だから私は今もあなたに恋している (しこりん45)
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よくある家庭だった。

両親は共働きで兄が妹の世話をする。

そんな家庭。

 

親は妹に付きっきりで、休日は妹に時間を費やした。

兄が何か我儘を言うと一言目には

「お兄ちゃんなんだから我慢なさい。」と、

次第に兄は我儘を言うことは無くなっていった。

 

お兄ちゃんだから、妹を第一に考える。

お兄ちゃんだから辛いことは我慢する。

お兄ちゃんだから…

だからなのだろう。

我慢に我慢を重ね、辛い時に辛いと言えなかった。

胸が痛む、頭痛がする、頭がくらくらする。

それでも、妹の世話をしないといけない。

お兄ちゃんだから。

 

どこかで読んだ話に、

『愛す』とは既に持っているものに対する独占欲で、

『恋す』とは手に入らないものに対する所有欲だとあったのを思い出す。

 

愛して欲しいと願ったことはない、なんて言えば大嘘付きもいいとこで、

恋されたい、なんて言うのは戯れ言で、

妹は自分を愛してくれているから、なんて小さな灯に縋る自分の浅ましさに笑すら零れる。

自分は妹を愛しているから、なんて自己満足に浸る自分がどうしようもなく気持ち悪い。

 

『本物』なんてありはしないとわかっている。

誰もが月に手を伸ばして触れてみたいと思うように、誰もが届かないことなんてわかっている。

それでも、届かないからこそ、どうしようなく『本物』が欲しくなるのだ。

 

だからなのだろう。

 

比企谷八幡の体は気付いたときには、どうしようもないぐらいボロボロになっていたのだ。

 

俺こと、比企谷八幡は20歳まで生きることは難しいと言われている。

 

───────────────────

 

恵まれた家庭。

父は県議で、お家は名家と呼ばれのるに相応しい。

恵まれた容姿に、明晰な頭脳。

誰もが羨む完璧超人 。

それに加えて、可愛い妹もいる。(仲がいいとは言えないのが玉に瑕だけども)

 

欲しいものは全てに手に入れてきた。

要らないものは全て切り捨ててきた。

なんでも手に入る。なんでもこなせる。

私の思い通り。

 

だからなのだろう。

こんなにも世界がつまらなく感じるのは。

 

いろんな人を見てきた。

自分の立場のために笑顔でヘコヘコ頭を下げる人。

腹で何を考えてるか分からない人。

親の七光りを自分の力だと思って自分の力を過信している人。

 

ずっとこういう世界で生きてきた。

きっと雪乃ちゃんはこの世界では生きていけない。

雪乃ちゃんは綺麗で真っ直ぐで、本当に壊してしまいたくなるぐらい透き通っている。

守りたいと思う反面、壊してしまいたい衝動にも駆られる私はどうしようもなく歪んでいるのだろう。

 

こんな世界で生きてきた私には『本物』なんて存在しないって分かっている。

もし、『本物』が存在したとしても、それは私では手に入れることはできない。

だから私は彼らに干渉するのだ。

君たちが探しているものは本当に存在するのか?

君たちが探しているものを見つけることができるのか?、と…

 

───────────────────

 

落ち葉が秋風に吹かれて地面をカラカラと鳴らす。

今日は本当は大学の講義があったのだけれど教授の方の都合で急遽休講になってしまいやることもなくなっていた私はなんとなしにドライブをしていた。

1人旅行も好きだけど、こうやって特に目的もなくボーッと車を乗り回すのも嫌いではない。

必要なものは自分と車だけ。こういうシンプルさは中々に魅力的だ。なんて、ちょっと大人ぶって気取ってみる。

 

それでもスキーみたいな必要なものは自分と技術だけ、遭難するかどうかは自分次第。そういった遊びが自分のしょうに合っていると感じるぐらいには1人が好きなのだろう。

私は嘘つきだから、雪乃ちゃんや比企谷くんと違って建前も言うし本音は言わない。

あぁいう生き方、羨ましいのよねぇ…。

 

何か面白いものでもないかな、と鼻歌交じりに運転していると、ピョコピョコと可愛らしく跳ねるアホ毛の子が見えた。

うんうん。今日は中々ツいてるかも。

 

「ひゃっはろー。小町ちゃん。どうしたの、こんなとこで?」

 

「ん?あぁ、陽乃さん!ひゃっはろーです。小町は今から夕飯の準備のために買い物に行くところなんですよ。陽乃さんはどうしてここに?」

 

うん。可愛い。ホントに比企谷くんの妹なのかと疑うぐらいコミュニケーション能力が高い。

比企谷くんがいい反面教師になったのかな?

 

「本当はこの時間に講義入ってたんだけどね。突然休講になっちゃったからお姉さんやることなくなってブラブラしてたところなの。あっ、そうだ。小町ちゃん、お姉さん暇だし買い物手伝おうか?」

 

「いいんですか!?いやぁ、助かりますぅ。1人だとどうしても荷物持つの大変ですし。それに話し相手がいると色々捗りますもんね。」

 

「いいよいいよー。さっ、乗った乗った。あんまりこんなところで止まって話してるのも良くないしさ。」

 

「はいはーい。ではでは…失礼しまーす!えへへっ。」

 

…何この子。超可愛いんですけど。

お持ち帰りしたい。比企谷くんがシスコンになるのも分かる気がする。

めぐりみたいなぽわぽわとした可愛さじゃないけど、これはこれでアリだね。

うちの雪乃ちゃんの方が可愛いけどね!

 

「今日は比企谷くんはどうしたの?」

 

「お兄ちゃんなら多分家にいますよ。家で受験勉強してるんだと思います。」

 

「あー、もう本腰入れて始めてないとヤバい時期だもんね。比企谷くん、理数系は壊滅だって静ちゃん嘆いてたし。」

 

「そうですねー。あっ、でも今日は単純に小町がご飯を作る当番なだけですよ。」

 

「へー。比企谷くんも家事するんだ。意外かも。」

 

「専業主婦になるんだー、なんて言ってるぐらいですからね。まぁそれなりには家事は出来ますよ。小町の方が上ですけどね。」

 

うん。今の比企谷くんのモノマネ少し似てたかも。本人は否定するだろうけど。

 

取り留めもない話をしながら車を回しているうちに目的地に着いた。

話していて分かったけど、小町ちゃんは本当に比企谷くんのことが好きなのね。

雪乃ちゃんとはあんまり仲良くできないから、こういうのを見ると羨ましくなる。

え?私のせい?ノンノン、世界が悪い。

嘘です。私のせいです。

それでも、今の雪乃ちゃんとの関係を後悔したことはないし、これからも今まで通りに接していくつもりだけど、それでもやっぱり比企谷くんと小町ちゃんみたいな関係は私には眩しく見える。

私たち姉妹が歪んでいるのもあるんだろうけど、ここまで、兄妹同士信頼し合える仲なのもそうそういないのだろう。

 

「おっ、今日は鶏肉が安い!唐揚げ粉はまだ家にあったし唐揚げにしようかな。」

 

「ふむふむ。gあたり計算だとこっちの豚肉の方が安いよ?」

 

「およ!むむ…寒くなってきたし豚しゃぶもありかなー。あぁ、でもそうすると鍋用の野菜も買わないとダメだなぁ。うん、今日は唐揚げにしよう。」

 

ここら辺の経済感覚は結構しっかりしてて感心。

比企谷くんが言ってたけど、やっぱり共働きってのが大きいのかな。

 

「そういえば小町ちゃん、学校の方はどう?もう慣れた?」

 

「はい。お陰様で楽しくすごせてますよ。あ、でもやっぱり進学校ですね。勉強についていくのが大変ですよ。お兄ちゃんも今は自分の勉強で手一杯になってますし。」

 

たはは…と若干力なく笑う小町ちゃんに思わず笑みが零れそうになる。

 

「なるほどねー。あっ、そうだ。一応高校時代のノート残してるけどあげようか?もしかしたら雪乃ちゃんがって思って残して置いたんだけど、案の定だったし。」

 

「えっ!?いいんですかぁ!!?ありがとうございます!お兄ちゃんも一応ノートは取っておいてくれてたんですけど…理数系の科目のノートがどうも穴多くて困ってたんです。」

 

あぁ…理数系が壊滅とは聞いてたけど、なるほど、そもそも教科を捨ててるから壊滅してるのか。

 

「ふむふむ…じゃあ理数系科目だけノート渡した方がいいかな。比企谷くんの事だし多分、文系科目は見やすいノートになってるだろうし。ここから私の家近いからついでに持ってく?ついでに小町ちゃんの家まで送ってくよ。」

 

「そこまでしてもらうのは流石に悪い気がします。」

 

「だいじょーぶ!お姉さんに任せなさい。」

 

「えーと、じゃあお願いします。…っと、後は…コレと、コレと…これだけあったら大丈夫かな。では、陽乃さん、小町はお会計をすませてきますね!」

 

ビシッと敬礼したあとにタタタッと効果音がつきそうな軽やかな足取りでレジに向かった小町ちゃんを待っている間に物思いにふける。

もしも、私が普通の家に生まれていたら私もあんなふうになれただろうか。

ありもしない仮定の話なんていつもなら鼻で笑い飛ばすのに、どうにも今日はそれができそうになかった。

 

さて、そろそろ本題に入ってもいい頃合いかな。

まさか、私が本当に善意だけでお節介を焼くとでも?

善意だけで動く人間なんていない。

誰しも打算や見返りがあって行動する。

当たり前でしょ?

別にみんながそうだから、私もそうしている、なんて腐った論理を振りかざすつもりはない。

ただ効率がいいから。それだけ。

だから太古の時代から今に至るまでギブアンドテイクが成り立っているの。

本当に良いものは廃れないのよ。

 

「はい、小町ちゃん。これがノートね。私は理系に進んだから2年までのノートしかあげれないけど、もし3年で必要になったら言ってね。」

 

「ありがとうございます!…ほぉ!キレイな字ですね。読みやすいし見やすいし、助かりますぅ!」

 

「うんうん。それは良かった。」

 

1拍置いて本題を切り出す。

 

「それでね…」

 

「それで、聞きたいことはなんですか?雪乃さんのこと…な、訳ないですよね。お兄ちゃんのことですか?」

 

私の言葉に被せるように小町ちゃんが問うてくる。

 

正直驚いた。いや、何か目的があってお節介を焼かれていることに気付いていることは分かっていた。

だけど、こんな真面目な眼差しで、真っ直ぐと私を見据えて、まるで私に挑んでくるみたいに応えてくるとは思わなかった。

やっぱり君たちは兄妹だね。

比企谷くんならこんなに真っ直ぐは挑んでこない。

だけどきっと私の目的の答えに辿り着いてくれる。

…全く、あんまり私をゾクゾクさせないでよ。

 

「そう。私が聞きたいのは小町ちゃんのお兄さんのこと。単刀直入に言うよ。小町ちゃんは、比企谷くんをどう思う?」

 

「……。」

 

少し面食らった顔をした後、小町ちゃんは黙りこくって思考に耽ける。

しばらくの間、車を運転する音だけが、その空白を埋めるように響き続けた。

 

徐に。

 

「……面倒くさい人。」

 

ポツリ、と

 

「朝は起きるの遅いし、出不精だし、やっと外に出たと思ったら一言目には『帰っていい?』って言うし、デリカシーもない。」

 

一つ一つ、日頃の鬱憤をはらすように、指折りで数えながら語っていく。

…比企谷くん、あんなに溺愛してるのにこんなに言われてると若干気の毒な気がしてくるよ。

私も雪乃ちゃんのこと、あんなに大好きなのに中々伝わらないのはお姉ちゃん悲しい!

あれ?もしかして今なら比企谷くんと仲良くなれちゃう?

 

「それに捻くれてるし、野菜だけじゃなくて人間まで好き嫌いが激しいし、むしろ人間は小町と戸塚さん以外に好きな物ないんじゃないかってぐらい嫌いなものばっか。」

 

そうだね。彼はいつも人の言葉の裏を見ている。額面通りになんて受け取れない。

嫉妬や侮蔑、嘲笑に欺瞞。

醜いものばっかりが見えて、世界はモノクロに見えているのだろう。

 

きっと過去にそれなりにトラウマになるようなことがあって今の比企谷くんが完成した。

折本ちゃん、だっけ?

トラウマを作ったのはきっと許されることじゃないんだろうけど、私は感謝してるよ?

お陰で中々面白い子に育ってくれたからね。なんて、言ったら怒られるのかな?

 

「他にも、小町が掃除してるときにすぐに退いてくれなかったり、ゲームで卑怯な戦法ばっか使ってきたり、悪いところ、面倒くさいところを数えてたら日付またいじゃいますよ…。」

 

げんなりした顔で、まだ不満は言い足りないふうで。

 

…でも、と言葉を紡ぐ。

 

「小町は、お兄ちゃんがお兄ちゃんでよかったって思ってるんです。」

 

世界から音が消えた気がした。

 

「どんなに馬鹿なことやっても、お兄ちゃんとなら許しあえるんです。お兄ちゃんが気まずそうな顔をしながら『コーヒーでも飲むか?』なんて、不器用に聞いてきて、小町も『カフェオレがいい。』って不機嫌なフリして…また笑い合える。」

 

まるで、水晶に触れるみたいに、

 

「小町が辛いときに側にいてくれた。小町がどうしようもなく寂しいときに見つけてくれた。小町が悪いことをしたときに叱ってくれた。」

 

言葉の一つ一つが私の宝物なのだ、と大切そうに、

 

「だから、お兄ちゃんは、小町にとって…兄で、親で、出来の悪い召使いで……小町の王子様なんです…。」

 

大切そうに、真っ直ぐと前を見つめながら言い終える。

 

私は今、どんな顔をしているだろう。

笑っている?怒っている?悲しんでいる?哀れんでいる?

私のその表情はいったい誰に向けているの?

少なくとも彼が強化外骨格と評した外面はしていないと思う。

 

ついさっきにも彼女が比企谷くんのことが大好きなのは理解していた。

いや、理解していたつもりだった。

だけど、小町ちゃんの言葉を聞いて、意思を感じて、計り間違えていたことに気付く。

 

私はこんなふうに雪乃ちゃんのことを想えるだろうか。

たとえ歪んでいたとしても、ここまで大切に想いを抱えられるだろうか。

他人は他人、自分は自分だ。誰かがそうだからといって自分もそうでなければならない理由にはならない。

そんなことは分かっている。

それでも、小町ちゃんの言葉は、今まで人に問うことしかしてこなかった私に、自分を考えさせた。

 

ねぇ…。と、今度は私が言葉を紡ぐ。

 

「…小町ちゃんは、比企谷くんが言う『本物』なんて、あると思う?」

 

本当はここまで聞くつもりはなかった。

ただ、聞かずにはいられなかった。

つくづく今日は、らしくない日だ。

 

「……ありませんよ。変わらない関係なんて。終わらない関係なんて…どこにもありませんよ。」

 

寂しそうな声色。

日もすっかり落ちて暗くなった夜空に吸い込まれてしまうような声だった。

でも、そこにはしっかりと確信があって、何かを覚悟しているようで…。

 

「お!着きましたね!ここで降ろしてもらって大丈夫ですよ。」

 

小町ちゃんが重い空気を払い除けるように声を上げる。

本当によくできた子だ。

 

「ん。りょーかい。それじゃ、すぐそこだけど気をつけてね。」

 

「はい!色々ありがとうございました!」

 

「ううん。こちらこそ、ありがと。私も楽しかったし、いい話も聞けたしよかったよ。またね。」

 

「はい。それじゃあ、また!…あ、そうだ!」

 

何かを思い出したように小町ちゃんが声を掛けてくる。

まだ何かあるのだろうか。

 

「お兄ちゃんのこと、気にかけるなら目を離しちゃダメですよ。目を離すとすぐ見えないところに行っちゃいますから。」

 

それでは、と可愛らしくお辞儀して家の方へ歩いていく。

それを見届けて私も今度こそ車を出す。

 

小町ちゃんの比企谷くんに対する気持ちは本当だと思う。

何があっても何度でも笑い合えるなら、それは終わらない関係と言ってもいいのではないか?

それなのに、小町ちゃんは言い切った。

変わらない関係…終わらない関係なんてない、と。

本気で言っているなら矛盾もいいところだ。

いっそこのこと冗談でしたって言われた方がしっくりくる気さえしてくる。

 

だけど、兄を語る彼女の顔が、

終わらない関係なんてないと言った彼女の顔が、

脳裏にこびりついて離れないのだ。

 

優しくて、愛おしそうで、寂しそうで、美しいとまで思えた表情。

 

夜空は生憎の曇り空だ。



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小町にはお兄ちゃんがいる。

お兄ちゃんは、捻くれてて警戒心が強くて簡単に他人に心を開かない。

けど、お兄ちゃんの内側に入った人には何処までも優しい人。

 

昔からお兄ちゃんは小町に優しかった。

自分のことは二の次で小町の相手をしてくれた。

小町が熱を出したとき、仕事で面倒を見れない親の代わりに小町の世話をしてくれた。

自分も同じように熱で辛いのをおくびにも出さないで…。

 

お母さんがお兄ちゃんによく言っていた。

「八幡は小町のお兄ちゃんなの。」って。

お父さんもお兄ちゃんによく言っていた。

「お兄ちゃんは妹を守るものなんだ。」って。

 

この言葉通りにお兄ちゃんは小町を守ってくれた。

 

時に親のみたいに小町の面倒を見て、

時に友達みたいに一緒にイタズラを働いて、その証拠を隠すために頑張って…けど、結局お母さんにバレて怒られたり、

時に召使いみたいにワガママなお姫様な小町の無茶な命令を聞いてくれたり、

小町が寂しくてしょうがなくて家出した時、小町を見つけてくれたお兄ちゃんはまるで王子様みたいだった。

 

一度だけ、「どうしてお兄ちゃんは小町の事をこんなに大切にしてくれの?」って聞いたことがある。

そしたらお兄ちゃんは不器用に笑いながら「小町のお兄ちゃんだから。」って言ってた。

本人は否定するだろうけど、お兄ちゃんは考えてることが顔に出やすい。

だから、その言葉が嘘じゃないこともすぐに分かった。

 

小町はお兄ちゃんのことなら何でも分かるって思ってた。

お兄ちゃんが表情に出やすい事を抜きにしても、世界で一番お兄ちゃんのことを理解してるって思ってた。

だけどそれは大きな思い込みだった。

 

ある日、お兄ちゃんが倒れた。

小町はどうしていいか分からなくて泣きながらお母さんに電話したのを覚えている。

 

暗くなった待ち合い室でお母さんたちが泣いているのを見た。

お父さんの肩に顔を押し付けてずっと「ごめんなさい。ごめんなさい。」って謝っていた。

その光景を見つめるお医者さんの顔は、哀れんでいるような、軽蔑するような表情だった。

 

4日ぐらい過ぎてようやくお兄ちゃんに会えた。

お兄ちゃんはまず最初に「心配かけてごめんな?」って言って小町の頭を撫でくれた。

久しぶりのお兄ちゃんの手に思わず泣きそうになった。

お母さんはお兄ちゃんを抱きしめて、ごめんなさいって泣いていた。

 

しばらくして落ち着いたお母さんが

「どうしてこんなになるまで我慢してたの?」って聞いたら

お兄ちゃんは当たり前のことを答えるみたいに、「だって、お兄ちゃんだから。」って。

 

あの日から、お母さんたちは何かに取り憑かれたように会社に入り浸るようになっていった。

実際、手術のお金や入院の費用は高い。そのお金を稼ぐためなのは分かる。

だけど、小町にはお母さんたちが、お兄ちゃんから逃げているように見えた。

 

だから小町は絶対に逃げない。

「お兄ちゃん」を否定することはお兄ちゃんの今までを否定することになるから。

小町はお兄ちゃんの妹であり続けよう。

そして、ずっとお兄ちゃんを見続けよう、隣に居続けよう。

 

あと何回、お兄ちゃんと一緒に朝を迎えられるのかな?

あと何回、お兄ちゃんを起こしてあげられるのかな?

あと何回、お兄ちゃんと一緒ご飯を食べられるのかな?

あと何回…あと、何回……こんな日常を過ごせるのかな?

 

ねぇ、お兄ちゃん。

大好きだよ。

今では冗談めかしてでしか言えない言葉になっちゃったけど。

 

捻くれたところも、無愛想なところも、不器用な優しさも、全部。大好き。

 

だから、今日も明日も明後日も…小町はお兄ちゃんの妹でいよう。見守りつづけよう。伝えつづけよう。

 

 

 

「お兄ちゃん、大好きだよ!あっ、今の小町的にポイント高い!」

 

───────────────────

 

小町ちゃんとの買い物から1週間ほど経った。

私は行きつけの喫茶店に向かっていた。

理由は単純。静かな所で思考の海に沈みたかったからだ。

 

────カランカラン……。

 

喫茶店の扉を開いて、マスターに軽く会釈をする。

適当な席に座って、適当にコーヒーとケーキを注文してからすぐに思考に耽ける。

 

真実、あるいは信実。

そんなものが空虚な妄想でないとどうして言い切れるのだろう。

私も比企谷くんもそんなものはないと分かっている。

それでもやっぱり存在するのなら見てみたい。

私たちは、どこか似ているのだ。

それは薄々、比企谷くんも感じているのだろう。

育った環境も、ここに至るまでの経緯もまるで違うのにね。

 

比企谷くんが3年に上がってから、奉仕部のあの子達は前に進んでいる。

たくさんケンカして元に戻って、友達やそうでない関係を行ったり来たりしている。

私もちょっかいを出したりして雪乃ちゃんの逆鱗に触れて、壮絶な姉妹喧嘩に比企谷くんを巻き込んだりもしている。

あの時の雪乃ちゃんも可愛いかったなぁ…。

久しぶりのケンカでお姉ちゃんワクワクしちゃったよ。

雪乃ちゃんもしっかり自分を持って行動出来るようになってるし、お母さんにも今後の進路の打診をしていたりして昔の雪乃ちゃんからは考えられない。

比企谷くんとガハマちゃんには感謝しないとね。

 

そして、比企谷くん。

結局、君のお兄ちゃん体質は治っていないんだろうね。

去年ほど他人のゴタゴタに巻き込まれることが減ったからあんまり目立ってないけど、やっぱり君の根底にはいつもそれがある。

少し方向性は変わったけど、やっぱり君は君だね。

君は変わらない。

人間どうやったって変わってしまう生き物だ。いや、変えられてしまう生き物だ。

人の心はどうであれ、その見られ方、捉えられ方、評価のされ方は確実に変わっていく。

万物が流転し世界が変わり続けるなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、人の在り方は変えられてしまう。

それでも君は変わらない。

ここでも君は私と似ているのだ。

私は『完璧』であることで変わることを拒んだ。

完璧であることは、その上にも、下にも変化しないという事だから。

 

だからね、私と同じ君ならって、もしかしたらって、どうしても期待しちゃうんだ。

自分でも分からなくなってしまった本当の私を見つけてくれるんじゃないかって。

いつか雪乃ちゃんを助けてくれたみたいに私も……なんて、キャラじゃないか。

 

そういえば、そろそろ文化祭がある時期か。

去年は雪乃ちゃんも実行委員で参加していたから、ちょっかいをかけたけど今年は受験生だし参加するかどうかも怪しいのよねえ。

そうなると去年みたいにOBとして参加するのはちょっとなしかな。

 

────カランカラン……。

 

店の扉を開く音で思考に少しの隙間ができる。

 

「………げっ。」

 

聞き覚えのある嫌そうな声が聞こえた。

 

おや?おやおやおや?

 

私の母校の制服に、ピンっとたつアホ毛、猫背気味な背中、トレードマークの腐った瞳。

うん、流石は天下の雪ノ下陽乃。ツイてるね。

 

「やあやあ、少年。美人なお姉さんを見るなり、いきなりご挨拶だね。」

 

笑顔を貼り付けて手招きをすると、嫌そうな顔をしながらもこちらに来てくれる。

嫌味半分、落胆半分、諦め半分といった表情が浮かんでいる。

ちょっと、総量1.5倍になってるよ。

 

「こんばんは、雪ノ下さん。それでは。」

 

「まあまあ。そんなに照れなさんなって。ちょっとお姉さんと話そうぜー。」

 

「うぜぇ……はぁ。まあ、いいですけど。」

 

「ありゃ、いつにも増して素直だね。」

 

「俺ほど素直にものを言う人間はいないと思いますけどね……それに、無駄な抵抗して捕まるより自首した方が罪は軽くなるでしょう?」

 

「うんうん。殊勝な心掛けでなによりだよ。それと素直なのと正直にものを言うのは別物だぞ、君。」

 

まあ、君ほど根っこの部分で純粋な子はなかなかいないと思うよ。

捻くれてて、世の中全部諦めてます、みたいな目をしてるくせに心のどこかで諦めきれてない。

私は諦めきってた側の人間だ。だけど、君を見て、君と触れ合っていたら、ほんの少しだけどまた期待してみたくなった。

君は本当に面白いよね。

 

「それで?最近どう?」

 

「どうって……いつも通りなんじゃないんですかね?」

 

「そんなことないでしょー?あれから君たちは前に進めてるよ。お姉さんが保証してあげよう!」

 

「お褒めに預かり光栄です、とでも言えばいいんですかね。まあ、でも実際あなたの目を引くようなことはありませんでしたよ。」

 

なるほど?何もなかったのは本当みたいだね。

でもね、君はもう少し表情を隠す練習した方がいいよ。

だって君の顔はあまりにも……

 

「これから面白いことが起こるって顔してるね。」

 

「………心読むのやめません?」

 

「君が読みやすいんだよ。それで?今度は何しようとしてるの?」

 

「…あの、まず俺が何かをやらかす前提な話の振り方やめません?いつだって巻き込まれる側でしょ。」

 

「そういうのいいから、はやくはやく。」

 

ふんふんっと早く話すように催促すると、諦めたように話始める。

もう少し粘るか躱すかすると思ったけど意外と早かったな。

あんまり私の機嫌を損ねない方がいいっていう判断からなんだろうけど、なんか釈然としないわね。

私ってそんなに面倒な女に見えるかしら?

見えますね。分かっていますとも、ええ。

実際、私の機嫌を損ねるのは得策じゃないし、間違っていないから懸命な判断だよ。

 

話を要約するとこうだ。

最近、隼人の周りがごだごたし始めているらしい。

三浦ちゃんっていう猿山の大将みたいな女の子が隼人に恋情を抱いていて、いい加減YESでもNOでもいいから前に進みたいのだと。

奉仕部としては修学旅行の一件があるので直接関わることはしないという方針らしいが、そう簡単に終わるような話には見えない。

だから、比企谷くんがあんなに面倒くさそうな顔をしていた訳だ。

 

それにしてもバレンタインのイベントの時に見たけど、あの子って意外と強い子だったのね。

立場に甘んじて前に進まないつまらない子だと思ってたけど…隼人にはもったいないかもね。

 

それにしても、隼人も相変わらずだなあ。

周りの子たちが前に進んでる中で『みんなの葉山隼人』をやめられないでいる。

別に私や比企谷くんみたいに望んで停滞しているのなら多少話は変わってくる。

だけど隼人は違う。

『みんな』なんて言う在りもしない意識に怯えて、変わらないことを強制させられているだけだ。

 

「ふーん。なるほどねえ。」

 

比企谷くんの方を見るとノートを開いて勉強を始めている。

…こんな美人なお姉さんが近くにいるのに失礼しちゃうよね。

教科は……数学かな。壊滅だって聞いてたけど、ある程度基礎は出来てるみたい。

あ、詰まった。

 

「比企谷くん。お姉さんが数学教えてあげようか?」

 

「……別にいいですよ。俺は養われるつもりはあっても施しを受けるつもりはありませんから。それに、あなたに貸しを作るのは怖いですし。」

 

「うーん…じゃあこうしよう!去年の文化祭でちょっかいをかけたお詫びって事でどう?」

 

「………は?」

 

何よ、その間抜けな顔。

私が謝るのがそんなに変かな?かな?

私だってあの件に関しては多少は悪いことしたなって自覚ぐらいあるよ。

 

比企谷くんの行動が思ったよりも斜め下だったこともあって、あの件は一歩間違えたらイジメに発展していたかもしれなかった。

事実、しばらくの間だけど比企谷くんの悪い噂は絶えなかった。

高校生なんてまだまだ子どもだ。

だから些細なきっかけで簡単に取り返しのつかないことをする。

そういう意味ではかなり危なかった。

 

「君が私にとても失礼な印象を抱いているのはよーく分かりました。そして、私はとても傷つきました。ヨヨヨ…。」

 

「いや、あなたそんなことで傷つくタマじゃないでしょうに。」

 

「私はとても傷つきました。」

 

「いや、だから…」

 

「そういうことでお勉強見てあげるよ。どうせ雪乃ちゃんはガハマちゃんに付きっきりなんでしょ?」

 

「…………はぁ。じゃあ、その…よろしくお願いします。」

 

「うむ。良きにはからえよ、少年。」

 

結局、比企谷くんが折れる形で私たちの家庭教師と生徒君の関係が始まった。

これ以上拒むなら私も手を引くつもりだったから、内心ホッとしている。

どうしてホッとしているのかは分からないけど…。

多分、常勝無敗の私がこんな捻くれ者に負けたと思いたくなかったとかそんなとこだろう。

知らないけど。

 

「うん!もういい時間だし帰ろうかな。比企谷くんはどうする?」

 

「俺ももう帰りますよ。小町が家で待ってるので。」

 

「そっか。じゃあ支払いはお姉さんに任せなさい!」

 

「流石にそこまでして貰うのは悪いですよ。」

 

「いいのいいの。こういう時は年上の顔を立てなさい。あっ!それとも、ここで君が払って私の事を義姉ちゃんって呼ぶとかどう?私はこっちの選択肢をオススメするよ?」

 

「ごちそうさまです!!」

 

「あっははは!!素直なのはいい事だぞ、少年。」

 

うりうりっと、比企谷くんの頬をツンツンすると顔を赤くしながら手を退けてくる。

君のそう言うところは相変わらずだね。

周りにあんなに女の子がいるのに一向に慣れないってのはどうなのよ。

いや、慣れたら慣れたで面白みは半減しちゃうんだけどさ。

 

代金を支払い終えて、外に出ると冷たい夜風が吹き付けてくる。

 

「へっくしゅ!!」

 

「………君、よくあざといって言われない?待ってるなら中で待ってれば良かったのに。」

 

「女性に払わせてるのを隣で眺めていられるほど人間できてないんすよ…。」

 

「気にしなくていいって言ったのに。ホント君って変なところで律儀だよね。それにしても先に帰るものだと思ってたけど、どういう風の吹き回しかな?君、私の事嫌いだと思ってたんだけど?」

 

「別に嫌いじゃないですよ。苦手なだけです。…もう少しだけ深淵を覗いて見たくなっただけです。」

 

「ふふっ…そっか。じゃあ、駅まで送ってよ。」

 

これからやる事はある程度決まった。

比企谷くんの家庭教師として勉強を教えること、雪乃ちゃんたちの最後の文化祭を覗きに行くこと。

それに、私ももう少しだけ君のことを知りたくなった。

まだ私の知らない君がいるなら見てみたくなった。

 

いつかの帰り道とは違って、打てば響くような会話が続く。

乾いて冷たくなった空気が拍車を掛けているのか、それがすごく心地いい。

空を見上げれば今日は雲一つ見当たらない。

 

今日は月が綺麗だね。

 

期待してるよ。比企谷くん。

 



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夢を見た。

孤独で甘えることも出来ず、だんだん磨り減っていく少年の夢を。

 

『……ねえ、お母さん。今日、ね…』

 

少年の顔は黒く塗り潰されたようにはっきりとは見ることが出来ない。けれど、何か懇願するような顔をしているのだと直感的に分かった。

 

『ごめんね、──。今は手が離せないの。我慢出来る?』

 

『………うん。分かった。』

 

見ると、少年の母親は妹の相手で手一杯だった。

少年は弱々しくそう言うと、諦めたようにその場を後にして自室に籠った。

そうして、しばらくして膝を抱えて座り込んだ。

すんすんと鼻を鳴らす音が聞こえる。

きっと、泣いているのだろう。少年は悲しいのだ、寂しいのだ。苦しくて、どうしようもなくて、胸が張り裂けそうになっているのだろう。

 

不意に少年が顔を上げた。

涙でくしゃくしゃになった顔を気にすることもなく、何か大きい本を取り出してきた。

少年が持ち出したのは自身のアルバムだった。

そうして、少年は手に持ったマジックペンで写真の一枚一枚にある顔を塗りつぶし始めた。

乱暴に、感情に任せるように、写真にうつる自分の顔だけを塗りつぶしていく。

塗りつぶせば、塗りつぶしただけ、少年の顔を覆っていた黒が濃くなっていく。

それなのに、どんな顔をしていて何を思っているかがその分だけ強く伝わってくるようだった。

 

すすり泣く音とペンを走らせる音だけが部屋に響く。

どうしようもなく悲しい光景から目を逸らすことが出来ない。

誰かも分からない、実在するかも分からない少年のことなのにも関わらず、これは脳が勝手に見せているただの虚像だと一蹴することが出来なかった。

出来ることなら抱きしめてあげたいとすら思ってしまう始末だ。

まったく…天下の雪ノ下陽乃が情けない。

同情なんて本人に対する侮蔑だ。そんなものは善意の押し売りでしかない。

私が同情なんてされた日には、本気で相手を潰してしまうだろう。

ならば、この胸の内から溢れ出そうな感情は何なのだろうか。

 

部屋の外からトタトタと足音が聞こえてきた。

その音を聞くなり、少年は慌ててアルバムを閉じて涙を雑に拭いた。

さっきまでひどい顔をしていたのに、あまりの変わり身の速さに感心してしまう。

相変わらず顔は見えないけど、きっと涙のあとだって残っている。

それでも、なんでもないように振る舞えるように、弱さを見せないようにしている。

一体、何が彼をそこまでさせているのだろう。

 

『おにいちゃーん!ご飯だよ。』

 

『おう、今行くよ。先に下で待ってろ。』

 

そう言うと、今度は涙の跡を残さないように丁寧に繕っていく。

 

ああ…この子は「お兄ちゃん」なのだ。

どこまでも純粋な子だったのだろう。

純粋、と言えば聞こえは良いが、それは案外当てはまらない事の方が多い。

純粋とは何色にでも染まってしまうと言うことだ。白にも、黒にも、もっと酷い色にも。

きっと、妹が出来たことで染められてしまったのだ。

何かに染まる、それは別に珍しいことじゃない。むしろ、誰もが通る道だ。

だけど、この子は頼ることを知らずに染まってしまった。

小さい時の私もこうだったのだろうか。

だとしたら彼は救われない。傷付いて、諦めて、そうして大人になっていくのだろう。

 

視界が揺れる。

まるで世界が生まれ変わるみたいに、場面が変わる。

 

『……ひっ…ぁ…ぉ、おえっ!…げえ…っ!』

 

耳を塞ぎたくなるような嗚咽が聞こえた。

見ると、さっきの少年が便器に向かって吐瀉物を撒き散らしていた。

一通り出し終えたのか、少年が顔を上げた。

はっきりとは分からないが、ひどい顔をしている。息も荒い。誰がどう見てもこの子をこのままにしておくのは不味いことなのは明白だろう。

 

少年は口をすすいで手を洗ってマスクをすると氷枕と濡れタオルをつくる。

自分で使うのだろうか。

 

『──、入るぞ。大丈夫か?』

 

『お兄ちゃん…。』

 

『大丈夫。お兄ちゃんがついてるからな。』

 

同じように熱を出して寝込んでいる妹を甲斐甲斐しく世話をしていく。

氷枕を取り替え、妹の汗を濡れタオルで拭き取り、自分はなんでもないように振る舞う。

なるほど、妹から菌をもらわないためではなく、顔を見られないようにするためにマスクをしたのかと納得する。

いったい、この子達の親は何をしているのだろう。

 

『ただいま、──、大丈夫?いい子で寝てた?──も世話してくれてありがとね。』

 

『ううん。大丈夫。少し疲れたから寝るね。』

 

そう言うと、少年は自分の部屋に戻って行った。

帰ってきた母親が少年の代わりに世話を始める。

その目には感謝の色こそ浮かんでいても、少年のことなんて全く写っていなかった。

 

救われない。

 

…………………さん。

 

誰もこの少年のことを見ていない。

 

…………え……ん。

 

辛いと言えず、助けてと言えず。

 

……さい…ねえ…ん。

 

孤独で、磨り減って壊れていってしまう少年。

 

…きなさい、姉さん。

 

きっとこの子は、これからも独りだ。

 

 

 

「姉さん、いい加減に起きなさい。」

 

「んぅ…あれ、雪…乃ちゃん?…雪乃ちゃん!」

 

起こしてくれた妹を思わず抱きしめてしまった。

雪乃ちゃんから伝わる温度が凍えた心を溶かすようで、無性に心地いい。

 

「きゃっ!?……姉さん、泣いているの?」

 

「………え?」

 

泣いている?誰が?私が?

手を自分の頬に当ててみると、確かに濡れていた。

 

夢を見たんだ。酷く悲しい夢を。

どんな夢だったかは思い出せないけれど、胸に残るこの寂しさや悲しさがそう告げている。

 

「……姉さんの泣き顔なんてそうそう見れるものじゃないものね。カメラでも持ってこれば良かったかしら。」

 

「なによー、雪乃ちゃんのくせに生意気だぞ。」

 

見なかったことにしてあげる、なんて妹に言われてしまうなんて不覚だ。

だけど、私は雪ノ下陽乃なの。弱さなんて見せてはいけない。これ以上の不覚なんてもってのほかだ。

この寂しさも胸に残るような不安も虚勢を張って隠すのだ。

偽って、繕って、そうして私は今日も雪ノ下陽乃であり続ける。

 

「私はこれから学校に行くけれど、姉さんは何か予定はあるかしら?」

 

「あれ、今日は休日だよ?何かあるの?」

 

「文化祭のことで少し顔を出さなければならないのよ。」

 

「ふーん。あ、ちなみに私は午後から比企谷くんとデートだよ。」

 

調子を戻して少しからかってみる。

 

「デートではなく家庭教師のようなものでしょう?本人から聞いているわよ。」

 

「知ってたんだ…なーんだ、つまんないの。」

 

随分と余裕ぶっちゃって…可愛いのにかわいくないなあ。

それでも、比企谷くんの前だとボロをすぐに出しちゃうあたりまだまだよね。

かわいいやつめ!

 

「それじゃあ私はそろそろ出るわ。」

 

「うん、分かった。いってらっしゃい。」

 

雪乃ちゃんを見送ってから、気持ちを切り替えるために紅茶を入れる。

さて、今日は比企谷くんをどうからかってやろうか。今日の君は私をどう楽しませてくれるのかな。

期待に胸を膨らませながら紅茶を口に運ぶ。

窓を開けると風が気持ちいい。

窓ガラスを鏡代わりに使って、笑顔を作ってみる。

うん、いつも通りだ。

 

今日、君はどんな私を見て、どんな君を私に見せてくれるのかな。なんてね。

 

───────────────────

 

静かな喫茶店の中、腐った目をした高校生が唐突に口を開いた。

 

「仕事ってティッシュみたいにそれ自体はコンパクトに見えても中身はひとつひとつ繋がってるじゃないですか。ひとつ終わったらまた次の作業が出てきますし。つまり逆説的に考えて仕事はティッシュと言っても差し支えないでしょ。鼻をかんでくしゃくしゃに丸めて捨てても許されなきゃおかしくないですかね。」

 

今日何度目かも分からない比企谷くんの捻くれ論法に思わず笑みが零れる。

毎度毎度、まあよくもここまで屁理屈をこねられるものだと感心してしまう。

 

「それでも何だかんだ言って、君は仕事を投げ出したことないよね。えらいえらい。」

 

アホ毛を潰すようにようにグシグシと撫でてやると、若干、頬を染めながらうっとおしそうに手を退けてくる。愛いやつめ。

 

そう。比企谷くんは決して仕事を投げ出さない。

些細なことも、大きなことも。与えられた仕事は最後までこなしてしまう。

それが彼のいいところでもあるんだけど、悪いところでもあるのよね。

 

「……社畜と社畜のハイブリッドですからね。もはや英才教育を受けてるまである。」

 

「あっははは!!だから、自分は真面目なんですって?社畜はそんなに真面目じゃないよ。」

 

「えっ、嘘…。もうやだ。何も信じられない。」

 

文句を言いながらも手は止めないで作業してるあたり、これもまた比企谷くんが捻デレと言われる所以なのだろう。

…ホント、かわいいんだから。

 

「て言うか、なんでそんな書類やってるの?」

 

「今年の文実は去年の反省もあって生徒会の主導で動くんですよ。流石に初めての試みを生徒会だけで取りまとめるのはキツいだろうって事でお鉢が回ってきた訳です。俺も雪ノ下も文実メンバーでしたからね。俺は雑務担当で雪ノ下と由比ヶ浜は生徒会と有志の手伝いをやるみたいですよ。」

 

「えっ!?なんでそれを早く言ってくれなかったのさ!私もOGとして参加すればよかったなあ。」

 

「いや、聞かれませんでしたし…。」

 

「でも何で比企谷くんだけ雑務なの?」

 

「はぁ……あいつらに加えて一色までいる中に入ったら妬みと怨念のこもった視線で殺されちゃいますよ。それに、学校のアイドル達に学校一の嫌われ者は入れないでしょ。」

 

……ん?なんだろう、この違和感。

比企谷くんの言葉に嘘は感じられない。

何より比企谷くん自身が嘘をつける性格じゃない。いや、嘘自体は平気でつける。

でも、比企谷くんはそれ以上に顔に出やすい。

だから、私が彼の思考を測り間違えることはまずないと言える。

だとすると、やっぱりさっきの違和感は気のせいだろうか。

 

「まあ、生徒会も有志をやるとなると人手不足は避けられませんからね。小町からもお願いされましたし。」

 

「それにしても、よくこの時期に依頼なんて受けたね。受験生でしょ。」

 

「それに関しては同感ですね。言い出しっぺが由比ヶ浜なあたりヤバい。何がヤバいってマジやばい。」

 

「比企谷くん、語彙力とんでもない事になってるよ。数少ない取り柄なんだからもっと大切にしないと。」

 

「…事実なんで反論できないのがあれですけど、もう少しオブラートに包めません?ブラックなのはコーヒーだけで間に合ってるんですけど。」

 

「君、ブラックコーヒー飲まないじゃない。」

 

比企谷くんとのこういう会話は案外好きだったりする。

大学にも頭のいい子はいるけど、表面上の会話しかしないから、こういうウィットに富んだ会話って結構貴重なのよね。

打てば響くって言うのかな、話してて気持ちいいのよねって言ったら、比企谷くんに打ち込みが足りないのではって返されたっけ。

失礼しちゃうわよね。本気で打ち込んだらぺちゃんこに潰れちゃうじゃない。

 

「それ、あとどのぐらいで終わるの?君、数学に関してはそんなに余裕ないと思うけど。」

 

「勘弁してくださいよ。あと5分もしないで終わりますから。」

 

「ま、今回は大目に見てあげる。それでさ、毎回ここで勉強するのは中々効率が悪いじゃない?ってことで、家庭教師らしく比企谷くんの家で勉強を見るってどうかな?」

 

「……は?何言ってるんですか、あんた。」

 

「ふむふむ、比企谷くんは私の家がご所望とな。雪乃ちゃんかお母さんが着いてくるけど…いいかな?」

 

「なんで選択肢がそんなに極端なんですかねえ。まあ、来てもらえるなら確かに楽ですけど。」

 

あからさまにげんなりしたふうに答える比企谷くんに笑ってしまう。

本人は精一杯の抵抗のつもりなのだろう。

そんなもの私の前では無意味だって本人も分かってるはずだ。だけど、こうやって形だけでも抵抗してくれるのはポイント高いよ。

無反応な物をつついてもつまんないしね。

 

「よし。じゃあ決まりだね。今日のノルマはここでやっちゃうけど、いいかな?」

 

「問題ないですよ。むしろ今から家に来るとか言われても困っちゃいますし。」

 

「…君、私にどんなイメージ持ってるのさ。」

 

「さあ?でも、それがまかり通りそうなのがあなたの怖いところですよ。」

 

「生意気なやつめ…ま、否定しないけどね。」

 

うわぁ…っと声を漏らした後、しばらく静寂が続く。

まるで世界に私たちしかいないんじゃないかと錯覚するほどの静けさが不思議と心地いい。

今まで、この喫茶店は自分一人でしか来たことがなかった。

所謂、隠れ家みたいな感じだ。

だから、ここでの静けさはずっと私一人のものだった。その一人の静けさが好きだった。

誰かとここで過ごすなんて思いもしなかった。

まして、比企谷くんとだなんて。それに、この時間が心地いいときた。

…ホント、グズグズしてると私が貰っちゃうよ。

 

「……うし、終わりました。」

 

ありゃ、案外早く終わったみたい。

それとも変にトリップしてたせいかな。

まあ、何にせよ楽しい時間って早くすぎちゃうものね。

 

「よしよし。じゃあ早速始めようか。はい、早くノートと学校の機関教材だして。使ってるやつちょっと借りるよ。」

 

そう言うと、言われた通りにノートを出し、問題集を渡してくる。

問題集をパラパラとめくり、適当に基礎レベルの大問を五つ選び、印を付けていく。

 

「うん。こんなもんかな。じゃあこの印のついた問題を60分で解いてみて。分かんなくてもしっかり60分間解答すること。ひとつ目の方法でダメならふたつ目を考えること。分かった?」

 

「…っす。」

 

「随分と素直じゃない。何か変なものでも食べた?」

 

「まあ、勉強に関しては割と信用してるので…。」

 

「ふふっ、大船に乗ったつもりでいなさいな。よし、それじゃあ、スタート!」

 

スマホのタイマーを起動するとペンを走らせる音が響き始める。

さっきはペンの音なんて全然耳に入って来なかったのに、今度ははっきりとした調子で私に届いてくる。

私はその音をBGMに持参した本を読み進める。

 

気まぐれで買った本だが、これがなかなかどうして面白いのだ。

恋するとは、自分が持っていないものに対する所有欲だと言う。一方、愛するとは、自分が既に持っているものに対する独占欲なのだと言う。

なるほど、そう言う見方もあるかもしれないと一人納得する。

どこかの人が、恋するとは、人の長所を好きになることで、愛するとは、人の短所も好きになることだと言っていた。

つまり、前者で考えても後者で考えても私は雪乃ちゃんを愛していることになる。

ふふっ、愛は強しなのだよ。あれ?その割に雪乃ちゃんからの愛を感じない。辛い。

 

所有欲…ね。私が持っていたいもの…。

私が欲しかったものはずっと『自由』だった。だから、自由になんでも好きに決めることが出来るのに、選んでいるようで何も選んでいない雪乃ちゃんが好きだったし、大嫌いだった。

それが今では、自分を持って行動して、ある程度だけど将来の形が見えるまでになっている。

お陰で私も少しだけど自分の欲しかったものが手に入りつつある。

 

諦めて諦めて、色んなものから目を逸らして生きていくことが大人になると言うことならば、今まで目を逸らしてきたものを再び見つめ直すことが子供に戻ると言うことならば、そんな事が許されるのならば、

 

私は、過去に置き忘れてきたものを取りに行きたい。

そんなこと、出来るわけないのにね。

 

ふと、読んでいた本から目を切って問題に向かっている捻くれ者に目をやってみる。

こうして見てみると、本人の言う通り顔のパーツは随分と整っていることが分かる。

解答をするために下を向いているせいか、伏し目がちになっていて、腐った目が緩和されている。若干、憂い目にも見えて妙に色気が出ている。

もうずっと下を向いてたらいいんじゃないだろうか。…この言い方は流石に不謹慎か。

 

初めて彼を見た時に最初に気になったのは、私を見る目だった。

多くの人が私に向けてくるものとは違う、違和感を探すような、私を観察する視線。

そして、すぐさま警戒レベルをあげるもんだからお姉さんビックリしちゃった。

それから私は彼に興味を持って、いろいろちょっかいをかけてきた。

知れば知るほど面白い子で、日を増すごとに彼の事を知りたくなっていった。

会う度に苦虫を噛み潰したような顔されたけども。

 

だから、あの言葉は予想外だったのだ。

 

『…もう少しだけ深淵を覗いて見たくなっただけです。』

 

文学少年な彼のことだ。

この言葉がどういう意味を持つかなんて分かりきっているだろう。

 

もっと私のことを知りたくなった。

もっと自分のことを知って欲しくなった。

こうして考えてみるとまるで告白紛いな台詞よね。

 

君はどんな事を思って、あの言葉を言ったのかな。

 

─────ピピッ、ピピッ。

 

スマホのアラームが鳴ったことで思考を切り替える。

 

「はい、終了!そこまでー。」

 

「はあ、疲れた。もうやだ、数字見たくない。」

 

「基礎問題でそこまで言うかね…。」

 

「知ってますか?基礎だから簡単だって言うのは間違いなんですよ。基礎が簡単ならぼっちやってませんからね。」

 

「ふんふん、社会に適合するのに友達を作るのは基本だもんね。その基礎力がないのは置いといて、その考えには概ね同意かな。それなりのレベルのものは選んだつもりだしね。ま、パパッと丸つけちゃうから少し待っててよ。」

 

そう言うと、比企谷くんはカフェオレを注文してから英単語帳をパラパラと捲る。

さて、私も始めますかね。

 

比企谷くんの解答を添削をしていて気付いたことがある。

なんて言うか、私の解答の作り方に似ているのだ。いや、数学の解法なんて効率とか考えたら限られるんだけども…。

 

比企谷くんが奉仕部にいることを考えたら、別に不思議なことじゃない。

雪乃ちゃんから教えて貰ったことがあるならば、ある種の必然と言える。

昔の雪乃ちゃんは私の真似ばっかりだったし、その名残りがあっても変ではない。

とりあえず、聞いてみるかな。

 

「比企谷くん、雪乃ちゃんから数学ちょっと見てもらってた?」

 

「え?えぇ、まあ…。それがどうかしましたか?」

 

「ううん、解答の作り方が私と似てたから少し気になっただけ。」

 

「それ、雪ノ下からも言われましたよ。…んんっ!…性根が腐ったもの同士、通づるところがあるのかしらね、ですって。」

 

「…それ、雪乃ちゃんの真似?3点。」

 

「それ5点満点ですよね?小テストみたいな点数してますよ。」

 

「100点満点に決まってるでしょ。ちなみに雪乃ちゃんじゃないことからマイナス90点。」

 

「ちょっと、減点デカすぎません?一色でもそんなに減点しませんでしたよ。」

 

ほう、私といる時に他の女の名前を出すとはいい根性してるね。

…めんどくさい彼女みたいな感じになってるわね、やめやめ。いや、めんどくさい女の子なんていないんだけどさ。

それに、性根の腐ったもの同士って何よ。少し言い過ぎじゃない?

 

それにしても素で解法が似てるとは。

雪乃ちゃんの言うことを肯定するのは癪だけど、否定する要素もないのよね。

 

でも、この思考の持っていき方が出来るなら比企谷くんの数学の点数かなり伸びるんじゃないかな。彼、地頭は良いし、これは家庭教師の腕が鳴りますなあ。

 

「よし。こんなもんかな。まあ想像してたよりは良かったかな。それじゃ、一通り解説してくから分からない所はその都度言ってね。」

 

「…っす。」

 

───────────────────

 

勉強を終え、この前と同じように比企谷くんに送ってもらうことになった。

秋のつるべ落としを表すように、喫茶店を出る頃には明るかった空が今ではすっかり真っ暗になっている。

 

「どうよ。君の家庭教師ちゃんの実力は。」

 

「……流石、完璧超人。教えることまで完璧だとは…。」

 

「ふふん、もっと褒めていいよ。お姉さん、気持ちよくなっちゃうかも。」

 

比企谷くんの腕を胸に押し当てるように抱き込むと顔を真っ赤にしながら、しどろもどろな様子になる。

普段大人びてるくせに、からかうとすぐに童貞丸出しの感じになるところとか可愛いのよね。玩具として合格点あげちゃう。

 

「ちょっ、雪ノ下さん…その、あたってます。あと腕が苦しいです。」

 

「あててんのよって言ったらどうする?」

 

「どうするもなにも離してくださいよ。ほら見てください、あそこの人とかすごい勢いで殺意飛ばしてきてますよ。俺、殺されちゃいますよ。」

 

「それはそれで一興ですなあ。」

 

「やめてくださいよ。俺はまだ平穏を味わっていたいんですから。……あれ、電話っすね。ちょっと失礼していいですか?」

 

「ちぇー。しょうがないなあ。」

 

腕の拘束を解くと、比企谷くんは煩わしそうにスマホを取り出して電話に出る。

なんて言うか、使い慣れてない感じが凄い。

電話、滅多にかかってこないんだろうなあ。

比企谷くんの対応を見た感じだと、相手は小町ちゃんだろうか。

なんて思っていると比企谷くんがスマホを渡してきた。

 

「小町がかわってほしいそうです。」

 

「へっ?小町ちゃんが?なんでまた?」

 

「さあ?」

 

やれやれと言った様子で私の手にスマホを置いて、2人の話は聞きませんと言うようなポーズをとる。

この子、こういう地味なところで紳士よね。

 

「ひゃっはろー、小町ちゃん。どうしたの?」

 

『陽乃さん、こんばんは。実はですね、文実の方で少し生徒会の方がバタバタしててですね、結衣さんの家に雪乃さんといろはさんと一緒に泊まりで作業することになって帰れなくなっちゃったんですよ。それでですね、お兄ちゃんの事を見てて欲しいんですけど、お願いできませんか?』

 

声の調子だと小町ちゃんの言葉に嘘はないと思う。

比企谷くんも今年は文実の形式が変わったと言っていたし、今メールを確認したら雪乃ちゃんからも帰れないと連絡も入っている。

しかし、小町ちゃんからのお願いがどうして私に来たのかが分からない。

…ここはひとつ仕掛けてみますか。

 

「お姉さん、そこまで比企谷くんに色々してあげる義理はないんだけどなあ。」

 

『……じゃあ小町への義理ってことでどうですか?』

 

「…どういうこと?」

 

『この前の話、本当はお墓まで持っていくつもりだったんです。ずっと胸の内にしまっておくつもりだったものを話した。これで、小町への義理にできませんか?』

 

なるほど、そうきたか。

確かにあの話は兄妹が抱えるには少々重いものがあった。

比企谷くんを別の角度から知るためにあの質問を投げかけたとはいえ、明らかに他人が踏み込んではいけない領域まで踏み込んでいたのは事実だ。

ここまで計算尽くだったのなら脱帽せざるを得えない。

まあ、あんなふうに言ったけど断る理由はないからね。

 

「……はぁ、分かったわよ。」

 

『ありがとうございます。……本当は小町がお兄ちゃんの近くにいれるのが一番いいんですけどね。』

 

底抜けに明るい声でお礼を言われると思っていたものだから、その声色に息を呑んだ。

低く、憂いを帯びた声色。

悔しがるような、懇願するような、様々な感情が混じりあい、聞く人の心に溶けてくるような調子の声。

 

「色々言ったけど、特に断る理由もないからね。雪乃ちゃんも家にいないんじゃつまらないし。」

 

『そう言って貰えると助かります。大丈夫だとは思いますけど、何かあったらすぐに連絡してください。お願いします。』

 

今度は明確に懇願する声色だった。

本物なんてないと断言したときの小町ちゃんの表情が脳裏に過ぎる。

きっとあの時と同じ顔をしているのだろう。

 

そして確信してしまった。

比企谷くんは何か隠している。

比企谷くんと話している時に感じた違和感といい、小町ちゃんの態度といい、これを無関係だと思える私ではない。

何となくだけど、その答えはすぐに分かる気がする。

 

「ん、分かった。お姉さんに任せなさい!」

 

『ありがとうございます!あっ、陽乃さんも

小町のお義姉ちゃんリストにちゃんと入ってますから心配してませんよ。おお、これは小町的にポイント高いかも。』

 

さっきまでとは打って変わって普段のおてんば娘の調子で言ってくるものだから呆れてしまう。

それなのに不思議と嫌な気持ちにならないのは、私がお姉ちゃんだからなのか、それとも小町ちゃんの人柄故なのか。多分、両方だ。

 

比企谷くん、君が何を隠してるのかは知らないよ。

人に言えないことなんて誰でも持ってるものだし、私だって持ってる。むしろ言えない事の方が多いまである。

だけど、折角のチャンスだ。

もっと私の知らない君を見せてよ。そしたら、私も君の知らない私を見せてあげる。

 

「と、言うわけでいろいろ期待していいよ、比企谷くん。」

 

比企谷くんにスマホを返してから、風で少し冷えた身体を温めるように、比企谷くんの指に私の指を絡ませる。

逃げるようにモゾモゾと動く指を捕まえて、抵抗は無駄だぞ、というようにしっかりと手を握り、恋人繋ぎの形をつくる。

 

頬を染めながらそっぽを向いている比企谷くんを横目に、月に向かって手を伸ばしてみる。届かないと分かっていても、このまま手を伸ばし続けたら、いつかはこの手が届くんじゃないかと思ってしまう。

 

そんなことあるはずもないのに、私はこの胸の高鳴りを抑えることができなかった。



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その瞳はまるで深淵のような黒だった。

その黒は、どこまでも深く澄んでいて、暗い暗い海の底を覗きこんでいるようで、引き摺り込まれるような錯覚に陥りそうになる。

 

雪ノ下陽乃は問い続ける。

真実、あるいは信実。本物なんてあるのだろうかと。

 

きっと、彼女は誰よりも本物を信じていない。

だけどきっと、彼女は誰よりも本物を欲している。

だから彼女は枠組みを壊し、柵を壊し、全ての在り方を壊そうとするのだ。

そうして全てが壊れてなくなった跡に降り立ち、それでも残るものはあったのかと問うのだ。

 

その瓦礫の中でも壊れていないものがあったのならば、それもまた本物と呼ぶべきものではないだろうか。

 

嘘や欺瞞に塗れた世界でずっと生きてきて、自分の嘘を嘘で塗りつぶし、虚構に虚構を重ねて、彼女は本当の自分なんて分からなくなってしまったのだろう。

親の期待に応え、周囲の理想の体現者として君臨し、彼女がたどりついたの答えは『完璧』であり続けることだったのではないだろうか。

 

完全であるものは変化しない。

完全であるからこそ、成長も後退も存在しない。

 

たくさん嘘を見て、たくさん嘘をついて、たくさん笑って、たくさん繕って、何が本当なのか分からなくなって、変わることに疲れて、変えられることに怯えて、それならいっそ変わらない方がいいと願った。

 

故に、彼女はそれ以外の在り方を自身に肯定できないでいるのだろう。

俺が自分を肯定し続けるように、彼女もまた大嫌いな彼女の在り方を肯定し続けているのだろう。

きっと、それが彼女が雪ノ下陽乃であるための存在証明なのだ。

 

彼女の在り方を歪んでいると思った。

底の見えない彼女に恐怖すら感じたこともある。

 

だけど、それと同時に綺麗だと思ったんだ。

 

そんな彼女の瞳が揺れているのを見た。

何か救いを求めるようでいて、触れてしまえば消えてしまいそうな程に儚い姿がそこにはあった。

けれど、それは一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの雪ノ下陽乃がいた。

 

いつだったか、平塚先生が言っていた。

歩いている最中は、進んだ距離を振り返らないものだと。

歩みを止めてしまった者からすると、進んだ分だけ裏切られたようにも感じるものなのだと。

 

きっとそうなのだろう。

刻一刻と変わっていく辺りを見渡して、歩いていないのは自分一人だけ。

それが自分の決めた在り方だったとしても、取り残されていくような感覚を拭うことはできない。

 

それでも、彼女は変わることを止めてしまった。

諦めてしまったのだから。

 

諦めることは簡単だと言う。

それは本当だろうか。

 

どうしても欲しいものがあって、どうしてもなりたい自分がいて、果たして、本当に簡単に諦められるだろうか。

 

答えは、否だ。

 

簡単に諦めがつくものなんて、きっと自分にとって大して重要なものではないのだ。

だから、人は可能性の枷に縋る。

縋って、縋って、手が擦り切れてしまうぐらい縋って、それでも諦めきれないことなんていくらでもある。

 

俺が彼女に出来ることなんてたかが知れている。

それに、彼女も俺なんかに救いなんて求めていない。

第一に、雪ノ下陽乃はそれを許さない。

 

誰かは、彼女の在り方をあれ程完璧な存在もいないだろうと言った。

誰かは、彼女は好きなものをかまいすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すしかしないと言った。

誰かは、彼女を格好良くて憧れの先輩だと言った。

誰かは、彼女は歪んでいたりもするが、見る者が見れば、美しく思うものだと言った。

 

きっと、どれも彼女の在り方だ。

なら、自分にできる事はなんだ。

彼女のことを理解することなんて不可能だ。

なんでも理解できるなんて傲慢だ、憎むべき悪だ。

だけど、理解しようとすることはきっと悪い事ではない。

だから、時間が許す限り彼女を見続けよう。

 

先輩風を吹かせながら振る舞う彼女も、邪智暴虐の王として振る舞う彼女も、誰かの憧れであり続ける彼女も、あの寂しいそうに揺れる彼女も、全部。

 

残された時間は、できるだけ普通に過ごして生きていたかったと、昔の俺だったら言うのだろうか。

普通に生きていく、それがどれだけ尊いものか、なんて十全に理解している。

 

あの人と関わるってことは、天災を相手にするのと同義だ。

 

それでも、俺は、あなたを知りたいと思ってしまった。

知ってもらいたいと思ってしまった。

 

ああ…今日も、あなたに溺れていく。

 

───────────────────

 

「それで?なんで雪ノ下さんが俺の家にいるんです?」

 

小町ちゃんへの義理を果たすために比企谷くんの家に来たのだが、当の比企谷くんは、さっきからずっとこれである。

いや、同じ立場だったら私もこうなるかもしれない。

まあ、そんな状況に陥ることなんて万が一もないけどね。

 

「さっきから小町ちゃんからのお願いだって言ってるじゃない。お姉さん、物分りの悪い子は嫌いだぞ。」

 

「はぁ…まあ、分かりました…けど、その調子だと泊まる気なんですよね?着替えとかどうするんですか?」

 

「そこは大丈夫だよ。都築に頼んで簡易お泊まりセット持って来てもらうことになってるから。」

 

「準備よすぎて色々とドン引きなんですけど…。」

 

比企谷くんがやれやれと言った様子で冷蔵庫を物色していくのを横から覗くと、それなりに食材が揃っているのが見て取れた。

それに、栄養ドリンクにゼリーやプリンとかも入っている。

比企谷くんは両親のことをエリート社畜だと言っていたし、簡単に栄養を取れるものが充実していてもおかしな話ではないか。

 

「比企谷くんは何が食べたい?」

 

「……そっすね。月見うどんとかいいんじゃないですか?」

 

比企谷くんが少しからかうような笑みを浮かべてくる。

いや、ちょっとらしくない事をした自覚はあるよ。

しかし、このままこの子を調子に乗らせるのは癪だ。少しは反撃しなきゃね。

暴力反対?ノンノン、正当防衛よ。私は悪くない。

 

「……比企谷くん、勉強机の上から二番目の引き出しの中。」

 

そう言うと、心当たりがあったのか、比企谷くんの顔がみるみると引き攣っていく。

うんうん、いい顔だね。お姉さんをからかった罰だぞ。

 

「…小町ぃ、お兄ちゃんの弱点を売り渡すのはポイント低いぞ。」

 

おお、この前のドライブの時に聞いたことは本当だったみたいだね。

何か恥ずかしいものが入ってるのを知ってるってだけで、何が入ってるかは知らないんだけどね。

 

「それじゃあ、比企谷くん、月見うどんとかどうかな?」

 

「………いいんじゃないですかね。なんか納得行かない感じが凄いですけど。」

 

今度は私がしたり顔で提案してみると、案の定、比企谷くんはゲンナリした様子で返事をしてくる。

別に比企谷くんのチョイスが気に食わない訳じゃなかったからね。

いいじゃない、月見うどん。

 

比企谷くんが手際よく食材を取り出して行くのを横から見ていて思ったけど、やっぱりこの家の冷蔵庫には、風邪をひいた人が食べるような食材がやけに多い気がする。

さっきの栄養ドリンクとかもそうだし。

 

「比企谷くん、体調が悪い人でもいたの?」

 

「………これ、ほとんど俺用なんすよ。昔からちょっと身体が弱くてですね、割とすぐに体調崩すんですよ。」

 

「それ、初耳なんだけど。」

 

「言ってませんからね。」

 

なるほど、小町ちゃんが比企谷くんを見てくれって言ってきた理由はこういった意味もあるのだろう。

比企谷くんって結構、無理しがちなところあるし、家族としては心配よね。

 

一人納得しようとしたとき、不意に本物なんてないと言った小町ちゃんの表情が過ぎった。

優しく微笑みながらも、どこか寂しさを感じさせたあの表情。

 

小町ちゃんの語った比企谷くんへの感情は限りなく本物と呼べるものに近かったと思う。

それを否定したのだ。

もう少し、何かあるはずではないか。

まあ、その辺りはおいおい聞いていきますかね。まだまだ時間はあるんだし。

 

「それじゃ、私も適当にもう一品作るね。」

 

そう言うと、お互いが手早く作業に取り掛かる。

私が作るのは野菜の天ぷらでいいかな。

 

誰かとこうやって並んで料理することなんていつ以来だろうか。

少なくとも家族とはしばらくの間、そういったことはしていない。

それが寂しいことだと言われてしまえば、そうなのだろう。

だけど、今更になって両親とこんな距離感で接することなんて出来ない気がする。

 

比企谷くんは、どうなのだろうか。

話を聞いている感じだと、この家族におけるカースト最上位は小町ちゃんだ。

そして、比企谷くんのカーストはおそらく最下位に近い。

兄妹の間での扱いの差はどうしたって生まれてしまう。それでもあの二人はあそこまで仲がいいのだ。少しばかり妬いてしまう。

 

作業をしながら、私が口を開いた。

 

「………比企谷くんはさ、これからどうしていきたいの?」

 

比企谷くんはあまりに唐突なそれに少しばかり面食らった顔をしている。

 

「………どうしたんすか、急に?」

 

これが素直な感想なのだろう。

私が比企谷くんにこういった投げかけをすることは別に珍しいことではない。

私も、ただ気になった。それだけの理由でこの問いかけをしたのだ。

奉仕部の関係性は確かに前に進んでいる。

だけど、君の本質は何ひとつ変わっていない。

だから、君の在り方は矛盾しているように感じるのだ。

 

私が質問を取り下げるつもりがないことを察したのだろう。

比企谷くんは諦めたように話し始めた。

 

「…今を生きるので精一杯ですからね。これから先の事なんて怖くて見れませんよ。」

 

「今日がこれだけ素晴らしいんだからさ、明日はもっと輝いてるかもしれないよ?」

 

我ながら、心にもないことを言うものだと笑ってしまう。

過去を振り返れば、自分が捨ててきたものばっかりで、未来を見つめても不確定ですぐに壊れてしまうものばっかり。

結局、私も今を生きることしかできない。

 

「…そうかもしれませんね。」

 

でも、と比企谷くんは言葉を紡ぐ。

 

「やっぱり、怖いですよ。未来なんて…明日なんて…俺には一秒先だって怖いものかもしれませんから。」

 

静かに紡がれたその言葉は、あまりにも弱々しくて、見てはいけないものを見ているようで。

儚くて、今にも消えてしまいそうなその姿から、寂しそうに笑うその顔から、

 

私は、目を逸らした。

 

「……聞かなかったことにしてあげる。」

 

「………優しいんすね。」

 

そんなことはない。

ただ、こんなつまらないことで彼に失望したくなかっただけなのだと思う。

 

「そうよ。知らなかった?それとも、比企谷くんは優しい女の子は嫌い?」

 

「……嫌い、かもしれませんね。」

 

少しからかうように優しく微笑む比企谷くんを見て、ちょっとばかりドキリとする。

君はそんな顔も出来るんだね。

 

「ふふっ、生意気なやつめ!!」

 

笑顔を作って頬をぐりぐりと人差し指でつつくと、ギョッとした様子で慌てながら抵抗してくる。

 

「ちょっ!?雪ノ下さん、危ないですから!」

 

こういうしんみりとした雰囲気を吹き飛ばすのは私の役目だ。

全く、世話の焼ける子なんだから。

 

下準備が終わって、揚げるだけになった食材達を油に潜らせていく。

油がパチパチと子気味良い音をたて、食欲がそそられはじめる。

比企谷くんの方を見ると、後は麺を茹でるだけとなっている。

なるほど、確かに手際がいい。

 

誰かと並んで料理する。

一人でいることの方が好きな私がこんなことをしているなんて、少し前の私が知ったらどう思うだろうか。

それに、この時間に心地良さを感じてしまっているなんて。

私も少しは変わってしまったのだろうか。

…まさか、人はそんなに簡単には変われない。まして自分から変わることを拒んだ私が変わることを簡単に容認する筈がないのだ。

だから、私は変わってなんかいない。

 

でも…まあ、たまにはこういうのもアリかな。

 

───────────────────

 

比企谷くんとの食事を終え、お風呂をすませた私はリビングでくつろいでいた。

今は比企谷くんがお風呂に入っているから暇なだけとも言う。

 

途中、どちらが先にお風呂に入るかで揉めたりもしたけど、私はお泊まりに来た身分なので大人しく比企谷くんの言うことに従うことにした。

私が先にお風呂をいただくってことで、お姉さんの残り湯を堪能したいのかなって聞いたら、比企谷くんは顔を真っ赤にしながら否定していたっけ。

…これ、全然大人しく言うこと聞いてないわね。

 

それにしても、

 

「優しい女の子は嫌い…か。」

 

あの言葉は、丸っきり嘘って訳でもなかったのだろう。

苦しい時、辛い時、優しさは人を蝕む毒になることを、私は知っている。

誰かに優しくされるほど落ちぶれてなんかいない。誰かに助けて貰わなければならないほど自分は弱くない。

自分の努力が、その生き方が、優しさに触れることで間違いだったと否定されてしまうように感じることは、きっとある。

 

真実はいつも残酷だと言うならば、優しさは嘘だ。ならば、優しさには裏がある。

だから、比企谷くんは見えない悪意に怯え、目に見える善意を受け入れることが出来ないでいるのだろう。

 

「………私もだよ。」

 

ポツリ。

誰もいない部屋で呟くと、足元から可愛らしい鳴き声が聞こえた。

 

「おっ、君がカマクラくんか。よろしくね。」

 

カマクラくんを抱き上げて、撫で回していると、スルリと私の拘束から抜け出して、離れていってしまう。

ありゃ、逃げられちゃったか。

 

あまりに激しくスキンシップを取りすぎたせいか、カマクラくんは、私の方を見て警戒態勢を取っている。

その様子が、なんだかどこかの捻くれ者を思い出させるようで、妙にかまいたくなる。

ゆっくり近づいてみると、ゆっくり逃げられ、素早く近づいてみると、素早く逃げられる。

…なんだか楽しくなってきた。

 

「おりゃ!」

 

「とう!」

 

「おいで。可愛いがってあげる。」

 

手を替え品を替え、カマクラくんとじゃれ合っていると、いつの間にか二階に来ていた。

半開きになっていたドアからそのまま部屋の中に逃げ込んでしまったカマクラくんを追いかけて、私も部屋に入る。

廊下から入る明かりのお陰で、電気を付けなくてもある程度、部屋の様子が分かった。

 

勉強机に、大量の本が並べられている本棚。

机の上には受験用の参考書、本棚にはライトノベルに純文学、様々なジャンルの本が揃っている。

ベッドの上には読みかけの漫画が置いてある。

 

「ここ、比企谷くんの部屋よね。」

 

そう考えると、途端に探究心が湧いてくる。

男の子の部屋に入ることなんて滅多にないし、ここはお宝探しといきますか。

リスクヘッジの上手い比企谷くんの事だから簡単に見つかる場所にはないだろう。

むしろ、部屋に置いてある可能性すら低い。

まあ、見つかったらからかうネタが増えるぐらいの心積りで丁度いいか。

 

そうして比企谷くんの部屋探索が始まったのだが、

 

「……ない。」

 

意外や意外。見つかる可能性は低いと思っていたが、予想以上に何も見つからない。

小町ちゃんから聞いていたものは見つかったが、それ以外は何もなかったのだ。

 

仕方なくカマクラくんを抱えて部屋を出ようとすると、まだ私を警戒しているのか私が近づくとベッドの下に逃げ込んでいってしまった。

 

ベッドの下を覗いてみると、カマクラくんの隣にそれなりに大きな箱があるのが見えた。

ベッドの下なんてベタな場所には隠さないと思ってたけど、なるほど…盲点だった。

少し気になって、手を伸ばしてその箱を取り出そうとすると、奥の方で何かが引っかかっていて、中々取り出す事が出来ない。

 

これはアタリかもしれない。

 

心の中で少しほくそ笑みながら、なんとか箱を取り出す事に成功する。

期待に胸を膨らませて、いざ箱を開けてみたはいいものの、中身はほとんど雑紙だった。

少しの落胆を覚えながらも箱の中を見ていると、底の方に何か大きな本のようなものがあるのが見えた。

 

───トクンッ。

 

瞬間、心臓の鼓動が大きく跳ねるのを感じた。

これは見てはいけないものだ。

簡単に踏み込んではいけない領域だと本能が告げている。

以前、比企谷くんに踏み込まれそうになった時、私はどうした?

あの時、私は彼を威嚇し拒絶した。

だとしたら、私が彼に踏み込む資格なんてないのだろう。

 

だからどうした。

私は誰だ。雪ノ下陽乃だ。

なら答えは一つだ。踏み込め。

 

表紙を捲る。

 

そこにあったのは、写真だった。

どことなく比企谷くんに似た男性、小町ちゃんに似た眼鏡の女性、満面の笑みを浮かべる幼い小町ちゃん。

そして、顔を黒く塗り潰された男の子。

 

───トクンッ。

 

その男の子を見た瞬間、心臓を直接掴まれるような錯覚に陥る。

ページを捲れど捲れど、男の子の顔はぐしゃぐしゃに塗り潰されている。

幸せそうな写真に混ざった異物。

まるで、そこに男の子なんて最初からいなかったと言うような、はっきりとした自身への否定。

 

鼓動が早い。

呼吸が上手くできている気がしない。

もしかしたら、呼吸をすることすら忘れてしまっているかもしれない。

 

私は、この感情を知っている。

 

夢で感じた感情そのものではないか。

胸に残っていた寂しさや哀しみと同じものだ。

 

記憶は朧気だが、あの時、夢で見た少年は確かに泣いていた。

誰からも見てもらえない少年は、辛いと言えず、助けてと言えず、ただ独りで見えないところで声を押し殺し、涙を流していた。

 

憐れんではいけない。同情してはいけない。

たとえ、これが比企谷くんの『お兄ちゃん』の原点だとしても、私だけは、彼のかつての想いに『優しく』してはいけない。

 

最後のページも、やはり比企谷くんの顔は真っ黒に塗り潰されていた。

 

比企谷くん、君は誰かに見てもらうことも、誰かに認めてもらうことも諦めてしまったんだね。

だから、必要とされない自分を押し殺して、小町ちゃんの『お兄ちゃん』として生きることを選んだ。

小町ちゃんも、比企谷くんが小町ちゃんの為に、愛されるのを諦めたことを分かっているのだろう。

自分を選んでくれた優越感、自分のせいで比企谷くんが愛されることを諦めてしまった罪悪感。

決して綺麗な感情ばかりではない。それでも、その綺麗とは言い難い感情に向かい合って、それすらも好きだと言ってしまえる。

 

傷付けて、傷付けられて、その傷すら愛おしいと思えるその関係。

 

「羨ましいな……。」

 

自然と零れた、私の本音。

誰もいない部屋に、透明な言葉が溶けていった。

 

───────────────────

 

あれから部屋を探し回った証拠を残さないように、丁寧に片付けてから、カマクラくんを連れて部屋を出た。

少し私から出る雰囲気が変わったのか、今度は逃げずに私のそばに来てくれた。

こういうあざとい所は比企谷くんそっくりだね。

 

リビングに戻ると、広げていた勉強道具を片付けている比企谷くんがいた。

部屋に入ってきた私に気がついた比企谷くんが、少し面倒くさそうな顔をしながら聞いてくる。

 

「どこ行ってたんすか?」

 

「うーん、カマクラくんと遊んでたよ!ね、カマクラくん。」

 

私の腕に抱えられたままになっているカマクラくんに呼びかけると、ニャー、と気だるそうに返事をしてくれる。

そんな無愛想なところに笑みが零れる。

今度来るときは少しいい餌を買ってきてあげようかな。

 

「はぁ、そうですか。俺はもう寝ますけど、雪ノ下さんはどうします?」

 

「ありゃ、もうそんな時間か。私はもう少ししたら寝ることにするよ。寝込み襲われたら大変だしね。」

 

「ばっ、馬鹿な事言わないでくださいよ。」

 

自分の身体を抱きしめながら、からかう様に言うと、比企谷くんは顔を真っ赤にしながら否定してくる。

相変わらず、満点の反応をしてくれるのだから堪らないね、君は。

 

───────

────

──

比企谷くんが部屋を出ていった後、私はソファにもたれながら、特に何をするでもなくボーっとしていた。

 

思考に耽るでもなく、ただひたすらに時間を費やしていく。

あれからどれぐらい時間が経っただろうか?

一秒、一分、一時間、一日。

まるで、時間の感覚が壊れてしまったみたいだ。

刹那のような悠久、悠久のような刹那。どちらも当てはまりそうな感覚。

ただ、ひたすら寂しかった気がする。

 

「……そろそろ私も寝ようかな。」

 

比企谷くんは、もう寝てしまっているだろうか。

二階に上がり、用意されていた小町ちゃんの部屋ではなく、比企谷くんの部屋に入ると、少し比企谷くんが布団がピクリと動くのが見えた。

 

「……失礼しまーす。」

 

「……」

 

ひっそりと声を出し、静かに布団の中に入っていく。

私が布団に入ると、比企谷くんは寝返りをうつように私に背中を向けてしまう。

まあ、今はそれでもいいか。

一応、表情は繕っているつもりだが、今はなるべく顔を見られたくない。

それに、私も比企谷くんの顔をみたら感情が溢れ出してしまうかもしれない。

 

「ねえ、比企谷くん。起きてる?」

 

「…。」

 

私が静かに話しかけると、少しだけ息を呑むような反応が返ってくる。

相変わらず返事はしてくれないけど、多分、比企谷くんなりの気遣いなのだろう。

彼は私が話し始めることを待ってくれている。そんな気がした。

 

私は今日、彼に踏み込んだ。

恐らく、比企谷くんが触れて欲しくない部分まで知ってしまった。

なら、私も少しだけ私を見せてあげるのが道理だろう。

私を知って、どう捉えるかは比企谷くん次第だ。

 

「比企谷くん、私はさ…嘘吐きなんだ。」

 

「………。」

 

比企谷くんは応えない。

ただ、静かに言葉が紡がれるのを待っている。

私も言葉を紡ぎ続ける。

 

「色んなものに嘘をついてきたよ。他人にも、自分にも。」

 

「………。」

 

「私の生きていく世界は、嘘吐きばっかりだから、他人の嘘で自分が変えられてしまわないように、自分の嘘で自分を守ることにした。」

 

「………。」

 

「君は過去の出来事とかのせいで、世界がモノクロに見えているんでしょう?目に見えない悪意に怯えて、目に見える善意すら疑ってしまうぐらいに。」

 

「っ……。」

 

「私はさ、逆なんだ。嘘に嘘を重ねすぎたせいで、自分がモノクロのように見えるんだ。」

 

少しだけ多く息を吸い込む。

 

「だから、私は嘘吐きなの。」

 

月明かりに照らされた部屋の中、静かに私の言葉が溶けていった。

 

「……別にいいんじゃないですかね。嘘吐きでも。」

 

「え?」

 

思わず声が漏れてしまった。

嘘も欺瞞も嫌いな彼から、そんなことを言われるとは思っていなかった。

尚も比企谷くんは言葉を続ける。

 

「嘘から出た実って言葉もあります。それに、本物と偽物、どっちが価値があるかなんて案外分からないものだと思うんですよ。」

 

「……どういうこと?」

 

「偽物が本物になろうと努力して、本物と遜色のない程の物になったとしたら、その偽物には本物以上の価値があるはずでしょう?」

 

「それ、誰のセリフ?」

 

「…貝木泥舟、ラノベのキャラクターですよ。」

 

私が少し呆れたように質問すると、してやったりと言った様子で言葉を返してくる。

背中を向けているせいで、顔を見ることは出来ないけど、多分意地の悪い顔をしているのだろう。

通りで比企谷くんらしくない言葉な訳だ。

でも…そっか。そういう考え方もあるか。

 

「だとしたら、それは君の理想に反するんじゃないかな?」

 

「まさか。それでも、俺は本物が欲しいんです。」

 

ゆっくりと告げられた言葉には、確かに意志があった。

大人のようで子どもな君の言葉が胸に染み渡っていく。

 

…やっぱり雪乃ちゃんばっかりズルいよ。

 

「ねえ、比企谷くん。こっち…向いてくれるかな。」

 

私がそう言うと、渋々といった様子だがこちらへ身体を向けてくれる。

比企谷くんの顔を見ると、意外そうな顔をしていた。

私の顔を見たのだろう。

認めよう。嘘吐きな私の中で、今確かに揺れているものがある。

変わらない、変われない私の中で、確かに変化しているものがある。

 

比企谷くんの頭の後ろに手を回し、そのまま私の胸に抱き込む形で、こちらに引き寄せる。

 

「ちょっ!?ゆ、雪ノ下さん!?」

 

「こーら、暴れないの。あんまり動かれるとお姉さん変な声でちゃうよ。」

 

「いや、でも流石にこれは…。」

 

「ふふ…私を満足させてくれたご褒美だよ。」

 

そう言うと、抵抗は無駄だと悟ったのか、比企谷くんは大人しくされるがままになってくれた。

 

本当に、私は嘘吐きだ。

言葉ではご褒美だと言いながら、本心は別のところにある。

ただ、本心に素直に従ってしまえば、比企谷くんに優しくしてはいけないと律した自分を否定したことになってしまう。

だから、こうやって理由をつけて彼を抱き締めている。

 

今まで比企谷くんの頭を撫でることは、それなりにあったが、こうやって大切なものに触れるみたいに撫でることはなかったと思う。

比企谷くんの頭を、慈愛を込めるように撫でていると、だんだん眠くなってきたのか、瞼がゆっくりと落ちていく。

そんな様子が愛らしくて、自然と笑みが零れる。

 

トクン、トクンと規則正しく響き合う心音が重なり合い、だんだん私の意識も深い眠りに落ちていく。

 

「あったかいな……。」

 

その温もりに身を寄せながら、私も眠りに落ちた。

 



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─────四月。

 

桜の花びらも散り、葉桜に変わり始める季節。

学生なら、春休みだと当たり前のように訪れる日々を謳歌するのだろう。

かく言う私の娘達も羽を伸ばしに少しばかり遠出をしている。

あんなにもいがみ合っていた姉妹の距離が少しずつではあるが縮み始めている。

そのことに喜びを覚えてしまうのは、やはり親心と言うものなのだろう。

彼には感謝しないといけませんね。

 

昼間であったら白く閑散としているであろう廊下が、夕陽によって朱く染め上げられる中、私は一人歩いていた。

息を吸い込めば、否応にも消毒液の匂いが鼻について、ここは病院なのだと嫌でも理解させられてしまう。

 

彼のいる病室の前にたどり着き、深呼吸をする。

面会許可が出ているのだから、安心して入ればいいのだろうけど、やはり少し緊張してしまう。

この扉の向こうにはもう彼はいないかもしれない。そんな縁起でもないことが頭を過ぎってしまう。

まだ彼にいなくなられては困る。感謝を伝えきれていないのだから。

私としても、あの子達の母親としても。

お礼なんて、受け取って貰えないのでしょうけど。

 

─────コンコンコン…。

 

静かに扉を三回ノックしてから返事を待つが、いっこうに返事はこない。

はてさて、どうしたものかと思案した結果、彼の気分転換になればと持ってきた花だけでも生けていくことにした。

 

ゆっくりと個室の扉を開けて中に入ると、静かに眠る比企谷さんがいた。

簡単な手術ではあるが、一先ず無事に手術が成功したことに安堵する。

陽乃や雪乃たちが今の私の顔を見たら、なんと思うだろうか。きっと、私にも人の心はあったのかと目を丸くして驚くことは避けられないのだろう。

…全く、失礼してしまうわ。

私をなんだと思っているのでしょうか?

 

私が来る前に小町さんが来ていたのだろう。少しばかり不格好ではあるが、もう一つの花瓶に丁寧に花が生けられていた。

 

比企谷さんを起こさないように、静かに花を生けていく。

今更になって、比企谷さんの好みに合わせて華美な色のものを選ばなかったのは、失敗だったと少し反省する。

淡い色の花々は、まるで命の儚さを表しているようで、夕陽で朱く染まるこの部屋に呑み込まれてしまうように思えた。

小町さんの持ってきた花は、どれもあざといぐらいに色を主張しているものがほとんどで、夕陽の朱にも呑まれずに、凛としてそこに佇んでいた。

 

「また来てたんですか、雪ノ下さん。」

 

花を一通り生け終わったとき、不意に後ろから声が聞こえた。

振り向けば、相も変わらず筆舌しがたいほど濁った瞳をした比企谷さんがいた。

顔色も幾分良いようですね。

 

「あら、起こしてしまいましたか?」

 

「いえ…普通に目が覚めただけですから、気にしないでください。」

 

「そうですか。それにしても…『また来てたんですか。』とは、随分なご挨拶ですね。」

 

少しからかうように言うと、比企谷さんは困ったような表情を浮かべながら、ポリポリと人差し指で頬を搔いた。

私が持ってきた花に気が付いたのか、少し目を丸くした後、逃げ道を見つけたように話を変えてしまう。

 

「……それ、綺麗ですね。」

 

「あら、お上手ですね。こんなおばさんを煽てたって何も出ませんよ?」

 

「ちょっと?分かってて言ってますよね?」

 

「ええ、分かってますよ。私、美人ですから。」

 

「全然分かってねぇじゃねーか。」

 

私がそう易々と逃がすはずないことを理解しているのにも関わらず、無駄に抵抗するのだから、もう堪らない。もっとお話をしていたくなってしまう。

陽乃も雪乃もこの少年のこういった一面を気に入っているのだろう。

 

私の攻勢が弱まって来た頃、比企谷さんが徐に質問をしてきた。

 

「………あの、良かったんですか?」

 

「何がです?」

 

とぼけたように聞いては見るものの、それは流石にお見通しなのだろう。

恐らく、比企谷さんが聞いていることは、陽乃たちのことだ。

春休みを利用して羽を伸ばしに外に出ていると言うのは表面上の理由。

本当の理由は比企谷さんの状態を知られない為に、あの子達を遠ざけておくというもの。

 

勘のいい娘たちの事だ。あと何個かヒントを与えてしまえば、本来の理由に気がついてしまうだろう。

雪乃の方も人と接することに陽乃よりも少し慣れていないだけで、二人の間に基本スペックの差はほとんど存在しない。

そう意味では今回の行動はかなり気を使うものだった。

優秀すぎるのも考えものですね。

 

「…はあ。その、ありがとうございます。俺としてもこの状態を知られるのは都合が悪いですから。」

 

「何のことかは分かりませんが、受け取れるものは受け取っておきましょうか。捻くれ屋さんからの珍しく素直なお礼ですもの。」

 

あくまで白を切り続ける私に恨めしそうな、諦観したような視線を送りながら、目の前の少年は再度ため息をついた。

…相変わらず学生がするような表情ではないですこと。

 

おおよそ、自分ごときが私に通用する筈がないのだと再確認しているのだろう。

だが、それでは私が気に入らない。

これでも私は比企谷さんの事を高く買っているのだから。

まあ、彼のことを高く買っているのは陽乃も雪乃も同じことでしょうけど。

 

決して、比企谷さんは私や陽乃たちのような強者ではない。むしろ、弱者と言っても差し支えはないだろう。

だからこそ、彼には私たちには見えないものが見えている。

それは自身を弱者と認めているからこそのもの。持たざる者故の強さ。

こう言ってしまえば、皮肉に聞こえてしまうかもしれないが、その強さは私たちのような者には無いものだ。

油断していたら足元をすくわれてしまう。

 

「……それで、身体の方はどうだったのでしょうか?」

 

私が一番気になっていた事だ。

この春休み、彼から『また来てたんですか。』と言われるぐらいにはお見舞いに来ているのだが、どうにもタイミングが合わなかったりと上手くはぐらかされて聞けていなかったのだ。

だけど、今回は違う。先程のこともあるので、誤魔化しは出来ませんよと、視線で告げる。

 

「………ズルい人ですね。」

 

「あら、失敬な。打算的と言ってもらいたい所ですね。」

 

だけど、今のが答えなのだろう。

思わず顔を顰めそうになる。

 

「…これから、どうするつもりですか?」

 

なるべく平静を装いながら問う。

大丈夫、声は震えていない。表情も普段通りの筈。

 

「そうですね…これからの事なんて分かりませんからね、普通に過ごしますよ。」

 

「……嘘ばっかりですね。」

 

「いや、嘘って……。」

 

「いいえ、比企谷さんは嘘を吐くのがお上手ですから。」

 

「それこそ嘘でしょう?あなたたちに俺の嘘なんて通用しませんよ。それに、嘘を吐く事に関してはあなたの所の長女さんの方がよっぽどお上手でしょうに。」

 

「そうですね。でも、陽乃と比企谷さんでは、嘘の種類が違いますから。」

 

そう、陽乃と比企谷さんでは嘘の種類が違う。

陽乃の吐く嘘の本質は自分を隠す所にある。

対して、比企谷さんの吐く嘘の本質は自分を殺してしまう所にある。

本人は効率的だの自己満足だの言っているが、時折見せるあの自己犠牲的な行動にも、その一端は現れている。

 

無論、自分の想いを殺すことは簡単なことではない。

その想いの首に手をかけて、力を入れれば入れた分だけ、耳を劈くような悲鳴をあげる。

想いだって最後まで生き延びようと必死に藻掻く。

見苦しくても、情けなくても、生き延びようとするその慟哭を耳も塞がずに聞き続けなければならない。

 

隠れているのならば、探して見つけることができる。

ただ、その想いが死んでしまっていた場合、見つけてもどうしようもない事がほとんどだ。

その想いを悼んで偲ぶことも、本人にしか出来ないのだから。

 

陽乃から聞いていた話と、これまで比企谷さんと話し合って知った『比企谷八幡』という人物像から、彼のこれからの行動はなんとなくだが予想することが出来る。

 

雪乃は前に進み始めた。

由比ヶ浜結衣という理解者も得た。

雪乃に足りないものは、慢心ではない確かな自信。

なら、今までのように雪乃を救うのではなく、あくまで雪乃が動きやすいように手助けをするという形をとるのだろう。

あとは、自分は後ろでパレードを眺めるように、人に見られないところから寂しそうに、その眩しいステージを見つめるのだろう。

 

「比企谷さんは、あの子たちの背中を押して、だんだんフェードアウトしていくように振る舞うつもりかもしれませんけど…、」

 

比企谷さんの頬に手を添えて、親指で涙を拭くように優しく目尻のあたりを撫でる。

そうして、微笑みかけながら、あの子たちの母親として宣言する。

 

「生憎、うちの娘たちはあなたの思惑通りに動くほど意地のいい性格はしてませんよ。」

 

比企谷さんは、目を丸くした後、ゆっくりと目を閉じて深いため息を吐いた。

 

「親バカさんめ…。娘さんたちにもそうやって接すれば、あんなにも拗れなかったでしょうに…。」

 

「………それを言われると弱りますね。」

 

ただ、それはできない。

私がそうやって育てられてきたという事もあるが、娘たちにそんな態度をとったって今更だろう。

今まで散々押し付けてきて、さあ今日から自由にしなさい、なんて言うことは無責任以外の何ものでもない。

 

「まあ、誤解は解けないと思いますよ。もう解は出ていますから。」

 

「…ええ、その通りなのでしょうね。」

 

「なら、もう一度問い直すしかないですね。」

 

「…………それは、」

 

「って、雪ノ下が言ってましたよ。」

 

全く、この子は…。

人にズルいと言っておきながら、自分も十分ズルいではないですか。

 

「…ふ、ふふっ。」

 

着物の袖で顔を隠しながら笑いを堪える。

これは一本取られてしまいましたね。

自分よりも一回りも二回りも年下の少年にしてやられたのに、不思議と不快感は湧いてこない。

笑いがおさまってきたころ、顔を上げて比企谷さんに向き直る。

 

「自慢の娘の言葉ですものね。私も、頑張ってみることにしましょうか。」

 

気が付くと、夜の帳が降りてきていた。

そろそろ面会時間の終わりが来てしまう。

有意義な時間というものは、いつだって一瞬だ。

 

「そろそろお暇させていただきましょうか。比企谷さん、またお話しましょう。」

 

「…ちなみにそれに対する答えは?」

 

「無論、はいかイエスか喜んでだけです。」

 

「…はあ。」

 

げんなりと露骨に疲れたような態度をとるのだから、失礼してしまう。

そんな所もいじらしく思えてしまうのも、比企谷さんの魅力なのだろう。

比企谷さんがあと十数年早く産まれていたら、私も雪乃のように彼に恋していたのかもしれない。

 

「それと、忘れる所でした。これ、妹さんと食べてくださいな。きっと、お口に合うと思いますよ。」

 

それでは、と扉を開けて病室を出る。

ふう、と一息ついたとき、「あっ!」と、廊下の方から可愛らしい声が聞こえた。

声のした方をみると、ぴょこぴょことお兄さんとお揃いのアホ毛を揺らしながら駆け寄ってくる小町さんがいた。

 

「雪乃さんのお母さん、こんばんは。来てくれてたんですね。」

 

小町さんとは何度か話した事があるが、似ても似つかないとはこの事を言うのだろう。

比企谷さんは以前、小町さんの事を3K揃い踏みと言っていた気がする。

可愛い、綺麗、器量よし。実質1Kでしたが。

 

「ええ、もう帰るところですけどね。」

 

「ありゃ、そうなんですか。」

 

「もし良かったら家まで送りましょうか?」

 

「それは魅力的な提案ですけど、小町はもう少しだけお兄ちゃんとお話していきますから大丈夫です。見せたい物もありますし。」

 

そう言うと、小町さんはその場でくるりと回って可愛らしくポーズをとる。

…なるほど、今年から通う総武高校の制服の初披露をするつもりだったのかと納得する。

 

「そうですか。では、私は何も見ていない事にしておきましょうか。初めてはお兄さんに見せたいでしょう?」

 

「ありがとうございます。ではでは!小町は行ってくるであります!雪乃さんのお母さんもお気をつけて!」

 

ビシッと敬礼をして、まだまだ発展途上な胸を張りながら無邪気な笑顔を向けてくる。

 

「ええ。では。」

 

振り返って歩き出すと、後方から小町さんの元気な声が聞こえてくる。

 

『お兄ちゃーん!じゃじゃーん!どう?どう?』

 

病院なのだから静かにするべきなのだろう。けど、彼には彼女が必要だ。

せめて、注意されるまではあの二人の空間を許してあげたい。

 

病院を出ると、昼間の麗らかな風は欠片もなく、冷たい夜風が吹き付けてくる。

防寒具をつけるほどではないが、やはり少し肌寒さを感じる。

 

ぽつり、呟く。

 

「世の中、上手くいかないものですね…。」

 

彼になら、娘たちを任せてもいいと思った。

それなのに、誰も望んでいない結末を迎えようとしている。

私が奇跡を願ったって意味はないのだろう。

奇跡はいつだって信じる者にのみ起こるものなのだから。

 

人が現実と向き合って、受け入れたくない事実にも必死に耐えてきて、その上に成り立っている結果を、奇跡なんて簡単な言葉で片付けたくない。

それはその人の努力を、苦しみを、そしてその結果すらも侮辱している気がするから。

 

以前、彼が私に言った言葉。

彼は奇跡を信じない。

だから、彼に奇跡なんて起こらない。

 

空を見上げると、憎らしいほどに煌々と、星が夜空を照らしはじめていた。

 

───────────────────

 

比企谷くんの家にお泊まりした日からそれなりに日は経つはずだが、あれから驚く程に無味乾燥な日々が続いていた。

比企谷くんの家庭教師を受け持っているため、完全に退屈であったかと言われれば、そうではないのだが、あの夜ほどに揺れていた私を自覚させる出来事はなかったと言える。

 

私自身、あの感情を持て余している所があったため、いいクールダウンになったと言えよう。

一時の感情だけで出した答えなんて紛い物だ。偽物だ。そんなものは必要ない。

それが例え、自分の想いだったとしても安易にそれを受け入れるべきではない。

少なくともあの感情に対して、愛だの恋だの女の腐ったような言葉は付けたくない。

 

そんなことを考えながら、私は一人、我が母校である総武高校の廊下を歩いていた。

本日、文化祭二日目。

一日目はどうしたのかって聞かれたら、大学の方の都合と合わなかったとしか言いようがない。

しばしば暇な女子大生と勘違いされるが、私は私でそれなりに多忙な身なのだ。

 

初日は顔を出せないと伝えた時の比企谷くんの顔は記憶に新しい。

私が来れなくて喜ぶ子なんて彼ぐらいではないだろうか。…雪乃ちゃんも私が来れないと知った時は喜んでいた気がする。

やだ、お姉ちゃん悲しい。

 

時刻は丁度お昼を回ったころ。

教室では若気の至りでお馴染みのメイド喫茶、外ではたこ焼きやチョコバナナの屋台が多いに繁盛している。

そんな中、私は人の気配のしない方へと足を運んでいく。

理由は一つ。

比企谷くんが隼人との一件を片付けるなら、おそらくこのタイミングだからだ。

雪乃ちゃんはいろはちゃん絡みで確実だが、隼人も周りの子たちの意向を汲んで有志をするに違いない。

その事を考慮すれば、やはり昼間に蹴りをつけてしまうのが妥当だろう。

 

私は迷わず屋上に向かって足を運んでいく。

明確な理由なんてものはない。ただ、私の直感がそこで面白いことが起こっていると告げている。

女の勘、第六感、時にそれは根拠のない絵空事のように言われるが、案外そうでもないのだと思う。

 

『みんな』というありもしない集団の意識に囚われ、『雪ノ下雪乃』という過去の罪過への罰を欲し続ける隼人は、私のあったかもしれない姿なのかもしれない。

以前、比企谷くんに対して、隼人のことを『なんでも器用に卒無くこなすなんてつまらない』と評したことがある。

何でも器用に卒無くこなすことが出来るのは私も同じだ。

つまり、隼人に抱くこの感情はある種の自己嫌悪だと言っていい。

 

変われない隼人と変わらない比企谷くん、随分と見物であるのは間違いない。

 

屋上へと続く階段を上っていくと、黄色いビニールテープが手摺りに結び付けられいて、立ち入り禁止だと言うように大きくバッテンを描く柵が作られていた。

 

ふむ…。

 

私が高校時代に文実で委員長をしていた時に、ある程度学校が管理している備品は把握している。

確かこんなちゃちな物ではなく、ちゃんとした立ち入り禁止を示すテープがあった筈だ。それも結構余分に。

 

なるほど、と理解した瞬間、自分でも分かるくらい意地の悪い笑みを浮かべていることを自覚してしまう。

 

多分、これは比企谷くんの仕業だ。

比企谷くんの仕事はあくまで記録雑務の補佐だったはず。だから、会場設営に使用する本物のテープは持ち出せなかったのだろう。

お粗末ながら丁寧な仕事ぶりに感心してしまう。

 

比企谷くん作の立ち入り禁止の柵を越え、屋上の扉の隣にもたれ掛かるように座る。

扉の近くで二人が話しているのだろう。

風のせいで会話の内容は聞き取ることは出来ないが、時折漏れてくる声は確かに比企谷くんと隼人のものだ。

比企谷くんの声色はいつもの調子と同じものだが、対照的に隼人は随分と憑き物が落ちたような調子な気がする。

 

これで隼人も少しは見れる人間になったのかな、なんて偉ぶりながら感傷に浸っていると、階段を駆け上がってくる音が聞こえてきた。

だんだんと近づいてくる音の正体は、金髪ギャル風の女の子だった。

確かこの子が今回の依頼人の三浦ちゃんとか言う子だったはずだ。

当の三浦ちゃんはと言うと、比企谷くんの作った柵と私がいるせいで少し困惑気味な様子だ。

 

「……隼人ならこの扉の向こうだよ。」

 

少しだけ試すような口調で言ってみると、小さくお辞儀をしてから立ち入り禁止を越え、屋上へと入っていった。

比企谷くんから聞いていた話で強い子だという印象はあったが、予想以上に真っ直ぐで強い子だった。

本当に、隼人にはもったいないかもね。

 

─────カチャリ。

 

不意に扉を開く音がした。

 

「……こんなとこで何やってるんすか?雪ノ下さん。一応、ここは立ち入り禁止のはずなんですけど。」

 

私を見るやいなや、いつも通り気だるげな様子を隠そうともしない声が聞こえた。

 

「えー、どこにも立ち入り禁止なんて書いてないから、つい。」

 

語尾にきゃぴるんっと音がつきそうなくらいにわざとらしく言うと、比企谷くんはため息をついた後、そのまま私を素通りして自作の柵の前に立つ。

制服のポケットから鋏を取り出してビニールテープを手際よく片付けていく。

 

「あれ、それ片付けちゃうんだ。」

 

「当たり前でしょう?こんなこと勝手にやってるのバレたら反省文ものですよ。ただでさえ多い仕事をこれ以上無駄に増やしたくないです、と言うか働きたくない。」

 

そう言いながら、比企谷くんは雑にゴミをポケットに入れると、猫背気味の背中を私に向け、そのまま立ち去ろうとする。

あまりにスムーズな一連の動作で見過ごしそうになるが、そこは残念。

私を誰だと思ってるのかな?

私が逃がさないことを知ってるのに、相変わらず無駄な抵抗はやめないんだね。

いいよいいよー。褒めて遣わす。なんちゃって。

 

「どこに行こうとしてるのかな?もう少しお姉さんとお話しようぜー。」

 

「……はあ。たまには逃がしてくれてもいいんじゃないですかね。なんなんですか、前世は肉食獣か何かだったんすか?」

 

「女の子に面と向かって言う台詞じゃないよ、それ。後、知ってる?肉食獣の狩りの成功率って案外低いんだよ?」

 

「じゃあ、前世は大魔王とかどうです?」

 

「そりゃまた失礼な話だ。」

 

比企谷くんは肩を落としながら、こっちに歩いてくると、私の隣に腰をおろした。

 

「ありゃ、意外だね。私の隣を選ぶなんて。」

 

「俺も不本意ですよ。…あっち側だと勢いよく開けられた扉の下敷きになっちゃうじゃないですか。」

 

「……なるほど。」

 

確かに盛り上がってる所に、潰れた蛙のような声が聞こえたら興冷めだもんね。

 

「比企谷くんの潰れた蛙みたいな声…略して」

 

「ヒキガエルじゃないですから…。」

 

びっくりするぐらい早いツッコミだった。

食い気味に反応してくれたのが何だかおかしくて、クスクスと笑いが漏れる。

当の比企谷くんは私に聞こえるぐらいの大きなため息を一つ吐いて、疲れたような顔をしている。

こんな美人なお姉さんが隣にいるのに失礼してしまう。

 

三浦ちゃんが屋上に行ってから、十五分ぐらい経っただろうか。

風が扉をガタガタと鳴らしているせいで外の二人の会話は聞くことは出来ないが、女の子の一世一代の告白を盗み聞くのは流石にマナー違反だろう。

比企谷くんも似たような心境なのだろう。隣をチラリと見ると、空気に徹するような面持ちで遠くを見つめていた。

 

ガチャッ!と、音をたてて扉が勢いよく開かれる。

人間、急に大きな音を聞くと、反射的に身体がビクリと動いてしまうらしく、私も例に違わず肩を揺らしながら、音のした方を見てしまった。

 

ふわり…。

 

ニッと効果音がつきそうな程に晴れ晴れと、そして優しく笑う三浦ちゃんが、戸惑いを隠せないながらも、照れくさそうな表情を浮かべる隼人の手を引きながら階段を駆け下りていった。

 

『雪乃ちゃん!隼人!遊びに行くよ!』

 

私はその光景に昔諦めてしまった三人の面影を見た。

お姉ちゃんな私が、意地っ張りで寂しがり屋な雪乃ちゃんと子犬みたいに素直だったころの隼人、困り顔をした二人の手を引いて遊びに出かける、そんな光景。

でも、今見たそれの隼人の顔はあの時のものとはどこか違っていて、私にはそれが酷く綺麗なものに見えた。

 

私はあの時、上辺だけのものに成り下がってしまった関係を、そして、そこにあったものを偽物だと断じた。

そんなものは『本物』ではないと。

今、過去に重なるさっきの光景を見て、綺麗だと思ってしまった。

 

過程に意味なんてない。

最終的には結果が全てなのだと言う。

私はこの結果に過去の情景を見た。

なら、その過程にも意味はあったのだろう。

 

「……比企谷くん。ここは少し暑いからさ、外で風に当たらない?」

 

「…しょうがないですね。付き合いますよ。」

 

「ふふっ。ありがと。」

 

屋上に出ると、清々しいぐらいの青空が広がっていた。

乾いた秋風が頬を撫で、少しだけ汗ばんだ身体を乾かしていく。

 

「んー、気持ち良いね。」

 

少しだけ凝り固まった身体を解すために、ぐーっと伸びをした後、比企谷くんの方を見ると、顔を真っ赤にしながら視線の置き場に困ったようにあちらこちら忙しなく動かしていた。

 

「……比企谷くんのえっち。」

 

「やっぱりわざとだったんじゃないすか。」

 

私があざといぐらいに恥ずかしがる素振りを見せると、比企谷くんは途端に冷静さを取り戻して返してくる。

…なんだか少し納得がいかない。

 

比企谷くんは扉の隣のちょうど日陰になっている場所に腰を下ろし、私は手すりにお尻を乗せてフェンスにもたれ掛かった。

足をぷらぷらと振り子のようにバタつかせながら、比企谷くんに今日のことを聞いてみる。

 

「それで、今回は何をやらかしたのさ?」

 

「この前も言いましたけど、なんで俺が何かやらかす前提なんですかね。いつだって巻き込まれる側でしょ、俺。」

 

「この前も言ったよ。そう言うのいいから早く早く。」

 

いつかと似たようなやり取りをしながら、催促をすると意外な言葉が飛び出してきた。

 

「………俺は何もしてませんよ。」

 

比企谷くんは青空を見上げながら、少しだけ寂しそうにそう呟いた。

でも、どこかそれは嬉しそうにも見える不思議な表情だった。

 

「今回の面倒事を解決したのは雪ノ下です。ついでに言うと、葉山のやつに踏ん切りを付けさせたのもあいつですよ。」

 

「へえ……雪乃ちゃんがねえ……。」

 

比企谷くんの言った事は嘘ではないと思う。

だけど待って欲しい。私は雪乃ちゃんと二人暮しで毎日顔を合わせている。

だから、私が雪乃ちゃんの変化に気が付かない訳がない。

それなのに私が気付くことが出来なかったと言う事実を簡単に受け入れる事が出来ない。

 

「……意外とすんなり信じるんすね。」

 

「ううん…案外そうでもないよ。これでもびっくりしてるよ。でも、そっか……。」

 

同時に比企谷くんがやけに素直に私の家庭教師を受け入れた事に納得がいった。

比企谷くんの目的は私の目を雪乃ちゃんから少しでもいいから逸らさせることだったのだろう。

その為に、比企谷くんも私に飾らず接してきた。生半可な嘘なんて通用しないと分かっているから。

 

きっと、私はまだ心のどこかで雪乃ちゃんのことを見下していたのだ。

どれだけ雪乃ちゃんが『自分で』前に進むことが出来るようになったと分かっていても、心の奥底では何も変わってなんかいない、人はそんな簡単には変われやしないと蔑んでいたのだ。

だからこそ、比企谷くんは私を雪乃ちゃんになるべく干渉させないようにした。

雪ノ下雪乃は『自分で』決めることが出来るようになったと、『自分で』前に進む事が出来るようになったと証明するために。

 

つまり、私は比企谷くんと雪乃ちゃんの二人にしてやられた訳だ。

 

青空を見上げると、そんな私を揶揄うかのように、さんさんと太陽が輝いている。

悔しい気持ちがないと言えば嘘になる。私は妹の何が見えていたのだろうと問いただしたくもなる。

だけど、雪乃ちゃんの成長をまざまざと見せつけられて、姉として喜ばない訳がない。

だから、私はチラリと垣間見えたその醜い感情や言葉が見えないように瞼を閉じ耳を塞いで、腹を抱えて大きく笑い飛ばした。

 

比企谷くんを見ると、先程と同じように少しだけ遠くを見つめていた。

手持ち無沙汰になったのが気になったのか、文実の仕事で使うであろうカメラを手で遊んでいる。

 

「………ありがとね、比企谷くん。」

 

雪乃ちゃんの成長を見せつけてくれて。

そんな言葉を飲み込んで、お礼だけ伝える。

 

「…なんの事だかよく分かりませんね。」

 

「それでも、だよ。」

 

相変わらず、比企谷くんにお礼は受け取って貰えないらしい。

彼の中では、これも自分の為なのだろう。

自分以外の特定の誰かは全て他人、いつか彼のことを理性の化け物、自意識の化け物と呼んだことがあるが未だ健在らしい。

理性を隠れ蓑にし、自分の感情や他人の気持ちに向き合おうとしない。

それが、自分に問い続けて、自分を律し続けて出来上がったものだというのだから滑稽もいいところだ。

そこが君の面白いところでもあるんだけど。

 

まあ何にせよ、受け取って貰えないなら押し付けるまでだよね。

 

「ねえ、比企谷くん。君の知ってる限りでいいからさ、今回の事の顛末を教えてよ。」

 

「………今回の事は俺もそんなに詳しくは知りませんよ。」

 

「それでもいいよ。聞かせて。」

 

そう言うと、ぽつぽつと今回の事の顛末を話し始めてくれた。

三浦ちゃんの想い、葉山隼人は比企谷八幡では変えることは出来ないという事、雪乃ちゃんがオーバーワークを起こしそうな時はガハマちゃんが上手くフォローしてくれたこと、比企谷くんがやった事は、二人の因縁が噂で広まらないように裏で立ち回ることぐらいだということ。

さっきのビニールテープで作られた立ち入り禁止のダミーもそのためだったらしい。

 

それと、雪乃ちゃんが隼人の頬を思いっきり引っ叩いた話は思わず笑ってしまった。

多分、雪乃ちゃんなりの優しさだったのだろう。

少なからず、隼人はずっと過去の罪過への償いとして、『みんなの葉山隼人』をやっていたところがあったから。

 

「ま、俺が知ってるのはコレだけですよ。」

 

「ううん、充分だよ。……これであの子達の面倒臭い関係も終わりなわけだ、…つまんないの。」

 

何気なしに呟いてみる。

事実、雪乃ちゃんを引っ掻き回すネタが減ってしまったのは面白くない。

 

「つまんなくしてすみませんねって言いたいところですけど、今回は文句があるなら雪ノ下に言ってください。」

 

「えー、優しいお姉ちゃんとしては可愛い妹にそんな意地悪できないなー。」

 

「………どの口が言うんですかね。」

 

「うん?何か言ったかな?」

 

「いえ、何も。」

 

そう言うと、再び無言の時間が流れていく。

乾いた秋風がゆっくりと雲を流しながら、騒がしいはずの学校から音を消していく。

 

私は、これからどうしていきたいのだろう。

雪乃ちゃんみたいに何か目標があって前に進む訳でもない。

諦めて、『完璧』という位置に停滞することを選んだ私に進歩はない。

 

目の前にいるこの子だって同じだ。

静ちゃんが見たら、人を頼ることを覚えただの、人を助けるのに自分を犠牲にしなくなっただのと変化を喜ぶのだろう。

でも、実際はそうじゃない。

比企谷くんの本質はきっと何一つ変わってなんていない。

彼は本当にいざとなったら真っ先に最適解として自分を切るし、本当に大切なことは相談なんてしないのだろう。

 

─────カシャッ。

 

乾いたシャッター音が屋上に響いた。

隣を見れば、手すりに肘を起きながら文化祭の様子を上から撮影する比企谷くんがいた。

 

「……何してるの?」

 

「仕事です。」

 

「働きたくないのに?」

 

「それは、まあそうですけど…働かないと増えるのが仕事なんで。」

 

「……やっぱり君は働き者だね。」

 

比企谷くんは、そんなんじゃないですよ、と言いながらパシャリ、パシャリと次々とシャッターを切っていく。

 

不意に、顔を黒く塗り潰された比企谷くんの写真が頭を過ぎった。

比企谷くんの顔を覗くと、その表情にはなんてこともない、ただ仕事をこなしているだけで、特にこれと言った感情の変化はないように見える。

 

「………どうしたんすか?人の顔なんか覗き込んで。」

 

「ううん。写真、平気なんだなあって思って。」

 

好奇心から比企谷くんの知られたくない部分を見つけてしまったのは事実だ。

それは覆せない。

覆せないのならば、いっその事進んでしまえばいい。

もしかしたら、その先に私のこれからに対するヒントぐらいは落ちているかもしれない。

 

「撮られるのは苦手ですけどね、どんな顔していいか分かんないですし。」

 

「ふーん、嫌いとは言わないんだ…ねっ!」

 

そう言って、比企谷くんの手からひょいとカメラを引ったくっると、そのまま比企谷くんにカメラを向けてシャッターを切っていく。

 

いきなりの事でついていけなくて困惑している顔。

 

突然カメラを向けられたことで顔を赤くしながら恥ずかしがる様子。

 

やめてくださいよと言いながら顔を隠す彼。

 

私からカメラを取り返そうとムキになって、普段からは想像出来ないぐらい子どもっぽい姿。

 

結局、取り返せなくて諦めたように肩を落とし、普段以上に目を腐らせている表情。

 

今まであまり見ることが出来なかったような比企谷くんの様子が次々と記録されていく。

そんな中、少しづつだけど、何かが満たされていくような感覚がした。

 

もう煮るなり焼くなり好きにしてくれと言わんばかりの様子の比企谷くんに近づき、片方の手で比企谷くんの肩を持って抱き寄せる形を作る。

 

「おわっ!?」

 

「はい、笑って笑ってー。」

 

もう片方の手で私たちに向かってシャッターを切る。

スマホと違ってカメラでの自撮りは慣れていないから上手に撮れているか確認しようとしたところ、物の見事に比企谷くんにカメラを奪い返された。

 

「やっと取り返せた…。これ、学校の備品なんでデータ消しますよ。」

 

「えー、勿体ない。こんなに綺麗に撮れてるのに。」

 

「ええそうですね、綺麗に無様な様子がよく撮れてますよ。」

 

ぶーぶー、とわざとらしく抗議してみるが、比企谷くんは容赦なく私の撮った写真を消していってしまう。

本当に消しているかは分からないけど、比企谷くんの事だ、そりゃばっさばっさ削除しているに違いない。

まあ、あの子達も見たこともない比企谷くんを見れた。それだけでお釣りが来るか。

 

一瞬だけ、比企谷くんの手が止まった。

 

「……まあ、しょうがないか。」

 

そう言うと、比企谷くんはまた操作を再開してしまう。

結局、最後に撮った写真に写った比企谷くんの表情を知ることは出来なかった。

全ての写真が消されてしまったのに、あまり落胆を感じないのは多分、私自身が写真を好いていないからだろう。

 

別に写真に思い出を残すことは嫌いではない。

だけど、写真に写された私のその軽薄な笑顔が薄っぺらな一枚の紙切れになっていると思うと、何とも言えない虚無感を感じてしまうのもまた事実だ。

 

もう少しだけ、深淵を覗いてみたくなった。

彼がそう言ってくれたのだ。

だから、レンズ越しの虚像ではなく、この目で君を見て、知っていこう。

 

「…っと、そろそろ戻らないとどこかの部長さんから罵倒の嵐を受ける羽目になるんで、俺は行きますね。」

 

そう言って、比企谷くんはフェンスに預けていた背中を離して、いつものように猫背気味な背中で歩きだした。

正確に言うなら、歩きだそうとした。

 

「─────ぁ…。」

 

「ちょっ、比企谷くん!?」

 

フラリと身体をよろめかせ倒れそうになる比企谷くんに反射的に駆け寄り、何とか受け止める。

今のはどう見たって普通じゃないと思い、比企谷くんの顔を間近で覗き込んでみると、目の下には薄らとだが隈が出来ている。

熱があるか確かめる為に手を額に当ててみるが平熱なようで安心する。

 

「っと、すみません。」

 

「それは良いけど、大丈夫?」

 

「大丈夫ですよ。…日陰者が急に日光に当てられたんで身体がビックリしただけです。」

 

「なるほど、大丈夫じゃないね。どうする?保険室行く?」

 

「……いや、大丈夫です。」

 

口調はいつも通りだし、顔色もそんなに悪くない。

最近の比企谷くんの様子を思い返してみる。

苦手な数学を克服するためのそれなりに密度のある私の授業、当然のことながら受験科目は数学だけではないのだから、それ以外の教科の勉強も疎かにできない。

加えて文実の補佐による書類関係の作業に、今回の隼人たちの一件。

要は寝不足と過労が祟ったのだろう。

 

ただ、いつもだったら喜んで保健室に入り浸りそうなのに、どうして今日に限ってこうまでして頑ななのだろうかと思案して、同時に納得する。

雪乃ちゃんたちに心配を掛けたくないのだろう。今回の一件然り、文化祭然り、これが全て成功すれば、雪乃ちゃんの大きな自信に繋がるのは間違いない。

だからこそ、自分の不手際で水を差したくないのだろう。

 

ほらね。

やっぱり、君の本質は何一つも変わってなんていない。

どうでもいい時だけ言葉を並べて、本当に大切なことは口にしない。

それでいいと思っているのだ、この子は。

 

比企谷くんの事を考えると、保健室に行きたくないと言うよりは保険室に行くまでに人目につきたくないというのが彼の本音だろう。

だけど、ここでこのまま彼に無理をさせるのは良くない。

なにより、こんな所で彼が潰れてしまうのは私としても面白くない。

 

まあ、受け取って貰えなかったお礼を押し付けるいい機会か。

 

さっきまで比企谷くんがいた日陰にペタンと座って壁にもたれかかり、こっちにおいでと言うようにポンポンと膝を叩く。

比企谷くんの方を見ると、キョトンとした表情をしている。

 

「……何してるんすか。」

 

「保健室に行くのが嫌なんでしょ?だから、膝枕してあげようかと思って。」

 

「すごい、論理が飛躍しすぎてK点越えしてますよ。危険なラインです、やめておきましょう。」

 

「今の時代、K点は極限点じゃなくて基準点だよ。越えなきゃ減点されちゃうよ。」

 

「いや、でも……。」

 

泊まりに行った時に、もっと凄いことをしているはずなのに、どうして君はこうも純情なのかな。

…段々こっちが恥ずかしくなってきた。

しょうがないから奥の手を使おうかな。

 

「あーあー、手が滑って小町ちゃんに電話しちゃいそうだなー。」

 

「ぐっ……。」

 

我ながらびっくりするぐらい棒読みだが、そう言うと、比企谷くんが本日何度目かも分からないため息を吐いて、こちらへ歩いてくる。

だけど、やっぱりどうしたものかと悩んでいるらしく、私の前でうんうんと悩んでいる。

 

ああ、もう。焦れったい。

 

「比企谷くん、頭が高い…ぞっ!」

 

「ちょっ!?」

 

痺れを切らした私が比企谷くんの腕を掴んで合気道の要領を用いてこちら側に引き寄せると、比企谷くんがバランスを崩し、私のお腹に顔を埋めるように倒れてくる。

そのまま比企谷くんの頭に腕を回し、逃げられないように比企谷くんをホールドする。

 

「~~~~っ!!」

 

すると段々息が苦しくなってきたのか、比企谷くんが私の腕をぺしぺしと叩いてきた。

ギブアップと言う意味だろう。

 

「逃げない?」

 

そう言うと、比企谷くんは首が取れそうな勢いで首を縦に振った。

比企谷くんが抱えられたまま頷いたせいで、妙に擽ったくて声が漏れそうになる。

 

比企谷くんの拘束を解くと、比企谷くんは酸素を求めて勢いよく顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。

そのまま比企谷くんは覚悟を決めるように大きくため息を吐くと、仰向けになって、私の脚の上に頭を乗せた。

 

「どうよ、お姉さんの膝枕の感想は?」

 

「いや、どうって言われても……その、すごい…としか…。」

 

比企谷くんは尻すぼみになっていく言葉を言い終えると、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いてしまった。

可愛げ無くて可愛いなあ、もう。

 

あの日の夜のように比企谷くんの頭を撫でていると、まだ顔に赤みは残っているが、幾分冷静さを取り戻した様子で、私が何かをやらかさないか警戒している。

怪我をした猫の世話をするのはこんな気分なのだろうか。

 

「……後悔、してる?」

 

比企谷くんの頭を撫でたまま、問うてみる。

 

「…そんなの、あなたに家庭教師をお願いした時から後悔してますよ。大体、抵抗してもしなくても同じ結果になる事をどうやって後悔するんですか。」

 

比企谷くんはそっぽを向いたまま、いつものように軽口を叩いてくる。

ただ、体勢が体勢なため、どうにも締まらない感じが否めない。

 

「……どうして、こんな事するんですか?」

 

どうして、か…。

お礼を受け取って貰えなかったからお礼を押し付けることにしました、なんて言っても比企谷くんは納得しないだろう。

でもね?比企谷くん。

私は雪ノ下陽乃なの。君が納得出来ようが出来まいが関係ない。

 

「君はあれこれ色んな人を助けてきたんだから、たまにはね。」

 

「…………買い被りすぎですよ。」

 

「そうでもないよ。ほら、疲れてるんでしょ?少ししたら起こしてあげるから、今は休みなさい。」

 

私がそう言い終えると、比企谷くんが再び仰向けになった。

比企谷くんと目があうと、彼に少し意外なものを見たというような顔をされたので、左手を使って比企谷くんの両目を覆って、彼の視界を塞ぐ。

 

「ほら、今は休まないと。」

 

右手で比企谷くんの肩のあたりをゆっくりと一定のリズムで叩いていると、段々と比企谷くんの呼吸と心音が穏やかになっていく。

 

比企谷くんが完全に眠りに落ちたのを確認すると、静かにポケットからスマホを取り出し無音カメラのアプリを起動する。

今回の一件で雪乃ちゃんを揶揄うネタが減ってしまったのだ。

このぐらいしてもバチは当たらないだろう。

 

無音カメラで比企谷くんのあどけない寝顔を撮影し、雪乃ちゃんに画像を添付してメールを送る。

雪乃ちゃんは真面目だから気付くのは文化祭が終わってからだろう。

 

もう一枚、何気なしに、私たちを撮ってみる。

どんな写真が撮れたのだろうかと写真を確認して、思わず笑いそうになってしまった。

 

そこには、いつもより少しだけ、認めたくないけど、本当に少しだけ、自然に笑えている私がいた。

 

───────────────────

 

あれからしばらくしてから比企谷くんを起こした後、比企谷くんはまだ少し文実のことでやる事があると言うので屋上で少し話をした後に解散していた。

 

お昼ご飯はここに来る前に軽く済ませている為、どうしたものかと手持ち無沙汰に学校内を散策していた。

 

それにしても、今年の文化祭はかなり盛り上がっているように見える。去年よりも盛り上がっているんじゃないだろうか?

下手したら私が委員長を務めた時と同じぐらい盛り上がっている気がする。

 

比企谷くんの話では今年から文実は生徒会を主導にして動くと言う話だった。

つまり、指揮を執るのはいろはちゃんの役目になっているのだろう。

雪乃ちゃんたちの補佐があるしても、去年のバレンタインイベントの合同開催による費用折半の件といい、あの子はあの子で意外と優秀なのよね。

 

時刻を確認すると、もうそろそろ有志の発表が行われる頃だった。

雪乃ちゃんたちの出番が来る前に、ちょっとだけ雪乃ちゃんとお話していこうかな。

 

文実の腕章を付けた子に軽く笑顔を向けながら会釈して、そのまま舞台裏に入っていく。

ちょっとセキュリティ緩すぎじゃないかと心配になるが、そこは私だったからと言う事にしておこう。

 

誰か見知った顔はいないかと、辺りを見回すと休憩中であろう小町ちゃんと目が合った。

 

「ひゃっはろー。小町ちゃん。」

 

「あっ!陽乃さん、ひゃっはろーです。」

 

小町ちゃんが相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべながら挨拶をしてくれる。

うん、可愛い。比企谷くんに頼んだら、譲ってくれるかな?譲ってくれないだろうなあ。

 

小町ちゃんとこうやってちゃんと話すのは、多分あの日、比企谷くんのスマホで話した時以来ではないだろうか。

比企谷くんの家庭教師をしているとはいえ、基本的に彼の部屋で教えているし、小町ちゃんも時期が時期なだけに忙しそうにしていたから、なかなか落ち着いて話す機会がなかったのだ。

 

「この前は小町の無理を聞いてくれてありがとうございました。」

 

「ううん、全然いいよ。私も楽しかったし。それに………、」

 

それに?

今、私は何を言おうとしたのだろうか。

一瞬だけ私の中を過ぎった違和感は、あの夜に自覚した揺れている私に似ていた気がする。

 

「……?」

 

最初は小町ちゃんもよく分からないと言った様子で首を傾げていたが、突然、ハッとしたように目を見開き、だんだんと嬉々とした様子に変わっていく。

いけない、コレは勘違いされている。

目の前に比企谷くんがいるなら悪ノリしてもいいのだが、小町ちゃんしかいないこのタイミングで乗っかってもマイナスにしかならない。

 

「小町ちゃんが考えてるようなことはないから安心して、ね?」

 

とりあえず、諭すような口調で言ってみる。

 

「むむ、これはこれは…この感じだと、雪乃さんも結衣さんも、うかうかしていられない感じですなあ…!これは小町的にポイント高いかも!!」

 

あ、ダメだ。

完全に小町ちゃんがゾーンに入ってる。

お持ち帰りしたいぐらい可愛らしい笑顔で詰め寄られるのは嬉しいんだけど、少し冷静になって貰わないと。

 

「……えいっ!」

 

「あいたっ!」

 

小町ちゃんの額に軽くデコピンをお見舞すると、小町ちゃんは短く可愛らしい悲鳴をあげて、わざとらしく涙目を作っておでこをさすっていた。

そんな演技が私に通用するはずがないと小町ちゃんも分かっているはずなのに、あざとく演技してくるのだから思わず許してしまう。

これも小町ちゃんの策謀だとしたら大したものだと思う。

 

「あんまりお姉さんを揶揄ったらダメなんだぞ。」

 

「うう…すみません。」

 

先程に引き続き、やや芝居がかったような涙声で謝罪してくる。

だけど、ちゃんとやり過ぎて反省している色が見えるあたり、やっぱり比企谷くんと違って世渡り上手なのだろう。

 

「そう言えば、陽乃さんはどうしてここに?」

 

思い出したように、小町ちゃんがあからさまな話題転換をしてくる。

狙い通りなんだけども、その話題転換は少し無理矢理すぎやしないかね。

そういう所は比企谷くんとそっくりだね。

嘘をついてもしょうがないので、ここは正直に言っておくことにした。

 

「んー、雪乃ちゃんが頑張ってるかお姉ちゃん心配になっちゃって。」

 

「あ、そう言うことでしたら…雪乃さんだったら、そこの舞台袖でいろはさんと話してますよ。」

 

小町ちゃんが舞台袖を示して、雪乃ちゃんの居場所を教えてくれる。

 

「一色さん、有志の一組目、もう準備が出来たそうよ。開始時間にはまだ少しだけ余裕があるけれど、どうするのかしら?判断はそちらに任せるわ。」

 

「ありがとうございます。かなり人も集まってきているみたいですし、もう始めちゃいましょう。葉山先輩たちの時にアンコールでスケジュールが遅れても困りますから。」

 

「分かったわ。…もうすっかり生徒会長ね。私たちの手助けはいらないんじゃないかしら。」

 

思わず雪乃ちゃんの仕事ぶりに感心してしまう。

昨年の文化祭でも似たような依頼を受けたと言う話は聞いていたが、最終的には雪乃ちゃんが指揮を執っていた。

けど、今回は違う。

あくまでいろはちゃんに選択肢をいくつか提示するだけで、決断はいろはちゃんに委ねている。

 

捕った魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える。まさに、そんな言葉が良く似合うものだった。

 

「ゆきのーん、こっちも仕事終わったよ。まだ何かやる事あったっけ?」

 

「あっ、結衣先輩、お疲れ様です。」

 

「由比ヶ浜さん、お疲れ様。由比ヶ浜さんは私たちの順番が回ってくるまで待機でよかったはずよ。」

 

そこまで聞いて、聞くのを止めた。

 

「あれ、もう行っちゃうんですか?」

 

「うん。見たいものも見れたし満足だよ。それじゃあ小町ちゃん、残りも頑張ってね。」

 

元々、最終確認のつもりだったのだ。

でも、この目で見せつけられて確信してしまった。

比企谷くんの事を信用していなかった訳ではないが、百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。

 

あの頃の一人では何も出来なくて、私の後ろをずっと追っていた可愛くて憎らしい妹はもういない。

素直に喜べばいいのに、そこに寂しさを感じてしまうのは、やはり私の愛情が歪んでいるからだろうか。

 

舞台裏を出ようとした時、雪乃ちゃんと目が合った。

怪訝な顔をしながら身構える雪乃ちゃんに軽く手を振りながら舞台裏を後にする。

そんな私の様子を見て雪乃ちゃんが少しだけ目を見開いた。

 

「姉さん。」

 

後方から、凛とした声が聞こえた。

 

「…こんな風に雪乃ちゃんが私を呼び止めるなんて初めてじゃない?それで、どうしたの?」

 

ついこの前まで私が比企谷くんに向けてよく使っていた、彼が苦手そうにしていた笑顔を作って問いかける。

雪乃ちゃんは真っ直ぐと私を見据えて答えてくる。

 

「別に深い意味があった訳じゃないわ。ただ姉さんが来たのに何もしていかないのが不気味だったから、これから何かやらかさないか監視に来ただけよ。」

 

「えー、酷いなあ、雪乃ちゃんは。これでもお姉ちゃん心配してたのに。」

 

軽薄な笑顔にいつもよりほんの少しだけ低く嗜虐的な声で、いつものように雪乃ちゃんを揶揄う。

 

「…………そう。」

 

そんな私の反応を見て、雪乃ちゃんは少し眉を下げて、悔しそうな顔をする。

雪乃ちゃんの顔を見れば、考えていることはおおよそ見当はつく。

まだ、足りないのかしら。

そう雪乃ちゃんの顔に書いてある。

言ったじゃない。『心配してたのに』って。

 

心配してないよ。

大丈夫、雪乃ちゃんはもう弱くない。

 

そんな言葉は口に出来ないから、代わりに雪乃ちゃんの頭をぐしぐしと撫でてやる。

 

「きゃっ!?なに、なんなの!?ちょっ、姉さん、痛い……っ!」

 

言葉とは裏腹に、私から何かを感じ取ったのか大人しく撫でられてくれた。

 

一通り撫で終えると、雪乃ちゃんは髪の毛を整え、少しだけ頬を赤らめながら拗ねたように口を尖らせ、ため息を吐いた。

雪ノ下陽乃、本日お気に入りの男の子と最愛の妹から何回目か分からないため息を貰いました。これってギネス記録になりませんか?

 

まだ頬を紅潮させて照れくさそうな雪乃ちゃんが、にっこりと微笑み、口を開く。

 

「相変わらず、姉さんは人の頭を撫でるのは下手くそね。」

 

開口一番ダメ出しをくらってしまった。

あれ?おかしいな、そこは感動して抱きついてくれるところじゃないのん?

 

でも、雪乃ちゃんの口調からは、もう先程の不安や悔しさは感じられなかった。

 

言葉にしなければ伝わらない。

言葉にしたから伝わる訳じゃない。

それでも確かに言葉にしなくても伝わるものはあった。

 

家族だから、姉妹だから、ずっと後ろ私の後ろを追いかけていたから、理由なんて分からない。

けれど、その想いは確かに伝わっていた。

 

「私はそろそろ戻るわ。それと、私たちの発表、期待していていいわよ。」

 

高らかに宣言する雪乃ちゃんの顔は、誇らしげで、真っ直ぐで、澄み渡っていて、どこまでも綺麗だった。

 

───────────────────

 

「やっぱりここにいた。」

 

まるで取り残されたかのように、体育館の後方で壁に凭れ掛かっている比企谷くんに声を掛ける。

盛り上がる体育館の中、私のその言葉は周囲の歓声に掻き消されながらも、しっかりと届いていたようで、こちらを向いてはもらえないものの、彼の肩がピクリと跳ねた。

 

「……もっと前の方で見なくていいんですか?」

 

「それはお互い様じゃないかな。」

 

「俺はいいんですよ。普段はリア充が教室の後ろを独占してますからね、今日ぐらいは貴賓席を独り占めするのも悪くないでしょ。」

 

「ふふっ、なにそれ。」

 

私が笑いを零すと、比企谷くんがようやくこちらを向いてくれた。

 

「………なんか、機嫌いいですね。」

 

「そうかな?」

 

普段通りを装いながらとぼけてはみるものの、やはりどこか声が軽い気がした。

大学の友人たちであれば気が付かないかもしれないが、静ちゃんや比企谷くんが見たら、普段の私とは違って見えるのだろう。

 

「…雪ノ下と仲直りでもしましたか?」

 

妹を持つ者同士通じるものがあったのか、見事に言い当てられてしまった。

いや、完全に確執がなくなったわけじゃないから正解ってわけでもないか。

……相変わらず変な所で鋭いんだから。

 

本音で向き合ってくれたとはいえ、私が家庭教師をするのを受け入れた理由といい、今回の一件といい、やられっぱなしは癪に障る。

少しだけイジワルしてやれ。

今回は痛み分けよ。

 

「お姉さん、勘のいいガキは嫌いよ。」

 

いつかの焼き直しのように、嗜虐的な笑みを浮かべながら、比企谷くんの顔を下から覗き込んみ低い声で告げると、比企谷くんは少しだけ身を捩らせながら冷や汗を流した。

 

雪乃ちゃんは真っ直ぐ見つめ返してきたのに、君は相変わらずだね。

でも、君はそのままでいいよ。

大人で、子どもで、捻くれ者で、真っ直ぐで、強くて、弱くて、正直者で、嘘つきで、自己愛が強くて、自分を大切にできなくて……たくさんの矛盾を抱えたまま苦悩すればいい。

そして、私はその滑稽な様を嘲笑ってあげよう。

 

「……なーんてね。そんなに怯えなくてもいいじゃない。」

 

だけどね、私はそんな君が欲しくなったの。

 

「ほら、そろそろ雪乃ちゃんの番だよ。私にあれだけ見せつけておいて君が見逃しただなんて許さないんだから。」

 

調子を戻して、前を向く。

やっぱり声が少し軽い気がする。

 

「………そうですね。」

 

舞台の幕が上がり、雪乃ちゃんたちの演奏が始まる。

 

体育館はその日、一番の盛り上がりを見せ、それに応えるように、舞台の上の役者は音を紡いでいく。

 

「……すごい。」

 

私がこの光景を忘れることはないのだろう。

あの鮮やかに彩られたステージを、そして、この輝かしい瞬間を、私は偽物と呼ぶことはできない。

それを『本物』と呼ぶのかどうかは分からない。それがこの子たちの探している物かは分からない。

 

だけど、きっと忘れない。

 

「………ええ、本当に。」

 

 



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黄昏。或いは、

文化祭編の前日譚です。番外編には副題がつけていく方向でやっていくと思いますが、よろしくお願いします


「それじゃ、また今度ね」

 

大学の友人との付き合いを終え、今日買った荷物で両手を塞がれている友人に手を振りながら見送った後、私は駅に置いた荷物を取りに歩き始めた。

 

空を見上げると、陽気を表す私の名前とは真反対の色が目に映る。昼間はそんなに雨が降る気配はなかったのに、とは思ってみるものの季節が季節なのだから急な雨なんて珍しくもなんともないだろう。つまり、この事態を予測していなかった私に非があると言える。

 

まだまだ真夏とは言い難い時期であるのに、昼間にお日様がやる気満々にアスファルトを照らしていたものだから、曇り模様でも暑いものは暑い。額から汗が流れるのを感じてお天道様を睨みつけては見るが、睨みつけた相手は何処へやら。雲の向こうに隠れるのは卑怯じゃない?私のお気に入りなあの子も随分と卑怯な子ではあるけど、やるだけやって「はい、さよなら」なんてことはしないと思う。

 

そこまで考えて、少し笑ってしまう。

 

「案外、そうでもないかもね」

 

私がそうすることが多いのだ。なら、彼がそうしない可能性もゼロではないだろう。

もっとも、私のそれと彼のそれは本質的に大きく違うものだが。

 

湿気を帯びた風が頬を撫でる。その風の生温さに雨の気配を感じて足を早めようとしたところで瞼に一瞬の冷たさが過ぎった。

 

─────ぽつり、ぽつり。

 

肌に当たる雨粒が次第に増えてきたことで、本格的に一雨来る気配を感じて駆け足気味に雨宿りが出来そうな場所を探す。運のいいことに今は濡れて困るものは持っていないから、少しぐらいなら雨に濡れることも吝かではない。

 

ただ、雨に濡れたまま家に帰ったら雪乃ちゃんに二つや三つ小言を貰うことは避けられない。最近、比企谷くんを巻き込みながらの姉妹喧嘩が漸く終結したところなのに、また雪乃ちゃんに嫌われてしまうのは好ましくない。いや、怒っている雪乃ちゃんは可愛いし、そんな雪乃ちゃんを揶揄うのはゾクゾクするんだけども…。あれ?別にまた雪乃ちゃんと喧嘩することにあんまり不満が湧いてこない。…こういう所がダメなのか。ま、治す気なんてないけどね。

 

そんな事を考えているうちに、雨は傘が必要なぐらいにまで強くなり始め、私は雪乃ちゃんの小言を貰わないべく避難できそうな場所を探して駆けた。

 

結局、雪乃ちゃんの小言を回避できそうもないぐらいに濡れてしまった頃、こんな雨の日にも関わらず、傘もささずに橋の上に佇んでいる一人の少年の姿が目に付いた。

見慣れた母校の制服、雨が降っていてもピンと立ったままのアホ毛、そして気だるげそうな猫背気味の背中。その少年とは少しばかり距離があったが、一目で誰だか理解することができた。

 

「ぁ……」

 

自然と声が漏れてしまう。

 

普段だったら口角を釣り上げて、人を食ったような笑みを湛えているところのはずなのに、今の彼の姿を見た瞬間、息を呑んでしまった。

 

私の知っている彼は、こんなにも弱々しい背中をしていただろうか?

今にも消えてしまいそうで、それが当たり前だと感じさせてしまうような子だっただろうか?

 

雨足がますます強くなりはじめ、辺りの騒音をかき消していく。

 

そんな中、私の視線に気が付いた比企谷くんがこちらを振り向いた。

その顔はいつもと同じように腐った双眸で、ふてぶてしくて生意気そうにムスッとした気だるげな表情を浮かべているはずなのに、どうしてなのか、薄く笑っているように見えた。

 

普段の無造作に散らばっている髪の毛は雨に濡れたお陰で随分と整えられていて、随分と見れる格好になっている。雨粒が彼の頬を伝って流れ落ちるたびに、まるで泣いているようにも錯覚もしてしまう。憂い顔、いつも通りの比企谷くんのはずなのに、そんな言葉がよく似合っていた。

 

徐に比企谷くんが口を開いた。

 

「……どうしたんですか、こんなところで。風邪、引きますよ」

 

「それはお互い様じゃないかな?」

 

調子を戻して、目の前のその少年に淡々と事実を告げると、比企谷くんは肩を竦めた。

 

「それもそうですね」

 

比企谷くんがそう言った後、なんだか急に可笑しな気持ちになってきて、お互いにクスリと笑い合う。

 

「こんなところで話してないでさ、早く雨宿りしようよ。こんなところで濡れ続けたら、お姉さん風邪引いちゃうよ」

 

そこからの行動は早かった。近くにあった公園の屋根付きのテーブルに二人で駆け込み、この気紛れな通り雨が過ぎるのを待つことにした。

 

「ここでしばらく雨が弱くなるのを待とっか」

 

「……そっすね」

 

相変わらず素っ気ない返事だったが、比企谷くんの視線が右往左往しているのを見て、思わずその原因を考えてしまう。

 

…はて?今日はまだ比企谷くんを揶揄うようなことはしてないはずなんだけどな。私と一緒にいるから警戒してるとか?

 

そこまで考えて、ピーンと来た。

改めて自分の姿を見て確認する。今日は、白を基調とした服を着ているため、雨で濡れたせいで下が若干透けて見えていた。

どこの誰か分からないような輩に見られるのはいい気分はしないが、見られた相手はお気に入りの男の子。当然の如く、目の前の彼を揶揄う算段に思考が切り替わっていく。

 

「比企谷くんは、こういうのが好きなんだね」

 

半目で比企谷くんを見つめながら、素直になれない捻くれ者に詰め寄っていく。

 

「ほれ、ほれほれ」

 

「ぐ……」

 

何か言い返そうとしながらも、言葉に詰まって何も言い返せない様子が可愛くて、もっとイジめたくなってしまう。どうにも彼のこういう反応を見ると嗜虐心が湧いていけない。いけないなんて一ミリも思っていないけど。なんだったらもっと見せて欲しいまである。

 

「これ、羽織っててください」

 

次はどのようにして比企谷くんで遊ぼうか考えていると、突然、視界が白色に埋め尽くされた。

 

「おっととと」

 

視界を覆った白を慌てて確認すると、いつの間に脱いだのか、それは比企谷くんのカッターシャツだった。若干濡れてはいるが無いよりはマシだろう。

比企谷くんは下にもう一枚着ていたようで、雨で冷たく重くなったブレザーを脱いで、黒い長袖のシャツ姿になっていた。

 

「……優しいね、比企谷くんは」

 

受け取ったシャツを腕を通さないで襟の下あたりを軽く握りながら羽織り、シャツに残された温もりに身を寄せながら伝える。

 

「別に、そんなんじゃないですよ」

 

予想通りで期待通りの答えが返ってきた。

本当に、君は変わらないね。

 

「そうだね。君はそういうのじゃないもんね」

 

いつも通りの話の中心点を避けるような会話に少しばかりの安堵を覚える。

 

話の中心を避けていることが安堵に繋がると言うと少し変な気もするが、それは別段間違った事ではないのだと思う。避けると言うことは、物事をよく見えているからできるのだ。もし、それが見えていなかった場合、知らないうちに壁にぶつかったり地雷を踏み抜いたりと不都合が発生してしまう可能性がある。

 

何事にもタイミングがあるのだ。地雷を踏み抜く時は意図的に、そして自分から。盛大に相手を巻き込んで自分は無傷で済ませる。それが、私のやり方だ。

 

だから、今はこれで間違っていない。

 

雨降る公園、無言の空間に屋根から滴り落ちる水滴の音と雨音だけが響き渡るだけの時間がどれだけ続いただろうか?

 

雨雲の向こうにいる太陽も西の空に沈み始めているのだろう。辺りを見回すと、風景の輪郭が随分と霞んで見えた。

 

ああ、嫌いだ。

分からないことは酷く怖いことだから。

 

完璧な者など存在しない。それは世界の真理で、どうしようもなく覆しようのない事実で…そんなことは理解している。それでも、私は完璧である事を選んだのだ。完璧であるなら、分からないことなんてあってはならないのだ。

 

知らないことと分からないことは必ずしもイコールで結ばれる訳ではない。知らない土地に行くことも、知らない人に会うことも嫌いではない。むしろ興味を唆られるし好きな部類だ。だけどそれは、理解出来るものだからそうであるのだ。

 

だから私は、この景色が、この空気が、分からないことが、

 

嫌いだ。

 

「……あなたでもそんな顔するんですね。何かあったんですか?」

 

不意に雨音の間を縫うようにして、比企谷くんから紡がれた言葉が私に届いた。その言葉に少しだけドキリとしてしまう。この雪ノ下陽乃が隙らしい隙を見せるなんて、そんな事は許されない。雪ノ下の人間とはそうでなければなければならない、確かに母の教えだ。けど、そう生きると決めたのは私だ。

 

「…比企谷くんは何でも分かるんだねえ」

 

冷たく淡々と突き放すように言うと、比企谷くんは少したじろぐように息を呑んだ。

ごめんね?君はまだ私の内側に入れるだけの存在じゃないんだ。だから、ここで行き止まり。まあ、私が私の内側に入ることを許容している人なんていないんだけどさ。

 

だけど、もし…もしもいつか……君が私の内側に入るに足るぐらいの子になれたなら、

 

その時は、君の弱さも、強さも、卑怯さも、誠実さも、捻くれた優しさも、真っ直ぐな愚かさも、全部、嘲笑ってあげる。

 

その代わり、私の全部を見せてあげる。

 

仰け反り気味の比企谷くんに詰め寄り、下から覗き込むようにして彼の眼を見つめると、比企谷くんは少しだけ私の眼を見た後すぐに目を逸らした。

 

「なーんてね。君のそういう可愛いところは好きよ」

 

そう言って私は表情を戻し、比企谷くんの唇に私の人差し指をそっと置いた。

唇から指を離し、そのまま私の手を比企谷くんの胸に当てて彼の耳元に顔を近づける。そう言えば、比企谷くんは耳が弱いんだっけ?なんて、この場にそぐわない事を思い出しながら囁く。

 

「ねえ、比企谷くん。私はさ、君に助けてだなんて言わないよ。私も君を助けてあげない」

 

嘘つきの私が言葉を紡ぐ。

 

「だけど…君には期待してるよ。比企谷くん」

 

自分で言っていても、こんな酷い言葉はないと思う。どこまでも一方的で、相手の事情なんて全く見ていなくて無責任な言葉。私がこんなこと言われたら、きっと相手のことを潰してしまうのだろう。それでも、それでも私は君に押し付けていたいのだ。

 

不意に私の視界が鮮烈な朱に覆われた。

 

手を自分の目蓋の上に置いて目を細めながら空を見ると、黄昏色に染まる空が目に映った。

 

「雨、止んだね」

 

「……そっすね」

 

空を見つめたまま呟くと、比企谷くんは今日出会った時と同じ返答をした。多分、あの時と同じような表情をしているのだろう。

 

「このシャツ、結構濡れちゃったから洗って返すね」

 

「別に気にしなくていいですよ」

 

「私が気にするの。それとも、比企谷くんは私の脱ぎたてホヤホヤの方がいい?」

 

「分かりました、ちゃんと洗って返してください」

 

「それはそれでどうなの……」

 

ほんと、君ぐらいだよ。私にそんな事を言うのは。

 

結局、あの時見た比企谷くんについて聞くことは出来なかった。霞がかったようなあの表情を思い出し、この黄昏に落ちる空と同じではないかと一人笑みを零す。

 

黄昏れる。

日が暮れて薄暗くなる。または、盛り上がりをすぎて衰える。

 

或いは─────

 

「……雪ノ下さん」

 

そろそろ帰ろうかと先に歩き出してすぐ、比企谷くんから声をかけられ、声のした方へと振り向いた。

 

西の空には雨雲がところどころ残っていて、黒い雲の隙間から夕陽の朱が漏れ出し、まるで焚き木に燻る炎のように見える。

 

「以前、言いましたよね。諦めることで大人になるって」

 

分からない。

今、この子は私に何を伝えようとしているのだろうか?まさか私が一番見たいと思っているものを、彼が一番欲しているものを諦めたなんて言うつもりではないだろう。

 

「俺も、諦めることにしました。諦めることを。まあ、許される限りですけど」

 

陽もほとんど落ちかけの薄暗い公園に、矛盾だらけの言葉が溶けていく。

 

ああ、そうだ。

或いは─────或いは、誰そ彼。

 

色と色の境界が曖昧になる時間に告げられた言葉は、あまりに予想外で、矛盾だらけで、私はいつか彼が三人の関係を三角関係だと表したのを一蹴した時と同じように、お腹を抱えて大きく笑ってしまった。

 

ただあの時と違う点と言ったら、今の方が面白いと言うことだろう。嘲笑や皮肉の色を笑いに乗せることは出来なかった。

 

「あっははは!……なにそれ」

 

分からない。

確かにそれは怖いことで、納得のいかないことだ。私も彼も見たいものは同じで、それは本当に存在するかすら分からないもので。

 

だけど、それでも、

 

「……やっぱり、雪乃ちゃんにはもったいないかもね」

 

私ももう少しだけ、縋っていたい。

分からないことは確かに怖いことで、理解していることは安心できて、どうしようもなくつまらないことで。なら、分からないことの先には、もしかしたら彼が求め、私が見たいものがあるのかもしれない。

 

少しだけ、本当に少しだけだけど、分からないことも案外悪くないのかもしれない。

 

きっと私のこの声は届いていない。届けていない。まだ彼には足りないから。

変わらない、変われない君に期待するのは酷なことかもしれない。だけど、いつか、君なら私に届いてくれるんじゃないかって期待してしまうんだ。

 

「それじゃ、またね!比企谷くん」

 

電灯の灯りの下、いつも通りの笑顔を貼り付け大きく手を振り別れを告げる。

いつもより随分と簡単に笑えた気がするのはきっと気のせいだ。

 

黄昏は終わり、夜が始まる。

 

───────────────────

 

─────ピピッ、ピピッ。

 

もう既に聞き慣れてしまったスマホのタイマーの音が耳に届いた。目を開けると、世界が横向きに見えた。

段々と意識が鮮明になっていく中、自分の身体が横になっているのだと気付く。バッと身体を起こすと、はらりと何かが身体から離れる感触がした。

 

「夢……?」

 

最近のことのはずなのに、随分と懐かしい夢を見た気分だ。

腰のあたりまで落ちたタオルケットを抱き寄せながら、寝惚けている頭の中を整理する。

 

先程聞いた電子音は私のスマホのもので、比企谷くんの家庭教師をする時に私が使っているものだ。ついでに言うと、演習問題の終了を告げるためのものだ。

左手に何かが当たる感触がして見てみれば、それはソフトカバーの書籍。先程まで読んでいたはずの物に、ああ、この本はハズレだったな、なんて他人事のように振り返る。

 

そこまで思考してようやく知らない間に寝てしまっていたのだと結論付ける。

最近、大学の方でいくつか外せない用事が立て込んでいて中々休みが取れていなかったけど、読んでいた本がつまらなかったからとはいえ、人様の部屋で夢を見てしまうぐらいに寝てしまったことに少し頭を抱えてしまう。

大方、このタオルケットも比企谷くんが掛けてくれたものだろう。

 

……安心、していたのだろうか?

自分の家ならまだしも、今まで他人の前でこんな事をしたことはないと思う。

もう既に嗅ぎ慣れてしまった彼の部屋の匂い。あの夜、揺れている私がいると自覚した時から、もう何度もここに訪れているが、まだ答えは見つからない。

 

「起きたんですね。一応、解き切ったんですけど、どうしますか?疲れてるなら日を改めてからお願いしますけど」

 

私が纏めた問題を解き終えたであろう比企谷くんが、若干の心配の色を乗せながらも彼らしい気だるげな声色で話しかけてくる。

 

「ううん、平気。さ、いつも通りパパッと見ちゃうから問題集とノート貸して」

 

むしろ少し寝たことと、中々面白い夢を見れたことも合わせて調子は絶好調と言っても過言ではないぐらいに頭は冴え渡っている。

なので、私もいつも通りのお姉さんモードで比企谷くんに返事をする。

 

「…そっすか。俺はコーヒー入れてきますけど、雪ノ下さんも飲みますか?」

 

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

「っす」

 

そう言うと比企谷くんは部屋を出て階段を降りていく。

さて、私の方も始めますか。

 

普段から使っている飾り気のないペンケースから赤ペンを取り出して添削をしていく。

 

教え始めた頃は、基礎はある程度出来ているとは言え、良くて中の下、或いは下の上ぐらいだった数学力も今では平均に届くか届かないかぐらいまで伸びてきている。この調子で行けばセンターで八割九割、二次でも十分使えるレベルにはなるだろう。

私が教えているのだから、当然と言えば当然。むしろこれで伸びていなかったらお仕置きが必要なレベルなのだが、やはり一重に私だけの力ではないのもまた事実だ。

 

贔屓目抜きにしても比企谷くんはよく頑張っていると思う。頑張りすぎなぐらいに。

要領のいい子だし、今みたいに適度に休憩は入れているけど、どうにも少し焦っているようにも見えるような気がする。

 

ただ、それは別に珍しいことではないと言えば珍しいことではないように思う。

文化祭での仕事もあるし、隼人との一件に巻き込まれていることも考えると、去年もよく陥っていた思考の渦にいると考えるのが妥当だろう。

 

本当に、不器用な子。

 

「……よし、こんなもんかな」

 

一通り添削を終えたタイミングで部屋の扉が開く音が聞こえ、コーヒーのいい香りが鼻腔を擽る。

 

「おっ!グッドタイミングだね。いつもは色々悪いのに」

 

「そいつはどうも。そう言う雪ノ下さんはブラックですよね?」

 

そう言って比企谷くんはマグカップを私に渡してくるが、その言い方だと私のお腹の中が真っ黒だって言ってるように聞こえるんだけど。気の所為ですか、そうですか。

 

私がマグカップを受け取ると、比企谷くんは休憩は終わりだと言うように椅子に座り机に向かう。私もそれに続くような形で比企谷くんの隣に行き、ノートの添削箇所に指を指しながら説明していく。

 

「一通り目を通して見たけど、まだまだだね。肝心なところで詰めが甘かったり、使う公式が間違ってるよ。……そうだなぁ、ここで間違えてるこの問題は多分こっちの参考書の方が分かりやすいと思うよ」

 

予め用意しておいた参考書を手渡し、比企谷くんの淹れてくれたコーヒーを口に含む。

 

今彼に渡したのは、ただの参考書だ。私が足りないとと思ったところ、比企谷くんが苦手だとなところ、または苦手だと予想したところに私が説明を書き加えたものという但し書きが付くが。

 

比企谷くんは私から受け取った参考書を開くと一言、マジか…と呟くと、チラリとこちらを向いた。

驚いたように目を見開いた表情の比企谷くんに得意気な顔で見つめ返してやる。

 

「言わなかったっけ?私、本気になったらマジなんだよ」

 

「……あなたでも本気になることあるんですね。意外だ…」

 

「ま、滅多に本気なんて出さないけどね」

 

君だからだよ。

君が私に向き合おうとしてくれているから。周りの有象無象とは違う。私のキレイに繕っている部分だけじゃなく、もっと汚く醜悪な部分も君は見ようとしてくれている。

 

自分ではもう分からなくなってしまった本当の私。その答え。君が探してくれるなら私もそれ相応には応えてあげるのが道理だろう。

 

だから、これは私の為だ。

 

「雪ノ下さん、ここまで俺に色々してくれるのはどうしてなんですか?」

 

気だるそうに机に向かっていた比企谷くんが参考書から目を離して問うてくる。ついさっき、今の今まで考えていたことを比企谷くんに問われ、私は勿体ぶるように考える素振りを見せる。

 

「強いて言えば、気まぐれ……かな?」

 

私の為、なんて言っても比企谷くんは納得してくれはしないだろう。別に比企谷くんが納得出来ようが出来まいが関係ないのだが、ここは彼の納得出来る理由を与えた方が私の聞きたいことも聞きやすくなる。

 

「……気まぐれ、ですか」

 

「そう、私の気まぐれ。それじゃあ、比企谷くん。私からも一つ聞いていいかな?」

 

一拍置いてから、比企谷くんに問う。

 

ずっと聞きたかったことだ。さっき夢に見たから思い出したとか、そんな通り雨見たいな気まぐれじゃない。ずっと私の胸のどこかには、あの土砂降りの中で見た比企谷くんの表情がこびりついていた。ただそのことを聞いてしまったら、簡単には引き返せなくなりそうで。

 

「前に公園で一緒に雨宿りした時のこと、覚えてる?」

 

思えば、あの時からこの芽生えは始まっていたのかもしれない。あの時はまだ取るに足らない子だと思っていたし、そんな子に揺らされたのだと認めたくなくて、気付かないフリをしていたのだと思う。

 

「橋の上で出会った時。君はあの時、何をしていたの?」

 

「…………それは、」

 

そこまで言って、比企谷くんが口を噤んだ。

そして一拍置いてから、ゆっくりと言葉を繋いでいく。

 

「分からなくなってたんです」

 

「……どういうこと?」

 

「……雪ノ下さんは、本当に大切なものはどうするべきだと思いますか?」

 

質問に質問を返しちゃいけないって友達から教えて貰わなかったのかな?この子は……ゴメンなさい。

まあ、ここで答えなかったら進まなさそうだし素直に答えておくのが吉かな。

 

「うーん、そうだなー。私はすぐ近くに、とは言わないけど、それなりに近くには置いておくものだと思うよ」

 

離れすぎて、私以外の他の誰かに壊されてしまうなら、いっそその大切なものすら壊してしまえるようにしておいたほうがいいと思うから。まあ、それはあくまで最終手段としての選択肢だけど。

 

私の言葉の意図を察したのか、比企谷くんが引き気味に私を見つめてくる。

失礼しちゃうわね。最終手段よ、最終手段。

 

「俺は本当に大切なものなら、近くに置いておくべきじゃないんだと思ってました」

 

だから、と言葉を続けていく。

 

「雪ノ下の葛藤や、雪ノ下さんの在り方を見ていたら、これからどうあるべきか分からなくなったんです」

 

同時に、別れる時に比企谷くんが言った言葉にも合点が行った。

あれは比企谷くんなりの決意だったのだろう。『本物』なんてものがあるのかなんて分からない、もしあったとしても手に入るものとは限らない。それでも、比企谷くんは諦めないと言った。分からなくても足掻いてみせるのだと。

 

「答えは、出た?」

 

「……ええ」

 

「そっか。……君に期待して良かったよ」

 

比企谷くんが全部を語ったとは思わない。

私たちの関係は不安定で、会話のそこらかしこで腹の中の探り合いが繰り広げられている。気の置けない関係とは言い難いけど、今流れている時間が心地いい。油断も出来やしないのに不思議なものだ。

 

揺れている私に、私のこれから。黄昏の夢みたいにボヤけて曖昧なものの先にあるものを見つける為に、まだまだお互い利用し合っていこうね、比企谷くん。

 

「あっ、そうそう。文化祭の初日はお姉さん大学の方で出ないといけない授業が入ってて行けないけど、悲しんじゃダメだぞ!」

 

「そうなんですか。耳寄りな情報ありがとうございます」

 

相変わらず、可愛げ無くて可愛い奴め!

 



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