幻想郷のアリスさん (ローバック)
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アリスさんと妖怪の賢者

初投稿なので優しく見守ってください


 木立の間を抜けて差し込む金色の日差しが窓枠を伝い、乳白色のテーブルクロスに淡い影を落とす。意匠化された蔓草模様をあしらったスミレ色の小皿の上で、ほんのりと香るバタークッキーがちょこんと行儀よく並んでいる。その隣に置かれたティーカップに精緻な白木細工のような指がそっと伸びると、取っ手を静かに掴んだ。

 

 薄く紅の差した唇を僅かにひらいてハーブティーを一口飲んだ金髪の少女――カッティングされたサファイアのような瞳を伏せながらそっと息を吐くその様子は、まるで名のある画家の作品を切り取ったかのようだった。

 

 午後の光に包まれた“名画のような少女”の名はアリス・マーガトロイド。

 彼女は深き森の奥に棲む隠者。

 魔道を志す人ならざる求道者。

 

 アリス・マーガトロイドは魔法使いであった。

 

 

 

 彼女が過ごす森は魔法の森と呼ばれている。化物のような茸が胞子を吐き散らし、立ち上る瘴気が旅人を幻惑し死に至らしめる。

 人間には過酷な土地だ。好き好んで寄り付く者もおらず、魔法使いや妖怪変化の類い、そしてここに住居を構えるアリスのような俗世を離れた隠遁者が僅かにいるばかり。

 しかしながら中世に流行った魔女狩りの煩わしさから逃れるように転がり込んだ彼女にとっては、この極東の地は非常に居心地の良いものであった。

 

 彼女の生業は、己の指から始まり糸を介して自在に動く「ヒトガタ」にある。今この瞬間もアリス・マーガトロイド邸の中を忙しなく動き回る小さな影達は、彼女によって作り出され息吹を吹き込まれた人形達だ。家事手伝いから工房の助手まで、いともたやすくこなしてみせるその精巧さと技術が彼女の魔法の一端を表している。

 

 そうして邪魔が入らず静かに過ごせる理想の土地を見つけた彼女が世情に疎くなるのは自然な流れで、気が付けば他人と最後に言葉を交わしたのがいつだったか、本人も忘れてしまうような有様だった。

 

 そして果たせるかな、数世紀ぶりともなるその機会はごく最近に、前触れもなくアリスの下へと訪れた。

 

 

 

 そのときの出来事を思い出してアリスは溜め息をつく。その中に混ざりこむのは己自身への呆れと、羞恥の感情――

 

「本当に驚いたわ、まさかそんなに時間が過ぎていたなんて……」

 

 呟かれた声はひどく弱々しかった。

 その麗しき見目と比べて不釣合なほどしわがれ、随分と霞んでいる。

 不意に先日の醜態を思い出してアリスは思わず掌で顔を覆い隠す。指の隙間から覗く白磁のような頬には、僅かな朱が差していた。

 

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 

 それはある日の夕刻のことだった。

 アリスはいつもと同じように魔法の研究の傍らで人形のための衣服を製作していた。動いているのは自分自身と人形だけの静かな部屋。普段と変わらぬ生活音の中に――突如として異物が紛れ込む。

 

「ご機嫌よう、魔法使いさん」

 

 涼やかでいて有無を言わせぬ力強さを持った声色。

 

 弾かれるように顔を上げたアリスの眼前に、濃紫色のドレスを纏う怪しげな女の姿があった。

 

 金色の髪を背の半ばまで下ろし、口許を扇子で覆い隠しながら値踏みするように見下ろす女。目元には笑みを浮かべながらもただならぬ妖気がアリスへと向けられている。

 特筆すべきは宙に開いた裂け目――空中に鋏を入れて切り取りでもしたかのような気味の悪い()()が、アリスの視線の先にあった。その隙間から女は上半身を突き出し、手摺にもたれるかのようにして空中に浮かんでいる。

 現実感のないその光景は一瞬の空白を置いてアリスの脳内に警鐘を成り響かせる。

 

 アリスとて一角の魔法使い。己の住処に十重二十重の防衛網を敷いておくのは当然のことだ。来客など途絶えて久しいこのアリス・マーガトロイド邸へも、足を踏み入れようとする者は皆無ではない。ただそのほとんどはお世辞にも平和的といえない目的をもっているため、彼女も少なくない注意を払って己が身を守る術を構築してきたのだった。

 だが数百年に渡って彼女を守ってきたその術がこの度ばかりは役目を果たすことはなかった。違和感を感じる暇すらなく己の前に差し迫った脅威は、アリスが施した術が無効化されたか、それらが全て掻い潜られたことを意味していた。現れた侵入者が己の実力を上回る強敵であることは疑いようもない。

 

 

 

 瞬きの間もなく目の前に現れた侵入者に対し、アリスは覚悟を決めて相対した。瞬時に放てる術の構築は既に済ませている。同時にそうしながらも相手の出方を覗い、めまぐるしく最善の一手を模索し続ける。

 戦うか、逃げるか――

 殺気こそ向けられていないとは言え、妖気の禍々しさは手に取るように分かる。正直分の悪い相手だと、アリスは心の中で呟いた。

 

 互いに一言も言葉を発することなく数秒間のにらみ合いが続くと、口を開いたのはまたもや紫のドレスを着た妖怪の方だった。

 

「あら、これは驚かせてしまいましたね。連絡も差し上げないままお宅にお邪魔するだなんて、我ながら少々事を急きすぎたように思いますわ。不躾な訪問をどうかお許しになって下さいな」

 

 ふふ、と笑って悪びれる様子もなく謝罪する妖怪に、アリスはその真意を読めずにいた。すぐさま己に危害を加えようというつもりではないらしいことは理解できる。そうであれば声などかけずに襲いかかってしまえばいいのだ。完全な不意打ちとなるそれに対し、アリスにとれる手だてはない。

 

 だがそれは行われずに、こうして正面から向かい合って話し合いをしようという様子を見せている。こちらから手を出すのは早計だろう。冷や汗を垂らしながらアリスは考えを巡らせる。

 

「まあ、そう怖い顔をしないで下さいまし。そうそうこのお部屋、なかなかに素敵な所ですわね。まさか魔法の森でこんな素敵な暮らしをしている者がいるとは思いませんでした。魔法使いの家なんてもっと薄暗くて、埃と黴と薬の臭いに包まれていると思っていたんですもの」

 

 そう言って取り留めなく話を続ける妖怪に表立った敵意は見られなかった。油断は出来ないが、ひとまず用向きを尋ねるのが得策だろうとアリスは判断する。荒事になって困るのはアリスの方なのだ。極力相手を刺激しないように注意してその真意を問いただそうとアリスは口を開いたのだが――

 

「――――」

 

 部屋の中に何か言葉にならないさざめきが響いたと思えば、同時に目に見えぬ圧がアリスを襲った。

 

 ひりつく空気の威圧感によってアリスは言葉を失う。酷い嵐に見舞われたかのように、肌につぶてのあたるような痛みを感じるほどのそれは凄まじいまでの妖気だった。

 

「それはあまり良い選択ではないわよ、アリス・マーガトロイド」

 

 依然として自然体で、だが纏う雰囲気を鋭い物に変えた紫ドレスの妖怪が声を発した。いつの間にか扇子を閉じて先端をアリスへと向けている。まるでそれでアリスを押さえ込んでいるというかのように、アリスの身には強烈なプレッシャーが吹き付けていた。

 

「あなた程の魔法使いが彼我の差を読み違えるとは思えないのだけど、買い被りだったのかしら……あなたが口にするべきは、呪いの文言ではなく対話の為の言葉よ。勘違いしてはいけないわ」

 

 アリスは相手に己の情報が握られている事を悟る。だがしかしその言い分が理解できないでいた。

 自分の行動の何かが目の前の妖怪の気に障ったのだろうか。それとも相手は最初からこのつもりでたちの悪い茶番を繰り広げていたのだろうか。だとすれば相当に性格が悪い。もはや己の不運を嘆くしかないだろう。

 アリスは心中で悪態を吐き捨てる。相手を睨み付けるが、生憎と何かを仕掛けられる状態ではなかった。攻撃行動を起こした次の瞬間にも己の首が落ちるビジョンがありありと浮かぶ。

 なので、仕方なしにそろりと両の手を頭上へ上げる。

 

 相手へ対する降伏の意思表示。

 

 なぜこうなったのかアリスには分からないが、少なくともアリスには敵対の意思がないことを示し、この場を再び対話の空気に戻さなくてはならない。人と交流を絶った魔法使いの棲み家に押し掛け、これ見よがしに力を見せつけ、挙げ句の果てに恫喝じみた言い掛かりを付ける。アリスからしてみれば泣きたくなるような出来事だ。

 

「そう、それでいいわ。賢い選択ね」

 

 フッと張り詰めた空気が弛み、アリスの体に温度が戻ってくる。深いため息とともに緊張と憤りを吐き出し、それからじっとりと汗で滲んだ掌を握り込んでアリスはもう一度、改めて眼前の妖怪へと言葉を発する。

 

「申し訳ないのだけど、貴女はどちら様かしら? 貴女は私を知っているようだけど、私は貴女の事を知らないわ」

 

 一気にまくしたてる。そして、呟かれた音にアリスは自身で目を丸くした。

 

「え……?」

 

 酷く乾いた空気の擦過音がする。カサカサと、冬の木枯らしのような掠れた音だ。

 思わず何事かと辺りを見回してからハッとして視線を戻せば、相手はなんともいえないキョトンとした顔をでアリスをじっと見ていた。

 

「え、えっと……」

 

 またもや音にならない声を発して、ようやくアリスはそれが自分の喉から出ていることを認識する。さっと隠すようにして口許を掌で覆うのと同じタイミングで、相手の妖怪が口を開いた。

 

「あなた……ひょっとして……」

 

「ち、違う……!」

 

 怪訝な表情で問いかけてくる相手になんとか反論の言葉を返そうと一つ深呼吸したアリスだが、再び口をついて出る上ずった声に閉口する。

 その様子を見た紫色の妖怪は若干の呆れの混じった視線を向けてアリスに言った。

 

「……声が出ないのかしら?」

 

 その問いかけに、アリスは頬の辺りがどうしようもなく熱くなるのを感じたのだった。

 

 

 

 

 

 

―――――――――

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 嵐のような訪問者が現れてから幾日かが過ぎている。

 アリス・マーガトロイド邸はいつもの平穏を取り戻し、アリスもお気に入りのハーブティーを片手に穏やかな一時を過ごしていた。

 にもかかわらずその表情がどこか固いのは、まさに数日前に思い知らされた時の流れの無情さを嘆くがゆえか。

 

 

 

 結局、その訪問者は八雲紫と名乗った。

 曰く『妖怪の賢者』。それがよく知られたものかどうかは世情に疎いアリスには判断のしようもないが、とにかく彼女、八雲紫はこの地にとある箱庭を作る計画があるのだと話を切り出した。

 

 聞けば驚いたことに、アリスの知る年代から数えて数百の年が過ぎていた。

 アリスの変わり映えしない数百年に比べて人間の文明は大きく様変わりし、その過程で妖怪や魔法使いといった存在は大きく力を落としつつあるという。当然アリスには知る由もなかったが、八雲紫はその行き着く先があまり良いものではないと考えているようだった。

 人類の歩みとその方向は最早覆せる段階に無く、この大妖怪の力をもってしても流れを変えることは不可能。しからば力無くす前に妖怪たちの拠り所となる隠れ里を作り上げる――八雲紫の描いた青写真には、いずれ幻想となる存在が集い、不思議の介在する余地が失われゆく世界への防波堤となる巨大な結界で隔離された箱庭の姿があった。

 そして、そんな壮大な計画へいつしか組み込まれていたのがアリスの棲む魔法の森を含む一帯の土地なのだという。

 ならば用向きとは立ち退き要求かと早合点したアリスに八雲紫は伝える。

 

「いずれあなたも幻想になるこちら側の存在よ。あなたがどこへ行こうと、最後にはきっとこの世界に居場所は無くなってしまう。荒唐無稽に聞こえるかもしれないけれど、思い知るときが必ず来るわ。そう遠くない未来にね」

 

 八雲紫は付近の土地に棲む妖怪達に対してこの考えを話し、理解を求めている最中だという。

 当然、それが常に穏やかなものと限らないであろうことはアリスにも想像がついた。妖怪とは我の強いものばかりだ。きっと八雲紫はそういった連中に邪魔をしないように釘を刺して回っているのだろう。

 その達成には無理を押し通せるだけ圧倒的な力が必要とされ、八雲紫という存在はその条件を満たしている。その点にはアリスも驚嘆し、畏怖すら覚えていた。

 そして、それほどの妖怪ですら危機感を抱く事態に全く鈍感であった己の不明と外界への興味の薄さを恥じるのであった。

 

 

 

「でも、あなたの理解が得られたのは堯幸だったわ」

 

 あなたと事を構えるのは大きな痛手よ、と八雲紫は言うが、手も足も出なかったアリスからしたら大袈裟なリップサービスだ。どの口が言うのかと思わず呆れそうにもなったが、貴重な協力者に対するご機嫌とりのようなものだろうかと考え直して言葉通りに謙遜することにする。

 

『そんなことはないわよ、実際貴女と向かい合った時は生きた心地がしなかったもの』

 

 と、そう書かれたスケッチブックを差し出すアリスを眺めて、八雲紫は小さく吹き出した。

 その様子に顔を顰めたアリスがほんの僅かに頬を赤らめるが、それもこれも全ては己の失態なのだから他人に矛先を向けるのはお門違いである。

 

 つい先刻、二人が対峙した際の一触即発のやり取りの真相はあまりにも単純で、馬鹿馬鹿しいものだった。

 

 いかに人外の魔法使いと言えども使用しない器官が衰えるのは当然のこと。人と会うのも数世紀ぶりとなるアリスの錆びついた声帯から出てくる音は、本当にこの少女のものかと疑うほどのデスヴォイスであった。事情を知らない者からすれば、それはまるで魔女の唱える難解な呪文に聞こえたことだろう。八雲紫が魔法の詠唱と勘違いしたのも無理からぬことだ。

 アリスもまさか自分の出不精が命の危機に直結するとは思いもよらず、己の生活を見直すことを新たに決意するという締まらないオチが付いたというわけだった。

 

 

 

 アリスは少しだけ飲み物に口をつける。

 数世紀も代わり映えしなかった生活に思わぬ形で吹き込んできた新風に時代のうねりを感じ取り、これから先の未来に思いを馳せる。

 

 魔法使いの寿命はその実力にも左右されるが、人間と比べればはるかに長い。人の数倍から十数倍、アリスほどの者ならば更に長い時を生きることも可能となるだろう。

 だが長い時間は感覚を麻痺させ、変化の無い日常は思考の硬化を招く。いつしかアリスが浸かっていたものは、安寧でも平穏でもなく、音も無くその身を蝕む毒のようなものへと置き換わっていた。

 

 思えば魔法の研究も人形作りも、ここ暫く進歩した実感が無い――

 

 小さな鏡を覗き込んでアリスは自分の顔と対面する。そこに写る白い肌は昔よりも一層弱々しそうに見えた。凝り固まった表情筋は、笑顔の作り方すら忘れてしまったように思える。僅かに引きつったような頬を見てアリスは嘆息する。

 

 長きに渡る停滞は少しずつ歯車を狂わせる。全てが己だけで完結する世界などないというのに、そう錯覚する。他者との関わりを断って数世紀も暮らせば、その精神のどこかに瑕疵が生じたとしてもおかしくはないだろう。その事実に気付きすらしないはずだ。

 変わり映えのしない毎日は、アリスから熱意や活力といったものを少しずつ奪っていった。気が付かなければそれらはやがて枯れ果て、アリスを自身が操る人形のそれと変わらぬものへと変じさせていったことだろう。いかに人ならざる魔法使いといえども、孤独という毒のもたらす害から完全に逃れることは不可能であるということだった。

 アリスは魔法使いとして人形を操ることこそが己の極める道と信じて過ごしてきた。数多くの人形が彼女の手によって生み出され、操られ、そして消し去られていった。いずれもアリスの為に生み出され、アリスの為に役立てられてきた人形達。もしもアリスが人形と変わらぬものとなったら、その糸を繰るのは果たして誰だろうか?

 操り手のいない人形と化した自分のイメ―ジが拭い去り難く心の奥底にこびりつく。

 

 己に繋がる糸を幻視する。

 いくつもの細い糸が、どことも知らない場所へと伸びていく。その先を伝って辿りつくのは誰かの指先だろうか。誰もいないかもしれない。ただ、真っ黒な空へ伸びる糸――

 

 意味もない空想だと切り捨てる。 

 しかしながら、己が目指した物に本当に価値があるのか、今のアリスにはもはや信じきれなくなっていた。

 ある時は素早い指の繰りを練習した。何本もの糸を別々に動かすことで複雑な動きをさせる事に成功したときは無邪気に喜んだ。人形の構造を洗練させ、より人間に近くなったことに満足感を抱いた。

 だがそれら全てはアリスの手の中で誰に気付かれることもなく完結してしまう閉じられた世界。沢山の人形と、アリスという操り手で構成されるその世界は、たった一人、その世界の神であるアリスが居なくなれば無に帰してしまう。

 

「私が本当にやりたいことはこれでいいのかしら……」

 

 改めてアリスは自身に問い直す。

 空虚さを払拭する何かが欲しい。ただ自分一人ではない世界を作りたい。

 ふとそんな思いが浮かび上がる。

 

「……暫くぶりに人と話したせいかもね」

 

 いつになく感傷的になっているのはそのせいだろうか。

 八雲紫と出会いをきっかけとした小さな変化を、アリスはけして悪いものとは捉えなかった。

 長く忘れていた人恋しさという感情が蘇ってくる。それはアリスを立ち止まらせる枷にもなれば、道を拓く標ともなりうるだろう。

 

 

 

 それとは別にして同時に酷い醜態も晒すことになったが――たぶんきっと些細な出来事に違いない。

 

 今なおアリスの喉は不調を訴えている。その容貌に似合わないしわがれた声が艶を取り戻すにはもう少しだけ時間がかかりそうだった。

 

「何事も少しずつ変わっていくものね」

 

 アリスは八雲紫が創るという未来をほんの少しだけ期待することにした。両者が言葉を交わしたのは初めてだったが、不思議と信じられる、きっとその通りになるのだという確信めいた何かをアリスは感じ取っていた。それは八雲紫の言葉の魔力か、あるいは魔法使いの直感か。

 

「そう遠くない未来、か。まあ、それまでには声を取り戻さなくてはならないわね」

 

 そう言ってアリスは手に持ったカップに入った喉によいハーブを煎じたお茶を飲み干した。

 金色の日差しが差し込む魔法の森の午後は穏やかに過ぎてゆく。

 

 

 

 それから暫くして、魔法の森のアリス・マーガトロイド邸にはやや調子はずれの歌声が響き渡るようになったという。

 

 夢幻の住人達がつどう箱庭。やがて幻想郷とよばれるようになるその土地がまだ生まれる前の、七色の魔法使いと幻想郷の管理者が初めて出会った頃の話であった。



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お出かけとアリスお姉さん





 結界はうまく張られたのだろう。その時は空気が一変したのをよく覚えている。

 降り注ぐ日差しの質もそよぐ風の流れも、何も変わらないはずなのに、世界が閉じられた。アリスは言葉にすることができない微妙な感覚の差異でそのことに気が付いていた。

 八雲紫は成し遂げたのだと。

 

 

 

 

 この日、アリスは久方ぶりの外出を決意していた。彼女は長い間外へ目を向けることなく家に籠もっていたため、よくよく考えてみれば自分の家周辺が魔法の森と呼ばれる土地であること以外何も知らかったのだ。他に何者が住んでいるのか、魔法の森の外がどうなっているのか、そんなことはアリスがこの場所にやってきた際には関わりがなく、興味の対象外だった。

 しかしながら、八雲紫が作り上げる箱庭の内にアリスの家ごと周囲一帯が取り込まれてしまえばそうもいっていられなくなる。

 内側に組み込まれたものはもはや外へ逃げることはできず、一蓮托生のご近所付き合いが強制的に始まってしまったのだ。ならば、いがみ合っていてはしょうがない。良好な関係を構築しておくことに越したことはないはずなのだ。

 

 

 

 姿見の前に立ってアリスは自身の姿を確かめた。流れるような金髪に寝癖はない。やや不健康そうに見えなくもない白い肌色は、ほんのりと化粧を伴って十分な血色を保っているように見せかけてある。

 赤糸で縁取られたフリル付きのストールを羽織り、つばの広い白い帽子を被れば、ふんわりとした印象はどこぞの令嬢と言われても違和感はないはずだ。

 片手に下げた編み籠に、お手製のクッキーとサンドイッチを忍ばせる。アリスの分だけではなく、出会うかもしれない誰かの分も抜かりなく用意してある。気合は十分だ。

 

 玄関口に立って扉に手をかける。滑らかな蝶番の音とともに、アリスは外へと足を踏み出した。

 

 柔らかな風がアリスのほほを撫でて通り過ぎ、春の訪れを感じさせる。晴れた日差しと暖かな空気は木々の芽吹きを促し、森の姿は萌葱色に輝いていた。快晴の下、目に映る魔法の森はいつになく穏やかで、それが危険な人外魔境であることを一瞬忘れてしまいそうになるほどだった。アリスは目をすがめて空を見やる。透き通る青空はどこまでも続いているように見えた。この空を見て、ここが閉じられている空間などとはだれも思わないだろう。

 

 と、その顔に小さな二体の人形が影を落とす。アリスの周りにふよふよと浮かぶようにして着いてくるそれはアリスお手製の人形だ。アリスは自身の身を守る上で人形を用いた戦術をとることもあるが、上海人形、蓬莱人形と名をつけた二体の人形はそのためだけにいるのではない。この二体はある試みのために作成された特別な人形なのだ。

 

「行きましょう、上海、蓬莱。二人とも、初めてのお出かけね。私もものすごく久しぶりのことだから、何が起こるか楽しみだわ」

 

 そういって自身の人形にアリスは微笑みかける。もちろん返答はない。それらはあくまでアリスが操る人形でしかなく、はたから見ればアリスの行為は寂しい一人芝居にしか映らないだろう。だがそれは無意味に行われたものではない。

 

 上海人形と蓬莱人形、この二体に心を宿らせる――それがアリスの目的だ。

 ただ一人で魔法の腕前を研鑽し続けてきたアリスだったが、そんなアリスの考えに大きく影響を及ぼしたのが八雲紫だった。

 

 いずれ世界に居場所はなくなり、自身がすべてを注いで磨いてきた技術すら失われて消えてしまう――

 

 はっきりとそう告げられたアリスは、立ち止まり、自分の目標をもう一度考え直した。そうしてたどり着いたのが完全自律人形を作り上げるというものだった。自分で考え、自分で行動し、一つの存在として振る舞う、そんな人形だ。

 人形とは操り主がいなければ成り立たない。糸を介して誰かの意図に沿って動く。いかに自発的なものに見せかけたとしても、どれだけ本物に近づけたとしても、人形は操り主がいなくなってしまえばおしまいなのだ。仮に新たな操り主がそれを動かしたとしても、それは以前とは違う意図によって動かされる全く別の物――そこに連続性を見出すことはできない。

 アリスが目指すのは、アリスという操り主がいなくなったとしても、自ら他者との縁を結ぶことができる人形だ。操り主に因らず、その連続性を保つことのできる自立した人形を作る――

 それはもはや一個の生命を作り出すという行為に等しい。簡単にできることではないことはアリスも理解している。ゆえにその取っ掛かりの第一歩は非常に小さなことだ。

 長く大事にされてきた道具には魂が宿る――そんな言い伝えがあるように、無機物が妖怪化する事例は枚挙に暇がない。それが自発的に魂が生まれたことによるものか、あるいは他のなにがしかが取り憑いたことによるものなのかは分からないが、アリスはいつの日か心が芽生えることを信じて二体の人形を大事にしようと決めたのだった。

 

 二体の人形に微笑みかけるアリスの態度は、まるで娘か年の離れた妹に接するかのようだ。

 その表情がまるで「氷の女王」みたいな怜悧としたものでなければ完璧だったに違いない。アリスの声は調子を戻すことに成功していたが、感情表現まではうまくいかなかったようだ。

 彼女の微笑みはまるで不敵な冷笑だった。じっと真顔で見つめられれば、氷の弓矢で射すくめられたかのように心臓が縮み上がりかねない。その全ては彼女の整った容姿と相まって相手に強い畏怖の感情を与えるに違いないが、そのことに彼女は気が付いていない。

 そしてそれを指摘してくれる相手もいないのであった。

 

 

 

 

―――――――――――――――――

 

 

 

「こんにちは」

 

 鈴が鳴るような、涼しげできれいな声をかけられて僕は振り向いた。

 畑仕事の合間に抜け出して、裏山へ遊びに来ていた時のことだった。

 危険だから山奥には絶対に入ってはいけないと父さんや他の大人の人から言われてたから、僕は言いつけを守って庭から見える林の中にぽっかり空いた広場と、家の前の水路に続いてる小さな沢にしか来ないようにしていた。

 山の背中側を越えた先には変な森があって、そこには恐ろしくて危険な何かが沢山棲んでるって聞いていたから、間違ってもそっちに入らないよう気を付けて遊ぶようにしていた。

 

 もしも、山の向こうから何か知らないものがやってきたら、絶対について行ってはいけないとも言われていた。そこには人間は住んでいないから、どんな見た目をしていてもそれはヒトじゃないんだって。

 

 だから、その姿を見たときにすぐに気付いた。僕らとは違う格好をしているそのお姉さんが、ヒトではない何かなんだろうって――

 

「ぼく、一人で遊んでるの?」

 

 女の人が一人でぽつんと佇んでいた。ここらへんで見たことのない不思議な恰好をして、どういうわけか人形を二つ腕に抱えていた。日の光を反射してさらさら揺れる金色の髪を掻き上げながら、お姉さんは青い目でじっと僕を見つめながらそう尋ねてきた。優しい声だったけど、顔はちっとも笑っていない。冷たい目を向けて、唇をまっすぐ一文字に引いている。

 声をかけられるまで、僕は全く気が付いていなかった。

 

 僕は心臓をつかまれたみたいに身動き一つできなかった。明るい日差しの下にいるはずなのに鳥肌が立って、まるでひどい寒さが忍び寄って来たみたいだった。

 

 黙っているとお姉さんがゆっくりと近づいて来る。僕はそのまま背を向けて逃げ出したかったけど、足が言うことを聞いてくれず棒立ちのまま立ち尽くしていた。

 お姉さんはすぐ近くまで来るとじっとり汗ばむ僕の手を取った。柔らかくて、ほんのり冷たい真っ白な指先が僕の手の甲を握る。まるで幽霊みたい。

 心臓がすごい速さで音を立てている。必死で力を込めている僕の両足は震えて、今すぐにでもへたり込んでしまいそうだった。

 お姉さんは僕の手を取ると、ゆっくり歩きだした。歩き出したお姉さんに引っ張られて、僕も一緒にふらふらと足を進める。振りほどこうと思ったけれど体がうまく言うことを聞かない。このまま手を引かれてどこか知らないところへ連れていかれてしまうんじゃないかと思うと、怖くて怖くてどうしようもなかった。

 

 けれど僕の想像とは裏腹に、お姉さんはすぐそばの石の上に腰掛けるとその隣に僕のことを座らせた。

 手に持っていた籠から何かの包みを取り出すと、お姉さんはそれを膝の上で広げ始めた。中から出てきたのは見たことのない三角形の白い板のようなもの。間には野菜と肉らしきものが挟まれている。それから、甘い匂いがする小さな「おかき」――

 

「お腹空いてない? 一緒に食べましょう。よかったら、ぼくのお話を色々と聞かせてほしいんだけど、いいかしら?」

 

 そう言ってお姉さんは笑みを作った。

 その顔を見て僕は固まってしまった。ついでに猟師のおじさんを思い出した。そう、野ウサギが罠にかかったのを確かめる時の、あの顔にそっくりだった。僕はどうしていいか分からなくて、ただ黙って手元を見ているしかできなかった。

 

 僕が黙りこくっているとお姉さんはどう思ったのか、おかきを一つ手に取って食べた。

 モグモグしているお姉さんを呆然と見ていると、「ちゃんと美味しくできてるわよね……」と小さくつぶやいた。でも、お姉さんの顔はあんまり美味しそうにしているようには見えなかった。

 

「もしかしてクッキー、食べたことないの? 大丈夫だから、食べてごらんなさい」

 

 お姉さんはもう一つおかきをつまむと、僕の顔にそれを近づけてくる。

 

「ほら、食べさせてあげるから。あーん」

 

 そう言いながら、どうしてか自分も大きく口をあけながらこちらに迫って来る。僕がこれにかぶりついたらお姉さんも僕にかぶりつく気なんだろうか。

 もうどうしていいのかわからない。これを食べたらどうなってしまうのか、お姉さんが何をしたいのか、僕には何も考えられなかった。

 じっと見つめてくるお姉さんの圧力に負けてしまい、思わず口を開けてしまう。お姉さんは指を伸ばして、僕の舌の上にそっとおかきを置いた。

 

 途端、口の中に広がった甘みに僕の目が見開かれる。

 それは純粋な驚きだった。さくりとした歯ざわりとともに、噛みこむほどにほどけてゆく甘さと香ばしい香り。今まで食べたどんなものよりも美味しく感じられて、口の仲が一気に唾で溢れかえる。

 

「おいしい……」

 

 こんな状況なのも忘れて思わず口元がにやけ、ぽつりと言葉がこぼれてしまう。それほど衝撃的な味だった。

 

「ふふっ……よかった」

 

 その言葉を拾ってお姉さんが笑った。ちらっと顔を見ればやっぱり笑ってはいないんだけれど、ほっとしたみたいな、嬉しさをにじませたそんな声色だった。

 

 だからなのか、その時僕はお姉さんの顔を怖がることなく、初めてじっくりまじまじと見つめることができた。

 

 空の色みたいな青い目はぱっちりと大きくて、秋の田んぼみたいな金色の髪がゆるく巻いて頬へと流れている。障子の紙よりも白い肌に乗った薄い桃色の唇が僕の目を惹く。つやつやでとても潤っているように見える。

 くっきりとした目鼻立ちは村の女の人達の中では見たことのない全然違う雰囲気をしていて、なにより、とっても綺麗な人だった。

 にこっとせず、ずっと難しそうな顔をしているんだけど、よくよくみればその眼差しは柔らかい。

 

 その目にじっと見つめられて、僕は思わず目をそらしてしまった。恥ずかしさで顔が熱くなっていくのがわかる。きっと、僕は耳の先まで真っ赤になっているんだろう。

 気が付いたら鳥肌は引いていて、さっきまでとは違った意味で心臓が大きく音を立てた。どうしてか落ち着かなくなってくる。けれどそれは嫌なものじゃなくて、どこかくすぐったいような、むずかゆいような、そんな感覚がしていた。

 

「お姉さん……名前、なんていうの?」

 

 気付けば僕は尋ねていた。

 僕がそんなことを言うとは思っていなかったんだろう。お姉さんは少し驚いたように目を丸くした。そしてなんだか嬉しそうにして名前を教えてくれた。

 

「私はね、アリス。アリス・マーガトロイドっていうのよ。ぼくのお名前も教えてくれる?」

 

「小朗……」

 

「そう……じゃあ、ころくんって呼ぶわ。ねえ、ころくんのお話、聞かせてちょうだい」

 

 アリスお姉さんはそう言った。少しだけ口の端を持ち上げるような微かな笑みが、不思議と優しそうに見えた。

 

 

 

 

 それからアリスお姉さんと僕はいくつか話をした。お姉さんは僕がどんな暮らしをしているのかとか、家族との様子だとか、そんな大して面白くもなさそうな話をとても興味深そうに聞いてくれた。僕がいつもやっているように虫を取ってみせるとすごい上手だねと褒めてくれたし、友達とやっているけんけんぱを教えると、一緒になって遊んでくれた。

 反対にアリスお姉さんは自分が作った人形を見せてくれた。それぞれ名前を上海人形、蓬莱人形といって、糸を使って動かした二つの人形は滑らかな動きで踊りを踊ってみせてくれた。僕はそれに驚いて何度も動かしてみてほしいとお願いし、アリスお姉さんは嫌な顔せず、素敵な踊りを繰り返してくれた。

 

 ふとした拍子に、もしかしたら人形がひとりでに動いているんじゃないかと思うときがあった。糸をつないで操作しているとは思えない複雑な動きを繰り返して、どう考えても両手の指じゃ足りないんじゃないかと思うようなことでさえ、アリスお姉さんは簡単にやってみせた。この目に見えている糸は、本当に生きて動いている人形たちをごまかすためのただの飾りなのかもしれないだなんて、なんとなくそう思ってしまった。

 

「まるで人形が生きてるみたい……」

 

 ぽつりとそうつぶやくと、アリスお姉さんは笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、そう言ってもらえると私も頑張ったかいがあるわ。上海も蓬莱も喜んでる。ね、上海、蓬莱」

 

 まるで、本当に人形がその言葉を理解しているみたいにして声をかける。生きているものにかけるのとおんなじ声色で。

 上海人形と蓬莱人形はその言葉を受けて、喜んでいるように飛び跳ねる身振りをする。ガラス玉でできた黒い瞳がこっちを見つめている。その奥に人形の振る舞いをするなにかが潜んでいるかもしれない。

 そもそもこの人形たちは本当に人形なんだろうか。本当はもっと別の何かが形を変えていたりするだけだったりとか、そんなことはないんだろうか?。

 想像して僕は急に怖くなってきてしまった。

 そして、それをアリスお姉さんに気付かれないように大きな笑顔で誤魔化した。

 

 

 

 気が付けば日はだいぶ傾いていた。カラスの鳴き声が遠くで聞こえて、雲が夕日で赤く染まり始めていた。ここは山の影だから、日が沈んでしまう前からぐっと暗くなり始める。アリスお姉さんとの話に夢中になりすぎていて、時間がたつのを忘れていた。

 

 少しばかり忘れすぎてしまった。

 

 アリスお姉さんと過ごした広場にもくらやみが忍び寄り始めていた。とっくに長く伸びきった影法師さえ、もう山の端に消えかけている夕日と一緒に薄くなっていく。枝の間から差し込んでいた木漏れ日が途絶えて、暗く、冷えた風が吹いてくる。肌に再び鳥肌がぷつぷつと立ち始めたのがわかった。

 

「あの、アリスお姉さん……僕ちょっと長居しすぎちゃったみたいだから、そろそろ帰るね。母さんに怒られちゃうんだ」

 

 慌てて僕はそう切り出した。でも、なるべく冷静に。焦ってることがばれないように。なぜだかそうしないといけないような気がしていた。

 

「……そうね、私も夢中になりすぎちゃったみたい」

 

アリスお姉さんも静かにそう言った。でも、気のせいかその声がなんだか硬い。

それからアリスお姉さんは周りに目をやって、もう一度僕に向かって言った。

 

「ねえ、大事なことを思い出したの。だからもう少し待っていてくれないかしら」

 

 暗くなってきた広場では、もうアリスお姉さんの顔はよく見えない。明るい色の髪の毛と、白い帽子の形だけでかろうじて姿が見えているだけだ。けれど、その眼だけはらんらんと光を反射している。青い光でこちらをじっと見るその目は昼間の温かさを忘れてしまったかのように冷たく輝いて見えた。

 

「っ……!」

 

 生唾をごくりと飲み込む。刺すような光がそこにあった。

 

「その、僕っ、帰るから……!!」

 

 急いで踵を返して走りだそうとする。家までの距離はそんなに遠くない。裏山から続く山道は、ちょっと暗くても家に辿りつくことができるくらいにはよく知っていた。暗い山の中を通り過ぎるのはとても怖かったけど、それ以上にアリスお姉さんのことが恐ろしくなってしまっていた。

 

 慌てて駆けだした僕は、勢い余ってつんのめる。どうしたんだろう。引っ張られた腕が伸び、肘のあたりに痛みが走った。僕の右腕を何かが締め付けている感触がする。

 

「えっ……」

 

 恐る恐る振り向く。右腕に白い指が絡みついていた。

 どうしてなんだろう。アリスお姉さんが腕を伸ばし、僕の右手首をしっかり握りしめていたのだ。

 

「お、お姉さん、何? どうしたの……僕帰らないと」

 

 震える声で僕は言った。歯がカチカチと音をたてる。

 アリスお姉さんの手はこんな細い指のどこにそんな力があるのかと思うほど、ぎちりと僕の手首を捕まえて離さなかった。

 うつむいているアリスお姉さんの顔はよく見えない。くらやみの中でぼんやり浮かぶその姿で、僕の問いかけに応えず黙り込んでいる。

 昼間の間は考えないようにしていた事がむくむくと僕の中でわきあがってくる。アリスお姉さんは、いったい何者なんだろう。僕はそのことを尋ねなかった。聞いてしまったらいけない気がしたから。

 

「お姉さん、手が痛いよ……離してくれないと僕、家に帰れないんだけど……」

 

 けど、先送りにしていた事実が今僕に降りかかっている。アリスお姉さんが――得体の知れないモノが、僕の手を捉えて離さない。背骨の真ん中に何かが刺さったみたいに、僕の背筋が痺れて凍り付く。膝ががくがくして、立っているのがやっとだった。

 

 けれど、力ずくで腕を振り払おうとすることはどうしてもできなかった。

 それをしてしまったら、後戻りできなくなる気がして。一緒にお昼を食べて、話をして、一緒に遊んだアリスお姉さんが偽物だったのだと認めてしまう気がして。自分の手をつかんで離してくれないお姉さんが、恐ろしいなにかだと判明してしまう気がして――そうしたら、もう僕は耐えられない。

 どうにか必死で恐怖を押さえて、あと一歩のところで踏みとどまっていた。喉元まで悲鳴が出かかっていた。目に浮かぶ涙をぎりぎりまで堪え、何でもないような顔をしていた。でも、もうだめかもしれない。

 あと何かがあればきっといろんなものが決壊してしまう――そんなときだった。

 

「小朗! どこにいるの!? 返事をして!!」

 

 木々の奥から声が聞こえてきた。僕ははじかれるように顔をあげた。心の奥にポツリと火が灯ったようだった。

 聞き間違えようもない――それは母さんの声だった。

 

「母さん! ここだよ!!」

 

 僕は大きく息を吸い込んで叫んだ。涙声交じりになってしまい、うまく声を出せなかったけれど、その声はちゃんと届いてくれた。

 

「小朗!!」

 

 茂みの奥から声がすると、その姿がやっと目に入った。なかなか帰ってこない僕を心配してくれたのか、頭に手ぬぐいを巻いて袖をたすきにかけた姿のままで、母さんは広場の縁までやってきた。きっと、夕飯の支度を放り出して探しに来てくれたんだろう。汗だくで疲れた顔をしていたけれど、僕の姿を見つけるとホッとした表情になって笑みを浮かべた。

 

「まったくもう! 暗くなる前には帰ってきなさいっていつも言っているでしょう? 心配ばっかりかけて、本当にあなたって子は!!」

 

「うう……ごめんなさい!」

 

 叱りつけるように吊り上がった目じりには、ほんのりと涙が浮かんでいた。かなり心配させてしまったみたいだ。いつもだったら怖くて縮こまってしまう母さんのお説教だけれど、この時だけは心からホッとした。体を縛っていた恐怖が、すっとほどけて消えていくようだった。

 

「もう、しかたないわね、ほら、早くおうちに帰りましょう。みんなあなたの帰りを待ってるんだから。さあいらっしゃい」

 

「うん!」

 

 そういって母さんに駆け寄ろうとしたのだけれど、腕を引かれてはっと思い出した。僕はまだアリスお姉さんに腕をつかまれたままだったのだ。

 

「母さん、助けて! お姉さんが僕の腕を離してくれないんだ!」

 

 僕は母さんに向かってそう叫んだ。母さんはアリスお姉さんの存在に今気が付いたみたいに、驚いて目を見開いた。

 一瞬、母さんを大変なことに巻き込んでしまったことに気付いて怖くなった。もしかしたら、母さんも一緒に捕まってしまうかもしれない。だけど、もうこれ以上怖い思いをしたくなかった。母さんと二人で一緒に家に戻るんだって、そう強く思った。

 

「母さ――」

 

「小朗くん」

 

 僕が母さんに声をかけようとしたとき、アリスお姉さんが僕の名前を呼んだ。

 その声に、はっとして僕はアリスお姉さんの方を振り返った。

 

 青い瞳がじっと正面を見つめていた。

 

 その先にいるのは僕じゃない。僕に声をかけたのに僕のことを見向きもせず、瞬きもしないで一つのモノへと視線を向けていた。

 その様子に僕は息をのむ。

 

 アリスお姉さんは目つきを鋭くして僕の向こう側を――母さんのことをじっと睨みつけていた。暗くて表情はよくわからないけど、その目に映る光は僕が今日見たどんなものよりも冷たくて、険しかった。

 

「行ってはだめ」

 

 僕が痛いと言ったからか、いつの間にか僕の手首を握りしめた力は少し緩められている。けれど、決して離してしまってはいけないというみたいに、懸命に訴えかけるように、アリスお姉さんの指はきつく結ばれていた。

 

「アリスお姉さん……?」

 

 僕はその様子に困惑した。だって、アリスお姉さんの態度は、危険なところに近づこうとする子供を必死で引き留めているみたいだったから――危険なところって、いったい何のことだろう?

 

 僕はもう一度振り向いた。山の影を背にした暗がりの向こう側で母さんが心配そうな顔をしている。

 

「小朗! こっちへ来なさい! 急いで!」

 

 おろおろと手をさまよわせながら、僕のことを呼んでいる。今にも泣きだすんじゃないかというくらいに、眉をハの字に歪めて、必死で僕に声をかけている。その姿に僕の心もぎゅっと締め付けられる。こんなに母さんに心配をかけてしまったのは生まれて初めてだった。

 

 でもなんでだろう。僕はその様子を見て一歩後ずさりをする。

 口の中がからからに乾いて、冷や汗が止まらない。さっき母さんの声を聞いたときに心に灯った火が、名前を呼ばれるたび、急激に小さくなっていくように思えた。

 

「ねえ、母さん……」

 

 擦れた声が僕の喉から出る。その続きを僕は心の中でつぶやいた。

 

 ねえ、どうして母さんは、山の奥側からやってきたの?

 なんで母さんの顔は、こんなに暗いのにはっきりと僕の目に映っているの?

 

 震える足でもう一歩下がれば、後頭部にぽすんと柔らかなものが当たった。

 いつの間にか立ち上がっていたアリスお姉さんが、僕の肩に腕を回して近くへと引き寄せてくれた。柔らかく、ひんやりとした手のひらで、冷や汗の浮かんだ僕の額を優しく撫でてくれた。

 

「大丈夫。ころくんは絶対にお母さんのところに返してあげる。約束するわ」

 

 僕はアリスお姉さんを見た。相変わらず暗くて表情はよく見えない。

 

「それと――私のこと、信じてくれてありがとう」

 

 でも僕にはその言葉だけで十分だった。

 

 

 

 広場が静かになっていた。

 いつしか母さんは僕のことを呼ぶのをやめていた。虫の声も、獣の遠吠えも、木の枝のざわめく音さえ聞こえてこない、耳に痛い静けさだけが辺りに満ちている。

 

 母さんは――母さんの姿をしたナニかは、無表情で僕のことをじっと見ていた。

 青白い顔の真ん中に虚穴のような暗い瞳が二つ、ぽっかりと口を開けている。母さんと似ても似つかないその姿が、真っくらやみの中で、やけにはっきりと浮かび上がっている。死人みたいなやせ細った指先で、こちらのほうに手を伸ばしている。

 さっきまで僕はあの手を取ろうとしていた。

 アリスお姉さんが僕の手を必死で捕まえていてくれなかったら、僕はいったいどうなっていたんだろう。

 

「アァ……」

 

 身を震わせるようなこの世のものでない音が広場に落とされる。

 それは目の前のナニかから発せられた。

 

「口惜しや……口惜しや……邪魔だてせずともよいものを……久方の獲物を魔女に取らるとは……ああ口惜しや……」

 

 ぶつぶつとつぶやきながら、こちらへとにじり寄ってくる。僕は怖さで腰を抜かしそうになりながらも、その口から聞き逃せない言葉が飛び出してきたことに気が付いた。

 今、目の前の幽霊は何て言った? 魔女って、そう言ったんじゃないだろうか?

 

 僕の疑問に答えるように、アリスお姉さんは行動を起こした。

 

「上海、蓬莱」

 

 アリスお姉さんが声をかけると二体の人形が輝きだし、一瞬の後、その姿を変えていた。

 いつの間にか上海人形と蓬莱人形は、その手に丈を超えるほどの鋭い槍を構えていた。

 アリスお姉さんの手の動きに合わせるようにして、二体の人形は昼間に見せてくれたのとは比べようもない速度で幽霊へと飛び掛かる。

 アリスお姉さんの手と人形は微かに光る長い糸で連結されているみたいで、それは人形たちの後に七色の軌跡を残しながらまばゆい光の輪を描いている。

 その幻想的な光景に思わず僕は見入ってしまっていた。

 

 人形たちに突撃された幽霊は、槍の穂先が触れるかどうかという瞬間にぶわりと霧散した。退治したのかと一瞬思ったのもつかの間、僕のすぐそばで嫌な気配が蠢いた。

 振り返ると、手を伸ばせば届くかという近さでおぼろげな姿が像を結んでいる。真っ黒な目をしてこちらを睨み、ぎりぎりと歯ぎしりのような音をたてながら、それは僕とアリスお姉さんへと飛び掛かってきた。

 

「う、うわあっ……!」

 

 悲鳴を上げて手で顔をかばった僕の目の前で、幽霊は七色の光に阻まれる。アリスお姉さんの指先から伸びた光る糸が、幽霊をすんでのところで押しとどめていた。

 

 けれどもう一度幽霊は姿を隠す。

 

「ひひひひ」

 

 周りのいろんなところから、ぞっとするような声が響いてくる。

 僕は震えながら辺りを見回した。枝の影、茂みの奥、岩の裏側、いたるところの暗がりに目を走らせるとそこに青白い影が見えるような気がして、不安になってアリスお姉さんの方を見た。

 

 アリスお姉さんは目を閉じていた。そしてそのまま両腕を勢いよく振り上げると、それにつられるように光る糸が四方八方に網目のように伸びていった。暗い広場に一瞬色とりどりの光があふれだし、昼間のようにまぶしく彩られる。

 光にあぶりだされるようにして暗い影が形をとった。たちまちのうちに幽霊に向かって糸が集中する。蜘蛛の巣に捕まった虫みたいに幽霊がもがいたけれど、あっというまに雁字搦めに縛り上げられていた。

 

 アリスお姉さんは手のひらを天に掲げた後、一気に引き絞るように下へと振り下ろす。その動きに合わせて糸は引き寄せられ、幽霊を締め上げる。苦しげに暴れる幽霊だったけど、糸から逃れることはできないみたいだった。

 すぐに躍りかかった上海人形と蓬莱人形によって身動きの取れない幽霊は引き裂かれ、叫び声をあげた。

 錆びた刃物を擦り合わせるような絶叫に、思わず僕は耳をふさぐ。その音もやがてか細く消えていくと辺りに静けさが戻って来た。

 

 今度こそ終わったんだろうか。聞こえるのは僕の心臓の音と、アリスお姉さんの息遣い。

 遠くから風に乗って、誰かが名前を呼ぶ声がする。それも複数。

 はっと気づいて僕は耳をすませる。微かに聞こえたのは、隣の家のおじいさんと猟師のおじさん。それから父さんと兄さんの声だ――

 みんなが僕のことを探しているみたいだった。

 

 僕はアリスお姉さんの方を見た。

 

 広場にはまだ消えかけている僅かな光が残っていて、アリスお姉さんの姿をうっすらと映し出していた。虹の色に包まれたアリスお姉さんは僕を見た。

 

「大丈夫、心配しないで。途中までついて行ってあげるから」

 

 青の瞳に七色を映し出して、優しい笑顔で微笑んだ。綺麗で、幻想的なその姿に僕の心臓はどきりと跳ね上がった。

 

 

 

 僕とアリスお姉さんは手を繋いで山道を歩いた。

 昼間とは反対に、僕がアリスお姉さんの手を引いていた。手のひらから、アリスお姉さんの指の柔らかな感触とひんやりとした温度が伝わってくる。きゅっと少し握る力を強めたら、アリスお姉さんもそれに合わせてきゅっと握り返してくれる。

 僕の手のひらは、緊張でじっとりと汗ばんでいる。

 昼間に通る山道はそんなに長くないんだけど、夜に通る暗い山道はずっと続いているんじゃないかと思うほど長い。僕はいつも、早く終わらないかと思いながら駆け足でこの道を通るけれど、どうしてか、今だけはもうちょっと続いてくれてもいいかもしれないって思っていた。

 

 やがて道が途切れて、家の明かりが見えてきた。家の周りでは、松明をかかげて、村の人たちがせわしなく動き回っていた。きっと僕を探している。

 村の人たちに囲まれて母さんの姿があった。俯きながら顔に手を当てて、涙をこらえるように肩を震わせている。隣の家のおばさんたちが、一生懸命言葉をかけて慰めている。

 

 その姿を見て僕はたまらずに駆けだしていた。

 

「母さん!!」

 

 大きな声で叫んだ。母さんははじかれたように僕の方を見た。そして、立ち上がって、飛び出していった僕を両手で受け止めてくれた。

 

「小朗っ! 無事なのね、どこにも怪我はないのね!?」

 

 あふれ出した涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、母さんは僕の体のあちこちをまさぐる。僕は母さんの胸元に顔を埋めるように抱き着いて、両手を背中に回した。僕を抱きしめる母さんの手は温かく、ぎゅっと押し付けた鼻から母さんの匂いがする。

 ああ、本当の母さんだ――そう分かって、涙があふれだした。

 

「うん、大丈夫、大丈夫……!」

 

 涙声で、ただそれを繰り返すしかできなかった。

 包まれた温かさに、ずっと張りつめていた緊張がほどけていった。僕は戻ってきたんだと、この時実感した。

 

 そうしている内に周りの大人たちも僕が戻ってきたことを皆に伝えに行った。僕を探しに行ってくれた父さんや兄さん、隣近所のおじさんたちも、次々と無事に戻ってきたみたいだ。

 僕はしばらく呆然と母さんを抱きしめて涙を流していたけれど、ふと大事なことを思い出して山道の方を振り返った。

 

 そこには誰もいなかった。

 山道に続く坂の入り口の奥には暗い闇がぽっかりとあいているだけだ。七色の光も、不思議な人形たちも、あの青い瞳も、もう影も形も見当たらなかった。

 

 なんとなく僕はそんな気がしていた。

 僕が母さんの姿を見て駆けだしたとき、アリスお姉さんとつないだ手をとっさに放してしまった。

 そのときに僕とアリスお姉さんのつながりは切れてしまったんだろう。僕と、アリスお姉さんが戻る場所はきっと違う。僕が家に帰ったように、アリスお姉さんも帰ってしまったんだ。

 まるで全部夢だったみたい。

 

 僕はお礼を言っていないことを思い出した。だから大きく息を吸い込んだ。涙声にならないよう気を付けながら、遠くに向かって声を張り上げた。

 

「ありがとう、アリスお姉さん!」

 

くらやみに風が吹いて、ざわめきの音がするだけで、どれだけ待っても返事はなかった。

だけど、きっと届いてくれたかな――アリスお姉さんのあの微笑みが思い浮かんだ。

 僕はそのことを信じて、夜の山に背を向けた

 

 

 

 

――――――――――――――――――

 

 

 

 パタンと扉の閉まる音が響いた。天井に吊り下げられた真鍮のランプが点灯し、真っ暗だった部屋にオレンジ色の柔らかな光が満ちていく。役目を終えた白の帽子を帽子掛けにひっかけ、手に下げた編み籠はテーブルの上へと投げ出される。椅子を引いて柔らかなクッションの上にぽすんとお尻を乗せたところで、アリスは深々と息を吸い込み、そして長く吐き出した。

 

「ハァ……疲れた……」

 

 心底くたびれたといわんばかりに張りのない声をあげて大きく伸びをしたアリスは背もたれに深く身を預けた。天井を仰いで手足を投げ出し、半開きの口からため息を漏らすその様子は、先ほどまでの凛々しいお姉さんといった趣の一切合切を放り捨てていた。

 

「上海も蓬莱もお疲れさま、ありがとー」

 

 間延びした語尾で上海と蓬莱をねぎらうと、ふよふよと寄って来る二体を抱き寄せて頬ずりする。久方ぶりの外出は彼女にとても大きな負荷をかけていた。

 

「まさかホントに最初から戦うはめになるだなんて思わなかったわ……」

 

 あんまり得意じゃないのだけれどね、とアリスは独り言ちる。

 外出のために気合を入れて準備していたのはサンドイッチと格好だけではない。好戦的な妖怪に襲われたときのことを想定した戦いのための術は、上海人形にも蓬莱人形にもそれなりに仕込んであった。それがここまで早く日の目を見ることになるとはアリスも思っていなかったのだが。

 

 この日アリスが初めて出会ったのは純朴そうな少年だった。

 魔法の森を出て、そこまで離れていない場所に人間たちの集落があったのにはアリスも少々驚いたが、その中でちょうどよく一人でいた少年を見かけたアリスはさっそくとばかりに接触を試みた。

 ファーストコンタクトの相手として子供を選んだのはあえてのことだった。長いこと人間に接することのなかったアリスは、実際のところ見かけよりもだいぶ緊張していた。大人の人間相手にぼろを出して武器を向けられることを想像して気後れしていたアリスにとって、一人で遊んでいた少年は実にちょうどいい獲物に見えていた。子供ならば警戒心が薄いだろうし、多少怪しまれてもうまく言いくるめて誤魔化すことができるだろうと踏んでのことだ。

 実際に今日一日はなかなかに上手く少年とコミュニケーションをとれていた気がする――最後の方は妖怪から守るために、仕方なく魔法をつかってしまったのだが、それでも明らかに魔法を使って見せた自分相手に少年は向こうの方から手を握ってくれた。

 至極穏当に別れを済ませたことも含め、十分な結果だとアリスは自画自賛していた。

 

 アリスが満足げに笑みを浮かべようとしたときだった――

 

「お疲れさまね、アリス。フフ、今日はいいものを見せて頂きましたわ」

 

「ひゃうっ!?」

 

 静かな部屋に突然声が聞こえ、アリスは素っ頓狂な叫びを上げた。

 驚きのあまり、体重をかけた背もたれの方向にバランスを崩す。その結果、アリスは勢いよく後ろにひっくり返った。

 バタンと部屋全体を揺るがすような振動が響き渡る。

 ひっくり返った椅子とその上空の間で二者の視線が交差すると、突然の訪問者――八雲紫は「あっちゃー」とでもいいたそうに気まずげに目をそらした。

 

 この神出鬼没の隙間妖怪はたびたびアリスの元を訪れるようになっていた。

 その用件の大半は他愛のない雑談だったり、単に愚痴をこぼしに来るだけだったりする。時たま意味深なことを言って何かしらの示唆的なものをアリスに残していくのだが、結局のところ、アリスにとってみれば特に自分のところへやって来る意味がよく見いだせないのだった。そしてその訪問はこうしてよく不意打ち気味に行われることがしばしばだった。

 

「紫……どういうことかしら」

 

 無表情を張り付けてアリスは紫に尋ねた。なにもありませんでした、とでもいうような態度でゆっくり地面から立ち上がって椅子を元に戻し、スカートのすそを手で払う。その手が僅かにプルプルと震えているように見えたが、紫はそれに特に触れることなく話を続けた。

 

「あら、出不精だったあなたがようやく外出するっていうんだもの。これを見逃す手はないでしょう?」

 

「私のことをずっと監視していたってこと? 」

 

 不機嫌さをにじませてアリスが睨むも、紫はどこ吹く風だ。

 

「今は結界ができて箱庭が立ち上がったばかり、何かよからぬことを考える輩がいないとも限らないのだもの。あなたがそうだとは思っていないけれど、万が一がないよう見守っておく必要があるのは当然のことと思わない?」

 

 そもそもこの八雲紫がもつ能力をもってすれば、どこにいても相手に気付かれずに見張ることはたやすいだろう。彼女の扱うスキマとはどういった原理か異なる二点間の距離を無視してつなげることができる。そんな相手に隠し事をしようとするのは至難の業だし、もともとアリスも隠していたわけでもない。

 管理者としての建前を振りかざす紫に不毛な反論を重ねても無駄だと思いつつ、なぜか上機嫌の紫にアリスは眉を顰める。どうにもやけにテンションが高い。

 

「それにしても……」

 

 もったいぶるように言葉を切って紫はアリスをみる。瞳を輝かせて、愉快そうな調子で尋ねる。

 

「やるじゃないの。今日一日でショタのハートをがっちりと捕まえてくるなんて、流石は引きこもっても魔女というところかしら。横から見てて思わずにやにやさせられてしまいましたわ」

 

 扇子でつついてくる紫の反応に、アリスは思わず目を丸くする。

 

「でも、一歩間違えたらあのアプローチは不審者のそれではなくて? まあ、今回は結果オーライだったけれど、流石にどうかと思うわよ」

 

 やれやれと首を振るように紫は嘆息する。だがその物言いにアリスは怪訝そうな様子で言い返した。

 

「ええ? ショタって……なんのことよ……別に変なことはしていないわよ? きちんと淑女の振る舞いを心がけてたじゃない。あれで模範回答だったと思うのだけれど。」

 

 素で疑問を浮かべるアリスに紫は思わず「えっ」と声をあげる。

 

「いやあなた……いきなり声かけて驚いてる男の子相手にご飯食べましょうって、そんな普通だったら警戒して口付けるわけないじゃない。無理やり食べさせてたけど、逃げられてもおかしくないわよ?」

 

「あの子そんなに警戒してたかしら? 確かになんだか緊張してたとは思ってたけど……」

 

「それに人形を踊らせて見せていたけど、ちょっとやりすぎよ。途中からあの子のあなたを見る目がすごいことになっていたけど、気付かなかったのかしら?」

 

 唇に指をあてて考え込むアリスを見て、紫はなんとも言えない表情になる。

 

「あなた何にも分かってなかったの? てっきりわざとやってるものだとばかり思っていたのだけど」

 

「……もしかして私、怖がられてたのかしら」

 

「当たり前でしょう」

 

 おそるおそる尋ねるアリスを、何をいっているんだとばっさり切り捨てる紫。

 見当違いの事実に、アリスは両手で顔を覆う。

 何が模範解答だったのだろう、なんだか恥ずかしくなってきた――そんな様子のアリスを見て紫は少し笑うと、言葉を続ける。

 

「まあ、途中から恐れが反転して強い憧れに変わっていたから、きっとあの子はあなたのこと忘れないと思うわよ。むしろもう初恋のお姉さんがあなたって感じね?」

 

「それはちょっと大げさじゃない?」

 

「あなた、あれだけのことやっておいてそれはないんじゃないかしら。本当に何もわかってなかったのねえ……」

 

 呆れたようにため息をついて、処置なしとばかりに紫は手のひらをひらひらと振る。その様子がどうにも面白くなくて、アリスが反論の言葉をかけようかと口を開こうとしたときだった。

 

 

「ですけれど――」

 

 紫が居住まいを正し、纏う空気を変える。部屋の中がぴりりと僅かな緊張に包まれた気がした。

 自然にアリスの背筋も伸びる。

 

「今日の様子を見る限りあなたに問題はなさそうですわ。アリス・マーガトロイド――あらためて、ようこそ幻想郷へ――この箱庭は、あなたを歓迎します」

 

 怪しく、艶やかに、笑みを浮かべた妖怪の賢者をアリスは見た。その目に浮かぶ光が何を宿しているのか、見極めようとするように、紫とアリスはしばらく視線を絡ませあう。短い沈黙が二人の間に降りたあと、紫はおもむろに口を開いた。

 

「まあ、そろそろお暇するわ。フフ、そうね、もしも恋文の一つでもあったら届けて差し上げますわ――」

 

 パチリと扇子の閉じるの音とともに、紫はアリスの前から消え去った。

 あっけにとられて虚空を見つめていたアリスだったが、気配がもうどこにもないことを確かめると、ため息を一つついてベッドに横たわった。

 

「歓迎、ね。何を改まって……いったい何をしに来たのやら」

 

 おそらくは単純にからかいに来ただけなのかもしれない。紫の行動の意図を読み解こうとしても、たいていは煙に巻かれて徒労に終わるだけだ。そこそこの付き合いで、アリスはそのことを思い知っていた。

 

「幻想郷、ね……」

 

 告げられた名前をぽつりとつぶやく。いずれ幻となり消え去る運命にある者たちが集う箱庭の名前としては、安直だがピッタリのネーミングだ。紫はその住人としてアリスのことをどうやら認めてくれたらしい。そのことだけでも、今日の外出に収穫はあったのかもしれない。

 

「そうね、とりあえず恋文は遠慮しとくわ……」

 

 疲労からくる睡魔にあらがうことなく、アリスはそれに身をゆだねた。小さく欠伸をしてベッドに潜り込むと、上海と蓬莱を隣に寝せる。

 まどろみの中にアリスは沈んでいく。

 

 おめでとう。よかったわね、アリスちゃん――

 

 途中で酷く懐かしい声が聞こえたような気がした。けれど、それが誰のものだったのか、いつ聞いたものなのか、思い出すことはなかった。きっと、明日には忘れてしまうだろう。

 

 

 明りの消えたアリス・マーガトロイド邸には月の光が差し込み、規則正しいアリスの寝息が響いていた。どこかでフクロウのなく音がする。

 魔法の森の夜は、ただ静かに更けていった。

 




アリスお姉さんは冷え性


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アリスとノブレスオブリージュ

「ありがとうございます……! 本当に……なんとお礼を申せばよいやら……!!」

 

 目の前の老婆が曲がった腰を地面につくのではないかと思うほどさらに曲げて頭を下げる。アリスの手元にはどっさりと籠に山積みになった野菜、生米、干し椎茸――それらは僅かばかりのお礼と称されてアリスに押し付けるように手渡された品々だった。

 

「もうあれがあなたの達の前に現れることはないわ。他の人たちにもそう伝えておいてちょうだい」

 

 礼物は不要、いや受け取ってもらわなければ、の押し問答の末に、村人たちに根負けしたアリスは不本意ながらもそれらを受け取った。ぎりぎりまで粘ったにも関わらずその量はアリスの両手に収まりきらないほどで、こと親切な村人が背負子の用意までしてくれる有様だった。

 

「ああ、流石はアリス様だ、もう解決してくださったとは! これで我らの集落も安泰だ」

 

「それにしてもなんと美しい……」

 

「まさに稲荷様の御使いであらせられるだけのことはあるのだなあ」

 

「ありがたやありがたや」

 

「アリスお姉ちゃん、ありがとー!!」

 

 集まる人々の称賛に少々居心地の悪さを感じながらも、満面の笑みを浮かべて手を振る少女にアリスは小さく手を振り返した。その少女は人外の化生――アリスの見立てではおそらく怨霊かなにかの類だろう――に取り憑かれ、あわや取り殺されようかというところでアリスが救った村の娘だった。

 

 この集落では数か月ほど前から村人の失踪が相次いでいた。一晩のうちに誰に見られることもなく人が姿を消すということが二度、三度と続くと、流石に村人たちの間にも警戒と焦りが浮かぶ。

 村人たちは徒党を組んで寝ずの見張りを立てることにしたが、ほどなくしたある夜、ついに奇妙な出来事に遭遇することになる。

 人々が寝静まった頃、ある家屋で青白いぼんやりとした影が鎧戸の隙間からするりと入り込むのを見張りの一人が目撃したのだ。急いで人を呼んでいるうちに、件の家から少女が一人外へと出てくる。それはこの家の一人娘だったのだが、声も発さず、白痴のごとき様相で踊り狂うようにふらふらと手足をさまよわせながら歩くその様子は、誰が見ても尋常の有様ではなかった。

 一夜が明けても娘の様子は変わることなく、遮二無二に手足を振り乱すため、家の柱に縛り付けざるを得なかった。食事も満足にとらない娘の状態も徐々に悪化し、家人は変わり果てた子供の姿にむせび泣いた。

 

 そんな折、化け物退治を引き受ける金髪碧眼の少女の噂が近隣の集落よりもたらされる。

 曰く、彼女は巫女や陰陽師とも異なる呪法を用い、見目麗しい少女の姿でありながらこれまで様々な怪異や人間に仇なす化け物どもを数多く調伏してきたらしい。

 村人たちはその少女、アリス・マーガトロイドという魔法使いに接触することに成功した。そしてアリスは瞬く間に怪異の元凶を取り除き、村の娘を見事救って見せたのだった。

 

 

 

 村人たちに盛大に見送られてアリスは集落を後にした。その足取りがやけに重たいのは、両肩にずっしりと食い込む背負子の紐のせいだけではないだろう。

 

 アリスのような魔法使いが人々から受ける反応というものはあまり好意的なものではない。大概は石をもって追われ、迫害の末に目立たぬ辺境にてこそこそと過ごすというのが一般的である。であればこそ、アリスはこのように人々から感謝や称賛の目を向けられることに慣れておらず、いささかの困惑とどうにもならないむずがゆさを感じているのだった。

 

「どうしてこうなったのかしら……」

 

 溜め息とともに吐き出された言葉は空に力なく溶け込んでいく。

アリスが置かれている境遇のその原因は、少しばかり前にアリスが八雲紫の従者と交わしたある約束が発端となっていた――

 

 

 

――――――――――――

 

 

 

「はい、どうぞ。珍しいわね、あなたが一人でやってくるなんて」

 

 差し出されたティーカップから湯気が立ち上り、微かに上品な紅茶の香りが漂ってくる。

 

「ああ、ありがとう。近頃は紫様は何分御多忙でな」

 

 そう言うと彼女はティースプーンを手に取り、角砂糖を二つばかりカップへと放り込んだ。くるくると渦を巻く液面の動きに合わせて白いキューブは角をなくし、靄のような揺らめきとともに溶けて消えていく。

 彼女はカップを持ち上げて口元へ運び、音を立てずに中身を一口含む。こくり、と白い喉が僅かに上下し、カップを離した唇から熱を帯びた呼気がゆっくりと吐き出される。

 

 かちゃりと音を立ててソーサーにカップを戻したところで、藍色の導師服に身を包んだ彼女は改めてアリスの方へと顔を向ける。

 どこか蠱惑的な空気を孕んだ琥珀のような切れ長の瞳。頭頂部からは二つの獣の耳がぴょこんと飛び出しているが、それ以上に彼女の種族を雄弁に語る特徴はその尻尾の方だった。

 天鵞絨のように光沢のある滑らかな毛艶の尻尾は、まるで太陽が溶け出したかのような輝く黄金色をしていた。手を触れることを想像するだけで思わず溜息のこぼれてしまいそいうなその艶々の尻尾が、九つ。彼女の背中から後光が差すかのようにあふれ出している。その魅力に抗える者は果たしてこの幻想郷にどれだけいるというのだろうか。

 アリスもその例にもれず、ぼんやりと目の前の彼女――八雲紫の従者である八雲藍が紅茶を飲んでいる間、ゆらゆらとなびく九つの尾をじーっと見つめていた。

 視線に気づいたのか藍は少しばかり困ったような表情を浮かべ、その様子にアリスははっとして居住まいを正す。

 

「そう、どうりで最近はあの隙間妖怪を見ないと思っていたけれど。どうせならこのまましばらく忙しくしていて貰いたいものね」

 

 不意打ちで現れる厄介な訪問客に煩わされずにすむもの、と毒を吐くアリスに、藍は苦笑気味に答える。

 

「まあまあ、そう言わずに。紫様も、気を許せる友人の数は多くないんだ。アリスに嫌われてはきっと泣いてしまうよ」

 

「あら、紫にそんな可愛げがあるのならきっともう少し友達の数は多いでしょうに」

 

 フフフ、と二人して笑いあう。

 紫を相手にしているときに比べてなんて穏やかな時間だろうとアリスは思った。二人とも同じく紫に振り回される者同士で波長があうのだろうか。アリスは藍のことをもてなすべき客人リストに付け加えた。記念すべき栄えある最初の一人だ。紫に言うほどアリスの友人も多いわけではない。というかぶっちゃけ少なかった。

 

 

 

「それはそうと、紫様が忙しくしている原因なのだがな……アリスは結界のことは知っているか? 古い方の話だ」

 

 藍がやや眉根を寄せながらそう切り出した。

 

「ええと、外の世界から妖怪を引き寄せている……だったかしら。紫から聞いたわ、私がここへ呼び寄せられたのもその影響だろうって」

 

「ああ、正しくは”幻と実体の境界”というものだ。今幻想郷には多くの妖怪がこの結界によって呼び込まれている。外の世界で失われつつある伝承、信仰、儀式、現象などと共にな」

 

 そこで藍はもう一度紅茶を口へ運ぶ。

 

「それがあなた達の目的だったんでしょう? よかったじゃない、上手くいっているようで何よりね」

 

 アリスも紅茶を啜りながら藍に向かって言う。どうにも話が見えてこないとその瞳は訴えていた。

 

「そうだ、上手くいっている。いや、少しばかり上手く行き過ぎたというべきか」

 

 そう言って藍は額に苦悩を浮かべた。目を閉じて、眉間の皺をもみほぐすようにしながら大きく息を吐きだした。

 その様子を見てアリスは厄介ごとの気配を覚える。そもそも主と比べると真面目で実務的な藍が、ただの無駄話をしにアリスの下へとやって来るとは考えづらいのだ。とはいってもここで、そうなの大変なのね、じゃあまたねと会話を切り上げて追い出すわけにもいかない。

 

「あら、何か好ましくないと言いたそうじゃない。幻想郷はすべてを受け入れるんじゃなかったの」

 

 心なしか渋い表情になったアリスを見て、藍は手元に視線を落とした。爪の先を弄りつつ、少しばかりバツが悪そうにしながらも口調に淀みはなく藍は先を続ける。

 

「問題は外から入り込んでくるものの一部にある。特に、意思もなく意味もなく他の生命を欲しがるようなもの達だ。対象を失った呪いや恨み、由来さえ定かでない祟り、陰の気が寄り集まってできた澱みの塊――そういったものが、今雪崩をうって幻想郷に入り込んでいるというわけだ。その結果がどうなるかはもう分かるだろう?」

 

「……なるほど、紫も忙しくなるわけね。そんなものを放置していたらあっという間に幻想郷の人妖のバランスは滅茶苦茶になるでしょうに」

 

 そもそも妖怪とは人間からもたらされる恐れによってその存在を成り立たせている。幻想郷へ逃れた妖怪ももちろんその原理から解放されたわけではない。

 妖怪が人間を襲い、人間は妖怪を恐れる――幻想郷はこの二者の関係性を綱渡りのような絶妙なバランスで保ちながら存続しているのだ。もしも幻想郷内の人間が滅びてしまえば、遠からず妖怪たちも滅びを迎えることになる。幻想郷にとって人間とは、いわば貴重な資源の一つでもあるのだ。

 それを外の世界からやってきた話すら通じないものたちが一方的に食い荒らせばどうなるだろうか。

 

「既にいくつかの孤立した集落が滅びかかっているよ。外界からの補充も進めているが人間の減る速度の方がずっと早い。今の人間側にこれに対応できる人材が少な過ぎるんだ。紫様は結界の調整を急いでいるが、このままでは早晩対処しきれなくなってしまう」

 

 苦汁を滲ませて藍は組んだ手の上に額を乗せる。それから顔を上げて、アリスのことを正面から見据える。その目には力を貸して欲しいのだと分かりやすく書いてあって、思わずアリスは天を見上げた。

 

「単刀直入に言うよ――アリス、どうか手を貸して欲しい。妖怪に人間を守る手伝いをしてくれと頼むのもおかしな話だが、現在はそうせざるを得ない程状況はひっ迫している。私も紫様も手を尽くしているが、それでも足りないんだ」

 

 頭を下げて藍は言う。何とも言えない表情でアリスはそのつむじを眺めた。

 

「ああー……そう、そうね、事情は分かったわ、ちょっとだけ待ってくれないかしら」

 

 片手を顔に当ててアリスは溜息をつく。

 事情は理解できたし、自分にも無関係な話ではない。幻想郷の危機はすなわちそこに住むアリスの危機であるも同然だ。力を貸さないという選択肢はおそらくはないだろう。

 だがそれでも、二つ返事ではいと頷くことはアリスには躊躇われた。

 アリスは荒事を得意とはしていない。身に着けた魔法も、アリス本人の肉体性能も、おおよそ戦いに向いているとは言い難く、性格的にも争いごとを好まない。一応アリスはそれなりに長い時を魔女として生きているが、それは他者からの隠蔽と逃走手段の確保を徹底していたからだ。けして強敵に打ち勝ち、戦いの果てに生き延びてきたというわけではない。

 アリスは藍のその頼み事が無理筋である根拠を探して頭をひねった。

 

「えっと、人間を守るといってもどうするのかしら。これでも私も魔女なのだから、ただでさえそんな状況で人間側が受け入れてくれるとも思えないのだけど……」

 

「もちろんその辺りのフォローはするつもりだ。軽い暗示をかけてもいいし、夢枕に立って守護者であることを喧伝することもできる。なにより人々はすがるものを求めているから、明確に味方である事を示せばその後は評判が勝手についてくるだろう」

 

「う、うーんそうかしら……でも、やっぱり私より他に適任がいるんじゃない?」

 

「まさか、むしろアリスほどの適任者が居るわけないだろう!」

 

 何を言うのかと藍の語気が強まり、アリスは怯んだ。

 

「妖怪の多くは人間の恐れを糧にして成り立っているし、これは私も紫様も同様だ。けれど魔法使いという種族はそれとまた少し違う。魔法そのものを肯定し恐れる存在は必要だが必ずしも本人が恐れられる必要はない」

 

 いうなれば仙人に近いかもしれん、と藍は続ける。

 

「それに人間側の事情を汲んでくれる妖怪なんて少ないものだ。今回の件も数少ない心当たりにあたったが、応えてくれたのはその半分ほどだったよ。その点で、アリスは過去に実績があるだろう?」

 

 苦労を伺わせる藍の態度にアリスは何も言えなくなった。言い返す言葉が見つからず、ついにはアリスは首を縦に振ることになった。

 

「はぁ……これは貸しってことでいいのかしらね?」

 

 その言葉に藍の表情がパアっと明るくなる。どこか力なかった耳と尻尾も張りを取り戻したかのようだ。 

 

「もちろん、可能な限りの報酬は約束するとも。ああ、助かった、本当に猫の手も借りたいところだったんだ」

 

 一つ肩の荷が下りた、とでも言いたげなその様子にアリスは苦笑する。

 もっともアリスには最初から藍の頼みを断るつもりなどなかった。友人と称して差し支えない相手がわざわざ頭を下げてまでした頼み事を無下にするほどアリスは薄情でもないし、ほっといても誰かが何とかしてくれるだろうと楽観するほど考えなしでもない。もちろん人間を守ることに拒否感もなく、本来なら無条件で引き受けてもいいくらいだったが、わざわざ貸しなどと口にしたのには訳があった。

 

 笑顔になった藍の背後で上機嫌とばかりに揺れ動く尻尾を捉えて、アリスの目がキラリと輝く。

 

「ねえ、さっそくなんだけれど、報酬の前払いをお願いしても構わないかしら」

 

 なんだか声にねっとりとした響きが乗ったような気がするがきっと気のせいだろう。うずうずと興奮を押さえつけるようにぎゅっと手のひらを握るアリスの様子には気付かず、藍はそれを快諾する。

 

「む、早いな。もちろんそれはかまわないが、いったい何が望みだ?」

 

「簡単なことよ」

 

 こともなげにアリスは言う。

 

「あなたの尻尾、触らせて貰っていいかしら?」

 

 

 

 

 その後、藍を見送ったアリスの顔はとてもツヤツヤとしていた。もてなすべき客人リストの藍の名前には花丸が付けられた。

 

 

 

 



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