あしたは (山石 悠)
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雑歌:神世紀297年7月10日~
第一歌 なにめでて


名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花

 我おちにきと 人にかたるな

僧正遍照 古今和歌集


 

この身は神に捧げない。

僕の人生は君に捧げるものだから。

 

病める時は薬となり、健やかなる時は花となろう。

 

だから――

 

――約束を守る、その時まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お出かけからの帰り道を歩いていると、ある植物が目についた。特に急ぐ理由もなかったので、歩道から少し外れて転ばないように河原の方に降りていく。

 笹のように長い葉は反り気味に太陽の光を受け、先端には小ぶりな黄色の花が咲いている。周囲を少し見渡すと、蕾の状態のもあるようだった。

 

「えっと、これって確か……」

 

 急いで暇つぶし用に持ってきていた図書室で借りた本を開いた。昨日の昼休みにこれと似た植物を見たような気がする。

 

「あ、そうそう。女郎花(おみなえし)

 

 秋の七草*1のひとつで、有名な植物らしい。七月のこの時期は旧暦の六月。来月には秋になるので、七草粥として食べれる時期なんじゃないだろうか。

 

「…………」

 

 改めて女郎花を見つめ、ごくりと唾をのむ。

 思い出すのは、小さい頃に食べた春の七草粥。お祖父ちゃんと探しに行って、お祖母ちゃんに作ってもらった記憶がある。もう少し探してみれば他の七草も見つかるかもしれない。

 

 春の七草は食べられるわけだし、秋の七草だって食べられるだろう。

 

「試してみても、いいかな」

 

 周囲をきょろきょろと見渡して人がいないかを確認し――

 

「……三ノ輪、さん?」

 

 学校の方向から人が来ていることに気が付いた。見慣れたクラスメイトの顔だ。

 向こうからやって来たクラスメイト――三ノ輪銀――も、僕のことに気が付いたらしく駆け足気味に河原を下りてきた。

 

「おーい、坂上。こんなとこで何してるの? 散歩?」

「う、うん。まあね」

 

 三ノ輪さんの質問に返事をしながら立ち上がった。本には指を栞代わりにして閉じる。

 

「三ノ輪さんは家に帰る途中?」

「うん。家の手伝いしないとだし」

「家の手伝い? 偉いね」

「別に、そんなことないって。大したことしてるわけじゃないし」

 

 三ノ輪さんが少し照れたように頭をかいた。

 

「それで?」

「え?」

 

 そして、僕の手元を指す。

 

「それで何してたの?」

「えっと、これ……」

 

 僕は本の表紙を見せた。

 

「『薬になる植物』?」

「うん、図書室で借りた本なんだ」

「そういうの、興味あるんだ?」

「これはたまたま借りてきた本だけどね」

 

 神樹館の図書室は一人三冊まで借りられるようになっている。

 僕はいつも、好きな小説を一冊、その時に気になった専門書を一冊か二冊借りてくるようにしている。この薬になる植物という本は気になった専門書の方。

 

「面白いの?」

「うん、割と」

 

 ページを開いて、女郎花の紹介ページを見せる。

 三ノ輪さんが正面から、僕の横に移動してくる。

 

「例えば、ここにある女郎花は秋の七草のひとつで、こんな感じの黄色い花を咲かせるんだって。効能はいろいろあるみたいだけど、熱がある時とか、腹痛の時とか、解毒作用なんていうのもあるんだってさ」

「へー。これ食べたらそうなるってこと?」

「いや、このままだと効果は薄いんじゃないかな? 今はほとんど花が咲いてないから普通の食事に向いてて、花が咲いてから抜いて天日干しで乾燥させるんだってさ」

 

 乾燥させると、生薬“敗醤(はいしょう)”と呼ばれるらしい。

 

「なるほどねー。坂上って、いろいろ知ってるね」

「これ全部、ここに書いてあることばっかりだよ」

 

 そう。これは全部、本の受け売りでしかない。

 別に僕が賢いわけじゃなくて、本がすごいだけ。僕はそれを読んで知ったかをしているに過ぎない。

 

「そんなことないって」

「え?」

 

 三ノ輪さんは、僕の言葉を真っ向から否定した。

 

「少なくとも、アタシはこれを読んでも坂上みたいな説明できない。だから、こういう説明ができる坂上はすごい」

「そう、かな?」

「ああ、自信もっていいって」

 

 三ノ輪さんは、それがさぞ当たり前のように言った。

 

 僕と三ノ輪さんは同じクラスではあるものの、話をしたことはほとんどない。彼女はクラスでも人気者で、運動好きもありあちこちを走り回っているような印象だ。反対に、僕は日頃から図書室や教室の隅で静かに本を読んでいるだけ。

 僕達は同じ場所にいるだけのクラスメイトで、友人とはいえない。

 

「なんて言うか、意外だった」

 

 気が付けば、そんな言葉が口から出ていた。

 

「三ノ輪さんって、あんまりこういう話が好きじゃないかと思ってた」

「まあ、確かにアタシは勉強得意じゃないし」

 

 三ノ輪さんは肯定しながら、こちらを指さした。

 

 ……僕?

 

「でも、坂上が楽しそうだったから」

「楽しそう?」

「うん。坂上が今の話を楽しそうにするから、アタシも楽しかったよ。本を読んで楽しいのかなって思うこともあったけど、坂上がこうして楽しそうにしてるから、その理由が少しだけ分かった気がする」

 

 三ノ輪さんが、少し僕の方に近づいてきた。

 

「他には? 他にはどんな本を読んでるの?」

「今あるのは、和歌の本かな」

「……和歌?」

 

 薬になる植物の本をしまって、代わりに『万葉集*2』を取り出した。

 

「まんばしゅう?」

万葉集(まんようしゅう)。国語の授業でも出て来たよ」

「え!?」

 

 適当にパラパラと本を開いて、適当な和歌を出してみた。

 

秋の花 種にあれど 色ごとに

 見し明らむる 今日の貴さ

大伴家持

 

「……どういう意味?」

 

 三ノ輪さんが首をかしげる。

 その姿が妙におかしくて、僕は思わず笑ってしまいながらページの隅を指さした。

 

「『秋の花はいろいろ種類があるけれど、それらを一つずつ見て愛でることができる、今日は貴い日だ』って意味らしいよ。別のものについて例えている、とも書いてあるけれど、そのままでも素敵な意味だと思うんだ」

 

 本から目を離し、周囲を伺う。

 今は秋ではないけれど、様々な植物が花を咲かせたり、力強く葉を広げている姿を見ることはできる。普段は日常の中で見落としてしまっているものに気持ちを向け、こうして数千年にも渡って残る歌にしているのところが本当に素敵だと思う。

 

 三ノ輪さんは僕につられて視線を外し、周囲の野草を見た。

 

「確かに、小さい頃は花の冠を作ったりしてたけど、今はそういうの全然だもん」

「勉強や習い事みたいに、いろんなことが増えていくから。きっと、中学生や高校生になったらもっと忙しくなって、今以上に見る機会が減るのかもね」

「アタシはお役目もあるしなぁ……」

「ああ」

 

 そういえば、三ノ輪銀という女の子は、普通とは違う子だった。

 

 彼女は神樹様*3に選ばれた少女だ。

 それがどういうことを意味するのか僕には分からないけれど、とても名誉なことだとは聞いている。他にも何人かいるらしいけど、僕はどの人のこともよく知らない。

 

 何をするのか、いつまでするのか、僕には知らないことばかり。でも、それを尋ねることもない。

 だって、僕と彼女は友人ですらないから。

 

「……って、そうだ! 手伝いしなきゃいけないの忘れてた!」

「あ、ごめん、引き止めて」

「いいっていいって。いろいろ聞けて楽しかったし」

 

 読んだ本の知識をついつい披露したくなって喋りすぎたかもしれない。悪い癖だ。用事があるなら、これは想定外の道草を食わせてしまっている。

 三ノ輪さんは大丈夫と返事をしたけど、心の中は申し訳なさでいっぱいだった。

 

 帰らないといけないのに、なんとなくどう分かれていいか分からなくて、僕達はお互いに少しだけ黙りこくった。

 

「あの、さ」

「うん」

 

 沈黙を破ったのは三ノ輪さんだった。彼女の視線は、いつのまにか野草から僕の方に向いていた。

 

「また、こういう話をしてもらってもいい?」

「こういう話って?」

「その……植物のこととか、和歌のこととか。坂上が読んだ本の話」

「え?」

 

 奇妙な提案をしてくるなと思った。

 自分で言うと悲しくなってくるけど、こういう話をされるのが好きな人はあまりいない。お父さんもお母さんも、本の話をしてても「分からない」という感情を滲ませた曖昧な笑みを浮かべるし、クラスの人は話を聞こうともしてくれないだろう。

 

 それくらい三ノ輪さんの提案は不思議だったし、なによりも――

 

「……いいの?」

「アタシが頼んでるんだから、いいに決まってるって」

 

 ――嬉しかった。

 

 今まで誰も聞いてくれなかったのに、彼女だけはそれを聞きたいと言ってくれたから。それだけで僕には十分だった。

 

「じゃあ、悪いけどもう時間ないから行くから」

「う、うん……」

 

 三ノ輪さんが少し走って行きながら、途中でこちらを振り向いて手を振った。思わず僕も振り返す。

 心臓がドキドキと高鳴って、何か変な夢を見ていたんじゃないかという気持ちになってくる。

 

「…………」

 

 坂上三明、神樹館小学校5年生。

 どうやら僕は、自分が思っていたよりもはるかに単純な人間だったみたいだ。

 

 

 

 

 

 週明け。

 

 結局、僕と三ノ輪さんの関係はよく分からないままであることに気がついた。

 友達になろうと言ったわけでもなく、あの時の言葉はその場限りの口約束みたいなものかもしれないことくらいは、人間関係に詳しくない僕ですら理解できていた。

 

「はい、そろそろ朝礼を始めますよ」

 

 先生の言葉で、読みかけの本に栞を挟んで閉じた。

 チラリと斜め前――三ノ輪さんの席――を見るが、そこには誰もいない。彼女は遅刻魔なのだ。

 しかし、大幅に遅れることはないので、そろそろ彼女が教室に駆け込んで……

 

「はーい、セーフ!!」

「……アウトです」

「あいたっ」

 

 先生が滑り込んできた彼女に対して冷静な答えを返した。いつも通りのやりとりにクラスから笑い声が漏れる。

 先生が席に着くように指示をすると、彼女は通りがかるみんなに挨拶をしながら席に向かう。

 

 そして、自分の席に着いてランドセルを置くと、くるりと僕の方を向いた。

 

「坂上、おはよう」

「お、おはよう」

 

 声をかけられるとは思わず、どもったように返事をしてしまった。

 周囲も、それまで挨拶もあまりしてこなかった僕と三ノ輪さんの関係の変化に驚きを隠せないでいた。

 

「ねぇ、銀ちゃん。坂上君とそんなに仲よかったの?」

「仲良くなったんだ、ついこの前ね。な、坂上」

 

 そこでようやく、昨日のやりとりがただの口約束ではないことを理解した。

 三ノ輪さんは、本当に僕と友達になろうとしていたんだ。

 

 なら、僕の返事は一つしかなかった。

 

「そうだね、友達だ」

 

 こうして僕は、三ノ輪銀と友人になった。

*1
萩、桔梗、葛、藤袴、女郎花、尾花、撫子の七種類

*2
七世紀から八世紀にかけて編纂された、日本最古の和歌集。全二十巻。

*3
人類を襲った死のウイルスから、結界を作ることで四国を守っている存在。神樹の登場と共に旧世紀(西暦)は神世紀に改められた。




銀のことだけ考えて書くわすゆ組メインの日常です。小5から始まります。
作者をご存知の方がいらっしゃるなら、今度は和歌と植物だぞ、とだけ言っておきます。

あらすじの和歌は自作ですが、修辞法を正確に使用していない部分があります。どうしてもやりたかったこと故に許していただければ幸いです。
また、それ以外の和歌の解釈や薬学の知識について間違い等がありましたら、指摘していただけますと助かります。


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第二歌 あかねさす

あかねさす 紫野行き 標野行き

 野守は見ずや 君が袖振る

額田王 万葉集


 

 三ノ輪さんと友人になった、というやり取りをしてから数日。

 

「こんにちは」

「いらっしゃい、坂上君」

 

 僕と三ノ輪さんは友達になったといいながらも、あれから話す機会がなかった。

 

 あの時そのやり取りを見ていたクラスメイト達も、既にその時のことを忘れていることだろう。現に、誰でもない僕自身があれを夢か何かではないかと思い始めている。

 

「これ、お願いします」

 

 よく考えれば、当たり前のことだった。

 

 僕の日常は一人で本を読むことに終始している。

 その場所は、図書室であったり教室であったり外であったりといつも違うけれど、読書をしていることに違いはない。

 

 一方で、三ノ輪さんはみんなの人気者だ。

 いろんな人に囲まれていて、昼休みには校庭の方で遊んでいる姿をよく見かける。今も図書室の窓の向こうを見れば、みんなと遊んでいる彼女の姿を見ることができるのだろう。

 

「はい、いつも通り三冊ね」

 

 僕達が友達になったところで、僕達の行動パターンは変わらない。僕は友達付き合いが増えるわけではなく、彼女は読書が好きになったわけではない。

 

 僕は友達が一人だけ増えて、彼女は人が本を好きになる理由を少しだけ理解できるようになった。

 ただ、それだけの話。

 

「……あれ?」

 

 カウンターで本の貸し借りを担当している司書さんが、物珍しそうに呟いた。

 いつもは「読んだ本どうだった?」と感想を尋ねてくる場面だったので、思わず司書さんの顔を見る。

 

「珍しいね」

「珍しい、ですか?」

「うん」

 

 司書さんは二つの本の山を積んだ。借りた本と、返した本だ。

 

「まず、これは昨日借りた続き。いつも通りだよね」

「そうですね」

 

 一番上に乗せられていた本をもって、その隣に腰を下ろす。

 シリーズ物の小説は一日で終わるため、毎日返却と貸し出しをお願いしている。司書さんが今持っている二冊も、シリーズの続き物だ。

 

「そして、こっちが気になった分野の本」

「はい」

 

 気になった分野の本に関しては、専門性が高い場合もあって一日や二日では読み終わらないことが多い。だから、貸し借りは一週間おきにしている。

 これに関しては特に規則性もないため、ジャンルはその時の僕の興味ですべてが決まる。

 

「坂上君って、今まで同じ分野の本を続けて借りることってなかったでしょう?」

「そうでしたっけ?」

「うん。もし読み足りなかったら、延長の手続きをしてるからね」

 

 司書さんに指摘されて、確かにそうだと思いだした。

 一週間では読み終わらなかった場合や、読み足りないと思った時は延長手続きをしてさらに一週間読むようにしている。

 

「坂上君が同じジャンルの本を連続して借りるのは初めてじゃないかな? 何かあったの?」

「いや、特に何かあったと言われても……」

 

 選んだことに関しては完全に無意識だったけれど、その理由には心当たりがあった。三ノ輪さんだ。

 僕は不意に、この前のやり取りを思い出した。

 

「まあ、何がともあれ、坂上君に興味のある分野ができたのは喜ばしい限りだよ」

「え?」

「だって、今までは『好きになれるものを探している』って感じに見えてたからね。……和歌と植物、好きになれそう?」

「えっと……」

 

 好きにはなるだろう。実際、この二つは面白かった。

 

 だけど、これを思い出すたびに、脳裏には三ノ輪さんがすごいと言ってくれた時の記憶がよみがえってくる。

 こんな、不純な理由で好きだと言ってもいいのだろうか。

 

「なんか、難しいこと聞いちゃったかな?」

「そ、そんなことは」

「気を使わせちゃってごめんね。坂上君は、坂上君がその時に読みたいと思ったものを読んだらいいと思うよ。その気持ちと読んだ本は、きっといつか坂上君の助けになるはずだからね」

 

 司書さんが借りた本を渡してくる。

 僕は、いつも通りにそれを受け取って頭を下げた。

 

 

 

 

 

 七月中旬になったということもあり、外は少しだけ日差しが強かった。

 うっすらと肌に滲んだ汗をぬぐいながら、上履きから靴に履き替えた。汗で濡れないように本を持ったまま校舎から出て、校庭とは反対側にある中庭に向かう。

 

 神樹館の正面玄関から見て右手には校庭が、左手には中庭がある。中庭の入り口辺りにはケヤキの木が生えていて、そのケヤキを囲うようにしてベンチが設置されている。

 

「よいしょ、っと」

 

 ここが、僕の読書スポットの一つだ。

 

 ケヤキの木はいい感じに背もたれと屋根の役割をしている。暑い夏の日差しも、この木陰の下では関係ない。

 正面玄関からも近いおかげで、正面玄関に設置された時計を確認することも簡単だ。中庭は人がめったに来ないこともあって休み時間の終わりを知ることが難しいけれど、この位置なら時計が見える上に校庭で遊んでいた人が戻ってくる様子を確認することもできるから、遅刻の心配もない。

 

 ベンチに座って、本を傍に置いた。

 涼しげな夏の風が吹き込んで、夏の暑さに火照った体を冷やしてくれる。

 

「んー」

 

 気温は日差しと木陰で程よく調整されている。蝉の合唱や校庭から聞こえる遊び声は、夏を感じさせるBGMの役割を果たしていた。

 こういう気候は、読書や昼寝にはちょうど良かった。

 

 時計を確認すると、昼休みが終わるまでにはまだ時間の余裕がある。

 

「どれにしようかな」

 

 借りてきた本を指さしながら、どれを読むか選ぶ。

 

「これだ」

 

 小説は一気に読み切りたいので、置いておく。和歌と植物の本が残るわけだけど、植物の本はもう少し身軽な時に中庭の方を歩き回って探してみたりして読みたい。

 ということで、消去法で和歌の本、万葉集だ。

 

「ふーむ……」

 

 パラパラとめくって、大雑把な中身を確認する。

 この前借りた万葉集のシリーズの別の巻だ。流石に同じ巻数は飽きてしまいそうだったし、せっかくならいろいろな和歌を見てみたかった。

 

 中を確認しながら、ふと目に留まったところでページを止め――

 

「坂上?」

 

 ――声を、かけられた。

 

 思わず顔を上げて声の主を探す。聞こえたのは校庭の方だ。

 

「おーい、坂上!」

「……三ノ輪さん?」

 

 校庭の方向に目を向けると、三ノ輪さんがこちらに向かってきているのが見えた。

 

「何してるの?」

「これだよ」

 

 そういって、図書室で借りてきた本を見せた。

 

「……読書?」

「うん」

「外で?」

「案外、いいものだよ」

 

 特に、本の情景に近い場所でする読書は、五感で物語を楽しむことが出るから好きだ。僕は割とする方なのだけれど、読書が好きな友達でもこれをしている人はほとんどいない。

 基本的に、読書は図書室や教室といった屋内でする人が多い。

 

「へぇ……今日はどんなのを借りたの?」

「前に話してた万葉集の、別の巻を借りてみたんだ」

 

 そういって、持っていた万葉集を軽く見せた。

 

「どんな和歌があるの? ちょっと見せて」

「別にいいけど……外で遊んでたんじゃないの?」

「他の子が先生に呼ばれちゃったから。とりあえず教室に戻ろうと思ったけど、戻ろうとしたら坂上の姿が見えたから」

 

 とりあえず声をかけてきてくれたらしい。

 

 心が少しだけ弾むのを感じていると、三ノ輪さんは「そうだ」と目を輝かせた。

 

「前みたいにさ、いろいろ教えてよ」

「う、うん」

 

 了承すると、ベンチに置いていた本を動かして座る場所を用意した。

 立ちながら二人で本を読むことほど、やりにくいこともない。

 

「座る?」

「お、ありがと」

 

 彼女が座ると、その隣に座って万葉集を開いた。

 どの和歌にするかは特に決めてないので、目次の一覧を見ながらどれを見てみるか選ぶところからだ。

 

「あ、これ」

「ん?」

 

 三ノ輪さんが、ある歌を指さした。

 

「これって、この前見てた花じゃなかったっけ?」

「えっと……?」

 

 三ノ輪さんが指さした和歌を見た。

 

ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなへし

 咲きたる野辺を 行きつつ見べし

秦八千島

 

「女郎花か」

 

 確かに、話すきっかけになった植物だ。

 

「ヒグラシって、カナカナって鳴くヒグラシ?」

「みたいだね」

 

 歌の意味は、比較的取りやすかった。

 ヒグラシが鳴く頃には女郎花の咲いているのを巡って眺めるのがいい、という非常にシンプルな内容だ。

 

 三ノ輪さんの反対側に置いていた植物の本を手に取って、女郎花についてのページを開いてみる。

 

「女郎花は、日当たりのいい場所に咲く花で、一メートルくらいの高さまでいくみたい。この前見たのはもう少し小さかったけどね」

 

 ある程度の手入れが入っていないと生育には向かないため、この和歌で歌われるほどの数が見られる場所というのは現代ではほとんどないのかもしれない。

 

 これは、この前借りてきた薬学の本よりも植物の一般的なデータに視点を当てた本で、女郎花についても基本的な情報がいろいろと載っている。

 植物にはいろいろな分類法があって、被子植物*1や双子葉類*2くらいは僕も理科の時間に習った記憶がある。見覚えのない分類というと、多年草*3や合弁花類*4辺りだろうか。

 

「あの花、昔はもっとあったってわけ?」

「多分ね」

 

 歌には“をみなえし 咲きたる野辺を”とある。

 わざわざ女郎花を見に行ってる場所がこの前僕達が見たような、いくつか咲いているのが見える、程度のものではないだろう。きっと、花畑なんて言葉が似合うくらいには沢山咲いていたんだと思う。

 

「一面の女郎花畑かー」

 

 少しだけ、目を閉じる。

 

 

 今は万葉時代、倭の国にて。

 

 遠くの山には西日が今にも沈もうとしており、そんな一日の終わりを告げるかのようにヒグラシの音がこの場所まで届いていた。視線の向こうからは望月が徐々にその姿を現しており、夜の訪れが間もなくであることが分かる。

 里から離れたこの場所には、視界いっぱいに女郎花が咲き誇っている。斜陽を背に受けて立てば、僕自身の影が女郎花畑まで広がっていた。

 

 

 イメージしてみると、どこか郷愁的な気持ちになってくる。

 そういえば、どうして僕達は行ったこともない田舎の風景に、こんな気持ちを抱いてしまうのだろう。

 

「きっと、綺麗な景色なんだろうな」

「そうだね、きっと綺麗だと思う」

 

 僕と三ノ輪さんのイメージが一致していたのかどうかは分からない。でも、それが素敵な景色であるという気持ちだけは、きっと共有できていたと思う。

 それは、1600年も前にこの歌を詠んでいた秦八千島さんも、きっとそうだったんだろう。

 

「……なあ、坂上」

「どうしたの?」

 

 三ノ輪さんが万葉集に視線を落としながら、僕に声をかけた。

 

「帰りさ、時間ある?」

「え? あるけど」

 

 唐突な問いかけに驚きつつも、肯定の返事を返す。

 

 いつもというわけではないけれど、放課後には時々、図書委員としての仕事が入ることがある。今日は特にその活動があるわけではない。

 

「じゃあさ、また夕方にあの女郎花の花を見に行ってみない?」

「女郎花を?」

「実際に、本の景色に近いところで読むといいんでしょ? じゃあ、ヒグラシの声が聞こえて、女郎花の見えるあそこに行ってみない?」

 

 思わぬ提案に驚いてしまったけど、その言葉を理解すると徐々に嬉しさがこみあげてくる。

 

「……うん、もちろん」

 

 答えは、是以外にはあり得なかった。

 

 

 

 

 

 放課後。

 

 学校から家に帰って、荷物は図書室で借りてきた本だけにして家を出た。目指す場所は、この前三ノ輪さんと一緒に女郎花を見た河原だ。

 

 歩きながら周囲を見渡せば、赤く染まっていく空が見える。どこからともなくヒグラシの声が聞こえてきて、東の空の方は徐々に濃紺に染まろうとしていた。

 

「ひぐらしの」

 

 ふと、無意識に歌が口から出てきた。

 川沿いの道を歩きながら、夕暮れの眩しさに目を細める。

 

「鳴きぬる時は」

 

 約束していた場所が見えてきた。

 少しだけ駆け足であの場所までたどり着くと、そこには女郎花が綺麗な花を咲かせていた。

 

「をみなえし」

 

 少し周囲を見渡すけれど、三ノ輪さんの姿は見えなかった。彼女はいつも遅刻気味なので、今もきっと少し遅れてくるのかもしれない。

 夕焼けはいつまでも待ってくれるわけではないのだから、できればこの夕日が見える間に着いてくれたらいいなと思う。

 

「咲きたる野辺を」

 

 女郎花が見えるところで腰を下ろして、夕日を反射する水面を背景にして咲く女郎花を見つめる。

 街並みこそ違うものの、唄の情景に少しずつ合わせることができてきたとは思う。

 

「行きつつ見べし」

 

 と、後方から誰かの足音が聞こえ――

 

「坂上!」

 

 振り返れば、そこには三ノ輪さんがいた。

 軽く手を振りながら、間に合ったことに安堵する。

 

「危なかったね」

「いやー、ギリギリセーフでよかったよかった」

 

 少し荒い息を落ち着かせてから、三ノ輪さんが僕のそばに座った。

 「早く早く」と催告してくるので、バックから万葉集を取り出してページを開いた。

 

 余計な音はない。

 静かで、でも無音じゃなくて、何でもない日常の音が遠くから聞こえてきている。

 

「これが、歌の景色」

「うん」

 

 僕は、少しだけ分かったような気がした。

 

 何千年もかけて残ったこの歌は、こうして遥かな未来で、どこかの誰かに自分が感じたこの気持ちを共有してほしくて詠んだものなんだろう。

 

「三ノ輪さん」

「どうした?」

 

 今この瞬間に、自分自身が感じたものを形に残したくて、その結果として出来上がった和歌(こころ)を、僕達は感じている。

 和歌が“歌う”のではなく“詠む”ものであるのは、僕達がこうして“読む”ことで初めて意味を成すものであるからだ。

 

「来て、よかった?」

 

 少しだけ、確認してみたかった。

 僕が感じたこの気持ちが僕だけのものなのか、それと三ノ輪さんも一緒になって感じてくれているものなのかを知りたかった。

 

 三ノ輪さんは、少しだけ間をおいて確かにうなずいた。

 

「ああ、もちろん」

 

 三ノ輪さんがこちらを見ることなく、わずかに表情を緩めた。

 

「読書はあんまり好きじゃなかったけど……うん、坂上が教えてくれるこの景色は、アタシも好きだって言えるよ」

 

 この前は、僕が読書を好きな理由を知っただけだった。

 

 だけど、今は違う。

 三ノ輪さんだって、この景色が、文字を通して見える新しい景色が素敵だと確かに言ってくれたから。

 

「いつもは気にしないで通り過ぎるだけの通学路が、こんな風に見えるとは思ってなかった」

「それは、よかった」

「ありがとう、坂上」

「どういたしまして」

 

 日が沈んでいく。

 

 

 

 茜に染まっていく空と、静かに咲いている女郎花。

 

 これが、長い人生の中で僕が三ノ輪銀に対して抱く、原初の記憶だ。

*1
種子植物の中でも、胚珠が子房の中に収まっているもの。対となる分類として裸子植物が挙げられる。

*2
子葉の数が2枚である植物。対となる単子葉類とは、葉脈の通り方や維管束の並び、根の形状に差がある。

*3
個体として複数年にわたり生育する植物のこと。

*4
被子植物の中でも、花弁(はなびら)が一つに合着している植物の分類。対となる分類として離弁花類が挙げられる。




多分、ここまでが本当の一話(プロローグ)。これが、三ノ輪銀と坂上三明の、最初の出会いの話だと思います。

タイトルの歌については特に解説していく予定はないのですが、興味があれば少し調べてみていただけると嬉しいなと思います。
ちなみに、今回の歌は返歌もありますので、そちらもどこかで紹介したいですね。


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第三歌 なるかみの

鳴る神の 少し響みて さし曇り

 雨も降らぬか 君を留めむ

柿本人麻呂歌集


 

 窓の向こうに見えていた積乱雲は、夕方になる頃にはこちらまでやってきていた。昼間は白かった雲が、今ではいつ降り出すかも分からないほど灰色に染まっている。

 

「急がなきゃ」

 

 靴を履き替えて外に出た。背中のランドセルがあることを確かめるように、軽く背負いなおす。

 

 雨が降り出してしまえば、傘があったとしても濡れてしまうのは確実だ。それ自体は仕方のないことだし、乾かしてしまえば何の問題もない。

 だけど、ランドセルに入った教科書や図書室の本は別だ。僕自身や服は乾けば元通りになるが、紙は絶対に元には戻らない。そうなることだけは絶対に嫌だ。

 

 空を睨めば、傘を持つ手に力がこもる。

 今はまだ降り出していないものの、そう長くはもたないだろう。

 

「じゃあ、これ使いなよ」

 

 ふと、昇降口の方から声が聞こえた。

 そちらに顔を向けると、クラスメイトの松井さんと三ノ輪さんの姿が見える。三ノ輪さんが松井さんに傘を貸しているらしい。

 

「え、いいの?」

「いいよ。アタシ、教室に傘置いてるからさ」

「ありがと、銀ちゃん」

「いいっていいって」

 

 松井さんが傘を受け取って三ノ輪さんに手を振りながらこちらに向かってきた。少し空を見て降りそうなのを確認すると、駆け足気味で昇降口から飛び出していく。

 

「じゃあねー」

「また明日―」

 

 三ノ輪さんは松井さんの姿が見えなくなるのを確認すると、空を見上げて苦笑いを浮かべた。

 

「確か、家は逆だったよね……」

 

 それは、誰に言うわけでもなく、ただの確認事項みたいな口ぶりだった。なぜ家の位置を気にするのだろう?

 そもそも、どうして傘が教室にあるのに外の方に出てきたのだろうか。

 

 三ノ輪さんは、おもむろに準備運動をするように屈伸を始めた。

 

「走ればまあ、間に合うでしょ」

 

 と、小さくつぶやいたところで理解した。

 さっきの言葉は嘘だった。三ノ輪さんは教室に置き傘なんてなくて、本当は貸した傘しか持っていない。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

「え?」

 

 気が付いた時には、思わず三ノ輪さんの前に飛び出していた。三ノ輪さんが目を丸くする。

 

「さ、坂上!? どうして!?」

「ちょっとね……」

 

 黙って見ていたのがなんとなく後ろめたくなって、バレバレなのに口ごもってしまう。でも、三ノ輪さんにはこれだけでも十分僕の状況には気付いてくれるのだろう。

 そもそも、この状況で見てないと言い張るのも無理があるので、結局は認めるしかないのだ。

 

 三ノ輪さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「あちゃー、坂上に見られてたのかー。なんか、ちょっとカッコ悪いな」

「そんなことないよ」

 

 そんなことを気にしなくても、ああして誰かを助けてあげられるのはカッコいいことだと思う。少なくとも、僕にはできないから。

 現に今も自分の分しか傘を持っていないわけだから、三ノ輪さんに傘を貸すこともできない。同じことをしようとしたところで、断られてしまうのがオチだろう。無理に貸そうとしたところで、スマートに貸すこともできない自信がある。

 

「えっと、その……」

 

 次の言葉が出てこない。

 僕は何をしようとして彼女の前に出てきたのか。助けたいはずなのに、どうやって助ければいいのかが分からない。

 

 傘を持ったままあたふたしていると、三ノ輪さんが面白そうに笑った。

 

「坂上って、帰り道一緒だよね?」

「え? うん、多分」

 

 たまに帰り道で見かけることはあるから、一緒の方向だと思う。

 

「じゃあさ、一緒に帰らない? もし雨が降ったら入れてよ」

「あ、ああ! うん!」

 

 三ノ輪さんの提案に、僕は深く思考する間もなく首を縦に振る。確かに、そうすれば三ノ輪さんに傘を貸してあげられる。

 

 ……でも、それを提案されている時点で、僕はかなりカッコ悪かった。

 

 

 

 

 

 帰り道には、あまり人がいなかった。

 もともと神樹館は近隣の市からも児童が集まってくるから、徒歩で通学する生徒は普通の学校より少ない。

 

「あの、さ」

「何?」

「三ノ輪さんって、よく人助けしてるよね?」

「そう?」

「うん」

 

 人助けというと大げさかもしれないけど、誰かに手を貸してあげている姿は、話をする前から頻繁に目にしている。きっと、もっと仲のいい人達は詳しく知っているだろう。

 僕に声をかけて話を聞いてみたいと言ってくれたりもしたし、すごくいい人なのだと思う。

 

「いやぁ、アタシそういうところに出会いやすいっていうか。それで、流石に放っておけないっていうか……」

「でも、そこでちゃんと助けてあげられるのはいいと思うよ」

 

 月並みなことしか言えないが、なかなかできないことだと思う。

 

「まあ、アタシは勇者だからね。これくらいはやってみせるよ」

 

 三ノ輪さんが力こぶを作るようにしてはにかんだ。

 なんだか、三ノ輪さんにしては不思議な言い回しだった。

 

「勇者?」

「え? ああ、アタシのお役目が、そう呼ばれてるんだ。なんかカッコよくない? 勇者って」

「カッコいいと思うけど……なんか意外だったな」

「意外って?」

「大赦ってそういう感じの名前も使うんだなって」

 

 大赦が使う言葉は、割と古来のこの国に伝わるものが主になっているらしい。

 古事記等の現代訳を読んだことがあるから雰囲気は分かるけど、勇者なんてファンタジーな感じの言葉を使うとは思っていなかった。

 

 もしかして、勇者って実は神話にも出る言葉なんだろうか?

 

「って、勇者ってことは、何かと戦うの?」

「あー………ごめん。あんまり詳しくは話しちゃダメって言われてるんだ。忘れてた」

「そうなの? ごめん、余計なこと訊いちゃって」

「いいっていいって、言い出したのはアタシの方だからさ」

 

 三ノ輪さんが「気にしないでいいって」と手を振っていると――

 

「ん?」

 

 ――頬に、何かが当たったのが見えた。

 

 三ノ輪さんが頬に手を添わせて、静かに上を見上げる。僕もそれにつられて空を見上げると、頬に冷たいものが当たった。

 

「……雨だ」

 

 と、それに気が付くと、徐々に雨粒が手や頬に打ち付け始める。

 夕立が降り出したのだ。

 

 慌てて傘を差して、三ノ輪さんに向かって手招きした。

 

「早く、入って」

「う、うん」

 

 少し大きめの傘なので、小柄な三ノ輪さんが入ってもはみ出ないで済む……けど、二人で傘に入るなんてやったことないから、妙に居心地が悪い。

 雨脚はあっという間に強くなって、既にアスファルトはほとんどが濡れていた。

 

「流石に強いね」

 

 風が強く吹いているわけではないけれど、勢いが強いせいで足元はかなり濡れ始めている。家に着くころにはずぶ濡れになっているはずだ。

 少しだけ、傘を三ノ輪さんの方に傾けた。

 

「三ノ輪さんの家どこだっけ?」

「え、流石に悪いよ」

「でも……」

 

 この雨で傘もなしに帰るのは流石に無謀だと思う。

 強いとはいえ、夕立だからすぐに止んでくれると思うけど――

 

「あ」

 

 周囲を見渡していると、不意に鳥居が目に入った。

 

「坂上?」

 

 三ノ輪さんがこちらの顔を伺う。

 僕は静かに鳥居を指さした。

 

「あそこで、雨宿りしていかない?」

「神社で?」

「うん。夕立だし、しばらく待ってれば止むと思うから」

 

 無理に帰ろうとするよりも、少し待った方がいい気はする。夕立というのはそこまで長い時間降っているものでもないから。

 

「雨の和歌も、いろいろあるみたいだし」

 

 返事が来ないので、理由にならない理由を付け足そうとする。

 なんで自分がそこまで必死になっているのかも分からないまま、口だけは勝手に動いていた。

 

「どう、かな?」

 

 雨のことなんて忘れそうになってて、

 

「……いいね、そうしようか」

 

 今だけは、この時間がもう少しだけ続いてほしいと思っていた。

 

 

 

 

 

 拝殿の賽銭箱の傍に、僕達は座っていた。

 雨は非常に強く打ち付けていて、境内のあちこちに水たまりができている。雨音が非常に強い上、神社の周囲は背の高い木々が囲んでいるため、外の様子はあまりよく分からなかった。

 

「すごい雨だね……」

「これじゃ、帰る頃にはずぶ濡れだったな」

「かもね」

 

 ランドセルから万葉集を取り出す。

 まだ借りるようになって三週間目くらいだけど、既にあるのが当たり前のようになってきた気がしてきた。

 

 雨の和歌はそれなりの数がある。

 自然を題材にした和歌が多い中、雨というものは非常に身近な題材として選ばれやすい。

 

「雨にもいろいろ種類があるんだけど、今のにあった歌は……」

 

 パラパラとページをめくりながら和歌を見ていく。

 確か、夕立の和歌がどこかにあったような気がする。

 

「あ、あった」

 

 見つけたところで手を止めて、三ノ輪さんにも見えるように二人の間に本を置いた。

 

「夕立が出てくる歌」

「この歌?」

 

夕立の 雨うち降れば 春日野の

 尾花が末の 白露思ほゆ

小鯛王

 

 和歌の意味は「夕立が降れば、春日野に咲く尾花の先の白露のことを思い出す」というもの。夕立が止んだ後の、ススキの穂先に付いた水滴が脳裏に浮かんでくる。

 夕立という言葉ばかり意識していたせいで気が付かなかったけれど、よく読んでみると上がった後の歌だ。

 

「尾花ってどんな花?」

「尾花は、ススキのことだよ」

 

 尾花という表現を使う言い回しを思い出すとすれば、“幽霊の正体見たり枯れ尾花”とかだろうか。

 

「ススキは、秋の七草のひとつだね」

「秋の七草? 女郎花(おみなえし)と一緒の?」

「そうそう」

 

 ランドセルから植物の本も取り出して、目次を確認してススキのページを開く。

 

「ススキはイネ科の植物で、高さはだいたい1~2メートルくらい。夏から秋にかけて花穂(かすい)*1っていうのを付けるみたい」

 

 花穂というのがあんまりよく分からなかったけれど、先端にある赤い部分のところを指すらしい。

 

「ススキは古くから日本にある植物で、茅葺(かやぶき)屋根の材料になったりするよね」

「なんだっけそれ?」

 

 聞き覚えが内容で、三ノ輪さんが首をかしげる。

 これも、この前の授業で少し出て来たんだけど……

 

「えっと、ススキの別名に(かや)っていうのもあるらしくて」

 

 茅葺屋根*2は古い物語等で描かれている、屋根の種類の一つだ。

 例えば、宮沢賢治という旧世紀の人の“雨ニモマケズ”という詩には「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ(かや)*3ブキノ小屋ニヰテ」という文章がある。実直な人でありたい、という思いを綴った詩だ。

 

「屋根の材料として使われていたり、詩や和歌に登場するみたいに歴史のある植物だよ」

 

 科学技術の発達により、ススキを使って屋根を作るようなことはなくなったけれど、今でも風習に残ったりはしている。

 お月見でススキを飾るというのは、その有名な例だろう。

 

「確かに、学校で秋には飾ってたりするよねー。アタシ的には、給食のデザートの方が嬉しいけど」

「花より団子、って感じだね……」

 

 身もふたもない言葉に苦笑してしまう。

 でも、確かに綺麗な月よりはデザートが一品増える方が、分かりやすい嬉しさだ。

 

「今でも、茅葺の建物ってある?」

「大赦の建物とか、そういうのありそうな気がするけど」

 

 個人的なイメージなので、事実かは知らない。

 大赦は古くから神樹様を祀ってきた組織だから、なんとなくこうした伝統とか歴史あるものとかを残したりするんじゃないかと思う。

 

「三ノ輪さんは、お役目とかで大赦の方に行ったりしないの?」

「アタシの場合は学校の奥に訓練場があって、そこでやってるから大赦の建物を見に行ったりとかは全然。いつかは行ったりするかもだけど」

「へぇ」

 

 確かに、学校の奥には使われない建物があるのは知っていたけれど、大赦のお役目に関することをする建物だとは知らなかった。

 中に入ることも許されないし、そもそも校舎から離れているので理由もなければ近づくこともない。

 

「坂上は、大赦の建物とかに行ったりすることないの?」

「そんなのないよ、全然」

 

 親が大赦の人だったりするなら別かもしれないけど、僕の父さんは医者で母さんは薬剤師だ。それ以外の親戚にも大赦に所属している人はいない。だからこそ、大赦に行く理由はどこにもない。

 神樹館は近辺でも名家とかの人が来るような学校なので、代々大赦に所属している名家の人は多い。というか、“三ノ輪”も名家の一つだったはずだ。

 

「でもまあ、月見の時に使ったりもするわけだし、大赦で育ててたりすることもあるかもしれないね」

 

 植物の本をぱらぱらと見返してみると、日当たりのいい山野に生育するらしい。ここからだと、東の方とか南の方だろうか。内陸の方に入っていくと山がちになるので、そこで見られるかもしれない。

 

 スマホを取り出してみると、時刻はまだ5時にもなっていない。

 外は、徐々に雨脚が弱まっていた。

 

「あ、あの――」

「――お! 雨やんできた!」

 

 声をかけようと思ったが、それよりも早く三ノ輪さんが外の様子に気が付いた。

 空の方を見れば、雲が少しずつ薄くなって切れ間から光が漏れ出始めていた。

 

「いやー、止んでよかった」

 

 三ノ輪さんは嬉しそうに僕の方に笑いかけた。僕も曖昧に笑みを返した。無事に止んでくれたのはありがたい。本が濡れずに済む。

 

「あ、そういえば、坂上なんか言おうとしてなかった?」

「え?」

 

 思わぬ助け舟に、素で驚いたような声をあげてしまう。

 

 本当は、夕立が止んでから尾花を探しに行かないかと誘いたかった。この前の女郎花を見た時のように、二人で“(うれ)の白露”というものを見に行きたかった。

 

 ……でも、

 

「いや、僕も止みそうだね、って言おうとしただけ」

 

 今度は、そんな勇気が出てきてくれはしなかった。

 三ノ輪さんの嬉しそうな表情のせいで、どうでもよくなってしまった。

 

「雨も上がったことだし、帰ろうか」

「そうだね、話もキリがよかったし」

 

 ランドセルの中に万葉集と植物辞典をしまう。

 

 誘えなかったことに寂しさを感じてしまうのは、こうして一緒に本の景色を楽しんでくれることが貴重だからだろうか。

 初めてなことばかりで、理由の見当もつかない。

 

「まあ、いいかな」

 

 でも、こうして一緒にいられただけでも、今の僕には充分楽しい時間だった。

 

「傘はいらなさそうだね」

 

 手に持った傘をくるくると回しながら、既に境内に飛び出している三ノ輪さんの方に駆け寄った。

*1
ススキや麦等で見られる、穂ような形状をした花の形態。

*2
茅製の屋根のこと。そもそも、“()く”という言葉が「何かで屋根を覆うこと」を意味する。

*3
“茅”の別表記




タイトルに使用している「鳴る神の」ですが、聞き覚えのある人は新海誠さんの「言の葉の庭」を見たことがあるかもしれません。あの作品でも登場する和歌です。
どんな意味かは「言の葉の庭」を見ながら調べてみてください。

そういえば、神世紀の教育ってどんな風になってるんでしょうね。
今回は宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」を引用しましたが、検閲的にはどうなんでしょう。個人的には、勇者関連以外の話は基本的に残されてる方向で話を進めようかなって感じです。本当は古事記とかも怪しいんですけどね。


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第四歌 みちのべに

道の辺に 清水流るる 柳陰

 しばしとてこそ 立ちどまりつれ

西行法師 新古今和歌集


 

 自宅だと本を読んでばかりで宿題をしないからと、今日も家を追い出されたのが今から三時間前。

 ちょうど読み終わったタイミングだったのもあり、制服を着て学校の図書館に逃げたのが二時間半前の話だ。

 

 小学校の図書室は夏休み中も開いていて、宿題や本の貸し出しができる。

 とはいっても、夏休みにまで学校の図書館に来ようという人はあまりいない。夏休みが始まって何度か足を運んでいるけれど、開館日に毎回来ているのは僕と白い髪の女の子だけだった。

 

 切りの良いところまでテキストを終わらせたところで、大きく伸びをした。

 顔を上げると、やはりいつもの白い髪の女の子が本を読んでいるのが見える。学年が一緒なのは知っているけれど、同じクラスになったことはないので名前も知らない。

 

「んー……」

 

 とりあえず、テキストを片付けながらこの後はどうしようか考えながらカバンの中に入っている本を確認する。カバンに入っているのは、家で読んでいたシリーズ物の小説、万葉集、身の回りの植物の本。

 三つをしばらく眺めながら時計を確認すると、時刻は3時を過ぎたところだった。

 

 少し悩んでから、一度窓の外を眺めた。

 今日は八月にしては涼しく、外に出る分には問題ないだろう。

 

 手早く荷物をまとめると、静かに図書室を出た。

 

「よし」

 

 今日は、中庭の植物についてあれこれ見ていくことにしようと思う。

 

 

 

 

 

 中庭は、名前こそ中庭と呼ばれてはいるが、植物がうっそうと生えていることもあってどちらかというと森と言われた方が納得できるような場所だ。

 校舎に囲まれているので迷子になったりすることはないけれど、奥に入れば木々に囲まれてどこにいるのか分からなくなることはある。

 

 靴を履き替えて外に出る。

 中庭の植物には名前を書いた看板みたいなものがかけられているので、植物の名前が分からなくなることもないだろう。

 

 とりあえず、今日は手前の方から始めてみようと思いながら中に入っていくと、ベンチに座って休憩している人影が見えた。運動しやすい格好をしているが、見慣れたクラスメイトの顔。

 

「三ノ輪さん」

「坂上?」

 

 意外な人物だったからだろうか、三ノ輪さんは少し驚いた様子で僕のことを見ている。

 僕はそっと植物の本を取り出して三ノ輪さんに見せる。

 

「僕は図書室で宿題をして、今からこれを見ながら中庭を回るつもりだったんだけど。……三ノ輪さんは?」

「アタシはお役目の方の練習」

 

 ニカッと笑って三ノ輪さんが力こぶを作った。

 笑顔こそ元気そうだったが、僕にはそれよりも腕やひざにある絆創膏が目についた。

 

「三ノ輪さん、怪我したの?」

「あ、これ?」

「うん」

 

 お役目というのがどんなものかは知らないけれど、少なからず怪我をするものらしい。三ノ輪さんは体を動かすのが得意な方なのかもしれなくても、こうして怪我をする場面があるというのなら不安になる。

 

「これくらい平気だって。心配しなくても大丈夫」

「でも……」

 

 口ごもるけど、ここで僕が反論したってどうにもならないのは事実だった。

 

 三ノ輪さんに何かを言ったところで三ノ輪さんはきっとお役目を解かれることはないだろうし、三ノ輪さん自身もやめることはないと思う。

 人助けが好きな彼女のことだ。きっと、誰かのためになるというのなら自分からお役目をやるのだろう。

 

「っていうか、それよりさ、今から読書するんだよね? アタシも一緒に行っていい?」

「練習は大丈夫なの?」

「さっき終わったところ。帰る前に一息ついてただけだから」

 

 よく見ると、三ノ輪さんの奥にはカバンが置いてあった。

 

「……いい?」

「僕は大丈夫だよ」

「よしっ」

 

 三ノ輪さんが嬉しそうに笑いながらガッツポーズをすると、なんだかこっちまで笑みがこぼれてしまう。

 

 彼女のように、僕の読書に付き合ってくれる人はほとんどいない。

 読書とは基本的に、屋内でするものだし歩き回りながら見るようなモノでもない。世間一般の読書は、僕が普段しているようなものとは違うから。

 

 だからこそ、三ノ輪さんのこうした申し出は本当に嬉しい。

 

「今日は植物の本?」

「うん。中庭の植物を見ようと思って」

 

 少し周囲を見渡してから、一番近くにあった木を指さす。

 

「あれから始めようか」

「あ、グミの木?」

「グミ?」

 

 思い浮かぶのは、お菓子のあれ。

 そういえば、友達も中庭のグミがどうとか言っていたような気がする。

 

「秋になるとさくらんぼみたいな感じで実がついてさ、美味しいんだよ*1

「へぇ」

 

 なるほどと頷きながら調べてみると、茱萸(ぐみ)という名前が出てきた。

 説明書きをさらっと見ると最初の方に「お菓子のグミとは関係がない」と書いてある。

 

「あ、関係ないんだ」

「え、ないの!?」

「うん。お菓子の方はドイツ語でゴムを意味する単語Gummi(グミ)から来てて、この茱萸は大和言葉*2らしいよ」

 

 茱萸はちょうどこの時期に白い花をつける。少し縦に長い細身なのが特徴で、この部分から実がなるらしい。

 実際に、目の前の茱萸の木を見れば白い花が咲いているのが見えた。

 

「ちなみに、中国では同じ漢字で茱萸(しゅゆ)って読むらしいよ。こちらだと違う植物のことで、薬になったりすることもあるんだって」

 

 重陽の節句*3には、呉茱萸湯(ごしゅゆとう)*4として飲むという文化もあるのだそうだ。

 

「茱萸には六月頃に実がなるタイプと十月頃に実がなるタイプがあって、それによって春茱萸とか秋茱萸っていうらしいね」

「じゃあ、これは秋茱萸ってことか」

「そういうこと」

 

 茱萸は商業用としては栽培されず、こうして庭に園芸用として育てられていることの方が多いらしい。

 

「坂上はこれ食べたことないんだっけ?」

「うん」

 

 外に出ることは少なくないけど、本を読むのが目的だった。茱萸を食べに中庭に来たことなんて一度もない。

 

 三ノ輪さんに指摘されて、胸のどこかでもやもやとした気持ちが湧いてきた。

 

「今まで、一度も食べたことないや」

 

 紙の上でなら茱萸の味は書かれている。甘酸っぱくて熟していない頃は渋みがあると。だけど、そんなのはグレープフルーツやトマトの解説にだって同じことが書いてあるはずで、茱萸の味というのを本当に理解することはできないのだろう。

 僕達がいくら本から情報を得ることができたとしても、それは僕達が体験したものじゃない。いくら言葉の知識を蓄えたって、自分の物にはならない。

 

 僕は何も知らない。何も分からないのは恐ろしい。

 恐ろしかったから文字を読んで勉強をしてきたけれど、そうして得ることができたのは()()()()()()()()()()()()()()()()ってことだけ。

 

 本を読んで外に出て。

 何者でもない今の僕にできるのは、ただそれだけしかないのだから。

 

「じゃあさ」

 

 声に釣られて三ノ輪さんの方を見た。

 

「秋になったら、一緒に食べに来ようよ」

「……うん、いいね」

 

 その誘いに頷いて、茱萸の木を見上げた。

 

 人は僕のことを止めない。

 学ぶはいいことだから、それは違うのだなんて言ったりはしない。別に学校の勉強をしないわけでも部屋にこもりがちなわけでもないから。

 

 だけど、三ノ輪さんはまるで今の何もない僕自身に何かがあるのだと言ってくれているような気がした。

 まるで僕は自分に何もないのだと思い込んでいるだけで、本当の僕にはきっと魅力があるのだと。

 

「じゃあ、次に行こうか」

「任せた」

 

 少しだけ上向いた気持ちで、また僕達は歩き出した。

 

 次は茱萸の木から少しだけ歩いて、池が見えるようになった辺りで咲いている花に近付いた。

 紫色の花が日の光を浴びながらこちらに顔を向けている。

 

「桔梗?」

「秋の七草のひとつだね」

「これも?」

 

 三ノ輪さんが首を傾げた。

 

「ずっと思ってたけど、なんで夏なのに秋っていうわけ?」

「そもそも、僕達の四季と暦の上の四季が違うからだよ」

 

 僕達が普段使っているのは、太陽の動きを基準にして作る太陽(グレゴリオ)暦だ。一方で旧暦と呼ばれる万葉の時代に使われていた暦は、太陽と月の両方を元に作る太陽太陰暦だ。

 和歌等で詠まれる季節というのは旧暦を基準にしており、この差はおおよそ一か月ほどある。

 

「それに、四季は一月から三か月ごとに春夏秋冬を当てはめてるんだ。だから、今が旧暦の七月くらい、つまり秋の最初の月になっちゃうわけ」

「じゃあ、旧暦の一月……二月でも春ってこと?」

「うん。二月の節分っていうのは、春になるからやるんだよ?」

 

 二月にやる節分は、立春*5の前日に行う行事だ。

 

「なるほどね。じゃあ、今は暦の上だと秋に入った頃なわけだ」

「そういうこと」

 

 だから、この桔梗も多少フライングしているとはいえ、秋の七草に数えられてもおかしくはない。

 

「桔梗も秋の七草なら、和歌にも出てくるってこと?」

「出てると思うよ?」

 

 植物の本を一度閉じて、万葉集の方を取り出す。

 索引から桔梗の言葉が入っている和歌を探すけれど、特に見つからない。

 

「あれ?」

「ないの?」

「なさそう……」

 

 万葉集を三ノ輪さんに預けて、もう一度植物の本に戻る。

 桔梗のページを開いて秋の七草と書かれている辺りをたどってみると、気になることが少し書かれていた。

 

「三ノ輪さん、これ」

「……朝顔? なんで?」

「分かんない。でも、昔の桔梗は朝顔って呼ばれていたみたい*6

 

 僕達が知っている朝顔とは、意味が違うらしい。

 少し詳しく読んでみても理由は書かれていないようだった。

 

 しばらく見て諦めて、僕は三ノ輪さんに声をかけた。

 

「分かんないけど、そうなら朝顔で調べてみようか」

「りょーかい」

 

 三ノ輪さんがパラパラとページをめくり、すぐに「あった!」と声を上げる。

 

「これ、そうじゃない?」

「あ、本当だ」

 

 三ノ輪さんが出した和歌の訳には、確かに桔梗とそれに対する注釈がつけられている。

 

言に出でて 云はばゆゆしみ 朝顔の

 穂には咲き出ぬ 恋もするかも

詠み人知らず

 

 意味は「言葉に出して言ってしまえば悪い方に転がるかもしれないから、桔梗のように目立たない恋をするのです」というもの。秘めた恋心を詠んだ歌だ。

 桔梗の花が目立たないのかは分からないけど、小ぶりな花だから群生していれば目立たないのかもしれない。

 

「恋の歌だね」

 

 和歌を眺めていると、恋の歌をよく見かける。

 万葉集の分類にわざわざ男女の恋を詠んだジャンルである“相聞”を設けている時点で、かなりの数があるのだろう*7

 

「言葉に出せない、秘密の恋かぁ……いいなぁ……」

「三ノ輪さん、こういうのが好きなの?」

「え!?」

 

 うっとりしていた三ノ輪さんに思わず尋ねると、なんだか驚いたような反応をされた。

 そういえば、今まで見てきたのは景色についての歌ばかりだったので、恋についての歌は初めてかもしれない。

 

「三ノ輪さんって、結構こういうの好き?」

「……うん、まあ」

 

 肯定しながら頬が赤らんでいるのが分かった。

 今まで、誰とでもすぐに仲良くなる活動的な三ノ輪さんの姿ばかりを見てきたから、こうした女の子らしい一面を始めて見た気がする。

 

「変、かな?」

「ううん。全然」

 

 とても意外だったけれど、なんだか可愛らしくていいと思った。

 

「そ、っか」

「うん」

 

 そうやって悪い事じゃないって言っていると、なんだか恥ずかしくなってきた。

 三ノ輪さんが僕の読書のことを褒めてくれたみたいに、僕も三ノ輪さんのそうした姿を認めてあげたかっただけなのに。

 

「……えっと、歌の話に戻ろうか」

「そうだね」

 

 話を戻す。

 

 この歌は、桔梗の花が咲く様子を恋をする様子に例えている。

 “穂に咲き出づ”というのは“表に出る”という意味もあるらしく、これが文字通りの花が咲くことと恋が表に出ることを掛けているらしい。

 

「和歌は短いから、その短い言葉の中にどれだけの意味を込められるかが大事みたいだよ」

「だから、二つの意味があるような言い回しを使うわけね」

「そうそう。もともとはっきり言わない方がいいっていう風潮もあるけど、もしかしたら和歌がきっかけだったりするのかもね」

 

 遠回しな言い方をするのが日本古来のやり方な印象がある。

 僕も好きな人ができても告白する勇気なんて出ないだろうから、こんな感じの伝え方はいいなと思ったりする。

 

「和歌で告白って洒落てるね」

「そうかな? でも、伝わらなかったりするかも」

 

 そうなったら、涙で枕が濡れてしまうかもしれない。

 

「でも、今はまだ全然想像がつかないかな」

「アタシも。恋とかは憧れるけど、現実味ないや」

 

 僕達はまだ小学生で、愛や恋を知るのだってこれからなんだろう。

 もしもそういう日が来た時、僕はこの歌の意味を理解することができるようになるのだろうか。

 

「……まあ、いっか」

 

 それは、その時に考えればいいことだ。

 

「三ノ輪さん、次に行こうか」

「はいよ」

 

 万葉集を閉じてカバンにしまう。

 

 今はこのまま本を開いて、そこに綴られた想いに馳せる。

 今の僕にとって三ノ輪さんと過ごすこの時間はとても居心地が良くて、この時間がずっと続いていけばいい。

 

「次はどれにしようか?」

「あれは? 凄い綺麗な花が咲いてるし」

「いいね」

 

 ただ、そう思えた。

*1
実の中に虫がいる可能性もあるので、食べるときには注意する事。

*2
日本由来の言葉。

*3
九月九日にある節句。菊の節句ともいう。

*4
頭痛や嘔吐、冷え性に効くとされる。漢方の一種。

*5
暦上の春の始まりのこと。

*6
他には木槿(むくげ)等とする説もある。朝に咲く綺麗な花の意。

*7
他には、離別等を詠んだ“挽歌”と、その他の様々なことを詠んだ“雑歌”がある。




テンポに関してはひと月に二話程度を想定していますので、原作開始の春になるのは二十話辺りのことだと思います。


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第五歌 ちはやふる

千早振る 神のしるしと 頼むかな

 思ひもかけぬ けふのあふひを

藤原定頼 新後拾遺和歌集


 

 祭囃子と提灯に導かれながら、カランコロンと下駄が不器用な音を鳴らした。

 ズボンとは違って小さな歩幅を余儀なくされ、どうにも歩きにくい。僕の他に浴衣を着ている男性は周りにおらず、なんだか気恥ずかしさみたいなものを感じながら神社へと歩みを進めていた。

 

 今、袖を通しているこの浴衣は、今日お祖父ちゃんの家から届いたものだ。シンプルな紺の浴衣は僕の好みにかちりと嵌っていた。

 結局「せっかく貰ったなら着てる姿を送らないと」と母さんに言いくるめられて、その姿を恥ずかしいぐらい撮られたのが一時間ほど前のこと。

 

「うーん……」

 

 着せられた時のことを思い出して、母さんはいつも強引なんだよなと思わず口をとがらせる。

 

 そもそも、今日は祭りに来る予定なんてなかった。父さんは当直らしく家に帰ってこないし、母さんも仕事が残っている。

 いつもは「子供だけで夜に出るのは良くない」と言うから友達との約束もしていなかったのに、今日になっていきなり「せっかく浴衣があるんだから行ってきなさい。もう五年生だし大丈夫でしょ」とか言ってくるのだ。

 

「ふん」

 

 無理やり行かされたことについては思うところがあるけれど、こうして浴衣を着て夏祭りに足を運ぶこと自体はそんなに嫌ではなかった。浴衣も着慣れなさからくる違和感だけで、普段はしない格好をすること自体は目新しいさもあって楽しい。

 

 慣れない下駄の感触を確認するように歩いていけば、ようやく屋台の立ち並んでいる場所までたどり着いた。オレンジに染まった明かりに照らされて、いつもは人気のない神社も今日ばかりは多くの人が行きかっている。

 往来では僕より小さな子供達が家族と一緒に走り回っているのが見え、ぶつからないよう少し脇に寄った。

 

 縁日の空気は好きだ。

 特別な日というのもそうだけど、不思議な雰囲気があって何が起きても不思議じゃないような感じがする。いつも暮らしている町ではない、まるで知らない場所に迷い込んでしまったかのような感覚が妙に心をくすぐるのだ。

 

 鳥居に持たれかかりながら浴衣の様子を確かめる。ここまでしばらく歩いてきて、ようやく浴衣を着ている感覚に慣れてきたような気がする。

 

「誰かいるかな……」

 

 特に約束をしているわけでもないし会えるとも限らないけれど、誰かに会えたら一緒に回ってみるのもいいかもしれない。

 

 そう考えながら一歩を踏み出すと、神社の外の方から「うわぁ!」と歓声を上げる声が近づいてきた。つられてそちらに視線を向けると、目の前にはこちらへ全力疾走している男の子。

 

「うわっ!?」

「うぎゃっ!」

 

 止まれなかった男の子を正面から受け止めてよろめく。多分いつもなら踏みとどまれる程度の衝撃だったけれど、今日に限っては浴衣に下駄でバランスがとりにくかった。

 結局体勢を整え切れず、男の子を抱えたまま倒れこむ。男の子を抱えたままなので手もつけられず、腰を石畳に打ち付け痺れるような痛みが走った。

 

 じんと滲む痛みをこらえながら、薄目に周囲の様子を確認する。

 

「いてて……」

 

 体勢的には男の子を庇って下敷きになったような状態だった。とりあえず、男の子をゆっくり立たせてから、自分も立ち上がって土を払う。

 

「痛むところはない?」

「う、うん。大丈夫」

 

 パッと見たところ、少し土が付いている程度で怪我をしている様子はない。とりあえず無事だったので一安心。

 そして、少しだけ周囲を見渡してから男の子の方を見る。

 

「えっと……一人?」

「姉ちゃんと一緒に……」

 

 男の子の視線が、来ていた階段の下に向けられる。

 つられてそちらに目を向けると、見覚えのある姿がこちらに向かっていた。

 

「鉄男! 勝手に先にいっちゃダメだって…………坂上?」

「えっと……こんばんは、三ノ輪さん」

 

 僕がいるとは思わなかったのか、三ノ輪さんが困惑した表情で僕と男の子を見ている。

 というか、僕も困惑している。

 

「姉ちゃん知り合い?」

「友達だよ」

 

 二人が簡単に言葉を交わし、そこでようやく男の子が三ノ輪さんの弟だと理解した。

 自己紹介した方がいいのかなと思いつつ、少し屈んで弟さんと視線と目線を合わせる。

 

「初めまして、坂上三明です」

「はじめまして、三ノ輪鉄男です」

 

 さっきの元気のよさとは打って変わって、礼儀正しく頭を下げられる。やはり大赦に連なる名家ということもあり礼儀作法もしっかりしているだろう。

 

「それにしても、どうして坂上が鉄男と一緒に?」

「ちょっと鉢合わせみたいになっちゃって。怪我とかは多分ないんだけど……」

 

 ぶつかったことを微妙にぼかしつつ状況を説明すると、三ノ輪さんが鉄男君の方を見た。

 

「そうなの?」

「……走ってたらぶつかっちゃって」

 

 三ノ輪さんがこちらを見るけど、積極的に肯定することもできず曖昧に微笑むことしかできない。

 

「坂上、本当にごめん。鉄男も謝る!」

「ごめんなさい……」

「大丈夫だよ、気にしないで」

 

 少し着崩れてしまったのを直しながら返事をする。 

 着替える時に母さんから多少は聞いたし、ズレを戻す程度なら特に問題はないだろう。

 

「本当に? 怪我とかしてない?」

「全然。下駄だったからバランス取れなかっただけで、実際はそんなに勢いよくぶつかったわけじゃないから」

 

 見たところ浴衣は砂ぼこりが付いた程度で汚れたわけでもないようだし、僕自身も既に痛みは引いている。少し打ち身になっているかもしれないが、この程度なら気にするほどでもないだろう。

 軽くジャンプしながら大丈夫だとアピールして、僕は「それよりも」と話を変える。

 

「三ノ輪さん、親御さんは?」

「今日は二人だけ」

「お腹に赤ちゃんできたから、父ちゃんが心配してその面倒を見てるんだ」

 

 鉄男君が元気に補足してくれたので、チラリと三ノ輪さんの方に視線を向ける。

 

「そうなの?」

「まぁね。鉄男がいたら落ち着かないからって、お祭りに来たんだ」

 

 僕は一人っ子なので、なんだか不思議な感じがする。

 子供だけという話になっても、一人じゃないというのは羨ましい。

 

「坂上は?」

「うちも似たような感じだよ、仕事が忙しいからって。ただ、せっかくお祖父ちゃんちから浴衣が届いたから、着ていきなさいって言われて……」

「それで浴衣なんだ」

「そういうこと」

 

 どうやら理由はともかく状況は似ているらしい。

 

「せっかくなら、坂上も一緒に回る?」

「いいの?」

「いいよ!」

 

 尋ねると鉄男君も了承してくれた。初めて会った僕でも気兼ねなく受け入れてくれるから、きっといい子なんだと思う。ちょっと元気すぎるところは玉に瑕なのかもしれないけれど。

 

「じゃあ、どこから行こうか?」

「花火までは少し時間あるし、それまでは屋台を回ろうか」

「うん!」

 

 僕としては特に行きたい場所があるわけでもないので、三ノ輪さんや鉄男君の二人に任せることにする。三ノ輪さんの方も鉄男君の方を見ているので、鉄男君の好きなところに行くということでいいのだろう。

 

「三ノ輪さんはよく二人で出かけるの?」

「いや、あんまり。一人の方が多いかも。鉄男には留守番してもらってさ」

 

 やはり身重なお母さん一人だけというのは不安な部分があるということだろう。鉄男君を連れている姿はなんだか慣れている様子で、多分普段から家族のことを気遣っていることはなんとなく想像がついた。

 

 

 

 鉄男君の方針により、僕達は遊ぶような屋台を巡ることになった。

 

「おじちゃん、一回分お願い!」

「あいよ!」

 

 最初に来たのは一番近くにあった金魚すくい。

 

 鉄男君がポイを受け取り、水槽の前にしゃがみ込む。周囲には鉄男君と同じように水槽の中を虎視眈々と見つめている子や、恋人にいいところを見せようと張り切っているお兄さんがいるが、スペースにはまだ空きがあるようだった。

 僕はこういう時、いの一に飛び出しそうな隣の人に目を向けた。

 

「三ノ輪さんはやらないの?」

「うーん、どうしようかなぁ……」

 

 口調こそ迷っていそうだが、手がうずうずと動いているのに気づいた。

 先ほどのこともあって鉄男君を見てないといけない気持ちと、遊びたくてしょうがない気持ちがせめぎ合っているのかもしれない。

 

「ちなみに、坂上はどうするの?」

「僕は別にいいかな」

 

 すくえたところで持って帰れないし、上手くいくようにも思わない。

 楽しそうではあるが、見ているだけで充分だ。

 

「じゃあ、アタシも──」

「──ああっ!!」

 

 三ノ輪さんが何か言おうとしたのを遮るように鉄男君の声が響いた。

 慌てて視線を向けると、そこには破れたポイを持った鉄男君の姿があった。どうやらダメだったらしい。悲しさと悔しさを滲ませたまま、ポイを屋台のおじちゃんに渡して戻ってくる。

 

「……三ノ輪さん」

「何?」

 

 僕は三ノ輪さんに声をかけた。

 

「敵討ちしないとだね」

「……しょうがないなぁ!」

 

 三ノ輪さんは戻ってきた鉄男君の頭を撫でながら、いつもの自信に溢れた表情で「この銀さんに任せなさい!」と笑った。

 

 

 

「坂上もやったらよかったのにー」

 

 金魚すくいは、三ノ輪さんが10匹以上の金魚をすくったところで終了した。

 三ノ輪さんのところも金魚を飼う余裕もないだろうということで、僕達は全部の金魚をリリースして次の屋台を探している。

 

「そうそう。せっかくのお祭りなんだから、兄ちゃんも遊べばいいじゃん」

「僕はいいよ」

 

 三ノ輪さんがあれだけ大量の金魚をすくった後でやるのは、どうにも気後れする部分が大きかった。僕は絶対にあんなに金魚をすくえなかっただろう。

 

「つまんないじゃーん、一緒にやろー?」

 

 鉄男君が僕の袖を引く。

 まだ出会ってそんなに時間も経っていないというのに、気が付けばかなり懐いてもらっている。まあ、これは僕の人徳というよりは鉄男君の性格によるものが大きいのだろうけど。

 

 期待のこもった表情から逃げることができず、僕は曖昧な笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、次のは一緒にやろうか」

「うん!!」

 

 根負けして頷けば満面の笑みが返ってくる。渋々といった様子だったにも関わらずこんなに嬉しそうにしてもらえるなら、了承したかいがあったというものだ。

 パッと袖から手が離れ、鉄男君が次の屋台を品定めし始めたところで、三ノ輪さんが静かに僕の方に寄ってきた。

 

「……坂上、無理してない?」

「ううん、全然」

 

 嘘ではない。

 

「なんだか僕にも弟ができたみたいで、ちょっとはしゃぎたい気分なのかも」

 

 寂しいというほどではないが、それでも確かに僕は一人で、ああやって誰かに何かを頼まれたことなんて一度もなかったから。

 こんな夏祭りを過ごせるだなんて、思っても見なかったから。

 

 だから、こんな特別(ハレ)な気持ちになるんだろう。

 

「じゃあ、また一緒に遊ぼう」

「……いいの?」

「もちろん。鉄男もきっと嬉しいだろうし」

 

 その言葉でまた一つ温かい気持ちになる。いつか、こんな普通()が訪れることがあるのかもしれない。

 それはきっと、今の僕には想像できないくらい素敵なことなんだろうと思う。

 

「ねぇ! 次はあれにしよう!」

「ん、どれ?」

 

 鉄男君が指差す先を見ると、今度は射的の屋台がある。

 

「よし、やろうか」

 

 射的なんてほとんどやった記憶なんてないけれど、本当にできるだろうか。

 

「お願いします」

 

 鉄男君と一緒にお金を出してコルクの弾丸をもらう。合計で8発分で、そのうちの一つをコルク銃に詰めた。

 

「えっと……」

「ここ引君だよ」

「へぇ」

 

 鉄男君が持っている銃の横にあるレバーを引いた。それに倣い、手元のレバーを引く。

 少し錆び付いているのか、ギリギリと金属の擦れる音をさせながらレバーが手元まで引かれカチャリと音がした。

 

 おもちゃではあるが、銃の撃ち方というのは前に小説で見かけた記憶がある。軍記モノで主人公が教官や先輩から教わっていた。

 それを思い出しながら、まずは景品の方に目を向けた。

 

「鉄男君はなんか欲しいのある?」

「うーん……あれ!」

 

 指の先にあるのは、おそらく目玉商品なのであろうラジコンだ。

 ラジコンの中では大きくないものの、景品の中ではかなりのサイズ感を誇っている。少なくともコルクの銃で落とすのは難しそうだった。

 

「兄ちゃんは?」

「僕は……」

 

 咄嗟に問いを返されて言葉に詰まる。どれにするか決めきれずに視線を彷徨わせ、そして適当に目についた風船ガムの詰め合わせを指さした。

 

「あんまりやったことないし、簡単そうなあれにするよ」

 

 落とす景品を決めると、銃を構えた。脇を閉めて、先端とレバーの近くにある凹凸で狙いを定める。目をしっかり見開いて、ゆっくりと照準を合わせた。

 上手くできてるかは分からないけど、基本は押さえていると思う。

 

 手がぶれないように深呼吸をして脱力。手の震えは緩やかになるが、今度は心臓の鼓動が加速する。

 

「────っ!」

 

 引き金を引いた感触はなかった。

 気が付いた時にはコルクが銃の先端を飛び出していた。

 

 瞬きをする前に弾丸は景品にぶつかり、揺れた。

 

「いけっ! 落ちろっ!」

「いけーっ!」

 

 鉄男君と三ノ輪さんの声が聞こえた。

 

 二人に視線を向けると、その表情は僕より必死で、ただ落ちることを祈っていた。

 

 だから、一瞬だけ惚けてしまっていた。

 

「あっ」

 

 視線を戻す。

 ふらついていた景品は、ゆっくりと──

 

 

 

「……よかったの?」

「いいんだよ」

 

 三ノ輪さんの問いかけに、笑顔で返事をした。

 

 たとえ僕が何も手に入れられなかったとしても、目の前で風船ガムを膨らませている鉄男君が嬉しそうならそれで充分だった。

 

「坂上って、優しいよね」

「そう?」

 

 三ノ輪さんが言えたことではない。

 

「普通なら、断られると思ってたんだ」

「そうなの?」

「やっぱり居心地悪いでしょ?」

「それはまあ、確かにそうかもしれないね」

 

 鉄男君がいい子でなければ確かにそうだったと思う。

 そこはやはり、人と人の相性の話で、彼はやはり三ノ輪さんの弟だった。

 

「そういえば、時間は大丈夫?」

「時間? 何の?」

「え、だって花火──」

 

 僕がそれを指摘する前に、縁日沿いにある木々や建物の向こうの空が色づいた。

 ほらね、と苦笑すると鉄男君が僕と三ノ輪さんの手を引いていた。

 

「二人とも! 花火始まっちゃったよ!」

「本当だね、急ごうか!」

「走るぞ!」

「え、危ないって」

「大丈夫、今度は一緒だもん!」

 

 三ノ輪さんが手を伸ばす。

 それの手を鉄男君がとって、さらに鉄男君が僕に手を伸ばした。

 

「今度はぶつからないよ」

「……ふふっ、そっか」

 

 自信に満ちた姉弟の顔に負け、その手を取る。

 

「走ろうか」

 

 一度だけ頷いて、僕達は色づく夜空に向かって走り出した。




今回は和歌も注釈もない、純粋な夏祭りを楽しむ子供達の話です。一年後のエピソードを書くのが楽しみな話でもあります。


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第六歌 おもへども

思へども 猶あやしきは 逢ふ事の

 なかりし昔 なに思ひけん

村上天皇 斎宮女御集


 

「坂上、今度うちに来ない?」

「……え?」

 

 不定期ではあるものの、何度か開催されるようになった僕と三ノ輪さんの読書会からの帰り道。

 完全に不意をつかれた言葉に、僕は思わず三ノ輪さんの方を振り返っていた。並んで歩いていた当の本人といえば、僕の反応が面白かったのか少しだけ可笑しそうに口元を押さえている。

 

「鉄男にさ、一緒に本を読んでるって話をしたら、一緒にやりたいって言ってて」

「なるほど」

 

 下の子は兄や姉と同じことをしたがるとは聞いたことがあったけど、こういうことなのかなと思う。

 

「それとなんだけど、夏休み明けの学力テストあったでしょ?」

「そういえばあったね」

 

 先日丸つけされて返ってきた。点数が悪かった人には追加の課題が出ていたような気がするけど、僕は特に貰わなかったのであまりよく知らない。

 と、そこまで思い出して僕は言葉の続きを理解した。

 

「……あ、もしかして」

「追加の課題って来週の月曜までなんだけど、助けてくれない? 坂上、クラスで一番点数よかったんでしょ?」

「そうなの?」

「確か、前川が『二位かー……坂上に勝てねぇ』って言ってたから」

「あ、そうなんだ?」

 

 確かに前川君には点数を尋ねられたので答えた覚えがある。他の人にも聞いていたのを見たけど、あれは順位を割り出すためのものだったらしい。

 

「だから、お願い! 助けて!」

 

 両手を合わせて祈られるが、果たして僕に教えることなどできるだろうかと少し思う。今まで誰かに勉強を教えたことなんて一度もない。

 今までの僕ならきっと「やったことないから」と断っていたような気がする。教えられるかもてんで分からないから、やろうとしなかっただろう。

 

 だけど、今の僕はそんなことも忘れて、笑いを噛み殺すように息をこぼしていた。

 

「いいよ」

 

 友人に助けを乞うためにそんな仰々しいお願いをする必要なんてない。

 自分はすぐに手を差し伸べるくせに、逆になると全然分からなくなってしまう彼女は、なんだか少しだけ可笑しかった。

 

 

 

 三ノ輪さんの家は、和風な平屋の建物だった。

 庭もあって敷地面積はそれなりに広い。家はあまり裕福じゃないと言っていたけれど、全然そんな風には思えなかった。

 

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 

 戸を開けてくれた三ノ輪さんの後ろをついて玄関に入る。大きさもデザインも違う靴や玩具のボールが置かれており、傍にアロエの鉢が見えた。積まれている段ボールには、工具とかアウトドア用品が雑多に放り込まれていて、なんだか日々の生活が垣間見えるような家に感じた。

 初めて訪れる友人宅ということもあって失礼なのは理解しつつも様子を見ていると、部屋の奥から「あ!」という声が聞こえてきた。

 

「いらっしゃい! 兄ちゃん!」

「おはよう、鉄男君」

 

 数週間ぶりに会った鉄男君は、相変わらず元気盛りだった。

 だだだーっ!! っと走ってきたかと思えば、ぴょんぴょんと僕の目の前で「早く早く」と飛び跳ねている。

 

「ほらほら、はしゃがない」

 

 三ノ輪さんさんが鉄男君を嗜めてから「坂上、こっちこっち」と奥の部屋を指さした。

 三ノ輪さんがつっかけを脱いだのを見て、僕は持っていた袋を出した。

 

「三ノ輪さん、これ」

「なにこれ?」

「手ぶらだと申し訳ないから、よければどうぞというか……」

「え!? そんなの気にしなくていいのに!」

 

 流石にそういうわけにはいかなかったというか、三ノ輪さんの家に行く話をしたら、母さんからお土産を持って行くように言われたのだ。

 僕自身そうしようと思って話した部分もあるのでちょうどよかった。

 

「まあ、大したものじゃないから、気にしないで」

「ありがとう、坂上」

 

 中はお菓子の詰め合わせだ。こういうときのチョイスをよく知らないので、そこは母さんセレクトになっている。

 三ノ輪さんはお菓子を持って、改めて奥に部屋を指さした。

 

「じゃあ、部屋行こうか。こっちね」

 

 三ノ輪さんの後を追うために、僕は靴を脱いだ。

 

 

 

「うへぇ……」

 

 まずは課題を終わらせるのが先ということで、僕は三ノ輪さんの課題を見ていた。横では鉄男君も自身の宿題に取り組んでいる。どうせなら一緒に終わらせた方がいい。

 

「なにも分からない……」

「どれ?」

「この問題、計算のやつ」

 

 見せられたのは、括弧の使い方や掛け算の順番など、計算のルールについて話していた分野だった。

 

「どの辺が分からないの?」

「まずこの公式みたいなの」

「それは、そういうものだって割り切って覚えるしかないやつだね……」

 

 計算結果とかでもなく、そう決めたものだから。

 

「でもさ、掛け算の順序って入れ替えちゃダメって先生言ってたじゃん。それをいきなり入れ替えてもいいって言われちゃ、こんがらがっちゃうって」

「あー……」

 

 それを聞いて、三ノ輪さんが言いたいことを少し理解できたような気がした。

 これは分からないんじゃなくて、飲み込めていないだけのように思った。

 

 僕も以前、似たようなことを思ったことがある。

 

「それはね、どっちかが正解なんじゃなくて、どっちも正解なんだと思うよ」

「え?」

 

 驚いた様子の三ノ輪さんに向かって、僕は少し考える。

 ここからは宿題の解説ではなく、僕自身の価値観の一つを話すに過ぎない。でも、前に同じようなことを思った僕の結論が助けになるかもしれない。

 

 「えっと」と、言葉を置いてから、僕は頭にイメージした言葉を口にした。

 

「する、解説を、三ノ輪さんに、僕は」

 

 言いながら同じことを紙に書く。

 大したことはない、文節でシャッフルしただけの文章だ。

 

「これ、意味は分かる?」

「坂上がアタシに解説する、ってことでしょ?」

「正解」

 

 それが分かれば、話は単純なことだった。

 

 どうすれば三ノ輪さんに伝えられるかを少しだけ考える。いつものように本の内容を要約するだけじゃなくて、僕自身の考えを言葉に直していく。

 電気の消えた部屋の中でスイッチを探すみたいに、慎重に手を伸ばす。

 

「さっきの話もこれと一緒なんだ」

「どういうこと?」

「日本語は少しくらい順番を入れ替えたって、意味は通じるよね?」

「うん」

「でもそれって、すごく分かりにくいと思わない?」

「確かに」

「計算式も一緒なんだよ」

 

 人を意味する数、個数を意味する数、どんな順序で並べたって結果は同じだ。同じ結果が伝わる。

 でもそれは決して親切であるとは限らない。

 

 先生の言ってた順序を変えないっていうのは、相手に少しだけ分かりやすくしてあげようって意味。

 算数の世界が入れ替えてもいいというのは、ちょっと拙くなってもちゃんと相手に伝わってるよという意味。

 

 計算のルールが教えているのは、そんな人と人のコミュニケーションの話だ。

 

「日本語と違って計算式は、意味を伝えるときと、計算をするとき。それぞれ分かりやすい書き方が違うから、余計にこの二つとも大事にするのが大切なんだよ」

「なるほど……」

 

 計算式だって無機な文字列じゃなくて、やっぱり誰かから誰かへと伝える言葉だ。言葉に直すし文字に起こす時点で、僕達はそれを誰かに伝えようとしているはずなんだから。

 

「……これで、少しは納得できそう?」

 

 恐る恐る尋ねる。終わってからなんだか説明になっていないような気しかしなくて不安になってきた。

 三ノ輪さんは「うーん……」と少しだけ考え込む素振りを見せてから、意図せずといった様子で笑みをこぼした。

 

「やっぱり、坂上ってすごいよね」

「え?」

 

 分かったとか、分かりにくかったとか、どういうこととか。

 

 そんな答えを想像していたから、どう返事をしていいのか分からない。

 

「なんていうかさ、坂上って全然違うこと考えてるんだなって」

 

 三ノ輪さんは「さっきの説明はあんまり分かんなかったけどさ」と続けるが、その表情はやっぱり楽しそうだった。

 

「アタシは算数をそんな風に見たことないし。なんかさ、勉強できる人って『勉強してます! 頑張ってます!』みたいな感じですごいと思ってたけど、坂上はそういうのとも違って、自然といろんなこと知ってる感じだよね」

「そうかな?」

 

 そんな風に言われたことなんてない、と思ったけれど、それも当然の話だった。今までの僕はこうやって誰かに自分の考えを話したことがなかった。

 僕の言葉というのは、綴られた文字が全てだった。今ここにいない、かつてを生きていた遠い誰かの言葉に耳を傾けるだけで生きてきた。

 

 自分の望みを形にすること。

 自分の胸の内にある言葉を誰かに伝えること。

 

 そんな大したこともないことが、僕にはできていなかった。ずっとできるようになりたいと思っていた。だからこそ、三ノ輪さんと出会ってからの二ヶ月は、そんな僕の憂いを取り去ってくれた。

 僕に足りなかったのは、人と時間を過ごすことだった。僕の望みは目の前の文字ではなく、目の前の他者がいなければ成立し得ないものだった。

 

 本当にすごいのは、僕をこんなに前へと進ませてくれた三ノ輪さんの方だった。

 

「そんなことないよ」

 

 僕の価値観など、所詮は孤独の副産物に過ぎない。

 だけど、そんなことを容易く口にできるわけでもなくて、なんとか捻り出せたのはそんな謙遜じみた言葉だけだった。

 

 

 

 課題が一通り終わり昼時になったということで、昼食にしようと決まった。

 三ノ輪さんの両親はちょうど病院に行っているらしく、昼食は三ノ輪さんが作ることになっているらしく、三ノ輪さんが立ち上がる。

 

「僕も手伝うよ」

「いや、お客さんを手伝わせられないって。ほら、坂上は待ってて」

 

 立ち上がろうとしたのを押し留められたまま、三ノ輪さんが鉄男君を呼んでキッチンに向かう。

 キッチンはすぐ隣にあって、この場所からでも料理を作っている二人の姿は見える。

 

「料理慣れてるの?」

「ん? まあね」

 

 三ノ輪さんは勝手知ったる様子で材料や道具を取り出していく。

 

「もともと、うちは共働きだから、アタシがご飯作る機会も多くてさ」

「なるほど」

 

 僕もたまに自分で用意するから納得できた。

 両親が返ってこないときは

 

「鉄男君も手伝ってて偉いね」

「普段はあんまり手伝ってくれないけどね」

「姉ちゃん!」

「はいはい、助かってるって」

 

 笑いながらうどん玉を鍋に放り込んでいるが、その受け渡しは妙に慣れていて、やっぱりなんだかんだ言っても手伝っているんだということは伝わってくる。

 

「何うどん作るの?」

「あー、どうしよっか。あんまり何も考えてなかったや。何か食べたいものある?」

「え? いきなり言われても思いつかないな……」

 

 完全にメニューは決まっているものだと思っていたから、急に言われても思いつかないし、言ったところで冷蔵庫に材料があるかも分からない。

 

「思いつかないなら、あんかけでもいい? 卵とわかめ入ってる感じで」

「うん、いいと思う」

 

 僕が同意すると、二人は素早く材料を取り出して準備を始めていた。三ノ輪さんが鍋を出して調味料を入れ、鉄男君が材料を冷蔵庫などから出している。

 なんだか二人の連携がすごくて、僕が手伝っても邪魔にしかならなかったかもしれないとすら思う。

 

 気付けばあんの方が出来上がるところまでできており、うどんを鍋から取り出している。

 

「もうできるから待ってて。鉄男は鍋のお湯捨てておいて」

「はーい」

 

 三ノ輪さんは器に入ったうどんの前にあんをかけていき、その横では鉄男君がうどんを湯がいていた鍋をシンクに運んでいる。三人分のうどんが入っていただけあって、少し重そ──

 

「あっ」

 

──鉄男君が躓く姿が目に入った。

 

「熱っっっっ!!」

「鉄男!」

 

 バシャッとお湯がこぼれ、中身をなくした鍋が床に転がった。

 僕達は慌てて悲鳴あげ泣いている鉄男君の方に近寄る。

 

「怪我は!?」

「腕、火傷してて、だから……」

「冷やして!」

 

 唐突なことで困惑した様子の三ノ輪さんを引き剥がして、鉄男君を素早く立たせる。水道の蛇口をひねって水が出るのを確認してから、火傷した部分の少し上に水をあてて腕を伝う水で冷やす。

 

 頭の中は一周回って冷静だった。

 火傷の応急処置を頭の中で必死に思い返す。とりあえず冷やすところまでは思い出せた。次は……

 

「他に痛いところある?」

 

 尋ねると首が横に振られる。涙目で口をギュッと強く結んでいる。

 その姿に堪らなくなりながらも、次のことを考える。とりあえず患部は腕だけでいいらしい。こちらから見た様子でも服はあまり濡れていないし、服越しに火傷をしたということはないだろう。

 

「三ノ輪さん、救急箱とか場所分かる?」

 

 声をかけるとようやく我に返ったようで、素早く頷いた。

 

「分かるよ、ちょっと待ってて」

 

 

 

 流水で30分近く冷やせば痛みはある程度治ったようだった。

 

「ご両親には?」

「もう連絡してあるよ。後30分くらいで戻ってきて、鉄男を連れて病院行くって」

「分かった」

 

 水を止めて、簡単に患部以外の水気を拭き取り、駆け足で玄関に向かう。

 

「坂上?」

「ごめん、これ使うね」

 

 玄関先にあるアロエ──キダチアロエ──を運ぶ。

 消毒液を付けたガーゼで葉を軽くふいてから、それをちぎった。

 

「なにしてるの?」

「これ、薬になるはずなんだ」

「え?」

 

 アロエは薬として昔から利用されていたことがある植物だ。

 その歴史は神世紀の前の西暦が始まるさらに前、紀元前2000年近くにまで遡る。

 

「って、そんな話は今どうでもいいよね」

 

 アロエの葉をちぎって中のゼリーみたいな半透明な部分を露出させ、それをやけどした部分に薄く塗布した*1

 

「病院に行くまでだから軽くにしておくね。いつまでもつけてると逆に悪いかもしれないから、病院に行く前とか病院で洗い流してもらってね」

 

 話しながらガーゼを傷口の上に触れる程度になるよう軽くテープでとめる。

 

「これでひとまず終わりだけど、やっぱりまだ痛い?」

「……もう大丈夫」

「そっか」

 

 消毒液などを片付けて一息つくと、ぐぅぅとおなかが鳴った。

 ちょうど誰もしゃべっていないタイミングだったせいもあって、妙に響いてしまう。

 

「…………ふ、ふふっ」

 

 さっきまでの慌ただしさが嘘みたいな感じがして、思わず僕達は笑いだしていた。

 結局、うどんはテーブルの上で冷たくなっている。

 

「ちょっと温めて食べようか」

「うん!」

「迎え来るまで時間もあるしね」

 

 そう言いながら立ち上がるので「手伝うよ」と立ち上がる。

 

「ありがとう」

「いや、これくらい別に」

「ううん、そうじゃなくて」

 

 三ノ輪さんはちらりと鉄男君の方を見た。

 

「鉄男のことありがとう、アタシもびっくりしちゃってて」

「仕方ないよ」

 

 唐突なことだったわけだし、すぐに動き出せていたのだから流石だと思った。

 

「坂上はよく知ってたね」

「たまたまだよ」

 

 怪我の治療はそれこそ父さんと母さんの仕事をきっかけにして最初の方に調べたことだった。おじいちゃんやおばあちゃんにも教えてもらったことがあったから、何とか行動に移すことができたところもある。

 

「本当にちゃんとできてるかは分かんないんだ。だから、僕のやったのが正しいのかは分からない」

「ううん。それでもだよ」

 

 三ノ輪さんは「正しいとかじゃない」と否定した。

 

「坂上がああして心配して、必死になってくれたのが嬉しかったんだ」

 

 必死?

 

「だから、ありがとう」

 

 三ノ輪さんの言葉が頭の中でエコーしている。

 

 僕は今まで必死になったという記憶がない。

 いや、ある意味ではなりたいものを探すために必死だった。やりたいことを探すために必死だった。

 

 でも、今はそんなあの時のような気持ちがどこにもないことに気が付いた。

 今の僕は、僕自身も気付かないうちに、何かに必死になっているらしかった。

 

 その理由は、きっと考えるまでもなかった。

 

「……ううん、どういたしまして」

 

 僕が変わったのは、前に進んだのは、きっと目の前にいる彼女のおかげだ。

*1
アロエには確かに薬効がありますが、家庭で育てているアロエでも付着している菌などにより感染症の恐れがあります。現代の医療は発達しておりますためアロエは使わず、流水で冷やした後に布で覆ってお近くの病院を受診してください。




アロエは民間療法として知られ一般家庭でもそだてられているのを見かけることがあります。
しかし現代の医療は進歩しており、アロエを含めた様々な民間療法を扱うメリットというのはあまりありません。

本編で坂上君は書籍や祖父母に教わったこともありアロエを用いた治療を行いましたが、実際は注釈の通りアロエを使わずに作中の処置を行う方がいいです。
皆さんもやけどの際は落ち着いて冷やすことから考えてください。患部には直接当てないことが大事です。

長く書きましたが要するに「よい子はマネしないでね」ということですので、よろしくお願いします。


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第七歌 たらちねの

たらちねの 親のまもりと あひそふる

 心ばかりは せきなとどめぞ

をののちふるの母 古今和歌集


 

 リビングに降りると、知らないバラエティー番組がやっていた。普段は見ない番組だったので趣旨は分からないけど、今日は10人家族の人達の生活を特集しているらしかった。

 家庭はあまり裕福ではないが、家族が力を合わせて毎日をドタバタと過ごしている様子が映されている。

 

 しばらく見ていると、一家の大黒柱とテロップのついた大柄なお父さんが出てきて、スタッフの人と話をしている映像に切り替わった。

 

『家族の仲の秘訣って、何かあるんですか?』

『やっぱり、晩飯ですよ』

 

 その言葉に合わせて、カメラが家族全員でご飯を食べている姿が映した。

 わいわいと大皿の料理を奪い合って、やれ取りすぎだの落ち着きなさいだのと話している様子は、決して穏やかな内容ではないのにどこか楽しそうにも見えた。

 

「三明、これ持って行って」

「うん」

 

 母さんから料理の乗った皿を受け取ってテーブルに向かう。

 薄手の皿はフライパンから移ったばかりの野菜炒めの熱を、すぐに僕へと伝えてくる。徐々に伝わる暑さに耐えきれなくなり始めた僕は、急ぎ足でテーブルに皿を置いた。

 

 今日もやはり父さんはいない。

 家に帰れないというわけではないが、帰るのは僕が寝るかどうかといった時間帯だ。一緒に食事をとることはまず無理だった。

 

 二人で料理を運び終えると、僕達は静かに手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 今日は野菜炒め、ごはん、お味噌汁にお浸しで、どれも丁寧に盛られている。作業は几帳面な母さんらしい料理だった。

 何から食べようかと悩んで、僕は野菜炒めに箸を伸ばした。

 

『家族でね、一緒に夕食を食べながら、話をするのが一番いいんですよ』

 

 味噌汁に口をつけようと近づけて直前で止める。のぼっている湯気が「やけどするゾ」と言っているようで、僕は味噌汁に向かって少しだけ息を吹きかけた。

 しばらく息を吹きかけてから、もう大丈夫かなと思いながら器を少し傾ける。

 

「あちっ」

 

 少し舌先がヒリヒリとするのを感じて、すぐに味噌汁を置いた。母さんが何も言わずにこちらをちらりと見るけれど、すぐにご飯の方に視線を落とした。

 僕は冷たいお茶の入ったコップを手に取って、下を冷ました。

 

「…………」

 

 僕達の食卓に会話はない。

 それは別に不仲というわけではなく、母さんが食事中に話をするのがあまり好きではないだけだ。おじいちゃんやおばあちゃんも食事中は最低限の話しかしなかったので、特に思うところもない。

 ただ時折、あのテレビの向こうにいるような家族の姿を羨む自分がいるのも、事実だった。

 

 味噌汁はちょっと後にしてお浸しに箸を伸ばしたところで、母さんがこちらを見た。

 

「三明」

 

 唐突に呼ばれて、口元を抑えて待ってと合図した。

 すぐに口に入れたばかりのお浸しを飲み込んでから「なに?」と言葉を返す。

 

 母さんは少しだけ言葉を選ぶように視線をさまよわせてから「三明は」と呟いた。

 

「三明は将来、医者になりたいの?」

「え?」

 

 思ってもみなかったことを言われて、言葉に詰まる。

 

 父さんは医者で、母さんは薬剤師。

 そんな家に生まれた僕は学校の成績も比較的上位で、普段は本を読んで過ごしている。すると、必然的に周囲からは「お医者さんを目指しているの?」と問いかけられる機会は多くなる。

 

 でも、それをまさか母さんにまで尋ねられるとは思ってもみなかった。

 

「どうして?」

 

 なんでそんなことを言われたのか分からなくて、僕は思わずそんなことを口にしていた。

 

「この前、三ノ輪さんのおうちに行ってきたとき、息子さんが火傷したんでしょう?」

「え?」

 

 話した覚えもない話を母さんが知っていることに驚く。

 どうして母さんがそれを知っているのだろうか。

 

「三ノ輪さんのおうちから電話があったの。三明によくしてもらったって。息子さんが火傷したのを治療してもらったって」

 

 母さんは少しだけ笑っていた。

 

「それに、病院に行った時の担当医の名前が坂上だったそうよ」

「え?」

 

 別に坂上なんて名前自体は珍しいものでもないが、医師という条件が付いているなら、それはきっと……

 

「確認したら、お父さんだったんだって。ちょっと話を聞いたら、応急処置がされてる息子さんの手当てをしたって」

 

 あれから一週間くらいは経っているが、そんなこと全然知らなかった。

 

「なんか、世間って狭いね」

「本当ね」

 

 母さんは「びっくりしたわ」と言いながら、箸を置いた。

 

「三明がそんなことしてたなんて知らなかったから」

「昔、父さんと一緒に教えてくれたでしょ」

「でも、実際にああやって動けるわけじゃないの。傷を見て動けなくなっちゃう人もいるし、ましてや他の人に手当てするのは自分でやるより大変だもの」

「それは、鉄男君がしっかりしてたからだよ」

 

 あれは僕が凄かったのではなく、鉄男君が落ち着いていたからだ。きっと痛かったはずなのに、涙をこらえていてくれたから、僕だって動くことができたのだから。

 

「だからね、三明がそんなにできるのなら、医者になりたいののかなって。違った?」

 

 母さんが言いたかったことの意味を理解して、僕は口をつぐんだ。

 

「それは……」

 

 ずっと、何かになりたかった。

 将来の夢とか、なりたい自分とか、そういうものが欲しくて仕方がなかった。

 

 サッカー選手になりたいんだと毎日練習する人が羨ましくて、刑事になるんだと勉強する人にあこがれていた。

 そういうものを必死に探し続けていた。

 

 先日の一件でようやく、なりたい自分が僕自身の中に存在していたのだと気が付いた。

 今はまだそのなりたい姿を言葉にできていないだけで、僕の中には確かになりたい僕がある。かくありたいと思う僕の姿がある。

 

 それは、母さんが言うように、医者なのだろうか。

 

「……三明?」

「ごめん、ちょっと待って」

 

 医者、という言葉を自分の中で唱えてみる。

 

 鉄男君の火傷の応急処置をして、三ノ輪さんはありがとうと言ってくれた。

 それ自体はすごくうれしくて、そこで初めて僕は自分の中になりたい姿があるのだと気が付いた。

 

 医者、少し方向を変えて母さんのような薬剤師等、関連する言葉を挙げては見るけれど、どれも僕の中でしっくりこない。

 僕のなりたい僕は、別に医者ではない。

 

「……違う、と思う」

 

 僕は別に応急処置ができたことに魅力を感じていたわけではない。僕が嬉しかったのは、あくまでも鉄男君の助けになれた、僕の知っていることが誰かを助けることができたところにあった。

 

 自分の中でその気持ちが言語化できたところで、僕は改めて首を横に振った。

 

「僕は医者になりたいわけではないよ」

「そう、なの」

 

 母さんは肯定が返ってくると思っていたのか、少しだけ意外そうな顔をしていた。

 

「じゃあ、三明は何になりたいの? 医者以外の何か? それとも、決まってない?」

 

 ずっと、必要なものを探し続けていた。知らなければなりたいとすら言えないから、運命の出会いをするために、僕はずっと本を読んできた。

 でも、僕にはそれだけでは足りなかった。言葉を追い続け、ページをめくるだけでは見つけることのできないものこそが、僕の欲しかった答えだった。

 

 僕の欲しかったものは、人との関わりの中で、誰かとの日々を過ごすことによって初めて生まれる願いだった。

 

「僕、は……」

 

 僕はずっと、独りでいたような気がしていた。

 

 家には仕事があるとはいえ父さんも母さんもいて、学校では一緒に本の話をしたり分からない問題を話し合うクラスメイトだっていた。

 僕の周りには人がいて、決して一人で生きてきたわけでもないのに、それでも僕はずっと孤独を感じて生きていた。()()()のいう“みんな”という言葉の中に、僕は入っていなかったのだろう。僕自身がそこに入る勇気がなかった。

 

 きっと、僕は人の輪に入るための理由が欲しかったのだ。

 ()()()が持っている夢とかなりたい自分とか、自分らしさとか。そういう、アイデンティティになるものが欲しかった。僕が僕としているための確かな標。それこそが僕の欲しかったものだった。

 

 でも、順序が逆だった。

 夢があるから人の輪にいるのではない。人の輪の中にいるから夢が生まれるのだ。

 僕はそれを致命的にはき違えていて、その間違いを三ノ輪さんが教えてくれた。彼女のおかげで僕はようやく自分自身が欲しかったものを手に入れることができた。

 

「前は、そういうのなかったんだ」

「そうなの?」

「うん。でも最近……本当に最近、ようやくそれに気づいたんだ」

 

 なりたいものを探すために本を読んできた。言葉を食んできた。

 それ自体にはなんの思い入れもなかったはずなのに、それはいつの間にか僕自身が好きなものになっていた。

 

 三ノ輪さんは鉄男君の応急処置をしたことに感謝してくれた。でもそれは、あくまでもおまけに過ぎなかった。

 本当に大切だったのはもっと前のこと。僕と三ノ輪さんが出会って友達になったときのこと。三ノ輪さんに勉強を教えていた時に行ってもらったこと。

 

──少なくとも、アタシはこれを読んでも坂上みたいな説明できない。だから、こういう説明ができる坂上はすごい。

──ありがとう、坂上。

──やっぱり、坂上ってすごいよね。

 

 本の中に載っていた知識が、誰かが必死に考えて紡いできた言葉が、別の誰かに届くこと。

 場所も時代も、あらゆる壁を乗り越えて。ずっと昔に残された言葉や知識が、出会わなかったはずの誰かの助けや学びに繋がること。

 

 和歌のおかげで何でもない河原が1500年以上の時を超え、草が生えているだけだった中庭が冒険の場所になって、数式が誰かと誰かの対話になる。

 

 そういうことができる人に、僕はなりたいのだと思った。言葉を伝える人でありたいのだと思った。

 だって僕は誰でもない、そういう人に、言葉に、知識に教えてもらったのだ。

 

「母さん」

 

 それを職業として言葉に直すなら、一つしか思いつかなかった。

 

「僕は、司書になりたいんだ」

 

 司書さんが教えてくれた。あのウイルスに汚染された大地の向こう、遠くの国で司書(ライブラリアン)は本当に優秀な人にしかなれない、尊敬される専門職なのだという。

 ただ本を整理・管理しているだけではなく、その人が求める資料を探し人に望む知識を提供する仕事。知識と情報の専門家。それこそが司書という職業で、僕がなりたい僕の姿だった。

 

「あぁ、なるほどね」

 

 母さんは納得したように頷いた。

 

「三明、本が好きだもんね」

 

 鉄男君の応急処置も、あくまでその一つに過ぎなかった。僕の持っていた知識が誰かを助けることに役立ったのが嬉しかっただけだ。

 人に知識や情報を伝える方法として、僕自身が実践するという手段の一つでしかなかった。

 

「うん」

 

 母さんの言葉に頷く。内心では嬉しい気持ちでいっぱいだった。

 僕はようやくなりたいと思っていたものを見つけることができた。なりたかった僕は、欲しかった夢は、これまで続けてきた日々の中にちゃんとあったのだ。

 

 

 

 

 

 夢を見つけた。

 

 それは僕にとって本当に大きなことで、とんでもない快挙だった。一人では絶対に見つけることができなかったもので、それも全部三ノ輪さんのおかげだった。

 この感謝を僕はどうやって伝えればいいのだろう。

 

「何か、お礼ができればいいんだけど……」

 

 言葉にしてみるけれど、できるのか分からなかった。

 三ノ輪さんは僕なんかよりもずっとすごいのに、いったい僕に何が返せるのだろうか。

 

 僕が三ノ輪さんに誇れることなんて、それこそこれまで読んできた本の数。三ノ輪さん自身が褒めてくれた僕自身の知識だけだった。

 

「何かあったかな?」

 

 自分の記憶の中にある三ノ輪さんを掘り起こす。

 友達になった河原でのこと、一緒に木陰で本を読んだこと、神社で雨宿りをしたこと、中庭でいろんな植物を──

 

「あ」

 

 思い出したのは、お役目の後の三ノ輪さんが怪我をしていたことだった。三ノ輪さんは大丈夫だと言っていたけれど、それでもやっぱり心配だった。

 僕は一緒にお役目をすることなんかできないけれど、それでも応急処置をするように、何かできるのではないだろうか。

 

「そうだ」

 

 三ノ輪さんに応急処置や薬の知識を伝えるのはどうだろうか。

 僕自身がそこにいなくたって、僕がそれを教えて上げられればきっと三ノ輪さんが仮に怪我をしても手当てができるようになるだろう。

 

 必要なのは簡単な処置の仕方と、薬の準備。

 処置については僕も知っているけれど、薬などは飲み合わせというのもあるから、素人の僕の知識だと少しだけ心もとない。

 

 僕は少しだけ考えて、それについて詳しい人がすぐそばにいることを思い出した。

 

 自分の部屋を出てリビングに行くと、タブレットで何かを見ている母さんがいる。

 

「母さん」

「どうしたの?」

 

 母さんは薬剤師だ。

 僕はこの人以上に薬に詳しい人を知らない。

 

「頼みがあるんだ」

「なに?」

「実は……」

 

 僕はなんて説明しようか悩みながら、母さんに頭を下げた。

 

「薬のことを、教えてほしいんだ」




夢と今後の目標を手に入れる話です。
いつもならもう一、二話書いて完結ですが、本作はもう少し続きます。


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第八歌 あまつかぜ

天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ

をとめの姿 しばしとどめむ

僧正遍照 古今集


 

 

 残暑も和らぎ、雲の少ない快晴ではあるものの過ごしやすい日になった。おかげで日向に出ている今も、ほどよい風が吹いていて涼しい。

 

『えー、本日は無事に快晴に恵まれ、こうして外で話せることを本当に嬉しく思います』

 

 ちょっとスピーカー越しでザラついた校長先生の声を聞きながら、僕は来てしまったなぁと息を吐いた。

 

 運動はあまり得意じゃない。もともと本を読んでばかりの生活だったせいで、体を動かす機会はあまりなかった。

 実際、体育の成績は下から数えたほうが早いし、練習もかなり足を引っ張りがちだったのだ。毎年のことなので諦め半分といったところだが、来ないで済むなら来ないで欲しかった気持ちがないわけではない。

 

『以上で話を終わります。みなさん、怪我や熱中症に気を付けて頑張ってください』

 

 校長先生が頭を下げて席に戻っていく。

 

 今日は祝日、体育の日。

 神樹館では毎年この日は休みではなく、学校がある。といってもそれは別に授業ではなく、この祝日のためにあるような行事が行われる。

 

 まあ、つまり今日行われるのは──

 

『続いて、選手宣誓です』

 

 ──運動会だ。

 

 

 

 

 

「がんばれー!」

 

 神樹館の運動会は一組が赤、二組が青、三組が黄、四組が緑に分かれて競うことになる。僕達は四組なので緑組。

 今は三年生の子達が走り始めている。

 

「坂上君、そろそろだよ~」

「あ、そうだった。ありがとう」

 

 熊原君に声をかけられて立ち上がる。

 今やっている100m走は全学年が対象の競技で、後は応援合戦と学年別種目の二つに出る予定だ。

 

「みんな頑張ってるねぇ~」

「そうだね。やっぱり体動かすの好きな人は、気合入ってるんじゃないかな?」

「一年に一回だしねぇ~」

 

 運動会に情熱を燃やしている人は結構多い。……いや、音楽会とかでもいるから、別に運動会には限らずお祭り好きなだけなのかもしれないけれど。

 ともかく、この運動会でも優勝しようと躍起になっている人は結構いて、運動が苦手な僕としては少しだけ申し訳ない気持ちにもなる。

 

「ビリにはならないように頑張ろうね」

「そうだねぇ〜。せめて二位か三位くらいにはなっておきたいよね〜」

 

 この辺は完全に運というか、他の人次第なところがある。

 練習の時は他のクラスの人と一緒に走ることもなかったから、他の人がどれくらい早いのかはよく分からない。

 

「綱引きとか玉入れがよかったけど、リレーじゃないだけよかったぁ~」

「確かに。くじ引きだからどうしようもないもんね」

 

 全員参加ではない種目に関しては公正にくじ引きで決められた。クラスによっては自分達で決めたところがあるのかもしれないけれど、僕のクラスではこれが早いだろうということで、先生がパパッとくじを作ってしまっていた。

 

「でも、なんだかんだでいい感じになったよね」

「そうだねぇ〜」

 

 熊原君も僕もそんなに運動が得意な方ではないので、運動会の前には少し暗い顔をしていた組だ。

 

「まあ、仮に僕達がダメでも、他のところの人がやってくれるから」

「そうだねぇ~。僕達は気楽にやろうねぇ~」

「うん」

 

 ここまで来てしまった以上、暗い顔をしていても仕方がない。

 

「僕はねぇ、今日のためにカツ食べてきたよ〜」

「じゃあ、今回は勝てるかもしれないね」

「でも、食べすぎちゃって胃もたれしちゃってるんだよねぇ~」

「意味ないじゃん」

 

 ちょっと笑う。

 そういうゲン担ぎは僕もやっておくべきだったかもしれないけど、それがあるならやらなくてもよかったかもしれないとも思う。

 

 二人で入場ゲート前の列に並ぶ。

 

「頑張ろうねぇ~」

「うん」

 

 

 

 

 

 

「おかえり」

「ただいま」

 

 組の席に戻ってくると、三ノ輪さんが声をかけてくれた。

 応援旗を振って応援している三ノ輪さんは、この運動会に命を懸けているといっても過言ではない人の一人だった。

 

「100mお疲れ様」

「ありがとう。でもごめんね、一番じゃなくて」

「別にいいって。何があってもアタシが全部取り返すからさ」

 

 僕と熊原君は何とか最下位にならずに済んだ。まあ、それでも三位ではあったけれど。

 

「三ノ輪さんもリレー頑張ってね」

「もちろん! 絶対に一番になってくるから」

 

 三ノ輪さんは最後の学年合同リレーの参加者だ。一年から順番に女子男子の順番なので、三ノ輪さんは五年生女子は後ろから四番目になる。

 

「今は何位だったっけ?」

「えっと、二位だったかな?」

 

 校舎の方を見たら各組の点数が並んでいる。

 僕達の組は現在二位だ。

 

「三ノ輪さんは気合入ってるよね」

「まあね」

 

 三ノ輪さんはそもそもイベントごとが好きそうだし、そのうえ体を動かすの自体も好きだから、運動会は絶好のイベントだろう。

 

「坂上はそうでもない?」

「うーん、あんまり体動かすのは得意じゃないからね……」

 

 僕自身があまり上手くできないのがあるから確かに楽しいかどうかといわれると、あんまりそうでもない。それにこうして点数が出てくるから、貢献できなくて申し訳ないというのも一つだなんだと思う。

 

「でも」

「でも?」

 

 思わず口が付いて出てきたから、そのまま止めないで口にすることにした。

 

「ここから頑張ってるみんなを応援するのは、好きなんだよね」

 

 ずっと頑張りたいと思っていた。頑張りたい何かが欲しいと思っていた。頑張っている誰かが羨ましくて仕方なくて、憧れとしてああいう風になりたいと思っていた。

 何者にもなりたいと思えていなかった僕にとって、この応援席というのは僕にふさわしい場所な気がしていたのだ。

 

 でも、もう今は違う。

 僕がなりたかった僕は、僕がそうありたかった僕は、これまでの日々の中にあった。がむしゃらに足掻いてきた中で手に入れたものは、間違いなく僕自身の個性や好みになっていた。

 

 今の僕は、それを憧憬や嫉妬のような感情ではなく、単純に僕の好みとして言える。

 僕はここでみんなが頑張る姿を見ているのが好きだ。

 

「だから、僕自身がやるというよりはって感じかな」

「なるほどね。アタシは見てると体動かしたくなっちゃうもんなぁ」

「三ノ輪さんはそういうタイプだよね」

 

 ここでじっと見ている三ノ輪さんはイメージが付かない。

 

「本当は文武両道だったらいいんだけどね」

「難しいよね。坂上は勉強というか、和歌のイメージだもん。和歌とスポーツってあんまり一緒に並んでる感じしないしね」

 

 三ノ輪さんがそう言うと、僕の脳裏に一人の名前が浮かんで来て、少し笑ってしまった。

 

「実はいるんだよね、そういう人」

「え?」

 

 和歌について調べている途中で知ったのだけど、別に当時の人は和歌をやっていただけではない。

 突発で始まるいつもの時間に、僕はなんだか嬉しさを感じてしまっていた。

 

「蹴鞠って知ってる?」

「けまり?」

「なんていうのかな、鞠でやるサッカーみたいなものかな?」

 

 ゴールがあるわけでもないし、どっちかというとリフティングやキャッチボールをするようなものだと思う。

 

「鞠をどれだけ蹴り続けられるかってこと?」

「そういう感じだね」

 

 当時のスポーツみたいなものだった蹴鞠と、和歌が得意だった人だった人がいるのだ。

 

「飛鳥井雅経っていう人がいてね」

 

 蹴鞠が上手くて後鳥羽上皇から、“蹴鞠長者”という称号を受け取ったそうだ。

 また、その歌は小倉百人一首にも載っている。

 

「へぇ、どんな歌? 蹴鞠の歌なの?」

「歌自体はそういうのじゃないんだ」

 

 少しその和歌のことを思い出す。比較的有名な歌だから、授業でもみたことがあるものだった。

 

み吉野の 山の秋風 小夜ふけて

 ふるさと寒く 衣打つなり

参議雅経 新古今集

 

 それを聞くと、三ノ輪さんは「あれ?」と首を傾げた。

 

「なんか名前違くない?」

「昔の人はいくつか名前があるんだ。もらった名前とかね。後、役職の名前だったりすることもあるんだ。なんとか大臣さん、みたいな」

 

 女性の名前は特にそうだと思う。誰かの娘とか、そういうのだ。

 

「なるほどね。和歌も蹴鞠と全然関係なさそうだし、パッと聞いたら分かんなさそうだね」

「そうだよね」

 

 和歌の意味はそんなに難しくない。

 秋の少し寒い朝のことを詠んだ歌だ。

 

 吉野の山に秋風が吹き渡る。夜が更けてかつての都であった吉野は、寒々と衣服をたたく音が聞こえる。

 

「秋の寒い季節になって、朝起きると、吉野の地では寒い風が吹いている。かつての都だったという寂しさも含んだような歌だね」

「本当に一緒の人とは思えない……」

「分かる分かる」

 

 三ノ輪さん的にはもっと熱血な感じの歌をイメージしていたのかもしれない。

 

 ただ、秋にしては妙に寒々しいようなイメージを抱くのは、本歌取りとして引用している歌のせいもあるのかもしれない。

 

「本歌取り?」

「もともと誰かが歌った歌を引用して詠む技法だね」

 

 取られているのは古今集に載っている冬の吉野を舞台にした歌だ。

 

み吉野の 山の白雪 つもるらし

 ふるさと寒く 成りまさるなり

坂上是則 古今集

 

「あの歌はこの歌を下地にしているから、もしかしたらそこが寒さをにじませているのかもしれないね」

「なるほどね~……その歌も知らなかったのに、伝わるのってなんか不思議な感じ」

「きっと、それは作者の気持ちが、寒いイメージが歌の中ににじんでいるからなんじゃないかな?」

 

 確かに冬のことなんて書いてない。

 でも、あの歌の中には冬の寒い日があって、それをイメージしながら秋の景色を見ていたのだ。

 

 だからこそ、秋の中にある寒い部分が強く印象に残っていたのだろう。

 

「もしも、引用するのが夏の歌だったら、違うイメージの歌になったんじゃないかな?」

「それって、今みたいな?」

 

 三ノ輪さんが空を見上げ、僕もつられて上を見た。

 夏の頃よりもずっと背の高くなった秋の空がそこにはあった。日差しはあって体は暖かいけれど、涼しい秋風が短パンを揺らして肌から熱を奪っていく。

 

「…………」

「…………」

 

 ここには夏も冬もある。

 三ノ輪さんが思うように暖かな日差しがある。だけど、夜更けではないとはいえ、この歌にあるような服を揺らすような寒い風だって吹いているのだ。

 

 和歌に込められる言葉は多くない。

 僕達はこの大地を照らす暖かな日差しと、体を震わせるような涼風の両方を歌に込めることは難しい。

 

「アタシだったら、寒さも吹き飛んじゃうような歌にしちゃうなって」

「いいんじゃないかな?」

 

 それはなんだか、とっても三ノ輪さんらしくて、僕は好きだ。

 情熱にあふれていて、周りを温めてくれるような彼女の熱量に僕はいろんなことを教えてもらったのだ。

 

「坂上だったら、どっちにする?」

「え?」

「坂上だったら、この日差しと風、どっちの歌を詠んだのかなって」

「僕は……」

 

 どっちだろうか。

 僕はいったい、どっちだと思っただろうか。

 

 思わぬ問いに言葉を返すことができなくて僕は思わず黙り込んだ。周囲からはグラウンドの中心に向かってみんなの応援の声が響き渡っている。

 今は三年生と四年生が合同でやる学年種目の時間だった。

 

 二人三脚で走っている三年生と四年生の姿を背景に、僕は三ノ輪さんの方を見ていた。

 

「僕は──」

「もうすぐ集合の時間だよ~」

 

 熊原君に声をかけられて我に返る。

 

「坂上君、大丈夫~?」

「あ、うん。体調は問題ないよ」

 

 問いかけに頷くと、三ノ輪さんも「忘れてた!」と言いながら応援旗を降ろした。

 

「やっとアタシの出番!」

 

 三ノ輪さんの出る種目はこれを除けば後は午後の種目だったのを思い出す。今の今まで、ずっと応援をしている側だったのだ。

 

 飛び出していった三ノ輪さんを見送って、僕は三ノ輪さんからの問いかけをいったん忘れることにした。

 

 

 

 

 

 運動会は順調に進み、午後の種目も順調に消化されている。

 残っているのは三種目くらいで、そろそろ順位が明確になってきたところだった。

 

「次の競技に参加する人、準備大丈夫?」

 

 野村さんが声をかけていると、どこかから「銀ちゃんがいなくない?」と声が返ってきた。

 

「銀ちゃん? 誰か見た?」

 

 その言葉に周囲にいる人が首を振った。

 

「次の集合ってリレーでしょ? 銀ちゃん気合入ってたし、もう行ってるんじゃないかな?」

「あー、ありそう」

「そうだね。私、一度入場ゲートの方に行ってみるよ」

 

 野村さんが入場口の方に行くのを見送る。

 一つ前の競技の前までは一緒に参加していたので覚えているが、確かに一緒に帰ってきた覚えがない。

 

「三ノ輪さん、どうしたんだろうね?」

「銀ちゃんだしどこかで困ったことになってたりするのかな?」

 

 斎藤さんが困った顔で呟く。

 確かに、三ノ輪さんはよく困りごとにあったり遅刻するような問題ぶつかっているのをよく見る。

 

 僕は応援用に振っていた団扇を置いた。

 

「僕、この後なにもないし、ちょっとその辺りを見てくるよ」

「うん、分かった」

 

 

 

 

 

 結局、三ノ輪さんは割とあっさりと見つかった。

 人の少ない場所を探してみようと思ったのが功を奏した。

 

 何やら水道の近くで座り込んでいる三ノ輪さんを見つけた僕は、その姿にゆっくりと近付いた。

 

「三ノ輪さん?」

「坂上?」

 

 三ノ輪さんは僕のことに気づくと、驚いたように声を上げた。

 

「もうすぐリレーの集合時間らしいけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫大丈夫。ちょっと喉乾いちゃってさ。少し休憩してたんだ」

「そうなの?」

 

 それにしたってもう少し近いところに水道はあったような気もするけれど。

 

 僕は少しだけ三ノ輪さんの方をじっと見つめる。

 なんだか少しだけ焦っているような三ノ輪さんの姿は、以前にも見覚えがあるような気がした。

 

「……もしかして、なんか困ったことでもあった?」

「え? なんで?」

「いや、ただそうかなぁって思っただけなんだけど」

 

 後は、僕自身が三ノ輪さんのことを助けたいと思っていることもある。

 僕が三ノ輪さんにしてあげられることはあまりない。三ノ輪さんは僕よりずっとすごくて、いろんなことができるから。だから、数少ない機会を逃さまいと思っていた部分は、どこかにあったのかもしれない。

 

 三ノ輪さんは少し言いにくそうに口をもごもごと動かしてから、そっとため息をついた。

 

「坂上って、よく見てるよね」

「全然そんなことないよ」

 

 これに関しては完全にそんな気がしただけで、確証も何もなかった。もはや直感の域だった。

 

 三ノ輪さんは右足を指さした。

 

「実はさ、足がちょっと痛くってさ」

「え!? それ大丈夫なの!?」

「ちょっと軽いこむらがえりみたいな感じだから。痛みが落ち着けば走れると思うし」

「すぐに先生のところに行かないと!」

「あー、いや、それはちょっと……」

 

 三ノ輪さんは焦ったように僕をつかんだ。

 

「実はさっき行こうとしたんだけど。人がちょっと多くて、今行くともしかしたらリレーに出れないかもしれないからさ……」

「ああ」

 

 順番が来たとしても、先生から出場しないように言われるかもしれない。その可能性は十二分にあった。

 

「だから、できれば先生には言わないようにしたいんだけど……」

 

 僕は少し呆れながら三ノ輪さんのことを見た。三ノ輪さんは申し訳なさそうに小さくなっている。

 

 少しだけにらめっこを続けて、僕は負けたと首を振った。

 

「本当は先生のところに行かないといけないって言わないといけないんだと思うんだけど」

「……うん」

「仕方ないから、今は僕が応急処置してあげる」

「……え?」

 

 僕はため息をついて、持っていた巾着から一包みの薬包紙を取り出した。

 

「本当はきっと怒られると思うんだけどね」

 

 水筒のコップを取り出して水道で少しすすいでから三ノ輪さんに薬包紙と一緒に渡した。

 

「芍薬甘草湯っていう薬で、痛み止めに使うんだ」

「これ、紙がなんか普通のじゃない?」

「まあ、自家製? なので……」

 

 当たり前だった。

 それは僕が母さんの指導の下で作ったものだった。

 

「すご! 坂上がやったの!?」

「い、今は気にしなくてもいいから!」

「あ、そうだった」

「ともかく、あくまでもちょっとしたおまじないみたいなものだから、後でちゃんと先生のところに行ってね」

 

 三ノ輪さんは笑顔で頷いた。

 

「分かった。ありがとう、坂上!」

 

 三ノ輪さんは急いでそれを飲み干すと、軽くジャンプした。

 

「うん、もう大丈夫」

「いやそんなにすぐには効かないよ」

「そんなことないって。なんていったって、これは坂上がくれたものだしね」

 

 三ノ輪さんはそう言って「じゃあ、行ってくるね!」と集合場所の方へと走って行く。

 

 そんな姿を見送りながら、僕は少しだけさっきの質問のことを思いだした。

 僕はきっと日差しのことも、風のことも詠んだりはしないだろう。もしも僕が何か歌を作ることがあるとするのなら、それはきっと一つしかなかった。

 

「頑張れー」

 

 僕はきっと、この秋の空の下で誰よりも一生懸命な、そんな誰かのことを詠むに違いなかった。




今年はオリンピックの関係で違いますが、10月第二月曜日はスポーツの日(旧・体育の日)です。ということでの運動会。
運動会の結果は次以降の話で出るかもしれないし、出ないかもしれない。

ちょっと忙しくて調べ物もあまり十分にできてないので、間違った情報とか載せてたらすみません。そのうち訂正しておきます。

次は今月の下旬に投稿予定です。一応、レギュラーキャラが増えればいいと思なという気持ち。ちなみに、熊原君ではありません。


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第九歌 にいばりの

新治の 今作る道 さやかにも

 聞きてけるかも 妹が上のことを

柿本人麻呂歌集


 

「こんにちは」

 

 いつものように図書室に入ると、普段は返ってくる司書さんからの挨拶がなかった。

 何かあったのだろうかと受付カウンターの方を覗いてみると、司書さんが誰かと話している姿が見えた。最近よく図書室で見る白い髪の女の子だった。

 

「はい、貸し出し期間は一週間です」

「…………」

 

 カウンターの前でコクリと頭を下げた彼女が奥の閲覧スペースに向かうのを見送ってから、カウンターに近付いた。

 

「こんにちは」

「坂上君、いらっしゃい。ごめんね、山伏さんとお話ししてたから挨拶できなくて」

「山伏さん?」

 

 チラリと奥で本を読んでいる彼女に目を向ける。名前を知らなかったけれど、山伏さんというらしかった。

 

「いつもはあんまり借りていくことはないんだけど、今日は借りていってくれるみたいで」

「へぇ」

 

 いつも図書室にいるのを見かけるから、本を借りていかないというのは何だか意外だった。

 でも改めて考えれば、教科書類だけでも荷物なのに、その上に本となると通学が大変なのは考えるまでもなかった。僕だって本用の手提げを一つ用意しているくらいだし。

 

 なるほど、と頷けば司書さんがなんだか不思議そうに首を傾げた。

 

「坂上君、山伏さんのこと知らなかった? 同じ学年だよ?」

「え?」

 

 そう言われても、これまでの四年と半年の間で見かけた覚えはあまりない。最近、図書室で本を読んでいる姿を見るようになったくらいだった。

 司書さんはそれを聞いて苦笑した。

 

「坂上君も山伏さんも、本の方に熱中していたからね」

「あ、あはは、そうですね」

 

 司書さんの言葉に、僕も苦い笑いを浮かべることしかできなかった。

 それはずいぶんと気を使った言い回しではあったが、つまり僕と山伏さんは他人への関心が希薄という話だった。実際、僕が図書室によく来る人の顔を理解するようになったのは最近のことだ。

 今までの僕は本を借りては読むだけで、話をする司書さん以外の顔をまともに見た記憶がない。

 

「すみません……」

「別にいいんだよ。ここは本に触れるための場所だからね。誰かと語り合いたい気持ちも、一人で文字に没頭したい気持ちも、どっちも大事にするのがこの場所なんだよ」

 

 その言葉に少し心が軽くなる。

 司書さんの言葉は書架のように、いろんなものを受け入れてくれる。

 

「あまりカウンターには来てくれないけど、山伏さんは常連さんだね。いつもあの席に……ああ、坂上君の定位置からだと少し見つけにくいか」

 

 山伏さんがいるのは小説の棚に近い場所で、机のない布製の丸椅子に座っている。僕は人が滅多に来ない専門書の棚の近くで読むから、あまり目に入らなさそうではあった。

 

 こちらのことを気にする様子もない山伏さんの顔と名前を一致させると、司書さんは僕が持っていた本の返却手続きをしながら「坂上君」と僕の名を呼んだ。

 

「せっかくの読書仲間だし、話も合うかもしれないね」

「そうですかね……」

 

 曖昧な返事をする。

 だけど、話と言われても何を話せばいいのかとか、きっかけすら分からない。

 

「機会があれば」

 

 僕は自分から初対面の人に話しかけたことがなかった。

 

 

 

 

 

「あれ、坂上?」

 

 あれから、数日が経った。

 

 司書さんから話をされてから改めて日々を過ごすと、図書室でしか見なかった山伏さんの姿をあちこちで目にするようになった。

 本当は山伏さんが僕の視界にいたのは前から変わらなくて、僕がただ山伏さんの姿を認識できるようになっただけなんだと思う。

 

「どうしたの? ボーッとして」

 

 僕の見かける山伏さんはずっと一人だった。誰かに声をかけるわけでも、かけられるわけでもない。

 仮に誰かに声をかけられていても、その口は滅多に動かない。ほとんどは首を上下や左右に振る動きだけの返事だった。

 

「おーい、坂上〜?」

 

 みんなとどこか居場所がずれているのに、決して学校という居場所から外れているわけではない。なんていうか、一人でいるのが自然に思えた。普通はクラスの中で仲のいいグループみたいなものができるが、山伏さんは一人のグループにいるようだった。

 山伏さんの孤独は、決していじめのような意図的なものではなく、本人の性格に由来しているものだと感じた。

 

「もしかして体調悪い?」

 

 山伏さんの姿にはとても覚えがあった。

 話せる人がいないわけではなく、でも友人と言える人がいない。程度の差はあれど、そんな生活を僕はよく知っていた。

 

 あれは少し前の、三ノ輪さんと出会う前の僕だった。いや、人間関係だけならきっと今もそう変わるまい。

 

「ねぇ、坂上!」

「え?」

 

 唐突に声をかけられて我に帰ると、三ノ輪さんがすぐ隣で僕の顔を見ている。

 

「え、三ノ輪さん? いつから?」

「さっきからずっと声かけてたってば」

「嘘、ごめん」

 

 完全に気付いてなかった。

 

「どうしたの? もうみんな帰っちゃったけど」

「……あ、本当だ」

 

 周囲を見ると確かにもう終礼は終わってみんな帰っていた。

 

「ごめん、考え語としてて。声かけてくれてありがとう」

「ううん、全然。アタシは坂上に用事があっただけだし」

「僕に?」

 

 いったいなんの用事だろう?

 

「坂上、忘れちゃった? 前に約束したでしょ、茱萸食べようって話」

「あ」

 

 それは夏休みになってすぐの頃の話だった*1

 

「なかなかタイミングがなくて誘えなかったけど、もうすぐ終わっちゃうからさ。時間あるならどうかなって」

「……うん、大丈夫」

「そっか、よかった!」

 

 肯定の返事をしてから、僕は内心で意外だと思った。

 約束自体は確かに僕も覚えていて。でもやっぱりタイミングを見つけられなかった。僕はどこかで三ノ輪さんが来てくれるのを待っていたように思う。

 だけど、タイミングとか相手の様子を伺っていたのは三ノ輪さんだって一緒だった。それがなんだか意外なように思えた。

 

 僕は荷物をまとめて席を立つ。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 

 

 

 

 初めてこの目で見る秋茱萸は、思っていたよりもずっと弾力を持っていた。一センチもない小さな実は、この時期の落ち葉のように色付いている。

 

「へー、これが……」

 

 それは毎年ここにあったはずなのに、僕が知ることのなかったものだった。今は部屋の片隅で偶然見つけたビー玉のように、夕陽を受けて本来よりもなお赤く輝いている。

 

「ふふっ」

「な、なに?」

「いや、坂上がすごく珍しそうに眺めてるのがおかしくって」

 

 三ノ輪さんが楽しそうに笑う。頬が紅潮しているのはきっと夕陽のせいではなかった。

 

「こんな顔が見れたんだから、誘ってよかったよ」

「……うん」

 

 それは僕の言葉だった。

 こんなに楽しそうな三ノ輪さんの顔を見ることができたんだから、誘われてよかったと思う。

 

 僕はこの気持ちを知らなかった。

 

「ねぇ、三ノ輪さん」

「どうしたの?」

 

 三ノ輪さんはこの気持ちを知っているんだろうか?

 この感情は、僕の知っている語彙に存在して、僕がそれを経験として知らないだけなんだろうか? それとも、全く知らない未知の感情なんだろうか?

 

 どうして僕は、こんな気持ちになっているんだろうか?

 

「三ノ輪さんはどうしてあのとき……あの河原で会ったとき、声をかけてくれたの?」

 

 僕は脈絡もなく問いかけていた。

 

 それが知りたかったわけではなかったけれど、何故かそれを訊こうと思った。

 今、僕の胸の中に新しく書き込まれる感情を解決できる言葉が、これしか浮かんでこなかった。

 

 あの場面では、気付いても声をかけない人だって多いだろう。

 会話ができるほど近くでもなかった。三ノ輪さんは用事があるタイミングだったはずだった。声をかけない理由はあれど、かける理由は思いつかなかった。

 

「どうして?」

 

 三ノ輪さんは不思議そうな顔で少しだけ考えてから、「忘れちゃった」と呟いた。

 

「覚えてないの?」

「うん。でも、大した理由じゃないよ」

「そうなの?」

「多分ね。あのときも今も、そんなに変わらないと思う」

 

 三ノ輪さんの指が僕の顔に向いた。

 指からなぞるように三ノ輪さんの顔に視線を動かすと、楽しそうに僕のことを見る三ノ輪さんの顔が映る。

 

「坂上は多分気付いてないけど、本を読んでる坂上って、いつもと表情が違うからさ」

「え?」

 

 そんなの誰にも言われたことなかった。

 

「別に笑ってるっていうわけじゃないんだけど、なんていうか目が輝いてるっていうか。すごく楽しそうにいろんなものを見てるなって思ってたんだ」

「そうかな?」

「そうだよ。だって、アタシは教えてもらったから分かるよ。坂上の見てる世界を」

 

 僕達は夕焼けの方を見ていた。

 あの河原で見た夕焼けと同じくらい真っ赤で、風は冷たいけれど体は熱を抱えている。

 

「アタシは今がすごく楽しい。でも、坂上の見てる世界を知って、アタシの世界をもっと広がったよ」

 

 それは僕も同じだった。

 

 三ノ輪さんは僕がずっと欲しかったものを全てくれた。

 友達も居場所も夢も、僕だけでは絶対に手に入らなくて、だからこそ僕はこの抱えきれない感謝を伝えたいと思っている。

 

「だから、本当に大したことなかったんだ。坂上が楽しそうにしてるのが気になって、アタシは声をかけただけだからさ」

 

 大それた理由なんて必要ない。

 僕はずっと知らなかっただけで、人と人が繋がるのはそんな些細でなんでもない理由で充分で。ただそれだけで、こんなに変わることができるのだ。

 

「ほら、早く食べて帰らないと夜になっちゃう」

「そうだね」

 

 僕は意を決して夕陽を丸ごと口にした。

 

「ん!」

「おいしい?」

 

 美味しくはなかった。当然だが、食用として作られている果実の方がずっと甘美だっただろう。

 だけど、そういう問題ではなかった。

 

 僕はそれを飲み込んだ。

 

「これはなんていうか……」

 

 僕の中にあった『食べると渋味が残る』『ほんのり甘い』といった記述が、はっきりと五感で補完されていく。

 

 きっと普通なら二度は口にしない気がした。

 でも、僕は絶対に次もこれを食べる機会が訪れるだろうと確信していた。

 

「……忘れられない味だったよ」

 

 次も、その次も。

 またいつか秋茱萸を口にしたとき、この味が『三ノ輪さんと秋茱萸を食べた今日』を、五感で思い出させてくれるだろうと思った。

 

 

 

 

 

 昼休みになって、僕は本を持って図書室に向かっていた。

 ルーチンになったルートを通りながら階段を降りようとすると、正面から人が歩いて来るのに気が付いた。

 

 この階を使う学年で白い髪をした女子生徒を、僕は一人しか知らなかった。

 

「…………」

「…………」

 

 僕と山伏さんは、一瞬だけ互いに立ち止まって見つめ合った。

 

 それは道を譲る前の駆け引きみたいで。いや、実際そうだったのだと思う。話もしないのに一緒に行くのは居心地が悪くて、それは暗に一人でいるのが普通だと僕達が思っている証拠でもあった。

 

 このまま話をせずに図書室に行くこともできるのだろう。それはきっと今まで通りの日々で、何一つ変わらない今日を過ごすことになる。

 

 ──だけど、そんないつもの今日が、無性に嫌だと感じた。

 

「山伏、さん」

 

 彼女の名前を呼んだ。

 不自然なほどに声が震えているのが分かった。緊張しているのを自覚した。

 

 山伏さんは僕の方をじっと見て、少し首を傾げた。不思議そうな表情から察するに「どうして知っているのか」といったところだろうか?

 僕は慌てて本を見せた。

 

「山伏さん、よく図書室にいるでしょ? 僕もなんだ。司書さんとも話すから、山伏さんの名前を聞いてさ」

 

 我ながら言い訳がましい語り口だった。

 後から自己嫌悪に陥るのはなんとなく想像がついていた。でも、喋るのをやめようとは思わなかった。

 

「その……今から図書室に行くの?」

 

 首が縦に振られる。

 

「だったら、その、山伏さんさえ良ければなんだけど……」

 

 なんでもないことが、ここまで緊張することだとは思わなかった。

 断られることが怖くてなかなか上手く口が動かない。

 

「い、一緒に、行かない? 図書室」

 

 何度思い返しても酷かっただろうし、自覚がある分、山伏さんからすればもっと酷く見えていることだろう。

 それでも僕は、三ノ輪さんみたいになりたくて、ああいう風に変わりたかった。

 

 山伏さんがその意味を理解して返事をするのに、多分そう時間はかかっていなかった。

 でも、普通なら一瞬で過ぎるような時間が、この時だけはページが進まない本みたいに永遠に感じられた。

 

 山伏さんは僕の言葉を理解すると、ゆっくりと首を縦に振った。

 

「そっか」

 

 止まっていた呼吸が再開すると同時に、安堵の言葉が漏れた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 また頷かれ、僕達は並んで階段に足をかけた。

 ペースを山伏さんに合わせながら、道中での話題を探す。

 

「山伏さんっていつもどんな本読んでるの?」

「…………」

 

 山伏さんが黙り込んだところで、僕は少しだけ後悔した。

 彼女はこれまで一言も喋っていなくて、僕は答えにくい問いを投げてしまったのかもしれないと思った。

 

「あ、えっと、もし答えにくかったら──」

「──小説」

「え?」

「……小説を。読む」

 

 初めて聞いた山伏さんの声は、ラミネート加工された栞みたいに薄くて滑らかだった。取りこぼしたことに気付かないかもしれないと思うくらいに、儚くて可愛らしい。

 

「どんな小説? 種類に好みはあるの?」

 

 首が横に振られる。雑食らしい。

 

「そうなんだ? じゃあ、どうやって選んでるの? 直感派?」

 

 僕達の会話は、会話の体をなしていたのか分からない。ほとんどは僕が口を動かして、山伏さんにはイエスノーで答えられる質問ばかりを投げかけていた。

 それでは答えきれない場合にだけ、言葉で返事が来た。

 

 いつもより少しだけゆっくりとした足取りで、でもきっと会話と呼ぶには短すぎる時間。

 僕達は本当に当たり障りはない、普通の話をした。

 

「こんにちは」

「いらっしゃい、坂上君。……あれ?」

 

 図書室に入って挨拶をすると、司書さんが僕と山伏さんのことを見比べた。

 

「一緒に来たの?」

 

 山伏さんが頷く。

 

「そうなんだ」

 

 司書さんは嬉しそうにそれだけを口にした。

 

「坂上君はそれの返却?」

「はい、お願いします」

 

 カウンターに向かおうというと踏み出したところで、僕は山伏さんの方を見た。

 

「あのさ」

 

 こういうことを口にするのは本当に勇気のいることだと思った。

 

()()、声をかけても、いいかな?」

 

 それはあの河原で、初めて三ノ輪さんと話した時に三ノ輪さんが言ってくれた言葉だ。

 結局のところ僕は僕自身の力で頑張れるほど変われているわけではなくて、三ノ輪さんの真似をしているに過ぎなかった。

 

「…………うん」

 

 山伏さんは、戸惑うように視線をさまよわせてから、小さく言葉で返してくれた。

 僕は、嬉しくて「ありがとう」と返した。

 

 まだ次がある。今日これっきりではなくて、また次がある。

 変わるための昨日を積み重ねて、変わりたいと思った今日があって。

 

「またね」

 

 変わった明日が待っている。

 

 僕が受付カウンターの方に振り返ると、山伏さんが「また」と呟いた。

 

「またね。……坂上」

「あ」

 

 そこで僕は自己紹介を忘れていたことに気付いた。やっぱり三ノ輪さんみたいに完璧にはできなかった。

 

「……うん」

 

 でも、今日はそれで充分だと思えた。

*1
「第四歌 みちのべに」参照




章分けはしないですが、一章二節の始まりの話です。変わっていく話から、変わるための話になります。

山伏さんは徳島から移った時期が分からないので、一応ずっと神樹館にいる設定にしました。わっしーの転入時期も含め、何か資料があったら教えてください。既出の情報は変えませんが、今後の修正はすると思います。


次は11月の上旬になるといいかなと思います。

P.S.
前話で書き忘れてましたが、薬剤師ではない人が薬を自作して他人に挙げるのは薬事法に違反しますのでマネしないでください。自分に処方された薬を他人にあげるのもまずいです。
前話で作成した芍薬甘草湯は市販薬の第2類医薬品に分類されます。
坂上君の場合は薬剤師()が作り、管理している。坂上君は銀の代わりに用意した。みたいな言い訳はありますが、黒よりのグレーというか、黒じゃないかなぁと思っています。たぶん。
薬の自作は危ないです。


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