華琳逆行 (にゃあたいぷ。)
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冒頭.

新年なので初投稿です


 後漢末期、

 黄巾の乱より続く戦乱により、群雄割拠の時代が訪れるも数多の戦を経て、天下は三分される迄に至る。その内の一国である蜀は呉に攻め込まれたことで降伏し、国体を保つも覇権争いから脱落。天下の行方は魏と呉の二国に委ねられることになった。

 そして今現在、中華全土の民草が見守る中、魏と呉による決戦が起きようとしていた。

 先ず魏軍本隊は荊州襄陽より南下し、呉の勢力下にあった広陵を占領する。そこで荊州水軍を手に入れた魏軍は長江沿いに揚州、呉本拠への侵攻を開始する。それに対して呉軍は烏林、赤壁にて、錦帆水軍を中心とした艦隊を展開して迎え撃つ構えを取る。

 この時点で魏と呉の兵力差は倍以上、圧倒的な兵力と国力を持つ魏軍、呉軍の敗北濃厚と世間では見られていた。

 ただそれも呉の鬼才周瑜、老将黄蓋の打った一手によって全てが覆る。

 

 

 天命は尽きた。

 

 焦げた髪先、煤汚れた身体。遠方で燃え盛る船団を見つめながら、私は天意から見放されたことを悟る。

 ゆらゆらと揺れる炎に当てられて岸壁が真っ赤に染まる光景は、まるで曹魏の旗が焼かれているようにも感じられた。今まで積み上げてきた全てが無残に崩れていくような感覚に陥りながら、船団が燃え堕ちる様を少女は呆然と眺める。川から岸へと逆風が吹き込んでくる。飽和した熱量を伴った空気が肌を焼き、風に乗って煌めく火の粉が肺を焦がした。

 ああそうなの、負けてしまったのね、と他人事のように呟くことで漸く敗北を自覚する。

 

 その瞬間、ズキリと鋭い痛みが脳裏に過ぎった。

 これまでの全てを呑み込んでいく業火を眺めている内に、胸の中にあったはずの情熱が薄れていくのを感じた。

 悔しくないはずがない、こんな敗北を喫して奮起しないはずがない。しかし魂を奮い立たせようとしても燻る情熱が往年の熱量を取り戻すことはなかった。何か、致命的な何か気付いてしまった気がする。今にして思えば、あの船団から逃げる時も私は落ち着き過ぎていた、生への執着を持ち切れていなかった気がする。

 ここで朽ちるのも仕方ない、それもまた天運だ、と無意識の内に受け入れていた。

 

 此処まで来い、と笑っていた。この私を倒してみろ、と楽しんでいた。

 

 あの時、私は愛鎌の絶を目の前に翳して、逃げる訳でもなく迎え入れる。

 孫呉の将兵が血路を開く想いでの猛攻を、我が曹魏の将兵が決死の覚悟で食い止める。

 嗚呼、これが――孫堅ならば、鋭い剣閃が私の首筋を捉えたことだろう。孫策ならば、今私が立つ場所まで辿り着き、今頃刃を交える頃合いだ。馬騰ならば、陶謙ならば、一矢を報いるための一撃を私に叩き込んでいる。劉備は、まあ、あれは無理か。武勇を誇る奴ではない。私が項羽(覇王)と称するならば、奴は劉邦(高祖)に当たる。精々、関羽(韓信)辺りを遣わせて、私の喉元に剣の切っ先を突きつけるのが関の山だ。

 では孫権ならば、どうだろうか。

 江東の狂虎と呼ばれた英傑の娘、小覇王と称された英傑の妹。意地を見せてみろ小娘、此処に曹孟徳が居る。此処まで来い、今代最高の英傑が此処にいる。貴様の乗り越えるべき壁が此処に在る。此処まで私を追い詰めたのだ。最早、可能性は二つに一つというところまで来ている。ならば来い、此処まで来い。この程度の障壁、英傑ならば跳ね除けて然るべきだ。

 期待した、楽しみにしていた。心が湧き踊った。

 怒声が飛び交い、数多の剣撃に火花が咲き乱れる。誰も彼もが命を賭して、己の信じる道のために戦っている。

 その最中にあって、私は待ち続けた。

 

 結果として、私の期待は裏切られた。

 

 此処に私が居て、今もまだ息をしているのが証拠だ。

 孫権はやはり英傑足り得ない。期待はしたが劉備という大器を得て、漸く私と対峙できる程度の人物であった。

 そこまで考えて、ふと思う。何故、私は残念がっているのか。

 

「華琳様、早く逃げましょう!」

 

 その答えを見つける前に、猫耳の被り物を被った側近に呼ばれて思考を切り上げる。

 敗走中、目前のことに集中できず、側近の指示に従い続けた。

 

 さて、これからどうしようか。どうしたものか。

 とりあえず落ち着ける場所まで逃げ延びた私は、今後について思考に耽ってみるが不思議なことに何も思い浮かばなかった。

 これから先、訪れるはずの未来を想像するのは日常茶飯事、戦時中においても常に戦後の事や政務について思考が回っていたにも関わらず、今この瞬間に限って異常なほどに何一つとして思い付かないのだ。疲れているだけだろうか、それにしてはやけに頭の中がスッキリとしている。普段は考えることが多すぎて、考えずにはいられなくて、常に頭脳を酷使して恒常的な頭痛に苛まれてきたというのに今日に限り不思議なほど頭が痛くならなかった。

 きっと疲れているだけに違いない、なにも考えられないほどに私は疲れ切っているのだ。

 何故なら、ほら、こんなにも体が重たくて、力が入らないのだ。

 

 長い逃亡劇の最中、

 私は今までの人生でなかった程、熟睡してしまっていた。

 それはたった数時間の睡眠、されども数時間、何時もよりも長い時間が過ぎても私が起きなかったので周りが騒めき立つ程の事態になり、その騒めきに私が目覚めなかった事がまた周りに心配を募らせる結果となった。体調の心配をされたが、むしろ調子が良いくらいだ。体は軽く、頭は冴え渡っている――にも関わらず、深く思考ができない、集中する事ができないことは異常と云えば異常かもしれない。先述した通り、体調は悪くなかった。むしろ心は落ち着いており、何時もよりも安定していると言っても良い。胸中は穏やかだ、不気味なほどに。心が揺れない、魂が揺さぶられない。吹き荒れていた激情の数々が今は鳴り止んでいる、心が凪いでいる。

 深い溜息、頭を振って気を取り直そうとした。

 

 幸い思考力は落ちても、まだ判断力は残っている。

 やるべきことは分かっている。先ずは現状を確認するために情報を収集しなくてはならない。各地に敗走した軍を掌握し、集結場所の指定、戦線の再構築を行いながら軍の再編を進める。兵糧はどれだけ残っているか、不足分の輸送の手続きもしなくてはならない。また民草に無理を強いることになると思えば億劫だった。

 本当であれば、この戦いで雌雄を決することもできたが――大敗を喫した今となってはもう早期決着も難しい。

 

 そして、思い至る。ああそうか、と。

 

 このまま戦乱を続ける必要が本当にあるのだろうか。

 呉蜀同盟。表向きには対等な関係で結ばれた同盟であるが、その実態は蜀が呉に降伏して服従するものだ。無論、蜀には益州の統治が任されているが、あくまでも呉が認めたという形になる。

 劉備が覇権争いから実質的に脱落した今、この大地に残る英傑は一人しか残っていない。改めて口惜しく思う、今だからこそ彼女の存在が勿体なく思える。劉備には大器がある、素質だけならば私と同等だ。見ている先は同じ場所にあり、眺める景色は同じ高さにある。きっと、私の方が成熟するのが早く、少しだけ策を思い付くのが速いだけに過ぎない。しかし私が想定した以上に展開が速い激動の時代に、晩成型の彼女が成長しきるまで時間が足りなかった。

 あと少しだった、私が倒すべき英傑は孫策。そして劉備。あと二人を倒すだけで私の望んだ名声まで手が届いた。

 

 私が必要としたのは、戦う前から相手の戦意を挫く程の圧倒的な武名だった。

 この広大な大地を異民族から守るために、曹魏の名を聞くだけでも震え上がるような武名を追い求めて、動乱の世で戦に明け暮れる。その身、その名、その刃を血に染める。大地には数百万という屍を築き上げて、数多の英傑を地に叩き伏せて踏み越える。その先にあるはずの輝かしき未来を求めて、必死に手を伸ばし続けた。

 あと少しだった、あと孫策と劉備を倒すだけで事足りた。

 しかし今はもう居ない相手のことを言っても仕方ないことだ。まだ一縷の望みがあるとすれば、それは他者を寄せ付けないほどの圧倒的な武勇を行使して、この大地を一気呵成に占領しきることであった。

 その希望も先の決戦で敗北したことにより潰える。

 

 だから、ああそうか、と思い至る。

 

 この戦いには、もう私の勝ち筋は残されていなかった。

 民草の事を第一に考えた時、そして私の野望を思った時、私に与えられた役目は一つしかない。

 私に勝利はなく、目的を達成する手段だけが残されていた。

 

 私は項羽と劉邦で云うところの項羽だ。

 私が突き進む道は覇道であるという自覚はあるが、覇王や魔王をといった類の存在を目指してきた訳ではない。乱世の姦雄であって、治世の能臣。つまるところ私は本来、指導者に成り得ても頂点に立つような存在ではないのだ。もし仮に王の立場になったとすれば、民草の仕えるような――即ち公僕として生涯を費やすに違いない。そういう意味では私は項羽足り得ても、項羽成り得ることはないと云える。だが、天意が私に項羽(倒すべき大敵)足れと望んでいる。

 そして、この大地には項羽足り得る存在は最早私しか残っていなかった。

 

 とはいえ負けるつもりで戦に臨む気はない。

 まだ天命が私に生きろと望むのであれば、私は私が生き続ける限り、他の誰でもない曹孟徳として在り続ける。

 統一には時間がかかるかもしれないが呉蜀を倒すだけならば、難しいことではない。その場合、勝ち取った平和は私が生きている間という限定的なものになるだけだ。そうなることを私は望まない。しかし、それでもだ。曹孟徳が負けを容易く受け入れるだろうか、徹底的な現実主義の下、常に最善を追い求めてこそ曹孟徳である。

 滅びることが定められていると云うならば、限界まで時間稼ぎをしようではないか。

 私の死後、順当に行けば曹魏は異民族に攻め入られて蹂躙された後、異民族によって分割統治されることになる。そうなる前に私と同等か、それ以上の人材が世に輩出されることに一縷の望みを託すとしよう。

 今は目の前の難敵、孫権と周瑜に意識を向ける。

 

 この一戦、黄巾の乱より続いた長き動乱の総仕上げになる。

 

 私が今持てる全力を尽くそう、私が今出せる本気で相手をしよう。この曹孟徳が最大の障壁として立ち塞がろう。

 今はまだ江東を治めるだけの器に過ぎぬ小娘。劉備という大器を得て、漸く天下に手が届く程度の矮小な存在で我が覇道を阻んだ罪は重く大きい。そこまで抗うというのであれば仕方ない。貴様が生きるその価値を天下に示してみせろ、此処には都合良く貴様の器を推し量るに丁度良い存在がいる。最早、揚州と荊州だけを守り切れれば良いという温いことは言わせない。器が足りぬと云うのであれば、せめて天下を差配するに足る気概を見せて欲しいものだ。

 では最後に月並みながら、こう告げよう。

 

 この曹孟徳を超える覚悟が小娘風情にあるのかしら。曹孟徳を倒す、という事はつまりそういうことよ。

 

 

 開戦後、結果は曹魏の惨敗だった。

 呉蜀の奇策により、将の動きを封じられた結果、本陣深くまで攻め入られる。

 敗北は悔しくなかった。ああやっぱり、と思うだけだ。私の感じた天命は正しかったのだ、と再確認するだけの作業に過ぎない。

 思えば、孫権と対峙した時から心が熱くなる事はなかった。まだ劉備を相手にすると考えた方がまだ気分が上がる。赤壁で苦肉の策に嵌った時も心が揺さぶられる事はなかった、してやられたと心が躍ることもない。敵将が肉薄するところまで追い詰められた時も心は落ち着いて居た。

 何時からだ、何時から私はこうなった。考えるまでもない。

 ふと目を閉じる、瞼の裏に浮かび上がるのは薄い赤色の挑発を翻し、激情を身に纏う孫策の姿。劉備は間に合わなかった、彼女だけが私の敵足り得たのだ。嗚呼、惜しいな。実に口惜しい。吹っ切ったはずなのに、未だに私は彼女と雌雄を決することができなかったことを悔いている。

 此処、今に至っては取り繕う必要もなくなり、悲観的で破滅的な考えが次から次に思い浮かんだ。聡明な頭がいち早く結論を導き出し、その結論による結果を手繰り寄せるように理由と憶測を後付けする。

 もうこの大陸で私がやるべきことはない、担うべき役目もない。これ以上、此処に残る事は害悪でしかなかった。

 自害して果てる、それこそが曹孟徳の導き出した結論である。

 

「考え直してください。自害してしまえば、何人が貴方の後を追うことになるか……」

 

 悲観に悲嘆を重ねていると長年付き従ってきた側近、桂花がじっと私を見つめて戒める。

 不安と絶望、悲哀をその瞳に宿して、それでもどうにか止めなくては、と絶対の意思を持って私のことを見つめる。まるで捨てられそうになる猫のように深刻で可愛らしい顔をしているものだから、思わず笑ってしまいそうになった。

 ふと思い返されるのは開戦前、曹魏は曹操なしでは成り立たない、という小娘の言葉だった。

 

 そこで少し考えてみる。

 果たして彼女達は私が居なくても生きることができるのだろうか。

 恐らく大丈夫だ、ただ一人を除いて己の道を歩むはずだ。

 

 春蘭と秋蘭も最初こそ落ち込むだろうが、いずれ自らの足で立ち上がると信じている。

 これからの大陸の発展に貢献せよ、と道を示してやれば後追いも道を踏み外すこともない。他の者達も似たり寄ったりではあるが、私の配下は全員、自分のことは自分で考えることができるだろう。なんせ私の自慢の配下達なのだ、できないとは言わせない。

 しかし目の前の少女、涙を目に溜めて堪える猫耳の少女はどうだろうか。

 

 失笑する、そんなの決まっている。彼女だけは私の後を追って死ぬ。

 今、この場で生きろと告げれば自害はしないだろう。しかし世に対する失望と憎悪を噛み殺す形相を浮かべる彼女をみると、呉蜀への反乱を企てて失意の中に死んでいく姿が容易く想像できる。

 それは駄目だ、私の死に彼女を道連れにはできない。それは私の望むところではない。

 問題なのは、桂花が反乱を企てることではない。桂花が幸せを掴めない、幸せを掴む気がないことが問題なのだ。愛しくも未熟な彼女を置いて、どうして死ねようか。

 どうにも私はまだ死ぬ訳にはいかないようだ。

 

 嗚呼、どうしたものか。と此処で初めて天を仰いだ。

 

 これから大陸から消えるにしても、その供に桂花だけを連れて行く事は難しいだろう。

 少なくとも春蘭と秋蘭は確実に付いてくる、そうなると他の者も私に付いて来ようとするはずだ。それはそれで私の本意ではないが、いやしかし、これが最も私にとって後腐れがない選択なのかもしれない。

 私を慕う者達を全員引き連れて、東方にあるという島国でも目指して海を渡ってやろうか。

 そんな思い付きで荒唐無稽な話を切り出せば、それでも構わない、それで良い、と配下達が陽気に答えてみせる。慕われ過ぎるのも考えものだ、これだけの人材を引き抜くのは大陸にとって大きな損失だろう。しかしこれも一度、天下を目指した者の宿命なのかもしれない。

 私の命が尽きるまで彼女達の面倒を見ることが私に与えられた最期の使命なんだ、とそう思うことにした。

 

「では儂が先導仕ろう。貴君を新たな外史の礎とするために―――――」

 

 その時、筋肉隆々の漢女が突如として現れた。

 反応する前にぐにゃりと空間が歪んだ。闇の中に吸い込まれるように、底のない深淵に落ちるように、やがて私の体が飲み込まれる。

 何が起きたのか分からないまま意識は強制的に落とされた。

 

 

 記憶を取り戻したのは八歳の時、 

 初めて夏侯惇と夏侯淵の姉妹と顔合わせした時だった。

 唐突な前世の記憶の覚醒に頭を抱える、二人から心配されてしまったが大丈夫だと伝える。

 まだ記憶に錯乱はあるが、なるほど、そうかなるほど、幼い時から自分に知らないはずの知識や妙な既視感を覚えることが多かったが、それもこれも前世の記憶が私の中で眠っていたとすれば説明が付けられる。

 私は敗れた、誰を相手にしたか覚えていない。しかし負けた、納得して負けた。

 記憶に穴がある、思い出せない顔がある。名前がある。とはいえ夏侯惇と夏侯淵に関する記憶を思い出すことができ、そして最初から最後まで付き従ってくれた二人だからこそ、これから先の大方の歴史を思い出すこともできた。

 そうか、負けたのね。私は負けてしまったのね。

 

 急に思い出した前世の記憶に悲嘆していると、二人が心配そうに私のことを見つめていた。

 どうやら体調を心配してくれているようだ。今度はきっぱりと心配は無用と告げて、そして二人を私の私室へと招き入れる。

 私では天下を取る事はできない、そのことは良い。夏侯惇と夏侯淵と共にいた記憶の他に、思い出した人物がいる。真名は分からない、名も分からない。顔も分からない。でも私が英傑と認める存在がいた、片方はまだ未熟だったようだが、もう片方は確かに私が英傑として認めて、私も英傑として対峙しようとした。そして二人の英傑と雌雄を決することができなかったことを前世の私は悔いた。

 私のやり方では天下は取れない、その事は分かった。曹魏は曹操が居なくては成り立たない、たった一人に依存していることが曹魏の抱える問題の一つだった。ならば次はどうするべきか。知識はある、記憶もある。経験もある。ならば伝えることができるはずだ、教えることができるはずだ。

 私は私室に招き入れた二人に振り返り、そして軽い調子で告げる。

 

「貴方達、王というものに興味はないかしら?」

 

 その言葉に二人は目を見開き、そして互いを見つめあった。

 私が一人だから問題だと言うのであれば、私と同じ立場、同じ景色を見られる存在を増やせば良い。

 そんな単純な思い付きからの提案だった。




更新は遅くなると思います


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第一篇.

・曹操孟徳:華琳(かりん)
曹家嫡子、逆行者。

・夏侯惇元譲:春蘭(しゅんらん)
夏侯姉妹の姉の方。

・夏侯淵妙才:秋蘭(しゅうらん)
夏侯姉妹の妹の方。


 前世の記憶を思い出してから数ヶ月、

 あれだけ情熱を燃やしていた野心に対しては、前世ほど固執しなくなっていた。

 前世で後悔することは少なからずあったようだが、やるだけのことはやったという自覚はあるし、今更同じことを繰り返す気にもなれない。一種の燃え尽き症候群のようなものだろうか。とはいえ私が立ち上がらなければ魏国は成立しないし、私自身が大陸を治めることが大陸にとって最も良い結果だという自覚はある。

 そもそも前世で私が覇を唱えた理由も、天下を差配するのに私以上の人物はいないという自負故だ。

 権力そのものには興味がない。もう少し漢王朝がしっかりとしていれば、私は漢の忠臣として働き続けていたに違いなかった。そして、私が目指した夢を他者の手によって成されるという結末を見た身としては、いまいち覇道を目指すことに対して気乗りしないのだ。

 上手く頭が働いてくれない、思考力の劣化が著しい。いずれ時間が解決してくれるだろうか――とりあえず今は目の前のことを順番に処理していこうと考えている。

 そして万が一のことを考えて、私は私の代わりに魏国を引っ張ってくれる存在を育てなければならなかった。

 

 さて、この時期の私は本来、曹家にあった書籍を全て読破すべく読み漁っている頃になる。

 春蘭(夏侯惇)秋蘭(夏侯淵)は夏侯家で自己修練に励んでいたはずで、当時から武一辺倒だった春蘭(しゅんらん)を補うように秋蘭(しゅうらん)が用兵書を熟読し、その関係で少なからずの政務を学ぶことになった。

 しかし今世での二人の動向に変化が起きている。

 

 此処、豫州沛国にある母曹嵩の屋敷にある庭、

 春蘭の気合の入った声が響き渡り、金属音が幾重にも折り重なる。

 今、私の目の前には春蘭が膂力に任せて、刃を潰した剣を振り上げるところだ。前世では魏軍で一、二を争う武力の持ち主、その気迫は幼少期の時点で既に並の大人達を凌駕している。武に関しては天賦の才覚を持っており、その才覚は天下無双と称えられた武の化身にも匹敵した。

 だが、今はまだ未熟だ。

 振り落とされる一撃、それを縦に構えた剣で横に逸らした。前世では、この時点でもう私は春蘭どころか秋蘭にも及ばなかった。それ故に武は自分の身を守れる程度にして、用兵や政務の勉学に知識を費やすことになるのだ。だが今は前世から継承された経験と技術がある。まだ荒削りな春蘭の剣撃であれば、辛うじていなすことはできた。

 それでも規格外の膂力では完全に春蘭の攻撃を逸らすことは難しく、体全身を捻ることで連撃を避け続ける。それを観察する秋蘭は「まるで舞っているように優雅だ」と感想を零すが、容赦も遠慮もない春蘭の攻撃は避け続けるだけでも必死なのだ。事実、攻撃に転ずることは難しく、隙を見つけて攻撃しても、次戦う時にはもう修正してしまっていた。

 まだ私の方が勝率は高いが、いずれ抜かされることになるだろう。

 

 攻めあぐねた時、相手が疲れるまで受けに徹するのが私の基本戦術であるが――、

 

「はあっ!!」

 

 と気合を込めた一撃を受け流しきれず、両手が痺れる。

 視線は春蘭の次を見ていた。しかし手をまともに動かすことができず、足だけでは続く攻撃を避け切れない。それでも身を守る為に腕だけで剣を構える。受け止めた――が、余計に腕が痺れる結果となり、次の一手が遅れて、春蘭の更なる襲撃に晒される。そのまま反撃に転じることができずに追い詰められて、遂に握力を失った両手から剣を叩き落される。

 そして、首筋に突き立てられた春蘭の剣先に私は両手を上げて、敗北を認める他になかった。

 

 汗ばんだ体を使用人が用意してくれた手拭いで軽く拭き取る。

 あれから何度か春蘭と手合わせをしたが、勝率だけを見れば互角、内容で語れば私の方が経験が豊富というだけで純粋な力量だけを語れば春蘭の方が上だった。これでも前世の時よりも強くなっているつもりだが――もう私の領域まで匹敵する春蘭には驚かずにはいられない。

 逆に春蘭は自らと互角の戦いをする私に好敵手であると同時に、勉学にも優れていることから尊敬の眼差しを受けており、彼女の妹である秋蘭からは「同年代で姉上と互角に戦える者がいるなんて……」と驚きを隠せずにいた。そして、その秋蘭は前世の時と比べると実力が劣っているように感じられる。

 弓の腕前は相変わらずだが、どうにも一騎討ちといった武力に対する鍛錬は怠っているようだ。

 代わりに母の屋敷にある書物を読み解くことに力を入れており、政務や経済に関することまで知識を蓄えるようになった。

 

 歴史を変えるということは、どうにも良い面ばかりが浮かび上がるわけではなさそうだ。

 尤も秋蘭が政務もできるようになれば、損失に対して余りある利益となるので気にすることではないが、前世で得られたものを今世では得られないかもしれないと悟る。少なくとも私は既に大きなものを二つ失っている。

 それは春蘭と秋蘭に手を出していないということだ。

 前世ではまだ成人する前、屋敷の書庫で房中術の指南書を見つけた私は持ち前の好奇心から二人に手を出したのが始まりとなる。所謂、若さ故の過ちというものだ。それ以後、肉体的にも精神的にも私に隷属することになるのだが――前世の記憶と経験がある私は節度を弁えており、今の段階で二人を手篭めにしようとは思わなかった。というよりも私の主義に反する。

 求められれば応えもするだろうが、自分から彼女達を求めることはしないと心に決めている。

 少なくとも、今はまだ。

 

「如何なさいましたか、華琳様」

 

 そう秋蘭に問われた私は、なんでもないわ、と悶々とした気持ちを抑え込んだ。

 私が房中術に嵌ったきっかけは頭痛が原因となる。常日頃、何時如何なる時であっても頭痛に苛まれていた私は夜中に寝付くこともできなかった。それが女体を貪っている時に限り、頭痛が和らいでいたのだ。絶頂後であれば、まともな睡眠を取ることもできるし、翌日の頭の回転は段違いに良かった。それから暇があれば、春蘭と秋蘭を虐めるようになり、二人が居ない時は別の女性を手を出し、時には学友の想い人を寝取るまでになった。その原因である頭痛も今世では鳴りを潜めており、今のところは激痛に苛まれる心配はない。

 ただ毎日のように続けてきた性行為。それは着実に私の心を汚染し、性欲を育み続けてきた。

 下手に自制が効く分、まだ私は慰めてくれる相手に恵まれていない。

 

 ――この歳で既に自慰中毒に陥ってるだなんて言えないわね。

 

 二人の匂いを嗅ぐと意識する。

 あれだけ体を重ねて愛し合った相手の幼い姿というだけでも、正直なことを言えば興奮するのだ。

 しかし、その想いは胸中に収めるだけに留める。

 

「少し休憩したら勉学に励みましょう」

 

 愛情よりも性欲が強い今、二人を抱く資格が私にはない。

 うんざりとした顔を見せる春蘭と、喜々として目を輝かせる秋蘭。二人を私室へと案内して、勉学に励まさせる。春蘭には課題を渡して読み解かせ、秋蘭は気付いたことや疑問に思ったことを報告させる。そして私もまた読書に励んだ。

 こんな感じで週に一度か二度、二人の鍛錬と勉学に付き合うのが今世での習慣となっていた。

 

 おかげで今世、春蘭の報告書で悩まされる軍師、文官は少なくなりそうだ。

 

 

 前世では朝に弱いということはなかった。

 というよりも頭痛に苛まれて生きてきたので、まともに睡眠を取れないのが正常であった。

 そして今世では、どうにも私は朝が弱い。なんというか目覚めた時に全身が気怠いのだ。満たされない性欲を少しでも満たす為に、自慰に耽っているのだから仕方ないといえば仕方ない。

 まだ眠たい体を起こして、目を擦ると不快な臭いが鼻先を突いた。そして、そういえば昨晩は自慰の後に手を洗っていなかったことを思い出して、更に気落ちする。前世ならば情事の後でも構わずに使用人を呼んだりしたものだが、流石に自慰した後となっては人を呼べないと自分でできることは自分でする習慣ができてしまった。

 なんというか前世と比べて、惨めな生活を送るようになった気がする。

 

 そのことに関しては、まあ今は良い。

 開発をし続けたせいで体が少し敏感になってしまったことを除けば、特に問題はないのだ。

 そんなことよりも今大事なことは今日、新たに身内と顔を合わせる予定があることだ。

 くるんと巻いた髪の毛を整えて、薄っすらと化粧を施した。

 衣服も対外向けに拵えたものを袖に通す。

 

 今日、会うのは確か、曹仁と曹純の姉妹だったとはずだ。

 恐らく前世でも縁があったと思っているが、いまいち思い出せない。どうにも記憶を思い出す条件の一つは顔を合わせることのようで、また今までの経験から真名を交換した相手のことしか思い出せないのようだ。曹姉妹が前世でも縁深い相手であったならば、顔を合わせ時に思い出すと思うが果たして――まあ、あまり前世と比べすぎるのも悪いと考えて気軽に身構えようと思った。

 日に何十人と謁見し、両手では数え切れないほどに皇帝へ上奏を続けた身としては、今更新たに人と会うことに緊張することはない。

 時間まで暇だと思い、気晴らしに外を歩こうとして――カタッと天井から小さな音がしたのに気づいた。

 

 私は気付かぬふりをして、そのまま部屋を出る。

 此処は名門曹家、間者の一人や二人は忍び込んで当然だと思い――しかし、今は反撃もできぬと外に出る。

 庭に出た。周辺に探りを入れながら歩いてきたが、どうにも目的は私ではなかったようで視線や殺意を感じない。それならば、と先程、音がした場所を確認してみようと考えて、私は軽い身のこなしでスルスルっと屋根の上まで登る。

 そして、記憶が蘇る。

 唐突な記憶の奔流に眩暈を引き起こすも、なんとか屋根から落ちないようにと身を屈める。

 落ち着いた頃を見計らって、改めて前を見つめる。屋根の上には少女が全裸のまま、大の字になって寝転がっていた。衣服は脱ぎ散らかしており、強い風が吹けば何処ぞへと吹き飛ばされてしまいそうだ。久方ぶりに見る裸体に暫し釘付けとなり、前世でどれだけの裸体を見てきたんだと首を横に振る。

 性欲が溜まっている自分に辟易しながら、改めて少女のことを見つめる。

 

 姓は曹、名は仁。字は子考。真名は華侖(かろん)

 懐かしくて幼い顔の少女が太陽を文字通りに体いっぱいに浴びて、気持ち良さそうな寝息を立てている。

 前世でも脱衣癖を持つ問題児であり、春蘭と負けず劣らずの頭の悪さであったと記憶している。




・曹仁子孝:華侖(かろん)
曹姉妹の姉の方、脱衣癖持ち。

ps.
遅れてしまって申し訳ない。
他作品と並行して進めているので、暫くは投稿が遅くなると思います。


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第二篇.

 裸体姿の従妹を外に晒しておくことはできず、

 とりあえず自室の部屋にある寝台に華侖(曹仁)を寝かしている。全裸で。

 この状況が絵面的に不味いということは理解している。かといって全裸の従妹を部屋に連れ込んだ上に服を着せるというのは、もっと絵面的に不味い気がして仕方ない。そもそもだ、欲求不満の私に彼女の体は目に毒が過ぎる。私の従妹というだけあり、肌はきめ細やかに白くて、手で撫でる肌触りだけでも気持ち良さそうだった。息を吸う度に膨らむ小振りな胸、時折、ご飯を食べる夢でも見ているのか、もごもごと口を動かしては、こくりと小さく喉を立てる。そして口の端から垂れた唾液が私の枕を濡らしていた。

 無防備な従妹の姿に、思わず生唾を飲み込んだ。今世になってから、私は、一度も、女体を味わってはいない。強烈な頭痛を緩和したくって、寝る前は毎日のように誰かしらを抱いていた記憶がある。大体が春蘭(夏侯惇)秋蘭(夏侯淵)、あと二人か三人ほどが私の部屋に来ていた記憶がある。それには少なからずの快楽があった。女体を抱くのは麻薬のような中毒性がある。そして私は控えようと考えたことはなく、身も心も、そして魂までも快楽漬けになっている。駄目だと分かっていながらも華侖の瑞々しい唇に目が奪われて反らせず、引きずり込まれるように顔を寄せる。荒い息を潜ませる、胸の動悸が収まらない。目を閉じる、接吻の快感を堪能したくて、欲望のままに唇を落とす。口の端から垂れる唾液を啜るように、じっくりと唇を重ね合わせて、軽く唾液を流し込んでから軽く吸った。ちゅっという水音が立てられる。へたりと床に座り込み、頰に片手を添えて、力が抜け落ちるように溜息を零しながら歓喜の余韻に浸る。気持ちよかった、久方振りの人肌は私の心と魂を強く刺激した。堪らなく快感だった。

 下腹部の奥が、きゅんっと疼く最中、もう一度、と快楽に身を委ねるように彼女の唇を欲した。

 

「……今の……なんっすか?」

 

 そして両手で口元を覆いながら顔を真っ赤にする華侖の顔があった。

 

「……いつから起きていたのかしら?」

「口の端から……く、唇を……重ね合わせたところからっす……」

 

 恥じらうように枕を抱き締めながら告げられる言葉に、私は片手で目元を覆い隠した。

 つい先ほどまで興奮した気持ちが急激に冷めるのが分かる。やってしまった、という罪悪感と羞恥心、それに背徳感が入り混じって今すぐに此処から逃げ出したい気持ちもあったが、しかし目の前で裸のまま布団を胸元に引き寄せて恥じらう少女の姿に劣情を抱いている。浅ましくも女体に飢えていた。

 再び生唾を飲み込んだ、華侖が怯えるように私から距離を取る。

 

「こ、怖いっすよ……」

 

 従妹の震えた声に、私が彼女のことを女としてしか見ていないことに気付いた。

 なにをしているのか、と自分自身に叱責する。昂ぶった気を落ち着ける為に目を伏せて小さく深呼吸、人肌の温もりを求める心はまだ疼くが自制できる範囲だ。とりあえず優しくしてあげないと思って、彼女の隣に腰を下ろす。直接、彼女の顔を見つめていると力を抜くことはできないだろうから流し目で華侖のことを観察する。

 口元には薄っすらを笑みを浮かべながら彼女の手を取った。

 

「ごめんなさい、つい見惚れてしまったわ」

 

 優しい言葉をかけるつもりが、何故、口説き文句になっているのだろう。

 

「え、あ……えぇっ?」

 

 少し顔を赤らめながら困惑する従妹の初々しい姿に、誰かに拐われたりしないか不安になった。

 ちょろ過ぎる、と思いながらも手に取った彼女の手を両手で包み込んで「素敵な手ね」と相手の手の甲を擦る。私の知る前世での華侖は性的な目で見られることはあっても浮いた話はひとつもなかった。それは彼女自身が幼いことがひとつ、成人した後も恋愛的な感情を理解していなかった節がある。そして、彼女自身が強過ぎるが故に自身の貞操に対して危機感を持っていなかったことが上げられると私は思っている。だから、この反応は予想できたものだ。つい無意識に出た悪戯心、外で裸体を晒すとどうなるか、勉強料代わりに少し揶揄ってやるつもりだった。

 襲われるかも知れないところだったのよ。良かったわね、拾ったのが私で。裸で歩き回っているとまた悪い狼に拐われるわよ。そんな感じで耳元で囁き、言い聞かせる。片手はずっと貝殻つなぎ、華侖が頻りに手を繋ぎ直すのが少し擽ったかった。

 これに懲りたらもうしないことね、と散々虐めた後に解放する。

 

「……あっ」

 

 華侖の口から名残惜しげに声が零れる。

 振り返る。顔を俯かせながら、なにか言い難そうにもじもじと身を捩る。

 なにか聞きたいことでもあるのかしら?

 その問いに華侖は息を飲んで答える。

 

「もう一度、唇を重ねて欲しいっす……」

 

 私は頭を抱えた。

 

 翌朝、ちゅんちゅんと囀る小鳥に目を覚ました。

 湿った布団、汗に濡れた肢体。服は着ておらず、そして隣には満足そうな顔に眠る華侖がいた。全裸で。

 私は再び頭を抱える。全裸で。

 認めたくないものね、若さ故の過ちというものは。

 それとも、この場合は、歴史は繰り返す、と云うべきだろうか?

 

 

 前世では私の傍に侍るのは夏侯姉妹の役割だった。

 しかし今世では少し趣向が変わっており、私の傍に仕えてくれるのは華侖と柳琳(曹純)の二人になることが多い。

 というのも私が出かけようとすれば、華侖が何処からともなくやって来るのだ。そして華侖が付いてくると云えば、姉の御目付け役を自負する柳琳も付いてくることになるので、必然的に三人で街中を散策することが増えた。街中を歩き回ること事態は前世からよくやっていたことだ。それは市井を理解するというのが主な目的になっているが、私の気晴らしという側面も多分に含まれている。

 とはいえだ、華侖と街中を歩くのは少し疲れる。

 いや別に彼女が活発な性格をしていることは構わない。前世の個性的な魏の面子を思えば、少しくらい活発な程度で私の心労になることはありえない。そして今の彼女は外出中に服を脱ぐような真似をすることはない。

 では彼女の何が疲れるのか。私の腕を手に取り、常に私とくっつくように歩こうとしてくるのが疲れるのだ。

 前世での話、春蘭と秋蘭は暴走することは儘あれど、一定の距離を保って、私が気苦労を起こさないように気遣ってくれていた――ことに今世で知った。つまるところ、あの時のことがきっかけで懐かれ過ぎたということだ。好かれていることは素直に嬉しいし、夜伽の場でなら幾らでも甘えてもらっても構わない。しかし常日頃からずっとこれでは流石に疲れる。

 助けを求めるように柳琳を見つめると華侖を引き剥がしてくれることが救いだった。

 

「む〜、じゃあ夜になったらたくさん可愛がって貰うっす」

 

 ジロリと睨まれる柳琳の視線から逃げるように目を背けた。

 最近になってから思うようになったのだけど、自分はよく前世では背中から刺されなかったなあ。前世と比べて落ち着いた自覚はあるが、落ち着いた分だけ立場が弱くなっているような気がする今日この頃だ。

 それでも一度、女体の味を思い出してしまったから、夜這いに来る華侖相手に自重なんてできなかった。

 

 

 前世と歴史が変わりつつある中で、

 この世界は、ただ単に時間が逆行した世界ではないことを認めたのは、前世の記憶を思い出してから丁度一年が過ぎた頃になる。

 数え年で九歳になる時にはもう、前世では顔も名前も知らないような人物が今世では次々と台頭していた。

 身近なところで云えば今現在、私の目の前で深々と頭を垂れている同年代の少女がそれに当たる。少女は着物を改造したような給仕服を身に纏っており、髪は長くて艶のある黒。身長は小柄な私よりも少し大きいくらいだった。

 この子は祖父曹嵩が私のために連れてきた子であり、とりあえずは使用人として側に置くように命じられた。

 

「姓は路、名は昭。真名は千代(ちよ)と申します。豫州の何処かにある隠れ里のしがない忍びの末裔です」

 

 そんな経緯があって預かることになった彼女だが、前世では彼女との面識がない。

 前世で側近を勤めてくれた親族とは粗方、顔を合わせているが、どの記憶を辿っても彼女のことは思い出せなかった。まあ今までの経験から明確に思い出せる相手は真名を交換した相手だけのようなので、前世では彼女とは真名を交換していなかっただけかもしれない。しかし私は彼女のような使用人が側にいた記憶はないし、真名も今正に受け取っているのである。前世と同じ状況があったならば、顔を合わせた時に彼女との記憶を思い出せたはずなのだ。

 つまり、彼女は前世では私に仕えていなかった、ということになる。

 

「……えっと、あの、何か失礼でもありましたでしょうか?」

 

 少し呆然としていた自分に気付き、「いいえ、何もないわよ」と告げてから真名を預ける。

 前世ではなかった縁、彼女がどういう人物なのか少し興味が湧いた。

 

 千代と名乗った少女は言ってしまえば、素直で使い勝手の良い使用人であった。

 まだ幼い故に未熟なところは多々あるも、基本的に一度間違えたことを二度間違えることはない。そして三度目からは少しずつ改善させる殊勝さを持ち合わせている。その無駄のない身の熟しから武芸を嗜んでいることが推測できるが、夏侯惇や夏侯淵のような武一辺倒の技術とはまた違っている。

 特徴的なのは、その静けさだった。

 普段から意識しておかなければ足音を聞き漏らす。少し目を離したかと思えば、彼女の居場所を見失うことすらあった。音もなく、呼吸を潜めて、気配すらも断ち切り、背後を取られてしまった暁には思わず呼吸を止めてしまう程であり、もし仮に彼女が敵国からの刺客だったかと思うと首筋に薄ら寒いものを感じてしまう。

 その技術は前世の魏軍にはなかったものだ。

 

「忍びというのは、どういった存在なのかしら?」

 

 そんなことを問いかけたことがある。

 ふむ、千代は息を漏らした後に姿勢を正し、落ち着いた様子で口を開いた。

 

「分かりやすく言えば、皆様方が草や根と言っている諜報組織と似たようなものです。元は東洋にある島国が発祥の地であり、我が祖先は国元を追われて此処に行き着きました。古くは始皇帝の時代から暗躍をしてきたと言われており、高祖劉邦が覇を唱えるに大きく貢献したとも聞き及んでいます」

 

 数多の書物を読み漁ってきたが、そのようなことは聞いた覚えがない。

 

「具体的に何ができるのかしら?」

 

 好奇心から問いかけると少女は少し悩む素振りを見せて「なんでも」と答えた。

 

「潜入任務、暗殺依頼、情報収集、工作活動、拷問、忍びとして大事なことは一通り叩き込まれていますね」

「そう、随分と優秀なのね」

「みたいですね、里では過去最高傑作とも呼ばれたこともあります」

 

 誇る訳でもなく淡々と告げる千代に、彼女は少し感情の揺らぎが薄いように感じられた。

 最高傑作という言い方から、そうなるように作られたのだろうか。ついでなので夜の相手ができるかと問いかけてみると、主人が望むなら、という答えが返ってきた。

 とりあえず、覚えておこうと思って、彼女を部屋から下がらせる。

 

 

 




幸せ家族計画の方に合わせつつじわりと進める感じ


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第三篇.

 学ぶべきことはないのだが、学問所には通うようにしている。

 古くなった屋敷を活用している為だろう。床には靴底で擦り減った跡が残り、柱には無数の傷があった。それでも隙間風がひとつもなく、床板が必要以上に軋むこともない。頑丈な造りをしていた、そして大事にもされている。古いというよりも使い込まれているといった印象が強かった。

 埃の積もった記憶を掘り起こすような懐かしい教室、この学問所に通うことを決めた理由は三つある。

 ひとつは今世での袁紹の動向を探る為、ひとつは今後に備えて伝手を作っておく為、ひとつは千代(路昭)のように有能な人材が埋もれていないか探る為。袁紹は名門袁家の長子であるにも関わらず、母親が娼婦であったが故に正当な後継者として認められていなかった。だから私は上手くすれば、利用できると考えた。そして実際、名門袁家は袁紹と袁術で二分され、その力を半減させることに成功している。ただ何故だろうか、会う前から少し気疲れする。軽く周りを見渡してみても面白そうな人間はいなかった。そうそう簡単に新しい人材なんて見つかるはずもない。おそらく私の目は肥えている。私には天下を差配する軍師が三人――たぶん、三人居た。そして万を率いる将を多く従えていた。その中でも夏侯姉妹は飛び抜けて優秀だったことは理解しているつもりだ。しかし華侖(曹仁)栄華(曹洪)を基準にしてしまっている辺りで私の価値観は相当に狂っている。華侖と柳琳(曹純)が順当に経験を積めば、今の官軍を率いている中将郎と同等以上の実力を身に付けられるはずで、戦争が本職ではない栄華であっても彼女の才覚は官軍の上位に入る。前世の三国時代では、今の中将郎の実力が当たり前になっていた辺り、なんというかもう色々と可笑しかったんだな、と苦笑交じりに考えを改める。でも実際のところ、その程度の力量もなければ今から囲う必要もない。

 周囲の観察を終えて、この分では袁紹もまだ来ていないものと判断する。真名を交換したらしい記憶は残っているから、おそらく一角の人物であることには間違いない。だから見てわかるはずだ。とはいえ、繰り返すが、とても嫌な予感がする。なんだか触れてはならないものに触れようとしているような――今更、学問所で学ぶことはない。やっぱり帰ろうかな。と考え始めた時だ、私の隣に誰かが腰を下ろした。

 

「失礼しますわ」

 

 声を掛けられて、顔を上げた時、鋭い痛みが脳裏を貫いた。

 予想はできていたことだったので、苦痛を顔には出さず、ただ黙して耐える。

 思い出した、麗羽は取るに足らない相手ということを。

 そして、とても面倒臭い相手だということに。

 

「……聞いたことがあるわ。貴方、妾の子でしょう?」

 

 とっさに出てきた挑発的な言葉、それは彼女に嫌われる為のものだった。

 他者を見下す傲慢な態度や満身に満ちた立ち振る舞い、自分本位な思考回路に耳障りな高笑い。金色の髪をこれでもかっていうくらいに巻きに巻いた髪型。掘り起こされる遠い記憶の全てが私をうんざりとさせるに事足りる。私は自分の判断を反省することはあっても、ほとんど後悔をしたことはないが――彼女と真名を交換してしまったことだけは後悔している。何故、前世の私はこんな奴と真名を交換したのだろうか。性格こそアレだが、学問所の中では彼女は頗る優秀だった為だ。歳を重ねれば、少しは落ち着くと思ったが増長するばかり、その頃には彼女以上に優秀な者を何人も見つけていたこともあり、彼女と真名を交換した若き日の私の軽率さを心の底から後悔している。

 妾の子、というのは自尊心の高い彼女にとって耐え難い侮辱の言葉だ。どうせ憤慨するに決まっているから、耳障りで甲高い声を浴びせられることを覚悟する。咄嗟に出てしまったとはいえ、止めときゃ良かったのに、と自分自身に呆れてしまった。今すぐにでも憤慨して、怒鳴り散らそうとしてくるに違いない。

 頭の中で学問所を去る算段を立てながら彼女の反応を待った。

 

「そう呼ぶ者も居ますわね」

 

 来るはずの怒声はなく、涼しい顔で答えられる。

 拍子抜けするような、肩透かしを受けるような、そんな感覚。名門の貫禄でも見せつけるような余裕ある対応に私は驚きを隠すことができなかった。少なくとも記憶の中にある彼女は、このような態度を取るはずがない。もっと短絡的で、根本的な部分で馬鹿なのだ。勉強はできる、しかし勉強しかできないの典型例。死んでも治らない類の馬鹿。それを持ち前の強運で、どうにかしてきただけの人間だった。

 口元を指先で撫でる。少しにやけているのが分かった、少し彼女に興味が湧いた。

 

「屋敷を追い出されたとも聞いたけど?」

「ええ、事実ですわ」

「怒らないのね、少し意外だわ」

 

 今生と前生では世界が違っている。

 根本的なところでは同じ世界なのかも知れないが、しかし前に生きた私の世界とは確実に違っていた。

 少なくとも目の前にいる袁紹は、私が知る袁紹とは違う歴史を歩んでいる。

 

「今の私は袁成の娘、そこに誇りを持つことはあっても恥じることはなにもございませんわ」

 

 そう言い放つと彼女は頰に手を翳して、オーッホッホッホッとお得意の高笑いを上げる。

 それが不思議と不快には感じなかった。

 

「ねえ、宦官の孫娘さん?」

 

 不意を突かれた言葉、舐めるような視線。

 試されている、と直感的に察した。この曹孟徳を試そうとしている。ぺろりと唇を舐める。そうか、なるほど、そうなのか。彼女は他人を試すことは前世でもよくあった。しかし、このような形で試されたことは一度もない。確信した、今、私の目の前に立つ袁紹は前世とは別人だ。

 彼女と会話することが楽しいと感じるのは初めてのことだった。

 

「ええ、そうよ。私は宦官曹騰の孫娘、己が祖父の家系であることを誇りに思っているわ」

 

 とはいえ、まだ成人もしていない彼女を相手にするのは余りにも大人気がない。

 仕掛けたのは私の方、ならば私の方から退くのが筋というものだ。

 相手も言及するつもりはないようで、互いに視線を交わすだけに留める。

 

「なになに? 妾の子に宦官の孫娘?」

 

 不意に後ろから、よく響く声で話しかけられた。

 振り返れば、見知らぬ顔。名も顔も知らぬ相手に宦官の孫娘と軽い調子で呼ばれるのは少し気分を害した。思わぬ誤算、折角、良い出会いをしたというのに水を差して欲しくない。

 視線に僅かな怒気を込めると「ふえっ?」と彼女はあざとく首を傾げてみせる。

 

「私は許攸。此処だけの話、私は孤児出身なのよ。なんだか私達って似てるねえ」

 

 やはり知らない名前だった。

 

 

 学問所に通い始めて数ヶ月、

 野心が燻る今、どうにも私は自分のことよりも他人に目が向くようになっていた。

 大将軍になるのだ、と息巻く春蘭(夏侯惇)には私自身が注釈を入れた孫子の兵法書を手渡している。前世での彼女は感覚に頼ることが多く、誰かに指揮を執らせなければ、満足に戦果を上げることができなかった。良くて一軍の将であり、とても大将軍と呼べる存在ではない。前世では身の程を弁えていたので不和を起こすこともなかったが、今世でも同じとは限らない。それに、できることなら夢を叶えてあげたい気持ちもある。まあ彼女がいう大将軍とは軍事専門家というよりも用兵家としての性質が高そうなので、いずれ本隊の指揮を任せられるようになれば、という気持ちで見守っている。その時には彼女を抑えることもできる軍師も必要になるが――まあ、それは後から考えれば良いことだ。

 華侖(曹仁)も春蘭と同じく将軍になる道を選ぶようだが、彼女のいう将軍は春蘭のソレとは少し違っている。彼女が目指す将軍は駐屯する軍隊の指揮から始まるものであり、駐屯地の設営から学びたいと言ってきた。効率的な陣地の作り方や士気の重要性、駐屯する軍隊をどうやって統括するのか、という点を重点的に学ばせている。この方針で進むのであれば、いずれ防衛拠点の要所を任せられる日も来るのだろうか?

 秋蘭(夏侯淵)は他二人よりも更に大きな視野で将軍職を見据えていた。軍隊の維持とはつまり兵站線の維持であり、それは即ち補給を受けられるかどうかというところに通ずる。兵站網の構築の仕方は勿論、逆に敵の補給を断てば、必然、戦には勝利することができる。軍隊にはなにが必要で、なにが不要なのか、強い軍隊を維持する為にはなにをしておく必要があるのか。軍隊の素早い展開の仕方、敵補給戦を潰すためにはなにをすれば良いのか。逆に防ぐ為にはどうすれば良いのか。戦争の趨勢は戦う前の準備で九割方、決しているというところまで自力で辿り着いた。華侖と春蘭が顔を合わせる度に、わからない、と泣きついてくるのに対して、秋蘭は常に新しいことを学んでは質問を投げかけてくる。

 さて、秋蘭が戦略に目をつける中、軍隊よりも狭い範囲に目を付けたのは柳琳(曹純)だった。少数による精鋭部隊の編成、通常の軍事行動では担えない任務を遂行する部隊の構想案を拙いながらも私に問いかけてきたことがある。前世では虎豹騎という使い勝手の良い少数精鋭部隊を使い熟していた彼女、その活躍の舞台を大軍同士の戦場のみならず、もっと広い範囲で活用する術を模索している。拷問への耐性なんかも話題に上がってくる辺り、どうにも穏やかではないが今のところは好きにさせている。

 前世と変わらないのは栄華(曹洪)だ。「どうしてこうも軍事馬鹿ばかりなのです!? 少しはお姉様を見習ってください!」と言いながら財務に関することを学び、片手間に兵法書を読み込んでいる。でもまあ他の妹達に発奮されるように彼女の能力も、前世と比べて随分と向上しているように感じられる。

 ただ栄華の場合は、仕方なくといった面が強くて、どうにも自分を表に出せている気がしない。

 

 だから私は、私達に合わせずにもっと自分の好きなことをすれば良いのと、と告げた。

 そして今、私は服屋にいる。目の前には両手に十数着の衣服を持ってルンルンとはしゃいでいる栄華の姿、そして人形のように着せ替えされているのは私だ。服屋に入ってからどれだけ時間が経ったか、一時間や二時間では効かない気がする。彼女が服を選んでいる間、ずっと座っている私は疲れ果てたというのに、両手に衣服を持ちながら歩き回る栄華に疲弊した様子はない。なんとなしに店員に視線を送ると、申し訳なさそうに愛想笑いを返された。

 どうしてこうなってしまったのだろうか、私は思考と肉体を切り離しながら人形としての役目を全うする。

 着せ替えられながら思うことは、こんなにも楽しそうな栄華の顔を私は知らなかったということだ。春蘭や秋蘭も悦ばせることはしてきたが、実際に彼女達が楽しそうにしているところはあまり見たことがない。華侖や柳琳に至っては、そもそも私事で話したことが先ず少ない。私は妹達に姉として接したことがどれだけあっただろうか。大切にはしていた、しかし姉妹としての時間を率先して作ろうとはして来なかった。

 近い将来、黄巾の乱を迎えると自由な時間は取ることは難しくなる。

 今が大事な時期だということは分かっている。来たるべき時に備えていたからこそ私は黄巾の乱、反董卓連合を経て、群雄割拠の時代を生き残ることができた。しかし今しかできないことも多く、それは妹達にとってかけがえのないものになるのではないだろうか。嘗ての私には無理だったかも知れない、しかし今の私ならできるはずだ。魏国の礎を築き、妹達も幸せにする。少なくとも勉学に費やしていた時間を妹達に分け与えることはできる。

 私はもっと妹達が笑っている姿を見たいと思った。

 

 我が覇道に後悔はない。

 それでも今生がやり直す為にあるのだとすれば、覇道ではなく、家族の為に使いたい。

 その想いが形になった時、少し腑に落ちた気がした。

 

 

 馬が好きな春蘭と秋蘭の為に遠駆けに出掛けたことがある。

 私は騎乗が得意な方ではないが、苦手というほどでもない。西涼の馬家のように如何なる馬に跨っても名馬のように乗りこなすことはできないが、名馬には名馬なりに乗りこなすし、駄馬は駄馬なりに乗りこなす程度のことはできる。春蘭と秋蘭の二人はもう少し先に行っており、馬の呼吸を自分に合わせる術を持っていた。

 草原を馬で駆けるのは爽快だった。行く先も決めずに何処までも駆け続ける。すると自分は何処までも行けるような気がして、そして何処まで行けるのか試したくなる。たぶん、私の原動力は此処にあるのだと思った。自分は何処まで歩み続けられるのか、そして自分が登った高みから見渡す光景が知りたくて駆け続けていたような気もする。幼い頃から――今もまあ幼いけども、私は自分の才能を自覚していた。その為か私は自分の限界を知らずに生きてきた。遠い未来を見通すことはできても誰とも共有することはできない。臥龍鳳雛と呼ばれた二人であっても私が見ていた光景を見るに及ばなかったはずだ。そうでなくては、あの――誰だったか、まあいい。あの誰かも、もう少し行動が変わっていたはずだ。

 そのことに一抹の寂しさはあれども、仕方ないことだと諦めている。

 

 ふと強い風が吹いた、丘の方から紙が飛んでくる。

 紙とは珍しい。前世で量産化しようと試みたこともあったけども、気軽に手を出せる金額まで落とし込むことはできなかった。心残りのひとつ、風に流されるソレを手を伸ばして掴む。それは建造物の写し絵だった。風景を写しているというよりも構造を理解する為に描かれたものであるらしく、多角的な視点から建造物が描かれていた。普通なら誰も見ないような梁の下とか、柱の構造とか、覚書のように壁の材質なんかも書き込まれている。

 これを描いたのは誰だろうか。紙が飛んできた丘の方を見れば、ひとりの少女が私の方を見つめているのを発見した。

 彼女のことは覚えている。確か、許攸。人物批評家として有名な許劭の養子。ぱっと見た感じでは、特に秀でた才覚を持っているようには感じられなかった。しかし不思議と成績は良くて、意外と知識が豊富だったことを覚えている。

 手を振りながら、ぴょんぴょんと跳ねる彼女に向けて馬を駆けさせた。

 

 才能というのは原石のようなものだと思っている。

 磨けば光る、そして強い輝きを放つものと認識していた。宝石そのままで他者を魅了する。

 そういったものを見抜く目には自信を持っていた。

 

 しかし、私の目の前にいる少女は、上質であることは間違いないが、堅めの石、もしくは原木といった程度の存在だった。

 だが、それでも彼女は芸術品だった。木を彫ることで彫刻を作る、石を削ることで石像を作る。鉄は叩いて鍛え上げ、書籍には無数の文字を刻み込む。そういって研鑽を積み重ねた上にできたのが彼女であり、それは非才の非凡であった。彼女は無知を知る。丘の上にいた彼女は絵を描いていた。絵を描く為に彼女は見えないものを理解しようとする。嫌がる彼女に見せてもらった覚書の数々は、目に見える物体の構造全てを把握しようとする執念を感じられた。葉っぱ一つを描く為に色のついた水を根っこから吸わせる。なんていうこともやっており、街一つを描く為に商業区や住宅街、工房と売り場の位置関係まで把握してしまっている。

 許攸、前世の私が知らない名だ。ただ彼女ほどの存在を私が見逃すはずがないから、きっと彼女は前世には居なかった人間だと認識する。仮に居たとしても出会う前に事故や病気で死んでしまったか、なにかだ。剣も碌に振るえない癖に、こんなところに一人でいるのだから賊か獣に殺されていてもおかしくはない。

 そんな彼女が今、描いている絵――木板に貼り付けた帆布を横から覗き込むと、どうやら川に面した集落を描いているようだった。

 

「貴方の才覚は捨て置くには惜しいわ、私のものになりなさい」

 

 守ってあげる、と耳元で囁けば、彼女は困ったように笑ってみせた。

 そして無視するように筆を腕ごと前に突き出して、じっと景色を見つめる。絵を描くときはこうやって縮尺を測るのか、とひとり頷き彼女が描き進める姿を見守る。今はまだ当たりを付けているだけのようだ。

 そのまま暫く観察を続けていると、筆を動かしながら許攸が話しかけてくる。

 

「曹操、この景色は物足りないと思わない?」

 

 不意の問いかけに、私は質問の意味を探り、答える。

 

「……ええ、そうね。まだ発展する余地はあると思うわよ」

「こういう絵を描いているとね。数年後、数十年後の景色を幻視することがあるんだ」

 

 言いながら彼女は目の前の光景から、この辺りにこう、と実際にないものを書き込み始める。

 

「今はまだまだだけど……此処は人が集まり、物も集まる場所だよ。私達が大人になる頃には、もっと店も家も増えていると思うんだよね」

 

 その言葉を聞いて、「私なら――」と帆布に描かれた絵を指でなぞる。

 

「此処に道を作るわ」

「ああ、それは良い」

 

 彼女は道を書き足すと、その周辺に店を建て始めた。

 こんな通りがあるなら人がたくさん来るわよ、と私は宿舎を付け足すように要求する。厠が足りなくなるね、と彼女は書き加える。こんなに店があるのに商品はどうするのか、という話になって、この村に合いそうな産業を周辺の地理も考慮に入れながら考える。行商人もたくさん来るはずだ、と商家向けの宿舎も必要という話になった。自給させる為に農地も必要、農地を管理する村人の家も用意しなくてはならない。物が増えれば人が増えると居住区と商業区を拡張する。ここまで大きな村になると役所が必要だ、防衛するための備えも必要になってくる。農地の為に引いた川を利用して、防衛にも活用できるようにもする。税金は幾らが妥当だろうか、常駐する兵はどれだけ必要になるだろうか。架空の豪族や商家が生まれて、なら商業組合も作っちゃおうという話になった。

 気付けば帆布は真っ黒となり、私と許攸以外には誰も理解できない有様となってしまった。

 

「ああ、楽しかった」

 

 と彼女は満足げに真っ黒になった帆布を眺める。

 私も楽しかった。私が見てきた未来の姿、その一部でも共有できた存在は初めてだった。少なくとも、こんな風に同じ速度で処理できた人間は前世も含めて出会ったことがない。私の未来を見据えた上で、なら、と更に上を目指す彼女に、それなら、と私が更に彼女の提案の上に積み重ねる。なるほど、そうだったのか、とひとり納得する。未来を見通すのに必要なのは想像力、それを補強するのは膨大な知識だったようだ。

 なんというか、この時、私は初めて理解者を得たような気になったのだ。

 

「ん? んん……ぷはっ」

 

 気付いた時には唇を重ねていた、それは衝動だった。

 

「許攸、私のものになりなさい」

 

 だから次いで出た言葉も衝動的に出たものだった。

 

「貴方は私のものになるべきよ」

 

 手を差し伸べる、さもなくば貴方は孤独になる。

 貴方が思い描く未来を形にすることができるのは私だけだと、確信を持って伝えた。

 私だけが貴方の考えを理解することができる。

 

「えっと……前向きに検討しつつ、善処したく思ってます」

 

 ただまあ振られたのだけど。

 その警戒心を露わにする態度から少しがっつきすぎたようだ。

 今世も飽きることはないのかも知れない。

 

 前世からの縁には趣があり、今世からの縁も愉快だ。

 この世界には埋もれた逸材がどれだけ潜んでいるのだろうか、今からそれが楽しみで仕方ない。

 逸材を見つけて、育み、日の目を浴びさせる。

 それが今世における私の趣味になった。

 

 

 

 

 

 あと、これは余談になるが、

 遠駆けの予定を中断してしまったが為に不貞腐れた春蘭の機嫌を直すのに苦労した。

 今世では肉体関係を持っていない為か、なかなかに手間取る。

 

 

 




袁紹の方が落ち着いたので、こちらもひっそりと更新。
とりあえず幼少期を終えるまでの細部が煮詰まった感。


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第四編.

 やり過ぎた、と思わないこともない。

 唐突に、こんなことを言われても理解はできないだろうし、私自身もまた物事を把握し切れてないので整理がてらに少し振り返ってみようと思う。

 確か――そうだ、妹達が自分が望む未来を掴む為に課題を与えたのだ。豫州沛国の最西部にある城都、譙国にて、この土地をより良い場所にする為に目に見える成果を一つ上げてみせよ。というものであり、自分で考えて行動する為の思考を培わせる為のものだった。それで自信が付けば良いし、なにか面白いものが見られれば退屈凌ぎになる。そして何か大きな事を為そうとするのであれば、その手助けをすることは吝かではなかった。正直に話せば、これは許攸と出会ったのがきっかけで思い付いたことであり、未来を想いながら行動する楽しさを知って欲しい気持ちが強かった。

 期限は私が寺小屋を卒業するまで、開始当初は張り切る妹達を微笑ましく眺めていた記憶がある。

 

 先ず春蘭(夏侯惇)は単純だった。

 脳筋な彼女は持ち前の武力を活かす為に翌日から賊退治へと出かけて行ってしまった。まあうん、これについては構わない。数日後、獣狩りをしてきた後のような爽やかな笑顔で、賊から剥いだ装備の数々を戦利品として屋敷に盛り込んできたことも春蘭(しゅんらん)が城を飛び出した時に想像できたことだから構わない。

 その戦利品の数々は栄華(曹洪)が管理し、二束三文で商人に売り払われる。

 定期的に春蘭が単身で賊狩りへと出掛ける最中、もっと美味しい御飯が食べたいっす、と呟いたのは華侖(曹仁)だ。栄華(えいか)が物流云々を語って聞かせたが、華侖(かろん)は「田畑を広げるんじゃ駄目っすか?」と物事を単純に考えていた。「美味しいものが沢山入ってきた方が暮らしは豊かになりますわ!」と主張する栄華と、「食べ物は採れたて新鮮が一番っすよ!」と主張する華侖とで口論が起きた。徐々に熱が帯びる言い争いに、待ったを掛けたのは華侖の妹である柳琳(曹純)だ。なにか丁度良い折衷案でも出すのかと期待して待っていると「どちらの言い分も正しいのですから両方行っては如何でしょうか?」というなんとも脳筋な意見が飛び出した。そういえば、柳琳(るーりん)って虎豹騎の隊長をしていたな。と私はそっと目を伏せる。

 現実逃避をしている場合ではない。

 柳琳の意見に納得しかける華侖と栄華の二人に少し冷静になりましょう、と。田畑を耕すにしても、物流を広げるにしても、人手が足りないわよ。と的確な助言で水を差した。

 

「ん、人手が必要なら私が用意してやるぞ?」

 

 その時、時悪く帰ってきた春蘭がそんなことを言った。

 数日後、簀巻きにされた賊達が庭先に転がされる。

 きっちりと教育済みで彼らは春蘭にとても従順だった。

 

 後に爆裂団を名乗る彼らは田畑を耕すのを手伝い、街道に出没する賊退治で仄かに有名となる。

 まあ爆裂団も元は民草、飢饉で食料を得られず、仕方なしに賊になった連中だ。その中でも、まだ小さな悪事しか働いていない者を狩ってきたので民草からの反発も少なかったこともある。ともあれ私が寺小屋を卒業するまでの間、彼らが私達の労働力となった。

 労働力を得たは良いが、彼らを食わしてやらなくてはならない。そこで頭を悩ましたのが栄華であり、彼女は先ず私にではなく、春蘭の妹である秋蘭(しゅうらん)に相談を持ちかけた。そして沛国に名産を作ろう! という話になった。いや、まあ正しいのだけど、名産ってそんな簡単に作れるものではない。初期投資とか大変だから――そんな時、再び春蘭が現れて告げる。

 

「近頃、商隊から護衛依頼が多く届くようになったんだが……どうすれば良いんだ?」

 

 それだ! と栄華と秋蘭が仲良く叫んだ。いや、それじゃない。正しいけど、話が飛躍している。

 そうして爆裂団は護衛業から輸送業までも担うようになった。農業から賊退治まで貴方の頼れる近しい隣人、お問い合わせは豫州曹家まで、とかいう宣伝文句まで生まれる始末だ。そうして事業が軌道に乗り始めた頃合いで、比較的常識人であった栄華がやらかした。名産品を作ろう! と。あ、その話ってまだ消えてなかったんだね、と思いはしても口には出さず、とりあえず話を聞いてみる。

 そして豫州沛国の片隅にある衣服屋で、曹純企画(プロデュース)。最先端の流行に沿ったという衣服が販売されることになった。どうしてこうなった。いや私にも責任がない訳ではない。何故なら栄華から相談を受けた私も興に乗って幾つかの衣服を考案してみたのだ。そして今や、阿蘇阿蘇にも曹純企画の専用頁が設けられるほどだ。どうしてこうなった。沛国を中心に豫州全土で曹純企画の衣服が販売されている。本当に、どうしてこうなった。

 寺小屋卒業時には、沛国の暮らしは劇的に変わってしまった。

 

 華侖、瓶詰めって何? それって今の時代に生まれて良いものじゃないと思うのだけど? 

 

 余談になるが爆裂団は年々規模を拡大しており、部署分けによる改革にも着手している。

 今や爆裂団とは名ばかりの財閥であり、様々な分野で豫州を支える屋台骨だ。期限を迎えて、どうだ! と言わんばかりの良い笑顔を妹達は浮かべる。その姿は何かしらの偉業を成し遂げたような達成感に満ちていた。そんな妹達の姿に、私は久方ぶりに頭が痛くなる想いを抱いた。最早、曹家の名を知らぬ者は沛国には誰一人として存在していない。阿蘇阿蘇の調査によれば、曹操の名は豫州刺史よりも知られているようだ。

 うん、とりあえず寝よう。

 

 明日は寺小屋の卒業式だ、わーい。

 

 

 



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間幕.夏侯惇元譲

シスターズエピソード.1
春蘭の場合。


 華琳(曹操)様から課題が出された。

 それは豫州沛国の暮らしを豊かにする為に何か一つ、目に見えた成果を上げることだ。

 この言葉を聞いた時、姉妹達は夕食の御馳走に想いを馳せるように考えを巡らせた。きっと姉妹達の頭の中では輝かしい未来が映し出されており、それを実現する為にはどうすれば良いのか思案を始めているに違いない。だが私には政治が分からない、故にどうすれば民草の暮らしが良くなるか分からなかった。

 でも民草からの話は聞いている。

 最近、服屋で新商品が手に入らなくなった。店主に理由を問えば、近頃、賊が多くなったことが原因のようだ。賊が商隊を襲うから他郡から商品が納入されなくなる。それはとても困ることだ。何故なら製作中の華琳様人形を完成させたとしても着せる衣服がなければ意味がない為だ。私が困っているなら、きっと周りも困っているはずだ。

 という結論から私は単身で賊退治へと赴いた。

 

 賊が頻出するという街道に赴き、暫く歩き回ってみるが賊は現れない。

 とりあえず現地で獣を狩りながら三日三晩、街道の見張りを続けてみたが賊は現れなかった。はて、情報は間違いだったのだろうか?  首を傾げて、今日の食料を調達しに山へ出向くと道に迷った。更に三日三晩、遭難生活を続けているとふと御飯を炊く匂いがした。その美味しそうな匂いに誘われるように足を運ぶと洞穴の前で(たむろ)する野蛮そうな者達に遭遇した。捕まえようとしてきたので返り討ちにし、全員を地面に叩き伏せた後で――あっ、こいつらが賊か。と気付いた。

 とりあえず彼らを全員簀巻きにした後、馬や荷車を拝借し、溜め込んでいた物資と共に城都まで戻る。

 

「……姉上、その後ろのものはなんだ?」

 

 ちょっとそこで捕らえてきた、と答えたら妹に大きく溜息を零された。

 簀巻きの賊は県令に引き渡し、馬や馬車、そこに詰め込んだ物資は、妹の秋蘭(夏侯淵)と相談して無事に元の商隊に返すことができた。残った賊徒の装備に関しては、なにかしらの役に立つかもしれない。という妹の言葉から華琳(かりん)様に預ける。

 事の経緯の説明を要求されたので以上のことを口にすれば、とても大きく溜息を吐かれた。

 

「いえ、うん、よくやったわね」

 

 そう言って褒めてくれる華琳様は、何故か酷く疲れているように見えた。

 

 それから暫く、単身で街道を渡り歩いては獣狩りがてら賊退治に勤しんだ。

 しかし、それも十回程度も繰り返しているとパタリと賊が現れなくなった。どうやら賊は私達が拠点のある城都、譙国から離れた場所に出没するようになったようだ。これは困ったことになった。いや、平和なのは良いことなのか? しかし賊は未だに現れるというし――むむむ、と切り伏せた人食い虎の毛皮を剥ぎながら思い悩んだ。ちなみにこの人食い虎は通り掛かりの農民に頼まれて退治したものだ。他にも田畑を荒らす熊を退治していたりとかする。街道を巡回するだけの毎日、適度に田畑を耕したり、集落の祭りに参加したりしながら何もない日々を送る。時折、商隊から護衛以来を受けて欲しいと言われるが、流石に華琳様の許可もなしに譙国を離れるのは不味かろうと断り続けた。

 今後、将軍として活躍する為に武芸の鍛錬だけは怠らなかった。

 

 とある日の事だ。

 姉妹達が何か大きなことをしようとしているようだ。その何かは私の頭の中には入って来なかったが、優秀な姉妹達のことだ。きっと良いことなのだろう。しかし、それを為すには人手が足りない、と華琳様は告げる。その言葉を聞いた妹達はとても残念そうに肩を落としたので、ここは年長者として体を張ってやろうと思って「ん、人手が必要なら私が用意してやるぞ?」と名乗り上げた。心当たりもあったし。

 この時、華琳様がとても面倒臭そうな顔をしていたのが印象的だった。

 

 さて、人手を集めるのであれば、それなり良い人間を集めてやりたいと考えるのは姉心として当然だ。

 捕らえた賊と片っ端から面談をし、その中でも素性や経歴に傷が少なそうな者を選んだ。妹の話では賊にも色々といて、情状酌量の余地がある者も居ると言っていた。それはそれとして賊で略奪に働いた者には重い刑罰が必要だとも言っていたが――それもまあ自ら望んで賊に落ちた者ではないのであれば、華琳様の下で奉仕活動に従事させることで罪滅ぼしをさせてやれば良い。

 私達は人手が賄えて嬉しいし、彼も過去の罪を善行を以て償える。正しく一石二鳥の名案だ。

 

 そんな訳で曹家の庭に簀巻きで並べた賊徒一同、さあ華琳様(社長)(重役)達による最終面接だ。励めよ、みんな!

 

 賊の管理は私の管轄になった。

「これも将軍になる為の必要な経験よ」と華琳様に言われたので「はっ、お任せください!」と快諾したのは良いが、しかし私兵の管理というのを私では分からない。分からないが、とりあえず、こいつらは軟弱過ぎる。華琳様の兵卒としては、あまりにも不甲斐なかったので先ずはそこを鍛え直すことにした。

 毎朝、鶏が鳴くと同時に起床させる。華琳様の兵卒であれば、私生活から身嗜みを綺麗に整えておかなくてはならない。と寝起き直後、自分の寝台は自分で整えさせた。衣服の乱れも正した者から朝食を摂らせる。そして庭に並べて点呼を取り、歩兵の仕事の九割は走ることにあると聞いたことがあったので先ずは屋敷の外を三回走らせた。それから肉体を鍛える為、午前中、徹底的に筋肉を虐め抜かせる。昼食を摂らせてから暫しの休憩、おやつ時から武芸の鍛錬を始めた。まだ午前中の疲れも取れていない上での鍛錬になるが、戦場では調子が良い方が珍しいのだ。野営を三日続けて、三日遭難をした後に賊徒と戦ったことのある経験から本調子でなくては戦えない兵など使い物にならないと理解している。そして朝から晩まで痛めつけた体を引き摺らせて、夕食の準備を始めさせた。これもまた実践を想定してのことだ、元気に走って、元気に戦ったら、元気に食べる。戦とは御飯を食べて、眠るまでが戦なのだ。とはいえだ、今は平時だ。華琳様には臭い奴は近付けさせられなかったので毎日のように身を清めさせた、歯磨きもさせた。それを怠る輩は水をぶっかっけてやり直しだ。徹底監視の上で身を清めさせた、時には一緒に身を清めることもあった。そして眠り、また明日がやって来る。さあ今日も元気に鍛錬だ! と寝坊する輩の布団で剥いで回って叩き起こした。

 後々になって妹から執拗な事情聴取を受ける兵を見つけた。

 

「姉上はお前達と共に身を清めているというのは本当か?」

「はい、その通りです! しかし我が隊において、隊長を異性として見る者はおりません! もし仮に隊長に欲情する輩が居るとすれば、我らはその者を英雄と褒め称えた後に獄へ放り込む所存でございます!!」

「それはそれでどうかと思うが……いや、もういい。これは姉上に直接、言うべき問題だな」

 

 面倒なことになりそうだったので踵を返して、来た道を戻った。

 そんな生活を続けさせること一ヶ月、賊に落ちて見窄らしかった姿は今や見る影もない。引き締まった筋肉に整った髪、髭は毎朝のように綺麗に剃らせている。号令一つで隊列を作り、点呼の一声で番号を告げる。右を向けといえば右を向き、左を向けといえば左を向いた。武芸も鍛え直した甲斐あって、今やそんじょそこいらの賊では相手にならないほどに腕を上げた。どうですか華琳様! とお披露目をした時、華琳様は何故か遠い場所を眺めていた。

 またワタシ何かやっちゃいましたか?

 

 ちなみに我らの名前は爆裂団、兵達に話し合わせて決めた名前だった。

「そ、そう。いい名前ね」と華琳様も御満悦だ。

 

 彼らを満足する水準にまで鍛え上げることができたので、部隊を四つに分けることにした。

 これは平時の話になるが、四日の内、鍛錬は二日。内一日が巡回。残る一日が休憩という周期を取った。これを部隊別に分けながら行動をさせるので常に一部隊が巡回に回る計算だ。こいつらの訓練に精を出していた影響で城都周辺には再び賊が湧くようになっていた。まるで夏場の虫のように油断をすれば湧いて出る賊に定期的な巡回は必要だと学び、これを習慣付けることを退治した賊を踏み締めながら決定した。そうして再び巡回を始めれば、すぐに賊は姿を消した。たぶん他の場所に行ってしまったのだろう、追いかけたいがあまり拠点の譙国から離れることはできない。

 代わりに退屈凌ぎに道行く集落で橋を修理したり、田畑を耕したり、と民草の手助けを続けた。

 

「なんで自分の田畑でもないのにこんなことを……」

「馬鹿野郎、お前、戻ったらまた鍛錬だぞ?」

「隊長の限界ぎりぎりを見抜く能力は神がかってるからな」

「それに比べて田畑を耕すことがどれだけ楽なことか」

「ふふ、筋肉が物足りないって疼いてやがるぜ……」

「いいか、お前、めったのことを言うんじゃないぞ」

「お、おう」

 

 兵達もみんな、積極的に参加してくれて何よりだ。

 そうして各地を巡回しながら民草を助けている内に爆裂団に入団したいというものが増え始めた。

 とりあえず新兵には鍛錬を一ヶ月間経験して貰ってから部隊へ編入している。そうして数が膨れ上がること数ヶ月後、なんと規模が膨れ上がった爆裂団の出費が曹家の経済力を上回ってしまったのだ。これには流石の私も困った。そこで賢い私は商隊からの護衛依頼があったことを思い出した。彼らの武芸は最早、譙国周辺では敵なしだ。商隊からの護衛依頼を受諾した、爆裂団の面々が豫州各地に出向くようになったので小物の配達物を承ることも増えた。

 意外なことに爆裂団の面々は出先で問題を起こすことはほとんどなかったようだ。最初に数回あっただけである。

 

「なんで目を見ただけで嘘がわかるんだよ、こえぇよ。こえぇよ……」

「だからめったなことをするんじゃないぞって忠告したのにな」

「嗚呼、美しいな。我が筋肉は……少し前は鍛えてあげられなくてごめんよ、張三……」

「健康ダカラ毎日が楽しい」

「今日も元気だご飯が美味い!」

 

 今や爆裂団の名は豫州全土に轟いている。

 妹達の手助けもあって組織化も進み、部隊運用の効率化が図られていた。まあ細かいことはよく分からないが兎に角、良い感じの流れが来ていることは確かだ。乗るしかない、この大津波に!

 ともあれ爆裂団は今日も元気に営業中です。

 

 

 




後に語り部によって伝えられる夏侯惇将軍物語の一端である。


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間幕.曹純子和

シスターズエピソード.2
柳琳の場合。


 名は曹純、字は子和。真名は柳琳(るーりん)

 趣味は創作活動です。創作活動と一重に言っても絵画やら小説やら絵物語やら数多く存在すれども、その中で私が専門とするのは小説だった。まあ創作活動というのは必ずしも物語性を有しているものとは限らないのですが、そこは置いておきまして、ともあれ私は趣味の一環として筆を片手に小説を書き綴ることに楽しさを感じていました。

 私が小説を書く契機となったのは、とある真夏の夜の話になります。

 隣室に住まいの姉様、つまり華侖(曹仁)が部屋に戻らないことが増えました。最初の数日は、それでも気にしなかったのですが近頃はずっと部屋に戻って来ていません。翌朝になると何事もなかったかのように笑顔で挨拶をしてくれるので大事ないことは分かるのですが――此処、曹騰様の屋敷に住み込むまで、半身とも呼べるほど人生を共にしてきた姉の気配を感じられないというのは少し寂しく思いました。外に出ると暑いから、と衣服を脱ぎ捨てていた姉様も今は昔、この屋敷に来てからは恥じらいを覚えたようであり、少し前とは打って変わって身嗜みにも気を使うようになりました。この前、久し振りに湯浴みへと誘うと顔を赤くして断られたことには若干、衝撃を受けましたが――姉様も大人になったと云うことでしょう。何時までも姉離れができない私の方が変わるべきなのかも知れませんね。近頃、姉様はあんまり肌を見せない衣服を好むようになり、それなのに前と比べるとちょっとした仕草に色気を感じさせたりします。持ち前の爛漫さはそのままに、なんというか、綺麗になったような気がします。鍛錬をする時はあまり気にしていないようですが、終わった後、何時もは全裸になって汗を乾かしていたのが水に濡らした手拭いで肌を清めて、なんとなしに自分の腕とか脇を嗅いで臭いを気にする仕草を見せることもありました。今にして思えば、その理由も分かりますが、当時の私としてはやはり屋敷に来る前までの姉様の印象が強く、無意識に可能性を除外していたようで気付けませんでした。

 さて話を戻しましょう。とある真夏の夜、肌の表面を滲むような汗が鬱陶しくなる頃合いです。

 近頃、構ってくれなくなった姉様に寂しさを覚えた私は、こんな夜中まで何をしているのでしょうか? と窓越しに照らされる月光を頼りに真っ暗な廊下をゆっくりと歩きました。姉様の行く先に当てはありませんでしたが、向かう先は決めていました。近頃、姉様がよく懐いている華琳(曹操)様、特別に姉様をよく可愛がってくれている彼女であれば、何かしらの事情を知っているのではないかと思って部屋の近くまで歩み寄りました。すると姉様のくぐもった声が聞こえて来ました。いつもとはまるで違う苦しそうで、でも切なそうな姉様に混ざり、粘着質な水音が聞こえます。何をしているのでしょうか。気になった私は耳を澄ませて、必然的に声や音も顰めながら部屋に近付きました。扉の前、姉様の声に加えて華琳様の少し余裕のない攻め立てるような声も聞こえて来ました。ここまで来ればもう二人が何をしているのか分かります。このまま立ち去る手もあったのでしょう。しかし、好奇心に駆られた私は鍵穴の隙間に目を近付けて、息を殺しながら部屋の中の様子を覗き見ました。そこには、まあ、想像通りの光景がありました。姉様が長年付き添った私には一度も見せたことがないような蕩けきった顔をしており、涙を零しながら媚びるように嬌声を上げながら華琳様を求めていました。そして華琳様もまた焦らすように姉様の頰に手を添えて、唇を落とし、何度も、何度も舌を絡めながら体を擦り合わせていました。私の位置からでは、その行為の全てを見ることは敵いませんでした。疼くようなもどかしい想い、私の姉様が蹂躙される姿が切なくも恋しく、愛しくて、二人の行為から目を背けることができず、どれだけの時間、そうしていたのか――廊下から見える外が白み始めるまで私は扉の前で二人の痴態を見続けて、火照った体、ぼうっとする頭で衣服を一つ自らの体液で駄目にしてしまったことを静かに悔やみました。

 その日から私は毎夜、姉様が華琳様と肌を重ねるのを想像しながら発情した体を鎮めるようになりました。

 翌朝、少し寝不足気味な姉様が何事もなかったかのように笑顔で挨拶をしてくれる姿に興奮し、鍛錬の後で自分の匂いを気にする姉様を「最近、綺麗好きになりましたね」と揶揄うことに快感を覚えて、お風呂に誘うことで顔を真っ赤にしながら胸元を隠す姉様の姿を見ることには悦びがあり、「首筋が赤くなっていますわよ、蚊にでも噛まれたのかしら?」とちょっかいを掛けた時に姉様の恥じらう姿に優越感を抱き、そして、夜な夜な華琳様に抱かれに向かう姉様を想いながら姉様の部屋に忍び込む自分に惨めさを覚えつつ、鍛錬後に洗濯しておきます、と預かった衣服に顔を埋めながら自らを慰める行為は果てしなく気持ちよかった。

 しかし昂ぶる想いは止まらない。華琳様には愛憎混じった想いが募り蠢き、姉様を想う気持ちは姉妹愛を通り越すのを感じる。

 このままではいけない、と分かっていましたが、しかし発散する術を持たない私は日に日に増していく過激な行為に身を委ねるしかありませんでした。自らに対する嫌悪感、姉様に抱く想いの変化、それに華琳様に姉様を取られたという感情のせめぎ合いに辟易した頃合い、私は日に日に増す肉体の昂りを抑える為に道具に頼ることにしました。眼鏡を掛けて、帽子を深く被り、それから口元を隠した姿で、そういう店に入り、しかし、実物を見てみるとちょっと怖くなってしまって、そこで当初の予定とは変更し、棚に置かれていた艶本を幾つか購入して帰ることにしました。

 部屋に籠り、艶本を読み耽る。それは確かに実用足り得る代物であり、姉妹愛を追求した内容、姉妹の片割れが間男に寝取られる内容とありましたが私の心を渇きを満たすには至らず、むしろ行為そのものを重点においており、感情という面においては妙に簡略化された点にもどかしさを覚えます。この私の胸に抱いた複雑な紋様を満足させられるだけのものはありませんでした。しかし、それは八つ当たりにも近い感情、それを書き手に求めるのはあまりにも理不尽なことだと理解していました。きっとこの想いを表現できるのは世界でたった一人だけなのでしょう、そして私が求めるものを真に形にできる者もまた私だけなのでしょう。

 だから私は筆を取りました。姉様を慕う想いを書き綴り、劣情を、切なさを、自己嫌悪を、そして、もどかしさを裏表なく言葉が浮かぶままに記して、整合性の欠片もなく、ただ訴えとして、決して誰とも相入れないことを自覚していながら、誰かの心に響くことを祈りながら文字一つに魂を込める。文章が叫んでいる、訴えかけている。それは正しく人の心を食らわんとする魔書、文章一つは魂に侵食する呪詛でした。例え誰かの人生を、誰かの性癖を歪めてしまったとしても構わないという究極の自己満足、自分勝手な想い一つで丁寧に書き殴る。この想いが誰かに届きますように、ふわりと飛んだ蒲公英の綿毛が一つでも貴方の心に届きますように、と願いを込めて本を綴じる。果たして、それは誰かの心に如何なる影響を与えるのか。わからないまま、私は名前を伏して、とある書庫に紛れ込ませた。貸し出し禁止の封をして、簡単には見つからないように、でも探せば簡単に見つけられる場所に置きました。

 それが話題に上がるようになるのは数ヶ月先の話、噂が噂を呼び、その書籍は場内では誰もが知らないほどに人気となります。

 

 だが、それは私の心を潤すには足りません。

 まだ足りない。私の想いは表現し切れておらず、そしてこれから先も表現し切ることはないのでしょう。何故なら私の想いは未だに煮立っており、日に日に醜く熟成され、酷い異臭を放ち続けています。自己表現を追求した創作物というのは、一時の心の慰みにしかならないことを知りました。それは姉様に劣情を抱く私が自らを慰める時のように切なく虚しい、虚無のようなものでした。もし仮に自己表現を追求した先に、全てを表現し切れたと断言できることがあるとすれば、それはきっと本一冊を書き切った直後に自殺をすることでしか成し得ません。

 だから、という訳ではありませんが私は私の心の渇きを満たす為には自ら動く必要があると認めました。

 

「姉様、華琳様、少しよろしいでしょうか?」

 

 恋人同士のような近しい距離で仲良く並ぶ二人を呼びかけて、紙束を押し付ける。

 

「巷で有名になっている小説の原本が手に入ったので、お二人にも是非ともお読みして頂こうかと思いまして……」

 

 それは正しく呪詛でした。

 物語の整合性を取る前、そして名前を差し替える前に書き起こした――ただただ想いだけを純情に詰め込んだ実体験を元にした創作物になります。「ああ、あれね。気になっていたのよ」と笑顔で受け取る華琳様の表情が一頁を捲った瞬間に固まり、身動ぎ一つ取らなくなりました。

 にこにこと満面の笑顔を浮かべる私に、姉様は一枚だけ手に持ったまま何故か顔を青褪めさせています。

 

 

 



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間幕.夏侯淵妙才

シスターズエピソード.3
秋蘭の場合。


 書籍を読み漁る日々が続いた。

 先ずは華琳(曹操)様に薦められた書籍を手に取り、棚一つ分の書籍を読破した。そこから先は食指の赴くままに知識を貪欲に掻き集めて、時折、華琳様が持って来てくれる書籍の文章を指でなぞる。同じ読書家仲間として栄華(曹洪)柳琳(曹純)は居るが、正直二人とは趣味が合わない。単なる情報源として文字を読み込む私では、柳琳(るーりん)が薦めてくれる小説は表現が歪曲過ぎると思うし、栄華(えいか)が薦めてくれる小説は侘び寂びが強すぎて冗長に感じられる。逆に栄華からすれば、私が読み込むこともある小説は文章が固く、そして文章一つに対する塊が長過ぎて読み辛く感じるようだし、柳琳からすれば、少しばかり表現が単調過ぎて肌に合わないとのことだ。まあ好みは人それぞれであるものだと思うし、そもそも私は小説――というよりも物語そのものを読み込むことが稀だった。ただ華琳(かりん)様だけは三者三様に理解を示し、それぞれが読み込んだ書籍の話題で花を咲かせる事ができた。

 だから華琳様は何時も姉妹達から人気があり、常に誰かが彼女の隣を陣取っている。

 

 とある日のことだ、華琳様が私達に課題を出された。

 課題内容を聞いてみれば、なるほど、これは卒業試験のようなものであり、今まで華琳様の下で学び身に付けた教養を実戦の場で活かす良い機会でもあった。期間は寺小屋を卒業するまで、それまでに一つ、形になる成果を上げること。

 姉妹達が様々な考えを巡らせる中で、かつて華琳様が私に告げた言葉を思い返していた。

 

 ――貴方達、王というものに興味はないかしら?

 

 本当に良い機会かも知れない。

 何を成すか、よりも、何者になりたいか。それを考える良い機会だと思って、私は改めて書籍を読み漁った。それはかつて読破した華琳様が私に薦めてくれた書籍が詰め込んだ棚であり、此処に私が求める答え、そこまで行かずとも手助けになるものがあると確信して読み返す。書籍は情報だ、古きから受け継がれてきた情報には値千金の価値が詰め込まれている。かつては見逃した情報の宝石、今改めて読み込むことでわかる真意に口元を綻ばせながら読み耽る。

 ひと月が過ぎて、ふた月、姉妹達から随分と出遅れてしまったことに溜息を零して、あと少しで掴めそうな何かを求めて、更にひと月が過ぎた。行き詰まっている。薄っすらと見えてきたものがある、しかし、それを形にすることができなかった。幾ら読み返しても見えて来ないものがある、決定的な何かが足りていない。私の理想とするに足る、何かが足りていない。他の姉妹が何かしらの成果を上げていく中で焦りだけが積もり続ける。

 そんな日々に辟易した頃、「偶には外の空気を吸って来なさい」と書庫から引きずり出された。

 

 そういえば長らく外の空気を吸っていなかったな。

 屋敷を出て、街を抜けて、何処までいくのかと思えば、城壁の階段を登っていった。こんなところまで来て、何をしたいのだろうか?  そんな風に思い詰めていると「顔を上げなさい」と、そう言われて、ゆっくりと顔を上げる――そこには人の営みがあった。何時しか見たことのある光景に特別な驚きや感動はない。ただ広いな、とそう思った。後ろに振り返れば、まだ開拓も進んでいない土地が地平線の先まで続いていた。やはり、広い。世界はただただ広大であり、それを手中に収めることなんて烏滸がましいのではないかと思うほどだった。

 

「この大地は、人が治めるには広すぎるのではありませんか……?」

 

 問いかける、そして小さな主君を見据える。

 

「ええ、そうかも知れないわね」

 

 そう言って微笑む華琳様に、この大地を全てを手中に収めたいと願う、それそのものが王足る素質だと知る。

 やはり私には王は荷が重い。少なくとも今はまだ、私如きが手を出せる代物ではなさそうだ。

 

「そうですね、私に天下は手に余るようなので――先ずは分割したいと考えます」

 

 何気なく呟いた言葉に、ふと華琳様の気配が変わった。

 

「……続けて」

「はっ!」

 

 短く静かに告げられた言葉に、思わず臣下の礼を取る。

 特に難しいことを考えていた訳ではない、それは単なる思い付きに過ぎなかった。全盛期の漢王朝であったとしても辺境の地、例えば、涼州や交州、揚州といった洛陽から遠く離れた場所を統治できていないのだ。つまり、少なくとも今の人類には大陸全土を中央集権化することは不可能と考えた。であれば国の中心を三つ程度に分けてしまった方が効率が良い。無論、これだけでは三つの国は共存よりも敵対する道を選ぶことになる。だから三つの国を統括する存在が必要だ。

 

「帝ね」

 

 私が結論を述べるより早くに華琳様が告げる。

 漢王朝。例え、国が三つに隔てても漢王朝がある限り、民草は皆、漢王朝の民ということになる。

 皇帝が居る限り、私達は皇帝の臣民なのだ。

 

「……厩を多く作りましょう」

 

 これもまた思いつきの言葉だった。

 

「街道沿いに厩を多く作り、休憩できる場所を作りましょう。藁を敷き、飼葉を置き、馬を常備する。早馬の為の施設、そして宿泊施設の方は、できることならば一般的にも解放し、もっと人々が街と街を気軽に行き来できるようになれば良い。そうすれば、きっと、この広大過ぎる大地を狭くすることができるかと」

 

 そこまで告げると華琳様は吹き出し、「貴方だけの天下の形が見えているじゃない」と嬉しそうに笑ってみせた。

 

「でも残念ね、それをするにはまだ私達には力が足りないわ」

 

 強い風が吹いた。

 華琳様のくるんと巻いた二つ結いの髪が靡き、そして青色の瞳を凛と輝かせる。

 深い色合いに強い意思、揺れる瞳は赤色の炎よりも情熱的だった。

 

「先ずは郡太守、次の州刺史。そして一国の王になる」

 

 華凛様は広大な大地を背に、左手を自らの胸に添えながら右手を私に向けて差し出した。

 

秋蘭(しゅうらん)、貴方は我が覇道を共に――いえ、同じく道を敷く同志として私は貴方を歓迎する」

 

 嗚呼、この御方には敵わないな。

 そう思いは口には出さず、彼女の手を受け取った。

 

 

 



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間幕.曹仁子孝

清少納言インストール完了。
エモーショナルエンジン、フルドライブ!

シスターズエピソード.4
華侖の場合。


 目覚めた時、少し肌寒く感じられる。

 布団の布擦れが素肌を撫でる。少し敏感になった体に身動ぎし、そしてまだ目の前で眠る愛しい存在を起こさないように優しく抱き寄せた。華琳(かりん)様は眠るのが好きだ。意外かも知れないがほんとの話、華琳姉はあたしの体が温かいと言って抱き締めてくれるが、あたし自身がそれを感じ取ることはできない。だから、これでも寒く感じることは多いんすよ、と華琳姉を抱き締める。少し早起きして、無防備な華琳姉を見るのは胸の内側がほわっとするほど幸せで、そのまま二度寝することは幸福だった。

 微睡みの中、ゆったりとした温もりに意識を落とす。

 

「ほら、起きなさい。華侖(かろん)、もう朝よ」

 

 再び目を醒ますと華琳姉が微笑みながらあたしの頬を撫でていた。

 昨日は可愛かったとか、気持ちよかったとか、そんなことを囁かれて、少しこそばゆいような、嬉しいような、そんな心地になる。こういう時に恥じらうように目を伏せると華琳姉は意地悪するように顎を上げさせて、唇を重ねてくる。こちらから接吻を望んでも立てた人差し指で遮る癖に、自分勝手な人だった。

 そんな華琳姉の寝顔を寝起きで見られるのは堪らないほどに幸せで、

 

「貴方はいつもお寝坊さんね」

 

 優しい声をかけられながら起こされるのは胸いっぱいだった。

 口付けを求めた時、妨げられる人差し指を口に含んで甘噛みしてみたことがある。すると夜は明けたというのに日がな一日、折檻をされることになった。夜は睦言、愛し合うために肌を重ねる行為はとても情熱的で、思い返すだけでも恥ずかしくて気が狂いそうになることを自ら望み、率先して行った。日中は蕩けるように甘美な魔法は解かれて、主従として容赦なく責め立てられる。それもまた好きで時折、強請るように華琳姉の太腿の内側に手を入れる。あくまでも自ら望んで、という形ではなくて、思わず手が伸びた、という形を装ってだ。いけない子ね、と薄っすらと細められた目に見つめられるのは刺激的な快感だった。

 華琳姉は求めると離れる、捕まえようとすれば逃げる。でも挑発されるとそれを虐げ、距離を取ろうとすれば捕まえに来る。そしてあくまでも素っ気なく、惚けたふりをすれば、とても優しくして魅了してくる。だから華琳姉に甘えたい時は命令には従わない方が良い、困らせる程度の反抗が彼女の心を擽るようだ。だから、もう少し、と身動ぎだけすると華琳姉は困ったように溜息を零して優しく頭を撫でてくれる。

 それが好きだった、だからあたしは何時もお寝坊さんになる。

 

「ほら、もう本当に起きないといけないわよ」

 

 頭を撫でていた手が離れる。

 そのことに胸が疼くような名残惜しさを覚えながらも、ゆっくりと布団から這い出る。寝台近くの机には、何時の間にか綺麗に畳まれた衣服が置かれている。それを手に取り、まだ眠気の残る頭で緩慢な動きで袖に手を通す。近頃、肌の露出は控えている。気恥ずかしいというよりも、昔と比べて肌寒さを感じるようになった為だ。

 ふと視線を華琳姉に向けると背中越しに衣服に纏う姿に少し見惚れていた。

 どうして、ただ裸体である時よりも衣服がはだけた姿の方がより扇情的に映るのだろうか。その背中が隠れるまで見つめた後、「まだ寝惚けているのかしら?」と振り返る姿を拝めた後にいそいそと衣服を整える。ああ、今宵も終わりなんだな。と少しの名残惜しさを感じる。部屋を出る時、先に華琳姉が扉の取っ手に手を掛ける。寝坊助なあたしは数十分程、睦事の余韻に浸ってから華琳姉の寝室を後にする。気恥ずかしさが残るのか、あたし自身も悟られたくないという気持ちもあり、寝室を出る時は別々にって云うことになっていた。でもまあ近頃は姉妹達に気付かれ始めているので、半ば惰性のような習慣だった。

 別れ際、背を向けた華琳姉が、ふと思い出したように振り返り、あたしの頰に手を添える。

 

「次の機会が待ち遠しいわね」

 

 告げられて、額に唇を押し付けられた。

 そして、今度こそ振り返りもせずに部屋を出た。ただ一人、取り残されるあたしに寂しさはない。手元にあった枕をぎゅうっと抱き締めて、悶え苦しむように寝台の上で横になる。精々数十分程度、こうしているだけであっという間に時間は過ぎ去った。

 これがあるから、この習慣を止められない。

 

 

 動き難い衣服は好きじゃなかった。

 だから何時もの動きやすい衣服に長袖の上着を着込むことで誤魔化している。

 しかし今、あたしが着ているのは黒を基調としたふりふりの衣装、どう動くにしても変な方向に体が引っ張られる感じがした。今、あたしを着ている衣装よりも軽装ではあるが、似たような衣装を普段着にする目の前の少女、栄華(曹洪)を見つめながら凄いなあと思った。こんな重しのような衣装は、常日頃から着てみたいとは絶対に思わない。次はこれを着てみましょう、とはしゃぐ栄華(えいか)に苦笑いを浮かべながら彼女の衣装選びに付き合い続ける。

 栄華とは、華琳(曹操)様と閨を共にするようになってから共に過ごす時間が増えた。

 それは単純に栄華が華琳姉を強く慕っている為だ。華琳姉の腕を取って二人だけで買い物に向かう事もあるけども、その事に嫉妬を覚えることはない。そう感じないのは、きっと栄華が華琳姉に感じている好きとあたしが華琳姉に抱いている好きが違うからだと思っている。あたしは華琳姉と何処かに行くことは少ない。屋敷内、何気ない時は一緒の時間を過ごすことはあるけども、お互いにだらけたり、ごろごろとしているだけの事が多く、時折、ふと思い出したかのように揶揄われるだけで言葉を交わすこと事態は少なかったりする。

 だから、なんというか、栄華と一緒に居るのは少し疲れる。

 

 あたしはお洒落と云うものにあまり興味がない。

 というよりも意図的に避けていた。あたしは自分自身のことをあまり可愛いとは思っていない。それならきっと栄華の方がずっと可愛いと思っているし、綺麗さで云うならば、妹の柳琳(曹純)の方が遥かに上だ。他の姉妹よりも小さい胸も華琳姉と閨を共にするようになってから少し気にするようにもなった。そして何時も素敵な衣服で身を纏う二人に、なんとなしに引け目を感じている事もあり、どうせあたしが頑張ったところで、という思いからお洒落に関しては目を背け続けていた。今まではどうでも良いと思っていた、それが少し気になるようになったから肌の手入れとか、衣服とか少し気遣ってみようかな、というような軽い思い付きからの行動だった。

 適当に入った衣服屋で「なになにどうしたの?」とキラキラと目を輝かせる栄華と偶然出会った。

 

「貴方ってこういうのに興味がないと思っていたんだけど?」

 

 期待満々の視線に若干のやり難さを感じながら、替え衣服が痛んできたから、と適当なことを呟いた。

 この店を選んだのは、よく華琳姉と栄華が話題に出していたのを覚えていた為だ。だから、お洒落とかはあまり考えていなかった。お洒落がどういうものなのか分からない、よく分からないから触れるのが怖かった。変とか言われるのが嫌だったから無難な衣装を求めて、当たり障りのない衣服を着るのが気楽で良いと思っている。せっかく可愛らしい顔をしているのに勿体無い、と不貞腐れる栄華に、えっ? と思わず振り返る。

 にんまりと栄華が、まるで獲物を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべた。

 

「仕方ありませんわね。この栄華が御洒落下手な姉妹の為に一肌脱いであげますわ」

 

 そうして腕を引かれるままに店内の更衣室に詰め込まれて、今に至る。

 着せ替えられながら思うのは、御洒落って疲れるっすね、ということだった。あたしにはまるで着方が分からない衣服の着付けをしながら爪や肌、髪の手入れを仕込まれる。正直、よく分からない言語ばかりで理解できていないが適当に相槌を打ってやる過ごした。そのことに気付かれたのか、一度面倒を見るからには徹底的によ、と意気込む栄華に流されるがまま、こんなに着ないんすけど――と積み重なる衣服を見つめる。下着の試着までさせる栄華に、これの何処が御洒落に繋がるのか分からない。実際、着せるだけ着せておいて、下着まで確認しないし、されても困るっすけど。栄華が云うには、これが大事なのだとか。よく分からないっす。

 今まで着ていた衣服とは桁二つは違う値段を支払って御満悦の栄華に、住んでいる世界が違うなあと思った。

 

 肉体を磨く、というのはあたしと栄華で言葉の意味が違った。

 帰り道、女性専門の按摩店で垂らした液体を染み込ませるように揉みに揉まれて、漸く屋敷に戻れたかと思えば、浴室に連れ込まれて髪を重点的に洗って貰うことになった。湯船を上がってからも栄華の手に引かれるまま、眉を剃られて、爪を鑢で削られる。パチンと切れば良いんじゃないんすか? と呟けば、猛禽類のような双眸で睨みつけられたので大人しくされるがままになった。せっかく綺麗にした爪に透明の液体を塗りつけられて、下着から衣服に至るまで全てを栄華の手によって整えられた。

 これでどんな相手でもいちころですわ、と丸一日を使って、整えられた体は――正直、よく分からない。鏡で見せられても、綺麗だとは思うが見違える程という感じでもない気がする。そんな自分の冷めた反応に溜息を零す栄華は「それで想い人の前で出てみなさいよ」と唐突に告げた。「えっ?」と思わず振り返れば「あらあらあらあら」と目を輝かせる栄華に嵌められたことを察した。

 

「良いから見せてきなさい。今までと全然、反応が違うはずよ」

 

 にやけ面を隠し切れない栄華に気恥ずかしさを覚えながらも、彼女の言葉を従うことにした。

 どうせ今宵もまた向かうことになるんだし、大した期待も抱かないように注意しながら、しかし逸る気持ちを抑えることもまた出来ず、いつもよりも早い時間に華琳姉の寝室に忍び込んだ。

 落ち着かない、何時も違う衣服を着ているせいか平静を保つことができなかった。

 そわそわと体を揺すり、部屋の中を見渡した。華琳姉の部屋は効率的で無駄なものを自ら置くことはない。しかし姉妹からの贈り物なんかはしっかりと部屋に飾られており、棚の一段には何時でも眺めることができるようにと珍妙な御土産も含めて並べてあった。優しいな、と思う。部屋一つ、そこに華琳姉の為人が詰め込まれていた。深呼吸をする、仄かに香る華琳姉の匂いに胸が高鳴る。落ち着かない、何時も意識しないことが嫌でも意識する。かといって身動きも取れない、折角、着込んだ衣装に皺を付けたくなかった。

 ひらひらとした衣服、何時もは絶対に着ないような衣装があたしから平常心を奪っていた。

 

「あら、お待たせ……した…………」

 

 不意に開けられる扉、見上げると華琳姉があたしを見つめたまま動きを止めていた。

 何時もよりも見開かれた瞳、じっとあたしだけを捉えている。ちょっと気恥ずかしい、あまり見ないで欲しかった。何時も違って、ただ貴方に好かれる為に少し頑張ってみた。そのことを知られるのが、やっぱり恥ずかしくて仕方なかった。こんなことをするんじゃなかった、と後悔が押し寄せる。華琳姉が無言のまま、後ろ手に扉を閉めて、鍵を掛ける。ずんずんと何も言わずに歩み寄る。せめて何が言って欲しかった、逃げ出したいけども逃げ場がない。顔を俯けるだけで精一杯だった。もう胸は張り裂けそうで、泣き出したくて仕方ない。

 顎に手を添えられる、いつもよりも力強く乱暴に上げられた。

 

「ごめんなさい、華侖。今夜は手加減できないわ」

 

 そのまま唇を重ねられて、押し倒される。

 翌日、涙が枯れるほどに泣かされたあたしが起きたのは夕暮れ時だった。

 

 それからもあたしは、普段着は何時ものような雑な格好を好んだ。

 でも最低限の髪や肌、爪の手入れはするようにした。そして月に一度か二度、栄華と共に出掛ける日を作るように心掛ける。

 あの熱情に焦がされてしまってはもう、元に戻ることなんで出来なかった。

 

 

 




栄華「良い仕事をしたわ!」


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間幕.曹洪子廉①

筆が進まないので一旦、投下。


 私の心を鮮やかに響かせるのは、

 薄紫色に合わせた純白の薄布、ふわっと可愛らしい水鳥の雛。舌触りの柔らかい削り氷が盛られた硝子の器、とろりと垂らされる黄金色の蜂蜜が煌めく様子。水晶で作られた数珠を眺めるも好し、藤の花。梅の花に雪が降り掛かる景色も好し。大変可愛らしいお子様が苺を頬張る姿には見ているだけで胸が張り裂けそうになる。一歩進めば見方が変わり、三歩進めば意識が変わる。世界は両腕でギュッと抱き締めたくなるほどに愛しいもので溢れていて、両手いっぱいでは収まり切らないほどに慈しみで満ちている。いつでもどこでも胸いっぱい、この五感で感じられる世界が私は大好きです。太陽が沈み、月が巡り、そしてまた太陽が昇る時、世界は新しく生まれ変わる。

 雀の鳴く音が聞こえる窓を開け放って、おはようございます。今日もまた一日、良いことがありますようにと満点笑顔の祈りを届ける。

 

 寝起き一番で行うのは桶に溜めていた水で顔を拭くことだ。

 そのまま肌の手入れを行なって、次に髪。ついでに爪の手入れを済ませてから衣服を着替えてぬいぐるみだらけの部屋を出る。美容に気を使うのは手間で面倒に思うこともあるが、武人が長い年月を掛けて肉体を鍛え上げるように、雨の日も、風の日も、病める時でさえも、日々の継続が美貌を作り上げる――であればこそ四の五の言わずに自分の肉体を磨き上げる為の努力を積み重ねるのだ。その為、私は同じ屋根の下で暮らす誰よりも早くに目覚めるが、実際に部屋を出るのは誰よりも遅い時間になる。

 軽い朝食を摂り、皆の勉強部屋代わりに活用している大部屋に向かう道すがら、使用人達に挨拶を交わす。

 この時、歩き方一つ、手を振る動作一つにおいても可憐な仕草を心掛ける。常日頃から美容に気遣い、己の美に自覚ある者であれば、日頃の立ち振る舞いも気を払うべきだと私は考える。そんな私を春蘭(夏侯惇)は奇異な目で見ることがある。よく疲れないな、とか、そんな感じだ。しかし、そうあることに私は疲れを覚えなかった。何時、如何なる時も他人から見られていることを自覚し、そうあることを日常に落とし込んでいる。可憐に振る舞うことを当たり前にして、だらけた姿を晒すことに強い違和感を感じるように――そうなってしまえば、気苦労なんて生まれようがなかった。

 可憐に、優雅に、私の想い描く美の姿が世界の規範になるように――姓は曹、名は洪。字は子廉。真名は栄華(えいか)。ただ生きるだけの姿が美になるように歩みを進める。

 この在り方を理解してくれたのは御姉様、つまり華琳(かりん)様だけだった。

 

 曹騰様の屋敷、同じ屋根の下で暮らす姉妹は自分も含めて計六人。

 基本的には従姉妹同士の繋がりで、実の姉妹は夏侯姉妹(春蘭と秋蘭)脳筋姉妹(華侖と柳琳)の二組になる。それでも私達が自分達の関係を姉妹と語るのは御姉様の提案があった為だ。だから私は皆を姉妹と認めている。

 大部屋に上がる。遅いぞ、と私に告げるのは春蘭(しゅんらん)。寝坊っすか? 問いかけて来たのは華侖(曹仁)だ。

 この六人で姉妹だ、と御姉様が決めた時、最初こそは面倒な姉妹が増えたものだと嘆いたのを覚えている。しかし今の認識は少し変わっている。とりあえず華侖(かろん)の額を指先で小突き、そして期待に満ちた目で私を見つめる春蘭の元へと溜息交じりに歩み寄る。彼女が座る机、その上に広げられた書類、事細かに書かれた数字を前に少し前まで頭を抱えていただろう春蘭は「頼む、力を貸してくれ」と縋るように頭を下げてきた。この姉妹には脳筋が三人いる。柳琳(曹純)は賢い脳筋、華侖(かろん)は要領を掴むのが早い脳筋。そして目の前にいる春蘭は残念な脳筋だ。優れた体躯と美貌を持っていながらも頭には恵まれなかった。

 そんな可哀想な春蘭を前に大きく息を吐き、書類の一つを手に取り、ざっと見て、此処と此処の計算が間違っていると告げる。ついでに他の残っている書類を見て、簡単に間違いを指摘してやれば、春蘭は感謝感激雨霰と拝むように感謝の言葉を並べ立てた。そんなのはいらないので、もっと次からは丁寧に計算をして欲しい。

 ぐるりと部屋を見渡して、柳琳(るーりん)は華侖と一緒にいるが秋蘭(夏侯淵)の姿はない。また書庫に引き籠っているのだろうか。それこそ朝早くから深夜まで、夜更かしは美容の敵だというのに彼女は分かってくれなかった。そもそもだ、姉妹達は美容に無頓着過ぎる。今、大部屋に居るだけでも柳琳が最低限、肌の手入れをしている程度で見ていられない。今から美容指導でも始めたい気分だが、それが無駄になることは経験上知っている。

 素材は良いのに、ともどかしい気持ちになりながら可憐に椅子へ座って目的の人物を待ち焦がれた。

 

 程なくして、「待たせたわね」と何気ない一言と扉が開けられる。

 そこには可憐な少女、今日もまた御姉様が美を振り撒きながら大部屋に入り込んできた。直ぐに話しかけようとするも、それを華侖が許さない。横っ跳びに抱き付いて、どたばたと二人して地面に転がるのだ。嗚呼、なんとおいたわしいことか。先程までの完璧に可憐な立ち姿を見せていた御姉様は今、乱した衣服で飛びついてきた華侖を組み伏せている。「ああ、栄華。今日も綺麗ね」と御姉様は華侖の関節を極めながら爽やかな笑顔を私に向けた。割とガチめな悲鳴を上げる妹も、なんのそのだ。

 おはようございます、と私も可憐に頭を下げてみせる。

 

「御姉様、少し前に取り入れた美容法の効果を確かめましたので是非ともお姉さまにもお教えしたいです」

「あらまた新しい方法を見つけたのね。良いわ、後で教えて頂戴」

「あだだだだだだだだだだだだだだッ!!」

 

 私がにこりと笑ってみせれば、御姉様もにこっと笑いかえす。

 うわぁ、と今にも声を上げそうな柳琳を視界の端に、おほほ、と上品にお互いを見つめ合い続けた。

 御姉様に組み敷かれている猿なんて、なんのそのだ。

 

 御姉様は美しい、容姿もそうだが内面も完璧だった。

 常に他者の視線を意識する私とは違って、御姉様は何時でも自然体に美しくて非の打ち所がない。隙のない立ち振る舞いもそうであるが、時折、身内にだけ見せる無防備さが、どうしようもなく見る者を惹きつけるのだ。その一瞬の隙を突き、体当たりを噛ます華侖のことは記憶から除外した。

 ……できることなら姉妹には皆、美しくあって欲しいと思う。それは姉妹を慮ってことではなくて利己的な理由だ。折角、良いものを持っているのに勿体ない。素材を無駄にしているところを見るのは、文字通りの意味で目に毒だ。腹立たしくて精神衛生に良くない。それだけを理由で私は姉妹達を徹底的に手入れして着飾りたい。

 そんな私に付き合ってくれるのは御姉様だけだった。

 

「うぅ……酷いっす……」

 

 酷いのは貴方の頭です、と倒れ臥す妹に辛辣な言葉を思い浮かべる。

 

「ああ、それと……栄華に頼りたいことがあったっすよ」

 

 まだ痛むのか華侖は極められた関節を撫でながらゆっくりと立ち上がり、私を見る。

 

「……その、えっと……き……き……ん〜……綺麗になるには、ど、どうしたら……良いっすか?」

 

 恋を恥じらう乙女のような顔で問いかける姉妹の手を包み込むように両手で握り締めた。

 

「一から十まで全てを伝授して差し上げますわ!」

「あ、はい。お手柔らかに頼むっす」

 

 自意識のない姉妹を美の虜にしてやることを強く誓って、早速、美しいとはなんたるかを伝授する為に華侖の手を引っ張った。

 

「栄華、華侖を着飾るのも良いけど、先ずは課題の進捗を教えてくれないかしら?」

 

 その御姉様の声に、あっ、と動きを止める。

 今日は課題の報告会。これは失態、逸る気持ちを抑えきれないようでは御洒落ではない。

 くるんと巻いた金髪を振り払って、纏めた資料を御姉様に提出する。

 

「あら、これは見積書?」

 

 ぱらぱらと書類を捲る御姉様に、彼女が望む言葉を口にする。

 

「爆裂団の活動には利益が生じています。そして、その運営に携わる者として俸給を試算した結果が二枚目になります」

「……随分多くないか?」

 

 私よりも多い気がするのだが? と横から割って入る春蘭に、私は頰に片手を添えながら溜息交じりに告げる。

 

「勝手気儘に仕事を拾っては私に泣きついて後始末をさせたり、報告もなしに賊退治に向かった先で兵糧を要求することがなくなれば、これの半分以下にすることも吝かではないのですが……」

 

「春蘭?」と笑みを浮かべる御姉様に「い、いや、違う。これは栄華の罠だ!」と泣き叫んだ。なるほど、これは遠慮する必要はない。

 

「そういえば、この前、爆裂団の面々を率いて宴会を開かれた時のことなのですが……」

「待て、栄華! それは駄目だ!」

「……あの時は部下達を息抜きさせる為に必要な行動であった、と御機嫌に笑いながら領収書だけを手渡して行きましたね」

 

 これですが、と懐から取り出して御姉様に手渡す。

 

「……ふぅん、随分と楽しんでいたようね?」

「あ、いえ、これは示しを付ける意味もありまして……」

「でしてよ、栄華?」

 

 そう投げられた視線に、貴方はどうしたいのかしら? と楽しそうな笑みで問い掛けてきた。

 

「望み通りに上司としての示しを付けさせてあげましては?」

「なるほど、自腹を切らせる訳ね」

「減給半年程度が妥当でしょうか?」

 

 そんなあ、と春蘭が涙目で訴えを無視して御姉様は書類を捲り続けて、おやっと僅かに目を見開いた。

 

「服飾披露会?」

 

 その問いかけに「はい!」と元気よく首肯した。

 服飾披露会。それは服飾関係の人間が民衆、あるいは富裕層に向けて自社製品を喧伝する為の披露会だ。私は思うのだ、衣服は人が着てこそ衣服だと。正面からではなく、背面だけでもなく、何処から見ても美しく見える衣装に人は憧れる。だから商品を選ぶ時は更衣室で数多の衣服に袖を通して、これでもない、あれでもない。と自分と近しい体格の者に衣服を着せながら考える、想いを馳せる。こんな服を着てみたい、という想いは、人が着る姿を想像して、始めて感じることができる感情だ。

 だから私は決意する。あらゆる角度、誰の目からも衣服を見ることができる舞台を建設する。舞台から民衆を掻き分けるように中央付近まで届く細長い橋を用意して、そこを衣服を着せた人間に歩かせることを考えた。勿論、ただ単に歩かせるだけでは退屈だ。だから民衆を楽しませて、喜ばせる為に様々な趣向を用意するつもりだ。まだ良い案は思い浮かんでないのだけど。

 この話に御姉様は「楽しそうなことを考えるわね」と笑みを浮かべる。

 

「でも、予算が足りないわよ?」

「人手は爆裂団から出せるので削れるかと、そして爆裂団が築き上げた伝手を使って商家に支援を求めるつもりです」

「対価は?」

「宣伝です、協賛してくれた商家の方々には惜しない賞賛を。大々的に成功させることで名を広めて貰いますわ」

「その方法だと二度目はないわよ?」

 

 試すような問いかけに、私は一度だけ目を伏せる。

 答えは決まっていた。可憐なものを世に広めたい、世の中には美意識のない者が多過ぎる。美しいということが、どれだけ素晴らしいことなのか知らない人間が多過ぎる。それは決して特定の誰かにだけ許された行為ではない。御洒落は誰だってしても良いのだ、美しさは誰もが憧れて良いのだ。世界は両腕でギュッと抱き締めたくなるほどに愛しいもので溢れていて、両手いっぱいでは収まり切らないほどに慈しみで満ちている。いつでもどこでも胸いっぱい、この五感で感じられる世界が私があることを知らない人間が、あまりにも世界には多すぎた。

 もっと世界を色鮮やかに満たす為、もっと可憐なもので溢れさせる為、私は強く頷き返す。

 

「これに私の夢を乗せますわ」

 

 御姉様はただ、頑張ってみなさい、とだけ返してくれた。

 

 

 



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