リセット (エイ)
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プロローグ

 冥界の大地が鳴動していた。

 耳をつんざくような荒れた大気の音が、崩壊の序曲を轟音ともども崩れゆく大地と奏でている。

 此度の聖戦も、女神(アテナ)の勝利で幕は閉じた。

 冥王(ハーデス)の死により制御を失った冥界が、崩壊に向かっているのだ。

 死と言えど、神の意思が消滅するわけではない。

 力を失い、封印されるだけのことである。

 

 戦いによる余波と、強大な力が消えることによる反動。創世主たる冥王(ハーデス)の滅び。

 壮麗な神殿が、たちまち見る影もなく崩れ落ちていく。

 磐石のはずの大地は苦しみもがくかのようにのたうち、空間までも引き裂かんばかりの地割れが、冥王(ハーデス)(たお)れた場所より広がっていく

 

「みんな……、帰りましょう。光あるところへ」

女神(アテナ)……」

「沙織さん……」

 

 しっかりと星矢の頭を抱え込んだまま、女神(アテナ)は目尻に涙を残し微笑んだ。

 多くの犠牲を悼み哀しみ、それでも生への希望をたたえた眼差しだった。

 すべての戦いが、今終わったのだ、とその場にいた誰もが思ったに違いない。

 戦いにおいて考慮すべき、起こりうる非常の予想を欠いたのは事実だ。

 だが、一体、誰がこのような事態が起こると想定できようか。

 

 ――――大気の狂乱。

 ――――大地の慟哭。

 風は殺意そのもののように鋭く牙を剥き、悲鳴すらもかき消す怒号を上げながら大地に襲いかかる。

 大地は、もはや悲鳴すら上げず、鞭打たれる皮膚のように容易く裂かれ、敗北した。

 人ほどの大きさもある瓦礫が、軽々と空中に撒きあげられ、狂笑するように荒れ狂う。

 そして、冥界の空間が凶暴なまでに振動し、歪にたわみねじれていく。

 冥王(ハーデス)(たお)れた直後、消滅へと向かっていた崩壊とは明らかに異なる狂騒。

 

「こ、これは!」

「くっ! 立っていられない!」

「まさか、冥王(ハーデス)っ!?」

「な、沙織さん、これはいったい!?」

 

 消耗した小宇宙を燃やし世界の暴挙に抗いつつ、聖闘士達が驚きと疑問を口に乗せる。

 

「おそらく、私と冥王(ハーデス)による戦いと冥界の消滅による影響でしょう。時空が、この時空が歪もうとしているのです!」

 

 女神(アテナ)は目を見開いて、信じられないと言いたげに喘いだ。

 その足元が大きく崩れる。

 

女神(アテナ)、危ない!」

 

 同時に、天が割れた。

 さらに激しく風が吹き荒れ、空間が歪む。

 何もかもを押さえつける激しい圧力とすべてを吸い込もうとする強烈な引力。逆巻く大気のねじれ。異質なまでの不均衡。

 歪みより生みだされる無慈悲な力に耐えようと、女神(アテナ)と聖闘士は全神経を集中せざるを得なかった。

 それを責めることは何人たりともできまい。

 故に、星矢の身体から注意がそれたことも不可抗力であった。

 あえて言うなれば、それは運命の女神(モイラ)の悪戯、あるいは皮肉というべきものだったかもしれない。

 

 空間の歪みに吸い込まれていく星矢に最初に気がついたのは女神(アテナ)だった。

 整った容貌から血の気が一気に引く。

 

「えっ!? 星矢っ! いけないっ!」

 

 凄まじいまでに吹き荒れる嵐と圧力の中、気がつくとはさすが女神と言うべきだろう。

 だが、聖闘士の誰にもそれに驚嘆する余裕など与えられはしなかった。

 

「な、星矢っ!」

「くそっ、動け! 俺の足よ!!」

「チェーンよ、星矢の元に! お願い届いてっ!」

 

 いかなる努力も報われなかった。

 彼らの足は、彼ら自身を支える以上の余力を持たず、翼は容赦なく吹き荒れる嵐の中ではかえって邪魔としかならない。

 アンドロメダのチェーンですら、瓦礫が踊り狂う凶風にコントロールを奪われて。

 そして、女神(アテナ)は、血を多量に失い、戦い疲弊した己では不可能だと。

 歪みから星矢を取り戻すことと、残った彼らを守り続けることは。

 ――――両立できない。

 そう、判断してしまった。

 

 どれほど耐えたか、各自が星矢を失った衝撃も冷めやらぬまま、ただ無我夢中で狂嵐をしのぐ。

 歪みの消滅は唐突だった。

 吹き荒れる風も、鳴動する大地も、もはや歪みの影響下にあるわけではない。

 脱出すべき状態であることに変わりはないものの、聖衣をまとった女神(アテナ)と神聖闘士を圧するほどの力はなかった。

 

 ――――だが、もうそこに星矢はいない。

 

 

 

 

 最初に動いたのは女神(アテナ)だった。

 荒れる暗い天を睨み、冥王(ハーデス)、と呼ぶ。

 どこか、切実な色が込められている声音。

 

「そこに、いますね?」

 

 瞳の色は厳しい。

 口に出すまでもない問いが、呼びかけにはこめられていた。

 崩れゆく冥界をつらぬいて響く、問いかけ。

 もはや意思のみとなり、眠りにつきつつある冥王(ハーデス)が遠く応える。

 

(――――此度の決着はすでについた。余がこのような暴挙に及ぶ理由があろうか)

 

 婉曲(えんきょく)な否定。

 再び、冥王(ハーデス)、と問いかける。

 同じ呼びかけでも意味合いが違う。

 正しく、冥界の神はその意図を汲んだ。

 

(――――さて、余も知らぬ。だが、貴女にあの歪みを理解できなかった筈もない。呑みこまれれば二度と戻れはせぬ……なれば、何処へ通じようとも、貴女にも余にもあずかり知れぬこと)

 

「そんなっ、そんな筈がない!」

「星矢はきっと戻ってくる!」

 

 こらえきれぬように、氷河と紫龍が叫ぶ。

 その言葉にかぶせるように、淡々と冥府の王は言葉を連ねる。

 

(あれは我々が存在する3次元より高次の次元をも含んだ時空の歪み。超次元ならば、最悪でも宇宙と時の彼方に飛び散るに過ぎぬ。この世界より弾き出されるわけではない。……この意味が分かるか。女神(アテナ)の聖闘士どもよ。五次元、六次元――――ここ三次元以外の世界は安定に欠けることこの上ない。肉体と魂の別がない状態が常であるかと思えば、その次の瞬間に分解と飛散が待っている。意思だけで存在を保てる神とは違うのだぞ)

 

「まさか、星矢はこの世界の外に、時の外に弾き出されたとでも言うのか!」

 

 一輝は瞠目した。

 握りしめた拳から、新たな血の筋が流れる。

 そんなまさか、と誰かがつぶやいた言葉が雑音のように遠い。

 視界が急速にせばまる感覚は、崩れゆく冥界の大地のせいだろうか。

 

 冥王(ハーデス)の言葉を分かりやすく言えば、星矢は世界創世の混沌に放り込まれたに等しい、ということだ。

 世界の誕生と共に神々が生まれ、神が世界のすべてを創造したとするならば、その外側は、世界の生まれる以前。すなわち原初の混沌(カオス)

 確かに、如何(いか)に最高峰まで辿りついたと言えど、人の肉体と魂が無事ですむとは思えない。

 

(……愛などではどうにもならぬ。女神(アテナ)よ。貴女にも分かっただろう。人の無力さは……哀しいほどだ……)

 

 薄れていく冥王(ハーデス)の思念。

 女神(アテナ)は一切の反論をせず、深く息を吸い、瞑目した。

 ――――その意味。

 

「沙織さん! 星矢は――――?」

 

 その先を口に出すのが恐ろしいのだろう。

 すがるようにチェーンを握りこむ瞬の双眸は、痛切に女神(アテナ)に向けられてひたとも外れない。

 チェーンのかすかな震えは、主の懸念そのものを表していた。

 瞬は、信じたくないのだ。

 

「帰りましょう。……地上へ」

「っ!?」

「地上で待ちましょう。星矢はきっと帰ってきてくれます」

 

 すべてを包み隠す深海のごとく静かな瞳に決意を写して、女神(アテナ)は聖闘士達を見渡した。

 

「命あふれる地上に」

 

 

 

 

 多くの犠牲を出して。

 聖戦は終結し、地上は太陽を取り戻した。

 

 ――――だが、もうそこに星矢はいない。



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間違っているのは世界か彼か

 空を飛んでいた。

 比喩ではない。本当に飛んでいた。

 ―――より正確に言えば、落ちていたのだが。

 

「―――っ!! なんだっ!?」

 

 本能的に空中で体勢をととのえ、軽く足を曲げ、着地の衝撃をやわらげる。

 途端に背後から攻撃が来た。とっさに転がって避ける。

 この時点で頭は戦闘モードだ。ためらっていてはやられる。考えていてはやられる。

 ある意味、この思考の切替は機械のようですらある。反射的に身体が反応し、攻撃を返す。

 ここがどこであるかだとか、なぜ落っこちていたのかだとか、そんな疑問は後回しだと脳が勝手に判断して、目の前の敵だけの反応に切り替わるのだな。

 だから、俺は、

 

「くっ!」

 

 今自分が拳を向けている相手が誰であるかだなんてこと、認識していなかったし、気にもとめていなかった。

 その姿を目にするまでは――――。

 

 ――――魔鈴さん!?

 ――――なんでっ!?

 

「――――っ!?」

 

 思わず耳をふさぎたくなるほど派手な打撃音。

 衝撃波が耳ばかりでなく全身を叩く。

 埃がもうもうと辺りに舞い、俺と魔鈴さんの間の地面は身の丈ほどに深くえぐられている。

 その深さと飛び散る土塊が加えられた衝撃の度合いを物語っていた。

 とっさに寸前で逸らすことには成功したが、本当にギリギリだったために、魔鈴さんの仮面は吹っ飛び、着衣もところどころ破れている。

 仮面の下の、秀麗な容貌が驚きもあらわに俺を呆然と眺めていた。

 ……げっ、うわ、これはヤバいかも。

 いや、魔鈴さんが攻撃してきたのがそもそもだし、俺は悪くない! ……多分。

 と言うか、なぜ魔鈴さんがここにいるんだ?

 女神(アテナ)は? 冥王(ハーデス)は? みんなはどうなったんだ?

 俺は……一体……どうなった……?

 

「星矢、お前……」

「ご、ごめん、魔鈴さん! いいわけは後でっ!」

 

 疑問は置いておこう。

 取りあえず落ち着ける場所まで行って考えるか。

 俺はそんな風にもっともらしい言い訳をつけて走り出す。

 怒られるのが嫌で逃げ出すなんてみっともないと言わば言え。

 数々の闘いを経て、実力ならはるかに魔鈴さんを超えた今でも、彼女が俺の師であることにかわりはないのだ。

 不可抗力だったとはいえ、攻撃をしてしまったことは後ろめたいものがある。

 

「お待ちっ! 星矢!」

 

 魔鈴さんの声を無視するのも、これまた心理的にかなり抵抗があるが、この場合は仕方ない。

 乾燥した空気が俺の頬を乱暴に撫でては、あっという間に過ぎ去り、景色は流れる水のように形を崩し色彩の残像だけを残して抜けていく。

 ある程度離れたところで、足を止める。

 ……魔鈴さんは……いないな。よし。

 つい反射的に逃げてしまったが、ここはどこだ。

 少なくとも冥界じゃない。

 思わず木陰を求めてしまう強い陽射し。その光に反射してまぶしいばかりの大理石と石灰の乾いた白。少ない緑は太陽に枝々を伸ばして生命力を誇示し、岩の転がる大地は自然の厳しさをうかがわせる。

 疑問に突き動かされて見渡す目に映るものは、もはや日本よりも馴染みのある風景だった。

 第二の故郷と言っても過言ではない、聖域の景色。

 ということは、なぜここに魔鈴さんが、ではなく、なぜここに俺が、ってことか。

 景色を眺めながら、そう判断する。

 まあ何だ。長年過ごした場所だし、ひどく懐かしい気持ちになる……が、そんな気持ちになっている場合じゃない。

 そもそも、どうして聖域にいるんだ。俺は女神(アテナ)に聖衣を届けに冥界に行って、それから冥王(ハーデス)に会って、それから……女神(アテナ)を庇い心臓をつらぬかれて……。

 

「何をしている?」

 

 誰だ!?

 とっさに振り返り、俺は思わず息を呑んだ。

 そんな馬鹿なっ!

 驚愕のあまり声も出ないとはまさにこのことか。

 俺に声をかけたのは、黄金聖衣もまぶしい蠍座(スコーピオン)のミロだった。

 

「ここは、すでに聖域の端だ。脱走ならばこのミロのいない時にやるのだな」

 

 そうではないとの否定も、驚きのあまり口が動かないためにできない。

 在るはずのない姿。

 聞くはずのない声。

 一体何がどうなってるんだ。

 ミロは、いや、黄金聖闘士全員が、俺達に希望を託して、嘆きの壁を砕くためその魂ごと散ったはずなのに。

 俺が驚いてばかりなのか、ここが驚くようなことばかりなのか。

 いや、問題はそこじゃない。落ち着け。

 あまりの驚きに論点がずれかける思考を落ち着かせるために、ひとまず深呼吸をする。聖域の空気はいつもどおり乾燥している。

 そう、落ち着いて確認しよう。

 

「なあ、何でここにいるんだ?」

「黄金聖闘士たる俺が、聖域のどこにいようと不思議はあるまい」

 

 ……ち、違う。そうじゃない。

 ミロの言は道理にかなってるが、知りたいのはそこじゃない。が、死んだはずなのにどうしてこの世にいるのかと正面切って訊きなおすのもやりにくい。

 何と言っても、今目の前にいる相手は生きているように見える。なのに、死んだことを前提で問えば、喧嘩を売っているようなものだ。

 呆然としている俺に、ミロは惑いのない鷹揚な所作で歩みよってくる。

 

「お前は聖闘士候補か? 怖気づいたか。だが、聖域に一度入った以上、出て行くのは聖闘士となってか死体となってかだ。明日の最終試練に備えて修行をするか、休養をとっておけ」

 

 親切な忠告だ。実に親切だ。俺は脱走しようとしてるわけじゃないが。

 だが、重要なのはそこじゃない。まったくもって違う。

 何だって?

 どうにも俺は今到底信じがたいことを耳にした気がする。

 聖闘士候補――――誰が?

 最終試練――――

 

「何の?」

天馬座(ペガサス)の聖衣の、だ。お前は天馬座(ペガサス)の聖闘士候補ではないのか」

 

 無意識にこぼした一言はミロの耳にしっかり届いていたらしい。

 眼を訝しげに細め、面白そうに応えてくる。

 朗々たる声と口調からはからかっているような調子は感じられない。

 だが、訂正しておかなくてはならないことが一つ。

 

「違う。俺は天馬座(ペガサス)の聖闘士候補じゃないぜ」

「ほう、ではアイオリアの言っていた少年とは別人か。東洋人だと聞いていたから、お前かと思ったのだがな」

 

 豪奢な金髪を揺らし覗きこんでくる表情には、興味深いものを見つけた子供のような好奇心が浮かべられている。

 その顔ににやりと笑いかけて宣言してやる。

 

「俺は、天馬座(ペガサス)の聖闘士、星矢だ!」

 

 ――――候補じゃない。

 俺がいる以上、俺以外の誰にも天馬座(ペガサス)の聖衣を装着(まと)う資格はない。

 たとえ、ここがどこで、目の前の相手が誰であろうとも、絶対に譲れない。

 

「へえ」

 

 ミロはこらえきれないような笑みをひらめかせ、俺を見る。

 む、何だよ、その微笑ましいなあと言いたげな眼は。

 例えるなら、足元にじゃれつく仔犬が真剣にバッタに吠えているのを眺めているような眼だ。

 さらに言うなら、幼児が自身の足につまずいて転び怒っているのを見ているような眼だ。

 つまり、なんだか気に食わない眼だ。

 やめろ。何も間違ったことは言ってないはずなのにひどく居たたまれない気分になるだろ!

 耐えきれず俺が抗議しようとする寸前、ミロが口を開いた。

 

「それは悪かったな。では明日の試合を待つまでもないか」

 

 口調までが微笑を含んでいる。

 いささか引っかかるものを感じるのは多分気のせいじゃない。

 だが、この言い様からして、ここは本当に聖域らしい。

 そして、にわかには信じがたいが、明日、天馬座(ペガサス)の聖衣の最終試練があるらしい。

 それは一体どういうことか――――考えろ。俺。

 

「アイオリアが見に行くと言っていたが、俺も興味がわいてきたぞ。では、()()な」

「待った!」

「何だ」

 

 思わず引きとめ、次の言葉を発するまでにはかなりの勇気がいった。

 頭の中ではありえない推論が渦巻いている。

 ここは聖域であり、明日は天馬座(ペガサス)の聖衣の最終試練がある。

 そして、目の前の漢は、黄金聖闘士のミロである。

 このすべてを真実であるとするならば――――。

 過去に戻ったのではないか。俺が聖衣を受けとり、聖闘士となる以前にまで遡ってしまったのではないか、という突拍子もない推論が。

 理性で考えれば、これから先数ヶ月のリアルな夢を見たと考えるほうがまだしも現実味があるが、その可能生は低いと言いきれる。

 すべてが夢であったなら、魔鈴さんに対してあんな拳がふるえるものか。

 あのころの俺にあれだけの力パワーはない。

 あのころの俺にあれだけの速度スピードはない。

 あのころの俺にあれだけの反射行動――――確実な戦闘経験にもとづき即座に意識を切りかえる戦士としての戦い方はできない。

 ……後でこれまでの戦いの傷跡があるかどうか、脱いで確かめておくか。

 とにかく、何も尋ねずに済ませるわけにはいかない。

 

「今は……っじゃない、女神(アテナ)が誕生してから、どれくらいだ?」

「確か、御年十三になられるはずだな。と言っても俺とて尊顔を拝したことがあるわけではないが」

 

 それがどうかしたのか、と怪訝そうなミロをおいておき、俺は一人冷汗をかく。

 つい、年月日を尋ねるところだったからだ。

 俺が天馬座(ペガサス)の聖闘士となってから冥王(ハーデス)との戦いまでに一年の猶予もないのだから、尋ねたところで無意味だってことに気づけてよかった。

 それにしても、ここが過去だとして、それで何をどうすればいいってんだ?

 うっかり、そう考え込んだ俺は、ミロが去っていくのに気づかなかった上に、去り際の台詞まで聞き逃した。

 

「弟子の育成に励んでいた我が友も、ちょうど聖域に帰ってきている。明日を楽しみにしているぞ」



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道に揺るぎなく

 悩んでいても仕方ないので魔鈴さんの家に帰ろう、と決めた時にはもう日は落ちかけていた。

 怒っているかと思ったら、意外にも魔鈴さんは平静で何事もなかったような素振りだ。

 

「お帰り」

「あ、ああ、うん、ただいま」

 

 それだけの反応にちょっと拍子抜けの俺。

 絶対怒ってると覚悟してたのにな。

 首をかしげつつも、ホッとして俺は部屋の隅に座って考え込んだ。

 

 とりあえず、状況を整理しよう。

 俺の記憶としては、冥界で女神(アテナ)を庇って冥王(ハーデス)の剣戟をうけ意識が飛んで、次に目覚めたらいきなり聖域で魔鈴さんに襲われた、としか言いようがない。おそらく、冥王(ハーデス)の剣に心臓をつらぬかれた俺は死んだんだろう。……覚えちゃいないが。

 死ぬ死ぬと思ったことは、これまでの戦いで数限りないが、本当に死ぬ際はそんなこと思う余裕なんかないもんだな。

 付け加えとしては、ここが過去の聖域らしい、ということくらいか。

 沙織さん、一輝や瞬、紫龍や氷河はどうなったんだろう。俺と同じくここにいるのだろうか。

 そもそも、死んで、過去に巻き戻るってのは何の冗談なんだ。

 

 うーむとうなる俺が何かを隠して悩んでいることには気付いているはずだが、魔鈴さんは何も言わない。

 こういったところは、正直俺とは違いすぎていて、分かりにくい配慮だと思う。

 無遠慮なまでにつっこめばいいってもんじゃないのは分かってるが、だからと言ってこんな迂遠なやりかたは俺の性に合わない。今は、放っといてくれるほうがありがたいから、それを配慮だと分かるんだが、普段なら絶対に薄情だと思ったに違いない。

 そういえば、身体の傷跡を確かめておこうと思っていたんだっけか。

 シャツをめくろうと手をかけたところで、魔鈴さんに名を呼ばれた。

 

「……星矢」

「何だよ。魔鈴さん」

「お前……女聖闘士の……いや、その」

 

 魔鈴さんらしくもなく、言葉には迷いが見える。

 言いたいことはあるが、どう言っていいか分からないといった風情だ。珍しい。言いたいことがあれば、そのままストレートに切り込んでくるのが魔鈴さんなんだが。

 

「いや、やはりいいよ。それよりお前、明日の準備はできたのかい」

「……? あったり前だろ」

 

 意表をつかれたために、一拍、返事が遅れた。

 準備なんかするまでもなく、エイトセンシズ――――セブンセンシズを超えた魂の究極にまで目覚めている俺に敵うものは地上にはいないと言っても過言じゃない。

 この聖域にだって、存在するかどうか。そういう認識がある俺にとって、思いもよらない質問だった。

 ……それでも、海王(ポセイドン)冥王(ハーデス)、神を相手取った戦いには不足。否、不足どころか奇跡を起こさない限りは天と地の差なわけだが。

 

「そうかい。なら今夜は寝てしまいな。余計なことなぞ考えずにね」

 

 魔鈴さんの言葉はどこか自身に向けて言っているように聞こえた。

 何か、悩んでいることでもあるんだろうか。

 仮面があるせいで、表情はよく分からないが、いつもの動作に少しばかり精彩を欠いている、ような気もする。仮面で隠された目線は何か言いたげにちらちらと俺に向けられている、ような気もする。俺が魔鈴さんのほうを向くと絶対にそっぽを向いているのだが。

 俺はあらためて魔鈴さんをマジマジと見やった。

 声を、かけるべきか。止めておくべきか。

 ああでも言っておかなくてはならないことがあったのだった。たとえ、魔鈴さんが何も俺に言わない訊かないとしても。

 それに甘えた黙秘は卑怯だ。師に対する礼儀がなってない、と紫龍あたりなら言うかもしれない。

 俺のこういった部分は、魔鈴さんの教育の賜物だろう。城戸家じゃ教育らしい教育なんざほとんど受けてなかったし、自分自身の気性としてもそうそうお上品てわけじゃない。

 知識面はもちろん、人品もこの人に育ててもらったのだ。恩があるなんて言葉じゃ言い尽くせない。今となってようやく分かることだが。

 

「魔鈴さん、話があるんだ」

「聞いてやるよ。明日ね」

 

 自分から声をかけたくせに、ベッドに寝転がった魔鈴さんは興味なさげに俺の声を流した。ちらちらと観察されているような視線はさりげなさすぎて、捉えられない。

 そういうの、弟子の情操教育に良くないと思うぞ、と軽くふてくされる俺。

 

 ん?

 いや待て。

 時間を逆行したなんて、まだ自分でも半分疑っているようなことを言う気か。俺は。

 明日の戦い、カシオスとの最後の勝負。

 もし、俺の記憶通りだったのなら、間違いなくここは過去だと確信できる。

 それまで待ったほうがいいんじゃないか? よし、明日にしよう。

 

 そう明日に。

 その前にやっぱり傷跡があるかを確かめておくか。

 シャツを脱ぎ、俺はがさごそと自分の身体を探って確かめる。

 っ! 無いっ!

 触った感触で分かっちゃいたが、目で見てもきれいさっぱりだ。

 何の傷跡も――――幼少時に城戸家でうけた虐待もどきの訓練や魔鈴さんとの修行でついた傷は別として――――数々の戦いで残った傷が何一つ残っていない。

 どういうことなんだ。俺は混乱しそうになる頭を抱えて鏡を見た。俺の顔が写っている。当たり前だ。

 幼いような気がすると言えばするが、しないと言えばしない。

 そもそも、水仙男(ナルキッソス)じゃあるまいし、俺には鏡の自分の顔に見惚れるような趣味はないから、細部まで覚えてない。

 駄目だ! 分からん!

 やっぱり、明日待ちだな。

 

 魔鈴さん、冷たい視線になるのはやめてくれ。俺は別に露出狂じゃないしナルシストでもないっ! 事情があるんだよっ!

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 翌日、俺は闘技場コロッセオにカシオスと向かい合っていた。

 遠雷の音が響く空は物騒な音とは逆に晴れわたり、強い陽射しが高い天からふりそそいでいる。

 観客席には、立会人をかねた野次馬の雑兵どもが待ちきれぬと立ち上がり、今か今かと試合が始まるのを見守っていた。

 

「そんなに俺に殺されたいのか。逃げずによく来たな。星矢」

「お前ごときに逃げる理由なんかないぜ」

「な、なんだとぅっ!」

 

 ゆるみきったニヤニヤ顔から沸騰したかのようにいきり立つカシオス。

 前々から思ってたが、お前、本当は何歳だ。自称15歳か?

 その口からは聞くにたえない雑言が飛び出してくる。

 と言っても、今は実力が違いすぎるせいか、そこまで腹はたたない。

 

「双方やめい!」

 

 段上からの鋭い声。太陽を背にした姿は黒く影になっている。

 仮面で口元は隠されているにもかかわらず張りのある声は闘技場コロッセオ全体に響きわたり、雑兵どもは身を縮めひざまずいた。

 もちろん、俺達もだ。

 

「お前達は今日まで九人の戦士と戦い勝ち抜いてきた。残った戦士はもはやお前達のみ。今日戦って勝ち残った一人が女神(アテナ)の栄誉ある聖闘士となることが叶うのだ。そしてその者には……」

 

 教皇の法衣に身を包み、よどみなく語るその男の姿を複雑な気分で見上げる。

 今の俺は、その仮面の下にある素顔が誰のものかを知っている。

 光と闇の運命に翻弄された男。

 女神(アテナ)に拳を向けた黄金聖闘士。

 同胞殺しの血塗られた手を持つ者。

 教皇の座を略奪した双子座(ジェミニ)のサガ。

 死後の栄誉までもを汚す覚悟でもって、女神(アテナ)のために蘇り闘い散った姿を知っている。

 今の俺ならやろうと思えば、今すぐにでもあの仮面を引っぺがし、教皇の座からサガを引きずりおろすことは不可能じゃない。簡単だと言ってもいいくらいだ。

 ただ、俺がそれをやってはならないのだということくらいは、分かっている。

 女神(アテナ)の聖闘士が犯した罪ならば、裁けるのは女神(アテナ)だけ。……赦す権利を持つのも女神(アテナ)だけだ。

 

 ……何を迷ってたんだ。俺は。

 ここが過去であろうと未来であろうと、俺が女神(アテナ)の聖闘士なら――――やるべきことは決まっている。

 

 俺の固めた決意に水をさすように声が割って入った。

 

「お待ちください! 恐れ入りますがその前に申し上げたいことがございます!」

「何か、シャイナよ」

「実は、昨日、星矢が聖域を脱走したという疑いが……」

 

 あー、そういえばこんなイチャモンをつけられたっけな。

 あの時は憤慨しただけだったが、今はちょっと感心する。

 だって、俺が脱走したなんて証拠ないんだぜ? 今だって、その根拠を示しているわけでもない。

 それにもかかわらず、回りはざわめきはじめている。

 

「なんだと、脱走!?」

「本当か。それは……」

「魔鈴、お前は何をしていたんだ。指導者にあるまじきことだぞ」

「まったくだ。脱走は厳罰と知らぬお前ではあるまいに」

 

 シャイナさんは、疑いがある、と言っただけだが、まるで俺が本当に脱走したかのようだ。

 脱走したなら、今頃、ここにいる筈がないってのに。

 ざわめく衛兵達の不審の目がちらりと俺達の全身に走る。

 

「何かの間違いでしょ」

 

 クールに返した魔鈴さんとは対照的に、激しくまくしたてるシャイナさん。

 

「とぼけるな! お前ははるかに実力の勝るカシオスと戦うことに怖じ気づいたのさ!」

 

 今度は何の反論もせず黙って見ていた俺に指をつきつけ詰め寄る。

 仮面越しの苛烈な視線。今にも襲いかからんばかりの攻撃的な口調と動作。

 こりゃ間違いなく、俺が勝ったら闇討ちされるな、と前回の苦い記憶を呼び覚ます。今回も夜逃げ必至か、と溜息をつきそうになってこらえた。

 

所詮(しょせん)、日本人に女神(アテナ)の聖闘士になる資格などありはしないのだ!」

 

 いつのまにか、俺の脱走どうのこうのではなく、女神(アテナ)の聖闘士の資格云々の話になっている。

 見事なまでの話のすり替え。シャイナさんには扇動家(デマゴーグ)としての才能があるんじゃないか。

 俺がこんな場違いな感心ができるのは、雑兵どもはともかく、教皇……いや偽教皇はそうそうのせられない、つまり、俺に不利益なことは何もないと分っているからだ。

 ……複雑な気分はいっそう強くなる。

 

「さあ、それはどうかな」

 

 進み出てきたのは平服の獅子座(レオ)の聖闘士アイオリアだった。

 その脇にミロとカミュもいる。

 あれ? 前回、こんなだったっけか?

 

「日本人だから聖闘士になれないということはないはずだ。それに勝負というものはいつも同じとは限らない」

「その通り。そもそも脱走するような臆病者に勝利の栄冠を掴むことなど叶わんからな」

 

 アイオリアが力強くさとした傍らで、ミロが笑みを浮かべて同意する。カミュは静かな目線で沈黙を守っているが、否定をする気はないようだ。

 さらに言いつのろうとしたシャイナさんは、教皇の袖の一振りに機先を制され沈黙した。

 

「いずれにせよ、戦えばはっきりすることだ。勝者にはこの聖衣を与えよう!」

 

 自ら輝くように存在感を主張する天馬座(ペガサス)聖衣の聖櫃を見て、雑兵どもが畏怖の念に打たれたかのように息を呑んでどよめいた。

 開戦が、力強く宣言される。

 

「戦え! 二人とも!」



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今ひとたび己の星を

「うぅうおおおおおおおぉぉっ!」

 

 吠えながら、カシオスが掴みかかってくる。その腕が俺に届く前に眉間めがけて拳を放つ。むろん手加減はしている。

 たとえ、今ここにカシオスが生きているとしても、カシオスの死に様を覚えている身としては、以前のように容赦なくなぶる気にはなれない。

 誰のために何のためにカシオスが命を散らしたか、俺は知っているのだ。

 六年分の貸しもあるが、それ以上にでかい借りがあるってことだな。

 勢いを殺いだところで距離を取って、流星拳で終わらせる……つもりだったんだが、ここで予想外なことが起こった。

 

 予想外なこと=壁にめり込んだカシオス。

 

 ―――っ!? なんでそうなる! 避けるか受けるかしろよ!

 ……もしかして、今の、手加減ミスったか……? 音速マッハ超えてた……かもしれないような……気がしなくもないような……。

 めり込んだカシオスは通常の動きにあらざる……具体的に言えばひくひく痙攣けいれんしている。絶命寸前のゴキブリのようだ。

 ……う、動いているなら生きてる。生きてるなら、大丈夫だ! カシオスは頑丈だし、きっと大丈夫……だよな!

 

 俺は冷汗をかきながら、ふと人体における攻撃目標を思い浮かべた。

 魔鈴さんとの修行の日々。死ぬかと思うほどきつかった鍛錬、寝たら次の組み手が地獄になるある意味決して油断できない講義。曰いわく―――。

 ―――いい、星矢。鍛えられない人体の急所はおおよそ頭部に八、胸部に七、その他に九、このうち重要なのは狙えば一発で相手を殺せる箇所さ。

 ―――すべて知っておかないと、効率的な攻撃も機敏な防御も有効な反撃もできないわ。よく覚えておくんだよ。

 

 当然、次の組み手で座学は実践される。

 つぶれよとばかりに容赦なく狙われる双眼。落ちよとばかりに微塵も迷いなく攻撃される頚椎。喉仏。心臓。思いだすと今でも身震いが出るぜ。よく生きてたな俺。

 一発で相手を殺せる箇所ってのは、当然のことながら守りも固い。そこを突くためにまず狙う肩口、肘後部、上腕骨。

 相手の足を止めるための膝、脛、かの有名な英雄アキレウスの名を冠されているアキレス腱の足首、足の甲。

 金的は、納得いくことに警戒が強いので、奇襲でもされない限りは特に問題ないが、下腹部の膀胱には神経の束があるので、そっちには警戒しなきゃならない。……本当に、よく生きてるな俺。

 

 思わず自分の生存に感動しそうになったところで正気に戻った。所詮(しょせん)は逃避だ。

 だがどうしようもないことってのが世の中にはあるものだ。強く生きろよカシオス!

 

 激励を心の中で密かに送り、回りに注意を払えば、やたらと凝視されている。雑兵どもは馬鹿なと眼を見開きひそひそとざわつき……、これはまあいいんだが。アイオリアは驚嘆とどこか嬉しげな光を眼にやどし、ミロは愉快そうに戦意を秘めた笑みを浮かべ、カミュも感心したような表情になって……三者三様の熱い視線が重圧となって伸し掛かってくる。黄金聖闘士とまでなると、存在感だけで空気を支配し人を圧倒できる。視線の圧力も押して知るべし、物理的なまでの力を持っている。

 平服なこともあってか先ほどまでは曲がりなりにも抑えていた力を、惜しげもなく視線にこめてきた。

 魔鈴さんのやんわりとした物問いたげな視線や、シャイナさんの警戒と憤怒のまじったきつい視線もまったく気にならないのはそのせいだ。

 あとで喧嘩を売りにくる身としては目立つのはまずかっただろうかと少し悩んだが、やっちまったものは仕方ない。

 とりあえず、これで俺が聖衣を手に入れたことになるはずだと、段上の法衣を見上げた。

 

女神(アテナ)は星矢を新たなる聖闘士と認めた! ここに聖闘士の証である聖衣を授ける!」

 

 芯の通った鋼のような声が、俺に聖衣の授与を告げる。

 はじめて聖衣を授かった時にははしゃいだが、今は落ち着いている。勝って当たり前の実力の違い過ぎる勝負で、しかも手加減を間違えたのだ。恥じ入りこそすれはしゃげるはずもない。

 無言のまま進み出て、声の元を仰ぎ見た。太陽を背にしているため、シルエットしか見えない。考えを、読めない。

 

 それはそうと、考えてみれば、この男まで含めて、この場には黄金聖闘士が四人もいるわけだ。

 お前ら、実は暇なのかよ?

 黄金聖闘士十二分の四だぞ。つまり三分の一がここにいるってことだぞ。教皇の振りをしているサガはともかく、前も見に来てくれてたアイオリアもいいとして、ミロとカミュは何でここにいるんだ?

 いていいはずは……ない、よな。この距離なら、聖域に何があろうと即座に対応できる自信があるからであって、暇だったから見に来ただけだなんてことは……そんな迷惑な気まぐれを起こしただけだなんてことは……。

 いや、これ以上、考えるのはやめとくか、と俺は頭を振った。

 

 そういや、回りがやたらと大人しいな。前は、星矢めだの、くそっだのと負け惜しみが露骨に漏れ聞こえていたのに、今はひそひそがやがやと溜息を殺すようなざわめきしか聞こえない。

 向けられる強烈なまでの視線のほうに、俺の意識が集中しているからそう感じるのかもしれないが。

 

「なお、星矢に忠告しておく。聖闘士は神話の時代より女神(アテナ)を守護し正義を守ってきた……。その聖衣も正義を守るためにのみ身にまとうのだ。決して私闘や私欲のためにまとってはいけない」

 

 一拍の間。

 

「もし、この掟にそむき聖衣をけがすようなことがあれば、このギリシアはおろか、世界中にいる女神(アテナ)の聖闘士がお前を滅ぼしに行くだろう。それを忘れるな。星矢よ……」

 

 女神(アテナ)の聖闘士、か。最もそれを口にする資格のない者はお前じゃないのか、サガよ。

 苦いものが胸に満ちる。俺はサガを憎んじゃいない。恨んでもない。

 だが、どの(ツラ)さげてそんな言葉を吐けるのか、と思う。

 同時に、言わねばならぬ苦衷はいかばかりか、と思う。

 苦痛の生から解放してやりたいのか、あるいは偽りの正義を砕きたいのか、どこからか湧く衝動をこらえ、俺は、いずれ敵として再会するだろう男から聖衣を受け取った。

 晴れわたる蒼天は下界の争いなど知らぬがごとく高く広く、どこまでも遠い。同じ色をしているはずの男の眼は仮面に隠され、蒼天よりさらに計り知れぬ―――遠い。

 

 あっけない試合と同じく、聖衣授与もあっさりと終わった。

 

 三々五々と人が散っていく。

 その中には、シャイナさん一党の姿もある。すでに担架で運ばれたカシオスのもとに行くのかもしれないし、俺への夜襲相談でもするのかもしれなかった。

 黄金聖闘士三人は最後にそれぞれの感情をこめた複雑な一瞥をくれ、各自別れていく。

 ようやく突き刺さらんばかりの視線がなくなったことにホッとしつつ、俺も聖衣をかつぎあげてその場を離れた。ぶっちゃけ眼をつけられたかもしれんと思わなくもない。勘違いであることを祈るばかりだ。

 だけど、俺、悪運は強いけど幸運とは言いがたいんだよな。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 さて、聖衣を受け取り、魔鈴さんの家に戻った俺は手荷物をまとめて夜逃げの準備をした。

 さっさと夜逃げしないと面倒なことになるからな。

 明るいうちはあちらも手が出せないかわりに、俺も逃げにくいので、闇に紛れるべく星が瞬きはじめる時間まで待たなきゃならない。

 

 適当な時間に、まとめおわった荷物をかつぎあげる。荷物と言っても、着替えはすでに済ませてあるので些少の金と水、そして聖衣だけだ。

 後は、魔鈴さんに……話しておかなきゃならないよな。やっぱり。

 俺が見ているのに気づいたのか、無言で何事か考えていたらしい魔鈴さんは振り返った。

 

「行くのかい。星矢」

「ああ、シャイナさん達がこのままだと黙ってないだろ」

 

 条件反射的に返事をして歩みよる。

 何も魔鈴さんは訊かない。だけど、それに甘えていられない。もしかしたら誤解を与えてしまうかもしれないこれからの己の行動について、何も言わずに行くことはできない。魔鈴さんにそんなことはしたくない。

 

 それに、敵にまわられる可能性はなるべく減らしておきたいからな。

 前回でも魔鈴さんはなぜか全般的に俺の味方をしてくれていたから大丈夫だとは思うけど、万が一ってこともある。

 世の中は何が起こるか分からない。

 なんせ、あの、お嬢さんが女神(アテナ)で、この、俺が過去に巻き戻っているのだから、これ以上の証明はない。説得力がありすぎるぜ。

 そう、世の中は何が起こるか分からないのだ。

 だから。

 これだけは言っておかなければ。

 

「魔鈴さん、俺がこれから何をするとしても、信じてほしい。俺は女神(アテナ)に剣を向ける者じゃない」

 

 眼を見る。仮面の下の双眸を見つめる。

 仮面に隠された素顔を今の俺は知っている。

 普段の態度からは考えもつかない優しげな風貌を見たことがある。

 

「俺、は―――」

「―――いいよ。誰の師匠を六年もやってきたと思ってるんだい。お前は長年手塩にかけた私の弟子だ。嘘をついたり、人を謀るような奴じゃないことは分かってるさ。お前がそうまでも言い濁すことなら、それは、少なくとも今は言えないことなんだろう」

 

 言葉を継ごうとした俺を制して、淡々と紡がれた言葉に思わず絶句する。

 俺の態度から、こんなこともあろうかと予測していたんだろうか。あまりに静かな口調だった。

 

「お前がもしも聖域に反逆しようものなら、私の命だけじゃ償えない。それでも、お前が女神(アテナ)に背を向けるわけじゃないと言うのなら、信じてくれと言うのなら、私はお前の敵にはならないよ。私の眼はお前を疑うほど曇ってやしないさ」

 

 素っ気ないほどにあっさりと、望む答を魔鈴さんは俺の手の平に転がしてよこした。

 知らず眼から何かがこぼれる。熱くとめどないそれは俺の心に一滴の誓いを落とす。

 ―――決して、この信頼を裏切ったりしない、と。

 

「……行くよ。また。魔鈴さん」

 

 別れを告げる。それ以上の言葉は必要ないと分かったから口にしない。

 外には、雑兵どもの殺気だった気配が立ち現れ、だんだんと増してきている。これ以上ここに留まるわけにはいかない。

 感謝をこめて、ニコッと笑いかけ、俺は外へ飛び出した。

 

 小動物の密やかな息がそこかしこに感じられる聖域の夜の静寂は、たゆたうような昼の熱から急速に冷めようとしている。雑兵どもの気配は、その中でも目立つ。わざとかと言いたくなるほどだ。

 夜襲だってのに、お前ら隠す気ないだろ。それとも舐められてるのか、これは。

 いい度胸だ、と俺の口元に笑みが浮かぶ。魔鈴さんに向けたものとはまったく違う笑みだと、自分でもはっきりと分かる笑いだった。

 

 魔鈴さんが、出て行く俺の背に何かを言っているのが聞こえた。聞かせる気はなかったのかもしれない。よく聞き取れないほどの声だった。

 ぶっちゃけ俺は、外のこととこれからのことに頭が飛んでいたので、聞こえてはいたが、音の羅列としてしか認識しちゃいなかった。実に悔やまれることに。

 後悔ってのは、後で悔いるとはよく言ったもんだぜ。

 

「星矢、お前、女聖闘士の仮面の下を見るということが何を意味するか知っているのかい?」



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忘れていた不合理な掟

「待てェっ!」

 

 誰が待つかよ。

 家から飛び出した俺を目ざとく―――鼻ざとくか?―――嗅ぎつけたらしい雑兵どもが、わらわらと追ってくる。

 そんな鈍重な走りで聖闘士に追いつけると思ったら大間違いだぜ!

 俺は奴らに背を向け、さらにスピードをあげて遠ざかった。

 雑兵相手に戦うまでもない、ましてや、俺がやったら単なる弱いものいじめだ。

 何せ、奴らは走る俺を追ってくることすらできない。

 聖闘士と常人の間には、高い壁がある。いや、深い堀と表現すべきか。

 そこには確固とした断絶があるのだと今の俺ならはっきり分かる。

 聖闘士と戦えるものは聖闘士のみ。

 

「持つものと持たざるものの違い、か」

 

 つぶやきつつ夜の聖域を駆ける俺の前に、待ち受けていたように立ち塞がる影がある。

 

「待ってたよ。星矢!」

「誰だ!」

 

 って、シャイナさん!?

 すっくと立ち、こちらを睥睨しているのは、昼間倒したカシオスの師匠、まがうかたなく白銀聖闘士蛇遣い座(オピュクス)のシャイナさんだった。

 んなっ! 撒いたはずだぞ!?

 驚きのあまり、思考が0.3秒ほど停止する。

 

 ――――囮か!

 

 止まった頭が動き出すと同時に答えがはじき出される。

 なるほど、どうやら、カシオスを一発で倒してしまった成果らしい。

 俺が逃げ出すことを予測の上で、あの気配ばればれの雑兵どもに回りこませ、進路を限定、自分は待ち伏せ、と。多分そんなところだろうと思う。

 そこまで警戒されるとは予想外だったな。まいった。そう簡単には出してくれそうもない、か。

 思わず舌打ちをもらしそうになってこらえる。

 

 前回の侮りや気負いのほとんどないシャイナさんがそこにいた。

 聖衣こそまとってないものの、顔が真剣(マジ)だ。……仮面をしているから雰囲気が、ということだが。

 つまり、当然ながら、

 繰り出される拳も手加減なし、だ!

 

「サンダークロウ!!」

 

 前置きもなしに、前回とは違い本気の拳が俺を襲う。

 閃光の如きその拳は、正確に俺の急所を狙っている。バックステップ。飛んで避ける。間を置かずに蹴りが追ってきた。のけぞる。そのまま地を蹴り宙で身をひねり腰を落とした体勢で着地。さらに後ろに飛んだ。

 聖衣を収めた聖櫃を横に放り出し、身構える。

 

「どうした! 星矢! 逃げるだけじゃどうにもならないよ!」

 

 分かってるさ。

 だけど、そもそも何でそこまで目の仇にするんだよ!?

 俺は必死でシャイナさんを説得できないものかと考えをめぐらす。

 

「シャイナさん、俺は試練を勝ち抜き、正当に聖衣を手に入れたんだ。行かせてくれよ」

「冗談はおよし」

 

 なるべく冷静に説き伏せようとしたが、一言に切って捨てられた。

 ……この手の才能はないんだよな。

 

 さて、前はどうやってこの場を切り抜けたんだっけか。

 どうにも曖昧な記憶をたどる。

 ペガサス流星拳でシャイナさんの仮面を砕いて、終わったんだっけという記憶を思いだしたはいいものの、同時に何かの警鐘が頭のどこかで鳴りはじめる。

 はて……?

 

 動かぬ俺にじれたか、シャイナさんが再びサンダークロウの構えを取った。

 何と言うか、いかに前回の俺が手加減してもらっていたのかよく分かる。シャイナさんはシャイナさんなりに、死なないように気を使ってくれていたんだろう。……当時の俺は間違いなく命の危険をひしひしと感じたが。

 応えて、俺もペガサス流星拳の構えを取った。

 俺達の発する闘気のぶつかり合いに耐えかねたか、かたかたと足元の小石が震えはじめる。

 はじめて、天馬座(ペガサス)の聖衣をまとったのがこの戦いだったな。

 などと、感慨にふけっている暇はない。

 今のシャイナさんは、間違いなく俺を殺す気できているのだ。

 からりと足元の小石が、転げた。転がった石が岩にぶつかり、ひときわ高い音を立てて跳ね返る。

 

「サンダークロウ!!」

「ペガサス流星拳!!」

 

 ほぼ同時に放たれる技。

 シャイナさんの拳を叩き落とし、逆に拳を繰り出す。

 なるべく丁寧に。血を流させずに済むように。カシオスの時の失敗を踏まえて慎重に。

 カシオスならともかく、今の相手はシャイナさんだからな。

 

 フッと鼻で笑って、俺の拳をさばくシャイナさんの顔が段々と強張っていく。……やはり仮面で見えないから雰囲気で推察しているだけなんだが。

 シャイナさんのさばく速度に合わせ、少しずつスピードをあげているから無理もない。

 1秒間に80発。1秒間に85発。1秒間に90発。1秒間に95発。1秒間に100発。1秒間に105発。1秒間に110発。

 ―――もっと速く。

 ―――流星のごとく。

 

「馬鹿なっ! たかが青銅聖闘士のお前の拳が見えないなんて!?」

 

 動揺が表れ出たシャイナさんの隙を見逃さず、前に出る。

 瞬間的に目の前までせまった俺に、シャイナさんはとっさに腕をクロスさせ頭をかばう。

 その腕を丁寧に跳ね上げ、仮面に触れる寸前、拳をとめた。

 ―――衝撃波。

 

 パラリ―――。

 ほとんど音もなく二つに分かれ地に落ちる仮面。

 片方は地面にぶつかった衝撃により、さらに二つに割れ、もう片方はひび割れがさらに大きくなった。

 左右に割れた仮面の下から、清楚な素顔が驚きの表情をあらわにしている。

 こうして見るのは二回目だが、今回は傷つけずに済んだ。よかった。

 女の人に傷をつけるなんて、冗談じゃない。

 拳を向けるのも嫌だってのに。

 心の底から安堵してニコッと微笑む。

 

「俺は、シャイナさんより強い。女の人に拳をふるうなんてしたくないんだよ。退いてくれ」

 

 前はこれで何とか済んだはずだ、済んだはずだが―――むぅ、何か忘れているような気がしてしょうがない―――何か、何か忘れちゃやばいことだったような気がするぞと警鐘が鳴りっぱなしだ。

 はて……?

 

「お前っ、まさか風圧だけでっ……? 青銅聖闘士のお前の小宇宙が……そんな」

 

 安心したり悩んだりしている俺の前で、シャイナさんは驚いた表情のまま、言いよどむ。

 驚愕、混乱、怒り、悔しさ、そういったもので千々に乱れた心がそのまま口調にも表情にも表れていた。

 そんな自分を落ち着けるためか、ふうっと息を吐き、姿勢をただし、俺を見る。

 そこで仮面がない素顔を俺にさらしていると意識したらしく、はっと顔を手でかばって後ずさった。もう遅いと思うんだが。

 みるみるうちに、シャイナさんの口元が引き結ばれ白い頬にわずかな朱がのぼる。

 

「……っ、星矢、次に会う時は聖衣をつけての勝負だ!」

 

 ザッと音がしそうな勢いで背を向け、離れていくシャイナさん。

 その後姿は隠しきれぬ動揺に満ちていた。

 遠ざかっていくにつれて、争いの気配は薄くなり、聖域の穏やかな夜の静けさが戻ってくる。

 

「なるべくなら、そんなことで会いたくないなあ」

 

 小さくなる後姿に声をかけながら、相変わらずだな、シャイナさんは、と苦笑いする。

 終わったと、何はともあれ一安心して気を抜いた瞬間だった。

 脳裏に響く言葉があった。

 背筋の毛が一気に逆立つような感覚。

 聖域を出るべく、前に出した足が凍りついた。

 

 家を出る前、

 魔鈴さんは、

 何と言った?

 

『――――星矢、お前、女聖闘士の仮面の下を見るということが何を意味するか知っているのかい?』

 

 耳元でささやかれたかのようにはっきりとその言葉を思いだす。

 おざなりにしか聞いてなかったけど、別に聞こえてなかったわけじゃないんだ。

 もっと真面目に聞いとくべきだったぜと今更な後悔に、俺は頭を抱えたくなった。

 何の冗談だよ!

 

 脳内で鳴り響く警鐘が示していた、今やはっきりと思いだした事実。

 女聖闘士にとって、素顔を見られるってことは、その相手を、殺すか、愛すか!

 前回、シャイナさんが俺を執拗に殺しにきていたきっかけを俺はすっかり忘れてしまっていたのだ。迂闊(うかつ)だった……。

 さらに見過ごしてはならないことがある。

 なぜ、魔鈴さんは俺にそんなことを言ったのか。

 正直、見過ごしてしまいたい―――んだが、

 

 ―――俺、魔鈴さんの素顔、見た、よな―――?

 

 決して看過できぬ恐ろしい現実に、思考が停止しようとするのを必死にひきとどめる。

 何の解決にもならん!

 だからと言ってどうすりゃいいのかも思い浮かばんっ……!

 俺は脱力のあまり、しゃがみこみそうになった。

 勘弁してくれ! というのが正直な心情だ。

 

 脱力ついでに、息を深く吐いて、肩をまわし、戦闘のみならず精神面の問題で緊張した身体をほぐす。

 落ち着いて、客観的に考えろ。

 平常心、平常心だ。唱えているだけで保てたら苦労はしないけどな!

 

 俺は魔鈴さんの素顔を見た。

 魔鈴さんは女聖闘士の仮面の掟を俺が知っているとは多分知らない。

 俺はシャイナさんの素顔を見た。

 シャイナさんは仮面の掟を俺が知っているかどうかは多分頓着しない。

 

 殺すか、愛すか、どちらにしても。

 

「ど、どうすれば……!」



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死の女王の島

 ここはデスクィーン島。

 赤道直下の南太平洋に位置する火山島。

 

「あ、暑い」

 

 大地は熱く焼けただれ、天からは一年中火の雨が降りそそぐ灼熱地獄。

 辰巳が瞬にそう言っているのを薄ぼんやりとしかおぼえてなかったが、なるほど、死ぬほど暑い!

 太陽光は痛いばかりに攻撃的だし、岩に反射する輻射熱の温度ときたらこれまた死ぬほど熱い!

 思わずぼやかずにはいられないほどだ。

 ましてや俺の修行地はギリシア。あそこは気温はともかく基本的には乾燥している。

 島だけあって、ここの湿度はいかんともしがたい。き、きつい。

 犬のように舌を出して呼吸をするも、吸い込む空気がそもそも体内温度より高いので余計に暑くなっただけだった。

 言っても仕方ないが、言わずにはいられない。言わせてもらおう。

 暑すぎる!

 

 さて、どうしようもない問題をかかえてしまったが、一応聖域脱出の叶った俺はデスクィーン島に来ていた。

 考えるのは後回しにしたのだ。

 逃避?

 優先順位が違うだけだ。逃げてなんかいない。

 

 そうして、自分を納得させた俺は、正直これからどうしようかと悩んでいた。

 聖域の奪還、海王(ポセイドン)の復活、冥王(ハーデス)の封印。

 どれもこれも俺だけでどうこうできるもんじゃない。

 ……聖域奪還だけなら何とかならんこともないが。

 

 とにかく、それらの問題を一輝に相談しようと、俺はデスクィーン島に向かうことにした。

 一輝は、間違いなく、俺達兄弟のなかでは最強と言っていい。

 たとえ、どんな戦いであろうとも、一輝が後ろにいると思えば振り向かずに戦うことができた。振り向く必要などないと、一輝がいれば背は大丈夫だと、何の根拠もなく、それが当然だった。

 それだけ頼りがいのある男だったのだ。

 沙織さんに相談しようとは不思議に思わなかった。沙織さんは女神(アテナ)だ。なのに、何でだろう。気が、進まないのは。

 黄金聖闘士の誰かに相談しようとも思わなかった。教皇にばれる危険性があるからな。彼らは教皇派、反教皇派にかかわらず聖域の中枢に近すぎる。彼らが動けば否応なく教皇に伝わる。

 他にも、どうにももやもやしているものが胸にある。腹の底にたまった不透明な何かが俺に止めておけと言う。これは一体何だろう。喉に引っかかった小骨のようなすっきりしないこの感情は。

 俺らしく、ない……よな。

 だが、少なくとも一輝は相談するに足る漢だ。問題は、ない。

 

 困ったのはどうやって行くかだった。

 前回、日本に帰るとき、また聖域に喧嘩を売りに行った時はグラード財団のチャーター機だったが、今回はそんなわけには行かない。

 日本ならともかく、デスクィーン島に行く理由なんざないからな。

 そもそも考えてみれば、俺はパスポートを持ってない。

 前回は何とも思っちゃいなかったが、今思えば疑問だ。どうやって俺はギリシアと日本を行ったり来たりしていたんだ? 税関なんぞ通った覚えすらない気がする。

 

 ……グラード財団が犯罪行為を何とも思わず行なったのか、それともグラード財団の威光で無理を押し通したのか。

 どっちかと言えば後者だと思うが、前者もありえそうだ。グラード財団だしな。

 

 光速を手に入れている現状としては、走って行ったところで問題はない。

 可能か、不可能か、という意味だけならな。

 ただし、光速だぞ?

 ソニックブームなんか目じゃない、間違いなく俺が通った後の大地は―――もちろん海もだ―――ぺんぺん草すら生えぬ荒野と化すだろう。

 それはまずい。救いようもなく確実にまずい。

 

 そこで、テレポーテーションが使えんものかと試してみた。

 超能力は思ったよりもあっさりと使えた。

 第六感に属すであろう能力が、第八感に目覚めている俺に使えないはずはないと思ったのは正しかったらしい。

 実際、黄金聖闘士はもちろん、白銀聖闘士のほとんども使えるようだったし、一輝も青銅だったが、精神支配の技をも得意としていたしな。

 何より、前回、俺達の討伐に日本まで出向いた聖闘士達が、飛行機やその他公共交通機関を利用したとは考えにくい。

 テレポーテーションが使える者とグラード闘技場(コロッセオ)に飛べば済むのだし、第一あんな奴らが日本で公然と動いて、グラード財団の情報網に引っかからないわけがない。

 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は聖域に潜む悪の根を引きずり出すためのものだったんだから、ただでさえ、聖域の動きには気を配っていたはず。白銀聖闘士や黄金聖闘士が派遣されたとなれば、もっと騒いでいておかしくない。

 だいたい、聖闘士ですらない貴鬼が、使いこなしていた能力でもあるんだぞ。

 ただ貴鬼の場合は、ムウという師匠から指導を受けていたんだろうが。

 とにかく、超能力はある程度以上の聖闘士なら使えるんじゃないか、と俺は思ったのだ。

 そして、それは正しかったことが証明された。

 

「何で、魔鈴さんは教えてくれなかったんだ?」

 

 何でだろう。使えないのか。あるいは、自身で研鑽すべきだと考えていたのか。

 

 ただ、どうやら才能の向き不向きがあるらしく、テレキネシスは比較的自由に扱えるが、テレポーテーションは細かい制御がきかない。

 一輝の小宇宙を頼りにデスクィーン島にたどりつくまでに、何度か海に落ちて実証済みだ。

 便利なんだろうが、あんまり頼りになる能力でもないな。

 ずぶ濡れの俺にはそう思えるぞ。

 

 そういうわけで、俺は聖域を脱出して、さして時間もかけずにここデスクィーン島にいるというわけだった。

 大した時間をかけなかったと言っても、時差があるから、ここじゃ、とっくに日がのぼっている。

 朝でもこれだけ熱いのに、日が頂点にさしかかればどれほどかとうんざりする。

 目の前の海に再びダイブしたいという誘惑に耐え、一輝の小宇宙を探る、までもなかった。

 先ほどから、複数の、戦闘をしているような攻撃的な小宇宙が火口と思しきほうから、ガンガン伝わってくるからだ。

 俺に対してのものじゃないが、あからさまな敵意。隠そうともせず撒き散らされる攻撃的な気配。

 ひどく荒々しい、憎しみすら感じるような小宇宙……嫌な予感がする。

 脳内の警鐘に耳をかたむけつつ、決着がつこうとしているのか、総数の減っていく小宇宙を探る。

 

 一輝と……後は誰だ?

 知らない奴だな。

 一輝の小宇宙は揺るぎなく、強力だ。青銅としては、ではあるが。

 何か、嫌な予感がする。

 俺は、また、何か、忘れちゃいけないものを忘れてるんじゃないか……?

 

 いや、ごちゃごちゃ言っていても仕方ない。

 さて、声をかけに行くか。

 俺は、覚悟を決め、気配のほうへと向かった。

 

 ちょうど、俺の真上を悲鳴とともに人間が飛んでいく。

 飛びたくて飛んでいるわけではないのは、その悲痛な叫びからして言うまでもない。哀れな敗者の姿だった。

 そいつが重力に引かれて落ちていくのを尻目に、俺は一輝に声をかけた。

 

「久しぶりだな。一輝」

 

 一輝の、き、を言い終わる前に拳が飛んできたのを、

 

「おっと」

 

 わずかに上体をそらすことで避ける。

 いくら戦闘中で、気配に対する脊髄反応っぽいとはいえ、何と言う対応だ。

 敵意がないことを示すために、聖衣はボックスごと置いてきたのに。

 と言うのは表向き、実は海に何回か落っこちた際、中に浸水して、水がポタポタ垂れていたから、干してきたのだ。

 この気温ならすぐに乾くだろうし、話し合いに聖衣は不要。干していても大丈夫だと思ったんだが、軽挙だったか。

 あの函は防水仕様にすべきだよな。

 

 一輝は餓えた獣のような力への渇望を覗かせた目で俺を見る。

 警戒。

 敵意。

 憎悪。

 殺意。

 絶望。

 ギラギラとした双眼の光は、俺の知る一輝とはかけ離れていて、聖闘士としての忠誠や、地上の平和への祈りはまったく感じられない。

 元からそんなものは無いと言われればそれまでだが、少なくとも俺の知る一輝は、己はそれを信じきれずとも、女神(アテナ)や俺達の目指すものとしては信じてくれていたのだ。

 

 一体何が……? と首をひねって、そう言えば、荒んでる時期だったんだよなと、遠い―――事実はともかく、感覚的にはかなり遠い―――過去を思い起こす。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)時の一輝はそう言えば随分と荒れていたよな。何でもっとさっさと思いだせなかったんだ?

 まったく、どうして、こうも色々忘れてるんだよ。俺は。

 と、落ち込みかけたが、思い返してみれば、あの頃は強大な敵と戦っては死にかけ、傷が治るまえにまた次の戦いが始まっていた。

 眼前で仲間が倒れていくのを見続け、自分も仲間のために命をかけ、女神(アテナ)と正義のためただ戦った。戦って、戦って、戦い続けて。

 熱き血潮もつ兄弟達と、誇り高き同志達とともに、女神(アテナ)を守り戦った輝かしき日々。

 それでも、それは戦いに過ぎない。事細かにおぼえ、懐かしむことができるような日々じゃない。

 敵を倒し、戦友を踏み越え、血と泥にまみれて戦い続けた平和とは程遠いあの日々を、慕わしいと言えるほど俺は不健全な人間じゃない。

 忘却は自己防衛だ。必要のないことから忘れていく。思えば、生き急いでいたんだろうな。

 ……だから忘れてても俺のせいじゃない。言い訳っぽいのは気のせいだ、……と思う。

 

 相談をするには、まずねじくれた性根を叩きなおさないと無理、か。

 過去を思い返して、さしあたりの結論にいたる。

 ひとまず、声をかけて反応を見るか。

 

「一輝、久しぶりだな。俺が分かるか?」

「……星矢か」

 

 心なしか間があった気がするが、何とか、覚えていてはくれたらしい。

 しかし、攻撃しといて「星矢か」だけで済ませるのはどうかと思うぞ。一輝。

 好意的でないのはしかたがないが、さて、一体どうやって話したもんだろう。

 ここまで来ておいてまぬけな話だが、俺は本当に困っていた。

 なにしろ、目の前の一輝は隙あらば攻撃する気満々と言わんばかりに爛々と睨んでくるし、俺としても話の切り口が見つからない。どうしたもんかな。

 ええい、ごちゃごちゃ迷っているのは性に合わない。直球で行くか。

 

「一輝、お前は俺達の父親について知っているか?」

「……俺達の、ということはお前もすでに知っているのか」

 

 ……地雷だったか?

 静かな口調だが、これはまずい。何かがやばい。

 コップからこぼれる寸前の緊張感をはらんだ水のように、噴火の直前に静かに蠕動する火山のように。

 少しの刺激で何かが爆発すると感じる息の詰まるような感覚がある。

 慎重に声をかけなければならない。

 間違えたら、

 きっと、

 やばい。

 

「一輝、話を聞け。お前の、いや俺達の父親が憎いのは分かるが、その前に」

「ならば死ね星矢よ! 鳳翼天翔っ!!」

 

 鳳凰の翼をかたどった焔渦のような烈風の拳が襲いかかってくる。見事だ。だが、だがな!

 一輝、お前、会話のキャッチボールってものを成り立たせる気がないのかよっ!?

 間違えもへったくれもなく、見事なまでに噛みあってない会話に涙を禁じえない。しかも、聖衣をまとってすらいない相手に鳳翼天翔喰らわすか!! 呆れて言葉も出ない。普通死ぬぞ!?

 

「俺の、話をっ―――!」

 

 ああこりゃ、話し合いなんぞ迂遠なことはやめといて、前回と同じく、

 

「―――聞けと言ってるだろうがっ!!」

 

 力ずくでいくほうが手っ取り早いか?

 いや、焦るな。喧嘩を売りに来たわけじゃないだろう、と自分に言い聞かせ、高まりそうになった小宇宙を辛うじておさえる。

 まずは話し合いだ。

 説得できるんなら、それにこしたことはない。

 

「なにぃっ! 俺の鳳翼天翔を生身で受けて小揺るぎ一つしないだとっ!?」

 

 一輝の目の光が一気に凶暴性を帯びる。

 何でこうなるんだよ!、とどこかで言ったような悪態を飲み込む。

 好き勝手に無視しやがって!

 早くも説得する自信がなくなってきたぞ。

 元からなかった、と言うより、説得しなきゃならん事態というのがまず想定外だったけどな!

 

「お前なあっ! 聞けよ人の話をっ!」



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憎悪は解けぬ

「貴様と話すことなど何もない!」

 

 誠実に、話し合いを継続させようとした俺の努力に返って来たのはけんもほろろな言葉だった。

 お前になくても俺にはあるんだが、そんな理屈は通じないんだろう。

 一輝だもんな!

 荒れているころの一輝の夜郎自大な振る舞いを思いだせば、これでもまだぬるいと思えるほどだ。

 だが、ここで諦めるわけにはいかないからな。

 腕ずくでも聞いてもらうぜ!

 

 憎しみに満ちた攻撃的な小宇宙をよりいっそう立ち昇らせる一輝。

 

 ―――さて、お前に届くのはどんな言葉だ?

 

 肉親の情愛に訴えかけるか? 無駄だ。瞬ですら今の一輝には心情を逆なでするだけの相手だというのに。

 聖闘士の本性に返れと説くか? 無駄だ。そんな綺麗事で消える程度のものなら最初から憎んだりしないぜ。

 本来のお前に戻れと諌めるか? 無駄だ。かつての己も今の己も、一輝にとっちゃあの男の血を受け継ぐ憎しみの対象でしかない。

 なまじっかその憎悪を理解できる分、どんな言葉も無駄な気がしてしかたがない。

 言える言葉が思い浮かばないというより、浮かんだすべての言葉に、もし自分だったら受け入れられるかと問うてしまう。駄目だ。反発のほうが先に来る。

 だけど、一輝がそれに打ち勝ったことを俺は知っている。

 ……やっぱり、一発、拳に物を言わせたほうがいいんじゃないかと安易に考えそうになる、んだが。

 

 ―――なあ一輝、どんな言葉ならお前に届くんだよ?

 

「俺達が地獄に送られなくてはならなかった理由であってもか? それが俺達聖闘士が支えるべき女神(アテナ)に関係すると言ってもか? それでも、お前は耳を貸さないってのかよ?」

 

 瞬間、本当に少しだけ、一輝の動きが止まる。

 一秒の百分の一にも満たぬ間。

 だが、俺には十分すぎるほどだ。

 その期を逃さず地を蹴り、瞬時に移動する。いまだ、蓋の開けられていなかった鳳凰座(フェニックス)の聖櫃に手をかけた。

 そう、一輝はまだ鳳凰座(フェニックス)の聖衣をまとっちゃいなかったのだ。

 どうやら、声をかける寸前、俺の上を通り過ぎていった奴が最後の敵だったらしい。

 

「っ!? 貴様っ!」

 

 俺の動きを捉えられなかったらしい一輝が、半拍遅れて怒声をあげる。

 何をする気だ、と続ける気だったのだろう。

 顔面を怒気に染め、躍り上がってくる一輝に、手にした鳳凰座(フェニックス)の聖櫃を放りなげる。割と容赦なく。

 

「む!? 何の真似だ!?」

 

 ちっ、結構な勢いがついていたはずだが、受け損なうなどと無様な真似はさすがにしなかった。

 余裕をもって片手で受け止め、露骨な疑念をこめ睨みすえてくる。

 失礼な奴だ。

 

「話があると言ってるだろう。盗ったりするかよ」

 

 肩をすくめて答える。

 

「ただし、この話が終わった後でもお前が俺と戦うと言うのなら、相手になってやるぜ」

 

 そのために渡したのだ、と顎で一輝の聖衣を示す。

 しばらく薄氷を踏むような緊張感みなぎる沈黙があたり一帯を支配した。

 一輝は狂おしく激しく鋭く責めるような眼で俺のすべてを見通さんばかりにねめつけ、俺は一輝を射抜かんばかりの気合をこめた眼でもって押し返す。

 双方譲らず凍りついたように睨みあったまま微動だにしない。

 風すらもが音を立てることに二の足を踏むかのように、重く逆巻く。

 暗く憎悪に取り憑かれた目線の重圧を、正面から受けて立つ。同じものが俺の中にまったくないとは言えない分、余計に重い。それでも逸らさない。

 ここで眼を逸らすのは、断固として間違いであるという気がした。

 少なくとも俺からは絶対に動けない。

 動いてはいけない。

 いざとなったら力ずくで叩きのめす手もあるが、相手は一輝だ。

 理の分からない相手じゃない。……と信じたい。

 なにより殺しちまったら元も子もないからな! 自慢じゃないが自信はない!

 

 息も詰まるような膠着(こうちゃく)状態を解いたのは一輝からだった。

 互いを圧倒すべくぶつけ合っていた視線を、突如ゆるめる。ただし、拳は固く握りしめられたままだ。

 

「……いいだろう。聞くだけは聞いてやる」

 

 低い声は、内心の血を吐くような激情を噛み殺して妥協をしたからか。

 

「ああ、前置きははぶくぜ」

 

 緊張から開放された呼吸が肺から低くもれた。

 このまま戦いになるかと冷汗をかいたぜ、と安堵の溜息をもらしつつ、俺は銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)とその後の戦いで知りえたすべてを手短に語った。

 十三年前のアイオロスの乱の真実。

 あの男の神に我が子をささげる決意。

 そして、集められた孤児の意図。

 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)の本当の意味。

 そして、―――女神(アテナ)が誰であるか。

 多分、これが一番納得しがたいと思うんだが……少なくとも俺は、聞いた当時どうしても納得できなかったぞ。

 それは俺のせいじゃないと思う。日頃の行いってやつだ。あの頃の沙織さんのワガママっぷりにはお釈迦様だって裸足で逃げ出すぜ。

 だが、それも女神(アテナ)として目覚めるまでの話だ。

 

 十三年前のアイオロスの乱から始まった話は、そう長くはない。

 俺の知っていること自体、大して多くないからな。……一番大事なことさえ分かってればそれでいいんだよ!

 話が進むにつれて、押し殺すように表情の固まった一輝の顔から、眼だけが異様な眼光を発する。

 ……本当は、未来に起こるだろう海王(ポセイドン)冥王(ハーデス)との戦いについてまで話しちまいたかったんだけど……今はやめとくか。

 そんなものは信じられんと拒絶されることもありえるからな。ここまで信じてくれるだけでも御の字だ。

 

 一輝は話を聞き終えた後、一度だけ獰猛な獣のようにうなった。

 その拳はほどかれぬまま、大地に打ちつけられる。涙は、ない。

 地が砕かれ、血が流れ。

 つぶれた指でさらに強く拳をつくり、涙では流せぬ激流のような感情を打ちつける。

 

 己が拳で、殴りたい相手がいる。

 己が拳は、殴り倒す力を持っている。

 己が拳の、振り上げた先にいる相手よ。憎く憎く憎んで憎んでなお余りある男よ。

 だが、死者を殴ることは永遠に不可能であり、殴る理由まで今や失おうとしているのだ。

 認めがたい、その葛藤に俺は何も言えない。

 

「……だから、許せと言うのか」

 

 独り言のように低い声がもらされる。できぬ、と声に出すまでもなく拒絶している声だ。

 地の底から這い上がってくるようなその声には、いまだ消えぬ業火のごとく猛る怒りと、不条理な運命に対する悲憤が芯に残っている。

 

「お嬢さんは、そう言うだろうな。だが、」

 

 だが、光政に対して、お嬢さんが許せというのはお門違いだ。

 あの男とて、万事承知の上で行ったのだ。

 恨まれることを。

 怨まれることを。

 憎まれることを。

 疎まれることを。

 許されざることを、許されざると知っていて行ったのだ。

 地上のために。

 神のために。

 己に託された命のために。

 己に希望を託した一人の漢のために。

 ―――すべてを背負う決意を。

 

 許す、というのは己を下の下に堕とすと決めた漢の意地を踏みつけるに等しい。

 望むはずがあろうか。一人の漢が許されざるものと覚悟を決めて行ったことに、神であろうと人であろうと、いまさら、誰の許しを望むというのか。

 断罪こそが望みであり、罵声と弾劾を投げつけてこそ漢に対する手向けになろうというものだ。

 如何なる事情があろうとも、己のすべて、差し出せるものを惜しまず差し出し、罪を掴み取ることを選んだのは光政なのだから。

 許されたいなどと、漢なら望むはずがない。それは侮辱だ。苦渋の果てに行なった選択を踏みにじる行為だ。

 

「許す必要はないだろ」

 

 俺はかぶりを振る。吐き捨てるような口調になったのは仕方がない。

 

「だからと言って、もう俺はあの男の選択を間違いだったという気もないけどな」

「なにっ!?」

「あの男は、託された女神(アテナ)と俺達を天秤にかけて、女神(アテナ)を選んだ。地上の平和と正義、自分の子とその幸せを比べて、女神(アテナ)を選んだんだ」

 

 一気に言ってのけ、息をつぐ。

 

「切り捨てられたこっちとしてはたまったもんじゃないぜ。恨む権利がある。憎んで当たり前だ。俺達は生き残ったけど、無為に死にいった90人の兄弟達のためにも許すべきじゃない。押し付けられた人生をただ受け入れるなんざできるかよ。ただ、だからと言って、その時、あの男が俺達を選んでいたらどうなったか、考えるまでもないだろ」

「ぐ、うっ」

「だいたい、分かってたはずだぜ。あのジジイにも。どれほどの怨嗟を生むかなんて。それでもあのジジイはそっちを選んだ。全部覚悟済みだったんだろうよ。俺は、そこだけは認めてやってもいいと思ってる。だからと言って許せる話でもないけどな」

 

 ぐぅっと一輝は再度うめいた。

 誰かの勝手な都合で―――たとえ、それが世界と天秤にかけられた結果であったとしても―――叩き落とされた地獄は言葉だけで納得できるようなもんじゃない。それは確かだ。

 ……言葉だけで受け入れられるような生易しい六年間なら、ここまで憎みはしない。

 ううむ、有無を言わさず一発殴っといたほうが俺の神経を削らずに済み、一輝のためにもなったのかもしれない。

 俺はそんな反省をしつつ声をかける。

 俺達聖闘士にとって、言葉より拳のほうが説得力を持つのは確かだからな!

 

「……お前が迷ってるなら手助けしてやろうか?」

「なんだとっ!?」

「拳で決めようぜ。来いよ! お前の弱虫を吹き飛ばしてやるっ!」

 

 力ずくで、その迷いを晴らしてやるぜ?と笑いかけながら、拳を手の平に打ちつけた。

 鋭く乾いた音がはじける。

 一輝の顔に苦笑にも似たものがよぎり、すぐさまこちらも物騒な笑みへと変化する。

 

「言ってくれる。生意気なっ!」

 

 一輝の小宇宙がくすぶるものを払い、天をも焦がさんと燃え上がった。

 直後、ありとあらゆる羽のある生物の王、永遠を生きる火の鳥を模した鳳凰座(フェニックス)の聖衣がオブジェ形態を崩し主の身をおおう。闘気の炎が舞いあがる。

 

 へっ、()る気満々か!

 俺も、膝を軽く落とし、身構える。

 互いに戦闘態勢になった、その時。

 

 太陽がもう一つ出現したかと思われるほどの光が突如、俺達の真上に出現した。

 その光の中から、誰かが歩み寄ってくるように小さな影がにじんで形をなそうとしている。

 

「何奴だっ!?」

 

 一輝が敵愾心(てきがいしん)もあらわに声を荒らげる。

 

 この覚えのある小宇宙はまさか―――まさか!

 なんだって、こんな場所に―――しかも、今この時に!

 俺は歯噛みする。

 なんだって、こうも俺の思う通りに物事ってのは運ばないんだよ!?

 もしかして、俺は運命だか、神様だかに嫌われているんじゃないかと満更、冗談じゃすまない考えが浮かんでくる。

 心当たりが結構あるだけに本当に冗談じゃすまない。まだ何もしてないから理不尽だと思うけどな!

 

 ちっくしょう! 自分だけじゃ対処できないから、誰かに相談しようなんて安易な考えが悪かったのか!?

 予想外すぎて泣けてくるぜっ!

 まったく、間が悪すぎるってんだ!

 口には出さず罵りながら、この強大な小宇宙の持ち主が誰かを探る。

 実際のところ、何となく分かってはいる。分かっているからこそ、気のせいであってほしいと希望をこめて探るわけだが。

 しかし、当たってほしくない予感と言うのは大概当たると相場が決まっているのだな!

 

 目が眩まんばかりの黄金の光球より、場に似合わぬほどゆったりと歩みでる人影は燦然と輝く黄金聖衣をまとっている―――間違いない。

 黄金聖闘士のあの男だ。厄介な……。

 

「なんと血気にはやる者どもよ。まるで地獄の浅ましい修羅のようだぞ。もう少し品性というものを身につけてはどうかね。フフフ」




星矢の記憶に関しては、星矢が単純に忘れているだけのところと、忘れるだけの理由(設定付)のあるところと、うっかりなだけという3パターンあります。
原作的に知っているはずのないことをぺろりと「思い出す」(本人の認識では)可能性もありますが、一応こっちも裏設定はあります。しかし星矢視点では裏設定を書く機会がないので、描写できるかどうかは不明です。


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食い違う予定と現実

 光の中から歩み出た影は、果たせるかな、やはり奴だった。

 現時点での一輝とは比すべくもない巨大な小宇宙。

 ただ自然体で立っているだけに見える、いや、閉じられている視界のハンデすらあるはずなのに、微塵も隙がない。

 さすがは―――

 

 ―――黄金聖闘士、処女宮を守護する乙女座(バルゴ)のシャカ!

 

 それにしても、なんて派手な登場だ。

 テレポーテーション……か? だよな? どうやったら、あんな転移ができるんだ?

 威圧が目的か、それともシャカの趣味か?

 いや、弱者かつ敵を威圧するのが趣味と言うこともありえるな。

 段々と薄れゆく光輪を背にして、地に降り立とうとするシャカを見ながら、呆気に取られて口を開ける。

 驚きのあまり、思考がずれていく俺を正気に戻したのは、高らかに名乗るシャカの声だった。

 

「私の名はシャカ!!」

「シャカ……!?」

 

 一輝がオウム返しにその名を繰り返す。

 警戒と驚愕が半々に混ざったような表情―――具体的に言えば目も口も開きっぱなしなところを見るに、明らかに気圧されている。

 が、

 

「そのシャカとやらが、このデスクィーン島に一体何の用だ!」

 

 それでも、しっかり虚勢をはるあたりはさすが一輝だ。俺様節は健在だな。

 シャカの劇的な登場と一輝の胆力に感心している間に、シャカはデスクィーン島の地に完全に足を降ろした。

 手加減の欠片もなくかけられる小宇宙の圧力には容赦の片鱗もなく、感情の覗き窓である眼も閉じられ、その意図を読み取ることさえ叶わない。

 相当辛いはずだと思うんだが、一輝自身に自覚はないようだ。神経が鋼鉄なのかもしれない。十中八九、無意識のやせ我慢だとは思うが。

 それでも、ここまで喧嘩を売るってだけで大した度胸だ。そんなに勝負を邪魔されたのが業腹か。

 口に出さなかっただけで、喧嘩を売った以外には、俺もほぼ一輝と同意見だが。

 何だって、このタイミングで、どんな用で、よりにもよって―――

 

「―――ここに来るんだ?」

 

 小さく嘆く。

 降り立ったシャカはそれぞれの反応をしている俺達をどう思ったのか、ちらりと顔を動かしてこちらを見た。まさか聞こえたか?

 この島の凄まじい熱気にも、涼しげな表情は崩れない。

 黄金聖衣には体感温度調節機能まであるのか、それともシャカの面の皮が厚いだけか。

 少々八つ当たりめいた考えになるのはシャカのせいだ、シャカが悪いと思う俺を責める者はいないだろう。シャカが最悪に都合の悪いタイミングで現れるからだ。

 

 奴が、何の用事があって、こんなところに来たのかまったく見当もつかない。

 こんな所に現れる理由がさっぱり分からない。

 黄金聖闘士であるシャカが、一体何だってここに? 聖域にいるんじゃなかったのか?

 迷惑極まりないな、と甚だしく勝手なことを考えて、俺は遠い目になった。考えるだけなら罪はない。

 

「もちろん暗黒聖闘士の首領ジャンゴを葬るため」

「なに!?」

 

 それだけ? それだけか!?

 疑問は解けたが、都合が悪いことには変わりない。なんと表現しようもないほどのタイミングの悪さか。

 やばい。

 シャカは現時点では教皇派のはず。とすれば、同じく現時点では、俺のやろうとしていることは紛れもない聖域への造反。たとえ正義がこちらにあるとしても。

 これをやばいと言わずして何をやばいと言うのか。

 ここは大人しくしていて、さっさと帰ってもらうしかない。

 幸い俺は聖衣を置いてきている。大人しく一般人の振りでもしてれば、見向きもされないだろう。

 何か腹が立つ、とこっそり拳を握りつつ、どうすべきか考える。この事態を俺はどう見るべきだろうか。

 

「暗黒聖闘士達の悪さがあまりにもひどいとのことなので、はるばるガンジス川より天誅を与えに来たのだ」

 

 万が一、一輝を殴り伏せ、聖域に喧嘩を売りに……、もとい正義をつらぬくため女神(アテナ)とともに戦わないかと説得しようとしていたのがばれたら。

 いや、それ以上に女神(アテナ)の存在がここで露見し、前回よりも早く、前回よりも強力な討伐が来たら。

 一輝ら暗黒聖闘士相手の戦いや白銀聖闘士相手に戦い育てあげた実力が育っていない俺以外の奴らは―――紫龍や氷河、瞬はもちろん、邪武や激達まで全員が―――殺されかねない。

 現段階では聖域に殴り込みをかけるなんざ、無謀としか言いようのない実力だからな。

 その未来を想像して背筋が冷える。

 

 時間が必要だ。強くなるための時間が。

 

 もちろん、その前に沙織さん達にも話をしなきゃならないが、前回のように、一輝相手にごちゃごちゃやってたら無駄な犠牲が出る。

 むしろ、一輝や暗黒聖闘士には女神(アテナ)の味方になってもらうか。力ずくでも。

 俺は腹を決めた。

 そうと決まれば、何とかシャカにはつつがなくお引取り願って、さっさと一輝を叩きのめそう。

 

「しかし、一足遅かったようだ。まさか聖闘士になりたての君が倒した後とは。……フッ、暗黒聖闘士も噂ほどではなかったらしい」

「待て!!」

 

 ジャッと荒れた地を踏みつける靴音。

 振り返る気配に、誰かがすごんでいるのが聞こえる。

 

「貴様、俺を地獄の修羅のようだと笑ったな」

「フッ、気を悪くしたのかね。物のたとえだ。気にしないでくれたまえ」

 

 本当はどうしたらいいかの相談を一輝にするつもりで来たんだが、もうこの際、なるようにしかならんと俺は諦めることにした。

 悟ったと言い換えてもいい。

 世の中は予想外なことで一杯だ。だから、どうせ何も俺の思い通りにはならないに決まってる。

 

 考えてみれば、過去、俺の思い通りに物事が進んだ例があったか?

 思い返せば、姉さんは見つからないし、聖域は乗っ取られているし、頼んでもいないのに海王(ポセイドン)は復活するし、冥王(ハーデス)との聖戦だって……俺は死ぬ気なんかなかった。命をかけてでもやらねばならぬと決意していたのは確かだが、それでも死を甘受するつもりなんざさらさらなかった。

 人生は思うがままにはならない。少なくとも俺の人生は。

 つまりは、相談したって結局は無駄になるのだろうと思う。畜生!

 腹の底から悔しさがあふれてくる。歯軋りを抑えられない。

 

「ほざけ! ならば受けてみろ!! 鳳翼天翔!」

 

 だが、俺が無力だとは思わない。

 だったら、できることをやるしかない。今は聖域奪還に向けてまずは外堀埋めだ。

 俺の思い通りにならないとしても、聖域に殴りこむ前の一輝の騒動だけは阻止せねばならない。時間の無駄だ。

 結果的に、一輝との戦いによって俺達の力が高まったことを否定するわけじゃないが、素直に修行をすればすむんだしな。

 時間の無駄といえば、サガの乱もだ。海王(ポセイドン)の復活に加え、冥王(ハーデス)との聖戦があるってのに、こんなことで黄金聖闘士の戦力減らしてたまるかよ。

 白銀聖闘士なんか誰も死ぬ必要はなかったんだ。全力で待ったをかけてやる。

 

 罪も罰も、すべては女神(アテナ)の前に。

 

「フッ、これが鳳凰の羽ばたきか。まるで涼風だ」

 

 だから、ここで騒ぎを起こすのは滅法まずい。

 大人しく、そう、なるべく可及的速やかにシャカには退散してもらわねばならない。

 ……退散してもらわねばならないってのに。

 いつの間に!

 血の気が引いた。

 

「な……、なにぃ? 微動だにしないだと!?」

 

 い、一輝、お前って奴は! 何てことしてやがる!

 この時に至ってようやく、俺もいきなりシャカが現れた衝撃から頭が冷めたらしかった。

 時すでに遅く、速やかに帰ってもらうどころか、シャカ対一輝の構図ができあがってしまっている。

 

「フェニックスよ、上には上がいると言うことを忘れるな。青銅や暗黒など、黄金聖闘士の前では塵芥(ちりあくた)にひとしい。身の程をわきまえるがいい」

 

 印を組むシャカ。その両の手の平に収束する小宇宙の生み出す静寂。

 それは凪。時化の前の一時の静けさ。嵐が来る前の寸刻の平穏。

 だとすれば、その後に来るものは……。

 ―――これは! まずい!

 

 空を裂く閃光。

 

「クッ!?」

「っ!」

 

 シャカの髪が幾本か、風に舞った。

 黄金のきらめきを半瞬残し、風に消え去る。

 ヘッドマスクの転がる音が無粋なまでに大きく響いた。

 

 沈黙。

 降りおちる静寂。

 満ち満ちる異様な緊迫感。

 

 念のために言おう。誤解をしないでほしい、と俺は誰に対してのものか判別のつかぬ、あえて言うなれば目の前で絶句している男に対する言い訳をした。

 大人しく聞き入れてくれそうもなかったので心の中で。

 

 俺はただ、シャカを止めようとしたにすぎない。

 一輝への攻撃を牽制するため、シャカの顔か手を掴んで止めようとしただけだ。

 だが、俺とシャカの言うも悔しい身長差、および止めようと焦って勢い余った俺の手は、あろうことか掌底となり、シャカを打ち抜く形となってしまった。

 いや、寸でのところでシャカが避けたために、打ち抜いたわけじゃない。打ち抜いたわけじゃないが、シャカにとってしてみれば、からくも避けたというのは避けられなかったというのと同じだろう。

 同格の黄金聖闘士か、敵ならばともかく、俺は青銅聖闘士なのだ。さらに言えば、聖衣を置いてきているので、一般の民間人にしか見えないはずだ。さぞかし屈辱だろう。

 デスクィーン島に俺みたいな民間人がいるかどうかは知らんがな。

 

「馬鹿な。いかに油断していようとも、この私が聖衣すらまとわぬ相手になど」

 

 愕然としているらしいシャカの視線が動く。閉じられた眼の焦点が俺に合った気がした。

 矛盾するようだが、眼を閉じたまま、俺を“見た”ような気がしたのだ。空気が重い。デスクィーン島の溶岩よりも高温のマグマをやどした視線。……ああ、わざとじゃなかったなんて言い訳は通じそうもない。

 戦々恐々とする俺の前で、ゆっくりと、睫毛が動いた。その下から覗くは―――エジプシャンブルー。

 濃いコーンフラワーブルーに緑を少量混ぜたようなとでも言うか、ううむ、例えられるものが思い浮かばない。とにかく鮮烈な青だ。

 その瞳が俺をまばたきもせず真っ直ぐに見据える。熱っぽく激しい、どこか既視感のある眼差し。同種の目線を、どこかで受けた、ような?

 黄金聖闘士の持つ強大な力。その力で遠慮会釈もなくかけられる圧力(プレッシャー)。じっとりと冷汗が背中ににじむ感覚。

 どこだったろうと考えれば考えるほど、思いださないほうがいいと勘がささやいてくる。

 

 煩悶する俺に、傲岸な余裕の消えたシャカが向きなおる。こいつも話し合いという単語を辞書に載せてなさそうだ。涙が出るぜ。

 簡潔にして明快、実にシャカらしい語調で口火を切った。要するに偉そうな口調だ。

 

「お前は何者だ。答えよ」




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因果は巡る糸車

 このバカ!

 

 バカ、という言葉が今の俺以上に当てはまる人間がいたらお目にかかりたいもんだと激しく落ち込みながら、俺は無言で間合いを取った。ひしひしと嫌な予感がする。

 

「それとも、横槍を入れる無作法者には名乗れる名がないか。よかろう。何者でもかまわぬ。己の行いに相当する報いを受けた後で、懺悔はするがよい」

「その言葉はそのまま返すぜ。最初に邪魔したのはどっちだよ」

 

 反射的に言い返しながら一輝のほうへ目をやる。

 シャカから放たれる当初とは比較にならぬ重圧に、片膝を地についてようやく持ちこたえている……俺が来なかったらどうなってたんだ? それともこれは俺が来たせいか?

 

「一輝、増長慢もいい加減にしとけよ。黄金聖闘士を舐めすぎだ」

「くっ!」

 

 悔しげに歪んだ顔で、それでも俺の言葉を否定はしない。

 首しか上げられず、ただ耐えるしかない中では無駄な強がりを張る余裕もないのだろう。

 だが、心意気は折れちゃいない。

 

「ならば、お前なら届くか!」

 

 激情に震える声が悔しいと、屈辱に燃える目が無念だと告げている。

 何とも答えにくかった。嘘は得意じゃないからだ。

 俺が酢を飲んだような渋い気分で沈黙すると、シャカの獄熱の視線が激しさを増す。おい、俺はまだ何も言ってないぞ。

 

「フッ、分に余る自惚れは自らを滅ぼすのみと私手ずから教えてやろう。私に盾突いた愚をその身をもって知るがよい。祈れ。神仏の加護あらば生き永らえることも叶うやもしれぬぞ」

 

 長ったらしい。ああと、今から力いっぱい殺すつもりでぶん殴るから生き残れるかどうかは運次第と思え、ということか?

 

「よく言うぜ。その自惚れ者にヘッドマスク落とされたのは誰だよ」

 

 分かりにくい物言いの言わんとするところを訳出しながら、売り言葉に買い言葉で言い返す。どいつもこいつも人の話を聞かない奴らだ。

 聞かないどころか、話させようともしないあたり、お前らそっくりだぜ。特に、俺が何をしても怒り狂うところとか、気に食わない物事は力ずくで解決しようとするところとか。

 げんなりする俺にかまわずシャカの双眸がすっと細くなった。高まる小宇宙。しぶしぶ俺も構える。

 そして、

 

 目線が合った。

 

「覚悟せよ!」

「ったく!」

 

 大きく高まった小宇宙が引き絞られる。強大な力が収斂(しゅうれん)していく。

 海面そのものが低くなった錯覚すら起こさせる、と言われる津波直前の引き波―――大海に満ちる海水がはるか沖へと退く桁外れな光景にも似た力の流れ。

 

 そして湧きあがる、それは始原の力。本来ならばすべての生物が、否、すべての物質が普遍的に持つ力。生命エネルギー。ビッグバンの余燼(よじん)。くすぶる創世の残り火。深くうずもれたる魂の感覚。聖闘士ならば誰もが知る―――小宇宙。

 両の手に収縮する。放たれる。

 拳に集められる。速度に変わる。

 

「天魔降伏!!」

「ペガサス流星拳!!」

 

 逆巻く大気。わななく大地。

 俺の頬を小石がかすめて飛んでいく。シャカの黄金の髪が、激しくたなびいた。

 

 ううむ、どうして聖闘士には髪を伸ばす奴が多いのだろう。

 古代の戦士は、敵の剣より首を守るために髪を伸ばしたと言うが、聖闘士の闘いは小宇宙によって原子を砕く闘法だ。

 カミュや氷河に代表される氷の聖闘士のように、原子を凍らせる闘法もあるし、精神攻撃に至っては肉体すら使わない。

 よって、髪を伸ばしても無意味だし、そもそも首を守るだけならあんなに長い必要はないと思うのだが、黄金聖闘士のほとんどが腰にも届くような長髪だ。

 今、目の前にいる男ほどの長さは珍しいが。

 聖闘士としての位が高くなればなるほどその傾向が強い気がする。

 まさかとは思うが、代々の女神(アテナ)の好みなんてことはないよな?

 

「むうっ!! 互角……いや、()され、てッ!?」

 

 互いの小宇宙が見えぬ火花を散らすようにせめぎあう。

 聖闘士と聖闘士の技がぶつかり合ったなら、勝敗を分けるのは小宇宙の差。

 眉根を寄せているシャカの髪の一房が耐えかねたようにちぎれ飛んだ。

 

 それも、髪の長さによって、変人度が増している気がする。

 そりゃ、アイオリアだって理屈にならん理屈を堂々と押し付けるタイプだが、あれは力持てる者の傲慢さってやつだろう。

 それにアイオリアは強者の寛容さと逞しさ、度量を持ち合わせてるからいいんだ。

 シュラだって、紫龍から聞いた話じゃ、偽教皇に加担していたとは言えまともだったし。ああ、デスマスクはまごうことなく悪趣味野郎だが。

 

 俺の思考がだんだんずれていくにつれて、シャカの形相も険しくなる。これはもう、大人しく帰ってくれる希望は捨てたほうがよさそうだ。

 俺は遠い目になった。……何だってこんなことに。……こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ!

 

「くッ、ありえんっ! 聖衣もまとっておらぬというのにっ!!」

 

 神に一番近い男にしては諦めの悪い奴だ。それを言うのは二度目だぞ。

 しかもどうやら本気で怒っている。仏陀の生まれ変わりと言う割に短気だな。掌底を入れてしまったのはわざとじゃないってのに。

 だが、考えてみれば海王(ポセイドン)死の神(タナトス)冥王(ハーデス)も短気だった。女神(アテナ)だって気が長いとはお世辞にも言えない。

 神のような男と称えられたサガだって……。神って一体……いや、考えるのはよそう。古来より諦めは心の養生と言うしな。俺はさらに遠い目になった。考えても仕方のないことがこの世には多すぎる。この場に俺がいる事実も含めて。

 

「ペガサス流星拳ということは、そうか……先日授位されたという例の!?」

 

 拮抗している小宇宙。

 だが、このまま行けば俺がシャカをじりじりと押し切るだろう。

 このまま大人しく帰ってくれればそれに越したことはないんだが、多分、と言うか絶対に、無理だろうな。

 さてはて、どうしたもんか。

 俺は途方にくれて、シャカの顔をじっと見つめた。

 

 感情の読みにくい君子然と整った顔。憮然とした表情がよく似合っている。

 

 思い浮かぶのは最後と知りつつ涙をこらえて見送った別れの時。

 神話の時代からともに戦ってきた兄弟のような視線で、惜別の情を微笑にこめ、愛と正義を俺達に託して逝った気高き姿。

 嘆きの壁の前、俺の命を惜しみ、代わりに己が命を賭して嘆きの壁にその小宇宙をぶつけ傷ついた姿。

 女神(アテナ)を庇い、冥闘士どもを蹴散らしながらエリシオンへと向かう誇らかな姿。

 ありありと脳裏に去来する輝かしき思い出―――ここで終わっとけば良かったんだが。終われればセピア色の美しい思い出で済んだはずだったんだが。

 俺は眉根をよせた。生憎と、悪い経験のほうが、どうしても鮮明に記憶に残るものらしい―――。

 

『―――青銅聖闘士の餓鬼(がき)どもよ。今から引導を渡してくれる!! 大人しく餓鬼界(がきかい)に墜ちたまえ!!』

 

 俺は思いださなくてもいい余計なものまで思いだしてしまったのだ。

 最後に思いだしたせいか、この記憶から湧きあがる感情が一番強い。単純で明快、だからこそ強い―――すなわち怒りだ。

 あの時の借りをちょうどいいから今返すか?

 

「ならば、まさか……っ!」

 

 考えてもみろ。

 あの時、大人しく通してくれていれば、俺達は無駄に消耗せずに済んだ。それ以上に、何であのとき、女神(アテナ)の聖闘士たるものが女神(アテナ)の救命に力を貸さなかった。

 聞こえてくる一輝の問い。答えるシャカの声。意識はなんとかあったものの、宝瓶宮の床に倒れ伏し指先の一本も動かせなかった俺。それほどに圧倒的な差が、前回の俺とシャカにはあった。

 

『―――この宇宙全体の真理は無常ということだ。完全なる悪、完全なる善などこの世には存在し得ないのだよ』

 

 確かにこの世には絶対の正義も悪もないかもしれない。だが、だからこそ俺達聖闘士は女神(アテナ)をその絶対の指針にすべきじゃないのか。

 世の無常がどうしたってんだ。そんなものが女神(アテナ)を見捨てる理由にでもなるってのか。教皇が悪だろうがそうでなかろうが、そんな勝手な己の判断で、女神(アテナ)を見殺しにしていいってのかよ。

 考えれば考えるほど小さな怒りが、払っても払ってもまとわりつく虫のように俺を刺す。

 

「お前は、かつて二百五十年前―――っ!?」

 

 それに、十二宮に一度入ってしまえば、黄金聖闘士達を説得するのは不可能に近い。

 教皇の間に正規の手段以外で―――有体に言えば力ずくで通ろうとしている時点で、否応なしに俺達は彼らの敵だ。

 逆に考えれば、十二宮に入る前に説得してしまえれば素通りできるだろう。

 前回、ムウの白羊宮を通り抜けたように。

 アイオリアは幻朧魔皇拳で洗脳されてしまっていたが、それさえなければ通してくれたに違いないしな。

 

 大人しく帰ってもらうのが無理ならば、逆にそれを活かせばいい。ここでシャカを説得してしまえ。

 そうとも、禍転じて福となすだ。これはチャンスだ。絶好のチャンスなんだ。

 聖闘士にとっては、言葉より拳のほうが説得力を持つ。さっき俺はこれを再認識したばかりじゃなかったか。

 段々と希望がわいてきた俺は、シャカの顔を見つめながら、大きく笑みを浮かべた。

 何かが俺に告げている。

 

 ―――さあ心おきなく()れ、と。

 

「なっ! 小宇宙がさらに高まって、―――これはっ!?」

「あの時の借りは返させてもらうぜっっ! シャカ!!」

 

 眼も眩む閃光。巻き昇る闘気の渦。大地をえぐる烈風。

 

「あの時だと―――ッ!?」

 

 危うかった小宇宙の均衡が破れた。否、俺が破ったのだ。

 驚愕の表情を張り付かせたまま、シャカは光の矢になった。

 遅れて、崖崩れのような迫力ある轟音が耳に届く。

 

()ったか?」

 

 あ、間違えた。違う違う。()ってどうする。

 

「そうじゃなくて、ああと……や、やりすぎたか?」

 

 岩石だらけのデスクィーン島の地をえぐる軌跡。シャカの跡だ。先は噴煙の中に続いていて見えない。

 数秒、待ってみる。

 

「……おい?」

 

 シャカ……まさか……いや、黄金聖闘士がこれくらいでどうにかなるわけは……ない。ないったらない!

 だ、だって、今のは俺は押し返しただけだし!

 吹っ飛んだのはシャカ自身の力だ。俺自身の力は微々たるもんだ。多分。

 聖衣も着てるし。聖闘士ってのは概して丈夫なもんだし!

 

 ―――そう、聖闘士の肉体が常人と同じであると言うのは、絶対に間違いだと思う。

 同じだったら、大地を殴ったら反作用で拳のほうが砕けるはずだし、例えば真冬に東シベリア海に一時間以上ももぐり無事だなんてことありえない。人間の身体は、零度以下では凍るようになっている。これはもちろん例えであって、誰か特定の人間を指して言っているわけじゃないぞ。

 聖闘士なんて、半分くらい人間を捨てているような気もするが、物理法則からは逃れられない。

 ふと、二百年以上も前の肉体をそのまま維持している黄金聖闘士―――いくら女神(アテナ)の秘術を施されていると言えどなんたる非常識だ―――や、何回死んでもどこからか蘇ってきた不死鳥(フェニックス)の如き男の姿が脳裡をよぎる。

 ちらり、と視線が揺れた。

 逃れられない……はずだ、よな?

 追及すると、何やら至ってはならない場所に行きそうな思考に頭を振る。疑うな。疑った時点で何かがやばい予感がする!

 

 そもそも、原子を砕くと言っても、原子を砕くのは小宇宙をまとった拳だぞ。攻撃力だけが上がり、防御が変わらないと言うのは理屈に合わない。

 攻撃する際には武器たる拳に小宇宙をまとうが、防御する急所にも小宇宙をまとっていないはずはないのだ。

 俺が相手の顔を殴るってことは、逆に言えば、俺は相手の顔に拳を殴られている、とも言えるんだからな。我ながらちょっと無茶な例え方だが。

 要するに何が言いたいかと言うと、攻撃が強力すぎるので目立たないが、防御だって小宇宙によって強化されていなければおかしいってことだ。

 

「……シャカ?」

 

 噴煙の奥を見つめながらそんなことを考える俺。一向に姿を見せない吹っ飛んだシャカ。

 現実逃避だ。分かっている。

 証拠に髪の根元から冷たい汗が垂れてくるのを抑えられない。

 ……頼むから、生きてろよ!?

 

「なあ星矢、あれ死んだんじゃないか?」

 

 俺の甘い希望を軽く打ち砕く一輝。

 返す俺の声は、これ以上ないほど苦く脱力していた。

 

「……言うなよ。考えないようにしてたんだぜ」



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忠誠は何処に

 感覚を凝らす。

 目には写らぬ、耳にも聞こえぬ生命の波動。それを嗅ぎとる感覚に集中する。

 

 我知らずヒヤリとはしたが、多分、死んじゃいない。かすかに感じる小宇宙が俺の勘違いじゃなければな。

 敵として戦った記憶を(かえり)みても、黄金聖闘士は殺そうったってそうそう殺されてくれる相手じゃなかった。そんなに簡単に死んでくれるような可愛い相手なら苦労はなかったはずだもんな。

 だから、生きている、とは思うんだが……見えない。分からない。俺の察知能力では位置を特定できない。それほどに心もとない。

 もとより、俺はあまり感知能力に自信はないのだ。いや、正直に言ってしまえば、攻撃なんか意識して察知しているというより本能にもとづく勘に近い。

 感覚で戦うってのは、相手を察知し分析する能力が高いって意味じゃないんだな。この場合の感覚ってのは直感のことであって、いかに脊椎反射でその直感に従って動けるかってことなんだと思う。

 って、ん? 何と言った?

 

「一輝、まさか、見えてたのか?」

 

 そんなバカな。ありえない。思わず顔を向けて聞き返す。

 青銅聖闘士や白銀聖闘士とは違い、黄金聖闘士は、全員が光速の動きを持つ。

 その黄金聖闘士の中でも折り紙つきの強さを誇るシャカとやり合ったんだ。

 当然、小手調べ程度の勝負とはいえコンマ何秒の世界。一ミリ秒と言ってもまだ遅い。一マイクロ秒でもまだ足りない。一ナノ秒ですら捕らえられてない。

 まだ、一輝には見えるわけのない―――目の前を光が瞬いた程度にしか見えない世界のはず。

 シャカがどうなったかどころか、俺達がやりあっていたことさえ、一輝には分かるはずがないというのに。

 

「どうにか見えただけだがな。お前が思い上がるなと言った意味がよく分かったぞ」

 

 不愉快そうな口調には言い知れぬ悔しさがにじんでいる。だが、そんなことはどうでもいい。

 見えるはずのない動きが、見えた? どういうことだ。

 眼高手低か、あるいは―――。

 ああくそ、考えるのは苦手だ。これはどうあってもシャカを味方へと引きこまねば!

 少なくとも、俺よりは頭脳労働も得意だろう。

 

「俺では、まだ手が届かん。少なくとも、今は、な」

 

 にやりと笑う一輝。

 すぐに追いついてやるぞと言いたげな表情で挑むように口にする。少なくとも今は、か。

 その心意気に満足して俺も笑い返した。

 もちろん、届いてもらわないと困る。いや、これからの戦いに今の俺の実力程度で満足されては困る。さらに上を目指してもらう。俺だってまだ限界じゃないんだぜ。

 そう、口に出しかけて。

 

 眼の端でちらりと埃が舞った。

 ―――やばいッ!

 そう認識できたのは、身体が動いた後だ。気を抜いていた自分に舌打ちする。

 

 認識と同時に、大気を切り裂いてシャカの裂帛(れっぱく)の気合が響いた。

 背後か!

 

「定番だな!」

 

 避けるには遅すぎた。やり返すにはさらに遅い。シャカを殺すつもりなら話も変わってくるってもんだが。

 悔しまぎれに減らず口をたたきながら、体勢を整える。気の抜けていた俺には正面から受ける道しか残されていない。その道しかないところまで追い詰められた。

 まったく嫌な感じだぜ。視認する(いとま)も惜しんで、乱れかける呼気を落ち着け、足を踏ん張る。

 よくも気付かれずにここまでの攻撃的小宇宙を隠してたもんだ!

 

 さすがは、黄金聖闘士中、最も神に近いと称される男、シャカ!

 

 強大な力、もはや圧力そのものと化した小宇宙が怒涛の勢いで襲ってくる。両足に力をこめ、体重を丹田に落とし、全身に小宇宙を行き渡らせてなお十数メートル、そのまま追いやられた。

 地面には、俺の足の残した二本の筋がくっきりと残っている。この程度で死ぬならいっそ死ね、と無言で語る容赦のない一撃だった。シャカの大人気なさの証明だな!

 

「ほう、倒れもせぬどころか無傷か。ただの鼠ではないな。今一度問う。何者だ」

 

 今度は真正面から相対した。

 眼を細め、こちらを見ているシャカに隙はない。余裕もない。

 シャカの表情が、驚いたことに先ほどまでとはまったく違う。怒りはすでに失われ、こちらを見据える目付きには一筋の乱れもない。ただ冷静な意思のみが映されている。

 

「否、何者であろうとも」

 

 何と言うか、今までが、自分に咬みついた蟻など死のうが足がもげようが知ったこっちゃないと容赦なく払おうとした怒りなら、こっちは人間を、それも敵を見る目つきだ。

 怒りも侮りもなく、倒すべき者を見る眼。

 

「聖域に仇なす者ならば容赦せぬ」

 

 カチンと来た。

 

「俺は女神(アテナ)に忠誠を誓う者だ。お前と違ってな」

「私と違って、だと?」

 

 シャカの眉が冷ややかにしかめられ、薄笑いの形に唇がゆがんだ。

 分かりやすいが、どこまでも人の気を逆撫でする男だな!

 

「俺が知らんと思うなよ。教皇が偽者であることを。そして、お前がそれを知った上で仕えていることを」

「フッ、私が戦うのは正義のためであって教皇のためではない。教皇が悪ではないからあえて敵対せぬまでのこと。忠誠を誓うのは女神(アテナ)にのみ」

 

 プチンと来た。

 

「悪じゃない? 真の教皇を弑逆(しいぎゃく)し、成り代わった欺瞞(ぎまん)がか? 同胞を亡き者にしたあげくに汚名を着せ、名誉さえも剥奪した非道がか? 忠誠を誓うべき女神(アテナ)に刃を向けて、聖域を乗っ取った悪鬼のような所業が正義だと? そんな男をお前は教皇と仰ぐってのか?」

 

 自然、口調は熱くなる。

 冷えかけていた頭がまたも沸騰してきた。脳内を這いまわる虫がうるさい。

 

「っ!? 何だと?」

 

 シャカは笑みを消した。わずかに見開かれた眼。

 うん? 知らなかったのか?

 動揺を見せた口調と表情に、少しだけ気持ちが収まって、意識してまばたきをした。眼を離すことはまだできない。できないが、知っているのに、驚いてみせるようなあざとい真似をする男じゃなかったよな。シャカは。

 心持ち息を吐いて、気持ちをわずかばかり立て直す。

 そういや、ちゃんと知っているのはアフロディーテとシュラとデスマスクだけなんだっけか?

 シャカは何を考えているのか窺い知れぬ表情となって、黙り込む。

 だが、俺は止まらない。

 

「そんなものがお前の正義か! 黄金聖衣をまとう覚悟か!」

 

 なら、偽教皇に反逆者の報告でも何でもしろよ、と語気荒く言い放ってやる。本気じゃないが。

 シャカは傲岸不遜ではあるが裏切りを是とする漢ではなかった。知らなかったんだろうと納得すれば、再燃した怒りも静まっていく。

 シャカは黙り込んだまま、表情を変えもしない。ただ言われるがまま。

 なんか言えよ。

 

「聖域へ帰れよ。暗黒聖闘士なら一輝が倒した。もう用事はないだろ。そのうち女神(アテナ)が聖域を取り戻しに行く。その日を偽教皇ともども首を洗って待ってろ」

 

 なんか言ってくれないと俺も止められないんだけどな。

 そして、本当に教皇に報告されちまったら……どうしよう。まずい、俺、もしかして墓穴を掘ってやしないか。

 冷汗が噴き出してきた。

 今しがた想像した最悪の未来―――戦い育てあげた実力がまだ育っていない、紫龍や氷河、瞬はもちろん、邪武や激達まで一人残らず殺されたあげく、沙織さんまで亡くす未来が脳裡をかけめぐる。

 ありえないとは断言できない。前回だってそうならなかったのが不思議なほどの状況だったしな。

 ましてやこの時点で教皇側に俺達を知られるなんて、想像でもぞっとする。聖域が全力を持って俺達を叩きつぶす未来は、決してありえないわけじゃない。

 むろんそんな真似を許す気はない。全力で反撃するが、それはそれで、黄金聖闘士全滅、および聖域は壊滅状態になるだろう阿鼻叫喚の未来想像図が眼に浮かぶ。じ、地獄絵図だ。

 なあ、なんか言えって!

 

 やきもきしている俺を知らぬ素振りで、シャカは吐息をついた。相変わらず何を考えているのかよく分からない表情で、ゆっくりと瞼が伏せられる。その口から発せられるのは先と同じ問い。

 その声にもはや戦意は窺えなかった。伏せた目はそのまま閉じられて動かない。

 

 三度目の問い。

 一言一句同じ問い。

 何を問われているのか、判断に迷う問いかけ。

 

「お前は、何者だ」

 

 簡潔すぎて、あまりに広範囲すぎる質問の意図がつかめない。まあシャカだもんな。汲み取れというほうに無理があるんだ。

 俺はあっさり努力を放棄した。決して誰にも否定させない事実のみを答えとする。

 

女神(アテナ)の聖闘士、天馬座(ペガサス)の星矢」

「この私に、迷いを植えつけるとはな。フッ、いや、乙女座(バルゴ)の宿命とでも言うべきか」

 

 わけの分からんことを言いながら、つかのま微苦笑をもらし、シャカは髪をひるがえして背を向けた。地に落ちていたヘッドマスクが一瞬にしてその手の中に現れる。

 それを小脇にかかえ、何かを思いだしたように振り返ったシャカは、なぜか満足げに口の端を吊り上げた。

 

「覚えておいてやろう。天馬座(ペガサス)の星矢よ」

 

 その声と残像だけを残し、スッと姿が失せる。

 登場時の派手さ、もとい、華々しさからは予想もつかないほどあっさりとした消え方だった。

 味方に引きこめたわけじゃなさそうだが、一件落着、だといいな。

 ……本当に報告されたらどうしよう。もしかしたら、あれは捨て台詞ってやつか。だとしたら、普通、覚えるのはこっちじゃないのか。

 俺は、もはや癖となりつつある遠い目で、シャカの消えた場所を見やる。

 まあ、その時はその時だ! どうにかなる!

 ヤケになってるわけじゃない。いつだって、どんな場合だってどうにかしてきたんだからな! という自信の表れだ。

 正確に言えば、どうしようと言ってもどうしようもないだけなんだけどな。

 こう考えると、俺もろくな人生を送ってない。後悔はない。と言うより後悔するほどの時間を生きられなかっただけか。あらためて考えると不遇な人生だ。いっそ感心するぜ。

 地に伏せていた一輝が動いた。

 

「お前は、強いのだな。いや、俺が弱いのか」

 

 一輝は噛み締めるようにつぶやいた。ろくなもんじゃないのは、俺達の誰も同じか。

 だが、今の俺と一輝じゃ、経験が違う。知っていることが違う。そもそも前提が違う。だから、一輝の感想は当たっているとも言えるし的外れとも言える。

 そして、この時になってようやく、俺は、一輝がかつての記憶、俺と同じ記憶を共有していないのだと受け入れる気になった。

 知らない振りしているだけじゃないかと実はちょっぴり疑っていたのだ。

 あるいは、思いだしてはくれないかと。俺だって、いきなり俺から俺へと変わっていたわけだしな。

 そうであって欲しいという願望もあったかもしれない。

 

「フッ、お前とてこの六年間地獄を見たはず。いや、お前だけではない。兄弟全員、例外なく地獄を見たはずだ。俺が弱虫だっただけかもしれんな」

「……眼は覚めたかよ?」

「ああ、この俺の臓腑を流れる憎しみは、今やお前への飢えと化した。いずれ届いてくれよう」

 

 へっ!?

 思わず、耳を疑った俺を誰が責められるだろうか。聞き違いかと一輝の顔を凝視する。

 今、何か、妙なことを言わなかったか!?

 ぎらぎらとした両眼の光は静まるどころか、輝きを増して。

 視線の先には俺。

 おかしい。俺は一輝に元の正義感あふれる漢らしい男に戻ってほしかっただけのはずだ。ついでに、相談にも乗ってもらおうとは思ったが。

 俺は一歩後ずさった。

 おかしい。俺は俺以外の全員が皆殺しにされる心配や、一輝が記憶を持っていないという落胆で落ち込んでいるはずなのに。

 空気を吸い込んで喉がひゅっと鳴った。

 おかしい。俺は、今、非常に重大で深刻な問題を考え、どうすればいいかと悩んでいたはずなのに。別の意味で焦ってきたぞ。何かが間違ってる気がする。もちろん俺じゃなくて一輝がな!

 先ほどとは違う意味で汗が出てくる。飢えた肉食獣を思わせる一輝の視線は、爛々と熱を帯び、ただでさえ暑いデスクィーン島の気温を間違いなく二度は上げているに違いない。

 なのに、俺の額には冷たい汗が浮いてきている。

 おかしい、おかしいだろッ。

 

「い、一輝?」

「俺にお前の強さがあれば、ここまで憎しみを持たずに済んだかもしれんと思っただけだ。いつ知ったか知らんが、お前は憎まなかったのだろう」

「そういうわけじゃないぜ。ただ―――、いや何でもない」

 

 先に真実を知って、憎しみに身を焼いた男を見てしまったから、その道に進めなかっただけだとは飲み込んだ。

 目の前の男に、お前がいたからだとはさすがに言えない。

 それにしても、ああ良かった。力だけがすべてだとか、力こそが正義だとか、かつての一輝と同じような勘違いをさせてしまったのかと思ったぜ。

 こっそり安心して、胸を撫で下ろし、声をかけた。

 

「それより、一輝、どうする?」



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堕ちた理由の墓

 シャカは消えた。続きをするか?

 言葉に加えて、これ見よがしに拳を固めて、首をかしげてやる。

 一輝は苦笑いして首を振った。どこか獰猛に尖っていた雰囲気がゆるむ。

 かつて、城戸家にいたころを思い出させる気安げな空気があたりにただよった。それを隠すような渋い口調からもいつのまにか垣根が取り払われている。

 

「言ったろう。まだ手が届かん、とな。だが、一つ訊くぞ」

 

 言葉を切った一輝が、表情を改め手を伸ばしてきた。腕一杯に伸びきった手でそのまま肩を掴まれる。

 

「星矢、お前、本当に本気だったか?」

 

 思わず笑みがこぼれた。

 それだけで答えを悟ったらしい一輝が本気で嫌そうな顔になる。だが、寸時のためらいもなく次の言葉を発した。

 

「どういうことだ?」

「本気でやりあってたら、この島は地図から消えてるぜ」

 

 互いに本気じゃないと分かっていたからこそ、俺だって攻撃を受けるというバカな選択をできたんだ。

 聖闘士の技は基本的に、一撃必殺。二手はない。防御より攻撃重視の戦闘教義だ。

 相手より自分の攻撃が、より速くより強ければ防御などせずとも勝つ、そんな部分がある。しかも、実力が高ければ高いほどその傾向が強い。

 手っ取り早く言えば、攻撃に対して攻撃で応じる、それが聖闘士の基本戦術なのだ。防御を得手とする聖闘士は少数派に属する。

 俺の知っている限り、黄金聖闘士の中ではムウだけ、か?

 そのムウにしたって、防御を得手としているというより、戦いを好まぬ性質上、防御を得手としているように見えるだけだろう。

 つまり、最強とも謳われる黄金聖闘士に対して反撃もせずに受けるだけってのは死を受け入れるに等しい。シャカも同じだ。俺が本気なら肉片も残さず吹き飛んでいる。最低限この島の半分は道連れにな。

 あんまり派手に吹っ飛んでくれたもんだから思わず心配したが、黄金聖闘士をあの程度で殺せるはずがない。冷静になった今だから言えることだけどな。

 それを踏まえれば話は簡単だ。

 

「単なる小手調べで本気を出すほどシャカも血迷ってなかったんだろ」

「小手調べ、か。つまり、すべては牽制に過ぎなかったと?」

「ああ。俺を聖域の敵だと本当に断じれば別だが、退いたってことは迷ったんだろうな。言葉どおり」

 

 結界も敷かれてない場所で、それも本来の任務から外れている戦闘を、矜持を傷つけられた程度でやるほど、我を忘れていたわけじゃなかったってことだ。

 探りあいの結果、蟻と分かった相手を踏みつぶす。その程度のことなら顔色も変えずやってのけるだろうが、矜持を傷つけられただなんて私事だけで、こんな戦いに本気を出すような真似をできるはずがない。甚大な被害が出ると分かりきっている。

 要するに茶番だな。

 シャカにはシャカの考えがあるのかもしれんが、常人の俺に追いきれるわけがないから考えない!

 最後の攻撃は意趣返しか挨拶がわりか。

 それにしちゃ妙に殺気を感じたのは、きっと試す意図があったからに違いないと信じておく。でも、覚えてろよコノヤロー。

 あれで、完璧に敵だと見なされてたら、本格的な戦闘に突入したであろうことには目をつぶるぜ。なるようになるッ!

 

「牽制、であれか。お前もシャカも人間とは思いがたいな」

「今度会ったら直接言えよ。多分、喜ぶぜ。だいたいな、んなこと言ってられんのか?」

「なにが言いたい?」

 

 じろりと睨まれる。笑ってやった。

 

「届くんだろ?」

「当然だ。超えてくれる」

 

 一輝はえぐられた地面と砕かれた岩に目線を移し、深く息を吐いた。大きく感情のすべてを押し流すような息を吐き、掴んでいた手をゆるりと外す。

 熱と重みが離れていくのを、何となく目で追う。伸びる影がふと目に付いた。

 

 地面に落ちる俺達の影は随分と短く濃いものになっていた。

 俺がこの島に着いてから、思ったよりも時間が経っていたらしい。いつの間にか太陽は中央を過ぎる高みにあり、無慈悲なまでの熱が降りそそいでいる。先ほど感じた気温の上昇はまんざら勘違いでもなかったようだ。

 気づいてしまえば、赤道直下の強烈な陽射しは、容赦なく人を照り焼きにしようとする無情さを発揮してくれた。

 くそ、本気で死ぬほど暑い。息をするのも辛い熱気にとめどなく流れる汗。このまんまじゃ日干しか焼肉になっちまう。冗談じゃねえ。食う方以外はお断りだ!

 暑さだけじゃない。非常に根本的な問題が、暑さとは別に発生していた。生きているなら誰もが必ず直面する重要な問題だ。

 

「ああ、腹が減った」

「緊張感のない奴だな」

 

 うめいた俺に、一輝は何をいきなりと呆れた顔になる。

 何とでも言え。昨夜から何も食ってないんだ。俺の体感時間からすると、せいぜい朝食を逃した程度のもんだが、それにしたってこの島までは慣れぬテレポーテーション、島に着いてからは滅多に使わない頭をフル回転。

 腹が減る理由には充分すぎる。

 

「逆だ。緊張してたから腹が減ったんだよ。俺は今から日本に行く。お前はどうする?」

「あのくだらん銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)とやらに参加する気か? お前はこれから何を」

 

 さえぎる。

 

「俺は聖闘士だ。女神(アテナ)のためにどこまでも戦う。女神(アテナ)とともにどこまでも戦う」

 

 これから、何が起きるかを知っている。

 女神(アテナ)の流す血と涙を知っている。

 同志達の悲しき決意と慟哭を知っている。

 地上を蹂躪する(いわ)れなき暴挙と脅威を知っている。

 恐怖と絶望の苦鳴を上げる力なき人々を知っている。

 聖域にある救いのない悲劇と犠牲を知っている。

 それで充分だ。

 ならば戦う。ともに重荷を背負う。俺が聖闘士である限り、どこまでも、だ。

 

「言っとくけど、銀河戦争(あんなくだらないモン)に出るためじゃねーよ」

「そうか。ならば」

「なあ一輝、まだ話すことがあるんだったら場所変えようぜ」

 

 俺の提案に、一輝は怪訝そうな顔になり、ついで納得したと言いたげに視線を俺の首筋に投げた。

 慣れてない俺に、この暑さは本当に結構きつい。

 こめかみから流れる汗は顎にしたたり、首を光らせる汗が鎖骨のくぼみに溜まっているのが分かる。ぬるい風が首を吹き抜けて、ひんやりとする感触を残しても、その涼しさは瞬間でしかない。

 もうちょっと涼しい場所、は無理だろうが、せめて日陰に行きたい。この息苦しい熱から逃れられるならどこでもいいぜ。

 一輝はちょっとだけ笑った。

 

「腹が減ったなら食い物くらいは出してやれるが」

 

 この島に来て、はじめてお目にかかった表情だった。

 一瞬だけ、暑さが吹き飛ぶ。どこかぎこちなく引きつって、それでも、本当に笑ったのだ。

 

「あ、ああ、世話になるぜ」

「大した物はないがな。このファイヤーマウンテンの火口側よりはよほどマシだろう」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 案内されたのは石作りの小屋だった。

 半地下形式で、廃墟のような見掛けに反して案外広い。さらに地下への階段をのぞくと、白骨が積み重なっていた。……見なかったことにするか。

 

「このあたりは、見てのとおり、岩だらけの地面に晴れぬ噴煙と植物には厳しい。建物は基本的に石造りだ。そこらから切り出してこれるからな」

 

 きょろきょろしていた俺に、一輝が説明を加える。

 言葉どおり、雑な石組みの建物に、木造の影はない。

 一輝が、小屋の影にあった水瓶から、水を汲み差し出す。

 

「茶なんて贅沢なものはないがな」

「聖域にだってなかったさ。いらん気を使うなよ」

 

 茶なんて嗜好品は、弟子や雑兵レベルではかなりの高級品だ。俺だって聖域で口にしたことはない。

 

 ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。どれほど乾いていたのか、水を口にして実感した。飲み終わってからようやく気づく。この島で、水は貴重品じゃないのか。

 俺の修行地では、基本的に客人に対してワインを出したが、水とワインは同じ値段で、同価値だ。水があり余る場所など、世界の中でも限られている。デスクィーン島の水事情はどうなんだろ。

 遠慮もせず飲んで良かったのか?、と手にした空の器を見つめた。すすめてきたのは一輝だが、俺もちょっとくらい遠慮してみせるべきだったかもしれない。器の底をちょっと見つめ、覚悟を決めた俺は、そろっと一輝を見上げる。

 ええい、男は度胸だ!

 悪かったよ、という気持ちをこめて見上げたのに、なぜか、一輝は目をそらした。さらに背まで向けられる。

 

「ちょっと待ってろ」

「ん、ああ」

 

 何をするかと思えば、帰りがけに捕らえたトカゲを切り分けて串のようなものに刺していた。

 全体的に茶色で、黒の斑点が散っていて、背には背びれのようなトゲが生えている。大きさは一メートルほどばかり。素早く岩陰に入り込もうとしたところを一輝が手慣れた手つきで捕らえ持ってきたのだ。

 

「火をおこすか?」

「頼む。そっちに炭がある」

「これか?」

「いや、その右の壷だ」

「えーっと、これか。分かった」

 

 串に刺したトカゲ肉を火にかける。

 肉を返して満遍(まんべん)なく焼く。油が落ちて焦げそうなほど火が勢いを増す。この島で何を食って太ったんだこいつは。

 肉を口に入れて噛みちぎる。もっと小さいサイズなら、聖域でもそれなりに世話になったが、サイズが違っても味は大して変わらない。鶏肉に近い、くさみの少ない肉だ。切り分けた部位が太くなればなるほど硬い歯応えが返ってくる。

 美味かった。

 

 食い終わるまでは、無言の合間に他愛ない話がぽつりと落ちるだけだった。ほとんどが昔話だ。

 多分、一輝は懐かしんでいるわけじゃない。何をどうやっても、かつて何の真実も知らず素朴に正義を信じていた幼子になど戻れない。それくらい分かっている。俺も一輝も。

 壊れたものは二度と元に戻らない。

 

 だが、俺にはもはやこっちの一輝のほうが馴染み深い。

 壊れるとはどういうことだろう。だって、俺には、すでにこの一輝が一輝なのだ。幼かった一輝―――正義をつらぬく義侠心と弟を庇いとおす優しさを持っていた―――がそのまま成長したような男ではない。

 実の父親を憎悪し、数多の兄弟達を唾棄し、復讐の焔に心を焼き焦がして、まとう聖衣そのままに蘇ったこの男が俺にとっての一輝だ。俺の記憶に馴染み深い一輝だ。

 壊れるとはどういうことだろう。在るべき一輝とはどんな存在だったんだろう。ここに在るべき俺は―――。

 

 考え込んでいる間も口は動いていたらしい。気づけば肉はなくなっていた。本能のなせる技だな。生きてる以上は食わなくっちゃいけない。その他がどうあれ、二の次だ。

 一輝は黙々と火の後始末をしている。

 斜めに差し込んでくる太陽光線にまだ衰えは見えないが、確実に光の色は変わり始めている。西日と言うほどでもない。だが、斜めになりつつある角度の光が、何気なく横を向けば目を刺した。暑い。

 振り返った一輝が、まぶしげに目を細め俺を見た。

 

「なあ星矢、墓を作ろうと思う。手伝ってくれるか?」

 

 誰の墓か、とは訊ける雰囲気じゃなかった。

 

「ああ」

「こっちだ」

 

 そこから歩いて少し。小高い丘の影。そこにあったのは少女の遺体だった。

 穏やかに微笑んで眠るように横たわっている。

 ―――なるほど。だから、一輝は壊れたのか。

 瞬によく似た少女から目をそらす。

 この暑さの中、一切の腐敗をまぬがれている遺体を一輝の小宇宙が包んでいるのを感じる。時の移ろいからさえ守られた死者。

 一輝自身が殺したか、一輝の目の前で殺されたか。死後硬直すらもまだ始まっていない。

 無言で抱き上げた一輝には表情がない。泣きわめくより悲痛だった。感情が死んでいた。

 

 簡素な墓を島の最西端に作る。棺などはない。深く掘った穴の中、まだ柔らかな身体を丁寧に胎児の形にして納める。土を掛けるより先にまず花で埋めた。

 この過酷な環境の中でも懸命に咲き誇る花々で、少女の顔が見えなくなってようやく土をかけて盛り上げ、木切れと木切れを組み合わせて作った十字架に花輪を掛けて、祈りを捧げる。

 

「エスメラルダ……」

 

 この少女が一輝の最後の砦だったのだろうか。

 何があったか知らない。どんな六年間だったか知らない。一輝は語らない。前回、漏れ聞いたことしか俺は知らない。この島で何をよりどころにしていたかなど知らない。

 最も神聖で、誰にも立ち入らせぬ不可侵の場所にある名を呼べばこんな声になるのかもしれないと思わせる、聞いたことを後悔させる声だった。

 いつ死んだのかは分からないが、もう少し早ければ間に合っただろうか。もう少しだけ早ければ、一輝が壊れる前に俺は―――……考えたってどうしようもない。俺は口を引き結んで地上に目を落とした。

 

 壊れたものは二度と元には戻らない。

 過ぎた日は決して返らない。―――返らない、はずなんだ。

 

 かちりと、地を踏んで、石のぶつかる密かな音が聞こえた。

 何だ?

 らしくもなく考え込んだせいで妙な奴らが近づいてくる気配に気づくのが遅れたらしい。

 

 墓に対して遠い目線を投げる一輝に注意をうながすべく声をかけようと首を上げる。

 ちっ、囲まれてるな。

 舌打ちした俺を制し、分かっているとばかりに、一輝の目線が動いた。

 静かな恫喝(どうかつ)に、もはや先ほどの名残はない。

 

「お前ら、何の真似だ。ジャンゴの仇討ちか。それとも鳳凰座(フェニックス)の聖衣でも奪い返しに来たか」



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孤島にて新たな意思で

 一輝の恫喝(どうかつ)に姿を現したのは、聖衣らしきものをまとった黒づくめの男の集団だった。ひい、ふう、みい、十人以上か。大して強くもなさそうだが思ったよりも数が多い。

 何で聖衣「らしき」ものかと言えば、この聖衣が青銅、白銀、黄金のどの階級にも属していない色彩を持っているからだ。正式な聖闘士ではないと一目で知れる漆黒の具足。

 聖闘士でありながら聖闘士でない、暗黒聖闘士と呼ばれる奴らだ。

 

「フッ、実は……」

 

 代表らしい長髪の男が、一歩進み出る。一輝を見据え、にやりと表情をゆがめた。

 どっかで見たような顔だな。

 

「我ら暗黒聖闘士一同、これより、一輝様を首領とあおぐことにいたしました! 一輝様こそ我らの首領に相応しいお方。我らが命、一輝様にお預けいたします!」

「くだらん」

 

 一輝は一顧だにもせず、切り捨てる。二の句を告げず、男は焦った顔になった。

 目をくれてやろうともせず無視するさまは、すがすがしいまでにキッパリしている。

 

「俺にはもはや憎しみすら意味がない」

「じゃ、これからどうすんだよ?」

 

 暗黒聖闘士の首領になって、野望を果たす気がないんだったら、これから何する気なんだ? 何を望む?

 好奇心に近い、素朴な疑問だった。

 俺は、かつての一輝の望みをまだ覚えている。黄金聖衣を奪取し、世界に君臨する野望の影に隠れた真の望み―――城戸光政の匂いのする一切の消滅。己も含めて。

 あの男への憎しみだけを生きる糧にしていた一輝を、俺は忘れちゃいない。

 その憎しみに意味がない、と言うのなら、今のお前に意味あるものって何だ?

 口を差し挟むのは無粋かとも思いつつ、心に浮かんだ言葉を口にする。

 そんな俺の疑問に答えずに、一輝は逆に尋ねてきた。

 

「お前は何をする気だ?」

「俺? さっきも言ったが日本へ行く」

「何のためにだ」

「ちんたらしてられねーんだよ。黄金聖闘士の実力を、お前はさっき見たよな? 聖域を取り戻すってことは、あんなのを複数相手にするってことだ。今のあいつらじゃ死んじまう」

 

 前に生き残れた理由、つまり実力の向上につながった一輝ら暗黒聖闘士との抗争の根はここで断っちまったからな。補わねぇと、洒落じゃすまん事態になっちまう。

 姉さんも探したいけど、戦いが終わるまでは見つからないほうが安全だ、と思う。

 俺は顔をしかめた。会いたい、とどうしようもない焦燥に、死の神(タナトス)に殺されかかった姉さんの顔がチラつく。

 ……きっと、今はまだ、見つけないほうがいい。すべての戦いが終わったら迎えに行くから、待っててくれ。星華姉さん。今回は生き残ってみせるから。

 

「あいつら?」

「俺とお前以外にも生き残っている奴はいるんだぜ。城戸家から聞いてないわけじゃないだろ? 百人中十人だ。……瞬も生き残ってるぞ」

 

 はっと一輝が表情を変えた。まず驚き。そして、恐怖の表情にも似た後ろめたさが顔をよぎる。

 弟をかばってこの島へ来た一輝に、何を後ろめたく感じるものがあるんだ? かばわれた瞬が一輝に対して後ろめたく感じるんならともかく。

 俺はどっちもそんなモン感じる必要はねえと思うけど。

 一輝のせいじゃない。

 瞬のせいじゃない。

 俺達のせいじゃない。

 ―――仕方がなかった。

 この運命を、仕方ないだろう、と俺達以外の誰かに言われ片付けられたら猛烈に腹が立つだろうが、互いにかけられる納得できる言葉としてはこれしかない。俺達の誰のせいでもないんだ、と俺は思う。

 だから、目の前の一輝の反応がピンとこない。

 なあ、どうして、そんな顔になるんだよ?

 分からん、という俺の表情に気づかず、一輝は地に視線を落とした。

 

「瞬……いや、俺には合わせる顔がない」

「何でだ?」

「俺は、俺は……瞬にはどんな試練も乗り越えろなどと言っておいて、俺自身はここで負けたのだ。ありとあらゆるものを恨み憎んだ己自身に負けた」

 

 呪詛を吐き出すような言葉には己への怒りがあった。握りしめられた拳は高ぶるままに震えている。

 初めて見る一輝の姿に、目をしばたいて言葉を飲み込んだ。

 前回、富士の樹海で生き別れ、その次に会った時には立ち直っていた。一人で苦しみ、一人で乗り越え、一人で昇華し、前回女神(アテナ)の聖闘士として生きると決めた一輝。

 だから今、おそらく、兄弟の誰も知らなかっただろう姿を、見ている。

 一輝は何もかもをたった一人で乗り越えることのできる男だったから。

 誰の手も借りず、立ちあがれる男だったから。

 だけど、今ここに俺がいる。兄弟にも、女神(アテナ)にも、誰にも見せなかった姿を見ている。

 俺は言葉を飲み込んだまま、西日を受けて影の濃い一輝との距離を一歩つめた。それ以上踏み出せば、一輝にぶつかるか、一輝を通り過ぎてしまうぎりぎりの距離だ。

 手を伸ばすまでもなく、触れているに等しい間隔。

 何を、言えば、今の一輝に届くのだろう。

 一輝は、俺に、何を求めているのだろう。

 慰めか、励ましか、同情か、いたわりか、理解か、共感か、叱咤か。

 うーん……うーん……知るかンなこと!

 ここは思うところを、一発怒鳴っておこう。

 

「だから会えないってのかよ! この弱虫やろう!」

「きさまっ!」

「お前はまだ生きてるだろっ」

 

 力をこめて口に出す。一輝は生きている。生きていなければ墓を作ることだってできない。悼むことも悲しむことも何もかも。

 生きているからできるのだ。

 たとえすべてのものを失くしたとしても、どこまでも限りなく傷ついたとしても、それさえあれば、人間は無限の力を発揮し、神をも超えることがかなうと知っている。地獄の果ての楽園で、天馬座(ペガサス)の聖衣も砕け、黄金聖衣も砕け、すべての力を失いかけていた俺がもっていたもの。奇跡の、源。一輝とて持っているもの。

 一輝の―――生命。

 正面から一輝の肩に腕を回して、体温を分けるように小宇宙を伝えた。生きている限り、俺達の小宇宙は燃焼し続けている、その脈動を感じられるように回した腕に力をこめ、ついでに首筋から背中にかけて柔らかくたたいて抱きしめた。

 生きてるなら。生きてさえいるのなら。

 人生、死ぬまでは勝負はついてないんだぜ。

 

「生きてるならまだ終わってないぜ。俺と来いよ。一輝」

「!?」

「俺と来い。お前は女神(アテナ)の聖闘士だ。お前ならやりなおせる」

「……」

 

 肩の上に頭を預け、洗脳せんばかりに言葉を吹き込む。一輝は微動だにしない。それをいいことにさらに力をこめ抱き寄せた。

 俺は一輝が立ち直れると知っている。

 いや、前回の記憶なんか関係ない。だが知っている。ただ信じている。

 こんなところで終わる漢なんかじゃない、と。

 

「まさか、負けっぱなしでいる気じゃないだろ?」

 

 腕をほどいて身体を離し、トン、と一輝の胸を拳で軽く打つ。真っ直ぐ顔を見上げて笑いかけた。

 俺を見下ろした一輝は、無言で視線を俺の顔に固定し、じっと見つめてくる。魂の底まで見通そうとするかのように鋭く、何かを渇望する眼差しだった。

 ひたと、見据えられる視線の迫力に浮かべた笑顔がひきつる。

 ……何だよ!?

 あまりの居心地の悪さに俺が文句を言う前に、黙り込んでいた一輝が口を開いた。

 

「それは城戸のお嬢さんのためか?」

女神(アテナ)女神(アテナ)の守る地上の平和のためだ」

 

 なんだろう。間違っちゃいないが、そう言われると否定したくなるのは。

 もちろん、あのお嬢さんに一人で戦わせるなんて男らしくない真似は論外だが、邪武じゃあるまいし、お嬢さんのためなら命も惜しくないなんてこと、太陽が西から登っても、俺には言えないぜ。

 だいたい、来るのか来ないのかどっちだよ。人の質問を無視するのはよくないんだぞっ。

 

女神(アテナ)のために、とお前は言うのか」

「そうだ。俺のことより、お前はどうする気だよ」

 

 一輝のまとう鳳凰座(フェニックス)の聖衣に視線をやる。それを脱がぬ限りはお前は女神(アテナ)の聖闘士なんだぜ。

 ―――どうする?

 

 不意に一輝の首が動く。さっきから話に置き去りにされて、唖然としている男のほうに顔の向きが変わった。

 つられて、俺もそいつに目をやる。

 ん? このツラは……、あ、どっかで見たようなツラだと思ったら、こいつ暗黒竜星座(ブラックドラゴン)か。

 白銀聖闘士達の手により、真の竜星座(ドラゴン)紫龍の代わりに葬り去られた男。

 生前の姿より、死に顔のほうが記憶にあるもんだから、ぱっと見は分からなかった。

 そう分かってしまうと、まわりにいるのもちらほらと見た顔だ。

 暗黒竜星座(ブラックドラゴン)の斜め後ろに暗黒(ブラック)アンドロメダ、岩を挟んだ向かいに暗黒白鳥座(ブラックスワン)が立っている。その後ろにいるのは暗黒天馬座(ブラックペガサス)だな。

 

 だが、分かってしまえば思い出す。

 あの時、俺達の身代わりになった無残なその姿を。

 砂浜に立てられた十字の木切れに誓った決意を。

 その死を忘れない、俺達の生と引き換えになったその死を忘れない。必ず仇は討ってやると胸に刻み込んだ。

 白銀聖闘士との戦いはどうせ避けられなかったからな。降り掛かる火の粉を払うついでに、身代わりとなったお前達の無念をも晴らしてやると、確かに誓った。その誓いには、生きている姿より死んだ姿のほうが記憶に濃い。

 ああ、こいつらこんな顔してるんだったな、どこか懐かしくその顔ぶれを眺める。

 隣の一輝を見ると、もう少し厳しい顔をしていた。敵を見る眼とまでは言わないが、何かを見定めようとするような、真剣な目だ。

 何だ?

 いぶかしむ俺に重い声が落とされる。厳然と芯をもった、何を譲るつもりもなさそうな断固たる声。

 何を言う気だ。待ち構えた俺の喉がごくりと鳴る。

 

「これからの戦いは黄金聖闘士相手だと言ったな」

「ああ、彼らが素直に女神(アテナ)に帰順すればよし。そうでなきゃ倒す。倒さなきゃならない」

 

 まあ多分、大丈夫だと思うんだがなっ。

 女神(アテナ)が本当に女神(アテナ)である確信さえ得られれば、彼らのほとんどは無条件で女神(アテナ)の元に集うだろう。

 彼らの忠義は、本来女神(アテナ)に向けられるものであって、教皇に向けられる忠義は、女神(アテナ)の代理人という点に過ぎない……はずだ。

 少なくとも、俺は魔鈴さんから「聖闘士とは女神(アテナ)を守り、正義のために戦う戦士」だと教わった。

 その拳は空を引き裂き、その蹴りは大地を打ち割る。だが、それらの強大な力は、すべて女神(アテナ)女神(アテナ)の守る地上の平和、すなわち正義のために振るわれるべき力なのだと。

 聖闘士のほとんどは、無条件にそう身体に刷り込まれているはずだ。すべてを知って、それでも教皇につく奴のほうが異端だと思うんだけどな。

 まあ、証拠は必要だろうが、お嬢さんの小宇宙を感じ、それでもまだ疑うようならそいつは聖闘士をやめたほうがいい。女神(アテナ)にかしずくのに小賢しい理屈はいらない―――肉体よりも精神よりも先に、何よりも魂と聖衣が無条件に平服し恭順を示す。それは俺達聖闘士の身に息づく自然の摂理。くだらん矜持が邪魔したりもしない。

 俺達は正しく「女神(アテナ)の聖闘士」なのだ。魂の本能とさえ言えるその感覚を俺は知っている。

 

「なら、強い兵が要るな?」

「ああ、当然だ」

 

 何が言いたいのかよく分らん。これは一緒に来てくれるってことか?

 ちょっとした期待に意気込んで一輝の口元を見つめてしまう。

 

「星矢。俺は今しばらくこの島に残る」

「へっ?」

「お前の言った通りだ。確かに俺はまだ生きている。この心の小宇宙がまだ燃え続ける限り、俺の戦いは終わらん」

「……っ! なら!」

女神(アテナ)には強い兵が必要なんだろう。しばらくはこの島でこいつらでも鍛えることにするさ」

 

 一輝は、暗黒聖闘士をあごで指した。

 赤く丸い日はいつの間にか全貌を海に沈ませ、夕闇があたりを覆おうとしている。

 薄い闇が一輝の表情を曖昧にする。その中でも一輝の目がぎらりと殺人狂が満月にふりかざした刃物のようにきらめいたのが分かった。

 おいおい、もしかして、それって……。

 

「俺自身も修行をやり直す。お前に届くためにな」

「俺と来るなら、毎日でも相手するけどな?」

「それは断る。お前に強くしてもらうのでは意味がないのさ。意地くらい張らせろ」

 

 微苦笑を唇の端に浮かべた一輝の眼の光はやっぱりぎらぎらしている。

 お兄ちゃんの意地ってやつか?

 なあ、瞬、お前なら説得できるかな。

 いや、あいつは「それが兄さんの決めたことなら」なんて言って放置しそうだ。お前ら互いに甘いんだよ!

 

「そもそも、お前の味方になると決めたわけではない。勘違いするなよ」

「へいへい、そうかよ」

 

 一輝はやっぱり一輝だった。簡潔な答を、分かりやすくどうもありがとよ。溜息が出るぜ。

 嘆息をつきつつ見上げた空の東には、星が輝きはじめている。

 相談も何もできなかった。

 シャカに俺の存在を知られた。

 一輝も味方になったわけじゃないらしい。

 ……俺は一体何をしにここに来たんだろう。

 噴煙が邪魔で、星は薄ぼんやりと存在が分かる程度だ。まだ宵の口だというのもあるのかもしれない。

 それでも、俺はその星に願いでもかけたい気分でいっぱいだった。

 まだ時間はある。確かにある。

 あと一年足らずのうちに聖戦を二回も経験し、神と対峙して生き残るだけの実力を身につけるには余裕……なわけがあるかっ!

 ああ、やっぱり人生なんては思うがままにはならないもんなのかよ。全身から力が抜ける。身体的なものじゃない。精神的なものだ。

 

「じゃあな。俺はそろそろ行くぜ」

 

 俺は脱力した足取りでよたよたと海岸に足を向けた。

 世の中には、どんなに力が抜けても、忘れてはならないものだってあるのだ。

 

「どこに行く気だ?」

「海岸だ」

「船でも待たせているのか?」

「いや、聖衣を置きっぱなしにしてるんだ」

「……お前……、何やっているんだ」

 

 数瞬の間をおき、心底呆れた声を一輝が出した。だが、それは俺のほうこそ訊きたい。本当に。

 脱力のあまり、船も何も、俺はテレポートしてきたので、そういった交通手段はないと返すことも面倒だ。口を開いてなんかやるもんか。

 俺は我ながらゆるい足取りで海岸へと向かった。

 どこに置いてきたっけな。

 目線を飛ばす。目よりも先に聖闘士としての感覚が聖衣をとらえた。そういや岩場の上に干してきたんだっけ。

 

 無事、見つかった聖衣はすっかり乾いていた。半日以上、干していたから当たり前と言えば当たり前だ。

 元通りに聖櫃に収め、かつぐ。

 さて、行くか。

 目を閉じ、精神を集中する。

 いざ、日本へと!

 

 浮遊感。

 ん? と首をかしげる余裕もなく、全身に衝撃が走る。とっさに、開きかけた目を閉じなおし、息を止める。

 何が起こったかはすぐに分かった。海面に身体がたたきつけられたのだ。この衝撃から察するに、かなり高い水柱がたったことだろう。口の中のしぶきが塩辛い。

 そうだった。そうだったぜ。俺はテレポーテーションが下手なんだった。またもや海に落ちてから思い出しても意味がないんだけどなっ! くそうっ。

 真っ暗ということは、少なくとも日本よりは東だろう。

 すぐさまデスクィーン島から日本に飛べたんなら、今頃は夕方のはずだからな。ちゃんと乾かした聖櫃の中にまたもや海水が侵入するのを重くなる背で感じとる。

 喉もとのぬるい海水は、足先の深みに至ればひどく冷たく、どれだけ伸ばしても足がつかない。どこだよ、ここは。

 初っ端からこれじゃ、城戸家につくまでに、あとどれくらいだろう。

 そもそもデスクィーン島にそれなりの時間でつけたのは、ある程度の距離まで近づけば一輝の小宇宙を感じ取れたからだ。それでもすんなりとは飛べたわけじゃなかったが、目標があればそれなりに飛びやすい。一輝の小宇宙は青銅とは思いがたいほどに強いしな。単に戦闘的で分かりやすいってのもあるんだろうけど。

 比べて、日本には目印がない。加えて近距離というのは案外加減が難しいものらしい。

 こんなものを日常的に使いこなすムウ達にはまったく恐れ入る。魔鈴さんが教えてくれなかったのも納得だ。実はお前すごかったんだな。貴鬼。

 ざばざばと立ち泳ぎをしながら、そんな埒もないことを考える。水中で光ってるのは、ありゃ何かの眼か。どうやら段々と近づいてきてるっぽいけど……あ、口ひらい、た。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 結局、城戸家につくまで、随分とかかった。

 日本へは、二時間ほどでついたのだが、テレポーテーションを多用すると、かえって目測を誤って飛びかねないということを俺は学習した。

 夕刻どころか、まだ真昼間の地域に飛んじまったからな。またも海の中に落っこちたのは、人目と言う点で実に幸いだった。

 学習した俺は、うまいこと東京にほど近い場所に飛べたのを皮切りに超能力を使うのをやめ、歩いて城戸邸まで行ったのだ。普通の人間っぽく。いやいや言うまでもなく、誰と比べても俺は普通なんだが。

 だが、びしょぬれのまま、どこに落ちたかも分からず東京ってどっち? と通りがかりに尋ねた俺に、人は冷たい眼を向けた。

 東京では、でかい荷物を背負って、城戸邸ってどっち? と尋ねた俺に、人は不審な目を向けた。

 やめろっ! 俺をそんな目で見るなっ!

 なんだか、どうも普通だと見なされてない気がして、俺はちょっぴり遠い目になった。本当に俺は普通なのに。どちらかと言えば、ではあるが。

 そして、ようやく俺は城戸邸の前にいる。

 見上げるほどの堂々たる門構えをふり仰ぎ、俺は大きく息を吸い込んだ。

 

「あの人、何してるのかしら」

「大荷物ねえ。しかも、髪の毛濡れてない?」

「あんなお屋敷前にぼーっと突っ立っちゃって、怪しいわ」

「しっ! 目を合わせるなよ!」



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懐かしき邂逅

 ―――俺は無実だッ!! お天道様に顔向けできないことはやってないっ!

 

 全世界に向けて叫んでも許されるだろう絶叫を、心の中だけにとどめ、俺はさっさと逃げ出した。

 背後の気配や、ヒソヒソ話に怖気づいたわけじゃない。誓ってもいい。本当だ。気にしてなんかない。無実だけどな!

 俺はただ、気づいただけだ。

 

 お嬢さんもあいつらも、六年以上も会ってなかった相手が、双子座(ジェミニ)の聖闘士サガが教皇として聖域に君臨する裏切り者で、次は海王(ポセイドン)との聖戦があり、連続して冥王(ハーデス)が復活するなんて見てきたように言ったら、気でも狂ったんじゃないかと思うに違いないってことを―――。

 

 少なくとも俺だったら思う。誰の言であるかにもよるが、普通はそう思って当たり前だ。

 なぜ知っているのかと問われて、うまく誤魔化せる自信もない。

 誰に聞いたか、何を論拠とするのか、簡単に言っちまえば出所をばらさないと話した事実のすべてを疑われるだろう。実際に見てきてるんだから、偽りは何一つ無いとしても。

 かといって、すべてを話して信じてもらえるのか。俺だって、最初は自分の記憶と正気を疑ったんだ。実際のところ、まだ多少は疑ってる。何が起こったのか自分ですら分からないってのに、説明なんかできるか。できねえし、無理に説明したところで疑わしいだけだ。

 だいたい、あいつらはまだ自分達が血を分けた兄弟だということも知らない。自分達が何のために、誰のために聖闘士になったのかということもだ。

 こんな状況で、どこまで話していいのか分からない。そもそも話していいかどうかも分からない。

 俺は一体どうすればいい―――ああ、頭が痛いぜくっそ。

 

 俺はぐるぐると考え込みながら闇雲に道路を走った。城戸邸をあまり離れないように気をつけながら城戸邸の周辺を大雑把に周回する。

 言うまでもなく普通の人間程度のスピードに抑えるのは忘れちゃいない。

 

「きゃっ! 何アレ!」

「どうしたよ? 露出狂でもいたか」

「もっと悪い! 今、人がこの車の横を走ってったの!」

「はん、50kmは出してるんだ。錯覚だろ」

「本当よ! さっき、この車を追い抜いていったんだから!」

「……マジ?」

「大マジ。この目を見て」

「見れるか! ……ここの道路、出るって話……あったか?」

「分かんない分かんない分かんない、どうしよう……」

「あー、どっかで休憩するか」

「うん……そうしたほうがよさそうね」

 

 途中、ちょっと考えに集中しちまったが、悲鳴が聞こえたのはきっと気のせいだ。気のせいに決まっている。

 そこはかとなく冷汗をかきながら、俺は低くうなった。

 とにかく、このまま見過ごすわけにもいかない。少なくとも俺のいうことが真実であるとだけは信じてもらわなければ。

 このまんまじゃ全滅だ。それだけははっきりしている。今のあいつらの実力では犬死する未来しかない。

 なんだか俺のせいな気もするが、それこそ気のせいだ。もし俺のせいだとしても、いきなりこんな事態に放り込まれて先を考えながら行動なんかできるか。俺はそこまで器用じゃない。

 それでも、やっぱり、俺のせいも多少はあるかもしれないとは思うから、何とかしようとは思う。そのために動こうとは思ってるが。

 絶対に死ぬとは限らない。奇跡は存在すると知っている。

 それでも、起こるかどうか分からん奇跡にすがるなんて情けない真似はごめんだぜ。男なら自分の力で切り開くもんだろ。

 

 それに、問題はもう一つある。

 多分だが、ここにも聖域の目がどこかにあるってことだ。聖域の注意はなるべくならまだ引きたくない。だが、大勢に話せば話すほど、それは伝わりやすくなる。

 ここに、聖域の目がないとしても……いや、必ずあるはずだ。そうでなければ、あんなにも正確に素早く白銀聖闘士達が来るはずがない。世界中にあるはずの聖域の目や耳が、ここにないはずもないしな。

 派手に動けば絶対に気づかれる。前回はそれを逆手にとって悪の根をひきずりだそうとしたわけだが、同時にそれは相手に先手をうたせてやることでもある。

 

 それどころか、大きく動けば、聖域のみならず、海界、冥界、誰に嗅ぎつけられるか分かったもんじゃない。それは困る。それだとどう転がるか分からんからな。

 四方八方丸く収まればいいが、これまでの経験からして、世の中そう甘くない。実体験でもって、俺はその苦い味を噛み締めてきている。味わいすぎて、もう苦いんだかどうだかの判断が怪しいくらいだぜ。ちくしょう。

 じゃ、どうすればいいかって?

 つまり、最初の問題に戻る。真実を話さずに信じてもらうしかないってことだ。

 難題だが、お嬢さんなら大丈夫じゃないかとも希望はある。少なくとも俺はお嬢さんが女神(アテナ)であると知っている。お嬢さんはそれが真実であると分かっている。ならば、他の事実も信じてくれるんじゃないだろうか。

 

「よっと!」

 

 ある程度、考えがまとまったところで、軽い掛け声とともに塀を飛び越える。

 監視カメラがないことは知っていた。一万ボルトの電流を流している塀にそんなものは必要ない。

 昔はそんなにも俺達を逃がしたくないのかと思っていたが、今考えると、あれは俺達を守っていたのだろう。聖域の目やその他の敵から、未来の女神(アテナ)の聖闘士を。

 決して善意じゃないが、俺達をとじこめる悪意をもってのものではなかった……と考えてやれなくもない。囚人や奴隷としてではないとしても、俺達の意志を無視した物扱いされて愉快な気分にはならないが。

 電流くらい、今の俺なら大した問題じゃないが、わざわざ引っかかってやる必要もない。防犯装置(セキュリティ)に侵入者を教えてやる必要なんざないからな。

 地に降り立った俺に気づいて大型の犬が三匹ほど駆け寄ってきた。牧歌的に言ってみたが、実際のところは、歯茎と牙を剥きだし涎を流しながら唸っている。愛想の欠片もない。

 見掛けも牧場より戦場のほうが似合う軍用犬であり、間違っても愛玩犬ではない。外敵を噛み殺すために訓練された牙と普通の人間ではかなわぬ戦闘能力を持っている番犬だ。

 殺意のしたたる唸り声が地を這い、敵意とともによだれが落ちた。吠えようと口を開ける。

 させるか。

 

「伏せッ!」

 

 一睨みする。強く強く、意思をこめて睨む。空気を、この空間を支配しているのは誰か知らしめる。

 それで、すべて済んだ。

 見る間に首から背の毛が逆立つ。キャンッと小さく鳴き、哀れっぽく震えはじめる。短く切られた尻尾は最大限ちぢこめられ股の間だ。身体をなるべく小さくしようと地に這いつくばり、耳は頭と一体化せんばかりに後ろに倒れている。中には漏らしてる奴までいる。

 人間より本能に支配されている分、もろに存在としての力の差を分かっちまったらしい。

 圧倒的に強い俺という強者に、自分が絶対に叶わない弱者であると悟ったのだ。

 

「よしよし」

 

 なるべく優しく話しかけてやる。怯えさせたかったわけではないのだ。今のはお前らが無用なことをしようとしたから怒っただけだと声と動作で示してやる。

 吠えたり噛み付いたりしてこなかった褒美に、近場にいた奴を撫でてやった。小さく尻尾を振ったので、ちょっと嬉しくなって顔がほころぶ。首の下をくすぐり胸元まであやしてやった。

 

「いい子だ。そのまま大人しくしてろ。騒がれるのは困るんだよ」

 

 その場にいた三匹をよくよく撫でてやり、控えめながらも擦り寄って尻尾を振るまでに慣れたところで芝生を横切って屋敷へと向かう。

 真っ暗な二階のテラスにジャンプして、一通り窓をがちゃがちゃと触ってみるが、どこも鍵がかかっている。当たり前か。

 どこも開いてなけりゃ壊すしかないが……この家は、どこもかしこも、それこそ窓ガラスにまで細かな装飾格子があって……一言で言えばお高そうなのだ。なるべくなら触りたくねえっ!

 ううむ、どっか開いてないのかよ開いてるとこから入りたいんだけどな、と考えながら一度飛び降りる。地上階の窓をがちゃがちゃやりながら反対側まで歩くとサンルームがあった。

 屋敷から半分ほどせり出しているこの部屋は、支える柱はあるものの壁が全面ガラスになっている。ここは装飾格子が入ってない。壊すならここか。

 いやでも装飾格子がないからって、金がかかってないってことにはならない。掛かっているカーテンもどっしりとお高そうだしな。ええい、どうしてくれよう。

 悩みながら、腕を組み、半歩下がって屋敷の全貌を視界に入れる。下はサンルーム。重たげなたっぷりとしたカーテンが中を俺の目から隠している。その上は二階だ。白亜の壁には美麗な装飾が隙なく施され、採光のためか窓がある。鎧戸を閉めてたら意味ないんじゃないかと思うが……って、ありゃ、半開きだ。そうだよな。毎回鎧戸まで閉めるのは手間の無駄だよな。

 よっし! 誰か知らないがずさんな、もとい、合理的なメイドがいて助かったぜ。ありがたい!

 軽くジャンプし、ひさしの下のぎざぎざした部分に手をかけ、窓を開いて一気に入り込む。

 ふと考えると……これ、不法侵入か?

 ……非常事態だからいいよな。仕方ない。俺だって不本意だ。

 

「さて、お嬢さんはどこかな」

 

 さて、この広い屋敷の中、沙織さんの寝室なんぞ分かるはずもなく、また探し歩く余裕もない。何せ不法侵入の身だ。

 沙織さんの女神としての小宇宙は、さっぱり感じ取れない。無意識か、自覚して意識的にかは知らないが、聖域に見つからぬよう秘匿されてるんだろう。

 そっちの方面を俺が苦手としているってだけかもしれないが。

 さて、どうしたもんか。柱時計の鐘が遠く時刻を告げるのを聞きながら、足音を立てぬように歩き回る。

 

 ……うん?

 この小宇宙は、まさか……?

 

 屋敷内から伝わってくる僅かな小宇宙に覚えを感じ、抑えていた気配を少しだけ開放する。

 が、何の反応もない。

 この程度じゃ無理か。

 力加減に苦心しながら、改めて気配を開放し、同時に小宇宙を少しだけ燃やして挑発する。

 半瞬遅れ、荒々しい小宇宙が燃え上がった。

 おそらく、俺よりも早く聖衣を手に入れ日本に戻った聖闘士の一人で、沙織さんの警護でもしているのだろう。

 誰であるか見当はつくが、確信はない。

 話の通じる奴であればいいんだがと念じつつ、俺は城戸邸を、その小宇宙のほうへ歩きはじめた。

 

 

 ■■■■■■

 

 

「何者だ!」

 

 邪武!?

 あー、そういや、あいつは沙織さんにべったりだったな。ちょうどいいか。

 こいつがいるってことは、お嬢さんもこの近くにいるだろう。

 

「よう、邪武。久しぶりだな」

「あ? 星矢か? 貴様」

「ああ、ちょっとそこをどけ。お嬢さんに話があるんでな」

「無礼なっ! 今が何時だと思っている。出なおせ!」

 

 常識的だ。実にごもっとも。

 仮に邪武じゃなかったとしても、素直に吐いてくれるわけもない時刻だ。

 

「そうしたいところだけどな、時間が惜しい。実力で通るぜ」

「ハッ、できるものならやってみろ!」

 

 もはや、言葉は無用とでも言いたげに、邪武が小宇宙を燃え上がらせる。

 話が通じる奴であればいいと願ったとたんにこれだ。

 俺は天を仰ぎたくなった。勘弁してくれよ。

 

「別にお嬢さんに危害を加える気はないぜ?」

「やかましいっ! 何の用か知らんが、こんな時間にお嬢様に会えるとでも思ってんのか!」

「俺にも事情ってもんがあんだよ。どけ邪武」

「お前の事情など知ったことか! どかせてみろ!」

 

 気炎を吐く邪武。

 だけどな、喧嘩は相手を見て売るもんだぜ。忠告は身体に刻んでやるから、しっかり覚えろよ。

 俺は静かに一歩踏み出した。

 

「なるべく手加減はしてやるぜ。死ぬなよ」

「なっ、なんだと! ふざけるな! 来いっ!」

 

 邪武の怒りが小宇宙となって激しく燃え上がる。

 俺はゆっくりと片手を上げた。

 邪武は膝を落とし、拳を作る。

 俺の上げた手がゆるく握る形になる。

 邪武が床を蹴る。天を駆けるユニコーンのように宙に躍り込み加速する。

 

「喰らえッ! ユニコーンギャロッ―――ぶぎゃぁっ!」

 

 だが、のろい。のろすぎる。技が俺に届くまで待ってやれなかったぞ。

 精一杯の手加減をした俺のでこピンは、邪武の身体を大きく廊下の果てまで吹き飛ばした。

 二つ、三つ、廊下の電燈をぶち壊し、弾みながら絨毯を大きくずらして止まる。

 そこで、ぴくっぴくっと痙攣(けいれん)しているが、うめいているところからして意識はあるだろう。立ち上がれないようだが、それは脳天に与えられた衝撃に脳味噌ぐらぐらだからだ。無理もない。

 

「何の騒ぎですか?」

 

 顔を出したのは普段着の瞬。

 他にもいくつか、覚醒しつつある小宇宙を感じる。

 警護につとめているのが邪武だけって、どんだけ人望ないんだよ。お嬢さん。

 不覚にも涙がにじんできそうだ。

 俺も光政、ひいては城戸家を許す気はないから分かるんだが。

 ついでに言えば、お前ら反応が遅すぎる。俺が敵だったらどうすんだよ。気配を感じたら即臨戦態勢で飛び出して来いよな。

 

 しかし、集まられるとどうにも都合が悪い。

 俺は少なくとも、今のところ、沙織さんにしか話す気はないんだから。

 

「畜生ッ! 星矢ァ!」

 

 もうまともに喋れるようになったか。丈夫だな。邪武。

 だが、もう遅い。邪武がいた部屋の奥扉がゆっくりと開いて、ほっそりとした手が扉を押し開いていく。

 俺は、ただそれに見入った。

 

「騒々しいですよ。邪武。何事です」

 

 寝ぼけた様子を一切見せない上品な声とともに沙織さんが出てくる。部屋着の上に白くて薄いショールのようなものを斜めに羽織り、心なしか不機嫌な様子だ。

 おかしな言い方だが、ようやく帰ってきたと思った。高慢なお嬢さんの声が、姿が、涙が思わず浮かんできそうになるほど、懐かしくも慕わしい。かつての戦いのすべてがこのお嬢さんとともにあったのだ。このお嬢さんが地上に降り立った女神の化身(アテナ)であると知ったその日から。

 少し意識が過去に飛んだ間に、沙織さんは完全に扉の外に姿を表した。

 視線が俺を捉えたところでひざまずき、顔を伏せる。最初の関門だ。

 

「星矢、天馬座(ペガサス)の聖衣を拝受し、ただいま戻りました。御前にまかりましたばかりで僭越ではございますが、内密の話がございます」

 

 どうにも、こんな話し方はむず痒くて仕方ない。歯がうずくのをこらえつつ顔を上げると、視界の隅にやたらと驚いている瞬達の姿が見えた。何だどうしたお前ら? 挙動不審だぞ?

 不思議に思いながら、見えないように、

 ―――アテナ、と口だけで告げる。

 なぜか悲しげにしていた沙織さんの表情が変わった。

 呼ばれた名ゆえか、あるいは俺の表情の真剣さゆえか。

 

「お前ごときの話など、お嬢さんに聞かせるまでもないわっ!」

 

 廊下の奥で立ち上がった邪武が叫ぶ。

 人の話の最中に割り込むなよお前は。もう一発くらいいっとくか?

 

「そう。分かりました。……下がりなさい」

 

 ―――邪武。

 呼ばれた名前に邪武が凍りつく。

 

「なっ、おお、お嬢様!?」

 

 乗ってきた!

 あとは説得するだけだ。これが一番の難業なんだけどなッ。

 後、外野やっかましいぃっ! 内緒話は聞こえないようにやれ! らしくないってのは分かってんだよっ。

 

「……星矢、か?」

「外見は星矢みたいだが……」

「激、那智、失礼だよ」

「お前は何とも思わないのか。瞬」

「市、そりゃ僕だって違和感を感じないわけじゃないけれど……きっと、辛いことがあったんだよ。星矢も」

「そんな目で言うとかえって星矢が哀れだぞ。瞬」

「……気をつけるよ」




メタいIF与太話偽予告。




城戸家の近くのとある道路に幽霊が出るらしい。
少年の幽霊は、何か大きなものをかつぎ、走っている車の隣をぶつぶつ言いながら走りぬけて行く。そのスピード足るや時速百キロにも達すると云う。
その荷物の中を覗いてはならない。その言葉に答えてはならない。
覗いてしまえばその時は―――……。
答えてしまえばその時は―――……。

「という噂が、最近この近くで流れているらしいぞ」
「ふーん。で、なんでそれを俺に言うんだよ」
「星矢に心当たりが無いんだったら、別にいいんだがな」

胡乱げな目になる星矢。退かぬヒドラの市。
二人の会話は、雌雄を決するため戦わざるを得ぬ漢同士の対決の物語の序章だった。
丁々発止と果てしなく展開してゆく口論。まくしたてあう二人には、和解の二文字は存在さえも無視されている。
如何なる争乱も、すべては些細な行違い、日常のボタンの掛け違いから始まるものなのかもしれない。
―――それもまた哀しき人の歴史。

「大体、お前、銀河戦争んときは語尾にザンスなんてくっつけてなかっただろうがッ!」
「物語初期でキャラの立てかたを心得てなかっただけざんすッ!」
「ぶっちゃけるなよ! 正直すぎだろ!」
「他に何を言えと言うざんすか!」
「女にトラウマができたとか、何かに感化されたとか、いくらでもあるだろうが! 大体ホントに何があってそうなった!?」
「フッ、所詮しょせん、星矢には分からないざんすよ。どんなに地味で黄金聖闘士にかすんでても、一年近く雑誌に登場しなくても、出るたびに大怪我して死にそうになるとしても、締めには絶対に必要なんざんすから」

市の言葉の主成分は哀愁である。言っている事も真っ当である。鼻で笑っても、どこかしら切なさが漂う。
悪意を感じる形容ではあるが、市は星矢を羨んでいるのだ。
だが、素直に肯んじられぬ星矢であった。当然である。誰が好き好んで死にかけたいものか。
そもそも銀河戦争の後に修行のやり直しに行っただけで、どうしてそうなるというのか。何の修行をしてきたのだ。
疑問は深まるばかりである。

「お前、ここで俺が優遇されていると思うのかよっ!」
「女聖闘士の仮面を二枚も引っ剥いできたくせに何を言ってるざんすかっ!」
「わざとじゃない! と言うか、あれを優遇と言う気か!?」
「どう斜め読みしても、贔屓されてるざんす!」

こうして、二人の対立は激化していく。
この物語の結末にはいかな終止符が打たれるのだろう。
……悲劇には悲劇に相応しい終わり方しかない―――


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話せぬのは君が為

 背後のひそひそ会話をつとめて無視する俺。ここは目をつぶっておいてやる。

 だが、いつまでも黙ってると思うなよ。そのうち泣かしてやるから覚えてろ。

 俺の自制心が今のところ崩れないのは、いずれ、あいつらを鍛え抜くのが俺だからだ。見てろ。とことん死ぬ寸前まで手加減なんかしてやらんッ。死ぬ寸前になってもうまくできるかどうか分からんがなッ!

 ひざまずいたまま、ぎりぎりと歯を食いしばっている俺をお嬢さんは見下ろして眉をひそめた。

 動揺を一瞬でかき消し、今は無表情と言っていいだろう顔つき。雰囲気に尊大なものが交じる。

 

「星矢、何の話か知りませんが下らぬ話でしたら承知しませんよ」

 

 ひくっとこめかみが痙攣(けいれん)した。嫌な部分の記憶がよみがえる。久々の感覚。

 だが懐かしくない。ちっとも懐かしくないぞ。

 邪武が壁にすがりながらも立ち上がって叫んだ。

 

「お嬢様! こいつの話なんか聞いてやることはありません! 今は不覚を取りましたがすぐに俺が片付けてみせます―――!」

「お黙りなさい。下がれと命じたはずですよ。邪武」

 

 懐かしくないし、あまり思い出したくないもないが、そうだった。そうだったな。

 俺達に女神(アテナ)だと暴露してからは、こういう傲慢な態度はなりをひそめてたから忘れてたが、このお嬢さんの性格の悪さは折り紙つきだったんだよな!

 そのせいで最初は誰も女神(アテナ)だなんて信じなかった。仮に女神(アテナ)であっても仕えるなんざ真っ平ごめんだという奴もいた。具体的に言えば俺だけど。それほどこのお嬢さんの信頼度は低かったのだ。

 瞬でさえ、最初は信じようとせず放っておこうとした人望のなさ。もっと割り切りの早い俺や氷河なんか言うまでもない。女神(アテナ)としての小宇宙をはっきり感じたにもかかわらず、だ。

 事実を見てもそれを否定する。それでは、知らないのと同じだ。信じてこそ、知っていると言える。

 お嬢さんに信じてもらうのはともかく、あいつらに真実を伝えて信じてもらえるか、ますます先行き不安だぜ。

 どうしようもない時は、力ずくで納得してもらうしかないか、とこそこそ言いあう奴らを視界の隅に入れる。

 窓際で不審気にこちらを見る瞬。腕を組んで頭を左右に振っている那智。階段の手すりに肘を乗せあくびしている激。他の奴らは部屋から出てくる気配すらない、か。やれやれ。

 そして、廊下の奥には打ちのめされて震える邪武。

 全身で絶望を体現している邪武に、捨てられた犬でもあるまいしと呆れもあるが、思わず同情の目を送ってしまう俺とは対照的に、お嬢さんは目もくれようともせず身をひるがえして、部屋に引っこむ。

 

 目の前には開かれたままのドア。

 その中に消えたお嬢さん。

 

 お嬢さん、分かったって言わなかったか。それは俺の話を聞くって意味だよな? そうだよな? まさか、明日の朝、なんて言わないよな?

 不安に駆られてドアの先に目を投げる。

 さすがにあっちには入れない。

 だって、夜だぞ? 女の部屋だぞ?

 いくらなんでも冗談じゃない。

 

「おおお、お嬢様!?」

 

 邪武が面白いほどに焦って叫ぶが、俺も内心は同じようなものだった。

 入るべきではないというのは理屈じゃない。魔鈴さんに叩きこまれた本能に近い。特に行儀作法にうるさかったわけじゃないが、叩きこまれた習性は強固だ。

 そういった行動は、タブーであり、断固として破ってはならぬ部分なのだ。

 一人の男の意地として、人間のマナーとして、恥かしくない意地を叩きこまれている。

 つまり、絶対に入ってはならないし入れない。だが、話はしなきゃならない。しかし入れない。入れるか!

 

「なんです?」

 

 え?

 焦っている間に、お嬢さんはさっさと出てきた。

 上に羽織っていた薄いショールのようなものではなく、どっしりとした上着を着て、なぜか耳飾までつけている。

 き、着替えてくるだけなら先に言ってくれよ……焦っただろ。

 

「お嬢さん?」

「分かっています。ついて来なさい」

 

 振り返ろうともせずに先に立って進むお嬢さんに、いつの間にか来ていた辰巳が駆け寄り、何事か言い募る。

 しっちゃかめっちゃかに口をもつらせているせいで、あまりはっきりとしないが、俺の悪口だろう。あいつの言いそうなことくらい見当がつく。

 右から左にあっさりと沙織さんは流して、自分と俺の茶の用意をしろと逆に言いつけている。言われた奴の形相と言ったらもう闘犬だって逃げ出す顔つきだが、お嬢さんにだけは逆らわないからな。

 誰を睨むって俺を睨むわけだ。あのタコハゲ。逆恨みだろ。そんなに恨みがましく見るなよ。俺が命令したわけでもないってのに。

 あーあ、あいつの用意した茶には雑巾の絞り汁か何かが入ってそうですごく嫌だ。

 

 そんなことを考えながらも、スタスタと進むお嬢さんを追いかけ、客間の一つに入る。

 ほどなく銀のティーポットを乗せたトレイを持った辰巳が追ってきて、沙織さんが座るんだろう一人がけのソファの前には丁寧に、向かいのソファの前には茶器を割らんばかりの手つきでお茶を置いた。露骨な奴。

 今ので割れたらお前のせいだぞ。

 さすがに割れてやしないが、湯気ののぼる紅茶はまだかなり波立っている。

 城戸家だけはあると言おうか、俺なんか触るだけで砕けそうなほど上質な薄手の茶器だ。やたらとくねった造形。金の縁取りに薄ピンクの薔薇意匠。

 うへえ、俺には理解できない趣味だ。嫌なわけじゃないけど、すごく触りにくい。

 沙織さんに何事かありましたらお呼びくださいと涙まで浮かべてテーブルの上のベルを示した辰巳は、俺に貴様無礼は許さんぞと歯をむき出して言い残し、ようやく退出した。

 扉から何度も振り返るのが実に未練がましい。

 

「ここは他の部屋と同じように見えるでしょうが、盗聴対策をはじめとして、数々の防犯設備が設置してありますから、この屋敷の中では私の寝室と同じだけの安心が得られます」

 

 なるほど、だから移動したのか。

 沙織さんは座ろうとせず、俺に背を向けて窓際による。しゃっと軽快な音が室内に響いて、窓ガラス越しの暗い庭に俺達の姿がうっすら映った。白い手に握られたカーテンにぎゅっと皺がよるのが見える。

 自分だけがソファに身を沈めるのも気が咎め、俺も突っ立ったまま落ち着きなく目線をさまよわせる。窓ガラスに映るお嬢さんの眼は、同じく窓ガラスに映る俺から離れない。

 まいった。もしかして警戒されてるのか?

 

「……お嬢さん、俺は」

「長らく会わぬ間に、随分と口調が変わりましたね。星矢」

「……は?」

 

 さえぎる言葉に呆けた俺は悪くない。

 この流れでンなこと言われると誰が思うよ?

 

「ギリシアで、女性に対する言葉遣いを学んできたのでしたら成功していますよ」

 

 久しぶりに会って、大事な話があるという人間に対する言葉がそれか!?

 ねぎらいを期待してたわけじゃないけど、そりゃないだろ。

 しかも、これは、もしかして、責められてる? 何で?

 嫌味ったらしい言葉面にむっとして、言い返そうと沙織さんを見ると唇を噛んで何かに耐えるような顔をしていた。

 思わずぎょっとして、言い返しかけた言葉を喉に引き留まらせる。

 そのままお嬢さんは顔を伏せて黙り込んだ。何をも言えず、俺も黙り込む。

 

 俺は悪くない。断じて悪くないと言いたい。そうむっとしつつも、何やら沈んだ様子に押され、沈黙の原因を責められない。紅茶の湯気が無言で消えていく。

 とはいえ、俺が不機嫌になったくらいは分かってるんだろう。沈黙に小さな溜息を落とすお嬢さんは苦しげに眉根を寄せる。俺か? 俺が悪いのか? だとしたら理不尽だと思う。

 だが、話があるのは俺で急いでいるのも俺だ。だから、俺が折れるべきなんだろう。

 何で、俺が妥協してるのか不思議だけどな。そこは割りきるしかないだろう。人生って理不尽だよなまったく。

 そう思いながらも、指先で軽く額を押さえて再び息を吐いたお嬢さんに、しぶしぶ話しかける。

 

「お嬢さん、俺に言いたいことでもあるのかよ?」

「それは……、いえ、話があるのはあなたのほうでしょう。先ほど“私”を呼びましたね? それに、その小宇宙は……青銅聖闘士のものとも思えませんが……」

 

 なっ!

 気づいてたのか。

 女神(アテナ)を呼んだことだけならともかく、まだ寝ていただろう時分の小宇宙の気配を?

 じゃなけりゃまさか、挑発のためほんの少しだけ燃やした小宇宙だけでなく、抑えている今の状態で気づいたってのか?

 ―――俺の小宇宙が尋常じゃない、と。

 あまりに予想外なことを言われた驚きに不機嫌が吹き飛ぶ。

 凛と見つめてくる女神(アテナ)としての目はすでに先ほどの気配を残していなかった。

 

「あ、ああ、そうだな。お嬢さんの言う通りだ。なあ、今から―――」

 

 ちょっと口に出すのをためらう。

 恐れがそこには存在していた。

 かつての俺なら、決して持たなかっただろうもの。

 だけど俺はもう、恐れずにいるにはあまりに多くを知り、多くの経験を積んでしまったのだ。

 

「今から話す。多分、信じられないだろう。だけど、信じてくれ」

 

 目を見る。

 偽りなど吐くくらいならこの場で腹をかっさばいてもいい。

 それだけの覚悟を持っている。それだけの覚悟を求めている。

 沙織さんを見る。

 信じて欲しい。ここで信じてもらえないのなら、何のために戦うのか、誰のために戦ってきたのか分からなくなる。

 安心させるようにニコッと笑いかけた。俺を信じてほしいのだ。

 

 ■■■■■■

 

 

 俺は一輝にしたのとほぼ同じ―――海王(ポセイドン)冥王(ハーデス)の件を一切はぶいた説明をした。

 俺の覚えているすべてを話すべきなのは分かっている。分かっちゃいるんだが。

 多分、泣かれる気がするんだよなあ。俺が死んだ結末まで話すと。

 それが嫌で俺は話したくない、だから話さないという態度になってしまっている。

 

 どうせ、未来には話さなきゃならないんだから、と結果を先延ばしにしているのだ。

 逃げなのは分かってる。分かってるけど、女を泣かすなんて後味が悪すぎる。それも、泣かせると分かっていてってのは性質が悪すぎだろ。

 それに、二度も死ぬつもりなんざさらさらないからな。

 同時に、同じ選択をせまられれば同じ判断になることも分かってる。

 だから、話せない。

 要は泣かせずにこの事実をきちんと説明できる自信がないんだよな。俺は。

 むしろ泣かせてしまう確信ならあるから余計に話したくない。

 

「俺を信じてくれるか?」

「もちろんです」

「随分、あっさり信じるんだな。これが嘘だったら、いや嘘じゃなくても俺の妄想や勘違いだったらどうするんだ?」

 

 良いのか? と言外に訊くだけでは飽き足らずに言葉に出す。

 信じられないと言われたら困るが、こうも簡単に信じられてもむしろこっちが信じられない。

 自分でもまだ疑っているほどの荒唐無稽な話だぜ?

 しかも、なぜ知っているのかと訊いてくれるなだなんて、信じるなって言われてるようなもんだと思うんだが。

 

「俺と一緒に死ぬようなことになっちまってもいいのかい?」

「……あなたを信じています」

 

 お嬢さんは俺を見つめた。その瞳に浮かぶ陰りのなさは信頼だろうか。

 疑念などないのだと語る瞳が真っ直ぐに俺を写し、唇は何のためらいもなく心を寄せる言葉を微笑む。

 信じてくれるか危ぶんでいた自分が気恥ずかしくなって、俺は頬をかいた。口からはらちもない言葉が出てくる。

 

「まあ、まず一番にやるのはあいつらを鍛えることだな」

「今のままでは……?」

「間違いなく死ぬぜ」

 

 断言した俺にお嬢さんが目を伏せる。

 卓の上で握りしめられた拳が震えた。

 

「心配すんなよ。俺が何とかするから」

 

 あまり自信はなかったが、笑って保証してやる。

 念のため言っておけば、これは殺さぬ程度に手加減できる自信がないって意味だ。

 まあ、あいつら丈夫だから大丈夫だろう。

 ちゃんと戦う正当な理由もあるしな。

 そう、望んでの強者との戦いが俺達の小宇宙を高める。正当なる理由あっての戦い、負けられぬ理由あっての戦いが。

 

 ということは、もしや銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)も、俺達の実力の底上げを狙ってのことか?

 あのジジイ、どこまで考えてやがった。

 あの大会で、まずは聖域から悪の根を引きずり出す。同時に俺達の実力を底上げして、聖戦に備えさせる。あわよくば黄金聖衣を着られるものが出現するかもしれない。

 一つ投げた石で、最大限の効果を狙う。ぞっとするほど効率的だ。どこまでも、俺達を人形扱いしてやがる。反吐が出るぜ。

 効果的だったってのがまた腹が立つ。お嬢さんの前じゃなるべく隠すけどさ。

 

 思い当たりにムカッとしつつ笑った俺に、分かりました、とうなずいたお嬢さんがテーブルのベルを鳴らした。

 たちまち辰巳が飛んでくる。

 

「お嬢様! コヤツが不埒なことでもいたしましたかっ!」

「辰巳、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を中止します。明日の記者会見にはその発表をできるよう準備をなさい」

「は、ええ!? ど、どうしてまた、いやそれより、本気ですか! お嬢様!! 旦那さまの悲願であった銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を……お前! 何を言ったのだ!」

「何か問題があるのかよ?」

「ありまくりだ! どれほどの金が動いたと思っている!」

「知るかよ。こんな馬鹿げたことに使う金なんざ」

「馬鹿者! お前らを聖闘士にするためだけにでも莫大な寄付が要ったのだぞ!」

「お止めなさい、辰巳。私の言ったことが聞こえなかったのですか。お行きなさい」

「は、はい!」

 

 バタバタと駆けだして行く。足がもつれてやがるぜ。

 それにしても、金か。

 金ねえ?

 

「金が要ったのか? お嬢さん」

「当然です。申し込めば誰でも参加できるボーイスカウトではないのですよ。聖域、及び各地の修行地に受け入れてもらうために、おじいさまは財産からお金のみならず、貴重な文献や技術、情報やコネクションまでをも提供しました。そのほとんどが無駄に終わるだろうと分かっていて、です。それでもなおかなりの時間がかかりました」

 

 なるほど、俺達が六歳頃まで城戸家にいたのはそれでか。

 その恩着せがましい言い草にムッとくる。

 

「頼んでないぜ。ついでに言えば、それは全部あんたのためだろう」

「……分かっています」

 

 沙織さんは唇を噛んで一言だけつぶやいた。

 驚いた。絶対に言い返すと思ったのに。

 唇を噛んでうつむいたお嬢さんの顔を見て、瞬時に後悔がわく。言わなくてもいいことを言っちまった。くそ。

 

「……悪いな。お嬢さんがあまりにもお嬢さんらしいもんだから、ついいつもの俺で言っちまう」

「い、いいえ!? あなたはそのままでいてください!」

 

 お嬢さんは、なぜか慌てたように身を乗り出してきた。

 柔らかい白魚の指が俺の腕をすがりつくように捕らえる。

 

「星矢は……星矢らしいままでいてください。……態度や口調を、変えたりしないでいいのです」

「そりゃ、俺は頼まれたって俺以外にはなれないけど」

 

 最後の声は消え入るようにかぼそかった。かぼそい必死さが湿った懇願の色をさらに強める。

 俺か? 俺のせいか? 俺、なんかしたか?

 声音にうろたえる俺に、ふっと沙織さんは笑った。その目に涙は浮かんでいない。ああ、お嬢さん、あんた、何が言いたいんだ。俺にも分かるように口に出してくれよ。

 

「もう夜も遅いですから、また明日、話しましょう。星矢。あなたの部屋はすでに用意してありますから」

「あ、ああ、おやすみ、お嬢さん」

 

 女って分からない。何を考えてるんだろう。

 俺は唖然として、それから考えるのをやめた。今日一日は目まぐるしすぎた。いい加減、ゆっくり休みたいぜ。

 一輝とやりあって説得したり、シャカとやりあって説得したり、予想外すぎることが多すぎる。戦うだけならともかく説得のために回転させた脳みそがそろそろ限界だ。

 俺には、人を説得したり、引き込んだりするための才能はないってことがよく分かった。

 だというのに、明日も俺は瞬や紫龍、那智や蛮、兄弟を説得するために動かなければならないのだ。考えるだけでもげっそりくる。

 あいつらには拳で話を通すと決めたから気は楽だが。

 

「……ええ、おやすみなさい。星矢」




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夢寐にも忘れぬ

 ―――目を覚ませ。

 

 微笑みに交わされた約束。優しい仕草で託された願い。閉じた目さえ眩む誓い。必死に叫んだ決意。揺らめく劫火の熱壁。

 

 ―――目を覚ませ。

 

 限界まで伸ばされた手。触れれども離れゆく(かいな)。流れ落ちる熱い血潮。押し広がる距離。感じなくなった気配。

 

 ―――目を覚ませ。

 

 西日を受ける黄金の聖衣。空気を震わせ飛び交う怒号。大地に揺れ踊る影。銅色に染まった岩肌。高く響く靴音。

 

 ―――目を覚ませ。

 

 暁光は真闇に。星空は曇天に。大地は焔の演舞場に。海は泡の煮えたぎる煉獄に。ひび割れる光景。あらざる情景。

 

 ―――目を覚ませ。

 

 果て無き虚無。その中に一人。無限に散らばる生命の焔。その中に一人。永遠に一人。どこまでも一人。ただ独り。

 

 ―――目を覚ませ。

 

 時空を漂う粒子。分かち合う世界の記憶。組み込まれる万物の韻律。拡散し集合する森羅万象を成さしめる法則。

 

 ―――目を、覚ませ!

 

 星矢!

 

 ハッと意識が目覚めた。

 とたんに感覚のすべてが切り替わる。

 聴覚、視覚、嗅覚、触覚、それまで遮断されていたものが流れ込み、手の感覚、足の感覚、固く強張った四肢に血液を流しこむ。脈打つ意思に応える鼓動。

 意識にあるのは、呼ばれた事実だ。

 

「誰だ!」

 

 大喝したつもりだったが、かすれるような声しか出なかった。疑問に思うのは後回しだ。動け俺。

 ベッド脇からのしかかる影がびくりと揺れた。近い。今まで目が覚めなかったのが嘘のような距離。

 相手の喉首を掴もうとするのはもはや反射だった。自分の動きとは思えないほどののろさに違和感を覚え、それでようやく自分が何をしようとしているのか明示的に脳で認識する。

 腕が思ったように動かない。まどろっこしい。苛立つ間にも段々と本格的に覚醒していく感覚で、相手の動きを見取る。

 誰だ、お前は。

 問いかける意識は、本当に相手が誰であるかと知りたいというより、敵かどうか見定める意味合いを多く含む。

 暗闇の中、反撃してくる腕は、上ずったこの声は、惑うこの気配は、お前は誰だ。殺気をもって問いかける。

 

「よ、よせ! 俺だ! 星矢!」

 

 邪武?

 

「お前かよ。何だよ気配を消して近寄るんじゃねえ。敵かと思っただろ」

「別に消してねーよ。俺はお前がうなされてたから何事かと見に来ただけだ」

 

 ぜぇぜぇ息を詰まらせながら、邪武は喉をかばう。

 つまり、何か、俺は気配に気づきもせずこの距離を許し、その上に反撃までされたのか。

 なんだろう。ものすごく落ち込むぞ。邪武ごときにと思うと死ぬほど屈辱だ。

 

「おい、何か失礼なこと考えてねぇか」

「気のせいだろ。それより、うなされて、いた?」

「ああ、覚えてないのか?」

「いや、何か夢を見ていたのは覚えてる。ひどく大事な夢だったような」

 

 答えながら頭に手をあてる。寝起きの頭をかき回して、夢の残滓を探った。

 大事だったのは覚えてる。覚えてるが、中身が分からん。何だ?

 何を夢見ていた?

 どうして大事だった?

 

「フン、だいたい、いつまで寝てる気だ。もう四時だぜ」

 

 それがさも当然であるかのように邪武は胸を張る。この野郎、人が考え事をしてる時に。

 そんなこっちゃ銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)での勝利はどうのこうのとわめきだした邪武に、問答無用で裏手を食らわす。もちろん本気じゃない。殺気もなく小宇宙も燃やしてないんだから攻撃でさえない。軽くさりげなく撫でてやっただけだ。

 手加減、上手くなったな。俺。

 顔面を押さえて転がった邪武に満足を覚えつつ、あくびを噛み殺す。カーテンの隙間から見える外はまだ暗く夜の色をしている。

 いつ起きて活動するかはお前の自由だ。だがな、それをさも常識かのように言うんじゃねえよ。

 寝なおしたいところだが、一度起きちまったらもう寝られないんだよな。身についた習慣が恨めしい。

 昨日は、大変だったってのに。

 

「いつまでってほど寝てないだろうが。時差ぼけを考慮しろよな」

 

 ギリシアからデスクィーン島へ、デスクィーン島から日本の城戸邸へ。体力も神経も使い減らしてるってのに。ああ、主に神経のほうな。体力は寝たら回復したからもういい。それにしたって、配慮の片鱗くらいは見せろってんだ。

 期待はしてないし、こいつに俺に対する配慮なんてもんがあってもおかしいが。

 

「はっ、軟弱な奴め!」

「へえ、その軟弱な奴に、昨日は手も足も出なかったわけか、お前は」

「なッ~!!」

 

 上半身を起こして減らず口をたたく邪武に、二回目のあくびをしながら、言い返せば見事に顔に血がのぼる。のぼりすぎて赤黒い。言い返せずにわなわなと震える喉に筋が浮き出している。

 もしかして、こいつがこんな朝っぱらから動いていたのは、悔しさのあまり特訓でもしてたのか?

 とすれば、ここにいるのは夜討ちでもする気だったか。なるほど。

 だとしたら、いい覚悟だ。鍛え甲斐がある。

 にやりと笑った俺の表情に、何か誤解をしたらしい邪武が胸倉をつかみあげてきた。

 奥歯のきしりがはっきりと聞こえる。唾を飛ばされそうだ。

 

「てっめえぇぇぇぇ……! 誰のために来てやったと!」

「落ち着けよ。お前の売った喧嘩だろうが」

 

 朝の四時から何を不毛なことしてんだ。こいつ。

 三度目のあくびを噛み殺すのと、部屋のドアが開けられるのは同時だった。

 暗い影が、のそっとドアから声をかけてくる。

 

「おい、何やって……んだ」

 

 那智だ。

 ドアの隙間からつっこまれた顔が、目を口を大きく開けて、語尾を尻すぼみにして口を閉じる。

 無理もない。目の前のこいつがおかしいだけで、四時と言ったらまだまだ寝てる時間だろう。

 ギリシアでの修行中は違ったけど。魔鈴さんに叩き起こされたけど。朝飯も食べずに腹筋五千回とか言われたけど。

 だが、そんな俺にもまだ常識は残っている。午前四時は寝ていて構わない時間だ。

 ギリシアでも、朝番の雑兵と修行中の見習い以外は寝てたもんな。

 

「……邪魔したな。ごゆっくり、と言うべきか?」

「言わんでいいッ!!」

 

 はあ?

 待て待て待て。何の邪魔だよ。何の。

 いくら何でも朝っぱらから喧嘩はしねえぞ。

 俺が目を剥いている間に、邪武は即座に否定した。今だけは邪武と同調できるぜ。

 那智の眉がよせられ、困惑した表情になる。いまだ胸倉を掴まれたままの俺と邪武を見比べて、肩をすくめた。何が言いたい。

 と言うかだな、それ以前に訊きたいことがあるんだよ。下がろうとするな。

 

「おい、ちょっと待てよ」

 

 去ろうとドアを閉じかけていた那智が、俺の声にうるさげに振り返る。

 その間に、邪武の腕を振り払い、俺は柔らかすぎるベッドから下りた。石造りに慣れた身としては、足指をくすぐる毛足の長い絨毯の感触がなんとも頼りない。

 

「なんでここに?」

「なんでって……うるさいぞ。お前ら。この近くの部屋の奴らなら全員聞こえてるんじゃないか?」

「あ?」

 

 そんなに騒いでたか?

 首をかしげた俺に、那智が無言のまま呆れたように親指で指した先は、怒り収まらぬ様子の一角獣の聖闘士だった。不貞腐れたと言うか、人によっちゃきまり悪げと評するかもしれない表情でそっぽを向いている。

 思わず那智の顔を見やれば、肩をすくめてにやりと笑われた。

 うん、騒いでた。騒いでたな。お前ら、とひとくくりにされるのは納得いかないが、ひとまず合点した。認めるけど笑うな。

 

 顔をしかめながらもうなずいた俺を、片眉を上げ見やった那智に、不意に影が落ちる。体格のいい影から落ちてきたのは、その体格に相応しい野太い声だった。

 

「お前ら、何やってんだ?」

 

 今度は激か。わざわざ見に来るなよ。

 どうやらこいつも鍛錬中だったらしい。がっちりした上半身に、グラード財団のロゴマークつきトレーニングウェアが間延びしている。

 カシオスといい、こいつといい、14、15歳とはとても思えん。

 ひがみじゃないぞ。俺には未来がある。多分……。

 

「お前ら、とりあえず入れ」

 

 それ以上、騒がれるのは面倒だったので、激と那智の首根っこを引っつかんで引きずり込み、悪夢を見てただけだと説明する。悪夢かどうか分からんが、うなされてたからには悪夢だろう。多分な。うんざりするほどその材料はあることだし。

 正座はオプションだ。問答無用。三人とも、そこになおれ。

 

「つまり、怖い夢を見てうなされてたわけか?」

「寝ぼけて騒ぐなよ。お前」

「朝っぱらから迷惑な奴だな」

 

 違えぇ!

 理解力のない兄弟どもにこぶし交じりの説教を追加してやれば、いつの間にか、三人とも半眼になっているが、ふん、お前らが悪い。

 物分りの悪い兄弟を持つと苦労するぜ。まったくお前らはなってない。俺の苦労を分かってない。

 

「分かった、分かったから、朝飯にしようぜ」

「お前は来たばっかりだから知らんだろうが、俺達用の厨房があんだよ。専用のコックがいつ行っても待機しててな」

 

 耳をほじりながら言う那智。

 激が立ち上がりながら補足する。

 へえ、そんな風になってたのか。

 俺は前回ここに世話になるなんて真っ平だったからな。初めて耳にする事実に少し心が揺さぶられる。

 だが、いつでも食い物で釣れるとは思うなよ。

 

「俺は、お前らとメシなんか食う気はない。じゃあな」

 

 邪武が捨て台詞を吐いて出て行く。

 じゃあ、どこで何を食う気だ、と突っ込みたいのをこらえて見送った。突っ込んだらまたごちゃごちゃ言い出してややこしくなるに決まってるからな。これ以上の面倒はごめんだ。

 那智と激も同じように思ったらしく、肩をすくめるだけでそのまま見送って、歩き出した。

 

 城戸家は広い。よって、食堂まで遠い。

 歩きながら受けた説明によれば、最初はきちんと朝昼晩きっちり時間が決まっていて、出るものも共通だったらしい。だが、俺達の育った環境―――要するに修行地―――が見事なまでにバラバラで、一日六食もの食事を取る奴もいれば、宗教上の問題などで特定の食品を受け付けない奴もいるので、食べたいものを言い、食べたい時に食べろと、そんな話になったらしかった。

 

 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)の時は、互いにピリピリギスギスしてたからずっとそうだったんだろうと思ってたが、この様子からすると案外普段は仲よくやってたのか? 

 

「味は、まあ好みによるんじゃねえか?」

「だな。いつ行っても、とりあえず何か口にできるものがあるのはいいんだけどよ」

 

 二人が酸っぱい顔になった理由は、食堂に着いてすぐ分かった。食事は確かにすぐ出てきたからだ。

 何と言うか、不味いわけじゃない。上等なモンが使われてるんだろうと思う。上等すぎるくらいの。

 ただ全体的に薄い、いや薄いというより、肉に肉らしい味がない。いかにも調理され整えられた味で、量も足りない。柔らかすぎて肉という感じじゃない。

 総括して言えば、食った気がしない。

 こう、肉なら肉で汁やら血やらが垂れてて、噛みごたえのある硬さがあって、食いちぎる楽しみがあってこそ食った満足感があるもんだ。

 正直な感想としては、物足りない。

 かといって、そうそう文句も言えない。職務にプライドを持ち、料理に命をかけていそうな城戸家お抱えのこのシェフに、俺の求めているものなんか理解できないだろう。具体的に言えば、そんなに手をかけずに肉をそのまま焼いてほしいってだけなんだが、言えばこっちが焼肉にされそうだ。

 ついでに言うと、皿やらフォークやらからは高そうな匂いがプンプンするわ、控えめながらもテーブルクロスの光沢は高級感を主張するわで、くつろげるとはお世辞にも言えない。

 食う気すらしなくなる。

 おまけに、食後のデザートまで出されてはもう異次元だ。シャル……シャルなんだっけか。解説まできっちりしてってくれたが、馴染みがなさすぎて頭に残らなかったのだ。

 冷やされた甘い菓子は不味かったわけじゃない。決してそういうわけじゃない。 だが、お口に合いましたでしょうかと尋ねられても、そもそも合わせる口を持ってない場合はどうすりゃいいんだ?

 俺、やっぱり今回も一人暮らししようかな。

 

「お前ら、本当に毎日ここで食べてるのか?」

「……言いたい気持ちは分かるぜ」

「あー、まあな。全体的にこう、何もかもに手応えがないっつうか」

 

 那智が片頬を歪めて言葉少なく同意すれば、、激は溜息をついて独り言つようにぼやいた。

 

 かつて、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)で、こいつらの士気が高かったのはこのせいかもしれない。

 俺は姉さんを見つけるため、紫龍は己が力の証明を持ち帰るため、瞬は一輝との再会を願い、邪武はおそらくお嬢さんのために戦った。

 だが、こいつらは。

 こいつらの戦いは何のためだったのか。

 考えたこともなかったが、こんなふにゃふにゃした生活じゃ、あんな戦いでもなきゃ生きてる実感もないだろう。

 自分がいるべき場所でない場所にいる感覚。居心地の悪い違和感。戦士なら感じないはずはない。

 そうすると、聖闘士は、どうしたって戦場こそが居場所なのかもしれない。死ぬまで戦場にて敵を倒し続ける。女神(アテナ)のために。平和のために。地上のために。正義のために。死ぬまで戦い続ける。いや、死んでも戦い続ける運命なのだ。

 ……やめよう。思考がおかしな方向に行ってるぞ。俺。

 今、考えるべきは目先のことだ。そう、ひとまずは、この手ぬるい生活に慣れ始めているらしいこいつらを叩きあげてやるぜ。

 夜明けの光が、食堂の窓から差し込んでくる。

 今日という日は、二度はない。喜べよ。退屈している暇はもうないぜ。

 俺は二人に笑いかけた。

 

「安心しろよ。今日中に嫌でも手応えのあることを始めさせてやるから」



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忌む者は来ない

 さっさと食事を済まして自分の部屋へ戻った俺の手の中には、メッセージカードがある。

 曰く。

 

『戻ったら、私の所へ。―――沙織』

 

 俺に割り当てられた部屋はベッドとサイドテーブルがあり、サイドテーブルの上には小さな照明器具が置かれ、ポストカードが数枚飾られている。

 そこから一枚が抜かれ、枕辺で俺の帰りをぽつんと待っていた。無造作に置かれたポストカードに記されているのは、必要な部分だけを書きぬいた簡素なメッセージだ。朝の挨拶も、ねぎらいも省いた書置きだった。お嬢さんらしいと言えば、お嬢さんらしい。

 いや、人手をやって、俺を呼びにやらせなかっただけ気遣いがあるのかもしれないが、日本語で書くあたり詰めが甘い。

 

 俺は六歳までしか日本にいなかったし、その日本での教育もろくろく受けてない。その俺に日本語のメッセージを読めるとどうして思うんだ?

 配慮がない、と言うよりも、その配慮が甘い。

 読めるけどさ。師匠が魔鈴さんという日本人だったおかげで、そこそこの日本語教育は受けてるから。

 それでも、平均的な日本人としちゃ劣るだろう。他の奴らよりはマシだろうけど。

 

 補足しておけば、聖闘士にとっての公用語は、ギリシア語だ。ギリシア文字も然り。日常のやりとりはもちろん公式書類の数々もギリシア語だし、重要書類なら古代ギリシア語か、ラテン語で来る。

 ちょっとした簡易書類ならΔημοτική(デモティキ)でも許されるが、重要な公式書類ならΚαθαρεύουσα(カサレヴサ)を使うのが当たり前だ。

 慣習ってやつだな。

 

 ギリシアは古来より神の恩恵を受けし地。聖域の歴史は長いが、その聖域のあるギリシアの歴史もまた長い。ギリシア語ってのは、単に「ギリシア語」というと古典ギリシア語をさすほど歴史のある言語でな。さまざまな地域に分派し、さまざまな方言に分かれている。

 Δημοτική(デモティキ)ってのは現代ギリシア語の公用語である「口語の標準語」をいう。もとはアテネの方言なんだと魔鈴さんは言っていた。

 Καθαρεύουσα(カサレヴサ)ってのは、「共通文語」で、どこにいっても通用する公的言語だな。方言の基盤となる共通項を一括できる言語で、公式書類はほぼこれだ。もちろん俺も読めるし書ける。魔鈴さんに仕込まれたからな。

 さらに重要な書類なら暗号化もかねて、古代フェニキア文字で来たり、アラム文字で来たりするらしい。そういった書類を取り扱うのは、どちらかと言えば神官の役目だから、俺はあまり詳しく習ってないんだが。

 関連して、ギリシア国内の言語論争についても教わった、はずだが、そっちはほとんど覚えてない。 魔鈴さんに殴られるから、言わないけどな!

 

 世界各国からの報告書も聖域に合わせた共通形で来ると魔鈴さんは言っていたから、どの修行地でも最低限ギリシア語は身に付けさせられる。他の言語は師匠次第。

 だが、聖闘士は世界各国で任務をとりおこなう。俺が日本語教育を受けているように他の言語を学ぶ者も多いはずだ。

 最低限、現地語はやってるだろ。生活にかかわるんだしな。

 いや待て。帰国してから日本語の話せない奴なんか見てないし、母国語は最低限やらされるのかもなあ。読み書きはともかく。

 

 とにかく、日本で育ってない俺の日本語能力は当然ながら高くはない。ぶっちゃけてしまえば低い。読めない危険性もさることながら、日本語特有の言い回しの感覚が俺にはない。だから、書置きを残すより呼びにやったほうが安全だ。

 

「まさか、だからか?」

 

 だからこそ、俺の部屋にわざわざ自分で呼びに来たのか? この時期のワガママ放題だったお嬢さんが? ……まさかな。そんな理由はないし。

 しかし、朝飯に大した時間はかけてないぞ。タイミングが悪かったな。お嬢さん。

 朝っぱらから、俺に何の用事だったんだ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

「話は明日に、と言ったでしょう」

 

 お嬢さんの書斎。

 執務机に座っている沙織さんはそう言って、端にあったベルを鳴らした。

 やってきたメイドに何事か言い付ける。かしこまりましたと退出していくメイドがドアの外に消えると、俺を手招いた。

 

「私は、今日の記者会見で、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)の正式開催発表ではなく、開催中止の発表をします。あなたの言葉が真実であれば―――もちろん真実であると信じていますが―――もはや銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を行なう意味はありませんから」

 

 執務机の前に立っている俺の前で、沙織さんは緊張した面持ちで指で机をたたいた。

 憂慮とわずかな諦念が表情に浮かんでいる。

 

「ただ、彼らが私の言葉を信じ、ともに戦ってくれるでしょうか」

「説得は俺がやる。お嬢さんは顔を出さないほうがいい。自覚はあるんだろ?」

 

 からかっているだけだと分かるように笑いながら言えば、お嬢さんも口を尖らせながら、こらえきれぬように笑い声をこぼした。

 沙織さんは、自分が嫌われていると知っているのに、あの傲慢な態度は改めないんだよな。今みたいにしてれば、まだしも反発されないだろうに。

 いや、やめられないのか。

 

 それが「城戸沙織」だから。

 

 俺は血がつながっている事実でさえおぞましいが、沙織さんは逆なんだろう。

 なんでまた、城戸光政の孫であることにそうまでこだわりたいのか、分からないし、分かろうとも思わない。ただお嬢さんは「そう」なんだろうと認識するだけだ。理解はできない。したいとも思えない。

 そして、あいつらは「城戸沙織」が「女神(アテナ)」であることを知らない。だから、お嬢さんは城戸沙織であり続けようとするのかもしれない。

 甘いよなあと思いながらも、今の俺には、それを可愛いと受け止められる余裕がある。

 聖戦時の沙織さんを知っているからな。俺も、大概甘いんだろうなあ。

 分かっちゃいるが、変えられない。俺が死んだと告げられなかった俺が、その甘さを責めるのはずるいってもんだろ。そんな資格はない。

 

「記者会見は今からなのかよ?」

「ええ、ああ、いいえ後二時間ほどありますわ」

「じゃ、グラード闘技場(コロッセオ)にみんなを集めてくれ。今は誰も使ってないんだろ?」

「それは構いませんけれど、まだ到着してない聖闘士が」

鳳凰座(フェニックス)だろ? それはいいぜ」

鳳凰座(フェニックス)もですが、白鳥座(キグナス)の聖闘士、氷河もまだ来ていません」

「げ?」

 

 おいおい!

 何で!?

 

 あいつ、前回の銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)にいたよな。一輝と戦った時も一緒だったし。

 なんでいないんだ?

 俺の表情を見たお嬢さんが苦笑いして、書類をめくる。目は書面に向いているが、ただ視線を逸らすために眺めているだけのようだった。

 

「氷河には何度も通達しているのですが、梨の(つぶて)です」

 

 どういうことだ?

 俺は曖昧になりかけている記憶を探る。

 確かにいたよな。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)では市に楽勝してた憶えがあるしな。修行地は、シベリアだったっけ。

 うん? 何かひっかかる。

 俺は記憶を探る。どうしようもなく遠い記憶を探る―――何か、何かがあった。何かがあったはずだ。

 

 ―――ああ、俺は、何かを、忘れている、気が、する。

 

 馴染みのある嫌な予感に、気分が暗く落ち込んでいく……こういう時に限って当たるのだ。しかもほぼ間違いなく。こんな感覚に馴染みたいとはこれっぽっちも思ってないってのに、現実はいつでも俺に厳しい。

 お嬢さんが俺の表情を気遣わしげに窺う。分かってる。何とかするさ。氷河の馬鹿野郎!

 

 ノックの音が響く。メイドが二人分の茶器と茶菓子を乗せた盆を持ってしずしずと入ってきた。お嬢さんが表情を緩めて立ち上がる。執務机の脇にあるソファーに移動して俺に笑顔を向けた。

 

「星矢、お茶を飲みながら話しませんか? 今日のお茶菓子はオレンジのシャルロットですわ」

 

 お嬢さん、俺、そのサイズの一切れなら一口で終了なんだ。お代わりあるか?

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 グラード闘技場(コロッセオ)に集まった面子は、俺、紫龍、瞬、邪武、蛮、那智、激、市の八人。

 円形のドーム天井は大きく開けられたままになっており、秋晴れの青空が俺達を見おろしている。十万人もの収容を誇る観客席には当然ながら人影はまったくない。本来リングが設置されるはずだったのであろう場所には、土台だけが味気なく立っている。

 その土台の根元に、青銅聖衣のパンドラボックスが鎮座していた。ただし、その数は七だ。そこに天馬座(ペガサス)の姿はない。必要ない。

 

「おい、星矢、俺達をここに集めたのはお前か? 何のつもりだ?」

「まさか、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)前に一勝負ってわけじゃないだろうな」

「俺はそれでも構わんぜ。結果は同じだからな」

「ハンッ、ほざいとけ」

「弱い犬ほど吠えるとはよく言ったものだ。フッ、その口がいつまで持つか」

 

 どいつもこいつも威勢がよくて実に結構。

 だが、お嬢さん、記者会見より先に教えといてやれよ。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は中止だって。それとも、これも俺の役割のうちか?

 まあ確かに、こいつらが怒って暴れ出したら辰巳なんかの手には負えないだろうから、構わんのだけど。

 割合に仲よくやってるのかと思ってたんだが、それはそれ、これはこれらしい。言い争いに参加しない奴も止めようとはせず、他人事として傍観している。諦めているのか、いつものことなのか。

 やかましいが気にしない。静かにさせたところで、俺の話を聞けば騒ぎ始めるだろうからな。

 これでここに氷河がいれば、万事解決なんだけど、と空しい希望を抱え、俺はもう一度数えなおす。何度数えても、八人のままだ。

 分かってる。分かってるけどな! 氷河の馬鹿野郎!

 

 城戸家から送り出された百人のうち、生き残り、聖闘士になったのは十人。

 その内、八人はここにいるからいいとして、問題は残りだ。

 より正確に言えば、一輝はデスクィーン島にいるし、考えも分かってるからおいといて、問題は氷河だ。

 あいつは城戸家に何の恩も感じてない。むしろ嫌悪さえ持っているはず。城戸家に恩なんか感じてないのは俺も一緒だが、俺は姉さんとの再会を約束されていたから帰ってきたのだ。氷河には帰ってくる理由がない。

 お嬢さんと話し合った結果、迎えに行くのが一番だろうという結論になった。

 ただし、他の奴らに説明を済ませてからな。

 どうしようかと迷った。迷ったんだが、俺が氷河を連れてくるまで待たせるのは時間の無駄だ。どうせなら、それまでに自主修行に取り組んでもらおう。

 時間をおけば来るもんなら、待ちたいところだが、俺の記憶が確かなら氷河は来ない。どれだけ待っても。

 

『聖域から私闘を演じるお前らを抹殺して来いと命じられた―――』

 

 とか何とか前回言ってたからな。

 つまり、氷河が前回日本に来たのは、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)で闘っていた俺達を始末するためだ。

 今回、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は中止。俺達は私闘をせず。あいつに聖域からの俺達の抹殺指令は出ない。つまり、あいつが日本に来る理由なんかなくなってるんだ。ええい、初っ端からとんだ番狂わせだぜ。

 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を開催するなと言ったのは俺だ。つまり、この番狂わせの埋め合わせをするのは俺の責任ってことになる。氷河め、おぼえてろ!

 

「そこまでにしとけ」

 

 さっさと説明してしまおうと、俺はしかめっ面で、いやいや水を注した。

 根回しってやつの重要性を痛感しながら、どこから話せばいいのか迷って、結局最初から話すことにした。俺の知っているすべての始まり。

 つまり、十三年前のアイオロスの乱からだ。もう何回目の説明だろう。面倒な部分はちょっとすっ飛ばしても許されるよな。

 

「十三年前のアイオロスの乱は知ってるな?」

「知らないはずがないだろう」

「あれは聖闘士全体にとって衝撃だった。すべての聖闘士の規範たる黄金聖闘士に裏切りがあったとは」

「アイオロスの乱がどうかしたのか。今、関係ないだろう」

「まあ、待てよ。今説明するから」

 

 返ってくるのは腹立たしげな相槌と、きつく尖った目線。

 不審五割、不満三割、疑問二割ってとこか。

 

 ああ、苛立たしい気分はよく分かる。さっさと話せってんだろ。ちょっと待て。

 最低限、話しておくべきなのは、アイオロスは無実。教皇が彼に罪を着せ、女神(アテナ)を殺そうとした真犯人。そして、お嬢さんがその女神(アテナ)だってことだ。ここまで分かれば良いだろう。うん。疑問は各自で質問しろ。

 

 別にやけっぱちになってるわけじゃないが、気が乗らない。初っ端から番狂わせは起こるし、目の前のこいつらはごちゃごちゃとうるさいしな。

 だいたい、前回は何の情報もなく、実力も足りぬまま戦いに臨まなくちゃならなかったんだ。自分の命を賭け金にしてな。今回、説明があるってだけで十分親切なんだぜ。

 俺、いや「前回の俺達」と比べるのが間違ってるってことは分かってる。それはこいつらのせいじゃない。

 だけど、やっぱり、ちょっとだけ、怒りに近いような悔しさがある。もどかしい。

 前回は巻きこまれて、それが運命なのだと受け入れたのは戦いの最中だった。受け入れざるを得なかった。

 その「俺達」と比べたら随分とマシだろうが! と一喝したくなる。

 そんなのは間違っていると分かってるんだけどな。卑屈だ。比べるようなもんじゃない。それが分かってるから説明する。だけどな、説明してやるんだから、もっとしっかり聞きやがれ!

 

 そんな気分で説明を一息で早口に終わらせる。ぽかんとした奴らの顔に、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は中止すると言い足した。

 

 暫しの沈黙。

 針一本の落ちる音さえも響き渡るだろう沈黙。

 

 そして、表情に理解が表れる。

 理解して驚愕する者。

 理解して激怒する者。

 理解して困惑する者。

 理解して反発する者。

 まったくもって―――理解を否定する者。

 

「ハッ、何か、つまりお前の言うことを信じるなら、あの、お嬢さんが女神(アテナ)だとでも!?」

「……星矢、君を疑うわけじゃないけれど……」

「気でも狂ったか。星矢。そんな話、到底信じられん!」

「それでは銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)の中止になった理由がますます分からないぞ、星矢」

「お嬢さんが女神(アテナ)……!」

 

 お嬢さん、出てこなくて正解だ。あんたの人望は薄すぎる。城戸家には俺達に憎まれる理由があるんだけどさ。俺だって、逆の立場なら信じない。

 いや、実際、信じなかったのか。前回、沙織さんが白銀聖闘士に誘拐されたりしなければ、ずっと信じなかったままに違いない。実際のところ、俺にこいつらの態度をどうこう言う資格なんざないんだ。

 だけど、信じようが信じまいが真実は変わらない。

 げっそりと現実を見ながら、俺は一言だけ付け足した。

 

「全部、本当だぜ。諦めろ」



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命の価値を問う嘆き

 言うべきことはまだある。

 

「さらに信じたくないかもしれない事実を教えてやるよ。俺達は全員城戸光政を父とした異母兄弟だ」

 

 この事実を知り、信じれば、お嬢さんの―――正確に言えば城戸光政、ひいては城戸家への不信感は高まるかもしれないが―――と、ここまで考えて、諦めを新たにする。

 今更だ。俺にどうにかできるものじゃないしな。

 何より、最終的には力ずくという手段がある。案ずることなど何もない、と俺は軽く足を浮かせた。

 背中を伝う冷汗は気のせいってやつだ。

 なんで、足を浮かせてるのかって……単なる戦う準備だ。備えあれば憂いなしって言うだろ。

 ついでに、奴らの逃げ道も塞いでおこう、と無言のままこっそりと体重移動をさせ、いつでも動けるようにする。

 場には、いまだ沈黙が重苦しくのしかかっていた。

 唇をわななかせる者。顔を青ざめさせる者。息を呑み、そのまま吐くことを忘れた者。

 今度の沈黙は長かった。

 五秒。

 十秒。

 十五秒。

 誰もが言葉を失って、何を言おうとしても口から出てこない様子だ。

 

 瞬が質問を発したのは、そろそろ全員を一発殴って正気に戻したほうがいいんじゃないかと俺が思い始めた頃だった。三十秒待てば十分だろ。

 そんな俺の気分を感じ取っての行動だとしたらすごいが、瞬の期待を乗せた目にはそうとは思えぬ必死さがある。声も、期待と不安で冷静さとは程遠い。だが、必死でそう装おうとしている声だ。信じられない期待を信じようとする自分を必死で抑えているような声だった。

 

「星矢、君の言葉が本当なら、君は僕の弟であり僕は君の兄なのかい?」

 

 震える瞬の声に、にっと笑って肯定する。

 確かに誕生日順で行けば、俺が一番年下だからな。あまり正確に年齢を覚えてるわけじゃないけど。

 おお、動揺してる。動揺してる。信じられないって顔をしてる奴のほうが多い中、瞬だけは完全に信じてる反応だ。

 

「僕達が兄弟……」

「信じられないなら、遺伝子鑑定したっていいぜ」

 

 うんともすんとも言わず、瞬は黙り込む。

 次に喋りだしたのは紫龍だった。瞬の顔色と同じくこっちの顔色も悪い。

 大丈夫か?

 そう危ぶむ俺をよそに、紫龍はかすれた声で続ける。

 

「星矢、説明が足りん。もっと詳しい話が聞きたいんだが」

「いいぜ。お前ら聖衣を着けろ」

「……お前ら?」

「……聖衣?」

 

 瞬と紫龍の疑問の声が重なる。

 ごちゃごちゃ言ったって信じない奴は信じない。

 俺は悟ったのだ―――聖闘士相手は腕づくが一番手っ取り早いと。

 どうした、紫龍。あっけに取られた顔して。顔が崩れてるぞ。隣にいた激まで、同じ表情だ。

 そのせいか、元の顔立ち自体は全然似ていないが、血の繋がりってやつを実感する。

 激の隣にいたのは那智だが、こっちも同じような表情をなっている。

 

 なんだよ、一番手っ取り早いだろうが。

 そんな変な顔するようなことじゃないだろ。どうした? お前ら?

 反応の悪い奴らに首を傾げながら、表情だけはにこやかに笑いかけてやる。

 

「お前ら全員、聖衣を着ろ。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)が中止になった理由を教えてやるよ。心配するな。ハンデはくれてやるぜ。俺は聖衣を着ない」

 

 ニヤリと笑う俺に、沸騰したかのように今度は騒がしくなった。主に罵倒文句で。

 日本語のみならず、各々のお国言葉による怒罵がひびく。

 このプライドをへし折って、かつての一輝、および暗黒聖闘士との闘い並みの死闘を味わわせなきゃならない。強くなるために。

 となれば、もっと必死になってもらわないとな。

 怒れ怒れもっと怒れ!

 そして、俺に叩きつぶされろ。

 

「心配なら、この開始位置から動かないでいてやるし、なるべく手加減もしてやるぜ。三分もったら褒めてやる」

 

 ますます激しくなる怒声。小宇宙が怒りに震えている。

 聖闘士というものの血の気が多いのか、こいつらの血の気が多いのか。

 どっちにせよ、聞く耳を持ってないのだけは確かだが。

 

 手荒く、パンドラボックスを空け、聖衣を身にまとうは六人。

 血の気よりも実力と理性の勝る瞬だけは、まだ聖衣をまとっていない。

 不安と焦りを浮かべた、相変わらず少女めいた容貌に、思わずデスクィーン島で倒れていた少女を思い出した。自然と顔が歪む。

 あれは俺が憶えているべき記憶じゃないから、さっさと忘れちまおうとしてるのに。

 瞬は、あの少女とは違う。運命に逆らい戦う力を持っている。知っている。知っているばかりじゃない。その力の大きさが今なら分かる。明らかに回りの連中とは気配が違う。秘める実力は間違いなく前回の俺達の中で頂点を争う。

 だけど、黄金聖闘士に勝てるほどじゃない。

 まだ、足りない。瞬は甘すぎる。闘争心が欠けているのだ。

 そして、その甘さで生き残る実力は足りない。

 対応に困る奴だな。血の気の多い誰かと足して二で割れればちょうど良くなりそうなのに。

 瞬についてそう考えている間にも、他の奴らは戦闘態勢に移行していく。

 

「誰から行く……?」

 

 感情を押し殺したどす黒い声で、那智が歯軋り交じりに確認した。

 だが、誰にも譲る気はなさそうだ。訊く意味ないんじゃないか。

 よし、もう一押ししてみるか。

 

「安心しろ。お前らごときに一対一になる必要もないから、全員でかかってこいよ。遊んでやる」

 

 ぎりぎりと複数の歯を噛み締める音とともに殺意が飛んでくる。うむ、その調子だ!

 俺の機嫌が良くなると、場の雰囲気はますます険悪になった。悪循環だが、この場合は好ましい。もっと怒れもっと怒れ。

 

「死んでも後悔するんじゃねーぞォッ!」

 

 吠えたのは激。

 言ってる暇があったらさっさと来い、と、俺はにやりと笑って手招く。

 それが皮切りとなった。

 

 ―――戦闘、開始。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 スピードに自信があるのか、真正面から突っ込んできた那智を軽く身をひねりざま、腕を掴みそのまま勢いを利用して投げ飛ばす。

 直後、わずかにタイミングをずらして来たのは激と邪武。

 上背を活かし上から殴りかかってきた激を、ひねった身を戻す勢いで腹を床と平行に蹴りつける。曲線すら描かぬスピードで直進的に吹っ飛び壁に突っ込んだ。愚突の報いだ。

 ついで、掴みかかってきた邪武に突きを放つ。音速にすら達さぬスピードだが、勢いづいた身体では止まれまい。表情が焦ったものになる。せめて衝撃を弱めるべく身をよじって避けようとしたか、あるいは本当に避けられるとでも思ったか、上半身が泳いだ。だが、間に合わない。俺の拳が腹に吸い込まれる。

 亀裂とともに闘技場(コロッセオ)の壁と化していた那智に、ちょうどよく邪武が叩きつけられて壁が崩れる。どちらのものとも知れぬうめき声が上がった。

 左足を戻した俺の背後には蛮。胴を狙ってきた蹴りはハエが止まるスピードだ。それをいなし、崩れた態勢の首根っ子を引っつかんで引き込んだところを踏みつける。

 その間に紫龍が昇竜拳を放とうとしているのを目の端でとらえ、拳を空気に向かってふるえば、拳圧にふっとばされ、場外にまで放物線を描いた紫龍の落ちる音がグラード闘技場(コロッセオ)に派手に響き渡った。

 温いぜ、お前ら。

 

 結果から言えば、三秒もたなかった。

 紫龍は客席まで吹っ飛び、邪武と那智は折り重なって倒れ、激は闘技場(コロッセオ)の壁に手足の折り曲がった奇怪なオブジェとなって張り付いている。俺の足元で地面にめり込んでいるのは蛮だ。

 三秒。

 これが、おそらく今のこいつらと黄金聖闘士の差なんだろう。

 やはり、一、二回、殺す気で追い回さないと無理だな。

 

「……うそだろ」

「つ、強い……!」

 

 強くない。普通だ。

 少なくとも、この中の一人は、確実に俺と同じくらい強くなる。強くなれる。それを知ってる。多分、他の奴らも経験が足りないだけだ。

 今の段階でそれを言って調子付かれても困るから、口に出さんが。

 そう思いながら、俺はちらりと視線を飛ばす。死屍累々の中、動いてない奴が二人。問答無用で攻撃してもいいんだけど、なあ。

 

「お前らも来い。瞬、市」

 

 仕方ないので、うながす。

 何を考えてんだか知らないが、瞬は最初の場所から動いてないし、市は妙なポーズをとって固まったまんまなのだ。

 呆気にとられたように開きっぱなしだった市の口がわなないた。

 

銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)が中止になったわけはまさか……」

 

 うん。まあ、その考えで当たりだろうよ。

 戦うまでもない。俺が勝つ。

 戦う意味がないのだ。

 そして、お前らにもこれくらい強くなってもらわなきゃ困るからだ。

 同じくらいの実力なら銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)での切磋琢磨も望めるが、これだけの力の差では、むしろ心をくじく。だから、俺は最初から倒すべき強者として前に立つ。

 だから、挑んでこい。

 そうでなきゃ、意味がない。

 

「どうした。早く来い」

 

 俺からは動けない。動かないって言っちまったからな。

 だけど、手段がないわけじゃないんだぜ?

 じっとしてれば攻撃されないと思ったら大間違いだ。

 ハンデと称して、俺は聖衣を着ず、一歩も動かずに戦っているわけだが、実際のところ、これはハンデなんかじゃない。

 聖衣以前に目覚めている小宇宙が違い過ぎる。怒らせるためにわざわざハンデだと思わせただけで、実力差から言えば、不公平もいいところだ。

 聖衣には戦士の魂が宿る。宿星の加護を受けし女神(アテナ)の聖闘士、その代々の魂の欠片が宿る。

 何千年経とうとも薄れぬ星の加護は、同時にかつての聖闘士達の加護でもある。

 だが、引き出されるのはあくまでも自身の力なのだ。

 聖衣をまとってこその聖闘士ではあるが、単純な地力の差があまりにも大きい。

 

 さらに、俺は動かないと言ったが、聖闘士にとっての間合いは半端なく広い。

 ましてや、俺の流星拳は基本的には近距離から中距離、場合によっては遠距離にも応用がきく。

 俺にとって、目に見える範囲はすべて間合いと言っても過言じゃない。過言どころか過少なほどだ。

 つまるところ、紫龍のように多少遠距離向きの技を持っているからといって、ちっともそれはアドバンテージじゃないってことだな。

 俺が一歩も動かないことによってこいつらが受ける利益は、せいぜい攻撃が当てやすいというくらいだ。俺からの攻撃はどこへでも届く。

 距離は俺の障害たりえない。この程度の距離なら、せめて姿を隠さなければ、俺に攻撃を当てる前に俺の攻撃に沈む。

 そして、俺のスピードなら、お前らの攻撃が届く前に反撃ができる。つまるところ、攻撃をした時点で詰みだ。

 多分、市は分かってない。瞬のほうは分からない。分かっているのかも知れない。だが、活かせないなら分かってないのと同じこと。

 そして、分かっていないならば分からせるだけのことだ。

 俺はゆっくりと姿勢を変える。

 燃え上がる小宇宙と構える拳に目的を語らせる。

 瞬と市の身体が強張り―――市は戦闘態勢へ、瞬は制止の言葉を口に乗せた。

 

「待って、星矢。無意味だと思わないのか」

「何をだ。なんだよ」

「僕は戦うために帰ってきたんじゃない。どうして戦わなくちゃならないんだ。兄弟同士で戦うなんて虚しいと思わないのかい、星矢」

「戦うため以外なら、なぜ聖衣を着てる?」

「エッ?」

「聖衣は、女神(アテナ)のために戦う戦士がまとうもんだろ―――」

「これは女神(アテナ)のための戦いじゃないだろう!」

 

 言った直後に、ハッと顔色が変わる。

 気づいたか。

 そうとも。これは女神(アテナ)のための戦いなのだ。なぜならお嬢さんが女神(アテナ)であり、それを信じさせるための戦いなんだから。

 どうこう言っても瞬も疑ってんだなあ。

 お嬢さん……あんたの人望は地を這うがごとしだぞ。こりゃ苦労するなと俺は頭を抱えた。

 市が応援射撃とばかりに、瞬を援護する。

 

「い、いや、瞬の言うのももっともだ。お前のいうことが真実である根拠などどこにある? 教皇が裏切者で、実はアイオロスこそが正義の闘士だったなどとそうそう信じられるものか」

「一輝は信じたぜ」

「兄さんが……!?」

「なに! 一輝がか!」

「兄さん……兄さんは、今どこにいるんだい? 星矢。教えてくれ。僕は兄さんに会うのを楽しみに帰ってきたんだ」

 

 勢い込んで、瞬は半歩前に踏み出した。

 目はきらきらと期待に輝いて、教えたらすぐにでも飛んでいきそうだ。

 どうやら、それ以外のことは頭からすっぽ抜けたらしい。

 市は、一輝が……? とぶつぶつつぶやいて黙り込んだ。

 俺は信じられなくても、一輝が信じたならってことか?

 

「俺に勝ったら教えてやるよ。一輝の居場所。ただし、負けたら全面的に俺の言葉を信じ色々協力してもらうぜ」

「……俺はもういい。お前の言葉を信じる」

 

 市は後退りした。この変節は一輝を信じるというより、俺の力を目の前で見ちまったからか。

 だがな、そうか、そりゃ良かった……で済ませるわけないだろ。

 いいから、大人しく叩きのめされておけ!

 後ずさる市の足元がずるりと音を立て、倒れ伏した奴らのうめき声に重なった。

 瞬は正気に戻ったらしく、逆に踏み出し言い募る。

 

「戦わずにすむ方法はないのかい。戦いなんて無意味だ」

 

 瞬の声は、本当に戦いが無意味だと信じているように聞こえた。拳を握りしめて、俺に問う。

 俺には理解できない。

 殺したくない、戦いたくない、と瞬は言う。真剣に。

 だけど、それでは並び立たぬものを眼前にした時、瞬は何を選ぶのだろう。選べるのか。

 前回、一輝に殺されかかった時もそうだった。敵を前にしてさえ、瞬は許そうという慈悲を見せる。

 俺には理解できない。

 

 俺はつぶしていい命はあると思う。

 許されない命だってあると思う。

 敵として向かい合ったなら、それで当たり前だ。敵の命の価値を問えば、すなわち、それは俺の命の無価値だ。

 逆も同じ。俺だって、誰かにとっては許せぬ敵で。踏みつぶすべき命なのだ。

 肉を食む生物同士が、同じ土俵に立てば戦うのは当然だ。

 誰だって、誰かを犠牲にして生きている。

 だけど、沙織さんは多分納得しない。瞬もだ。なぜ、と問うてもどうしようもないことを、どうしてだと嘆くのだ。

 沙織さんは、多分、神だからだ。瞬は……神の器だからか、あるいは、そうだから神の器として選ばれたのか。俺にはよく分からないが、とにかくこの二人はそうなのだ。

 そして、俺は、そうであると認識はしても理解はできない。

 

 命の上に命が立つ―――当たり前だろう?

 何を嘆くのか、俺には本当に分からないのだ。

 だって、俺達、生きてるんだぜ?

 食い食われて命が立つ。

 俺がカシオスを倒して天馬座(ペガサス)の聖衣をまとったように。

 俺が敵を討ち果して女神(アテナ)を守るように。

 そうでないならば。

 カシオスが俺を倒して天馬座(ペガサス)の聖衣をまとっただろう。

 敵が俺を倒して、女神(アテナ)を害しただろう。

 当たり前の、ことだ。俺には。

 だから、

 俺には、

 分からない。

 その嘆きは一生―――。

 

 分かるのは、そんな理屈で進めば瞬も女神(アテナ)も死ぬってことだけ。

 

「お前は、自分の師匠が殺されても、同じことが言えるのか?」




IF与太偽予告(不定期)





グラード闘技場(コロッセオ)で行なわれた死闘。
ほとんどの者は、何も分からぬままに地に伏せる。
星矢の圧倒的な実力は、彼らを容易く支配した。

だが、そこへ立ち上がる者がいた―――その名は、瞬!
星矢の兄にして、星矢を除けば青銅聖闘士中最強の男!
その秘めたる実力は、既に師をも超えているともっぱらの噂だ!

「まるで僕が主人公みたいだね」
「冗談に聞こえねえよ……!」

倒れ付した兄弟達を沈痛な面持ちで見やり、瞬は悲しい決意をした。
―――弟を止めなければならない。この場でそれができるのは僕だけだ。躊躇などしていられない―――と。
だが、星矢のたった一言に、瞬の動きは止まってしまう。
彼が心の父とも敬愛する師を、まさか星矢は―――!

「市は眼中にないんだな。お前」
「戦力と見なしてないだけだよ?」

星矢の平穏ライフはまだまだ遠い。
新たなる戦いが彼を待っている!
眼前の兄が敵となるか味方になるかは、星矢の選択次第なのだ。

「ってことは、僕が敵になる展開って、ありえるんだね」
「やめてくれよ。頼むから」







次回、「話し合い」
暴力による脅迫ではない。肉体言語による説得である。
聖闘士の本道に疾く立ち返れ! ペガサス流星拳ーーーーッ!


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真実は痛く、弱さは罪深い

「え?」

 

 瞬は何を言っているのだろうと言いたげな表情で、ゆっくりと柳眉をひそめた。何を言われたのか耳を疑うといった風情だ。眉間に皺が寄り、疑問を表す。

 俺は黙って瞬を見つめた。

 瞬の口が開いて、溜息と呼ぶには浅い、呼吸と呼ぶには長い息をもらす。音にもならぬ息は、それでもささやかな沈黙を破るには十分だった。

 

「な、んだって?」

「言葉通りだ。お前の師匠が殺されたとしても、お前は戦いたくないと言えるか?」

「まさか! 君、ダイダロス先生に何か……!」

「はッ?」

 

 あれ、なんか誤解してないか。違う、と言いかけて俺は口を閉じた。

 ちょうどいい。実力を測らせてもらうか。

 瞬の目が真剣味を帯びてきている。燃え上がる小宇宙は静かに、だが確実に高まりながら研ぎ澄まされてゆく。

 誤解で済ませられるうちに終わらせないとな。随分と凶悪な誤解を受けてるっぽい。俺は一体どう思われているんだ? 心外な。

 城戸家にいたころ、仲が悪かった記憶はない。いや、どちらかと言えば仲の良いほうだったと思うのに。

 それとも、さっき紫龍達を叩きのめしたせいか?

 なんだか悪役になった気分で、俺はこっそり溜息をついた。遠い目になりかけたのを根性と理性で叩きなおす。誤解だ! と今叫ぶわけにも行かない。人生とはままならないものだ。この年で知りたくはなかったが。

 まずは聖衣だけでもさっさと着てもらおう。着せちまえばこっちのものだ。いくら瞬でも攻撃されたら反撃するだろ。

 だいたいな、瞬も一輝も含めて聖闘士全般に言えるんだが、何でもかんでも力ずくで何とかなると考えるのはどうにかならんのか?

 ついでに、力ずくで叩きのめさないと人の話を聞かない癖もどうにかしろよな、お前ら。

 そんなことを考えるついでに、埋まっている蛮に足を乗せてみる。ぐりぐり。ぐりぐりぐりぐり。ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。

 悪役ってこんなか。どうも釈然としない気分だが、まあいい。

 

「さてな? 二度目だぜ、瞬、聖衣を着ろ」

「クッ!」

「一輝の居どころを知りたいんじゃなかったのか?」

 

 さらに一押し。一輝の居場所が知りたいなら、実力で聞き出してみろ、と笑ってやる。

 どこへ送られたか自体は知ってるはずだ。一輝は瞬の身代わりとなった。あの島の名を瞬が覚えていないはずはない。

 この世の地獄とまで呼ばれた、死の女王の名を冠するデスクィーン島。

 知っているのに行こうとしないのは一輝と同じわだかまりか。兄を犠牲にしてしまったという後ろめたさか。自分の身代わりとなって、この世の地獄に送られた兄に対する不安か。

 よく似た兄弟だぜ、お前らってさ。全然、そんな心配ないのにな。

 

 いや、よく考えたら瞬はまだ鳳凰座(フェニックス)が一輝だと知らないんだっけ。

 だとしたら、生きているかどうかすら瞬は不安なのかもしれない。生きてここにいると教えてもらわなければ動けないのかもしれない。

 こいつらが再会の約束をしたのって、日本だもんな。かならず生きて戻って再会しようって言ってたのを俺は見てたから知ってる。

 だから、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)での再会に賭けたんだろうか。城戸家を頼らずとも、直接、会いにだって行けただろうに。

 大丈夫だ、と言ってやりたいところだが、あの喜びようから察するに、言ったら、一輝のところに即座に行くんだろうな。間違いなく。

 それは困る。あの一輝に瞬がどう動くか分からん。一輝も前とは違うから、意外に問題なく兄弟の再会をできるかもしれないが……いや、それでも瞬の知る一輝とは随分と違うしなあ。どうせ必要な時には一輝のほうから来るだろう。

 何より、このまま行かせてしまえば、瞬は戦いの覚悟を決めぬままだ。そのまま来たるべき聖戦に臨めば瞬は死ぬことになる。あるいは、冥王(ハーデス)の器として俺達の敵になるかも知れない。

 もう一つ、最悪の可能性があるけど、そっちは考えたくないや。

 俺は目をそらさないまま、言葉をついだ。

 

「安心しろ。お前の師匠にも、今はまだ何も起こってないはずだからな」

「今はまだって? 星矢! ダイダロス先生に……!」

「もう一度だけ言うぜ、瞬。聖衣を着ろ。お前は自分の師匠が殺されたとしても、復讐もせず泣き寝入りする気か?」

 

 そんなはずはないと知っていた。

 そのまま強く睨めば、瞬は目を揺らがせてひるむ。揺らいだ目が、アンドロメダの聖衣を収めたパンドラボックスをかすめた。通り過ぎてハッと戻りその上に留まる。迷いの色が見えた。

 俺は目をそらさない。嘘は言ってない。何かするのは俺じゃないけどな! そこんとこ、是非とも強調したい。絶対に何か誤解してるぞお前。

 

 ダイダロス先生、か。名前は知らなかったが、覚えている。

 いつだって善悪を問わず戦いには消極的だった瞬が、いつになく強い口調でまかせてくれと言った戦いを覚えている。

 魚星座(ピスケス)のアフロディーテは師の仇なのだと、だから自分が闘うべきだと、だから先に行けと促したのを覚えている。

 最初は五人だった。

 十二宮へと突入し、段々と隣にいる兄弟達の数が減っていった。

 だが、たとえ最後の一人となろうとも、必ずや教皇の間までたどり着き女神(アテナ)を救うのだと互いに誓った。

 戦いに果てようとも魂は必ずや追いつくと。

 女神(アテナ)の心臓に突き刺さらんとする矢を、抜いてみせると。

 あの時の誓いを覚えているのが、俺だけだったとしても。

 あの戦いを忘れる理由にはならない。

 決して忘れない。

 覚えている。

 俺だけがってのは、ちょっと寂しいけどな。

 

 視線の先ではすでに瞬は己の聖衣を手に取っていた。

 高まる小宇宙にはまだ逡巡の色が濃いが、先ほどのお遊びを見て、俺相手に手加減できるとはさすがに思ってないだろう。あれは闘いですらなかった。 聖衣をまとい、こちらを見る目線に何の油断もない。口調は、それでも優しく心配げだ。これが嘘やハッタリじゃなくて本心だからすごいよな。

 

「星矢、君は何をする気なんだい」

 

 思わず笑ってしまった。

 一輝の「お前は何をする気だ?」を思い出したのだ。

 兄弟だなあ。お前ら。

 正反対に見えるくせに、肝心なところはそっくりだ。選ぶ結論もきっと一緒なんだろう。兄弟だもんな。

 本当に良く似て……いやまて、だとすると、味方になってくれるとは限らんかも……。

 よし、念には念を入れて叩きのめしておこう。

 

「知りたけりゃ聞き出せ。実力でだ」

 

 瞬は瞼をふせる。

 それから溜息をついた。

 

「星矢、僕はこの力を争いに使いたくないんだ。だけど、聞かせてもらうよ」

 

 言いながら、鎖を握った瞬が面を上げる。

 金属特有の音が空気を切り裂くようにジャラリと響く。瞬の四方に鎖が円を描いて、アンドロメダ星雲を形成した。

 ようやっとその気になってくれて助かるぜ。

 俺は晴れ晴れと笑いかけた。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

「馬鹿な! 僕の星雲鎖(ネビュラチェーン)がまったく通じないなんて!」

 

 愕然と、瞬は砕けたチェーンの欠片を握りしめた。起き上がっての第一声がこれだから、それなりに本気で戦りあおうとはしてたんだろうな。

 何をやったかって話は簡単だ。襲ってくる鎖ごと、本体である瞬に一撃くらわせただけ。

 空間ごと、拳の衝撃を叩きつける。空気だって物質だ。圧倒的なエネルギーで叩き揺らしつぶしこんで圧縮する。距離があるから破壊力は反発によって多少相殺されるが、その分、広範囲に散った圧力は鎖ごと瞬を吹き飛ばすだけの面としてのエネルギーを持つ。

 言うだけなら単純だが、手加減は案外難しいんだぜ。

 威力を殺しすぎては意味がない。だが、下手すると、威力を殺さずにそのまま点としての攻撃で相手を打ち抜いちまう。

 殺さずにいようと思うなら、それなりの距離がないと使えない。距離があっても、相手にそれだけの強度がないと使えない。しかし所詮しょせんはスピードとパワーを活かした力押しだ。技でも何でもない。

 だが、今の瞬ならこれで事足りる。ちょっとくらい手加減を間違えても、瞬の力なら大丈夫だろうしな。

 

 一方、瞬は宙に飛ばされたところで身体を反り返らせ、戻る反動で空中にて一回転、叩きつけられるところを態勢を変えて四足接地。したと同時に全身のバネを使い沈みながら地を転がってもう一回転して起き上がったのだ。無傷だぜ。器用な奴。

 

「……僕の負けだ」

 

 砕けた鎖を握りしめ、瞬が悔しそうにつぶやいた。

 嘘つけまだやれるだろ、と言いたいところだが、置いておく。

 

「俺の言葉を信じる気になったか?」

「最初から疑ってるわけじゃないよ。でも、ダイダロス先生は多くの人に信頼される誠実な方だ。殺される理由がない。それに強い方だ。殺されるなんて」

「甘い。甘すぎるな。蜂蜜にシロップぶちこんで水飴で練り上げて砂糖をまぶすより甘い」

「そこまで!?」

「言うさ。それを黄金聖闘士相手でも同じように言えるか?」

「それこそありえない! さっきも言っただろう。理由がない! ダイダロス先生はとても」

「だからだろ?」

「エッ?」

「立派な人格者だからこそ、真実を見抜く目を持つからこそ、多くの支持を持つ者だからこそ、殺されるんだ」

「そんな、なぜ……どうして先生が」

「……分かるだろ」

 

 瞬は唇を噛んだ。聖域の最高峰に裏切り者がいる。その裏切り者にとって、誠実で確かな実力を持ち多くの者の支持を集め、そして、真実の女神(アテナ)の聖闘士である男はどのように感じられるだろう。

 邪魔に決まっている。

 理由なんてものはあってなきもの。とは言えども、そう断言できるのは「そうであるという事実」を知っているからだ。

 おかしいよなあ。知っているなんてさ。瞬が信じきれないのは知らないんだから当たり前で、そっちのほうが多分まともだ。誰かにどうして知ってるんだって問われても、俺は答えられない。少なくとも、挙動不審にならず答えられる自信はないときっぱり言える。

 俺のほうが、どう考えてもおかしいんだよ。

 悩んでもどうしようもないから、いちいち悩まないけどな。何が起こっていようと、俺が女神(アテナ)の聖闘士である限り、やるべきことに悩まないですむ。

 

 聖域の汚濁を信じたくないのか、あるいは、俺の提示した未来を否定したいのか、瞬の顔は苦悩に歪んでいる。口からは意味をなさぬ小さなうめき声がもれた。握った拳は骨が浮き出るほどに力がこめられている。

 

「お前らも聞け!」

 

 俺は声を張り上げた。芋虫のようにそこらに転がっている奴らに問うためだ。

 わざと目線を外しながら叫ぶ。血のにじむような目線を向けられた。じっとりとした目線は実に恨みがましい。

 少しばかり良心の痛みを感じなくもない。これでも手加減はしたんだけどな。

 カシオスの時も同じようなことを感じた……あの時だって手加減はしてたんだが。

 いや、そんなことは今どうでもいいんだ。俺は咳払いをした。

 

「お前らの師匠は射手座(サジタリアス)の聖闘士アイオロスの裏切りをどう評した。さもありなんと言ったか? アイオロス討つべしと罵ったか?」

「老師は信じられないとおっしゃっていた。あの仁義礼智信すべてを兼ね備えたアイオロスが女神(アテナ)を裏切るなどありえない、と」

 

 紫龍が客席から、場壁を乗り越えて内部に降りてきた。

 右手をわき腹に当て庇いながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 よろよろしているが、さすがにカシオスより丈夫だ。

 

「……ダイダロス先生も、まさか、と言っていた。黄金聖闘士のアイオロスこそは真に正義を知り、慈悲を施す偉大な聖闘士だと」

 

 握りしめていた拳をほどき、苦悩に満ちた息を吐いて、瞬も同意した。眉間の皺はいまだ健在だ。

 地面に座りこんでいる市は同じくとうなずき、那智も確かにと首を縦に振る。闘技場(コロッセオ)の壁にもたれながら起きあがろうとしている那智の足元には、邪武が転がっている。

 壁にめり込んでいた激は、頭を振って瓦礫を払い落としながら立ち上がった。

 邪武と激の師匠は、アイオロスの裏切りについて良くも悪くも評価しなかったらしい。

 結論として言えば、アイオロスを悪く評した者はいなかったということだ。評価自体を放棄はしても。

 それを知り、俺を否定するものはもはやいなかった。

 ただし、悪あがきをする者が一人―――瞬だ。

 

「星矢、どうしても闘いしか選べないのかい」

「それ以外を選べるなら、俺達は聖闘士になってないだろうな」

 

 アイオロスが女神(アテナ)を抱えて逃げ出さざるを得なかった時点で、すでにすべてが手遅れだ。

 逃げ出したアイオロスは、光政に会い女神(アテナ)を託し、俺達の運命を決めた。

 ―――あ?

 何かが脳裏に引っかかった。

 俺はまた何かを忘れてるんだろうか。何かが引っかかる。だが思い当たらない……気のせいだといいんだが。

 眼前の瞬はまだ納得できない様子だ。

 もう一発、ボカッと強めにやるべきだろうか。具体的に言えば、ヒクヒク痙攣(けいれん)するくらい。

 

「それでも、僕は―――別の道があるなら!」

「だったら脱げ」

「エッ?」

「脱げって言ったんだよ。聖衣を。足手まといだ」

 

 別の道、か。

 愕然とした様子で瞬は俺を見やった。

 実力は惜しい。瞬は強い。

 戦いに向いているのと、戦闘の才能があるのは別物なのだ。

 

「お前は戦うのに向いてない。それは知ってる。でも、今からどうしても戦わねばならぬ局面がある。戦いたくないというのなら聖衣を脱いで守られる側に回れ」

 

 俺は一息ついた。

 どんなに実力があったとしても、誰かが目の前で倒れなければ、何者かの犠牲なくば、死が切羽詰るまで全力を出せないんじゃ意味がない。

 瞬は優しい男だ。万人に平等に優しくあろうとしている。だが、その優しさは戦いにおいて害にしかならない。

 

「全力で守ってやる。心配すんな」

 

 瞬の顔が、カッと屈辱に燃えた。口元からは穏やかさが消え、代わりに怒りの気配に歪んだ。心配げだった目線の力が変わり、一気に強くなった。

 瞬のプライドは決して低くはない。ただ、その方向性が俺にはよく分からない。

 

「星矢、それは僕に対する侮辱かい?」

「聖衣は戦うためのものだろ。まとうのならば覚悟を決めろ」

 

 瞬を真正面から見据える。

 侮辱なのはどっちだ。殺すどころか傷つける覚悟すらなく聖衣をまとうな。

 それは瞬の強さだと知っている。だが、それは何にも傷つかず何にも揺らがぬ強者のみに許される憐れみだ。お前は本当にそこまでの強者か。

 守りきるだけの強さを持っているか。

 

「誰を傷つけてでも、守る覚悟を」

 

 それを持たぬお前では何も守れない。

 前回だって、お前は何をも失わずに戦う決心はできたか。

 本当に戦えたか。

 戦って勝てたか。

 何の犠牲も出さずに守り通せたか。

 師ダイダロスを失わずとも、本当に全力を出せたのか。

 

「必要なのは勝てるだけの武じゃない。圧するための威だ。それができるだけの力だ。そうでなければ結局己も守れず、守るべき物も守れない。身につける気がないと言うのなら守られる側に回れ。……そのほうが向いてんだ」

 

 瞬は戦いに向いていない。それは分かっている。誰かを傷つけるより自分が傷つくほうがまだマシだと考え、たとえ守るためでも何かを壊すことに拒否感を示す。

 瞬を見据える。

 守るために、その優しさを犠牲にせねばならないことを覚悟しているか。自分が誰かを傷つけなければ守れぬものがあることを分かっているか。

 返答次第じゃ―――本気で脱いでもらうぜ。

 

「――――所詮(しょせん)、それは覚悟がないってことだぜ。お前が守りたいのは自分の心の平和か? それとも女神(アテナ)の守る地上の平和か?」




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力も強さも手段の一つ

 何もかも、そう上手くは運ばないってことだよなあ。俺の場合は、すべてに邪魔が入っている気がするけど。

 慨嘆しながら、俺は電話中の沙織さんを見つめた。

 電話の内容は、俺のシベリア行きについてだ。そして、それは見るからに難航していた。

 

 今、俺は沙織さんの執務室にいる。

 他の奴らは闘技場(コロッセオ)か、じゃなければ修行だろう。

 俺は出かけるから、帰ってくるまでにセブンセンシズの限界にまで目覚めろと言っておいたからな。

 続いてエイトセンシズにまで目覚めてもらう予定なのは内緒だ。

 瞬に勝てたら修業の成果を認めると言ってあるので、瞬も抜け出せまい。黄金聖闘士と比較すると分が悪いが、実質、あの中で最強は瞬だ。瞬に勝てたら及第点。俺に勝てたら満点というところか。

 むろん、そのままでは勝てない。だからこその修行だ。

 シベリアから帰ってきたら、勝てるように、勝てずともせめて一矢報いることができるようにしごいてやるぜ。血涙を流すまでみっちり鍛え上げてやろう。楽しみだな!

 ふっふっふと含み笑いをしていると、ふいっと小首をかしげてこちらを見た沙織さんに睨まれた。あげく、シーッと口元に人差し指を当てるゼスチャーを送られた。

 うるさいってか?

 俺は慌てて顔を引き締めた。

 ちなみに辰巳はこの場にいない。俺がお嬢さんと一緒にいると騒ぎ立ててやかましいからか、お嬢さんは辰巳に記者会見の後始末を命じて追い払った。俺にしても願ったり叶ったりだ。

 電話口に向かうお嬢さんの顔つきが少しずつ険しくなっていく。眉間の皺が一本増えた。意見の対立がよほど気に障るんだろうか。

 

 と、他人事のように言っているが、実は、電話の内容なんか全部聞こえていた。

 この距離で聞かずにいろというのが無理だ。聖闘士の聴覚だと、聴こうとしなくても勝手に聞こえてくるんだぜ?

 だから、俺のシベリア行きについて話してるってのも、それが難航してるってのも分かってるわけだ。

 難しい顔で電話相手をなだめたり脅したり、とにかく丸め込もうとしていた沙織さんが、表情を曇らせる。一言二言を相手に告げて、受話器をフックに戻した。

 機嫌が悪くても叩きつけたりしないんだよなあ。お嬢さんは。

 育ちの違いに感心するのはこういう時だ。

 

「すみません。便宜を図ってあげたいのは山々なのですけれど、少し難しいようで……いえ、はっきり言いましょう。グラード財団は、あなたのシベリア派遣に関して役立てません」

「分かった」

「訊いても、かまいませんよ?」

 

 何を? 理由をか?

 それなら電話の中身が聞こえてたからいいぜ。ソ連との関係の問題だろ?

 お嬢さんは、不承不承と言いたげにうなずいた。

 

「ええ、聖域ならばともかく、今の私ではソビエト連邦には迂闊(うかつ)に手を出せません。痛くない腹を探られるだけならともかく、火のない煙を煽られると他への影響が出てしまいます」

「グラード財団の力だけではってことか」

「ええ、今まであなた達を呼び戻せたのは聖域を介しての影響力も大きかったのですよ。でも、聖域越しでは……」

 

 分かってる。今度は正真正銘、痛む腹を聖域に探られる。火はぼうぼうだ。

 前回では、疑わせて探らせて、その手を逆に引っつかんで乗り込もうって計画だったからいいが、今回は違う。それでは困る。

 仕方ないさ、と俺はお嬢さんに肩をすくめてみせた。

 

 聞こえてたってのもあるけど、最初からそこまでの期待はしてない。俺の話を信じてくれただけでも恩の字だし、氷河に関しちゃ俺のせいでもあるからな。自力で何とかするさ。

 お嬢さんは難しい顔のまま、電話のコードを神経質なほど形良くととのえた。

 

「行くだけなら何とでもなるのです。行くだけなら。ですが、聖域ならばともかく、グラード財団の手の者がソビエト連邦の有する聖闘士に干渉する、それが問題なのです」

「氷河は」

「分かっています」

 

 氷河はソ連に属してるわけじゃないと言いかけた俺を、沙織さんは溜息とともにさえぎった。

 

「体面上の問題なのですよ。アメリカ寄りのグラード財団が、というだけで問題なのです。モスクワまでは送って差し上げますから、後は自力で何とかなさい。……何ですかその目は。仕方ないでしょう。聖域の目はどこにでもある、そう言ったのはあなたではありませんか」

 

 そりゃそうだ。

 時間が欲しいから聖域の注意を引いてくれるなと言ったのは確かに俺だ。大っぴらな手助けは出来ない。仕方がない。分かってる。

 分かってるから、そこは素直に頼むと言えないもんなのか。

 脱力しつつ、俺はうなずいた。

 

「ああ、分かった」

 

 物言いに対する反発が少ないのは、分かっているからだと思う。

 お嬢さんがこんな風に「城戸沙織」でいられる時間は残り少ない。半年もなく、お嬢さんは「城戸沙織」という名を持つ「女神(アテナ)」にならなきゃならない。今だってそのために動いている。

 これは最後のワガママってわけだ。城戸沙織としてだけ動ける最後の最後。そのワガママさえ、聖域を取り戻すための振る舞いの中だ。

 だからって、甘いよなあ。甘い。瞬にどうこう言ったけど、本当は俺にそんな資格はないんじゃないかと思う。理解できないとはいえ、「城戸沙織」でいられる時間を尊重してやりたい、なんてさ。甘いよなあ。

 でもお嬢さんにとって、それは大事なことなんだ。どうして大事なのかは分からないけど、とにかく大事なんだ。俺はそれを分かってしまっているんだ。だから仕方ない。

 その分、苦労するのは覚悟済みだからいいんだよ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 空港まで送らせると言われたので、念のため、聖衣を持って行こうと部屋に取りに戻った。

 使うことがないように祈るぜ!

 

 玄関まで出てぎょっとした。送ってもらうのだから車が待っているのは別にいい。ただ、その車の見掛けが何となく想定してたものと違っていたのだ。

 やたら長いボンネット。ギリシャ神殿の列柱を思わせるフロントグリル。膝をついた女性が腕を大きく広げ風を受けているエンブレムには、汚れどころか指紋さえついてなさそうだ。真っ黒な車体が艶々と陽光を照り返す中から、運転手らしき影が出てきて頭を下げた。

 お嬢さん……俺、目立ちたくないって言わなかったっけ?

 それとも、これくらいなら普通なのか?

 まさかと思うが、飛行機のチケット、ファーストクラスだったりしない、よな?

 金持ちの常識ってどうなってんだろ。なんだか不安になってきた……。

 

「星矢、ちょっといいかい」

 

 んあ? 右斜めに首を回す。瞬だ。いや、振り返って確かめるまでもなく声で分かるけどな。

 俺は、振り返った方向を新たに正面として向きなおった。

 

「よお、どうした。何か探しもんか?」

「いや、うん、でも見つかった。星矢、出かけるんだね?」

「ああ、すぐに帰ってくると思うけどな。……まあ、多分すぐ」

「そ、そっか、ねえ、一つ訊いてもいいかな」

「なんだよ?」

 

 多分、という言葉に俺の切なる願望が混ざり、かなり重たい口調になってしまった。

 そのせいか、瞬は遠慮がちに口を開いた。

 

「強さって何だと思う?」

 

 瞬は、うつむいて小さく首をふった。ゆっくりと顔を上げて、口を開くが何も言わずに閉じる。

 何って言われても、と俺は首をひねって考え込んだ。何、ねえ?

 人それぞれじゃないのか、そんなの。強さは強さだろ。

 

 しばらく沈黙して、こちらを観察していた瞬は静かに言った。

 

「星矢、強いってことは、力を持つということは何だろう? 君が僕達を打ち倒した強さは本当に強さなんだろうか。星矢。力があるってことと強いってことは本当に同じだろうか?」

 

 しぼりだされた声音は痛いほどに真剣だ。

 

「本当にって言われてもな……」

 

 わけの分からんことを言う。

 俺は、右手の中指と親指で円を作った。要はデコピンの形だ。それを瞬に示しながら、左手は拳を作った。これが、力だ。

 これだけ、たった指二本だけで俺達は人の頭を吹っ飛ばせる。

 拳を握れば石をあっさり握りつぶし、踏みしめれば大地を割り、全力となれば天をも砕く。

 これが強さでなくてなんだ。これが力でなくてなんだ。

 強さがこれだけだとは思わないし、力の意味がこれだけだとも言わない。

 だが、これを強さと言わずしてどうする。

 これを力を呼ばぬのであれば、何が力だ。

 

「星矢、僕はまだ君がすべてに正しいのだとは思えない。力があるのと強いというのは別だと思う。だけど」

 

 瞬は一度言葉を途切れさせる。

 言いたいことは分からなくもない。

 俺が覚えているだけでも、サガを筆頭に何人もの黄金聖闘士が―――そう黄金聖闘士でさえ考え違いを起こした。力があるからこそ、道を誤った。

 

 間違った強さ。

 間違った力。

 

 そんなものと取り違えてやしないかって言いたいんだろう。

 ある意味、失礼なんだが、怒るより思わず笑ってしまった。

 大丈夫。俺は間違えない。間違えたりしない。

 お前が覚えてなくても、俺は覚えている。

 その間違いゆえに起こった悲劇を。流された血潮を。

 放り込まれた戦いの先で見出した絆を。掴み取った真実を。

 だから、大丈夫だ。

 お前が危惧していることは、俺にもお前にも起こらない。力を持つこと、力を振るうこと、どの先にもお前が案じているようなものはない。

 なるほどなぁ、分かったぞ。お前が力を隠す理由が。

 さっぱり共感はできないけどな。

 

「だけど、先生を見捨てる真似は絶対にできないよ。何より、僕だって女神(アテナ)の聖闘士なんだ」

 

 言い終えると、瞬はホッとしたように肩の力を抜いた。

 そのまま俺に大きく笑いかけてくる。輝くような笑顔ってのはこんな顔を指すんだろう、と柄にもなく思っちまうような笑顔だった。

 前回は……あまり見たことがなかった。戦いで浮かべる瞬の笑みは、心配そうだったり、鼓舞するような顔だったりと、何かしらの意図のあった笑顔で。

 こんな風に笑うためだけに笑った顔なんて、小さい時以来だった。

 そうであったと、初めて気づいた。

 

 ううう、罪悪感が半端ないな!

 今すぐ、何もかもぶちまけて謝りたくなるぞ!

 ちくちくと騙しているような良心の痛みが俺をつつく。だが負けてなるものか。ここで話したら間違いなく俺は狂人扱いだ。帰ってきた当初の目線を思い出せ。あの不審者でも見るような疑いの目を!

 

「それが言いたくて来たんだ。そうでないと兄さんに顔なんか見せられやしないし、星矢に負けっぱなしってのも癪に障るからね」

 

 言い終えると、息をついてはにかむように笑った。

 それだけだと言いおいて、邸内へと去って行った後ろ姿は妙に恥ずかしげだ。

 わざとか? 俺の良心を痛めつける作戦なのか?

 瞬、お前はなんて恐ろしい男だ。

 お前が一輝のところへすぐさま飛んでいかないって確信があるなら、いますぐにでも教えてやれるんだけどなあ!

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 寒い!

 ここはシベリアだ。一面、ただ白い。すべてが白い。俺の後ろに落ちる影さえもが白く冷たい。

 白い大地に立つ俺の格好は、いたってラフなTシャツと何の変哲もないジーンズ。装備を持たされはしたんだが、邪魔くさかったんだよな。

 だからモスクワに放置してきたんだが、やっぱり持ってきとくべきだったか?

 

 氷河の修行地たるこの雪原の寒さは、俺の想像をはるかに上回っていた。

 死ぬほど寒い。いや、俺が聖闘士じゃなきゃとっくに死んでるだろう。服のゴワゴワした感触が嫌な感じだ。凍りついてるんだな。

 初めて知ったんだが、この寒さでも人間ってやつぁ汗をかくんだよ。流れるまえに蒸発するけど。蒸発した瞬間、凍りついて俺の赤いTシャツをカチコチにしてくれてるけど。後ジーンズも。

 動くたびにシャリシャリと軽い音をたてて氷片が落ちるんで、最初は何かと思ったぜ。

 今、無茶な動き方をしたら破れるというよりは砕けるに違いない。全裸はさすがに勘弁願いたい。パンツまで凍りついてるからな。

 吐く息も鼻から漏れるやいなや凍りつき、薄い氷の膜となって俺の呼吸を阻害しようとしてくれた。

 その程度で動けなくなるほど軟弱じゃないが、とにかく寒いぞ!

 

「寒いィーッ!!」

 

 氷河はいない。ここには俺以外、生き物の気配はない。

 叫んでも寒いのは変わらないし、余分に吐き出した湿り気のせいで強ばった顔面が余計に凍りついた。冗談じゃなく本当に寒い。小宇宙を微量に燃やしてなけりゃ、今頃は耐えられず氷になってたんじゃないだろうか。

 

 お? おお、すげー。前髪からちっこいツララが垂れてる。

 珍しい、いや、初めて見たぞこんなの。思わず寄り目になって凝視してしまった。愉快な気分になってつまめば砕ける。ついでに前髪もちぎれた。もろいな。

 感覚のある部分―――鼻や唇といった小宇宙の巡ってる部分はほとんど凍らないが、髪の毛までは気にしてないからな。今現在も呼吸に含まれる湿気でか、新しいツララが育とうとしている。うーむ、鬱陶しくなった時点で払えばいいか。

 空には青色の欠片もないが、重苦しく濁っているわけでもなく、一面ぼんやりと薄明るい灰色で覆われていた。人探しにはそれなりにいい天気なんだがな。寒いけど。とことん寒いけど。

 しかし、肝心の氷河はどこだ?

 

 地平線まで見える広大な氷の大地を俺は見渡した。

 俺は氷河を全力で探しているし、心の底から早く見つかって欲しいと願っている。

 だが、忘れちゃいけないのが、俺の感覚はあまり鋭くないってことだ。

 ううむ、分からん! どこにいる氷河!

 

 思えば、ギリシアから夜逃げ……いや、出奔して、半日もかからず一輝の所にたどり着けたのが奇蹟のようなものだったのかもしれない。

 あいつの存在感は青銅をはるかに超えてるからな。

 そういや、前回も、瞬、氷河、紫龍、俺の四人がかりで、それでも倒すのギリギリだったんだっけ。ああ、ほんと、標準じゃないな。あいつ。

 俺は地平線まで目線を投げて遠い目をした。

 一輝だからな。

 俺だって死ぬ気の修行をやってきたはずなんだけど……いや、考えるまい。あれだけ何度死んでも蘇ってくるんだから、あいつが規格外なんだ。俺は普通だ。

 

 俺は、そんなことを考えながら、雪原を駈け出した。じっとしてても埒が明かん。

 蹴立てた雪煙が視界を覆う前に、地を蹴り、風をきって前に進む。視界がなくても小宇宙を探るだけなら関係ないが、眼前に広がる広大さを失わぬよう動くのが楽しい。

 どれだけ俺が鈍いとしても、ある程度近づけば何となく分かるはずだ。走り回ってれば、そのうち引っかかるだろう。

 見知らぬ他人ならともかく、血を分けた兄弟、生死をともにした仲間の小宇宙だ。分からぬはずがない。

 問題は、どれだけ時間がかかるかってことだ。

 あんまり面倒なとこにいなきゃいいが。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 走り始めてから、どのほどの距離を移動しただろうか。

 途中で風が変わり砂礫混じりの地吹雪を突破した。氷河の気配の残った家を見つけて気配を探れば無人で「なんでいないんだ」と殺意を覚えた。うっかり子供を轢いてしまいそうになって、成り行きでその子供から手紙を預かった。ヤコフと名乗った子供は偶然にも氷河と知り合いだった。いそうな方角だけ教えてもらい、俺はちゃんと氷河の小宇宙を見つけ出した。

 だが、だからこそ、悩むこともある。

 

「氷の下まで来いってか?」

 

 分厚い氷の上で俺は不機嫌にうめいた。

 零下32度。繰り返すが、聖闘士として小宇宙を燃やさなければ、いくらなんでも薄着では耐えられない気温だ。

 氷の下ともなればなおさらだろう。寒いのが嫌いなわけじゃないが、もうお腹いっぱいだ。寒中水泳なんざ御免こうむる。

 

 ならば氷河の家に戻り、そこで待つか?

 そのうち帰ってくるだろうし、そこで寒さをしのいでもいい。

 悪くない考えだが、問題が一つ。

 氷河はカミュの弟子なのだ。黄金聖闘士、水瓶座(アクエリアス)のカミュの弟子。

 氷河の家はカミュの家だ。つまり、家にカミュがやってくる可能性もある。

 つい先日、俺の聖衣試練の時には聖域にいたが、黄金聖闘士はいつどこに現れるか本当に分からん。

 一体、この世の誰が一輝のところでシャカに出会うはめになるなんて予想できたろうか。

 あの最悪なタイミングでシャカが出てきた以上、このタイミングでカミュが出てこない保証なんかどこにもない。油断は大敵だ。

 

 確かに俺は黄金聖闘士を早めに説得すべきだと思っている。

 思っているが、そもカミュは氷河の師匠なのだ。氷河が説得するのが筋ってもんじゃねえか?

 俺はカシオスとの戦いの際に送られた目線を思い出して身震いした。

 ―――俺が説得しようとしても間違いなく逆効果になる気がするぜ。

 つまり、カミュに会うのはなるべく避けたいがために家は却下。

 

「となると、やっぱり潜るしかないか?」

 

 面倒だなと溜息をついた俺の懐でかさりと小さな音がなった。先ほど轢きかけた子供から預かった手紙だ。

 轢きかけた責任をとり村まで送る途中、原因不明の突発的な雪嵐のせいで手紙を配達できないとの悩みを聞き、これも縁だと引き受けたんだが、氷河への手紙なんて誰が出してんだ? グラード財団か?

 俺達は全員孤児だから、手紙なんて送ってくれる人間はそうはいないし、修行地へとなったらさらに相手は限られる。

 宛名を見たのはほんの好奇心だった―――の、だが。

 

 見た瞬間に思わず目を見開いた。見間違いじゃないかともう一回見てみたが、間違いない、神鳥たるフクロウの広げた羽が半円を描き、豊穣を表す神木オリーブの冠が、アテナの随神であるニケの化した杖と一体化しているこの紋章は。

 

「なんで! 聖域から……!」

 

 ぎょっとして動きが止まったのは一瞬。次の瞬間には迷いなく封を開けた。

 魔鈴さんあたりに知られたら怒られるだろうが、これも女神(アテナ)のためだ。聖域の動きを知っておくにこしたことはない。

 ましてや、それが氷河のことなら尚更だった。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 永久氷壁。

 白く硬い氷壁の向こう側には何があるのか、すでに手紙の内容を読んだ俺は知っていた。

 姿を見ずとも、あると知ってさえいればその存在感を感じ取るに不都合はない。

 いや本当に予想外。氷河、お前まだ聖衣受領してなかったんだな。聖闘士の資格は持ってるだろうに。

 

 ぐるりと首を回した。

 前後左右確認。

 人影なし。

 念のため、上下確認。

 同じく、人影なし。

 よし!

 ……やっちゃいけないことだ。分かってる。

 だけど。

 こんな寒い中、あいつの説得に時間をかけたくないというのは誰もが理解してくれると思うわけだ。

 目の前の氷壁に眠っているのは、氷の聖衣―――白鳥座(キグナス)の聖衣だ。

 壁に阻まれて見えないながらも、存在を感じるところを軽く叩いた。

 

「これを持ってったら、追いかけて来るよな? 日本であろうとどこであろうと」




ご感想、評価、ありがとうございます。いつも感謝しています。

※星矢たちの生きている1986年当時、ソビエト連邦はまだ崩壊していません。まだ冷戦の緊張感あふれる世界での話であり、わずかなきっかけでアメリカとの核戦争が起こる可能性が現実的だった時代と踏まえて読んでもらえればありがたいです。
つまり、なんでソ連表記なのかっていう話なんですが。


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話を聞かない人

 永久氷壁の名を冠する天然の防壁を砕いた内側に、鎮座しているのは白鳥座(キグナス)の聖衣。凍気を凝縮したような硬質なきらめきが、端然と俺を威圧した。

 やれやれ、主じゃなくって悪いな。

 こっそり詫びて手を伸ばす。その伸ばした指先が―――。

 

 ―――触れる前に凍りついた。

 そんな錯覚すら覚えるほどの凍気だった。

 誰だ、などと問うまでもない。氷河ならここまで近づかれる前に分かる。

 もう来たのか。手紙とほぼ同時に来たら、手紙の意味ないだろうによ。

 

「何をしている」

 

 周囲に負けぬ低温の声。とそう感じるのは後ろめたいからだろうか。

 高められた小宇宙はすでに沈静化しようとしているが、かといって力強さと余裕を失ってはいない。

 ああ、振り返るのが嫌だ。だが、振り返らなければもっと嫌なことになりそうだ。

 肩を落としつつ後ろを向けば、予想に違わぬ黄金に輝く姿。

 

 氷河の師である黄金聖闘士―――水瓶座(アクエリアス)のカミュ!

 

 ポケットに突っ込んである件の手紙に、ちらりと視線を落としてしまう。意図せず溜息が洩れた。凍りついて鬱陶しいと分かっていても洩れた。

 来るなと念じて、そうなるまいと動いて、この結果だぜ。くそ。

 

 そう、俺はカミュがここに来るのを知っていたのだ。

 手紙に記されていたのは、聖衣受領許可と聖衣の在り処、及び、それを持参して聖域へ来るようにという召致命令だったからな。それも、今すぐに来なければ迎えをやる、とあった。

 迎え、だぜ? 迎え。

 なんたる過保護。か弱い女子供じゃあるまいし、聖闘士の資格を得るほどの弟子に、なんで迎えがいるってんだろ。疑問だ。

 しかも、早すぎだろ。おまけに誰か適当なのに来させればいいだろうに。わざわざ師匠が来るとは嫌がらせか嫌がらせだな。よく分かった。そんなにも俺の邪魔をしたいのか。シャカの同類か。ええい。

 途中から身勝手な本音が混ざったが、声には出してないからいいんだ。ぼやくくらい許されるべきだ。

 カミュでさえなければ―――神官や雑兵であれば適当にあしらえるってのに。

 なんつーか、運命の女神に嫌われているとしか思えない巡り合わせだ。出くわさないで済むように、わざわざ家は避けたってのにな。

 

 それ以前に、なんで聖域に呼び出されてるんだ、氷河は。

 それとも、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)がなければ、元々そうなるはずだったのか?

 いや、今すぐ、とあるからには、聖域で何か起こっての非常召集もありえるか。とすると、日本に帰ったら俺にも来てるかもな。

 色々と可能性はあるんだろうが、俺の記憶にあるのは、当然ながら俺の経験したことだけだ。

 この時期の聖域に「何か」あったかどうかなんて分かるはずもない。なにせ、これから俺達自身が「何か」を起こすのだから。

 

 だが、そのためにも、召致命令が氷河に届く前に氷河に話をせねばならなかった。手紙は俺が渡さない限り届くはずはないが、迎えが来るとあらば話は別だ。急がねばならなかった。

 だから、俺はこんなところにいるのだ。そうでなければ、いくらなんでも手紙を盗み見たあげく、こそどろみたいな真似しようとするもんか。ちゃんと氷河が、海から上がってくるまで待ったさ。じゃなければ、氷の下まで追いかけて行くか。

 寒い中の説得は嫌だし面倒だが、それでも説得に時間をかけるだけの余裕があるなら、それを惜しんだりしない。惜しみたいのは確かだが、寒いだけなら妥協する。うむ、まあ多分。

 だから、こんなところで、こんなところでカミュに遭遇してる場合じゃない。そんなことは分かってるんだが……どうしたらいいだろう。助けてくれ魔鈴さん

 情けないと言うなかれ。魔鈴さんは俺が知っている中で、一番頼もしい人だ。精神的にな。ただし、そうそう助けなんざ求めたら「甘えるな」と一喝されて終わるが。

 

 無表情で佇むカミュは俺の返事を待っているようだ。

 何をしている、か。

 どう答えれば、正解だろう。

 正直に、なんて選択肢はない。だけど迂闊(うかつ)な嘘もつけない。嘘が得意じゃないからってのもあるが、基本的に俺は黄金聖闘士を敵だと思ってない。不誠実な真似をしたくないんだ。だからといって、正直に言っても、なあ?

 デスクイーン島でシャカと遭遇した際の葛藤が胸をよぎる。ぞっと内腑が冷えた。

 繰り返すようだが、現段階では聖域に殴り込みをかけるなんざ、無謀としか言いようのない実力なのだ。聖域が俺達を本気でつぶそうとすれば、たやすいだろう。俺がいないなら、という条件付でだが。

 

 そう考えると、前回って、実はすごく運がよかったんだな。

 新米青銅聖闘士同士で銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を戦って、途中で青銅聖闘士の域を超えた一輝が乱入して、その一輝を倒したと思ったら白銀聖闘士が来て。

 俺達の実力に合わせたように敵が現れ、そのたびに俺達の実力は強化されていった。

 聖域に挑む頃には、なんとか黄金聖闘士相手でも乗り切れるだけの小宇宙の成長を果たしていた。

 すごく運に恵まれた流れ、と言うよりも運だけで乗り切ってる感があるな。よく生きてたよ俺達。そう感じるのはきっと間違いじゃない。まるで誰かが意図的に与えた試練のようだ。

 だけど、それがどうしたってんだ?

 俺は、俺のすべきことをする。俺が女神(アテナ)の聖闘士であり続ける限り、決してそれは変わらない。絶対に。

 だから俺は迷わない。その必要がない。

 今、すべきことだって、ちゃんと分かっている。

 

 仲間を集めなきゃならない。

 仲間を鍛えなきゃならない。

 そのすべてにおいて、聖域に関わらねばならないが、聖域に気付かれてはならない。

 すげーな。なんて綱渡りだ。

 おまけに、方々に出向くたびに、ありえない確率で黄金聖闘士がいやがる……!

 聖域にいるのはいいとして、なんでデスクイーン島に俺と同じタイミングで出てくるんだ。ここだってそうだ。弟子を迎えに来るならタイミングずらせよ!

 

 そもそもだな、どうして迎えがカミュなんだ。何でだ。弟子を師匠が迎えに来る―――もしかして普通なのか? 当たり前なのか?

 でも、魔鈴さんは絶対に俺を迎えになんて来てくれないぜ。よしんば迎えに来るとしても、討伐のためとか逃がさないためとかだ。確信を持って断言できる。断言できる自分になんだか物悲しくなるが、多分それも魔鈴さんの信頼の証、なんだろう。俺が一人前の聖闘士であるという信頼の証。

 違うって言われたら凹むぜ。

 考えれば考えるほど不思議だ。なあ、カミュ、質問に答える前にこっちが訊きたいんだが―――。

 

「何であんたがここにいるんだ? 天馬座(ペガサス)の試練の時は、聖域にいただろ?」

「召集を受けているからな。試練を見にいったは友の誘いゆえだったが、良いものを見させてもらったぞ」

 

 フッとカミュの口元が緩んだ。

 何かを思い出すように。

 俺の口元もカミュとは正反対の方向に歪んだ。

 嫌な予感がした。

 

「あの時のお前の技が余りにも見事だったのでな。すでに聖闘士の資格は与えてある我が弟子だが、鍛えなおすべく聖域へと呼び寄せることにしたのだ。教皇のお召しがある以上、私とてそうそう氷河についておるわけにもいかぬがな」

 

 予感的中。

 ちっとも喜べないがな!

 聞き間違いであってくれれば助かるが、こんな時に聞き間違いであってくれた試しはない。聞き間違いでないとすればつまり、氷河を聖域に呼んだのはカミュってことで、呼んだ理由は―――口に出したくないんだが、俺、か?

 全身から力が抜けるのを感じる。

 

 とすると、何もかも俺のせいか!? 自業自得なのか!?

 氷河が聖域に呼び出されるのも、カミュがわざわざ自分で迎えに来たのも!?

 嘘だろう……。こんなつもりじゃなかった……。こんなつもりじゃなかったってのに!

 唖然としたまま、まとまらぬ頭が言葉を勝手に紡ぐ。「ああぅあ」だの、「おおううぅ」だのとうめく俺をどう思ったのか、カミュはさらに付け足した。

 

「うむ。あの試合は、悪くない見世物だったぞ」

 

 フッとカミュは笑う。違う。違うんだよ……。そいつは大いに誤解だ。

 仮にもほめているのだろう言葉が、ここまで嬉しくないってのも珍しいな!

 でも、分かった。理解した。

 カミュも今まで会ってきた黄金聖闘士の例にもれない。つまりだな。人の話をまったく聞かない。正確に言えば、人の心情を一切察し得ない類の人間だ。

 何をどうやったら、今の反応でそう返してくれるんだ。俺にはさっぱりだぜ。

 だが、それならそれで対処のしようはある。

 俺は頭をふらりと一度だけ振って、気を立て直した。眼前のカミュに、しっかと目線を当て決意する。

 誤解の生まれる余地もないほど直球で行くしかない。これで駄目なら腕ずく力ずくだ。

 これで駄目なら、と腹積もりをした時点で、最終的にどうなるか、なんとなく不幸な予感はするものの、諦めてなるものか。今までがどうした。今回は違うかもしれないだろ!

 

 それで俺はまず目線を合わせたまま、話がある、とだけ切り出してみた。

 予定としては、氷河を説得し、その氷河から師弟の縁を通して聞いてもらうはずだった話だ。

 つまるところ、女神(アテナ)と偽教皇、十三年前の真実の話だな。これを聞いてもらわないと始まらない。

 

「ああ、気にするな。その程度の猶予はあるから、邪魔はせぬ」

 

 ん?

 待ってくれ。俺は話があるって言っただけなんだが。

 

「聖域に連れていけば、しばらくは会えぬであろうからな」

 

 カミュは分かっているぞと言いたげに、軽くうなずいた。存分に語り合え、と言わんばかりに微笑みがまぶしい。

 だが、断固として言わせてもらうけどな。

 そんな顔してても、あんた、絶っ対に分かってないんだろっ!

 話があるのは氷河にじゃない。あんただ。あんた。

 

 ついでに、一つ訊きたいんだが。

 その、いかにも「拳で」といった風情はなんでだ?

 俺言った? 氷河と殴り合いしたいだとか、一言でも言った?

 ほんのすこしでも、拳にものを言わせたいなんてこと言った?

 言って、ない、よなぁ?

 

 カミュはかすかに笑みをひらめかせ、言いたいことがありすぎて逆に何も言えず煩悶している俺を見やった。控えめに言っても険のまったくない、むしろ真逆のものさえ感じる視線だった。

 何だろう。やたら既視感を覚える視線なんだが。

 例えるなら、足元にじゃれつく仔犬が真剣にバッタに吠えているのを眺めているような眼だ。

 さらに言うなら、幼児が自身の足につまずいて転び怒っているのを見ているような眼だ。

 猫が鏡に向かって気迫をこめて必死で猫パンチしているのを見つめるような、耐えがたいほどに居たたまれない気持ちになる、その目には覚えがあるぞ!

 かゆいような生温さに耐えながら、どこで見たのかと記憶を探……るまでもなく、思い出した。ミロだ。

 可愛いものでも見つめているかのような慈愛に満ちた―――俺は真綿に絞められているようだと感じるが―――とにかくそんな視線がそっくりだ。

 ミロより面白がる気配は薄いが、小動物を愛でるような生温さはより濃い。どっちにしても気に食わないってことに変わりないがな!

 さすがに親友だけはあるぜ。お前ら。妙なとこばかり似やがって。

 よし、今度こそ抗議してやる、と俺が決意した瞬間、カミュの口が先に開いてタイミングを外された。

 おいおい、そこまで一緒か。

 

「来るぞ。そなたにはまだ気づいておらぬ、か。ふむ」

「あー、弟子の勝負に師匠がでしゃばってくれるなよ?」

 

 氷河か、ええい、こうなったら仕方ない!

 覚悟を決めた俺の耳に「未熟者め」と穏当を欠いた声音が飛び込んでくる。とっさに口をはさめば、肯定の視線らしきものをよこしてくれたが、その前の一瞬の間はなんだ。念押ししとかなかったらどうなったんだ。

 だいたいだな、言っちゃなんだが、あんたならともかく、この時期の氷河に感知されたらそっちのほうがよほどショックだぜ、俺。

 

「カミュ! どうしてここに! いつ帰ってきたんです? 知らせてくれればよかったのに」

 

 うわあ、仲睦まじいな、お前ら。

 一歩後ろに下がってしまった俺の前で、氷河とカミュは師弟の心温まる再会の見本のような会話を始めた。

 俺と魔鈴さんじゃ望むべくもない会話だぜ。

 親しさを含ませた挨拶と疑問を含んだ軽い抗議、そして歓迎。タメ口じゃないが敬語とも言いがたい気安げな氷河の口調は、喜びに満ちて明るい。

 ああ、悪いってんじゃないんだぜ? 俺と魔鈴さんではありえないから、見慣れないってだけで。

 正確に言うと魔鈴さんが迎えに来てくれるなら、俺だってこれくらいのことは言うと思う。ただ、絶対に魔鈴さんは来ないってだけで。……何だろう。この虚しさ。

 思わず遠い目になった俺に罪はないはずだ。いいんだけどな。信用されてる証だと思えば。

 

「ところでカミュ、その者は?」

 

 一通りの挨拶を終えての一声だった。

 お前……それは、もしかして、無視してたとか目に入ってなかったんじゃなくて……単純に俺が分からなかった、とかないよな? まさかとは思うが、俺の顔、忘れたってのか?

 一瞬、ムカッとしたが、冷静に考えれば無理もないのか。俺にとっては昨日までともに戦った間柄でも、こいつにとっては六年ぶりということになるんだよなぁ。一輝みたいに覚えてるほうが珍しいか。あいつの場合、復讐という理由があったが、氷河にはないもんな。

 納得はできた。

 しかし、ひくりと頬が引きつった。ええい、このマザコン野郎め、兄弟なんざどうでもいいってか。

 腹を立てるほうが理不尽。六年は長い。

 分かっていても、薄情な奴だ、と訴えかけてくる感情にはなす術がない。

 何ともいえぬ、このムカつき。

 氷河がさっぱり分かってなさそうな憎たらしい顔つきで、しかも少々警戒しているっぽいのがまた腹が立つ。警戒する程度には、見知らぬ相手だと見なされている。兄弟だとも仲間だとも思われていない。

 こいつは知っているはずなのに。俺達の父親を。

 分かっているだろうに。同じ女神(アテナ)の聖闘士であることを。

 本音を言おう。言っても仕方ないと分かっているが、言わせてもらおう。これは理屈じゃない。

 

 非常に不愉快だっ!

 

 筋違いかもしれない。いや、かもしれないじゃなくて、明らかに筋違いだ。それは分かっている、分かっちゃいるが。

 だが、それでもあえて、この感情に素直に従ってやろうじゃないか。

 俺は顔を引きつらせながらも氷河に笑いかけてやった。そのまま目の前の白鳥座(キグナス)の聖衣にポンと手をかける。氷河の表情に狼狽が満ちた。いい顔だ。待ってろっ!

 

「何をッ!」

「受け取れぇえッ!」

 

 その後の展開は予測できるものと思う。

 聖闘士の例にもれず、氷河も短気だからな。

 平和的な話し合い? 知らんな、何を言ってやがる。俺達は聖闘士だぜ。拳を交わす以上の相互理解なんかあるもんか。

 悪いな氷河、手加減は一応してやるから、大人しく八つ当たりされてくれ。俺の精神の安定のために。

 お前のせいじゃないのは分かってるんだがな。

 目下、当たらずにはいられない気分なんだよっ!

 

「見て分からないなら、身体に叩きこんでやるぜ、氷河。俺は星矢だ!」




IF与太次回予告







その声は淡々として一本調子であった。
顔も無表情である。

「さあ、やってまいりました。お待ちかねの『兄弟対戦~北の海から編~』です。この勝負、どちらが勝つか見ものですね。実況は私、水瓶座アクエリアスのカミュがつとめさせていただきます」
「……カミュ、ちょっと棒読みすぎです。あと台本は置いてください」
「待て、言うべきはそこじゃないだろ。見えないんだから置かなくていいし」

突っ込むべきはそこじゃない。星矢は主張した。
俺に師を批判しろというのか。氷河は反論した。
似合ってない。
確かにその一点において、二人の意見は一致していたが、取るべき対応については真逆だった。
平然と冷却された空気。余りの違和感に高まる気まずさ。ツッコミたいとうずく裏手。
肝心のカミュは、その台詞回しに一片の疑問も抱いていないようであるのが拍車をかけた。

「何か問題でもあるか」
「……そんな真っ直ぐな目でこっちを見るなよカミュ」
「師よ……! そんなあなたに俺が何を言えるとおっしゃるのですか」

おいこら、弟子が言わずしてどうすると無言のまま氷河のわき腹をつねる星矢。
弟子だからこそ、何も言えないのだと、つねる手に手刀を落とす氷河。
静かなる戦いは今始まったばかりである。






※このシベリア師弟はフィクションです。


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翼を持たぬ者

「ダイヤモンドダストォーッ!!」

「甘いっ!」

「チッ、ひょいひょいとっ!」

 

 繰り出される攻撃は的確だ。だが遅い。避ける俺に苛立ちを隠せないのも減点だな。

 俺の拳から身をかわす動きにも無駄はない。見事だ。余裕をもって避けている。

 だが、無駄がないからこそ、俺のほうにも余裕ができる。そう、攻撃を氷河にぶち当てる余裕が、な!

 無駄なく動くってことは、その動きが予測しやすい、何をしようとするか次にどう動くか分かりやすいってことなんだぜ。氷河。

 見せてやるよ、その脅威を。

 

 ―――流れる重心を引き戻し、より深く踏み込んで―――。

 

 氷河の表情に驚きが表れはじめる。おいおい、そんな反応をしてる余裕があるのか?

 なら、スピードアップだ。

 氷河が防御の構えを取りはじめる。次が読める動きは対処が容易い。誘導もな。

 

 ――拳の軌道を修正し、捻転―――。

 

 攻撃を視覚から脳で認識してじゃ遅すぎるんだよ。神経の伝達速度じゃ間に合わない。脳処理を経て動いたんじゃ手遅れだぜ。

 己の小宇宙で感じとれ。人間のもう一つの感覚(シックスセンス)を超え、さらなる高みの超感覚(セブンセンシズ)に到達しろ。

 

 ―――さらに力ずくで身体をねじり、拳の勢いを下に流し、―――身体の軸を半回転!

 そのまま、思い切り防御ごと蹴り飛ばした。

 

「――っ!」

 

 氷河が、眼を見開いたまま弧を描いて飛んでいくのが実にすがすがしい。だが、悲しいかな、まだ奴に翼はない。高く舞った身体が、放物線をなぞりおえ墜落する。派手な音と氷塵を供として、地をおおう氷にめりこんだ。

 手足の折れ曲がった奇怪なオブジェと化した姿は、人間というよりエイリアンだ。

 ううん、あいつも余裕で地獄の特訓フルコース行きだな。そう評する俺の背中には嫌な汗が伝ってきていた。

 大丈夫だろうか。ちょっと関節が逆に曲がっているように見えないこともないが……いや、あの程度なら、聖衣もあるし大丈夫だろう。スピードアップしたと言っても、音速には達してないはずだぜ。うん……大丈夫、だと思う。

 だから、背筋がぞくぞくと凍りつくような嫌な感じがするのも、ただ単に寒いせいだ。そうに決まってる!

 聖闘士ってのは殺しても死なない奴らばかりなんだしな。俺だって拳銃で撃たれようがライフルで撃たれようが、鼻で笑って避けられる自信はある。

 参考までに言っておけば、通常のスナイパーライフルの銃口初速は―――使用弾薬にもよるが―――確か800~900m/sぐらいだ。音速の二倍以上の速度で弾丸がすっ飛んでいくので、標的との距離が離れていれば銃声の方が遅れて届く。

 なんで知ってるのかって、身をもって体験した記憶ってのは鮮烈で、忘れたくても忘れられないからだ。げに恐ろしきは魔鈴さんの実践講義。

 スピアポイントのフルメタルジャケット弾。7.62mm NATO弾だった。今でもはっきりと覚えてるぜ、冷や汗も吹っ飛ぶ言葉ごとな。

 魔鈴さんときたら―――。

 ―――いくら聖闘士でも真正面からくらえば脳漿(のうしょう)が飛び散るよ。そんなドンくさい真似は、私の弟子を辞めてからにしとくれ。師匠として恥かしいからね。

 とのたまってくれたのだ。

 心配してくれないのかよ! と憤慨したのも懐かしい記憶だ。

 なあ、魔鈴さん。その程度のスピードであれば、今の俺なら目をつぶってても掴み取れるぜ。ぶち当たったとしても、気を抜いてない限りは怪我一つしない。寝てる最中とかだったら別かもしれないが、いや、それだって狙われた時点で目が覚めるか。

 ほんと、聖闘士って人間辞めてるよな。言うだけ虚しい事実ではあるけど。

 俺は、現実から目をそらしながら、祈るように、ピクリともしない氷河に歩みよった。

 そう、聖闘士というのは、人並外れて丈夫な奴らばかりだ。だから多分、氷河だって大丈夫。大丈夫。大丈夫。……大丈夫であってくれ!

 

 氷河は、やっぱりピクリともしない。

 いいか、俺は謝らない。謝らないぞ!

 現実逃避にうつろになりそうな顔をぴしゃりと叩きつつ、気合を入れる。俺は悪くない。手加減だってした。

 こみあげる罪悪感にそう言い聞かせるが、痙攣(けいれん)すらしない憐れな姿は俺の良心を刺激して余りあった。しかし、これくらいでぶっ倒れられてもなあというのも本音の隅っこに存在する。

 青銅聖闘士同士の争いであれば、氷河は誰にも遅れを取らないだろう。だが、これからの闘いを思えば、その程度では困る。困るのだ。

 ぎりぎりでかわさねば、力ずくで攻撃の方向を修正してくる離れ業を黄金聖闘士なら二度でも三度でもやらかしてくれるのだから。

 要するに余裕を持って避けるってのは、相手にも攻撃を修正する余裕を与えてやることになるってわけだ。

 と言っても、セブンセンシズに目覚めてさえいない今の氷河では、黄金聖闘士の攻撃を、避けるどころか見ることすらできないだろうが。

 どっちにしたってそれでは困る。現時点でそれほど高望みをするつもりはないが、絶対零度には届いてもらうつもりなんだからな。

 ところで、そろそろ起きてくれよ。氷河。目の前の現実から目をそらしてる俺が可哀相だろ。過去の思い出も、思い起こせば痛いものしか浮かんでこないし、望みは未来だけなんだぜ。

 俺はしゃがみこんで、つんつんつんと氷河の頬っぺたをつついた。おーい、俺がやっといてなんだが、そろそろ起きろよ。

 

「それでは到底起きんぞ」

「そりゃそうだろうけど。って何してんだカミュ!」

 

 カミュの両の手には恐ろしいほどの凍気のきらめき。

 えええええっと それ、ダイヤモンドダストだよな? それも今の氷河よりは数倍も威力のある―――。

 なんだ、この恐ろしい人!

 心温まる理想的な師弟関係だと思ったのに、実は魔鈴さんと同じくらいの鬼か!

 慌てて、周囲の氷を砕き、めりこんでいる氷河を引っこ抜く。そのまま我が子を守るように抱えこんで退避行動をとった俺は間違ってない。カミュは本気だ。

 反射とも言える動きだったが、即座に十数メートルもの距離がカミュの間に横たわった。

 驚愕と警戒を表情に出して、カミュを見てしまう俺。

 眉をよせ、わずかながら意外そうな表情を見せるカミュ。

 今、俺達の間には、十数メートルもの物理的距離よりも大きな精神的距離が存在していた。

 

「何をしている?」

「それを言いたいのはこっちだ。何する気だよ」

「気合をいれるだけだが」

「それで……?」

 

 ダイヤモンドダストで気合?

 この状態の氷河に気合?

 

 おお魔鈴さん、限界だと分かっていてやるのもどうかと思うけど、こういうのも問題だな。スパルタをスパルタだと分かってない。

 聖闘士って、弟子を取ったら、みんなこうなるんだろうか。俺は気をつけよう。死ぬか生きるかの境目を耐えられる限界にされたら、いくら何でも辛すぎる。

 なまじっか耐えられるもんだから、それでいいんだと思われて悪循環だ。

 

「俺の用事はまだ終わってないぜ、手出しはよしてくれ」

「うむ、だから起こしてやろうと思ったのだが」

 

 善意だったのか! 余計に手に負えない!

 おののく俺をどう思ったか、カミュはダイヤモンドダストの構えを取ったまま、その対象を俺に変えた。

 水瓶座(アクエリアス)の黄金聖衣から発される凍気に、周囲の気温がさらに下がる。ただでさえ寒いってのにな。過ぎる凍気は熱に近い痛みで、チリチリと肌を焼いた。間違いない。俺狙いだ。

 ……何かしたか俺?

 不条理な現実に疑問を持ちつつ、抱えていた氷河を放り出し横に跳んだ。今は俺に近いほうが危ない。と言うより、俺が危ない。構ってられるか。離れないと互いに危険だ。

 

「ならば、氷河が目覚めるまでの間、退屈しのぎの相手になってやろう」

「ま、待てっ」

「ダイヤモンドダストォォォォォォッ!! 」

 

 待て待て待てっ! 別に退屈じゃないから全力で遠慮させてくれ!

 そもそも聖衣を身につけてすらいない相手に、仕掛けるなよ!

 分かってたけど。カミュも所詮(しょせん)は黄金聖闘士なんだって分かってたけど!

 

 文句を口に出す時間も惜しく、全身の小宇宙を呼び起こす。百万分の一秒よりも短い時間で燃え上がった小宇宙の余波は、俺を中心として周囲の地面をドンッとえぐり変形させた。

 その間にも、カミュは俺に向かって技を繰り出す。渦巻く雪の結晶が、風さえも従えながら轟々と咆え猛って襲いかかってきた。生きとし生けるもの一切を触れなば凍りつかせんと、牙をむいた凍気は一直線に俺めがけて突進してくる。

 ええい、反撃が間に合わない!

 

 衝撃が地面を、空気を、天を叩く。

 飛び散る氷塵と轟音は、俺が氷河をぶっ飛ばした時には比べ物にもならない。それをもかき消して、俺の絶叫がシベリアの大地に響きわたった。

 反撃の間に合わなかった俺に、カミュのブローから放たれたダイヤモンドダストが直撃したのだ。

 回避に専念すべきだったかなあ、と過ぎ去った判断を後悔する俺。しかし、あそこで避けると、次の攻撃が氷河に行く気がするんだよな。勝手にほっぽりだした上に、さすがにそれは悪い。

 でも、悪いのは本当に俺か? そうじゃないよな?

 今、俺は指先をピクリとも動かせない状態だ。氷原には俺を核とした氷柱が突っ立っていることだろう。中途半端に迎撃態勢のまま喰らったせいで、突き出しかけていた右拳が、他のどの部位よりも凍りついている。吹っ飛びこそしなかったが、間抜けだ。間抜けすぎる。間抜けすぎて溜息も出ない。

 その代わりか、頭の奥底から、あるいは腹の深奥から、抑えがたい感情がなんとも名状できない熱として昇ってきた。抑えがたいのも真実だが、抑える気もない。腹を焼き、脳天をスパークさせる、この感情の名を知っている。

 怒りだ。

 なぜか笑いさえ湧いてくる静かな怒りに、俺の小宇宙が増大していく。

 ピクリと指先が動いた。

 カミュが何やら驚きの表情を浮かべたが、知るものか。右拳にぐっと力をこめる。

 俺の小宇宙よ、今こそ燃えろッ!

 

「砕けろおぉぉぉぉぉっっ!!!!」

 

 爆発的に燃え上がる小宇宙に耐えられず、ビキリと大きな亀裂が生じた。最初の亀裂が入れば、後はもろい。氷柱を内側から怒りのまま叩き割った。こんなに怒ったのはシャカ以来だぜ。さすがは黄金聖闘士。

 立ち昇る水蒸気を尻目に、頭を振って髪先から垂れる氷を飛ばし落とす。ゆっくりと一歩を踏み出した。踏み出した足元からはミシリと大地の裂ける音。見る間に、枝分かれしながらも一直線にひび割れが走る。俺とカミュの足元をつないだ地割れは、底の見えない深さだ。

 何をそんなに驚いてんだカミュ。冷静さが飛んでるぞ。

 

「馬鹿な! フリージングコフィンではないとはいえ、我が拳を生身で受けておいて!?」

 

 それはとどの詰まり、殺す気だったのかカミュ。そいつはちょいと、笑って許せる限界を超えるぜ?

 俺は満面の笑みさえ浮かべ、拳を握った。この拳にかけて、絶対に一発ぶちかましてやらないと気がすまない。怒りの決意がさらに小宇宙を増大させる。

 もはや、女神(アテナ)以外の誰に俺を止められようか。喰らえ、渾身のペガサス流星拳をッ!

 

 俺が全身の小宇宙をかけて、カミュに一撃を喰らわせようとしたまさにその瞬間―――割り込まれた。立ち塞がる影に、俺の目が限界まで見開かれる。

 誰だって?

 決まってる、俺でもカミュでもないと来れば、残りは氷河しかいないだろ。あの野郎! ここは大人しく気絶してろよ! いつ起きたか知らないが、起きて早々、なんで自分から死ににくるか。

 

 俺とカミュを結ぶ直線上の一点。確実に俺の攻撃が当たる位置。

 カミュが驚いた声音で氷河の名を呼ぶ。俺も驚いた。それでもあふれかけた小宇宙を留められなかったから、とっさに狙いを外した。

 カミュならともかく氷河では、助かる可能性など万に一つもない。死なせないために来てるのに、俺が殺してどうすんだ!

 完全に外しきることはできなかったが、カミュがいる。何とかしてくれただろう。しててくれ!

 

 巻き上がった白さに覆われている視界に、気持ちだけがひどく焦る。白がこんなに恐い色だとは知らなかった。見えないながらも慌てて駆け寄りかけて、ぴたりと足がとまった。

 漠然とした言葉にならぬ思考が、言葉にならぬなりに形になる。いや、待て。おかしい。不可能だ。

 脳裏を掴めない何かが駆け巡る。おかしい。何かがおかしい。ありえない。何がおかしいのか。

 分かっているはずだ。知っているはずだ。だが、出てこないもどかしさ。どこで知った。それはいつだ。

 苛立ちすら感じ拳を握った瞬間に、何かが記憶にひらめいて、かすった。

 ああ、この感覚を、この驚愕を、俺はデスクイーン島でも味わわなかったか。一輝相手に。

 そうとも。そんなバカな、ありえない―――確かにあの時もそう思ったのだ。そんなはずはない、こんな事態はありえない、と。

 すなわち、そもそも割り込んでこれるはずがない。

 なぜなら。

 

 俺達の戦いは、すでに光速に達している!

 

 その直観は、天啓が形を持って、脳天を打ったようだった。

 もし割り込めるとするなら、それはとりもなおさず、光速が見えるってことだ。言い換えればセブンセンシズに目覚めた証、じゃないのか。

 だとすれば、もしや一輝はシャカと俺の戦いに触発されて、あの時点でもうセブンセンシズに達していたのか? そして、今、氷河もその域に至ったというのか。

 前回であれば十二宮に到り、ムウに教示されるまで意識さえしていなかったというのに。

 いまだ俺達兄弟が一同に会してさえいないこの時期に、セブンセンシズに目覚め、曲がりなりにも俺の一撃を―――無事かどうかはまだ分からんが―――受けたというのか。

 

 そうであるなら、なんたる怪我の功名。手足が折れ曲がって見えたのは錯覚だったに違いない。きっとそうだ。たまには手加減ぬきでもいいかもしれない。死なない程度に。

 急速に気分が浮上して、先程までの不安と怒りが解けていく。その反動か、ひどく浮かれた気分だ。

 自分でも現金だと思うが、セブンセンシズなくして十二宮の突破は不可能だからな。めでたい!

 固まっていた足をそのまま動かして、駆け寄った。

 

 結果を言おう。待っていたのは、期待どおりの理想ではなく非情な現実だった。

 そうだよな。あれだけはっきりと折れ曲がっていた手足が錯覚のわけがないよな。さっきのは火事場の馬鹿力だったんだよな。

 眼前は惨状だった。エイリアンを通り越して、さらに色んな部分が血色に膨れたり、曲がってはいけない方向に折れ曲がったりしている。

 俺は物悲しく溜息をついて肩を落とした。あの一瞬、セブンセンシズに目覚めたのは間違いない。でなければ原形もとどめず冥府に旅立っているだろうから。だが、燃えつきる寸前の蝋燭が発した最後の輝きだったとでも言おうか。要するにだな、瀕死なんだ。

 勝負は中止だ。即刻、カミュが氷河を担ぎ上げた。一瞬だけ目線をこちらによこして走り出す。多分、ついてこいという意味だろう。

 行く先は家か?

 走り出した方向から察したのだが、大当たり。

 この後はもう、日が暮れるまで話どころじゃなかった。

 なんだって、こうなるんだろうな。今回こそは、もっと穏便にことを運ぶ予定だったのに。

 

「何が悪かったんだろうなぁ?」




メタいIF偽予告的与太話




白き大地に光の変幻が降り来たる。
遠き天空の彼方より始まるその神秘を、畏れをこめ氷の民は呼ぶ―――極光(オーロラ)、と。
美しくも幻想的な光の下で、今、一つの命が儚く散ろうとしていた。
さようなら、氷河。お前のことはきっと忘れない。我が兄弟よ。熱き血潮を分かち合った同胞よ。
お前の遺志は俺達が引き継ごう。だから、安らかに―――。

「待て星矢、モノローグがベタに不吉すぎるぞ。誰のせいだと思ってるんだ」
「人聞きの悪い。お前が勝手に死んだんだろ?」
「死亡前提に話すな。大体、どう考えてもお前のせいだろうがっ」
「そうとも言う。でも、殺る気はなかったんだぜ」
「それ以外にどう言うってんだぁあ! もっと手加減しろぉっ!」
「やってるぜ!? 目いっぱい! これ以上どうしろと?」
「なんでそう純真な目で力いっぱい問い返すか!」

だが、奇跡を起こす特権はいつだって人の手の中にある。
セブンセンシズ。
見出したる第七の感覚を、氷河は掴みきれるのだろうか。
そして、弟子の散り際を目の当たりにしたカミュは―――?

「そこにかけて構わぬ。ズブロッカでも呑むか」
「……氷河もそれ呑んでたのか?」
「子供にそのようなもの、呑ませるわけがなかろう」
「……どっからつっこめばいいんだ……」
「どうした? そのように弱々しい声を出して」

彼らの会話は、常に何かが噛み合わない。

一方、ギリシアでは思いも寄らぬ事態が発生していた。
星矢が再び、聖域に踏み入る時、それがすべてのスタートラインとなるだろう。
運命の女神(モイラ)の紡ぎ出す運命(さだめ)は、主神(ゼウス)ですら断ち切れはせぬ、不可避の絶対運命黙示録……―――。







オーロラの彼方に、届けぇ!! ペガサス流星拳ーーーーっっ!!!!


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行く人、待つ人

 さすがだ、と息をついたのはほとんど無意識だった。

 治療はほぼ終盤だった。床に膝をついているカミュから雄大な小宇宙が立ちのぼり、密度を高めベッドの氷河の身体を包んでいく。

 俺の視線をぶしつけに感じたか、カミュがこちらに顔を向け、ふっと目元を和ませた。

 

「そう気にするな。セブンセンシズに目覚めていたのが幸いしたな。さして時間もかからずに動けるようになるだろう。内臓はそれなりに無事だ。砕けた骨の再生に多少手間がかかろうがな」

「なんで分かるんだ?」

「お前とて、聖域で治療術くらい学んでおろう」

 

 あっさりと言ってのけると、カミュは立ち上がって隣室に消えた。

 そりゃ、俺だってそれくらいは習ってるよ。ただ、それは応急処置の類だぜ? そんな診断ができるようなもんじゃない。せいぜいできて骨接ぎくらいのもんだろう。それも単純骨折に限る。

 余談だが、カミュの骨接ぎは容赦がなかった。氷河が哀れに思えるくらいだ。見てるこっちまで痛い。ありゃ人間の身体というより、モノに対する扱いだぜ。適切ではあるんだが、作業としか言いようがない。あれが慣れってもんなのか。

 おまけに、カミュときたら、容態はほぼ小宇宙を探って察したらしい。すげえ。

 俺だって、敵意の有無なら分かるし、どれだけの強さかなんてことなら計れるが、怪我の程度なんか分からない。ところが、カミュときたら、こともなげに、お前はできないのか、とでも言ってくれそうな様子だった。

 できるなら訊くか、と反発の一つも湧いてきそうなもんだが、浮かんできたのは純粋な感動、と表現しても差し支えない感情だった。

 この男にとってはできて当たり前なのだ。そんなものは。

 俺にはできない。どうやっていいのか、その方法、いや感覚そのものが掴めない。

 俺に小宇宙のそういった細かな制御(コントロール)は不可能だ。少なくとも今はな。手加減が下手くそという事実だけで、それは証明されている。そんなものを自在になしうるならば、テレポーテーションで海に落っこちたりなどするもんか。思い出すだに忌々しい。

 黄金聖闘士の黄金聖闘士たる所以ってのは、こういうところなんだろうか。

 素直に認めよう。すごい、と俺は思った。見せつける意図はないんだろうが、いや、ないからこそカミュのすごさが分かる。

 殺し合いなら勝てる自信はある。だけど、そんな次元の問題じゃない。大雑把にも程がある比喩になるが、俺にあるのはアクセルだけで、カミュには高性能のハンドルとブレーキもあるんだと思えばいい。どれだけアクセルの出力で上回っていても、総合的にどちらが優れているのかは問うまでもないだろ。

 カミュと俺が殺り合えば生き残るのは俺だろう。それでも、俺はカミュよりも優れてはいない。それを明確に思い知った。爽快な気分だ。

 これが、氷河の師たる水と氷の魔術師カミュ。女神(アテナ)の神殿を守る最強の黄金聖闘士の技量か。

 氷河、よく前回、勝てたな。正直な感想で悪いが、今のお前では背中すら見えてないと思うぞ。道は長い。

 

 隣室の扉が開き、聖衣から着替えたカミュが出てきた。手先だけで招かれたので、首をかしげながらも従って移動した。

 居間で、椅子に掛けるよう手振りで示されるが、あのな、俺とあんたの立場の差を考えてくれ。黄金聖闘士と昇格したばかりの青銅聖闘士だぞ。あんたを立たせたまま座れると思うか。

 そんなことを切々と訴えたが、聞いちゃいない。いいから座れと椅子を引かれたら、断るほうが失礼だよな。でも多分、魔鈴さんに見られたら怒られるんだろう。不可抗力だと言い訳したい。

 俺を座らせると、カミュは何やら水音を立てて用意している様子だ。

 何か用事だろうか。だが、いいチャンスだ。 俺は、俺の聖闘士たる理由を果たすためにここにいる。

 すなわち、俺と兄弟達のため。聖域のため。地上のため。平和のため。

 そして、女神(アテナ)のために。

 言うべきことがある。問うべきことがある。説くべきことがある。請うべきことがある。

 女神(アテナ)の聖闘士として。

 

「カミュ、話がある」

「……片手間にはできぬ話のようだな。少し待つがいい」

 

 俺の声音から何を読み取ったのか、カミュの視線が俺に固定される。静かな目線だった。探っているのか伝えているのかどちらとも判然とせぬ謎めいた目つきだ。

 そらさずに見返す。語るのはカミュじゃない。俺だ。

 

 ほんの少しカミュの口角が上がり、酒盃に琥珀色の液体がそそがれる。濃い酒の香が広がった。

 話を聞いてくれる気はあるようだ。だがしかし、なあ、カミュ、その前に言ってもいいか。

 流れるように俺の前にもそれがおかれるのはどういった理由だ?

 そんなものを呑ませて、真面目に話ができると思うのか? 聞く気はあっても話させる気はありませんとか言うんじゃないだろうな。俺は呑まない。呑まないんだからな!

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 俺が日本に帰ったのは、ほぼ二日後だった。

 なぜかと責めてくれるな、お嬢さん。俺だって予想外だ。いろんな意味でな。

 どうしてか知らんが、カミュが熱心に引き止めてくれたんだ。これがシベリア流のもてなしなんだろうか。いいのか、聖域への待機命令とやらはどうしたよと尋ねたくなるくらいだった。

 氷河の怪我があるから、どうしたってまだ帰れない故の退屈からだとは思うが、食事といい何といい大盤振る舞いだった。若干くどいというか、いかにも男の手料理って感じだったが、城戸家より居心地いいかもしれない。

 だけど、シベリアでまで修行なんかしたくないぞ。寒いんだから剥こうとするのは勘弁してくれ。寒中水泳なんか真っ平御免だ。食事くらい俺が作る。立場の違いってもんを理解してくれ。毎度毎度、普通に酒の相手をさせようとするのもやめてほしいところだ。あんたが呑んでるのは、ひと舐めしただけでも咳き込むぞ。

 酒類を聖域で一切口にしなかったと言えば嘘になるが、ここで出される酒とは度数が違う。多分、その目的も違う。

 言っとくが酔う目的は、どっちにもない。……ない、はずだ。魔鈴さんは呑んでも変わらず横暴だし、カミュも呑もうが呑むまいが話をちっとも聞いてくれないし、聞いてくれたら聞いてくれたで危険だし……ああ、思い出すだけで目に熱いものがこみ上げてくるのはなぜなんだろう……。

 

 そうして苦労して、結局どこまで話せたかというと、結局のところ、13年前の真実までしか話せていない。

 重要な三点。

 ―――アイオロスは無実。

 ―――聖域にはびこる邪悪。

 ―――女神(アテナ)の存在。

 空気的にそれ以上は話しづらかったのだ。話せば話すほどいつ戦闘に突入してもおかしくない空気になったんでな。あんな張り詰めた空気の中、話し続けられるほど俺の肝は太くない。

 それに、ぶっちゃけ本当には信じてもらえてないだろう。どう考えてもな。

 残念ながら俺は聖闘士に成り立てのヒヨコで、あっちはベテランの黄金聖闘士だ。十年以上も前から教皇は入れ替わっていたなんて話、なんで信じられるよ。思いっきり反逆じゃないか。

 だが、逆に言えば、それでも俺を裏切り者と一刀両断しなかったところに見込みを感じた。おそらくカミュも聖域に、あるいは教皇に何かしらの不信を感じた瞬間があるんだろう。

 だから、言い募った俺の勢いと、その内容の信憑性を考え、聖域を疑ってみてもいいかと判断したに違いない。

『―――俺の小宇宙で証にならぬというならば、日本へ。直接女神(アテナ)にお会いするがいい。もともと俺はそのためにここに来たんだ』

 俺の言葉に応え、カミュは日本に来ると言ってくれたのだ。女神(アテナ)に会うと。

 やれやれ、順番が逆だぜ。氷河を説得して、カミュを説得するはずだったのに、氷河にはまだ何の説明もしてない。その責任の半分くらいは俺のせいだと認めるが、もう半分はあいつ自身とカミュのせいだと主張するぜ。氷河を動かせる状態になってから会いに来てくれるらしいが、氷河に説明はしてくれるんだろうか。頼んどけばよかった。

 責任は一気に重くなった。カミュがお嬢さんを女神(アテナ)と認め膝をつけば、氷河は説得するまでもない。しかし、逆であれば……。

 心配はほとんどしてないけどな。お嬢さんは女神(アテナ)だ。これは説得だとか納得だとかそんな問題じゃなく真実なんだから。

 ただ、俺は何かを忘れている、いや、何かを見落としている気がしてならない。

 

 俺はわざわざ空港まで迎えにやってきたご大層な車の中で、軽く息を吐き出した。

 いや、違うか。俺は氷河に説明したかったのだ。カミュがどれだけ偉大で黄金の聖衣をまとうに相応しい人物であっても、俺にとっちゃずっと一緒に戦ってきた仲間である氷河こそ主であって、カミュの説得は氷河に任せるつもりだった。言い方は悪いが、おまけみたいなもんだ。

 面倒を押し付ける意図を欠片も持ってないとは言わんが、俺にとっては氷河こそがメインであって、カミュじゃない。

 過去形にすべきところだな。カミュじゃなかった。

 

 もしかしたら、俺は落ち込んでいるのか。

 もたれていたため寝てしまった髪に手をつっこんで、かりかりとかいた。何もまだ終わってやしない。だから、あいにくと、こんなところで落ち込んでいる暇はない。そんなことは分かってるんだが。

 窓の外では、俺の懊悩など知らぬ様子で人と車が通り過ぎていく。

 見るともなしに眺めるのにも飽きて、背もたれにもたれ、頭を天井に向ける。

 うとうととした感覚に意識が少しずつ沈んでいって、とうとう俺は体重をほとんど背に預けてしまった。静かな振動が気持ちよく眠気を誘う。

 ―――無意識下の警告は唐突だった。重たくなっていた頭をガバっとあげる。

 

「止まれっ!」

「はい? っ!?」

 

 運転手が、疑問を返した瞬間、空気を引き裂くブレーキ音とともに衝撃が襲ってきた。

 車の前には、青いボールを抱え込んで転がった七、八歳ほどの男の子が、目を見開いたまま車を凝視している。頭にちらついたのはこれか。

 どうやら驚いて転んだらしいが、怪我はなさそうだ。さすが、城戸家お抱え。いい反射神経をしている。俺の声と同時にブレーキを踏み込んでなけりゃ転ぶだけじゃ済まなかっただろう。後ろに車がいなくて良かったぜ。

 慌てた様子で一声断って運転手が車を降りた。倒れた少年の引き起こし、全身をはたいて無事を確かめて安心したように肩から力を抜いた。おもむろにいかめしい顔つきになって何やら話しだすが、威圧感はない。急に飛び出してきた子供に、怒りはあっても苛立ちはなさそうなのは子供好きなんだろうな。

 ―――懐かしい。

 俺の育った教会には神父さまがいて、普段は優しかったが、時と場合によってはあんな風に説教されたっけな。例えば、落石防止網に登りながら足の引っ張り合いをしたり、遮断機の降りた踏切を度胸試しと称して突っ走ったりとかだ。落石防止網は高さ二十メートルほどまで行ったところで見つかり、踏切は三度目の勝負で真っ青な顔で怒鳴られた。

 こんな思い出話なら他にもあるが、そのたびに、他人に迷惑をかけるのはもちろんだが、それ以上に俺達が死ぬかもしれない、と声を震わせて叱られたものだった。

 無力は忌避すべきものだ。昔から力のない自分が悔しかったし、今だってそう思っている。無力を悪だとは思わないが、それに安住しようとは思わない。だけれども、あんな風に守られている時があったのだ。俺にも。それを自覚さえせずに守られていた時間が、確かにあった。姉さんだったり、あの神父さまだったり、星の子学園のシスターだったり。

 魔鈴さんは……あの人は俺を鍛え育ててはくれたが、守られるより殺されかけた回数のほうが多いからな。縛られた足に重石を吊り下げて高さ二十メートルどころか二百メートルの崖を手だけで昇り降りさせられたり、海の中に放り込まれて十五分は出てくるなと命じられたり。

 うん、本当に除外したい。だが、本当に死ぬ寸前には、何とか素っ気なくも手を差し伸べてくれていたのだ。だから俺は生きている。それらすべてを血肉として、ここにいられる。

 思い出の甘さに口元が緩んで、自然と足が動いた。

 そんな風に懐かしい時間があるからこそ、今、誰かを守りたいと思い、女神(アテナ)のためにすべてをかけて戦える。

 車から降りた俺を見て慌てる運転手に、先に帰ってくれと怒鳴って走り出す。

 行きたいところがあった。俺がまだ守られる非力な存在だった思い出のある場所。星の子学園。

 あそこに行っても姉さんの行方は分からないと知ってる。もはやそれを求めているわけでもない。だけど思い出は消えない。あそこで結んだ縁だってある。

 憂鬱な報告をする前に、ちょっと羽を伸ばしてくるだけさ。大して時間をかけるわけじゃない。俺にだって、郷愁にふける時間があってもいいだろう。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

「せ、星矢ちゃん、星矢ちゃんなの!?」

「そうだよ。久しぶりだね。美穂ちゃん」

「本当に、星矢ちゃん……!」

「泣かないでくれよ。美穂ちゃん」

「だって、すごいお金持ちの家にもらわれたって聞かされたから……。訪ねてくるなんて、驚いたの」

 

 涙ぐむ美穂ちゃんは、相変わらずだ。記憶している姿と何も変わらない。

 それが嬉しくて手を伸ばして指で涙をぬぐったら、恥ずかしそうにうつむいた。二つに分けたお下げも。素直な表情も。俺の覚えている美穂ちゃんだ。

 さっきまで美穂ちゃんにまつわりついていた子達が、泣いた美穂ちゃんをびっくりしたように眺めている。

 もしかして、俺は仕事の邪魔をしているのか。悪いことした。仕事中だもんな。考えもせずにきてしまったが、特に用事はないんだし、挨拶だけして今日は帰るか。

 思い至って反省した俺は、元気そうでよかった。忙しそうだからまた、と告げて踵きびすをかえした。 一歩踏み出そうとしたところで、驚いた様子で美穂ちゃんが腕を掴んだ。なんだ?

 

「ま、待って! 星矢ちゃん、……えっと、その、……えと、お姉さんのことなんだけど」

「姉さんのことなら知ってる。いなくなったんだろ?」

「エッ、ああうん、そうなの。そのことを話そうと思ったんだけど、知って、たの……? どこにいるの?」

「どこにいるかは知らないけど、きっと元気でやってると信じてる。いつか探しに行くんだ」

「そうなの。ごめんなさい。手がかりとか分からないの」

「いいんだ。今日は、美穂ちゃんに会いに来ただけだから。元気そうでよかった」

 

 姉さんとの思い出を共有している人間は少ない。こんな風に心配してくれるのも真剣に思いやってくれるのも美穂ちゃんだけだ。幼いころを分かち合った大事な幼馴染。

 血で血を洗う戦いや世界の命運なんかとは、ずっと無縁でいてほしい。

 安心させるようにニコッと笑いかけた。

 ぱっと頬を染めた美穂ちゃんが、じわじわと俺の腕を掴む力を強くする。美穂ちゃん程度の力じゃ痛くも痒くもないけどさ。

 

「そ、そうなの。わたしも会いたかった。あの、せっかく来てくれたんだし、お茶くらい出すわ!」

「エッ? いや、でも」

「お願い。だって、六年ぶりなんだもの。久しぶりでしょう」

 

 六年ぶり? 何だって?

 一瞬、聞き返しかけてハッと口を閉ざした。いかんいかん油断大敵。

 そうか、美穂ちゃんには六年ぶりなんだよな。美穂ちゃんだけじゃない。俺にとってなじみ深い相手も気をつけないと。

 

 中に案内されれば、子供が目を輝かせてまつわりついてきた。美穂ちゃんが俺のことを前にここにいたと話したからか、気軽に飛びついてくる。

 片手で受け止めて持ち上げたら、大げさに喜ばれたので、調子に乗って振り回してやったら悲鳴を上げて目を回してしまった。

 美穂ちゃんには怒られたが、ほどなく気がついた子供はさらに目をきらきらさせて尊敬してくれた。危ないからやめてと美穂ちゃんが泣きそうに頼むので、もうやらないが。

 そうすると、他の子達から文句を言われたので、かわりに何人か肩や腕に抱き抱えて、ジェットコースターのように屋根の上に走りのぼって飛び降りてみた。すると、今度は美穂ちゃんが卒倒した。子供は喜んでたし、落ちても落ちきる前に受けとめられると分かってたからやってたんだが、どうも見ていて恐いらしい。

 分かった分かった。ごめん、もうやらない。と恐慌状態の美穂ちゃんをなだめて、出してもらったお茶を飲む。コップに浮かんだ氷が涼しげだ。

 ああ、普通の飲み物が出てくるっていいな。

 思うんだが、聖闘士って、位が高ければ高いほどまともな感覚ってものが欠けてくるんじゃないか? 誰とは言わないが、黄金の誰かとか誰かとか。ああ、思いだせば目がうつろになるというか、遠いところを見つめたくなるというか、いや何も言うまい。

 そこを思うと、美穂ちゃんの反応は普通なんだろう。少しばかり心外ではあるが―――。

 

「まさか気絶するとはなぁ」

「星矢ちゃんのバカ! 本当に恐かったのに」

「ごめんって。多分、またしばらく来られないんだから機嫌直してくれよ」

「……え? 来られないって」

 

 心配そうに美穂ちゃんが表情を硬くした。しまった失敗したな。説明しないとまずいか?

 嘘をつく理由などないが、巻き込みたくもない。

 どうしたもんかと迷った俺は、お嬢さんのために悪い奴らをぶっとばしてくるんだよという簡略にも程がある説明で済ませてしまった。 納得してくれた様子ではなかったが、美穂ちゃんはそれ以上訊かなかった。

 悪いな。でも、これ以上、恐がらせたくないんだよ。

 

 園の出口にまで見送りに来てくれた美穂ちゃんに、さよならと手を振ろうと振り返ると、美穂ちゃんと目があった。

 思いつめた目だった。ひどく悲しそうな目だった。柔らかく手を握られる。

 こんな目の美穂ちゃんを俺は今までに見たことがあったっけ。心ならずも短かった前の人生で、こんな目で見つめられたことがあったろうか。覚えていない。

 何を言えばいいかと半端に口を開いて迷う俺に、笑顔と呼ぶには頼りない、だが口角を上げた優しい表情が向けられる。

 

「星矢ちゃん、星矢ちゃんがどんな力を持っているとしても、何のための力だとしても、私はここで待ってる。だから……また来てね。何があったとしても、ここで待ってるから―――帰ってきて」




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罪は誰のもの

 城戸家へと歩きながら、情けないことに俺は動揺していた。

 美穂ちゃんが別れ際に言った言葉が頭をチラついてとまらない。

 何か、俺は悟られるような真似をしただろうか。彼女には、何もしゃべっていないのに。そりゃ城戸家にいるってことくらいは話したけど。沙織お嬢さんの手伝いをしなきゃならんってことも話したけど。

 だけど、これからどんな戦いにいくかも、何のために戦うかも、何も彼女には話していないのに。

 そう、本当に何も俺は話してない。聖闘士になったことさえ、だ。

 話しはじめると、聖闘士の説明から必要だろうから面倒だったのもあるんだが、話したところで心配させるだけだからな。おまけにその心配される原因を改める気もないときている。

 冥王(ハーデス)の剣が再び女神(アテナ)に向けられたなら―――叩き折るも弾き返すも叶わないなら、俺は迷わずこの身を投げ出すだろう。

 

 訊かれれば話すが、話したところで美穂ちゃんの心痛を増やすだけ。ならば訊かれぬうちは黙っているほうがお互いにいいに決まってるさ。

 事実、俺がかつて十二宮に戦いを挑みに行った時、やっぱり同じように行く前の挨拶をして、彼女に二度と帰ってこない気がするとまで言われて……ある意味ではまったくその通りになってしまった。

 訊かれれば話すが、なるべく話さない。そのほうがいいんだ。多分な。

 

 というのは、単なる理屈。

 実際のところ、妙な気まずさにしゃべれなかっただけだ。

 なんで気まずいかって考えると、こういうことになるんだと思うけどな。

 つくづく、俺も臆病になったもんだ。沙織さんに未来の俺の死を告げられないのとほぼ同じ理由じゃないのか、これ。

 どっちにしたって、話さないことに変わりはないけど。

 

 そう、何も話さない。話さなかった。生きて帰る、と決めてんだしな。万が一、それが無理なら……やっぱり話さないだろ? どっちにしたってさ。

 だというのに、どうして前回の人生で聞かされた言葉をもう一度向けられたのだろう。

 彼女の言葉は、そのままではないものの、俺が前回、沙織さんとともに聖域に乗り込む際に向けられた言葉とほぼ同じだった。帰ってきてくれ、と無事を求める意味をこめて与えられた願い。

 分かったって返事しといたけど、一瞬、言葉に詰まった。誤解させちまったかもしれんな。

 帰ってくるつもりではいる。だけど、大丈夫だと安易に返事した前回、俺は帰れなかった。いや帰りはしたのか。だけど終わらない戦いから帰ってくることはできなかった。俺の生きているうちに戦いは終わらなかった。

 その記憶が俺に大丈夫という返事を拒ませた。約束は多分しちゃいけないんだ。嘘は良くない。だろ?

 たとえ、永遠に戦い続けることになったとしても、俺は決して逃げたりしない。

 美穂ちゃんの気持ちは嬉しい。だけど、約束をしちまうのは危険だ。男なら守れない約束なんざするもんじゃない。

 気にしすぎか? たまたま同じタイミングで同じようなことを言われてしまったから、過剰に気になるだけかもしれん。お嬢さんに言えなかった負い目があるから余計に。ああくっそ! わけ分からん! ごちゃごちゃしてきたぞ!

 

 残念ながら、俺が混乱から立ち直ったのは自力ではなかった。悩んでいても足は進む。気持ちを表すような遅々たる歩みではあったものの、順調に俺は城戸家へ向かっていた。

 その途中に、混乱を吹き飛ばすトラブルがやってきたのだ。

 ありがたいようなありがたくないような。

 

 最初に感覚に引っかかったのは、けたたましいクラクションだった。

 目を上げれば、車道の真ん中で女性が立ちすくんでいる。渡ったときに落とし物でもして、拾おうとしている途中に車に気がついて顔を上げましたってとこか。

 けたたましさの元はわりかしでかいトラックで、白地に緑のラインの入った車体だ。運転手は顔をひきつらせ、半分目をつぶってブレーキを踏んでいる。ハンドブレーキのレバーを握る手は筋が浮き出ており、見るからに渾身の力はレバーを折らんばかりだ。

 

 冷静に聞こえるかもしれんが、別に傍観してるわけじゃないんだぜ。

 光景が目に入った瞬間、とっさに左足で地面を蹴り、迫り来るトラックと女性の間に割り込んだ。着地した右足をたわめながら、勢いのまま身体を反転させる。凍りついたように動かない女性に腕を回し、垂直に地面を蹴った。女性を抱き抱えて真上に飛び上がれば、伸びた足先をかすめてトラックが過ぎる。ギリギリだったか。

 簡単に言うと、向かってきたトラックを飛び越えたような形だな。より正確に言えば滞空している間に、下を通過させたんだが。

 甲高いブレーキ音に続いて、重い振動。

 横転しそうになりながらも何とか完全停止したトラックから、乱暴な音とともに運転手がまろびでてきた。

 

「そこのおっさん、目は開けとけよ。危険、だ、ろ……」

 

 一呼吸の間をあけて着地した俺は、腕の中の女性の顔を見て固まっていた。それはもう見事に。運転手にかけた声が裏返って立ち消えたが、そんなことはどうでもいい。

 なんでこんなところに彼女がいる?

 俺の腕の中で、恐怖か驚愕かに瞳をうるませている小柄な女性、と言うよりは少女。見覚えがあった。いるはずのない人物だった。

 濡れた黒い瞳。三つ編みにされた同色の髪。チャイナ服。

 

 春麗―――紫龍と家族のように育った少女。

 

 間違いない。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)で、リングサイドから紫龍に老師が倒れたと訴えていた彼女だ。

 倒れた紫龍を助けてくれとすがりついた声音の必死さ、俺の身体を揺さぶる両手、こぼれ落ちる涙の熱さ、鬼気迫る眼差し、震えていた肩。

 どちらかと言えば、姿形よりも紫龍に向けるその想いが印象に残っている。

 いやまて、だから、なんでここに彼女が!

 驚きに目を見開いて凝視した俺に、彼女が戸惑いの視線を向けてきた。慌てて声をかける。

 

「ああっと、怪我は? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫です。あの、ありがとうございました」

「気にしなくっていいぜ。当然のことしかしてないし、紫龍の家族に怪我なんてさせたら顔向けできないしな」

「えっ? あの、紫龍をご存知なんですか……?」

 

 あ、そこの説明から要るのか。そっか。初対面だもんな。彼女にとっては。

 了解して自己紹介する。と言っても、名前と聖闘士ってことだけだが、どうやらそれで納得してくれたらしい。

 紫龍に用事があるとかで城戸家まで案内することになった。それはいい。当然だ。

 しかし、何の用事なんだろう。何か、何かこう、ぞくぞくするものがさっきから背筋を行ったり来たりしてやがるのだ。

 紛うかたなき面倒の予感。

 今までの経験から言って、まず外れな……ああ、天が俺が嫌いなのか、面倒事が俺を好いているのか!

 いや、用事が何か聞いてからでも絶望するのは遅くない。ないはずだ。

 

「あのさ、紫龍に用事って?」

「はい、実は老師が……お倒れになって……」

 

 歩きながら、春麗が涙ぐむ。

 先ほどの件で、道路と車に恐怖心を持つようになったらしい彼女が握っていた俺の服にしわがよった。

 それ自体は特に何とも思わないんだが……なんだろう。周囲から視線の重みが一気に増した。おまけにトゲのあると言うか、咎めるような囁き声まで聞こえてくる。

 

「うわ、あれ見てよ」

「女の子を泣かせるなんて……」

「若いのによくやるよ。将来どうなるやら」

「青春を謳歌しやがって。くそ!」

「あんな清純そうな子に何を……まさか」

「なんて羨ましい奴。呪われろ」

 

 無実だ! 俺が泣かせてるんじゃねーよっ!

 ぐっと内心の声をこらえたものの、ひくりと頬が痙攣(けいれん)したのはご愛嬌。俺は元より感情を抑えるほうじゃないのだ。今は彼女を恐がらせたくないから、こらえてるけどな!

 目をつぶって感情を抑えた俺の左腕に重みが加わった。

 無実を訴える俺の声は、俺以外には当然ながら聞こえない。だから彼女が俺の腕にすがってすすり泣き始めたのは彼女のせいじゃない。ないんだが……この居たたまれなさをどうしよう。

 仕方なく、しゃくりあげる彼女のために立ち止まった。

 ああ、と遠い目になりつつ、俺は彼女の背中を撫でて肩に手を置く。泣いている女を目の前にして放っておく男は、男じゃない。仮に周囲の視線がどれだけ気になっても、だ。

 俺が、俺が泣かせてるんじゃないんだ……頼むよ。

 うつろな俺の目に、どこまでも罪の無い彼女が映る。泣かないでくれよ。ああもう、こういうのは紫龍の役目だろうに、なんでいないんだ。

 いや、いないからこそ日本に来たのか。

 すすり泣く彼女に表情を見られなかったのは幸いだった。ちょっとげんなりしちまったから。もちろん彼女に対してじゃなくてな。

 まったく老師もよくやるよ。倒れたっていうと、前回のアレだろ。仮病だったって聞いたけどな。紫龍が愚痴ってた気がする。自分の未熟さがどうの、老師もお人柄が悪いだのなんのと。

 

 よくよく思い返せば、老師は女神(アテナ)のことも銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)のからくりも事前にすべて分かってたはずだよな。その上で紫龍を呼び戻して感想を聞いたんだから、本当に人が悪い。亀の甲より年の功ってか。

 ……亀って脱皮するんだっけ?

 するよな。そうでないと、甲羅はどうやって成長するんだよ。

 

 駄目だ、前回は仮病でも、今回は本当かもしれないのに、本当かもしれないと疑いさえできない。

 あの老師をどうやったら病気になんかできるってんだ。病気のほうが尻尾巻いて逃げ出すか、土下座して勘弁してくれと泣きを入れるだろうよ。

 

「大丈夫、老師ならすぐに元気になるさ」

 

 自分でも軽いと分かる言葉は、どれほどの重みをもって伝わるものだろうか。

 そんなことを考えながら、なるべく言葉を選んで口に出す。俺が何を思ってても、そのすべては彼女のせいじゃない。

 泣き止んでくれないと、俺を極悪人扱いした誤解がそこら中にはびこるじゃないかと危惧しているのもあるけど。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 関係ないことに頭を逃避させてもいたが、それでも必死に彼女を慰めた俺は、城戸家に着く前にすでに疲労困憊していた。

 なんでかって、彼女が泣き止んだのは、城戸家につく少し前だ。そして、俺はその間ずっと居たたまれなさに耐え続けたんだ。もう口に出してもいいだろう。

 俺は、無実だ!

 出さないけど。男なら、このくらいの苦難は黙って耐えるべきだ。

 ただ理不尽な言葉の暴力には、聖闘士の力も無意味だという事実を忘れまい。くっそ!

 

 だいたい、紫龍を呼び戻してどうする。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は中止になったんだ。それを老師は知らないのか?

 知らない……わけがない。女神(アテナ)のことなんだから。絶対にどこかから情報を入手しているはずだ。

 とすると。いや、まさか、そんな馬鹿な。

 

 俺の足がピタリと止まった。

 城戸家門前で立ち止まって動かなくなった俺に、隣から妙な視線が送られてきている気がするが、今は気にならない。

 思い当たった可能性の恐ろしさに、目の前が真っ暗になりそうだからだ。

 そう、銀河戦争のからくりを知っていてなお、老師はなぜ弟子を送り込んできたんだ?

 女神(アテナ)にさえ試練を与えた老師のことだぞ。無意味に紫龍を送ってよこしたはずがない。

 紫龍にとってのものであれ、女神(アテナ)にとってのものであれ、それは老師の計画のうちだったはずだ。

 間違っていてほしい。だが、もしも、この考えが正しいならば……これは、もしや、老師の計画を邪魔してるってことになるんじゃ、ない、か?

 他の誰でもない、この俺がだ。

 だとすると、大体がして、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)自体が老師の入れ知恵なのかもしれない。

 なんて嫌な推論だ。頭痛がする。

 だが、さらに推し進めて考えてみよう。

 反教皇派の老師の計画だとすれば、ムウが一枚噛んでいないはずがない。つまり、今の俺はあの二人から見て、邪魔者ってことになるんじゃないか。

 これは仮定に過ぎない。だが、もしもこの仮定が正しければ……。恐ろしい結論に至りそうになって、俺は思考停止した。

 俺は、どうすればいいんだろう。

 次代の女神(アテナ)の聖闘士を、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を経て実力を底上げさせ、聖域に討ち入らせるというのが老師の計画ならば、確かに俺はそれをぶち壊そうとしている。間違いはない。

 ……詫びを入れに行ったほうがいいんだろうか。

 

 いや、城戸光政と老師に関係があったかどうかは分からないし、分からない以上、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)が老師の入れ知恵とも限らないわけで。

 限らないわけだが、もしもそうであったなら……まずくないか俺。

 今回、紫龍を呼び戻そうとしてるのは何でだ? 不測の事態への情報収集か?

 とすると、当然ながら紫龍は俺のことを言うだろうし、そもそもがいつまでも隠し通せるわけがない。

 

 うん? 

 焦った思考が妙な方向に転がり始めていると気づいて、額を手のひらでピシャリと打った。思考を冷やす衝撃。

 俺は何を考えているんだろう。

 隠し通す?

 なんだそれは。

 何を隠すってんだ。

 隠す理由はもちろん、隠すモノはなんだ。

 自分が分からない。

 

 大体、不思議だったんだ。一輝のところに相談に行こうと決めた時からそうだった。

 老師もムウも含めて、黄金聖闘士に頼ろうとは絶対に思えない。むしろ忌避感さえ感じる。

 なぜなんだ。

 

「あの、星矢さん。どうしたんですか?」

「へっ? ああいや、何でもない」

 

 おずおずと問いかけてきた彼女が、心配そうに見上げていた。

 ええい、悩むなんて柄じゃない。下手の考え休むに似たり。考えてもしかたない。なるようになるさ。

 俺はぐちゃぐちゃになっていた思考を放り出して、城戸家に入った。

 

 彼女を見とがめられるかと心配していたが、問題なく通過。

 もしかして、内部犯がいればこの屋敷、案外もろいんじゃないか。先日だって、難なく侵入できたしなあ。

 少しばかり心配しながら、紫龍より先にお嬢さんに話を通した方がいいと、彼女をお嬢さんのところに、送り届けてきた。

 俺と一緒じゃなきゃ屋敷にも入れなかっただろうし―――紫龍の身内だと話せば通れたかもしれないが、どっちにしたってお嬢さんに話を通さないと先には進めないだろう。

 お嬢さんも、遅いと叱責する目つきだったが、表立っては客の対応を優先してくれた。

 卑怯かもしれんが、これでお説教はまぬがれたぞ!

 

 上向いた気分で向かったのは闘技場(コロッセオ)だ。

 留守中、あいつらは少しは強くなっただろうかという好奇心めいた期待があったのは否定しない。

 そこで目にしたものといったら、まったくもって予想もしなかったものだったが。

 

 ひび割れた壁。

 鋭い亀裂の入った地面。

 荒れた状態の闘技場(コロッセオ)

 そこに、切り出されたばかりの丸太のごとく転がった……まだ生きてるが、もうすぐ死にそうな何か。

 まさに、廃墟。

 前回、白銀聖闘士にやられた状態でもここまでじゃなかったぞ。瓦礫の山は変わらんが、死体は転がってなかったし、血飛沫の跡もなかったし、肉片や脂が飛び散ってもなかった。

 

「おい、一体、何があった! 誰がこんな、なんで!」

「し、瞬が……」

「俺は、もう、駄目だ……」

 

 息が絶えるように、蛮と激の頭が落ちた。

 他の奴らは、最初から沈没している。

 

 なあ瞬、お前何したの? 何があったらこんな事態になるんだ? お前の平和主義はどこに行った。

 すっごい全員ぼろぼろなんだけど。

 誰の聖衣もひびだらけじゃねえか。あいつのショルダーパーツなんて砕ける寸前だし、あそこに半分だけ割れて転がってるのは誰のヘッドマスクだ。

 ……いやもう本気で何やってんだ、お前ら。

 唖然としていると当の瞬がやってきた。背後に、謎の白衣集団を引き連れて。

 なんだ、それ。

 

「あ、帰ってきたんだね、星矢。お帰り」

 

 ごくごく普通の態度に、普通の笑顔だ。

 だが、普通なのが異常だ。お前、そんな奴だったっけ。

 思わず尋ねずにはいられなかった。

 

「何をやったんだ? お前の聖衣についているのは誰の血? さっぱり分からん。なんでこんなことになってんだよっ!?」




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絆はここにある

 百年に一人、千年に一人の天賦の才がある。

 屈辱の泥をすすり、修練の血をにじませた努力がある。

 切磋琢磨し、しのぎを削りあう仲間がいる。

 だが、それでも到底手の届かぬ高みが、この世には存在する。

 

 研ぎ澄ませた牙は届かない。

 磨き上げた爪も届かない。

 避けられるでなく、弾かれるでなく、受け止められるでなく、飲み込まれるでなく、折られるでなく、砕かれるでなく―――最初から、届きもしない絶望を、知っている。

 

 才能を磨くだけでは足りない。

 努力で研ぐだけでは足りない。

 そう知らしめて、俺はシベリアに出立した。

 それだけの、はずだった。

 

 目の前を担架と白衣の集団が通り過ぎて行く。「輸血の用意を!」だの「心拍数が低下している!」だのの叫びが、耳に痛い。

 俺は隣を見やって、げっそりと深い溜息をついた。

 

「星矢、具合でも悪いの? 大丈夫かい?」

「体調は万全だぜ。それより、何なんだこの状況。何が起こってんの」

「落ち着いて、星矢。お茶でも飲みながら話そうか。ジュースのほうがいい?」

「いや、俺は」

 

 美穂ちゃんのところで飲んできたばかりだ。必要ないと返しかけて、喉が乾いていることに気づく。嫌な汗をかいたからなあ。今もだけど。

 瞬の部屋へと移動して、ソファに腰掛けた。

 俺達の部屋は、おそらくどれもこれも似通った間取りなんだろう。内装に差異はないが、小さな花を慎ましく飾ってあるところが瞬らしい。

 運ばれてきたうす緑色のジュースに礼を言いながら、俺は瞬に話をうながした。

 

 落ち着いて聞くところによれば、ことの発端は、邪武達だったらしい。詳しくは、邪武と激と蛮の三人組。

 俺が瞬に勝てればと言いおいていったこともあり、俺が出かけてすぐさま瞬に挑んだところ、相手にされなかったんだと。先回りしても避けられ、待ち伏せしても見抜かれ、囲んでもすり抜けられて、とにかく徹底的に相手にされなかったらしい。

 相手にしなかった当人は、「参ったよ」と全然参ってなさそうな顔で肩をすくめた。相手してやればよかったのに、と思うが口は挟まない。逃げられるのは奴らの不甲斐なさがためだ。

 しびれを切らした邪武達は、お嬢さんの名前で闘技場(コロッセオ)に呼び出し奇襲をかけた。

 だが、瞬も罠だってことくらいは読んでいたらしく、星雲鎖(ネビュラチェーン)で撃退した。何でもグラード闘技場(コロッセオ)への呼び出しってだけでも妙だと読み、聖衣着用で来るようにと指定があった時点で完璧に黒と判断したんだと。

 それでも行ったのは、お嬢さんの名前を無視できなかったのと、その状況にかなりうんざりしてたんだろうな。思い出す表情が渋い。

 邪武達も考えたな。黒だろうと白だろうと無視できない名前をつかったのは正解だった。正面からじゃ無理だという判断も正解だった。人数をそろえて挑んだのも正解だった。

 むしろ奇襲を受け、複数に囲まれても物ともしない瞬のほうが青銅聖闘士とは思えないぜ。だが、安心しろ。そのうち正面から挑めるくらいには鍛えてやる予定だから。

 瞬にとって予想外だったのは、奴らのスッポンのごとき食らいつきだった、らしい。

 俺に三秒も経たずこてんぱんに負けたのが、よほど堪えたと見えて、闘争心によるしぶとさの底上げがあったんだな。相手にしない瞬を腹に据えかねてってのも入ってると思う。

 予想外れた瞬は、思わず思ったよりも強めの力でたたきのめしてしまった。逃げるだけのつもりだったのに、とは本人の弁。

 だが、しまったと思ったのもつかの間、今まで手加減されていたと知った奴らのプライドを逆撫でしてしまった。奮起させてしまったわけだ。

 気づけば、倒しては挑まれ倒しては挑まれの連鎖。負けて復活するたびに力をつけてくるため、瞬も力をいれて相手をせざるを得ない。

 復活速度も半日かかってたのが、いつのまにやら一時間くらいに縮まっていたそうだ。進歩が早いな!

 いつの間にか、紫龍や市達も加わり、バトンタッチ形式でやってくる。

 と、そういう話らしい。

 

 ううむ、思ったよりも十分にやってくれているようで何よりのことだ。

 思ったより、いや、思ってすらいなかった事態なんで、少しばかり頭が混乱しそうだけど。

 俺が留守にしていたのなんて、たった三日だぞ。なんて急展開。

 俺がいるより効率よさそうだ。嬉しい誤算だが、ちょっとばかり物寂しい気持ちがないでもない。俺がいなくても平気か。そうか。

 頼もしい、と思うべきなんだけど、がっかりするのはなぜだろう。

 しかし、瞬が一応きちんとやってるのが意外と言えば意外。助かるが。

 

「なあ、瞬、お前、戦いたくないって言ってなかった?」

「言ってたね。戦いで生み出せるものなんか何もないって思ってた。いや、今でもそう思ってる。思っているけれど、ね」

 

 そう言いながら、瞬はストローをくわえた。

 ならって俺もうす緑のジュースをすすってみる。強い酸味が舌を刺した。甘味が後から追いかけてくる。キウイか。

 一口飲んで、それで? と視線を瞬に飛ばせば、憂いを帯びた表情でまだちびちび飲んでいる。

 何をそう悩むことがあるのか知らないが、言えないなら別に言わなくていいんだぜ? 何が瞬の心境に変化をもたらしたのか知らないが、それは俺にとって歓迎すべきことだ。理由なんざどうしても知らなきゃならんものじゃない。

 

 瞬と俺達は何かが違う。

 それは戦いに見出す意義かもしれないし、あるいは強さに求める意味の違いかもしれない。

 だけど、戦いの障害にならないならば、それは別にどうでもいいことだ。

 話を変えた。

 

「で、あの白衣の集団は? 怪しげなマッドサイエンティスト軍団にしか見えなかったんだが」

「失礼だよ、星矢。ふふ、確かにそう見えるかもしれないけれどね。あながち間違ってないし」

「間違ってないのかよ! そう見えるだけなのか、実際そうなのかどっちだ」

「お嬢さんの紹介だからね。身元はちゃんとしてるよ」

 

 瞬の表情が一転して軽くなる。くすくす笑って、俺の発言を肯定しつつも訂正と追加情報を加えた。

 曰く、あれは城戸家から派遣された医者集団なんだと。

 いかに俺達聖闘士が丈夫だと言っても、それなりの怪我はするので、城戸メディカルグループのスタッフが屋敷に設備を持ち込み泊まり込むことが早々に決定したらしい。そりゃ時間単位で呼ばれたらな。無理もない。

 元々、銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)用に編成してあったのを流用したらしい。ちゃっかりしてるな、お嬢さんも。

 ところが、俺達聖闘士は医学の常識を無視して回復力も半端ないため、発狂寸前になる者が続出したとのこと。よって、今ここで働いているのは確かにマッド的な性質の強い者であるらしい。

 常識の破壊に対して気が狂うどころか、目を輝かせて驚喜するような人間だな。ある意味、最初から常識なんかない人間ばっかりってわけか。

 

 そして、あんな状態の闘技場(コロッセオ)を何回も何回も片付けさせるのもなんだということで、それも自分達でやっているらしかった。

 道理で城戸家の人間がやってるにしちゃ雑だと思った。

 血飛沫の跡なんて、俺達、残ってても気にしないもんな。要は目についた瓦礫を脇に置いておこうくらいの感覚だ。

 しかし、あの状態からすぐに回復して挑めるって、やっぱり聖闘士は人間じゃないな。前回はもうちょっとあいつら人間じみてたと思うんだけど。

 気のせいだったらしい。あいつらもしっかり聖闘士している。

 しかし、こいつらが掃除なんて想像できない。

 

「なんだよそれ。当番制か?」

「違うよ。勝率。高ければ高いほどしなくていいんだ。つまり負ければ掃除」

「罰ゲームかよ。お前、参加したことは?」

「一度もやってないのは悪いと思って、申し出たらものすごい勢いで断られたよ。逆に失礼だったみたい」

「だろうな。それは瞬が悪いだろ」

 

 俺は頬をひくつかせて、ジュースをすすった。

 そりゃ屈辱でしかないだろうよ。同輩から憐れまれたんじゃな。

 俺がカシオスあたりから同じ扱いを受けようものなら、次は血反吐を吐いてでも勝つぞ。次は絶対に片付けさせてやると、気合を入れて片付けるぜ。

 まったく、どれだけやりあってんだか。

 ジュースを飲み終わった瞬が立ち上がった。

 

「さて、僕そろそろ行かないと。もうすぐ紫龍達が来ると思うから」

「俺も行く。闘技場(コロッセオ)だよな?」

「そうだけど。まだ僕に勝てはしないと思うよ?」

「違う違う。今回はお前もあっち側だ。多分、紫龍は来ないからな」

 

 不可解そうな顔になった瞬の動作が止まった。

 残ったジュースを俺も飲み干せば、舌に残る刺激を帯びた甘さ。お茶じゃなくてジュースを出されたのって、もしかして子供扱いされたんだろうか。お前とは同い年のはずなんだけどな。数カ月、お前が上だけど。

 立ち上がりながら、説明を加えた。

 

「老……じゃなかった、紫龍の師匠が倒れたんだってさ。知らせが来てたから、今頃はお嬢さんに呼び出されてるんじゃないか」

「星矢が行ってたのはシベリアじゃなかったっけ。中国にも行ってたの?」

「まさか。空港からこっちに来る途中に行き合わせたんだよ」

 

 会話をしながら、闘技場(コロッセオ)まで歩く。

 どれだけ強くなったのか、俺に見せてくれ。

 黄金聖闘士とやりあってなお、生き残るだけの強さがあるかどうか、俺に見せてくれ。

 できれば、セブンセンシズ、及びエイトセンシズに目覚めててくれれば言うことなしだぜ。

 別に帰ってきたばかりのときに冷たい目で見られたお返しをするつもりなんかじゃないから安心しろ。俺は根に持たない主義だ。

 多分な。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 闘技場(コロッセオ)についた。

 何の気なしに、瞬より先に一歩足を踏み入れ、肩透かしをくらった。

 待ち受けている人影があるはず、と思った予測は外れ、どこにも人影がなかったのだ。

 疑問に、瞬を振り返って―――。

 

 岩石が飛んできた。

 瞬時に身体が反応した。

 何を考える間もなくはたき落す。

 これは、闘技場(コロッセオ)の瓦礫か。ご丁寧にも三方から同時に複数攻撃。ただ受け止めれば手がつぶれ、蹴り返せば足がつぶれるだろう凶悪な凶器と化した人頭大の岩石。

 一つ、二つ、と砕いたところで、縦横無尽にうねる星雲鎖(ネビュラチェーン)が残りをはじき飛ばした。

 そのまま、金属のすれ合う音を響かせ、俺達を中心にアンドロメダ星雲を模した円を描く。その様、まさに互いの尾を共食いする二匹の蛇の如し。

 星雲鎖(ネビュラチェーン)の静的絶対防御による威嚇(いかく)だ。

 

「星矢、無事かい」

「誰に聞いてんだよ。それより俺は出るぜ。今回はお前もあっち側だって言ったろ」

「ああ、そうだったね。ちょっと待ってくれる?」

 

 肩をすくめた俺に、瞬はニコッと笑って、鎖を掴みなおした。

 間髪を入れず、小宇宙が高まり力強さを増す。

 

「いけっ、星雲鎖(ネビュラチェーン)よ!! どこに隠れていようとも見つけ出せ!」

 

 ずざぁっと影が広がるように鎖が伸びた。

 伸びた先から次々に悲鳴が上がり、同時に金属と金属のぶつかり合う音が聞こえた。

 ……なんだろう、この言葉の通じてない感覚。

 俺は、瞬の絶対防御から出ると言っただけだよな?

 ピクリと自分の眉がひきつったのが分かった。

 

「……なにしてるんだ?」

「今回は僕と共闘だって説明しないと、問答無用で始まってしまうから先に捕まえただけだよ」

「別に共闘しなくてもいいんだぜ? 個別で狙ってこいよ」

「それだと勝率が限りなく低いじゃないか」

 

 へえ、勝ちたいんだ。いい傾向じゃないか。

 自然と口の端が上がった。そう簡単に勝たせてやる気はないけどな。

 目の前には鎖に引きずり出された紫龍、市、那智。

 嘆息がもれた。

 お前らな、簡単に捕まってんじゃねえよ。

 もうちょっと……あれ?

 

「紫龍、お前お嬢さんに呼び出されたりしなかったのか?」

「いや、何も言われていないが」

 

 あれ、そんなはずないけど。

 きょとんと首をかしげた俺に、紫龍のほうが困惑のにじんだ口調で話しかけてきた。

 

「お前、何かしたのか?」

「なんで俺が何かするんだよ。大体、俺が何かしたからって、お前が呼び出される理由にはならないだろ」

「逆に、お前が何もしてないのに、お前が帰ってきたとたんに呼び出される意味が分からないんだが」

 

 言われてみればそうかもなあ。単に偶然会っただけだけど。

 納得してコクンとうなずくと、紫龍が優しげに顔を緩ませた。

 なんだ、その仕方ない奴だなあという笑い方。何と言うか、手のかかるやんちゃな弟を見守る慈悲深い兄といった感じだ。やめろ、そんな目で見るな。事実、兄弟ではあるわけだが、そんな可愛いものを見る目で見られるようなことはしてないだろうに。

 俺がむっとしたのに気づいたか、紫龍は考えを切り替えるように笑みを消した。

 たちまち空気が緊張する。

 

「ハァッ!」

 

 薄く開いた口元から小さな気合を発した紫龍の四肢に、力がこもった。

 全身に小宇宙が満ち、背後に天に昇る龍の幻(ドラゴン)が一瞬浮かび上がったかと思えば、鎖を振りほどいて立ち上がる。

 ……ほう、なかなか。

 瞬が解いたんじゃない。小宇宙は緩んでない。

 紫龍が自分自身の力だけで解かせたのだ。

 

 立ち上がった紫龍に呼応するように、市と那智の小宇宙に力が増す。

 市の背後には、無数の牙から毒をしたたらせた禍々しい多頭蛇(ヒドラ)の幻。

 那智の背後には、鋭き鋼の牙を歯茎まで剥き出した猛々しい巨狼(ウルフ)の幻。

 膨れ上がった小宇宙が爆発した。

 その直後、鎖の束縛から逃れ立ち上がる二人の姿がある。

 瞬は分かっていたことのように鎖を鮮やかに繰り戻し、鉄壁の守護陣を再び敷いた。

 三人、いや、瞬も含めて四人か。三日前とは別人のようだ。

 今ここにいないが、邪武達もきっと同じなんだろう。

 胸に満ちるのは高なる期待か、求めた以上を得られた安堵か。

 自分でもよく分からない。

 ただ、どうしようもなく血が騒ぐ。

 弟子を持った師なら、子のある親なら、被造物に対する神なら、この感動に相応しい名を与えられるのだろうか。

 瞬間的に揺らめいて消えた幻像(ヴィジョン)―――確かな小宇宙の成長の証。

 

 想像以上だぜ!

 面白い!

 

「お前ら、死ぬなよ?」

「は? 星矢、何を……!」

「なんだ、何をやる気だ!」

「星矢、どうして、そんなに嬉しそうに攻撃しようとしてるんだい!?」

 

 何かわめいているがどうでもいい。

 懐かしいとこの身の内にうずく衝動を、身を震わせうめかんばかりに突き上げる衝迫を、どう呼べば、涙なしにしのげるんだろう。

 この時代に、天と地の狭間で男として生まれ、戦士としてともに戦い、歩んできた熱き血潮の兄弟よ。

 脳裏で呼びかけた。

 かつて、戦場を駆けた仲間であり友であり兄弟であった者達に呼びかけた。

 ほんの少し本気を出して小宇宙を燃やせば、瞬達の顔色が変わる。

 かまわず笑いかけた。

 

 俺だけが、と思ってたけど。

 いるんだな。ちゃんとここに。

 何も俺は失ってなんかいないんだな。

 ならば。

 俺は、もう、いいと思うことにする。

 燃えろ! 俺の小宇宙よ!

 

「ペガサス流星拳ーーーっっっ!!!!」




与太IF偽予告






ついに、星矢の本気の一撃が彼らを襲う。
吹き荒れるはパワーの嵐。
ことごとくが、破壊の激流の前に屈していく。
熱き友情も、兄弟としての絆も、戦士の誇りも。
―――何もかも、が。

「手加減してるんだぜ! これでも!」
「……星矢、聞きたいんだが、お前の手加減とは『死ぬ寸前でやめる』という意味なのか」
「あ? そ、んな、わけが……」

紫龍の言葉に星矢は絶句した。
かつて、黄金聖闘士が一人、水瓶座のカミュを前に、決して己はそうなるまいと誓った姿がそこにあった。

風は巡り、水は流れ、季節は移ろい、人は変節する。
それは見えない糸に手繰られた、この世の絶対の掟。
だから、誰しもが過去を忘れていく―――それでも。
それでも、自分だけは変わらないと誓ったはずだったのに。

「うわあああぁぁぁぁぁっっっっ!! 魔鈴さん達みたいになるのは嫌だあぁぁぁぁっっ!!!」

耐えきれずに星矢は絶叫した。
それはそれは真情の籠もった絶望的な叫びだった。

「あ、星矢、後ろ!」

瞬の忠告は遅かった。
引きずられて行く姿に、「冥福を祈ろう」と誰かがポツリとつぶやいた。
同情に満ちた声音に、その場に残った青銅聖闘士全員がいっせいに同意して手を合わせたと言う。

「お前ら、見捨てる気満々かー!」


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少しだけ本気の拳

「なぜ、こうなったんだろう。どうしたもんかな」

 

 空を見上げ、重々しくつぶやけば、間髪をいれず怒声が刺さってきた。

 元気な奴らだ。

 俺は落ち込んでるのに、配慮がないぜ。

 

「どうなったもこうなったもあるかぁ! お前のせいザンスよ星矢ァ!」

「己の所業を振り返ってから言え、星矢!」

「星矢、これはちょっといくらなんでも……!」

 

 轟々たる非難の声。怒りのあまりか、涙声が混じっているのにも哀れを誘う。

 分かってるよ。俺が悪いんだ。

 見上げていた目線を下に向けた。

 そこには、砕けた聖衣と傷ついた仲間たちの姿があった。と言っても、口のきける人数は少々減っている。

 城戸家の医療班は優秀なんだろうが、一般人だ。運んでやるべきかな、これは。

 

 俺は再び視線を空に向け、深い深い溜息をついた。

 世の中には、予想外のことが多すぎるぜ。

 最初から説明しよう。俺だって、こうなるとは思ってなかったんだという言い訳も混じってしまうだろうが、そこへんは勘弁してほしい。

 ペガサス流星拳を撃ったとはいえ、音速突破はしてなかった、はずなんだ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 あのとき、俺のペガサス流星拳に、最も反応が速かったのが瞬だ。

 とっさに星雲鎖(ネビュラチェーン)を網の目状に張り巡らせ、全員を防御した。

 その甲斐あって、星雲鎖(ネビュラチェーン)は粉々に砕け散り、瞬自身も反動で壁に叩きつけられたものの、俺の初撃は届かなかった。

 ただし、ペガサス流星拳は拳速を活かし何箇所にも分けて何回でも拳を繰り出す技だ。文字通り手数が多い。初撃に耐えても次が来る。

 それでも、見事なもんだぜ。

 わずか百分の一秒程度とはいえ、間を稼ぎ出したのは大きい。これで他の奴らも動き出した。

 紫龍は盾を構え頭を下げ、防御の体勢に。ドラゴンの盾の強度を信じてるんだな。耐え切ってのカウンター狙いは、相手が俺以外の青銅聖闘士なら悪くない。

 那智は上空に飛んだ。高い。こいつも俺と同じで速度重視か。防御の弱さを速攻で帳尻あわせてるわけだ。ためらいの欠片もなく脳天直撃コースのかかと落とし。決まれば威力は高いだろう。決まれば、な。

 市は俺からまずは遠ざかろうとバックステップ。甘いな。この闘技場(コロッセオ)中に俺の拳の届かない安全地帯なんかないんだぜ。どこに行こうってんだ。

 

 ざっと見て取って、まず狙ったのは紫龍の盾。

 ―――相手の武器をまずつぶせ。

 俺の戦闘法は、基本的に魔鈴さんの教えに忠実だ。

 この場合の武器ってのは、相手の得意とするものだな。キックで来るなら蹴り足をつぶし、パンチで来るなら拳をつぶす。

 瞬の星雲鎖(ネビュラチェーン)のように応用はきかないが、物理的な硬さなら上回るだろう龍座(ドラゴン)の盾と拳。

 これこそが紫龍の自信の源。

 だが、つらぬかれぬ盾はなく、砕かれぬ拳もない。聖闘士の真髄は小宇宙であって、聖衣じゃない。

 聖衣が砕けたからといって心が折れるほどヤワじゃないとは思うが、紫龍は思い知るべきなのだ。いかに最強の盾と矛であろうとも、真に強いのは何であるのか。

 小宇宙を燃やせ。

 セブンセンシズに目覚めろ。

 お前にはそれができると、知っている。

 砕いた。

 

 紫龍の驚愕の表情まで見届けて、今度は空中の那智だ。

 足技ってのは、威力もでかいがリスクもでかい。威力を増すためにジャンプしたんだろうが、俺に避けられたらどうする気だろ。

 せめて俺が避けられない状況を作ってからにすべきだったな。囮を入れるとかさ。

 そう思いながら、俺は立ち位置をずらし見上げる。目に入ったのは、死に物狂いの形相だ。

 背筋がざわついた。

 数多の修羅場をくぐり抜けてきた勘が違和感を伝えてきた。

 那智の体勢が無理にねじられ、硬く握られた拳から音速拳―――いや、違う!

 俺は瞠目した。

 

「負けてたまるか! シメオン、アルフィオ、狼座(ウルフ)の聖衣にゃ、俺だけじゃねえ、あいつらの誇りもかかってんだよ! 吠えろ! デッドハウリング!」

 

 ナニカ、が来た。俺に攻撃的なナニカが。

 頭で考える前にゆるく拳をふるい、俺に向けられた攻撃を振り飛ばした。

 その余波で、那智が着地に失敗してゴロゴロと転がっていく。

 そう、吹っ飛ぶのではなく体勢を崩して倒れた程度。俺の拳と那智の放ったナニカが相殺された結果だ。

 と見れば、周りの瓦礫が割れて転がっていた。切り口は鋭く割れている。

 ふ、ん。なるほどなあ、と俺は納得し、ついでに手近な瓦礫の一つを那智の頭めがけて蹴っ飛ばした。

 短く空気を切る音。

 

 いよっし、ビンゴ。

 耳に届いた鈍い響きと重い苦鳴に、俺は会心の笑みを浮かべ拳を握った。

 ところで、シメオンとアルフィオって誰だ。兄弟弟子か?

 那智は、気絶したのか、痙攣していた右手が地面に落ちて動かなくなった。頭部から吹き出た血が水溜り、いや、血溜まりを作っている。

 ……後で訊こう。覚えてたら。

 

 些細な疑問を後回しにし、残った瓦礫の一つを市に向かって蹴った。

 自分に向かってくる風音を聞きつけてか、跳びはねるように市は前方に身を投げ出す。その頭上を通り過ぎた瓦礫が、場壁に大穴をあけ、観客席につっこんで座席を破壊しながら砕けた。

 あの野郎、避けやがったな。

 しかも、逃げられる気でいるのか、素早く起き上がって走り出した。

 市のくせに生意気だ。

 ふっふっふと俺は小さな含み笑いをもらした。

 

「逃げられると思ってんのか?」

「フンッ、逃げる気なんか最初からないザンス!」

 

 ……待て。

 一気に脱力した。責めないでくれ。しかたないだろう。こんな時にこんな口調でこんなこと言われりゃ誰だって脱力する。

 逃げる気がないなら、なんだその行動。

 口調は別にいいけどよ。

 もしかして、お前はそっちが本当の喋り方なのか。前回の銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)や、俺が帰ってきたばかりのときはなんだったんだ。偽装か。カッコつけか。

 やっぱり、市のくせに生意気だ。

 

「近距離ではあまりに分が悪いザンス。海蛇座(ヒドラ)の聖衣の真の力を見せてやるザンスよ。食らえ、我が毒蛇の牙を! メロウポイズンッ!!」

 

 市の振り上げた拳から生えた牙が、太陽に反射して白く輝いた。

 そのまま一直線上に光の矢となり、飛んでくる。

 お前、それ、飛び道具だったのか!?

 

「フッ、毒蛇の牙はかすっただけでも全身に巡りお前を死に至らしめる猛毒を持つザンス。聖衣を着ているならともかく、生身のお前に抗する術などないザンス!」

 

 ザンスザンス言うな。力が抜けるわ!

 飛んできた三本の牙を半身になりかわした。一本は眉間、もう一本は喉、残った一本は心臓狙いだ。全部が全部、毒なんてなくても即死位置だぜ。聖衣をまとってない相手にそこまでやるか。

 楽しい気分で、ヒュイッと軽く口笛を吹いた。

 しかし、確かに俺とは相性が良くない。こういう奴の相手は、防御力の高い紫龍や、防御技に長けた瞬あたりが向いてそうだ。前回では氷河が勝ってたな。凍結で底上げしているにせよ、氷河もかなり防御力は高いってことか。その割にはあっさりと宙に舞ってくれたが……と考えかけて、苦い笑いが口に浮かんだ。やめよう。自分の失敗を思い出して何が面白い。

 あいにくと、相性ごときで差を埋められるほど、俺とお前の実力差は近くない、近くないどころかかけ離れてるが、悪くない。悪くないぞ。それこそが上位に挑む態度だ。なりふり構ってたんじゃ、勝つどころか勝負にすらならないと理解している。瞬に足りてないのはここだな。見習ってくれりゃいいのに。

 そう思ったところに、もう一方の拳から放たれた牙が飛来した。そういや、両拳両膝から生えてて、何回でも再生するんだっけ?

 面倒になって、小宇宙をこめてドンッと足を踏み鳴らした。

 足の下からわざと散らした衝撃が走り抜けて、闘技場(コロッセオ)全体が短くきしんで揺れる。パラパラと落ちる細かい塵。空間をビリビリと振動が満たした。

 震源地である俺のところに跳ねて落ちてきた瓦礫を、次々に身体の前に蹴り上げた。ついたてにしたわけじゃない。仮にも聖闘士だ。そんなことしたら粉砕突破されかねない。いや、確実にされるだろ。いくら毒がメインだとは言っても、たかだかコンクリートさえ貫通できんってことはあるまい。

 だから、狙いは的を外させること。要は、俺に当たらなきゃいいんだ。弾幕に近いな。

 狙いどおり、次々と飛んでくる牙が瓦礫に軌道を変えられ、あるものは地に落ち、あるものは見当違いに方向を変える。

 ここまでは計算どおりだった。ところが、世の中、予測不可能なことに満ちていて、しかも、そのほとんどが俺に悪意を持っているのだな。そうとしか思えない。

 別方向にそれた牙の一本が、空気を裂いて飛んでいく。その先を見て、俺は目を剥いた。

 あ、こら、そっちには……うわ。まずい、避けろ那智!

 しかし、俺の願いは基本的に叶わない。運命とかそういうのに嫌われているんじゃないだろうか。俺はまだ何もしてないってのにな!

 

 思わずしゃがみこんだ。

 何も見なかったことにしてしまいたい。そうとも、俺は何も見なかった。断じて、那智が痙攣しているのは俺のせいなんかじゃない!

 胸中で呪文をとなえて、自分を落ち着かせる。

 ……俺のせいじゃないとは思うが、あいつ、大丈夫だろうか。

 血溜まりに一筋、黒い血が混じり始めた。ちょうど、牙のささった肩口からだ。

 しゃがんだまま、横目で、見たくないけれど見る景色は決して優しいものではなかった。

 仲間の犠牲さえいとわないとは、市よ、お前は思った以上に外道だな。許すまじ。

 じろりと市を見れば、なにやら愕然とした表情だった。

 

「お前はなんて恐ろしい男ザンスか。星矢。まさか俺の攻撃を利用して、もはや立てもせぬ那智にトドメをさすとは……非道すぎるザンス」

 

 待て!

 なんでそうなる!?

 憤然と立ち上がった。

 そこになおれ、市。お前は俺をなんだと考えてんだ。

 市は今のところ無傷だ。聖衣はボロボロになっているが、そいつは俺のせいじゃない。元からボロボロだったんだ。

 つまり、ちょっとくらい怪我をさせても死にゃしない。

 結論は出た。

 瞬時に市の前に移動。奴の頭部を正面から右手で鷲掴み、力のかぎりにそのまま振り下ろす。グギャッだかゴギャッだかよく分からない音がして、掴んだ頭が闘技場(コロッセオ)の床に一気にめりこんだ。

 陥没した床。

 めりこんだ頭。

 ご自慢のトサカも先っぽがちょろりと見えているだけの白目男は―――。

 

「顔は男の命ザンスよ、なんてことしてくれるザンスかぁぁぁっっっ!!」

 

 0.5秒もかからず、両腕を支点に頭を引っこ抜いて復活した。

 こめかみから血を流しつつも、この威勢の良さ。

 おまけに叫んだセリフには、緊張感も、俺への暴言の反省もない。

 お前っ! 随分と丈夫になったじゃねえか! 説教タイムに入る前に復活しやがって!

 もうちょっとだけ力を入れて、今度は逆さまに腰まで突き刺してやろうかと、穏やかならぬ考えに取り憑かれかけたときに背後から声がした。

 

「なるほどな、そういうことか。だが、トドメをさすなら俺にしておくべきだったな。仇はとるぞ」

 

 違えぇっ!

 振り向けば、割れた盾の半分を握りしめ立ち上がる紫龍の姿があった。

 紫龍……お前もか!

 毅然として顔を上げた紫龍は、かっと目を見開き盾を放り投げ、聖衣を脱ぎ捨てた。長髪が燐気に押され風もないのに浮きあがる。おそらく背には竜が克明に浮かびあがっているのだろう。

 本気だ。

 今まで本気でなかったというわけじゃないだろうが、捨て身ではなかった。刺し違えてでも、俺を殺すという気迫は今までなかった。

 これは……いいこと、なのか?

 ……ものすごく否定したい。

 だって、どう考えても俺への誤解と歪曲の上に成り立ってるぞ!

 

「盾も拳も砕かれた以上、もはや聖衣は無意味。我が小宇宙と老師より受け継ぎし技で勝負するのみ!」

「紫龍、星矢を頼むザンス。俺は那智の解毒に!」

「ああ。こっちは任せておけ」

 

 力強く紫龍は返し、拳を構えた。雑念が見る見るうちに振り払われ、集中が増していく。

 悔しげに俺をにらみ、じりじりと後退する市

 誤解にもほどがあるぜ。

 俺は、げんなりしながらも、手をひらひらとふって、行けよと示した。

 動き出した背中に、鼻を鳴らして疑問を投げる。

 

「なあ、猛毒で即死するんじゃなかったのか」

「聖闘士だからもう少々は持つザンスよ。解毒くらいできるザンス。医療班、まだか!」

「動かしていいのか?」

「解毒はできるザンスが、解毒しただけでは回復が間に合わなくて死ぬザンス。止まった心臓を動かすのも、血液透析や酸素吸入も医療班の仕事ザンス」

 

 ごもっともだ。

 毒はそういうところが厄介だな。

 

 むろん、この会話の間も紫龍には警戒している。

 わざと隙を見せてやってもよかったが、誘いなどするまでもないだろう。

 紫龍のこの最高度の集中力はおそらく長くは持たない。頭に血が上っている状態だからな。

 会話に口をはさまなかったのも、自分の力を高めることに集中していたからだろう。すでに俺達の声が聞こえてるかどうかも怪しい。

 すぐにも仕掛けてくるはずだ。

 読みは正しかった。

 

「星矢よ、勝負だ。受けるがいい。ドラゴン最大の奥義を!」

 

 背後の幻の竜が、カッと口を開いた。

 聞こえるはずもない咆哮を聞かせてくれようと、蛇体を伸ばす。

 荒々しくも力強く燃え上がる小宇宙。

 間違いない。紫龍は、今、セブンセンシズに目覚めようとしている!

 全身の血が騒ぐのを押さえもせずに、俺は見つめた。

 竜の右拳が握る紫龍の心臓、俺の知る最大の弱点を―――。

 

「最高潮にまで高まれ、俺の小宇宙よっ! 廬山ッ昇龍覇ァッーーー!!」




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本気の代償

 小宇宙の激流が眼に見えるほどに高まり、拳から放たれようとしているその瞬間。

 人間の急所、心臓の位置が丸見えになる、紫龍の最大の弱点。

 わずか千分の一秒のタイミングで、拳が下がる。

 しかし、光速で動く人間には、わずかどころではない。狙ってくれと言わんばかりの隙だ。

 その寸分の隙を見逃さず、紫龍の心臓に拳を打ち込もうとしたとき、俺の腕に絡みついたものがあった。

 

「なにぃ!」

「瞬!」

「させ、ないよ!」

 

 闘技場(コロッセオ)の壁に叩きつけられ沈黙したはずの瞬だった。

 同じく砕けたはずの星雲鎖(ネビュラチェーン)―――右腕から放たれた角鎖が、俺の右腕に巻きつき勢いを殺せば、左腕から伸びた円鎖が、紫龍の左胸を中心に渦を描いて立ちふさがる。

 壁の助けを借りてようよう立ち上がりましたといった風情だが、立ちのぼる小宇宙に陰りはない。覇気のこもった視線で、紫龍をうながした。

 あの鎖、そういえば再生するんだっけか。

 

「紫龍の弱点くらい、分かってるからね。これを待ってたんだ。今だよ紫龍!」

「ああ、感謝する、瞬!」

 

 むう、カバーしてもらった以上、盧山昇龍覇における最大の弱点は消えうせたと言える。

 回避に入ろうにも、瞬の鎖で拘束されたなら大概の敵は動けないだろうから終わりだろう。大概の敵ならな。

 俺は、紫龍の盧山昇龍覇の威力を決して過小評価はしない。脅威かと言われたら否を返すが、それだって攻略法が分かっていること、及び俺との実力差によるものだ。仮に俺と同じだけの小宇宙に目覚めていれば全力で迎撃するさ。

 

「喰らえ! 星矢よ!」

 

 紫龍の拳がうなりをあげた。

 燃え立つ小宇宙が、その顎門(あぎと)で俺を咬み裂こうと向かってくる。

 まともに受ければ、数百メートル吹っ飛びかねない勢いだ。

 

 お見事。

 なんかちょっと寂しい気もするが、素晴らしい。

 瞬がカバーすることによって、紫龍の弱点を消しさり、リスクを憂うことなく盧山昇龍覇の威力をそのまま活かす。

 俺達は単体で戦うことが多かったから、こんなやり方、前回は考えもしなかったな。俺だけかも知れないけど。

 しかし、俺達に限らず、基本的に聖闘士の戦いは仲間同士で組むことなど少ない。個人の実力が高いから、組むと逆に邪魔なんだ。互いにな。

 けど、組むとこういう利点もできるってことは覚えておこう。

 ……が、そんなことくらいで黄金聖闘士に勝てると思ってもらっちゃ困る。

 分かりやすい弱点があるということ、そこからして良くない。そんなに分かりやすい弱点なら、せめて逆に罠に利用するくらいでないと通じないだろう。黄金聖闘士ってのは、どいつもこいつも規格外だから、生半可な罠では突破されそうだが。

 第一、二人じゃなくて単体で戦うことになったらどうする気なんだか。

 

 そんなことをのんびりと考えながら、小宇宙の激流が俺に放たれる寸前に、左手で突き出された拳を掴みとめ、巻きついた鎖を引きちぎろうと右腕を引いた。

 しかし、鎖は俺の腕に巻きついたままきしんだだけだった。

 なるほど、強度は申し分ないらしい。ならば、逆に引っつかんで瞬ごと放り投げてやろう。

 逆手に鎖を掴みとり、今度は引きずり寄せる意図を持ってぐいっと引いた。鎖そのものが嫌がっているようなビリビリした衝撃が手に伝わったが、耐えられる程度だ。あ、一万ボルト流れるんだっけ?

 本当に俺は色々と忘れすぎてるよな。これで何度目になるのか、自分への溜息をこらえながら、掴んだ鎖をさらにたぐりよせ……られない。

 瞬は微動だにしない。

 先ほどまでたわむだけの余裕のあった鎖がいつの間にかピンと張っている。ギチリときしむ音がした。

 

「無駄だよ。僕の星雲鎖(ネビュラチェーン)は伸縮自在なんだ」

 

 言いながら瞬は手甲に包まれた手を上にグイッと引っ張る。鎖が俺の右腕に食い込んだ。かつての俺であれば、腕がちぎれていたかもしれない。

 なるほど。伸縮自在と言っても、それはお前のほうからコントロールできるって意味か。俺が引っ張れば引っ張るだけ伸びて、お前が引く分には締まるわけだ。

 力で負ける気はしないけど、これじゃ引っ張り合いでは決着はつかないだろうな。

 すぐには対処できないと判断して、引っ張り合いつつも意識を左手に移した。

 激発しそうな小宇宙が俺の手の中で無理やりに押さえつけられて暴れている。逆流する威力に紫龍の顔は苦悶にゆがみ、血を吐かんばかりだ。

 ボトボトと腕をつたい落ちる赤い色彩に、危機感を覚えて声をかけた。

 

「紫龍、拳を引け。さもなくばお前の拳が使いもんにならなくなるぞ」

「だ、れが!」

「お前の拳を押しとどめているのは誰の手だ。誰がお前の盾を砕いた。そら、そろそろ骨が砕けるぞ」

 

 さっさと終わらせないと、砕けるどころか腕ごと無くなるんじゃないだろうか。まずい。いくら紫龍でもそれは再生できない気がする。一輝だったらやりそうだけど。

 ええい、さっさと拳をひけ紫龍。

 それに時間もない。那智はこのままじゃ死ぬ気がするんだよ。少しずつ小宇宙が薄くなっていって、正直もう生きてるか死んでるかよく分からない。

 位置的に背後にいるもんで、目視もできない。なら感覚に頼るしかないんだが、こうして戦っている最中にそっちへの集中なんぞできるかというのが本音だ。失礼だろ。……集中したって分かるかどうかは別としてもだ。

 俺のアンテナは鈍いわけじゃないと思うが、ちょっとばかり細やかさに欠けている。ちょっとだけな。

 

 しかし、いつまでもこうしてはいられない。

 俺は、紫龍の拳をはねのけ、同時に瞬のほうに向かい地を蹴った。

 

「クッ、うああぁぁぁっ!」

「なっ!」

 

 紫龍が己の拳の威力のままに吹き飛ぶのをかろうじて視界の端にひっかけ、瞬の虚を突かれた表情を確認。

 鎖は気にしない。星雲鎖(ネビュラチェーン)がいかに伸縮自在といえど、近づくにあたっては何の支障もないぜ。接近戦に持ち込めば引っ張り合いの駆け引きも必要なくなる。

 ついでに言えば、接近戦は得意なんだ。師匠が得意だったもんでな。

 背後から風音を立てて迫ってくるのは、瞬が引き戻した円鎖か。だが、遅い。

 

「とめてみろよ、瞬ッ!」

 

 聖衣に頼って実力を隠したまま、とめられると思うな!

 加減しつつも、ひねりを加えてぶん殴った。

 聖闘士にしては細身の身体がのけぞって一瞬宙に浮き、そのまま地に叩きつけられる。一、二回と弾み、動きをとめた。

 その名を呼びながら、紫龍が駆けつけてくる。ちょうどいい。

 ペガサス流星拳の構えを取った。起き上がろうとする瞬と、それを支える紫龍の目が見開かれ全身に緊張が満ちる。

 どうするよ? 今度はあまり手を抜かないぜ。紫龍を巻き添えにしてなお、お前は力を隠すか? 瞬。

 

「ペガサス流星拳ッ!」

 

 打つ少し前に、確かに抵抗を感じた。

 空気が急に重くなった感触。

 渦をなして重みがまとわりつく。

 空気そのものが鎖と化して全身に絡みつくような重たさ。

 

 だが、突破できないほどじゃない。

 

 地力が、違う。

 瞬の掛けた無形の鎖、それを引きちぎるだけの力を、小宇宙を呼び覚ます。

 俺の拳は、若干勢いを殺しながらも力技でソレを撃ちぬいた。

 かなり容赦なく。

 セブンセンシズの高みに至らねばこの速度には達せまい。

 速度が生み出す激突の衝撃。耳障りなソニックブームが破壊を撒き散らす。

 

 ……やっちまった。

 

「なぜ、こうなったんだろう。どうしたもんかな」

 

 その後のことは言うまでもなく、泣き言と悲鳴と怒号の嵐だ。

 紫龍と瞬はともかく、それに市が加わっているのはなぜだろう。動けない那智をかついで、振ってくるコンクリート塊をかいくぐる羽目になったからか。その途中で破片が頭にあたって崩れかけていたモヒカンが完璧に崩れたからか。

 しかし、瞬や紫龍と見比べれば、奴はまだマシなほうだというのに。ひびは入っているけど、奴の聖衣は一応まだちゃんと聖衣の形状を保っているし、怪我だって大したことないしな。

 

 ところで、今気づいたんだけど、瞬は「待っていた」と言った。つまり、仕掛けるタイミングを待ってたってことだよな。それって、取りも直さず那智達のことを見殺しにしたってことじゃ。

 ……いや、その頃はまだ倒れていただけだろう。瞬だし。わざと見殺しになんてするはずがない。

 俺は深く考えるのをやめて、コロッセオの入り口に手をふった。そこには医療班が入ろうとしながらも入れずにいる。その脇に立っているのはお嬢さんだった。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 戦闘可能なのが俺一人になった時点で、当然ながら手合わせは終了だ。

 報告を後回しにしてしまった俺は今、書斎でお嬢さんと向かい合って、シベリアで何があったかを説明していた。

 

「なるほど。でしたら、いずれ氷河は来るのですね」

「ああ。いつとは言えないけど、怪我が治り次第だから、十日以内には来るだろ」

「……死にかけていたと言いませんでした?」

「死ななかったんだから、それくらいで回復する。多分」

「そうですか。では、それはおいておきましょう。それよりもこっちのほうが懸案事項です」

 

 来た。

 よこされた眼差しの冷ややかさに、心に鎧を着せる。

 何せさっきから文句を言いたそうだったから、準備はしていたのだ。

 

「那智は集中治療室で緊急治療中ですが、まだ意識は戻りません。このまま戻らない可能性もあるとのことです。紫龍と瞬と市は高度治療室です。骨折、裂傷、挫滅傷合わせて最低でも安静三ヶ月だそうですが、聖闘士としての回復力を考え合わせればもっと早く動ける可能性も高いそうです」

 

 医療チームからの簡易報告書に目を通しつつ「まあ、聖闘士ですものね」と呟くお嬢さん。

 慣れが見えるな。俺のいない三日間、どれだけやってたんだろう。あいつら。

 

「さらに深刻なのは、聖衣の損傷です。龍座(ドラゴン)の盾と拳は元の形状を留めておらず、アンドロメダ座の聖衣、海蛇座(ヒドラ)の聖衣も破損していないところがないくらいです」

 

 お嬢さんは嘆息をもらして、書類を机に置いた。

 顔を上げ、しっかりと合わせられた目線が俺に訴えている。

 

「この問題の最も深刻な点は、修復不可能であるというところですけれど……」

 

 無言が絶対の強制力を持つ。

 分かってる。俺のせいだ。責任もってなんとかします。方法は一つしかないけど。

 でもな、一言だけ言わせてくれ。

 

「俺が手出ししなくても、壊れかけてたと思うんだけど」

 

 我ながら言い訳がましい。

 自覚しつつも弱々しく反論した俺を、お嬢さんは一刀両断した。

 

「だからなんです? あなたが壊したことに変わりはありませんよ」

 

 口に出されずとも目が語る。「トドメを刺したのは誰だ」と。

 ごもっともだ。

 聖衣を修復できる者は俺の知る限りただ一人。ムウだけだと説明すると、当然ながら行けと命令されたので、聖衣はどこだと尋ねると、「もう行くのですか」と逆に尋ねかえされてしまった。

 俺にどうしろと言うのだろう。

 即日、行ってほしいから命じたんじゃないんだろうか。

 じとっと目線だけで責めると、なぜかお嬢さんはうつむいた。

 沈黙が意味不明だ。

 

「せめて明日にしなさい。今日は疲れているでしょう」

 

 長い髪で顔を隠して、合間から見える耳だけがほんのりと赤い。

 俺は了承を返して、手をひらりと振った。

 勘弁してくれ。それは気遣ってくれているととっていいんだよな。なんで命令形なんだ。もっと分かりやすい言い方をしてくれたら、とは思うが、お嬢さんだもんな。仕方ない。

 明日か。ならば。

 

「お嬢さん、紫龍達の見舞いに行ってもいいか」

「……ええ。好きになさい」

 

 部屋を出てから気づいた。

 紫龍達がどこにいるのか知らないな。

 迂闊(うかつ)だった……。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 どうしようかと焦ったものの、怪しい白衣集団を追いかけているうちに城戸家一角に病室が設置されているのを発見した。

 ありがたいことにネームプレート付きだ。全員に個室を与えているらしく、廊下を挟んだ右に三部屋、左に四部屋、合わせて七部屋。贅沢だと思うのは俺が貧乏性だからだろうか。だって他にちゃんと個人のための部屋はあるんだぜ。

 病室のドアを軽く叩いて、返事を待たずに入る。

 中にはベッドに半身を起こした紫龍と、椅子に座ったままベッドにもたれかかって寝ている春麗さんの姿があった。

 

「よう。邪魔するぜ」

「星矢か」

「ん。思ったより元気そうで何よりだ」

「嫌味か。それは」

「まさか。考えてもみろよ。那智は意識不明、回復しない可能性もあるんだとさ。聖衣は破損が激しく、もう使いものにならない」

 

 比べればまだ元気だろ、紫龍はさ。

 そう続けながら窓の縁にもたれかかった。よく晴れた空から乾いた風が気まぐれに入ってきて、気持ちがいい。

 紫龍は何とも言えぬ顔で苦笑して、そのままなぜか拳を握って挑戦的な目つきになった。

 

「確かに、明日までには動けるようになってみせる程度には元気だな。無傷のお前を見ると複雑な気分だが、次はこうはいかんぞ」

 

 真摯な目線に、カリカリと頬をかく。

 なんだろう。一輝と同じようなことを言っているのに危機感は薄い。人徳の差か、実力の差か。

 けど、残念だったな。

 

「明日は、もう俺いないぜ」

 

 驚いたように紫龍が目を見張った。

 そのまま気遣う表情になる。

 

「またどこかに行くのか? 随分と慌ただしいな」

「聖衣が壊れちまっただろ。俺のせいもあるし、ちょっと修理を頼みに行ってくる」

「お前が言うと近所にお使いでも行くようだな」

 

 思わずといったように、紫龍は嘆息混じりの笑いを漏らした。

 そうかあ? そうでもないんだけどな。

 お嬢さんに返事をしたときはお説教嫌さにあまり考えてなかったが、よくよく考えるとちょっとまずいかもしれない。老師とムウが協働して銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)を開催するよう仕向けた可能性を考えるとな。思い切りその邪魔をしているのは誰かという問題があったんだよな。この推測が正しいとすると、ムウに会った瞬間、攻撃を仕掛けられる可能性もあるということでだな。

 ああ……どうしたもんか。

 

「そういえば、俺の龍座(ドラゴン)の盾と拳もお前に壊されたのだったな。しっかり直してきてくれ」

「るっせい。お前らもっと強くなれっての。だいたい、お前だって出るだろ。老師が倒れたって聞いたぞ」

「知っていたか。そのとおりだ。会者定離は世の習い。会うは別れの始めと白居易も言っている。老師もお年だ。まだまだお元気でいていただけると信じてはいるが、万が一のことも考えねばならないからな。大恩ある方の一大事に駆けつけもせぬ恩知らずな真似はしたくない―――」

 

 懸念を目に浮かべ心配げに語り続ける紫龍。

 俺の口元に乾いた笑みが浮かんで苦く消えた。

 そのうち知るだろうけどな。お前と大して変わらない肉体年齢なんだぞ。老師って。

 言わないけどさ。知らぬが仏とはこのことだ。遅かれ早かれ老師自ら正体を明かすのだから、驚きを奪うこともあるまい。実際見ない限り信じられないだろうし。なんで知ってるのかって訊かれたら答えられないし。

 ……でも、なんとなく釈然としない。なぜだ。

 どうにも割り切れぬ気持ちに人生の苦味を感じつつ、紫龍の発言を聞き流す。

 まともに聞いてなんていられるものか。居たたまれないったらありゃしねえ。王様の耳はロバの耳。ミダス王の理髪師の気持ちがよく分かる。言ってはいけないと分かっちゃいる。それでもなお、いやむしろ、だからこそ、言いたくてたまらんのだ。

 カラ笑いと欲求を抑えこみつつ、雑談を続けること十数分、紫龍がわけの分からないことを言った。

 上の空ではあったが、聞いてなかったわけじゃない。それでも思わず聞き返してしまうほど意味不明な発言だった。理解はしたけど、意味が分からず「なんだって?」と顔をしかめて聞き返す。

 首をかしげて紫龍を見つめれば、柔らかく苦笑された。そういう幼子をあやすような目はやめろっての。なんか嫌だから。「しょうがないヤツめ」と口に出してなくても目つきで分かるんだよ。目つきで。って違う。そうじゃない。話がそれた。

 俺は紫龍の発言を今一度思い返した。 やっぱり理解できない。老師やジャミールの話題から、なんでそんな発言になるんだろう。

 まったく不思議だ。

 

「なんだ聞いていなかったのか? 俺とともに五老峰に行こう、と言ったんだ」




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年経た虎の棲まう山

 なんでそうなるんだろう。

 素朴な疑問は口に出されることなく事は進んだ。気づけば、あれよあれよと話は通り、後は、出発を待つばかりなり、だ。

 もしかして俺は鈍いんだろうか。

 落ち込む俺にかけられる声は優しい。優しいだけに、落ち込むからやめてくれとも言えない。

 

「どうしたの、星矢。いつもの元気がないけど、何か悪いものでも食べたのかい?」

 

 特に瞬に対してはあまり強く言えない。瞬の言葉は、仮にそう聞こえなくても、からかいも皮肉もなく善意だけだと思うからだ。

 だからこそ落ち込むんだが。

 

 あっという間に話が進んだ結果、一人増えて瞬と紫龍と俺の組み合わせでジャミールに向かうこととなった。

 どうして瞬も一緒に行くことになったのかといえば、これまた話の流れとしか言いようがない。

 どうしてこうなったのか……知ってはいるが、それゆえにこそ納得できない。

 

 件の紫龍の訳の分からない提案。それに呆けた時間は長くはなかった。決して長くはなかったはずだ。

 だが、正気に戻って疑問を口に出す前に、いきなり瞬が入ってきて「僕も行くよ!」と言い放ったのだ。気配に気付かなかったとは不覚。いや、それ以前にお前も紫龍と同じく全治三ヶ月だろう。なんで自由に出歩いてるんだ。

 かすり傷一つない整った顔は、わずかに上気して色味を増している。腕に抱えていた花束は見舞いの品か。ふっくらとした花弁が瑞々しく、鮮やかな葉が大地から切り離されて間もないと教えてくれる。城戸家なら花壇の一つや二つ、いや、どこかに花園の一つや二つあっても驚かないが、これほど花の似合う男も珍しいな。

 とまあ、紫龍の提案に呆けた頭が正気に戻りかけた瞬間を狙って叩き込まれた衝撃的発言に、俺の頭は一時的にショートを起こしていた。

 瞬に花が似合うか似合わないかなんてどうでもいい。問題は今のおかしな発言だというのに。

 

「いいでしょう?」

「あのな、いいも何も、なんでそんな話になっ」

「そうと決まればお嬢さんに許可を取らねばなるまい。俺はすでに帰郷の許諾だけは得ているが、お前はまだだろう」

 

 決まってねえ! 聞けよ。人の話をさえぎるのは良くないんだぞっ!

 文句を口から出しかけたタイミングで、花束を押し付けられた。思わず受け取ると同時に「じゃ、沙織さんに話をしてくるね」と身をひるがえす瞬。「頼んだ」と手をあげている紫龍。病室から出て行く瞬を思わず見送る俺。

 待て待て待て。

 言うべきことが多すぎてどこから言っていいのか分からないが、とにかく待て。

 いつ、そんな話が決まったんだ。お前らだけで納得してるんじゃない。

 大体、何も言わずに渡されてもこの花束をどうしろってんだ。俺に飾れってか。お前の見舞い品だろうが、なんか言ってけ。

 いや、その前に、俺はいいとは一言も言ってないんだけどな!

 

 訴える声はどこにも届かず、お嬢さんはあっさりと許可を出した。出したばかりじゃなく三人でムウの元まで行くこととなった。春麗さんもいるが、彼女は五老峰までだからな。

 と言っても抗議しなかったわけじゃない。目一杯したんだけど説き伏せられたんだ。

 俺は口の回るほうじゃないからな。丸め込むのは難しくない。自分で言うのもどうかと思うが、事実だ。しかし、丸め込まれたと分からないほど頭が悪いわけでもないんだよ。ええい、ある意味じゃ一番不幸だ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 廬山、五老峰。

 険しい岩山が連なって天を衝く眺めはまさに奇景。断崖絶壁は山というよりも巨大な岩がそそりたっているように見える。

 かと言って緑がないわけじゃない。俺達のいるところからはもう見えなくなっているが、山麓にはこれまた巨大な湖があった。深みのある緑青から鮮やかなエメラルド色の融け合う湖面は小波もなくなめらかで、木々も灰白色の岩肌にしがみつき強靭な生命力を発揮していた。中洲には牛が草を食んでおり、牧童らしき人影もあった。

 いくつかの集落を通りぬけ高みを目指す。山に引っかかる白い帯は霧か霞か、あるいは雲かもしれない。陽光が白さをつらぬいて地上を照らし出す。

 その雄大さに心がほんの少しだけ晴れた。まだまだ暗雲が立ち込めているが、さっきよりはマシだ。納得はできてないけどな。

 

「まだグズグズ言っているのかい? 一日以上経つのに諦め悪いなあ」

 

 破顔して瞬は俺を撫でようと手を伸ばしてきた。のけぞって露骨に避けたというのに、瞬は嫌な顔ひとつせずクスっと笑う。

 逆に罪悪感すら湧いてくるが、年齢はほぼ一緒で、身長も変わらない相手に撫でられるという屈辱には耐えられない。なんで撫でようとするんだよ。

 そもそも、諦めなんかよくってどうする。自分で言うのもどうかと思うが、諦めの悪さと悪運で実力以上の危機を乗り越えてきたんだぞ。今まで。

 

「そうだぞ。これだけの荷物、お前ひとりではさすがに辛いだろう」

 

 紫龍も諌めてきた。ええい、気に食わない。連携しやがって。別に俺は荷物が多くても辛くない、と大人気なく返したくなる。言ったら実にいたたまれぬ温かい苦笑を向けられると段々分かってきたから言わんが、八人分の聖衣くらい本当に平気なんだ。

 事実、四人分の聖衣を背負っているが別に苦じゃないしな。

 八人分持って行くなんて面倒と言えば面倒だから、感謝してないわけじゃないけどさ。

 俺は、当初、持っていくのは紫龍と瞬の分だけと思っていたんだが、お嬢さんの認識は違っていたらしい。瞬が許可をもらいに行くと「分かりました」とうなずいた後に荷物持ちを指示してきたんだと。

 お嬢さん、聞いてない。全部持っていくなんて聞いてない。持っていくのは別に構わんから、まず俺に言ってくれよ。

 

 複雑な気分だ。不満ばかりがあるわけじゃない。

 俺についてくるより、城戸邸で修行して実力をつけたほうが死ぬ危険は少なくなるぞ、とか。

 万が一、ムウに敵認定されて攻撃されたら、今のお前らじゃ一溜まりもないぞ、とか。

 これから、ゆっくり休む暇もないのに、わざわざ俺と来るより、つかの間の安らぎを大事にしろよ、失ってからじゃ遅いぞ、とか。

 言いたいことは色々とあるんだけどなあ。

 口に出すわけには行かないのが辛いところだ。問い詰められたら答えられないし、嘘もつきたくない。

 となったらもう言い負かされるしか手がない。

 

 それでも、言い負かされただけなら、叩き伏せて入院を伸ばせばいい。すぐに復活しそうだが、気合を入れて叩きのめせば三日は足止めできるだろう。多分。

 本気で実行しようかと一瞬だけ迷ったのは内緒だ。シャカやカミュが頭にちらついたからやめたけどな。俺も大概気が短いのかもしれない。気をつけよう。

 それによくよく考えれば、ムウに敵認定される可能性はこれで潰せるかもしれない。ムウと老師が繋がっているのは間違いないからな。紫龍にかこつけて老師に会い、信頼を得ればムウに襲われたりはしない、はず。しないといいな。

 希望的観測に過ぎないかもしれないが、前向きにいこう。災い転じて福となす。これはチャンスだと考えろ。自分に言い聞かせるも気分の重たさは変わらない。

 置いていったほうが安全だ。連れていったほうが安心だ。

 置いていけば面倒だ。連れていけば危険だ。

 さて、どっちがマシだろう。

 そもそも、俺はこんな問題を考えるのに向いてないのだ。考えていると脳髄が沸騰する。誰かに放り投げられればいいのにな。頭脳労働は俺の持分じゃない。

 ここまで考えたところで、諦めに似た疲労感が俺を襲った。放り投げられないからやってるんだよな。ああ、高山の薄い空気が目に沁みるぜ。なんで紫龍も瞬もそんなに楽しげだ。

 

 ちなみに俺と同じく瞬の背にも四つパンドラボックスが積まれている。

 では紫龍は空手かと言えば、そうじゃない。その背では春麗さんが寝息を立てている。

 彼女も途中までは自分で歩いていたんだが、急ぎたい理由ができたので紫龍に背負ってもらったのだ。

 疲れていたらしく、背にのって数分もしないうちに寝てしまった。もしや、かなりのハイペースだったか? なるべくゆっくり進んだつもりだったんだけど……女性の基準を魔鈴さんにするのが間違いなのかなあ。

 どうでもいいことを思いながら、彼女が寝てから速めていた足をさらにせかす。

 手振りで紫龍と瞬にも急ぐようせき立てた。

 

「星矢、何をこんなに急いでいる? 何か感じたのか」

「僕の星雲鎖(ネビュラチェーン)も不安がっているみたいだ。星矢、君はこれがはっきりと分かるのかい」

 

 分かるも何も、と肩をすくめた。

 はっきりとは分からん。そこまで露骨じゃない。だが、竹林に潜みこちらに視線だけ向ける大虎のごとき小宇宙。

 いや、特にこちらを注視しているわけでもないな。ただ縄張りの中の存在感が大きすぎて、自身が異物であるとはっきり思い知らされるだけで。

 あまりにも雄渾。

 あまりにも強大。

 紫龍が何も感じないのは、この中で育ったからだろう。

 包み込まれることに慣れているのだ。

 敵意や悪意を感じないから、瞬もあまり反応してないんだろうが俺は落ち着かない。居心地が悪い。

 今、機嫌よく寝そべり牙を剥いてないからといって、虎に爪や牙がないと信じる阿呆はいないだろう。

 風の一吹き、雨の一滴をとっても誰かの支配下にあると感じる感覚。女神(アテナ)の座す聖域や冥王(ハーデス)の統べる冥界を思い出す。

 あそこまで圧倒的じゃない。ただ間違えて立ち入り禁止の私有地に入り込んでしまったような違和感だ。

 こうして考えると、聖域や城戸家は俺の縄張りみたいなものだったんだな。正確には縄張りってわけじゃないけど、帰属意識はある。俺が帰るべき場所、帰ってもいい場所、俺の居場所が誰に確かめるまでもなくちゃんとある。

 ここは、どうにも尻の座りが悪い。

 だから、急いでるんだが……紫龍、老師が急病だなんて、絶対に嘘だと思うぜ。お前には言えないけどさ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 最後の絶壁に見上げた。首の痛い角度だぜ。

 道がないわけじゃないが、回り道だ。直接行ったほうが早い。

 僅かな足がかりにつま先だけかけながら、パンドラボックスを下ろして軽くなった身でひょいと飛び上がっていく。時に足場が崩れるが、崖に手刀を垂直に突っ込んで落下をふせぎ、そこを支点に身体を蹴り上げさらに飛んだ。足場がなければ速度を上げて一気に上に駆け登る。山羊にでもなった気分だ。

 上空から小さな影が落ちた。(わし)かな。俺達を獲物にでも定めているのかもしれない。大型の(わし)が急降下するスピードってのは最高速三百五十km/hにも到る。最大の武器は嘴ではなく鋼のごとき爪だ。かのプロメテウスは犬の頭をした(わし)に内臓をつつかれ続けたと言うが、爪のほうが鋭利なんだぜ。牙が四本あるのと変わらない。

 握力はおよそ百四十㎏超。山羊でも鹿でも、仔はもちろん時として雄の成獣だって獲物にする。俺達なんてあいつらにとっちゃ手頃なサイズだろう。

 ああ、思い出すな。魔鈴さんに連れて行かれた地獄の特訓。三十㎏の肉の塊を背負って必死に逃げ回った恐怖の思い出。おかげで特性も倒し方も分かったし、何より逃げ方は一生忘れないが……なんだか素直に感謝する気になれない俺は恩知らずなんだろうか。

 遥かな大空の彼方で舞う姿は豆粒のようだが、おそらく全長一メートル以上、翼を開いた姿はおよそ三メートルに達するだろう。だが恐るには足らない。人間よりも遥かに攻撃力にすぐれてはいるが、あれに負けるようじゃ聖闘士の名折れだぜ。

 頭の隅でそう思いながら、垂直に近い傾斜を駆け走った。

 

 頂上についたタイミングに合わせて、下から瞬の鎖が追ってきた。腕を差し出して巻きつかせれば、グッと重みがかかり、背にパンドラボックスを負った瞬と紫龍が登ってくる。

 俺を支点ボルトとすれば、星雲鎖(ネビュラチェーン)がザイル代わりだ。ロッククライミングの趣味はないが、魔鈴さんに何度も崖から突き落とされたので否応なしにできるようになった。我流だけど。

 あの人どんな時でも何がなんでも助けてくれなかったからな。それでも弟子入りしてすぐの頃は、気絶から覚めると綱だけが垂れ下がってたりもしてたんだが、一年もすれば自力で這い上がるしか生き残る術はなかった。

 過酷な思い出に自然と天を仰いだ目が遠くなる。空がいやに青く高い。何だろう。涙が出そうだ。感謝してるし尊敬もしてるが、スパルタな上に優しさの分かりにくい人だった。厳しさこそあの人の思いやりだと分かるのは、今でこそだ。厳しすぎだもんよ。よく生き残った俺。

 

 空を見上げながら虚しく己を褒めている間にも紫龍達が距離を詰めてきた。

 紫龍の背には俺の背負っていた分のパンドラボックス。右腕に目覚めた春麗さんを座らせ、左手は瞬の鎖を掴んでいる。

 瞬は同じく背にパンドラボックス。右手で上へ伸びる角鎖を制御しながら左の円鎖を紫龍と春麗さんに巻きつかせて安全ベルト代わりにしている。気遣いは分かるが、見た目がちょっとよろしくない。ううむ、見ようによっちゃ逃げないように拘束してるみたいだぞ、瞬。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 滝に最も張り出た崖の先。

 大岩の上にちょこんとコブが盛り上がっているように見える背。老師の真正面を流れ落ちる滝の飛沫は、離れている俺達にまで冷たさを感じさせるが、気にもとめずに瞑想しているようだ。

 瞬と俺は一歩下がり、紫龍が逆に踏み出した。

 滝壺になだれ落ちる水が轟々とこだまする。その轟音を制して紫龍の声が響いた。

 

「老師、龍座(ドラゴン)の紫龍ただいま帰参いたしました。お倒れになったと聞きましたが……!」

 

 心配そうにしていた紫龍が言葉を訝しげに途切らせた。

 正確に言えば、楽しげな笑い声でさえぎられたのだ。

 ゆっくりとコブの上部が動き、白髯に埋もれたしわ深い顔が俺達のほうを向いた。稚気を帯びて悪戯っぽく輝く目だけが老いを感じさせない。

 

「ホッホッホ、ただの冗談を信じて帰ってきてしまうとは、まだまだヒヨコよのう、紫龍よ。巣立ちにはちと早かったかの」




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英雄たちの向かう場所

 あっけらかんと冗談だと言い切られて紫龍が絶句する。ちなみに日本語だった。

 一緒に来ていた俺達に気を使ったのか、老師と紫龍の会話はすべて日本語なのか、迷うところだ。そういえば春麗さんもきれいな日本語だった。紫龍が教えたのかと思ってたけど、この分じゃ、老師が教えた可能性もあるな。

 のんびりと傍観する俺。

 一方、紫龍は言葉の意味を理解できないといった様子で唖然と老師を見上げ、わずかな間をおいて口調を荒らげた。

 

「なっ、春麗に危篤と聞き心配しておりましたが、ご冗談とはあまりにもひどいではありませんか!」

 

 紫龍が怒るのも無理はない。

 最初から仮病だろうと踏んでいた俺と違って、紫龍は本気で安否を気遣ってたもんな。

 だが、老師は悪びれない。

 

「ホッ、一人前の聖闘士たる者、思考は冷静に小宇宙は熱くと教えたはずじゃがな。やれやれ、お前の心にはまだ幼さがあるのう。ヒヨコじゃヒヨコじゃ」

「は……、い、いやしかし……いえ、ご無事で何よりでした」

 

 割り切れない、という表情の紫龍。

 客観的に見ても間違ったことは言ってないと思うんだが、平然とした老師の態度を目の前にすると紫龍が間違っているように思えてくるからすごい。

 現に紫龍もそれ以上の抗議を飲み込んだ。聞き分けがいいというか、丸め込まれるのが早いというか、とにかく損な奴だ。

 春麗さんがいればまた違ったのかも知れないが、ここには一緒に来なかった。先に家に戻りお茶を淹れる支度をすると言って別れたのだ。気を使う必要はないと俺も瞬も言ったんだが押し切られた。さすが紫龍の幼なじみ。礼儀正しい。

 老師の教育成果かと思うと少々納得いかない。

 

「して、久方ぶりの生まれ故郷で得たものはあったかの」

 

 すかさずまっとうな話題への転換も抜かりない老師。

 黄金聖闘士として長きを過ごす為にはこの図太さを身につける必要があるんだろうか。それってどうなんだ。聖闘士に繊細さなんて求めようとは思わないが、この在り方は人間として間違ってやしないか。

 乾いた溜息がゆるりと口からもれる。同時に浮かんだのは諦観の笑みというやつだ。

 出会い頭に攻撃されるかもなんて妙に緊張していたのがばからしい。そこまで親切に分かりやすい相手か。何を考えているのか分からないなら、余計な予測はやめておこう。疲れるぜ。

 

「はっ、世界の広さを思い知りました。井の中の蛙大海を知らずとはこのことです。まさか昇龍覇の隙をいとも簡単に見抜く者や、龍の拳と盾をあっさりと砕く者がいるなどと思いもよりませんでした」

「嬉しそうじゃの」

「大海へと泳ぎ出す前にその一端を知りました。得難き友を得、その友が誇るに足る兄弟だと知り、今まで己には縁がないと思っていた絆を見出しました。知りたくなかった事実はあれども、この紫龍、以前よりも一回り大きくなって帰ってきたつもりです」

「ほう、ヒヨコはヒヨコでも、いつの間にやら卵のカラは取れているようじゃのう。よきかな」

 

 莞爾として老師が表情を崩す。

 シベリアに負けず劣らずここの師弟も仲がいい。

 ここまでの道程で魔鈴さんのことを思い返していたからか、なんだか侘しかった。

 俺達だって別に仲が悪いわけではないんだが、こうも和気藹々(わきあいあい)とはしてないんだよなあ。どっちかといえば殺伐としてる。なんでだ。

 

「しかし、得たものに比して代償は大きかったと見えるの」

 

 老師の視線が俺と瞬―――正確に言えば背に負うパンドラボックス―――を射た。

 分かるのか。満身創痍、いや、断末魔さえあげているような聖衣の惨状を、その目にもいれぬうちから感じ取れるというのか。

 油断したのか、油断させられたのか、無意識のうちに落ちかけた老師への警戒感が復活する。

 たじろいだ紫龍が言いよどんだ。

 

「そ、それは」

「責めてはおらん。聖衣とは身を守る防具。飾り物やおもちゃではない以上、当然ありうることじゃ」

 

 言いながらも、老師は深い溜息をついた。

 白髯を左手で梳きながら目を細める。

 

「とすれば、ジャミールへ行く気かの?」

「はい、ご明察の通りです。私だけではなく兄弟達の聖衣にも修復が必要なのです」

「やめておけ。あそこは常人はもちろんのこと、屈強の聖闘士でもなかなかたどり着くことはできん。カラは取れてもヒヨコのお前では、聖衣の墓場で死ぬのがオチじゃ」

「聖衣の墓場?」

「そうじゃ。お前と同じように、聖衣を修復してもらおうとジャミールへ行ったあまたの聖闘士が、力尽きて死に絶えた墓よ」

 

 老師の表情はほとんど変わらないが、声だけが静かに重い。

 思いを汲み取った紫龍の表情が硬くなる。それでも、「しかし」と抗弁しようとする紫龍の声に割り込んだ。

 師弟の会話に横槍を入れる無粋は承知の上。

 だが、ちょうどいい機会だ。どうせ迷っていたんだ。老師がこうまでも言うならやはり俺一人で行こう。

 

「待ってくれ。行くのは紫龍じゃない。俺だけだ」

「……ほほう」

「星矢!?」

 

 疑問と咎める響きを含んだ紫龍の声。

 白髯に埋もれ表情の読めぬ老師の視線。

 ついで瞬が俺の腕を掴んで首を振った。

 とめるな、瞬。ついでにお前もどうにか置いていくつもりなんだ。

 

 前回の紫龍が行って帰ってきた場所だ。問題ないとは思うんだが、老師が嘘偽りを吐くはずもない。なら危険なんだろう。

 うがった見方をするなら、ムウに取り成してやる気はない、戦闘覚悟で行けってことかもしれない。いや、紫龍に対してそれはないか。仮に敵と見なすとすれば、俺だけのはずだ。

 あるいは、他に理由があるのかもしれない。老師が何を考えているのかなど知らない。知る術がないなら考えない。自分なりに考えるってことは、俺に都合のいい解釈になりかねん。

 なんにせよ俺が行く。

 前回は紫龍に任せていた。その血肉を削って復活させてくれた聖衣の借りを俺は忘れちゃいない。今度は俺の番だ。

 誰のせいで壊れたかという問題もあることだし、元々から連れて行く予定でもなかったしな。

 

「星矢、心配してくれているのは分かっているけれど、あまりにも水くさいよ。僕も行く」

「そうとも。お前が俺達を思ってくれるのは嬉しいが、お前一人を危険な場所へなどやるものか」

「へ?」

「弟思いなのは感心じゃが、君子危うきに近寄らずとの言葉もあるぞ」

 

 老師が髭をしごく。にんまりと笑んだ。

 矛盾だ。危うきに近寄るどころか、飛び込むのが聖闘士の本分じゃないか。

 飛び込みたいと思ったことはないが、危うきを救うのが俺達なんだから飛び込まざるを得ない。

 俺達は君子じゃないんだ。老師だってそんなことは分かってるはずだが。

 

「星矢よ、お前にもこの言葉を贈りたいのう」

「いや俺は」

「老師、危険だからと避けていては何も手に入りますまい。虎穴に入らずんば虎児を得ずとも申します。この二人は私の弟。ましてや星矢は末の弟です。兄としてどうして弟を一人危険に追いやれましょう」

「待て、それは別の」

「その通りです。失礼ながらご挨拶が遅れてしまいましたが、僕はアンドロメダ座の瞬です。名高い五老峰の老師にお目にかかれて光栄です」

「だから人の話を」

「虎穴に入らずんば虎児を得ずか。その通りではあるが、命あっての物種とは思わぬか。紫龍、瞬」

 

 置いていく方向に話を持っていくつもりだったのが、何やら逆方向に進めてしまったらしい。なぜだ。

 言い募る二人の熱心さは、口を挟む隙を与えてくれない。老師も何やら言う割には俺の意見は必要としてないらしく、俺の口が開くのを待ってはくれない。

 気にしなくていいのになあ。元から俺一人の予定だったんだから。

 

「しかし、どうあっても行かねばなりません。私だけのことではないのです。それにこれから聖闘士として女神(アテナ)のための戦いに身を投じねばならないというのに、ここで未熟だから危険だからと星矢だけに押し付けることがどうしてできるものですか」

「僕も同じです。ここで引いては後悔すると眼に見えています。聖闘士として、いいえ兄として星矢一人だけに行かせることなどできません。たとえ星矢に拒まれてもです」

「ふうむ、命を惜しむ気はないのじゃな。よかろう。そこまで言うなら無理に引き止めはすまい。くれぐれも気をつけて行くのじゃぞ」

「老師……ありがとうございます!」

 

 俺を置いてどんどん話が進んでいく。なんだ、この既視感。

 しかもむずがゆい方向に進んでいくからどういう顔をすればいいのか困る。

 ただ、目頭の熱くなる思いやりではあるが、正直、何だか不当な扱いを受けている気もするんだよな。

 言っとくけど、少なくともお前達よりは強いぞ俺。保護者は要らん。

 さらに言えば、その理屈だと、危険と分かっていてお前らを連れて行く俺の人間性を疑いたくなるんじゃないだろうか。

 要するに紫龍の言い草を借りるなら、弟としてどうして兄を危険にさらせるかってやつだろ。

 望むなら、一緒に行ったって別に構いやしないと思うが。

 だって、死の淵を覗き見る程度のことはやらないと勝てない。今の俺だって、幾度となく死にかけてようやく得た強さだ。死をも覚悟する強者との戦い。限界を突破するための試練。

 一輝率いる暗黒聖闘士はもう来ない。白銀聖闘士も恐らく来ないから、聖衣の墓場はちょうどいいと言えばちょうどいい。問題は、多分ない。

 瞬や紫龍が聖衣の墓場ごときにやられるはずがないと信じている。だから、問題はない、はずだ。ないよな。

 ううむ、問題がなければないで不安になるのは、なぜだろう。どこかに見落としがあるんじゃないか。何か忘れてるんじゃないか。経験が胸を騒がせる。

 いつからこんなに心配性になったのかとも思うが、ここ最近、これを無視してろくな目にあったことがないからな。

 思い返してげんなりした俺に、老師が落ち着いた声を掛けてくる。

 

「ところで星矢よ、お前の名はどこかで聞き覚えがあるんじゃが、どこじゃったかな」

 

 笠を持ち上げてこっちを見ながらつぶやく老師。

 俺に聞かれても困る。

 よくある名前だとは言わないが、そうそう珍奇な名でもないと思うんだが。

 それともどこかで会ったか。俺にはとんと記憶にないが、前回はこんなこと言われなかったよな。

 首をかしげた。

 

「名乗ってなかったっけか」

「お前からの名乗りは受けとらんのう」

「そりゃ失敬した。お初にお目にかかる。俺は天馬座(ペガサス)の聖闘士、星矢」

 

 遅ればせながらの自己紹介を言い終えるか終えないか、ゾッと背筋を氷刃が走り抜けた。

 強烈な威圧感。

 物理的なまでの重圧。

 牙を鳴らす猛虎の気配。

 ほぼ無意識で身構えた。猫だったら全身の毛を逆立ててるところだ。

 だが、一瞬の間を置き嘘のようにかき消える。

 代わりに響いたのは先の名残を一切とどめぬ老師の明るい声。人に冷や汗をかかせといてそりゃないだろ。紫龍と瞬は硬直しつつも困惑した様子だ。

 体だけが反応したわけか。もうちょい、だな。

 いや、この時点でのこいつらが反応するほどの気迫を放つ老師に問題が……言っても仕方のないことか。

 

「……天馬座(ペガサス)の聖闘士。ふうむ!」

 

 げっそりと呆れる俺にかまわず、老師はぽんと膝を打って、身を乗り出してきた。

 きらきらとした瞳が童じみた好奇心を覗かせて輝きを増し、俺をとらえる。

 居心地の悪さに思わずみじろいだ。

 珍しい虫を見つけた子供の目つきだ。とすると、この場合は俺が虫か。なんという例えだ。

 何だろう。この上もなく嫌な予感がする。むしろ、嫌な予感しかしない。

 

「思い出したぞ。シャカが言っておった男じゃな」

「へ? シャカ?」

 

 なんであいつ?

 意表を突かれてまばたく。予想外な名前だった。

 紫龍から聞いたのであれば納得もいこうというものだが、よりにもよってシャカか。

 あいつ教皇派じゃなかったか。

 紫龍が報告をしてないのも意外なら、シャカが言いに来たってのも意外だ。

 そりゃ口止めも何もしてないし、どこで何を言っても不思議じゃないが、なんで老師なんだろ。一体何を考えてる。

 謎めいた行動に思考を巡らしかけて俺は目を閉じた。落ち着け俺。無駄なことはしないに限る。シャカの考えてることなんて分かるもんか。

 

「先日、突然来ての。ホッ、なかなかに面白い話を聞かせてもらったぞ。実に、興味深い話じゃった」

 

 ぱちりと目を開く。含みがある声音とでも言うのか、じっとりと重苦しさを感じる言い方だ

 ……何をどう話したんだ、シャカの奴。

 返事に詰まる。口の端がひきつった。

 その間にも老師の俺を見る目が意味深に細められる。穏やかな視線だが、どうにも読み難い。いや本当に何を言ったんだシャカ。ぶっちゃけて恐い。色んな意味で。

 

「すっかり一皮むけておったが、何をしたんじゃ。あのシャカに」

 

 それは俺も知りたい。心の中だけで返して、俺は無言を貫いた。

 俺は一体あいつに何をしちゃったんだろう。

 ぶっ飛ばしたことを根に持っているわけではなさそうだし、一体なんなんだ。教えてくれ。

 いや、やっぱりいい。いまさら取り返しはつかん。知ったら、それはそれで悩みが増えそうだしな。

 矛盾する願望に、俺は天を仰いだ。

 高く青く澄んだ空は何の答えももたらさなかった。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 山を高みを目指して、ただひたすら登っていく。険しい岩肌に雪がちらほらと残っていて、そのどこにも人間の足跡がない。獣の足跡でさえまばらだ。難所中の難所であることがうかがえる。

 空気が薄いのか、紫龍と瞬の呼吸が乱れ始めた。気温も低い。感覚になるが、おそらくマイナス十度くらいか。

 先頭を歩く俺はこっそりあくびを噛み殺した。

 いつになったらムウのところにつくんだろう。随分と歩いているのにまったく着く気がしない。不満が小さく漏れでた。

 

「やれやれ、足が鉛のように重いぜ。さすがはジャミール」

「とてもそんな風には見えないよ。君の足はどうなってるんだい、星矢」

「まったくだ。俺達の分の聖衣まで背負っているとはとても思えないぞ」

 

 ぼやいた俺に瞬は肩をすくめた。紫龍まで同調する。紫龍も瞬ほどじゃないが息を切らしていて、かなり疲れているようだ。

 これだけ消耗するのは、酸素や気温の問題ばかりじゃない。歩いていてちっとも景色が変わらないからだろう。精神的にきつい。

 

 聖衣は俺が四つ、瞬と紫龍が二つずつ背負っている。 初めは、俺に二、瞬と紫龍に三ずつだったんだが、途中で疲れが見えてきたので配分を変えたのだ。揉めに揉めて、猛反対された末にようやく。

 荷物を多めに持った奴が疲れたら、軽い奴と交代するってのは道理にかなっていると思うんだが、そういう問題じゃないらしい。いまいち分からん。

 万が一にも敵が現れたら、瞬と紫龍に相手を任せるという約束で妥結したが、この約束がなければもっと揉めたに違いない。

 足を重くした疲れは酸素濃度の問題じゃなくて、軽い提案に重たく反対される訳の分からなさだ。

 押し付けられてるわけでも、無理強いされてるわけでもないんだから、そう大げさな反応をしてくれるなよと言いたい。何か誤解があるのか、それとも俺の言い方がまずいのか。

 悩みは尽きないが、今はジャミールへ行くことこそが先決だと霧の出てきた道を見晴かした。

 

 道とも言えぬ道を歩き続けてさらに数時間。

 気温はますます下がり、霧がさらに濃くなった。

 今、俺達は自然と一列になって歩いている。前から紫龍、俺、瞬の順番だ。

 眉根を寄せていた紫龍がひとりごちる。

 

「……おかしい。さっきからどうも同じ所をグルグル回っている気がするが」

「霧が濃くなったせいで太陽の位置もよく分からない。何か引っかかるね」

 

 あ、やっぱりか。

 瞬と紫龍の会話に、うんうんとうなずく。

 俺だけじゃないよな。どうかんがえても、これって迷ったとしか思えないよな。

 正確に言えば、迷わされたとしか思えぬぐるぐるっぷり。

 この霧もそうだ。

 山の天気は変わりやすいと言うが、俺達が迷ったかもしれないと疑惑を抱いて太陽を指標にし始めた途端に濃くなるなんて明らかに不自然だ。

 さすがは秘境ジャミール、ムウのところにたどり着くまで鬼が出るか蛇が出るか分かったもんじゃないな。油断は禁物と俺は気を引き締めた。

 

 白い霧に覆われますます変化が掴めぬ景色。どれほど歩いたか、もはや俺達の誰も意識してはいるまい。時間感覚がすっかり消えた頃だった。

 霧が揺らめいて形をなしたかと思えば、ぐにゃりと潰れて景色が歪む。歪んだ景色は、先ほどまでとは大きく違っていた。

 肉は食われたか消え失せ不揃いな骨だけを残す亡骸。風雨に中身の失せた鎧。ひび割れも無残な虚ろな眼窩の髑髏。足の踏み場もない草を押しつぶす骨の数。

 不吉に浮かび上がる巨大な頭顱(とうろ)が、かぼそい白霧の尾を引きながら嘲笑するようにでたらめに舞った。

 

「カカカッ、どこへ行く小僧ども! 此処から先は通さぬぞ!」




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隠遁する若き賢者

 甲高く引っ掻くように響くかと思えば、低く潰れた人を嘲る不快な哄笑が響く。

 

「此処から先は何人も入ることはできんぞ。命が惜しくば帰れ!」

 

 声に誘われたか、周囲の霧にはすでに、多種多様な具足を身につけた骸骨どもが、浮き上がってきていた。

 ガシャリガシャリと具足の組み上がる音が、周囲一帯から湧き上がる。

 俺達が見渡す間にも数を増やし、前後左右すべてを壁となって囲んだ。

 亡霊どものおめく声を無視して、軽く溜息をついたのは紫龍だ。

 

「なんだこれは。ここが聖衣の墓場か?」

「そうだろうね。奴らは敵と考えるべきなんだろうけど、僕の鎖は反応していない。妙だな」

「では幻術の一種と見るべきか。どう思う、星矢」

「……お前ら、のんきだな」

 

 やかましい亡霊どもを、いっそ気持ちいいほどに無視する二人に呆れていると、「星矢に言われたくない」と見事に重なった声が返ってきた。

 溜息をつきながら「実はそう落ち着いてもいないが、楽しそうなお前を傍らにして、怖気づくほど自恃を捨ててはいないさ」と苦笑する紫龍に、「元よりたどり着くまでに障害があると覚悟を求めたのは星矢だっただろうに」と肩をすくめる瞬。

 紫龍も瞬も素手のままだというのに、実に頼もしい。

 前々から疑問だったんだが、もしかして星雲鎖(ネビュラチェーン)は、装着せずとも索敵能力に問題ないんだろうか。それとも聖衣が破壊されているからこその感知力か。はたまた自力での探知を鎖に押し付けているのか。

 何でもいいが、前回はどれだけ実力を隠していたんだろう。瞬のやつ。

 

 肩をすくめながら、俺は片足を踏み出した。

 けたたましい亡霊共の笑い声が、いっそう騒がしさを増す。

 その瞬間に、何とも言えぬ違和感―――わずかな空気の流れの変化を感じて足を戻した。なんだこれ。

 気のせいかとも思えるほどの変化だったが、うん、結論から言えば気のせいじゃなかった。下方から上方への微風。思わず頬がひきつる。

 もしや、ここは崖の上か何かか。そう考えかけて、俺は首を振った。違う。左右どちらからも気流の変化を感じる。となれば結論は明らかだ。

 不自然にもほどがある。霧が濃いとはいえ、今まで俺達がそれに気付かなかったこと。気付かなかったにも関わらず、誰も足を踏み違えることなくここまで真っ直ぐ来ていること。

 誰の作為だ。ムウか。

 可能性としては一番高いが、世の中万が一だらけだからな。

 

「気をつけろ、横にも後ろにも動くなよ」

 

 警告だけ発して、今度は足場を確認しつつ前を探った。

 実体か、幻か。

 貫いて穴が空くかどうか試してみるか。

 俺が腰を落として踏み出すより、骸骨共が動き出すのが先だった。

 狙われたのは先頭の紫龍だ。手甲つきの骨の拳が、空気を裂いて襲いかかる。紫龍は横に身をかわそうとして、ハッと元の位置に戻った。もう一歩ずれてたら落ちてたな。

 回避よりも迎撃を選んだ紫龍の小宇宙が、瞬時に燃え上がり、霧中を鮮やかに切り取った。

 

「廬山昇龍覇!」

 

 気合一閃。

 俺達を隙間なく取り囲んでいた骸骨どもが打ち砕かれて、前方の道があいた。

 重たげな長髪が、一呼吸の間を置いて、バサリと音を立てて重力に従う。

 振り抜いた己が拳をじっと見て、紫龍は眉根をしかめた。

 

「感触はあるぞ。実体があるようだが」

 

 言い終えた直後に、砕けた骸骨共が舞い上がった。音を立てて、骨と武具が再び組み上がる。せせら笑う声は甲高い。罵る声は逆に低くしゃがれた唸り声として降ってきた。

 

「無駄だ無駄だ無駄だ。我らはすでに死した者。お前らも死して我らが同胞となるがいい!」

 

 うるさい奴らだ。別にいいんだよ。無駄だってことが分かっただけで十分だ。

 それに目的は奴らの全滅じゃない。突破だ。

 抜けるだけなら、まっしぐらに突っ走ればいい。その程度の時間は作れると証明できただけでいいんだぜ。

 

 聖衣の墓場。

 はびこる亡者ども。

 侵入者避け罠か、選別用の試練か。

 しゃらくせぇ。何にせよ、邪魔者は蹴散らして押し通るまでだ。

 

「ペガサス流星―――」

「駄目だ。よせ、星矢!」

 

 一掃しようとした俺を制したのは瞬だ。

 言葉のみならず星雲鎖(ネビュラチェーン)が腕に巻きつく。いつの間に取り出したんだ、いったい。さっきまではなかったと思うんだが。

 そもそも、なぜ止める。

 振り向いて抗議する前に、切羽詰った声が理由を語った。

 

「こんなところで撃ったら、道ごと崩れるよ!」

 

 うん? ふむ……言われてみれば、そうなるかもしれない。

 なんせこの道、とにかく細いし、狭い。

 よくも落ちずにここまで進んでこれたもんだ、と感心するくらいだからな。む、確かにどれだけ加減しても崩れかねんな。

 一応納得した俺に、瞬は言葉を続けた。にっこりと輝かんばかりの笑み付きだった。

 

「ここは僕らにまかせて。お願いだから」

 

 圧力を感じるというほどじゃないが、言葉には力がこもっている。

 そういや、そんな約束もしたっけな。

 俺は足を引いて、頭をかいた。断じて忘れてたわけじゃない。

 でも、紫龍の意志も確かめずにいいのか、そんなこと言っちゃって。

 お前の聖衣は、星雲鎖(ネビュラチェーン)のみとは言え再生能力があるから、何とか武装だけはできるが、紫龍はそういうわけにもいかないんだぞ。

 と、紫龍を見やると力強くうなずいた。

 無駄な心配だったか。

 

「じゃ、頼んだ」

 

 肩をすくめて笑った俺に、紫龍と瞬も笑みを返す。

 やれやれ、本当に頼もしくて、本音を言えば少しばかり寂しい。

 そして、何よりも、楽しみだ。

 

 俺が引いたのを確認すると紫龍は一瞬まぶたを閉ざし、次の瞬間カッと見開いた。

 霧を割って立ち昇るは小宇宙。龍が天に翔けのぼるがごとき力強い覇気。

 その拳に宿るは龍の爪か牙か、あるいは魂そのものか。

 

 それを見た瞬がふっと息を吐いたかと思えば、星雲鎖(ネビュラチェーン)による布陣が済んでいる。

 乙女の裳裾にも通じるたおやかさは、真金の剣が息をひそめた静けさだ。

 強固な攻守一体の陣は、先を見越して変則的な形を見せている。

 

「廬山龍飛翔!」

 

 放たれた小宇宙を追って、空いた正面に走りだした。

 もちろん邪魔しようと廬山龍飛翔から逃れ得た亡者どもが群がってくる。だが、瞬が角鎖を一振りすれば絡め取られ、円鎖を手繰れば弾き飛ばされ、俺達に届くことはない。

 紫龍を先頭に、走る走る走る。

 しかし、そうそうスンナリといくはずはなかったのだ。千里を往くもの九十九里を半ばとせよ、と言ったのは誰だったか。上手いこと言うもんだ。

 亡霊どもを抜ききるまであと少し、というところで、後背から鎧武者の手が追ってきた。無視していい速度じゃなかった。

 振り切るために速度を上げた紫龍の背から、那智の聖衣函が宙にこぼれ落ちる。

 すかさず瞬の鎖が放り出された聖衣函をすくいあげ、紫龍へと放り投げた。

 ここまではいい。

 だが、敵が瞬の防御をかいくぐり、俺達に手を伸ばすには十分な隙も同時に生まれた。

 紫龍が走りながら、落ちてきた聖衣函を片手で受け取るのが亡者どもの狭間から垣間見え、次の瞬間にはもう見えなくなった。亡者どもによって完全に分断されたのだ。嘲笑う骨の戦士はあれよあれよという間に数を増やし、もう紫龍どころか向こう側さえ見えない。

 さて、どうするか。

 

 手を出すかどうか迷っているうちに、骸骨どもが吹っ飛んだ。強烈な力に圧され、膜を指先で押し破るように厚みのあった骨の壁が俺達側にへこみ、そしてはじけ散った。地面が大きく揺れ、見る見るうちに亀裂が入る。

 衝撃の余波をこらえ、開いた視界を見渡した。

 紫龍だ。

 聖衣を受け止めた時点で走るのをやめ、俺達の加勢に回ったらしい。この威力は盧山昇龍覇だろうか。

 あ、やばい。足元が崩れだした。

 俺と瞬は慌てて走りだした。

 音を立てて崩れる岩盤。崩落に飲み込まれる亡者ども。

 骨の壁を打ち破るだけに及ばず、紫龍ときたら、この岩橋ごと破壊する威力の拳を打ってくれたらしい。

 本気も本気、最初に亡者に放った昇龍覇とは比べ物にならぬ威力。間違いなく最高のセブンセンシズを発揮して、全身の力を惜しみなくこの一撃にこめたに違いない。自分のためでなく仲間のために発揮されるなんて紫龍らしいこった。

 そして、その渾身の拳に、この岩橋では耐え切れなかったんだろう。さもありなん。龍の怒りを亡霊ごときで受け止められるものか。

 俺が納得する間にも、崩壊は進む。瞬の危惧が現実になったな。やったのが俺じゃないだけで。

 

 崩れ落ちる足場に、紫龍は脇に置いていた那智の聖衣函を抱え、あと一息だった対岸へと跳びこむ。

 瞬と俺もひた走った。

 だが、間に合わない。

 一歩先が、足を踏み出そうとする矢先に落ちていった。

 

「鎖よ、届け!」

 

 とっさに瞬は角鎖を振るう。向こう側の何かに巻きつけたらしい。うまいこと固定できたとみるや、「星矢」と呼びかけてきた。

 同時に、残った円鎖を俺に伸ばしてくる。

 思わず、バッとなぎ払った。

 ううむ、使い勝手がいいのは分かる。助けようとしてくれてんだろうとも思う。

 だが、そいつは武器だぞ。どういう使い方をしようとも、どういう意図があったとしても、女神アテナの敵を撃滅するための武器だ。

 意識して自分から掴まえるんならともかく、捕まえられそうになったら払いのけるのは戦士としての脊髄反射だ。どうしようもない。こら瞬「えっ?」じゃない。心外そうな顔やめろ。そもそもお前の助けが必要な場面でもないだろ。

 

 俺は落ちる岩石を、蹴り割らぬよう気をつけて下に蹴り落としながら飛び移っていった。

 あいにくと、向こう岸に着く前に岩が尽きたので、最後は崖肌にしがみついて、えっちらおっちらよじのぼる。背負うものがものだからな。あまり無茶な動き方もできない。

 つい落っことして拾いに行くなんてごめんだぜ。

 ごつごつとした岩の出っ張りに手を伸ばし、常より重たい身体を持ち上げる。

 頂上までたどり着けば、左右から手が差し伸べられた。ガシッと握って笑いかける。

 

「よお、待たせたな」

 

 いつの間にやら霧も晴れ、先程までが嘘のように澄んだ青空だ。

 地上の緑が遠かった。見晴らしの良さを楽しみながら道を進もうと踏み出したが、ついてくる気配がない。振り返ると、紫龍や瞬は谷底を覗き込んでいた。

 何か面白いものでもあったか。

 

「これは……恐ろしいほどの急崖だな。随分と危うい綱渡りをしていたものだ」

「落ちていたらと思うと冷や汗だね。見て、崖下の隆起した岩を。まるで刃のように尖っている」

「もし落ちていれば、奴らの仲間入りしてたところだな」

 

 そうかぁ?

 瞬ならさっきと同じく鎖を使えばいいし、紫龍だって落ちる時間があれば取れる手段はあるだろ。

 俺だったら、どうするか。ふむ。

 問題なのは突っ立つ岩の切っ先だからな。

 

「落ちる前に、地面ごと吹っ飛ばしちまえば、着地しやすくなると思うけど」

 

 俺は口を挟んだ。

 紫龍と瞬の首がギギギと動き、俺を見た。油を差していないブリキ人形の動きだ。な、なんだよ。その目は。間違ったことは言ってないぞ。

 自然と睨み合う、いや、そこまで険のある目つきじゃないな、とにかく見つめ合った。意味がわからん。しかも、奴らの小宇宙は少しずつ高まっていく。なぜだ。めげるな、俺。

 

 そうして虚しい見つめあいをして、どれほど経ったか。恐らく数分も経ってないが、精神的な疲労に参ったと言うべきかどうか迷っている時に声がかかった。

 耳なじみのよい優しげな声だ。ただし、口調は厳しい。

 

「何をしているんです? こんな所で果し合いでもする気ですか。小宇宙を収めなさい」

 

 記憶に残っている声、だった。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 どこから現れたのか、はっきりしない。

 もしかするとテレポートしてきたのかも知れない。

 端然とした容姿に、明らかな呆れの表情を浮かべた青年が、岩場の上に立っていた。

 天から吹き降ろすような風の中、凛冽たる声には一筋の乱れもない。

 

 ―――黄金聖闘士、牡羊座(アリエス)のムウ。

 

 紫龍と瞬は、ハッと気がついたように小宇宙を抑えた。どうも無意識だったらしい。何なんだろう。

 反応しそこねた俺に代わって紫龍が謝罪し問いかける。

 

「失礼しました。俺達はここに争いに来たわけではありません。あなたがジャミールのムウでしょうか?」

「ええ、そうです。私に何かご用ですか」

 

 瞬が息を呑んだ。

 恐る恐る問いかける。

 

「あなたがこの地上でただ一人、聖衣を修復できるという……」

「確かに。ここで聖衣の修復を行っているのは私以外にはいませんね」

 

 ありし日と変わらぬ姿と口調。

 ただ黄金聖衣をまとっていないためか、精悍さは薄く、より知的な印象が強い。

 よく分からないが、ここの民族衣装だろうか。シンプルな貫頭衣に浅葱色の帯を締め、ゆったりとしたズボン状の下衣をひざ下から紐で結い留めている。さらに赤茶色の肩布を帯に挟み込んでいた。飴色がかった長い金髪は、背中で簡単に束ねている。

 久しぶりに見る姿だ。

 紫龍が勢い込んで口を開こうとした。

 ムウが手を上げてとめる。

 

「話は私の館でしましょう。ここは長話には向きませんから」

 

 そう言いながらも、視線は瞬と紫龍に向いたままだ。二人の後ろには越えてきたばかりの切り立った幽谷。何かあるのか……って、同じことをさっきも考えたな。

 あ、そういえば橋が壊れたんだった。怒られるかな。ごめん、でも、わざとじゃないぞ。

 ムウは、静かに目を伏せると溜息とともに、手を上げてかざした。その手から陽炎として見えるほどに強大な力があふれでる。五本の指の一本一本から力が編み上げられて放出されているような無駄のない力強さ。捕まえられれば押し潰されることは間違いない。

 向けられた紫龍と瞬の表情が、驚愕一色に塗り込められた。

 

「それに後始末もせねばなりません。面倒事はさっさと片付けてしまうに限ります」




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牡羊の師弟

 それは、驚嘆に値する光景だった。

 どこまでも広がる蒼天。

 遮るものを知らず暴れる風。

 人を寄せ付けぬ荒さを呈する岩場。

 いずれも比類なき雄大さを誇る。

 だが、ムウのかざした手から生み出される力の前に、全ては手弱女に等しい。

 一歩退き警戒した紫龍と瞬の後方、幽谷の崩れ落ちた岩や石が、ゆっくりと見えない巨人に持ちあげられていった。

 なめらかな動きは余裕さえ漂わせて、ほぼ元の形の岩橋を形成する。と言っても、元の形なんか正確には知らないけどな。とにかく橋だ。

 最後に浮かび上がった平たい岩が底面にくっつくと、かざされていた手は空気を撫でるように下ろされた。同時に、放出されていたテレキネシスも消え失せる。

 

「な、なんという強大無比なテレキネシスだ」

 

 感に堪えないという風情で、紫龍がつぶやきを漏らした。目を見開いた瞬も、それに同調する。

 慣れているのか、それを平然と聞き過ごし、ムウは(きびす)を巡らせた。

 続いて、足を踏み出しかけて、ふと橋を振り返る。いいのか? あれ。

 

「どうしました。おいでなさい」

 

 そうは言うがさ、ムウ、あんた、岩を持ち上げて形を整えただけだろ。

 あの橋、どういう脅威のバランスか知らないが、渡るどころじゃない。あんなの、放っといたら雨風だけでも崩れそうだぜ。

 

「あのまんまにしとくのか?」

 

 親指で指しつつ肩をすくめた。言葉は足りんが、意図は伝わってるだろう。

 ムウは一瞬目を向けて、納得したように表情をゆるめた。

 

「ああ、構いませんよ。とりあえず形作っておけば、後は、亡者どもが支えます」

「へ?」

「途中で襲われたでしょう。あの橋がなくば、彼らの獲物もやってこれませんからね」

 

 平然とした顔に見合わぬえげつない物言いだ。

 確かに、それなら適当に持ち上げくっつけた以上のことはしてないように見えるのに、なぜか安定している理由にはなるんだが、それはそれとしてだな。

 いいのか、それは?

 

「そもそも、こんなところへやってくるのは聖闘士か、さもなくば敵ですよ。頑丈にしてどうします。あのようなもろい道、これまでに幾度となく崩れています」

 

 さらりと言ってのけたが、そりゃどういう意味だ。

 敵に対してなら分かる。崩れやすいほうがいい。渡り難ければ渡り難いほど、防御として強いってことだ。亡者どもを仕込んであるのもそのためか? あまりほめられた趣味のもんじゃなかったぞ。あんな仕掛けを最初に作ったのは誰だよ。考案しただけでも正直引く。

 大体だな、あいつらが元聖闘士だとしたら、見苦しいにも程がある。いや、元から見苦しい奴らだったからこそ、死後もあのように見苦しいのか。

 そもそも聖闘士と敵しか来ないって根拠はどこにあるんだ。確かに不便すぎるから一般人はめったに来ないだろうが、地元住民は来なくても、好奇心旺盛な金持ちや迷惑冒険家はどこにでもいるさ。いや、そういう奴らはあれに引っかかっても自業自得ってことか?

 思考が少しずつ逸れていく。

 そんな俺を見て取ったのか、

 

「防衛線の役目を果たすべき場所なんですよ。敵に対しても聖闘士に対しても」

 

 と、ムウが補足を加えた。

 そう、そこだ。聖闘士に対して防衛線なんているのかよ。まさかジャミールが聖闘士に襲われるなんて事態、あるわけないだろうし、試練ということか。いやでも。待てよ。

 

「あの程度で?」

 

 ムウが一瞬動作をとめ、それのみならず、完全に振り返った。

 ……怒らせたか?

 ううむ、思ったことがすぐに口に出る癖は改めるべきかもしれない。馬鹿にしたわけじゃねえけど、悪意がなければいいってもんでもないだろ。やべっと感じた瞬間、目を自然と伏せてしまった。口から出た後だったので無意味だけど。

 つくづく俺は何もかもが行動に出るな。日本で兄弟達を挑発している時も、思えば特に努力しなくても勝手に怒ったっけ。怒りっぽい奴らだと思ってたが、俺が正直すぎるせいだったのかもしれない。反省すべきか。いやでも、正直は美徳だ。虚飾と偽善の空々しさをよしとするような悪徳に染まるのは堕落でしかないだろう。そうだよな、魔鈴さん。

 胸の内で小さな反論を無理やり作ってみたが、どうにもそれこそ空々しい。きっと魔鈴さんがいたら鼻先で笑われるに違いない。

 ままよ。

 そろり、と俺は覚悟を決めてムウを見上げた。

 思わぬことに、微笑を含んだ眼差しが、柔らかく俺を捉えていた。

 

「いいのですよ。戦闘力を見ているわけではありません。それを言っていたら黄金聖闘士以外はたどり着けなくなります」

 

 たしなめる声も穏やかで、先ほどまではなかった親しみさえ心持ち感じられる。不本意なたとえだが、生意気な子供をなだめてあやすような口調だ。無性に誰かを思い出すのはなぜだろう。それ以前に、そっか、俺は怒るまでもない相手なのか。どうりで橋を壊しても何も言われないわけだ。子供のいたずらと同レベルか。よくても貴鬼扱いか。

 たどりついた真実のやるせなさに、目頭を抑えそうになった。

 そんな俺をかまわずに、ムウは言葉を続ける。

 

「敵ならばともかく、聖闘士であれば、師より、ジャミールに至るには下がらず避けず真っ直ぐ歩めと助言があるはずです。判断力と勇気を試すのですよ。砕けた聖衣を再びまとう資格があるかどうか」

 

 なるほど。

 って、老師からンなこと言われたっけ。覚えてないんだが。

 振り返れば、瞬と紫龍も記憶をたどる顔つきだ。

 過日、老師と紫龍の心温まるんだか悲しくなるんだか判らん師弟交流に脱力した俺達は、春麗さんの用意してくれたお茶を飲み、一泊してから旅立った。

 もちろん出発の挨拶もしたが、その時も忠告なんか受けた覚えがない。

 首をひねる俺達を見て「ふむ」とムウも目を瞬かせた。

 

「では、老師はあなた方をよほど信頼したと見えますね。忠告なしでもジャミールに至れると考えたのでしょう」

 

 買いかぶりってもんだと思うぜ。老師にも俺達にも。

 俺は懐疑的に、肩をすくめた。

 どうにも老師には邪推をしてしまう。前々からそうだった。

 黄金聖闘士に対して、前々から奇妙な不信感があるのは分かっていた。いや正確に言うなら、信じては、いる。けれど頼ることはできない。一輝に会いに行った大きな理由の一つだ。とにかく、気が進まない。それが、どうしたことか、老師に対してはひときわ強く、反発と言ってもいい強さで俺を動かす。

 なぜかなんて、考えても仕方ないことは考えないけどな。老師を信用してないってわけじゃないんだ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 ムウの先だつままに歩いていけば、すぐに六角形の塔が見えてきた。遠目の印象だと高楼に見えたが、近づけば重厚な石造りの塔であると分かる。

 具体的に言うと、まず背丈の低い大きな六角柱を一つ置く。その上に同型の小さい六角柱を置く。さらに小さい六角柱をまた上に置く。そうして出来上がる五層ほどの塔を想像すれば、分かりやすいかも知れない。彩色された外壁はひび割れ、元は壮麗であっただろう飾り瓦もはげちょろけだ。それでも痛々しさがないのは、年経た風格の力強さが勝るからだろう。

 入り口らしいものは見当たらない。二階に大きな窓はあるが、まさか、あれじゃないよな。一層一層が高いから、二階とは言っても、地上から三メートルはあるんだぜ。登れるけど。でも、登らなきゃいけないってところからして、入り口としちゃ間違ってるだろ。

 首をひねる俺の前で、ムウは塔を見上げて、口を開いた。

 

「貴鬼、お客人ですよ。悪さはやめなさい」

「ちぇっ、ムウ様がそう仰られるんだったら」

 

 声と同時に塔の天辺から見慣れた小さな姿が現れた。背後でがらがらと石の崩れる音がする。

 何をしようとしていたのか見当はつくな。

 無謀だ。

 岩を砕いた返しの一手で、俺は言うに及ばず、瞬でも紫龍でもお前を粉砕できるぞ。貴鬼。やるかどうかは別としても。

 呆れる俺の前に、貴鬼は身軽に飛び降りてきた。

 

「おいらはアッペンデックスの貴鬼! ムウ様の一番弟子さ!」

 

 得意げに鼻をこすりながら、自己紹介をする。

 濃いカーキ色の貫頭衣に、ムウと違って足にぴったりとしたズボン。袖なしの上着からのぞく腕は、零下に達する気温にも鳥肌さえ立ってない。さすが地元民。

 かくいう俺達だって、人のことは言えないが、仮にも聖闘士と聖闘士候補を一緒にはできないしな。

 

「俺は紫龍、龍座(ドラゴン)の青銅聖闘士だ」

「僕はアンドロメダの瞬。はじめまして、貴鬼」

 

 何でもない自己紹介に、かすかな違和感を感じた。

 頭の芯に、どうもしっくり来ない。

 首をひねっていたら、瞬に肘でつつかれて、慌てて口を開いた。

 

天馬座(ペガサス)の星矢だ。よろしくな」

 

 つい「よう、久しぶりだな」と口にだしかけたが、何とかこらえた。

 危ない危ない。

 

「ふーん」

 

 胡乱気な目つきの貴鬼が、鼻をならした。警戒心というほどではないが、相手を見定めようとする態度だ。

 対して、紫龍と瞬も、目下の者に対する寛容な親しみある態度だが、胸襟を開いた気安さはない。

 違和感の正体が分かったぞ。

 こいつらの他人行儀さだ。

 ううむ、無理もないか。初対面だもんなあ。俺にとっては、違うんだけど。

 俺は小さく嘆息した。

 このささやかな痛みに、いい加減、慣れたほうがいいとは分かってるんだが、慣れられない。

 慣れきってしまったら、それはそれで恐ろしい気もするのだ。

 

「ところで、お前ら、何のためにジャミールまで来たのさ。背負ってる聖衣のことなら、さっさとムウ様に見せなよ」

「貴鬼」

 

 ムウがたしなめるように呼ぶが、もっともだ。

 俺は荷物を降ろそうと背に手をやった。紫龍と瞬も俺にならう。

 

 さて、パンドラボックスには、持ち運ぶための革の肩紐がもともと付いている。今回運ぶに当たって、その上に更に函を積み重ね、安定するよう太めの革バンドを巻いて固定していた。

 さすがにそうでなきゃ、俺達だって飛んだり跳ねたりはもっと自重せざるをえない。いや、自重どころか、ろくな動きがとれやしねえ。

 革バンドは、バックルである程度の長さを調節できる。最大固定数は長さから考えて五函ってとこか。調節できないと、それぞれ途中で持つ数の配分なんて変えられないから当然だな。

 ただ、紫龍の革バンドは、亡者共との一戦で切れたか何かして落ちたんだろう。今は固定せずに、単に函の上に函をのせているだけだ。そうそう切れるものじゃなかったはずだが、負担をかけすぎたか。あるいは、俺には見えなかったが、亡者共の指先が引きちぎったか。

 当然ながら、固定していない分、最も聖衣函をおろしやすい。紫龍はトンと肩を上下に揺らし、己の聖衣函の上に乗せていた那智の聖衣函を、腕の中に上手いこと反動で落とした。それを地面におろし、今度は、背負っている聖衣函から腕を抜いて、龍座ドラゴンの聖衣を、先に下ろした狼座ウルフの聖衣の隣に置く。

 瞬はバックルを後ろ手で器用に調整している。背負っているのは自分の聖衣たるアンドロメダ、市の聖衣の海蛇座ヒドラだ。

 革バンドを外すのが面倒な俺は、まず背負っていた荷物を丸ごと背中から降ろして、バンドと聖衣函の隙間に無理やり手をつっこんで取り外した。一体を取ってしまえば、伸縮自在といえども、ただの革帯だ。

 ブチリと嫌な音がしたが、見た目はどこも切れてない、と思う。外した革バンドを目の前にぶらさげて、少しばかり焦りながら観察してみた。

 ……多分、切れてない、と思うが……万が一の時は、ムウに貴鬼を借りて、日本に送ってもらおう。どうせ紫龍はそうせざるを得ないんだから、な。うん。

 

 地面に一直線に並んだ総数八のパンドラボックスは、さすがに壮観だ。

 表面に描かれた意匠も、それぞれの寓意にふさわしい威厳を放っている。

 ずらりと列したさまを見て、貴鬼はほうっとため息を付いた。

 

「すごいや、ムウ様。こんなに数が多いのは、初めてだし、おいら圧倒されそう」

「そうですね。確かに圧倒されそうです。よくもまあ、これだけ無残な姿にできたものだ」

「え?」

「ご覧なさい」

 

 ムウが手を軽く叩く。

 とたん、一気に全てのパンドラボックスの全面が開いた。

 中に鎮座するオブジェ形態の聖衣を見て、「……うわあ」と貴鬼がうなった。

 表情が渋い。

 

「ヒビだらけだね」

 

 見たまんまの感想だった。

 だが、修復が必要な状態だからこそここに来ているのだ。万全であれば、来ないぞ。何が問題だ。

 首をかしげた俺に聞こえてきたのは、相変わらず穏やかなムウの声だった。

 俺達を見つめる瞳も凪の海のようだ、が、内容は実に冷酷だった。

 

「お引き取りください。聖衣の修復は不可能です。残念ですが、諦めていただきたい」

 

 なんだって?

 あぜんとしたのは俺ばかりじゃなかった。

 しかし、他の二人は俺ほどの衝撃は受けなかったらしい。

 立ち直り早く、まずは紫龍が問う。それに瞬が続いた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。ムウよ。それはどういうことなんだ?」

「そうです。なぜ、不可能なんでしょうか」

 

 俺が口をポカンと開けている間に、瞬と紫龍が必要なことを代弁してくれる。おかげで、俺は何も言う必要がない。

 貴鬼も少しばかり驚いた顔で、ムウと聖衣を何回も見比べている。

 ムウは顔色も変えずに、「では」と言葉を続けた。

 

「どうしても、ということであれば、あなた方三人のうち一人の命を頂けますか?」




応援や評価、ありがとうございます。いつも助けられています。


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黄金には無い力

 開けた口が、開きっぱなしでふさがらない。

 おかしいな。こんなの、予定になかったぞ。

 混乱している俺をよそに、ムウは深い溜息をついた。その視線が、痛ましげに動き、聖衣を撫でる。

 

「いいですか。聖衣にも、命というものがあるのです。ある程度の破損ならば、自然修復します。けれど、限界を超えれば……。人間と同じですよ。大怪我であれば治療も必要ですし、怪我が過ぎれば死に至ります」

「そんな、待ってください。本当に、もう手遅れなんですか?」

「何とかならないか、ムウ。俺達には、どうしても聖衣が必要なんだ」

「死んでしまっている聖衣には、私とて打つ手はありません」

 

 悲壮な表情をした瞬に、必死に言い募る紫龍。ムウはおもむろに肯定する。

 俺の頭もだんだんと動いてきた。そういえば記憶にあるな。 前回、富士の樹海に入る前だった。一輝に黄金聖衣のパーツを奪われて、取り戻しに行く寸前。貴鬼が聖衣を届けに来て、紫龍は帰って来ないと言ったんだ。

 俺にとって、貴鬼との付き合いは、あそこからになる。

 富士山麓、青木ヶ原の十風穴前。

 幼い声が脳裏で響いた。

『あの二つの聖衣を修復させるためには紫龍の命が必要だって―――』

 その前に、紫龍の首が飛ぶ悪夢を、続けて見ていたものだから、余計に、心臓を刺されたような気がしたものだ。

 覚えている。

 

「復活させる方法が、命か?」

 

 問う俺を、ムウの目線が射ぬいた。あまりにも真っ直ぐにじっと見つめられて、さすがにびくついた。肉体を通り越して、魂を捕らえようとするかのような視線だった。

 俺、そんなに変なこと言ったか?

 

「よく、分かりましたね。そうです。正確に言えば、聖闘士の大量の血液ということになりますが」

 

 それって、これ、全部?

 俺は並んだ聖衣を見て、うめいた。八体全てが死んでるなら、ちょっと血が足りなくなりそうだ。

 それを見たムウがくすりと笑う。

 

「より詳しく申し上げるなら、現時点で死んでいるように見えるのは、この四体です」

 

 手で指し示される。

 紫龍の龍座(ドラゴン)

 那智の狼座(ウルフ)

 市の海蛇座(ヒドラ)

 そして、瞬のアンドロメダ。

 

「耐えられる限界を越えての破壊ではありませんよ、これは。最初から耐えられるはずもない力を加えられているんです。いや、そんな力を加えられてそれでもこの程度で済んだということは手加減すらされていたのかもしれませんね。他の四体は、深手ですが、今ならまだ間に合います。よくぞ、持って来ました」

 

 ムウの恨み言めいた感嘆に、紫龍と瞬は複雑な顔をした。

 ちらりと俺を見つつ、声を潜めて会話を始める。

 

「これって、星矢の……」

「ああ。つまり……帰国直後の……だな」

「邪武達は参加してなくて、幸運だったね。……だし」

「まったくだ。いや、ある意味では……かもしれないぞ」

 

 ぼそぼそ言うな。聞こえてんだよ。反省してるし、責任も取るから、頼むよやめてくれ。先に深手を負わせたのは俺じゃないだろ。トドメをさしたのは俺だけどさ。

 横目で軽く睨めば、紫龍が肩をすくめて笑う。

 瞬も表情を緩めかけて、ふと首をかしげた。

 

「あのう、ムウ。僕の聖衣は、確かに死んでいるんですか?」

 

 言いながら、じゃらりと取り出したのは星雲鎖(ネビュラチェーン)だ。

 ……言われてみれば……なぜ、気が付かなかった。確かにそうだ。瞬の鎖は、ここに来るまでの間に何度も振るわれている。理屈に合わない。

 ムウが、目を見開いて星雲鎖(ネビュラチェーン)を見る。

 

「そうか、アンドロメダの鎖には修復能力を超えた再生能力がありましたね。それならば、死んでいるように見えても、まだ救えるかもしれません」

「ならば、ムウよ。もしかすると海蛇座(ヒドラ)にも同じ事は言えないか?」

 

 即座に、紫龍がたたみ込んだ。

 確かに、海蛇座(ヒドラ)の牙には再生能力があったな。すっかり忘れてたけど。

 ムウの眼光が鋭くなる。

 

「そういえば、この二体には、鳳凰座(フェニックス)のような完成されたものではないとはいえ、再生能力があるんでしたね。……黄金聖衣でさえ持ち得ぬ能力が」

 

 考えこむムウを息を飲んで見守る俺達。なんせ、使い物にならないと言われた聖衣が、二体に減るかもしれないのだ。意気込まずしてどうする。

 ムウは貴鬼を振り返った。

 

「貴鬼、あれを持って来なさい」

「えっ、じゃあムウ様!」

「ひとまず、見てみなければ何とも言えません。超純水も用意しなさい」

「はいっ!」

 

 すっ飛んでいった貴鬼が、背中と両腕に荷物をいっぱい背負って来る。

 金槌やら、ノミやら、はっきり言ってどれも大差はないように見えるんだが、種類が違うんだろうな。その他、音叉っぽい形のものやら、筒型の何に使うか分からない器具やら。

 それらをムウの側に配置し終わると、またテレポートを繰り返して、今度はクリスタルの小瓶を片手に二本ずつ持ってきた。透明な小瓶の中には、これまた透明な液体が入っている。これまた、何なのかさっぱり分からない。俺には、何の変哲もない水に見える。

 何が始まるのか分からないし、できることがあるとも思えないため、今は静かに見物するしかやることがない。

 蚊帳の外におかれた俺達は、互いに顔を見合わせて、好き勝手に岩場に腰掛けた。

 それにしても器用なもんだ。なんで、ああも場所を間違えずにテレポートできるんだろう。後で、コツでも聞くか。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 待ち続けること、およそ三時間。

 ようやくムウが顔を上げた。

 

「あ、終わったのか?」

「終わるわけがありませんよ。一区切りつけることにしただけです。まだ積み残した問題もありますからね」

 

 そろそろ待ち飽きていた俺が尋ねれば、聖衣にかかりきりだった視線が俺達に戻ってくる。

 膝をついていたムウは、おもむろに立ち上がった。

 

「この二体に関しては、再生能力を利用し、形を変えれば復活は叶うでしょう。しかし、残りの二体、龍座(ドラゴン)狼座(ウルフ)に、それは不可能です。どうしますか?」

 

 つまり、命を出す覚悟があるかと訊かれているのだろう。

 今更だなあ。

 俺は目だけで肯定して、ためらわず両手首に互いに手刀を落とした。傷から勢い良く吹き出す血液を、両聖衣に浴びせる。

 貴鬼が「ヒェっ」と奇声をあげ、あたふたとムウと俺を交互に見る。聖衣の表面を流れ落ちる血液は、ヒビをなぞるように滴り、あっというまに地面に達して染みこんでいった。

 

「あなたは……」

「責任を取るって、言ってきちまったんでね」

 

 なぜか、ぎこちなく言葉の途切れたムウに、笑ってやった。

 これくらいじゃ死なない。

 こんなところで死ねない。

 こんなもので死んでいたら、これまで倒してきた敵が泣くぜ。運命に立ち向かい、神にも挑み、多くの血を流して戦った。その俺がこんなふうに死ぬはずがない。死んでいいはずがない。その程度の男に倒されるような敵と戦った覚えはない。

 倒してきた奴らに申し訳が立たないというのも、妙な言い方かもしれない。

 けど、俺は……。

 ぐらりと視界がかしいだ。

 ちょっと深く切りすぎたかもしんない。勢いが良すぎたか。

 

「俺達のためにそこまで……!」

 

 かすむ視界で、紫龍が近寄ってくるのが分かる。

 そうじゃない。違う。

 紫龍の言葉に応える。理解はできないだろうから、心の中で。

 かつて、お前がしてくれたことだ。そして、付き合いの長い方のお前がここにいればしてくれるだろうことだ。

 借りも貸しも、お互いに多すぎて分からないくらいだけど、返す機会があればいつだって返すさ。

 だって、きっとお前だってそうするはずだから。

 お前達が知らなくても俺は知っている。

 お前達が覚えてなくても、俺は覚えている。

 だから、同じことをする。当然のことなんだから、そう泣きそうな顔をするなよ。大袈裟だ。恥ずかしいだろ。

 ただ、いつか、もしかしたら、俺が俺でなくなっても、同じようにしてくれたらいいと思う。俺であることには変わりがないと、そう思ってくれるはずだと信じている。

 俺の肩をつかんで支える紫龍に、ムウが何かを話しかけている。もう耳が聞こえない。瞬はどこに行ったんだ。右腕の温もりは誰だろう。

 意識がかすむ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 俺が目を覚ました時、目の前にあったのは幼い少年の顔だった。うん?

 記憶が繋がらずに、ぱちりと瞬きを一回。これで頭がクリアになった。貴鬼か。

 目の前で、限界まで開いた口に嫌な予感を感じ、とっさに耳を手でおおった。

 

「ギャアッ、起きたっ?」

 

 耳をふさいでさえ聞こえる、驚きと慄きの合わさった悲鳴だった。子供特有の甲高い、耳に響く声は、普段ならともかく、起き抜け、それも目の前で叫ばれるとくらっと来る。

 おまけに、なんという言い草だ。起きちゃ悪いのか。

 寝かされていた状態から、憤然と上半身を起こせば、貴鬼は飛び退いた。

 

「まさか。まだ目覚めるはずはないって、ムウが言っていたのに」

「……起きてるな。一日で目覚めるとは、お前は本当に人間か?」

 

 お前らもひどい感想だ。

 歩み寄ってきた瞬と紫龍を一睨みして、ひとまず周囲を観察した。

 随分と天井までの距離がある。高く広い天井全体を覆う巨大な曼荼羅。そこから蔦が伸びるように柱へと文様が伸びる。色あせた朱と鬱金が絡み合う幾何学模様。

 間仕切りとでも言うのか、一メートル半程度の高さのついたてがあるため、部屋の全貌は分からない。立てば話は別だろうが、半身を起こしただけの状態では無理だ。

 俺のいる一角から判断するに、円形か、正六角形の部屋を仕切っている形になるのだろう。

 明るさは外からだ。

 露台に通じる窓があり、そこから、風と光が入ってきている。

 窓というより、露台への入り口と言ったほうが正確かもしれない。楕円を横半分に切り、立てたような形だ。ただし、戸らしきものはない。両脇に、今度は普通の真四角の窓があるものの、こっちにもガラスや、開け閉めのできる板はない。枠だけがある感じだ。

 ううん、侵入し放題じゃないか。いいのかよ。

 余計なことを考えながら、自分を見下ろして絶句した。

 俺は棺の中にいた。

 

「おい、俺はまだ死んでないんだが」

 

 抗議する俺に、紫龍が腰をかがめて、手を差し伸べた。

 その手を取って、立ち上がり、棺桶の外に出る。

 

「お前は、死ぬか生きるか、境界をさまよっているとムウは言っていた」

「帰ってきてくれて嬉しいよ。星矢。君が死ぬはずはないと信じていたけれど」

 

 瞬が軽く肩を抱きよせて、祝福する。さらりとした口調に反し、目はひどく真剣だ。すり寄せられた頬がくすぐったい。そのまま瞬は、頭を俺の肩に乗せてほうっと息を吐いた。随分と気を揉ませたらしい。

 くつくつと軽く笑って、当然だろ、と肩に置かれた頭をなだめるようにたたいた。こんなところで死にゃしないさ。エイトセンシズには目覚めてるけど、今冥界に行ってもしょうがない。

 紫龍が「瞬」と呼んだが、返事はない。何かをためらうようにゆっくりと手が伸びてきた。引き剥がしてくれるのかと思ったら、瞬ごと抱え込まれて、ぐっと力をこめて抱きしめられた。瞬と反対側の肩に押し付けられた額が熱を伝えてくる。

 勘弁しろよ。起き抜けだってのに。つぶれそうだ。

 続けて、小さく名前を呼ばれた。それがまたなんとも真摯なものだったから、どうにも抵抗しがたい。いや、心配してくれたのは分かってる。ありがたいよ。でも、重い。あまりに遠慮ってもんがない。病み上がりなんだから、もうちょっと遠慮して体重を掛けてくれたっていいだろう。お前ら。いくら俺が頑丈でも、血を大量に失った後だぞ。ああ、そういや腹も減ったな。補給が必要だ。

 俺はなんとか重みを支えつつ、ぽんぽんと二人の身体をたたいた。落ち着け。

 半楕円の露台の入り口に影がさした。

 

「もう、起きましたか。さすがに尋常ならざる回復力ですね」

 

 変わらぬ穏やかな声だった。

 ムウの後ろには、貴鬼もいる。いつの間にやらいなくなってたと思ったら、ムウを呼びに行ってたのか。

 

「昼食の時間にはまだ早いですから、あなたが眠っている間の説明でもしましょうか」

「ああ、頼めるか」

 

 食いものを先に、と空腹を訴えなかったのは、返事する前にムウが貴鬼にお茶の準備をと言いつけていたからだ。俺の反応を待たないってことは、ムウの中では決定事項だったんだろう。存外ムウも我が道を行く男だよな。黄金聖闘士にしては控えめだけどさ。

 無駄に要求して残り少ない体力をさらに減らすより、ひとまずお茶会なら、お茶請けの一つや二つも出るだろう。食事時間を待つよりは、まだマシだ。と思ったわけだ。

 もちろん、ここがどこで、何がどうなったのか、知りたかったのもある。

 

 ムウの登場で、瞬と紫龍はようやく離れてくれた。

 露台からムウが歩いてきて、俺の手首を掴む。と思えば視界が一気に変わった。

 空が鮮やかに高く、風は冷たく新鮮だ。

 だが、テレポートするんなら事前に言ってくれ。

 

「ムウ、なんか誘拐された気分なんだけど俺」

「失礼なことを言わないでください」

 

 ささやかに抗議すれば、溜息をつかれたが手首は離してくれた。

 あの塔からそう離れたわけじゃないな。

 ムウの右手二百メートルほどの場所に、俺の寝ていたと思しき塔がそびえている。俺の左手には巨岩が不規則にいくつか連なって先をさえぎっていた。どうも、俺達の来た方向とは逆側っぽい。来る途中でこんな岩は見かけなかったからな。

 

「まだ、正式に、私の館へ招待したわけじゃありませんでしたからね。ここは入り口ですよ。入り方を覚えておいたほうがいいでしょう」

 

 手招きするムウに、疑問が浮かぶ。

 あそこは、ムウの館じゃなかったのか。

 あの塔だったら、確かに地上からの入り口こそなかったが、上がり込めないことはないもんな。ジャンプして窓から入ればいい。入り方なんて教えられることのほどでもない。だが、この周辺にあれ以外にそれっぽい建物なんてないんだけどな。

 

「フッ、あそこへ無断で侵入などすれば、亡者の谷より危険度の高い罠を誘発するだけですよ。見え透いた無防備さですが、あそこまで露骨だと逆に疑いにくいようですね」

「どういうことだよ」

「そのままですよ。さあ、おいでなさい」

 

 手で差し招かれた。

 答えてくれたのはありがたいけど、肝心なところはやっぱり分からない。ムウの館はあの塔なのか、そうでないのかどっちだ。

 そして、さらに不思議なんだけどさ。なぜ、口に出してもいないことは察してくれるのに、口に出していることを汲んでくれないんだろうな。黄金聖闘士って。謎だ。

 

 ムウは、連なる巨岩群を迷わずに歩いて行く。

 およそ真ん中くらいに、ひときわ巨大な岩がつったっていた。人間の三倍はあろうかという巨岩だ。表面は粗くざらざらと突起が見える。形にも一切の丸みがなくて、無骨なばかりの大岩だ。

 その前に立ったムウは、表面の手頃なくぼみに手を掛けて。

 なんと。

 軽々と。

 持ち上げた。

 想像してみて欲しい。二十代前半、下手すればまだ十代後半、まかり間違っても肉体派には見えない優しげな青年が、縦も横も高さも、己の三倍以上にもなる巨岩を片手で持ち上げている光景を。

 あまりのシュールな光景に、俺があぜんとしたのも、ごくごく当然じゃないだろうか。

 砕くんだったらともかく、持ち上げるなんて、俺だって片手じゃできないぞ。いや、両手でやったって、力余って砕いちまいそうだ。

 だが、その結果、現れたものは、俺にさらなる驚きを与えた。

 

「……ムウ、そりゃ一体何だ。それが本当の……!?」




評価、応援ありがとうございます。いつも手を合わせてお礼を言っています。誤字脱字矛盾の指摘もありがとうございます。


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地下の茶会

 開けた口が、開きっぱなしでふさがらない。

 どっかで同じ事を思ったな。なんだこのデジャブ。

 

 ムウが、大岩を持ち上げて見えたもの、それは大きな空洞に見えた。

 大きいと言っても、せいぜい人間一人分ちょっとというところだろう。大岩の大きさに比べれば小さいと言って問題ない。

 中は真っ暗だ。

 俺の立っている場所が明るいせいもあるだろうが、内部は本当にさっぱり見えない。影があまりにも黒く濃い。

 つまり、奥行き分からぬ深さということだ。

 

「これが……」

「ええ。ここが、正式な館の入り口になります」

「塞いでいる岩が、扉代わりか」

「錠前替わりでもあります。こうしてテレキネシスで持ち上げるのでない限り、砕くしか方法がないでしょう。砕けば入り口ごと崩壊するようになってますから」

「……」

 

 ムウの言葉でようやく思い至った。そういえば、ムウにはテレキネシスがあったんだった、と。

 知っていたはずなのに、と呆けた己に少しばかり悔しさを感じる。砕くのなら分かるがそれなら俺にだってできるぞ、こうも軽々と持ち上げるとは、何かが間違ってないかと思い悩み、洗い流せぬような汗を大量に流したのがあほのようだ。

 あれだ。視覚的ショックが大きすぎたんだな。

 俺は無言のまま、溜息をついて、洞窟と持ち上げられたままの岩をにらんだ。

 どういう仕組みなのか聞きたい気もするが、多分、教えてはくれないだろう。

 

 さて、どうも怪しい。

 テレキネシスで持ち上げるしかないということは、入り口を知っていても開けられないってことだ。

 いや、テレキネシスを使えないとは言わないが、こんな風に自然に持ちあげられないし、多分だが、単純にこの岩を持ち上げるだけが開ける手順とも思えない。テレキネシスさえ使えれば誰にでも開けられるなんて、しかも、それをこんなにもあっさりと教えるなんて、疑えと言わんばかりだ。

 それに、何かこう、こっちを見てるムウの微笑が気になる。

 もちろん、気のせいだ。疑心暗鬼だと言われればそれまでだし、何かを企んでるとしても、悪いものとは限らない。しかし、何かがもやもやする。

 黄金聖闘士に対するこのすっきりしない感情は、何なんだろうな。ほんと。

 

「入り方を教えるって、言ってなかったか」

「教えてますよ。実行できるかどうかは、また別の話です」

「詭弁って言わないか」

「誠意の問題ですよ。教えるということが重要なのです」

 

 よくもまあ、しゃあしゃあと。

 じとっとねめつけたが、どう言い返すか思いつかない。考えていると、肩をすくめたムウに「似合わないことをするより、早くお入りなさい」となだめられた。

 理不尽だ。まるで俺が駄々をこねているかのように言いやがって。似合わないって何だ。確かに頭を働かせるより身体を働かせるほうが得意だ。認めはするが、人から言われたくはないもんなんだ。くっそ、悔しい。

 

 何かあればしっぺ返ししてやりたいと思いつつ、まずは頭を突っ込んで奥をのぞけば、ゆるくうねる階段が地下へと俺を誘っていた。

 ここまで来たら、行くしかない。うむ。男は度胸だ。

 そう決めた途端に、先ほどまでの気分がすっ飛び、逆にわくわくしてきた。

 何が出てくるのか。何を仕込んであるのか。

 ムウのことだ。ただのお茶会でも、状況説明でもないだろう。

 我ながら単純だが、期待感で胸がふくらんだ。

 

 階段をくだってゆけば、背後で鈍く音が響き、光が消えた。

 大岩を降ろしたのだろうムウが追ってくる気配を感じながら、先へと進む。真っ暗闇だ。自分の鼻先で手をちらつかせても、指が判別できない暗黒世界。

 明かりの一つもつけてくれと言いたいところだが、この真っ暗闇も侵入者対策なのかもしれないので、口をつぐむ。

 でも、仮に侵入者対策だとしても効果あるんだろうか。だって、俺、修行時代に暗闇でも戦えるよう、魔鈴さんにしっかりがっちり仕込まれてるぜ。

 どんなところで敵が戦いを仕掛けてくるか分からないんだし、どこででも己を保ち戦えるように徹底的にしごかれた。たとえば目が見えない状況、耳が聞こえない状況、たとえば水中、あるいは火中。当然のように実戦形式だぜ。思い出しただけで、背中がふるえる。よく死ななかった俺。

 多分、瞬達もこういう訓練してんじゃないかな。

 闇は必ずしも敵じゃない。まずは恐れないこと、味方として利用すること。

 とは言っても、やはり一筋の光もない状態で落ち着くことは、できないが。

 

 階段はひたすら地下へとくだっている。

 まっすぐではなく、ゆるやかに螺旋を描いているように感じられるが、曲がりくねっているだけかもしれない。

 時間はよく分からない。もう随分と経っている気もするし、三分と歩いていない気もする。

 一つ、奇妙なことがあるとすれば、気温だろう。

 進めば進むほどに暖かくなっていくのだ。暖かいどころじゃないな。

 

「なんか、暑い、か」

 

 口に出す前は俺の勘違いかと思ってたけど、やはり違う。気のせいじゃなく、どう考えても明らかに気温は上がっている。

 目的地も近いらしく、前方から、わずかな光も漏れてきており、わずかながら周りも見えるようになっていた。

 地上では、しゃべるたびに口から白い息が漏れていたが、今の独り言ではそれがほとんどなかった。

 ほとんどであって、多少は出てくるから、実際はそんなに暑くないかもしれない。地上の寒さと比べて暑いと感じるだけでな。

 

 あともう少しだろう。進めば進むほどに明るくなる。

 もう、薄暗い程度の暗さでしかない。ムウを振り返ったら、そのまま進めとうながされた。

 最後であろうカーブを曲がって、思わず立ち止まる。

 

「なんだ、これ」

 

 視界が急激に広がった。

 これまでの通路とは違い、広々とした回廊のようになっている。

 荘重な印象を受ける彫刻がほどこされた円筒形の石柱が、ずらりと立ち並び、均等に置かれた篝火に照らされていた。

 ギリシャでなら、いや、聖域でならば見慣れたドーリア式の柱並ぶ神殿。

 見慣れた景色が、見慣れぬ場所にあって、しばらく呆ける。

 ムウの声が、耳元で聞こえた。

 

「地下神殿へようこそ。星矢」

「ここが、本当のムウの館、か?」

「上も別に偽りではありませんよ。ただ工房としてはこちらこそが本来の部分、そして、神話時代から受け継がれてきた古き場所でもあります」

「じゃあ―――」

 

 言いかけた言葉に「おっそーい!」という不平がかぶさった。

 振り返る。

 頬をふくらませ、怒りを主張する貴鬼がいた。

 

「ムウ様、遅いですよ! お茶が冷めちゃいますよ」

「ご苦労でした。すみませんでしたね。彼らにはうまく言ってきましたか?」

「問題ないと思います。疑問にも思ってなかったみたいだし」

 

 師弟の会話に口を挟むのは気が引けるが、ついていけない。どういうことだ。

 ええい、俺は頭脳担当じゃねえんだよ! 説明求む!

 

 というわけで、どうなっているんだと盛大にわめいた俺。

 大人気ないとは思わない。説明もなしに連れてこられ、行けと言われたから進み、さらにはここまで放っとかれて、このまま大人しくすると思うほうがおかしいってもんだぜ。

 開き直ってふんぞり返る俺の手を取ったのは貴鬼だ。手を引きながら「ムウ様ー、こっちに用意してますからね」と声だけムウに投げて進んでいく。俺の了承を得ず引っ張っていくあたり、師によく似た弟子だ。それでも悪い気がしないのは、俺に向ける笑顔が、好意を含んだ好奇心にあふれているからかもしれない。

 柱の間を抜ければ、一段低くなり、毛皮が敷いてある一角があった。その真ん中に卓が据えられ、グラスらしきものが置いてある。なぜ、「らしき」ものかといえば、今までそんな形のグラスを見たことがないからだ。形としてはフタ付きのゴブレットと呼ぶのが一番近いだろう。表面には細かな文様がでこぼこと浮き出している金属杯だ。

 戸惑っていると、「こっちこっち」と座らされた。

 ムウが対面に腰を落ち着け、貴鬼はその斜め後ろで盆を持って立っている。つい、と卓上をグラスが滑らされてきた。

 

 飲めということか。

 

 グラスのフタを開けると、見た目ほど中身は入ってなかった。せいぜい湯のみ程度。ココアにクリームを大量に混ぜたような色合いの液体が、湯気を立てている。表面のわずかな泡立ちが白い渦巻き模様を作り、何とも独特の匂いで香ばしい。

 一口飲んで、ちょっとむせた。し、塩辛い。この白いのは牛乳かと思ったけど、それにしちゃ癖が強すぎるな。濃厚で脂分が強い、うむぅ、はっきり言ってしまおうか。口当たりはあまり良くない。お茶という言葉の印象からは、まったく想像できない味だ。

 飲み込めば後味が苦く舌に残った。茶ではない。岩塩の苦味だ。お茶なのに、お茶じゃなくて塩の苦味って、何でだ。

 本当に、お茶なのか。これ。

 煮詰まったクリームスープですと言われたほうが、まだしも納得できる味だぞ。

 

 ムウは普通に飲んでいるところからして、特別なものじゃないようだ。

 熱いうちに飲んでしまおうと、俺も再度お茶を口に含んだ。

 お茶じゃなくて、お茶風味のクリームスープだと思ってしまえば、そこまで奇天烈な味でもない。うむ、これはお茶じゃない。別の何かだ。腹が減ってたんだし、栄養価は高そうだし、ちょうどいい。

 そう思えば、こくこくと喉が動いた。

 

 カラになると、貴鬼が継ぎ足しに来る。

 それを飲みながら、ムウが言った。

 

「お口にあったようで何よりです。馴染みのない味でしょう。あまり外の人には好まれないんですよ」

「分かってて出したのかよ」

「歓迎していればこそですよ」

「笑顔で何でもごまかせると思うなよ。なんで、俺だけここに呼んだんだ」

 

 直球で聞いた。腹芸は得意じゃない。ましてやムウだ。この時点で味方だと、はっきり分かっている相手だ。何も遠慮する必要はない、はずだ。たぶん。

 俺の真剣な顔につられたか、ムウもいささか真面目な空気になった。

 

「ああ、それは簡単ですよ。あなたが彼らのリーダーでしょう?」

「……む?」

 

 いや、それは違うんじゃないのか。

 そりゃ、ここに来るのは俺だけのはずだったが、だからと言って、この面子で、俺がリーダーねえ。そんな柄じゃないよなあ。

 だいたい俺達にリーダーなんて、いるのか。存在するかどうかと、必要かどうか、両方の意味で疑問だ。

 俺はどっちかといえば先陣を切る役割ではあるけど、リーダーじゃないよな。あえて言うならお嬢さんがそうであるべきだろう。俺達聖闘士を率いるのは女神(アテナ)なんだから。

 だが、ここで問われているのは、今ここに来ている俺と紫龍と瞬限定だろうから、その答えは、ない。しかし、じゃあ誰かと言われると、困るな。考えたこともなかった。

 ふにゃりと首を傾けてうなった俺に、ムウは穏やかに苦笑した。

 

「おや、少し読み違えてしまいましたか。あなたが一番彼らに影響力があると思ったのですが」

「……それとこれとは別だろ」

 

 否定はしない。

 あれだけ叩きのめして影響力がなかったら、そっちのほうが問題だ。

 だけど、リーダーってわけじゃない。それと、少しばかり嫌な予感がする。

 リーダーにだけ、話があるってなんだ? 俺をリーダーだと思ってここに呼んだんなら、相応の話があるってことだよな。まさか……いまさら修復不可能な聖衣があるとか言わないよな。

 胸が嫌な感じにどきどきしてきたぞ。

 

 そんな予感をよそに、ムウは関係ない、当り障りのない話を始めてしまった。手を心臓の真上に持ってきて、どうにも心情を落ち着かせたいのを我慢しながら、ムウの話に耳を傾ける。気になるなら、自分から訊けばいいんだろうが、知りたいのも本心なら、聞きたくないのも本音だ。

 また、この話はこの話で面白かった。

 寝ている俺がいたところはムウの館の一部であり、居住区として扱っているそうだが、不測の事態には吹き飛ばすことのできるよう仕掛けがされており、実際のところ、重要なのは地下だけらしい。

 精錬作業も、採掘作業もすべて地下だそうだからさもありなん。ああ、もう何を聞いても驚けない。

 マグマで金属を鍛えていると言われても信じられそうだ。さすがに、それはないと思うけど。

 上は敵に備えた隠れ蓑に近いのだそうだ。そこまでして何に警戒する必要があるってんだろ。こんな山の上に、そんな重要なものがあるとも思えないんだけどな。

 地下何層まであるのか聞いてみたが、「さて」とにっこり微笑まれて話を変えられてしまった。

 また、俺達が通ってきたあの真っ暗な通路は、いわゆる正式通路で、えらく長くて曲がりくねっているのは錯覚ではなかったらしい。「もっと近道もできるんですよ」と言ってのけたムウに殺意が湧いたのは、俺の気が短いからじゃないと思う。

 妙に暖かいのは地熱らしいが、仕組みまでは教えてくれなかった。地熱だけでこんなに気温が上がるもんだろうか、と思ったが、追求してもしょうがないので置いておく。詳しいわけでもないから、どうせ説明されたって分からんのだ。無駄なことはしないに限る。

 

 ムウは博識なばかりじゃなくて、それを万人向けに分かりやすく説明する能力にも長けていた。

 おかげで、いつの間にやら当初の緊張は俺から消え去り、雑談を楽しむだけの余裕もできていた。話は四方八方に広がり、でたらめに収束していく。

 本来まったく興味のない話題さえ、ムウの口から出ると、惹きつけられる輝きがあった。

 

「時間は反復可能なものではありえないってことか?」

「宗教的に言うならその逆でしょうね。円環構造を考えると分かりやすいでしょう。しかし、大体が、時間は現象ではありません。概念ですよ」

「とすると、時間を遡行するってのはできないのか。過去に、戻るのは不可能ってことだろ」

 

 軽い気持ちでの質問だった。

 俺がここにいる以上、どんな理屈も無意味だ。可能不可能の問題じゃない。だが、ムウはどう思うのだろう。そんな気持ちで、返答を待つ。

 ムウは指で顎をなでた。考え込む仕草だ。

 

「いえ、そうとも言い切れません。すべての物理基礎法則は、時間について可逆的ですからね。t=-tです。否定はできません。可能性は存在します」

 

 ただし、と一区切り置いて、鋭利な圧力を持った目で俺を見た。

 

「分子運動の逆回転が物理法則に反していないとしても、それを実現可能な存在などあり得るかどうか、疑いますね。強力な重力ポテンシャルによって、光子をねじ曲げることができないとは言いませんが、時間のループを創りだせても人間サイズというのは難しいでしょう」

 

 ここまで言われた時点で、俺は会話を放棄した。

 よく分からん。つまり、できないことはないけど、人間には無理ってことか?

 ああ別に詳しく解説してくれなくていいぞ、と説明しようとしたムウに手をひらひら振った。どうせ分からない。そして、現実の前に理屈は無意味だ。

 俺は、ここに、いる。

 

「なぜ、そんなことを? 過去を変えたいのですか?」

「変えちまったら過去じゃなくなるだろ」

 

 その質問は無意味だ。変えた時点で、それは現在に他ならない。

 変えたいのはいつだって、未来だ。未来を変えることによって過去が変わるとしても、それは結果論に過ぎない。

 かつて俺が持っていた、過去から未来へ一直線上に伸びる時間のイメージは、すでに失われている。おそらく、時間というものは、川のように上流から下流に流れていくだけのものではなく、きっともっと多元的で、多くの法則が、互いに影響を及ぼすものなんだろう。俺の知っている天則ばかりでなく、もっと高次の展開と、低次の縮約があって、それぞれに共鳴しあっているのだろう。それは、さぞかし複雑に違いない。理解できないくらいに。

 でも、どうでもいい。俺は自分がここに存在する不可思議さえ、今となってはどうでもいいのだ。

 俺は、ここにいるし、いるからには為すべきことを為してみせる。

 

「それもそうですね。それともう一つ、問いたいことが」

 

 ムウは言葉を切ると、杯を卓上にコトンと置いた。

 目線が静かに鋭くなる。

 話をしている間に薄らいでいた冷たい感覚が蘇り、背中に汗が浮き出てきた。

 何を言う気だ。

 

「あなた、何者ですか」

「……?」

 

 無言で首をかしげたのは、単純に、意味が分からなかったからだ。何者って何だ。名乗りならとうに済ませただろうに。

 だが、そうとは捉えられなかったらしい。

 ムウの眼光が、心臓が縮み上がるほどに張り詰めたものになった。

 

「不自然すぎるんですよ。聖衣の復活方法など、そうそう知れるものではありません。特にあなた方のような年若き者はね。他にも―――いえ、今は置いておきましょうか」

 

 首筋の毛がぞっと逆立った。

 うわ、これ、まずくないか。

 俺の一挙一動を見逃すまい、という視線が、ただ硬く重い。

 

「あなたは、何者ですか」




評価応援本当にありがとうございます。とても励みになります。


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積み重なった疑惑

 ムウの微笑も、部屋の温度も、お茶の湯気も変わらない。

 だが、確実な圧力が俺を呑み込もうとしている。

 有効な反論をすべき俺ときたら、蛇に睨まれた蛙、いや、むしろ油を取られている蝦蟇だ。動けやしないし、冷や汗ばかりが流れ出るときた。なんてこった。

 だが、何を言われているのか、言葉としては分かっても、何を、求められているのか分からない。問われているのは、疑われているのは、いったい何だ。何についてだ。

 沈黙がひたすら痛くて、とりあえず、思いついた言い訳を口に出してみた。

 

「意味が分からない。話の流れを追っていって、思いついた方法がたまたま正しかっただけだろ。推測が当たってたくらいで……」

 

 もとより冷たかったムウの視線が、急速冷凍ビームとなって俺を襲う。失敗したか。口に出されなくても何が言いたいかは明白だ。「寝言は寝て言え」だ。

 もっと有効な反論をしなければ。

 くっそ、嫌な予感は最初からしてたんだ。小さかった警鐘は、今やガンガンと頭に響く不快なビートと化していた。手遅れだっての。まずい、本格的にまずいぞ。

 

「私とて、まさか、たったそれだけで、無用に嫌疑をかけはしませんよ」

 

 金属杯から手を離したムウが、すっと目を細めた。

 ごまかすなとの意思表明。たったそれだけの動きで、不快だと、言葉より明確に示してのけた。口調は穏やかなままだが、そこがまた、何とも緊張を強いられる。

 

「最初から、あなたは妙でした。私があなた方に声をかけた時、あの二人は驚きましたが、あなたは敵かもしれない闖入者に対して、ほとんど反応を見せませんでした。なぜ安全だと判断できたのでしょう。気配に気づかれていたのかとも思いましたが、紫龍が私に名を問うた時も、無反応でしたね。まるで、最初から、私がムウだと知っていたかのように」

 

 待ってくれ。無反応だったのは、確かにそうだけどさ。ああ、なんてこった。反応が薄いくらいで何でそうなるんだ。

 俺の顔色は恐らくひどく悪いだろう。取り繕おうとする余裕なんか、正直ない。

 

「貴鬼に対してもそうでした。既知の者から初対面の挨拶をされて戸惑っているような態度。まるで、こちらが記憶喪失にでもなったかのようです」

 

 間違っちゃいない。確かに、そういう痛みを感じて、それを抑えるのに精一杯だった。

 けど、気取られるほど表に出しちゃいなかったはずだぞ。寂しいとは確かに思ったが、鋭すぎるだろ。まさか心が読めるんじゃないだろうな。なんて迷惑なんだ。

 遅いかもしれないが、なるべく表情を殺そうとする俺。後手すぎるとは思うが、できることはしとかないとな。

 

「聞けば持ってきた聖衣を破壊したのは、星矢、あなただとか。自らが壊したにもかかわらず、ためらいもなく手首を切り、己の命まで修復のために差し出す。矛盾しているとは思いませんか。破壊することに意味があったのではなく、何かしらの真意があり、破壊は手段にしかすぎなかった。そう取ることもできますよ」

 

 色々違うが、まず言いたいのは、逆だ。

 俺が壊したからこそ、直すために俺の血を流すのは当然だった。

 だいたい壊したくて、壊したんじゃねえや。

 

「ええっとさ、それは―――」

 

 これにだけでも異を唱えようとしたら、ねめつける視線がさらに厳しくなった。

 口を挟むなってか。

 

「決定的だったのが、あなたの血です」

 

 俺の、血?

 わけが、分からない。なんだ、それ。ごまかそうとしてるわけじゃなくて、これは本気で心当たりがない。どういうことだ。俺の血に、何がある。

 

「意味不明、と言いたそうですね。しかしながら、それを信じるには、あまりにもあなたのほうが意味不明なんですよ。本当は、分かっているのでしょう?」

 

 隠しているはずの表情が丸わかりになっていることに衝撃を受けつつ、言葉を内心で復唱する。

 意味不明、か。何を馬鹿な。分かっているわけがない。ムウは俺を買いかぶりすぎだ。

 そもそも俺のどこが意味不明なんだ。天馬座(ペガサス)の星矢、と名乗っただろうに。

 ……いや、これは貴鬼に対してだったか、と俺は思い返す。

 考えてみれば、俺達はムウに対して、きちんと自己紹介はしてない。俺にも紫龍にも瞬にも名乗りは求められなかった。

 ならば、すでに知っていたということか。誰から。なぜ。何のために。

 いや、考えるまでもない。だって、あのとき、ムウは「老師はあなた方をよほど信頼したと見えますね」と言った。

 ムウよ、意味不明ってんなら、それはむしろ老師のほうだと言いたい。何を吹き込まれたんだか知らないが、過大評価にもほどがあるぜ。

 ムウは、軽く溜息をついた。

 

「聖闘士、いえ、神々も含め、力ある者の血液は力を持ちます。覚えていますか。私は、聖衣を復活させるには、聖闘士の大量の血液が必要と言いましたね。そう、あくまでも聖闘士の血液であって、誰の血液でもいいわけではありません。例外は女神(アテナ)のみ」

 

 ムウは教え導く者の、いっそ辛抱強い優しささえ感じる声音で語った。

 内容は、知っている事実だ。それがどうした、と言いたくなるのをこらえて、続きを待った。

 有効な反論には、確かな反論材料と糸口が必要だ。ムウの言葉から、それを引きずりださなければならない。……苦手なんだけどなあ。弁論術。

 

龍座(ドラゴン)狼座(ウルフ)の聖衣にあなたは血をそそいだ。あの二体のまばゆいばかりの生命の脈動、打ちなおす手までが影響を受けそうなほどでした。黄金聖闘士の血をそそいでも、ああまで輝くかどうか―――授位されたばかりの青銅聖闘士の力ではありませんよ」

 

 ああ、ううむ……エイトセンシズに目覚めてるもんな。そこまで如実に影響がでるとは思わなかったが、言われてみれば無理もない、とも思う。

 海王(ポセイドン)神殿へ突入したときに与えられた、黄金聖闘士の血を受けた青銅聖衣。その輝きに、俺達の誰もが感嘆したものだ。あれと同じようなことになったんだろう。予測してしかるべきだったのかもしれない。うかつだったぜ。

 困った。反論を、思いつかん。

 だが、あのとき、誰が血を捧げるべきだったかといえば、やはり俺だろ。俺の責任だったんだ。それが、こんな事態を招いたというなら、どうすればよかった。何が最良だったんだ。

 

「そこまでの力を持っているというのに、彼らのリーダーはあなたではないと言う」

 

 お嬢さんの命令を受けてきただけだからな。

 命令されずとも来たとは思うが、それだって、やはりお嬢さんのためだ。聖衣の修復が聖戦には絶対に欠かせないからだ。

 

「ここへ来るときも、なぜ抵抗しなかったのですか。知っているならともかく、そうでないなら、怪しいことこの上なかったはず。あなたの言うとおり、説明もせず、誘拐に近い強引なやりかたをしたと思っています。けれど、疑いもせずにあなたは私に従って進んだ。私があなたに害をなさないなど、どこにそんな根拠が?」

 

 言われてもな。あんたが俺に害をなす?

 前回から、いつだって、あんたは俺達の味方だったのに?

 むしろ、問い返したい。なぜ、そんなことを思わなきゃならないのか、と。

 前回、唯一と言っていいあんたからの攻撃だって、俺を守るためだった。師を欺いて、死を偽って、俺を逃した。それを知っているのに。

 しかし、言われたことを落ち着いて考えてみよう。

 部外者の立場から。

 他人事として。

 俺の個人的な感情を一切抜いて、俺の行動を振り返って考えてみたなら、どうなるか。

 うむ……確かにムウが正しい、かもしれん。いや、ぐうの音も出ないほど、明らかにおかしい。反論が、まったく浮かんでこない。

 

「初対面のはずなのに知り合いのような態度。授位されたばかりとは思えない実力。知りうるはずのない知識。力に見合わぬ立場。つじつまが合わない、すべてがちぐはぐです。何よりも、私に対するその信頼こそが、不思議でしかたありません。……敵、とは思えません。しかし、見過ごすには、あまりにも」

 

 ムウはそこで言葉を切った。

 冷たいと思っていた目線に、あふれるほどの真摯さを感じて、ひどく動揺させられた。

 ごまかそうとする俺のずるさを、見ぬかれた気がして、声が出ない。

 

「もう一度、聞きましょうか」

 

 声は変わらず穏やかで、俺はもう、反論なんて考えられる状態じゃなかった。

 どうすれば、いい。

 

「あなたは、何者なのです」

 

 なあ、もういいじゃないか。

 俺はまぶたを下ろす。

 本当のことを、言ってしまえ。俺は黄金聖闘士に全幅の信頼を寄せている。なのに、なぜ躊躇する。

 いっそ全てを話して、協力を仰いだほうがいい。そう思うのも嘘ではないのに、同時に、それはダメだと頑なな峻拒も立ち上がる。

 なぜだ。

 

 お嬢さんにも話してないことだから、というのも無論あるだろう。

 ムウに話せば、いずれはお嬢さんまで伝わる。そうしたら、俺の死ぬ未来をお嬢さんは嘆くだろう。泣かせてしまうと思えば、どうしたって気は重い。

 目を閉じたまま、俺は必死に考えた。

 じゃあ隠しとおすのか。どこまで隠せばいい。全部か。せっかく知っているのに、誰にも明かさずに終わるのか。

 ムウなら、俺よりも情報を有効活用できると分かっていて、隠し通すのか。

 いや、それ以前に、誰にも真実を話さず抱え込むなんてしていいのか。耐えられるのか。いや、秘密にすること自体は大した問題じゃない。俺はもう過去なんてどうでもいい。意味はない。だから、話そうが話すまいが俺は同じだ。持っていても持っていなくてもどちらでもいい荷物に過ぎない。

 だが、話すまいと思うなら、日常のうっかりした失言でさえ、注意を払わなくてはいけなくなる。

 ただでさえ、ムウは隠しているはずの表情でさえ、勝手に読み取っていくのだ。

 信じてもらえるなら、話してしまったほうが楽じゃないのか。

 

 とここまで考えて、無意識に唸り声が喉からもれた。

 隠し通すというのは、すごく面倒で難しいように思えたのだ。分かりやすいらしい己の顔が少々恨めしい。だが、信じてもらえるのか、恐ろしくもある。

 俺は目を開け、ムウと視線を合わせた。

 

 決めた。

 一つだけ。

 一度だけだ。

 ムウを試そう。

 

「なあ、ムウ、あんたさ、過去に戻って、過去を変えるってのをどう思う。してもいいと思うか」

「先ほどの話の続きですか……?」

 

 唐突に思えるのだろう。ムウは訝しげだったが、気にせずに答えを促した。

 

「いいからさ。できるかできないか論拠が聞きたいんじゃないんだ」

「個人的な意見で構わないのですね。分かりました」

 

 ムウは一度、視線を手元に落とした。

 さあ、何を考えているか聞かせてくれ。

 

「そう、ですね、机上の空論であってほしいと思いますよ。過去に戻るということは、過去の私と未来の私、すなわち同一存在が同時に二人、場合によってはそれ以上の数、存在することになります。私は、この宇宙に、私自身が二人以上存在しうるなど考えたくもありませんので」

 

 この宇宙に、どこを探しても、己はたった一人だ。その意味を失いたくはない。

 そう、ムウは言ってのけた。

 そろそろ湯気のたたなくなった茶を口に運び、ムウは一息ついて続けた。

 

「それに、過去、歴史といったものは、先達がその時に考え抜き最善と信じ、血を吐きながら作り上げてきた道程のようなもの。それをたかだか一個人が、いかに未来を知っていると言えど、壊していいはずがありません。それは彼らへの冒涜と私は考えます」

 

 言い終わり、俺を見据える。

 迷いのない目だ。諦観ではなく、毅然とした覚悟が光っていた。

 恐らくだが、ムウは似たようなことを以前に考えたことがある。じゃなけりゃ、こうも即座に返事が返せるものか。

 過去を変え、誰かを救えたら、その上に積み重なる悲劇を消滅させることができたなら、と願ったことが、きっとあるのだ。

 

「付け加えるなら、質量保存の法則をどう突破するか……抜け道がないとは言いませんが……いえ、とにかく人に許される所業ではない。できないし、したくもない、と言ったところでしょうか」

 

 おまけのように理屈を言い足し、念押しをすると、ふっと軽く息を吐いた。

 剣呑さを失っていた視線に、再び力がこもる。

 

「さて、満足ですか。星矢。ならば、そろそろ答えていただいても?」

 

 落胆が俺を支配している。正確には、焦りかもしれない。

 だって無理だ。言えない。今の俺は、思いっきりムウの否定していたことをやろうとしてるんだ。どうしたもんか。

 ムウの全面的な否定を聞いても、俺の心は揺るがない。

 俺は俺のなすべきことをする。それが、たとえ、先達を踏みにじることだとしても、女神(アテナ)の聖闘士として生きるこの道で、それをなさないという選択肢はない。何が起こるか知っていてそれを見過ごす、そんなことはできない。

 やってはならないことだと、その心も理解できる。けれど、それでも、ならば知りながら見捨てることは罪ではないのか、と叫ぶ心も真実だ。

 切り捨てざるを得なかったものを救い上げる未知に、俺は進む。

 先達の目指した場所に、彼らの選べなかった道でゆく。

 そう決めた。

 だって、もう分からないだろう。どう思うかなんて、誰にも言い切れない。彼らを踏みにじるかもしれないなんて想像したって、それは本当に俺達の想像でしかない。それなら、つめる悲劇の芽は全部つんで何が悪い。文句があるなら、俺の目の前で言いやがれ。俺だって冥界からの生還が掛かっているんだ。

 

 それにしても、どうこの難局をのりきったもんか。

 真実は明かせない。だが、ごまかしてもバレるなら、ごまかさずに乗り切るしかない。しかし、何度も言うようだが、俺は頭脳派じゃないのだ。

 そんな都合のいい方法を、都合よく思いつくなんて俺には……いや、待て……あったかも。ちょっと無理があるが、押し通せば何とかなる、かもしれない。何とかなるはずだ。いや、押し通せ。

 どうせ後から話さなきゃならないんだ。もう、これしかない。通じるかどうかは分からないが、一か八か。

 やってやるぜ。

 

「十三年前の、前教皇の死は、誰の手によるものだと思う? ムウ」




感想、評価、応援ありがとうございます。そろそろ息切れしますが、できるところまでベストを尽くす所存です。


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誠実なだけではない真実

 沈黙が満ちた。

 もう、多分、これしかない。

 これでどうにかできなかったら、俺にはもうどうにもできない。

 十三年前に教皇が亡くなった、という事実はない。真相を知らない限りはな。

 だが、ムウは知っている。そして、俺も、知っているとの事実を知らしめることが大事なのだ。

 

「何が、言いたいのです」

「十三年前のアイオロスの裏切りは、真実だと思ってるか」

「……何のつもりです」

「十三年前から失踪している双子座(ジェミニ)の聖闘士サガ」

「星矢!」

「おそらく、協力しているのは三人以上の黄金聖闘士」

「おやめなさい」

 

 厳しい口調だった。

 俺はにやりと口元を上げてみせた。

 

「うかつに話せることじゃないし、話す相手を選ぶ。あんたがいくら黄金聖闘士牡羊座(アリエス)のムウでも、いやむしろ、だからこそ、な」

「なぜ」

「本当は、分かってるんだろう」

 

 聖域最大の汚点であり、禁忌だ。大っぴらに言えるようなことじゃない。それは誰が見ても事実だ。俺は、ムウになら話しても大丈夫だと分かってる。だが、分かっていない、あるいは大丈夫かどうか確信を持てないでいる、と思ってもらわなければならなかった。

 だから、同じ言葉をそのまま帰す。

 勝手に解釈してくれるだろう。

 頭のいい人間は、ある意味で損だな。

 

天馬座(ペガサス)の修行地は代々聖域のはず、よもや……自力で、たどりついたと? そんなばかな」

 

 険しい表情のまま、ムウがつぶやく。

 正しい。まさしく「そんなばかな」ことはない。

 ないが、「ありえない」ことでもない。ここが重要だ。

 何と言っても、ムウの知りたがる真実こそが、ありえないことの代表みたいなもんだからな。

 

「記憶の継承は、乙女座(バルゴ)の聖闘士ただ一人ばかりでは。存外、天馬座(ペガサス)にも何か……断定は危険ですが……しかしまさか」

 

 口だけが小さく動く。声はほとんど出てないが、聞こえないわけでもない。

 ムウの推測は、今のところ順調だ。俺にとって順調ってことだけど。

 ただし、これで何とかなるのは、なぜ知っているかってところまでなんだよな。

 エイトセンシズまでは、どうにもできん。

 押しきれる部分は、これで押し切るつもりだがな!

 

「修行で吹っ飛ばされたってのは、色んな所に入り込む言い訳になるんだぜ。それなりに納得してくれるからな」

「あなたは……」

「知らないかもしれないけど、あんたが思ってるより、疑ってる奴も多いんだ。腐ってる奴はもっと多い」

 

 そう、だから、俺が内部事情を知ってても、調べててもおかしくない。そう考えてくれればありがたい。

 実際、魔鈴さんが、前回、俺達の味方をしてくれたのは、そういうことだと思う。

 知らないんだけどな!

 だから、明言はしない。誤解するのはムウの勝手だ。誘導しているのは俺だけど。

 ムウが、ためらいがちな口調で追求してくる。

 

「聖域の書庫は、常に歩哨がついていると思っていましたが」

「抜け道はいくらでも」

 

 多分な。

 書庫って、あれだよな。神官がよく出入りしている、かびの生えた古文書や、埃臭い史書のあるあそこだろ。手続きが面倒だって、魔鈴さんが言ってた。

 入ったことないし、調べてもないから具体的には何も言えんが、方法はあるはずだ。

 ムウがこう言うからには、聖衣の知識や黄金聖闘士の名前や任地なんかも書庫で分かるものなんだろう。名簿でもあるのかもしれない。あ、もしかして、魔鈴さんが妙に色々と知っていたのは、書庫で調べたからか。

 長年の謎がようやく解けたが、ムウに追求されるとまずい方向だ。今度、魔鈴さんに会えたら、どうやって書庫に入るのか、それ以外にもどうやって調べ回ったのか訊いておかないと。

 ムウの再度の質問が降ってくる前に、俺から話しかけた。

 

「掴んだものを繋ぎあわせれば自然と見えてくる。当て推量に近いもんもあるけど、大体合ってるだろ?」

 

 我ながらなんてずるい言い方だ。良心がじくじく痛む。

 痛む胃を思いやりつつ、目線を外さない。知っているわけじゃない。全ては推測だ、とムウに信じてもらうしか、乗り切る方法をもう思いつかないからだ。

 頼む。これだけでいいんだ。顔に、出てませんように!

 

「ええ……見事な推理です。今代の天馬座(ペガサス)の聖闘士を侮っていました。書庫で知れるものなど、片鱗に過ぎないでしょうに……いえ、もちろんそれだけではないのでしょうが、それでも、よくぞ至りました」

 

 必死の俺の形相は、どうやら報われたらしい。推理、という単語を引き出せればこっちのものだ。

 ムウは嘆息をついて、指先を己の額に当てた。そのままこめかみを軽く揉みほぐす。

 はっきりした言葉では何も言ってないんだが、あそこまで言えば、ムウに分からないはずがないと踏んだ俺は正しかった。それをなぜ最初から言って来なかったかも推測してもらえたようだし、難は逃れたな。ひとまずは。

 後は、これで言い抜け出来ない部分をどうにか煙に巻くだけだ。……それが一番大変な気もするが、いざとなればお嬢さんに頼ろう。

 女神(アテナ)の命令なら、不本意でも、追求をやめざるを得ない。少々情けないが、ムウを丸め込むなんて、心情的にも技量的にも無理だ。

 

「そこまで考えて、ここに来たのであれば、私の名も正体も分かっていて当然ですね。まったく、末恐ろしいことです」

 

 それは実に誤解だが、俺は何も言わない。ボロが出るからな!

 ただ表情筋の抑制のみに力をそそいで、耐えしのぐ。

 そこまで、というのが何を指しているのかは分かるが、どこまでを指しているのかまでは分からない。現教皇の正体や、アイオロスの無実まではいいとしても、俺だって全部を知っているわけじゃないんだから。美しい誤解は美しいままに。それが誰にとっても幸福だ。と、少しばかり遠い目になりつつ、俺は自分に言い訳をした。

 この時は、夢にも思わなかったのだ。それが自分の首をあれほど絞めることになろうとは―――なんてことには、ならないといいな。大丈夫だよな。

 

「いえ、愚痴はよしておきましょう。見誤ったというだけのことです。あるいは、あなたのほうを賞賛すべきなのかもしれません。恐れ入りました」

 

 長い金髪がさらりと前に垂れた。

 会釈程度にムウが頭を垂れたのだ。

 俺はうめいた。本気でよしてくれ。罪悪感が半端じゃない。

 

「やめてくれ。それより、俺の考えているとおりでいいのか? 老師と……」

「ええ、私と老師は、真実を知っています。アイオロスが女神(アテナ)を救ったことも、城戸光政によって匿われていたことも」

 

 ちらりと苛立ちに似た何かが心中を走った。

 何がカンに障ったのか、分からん。

 俺がちょっと考え込んだ間にも、ムウは新しい話に入ってしまった。表情が深刻なので、飛びかけていた意識を引き戻す。

 

「私達は教皇の聖闘士ではなく、女神(アテナ)の聖闘士。それに否やはありませんが、一つだけ言っておかねばなりません。私達、つまり私と老師ですが、十二宮において対サガには役に立てないと思ってください」

「一応聞いとくけど、なぜだ?」

「ふむ、薄々は分かっているようですが、聖域の頂点たる黄金聖闘士や教皇を裁けるのは女神(アテナ)だけだからですよ」

「試練だとでも言うかと思ったけど」

「それもありますね。私自身も完全に納得しているわけではありませんが、老師も以前の女神(アテナ)をご存知の方、深慮の末に信じておいでなのでしょう。今代の女神(アテナ)を。それに黄金聖闘士同士の争いは元より禁じ手なのです」

「俺達はサガに拳を向けることを躊躇わないぜ?」

「それはあなた方が新しい世代であり、……言ってはなんですが、私達よりも替えがきく存在だから許されるのです」

 

 ムウの言い様は苛烈だった。

 前回の冥界から還ってきた聖闘士との戦いは、つまり彼曰くの禁じ手だったのだ。

 だからこそ、あんなにも最初は戦いを拒んでいたのか。大恩ある師匠だからってだけじゃなかったんだな。

 いや、でも、待てよ。冥王(ハーデス)の支配下にあるなら、女神(アテナ)を狙うなら、敵じゃないか。禁じ手、にはならないと思うんだけどな。

 ああ、だけど、そんな風にあっさり割り切れたら苦労はしないよなあ。逆に、そんなに簡単に割り切れてしまっても、どうかと思うしなあ。

 かつての仲間への情があるなら、反撃をためらうだろうし、ためらって許される理由を探すだろう。黄金聖闘士同士での闘いはご法度、か。

 だが、結局のところ、やはり師弟関係があるかないかだよな。

 俺だって、他の奴らならともかく、魔鈴さんが襲ってきたら反撃できるか分かんねーもんな。魔鈴さんの場合、反撃しなかったらしなかったで、何やってるのと怒られそうだけどさ。

 そして、青銅聖闘士ならばともかく、黄金聖闘士は替えがきかない、ね。俺達は、使い捨ての安物かよ。

 言ってくれるぜ。

 

 俺の苛立ちを察したのだろう。ムウがゆっくりと目を伏せた。

 わずかな動作一つで、何を言うこともなく感情を伝えてくるのは卑怯だと思う。責めたくても責められない。何をこっちが言いたいのか分かっているのだと、それに対しての謝意を持っているのだと、どうしようもなく分かってしまう。

 それとも、これは前回を覚えている俺の、勝手な憶測に過ぎないのか。あるいは、隠し事をしている後ろめたさが俺を止めるのだろうか。

 なんにしても、俺は、口に出しかけた不満を押しとどめてしまった。

 代わりに、思慮深い声が苦い沈黙を破る。

 

「お気をつけなさい。悪の根は、おそらくあなた方の想定を超えて深いでしょう。一本だけとは限りません。地上を奪おうとするものは多く、支配の欲望は過去に未来にと幾重にも絡みつき、無慈悲にひざまずかせようとする。我々にある幸いなど、いるかどうかも分からないと人々が揶揄する神々を真実と知り、その加護を得る資格をもっているだけです」

 

 サガだけでは終わらない。

 海王(ポセイドン)冥王(ハーデス)と聖戦は続く。

 知っている。俺にとっては過去だ。記憶だ。けれど、今はまだ起こらざる未来。

 わざわざ言うのは、死ぬなという迂遠な警告か、来たるべき聖戦の新戦力としての期待か。

 さて、どっちだろうな。

 だって、普通言わないだろ。「いるかどうかも分からないと人々が揶揄する神々」を、いかに神の加護があろうとも敵に回す未来は、重すぎる。「いるかいないか分からない」と、そう疑うくらいで丁度いいんだぜ。普通の人間ならな。

 重さに耐えうる、と見込まれたのだと思いたい。でなければ……いや、今考えるべきことじゃないか。

 

「分かってる。あんまり心配するなよ。今は何も起こってない。だったら今できることをやればいいだろ」

「星矢、それはあまりに楽観的な見方です」

「そうか? 心配しようがしまいが、何か起こるときは絶対に起こるんだから、今何を考えてもどうしようもないと思うぜ」

 

 それ以外に何もしようがないのに、心配なんてするだけ無駄だろ。

 必要なら、戦うだけだ。

 俺が肩をすくめると、ムウは痛ましげに顔をしかめた。

 

「……本当に、そう考えていますか? 星矢」

「どういう意味だよ」

「哀しい、と思っただけですよ」

 

 は? 哀しい? なんで?

 瞬きをした俺を見てムウは苦笑する。

 

「死ぬ覚悟があるのですね。そのように幼いというのに」

「聖闘士だぜ。当然だろ」

 

 もう十三だ。幼いなんて言われる筋合いないと思う。

 呆れた声音になったのは仕方ない。

 だって、そうだろ。女神(アテナ)の聖闘士になった日から、今更だ、それは。

 そうでなくたって、人は死ぬ。幼かろうが長じていようが関係なく、命の焔を吹き消すのは、ひどくたやすい。俺のものであろうと他者のものであろうと。

 ならば女神(アテナ)のため、地上の愛と正義のために死ぬこの身のなんと誇らしいことか。

 

「それを哀しいというのですよ。私達黄金聖闘士、あるいは聖域に仕えて歳経た者ならばともかく、あなた方にはまだ早すぎる覚悟でしょうに」

 

 憐れみを含んだ眼差しに強烈な反発が湧きあがり、一瞬で静まった。

 残ったものが、腹の底に沈む。

 

「それ以上言ったら、侮辱ととるぜ、ムウ」

 

 頑然と言った俺に、ムウは沈黙する。そして、静かに微笑んだ。柔らかく、真意の知れぬ笑みだ。ただ、その前に一瞬だけ、怒りのように激しい悲痛さを目に映した気がした。

 それが何を意味しているのか、何とも俺には量りがたい。

 そして、分からないことは考えない。

 さあ、たたみこめ。

 

「疑問が解けたなら、そろそろ疑うのはやめてもらえるか。俺は女神(アテナ)の聖闘士、天馬座(ペガサス)の星矢。ありとあらゆる意味で、それに偽りはない」

 

 やましいことなんぞ何一つない、と全面的に顔に押しだす。

 訊くなよ? お願いだから、もう何も訊いてくれるなよ!

 目をいっぱいに見開いて、まばたきもしない。真実味を増すため、瞬みたいに、瞳をきらきらさせたいんだが、どうしたらいいんだろう。習っとけばよかったな。

 目が乾燥して、涙がにじんできた。

 だが、根性だ。耐えろ。ここで折れてもらわなきゃ、俺が折れる。精神的にも物理的にもな。

 

 何が気になったのか、ムウはまじまじと俺の顔を見つめ、手を伸ばしてきた。

 あえて抵抗せず、されるがままになっていると、あろうことか、ぽむぽむと頭を指で軽く叩かれた。ぎょっとまごついた俺に、ふわりとムウの表情がゆるむ。

 あのな、俺は真剣極まりないのに、何がしたいんだよ。覚えずもれた唸り声のためか、手つきが猫でも撫でるようなものに変化した。冷や汗と反抗心が、相争って俺の心を食い荒らしていく。

 ムウよ、あんたのほうが、俺なんかよりよっぽど意味不明だ。不愉快だ。くそ、この指、食いついてやろうか。それとも頭突きのほうがいいか。

 不穏な誘惑に屈しかけたところで、ムウの邪魔が入った。鋭いな。

 

「そうですね。要らぬ波風を立てたいわけでもありません。時間も時間です。そろそろ昼食にしますか?」

 

 俺が、首が折れる勢いで、縦に振ったのは言うまでもない。

 腹が減っていることを、ようやく思い出した。

 

「ぜひとも、そうしたい」

 

 渾身の力を込めて頷きながら、ムウの手から逃れる。

 ついでに、ふと頭に浮かんだことを訊いてみた。

 

「それと、結局、俺が寝てる間の途中経過って、いつ説明してもらえるんだ?」



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世界の果ての祈り

 あ、ムウのやつ。今気がついたって顔をしやがったぞ。

 もしかして、忘れてたのか。

 ムウは茶杯を置いて、立ち上がった。

 

「そのような目で見るものではありませんよ。今から説明してあげますから」

 

 なだめる表情と声音だったが、俺はだまされない。絶対に忘れてただろ。

 貴鬼からポットを取り上げたムウは、目線だけで何やら指示をした。一つうなずいた貴鬼が、シュンと消える。

 そのまま、俺の杯に手ずから茶を注ぎつつ、説明が始まった。

 

 そんなに長い時間はかからなかった。

 貴鬼が運んできた料理に手をつけながら、小一時間というところだ。

 細かい説明をはぶけば、要点は三つ。

 紫龍と那智の聖衣は生き返ったが、まだ細かな修復が必要。

 優先して修復するのは、瞬と紫龍の聖衣。俺の聖衣は壊れてないが、何やら補強をしてくれるらしい。

 修復と補強完了までのジャミールへの滞在許可。

 これだけだな。

 

「なあ、俺達の聖衣を先にするのは、なんでだ?」

「必要だと思うからですよ。あなたはもちろん、瞬と紫龍もよくぞ来ました。他の兄弟ではなく、この二人が来たということに、なにがしかの作為を感じてしまうほど、よくできた人選です」

「どういう意味だよ」

 

 含みを感じる。

 つくづくと思うんだが、黄金聖闘士はもうちょっと分かりやすい話し方をすべきだ。シャカといいムウといい、思わせ振りにも程がある。

 これを放ってはおくもんか。

 決意して、さらに訊いた。

 

「紫龍達はどこまで話したんだ?」

「大したことは何も。あなたを置き去りにして話を進めるのが嫌だったようですね」

 

 なら、その謎掛けめいた口ぶりは何だ。

 だいたい、俺達が来たのなんて、単なる偶然だ。紫龍に関しちゃ老師の作為かもしれないが、瞬は話の流れで来ただけだぜ。

 そもそも、俺達が兄弟だなんて、どこで知ったってんだ。

 

「フッ、そう警戒するものではありません。雑談の合間に、少し尋ねただけです」

「そこが問題なんだろ。何を聞いたんだよ。ムウ」

「本当に、大したことではありませんよ。日本へ帰国したあなたが彼らを叩きのめしたことや、あなた方が異母兄弟であること、ここに来る前シベリアに行ってきたこと、どれも他愛ない話でしょう」

 

 ああ、沙織さんが女神(アテナ)だとかは、言ってないわけだ。当然だけど。なら、確かに大した話はしてない。

 してないんだが、俺の動きは全部知られてるじゃないか。

 知られて困りはしないが、不気味ではある。

 わずかに気を尖らせる俺を、面白そうに眺めたムウから、さらりと言葉が投げられてきた。

 

「カミュには会いましたか?」

 

 あまりの唐突さにむせそうになった。

 いきなり何を言い出す。

 少し沈黙して、ごまかす理由がなにも見つからなかったので、正直に「ああ」と答えた。

 表情を隠せないなら、正直に答えたほうがいいに決まってるしな。

 

「親切にしてくれたぜ」

 

 言葉少なになるのは不服を言いたくないからだ。良くしてもらったんだ。本当だ。

 ただ、カミュが来なかったら、氷河にあんな怪我をさせることもなかったんじゃないかと思うだけでな。

 手加減しそこねた俺が悪いんだけどさ。

 何もかもを見通すように、ムウがくすりと笑った。

 

「彼は公平で、実力主義の男ですが、いささか求道者めいた部分がありますからね。かなり世話焼きでもありますし、隠し事には向きませんよ?」

「してねーよ!」

「なるほど。では、全てを話したのですか?」

 

 思わず息を呑んで、目を見開いた。

 ああ、それを知りたかったのか。

 納得すると同時に、げっそりと身体から力が抜けていった。ムウ、頼むから、会話に裏を仕込もうとするのはやめてくれないか。

 知りたいなら、最初からそう言ってくれよ。隠す理由がなけりゃ、基本的には素直に答えるんだ。

 脱力しながらも、頭をゆるく振って認めた。全てってのは、たぶん、教皇の真実とか女神(アテナ)についてだよな。それで合ってるよな。別の、隠された意味はないよな。

 ううう、なんという神経を削る会話だ。もういやだ。ムウなんか嫌いだ。飯がまずくなる。

 いやに小食なムウはとうに食い終わり、今は食後の茶を飲んでいる。卓上に置かれた左手をぎりぎりと睨みつけた。

 ムウの顔は見られない。間違いなく恨みがましさを気取られるから。今でも隠せてはいないかもしれないが、わざわざ見せる必要なんかない。くっそ!

 

「そういうことですか。ようやく納得できましたよ。彼がシベリアから帰参しない理由は、星矢、あなたにあったのですね」

「え? いや」

「知っているのが不思議ですか? フッ、私は聖域から遠ざかってはいますが、情報収集をおこたっているわけではないのですよ」

 

 ゆったりとした微笑が俺に向けられる。

 待て。そういう意味じゃないから、最後まで聞け。カミュがシベリアから動かないのは、氷河の怪我が治るのを待ってるからだ。別に、俺が聖域に帰るなと言ったわけじゃない。

 そこんとこ、勘違いしてくれるな。カミュが自分で決めたんだぞ。

 と、前後関係含めて、詳しく説明した。カミュが女神(アテナ)を見定める気になったのは、俺との話が原因だろうが、だからと言ってシベリアに留まる理由まで俺のせいにされちゃたまらない。

 弟子思いのカミュが、氷河の怪我を優先させているというだけのことだ。

 

「その前に、氷河に怪我をさせたのはあなたでしょう。女神(アテナ)の話を割り引いたとしても、どう考えてもあなたのせいですよ」

 

 笑いを含んでムウは言う。

 違うって。誤解だ。

 いや、氷河の怪我に関しちゃ誤解じゃないけどさ。それ以外の決断に俺は関与してない。だいたいカミュの決めたことに、俺が口出しできるわけないだろ。

 ムウは俺の言い分を否定しない。

 しないんだが、それが逆に居たたまれない。嘘は言ってないのに、なんだこの空気。やめろ、そんな生優しい目で見るな。

 言い募るのに疲れた俺は、とうとう説明をやめてうなだれた。

 

「さあ、星矢。食べ終わったなら、案内しますよ。こちらへ」

 

 何事もなかったように立ち上がるムウを、軽くねめつけるだけで精一杯だ。人の話をまともに聞かないのは黄金聖闘士の特徴なのか。

 残った茶を飲み干すと、手招きに従って、歩き出した。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 ムウに連れられて、一層、二層、三層と住居層含めた上層を案内してもらったが、なんじゃこりゃというカオスだった。

 十字架、コーラン、仏壇仏像、神棚、リンガ、玉皇上帝の姿絵、孔子像、ニシャン・サービフ、世界中のありとあらゆる宗教の象徴があった。

 もちろん同じ所にあるわけではなく、同フロアには基本的に同じような宗教で固めてある。二つ以上ある場合は、衝立のような簡易壁で区切ってあるわけだが、それにしたって凄まじい数だ。

 圧巻だが、ごちゃまぜに感じる部分もある。

 

「なんで、こんなに集めてるんだ?」

「我々は正義と愛のために、多くの者を犠牲にすることがあります。神々でさえ守り得ぬ弱き人々を一人残らず守るなど、人には成し得ぬこと」

「あー……つまり?」

「これだけあれば、冥福を祈るには十分でしょう。ほとんど世界中の宗教がそろっていますから。宗教の真髄はそこではないと、分かっているのですけれど」

 

 沈黙にぽつりと落ちるような説明だった。

 神々の手から、こぼれ落ちた人々のためか。実在する俺達の女神(アテナ)ではなく、相手の神を重んじる態度がムウだな。

 

「宗教の真髄? 俺達が女神(アテナ)に向けているものは違うのか?」

「それは忠誠でしょう。違うと言い切るのもはばかられますが……。いえ、実のところ、私にも、これと断定することはできません。概念をしかと形にすることは難しく、また、言葉は不完全なもの。シャカであれば、名を付けることにとらわれるべきではないと言うかもしれませんね。彼は仏教徒ですから」

 

 ムウって、シャカと仲よかったっけ。それと、シャカが仏教徒なのと、その発言をするだろうという推測の因果関係がさっぱり分からないんだが。

 ますます意味が分からなくなったぞ。

 俺の困惑に気づいたムウが、補足を加える。

 

「仏教の教えを大雑把に分ければ、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静となります。簡単に言えば、何もかもが移り変わり、何であろうと意味はないのだから、何ものにもこだわるな、ということです」

 

 やっぱりよく分からん。

 理解できないという意味じゃない。確かにきっちりした理解もできてないが、それ以上に、分かり合えないという意味でな。聖闘士である以上、こだわらざるを得ないものだってあるはずだ。俺達にとって、捨て去れない絶対のものは、シャカにとって迷いに過ぎないってのか。

 いやその前に、よくよく考えると、その理屈だと、こだわらない、ということにこだわる、ということにならないか。

 頭が混乱してきたな。

 俺は一度まばたきをして、混乱した思考ごと、疑問を切り捨てた。

 必要のない問いだ。ムウもシャカも聖闘士として今この時代に在る。それなら、考えなくていい。

 ムウは静かに笑った。

 

「私だけが集めたわけじゃありませんよ。ここは聖域ではない。ですから制約はゆるい。けれど、聖域の全てを知る者が受け継いでいく場所。弔意を表しているのです」

「ふうん」

 

 相槌を打ちながら、考えた。

 聖域から女神(アテナ)が失われて十三年。同時にそれは、ムウの師であるシオンが失われてからの年月でもある。弔いの場所で、ムウは安息の眠りを祈っていたんだろうか。十三年。こんな世界の果てみたいなところでずっと、誰の眠りを。

 考えるまでもないことで、そして、俺にはどうしようもないことだった。

 わざわざ訊くほど無神経じゃない。

 

「なあ、紫龍達はどうしてるんだ?」

「彼らも昼食を取っているはずですよ。自由にしていいと言っていますから、貴鬼に連れ回されているかもしれませんね」

「へえ……」

 

 どっちに、どっちを、自由にしていいと言ったんだろう。

 貴鬼を連れ回すんじゃなくて、貴鬼に連れ回されるんだな。

 

「あなたも、ここにいる間は好きにして構いません。ただ、食事の時間には戻ってきてくださいね」

「分かった」

 

 とりあえず頷いた。

 だが、好きにしろと言われても、何もすることがないんだけどな。

 いや、ちょうどいいから紫龍と瞬に、特製修行コースを試行してみようか。瞬はセブンセンシズに最も近い場所にいるし、紫龍は二度も黄泉から還ってきた男だ。

 他の奴らにやったら死んでしまうかもしれないけど、この二人なら大丈夫だろう。うむ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 聖衣が、ムウの手を経て、俺達の手に戻ってくるまでには、着いてから、およそ二十日間ほど掛かった。全員分じゃなくて、俺と瞬と紫龍の聖衣な。

 

 その間、何をしてたかといえば、いきなりぶっ倒れた瞬の看病だったり、紫龍の修行に付き合ったり、貴鬼と遊んだり、ムウと話したりだ。

 仮修復された聖衣をちょっとした事故で破損させてしまったり、他にも色々とあったが、些細なことだ。一つだけ言うならムウは恐かった。怒られるより落胆の溜息が恐ろしかった。こっちが謝らなければならない、と無性に思わされるんだよ。なんでだろ。

 

 ジャミールは山の上だけあって、空気がかなり薄い。瞬も到着日は平気だったようなんだが、俺の起きた次の日の朝、起きてきた途端に、口元を抑え気分が悪いとぶっ倒れたのだ。びっくりしたぜ。

 駆けつけた貴鬼がサイコキネシスで瞬をベッドに運び、ムウが低酸素症と診断した。

 紫龍が真顔で「意外だ……」と漏らしたのには、思わず笑った。城戸家で、どういう付き合いををしてたんだよ、お前ら。

 ムウに言われるまま、地下へと担いでいって寝かせといたら、数時間くらいして、いつも通りの顔で戻ってきた。どういう魔法を使ったんだ。まさか地下は酸素濃度が違うってのか。気圧か。どうなんだ。

 残念だが、ムウは俺の疑問に微笑するだけで答えてくれなかった。

 黄金聖闘士の秘密主義は悪習だ。改善すべきだと声を大にして訴えたい。

 

「お前もそう思うだろ。紫龍」

「そう言われてもな。俺は別に困ってないんだが」

 

 ひとまず紫龍に、不条理だと訴えてみたが、困ったような、嬉しいような微妙な顔をして髪をかきまわされた。なぜそうなるのか、よく分からん。俺は何か間違っているか。

 おい、顔を背けて忍び笑うのはやめろ。むかつくから。見せなきゃいいってもんじゃないんだからな。

 

「カルシウム不足か? そう怒るな。ムウにはムウの事情があるのだろうさ」

「別に、怒ってないぜ」

 

 苛つくだけだ。

 確かに黄金聖闘士への苛立ち、不信は、元から俺自身の内にあった。ムウのせいだけとは言えない。

 しかし、それにしたって、正当な理由の説明もなく隠し事をされて、紫龍は腹が立たないんだろうか。不可解だ。

 いや、しかし、考えてみれば、紫龍の師匠はあの童虎だ。理不尽には慣れているのかもしれない。

 思わず納得できてしまった。慣れているなら、仕方ない。俺だって、魔鈴さんの理不尽なら何とも感じないもんな。

 おい紫龍、笑いながら「お前もかなり理不尽だ」なんて言うのはやめてくれ。八つ当たりしたのは認めるが、俺なんて可愛いもんだろ。修行だって常識の範疇だ。人間として無理なことはやってない。

 貴鬼との岩の投げ合いっこに巻き込んだのは悪かったが、お前も楽しんだだろうに。

 

「あれはな。その後の鬼ごっこのほうは苦痛だった」

「なんで? 俺が鬼だったし、ちゃんと百秒数えてから追いかけたろ」

「お前、手加減なしで追いかけてきてただろう。そのくせ、捕まえる寸前にわざと逃すから、貴鬼は本気で泣きそうになってたぞ」

「捕まえたら、そこで終わっちまうだろうが。それとも、俺を捕まえる自信があるのかよ」

「ないな。そんな自信は持てんが、修行だと割り切っていた俺はともかく、貴鬼には程よいところで終わりにしてやれ。見てるほうが気の毒になる」

「ん、む、ううん……」

「はは、せめてペガサス流星拳を使うのは勘弁してやれ」

 

 曖昧な肯定とも否定ともつかぬ相槌を返せば、苦笑された。

 だが、貴鬼にもいい修行になったと思うんだけど。

 弁解させてもらえれば、貴鬼にペガサス流星拳を放ったことはない。ただ、紫龍や瞬と一緒だと、どうしても修行混じりの遊びになるから、何回か巻き込んだ、だけだ。

 もちろん怪我ひとつさせてない。紫龍達が必死に守ったからな。聖衣がないとは思えん動きだった。

 やっぱり、守るものがあると、あいつらは格段に良くなるな。特に瞬はそうだ。だが、代わりに、己をおろそかにする部分がある。だから、実力で言えば瞬のほうが強くても、生き残るのは紫龍だろう。

 戦いとはそういうものだ。

 

 遊びは、基本的に貴鬼発案だ。俺達には、あまり遊ぶという発想がないからな。修行環境のせいか、あるいは性格的なもんなのか、そういうものは縁遠い。

 それにしたって、岩の投げ合いっこといい、小宇宙使用ありの追いかけっこといい、これは遊びの名を借りた修行じゃないだろうか。

 いつもこんな風にムウと遊んでいたのだとしたら、ムウの教育方法が忍ばれるな。

 でも、こんなのを通常の遊びとして覚えたら、もう何か人として間違った大人に育たないか、ムウよ。あんたは普通だと信じてたんだけど……黄金聖闘士だもんな。仕方ない。

 

「つくづく思うが、お前は、黄金聖闘士に恨みでもあるのか、星矢」

「僕も思ってた。どうしたの。星矢らしくないよ」

「知りたいか? どうしても? 知っても後悔しないし、後から文句も言わないな?」

 

 ごくりと、喉の動く音が聞こえた。

 瞬が右手を握りしめて、迷う様子を見せる。紫龍は、眉根をよせて俺を見つめた。

 寄せられる視線に向けて、俺は厳かに言い放つ。

 

「絶対に教えてやらん」

 

 己にもよく分からんものを、説明などできるか。

 彼らに対する俺の敬意は間違いない。けれど、同時に得体のしれぬ反意も存在する。

 だけど、そんなもの、わざわざ言わなくていい。紫龍達には不要なものだ。そうだろう。

 目の前の様子から察するに、俺の思いやりはあまり理解を得てないみたいだがな。む、なんだよ、その目付き。俺が悪いみたいじゃないか。

 

「それはちょっとひどいよ……。星矢」

「まったくだ。……お前は黄金聖闘士をどうこう言う資格はないと思うぞ」



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果たされぬ誓いの記憶

 ええい黙れ。俺だって話せるものなら話したいんだよ。

 そっぽを向きつつ反論する。心のなかだけで。

 もし口に出したら、じゃあ話せと言われるのは間違いないからだが、話せないからこそ……と話は延々と巡っていく。

 しかし、今後、何につけても、この葛藤は俺を悩ませるのだろうか。

 そう考えると、俺はもう今からちょっとばかりうんざりするぜ。

 

 ちなみに、ここでの食事は基本的にムウが作っている。

 ムウの手が離せない作業の時だけ、貴鬼が包丁を握っていた。

 しかし、驚くべきはムウのサイコキネシス。なんと粉を練ったり、スープをかき混ぜたりするのに手を使っていないのだ。空いた身体を使って、俺達と話したり、よく分からん器具の調整をしたりと、一人にして四人分くらいの仕事をしている。なんとも人間離れしたサイコキネシスの精度だ。

 しかし、これは、さすがと言うべきなのか、何やってんだと言うべきなのか。

 調理器具や食材が勝手に宙を飛ぶ光景に絶句した俺は、普通の感性だと思う。どう考えてもサイコキネシス本来の使い道じゃないよなあ。

 貴鬼は「おいらがあれをやると、色々別のものが入るから無理」と言って、大小取り混ぜ石を十数個浮かべてお手玉をしてみせた。それくらいが限界、ということらしい。

 当然のように「これくらいの器用さと、精度の高さがないと、聖衣の修復に倍以上の時間が掛かってしまいますよ」とムウが言った時には、黄金聖闘士の求める高さを痛感して、ひどく貴鬼に同情したもんだった。サイコキネシスと聖衣の修復の間に何の関連があるんだか知らんが、あれは無理。真似する気にさえならん。

 器用さと精度の高さとムウは言うが、さらに言えば、半端ない空間認識力が必要だろ。それ。

 優しく見えたけどさ。実際に優しいし常識的なんだけどさ。ところどころで、ムウも黄金聖闘士だよな。嫌な意味で。

 ああ、空間認識力ってのは、ものすごく簡単に言えば、月は小さいのではなく小さく見えるだけ、ということを理解できる能力のことだ。本当に小さいわけじゃなくて、巨大なものがとんでもなく遠くにあるから小さく見えるというその距離を理解できるかどうか。空間把握能力と言ってもいい。

 蟻だって、目の前に持ってこられりゃそれなりにでかいが、地面に置かれたら目にも入んないだろ。大きさが変化したわけじゃない。距離が変化したんだ。

 思うに空中戦を得意とする戦士は、全員この能力が高い。氷河や俺も悪くないほうだ。

 それでも、だ。氷河はもちろん、俺にだってムウみたいな真似はできん。

 どれだけムウの能力が飛び抜けているか、説明したってしたりないくらいだが、だからこそ、雑事に使われているのを見ると、何となくこう脱力する。いいんだけどさ。ムウが自分の能力を何に使おうとムウの自由なんだけどさ。

 どこか納得できないんだよなあ。

 

 世話になってばっかりじゃ悪いかと、俺達が厨房に立った時もある。だが、お湯が100度になる前に沸騰するなんて、俺の知る料理の前提条件からして違うわけでだな。

 つまり、はっきり言うと失敗した。

 瞬もだ。

 なぜか紫龍は成功したので、以後、紫龍のみが厨房に立つ権利を得た。聞いた所によると、食事はほとんど春麗さんに頼っていたらしいのに、憎いやつだ。大概のことはできるんだよな、紫龍って。

 老師の薫陶か。

 この手の話になると、無意識に顔をしかめるらしい。おかげで、そのたびに、紫龍が眉尻を下げて俺を見つめてくる。瞬がいたら、瞬もだ。時々は口に出される。

 

「聞くなとお前が言うなら、今は聞かないが、いつかは話してくれるんだろうな?」

「そうだよ。そんな顔をされるたびに気になるんだからね」

 

 別に気にする必要はないんだが、そうだな、うん、俺もいつかは話せればいいなと思うぜ。

 いつか、全てが終わり、俺もお前達も生き残ってたら。

 整理がついて、ちゃんと話せるようになったら。

 成り行き次第な考え方で悪いが、俺はもう絶対じゃない約束をするのはやめたのだ。懲りたとも言う。美穂ちゃんに言われたことだけでも神経削ったのに、お前らに男泣きでもされたら、とそんなことを思うだけで、胃が痛くなるぜ。いろんな意味で。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 ジャミールでのそれなりに変化に富んだ日々を、俺はこれまたそれなりに楽しんだと言えるだろう。

 だけど、何にだって終わりはある。

 この日々だっても当然ながら例外じゃなかった。

 二十日を過ぎたころ、俺達はそろってムウに呼ばれた。

 差し出されたのは、俺と紫龍と瞬の聖衣だ。

 瞬が首を傾げた。

 

「僕達の聖衣……三体だけですか?」

「ええ。まだ他の聖衣は修復が済んでいません。ですが、ひとまず渡しておきます。どうするかは、あなた方にまかせますが」

「どうする、と言うと?」

 

 紫龍が、貴鬼に手を伸ばしながら尋ねた。龍座(ドラゴン)のパンドラボックスが、確かな重みとともにその手に収まる。

 続いて貴鬼は、瞬のアンドロメダ座の聖衣を持ち上げた。受け取った瞬が貴鬼の頭を撫で微笑む。

 瞑目したムウは返答を返さない。

 こんなにもムウを迷わせているものは、一体何だ。

 俺が聖衣を貴鬼から受け取ってようやく、重い溜息とともに口が開いた。視線が俺とぶつかる。

 

「私が、ジャミールにいながらも情報収集をおこたっているわけではないとは説明しましたね」

「聞いたな。確かに」

 

 それがどうした。

 首を傾げた俺に、ムウは真剣な表情で憂うように言った。

 

「アフロディーテが動くそうです。反乱者討伐の密命を受けたとか」

「へえ……?」

「行き先は、アンドロメダ島」

「なんだとっ!」

「まさか!」

 

 俺と瞬が同時に叫ぶ。

 思い浮かべたのは同じ人物だろう。瞬の師匠だ。

 焦りがわいた。

 早く駆けつけなければ、と、向きを変えた瞬間に浮かんだ新たな疑問に動きが止まった。ありえないと思いたい。だけど―――。

 

「なあ、いつから知ってた。知ってて放置してるのか」

 

 そう、前回、それを知っていながら動かなかったのか。

 問いながらも、もう分かっている。今、それを俺達に告げるなら答えは一つ。

 動かなかったのだ。

 だから、瞬の師匠は死んだ。

 聖域にも他にも犠牲はあったはずだ。

 知らなかったのだと。

 止められなかったのだと。

 ずっと、ここまで、疑問すら持たなかった。

 

「おい、知ってて見殺しにしたのか!」

 

 腹の奥底に溜まった何かが、焼き切れるほどの熱を発する。耳鳴りするほどの怒りが、俺を支配した。

 なぜだ。なんで見捨てた。どうして見過ごした。

 足元からピシリと音ともにひび割れが走る。言葉にすることさえできない激烈な炎が腹を焼いて、そのまま視線に宿った。

 貴鬼が怯えたように後ずさった。

 ムウの表情は変わらない

 

「その通りです。我々は動いてはならない。黄金聖闘士の責務ゆえに」

「けっ、そんなにも大事か、それが!」

「大事ですとも!」

 

 猛然たる口調だった。

 それを恥じるようにムウは再び瞑目した。

 次に出てくる声はすでに静かだ。

 

「大事ですよ。我々こそが大地に対する最後の守り、最後の要。黄金聖闘士同士の争いは、たとえ何があっても起こしてはならない。あなたがたに教えるだけが、私にできる精一杯の手出しなのです。我々は決して争ってはならない。地上を守りぬくために耐えねばならぬ義務があるのです」

 

 私には伝えることしかできない、と最後の一言だけがポツリと岩に落ちる水滴のように静かに響いた。

 師を失っても、師の教えを守りぬいた漢にそれ以上言えることなどなかった。

 ムウは悪くない。好き好んで見捨てるはずがない。

 ああ、だけど、この胸のくすぶりはなんだろう。

 泣きたくなるほどの衝動が不意に心臓を揺さぶって、俺は息を飲み込んだ。呼吸ができなかった。

 

 なるほど。

 俺が黄金聖闘士たちに相談しなかった、特に老師に相談しなかった理由が分かった。

 彼らの大局的なものの見方についていけないからだ。

 間違っていないと分かっている。

 だけど、納得できない。

 けれど、彼らが、老師が、好き好んでやってるわけじゃないと分かってる。

 童虎は冥王(ハーデス)を倒すために、その為だけに全て、己の心を切り捨ててまで耐えて耐えて耐えて、そして目的を遂げようとしている。

 黄金聖闘士達は大なり小なり同じだ。

 そんな漢達に何を言うこともできはしない。

 でも、納得もできない。

 

 ―――置いていかれるのはもう御免だ。

 

 ああなるほど、そう言うことなのか。

 閉じた目の暗闇に、己の真意を悟る。

 置いていかれた。

 不要だと。

 たとえ守るためであったとしても確実に示されたそれに。

 ―――勝手に決めるな!

 と叫んだ。

 その慟哭が女神(アテナ)や黄金聖闘士に対する警戒感を生み出して、いる。

 

 ―――勝手に決めるな!

 ―――俺達が戦うのも、俺達が何に命をかけるのかを勝手に決めるな!

 ―――勝手に戦いから排除するな!

 ―――俺達はそのためにいるのに!

 

 ひどく、情けない気分だった。

 彼らは俺達のためにそれをなしたというのに、俺はそれを逆恨みしているのだ。

 なぜ、置いていこうとしたのか、と。

 我侭にも叫んでいる。

 あれだけ良いように使っておいて、肝心なところから排除するのか、と。

 毒を喰らわば皿までと言うが、毒だけ食らわせられたようなものじゃないか、と。

 なぜ、最後まで共に戦わせてくれないのだ、と。

 それは屈辱だ、と。

 死なせたくないとの優しさを、彼らの精一杯の思いやりを踏みにじって、叫んでいる。

 許せない。受け入れられない、と。

 俺は浅ましいのだろうか。

 それでも、彼らが血を流している時に、安穏と何も知らず平和に暮らしてなど、いたくなかったし、いられなかった。今も同じだ。

 前と違うのは彼らがなぜそうしたのか分かっている。それだけだ。

 

 詰まっていた息を、意識して吐き出す。

 目尻ににじんだものは、根性で引き戻した。情けないにもほどがあるぜ。しっかりしろ。これがムウの出してくれた精一杯のカードなら、最大限に活かせ。それこそがムウに応える道だ。

 わがままな泣き言が、今、何の役に立つってんだ。不抜けてんじゃねえ。

 俺のやるべきことはなんだ。

 限界まで吐き出して、吸った息を、また言葉にして吐き出した。

 

「……急ぎなら、送ってくれるか? アンドロメダ島まで」

「ええ、もちろんです」

 

 ムウはどこかで見たような痛みを含んだ気配を漂わせていたが、即答した。

 それに安心して、紫龍と瞬を振り返る。

 

「俺は行ってくるけど、お前達はどうする?」

「訊かれるまでもないよ。星矢が前に言っていたことだろう? ダイダロス先生ほどの方がまさか、と思っていたけれど」

「もちろん行くさ。お前達だけに背負わせるわけにはいかない」

 

 苦悩のにじんだ表情の瞬が途中で言葉を切る。そのまま唇を噛んで、首を左右に振った。瞬にしてみれば、信じがたいのだろう。

 その瞬の背をぽんと紫龍が叩いて、俺にしっかと頷いてみせる。

 よし、なら行くか。

 俺は笑った。

 

「出陣だ!」




評価、感想、応援ありがとうございます。いつも本当に嬉しく思っています。


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ささやかな温もりの懐古

 ジャミールの冷たく薄い空気に、不純物はほとんどない。はるか彼方まで見通せる高みは、神の座所にも似ている。

 人が生きるには厳しい場所だ。痛いほどに荒い岩肌、耳を切り裂く烈風、肌に突き刺さる陽光。ムウの館の最上階は、影を貫き焦がす光にあふれている。

 頭上、やや東の太陽に背を向けて、ムウは聖衣をまとった俺達を差し招いた。

 人差し指が行くべき方―――南西を指し示す。

 

「……許せとは言いません。ですが」

「やめてくれよ」

 

 肩をすくめて、ムウを遮る。

 許さなくちゃいけないことなんて、どこにある。ここは俺達が礼を言うべきところだろうに。

 前回は助けられなかった。犠牲があった事実ですら、後で知ったんだ。

 同じ思いだったのか、瞬も同調した。

 

「あなたのご助言に感謝こそすれ、何を詫びてもらう必要があるでしょう」

「瞬の言うとおりだぜ」

「そうですか。では、せめて武運を祈ります」

「うん。行ってくる」

 

 ムウの後ろに隠れていた貴鬼が、おずおずと顔だけのぞかせて口を開けた。何か言いたいのかもしれないが、視線が合うときゅっと眉をしかめて泣きそうな表情になる。

 言うまで待っててやってもいいんだけどな。

 どうせ、すぐに戻ってくる。

 短い別れだ、と笑いかけて、俺はムウに送ってくれと合図を送った。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 暁光を受けるアンドロメダ島。

 海の波に照り返された光が眩しい。海際にそそり立つ大岩に立って、俺はアンドロメダ島の情報を思い返していた。

 辰巳の口を借りるなら「昼間は容赦なく太陽がてりつづけ50度を越す灼熱地獄! 夜は一転して零下にまでさがり すべての生き物をふるえつかせる寒波地獄!」とやらだったな。後は生きて帰ってきた奴がどうとかこうとか、あんまり覚えてないんだが、物騒なことを言っていた記憶がある。

 だが、仮にも瞬の生き延びた場所だ。心地よいとは言えないだろうが、生きられない環境じゃないだろうよ。

 ……と、思っていたんだが甘かった。本当に甘かった。とにかく何がだめって、熱のこもる息苦しさがだめの一言に尽きる。ジャミールの涼しさと澄んだ空気が恋しくて仕方ない。

 俺は口を開けて、あえぐように呼吸した。吸い込む空気まで暑くて死にそうだ。

 環境が違いすぎる所から、いきなり飛ぶもんじゃないな。少しずつ身体を慣らせる陸路には陸路のよさがあると思い知ったぜ。

 

「あ、暑い……」

「これでも涼しいほうなんだよ。星矢。まだ朝だもの」

「星矢の気持ちも分かる暑さだ。ここがアンドロメダ島か? 瞬」

「そうだよ。僕の修行したところだ……。岩と砂しかなくて、ずいぶんと荒れた不毛の地だけど、ダイダロス先生とジュネさんがいて、救われていた」

 

 しみじみと言う瞬。

 長い睫毛が揺れて、細められた目は明らかに過去を写している。懐かしいと言葉に出さずとも、修業の日々を愛おしんでいるのが分かった。

 同意のうなずきを紫龍が返しながら、五老峰の方角と思しき北東へ目線を投げた。いかにも望郷の念にかられていますといった体だ。

 ううむ、理解できない。

 魔鈴さんとの日々は地獄だったからなあ。

 二人とはまた違った意味で、遠い目になる俺。哀しい温度差だ。いや、いい思い出が皆無とは言わない。何か一つくらいあったはずだ。思い出せないけど、絶対に何かあったんだ。

 心の中で繰り返せば繰り返すほどに虚しい気分になって、俺は昇りつつある太陽を切なさのにじんだ目で睨みつけた。

 目に見えぬ、けれど、越えられぬ線のこちらとあちらで、それぞれ物思う俺達。

 いったい何しに来たんだっけ。ああ、暑さで思考が飛びそうになるぜ。

 

「おい、大丈夫か。星矢」

「目が、五老峰に登る前と同じになってるよ。気分でも悪いの?」

 

 うるさい。お前達のせい……でもないか。別に。

 俺はくったりとうなだれて、周囲の空気を探った。

 こんな疲れるために、アンドロメダ島に来たわけじゃない。俺は俺のなすべきことをしに、ここへ来たんだ。

 

「なんでもない。それより、アフロディーテはいないみたいだし、さっさと動こうぜ」

「うん、ん? いや、ちょっと待って星矢。ジュネさんが来る」

「……どこ?」

 

 争いの気配はしない。だからアフロディーテはまだ来ていないと判断した俺を、瞬は片手をあげて止めた。

 ジュネさんて、お前の姉弟子だっけ。

 どこにいるんだよ。

 顔で疑問を訴えかけると、瞬はまっすぐ海の中を指した。言われて注意していると、確かに誰かの小宇宙を感じる。けど、朝っぱらから海って。

 

「……なんで?」

「さあ、そこまでは」

 

 言いながらも、瞬は可愛らしく小首をかしげた。

 いつものことというわけでもないらしい。とすると、海なんて、よく気付いたな。俺が鈍いのかもしれないが……。

 ほどなくして上ってきた人影は、確かに女性のシルエットだった。その背に負ったものは、あれは、パンドラボックスか。俺は目を凝らした。見える距離だが、確信を持つには少しばかり遠い。意匠からするにカメレオン星座のようだが、やっぱり確信は持てなかった。

 だが、それを見て、瞬は目を見開き、口元に手をやった。

 

「ジュネさん! もしやそれは」

「瞬!? そうさ。私は聖闘士になったんだ」

 

 挨拶もすっ飛ばして、瞬は興奮に満ちた声をかける。

 いきなり声をかけた瞬にぱっと振り向くも、瞬の姿を見たとたんに警戒の姿勢がゆるんだ。返答の声も明るく、喜びがこぼれんばかりだ。

 その答えに、瞬も笑み崩れて駆け寄ろうとしたんだが、そうは行くか。動き出す一歩前に襟首をひっつかんでやった。勢いづいた身体の勢いが手に掛かるが離さない。おいこら瞬、何しに来たのか忘れてないよな。気持ちは分かるが、先にやることがあるだろ。

 瞬は、苦しげにうめいて咳き込んだ。

 

「グッ、ゴホゴホッ、星矢、ひどくないかい」

「うーん、俺、言われるほどひどいか。紫龍」

「かなりひどい。だが、理由は分かる……」

 

 沈痛な目で俺達を見ながら、紫龍は溜息を付いた。

 そうか。ひどいのか。

 紫龍が間髪入れず言い切るならそうかもしれない、と俺は素直に手を離した。前につんのめってたたらを踏んだ瞬が恨みがましげに振り返る。そこまで力をこめたつもりじゃじゃなかったんだが、とっさだったから少しばかり加減をしそこねたのかもしれない。

 照れ笑いをしつつ目をそらせば、ジュネさんがあっけにとられた顔で、こちらを見ていた。

 さて、どこからどこまで、何を説明しようか。全部、は大量だしな。ここは厳選すべきだろう。

 

「俺達はダイダロスを救いに来た。どこにいるのか教えてくれ」

「星矢、それじゃ分からないだろう」

 

 簡潔明瞭がいいだろうと、これ以上ない説明をしたつもりだったが、何がいけないんだ。紫龍を見やれば、やれやれと苦笑いされた。

 しかし、説明というのは存外難しい。俺のように隠し事があればなおさらだ。

 一輝は味方になってくれなかったし、お嬢さんはあえてごまかされてくれただけだし、兄弟達は力づくで黙ってもらったし、カミュは納得してくれなかったし、ああ、考えてみれば誰一人ろくに説得できた試しがないな。

 うわ、つまり全戦全敗か。見たくない現実を思い知らされ、俺は遠い目になった。

 そんな俺を放置して、瞬がジュネさんに話しかける。

 

「ジュネさん、話したいことは多くありますが、すみません、今は少し急ぎますので、先にダイダロス先生がどこにいらっしゃるか教えてくださいませんか」

「あ、ああ。先生なら、家で瞑想していらっしゃると思う。どこへ行かれるとも聞いていない。何かあったのか?」

「今からあるかもしれないんです。説明は先生と一緒でいいですか」

「構わない。最近、先生は少し沈んでいらしたから、お前が来たと知ったら喜ばれるだろう」

「エッ? 沈んでいたって、なぜです?」

「分からない。これは私の事情になるけれど……」

 

 言葉を切ったジュネさんの語尾が揺れていた。

 表情が仮面で見えない分、わずかな声音の変化にも感情が表れる。

 

「お前が旅立ってすぐに、私は聖闘士の資格を得たんだ。けれど聖衣を得てはいなかった。先生は急ぐ必要はないと、必要な時に手にあればいいとおっしゃってくださっていたんだが、ここのところ、すぐにも取りに行くようにと……ずっと急かされていて、ようやく今行ってきたところなんだ」

 

 必要な時にあればいい、か。意味深長だ。

 もしかしたらダイダロスは知っているのか。もうすぐ殺されると。

 彼女がそれを知っているようには見えないが、何かを察しているのかもしれない。声には硬質さがあり、緊張の糸が張っていた。

 瞬も急がされた意味を考えたのか、硬い声で「そう、ですか」と呟いた。

 

「……瞬、お前が帰ってきてくれてよかった」

 

 ジュネさんは静かに言い、俺達の方に歩いてきた。

 近づかれるとさすがに分かる。背負っているのはやはりカメレオン星座の聖衣だ。長い髪が濡れて、水滴を滴らせている。顔には女聖闘士の仮面。簡易的な防具を身に着け、指先には包帯が巻かれている。足は紐を編み上げたような靴を履いており、浜辺の足跡に文様を残していた。

 視線が、俺と紫龍に向いたのを感じる。

 

「先生を救いに来たと言ったね。どうか頼む。先生の覚悟の中にきっと私もいる。だから、きっと私ではダメなんだ」

「ジュネさん……」

 

 瞬がちらりと俺を見る。

 紫龍が重々しく頷いてみせ、口を開いた。

 

「瞬の師匠ならば、俺達にとっても無関係じゃない。頭など下げないでくれ」

 

 救難は当然と告げる口調だった。

 その言葉に、ジュネさんは顔を上げ、瞬は何かを気付いたように「あ」と声をあげた。

 

「ああ、ごめん。そうだったね」

「何がだよ、瞬」

「まだ星矢達の紹介をしてなかったと思ったんだよ」

 

 言われてみれば初対面だ。いかん、普通の反応をしてしまった。知り合いでもないのに。これだからムウに怪しまれるんだよな。気をつけないと。

 ムウほどの洞察力は他の誰にもないと信じたいが、万が一があったら恐ろしい。もうあんなに肝の冷える時間はまっぴらだ。

 俺はぶるりと肩を震わせた。何をされたわけでもない。なのに思い出すだけで精神力を食われるときた。どういうことだよ。

 げっそりした俺を、瞬が片手で示した。

 

「ジュネさん、紹介します。こちらは天馬座(ペガサス)の青銅聖闘士の星矢。隣は龍座(ドラゴン)の紫龍。僕の頼もしい兄弟達です」

 

 紹介を受けてジュネさんが不思議そうに首をかしげ、口を開いたのを、瞬は手を振ってとめた。

 にっこりと俺に笑顔を向ける

 

「星矢、ジュネさんです。僕とは同門の姉弟子なんです。とても良くしてもらいました」

 

 誇らしげに、紹介できるのが嬉しくてしかたないと語る声音。

 瞬はきっと、この島でダイダロスとジュネさんと暮らし、幸福だったのだ。親に捨てられ、兄とも引き離され、それでも得た家族との幸福。

 少しばかり心が痛んだのを押し殺して、よろしくと俺は笑った。

 ジュネさんも微笑んだ。いや、仮面でよく分からないから雰囲気がということだが。

 

「紹介に預かったカメレオン星座のジュネだ。ところで、瞬、お前の兄弟って確か……」

 

 途中から、瞬の方向に顔を向けて問いかける声音だ。

 瞬が言いづらそうな、それでも優しい困り顔になる。遠慮がちな視線が飛んできた。

 なんで?

 よく分からなかったが、口をはさんでほしいんだろうか。世話のやける奴だな。

 

「俺達は、腹違いの兄弟だからな。しかも、少し前に判明したばかりなんだ」

「お前、あっさり言えるんだな。そういうこと」

 

 紫龍が物憂げな流し目をくれて、そのまま溜息を落とした。

 何が言いたい。

 ほぼ反射で、俺は半眼で睨み返した。ああ、分からない。かつての俺だったらあっさりとは言えなかったろうか。もう少し躊躇したろうか。他人に言うのは(はばか)られることだと判断しただろうか。

 分からない。だから、へたに誤魔化さない。

 俺達は睨み合った。いや、正確に言えば紫龍は何を言うべきか悩んだような顔でこちらを見ているだけで、俺は仏頂面でそれを見返してるだけだが、もうこうなったら逸らしたほうが負けだという気になるだろ。負けてなるものかと俺はねめつけた。

 

 およそ三秒、俺も紫龍も目を逸らさなかった。 だがしかし、待て俺。よく考えてみろ。

 睨み合ってる場合じゃない。この暑いのに、どうしてさらに熱くならなければならんのだ。

 正気に戻った俺は、ふっと視線を外して深呼吸した。

 このままではこの暑さで照り焼きになってしまう。いやいや、そうじゃなくて、このままでは、ダイダロスはアフロディーテに殺されてしまう。仇討ちを決意せざるを得なかった瞬の悲愴を知っているから、瞬を闘いへと向かわせた悲劇を防ぐためにここに来たんじゃないか。

 決意を新たにした俺は、微妙な表情をした紫龍と、笑いをこらえているような瞬と、戸惑ったような雰囲気のジュネさんとともにダイダロスの家へと向かった。

 何かに負けた気がして、妙に不愉快だ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 家に到着した頃には、すっかり明るかった。薄赤さと黄色味を帯びていた雲は真っ白になり、気温はますます上昇する。

 つくづくと瞬の言ったことは真実だった。先程はマシなほうだったのだ。

 海から吹いてくるべとついた風が、汗でぬめった肌を撫でていくが、ちっとも涼しくない。

 強烈な太陽光が、眩しさと熱を同時にもたらしている。くそ。暑い。

 

 俺達を驚いた顔で出迎えたダイダロスは、俺達の話を聞いても想像以上に冷静だった。サガの裏切りから、女神(アテナ)の所在までを頷きながら聞き、黄金聖闘士のアフロディーテが討伐に来ると告げても、その冷静さは消えなかった。

 信じないと否定もせず、さりとて動揺してうろたえるでもなく「そうか」と相槌を打った。

 何もかもを承知していたような重い一言だった。

 

「知って、いたのか?」

「五老峰の老師から、忠告は頂いていたが、思ったより早かったな。十三年前にそのような悲劇があったとは、不覚にも知らなかったが」

 

 俺の問いかけによどみなく答える。

 そっか。知っていたのか。ムウと同じく老師も。

 そして、忠告はしても、助けようと動くことはしないのか。

 いや違う。やめろ。

 俺はぐっと目をつぶり、こみ上げる衝動をこらえた。

 分かっている。動きたくても動けない。老師には老師のやるべきことがある。それに怒りを覚えるのは間違っている。ぎゅっと拳を握った。辛かった。誰のためか、何のためか、分かっているから責められない。そうだ。腹の底に溜まった熱さこそが間違っているのだ。それでもやりきれない。

 ダイダロスの声音は低く落ち着き払っていた。

 

「怒っているようだな」

「え……? いや、別にそんなんじゃないぜ」

「そうだな。俺に対して怒っているわけではあるまい。お前はそのような理不尽とは無縁に見える。なればこそ、その怒りが何のためか分かる」

 

 ダイダロスは笑みさえ浮かべて断言すると、「ありがとう」と続けた。人から道を譲ってもらった時のような軽くさりげない感謝だった。

 思うところはあるだろう。死にたいわけでもないだろう。それでも、その反応か。これが瞬の師匠か。

 怒りを穏やかになだめられているのが分かる。受け入れている当人を前に、俺の怒りにいったい何の意味があるというのか。いや、ない。それでも怒らずにはいられない。

 死ぬべきではない人間が、不当に殺される、その現実にどうして怒らずにいられよう。なぜ助けられるのに助けない。なぜ助けてはいけない。

 だが、世の中がこんな簡単な理屈で回っているわけでもないと分かっている。多くのしがらみと因縁と宿命とめぐり合わせ、義務と誇りと信頼と大義、価値観、理想、多くの歯車によって運命は決される。俺の怒りは、その歯車を無視した単純で幼いものだ。

 だから、ダイダロスの感謝を、俺は恐らく本当の意味では理解できていない。理解されたという事実でもって慰められているだけなのだ。

 しかし、それでも―――この怒りが間違っているとは思わない。暴虐が、理不尽が、不義が、誰かの幸福を踏み潰すなんて許されていいはずがない。ジュネさんを紹介した時の瞬の笑顔を踏みにじっていいはずがない。絶対に、だ。

 ダイダロスは言葉を続ける。

 

「だが、俺は―――」

 

 言い終わる前に、強烈な悪寒が背筋を走り抜けた。

 鼻の先を、どこかで嗅いだ甘ったるい香しさが逃げていく。一度嗅いだ者でなければ分かるまい。だが、間違いない。

 なんってタイミングだ。黄金聖闘士って、どいつもこいつも狙ったように来やがるな!

 心中愚痴りながらも、口を開けた。緊急事態だった。予測の範囲内ってだけが幸いだぜ。

 

「来たぞ!」




IF偽与太予告






過酷なる地、アンドロメダ島。
師匠のもとに、血の絆と覚悟をたずさえ、少年は戻ってきた。

「先生!」
「おお、瞬! 我が弟子よ!」

だが、再会の幸福は長くは続かない。
美しき薔薇の戦士、アフロディーテの魔の手が迫る……。

「フッ、苦しませずに死なせてやろう。この薔薇の葬列を送られて逝くがいい」
「お断りしよう。今生のアテナにお目通りも叶わぬうちにハーデスに会いに行く気はないのでな」

きっぱりと撥ね付けるダイダロス。
だが、黄金と白銀の差は、いかんせん埋まらない。ましてや彼の聖衣はほぼ死んでいる。万に一つあった勝機さえも消えていた。
だがしかし、恐れることはない。
明日に向かって呼べ。我らがブロンジャーズを!

「みんな、行くぜ! 出動だ!」
「分かってるよ、例の必殺技だね」
「うむ、とうとうアレを使う時が来たか……!」

からくも難局を切り抜けた星矢たちだったが、新たなる刺客が忍び寄る。
しかし、その時、瞬が真の姿を見せた。

「……なあ星矢、あべしって言って倒れる奴、本当にいるんだな」
「現実逃避はやめようぜ。紫龍。ムキムキマッチョになった瞬を見たくないのは分かるけど」
「見たくないというより、認めたくない」
「うん。俺も……なんで、こうなったんだろうな」

連載するかもよ!


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どちらが逆賊なのか

 叫ぶと同時に、外へ出ろと手振りで示した。

 息を止めろと叫んだほうが良かったんじゃないかとも思ったが、もう叫んじまったものはしょうがない。

 皮膚呼吸があるから、息を止めたって無駄かもしれないしな。アフロディーテとは直接戦ったことがないから、そこへんが曖昧だ。

 

 俺が叫んだ直後、瞬と紫龍はそれぞれドアと窓からバッと飛び出した。

 ダイダロスも聖衣を装着し、わずかにずれたタイミングでそれを追う。俺達は聖衣姿でここに来たからな。少しだけダイダロスより早く動けるわけだ。

 俺も、一番反応の遅れたジュネさんを抱きかかえて、窓から飛び出した。

 

 海に向かって真正面に立つダイダロス。

 その右斜め後ろに紫龍と瞬。

 そこに、ジュネさんを後ろに置いて俺が並ぶ。

 俺達の目の前に、目に突き刺さる陽光を背後に従え、自らも光り輝くような戦士が立っていた。

 双魚宮を守る、黄金聖闘士。

 

 ―――魚座(ピスケス)のアフロディーテ!

 

 ただの立ち姿さえ、太陽を、海を、砂浜を、従えているような鮮烈な美しさだ。

 逆光が表情を消していたが、目が慣れればうっすらと微笑んでいるのが見える。満月の輝きを紡いだ金髪、一滴の紅を溶かしこんだ白磁の頬、形よくすっと通る鼻筋、双眸には透き通った紺碧が宿り、長い睫毛のもたらす目元に落ちた深い陰影は、神秘的ですらあった。

 だから―――

 

「あれでも本当に男か?」

 

 俺が、前回と同じ感想をついもらしたのも、やむを得ないんじゃないだろうか。

 いかん。口が滑っちまった。右手で、口元を押さえる。この思ったことがすぐ口に出る癖は、直すべきかもしれない。正直は美徳ではあろうが、口に出していい時と悪い時があることくらいは知っている。

 

「せ、星矢、何を!?」

 

 同じ女顔だからか、瞬が慌てる。

 安心しろ。お前には言わない。今のだって、ついうっかり口が滑っただけだ。

 怒ってないといいんだが、と、そろりとアフロディーテを見やったが、こちらを一瞥して、鼻で軽く笑っただけだった。

 なんか、すごくむかつくな。あれ。

 瞬でさえ、正面切って言えば、怒るようなセリフを、あの手のプライドの高そうな男が怒らないわけはないと思ったんだが、無視することに決めたようだ。

 

「ダイダロス、君に聖域から召喚命令が来ている。従うか否か。答えよ」

女神(アテナ)からのご命令であれば従おう」

「教皇は女神(アテナ)代理。この命令に逆らうのは女神(アテナ)に逆らうのと同じ事だぞ」

女神(アテナ)の名を騙る逆賊どもに従う不名誉をもって、聖闘士の名を汚すわけにはいかんな。それこそ女神(アテナ)へ申し訳が立たぬ」

 

 アフロディーテの朗々たる命令を、ダイダロスは固い意志を感じる声で静かに跳ね返した。

 手を出していないだけで、交わす視線はもう闘いを始めている。

 アフロディーテの赤く艶めいた唇が、すうっと弧を描いて、両端がつり上がった。

 苛烈さの噴き上がる微笑だった。

 

「ならば、死ぬがいい」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 瞬時に二人の姿が消えた。

 と見えたのは、もちろん錯覚。実際は、高速で移動しただけだ。

 あまりにも急加速だったので、残像にだまされたのだろう。紫龍と瞬が首を巡らせていた。

 腕を持ち上げて指し示す。

 

「あそこだ。なんか口をはさむ間もなく始まっちまったな」

 

 ちょうど、俺達がこの島に降り立った場所付近に二人は移動していた。

 たちのぼる水煙。

 えぐられる地面。

 岩は砂と砕け、木々は木片をあたりにばらまいている。

 

「先生……」

 

 二人の闘いに、瞬は真剣に目を凝らしている。

 ちゃんと見えているのか、それとも見ようとしているだけなのか、これだけじゃさすがに分からんな。

 紫龍は、間を見計らっているようだ。生真面目な顔つきは厳しく引き締められ、目つきは鷹のように鋭い。こちらも見えているのか見ようとしているだけなのか、よく分からん。

 

「おぉ、すげえ」

 

 俺はぽつりとつぶやいた。

 アフロディーテの一人勝ちになると思いきや、ダイダロスは思いのほか善戦している。

 互いの拳の威力は負けてない。速度はアフロディーテのほうが早いようだが、攻撃のさばきかたはダイダロスに一日の長があるようだ。

 と言っても、ダイダロスの不利はくつがえせない。

 実力が対等なら、聖衣の違いは圧倒的な差になる。どうしたことか、ダイダロスの聖衣は、胸部を中心にひび割れ、もはや鎧の残骸なのだ。

 何かがあったことは間違いないが、今、重要なのは、それがどう勝負に影響するかだ。もちろんマイナスにしか影響しないに決まってるが。

 もちろん俺は最初から全部見えている。動きの全てを認識できている、という意味でな。

 

 相手の聖衣のみすぼらしさを鼻で笑ったアフロディーテの右拳が、風を巻いて襲いかかった。

 ダイダロスは受け流し、逆に一手返す。そのまま左足を狙って突っかけに行くが、これをアフロディーテは身を傾けて逃れた。

 胸に振り下ろされた掌を、ダイダロスは左肘を上げて払いのける。

 アフロディーテが、肩にかかろうとする腕を振り払おうとした。その動きを待ってダイダロスは掌を返す。腕にそって顔面へ迫る掌撃を、アフロディーテは反撃を中止して飛び退いて避けた。

 力強い小宇宙の乗った掌風が、アフロディーテの見事な金髪を数本散らして、光にきらめかせる。

 喝采の声を上げたいほどの立ち会いだ。

 純然たる実力ならアフロディーテが上かもしれない。絶頂期の肉体のみが持つ強靭さだ。ダイダロスは、それを経験のもたらす技巧で補っている。

 だからこそ、聖衣の差が出てくれば、ダイダロスの負けだ。

 ダイダロスの攻撃ではアフロディーテにさしたる傷をつけられない。逆にアフロディーテの攻撃を、一度でもまともに食らえばダイダロスは動けなくなるだろう。

 そろそろ割り込もうと、一歩踏み出しかけて、妙な違和感に気付いた。

 あれ、おかしいな。

 目の前では激しく入れ替わる攻防が繰り広げられている。

 何がおかしいのか、分からないが、何かがおかしい。

 大事なことを忘れていると脳の隅でのささやきが、足を前に進ませてくれない。おい、進め俺の足。

 中途半端な姿勢で止まってしまっていると、後ろから声が掛かった。

 

「待って、星矢」

「なんだよ、あんまり待ってる時間はないぜ。それともお前が行くか?」

「そうだね。できるならそうしたい」

 

 意外な発言だな。

 振り返った。

 

「お前が?」

「そう、僕が」

 

 瞬は断言し、焦りをにじませた表情で星雲鎖(ネビュラチェーン)を握りなおした。

 眼差しは戦う二人に向けられている。

 

「でも、星矢。僕には分からない。行っていいのかどうか」

「……なんで?」

「先生はご存知でいらっしゃった。覚悟の上で戦っているんだ。僕は……先生に死んでほしくはないけれど」

「なら行けばいい。ここでダイダロスが殺されるのは間違ってる」

「でも、それは先生の意思を無視してはいないだろうか。すべてを承知で、先生はここにおられたんだ」

「死んだら、先生の意思とやらを無視することもできなくなるぜ」

 

 そりゃ「最善」があるなら、そっちを選ぶだろうが、「まだしもマシ」しかないんだ。贅沢言うな。

 この際、先生の意志は無視しろ。

 そもそも意思確認なんかしてないんだ。邪魔するなとも言われてない。何を気にすることがある。

 これを見て、手出ししないほうが問題あるだろ。

 

「だいたいアフロディーテが、俺達がここにいて、明らかにダイダロス側なのに仕掛けたのは何でだと思う」

「それは……」

「舐められてんだよ。おもいっきり。俺達が手出ししてもどうってことないってな。ここまで舐められてお前平気なのか」

 

 進まぬ足を反転させて、向きなおる。

 瞬自身は平気かもしれない。力に対して潔癖、というより、力を誇るということをしない、むしろ嫌がる男だからな。

 だが、瞬の手出しを軽く見る、ということは、間接的に瞬を鍛えたダイダロスを軽く見る、ということだ。

 それでいいのか。本当に。

 

「それに、どう考えても聖衣がぼろぼろなダイダロスのほうが不利だろ。あれで公平と言えるかよ。何があったんだか」

 

 惜しい。どう考えても、ダイダロスはもっと対等な勝負をできる実力があるはずだ。明らかな不利に、憤慨交じりの疑問がこぼれる。

 とたんに、瞬が顔をぱっと伏せた。なぜだ。あれだけ二人の戦いを注視していたのに。

 どうにも後ろめたい気配を漂わせる動作だった。いったいお前は何をした、という胡乱げな目になったのも無理ないだろう。怪しいんだよ。態度が。

 しかし、寛大な俺は追求しない。したくはあるが我慢する。

 だって、チャンスだからな。

 

「いいか、聞け瞬」

「なんだい?」

 

 目に見えて、瞬がぎくりとした。

 そう警戒するな。

 にこやかな表情を浮かべて、話しかけると、さらに身を引いた。なんて失礼なやつだ。でも、今は見逃してやる。俺は寛大だ。少なくとも優先事項がある時は。

 

「弟子のけんかに師匠が手を出したら反則だが、師匠の勝負に弟子がでばるのは、露払いって言って許されるんだぜ」

「……そんな理屈、初めて聞いたけど」

 

 ごちゃごちゃ言うな。

 行ってこい!

 俺が拳を握ったのを見て、瞬は無言でかけ出した。行く先はむろん師匠のもとだ。

 最初っからそうしてろっての。

 本当は割り込みたくてしかたなかったくせに、面倒なやつめ。

 

「親切だな。お前は」

 

 紫龍が、笑みを含んだ声をかけてくる。

 うるせえな。分かってたんだったら、お前も動けよ。

 じろりとねめつけると、紫龍の笑みはさらに大きくなった。

 不可解だ。

 

 思わず戦況を忘れて、かつての紫龍と今の紫龍の違いに思い悩みそうになった。前はもうちょっと紫龍を理解できていたと思うんだけどな。何が違うんだろう。

 渦巻く思考は、俺に答えを返してこない。ううむ。

 分からないなら、しかたない。

 紫龍を理解するのを諦めて、戦況に目を戻せば、師弟が争っていた。

 何やってんの。お前ら。

 呆れて耳を澄ました。

 

「下がれ、瞬。これは俺の戦いだ」

「承知しています。ですが、弟子である僕を倒せもしない者と先生が戦われる必要はありません。露払いをつとめさせてください」

 

 ダイダロスは苦い顔つきになった。

 ごちゃごちゃ言ったくせに、露払いを口実にしっかり使ってるな。瞬のやつ。

 それにしても、似合わぬ物言いだ。けしかけた俺の言っていいセリフじゃないが、優しげな虫も殺せそうにない顔で言うことじゃないぞ。

 しかし、瞬が自分から戦いに行くのは珍しい。つまり、喧嘩を売られたことはあっても、自分から売ったことがないもんだから、売り方を分かってないんだろうな。それなら、あれでも上出来か。

 感心しながらアフロディーテを見れば、優越を浮かべた微笑でわざわざ手を止めてやっている。

 

「フフッ、美しい師弟愛ではないか。だが、師の言うことは聞くものだ。無駄に命を落としたくないのであればな」

 

 投げかけられた言葉は、己の絶対的優位を疑わぬ傲慢さだ。

 行け、あの余裕ヅラを歪ませてやれ、瞬。

 俺の応援に反して、ダイダロスは瞬に引き留める言葉を掛けた。

 

「ならぬ」

「先生!」

「お前にはお前のなすべき使命があるはずだ。ここではなく、別のところに」

 

 では、ダイダロスの使命はここで散ることか。

 聖闘士としてこれまで戦い、傷を負ってきたはずだ。

 多くの弟子を育てあげ、聖衣を与え、独り立ちさせてきたはずだ。

 ここまで女神(アテナ)のために務めを果たしてきた、忠誠の末が、ここでの死だというか。いったい誰が、そんな運命を決めた。

 それでいいのか。

 握りしめた拳が震える。怒りだった。

 ―――それでいいはずがない。

 ダイダロスはそれでいいのかもしれない。受け入れて納得しているのかもしれない。だが、それでも、女神(アテナ)の名において、正義の名にかけて、それが許されていいはずがない。

 だから、俺はここにいるのだ。

 

「お前の力は、女神(アテナ)のために取っておけ」

「いいえ、先生。ここで先生を見捨てることが、女神(アテナ)の御心に叶うわけがありません」

 

 ダイダロスは諄々と説く。

 瞬は言い募る。

 それに冷たく水を差したのは、アフロディーテだった。

 

「そろそろ三文芝居は、幕切れにしてもらおうか。私とて暇なわけではないからな」

「……あなたは」

「どうしても犬死にが望みならば止めはせぬ。待つ理由も、もはや、ないようだ。一気に決めさせてもらう」

 

 言葉が終わるか終わらないか、ずっと淡く漂っていた甘い香りが急速に強くなる。

 それで、ようやく、俺は思い出した。

 違和感の理由を。

 アフロディーテの本来の牙を。

 

 俺は、忘れていたのだ。

 紫龍や瞬と肩を並べて戦う、この感覚があまりに懐かしかったから。

 どうしようもなく、忘れていた。

 ようやく大事なことを思い出した。

 アフロディーテの攻撃は、あんなものじゃない。

 先程までかすかだったのに、むせ返るほどに甘く香る薔薇の気配。

 アフロディーテは、双魚宮の守護者、女神(アテナ)神殿の最後の守り手。

 その本領を発揮しようとしているのが、分かる。小宇宙を読み取るまでもない。

 相手の高まった小宇宙に、それを知らぬ瞬も己の小宇宙を燃やし、星雲鎖(ネビュラチェーン)を交差させた攻防一体型の陣を敷いた。

 だが、防げない。分かっている。

 ああ、どうして俺は!

 

「だめだ。瞬、留まるな!」

 

 いつだって、間に合わない。

 ちくしょうめ。どんだけ忘れやすいんだ俺は。

 うっかり見入るんじゃなくて、さっさと手を出すべきだったのに。

 アフロディーテがいつのまにやら構えた赤薔薇から、恐ろしいほどの小宇宙が溢れ出た。

 

「せめてもの手向けだ。師弟仲良く苦しまずに逝くがいい」

 

 意識の霞むような香りが、甘くも濃く広がっていく。

 紫龍が苦しげに顔をしかめ、ひざをついた。両腕を地面について身体を支えようとしているが、力が入らないのだろう。震えている。

 ジュネさんは女聖闘士のマスクのためか、まだ立っている。あのマスクに防毒効果があってよかった。だが、呼吸音が聞こえるほど息が荒くなっているところを見ると、長くは保たないか。

 かなりの距離があるのに、これだけ影響を受けるとはな。舌を巻かざるをえない。アフロディーテの力量を見誤ったか、あるいは、いや、考えてる暇はない。瞬とダイダロスの危機だ。

 アフロディーテの小宇宙が爆発的に高まる。

 いかん、間に合うか。

 

「さらばだ。ロイヤル、デモンローズっ!」




IF偽与太予告
文字を透明にするタグがあるのを先日はじめて知りました。余分な後書きは見たくない方のために、以後、後書きは透明に……する、かも。
いえ面倒になりそうなので、するとは断言できないんですが。







「させないでヤンスよおぉぉぉぉっ!」

その男。 ヒーローのごとく現れた。
その名を、星矢達は知っている。
よく、知っている。

「てめ、市!?」
「逃げてくれ、市!」

星矢が驚きのあまり名を呼べば、瞬は逃げろと警告を発した。
モヒカン男は二人を無視してポーズをとった。
なめらかにして流麗。
あでやかにして華麗。
磨きぬかれたパフォーマンス。
最高に市は輝いていた。

「この、市様が来たからには、みな、もう安心ザンスよ!」

パチリとウインク一発。
キラリと光る白い歯。
シャランと頭頂部のモヒカンポニーテイルが揺れる。

「うぜええええええぇっ!」

星矢はキレた。
近来まれに見るうざったさだった。

「……うわあ」

瞬はドン引きした。
近来まれに見る勘違いっぷりだった。

「……………………………………」

紫龍は他人のふりをした。
近来まれに見る身内の恥だった。

しかし、一言一句違わずに、市の言ったとおりであった。
彼は見事にアフロディーテの攻撃を防ぎ、倒れたダイダロスとジュネを救い、勝利に大いに貢献した。
しかし。
そう、しかし、だ。
彼の名が勝利の歴史に刻まれることがなかったのは、不幸ながらも、当然といえよう。

後に神の座に足をかけることになる某天馬座の聖闘士はこう証言した。ねえよ。あれはさすがに。
後に神に運命を翻弄されることになるアンドロメダ座の聖闘士も同調した。あれを記録に残したら、いくらなんでもアフロディーテが気の毒です。
後に神と対峙することになる某龍座の青銅聖闘士は追撃した。むしろあれを記録に残せると思うのが間違いだ。

「何でザンスかああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」

理由を理解できない。
まさにそれが理由である。




次回「きらめく道化は眠らない」
砕け! 教皇の野望を!  ペガサス流星拳ーーーーっ!!!
.(初期構想では、本当に市は大活躍する予定でした)


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薔薇の殺意

 アフロディーテの右手にある赤薔薇が散ったかと思うと、空間を埋め尽くす花弁が、瞬達に押し寄せた。

 強烈に甘く、意識の霞みそうな香りが、赤い花弁の渦とともに際限なく広がっていく。

 走りながら声を張って呼んだ。

 

「瞬ーーーっ!」

 

 そこから先、多くのことが一度に起こった。

 俺の目にも、全てが見えたわけじゃない。

 だから推測を含むが、恐らく最初に動いたのはダイダロスだ。

 

 豪腕を振るうのが、かろうじて見えた。

 衝撃波を伴う拳の一撃。

 外した。衝撃波は、アフロディーテではなく、その手前に向かった。

 激しく巻き上がった水煙と砂埃。

 一気に視界が閉ざされる。

 外してしまったのではない、あえて外したんだと気付いたのは、その中に突入してからだった。

 

 視界が殺された中、反比例して聴覚が研ぎ澄まされる。同時に小宇宙を探った。

 感じ取れる小宇宙で、最も強大なものはアフロディーテ。次いでダイダロスと瞬だ。意識的に、紫龍とジュネさんを優先順位から外した。今はアフロディーテに集中すべきだ。

 ダイダロスと瞬の小宇宙が、突っ込んだ俺と反対方向に高速で遠ざかった。

 あれは避けたというより、攻撃を受けた勢いを殺すために自ら後ろに飛んだというほうが相応しいだろう。それも苦し紛れと見た。

 そうでなけりゃ、紫龍達まで巻き込んでふっ飛ばされるはずもない。

 同時に意識から外していた紫龍の小宇宙が、無視できないほどに大きくなる。

 だが、足りない。

 

 受け止められず、紫龍達までも含めひとかたまりの団子状になって、アンドロメダ島の地面をえぐる鈍い地響き。

 同時に、アフロディーテの小宇宙も動きを見せる。

 追撃か。

 判断した時点で、俺も攻撃態勢に入っている。

 燃えろ、俺の小宇宙よ!

 呼び覚ました小宇宙をさらに燃え上がらせながら、叫んだ。

 

「ペガサス流星拳ーーーーーっ!!」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 吹き飛ばす。

 花弁も香りも毒も。

 砂も埃も水も。

 ―――敵ごとまとめて全部。

 

 その意図を持って振るった技は、たった一つだけを俺の目の前に残した。

 ヘッドマスクはいずこかへ失せ、聖衣も各所が砕け、血を流しながらも、アフロディーテはまだ起き上がってきた。

 小さく「馬鹿な、こんなことがありうるのか……」とつぶやき、未だ闘志の失せぬ目で俺をにらむ。

 

「……天馬座(ペガサス)の聖闘士か」

「星矢だ」

 

 耐えぬいたことに敬意を表して短く名乗った。

 殺すつもりはなかったが、掛け値なしの本気に近い拳だった。

 いくら、この島全体が吹き飛ばぬようにと加減をしていても、それはアフロディーテへの配慮じゃない。殺すつもりはなかったが、かといって手を抜いた覚えもなかった。事実、アフロディーテの十メートル四方はクレーター状にえぐれている。

 

「見事だ。ロイヤルデモンローズの毒を吸ったとは思えぬ威力よ」

 

 揶揄じみた言葉だが、声音には感嘆の響きがある。

 戦士が戦士に対して贈る賛辞だった。

 しかし、言われてみれば、不思議だ。今の俺は防毒マスクなどつけてはいない。魔鈴さんに防毒効果のある仮面を借りたあの時とは違うんだ。

 はて、なんで、毒が効いていないんだろう。それとも、実は効いてるんだろうか。不調の気配は今のところ感じないんだが、今から効いてくるのかもしれない。勝負は早めに決めないとな。

 

「殺すのは惜しい、と言いたいところだが、加減ができるほど余裕もない。デモンローズの陶酔におとなしく浸る気がないのであれば」

 

 一拍、置かれた。

 称賛すら浮かんでいた表情が消え、目の闘気だけが際立つ無表情になる。造作が美しいだけに、鬼気迫る迫力だ。

 

「死力を尽くしてでも、即座に葬らねばならん。君が真実、敵となる前にな。受けろ、黒バラの恐怖を! ピラニアンローズ!」

 

 言い終わるやいなや、無数の黒薔薇が宙に舞った。

 アフロディーテの小宇宙を凝縮したかのような鋭い刃だ。

 その言の通り、命がけと言われても納得する激しい小宇宙に、花弁から咬み付かれる錯覚さえ浮かび、何を考えることもなく、思わず一歩下がってしまった。

 この時点で、俺はアフロディーテに負けていた。

 実力の問題じゃない。

 気迫の違いだ。

 俺は考えるべきだったのだ。アフロディーテが、どうしてこんな火を噴くように攻撃をしてきたのか。何をしようとしているのか。

 ただ驚いて退いただけの俺の隙を、アフロディーテは見事に突いた。

 

 アフロディーテの次の一手。

 後手に回った、いや、完璧に出し抜かれた。

 俺は防げなかったのだ。

 

「受けよ、ブラッディローズ!」

 

 ダイダロスに向けられた必殺の一手を。

 まずよぎったのは、「ぬかった!」という一言だった。

 アフロディーテは最初から、俺と戦う気などなかった。

 俺とまともにやりあうより、自分の任務を果たすほうを優先したのだ。

 足止めとしてピラニアンローズを俺に、確殺するためのブラッディローズをダイダロスに。

 

 戦力外扱いしていた俺達の認識を、脅威と改めた瞬間に、その判断。

 冷静すぎんだろ。ふっ飛ばされた後ってのは、もうちょっと頭に血が登ってるもんだと思うがな。

 なんで、俺のほうが焦らなきゃならんのだ。間違ってるだろ。この野郎。

 口に出さず毒づきながらも、視界と動きを制限する周囲の黒薔薇を、小宇宙を高めて打ち払う。

 無事でいろ、ダイダロス!

 

 目の前がひらけ、ダイダロス達の無事を確認した時、ダイダロスは目を見開いていた。

 その口元がわななくも、言葉は出ない。ただ、うめき声が空気を震わせた。

 代わりのように、かすれた悲鳴を上げたのは瞬だ。

 

「ジュネさんっ! なぜ、あなたがっ!」

 

 団子状になった彼らの一番下にいるのは、、全員を受け止めようとしたのであろう紫龍だ。

 ダイダロスと瞬は、互いをかばいあったんだろう。ダイダロスが瞬の腕をつかみ、瞬がダイダロスの肩を掴んで重なり合っている。

 そして、ジュネさんは彼らの上にいた。

 

 ―――背に、血で染まりかけた白薔薇を飾って。

 

 なぜだ!

 瞬と同じ疑問がわきあがり、答えを模索する。

 紫龍と一緒にいた彼女が、その場所にいるはずがない。自然に考えて、紫龍と一緒に下敷きになっているか、そうでなくば弾き飛ばされて離れた場所にいるはずだ。

 ならば、答えはただ一つ。

 彼女は動いたのだ。

 見えてはいなかったかもしれない。

 勘に近いものだったかもしれない。

 それでも。

 師の危機を知って。

 師をかばうために。

 黄金聖闘士の攻撃を、その身でとめるために。

 我が身を投げ出したのだ。

 

 俺が、アフロディーテに一歩を譲った。

 譲って、しまった。

 これが、その結果だった。

 なぜだ、と問うのは無意味だろう。それでも、問うと同時に責めずにはいられない。

 多少なりともアフロディーテを侮ってなかったか、本当に毒の影響はなかったか―――どうして、俺は、判断を間違えてしまったんだ。

 ああ!

 

「邪魔が入ったか。余計な血は見たくなかったが」

 

 軽い舌打ちとともに、アフロディーテが新たなる薔薇をその手に出現させる。

 二度目を、許すと思うか!

 

「アフロディーテッ!」

 

 二つの声が同時に、一人の名を呼んだ。

 怒りを燃え上がらせた雄叫びは俺。

 悲しみをたたえた呼びかけは瞬だ。

 

「なぜですか。なぜ、ダイダロス先生を殺そうとするのです。そうまでして!」

「フッ、くだらんことを。決まっている。ダイダロスが反逆者だからだ。再三の教皇の呼び出しに応じないだけでも、罪は確定している」

「違う! 先生が呼び出しに応じないのは、教皇こそ反逆者だからだ。あなたは、教皇が、幼き日の女神(アテナ)を殺害しようとし、聖域を簒奪した反逆者だと、知らないのですか……!」

「知っているさ。他の黄金聖闘士はいざしらず、蟹座(キャンサー)のデスマスク、山羊座(カプリコーン)のシュラ、そして、このアフロディーテの三人は、な」

「な、なに……」

 

 あっさりと言い切り、驚愕に息を揺らした瞬を嘲るようにアフロディーテは続けた。

 怒っている俺でさえ、思わず聞き入る声だった。音楽的な美しさを持つが、柔らかくも軽くもない、張りのあるなめらかな低音。場を支配するに向いた声、とも言えるだろう。こんな声で言われたら、嘘でも信じてしまいそうな空気がある。

 

「私達は、過去の行いを知った上で、あえて教皇に忠誠を誓っているのだ」

「そんな、馬鹿な。全ての聖闘士の頂点に立つべき黄金聖闘士が、正義ではなく、邪悪に加担するというのか。正義を守るべき最高位聖闘士が……!」

 

 信じられないと、悲痛に顔を歪めて瞬がうめく。

 ダイダロスが「聖闘士の役目を忘れた()れ者めが」と厳しく吐き捨てた。

 

「ハッ、なんとでも言うがいい。力なき敗者の言葉など、勝者の前には塵ほどの重みもない。お前達程度の正義で、大地の平和を守ることなどできるものか。この地上の現実を見るがいい」

 

 何ら迷いのない眼で、一歩進みでたアフロディーテの進路上に、立ちふさがる俺。

 今のやり取りの間に、多少は頭も冷えている。だが、冴えた意識と裏腹に、いまだ身体を支配しているのは、沸騰する血流だ。ググと歯が噛みあって、刃の音を鳴らす。抑えきれない。

 理性と激情が、綱引きをしている。

 

「ならば、お前の正義とはなんだ。なんのために教皇に従う」

 

 聖闘士は女神(アテナ)のためにいる。女神(アテナ)は、地上の愛と正義を守るために、他の神々の邪な手から地上を守るためにいる。

 聖闘士の根本は、女神(アテナ)を守ること。すなわち、女神(アテナ)とともに地上の愛と正義を守ること。

 女神(アテナ)の否定は、聖闘士の否定じゃないのか。お前は聖闘士だろう。お前を肯定するものは何だ。

 お前の正義はなんだ。

 問い掛けた。

 

「決まっている。力だ。いいか、教皇は大地の安寧を守る、偉大な力を持ったお方だ。そのお方に従わない者を誅伐するのが、黄金聖闘士たる私の務め。私の正義だ」

「そのためになら、何が犠牲になってもいいというのか。力が正義なら、力を持たない子供や老人はどうなる。そんな理屈が正しいなら、弱い者は、強い者に従うしか生きていく術がないじゃないか……!」

 

 切々と、瞬は訴えかけた。

 ダイダロスは何も言わず、どこか哀れむ目でアフロディーテを見やった。もはや口を開きもしない。沈黙で語るのは、少なくともアフロディーテへの賛意じゃないだろう。

 アフロディーテは、肯定した。

 

「その通りだ。十三年前も今も、女神(アテナ)などに何ができる。何をしてくれた。今から死にゆくお前達を救うこともできぬではないか」

女神(アテナ)が俺達に何をしてくれるかではない。俺達が、女神(アテナ)のために何ができるかだ。俺達は、聖闘士は、女神(アテナ)を守るためにいる……! いや、女神(アテナ)がいるから戦うことができるのだ!」

 

 紫龍が激しく言い返す。

 だが、アフロディーテは小揺るぎもしなかった。

 

「所詮ヒヨコには分かるまいよ。ここまで一体誰が大地の平和を守ってきたというのか。生まれたばかりの赤子などに何ができた。力が無くば、何もできん」

「そうかよ。よく分かった。それを聞いて、安心したぜ」

 

 ぐらぐらと沸き立つ血が、身体を支配している。

 口が勝手に動いて返すのを、どこか遠くから意識だけが眺めている。

 それでも、本当に。

 

 ―――安心した。心の底から。

 

 もう迷わなくていい。

 よく、そこまで言ってくれた。

 これで、殺すことができる。

 かつて冥府より蘇り道を切り開いてくれた者としてでなく、尊敬する先達としてでなく、頼りになる同胞としてでなく―――ただの敵として、殺すことができる。

 

 迷っていたのだ。

 油断じゃない。

 毒でもない。

 そのどちらも、あったかもしれないが、それでも根本的には、そこじゃない。

 殺したくなかった。だから、間違った。だから、一歩を譲った。

 ひゅう、と細く長く息を吐いた。そのまま、迷いを捨てる。

 

 全身に満ちる小宇宙が、押さえつける指の合間から砂がこぼれるように漏れだした。足元に寄せる波が、俺の足に触れてはじゅうと音を立てて蒸発する。

 全身を突き刺す陽光も、立ち上る水蒸気も、もう何も気にならない。

 説得も、懐柔も、もはや考えない。

 守るべき背後の気配に、少しだけ意識を分けた。残りの意識は怒りにゆだね、眼前の敵を打ち据えるように強く見つめた。

 

 アフロディーテ。

 力が正義だと言うのなら、見せてやろう。

 自らが弱者になるさまを。

 味わわせてやろう。

 力が、いかに弱者を踏みにじるかを。

 

「教えてやろう。アフロディーテ。お前が正しいとすれば、俺こそが正義だってことを」




感想、評価、応援ありがとうございます。返信はしてませんが全部読ませてもらってます。本当にありがとうございます。


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正義が正義を踏みにじる

 正義のために振るわれるからこそ、力は正義になる。

 正義なき力は、地上を支配しようとする暴威と同じだ。

 

 全身から発される熱が上昇気流を作る。

 気流に従い逆巻く髪が、音を立ててはためいた。

 抑えどもなお漏れ出ていた小宇宙を、全身に巡らせ、腰を落とした。

 

「良かろう。君が正義だと言うのなら、私を倒し、それを証明してみせるがいい。十二宮最奥を守る黄金聖闘士の名は飾りではないぞ」

 

 アフロディーテは薔薇を構え、片足を踏み出した。

 凛然とした立ち姿には、誇りさえも感じる。

 

 それでも。

 それでもだ、お前の理屈に従ってさえ、お前は間違っている。

 なぜなら、俺がアフロディーテより、サガより、他の黄金聖闘士の誰よりも、強いからだ。

 力が正義であるならば、誰よりも強い俺は誰よりも正義で、その俺がアフロディーテを否定するのだから、アフロディーテは間違っている。

 

 かと言って、本当に俺が正しいかと言われれば、実のところそうじゃないんだな。なぜって「力が正義なら、俺が正義だ」という理屈は、俺が否定するアフロディーテの理屈でしかないからだ。

 この場合、勝って俺の正当性を証明すれば、それは逆にアフロディーテを肯定することにつながってしまうんだよ。なにせ、「アフロディーテの理屈で正しい俺」というやつは、前提にあるアフロディーテの理屈を否定したら、否定されてしまうだろ。

 ただし、もちろん負けも許されない。

 ではどうすべきか、と言うと、アフロディーテの理屈の根本を破壊せねばならない。つまり、力が正義ではないということを力以外の物で証明しろということになるんだと思う。

 

 ああ、頭をかきむしりたい。ごちゃごちゃしてきた。ついでにイライラもしてきたぞ。脳髄が怒りに支配されている時に、こんなこと考えるもんじゃないな。

 だいたい、それを説くにしたって、アフロディーテがアフロディーテの理屈にそって動く限り聞いてもらえない。だから、まずは、それを打ち砕かなきゃならない。

 右手を握りこんだ。聞いてもらえない。悔しい。今は敵だ。分かっている。怒りの底から、なおもこみ上げてくるもどかしさを握りこんで、押しつぶした。今は怒り以外は必要ない。

 強烈な熱線と化した陽光よりも、さらに熱く鋭く、怒りを研ぐ。

 弱者の痛みを知らぬというならば、まずは思い知るがいい。知っていてなおも力を正義だと言うのなら、それはもう踏みにじられてもしょうがない。自らそれを肯定しているのだから。

 

 それでも、こらえられない。

 けどさ、なあ、それって本当に正しいか? 正しいと心から思ってるのか? それなら、なぜ余計な血を見たくないなんて言うんだ。

 もはや、怒りと一体化している問い。

 仮にアフロディーテの命を奪うことになったとしても。

 この拳を持って、この怒りを持って、俺は問う。

 

 アフロディーテは聖闘士として、正しくない。

 雑念や理屈を抜きにして、これが、今の俺を突き動かしている怒りの源だ。

 

 ただし、俺も間違えた。最初っから間違えた。

 残念ながら、俺達聖闘士にとって、言葉よりも拳のほうが説得力を持つ。これを、俺はもう学んでいたはずだ。

 シャカを見ろ。一輝を見ろ。他の兄弟達を見ろ。

 俺がいったいいつ、奴らを言葉で説得できたというのだろう。全部が全部、力任せの説得だった。

 思えば、情けなさに涙がにじんできそうだ。ただ、だからこそ、無意識にもアフロディーテは言葉でどうにかならないかと思っていたのかもしれない。

 甘かった、と心から思うぜ。

 俺の中で燃えている怒りには、自身への怒りも多少ある。俺がちゃんとわきまえていれば、ジュネさんは……くそ、やりきれない。分かっている。アフロディーテにしてみりゃ理不尽かもしれない。

 それでも、今、俺の内にある怒りと殺意は本物だ。

 けれども、その上で願う。

 頼むから、死んでくれるなよと。

 殺意も真実だが、こちらも本当だ。矛盾は百も承知だが、死んでくれるなよ。俺の怒りでなど、死んでくれるな。

 お前を裁く権利は女神(アテナ)にのみある。サガを断罪できる者が女神(アテナ)ただ一人であるように。

 最初から、俺はお前を拳で打ち砕くべきだった。戦いに勝って下した上で、お前を女神(アテナ)に会わせるべきだった。

 俺の役目は女神(アテナ)の味方作りじゃない。女神(アテナ)の味方に付くのは彼ら自身の意志であり、彼らを従わせるのは女神(アテナ)自身だ。

 女神(アテナ)に会えば、理屈などすべて吹き飛ばして、聖闘士ならば跪くだろう。その小宇宙の前に。

 逆に言えば、それができないのなら。

 女神(アテナ)の聖闘士たる者が女神(アテナ)に跪かぬというなら。

 それならば、もう。

 

 ―――アフロディーテには生きる資格がない。

 

 熱く激しく燃え立つ小宇宙の中心に、固く冷たくそびえ立つ殺意がある。

 思い知らせてやろう。アフロディーテ。

 お前の正義を、お前の正義に乗っ取って否定してやろう。

 まずは、そこからだ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

「ペガサス流星拳ッ!」

 

 フフと含み笑いを残し、アフロディーテの姿が花霞の中に溶け消える。

 俺の拳は、虚空を貫き、無駄にアンドロメダ島の大地にクレーターを作って終わった。

 紫龍の声が、消えた姿を探すかのように漏れる。

 

「どこへ……」

「隠れてるだけだろ」

「若き天馬(ペガサス)よ。あまり私を侮らぬほうがよいぞ」

 

 どこからとも知れぬ声。花弁に反射しているかのように、八方から響く。

 言われずとも、断じて、侮っているつもりはない。先程までならともかく、今となって、その油断はない。恐れてはいないというだけだ。

 

「左だ、星矢!」

 

 瞬の声が飛んできた。 とっさに後ろへと飛び退けば、先程まで俺が立っていた空間が貫かれる。斜めに空間を切り裂いた黒薔薇が、俺の拳と同じように大地を削ってクレーターを作った。

 追って、赤薔薇も矢のように向かってくる。あまり照準は気にしてないようだ。俺の周辺に、まさに雲霞のごとく着弾しては、香気をまき散らす。

 ええい、面倒な!

 

 何が面倒くさいかと言うとだな。

 地味に少しずつ削られるというのが一つ。自覚はないが、時間を置けば毒の回らぬはずもなく、どこから飛んでくるか分からない黒薔薇にも神経を使わざるを得ない。

 また、有効な反撃もできないというのが一つ。だって、アフロディーテの居場所が分からねえんだもん。薔薇の飛んでくる方向に攻撃したっていいが、十中八九踊らされるだけだ。俺さえすぐ考えつくような対策に、手を打ってないなんてこたないだろう。

 つまり、攻撃も防御も、あっちが今のところ有利な立場にあるわけだ。いや、島の被害を気にしないならいいんだけどさ。効率は悪いが、全方位攻撃すれば、いくら何でも当たるだろう。だが、この島を更地にする気は、今のところ、ない。というか、できない。

 俺は、敵は選ばないが、場所は選ぶ。

 ここは瞬の第二の故郷で、大事な場所だ。壊したくはない。守るために、来たんだ。

 

 アフロディーテの居場所が分かりさえすれば、全部解決するはずだ……分からないから困ってるんだけどな。

 なんで、瞬には分かったんだろう。感知能力の差か?

 言っておくが、俺だって、本来なら分かる。周辺に撒き散らされている薔薇が、ただの薔薇ならな。

 この薔薇、色によって役割は異なっても、小宇宙をまとっている。そこが厄介なのだ。

 俺は、怒りと焦りを溜息で吐き出して、気を落ち着かせた。冷静に考えろ。

 

 アフロディーテは、厄介だ。

 

 けど、怪我を負っている以上、長くは続かない。短期決戦を狙ってくるはず。次にあの白薔薇を撃ってくる時が勝負になるだろう。誰を狙うか。俺か。元々の標的であるダイダロスか。

 頭の一部だけでつらつらと考えつつも、絶え間なく飛んでくる薔薇を移動しながら叩き落とす。頭の他の大部分は、アフロディーテからの攻撃対応でフル回転中だ。

 受けてると分かるんだが、奴の攻撃は、ある程度の規則性がある。どこをどう移動しているか、仕組みも何となく分かってきた。大概のやつが、おそらく分かる前に死ぬのだろう。

 俺は、短くうなった。

 

「なんてこった」

 

 パターンを読めてきたというのに、攻撃に回れない。

 回れないだけの態勢を整えられてしまった。

 

 現在、動かない瞬達を中心に、俺とアフロディーテは位置取り合戦している。

 俺は、瞬達を背に、アフロディーテに正面を向けておきたい。守るにたやすく、迎撃もしやすいからだ。つまり、一直線上に、瞬達、俺、アフロディーテの順番にしておきたいわけだな。

 一方、アフロディーテは自分と俺と瞬達で三角形を作ろうとしている。俺の、アフロディーテへの攻撃と瞬達の護りを、同時に行えない形にしようとしていて、悔しいことに、それはほぼ成功していた。

 どんなに攻撃をしたくても、俺は瞬達を庇えない位置には絶対に動かない。彼らから、一定以上の距離を取らない。それを利用されている。

 破壊の黒薔薇も、毒の赤薔薇も、瞬達のところまで一本たりとも届かせてはならない。どんな位置から、どのように放たれようとも、必ずすべて叩き落とす。

 よって、アフロディーテへの攻撃まで手が回らないのだ。

 とは言え、代償もある。アフロディーテは有利な位置を保つためには動き続けるしかない。けど、あの怪我じゃ、いつまでもこんな位置取り合戦はしていられない、だろう。多分。うん。

 次に姿を見せた時が勝負だ。

 

「星矢! 僕も」

「要らん」

 

 呼びかけてきたのは瞬だ。

 気持ちは分かる。師のダイダロス、姉弟子であるジュネさんを思うお前に、黙って見ていろなんて酷だろうよ。

 だけど、ダイダロスを失っていないお前が、アフロディーテに本気で挑めるとは、思えないんだよな。前回を覚えている俺としてはさ。

 そして、本気でもないお前がアフロディーテに勝つなんて、太陽が西から登ってもあり得ない。アフロディーテは、そんなに甘い男じゃない。

 一言で切って返した俺に、瞬はさらに言葉を紡ぐ。

 

「聞いてくれ、星矢、僕は決めたんだ。もう逃げないって。以前、君が言ったね。何を守りたいのかと。覚悟がないと。足手まといになるくらいなら、聖衣を、戦いを捨てろと」

 

 そこまで、言ったっけ。

 でも、その話はもう終わってるだろ。

 だって、お前は、聖衣を捨てなかった。

 

「あの時、君に求められた答えを返せなかった。それをずっと後悔していたよ。言葉ばかりどれほど流し出しても、語り尽くせなどしないけれど、それでも僕は、あの時、君に返すべきだったんだ。同じ道を歩むと。すべてを語り尽くせないなら、語れるだけ惜しまずに返さなければいけなかった。これからも迷うかもしれないけれど、それでも、もう、守られるだけは嫌なんだ。僕は」

 

 そこから先の言葉を待たずに、聞くのをやめた。

 うん。分かってるよ。

 いや、分かってないのか?

 前回を覚えている分、俺は、もしかしたら臆しているのかもしれない。前は迷いなく預けていた背中を、今は空けたままにしている。

 これは逃げか。拒絶か。

 ならば、何から? 兄弟達の死と流血か。目の前で失う恐怖か。あるいは―――。

 いや、そんなものは、今はどうでもいいんだ。今、アフロディーテを倒すのに、適任なのは俺だ。俺がいる以上、他の誰かに戦わせる理由なんかないってだけだ。

 むせ返る薔薇の香りが、いっそう深くなった気がした。吸い込む熱が、喉を焼いて、肺を埋める。

 冷ややかな声が咎めた。

 

「なぜ、無駄に死にたがるのか。守ってもらっておいて、それでもなお、生死を分かつ戦場に出ようと言う。虫も殺さぬ手弱女のごとき顔で、勝てもせぬ戦いに、命を捨てる傲慢さを口にする。アンドロメダよ、それは強者のみが口にしていい言葉だぞ」

「僕は弱者じゃない。女神(アテナ)を守る聖闘士だ」

「青銅聖闘士の君が、黄金聖闘士の私にそれを言うのか。まったくもって誰も彼もが愚かしい。そうして、己の力を測り違えるから無駄な血が流れるのだ。おとなしく守られておれば良いものを」

「踏みにじる側が強いる沈黙は、強者の傲慢ではないとでも。戦う力があるのに血を流せもしない怯懦こそ、愚かしいものだと僕は思う」

 

 明らかな嘲弄があるのに、なぜか、不可思議な怒気をも含んだ氷のような刃の言葉だった。気のせいかもしれないが、どうにも内容にすれ違いを感じる。瞬ではなく、いや、この場のことでさえなく、もっと前から溜め込んだ感情を毒づいたような。

 言い返す瞬に、腹立たしいと言わんばかりに、アフロディーテがこれまで薔薇霞の中に隠れていた姿を現した。

 その手にあったのは、一本の白薔薇。ジュネさんの背にあるものと同じ薔薇だった。

 一気に俺の緊張が高まる。

 あれは、やばい。

 撃たせてはならない。

 瞬やダイダロスに向かわせてはならない。

 

「下がってろ、瞬。後で聞く」

「星矢……!」

 

 ダイダロスの動く気配を感じた。どうやら、瞬を引き止めてくれたらしい。

 助かるぜ。

 相対する俺とアフロディーテ。先程までの攻防と違い、今度はお互いのほんの一瞬の隙を見計らう戦いになった。

 姿を表したからには、もう、確実に仕留める気で来る。そうでなけりゃアフロディーテに勝機はない。

 予想に違わず、アフロディーテの小宇宙が、負傷を感じさせぬほどに強大に膨れ上がり、たった一本の薔薇へ収束していった。

 かつて、神代の昔、白薔薇が赤く染まったのは、お気に入りの美少年アドニスの死に駆けつけた美の女神の流した血ゆえと言う。

 女神と同じ名を冠するこの男の白薔薇を染めるのも、血か。白薔薇を染めるのは、いつの世も血であるらしい。

 ブラッディローズを構えるアフロディーテを見ながら、密かな符合に密かに感嘆する。

 

「この薔薇は避けることかなわぬ。必ずや君の心臓に突き刺さる。君を庇える者など居はしない」

 

 よく通る冷徹な声だ。

 高まった小宇宙に、全身に圧が掛かりでもしたか、ふさがりかけていたアフロディーテの全身の傷から、再び血があふれだしていた。パックリと割れた額から流れる血が、鼻梁を伝い、顔に筋を描く。そんな姿でさえ、いや、そんな姿だからこそ、悲愴に美しく、人の心に訴える力があるってのは反則技だな。

 だが、俺の心臓は高いぜ。

 そう簡単にはやれねえよ。

 気合を入れて、こっちも小宇宙を高めて、挑発する。

 

「いつでも来い。できるもんならな」

 

 アフロディーテは、少しだけ笑った。こちらを皮肉る嘲笑ではなく、もっと測りがたい、うっすらと貴公子じみた微笑だ。なんでだ。どこに笑うポイントがあったんだろうか。

 真珠貝の艶をもった歯が、濡れた花弁のような薄い朱唇から少しだけ覗き、何とも言いがたく……この男に、どこか隙はないのか。戦闘的な意味じゃなくて。

 

「フ、君の正義を、少し知りたかった気もするな。だが、もはや……、いや、いまさら詮なきことか。私は、私の道を進むまでだ」

 

 そういうなよ。問題ない。すぐにでも答えてやれる。

 俺の正義は、女神(アテナ)だ。

 だけど、俺が今どれだけ訴えても、それに応える気はないんだよな。お前はさ。

 アフロディーテの顔から笑みが消え、小宇宙がぴんと張り詰めた。

 ―――来るか。

 

「ゆけ! ブラッディローズッ!」





IF偽与太予告。本編の空気を壊す可能性があります。











南海の孤島に、いたずらな運命のめぐり合わせで対峙する聖闘士達。
高まる小宇宙。
響きあう闘志。
今ここに、二人の決着が付く―――!

「瞬、大丈夫か?」
「すっこんでろって言われた……。星矢に、すっこんでろって」
「い、いや、そこまで言われてないぞ。少し落ち着け。ひどい顔色だ」
「僕は落ち着いているよ。大丈夫。……むしろ、動く気力もないくらいなんだ」
「ただでさえ土気色だった顔が、灰色になってきてるぞ!? まったく大丈夫に見えないんだが」

ショックを受ける瞬。
なだめる紫龍。
ダイダロスは、愛弟子の新しい一面を心のログに書き込んでいる。彼の愛弟子日記に、新たな1ページが付け加えられる日も近いであろう。―――ブラコン(兄のみにあらず)と。

「緊張感のないことだな」
「……うん」

何も悪くない(と思っている)星矢は、謝らないが、目線はそぞろにさまよった。さすがに言う言葉に迷ったらしかった。

南海の孤島にて、戦う二人の運命は―――。
以下、次回!


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抗しえぬ死の香気

 必殺の意をこめた一撃。

 空を裂き、投げ放たれた凶器。

 毒を捨て、破壊を捨て、必中を得た薔薇に、集中した。

 軌道を読む必要はない。どこに来るかは分かっている。高めた小宇宙を両手のひらに集めた。心臓の手前で待ち受ける。

 

「避ける事ができねぇなら、迎え撃つだけ、なんだよっ」

 

 肉の裂ける音と衝撃は同時だった。音だけじゃない、小宇宙と小宇宙のぶつかり合う、星のきらめきにも似た衝撃が手の中で弾け散った。俺の手の中には無残な白薔薇がある。

 と言っても、俺の手の平も無残に血まみれなので、元白薔薇だ。ブラッディローズの名に似つかわしい姿になっている。とは言っても、完全には染まりきらず、まだら模様なんだけどな。

 元は美しかっただろうに、丸く開いた花弁は千切れかけ、中の花芯もひしゃげて潰れかけていた。花の外形をなぞり、ぼとりと、血が落ちた。

 元が、清らかとさえ感じる白だったためか、無残な薔薇の姿に奇妙な罪悪感がわく。

 そういや、白薔薇は、処女性の象徴だったか。もうほとんど赤いけど。

 ううむ、花言葉は何だったっけ。魔鈴さんは、なんて言ってただろう。

 あいにく、興味がないとさっぱり残らない俺の頭では、思い出せなかった。

 

 それにしても、と密かに感心する。

 握っている薔薇から感じる小宇宙は完璧なまでにアフロディーテのものだ。

 当たり前だと言うなかれ。

 これって、実はけっこうすごいんだぞ。いや、素直に言えば、けっこうじゃない。かなりすごい。

 どれくらいかと言うと、カミュが氷河を治療をした時の感心に匹敵する。

 あの時も、相手の力量に、さすがは黄金聖闘士と思ったものだった。

 俺の感心をよそに、アフロディーテは表情の選択に迷うように細く目をすがめた。

 

「なんと、あれを受け止めるか。盾もなく、たかが手のひら一枚の薄さで貫通もさせぬとは、青銅聖闘士の、いや、人の小宇宙とも思えないが……」

「星矢の血が……止まらない、だと。馬鹿な」

 

 紫龍が、抑えを聞かせた低い、それでも動揺を隠せぬ声でつぶやく。

 そんなに驚くことじゃないぞ。ぶっ刺さってるんだから、むしろ当たり前だ。俺はまだ人間辞めてないからな。特にアフロディーテ。聞こえてんぞ。俺はじろりと睨めつけた。

 熱さえともなう痛みが、薔薇を握りしめた手のひらから駆け上がり腕を支配している。顔をしかめ、手を持ち上げて流れる血を舐めれば、えぐれた傷から、皮がぺろりと垂れてきた。見えるのは筋肉の筋と白いわずかな脂肪粒。おお、こいつは視覚からも痛い。こりゃ治るのに時間かかりそうだな。一時間あれば完治するとは思うが。

 完全に掴み止めるつもりで小宇宙を燃やした。それでも、この始末。

 見事。同じ一言をアフロディーテに返そう。

 

 俺は、わずかに賛嘆の息を吐いた。

 聖闘士に武器は邪道だと言う者もいる。

 だが、俺はそうは思わない。より正確に言えば、あれは女神(アテナ)の忌避する邪道ではない、と思っている。聖闘士の基本形じゃないけどな。

 聖闘士は小宇宙をまとった五体全身を武器とする。俺達の身体ってのは、小宇宙込みで考えるべきなんだと思う。聖衣は、俺達を補完するものであり、これもまた俺達の身体の一部だ。あるいは、小宇宙を燃やした着装者こそが聖衣の最後のパーツと表現してもいいだろう。

 身体と小宇宙と聖衣の三つがそろって聖闘士となるのだ。

 つまり、瞬の星雲鎖(ネビュラチェーン)やアフロディーテの薔薇は、身体の一部だとみなしていいんじゃないかと思ってる。

 

 それを踏まえて考えるとだな。本来、人体のパーツにないものを、己の身体として使いこなすってそれなりの力量とセンスがいると思うわけだ。

 使うもの特有の弱点もできるから、それをかばう必要だって出てくる。

 邪道ってのは、己の実力でもない、武器に頼った戦い方のことだと思うんだよ。

 俺だって、剣でも槍でも使えるこたぁ使えるのだ。使わないけどさ。武器を使うものを相手取ることになるかもしれないから、と、対処に困らないようそれなりの訓練は受けている。聖闘士はある程度、全員がオールラウンダーの戦士だ。

 ただし、使いこなせるかってのとは別である。

 俺に、アフロディーテのような戦い方はできまい。いや、俺だけでなく、他の誰にも同じ真似はできない。

 とはいえ、殺り合えば俺が勝つ。だからこそ、見事とたたえることもできる。

 

 俺は、手の中の薔薇をまじまじと見た。

 なんだろうな。この感覚。

 

 基本的に、聖闘士は武器を持つことを禁じられている。使用するのは己の五体のみだ。

 だが、実際のところ、アンドロメダの瞬をはじめ、武器を使っているように見える者は多くいる。

 そして、武器を使えば、それこそ五体のみより優位に見えるかもしれない。

 だが、やはり基本は五体のみが武器。すなわち、武器を扱う者達は、本来己の身体の一部ではないものを己の一部として扱えるように小宇宙を流し込み、染め上げ、使用する手間をかけねばならない。

 ある意味、その分、俺のようなオーソドックスに拳を武器とするタイプより努力とセンスが必要なのだ。

 

 俺は、手の中の薔薇をまじまじと見た。身体の芯から何かが湧き上がってくる。

 なんだろう。この感覚。妙にぞわぞわして、集中できない。

 痛みによる悪寒じゃない。何かこうもっと、分かるけど分かりたくない、しかし、乗り越えなければならない何かだ。うう。俺は考えなければならない。考えたくなんかないんだが。

 

 この世の物質は、全て小宇宙を持っている。アフロディーテは、己の小宇宙で薔薇を操るが、その原理としてはもはや薔薇自身がアフロディーテの一部なのだ、と思う。

 己が育てているにせよ、薔薇自身にも小宇宙というものがやはり存在する。それを自在に操り、己の一部として使いこなすのは、ある意味、聖衣のように、使い手の小宇宙に反応する武具として製作されたものを使いこなすよりはるかに才能というものがいる。

 薔薇の小宇宙は、アフロディーテのものと一体化し、もはや彼我の区別がない。

 アフロディーテの小宇宙そのもので創られているのかと錯覚しそうなほどだ。

 だからこそ、奴の薔薇が周囲に撒き散らされていると、まったくもって本体がどこにあるのか分からないんだけどな。あの薔薇霞は、特性をよく活かした厄介さだった。

 あれを見抜けるとは、つくづく、瞬の感覚はどうなってるんだろう。あいつもそろそろ人間を辞めたか。

 

 さて、俺だって、黄金聖闘士と本気で戦うこの場において、センサーの感度は最高度にまで高まっている。その上で、アフロディーテが薔薇霞のどこにいるか分からないほどに、薔薇から感じる小宇宙はアフロディーテそのものだ。

 さらに重ねて言えば、その上で、アフロディーテの投げて寄こした薔薇を握りつぶしている。

 何が言いたいか分からないかもしれないが、よく想像してみてくれ。俺がここまでつらつら述べ立てた前提を把握した上で、俺の状況と、感覚を。

 

 理解してもらえただろうか。

 これを具体的に言うなら、アフロディーテそのものが手の平に張り付いている感じなのだ。もしくは、へばり付かせている感触。

 はっきり言って、気持ち悪いぞ!

 俺は、ぶるりと身を一瞬震わせた。

 高まる小宇宙に生じる熱。薔薇は消し炭と化した。ついでに流れでた表面上の血もあっという間に乾き、ぱらぱらと赤褐色の粉が散った。

 アフロディーテはわずかに目を細めた。

 

「無粋な。君には花を愛でる心持ちがないのか?」

「生憎と、送る相手もいないもんでな」

「なるほど、ならば、この私が冥界への旅路の(はなむけ)として贈ってやろうではないか」

「いらねえよ。 冥界への旅行なんざ予定がないんでな。心の底から遠慮するぜ」

 

 うん、いや、あるか。冥界旅行の予定。

 だが、片道はお断りだ。

 にやりと笑った俺に応えて、アフロディーテも壮絶な笑みを浮かべた。

 俺の傷は、たった今できた手のひらだけ。細かな擦過傷は完治済みだ。

 アフロディーテの傷は全身に及ぶ。流れ落ちた血は、アフロディーテの足元で小さな血溜まりとなった。一番目立つのは割れた額からの流血だ。頬の稜線をたどり、あごからしたたり落ちて、赤い水音を立てている。

 この、負傷の差が、すでに俺とアフロディーテの差だが、それでもお返しはせねばなるまい。明確な勝敗をつけねば、もはや互いに収まらん。

 振りかざした拳を、何もせずに下ろすほど、俺の怒りは小さくない。

 振りかざされた拳を、何もせずに下ろさせるほど、アフロディーテは弱くない。

 燃えろ、俺の小宇宙よ。

 

「ペガサス流星拳っ!」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 どおんと鈍く大地が揺れた。

 低く響く衝撃が耳朶を打ち、高く跳ね上がった水しぶきが、砂や塵とともに雨のように降った。

 波打った地面は、びりびりと細かくまだ震えている。

 遅れて、小さなぼちゃんという音が耳に届いた。

 天高く飛んだアフロディーテの落ちた音だ。もはや態勢を整える余裕もなかったと見える。頭っから沖に落ちたのだ。遠い小さな影が沈んでいくのに、俺は目を細めた。

 さて、死んでるか生きてるか、確かめに行かないとな。いや、たぶん生きてるだろうし、戻ってくるのを待つか。

 

「星矢」

「なんだよ?」

 

 俺を呼んだのは紫龍だ。

 勝負はついた、と見たのだろう。

 

「星矢、どうするつもりだ」

「連れ帰れたらいいなと思ってるぜ。せっかく聖域から出てきてくれたんだ」

「しかし……大丈夫なのか」

「大丈夫。お前らはまだ疑ってるかもしれないが、沙織さんは本物の女神(アテナ)だ。アフロディーテが真の黄金聖闘士であれば膝を折るさ」

 

 紫龍の声は、思案深い、というより、何かを真剣に危惧する声だった。

 何を大丈夫と尋ねているのか。

 嫌な予感を無視して、俺は強引に答えた。シャカの失敗を繰り返すつもりはない。幸いにしてシャカが老師にしか言ってないようだからいいものの、完全に教皇側のアフロディーテを帰還させたら、間違いなくこっちは全滅の憂き目にあう。それだけは絶対に阻止しないとな。

 

「お前らの前では、まだ女神(アテナ)としての顔を見せてないだけだ。お嬢さんは」

「いや、そうじゃなくてだ」

 

 紫龍は言いにくそうに、視線を海上に飛ばした。

 ちっ、通じなかった。言いにくいなら言わなくていいんだぜ。無視したのは言ってほしくないってことだぞ。汲み取れ。

 これを訴えかけてしまったら台無しだから、口には出さんが。

 

「死んでるんじゃないかと思ってな」

「……うん。その場合、もうしょうがないけど。生きてたら」

 

 俺は酸っぱいものを奥歯で思いっきり噛み潰した顔になった。

 紫龍は慰めるような顔になった。

 余計なお世話だ。死んでない。絶対に死んでない。死んでないんだからな。……頼むから死んでませんように。

 俺が神頼みなんてシャレにもならない、と短く嘆息する。ううむ、不安だ。

 瞬が、歩いてきた。

 

「アフロディーテは、来てくれるかな。来てくれたとしても……大丈夫だと思うかい」

「心配しすぎだ。聖闘士は、女神(アテナ)のためにいるんだぜ? 対面すれば、アフロディーテにだって分かるさ」

 

 間を置いた。

 仮に、アフロディーテがそれでも教皇につく、と言ったとしても結果は同じだ。

 

「分からないなら、生きている資格はない。生かしておくつもりもない」

 

 厳然と、口に出した。

 女神(アテナ)の聖闘士は、女神(アテナ)のために戦うからこそ女神(アテナ)の聖闘士。位が高ければなおさらだ。

 ならば、女神(アテナ)に従わない聖闘士は、聖闘士ではない。聖闘士ではない者に聖衣をまとう権利はない。聖闘士ではない者が聖闘士として生きている価値はない。

 そして―――女神(アテナ)自身も。

 

女神(アテナ)に仕えるべき黄金聖闘士の、ただ一人さえ(ぬか)づかせられないなら、これからの戦いに勝てるはずがない」

「……っ!」

「星矢?」

「だから、絶対にアフロディーテは女神(アテナ)に帰順する」

 

 何やら非常に驚いたというか、意外そうな顔をされてしまった。なぜだ。

 俺の沙織さんへの推重は、瞬にも紫龍にも、俺らしくない、と思わせるものらしい。

 前回の、俺の刺々しい態度を思えば無理もないのか。

 実のところ、俺だって、過去をすっきり水に流したわけじゃない。そういうものが、今となってはひどくちっぽけに思えるから、口にも態度にも出さないだけだ。

 許したわけじゃない。

 だけど、どういう理由でそうしたのか、なぜそうせざるを得なかったのか。また、俺達以外がこの運命に放り込まれたらどうであったのか、あるいは俺達が運命から逃れ得ていたら世界はどうなったのか。

 そして、沙織さんだって、好んでこの運命を選んだわけじゃない。

 何が悪いと、誰のせいだと、言い切れたならどれだけ楽か。

 許すには苦しみが深すぎる。だが、憎みきるには知りすぎた。前回は、どこでどうやって気持ちを切り替えたんだっけ。ああ、もう忘れちまったなあ。

 

「星矢は、時々……老師やムウみたいに言うんだね」

 

 瞬がためらいながらも、言い切った。

 マジでか。勘弁してくれよ。

 俺は肩をすくめて、抗議を示した。

 紫龍は、驚きと、どこか物申したげな色を複雑に混ぜ合わせた瞳だ。視線をはずさないまま、考えこむように己のあごに指を当てた。出てくる声は穏やかだが低い。

 

「よく、分からないな。お前は。お嬢さんをかばったかと思えば、そうやって突き放す素振りも見せる。まるで長年、共に過ごし、お嬢さんのできることと、できないことを熟知しているような……」

 

 ぎくり。

 紫龍が鋭いのか、俺が分かりやすいのか。こういうことを言われると、その前の瞬の言葉も、含みがあるんじゃないかと疑いたくなるな。

 心臓に悪い奴らだ。

 長年と言えるほどじゃない。だが、密度の濃い日々だった。もう、誰も知らない過去。繰り返すつもりのない未来。瞬も紫龍も知るはずもなく、知る必要もないものだ。

 ああ、なんで分かってくれないんだ。

 理不尽にもほどのある不満を視線にのせた俺と、純粋な疑問を視線に含めた紫龍は見つめ合い、しばし沈黙で戦った。

 

「…………………」

 

 大人びた、だが誠実な表情。

 心ばせを詰めに詰め込んだ眼差し。

 

「…………………」

 

 戦意が折れそうだ。

 もしかして、戦ってるのは俺だけなんだろうか。

 

「……いや、そんなはずはないか。すまん、妙なことを」

 

 紫龍は、俺にとって危険な方向に行きかけた考えを自らあっさりと否定した。軽くかぶりをふって、詫びを含んだ視線を向けてくる。

 凍りつきかけていた俺の心臓は、音を立てて安堵した。

 うわあ、もう嫌だ。

 これ以上、一緒にいたら何かまずい気がする。さっさと何か用事を見つけて、俺だけ別行動にしよう。

 ああ、もう、こいつらに対してこんな気まずい気分になることがあろうとはな。つくづく俺は隠しごとに向いてない。

 こっそりうなだれた俺の耳に、砂浜から音が届いた。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 びちゃりと水音がした。

 そんなに大きな音じゃない。だが、波の音じゃない。人為的な音だった。

 続いて、ざくりと砂を踏みしめる音。水音は、ぴちょりとしたたる音に変わった。

 

「ダイダロス先生……」

 

 瞬が音の正体を呼んだ。

 半裸のダイダロスが、人体を肩に担いでいた。たくましい身体には、多くの傷跡が残り、真新しい刺創が生々しい。

 わざわざ拾いに行ってくれたらしいアフロディーテは、意識がないのか、死にかけているのか抵抗する様子は見られない。

 

「ジュネを」

「はい!」

 

 短い指示に、瞬がさっと従った。

 寝かされていた彼女を、背の傷に障らぬよう連れてくる。その背に、すでに薔薇はない。

 これは後から知ったのだが、ジュネさんの背に刺さった薔薇は、瞬達が抜こうとしても、筋肉に深く食い込み、大出血しそうで抜けなかったのだそうだ。恐らくは突き刺さったら簡単には抜けないようになっているのだろう。当然だな。簡単に抜けちまったら意味がない。

 それをダイダロスがどうにかこうにか試行錯誤して抜いたらしい。詳しくは知らんが、死ぬか生きるか賭けのような手段だったと聞いた。

 その後、真央点を突き血止めを行ったが、心臓の音がどんどん弱くなった。最初に吸い込んだ赤薔薇の毒の影響と考え、星命点を突いて瀉血(しゃけつ)治療したらしいのだが、効果は低く、俺とアフロディーテの勝負が決まるまでひやひやしていたそうだ。

 なんでかって、治療法―――もしくは解毒法―――をアフロディーテから聞きださないとならないからな。

 俺が負けるのは論外、かといって、アフロディーテを殺しちまったら困る。それどころか長引くだけでも危ない、と。俺とアフロディーテの戦いに、こちらも勝負がかかっていたというわけだ。

 幸いというか当然というか、危なげなく俺の勝利に終わった。後はアフロディーテの口を割らせるだけという段階になったので、のんびりアフロディーテが自ら戻ってくるのを待つつもりだった俺に代わって、ダイダロスが沖まで行ったらしい。

 すまない、ジュネさん。配慮がなかった。

 

 ふう、戦いが終わって頭が冷えると、上がっていたテンションが、反動でどんどん下がっていく。

 怒りに任せて、俺はアフロディーテを叩きのめした。

 だが、もっと上手いやりかたがあったんじゃないだろうか。もっと良い方向にもっていく方法が。少なくとも、ずっと今よりもマシな方法が、どこかにあるはずなのに。

 とはいえ、後悔はしていない。してみたところで何の役にも立たないものは、するだけ無駄だからな。これまでの経験で分かっている。なんとも切ない教訓だ。

 しかし、なんで、こうなったんだろう。ああ……泣きたい。男の子だから泣くもんかとは思うけどさ。

 

 俺が遠い目で、たそがれている間に、アフロディーテは目を覚ました。

 目の前に横たえられたジュネさんを一瞥。

 それだけで用件を察したらしく、こちらが問うまでもなく言葉を発する。その言葉が俺を正気に戻らせた。

 

「解毒薬なぞないぞ。ロイヤルデモンローズは本来女神(アテナ)宮を守護するための毒。いかなる敵をも確殺するためのもの。断じて解毒など、許してはならない類のものだ」

 

 聞きたくない言葉だった。

 アフロディーテは続ける。

 

「ゆえに、この世のどこにも、抗体はなく、作る(すべ)もまた存在しない。絶対にだ」





IF偽与太予告










―――絶望とは、打ち破るべき壁である。
星矢は、そう信じている。
アフロディーテの言葉にも、決して揺らがぬ信念である。
絶望とは、自らを成長させるために立ちはだかる壁であり、強烈なマイナスであればあるほど、強烈なプラスに転換しうるそのエネルギーは、時に神をも凌駕する力である。
だが、『運命』は、時に人を『選別』し、脱落する者を挑戦への『代償』とするのだ。

「ああ、星矢、もうジュネさんの心臓が……!」
「ジュネよ。我が弟子よ。その使命を見出しもせぬまま、逝ってしまうのか。それも、私よりも先に!」

瞬の表情に、諦念が混じり始めた。
ダイダロスの声に、黯然あんぜんとした響きが満ちた。

「現実を、受け入れるがいい。どうしようもない運命なのだから」
「俺がともにいながら……何もできなかった!」

アフロディーテの言葉は、哀れみを含んで苦い。
紫龍の涙は、悔いをはらんで熱い。

―――絶望とは、打ち破る『べき』壁である。
これまで、星矢が、打ち破ってきた壁である。
しかし、星矢の絶望を星矢自身で打ち破ることを、人が運命を乗り越えると称するのであれば、打ち破れぬ者の運命を握るのは、神だけなのかもしれない―――さあ、絶望に、挑め。
……To be concluded.

「待てぇ! こんなノリで次回完結とかどんだけ無茶振りだっ!?」

確かにそのとおりである。
ならば続けばよろしかろう。
……To be continued.

「大して変わってねえんだよ。ちっともよろしくないぃっ!」


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過ぎし日の情景

 アフロディーテは、言うべきことは言ったと口を閉じ、目を伏せた。

 ダイダロスは、瞑目し、眉根を寄せた。

 瞬は、拳を握って、下を向く。

 紫龍は、何事かを言い募ろうと口を開き、出てくる言葉がなかったのか、そのまま黙り込んだ。

 一定のリズムで寄せ来る波。その音さえかき消すような、存在感のある沈黙を誰も破れない。

 

 しかし。

 絶対、だと?

 いいや、そんなもの、あるもんか。

 本当に絶対というものが存在するなら、間違いなく、俺は三回以上死んでるぜ。

 俺は一度だけ強くまぶたを閉じた。暗闇を見つめ、過去を見つめ、そして現在に意識を引き戻す。開いた眼に映るのは絶望じゃない。

 そうだ、いつだって諦めない。これまで、乗り越えてこれた事実を信じる。乗り越えられる可能性を信じている。今も。

 強い意志を込めてジュネさんを見つめた。

 必ず助けてみせる。その方法はある。

 

「抗体はない。作れないってんなら、なぜ俺は死んでないんだ」

 

 ジュネさんより、よほど多くの毒を俺は受けている。呼吸はもとより、傷もそれなりに負った。身を持ってアフロディーテから瞬達をかばっていたのだから、当然だろう。直撃しても、ほとんどがかすり傷にしかならなかったから、もう完治してるが。

 

「……星矢?」

「それは、……言われてみれば、そう、かもしれないが」

 

 瞬と紫龍が懐疑的に反応する。

 ひとまず聞け。おかしいだろうが。

 アフロディーテの言が真実ならば、俺が生きて動いて話せるはずがない。お前らもダイダロスもだ。ブラッディローズを受けたのは確かにジュネさんだけだが、その前のロイヤルデモンローズの影響はどこに行ったんだ。なんでジュネさんだけ弱ってるんだよ。

 ピラニアンローズは知らんが、ロイヤルデモンローズは毒の薔薇だ。花粉も棘も決して触れてはならぬ劇毒、だよな。

 いや、そもそも、なんだって、アフロディーテは自分の毒薔薇で自家中毒を起こさないんだ。あいつが最も毒に近いのに。

 それはただの直感だった。

 なぜ、アフロディーテが己の毒に冒されないのか。なぜ、俺が死んでないのか。

 この答が見つかれば。

 抗体がなくても、解毒薬など作れなくても、ジュネさんを救う方法はある。きっと。

 アフロディーテへの殺気を強めて問う。

 

「あの薔薇の毒を、吸い込んでるのはジュネさんだけじゃない。俺達もだ。だいたい、なんでお前には効かないんだよ。お前だって吸ってるだろうが」

「俺達、か。君と同列に扱うのは、かえって気の毒な気もするがな」

 

 意味ありげな視線が、すっと紫龍達に流れる。

 余計なお世話だ。やかましい。

 

「それに、自己への毒性などあるわけなかろう。毒蜘蛛が、己の毒で死ぬものか。毒蛇は、己の毒で屍にはなるまい」

 

 冷たくうそぶいた言葉に、偽りはなさそうだった。

 ありか。そんなの。

 そうなると、市の毒も市には効かないわけか。

 しかし、俺の記憶では、あの毒薔薇は双魚宮から女神(アテナ)神殿まで隙間なく生えていた。アフロディーテ以外の他の聖闘士って、女神(アテナ)神殿にどうやって通うんだろうな。

 

「フッ、納得行かぬという顔だな。良かろう。着眼点の良さに免じて教えてやろう。黄金聖闘士たる私の聖衣と、君達の聖衣では、性能に大いに差があるのだよ」

 

 黄金聖衣には、解毒作用でもあるってのか。

 俺は不審を顔いっぱいに刷いた。

 アフロディーテには気に留めず続ける。

 

「ましてや、聖衣を身につけておらぬとあれば、雲泥の差というのも生ぬるい」

 

 ああ、なるほど、ジュネさんは生身だった。

 ダイダロスの小屋への急襲時、彼女が聖衣をまとっていなかったからだ。元から着ていた俺達はともかく、彼女に聖衣を着る余裕などなかった。防御力の差は確かにあっただろう。

 だが、納得出来ない。

 

「それは、俺やお前が倒れない理由にはならないぜ」

 

 そう言うと、なぜかアフロディーテは不快そうな顔、と言うより、矜恃を傷つけられた顔をした。深い溜息は、比類ない美女が、磨かれざる原石に情けを掛けられた恥辱を吐き出すように重い。何事だ。

 

「結局のところは実力の差と言ってよかろう。理解できておらぬだろう君のために分かりやすく言えば、肉体の身体機能が、違いすぎるのだ」

 

 今度は、俺が不快な顔を返す番だった。

 おい、馬鹿にされているのが分からないほど、馬鹿じゃないぞ。俺は。

 だが、こんな小さなことで、アフロディーテに苛立っている暇はない。

 吐かぬなら、吐かせてみせるまでだ。

 あからさまに不機嫌な顔の俺に、アフロディーテは言葉を続けた。

 

「毒は効いているさ。君の言うとおりだ。だが、それ以上の早さで、回復している」

「なに……?」

「この世のすべてに、多かれ少なかれ毒は含まれているのだよ。ありふれた塩や砂糖でさえ、大量摂取には死の危険がある。我々は、毒を含みながら生きている。大気のおよそ五分の一を占める酸素は、人間にとって必須だが、ありすぎれば有毒ガスだ」

 

 アフロディーテは噛んで含めるように、淡々と説明した。

 ムウの辛抱強い口調を思い出すが、より無機質で、教え導くというより、テキストを読み上げる素っ気なさがある。

 

「しかし、人間の身体はどのような状態に置かれても、元の状態に戻ろうとする働きがある。あるいは、必要な時にだけ変えて、すぐに元に戻す仕組みがある」

 

 知っている。生体恒常性というやつだな。

 俺は記憶をほじくり返した。優等生というわけじゃないが、魔鈴さんの講義を寝ていたわけじゃない。寝てた時もあるけどさ。

 でも、なんだって、こんな時に、こんな場面で、勉強の続きなんかやらなくちゃならないんだ。

 俺の表情を読んだらしいアフロディーテは、わずかに苦笑した。

 

「簡単に言えば、君は毒を受けてもすぐさま回復しているから、影響がないように見えるということだ。その娘との差はそれだけだ。私の毒が私に効かないのは、その毒をマスクするための機構を私が体内に作り上げているからだが、君の場合は―――」

 

 アフロディーテは、一度言葉を切り、ひどく嫌そうな顔をした。

 よほど言いたくないらしい。

 

「確信はないが、私の毒では、君の肉体の合成と分解のメカニズム、すなわち生体恒常性を崩せないから、君には効かないんだろう。ああ、そんな顔をするな。噛み砕いて言えば、あっという間に分解され、排出され、無害化されているということだ。つまり……小宇宙によりもたらされる肉体強化が、私の毒を、上回る」

 

 ―――私の毒を、上回る。

 

 この表情をどう言い表せばいいだろう。

 嫉妬に似た歪みと、賛嘆を表す笑みと、屈辱を押しつぶした眼の光。すべてが渾然とした凄絶さを、一瞬だけひらめかせ消える。

 

「その娘が、未だ死んでおらぬのは、分け与えられているからだ。小宇宙を」

「……ダイダロス?」

 

 少し考え、心当たりを呼べば、ダイダロスは頷いた。

 悠然たる動作に見えた。

 アフロディーテが鼻で笑わなければ、気づかなかっただろう。

 

「いつまで持つかな。その爪からするに、もうあまり余裕はなさそうだが」

「私の小宇宙が持つ限り、私が弟子を見捨てることはない」

「共倒れが望みか。お前自身に今もなお毒は回り続けているというのに。お前の小宇宙をお前だけのために使えば、多少は生き長らえるだろうにな」

 

 指摘されたダイダロスの爪を見ると、暗赤色に染まっていた。

 これは一体、どうなっている。

 慌てて、紫龍と瞬を見れば、若干ましだが同じような状態だ。よくよく探れば呼吸も乱しているし、土や埃で汚れていて見えにくいが顔色も悪い。特に唇は青紫になりつつあった。

 まさか―――チアノーゼを起こしかかっている、のか。

 なんてこった。さっきまで平気で話していたと思ったのに、そう見えていただけだったのか。

 

「ごほッ、ゴボッ」

「アフロディーテ?」

 

 咳き込む音に、目を戻せば、アフロディーテが鮮紅色の血を吐いていた。

 こいつもか。

 それもそうだ。俺が叩きのめしたのだ。死んでもかまわないとまで思い切って。

 内臓の一つや二つ、潰れていてもおかしくはない。

 

 アフロディーテの言葉から考えるなら、聖衣の有無、そして、小宇宙の大きさで毒への抵抗力が変わるということだろう。

 要するに、完全に毒を無効化できたのは俺だけ。瞬達は抵抗力が強いから動けるだけで、ジュネさんと同じく治療が必要だ。

 ところが、頼みのアフロディーテも死にかけている。

 俺は、あまりのことに立ちすくんだ。

 手に余る事態だった。

 

「うろたえるな。君は勝者だ。その見苦しさは敗者のもの。若き天馬(ペガサス)よ、君はこの私に勝利することによって、己の正義を証明したのだから、勝者の権利を行使するがいい。惑うな」

 

 射すくめるための、鋭い視線だった。それ以上に厳しい言葉だった。アフロディーテの言うことは正しい。

 何があろうとも、俺だけはうろたえるべきじゃない。迷えば何が起こるか、俺はすでに学んだはずだ。

 考えろ、アフロディーテの言葉から得られたものを。

 思いだせ、正確に。得られなかったものでさえ、判断材料にはなる。

 まだ、終わってない。

 

「……お前は、助けられないとは言わなかったぜ。アフロディーテ」

「まだ、半分だな。それでは不足だ」

 

 アフロディーテは薄く笑った。

 正解を引き当てたようだった。

 不可能ではない。ならば、何か手段があるということだ。残り半分を引き寄せれば、いや、違う。とうにアフロディーテは、それを差し出している。だから、もう何も言わない。俺が応ずる番なのだ。

 まだ、何が足りない。

 何が。

 

「俺の、小宇宙か」

 

 十二宮最奥を守る聖闘士の毒さえ無効化するだけの。

 無傷に近い俺の小宇宙ならば、ダイダロスと違い余裕はある。

 

「足りるまい。私の毒を侮ってもらっては困る。人間の小宇宙は無限には続かぬ。君とて限界はあるだろう。恐らく」

 

 なんだ、その懐疑的な目。

 地味に傷つきながら、さらに頭を回転させた。

 なら、何が必要だ。

 人間の小宇宙には、限界がある―――人間には。それなら。

 

女神(アテナ)……?」

「そう、君らの奉ずる女神(アテナ)が本物であれば、私の毒さえ封じることができるはず。神話の時代より最強であらねばならぬ、魚座(ビスケス)の聖闘士の毒さえも封ずるならば、ゴホッ」

 

 アフロディーテの長い睫毛から落ちる影。

 咳き込んで、横を向いたアフロディーテの唇から、血の筋がゆっくりと流れていった。

 

「最強? 黄金聖闘士の中で、お前がもっとも強いと?」

「そうだ。この私、魚座(ビスケス)のアフロディーテこそが十二人の黄金聖闘士の中で最も強い。考えてもみるがいい。敵が聖域を襲えば、まずは第一宮から黄金聖闘士を倒さねばならぬ。すなわち私の守る宮まで来たということは、それまでの黄金聖闘士の誰より強かったということ。ならば、それを迎え撃つ私が、それまでの黄金聖闘士より弱くてなんとする。小宇宙が足りぬならば技を、技が甘いなら知略を、知略を凌がれるならば情誼を捨てて、私は最強であらねばならない」

 

 当然の義務という言い方だった。心の底から、この男はそれを信じていると分かった。

 そうか。そうなのか。唐突に理解が生まれた。

 ああ、胸が震えるのは、反発からじゃない。逆だ。これは、紛れもない共感だった。俺のどこかが、常に存在する何かが、共鳴りしていた。これなら分かる。同じだ。

 女神(アテナ)のために誰よりも強く。

 いかな敵からも守り通せるほど強く。

 咳き込みながら、アフロディーテは続ける。

 

「私は負けた。ゆえに君の正義を認めよう。しかし、私にも意地というものがある。これまでの正義、これまでの信念、そうそう翻せはしない」

 

 一つの理解が、次の理解を生んだ。

 分かってもらえないんじゃない。分かってなかったのは俺だ。アフロディーテの拒絶を、理解できないと拒絶しかえしていたのは俺だ。

 鏡に写したように、互いの正義に反発しあっていた。

 

「これを覆したくば、証を見せよ。女神(アテナ)女神(アテナ)たる証を。私の毒を封じてみせよ」

 

 今、アフロディーテの澄んだ双眸に宿るのは、屈辱ではない。怒りでさえない。

 ひどく摯実(しじつ)な、厳かなひたむきささえ感じる、求めだった。

 

「証だてられたなら、信じよう。自身の意志で、無力な赤子と軽んじたかつての不明を恥じ、裁きに従おう。女神(アテナ)の聖闘士の名にかけて」

 

 一瞬、大地が揺らいだ。めまいがするほどの既視感だった。

 いつか。

 誰かに。

 同じ言葉を聞いた。

 

『証明できますか』

 

 俺は倒れ伏していた。

 だから、正しく覚えている自信はない。だが、明確に思い出せる。

 

『今、あなたが話したことを信じるには、あなたが女神(アテナ)だということを証明しなければならない。あなたが真の女神(アテナ)ならば、私の拳さえ封じることができるはずだが……』

 

 なあ、アイオリア。

 前回、これまで信じていた事実と、新たに知らされた真実と、どちらを信じるか迷ったあんたが求めたものを、今、アフロディーテも求めている。

 俺は、信じていいのかな。応えていいのかな。

 あの時の沙織さんのように。

 

『いいでしょう。撃ってみなさい』

 

 沙織さんは即答した。

 膨大な記憶の海から、引き出されるまで忘れていた。けれど、確実にあった過去の事実を思い返す。もはや誰もしらない過去だが、それでも俺は覚えているのだ。

 口が乾いてしょうがない。緊張している。高揚と言い換えてもいい。怒りや焦り、悔いに濁っていた視界が、晴れるようだった。笑みが自然と形作られる。晴れてようやく濁っていたのだと分かり、見えるのは一つ。

 俺のなすべきことは、一つだけだ。

 口は勝手に動いた。

 

「いいぜ。証明してやる。誰も死なせたりしねぇよ。沙織さんは本物の女神(アテナ)だからな」





星命点を突いたくらいで解毒できたら仮にも黄金聖闘士である聖闘士の毒なのにあまりにちょろくない?という個人の所感により、前話にて既に星命点ついても解毒できなかったと前提しております。
IF偽与太次回予告

















美しくも過酷な環境のアンドロメダ島は、かつての静けさを取り戻した。
しかし、死の香り色濃く漂う静けさであった。
星矢の驚愕が、その静けさを引き裂く。

「なぜ、そこにいる!」

いるはずのない男であった。
逆立つモヒカン。
かがやく白い歯。

「愚問ザンスね。毒蛇の王者たるヒドラの聖衣をまとうこの俺に」

まごうことなき市であった。
しかし、市にあるまじき獰猛な迫力である。

「こんな毒の対処もできないなんて、そんなことはありえないでザンスよ」

口調は、普段と変わらず軽薄であるにもかかわらず、満ちる自信が風格を生み出していた。
そこは別に聞いてねえと言いかける星矢をさえぎりながら、アフロディーテが傲然と笑って、口を出す。

「君ごときに何ができる。力の差も分からないか。下がれ」
「分かってないのはあんたザンス。俺は毒のスペシャリストだ。畑違いとは言えねえよ」

モヒカンは、言い切った。
キランと、剃り上げられた側頭が光る。
漢の輝きだった。

「俺の修行地は、フィンランド。古代ギリシャ文明が衰退する前に、古いアポセカリーの流れを受け継ぎ、ホルツ湖に移り住んだ錬金術士の住まう地で、修行したザンス」

一息ついたモヒカンは、自嘲を浮かべ続ける。
意地の光る微笑だった。

「俺には星矢ほどの小宇宙はない。実力もない。才能もない。だがしかし、俺にも誇りというものがあるザンス。クレオパトラにナポレオン、名を挙げれば切りのない、あまたの死をもたらした毒を極め尽くしたからこそ、俺にヒドラの聖衣が与えられた。この俺にひれ伏さぬ毒など、この世にない」

そうでなければ、生きている意味がない。
意地と自信と、それから、何者にも劣らぬ誇りだった。
ヒドラの聖衣をまとう、この世にたった一つの誇りだった。

―――アテナにさえ譲れぬ、市の誇りだった。

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次回「毒蛇の王を従える者」
誰もが勇者になれるわけじゃない。悲しい毒、受け止めろ、ペガサス流星拳ーーーーっ!!!



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女神を奉ずる者たち

 波が、足元に打ち寄せる。

 太陽は、いまだ天頂にとどまり、地上を容赦なく焼いている。

 それでも、待った。

 汗が、頬を流れて顎に伝わり、ぼとりと落ちていく。

 髪が張り付いて気持ちが悪い。聖衣が熱い。

 それでも、待った。

 どっちに転ぶか、もうほとんど確信しているようなもんだが、それでも緊張は解けない。

 けれど、待った甲斐はあった。

 アフロディーテの口元がわずかにゆるんだ。見惚れるほどの笑み。待ち望んでいたものだ。

 

「フッ、言うものだ」

 

 言うだけの自信があるからな。

 沙織さんが本物だと知っている。推測じゃなく、希望でもなく、真実として知っている。

 にやりと笑みを返した。

 

 さて。

 俺としては、これで一件落着。

 全員で日本に向かえば、後は沙織さんが何とかしてくれるだろう、と肩の荷を下ろした気分だった。

 まかせたぞ、沙織さん。

 と、ここで話が俺の手から離れればありがたかった。ぜひともそうなってほしかった。

 ところが、そうは問屋がおろさなかった。

 残念ながら、というべきか、あるいはさすが、と評すべきか。

 もしくは、気付かなかった俺を、鈍いと思うべきなのかもしれない。

 

 紫龍が、アフロディーテの矛盾を突いたのだ。

 矛盾というより、疑念だな。

 

 ―――なぜ、アフロディーテは、俺達が、本物の女神(アテナ)(よう)していると知っていたのだろう。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 紫龍が、いつから気づいていたのかは分からない。

 ただ、追求するタイミングを狙っていたのは間違いないだろう。

 もっと早く言ってくれりゃ良かったのに。

 俺は、沙織さんに今後の対応を放り投げる気満々だったんだぜ。

 まあ、ぼやいてもしょうがないんだがな。

 

 弱々しい声ながらも、しっかりと紫龍が割って入ったのは、アフロディーテの友好的な態度に、俺が安堵しかけた、まさにその時だった。

 

「待て、星矢」

 

 血の気のない顔に、恐ろしく真剣な表情を浮かべていた。

 俺はまだ、何も気にしちゃいなかった。ダイダロスがなぜ死ななくてはいけなかったのか。どうして、今だったのか。何も分かってはいなかった。

 愚かだったと、後から気づいた。

 

「先程から、気になっていたんだが、なぜ、アフロディーテが沙織さんのことを知っている」

 

 うん?

 どういう意味だ。分からない。何を言いたいんだ。

 眉根が寄った。

 ダイダロスが、短く息を吸い込んだ。そうか、と小さくつぶやく。厳しい顔つきだった。

 

「そうか。確かに、そのとおりだ。どこからいた。アフロディーテよ。なぜ、知っている。まさか盗み聞きしていたのではあるまいな」

「エ? そんな気配は感じませんでしたが……」

 

 青銅聖闘士である瞬に気配を悟られたら、アフロディーテも苦しいだろうな。と思うものの、瞬なら分かるだろうとも思う。

 聖衣を身につけ、戦いの覚悟を固めた瞬の感覚をごまかせる奴なんて、いるんだろうか。

 ましてや、わざわざ盗み聞きなんかする理由はないだろうに。アフロディーテなら、何か知りたければ、むしろ、堂々と吐けと正面から要求してくるだろう。盗み聞きなんてのは、結局のところ、力のないやつがやることだ。

 眉根を寄せたまま、口を曲げる。

 瞬も、紫龍に対して、疑問を差し挟まない。あれで、何が言いたいのか、分かったんだろうか。それとも、単に察するものがあって遮らないだけなのか。

 まずい。分からない。

 焦っている間にも、会話が進む。

 俺が理解していないことを分かっていたのか、性分なのか、紫龍は省略をせずに問うた。

 

「星矢が、沙織さんのことを言い出す前に、お前は俺達が、沙織さんを……女神(アテナ)を奉じていると知っていた。なぜだ」

「た、確かに」

 

 ここで、瞬が息をのむ。

 俺も、そこまで言われて、ようやっと分かった。

 確かにその通りだった。

 この地で、沙織さんや十三年前の悲劇について知っているのは、俺達以外には、ダイダロスとジュネさんだけのはずだ。アフロディーテに説明した覚えはない。

 銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)は起こっていない。聖域が俺達に注目する理由はない。沙織さんが女神(アテナ)だと、知られているはずがない。だから、俺達の聖域に敵対する理由が分かるはずがない。

 合わせて考えれば、アフロディーテにとって、俺達は未知の敵であるはずなのだ。

 仮に、教皇の入れ替わりや、その悪事を知っていても、女神(アテナ)の行く末をアフロディーテは知らない。知っているなら、聖域が沙織さんをとうに抹殺している。

 なのに、なぜ、女神(アテナ)に己の毒を封じさせてみろと言えたのか。なぜ、俺達を女神(アテナ)側だと―――いや、女神(アテナ)が俺達側にいると見なしたのか。

 紫龍は、そこを問うているのだった。

 

「盗み聞きなど、するものか。そのような下賎な真似……」

 

 アフロディーテは、血の気の抜けた生き人形のような顔をしかめた。不快だったようだ。

 ダイダロスも、本当にそうとは思っていなかったようで、追求しない。

 でも、そういう問題じゃないだろう。

 たまらず、口を挟んだ。

 

「ならば、なぜ、俺達の話を聞いても居ないのに、女神(アテナ)を奉ずると知っている。俺達がそっち側だとどうやって判断した」

 

 アフロディーテは、光を放つような双眸を俺に向けて、じっと見つめてきた。

 不気味なまでに深く、内蔵をえぐるように鋭く、魂まで刺し貫く目線だった。

 青白い顔の中で、瞳の色だけが生気を帯びて鮮烈だ。

 

「逆に、私も一つ問いたいな。天馬座(ペガサス)の坊や、私は一体いつ君に名乗ったのかな」

「は……?」

 

 ゆっくりと、単語単語を強調してくる声。

 いやみったらしいと感じる前に、警戒心が先に立った。

 あまり良くない予感がするぞ。

 

「勘違いかとも思ったのだが、どう思い返しても、君達に名乗った覚えがない。ああ、ダイダロスが私の顔と立場を知っているのは分かるとも。最も黄金聖闘士に近い白銀聖闘士と呼ばれる男だからこそ、わざわざ私が来たのだから。しかし、なぜ、君達、青銅聖闘士ごときが私の顔と立場を知っているのだろうな」

 

 言葉を切った。

 蝋人形の白い顔を裏切る苛烈な眼光。

 警鐘が、頭の中で打ち鳴らされる。

 俺は、もしかして、何か間違えたのではないか。もう少しムウや老師の言っていたこと、成したことを考えるべきだったのではないか。

 アフロディーテは、よりいっそう強調して、ゆっくりと言った。

 

「いや、そもそも、なぜ、ここにいる?」

 

 どういう、意味だ。

 顔がこわばる。

 何が言いたいのか分からない。しかし、それが恐ろしいものであろう予感がする。

 そもそも、それは、俺がアフロディーテに訊かなくてはならないものだ。

 なぜ、アフロディーテが今ここにいるのか。ダイダロスは、なぜ、今死ななくてはいけなかったのか。教皇にまつろわぬという理由ならば、これまでに処刑されていてもおかしくはない。およそ十三年、ここまで殺されなかったものが、なぜ、今となって。

 警鐘が、高く鳴り響く。

 ええい、俺は頭脳担当じゃないんだよ。匂わせるな、はっきり言え!

 俺は、開き直った。

 

「俺がお前の名前を知ってようが、どうやってダイダロスを助けに来ようが、そんなことは重要じゃない。俺にとってもお前にとってもだ」

「フッ、腹芸は不得意と見えるな。師から教わらなかったか」

「余計なお世話だ。必要なことは全部教わったぜ。聖闘士が女神(アテナ)のための戦士だってことも。俺達の力も聖衣も、女神(アテナ)のためにあるってこともな」

「言ってくれる。フフ、―――ムウの薫陶か?」

 

 思わず、目を見開いた。

 ごくりと喉が鳴った音も、聞こえただろう。

 しまった。

 やってくれたな。この野郎。ぎりりと歯を食いしばった。

 

「図星か。正直で好ましいことだ。その素直さは美点だぞ」

 

 うるさい。お前と違って若いだけだ。

 悔し紛れのうなり声が出る。ううう、今度、魔鈴さんに会ったら、表情筋を鍛えるにはどうしたらいいか、相談してみるか。仮面を付けろの一言で終わるかもしれないが。

 慰めにもならん皮肉を言いながら、アフロディーテの長いまつげが上下に動いて、頬に影を落とした。まるで本当に好ましいと思っているような柔らかさで、目線がゆるむ。

 

「俺の師匠はムウじゃないぜ」

「分かっているさ。ムウならば、弟子に、このような真似はさせん。己の身代わりなどさせるくらいならば、自ら出向くか見捨てるだろうよ。だが、弟子ではなくとも、ムウの差金だろう。それ以外に考えられんからな」

 

 なんだって?

 己の身代わり?

 見捨てるって、なんだ、それは。

 

「なんだ、ムウは言わなかったのか」

「何をだ」

「そこまで言うほどでもなかったか。あるいは教えたくなかったか。さて、どちらだろうな」

 

 アフロディーテは目を細めて楽しげな表情を浮かべた。嘲る表情にもよく似ている。奇妙なことに憐れむ表情にも見えた。

 嫌な予感だ。

 さっきから打ち鳴らされている警鐘が、鳴り止まない。恐ろしい何かが来る、そんな予感はまだ続いている。

 己の愚かさを心底悔いるような、思い切り自分を罵ってしまうような、そんな予感が。

 それでも、さえぎらない。

 俺は、いったい、何を知らない。

 アフロディーテは、感情の乗らない声で続けた。

 

「この程度の討伐であれば、情報はそこまで機密ではない。わざと流すこともあるほどだ。あぶり出すためにな」

「なん、だと」

「ここまで老師はもちろん、ムウも動きを見せなかった。あるいはダイダロスであれば……惜しむかと思ったのだがな」

 

 何を、惜しませ、何を、あぶり出すのか、言うまでもない。

 反乱者を、だ。

 そして、この情報がわざと流されているとするなら、それならムウの動けない理由は……ああ、なんてこった。

 理解した瞬間、全身が強ばり震えが走った。己の愚かさへの怒りだった。恥ずかしさだった。過ちへの悔いだった。なぜ詰った。あんな風に言うべきではなかった。そうとも、あのムウが好んで見捨てるはずなどない。分かっていたのに。

 目の前が真っ赤になり、ちりりと脳味噌に直接電流を流されたような痛みが走る。こめかみにもう一つの心臓ができたかのようにドクンと脈打った。

 本当に、疑ったわけでは、なかった。

 それでも、怒りを持ったのは確かだった。

 あの痛みを含んだ気配は他に何も含んでいなかったか。憂いをまとった目は何を思っていたのか尋ねもしなかった。何を苦痛に思っていたのか追求もしなかった。手を出せない現状を嘆いているだけなのかと疑いもしなかった。馬鹿だ。ぎりりと奥歯を噛む。俺は馬鹿だ。なんて愚かな不満だったことだろうか。なんて子供のような泣き言だったろうか。ムウはよくぞ見捨てなかった。

 ああ。

 馬鹿だ。

 

 俺達がアンドロメダ島にやってきたのは、ムウから情報をもらったからだ。ダイダロスが殺されると。

 だけど、それは聖域がわざと流したものだった。ムウ、あるいは老師を釣り出すために。

 ムウも老師も動けるはずがなかった。相手の手で転がると分かっていて動くほど、愚かにはなれなかった。だから、これまで黄金聖闘士同士のぶつかり合いが起こらなかった。女神(アテナ)が聖戦を戦えるようになるまで、二人とも動きたくとも動けなかった。どんなに動きたくてもだ。

 言葉通り、俺達に伝えるだけがムウにできるすべてだったのだ。俺達の実力が足らなければ殺されるだろう。それを承知で伝えた。許せとは言えないと告げたムウの心境たるや、いかなものだったか。もう、想像さえできない。

 息を吐いて、軽く目を閉じた。先を読めるってのは、いや、賢いってのは、なんて損なんだろう。

 俺は、賢くない。

 

「だから、今なのか」

「そうだ。もはや白銀聖闘士で、教皇に手向かい続ける者は残っておらん。ダイダロス以外は」

 

 ダイダロスを殺すのが今なのか。主語をはぶいた言葉に、的確な返事が返ってくる。多分、こいつも、賢い者の一人なのだろう。だから、教皇を選んだ。

 でも、俺は、賢くなくて、いい。

 だって、俺の選ぶものは、もう決まっている。

 

「それだけか」

「フッ、聖域において、教皇への不信感は高まってきている。今は従順でも、放っておけば、第二、第三のダイダロスが出るやもしれぬ。そうならぬよう見せしめに潰しておくというお考えもあったろう。現にお前達という実例があるではないか。後は、デスクイーン島からシャカの急な帰還で、教皇も焦ったのか……推測にすぎんがな」

 

 俺達は、ダイダロスとは関係ないけどな。

 ともかく、これで、なぜ今ダイダロスなのかは理解した。ムウ達が動けなかった理由も分かった。

 アフロディーテの名を知っていた理由も勝手に納得してくれたようだ。ムウ、すまんが隠れ蓑に使わせてもらうぜ。

 だが、女神(アテナ)の存在を確定する理由が、いま一つ分からない。

 それから、シャカの急な帰還って、なんだそれ。

 

 疑問が増えてしまった。どうしよう。

 俺は、頭を整理しようと、懸命に考え始めた。

 デスクイーン島ならば、俺もいたんだから、何か思い当たるかもしれない。

 そうだ、だいたい、あの程度の討伐にシャカがでばること自体がおかしくないか。シャカも「暗黒聖闘士も噂ほどではなかった」と言った。その噂とやらはどこから出た。もしや、最初からシャカを遠ざけるための奸計だったか。いや待て、発言から考えるに、ガンジス川から来たらしいから、帰還したのが聖域とは限らない。けど、シャカにいられて困る場所なんて、聖域以外にあるんだろうか。ああ、分からん。

 とにかく、何をしようとしていたのか知らないが、教皇にとって、シャカにいられては都合の悪いものだったのだろう。シャカは相手の本質を見抜く。教皇の本質を善と見ているシャカを、遠ざけている間でなければできないこと、か。ダイダロス討伐につながる何か。ううむ、うん。

 

 分からん!

 

 俺はすべての思考を放り投げた。

 無駄だ無駄だ。そもそも真実にたどりつくためのヒントが少なすぎるんだから、分かるはずがない。後回しだ。優先事項はそれじゃない。

 女神(アテナ)の目の前に全員を連れて行く、これが最優先だ。

 考えてみれば、分かる必要性もない。殺そうとするなら守る。壊そうとするなら防ぐ。それだけだ。

 しかし、瞬は気づくものがあったらしい。顔に苦悩が浮かんだ。

 

「それは、聖域内部に教皇に対する不審があるなら……外部の反教皇派がそれを利用しないはずがない。そこを逆利用して、一気に潰そうと?」

「反教皇派を一気に……そ、れは……まさか、瞬、お前は何を考えている」

「きっと、同じことを考えてるよ。紫龍」

 

 瞬の言葉に、紫龍の唇がわなないた。

 つまり、獅子身中の虫を利用して、外の敵を潰そうってことか。聖域内での軋轢(あつれき)をわざと見せ、そこに手を伸ばしたところをひっ捕まえて潰し、内部への見せしめとする。

 外の顕在敵と内の潜在敵を同時に処理するってわけだ。悪辣(あくらつ)だな。

 いっそ感心している俺を置いて、真剣な顔をした、瞬と紫龍が眼を見交わす。

 ぴたりと声がそろった。

 

「童虎老師!」

 

 かははっとアフロディーテが笑い声を上げた。

 うわ、優雅な微笑み以上は許されないような顔しといて、意外と男くさい笑い声だな!

 俺は、正直、引いた。

 

「たったこれだけで、得るべきものを得るか。油断ならぬは、お前だけではないようだ。星矢よ」

 

 当然だろ。俺の兄弟達だぜ。

 反射的に胸を張った。

 瞬達が何を言っているかというと、簡単だ。反教皇派を一気に潰す気なら、童虎もその対象ってことだ。ムウも対象に入るはずだが、ムウは聖衣修復に必要だから、処刑対象かと言われると迷うところだ。せいぜいが首輪をつけておきたい相手ってところだろうか。

 まあ、あの童虎だぜ。大丈夫だと思うが、悪い顔色が、さらに悪化しそうな紫龍達をなだめるか。

 

「心配するなよ。童虎は、黄金聖闘士だぜ。そうそう殺られるもんか」

「星矢、お前が言うならそうかもしれないが」

「だいたい。正当な理由なしで童虎討伐なんて、ますます教皇への不審を高めるだけだろ。まっとうな黄金聖闘士には命令は出せない」

 

 だろ? とアフロディーテに目をやる。

 フッとアフロディーテが、咲き誇る毒薔薇のように微笑んだ。

 あ、悪い顔。

 

「そうでもないさ。そろそろデスマスクが動く。虎も老いれば駄馬にも劣るというものだ。ましてや同格の黄金聖闘士相手に、二百年前ならともかく、今、勝機があるとは思えぬな」



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戦士の帰還

 王様の耳はロバの耳。

 むぐむぐと、喉の奥から何かが湧き上がってきた。

 慌てて、口を手で押さえた。言ったらダメだ。分かっているが、言いたくてたまらない。

 

 王様の耳はロバの耳。

 言ってはならない物事ほど、言いたくてたまらない。

 駄馬とはよくもほざいたもんだ。老師はなあ、実は十八歳の肉体年齢なんだぞ。老皮さえなければ、ぴちぴちだ。若さを謳歌しているんだ。

 

 言わないけどな!

 

 つまり、誰に襲われても絶対に心配ないと思うが……ちらりと紫龍を見た。眉間の縦皺によって、年齢以上の顔つきになっている。おい、紫龍、そんな苦労性だと早く老けるぞ。

 余計なお世話だと言われそうだが、俺は真剣に心配している。

 ただでさえ、今から苦労を掛ける予定なのに、今からそんなに苦悩顔になってどうするんだろう。

 罪悪感の重さで、俺の額にも縦皺が寄りそうだ。

 しかし、いつまでも心配していてもしょうがない。

 今は、この場を何とかしなければ。

 

「分かった。俺が行く」

「星矢……!」

 

 紫龍が、何やらよく分からない感動した顔つきで俺を見る。

 やっぱり何やらよく分からない罪悪感の重みが増すから、やめてほしい。

 

「でも、その前に、城戸家に行くぞ。沙織さんだったら、ジュネさんもきっと何とかしてくれる」

「分かったよ。星矢、でも、どうやって帰ればいいんだい?」

 

 瞬の疑問ももっともだ。

 来る時はムウに送ってもらったが、ここにムウはいない。

 だが、問題ない。

 

「俺だって、テレポーテーションくらいできる」

 

 ちょっとコントロールが怪しいけど。

 都合の悪い部分を口に出さず、胸を張った。

 

「僕達全員なんて、大丈夫かい」

「もちろんだ」

 

 多分な。

 これまで一発で飛べたことはないが、何とかなるさ。

 それに、よくよく考えてみろ。これまでの経験を。

 初めて使ったのに、デスクイーン島になんか行ったこともなかったのに、ちゃんと到着できたんだ。六年も会ってない一輝の小宇宙だなんて、大して当てにならない目印で目指したにもかかわらず、何回か海に落ちた程度で済んだんだぞ。付け加えると、六年前は小宇宙なんぞ何も分かってなかったんだから、六年前に覚えた小宇宙なんて、ただの気のせいだ。適当に飛んだも同然だ。

 今回は、初めてじゃない。しかも、城戸家は、ついこの間までいた場所だ。

 失敗するはずがない。うん、完璧な理論だ。

 自信たっぷりの表情を浮かべてみせると、なぜか、紫龍も瞬も心配そうな顔になった。失礼な。

 全幅の信頼を寄せてくれていいんだぜ。

 

「行くぜ!」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 視界が切り替わった。

 とたんに、目を開けられないほどの風と、落下感。浮遊感じゃないぞ、落下感だ。腹をえぐられて内臓を持ち上げられる感覚だ。どっかで味わったなと思ったら、よく修行中に、魔鈴さんに宙に打ち上げられて落とされてたからだった。泣けてくる。

 蘇った思い出に落涙する心持ちを切り替えて、周りを観察する。

 ごうごうと冷たい空気が渦巻いて、落下する俺達を攻め立てた。

 上空およそ四百メートルといったところか。

 眼下には、真上から見ても広大な城戸邸の敷地。

 海に落ちた時は、盛大な水柱で済んだが、これはこのまま落ちたらクレーターができるだろうな。沙織さんに謝らないと。ううむ、人間が豆のようだ。とは言え、城戸家敷地内だから失敗はしてない。反論は認めない。でも冷や汗が出るのは止められない。

 

 冷や汗をかきながらも、目に入ったのは、態勢を崩したらしいダイダロスと、その腕からこぼれそうなジュネさんだった。

 手を伸ばして引き寄せたジュネさんを片手で抱きかかえ、ついでにダイダロスも捕まえる。抵抗されたが離さない。

 風に流されて、妙なところに落ちてもいけない。ちょっとした親切心だ。

 

 アフロディーテは呆れた目つきで、こちらを見やると、ぱっと姿を消した。その小宇宙はすでに地上にある。上空から、真下へ短距離テレポーテーションを行ったようだった。効率的だ。でも、せめて自分の周りにいる奴らくらい連れてけよ。なぜ、残す。余力がないのか。

 

 瞬は、まず鎖を叩きつけるように、荒く地上に突き刺した。反動を活かして態勢を整えるとほぼ同時に上向きのストリームを起こし、落下速度をゆるめている。流されぬように地上につないだ鎖を手繰りながら、ストリームを制御して降りるつもりらしい。

 相当なバランス能力と制御力が必要なはずだが、器用な男だ。

 

 紫龍は、地につながった鎖の側で自由落下している。上にたなびく髪が、竜のたてがみのようだ。

 俺も、同じく自由落下中である。ジュネさんは意識がないからいいが、ダイダロスは何やら覚悟を決めた顔だ。失敬な。ちゃんと着地してみせるぞ。

 

「星矢! 紫龍!」

 

 呼びかけてくる瞬に親指を立ててやり、心配ないと示した。

 瞬の起こした気流によって、俺達の落下スピードもかなりゆるやかになっている。この分なら小クレーターで済むだろう。

 

「違う!」

 

 何が違うんだ、と思ったのもわずか。

 真下に異変が生じた。

 強大な小宇宙が、迫ってきている。

 上空の寒気とはまったく違う冷気―――具体的に言うと、でかい氷柱がせり上がってきている。地中の水分を芝生ごと巻き込み、空気中の水分を集めながら、めきめきと音を立てて成長する氷は、サイズだけでも十分な脅威だ。

 円形の、直径二十メートルくらいの俺達全員が着地できる大きさの床が、猛スピードで上空に伸びてきているところを想像してほしい。

 正面衝突したら、ミンチになるな。俺達が一般人なら、だけど。

 でも、殺す気がないのは分かってる。殺す気なら槍として、先端を尖らせてくるだろうし、何よりこの小宇宙には覚えがあった。

 

「カミュ!」

 

 氷柱の根本に立つ二人の人影。

 こちらを見上げる峻厳な眼差しと、無造作に伸ばされた赤い長髪。見間違えようもない小宇宙。

 その傍らには、怪我のかけらも見当たらない氷河が立っている。完治したのか。良かった。でも、目つきが恐い。前回の銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)に参戦してきた時だって、あんな厳しい目つきじゃなかったぞ。

 あいつに何があったんだろう。

 俺が心から心配している間にも、落ちる俺達に氷面が近づいてきた。近づけば近づくほど、氷の成長速度は遅くなっている。そろそろ停止するだろう。それでも、俺達が落ちている分、かなりの勢いでぶつかるが。

 

「瞬、紫龍、着地しろ!」

 

 それでも、あのまま激突するよりは、マシな結果だろう。地面にとっては。

 カミュなりのやり方で、俺達に手を差し伸べてくれたのだ。テレポートさせてくれればいいじゃないかと思わなくもないが、第三者をテレポートさせるってのは難しいのかもしれない。

 アフロディーテもしてくれなかったもんな。単に余力がなかっただけかもしれないけどさ。

 

「着地って、氷だよっ!?」

「無理がないか、星矢!」

 

 ごちゃごちゃ言うな。

 後四十メートルもないんだから、覚悟決めて落ちろ!

 大丈夫だ。お前らならすっころぶくらいで済むから!

 後二十メートル。

 後十メートル。

 後五メートル。

 そろそろ着地。いや、着氷か。

 人間を二人も抱えてるんだから転べない。気合を入れて小宇宙を全身に回し、体温を上げながら両腕に力をこめる。最悪、俺は転んでもいいが、二人に衝撃を与えないようにしないとな。ちょっとした気遣いだ。

 

 鈍い衝撃、そして、氷が砕け散った。

 そして、さらに落ちる。薄いパイ皮のように、何枚も重ねられた薄氷を突き抜けて落っこちた。

 今の俺達を客観的に眺めるならば、氷の柱の中に閉じ込められているように見えるだろう。

 予想外だ。

 

「冷てぇ!」

 

 カミュのやつ、何のためにこんなにもろい氷にしてるんだ。砕けた氷の欠片はあっという間に溶けて、俺を濡らし、そして蒸発していく。

 下に落ちるほど強度が高く、溶けにくい氷床。

 もしかして、クッション代わりにしようとしたのか。

 さすが黄金聖闘士。発想がどうかしている。味方でなけりゃ、氷の筒に閉じ込めたところで、外側から凍らせる気かと疑うところだ。

 ようやく止まったところで、まだ燃やしたままの小宇宙を足にこめた。無造作に横の壁を蹴りつける。音を立てて壁が割れ、人間が出るには十分な大きさの穴が空いた。

 下を見下ろせば、地上まで、残り七十メートルちょい。問題ない。

 一気に行こうか。

 

「先に行くぜ」

 

 一応、紫龍と瞬にも一声かける。

 星雲鎖(ネビュラチェーン)を使えば、二人は問題ないだろう。

 この氷柱、瞬が地面に突き刺した鎖を中核としている。なので、横の氷壁を割って、氷柱に刺さりこんだ鎖を起点に、紫龍を下ろすなり、自分も降りるなりすればいいのだ。

 降りてから、鎖が刺さりこんだままの氷柱をどうするかだって? 知らん。カミュに砕いてもらえばいいだろ。

 

「星矢、そこまで簡単に割れるほど、この氷は壊れやすくないんだが……」

「いや、星矢が蹴り割ったところから出よう。紫龍。それが一番早いんじゃないかな」

 

 背後の会話を気にせず、ダイダロスとジュネさんを持ち直す。やっぱりダイダロスは抵抗した。なぜだろう。負担なんかじゃないから、怪我人は遠慮しなくていいんだぜ。ねじ伏せる手間もかかるからな。

 何かを諦めた目つきになったダイダロスを背負いなおし、ジュネさんを片腕に抱きしめて、とんっと宙に飛び出す。

 むろん、そのまま落っこちる気はない。空いているほうの指を、すかさず氷柱にめり込ませた。このまま落下速度を殺して、地面へと滑り降りるつもりだ。

 この氷柱は、下に行けば行くほど固く締まっているので、少しずつ右手に集める小宇宙を増やす。増やしすぎると、氷柱を二つに割いてしまう。だが、増やさなかったら途中で止まってしまう。まどろっこしいまでに慎重に。

 俺一人なら飛び降りればいいが、怪我人を担いでいる身だからな。うん、丁寧にしないと。

 そっと、を心がけながら降りなきゃならん。

 五十、四十、三十……、五十メートルを切ったあたりから、口に出さず高度を数える。そのままストンッと落ちて、ドスンと着地してしまいたい衝動をこらえるためだ。怪我人、怪我人。忘れちゃいけない。

 努力の甲斐あって、一番下までたどり着いたとき、足先に感じたのはトンと軽い衝撃だけだった。

 ちょっとゆっくり降り過ぎただろうか。紫龍と瞬に追いつかれかけている。

 まあ、いいや。

 俺は、ダイダロスとジュネさんを背中から下ろした。ダイダロスは息を吐いて座り込んだ。抵抗したからか、疲れたらしい。意識のないジュネさんは、丁寧に芝生に横たえる。

 大丈夫かな。顔が土気色になりはじめてるぞ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 地上で、待っていたのは、上空から見えたカミュと氷河。

 そして、お嬢さんだった。上品な薄紫のワンピースに淡い金色のサッシュを巻いて、白い日傘を差している。冷厳な眼差しが貫いているのは、その前に跪くアフロディーテだ。

 豊かな髪をそよがせ立ち昇る小宇宙が、湖面に広がる波紋のように押し寄せてくる。何の反論も許さぬ重み。

 ―――神としての威だ。

 

 人を従わせるのは、力であれ権であれ欲であれ財であれ、限度がある。だが、これは圧倒的な、神にのみ許される無限の威圧だった。

 女神アテナだけではなく、海王ポセイドンや冥王ハーデス、それぞれ異なる、けれど、同じだけ強大な威。

 取るに足らぬ人の身で、神との相対を、どうして畏れずにいられよう。

 アフロディーテ、力がすべてだと言い切ったお前は、ある意味間違ってない。ただし、人と神を比べること自体が間違いなんだけどな。

 

 溜飲が下がるような、同情を禁じ得ないような、複雑な気分で見やりながら、内心は大混乱だ。

 なぜ、本気なんだ。お嬢さん。

 あれ、もしかして、俺達が降りてくる前に一悶着あった、とか……?

 頭を抱え込みたくなる。

 おいおい、地上から気をそらしてたのは事実だが、なんで目を離している間に、起こってほしくないことばかり起こるんだろう。

 嘆く間にも、後ろの氷柱から、瞬と紫龍が降りてくる。

 どうしたもんか。

 

「久しいな、星矢」

 

 対応を迷っている間に、カミュが声をかけてきた。

 第一声がそれってどうなんだ。友好的なのは嬉しいけど、もっと言うべき事柄があるんじゃないか。

 目の前の光景に、何か思わないのか。

 

「ああ、案ずるな。私も通った道だ」

 

 俺の目線に気がついて、カミュは補足した。

 ありがとう。でも足りてない。肝心なところが足りてない。

 何をやったんだ、カミュ!

 私も通った道だ、なんて、すました顔をするんじゃない。それってつまり……何かやらかしたのか。ああ、聞きたくない。でも、聞いといたほうがいいよな。

 俺は遠い目になった。

 なんで、こうなるんだろう。

 

「どうしよう、紫龍。星矢が、なんだか随分とよどんだ目つきになってるよ」

「腐っているという事か?」

「すべての希望が、渦巻く水底に消えてしまったら、こんな目つきになるんじゃないかな」

「そうか。長距離の転移だ。疲れたんだろう。俺達だけでもいたわってやろうか」

「そうだね。屋敷の皆にも、星矢を甘やかすように言わなくちゃ」

 

 背後の会話で、なおいっそうの疲労感を味わっているので、やめてくれ。頼むから。

 膝が崩れ落ちそうなのを、こらえてるんだよ。これでも。

 二人にまったく悪意がなさそうなのも、いい具合に倦怠感が増す。善意だけの言葉だってのに、この破壊力。

 でも、一言だけ言っとくぜ。

 いつだって、丸聞こえなんだからな!

 

 二重の意味で、もはや泣きそうな俺の目に、横たわったジュネさんが映った。

 いかん、倒れたり崩れたりしそうになってる場合じゃない。

 これは、緊急事態だ。なぜ、こんなにも緊張感に欠けているのか、疑問でならん。俺がしっかりしなければ。

 お嬢さん、あんたの目の前で跪いているのも一応怪我人だからな。そのへんで勘弁してやってくれ。

 曲がりかけていた背をしゃっと伸ばし、まず、呼びかけた。

 

「沙織さん。―――ただいま」



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白鳥の怒り

 沙織さんは、ゆっくりと振り返った。

 背後にいる俺達など、とうに承知だったのだろう動きだ。

 

「おかえりなさい。星矢。待ちかねましたよ」

 

 悪かったな。文句は受け付けるぜ。

 俺のせいじゃないような気もするけど。

 

「さっそくで悪いんだが」

「分かっています」

 

 お嬢さんは、手を上げ、続けようとした言葉を押しとどめた。

 同時に、あふれ出る小宇宙がダイダロスとジュネさんに向かってそそがれた。

 先ほどまでアフロディーテに向けていたような威圧的なものではない。包み込むように大きく、それでいて柔らかい、女神(アテナ)の小宇宙だ。

 数分、小宇宙に包まれていただけで、土気色をしていたジュネさんに血の気が戻ってきた。膝をついて頭を垂れたダイダロスが絞り出す感謝の声にも張りが戻っている。

 

「念のため、診察も受けなさい。辰巳、準備していますね」

「用意は終わっております。お嬢様」

 

 いつの間にか、背後には辰巳。

 距離が離れているのは用心のためだろう。あいつも学習するんだな。前回は、お前の剣道三段じゃ絶対に無理だってのをいつまでたっても理解しない石頭だったんだが。

 

「アフロディーテ、あなたにも必要でしょう。彼らとともに行きなさい」

「いえ、私はそれほどでも」

 

 固辞するアフロディーテに、思わず口を挟んだ。

 

「あるだろ。俺の本気がそれほどでもないなんて、自信なくすぜ」

「よくも言える。あれで本気などと。まだまだ上があるだろうに」

「あー……」

 

 なんだろう。別に間違ってやしないんだけど、だからといって、片手間にあしらったわけでもないので、アフロディーテの言いようはちょっと不本意だ。

 妙な誤解をされてる気がする。

 黙って三人を見送ったのは、ここで誤解だと言ったら、ますます誤解を深めると思ったからだ。俺だって学習するのである。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 お嬢さんの部屋は、相変わらず高そうなものだらけだ。

 出してもらった紅茶も、澄み通った赤に、良い香り。美味そう、もしくは高そう、という感想しか出ない。

 俺に出すなんて茶葉が泣くだとかなんだとかと辰巳がぶつぶつ言いながら置いていった。

 あそこまでぶつぶつ言うなら、雑巾の絞り汁は入ってないだろうと判断して、遠慮なく飲む俺。雑巾の絞り汁が入ってても飲むけどな。だって毒じゃないなら、害はないだろ。

 

 向い合ってソファに座った沙織さんは、気遣わしげに息を吐いた。

 簡単ではあるが、すでに事情は説明した。

 

「ひとまず、牡羊座(アリエス)の聖闘士と天秤座(ライブラ)の聖闘士は、味方でないとしても敵ではないと考えていいのですね」

「それは間違いない」

 

 敵対者じゃない。だからと言って、絶対的な味方かといえば、それも違う。

 なんといっても、傍観すると宣言されたからな。サガをどうにかするまでは、中立といったところだろう。

 それで、いい。

 前回だってそうだったんだ。それでも、聖衣の修復や、セブンセンシズに至る教えをくれた。

 

「だから、もう一度、五老峰に行ってくるぜ」

蟹座(キャンサー)の聖闘士が来るのでしたか」

「ああ。童虎の心配なんかいらないとは思うけど、ついでにそこでデスマスクをひっ捕まえてくるから、土産を楽しみに待っててくれよ」

「まあ……星矢が言うと、とても簡単そうに聞こえますね」

 

 そうか?

 そうする、と決めたから、その通り口に出しただけなんだが。

 だって決めたからには実行するだけだ。簡単だろうが、難しかろうが、関係がない。

 首を傾げた俺にかまわず、お嬢さんは物憂げに眉根を寄せた。

 

「それで、私が動くのはまだ待ったほうがいいと思う理由は?」

「俺がお嬢さんのそばにいないから」

 

 お嬢さんの頬が桜色に染まった。元々が陶磁器のように白いので、動揺が分かりやすいな。でも、なんで、そんなにうろたえてるんだ。あんたは狙われてるんだから最大戦力は手元に置いて動けよ。当然だろ。

 他意はないのですねって、それこそ当たり前だ。他にどう意があるっていうんだ。

 困惑顔の俺。

 疲労顔の沙織さん。

 噛み合わない俺達は、そのまましばらく無言でお茶を飲んでいた。なんだか気まずい。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 おかわりの紅茶をそそいでくれたのは、なんとお嬢さん手ずからだ。人払いしたからしょうがないんだけどな。俺がやれって? うっかり持ち手をちぎっても文句言わないでくれるならやってもいいぜ。

 

「氷河達が来るのは分かってたけど、穏便に済んだか?」

「ええ、意識の戻った那智がまた集中治療室行きになりましたが、その程度です」

 

 おい待て、お嬢さん、それ、その程度で済ませてほしくない!

 何かやらかしただろうとは、カミュの態度から察してたけどさ。

 淡々と言うお嬢さん。目をつぶって深呼吸する俺。

 

「ちょっと待っ」

「さらに、激は両腕凍結、邪武が片足凍結、しかも城戸家の誇るメディカルスタッフの技術を持ってしても治療ができません」

 

 おい待て、お嬢さん、まだ、聞く覚悟が決まってない!

 なんとも容赦無い追い打ちだった。心中こっそりうなだれた俺は悪くない。

 前に那智が集中治療室行きになったのは、俺のせいだが、あいつもつくづく運のない。お祓いでもしてもらったほうがいいんじゃないのか。いや、俺達の信ずる神はここにいたな。可哀想に、救いのないやつだ。

 目線を窓の外にそらして、俺は遠くを見た。涙が浮かびそうだった。

 そんな俺を見て、お嬢さんは、安心させるように言葉を重ねた。

 

「安心なさい。カミュが責任を取って、カノン島で治療してくれるそうです」

「脅かさないでくれよ、お嬢さん」

 

 その後も報告と相談を重ねた結果。

 カミュは、激と邪武をともなってカノン島へ。

 氷河は、城戸家に残り沙織さんの警護と修行をさせる。

 ダイダロスとジュネさんは、女神(アテナ)派だと分かっているので、治療後の彼らの意志を尊重するということで後回しになった。

 一番の問題は、アフロディーテだ。

 

「俺がいる間はいいとして。黄金聖衣を脱がせておいても無駄だろうな。テレキネシスやテレポートへの対抗措置が、この屋敷にはないだろ」

「ええ、機械で聖闘士の能力を模倣できないかというプロジェクトはあったようですが、まだまだ研究段階です。おそらく実用に至っても、青銅聖闘士ほどの能力も発揮できないでしょう。ましてや、黄金聖闘士への備えにはなりません」

 

 お嬢さんは、一息の間を置いた。

 しとやかに目が伏せられて、頬に落ちる睫毛の影まで見惚れるほど優美だ。

 

「ですが、私は、彼はもう教皇のもとに戻ることはないと思っています」

 

 俺もそう思う。

 アフロディーテは約束を違えるような男じゃない。ダイダロスとジュネさんが助かるなら、心配はないはずだ。沙織さんの生命を狙ったり、聖域に報告したりしない、と俺だって信じている。

 だが、信じて、信じさせるのがお嬢さんの務めならば、疑い、試すのは俺の役目だ。多分、本当は教皇の役目なんだと思うがな。

 

「星矢の心配も分かりますが……だからこそ、氷河を残すように言ったのでしょう?」

「まあ、そうだ。警護は多いほうがいい。本当はカミュを残したいところなんだけどな。氷河にだって、皆と馴染む時間はいるだろ」

「本人は、あまり馴染む気はなさそうですけれど」

 

 さもあらん。前回の銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)だって、聖域からの命令がなければ参加するつもりはなかったと本人が言ってたからな。

 氷河は城戸家を好きじゃないし、信じてもいない。女神(アテナ)に従う気はあっても、城戸沙織に従うつもりはないだろう。以前の俺と同じだ。

 お嬢さんが城戸沙織として振る舞うつもりならば、十分に予想し得た内だ。まだ氷河にとって、ここにいるのは師に従う義務でしかないんだろう。

 さっき城戸家に着地する前に見た目付きの悪さは、それでだろうか。気持ちは分からんでもないが、その気持を(おもんばか)ってやるのはけっこう面倒……いや、今後のためだ。沙織さんのためであり、俺のためであり、何より氷河のためでもある。

 

「……分かった。出立前に、氷河とは一度話をする」

 

 まっすぐに目を見て伝えたのだが、不承不承というのは伝わってしまったようだ。お嬢さんの柔らかな手が、投げ出されていた俺の左手に重なった。灰とも青ともつかない色の瞳が、俺の奥深くを照らすように覗きこむ。

 言葉は何もない。だが、詫びと感謝を伝えてきている。

 ずるいよなあ。本当にずるい。

 俺は、下を向いた。卓上の紅茶に顔が映り、ゆらっと揺れた。

 なあ、お嬢さん、口に出さず伝わるものが、どれほどのものだというんだ。俺はまだ、忘れちゃいない。冥王(ハーデス)との戦いを前に、あんたが何も言わず俺達を置いて行ったことを。

 忘れられない記憶だ。二度と繰り返させない未来だ。

 怒っちゃいない。責める気もない。ああ、お嬢さん。あんたは未来で俺が死んだと聞いたら、どんな顔をするんだろう。嘆くだろうか。(なじ)るだろうか。それとも、いや、分からない。俺は紅茶に映る顔をじっと眺めた。

 だが、泣かせたくはない。きっと、お嬢さんも、そう、同じことを考えて、置いていったのだ。

 俺にはもうお嬢さんの無言をとやかく言う資格なんかない。

 

「星矢、いつ、出立するのですか」

「氷河と話したら、すぐだ。なるべく今日中に行きたい」

 

 デスマスクは、アフロディーテと同時期に聖域を出ていると見るべきだ。

 今すぐ出たって間に合わないくらいだが、うーん、童虎だからな。片手間にあしらって終わりだとしか思えん。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 結論から言えば、だな。やらかした。

 お嬢さんがついてきたいと言うから一緒に来たけど、失敗だった。置いてくるべきだった。

 せめて、眉をしかめた氷河を見た時に、やっぱり遠慮してくれとなぜ言わなかった。俺よ。

 考えてみれば、紫龍逹を最初に叩きのめした時だって、同席させなかっただろ。俺だってかなり説得だの説教だのには向いてないけど、お嬢さんは輪を掛けてひどい。知ってたけど。城戸沙織としてのお嬢さんは、こうなんだって知ってたけどな!

 痛恨のミスだ。

 目の前の修羅場に、俺はひっそり頭を抱えた。おいおい、お嬢さん、どうやったら、そんなに氷河の気を逆撫でできるんだ。機嫌を取れなんて土台無理なことは言わんが、せめて、こう、もっと氷河の気持ちを思いやってくれないか。頼むから。

 

「氷河、本当に偶然だと思っているのですか」

「なんだと?」

「あなたが、母の眠るシベリアに飛ばされる確率がどれほどのものだったとおもっているのです」

「なにっ、ではまさか!」

「そうです。お祖父様の作為のもとです。お祖父様なりに詫びの気持ちもあったのでしょう」

「あの男がまさか……!」

「お祖父様の罪は、すべて私のためです。私を救うため、お祖父様は他の全てを捨てて罪を背負いました。そう、人類すべての原罪を背負って処刑された聖者のように」

 

 氷河の目が見開かれる。

 見返す沙織さんの目は澄んでいる。声は朗々と響いた。己の正しさを信じて疑わない声だ。

 噛み合わない。どうやっても。

 お嬢さんと氷河の間にある棘の鋭さよ。正確に言えば氷山のごとく尖っているのは氷河だけで、お嬢さんは岸壁のように超然としている。だから、余計に氷河が攻撃的になるんだが。

 ええい、どっちが悪いと考えるのも面倒だ。二人ともひっつかんで放り投げたい。わいてくる攻撃的衝動を押さえつけるために唇を噛んだ。氷河はともかく、お嬢さんは放り投げたらだめだ。うう、自分の衝動を殺すことに慣れてない分、イライラするぜ。

 心情的には、氷河に肩入れしたいが、それでは話が進まない。それに、何も迷わず氷河に肩入れできるほど、お嬢さんを知らないわけでもない。

 もう、一回目の俺とは違うのだ。

 

「だが、あの男は幼かった俺にも父親としての温かい言葉など一欠片も……!」

「今から過酷な試練に送り出さねばならぬ息子に何を言えます。欺瞞(ぎまん)にしかなりません。無情によってお祖父様なりの誠心をつらぬいたのですよ」

「路上の捨て子を見るようなあの目が誠実だと……!」

「屋敷に集められた百人はすべて同じくお祖父様の血を引く子供ですよ。平等にせねばなりません。直前に母を亡くしたお前にでさえその態度をつらぬいたのもそのためです」

 

 そのへんでストップ。無駄だ。

 俺は氷河の肩をつかんだ。無意識だろうが、前に出ようとしていた。

 同時にお嬢さんにもやめろと目配せを送る。

 何を言おうとも、あの男が最低だって事実は変わらないさ。俺達からするとな。

 

 少しだけ哀しい。

 かつての俺だったら怒っていただろう。

 だけど、今の俺には分かっている。お嬢さんには分からないのだということが。

 沙織さんは、どうしたって俺達と同じ場所には立てない。どれだけ誠実で正しく寛大であろうとしても、意識の差はどうしようもなく自我に溶け込んでいる。選別意識がどうしたってある。

 俺達が一般人に対して、庇護するべき生物だとどうしようもなく感じるように。

 対等、では、ないのだ。

 それが、女神(アテナ)であるがゆえなのか、それとも城戸沙織であるがゆえなのかは分からない。でも、どうしようもないのは分かる。

 お嬢さんは許せという。

 口には出さないがそう要求している。無意識に―――許して欲しいと願う。それはつまり許さなくてはならないことなのだ―――思うよりも先にそれが当然になっている。許されなくてはならないのだと、許さないなどありえないと。私が望んでいるのに叶わないなど、許されてはならない、と。

 ああ、だからこそ許せないのだ、とお嬢さんには理解ができないのだろう。

 俺達はその許されて当然だという傲慢さを、つまり、あの男を絶対に許せない。

 でも、それは、女神(アテナ)と聖闘士の間には、持ち込まなくっていいことだ。持ち込まない振りをしたっていいことだ。それはあくまで、城戸沙織と、城戸光政の子との関係なんだ。

 ああ、だから、なあ、そんなギスギスしないでくれよ。

 うんざりしている俺を置いて、お嬢さんと氷河は見つめ合う、というか、にらみ合う。一人仲間はずれの俺はだんだん飽きてきた。それを読み取ったのか、なぜか二人とも俺を見てきた。

 なんだ、その眼は。やめろ。離婚する両親が子供に「ママとパパ、どっちがいい?」なんてせまるような目つきはやめろ。味方を強要する眼で見てくるんじゃない。どっちの味方にもならんぞ。俺には関係ないだろ。二人だけでどうにか……ならないか。無理かもしれん。これは。

 俺は軽く息を吐いた。

 やれやれ、面倒だけど、しかたない。

 頭を抱えた俺が決意した時だった。

 第三者の声が割って入った。この落ち着いた低音と、場の空気を微塵も気にしない無機質な物言いは……ああ、誰か分かった。

 

女神(アテナ)、失礼いたします。星矢、話がある。少しいいか」

「なあ、カミュ、このタイミングってわざとかよ。すがすがしいほど空気を読ま……いや、まあいいか。今行く」



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それぞれの出立

 カミュの話はすぐに終わった。

 氷河を城戸家に残さず、五老峰に同行させてほしい、と言われただけだったからだ。

 わざわざ連れ出す必要もなかっただろうに、もしかして、これは困った俺に助け舟を出してくれたんだろうか。分からんが、とりあえず感謝しとこう。

 

「氷河を、五老峰に連れてきゃいいんだな」

「うむ」

「俺としては、沙織さんの守りに当てておきたいんだけど」

「無意味だ。聖域にはまだ女神(アテナ)の存在は知られていないのだろう。刺客の心配は薄く、仮に来るとしても、残る者で対処できる」

 

 言い切るな。

 何か、理由があるんだろうか。

 

「ここには青銅聖闘士しかいない。いまや聖域の実効支配者たる教皇が、初手から白銀聖闘士や黄金聖闘士は動かせん。面子というものがある。臆病風と見える行動は取らぬはずだ」

女神(アテナ)に対しても、か?」

「それこそ公にはできん。女神(アテナ)女神(アテナ)神殿の奥におわすことになっているのだから」

 

 カミュはわずかに目をすがめた。

 なるほど。教皇が、刺客を送り込むためには理由が必要だ。だが、女神(アテナ)をその理由にすることはできない。そして、女神(アテナ)という理由もなく、黄金聖闘士や白銀聖闘士は動かせない。よって、少なくとも最初に来るなら青銅聖闘士だと。それなら、屋敷に残る者達で対処できる、と。

 あいつら、信用されてるな。俺が戻ってくる前に一体何があったか聞きたいくらいだ。

 だけど、それは氷河を城戸家に残す理由がないと説明しているだけだ。一緒に五老峰に行く理由にはなってない。

 

「氷河と一緒なのは別にいいんだが、何か老師に用事があるのか?」

「いいや、あるのはお前に、だ。星矢よ」

 

 俺か。

 なんだろう。

 俺は、首を斜めにかたむけた。

 

「私は氷河を厳しく育ててきた。これ以上ないというほどに」

 

 ……うん、知ってる。

 と言うより、扱いで察した。シベリアで垣間見た扱いだけでも、厳しすぎるほどに厳しかった。

 思い返すだけでげっそりした俺を、気にも留めずに語るカミュの声は、どことなく優しい。

 

「聖闘士としての実力をつけさせるためだけではない。誇りを育てるためだ」

「誇り?」

「そうだ。星と女神(アテナ)に選ばれた者だ。氷河には強くなる素質があった。力だけで良いのならば、もっと早くに聖衣を与えられる水準に達しただろう。だが、正しく力を振るい、決して歪まぬよう、どんな目にあっても怖じることなく立ち上がれるように導くのが師の役目だ」

 

 言いたいことは分かる。

 だが、なぜ、それが生死の境目を何度も見るようなスパルタになるんだ。

 俺の苦悩を、気にも留めずにカミュは続ける。

 

「私亡き後は、自身で己を導かねばならん。そのために誇り高くあらねばならない。あるべき己自身の姿、かくあるべきとの誇りこそが、道を照らす星となる」

 

 一旦、言葉を切り、俺の目を覗きこんだ。ざわりと胸の奥が波立つ目つきだった。

 良くも悪くも、カミュは俺に何かを見ている。カミュにとって重大な何かを、見ようと、している。何なのかは分からん。それを俺が知るべきなのかどうかも分からん。

 

「これだけ辛い思いを、これだけきつい境遇を、これだけの修行を他の誰がしているか、否、していない。だから、負けるはずがないという勝利に対する信念と誇りは表裏一体だ。お前にはそれを完全に打ち砕かれた」

 

 否定できない。

 でも、謝らないぞ。俺は悪くないし、謝ったところで何か良くなるわけでもない。

 

「敵であれば、信念を保ったまま、相手を葬り去るべく奮い立つこともできたろう。屈辱を噛み締めながらな。だが、お前は味方で、しかも氷河の弟だ」

「知ってたのか」

「氷河が目覚めた後に話してくれたのだ。お前について質問したからな」

 

 あれ、あいつ忘れてたんじゃなかったか。

 思い出してくれたのか、悪口を言ってないだろうな。

 ああ、裏切られると、人間、疑い深くなるものだ。

 

「ゆえに、氷河はお前に対する感情を、溜め込んだまま、どこにも発散しようがないのだ。本人は、悔しいだけだと思っているようだがな。フッ、未熟者め」

 

 ほんの少しカミュの口調がゆるむ。特に、未熟者のあたりが。

 あれか、不出来なところも可愛いってやつなのか。スパルタ教育は、獅子は我が子を突き落とすあれなのか。でも、崖から這い上がってきたのをまた蹴り落とす方式は、愛情ではなくいじめだと思うのは、俺だけじゃないよなあ。

 それにしても、着地点がさっぱり見えてこない話だぜ。

 氷河と一緒に五老峰に行ったからって、解決するもんなのか。それ。

 

「むろん、氷河の惑いは氷河にしか晴らせん。だが、その原因として、少し協力してやってほしい」

 

 言い方が、頼みのふりしたほぼ強制じゃねえか。

 まあ、でもいいぜ。迷いは拳に出る。ほんの少しの小さな迷いが、戦いにおいては非常に大きく拡大されて、明らかな違いとなって目に映る。味方の目にも敵の目にも。

 本当に大したことないものであっても、小さな意識のずれが恐ろしいほど身体に出る。それは、俺達みたいな命を掛ける者にとって、致命的だ。

 氷河を死なせるために、シベリアに会いに行ったわけじゃない。

 

「責任持てないぞ」

「分かっている。感謝するぞ、星矢」

 

 うん、それは別にいいんだけどな。なあ、カミュ。あんた……実は、弟子大好きなのか。

 その笑い方は、初めて見る。安堵が薄く広がって、そのまま自然に氷が溶けるように頬が少しだけ緩んだ、そんな顔だ。

 すぐに元に戻ったけどな。

 ああ、こんな師弟が、前回は殺しあったのか……。

 俺は、ため息を付いた。誰のせいでそうなったのか、考えれば考えるほど、許されるべきではない理由が増えていく。許すべき理由を見いだせない。

 それでも、許されてほしい、と思うのは、甘いんだろうか。

 ……サガ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 俺は、考えを切り替えた。

 ダイダロスの死を経なければ、瞬が戦う覚悟を持てなかったように、氷河が先に進むためには、カミュとの死闘は必須だったのだ。

 さらなる聖戦を、神との戦いを乗り越えるために。

 

 この考えを突き詰めると、つまり、今、氷河にはそれが足りてないということになるが……いや、うん、でも、そのあたりは、自分でどうにかしてもらわなきゃならん。

 もちろん、できることなら手伝うけど。叩きのめしたりとか、打ちのめしたりとかは得意なんだが、メンタルケアは専門外だからな。そこは手助けできなくくてもしょうがないよな。

 視界に、紫龍が入った。近づいてくる。

 

「星矢、まだいたのか」

「いちゃ悪いのかよ」

「悪い。そういうつもりじゃない」

 

 軽く手をふって、紫龍はいなした。

 絡むつもりはないので、俺も流した。

 

「だが、アフロディーテは既に出立したぞ。お前は行かなくていいのか?」

 

 は?

 聞いてないぞ!

 俺の驚きように気圧されたか、紫龍も目を丸くする。

 

「もしかして、知らなかったのか?」

 

 その通りだ。

 どこへ行った。目的地によっちゃ、危険きわまりない。

 まさかとは思うが、聖域に戻ったんじゃあるまいな。

 

 俺の眉根が寄ったのを見て、紫龍は話を切り上げた。手をふって行けと示してくれる。

 気の利くいい兄弟を持ったものだ。肝心なところで、空気を読んでくれないけどさ。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 お嬢さんにひとまず相談しに行くと、心配するなと告げられた。

 

「彼は、己の運命を正しに行ったのです。決意は固く、止められませんでした」

「だが……!」

「けれど、約束をしてくれました。決して、命を無駄にはしない、と」

 

 じゃあ、聖域じゃないのか。

 アフロディーテにとって、一番危険なのは聖域だ。二重の意味で裏切り者になったアフロディーテを、教皇は決して許すまい。前回のアイオリアの(わだち)を踏ませてなるものか。

 だから、もし行き先が聖域であれば、手足の一、二本はちぎってでも止めねばならないと思ってたんだが、命を無駄にしないと断言したなら別の所だろう。そう、信じたい。

 だが、無駄にならないならば捨ててもいいと考える奴らが多いんだよなあ。聖闘士って。

 ああ、心配だ。落ち着きなく室内をうろついてしまう。

 うーん、本当に放っておいていいんだろうか。

 悩んでいる間に、気づけば沙織さんも、いつもの冷静な面に少しだけ不安を刷いていた。

 いかん。アフロディーテが心配だからって、俺が沙織さんに不安を与えてどうすんだ。

 

「なら、いい。アフロディーテを信じる。俺も行かなきゃいけないしな。氷河も連れてくからよろしく」

「え、氷河を?」

「カミュから頼まれたんだ」

 

 手早く事情を説明し、了承をもぎ取ると、俺は氷河を連れて屋敷を出た。

 飛行機の手配?

 要らない要らない。自分の聖衣以外の荷物はないし、連れて行くのもセブンセンシズに目覚めた氷河だ。ちょっとテレポーテーションに失敗したくらいで死んだりしないだろう。

 目覚めてなかったら、そりゃ手配を頼んだと思うが、俺は氷河を信じる。目覚めてる、よな。あの時、掛け値なしに本気の俺の攻撃を受けても、死ななかったもんな。多分きっと大丈夫。目覚めてなかったらごめん。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 俺は、山のてっぺんに立っている。

 月が非常に大きく見える。吐き出す息は白く、見下ろせば雲があり、そして、隣には不機嫌顔の凍えそうな空気を出す金髪碧眼の連れがいる。つまり、氷河だ。

 すまん。泣き言を言わせてしまうほど、危険がある場所ばかり飛んでしまって、本当にすまん。

 

「なんで、飛行機にしなかったんだっ」

「ああ、うん、悪いとは思ってるんだぜ」

 

 でも、ほら、飛行機から降りて、老師のところまで行くのに、道案内で紫龍が付いてくるかもしれなかったからさ。ただでさえ危険なんだ。今は特にお嬢さんのそばから守りを外したくなかった。

 と、言ったようなことをもうちょっと詳しく説明すると、反論材料がなかったようで沈黙した。

 寒い上に、空気も薄いので、無駄に口を開きたくなかっただけかもしれない。

 すまん。実は適当な言い訳で、本当にすまん。カミュを信じるならば、邪武達だけで対処できる敵しか来ないはずだ。

 カミュはこれを氷河に説明してなかったのかな……?

 わずかな疑問が浮かんだものの、たとえ説明していても言葉が足りなかったのだろう、主に師匠のほうに、と納得した俺は、追求せずに済ませた。

 俺にはちゃんと説明してくれるのに、氷河には足らないあたり、親しくなればなるほど対応が杜撰になるのかもしれない。魔鈴さんも、俺に対してそうだもん。

 聖闘士だからな。

 なんとなく悲しくなりながら、俺は満天の星空を見上げた。

 天を埋め尽くす星々よ。人間の使う明かりがない高みでしか見られない景色だ。塵や埃のほとんどない澄み切った空気も、星見を邪魔しない。ここまで星の数が多いと、星座どころじゃない。むしろ星がないところを探すほうが難しい。

 ああ、でも、星占って苦手だったんだよな。表を見ながらの天典運算でさえ混乱してたのに、こんな何にもない場所で分かるはずがない。

 天典運算が何かって?

 うん、俺もよく分からないけど、簡単に言うと、どの季節の、どの時間帯の、どの場所からなら、どの角度に、どの星があるということが分かりさえすれば現在地が分かる、と言う代物だ。ちっとも簡単じゃないだろう。良く分かる。でも、俺の理解がそうなんだから、そうとしか説明のしようがない。

 魔鈴さんもあまり得意じゃないようだった。この授業の時は優しかったからな。

 間違ってるかもしれない、というか、確実にかなり違いますと言われるような覚え方だが、魔鈴さんは俺のまったく分かってない顔を見ながら「それでいいさ」と言ってくれた。

 講義の終わった後で、「球面幾何学を仕込むのは無理だね」とぼそりと呟いたのはきっと優しさだろう。ごめんなさい。無理です。

 しかし、もうちょっと真面目にやっときゃ良かったぜ。こういう時に役に立つはずなんだけど。

 もしくは、アストロラーベがあればなあ。あ、いや、無理か。まずは自分が三十三度の角度で地球に突き刺さっているところを想像しろと魔鈴さんに言われた時、俺は絶句したもん。無理無理。分からん。

 

「さて、ここはどこだろうな。近づいちゃいるが、位置が分からん。童虎の小宇宙は、多分、あっちだと思うんだけど」

「また、飛ぶのかよ」

「そう嫌そうな顔すんなよ。もう噴火口にも、底なし沼にも落ちたんだから、恐いものないだろ」

「アチッくらいで噴火口から飛び退いて平然としているお前に言われると、理不尽さが際立つな」

 

 返す言葉もない。

 俺は、肩をすくめた。正当な理由ある八つ当たりなので、甘んじて受けざるをえない。

 それに気持ちも分からんではない。底なし沼は、凍らせて何事もなく済んだんだが、噴火口は大自然の火力に退いたので、きっと悔しいんだろう。凍らせてもすぐさま溶けてってたからな。足場にと作った氷の塊が、あっという間に溶けるもんだから、安全地帯に飛び下がってくれるまでひやひやした。なんかあればちゃんと助けるつもりだったので、外道だの非道だの言われるのは不本意だぜ。ちょっと高みの見物してただけじゃねぇか。

 それに、俺に言わせれば、高温の毒ガスの噴出している噴火口に落ちて、火力に負けただけで済むあたり、氷河とて理不尽人間だろ。

 空を見上げてこっそり心の声で反論する俺を気にせずに、氷河は話を変えた。

 

「おい、北極星から考えて、飛ぶならこっちだ。さっきので合ってる。星矢、今度こそ飛びすぎるなよ」



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正義の定義

 やってしまった。

 落ちるのは寒い。

 

 いきなりの浮遊感に、またかと空中用に感覚を切り替えて、氷河を見た。自分を支える大地の消失感、そして、否応なしに重力に引かれて落ちる感覚は、何度やってもぞっとするものがある。

 少し心配したが、まったく不要だった。

 うーん、最初に空中に飛んだ時は、顔色を変えて動揺していたのに慣れたもんだ。ちょっと詰まらない。

 しかし、原因は俺だ。慣れるほど空中から落としたくせに、詰まらんなんて考えるのはいかん。

 自己反省にひたりながら落ちていると、氷河から声をかけてきた。

 

「星矢、これは……」

 

 氷河が顔を歪めて、俺のほうに身体を向ける。

 落ちている最中なので、もとより風で頬肉が持ち上がって歪んではいるが、そういう問題じゃない。あきらかに眉根を寄せて、問う顔つきだ。

 気持ちは分かる。

 氷河だってセブンセンシズに目覚めた身だ。感じ取れないはずがない。

 満ちる老師の小宇宙を。

 穏やかな、けれど、油断なき老虎の息遣いを。

 

「もう近い。ここまで来れば、目をつぶってたって行けるぜ」

「なら、なんで嫌そうな顔をしてるんだ?」

 

 実際、嫌だからに決まっている。

 冥王(ハーデス)との聖戦で置いて行かれた遺恨は、もはやないが、それはそれこれはこれだ。見ぬかれては困る内情持ちな俺にとっちゃ、会いたくない奴筆頭だぜ。

 

「大したことじゃない」

「……お前は、六年の間に秘密主義になったな」

 

 うーん、なんで、そうなる。納得いかん。

 もしや、暗に話せって言われてるんだろうか。話さないぞ。

 落ちていく俺達。吹き上げる風。こんなに近い互いの声でさえ聞き取りにくい。

 俺達が今まで居た場所は夜明け前だった。つまり、五老峰はすでに日の出を迎えている。朝日が、優しく俺達を刺した。うーん、眩しい。

 

「紫龍たちが、お前は変わってしまったと言っていた」

「そりゃ、六年もあれば誰だって変わるだろ。他の奴らだって変わった。俺だけじゃないぞ」

 

 ちらりと氷河を見やる。風で薄い頬肉が持ち上がって、髪が海藻のように上になびき、かなり愉快な顔だ。正面顔が見られない。すまん。さっきから思ってたけど、ちょっと笑いそう。

 それと、その話題がまだ続くなら、後にしないか。

 もうすぐ、地面に激突するからさ。ちゃんと着地しないと、クレーターができるぞ。自然破壊は良くないし、怪我なんてしたくないだろ。

 両足に力をこめ、頭を持ち上げ、空中という支えるものがない中でも、全体のバランスを制御して体勢を整える。

 そら、地面はすぐそこだ。老師のいる滝には、十分程度も歩けば着くだろう。

 姿勢を微修正しながら、俺は着地に備えた。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 轟音と、冷たい飛沫が絶え間なく飛んでくる滝前の崖。

 そこに静坐する小柄な老師の姿は、一幅の絵画のようだ。

 タイミングから考えて、やりあっている最中かと思ったが、意外とデスマスクは行動が遅いらしい。

 

「そこは、用心深いと言ってやるべきじゃな」

「老師、心を読むのはやめてくれ。あと、気づいてたなら声をかけてくれ」

「ホッ、あの地響きで気づけないほど耄碌(もうろく)はしとらんの」

 

 ものすごく面白そうに笑われた。言われてみればその通りなので、赤面せざるを得ない。静かに着地できない俺が悪いのだ。いや、俺達か。

 老師は、あごひげをしごいて、きらきらと光る目を俺達に向けた。

 

「さりとて、それほど時も置かんよ。長引かせれば長引かせるほど遺恨を残すからの。孫子に曰く兵は拙速を尊ぶと言う。内紛は消耗するばかりで何も生まん。ましてや、状況が悪化する兆しがあれば、なおのことじゃな」

 

 どうしよう。これ講義する魔鈴さんと同じだ。長くなる。帰りたい。

 ここに来た目的を忘れかける俺を、氷河が小突いた。分かってるって。大丈夫だって。どうやって遮るか考えてるだけだって。

 屁でも鳴らそうかと悩み始めた俺に首をふり、氷河が口を開いた。

 

「老師、初めてお目にかかります。俺は氷河。白鳥座(キグナス)の氷河です」

「ふむ、今年の青銅聖闘士はなかなか豊作と見える」

 

 あれ、お前、そんな丁寧語使うやつだったっけ。 氷河の意外な側面に、まばたきながら隣の姿を見なおした。いやでも、俺だって魔鈴さんから礼儀は言われてたな。前回の記憶が先に立つせいで、気軽に声を掛けてしまうが、俺だって本来なら言葉を改めて話す、はずだ。多分。

 

「お前さんらは歓迎しよう。じゃが」

 

 老師は言葉を切った。ちらり、と目線が滝を見る。滝の中か。

 妙な違和感はあったんだ。俺達が上空に出現したその瞬間、誰かの小宇宙が揺らいだ。ほんの一瞬で、気のせいかと思うほどかすかなものだったが。

 あれは、お前か。

 ―――蟹座(キャンサー)の黄金聖闘士、デスマスク!

 

「そっちは駄目じゃな。見逃すのはもうやめじゃ。こそこそせずに出てこい」

「……フッ、さすがは天秤座(ライブラ)の童虎だ。気づいていましたか」

「あいにくと敏感肌でな。二、三日もずっと見られ続けると気になってならん」

 

 その(しわ)だらけの、変色しきった肌が、敏感、だと。皮の中身じゃなくて、皮の話でいいんだよな。

 滝の中から現れたデスマスクより、そっちの発言のほうが気になる。好奇心に身を乗り出す俺。

 氷河が、驚きの声を発した。

 

「二、三日だと……!」

「うむ、隙を狙っておったのじゃろう。おかげで、こっちは寝不足気味じゃ」

「フッ、安心めされよ。眠らせてさしあげよう。永遠にな」

 

 ああ、用心深いって、これを踏まえての言葉だったんだな。で、長引かせないというのはもしかして誘いか。俺達と話しながらも、同時にデスマスクへの言葉でもあったと。うわ、面倒くさいやりとり。寝不足にはとても思えん。

 適当に解釈しながら、俺は溜息をついた。

 さて、割り込むか。

 

「あいにくだが、眠るのはお前だぜ」

 

 俺達が来る前に仕掛けるべきだったな。

 無言で、氷河が腰を落とし、膝を曲げ、前傾姿勢を取った。戦闘態勢だ。いいね。その察しの良さ。好きだぜ。

 にやりと笑って、俺はファイティングポーズをといた。

 ―――先手は氷河に譲ろう。

 

「くらえ、ダイヤモンドダストッ!」

「青銅の小僧ごときが生意気な!」

 

 ただの青銅と思ってもらっちゃ困るぜ。

 敵を撃ちつらぬく氷の(つぶて)に宿るのは、確かなセブンセンシズ。黄金にも劣らぬ氷河の小宇宙だ。

 加えて、微塵たりとも油断のない氷河と、青銅と(あなど)って隙だらけのデスマスクじゃな。

 ああ、いや、間違ってはいないんだぜ。普通なら隙だらけだろうが何だろうが、黄金聖闘士と青銅聖闘士じゃ差がありすぎる。だが、自慢して言うが、俺の兄弟はただの青銅聖闘士じゃない。(あなど)りは悔いとなるだろう。

 目の前で、氷河とデスマスクの互いの小宇宙が圧しあっている。デスマスクの眉根が寄せられ、小さなうめき声がもれた。

 思わず、口元が笑んだ。

 

「ぐっ、そんな、馬鹿なあぁぁぁぁっ!」

 

 押し負けたのは、さもあらん、デスマスクだった。

 身にまとっていた小宇宙が吹き散らされ、代わりに氷河の凍気が襲いかかる。驚愕の表情さえそのままに、見る間に凍りついていく。

 黄金に輝く蟹座(キャンサー)の聖衣は、氷をまとっていっそう輝いた。日の光を照り返し、角度によって、虹色にとろけた千変万化のきらめきを見せる。美しい、が、どこか不吉だ。

 

「よしっ!」

 

 氷河が勝どきを上げる。

 まあ待て。早いぞ。ここで終わってくれるなら、苦労はねえんだから。

 見守る俺の目の前で、凍りついていたデスマスクの身体から、巨大な小宇宙が立ち昇った。同時に、デスマスクが振り払った氷片が飛んできたので叩き落とす。やっぱりか。まあ、がっかりはしない。老師だって落ち着き払っているしな。分かっていたことだ。

 黄金聖闘士には、恐るべき点がいくつかある。

 

「舐めるな、小僧ォォォッ! 貴様の凍気なぞ、このデスマスクの薄皮一枚も凍らせておらんわッ! 黄金聖衣の防御力に、たかだか青銅聖闘士の凍気が通じるかッ!」

 

 まず、基本的に、一発じゃ沈んでくれない。

 すさまじく耐久性が高い上に、一発食らうと、次の攻撃に怒りを上乗せしてくる。本気じゃなかった場合、なぜか余計に怒り狂う。最初から本気であればそうでもないのに、だ。自分が油断していたくせに、なぜか激怒するのだ。不思議だ。

 鼠だって、進退(きわ)まれば猫を噛むというのに。

 

「青銅ごときが、バカめ、俺を本気にさせおって……。後悔しろ。死の間際でなっ!」

「うっ、な、なんだ……この、不気味な小宇宙は……!」

 

 あ、まずい、かも。

 デスマスクの全身から、これまでとはまったく違う異質な小宇宙が立ち昇った。

 氷河の動きが止まる。こめかみをつぅっとつたいおちた冷や汗は、本能的にそれが何なのか察知している証拠だ。

 

「いかんのう。積尸気を使うとは……」

 

 老師が小さく呟いた。白髯に包まれた顔が分かりにくくしかめっ面だ。

 勢いを増すデスマスクの小宇宙は、留まるところを知らない。冷たい燐光を集めた星雲の幻像。奥でゆらりとうごめくのは、死者の魂か怨念か。

 

 ―――蟹座(キャンサー)の散開星団プレセペは、中国では積尸気と呼ばれる。

 積尸気とは積み重ねた死体から立ち昇る鬼火の燐気のこと。

 そうつまりプレセペは地上の霊魂が、天へ上がる穴なのだ。

 

 滔々(とうとう)と語るデスマスクの目に、俺は写っていない。実に好都合だ。割り込みやすい。さすがにまだ、氷河だけに黄金聖闘士を任せようとは思わないからな。

 そろそろ行くか。

 そう、俺が動く寸前、絶妙なタイミングで童虎が声を上げて笑った。声音に嘲りはないが、温もりもない。ただ寂とした哀れみをたたえている。

 

「ホッホッホ、大人げない奴じゃのお。デスマスクよ。たかが青銅と言いながらも、そのたかが青銅相手にむきになって本気を出すとは」

「フッ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすものでしょう」

「ならば、最初から全力を尽くすべきじゃったな」

「私にとて慈悲はあります。聖域に十三年間、歯向かい続けた反逆者たるあなたならともかく、未来ある若き聖闘士を最初から摘み取るつもりはありませんな。私がこちらに来たのは、教皇の勅命なのですから」

 

 どこまでも傲岸な口調だった。相手の生死を左右するのは、あくまでも己の指先だと疑わぬ者の言葉だ。

 ―――気に食わない。

 

「フッ、何が勅命じゃ。その命令を発した教皇こそ、女神(アテナ)を葬り、聖域を簒奪した反逆の徒よ」

「それがどうかしましたか。クッククク」

 

 デスマスクはせせら笑った。自信と力に満ち溢れる姿は、地上最強と謳われる黄金聖闘士の名に違わぬもの。

 ―――気に食わない。

 

「ホッ、なるほど、聖闘士のすべてが教皇の悪事を知らずに忠誠を誓っているかと思っとったが、お前のように教皇が悪と知りながら、敢えて仕えている者もいるのじゃな」

「正義と悪の定義など、時の流れによってまるで変わってしまうものなのだ。それは過去の幾多の歴史が証明している……」

 

 言葉を交わしている合間にも、デスマスクの背後の小宇宙は膨れ上がり続けている。さすがは黄金聖闘士。未だ力の上限が見えない。

 ―――気に食わない。

 

「分かりますか、老師。教皇の行いも、今は悪と見えても未来においては正義とされる」

「バカ者め。真の正義はどんなに時が流れようと不変のものじゃ!」

「これ以上の問答は無用! そこの青銅聖闘士とともに……ウッ、なんだこれは!」

 

 デスマスクの言葉が途切れた。その鼻筋を流れ落ちるのは、額からの汗だ。驚愕の表情とあいまって、ひどく滑稽だった。

 何を驚く。こらえていた小宇宙を、一気に開放したくらいで。

 黄金聖闘士であるお前なら、周りに何人も同レベルがいるだろう。驚く理由などないぞ。

 あたりの水煙が、びゅうと音を立てて、上昇気流に従い流れていく。滝の飛沫は、落ちる前に蒸発して姿を消した。湧き上がる俺の小宇宙よ、いいぞ、もう、抑えるつもりはない。もう、抑える必要もない。

 俺は怒りをこめて口の端を吊り上げた。ああ、全身からエネルギーがあふれる。満ちていたものが、(せき)を切って流れだし、膨れ上がり場を支配する。俺の怒気に大気は従順に打ちなびき、素直に巻き上がり荒れ狂った。

 

「熱い、だとぉ。この距離で。小宇宙が可視化されるばかりでなく、これだけの熱を! 貴様、本当に青銅か!?」

 

 どいつもこいつも、青銅だの何だのとやかましい。

 俺の眉毛がきりきりと逆立った。

 俺は俺だ。そして、女神(アテナ)の敵は、俺の敵だ。相手が青銅だろうと白銀だろうと黄金だろうと関係ない。

 ああ、腹は立つが、土産に持って帰るって約束したからな。なるべく平和的に行こう。念のため言っておくと、聖闘士の平和的というのは、サシの勝負で一発ぶん殴って力づくという意味だ。うん間違いない。

 手加減は必要ないだろう。だって黄金聖闘士だぜ。ちょっと本気でぶん殴るくらいでは死なないさ。

 それにしても、よく我慢した。氷河に先手を譲るなんて、俺も大人になったもんだ。

 でも、もういいよな。

 

「よくもまあ、そんな不確かなもののために戦えるな」

「なんだと」

「未来において今の悪が正義になるというなら、更なる未来ではまた悪になりかねない。よくもそんな不確かなもののために命をかけて戦うものだと言ってるんだよ」

 

 だって、そうだろう。今、悪と呼んでいるものが正義と呼ばれるようになるのなら、今一度悪と呼ばれないなんて誰に言える。

 老師の仰るとおりだ。正義とは不変のもの。絶対に変わらないもの。そうでなくてはならない。そうでないもののために、命をかけて戦うほど―――安く、ないんだ。

 確かであると信じられもせぬ脆さでは、正義の名を冠するに足らぬ。悪にせよ正義にせよ、真にその名で呼ばれるものは、もっと圧倒的に人を呑み込んで塵も残さず焼きつくす。

 今は悪でも未来においては正義、だと?

 ちゃんちゃらおかしい。笑っちまうぜ。

 

「過去や未来で、名前が変わっちまうような粗悪品を正義と呼んじゃあ、正義が泣くぜ」

「言わせておけば……!」

「何を怒る。自ら悪だと認めているものを」

「そうとも。だが、貴様ごとき小童(こわっぱ)に、(おとし)められるほど安くもないわッ!」

 

 ギリギリと噛み締めた歯の間からこぼれた言葉に、俺はまばたいた。

 ほう、安くない、と言ったか。この男。へえ。

 いいだろう。お前の値段を見せてもらおうじゃねえか。

 ああ、ついでに、聞いてみたいことがある。時代の流れで、正義も悪も変わる、と。善も悪も価値観の変化によるものに過ぎないと言うならば、なぜ。

 

「なあ、なぜ、苦しみはいつの時代もあるんだ。正義や悪は移ろうものだと言うのなら。ならば、なぜ、奪われる苦しみが、殺される痛みが、傷つけられる悲しみだけが変わらない。痛みや苦しみを、救うためでないのなら、正義は何のためにある」

 

 なあ、俺はさ、たとえどんな大義名分があっても、慈悲のない正義ってやつは、クソだと思うんだよ。それは悪と同じ罪を負っている。本当の意味で、誰かを温めたり、幸せにしたりはできない。

 虐げられる者になったことがないだろう。

 奪われる側になったことなどないだろう。

 泣き喚き、もがき苦しみ、それをさらに踏みにじられる苦痛が、分からないだろう。

 強者の無理解は、不寛容となり、やがては、理想の強圧に変わる。

 ―――慈悲をともなわぬ正義は、悪と同じように人を蹂躙(じゅうりん)する。

 たとえばだけど、前回、沙織さんが、光政のジジイを、嫌わないでくれと請わなかったら、果たして俺はギリシャまで本当に付いていっただろうか。

 たとえばだけど、沙織さんが、財産も名声も安楽な暮らしも命も、何もかも捨てて、運命に殉じようとする姿を見なかったら―――きっと、俺は、ギリシャへ行かなかった。

 俺を動かしたのは、沙織さんの“命令”じゃない。

 ただ、そこに、自己犠牲の慈悲を見たからだ。それを正義だと思ったからだ。それを守ると決めたからだ。

 

「お前の、正義は、何のためにある。安くないというのなら、その価値はどこにある。誰のための力だ。答えろ、デスマスク!」




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屈辱の敗北

 デスマスクの小宇宙が、膨張ではなく収束し始めた。

 奴の背後。薄暗くも輝き広がっていた星雲の奥、暗闇が見える。死の国へと通じる穴だ。ひゅごうと音が聞こえる。滝の音ではない。風の音だ。生者を引きずり込もうと泣きわめく死者の声にも聞こえた。

 鳥肌が立つほど、気温がぐんぐん下がる。空間を満たしていた俺の小宇宙を押し返しながら、白い霊魂のようなオーラが、穴から這い出してきた。

 

「フン、知りたけりゃ引き出してみろ。ただの青銅ではないようだが、冥府でも減らず口を叩けるかッ!」

 

 振り上げられたデスマスクの右腕に、亡者の白い魂がまとわりつき、不気味に明滅した。

 ああ、こりゃあ、本気だな。

 いいだろう。

 来い。

 真正面から、叩き潰してやる。

 

「積尸気冥界波ッ!」

 

 デスマスクの圧倒的な小宇宙が激流となって押し寄せてくる。俺の魂を抜き出し、冥府へ連れて行くために。

 冷たい亡者の手が、俺の頬を撫ぜた。怖気をともなう冷気は首へ降り、背骨に染みこんで、内臓へ入り込み、心臓を掴みとろうと俺の身体を取り巻いた。

 いいや、そうはさせない。

 ―――燃えろ、俺の小宇宙よッ!

 

「ペガサス流星拳ッ!」

 

 腹の底から渦巻く小宇宙が、一気に開放される。空間を震わせる衝撃波が、ごうんと大地をえぐり割った。

 まとわりついていた白いオーラが切れ切れにはじけ飛ぶ。ごうごうと唸る大気が、俺の拳とともにデスマスクの積尸気を押しつぶさんと螺旋を描いて襲いかかった。

 

「なんと、飛流直下三千尺とうたわれた廬山の大瀑布が、逆流しておる……! しかも、デスマスクを狙った拳圧の余波で、じゃと。まるで、神話の戦いを見ているようじゃ」

 

 老師のうめき声が遠く聞こえるが、何を言っているかまでは気が回らない。聞こえちゃいるが、脳味噌がそっちに働かないのだ。

 動物的な闘争本能に身を任せれば、加速する思考がより戦闘へと絞られていく。

 

「馬鹿なッ! 俺の、積尸気冥界波を、受けて、びくとも、しない、だとッ」

 

 デスマスクの咆哮は、切れ切れだ。俺の拳をさばきながらだから無理もない。怒りと焦りが、声から滑らかさを奪っている。だが、お喋りより俺に集中した方がいい。今のところ、なんとかいなしてるが、どこまで持つかな。そら、胸部にひびが入ったぞ。

 わずかにバランスを崩したデスマスクのヘッドマスクが、千切れ飛んだ。

 だが、さすがに黄金聖闘士。俺の拳打を躱し、いなし、逸らし、致命傷を避けている。上手い。

 でも、もう限界だろう。さて、気合を入れるか。

 デスマスクが目を見開いた。見えてから避けるんじゃ遅えよ。避けられん。とっさに、腕を交差させ最も無防備な頭をかばう。正確な判断だ。そう、頭以外は黄金聖衣があるから死にゃしない。

 受けろ、俺の、最後の一発!

 デスマスクは絶叫した。

 

「アジャパアァァァァァァァーッ!」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 絶叫を伴にして、デスマスクが空高く打ち上げられる。

 俺は、地上から、それをまぶしく見上げた。奴に翼はない。さほど待たずとも、落ちてくる。そこをふんじばって、連れて帰ろう。一仕事終わった気持ちで、俺は氷河達のもとへと歩いた。打ち合っているうちに、ちょっとばかり離れてしまっていたのだ。

 軽い気持ちで歩けば、シュプールのようにえぐられた大地の爪あとも、せっかく荒れた大地にしがみついて懸命に生き延びていた植物が薙ぎ倒されて全滅したのを見ても、明るい気持ちでいられる。いや、すまん嘘だ。よくもまあ、崖が崩れなかったものだ。

 軽い危機感を覚えた。どうも、力の制御が甘くなっている気がするぜ。

 歩いて行くと、冷たい滝の飛沫が、俺を出迎えた。老師は、元通りの場所で相変わらず鎮座。氷河は、そのそばで俺を待っている。

 俺は足を早め、小走りになった。

 穏やかな朝の光が、美しく滝と俺達に降りそそいでいる。

 

「ただいま」

 

 しわがれた声になった。

 喉がいがらっぽい。砂埃を吸い込んだせいか。

 

「どうする気だ」

 

 どこか固い顔つきで空を見上げていた氷河が、目線を俺に移して聞いてきた。見ていたのは、落ちてくるデスマスクだ。どうするってのも、当然デスマスクのことだ。

 その語尾が消える前に、ずうぅんと地響きが俺達を揺らす。デスマスクが地面に激突した音だ。まったく受け身を取ってないが、大丈夫だろうか。

 と言うか、頭から落ちたと思ったのに、なんで、両手両足を開いた人の形にめりこむんだ。

 デスマスクの落ちた跡の大地を見ながら、俺は答えた。

 

「連れて帰るぜ」

 

 もう、相手の説得だの何だのは面倒だ。持って帰って沙織さんに任せるに限る。俺は、そういうのに、向いてない。向いてないものを無理にやると、ろくな結果にならない。

 デスマスクの正義や、その価値がどこにあったとしても。

 聖闘士たるもの、女神(アテナ)に跪けぬならば―――死ね。

 

「割り切っていると思えば、お前は、時折、恐ろしく諦めた目をする。悔いるような、失われた何かを悼むような、痛い目にあって懲りた人間の顔だ」

 

 そういう氷河のほうが痛ましい顔をしていた。

 そんな顔をすんなよ。別に諦めてるわけじゃない。前回とは違う道筋でと、そう思う気持ちが消えたわけでもない。

 ただ、救えないものを救おうとするのは、女神(アテナ)だけで充分だと思う。

 俺は、この世には殺すべき命があると思ってるし、許されざる幸福だって存在するのだろうと思う。救うべきではない、救えない、そんなものだってどうしようもなく存在するのだ。

 食い食われて命が立って、潰し潰され信念を通して。それが、人間の生きていくということだ。それでも、生きていく覚悟を決めなくちゃいけないんだ。

 救いたいとは思う。でも、救えないならしょうがない。デスマスクも、サガも。

 救えなかったものを悔いるより、これから救えるものを見る。その覚悟をしている。

 そして、その果てに、自身が、救われない命になってしまったとしても、それはしょうがない。自分で、その道を選んだのだ。

 

「蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる真似はしねえよ」

 

 いや、(あつもの)に懲りて(なます)を吹くのほうが良かったかな。

 氷河が、長めの前髪を自分の手でかき乱した。苛立たしそうな目で俺を見る。なんと言えばいいか、えぐりたいほど痒くてたまらないカサブタを、剥がそうかどうしようかといった顔だ。もどかしそう、というのが似てるかな。

 何を訊きたいんだろう。俺は小首をかしげて待った。

 

「……お前を噛む蛇なんざ、いるのか?」

「そりゃいるさ。俺だって、噛まれたら痛いし、死ぬかもしれないし、恐いし」

 

 疑わしそうな目はやめろ。地味に傷つくんだよ。

 恐いってのはちょっと嘘だけど。

 実は、聖域で食べてたけど。

 そもそも、それを、本当に訊きたがっているとは思えない。でも、多分、俺が言いたくなさそうだから、そういう言い方になるんだよな。氷河はいいヤツだ。苛立ちが顔に出てるから、あんまり意味ないが。

 どうしても、知りたいならヒントは出すけど、大した意味はないんだぜ。

 俺は、こほんと咳払いして、続けた。

 

「俺もお前も、万能にも全能にもなれない。人間だからな。今後のことを考えると不安ではあるが、それでも、俺は退いたりはしないさ」

「何が、そう不安なんだ。お前がいるなら大丈夫だろう」

「そうかもしれない。だけどさ、氷河」

 

 真正面から顔を見た。

 ここは肝心だ。

 言っておかないと。

 信じてもらわないと。

 俺がいれば大丈夫なんて、幻想だ。

 

「いつか、俺はいなくなるぜ。いつまでも一緒にいられるわけじゃない。いつか必ず傍にいられなくなる日が来る。避けられない別れが必ずある。だから、その時は頼むぜ」

 

 具体的に言うと、冥王(ハーデス)との戦いの後な。

 もちろん、死ぬ気はない。それでも、同じ選択を迫られたら、同じ選択肢になる。俺が、沙織さんをかばわないなんてありえない。

 それまでの戦いは、なんとかなると思うが、冥界での戦いだけは、生き残ると断言できない。氷河たちがあの後どうなったかは知らないが、きっと生き残ったのだろう。もう敵はいなかったはずだからな。

 だが、俺は地上には帰れなかった。“俺”がここにいるんだから、どうあっても、それは確実なことだ。

 

 何を考えているかは知らないが、氷河はじっと俺の顔を見つめた。俺の内奥をえぐり、魂まで見通そうとするかのような真っ直ぐな視線だった。

 青い目にはうっすらと水の膜が……どうした、いったい。トイレにでも行きたくなったか。いやいかん、茶化す場面じゃない。でも、そこまで深刻に考えなくてもいいんだぜ。大丈夫だ。お前たちがいるんだから。

 ややあってうつむいた氷河の表情は、読めなくなった。

 ひるみながら、俺はゆっくりと続けた。

 

「俺はいつか居なくなる。忘れないでくれ。氷河。俺がいなくなる日は必ず来る。考えておいてくれ。俺がいない日のことを」

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 氷河は何を考えているのか、顔を伏せたまま動かない。いたたまれないから、何か反応してくれよ。笑い飛ばしてくれてもいいからさ。ただし、その場合は殴られるまでがセットだと思え。

 顔を伏せたままの氷河と、困りながらそれを眺める俺。向かいあって突っ立ったままの男二人って、けっこうシュールな眺めだろうな。誰も見てないけど。

 

「ホッホッホ、盛り上がってるところ悪いがのう、そろそろ出てきそうじゃぞ」

 

 違った。老師が見てた。存在を忘れてたぜ。

 別に盛り上がってないから、その目はやめてくれ、老師。かなり恥ずかしいんだよ。好奇心と微笑ましさと懐かしさをブレンドした目つきを言語化すると「青臭い奴らだ。フッ、俺にもあんな時代があったな」というところか。

 頼むから本気でやめてくれ。げっそりしながら、俺は、デスマスクの埋まったほうを見やった。

 

 大の字に空いた穴のふちに、デスマスクの指が掛かったのが見える。

 一度、指が掛かってしまえば、後は出てくるだけだ。そのまま力を入れて、飛び上がるように地表に上ってきた。ヘッドマスクはない。肩部は半壊、胸部はひび割れている。脛当ては片方だけで、もう片方はない。血は大して流れてないが、俺の最後の一発は腹だった。内臓が無事かどうかは分からんな。

 さて、どう出るか。

 

「てめえ、何者だ。たとえ黄金聖闘士であろうとも、この俺をここまで簡単に殺せるはずがねえぞ」

 

 人聞きが悪い。死んでないだろうが。

 あと、一気に口が悪くなったな。

 でも、ちょっと安心したぞ。そんなに口が回るなら、大怪我じゃないな。だから、その殺人的な目つきはやめろよ。死んでないんだからお門違いってもんだぜ。

 俺は、肩をすくめてやった。

 デスマスクは凶暴にうなった。

 

「てめえが最後の一発を本気で放ってりゃ、死んでたんだよ。黄金聖闘士の中で、俺が最も死を理解している。だから分かる。てめえが殺すつもりなら死んでた」

「本気だったぜ」

「嘘つけ」

「本当だ。ただ、本気と全力は違うけどな」

 

 にやりと笑ってみせると、デスマスクは壮絶に怒りのこもった笑いで返した。こめかみから額にかけて浮き出た血管がビクビクと脈打ち、頬が引きつる笑み。

 あ、これはやばい。そろそろ血管が切れる。

 

「そうかよ。つまり、本気で手加減した、と」

 

 ひどい勘違いを見た。どうしてそうなる。

 デスマスクが舌打ちする。

 

「てめえは、本当に人間か。教皇だってお強いが、それでも、こうも簡単に黄金聖闘士を殺せるわけじゃねえぞ」

「失礼なやつだな。俺が人間以外の何に見えるってんだ」

「見えねえから訊いてんだよ」

 

 ごもっとも。

 でも、黄金聖闘士にそれを言われるのは納得いかない。聖闘士なんて、全員人間やめてるようなもんだし、黄金聖闘士はその頂点だろうが。

 

「俺は、天馬座(ペガサス)の聖闘士、星矢。でも、俺が何者だって、お前にはまだ関係ないさ。一緒に来てもらうぜ」

「ああ、分かった」

 

 え、即答かよ。いいのか。何も訊かなくって。

 驚いた顔になった俺に、デスマスクが自虐的な笑い声をたてた。

 

「勝った奴が、負けた奴の都合なんか気にするんじゃねえよ」

 

 笑っているくせに、目がぞっとするほど鋭くなる。

 ペッと血混じりのつばを吐き捨てた。

 

「てめえが手加減さえしなけりゃ、死んでも戦い続けたかもな。だが、てめえは手加減した。俺が殺す気でいたのに、てめえは俺に加減したんだ。この時点で完全敗北よ。生きていること自体が屈辱だぜ。どこにでも連れて行け」

 

 隣の氷河が、分かると言わんばかりに頷いている。なぜだ。

 ちなみに本当に手加減はしてない。全力ではないってだけだ。だって、俺が全力出したら、このあたり一帯壊滅するぜ。

 ここは紫龍の第二の故郷で、大事な場所だ。何かあれば老師が何とかするとは思うが、まあ、アンドロメダ島で全力が出せなかったのと同じ理由だな。

 俺は、兄弟が大事なのだ。兄弟が大事にしている場所は、壊したくない。

 それと、全力を出すなら、後がないときだ。もう、死んでもいい。ここさえ何とかなれば、後は倒れてもいい、と思うとき。

 あいにくと、そこまで追い詰められてないし、残念ながら、まだお前らに後を任せる気にもならないんだよなあ。お前らが俺に追いつくまで、きっと、任される側に立っている。傲慢かもしれないけど、そう思う。

 前に立って、追い付いてくるのを待っているから。だから、なるべく早く来てくれよ。俺がいつ倒れてもいいように。

 いや、死ぬ気は微塵たりともないんだけどな。

 そう、そんな気は露ほどもない。だから、ここに来た。だから、必ず連れて帰る。味方を増やすためか、敵を減らすためか、決めるのはお前だぜ。

 俺は、デスマスクに笑いかけた。そう怒るなって。

 

「物分かりが良くて助かるぜ。死んでるより生きてるほうがいいに決まってるからな」



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輝かしき来訪者

 にやりと笑った俺に、怒りをこめてデスマスクも笑い返してきた。

 何というか、捻くれた感情表現だ。こめかみは波打ってるし、口の端はピクピク引きつってるし、色々隠せてない。それでも、この男は笑うのだ。殺意をこめた笑みで威嚇する。

 ふん、面白い。

 機嫌よくそれを受ける俺に、氷河がわずかに身を引いた。おい、なんだよ何か言いたそうな目をするのはやめろ。お前に呆れる権利はないぞ。お前のマザコンっぷりも大概だからな。あれだって俺から見たら後ずさりする程度にはどうかしてるからな。

 

「ふうむ、話は丸く収まったようじゃな」

 

 髭をしごきながら老師は、この殺伐とした空気を丸っと無視して言い放った。

 無視してるのは俺もだけど、それでいいのか、黄金聖闘士。これを丸く収まったとするのは何か違うんじゃないか。

 今度は俺が言葉を飲み込みながら見つめる番だった。

 当然ながら通じなかったわけだが。

 

 

 ■■■■■■

 

 

 

 五老峰の天は高い。

 澄んではいるが常に風が吹き荒れる。その風の異変に最初に気づいたのは、住み慣れて長い老師だった。

 

「やれやれ今日は千客万来じゃのう」

 

 言葉尻にかぶるように、カツンと石を踏む足音がした。

 瞬時に戦闘モードに戻った俺。

 わずかに遅れて氷河が腰を落としすぐにも動ける体勢に入る。

 

「失礼いたします。老師」

 

 言葉とともに現れたのは、豪奢としか表現しようのない輝かしい男だった。

 陽光を受け燃え立つ麦穂のような金髪に、蠍の尾を模したヘッドマスクの黄金が重なる。軽やかな生命力を感じる金のまばゆさ、力強く重みを感じる黄金のきらめきをまとい、まったく見劣りせぬ姿は一目見れば一生涯忘れまい。

 風に煽られる髪を無造作に押さえた手の下には、悍馬のような精力に満ちた笑みがあり、先程の足音はあえて立てたものであったことが分かる。

 聖域十二宮の八番目の天蠍宮を守護する―――蠍座(スコーピオン)の黄金聖闘士ミロ。

 

「ホッ、久しぶりじゃのう。ミロ」

「老師が一向に聖域に来られませんので、聖域に詰めていると、確かにお会いする機会がございませんな」

「耳が痛いのう。そうすると用向きは、そこのデスマスクと同じか」

「いいえ、私は誰の命も受けておりません。強いて言うなら、我が友を救うために来ました」

 

 友好的な姿勢に、俺は戦闘体勢を一応戻すことにした。

 氷河も同じく、デスマスクは最初から様子見の体勢。

 さて、討伐ではないというのなら、ミロは何の用事だろう。すがすがしいほどに俺たちを無視しているからには、少なくとも目的は老師なんだろうけど。

 

「本日、我が友カミュが聖域に帰還したのはご存知ですか。老師」

「風の噂で聞いたような気もするのう」

「フッ、ギリシャからここまで吹く風の音まで聞き分けるとはさすが老師」

 

 肩をすくめて、茶化しているのか警戒しているのか判別のつかぬ表情をミロは浮かべた。風にはためく白のマントが、わずかに身じろいだミロに光の濃淡を装飾する。

 老師は髭をしごきながら、続きをうながす。

 

「さて、どこから話したものやら……」

 

 そう今更ながらに迷った様子だったミロだが、再度老師にうながされてカミュが聖域に到着してからの経緯を話し始めた。

 それにしても、俺の知る限り、カミュってカノン島に向かったはずなんだけど、なんで聖域に行ってるんだ。那智と激と邪武はちゃんとカノン島で凍結した手足の治療を受けられたんだろうか。

 僅かな疑問を心の隅に放り投げ、ミロの話を聞くところによると、何でもカミュは聖域に戻ってからすぐミロに会いに行ったらしい。余人を避けて人目を忍んでって、ああうん、それだけで何となく何しに行ったか分かった。そうだよな。俺だって一輝に会いに行ったもん。俺の場合は相談目的だったけど、多分カミュは違う。

 きっとカミュは教えに行ったのだ。信頼する友だけにでも、と。

 聖域の汚濁を。

 教皇の悪徳を。

 忠誠の在処を。

 しかし聖域とデスクイーン島じゃ危険度が段違いだ。行くんならミロをふん縛って連れてくるくらいの覚悟じゃないと無理だと思うのは俺だけかな。う、ううむ、何だかとても嫌な予感がする。

 

「カミュが帰参したのは昼前でした。そのまま訪ねてきてくれたようで、共に昼食を取り、その後カミュはなぜか教皇への拝謁をしに女神(アテナ)神殿へ向かいました」

「ふむ、何か訊かれはせなんだか?」

「はっ、女神(アテナ)への忠誠と教皇への忠誠が同じ方向ではなく別の方向を向いた場合、どうするのかと。反逆を疑われかねない発言でしたので、証拠を持って来いと返しました」

「確証を得たがゆえの言葉だとは思わなんだか」

「もしそうであれば話してくれたはずです」

 

 短い言葉には自信がこもっていた。

 その自信が、カミュとの友情に由来するものなのか、あるいは自身の忠誠に偽りがないからなのかは分からない。ただ確かなのは、カミュがその言葉を聞いて教皇に会いに行ったんだろうってことだ。なぜか、じゃないぜ、ミロよ。カミュはお前のために行ったんだ。

 女神(アテナ)の不在をミロに見せるために。

 自らの言葉の証を立てるために。

 ああ、カミュよ、気持ちは分かる。だが、それにしたって、先走りすぎてやしないか!

 心中悶絶する俺をさておいて話は進む。

 

「……教皇の間まで共に行ったわけではありませんので伝聞ですが、カミュはそこで教皇に対し女神(アテナ)への目通りを求めたようです。それを教皇は一蹴したとか」

 

 そうだろうな。そうだろうとも。

 サガにとって女神(アテナ)の秘匿―――より正確に言えばその不在の秘匿は、教皇であるための絶対の条件。女神(アテナ)を擁してこその地位と権力。虎の威を借るとまで言っては言い過ぎだが、女神(アテナ)の不在は、誰にも知られるわけにはいかない。蹴られないはずのない要求だ。

 頭を抱えたくなる衝動を何とか押し殺しつつ、それでもまずまずあまり面白くはないだろう展開予測に目が死んでいく俺。

 

「それを非難し、強行突破しようとしたカミュを止めたのは獅子座(レオ)のアイオリア。しかし、我ら黄金聖闘士の実力は、相性もありましょうが搦め手なしの真っ向勝負ならば伯仲。争う小宇宙を感じ取り、教皇の間へ急行した私の目から見ても勝負は千日戦争(ワンサウザンドウォーズ)と思われました」

 

 一息つくミロ。

 さもあらんとうなずく老師。

 う、うわぁぁぁ、さっきからの嫌な予感が加速する。

 おお神よ、俺がいったい何をしたってんだ。心当たりは無くもないが、どの神だ。

 

「しかし、そこで教皇が幻朧魔皇拳(げんろうまおうけん)を操り勝負に干渉したのです」

「なんと、教皇にのみ許される魔拳を用いたか!」

 

 覚えず漏れたといった様子のうめき声を老師があげた。驚き七割、怒りが三割ってところか。

 氷河は聞き覚えのないという顔をしている。知らなくて当然なんだけど、と俺はこっそりため息をついた。何度も思い知っているのに、何度でもやっぱり少し寂しい。

 デスマスクは平坦な表情の中に、僅かな嘲りを見せた。目が素早く動き腹の中でなにがしかの計算をしているのが分かる。無駄だぞ。少なくとも今しばらくお前から目を離す気はない。

 ぐらぐらと絶望に頭を揺らしながら現実逃避も兼ねて周りを観察する俺を許して欲しい。だって、行くならアフロディーテだと思ってたんだ!

 ああ、カミュ。あんたって人は、なんだってそんな予測の付かない方向に行くんだろう。

 ああ、しかし、考えてもしょうがないことを考えるのは時間の無駄だ。そもそも氷河を迎えに行った時の遭遇からして予想外だったしな。カミュに関しては諦めよう。

 ぐらつく頭を立て直しながら、俺は続くミロの話に耳を傾けた。

 

「その後は語るまでもありますまい」

「仔細は分かったがの。それでなぜここに来たんじゃ。この老いぼれに何を求めておる?」

 

 悪戯っぽく老師の口が吊り上がる。あ、これ分かってていじめてないか。

 ミロは老師に応えるように目を細めた。

 

「ご謙遜を。かつての聖戦を経験し生き延びた智者を侮るほど、このミロ、目を曇らせてはおりません。しかし正直なところ、私ではなくこれはカミュが求めたものなのです。おそらくは」

「ほう」

 

 ううん?

 なんだぁ、その煮え切らない答え。

 興味深そうに目を輝かせる老師。

 内心首をかしげる俺。

 

「カミュがすれ違いざまに私のマントを一部凍らせて行きました。その瞬間のカミュの瞳の色―――あれは正気に、見えたのです。錯覚でしかないかもしれませんが」

 

 苦悩の色が垣間見えた。その複雑さを何と言い表せばいいのか分からない。

 ミロは視線を落としてうつむいた。悔い、失意、痛み、混然とした表情の半分に影が落ちて、全体的に悄然とした雰囲気が強くなる。

 

「教皇の魔拳は我が目にも完璧に見えました。むろんカミュの意識がアイオリアに向いていたからこそではあります。正面からの全面対決であれば、ああも無防備に受けることはありますまい。しかし、であらばこそ、カミュに正気なぞ残るはずもありません」

 

 それはもちろんそうだろう。

 たとえば、そういう事態になることを予想して対策を取るんじゃないかぎり、俺だってそこで対抗できるとは思えない。

 あのアイオリアだって抗えなかった魔拳だ。

 

「ですが、我が友の、水泡のごとき正気の浮上を、それがいかに淡いものであろうとも、私は信じてやりたいのです」

 

 信じている、と言わず、信じたい、と言ったミロの表情は揺れていた。

 ふぅと溜息を吐いてしばし沈思黙考した老師は、数分後口を開いた。

 

「カミュがここへ来るように、そなたに求めたと?」

「これをご覧ください」

 

 示されたのはミロのマント。黄金聖衣の力強さに対し、素朴な生成りの白に透明感を付け加えたようなふんわりとした風合いだ。

 その一部が意図的な形を以て凍りついていた。本当に小さく、示されなければ分からないだろう。具体的に言うと小指の爪くらい。

 老師、ついで氷河の顔色が変わった。

 

「これは……」

「フリージングコフィンの応用でしょう。黄金聖闘士を持ってせねば解けぬ氷でもって、描いたものです」

 

 へえ、なるほど。だから、今じっと見てても解ける様子がないのか。

 老師が顔色を変えるのも無理はない。その文様は♎―――すなわち天秤座(ライブラ)のアストロロジカル・サインだ。明確に天秤座(ライブラ)の聖闘士である童虎老師を指し示している。

 だけど、なんでまた老師?

 

「これは、そうか、ふむ、ううむ、信用されとるのう、星矢よ」

 

 へ?

 俺?

 思わず、自分を指差して事情を飲み込めぬと表情を作った。

 隣でハッと息を呑んだ音が聞こえた。氷河だ。

 

「そ、そうか。だから我が師はお前に同道せよと言われたのか……つまりここにミロが来るは必然」

 

 え、なんだ、その納得しましたって感じの顔。

 俺は納得してない。分かってない。それと、お前に分かって俺に分からないのも納得いかない。

 そう顔面で主張するつもりで、じっと氷河を見つめた。

 氷河はいやに興奮した顔つきで俺を見つめ返す。普段は冷たい印象を与えるブルーアイズが熱を持って輝き、俺の心臓を握ろうとするような異様な迫力だ。若干こわいんだが、どうした氷河。

 

「お前はいったいどこまで読んでいる……力のみならずとは……。六年前と違い秘密主義になるわけだ。フッ」

 

 うん?

 んんん?

 嫌な予感が急加速してラストスパートを掛けてきたぞ!

 ああ、頼むぜ、待ってくれ!

 なんかこう、妙な誤解を!

 受けている、気がするんだが!

 

「ちが、いや、それは―――」

「だがそれならばなぜ我が師を行かせた。なぜだ、星矢よッ!」

 

 なんで、そうなるッ!

 心中絶叫するほどのあせりは次の瞬間に山を通り越して霧散した。なんという誤解。もはや釈明する気も失せる。俺は静かに目を閉じた。現実を拒否するサインだ。諦めが早いとは言わないでほしい。これでも学習の成果なんだぜ。

 ああいやだ。誤解に基づいて人の話を聞かない、そんなものが兄弟たちの共通項だなんて、気づきたくはなかった。しかも大体にしてほとんどこっちの言い分を聞こうともしないんだよな。一輝といい瞬といい、いや、やめよう。むなしい。

 でも誰か説明して欲しい。

 なんで俺が指名されている、ことになっているんだろうか。

 

「ほほう、瞑目するだけとはな。さすがに落ち着いておるのう」

「別に落ち着いてないが、それ大丈夫だったのか? 教皇の目の前でやったんだろ?」

 

 老師に水を向けられて、苦し紛れを吐いただけだったが、実際かなり危ないんじゃないかと思う。すれ違いざまに凍らせたって、つまり教皇の目の前でやったってことだろ。見つかったら老師討伐にもってこいの理由になりはしないか。

 それを託されたというだけでも、反逆者と呼ばれかねない。

 だって教皇の目の前で、その悪事を暴こうとした者が託したメッセージだ。ミロさえも危険にさらして、カミュはいったい何を……。

 

「ゆえにこそ、でもあろうよ」

「どういう意味だ、老師」

 

 問い返せば、深いしわの奥で老師の目が笑みの形に歪んだ。

 

「そなたは、とぼけるのが上手いのだか下手なのだか、よく分からんのう」

 

 誰に何を聞いたか知らないけど、間違いなく下手だぜ。

 と心で言い返しながらも、俺は乾いた心持ちで沈黙した。これは間違いなく適当に返したらますます誤解されるに違いない。慎重に答えなければ。

 しかし、そう言葉を選んでいる俺を待たないのが黄金聖闘士であり老師なんだよな。知ってた。

 

「だが、星矢よ、少しばかり予想を外したようじゃな。本来であれば、ここにはミロとカミュがそろうはずだっただろうに」




ここまで読んでいただいてありがとうございます。ストックが尽きるので更新停止します。


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刎頚の友

 

 待ってほしい。

 そもそも、ミロがここに来ること自体想定外だ。本当だ。だのに、それがまたどうして、ミロとカミュがそろうのを計算していたみたいに言われなきゃならんのだ。大体にしてカミュが聖域に行った行動そのものが不測なんだぞ。

 断固として抗議したい俺は、誤解の余地を与えぬように言葉を選んで口を開いた。

 

「妙な考えはよしてくれよ。何か勘違いしてるぜ」

「ほう、ミロだけで良かったと? カミュが来ぬのは想定内かの?」

 

 違う。なんだ、この言葉の通じない感覚。

 心からやめてほしい。老師の問いかけだけでもいささかげっそりしてたのに、さっきから氷河の目線がすごいと思ってたら、今の老師の言葉を聞いて、ますます凄絶になったぞ!? 

 大声で叫びたい。俺は無実だと。

 

「だからだな」

「はてさて、その割には浮かぬ顔色じゃのう」

 

 老師は、ひげをしごきながらキラキラと光るまなこを俺に向けた。

 それが分かる観察力があるんだったら、なんで真実を察してくれないんだろう。分かるだろ、意図してそんなマネできるほど、策士じゃないんだ俺は。

 届け、俺の気持ち。

 

「だから──―」

「ふむ、大体の者は分かっとるようじゃのう」

 

 俺は分かってない。断定するのはやめてほしい。言いかけた言葉を飲み込んで、頭をかいた。抗議したいのはやまやまだが、“何が分かった”のか分かってない俺が下手な抗議をすればますます何がしかの誤解をされてしまうだろう。そして、分かってないのが俺だけならば、ここまでで十分ヒントは出たってことだ。

 なのに俺に分からないのなら、それは何か目をそらしているものがあるか、あるいは知りすぎて深読みしているからなのだろう。

 抗議は後回しにして、よし、誰かに解説してもらうか。

 と、他力を当てにして周りを見渡す前に、ミロの声が低く響いた。

 

「つまり、老師よ、あなたはカミュが私を陥れたとおっしゃりたいわけか?」

「人聞きが悪いの。カミュからすれば逆じゃろう。悪徳と暴虐に加担せずにすむよう、お主を助けたつもりのはずじゃぞ」

 

 うん? んん、んーん、あー、なるほど。

 頭を湯気が出そうなほど回転させて、会話に耳を済ませていた俺に、なかなかのヒントが落ちてきた。さすがにここまで言われたら分かる。陥れたのくだりでギリギリな。

 恐らくだが、カミュはミロを説得できようができまいが関係なく、自分とともに連れてくる気だったのだ。説得できるようならそのまま連れ立って来る気だっただろうが、証拠を求められた。

 だから証拠を求めに行って叶わずと分かった時点で、教皇の目の前でマントを凍りつかせた。教皇がそれを反逆と取ればよし、ミロは否応なく追われて老師のところに来るだろう。逆に気にせずとも良し、ミロはカミュのために、示唆された老師のところまで来るだろう。

 カミュが、ミロのマントに老師を指し示す天秤座(ライブラ)のアストロロジカル・サイン♎を刻んだ時点で、すでに五老峰に来るしかなくなっているのだ。確かに、陥れたという表現でも間違ってはいない。

 カミュはそうまでして、友を救いたかったのだろう。その意志を多少無視することになったとしても。

 ……ミロが討伐される可能性を考えてないあたり、どうかと思うが。いや、友に対する信頼が高いと見るべきなんだろうな。考えてないとかそんなんじゃないと、うん、信じてるからなカミュ。俺はひっそりグッと拳を握った。

 

 そして、カミュが自己犠牲をもってしてでもそうするだろうと、予測できていたと思われているのなら。

 そうであるなら、確かに、氷河の糾弾は的を射ている。行かせなければ、女神(アテナ)側の戦力を増やそうとしなければカミュの犠牲はなかった。そう言われたのだ。

 まったくもって誤解極まるんだけどなッ! 

 さて、どうやって、この誤解を解くべきか。考え込んだ俺の前で会話は続く。

 

「上手いことをおっしゃる。このまま聖域に戻れば、カミュの心を踏みにじるというわけですな」

「そのとおりじゃ。それもまた選択の一つじゃがすすめんな」

 

 言葉を紡げば紡ぐほどに、ミロの眼に宿る力が増していく。晴れ渡る碧空のようだった瞳は今や荒れ狂う大海のごとき物騒な輝きをもって、じっと俺たちを睨み据えていた。

 

「では、老師よ。一つお尋ねしますが、カミュと同じことを言われるおつもりか?」

「そうじゃな。望むならより詳しく語ろうではないか」

「ほう、では、教皇の、背理を、この私に、天蠍宮を守護する、この蠍座(スコーピオン)のミロに、説くと、おっしゃるか」

 

 一言、一言を、区切るように強調した声音には、偽りは許さぬという明確な意志が聞き取れる。大声ではないが、一音に力がこもっているのだ。陽光を照り返す波打つ金髪は獅子の(たてがみ)のよう、少しずつ張り詰める肉体は爆発する寸前の火山のよう、危うさはそろそろ臨界点を超えそうだった。

 対する老師は、超然とした表情と口調を崩さない。

 

「そなたにも、心当たりがあると睨んでおるが、どうじゃ」

 

 顔をしかめたミロの視線がわずかに上方にずれる。記憶を探査しているのだろう。少しだけ緊張が緩む。

 そこに畳み掛ける老師。

 

「人が変わったようだと噂は流れておらぬか? あるいは私室から時折うめき声が聞こえる、はたまた、側仕えが消えるなどと言われてはおらぬか?」

 

 沈黙したまま答えないミロ。

 だが、わずかに眉根が寄る。

 

「何より俺とあ奴は刎頚(ふんけい)の友よ。二百年の長きに渡り絶えぬ友誼がある。俺を殺したくば、一言告げるだけでよい。死んでくれ、とな」

 

 老師の静かな声は、穏やかな悲しみと誇りに満ちていた。

 友を失ったと確信している悲しみと、それでもなお殉じる覚悟の持てる友を得た誇らしさだ。

 

「聖域と友のために、何を躊躇うことがあろうか。それをあ奴も知っている。わざわざ密殺などするはずもない」

 

 そのまま深い、海の底に沈むようなため息を付く。

 一拍の間に、言葉では言い表せぬ年月の重みがあった。

 厚みのある声で、語りかけるように老師は続ける。

 

「教皇のあの仮面の下の素顔を見たことはないであろう? むろん女神(アテナ)の小宇宙を、女神(アテナ)宮から感じ取れるとも思えんのう」

「……女神(アテナ)への拝謁は教皇にしか叶わぬこと。見たこともない小宇宙の判別はできませぬ」

 

 一理あるようにも聞こえるが、どうにも苦々しさのにじむ反論だ。無理もない。

 けれど、女神(アテナ)の小宇宙は仮に会ったことがなくとも分かる。見たことがなくても分かる。感じたことがなくても分かる。聖闘士であれば、必ず、その小宇宙が女神(アテナ)であると体が理解する。ゆえに、ミロの、この言葉こそが女神(アテナ)の御座の虚ろを示すものだ。

 多分だが、老師は、その言葉を待っていた。

 

「もっともじゃ。ならば、女神(アテナ)にお会いするが良い。そこな青銅聖闘士たちが案内するじゃろう」

 

 視線で、俺達を指し示す。少年のようにキラキラ輝いていた眼は、今や老いたる智慧の深みを湛えてミロを導かんとしていた。

 氷河がすぅっと伸びるように姿勢を正す。

 うん、案内自体は構わない。女神(アテナ)に会えば、ミロだって理解するだろう。だから、それ自体はいい。

 だから、それは置いといて、すごく真面目な空気だから言い出しにくいんだけどな。俺の誤解は一体、いつ解いたらいいんだろう……。

 今言ったら、多分、だめだよな? 

 いや、もうかなりタイミングを外してる。今どころか、後になればなるほど言いにくそうだ。となると、むしろ、俺から言い出すよりミロから詰問されたほうが言いやすいんじゃないだろうか。どうにか誘導せねば。

 老師の身振りを受けて、ミロが、こちらに視線を向ける。待ってくれ、まだ、どう誘導しようか見計らってるから。

 と、悩んでいる間に、氷河がずいと前に出た。

 

「確かに、我らで承りましょう」

 

 こ、この裏切り者。俺はまだ何も言ってないぞ! 俺は目をむいて氷河を見た。

 断るのかって言われたら、そりゃ断らないんだけど、それはそれ、これはこれ、俺にアイコンタクトくらいすべきじゃないのか。

 

「良いだろう」

 

 こら、ミロも普通に返さず、もっと疑おうぜ。

 見るからに俺は頭脳派じゃないだろ。そのまま信用せずに、俺が画策したのかどうか確認してくれていいんだぜ。違うと返すからな。

 訊け、今すぐ訊けという意思を全面に押し出しながら首を回転させ、ミロに視線を向ける。

 すると、ミロはなぜか慈悲の微笑というか、寛大な笑顔になった。

 

「気にせずとも良い。お前が何を企み何をカミュに吹き込もうとも、見抜けぬカミュではない。その行動はカミュの意思」

 

 吹き込んでない。それより疑え。訊け。

 

「しかし、もし嘘偽りを吹き込んだのであれば、友として黙ってはおれんが」

 

 吹き込んでないっつってんだろ。いいから訊け。疑え。

 

「あのなぁ」

「だが、ひとまずはお前に祝いを。宣言通り見事、天馬座(ペガサス)の聖闘士となったな」

 

 喜気を浮かべた笑顔に毒気が抜かれた。言葉を遮られた怒りも抜けた。驚いた。

 

「覚えて、たのか」

「フッ、わざわざ見に行ったんだぞ。本人を前にして忘れるほど薄情じゃないつもりだ」

 

 それは、純粋に嬉しい。天馬座(ペガサス)の聖闘士であることは、俺にとって当然のことだが、それでも言祝がれて嬉しいと思えぬほど歪んだ性格はしていない。

 

「ああ、ありが」

「まさか、あの時追いつけなかった小宇宙の主がお前とはなぁ。知ってさえいれば取り逃がしはしなかったものを! 聖闘士候補生だからと、選択肢から除いたのが間違いだったか。ハハハッ」

「は?」

 

 なんだって? 

 聞き違いか? 

 そうだよな? 

 耳を疑った俺の目には、どこか野太い笑みへと表情を変化させたミロが映る。

 こういう笑い方を、知っている、ような気がする。

 月に振りかざした殺人鬼の刃がきらめくような。

 割と、危険な、そう、勘違いをされる前のような。

 誤解した挙げ句に喧嘩を吹っかける奴のような。

 

「戯れだったとはいえ、このミロの追跡を見事ごまかして見せたお前だ。味方としてあらば頼もしく、敵としてあらば恐ろしい難敵となろう」

 

 黄金を溶かして金線細工として繊細に編み上げたような金髪をたなびかせ、人をひきつけてやまぬ華を持つ男は傲然と口角を釣り上げた。笑みというより威嚇(いかく)に近い気迫。

 ごまかしてない。

 断言するけど、別になんにもしてない! 

 顔が引きつって言葉が出ない。こんなの予想してなかったぞ。

 

「もしも、偽りあらば、この俺じきじきにアンタレスの毒をくれてやる。最大限に苦しみを引き伸ばしてな! 十五発全ての苦痛を余すことなく、とくと味わうがいい!」

 

 鍛えられた総身から吹き上がる、燃える音すら聞こえるような攻撃的小宇宙。

 気圧されたように氷河が一歩下がる。

 

「発狂などしてくれるなよ。我が畏友(とも)を偽った罪としては、狂気も死も生ぬるい」

 

 俺は愕然とした。ああ、くそ、気づいてしまった。

 さっきから俺は疑えと念を送っていたが、そうじゃない、そんな問題じゃなかった。前提が違うんだ。既にめちゃくちゃ疑っていやがるんだ。

 これは俺を、あるいは俺達を信じてるから訊かないんじゃない。訊いて返ってくる言葉を信じるつもりがまったくないから、訊くこと自体を無駄とみなして訊いてこないだけなんだ! 

 つまり、ああ、俺が言い訳する機会は、失われた、と。

 

 俺はうなだれた。

 いや、疑ってても端から聞く耳持たないよりマシだよな。日本に行って確認してくれるってだけまだマシだよな。

 すぐに立ち直ったが。

 だって、元より俺なんにも悪くないのに脅されてないか? 

 つまり、よく考えたらこれ理不尽な言いがかりじゃないか? 

 それなら、これって怒っていいんじゃないか? 

 なぁ、そうだよな。

 

「大口はよしておけよ。日本でその暴言を恥じるはめになるぜ。ついでに教えといてやるが、俺は、筋違いで殴られたら三倍にして殴り返す主義だ」

 

 思った時点で声が出ていた。俺の口は、思ったらノータイムですぐにも動く素直さを持っている。やばいと思うのは後からなのだ。だって、売り言葉に買い言葉って言うだろう。俺は悪くない。そう思いながらも、自分の顔色が若干青ざめるのが分かる。

 いや、その、失敗したかとは思っている。ミロの形相が嬉しそうというか、狼がよだれを垂らしながらにんまりしたような顔になったから。元がギリシャ神像のごとくくっきりとした秀麗さだからこその凶悪さだ。これを笑顔とは呼びたくない。何これこわい。

 ミロの薄く、神が最上の形に整えたのであろう唇が片方に歪んでつり上がった。

 

「よくぞ吠えたな。その言葉忘れんぞ」

 

 いや忘れていい。本当のことしか言ってないけど、その顔がこわいから忘れていい。

 危うく出そうになった本音を出てこないように、手で口元を抑えた。氷河はなんでそんな妙に嬉しそうなんだよ。デスマスクはニタニタ笑ってるし、老師はほほうとか言いながらひげを扱いている。

 俺は、コホンと咳払いした。仕切り直しだ。

 

「なんにせよ、まずは女神(アテナ)に会えよ。そこからだろ」




いつもありがとうございます。
感想、とても励みになります。
励みにして書き出しても、書き上がるのが遅い悲しみ…… 

個人的に、星矢は脳筋だが馬鹿ではない(人の道を踏み外さない)タイプだと思っています。



与太IF偽予告









老師へと放たれた刺客を食い止めるべく、五老峰へと向かった星矢達。
辛くも冥道への道を自在に行き来する聖闘士、蟹座のデスマスクを食い止めたは良かったが、新たなる闖入者が現れてしまった。
その名は、デスマスクと同じく地上最高とも謳われる黄金聖闘士の一人、蠍座のミロ!

「何しに来た!」

敵対しにきたのではないと語る彼の目的は老師。
その智慧を借りて、友を教皇の洗脳から救うためだった!
しかし、老師は星矢を指し示す。

「行くが良い。汝の宿運は星矢とともにある」

急遽指名された星矢は吐血しそうだ!

「違う、日本の沙織さんのとこまで案内するだけ! その大仰な言い回しやめてくれよな!」

大きく分ければそんなに間違っていないような気もするが、星矢としては、ミロの宿運は沙織さんなのである。

「黄金聖闘士はどいつもこいつも大雑把で困るぜ」

などとお抜かし遊ばす星矢を、じろっと強めに見てしまった氷河であった。
当然、後日の青銅聖闘士城戸家会議にて審議されるのだが、結果を星矢が知ることは永遠に無いだろう。合掌。


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神たる威

 日本に移動した。テレポートは老師がやってくれた。きっちり城戸邸座標ぴっちりだった。

 話がそう決まるまでには、デスマスクがミロにちょっかいを掛けたり、氷河がミロにカミュの件を聞きたがったりで面倒だったが、無事に着いてしまえば些細なことだ。

 老師が送ってくれた場所は、城戸邸の門内かつ絶妙に屋敷に近いポイント、しかも空中じゃなくてちゃんと地に足が付いた状態だった。

 俺はできないんだよなぁ。なぜピンポイントで転送できるんだ。老師すげえと思いはするが、それはそうと、女神(アテナ)の住まう場所を調査して監視してたんじゃないだろうな。俺の拳を振るう必要があったら怒るぜ。

 ……疑い過ぎだと思っていたい。

 

 俺はちらりと傍らのミロを見上げた。

 今更ながらに不思議な発言があったと思いだしたからだ。

 はて、追跡をごまかしたって何だったんだ。

 混乱して、魔鈴さんから逃げ出したあの時のことだろうが、特に自分の小宇宙を隠蔽したりするような能力は俺にはない。そりゃ意識して燃やしてる時と平常時は違うが、それは誰だって同じだろう。

 俺は三秒ほど首をひねって、多分ミロの勘違いだなと結論付けることにした。俺は特に何もごまかしたりはしていない。

 とはいえ、もしかして、魔鈴さんとの修行から逃げ出した時の小宇宙って、聖域中に知れ渡ってたりするんだろうか。迷惑な。

 

「おかえりなさい、星矢」

「ただいま、沙織さん」

 

 屋敷の玄関までのんびりと歩いていっていると、先に玄関が開いた。監視カメラか何かで分かっていたのだろう沙織さんがうっすらと微笑んでいる。わざわざ迎えに来てくれるとはお嬢さんも変わったものだ。

 そこはかとなく嬉しい気持ちに浸っていたら、何の前触れもなく、背筋がゾッとした。

 え、なんだ、今の。

 沙織さんの微笑みに曇りはない。含みもない。やや傲然たる気配の寛容さだが、それは通常通りだから問題ない。

 あれ? と思っていたら、沙織さんの背後十五メートルほどの角から、邪武の頭が覗いていた。その眼光たるや地獄の鬼どももかくや。何があったのか知らないが、俺だけを睨み据えている。さっきの悪寒はこれか。なんだ、その怨念の視線。やるか? あ゛? 

 

「長い不在だったことだな、星矢よ。わざわざお嬢様に出迎えなぞさせるとは出世したじゃねえか」

「おう、お前らが動けない分、わざわざ俺が働かなきゃいけなかったからな」

 

 条件反射で嫌味を返しつつ、邪武を観察する。見た目にはさほどの変化はない。傷が増えたわけでもなければ、身長が伸びたわけでもない。嫌われているのは元からだが、ここまで睨まれる覚えはない。何があったのやら。

 そのまま少しだけ意識して邸内を探る。姿を現しているのは、お嬢さんと邪武だけだが、視線はゆうにその三倍はあった。

 玄関から右上に五つ数えてカーテンが半分だけ開いた窓に一人。長大な屋根の左側端のほうに二人、他にもいるな。こっちに視線と微かな殺気をよこしている。警戒しているのだと、こちらを牽制するためのわずかな気配の露出。いいじゃねえか。思わず顔がほころんだ。

 なんせ、最初に俺が帰ってきた時は、警護についているのは邪武一人。小宇宙を燃やした時の反応も鈍かった。だが、今は違う。相手が俺であっても警戒を怠らない。女神(アテナ)の近衛としての自覚を感じるぜ。

 そうまでさせるとは、じんわりお嬢さんの成長も感じるな。女神(アテナ)三日会わざれば刮目して見よってか。

 

「お嬢さん、こっちは蠍座(スコーピオン)のミロと、約束していた蟹座(キャンサー)のデスマスクだ。説明するから時間をもらえるか」

「ええ。部屋も用意させましょう」

 

 悠然と頷く沙織さんから、慈愛に満ちた小宇宙が薄く広がっていくのが分かる。隠さなくなった小宇宙は、凪いだ湖面に天から雫がしたたって作られた波紋のよう。

 見る者が見れば後光すら差していると感じるかもしれない。

 俺は目を細めた。心地のよいそれは、沙織さんが神として振る舞い始めている証拠でもあった。

 だが、デスマスクは膝をつく様子も見せず、俺たちを睥睨(へいげい)している。

 ああ、こりゃあ、まだ認めてないな。

 ミロもそうだ。デスマスクより穏やかな目線ではあるものの、女神(アテナ)に対する聖闘士の態度ではない。

 俺の注意が自分たちに向いているのを分かっているのだろう。二人とも隔意を隠しはしないが、不穏な行動はしない。目つきだけが沙織さんを疑っている。

 

「お茶でも用意させようと思いましたが、お話を先にしたほうがよろしそうですわね」

 

 それに対して、沙織さんは余裕を見せてふっと笑った。

 さすがの貫禄だ。

 

「ああ、ぜひそうしてもらえると助かるな」

「ククッ、話が早くて結構だ」

 

 ミロはうなずいた。

 デスマスクは(わら)った。

 

「この者の話では、貴女が女神(アテナ)であり、教皇は偽りで聖域を統治していると言う。だが、どうにも信じられぬ。我が友カミュは信じたようだが、貴女が偽物ではないと誰に証明ができるのか」

 

 まずはミロの舌が疑いを吐いた。

 

「俺は、どっちでもいいがね。教皇こそがこの十三年、聖域を、ひいては世界を守ってきた。その偉業を成すだけの力を、あんたは持ってない。偽物だろうが本物だろうが、それが全てだ。力なきものに聖域でふんぞり返られたら困るんだよ」

 

 デスマスクは沙織さんを否定した。

 

「それでは、どうするというのです?」

 

 揺らがない。

 それで、いい。

 それでこそ、女神(アテナ)だ。

 

「試させていただきたい。貴女が本物であるならば、我が蠍の尾が貴女を貫くこと能わぬはず」

「死ぬなら死ね。偽物なら不敬に対する報いとなるだろうよ。本物でも、俺の拳をいなせぬ程度の本物なら無いほうがマシというものだぜ」

「いいでしょう」

 

 沙織さんは即答した。

 氷河が顔色を変えた。

 沙織さんが、片手で俺たちを制したからだ。

 それにも関わらず、前に出ようとした氷河を俺も止める。

 ああ、きっと、昔の俺ならば看過できなかっただろう。あの頃の俺は沙織さんが女神(アテナ)だと教えられてはいたが、それを骨身に刻んではいなかった。あの頃の俺にとって、沙織さんは女神(アテナ)だと名乗る傲慢なお嬢様だった。傲慢ではあるが、それでも見捨てられない、無力な守るべき女性だった。その手は楽器と本以上に重たさを知らず、その足は柔らかな草と絨毯しか踏んだことはなく、その鼓動はすぐ失われる儚いものだと思っていたのだから。

 だが、今の俺は、目の前の沙織さんが女神(アテナ)だと知っている。理解している。頭ではなく魂がそれを納得している。ゆえに下がる。そして、動かない。

 

「なにっ、正気か」

 

 ミロが動かない俺に、非難の目を向けた。無力な女性をかばわない男など、ミロにとって最大の侮蔑対象なのだろう。それは正しい。

 しかし、聖闘士にとって女神(アテナ)の命令は絶対であるべきだ。なぜなら、少なくとも今、女神(アテナ)に危険などないのだから。

 女神(アテナ)女神(アテナ)である。 そして、俺がここにいる。不遜なようだが、何があろうと守りきれると確信している。油断しきっている黄金聖闘士(ゴールドセイント)二人に対する、本気の女神(アテナ)だ。万が一の「何か」など起こり得ない。

 心配など、逆に女神(アテナ)に対する侮辱となろう。もちろん俺に対しても。

 慢心だと言わば言え。俺が起こり得ないと決めたからには起こらせない。

 

「ハッ、バカどもめが」

 

 デスマスクが嘲った。

 言ってろ。その言葉、すぐに己に返ってくるぞ。

 

「クッ、可能な限り、急所は外して差し上げようッ! 喰らえッ!」

「死に晒せ! 教皇の治める世のためにィッ!」

 

 大気が渦巻き始める。

 力ある戦士の小宇宙が、燃え上がり揺らぎ空気を動かす。

 熱を孕んだ風が無軌道に通り抜けていく。

 ミロの黄金の髪がはためいた。握られた拳には迷いは見られない。

 

 そうか。お前は迷わないのか。

 身勝手ながら、怒りが湧いてくる。

 女を殴る。それに、お前は迷わないのか。

 見るからに戦など知らぬ柔らかな手の、傷などついたこともないだろう滑らかな頬の、それでもなお戦士の覇気を前に揺るがぬ凛然たるその姿。

 それをお前は殴るのか。迷わないのか。

 ぐっと己の拳を握りしめ怒りを潰しこむ。

 

 本気の拳。それがミロなりの敬意であろうということは分かる。

 本物の女神(アテナ)であれば、その拳が通ずるはずがないという確信。同時に偽物であろうと思っているがゆえの、本物に対する不敬を咎める断罪。

 ミロの拳には、ミロなりの誠実と、女神(アテナ)への忠誠がこめられている。そう、知っている。

 ゆえにこそ、まだしも、ミロは許せる。

 

 だが、デスマスクよ。お前の拳は沙織さんを殺すためだけの拳だ。

 だから、デスマスクのほうが速い。

 力をこめずとも、一般人の女性程度なら、軽く殺せると思っているからだ。それなら必要とされるのは、獲物に逃げる猶予を与えない速度だからだ。ヤツにとって重要なのは、むしろ俺をどうあしらうかだろう。

 正しい。

 それでも、許されるとは思うな。

 

 俺がガチりと牙を打ち鳴らしたその刹那。

 沙織さんは、眼を伏せた。蝶が羽ばたくような優雅さをもって長いまつ毛の影が頬に落ち、そして、上がる。青とも灰とも付かぬ美しい瞳が世界をとらえたその瞬間、爆発的に小宇宙が広がった。

 そのさま、夜闇を薙ぎ払う暁光のごとく。

 この上なく雄大(ビッグ)

 果てしなく遠大(グレート)

 否、人間の計りうる尺度の中に収まらない全宇宙的な神の小宇宙。

 圧倒的な“威”がそこにはあった。

 

「うっ!?」

「なにぃ!?」

 

 ミロとデスマスクの両者ともに拳が止まる。二人の額から汗が一挙に吹き出て、頬の輪郭を伝い顎先から地面にしたたった。ぼとり。ぼとり。落ちる水滴の音が重い。

 いつの間にやら、沙織さんの手に黄金の錫杖が握られている。そのまま少し持ち上げた。実にささやかな、さりげない動作だった。そのまま錫杖をスッと下ろす。

 

 トン。

 

 石畳を打つ小さくさりげない音。

 普段なら雑音とも言えぬ生活音のざわめきに紛れるような音だ。

 だが、絶大だった。

 神の威に対抗するには、ヒトはあまりにもろい。

 崩れ落ちる黄金聖闘士たちの膝が、地についた。意図しない動きだっただろう。思考を経由せず、そうすべき、と本能が先に判断した。

 

 意思が瞬時に肉体に逆らえと命じたのはさすがに黄金聖闘士というべきか。

 しかし、反射的に、立ち上がろうとするミロとデスマスクの判断は、悪手だった。それは女神(アテナ)に逆らうということなのだから。

 もはや錫杖での示威すらせず、沙織さんは一瞥した。人が人に向ける眼差しではない、神の透徹な眼差しで。

 

 バヂィッィィィン! 

 はぜる音を立てて、二人の聖衣が脱げる。大気に残るは遠く鈍い残響音。

 名残を惜しんだか、離れた一つ一つの聖衣のパーツは空中で一瞬カッと輝きを放ち、自らオブジェ形態へと形を変え、女神(アテナ)の前に座した。

 残るは胴着姿の二人の男の驚愕だ。

 

「なにィィィィィィ!」

「バカなっっっっ!」

 

 吹き出た汗が凍りつく思いだっただろう。

 ミロとデスマスクは、たった今、己が聖衣に見放されたのだ。

 ―――すなわち女神(アテナ)を守る聖闘士の資格無し、と拒まれたのである。

 

 それにしても、沙織さんの神としての覚醒が早い。前回は、これほど安定した神としての振る舞いをしてなかったと思うんだが、なんでだろう。

 ありがたくはある。

 期待していたとおりでもある。

 同時に、少し心配でもあった。

 沙織さんは、大丈夫だろうか。無理をしてるんじゃないだろうか。後でちゃんと様子を見なければ。

 知っている。人としての「城戸沙織」を手放したくないと、知っている。その俺が、見て見ぬ振りをするのは卑怯千万。手放さなくていい、と伝えなければいけない。たとえ、それによって俺の苦労が増えるとしても。沙織さんは沙織さんのままでいいのだ。

 

 呆然とするミロとデスマスク。

 装着者から剥がれたオブジェ形態の蠍座(スコーピオン)蟹座(キャンサー)の黄金聖衣。

 静観する俺。

 畏敬の眼を向ける氷河。

 それらを見渡して、沙織さんは莞爾と微笑んだ。透徹さを保ったまま。

 よろりとミロがぐらついた。デスマスクは蒼白なまま一歩も動かない。

 

「まさか、本当に……!」

 

 どちらが漏らしたとも付かぬ一言。

 凍りついたような空気。

 先に動いたのはミロだった。息を吸い込み表情を変え、今度は自らの意思で片膝を付いて礼をとる。その視線は真摯そのもの。本心からのように見える。それでも油断はしないが。

 

「我が身の不明を心よりお詫びいたします。女神(アテナ)よ。この度の失態は、我が忠誠と(いさお)しをもって必ずや(そそ)いでみせましょう」

「許します」

 

 沙織さんの答えは簡潔だった。

 更に言い募ろうとするミロを片手で制し、必要ないと示す。その目線は次にデスマスクに向かった。

 とうのデスマスクは無言で冷や汗をかき、こちらを向いた。雷光の狂おしさを含んだ苛烈な眼差しが、俺の全身を焼き尽くさんばかりに射抜く。

 ん? んん? なぜ俺を見る。首をかしげて、はっとひらめいた。

 これ、俺の意向待ちなのか、と。

 そうか。いや、必要、なのか。かしげた首をそのままに考え込む。理屈的には分からなくもない。デスマスクを負かしたのは俺だ。恐らくデスマスクとしては、やつの生殺与奪は俺が握っている、あるいは敗北したデスマスクが勝者たる俺に与えた命令権は未だ有効という認識なのだろう。

 でも女神(アテナ)だぞ。

 俺がどの陣営に属すかなんて分かってるだろうに、ためらう必要あるか? 

 わざわざ俺の許可をとらなくても問題ない、と思うんだが、よく分からんな。

 分からないなりに、とりあえず目配せしてみた。どう取るかは知らん。好きに深読みしてくれ。

 それを受けて、僅かに頷き、俺から視線を外したデスマスクの膝が折れる。

 

女神(アテナ)よ。この地上を守り、この地上の悪を討たんがため、我が力をお使いあれ」

 

 ぎりぎり自尊の範囲内の傲慢さ、そして、己への自信を隠そうともしない声だった。恭順の礼を示す動作は、黄金聖闘士らしく堂に入っている。

 自分が悪かったとも間違っていたとも言わないあたり、デスマスクらしいっちゃデスマスクらしい。もしかしたら、もとより悪いとも間違いだとも思っていないのかもしれない。確かに教皇は悪だけではない。それを否定はしない。

 前回を思い返すにしても、確かにこの男、犠牲を厭わず悪を必要悪だと許容するだけで、自分が正義を行う側であるという意識はあったからな。

 俺たち側からすると悪そのものにしか見えない男だったけど。悪を許容するのを通り越して楽しんでるようにしか見えない男だったけど。そもそも、女神(アテナ)への反逆自体が聖闘士としては悪だと思いはするけど。

 それでも、この男の裡にあるものが、この男なりの正義であったことは否定しない。

 冥界を覚えている。嘆きの壁の前に集った魂の煌めきを、何よりも尊い十二の輝きを、この世でたった一人、俺だけが覚えている。

 デスマスクの正義を否定することは、すなわち俺の記憶を否定することだ。

 ちょっと不安なのは、デスマスクの恭順は、本当に女神(アテナ)に対してか、というところだろうか。

 俺の目配せ一つで裏切ったりしないよな。信じていいんだよな。

 ……いや、俺が裏切らなければ、どっちにしても問題はない。そして裏切る予定はまったくない。

 一瞬かいた冷や汗を引っ込め、沙織さんにならって俺もにっこり笑った。おいこら氷河咳き込むな。どういう意味だよ、その表情。えらく複雑に歪んでるぞ。変顔選手権一位間違いない。

 

「星矢、笑顔のまま拳を固めるのはやめろ。ほどけ」





今回の分岐点は、黄金聖闘士の二人が膝を折るかどうかかなと思います。
折らなかった場合、星矢が無理やり二人の膝を砕きます。場合によっては頭も砕くので死亡イベ入ります。IFルート。

感想も楽しく拝見しております。ありがたいです。


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