを求めているという事実が剣心には重い。

 

 ここで見逃せば、ただこの男の力を奮いたいと言う子供じみた欲の為に大きな被害が出る。そう考えた剣心の足にこれまでにない強い力が宿り、それは蒼紫にも見切れない程の速さを生み出した。

 

 天才と謳われた隠密御庭番衆の頭をもってしても一瞬姿を見失う程の静から動へ一瞬で到達する高速の動きで、剣心は一挙に長身の蒼紫からも死角になるほどの高さに飛び上がった。

 

 正に蝗のような跳躍は傍から見ていた弥彦でさえも見失ってしまう程で、少年剣士が剣心が動いたと気が付いたのは初動が終わって金属音がした時だった。

 

「上か!」

 

 左之助に放ったそれとは違う、片手の打ち下ろしを頭上から見舞ったが小太刀にあえなく受け止められた。小太刀を破る為に繰り出した速さ重視の伸び有る一閃を止められてしまった剣心は怯みも躊躇いもせずに着地前に納刀して居合を繰り出すが、それさえも鍔元でしっかりと受け止められてしまう。

 

「飛天御剣流の龍槌閃、だったか。そのまま着地を待たずに抜刀術。なかなかだが俺の小太刀はその程度では越えられん」

 

「…………」 

 

 元より承知の上か、剣心は人斬り時代に戻ったような鋭い視線のまま動じずに次の一手を繰り出した。

 

 神速の煌きが下から蒼紫の急所を襲うが、全てが小太刀によって金属音と共に払いのけられる。それらの輝きが連なる様を、弥彦は何も見る事が出来ずただ金属音が連鎖するとしかわからなかった。

 

「無駄だ。防御に徹したのであれば、俺の小太刀はライフルの弾丸でも防ぎきるぞ」

 

 彼が気付いた時には、既に剣心は大きく吹き飛ばされて膝をついている。

 

「剣心!」

 

 弥彦にはわからなかったが、剣心は薄い胸板に立て続けに五発もの拳打を浴びせられていた。

 

 骨が軋み、肉が熱を帯びる。衝撃が内臓を激しく揺らし、呼吸がおぼつかなくなる。膝をついてしまいそうになるのを必死になって堪えているが、袴の中で膝が笑っている事実を相手に悟られていないわけがない。

 

「驚いたな。その華奢な体躯で俺の打撃にこうまで耐えるか……急所を完全に捉える事が一撃もなかった」

 

「……ここ最近の鍛錬のおかげでござるよ」 

 

「あの喧嘩屋と名乗る男が相手か」

 

 剣心と蒼紫の体格は頭一つ分ほども違う。剣心は小柄であり、蒼紫は長身で式尉ほど極端ではないが痩身ではなく見合った筋肉を備えている。

 

 拳に体重を乗せる事も出来ない素人でもあるまいに、これだけ体格差がある拳法家から殴られれば簡単に昏倒さえしかねないはずだが剣心は痛手を受けてはいても耐えている。いかに彼が歴戦の雄であっても、ありえない話だった。

 

 だが、蒼紫は動揺する事無く冷静さを保っている……彼が今しがた口にしたように、剣心が自分の攻撃から丁寧に急所を守り抜いていると気が付いているからだ。打撃は斬撃と異なり、然るべき急所に命中させなければ効力は激減してしまうのだと使い手である彼自身は百も承知である。

 

 剣客が打撃の急所を悉く外す……それもそこらの拳法家など裸足で逃げ出す自分の攻撃を防御し切るなど並大抵の事ではない。これが同じ素手同士の武術家である喧嘩屋ならばともかく、この男がやってのけるのは敵ながら見事と感心さえする。

 

「だがそれでも限度はある。急所を幾ら外そうとも、いずれ疲労と痛みを伴いお前は破壊される……もっとも、そんな悠長な真似をするつもりはないがな」

 

「それはこちらとて同じ事。これ以上木偶のように殴られるつもりはないでござるよ」

 

 ここまで剣心は一太刀も入れる事が出来ていないにも関わらずいいように殴打されている。それを認めざるを得ない弥彦は、蒼紫の冷徹な表情に寒気がして足がすくみ顔も青ざめるのを止められなかった。

 

 強い。それも、氷のように冷たい強さだ。あるいは、からくりのように無機質な強さだ。

 

 剣心との勝負を熱望しておきながら、これだけの有利に眉一つ動かさない異質な姿に弥彦は違和感から生まれる不気味さを受けている。この男が人間には見えなくなりそうだった。

 

 そんな男に自分が信じる日本で一番強い剣客がいいように叩きのめされている。圧倒的にも見える差に、いくら強気で意地っ張りな彼でも自分の中にどうしようもなくみっともない弱さが生まれるのを止められなかった。まるで糞のように見苦しくも情けない弱さが彼の頬に冷汗の形をとって垂れていく。

 

「剣心!」

 

 それは剣心を鼓舞する声ではなかった。むしろ、苦戦のただなかにある剣士にすがるような情けない弱さを籠めた声だった。

 

 だが、剣心はそれに応える。彼はそういう声に応える為に刀を握って旅を続けていた男だからだ。 

 

「大丈夫でござるよ。これしきでやられていては恵殿に申し訳ないし、薫殿に合わせる顔がない。左之には何と言われるやら……それに、あの小太刀を破る手段もやっと見つけたところでござる」

 

 息は荒く、肌はあちこちに内出血が見える。何度か床に打ち据えた際に頭からも血が流れていた。

 

 だが、剣心は刀を手放さずに立っている。勝負を捨てていないと同時に勝機を見出したのだと彼は明言した。

 

 剣心は実のところ勝負に徹する必要などなく、それを当人もちゃんと理解していた。目的を忘れていないというべきか、彼にとっての第一は何よりも高荷恵の救出であり、極端な事を言えばこうやって戦う必要もない。

 

 こそこそと侵入して高荷恵一人を救出すればそれでいいのだ。何なら今から蒼紫を放り出して高荷恵の所に雪崩こんでもいい……蒼紫を振り切れるかどうかは別問題だが。

 

 それをしないのは、そもそも彼女の居場所がわからないのと観柳、御庭番衆全ての決着をこの夜に全てつけてしまうと決めたからだ。そうしなければ結局元の木阿弥であり、おそらく脅しをかけられて屈したであろう恵が同じ選択をする。

 

 正面から殴りこんだのは本人の性格もあるかもしれないが、それなりに考えた上での選択である。それこそどこぞの喧嘩屋のように力押しの猪突猛進が過ぎるが……付き合ってほんの数か月の間に何かうつったのであろうか。

 

「ハッタリ……と言いたいところだが、そんなつまらない真似をする性格ではあるまい」

 

 ゆっくりと間合いを詰めてくる男の眼には油断はなかったが、どこか自分の小太刀を破る起死回生の手段とやらを楽しみにしているような隙があった。もちろんそれは、自分がそれを更に破れるという自負が齎しているに違いない。

 

「見せてもらおうか、その手段とやらを」

 

 闘争を望む心が呼び込んだ隙を剣心がつけるかどうか。お互いが理解している上で今一度の交錯は始まる。

 

 一歩、二歩、三歩、四歩、そして五歩目に剣心は太刀を振り、それに蒼紫は応じた。

 

 間合いが近い、と蒼紫は四歩目で思う。

 

 ここまでの剣心の攻めは四歩目の遠間で一挙に駆け抜けてきた。間合いが一歩近い、それが逆転の手段とやらに繋がる一手なのか。

 

「はっ!」 

 

「遅い!」

 

 片手で振った一閃を蒼紫の小太刀が迎え撃ち、巻き込んで払った。こんなものではあるまい、という期待とこんなものか、という失望が交互に彼の中に沸き起こる中、眼下に見つけた剣心の“起死回生”に目を見張った。

 

「何!?」

 

 剣心は刀の柄ではなく、なんと血を流しながら刃そのものを掴んでいた。だらだらと手元を汚す赤色に目を見張った蒼紫だったが、その隙を突いて切り結んでいる刃を支点に切り返した柄尻が喉を強襲した。

 

 見事に急所の喉を直撃した打撃に初めて顔色を変えた蒼紫は、痛みを訴え始めた喉からうめき声をあげて間合いを広げる。

 

「蒼紫……お主の強さの秘訣は相手の間合いを完全に制する事にある」

 

 それは蒼紫にと言うよりも、むしろ弥彦に聞かせるための言葉だった。この少年剣士を買っている剣心は今、この大苦戦の最中にも自らの奮闘を彼のための教材とするべく心していた。

 

「間合い……」

 

 師の教えを(行儀悪く反発交じりに)聞いていた弥彦もそれを受け止めて、思い出す。神谷薫曰く、間合いとはすなわちそれぞれが一足で攻撃に至れる距離。

 

 それぞれの技量、戦い方、地形、そして武器で間合いは変化していく。間合いを譲らないのが戦法であり、間合いを任意に変化させるのもまた戦法。

 

 とどのつまりは、自分がその時その場で最も有利になるように、最終的に勝利を掴めるように組み立てなければならない戦闘の重要な要素の一つ。

 

 力量が高度であればあるほどに間合いを制する重要性は増していく。相手の間合いを崩し、自分の間合いで闘う事が武術全般悉くにおいて例外なく勝利に必須な要素なのだ。

 

「単純に考えれば長い刀を持つ拙者の方が有利。だが相手の懐に飛び込めるお主であれば、間合いの死角に入りこみ小太刀で刀を封じて拳で攻撃するという密着戦が可能。ならば、こちらも刀を短く持って間合いを同じくすれば……死角はなくなる」 

 

 何の事はない、刀と槍の勝負と同じだ。

 

 刀が如何に槍の穂先を交わして飛び込むかを苦心するのと同様に、この男は小太刀で刀の懐に飛び込むのを苦心してこの回答にたどり着いたのだろう。

 

 剣心がここまで苦戦したのは、刀という物が本来は最も間合いが短い武器だからだ。戦場において主兵装は槍であり、刀はあくまでも副兵装に過ぎない。先ほどまで剣心が口にした戦法を刀は仕掛ける側であり、受ける側ではないのだ。

 

「そうか……左之助の時と同じか」

 

 摑まえられ、腹に膝を繰り返して打ち込まれていた剣心の姿を思い出す。

 

 密着され、刀を振るう余地を潰して拳と蹴りで戦う姿は蒼紫との攻防よりも極端でわかりやすい。

 

 素手との違いは小太刀とはあくまでも道具であり素手よりも果敢に踏み込むことができる事と、もちろん刃であるので攻撃力が段違いという事か。

 

「……なるほど、刃物は引くか押すかしなければ斬れるものではない。握りしめただけでは刃はたたぬ……ましてや切れ味が比較的低い根本ならば振り回しても皮かせいぜい肉が斬れるのみか」

 

 多少痛手の余韻を残すしゃがれた声が補強した。御庭番衆の御頭が、喉の痛打などいかほどでもないと仁王立ちして彼を見据えている。

 

 目にはまだまだ静かな闘志が氷のように固く宿り、このままでは終わらないと語っている。

 

たかだか一撃で逆転などありえない。血も流さずに終わるはずがない。

 

「肉を断たせて骨を断つ……人斬りの真髄、しかと拝ませてもらった」

 

 真冬の凍り付いた湖……いや、底なし沼の様な目だった。傍で見ている弥彦には、どこか人以外の生き物がするような目に思えてならず剣心が闘志を保って睨み返しているのがいっそ不思議に思えるほどに恐ろしい目だった。

 

 これで熱が籠っているのであれば、弥彦はここまで恐ろしくは思わない。だが、まるで蛇か蜥蜴のような目がこれほど不気味だとは少年の短い人生では考えた事もない。

 

「返礼として、御庭番衆の真髄で仕留めてやろう」

 

「!」

 

 掌から血を流しつつ身構える剣心は、蒼紫が電光石火の勢いで襲い掛かってくるかと思っていた。だが、なんと彼はまるでゆっくりと落ちる木の葉のように近づいてきたではないか。

 

 遅い。

 

 振りかぶった小太刀を逆刃刀で受け止めてもなお動きに変化はない。いったい、この遅さは何なのか。

 

「!」 

 

 蒼紫の意図が理解できない戸惑いを抱えたまま戦う以外にない剣心は、それ以上の不可解に襲われた。今しがた彼にのそのそと斬りかかったはずの蒼紫が、なんといつの間にやら背後にいるのだ。

 

 斬りかかられる前に身構える事だけは出来たが、一瞬遅ければ背中から斬られてお終いだったのは間違いなく……まるで人間が陽炎のようになってしまった奇怪な事象には歴戦の剣心も度肝を抜かれた。

 

「なんだ!?」

 

 飛んで間合いを広げようとも即座に追いすがる様は、ゆうらりとした動きと相まって幽鬼のような不気味さだ。惑わされるな、と自身に喝を入れる剣心の掌に鈍い痛みがじくじくと奔り、それは奇妙な錯覚に囚われそうになる彼を刀が叱る様だった。

 

 おかげで気が晴れる。

 

 飛天御剣流と言えどさすがに魂を斬るような剣技はないが、目の前の男は紛れもない現実である。現実でありこちらの剣は当たれば倒せ、向こうの剣が当たれば斬られる。当たり前の現実は決して消えはしない。

 

 頭が冷えた剣心は、相手の奇妙な動きの正体に一つだけ思い至る事が出来た。

 

「これは……まさか剣舞!?」 

 

 ふらりふらりと動く蒼紫は剣心を逃がさんと追い込む為に彼を中心に円を描く。ゆったりとした動きながらも奇妙に速く、剣心からはまるで蒼紫が幾人にも分身して彼を四方八方から囲んでいるようにさえ感じられる。

 

 もちろん剣心も黙ってやられるつもりはなく握りしめた刀から自分自身の血を巻きながらも振り回すが、相変わらず風に吹かれる木の葉のような動きでゆらゆらと躱される。奇妙奇天烈な動きはなるほどこれも一つの隠密らしさとも言えて、蒼紫の口にした御庭番衆の真髄と言う言葉に嘘偽りはなかった。

 

 剣心も長年の戦いの記憶の中にこんな奇妙な動きの敵を見た事はなかったが、それでも経験に裏打ちされた知識のおかげで何とか一つの答えを導き出す事が出来た。

 

 剣舞。

 

 それもただの舞踊ではない、戦闘用の剣舞。戦う為の舞など、字面を鑑みても我ながらおかしな事をと思うが他には言いようがなかった。拳法の技、そして小太刀の技をここまでの戦いでは右と左で別々に使っているようなものだったが、この動きは歩法などを中心に一つに溶け込ませている四乃森蒼紫の戦闘技術の集大成。

 

 この動きは正に緩急自在を目指したものであるらしく、縦に斬ろうが横に薙ごうが悉く躱される。

 

「やめておけ。お前の剣は静動がはっきりと分かれている。そこに慣れすぎたお前にこの緩急自在たる流水の動きは捉えられんよ」

 

 嘯く蒼紫の言葉に嘘はなかった。

 

 速さはないのに捉えきれない。その仕組みが剣心には理解できなかった。攻撃の癖を失くし、繰り返して修練を積み研究を重ねる事で目の錯覚を利用する方法を見出したに違いない歩法は緋村剣心の知る剣術には存在しなかった。

 

 小太刀と言う得物と五体悉くを武器とする拳法だからこそ生まれた門外不出の武技が、戦国から端を発する飛天の長い歴史を凌駕した。

 

 流水といった蒼紫の言う通り、刀で水は斬れず。

 

「死ね」

 

 だからと言って諦める事など出来るはずもない剣心の攻撃が空しく躱され、大きく体が泳いだ瞬間に遂に牙を剥いた。

 

 剣心から見て左側、斜め後ろから逆手に持った小太刀が煌めく。剣心当人、そして傍で死闘を見ていた弥彦にもそれしかわからなかった。

 

 少年剣士の目には見えもしない動きで蒼紫が激しく動いた。かろうじて回転しているとだけしか理解できなかった。結果が分かったのは、白目をむいて倒れる剣心と彼の胸に鮮やかに咲き誇る三つの赤い傷跡を見たからだった。

 

「剣心!」

 

 どさりと音をたてて大の字になって転がる剣心は、弥彦の声に応える事は出来なかった。

 

 彼が倒れたおかげか腰に差さっていた鞘がまるで主の体に突き立っているように見える様は、少年には墓標のように不吉な姿だった。

 

「回天剣舞。かつて江戸城に潜入してきた賊の全てを始末してきた技だ」

 

 倒れた剣心に勝利を確信したのか、蒼紫はあっさりと背中を向けているがそれも当然と言えば当然か。幕末最強の人斬りと言われた男は白目をむき、胸は鮮やかな獣の爪痕にも見える三本傷で穿たれている。

 

「剣……心……」

 

 信じがたい現実に少年は打ちのめされていた。

 

 彼にとって緋村剣心は最強であり最高だった。それが大の字になって地べたを嘗め、あまつさえ命さえ落としてしまった。

 

 正直に言えば、少年剣士は高をくくっていた。

 

 何がどうなろうとも、最後は剣心が勝って終わる。何もかもが大団円になると信じていた……と言うよりも、決まりきった物語のようにそう言う結末があるのだと腹の底の底では思っていたのだ。それがただの思い込みにすぎないのだと悟った少年の心は音をたててひびが入り、へし折れかけていた。

 

「終わりだ、小僧。緋村抜刀斎は死んだ」

 

 今なら見逃すから、立ち去れ。

 

 言外の意味を悟った弥彦は目から溢れそうになる激情を必死に押しとどめながら、声を大にして叫ぶ。

 

「うるせぇ……次は俺が相手だ! たとえ刺し違えてでも、てめぇはこの場でぶっ倒すッッ!」

 

 心が折れかけているのは一目瞭然だった。だが、少年は蒼紫に向かって涙を目に貯めながらも決してこぼさずに啖呵を切って見せた。幼い少年ながら、思わず氷の男が感心するほどの見事な男ぶりだった。

 

「……いい気迫だ。ここで殺すのは惜しい気がする」

 

 向かってくるなら子供でも斬らねばならない。だが、それは惜しいと口走ってしまう程にこの少年は未来に可能性を感じさせる気骨を幼少の今から見せている。こんなガキはそうそういない。

 

「弥彦は神谷活心流の大事な後継者でござる。こんな所で死なせはせんよ」

 

 それに応えたのは、蒼紫にとっては予想だにしない声だった。

 

「剣心!」

 

 そして、歓声を上げる少年にとっては正に待ちわびた声である。

 

「そして拙者もまだこんなところで死ぬわけにはいかぬ!」

 

 それに応えてゆっくりとぎこちなく立ち上がった緋村剣心は、息も荒く痛みと動きづらさに眉をしかめて歯を食いしばりながらも確かに立ち上がる。それ自体に蒼紫は瞠目していた。

 

「……硬い骨を断った手ごたえは確かにあった。貴様、不死身か……?」

 

「まさか」

 

 すげなく応えた剣心が突き出たままの鞘をぽんと指先で叩くと、鞘の先がばらばらと三つの切れ端になって床に落ち、乾いた滑稽な音をたてる。

 

「回天剣舞……まさか鉄拵えの鞘を丸太のように容易く斬るとはな……」

 

 普通は丸太を斬る事など出来ないが、それを容易いと言い切る剣心はやはり達人なのだろう。

 

「そうか……咄嗟に鞘を引き上げて身代わりにしたのか。大した男だ。最強と言われるだけの事はある……いや、俺自身も心から認めよう」

 

 自信をもって繰り出した技が実は必殺ならざる失敗をしていたと知り、蒼紫は怒るでも悔やむでもなく剣心に感心していた。これまでの敵を悉く斬ってきたと言うだけあって、回天剣舞に重厚な自信を抱いていたのだろう。それを砕いた男に怒るどころか褒めたたえてしまう程に。

 

「そして改めて、最強の称号を俺たち御庭番衆のものにしたくなってきた!」 

 

 口にするや否や、疲労困憊、満身創痍の剣心に一気に襲い掛かる。この機を逃すかと先ほどの再現、標的を中心に円を描いて翻弄する蒼紫に弥彦は自分の分かる事など剣心にとっては百も承知でしかないのだとわかってはいても思わず叫ばずにはいられなかった。

 

「気を付けろ、剣心! 回天剣舞が来るぞ!」

 

「言っただろう、この流水の動きはお前にはとらえきれん。ましてや満身創痍のその身体では猶の事だ」

 

 蒼紫の挑発とも事実を突きつけているだけともみえる言葉にも何も言わず、ただ荒い息で蒼紫の動きを目で追うだけの剣心の背後をとった蒼紫は鞘による防御が出来なくなった左側からではなく、敢えて逆刃刀を握った右側から襲い掛かる。

 

「終わりだ、緋村抜刀斎!」

 

 今一度の回天剣舞。遠心力を乗せる事により一度、二度、三度と速さと威力を跳ね上げる大技。

 

 大技なだけに隙が大きいが、それを埋める為に流水の動きと合わせて使いこなさなければならない高度な連携を要求する蒼紫の秘技である。日本武道の中では異質な流水の動きを見切れる猛者は江戸城に潜入した凄腕の中にもおらず、これまでに彼が豪語したように小太刀の回転三連撃から逃れた強者は皆無だった。

 

「剣心!」 

 

 鮮やかに赤い剣心の血と共に、逆刃刀が宙を舞った。まさか今度こそ、と思わず弥彦は甲高い悲鳴を上げたが、少年の叫びを背に受けた緋村剣心は斃れる事無くしっかと立ち続けていた。

 

「……確かにお主の言う通り、拙者には流水の動きは捉えられん。だが、斬りかかる際の一瞬だけは別でござるよ」

 

 これまでの冷徹な無表情を崩して呆然とする蒼紫の見つめる先で緋村剣心の掌が小太刀の刃をしっかりと挟み取っていた。

 

「白刃取り!」

 

 少年が叫ぶまさにその通り。かつて剣豪柳生宗矩が時の将軍に披露してみせた伝説の神業、即ち真剣白刃取りである。

 

 掌の間に刀を挟み込むと言う至って単純な仕組みの技であるが、実際には約束組手以外にできるはずがないとも揶揄されている伝説の技だ。刃に対して無手で挑むなど至難、ましてや高速で振られる刃を掌で挟み込むなど、出来るはずがない。素手という無防備な状態で太刀に襲いかかられれば、武芸者でも自在に動くのは困難。ましてや高速で様々に千変万化の動きをしながら襲い掛かってくる太刀を見切って、掌で挟み込む?

 

 触れるだけでも悪い冗談だ。

 

 更にそれを掌で挟み込むだけで捉える?

 

 よしんば偶然でも何でも挟みこめたとして、薄く滑らかな刀を挟んで捉えるなど、どうすればできる? あっさり通り抜けられた挙句、無防備なところを斬り伏せられてお終いだ。

 

 素人はともかく、剣を少しでも学べばすぐにわかる。

 

 演武や八百長ならともかく、実戦での真剣白刃取りは例え相手が素人だとしても不可能だ!

 

 だが事実、緋村剣心はやってのけた。それも隠密御庭番衆において天才と言われた御頭の秘技を見事に捉えたのだ。もはや天晴見事という他はない。止められてしまった蒼紫はまさかよもやの離れ業に未だ信じられない面差しで固まっている。それはあまりに大きすぎる隙だった。

 

「蒼紫よ、最強の称号が欲しくばいつでもくれてやる。拙者の背負わされた最強の看板など所詮はまがい物。そんなものは拙者にとってうざったいだけ。それよりも、今の拙者にとっては助けを待つ人と帰りを待つ人の方が何万倍も大事でござる!」

 

 挟み込んだ掌を捻り愕然としている蒼紫の小太刀を奪いざま、その柄尻を先ほど逆刃刀で打ち込んだ喉笛に今一度突き込んだ!

 

「ぐは……っ!?」

 

 人間にとって喉は大きな急所である。そこに二度も深々と突き込まれればどうなるか。吐血した蒼紫を見れば火を見るよりも明らかだった。

 

「まだだぁっ!」

 

 だが執念の叫びと共に蒼紫が繰り出した横殴りの拳が剣心の頬を捉えた。

 

「剣心!」

 

 物も言わずにもんどりうって吹き飛んだ剣心、力任せに殴りつけた反動でのけぞる蒼紫、磁石の両極のように離れた両者はそれぞれ力を失い倒れこむ。

 

 剣心は弥彦の叫びに応じて、立ち上がるのは難しいようだが何とか体を起こして笑いかけた。

 

「大丈夫……でござるよ」

 

 明らかに無理をしている様はありありとわかる物のどうにかゆっくりと立ち上がる剣心だったが、あっさりとふらふらやじろべえのように頼りなく左右に揺れる。

 

「いや、ちょっと無理かも……いやいや大丈夫……?」

 

 自分でも大分頼りないと自覚はしているらしく、語尾が奇妙に跳ね上がっている。どこからどう見ても滑稽な程に情けない珍妙な有様だったが、それを見た弥彦は日常のような姿に安心して減らず口を叩く事が出来た。

 

「ってどっちだよ。なんつうか久しぶりだな、そういう顔」

 

「……っと、それよりも蒼紫」

 

「!」

 

 まだまだ未熟な弥彦だったが、残心の重要性は知識としてだけなら知っている。実践できずに剣心に駆け寄ってしまった粗忽を恥じながら振り返ると、そんな少年の悠長さに付け込めない敗者がそこにいた。

 

「……死んでいるのか?」

 

「いやいや、拙者人は殺さぬと誓っているって」

 

 ふう、とため息をつくと疲労を自覚するとともに少しだけ体力が回復する。ようよう足を伸ばして立ち上がる事が出来た剣心が、未来に一流派を担うに間違いなしと見込んでいる少年剣士に今の攻防について“教育”する。

 

「二度の強打で完全に喉を痛めていたのだ。そこにあれだけ力を込めた強打を出せば、強烈な呼吸困難を引き起こすのは必至。その際の激痛も含めて、意識を奪うには十分すぎるでござるよ」

 

「それを狙ったのか?」

 

「いいや……その前に勝負はついたと思っていたでござるが、まさかあそこから全力で拳を振るうとは……恐ろしい闘志ではあるが、結局はそれがとどめとなったのでござるよ。皮肉にも隠密らしからぬ引く事を知らない闘志が敗因となった……」

 

 弥彦は我が身を顧みた。そして自分も同じようにできるかどうかはさておき、蒼紫と同じように最後まで勝負を捨てずに食らいつかなければならないのだと考えていた。

 

 ならば、いつかどこかで自分も同じように倒れてしまうのだろうか。

 

 なら、どこかで引くのが正しいのか。だが、負けてはならない時と言うのはどこかに必ず待っているんじゃないだろうか……そもそも負けても構わない時っていつだ?

 

「今は難しいかもしれないが、いずれわかる様になるでござるよ」

 

 うんうんと悩み始めた弥彦は敵陣中で暢気と言うべきだが、剣心はあえてそれを咎めなかった。今ここで目を逸らさずに死闘を見ているだけでも少年剣士にとっては大殊勲。それ以上はまだ求めすぎだ。

 

「……回天剣舞を受けて倒れたあの時のお主の気合は、拙者にとって心強かったでござる。今はそれで十分……」  

 

「へへっ……っと、そういや剣心もよくあんなの止められたな。白刃取りなんてほんとにできるもんだったんだな」

 

「……あれは蒼紫の太刀筋を何とか読み切れたまで。正直、あそこで回天剣舞以外の技でかかってこられれば拙者は殺されていたであろうな」 

 

 それを聞いて弥彦は話の理屈はわからないながらも、あれは紙一重の勝負だったと剣心の言いたい事だけは理解して青ざめた。

 

 事実、紙一重。剣心にとっても幸運に助けられた勝負だったと言ってもよかった。

 

 白刃取りを成功したのは剣心にとって賭けだったが、それでもこうなると流れを読んではいた。

 

 蒼紫が回天剣舞に絶対の自信を持っている以上、一度の失敗で今までを否定はしない……むしろ次こそはと使ってくるのは目に見えていた。

 

 鞘を破壊した左と得物を持った右、どちらを狙ってくるのか。無防備な方を狙ってくるか、それとも敢えて武器を持った方を狙って虚をつくのかは……同じく蒼紫の自信から逆刃刀を備えた右を狙う可能性が高いと踏んでいた。

 

 そこまで読めていれば、難易度は格段に下がる。むしろただの唐竹割りででも来られていれば、頭を割られていただろう。

 

 それでもなお、この恐るべき太刀筋は彼の心胆を未だ真冬の朝のように寒からしめている。白刃取りはそこまで読めていてもなお賭けだった。賭けに出なければならない程の強敵だった。

 

 弥彦の前でなければ今なおへたり込んでいるだろう。

 

 さらに、この男は拳法使い。

 

 もしも白刃取りに驚き硬直せずに得物を手放せば、即時に素手の勝負に持ち込まれてしまえば……自分の体力から考えて結果は逆転していたに違いない。

 

 回天剣舞に対する絶対的な自信。

 

 そこに端を発する心理的な隙を突いた結果の勝利。

 

 回天剣舞で倒れなかった敵はいないと言う自信に満ちた言葉、そして倒れた剣心を相手に残心をしなかった油断。

 

 緋村剣心はそれを隙とみて、そこを突いたのだ。

 

「さて、観柳を捕まえて恵殿を取り戻さなくてはな……とりあえず蒼紫を起こして……」 

 

 言いながら倒れた御頭に目を向けたが、そこで言葉を咬み千切る。なんと蒼紫は既にゆうらりと立ち上がっていた。

 

「……大した回復力でござるな」

 

 しばらく呼吸を整えてから、蒼紫はひび割れた声を上げた。彼の姿に闘志は見えなかった。

 

「……俺は落ちていたのか」

 

「まあ……十秒ほどでござるか」

 

 剣心は油断をしていないが警戒もしていなかった。俯いている蒼紫の狙いが広言しているように戦いと勝利だというのは、もう信じてもいいだろう。

 

 こんな舞台を用意した上で敗北したのだから、今更挑むのは恥の上塗りだ。

 

 勝負に拘る男が、自分の敗北も受け止められないだろうか……敗北は受け入れなければ敗北ではないと言う信仰を抱いている男もいつか生まれるが、それはさておき……さて蒼紫はどうだろうか。

 

「……何故とどめを刺さない」

 

「今の拙者は流浪人。人斬りではござらん。何より斬らなくともどちらに軍配が上ったのかは……お主程の男がわからないはずがないだろう」

 

「…………」

 

 受け入れがたいが、受け入れざるを得ない。

 

 勝利に対する執念と勝敗を絶対視する美意識が彼の中でせめぎ合い、そして血を吐くような沈黙となった。

 

「蒼紫、一つだけ答えろ。お主程の男、影役とはいえ仕官の話はなかったとは思えん。一つや二つではなかっただろう。だというのに、なんでこんな用心棒まがいのマネをしている? 観柳のような男、力の尽くし甲斐があるとは思えず、また阿片密売を好むとも思えん。どう考えてもここにいるのは不本意であると思える」

 

「……」 

 

「何故だ? 拙者を倒すなどと言う形でなくとも力量を示す機会は幾らでもあっただろう」

 

 既に敵はいない。観柳を逃がすかどうかだけが気がかりだが、あの男の本拠地はここなのだ。今回の襲撃は随分と予想外であったようだから簡単に逃げる用意などは出来まい。

 

 多少の話す時間くらいはあるだろう。

 

「……随分と他人の内情に踏み込んでくる男だ。長州者はそうなのか、随分と不躾だな」

 

「……拙者個人の性分でござるよ」

 

 左之助にも似たような事を言われた気がするが、剣心にしてみれば過去の所業の結果とは言っても自分の名前が騒ぎに拍車をかけたようなので知りたいと思うのも必然だ。

 

「……仕官の話なら腐るほどにあった。御庭番衆の事を新政府が知っているのは必然か、結構な大物政治家の護衛、陸軍の諜報部……敗者であるにも関わらず幾らでもな……だが、それは俺だけだ。ひょっとこや癋見のように異能一芸に秀でているだけの者や式尉のように寝返りをした者、般若は……お前たちは知らんだろうが、面の下に理由がある。他の御庭番衆には誰一人として何の仕官話もなかった」

 

 蒼紫の顔には、相変わらずこれといった激情などない。むしろ淡々として勝者の要求に応えている。ただ、そこに何を見たのか剣心はもちろん弥彦でさえも神妙な顔をしていた。

 

「そんな部下たちを見捨てて御頭の俺一人が仕官など、どうしてできる?」 

 

 あくまでも静かに語る蒼紫の中にこれといった強い情念はない。

 

 それは当たり前だからだ。

 

 御頭として部下を放り出さないと言う意思は呼吸のように当然であり、そこに強い情などない。息を吸うのにいちいち身構える人間など病人以外にいるはずもない。

 

「最後の将軍、徳川慶喜のような醜い裏切りなど……俺はごめんだ」

 

 そこには彼が初めて見せる明確な情……軽蔑と言う強い感情があった。

 

 そして同時に、一人の男として御頭としての誇りがあった。

 

「醜い裏切り?」 

 

「……童の齢では知らんか。最後の将軍徳川慶喜は、戦況が不利になるや愛妾や重臣たちだけを連れて大阪城からさっさと逃げ出した。未だに戦っている万の兵を見捨て、江戸に逃げ帰った後は上野の寛永寺に立てこもり、その後の交渉さえも勝海舟に任せてお終い……正に腑抜けの卑怯者だ」

 

 それはあくまでも、蒼紫から見た一面に過ぎない。

 

 だが、紛れもなく事実の一側面ではあるのだ。

 

「徳川慶喜公は……」

 

「わかっているさ。奴がした事は国内ではなく国外を考慮した結果。諸外国にこれ以上日本が乱れ続ける姿を見せていれば、やがて侵略の手も海を越えてやってくる……いわゆる高度な政治的判断という奴だ」

 

 淡々としているが、そこに籠っているのは理解とは対極であり、敬意とも対極だった。

 

「だが、どんな御大層な理由があろうとも……俺はごめんだ」

 

 蒼紫にしてみれば、徳川慶喜は卑怯者だった。

 

 戦場に愛妾を連れてきただけでも言語道断。更には旧幕府軍が苦戦していた際には配下の兵士に“千兵が最後の一兵になっても戦わなければならぬ”と強く徹底抗戦を説いたにも拘らず自分は一部重臣と愛妾だけは連れてさっさと江戸に逃げ帰った。

 

 これを敵前逃亡以外のなんだというか。最後まで戦えと言ったその舌の根も乾かぬ内にきっちり女だけは連れて逃げたのか。兵を一体なんだと思っているのだ。

 

 掲げられた錦の御旗と大将の逃亡に心折れた兵士の絶望を知れ。

 

 だが蒼紫の憤りなど関係なく徳川慶喜は戦後、少なくとも表面上は苦労とは無縁に見えた。戦後はしばらく閉門して過ごし、謹慎が解かれた後も表舞台には立たず駿府……後の静岡で芸術を中心とする趣味に没頭して生きた。戊辰戦争で死んだ兵士たちと比べてなんと安楽な道だろうか。

 

 また、彼はその後七十代後半まで生きた歴代最長寿の将軍となった。最終的には公爵にまで叙せられ、正室側室に二十人以上の子供を産ませ、潤沢な隠居手当を得ていたと言う。

 

 彼が徹底抗戦を叫んだ戦争で、280人の幕府兵が死んだ。彼らの中には子を成せなかった若者もいただろう。家族を残して死んだ男もいただろう。残された家族はどれだけ苦労しただろう。

 

 だが悠々自適な隠居暮らしの徳川慶喜は、共に静岡に移り住んだ旧家臣の困窮にさえ無関心であるとも聞く。

 

 それどころか彼はそんな駿府の地にもなぜか受け入れられているという。

 

 なんという不公平であろうか。

 

 蒼紫には、そうとしか思えなかった。

 

 これが識者であれば別の考えがあるのかもしれない。これが後の世の歴史学者などからすれば別の見方ができるのかもしれない。

 

 だが、今の世を生きて徳川の側についていた蒼紫にしてみればこの上ない卑怯者の臆病者にしか見えなかった。

 

 高度な政治的判断?

 

 知った事か。その言葉が卑怯者の免罪符以外に使われる事がいったいどれだけあると言うのだ。そのご高説を万民に、何よりも見捨てて逃げ出した後で戦死した部下たちの御霊に説明し、納得させてみろ!

 

 蒼紫は自分の下で新しい世の中に馴染む事も出来ず、生きる道を失った部下たちを思った。

 

「新時代明治になり、新都東京に放り出された部下たちと生きて十年。一人、また一人と新しい人生を見つける事は出来た。それ自体は喜ばしく思ったが……最後まで残った部下が四人。かつて戦うべき時に戦えず生き延びた隠密御庭番衆に残った、戦う事しか知らず、それ以外の何もできない惨めな四人だ」

 

 時代に馴染めない徒花。

 

 新しい時代に生きる道を見つけた彼らを妬む気持ちはない。

 

 それはそれで彼らの努力が正当に実を結んだ結果だ。かつての仲間として、それを羨む気持ちはあるが祝福するだけの気持ちはもちろんある。

 

「……であれば、せめて“最強”と言う艶やかな花を御庭番衆の冠とし、あいつらの為に捧げて誇りとしてやりたかった」

 

「………」

 

 剣心は蒼紫の言葉を聞きながら般若と交わした言葉も思い出していた。

 

 戦うべき時に戦えなかった無念、もしも自分たちが戦えたのなら……そんな思いを消し切れず、新時代に馴染めず、どうしてもうまく生きられない強さ以外を持てなかった隠密達にとって強さの証明、人斬り抜刀斎の持っていた最強の看板は剣心当人には想像もできない程に輝かしい物であったのか。 

 

 彼らの抱く無念の結実として狙われた剣心としてはいい迷惑以外の何物でもないのだが、そこに怨む気持ちは生まれなかった。もちろん剣心の性格から共感は出来なかったが、一定の理解はできた。

 

 自分は時代の勝者側に立てたが、もしも敗者の側に回っていたのなら……流浪人などと新しい時代に生きる事が出来ただろうか。

 

 戦わずに敗者となった。それが彼らの最大の傷であり、もしも戦い抜いたのであれば勝者でなく敗者であっても彼らは納得ができたのかもしれない。

 

「とどめを刺せ。でなければこの先、俺は幾度でも貴様を狙い続けるぞ」

 

 いや、納得など永遠にないのかもしれない。彼らは永久にあの時戦えればという無念を追いかけて……あるいは背中を追われ続けて生きていくのか……彼らの無念は剣心を倒して、それで本当に晴らされるのだろうか?

 

 第三者として聞いている弥彦には、とてもそうは思えなかった。彼らの無念はもはや晴らしようがない。時を遡り戊辰戦争に参戦する以外に彼らの無念は消えるはずがない。

 

「……構わんよ。気が済むまで幾らでも挑んでくればいい」

 

 だが、剣心はそう答えた。

 

「剣心!」

 

 弥彦は無意味にしか思えなかった。何をどうしようとも晴れるはずがない妄執をぶつける対象にされたも同然、壊すまで的にされて、壊れても相手は納得するまい。

 

「だが、今回のような周りを巻き込むようなやり方は許さぬ。それだけは心得てもらうでござる」

 

「…………」

 

 自分が理由で薫や弥彦、左之助……ひいては街の庶民を巻き込むなど言語道断の何者でもない。人を守ると誓った己が人を危険に巻き込んでどうすると言うのか。

 

 かといって、ここで受け入れなければ蒼紫は幾らでも危険な手に出る事が出来る男だ。力量的にも、そしておそらく精神的にもそうだろう……それが隠密だろうと思っている。

 

 そんな男だからこそ、己が引き受ける。

 

 血相を変えてくれた弥彦には申し訳ないが、それが剣心にとっては当然の結論だった。

 

 蒼紫は何も答えない。あるいは、答えられないのか。再び被った氷のような能面の中で何を考えているのか……言動から相手の内面を察する理を備えた飛天御剣流の剣心も全く分からなかった。

 

 ただ、最強を求める心に嘘偽りがなければない程に勝負は尋常なものでなければ気が済まないはずだ。

 

 この一対一の状況を作り上げた現状がそれを証明している。

 

 そこに今回の勝負の結果がどんな変化を齎すか……悪い変化ではない事を願うばかりだが、いざとなれば己の剣で戦うより他はない。

 

 蒼紫が沈黙の中で何を考えて口にしようとしたのか、それを待ちきれない弥彦が急かそうとする程の時間が経過したが、結局は蒼紫の口から返答を聞く事はなかった。

 

「はーっはっはっははあ!」 

 

 それよりも先に、下品な高笑いが乱入してきたからだ。

 

 階段下にあった大扉を開き、武田観柳がたった一人で現れたのだ。

 

「あれだけ大きな口を叩いておきながらも敗北とは、情けない限りですね! 四乃森蒼紫!」

 

「!」

 

 ちょうど剣心と蒼紫の間に立つ位置で観柳が甲高い声で蒼紫を嘲笑っている。剣心達には理由はわからないが、完全に蒼紫を敵視しているようだった……双方の性格を考えればあまり不思議ではないが、不思議なのは余裕を取り戻している事だ。

 

「はろぉう。あなた達があんまりだらだら話し込んでいるから、待ちきれなくて出てきてしまいましたよ」

 

 むしろ興奮しているようにも見えた。

 

 彼の横には布に包まれた人間と同じくらいの大きさをした何かがあるが、それが余裕を取り戻した理由なのだろうか……余裕を取り戻した、と言うよりもおもちゃで遊びたい子供のように見えなくもないのは不気味だが、蒼紫も剣心も観柳を小物と見切っていたのであまり気にしてはいなかった。

 

「観柳……」

 

「ちょうどいい。探す手間が省けたでござる」

 

 それが余裕なのか油断であるのか。

 

 証明するのは観柳が興行の一幕よろしく芝居がかった動作で仰々しく披露した物だろう。

 

「大した自信ですねぇ。だが! これを目の当たりにしても、まだそんな強気で自信満々のままいられますかぁ!?」

 

 それこそ自信満々に見せつけてきたそれを目の当たりにして、正体がよくわかっていない弥彦はさておき剣心と蒼紫は顔色を変えざるを得なかった。

 

「! まさか」

 

「あれは……っ!」

 

 二つの車輪に支えられている大きく長い鉄の筒。

 

 尤もその手の物には馴染みない弥彦は大砲かと思ったが、よく見ると違う。一見した見た目は確かに酷似しているが、砲口の部分が通常の銃口と同じかせいぜい少々大きいくらいしかない上に、砲耳の辺りには手回し式のハンドルが付いている。更にベルト式で給弾される構造らしく、木箱に入った多数の弾丸が自動で補給されるようになっていた。

 

 弥彦同様に緋村剣心、四乃森蒼紫の二人も現物を見た事はないが、知識として一瞬で察せられる程度には知っていた。

 

「回転式機関銃!?」

 

 幕末において日本に三門だけ輸入された兵器であり、端的に言えば高速で連発できる銃だ。構造が複雑な上に重たく、誤作動などの可能性が低くはないと決して安定性はないが、それでも局地的にではあるものの政府軍に大きな被害を出した事で知られている世界でも最先端の武器……いいや、兵器だ。

 

「そう! 回転式機関銃! それも世界中のどこでも正式に配備はされていない最新型の横流し品! 幕末の頃に使用されていたものよりも遥かに高性能だという売り文句、ここでじっくりと確認させてもらいましょうかねぇっ!」

 

 飛びつくように機関銃の後ろに着いた麻薬商人がハンドルに手をかける。

 

 冷や汗にまみれた、引き攣ったような笑みを見た剣心は自分が観柳を怒りに任せて追い詰めすぎたと悟った。おそらくは虎の子であるのだろう機関銃を出すなど当人もこれまで想像だにしていなかったはずだ。

 

 自分と、ついでに何やら確執がある様子で銃口を向けられた蒼紫も麻薬商人を相当に追い詰めたに違いない。

 

 蒼紫と観柳の相性が悪い事などは見てとれていたが、仕事に徹すると思っていた蒼紫も観柳も互いに相当噛み合わなかったのであろうか……いや、そんな悠長な事を暢気に考えている場合ではない。

 

 傍にいた弥彦の首根っこを掴んで闇雲に飛び退ると同時に、耳慣れない乾いた銃撃の音が彼ら三人の耳に痛みを伴って飛び込んできた。

 

 雷鳴のようにと称するにはどこか軽く、しかし屋内である為か反響して鼓膜を痛めつける音に眉をしかめると同時に足元の床が連続して弾けた。

 

 この音一つ一つで人が死ぬのだ。人を殺す為だけの小さな鉄が目にもとまらぬ速さで宙を飛んでいる音なのだという実感を、少年剣士は否応なく突き付けられた。銃声など聞くのは初めてだったが、それでも否応なく高い殺傷能力を思い知らされる……その事実を獣の本能のように理屈抜きでそういうものなのだと察しろと命じてきた。

 

「あはははははっ!」

 

 気が狂った……そうとしか言いようがない程に甲高い笑い声は人に不快感を抱かせるのが間違いないところだが、その悉くは絶え間なく吐き出される銃撃にかき消されていった。

 

「ほうらほうら! もっと頑張って避けないと、当ててしまいますよぉ!」

 

 喉の奥まで見えるほどに大口を開けて狂人の見本のように笑う観柳。彼の撃ちだす銃撃は最新鋭機の名に恥じず誤作動を起こす事も無く絶え間ないが、剣心と彼に捕まえられている弥彦、そして蒼紫は一発も食らうことなく縦横無尽に広いホールを駆けまわり続けている。

 

 遮蔽物一つない開けたホールで、だ。

 

 それがおかしな話だと言う事は弥彦にさえ分かった。いくらこの二人が達人とは言ってもこの状況で、ましてや互いに死力を尽くした満身創痍で出来るわけがない。ついでに剣心は自分という重しも抱えているが、それについては無いものとしておく。 

 

 ともかく、だったらなぜかと言う結論は出ていた。

 

「あんの野郎! わざと当てないで遊んでいやがるッッ!」

 

「あーっははははははっ! 凄いでしょう!? なんと一分間に二百発も撃てるんですよぉ!」 

 

 嗜虐心に満ちた顔を見れば一目瞭然。おもちゃを使いたがる子供が拷問道具の意義を正しく理解した上で遊べば、こんな顔をするだろうか。

 

 子供の弥彦から見て、嫌悪感を沸かせずにはいられないような表情だった。

 

「このままじゃなぶり殺しになるだけだ! なんか手はないのかよ!?」

 

 弥彦の声に悲壮さはなかった。

 

 生来か、それとも育ててきたのか当人の備える負けん気に加えて剣心に対する信頼が彼をくじけさせない。そんな少年の信頼を肌で感じているからこそ、剣心は応えたいと心から思った。

 

「……手がないでもないが……ともかく今は避け続けるしかない」

 

 それでもこんな情けない事しか言えないのが口惜しいが、それでも打つ手はなかった。何よりも、愛刀を蒼紫との攻防の中で落としてしまったままなのが惜しい。

 

「観柳! 貴様、どこでこんな兵器を!」 

 

「“様”を付けんかぁ! 無礼者めぇッッ!」

 

 蒼紫のたった一言でそれまでの楽しそうだった様子から一変して激高すると、蒼紫の両足、膝辺りから鮮血が迸った。

 

「!!」

 

「蒼紫!」

 

 言葉もなくもんどりうった蒼紫に溜飲を下げたのか、いっそ情緒不安定とさえ言える程にころころと形相を変える観柳が懐から葉巻を取り出して見せつけるように吹かし始めた。

 

 強力な武器とそれを使って起こす殺人に高揚しているのは、ことさらに余裕ぶっていても誤魔化せてはいない。つらつらと蒼紫の質問に答える形で自身の構想を自慢する姿には滑稽ささえ伴っている醜さと浅ましさばかりが強調されている。

 

「そう、金! それこそが最強の力! 人類社会が何千年もかけて育んできた最高の力なんですよぉッッ! 剣など下の下、所詮は匹夫の勇! 金を手に入れた私こそが最強とはこれ、自明の理!」

 

 私欲の為に死の商人を目指すと堂々言ってのける観柳は、平和の為と剣を振るってきた剣心にとってこれ以上ない程に相いれない価値観を持つ男だった。

 

 それが汚い手を伸ばしてきたとなれば……断固戦うより他はない。今まで以上に、徹底的に、だ。

 

「なんだぁ、ありゃあ!?」

 

 あちこち傷だらけで苦戦の痕も色濃い左之助が、どういう訳だか敵対していた御庭番衆二人と共に駆けつけてきたのはちょうどその時だった。

 

 御庭番衆の二人は血を流して膝をついている御頭を一目見て血相を変えたが、まだ冷静さを保っているようで左之助の制止を受け入れて何やら話し合っている。それがどんな内容だとしても、合わせる他はあるまい。

 

 ……ここが起死回生の機会だ。

 

 どんな状況にでも必ず応じてみせる。そして、誰一人として死なせはしないッッ!

 

「行けぇ、剣心ッッ!」

 

 斬馬刀を掲げて盾にしながら怨敵目掛けて走る左之助の悪一文字を横目にしながら、弥彦を般若に預ける。今の今まで敵対していた男だが、ためらっている場合ではない。それに……いざとなれば躊躇わないだろうが、いざという時でなければ好んで童の弥彦を手にかけたりはしないだろうと思えた。

 

「ッッ!」

 

 左之助の掲げている斬馬刀は確かに幅広で鉄で出来ているのだから、この場では最も盾にしやすい。彼が銃弾の前に立ちふさがるのは大いに妥当だ。

 

 剣心の中にいる人斬り抜刀斎は冷徹にそう言っていたが、彼の中にいる流浪人は自分が誰かに最も危険な役目を振るのに忸怩たる思いを抱いていた。

 

 だが、だからこそ足をとどめてはならない。

 

 背後で金属が金属を砕こうとして鳴り響く硬すぎる音が彼の足を踏み止まらせる鎖になろうとしても、その鎖を引きちぎって前に出る。目指すのは一つ、己の愛刀のみ。

 

「おうるぅあああぁぁぁっ!」

 

 相楽左之助は咆哮した。

 

 それは連続する銃撃に挑むと言う自殺行為を行う自分を鼓舞する為ではなく、目の前で迫る自分に怯えて表情を引きつらせている腰抜けの悪党を脅しつけてやる為の雄叫びだ。同時に、そのくそったれの兵器から吐き出す弾は全部こっちによこしやがれと言う買い占め宣言でもある。

 

「うわああぁぁぁっっ!?」

 

 商売人として興が乗ったか、左之助の叫びに乗った観柳は商談に乗って斬馬刀に銃弾を集中させる。ばりばり、あるいはがりがりと言う嫌な音がして強すぎる振動が小刻みに喧嘩屋のかざした斬馬刀を砕け散る程に揺らして金属の破片を節分の豆のようにまき散らす。受け止めた腕に伝わる衝撃は骨身を震わせるほどに凄まじかった。

 

 支えている腕から全身に伝わる衝撃は不快で痺れる様なもので、左之助は自分の歯の根が合わなくなるいやらしい感触を噛み潰すために歯を食いしばった。

 

 がんがんと音がする度に、斬馬刀はもつのかと心胆寒くなる。

 

 砕け散ってしまえば、自分も穴だらけにされてしまうのか。それともひき肉みたいになっちまうのか。

 

 今頃他の奴らはちゃんと避難しているのか、剣心は今何をやっている? 馬鹿野郎、人を当てにするんじゃねぇッッ! そんなみっともねぇ事でどうする、こいつは仲間の仇だろうがッッ!

 

 長くはない時間にそんな事を考えながらも、決して足は止まらず一直線に駆け続ける。広いには広いが所詮は屋内に過ぎず左之助はあっという間に観柳へと近づいていき、その一歩一歩ごとに観柳は恐怖に頬を引きつらせて悲鳴のように叫び続けた。

 

「砕けろ砕けろ、死ね死ねしねぇぇぇッッ!」

 

 その悲鳴のような願いに答えたのは神か悪魔か、意外と神のように思えるのは左之助が背中に悪一文字を背負っているからだ。

 

 鋼が砕ける音と言うのを、相楽左之助は今までに聞いた事がない。

 

 だが、全身を震わせる強い衝撃と共にはらわたに響く聞きなれないのがそれなのだと否応なく悟った。

 

 がりごり、がりがりと聞こえてくるその音の不快感が徐々に増してきた。それが斬馬刀の寿命を示しているのだと認めたくはないが、それでも現実はそんな彼の感傷など知った事かと次々銃弾の形で襲い掛かってくる。

 

 あと三発、食らえば砕けるかもしれないと思った。あと三歩踏み込めば、それで糞野郎に拳を叩き込めると確信した。

 

 であるからこそ、届かない。銃弾は次々と撃ち込まれ、一歩進むごとに五発は撃ち込まれている。盾になっているのだから躱してはならないとなれば、間に合わないのは必然だった。

 

 それでも、と引けない男の意地を足に籠めて駆け続けるが……とうとう駆け抜ける事は叶わなかった。

 

「うおぉぉっ!?」

 

 その夜に最も甲高い音が最も大きく響き、掲げられていた斬馬刀が悲しささえ感じさせる有様で砕け散った。それはあるいは、雪のようであったかもしれない。ある種美しい光景を見届ける事も出来ずに、左之助もまたもんどりうって倒れた。

 

 あと一歩。

 

 ほんの、あと一歩だけ届かなかった。

 

「左之助ぇっ!」

 

 見ていた弥彦が悲鳴を上げる。

 

 彼からは斬馬刀が砕けると同時に左之助が倒れたとしか見えなかったのだ。死んだか、と危惧を抱くのは当然だった。

 

「ちいいぃっ!」

 

 だが、喜ばしくもそれが早とちりであったと間髪入れずに身を起こした喧嘩屋の悪一文字が証明する。当人は砕け散ってしまった己の相棒を握りしめて悔しそうに舌打ちをするが、弥彦は心底からほっとした。

 

「くそったれがぁ……」

 

 覚悟の上とはいえ、長年振り回して手に馴染んでいた相棒を実際に砕かれるのは憤懣やるかたない。怒りの形相は伝説の鬼もかくや、しかし京都の鬼には及ばずといった風の左之助だった。戦いの中で砕け散るのは武器の本望かもしれないが、それが剣心のような強者との立ち合いであればともかく観柳などの下衆は正しく論外も甚だしい。

 

「ひゃ、ひゃははははっ! そうですよ、こっちは何しろ最・新・型! なんですからねぇ! そんな骨とう品と言うのも憚られるようなガラクタがそうそうもつわけないんですよ!」 

 

「ガラクタだぁ?」

 

 床にしりもちをついたままの左之助を見下ろし、観柳はここぞとばかりに笑い続ける。もはや破落戸の生殺与奪は自分の思うままだと、いかにも余裕たっぷりで先ほどかいた冷や汗を覚ましている。

 

 銃口に身を晒している左之助に、これはまずいと焦りを見せるのは明神弥彦だったが……どうにかならないかと周囲を見回せば焦っているのはなんと彼一人。

 

「ガラクタでしょう? 結局あなたはこうやって銃口の前で無様にしりもちをついて、的になるしかないんですからね。仕事を成し遂げられない者がゴミなのは、人間でも道具でも同じですよ」

 

「……その物言いにも腹は立つが……てめぇがぼんくらすぎて怒る気もしねぇな」

 

「はああっ!?」 

 

左之助はそのままの体勢で鼻息を吹いた。口でため息をつくのも惜しいと言う風に呆れた感情を吐き出した喧嘩屋はひどく冷めた顔をしており、勝利の蜜をしゃぶっている最中の観柳のご機嫌を損ねるには十分なご面相だった。元々堪忍袋の緒が随分と貧相な性質のようだが、勝利を貪って気分のいいところに冷や水をかけられたおかげで猶の事に拍車がかかっている。

 

「ぼんくらなのはてめぇの方だッッ! この最新鋭回転式機関銃の銃口の前で腰を抜かしているって自覚がねぇのか、薄ら馬鹿ッッ!」

 

「おいおい、破落戸の俺と変わらねぇ根っこがむき出しになってるじゃねぇか、青年実業家様よぉ……つうか、誰が腰抜かしてんだ? 本気でわかっていねぇんだな」

 

 やれやれと腰を払って立ち上がる左之助に口元を盛大にひきつらせた観柳が手にかけたままのハンドルを衝動のままにぐるぐると回した。

 

「もういい、ぼんくらの貧乏人なんぞはさっさとハチの巣になって死んじまえッッ!」

 

「左之助ッッ!」 

 

 弥彦が般若の足元で悲鳴を上げる。だが、その声がホール内で反響して消えてしまうとその先にあるのは奇妙な静けさだけだった。

 

「……は?」

 

 からからと、奇妙にちっぽけな音だけが響いている。それに間抜けな声を上げた観柳を弥彦以外の大人全員があまりにも寒々しい視線の集中砲火にかけた。からから、からからと繰り返し回し続けるのだが何も起こりはしない。

 

 先程までうるさい音をがなり立てて真っ赤に焼け付きつつあった銃口は相変わらず赤ら顔のままだったが、そのまま何も吐き出さずに沈黙を保っている。

 

「……手元をよく見てみろ」

 

 しらじらしい空気を奔ったのは愛刀を取り戻した剣心の鋭い声だった。

 

「は?」 

 

 思わず素直に手元に目をやる観柳は正に隙だらけだったが、後ろにいる御庭番衆一同どころかほとんど目の前にいる左之助さえ手出しはしない。

 

「…………」

 

 観柳は弥彦をじらしているつもりもないだろうがひたすらに何も言わず……正確には何も言えずに青ざめて手元を見下ろしている。

 

「……一分間に二百連発……だったか? 何も考えずに馬鹿のようにばらまけば、あっという間に弾切れにもなって当然だ。貴様がコケにした左之の斬馬刀は、確かに主を守り切ったよ」

 

「はぁ!?」 

 

 素っ頓狂な声を上げたのは実は観柳ではなく弥彦である。

 

 ひょいと抱えていた般若はもう安全だろうと下ろして視点が低くなっていたので機関銃の手元などわからなかったのだろうが、自分以外が妙に冷静でいた理由がよくわかってしまった。そうなると、俄然恥ずかしくもなる。

 

「こんのボケェッ! てめぇ武器商人になるってんなら商品の扱いぐらいきちんとしろいっ! はしゃぎまわって弾切れとか馬鹿みてぇじゃねぇか!」

 

 顔を真っ赤にして起こる弥彦だが、少年剣士に構っているような余裕は青ざめた武器商人志望には全くない。

 

 弥彦以上の怒りを冷たい相貌に秘めた人斬りが目前にまで詰めてきているからだ。

 

「終わりだな、観柳」

 

「ひ、ひ、ひいぃ……」

 

 脂汗をかいている姿は武器商人と言うよりもガマの油売りか。相対する剣心は日ごろの口調も鳴りを潜め、なるほどこれが人斬りとしての顔かと御庭番衆に納得させるだけの鋭い寒々とした雰囲気を漂わせている。

 

「た、たしゅ、け……」 

 

「そう言って誰かが助けを乞うた時……お前は一体どうする?」

 

 剣心は内心で警戒していた。

 

 先程の失態を繰り返してはならないと、もしやまさかの事態を頭の中で様々な仮定を考察していた。

 

 もしや、懐に拳銃を隠してはいないか。あるいは、屋敷内に罠でも隠してはいないか。それとも、爆弾や毒など隠し持ってはいないか。

 

 もしや既に恵に手をかけてはいないか。それとも、彼女をどこぞに隠しては……あるいは逃亡してはいないか。悪事の証拠となる阿片を密かに処理してはいないか。

 

 姑息な悪党に過ぎないと侮っていた結果が先の醜態だ。この男にこちらをいたぶる下劣な意志がなければ皆殺しになっていてもおかしくはない。

 

 機関銃の性能は確かに自慢するだけの恐るべき物があり、自分たちの怪我も疲労も自覚する以上に相当なものだったのだ。その重さは蒼紫の足が証明している。これで傷ついたのが弥彦であったらと思うと背筋が凍る。

 

 それは悉く、武田観柳を姑息な小物と軽蔑と共に軽侮した油断のせいだ。

 

 二階の窓からでさえ自分と目を合わせるのを恐れていたような男がのこのこと自信満々の態で顔を出した時点で、自分はおかしいと思わなければならなかったのだ。

 

 この上、失態を重ねてたまるかと男の意地が剣心の眼を鋭く光らせる。その眼光の剣呑さは、直接叩きつけられている観柳が失禁しないのが不思議な程だった。

 

「命乞いなど、拙者にする事ではないな……貴様の好きな阿片にでもお金様にでも、好きなものを拝んでみせろッッ!」

 

 一足、蒼紫でさえも瞠目してしまう速さで間合いを詰めると電光石火の一撃が観柳の腕をへし折った。

 

 人の骨がへし折れる乾いた音を少年は久しぶりに聞いた。それが嫌な音だと思える自分が剣を学ぶ身としてどうなのかと思い、活人そうあれかしと思うのは逃げではなかろうかとも思った。

 

 これはよい事なのか、悪い事なのか。それを誰かに聞きたいと思わなかったのは、少年らしい意地だ。

 

「ひぎいいぃぃぃ~~ッッ!」

 

 そんな少年の感傷に爪を立てるように悲鳴が上がる。殺人兵器を売りさばく死の商人を目指しているはずの男が痛みさえ堪えられず、お綺麗な上物のスーツを汚しても気にもできず、あまりの痛みにのたうち回って幽霊よろしくぶら下がるばかりの両腕をさらに痛めて悲鳴を上乗せする。

 

 人間をあっさりと殺す兵器を売りさばくと言ってのけた男が、剣など大したものではないと言った男が刀の峰で殴られた痛みに呻き、涙を流して悲鳴を上げている。その姿のなんと浅ましい事か。

 

 なんと醜い事か。

 

「おい」

 

「おろ?」

 

「ちゃっかりおいしいところ持っていくんじゃねぇよ」

 

 いくら怨敵と言えども、左之助の気性から言ってこんな情けない姿を晒している男に追い打ちをかける事は無理だ。

 

 苦虫を噛み潰した左之助に剣心は笑って誤魔化そうとする。それに噛みつく左之助の悪一文字を見ながら、弥彦は二人のわだかまりは本当に溶けたのかもしれないと胸をなでおろす。

 

「仕方ねぇだろ。あのまんまだったら絶対にやりすぎてたぞ」

 

「む……」

 

 それを狙ったのか狙っていなかったのかはわからないが、弥彦はきっとそうに違いないと考えた。それが過大評価なのか的を射ているのか、いずれにしても憧れた男だからこそ弥彦は剣心の行いを大きく高く見積もっている。

 

「ちっ……おい、そっちはこれからどうするんだ」 

 

「……そのような男は斬っても問題ない気はするのだがな」

 

 式尉に肩を借りている蒼紫に代わり、般若が前に出た。

 

「まずは傷を癒すさ。その後は……御頭に付き従うのみ」

 

「ふうん……で、おめぇはどうすんだ? 確か剣心と勝負したかったんだったか……そう言えば、それはどうなった? こいつが割って入って台無しか?」

 

「そんな訳があるか! アホ左之助! 剣心の勝ちだ!」

 

 途中から入ってきた彼らからすれば、そういう可能性もあり得たが、鼻息荒くした弥彦が割って入った所を見ると違うらしい。しかしまあ、怖いもの知らずな少年だ。

 

「……ああ、その通り。そこの童が口にした通り、俺の敗北だ」

 

「潔いこったな」

 

 童じゃねぇと喚く生意気な小僧ッ子に怒りもせず、彼は能面のような表情のままで肯定する。

 

 腹の底で何をどう噛みしめているのかは、左之助にはわからない。だが、こんな勝負の場を整えてまで突きつけられた敗北を飲み込むには相当の力がいった事だろう。

 

 だから、素直に思った事を口にした。

 

 馬鹿にしたつもりはなく、褒めたつもりもなく、ただそう思ったのだ。

 

「敗北は敗北だ。それを女々しくあれこれ言うような情けない真似はしない」

 

 だが、同時にまだ萎えてはいないようにも見える。ああ、こいつはまだ追いかけるつもりなんだなと思った。

 

「……続きがしてぇんなら別に嘴挟むような野暮はしねぇが……世間様を巻き込む今回みたいなマネはすんなよ。そういう喧嘩は詰まらねぇだろうが」

 

「……喧嘩か。その程度がちょうどいいのかもしれんが、せめて果し合いとでも言ってほしいものだな」

 

「冗談言えるのか」

 

「俺は真面目に言っている……それよりも、さっさと高荷恵の所に行ったらどうだ。おそらく無事だろうが、俺は介錯のつもりで彼女が観柳を襲った際に没収した短刀を返したからな。もたもたしていると、取り返しがつかんかもしれんぞ」

 

 それを聞き、剣心は元より左之助も血相を変えた。

 

「なんって事しやがるんだ、この根暗男!」

 

 吐き捨てるや駆けだした弥彦である。本当に怖いもの知らずな少年だ。

 

「ちなみに、高荷恵がいるのは階段の上だ。童、そっちではないぞ」

 

 勢い余ってすってんころりんとお結びのように転がっていった弥彦を眺めていた御庭番衆がはあ……と呆れたようなため息をついた。

 

「……お嬢を小僧に作り替えたみてぇで、生意気すぎても怒る気にはなりませんなぁ」

 

「……いや、まったく」

 

「ああ……言われてみれば確かに似ているな」

 

 妙にしみじみと話をしている彼らに闘争の空気は全くなかった。ここから仕切りなおすような真似は、いくら隠密でもやるまい。

 

「なぁにをぼさっとしてんだ、剣心! 左之助! さっさと行くぞ!」

 

 内輪話をぼそぼそとしている三人はもう放っておいても大丈夫だろうと、剣心と左之助は自分たちの前を通り過ぎざまに一喝していった弥彦の小さな背中の後を追う。さすがにここから不意打ち上等を仕掛けてくるとは、歴戦の剣心も思わなかった。

 

「では、拙者らは恵殿を救出してくるでござるよ」

 

「……抜刀斎」

 

 背中に静かにかけられた声には、寒々とした空気が甦っていた。思わず足を止めた剣心が振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる静かな闘志を湛える切れ長の瞳があった。

 

「俺がお前を倒すまで……誰にも殺されるな」

 

「……承知」 

 

 ただそれだけを口にして、そして剣心は身を翻して走り出す。だが、実のところ腹の中に氷の塊を抱えているようなぞっとする寒気は抱いていた。蒼紫の強さはなるほど、天才の名にふさわしい技量を持っている……今回は勝てたが次回は……そう思うと背筋に奔る寒気を自覚せずにはおられなかった。

 

 だが、今回はもう終わった。今はただ救うべき女の安全だけに集中しよう。

 

 そう考えて走り出しはしたが、少々走った所で突如膝から力が抜ける。

 

「剣心!」

 

「大丈夫、少々よろけただけでござる。それよりも恵殿が心配だ。急ぐでござるよ……」

 

 胸の傷は深く、頭からも血を流している。おそらく見えない所にも様々に傷はあるだろう。何よりも何十人も相手取って疲労していないはずがない……無理をしているのはわかりやすかったが、そこで何かを言うのは野暮であり、何よりもまだ山場を越えただけで事件が解決したわけではないのだ。

 

 それを理解している左之助も弥彦も、ことさらに彼に何かを言う事は出来なかった。

 

「ここか、御頭!!」

 

「助けに来やしたぜッッ!」

 

 背後で聞き覚えのあるだみ声が二つ聞こえてきたが、それらは知った事ではなかった。

 

「……もう終わっているぞ」

 

「ナニィッッ!?」

 

「んな阿呆な!?」

 

 弥彦があきれ顔で後ろを振り返っていたが、どこかで見た極端に対照的な二人組が現れて、彼をして何を言う事も出来ない程の間抜け面が空気をしらじらしいものに変えていた。それを振り切るように足を速める。

 

「おい、ここか!?」 

 

「おそらくは……中から人の気配がするでござる」

 

 がちゃがちゃとそれらしい部屋にたどり着いた途端にドアノブをガチャガチャとひねくり回す弥彦だが、まあ、当然ながら鍵が掛かっている。

 

 もちろん開く訳がないのでさてどうするか、と剣心が考えていると……彼よりもよほど短気な二人が問答無用で蹴り飛ばした。

 

 ぎょっとして目を丸くする剣心だったが、彼らの背中の間……主に弥彦の小さな背中の向こう側にどうやら無事であるらしい恵が身をすくませて立っており、彼女と目が合った。

 

 共に鏡写しのように目を丸くしているのがおかしかった。

 

「さ、左之助……弥彦君……」

 

「うっし、伏兵の類はいねぇな」 

 

「むしろそのぐらい用意しておけってんだ。片手落ちだねぇ」

 

 驚きに身をすくませている恵をよそに、二人の押し込み強盗は狭苦しい部屋を見回している。敵地においては正しい対応であるが、放置されている恵がおろおろとしているのが気の毒ではある。

 

「待たせたでござるな。恵殿」

 

「剣さん……」 

 

 そこでようやく彼女はホッとした顔をして肩の力を抜いた。子供の弥彦と自分に隔意ある左之助よりも、お人好しの剣客である剣心の方が安心できるには決まっている。

 

 だが、剣心の胸板を見て顔が青ざめた。回天剣舞の太刀傷を見つけたのだ。

 

 虎か獅子にでも爪痕を刻まれたような傷は、血塗れの衣服に多少隠されていようとも医術に通じた彼女を青ざめさせるには足りる深さがある。

 

「その、傷……」

 

「ああ、多少手こずってしまったでござる」

 

 胸の傷だけではない。パッと見ただけでも頭から血を流し、あちこちに殴打の痕もある。それを多少と言い切った。

 

「それよりも恵殿に怪我無くてよかったでござるよ」

 

 そう言って優しく微笑むなど、およそ出来た人物だの器が大きいだのと言う言葉で済む話ではなかった。ある日突然こんな危険な事件に巻き込んで、挙句に自分から姿を晦ませた女を助けに来る。散々な目に合ったにも拘らず恨み言さえ言わずに笑いかけてくるなどそんじょそこらの男ではありえない。

 

 恵の態度も様々に問題があったが、客観的に考えて彼女は疫病神としか言えないはずだ。

 

 それを、彼女自身が深く自覚していた。

 

 左之助のように舌打ち程度ならばまだ優しい方だろう。弥彦のように笑いかけてくる事など望外と言える程だ。

 

「……ごめんなさいね」

 

 剣心達はそれを全く自覚していなかった。だから、素人女の動きにさえ対応が遅れてしまったのだ。

 

「勝手に騒動に巻き込んで、こんな危険な目に合わせて、怪我を負わせて……」

 

 彼女にも良心や羞恥心は当然ある。

 

 ただ、それ以上に生き残りたいと言う願望と目的があった。理不尽に出会い、それで心が折れていた……どんな真似をしたとしても、誰を傷つけても、自分が理不尽を振りまく側に回っても仕方がないと思うようになっていた。

 

「だけど、安心して……」

 

 それが神谷道場の日々で癒された。だからこそ、彼女は自分の行いを恥じた。あるいは、観柳にあれやこれやと言われるまでもなく。

 

「災いの種は……今すぐ消えるから」

 

「!」

 

「恵殿!」

 

 恵は目を閉じながら、抜いた短刀を手首に突き付けた。刃が白い腕に浅く食い込んで小さな傷を作る姿を見て、彼女は嫌悪感に襲われた。

 

 この手は綺麗だ。

 

 多くの人を狂わせ、時には苦しめた上での死をもたらした腕であるのに、傷一つない。

 

 それが酷く汚らわしかった。かつては女として誇らしかったし、この腕に刻み込んだ技術が誇らしかったはずなのに、一体どうしてこうなったのだろうか。

 

 決まっている。全ては自分の人を見る目のなさと、そして悪事と暴力を拒み切れない弱さ故だ。

 

「阿片の密造人なんて落ちるところまで落ちて……それでも生き別れた家族に会いたいからなんて、浅ましく希望を抱いて……あいつの言う通り、一体どんな顔で皆に会おうっていうのか……未練がましいにも程があるわよね。でも、最後の最後にあなた達に会えてよかったわ」

 

 昨日までは、できなかった。けれども今ならできる。

 

 いいや、今しかできない。きっと自分に死んでもいい覚悟……死ぬべきと決めた潔さなんて、今この時を置いて他にはないだろう。

 

「待て!」

 

 ああ、止めてくれている……自分のような女が死ぬのであれば、それは喝采で彩られている慶事のはずなのに……惜しまれているようで、それが嬉しい。

 

「ありがとう」 

 

 思わず礼が口から出てくる。本当に頭が下がる思いだった……だからこそ、自分はこの白刃を横に引かなければならない。

 

 手に、肉を切る手応えが伝わってきた。そして手と顔に熱い血が飛び散ってくる。

 

「……え?」

 

 だが、痛みがない。更には短刀が動かない。

 

 閉じていた眼を開けると、彼女の前には悪一文字が立って彼女の短刀を握りしめている。飛び散った血は、左之助の物だ。

 

「てんめぇ……ガキの前で見せつけるように自決しようとか、ふざけんなよ! 大体剣心も弥彦もお前を助けるためにこんな所に乗り込んで来たってェのに、わざわざ目の前で台無しにするつもりか!?」

 

 そのまま力任せにむしり取る。非常に危険な行為だが、頭に血が上っているのかさらりとやってしまった。幸い恵がされるままに短刀を手放したおかげで問題ないが、事と次第によっては指に障害が残ってもおかしくはない。本人は全く自覚がないようだが、医学の知識を持っている恵としてはなんて無茶をするのかと愕然とするほどの暴挙である。

 

「ったく!」 

 

 思わずへたり込んだ恵は、その勢いに押されるように瞳から涙を流した。ぽろぽろと零れるそれは彼女にとって決して流してはならないものだったが、どうしても止まらなかった。

 

 情けない。

 

 そんな権利は自分にはないと百々承知だと言うのに、情けない事に彼女の瞳は次から次へと涙をこぼし続けている。

 

「だって……しょうがないじゃないの。私の作った阿片で今も苦しんでいる人が大勢いるのよ。なのに“無理矢理造らされました”なんて言い訳の一つで、今更自分だけ罪から逃れて甘い幸せを手に入れようなんて……」

 

「…………」

 

 恵の涙に剣心は語る言葉を持たなかった。

 

 剣心が口にした言葉は、正に彼女が口にした言葉そのものだ。だが……それは彼女にとって苦痛であるのだ。

 

「ふざけんじゃねぇ! だから死んで終わりにしようなんざ考えがあめぇンだよ! お前が償いに何をしなけりゃならないのか、どうすればけじめがつけられるのか! そいつを決めるのは剣心でもなけりゃ俺でもねぇ! ましてや阿片を作って散々中毒者を作ったお前なんかじゃねぇ! 肝心な相手を忘れてんのか!」

 

 そんな彼女に対して、左之助は涙も吹き飛ぶような一喝をしてしまった。

 

 これには剣心も弥彦も度肝を抜かれる。ここで恵を怒鳴りつけるなどと言う展開を二人は想像もしていなかったからだ。だが左之助はそんな外野の事など知った事ではないと怒りに任せて叫び続ける。

 

「お前の生き死にも償いも、決めていいのはお前の阿片で狂っちまった奴や、その身内だけなんだよ! 当たり前の話だろうが! そいつらに償いも詫びもせずに、それどころか会いもしねぇでさっさとあの世に逃げ込もうなんざ、この俺が許さねぇ!」

 

 結局この女は自分しか見ていないのだ、と左之助は強く苛立ちを感じた。自分の中にある怒りをうまく言葉にできないせいでそこに拍車がかかるが、それでも言葉を重ねずにいられなかった。

 

「お前が何をしたのか、お前が作った阿片がどれだけの地獄を作ったのか、そいつをきっちり見据えて、死ぬなら恨みつらみの手でせめての気晴らしに殺されて死ねッッ! こんな短刀で綺麗に死のうなんざおこがましいんだよ!」

 

 恵は頭が真っ白になった顔をしていた。正直、左之助の言葉がどこまで頭に届いているのかも疑わしい。それは弥彦も剣心も同様だった。

 

 あまりにも予想外すぎる流れに何をどう言っていいのかわからなかったのである。思いつめて自決しようとまでしている女に口にするには酷な話ではあるが、同時に間違いなく一理ある話でもあった。

 

 彼が口にしているのは、乱暴な口調のせいで間違われそうだがいたって真っ当な話として筋が通っている。

 

「って、おい左之助! てめぇ言うに事欠いてなんて事を言ってんだ! それが死のうとまでしている女に男が言うセリフか!?」

 

「やかましい!」

 

 弥彦が少年としての義侠心から左之助の悪一文字に向かって怒鳴りつけるが、左之助も弥彦相手だからと加減する気遣いもなく強烈な眼光を振り返りざまに浴びせる。強烈な怒りがこもっているそれに弥彦が全く怯まないのは大した度胸だが、それだけだった。彼の目にも言葉にも、喧嘩屋の怒りを抑える力はなかった。

 

 そして、こんな時に黙っているはずがない剣心は何も言わなかった。それは何も言えなかったのかもしれない。ここに来る直前の口論を思い返して、左之助にも恵にもかける言葉は見つからなかった。

 

 そんな彼らの逡巡と葛藤を切り裂いたのは、甲高い笛の音だった。

 

 すわ、観柳の手下が騰勢を立て直したのかと思わず窓に飛びついた一同が見下ろした先にいるのは、巣穴から追い出された蟻のようにあちこちで無作為に走り回る破落戸たちと、その三倍以上の数で少しはましな統率の元で駆けまわる警官たちだった。

 

 夜も深いと言うのに殊更に高い音をたてている笛は観柳の手下ではなく、違う組織に属している人物らだったのだ。

 

「警官隊か! 今頃まあのこのこと……」 

 

「そりゃあこれだけ大騒ぎしていれば街外れでも人は来るか! 早くずらからねーと!」

 

 普通に考えて、剣心達は不法侵入の狼藉者である。どう考えてもお縄になるのは必然。さすがにそれを理解しないおめでたい頭をした馬鹿はその場に一人もいなかった。

 

「ちっ……おら、行くぞ!」 

 

 舌打ちした左之助は一瞬ためらったようだが、恵の手を引いた。乱暴でためらいがちな動きが彼の内心を表していたが、ここで彼女を放置していくこともまたできない相談だったようだ。

 

 一体どういう結末になれば自分が納得できるのか、それが彼にもわからない……あの幕末の頃からこっち、肝心かなめの所では目指す道さえ見えてこないと自分自身のみっともない中途半端さに苛立ちを感じていた。

 

「って、おい!」 

 

 左之助の手は恵に振り解かれた。思わずイラつきを声に出したが、ちょっと間をおいて考えると簡単に思いつく。自分たちの関係を顧みれば怯えて手を振りほどくくらいは当たり前だ。剣心辺りが促せばすぐに動くだろう……そう考えていた左之助だったが、恵の顔が少々驚くほどに毅然として引き締まっているのを見た。

 

「……剣さん。これをどうぞ」

 

 彼女が差し出したのは、梅の花飾りが彫り込まれている平たい薬入れだった。

 

「家伝の血止め薬です。胸の深手をこれで応急処置して、早く医者へ……天井裏に観柳の用意した隠し通路があります。そこを通れば警官隊に出会わずに脱出できますから……」

 

 そこで微笑んだ彼女の顔は、なんだろうか……剣心には菩薩の様な童女のような、なんとも言い難い笑顔だった。

 

「お世話になりました」

 

 三人の間をすり抜けて、彼女は部屋を出ていこうとする。その背中に、剣心は静かに声をかけた。

 

「阿片の密売は死刑……それは承知の上でござるか。恵殿」

 

 剣心はどうしようもなく残酷な事を口にした。だがここで行ってしまえば、それは間違いなく現実となる。

 

 恵は振り向かなかった。それが振り返る事が出来ないからだとその場にいる三人の誰もがわかっている。

 

肩が震えていたからだ。

 

 しかし気丈でありたいと言う彼女の意思が振り向いて剣心にすがりたくなる弱さを何とかとどめた。

 

「ええ……でも私の作った阿片のせいで左之助の友人さんのように死人まで出ているんです。私だけが逃げるわけには……いきません」

 

 彼女の声が震えていた。それはここから言葉という形にしてしまうのが恐ろしくてたまらないからだ。何をどう言おうとも、それはどうしようもない程に恐ろしいものだ。

 

「人殺しの罪は……死罪を持って償います」

 

 そう口にした彼女に、男達三人……弥彦は彼女の抱いた死に挑む覚悟に圧倒されてしまい、剣心と左之助はそれぞれの葛藤から何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 恵が部屋から出ると、眼下では既に大捕り物が始まっていた。

 

 既に東京の住人にも馴染み深くなった制服警官たちがあちこちの扉から一斉に大きなホールに入ってきているのが見える。倒れ伏したままの観柳と傍にある機関銃にどよめき、怯みながらも撃たれてたまるかと一斉に観柳に襲い掛かっていた。

 

 もう既に腕も心も圧し折られていた観柳は情けなく悲鳴を上げていたのだが痛みに逃げる事も出来ずに大人しく捕まっている……とは言っても、圧し折られた腕を縛られていたおかげで相当に喚き散らしていたが、その内痛みに耐えかねたのか静かになった。

 

 どうやら警官一同、機関銃に相当怯えているらしく所有者(らしい)などという危険人物の腕が折れていようが足が折れていようが気に留めるようなつもりはないらしい。

 

 おそらく、彼女からは見えない所で私兵団も捕らえられているのだろう。

 

「署長! ありました、阿片です! 地下に隠し倉庫がありました!」

 

 警官の一人が、恵も所持していた阿片の包みを掲げている。署長……おそらく警察署長当人もいるのだろう。随分と大々的な捜査……わかっていても手が出せない相手となっていた武田観柳だが、何がきっかけなのか、ついに決着をつける気になったらしい。

 

「よし、押収だ」

 

「大密売団だ! 一人も逃がすなよ!」

 

 適当にお茶を濁すわけではないというのは、首魁を真っ先に縛り上げている点でも間違いないだろう。

 

 剣心達の殴り込みがきっかけだろうが、もしかしたら元々機会を待っていたのではなかろうか。恵が脱走したのも、もしかしたら元々ばれていたのかもしれない……いや、彼女を確保しようとしていない時点でそれはないか。

 

「……君は?」

 

 そんな事を考えながら階段を下りていた恵を、髭と眼鏡の男が見つけた。さきほど、署長と呼ばれていたのは彼であったような気がする。

 

「そ、その女だあぁっ!」

 

 大人しく、痛みに気を失ったのかと思っていた観柳が大声を上げて叫びだした。目が血走り、頭がどうにかなってしまったかと思うような有様だ。

 

「その女が新型阿片の密造人! 私の片棒を担いだ女だよ!」

 

 大人しくしろと取り押さえている警官達が苦労するような勢いは、まるで痛みを忘れたかのようだ。

 

「言い訳はなしだぜ、恵! 何をどう言いつくろおうともお前が阿片を作ったのは事実だ! 地獄の底までてめぇも道連れだ!」

 

 ご立派な高級品で固めている余裕たっぷりの男だったが、浅ましさの権化となった今となっては青年実業家などと言われている姿はとうにない。恵は、こんな男に今まで翻弄されて怯えていたのかと自分自身が情けなくなった。

 

 そんな男を静かに見つめた後、警察署長であるらしい男は静かに恵に問いかけた。

 

「……本当かね」

 

 この言葉に答えれば、自分の人生が終わる。それを痛い程理解して、口が嘘をつこうとする。あるいは、黙りこもうとする。

 

 適当な言い訳などいくらでも思いつく。だが、それで騙せる程警察も甘くはないだろうし、何よりもそんな真似はもうできなかった……できないはずだ。

 

 この期に及んでも逃げ出したくなる足に、嘘をつこうとする口に絶望する。本当に、なんて浅ましい女なのか。先ほど観柳を情けないと思っていた癖に自分も結局は同類だ。

 

 道連れと言うのは、本当に相応しいようだ。

 

「……は」

 

「いいえでござるよ」

 

 後ろから、誰かが彼女の口を塞いだ。彼女の言葉を遮って続いた声を聴けば、誰が手の主かはすぐにわかる。

 

「け、剣さん」

 

 恵はそう言ったつもりだが、口を塞がれていたので何が何やらわからなくなっている。なんにせよ憎からず思っている男にこんな真似をされて、先ほどまでの覚悟が消えてしまう勢いで顔が赤くなった。

 

「緋村さん!?」

 

 降って湧いたような剣心に驚いた署長の知った顔という反応だった。それも“さん”付けである。

 

「こちらの女性は優秀な医者の卵でござってな。そこの武田観柳に阿片づくりの為付け狙われていたのでござるよ」

 

 殊更ににこにこと……あるいはしゃあしゃあとしている剣心は一応、嘘はついていない。問題なのは、既に脅しに屈して阿片づくりに加担していた実行犯になってしまっている事だ。

 

「な……フカシこいてんじゃねぇぞ、抜刀斎! そいつぁ……」

 

「貴様は黙っていろ」

 

 血相を変えて食って掛かった観柳だったが、剣心の異名そのものの眼光に射抜かれて、腕の痛みを思い出したのか青ざめて黙りこんだ。そんな観柳の悲鳴じみた必死の叫びの中に出てきた名詞を、恵は聞き逃してはいなかった。

 

 抜刀斎。

 

 彼女も名前だけは知っている。幕末最強とも言われる維新志士……あまりにも多く人を殺してきた故についたあだ名が人斬り抜刀斎。

 

 噂だけの存在ではないのかとも思えた男が、今も後ろにいるお人好しの剣客だと言うのか。

 

 到底信じられたものではない、ないのだが……緋村剣心は否定せず、武田観柳もそんな与太を飛ばす意味がない。

 

「そうでござるよな、弥彦」

 

「あん? おうよ! この東京府士族、明神弥彦! 間違っても阿片密造人なんかの為に剣を振るったりはしねぇって!」

 

 確かに、今晩の彼は剣を振るっていないので間違ってはいない。

 

「な? 左之」

 

「……知らねぇよ。俺はただ喧嘩をしていただけだ」

 

 そう言った左之助の顔はどこか寒々としていた。その顔で見下ろされた剣心は、何かを踏み間違えた一歩を進んでしまった気がした。

 

「……やっぱ、おめぇも“維新志士様”だったな」

 

 ふう、とため息をついた彼は三人をおいて前に足を踏み出す。

 

「左之……」

 

「“真実は歪め、都合の悪い事は人に押し付けて正義面をする”……まあ、あの野郎は確か悪党だけどな……」

 

 悪一文字は彼が今どんな顔をしているのかを、決して語らなかった。

 

「あばよ……“抜刀斎”」

 

 左之助当人もまた、自分の中の様々な心を飲み込み切れていなかった。

 

 恵の境遇に同情しないでもない。

 

 細腕の女一人、それまで師匠のような立場だった医師にも騙されて暴力と恐怖で縛られて、悪事に手を染めさせられていた……なるほど、不幸な事だ。

 

 だが、不幸な女だからと言って……不幸を生み出していい理屈があるのか? それをなかった事にしていいのか? 水に流す権利がは誰にある?

 

 剣心はそれを良しとした。少なくとも左之助にはそう思えた。

 

 彼は、それを飲み込めない。

 

「……よお、ヒゲメガネのおっさん」

 

「誰がヒゲメガネか!? こら、遺留品を勝手に持っていくな!」

 

「こりゃあ俺のだよ。壊れちまったが供養くらいしてやりてぇんだ。嘴挟むねぇ」

 

 砕け散った斬馬刀を拾いながら、左之助は適当な綽名を勝手につけた署長に一つ忠告した。

 

「それよりもここにおかしな連中がいただろ? 三人組の」

 

「三人組?」

 

「そいつら、雇われモンの中でも別格だから迂闊に手を出したら皆殺しにされっぞ。怪我人だからって逮捕なんざ諦めた方が身の為だ」

 

「……誰の事かね」

 

 警官として見過ごせない上に、いささかならず沽券にかかわる事を抜かす若造のセリフだが、追求する前に血相を変えた剣心から声がかかった。

 

「ここに三人組の男がいたはずでござる! いや、もしや五人組であったかもしれんが……元隠密御庭番衆の手練れが!」

 

「お、隠密? いいえ、我々がこのダンスホールに突入した際にいたのは武田観柳一名のみ。他には誰も……」

 

「蒼紫が……消えた!?」

 

 一同は揃って血相を変えた。

 

 実力を五体で思い知っている剣心達は元より、警察としても真偽の確認はできていないにしても隠密御庭番衆などと言う看板を背負った戦闘技能者を三人だか五人だかも見失うわけにはいかない。

 

「窓はねぇ……って事は下の出入り口から出たはず……本当にいなかったのかよ、ヒゲメガネ! あんな特徴的で忍んでねぇ奴ら、見落とせるもんじゃねぇぞ!」 

 

「だから誰がヒゲメガネだ!? ここの出入り口はごらんの通りに固めている! 外も同様だ。誰にも気が付かれずに脱出など出来るものではない!」

 

 確かに周囲は警察署が空になったのではないのかと心配になるほどの人員でごった返している。ここを抜け出すのは隠密とは言え並大抵ではない。

 

 ましてや複数、更には足を撃たれた蒼紫を抱えているのだ。いくら蒼紫の実力が抜きんでているとは言っても腕ならともかく足を撃たれたのだから逃亡は非常に困難だ。

 

「……じゃあ本当に隠密らしく、煙みたいに消えたのかよ……」

 

 そういう弥彦の頭をよぎっているのは、巻物を口に咥えた黒装束が印を結んで足元から煙に覆われようとしている姿だが……火を噴くような滅茶苦茶な輩がいるとしても、いくら何でもそんな事はできないはずだ。

 

「てめぇは見ているはずだろうが、阿片野郎! ちゃきちゃき吐きやがれ!」

 

「どひいいぃぃっ!?」

 

 怪我人に対する配慮なんぞ一かけらもねぇと背中で語る左之助に胸ぐらをつかまれて揺すられている観柳が悲鳴を上げている間に、剣心が一つ思いついた。

 

「……いや、今しがた恵殿が教えてくれた。出入口は他にもう一つある!」

 

「あ! 観柳が用意していた隠し通路! 剣さんたちが私の所に来てから警官が突入するまでのわずかの間に、天井裏の隠し通路から逃げ出したんだわ!」 

 

 なるほど、至極真っ当な話だ。仮にも隠密、しかも護衛の御庭番衆と来ては侵入、或いは脱出の為に建物の構造を把握しておくのは至極当然だ。観柳がどこまで教えていたのかは疑問だが、おそらく独自にきっちり掌握している事だろう。

 

「通路の出口は!」

 

「天井裏から壁の中を通って、裏の林に出入り口があります! 案内します!」

 

 恵に案内された一同が警官隊と共に走り出す。左之助もこの危急の時にあれこれ野暮を言う気はないようで、一緒に走り出していた。

 

 本来であれば恵の足に合わせるのであれば遅々とした進みにじれったくも思った所だろうが、今は揃って満身創痍。歯がゆい思いをしたのはむしろ警官隊の方で、剣心達は恵の足に合わせて走るのが手一杯と言う有様だった。

 

 その遅さが同様に傷だらけの蒼紫たちを救ったのかもしれない。

 

「やっぱり……」 

 

「ここから逃げたのは間違いないみたいでござるな」

 

 一同が案内の元にたどり着いた先には、隠し蓋が開けっ放しになって放置されている通路口がどこか寒々とした顔を覗かせている。恵の推測が当たっていたのは剣心の言う通り明白だった。

 

「……しっかし、よくこんなせまっ苦しいところをひょっとこが通れたな。下手すりゃ式尉でさえ肩が閊えそうじゃねぇか」

 

 砕かれた斬馬刀を持ちづらそうに抱えた左之助がまじまじと出入り口の幅を見て、そんな事を言う。確かに縦横のどちらもかなり小さく、おそらく屋敷の主の幅に合わせたのだろうが常人離れした巨体の火吹き男など通れるかどうかは疑問だ。

 

「……あいつだけ置いておくとは思えねぇし、確かあのどでかい野郎の声が後ろから聞こえてきたから、間違いなくいたよな……まあ、いいか」

 

 左之助にしてみれば彼らとの決着はついたのだから、あまりこだわる事もなかった。困るのはおっとり刀でやってきた警官たちの方である。

 

 周囲の警戒、捜索にと所長が矢継ぎ早に指示を出して末端の警官たちが四方八方蜘蛛の子を散らすように駆けだしていく足音に混ざり……奇妙に響く音がした。

 

「!」

 

 それに真っ先に感づいたのは、さすがの緋村剣心である。

 

 彼が勢いよく首を巡らした先には屋敷の高い塀があり、その上に蒼紫と般若、式尉、ついでに狭い抜け穴でも広そうな小さいのも並んで、どうやってあの路を通り抜けたのかさっぱりわからない大きいのが壁の下に立っている。面白いのは壁の下に立っている大きいのと壁の上に立っている小さいのの頭の高さが遠目には同じに見える事だが、それを笑えるような心境の持ち主は今この場にはいなかった。

 

「蒼紫……」

 

 彼はこれ以上肩を貸される事を良しとしないようで、傷ついた足をそのままにしっかりと仁王立ちしている。その左右を固める二人の隠密達も含めて、気概が齎す威圧感は異様さのせいもあり空気を重たくさせているほどだ。警官たちがその重みに心臓を縮みこまされて、不審人物の発見にも拘らず誰も動く事が出来ずにいた。

 

「何をしている! 呑まれるな! 早急に捉え」

 

「やめとけって。お前らが束になっても殺されるしかねぇから」

 

 駆け付けた警官全てが格負けしてしまったのは理解しているが、それでも職務に忠実であれと檄を飛ばした署長を裏社会の破落戸が抑える。抑えた際に少々首がこきりとなったかもしれないが、まあ、些細な事だ。

 

「喧嘩屋か」 

 

 自分の声をかけてくるとは思っていなかったので驚いたが、おそらく既に剣心とは話すべきことは全部話したのだろうと察する。ついでに言えば、敗者が勝者にかける言葉など雪辱の誓い以外にあるはずもない。

 

「お前の師匠が、まさかあの京都の鬼とは思ってもみなかった」

 

「そっちの鬼面から聞いたのかい。なんなら今度、橋の上での結着でもつけるか?」

 

 安い挑発ににこりともせず徹頭徹尾、表情を動かす筋肉の一本も残らず凍りついているような有様だが……彼はそれにうなずいてみせた。

 

「いいだろう、いずれまた抜刀際に挑む為には……お前も俺の強さの糧とさせてもらう」

 

「やってみな。こっちにだって強くならなけりゃならねぇ理由があるんだ。大歓迎だぜ」

 

 左之助の側から熱い何かが、蒼紫の側からは冷たい何かが空気を染め上げて軋ませる。それに恵や警官隊が息苦しそうに眉をしかめていた。

 

「お前に聞きたい事がある」

 

「あん?」

 

「……お前の師はどこで何をしている。あの最強とも災厄とも呼ばれた男は維新からの十年、妖のようにさえ思われているほど噂も聞かなかった……どこで何をして生きていたのだ」 

 

 蒼紫にしてみれば顔も名前も知らない実在さえも怪しい男だったが、だからこそ興味があった。強さという物を極めてわかりやすくも理不尽な形で証明してきた男が実在していたのだ。彼は今この時であっても、知りたくなったのだ。弟子は弟子で、ろくに情報もなく半ば妖怪扱いされる程に実在を危ぶまれている癖にあちこちの強者に影響を与える師匠のあくの強さに呆れていた。

 

「異国にいるぜ。世界を股にかけて戦って……いんや、暴れているってよ。近々帰るなんて手紙が来たから、興味があったら探してみな」

 

「……世界」

 

 世界と言う名詞は当時の日本においては魅惑的であり、それ以上に聞きなれない物でもあった。

 

 世界。

 

 世界を股にかける。

 

 日本の迎えた新時代に十年間も失望を抱えていた彼は、世界は新天地足りうるのかと期待を抱かずにはいられなかった。

 

「世界か……貴様を倒し、抜刀斎を倒し……あるいは幕末の鬼も相手取って、勝ち残れば……海の彼方に生きがいを見出すのも悪くはない」

 

 今この瞬間、どこかの我がまま娘の目標達成難易度が極端に跳ねあがった。

 

 いらねぇ事を言いやがってと八つ当たりなのかそうでないのかよくわからない恨みを買うのは、当然どこぞの悪一文字である。彼が苦無の的にされるまで、決して長い時間は必要ではなかった。

 

「……人斬り抜刀斎」

 

「…………」

 

 御庭番衆に完全に呑まれていた警官たちの目が、一斉に小柄な赤毛の男に注がれる。人斬り抜刀斎と呼んだ男の眼が向いた先を確認せずにはいられなかったのだ。

 

 彼らもまた、当然のように伝説の向こう側に消えた維新志士の名前を聞いた事があった。

 

 この十字傷の男がそれだと言うのか? ……そう言えば、剣客警官隊が街で難癖をつけた十字傷の男に軒並み打ち倒されたと言う噂があった。

 

 その噂の直後、隊が解散されて組織が引き締められたことを踏まえれば、ただの噂ではないと署員一同察してはいたが……よもやまさか、伝説の向こう側から現れたのがこの優男だと言うのか。

 

「いずれ俺はお前の前に必ず立つ。今一度、最強の四文字を手に入れる為に……それが終われば……こいつらと新天地を目指して生きてみようか」

 

 冷徹で、氷のようで……しかしそれだけではない表情をした男が三日月を背負っていた。

 

「生きる道が見えたのであれば、その光明に従ってほしい物でござるがな」

 

「未練を残したままに旅立つつもりはない」 

 

「うあ……お嬢が哀れな……」

 

「……暗に未練ではないと言われてしまったな」 

 

 向こうでぼそぼそと般若、式尉が呟きながら顔を見合わせているが剣心達の所にまでは全く聞こえなかった。

 

「いずれ、近いうちにまた挑む。その時まで……誰にも殺されるな」

 

 その言葉を最後に、隠密達は面目躍如と言わんばかりの見事さで音もたてずに壁向こうの闇の中へと消えていった。

 

「……何をしている! 追え! 追わんか!」 

 

 警察署長が責務の為に金切り声を上げると、場の空気を読んだのか呑まれたのか固まっていた警官一同が一斉に走り出すが、剣心は蒼紫たちなら誰一人とて捕まらないと確信し、そして安堵していた。あれでは追い付く事さえできず、無駄な死人は出るまい。

 

「……大丈夫かよ、剣心」

 

「大丈夫でござるよ。拙者を狙っている内には蒼紫達も悪事に手を貸したりはするまい」

 

 先の戦いの全てを目の当たりにしていた弥彦が、未だ血のにじみ続ける剣心の胸を見ながら心配する。頬には一筋の汗が垂れていたが、そんな弥彦に剣心自身は静かに笑ってみせた。

 

「そういう事じゃなくてだな!」

 

「そうです! あれじゃあ剣さんが!」

 

 金切り声に近い悲鳴を上げる恵も加わったが、剣心の表情は変わらなかった。弥彦や恵の言いたい事が伝わっていないわけでもあるまいに、こんな事を言う。

 

「大丈夫。大丈夫でござるよ」

 

 ただ繰り返している男は事件が終わった事を確信しているのか笑みを浮かべ、少年と女がどれほど危機感を口にしても笑みは崩れない。

 

 自分への危機を度外視しているようにさえ見えて少年たちは頼もしさよりも歯がゆさを感じるが、それは剣心が強いからなのか、それ以外の自分をないがしろにするような理由があるのか。

 

 いずれにしろ、それ以上は剣心も何も言わずに話はそこで終わらせようとしている。弥彦にしても恵にしても、それ以上は踏むこむような華麗な弁舌など持ち合わせてはいなかった。

 

「それよりも、今度こそ帰るでござるよ……本当に」

 

「……」

 

 緋村剣心という男は、一見人当たりがいいながらも……どこかの一線で頑なに強固な壁を作る所がある。恵、そして幼いながら弥彦もまた漠然としたところではあるがそれを感じ取った。

 

 同時に、ふざけるなと言う負けん気を弥彦は彼らしく発揮する。

 

「ったく、次は今度みたいな辛勝じゃなくてすぱっと勝っちまえよな! 見ていて冷や冷やしたぜ」 

 

「ははは……そううまくいけばいいでござるがな。おそらく蒼紫も相当に鍛錬を積んでから来ることは必然。そうなれば、果たして次はどうなるか……」

 

「もうちっと強気になれよ! 今大丈夫って言ったばかりだろうが!」

 

 そんな枠などぶっ壊してやる。水臭いんだよ! 弥彦は当たり前にそう考えた。

 

「……ったく。あれだけ強いってのに、どうしてそんなに切れの悪い事ばっかり言うんだよ。ちったぁ威勢のいいことも言ってみせろってんだ。なあ、左之助」

 

 生意気の見本に応える声はなかった。

 

「あ、あれ? 左之助、おい! どこ行った!?」

 

 弥彦としてみれば、またしても溝が出来ているように見える二人のとりなしのつもりだった。いい大人が大概にしろとも思ったが、ここはこの弥彦様が面倒を見てやらねばなるまいと一肌脱ぐつもりだったのだ……その片方がいない。

 

「あ、あんなところに居やがった!」

 

 背中にでかい悪一文字を背負っているような男が夜の森の中だろうと目立たないはずはなく、ちょっと首を巡らせるとすぐに見つかる。

 

「おい、左之助! 一人でさっさと帰ろうとすんな!」

 

「…………」 

 

 仲間を置いてけぼりにしようとした薄情者の背中に少年の怒った声がかかるが、それを受けた悪一文字は止まらない。

 

「あばよ」

 

 斬馬刀の柄を持った手をそのまま上げて、それだけで彼は一人淡々とした足取りで一人さっさと森から町へと向かっていってしまった。あとに残されたのは三人と、右往左往している警官隊たちだけ。

 

 ……壊れた武器を持った奇妙な青年を警官達がちらちらと隠し見ていたが、署長と語り合っていた剣心と共にいるのを見ていたおかげで実際に彼を職質しようとする職務に熱心かつ不幸になる警官はいなかった。

 

「お、おい!」

 

「……左之」

 

 普段の左之助なら“じゃあな”と言う。でなければ“またな”か。

 

 不吉を感じる弥彦の声には振り向かなかった。そして剣心はただ小さな……左之助には届かない程度の声で名前を呼ぶ事しかできなかった。

 

「…………」

 

 その背中と彼らの距離が、自分のせいだと理解できない程に恵は愚鈍ではない。

 

「剣さん! あの……」

 

 彼女の言葉はそこで喉につかえた。

 

 何を口にすればいいのかはわかっている。だがそれを口にする勇気を彼女は失っていた。正確には、剣心が奪ってしまっていた。死ぬことを恐れず裁きを受けて償おうと言う勇気は彼女にとって一世一代だった。家族と会えなくとも、命を失おうとも、それでも良しとするだけの勇気をそうそう出せる程に彼女は強くない。

 

 そういう生き方を良しとするのは、死を美徳に変える頭のおかしい生き物……つまり侍だけだ。彼女は死を否定するために懸命に働く事を生きがいとする医師を目指す女である。

 

 そして、剣心が彼女の自首を止めた時、恵は内心で自分自身にさえ隠していた本心を初めて悟っていた。 

 

 口を塞がれた際に、それを振りほどくことなく受け入れたのはそれを期待していたからだ。本当のところは死にたくなくて、剣心に止めてほしかったのだ。死ぬことはないと、彼女にとって都合のいい言葉をかけてほしいと思っていたのだ。

 

 そうでなければ、どうして口を塞がれた程度で止まると言うのだ。何故止められた時に受け入れているのか。

 

 嬉しかったのだ。そして安心していたのだ。

 

 気のゆるみと共にそんな自分の弱さと醜さを自覚して、彼女は自分に絶望した。

 

 少なくとも、今の彼女に出せる勇気はない。今この時、それを口にするのは剣心達の心遣いを無にする行為なのだと言う名分が浮かび上がっては彼女の口にから一秒ごとに真実を警察に訴える力を奪っていく。既に、彼女から罰に服する勇気は失われていた。

 

「あの……」

 

 それ以上は何も言えない。

 

 自分の存在が彼らの間に罅を入れても、一人去っていく男の背中を見ていても何も言えなかった。

 

「……」 

 

 そして剣心もまた、何も言えずに悪一文字を見えなくなるまで見送った。

 

 恵を救った事に後悔はない。逆の場合こそ彼は後悔をしただろうと自覚している。しかし……それでも胸中の深いところで木枯らしが吹くのを止める事は出来なかった。

 

「……京都の……鬼」

 

 やがて剣心達一行が静かに帰路についたのを見送った署長が、何か胸に帰する物を抱いているのか表情を強張らせて森の隙間を埋め尽くす闇の一角に瞳を向けながら呟いた。

 

 彼の顔は、まるで闇の奥に怪談の妖怪が実在しているのを見つけた子供のような怯えがはっきりと表れていた。

 

 

 

 

 その後、数日間は平穏でありつつもどこか落ち着かない毎日が続いた。

 

 あれから左之助はほとんど毎日のように顔を出していた剣心との稽古もせずに一向に顔を見せる事がなかった。

 

 同じ町に住んでいながらも顔を合わせる事もなく、あの夜の永の別れと思えるような一幕が彼らの歯間に挟まるように残り続けて、その場にいなかった薫でさえも喉の奥に詰まっている鬱屈とした空気を吐き出せない。

 

 どうしてこうなったのか、と思えばどうにもできない。

 

 恵はそもそもの事の元凶であるが、彼女は暴力で強制されていたのだ。剣心を初めとして神谷道場の誰一人としてそれを責めたりはしない。

 

 基本的に彼らは善良であり温厚である。

 

 だが同時に、左之助の怒りを否定する事も出来なかった。

 

 出発前に起こした剣心との諍いの事を思い出せば、さすがにそれは憚られる。彼らは自覚なく軽視してしまったが、左之助にとって恵は友人の仇の一人に他ならないのは否定できない事実だったのだ。

 

 恵を取るか、左之助を取るか。そして彼らは弱い恵を取った。

 

 ……それは左之助の言うように、阿片に苦しんでいる被害者の無念を踏みつぶすような真似であったのか。しかし阿片に手を出すなどは悪事であり、結果として苦しむのも自業自得である。

 

 母が亡くなり、父が行方不明になって実質死亡してから小娘一人、苦労に苦労を重ねつつも真っ当でお天道様に恥じる事無く生きてきた薫にとっては正直なところ、そう思う。

 

 薫個人にとって、恵は剣心に粉をかけようとしているところもあって好ましくない女だ。

 

 だが懐に飛んできた窮鳥を、好き嫌いでどうこうする薫ではない。

 

 本当に、どうすればいいのか。答えの分からない難問だった。彼女は今回、ほとんど蚊帳の外であっただけになおさらそう思う。

 

「……今日は恵さんのハレの日だもんね。少し気持ちを切り替えないと嫌な終わりになっちゃうわ」

 

 薫はそう言って、道場の方へ目を向けた。道場主らしくひと汗流して鬱屈している気分も流してしまおうと思ったのだ。

 

 ついでに、先ほど素振りを二百本ほど言いつけておいた一人だけの弟子の様子も見ておこう。

 

「あれから剣心も弥彦も、すっきりしない顔をしているしね」

 

 着替える為に自室に足を向けた薫の背中を視線が静かに追っていた。

 

 仮にも一流を担う彼女に注視を気付かせないのは、相応の技量を持つ緋村剣心しかここにはいない。

 

「薫殿にはすっかり気をもませてしまったでござるな」

 

 もちろん申しわけないと思ってはいるが、剣心も不器用な男である。左之助のいう所もわかるが、彼も彼で譲れない所である以上は謝罪をするのは逆に不誠実であるし、どうしていいのか見当もつかずに流れに任せている。

 

 流浪人としてとかく人付き合いの浅い生き方を選んできた彼は、こじれた人間関係をどうこうするような気の利いた振る舞いが出来なかった。なるようになるし、そうでなければ仕方がない。

 

 そんな風に剣心は内心で完結していた。

 

「……ん? ああ、もうそんな時刻でござるか」

 

 しわがれた老人の訪問を告げる声が剣心の耳に届いた。

 

「本当に、お世話になりました」

 

 青空を背負った恵は、未だに壊れてから適当な修理しかされていない門の前で一同に向かい殊勝に頭を下げていた。

 

 彼女の後ろには神谷道場かかりつけの医師である老人がにこやかにして立っており、祖父と孫の構図にも見える。

 

「ごめんなさいね。うちも狭いし、これ以上食客を増やせなくて」

 

 彼女の家の広さで狭いと言われてしまえば、よその家からは大いに嫉妬を買うに違いない。行方不明の父は何者であるのか、なかなか結構な広さの家に道場付きである。世間は左之助が暮らしているような長屋が普通だ。だからかつてはどこぞの地上げ兄弟が辻斬り騒動まで起こして手に入れようとしたのである。

 

 よくも娘一人で維持できているものだ。

 

「いいえ、そんな。こちらこそ住み込みの働き口まで紹介してもらって……」

 

「いやあ、恵さんの様な助手ならいつでも大歓迎じゃよ」 

 

 赤ら顔でにたつくのは一体何を想像しているのやら、恵は多少身の危険を感じ、仲がいいとは言えない薫も心配になった程だ。近いうちに護身術の類を教えておくべきだろうとおせっかいを心に決める。

 

 これが後に近隣の若い女性への護身術講座となって道場を立て直すきっかけにもなるので、人生は常に塞翁が馬である。

 

「あの……剣さん」

 

「おろ?」

 

「左之助の事ですが……」

 

 恵はあれから剣心や弥彦の手当てをしている間も、薫に代わって家事の類を取り仕切っていても、あの喧嘩屋の話は出さなかった。だが、近所で暮らして繋がりが断たれる訳ではないとは言ってもここを出ていくとなればケジメをつけなければならない。

 

「恵殿が気にする事ではないでござるよ」

 

 そう言って剣心は笑う。

 

「…………」

 

 だが、それは果たして優しさだろうか。

 

 恵には、柔らかい壁が彼と自分の間にあるように思えてならない……薫と弥彦にはそうでもないのだろうか? 

 

 緋村剣心は、本当に彼らと気の置けない仲なのだろうか? 

 

 ……いや、これ以上は踏み込むまい。少なくともこれで縁が切れるわけではないのだから、これから彼等とどのように生きていくのか……そこからだろう。ただ、叶うならば償いのつもりでもないが彼らに恩を返したいと思う。

 

 償うのは、他の相手にだ。

 

「……これから、高荷の医術を本当に正しい道で使っていきます。そして……阿片密造の罪、官の裁きから逃げた罪、償えるものでもありませんが……せめてこの街の阿片中毒者となった多くの犠牲者の力になった上で……いつか、彼等の手に裁きは委ねようと思います」

 

「恵殿……」

 

「私の罪がどのように裁かれるべきであるのか……誰にその権利があるのか……それは観柳や左之助……あの男達の言った通りなのかもしれません。もはや何をしようと取り返しはつかず、私はただ私のせいで不幸になった多くの人々やその身内に裁かれるのが怖くて逃げている。白状すれば、今もそれは変わりません。私が日の下でただ笑っているだけでも彼らにとっては理不尽でしょうが……それでも怖くて、逃げ出し、隠し続けたままにここにいる……」

 

 自分を見下げるのは、自分を必死に救ってくれた彼らに対してあまりにも失礼だ。それは彼らの治療に当たって傷の深さを思い知るにつれてはっきりとわかった。彼らに救われたことを重く受け止めなければ彼女は秘かに懐剣で喉を突いていたかもしれないが、無償の善意からなる傷の深さはそのまま彼女を現世に食い止める重しになった。

 

 涙を流す権利はなく、悔やむ権利はもっとない。

 

 ただ、いつか現れる閻魔の前に立った時にどんな顔をしてどんな風に話すのか。それを考えて決めるだけの時間がほしかった。

 

 痛罵にも、痛みにも、そして恐怖にも耐えられるだけの覚悟を決められる強さが欲しい。

 

 覚悟を決める時間をもらえるような悠長さを、被害者一同誰も許してはくれないだろうが……それでも今すぐにそれを口にすることはできなかった。剣心や弥彦、警察署長の骨折りを無駄にはできないと言い訳そのものを必死に免罪符にしようとしている自分の浅ましさに反吐が出るが、それでも踏み出せない自分の弱さに涙も人知れず涸れ果てるほど流した。

 

「……」

 

「ごめんなさい、せっかく門出を見送りに来てくれたのに湿っぽくなってしまって」

 

 神谷道場の三人、ついでに鼻の下をみっともなく伸ばしていた老人も神妙な顔をして彼女を見つめる。彼ら四人の誰も、弥彦は元より薫、そして相応の経験を重ねてきた剣心も酸いも甘いも嚙み分けたはずの老爺も掛けられる言葉がなかった。

 

「それじゃあ、そろそろ行きます。今度の件も含めて、ケガや病気の際にはいつでも力になりますので……そんな機会がないのが一番なんですけどね」

 

「まあ、その時は頼りにさせてもらうでござるよ。弥彦は熱心に稽古をしているので自然と怪我もするでござろうから……」

 

「そんなへまはそうそうしねぇよ。でもまあ、もしもの時は頼むわ」

 

「真面目に剣を振っていれば、怪我はどうしても付き物よ。踏み込みだけで踵を痛めて歩けなくなることだってあるの。いざという時には頼みます……いくらおじいさんでも、男の人より女同士の方がやっぱり安心だし」

 

「儂はいつでも構わんぞ」

 

 気まずくなった空気を壊して、恵は張り付けたような無理な微笑みを浮かべて出発した。

 

 新たな人生への出発と言うにはほど遠い。だがそれが当然だった。

 

 彼女にとって、これは贖罪の為の第一歩なのだから……

 

 それからの彼女は、剣心達が聞くに実によく働いており献身的な程だとか。ただし、訪れる患者に対しては愛想がいい物の若い女としての華やかさはなく、変装の為に伊達の眼鏡をかけて髪は左右でおさげにしてと全体的に地味になっている。喪服のように黒を好んで纏い、その上から西洋的な白い上駆けを着てとこれまでとは別人のような姿だそうだ。

 

「剣心?」 

 

 縁側に腰を下ろし、今しがた干した洗濯物を見上げていた剣心に稽古着姿の薫が声をかける。

 

 薫の眼には、剣心が難しい顔をしてなんだか悩みを抱えているように見えて仕方がなかった。彼はあまりそう言った自分の鬱屈した部分を人に明かさない所がある。それは薫や弥彦を子ども扱いしているからなのか、それとも本人がそういう性格なのかは定かではない。

 

 どちらにしても薫にとっては面白くない話であるのは間違いない。

 

「なんだか、悩んでる?」

 

「……そう見えるでござるか」

 

「なんとなくね。やっぱり……左之助の事?」

 

 剣心が隠すに隠せない程に悩む事などここ最近では他に心当たりはないのだが、剣心はよく晴れた青空を眺めて口元だけ微笑んで否定した。

 

「いや……他の事でござる」

 

「え?」

 

「その根本と言うか……拙者と左之の考えの違い……どうしてあのような事になったのか……それを考えていた」

 

 それはやはり、薫が見た左之助最後の背中が語っていた事だろう。

 

「まさかあんな事になるとは思っていなかったわ…あの時の口論の事ね?」

 

「ああ……左之助の言っている事もわかる。だが、拙者はそれでも恵殿を悪党の仲間ではなく観柳の被害者の一人としか見えない。信じていた医師に騙され、その医師も目の前で殺され、力づくで愛する家伝の医術を否定する阿片づくりを強制された。それを思えば、どうしても彼女を責める気にはなれなんだ」

 

「そうね。結局は恵さんも周りの悪党に振り回された被害者だとは思う」

 

「だが、それは拙者の考え。阿片で苦しんだ身内も友人も持たない、見た事さえないからこそ言えるようなセリフに過ぎなかったのでござるな。左之の立場から……あるいは友人どころか身内であれば、拙者の考えは認め難い物であろうなと……それはそれで一つの事実であった」

 

 ならば、あの夜に左之助にぶつけた言葉は無神経であったのかもしれない。

 

「しかし、ではどうすればいいのかと考えると……結局は助けに行く以外は選べないのでござる。ならば、拙者たちの仲違いも仕方がないのかと諦めのようなものを感じてしまうのでござるよ」

 

「そういうのって、よくないわよ」

 

 薫にしてみると、仲を違えるのも縁が切れるのも仕方がないと言う剣心の浮草じみた考えだけは受け入れがたい。 

 

「仲たがいをそのままにしてどうするのよ。それじゃあ、いつか一人ぼっちになってしまうわ」

 

 説教臭い事を口にしている自覚はあったし、利いた風な事を言って嫌われたならばどうしようと言う怯えもある。だが、それ以上にこのままほっておくのはよくないとしか思えなかった。元々強く気にかけている剣心がここを出ていってしまうのではないのかという怖れが、今回の事件で大きくなった。

 

「ひとりぼっち、でござるか」

 

「そんな風になりたいわけじゃないでしょ」

 

 口に出してはそう言ったが、実のところ彼女はそう思っていなかった。剣心はおそらく、一人になっても誰かを助けるための戦いを続けるのだろうと確信を抱いている。

 

 それはそれで剣客としては一つの浪漫であるのかもしれないが、薫にはそんな生き方がいい物だとは思えなかった。剣心の卓抜した剣腕でなければあっさりと彼岸の彼方に旅立って然るべき生き方である。

 

 薫はそんな危なっかしい生き方をしてほしくはなかった。それが彼女の押し付けに過ぎず、薫には剣心の人生に嘴を挟むような権利はないのだが……

 

「……確かにそうでござるが、拙者もこの生き方を半端な覚悟で選んだつもりはござらん。自分なりの剣を振るい、そして一人になってしまったのであれば……あるいはそれも仕方がない」

 

「剣心!」

 

 薄情と言えば薄情極まるセリフに思わず食って掛かった。

 

 このままの剣心では、いずれ自分が置いていかれる。きっかけがあれば、いずれどこかへと一人去っていってしまう。薫が最も恐れているのはそれだった。以前、ちょうど今回の事件前にも弥彦には心配性だと呆れられたものだったが、やはり自分の懸念は的を射ていると確信する。

 

「左之助のいう事は確かに間違えてはいない。しかし、拙者も自分の道が間違えているとは思えない。では、一体どうすればいいのか……その答えが見つからず。十年もこの生き方を選び、日本中を旅して剣を振るってきたというのに……全くもって情けない事でござるよ」

 

「…………」

 

 薫には剣心と言う激動の時代を生き抜いてきた男の助けとなるような気の利いた言葉が思い浮かばなかった。それなりに苦労人ではあるが元々そう言う気質の少女ではなく、むしろ剣心達のように不器用な剣術小町である。

 

 こういう場合、恵であれば彼の力になるような励ましの言葉を出せたのかと多少ならず僻みをこめて器の小さい事を考えてしまい自己嫌悪を抱いた。

 

「だったらまず、話し合いなさい! 左之助と!」

 

 情けない事ばかり考えて自虐などしている場合ではない。これは、活人剣を志す自分にとっても命題と言えるはずだ。

 

 そう自分に活を入れた神谷薫師範代殿があれやこれやと頭から湯気を出しながら考えをまとめようと必死に知恵を絞りだす。雑巾の様な感じで脳みそを絞ってみるが、とどのつまりこれは彼だけはもちろんの事、彼女が加わってもどうにかなるような話ではない。

 

 当事者が二人揃って、腹を割って話しあってこそ初めて解決する問題だ。どう解決するかはわからないが、このまま一人で悩んでいてもろくな結論は出ない。

 

 そもそも、意見を違えればお互いに納得のいくまで話し合うのが当然の流れ。こんな所でうじうじと考え込んでいてもらちが明かないという物だ。

 

「二人でとことん膝を突き詰め合って、話し合って、それで納得いくまでとことん言葉を尽くすのがまず始めでしょう。それでどうにかならないような二人とは思えないわ」

 

「……実は昔、それで師匠相手に大喧嘩をした挙句に破門されたのでござるが…」

 

 この場合、師に問題があったのか弟子に問題があったのか。喧嘩両成敗で片づけていい物かどうか疑問が残る。

 

「だったら! 今度こそきちんと解決しなさいよ! 若く見えても、もういい齢なんでしょうが! 師匠と喧嘩したって維新前の今の私よりも子供だった頃でしょ!? それから全く成長していないって訳でもないでしょう!」

 

「おろ!?」

 

 なんというか、見たくもない現実を直視せざるを得ないような酷い事を言われてしまったが……まあ、言わんとしている事はわかりたくないものの分かってしまう剣心である。

 

 確かに、師匠と喧嘩別れしてからもはや十五年近くにもなろうか。そのまま同じ事を、しかも年下の左之助を相手に繰り返すと言うのはとても情けない事である。

 

……ここらで交友関係に対する姿勢を改めて考え直し、仕切りなおすべきなのかもしれない。そう考え、さて仕切りなおすと言ってもどうすればいいのやらと普段考えてもいなかった方面を改めて考えるが全く知恵が出てこない。

 

 そんな折、塀の向こう側を何やら騒々しい足音とがなり声で駆けてゆく複数の男達が現れた。

 

「な、何事?」

 

「どうやら警官のようでござるが……」

 

 二人思わず目を合わせると、壊れた塀の間から顔を覗かせてみる。だが、ちょうど曲がり角に消えていく制服の後ろ姿が見えるだけだった。

 

「……随分と物々しい様子だったわよね。物盗りかなんかかしら」 

 

「……少し気になるでござるな」

 

 またいつもの癖が出てきた剣心だったが、薫が困った顔をして腰の物を指さす。

 

「廃刀令違反者が顔を出したら、警官だって困ると思うわよ」

 

「むむ……」

 

 それを言われると弱い剣心であった。

 

 確かに、何やら事件だとしてもそこに自分が首を突っ込んでは逆に騒ぎを助長する可能性が高い。それで事態の解決が遠ざかってしまえば本末転倒である。

 

「……少し様子を見るべきでござるかな」

 

「気になるなら、私が見に行ってみようか?」

 

「いや、拙者もそうだが薫殿もまだ警官は少々苦手ではござらんかな」

 

 神谷活心流の名を騙った辻斬り騒ぎで、騙りを真に受けた警官たちのせいで神谷道場と警官の間柄は友好的とは言えない。その後も剣客警官隊とやらが剣心の廃刀令違反にかこつけて殺人を愉しもうとした際に巻き込まれた薫もリボンを斬られるなど、全くもって碌な目に合っていなかった。

 

「……署長さんは悪い人じゃないって事くらいわかったわよ」

 

 濡れ衣抜刀斎事件はともかく、剣客警官隊の際にはきちんと謝罪をしに来た警察署長である。まあ剣心自身の雷名と、その事件で再開した剣心の旧友が政府高官だからであるが……

 

「まあ、このくらいならいつもの事だし……そんなに気にする事でもないとは思うけどね」

 

「そうでござるかな……」

 

 確かに、少し威勢がいいだけなのかもしれない。言われてみればそんな気がしてきた剣心は、街に出た際にちょっと調べてみるか……程度の気持ちで済ませた。

 

 その翌日、街へと三人そろって買い出しと外食に出かけたところで一同目を丸くしてあんぐりと口を開ける羽目になるとは想像もしていなかった。

 

「………」

 

「……」

 

「…………」

 

 三人が間抜け面の見本市を広げているのは、とある街角に立てられた江戸の頃からあまり変わっていない立札の前であった。

 

 大工が作ったとは思えないような出来の札に貼られた安っぽい半紙には見覚えのある男の顔……なのかもしれない人相書きが書かれており、大きく名前も書かれていた。

 

「相楽左之助……って、何これーっ!」

 

「このトリ頭の間抜け面……もしかしなくても左之助の絵か!? 一体何をやったんだよ!? 喧嘩はいつもの事だろ! 食い逃げか!?」

 

「いやいや、いくらなんでも食い逃げで人相書きまでとは……それに、赤べこにはツケにしているときいているでござるよ」

 

 ちょっと距離を置いている間に何があったのか、三人揃って目の玉ひん剥かんばかりになりつつもどうにか落ち着きを取り戻して立札の字を読み上げる。

 

「おい、なんて書いてんだよ。あ、ひょっとしてお尋ね者じゃなくて尋ね人とか……無理か」

 

 ちなみに神谷道場に来るまではいろいろと生活環境に難があった弥彦にとっては、まだ難しい文章だった。

 

「間違いなくお尋ね者扱いで指名手配でござるな……だがどうにも曖昧でござる。何やら警察関連で無体を働いた……と書かれているでござるが、さて無体とは何をどうしたと言う話が全くない。もちろんこんな立札に事細かく書くものでもないし、捜査の状況は内密にするべきところも多いのであろうが……」

 

 いくら何でも曖昧に過ぎる。

 

 少なからずきな臭さを感じた剣心達が顔を見合わせて身を翻し、その場を去ってからどのくらい時間が過ぎただろうか。

 

 人通りの多い白昼の街中で、奇妙な現象が起こった。

 

 突然、通りが静かになったのだ。

 

 まるで人のいなくなった真夜中のようだが、お天道様は月の出番はまだまだ先だと東京を照らしている。そもそも、人は往来のそこら中に立っている。

 

 彼らは互いの顔を見合わせていた。

 

 訳も分からないままに急に静まり返った往来に驚き、しかし何故だか自分自身も声を出す気にはなれず、一体何があったのかと周りを見渡せども目に付くのは自分と同じような戸惑う顔ばかり。いや、よくよく見れば誰も顔色が悪く極端に青ざめて引き攣っている。

 

 男も女も、子供も老人も、誰も彼もが区別なくそうだった。

 

 年寄りの中には大名行列に出くわしたようだと思った者もいた。

 

 若者の中には、幕末の京都のように、あるいは最近二回ほど耳にした黒笠や人斬り抜刀斎のように恐ろしい人斬りでも出たのかと思った者もいた。

 

 皆、なんとなくわかった。

 

 こいつら、怖いんだ。そして、きっと俺も同じ顔をしているのだ。

 

「……」 

 

「……」

 

 歩く足音さえも気にかかるほどで、お互いに何があったかと問いかける声を出すのも憚られる。

 

 そんな押しつぶすような沈黙が訳も分からないままに人を支配している。

 

 蛇に睨まれた蛙。これは正しくそう言った人々の集まりであり、どこかにいる恐ろしい蛇が蛙どもを眼光で支配していた。

 

 これは一体なんだ。いったい何が起こっている。化け物でも出たのか、この道のどこかに、今、化け物がいて俺たちを見据えてエサにしようと舌なめずりをしているのか。

 

 哀れな蛙たちは、本気でそう思った。自分たちの背後に、あるいは頭上にとても恐ろしい何かがいるのかと疑わずにいられなかった。

 

耐え難い沈黙の中でずちゃり、と音がした。

 

「!」

 

 誰だ。

 

 物音をたてた命知らずは誰だ。

 

 ありがとう、お前が食われている間に俺たちは逃げるぞ。

 

 そんな浅ましくて情けない命乞いを、彼等は一人の例外もなく明け透けに思い浮かべた。 

 

 だが、彼等の誰一人として走り出せはしなかった。代わりに……身体が急にガタガタと震えだす。

 

 走るどころではない、まるで熱病にかかって死の一歩手前に至ったかのように五体が細かく痙攣し始めたのだ。

 

 いったいこれは何だと、声を出せるものなら悲鳴を上げて助けを求めた事だろう。大柄な男も小さな子供も等しく訳も分からないままに震え、それが恐怖を呼び起こして更に震えが増している。

 

 ああ、歯が鳴りそうだ。かちかちとなりそうだ。やめろ、静かにしていろ。

 

 “俺は死にたくないんだ!”

 

 この震えが、彼等自身の認識を越えて肉体が“恐ろしいもの”を察知しているからこそ起こった生物としての本能に端を発するとは誰もわからない。そして、彼等の誰一人として気がついてはいなかったが、いつもなら通りに屯している野良猫に野良犬が一匹もおらず、路地裏にネズミさえいない。

 

 それどころか、青空に小鳥一羽さえ飛んでいないのだ。

 

 全て、彼らが震えるよりも先に一斉に逃げ出しているのだと誰も知らなかった。

 

 あらゆる生物が備える、震える彼等のそれよりもよほど鋭敏な生存本能が彼らの足にエサも縄張りも放棄して逃げ出せと強く訴えかけてきたのだ。

 

 逃げ遅れ共の耳に、もう一度ずちゃりという音が聞こえてくる。

 

 何の音だ。

 

 もう一度、そしてもう一度同じ間隔で聞こえてくるそれが足音だと……普通はすぐに気が付いて当然のはずなのに人々はなかなか気が付けなかった。気が付いてからは本気で、見た事もない虎……それも牛よりも大きい本来はあり得ない巨虎を想像した。

 

 だが、足音の主を誰も見られなかった。怖くて足元しか見ないようにしているからだ。

 

「いけねぇなぁ……久しぶりの日本でちょいと気が昂ったか……」

 

 声が聞こえる。

 

 太い男の声だ。太くて、芯にどう猛さが籠められている怖い声が聞こえてきた。

 

「皆の衆……楽にしていい」 

 

 その“誰か”がそう言った瞬間、全員一声に震えが止まった。女子供、老人は悉く膝を突き、全員がどっと冷や汗を玉のようにかいている。

 

 それぞれが青ざめた貌を見合わせ、そしてゆっくりと、おそるおそる声のした方へと目を向けた。

 

 そこには、一人の男がいた。

 

 血のように、あるいは火のように赤い髪が鬣のように翻る浅黒い肌の男だった。西洋風とも少し違うが、日本のそれとは明らかに異なる黒衣で身を固めた大きな男が道の真ん中で仁王立ちしていた。

 

「騒がせた」

 

 殿様のような態度が板についていた。堂々としているなどという言葉では陳腐にしかならない。

 

 背丈は驚くほどに高く、肩幅も広い……周囲の男と比べて、二回りは大きいだろうか。力士なら同等の巨漢がいるのかもしれないが、力士と違うのは肉体を構築しているのは悉く鋼の糸を束ねたような太くしなやかな筋肉ばかりという点だろう。短い袖から伸びる太い腕がそれを物語っている。一見してだが柔らかさなどどこを探してもないと言う風だ。

 

 手も、足も、それらが支えている胴体も、首も、五体の悉くが鋼のように太く、強く、それでいて柳の枝のようにしなやかな印象を受ける。

 

 人の形をした猛獣、虎でも熊でもない、彼等の知らないこの世で最も強くて大きい血に飢えた獣が人になって現れたかのような……そんなおっかない男だった。

 

 それまで目を逸らしていた一同は、一度目を向けてしまえばもはや逸らす事など出来るわけがないとびくつきながら男を見つめる。慣れているように男はそんな衆目を咎めない。

 

 逞しさと精悍さのさらに上にある要素が結晶となっているような顔を皆は見た。ただそこに立っているだけだと言うのに、これから先のそれぞれの人生の中でどんな事件があっても一生忘れる事はない顔だった。

 

 にい、と笑う顔は牙を剥き出しにしているようにしか見えず、犬歯は牙のように鋭い。

 

 鬼。

 

 期せずして誰もが、この男を指して日本古来の最も有名かもしれない妖怪を思い浮かべた。

 

 おとぎ話の絵巻物の向こう側から、伝説が顔を出した。

 

「くく……」

 

 鬼が声を上げて笑った。顔を向けられていた方向にいた全員が顔を青ざめさせて、腰を抜かしながら悲鳴を上げた。手足が動くのに気が付いて、そのままみっともなく尻に帆をかける。それを追いかけるわけでもないだろうが、真っ直ぐに足を進める。大股で力強く、それでいて柔らかい足取りは見る者が見ればあまりの隙のなさに驚いただろう。

 

「あのガキめ……俺の帰国は教えておいただろうに、一体何をしでかしやがった」 

 

 男は先ほどまで三人の男女が立っていた立札の前で仁王立ちとなり、小ばかにしたように笑った。

 

 幕末の鬼、範馬勇志郎……ここに帰国。

 



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喧嘩屋対明治政府

 しばらくぶりのるろうに範馬。

 今回も範馬一人もおらず。代わりに出てきたのは糸目警官とでこっぱち。

 ところでこのでこっぱち史実の人で、実はヨーロッパで新聞沙汰になったことがあるらしい。

 しかも、列車の窓からう〇こ放り出したから……

 初めて知った時、笑うに笑えませんでしたわ……


 相楽左之助、指名手配。

 

 その辺りの事情は、世間に公表されず隠されていた……のだが、実のところ公然の秘密と言う形で左之助の住んでいる破落戸長屋では誰もが当たり前に知っていた。

 

「まあ、あの左之さんが関わって、しかも喧嘩でそんな大人しくこそこそできるわけないもんなぁ……そもそも隠すつもりは無いだろうからなぁ」

 

 左之助が指名手配のお尋ね者になったと聞いた神谷道場の一同、三人足並み揃えて駆け付けたのは、もちろん彼の塒であったが……そこはなんともぬけの殻どころか一目瞭然、散々に荒らされている無残無残な有様となっている。

 

 あまりの姿に唖然としている薫と弥彦をさておいて、冷静さを一瞬で取り戻したのはさすがに場慣れしている緋村剣心である。

 

「……随分荒らされているでござるな……徹底して物がないのは、物取りの仕業と言うよりも警官の仕業でござるかな?」

 

「……左之助が指名手配だなんて……まさか、阿片の件で?」

 

「だったら左之助一人ってのはおかしいだろうがよ! 普通に考えて、恵も含めて俺ら全員お縄だろ!?」

 

 明治の頃では、阿片密造犯の恵は元より事情を知らないまま彼女を匿った薫や子供の弥彦もただでは済まない。

 

 廃刀令違反者の剣心は猶の事だが、彼の場合は明治政府のご重鎮方がなんとでもしてしまうだろう……さておき、確かに先の事件は関わりないのではないだろうか。

 

「左之助なら、どこかで警察ともめてもおかしくはないのかもしれないけど……」 

 

「ともかく、長屋には左之助の知人がいるはずでござる。そうでなくても事と次第を知っている面々もいよう。話を聞かせてもらえればよいが……」

 

「警察がらみの事件じゃ、みんな口を噤んじまうんじゃないか?」

 

 弥彦の危惧は剣心も同様に抱いていたが、結果的にそれは杞憂だった。

 

「ああ、それな。別に元々物がないだけだよ」

 

 いたってあっさりと目撃情報は集まってしまった。

 

「……ああ」 

 

「……喧嘩屋だもんな」

 

 ご近所さんからのさらりとした一言に深く納得できたのは風評被害の一端ではない。

 

 さておき、貧乏な相楽左之助の身に何があったのかを聞けそうなのは有り難いと左之助の舎弟という男に話を聞いた剣心達だが、どうにも素直に飲み込めるほどうまい話ではなかった。  

 

「あの日、夜更けに急に大きな音がしてなぁ。いったい何事かと思ってみんなで飛び出してみたら、警官が何人も空を飛んでやがんだ」

 

「……空?」

 

「ほれ、あれだ。子供が人形ぶん投げるみたいな感じか?」

 

「薫が子供の頃やっていそうだな」

 

「やるか!」

 

 ぼかりと一発。しかし薫と弥彦もそうだが、この舎弟と言う男も兄貴分が指名手配されたと言うのに悲壮感が全くない。

 

「そんで、周りを見てみれば先に地べたに転がっている警官が二、三人いたかな。飛んできた先を見てみると、左之さんの部屋だ。こりゃ、誰がやったのかはすぐにわかったよ。出てきた左之さんはエライ不機嫌な顔をして“警官様が夜襲とはいい根性してやがるなぁ!”なんて大声あげたから、何が起こったのかは一発でわかった」

 

 ずんずんと大股で肩をいからせながら出てきた左之助は、おそらく寝込みを襲われたのだろう。不機嫌さに人相を悪くさせながら周囲を見回している様は虎か熊か、猛獣の類を思わせたそうだ。

 

「では左之はここで警官たちと戦ったのでござるか?」

 

「そうだな。だがまあ、どうしてかなんて知らないよ。左之さんもわかっていないからな」

 

「はあ!?」

 

「出てきた左之さんも、どうしてそんな事になったのかは全然知らなかった。他を見回しても、左之さん以外に手を出されたのはいないから狙われたのは間違いないけど、理由はさっぱり……どうせ問答無用だったんだろ? 周りにいる連中を叩き起こして事情を聴こうとしてもうんともすんとも言わないんでどうしようかと思っていたら、なんだか毛色の違う警官が顔を出したのさ」 

 

 その男は他とは佇まいからして違う、よく鍛えられている長身の警官だった。

 

 煙草をくわえながら、倒れてうめき声も上げない警官たちで死屍累々の有様の中で恐れる様子もなく一目で下手人と分かる左之助へと歩み寄った。

 

「阿呆が……先走って手柄を求めた挙句にあっさりと返り討ちとはな……抜刀斎に負けて隊を解散させられたおかげで、焦っていたにしてもなんてお粗末な様だ」

 

 足元に転がるお仲間に向けた目には情もへったくれも全くなかった。怖い目だった。

 

「とはいえ、一応はここらでも腕のたつ方だった元剣客警官隊が寝込みを襲った上であっさりと返り討ちか」

 

 警帽をどこにやったのかむき出しになっている撫でつけた髪の下で妙に細い目が左之助を見据えているが、瞼の間から覗く眼光が鋭くも険しかった。まるで鋸の刃のようだった。

 

 物音に引かれてそこかしこから顔を覗かせた長屋の一同からしてみると、悪一文字を見据える眼がぎらぎらと闇夜に光っているように見えてならなかった。

 

「ほう……今夜はこの男が相手か。さてはて、こいつは一体どこの何者かのう」

 

 そんな彼らに混ざって、一人異彩の老人が地べたに座り込みつつ楽しそうに笑っている。仕立ての良さが長屋の貧乏人共とは二味以上は違う彼は、そこらの者に注目されていてもおかしくはなかったが、奇妙な事に誰も彼を見てはいなかった。まるでいない者のように扱われていても、その老人はいたって平気な顔をして笑っている。

 

 ぬらりひょんのような老人だった。禿頭で小柄で、ぎょろついた目も人間離れをしていてそれらしい。

 

「誰だ、てめぇ。このお粗末な夜襲の仕掛け人か?」

 

「生憎と、俺もお粗末な夜襲の一端だ。半分は成り行きだがな」

 

 男は面白くもなさそうにそう言った。鋼のように低く男らしい声だった。

 

「で? 裏稼業とはいえたかだか喧嘩屋の青二才相手に警官が五人も六人も……それも、正面から逮捕しに来るんじゃなくて押し込み強盗よろしく寝込みを襲うたぁ、いくら何でも滅茶苦茶じゃねぇか。いったいどういう了見でぇ」

 

 どういう了見だろうと拳に物を言わせてくれるとぎらついた目が語っているが、そんな恐ろしい男を一瞥して怯む様子も全くない警官は珍しい紙巻き煙草を口から離すと紫煙を吐いた。

 

「そいつはすまなかったな。しかしこいつらが貧弱と言っても随分なやられようだ。少しやりすぎだな……公務執行妨害の現行犯……まあ、このまま大人しく檻の中に入ってくれれば痛い目を見ずには済む」

 

「上等だッッ!」

 

 拳を打ち合わせる左之助はもちろんふざけた真似をしでかした警察などに従うつもりは毛頭ない。自分たちの行いをしれっと棚に上げた警官もそれは重々承知だろう。

 

 その上で抜かした台詞の意図を、喧嘩屋は的確に読み取ってみせた。元より他の考えなど全く持っていなかっただけでもあるのだが、ともかく双方の意図は一致する。

 

 また、左之助は元よりどうやらこの警官も力づくで話を進めるのが大好きな野蛮人であるようだった。見ているぬらりひょんとしては大いに結構と期待感に胸を膨らませること受けあいであり、実際にその通りであった。

 

 拳骨を握った左之助が様々な鬱憤と怒りに任せて、一気呵成に殴り掛かる。問答無用の見本として打ち込まれた拳は勢いよく踏み込まれているが……心身に余計な力みが入って伸びがなかった。

 

「おおらぁっっ!」

 

 ここしばらく腹の中に溜まっていい加減に凝り固まりつつある程に淀んでいる黒くて苦い物が、彼の手足を縛っている。

 

 大げさな叫びとは裏腹に彼の拳打は本来の姿とは程遠い有様で、いっそみっともないと言えるほどだった。しかし、どうした事か右の拳はあっさりと警官の顔面を捉えてみせる。

 

「!」 

 

 拳から脳天にまで一瞬で伝わってきた感触が自分の拙さを余す事無く伝えてくるのだが、それが相手に命中したのが意外を通り越して不信だった。

 

「なるほど、喧嘩一番と噂されるだけあってまあまあの拳をしているようだな。喧嘩屋の相楽左之助」

 

「ちっ……てめぇ、試しやがったな」

 

 コケにされたとますますいきり立つ喧嘩屋だったが、同時に自分の無様な拳を自覚もした。勢いもなく、力も速さもなく、急所も捉えられなかった。近年稀に見る不細工な拳だった。

 

 頭を冷やすまでもなく、強制的に冷や水をかけられたような気分にしてくれる情けなさに恥ずかしくなる。これを師匠に見られていれば、殺されるどころか殺しもしてもらえずに見捨てられるだろうと確信できる。

 

 何しろ、命中したにも拘らず平気な顔で“まあまあ”扱いされているのだから。

 

 情けない、情けない、みっともねぇッッ!

 

 憤りが自分自身を罵り、その全てが燃料となって五体に活を入れる。今の情けなさは、偉そうなこの警官に吠え面かかせた上で勝たなけりゃ取り戻せやしねぇッッ!

 

 ぎり、と歯軋りをしている左之助を他所に警官は腰から得物を引っこ抜いた。

 

 洋装の警官であるにも拘らず、日本刀だった。転がっている他の警官たちは軍刀を持っているが、彼だけは敢えて日本刀を持っている。

 

「わざわざ日本刀かよ……てめぇ、もしかして幕末の生き残りかなんかか?」

 

「まあ、そんなところだ」

 

 警官はそう言うと右手を前に出して、左手には刀の柄尻を握って弓を引くように構えた。右手は刀の峰に添えられており、刀を銃弾のように発射する姿勢にも見えた。

 

 これから真っ直ぐに突くぞと、大きな声で主張しているような構えだった。

 

「お前の拳は所詮そこそこ程度。太平の明治ならばともかく、幕末の京都では……通用しない。それを教えてやろう」

 

「ッッ!」

 

 言葉が消えるよりも先に、警官の五体は撓めたその身に蓄えた力の全てを真っ直ぐに発揮してみせた。

 

 一直線に踏み込み、最も理想的な形で体重を乗せて前に突き出される一本の白刃は例え鋼でも貫ける。圧倒的な速さは目にも留まらぬ物だったが、万が一にも見えていたならば第三者の長屋の住人達も確信しただろう。

 

 ただ突き出しただけでは、型をなぞっただけでは決して得られないと確信を抱く事が出来る徹底的に鍛え抜いた片手突きは一体何十年そればかりを磨きぬいてきたのか……理解できる強者ほど感じ入った事だろう。

 

 技こそ至極単純だが、これは正しく鍛え抜き磨き抜かれた達人の技。

 

「だからなんだってんだ!」

 

「!」 

 

 その一突き、喧嘩屋が見事に捌いてみせた。

 

 素手の掌を複雑に回してみせる事で真っ直ぐに突きかかってくる白刃を逸らし、しっかと回避してのけた。向こうが強者ならばこちらも強者だった。

 

「……」 

 

「ちいぃッッ!」

 

 交差した双方、背中合わせに相手を睨みつける。警官の目が鋭く細まり、喧嘩屋もまた悔しそうに舌打ちをしたのは今の一合が互いに不本意と語っている。

 

 突きという物は斬撃と違い点の攻撃であり、深く抉り貫く事から高い殺傷能力を発揮すると同時に回避はさておき防御は難易度が高い。更に今は夜……乏しい光を反射して目立つ白刃と言っても昼日中に比べて明らかに有利な条件下で捌かれた。 

 

 その事実は受けるどころか躱す事さえ許さないつもりの警官にとっては不本意極まる。同時に左之助にとっても捌けはしたもののぎりぎりで、相手が油断している絶好の機会に交差法の反撃が出来なかったのは未熟の露呈以外の何物でもなかった。

 

「左の片手平突きか……外連も含みもないわかりやすくも鋭い剣術じゃのう」

 

 面白そうに独りごちるのはぬらりひょんである。剣術に関しては格闘技ほど明るくない彼だが、痩せても枯れても徳川は徳川と言い切るだけあって相応の知識はある。そんな彼から見て警官の一閃は珠玉だった。

 

「そしてそれを捌いた喧嘩屋の廻し受け! どうやらあれから随分と研鑽を積んだようじゃの。白刃を捌き切るなど例え神心会の高段者でもできる者はそうそうおらん! 絶対と言い切れるのは、せいぜい独歩や克己君くらいじゃろうな」

 

 感じ入ったようにうんうんと一人うなずいている。斬ったはったの修羅場を見物して楽しんでいるとは困った爺様である。

 

「それにしてもこの男は何者じゃろう? 警官らしいが名前もわからんではいまいち……神谷家の記録を後でもう一度さらってみるか」

 

 そんな事よりも目の前の勝負である。

 

 あれこれ考えていては、刹那の内に流れが変わるせっかくの勝負を見逃してしまうではないか。

 

「……次は逃がさねぇぞ」

 

「想定よりは多少できるようだが……その程度で図に乗らない事だ」

 

「でけぇ口は一つくらいいいところを見せてから叩きな」

 

 す、と剣士が目を細めて“図に乗るなよ”と語るのに合わせて喧嘩屋もまた構えを整える。“だったら高いところから叩き落してみせな”と目で語りつつ見せたのは、河原で剣心と喧嘩した際に見せた構えだ。特に習ったわけではないが、いろいろと試行錯誤をしている内にいつの間にか出来上がったこの構えは左之助にとって一種の起点になっている。

 

「……行くぞ」 

 

「律義じゃねぇか。さっさと来いやぁッッ!」

 

 両雄並び立たず、今一度交錯する拳と刀か……そう思われて固唾をのんだ見物人(ぬらりひょん含む)達だったが、一斉に聞こえてきた笛の音と騒々しい程の足音に空気は粉々になるほど破壊されてしまった。

 

「ここだ! こっちにいたぞ!」

 

「藤田警部補! ご無事でしたか!」

 

「元剣客警官隊の連中が叩きのめされているぞ!? うわあ、酷い顔……なんて有様だ……ざまあみやがれ!」

 

 どたどたと足を鳴らして一斉に駆け付けてきたのは応援の警官隊だった。手には長い棒を持ち、あるいは軍刀を持って左之助を取り囲もうとしている。彼らに割り込まれ、左之助と警官の間の距離は大きく開いた。

 

「けっ……他にもこんなにいるのかよ。一体全体、何を考えて羽虫みてぇによってたかってきやがる」

 

「誰が羽虫だ、この凶悪犯め!」 

 

「誰が凶悪犯だってんだ」

 

 不満どころか呆れてさえいる左之助だったが、それを聞きつけたらしい胡麻塩頭の警官がへっぴり腰の青い顔をして叫びだす。

 

「貴様の逮捕は警視総監直々のご命令なんだ! そんな奴が凶悪犯じゃない道理があるか!」

 

「警視総監だぁ?」

 

 そんなもんは新聞に載っている以上の繋がりはない左之助である。いったいなんだってそんな奴が自分の逮捕なんぞ命令してくるのか。

 

「たかだか喧嘩屋一匹に御大層なもんじゃねぇか」

 

 肚が決まった。

 

 目の前にいる偉そうな警官も叩きのめしたいと思うが、どうやら自分に手を出してきた根っこであるらしいそいつとの話が先だ。それに、今の警察機構のお偉方となると……どうせ維新志士だろう。

 

「ふうん。つまり、そいつを締めあげればいろいろ捗るってこっちゃねぇか」 

 

 にやり、と笑った左之助の放言に、その場の誰もが唖然とした。

 

 警官たちも、長屋の住人たちも、その中で特に左之助と親しくしている仲間たちも、皆が揃ってぽかんと大口を開けている。それこそ左之助の大口に負けてたまるかと言わんばかりだ。

 

 それは左之助に突きを食らわせてきたあの警官も同じだ。さすがに間抜け面を晒すほどの抜け作ではなかったようだが、深々と紫煙を吸い込んで、吐き出す。

 

「……馬鹿の類か」

 

「できねぇと思っているんなら、せいぜい間抜け面のまま見物していろや」 

 

「……口先だけは大きい……と言いたいところだが……貴様には聞きたい事がいろいろとある。そもそも貴様を捕らえるのが俺の任務だ」 

 

 そう言うと、男は囲みの間をすり抜けてからもう一度刀を構えた。全く同じ構えだった。

 

「聞きたい事だぁ? こんだけやらかしといてどの面下げて抜かしてんだ。維新志士様よ」

 

「生憎と俺は維新志士じゃなくてな」

 

「はっ! 維新志士の飼っている犬には変わらねぇだろうが。そこに生ごみが溜まってっからエサにしたらどうだ? 最も、飼い主様にご立派なエサを恵んでもらっている犬っころのお口にはあわねぇか」

 

 ガラの悪い挑発はいかにも安っぽい物で、目の前の警官がひょいひょい乗るとは到底思えなかった。そこらのチンピラなら簡単に乗るだろうが、この警官……いいや剣客はそうではない。

 

 先ほど見せた驚くほどの一閃に端を発する強烈な武力と、それに支えられた自負。こんな安い挑発に乗るはずがないのだ。

 

「犬か」

 

 白い煙が長屋から漏れ出る光に照らされている。

 

「生憎と、俺は犬ではなくてな」

 

 その煙の形がどこか獣の影のように見えて、長屋の住人が自分自身の目を疑った。

 

「エサで飼う事はできん」

 

「へっ……エサじゃなければ一体何で飼われているンだ」

 

「何も」

 

 煙の向こう側で隠し切れない白刃の煌めきが輝いている。

 

「犬はエサで飼えるだろうが、壬生の狼は何者も飼う事は出来ん」

 

 その白刃が今一度喧嘩屋を目掛けて襲い掛かってくる。

 

「ッッ! つおぁあッッ!?」

 

 技は先ほどと同じ、芸も糞もない左片手の平突き。だがしかし、明らかに先ほどよりも速い。受けも躱しも出来はしないと豪語してもいいだろう技に喧嘩屋は果たしてどう対処するのか。

 

 後ろに引く? 追いかけられて御終い。

 

 横に躱す? 早くて間に合わねぇッッ!

 

 受ける? 素手でできる速さじゃねぇッッ!

 

 耐える? それしかねぇのか? それしか出来ねぇッッ!

 

 聞いている人間に腸の底からうすら寒い震えを齎す鈍い音がした。どしゃり、と聞こえもしたが人によってはぐちゃり、とも聞こえた気もした。そんなような音だ。

 

 藤田という男の突きが左之助の腹に深く突き刺さっていた。そのまま両名は絵のように固まり、見ていた長屋の住人達も警官たちも、身動きさえできず呼吸だけを許されながら灯の明かりにゆらゆらと揺れる二人の影を見つめ続けている。

 

「左之さんッッ!」

 

 左之助の舎弟だろうか、若い男が甲高い悲鳴を上げた。

 

「ッッ!?」

 

 叫びに反応したのは喧嘩屋ではなく警官だった。

 

 はらわたに突き刺した白刃を眉一つ動かさずに抜こうとした剣客だったが、そこで初めて顔色を変える。

 

 抜けなかったのだ。

 

 深く刺しすぎたという訳でもない。そこら中に見物人はいる上にお仲間が土俵のように彼らを囲んでいるのだから、当然その辺りは考慮する。殺すつもりはなかったので、速さはともかく威力は加減した。

 

 抜こうと思って抜けない程深々とは刺していない。いや……そもそも刺した時の感触が……今更ながらおかしい?

 

 それを察した腕を引こうとするものの、刀をおいそれと手放すのはやはり抵抗があった。その躊躇いの一瞬を、敵は見逃さないものだ。

 

「おい……男がそんなたけぇ声出してんじゃねぇよ。情けねぇ」

 

「!」

 

 左之助の声から力が未だに失われていないのを頭で理解するよりも先に無理やりにでも逃げようとしたが、やはり抜けない。ついに刀を手放す決心をしたのは一瞬に満たない時間の経過後だったが、それでも遅すぎた。

 

「逃がさねぇよッッ!」

 

 突き出した左腕は猛禽の爪に食らいつかれているように捕まれ、更に伸びている肘を真っ直ぐ下から突き上げるように殴られた。みしぃ、と嫌な音が体内に響く。

 

 痺れる痛みに反比例して握力が失われ、刀を任意ではなく失意の中で手放す事となる。だが、掴まれ続けているおかげで逃げる事さえ叶わない。舌打ちをする間も惜しんで右の拳で喧嘩屋を殴りつけてやった。

 

 だが、その拳と腹に重い衝撃と鈍い痛みを返されて失策を悟った。

 

 水月に蹴り、拳にはなんと肘を壁として突き返しての交差法で見事に返されたのだ。腹に刃を突き立てたとはいえ、返ってきたおつりが相当に厳しい。

 

「ぬうッッ!」

 

 しかしてこちらもさるものか。痛みを覚える右手を無理やり使い、刺さったままの刀を握りしめる。そのまま横に振り回してやろうかと思ったが、それはさすがにたまらないと喧嘩屋は剣客の手を放して距離をとる。取り戻した愛刀を左手に持ち直しながら、表情を厳めしい物に保ちつつ痛手を確認する。

 

「……しぶてぇな。やっぱ鳩尾じゃなくて金的狙うべきだったぜ」

 

 もうちょい足が長けりゃあよ。

 

 そんなふざけたセリフをにやりと笑いながら口にする喧嘩屋だが、腹に巻かれているさらしは赤く染まっている。対して剣客も出血こそしていないが骨身に染みる大きな痛手は確実に刻まれていた。

 

 おそらく、五分と五分……こちらは時間と共に回復してくるだろうが、向こうは時間と共に不利になるか?

 

「しぶといのはこっちのセリフだ。腹を刺されているのに随分と元気な事だな」 

 

 ぺ、と咥え煙草を地面に吐き捨てる。若造と甘く見ていたのだが、さすがに咥え煙草で余裕を持てる相手ではないと認めざるを得ない……業腹な事だ。

 

「いいのか? そのままやればいずれ腸がはみ出るぞ? 傷ついた腸の中身が腹の中に零れるかもしれん」

 

 心理戦のつもりで少々脅しつけるが、相手はそれに笑うだけだった。むしろ聞いている周りが顔を青ざめさせている。

 

「あいにくと、こちとらの腸にはかすり傷の一つもついちゃいねぇよ。狙いを外したんでな」

 

「……何?」

 

「内臓上げ……って言ってもわかんねぇか。効いていねぇのさ」

 

 それを聞いて喜んだのは、手に汗握っているぬらりひょんである。

 

「ほう! ほうほうほう!」

 

 梟の類に見えるのはぎょろぎょろとしている丸い目のせいなのか、それとも感嘆の声のせいか。

 

「古い空手家は喧嘩の際には金的を体内に隠し、重要な臓器はあばら骨の中で守ったと言うが、なるほどこれも使えるか!」

 

 以前の勝負を見た際から思っていたが、この男の基本はどうやら空手であると言い切ってよさそうだった。

 

「……はらわたをいじくるとはな。その辺りの技も、鬼から学んだか」

 

「ああん?」

 

 柄の悪い疑問符を上げた左之助だったが、彼も今の一言で何とはなしに今夜起こっている事件の裏を読んだ。

 

「……師匠の事を知ってんのか。やっぱてめぇ、幕末の生き残りか」

 

「……直接戦った事はないな」

 

 迂遠だが、肯定した。

 

 それでも今回の事件をどこの誰がどういう意図で描いているのか、大体わかった。じくじくと、刺された腹から急に痛みを訴えられた。

 

「ふざけやがって、腰抜け政府が」

 

 左之助は咄嗟に一番近くにいたへっぴり腰の警官をひっつかみ、そいつを人形のように剣客に向かって投げ飛ばした。

 

「うわわわわっ!?」

 

 迂闊にもあっさり捕まっているのは当事者としての意識がない隙からだろう、無造作に投げられてもあっさりと宙を舞って藤田警部補とやらの足元に転がる。

 

「ちっ……」

 

 舌打ちをせずにはいられない。

 

 その隙に、左之助は煙のように消えていたのだ。完全に見失ってしまった。

 

「あいたた……」

 

 足元で暢気にしている抜け作を罵倒しないのはせめてもの情けか、そもそも構っているだけの余裕がない。

 

「……おい」 

 

「は、はいっ!?」

 

その場の警官は全員彼よりも格下である。今の鋭い眼差しに何を感じたのか、全員揃って直立不動。親父を前にした小僧のように冷や汗をかいて青ざめている。

 

「誰か、逃げる事を見た奴はいるか」

 

「は、はいっ! そこに転がっている竹中を殴り飛ばして走っていきましたぁ! 大通りの方かと思われます!」

 

 自分から報告しろ、すぐに追え。そう言ってやりたかったが、今更だ。愛刀を振って血を落とすと、鞘に納めると剣客としてではなく警官としての意識が強まった。

 

「追え。だがお前たちの手に負える相手ではないのは間違いない。チンピラ風情と侮らず、熊か何かだと思って場所だけは補足し応援を待て……間違えてもこいつらのように手を出すなよ」

 

 ついでに転がっている“こいつら”の治療の手配を指図すると、警官は左之助が立ち去ったと言う方へと目を向けた。

 

 何も言わず、ただじっと佇んでいる男だけの男が一体何を思っているのかなどわからない。わからないが……どうしてだか後ろで慌ただしく動き始めた警官たちも、今までじっと見物に徹していた長屋の町人たちも、誰も彼もが背中や首元にうすら寒さを感じて首をすくめざるを得なかった。

 

「ちっ……」

 

 舌打ちが奇妙に響いた。

 

 煙草を取り出そうと探ったはずの懐が、実はすっからかんであったと今更に気が付いたからだった。

 

「……ってな感じだったよ。どうだ? 俺の語り口もなかなかのモンだったろ」 

 

「わかりづれぇ」

 

「そりゃおめぇがガキンチョだからだよ」 

 

「んだとぉッッ!」 

 

 子猿の縄張り争いのように顔を赤くする弥彦を他所に、剣心の表情はまるで刀を抜いている際のように鋭く深刻だった。

 

「……剣心」

 

「その警官、左の片手で突いてきたのでござるか」

 

「あ? ああ。そっちの手をぐいっと引いてな。それ以外は一切合切、斬ったりしなかったぞ」

 

「長身で、眼は細く鋭い」

 

「……暗かったけど、まあ……背は高かったな。左之さんと同じか? ほんのちょっと向こうが低いくらいかな」

 

 それを聞いた剣心、深刻な色が更に倍以上は増した。とても嫌な予感がした。

 

 何か、大きな事件が自分の預かりしない所で起こり始めている……そんな予感がしたのだ。左之助の件ではない、それはあくまでも兆しに過ぎず……今しがた目の前の男から話を聞いた中で感じた疑問。

 

 形になるほどには何もわからないが、そう思う。

 

「誰か……知っている人なの?」

 

「かもしれんでござる。左之に刃を突き立てるほどの腕前、そして特徴的な平突き……外見的な特徴も含めて、ひょっとするかもしれんでござるが……何分、話を聞いただけでは……名前が違うのは偽名か、それとも今は違う名前を名乗っているのか……本当に他人の空似かもしれんでござる」

 

「ふうん……って、そう言えば左之助、刺されているんじゃない! 大丈夫かしら」

 

 心配そうな薫だったが、その当人がどこにいるのかが定かではないので気をもむ以外の何もできそうにはなかった。

 

「ああ、それなら大丈夫だと思うぜ。その後ですぐに警察署に殴りこんだからなぁ」

 

 こういうのを、西欧では天使の沈黙と言う。

 

 異口同音の奇声が長屋の雑多な空気をさらに攪拌するまで約三秒。

 

「け、けけけ……」

 

「警察署に殴りこんだぁ!?」

 

奇声を上げられるだけ立派な物だろう。

 

「あの野郎、常識ってもんを知らねぇのか!?」

 

「……そー言えば、賭場でそんな事を嘯いていたでござるなぁ……はは……ははは……」

 

 薫などは舌も上手く回せなくなり、もはや笑うような奇声を上げるしかできないような有様である。剣心でさえ、うすら寒い顔をして笑いだす始末。

 

 喧嘩屋相楽左之助、直裁にも程がある。

 

「つうか、それも知らなかったのか? かなり派手にやったから、みんな知っているぞ。お上は隠したがっているけれど、少なくともこの辺の連中は皆知っているよ」 

 

 人の口に戸は立てられぬ。

 

 いつの時代もそれぞれの形での真理である。最も真理だからと言って真実を語っているとは言い難く、戸の向こう側から出てくるのは無責任でいい加減で、面白おかしく好き勝手に飾り立てられた噂だ。大体において、下品な色をしている。

 

「左之さんも喧嘩屋だっつっても……けいしそうかん? よく知らねぇが、警察でも随分上の方にいるお偉いさんに目を付けられるはずがねぇやな。はずがねぇのに実際にそうなっちまったんだから……こそこそ隠しているのもそうだけんど、なんぞお上に後ろ暗いところがあるんだろうけどなぁ」

 

 知ったような口をしたり顔で叩く男を見ていて、弥彦なんぞは大分いらっときているようだった。

 

「……確かに、それはそうかもしれないけど……」

 

「時に、その警察署に殴りこんだところをお主は見たのでござるか」

 

「まあ、そうだな。トンズラした足で、そのまんま殴りこんだからなぁ……俺らも怪我したまま消えた左之さんを探して町中を方々探し回っていたんだ。なんか元気だったけど、腹を刺されちまったからな」

 

 警官よりも彼らの方が左之助の事も街の事もよくわかっている。

 

 だが、彼らが見つけ出した時には既に警察署に飛び込んでいく背中を見たところだったと言う。

 

「猪でももうちょっと物を考えるぜ……」

 

「……やはり、大きな騒ぎになったのでござるか」

 

 一体警察署に殴りこんでどうなったのか。それを話す前に剣心が気にしているのはそんな点だった。

 

「剣心?」

 

「そりゃあな。その前にも大騒ぎが起こっていたんだ。野次馬に警官に、随分な大騒ぎだったよ」

 

「…………なるほど」

 

「剣心? どうしたの?」

 

「いや……町中が知る程の大きな騒ぎであったにも拘らず、なぜ我々はそれを知らなかったのかと思ったのでござる。まるで、誰かが拙者らを事件から離しておきたいような……」

 

「言われてみれば……でも誰が?」

 

「署長のおっさんとか?」

 

 おっさんと言うな、と叱られる弥彦を他所に、話がそれた事を詫びて続けてもらう。今考えても憶測にしかならない上に、それこそ所長にでも聞くのが早道だろう。

 

 おそらく、自分たちの介入を警察組織の何者かが嫌ったに違いない。

 

「そもそも左之助は今、どうなっているのでござるか? お主、消息は?」

 

「……いや? 俺が知っているのは警察署に殴りこんだ所までだよ」

 

 知っているのを隠しているような気もしたが、それらは全て話を聞いてからだ。

 

 左之助はおそらくだが、簡単に腹の傷を治療した後で即座に警察署に殴りこんだのだろう。ちょうどその時、警察署は左之助を探し回っているおかげで手薄だったのだが……剣心達はそこまで考えていなかっただろうと断定した。 

 

「俺らが見つけた時には、もう門番みてぇなのをぶっ飛ばして殴りこもうとしているところだったな」 

 

 まさかまさかの真正面作戦である。

 

「それこそ馬鹿じゃないの!? いくら何でも袋叩きでしょ!?」

 

「…………」

 

悲鳴を上げた薫だが、自分の左右にいる男どもがどんな顔をしているのかは全く気が付かなかった。

 

 そんな彼女の危惧は的を射て……と言うよりもそうなるのが自然であり当たり前なのだが、署内にいた警官たちは砂糖に集る蟻のようにそこら中から集まってきたそうだ。その様子を見ていた彼ら左之助の仲間たちも、元々お上には反発するような境遇の面子ばかりである。この際だ、やっちまえと後先考えるなど男の恥と言わんばかりの勢いで加勢しようとしたのだが、当の左之助から手出し無用と止められた。

 

「そんな、左之さん!」

 

「あのなぁ、知」

 

 振り返った左之助はギラギラとした目をして、口元にはこわい微笑みが浮かんでいる。振り返ったその表情を遠目にも見た仲間たちは、誰もが音をたてて息を吞んだという。

 

「俺がこんな奴らに負けると思ってんのか?」

 

 振り返った隙を逃さず、棒を振りかぶって襲い掛かってきた警官がいた。鬨の声を上げ、手柄と思ったのかそれとも仲間の仇討ちを狙ったのか、勢い込んで殴りかかってきたのは若くも屈強な警官だった。きっと、日ごろから腕っぷしが強い事が自慢だったのだろう。

 

 だが、振り返りもせずに左之助が繰り出した無造作な後ろ回し蹴りが顎に命中して、血反吐と白い歯を飛び散らかしてその場に崩れ落ちる。

 

「なぁ? 負けねぇだろ」

 

 男の棒は悪一文字を掠る事もなく、膝をついてピクリとも動かない男の意識は既に遠いどこかへと旅立ち帰ってくるまでに一両日はかかるだろう。

 

「こんな弱い者いじめしか出来ねぇような奴らによぉ……この元赤報隊、相楽左之助様が負けるはずがねぇんだよッッ!」 

 

 大喝一声勇ましく、警察署前のガス灯に照らされた悪一文字はまるで千両役者が舞台で披露する刺青のように映えた。

 

 相手は十重二十重に増え続ける武装した警官たち。対してこちらはたった一人の上に素手の破落戸。

 

 勝った負けたを論じるなど愚の骨頂。袋叩きではい、御終いが関の山……だと言うのに、見ている男たちは胸に熱く込み上げてくるものがあった。

 

 期待していた。

 

 これから、きっとすげぇものが見られるんだぞとワクワクしていた。

 

 人はどんどんと集まってきた。警官たちが左之助の前に立ち、悪一文字を拝むのは左之助の舎弟十八人と数えきれないほどのやじ馬ども。

 

 拝みやがれ。見せてもらおうぜ。俺たちの兄貴分はすげえんだぜ。

 

 手に汗握る観衆と化した一同の前に立つ男が、握り拳を天に翳した。いったいどんな力で握りしめているのか、軋み音さえ聞こえてくるではないか。

 

 握りしめているのは、力だ。力で握りしめているのではなく、力を握りしめているのだ。

 

 隙だらけの姿に警官たちは仲間の仇討ちぞと意気軒高に挑みかかる。どうやら並の腕っぷしではないようだが、所詮は素手だ。結局は一人だ。そんな奴が俺たちに敵うか。

 

 すぐに叩きのめして臭い飯を食わせてやる。明治政府に、警察に真正面からは向かう大馬鹿の顔を泣きっ面に変えてやれ。牢の中でへたばっている無様な負け犬の顔に小便でもかけてやろうぜ。

 

「おおらぁぁあぁっ!」

 

 威勢だけはいい身の程知らずを、せいぜいみっともない面に作り替えてやろうぜ。そんな警官たちの思惑は文字通り吹き飛ばされた。彼らの肉も骨もまとめて丸ごと、あっさりと紙屑のように吹き飛ばされていた。

 

 滑稽な程に無様に、空しいほどに呆気なく三人が吹き飛んだ。文字通り、拳の一撃で宙を舞ったのだ。

 

 一同は度肝を抜かれた。後ろにいるのは荒くれども、前にいるのは警官たちとそれぞれ方向性は真逆だが人を殴る事も殴られる事にも慣れている。自分でやった事もあるし、誰かがやられているのも見慣れた光景だ。

 

 しかし、彼等も……いいや、慣れている彼等だからこそ人が拳でぶん殴られたぐらいでまるで大砲の至近弾を食らってしまったように景気良く吹き飛ぶ有様など見た事がない。想像した事さえない。

 

 一瞬の沈黙。

 

 警官達は各々が見た光景を信じられず、宙を舞ったお仲間が地面を背中で叩くまで呆けていた。その大きすぎる隙を左之助が見逃す理由は当然、ない。

 

「ぼうっとしている暇があんのか、おおらぁッッ!」

 

 残った警官たちは悉く間抜け面のままで地べたを嘗めた。自分が何をされたのかも理解はできていないだろう。

 

「うおおぉぉぉっっ!?」

 

「すんげぇ! 人間が頭よりたけぇ所まですっ飛んだぜ!」

 

 彼等の知っている物とは一線を画す豪快な喧嘩を目撃した一同、興奮に酒飲みよりも顔を赤くして沸き立つ。夜間に迷惑な程の大きな歓声だが、浴びる悪一文字はむしろ不満そうだった。

 

「……これでも警官かよ。てんで雑魚じゃねぇか」

 

 これ見よがしに舌打ちをする左之助の強烈な眼光が上を向いた。その先に男がいた。

 

 警察署の中央で最も高い位置にある窓から、二人の男が彼らを見下ろしている。どちらも余裕がない顔だった。

 

「後ろのヒゲメガネは確か署長だったな。もう一人は……たけぇ所にいるんなら、きっと目当ての総監とやらだろうぜ」

 

 適当な目算で当たりを付けると、ぎらぎらした目をそのまま目前に向けて下ろす。

 

 倒した数の三倍以上の警官が一斉に駆け寄ってきている。おそらくまだまだ増えるだろう。さて、どうするのか。

 

「夏のやぶ蚊みてぇに群がってきやがって」

 

 隠れるのか、それとも逃げるのか。距離を開け、少しずつ削っていくのか……目標を決めた以上、わき道にそれるような色気は馬鹿の道で失敗の元だ。

 

 そして相楽左之助は間違いなく馬鹿の類であった。

 

「やぶ蚊は毎年うんざりしているんだ……今の内にまとめてぶちのめしてやるからかかってきやがれ!」

 

 真っ直ぐにも最も近い奴へと向かって頭から突っ込んでいくのは、正しく馬鹿以上の大馬鹿だ。

 

 だが、頭こそ馬鹿だが五体に満ちる力の方も普通ではなく限度を超えて馬鹿だ。だから並の馬鹿ではない。

 

「おおおおらぁぁぁッッ!」

 

 雄叫びを上げて真っ直ぐに突っ込んでいく喧嘩屋の頭が一番手近の警官の顎を弾き飛ばし、空いた腹に肩が突き刺さる。真っ向から跳ね返された警官は後ろの仲間たちを巻きこんで吹き飛ばされ、そのままさらに突っ込んだ喧嘩屋に足蹴にされて意識を失った。

 

「ど、どけ! この大飯ぐらい!」 

 

 日ごろになんぞ思う所でもあったのか、巻き込まれた仲間の今晩最後のセリフはそんな冴えない物だった。仲間に巻き込まれた挙句、前に進む左之助に踏みつけられて固い地面との間であっさりと意識を失った彼は……この晩で特に冴えない一人だっただろう。

 

 しかし、実はまだマシであったのかもしれない……その証明はすぐにされた。

 

 同じように巻き込まれ、しかし倒れる事はなかった男は間髪入れずの顎への一撃に骨を割られながらも意識を失う。白い歯を口から飛び散らかせての無残な顔は、彼の三メートル手前で倒れて意識を失っている男よりも遥かに悲惨だ。

 

「この、クソガキがぁッッ!」 

 

 あからさまに血の上った顔をして拳銃を引き抜こうとした一人がいたが、それは冷静さを失っていない周りに止められた。

 

 混戦で銃を撃つなどまず味方を撃つ利敵行為だ。左之助がそこまで狙ったかどうかは怪しいところだが、彼等は飛び道具を行使する機会を失った。

 

 その顎を、掠めるように左之助の手が通り過ぎていく。残像さえ見えない手練の一撃が頭の中身を揺らして、膝から力を抜く。

 

 それが都合四度繰り返されれば、四人が喧嘩屋の周りに膝をついている。

 

 彼らはそこらの素人ではなく、警官である以上は日常的に鍛えている者たちばかりだ。それが素人まがいのはずの喧嘩屋に、警察署に殴りこむと言う程に頭の悪い……例えて言えば酔っぱらっているかのような馬鹿に、十名近くもいいようにされている。

 

 悉く一撃だ。一瞬の内に多数を相手取っての仕業は正に只者ではない。

 

「シィッッ!」

 

 繰り出した下段蹴りが三人の足を膝から圧し折り、更に脱落者は増える。

 

 更にそのまま独楽のように回って繰り出したのは中段の後ろ回し蹴りだ。そいつを水月にまともに当てられた警官は、その場でくの字になると腹の中の物を吐き出してから自分の嘔吐物に突っ伏した。 

 

 べちゃり、と本能的に嫌悪感を齎す嫌な音がしたが張本人はそれを耳に留めずに更に回転しながら、手近な顔面に拳を打ち込んで鼻を潰している。拳を通して伝わってくる奇妙な感触が背骨にまで伝わってくる感覚が左之助に奇妙で殺伐とした興奮を与えたが……そんなものはすぐに消え去った。

 

 弱い者いじめは詰まらない。

 

 戦うのであれば、強い者とするべきだ。それは左之助にとって信念でも矜持でもなく、ただ当然の事だった。徒党を組んで押しつぶそうとするようなせこい輩など本来であれば多少撫でる程度で終わらせてしまうが……今回は詰まらなかろうと不愉快だろうと手を止める事は出来ない。

 

 そりゃあそうだろう。お上なんてものが自分の様な奴に引く事なんて半歩たりとてあるものか。たった一人の破落戸で、何か後ろ盾があるわけでもない。あるのは連中にとっては隠しておきたい悪事の生きた証拠である、元赤報隊の四文字だけだ。

 

 生かしておいたのは、知らなかったからだ。そして、生きていても何もできないだろうと思っているからだ。殺す機会があれば、別にためらう理由はないだろう?

 

 そういう奴らが手を伸ばしてきたのであれば……こっちも窮鼠になるしかない。弱い者いじめはまっぴらごめんだが、だからと言って殴られ続けてへらへら笑っている謂れもねぇんだよ。

 

「うあわぁっ!?」 

 

勇ましい雄叫びではなく怯えを噛み潰した悲鳴が聞こえる。

 それが詰まらない。

 

 拳を打ち込めばあっさりと当たり、一撃で潰れる。

 

 それも駄目だ。

 

 血沸き肉躍る、そういう喧嘩がしたい。男が喧嘩するってんなら、そりゃあ強い奴とだろう。弱い者いじめなんざ、男のするこっちゃあねぇ。それなのに、どいつもこいつもなんて様だ。

 

「弱すぎんぞ、てめぇらッッ! 喧嘩を売ってきたのはてめぇらだろうがッッ!」

 

 手足を振り回すだけで次から次へと制服警官たちが血反吐を吐いて倒れていく。曲がりなりに職業警官として日々鍛えているはずの男たちが、正しく鎧袖一触の言葉そのままの形で倒れていく。

 

 左之助の活躍を見守る舎弟や野次馬、それどころか武術を学ぶ警官たちにとっても彼の戦う姿は未知の物だった。喧嘩屋と称しているが、その手管は喧嘩などと言う野蛮な代物とは程遠い洗練されてさえいる明らかな武術だ。

 

 拳の使い方一つとっても違う。

 

 彼らの知る知識の中に適合する動きは全く見当たらないが、我流の喧嘩殺法とは素人目にもわかる。先ほど数人の足をへし折った蹴りも身体ごと回転して放った蹴りも、前蹴りぐらいしかない明治の日本ではもはや聞いた事さえない。

 

 加えて肘、膝を巧みに使い的確に急所を捉えて一撃で沈めていく姿は活劇さながらである。

 

 舎弟たちはもちろんの事、野次馬共でさえ興奮しないわけがない。左之助の行いは暴挙ではなく活躍となり、民衆は無責任に煽り立てていく。この雰囲気に警官たちは気が付き、まず違和感を覚えてやがて憤慨する。

 

 これでは、まるで自分たちが物語の悪党ではないか。

 

 怒りを籠めて振り下ろされる棒は十重二十重と続けられるが、その悉くをさらりとかわされてしまい、得物が戻るよりも先に拳や蹴りが打ち込まれる。幾人かが棒を捨て、こうなればと打たれる覚悟で組み付こうとしても拳打に耐え切れず袖に触れる事さえ出来ずに白目をむく始末。

 

「ぬがあぁぁッッ!」 

 

 だが、三人目でどうにか捉えた。一対一では無理だったろうが、一人目と二人目が倒れた隙に胴体に組み付く事が出来たのだ。左右の手一本で大の男を昏倒させるのは恐ろしいが、それでも両手で三人目までは相手取れない。

 

 太い歓声が沸いた。大の男が、警官たちが大勢でよってたかって一人の喧嘩屋を囲んだ挙句にたかだか組みつけただけで喜んでいるのだ。左之助はそれをみみっちいと笑い、警官たちは快挙と笑う。

 

 自覚無自覚を問わず、彼我の差を彼らは理解していた。

 

 組み付けた警官はこういう戦法を選んだだけの事はあり、柔には自信があった。体格よく力自慢で左之助と比較して劣る所はない。上背は五分かもしれないが、目方も明らかにこちらが上だ。このまま引っこ抜いて転がしてやれば後は袋叩きで問題はないと、内心で喝采を上げていた。

 

 にやり、と笑って全身に力を込める。肉が盛り上がって支える芯たる骨に軋む音が伝わる。

 

 持ち上げてやる。このほそっこい身体なんぞ枯れ木みてぇにあっさりと引っこ抜けるさ。後は振り回して悲鳴を上げさせて、地べたに叩きつける。訳の分からない悪趣味な染め抜きを泥まみれにして、土の味と俺たちの靴の裏の味も教えてやる。

 

「吻ッッ!」

 

 唇を真一文字に引き締めて、鼻から雄牛のように太く息を吐き出して力を込めた。これが石だって抱えて持ち上げられる自信があった。

 

「どうした。俺を持ち上げたいんだろ? そんなに遠慮してちゃあ、子供に肩車だってできやしねぇぞ」

 

 だが、相楽左之助は根が生えた木のように持ちあがらない。

 

「!? 吻ッ! おうりゃあッッ!」

 

 仰天して目を見開きつつも、相手を上下左右に揺さぶりつつ繰り返し持ち上げようとするが、どれだけ力を籠めても相手は地面に食い込んでいる大岩か根を張る若木のように身動きする様子が微塵もない。子供が相撲の練習をしているような有様に、同僚たちの視線を背中に感じた警官は複数の理由で顔を真っ赤にすると一声吠えた。

 

「ぬうがああぁッッ!」

 

 だが、どれだけ声を上げても力を籠めても喧嘩屋は動かない。事態を正しく理解して驚いている者もいれば、仲間がふざけているのかと邪推している馬鹿もいる。どちらも組み付いている仲間がいるせいで加撃を躊躇っていたが、どうやら上役らしい年かさの偉そうなのが奥の奥から命令した為に躊躇いを消して棒を振りかぶった。

 

「ちょ、ちょっと待て!?」

 

一緒くたに仲間から殴られるなんぞごめん被ると悲鳴を上げるが、ここで左之助から離れるわけにもいかない。どうするかとおたつく警官に喧嘩屋の声が降ってくる。

 

「安心しな……仲間に殺られるよりも先に俺がぶちのめしてやらぁッッ!」

 

 男の無防備な背中に向けて、肘を落とした。鈍く重たい音は警官の意識が暗闇に吸い込まれる音でもあった。

 

「てめぇ……い……ったい何貫あるってんだ……」

 

「人をブタみてぇに言うんじゃねぇよ。肚を据えりゃ簡単には持ち上がらねぇもんだ」

 

 物理など知らない明治の警官でも、無茶を言っているのはわかる。ふざけるなと思いながら気を失った警官だが、左之助はからかっているつもりはなかった。

 

 肚を据えるとは、重心を下にすると言う意味だ。臍よりも下の位置に重心を持っていくように意識する相手は投げづらくなる……事実かどうかを知るのは実際に武術を経験してみなければわからない話だが、倒れた警官はそれを理解する境地にはいなかった。

 

「調子に乗ってんじゃねぇぞ、若造ッッ!」

 

「警察署に殴りこんできて生きて帰れると思うな、オラァッッ!」

 

 今だ、と殴りかかってきたのが二人……一人は素手で、一人は棒だ。

 

 人一人を倒せば、それだけ隙は生まれる。人が人以上であるからには、それが当然の理だ。多対多を前提としている実戦武術とはその隙を少しでも埋めるための物であり、逆に少しでもその隙を広げて急所を突く為の物でもある。

 

 さて、赤報隊にいた時とて遊んでいたわけではない。そこから更に鬼と呼ばれる益荒男から武術を学び、喧嘩で磨いた相楽左之助の隙を現職警官とはいえ易々と突けるのか?

 

 答えは、あっさりと攻撃を掻い潜られた彼らの驚愕の表情と直後にそれぞれの痛みを抱えて悶絶する惨めな背中が語っている。

 

 これで二人新たに倒したのだが……ここまでで一体自分は何人倒しただろうか?

 

 それを考えて、すぐにやめた。無意味な事だからだ。

 

「どっちみち全員潰すだけだ」

 

 警官たちは本拠地に殴りこんだ自分を逃がしもはしないだろうし、もちろん自分たちが逃げる事など想像もするまい。今でも少々鼻っ柱の強い天狗が馬鹿をやっていると思っている程度のはずだ。

 

 そうでなくとも、例え軍隊が相手でも警察官が警察署を捨てて逃げるなんざおいそれとできる事ではない。ましてや相手が既に一人だったら、そして衆目があったら? それこそ何があっても引けない所だ。

 

 今の彼らは、共にとことんまでやり合うしか選択肢はないのだ。

 

「何をやっている、貴様らッッ!」 

 

 遥か彼方の頭上から、耐えかねたと言わんばかりの鬱憤を籠めた怒声が修羅場の空気をかき回してきた。

 

「たかだか破落戸一匹程度になんという体たらくだ! それでも貴様ら、誇り高き明治政府を支える警官のつもりか!」

 

 好き勝手言っていやがる。

 

 言いたい放題の罵声に揃って顔をしかめた一同が見上げた先には、坊主頭で額の生え際がかなり厳しいちょび髭の男がいた。

 

 少々小柄で剣心よりも小さいのかもしれないが、目が細く小さい上に目つきがすこぶる悪いので迫力はある制服姿の初老だ。態度からして、おそらくこの場で最上位の警官だろう。つまりは……

 

「あれが警視総監……今回の黒幕か?」

 

 そいつが一体何を考えて自分に手を出してきたのか……特に隠されているわけではなかったので既に概ね察しはついている物の、本人の口から聞き出したいところだった……でたらめを口にする可能性も多々あるのだが、聞かないわけにもいかない。

 

「どいつもこいつも……藤田警部補はどうしたぁッッ!」 

 

「ひえっ!?」

 

 金切り声を上げる上役に首をすくめる警官たちは気の毒だが、左之助にしてみれば隙でしかない。

 

「馬鹿がッッ!」

 

 既に間合いに入っているというのに一瞬以上も怒声に意識を割いて硬直するなど、殺してくださいと言わんばかりの自殺行為だ。遠慮する必要など欠片も感じなかった左之助の四肢が縦横無尽に翻り、無理のようにしなやかな動きの後には無残な有様に成り果てた警官たちが思い思いの格好で転がっている。正しく死屍累々とはこの事だろう。

 

「おい、そこのデコッパゲ!」

 

「で……!?」

 

「たけぇ所からいらねぇ嘴挟んでいるんじゃねぇよ、この足手まといがッッ!今こいつらが地べたを嘗めてんのはてめぇのせいだぞ! 余計な事しか言わねぇなら黙ってろ、能無しがッッ!」

 

 引き攣った口元とこめかみに浮かぶ青筋が遠目にも見えたのはもちろん錯覚だったが……言われ放題の男が発散する怒気は錯覚の類ではなくもはや物理的にまでなりつつある……もちろんただの間違いだが。

 

「黙っていれば、喧嘩屋風情が言いたい放題抜かしおって……この若造が……」

 

「へえぇ! 俺が喧嘩屋だって知ってんのか! いきなり殴りこんできた街の破落戸の事をいちいちご存じだとは、警視総監様ってのは随分と端々まで目が届いているようじゃあねぇか、ええ、おい!」

 

 なんとなく下品な感じがする中指を立てた拳は挑発のつもりなのだろうか。そんな必要もない程に顔を真っ赤にしている警視総監(暫定)はどことなくタコを連想させる。

 

「貴様の様な無法者の事など知るか! 総員、発砲も許可するから早急に片を付けろッッ!」

 

 頭に血が上ったのか、それほど相楽左之助を邪魔と思っているのか、そもそも彼にとって引き金とは軽い物であるのか。例えどれであっても結局の所は変わらない。過激と言うよりもそれこそ無法と言うべき警察の選択に野次馬たちがどよめいた。

 

「けっ……何が誇り高きよ、明治政府ッッ! たかだか破落戸一匹を取り囲んで寄ってたかった挙句に人目も憚らず発砲たぁなぁ。卑しい馬脚を現しやがって」

 

 左之助は発砲と聞いても、狙われている当人であるにも拘らず全く怯んでいない。それどころか笑っている。強く、鋭く、ほんのわずかに弧を描いているだけなのに、不思議と悪一文字の笑みは誰の目にも鮮やかだ。

 

「無法者? そいつぁ結構だ! てめぇら腐った明治政府の役人どもが作ったおためごかしばかりの法なんざぁ、くそっくらえよッッ!」

 

 彼の中にあるのは爽快ささえ感じる達成感の様なものだった。

 

 ああ、とうとう始まった。

 

 燻った熾火が燃え上がるような、そんな気分だ。

 

 ずっと悩み苦しんでいた。かつての赤報隊が着せられた汚名、濡れ衣、そして瓦解を……晒された仲間たちの首を思い返さない日はなく、胸の奥にずうっとくすぶり続けていた怒りと恨みの炎があった。

 

 燃やしては、焼いてはならないものまで焼きかねないと自らに禁じていた。だけれども……もう、いいんだよな。

 

 やっちまっていいんだよな。

 

 もう一度、手を出してきたのはあいつらだ。

 

 明治政府の連中が、俺の大好きな赤報隊の看板に糞を塗り付けた連中が、もう一度俺に手を出してきたのだ。

 

 もう、我慢なんてできやしない。するものかッッ!

 

 相手が政府? もう知ったこっちゃあねぇんだよ!

 

 握りしめた拳には今までにない力が籠り、眼光は正しく鬼のように燃えている。全てが奮い立てと訴えている。警官だろうと鉛弾だろうと、受けてたってやる。

 

 ふと、どこからか今の自分は間違えていると……あいつらは言うんじゃないのかと思った。そして笑った。

 

 結局自分とあいつらは……あいつは、違う所で違う考え方をして生きているって事だ。そうだったのだろう。

 

 だから、もういい。ここんところずっと溜まっていた苛立ちも怒りも、全部全部溶かしてしまえ。

 

「今すぐてめぇの首根っこを捕まえに行ってやる! せいぜい手下どもと準備しておけや、蛸入道ッッ!」 

 

 次々と突きつけられる銃口にも怯まず、臆さず、巻き込まれてたまるかと逃げ出す警官たちを尻目に嘯いた相楽左之助の眼は怯みも絶望もなく、生き生きとさえしている。

 

 荒事を好む精神の故もあるだろう。だが何よりも、赤報隊の生き残りは結局このような時を待ち望んでいたのだ。

 

「構えろッッ! 配置につき次第、撃てぇッッ!」

 

 高いところから降ってくるのは天の声のようだった。それが、警官たちの五体を人形の繰り糸のように自在に操る。

 

 四方八方、射線が重ならないように訓練された事を反復する警官たちが喧嘩屋を囲む動きは決して悪くはないが……それでも遅すぎた。左之助の周りにいる仲間が逃げ出すまで待たなければならない。

 

 孤軍奮闘の左之助と比して、集団の彼らは行動方針を実行に移すまでの時間が長すぎた。

 

「おせぇんだよッッ!」

 

 長身でありながらも徹底的に低く構える姿勢は猫のようでもある。そのまま駆けだした姿はまるで四つ足の獣さながらだった。

 

「!?」

 

 これに慌てたのは警官たちである。的が駆けだす先にいる不運な者ばかりではなく銃を構えた誰もが照星の向こう側の光景に慌てふためいた。

 

 これだけ低く駆ける様な犯罪者の想定など彼らは全くしてこなかった。剣にしても銃にしても、そして素手にしても対象は立っている物で、四つ足ではない。これが座っているだけならともかく奔る速さと変わらない程の動きとなると途端にどうしようもなくなる。彼らは警官であって、狩人ではないのだ。

 

 それを無理に狙うとなると……他にも巻き込んでしまう人間がいる。他ならない同輩だ。

 

 何しろ地面にはまだ倒れたままの仲間が十人以上いるのだ。全員重症だが一人として死んではいない彼らを撃つのは警官としても個人としても躊躇われる。ましてや衆人環視の中である。

 

 逡巡は彼等の意識を暗黒に突き落とした。瞬く間に倒された四人は、意識を取り戻して痛みに呻きながらも自分たちが撃つべきだとは思えなかったと言う。

 

 そして築かれつつあった包囲網の一角を打ち崩した左之助は、そのままついに警察署の中にまで飛び込んでいった。もちろんお行儀よく玄関からなどとは言わない。飛蝗のように高く飛び上がり、更に壁を蹴る姿は忍びと言うよりもましらの如くでそのまま二階の窓を蹴り破って飛び込んでしまったのだ。

 

 あまりの離れ業に周囲は仰天しているが、かつて剣心と戦った左之助にしてみればやはり自分には飛び技は向いていない……少なくとも、剣心と比べあえば一蹴されて地べたに落とされてしまうと苦々しく確信していた。

 

「……誰もいねぇか?」

 

 飛び込んだのは木でできた机がずらりと並んでいる部屋で、それぞれの上には雑多にあれこれと並んでいた。書類に筆、万年筆……壁にはなにかごちゃごちゃと書き込まれている紙が貼られていたり、紐が貼られてそこにぶら下げられていたり……左之助には全く馴染みのない不可思議な光景だったが、とにかく誰もいない真っ暗な部屋だ。

 

 物音は左之助が蹴り破った窓破壊の余韻だけで、後は表の喧噪以外には聞こえてこない。

 

 静寂の中で、左之助は一息つこうとした自分を戒めた。

 

 ここでそんな真似をすれば、緊張の糸が緩む。体力を回復させるのはいいが、敵地で弛むなどもっての外だ。

 

「……飯はまあいいとして……水くらいは欲しいもんだな……いや、あれば食っても……」

 

 適当に見て回ると、ぬるくなっているがヤカンに水が入っている。一応、飲料水だろうかと確認してからラッパ飲みすると、心身に染みわたった。ついでに腹の傷を洗ってさらしを締め直すと心機一転、闘志も盛り上がってくるという物である。

 

「さぁて」

 

 部屋の外からどかどかと乱雑な足音及び叫び声が聞こえてくる。御用だ御用だ、などと左之助が生まれる前だったら耳にしていただろうか。

 

「ここだ! まだ暢気に突っ立ってやがる!?」

 

 戦闘の警官が威勢良く現れたが、即座にやかんをぶつけられてのけぞった。

 

「暢気はそっちだよ」

 

 嘯いた左之助だが……この時、彼も想像していなかった奇妙な事が起こった。

 

「ぬ、抜けねぇ!? やかんが頭に刺さった!」

 

「それを言うなら、頭がやかんに入った、だ! この阿呆!」

 

「俺が悪いんじゃなくて向こうが悪いんだろぉ!?」

 

 大体そんな有様になったのは、別段頭が殊更小さい訳でもない普通の男である。

 

「………………世の中不思議な事もあるもんだな」

 

「お前のせいだろうがッッ!」 

 

「うるせぇッッ! だいたいてめぇらは敵だからいいんだよッッ! いいから大人しく袖にすっこんでろや、お笑い芸人!」

 

 無責任でいい加減なセリフを聞きとがめられてしまったが、まあ……確かに彼らは敵同士だ。しかしそれでも酷い扱いではあるし、芸人だと言うのなら事の原因である喧嘩屋も芸人の一人にならないだろうか。

 

「ったく……緊張感てモンを混ぜっ返しやがってからに」

 

 ツッコミと言うのは過剰すぎる威力の拳で次々と警官たちを倒していく彼が言っていい台詞ではない。目につく敵を悉く叩きのめし、仏頂面でずかずかと大股に進む姿はいかにも横柄で隙のある姿だが……唐突に足を止めた。

 

「ふん……」

 

 目を細める。元々鋭い面差しなだけあって実に剣呑な表情だが、どこか愉しそうでもあった。

 

「まあ、いると思っていたぜ」

 

「……ここに来るのはわかっていたが……まさか潜入もしないで正面突破とはな。阿呆もここに極まったか」

 

 視線の先……曲がり角の向こうから現れたのは彼の腹に硬く冷たい金属を差し込んだ警官だった。相変わらずの不遜な態度で見下す男がやたらと癇に障って、こめかみと口元が引き攣るのを自覚させられた。

 

「いちいちこそこそしなけりゃならねぇ程に手強いとも思えなくってなぁ? すまねぇな、品のねぇ夜襲をかけてくる悪党がいたもんでさっさと終わらせて寝直してぇのよ」

 

「……そいつはすまなかったな。下品な悪党の一人として……責任もって豚箱で眠らせてやろう。安心しろ、少なくとも安眠はできる」 

 

 今一度、男の刀は抜かれた。構えはこれで三度目、寸分違わず同じものだった。

 

「せめて、一晩くらいはな」

 

 だが、迫力が違う。

 

 切っ先に籠っている闘志の鋭さは緋村剣心のそれを確実に上回っている。不殺を志した男が見せるのは所詮人斬りの残り香に過ぎず、これぞ現役の人斬りであるのだと喧嘩屋に教えていた。

 

「……てめぇ、警官の割には今でも随分と人を斬っていそうだな」

 

「それがわかる程度には鼻が利くか……所詮弟子は弟子。結局は街の喧嘩自慢風情と侮っていたのは失敗だったかもしれんな」

 

 侮りにイラつく喧嘩屋が、それを甘受するなどありえない。

 

「さっきから聞こえよがしに思わせぶりな事ばかり言いやがって……てめぇもあの蛸入道も、師匠にいったい何の用だ? お前らがこすっからい夜討ちなんぞ仕掛けてきたのは、どうせ師匠のとばっちりだろうが」 

 

「知りたきゃ話させてみろ。こっちも力づくで口を割らせてもらう」

 

「……今度は痛い目程度で済まさねぇぜ」

 

「こっちのセリフだ。次は首を飛ばす……死んだら死んだで、それでいい」

 

 双方、先の交錯で五分五分の痛手あり。だが、その後も戦い続けた左之助の方が体力を考慮して大いに不利……

 

 そして……待ち構えていた、この場所。狭い廊下、一直線の始まりの位置に警官は立っているとなると、狙いは明らかだ。

 

「真っ直ぐに突いて百舌鳥のはやにえ…? だっけか? そういうのか、避けても横に上手い事薙いでみせるか……」

 

「少しは察せられるか」

 

 ふん、と鼻を鳴らして答えた左之助の構えもまた同様に先のなぞり、前羽で迎えている。今度こそ、と意気込んでいるのか。

 

 左之助がそのまま一歩前に出た。間合いまでは後……爪半分という所か。 

 

「今度はきっちり返してやるぜ」

 

「ほざくな。戦術の鬼才、土方歳三が考案したこの平突き……貴様ごときに返せるものか……ましてや、俺の牙突ならば猶更だ」

 

「ああん? 土方? ……新選組の土方の事か?」

 

 新選組の事を知らない日本人はまずいない。その中でも特に著名なのは局長である近藤勇、副長である土方歳三、そして一番隊組長である沖田総司だろう。

 

「まさかお前、新選組の生き残りだとでもいうつもりか? ……そんな奴が維新志士の手先になっている訳ねぇだろうが」

 

「……」

 

 左之助のセリフそのものは侮蔑のようにも聞こえるが、純粋な疑問だった。全くもって、仮にも維新志士の宿敵とも言える代表格が新選組なのだから、万が一にも明治政府とお仲間面をしているなどありえない。

 

 とは言っても、ふかしやハッタリの類にしてはおかしなセリフだ。

 

「手先、か……生憎と、俺自身は明治政府の手先になったつもりなど全くない」 

 

「つもりはなくても実際にそうじゃねぇか」

 

「お前の言う通り、俺は新選組の一人だった」

 

 何か譲れない一線であるのか、とうとうと語り始めた警官だったが、左之助は半ば以上聞いていなかった。彼が意識を悉く集中しているのは男の切っ先であり、五体の動きであり、そして周囲の空気だ。

 

「この新しい時代、明治を作り出したのは勝者だけではない。俺たち幕府方もまた敗者として人生を賭けて新時代を構築した一員である。だからこそ、腐っていくのは我慢ならん」

 

 切っ先に凝固してもう一枚の刃となっているかのような殺意。周囲の空気をひりつかせる痛みさえ伴う緊張感。空気が焼けるようであり、それでいて凍えるようでもある。切り裂かれるようにも感じれば、重苦しく水底にいる様な圧迫感を覚える時もある。

 

 とても奇妙で、恐ろしくて、その癖どうしてだろうか……背筋を奔る高揚感に皮膚の裏側辺りが泡立つようだ。

 

「俺が政府に密偵として仕えているのは、明治を食い物にする政府内のダニどもを始末する為だ。それこそが明治にまで生き抜いた新選組の使命であると信じて、な」 

 

「知ったこっちゃねぇよ。俺にしてみれば、てめぇはそのダニの手下だ。破落戸とは言え、無実の俺を問答無用で捕まえようとするなんざ腐っているのもいいところじゃねぇか」

 

「そこら中で喧嘩を繰り返し、阿片密造の女を匿い、挙句の果てに武田観柳の屋敷に殴り込みをかけた輩の言えたセリフか」

 

 喧嘩はともかく、ここ最近の左之助の動向の悉くを一言で表した。

 

「よく知っているじゃねぇか……そう言えば、山県有朋……だったか? 俺が出会うよりも前に剣心を見つけて陸軍に勧誘していたとか聞いたな。ついでに俺の事を調べたのか、それとも……このふざけた逮捕といい、てめぇらはよっぽど師匠がおっかねぇってか? 昔にちょいと鍛えてもらった若造をしょっ引かなけりゃ、びびって夜も眠れねぇ程に」

 

 今宵の理不尽な逮捕劇の理由を、左之助はずばりと言い切った。そしてそれを、事情を知っているらしい警官は首肯してみせる。

 

「明治政府のお偉方はそうだろうな」

 

 俺は違う。言外にそう言い切った男は、左之助のセリフの何が琴線に触れたのか闘志を更に漲らせつつも刃の切っ先に凝固させるように託している。それはまるで牙のようだった。

 

「俺はただ、奴が今一度無法を行うのであれば……この牙突で貫くのみ」

 

「お前じゃ無理だろ。ただの自殺行為だぜ」

 

 挑発のつもりはあったが、侮辱のつもりはなかった。お互い加減はしているだろうが、ここまでに見た実力では彼の師匠を上回る事など不可能。師と別れた時には彼の実力などさっぱりわからない未熟者に過ぎなかったが、それでも言い切れるほどの差があった。

 

「試してみろ。抜刀斎を……そしてあの鬼を貫く為に維新の後も弛まず磨いた牙突の威力……抜刀斎と戦った鬼の弟子である貴様を相手に試してみるのも悪くはない」

 

「けっ……剣心とも因縁がありやがんのかよ。それはいいとしても、踏み台扱いとは嘗めてくれたもんだ」

 

 舌打ちをする左之助だが、いきりたつ事はなく、その挙動に一片の隙もない。

 

「踏み潰されるのが一体どっちなのか、教えてやるぜ」

 

「……やってみろ」

 

 刀と拳と言う無謀すぎる真っ向勝負が今三度。

 

 だが拳に虚勢はなく、刀に油断はない。どちらもお互いを倒すと思っている。どちらもお互いを認め合っている……認めたくないとも思っているのは露骨だが。

 

 そうでなければ、今の状況はあり得ない。

 

 真っ直ぐな廊下は警官の繰り出す突き技にとって理想的な状況であり、そして左右の狭さは途中で横薙ぎに切り替われば、それだけで避ける隙間が埋められる。

 

 左之助が待ち伏せを察知したのも、潜んでいるのを感じ取ったと言うより“ここであいつと戦うのは随分と不利”と彼自身も思ったからだ。まずいと思った以上、頭があるのなら当然ここで待ち構えているに違いない。

 

 そもそも相手の根城なのだから、地の利もある。

 

 出会ったのは自然、ないしは必然だった。

 

 あるいは……待ちかねていたと言ってもいいのだろう。

 

 どっちが? どっちも。

 

 肚の中で臓物が燃えているようであり、凍えているようであった。少なくとも左之助はそんな熱狂の様な戦慄を感じている。一方、細めの警官はそんな熱とは無縁なようにも見えた。冷めてはいないが燃えてもいない……そんな顔に見えた。ぎらぎらとしている左之助とは対照的だ。

 

「……」

 

 機械的にも見える。だが、本当に胸に帰する物がないのであればここに現れるわけもなく刀を構える事はない。

 

 取り繕っているだけだ。そうでなければ、表に出ないだけだ。

 

 だったら、ここで化けの皮を剥いでやる。

 

 その思いは気負いとなって左之助の足を不用意に進ませた。爪半分……せいぜいがそんなものだったが、それでも隙は隙であり勝負の火蓋を切る狼煙でもあった。

 

 喧嘩屋の気負いが生んだ隙を逃さず、一直線に襲い掛かってくる様は正に嚆矢の如く一直線で決して引かぬと言う意思の具現だ。引く気ない彼の闘志はここまで左之助に見せた二回の突きを一歩も二歩も上回る凄まじい速さで、日ごろから神速の剣士を相手取る左之助をしても驚愕の一言であった。

 

 速い、と声に出す間もない。 それどころか思考する間もない。

 

 鋭い切っ先が一直線に迫ってくるのは喉元。頭では的が小さく避けられる恐れがある、腹は先ほど内臓上げで効果を弱められた。だから狙いは多少左右に動いても躱し切れない喉!

 

 速い、鋭い、重い、狙いがいい、躱せないッッ!?

 

 いいや、躱せる。二回も食らって、時間もたっぷりおいて、返しの一手も浮かばない程に今までの鍛錬は安くねぇッッ!

 

 だが鍛え上げる為の己の日々が安くないとは、それこそ切っ先に重たい意志を乗せた男のセリフ。

 

 喧嘩屋ではなく、その師を貫くために鍛え上げて磨き抜いた刃の重みが一体如何ほどかを身をもって知らしめんと、刃は薄暗い廊下で微かな明かりを照り返す。

 

 肩を入れて全身の力を籠めて繰り出した一突きは、剣技と言うよりもライフル弾。いいや、それ以上にさえ思える真っ直ぐな一撃だった。それを食らってしまえば、相楽左之助は絶命どころか受けたところに比喩でなく大穴が開いてしまいかねない。喉にそのまま受けてしまえば、穴が開くどころか首が引きちぎれてしまうのではないか?  

 

 むろん、木偶の人形でもあるまいに甘んじて受けるわけがない。

 

 さあ、どうする。左右に避けるか、下へ逃げるか、上へ飛ぶか? 四方八方、あらゆる方向のどこへ逃げても対応できる。この突きはただの単純な突き技ではなく、そうであるように練りこんであるッッ!

 

 剣士は自信……いいや、自負を持って刃を繰り出していた。先ほど繰り出してみせた受け技をもってしても、その小癪な掌など紙きれ同然に貫いて喉ごと串刺しにしてくれんと突き出したのは刀と言うよりも鍛錬の象徴。

 

 しかし、その強烈な自負を抱いている男は驚きに細い目を見開いた。

 

 なんと喧嘩屋は彼の突きに真っ向から、それも頭から突っ込んできたのだッッ! 正気ではない、狂気の沙汰だ。喧嘩ならば相手の拳を頑丈な頭骨で受けると言う捨て身の防御もあるだろう。だが刃は拳とは訳が違うッッ!

 

 ましてや、これは明らかに緋村剣心と五分かそれ以上の一流以上の剣客が繰り出す必殺の一撃ッッ!

 

「とうとうイカレたか、若造ッッ!」

 

 悠長に応じる余裕など喧嘩屋にはない。彼も馬鹿ではないのだから、自身の危機が今までの半生で最も際どい土壇場だと百も承知だ。

 

 チンピラにドスで襲われた事はある……技量が違う。

 

 緋村剣心と言う名を馳せた剣客と勝負した事もある……殺意が違った。

 

 本物の一流が確かな殺意を切っ先に乗せて襲い掛かってくるのは、穏やかならざる人生を送っている彼にとっても初めてだった。

 

 だが、相楽左之助は幸運だった。少なくとも、今の彼はそう信じている。これ以上にない危機なれど、ここまでに出会った光り物と対峙した経験は無意味ではない。特に剣心と戦い、稽古を積んだ日々は己の中に大きな糧として生きているッッ!

 

 そうでなければ、春までの相楽左之助であれば長屋での攻防も含めて迫りくる切っ先は一つたりとも躱せず無防備に受けるしかなかったッッ!

 

「ッ!」

 

 透かした! 繰り出される切っ先はどうにか躱す事が出来た! そのまま間髪入れずに来る横薙ぎはどう捌くか!?

 

 できねぇ、思った通り左に……こいつから見て右に動けばこいつ自身が邪魔になる!

 

「ぬッッ!」 

 

「!?」

 

 そこまでだった。

 

 今だ、と懐に飛び込んだ左之助の顔面を警官の右手ががっつりと猛禽のように掴んだのだ。

 

「どうやらここまでの対峙で随分と分析したようだな……そしてそれを実行した技量はなかなかのものだったが……生憎と、一手足りていない」

 

「ああっ!?」

 

 ぎりぎりと、顔全体を握り潰さんと言う程の強烈な力だ。己の生命線であり誇りでもある刀を握る為に、剣士と言う生き物の握力はひょっとすると格闘家を上回っているのかもしれない。

 

「牙突は左手を突き出す際に合わせて右手を引く……力を籠める為に、な。だからこそ隙になっているのを貴様は見切っていたんだろうが……貴様が無手である以上、懐に飛び込んでくれば呼び込んだ右はちょうどよく迎え撃つ形になる。斬馬刀だったか? ご自慢の長物でも持っていれば話は別だったんだろうがな」

 

 その場合は、そもそも今ほどに食い下がれはするまい。

 

「終わりだ」

 

 勝敗は決し、残るは刀本来の使い道をさせるだけ……すなわち、手柄首を掻っ切って落とす。

 

「無様に足掻くな。せめて一思いに……死ね」

 

「寝言ほざいてんじゃねぇッッ!」 

 

 首元目掛けて迫る白刃を前にしても、喧嘩屋の目に怯み竦みの一切はなく躊躇いもない。

 

 両腕で自分の顔面を鷲掴みにする右手をしっかりと掴み返し……いいや、捕まえ返している。まだ諦めていない意思を全身から示す喧嘩屋に微かに眉を動かした警官は、冷静さを失わずに切っ先を止めずに貫かんとして、そのまま強制的に止められた。

 

「ッッ!!?」

 

 必殺の一撃を止めたのは、全身を貫く強烈な痛みだ。つま先から始まって脳天まで駆け抜ける抗いがたい痛みだ。

 

 生半可な痛みではない、脳みそをかき回すような強すぎる痛みが警官の五体を雷撃のように一瞬で貫いた。だが、それだけで止まる程にこの剣客は柔ではない。ならば、一体何故に止まってしまったのか。

 

「ぐうッッ」 

 

 彼をして人目を憚らず呻かせる程の強烈な痛みは、足元から突如湧いて出た。全く予想もしなかった痛みに驚かされたからこそ、一瞬とはいえ彼は刃を止めてしまったのか。

 

 いや、違う。痛みの有無に関係なく、何故か彼の五体は上役に命じられた下級警官のように止まってしまったのだ……ほんの一瞬だが。

 

 それでも原因を探るよりも先にとどめを刺さんとしたのはさすがだが、一瞬の停滞でもこの男には十分な隙だった。既に捕まえていた右腕の急所……手首の内側に点在する全てを一挙に締め上げると更なる痛みと共に力が抜けていくのを実感する。骨や肉に守られていない小さな急所を五指で的確に握りしめられたおかげで麻痺が広がっていく。

 

 これは剣客には不可思議な、素手で戦うからこその技術であった。

 

「ツボを突いたんだよ。へっ……てめぇは結局の所は剣客だ。こういうのは知らねぇし、わからねぇだろ!?」

 

 追い詰められながらも強がりではない笑みを浮かべた左之助は、そのままぐるりと身を捻って自分ごと相手の腕を捻り上げる。

 

「うおうりゃあっっ!」

 

 その拍子に開放された喜び、そして気合と言うよりも鬱憤を籠めた雄叫びを上げると関節を決めた一本背負いで己と五分の長身を思う存分にぶん投げるッッ!

 

「おおッッ!」

 

 しかして敵もただでは転ばない。投げられながらも後頭部に目掛けて切っ先を闇雲に突き下ろしてくる。

 

 ぞわり、と左之助の産毛が逆立ち髪の毛一本の間近まで迫った死の予感に鳥肌が立つ。なんだ、と考えているような余裕もなく彼は喧嘩で熟した場数が養った勘の赴くままに、剣客の腕を手放して放るように距離をとった。

 

 捕まえた腕は、彼にとって命綱とも言える。だがこの一瞬で手を放す選択を、彼は迷う事無く惜しむ事無く選んだ。もしも捕まえた腕一本を惜しんでいれば、あっさりと命を失っていたのは間違いない。

 

 離された腕を軸にして身を翻して着地する様はまるで猫のようであり、そこから更に左之助に向かって襲い掛かる姿は猫と言うよりも犬。更に言えば狼のようであった。

 

「んなにぃっ!?」

 

油断していた。

 

 そこから仕切りなおすものだと勝手に思い込んでいた。

 

 だと言うのに、間髪入れずに襲い掛かってきやがったな! この野郎はッッ!

 

 油断のツケはあまりに大きい。左之助は右の肩に灼熱を感じ、同時に全身がバラバラになるような衝撃と……揺れに揺れる視界の中で、どうにか男の姿だけは捉えつつも五体に様々な種類の痛み……それらを生み出した傷を感じていた。

 

「ぬあぁッッ!?」

 

 素っ頓狂な声は第三者の物だった。

 

 一撃で満身創痍になった喧嘩屋は、その声にどうにか反応して身構えた。そうしてから初めて状況の把握を始める事が出来た。

 

「………」

 

 まず、自分の五体。

 

 全身余すところなく強い痛みがある。右の肩を中心に五体隅々にまで行き渡る痛み。そして五体が軋んでうまく動けない。それどころか、右腕が全く動かない…指さえうまく握れないとは、と見ればだらだらと血を流す風穴が開いているではないか!

 

 ここに乾坤一擲の一撃を受けた証拠だ。

 

 傷を見て意識してしまうと、それを理由に頭が朦朧としてくる。血を失いつつある自覚が力を奪うが、やせ我慢をして押し隠す。

 

 目力を必死に籠めて前を見据えると、それが却って相手に自分の状況を知らしめていると自覚のない喧嘩屋は自分が廊下からどっかの部屋に入り込んでいるのだと気が付いた。

 

 考えるまでもなく剣士の一撃を受けて薄い壁を突き破ったのだろう。道理であちこち痛い上に瓦礫塗れになっているわけだ。

 

 自分をここに突きこんだ下手人は壁に開いた大穴の前で今も残心を取りつつ睨んできており、前に突き出した左腕に握りこまれている刀は彼の繰り出した技を教えてくる。愚直に同じ技を繰り返す、地味でつまらない野郎だと笑う事も出来たがそれもさっきまでの話だ。

 

 とことん執念深く繰り返されて、その間に仕留める事が出来ずにきっちりと刃を突き立てられては何を言っても負け犬の遠吠えでしかない。

 

「ちっ……」

 

 痛みというよりも、うまく動かない事に舌打ちをする。

 

 逃げるか、などと弱い考えが頭を通り過ぎるが……情けない自分を殴りつけるよりも先にこめかみに冷たくも硬い何かが触れる。

 

「ああん?」

 

 だが、ちらりと見たきり歯牙にもかけない。そんな物よりも、壁に空いた穴向こうにいる剣客の方がよほど怖い。まるで、薄暗い巣穴から顔を覗かせる正体不明の獣のようだ。

 

 ……ああ、そうだ。怖いのだ。

 

 はっきりと自覚すると身が震える程にこいつは怖かった。いつの頃からか……肩に突きこまれた時からか、それとも実は対峙したその瞬間からだったのかもしれない。

 

 自分は確かに、あの男は怖いのだ。

 

 あの人を若造、小物とあからさまに見下している言動には無条件で反発するが、それを踏まえても確かにあいつは恐ろしい。あの銀色の切っ先が獣の牙のようにぬらぬらとぬめり輝いている様が恐ろしい。だが……それでも侮られてよしとする程に彼は老けてもいなければ幼くもない。

 

 にい、と口角が上がった。それが止められなかったし、そもそも止めるつもりも全然なかった。

 

 笑い顔のように見えたが、違う物だった。歯を剥き出しにして、食いちぎってやると言う強烈な闘志の顕われだ。

 

 あいつが怖い……それは認めよう。なら、それを愉しめ。怖さを食いちぎって、口の中で転がして、味を堪能しろ。

 

“怖い事は面白い”だろう?

 

 怖いから、挑むんだろう。挑んで超えるから、面白いんだろう。挑まないなら“やっとう”の世界なんかに首を突っ込んでいる意味……ないよなぁ?

 

「こ、こちらを向け! この大バカ者がぁッッ!」

 

「……」

 

 肩から血が抜けていくのを実感しつつも、反比例するように体に力が満ちていく。もちろん錯覚だろうが、そんな事はどうでもいい……ただ、その力のぶつけ先は目の前でいつでも来いと嘯いているのだ。

 

 さあ、行こう。

 

 そう思った矢先に、金切り声が横やりを入れてきた。ちょうどいいところで邪魔をしやがってと、口を利く気にもなれない。

 

「まったく……真正面から警察署に殴りこんでくるなど馬鹿な真似をしでかす男だと思ったが……まさか、拳銃を突きつけられても気が付かない程の極端な馬鹿だなどとは……さすがに考えもしなかったぞ」

 

「おい、デコッパゲ」

 

 口は重々しく声もまた低く、非常に嫌がっているのはまるわかりだった。

 

「だ、だから誰がデコッパゲだ! 貴様、状況を理解していないのか!?」

 

わかっていない男が奇妙に甲高い声でわめく。それもまた、左之助の癇に障った。

 

「わかっていねぇのはてめえだろうが」

 

 こめかみに感じているのは銃口の感触。引き金を握っているのはいきり立っている様子の警官。

 

 だからなんだ?

 

「すっこんでな。そんなもんでどうにかできると思っているお前は場違いもいいところだ。こうやって手の届く場所にいる以上は……てめぇなんぞじゃ何にもできやしねぇよ」

 

「……なんだと?」

 

 こいつは、もしかして単純だの頭が悪いだのではなく……今の状況も理解できない程の大馬鹿なのかと呆れかえった。上から見ていても結構な強さであるように見えたが、こめかみに銃口を突きつけられて何ができる? 

 

 どんな名人達人でも何もできない。考える必要などない程に当たり前の話だ。

 

 だと言うのに傲岸不遜……とさえ言えないこちらを石か何かのように思っている態度を貫くのは、もはやどうかしている。

 

 それは当たり前の考えだった。

 

「川路警視総監殿」

 

 低い声がした。壁向こうの大穴から、刃の持ち手が声をかけてきた。

 

「なんだ、斎藤! ……こんな破落戸に手こずりおって、さっさとこのまま牢にぶち込んでしまえ! こんな危険人物、口を割らせるのに手加減する必要はないぞ! 拷問にかけてでも、あの男の事を白状させろッッ!」

 

 そうか、こいつは斎藤っていうのか……藤田とか言ってなかったか?

 

 左之助は自分に何度も白刃を突き立ててくれた男の名前を初めて知った。そういう奴の名前は知っておいて損はなかった。

 

「……早く逃げた方がいい」

 

「……何?」

 

 期待していた返事ではなかった為に、理解までが遅かった。

 

「そこはそいつの間合いだ。あんたの場所じゃない…あんたの場所は、もっと遠くだ。先ほどのように距離を取る……地上と三階ほど距離が開いて、ようやく安全だ」

 

「…………」

 

 聞いている内にどんどんと目が血走り、唇がひょっとこのように引き攣っていくのがわかった。川路警視総監殿は、自分がこれ以上ない程に侮辱されていると思った。

 

「斎藤……お前は、私がこんな若造の前にも立てない程に臆病だとでもいうつもりか? ええ?」

 

 指が引き攣り、極端に引き金が軽く感じる。川路の中からいいだろう、もう引いてしまえと言う声が声高に聞こえてくる。川路の中にいる川路達のほとんどがよし、引いちまおうとうなずいていた。

 

「悪いがこの状況となっちゃあ余裕がない。臆病だのなんだの言っている暇があったらさっさと出ていってくれ。署長、あんたもだ」

 

 斎藤だけを睨んでいる左之助は今の今まで気が付いていなかったが、彼らから少し離れたところで見覚えのある男が熊か何かを前にしているような引き攣った表情を隠せずに立っている。逃げ出したいが逃げ出せないと顔が語っている。

 

「警官だからかい」 

 

 左之助が、その男には声をかけた。斎藤だけを見て目が離せないと背中で語っている男が興味を抱いた。

 

「……?」

 

「それとも……このデコッパゲを見捨てられないからなのかい、逃げないのは」

 

「……それに、倒れた部下の事もある。私が君の存在を総監に報告し、それが本件の発端だ。だったら、私は逃げてはならない。警官として、上官として、それに今回の発端としてだ」

 

 男は脂汗をかいて、窓際から動いていなかった。そこにいたのは川路も同じだが、彼は左之助が転がり込んできた時に好機だと駆け寄ってきたのだ。

 

「署長! 何をしている。貴様も銃を抜かんかッッ!」

 

「…………」

 

「目の前に凶悪犯がいるんだぞ! 部下は一人もいないと言うのに、自分でやると言う意思を持たんでどうするッッ! 総監たる私だけにやらせるつもりか!」

 

 警察署長と、そのてっぺんに立つ警視総監。立場の違いは明白だ。

 

 だが、署長は総監の命令を無視した。正確には、聞けなかった。

 

 自分が拳銃を抜けば……あるいは少しでも動けば、この男も動く。そしてそうなれば、抵抗できずに瞬く間に蹂躙される。予感などと言う曖昧なものではなく、確信と言うべき予想があった。

 

「何をしているッ! 命令だぞッッ! 警視総監たるこの川路の命令が聞こえないのか!」

 

 自分はこの命令を応じなければならない立場にある。だが行動を起こした瞬間に自分たちは喧嘩屋にどういう目にあわされるのか……署長にはわかった。

 

 それは臆病風に吹かれた末の思い込みに過ぎないのか、それとも冷静な状況分析の結果であるのか。

 

 どちらにしても、板挟みにあっている彼は命令に従う以外の道はなかった。それが組織人としての当然の在り方であり、彼はその枠から外れる事が出来ない。

 

 彼が唇をかみ、仕方なくも自分にできる最速の動作で拳銃を抜こうとした。ホルスターに納められているグリップに手をかけようと指が触れたか触れないかの時に……ごきぃ、と音がした。

 

 なんと言うか、聞き慣れなくて例えようのない奇妙な音だった。あまりにもおかしな音で、つい元々乗り気ではなかった動きが止まってしまった。

 

「はえ?」

 

 それは今の今まで、頭に冷水をかければ即時に蒸発するのではないのかと思う程いきり立っていた男の上げた奇声だった。

 

「いい加減にうるせぇ。付き合っていられねぇよ」

 

 そう言った喧嘩屋は自分に突き付けられていた拳銃を逆に掴み取った挙句、川路の手首ごとひん曲げていた。

 

 今の奇妙な音は川路の手首が外れたか、最悪圧し折れた音だったのだ。

 

「ぎぎゃああッッ!?」

 

 痛みが脳天に到達したのと叫び声を上げ始めたのとどっちが先なのだろう。

 

 引き金を引くどころか膝をついて悲鳴を上げた警視総監を、左之助は手首を捻り上げたまま冷たい目で見下ろした。それは斎藤も同じだった。

 

「……だからすっこんでろと言ったんだよ」

 

「……だから逃げろと言ったんだ」

 

 全く同時に同じような顔をして、二人の男たちは吐き捨てた。

 

「……」

 

「なんだ」

 

「真似してんじゃねぇよ、警官」

 

「それはこっちのセリフだ、破落戸」

 

 腕をへし折られて必死に歯を食いしばっている男をしり目に、奇妙に息の合った様子で互いを睨む二人に第三者的な立場になってしまった署長はどうにもついていけない不気味さを感じる。

 

 ただ、彼らは互いを前にして軽口を叩きつつも油断は隙を見せなかった。

 

 壁に空いた巨大な穴越しに互いを睨みやり、間合いを計り、次の一合をどうこなすかを図っている。

 

 彼らの間にぴんと張られている緊張感はまるで水の底に引きずり込まれているかのように胸を締め付ける圧迫感となり、見ている男を竦ませる。何故、腕をへし折られて呻いている川路はこれに気が付かないのか不思議な程だった。

 

「所詮は……元維新志士という事なのか?」

 

 川路と言う男が明治維新においてどんな風に貢献したのかなど知らないが、仮にも警察と言う組織の中で一、二を争う地位に抜擢されているのだ。柔な生き方をしてきた男のはずがない。

 

 だと言うのに無造作に近づいた彼の鈍感さは何という有様だろうか。

 

 それこそ、銃口を目前にして平然としているような暴挙だ。実際には逆の立場であるにも拘らずのたうつ側に回ってしまったのは皮肉と言うのもおかしな結末だったが……

 

「ふうぅ……」 

 

 壁の向こう側に立つ眼光鋭い男が大きくため息をついた。

 

 なんでだろうか、それが誰かを馬鹿にしているような気がして……しかし追求は危険な気がした。主にどこかの誰かの堪忍袋の意味合いで。

 

「さっさと失せろ、喧嘩屋」

 

「あんだと?」

 

「本陣に殴りこんで散々暴れた挙句、大将の腕一本圧し折ったんだ。そろそろ手打ちもいい頃だろう」

 

 言いながら斎藤はさっさと刀を納めた。その一人で勝手に決め込む態度に左之助はいきり立つ。

 

「おい、寝ぼけてんのか? この糸目野郎!」

 

 理屈以前に勝手に決め込まれて話を動かそうとするのは腹が立つが、そもそも話がまだ終わっていない。

 

「そっちの署長も言っていたがな、大体てめぇらが俺にいったい何のうらみがあって夜討ちなんぞかけてきやっがたのか、まだ白黒はっきりしちゃいねぇんだ! そこんところ筋を通しやがれ!」

 

 悠長にさっさと煙草に火をつけると、大きく紫煙を吐きだした。

 

「大体話は察しているだろうに、面倒なガキだ……それとも、話が未だに分かっていないほど頭が悪いのか?」

 

「やっかましいわ!」

 

 殊更に冷静かつ静かな口調で煽られると尚更に腹もたつ。

 

「どうにもてめぇとはウマが合わねぇようだな、糸目野郎……散々人をコケにしやがって……」

 

「それについては同意だな」

 

 刀を納めれば自分が手をださないとわかっている態度が殊更にイラつく。腹だの肩だのから抜けていったはずの血が一挙に頭に上っていきそうだ。

 

「……今回の件は、明治政府が君の師匠を恐れているのが発端だ」 

 

 どうやら自分とこの男の相性の悪さは並大抵ではないらしい、と悟った左之助の耳に声が届いた。

 

「……」

 

「私も京都で戦った事はないが明治政府の人間だ。私程度の地位では大した事を知らないが、それでも京都の鬼については一度ならず聞いた事はある。ただの噂話……怪談のようなものとしてだったのだが……」

 

 目を向けると、冷や汗を流しながら語り始めた署長がいた。

 

 彼がちらちらと目を向ける窓の下には、未だに混乱の中で駆けまわる、あるいは地べたを嘗めて動けない警官たちが数多い。

 

 他でもない“彼の”部下たちだ。

 

「先日の武田観柳捕縛の際に緋村さんと君、そしてあの四乃森蒼紫と言う男が語り合っていた内容は私も聞いていた。先日、緋村さんの話を聞きに来訪された明治政府重鎮のとあるお方にその話もしたのだ」

 

 その時は、正直なんとなく話しただけの四方山話にすぎなかった。むしろ、彼こそが時折聞いた奇妙な噂話の真偽を聞きたいという程度だったのだ。

 

 それが藪から蛇を出してしまった彼の心境は押して図るべし。

 

「政府のお偉方だぁ? ……この野郎じゃねぇだろ」

 

「き、貴様ッッ! 浦村! 余計な口を利くな! ごびゃ!」 

 

 手首の痛みに脂汗を流してそれを止めようと泡まで吹いている川路だが、無言で左之助の繰り出した拳に脳天を直撃され黙らせられてしまう。

 

「唾までまき散らすなよ、きたねぇな」

 

「…………」

 

 本気で警視総監という肩書を屁とも思っていない喧嘩屋に冷汗一滴追加されてしまったが、ここまで行くと語り続けるより他にはない。

 

「それが誰かと言うのは言えない……ただ、私を通して事と次第を知った明治政府は、私からすると幻とも思っていた鬼のごとき男を恐れ、その弟子であるかのような君も警戒し始めた」

 

「…それで今晩、とうとう俺に襲い掛かってきたって事か。もっと手短に纏めろよな。つまりは腰抜け政府が師匠にビビった挙句に藪蛇突いたってことだろ」

 

 おまけに出てきた蛇は手に負えない。そもそも手に負えない男とその弟子だからこそ警戒していると言うのになんで安直に手を出したのか。

 

「……返り咲きの手柄欲しさに手を上げた宇治木達が、維新志士のよしみで抜擢されたのを止める事が出来なかったのがそもそもの原因。そもそも最初から同行どころか捕縛でさえなく、殺傷を目的としていた節があるからな……」

 

 ちなみに抜擢したのは、左之助にのされているどこかの誰かだ。

 

「それで済ませていい問題じゃねぇだろ。部下の暴走って、そりゃもちろんそいつもわりぃが上の責任だってあるだろうが」

 

「……」

 

 うなずきたいのだが、立場上それができない。そんな顔をしている。責任云々を説くならば彼は自分自身の今回の事件に対する責任を感じているようだが、なんと言うか……人のいい男だった。おおよそ、上にも下にもろくなのがいなくて苦労をしているような、それでも周囲に慕われているような……漠然とそういう人物である印象を受ける。

 

 こういう人間に強く出るのは、なんと言うか……いまいち本意ではない。

 

 最も、こういう時に頭を下げる事も出来ねぇからダメなんだ、とも思う。警察組織としての面子という物なのだろうが、失敗をした場合に下げた頭につられて崩れる程度の面子なんぞ最初から意味がない。

 

 子供でも分かっている話だが齢を取る程、そして集団となり輪の中にいる人の数が多い程に当たり前の事を受け止められない人間ばかりになる。喧嘩屋の破落戸でもわかっている事を、警官のお偉方はわからなくなっているのだ。いや、正確にはわかっているが力づくでごり押しすれば下げなければならない頭も下げずに済むと“わかっている”と言うべきか。

 

 なんだかよくわからない方向に偏り始めた思考を舌打ちで戻した

 

「……俺が師匠みてぇに見境なく暴れだすとでも思ったか? それとも近々師匠が帰国するから、人質にでもしようってのか? 嘗められた話だぜ」

 

「もうすぐ帰ってくるだとぉッッ!?」 

 

足元から素っ頓狂な声がして、頬には壁向こうからの強烈な視線が刺さる。

 

「……知らなかったのかよ」

 

 血走った眼をぎょろりと梟のように剥いて叫ぶ警視総監が、叫んだ拍子に折れた手首を床についたおかげで再度のたうち回る。痛覚神経を駆けまわってタップダンスまで踊る電気信号に呪いを吐きながらも必死になって荒い息を吐きながら必死になって左之助に言及しようとするのはいい根性と言えるのかもしれないが、川路に配慮をする意思など左之助には全くない。

 

「あ、あんな……あんな化け物が日本にいるなど他の誰が認めてもこの儂が認めんッッ! あれは明治政府を蝕む病の元だッッ! あんな奴を野放しにしてしまえば明治政府はお終いだッッ! 志々雄以前の問題だッッ!」

 

 志々雄、とやらを左之助は聞き逃さなかったが敢えて口に出したりはしなかった。明治政府に不都合な……例えば大西郷のような誰かが他にもいるのかとだけ意識したが、今はそういう場合ではない。

 

「あっそ。たかだか腕っぷしがつえぇだけの一人の男にへし折られるんじゃねぇかとびくびくしているようじゃ、明治政府の屋台骨もたかが知れてんな。いっそ圧し折った方がすっきりすらぁ」

 

「馬鹿を抜かすな! 明治政府なくして日本の繁栄はあり得んのだッッ! ふざけたこと抜かすと逮捕するぞ、破落戸がッッ!」

 

 容疑なくして逮捕を強行しようとした挙句に返り討ちに合った警察組織の頂点が、地べたを嘗めているこの男である。この状況でこうも威勢がいいのだから、肝っ玉の太さは大したものだ。

 

「それがお前らの驕りだってんだよ。たかだか男一人に怯えている癖に、その弟子が相手となると力づくで理不尽を通そうとしやがる。そんな無様な政府なんぞ、さっさと滅んじまいな。いや、師匠が手を下すまでもねぇ。そんな弱腰の腐った政府なんぞ、今の内に俺が潰しておいた方が世の中の為になりそうじゃねぇか」

 

 喧嘩屋は頭の天辺から尻の先まで正真正銘の本気でそう言っていた。自分たちを踏み台にして作り上げたのが砂上の楼閣だなどと、断じて認められない赤報隊の意地である。

 

 そんな真似ができるものかと笑う事は出来なかった。

 

 その痛烈な意志を籠めて三人を順々に睨みつけていくと誰も目を逸らさなかったが、それぞれの意味合いが違った。発端となった後ろめたさを抱きつつも事の責任を取らなければならないと歯を食いしばっている男と、引く事など考えた事もないとばかりに眼光を刃のように光らせる男と、そんなふざけた真似はさせないと烈火の怒りを抱く男がいた。

 

「……き、貴様は危険だ! あの男のように、あいつらのように明治政府に牙を剥く危険な反逆者だッッ!」

 

「馬鹿かよ、てめぇ。あいつらがどいつらか知らねぇが、俺に喧嘩を売ったのはお前の方だ。師匠が怖えからと言って、俺にも一緒くたに手を出してきたからこんな事になったんだよ。てめぇら明治政府の自業自得だ!」

 

 左之助にとってはそれ以外の何物でもない。

 

 同時に、川路にとっては危険人物の戯言でしかない。京都の鬼と畏怖される男の下で鍛えた元赤報隊の男など最初から危険人物であるに決まっているのだから。

 

「……野良犬よろしくにらみ合うのは結構だが……さて、どう決着をつけるか」 

 

 ぎょっとして斎藤を見たのは浦村だけであり、眼光でしのぎを削る二人は気が付いていないようだ……今なら斬りかかって獲れるか?

 

 いや、やめておこう。最も知りたい事は今知れた。

 

 あの鬼と呼ばれた人型の災害が一体どこで何をしているのか……何よりも、再び自分たちの前に現れるのか。

 

 壁向こうから両者のにらみ合いを見て、話をどう終わらせるべきかと眉間にしわを寄せる。

 

 うかつにこの喧嘩屋に手を出せば、鬼がどう出るのか……それがわからない分、こいつの命まで奪うわけにはいかない。

 

 藪をつついて既に十分面倒な事態にはなっているのだ。これ以上、上乗せで突いて藪から鬼まで出すわけにはいかない。

 

「しかし……あの鬼が弟子を採るようなタマとも思えんが?」

 

 にらみ合っている喧嘩屋は確かに大した腕だ。

 

 自分の繰り出した牙突が本当の意味で命中するまでに片手で足りない程に空かし、受け、時には返して見せた。確かにそれはそれで大したものだが……自分の記憶にある鬼とは流儀がまるで違う。

 

 あの暴力の化身と喧嘩屋とは名ばかり、拳法を身に着けていると断言できる男が師弟関係にあるとは思えなかった。

 

「なんでぇ、まるで師匠と会った事があるみてぇな物言いだな……そう言えばてめぇ何者だ? 新選組の生き残り……らしいけどな。生憎とせいぜい近藤、土方、沖田の三人しか知らねぇんだよ」

 

「ふん……まあ、そんな所だろうな」

 

 どれも後世まで延々と語り継がれること間違いないしと言い切れる三人だ。

 

 発祥、活躍、そして終焉までが花火のように燦然と輝きつつも儚い新選組と言う組織を代表する三羽烏。あるいは、たった一代限りの短い組織でありながらここまで名を残している集団は日本の歴史に存在しないのではなかろうか。

 

 かの赤穂浪士でも及ばない、日本史に輝く侍集団。

 

 幕末、維新と言う時代の節目を象徴する意味では、敗者であるからこそ勝者である維新志士でさえも及ばない。他の全ての幕臣が忘れ去られても新選組だけは忘れられるわけがないと言い切っていい。

 

「……ここまでの奮戦に免じて教えてやる。俺は斎藤一……元新撰組三番隊組長だ」

 

「ふうん……偉そうに……組長ね。ヤクザみてぇだが、って事はあの噂に名高い天才剣士と同格って事か。剣心との因縁は?」

 

「抜刀斎は、俺たち新選組にとっては決着のつかなった敵だ。特に俺を含めて一、二、三の組長は繰り返し京都で戦い続けたが、いつも決着はつかなかった」

 

「……なるほどな」 

 

 左之助は反射的にどちらが勝つのかを考えた。ここまでの手応えを考慮すると、癪だが目の前の気に喰わない新選組の方が強いと思えた。

 

 剣心は不殺を志して貫いている。

 

 それはそれで立派な事なのだろうが、どうしてもそれが剣腕を鈍らせているのは間違いない。

 

 ……目の前でこれ見よがしな悠長さを演出して煙草を吸うこいつは、いずれ必ず剣心に牙を剥くだろう。それもおそらくは相当に近いうちに……それは確信でさえなく必然だ。

 

 男と男が因縁に決着をつけないなど、左之助にとっては想像さえできない話だ。

 

「てめぇ……そのうち剣心を斬るのか」 

 

 だからどうした、と言われてしまえばぐうの音も出ないような稚拙な聞き方だった。未だに先の剣心達との物別れが響いているからこそ、そんな滑稽な聞き方をした。俺には関係ねぇだろ、という似合いもしない葛藤が彼の中にあった。

 

「その気にはならん」

 

「……何? 意外な事を言うじゃねぇか」

 

「俺が決着をつけると思っているのは人斬り抜刀斎だ。十年間もかけて鈍りきった流浪人などではない」

 

「…………」

 

 左之助は知りたいことがあった。

 

 全盛期の人斬り抜刀斎は、今の流浪人よりも強いのか。だとしたら、それはどのくらい違うんだ?

 

「ふん!」

 

「…………ッッ!」

 

 ふいに川路の足を捻り、膝と足首を挫く。

 

「この後、歩けるようになるかどうかは運次第……まあ、これでけじめとしてやらぁ」

 

 そのまま、誰かが何かを言うよりも先にだん、と高く音を上げて窓へと飛んだ。

 

「そいつが、ししお……って言ったな。師匠だけじゃねぇ、そのししおってのが今回俺に手を出してきた理由なのか」

 

「……だったらどうする?」

 

「お前らの一番いやな事をしてやるのも面白れぇ。そう思ったのよ」

 

 捨て台詞を吐くや否や、喧嘩屋は窓を蹴破って夜空の向こうに身を翻した。背中に染め抜かれた悪一文字が二人の男たちの脳裏に強く印象付けられる。

 

「……藪を突いてとんでもない蛇を出してしまいましたな」

 

「ふん……」

 

 つまらなさそうに息をついた男も、あの喧嘩屋はただの雑魚ではないと認めざるを得なかった。その証拠が、足先から痛みを脳天にまで伝えてくる。

 

 喧嘩屋の首を掻っ切ろうと切っ先を突き出す瞬間に、強烈に踏みつけられたのだ。おかげで思わず切っ先を止めてしまった。

 

 あんな若造に不覚を取った。

 

「……抜刀斎の事を鈍ったなどと笑えんか」

 

「……緋村さんか。事件を知ればここに来るだろうな。緋村さんには、私から説明しよう。でなければ申し訳が立たん」 

 

「もしかしたら、その必要はなくなるかもと思いますがね」

 

「……何?」

 

 新選組の生き残りは煙草を懐から新しく取り出して、火をつけた。

 

「いずれ、アレのところには政府から声がかかる……元々その予定だったんだろうが、今回の事件でそれは早まるはず。あなたには、むしろ口出しするなと命令が出るんじゃないかと思いますよ」

 

「…………」

 

 無言になる浦村の中にはどんな感情が渦を巻いているのか……それを斎藤は気にかけなかった。今回の事件が、自分が追いかけている本来のヤマにいったいどんな影響を与えるのか、そしてそれは往年の宿敵をどんな形で動かすことになるのか。

 

 それに頭が痛くなるような気もすれば……どこか高揚を感じている自分もいる事は自覚していた。全身に走るあちこちからの痛みという信号が、かつて京都で強敵と渡り合っていた頃の自分を蘇らせている……新選組の三番隊組長と呼ばれていた男が、自分の影から……いいや、幕末の京都の夜からゆっくりと起き上がってきている。

 

 自分の背後から二人羽織のように、それが重なってくる感覚を彼は楽しんでいた。

 

 

 

 

 

「……左之助?」

 

 誰かが自分の名前を呼んだ。

 

 指名手配されてからこっち、仲間たちの手を借りて隠れてはいても警官相手には分が悪い。

 

 二日間逃げられているのは、左之助がまともに動ける警官たちを大きく減らしたからだ。だが、いい加減にそれも限度が来ている。

 

 いい加減にまずい。

 

 突発的に起こった事件により塒を追い出され、さてこうしようと方針を決められる人間はなかなかいない。ましてや左之助は現在、他の目標に向かって邁進している最中だったのだ。

 

 切り替えなんぞ器用にできはしない。とはいっても、悠長な事を言っている事態でもない。

 

 さて、どうするかと漠然とした指標も見いだせずに頭から湯気が出るほどに悩んでいる左之助の背中にあまり馴染みのない声がかけられた。

 

「……誰だ、あんた」

 

 振り返った左之助は訝しんだ。

 

 一応、人目を避けていた左之助に声をかけてきたのは見覚えのない男だった。

 

 警官にもその協力者にもとても見えない風体の若い男。顔立ちは整っているがどこか陰気な雰囲気で、ハチマキと半纏をした職業不詳……何とはなしに見覚えがなくもないが……

 

「見てわからんか」

 

「あん?」

 

「……赤報隊の崩壊以来だからな、当然か」

 

「ッッ!?」

 

 決して聞き捨てできない名詞に目を見開く。赤報隊、その名前を口にするこの男がどこの誰なのか……左之助の脳裏に未だ色褪せない幼い激動の日々が浮かび上がり、その中から目の前の男を取捨選択していく。

 

 結論はすぐに出た。

 

「……お前、克?」

 

「元赤報隊準隊士、月岡克浩……本人だ」

 

 月岡克浩……赤報隊で唯一左之助と年齢、立場が同じ仲間だ。

 

「お前……なんでここに……」

 

「おかしな事を言う奴だ。今の東京でお前よりも名前が知られている奴はいないぞ、指名手配のお尋ね者」

 

 口元をほんの僅かに綻ばせた月岡の顔を見た左之助の表情からこわばりが消えた。

 

「なるほどな。ちげぇねぇや」

 

 自分でも意識しない間に相当の緊張をしていたのだと思い知った左之助を前にして、月岡が包みを持ち上げた。

 

「とりあえず……どうせろくなものを食えていないだろう。飯だ」

 

「おお! こいつはありがてぇや!」

 

 喜ぶ左之助の顔には怪しむ色が全くなかった。十年ほどだろうか、赤報隊が壊滅してから一度も出会っていなかった旧友との再会を彼は全く不思議に思ってはいなかった。無防備なまでの姿は、そのまま彼の中にある赤報隊への思い入れである。

 

 とりあえず、思うが儘に腰を下ろして差し入れをがつがつと貪る左之助。なんにしても、空腹だったのは間違いなかった。

 

 それが人心地をつけば、後は互いの過ごした時間を語り合う時間だ。

 

「お前はあれからどうしていたんだ?」

 

「おう……あの日、赤報隊が瓦解してからこっち一年だけある人の弟子をしていた。覚えているか? 処刑場の前でさんざか暴れまくったあの人」

 

「あの大男か」

 

「おう。あの強さに憧れてな。あの日……あの時、あれだけの力があればと思わずにはいられなかった」

 

「……」

 

 月岡は元々見るからに陰気だった。しかし、赤報隊の名前が出てからこっち輪がかかった。

 

「そうか……お前もこの十年、赤報隊を忘れられなかったんだな」

 

 俺も同じだ、と彼は背中に影でも背負っているんじゃないのかと左之助が真剣に疑った程に暗かった。そう言えば、こういう奴だったとも思い出す。

 

「お前……なんか昔に輪をかけて暗くなってんな……もしかして、今も友達いねぇのか?」

 

「…………」

 

「まあ、気持ちは痛ぇ程にわかるがな」

 

 あまり沈黙が金にはなっていない旧友につられたわけでもないが、彼も妙に神妙な気分になった。

 

「……それで、お前は今回何をやったんだ? 手配書は回っているが、そんな物を鵜呑みにするつもりはない」

 

 話をそらすと言うよりもまるきり気にしていないような様子で本題に入る。左之助もわざわざ追求するような話でもないので構わないが、ちょっと悲しくもなった。

 

「まあ、簡単に言えば俺の師匠が誰なのかって明治政府が今更に気が付いたらしくてな。なんでも幕末の京都じゃ維新志士に鬼なんて呼ばれる程に暴れまわったらしくて、いまだに恐怖の的なんだと」

 

「ほう……それは何とも痛快な話だな」

 

 おそらく、彼が今頭の中で想像している絵とは桁が二つ三つ違うと思う左之助だった。

 

「すると、お前は師匠の因果で捕まりかけたと?」

 

「まあそうだな。問答無用で寝込みを襲われて、そのままやり返して。理由がわからねぇから警察署に殴り込みをかけたら命令を出したのが師匠にびびっている警視総監とやらだってよ」

 

「……何? 警視総監? いや、それよりもお前警察署に殴り込んだのか!?」

 

「お? 知らなかったのか」

 

「手配書には曖昧な事しか書いていなかった」

 

 噂を探ろうにも愛想無しで陰気な彼には苦手な部類だった。実はこの男、人間嫌いで通っている。

 

「よく無事だったな」

 

「無事じゃねぇよ。肩だの腹だの刺されてろくな目にあっていねぇ。新選組の生き残りとかいうのがいてよ。そいつがまあ、むかつく野郎だったぜ」

 

 けろっとした顔で言う旧友に二の句が告げられない月岡だった。やっている事もでたらめで、そもそもできる事が無茶苦茶すぎる。更に言えば、月岡は知らないが素手の一人というバカの極みな真似だったのだ。生き残れなければ稀代の馬鹿として歴史に汚名を残していただろう。

 

 とはいっても、実は月岡自身も人のことは言えない。

 

「く……めちゃくちゃな男に育ったもんだな。おかげで俺の内務省を破壊する計画がおしゃかだ」

 

「……ああ? ……内務省?」

 

 聞きなれない癖に聞き捨てならない単語が鼓膜まで届く。

 

「……という事だ」

 

「……おい」

 

 顔面を手で覆って、いかにも頭が痛いですと言う表情の相良左之助。この男が人にそういう顔をさせても、自分がそういう顔をすることは稀だ。

 

「……今聞いたのをまとめると、だ」

 

「ああ」

 

「赤報隊時代に貯めこんだ火薬とかのやべぇ知識を使って自分なりに炸裂弾なんてもんを十年近く使ってちくちくちくちく夜なべしていたと」

 

「縫物みたいに言うな、面白い」

 

「そいつで内務省を木っ端みじんにする計画を秘かに立てていたと」

 

「ああ」

 

「しかも、仲間も一人もいなくて全部お前単独だと」

 

「他人なんざ信用できるか」

 

「……俺が大騒ぎを起こしたせいで予定がめちゃくちゃになって、調べといた警備の配置とかも滅茶苦茶になったんで、計画は一旦仕切り直しと」

 

「そうなる。まあ、気にするな。お前のやった事は、それはそれで痛快だったからな」

 

「…………そうか」

 

「ああ」

 

 左之助は自分の頬肉が痙攣しているのを自覚した。ひどく気持ち悪い感触だったが、止めるに止められなかった。

 

「馬鹿か、お前! なんつうか……馬鹿すぎるだろ、お前!」

 

 語彙のない左之助は、決して鏡に向かって叫んでいるつもりはない。

 

「失礼な奴だな。確かに馬鹿な計画だと自覚はしているが、それ以上に大馬鹿な真似を実行したお前にだけは言われたくないぞ」

 

 反論の余地は一つもない。

 

「そもそも……太平の世と大きな声で謳われている世の中に対して、敢えて違うとがなり立てるような真似をするんだ。馬鹿は百も承知でやっている事だ」

 

 月岡の顔は笑みを浮かべていた。左之助には言わなかったが、今回の事件を知るまで十年以上笑った事などなかった。だが、今回の事件を知って久しぶりに笑った。

 

 たった一人で、大声でもなかったが確かに唇は綻んだ。旧友と再会した今となっては、まるでかつての頃に戻ったかのように馬鹿な事ばかり口にしている。

 

「馬鹿でもなんでも構わない。世間の連中から見れば俺たちは危険人物にすぎないのだろうが……どうでもいい。俺にとっては、俺たち赤報隊に濡れ衣を着せた明治政府の連中もそいつらが作り上げた似非平和も糞くらえだ」

 

「……まあ、そいつはこの間もう一度思い知った事だがな」

 

 あるいは、左之助も平和を似非と嘲る言葉には否を唱えたかもしれない……この間までなら。

 

 だが、つい先日に政府の手でどうしようもなく腹だたしくも理不尽な目にあわされてしまえば太平も維新も元々感じていた以上に薄っぺらな政府の為のお為ごかしに成り下がる。

 

 確かに当人に問題は多々あるが、警察が左之助を捕らえようとした動機そのものは濡れ衣、あるいは言いがかりだ。親の因果が子に報うではなく師の因果が襲い掛かってきているなど納得も理解もしてたまるかと拳を打ち込みたくなる。

 

 相良左之助にしてみれば、これこそが正に彼が憎むべき権力の横暴。十年前に赤報隊に背負わされた悪一文字をもう一度上乗せる明治政府の“正義”だ。

 

「白を黒にする、善も悪にするのが維新志士の十八番ってな……」

 

「…………」

 

 既に遠い昔に別れた相手のようにも思えてくる流浪人達と初めて会った時に、そんなようなセリフを口にしたのを思い出す。

 

 我ながら、どこかで聞いたような口だ。だが、嘘ではないと証明された。

 

「……これからどうするか、決まっていないのだろう」

 

「まあな。今回の事は、寝耳に水ってやつだったからな」

 

 ふん、と腰を上げてみる。

 

「……どうする?」

 

「訳もなく暴れちまえば、迷惑かけたくねぇ連中にまで面倒かけちまう。かと言って、明治政府に頭を下げるなんざゴメン被る。あと、師匠との約束もある……そうだな、今思いついたが……下諏訪に行ってみるわ」

 

「下諏訪……俺たち赤報隊が終わった?」

 

「いい機会だ。隊長たちも墓がねぇからな……墓参りも兼ねて修行の旅に行ってみるわ。その後で師匠との約束を果たして……その後の事は生きていればだな」

 

 明治三年、相良塚(魁塚)と云うものが有志の手により作られた。場所は下諏訪……まさしく処刑場跡に彼らの死を悼んで拵えられた。

 

 この男は知らなかった。

 

 明治という時代では仕方がないのかもしれない。

 

「生きていれば?」

 

「こっちの話だ。それじゃ、ちっと行ってくる。お前……ここで俺と話した事を警察にとやかく言われたら脅されただの集られただの、好きに言っとけ」

 

 月岡は見損なうなと怒るではなく笑った。

 

「そうだな。俺は赤報隊の元準隊士で指名手配犯の仲間である月岡だと大声で笑ってやるさ」

 

 左之助もまた、にやりと笑った。

 

「やめとけよ。慣れていねぇのに大声上げっと顎が外れるんじゃねぇか?」

 

「抜かせ。なんで慣れていないと決めつける」

 

「昔っから仏頂面だったじゃねぇか。久しぶりに会っても変わってねぇ」

 

「お前も、相変わらずだ。警察署に殴り込むなど単細胞にも程がある」

 

「違いねぇ」

 

 どこぞの警官に似たような事を言われると腹が立つが、まあ旧友ならば再会祝いで許そう。実にしょぼい再会祝いである。

 

「おまえの分もみんなに報告しといてやる。なんて言っとけばいい?」

 

 悪一文字越しの背中がそう言うと、月岡は半纏の袖の中で腕を組んでさて何と答えたものかと眉をしかめる。なるほど、笑顔よりもしかめっ面の方が板についている男だ。日頃の表情からしてそういうものなんだろう。

 

「そうだな……」

 

 それが少年のように緩んだ。ほんの一瞬だけだが、間違いなく。

 

「俺はまだ赤報隊を忘れていない。それを伝えてくれればいい」

 

「あいよ」

 

 赤報隊を忘れていない。それは左之助も同じだ。だがそれはそれとして……

 

「……しっかし、あいつも内閣府に爆弾なんざぶっ放した日にゃあ無駄死にの挙句に歴史に名を遺す大悪党になっちまうぜ。俺の殴り込みも思いがけないところで怪我の功名だったんだな」

 

 彼は一度、適当な医師に頭骨の中身を診察してもらった方がいいだろう。

 

 

 

 

 一方、その頃。

 

 京都の海でも事件が起こっていた。

 

 上海の方面からゆっくり……ゆっくりと。

 

 一体どんな能無し船員が動かしているのか、あるいは酔っ払いが動かしているのかと真剣に疑いたくなるほどに鈍間な動きで船が一艘やってくるのだ。

 

 いい加減な操船で動かされているようだが、それに反して相当に大きな船で、しかし奇妙におんぼろな有様は今にも自然と崩れ落ちそうな程だ。舳先だの艫だの言わず、竜骨から真っ二つになってしまいそうな程である。

 

 見た目も相まって、あまりにも鈍間な動きは不気味ささえ演出しており幽霊船ではないのかと大の大人が深刻に不安に思うほどである。

 

 一体、どこの間抜けがこんな操船をしていると言うのか。どんな三流船会社でも雇わないほどに船員失格だろう。

 

 ……幽霊戦の船員はいったい何者であるのか?

 

 もしも誰かがわざわざそれを見ようと船に忍び込んだのであれば、どんな豪胆な海の男であっても腰を抜かしてしまう目にあったに違いないだろう。

 

 船の甲板には人目も憚らず堂々と、地獄の鬼がいたからだ。

 

「……ふん……頭目以外はつまみ食いにもならねぇ三下以下しかいやしねぇ……上海マフィアとやらも名前ばかりか……」 

 

 数多の屍、あるいは半死半生の男たちが山になっていた。

 

 あらゆる骨をへし折られ、顔中の穴から血を流し、関節は決して曲がらないはずの方向へと無理やり曲げられていた。

 

 誰一人としてうめき声さえ上げない。

 

 死屍累々。

 

 それを山とした頂点にどかりと腰を下ろし、いかにもつまらなそうな不平面をしている赤毛の鬼が聞こえよがしに舌打ちをする。

 

 血の匂いを凌駕する硝煙の濃厚な匂いが漂い、銃弾の跡も無数。あるいは爆発物でも使用したのかそこら中に痕跡がある。

 

 誰でも一目でわかるだろう、ここで起こったのは間違いなく戦争だった。

 

 一体どんな理由で起こったのかなどは定かではない。ただ、これらの屍をじっくりと観察していけばおかしな点に気が付くだろう。

 

 殴られたらしき跡が残っている者は数多くいても、銃弾で撃たれた者や斬られた跡などを持つ者が極端に少ない。

 

 そして、何よりも鬼の五体にはなんら武器が備わってはいないのだ。

 

 

 奇妙なそれらの疑問を抱いた誰かがいたとしたら、その注意力でやがて気が付くだろう。

 

 

 これ等は皆、素手で殺害……あるいは“破壊”された者たちなのだ……と。

 

「亜……」 

 

 鬼の他に一人だけ、生きている男がいた。

 

 白い髪の若い男で、手には刃先が中ほどから折れている大陸風の装飾が施された剣の柄を握っている。

 

「キ、様……貴様ハ、何ダ! 何者ダ! 何故俺達ヲ襲う!?」 

 

 奇妙な発音の日本語だった。服装も大陸風であり、恐らくは日本人ではないのだろう。

 

「ほう……まだ生きていたか。その顔に浮き出ている血管のような物の力か?」

 

 本気で感心しているような鬼の言葉の通り、男の貌には奇妙な何かが浮き出ている。 

 

 皮膚の内側で血管が浮かび上がっているような……そんな人間離れした姿だ。

 

「それが何かは知らんが……もしや神経という奴か? 動きの速さと精度が跳ね上がったな。面白い技……ではないな。体質? なんにしても珍しくも強力……楽しませてくれたな。褒めてやる」

 

「ほざ、クナ……」

 

 男は必死に立ち上がろうとした。

 

 だが、悲しいかな既に力はない……目には強い殺意と怒りを湛えつつも、手足には力は入らずまるで虫のようにのたうつだけだ。

 

「貴様は……貴様は何だ! ようやく人斬り抜刀斎への復讐を始められる、今この時に……何の為に俺達に……何者だ、日本政府の者じゃないダロウ! 志々雄の手先か!?」

 

「人斬り抜刀斎? 志々雄……聞いた事がある様なないような……まあ、何にしても手先とはご挨拶なボウズだ」

 

 くく、と笑う男の貌は、笑みを浮かべていると言うよりもまるで牙を剥いているようだった。

 

「俺は範馬勇志郎……ってモンよ。お前らに喧嘩を売った理由は……」

 

 そして、男の背中にも……鬼のような肉の面が恐ろしげな表情を浮かんでいた。

 

「馬鹿弟子がどっかに行っちまったんでな……まあ、あれを食う前の……前菜ってやつだ。少しは食い応えがあったぜ、お前ら」

 

「ふざけるなぁッッ!」

 

 必死になって立ち上がった青年。だが満身創痍の体は主の意思に応える事が出来ず膝は笑い、剣は柄だけのままで今にも取り落としそうだ。

 

「殺す……俺の復讐を邪魔する敵はどこの誰だろうと……殺すッッ!」

 

 それでも一歩一歩範馬勇志郎へと歩みを進める姿は、あるいは感動的でさえあったのかもしれない。

 

 だが、鬼がそんな軟弱な感動など感じるはずが……ない。

 

 鬼の前にたどり着いた青年の頭上に、影が差す。

 

 何かを叩き潰す鈍い音が……波音の合間をすり抜けていった。 

 

 

 

  



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