竜腕ノ少女 (空の間)
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1- 言の葉

 

 

 

 

 誰もが踏み分けようとしない山々、果てしなく連なる山脈が雲や霧に見え隠れする、そんな山頂の一角。

 晴れた日ならば下界を見下ろすことも出来るが、生憎とその日は朝から空はその青さを覗かそうとしなかった。

 とはいえ雲の薄くなった切れ間から金色の太陽の光だけが山を照らす。

 

 そんな空を眺めるように上を向き、この山で唯一の水場に向かう少女がいた。

 とてもじゃないが人が住める環境ではないソコで、こなれたようにスキップしながらまだ雪が残る岩肌を悠々と飛び跳ねるように歩く。

 

 少女の名前はレレ。

 レレはこの山に住む唯一の人間だ。だが、その風貌は少女と言うにはあまりにも異様だった。

 伸ばし放題の緑の髪は足まで届きながら自由奔放に飛び跳ねており、髪と同じ色をした瞳は宝石のように爛々と輝き、小さなその体を包むのは山に住む白山羊の毛皮。

 

 靴など履いていないのに、いきり立った山を危なげなく飛び回る。彼女にとってこの山は自分の庭のようなものだった。

 レレはいつものように、水の湧き出る小さな水溜りを見つけると、そばに近寄り頭を突っ込んだ。

 小さいけれどレレにとっては充分すぎる深さの水中で目を開ける、ぶくぶくと口や鼻から気泡が飛び出していくのを見るのがレレは好きだった。

 貴重な水を飲みながらも、面白がって何度も繰り返す。

 

 だが、ふとレレは顔を上げ固まる。

 そのままの体勢で数秒だけ静止し、背後を振り向くと、物陰から二匹の狼が現れた。

 

 

「まーた来たのか」

 

 彼らはこの水を求めて来たのだろう。

 ここの水場以外となると、かなり山を下るか、少し特別な場所に行くしかない。

 必然的にここら辺に住む生き物は集まってくる。

 

 もっとも、ここで生きる生物と言えば、この季節にのぼってくるこの狼のような、ごく少数の動物達、そしてレレとその母親くらいだ。

 

 レレはニカッと笑うと狼達に襲い掛かった。本来、レレよりも狼のほうが生き物としての格が上、食べられてしまうのが正しい弱肉強食の世の中だ。だが、レレは狼の首にじゃれつくように首に手を回す。

 じゃれつかれた狼は鬱陶しそうになんとか抜け出そうとするが、面倒そうに吠えると、そのまま引きずって水場まで向かう。

 他の狼達も同様に、レレなど気にした様子もなくトコトコと水場に並びだす。

 

「こーらー。無視するなー」

 

 

 狼達は仕方なくといったようにレレにまとわり付く。

 彼らはレレにとって親戚の弟や妹のような存在で、彼らが生まれた時から見知った友達のようなものだ。昔からよくこの時期にのぼってきた狼達と遊ぶのはレレにとって数少ない楽しみの一つだった。

 

 レレはしばらく狼達とじゃれあったり駆け回る、昼を過ぎたあたりから小腹がすきこの辺りに実る木の実を取りに行く。

 垂直に近い崖を飛び降り、木にしがみついた。木の先のほうから、丸い手のひらサイズのオレンジ色をした木の実をもぎ取り、丸かじりにする。甘い果汁が水に溶けるように、ほんのりとした酸味が口の中で広がっていく。

 

 一通り味わうと、崖の上にいる狼達に木の実を投げ渡す。ここらへんに生息する狼は肉以外にも木の実を食べ、足りない水分を補充する傾向があった。

 レレにとってのおやつのような木の実をすべて食べてしまう訳にはいかないのでいくつかを残して崖をよじ登っていく。一つ間違えれば真っ逆さまに落ちて行きそうな崖をレレは危なげなくのぼっていく。

 崖を上りきると今度は鬼ごっこのように狼達と駆け回る。レレは太陽が沈むまで泥だらけになりながら遊びつくした。

 

 やがて狼達が群れに戻るとレレは一人になり、家に帰る。

 

 いつものように走って家へと向かう。レレの家はこの山のもっとも山頂に近い部分にある。

 その家には玄関などあろうはずもなく、ただのほら穴と言っても過言ではない。

 

「かー。レレ、帰ったぞ!」

 

 ほら穴を通り抜け、やがて大きく開けた場所に出る。そこは山の山頂とは思えぬほど美しい自然に囲まれていた。

 月明かりが湧き出す湖を照らし、草木が生い茂り、果物や食べれそうな野菜が幾つも見当たる。レレはまた果物をもぎ取り、一気に全部口の中に放り込み、ほっぺを膨らませ芯ごと食べてしまう。

 

 しかし、ふと思い出したように口をモゾモゾと動かし、れろーと舌を出して種を手に取り出す。そして、「てい」と言う掛け声とともに地面に人差し指と中指に挟んで地面に突き刺した。

 これでよし、と言うふうに頷くと、放任主義の母親を大声で呼びに行く。

 

「かー! レレ、帰ったぞー!!」

 

 叫んでもまだ寝ている母親に憤慨したレレは両手でぽかぽかと岩盤を叩く。

 すると、岩盤が割れ、その間からギョロリと目が見開かれた。

 

 突然のお目覚めにレレはおおっと驚くが嬉しそうに岩盤に張り付いた。否、岩盤に見えたのは強靭な鱗、その全てを圧倒するような瞳でレレを見つめる、それがレレの母親。

 

 彼女は巨大な竜だった。

 

 "かー"つまり母親と呼ばれた竜は首を重たく持ち上げると、クンクンとレレの匂いを嗅ぐ。

 

 そして、顔を離すと尻尾の先で薙ぎ払うようにレレを吹き飛ばした。突然の家庭内暴力に成す術なく宙をまい、湖に飛び込まされたレレ。

 湖の中で大雑把に体を洗って、顔を半分だけ水面から出したレレがスイーっと泳いでいく。

 "かー"のこの行動の意味するところをレレは良く知っている、最近ずっと体を洗ってなかったのが気に触ったのだろう。レレの顔は痛みを訴えるものとは正反対の嬉しそうな顔だった。

 

「もっかい! もっかい! ビューンってやって!」

 

 "かー"はレレを一瞥するがそのまま寝てしまう、その日レレが寝ようとする時まで"かー"が反応することはなかった。

 レレは日が完全に暮れたのを確認すると"かー"のそばに近づく。そして、いつも自分が寝ている一番温かい場所に陣取り寝ることにした。

 

「─────」 

 

 最近の"かー"は冷たい、思い出すとレレは寝床の中で「むー」と頬を膨らます。レレにとっては"かー"は唯一の家族だ、"かー"に冷たくあしらわれるのはレレにはなによりもショックなのだ。

 だが、以前はそうでなかった。レレが湖に入ると"かー"も一緒に入り水遊びをしてくれた。寝る前にいつも歌うような静かな声をだして寝かしつけてくれた。冬の寒い日には"かー"の体温で温めてくれた。

 

 なのに、最近では寝床ですら別にするようにレレを避け、一定の距離を保とうとしている。

 たった数メートル、レレにとってそれがどんな崖よりも深く感じられた。

 

 種族、単純に言ってしまえば、人間と竜。

 

 レレは自分が"かー"と違うことは自覚している。だが、ソレは『"かー"は大きくて凄い』とその程度のもの。

 互いに口を開けば何をしたいかは自ずと理解できるが、言語を用いた会話が成立したことなどない。

 それは、生体器官が人と竜では違いすぎ、出せる音の周波数があまりにも違うのが原因なのだが、レレがそれを理解できるはずも無い。

 成長するにつれて、レレは"かー"のようにはなれないことを薄々と理解させられていくのだ。

 それでも、レレはその時、自分が"かー"から生まれてきたのだと信じていたし、"かー"のような立派な竜になることがレレの夢だった。

 

 

 

 *

 

 

 

 朝日が差し込むとレレは自然と体が目を覚ます。もそもそと枯れ草でできた寝床から這い出ると、眠気まなこの顔を冷たい湖につける。

 早朝の湖は冷たくレレの全身に鳥肌を立たせ意識をはっきりさせた。

 

 巣の中を見渡すと"かー"はまだ眠っていた、どうせ目を覚ますのは期待できない、最近では一日中寝てることもある。レレは黙って外に出ることにした。

 

 その日は久しぶりの快晴だった。空には雲ひとつない青空が広がり、大地には壮大な山々が連なり、その先には緑の森が続いていた。

 見るものが見れば感動に打ちひしがれるような光景でも、レレに取っては何気ない朝の一つにしかすぎない。

 朝日を浴びて大きく伸びをしたレレは、久しぶりにかなり下まで降りてみることにした。

 

 

 昼を過ぎた辺りだろうか、昔はここまで探検しにくるのに丸三日かけ、帰り道がわからず迷った挙句、助けにきた"かー"に絞られた嫌な思い出があった。

 それでも、つい来てしまうのだ。

 

 レレは崖の上からひょっこり顔を見せる、その一つ離れた山向こうには小さな集落が存在した。

 山肌に作られた村、木製の家々が立ち並ぶ間を小さな点のような人が動いている、それを見ると嬉しくなってレレは耳を澄ます。

 

 小さな子供たちが村の真ん中に集まってキャッキャッと遊んでいる声が微かに耳に届く。レレはそれを嬉しそうに眺めるが、すぐに羨ましそうな顔に変わり、そこから動くことは無かった。

 

 数年も通えばレレには彼らの言葉がそれなりに理解でき、口にすることもできるようになった。

 レレは昔、普段は無口な上に言葉の通じない"かー"も彼らの言葉なら通じると思っていた。尤も、その結果は徒労に終わったわけだが。

 レレにとって"かー"との会話はとても重要な課題で、今でもその課題は継続している。

 

 どれほど、そこにいただろうか、レレは子供たちが帰っていくのを見ると、自分も山を登り始めた。

 いつものように手際よくレレは登っていき。レレは少し日が暮れてから巣についた。

 

 レレは中に入ると目を見開いた、珍しく"かー"が起きている。

 差し込んだ月明かりに包まれるように、直立不動でレレを見ていた。

 

「かー!」

 

 嬉しそうにレレは"かー"に近寄っていく。

 それを見た"かー"は尻尾をレレの前に出す。レレは嬉しそうにソレに馬乗りになる。だが、"かー"は一向に動かそうとしない。

 

「どうした? かー?」

 

 レレが首を傾げると"かー"は何かに反応し、レレをそっと顔に近づけた。

 レレの身長と同じくらいの大きな瞳が、美しい鏡のようにレレを映しだす。

 どこまでも澄んだ水のごとくレレを見つめていた。

 

 思わずレレはその瞳に見惚れてしまった。

 

 

 どれほどたっただろうか、"かー"は目を閉じ小さく呟く。

「レレ」

 

 短く、竜の口でも発する事ができる二文字の音。

 

「──────」

 

 そして寝る前にいつも言うあのよく分からない言葉。

 レレは”かー”が何を言いたいのか理解できなかった。それでも、いつもと違う、という事は理解できた。

 だからこそ。

 

 いきなりレレを投げ飛ばす。突然、湖に飛ばされた。レレはどうして"かー"がそんな行動に出たのか理解できなかった。

 いつもと違い、容赦なく突き落とされた水の中でレレはもがき苦しみ、なんとか泳いで水辺にたどり着く。

 

「かぁ……ッ!?」

 

 いきなりのことで憤慨したレレは"かー"に問い詰めるように振り向いた。

 だが、そのままレレは固まってしまう。

 

 獰猛な獣の瞳。

 明らかな敵意。

 ありえないはずの殺意。

 

 レレの喉から出るはずの声がかすれ、震えていた。

 

「……か……ぁ?」

 

 レレの全身が凍りついたように動かなくなる。

 圧倒的な"かー"の巨体がレレを見下ろすように睨んでいた。

 今まで見たことも無かった"かー"の姿に、レレは心臓を鷲掴みにされたように息が苦しくなる。

 

 そして、"かー"はレレの目の前で凄まじい咆哮をあげた。

 全身が痙攣し、鼓膜が破れるのではないかと言うほどの大音量が大気を振動させる。その余波で湖は波打ち、岩盤は揺れ動く。

 

「ヒッ……!?」 

 

 あまりのことで理解できず腰をついたまま、後ろに下がろうとしたレレは突然、左の腕が熱くなるのを感じた。

 それが理解できず、レレはすぐ近くにある"かー"の牙に右手で触れる。何故かそこからは赤い液体が漏れ出している。

 右手の手のひらを見ると、少し粘り気の薄く赤い液体がべっとりとついていた。

 

「……っぁ? ……ぁあああ」

 

 意識もしていないのに漏れ出す自分の声。

 何が起こっているのか、どうしようもなく理解できない。

 

───何故?

 

───何故自分の左腕が"かー"によって噛み砕かれているのか。

 

 

「ぁぁああぁぁっぁあッあああああああ!!!」

 

 

 殺される。

 レレの中にある生存本能が急激に脳内を埋め尽くし、震える体を動かしていた。

 叫びながら走る。

 失禁しそうになるのをこらえ。見慣れた"家"から逃げ出す。

 岩肌を転げ落ちるように下った、痛みが収まらない無くなった左手の傷口を右手で抑えながら。

 

「……かー!! どうっ……して!?」

 

 そこにはいない母親に対して叫んだ。

 理不尽な暴力に対しての憤りを、理解できない不満を、強烈な痛みに対しての絶望を。

 

 やがて血を失いレレは動けなくなった。

 うつ伏せになりながら涙を流し、嗚咽と共に呻く。

 

 だが、血を流していたはずの傷口は燃えるように熱を発し、右手を近づけさせようとせず、まるで傷口が体内に侵食するかのような痛みがレレを襲う。

 

「かー……っ……痛いよ! ……苦しい! ……助けてよ……っかぁぁあああああああああ!!!」

 

 必死に母親に助けを求めるが、ソレに答えてくれる相手は何処にもいない。

 いつも、ピンチになれば飛んできてくれる"かー"。

 優しく包み込むような温もりを与えてくれた"かー"。

 

 だからこそ、"かー"が与えたこの激痛はレレにとって、精神的にも肉体的にも強烈な痛みを与えた。

 "かー"は自分の左腕を食べた。

 自分は"かー"にとって不要になったのかもしれない。

 

 

───裏切られた。

 

 

 言葉は知らないがレレは初めてそういう行為があることを察し、絶望した。

 

 もはや流す涙が絶え、叫ぶ声も枯れた頃、

 レレの意識は闇へと落ちていった。

 

 

 

 *

 

 

 

 それを夢だと理解していた。

 

 幼いレレと"かー"、夢の中で二人は楽しそうに遊んでいる。

 太陽のように優しく温かい"かー"。彼女はレレの全てだった。

 誰よりも信頼し、愛していた。だからこそ、"かー"のようになりたかった。

 

 いつまでも続いて欲しかった夢、だが、それも終わりが近づいている。

 "かー"がレレの顔に近寄り、口を開く。

 

「─────」

 

 夢の中ですらその言葉を理解できなかった。でも、いつも寝る前に"かー"の言う言葉。

 

 まどろみの中、レレは自分の意識が覚醒したのを感じる。誰かが頬を舐めていた、それは知っている感触だった。

 あの狼達の舌だ。

 

 だが、レレは目を覚ましたくは無かった。

 夢の中なら"かー"は優しくしてくれるかもしれない、そんな安易な希望がレレの心を支配していた。

 

 それでも、狼たちは執拗にレレの頬を舐めて起こそうとする、鬱陶しくなりレレは"左腕"で狼の顔を離す。

 レレは飛び起きた。

 

 今までのはずっと夢だったのかもしれない。

 何故ならそこに失ったはずの手の感触があった。

 

 しかし、レレは目を開けて自分の左腕を見た瞬間に愕然としてしまう。

 そこにあったのは鱗に包まれた腕、尖った爪、それはまるで竜のような左腕だった。

 

 戸惑いながらもレレは辺りを見回し、そして目の前に広がる光景に息をするのを忘れてしまう。

 狼を始め、鹿、兎、ヤギ、鳥それ以外にもこの辺には見慣れないはずの生き物達。

 

 空は夕暮れになり、彼らの影を長く伸ばしていた。

 

 本来、交わるはずの無い草食動物と肉食動物がそろって一心不乱に山を登っていく。レレを起こした狼たちもレレが起きたのを確認するとその中に溶け込んだ。

 

 幻想的な風景に目をとらわれるも。いったいどういう事かレレにはわからなかった。

 だが動物たちが向かうその先、それはレレの家がある方向。理解すると同時にレレは駆け出した。

 足を必死に動かして"かー"の元に。

 

 家の前で動物達は止まり、頭を下げていた。

 

 走る足の一歩一歩に岩が乗ったように重く、レレは感じた。

 

 やっとの思いでレレは自分の家に入る。見慣れた家のはずなのに、いつもとはまるで雰囲気が違う。

 そこには季節外れの花が咲き乱れ、太陽の光が差し込んだ先に"かー"が寝ていた。

 

「かー?」

 

 いつものように、寝ていた。

 レレは安心して"かー"に近づき怯えながらもそっと触れる。

 

「……え?」

 

 ぞっとするほど冷たい。

 言葉にできない激情がレレを襲った。

 

 "かー"はいつもと違う。そう感じた。

 

「かー!! 起きてよ! かー!!」

 

 レレに取って彼女は凄く大きくて、凄く強い絶対的なもの。

 だからこそ、レレにはすぐに理解できなかった。

 

「起きて! かぁー──!!!」

 

 

 彼女が死んだと言う事を……。

 

 

 血が流れていない生き物がどうなるかレレは知らないわけではない。

 理解すると放心したようにレレは尻餅をついてしまう。

 

 見ると動物たちが"かー"に頭を垂れていた。レレには理解できなかった、何もかも。

 

 あまりのショックで"かー"以外のものが目に映らず、入ってくる音が全てなくなったように感じた。

 だから、その声が聞こえたのも偶然にすぎない。

 

「お前が……レレか」

 

 動物の中に"かー"よりも一回り小さい竜が混ざっていたのだ。

 

 驚いたようにレレはその竜に目を向ける。

 だが、一目見て”かー”でないと解ると。

 すぐに興味を失い"かー"に目を戻してしまう。

 竜も気にした様子もなく続けた。

 

「80の月が欠けるほど会っていなかったが、我は"ソレ"の息子だ」

 

 多少の反応は見せたがレレはすぐに目を戻してしまう。

 そして、震えた声がレレから発せられる。

 

「かー……は? かー……はどうなったの?」

 

「死んだ」

 

 竜は短くそう言い切った。

 レレが取り戻した感情を抑えられたのはそこまでだった。

 

「どうして!? どうして、かーは死んだの!?」

 

「……寿命だ。"ソレ"は己の死が近いことを知っていた。お前を育て始めたのも……死期を悟ったが故の道楽みたいなものだったのだろう」

 

「……嘘」

 

 口では呟いていたが、レレはどこかで納得してしまう。

 

 数年前から、レレは"かー"が飛ぶのを見たことがなかった。

 最近ではほとんど動こうとせず、何かをじっと待っているようだった。

 

 レレは唐突に理解してしまう、彼女が待っていたものは死だったのではないかと。

 だとしたら昨日、最後に見たアレはなんだったのか。

 

 

「その腕は大事にしろ……。"ソレ"の腕だ」

 

 言われるまで、まったく気付かなかったが"かー"の大きな腕が無くなっている。

 

「我ら水を司る竜の秘術。尤も、我も始めて見たがな。よほど"ソレ"はお前を気に入っていたようだ。自分の寿命を減らして……さらに、己の腕を託すほどに」

 

「じゃあ………。これは……この手は……かー…の?」

 

 レレの声に、竜は静かに頷いた。

 

「この声が聞こえるのも、その恩恵のようなものだ」

 

 知っていたのだ。

 "かー"はレレが竜になりたいと言うことを。

 そして、自分のいなくなった後もレレが生き残れるように。

 

──でも、

 

「……違う……違うよ……かー」

 

 レレが竜になりたかったのは、"かー"の言葉を聞きたかったから。

 "かー"と話がしたかったから。

 

「かーがそんなんじゃ……話せ……ないよ」

 

 レレは"かー"に抱きついて泣きじゃくった。

 一晩かけて泣き果たしたと思っていた涙はどこまでも止めどなく溢れだしていた。

 

 泣きながらレレは夢を思い出した。

 

 夢の中、最後に聞こえた言葉。

 

 

 今ならわかる。

 

 

 寝る前にいつも"かー"が言ってくれたその言葉。

 一日中寝ていても、レレが寝る前にはいつも起きて呟くその言葉。

 ”かー”がレレに一番、伝えたかった言葉。

 世界で最も陳腐で、誰もが誰かに伝えようとする言葉。

 

 

「──愛している」

 

 

 それが"かー"からレレに送られ続けていた言葉だった。

 

 

 

 

 

 



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2- 孤独

 

 

 

 月は綺麗な真円を描き、その光で"かー"を照らしていた。

 レレは洞窟の隅に座り、銅像のように固まっている。

 

 "かー"が死んですでに3度、日が登り、沈んだ。

 その間、レレは見ず知らずの動物たちが"かー"に頭を下げていくのをじっと見つめていた。

 角の生えた馬や、羽の生えた白狼など、見るからに気高く美しい動物ですら一礼していく。中には"かー"のように大きな竜すらいた。

 

「"ソレ"は我らの中でもさらに特別な存在、水守だ。水守はこの大陸で住む生物にとって敬愛され畏怖される。なぜなら、獣ならば生まれた時から水をすすり育つ。その水を辿れば全てここにたどりつく。そして、水守がここで水を生み出し、彼らに与え育ててきた。我ですら感知できないほどの気が遠くなる年月の間、ずっとだ」

 

 レレの隣で蹲るように見ていた竜が"かー"を見て言う。

 "かー"の息子だと言う竜だ。

 

「その返礼に来るのは本能的なものにすぎない。野に戻ればここでのことなど忘れ、また、互いに血を流すだろう。それでも、ここで争うことはない。親に対して礼を尽くせるほどの知性なき生き物ですらな……ただ一種、人間を除いては」

 

 本当の意味で竜の発言にレレが耳を傾けたのは、その言葉からだった。

 それまではずっと右から左へと聞き流していただけで、"かー"に関わる以外の一切を耳にしようとしなかった。

 そんなレレが初めて、自分から疑問を抱いた言葉。

 

「人……間?」

 

「そう。レレ、お前らのことだ。人間。利益を求める獣の子よ……まさか自分が"ソレ"の腹から生まれてきたなどとは思っていまい」

 

「知るもんか……”かー”は私の”かー”だ」

 

 そっぽを向こうとするレレに、竜は言葉で縛る。

 

「育ての親と言うのならその認識は間違っていない。だが、生みの親と言う意味ならば間違っている。"ソレ"はお前を産んではいない。"ソレ"は生まれてすぐのお前をこの山で拾い、育てただけだ」

 

 自分の出生にレレは驚きはしたが、臆面にはみせずむっとした無言で返した。

 確かに言葉が伝わらないから面と向かって言われることはなかったが、レレがどれほどの時を費やそうと"かー"のようにはなれないことは普段の生活から身にしみていた。

 どれだけ腰を引っ張ろうと尻尾は生えなかったし、口を大きく開こうと牙は伸びなかった。時がたてば、と言う淡い希望もあったが、心の底ではあまり期待していなかったのかもしれない。

 実際には、レレにとって"かー"の事の方が重要すぎて他のものに対する感情が鈍っていただけだ。

 その反応につまらなそうに竜は鼻を鳴らす。

 

「しかし、"ソレ"も水守でありながら特異なことをしたものだ。本来なら人の子など見捨てればよかったものを……」

 

「”かー”はお前とは違う」

 

「無論、お前ともな」

 

 未だに泣きはらした跡を残す顔でレレは竜を睨ままつけるが、そんなもの、どこ吹く風と竜は受け流す。

 その間も、また一匹、また一匹と動物達は頭を下げて出て行く。

 やがて、一番後ろにいた燃えるように赤い鳥が"かー"に頭を垂れ、空へと飛んで行った。

 

「これで、最後か……」

 

 今まで途絶える事のなかった足音が無くなり、洞窟にはレレと竜だけが残された。

 

「お前は、これからどうするつもりだ?」

 

「……レレは、かーと一緒にいる」

 

「無理だ。ここは水守が死んだ事で加護を失っている、この花が枯れる頃には雪に閉ざされるだろう」

 

 水守に守られ加護の対象として扱われた今までとは違う。

 これからは、大自然の掟に従い、水守ではなく雪がこの山の水源となり、大地へ水を流す。

 けれど、水守がいるのといないのとではまったく違う、水守がいないしばらくは大陸全土で水害が多発することになる。

 尤も、それも一時のこと、数年もすれば新しい水守が選ばれ、また別のところに水源を作りだす。

 その頃には水守の役目を終えた"ソレ"は、とっくに山と共に雪に埋もれ、時と共に忘れられている。

 

 そんな事を考えながら竜はレレは話半分に聞き流していたのを見て、呆れたように呟く。

 

「もって月が欠けきるまでだ、そうなれば人間が生きるのは難しくなる」

 

「……関係ない。レレは”かー”といる」

 

 体を小さくして目の端に涙を浮かべ、レレは動こうとしなかった。

 ここ3日ほど何も食べてはいない、竜は人間の子どもがくだらない意地を張っているのだと、深いため息をついた。

 

 思えば"ソレ"がこんなものを育てていると言い出した時にも竜は理解に苦しんだ。人間と言えば、礼を知りながら礼を忘れ、言葉を用いながら殺し合う、そんな生き物だ。

 最後に会ったとき"ソレ"に頼まれでもしない限り、本来この竜はレレに関わるつもりなどなかった。だからと言って、"ソレ"のようにレレの面倒を見続けるつもりなど毛頭ない。

 なんとか理由をみつけて下山させれば、後はお互い干渉などしない余生を送る。

 そうタカをくくっていたのだ。

 

───その時は。

 

「無理だ。……死ぬぞ」

「うるさい! お前なんかどっか行け! どんなことがあってもレレは、”かー”といる!!」

 

 レレは叫びながら竜の方に手を振り払い、追い返そうとする。

 けれど、図体が違いすぎる上に生きてきた年数の桁が違う竜にとって、その程度でむざむざと引き下がる選択肢はなかった。

 

「"ソレ"とて、お前が山を降りることを望んでいるはずだ」

「黙れ! かーはお前とは違う! レレも知らなかったお前に、”かー”が望んでいることがわかるはずが無い!!」

「確かに"ソレ"の考えは理解しにくいものが多い。しかし、わざわざ心中して貰うためにお前を育てた訳ではなかろう」

 

 言葉に詰まったレレは俯いてしまう。

 

「……”かー”の元からいなくなったくせに。……”かー”が死んでから帰ってきたくせに。”かー”はいつも寂しがってた! レレがいないときは、いつもお前が来ないか空ばかり見てた! ……お前がいなかったから……”かー”はレレを育てたんだ!!」

 

 レレの叫びに竜は初めて首を上げ、吠えていた。

 

「竜とは孤独なものだ! 常に孤高の存在たるもの! お前らのように群れで生きるモノの目で測りきろうと思うな!!」

 

 

 その圧力は"かー"の迫力に勝るとも劣らないものだった。

 睨みつける眼光は鋭く、殺意こそないがその気になればレレを踏みつぶすことぐらいたやすいはずだ。

 

 だが、レレは"かー"の時のように腰が引けたりはしなかった。

 それどころか、竜を睨み返し、叫ぶ。

 

 

「なら、早くここからいなくなれ! レレは"かー"と死ぬ!! お前は孤独と死ね!!」

 

 竜は始めてレレが意地や戯言ではなく、本気で死のうとしていることに気がついた。

 気がついたが、そこまでだった。

 どうせ、実際に冬の寒さがくれば心が折れて山を降りるだろうと竜は考えた。

 

「…………好きにするが良い」

 

 だからこそ、竜はそれ以上レレに踏み込もうとしなかった。

 何度も説得はしたし、すでに義理は果たしたはずだ。ここで死ぬのもレレの勝手だと見切りをつけたのだ。

 

 翼を広げ、空へと羽ばたき洞窟から飛び去っていく竜をレレはずっと睨んでいた。

 レレにとって、その竜はずっと夢見た姿そのものだったからだ。

 

 "かー"と話すことができ、"かー"と一緒に空を飛べ、"かー"に愛されていた。

 それなのに、あの竜は孤独を選んだ、それが獣の在り方だとしても、レレは空の彼方へと小さくなる竜に憤りを感じずにはいられなかった。

 

 

 

 *

 

 

 

 広大な密林のさらに奥深く、そこは様々な生き物が住みながら強者と曲者が大半を占める混沌とした森。巨大な木々を見下ろすように竜が翼を広げ空を飛んでいた。

 

 その眼下には猪が走っている、竜は獲物を追いかけているのだ。

 だが、空を駆ける竜と、森を駆ける猪。猪が川へと向かった時点で勝負はついていた。森でならば身を隠すことができたが、川に足を取られ速度を鈍らせた猪に、上空から舞い降りた強靭な牙と爪を持つ王者に抗う術はなかった。

 

 猪は必死に暴れまわるが、水を跳ねさせるだけで強者からの致命傷を避けることはできない。川は血で赤く染まり、その匂いにつられおこぼれを頂こうと群がる肉食の魚や獣達が来る頃には、両者の影はそこから消えていた。

 

 竜は巣に戻り食事を済ませると、うつ伏せになるように尾を丸め、土に頭をつける。

 だが、何かを感じたように、ふと首をあげた。そこには巨大な木々の間から、雲間に隠れるように有明の月が鈍く光っている。そして、地平線の先には濃い雲がかかり雪が積もり始めた山脈が見えた。

 

 すでに、あの日から幾つもの日輪と月輪が交互に空を跨いた。

 

 本来、今を生きる獣に過去など不必要なはずだ。それなのに、竜が眠りにつこうとすると、瞼にはあの日出会った少女の顔が焼き付いていた。

 

───レレ。

 

 竜が口にできる中で最も人間の発音に近い言葉の連なり。

 竜に名前という概念は存在しない、人に飼われた下等な飛竜ならともかく、野生の竜同士が交流するのは数十年に一度あればよいほうで、幼い頃に教わった言語とてめったに使う必要がないからだ。

 だから名前などつけても誰も覚えようとはしない。

 

 それなのに、"アレ"は自らあの少女にレレという名を与えたという。

───……まるで人間の親子のように。

 

 竜はその日もまた頭を悩ませた。

 どうして、あんな年端のいかない少女が自ら命を断つような真似をするのか。

 何が彼女にそうさせるのか。

 

 どうして、"アレ"は寿命を減らしてまで、左手を与えたのか。

 わからない。

 いや理解できない。

 長い時を生きる竜の感性は刹那を生きる人の感情とは違う。

 

 それを理解して尚、思想の困惑と迷走が竜の眠りを妨げていた。

 そんな時、自分の体に小さな水滴が落ちてくるのを感じた。それは段々と多くなり連続的にポツポツと落ちてくる。

 

 雨。

 先程まで見えていた月はすっかり雲に隠れ、通り雨はあっという間に勢いを増していく。

 竜の体から雨が地面に滴り落ちていった。

 ここらへんで決して珍しいものではない、いつもなら気にせず寝ていられる程度のはずだ。

 それなのにその雨は竜の身に冷たくしみていく。

 

──あの人間の子は大丈夫だろうか。

 

 唐突にそんなことを考えてしまう。

 この竜が誰かを心配するなど初めてのことだった。

 それも見捨てたはずの無関係な人間の子を。

 

 雨音が竜の心臓を走らせ、水滴が思考を留めさせない。

 竜は目を開き、雨が落ちていくのを見ると、その心は何故か穏やかでなくなっていった。一度抱いてしまったその不安はどんどん大きくなる。

 

 そして、無性に耐えきれなくなった竜は翼を広げていた。

 翼を羽ばたかせ、地を蹴り、雨が落ちてくるその空へと舞い上がる。雨粒が体で飛び跳ね、目に入り視界を歪ませようと、竜は猛スピードで飛んでいた。

 風を切る音と水を弾く音が響きあい、雲の隙間から雷がこだまする。

 

 何度も翼を羽ばたかせ、風に乗る。

 何時間も空を飛び続け、竜はレレのいる山脈にたどり着いた。

 

 だが、それは想像していたよりも遥かに大きな雪雲が山脈を覆っていた。中では吹雪になっているだろう。

 竜といえどその中に飛び込むのは危険だ。

 空を行くものなら誰も知る自然という名の大きな壁。それでも、竜はその中へと飛び込んでいた。

 空気が薄くなる限界まで高度を取り、この山脈で一際高い山頂を目指す。

 

 雲が視界を封じ、中途半端に凍りついた雨が鱗に張り付く。

 視界に頼れない感覚でのみの飛行、どれほど危険で無謀かは言うまでもない。

 

 それでも、ひたすらに竜は前に進んだ。

 何が自分をそれほど駆り立てるのかすら理解できなかった。

 

 それでも、盲目的にレレのところへと目指す。

 

 

 暴風に襲われ吹き飛ばされそうになるのを堪え。

 石のように降り注ぐ氷に我慢し、ひたすらに翼で体勢を整える。

 

 百年も昔、まだこの山で"アレ"と飛んでいた感覚を掘り出し、荒れ狂う空を飛ぶ。

 まるで、母がそうしたように……。

 そう思うと嫌でもその時の記憶がよみがえる。

 

 自分が幼かったころ、我侭をいい母の言うことを聞かず天候の悪い空に飛びだした。

 その時は山の天候を理解していたつもりだった。

 だが、全く理解していなかったのだろう。水守の加護があったとはいえ、季節によってはこれくらいの嵐は起こる。

 

 唐突な暴風に小さな体が耐えきれるはずもなく、墜落しそうになるのを必死に堪えていたが、怖くて仕方なかった。

 雨が身に染み、後悔を促す。涙か雨粒かわからないものを流して空を飛ぶ。

 翼はいつ落ちてもおかしくないほどに震え、恐怖で体が凍ったように感じた。

 

 だが、そんな恐怖から助けてくれたのは母だった。

 小さな自分を口で器用に挟み嵐の空を飛び、巣へと返してくれた。

 あの温かさは今でも忘れることができない。

 

 そんな、感傷に浸っていると唐突に吹いた強い風に体勢を崩してしまう。

 だが、何故かその時の母の姿と今の自分が重なった気がした。

 巣に戻ろうとする前に母がわざと体勢を崩したように、この山の山頂には独特の風が吹くため一度体勢を崩しながら風に乗り巣へと戻るのだ。

 

 だから、それは偶然にすぎない。

 雲の切れ間から、雪に埋れている大きな洞窟を見つけた。

 間違いなくそこは母が住んでいた巣だ。竜は記憶の中にある母がそうしたように迷わず飛び込んでいた。

 

 

 今でも中には水守の加護が残っているのか、そこまで強い風は吹かず、雪がしんしんと降り積もっていた。

 母の死骸は半分以上が雪に埋もれ美しかったころの見る影を失っている。

 咲き乱れていた花は雪に埋もれ、木は雪の重みに耐えきれずいくつも折れていた。

 湖は凍り付き、雪がつもっている。

 一面が白く変わり果てたそこに、外から来る豪風だけが音を反響させていた。

 

 すぐに、竜はレレの姿を探し始めた。

 だが、どこにも見当たらない。

 最後にレレを見た部屋の隅には屋根があり、あまり雪が降り積もっておらず探す場所も無い。

 まさか水の中で死んだのかと思い、湖の氷の中を見たが、見つからず安堵してしまう。

 

 もしかして、寒さに耐えきれなくなり山を降りたのかと考えたが、今になって最後に見たレレの瞳が力強くそれを否定した。

 同時に記憶にあるレレの口からその言葉が発せられる。

 

「レレは"かー"と死ぬ!!」

 

 自然と竜は母の亡骸の下に目がいった。

 昔、自分が使っていた寝床。今も変わらずに使っているのだとしたら。

 祈るような思いで、覆いかぶさるように雪のつもった母の翼を口で掴みゆっくりとどける。

 

 そこには、小さく自分の左腕に抱きつくように、倒れている少女の姿があった。

 見るからにやせ細り血の気は失せ肌は青白い。

 死んでいるのかとも焦ったが、か細く白い息が口から漏れ出している。

 

 なんとかレレは生きていた。

 

 けれど、本当にレレは母と共に死ぬ気だったと、今更ながらに竜は痛感した。

 だが、考えれば至極当然だろう。ほとんどの生き物が住めないこの山奥で、レレにとって"かー"の存在は世界の唯一にして全てだ。その"かー"が死んだことによって、レレの生きる意味は失われたに等しい。

 

 それを獣として育ち、本能で巣立った竜に理解できなかったのはある意味仕方がない。

 だが、母は何年も前からそれを承知していた。

 だからこそ、生きて最後に母を見たのは一年程前、死期を悟ったのか自分にレレを頼みにきたのだ。

 竜は母がいつか死ぬだろうと思っていたが、心の何処かでもっと先だろうと考えていた。その母の頼みも話半分程度にしか聞いていなかった。

 

 唐突に竜は後悔に襲われる。

 自分は息子としての義理も母の頼みも、どれ一つとして果たしていなかったと。

 

 

 竜はレレをくわえ、舌でその折れそうな体を押さえると、大空へと飛びたった。

 母が自分にしたように自分がレレを助けるために、嵐の中へと。

 

 

 



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3- 少女と竜と爺

 

 

 

 レレにとって"かー"の存在は絶対だった。

 

 だからこそ、竜と相対した時、一つだけ顔を背け答えなかった質問。

「わざわざ心中して貰うためにお前を育てた訳ではなかろう」

 そんなことは、レレにだってわかっていた。

 

 自分が死んだとて"かー"は喜ばない。

 雪山で取り残されたレレはどれだけ"かー"の側によろうと、死んだ"かー"に近づけば近づくほど、その心が遠く離れていくのを感じていた。

 

 意識を失う直前にレレに残されたものは言い知れない孤独。

 

 全身に力が入らず自分の寝床に倒れこんでしまう。

 それでも、レレに山を降りればよかったと言う後悔はなく、同時に彼女が手放しで生きていけるほどの希望もなかった。体が凍え、意識が朦朧としていくなか、レレの胸には最後に会った竜のことが引っかかっていた。

 

 自分とは、真逆に生き、初めて会話をした竜。

 その存在はどこまでも憧れに近く、その心はどこまでも憧れから遠い。

 

 初めての会話があんなものだったなんてと落胆する中、どこかでもう一度誰かと話したいと思ってしまう。

 訳が分からない涙がこぼれ落ちて、肌を降り切る前に凍りつく。

 ピリピリと痛むがそれを取る腕すら動こうとしない。

 

 血が固まり、神経が麻痺していく。そんな状態になっても生命が生まれた時より、どこかで死を恐れるように、レレは極寒の山中でひたすらに死の訪れを恐れてた。

 

 視界がぼやけ。

 雪に閉ざされる。

 

 そして、レレは何かに包まれるのを感じた。

 

 

 *

 

 

 暖かい温もりが漂う中、レレの目がゆっくりと開かれる。

 初めにレレの視界に映ったのは、木でできた天井。やがて、それは熱を発していた暖炉へと向けられた。

 そこは古ぼけた小屋のような造りをしていた。

 とはいえ小奇麗に整えられた食器棚、床には上品な絨毯がしかれ、中央に佇む机には住む人のセンスの良さが伺えた。

 

 その隅に大きめに作られた木製のベッド、そこにレレは寝かされていた。

 レレは自分がどうしてこんな所にいるのかわからなかった。

 状況を理解できずキョロキョロと辺りを見回しては首をひねる。山では見たことの無い整えられた家具。

 びっくりするほど柔らかい寝床を叩くと枯草とはまるで反動が違う感触が返ってくる。そのベッドの骨組みに使われている木は滑らかで触り心地のよく。

 どれもレレの幼い好奇心を呼び覚ますには充分すぎるものばかりだった。

 

 毛布を覗き込んで、どうしてこんなに柔らかいのか探ってみるが、それが何故そういう形をしているのかもわからない。

 諦めて他のものに注意がいく。

 体のあちこちが痛むので注意深く床に降りると、植物を描いた絨毯の模様が気になり指でたどってしまう。やがて机の足の部分にまでつくと、その繊細な彫刻に目を奪われた。

 手に触れて見ようと思い、そっと手を伸ばそうとしたところで、レレは何かが近づいてくる気配を感じた。

 

 上半身を向けて傾けて、気配を感じた方にレレは意識を集中させる。

 聞いたことの無い土を歩く固い足音。小枝が折れると共に、湿った葉を掻き分けている。

 体格は自分よりも上。

 敵意は感じなかったが、レレはその足音の主に警戒し、扉の前でいつでも動ける体制を取った。

 

 ドアの前に小さくかがみ、右腕を軽く引いて呼吸を整える。

 そして、扉が押し開かれる。それと共に、レレは襲いかかった。

 

 殺すつもりはない。

 ただ、抑えつけてここが何処か聞くつもりだった。

 

 しかし、気づけばレレは床にうつ伏せの状態で組み伏せられていた。右腕を掴まれ背中に強い圧迫感が乗せられる。

 

 なんとか相手の顔を見ようと、顔を見上げた瞬間に驚いてしまう。

 伸ばし放題の白い髭と髪、深く刻まれた皺。明らかに衰えが見える肉体、けれど、目だけは若々しく輝いていた。

 レレを組み伏せた老人は息を軽く吸い込むと。

 

「この! 戯けめが!! いきなり人に襲いかかるとは何事かっ!!」

 

 耳の芯まで届くような轟音でレレを一喝する。

 今まで、直接的な叱りを受けたことの無かったレレはどうしていいかわからず。口を開けて驚いてしてしまう。

 老人はレレが放心したのを確認するとゆっくりと腕を離す。

 

「まったく、いきなりあいつが小娘をくわえて飛んできたと思えば、その小娘は助けてやった礼の一つも無く襲いかかってくる無作法者とは」

 

「……あいつ?」

 

「竜だ。多少、縁のあるな」

 

「かー!?」

 

 レレは自分を助けてくれる竜がいるのなら、それは"かー"以外には思いつかなかった。例えそれが死んでいようと、どうにかして自分を助けたんだと言われれば信じただろう。

 いきなり叫びだしたレレに呆気を取られる老人。彼は今までこんな立ち直りの早い人間は知らなかったが、子供とは少なからずそういう所があるかと嘆息する。

 

「かー? あの竜のことか」

 

「そう! かー! かーは何処にいるの!?」

 

「竜なら表にいる。それよりお前の足は凍傷の治療中だ、まだ外には……」

 

 老人は言葉を言い終える前に扉を開け放つ音が聞こえた。

 まさか、裸足で外に出るとは老人の計算外だった。老人は皺の間にしっかりとしたこめかみを引くつかせ、苦笑いを浮かべた。

 

「あの、ガキャァ……」

 

 

 外に出たレレはあたり一面に育った背の高い針葉樹林に目を瞬かせていた。

 レレにとって始めて見る光景、ある意味、箱入り娘として高山で育ってきたレレには緑に満ちた森は新鮮だった。

 

 けれど、すぐに自分の行動している理由を思い出し、辺りをキョロキョロと見回す。

 そして小屋の横手に座り込む巨大な竜の背中を見つけた。レレは喜び勇んで叫びだしそうになるのを堪えながら、竜に走って近づいていく。

 しかし、その足が竜まで届くことは無かった。

 距離が近づくにつれてレレの顔が歓喜から落胆に変わり、足どりは重く、最後には竜のすぐ側で止まってしまう。

 

「……お前」

 

 レレの言葉に無言で首をあげる竜。

 自分を助けた竜と言うのはこいつしかいない。だが、そんな物は素知らぬ顔で振り向こうとするその白々しさにレレは腹がたった。

 そしてところかまわず叫んでしまう。

 

「お前か……なんで!? なんで私を助けた!!」

 

「母にお前を頼まれたからだ」

 

 何事もなくそう言い返す竜、だが、レレの鬱憤がそれで収まるはずがない。

 レレは大きな瞳で毅然と竜を睨みつける。

 

「頼まれた? ……かー……に。でも、レレはどんなことがあってもかーといるって言った!」

 

「……お前の意志など関係ない。我は母に頼まれたからお前を助けた。そして、母はお前を死なせたくなかった。その結果、お前を助けることになった。ただ、それだけだ

「でも……! ……ずるいっ」

 

 "かー"を引き合いに出されてはレレに言い返すことができない。

 

「ずるくても、卑怯でも構わない。どれだけ罵られようとも、我はお前を死なせたりはせん」

 

「お前は最低だ! 卑怯者! ろくでなし! 甲斐性なし! 駄目息子! ……」

 

 涙ながらに、山の集落で覚えた数少ない罵倒を竜に浴びせる。

 竜はそれを微動だにせず受け止める。実際は竜に罵られるような筋合いはなかったが、それで気が済むならと甘んじて受け入れていた。

 レレの罵倒は老人がレレを連れ戻しに来るまで延々と続いた。

 

 老人に一喝され大人しくなり、引きずられるうように小屋に戻るレレ。

 それを遠巻きに見ていた竜に、レレの小さく漏れだすような声が風にのって飛んでくる。

 

「……助けてくれて……ありがとう。死ねなんて言って……ごめん…………"にぃ"」

 

 その言葉に驚いたように竜が目を見開く。

 孤独の中、互いの内にあった一つの繋がり。

 

 血は繋がっていなくても、レレと竜は見えないどこかで繋がっていた。

 その時、始めて竜は自分に妹がいたことを認識した瞬間だったのかもしれない。

 

 

 *

 

 

 レレは小屋の中で足をお湯につけて温めながら、老人に血行をよくするためにマッサージを受けていた。

 最初は嫌がったレレだが、今は無言で渋々とお湯に足をつけている。

 

「それにしても見上げた回復力だな。その腕といい、お前は本当に人間か?」

 

 老人が驚くのもむりはない。治療したとはいえ、本当なら凍傷の部分を切り落とすぐらいの覚悟は必要だった。それなのに、たった数日の間、寝ていただけでレレの体は回復に向かい始めていたのだ。

 

「レレは人間……」

 

 それはレレ自身が嫌と言うほど理解していた。

 質問をする老人にレレは不機嫌そうに眉を顰める。

 

「それもそうだな。痛むところはないか?」

 

 レレは首を振ると、老人はマッサージを終えて立ち上がる。

 

「そのまましばらく足をつけておれ、飯の準備をしてやる」

 

「別に……」

 

 意地を張ってお腹など空いていないと言おうとしたが、意識すると唐突な空腹感に襲われる。

 ここ、何日もレレはずっと何も食べていなかったのだ。本来なら衰弱していてもおかしくない。

 

 だが、そうはならなかった。何か異常な生命力に引っ張れるようにレレは生きていた。

 おそらくそれは、"かー"がくれた左腕だとレレは直感していた。

 "かー"は死んでも自分を見守ってくれている。それが今のレレにとっては何よりも精神的に大きな支えになっていた。

 

「何があったかは知らんが今は傷を治すことのみに専念しろ」

 

 そう言って老人が出した食事にレレは感歎した。

 山での主食といえば、時折、狼たちが取ってくる獲物か、食べれそうな草や果実。勿論、見よう見まねをして肉を焼くこともあったが基本は生だ。

 調理された、始めて見る料理。

 ミルクをベースとしたとろりとして濃厚なホワイトシチュー。

 厚切りにされ軽い焦げ目の入ったハム。

 そして、小麦色に焼けた柔らかそうなパン。

 

 その匂いにつられて、レレの意志とは関係なく涎が垂れだしていた。

 食事を目の前にしたら、レレはあっさりと意地を捨てお腹を鳴らした。

 だが、老人の方を向いて食べようとしない。

 

「……全てお前のために作ったものだ。好きに食え」

 

 老人がそういうと、初めてレレが嬉しそうに料理に手を伸ばした。

 スプーンの使い方がわからず、そのままお碗を口に含んだり、手づかみでパンを食べるレレ。

 この世にこれほど美味いものがあったのかと驚きながらレレは一心不乱に口の中詰め込んでいく。

 行儀は悪かったが喜色満面に食事をするレレに老人は頬を緩ませた。

 レレはスープに顔をつけながら老人に聞く。

 

「……じっちゃんはなんでレレを助けてくれる?」

 

「あの竜には命を救われた借りがある……そう、無下には扱えんのさ」

 

 食事を終え、老人が助けてくれたのだとわかると、だんだんとレレの方から話すようになっていた。

 元々、レレは人見知りするタイプではない疑問があれば積極的に聞いていくタイプだ。

 

「ここに一人で住んでいるのか?」とか「にぃとの関係は?」

 いろいろと老人に質問しては答えてもらう。ちなみに前の答えは「そうだ」の一言で済まし、後ろは無言で答えはしなかった。

 

 老人は決して人当たりが良いとは言えず、口数も多い方ではなかった。

 けれど、年を取り老練した雰囲気はどこか"かー"に似ている。だからこそ、レレがこんなにも早く警戒を解くに至ったのだろう。

 今度は老人が先に切り出した。

 

「お前……親はどうした」

 

「……人間のは知らない。レレのかーはかーだけ、その、かーもいなくなった」

 

「そうか、それは悪いことを聞いた」

 

 老人は珍妙なものが転がり込んできたと考えていた。

 自分のことをレレと呼ぶ竜の左腕を持つ少女。それを運んできた竜。どちらも自分が過ごした68年の経験にはありえないものだった。

 しかも、このレレはどうやら竜と会話できるらしい、そんなことは古今東西聞いたことがない。

 だが、あの竜は人間の言葉を理解できたはずだ。ならば、あの竜がレレに付き合っているだけの可能性もある。どちらにせよ、きちんとした判断はすぐにつくだろうと考えていた。

 老人に焦る必要はなかった。

 

「傷が治るまでは家に泊めてやる。そのベッドは好きに使え」

 

「…………ありがとう、じっちゃん」

 

 レレは老人の好意に対して素直に喜んだ。

 だが、その心には未だに"かー"の側に行きたいと言う気持ちが渦巻いていたのを老人は知らない。

 

「じっちゃんはやめろ。……ケナード・アン・ウィリアムストンだ」

 

「けなーど? ……レレはレレ」

 

 名前を覚えると言うのがどうにもレレは苦手だ。だから、老人の本名を言われてもピンとこない。

 レレは誤魔化すように質問をする。

 

「そう言えばさ、じっちゃがこの家をつくったのか?」

 

 再びじっちゃと言われてケナードは少し顔を顰める。レレはただ、"ん"を抜いただけだ。あまり変わっていない。

 一つため息をつきケナードはレレの質問に答える。

 

「この家は東で土木技術を学んだ同僚が退職祝いにと皮肉を込めて作ってくれたもの、家具もだいたい奴の手製だ。だからワシが作ったわけではない。さりとて、こんな枯れた爺の一人暮らしには過ぎたものだ」

 

「……はー」

 

 口をポカーンと開けてレレは息を吐きながら、机の彫刻を指でなぞっていく。

 

「珍しいのか?」

 

「うん、初めて見た。……凄く綺麗」

 

「お前は今までどんなところに住んでいた?」

 

 レレの弄っている家具はどれも珍しいデザインではない。

 あるところにいけばどこにでもあると言った類の物。それを知らないとなると、よっぽどの未開地か全く別の国で育ったと判断されてもおかしくない。

 尤も、実際レレが住んでたのはまさに前者なのだが。

 

「山、とっても高いところ」

 

「……もしや、水山の民の生き残りか?」

 

 ケナードは鋭い瞳でレレを見るが、レレは首を傾げた。

 

「水山の民?」

 

「ここから南西の領地にある山岳地帯の高山に住む原住民達のことだ。小さな部落でしかなかったが、確か水守を祀る一族がいたはず。尤も、それも今代の水守が絶えたことで山に雪がかかり、突然の吹雪で大半が死んだそうだ。……その様子だと本当に知らないようだな」

 

 いや、レレは知っていた。

 水山の民、レレが遠目に見ていたあの人間の集落。水守を祀っているなんてのは知らなかったが、全員で40人ほどしかいない彼らの顔はだいたい覚えていたはずだ。

 それでも、レレはその時はまだ彼らとケナードの言葉が結びつかなかった。

 なぜなら先に水守と言う言葉で"かー"を連想して落ち込んでしまったからだ。

 

「水守……、かー」

 

 レレの呟きを聞いたケナードは心の中でまさかと疑問を抱く。

 それは、レレの言う水守が"かー"と言うのならこの子供は水守に育てられたことになる。

 だがもし、そうだとしたらあの竜もこの腕もそれなりに納得がいく。水守を始め、火守、風守、土守の四守りはそれぞれに秘術と言うべき魔術と人知を超えた力があるとされているからだ。

 

「お前は……水守に育てられたのか?」

 

「レレはかーに育てられた。でも、にぃはかーのこと水守って言ってた。じっちゃ、水守って何?」

 

 ケナードは少し考えこみ顎をなでながら口を開く。

 

「……この大地の全てに水を与えると言われる存在だ。と言ってもワシがソレを知ったのはつい20日ほど前。水守が死んでからのことだ」

 

 水守が死んだ。その事はレレの予想を遥かに超え、この大陸に大きな影響を及ぼしていた。

 

「ここよりずっと西。砂漠を超えたさらに先、黄の国マスリアという国がある。その国を治める古王レースンカラバが突然この白の国ドライグに訪問したいと言い出した」

 

「こおう、からば……?」

 

 なんとか話についていこうとレレは必死に名前を覚えようと口にする。

 

「古王は齢1000を超え、数々の蛮族、人外を従えたこの世で最も老齢な王と言われている。王の一族で噂によれば人のような体に蛇の頭と、白い翼があるらしい」

 

 レレの頭が混乱した。

 人なのに蛇? さらに翼? レレが頭の中で想像した古王は酷く滑稽なものになってしまう。

 

「そして、かの王の訪問理由が水守への弔いに一礼をしたいと言うものだった」

 

「かー……の?」

 

 ケナードは本当に水守が"かー"だと言う確証が得られないため、曖昧にしか頷かない。

 

「黄の国は古くから闘争を嫌い中立を維持してきた。だが、今の白の国は他国の王をいきなり迎えるのはとても難しい状況だった。……この白の国は内乱が起きて二つに分裂していたからな」

 

「内乱? 争ってるってこと?」

 

 レレの頭の中では国という概念が希薄で小さな集落の小競り合いのようなものが浮かんでいた。

 

「そう、王権制度を取り戻そうとする姫と、王をスケープゴートにして利権を貪ってきた公爵家が率いる貴族達。ここまで正と負がはっきりした戦争は珍しい。たった2年で貴族たちと対立できるほどの力を蓄えた姫は古王の訪問を承諾した。だが、王家に伝わる水守の重要性を知らない公爵家にはそれができなかった。結果として古王は姫に少なくない援助を申し出ており、それが拮抗を崩す切欠となった」

 

「……難しい」

 

「そうか、歴史として言ってしまえばこの国の貴族制度が終わり、新しい時代を迎えようとしている。これでどうだ?」

 

「……それも、難しい」

 

 そもそも、レレには貴族や公爵と言った地位をまったく知らない。さらに、詳しい地理などちんぷんかんぷんだ。

 それで理解しろと言うのが土台無理な話だった。ケナードは苦笑いを浮かべると、竜を見てくると言って、席を立ち表に出ようとする。

 

「お前がここに居る間、少し教鞭をふるってやる。多少のマナーくらいは身につけさせてやるから覚悟しておけ」

 

「…………じっちゃ。ありがと」

 

 レレはケナードの優しさに言葉でしか返せなかった。

 

 ケナードはいきなり竜に咥えられて現れた水守の子を自称する少女。

 元々、子どもが嫌いではなく、面倒見の良い性格をしていた彼にレレを放っておくことができなかった。

 

 短く長い、珍妙な二人と一匹の暮らしがこの時から始まる。

 

 

 



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4- 距離

 

 

 雪が降り積もり、枯れた林を白く染めあげる。

 屋根の端からぶら下がるように垂れる氷柱が日に日に大きくなり、質の悪い黄ばんだ硝子は室内との温度差でヒビが増えていく。

 レレは自分の息で白くなる硝子を何度もふきとり、ひたすらに外を眺めていた。

 だが、それは景色を眺める人間の瞳ではない。心配や不安と言った感情がありありと映し出された瞳だ。

 食事を運んできたケナードがそんなレレを見て溜息をつく。

 

「気になるのなら見にいってやればいいだろう?」

 

 すでにレレがここに来て半月ほど、凍傷はほとんど治っていた。完治は時間の問題になり、安静にして置いてほうがいいとはいえ、この程度の雪ならば靴さえ履いていれば外に出ても大丈夫のはずだ。

 ケナードの言葉にレレはビクっと体を震わすが、すぐにムッとした表情を作る。

 

「……見にいくって何を」

 

「そこまで言わすな。あの竜のことだろうが。もちろん、先に飯を食ってからだがな」

 

「な……なんで、レレが」

 

「心配なんだろ?」

 

「そんなこと……ない」

 

 図星をつかれて驚いた表情を見せるレレ、ケナードは我関せずと、スープを皿に移し食膳を並べ始める。

 レレは顔には出していないつもりなのだろう、苦し紛れの憎まれ口で逃げようとするが、彼女が"にぃ"と呼ぶ竜のことで悩んでいるのはケナードにはバレバレだった。

 

 二人で食卓につき、干し肉にかぶりつくレレを見ながらケナードは思いを巡らす。

 彼の長い人生経験の中でもこれほど中途半端に育った子供を見たことはない。この位の年の子ならばと考えたこともあるが、それとは全くベクトルが違った。

 

 それもそのはず、レレは今まで言語を学ぶことはあっても実際にそれを使用する機会はなかった。

 本来であれば人が言葉を覚えようとするのなら、他人とのコミュニケーションを通じて覚えるものだ。けれどレレは他人と他人のコミュニケーションを見て言葉を覚えた。

 そこには一から他人との関係を作るプロセスが足りていないのだ。

 

 "かー"と話したいと言う強いな思いだけでレレは言葉を覚えてしまった。それは、子供特有の柔らかい脳と尋常ではない集中力を持ち、年単位で行われたレレの努力と忍耐力によって成し遂げられたもの。

 

 けれどそれが今は裏目に出てしまっていた。圧倒的なコミュニケーション不足。

 それ故に、レレは初めてした"口喧嘩"の収拾する方法をしらなかった。

 

 

 いつもならば、人見知りや内気と言ったものとは無縁のレレだが、それは、言葉を知らないからこそ意見のすれ違いや衝突もおきなかった状況に慣れきってしまったからにすぎない。言ってしまえば全てがうやむやになっていた。

 けれど今回は違う。

 相手に自分の考えていることがはっきりと言葉で伝わる。そして、伝えなければならない。

 

 かつてレレの言った「死ね」と言う言葉は決して軽はずみに出した言葉じゃない。それだけに重みがある、だがそれ以外にも色々と悪口をいった。

 レレはその事がずっと気に掛かっていた。

 

 もしかしたら"にぃ"を傷つけたのかも知れない。謝ったけれど許してくれないかも知れない。

 けれど、なによりも、

 "にぃ"と話してしまえば、また口喧嘩になるかも知れない。

 

 それが怖くて、どうしてもレレは"にぃ"と会う踏ん切りがつかなかった。

 結局、レレは初めて手にした言葉と言うコミュニケーションツールを完全に持て余していたのだ。

 

 ケナードはそのことについて理解していた。だが、あまり話そうとしない。

 先程のようにレレがぼーとしていれば軽く声を掛けるが、積極的に彼らの仲を取り持つつもりはなかった。

 

 レレが外に出れば竜は反応する、だが、竜が近づこうとするとレレの方が逃げてしまう。結局のところレレが本気で"にぃ"と仲直りをしたいのならば彼女から動くしか無い。

 これも一つの勉強だろうと、ケナードはレレと竜の諍いに口を挟まないことにしていた。

 

 老齢に差し掛かったケナードは元より寡黙な性格をしており、基本的に傍観主義者だった。誰かを強く拒む事はないが受け入れる事も、また、ない。

 もし、レレがただ行き倒れていたとしたら。そこに恩人がいなければ、きっと見捨てていただろう。そんな事を考えながらスープを口に含んだ。

 

 二人とも食事を済ませ、ケナードは皿を洗い始める。レレはそれにひょこひょこと付いて行き、後ろからその様子を伺う。

 レレは目線で何かを手伝わせろと問いかける。

 ケナードはそれを黙殺して水の入った樽から水を取り出し、食器を水につけてたわしでこすっていく。

 

 彼がレレを無視するのには理由がある。

 それは、当初仕事を手伝いたいと言ってきたレレに、少しくらいと言う気持ちで皿洗いをやらせてみたところ。

 小気味の良い音と共にレレの両手に皿が半分ずつ持たれていた。

 

 教え方が悪かったと反省を生かしたケナードは、割れにくい鍋を洗わしたところ。

 いつの間にか、鍋を覗いてレレが底を探していた。

 

 三度目の正直。きっと鍋も皿も古かったのだろうと、レレに念入りにやり方を教え、一番小さく、手間の掛からない木製のスプーンを洗わしたところ。

 ケナードの目の前でスプーンはスティックに早変わりした。

 その後も何度か再戦を試みたが、レレの左腕は彼女が少し力を入れだけで、かなりの握力を発揮する。さらに、レレの大雑把な性格も影響して細かい作業に向いていないのだ。

 

「……そんなに暇か?」

 

「うん」

 

「なら──」

 

 そして、ケナードが出した答えは、レレが手伝いたいと言ってきたときは、家事より力仕事を頼むことに落ち着いた。と言ってもそこまでの重労働を病人兼、居候の少女にやらせる気はなかった。

 

 ケナードに薪割りを頼まれ、レレは一度嬉しそうな顔を作るが、すぐに何度か目線を泳がせ渋々と出て行った。

 薪割りについてはレレだけでも何度かこなせており、ケナードが心配する必要はない。

 だが、レレの表情が優れないのは手伝いが嫌なのではない、むしろ、やりたかった。しかし、レレの気乗りしない理由はその薪が置いてある場所の近くにはいつも"にぃ"がいるからだ。

 

 ケナードは台所の隅に隠していた薪の束をごっそりと取り出しほどいてから一つ一つ暖炉に入れていく。

 その上に小さな湯を沸かすための器を置いて熱し、彼女が帰ってきた時のために温かいものでも用意しておく。

 暖炉の火はゆらゆらと揺れ、辺りを赤く照らしだした。

 

「結局は自分で解決するしかない……」

 

 明るい炎とは対照的な黒く大きな影が一つ、ケナードの後ろで踊る。

 漏らすような吐息が小屋に小さく響いた。

 

 レレが来てすでに半月ほどたつ、すでに一番ひどかった凍傷は改善に向かい。もはや、ケナードが直接治療しなければいけないような怪我はなかった。

 最初は酷かった礼儀作法もレレは意外なことに面白半分で吸収してしまい、一市民として暮らすのなら何も問題はないレベルには至っている。

 

 それでも、ケナードはレレに出て行けとは言えなかった。

 ずるずるとレレと一緒にいることを好んでいる自分がいることに気づき、薄く笑って首を振る。

 

 レレは素直で真っ直ぐだ。そして、なにより力がある。

 この家から出ても充分に一人で生きていける。

 

 一人ならばだ。

 

 市政で暮らすならばあの竜はレレの足を引っ張ることになる、左腕もそうだ。

 ケナードはレレに聞いた話から水守が何を思ってレレに左腕を与えたのかは理解した、けれど結局のところそれは異質な暴力でしかない。

 不要な力は争いの種になる。

 この戦乱の世、レレの力を戦争に利用しようとする人間はごまんといるだろう。知れば戦争の道具として戦場に駆り出される。

 それを拒む事の難しさをケナードは身に沁みて知っていた。

 

 けれどもし、それとは別にあの竜と共に暮らすならば、そんな荒事とは無縁でいられる。

 だが、それは同時に人との交わりを断つと言うことだ。

 異性を愛することも、同じ悩みを抱く友達を作ることもなく、自然の中で生きて死ぬ。

 

 人間にとって、それは孤独だ。

 たとえあの竜が共にいようと、レレが暮らしてきた今までのように、種族という壁が変わることはない。

 きっとその事を胸に抱えたまま、命尽きるその時まで考えているのかもしれない。

 

 どちらの道もレレには正しく、間違っている。

 そもそもが水守に育てられた人の子だ。故郷を失った今、辛くない道など、どこにもない。

 

 ここ何日かで数年分のため息を吐き出した、ケナードの表情は何かを決心していた。

 

 

 

 *

 

 

 

 レレが外に出ると、今までの温かさが消えて底冷えする感触が全身に襲いかかる。雪はほとんど止んでいたが空の青さは濃い雲で埋め尽くされていた。

 大きめの古いコートにマフラー、手袋、長靴の完全防備でも寒い事には変わりはない。

 ケナードから貰った手袋を外して口に咥え、両手を頬に付けてみる。

 

 右手は温かさを残していて、冷たくなっている頬を温めてくれた。

 左手はひんやりとして、冷えた頬と同じくらいの温度。温めてはくれないけれど、ここに"かー"がいると思うとレレの心は安らいだ。

 

 レレはケナードの人柄を好いている。勿論、恋愛感情などとは程遠い目上の人に対する憧れのようなものだ。

 自分よりたくさんの物事を知り、それを教えてくれる相手。それはとても新鮮なことだった。

 

 「もう少し街に出れば皆やっていることだ」とケナードは言うが、レレにとっては食事一つとっても画期的で斬新な食べ方だ。

 そんな些細な事一つ一つにレレは目を回した。

 

 だから、人が嫌がるような面倒なことでも自分でしたがる。

 皿洗いも面白そう、薪割りも面白そう、どれもこれも勉強ですらレレの目には輝いてみえた。

 

 息を大きく吸うと、白い息を吐いて心を落ち着かせる。まず、レレは"にぃ"を探す。

 "にぃ"の背丈は背の高い針葉樹の2倍ほどもあるので、レレはすぐに見つけることができる。

 後ろの蔵から、こそこそと斧を取り出して"にぃ"に見つからないように薪を置いてある場所に向かう。足音を立てないようにしても、ザクザクと雪が潰れる鈍い音が地面に響いた。

 どうせ薪を割る音でバレてしまうのだが、レレはできるだけ"にぃ"と顔を合わせたくなかったのだ。

 

 薪を用意し終えて、いざ振りかぶろうとしたところで、レレは何かに視線を向けられているのに気づいた。

 半ば予想していながら、ゆっくりと振り返ると、やはり"にぃ"がこちらを見ていた。

 

 互いに何もいえず固まってしまう。

 先に切り出したのはレレの方だった。動じていないと言うようにそっけなく口を開く。

 

「何か……用?」

 

「いや、……特にない」

 

 ここにきてからレレが"にぃ"と話したのはほんの数回、その過半数がこの応答で始まり、終わっている。進展はしないが、後退もしない。

 現状維持を確認するための会話。

 

 振り下ろした斧が薪に当たり、小気味の良い音だけが雪に沈んでいく。

 気まずさを誤魔化すためにレレはできるだけ手早く作業を繰り返す。

 

 無事、最後の一本を叩き割る。

 

「そ……それじゃ!」

 

 レレは何か声をかけられる前に飛んだ薪を拾い集め、走って逃げてしまう。

 竜はまた声をかけれず、レレを見逃してしまう。

 

 結局、その日も仲直りするどころではなかった。

 

 けれど、思わぬところから切っ掛けが出てくる。それは、夕食を先に食べ終えたケナードがパンとホワイトシチューを頬張るレレに向かって言い出した。

 

「明日は来客がくる。あの竜がいると相手が驚くだろう、悪いが昼から夕日が沈みだす頃まで連れ出してくれ」

 

 あまりの不意打ちにレレは思わずが吹き出すほどの驚いてしまう。

 ケナードの怒りに触れ、説教をくらいながらもレレは何度も抵抗を試みる。

 

「に……"にぃ"だけ身を隠していればいいんじゃないの!?」

 

「ダメだ。今回の相手はそれなりに身分の高い人間が直接来るらしい。何を考えているのかわからんが、お前にはその左腕のこともある。会わない方が賢明だろう」

 

 その後も僅かな抗議をしてみたが、レレは自分のためだと言われるとしぶしぶと引き下がる他なかった。

 結局その日、レレは夕食が済んでからもぼーとして、眠ることができなかった。色々なことがレレの頭の中で回って、どうしたらいいかわからないのだ。

 徹夜で屋根を支える柱を見ていると、山から朝日が登るのを見届けてしまい。レレは深い溜息をついてしまう。

 

 レレが顔を洗いに外の水瓶まで行くと、蓋を取る。中には氷が張っていた。置いていた柄杓で何度も氷をたたき割っていく。

 氷が小さくなると水をすくい、ヤケになって一気に飲み干した。底冷えする冷たさがなんとも言えない感じがする。

 見上げるとその日は久しぶりに雲の隙間から太陽が覗いている。なのにレレの心は一向に晴れようとしない。

 ぼーと見上げているとレレの頭に箒の柄が落ちてくる。

 その先にはケナードが立っていた。

 

「その水は飲むもんじゃない。顔を洗うもんだ」

 

 ケナードに言われて柄杓の中に残っている水を見て、少し考え込む。

 

「……でも、これはこれで」

 

「だから飲むな!」

 

 

 その後、客が到着する前に今日中の仕事を終える必要があるので、ケナードとレレは急ピッチで行動する。

 洗濯、掃除、薪の補充、見栄えを気にするケナードは普段しないことまで手を伸ばす。

 そして、昼飯を食べ終えるとレレはケナードに引きずられるように"にぃ"の元に連れていかれた。ケナードの後ろに隠れるように立つレレは無理やり目の前に押し出された。

 

「レレ、お前から説明しておけ、ワシは残った用意をしておく」

 

「でも、じっちゃ……」

 

「でもじゃない、丁度いい機会だ。お前たちできちんと話し合うがいい。……これからのこともな」

 

 ケナードは"にぃ"にあまり近づこうとしない。

 その距離がケナードと"にぃ"の距離。人と竜の距離。

 レレにはその距離がとても遠く、短く感じた。それでも今、レレはケナードが引いた線の内側にいる。人間の側の線だ。

 

 "にぃ"はケナードが去るのと共にレレに真っ直ぐに目を向ける。"にぃ"はケナードの言葉を話すことはできないが聞き取るだけならばできる。どういうことかレレに説明を求めているのだ。

 緊張しながらもレレはゆっくりと口を開く。

 

「……今日、なんか客人が来るからどっか見えないところ行ってろって」

 

「成程、しばらく身を隠していろと言うことか。ならば……川向こうまで行けば問題ないだろう」

 

「…………」

 

「不服か?」

 

 無言で首を横に振り、レレは"にぃ"の方に向く。

 

「連れて行ってほしい所がある」

 

 竜が黙ってしまう。なぜなら、レレの顔はあたかも初めて出逢ったあの日の死を覚悟した表情に似ていたのだ。

 

「かーの所に連れていって欲しい!」

 

 真剣な表情で"にぃ"を見据えるレレ。

 白い世界にちっぽけな背丈で立つ緑の髪と瞳をした少女、そしてそれを見下ろす神々しい竜。

 竜はただ、吼えた。

 

「貴様はまだ死にたいとぬかすのか!?」

 

「……違う! レレはただ、もう一度、かーに会いたいだけ!!」

 

「会ってどうなる! 水守は死んでいるのだぞ!? 第一、あの山を登るのはもはや無理だ

 

「だから、にぃに頼んでる!」

 

 そこで、"にぃ"はうっと声を鳴らす。

 

「……我侭って言うのはわかってる。……でも、もう一度だけ、最後に会いたい。……ダメ……かな?」

 

 俯いて泣きそうになるレレ。その姿に思わず葛藤してしまう竜。唸りをあげ竜は考え込む。

 あの山は深い雪と雲に閉ざされている。水守が抑えていた力がなんらかの影響を与えているのだろう。

 前よりもさらに酷い暴風と、豪雪に襲われるはずだ。

 

 だが、初めて頼られた。妹に。

 例え種族が違うとはいえ、引け目も愛着もある。こんな無茶でなかったら二つ返事で答えたはずだ。

 できれば危険なところへはやりたくない。だが、この機会を逃したら二度とレレと仲を取り持つことができないかもしれない。

 

「……にぃ」

 

 涙を浮かべながら見上げる人の子に対して、苦悶する竜。

 けれど、結果は変わることはなかった。

 

「やはり、ダメだ。危険すぎる」

 

 竜がそう言うとレレは少し困ったように無理矢理作り笑いをした。

 

「そっか……レレが無理いった」

 

 あまりにもあっさり、その違和感を竜は感じ取った。

 レレはそのまま走るように竜の隣を過ぎ去ろうとする。

 

「……待て」

 

 丁度、すぐ羽の下にいたので翼を下ろされてレレは通れなくされてしまう。

 

「どこに行く気だ?」

 

「……山」

 

 竜の顔が呆れたように歪む。

 

「…………そこまでして、行かなくてはいけないのか?」

 

「うん、できればにぃと一緒に行ければ良かったけど、仕方がないからレレひとりで行く」

 

 竜は天に向かって吠える。それは、苛立による咆哮ではなく、心の中に潜むもやもやしたものを吹っ切るような叫びだった。

 

「わかった。連れていってやる!」

 

「本当!?」

 

「竜は嘘はつかん!」

 

 ヤケが回ったかのように叫ぶ"にぃ"に、レレは嬉しそうに抱きついてしまう。

 

「乗れ! 飛ばして行く」

 

「うん!」

 

 レレは嬉しそうに体をよじ登り、頭のところにちょこんと座る。

 

「高い! かーの方が高かったけど、にぃも高い!」

「まったく……我の頭の上に乗るとは、いい度胸をしている」

 

 嬉しそうにはしゃぐレレに今日、何度目かの諦めの言葉を吐いて、竜は翼を大きく広げる。

 二度、三度と風を舞起こし、一気に空へと飛び上がった。雲の切れ間から除く光が飛びゆく竜を照らしだしていた。

 

 

 その様子をケナードはずっと木の陰から見守っていた。

 老いを感じさせないしっかりとした物腰で小さくなる影を見送る。

 

「……行ったか」

 

 ケナードは誰に伝えるわけではないが、そう呟いていた。

 

 今にして思えばケナードの選択は間違っていたのかもしれない。

 レレが手伝いたいと言ってきたときは、いつも竜との接触が空振りになった時。レレはケナードを手伝うことで、竜を避けていた。

 それを会って直ぐのケナードが察すると言うのには無理があった。

 だから、こんなに遠回りになってしまったのだ。

 

 ケナードはレレたちを見て少し安心したが、彼自身いつまでも他人の心配してられる立場では無かった。

 今日来る客人。

 

「白の国、姫を支持する無敗の宰相……か」

 

 その噂はこんな山奥に隠居したケナードの耳にまで届いていた。

 神算鬼謀にして、冷徹無比の英雄。

 

 元は極少数の軍しか持たない白の国の姫、クリスティーナ・ドライグを補佐し、わずか数年で一国に勝とも劣らない派閥を作り上げたその功績と手腕は白の国内部だけでなく、赤、青、黄、など力の強い純色の国にまで高く評価されている。

 けれど、その容姿や出自に関する噂は様々で、美しいエルフの少女から一際大きな巨人族の男まで、まるで煙におおわれたように特定ができない。

 

 だが、戦場に宰相が現れると同時に立てられる赤に染まった十字の旗は、勝利の宣言と同義と叫ばれるほどの功績をあげていた。

 常に自軍より数倍も多い大軍と戦いながら未だに敗北を知らない。

 

「そんな、英雄がわざわざ何のようだと言うんだ」

 

 今、白の国の姫が率いる王族派は黄の国との交渉をするために忙しいだろう。

 黄の国が王族派を支持しだした現在、この宰相が目をつけないはずがない。素人目にも公爵家を倒す絶好の機会だ。一秒でも多くの時間が欲しい頃合いだろう。

 だというのにその希少な時間を割いてまで、わざわざこんな僻地まで足を運んでいるというのだ。

 その行動にはそれだけの理由があると判断したのならば、物見遊山という事はないはずだ。

 

「まぁいい……会えばわかる……か」

 

 薄くなった頭をかきながら、小屋へと戻る。

 ケナードは面倒事を予感しながらも回避する手立てを持ち合わせていなかった。

 

「……年を取ると独り言が多くなってかなわんな」

 

 

 

 *

 

 

 突き刺さるような豪雨に抗いながら空へと駆け登る竜。

 視界は雲に覆われ、凄まじい雷があたり一面に立ち込めている。上空へと登るほど雨は雪へと、雪は氷へと変化していく。

 レレは目など開ける余裕もなく、必死に竜にしがみついていた。

 

「もう少しで雲の上に出る! そうすれば、かなりマシになるはずだ!! 大丈夫か!?」

「だぁ! い! ……じょ! ……ぶっ!!」

 

 レレは途切れ途切れでも答えるため、必死に口を開くがそのたびに雨粒が喉の奥に突き刺さっていく。

 帽子もマフラーもすでに飛ばされ、かじかんだ右手はすでに感覚を失って久しい。だが、左腕だけはこんな悪状況でも力強く竜のたてがみにしがみついていた。

 

 竜はレレの限界を感じていた。

 けれど、それはレレだけに言えたことではない、むしろ、実際に飛んでいる竜の方が疲労していた。

 

 酷使しすぎた翼は幾つも小さな傷がつき、背中には雪が積もり始めている。

 風が吹き荒れているせいで、真っ直ぐに飛ぶことが難しい。

 

「……今なら、まだ引き返すこともできるぞ!?」

 

 それが一番楽で安全な方法。

 けれど、レレがその道を選ばないであろうことは予想がついていた。

 

「いぃぃぃ……やぁぁッ ダッ!」

 

 もはや、レレの意地。

 それだけでこの地獄のような寒さを耐えている。

 

「おぉ……ねがっ、い! あ、と。……少し」

 

 レレの瞳は格好とは裏腹に強い思いを宿していた。

 それに後押しされるように竜は空へと登っていく。そして厚い雲を突き破り、雲の上に飛び出した。

 今まで押さえつけていた深い雲が反射して光り輝き、雲海が地平線まで連なっていた。

 その光景にレレは思わず息を飲んでしまう。

 

「……綺麗」

 

 自分があまりにもちっぽけに感じる瞬間。

 圧倒的な光景に目を奪われ、自信を見失いそうになるほど自然に吸い込まれそうになる。

 竜は何も言わないがレレの呟きに無言で首を縦に振った。

 

 だが、あまり長くはこの高度を維持することはできない。竜は風の流れからできるだけ山の状態を確認し、ある程度の目処をつけると、レレに用意はいいかと聞く。レレは無言で頷いた。

 そして、雲を羽で掻き分けるようにゆっくりと降りて行く。

 速すぎれば山肌にぶつかるかも知れないからだ。

 

 暗雲を越え、豪雪を越え、暴風を越え、空を越えていく。

 

 やがて、レレは薄目を開けている中、雪で埋れたそこを見つけた。

 間違いない自分の家。

 

「にぃ!!」

 

 自分から声を出したレレの声に反応して、すぐに竜も気づき、風に乗りそこへ近づいていく。途中で何度も体制を崩しそうになりながらもなんとか体制を整える。

 レレは振り落とされないようにしっかりと左腕で掴んでいた。

 

 山肌に大きく開いた横穴、埋れた雪を突き破るように竜はそこに降り立った。

 空気が澄み、まるで今までの喧騒が嘘のように小さくなる。

 

 その中は、雪で覆われていた。水竜の結界が弱まり、前に見た時よりも雪が積もっている。

 白く降り積もった雪、枯れきった草木。

 そして、その隅、そこに"かー"が凍ったように眠っていた。

 死んだ時と変わらない美しさを未だに保って。

 

 レレは竜が足を着けると同時に飛び降りた。

 下に積もった雪にズボっとはまってしまう。腰を落として後転するように引き抜いて起き上がる。

 そして、真っ直ぐに"かー"の元へ向かって歩きだす。レレは"かー"の目の前につくと、その冷たい顔に優しく手を触れた。

 

「かー……。ただいま」

 

 目を瞑って数秒。自分のおでこをその大きな鱗に押し付ける。

 そして、大きく深呼吸してレレは竜に向き直った。

 

「にぃ」

 

 その瞳は決心していた。

 断られることも、受け入れることも覚悟を持って竜を見据える。

 

「……なんだ?」

 

 竜はレレの只ならぬ雰囲気を感じ、真剣な表情をつくる。

 外から響く吹雪の音がレレと竜の間を通り過ぎる。その距離は歩いてたった20歩にも満たない。

 けれど、その距離はあまりにも遠く長い。

 遠いのは当たり前、互いにすれ違い、触れ合わないようにしてきたのだ。

 その距離は一朝一夕で補えるものではない。それでも、その距離を埋めたいと願うのなら──。

 

 震えるレレの唇から白い息と共にその言葉が吐き出された。

 雪が降り積もる中、母が眠る目の前。

 

 

 

「にぃ……、レレの"にぃ"になってください!」

 

 

 少女は一歩だけ前へと踏み出さなくてはいけない。

 少女は精一杯の勇気を振り絞った。他人から見れば本当に小さな決意かもしれない、けれど少女にとってとても大きな決意だった。

 

 竜は驚いたように目を見開いたが、考え込むように目を閉じる。

 その数秒は少女が生まれてから一番長く感じ数秒だった。

 緊張で心臓が破裂しそうになり、唇は口の中へと逃げようと必死になっている。手は必死で服を掴み、足は震えていた。

 

 

 やがて落ちてきた小さな雪に後押しされるように、

 竜は首を上から下へとに動かした。

 

 雪に混じり嬉しそうに笑う少女の瞳から、水滴が二つ溢れ落ちた。

 

 

 

 

 



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