琴葉探偵事務所 (aihorrn)
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~いつもの日常~
朝、目が覚める。重い瞼を開こうとしたら、眩しい太陽の光がそれを遮ってくる。
「う、ううん……」
逃れるため、寝返りを打って逆を向く。
――でも、二度寝はまずい。私の勘では、既に起床予定時刻を過ぎている。意地でも起きるんだ、私。
そうやって自分を奮い立たせ、どうにか上半身を持ち上げることに成功した。
「ふああ……ふぅー、起きよう、起きろ」
くどいくらいに二度寝を誘惑してくる睡魔を完全に断ち切るため、ついに勢いよくベットから降り、立ち上がった。
毎日毎日、朝にこんな激闘をしなければならないのはとても損している気分だ。朝に強い人が心底羨ましい。
ようやく、視界がはっきりしてくる。壁の木々の板の継ぎ目、所々にある節が確認できるようになった。意識が覚醒してきたのだろう。
私は自室からリビング――実質の事務所に向かった。今日の朝食は姉が担当だ。しかも私は起きるのがちょっと、いや、大分遅くなった。さぞかしこの扉を開けると美味しそうな匂いが……。
「——お姉ちゃん?」
私は立ち尽くした。
姉が、事務所のソファでだらしなく仰向けに眠っていたのだ。昨日、「何か依頼がないか探してくるわ!」と出掛けていったのだが、帰りに買ってきたと考えられる漫画雑誌が床に落ちているところを察するに、読みながら寝てしまったのだろう。
探偵事務所は絶対に木製の家具主体、アンティークな雰囲気にしたいという私の要望が色濃く反映されているが、そんな事務所で、寝間着で寝相悪く眠っている姉の姿はなんとも、場違いであった。
しかし、姉が寝坊するなんていつものことだ。朝食担当が姉だったとしてもそれは変わらないし、叩き起こして作ってもらえば問題ない。
でも、今日は違う。今日に限っては私も起きるのが遅かった。だから今から起こして朝食を作らせたとして……食べ終わったころには、もうすぐお昼になる。
「……しょうがないなあ」
私は手早く食パンを二枚、トースターにセットした。
ソファに戻り、じい、と姉の顔を観察する。
すぴー、すぴー、と眠る姿は、この世で一番幸せな人なのではないか、と考えてしまうくらいには平和な顔をしていた。
思わず顔が強張る。私は努めて平静に、言う。
「お姉ちゃん、もう朝、というか昼だよ。起きて」
「……そんな食べれへんよ、あおい……ムニャムニャ」
「コラー、起きろ!」
朝食を食べたいのはこっちだよ。私は勢いよく枕替わりのクッションを引っこ抜く。頭が急に落ちたショックで、姉を強引に現実世界へと引き戻す。
「うっ、なんや……? 葵?」
「今何時だと思ってるの? 朝ごはん、今日はお姉ちゃんの担当でしょ」
「んんー? ええ、と……?」
これはだめだ、全く状況の整理ができていない。私は寝ぼけている姉の方をつかんで上体を起こし、言う。
「ほら、まずは顔を洗ってきて」
「はぁーい……」
姉は素直に従って、ゆっくりとした足取りで洗面所に向かっていった。
「仕事でもこれならどれだけ楽か……」
頼りない背中を見つめ、そう独り言ちた。
魔道士たちがこぞって集い、日々魔法の最先端を行く”魔道士の町”、ロイドボイス。賑わいを見せる商店街付近から、少し離れた落ち着きのある地帯にぽつんと構える平屋が、琴葉探偵事務所兼、私たち琴葉姉妹の住居である。
今日も今日とて、琴葉探偵事務所には探偵らしい仕事や、……主にお姉ちゃんのせいで、冒険家に依頼して下さいと首を横に振りたくなるような調査といった仕事がやってくる。
私たちは朝食として食パンを一枚、食べていた。お姉ちゃんがバターを塗って、私はそれを待っている。
「やってもうたなぁ、もう事務所開けてる時間や。早よ食べんと」
「コーヒーを淹れる時間もないし、いったい誰のせいだと……いや、私もか」
「ウチらどっちも、朝に弱いもんなぁ……良い目覚まし時計買わんと」
「そうだね、でもあんまりうるさいと近所迷惑になっちゃうし」
ん、と姉から手渡されたバターの容器を受け取り、スプーンでバターを削りとる。
「……あ、思い出した。今日の朝、依頼持ってくるらしいんよ」
「へえ、そうなんだ」
バターをパンに乗せて塗っていくと、じわり、とバターが溶けていく。ああ、美味しそう。
「――――へっ?」
私は思わずスプーンを離した。皿に当たり、甲高い音が鳴る。
「ちょ、ちょっと待って、お客さん来るの? しかも朝に?」
姉は私の動揺を気にもせず、パンを頬張って、言う。
「せやなぁ。詳しい時間は聞いてないけど、多分もうすぐ来るんとちゃうかな」
「えええ!? 私たち身だしなみも何も準備できてないよ! 早く支度しなきゃ!」
「いや、別にええんちゃうかな……」
なぜか危機感の欠片もない姉が呟くと、カランカラン、と事務所入り口から来客を示す音が鳴った。
「うわわわ来ちゃった! どうするのさお姉ちゃん!」
「だから別にええって」
姉はそう言うと、寝間着で髪もボサボサのまま、事務所の入り口を開けた。
「ちょ、ちょっと――」
「やっほーゆかりさん」
扉の前に見えた人の姿は、見知ったものだった。
「お久しぶりです、1か月振りくらいですかね? ……って、何ですか、二人そろって寝起きですか?」
ゆかりさんは、魔法犯罪捜査班の巡査だ。若手で期待されている……らしい。
流石に私も、警察内部には詳しくないし、ゆかりさんもその辺の話はあまり教えてくれないのだ。
私はゆかりさんを見て、さっきまでの焦りが嘘のように落ち着いて、言う。
「ええまあ、寝坊しちゃいまして。コーヒー淹れますね」
「あれ? そういや葵、なんで今日の朝ごはんではコーヒーなかったんや?」
「そりゃ、焦ってたからだよ。早く支度しないとお客さんが来てしまうかもしれないじゃない」
私たちは身支度もろくに済んでいない寝間着姿、対してゆかりさんはピシっと決まったスーツ姿である。
ゆかりさんは不満そうに私を睨み、言う。
「私もその客人だと思うんですがね」
「不満があるならお姉ちゃんに言ってくださーい。私だってゆかりさんが今日訪ねてくるのを知ったの、朝ごはん食べてる最中だったんですから」
「あ・か・ね・さ・ん?」
ターゲットが変更され、ゆかりさんと目が合った姉は、頭をかく。
「いやーごめんな? 帰り道で買った少年ジャ〇プがおもろくて、つい夢中に読んでたら寝てもうたんよ」
「私の依頼はマンガ以下ですか!? 全くもう……なんでこんなだらしない姉妹に頼らないといけないのか……」
グチグチ呟きながら、ゆかりさんはソファに座った。
姉は食事を再開しながら、ゆかりさんに言う。
「そういうゆかりさんこそ、生活はどうなん? 忙しいからって、食事とか疎かにしてへんよな?」
「し、してませんよ?」
「どうせゆかりさん、お腹空いてないからって、軽食をつまんだりしてるだけやろ」
「うっ」
「そっちこそ、気をつけなあかんで? 何事も身体が資本や。倒れたら事件も解決できひん」
「そ、そうですね……気を付けます」
ゆかりさんが怒っていると思ったら、いつのまにか姉が説教を始めていた。そんなやり取りを背中で聞いて、私はクスリと笑った。
淹れたての珈琲の香りと、バターとパンの香りで満たされた事務所。
私はパンを食べ終えたところで、ゆかりさんに尋ねる。
「それで、今回の依頼はどのような内容ですか?」
「幽霊屋敷の調査及び異常の解決、です」
私はコーヒーを一口飲んで、言う。
「……意外ですね、お姉ちゃんが探してきた依頼と聞いて内心ビクビクしてたんですけど、幽霊屋敷なんてよくある話じゃないですか」
幽霊。亡くなった人の思念に、人由来でない魔力、オドが反応して物体化したモノ――要は、物質として存在するようになった人の心だとか魂だ。
幽霊には魔法による攻撃で、物理的に倒すことが可能である。幽霊が出た、というだけならそれを倒してしまえばおしまいだ。
姉はちっちっちっ、と舌を鳴らして人差し指を左右に振り、言う。
「甘いで葵! この幽霊屋敷は、普通とは違うんや」
焦らす姉はスルー。私はゆかりさんに聞く。
「どういうことですか?」
ゆかりさんは神妙な顔で、言う。
「それが……不死身なんですよ」
「へ、ふじみ?」
気の抜けた声が出た。
姉が頷いて、ふふん、と語り始める。
「そうやで! 何と、これまで二回も幽霊討伐を完遂したのに、また出てきとるんや」
「復活してる、ということ? ただ単にいっぱいいる中の幾つかが小出しに出てきているだけじゃ……」
「それはないですね。私たち警察は幽霊の住処と思しき屋敷の内部まで鎮圧、調査を行いましたが、イレギュラーはありませんでした。どちらも参加された方の証言では、幽霊の特徴は一回目と二回目でそん色なく、一致していたようです」
ゆかりさんが代わって説明してくれた。私は両肘を膝に立て、手に顎を載せて考える。
「なるほど、興味深いですね」「せやろ!?」「うん、ほんとに。でもどうして一度倒してもまた出てくるんだろう? 復活してるのかな? それとも倒せたと思っているけど実は倒せていないとか? もしくは————」
「……アカン、こうなると葵は自分の世界から出てこーへん」
「まあ、推理してくれる分にはこちらとしてはありがたいのですけどね」
二人が何か話していることにさえ気づかず、私は現状ではどれだけ考えても無意味という結論に達するまで推理を続けた。
そこまで時間はかからなかった。きっと、姉が退屈しのぎにコーヒーを一口飲むくらいの間だろう。
「うーんダメだ、やっぱり自分たちで調査に行かないと」
私はソファにもたれかかり、力なく天井を見上げながら言った。
ゆかりさんと談笑していたらしい姉は、私の言葉を聞いてぱあ、と表情を輝かせる。
「お、やってくれるんか葵!」
私は姉を睨みつけ、言う。
「やってくれるって……勝手に依頼受けてきたのはお姉ちゃんでしょ」
「ま、まあそこはええやん、実際、葵も興味出てきたんやろ?」
それは間違っていないが、私としては達成できる自信のない依頼は受けたくないのだ。あくまでこの事務所は”代理で運営している”だけだ。私たちが調子に乗って依頼を受けて失敗、事務所の評判を落とすことは絶対にしたくない。
「私たちの手に終えないやつは持ってこないでよ?」
「そこは心配いらんで葵」
「心配だよ」「心配でしょうね」
私とゆかりさん、二人に揃って否定された姉は不服を申し立ててくる。
「何でや!? ウチだってさすがに世界滅亡レベルの災害を止めろ、とかできるできないの区別はつくで!」
--お姉ちゃんの場合、区別できる能力が問題じゃないんだよねえ。
私とゆかりさんは目を合わせ、その瞬間に意思の合致を確認。
「いやあ、何ででしょうねぇ」
「何でだろうね」
言わぬが花、とニヤニヤする私たちに、姉は納得できないと意義を唱え続けるのだった。
△△△
昼過ぎ。昼食を食べた後に件の幽霊屋敷のある地域へと向かったのは、私、姉、ゆかりさんの三人だ。
今回は私たちの財布事情も考慮して二人で行こうと思ったが、その意思を伝えると、ゆかりさんは肩をすくめた。
「私も行きます。これは上司からの指示でもあるので、別途お給料を払っていただく必要はありません」
そう言われれば断るべくもない。
姉の運転する車で小一時間。これくらい離れると、もう魔法の町なんて呼ばれ栄えている同じロイドボイスとは思えない、のどかな田舎町だ。
「ここで止めて、後は歩きで進みましょう」
「りょーかい」
後部座席で道案内をしていたゆかりさんの指示で、姉は住宅街から離れた林の入り口付近に車を停めた。
「やっと到着や、ふー、疲れたわ……」
扉を閉めると、姉は車の屋根で両方の二の腕を重ね、そこに頬を預ける。
「お疲れ様。休憩する?」
「なめんな、ウチの魔力量なら一日ぶっ続けで運転しても死なんで」
顔を上げ、ニヤリ、と笑う姉を見て私は苦笑する。
車は運転手が魔力を少しずつ供給しながら、オドをエネルギーに変換するための機構を駆動させている。普通の人ならば一時間も運転すればまず休憩しないと猛烈なダルさがやってくるはずだが、どうやら姉は全然平気らしい。
流石は中等部時代、魔法戦闘で無双を誇った脳き――魔力量の素質だ。そのあたりは、私なんかではちっとも敵わない。
ゆかりさんはため息をつく。
「羨ましい限りです。……さて、この道を進んでいけば、幽霊屋敷があるはずですよ」
私と姉はゆかりさんが向いている方向を見た。
その道は舗装はされていないがなだらかで、草も生い茂ったりはしておらず、疎林を真っ二つに割っている。
「何でこんな場所の、しかも奥の方に屋敷を建てたんやろな?」
「人里から離れてのんびりしたかったのでしょうね、別荘ですから」
「ゆかりさん、一応聞いておきたいのですが、その屋敷と主人ですけど……何かこう、曰くつきだったりしませんでした?」
幽霊が発生するには相応の理由が必要だ。幽霊に関する仕事の際は、まずはそもそもの発生原因から入れ――私の師匠、マスターの教えの一つだ。
ゆかりさんは力なく首を振る。
「……分かりません。先輩方に聞いてみたり、資料を漁ってみたのですが、特に事件といったことは警察では認知していないと思います」
「ですよねー……。知ってたらとっくに警察が解決してるだろうし」
いやしかし、幽霊に成った原因が分かったところで、一番大きな謎の解決はしない。姉が辺りをキョロキョロしている様子を眺めながら、呟く。
「で、どうして幽霊が復活するのか……。そこまで解明しないとこの事件は終わらない」
「ええ、どうせ今回も撃退したところで復活するでしょうからね。……ほら茜さん、行きますよ」
ほーい、と返事をして、私たちの元へ帰ってくる。
「じゃあ進むで」
私とゆかりさんは頷く。前に姉、後ろに私とゆかりさんが横に並ぶ。3人で調査に挑むいつものフォーメーションだ。
しばらく歩くと、姉がぼんやりと呟く。
「……んー? 魔物が出てこーへんな。明らかに居る痕跡はあるのに」
「ああ、それなら私たち警察が調査したからでしょう」
魔物。好戦的な生物の総称であり、明確な線引きはされていない。
ゆかりさんは屋敷に向かう際に襲ってきた魔物は撃退したから、今は近寄ってこないのだろうと言っているのだ。
姉は納得いかないのか、腕を組み、首を傾げながら歩く。
「でも痕跡は新しい感じがするし、幽霊が居るところにはよく魔物も集まってくる気がしてんやけどなぁ……うーん」
「魔物が見当たらない理由……お姉ちゃんとしてはどう思う?」
私が姉に問いかけると、首を回して振り返り、言う。
「え、ウチ? そやなぁ……。良い場所やのに居らへんのやから、居たくない理由があるんちゃう? 何か怖い奴の縄張りになってるとか?」
「怖い奴、ですか。この事件の黒幕だったりしますかね」
「それはどうでしょう。警察の1回目、2回目の調査共に魔物と交戦はしたんじゃないですか? 少なくとも2回目で魔物と会っているなら、幽霊復活の原因と魔物が見えないことに関係はないと思いますけど」
ゆかりさんは目をそらして、申し訳なさそうに言う。
「あー……、すみません、葵さん。魔物については警察として注意はしておらず、資料にも情報が記載されていませんでした」
「そっかー、そりゃ残念やなあ」
ゆかりさんがこの件に関わったのは2回目が終わり、また復活した後だ。情報を得る手段は資料を漁るか、調査していた人に聞きこむくらいしかない。
警察は魔物に関する記録を残していなかった。落胆しかけたその時、ゆかりさんの言葉が頭に引っかかった。
――残してくれなかった……いや、わざわざ残さなかった、とは考えられないかな? えっと、それってつまり……。
私は口角を少し上げて、言う。
「なんだ、良かった。少し前進しましたね」
「え、どういうことですか?」
「例えばゆかりさん、今回の調査結果のまとめを作成するとしましょう。もし結局、今日一日ずっと魔物と遭遇しなかったとして、その情報を放置しますか?」
「それはさすがに書くでしょう……あっ。なるほど、そういうことですか」
姉は首を傾げる。
「んん……?」
「警察の人が資料に魔物のことを書いていないのは、別段おかしいことがなかったから。つまり、1回目と2回目の調査では魔物が普通に出没していたか、数が少なめくらいだった――と考えていいかなって。余程無頓着だったか書き忘れていた場合は知らないけど」
姉はぱん、と手を叩く。
「ああ、なるほどなぁ!」
「ありがとう、お姉ちゃんのおかげだよ。ちょっとだけ見えてきたかも」
私は微笑してそう言った。
しかし、これまではパズルを解け、と言われながらピースを一つも渡されていない状態から、ようやく一つ目を入手しただけにすぎない。
まだまだ、情報が必要だ。
道中。日中で十分に周囲の光量はあるというのに、まるで深夜のような不気味で不可解な雰囲気が辺りを包んでいる。
その理由はすぐに分かった。魔物はともかく、鳥といった生き物の生命感が全くと言っていいほど、ない。
「――待った」
姉が左手を上げて私たちを静止する。
「ついに出てきたで――――幽霊や」
「……とうとう来ましたか」
敵の出現に、私たちは緊張を高める。
私の視界でも敵の姿を捉えた。赤く発光する、強力な怨念――――。
「えぇ? あれ、幽霊の中でも相当に強い個体なんですけど……。ゆかりさん、聞いてないですよ?」
私は唖然としているゆかりさんの横顔を睨みつける。
「いやいや、私だって知りませんでしたよ! ていうかこれ大丈夫なんですか? 今すぐ撤退した方が――」
「撤退? 何言うてんねん」
慌てふためくゆかりさんの声を、仁王立ちで幽霊と向き合う姉が遮るように言った。
首を回して振り返り、ニヤリと頼もしい笑みを浮かべる。
「ゆかりさんは見とるだけでもええよ。……行くで、葵!」
「了解。……私、いるかなぁ」
私と姉は刹那、ドン、と地を蹴る。
まるでどす黒い感情がそのまま可視化されたかのような、暗く、そして確かに強く燃え上がる炎が浮いている。
幽霊は最初から、私たちに向けて今すぐにでもぐちゃぐちゃに噛み砕いてしまいたい――そんな暴力的な殺意を放っていた。
そして、私たちが駆けた瞬間、魔力で型取られた獣の顔が幽霊から出現、勢いよく向かってくる。その獰猛な獣に捉えられれば最後、身体は元の形状を保てないだろう。
姉は私のスピードに合わせてくれている。今、二人は横並びだ。
私は一歩、前に出た。気づいた姉は速度を落とす。
「私が止めるよ!」
素早く体内で魔力を調整し、右手に移動させる。淡く青い光が灯り、バチバチと弾ける。
そして、言葉で魔力を操作する――”詠唱”を行う。
「”氷の造形魔法:氷柱”――――!」
詠唱と共に、右手を前に突き出す。瞬間、魔法陣が手の平の前に現れ、魔法が発動した。
獣の顔を巻き込むように、地面から氷柱の集合体が生成され、ほぼ一瞬で飲み込むまでに成長する。
「今だよお姉ちゃん!」
私は敵の攻撃を防いだことを確認し、叫んだ。
「おう、ウチに任しとき!」
姉は私でも追いつけない速度で氷柱の脇を通り、一気に幽霊との距離を詰めた。
そして右手を握って振り絞ると、炎を纏った。幽霊の懐に入り込む。
「琴葉流奥義の三、”滝登り”――――!!」
雄たけびが詠唱となり、屈んだ姿勢から一気に飛び上がり、幽霊に渾身のアッパーがさく裂した。
鈍く大きな音が周囲を響かせたと思ったら、幽霊は遥か彼方へと飛んでしまい、既に見えなくなっていた。
ほんのわずかな間騒がしかった林は、すぐに静寂を取り戻した。
私は先程の氷魔法の操作を解除して、言う。
「オーバーキルもいいとこだよお姉ちゃん」
氷柱が魔力に戻り霧散していく光を挟んだ奥で、姉は右手をぷらぷら振りながら言う。
「そうはいっても、手加減なんて器用な真似できんしなぁ……」
姉の戦闘力の高さは知っているつもりだが、こうして間近で見るとやっぱりいつも圧倒される。私だって探偵として、自衛できるように魔法を鍛えたつもりだが、姉には遠く及ばない。「はぁ、相変わらず馬鹿みたいに強いですね。警察に招待したいくらいですよ」
肩をすくめ、呆れ声でそう言ったゆかりさんに、私は返す。
「お断りします。私は探偵がいいんです」
するとゆかりさんは、意地の悪い微笑を浮かべる。
「……まあ、そんな強さを誇る琴葉姉妹探偵事務所ですけど、最近は冒険者として扱ってる顧客も多そうですがね」
「うぐっ」
痛いところを突いてくる。それは私も薄々感じていることだ。
そんな私の苦悩なんて気にもしない姉は、むしろ嬉しそうに言う。
「へぇ、そうなんか! ならもっと、洞窟の探検とか面白い依頼持ってきてくれるかな?」
「面白くなーーい! 私は真っ当に探偵業がやりたいのっ!!」
切実な願いは虚しく、姉の心には届いていないことだろう。私の空ぶった声は周囲にこだまして、やがて聞こえなくなったのだった。
△△△
何か、蠢く音がする。
そのナニカが動くたびに、ぐちゃり、ぐちゃり。
「君でようやく完成するよ……」
暗闇の中、力ない男の声が静かな空間に溶ける。
男は右手を振り下ろす。鈍い音が響き、ナニカは動きを停止した。
――――さあ、準備は整った。
△△△
数度の戦闘をこなした後にも関わらず至って平然と歩く姉が、前を指さす。
「おっ、見えたで。あれやろ、幽霊屋敷」
確かに、前方は視界が大きく開いて、建物らしき姿が見えた。
林から抜け出し、件の屋敷までは真っすぐと道が開けている。芝生が道の左右に広がり、ちょうど屋敷の左右の端からこちらに向かって真っすぐ伸びる並木は、先の方で木の枝が目立っていた。
「あれが……。けっこう大きいね」
窓の配置からして三階建て。洋風で華やかな雰囲気を醸し出していたであろうが、今は――とても不気味だ。
それは私以外も感じたようで、ゆかりさんは顔をしかめる。
「うわあ、雰囲気出てますね。この世の幽霊のボスが居ても驚きませんよ」
管理されていないツタが屋敷を伝い、所々、伸びすぎているのか前に垂れている。
それこそゆかりさんの言う通り、幽霊を統べる幽霊が待ち構えているかもしれない。そんな想像が膨らんだ。
どちらかと言うと気分を沈めている私とゆかりさんとは打って変わって、姉は興奮気味に言う。
「これは凄いかもしれん――まさにザ・幽霊屋敷って感じやんか! いやあ楽しみやな、ほら葵、ゆかりさん、早よ調査しようや!」
「ちょ、お姉ちゃん!」
私は静止しようと手を伸ばすが、駆け足気味に館の入り口へと向かっていく。
姉の戦闘力は確かに高いが、流石に不用心が過ぎないだろうか? もし相手が狡猾で罠でも仕掛けていたらどうしよう、と姉と一緒に行動する私は毎度ハラハラさせられる。
――まあ、お姉ちゃんなら「うわー」とか叫びつつ普通に突破しそうだけど。
姉の背中を、私たちは呆れ顔で見つめた。
「なんとかしてくださいよ、葵さん。あなたの姉でしょう?」
「できたら苦労しないですよ……ホント」
ゆかりさんは、ぽんぽん、と優しく私の肩を叩き、言う。
「――――ほら、行きますよ? こんなところで立ち尽くしていたら、何かあった時にフォローできませんよ」
「…………はぁ」
私は苦虫を嚙み潰したような気持ちで、ため息をこぼした。
「はいはい、分かりましたよ――――――もう、お姉ちゃん! 一人で突っ走らないでってなんども言ってるでしょーーー!!」
私は不満を叫びながら、走って姉を追いかける。
追いついた時には、玄関の大きな二枚の開き扉を引いていた。
私の心の叫びはぎいぃ、という扉の軋んだ音でかき消されただろう。姉は扉を引きながらこちらを向く。
「ん? 葵、何か言ったか?」
私と同い年とは思えない無垢な子供のような、好奇心からくる明るい表情。
その顔を見ると、何だか棘が抜かれた気持ちになり、苦笑する。
「ううん、何も。――――うわぁ、凄い豪華……」
私はそれよりも、幽霊屋敷の中に意識を持っていかれた。
広々とした空間だ。端には趣のある骨とう品や絵画が間隔を置いて配置されている。成熟した大人の趣味が惜しみなく発揮されていて、思わず魅了された。
「おぉ、何か凄いなぁ……」
姉も感嘆の声を漏らしている。
無意識に歩みだした足で左右を何度も振り返る。
正面の奥に二本の階段はそれぞれ左右に湾曲し、頂上で中心に合流している。前方には正面にこれまた二枚の開き扉。あの奥は何の部屋だろう?
ゆかりさんなら知っているかな、と意識が自分と屋敷以外に向けられたことで、自分が今、まるで姉のような無防備さで屋敷の中を探索していることに気が付いた。
「……はっ、まずいまずい、警戒しないと」
すると、まず第一にある違和感が頭をよぎる。
「幽霊、全然出てこないね」
「あー、せやな。いっぱい押し寄せてくるんかと思ってたけど何もおらへん」
周囲を警戒するも、気配は一切感じられない。
「どうですー? 調査の進捗は」
遅れてやって来たゆかりさんに対し、振り返らずに答える。
「幽霊が全く出てきません。本当にここで合ってるんですよね?」
「合ってますよ。で、どうします? 一応、私たちも中を調べてみますか?」
既に警察が調査済みの屋敷だ、これといった真新しい情報が得られる可能性は低い。とはいえ、このまま帰ってしまっては何も得られない。
「調べましょう。一旦別れて、またここで集合ということで」
「りょうかーい」「分かりました」
私たちは個々人で思い思いに捜索を開始した。
最後に帰ってきたのはゆかりさんだった。
階段を降りる間に、肩をすくめて首を横に振って見せる。
「……ゆかりさんも収穫はないみたいやな」
「そうだね。何か見つけられるならゆかりさんと思っていたけど」
ゆかりさんは調査・捜索といった”探す”魔法に長けている。そんな彼女でも一切の情報を得られなかった。
これは本格的に、徒労に終わる可能性が出てきた。
「どうしましょうか? もうこの屋敷はハズレと断定して良いと思うのですが。どうです? 探偵のお二人方」
「うーん……」
私は顎に手を当て、考え込む。
――確かに、これだけ調べても何も情報が得られなかった。でも何だろう、調査を始めた頃から、ずっと何かを見落としているような。
姉は腕を組み、眉をひそめて言う。
「こんだけ探しても何も出ーへんし、そもそも幽霊は復活も何もしてないんちゃうか?」
「――――」
なんだ、何だろう。
とてももやもやする。
――幽霊は復活も何もしていない……。
「でも現に私たちは幽霊と交戦したじゃないですか。二週間でまた新たな幽霊がやって来るなんて、それこそ考えられません」
「それもそやな……うーんさっぱり分からん! 葵はどうや? ——って、葵?」
――そもそも、私たちは何を調べている? 幽霊が復活している事件の調査。待てよ、そうえいば幽霊が復活している、その証拠はない。ただ、状況からそう考えているというだけ。ならその前提が違ったとすれば?
これまで追いかけていた光はブラフだった。私はこれまでに得た情報を整理する。
真っ暗だった事件の真相。それが、一気に光に照らされ始め――。
「――――見えた。……え? 何、お姉ちゃん?」
「いや、何かポカンとしてたから……それで、何か分かったんか?」
私は頷く。
「うん。そもそも私たちは、幽霊が復活しているか、それとも倒しきれていないか――つまり、幽霊に異常があると思い込んでいた」
「あっ」
声を上げたゆかりさんに微笑み、私は続ける。
「でもそれらを補強する証拠は一切出てこない。なら、違う可能性、つまり人為的な事件であると考えるべきでしょ?」
姉は首を傾げて、言う。
「誰か犯人が居るってことか? でも幽霊を生みだすなんてできひんやろ」
「勉強不足だよ、お姉ちゃん。あまりにも危険とされ、以後一切の使用、研究を禁止された魔法――”禁忌魔法”に指定されているある一つが、今回の事件の内容にマッチしてる。歴史が得意科目だったゆかりさんなら、知っているでしょう?」
深刻な面持ちのゆかりさんは、言う。
「公にはされていない事件のはずなのですが……。ええ、知っていますよ。100年以上前にあった事件です。魔物の多かった森で、突如彼らの姿がまばらになって、逆に幽霊が大量に発生、周囲に住む人々に多大な被害を与えた。その真相は、とある魔道士が魔物の死体を使い、”魔物の幽霊”を意図的に作り出す魔法を作り出したことだった……」
「今回の事件と、状況はとても似てるんやな。でもゆかりさん、禁忌魔法がそう簡単に再現できるんか? 魔法学会が禁忌魔法の流出防止に注力しとるから、使い方を知ることは不可能なはずやろ」
ゆかりさんは肩をすくめ、言う。
「あそこも大概、一筋縄ではいかないですからね。そうでもないんですよ。実際に禁忌魔法が行使されたことで起こった事件を挙げればキリがありません。あっ、この話は内緒でお願いしますよ」
するとゆかりさんは、扉を指さして、言う。
「じゃあ、行きましょうか」
私と姉は首を傾げる。
「行くって、どこにですか?」
ゆかりさんはニヤリと笑い、言う。
「屋上ですよ。この禁忌魔法は、太陽光を長く当てないといけませんからね。魔法陣はそこにある可能性が高いです。さすがの葵さんも、知らなかったでしょう?」
ふふん、と胸を張るゆかりさん。
情報漏洩って怖いなぁ、と他人事みたいに考えつつ、私たちは外に出た。
「恐らく犯人はとても高度な幻術使いです。私たちは誰も屋上へ行くことができなかった。でも、外からならいけるはずです」
姉が手で目の上部を覆って影を作りながら、言う。
「ここから見上げる分には結界とかもなさそうやし、いけるな」
「じゃあ、飛ぼうか」
「せやな」
姉と目を合わせて頷く。よし、行くぞと足に魔力を込めた時。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! まさか屋上まで一飛びするつもりですか!?」
「ん? そうやけど?」
「そうやけど? じゃないですよ! 何で当然のようにしてるんです、あんなの届くわけないじゃないですか」
屋敷は大きな三階建て。まあ確かに、ゆかりさんなら難しいかもしれない。
私はさっきのお返しとばかりに、姉を見て、ゆかりさんへと向けて顎をクイッと振る。
姉は私の内心を理解したのか、ニヤリと笑い、ゆかりさんを一瞬で捕まえ、お姫様抱っこした。
「うわっ、え、何ですかいきなりやめてくださいよちょっと茜さ――」
「じゃあ、せーのっ!」
姉の掛け声に合わせ、飛ぶ。
あわわわ、と顔を真っ赤にして叫ぶゆかりさんを見て心底愉快になり、屋根に着地した。
そんな楽しい時間は一瞬にして終わる。
「――――うっ、この臭い……」
「うわ、臭っ!」
屋上の様子を確認した瞬間、血と肉の臭いが鼻につき、浮ついた心に警告が鳴った。
広々とした屋上の中心に、赤い血で描かれた大きな魔法陣があった。
「あれは――間違いありません。禁忌魔法です!」
姉に降ろされたゆかりさんは、言った。
禍々しさを漂わせている魔法陣に不快な気分になり、私は言う。
「誰かがこの禁忌魔法を実験して……そして成功させた。それがこの事件の真相だろうね」
姉は左の二の腕で鼻を抑え、言う。
「禁忌魔法に辿り着くとか、どんだけヤバい奴なんや……犯人はもう居らんみたいやし、どうする?」
「犯人を捜すのは無駄だろうね。もうとっくの昔にお暇しちゃってるだろうし」
「でしたら、この魔法陣を破壊しましょう。残しては置けません」
ゆかりさんがそう言った直後、魔法陣が妖しく光った。
そして、上部に明確な形状を持った幽霊が、薄く現れた。
私たちは息をのむ。
魔物の顔、前足、前足、顔、顔、尻尾、耳――――
それは、魔物がめちゃめちゃに混ざり合っている”何か”に見えた。
これが、私たちが道中倒してきた幽霊の親玉。
「――そうですね、残しておくべきではありません」
私は姉を見て、言う。
「お姉ちゃん、お願いできる? 私の氷魔法は”止める”能力。でもそれじゃあ、何時まで経ってもこの魔物たちが報われない」
姉は神妙な表情で、ゆっくりと頷く。
「……分かった。ウチに任しとき」
姉は数歩、前に出る。
”何か”はそれに反応して、顔という顔が様々に吠え、唸り、威嚇する。
――その中に、力なく姉を、私たちを見つめる顔もあった。
「ウチが終わらせたる」
姉は上半身をねじり、右腕に魔力を集中させる。
「――――”ファイア”!!」
潤沢な魔力から繰り出された炎は易々と”何か”を包み込んだ。
私はなんとなく熱で痛む顔を護らず、目をなんとか開く。
ただ、真っすぐ立ち続けた。
△△△
ブロロロ、とのどかな田舎道を走る。
結局、あの”何か”を解放した後にゆかりさんが魔法陣を調べたが、特に情報を得ることはできなかった。
右手で頬杖をつきながら不満顔の姉は、言う。
「あーあ、気分悪い締めやったなぁ」
「事件なんてそんなもんだよ、お姉ちゃん」
「あなたたちの協力あって見事に解決したはずですけど、あまりスッキリとはしないですね」
私は外の景色をぼうっと眺め、言う。
「私としては、あまり解決した気分じゃないです。犯人はもちろん、動機も一切分かっていないですし」
「でも報酬は受け取ってもらいますからね」
「本当にいらないんですけどね……」
すると姉は何か思いついたのか、ぱっと表情を明るくして、言う。
「あっ、それならゆかりさん、ウチらにご飯奢ってや! お腹空いたわ、このままどっか食べに行こ?」
「それ名案!」
私は姉に便乗する。
「それじゃあゆかりさん、これが報酬代わりということでお願いしますね?」
ゆかりさんは手を横に振る。
「えっ、ちょっと待ってください。私は今すぐにでも署に帰って報告書を――」
「ふふーん、今、ハンドルを握ってるのはウチやでゆかりさん」
うわ、とっても悪い顔。
私は後部座席を振り返り、ニッコリと笑って、言う。
「往生際が悪いですよ、ゆかりさん♡」
「…………はぁ、分かりましたよ。で、何食べるんですか?」
「そらもちろん、小戸屋のエビフライ定食やろ!」
「何言ってるのお姉ちゃん! 今日はチョコミ――デザートも美味しいマキカフェでしょ?」
「葵はそこのチョコミントアイス食べたいだけやろ! いつもそこばっかりやんけ!」
「お姉ちゃんこそいつもエビフライばっかじゃない!」
「美味いからええねん! チョコミントアイスなんて歯磨き粉やん」
「あ、あぁ! お姉ちゃん、言ってはならないことを……!」
「…………もう、どこでもいいですから仲良くしてください……」
小ぶりな車は、賑やかに事務所の方角へと走っていく。
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琴葉探偵事務所 ~My favorite Ice Cream~
昼下がり。この時間帯特有の倦怠感が街中に漂っていた。
魔道士の集う町、ロイドボイス。飲食店が集まる通りでは昼休みに外食を取りに来た人々が次第に自身のフィールドへと戻っていった。忙しない数十分前が嘘のようだ。
ロイドボイスの飲食店街の中でも、ここ、二丁目の商店街は特に栄えている。飽和している飲食店の中から一歩抜け出そうと、店舗ごとに外観や内装といった料理以外の要素に特徴を設け、差別化を図っていることが見て取れる。
例えば派手な色や明かりで装飾していたり、対象的に明るい木目調で統一して柔らかな印象を狙っているお店もある。
そんな通りに構える店舗の一つに、”マキカフェ”なる飲食店がある。このお店、そんな二丁目商店街の特徴に反して、見た目にこだわりが、努力が感じられない。ごく普通のちょっとお洒落に気を使っている一軒家に、カウンターやテーブルを設置したらこんな感じになるだろう。店っぽくない、という感想がしっくりくる。
とりあえず白を基調に必要な家具を並べました、と言うところだろう。
そんなマキカフェだが、私、琴葉葵はこのお店が大好きだった。
他の飲食店はある種の特別感のある空間ばかりだ。確かに魅力的かもしれないが、普段使いしている私にとっては足が重くなる要因となっている。
対してマキカフェはというと、そういったハードルはなく、まるで自分の家や気の置けない友人の家にお邪魔するくらいの気軽な気分で入店することができる。料理はもちろん、私はそんな雰囲気が気に入っていた。
今日はいつものように混雑する時間帯を避け、姉と一緒に昼食を取りに来ている。二人並んで座っているカウンターを挟んだ向かいにはこのお店のスイーツ担当――マキさんがカチャカチャと洗い物を進めている。
「――へぇ、さっすが葵ちゃんだね」
「せやろ? あんなちっぽけな地図であのお宝に辿り着けたんは葵が居ったからやでな」
「……」
私は努めて下を向き、食事に集中する。
ロイドボイスの人通りが少なめで静かな地帯にぽつんと構える琴葉探偵事務所。師匠であるマスターが調べ事がある、ということで不在の間事務所を任された探偵である私は、自称冒険家兼私のボディーガードの姉と一緒に事件に対応している。
マキさんは私たちの仕事の話が大好きらしく、楽しそうに姉の話を聞いている。その話題が、いつもの、姉が突然持って来た冒険家に投げたくなるような依頼の話でなければ文句はなかった。
私は辛い料理を食べたことにより火照った顔を上げ、吐き捨てる。
「もう、マキさん助けて下さいよ。お姉ちゃん、本当に私を冒険家か何かと勘違いしてるんですから」
マキさんは顔を上げず、手元の作業を続けながら言う。
「えー? いいじゃない、楽しそうで。私は羨ましいなぁ――――はい、チョコミントとストロベリーね」
コトン、とカウンター上に二つの透明なカップ。姉がいつも食べているストロベリーアイスと、私の愛してやまない、マキカフェのチョコミントアイス--!
私はさっきまでの胸中をすっかり忘れ、チョコミントアイスの入ったカップを手に取る。
「はぁぁ…………」
感嘆の息が漏れる。
手のひらサイズで丸々と綺麗な球状は愛くるしさを際立たせ、思わず撫で回したくなる。
散りばめられたチョコレートはミントという広大な海を泳ぐ高級魚だ。
「…………アイス溶けるで、葵」
「いただきまーす!」
私はこの世界の何もかもを忘れ、ただ目の前のアイスを味わう、ただそれだけに集中する。
「ん~~!!」
「葵ちゃんはいっつも美味しそうに食べてくれるからこっちも嬉しいよ」
「姉としては恥ずかしいけどな……。まあ、いっつも頑張っとるし、息抜きできるのはええことやな」
「でも、何か足りないみたいなんだよね、私の作るアイス」
私はふと聞こえたマキさんの言葉に、がたん、と立ち上がる。
「何言ってるんですか、マキさんのアイスは最高ですよ!」
「ありがと。でもねぇ……売り上げが落ちてきちゃってるんだよね。とあるお店がオープンしてから」
私は目を細め、言う。
「とある店、ですか」
マキさんはカウンターに頬杖をついて、ぼう、と外を眺めながら言う。
「うん。ちょっと前にできたらしいんだけど、そこのアイスがとっても評判が良いんだ。それでウチに来てくれていたお客さんが取られちゃってさ……。どんなアイスを出してるんだろうな~、と食べにいったんだけど」
ごくり、私は唾を飲み込み、マキさんの言葉を待つ。
「確かに美味しかった。美味しかったんだけど、私のアイスと明確な差が分からない……。でも、私のアイスが負けているのはお客さんの反応から見て明らかだから」
「マキさん……」
私はかける言葉が見つからない。
しかし、マキさんは落ち込んでいるわけではなかった。両手の拳を握り、強く瞼を閉じて、言う。
「くぅ~! 悔しいなぁ! そこでなんだけど――琴葉探偵事務所に依頼があるんだ」
「へっ、マキさんからウチらに依頼?」
のんびりとアイスを食べていた姉はキョトンとして、言った。
「ウチら、アイスの開発なんてできひんで?」
「ははは、違うよ。私以外の人で、あの新しい店のアイスを食べた感想を教えてほしいんだ。お友達兼お得意様の琴葉姉妹に頼みたくてね」
私たちとマキさんは、魔法学園中等部時代からの友人で、一年差の先輩だった。
私は何度も頷く。
「ええ、任せて下さい! ――お姉ちゃん、これは何よりも優先すべき最重要案件だよ……」
私は冷静に、言葉を並べる。
「マキさん、私たちに任せてください。すぐにでも敵の化けの皮を剥がして、マキカフェの廃業を阻止してみせます」
「いや潰れねーよ。……まあ、そこまで言ってくれるなら、良い情報を期待してるよ?」
「承りました! ほらいくよお姉ちゃん――――!」
ずんずんずん、私は早足で店を去った。
茜はそんな葵の背中を、座ったまま見つめていた。
マキはそんな姉の背中を見て、微笑ましさを感じた。
「……はぁ。マキさん、そのお店の名前と場所教えてや」
「お姉ちゃんは大変だね?」
茜はマキが手早く用意したメモをおおきに、と受け取り、立ち上がる。
「ホンマやで、チョコミントアイスのことになると全く周りが見えなくなるんやから。あ、お勘定やな……葵め、ウチが居らんかったら食い逃げやないか」
マキは茜から昼食のお会計を受け取る。
「ピッタシ、確かに受け取りました。――――じゃあ、よろしくね? あ、でも急がなくていいよ、マスターのコーヒーがイマイチでも、今すぐ潰れたりなんかしないから」
イタズラっぽく言うと、奥から、聞こえとるぞ、と不機嫌そうな老人の声が響いた。
茜はニヤリと笑う。
「マキさんは友達サービスや、優先高めで取り組むで?」
「おっ、それは嬉しいね。それならこっちも負けてられない、アイスのリニューアルするために研究をもっと頑張らないと」
「それなら真っ先に葵に食べさせてやってや、きっと喜ぶで」
「いやあ本当に姉の鑑だね、茜ちゃんは」
「ふふん、せやろ? ウチはいいお姉ちゃんやからな」
ばん、と勢いよく店の扉が開いた。茜が振り返ると、肩で息をする葵の姿を確認した。
「はあはあ、マキさん、そういえばその新しいお店の場所を聞いてませんでした……」
茜とマキは顔を合わせ、笑った。
△△△
私は姉と一緒に、ロイドボイスの商店街を歩く。
人が減ってきたといっても場所によりけりで、私たちの向かっている方面は宿が近く、旅行客が多いので盛況を見せている。
私はやるせない気分で、腕を組みながら歩く。
「絶対マキさんのアイスの方が美味しいよ……第一悪いのはアイスではなくマキさんのアイスの美味しさを理解できていないだけだろうしそもそも……――――」
マキさんにもらったメモを見て歩く姉は、しばらくして、呟き続けている私の言葉に反応する。
「葵、とっても口が悪くなってるで。それにしてもあのマキカフェからスイーツ系のお店でお客さん奪えるなんて、相当美味いんやろな」
「……それは食べてみないとなんとも言えないね」
マキカフェはカフェなのだから、当然、飲み物もメインとして売り出している。しかし、あそこのマスターが淹れるコーヒーは良くも悪くも個性的だ。少なくとも、私含め周りの人で好いていると公言したのは誰一人居ない。注文しているのも見たことがない。
一応、ニッチな需要があるらしく、あそこのコーヒー以外飲めなくなった、という熱烈なファンもいるにはいるらしい。
飲み物がそんな状態であるから、マキカフェに訪れる客の大半はマキさんの作るスイーツが目当てだ。私や姉はアイスクリームばかり頼むが、ケーキも相当の人気を獲得している。一度ショートケーキを食べたことがあるが、確かに美味しかった。
「で、そんなマキカフェの客足が落ちたということは――――あ、あそこかな」
私は前方を指さす。
オシャレなオープンテラスが横に並び、ぱっと見は満席だ。窓から覗く店内は明るい木目模様が目立つ。こちらも混雑しており、席は多少空いているものの、昼食後のデザートを食べるにはあまりに遅い時間を考慮すれば相当な人気があると言える。
スイーツ店、『メイクトレンド』――――。
「ちっ、いかにも若者受け狙ってるのバレバレじゃん」
「舌打ちでてるで、葵」
私は何も応えず、お客さんをざっと見渡した。
静かに食べる人、よほど美味しいのか、頬を緩め、恍惚の表情を浮かべる人。
食べている人たち皆が、舌から味覚から、幸せを感じている。
――そんなに美味しいの?
ごく、と思わず唾を飲み込んだ。
「とりあえず入って、てきとうに何か食べようや」
「あ、うん」
私は姉の背中を追いかけ、店の扉を開く。
瞬間、ふわり、と甘く優しい香りが全身を包む。
いらっしゃいませ、とカウンター奥で作業する複数の店員による挨拶のハーモニー。
――――そこは、特別な空間だった。
私たちはメニューの写真を眺めてああでもない、こうでもないと言い合いながら注文を決定する。
待っている間は、興奮する気分をなんとか抑えながら姉と談笑したりしていた。姉も落ち着かないのか、何度もキョロキョロ、店内を見渡していた。
商品を受け取ると、数分が十分にも二十分にも感じられる時の遅さへのいら立ちが吹っ飛んでしまった。
「「うわあ、美味しそう……!」」
私はチョコミントアイス、姉はイチゴショートというケーキを見降ろす。
これまたオシャレな皿に盛られた高級感漂うチョコミントアイスは、見ているだけでヨダレが止まらない。
「あ、葵……これヤバいで」
「う、うん……これ、絶対凄いよ」
私はスプーンを、姉はフォークを手に、恐る恐る、一口分だけ取って、口に運んだ。
刹那、私という魂が一瞬、あまりの衝撃に頭から抜けてしまった――そんな感覚に襲われる。
「んぅ……!!??」
身体が言うことを聞かず、ビクりと震える。天を仰ぎ、体幹のど真ん中を撫でられたような快感に口をつぐんで耐える。
「はぁ……。大丈夫、お姉ちゃん?」
息をついて前を見ると、姉が額を手の甲で支え、俯いていた。
ギリギリ目が合う程度に顔を上げ、消え入る声で言う。
「これ……アカンわ、美味すぎる……!」
それから私たちは夢中に食べ、気が付いたら完食していた。
当日夜。今日の営業を終了し、閑散としているマキカフェ店内。
二人の感想は一致した。
こんな美味しいスイーツは、食べたことがない。
このお店は別世界なのではないか、そんな連想をする程に非日常な空間。
それが、『メイクトレンド』の魅力だった。
私は絞り出すように報告を締める。
「美味しかった……本当に……!」
「何で泣いてんねん……」
一日、スイーツを作り続けていたのに元気なマキさんは、首を傾け、物思いにふける。
「そうかぁ、特別感ね。ありがとう、参考になるよ。確かに、マキカフェと、私の作るスイーツには無い要素かもしれないね。――――――今日も色々試してみたけどしっくりくる物はできなかったし、これは私のこだわりのせいで視界が狭まってるかな……?」
「こだわり?」
私の拾い上げた言葉に、マキさんは目をそらし、恥ずかしそうに人差し指で頬を掻く。
「あー……。まああれだよ、私のスイーツに対する哲学みたいなもの」
そんなことより、とマキさんは話題を切り替える。
「今の状況を打破する手段として、私は『アイス師範』に会いたいんだ」
「アイスシハン? 何やそれ」
聞いたことないで、という姉に、私は説明する。
「アイス師範は有名な妖精だよ、お姉ちゃん。頭角を現したアイスクリーム職人の元に突然現れて、見事に認めてもらえれば必ず実力を伸ばせる凄いアドバイスを貰えるの」
私は続ける。そんなアイス師範だが、出会いたいと思ってもそう上手く行かないこと。実力が必ずしも関係していると言い切れないこと。
そして――高確率で会うことができる方法が存在する、そんな噂話。
「なるほどな、それをウチらに調べてほしいってことか」
「うん、正解! 私は私で改良に取り組むけど、もし時間あったら調べてほしいな」
私はガタンと立ち上がる。
「お姉ちゃん!」
「はいはい、これも最重要うんたらやろ。というわけでマキさん、何か分かり次第、また来るわ」
「ありがとう! 絶対に今より美味しいアイス、完成させるね」
「はい、とっても楽しみです!」
私たちはマキカフェを出た。
街頭に照らされた商店街は、昼頃とは全然違う表情を見せている。
続々と店仕舞いを済ませた店舗が増え、逆に夜になったことで活気にあふれている所もある。
静かだけど騒がしい。私は結構、こんな雰囲気の中に身を置くことは嫌いではなかった。
並んで歩く姉は、前を見たまま、言う。
「調査といっても、当てはあるんか? ウチはよー知らんけど、幻だとか言う人らも居るくらいなんやろ?」
「大丈夫、一応、奥の手はあるから。面倒な手順を踏まないとダメだからあまり使いたくないんだけど」
「それならええけど。……なーなー、明日の昼はエビフライ食べにいこや」
「朝ごはんちゃんと作ってくれたらいいよ、明日の担当お姉ちゃんだからね」
「……葵が起きた時にまだウチが寝てたら起こしてな?」
「……はいはい、でも自分で起きてよね」
他愛のない話をしながら、事務所への帰路を歩く。
△△△
後日。私は姉と一緒に行列最後尾に並んでいた。
今日の朝は優雅の欠片もなかった。目を覚まして時間を確認して飛び起き、姉を起こすだけ起こして、私は急いで準備して事務所を出た。
意識がしっかりと覚醒するのを待たずに激しく動いたからか、とても身体がダルい。
どうして日がまだ浅い朝の時間は、こうも急かされる気分になるのだろう。私はこの世を恨んだ。
大きなあくびをしている姉を横目に、言う。
「……別についてこなくてよかったのに」
口を波打たせながら噤んでいた姉は、私の言葉に間を置いて反応する。
「ウチも食べたかったしな。葵一人じゃ自分らの分が買えへんやろ?」
「一個だけだからね、最近出費がかさんでるし」
私は行列に並ぶ時間がとても苦手なので、姉が来てくれて本当に助かった。
そんなことをしてまで何を買いたいのかというと、超有名店の人気商品、『3連まんじゅう』――肉まん、あんまん、カレーまんのセットだ。
このお店、本当によくお客さんが並ぶ。3連まんじゅうはいつも昼頃には売り切れてしまう。 つまり開店前もしくは直後から並んでいないと買える見込みがないのだ。だから私は、必死に朝に起きてこうして並んでいる。……私が食べるわけでもないのに。
「これで何も情報が得られなかったらどうしよう……なんて心配にもならないね」
「アイツのことやし、何も知らんなんてことはないやろうしな」
「飲食に関係することで知らないことなら無敵だし」
私たちがここまで信頼を寄せる人物。
自力で調査しても有力な情報が得られなかった、アイス師範と出会う方法。
でもおそらく、彼女なら知っている。
新聞社のグルメ・飲食部門所属に突如現れた新星、紲星あかりなら――――!
新聞社の社内は喧騒に溢れていた。
怒鳴り声にさえ聞こえる大きな声が周囲で響き、バタバタと足音は忙しない。
そんな夕刊の部門に比べれば、今いる辺りは相当に静かだった。
グルメ・飲食部門に足を運んだ私たちは、あかりのデスクへと直進する。
綺麗な銀髪の三つ編みが左右に垂れている。真剣な表情で机に向かっているので何をしているのかと思ったら、小さなおやつを食べているようだった。
「なんやあかりん、仕事かと思ったらサボっとるんか」
姉の声に顔を上げたあかりは、私たちの顔を一瞥して、
「あ、茜さんと葵さんじゃないですか、どうし――って、それは!」
私はふふんと口端を上げ、持っている右手を揺する。
「そ、3連まんじゅうだよ。聞きたいことがあって来たんだ」
あかりは目を細める。
「……ひとまず、場所を変えましょうか」
私たちは応接室に招かれた。
個室になっているので、ここでなら秘密の話もできる。
私は向かいに座ったあかりに、3連まんじゅうを差し出した。
目をキラキラ輝かせるあかりに、変わらないなぁ、と息をついた。
紲星あかり。私たちの1年後輩として魔法学園中等部で出会った。
あかりは何よりも食べることが大好きだった。中等部の頃も、使えるお金の大半を食事に費やしていたように見える。
食べる量も大概凄いが、どうやら味覚センスやその味を伝える才能があったようで、新聞社に入社してまだ1年も経っていないにも関わらず、隔日連載の個人コラム『ロイドボイスを食べ尽くす』は大人気を博している。
むしゃむしゃと美味しそうに食べるあかりに、私は尋ねる。
「それであかりちゃん、聞きたいことがあるんだけど」
「何れすか?」
頬張りながら首を傾げるあかりに、私は大丈夫と信頼しながらも縋る思いを抑え、言う。
「アイス師範に会える手段を知らない? どうしてもマキさんに会わせてあげたいの」
「もぐもぐ……。なるほど、だから3連まんじゅうなんですね」
咀嚼している分を飲み込んだあかりは、言う。
「大方、最近できたメイクトレンドにお客さんが取られちゃったんでしょう?」
「……流石やな、ロイドボイスの飲食事情は知り尽くしとる」
自然に漏れた姉の称賛を、あかりは静かに流す。
「これが仕事ですから。……本当は言いふらしたくないですが、二人の頼みだし、マキさんのためとあらばしょうがないですね」
あかりは最後に残った肉まんを取り出して、続ける。
「絶対ではないですが、アイス師範とで出会える確率を上げる方法は知っています。ミント草原、ご存知ですか?」
「東の隣町、イースト町のミント草原でしょ? チョコミント好きの間では常識だよ」
あかりは一口食べ、右手の人差し指を立てて、言う。
「そこのミントを使って美味しいチョコミントアイスを作ることでアイス師範に出会える……かもしれません」
「かもしれない、かぁ。やっぱり会うのは簡単じゃないんやな」
呟く姉に、まるで先生が生徒を諭すように言う。
「ええ、そもそもこれは出会える確率を上げるだけにすぎません。アイス師範と出会うために必要なのは、何より”情熱”と”技術”ですから。あの方の目に留まるか、そこが一番重要なんです」
私は姉と目を合わせ、あかりに向き直る。
「それなら大丈夫だよ。マキさんはそのどちらも持ってるから」
あかりは微笑を浮かべる。
「ええ、知ってます。マキカフェのスイーツは絶品ですから。しばらく食べてないから、行きたくなってきました」
「それなら、今度一緒に行こ? マキさん、今アイスのリニューアルに向けて研究中らしいんだ」
あかりの目が蒼く光った。
「それは気になりますね。仕事という名目で食べに行くこともできますし、最高です」
「相変わらずやな、あかりんは。ほな、葵がその新しいアイス試食させてもらえる日が分かったら教えるわ。マキさんにはウチらが伝えとくし」
「わーい、楽しみです! マキさんのアイスは日々頑張る私たちにそっと寄り添ってくれる、等身大のスイーツとして最高ですからね」
私は妙に納得してしまった。流石は人気コラムを手掛けるだけはある。
そうやって、無邪気な笑顔で期待に胸を膨らませているあかりを見た。
イースト町、ミント草原のある地域まで車でおよそ一日。
今回は私と姉の二人旅だ。
マキさんは自分も行くといったが、ミント草原までは魔物との戦闘が予想されるので、危険だからと止めたのだ。
「こっからは車では行けんな。歩きで行こか」
姉が見据える先は、車が通れそうな道ではない。しかも、運転中に突然魔物が前に現れても危険だ。
私は頷く。
「うん。気を付けていこうね。魔物は少なからず居るから」
「ウチに任せとき」
二人で進む際は、姉の後に私が一列に並ぶ。
――そして、予想通り敵は現れた。
「えっ、ゴーレム!?」
姉は驚愕の声を上げる。
ゴーレム。人の魔法により造形された自立人形。
つまり、魔物のような人のコントロールできない相手ではなく――――人為的に、戦闘力を配置しているのだ。
私は姉に言う。
「とりあえず、ミント草原まで行こう! そこで何か分かるかもしれない!」
「そうやな! ????吹き飛べッ!」
姉は目にも留まらぬスピードでゴーレムに迫り、巨躯が動く前に先んじて拳を叩き込む。
成すすべなく、姉の魔法で強化された殴打を受けたゴーレムはバラバラに砕け散る。堕ちた破片は魔法の操作から離れ、元の土へと還っていった。
「なーんかきな臭いな?」
「……ミント草原を独り占めしようとしてる人が居る。そう考えるのが自然だね」
「あかりの言ってた通りか……一体誰が?」
あの後、あかりはこんなことを言っていた。
??あ、お二人とも、ミント草原に行くなら気を付けて下さいね。最近、収穫に行った人が怪我して帰ってきたという話を聞いてます。やられたのは魔物じゃないとか。
「正直、思い当たるのは一つあるけど……推察の域を出ないし、ゆかりさんでもない限りは証拠もでてこないと思う。しかも、ゴーレムもあの一体だけみたいだし。偶然発見して、あまりに質が良いからと魔が差したのかも」
「実際、あの一体で独り占めなんて絶対できひんやろな。これに懲りずにまたやったら、今度こそ懲らしめんと」
しばらく歩く。
すると、何度目かの足音が聞こえてきた。
「……なあ、葵。またゴーレムやで」
今度は四肢が鋭い針の、いかにも殺意が高いゴーレムだ。
呆れ声の姉に、私も同調する。
「一体、何人がミント草原の取り合いしてるんだか……」
姉は前に出る。
「じゃあ、さっさとやっつけるで」
そう言って魔力を流し始めたその時。
「――て、うわっ!?」
虚を突かれた姉が反応できない速度でゴーレムはこちらに接近、より遠い私めがけて飛んでくる――――!
「葵っ!」
「大丈夫」
ゴーレムは右腕の針で私を串刺しにしようとして――――
あと二歩のところで、全身が凍結した。
「へっ?」
素っとん狂な声を上げる姉に、私は不満を露わに腕を組み、言う。
「一応、常にお姉ちゃんのフォローに回れる様に準備はしてるよ。まさか私がやられるとでも思ったの? 本当、全然信頼してくれないんだから……」
ここぞとばかりにいつもの不満をぶちまけ、ついでに凍ったゴーレムをパンチ。バラバラに砕け散った。
「ゴーレムはとっても凍りやすいから、むしろ私の方がよっぽど安全に対処できるんだから。え、お姉ちゃん?」
姉は地べたに体育座りしていた。
「ごめんな葵ダメなお姉ちゃんで……どうせウチは戦闘でも頼ってもらえない、何もできない役立たずですよーだ……」
クルクル、指で地面に丸を描く姉からは悲壮感があふれ出していた。
「ち、違うよお姉ちゃん! 戦いで頼れないなんて言ってるつもりじゃなくて――――」
エビフライの約束でなんとかなだめた後、私たちは最奥、ミント草原に辿り着いた。
視界が一気に開ける。
平原一杯に緑のカーテンが掛かっているかのようだ。
「うわあ、いい香り……!」
ミントがいっぱいだ。スゥ、と爽快な香りが辺りを包み込んでいる。
「ひゃあ、凄いなぁ。これがミント草原か」
姉が口を開けて呆けているのも分かる。
細部まで丁寧に手入れされているのが見て取れる。およそ人の身では辿り着けない、完成された生育環境だろう。
極限まで研ぎ澄まされた仕事は、芸術になる。
辺りには誰も居なかった。その代わり、私たちの頭上で何かがキラキラ輝いた。
「おや、久しぶりの来客ですね。あなたたちも、私のミントの葉を収穫に?」
小さな人のような生き物が、響く声で言った。
妖精だ。
「久しぶり……? やはり、最近は誰も?」
妖精はため息をついて、言う。
「そうなのよ、だーれも来ないから、こんなにいっぱい」
「ああ、やっぱり。これで見えました。大丈夫ですよ、またしばらくしたら客足は戻ります」
妖精と姉は目を丸くする。
「え、なんで?」「ほう、どうしてそう分かるのですか?」
「簡単な話です。質の高いあなたのミントの葉を独占したい、と考えたバカがたくさんいて、みんなが足を引っ張り合った結果、誰も収穫に来れなくなったんですよ。その原因は私たちが排除しました。今度は、あなたが釘をさしてあげて下さい」
妖精は遠い目をする。
「あらまぁ、そんなことになってたなんて。……忠告ありがとう」
そして、私たちを再び見据え、言う。
「それで、あなたたちは? 収穫にきたの?」
私は頷く。
「はい。私の大好きなアイスクリーム職人、彼女をアイス師範と会わせてあげたい。そのために、あなたの作るミントの葉が必要なんです。どうか、頂けないでしょうか」
妖精はじぃ、と私の顔を眺め、続いてミント草原を走り回る姉を見て、小さく笑った。
「いいですよ。というか私、余程でない限りは誰にでも許可を出してますし。ミントの葉、すぐにいっぱいになるんですもの」
「ああ、育ちが早いと聞きますね。ありがとうございます。では、頂いていきますね。――――お姉ちゃーん、収穫するよー!」
ほーい、と返事を聞きながら、私はしゃがんでミントの葉を近くで見つめる。
――本当に綺麗。後は、マキさん次第かな。
私たちは適度にミントの葉を収穫し、妖精にお礼を言って、ロイドボイスへと向かった。
△△△
夜、マキカフェ。ミントの葉を渡してから一週間程が経った。
今日の朝、営業終わりに作るから来てほしい、とマキさんに呼ばれた私と姉は、“CLOSED”と書かれた看板がぶら下がっている扉をノックする。
ほどなくして、ガチャリと開いた。
「遅いですよ二人とも」
「って、あかりんもう来てたんか」
扉を開けたのはあかりだった。
「今日の取材はそれくらい重要ですからね。マキさんは今作成中です」
中に入りつつ様子をうかがうと、カウンター奥でマキさんが真剣な表情で作業を行っている。 私たち三人はテーブル席に座った。
そこでマキさんは、私たちが着いたことに気づいたのか、ふと顔を上げ、言う。
「あ、二人ともいつの間に! ごめん、何ももてなせなくて。ちょっと待っててね!」
「全然気にせんでええでー」
あかりは持ち込んだ原稿用紙とにらめっこしている。
「あかりちゃんはそういえば連載コラムも書いてるよね? 凄いなぁ一年目で。もう私たち追い越されちゃった気分だよ」
あかりは顔を上げ、苦笑を浮かべる。
「そんなことありません、今も書いてる途中で詰まっちゃってますし。それより、琴葉探偵事務所の活躍は新聞社を大いに賑わせてますよ」
私はキラリと瞳を輝かせ、身を乗り出す。
「えっ、それホント!? どんな感じなの?」
あかりは人差し指を顎に当てて、記憶を巡らせる。
「うーんと……。ずっと謎だった宝を見つけたー、とか、富豪のお宝を盗んだ盗賊を退治した、とか……? なんか、探検家か冒険者みたいで、全然探偵っぽくないですね」
「うぐっ!」
悪気のない声でそんなことを言われ、私の心にグサリと刺さった。
「ははは、せやろ? 毎日楽しいで!」
「相変わらず茜さんは学生時代から頭空っぽで人生楽しそうですよね」
「せやろせやろ……って、うん? 褒めてるんか、それ?」
「思いっきりバカにされてるよお姉ちゃん」
久しぶりに集まった友人たちとの会話は、とても楽しい気分になる。
「こーらーー! 私も混ぜろー!!」
嫉妬したマキさんのおしゃべり欲求は、どうやら高い集中も貫いてしまったらしい。
「それなら早よ作ってやー」
「あともうちょっとだよこのヤロウー!」
あははは、と店内に笑い声がこだました。
ことん、と私たちの前に丸いアイスの入ったカップが置かれた。姉の分は赤い、イチゴのアイスだ。
「確か茜ちゃんはチョコミントダメだったよね? イチゴも作っといたよ、それもリニューアルしてるから、ご賞味あれ」
私は見た目だけで、これまでのマキさんが作っていたアイスとは全然違うものである、と感じ取っていた。
青はより深い深い、奥行きのある色に。チョコは深海に沈む石のよう。
表面が少し溶け、沿って流れるは自然の恵み。ミントの葉に滴る、天からの恵み――雨だ。 このアイス一個で、たくさんの自然を描いているというのだろうか――――?
香りもより一層、爽やかでなお、甘さがそれを包み込み、優しさを併せ持つ。
「これは……自然の恵み、優しさを体現したかのようです……」
あかりは思わず、無意識に言葉を紡いだ。
「じゃあ、いただきます」
私はマキさんに言うと、大きくうなずいた。
「――――どうぞ」
その声を聞き届けぬ内に、私はスプーンを手に、アイスを削り取る。
ふわり、と沈み込むスプーン……とことん、私を誘惑する。
一体、これを食べたら私はどうなってしまうのだろう? そんな心に抱いた恐ろしさは刹那で期待に圧殺された。
「……あむっ。――――!」
口に運ぶ。静かに下でアイスを押しつぶし、じんわりと中でアイスが広がった。
その瞬間、私は快楽で死んでしまうかもしれないと覚悟したが――私の胸に去来するのは、安心感、つまり私は、この最高の味を堪能しながら、とても心地よい落ち着いた気分だった。「これは……凄い! 何でこうも冷静でいられるのか分からないくらいに美味しいです!」
「そうですね、これは絶品です。高級なお店とはまた違った方向性で、頂きにまでたどり着いている……!」
私とあかり、二人はそろって感嘆する。
それにマキさんはほっとしたように、表情を緩ませ、席に着く。
「ああ、良かった……。これなら、客足も戻ってくれるかな?」
「ええ、それは間違いないでしょう。メイクトレンドに劣らぬ、素晴らしいアイスですよ、私、紲星あかりが保証します」
「それは頼もしい発言だね。これでマスターに顔向けできるよ」
マキさんはちらりと振り返る。店の奥から、普段の不機嫌そうな表情からは想像もつかない優しい微笑を浮かべてマキさんの背中を見つめていた店主は、目が合うと「フン」と鼻を鳴らし、扉を閉めた。
「イチゴの方も美味なってるわ、ウチはあかりんみたいに味の説明とかできひんけど」
「ううん、とっても嬉しい評価だよ」
私はチョコミントアイスを堪能しつつ、言う。
「あっ、これならアイス師範、来てくれるかな?」
「どうでしょうか? これで来なければもう諦めた方がいいかもしれません」
あかりがそう言った瞬間。もわっ、と店内上空に光る煙が出現した。
これは、ミント草原で見た妖精と同じだ。つまり――――
「ふぅ、邪魔になると思って出なかったが、呼ばれたのなら仕方あるまい」
これまた小さな人型。しかし、ミント草原で見たような大人の女性でなく、アイスクリームのような白い髭を蓄えた老人だった。
「あ、アイス師範!! 聞いたことのある外見通りです!」
あかりは驚いて、がたりと席を立った。
「おお! この人がそれか? 貫禄あるなぁ」
「あなたが伝説の……」
私と姉はただ、座ったまま見上げる。
後方から声を掛けられたマキさんは振り返り、待ちに待ったアイス師範を見て、
「あ、あなたがアイス師範だね? ちょうどよかった、私のアイスを食べてみてよ!」
「ま、マキさん!?」
驚愕したのはあかりだった。それもそうだろう。アイスクリームの歴史をずっと見てきた伝説の存在に教えを請うのではなく、なんと自分のアイスを試そうというのだ。
「ふむ、このワシに挑戦するか……」
アイス師範は表情を動かさない。
マキさんはからりと笑う。
「だって、この世で一番アイスクリームに詳しい人だよ? そんな人に私の作った商品を食べてもらうチャンスなんて二度とないかもしれない!」
「……そうか」
ニィ、とアイス師範の口端が上がった。
……その結果は、私たちのみぞ知る。
ところで最近、マキカフェの営業時間外にお客さんが時々やって来るようになったらしい。
数日後。茜はマキカフェに一人で来店していた。
客の入りは悪い。ただ、それは時間帯の問題だ。昼、夜の時間帯は混雑を極めるようになった。
ドリンクの入ったコップを前に滑らせ、空いたスペースに頭を置く。
「どうしたの茜ちゃん、珍しく元気ないじゃん」
「聞いてやマキさん……最近葵がマキさんに影響されたのか、家でもチョコミントアイスを作り始めたんや。それだけならええんやけど、その作ったチョコミントをウチに試食しろって迫って来るんよ」
マキは笑う。
「あははは! 茜ちゃん、チョコミント苦手だもんね」
「笑い事ちゃうで、何度断っても食べさせようとしてくるし……今も逃げてきたとこや」
「それは災難なことで――――ん?」
マキは正面、店舗の入り口を見て目を細める。
「あれって……。ふふっ、茜ちゃん? 妹の趣味に付き合ってあげるのも、いいお姉ちゃんとして必要じゃないかな?」
茜は顔を上げ、言う。
「へ? なんやマキさん急に――」
「ここに居た!」
バン、と勢いよく開いた音に茜の言葉は強引に中断させられた。
「げぇ、葵!」
「今日こそチョコミントアイス、食べてもらうからね……」
右手に皿を持ち、葵はじりじりと茜に近づく。
茜はしばらく固まって、突然、葵の横をすり抜けるように店舗から脱出した。
「あ、こら待て! 絶対、これならお姉ちゃんもチョコミントアイス好きになるから! だから食べろーー! 歯磨き粉と言った罪を償えーーー!!」
「うわー来るなーー!!」
マキカフェに突如吹き荒れた嵐はすぐに去っていった。
マキは茜の飲んでいたドリンクを下げ、どんどん離れていく鬼ごっこ姉妹を眺め、ふふ、と笑った。
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琴葉探偵事務所 ~琴葉茜の災難な一日~
魔道士の集う町、ロイドボイスの繁華街から少し外れた地域にある平屋。
琴葉探偵事務所である。
時間は朝を過ぎた頃。町も微睡から覚め、徐々にお店も開き始めている。
普段の事務所はコーヒーの香りが漂う、居心地良いまったりとしたスペースだ。
「…………」
しかし現在、こうして事務所の応対用ソファに座っていると、なぜか汗の滲むような緊張感が首筋をチクリと刺してくる。
そんな気分を誤魔化すため、姿勢良くコーヒーを口に運んでいるのは、事務所の仮初の主、琴葉葵だ。
青い長髪はサラサラと流れ、瞳は吸い込まれそうな赤色で、見る者を惹きつける。可愛い顔立ちとスレンダーな体のライン。
これらの外見的魅力は、彼女を本業の探偵としてでなく、美しい女性という意味で心を掴まれたファンを作ってしまうほどだった。
横には葵の双子の姉にあたる人物──自称冒険家兼葵のボディーガード、琴葉茜──がまるで動物のように目の前に座る男を威嚇していた。
双子だけあって、葵と外見の特徴は一致している。髪色が赤いことくらいしか違いがなく、色を染めてしまえば区別がつかないのでは、と姉妹をよく知らない人たちは口にする程だ。 外見の類似さに反して、内面は姉と妹で全く違った。現に今も、姉妹を正面から見据える男は、彼女たちのことをまるで180度反転させたみたいだ、と感想を抱く。
茜はグルルル、とでも喉を鳴らしそうな勢いで目の前の男を睨みつけている。
「嫌ですねぇ、そんなに警戒しないでくださいよ、茜さん」
そんな明確な敵意を飄々とした態度で受け流す男。
細身の長身に、しわのない紺色のスーツを着こなしている。身だしなみからは、魔法学園の頂点と呼び声高いロイドボイス魔法学園の教授という階級に相応しい気品を滲ませている。茜にとってはそんな事実でさえ腹立たしいと感じていた。
常に顔を緩ませているその表情が特徴的だ。茜にとっては常に悪巧みをしているようにしか見えない。
フィジー教授。ロイドボイス魔法学園の優秀な教授だ。学生たちからの人気は高く、講義は分かりやすいと評判だ。
また、曲者ばかりの飛びぬけた魔道士の中でも常識人であるところは、彼に対して学生たちが親近感を芽吹かせる一助になっていた。フィジー教授ともう一人、コウ先生と呼ばれている教授は二人合わせて”優良教授2トップ”と学生の間で囁かれているのだとか。
葵は爆発しかねない茜を遮るため、口を開く。
「と、ところでフィジー教授、今日はどんなご用で?」
「何しに来たんや、また厄介事持ち込みに来たんやないやろな」
──敵意むき出しぃ!
気遣い空しく、葵に続いた茜の切れ味鋭い発言に、思わず横を振り返る。
フィジー教授はそんな二人をいつものようにニコニコと眺め、言う。
「ええ、依頼に来たんです。また、困った状況になってしまいまして」
フィジー教授が琴葉探偵事務所を訪れたのはこれが二度目だ、と葵は記憶している。
一回目は茜にとって、散々な内容だった。
ロイドボイス魔法学園中等部は卒業試験があり、合格することで卒業の資格を得る。
茜は実技に強く、筆記に弱かったが、卒業試験は筆記の割合が高かった。持てる集中力を総動員させて勉強に打ち込んだものの、一科目──フィジー教授の担当する”生物学”の試験でギリギリ合格圏に満たなかった。
しかし、偶然茜の答案を採点していたフィジー教授は、ケアレスミスをあえて見逃すことでその答案用紙を紙切れから卒業証書へと捻じ曲げたのだ。
茜がそれを知ったのは答案用紙が返却された時のことだった。
試験の出来が良くなかったと頭を抱えていた茜は、フィジー教授にとても感謝していた。
が、その心をフィジー教授は利用した。琴葉探偵事務所にやってきた彼は、遠回しに卒業試験での採点の件を引き出してきたのだ。無茶だと思う依頼だったので葵は断りたかったが、受けざるを得なくなった。
その瞬間、茜にとってフィジー教授は恩人から、弱みに付け込む悪いヤツ、に評価が一転したのだった。
────本当に、身から出た錆だよお姉ちゃん。
葵は内心、ため息をついた。
葵は知っていた。茜が生物学の卒業試験前日、一夜漬けにかけていたことを。そして加え、集中力が続かずに何度も漫画に手が伸びていたこと。葵が指摘しても、へーきへーきとヒラヒラ手を振っていたこと。
そりゃ赤点とってもおかしくないよ、と呆れたものだ。
葵はフィジー教授に言う。
「はあ、困った状況ですか」
「ええ、それがもう猫の手も借りたいくらい忙殺されてるんですよ。問題児達には本当に困ったものです」
普通に会話している葵に対して表情で不満を露わにする茜を無視して、フィジー教授は続ける。
「それで依頼内容ですが……私、美味しいものが食べたくなりまして。お二人には採取と釣りをお願いしたいんです」
ズコッ、と葵と茜は思わず態勢を崩した。
「パシリか! 嫌がらせやんけ!」
「だから本当は僕自身で採りたいんだって。でもどうしても時間がないんだよ」
とんとんとん、と小刻みに足を揺らす。
葵は言う。
「はぁ、採取と釣り、ですか。具体的に何が欲しいんですか?」
「まず採取は……明日一日で、キョウソウタネを五つお願いします」
「えぇ、五つも!?」
葵は驚きのあまり声を上げた。
キョウソウタネ。日の昇った正午ピッタリになると一斉に蕾が開くキョウソウ花に実る種のことだ。味は絶品で、『病気になったらキョウソウタネを食べろ』と言われるほどに栄養満点。 高級食材に分類されるだろう。少なくとも琴葉姉妹からすると、そう手軽にありつけない代物だった。
「五つは厳しいなぁ……」
葵の弱音が聞こえたのか否かは分からないが、フィジー教授は特に反応せずに言う。
「次に釣りですけど、こちらはマンゲツコウを一匹お願いします。こちらも当然、明日の内に釣った個体でお願いします。鮮度が命ですからね」
「マンゲツコウ……」
葵は思わず苦笑する。
「何やそれ、怪物とかとちゃうやろな」
「怪物じゃなくてマンゲツコウだって。大きくて50cmを超えるかどうかくらいの魚で、とても美味しいんです」
「私たちは釣りのプロでもないですし、正直、一日で釣れると思えませんが」
フィジー教授は不敵に笑う。
「心配ありませんよ、実は私、大穴場を知っているので。そこならあなたたち二人なら釣れる──いえ、むしろ適任です」
葵と茜は沈黙する。二人とも態度に差はあれど、どちらもフィジー教授の心の内を探っている様だった。
葵は口を開く。
「まあ、依頼をお受けすること自体は構いませんが……如何せん、明日一日で終わらせてほしいという条件が厳しいですね。なんとかなりませんか?」
「せやせや、いくらなんでも横暴すぎるで」
便乗する茜を一瞥し、フッ、とコートの内側に手を伸ばす。
ごそごそと紙面を取り出し、机に置いた。
「それは今回の依頼の詳細です。ひとまず、読んでもらえますか」
「はぁ」
眉をひそめ、葵は紙を手に取る。ぺらりと開いた。
その瞬間、葵と、葵の首元から覗き込んでいた茜は目を見開いた。
「ごひゃく──!?」
「500セヤナぁ!?」
でかでかと赤文字で強調された当依頼の報酬金には、確かに『500セヤナ』と書かれていた。それだけあれば、一か月は一切仕事をせずに遊び惚けていても充分に余るほどだ。
──たった一日の依頼で500セヤナも……?
葵は目線を上げ、言う。
「これ……書き間違いじゃないですか? 500セヤナって」
フィジー教授は小さく首を振り、言う。
「いえいえ、その通りで間違いありません。明日一日でお願いした品を収穫していただければ、お支払いしますよ」
500セヤナもあれば……と姉妹の脳裏で妄想が展開されていく。
「……で、でも達成できるか怪しい依頼をそう易々とお受けするわけには」
「そう言いつつ、葵さんの頭の中ではシミュレーションができてるでしょ? キョウソウタネの収穫方法について」
葵は面くらった。フィジー教授の言う通り、葵はどうすれば5つ確実に収穫できるのか、これからの予定を既に立てていたからだ。
フィジー教授は茜に向き直り、言う。
「そしてマンゲツコウは心配ナッシング、私がお伝えするポイントは誰も来ません。──それに茜さん、私はあなたに釣りの才能があると確信しています」
茜は自分の顔を指さして、言う。
「ウチに? 何言ってんねんコイツ」
フィジー教授はゆっくりと立ち上がりながら、言う。
「まぁ、そういうことで、よろしく頼みます。冒険家として有名な二人には簡単すぎるかな」
「いや探偵ですから!」
「せや! ウチらは探偵やぞ!」
その言葉に、口をあんぐりと開け茜を見つめる葵。
フィジー教授は微笑して、何を言わずに事務所を出ていってしまった。
がちゃりと閉まった扉に向かって、茜は舌を出す。
「べぇ~~だ! 二度と来んな!」
子供か、と内心でツッコみ、葵は言う。
「でもお姉ちゃん、依頼はやらないわけにはいかないでしょ」
「む、ぐぐぐぐ……!」
「ほら、フィジー教授も期待してくれてるみたいだし、頑張ろう?」
「葵にならともかく、あんな奴に期待されても嬉しくないわ!」
そういうことになった。
△△△
某所。林の中。
今日の天気は晴れ模様だが、日光は木々に遮られ、その大半がここまでは届かない。
そして雰囲気もまた、不気味なほどに静寂だった。
風だけが林の中を動き回っている。
「……あと一分」
葵は首に掛けていた懐中時計を見て呟いた。
現在時刻は11時59分である。
周囲に生命感はない。しかし葵は確かに、虎視眈々と時を待つ別の生命が周辺一帯に溢れていることが分かっていた。
──私の方で2つ……いや3つは取りたいな。お姉ちゃんが4つ採れる保証はないし。
フィジー教授が訪れた翌日、葵と茜は車で遠出をしてここまでやって来た。
キョウソウタネを狙う競合者を極限まで排除するためである。その狙い通り、二人が確認している分には、この一帯に他の人間は来ていない。
しかし、厄介なのは魔物だ。キョウソウタネを狙うのは人間だけではない。魔物たちにとっても大好物であり、魔物とこぞって取り合いの競争になるから”キョウソウ”タネなのだ。
熟練した人が入念な準備、誰も知らないポイントを使ったとしても、一日に10個も取ることは厳しいという。
それを素人の姉妹二人で五つを採取してほしいというのがいかに難題であるかが分かる。
……そう、それが琴葉姉妹でなければの話だ。
葵と離れた別の場所で陣取る茜は、いかにも不満そうな顔つきだ。
今になって、中等部卒業試験が近づいてきても暢気に遊んでいた過去の自分が腹立たしくなってきた。あの時にちゃんと勉強していれば、今こうしてあんなヤツの為に頑張らなくてよかったものを。
「……そろそろやな」
茜は時計を持っていないが、敏感に辺りの様子を感じ取っていた。
来る。そう思った瞬間、時計の長短の針が両方ともに真上を向いた。
ざわっ、と一瞬にして周囲の静寂が破られた。
どこに身を隠していたか、小型から中型の魔物が一斉に姿を現す。
そして所々の木の根元の土が盛り上がり、花が伸び出てきた────!
葵は目を凝らし、キョウソウハナが芽生えた箇所を最速で観測する。1、2、3、4──!
オオカミ種、イノシシ種の魔物たちが素早くキョウソウハナ向かって駆ける中、捉えたものは4つ。葵は片膝をついて、両手の平を地面に着ける。
「”氷の造形魔法:氷の檻”──!」
詠唱を行い、一息に魔力を両腕に流した。
瞬間、キョウソウハナが花開いて種を覗かせた丁度のタイミングで下から氷が正方形に生成され、それを覆った。狙った4つの内、一つは氷が間に合わずに魔物がタネに被りついたが、3つは確保に成功したようだ。
勢い余ったイノシシ種が氷の檻に衝突したが、びくともしない。魔物たちはなんとかキョウソウタネを引きずりだそうと、爪を立てたり突進したりしたが、薄い傷、小さな欠けが精々だった。
「よし、なんとか3つ採れた! ……後はお姉ちゃんの方だけど」
魔物たちの関心が氷を作った犯人へと向いたことをよそに、葵は姿の見えない姉を心配した。
同時刻。茜の周囲でもキョウソウハナが芽生え始めた。
茜には葵のような氷魔法は使えないし、そもそも繊細な扱いが要求される魔法全般が苦手だ。
──ならば、圧倒的な魔力と出力でカバーすればいい。
「琴葉流奥義の六、”縮地”──!」
茜曰く。この奥義を練習している時は距離感が狂って大変だったという。
視界に映る物は、瞳とその物の位置関係から、大きく見えたり小さく見えたりするものだ。
しかしこの瞬間に限って言えば──全てが等しい距離に見えるらしい。
「おっとすません!」
まさに刹那。茜は見えたキョウソウハナとの距離をいつの間にか手が届くまでに縮め、近くにいた魔物に謝りながら、すぐ横を通り過ぎていく。
視界に捉えるのがやっとの速度で木々の隙間を動き回り、結局、4つのタネを手に取った。
「よし、これでノルマは達成、葵が1個でも取っていればクリアやな。……うん?」
袋にキョウソウタネを入れていた茜は顔を上げる。
魔物たちが茜を見て、目を血走らせている。
茜は袋をじぃ、と見つめ、向き直る。
「もしかして、これが欲しいんか?」
魔物はもちろん答えず、じりじりと距離を詰め始める。
茜はぽりぽりと頬を掻いて、呟く。
「本当はあんな教授にじゃなくてお前らにあげたいんやけどなぁ。────すまん!」
どんっ、と茜は地を蹴り、空高く飛び上がった。
高く伸びる木の更に上へ────
「ははははっ! ここまでは来れへんやろ!」
油断する茜へと接近する黒い影が、風を切りながら進む。
茜が音に気付いて後ろを見て、
「うおっと危なっ!?」
右手に掴んでいた袋を強奪せんと突進してきた鳥から、身体を捻ることで回避した。
「何や、今度はカラスか!? 空の魔物まで好きなんかこのタネ!」
人がそうそうやって来ないということは、魔物が大量に生息しているのだ。
着地後、ほぅ、と一息つく。
「これは帰るのも骨やな……僻地すぎたんちゃうか葵」
そう呟く間にも、周囲からは人間でない生物の発する足音、吐息が茜に届く。
状況を確認すべく、全方向を素早く観察する。
──そして、茜は目を見開く。
「……っ!」
びくっ、と身体が強張った。
緊張。頬を汗が伝う。
────どす黒い、あまりに大きな恐怖がそこに居た。
「なっ……嘘やろぉ……!?」
絞るような声で呟いた。
茜の中で、キョウソウタネを取り合った魔物たちを落ち葉と同等の意識レベルにしてしまうような存在感。
──葵ぃ! 何でアイツが居る所を選んだんや!
右後方に向けていた視線を咄嗟に戻した。茜は自身が無事であることを数秒間確認して、ホッと息をつく。
見えたのは、ロックグリズリーというクマ種の魔物だ。
全身は茶色の毛並みで、大きな四肢を持つ。目元は影か、それとも毛の色か──真っ暗であり、その瞳がどこを捉えているかは視覚では判断できない。
魔物の中でも相当な危険生物に分類されているが、その理由はロックグリズリーの特性にある。
目を合わせたが最後、この魔物は執拗なまでにその生物、いや獲物を捕ろうと追いかけるのだ。複数名で挑めば逆に利用できるが、個人で行動している際にはあまりに脅威。
敵意が強くなるだけでこうも恐ろしくなるものか。ロックグリズリーは魔物と縁遠い人々でも恐ろしい魔物であることを知っていた。
相当に危険なので討伐依頼が多く出され、手練れたちが、時には犠牲を払いながら討伐を行った。その甲斐あって、人の生活圏周辺ではロックグリズリーの姿を見ることはほとんどなくなったが……当然、茜が現在居るような僻地はというとこの通りである。
「……とにかく、さっさと逃げよ!」
茜はもう後方を見ることができなくなったので、追いかけてくる魔物を全て振り切ろうと速度を出して駆け抜けていった。
魔物から人気者になった茜は、ひーこら言いながら合流地点、林の入り口付近の平地に到着した。
葵はどうやら先に着いていたようで、時計を見降ろしていた。茜に気づいて、顔を上げる。
「あ、やっと来た。お疲れ様、いくつ採れた?」
「4つ……。はぁ、ホントしんどかったで~! ずっと魔物が追っかけて来るんやもん、しかもロックグリズリーまで出てきてもうめちゃくちゃや」
葵は胸を撫でおろした。
「良かったぁ。私は3つだから合計7つ。これでキョウソウタネはクリアだね」
「……えらい元気やな、葵は魔物に追っかけられたりせんだんか?」
目を細めて尋ねる茜に、葵はきょとんとして、言う。
「え? 採ったタネを狙われはしたよ、すぐに外から凍らせちゃったけど」
ケロっと答える葵を見て、茜は顔を手で覆い、天を仰ぐ。
「はぁ~ホンマずるいわ、葵は氷魔法が上手くてええなあ~~」
「それを言うならお姉ちゃんの魔力量の方が羨ましいよ、大抵の状況をごり押せるんだから」
葵は茜に背を向けて歩き出す。
「それ褒めてるんか? なあ?」
「褒めてるよ。ほら、早く次行こう? 急がないと夕まずめに間に合わなくなっちゃう」
「……へいへーい」
二人は昼食を取りながら車を走らせ、フィジー教授が指定した場所へと向かった。
△△△
また数時間の運転の後、二人はまた別の僻地へとやって来た。
車中でも話していたが、こちらの空は曇天。明かりは必要ないが、これではいつ雨に打たれるか分からない。
山の中へと入っていく細道が見える入り口で、険しい表情を浮かべる葵は、言う。
「うーん、土砂降りになると困るなぁ……釣れたとしても帰ってくるのが難しくなっちゃう」
「よし葵止めとこ、こんな悪天候になりそうな状況でこんなところ入ってくの危ないしな!」
茜は手に持った釣り竿を放り投げるポーズをとって、言った。
葵は目を細めて、言う。
「……別にいいけど、500セヤナも無かったことになるし、何より一番困るのはお姉ちゃんじゃないの?」
「ハッ!? うぐぐぐぐ……!」
自身の置かれる立場を思い出した茜は悔しそうに歯がみして、釣り竿を握りしめる。
「ああもう! さっさと終わらせるで!」
ずんがずんがと歩いていく茜の背中を追いかけて、葵は秘密のポイントへ向かって歩き出す。
――そしてしばらくの後、雨が降り出した。
なだらかで、時に険しい山道を二人は進む。
登山知識の浅い一般人でも問題なく歩ける程度だ。
雨が木々の枝、葉から零れ落ちてくる。その影響でぬかるみ、滑りやすいこと以外は全く問題がないように思える。
しかし、当の二人はそうは思っていないようだった。
「……ここは、相当やな」
「うん、私でも勘で分かるくらいだもんね。──とんでもない魔物たちが生息してる」
不気味な静けさ。激しく交戦があったと見られる、ぽっかりとした空間。
この山はヤバい。二人の直感はそう告げていた。
「くぅ、フィジー教授が言っていた大穴場とか、誰も来ないとかはそういうことだったんだ……! あの人の性格を考えれば、こんなことだろうと推理できたのに……」
「ホンマろくでもない奴やで。ところで葵、後どんくらいや? 横で水も流れ取るし、もう近いちゃうか?」
葵は腰に巻いた小型のバッグからフィジー教授お手製の地図をとり、雨から守るように前傾になる。
「ええと……ここは過ぎたし、ここも通ったし、変な形の木も見た────ここだ、もうちょっとで池が見えてくると思う」
「やっとか! なんとか無事に着けそうやな」
既に二人は小型~中型の魔物と数回の交戦をしているが、そこは流石と言ったところか、難なく片づけてここまで歩いてきた。
まだ充分に明るい、これなら夕まずめに間に合うだろう。
そう、夕まずめ。魚たちは活発にエサを食べようと探し回り、口を使う。活性がたかくなることを釣り師たちは経験則から知っていた。
それならば。
人よりはるか長く、魚を獲物として捉え、食べていたモノは────?
先に気づいたのは茜だった。
「っ! 後ろや!!」
葵はその声を聞いて素早く振り返る。
と同時に、二人が居た場所に猛スピードで白銀が駆けた。
左右に飛んだ茜と葵にケガはない。
「無事か?」
「うん、平気。それよりアレって……」
四つ足を着く白銀の毛並み。
筋肉に覆われた太い身体は体高で人の背に近い程に大きい。
知能も高いと知られているこの魔物は――――
「ああ、間違いなく『ギガウルフ』やな……強敵や」
葵は唇を噛む。ここまで来て、まさかの危険度高の魔物と遭遇してしまうとは。嫌な予感はしていたが、それにしたってゴール目前で現れなくてもよいではないか。
「きっとこいつも魚を食いに来たんやろな……魚が浮いてくる時間を狙って」
「……なるほど、理由はあったんだね」
葵は気分を切り替えて立ち上がり、泥の付いた手の平を払う。
「お姉ちゃんは先に行ってマンゲツコウを釣ってきて」
「葵一人で相手するつもりか? 相当に危ないで」
「二人で戦っていたら夕まずめを逃しちゃうし、二人で逃げても結局池にアイツが来るなら釣りなんてできたもんじゃないでしょ。これしか選択肢はないよ」
「でも……」
なお渋る茜に対して、葵は空を指さした。
「大丈夫だよお姉ちゃん、今の天気を見てよ」
「雨……そうか、そうやったな。なら、任せるわ」
茜は笑みを浮かべた。
「じゃあ、合図で動くで」
「うん」
二人はギガウルフを見据え、目を合わせずに言葉を交わしていく。
「頼んだよお姉ちゃん、頑張って釣ってきてね。できれば私が追いつくまでに」
「ウチだって素人やぞ? ……ま、お姉ちゃんに任しとき」
「うん、任せる」
「いくで、3、2、1────」
ぐっと足に力をこめる。
「「ゴー!!」」
二人は叫んだ。
葵はギガウルフに向かって跳んだ。相手もそれに応え、噛み砕かんと大きな口を開いて突進する。
「っ……”氷の造形魔法──地中槍”!」
葵はすんでの所で牙を避け、地面に手を着いて詠唱した。
その瞬間、ギガウルフの足元から氷の槍が伸びる。
――避けられた!
間違いなく死角からの攻撃だったはずだが、ギガウルフは後ろ脚を蹴り、くるりと半身になって180度回転した。
簡単には行かない。葵は雨に濡れた目元を拭った。
仕切り直し。今度はギガウルフがじわりじわりとにじり寄り、間合いを詰める。
葵は後ろに下がりながら、次の一手を考える。
「噛まれたら一撃。近距離なら一息に決めないとダメだし、でも遠距離から捉えられるとも――ひゃっ!?」
完全に意識外の出来事だった。
後ろを見ずに後ずさっていた葵の右足が小さな段差に差し掛かったことで、カクンとバランスを崩してしまった。
狡猾なギガウルフは、もちろんそんな隙を逃すはずもなかった。一瞬にして間合いを詰め、噛み付こうと牙を向ける!
「くっ!」
葵は無詠唱で右手を前から上に弧を描くように振り、そのままの形をした氷の壁を生成した。確かにこれならば、氷魔法のスペシャリストが作り上げた氷を砕かなければ牙は届かない。さらに、砕くことに時間を掛ければ隙となり、懐に入り込むチャンスとなる。
────が、ギガウルフの判断はこの最善手と見える一手さえを凌駕する。
咄嗟の判断で口を閉じながら、横に顔を捻る。
「っ、マズい──!」
葵は危険を察知して飛んだ。
しかし、間に合わない。
大きな鈍器となったギガウルフの顔が横から振られ、氷の盾と葵を”横”から吹き飛ばした。
茜はついに野池に辿り着いた。
四方は木々に囲まれていて、透き通った綺麗な水面に雨粒が落ちている。特に騒がしさもなく、これならば釣りに集中できるだろう。
岸はなだらかな角度が付いているので、おそらくは中心に近くなるにつれて深くなっているのだろう。開けている場所はここしかないので、投げられるポイントは他になさそうだ。
「早よ釣って葵のフォローに行かな……」
茜は急いで釣り竿を準備する。結んでおいた針に、キョウソウタネを突き刺して、針が隠れるようにした。
「よし、さっそく……」
ざっと池を見渡すが、ぱっと見ではどこを狙えば良いのか全く分からない。
とりあえず岸に近づこうとして、足を止めた。
「分からん、とにかくてきとうに投げ──いや、待てよ、魚だってアホやない、人間が居ると知ったら警戒するんとちゃうか?」
そう感じた茜は、岸に近づく前に苦手な遠見の魔法を使い、主に岸付近の水面から水中へと目を凝らす。近づいても問題ないか、つまり浅瀬に魚がいないかを探るためである。
「んー、雨でちょっと見づらいな……金色、金色……おった!」
茜は水深が1mもない浅瀬の底付近をゆったり泳ぐ魚を発見した。薄く金色に輝く綺麗な姿は情報通りだ。
「近づかんで正解やった! とりあえず遠くから投げてみよか……」
次に悩むのは、このキョウソウタネをどこに落とせば良いか、だ。
──目の前に落とす? いやいやアカンやろ、ビビッてまう。じゃあ遠くか、でも気づいてくれな釣れるわけないしなぁ。
うーん、と考えていると、ピコーン、とアイデアが降ってきた。
「ちょっと後ろ、やな。驚かせずに、それでいて着水音で気づいて振り返させるイメージで……ここや!」
慣れないリールを操作して、茜はキャストした。元の運動神経が幸いしたか、初めてのキャストとは信じられない精度で、概ね狙い通りの位置に着水した。
ゆったりと泳いでいたマンゲツコウはポチャン、と着水したと同時に動きに変化が起きた。 静かに回転して、音がした後方へと泳ぐ。
──キタキタキタキタ!
茜は興奮を押し殺すが、顔がニヤケ、手汗がにじんでいる。雨が強まっている事にも気づいていなかった。
底まで沈んだキョウソウタネに近づいて、じっと観察するマンゲツコウ。
「喰え、喰え!」
茜は小声で祈る。誘いをかけようと動かしたりはしなかった。
そして、釣り師の間でも釣るのが難しいと言われているマンゲツコウが、誰も人が来ない雨模様という釣り場の状況、さらには茜の判断が見事に合致したことで────
「! 喰った!」
ついに、口を使ったのだ。
吹き飛んだ葵は一本の木にぶつかった。
「ぐっ、痛っ……」
痛みに顔をしかめ、息を詰まらせる。
しかし、すぐに顔を上げた。
視界に映るのは、次こそトドメと言わんばかりに口を開くギガウルフ────
「危ないっ!」
葵は前転して、大きく距離を離す。ギガウルフの追撃はなかった。
痛む左腕を右手で抱き、立ち上がる。
ギガウルフに油断の色は見られない。距離を離して尚、その目は捕食されるモノに対して絶対的な威圧を放つ。
葵はふと、気づいた。
「……雨が、強くなった」
気づけば本降りだ。絶え間なく頭、肩に雨が降り注いでくる。
ぼそりと呟いた後、右の掌を胸の前にかざす。
すると、パラパラと雨が氷に変化して、落ちていった。
「──これならいける。まあ、元々やられるつもりはなかったけど、さらに盤石になったかな」
前を向き直る。
びっしょりと濡れた髪は顔に張り付いている。不快そうに見えるが、葵は特に拭う様子も見せず、ただ半身で真っすぐと立ち、ギガウルフを見据えている。
「もう、この天候になった時点で私の勝ちだよ、ギガウルフ」
言葉の意味が分かるのか──ギガウルフは、怒ったように吠えて、地を蹴った。
対する葵は足を動かさない。
スッと、右手を前に突き出した。
「──────”凍りつけ”」
短い詠唱を呟いた。
不思議なことが起こる。
ギガウルフの周囲に降り注ぐ雨粒が一斉に氷へと変化した。
気づいた時にはもう遅い。それらが瞬く間に成長して、本当に、刹那にギガウルフを氷で包み込む。
溢れだした冷気が雨粒に伝い、キラキラと光って見えた。
「ふぅ。左腕見せたらお姉ちゃん怒るかなぁ……」
勝負は決した。
雨粒を素材に用いる高等技術。雨が降りしきる空間において、葵は手の届かない距離であっても即座に氷を生成することができるのだ。
「……ごめんね? 中から凍らせはしなかったけど、強めに固めちゃったから1日は脱出できないと思う」
そう。葵の言った通りだった。雨模様な時点で、ギガウルフに勝ち筋は一切残っていなかった。
「あーあ、もうびっしょびしょだ。気持ち悪いなぁ……」
葵はもう手遅れだとため息をつきながらも、手早く氷で傘を造形する。
それを差して池へと向かおうと思った矢先。
「あおいー! 葵ー! 釣れたでー!」
茜が池の方角から、大きな魚の口を右手で持ちながら走ってきた。
「本当だ、その見た目はマンゲツコウ……凄いよお姉ちゃん、まさか本当に釣っちゃうなんて」
「それよりギガウルフは────あー、何とかなったみたいやな、お疲れさん、ケガはないか?」
「ちょっと左腕を打撲しちゃったくらい、全然平気だよ。……それより、早くマンゲツコウを水の中に戻さないと! 私が箱を作るから、池に戻ろう!」
…………こうして無事、フィジー教授の依頼を達成することができた二人は、衣服を乾かす暇もなく、ロイドボイスへと車を走らせるのだった。
△△△
昼下がり、ロイドボイス。
太陽が昇り、ポカポカ陽気が降り注ぐ。
こんな素晴らしい天候の日は、のんびりと外を散歩でもしたくなる。
そんな中、琴葉探偵事務所の一室で顔をしかめてベッドに潜り込む人物が居た。
琴葉茜である。
彼女は昨日の悪天候に身を晒していたことが災いし、体調を崩してしまったのだ。
せっかく500セヤナが手に入ったというのに、ご褒美のエビフライを食べに行くことさえできず、寝転んでいることしかできない。
とても歯がゆい気分である。ずびー、と鼻をかむ。
カラカラン、と事務所の扉から音がした。葵が帰ってきたようだ。
葵は真っ先に茜の部屋へと足を運ぶ。扉を開け、様子を伺った。
「ただいまー、ちゃんと渡して、報酬も貰ってきたよ。……大丈夫?」
「全然大丈夫ちゃう……ああ、ウチの高級エビフライ……」
干からびた声で言う茜に、葵はため息をつく。
「ダメ、ちゃんと体調治してからだからね」
「……くぅ~~、これも全部アイツのせいや、足の小指ぶつけてしまえ……」
嫌いな相手に対して願うことがそれか、と葵は苦笑する。
「ほら、ゼリーとか色々買ってきたから、ちゃんと食べてしっかり寝ること」
「はいはい……」
観念したように呟いた茜を見て、葵は胸中、微笑ましい気分だった。
──朝、とある飲食店。
葵はなぜフィジー教授がこの場所を指定したのか疑問を抱きながらも、キョウソウタネとマンゲツコウを持っていった。
驚いたのは、厨房に立っていたのがフィジー教授その人だったことだ。
「え? フィジー教授、調理するんですか?」
きょとんとして尋ねる葵に、フィジー教授は言う。
「うん、趣味なんだ。ところで依頼の品は……持ってきてくれたんですね、ありがとうございます。正直言うと、流石に全部は厳しいだろうなと思ってました」
「ということは、やっぱり強い魔物が生息していることを知っていてあのポイントを教えたんですね」
「そうですよ、でもお二人は突破できたでしょう? 万が一にも死亡事故なんて起きてほしくないですからね、そこは力量をちゃんと量りましたとも」
するすると糾弾から逃れてしまう。
葵は話題を変える。
「ところで、私たちが採ってきた物を自分で調理して、自分で食べるんですね」
「え? いやいや、違いますよ。これは私の研究室の子たちに振る舞うんです」
「美味しいもの食べたいからって言ってませんでしたっけ? 依頼持ってきた時は」
フィジー教授は肩をすくめ、言う。
「あれは嘘です。本当は最近、ちょっと色々あって落ち込み気味な子たちのために、美味しい料理を食べさせてあげたかっただけですよ。どうです、凄く良い教授でしょう?」
「自分で言わなければ、ですけどね。お姉ちゃんは教授のこと、とんでもない悪者と思ってますけどいいんですか? どうせ、試験の点数に下駄を履かせたことなんて問題にもならないでしょう。意図的か否かなんて誰にも分からないんですから」
「あれはワザと。だって面白いんですもん、茜さん。まるで威嚇してくる犬みたいで」
「性格悪っ!」
「あ、報酬はちゃんとお渡ししますよ。カウンターの上に黒い袋に入れてますので、袋ごと持って行って下さい。今回は本当に助かりました、また、何かあったら依頼させてください」
「……それじゃあ、失礼します」
フィジー教授はもう葵に興味を失くしたのか、マンゲツコウを手に取って、鮮度の良さに関心していた。
──お姉ちゃんにバラしてもいいんだけど。
悔しそうな表情で目を閉じている茜を見て、葵は逡巡したが……わりかしすぐに、決心した。
「じゃあ、何かあったら呼んでね、事務所で仕事してるから」
それだけ言い残し、葵は扉を閉めた。
そもそも、事の発端は茜が勉強をサボったことが悪いのだ。
それに、本当は生徒思いなフィジー教授の楽しみを潰してしまうのも悪いだろう。
「ふんふふ~ん」
葵は小さく鼻歌を歌いながら、冷凍庫から先程買ってきたチョコミントアイス──いつものではなく、ちょっと高めの物だ──を取り出した。
「ごめんねお姉ちゃん、頂きま~す!」
葵は、それはそれは、幸せそうにアイスを頬張るのだった。
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琴葉探偵事務所 ~ゲロマズ料理の照らす先は~
青空にぷかぷかと白い雲が浮かんでいる。
太陽はいつにもましてゆっくりに見える。ポカポカとした陽気は浴びている人々のみならず、動物、植物さえも穏やかな気持ちに誘導する効果があるように見えた。
ならばこの、休日のお日様が陽光を降らせている事象は歓迎すべきなのだろう。
しかし、この魔道士が集う町、ロイドボイスに構える琴葉探偵事務所の代理運営者、琴葉葵は気だるく恨み節を呟く。
「あーあー、今やる気が出ないのは私が悪いんじゃなーい、休日の太陽とゆかりさんが悪いんだ……」
事務所の中央奥に席を構える葵は、椅子の背もたれにぐうたらと体重を預け、窓からフワフワと浮いている雲の動きを眺めていた。
綺麗な青い髪に端正な顔立ちは美少女と呼ぶに相応しい雰囲気を纏うが、今の態度は人生に疲れた中年、もしくは不貞腐れた子供のようだった。
「そやなぁ~、なーんにもやる気でーへんわ……ゆかりさんが何かしたんやろ」
応接用であるはずのソファに寝転がってこちらもぐうたらしているのは、琴葉葵の双子の姉である、琴葉茜だ。自称、冒険家兼葵のボディーガードである。
髪色が薄い赤色であること以外、外見は瓜二つ。ここまで似ていると内面まで鏡に写る様かと思われがちだが、知り合いからすればこの二人の性格、思考は全然違うという。
ただ、今に限れば、せっかくの容姿を台無しにしているという点があまりに一致していた。「何もしてませんよ……全く、姉妹揃って何て体たらくしてるんですか」
姿勢良く、澄ました表情で葵の淹れたコーヒーを口に運んでいるのは、結月ゆかり──ロイドボイス警察の巡査だ。
まだ年若いが主に捜査で活用できる魔法に長けており、敏腕の上司から厚い信頼を獲得している。そのおかげで散々振り回されているようだが。
そしてゆかりもまた、琴葉姉妹に負けず劣らず、スレンダーな美少女であった。
今日は珍しく仕事着のスーツではなく、明るい色のワンピースに黒いパーカーを羽織った私服姿である。
寝転ぶ茜は右腕の肘を立て、手の平で顔を支える……まるで風呂上がりのオッサンのような姿勢をとる。不満そうにゆかりと目を合わせ、言う。
「そもそもは仕事しとるウチらの所に遊びに来たゆかりさんが悪いと思いま~す」
「そうだそうだ~、こっちは皆が休日満喫してる中、仕事してたのにぃ~~」
便乗した葵も、視線を雲からぴくりとも動かさずに声を響かせた。
要は、せっかくやる気を捻りだしていたのに、自分たちと違って真っ当に休日を過ごしている人がやって来たことで集中の糸が切れたんだぞ、ということらしい。
それに気づいたゆかりは二人の態度にピクピクと口端を痙攣させながらも、肩をすくめる。
「まあ? 私はお二人と違い、今日までに溜まっていた仕事を全て終わらせたからこうして遊びに来られるわけですけどね?」
「…………」
茜は無言でクッションをゆかり目がけて投げた。ヴォフッ、と声が漏れる。
「ちょ、何するんですか!?」
「……あぁ、すいません。何か勝手に手が動いた」
「勝手にって何ですか勝手にって! そんなことありえるわけがないでしょう!?」
葵は視線を前に戻し、元気のない姉と、逆にエネルギーを使っているゆかりをぼう、と眺める。
──ああ、なんだろう。とっても休日って感じがするなぁ。
葵は目を細め、ただこのゆったりとした雰囲気に身を任せ、まるで水面をぷかぷかと漂うかのように脱力する。
そんな二人に我慢の限界を迎えたゆかりは、そっぽを向いて吐き捨てる。
「ふんだ、もういいです。せっかく葵さんにとって重要な情報を教えにきてあげたのに。もう教えてあげませーん」
「えー、ウチにはないんかいな」
葵はどうぞどうぞ、と口から洩れかけるが、さすがに遊びに来てくれたゆかりに対して悪気を抱く。
「そんなこと言わずに教えて下さいよ~」
「それならシャキっとしてくださいシャキっと」
「…………よっと」
葵はおもむろに立ち上がり、台所へ。淹れてしばらく、冷めきったコーヒーを一口、ぐいっと飲み干した。
「──よし、これでシャキっとしました」
「できるなら最初からやっておいてくださいよ!?」
「やる気って、案外アクセルを踏みこむその瞬間を乗り越えるのだけが難しくないですか?」
「ま、まあそれは分からなくもないですけど……」
葵は椅子に戻り、言う。
「それで、重要な情報って何ですか?」
ゆかりはため息をつき、言う。
「……あかりちゃんに会いに行く用事はありますか?」
「あかりちゃん? いえ、今のところ特にはないですけど」
あかりちゃん、とは紲星あかりのことだ。
ロイドボイス魔法学園の学生時代からの友人である。ゆかりから見て、葵と茜は一つ下、あかりは二つ下の後輩だった。
現在は新聞社で働いている。といってもニュースを追いかけたりしているわけじゃない。あかりが担当しているのは、”食”である。
ゆかりはこれからの葵の反応を想像して、少し笑みを零し、言う。
「今、あかりちゃんの職場に会いに行くと……なんと、まだ発売していないチョコミントアイスが無料で実質食べ放題らしいですよ」
「────」
葵は真顔で立ち上がり、再び席を外した。
洗面所に向かって、ささっと鏡を見て身だしなみを整える。そもそもが仕事中、お客さんが来る場合に備えてはいたので、すぐに準備は終わった。
ばん、と勢いよく扉が開いて事務室に戻ってきた。
「それでは行ってきます!」
「なぁゆかりさん、チョコミント味以外もあるかな?」
「あるらしいですよ。何でも新シリーズの試作品らしいので、バニラやストロベリーといった王道は無難に揃っているそうです」
「ならウチも行こうっと! ゆかりさんも行くやろ?」
「そうですね、仕事中のあかりちゃんを冷やかしに行きましょうか」
葵はその場で足踏み、二人を急かす。
「ほら何やってるの、早く行こうよ!」
相変わらず、チョコミントアイスのことになると人が変わった様になる。
二人は顔を合わせ、苦笑した。
午前、新聞社。
三人はあかりの所属するグルメ・飲食部門へと足を運び、ぼけー、と天井を眺めてデスクに座っているあかりを発見した。
まだ若干幼さの残る可愛い顔立ちに反して、スタイルはとても女性的に成長している。
長い二本の三つ編みが揺ら揺ら、一貫性がなく動いている。
「──こんにちはあかりちゃん、あなたもこの二人みたいにぐうたらしてますね?」
ゆかりが声をかけると、わずかな遅延を発生させながら、あかりは顔を向ける。
「はい? て、ゆかりさんに……葵さんに茜さんじゃないですか。どうしたんですか、そんな大勢で」
「あかりちゃん、聞いたよ……チョコミントアイスが食べ放題だって?」
「ああ、その件でしたか……まだまだ残っていて大変なんで助かります」
あかりに案内され三人は応接室で待っていると、大きなトレーに沢山のアイスクリームを載せてやって来た。
「どうぞ、まだまだあるのでおかわりも可能です、というかして下さい」
「頂きまーす!」
葵はいの一番にチョコミントアイスを手に取り、ぱかりとフタを開けて食べ始める。
ゆかりと茜はどの味にしようかとトレーの上を眺める。
「色々あるんやなぁ。それで、どうしてこんなにあるんや?」
「元々は私たちにレビューを書いてほしい、ということで貰ったものなんですけど、送る数を一桁間違えたみたいで……。アイスってそんな一気に食べるものでもないので、中々減らないんですよ。味は美味しいんですけど」
「バニラにストロベリーにチョコにチョコミント、キャラメルにラムネに……うわあ、色々あって悩みますね」
色とりどりの容器を見て、二人は感嘆する。チョコミント味の割合が高かったのは、葵のためか、それとも残りが多いのか。二人は葵にとって地雷発言になりかねないと聞くのを止めた。
「そうなんです、この商品は豊富な種類を一つの売りにしてるみたいで。どれもレベルは高いですよ? 私のイチ押しはキャラメルですね」
「なら一つ目はそれにしよっと!」
茜はキャラメル味を手に取った。
美味しそうに食べている葵をちらりと見て、ゆかりは言う。
「うーん、一つ目から甘みが強いのもあれですし、ここは無難にバニラから行きましょうか」
あかりもてきとうに一つ、アイスを手に取りながら、呟く。
「初日は酷い状況でしたよ? 大きなトラックで運ばれてきたと思ったら、会社の冷凍庫に入りきらない量のアイスクリームで。社員総出で食べまくり、なんとか収めましたからね」
「これ作ってるメーカーさんに返却とかしなかったんですね?」
「私が入社する前から懇意にして頂いてるところですからね……なかなか文句は言えません。こっちとしても、発売前の商品を独占レビューさせてもらえるのは有り難い話ですし。これで美味しくなかったら会社が地獄になるところでした」
ため息をつくあかりに、葵はキラキラとした表情で言う。
「あかりちゃん、これとっても美味しいね! まだ食べて良い?」
「はいどうぞ、というか私からお願いします。十個でも二十個でも食べて下さい」
「お腹下さないですか? こんなに一気に食べて」
葵はキッ、とゆかりを見て、言う。
「ゆかりさん、チョコミントアイスは別腹です。何かこう、普通の食べ物とは違う方法で処理されているんですよ。だから問題ありません」
「不安しかないんですけど」
茜はキャラメル味を食べながら、あきれ顔のゆかりに言う。
「大丈夫やでゆかりさん、葵はバケツ一杯のチョコミントアイスをバクバク食べてもケロッとしてたし。……お、美味いやんこれ」
さらりと飛び出た葵のトンデモ伝説に、ゆかりはあんぐりと口を開く。
「えぇ!? バケツ一杯って……よくそんな食べ方して今のスタイル維持してますね……いや、それを言うならあかりちゃんも大概おかしいですけど」
「……?」
意味が分からず首を傾げるあかりを見て、ゆかりはそういうとこだよとため息をついた。
アイスの容器が高く積み上げられている。
最後までスプーンを握っていた葵が、そっと机に置いた。
「ふぅ……満足した。とっても美味しかったよ、ありがとうあかりちゃん」
「お礼を言いたいのはこっちですよ、チョコミントアイスをここまで消化して頂けるとは思ってなかったので。お二人もありがとうございました……一人いないですけど」
応接室に居るのは、あかり、葵、茜である。
ゆかりはと言うと、思いの外美味しかったので調子に乗って食べ過ぎたことでお腹の具合が悪くなり、トイレに行ったきり帰還していない。
葵はお腹をさすって天井を見上げる。
「いやー食べた食べた! やっぱりチョコミントアイスは美味しいし、奥が深いなぁ……また、自作で試したいことができたよ」
茜が露骨に顔を引きつらせ、呟く。
「……ウチは食べへんからな」
あかりはそんな葵を見つめて、
「────良いなぁ」
そう、ぽつりと言葉を漏らした。
しっかりと聞き取っていた葵は、首を傾げる。
「良いって?」
あかりはカップを両手で包んだまま、一人用ソファの背もたれに身体を預け、後頭部を乗せる。
「最近、どうもスランプ……というか。連載してるコラムに書きたいネタが全然見つかりません。今あるストックが尽きたらどうしようかと悩んでるんですよ」
「へ、へぇ……? そうなんだ」
あかりが連載しているコラムと言えば、『ロイドボイスを食べ尽くす』のことだろう。
隔日連載で、そのタイトルの通りロイドボイスの食事情について、鋭い味覚のセンスと舌で文章を綴っている。
開店したばかりの料理店レビュー、伝統の人気商品、はたまたその前段階である材料、調達、農業についても踏み込んだりと素人からプロまで参考になる素晴らしいコラムである、とは葵談である。
葵はこのコラムの隠れファンだった。それの継続危機にあると聞き、内心で焦る。
「ちなみに、そのストックってあとどのくらい……?」
あかりは頬に人差し指を当て、考え込む。
「んーっと、確か、五本くらい? 昨日、先輩にそんなことを言われた気が……」
「てことは、あと十日分か。あかりん、けっこうマズいんちゃう?」
葵はわずかに声を震わせ、言う。
「えっと、あかりちゃん? もし十日の間に次のコラム書けなかった場合、『ロイドボイスを食べ尽くす』はどうなるの……?」
「恐らくは休載になるでしょうね、ストック溜まるまでは。上司の判断によっては、最悪、最終回になっちゃうかもしれません」
最終回。その言葉は葵にとってとても恐ろしいものであった。
ガタンと立ち上がり、身を乗り出して、言う。
「あ、あかりちゃん! 私たちに何か手伝えることはないかな? そのコラムを書くネタ探しで」
あかりは意外な提案に、目を丸くして言う。
「え? それは嬉しいですけど、今日は休日なのに仕事してたくらいには忙しいんじゃないんですか?」
「うっ……で、でもそれよりも優先すべきなの!」
茜は葵の言葉に同意する。
「そうやな。友人が悩んでるのに、あんなつまらん事務仕事やってられんで!」
葵は、茜の問題発言をしっかりと咎める。
「あれも大事だから! というか後で手伝ってもらうからね!」
えぇ~、と渋る茜から、葵は視線をあかりに戻す。
「と、いうわけでこっちは問題ないから。それで、どう? 何かあるかな、私たちにできること」
あかりは目を閉じて、唸る。
「うーん…………。あっ、そうだ! お二人はお仕事で遠方にも出向くことがありますよね。それで、その地方にある料理店とかで食べたことあるんじゃないですか?」
茜は首を傾げる。
「そりゃあるけど、あかりのコラムはロイドボイスの話じゃないとダメじゃないんか?」
あかりは小さく首を振る。
「いえ、そんな決まりはありませんよ。──今は、なんというか、多分私のモチベーションが原因なんだと思います。だから刺激が欲しいな、て。この辺りでは食べられないような料理とか、とんでもないヤツとか、そういうのありませんか?」
葵は顎に手を当て、記憶を辿る。
「刺激、刺激かぁ。何が良いかな……」
思い返せば、美味しかった料理、全然合わなかった奇抜な地元料理、そもそも不味かった料理など色々と候補が浮かんでくるが、はたして、こと食に関しては凄まじい知識と経験を有するあかりに対して刺激的な体験をさせてあげられるのか。葵は自信が持てなかった。
そんな逡巡の折、茜が声を上げる。
「あっ。なあなあ葵、あそことかええんちゃうか……?」
不敵な笑みを浮かべている茜を見て、葵は眉を潜める。
「え、どこのこと?」
「ほら、前行ったやん、南の方に料理に使いたいから狩りをしてほしいって依頼──」
そこまで聞いて、茜が何を考えているのか把握した。
葵は慌てて姉の企てを阻止しようと試みる。
「えっ、ちょ、もしかしてあそこのこと? 止めとこうよ、下手すればそれこそあかりちゃんが食そのものに愛想を尽かしちゃうかもしれないじゃない!」
しかし無念、あかりはむしろ葵がそこまでしている様子を見て、逆に興味を抱いてしまう。
「何ですかそのお店、とても面白そうじゃないですか。何があったんですか?」
葵は天を仰ぎ、茜はふふん、と得意げに話す。
「それがなぁ、ウチらが狩ってきた獲物で肉料理を作ってもらったんやけど、それがもう美味くて美味くて! 今まで食ってきた肉料理の中で一番やったかもしれん」
葵は説明を付け加える。
「でもその後に出してきた料理が……その、ね。今まで食べたことのない味だったよ」
あかりはピクリと眉を動かして、言う。
「ぜひ食べに行きたいです! 場所を教えてもらえますか?」
「どうせなら今からウチらと一緒に行かへんか? 車で行くし、すぐに出れば朝になる前に帰って来れるし」
「あ、いいですか? それじゃあお言葉に甘えて」
葵は言う。
「え、今から行くの? 仕事が……」
「そんなの帰ってからやればええやん! ほら行くで~」
「は~い!」
「あ、ちょっと!」
葵の制止空しく、二人は元気よく歩いて行ってしまった。
────まあ、頑張ればなんとかなるかな……。
つくづく甘い、とため息をついた。
それに、もしかすると本当にあのお店であかりが何かを得られるかもしれない、と希望も見えてきた。
気分は前向き、さて追いかけようと思った時、お腹を擦りながら肩を落とすゆかりが戻ってくる。
「大丈夫ですか、ゆかりさん?」
「全然大丈夫じゃないです……あれ? 茜さんにあかりちゃんは?」
「もう行っちゃいました。今から南のけっこう遠い……車で三時間くらいかかるところにご飯食べに行きます。──ゆかりさん、来れます?」
何だかゲッソリしているゆかりは、掠れた声で言う。
「すみませんが、行けそうもありません……三人で楽しんっ!? し、失礼します……!」
帰ってきたと思ったら、またUターンしていってしまった。
あーあ、あれはしばらく苦痛が続くだろう。私にお腹を下す心配をしていたのに、全くもってゆかりさんらしいなあ。
葵はゆかりに別れを告げて、とっくに新聞社を出た二人を追いかけた。
△△△
車を降りた三人の前に、ポツリと一軒。
ここが件のお店、名前を『美味しい食堂』。名付け親はセンスの欠片さえどこかに投げ捨ててしまったのだろう。
「あぁ~! 身体がバッキバキだぁ」
長旅で凝り固まった全身を、葵は両手を絡めて上に掲げるように伸ばす。
「くおおおおおぉぉ……! ふぅ、疲れた」
「ん~! 久しぶりにこんな遠出しましたよ」
茜とあかりも車から降りて身体を伸ばしている。
あかりは店舗の佇まいを眺め、言う。
「外装は至って普通の大衆食堂、という感じですね」
地方らしい、木造の一軒家である。入り口に暖簾が無ければ民家と区別がつかないだろう。
普通、普通かあ。葵は苦笑する。
「出てくる料理は全く普通じゃないけどね……。まともに作ってくれたら本当に美味しいはずだから」
入り口には『営業中』の看板がぶら下がっている。
「よかったよかった、休みじゃなくて。ほな入ろか」
──どっちに転ぶかなぁ。
葵は内心冷や冷やであった。
茜が引き戸をガラガラと開ける。
「いらっしゃい! ──て、いつぞやの冒険家か!」
葵とあかりも店内を覗いた。
中はカウンターにテーブルが並ぶ、ごく普通の食堂である。
厨房に立つのは、鉢巻を巻いた男だ。長めの髪は好き放題に捻れ、ただ剃っていないだけの無精ひげが生え散らかっている。
しかし存外に深い掘りのある顔立ちは整っており、体型も細身ながら筋肉質である。
「私たちは探偵ですって……」
「あれ、そうだったっけ? まあいいじゃねえか、そんな些細なことは」
茜は店内をキョロキョロ見渡しているあかりの肩に手を置き、言う。
「今日はここの料理を食べさせたい人がおってな、連れてきたんや」
そこであかりは店主に向け、一例する。
「初めまして、紲星あかりと申します」
「おうおう、ご丁寧にどうも、別嬪さん。俺は見ての通り、美味しい食堂の店主だ。まあ、座りな」
三人はカウンターに並んで座る。茜、あかり、葵の順番だ。
「あ、ご注文決まり次第伺いますんで。……どうだい、最近のロイドボイスは?」
店主は葵を見て、言った。
「まあ、色々起きてますが……平和だと思いますよ」
「そりゃあよかった」
あかりと茜はメニューと睨めっこしている。
「なあなあ、この『シマエビフライ』って何や? エビフライと何か違うん?」
「ああ、そりゃロイドボイスには無いだろう。こっちの方で獲れるエビだ。大きくてブリッブリだぞ」
茜は目をキラリと光らせる。
「ならウチはこれにしよーっと、『シマエビフライ定食』のごはん大盛り!」
「はいよ。そっちの二人は?」
店主はサラサラとメモを取りながら尋ねた。
「うーん…………」
葵はメニューをパラパラと眺めているが、これだ、という物が見つからない。そういえば、以前ここを訪れた際もこうして悩んでいたことを思い出す。
あかりはどうするのだろう、と隣に目を向けると、メニューと睨めっこしていた。
「……あかりちゃんはどうするの?」
葵の声に、はっとして顔を向ける。
「──あっ、ごめんなさい、ちょっと仕事の癖でメニューの評価をしてました」
店主はその発言を聞き逃さず、言う。
「へぇ? メニューの評価か」
「仕事でよく料理店のレビューをしているもので──このお店は素晴らしいですね」
「珍しいヤツがあるってこと?」
茜の言葉に、あかりは首を振る。
「いいえ、そういうことじゃありません。このお店はいわゆる大衆食堂、例えばラーメン屋のラーメン、揚げ物専門店の天ぷらやフライといった『代表作』がありませんよね。少なくとも初めてくるお客さんは、それら専門店に行く場合と違い、明確な一品を食べたくて来る場合は少ないです」
「実際私も今悩んでるし、確かにそうかも……」
あかりは小さく頷き、続ける。
「ですから、食堂としてのメニューとして大切なのは、幅広いカテゴリーを揃えているか否か、です。多種多様な欲求を満たせることを求められるので。それを踏まえてこのメニューを見ると……肉、魚、野菜はもちろん、揚げ物や焼き、煮物と大抵の需要に答えられるようになっています。店主さんお一人で切り盛りされているんですか? 凄いですね」
店主はからりと笑う。
「確かにこの店の料理は俺だけで作ってるが、一人でやっているわけじゃねえさ。注文もらってるシマエビだってそうだし、コメや野菜だって、皆ここらに住んでる人たちに相当助けてもらってる。良い人たちばかりだぜ? 少なくともここでやっているから、この店は成り立ってるんだ」
「なるほど、地域に根付いているのですね。ますます、評価を上げなければなりません」
微笑を浮かべるあかりに、店主はメモを指ではじく。
「店の評価は料理を食べてからにしてくれよな。ほら、どうするんだ?」
葵は注文を迫られ、慌てて視線を落とす。
「──では、〇〇をお願いします」
あかりがスラスラと注文を行った。
葵は急かされている気分になり、慌ててメニュー表から焦点の合った文字を読み上げる。
「えと、じゃあ〇〇で」
「ほいほい了解。じゃ、しばらくお待ちくださいませ」
奥に引っ込もうとする店主をみて、葵は低い声で釘を差す。
「そうだ、この前出してきたような料理はやめて下さいよ」
「へいへーい」
店主はひらひらと手を振るだけだった。
あかりは言う。
「ところで茜さん、今のところこのお店に尖った特徴が見当たらないのですが……」
茜は得意気にうんうんと頷き、言う。
「せやろ? うちらも最初来た時はそうやってん。でも、なぁ?」
ニヤリと葵に目配せをする。
葵は正面を向き、両肘を立てて手を重ね、その上に顎を置く。
「前も、ここまでは良かったんだよ。普通に注文した料理は美味しかった。でもね……」
何かを噛みしめるような間を置いて、気持ちを絞り出す。
「──オマケといって出てきたヤツは本当に不味かった……!」
思い出したくもない。おぞましい外見とそれに相応しい、いや、それを超える程の不味さ。
「あんな不味い料理は今まで食ったことなかったなあ。何て言うんやろ、何で不味いんか説明できんくらい不味かった」
葵はその言葉を否定しなかった。
「うーん、そこまで言われると逆に気になりますけどね」
そうは言われても、二人にあの味を説明する言葉は思いつかなかったし、またアレを食べたいなどとは思わなかった。それに、なら食べてみたらどうだ、などと悪魔の如き発言は優しい二人には到底できないことだった。
しばらく。三人の注文した料理が一斉に出てくる。
「はいよお待ち!」
目の前に注文の品が並んでゆく。どれもこれも美味しそうで、葵は二人の注文した料理にも目移りしている。
「調理のスピードも文句なしです、相当に早いですね」
「ではごゆっくりどうぞ」
明らかに作ったセリフを終えて、店主は片づけに奥へと入っていった。
三人は料理を堪能した。
茜と葵は美味しいことを分かっていたので、何度もあかりに味の感想を尋ねていた。
その度にあかりは、この店の料理に感心を示し、分かりやすい生レビューを聞かせた。それを楽しんでいた二人は自分の頼んだ料理をあかりに分けて、またその感想を聞き出していた。
「ふぅ、食った食った!」
茜は満足そうにお腹を擦る。
「うん、やっぱり普通に出してくる料理は美味しいよね。あかりちゃん、どうだった?」
葵は尋ねた。
あかりは微笑を浮かべ、言う。
「はい、とても美味しかったです! 遠出したかいがありました」
「そう言ってもらえるとこっちとしても嬉しいねえ」
その時。
ふと、あかりの表情に哀愁を含んだ自嘲的な笑みが浮かんだ。
葵と店主がそれに気づいて────先に動いたのは店主だった。
「おう嬢ちゃん、何だか納得いかねえってツラしてるな」
あかりはハッと顔を上げる。
ブンブンと突き出した左右の手の平を横に振る。
「いえいえ! とても美味しかったので満足しています」
「そりゃ分かってるよ、俺の作った品だからな」
自信に満ち溢れた発言は、実際に彼の料理を食した三人にとっては鼻につくこともなく、すなりと頭の中を通っていく。
店主は続ける。
「だから聞いてるんだ……話してみな?」
あかりは顔を伏せる。
事情を知っている茜と葵は口を噤んだ。
やがて、ポツリと呟き始める。
何かと思えば、どうやら調理の工程らしかった。出てくる材料からして、先程あかりが食べた料理だろうか。
しかし当然ながら、あかりは調理工程を見学したわけではなく、ただ食べただけである────。
茜と葵はポカンとしていると、あかりが締めの言葉を紡ぐ。
「──で完成です。どうでしょう、合ってますか?」
店主も驚きを隠せず、目を丸くしてした。
少しの間を置いて、言う。
「ああ、正解だ。完璧だよ、嬢ちゃん相手だとレシピの秘匿なんて全く機能しないな」
参った、と肩をすくめた。
あかりは静かに、心の内を語り始める。
「私は今、主にお店のレビューを行ったり、食に関してのニュースを取り扱う仕事をしています。小さな頃から食べることが大好きでした。美味しい物を何度食べても、また違う美味しさと出会える……そんな発見が楽しくて、学園を卒業後、仕事として食べること、伝えることを選びました」
店主、茜、葵は静かに耳を傾けている。
あかりは続ける。
「でも何だか最近……このままでいいのかな、って不安になってきたんです。料理の世界にはトレンド、ブームといった流れがありますが、それでちょっとした変化が起こるだけで、結局は既存の調理法に多少のアレンジを加えたものに過ぎません。調理法を聞けば味は予想できますし、食べればレシピが分かります。もちろんアレンジだって未知の発想が含まれますけど、なんだか、この料理という世界が打ち止めに到達してしまっているんじゃないかな、と……」
それは不安の吐露だった。
料理の世界を見る、楽しむ立場にいるあかりだが、常人には持ちえない舌の感度という才能があるからか、食べるという立場から瞬く間に料理の世界を紐解いていった。
それ故に、直ぐにあかりは最前線へと到達した。すると、これまで見えなかった先の光景が見えた。見えてしまった。
これまでは、ただぼんやりと光を放つ『未知』へと歩いていた。しかしそれは先人が既に歩んだ道であり、『既知の未知』である。だからあかりは迷うことなく真っすぐに歩いてこれた。 しかし──最前線のその先は、本当に誰も何処であるか分からない。何も見えない真っ暗であるということは、もしかすると、この先に道が存在しないかもしれない。
あかりはずっと独り、真っ暗な空間の、真っ暗な道を歩いていた。
独りぼっちを自覚したその時。
「────なーんだ、そんなことで悩んでいたのか」
暗い暗い──真っ暗で独りだった空間。自分より前に、一人の男が立っていた。
あかりは顔を上げる。心細いのか、今にも叩き折られそうで。
「そんなことって……!」
葵は怒りを含んだ声を上げた。
しかし、店主のいたって真面目な表情を見て、身体の力みを解す。
「ちょっと待ってな」
そう言い残して、奥へと引っ込む。
「何のつもりや?」「……さあ?」
姉妹が短く言葉を交わす間に、店主が帰ってきた。
手には一枚の皿が握られている。
「ほらよ、これを食ってみな」
茜と葵は、あかりの前に置かれた皿に載せられている料理を見て飛び跳ねる。
「ちょ、ちょっとこれって……!」
「いいんだよ。今の嬢ちゃんにきっと必要な料理だ、これは」
葵は黙り込む。
その料理は、視覚的情報では一体何であるかが一切分からない。
二人の知っている料理のどれにも該当しない、意味不明な外見。
直感で分かった。これは、オマケのゲロマズ料理だ──!
「……これは?」
あかりは小さな声で尋ねる。
店主はニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、言う。
「それは渾身の創作料理……失敗作千二十号だ。そのレシピを当てられるか?」
あかりはそっとスプーンを手に取る。そして、理解不能な料理を掬う。
あわわ、と茜はどうすることもできず両手を忙しなく動かし、葵はこれからの惨状を想像して、顔を両手で覆った。
──はむ、とあかりが口をつける。
刹那の空白。
指の隙間から覗く葵にとって、その一瞬は長く。
静かだった店内。
そして……店の外ののどかな田舎風景に魂がこだまする。
「まっずううううううぅぅううう!!!???」
あかりが天を仰いで叫んだ。姉妹二人がびくりと身体を震わせる。
「なにこれ、不味すぎませんか!? こんなの今まで食べたことないんですけど!!!」
がたりと立ち上がって、涙目になり文句を叫ぶあかり。
それに対し、店主は腹を抱えて大笑いしている。
「はははははは! そうだろう、めちゃくちゃ不味いだろ? どうしてここまで不味くなっちゃったんだろうなぁ? わかるか嬢ちゃん、俺にもわからねぇんだよ」
「へっ?」
あかりは訊かれ、動きを止める。
「えっと……あれ、ウソ……」
店主はしてやったり、と口元を歪める。
「全然、分かりません……! 凄い──!」
あかりは着席して、再び料理を口に運んだ。
「凄い、まずっ、全然分からない! どうしたらこんなに不味い料理が作れるんですか、こんなの久しぶりだっ、うっ、はは……!」
涙を零しながら不可解な料理をかきこむ姿を見て、茜は葵に言う。
「ちょ、ちょっと大丈夫か、あれ? 変な料理食ってあかりも変になったんじゃ……」
葵は微笑を浮かべている。
「……ううん、大丈夫だよお姉ちゃん。このお店に連れてきたのは大正解だったみたいだよ。見て、あの顔。学園に居た頃によく見てた、楽しそうに食べてる時を思い出さない?」
「……ああ、確かにそうやな」
そして、あかりは綺麗に完食した。
潤んだ瞳で店主を見て、晴れやかな笑顔で感想を述べる。
「ごちそうさまでした、とっても不味かったです!」
店主は苦笑する。
「そんな笑顔で罵倒されると複雑だな……」
そう言って再びニヤリとして、続ける。
「まあとにかく、これで分かったろ? 料理の世界を全て知り尽くしたなんて思ってたか? 傲慢だよ傲慢。この俺が失敗作を千個以上重ねてもまだ分からないことだらけなんだ、心配することはねえさ、料理の世界はまだまだ人間、全然分かっていないことばかりだぜ。少なくとも嬢ちゃんが一生をかけても、きっと最奥を見ることすら難しいだろうな」
そこであかりは、胸に手を当てる。
──ああ、そうだったんだ……。
胸中で、ずっと分からなかった感情の詰まり、モヤモヤとした煙の正体。漠然とした不安の座標が見えた気がした。
「失敗作千うんたら号って、本当にその数の失敗作を作ってたんだ……」
葵はその熱意にバカらしさと敬意を抱いて呟いた。
あかりも同じくニヤリと笑い、言う。
「それは悔しいので、寿命の最終盤にちらりと真理を覗いてから死にますよ」
「そうそう。一歩、常識の世界から踏み出してみろ。すると案外、知らない、分からないことだらけだ。常識に囚われるなよ、青臭い若人」
「────はい、胸に刻んでおきます」
店主との出会い、言葉。これらはあかりにとって非常に貴重な体験となり、これからの人生に大きく影響を及ぼしていくだろう。
三人は会計を済ませ、いよいよ店を出る時が来た。
葵は言う。
「美味しかったです、あと、あかりに良いきっかけを与えてくださり、ありがとうございました」
「俺はただ、処分に困った失敗作を食べてもらっただけだし、感謝されるようなことしてねーよ」
「素直じゃないな~店主さん」
「うっせ、本当のこと言ってるだけだ」
二人が言葉を交わし、続いてあかりが店主と目を合わせる。
「店主さん、本当にありがとうございました」
深々と一礼する。三つ編みが揺れた。
店主は肩をすくめる。
「ふん、俺と志を同じくする若人が潰れるのを防いだだけだ。あ、でも恩返ししてくれるなら、さっさと俺の先を行ってくれよ? そうすれば俺も続いて前にさっさと進めるようになるからな。そしてすぐに追い越してやる」
「プライド無いんですね?」
「そんなもの、そこらの犬に食わせちまった。俺はただ、料理という世界の深奥を見たいだけだからな。道徳に反しない限りは色んな手を使ってやるさ」
「ふふっ、その熱意、流石ですね」
葵と茜は首を傾げる。
──流石ですね、て何だか旧知の仲みたいな言い回しだなぁ。
あかりはくるりと背を向けながら、一言、残す。
「それではまた来ます! 今度はまた、あの美味しい親子丼食べさせてくださいね!」
「なっ……!」
店主が驚愕に口をあんぐりと開ける様を唖然と見ている茜と葵を両手で引っ張り、言う。
「ほら、行きましょう!」
「わわっ、あかりちゃん?」
あかりはぴしゃりと扉を閉める。
茜が言う。
「もしかして知り合いやったんか?」
笑みを隠し切れないあかりは、頷く。
「ええ、そうですよ。私がまだ学園に居た頃に食べたお店の店主があの方でした。名前も今思い出すと、『満足食堂』とかでした。鉢巻巻いてる姿と最初に食べた料理の味で思い出しましたが、美味しい食堂なんて名前を見た時に気づくべきでしたね」
「ロイドボイスに居た頃のお店で食べたことがあったんだ? それにしても満足食堂って……」
葵は呆れたように口を歪める。
三人は車に乗る。
「さあてここからまた数時間のドライブや……めんどっちいなぁ」
「そこをなんとかお願いしますよ茜さん、最近できた美味しいエビフライあるお店教えてあげますから」
「ホントか!? よーし飛ばしていくで!」
目を輝かせる茜に、助手席に座る葵は言う。
「やめてよ、せっかくあかりちゃんが元気取り戻したのにすぐ事故でも起こしたら笑えないし」
「はぁ、葵ちゃんは真面目やなぁ」
「ホントですよ、茜さんが事故るわけないじゃないですか」
「あかりちゃん、テンション高いね!?」
姦しい車内はいつまでも楽しそうに、ロイドボイスまでの道を走っていった。
△△△
数日後、ロイドボイス、琴葉探偵事務所。
お昼ごろの事務所は調理中の香りが漂っている。
そんな中、葵は新聞を読んでいた。
「……いやー、やっぱり良いコラムだよね、『ロイドボイスを食べ尽くす』。それにしても、この内容は何も文句言われなかったの? 新聞社内からは」
事務所で調理に励んでいるのは、あかりである。
「そうですねー、でも一番お偉いさんが感銘を受けた! とゴリ押してくれたみたいです」
気の抜けた声で返した。
内容は、今のロイドボイス料理界隈についての提案だった。
とにかく売れたいからと、既存の人気料理店の模倣となっている店が多くなっている事。
本来目指すべき料理とはそんなものだろうか、という投げかけ。
あかりの気持ちを存分にぶつけた文章だった。葵はそれを今、読んでいたのだ。
「な、なぁ……葵、大丈夫かな……あかりんの料理、すっごい不安なんやけど」
茜は鼻歌を口ずさみながら菜箸を振るあかりの背を見て、言った。
「え、何で? 味覚に関しては心配するまでもないじゃない」
「あかりん、あのヘンテコ料理だす店主を尊敬してるやん? 同じようなことしてゲロマズ料理出されへんかと」
「あ、あ~……」
葵も途端に不安になってくる。
あかりは帰りの車内で、料理に挑戦したいと言ったのだ。食べるだけじゃなく、自分の手でも新しい味、料理を模索してみたい──ということらしい。
それで料理の味見を頼まれたのが琴葉姉妹というわけだ。
「出来ました!」
あかりが達成感に満たされた朗らかな表情で二枚の皿を持ってくる。
中央のテーブルに置かれた。
一枚はクリームシチューのように見える。具がゴロゴロと浮かんでいて、一見、変哲は見当たらない。
もう一枚は透明感のあるスープに刻まれた玉ねぎらしき具が泳いでいる。オニオンスープのように見える。
向かい合わせのソファに座る葵と茜はじぃ、と二つの皿を注視する。
「一つは自信作、もう一つは失敗作です」
「いやなんで失敗作を普通に出してくるねん!?」
茜が異論を唱えると、あかりはヒラリと避ける。
「私は失敗したと思っていますが、他の方が食べると美味しいかもしれませんし、新たな知見が生まれるかもしれないので、ぜひ食べて下さいね?」
茜が冷や汗を垂らす。
──助けて葵! あかりんの圧力が怖い!
葵に必死に視線を送る。当の葵は気づいたがどうにもできないので、言う。
「じゃあお姉ちゃん、どちらか片方ずつ食べようよ。好きな方選んでいいから」
茜は諦めたように視線を落とし、二枚の皿を何度も見比べて、
「──こっちや!」
と透明感あるスープの方を選択した。
「じゃあ、私はこっちで」
葵はクリームシチューのような方の皿を手に取る。
先に動いたのは茜だった。
「じゃあ、い、いくで……!」
ごくり、と唾を飲み込み、スプーンを口に運ぶ。
心臓の鼓動でスプーンが揺れる。
「────っ!」
必死に嫌がる心を押し殺し、スープを口に含んだ。
そして、
「辛ぁあああぁぁぁああああああ!!??」
スプーンを放り投げ、茜が事務所を走り回る。
「ちょ、からっ、辛すぎるって!!! 水みずみず!」
茜は台所の蛇口をひねり、直で口に水を流し込み始める。
その様子を眺めていたあかりは、肩を落とした。
「はぁ、やっぱり辛すぎですよねぇ。玉ねぎの甘みと組み合わせたら美味しくなると思ったんですけど」
そう言って、あかりも激辛スープを飲み始める。
──なんであかりちゃんは平気なの!?
葵は愕然と、あかりがゴクゴクと飲み干す様を眺めた。
ふぅ、と皿を置いて、あかりは視線を葵に向けた。
「……葵さん、ほら、食べてみて下さい」
「うっ、うん……」
片方がこれでは、例え成功でも失敗でもヤバイのではないか、と葵の胸中で警報が鳴り響く。しかし、あかりに見られている以上、逃げるという一手は存在しなかった。
──ええい、お願い、せめて不味い程度で!
葵は目を強く瞑って、スープを飲んだ。
すると口に広がるのは、まろやかさ。
触覚から楽しいこのスープに、葵はいたく満足した。
「いや、凄いよあかりちゃん。とっても美味しい!」
「本当ですか!?」
あかりは嬉しそうに身を乗り出し、自身も口をつける。
「うん、やっぱりこっちは上手く行ったと思います」
「お姉ちゃんも食べなよ、こっちは凄く美味しいよー?」
「……」
台所でうつ伏せに倒れている茜はピクリとも動かなかった。
「だめだ、完全にやられてる……」
葵は茜を意識外に放り投げ、尋ねる。
「クリームシチューみたいだけど、何が違うの?」
「見た目はそうですけど、実際の材料は全然違いますよ? えーっと」
「いや、言わなくても良いよ、うん。いやーおいしいなぁ!」
葵は怖くなって聞くのを止めた。知らない方が、単なる美味しいスープのままでいられるからだ。あかりのことだ、とんでもない材料を使っているかもしれないし。
そうして美味しかったスープもなくなった。
あかりは無事な葵に感謝を伝える。
「ありがとうございました、葵さん。ご意見、とても参考になります」
「素人な私がどれだけ役に立てたか分からないけど……どういたしまして」
「また、味見をして頂いてもいいですか……?」
小さな勇気を出して、あかりは言った。
葵は目をそらし、しばらく逡巡の末、言う。
「あー……。まあ、良いよ? でもなるべ──」
「ありがとうございます! じゃあ私、片付けしますね!」
なるべくお姉ちゃんがあんなことにならない料理にしてね、という言葉を遮って、あかりは嬉しそうに皿を回収し、台所へと向かった。
皿を置き、茜の肩を揺するあかりを眺めながら、葵は新聞を再び手に取る。そういえば、読んでいた『ロイドボイスを食べ尽くす』が途中だった。
「まったく、もう……うん?」
葵はじっ、と目を寄せて文字を読む。
コラムの最後に書かれているのは──「この記事を作成するにあたり、二名の冒険家の方にご協力を頂きました。深く感謝致します」。
葵は叫ぶ。
「あかりちゃん! だから私は探偵だって!」
こうして。
ロイドボイスの食事情は一人の少女によって大きく変わっていき、やがては国一番の食が集う町にもなるのだが、それはまだ未来の話である。
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琴葉探偵事務所 ~生命を吸う氷~
魔道士の集う町、ロイドボイスに一つの探偵事務所がありました――――
……事務仕事に追われる琴葉探偵事務所の元へ、警察がやって来たようですが……?
※琴葉探偵事務所シリーズは短編集です。登場人物、世界観等はシリーズ内で統一されていますが、一作品ごとにお楽しみいただけます。ですが、もしよろしければ、同シリーズの他の話も読んでいただけますと幸いです。
当シリーズの新作、別話はシリーズ、ツイッター(@KordAzisasing)等からお探し下さい。
朝の陽光は寝起きで覚醒の浅い人にとっては眩しすぎる。
コーヒー の注がれたカップを片手に、太陽光の差し込む窓の外に顔を向ける青髪の少女――探偵を生業とする琴葉葵は鬱陶しそうに眉を潜めながら、外の様子を眺めていた。
ぼんやりとしたまま朝食を口に詰め込んだせいで、どうもお腹の具合がよろしくない。バターを塗ったパンを一枚食べただけだというのに、外食で調子に乗って余分に一品頼んでしまったような状態だ。
きっとそれらのせいだろう。眩しい外に目を向ければ眩しいというのは当たり前なのに、それで思い通りに視界を確保できない事に腹が立った。
「…………ん」
気分を切り替えようと、一口、コーヒーを口に含み、ふぅ、と息をつく。
芳醇な香りとコクのある苦味が、心の揺れを収めてくれる。
どうやら、ようやく眠気を撃退したようであった。
「なあ葵ー、今日は何するんや?」
そんな葵の背中に声を掛けたのは、黒い革張りのソファに座り、フルーツジュースの入ったコップを仰ぐ少女――琴葉茜だ。
髪色以外は葵と容姿が瓜二つである。
葵のボディーガード兼冒険家を名乗る茜は、探偵らしく地道な調査や推理といった仕事よりも、お宝探しや探検が大好きだった。
「今抱えてる急ぎの依頼は無いし、事務的な仕事を進めるつもりだよ……凄く溜まってるし」
葵は振り返る。入り口正面奥に構える席の上に積み重なった紙の束を見て、ため息をついた。
事務所は一つの部屋で完結していて、全体的に木製、革の家具で纏められていて、静かでアンティークな印象を与えるデザインだ。
ここにコーヒーの香りが合わされば、穏やかに時間が流れる紳士淑女好みの空間になり、レイアウト等を担当した葵はいたく満足している。
茜も紙でできたタワーのてっぺんをソファから見上げ、呟く。
「……ウチも手伝おか?」
葵はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。カップを偶然、机に置いていなければ今頃は落として割っていた。
「ま、まさかお姉ちゃんが事務仕事を率先して手伝ってくれるなんて……。熱でもあるんじゃ?」
「あるかい! さすがに溜まり具合がヤバそうやから手伝わんとなって思っただけや」
「そもそもの原因はお姉ちゃんが突然依頼を受けて持ってくるからなんだけど」
茜は口笛を吹いて目をそらす。話題を変換しようと紙を適当な厚みだけ取って、パラパラと紙面を眺める。茜にはさっぱり内容が分からない。
「──こんなん、ちょっとくらいサボってもバレへんのちゃう?」
葵はボフンと席に座り、準備を進めながら、言う。
「その気になればできるかもね? でもバレたら警察が来て、この事務所は一瞬にして崩壊するけど」
「うぅ……もう誰か雇おうや、こんなん終わらんて」
茜は弱気にぼそりと言って、葵から紙の束を受け取った。
葵は清々しい笑みを浮かべ、言う。
「そんなお金あるわけないでしょ」
やばい怒った、と茜は目を逸らす。紙を来客用の机に置き、とりあえず仕事の準備を進める。 息をつき、一番上の紙を手に、内容を確認する。
「……は?」
そして驚愕した。
「な、なあ葵────これ、締め切りが昨日なんやけど」
葵はガタンと立ち上がる。
「えっ、嘘!?」
バタバタと茜の背後に回り、内容を確認する。
サーッ、と顔が青ざめていく。
「これ、警察に出さなきゃいけない資料だ……どうしよ……」
茜がなんとか励まそうとしたその時だった。
ドン、と勢いよく事務所の扉が無造作に開かれる。
「琴葉葵は居るか!」
入ってきた途端に大声を上げたのは、黒いスーツ姿の大男だった。
見るからに警察関係者である。
「ひゃあ!?」
何て最悪のタイミングだろう。葵は心臓が張り裂けそうになり、堪らず悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと警部補落ち着いてください、驚かせてしまってますよ」
その後、大男に続いて申し訳なさそうに肩を縮めて姿を見せたのは、巡査、結月ゆかりだった。
ごめんなさい、と二人に向けて両手を合わせ、必死にジェスチャーをしている。
京治、と呼ばれた大男はゆかりの発言を無視して、葵を見据える。
「青髪の娘……お前だな、琴葉葵っていうのは」
「は、はい……」
葵はぐるぐると頭の中が混乱していた。
──え、もう締め切り遅れたこれのことを把握したの? どうしよう、何をされるんだろう……もしかして廃業とかだったりしたら……。
「へ、ゆかりさん? てことはこの人警察か?」
茜が首を傾げる。大男は言う。
「俺はロイドボイス警察の……魔法犯罪とりしま――ええと何だったか、まあいい、とにかく、俺は結月ゆかりの上司だ!」
「ロイドボイス警察、魔法犯罪取締課の警部補、京治さんです」
ゆかりが後ろから完璧なフォローをする。京治は渋い表情でちらりと振り返り、すぐに葵に向き直る。
「今日は琴葉葵、お前に聞きたいことがある」
ドキ、葵の心臓は飛び跳ねる。不格好な笑みを作り、言う。
「な、何でしょう……」
「単刀直入に聞く。──お前、最近ロイドボイス辺境の村を襲ったな?」
「…………」
葵はキョトンと黙り込み、やがて、口を開く。
「あ、あれ? 京治さんはこの資料の提出が遅れていることで何か言いに来たんじゃ……?」
京治は眉をぐにゃりと曲げる。
「はぁ? どういうことだ……」
ずけずけと無遠慮に事務所に入り、葵の持っていた紙面を奪い取る。
「──ああ、解決した内容の報告書か。こんなもん遅れても構わん」
「え、そうなんですか?」
葵の心境に光明が差す。思わず笑顔になった。
慌ててゆかりが京治の背後から言う。
「構わなくはないですよ!? そんなこと言ってると事務の人にまた怒られ──」
「うるせぇ! そんなことより、質問に答えろ」
京治は葵に紙を返して、言った。
葵と茜は二人、あるゆかりの発言を思い出す。
──もう、私の上司には懲り懲りですよ……。グループのまとめ役だというのに率先して動いては部下を引っ掻き回すし、外部や上の人に対しても遠慮のない、というか敬意の欠片も感じない態度で接するし、ずっとヒヤヒヤさせられて疲れましたよ私は! まあ、到底真似できない行動力とか、警察としては尊敬していますけどね……。
夕食を一緒に食べた時に聞いた言葉だった。
ああ、あれはこの人の事を言っていたのだな、と葵と茜は察し、哀れみを覚えた。
二人はこれまでも警察と関わることが多少はあったが、大体はゆかりが窓口になり、一人で完結することが大半だったので、こうしてゆかり以外の警察関係者と話すのは珍しいことであった。
葵は首を振る。
「全然何を言っているのかよく分かりませんが、私は村を襲ったりなんてしていませんよ」
「そもそも何で葵を疑ってるん?」
茜は尋ねた。
京治は低い声で、言う。
「丁度二週間前だ。ロイドボイスの南の端っこにある小さな村が突然、氷に飲み込まれた」
葵は目を細める。
「氷に村全体が? 初めて聞きました、どうしてそんな大きな出来事が私の耳に入ってこないんですか?」
「内容が内容だ、一般人に知れ渡ればパニックになりかねないと上が判断したんだろうな、情報は規制されているから、新聞とかには載らねぇ」
ゆかりが概要を説明する。
「南の小さな農村でした。二週間前、隣の村の住人が見に行ったところ……その現場を目撃したようです。特異なのは、何時まで経っても氷が解けないことと、その氷を魔法で破壊していったのですが、村人は誰も発見できなかったことです」
「つまり……消えたってことだ。警察は村人の姿を探したが、完全に消え失せた」
「はぁ、要は氷が使われているから私が疑われた、ということですか」
葵は呆れた表情でゆかりに目を合わせた。
ゆかりは小刻みに首を横に振る。
「私じゃないですって! 葵さんを疑っているのはこの人です!!」
葵は京治の顔を見上げる。決してふざけている様子ではない。
ため息をつき、葵は自分の机に回り込み、ガサガサと棚を漁る。
「──あったあった。これ、汽車の切符です。二週間前はそもそもロイドボイスに居ませんでしたよ、仕事で北の方に行ってました」
京治はまた乱暴に葵の手からそれを奪い取り、じぃ、と確認する。
「……確かに、そうみたいだな」
葵は肩をすくめる。
「分かっていただけましたか? 話が終わったのならお引き取り下さい、忙しいので」
例の報告書が遅れている今、警察関係者が近くに居る状況はすぐに解消したかった。
京治はニヤリと笑みを作り、言う。
「いいやまだだ。お前が犯人でないなら、次はこうなる──琴葉探偵事務所に、この事件の調査を依頼したい」
葵と茜は、「そう来るか」と言いたげに目を丸くした。
「こりゃまた、厄介そうな依頼やな」
「え!? そんな話聞いてないですよ! そもそも報酬はどこから……」
京治は手でゆかりを払うような動きを見せ、顔をしかめる。
「うるせえうるせえ、金くらい最悪俺が出せばいい話だろ。ハッキリ言って、俺たち警察はこの事件の調査に行き詰まってる。恥ずかしい話だが、犯人の目星すら付けらえてねぇ。だから、なんだ、その……」
「…………」
言葉に迷う京治に、葵が救いの手を差し伸べる。
「お客さんでしたか、それでしたらおもてなしをしないと。さあ、ソファにお座りください。コーヒーをお出ししますよ」
「お、おう……すまない」
「ありがとうございます、葵さん」
ゆかりが頭を下げると、葵は憐みからか、苦笑を浮かべた。
台所へ向かう際、くるりと振り返る。
「あ、お姉ちゃん机の上片づけておいて。事務仕事は一旦後回しにしよう」
「よっしゃ任せい!」
茜は心底から京治とゆかりに感謝して、喜々として机の上を綺麗に整えるのだった。
葵がコーヒーを淹れている間から話は進んでいた。
事件の現在判明している情報が見えてくる。
いつ氷ができていたかは不明であり、砕いた氷を解析しても何も情報を得られなかった。
周囲を調査したが変った物事は一切なし。
そして──同じような事件が、つい先日、違う農村で再び発生したこと。
京治は角砂糖を沢山投入したコーヒーをぐいと飲み干し、ため息をつく。
「──まあ、そんな状況だ。これでは犯人が分かるわけがない」
お手上げだ、と肩をすくめた。
葵は香りを楽しむために揺らしたコーヒーの波紋を見下ろし、言う。
「……二個目の現場でも目ぼしい情報は無し、ですか。まずお聞きしたいんですけど、この怪奇現象は人によるものだと考えていますか?」
京治は首を傾げる。
「はぁ? 魔法を事件なんだからそりゃ人間が起こしたに決まってんだろ。足跡、抜け毛といった痕跡も残っていなかった」
「魔物がやったにしては上品すぎやな。その村意外なーんにも襲わないなんて」
茜は京治に同意した。
葵はカップを置く。
「……分かりました。此度の依頼、お受けします。ただ一つお願いがありまして」
「何だ?」
葵はゆかりに目配せをして、言う。
「ゆかりさんをお借りしたいんです。今回の事件解決、キーマンになると思うので」
「へっ?」
ゆかりは素っ頓狂な声を上げた。
自分の顔を指さし、言う。
「わ、わたしですか……?」
京治は立ち上がる。
「問題ない。そもそも、結月には主導を任せる予定だったからな」
ゆかりは必死に訴える。
「えぇ!? 聞いてないですって! 私、今日締め切りの報告書が──」
京治は容易く切り捨てる。
「遅れて構わん、そっちの探偵のヤツもな。この事件の解決を最優先に動いてくれ。できることなら、三つ目の被害を止めてくれよ」
そう言われてしまえば、良くないことであると分かっていても、ゆかりは従うしかない。
事務の人々に心の中で謝罪をして、ゆかりは言う。
「分かりましたよ……ここで被害を止めて見せます」
京治は満足したのか、ニヤリと笑う。
「良い返事だ。探偵のお二人合わせ、期待してるぞ」
ガチャリ、と事務所の扉を開ける。
「悪いが他にも事件があってな、俺は一旦離れる。何かあったら呼んでくれ」
そう言い残し、京治は足早に去っていった。
葵はまるで台風が突然やって来てそのまま直ぐに通り過ぎてしまったかのような、ふわふわと落ち着かない心境だった。
気づけば、ゆかりが肘を膝に乗せて手の平を重ね、項垂れていた。
「はぁ……」
大きなため息だった。葵と茜は彼女の心境を察する。
「あれがゆかりさんが前言ってた上司かぁ……ご愁傷様です」
「でもイイ人ぽかったやん、贅沢言いすぎは良くないでゆかりさん」
「……茜さんは相性よさそうですね、警部補と」
低い声で呟いた言葉に葵は妙に納得してしまい、目を逸らした。
「なんかごめんねゆかりさん、私がゆかりさんに手伝ってなんて言わなければ……」
ゆかりはようやく顔を上げ、吐き捨てる。
「言ってたじゃないですか、主導を任せる予定だった、と」
パン、と自分の太ももを叩き、声色を切り替える。
「さて! うだうだしていても始まりません。とりあえず事件について考えましょう」
冷蔵庫にジュースを取りに行った茜は、台所から振り返り、言う。
「そうや。なあ葵、結局犯人は人間、でええんか?」
葵は小さく首を横に振った。言う。
「私は人の──魔道士の犯行じゃないと考えてる」
ゆかりは尋ねる。
「どうしてですか?」
「考えてみて下さいよ。状況証拠からして、人間を吸収もしくは取り込んでいるわけですよね?それってとっても悪い事じゃないですか」
葵は楽しそうに語り始めた。
ゆかりは何を言い始めるんだ、と眉を歪める。
「そりゃあそうでしょう」
合いの手をもらった葵はうんうんと頷き、続ける。
「普通の人なら怖くてできるはずもない悪行ですが、成果に飢えた悪い魔道士ならやりかねません。ですが魔道士は倫理観が欠如しているわけではないので、悪いことは悪いことだ、とちゃんと認識できるはずです」
葵の目が赤く光る。
「それならば────どうして、わざわざ氷を残したのでしょうか」
ソファに戻ってきた茜は、言う。
「おぉ、言われてみれば確かに変やな」
「うん、わざわざ犯行を目立つような事はするわけないよ。捕まる可能性上がるし。もし私なら、絶対に氷は溶かしておく」
葵の意見は二人にとってもしっくりきて、反論する意思は見せなかった。
「……今持っている情報では、推論することしかできませんね」
「はい、だからゆかりさんにお手伝いをお願いしたんです」
「私以外の警察の方々が既に調査済みなので、期待は薄いですよ?」
葵は渋面をつくり、言う。
「でも残念ながら、私が考える上で一番期待できるのが現場なんですよね。ゆかりさん、今回の依頼はとても強敵ですよ」
ゆかりは表情を引き締め、言う。
「……しかし解決できなければ、また第三の被害が出てしまうかもしれません。なんとしても阻止しないと」
茜はぐいっと飲み干して、コップを置く。
「せやな、もしかすると次に狙われるのはここら一帯かもしれへんし」
葵もコーヒーを飲み切って、言う。
「まず早いうちに、二つの現場を見に行こう。今から準備してお姉ちゃんの車で向かう……これでいいですか?」
ゆかりに顔を向けると、頷いた。
「ええ、分かりました。一旦署に戻ります」
「忘れ物せんようにな~」
「しませんよ、子供ですか!」
そういうことになった。
△△△
茜が車を走らせ数時間。三人は一つ目の現場に到着した。
「これは……ひどいですね」
ゆかりは悲愴、怒り、複雑な感情を含む震えた声で呟いた。
葵は車から降りて、肉眼でその景色を捉える。
住宅が点在する農村は、氷柱の集合体に飲み込まれていた。
透明度の高い氷だった。陽光の反射が視界を妨げるくらいで、中がはっきりと目視できる。 村の様子がまるで時を止めて保存されているかのようだ。しかし、ここで暮らしていた村人はもうどこにも居ない。
「ふぅー、肩が……。うわ、こう目の前でみるとおっそろしいなぁ」
長旅の運転で凝った肩を回しながら、茜は氷の先端を見上げた。
氷に近づく。冷気が漏れ出していることはなく、肌寒さはなかった。
「…………」
住民を助けようとしたのか、複数の箇所に傷や欠けた跡が残っている。ゆかりは神妙な表情でそれらに触れ、撫でた。
葵は氷の目の前でしゃがみこみ、じぃ、と観察する。
扉をノックする要領で叩いたり、手の平をぺたりと付けたりしていた。
「何か分かるん? 葵も氷魔法は得意やろけど」
茜が後ろからひょっこりと覗き込む。
葵は振り向かず、答える。
「うん、まあ、色々? ちょっと言葉にするのは難しいんだけど……」
葵はうーん、と適当な言葉を探し、ぼそり、と言う。
「──とりあえず、魔道士の線は消えたかな。こんな魔法を使える人なら、今頃ロイドボイスでも有名になってるよ」
「葵よりも凄いんか?」
「少なくとも私は真似できないよ。だってこれ、氷魔法じゃないもん」
「えぇ!? どうみたって氷やんか」
茜は首を傾げた。
確かに、これは誰がどうみても氷である。
葵は振り返って茜の顔を見上げ、言う。
「なんていうのかな、氷はあくまで『器』として使われているだけで、本質は別にあるんだ。この魔法を使った何かは、きっと氷魔法を使った意識なんて微塵もないよ」
茜は眉を潜め、唸る。
「うーん……つまり、単純に魔力を出したら氷になるようなヤツが犯人ってこと?」
「あ、それ分かりやすい。そうそう、そんな感じだと思う」
二人が話している間、落ちていた氷の欠片を拾って何やら調査していたゆかりが近づき、言う。
「私もそう思います。解析魔法で調べた結果としては、まさにそんな感じでしたね」
葵は笑みを作り、いたずらっぽく言う。
「さすがはゆかりさん。他の警察の人たちとは違いますね」
「どういう意味ですか?」
葵は立ち上がって膝元をポンポンと払いながら、言う。
「これを氷魔法ではないことを見抜けていなかったじゃないですか。警部補はこれを『氷魔法』と言ってましたし」
「あ、確かに。凄いやんゆかりさん、別にウチらが居らんくても分かってたんやろ?」
「お世辞は要りませんよ……私なんてまだまだです」
ゆかりの声色に深みを感じたのか、葵は表情を改め、真剣にゆかりへの称賛を並べる。
「ゆかりさんはサラリと答えましたけど、解析魔法で得られる情報からこの答えに辿り着くのは相当に難しいはずですよ。警察も同じ調査はしているはずですよね? それで違う答えを出せたのが何よりの証拠です」
ゆかりは顔を赤くする。
「な、なんですか葵さん……今日はやけに褒めるじゃないですか」
「あ、ゆかりさん照れてる! ほれほれ、ゆかりさん天才! 警察の星!」
茜がニヤついてゆかりの頬をつつく。
「あぁもう! 照れてなんていません!」
茜は振り払われる。ゆかりは背を向け、吐き捨てる。
「ほらもう、調査の続きを再開しますよ! こんな遠出したのにこれっぽっちしか情報が集められないなんて許容できませんからね」
葵と茜は顔を合わせ、小さく笑った。
────しかし。これ以上に何か情報が得られることはなく、三人は帰路に着いた。
翌日。午前の太陽はまだ昇りきっておらず、人々が学業や仕事に勤しんでいる頃合い。
ロイドボイスの中でも一際人々が集中する繁華街。
多種多様な飲食店が集まる地区に、何の変哲もない、ごく普通の内外装の喫茶店──マキカフェ。葵の提案により、そこで朝食をとりつつ、打ち合わせをすることになったのだ。
お店の大半はまだ準備中である。マキカフェも普段は朝から開いているものの、今日は曜日の関係で昼頃からの開店だった。
扉には『closed』と看板が掛けられている。
葵はその扉を、コン、コンコンコン、コンコン、特徴的なテンポを刻むようにノックした。
しばらく待つと、ガチャリ、と鍵が開く音がして、扉が内側から外に向かって開かれた。
「はいはーい、この時間に来るのはひさしぶ────あれ、ゆかりん連れてきたんだ!」
葵と茜の後ろに立っているゆかりを見て、店の中から出てきた人物は顔を明るくした。
「おはようございます、マキさん。でも本当にいいんですか? まだ開いてないんじゃ……」
「いいっていって、特別なノックの方法を教えてる人にだけは特別だよー。あ、後でゆかりんにも教えてあげる」
店内へと三人を案内するのは、弦巻マキ。マキカフェのスイーツを担当する料理人である。
動物の刺繍が縫ってある可愛らしいエプロンを着用しているが、胸の内には熱いスイーツへの魂が燃え盛る探求者だ。
料理中とのことで、後ろで束ねた光る髪は長い。背丈はスラリと高く、ほとんど変わらないゆかりと茜、葵と比べて頭半分ほどの差がある。
マキ以外に誰も居なかったはずの店内は、既に甘い香りが充満していた。
三人はカウンター席へ、マキはその向かいの厨房に立つ。
「今日はまだおばさんいないから全部私が作ることになるけど、何がいい?」
「チョコミントアイスで」
葵は即答した。茜は眉を寄せる。
「いっつもそれやな。よう飽きひんでホンマ……」
「二人は?」
「エビフライで」
茜は即答した。葵は冷ややかな半目で言う。
「お姉ちゃんこそいつもそれだね。よく飽きないよ本当」
「漫才してるんですかあなたたちは」
ゆかりのツッコミにマキは笑う。
「あははは。で、ゆかりんは? 遠慮せずに頼んでよ、メニューになくても即興で作れるものは作るよ?」
ゆかりは考え込む。
「そうですね……。それではサラダをお願いします。簡単なものでいいですよ」
「かしこまりましたー! ……あ、もしかして」
マキはニヤリと笑い、顔を寄せ、小声で言う。
「普段まともに食事してないからこの機会に健康に気を付けてサラダにしておこう、とか思ったでしょ?」
「うっ」
図星か。うろたえるゆかりを横目に、葵は吹き出しそうになる。
「マキさんやめてあげてくださいよ、分かっていても言っちゃうのは可哀想です」
「ダメだよ葵ちゃん、ゆかりんを甘やかしちゃ。放っておいたらいずれ私生活は目も当てられないことになっちゃう。ゴミ屋敷まであと数年だよ」
「はははは! マキさん容赦なさすぎやで」
茜は隣に座るゆかりを肘で小突く。
「一番しっかりしてる人の言葉は身に染みるな~ゆかりさん?」
「茜さんににだけは言われたくないですっ!! あなたも大概でしょう!?」
吠えるゆかりとニヤつく茜に、葵は肩をすくめる。
「以前ゆかりさんのお家の掃除をお手伝いしましたけど、はっきり言って、お姉ちゃんよりゆかりさんの方が酷いと思いますよ」
「ガーーン!!」
あんぐりと口を開けるゆかりの横で、茜は勝利の拳を空に掲げる。
「でも茜ちゃんもダメだよ? 葵ちゃん居なかったらきっとゴミ屋敷まっしぐらだし」
マキの発言に、葵はしみじみと何度も頷いた。
「うっ……気ぃつけます……」
こうして私生活がだらしない下位二名は共に撃沈した。
暫く、他愛ない会話が続いた。
マキは作業を進めながら、言う。
「ところで三人は一緒の仕事してるの?」
「せやで、ゆかりさんの上司が葵が犯人じゃないかと事務所に突撃してきてな。そんで──」
茜はこれまでの経緯を話した。
「はぁ、なんか今回は一層大変そうだね」
「そうなんですよ、これっぽっちも犯人は尻尾を見せてくれていません……」
ゆかりはため息をついた。
「まあ、そんな状況なので今からどうしようか、と打ち合わせをしようというわけです」
「でもどうするんや? もう一個の事件あった所に行く以外にないんちゃう?」
葵は頬に手を当て、言う。
「……今はまだ、行くべきじゃないと思う。行ってもおそらく新しい情報は見えてこない。何を見るべきか──明確に調査の方針を決めてからじゃないと」
葵は列の端から二人を視界に捉え、続ける。
「まず考えたいことは────今の状況で、私たちの調査範囲を絞れるかどうか」
茜は眉にしわを寄せ、うーん、と葵の言葉を咀嚼する。
「えっと、つまり、例えばあの地域やー、とか、犯人はどこぞの関係者の誰か、とか?」
「そうそう、もしそれができるなら今から二つ目の現場に行くこともできるし、難しいならもっと視野を広げて、地道に調査するべきだよね。──どうかな、ゆかりさん?」
ゆかりは目を閉じ、記憶に触れながら、口を開く。
「……調査範囲を絞るのは難しいでしょう。あの氷からは地域を絞る情報は得られませんでした。ならば犯人像からは? それも厳しい。今予想できるのは人ならざる生命であること、生物の魔力構成の根源に氷属性がある事──たったそれだけです」
「氷にまつわる魔物を洗い出すのはダメなんか?」
ゆかりは静かに、言う。
「魔物に絞ることは現状ではリスキーです。人ではない生物で魔法を扱えるのはそれこそ、魔物、妖精、はたまた人の造った魔法生物の類と無数に存在します。だから調べる場合は全部の可能性を考慮すべきで…………つまり、そこまでしか範囲を絞ることができません」
「いや、できてるできてる。充分に絞れてますよゆかりさん。それなら途方もないわけじゃないですし、希望が見えてきましたね」
葵の言葉に、ゆかりは訝しげに言う。
「そうですか? これだと次の被害が出る前に間に合うかどうか……」
「そこはもうなるようにしかなりません。ゆかりさんは立場を有効利用して、魔法生物の逃走といった事件の記録や、私では会えそうもない人から聴取したりしてください。魔法生物界や魔物研究の大物あたりですね。どれくらいかかりますか? 四日……五日くらいですか?」
ゆかりは葵を見据え、明瞭に言う。
「いいえ、二日で十分です。明後日には情報をまとめ上げます」
「二日!? ホンマに? 凄いなぁゆかりさんは……」
茜は驚嘆の声を上げた。
葵は口を閉ざし、ゆかりの瞳を見つめる。
冗談を言っているわけじゃない。ゆかりは本気で二日で終わらせるつもりだ、と葵は理解した。そして、きっと見事にやり遂げるだろうことも。
葵はため息をつき、言う。
「はぁ、ゆかりさんがその気なら、私たちももっと気合入れて頑張らないとね、お姉ちゃん」
「へ? お、おぉ! ウチも頑張るで!」
ぐっと拳を握る茜の前に、ゴトンと皿が置かれた。
「はいはーい、お仕事頑張る前に私の料理で元気を注入していってね!」
「おぉー! エビフライやぁ~!」「チョコミントアイスだぁ~!」
葵と茜はテンション高く、いただきまーす、と堪能し始める。
「はい、ゆかりんの分」
ゆかりは差し出された皿を受け取り、乗っている料理を見て、困惑する。
「あ、あれ? サンドイッチ?」
マキは腕を組み、ツンとそっぽを向く。
「ゆかりん、どうせロクに食べてないでしょ? 一端の料理人である私の前でそんな所業は許しませんよーだ」
ちらりと横目で見て、ニヤリと笑った。
「だから、ちゃんと食べてもらうようにサンドイッチにしました! 野菜もたくさん摂れるし一石二鳥だね」
ゆかりはお腹が空いているわけではなかった。正しくはお腹は空いているが、その不快感に慣れてしまい、食欲が湧かなかった。
「全く、マキさんには敵いませんね……いただきます」
マキの攻勢は止まらない。
「ほんと、ゆかりんは危なっかしくて見てられないよ。倒れたりでもしたら自分だけじゃなくて、心配する皆にも迷惑かけるんだからね?」
「あーはいはい、お母さんですかあなたは……」
ガミガミとお説教をするマキと、それを鬱陶しそうに受け流すゆかり。
そうして、朝の穏やかな時間は流れてゆく。
△△△
翌日、深夜。琴葉探偵事務所。
葵は机に肘を置き、頭を抱えていた。
「これはマズい……全然何も見えてこない……!」
図書館で文献を漁ったり、ツテを当たってみたものの、推理は全く進展がなかった。
「ヤマを外したかぁ……! このままじゃゆかりさん任せになっちゃう」
二日かけて収穫はゼロ。気持ちに焦りが生じるには十分だった。
眠気で瞼は重く、意識は身体からふわふわと分離しかかっている。
しかし、眠れるわけがない。ゆかりは次の被害を出すまいと頑張っている。そんなことは確認しなくとも分かるのだ。
「どうせ、ゆかりさんもほとんど寝ないで調査してるんだろうな……」
天井を見上げ、警察のオフィスで資料とにらめっこしている光景が脳裏によぎり、乾いた笑みがこぼれた。
──ああもう、奥の手、解禁しようか……?
葵は目を強く閉じ、苦虫を?み潰したように顔をしかめる。
本当に必要か? 冷静に現状を分析した。このまま徹夜しても、当たりを引く可能性に期待できるだろうか?
「ぐぐぐぐぐ……!」
考えれば考えるほど、奥の手を使うことが最善の行動であることが論理的に証明されていく。自分自身に論破されているようで、行き場のないイライラが頭の中心に溜まっていく。
「ああもう、行けばいいんでしょ、行けば……」
葵は既に寝ている茜に配慮したのか、叫びたい衝動を抑え込んで呟いた。
ガラ、と引き出しを開けて、奥に突っ込んである封筒を取り出した。
立ち上がり、パーカーを羽織る。ちらりと茜の寝室の扉を見た。
──本当にごめんね、お姉ちゃん……でもこれはしょうがないの……!
心の中で深く謝罪し、葵は静かに事務所の扉を開けた。
外は肌寒かった。葵はフードを深く被る。
寒い、という感触は寂しさ、孤独感といった心細さを増大させるが、葵はそんなセンチな気分には程遠く、今から会いに行こうとしている人物が今日に限って居なければいいのにな、などと考えていた。
街並みはざっと五割ほどが暗闇に溶け、残り半分はここからが我らの時間だ、とでも言わんばかりに明かりで夜の暗黒を照らしている。
程なくして、目的のお店──『Bar ARIA』に到着した。扉を開き、中に入る。
お店の主張は弱い。店内は暗めで、外に響かない程度の音量でオシャレなジャズが流れている。葵はカジュアルな服装で訪れたことに後悔の念が募る。
カウンターが奥へと伸びていて、四人、客が座っている。内常連は二名。テーブル席はない。
バーテンダーは細身の男で、眼鏡を掛けている。底を感じられない、不思議な人物だ。
「…………行こう」
葵は奥へと歩く。その間に横切る、常連でない二名一組の客を確認したが、夜も更ける頃にお酒を飲みに来た一般人であると判断した。
注意すべき人物は居らず、葵は胸をなでおろす。そして、会いに来た人物の姿を捉えた。
カウンター最奥で水滴の垂れるグラスを置き、俯いている人。ちょうど今の葵と同様に、フードを深く被っているせいで顔は全く見えない。シルエットから小柄な女性であるようには見えるが、店内の照明が落ち着ていることも相まって、ただそれだけしか情報は発信していない。
常連、というよりもほぼ毎日ここに座っている。
そして彼女こそが、葵が会いに来た『情報屋』であった。
葵は隣の椅子に座り、一拍置き、口を開く。
「──『やあお嬢さん、独りなら、私がイチゴミルクを奢ろうか?』」
葵は決まった言葉を紡いだ。
するとようやく、そのフードの人物は動いた。ちらりと横目に葵を見て、あからさまにため息をつく。
「はぁ……」
何で来たんだよ、消えてくれ、うっとうしい、嫌い、またお前か、会いたくない──そんな感情が見え隠れ、いや、あからさまに籠もった、大きなため息だった。
葵はピクピクと口端を痙攣させる。
しかしここで怒りを爆発させてしまったら損をするのは私だ、となんとか気分を鎮める。
「聞きたいことがあって来たんだけど、今、平気?」
情報屋は息をつき、ナンパ回避のために被っていたフードを気怠そうにめくる。
露わになる容姿は、同性の葵から見ても羨むほどの美少女だった。
クセが付き、透明感のある長髪が左右にに跳ねている。覇気を感じない、ダルそうな、でも吸い込まれるような瞳。
着飾らなくても綺麗な人とはこういうことなんだな、と葵は嫉妬を自覚した。
「全然平気じゃない。今忙しい。帰って」
さて、そんな内心を知らない情報屋は、心底嫌そうに眉にしわを作り、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「…………」
これまで煮えたぎっていた葵の心は途端に落ち着きを見せ、爽やかな風が吹く。
葵はまるで自分が姉──茜になったのだと暗示をかけ、微笑を浮かべ、口を開く。
「──そんなこと言わんといてや、IA(イア)ちゃん」
IA、そう呼ばれた情報屋はびくりと身体を震わせ、頬を染める。
葵は正面を向いたIAの顔を覗き込み、続ける。
「ウチ、今凄く困ってんねん。頼れるのはIAちゃんだけなんよ。だから……な?」
さすがは姉妹、まるで茜本人であった。少なくともIAにはそう映った。
IAはしばらく目がぐるぐると混乱していたが、やがて目の前にいるのは密かに慕っている大ファンの琴葉茜ではなく、そんな茜の隣を当然の如く歩き、そして同じ屋根の下で暮らしている──羨ましすぎて嫉妬する、葵であることを思い出した。
「……怒るよ?」
「怒りたいのはこっちだよ!? ……まあいいや、やっと会話が通じるようになったし」
ムスッと頬を膨らませるIAに、葵は持ってきた封筒をカウンターに置いて、言う。
「それで聞きたいことなんだけど──」
葵の言葉を遮るようにIAが言う。
「”生命を吸う氷”事件の件でしょ?」
「……さすが情報屋だね」
IAは肩をすくめる。
「あれだけ派手に調べ事していれば聞きたくなくても耳に入ってくる。そんなことも分からないなんて、やっぱりダメ探偵──いえ、冒険家、だったっけ?」
憎たらしく口元を歪めるIAに、葵は拳を強く握りしめる。
「こ、このぉ……!」
怒る葵をスルーし、IAはぼそりと、言う。
「その情報は一つだけ、聞いて意味がありそうな物はある。でも、あまり安くは渡せないよ?」
チラ、チラ。IAは葵の置いた封筒に目線が寄せられている。
葵は封筒を二本の指で挟んで持ち上げる。
「一つかぁ……なら今回は一枚、かな?」
IAは目を細める。
「内容による。見せて」
食いついた。葵は心の内でほくそ笑み、IAに背を向けて封筒の中身を確認する。
「えーっと、そうだなぁ……これかな? こっちの方がいいかな?」
あからさまに出し惜しみする葵に対し、IAはイラつきを隠さずに言う。
「早くして」
「はいはい────じゃあ、これでどうかな?」
葵は一枚の手のひらサイズの紙を取り出し、カウンターの上を滑らせた。
IAが手に取ったそれは──
「っ! こ、これは」
IAは思わず唾を飲み込んだ。
葵は得意げに指を振り、語る。
「そう、私の『お姉ちゃん秘蔵コレクション』の中でも価値ある一枚……『机に突っ伏してお昼寝をしてるお姉ちゃん』──どうかな?」
IAが目を見開いて凝視しているのは、事務所で葵がいつも座っている席に座り、両手の二の腕を枕にして気持ちよさそうに眠っている茜の写真であった。
お姉ちゃん秘蔵コレクションとは、葵が情報屋のIAから情報を買う際に対価として支払う、茜の写真のことである。もちろん、葵はそんなことを姉に話してなどいなかった。
これまでIAに渡してきた写真は、茜の合意のもとに撮影した物ばかりだ。だから、このような無防備な姿を切り取った写真はIAの心を打ち抜いた。
葵は滞りなく事が済んだことを確信し、言う。
「じゃあそれでいい?」
IAはハッとして現実へと帰還を果たす。恥ずかしかったのか、ちらりと葵を見て、正面を向いた。
「……分かった。教える」
葵はほぅ、と息をつき、封筒をコートの内側に仕舞った。
「いらっしゃいませ、ご注文は」
マスターの、静かで渋い声色が響いた。
葵は会釈をして、言う。
「こんばんわ。それじゃあ、いつものお願いします」
「かしこまりました、すぐにお持ち致します」
「……いい?」
葵はIAに視線を向けて、言う。
「あ、ごめん。いつでもどうぞ」
IAは手持無沙汰な右手でグラスをくるくる回し、言う。
「──この事件は、明確に人間の意思によって起きた事件だよ」
葵はIAの横顔を見つめた。
それは、葵にとって素直に受け入れられない情報であった。
葵は苦笑する。
「……つまり、誰かが仕組んだ? そんなまさか。あんな強力な魔法を使える生物を従えたってこと?」
IAは肩をすくめる。
「さあ? 私は情報をもらっただけ。犯人は知らない。ただ……」
お待たせしました、と葵の目の前にロックグラスが置かれる。
氷が踊り、カランカランと音を立てた。中身はお酒ではなく、リンゴジュースである。葵曰く、このお店の隠れた名作だそうだ。
IAは続ける。
「あそこまで強大で、かつ似通った力を持つ魔物が複数出てくるのは考えにくい。でも二つの事件は隣接した村じゃなくて、ある程度距離が離れてる。いくらヘボ探偵でも分かるでしょう? ────そう言ってた」
「ヘボ探偵のくだりは絶対IAが付け足したよね!?」
ふん、とIAはそっぽを向いた。
葵はそんなことよりも、と考え込む。
「あの魔法は人ではない生き物と仮定する。それにしてもとんでもない力で、複数個体が同時に人の住む地域に現れるなんて考えにくいし、繁殖しているとも思えない……」
これまで全く見えていなかった事件の真相。その答えに向かう道にようやく明かりが灯り、葵の目にも映ってくる。
「でも特定を防ぐためにあえて位置をズラすような知能は妖精も持って──いや、可能性は低いかな。善性ならともかく、悪性の妖精は特徴が公になってる。それでも見つからなかった」
ぶつぶつと推理を展開していく葵に、IAが我慢の限界を迎える。
「もういい? 情報は以上。さっさと飲んで帰って。そしてヘボ探偵から茜さんを解放して」
葵はグイっとグラスを傾け、立ち上がる。
「今日も素敵な情報をありがとね? あ、お姉ちゃんなら事務所に来れば何時でも会えるよ。いつ来るか教えてくれれば伝えておくけど?」
IAは茜に直接会いに行く、その光景を想像しただけであたふたと目線が動き、顔を赤らめる。
「い、いい……っ」
「……なら、サインでも貰ってきてあげようか?」
「う、うん。欲しい」
葵は笑みを浮かべ、背を向ける。
「分かった。覚えてたら今度来るとき持ってくるね」
IAは葵の背に文句を垂れる。
「ダメ。絶対」
「はいはい、分かりました」
葵はポケットから500ダヨネ硬貨を取り出し、マスターの正面に置いた。
「ご馳走様でした」
「いつもありがとうございます。これからも私たちをご贔屓に」
マスターは滑らかに一礼した。葵は会釈を返す。
続いて常連のもう一人──こちらもフードを被っている──の背を横切る際、声を掛けられる。
「いつもいつも、姉がすみません……」
心底、申し訳なさそうな擦れ声だった。
葵はぴたりと足を止め、苦笑する。
「お互い、姉に苦労するね? 護衛お疲れ様」
その人物はフードをめくり、振り返る。このお店の護衛役──ONE(オネ)である。
ONEも葵と同じような笑みを浮かべ、言う。
「また今度、ご飯食べに行きましょう」
「いいね、この事件が落ち着いたら行こうか」
姉被害者同盟を結ぶ二人は初めて会った時から妙な親近感を覚え、今では時々食事を共にするくらいには仲良しになっていた。
「……」
そんな光景を羨ましそうに、いや、恨めしそうに薄目でじぃ、と見つめているのはIAである。
気づいた葵は肩をすくめる。
「ONEちゃんのお姉さんが拗ねちゃうからもう帰るね。今日はありがとう、とっても助かったよ」
三者三様の見送りを受け、葵は気分良く事務所への帰路に着いた。
同時刻、ロイドボイス警察署、資料室。
ゆかりは独り、調査を進めている。
光量が足りないせいで少し薄暗い室内で、ファイルを手に取っては開き、中を確認しては戻す。時々、目ぼしい内容を見つけた時は室内の机に置いていく。
顔を見れば、それはもう酷い有様だった。
もうとっくに瞼の操作権利は奪われ、ふと気づけば完全に上下が引っ付いては、ハッと目を覚ます。
直近で口に入れた物は何だったかさえあやふやだ。最後に水筒を開けたのは何時だっただろう?
「さすがにそろそろ、休んだ方がいいですね……」
ゆかりは選別したファイルを置いた机に向かい、椅子に座る。
「────ぁ」
その瞬間、身体が受ける重力が強くなったのではないかという程に、全身の疲労を自覚する。 体調管理には気をつけろ──上司はもちろん、友人たちにも耳にタコができるくらい怒られていることを思い出し、反省する。
それでも目は閉じない。数秒でも維持すれば、すぐさま熟睡してしまうだろうという確信があったからだ。
パチパチと瞬きを繰り返して目の霞を緩和して、ゆかりは積み重ねたファイルをてきとうに、一番上のものを手に取る。
中身の内容は既に把握しているので、特に意味のない行動だ。ゆかりはそれに気づき、ファイルを机に放り投げる。
──とはいえ、有力情報は見つかっていない……。
天井を見上げ、思考を整理する。
ゆかりはこの二日間、まずは識者たちに聞き込みを行った。そしてその後はずっと情報収集を進めた。
魔物にあのような魔法を扱える個体は居ない。知識に富む人々でさえ、誰も明確な名詞にて答えを言うことができなかった。
では禁忌魔法──人が扱うには危険すぎると認められ、存在はもちろん、魔法陣の模様、詠唱等の情報流出を固く禁止されている類では?
──それもない。私が魔法で調査して得られた結果は解読が完全に不可能ではなかった。全部……とは言えないけど、50%は読み取れてる。そんなものが禁忌魔法なわけがない。
ゆかりの胸に、焦り似た感情が募っていく。
「──もう半日も残っていない」
探偵事務所に向かうのは明日の午前中だ。今は深夜、既に日を跨いでいる。
それに気づいた時、もう無理かな、と目を閉じかけた。
その時、とある光景が見えた。
のどかな村だ。人々は協力し合って暮らしていた。どこかの家で子供が生まれれば村総出で祝うような村だ。
しかし突然、未知の存在により時間が凍結する。彼らは何が起きたのかもわからずに命を絶やす。きっと中には、明日は何をして遊ぼうか、とワクワクしながら眠っている少年少女もいるのだろう。
「……っ、諦めるもんですか」
ゆかりは吐き捨て、新たに気合いを入れ直した。
すると、ふと、ある日の葵の言葉が頭に響く。
──「ゆかりさんはもっと自分の解析魔法に自信持ちましょうよ。そうすれば推理の時、選択肢を大幅に削れますよ」
「別に自信がないわけじゃありませんけどね……。今の状況なら、どうすればいいのかな」
ゆかりは考え込む。
「解析魔法の結果を信頼する……ということは、あの氷の魔法は人の手によるものじゃない。あとは妖精も違う。妖精ならすぐに分かってるはず」
声に出し、考えを整理していく。
「魔物は……あの教授が知らないんだから違うでしょう。魔法生物も同じく」
結局辿り着くのは、何も答えが得られないということだった。ゆかりは天を仰ぐ。
「全然だめじゃないですか葵さん、証拠が残っていないのだから私の解析魔法が本当に凄いものだとしてもどうしようもない────あ」
電撃が走った。
「そうか、証拠が残っていなかったということは、消すことを思いつく知性……人間、もしくは妖精が関わってる。でも妖精は無し。人であの魔法を使えるのも考えにくい。なら考えられる線は────そうか、そういうことですか……!」
ゆかりは調べるべき情報をかなり局所的に限定することができた。
まことに残念なことに、未だ手を付けていなかったところである。
「これは……寝られませんね」
ゆかりはほっとしたのか、自然な笑みを浮かべ、立ち上がった。
△△△
翌日。茜の運転する車内。
後部座席に座るゆかりは、扉に頭を預け、スヤスヤと眠っている。
そんなゆかりを見て、葵は息をつく。
「まぁ、やっぱりか、て感じだね、ゆかりさん」
「せやなぁ。どうせ今日もロクに寝てないで、事務所来た時は寝てきたって言うてたけど」
寝不足で睡魔と戦っている葵と、今日の運転のためにしっかり休養を取った茜の元へ訪れたゆかりは、誰がどう見ても徹夜明けだった。
葵は渋い顔で目を閉じ、言う。
「でも、ゆかりさんが頑張ってくれたおかげで、こうして確信を持って移動できてる。今回は頼りきりだったなぁ」
「そういう葵だってけっこう夜遅くまで頑張ってたんやろ?」
葵はIAに写真を渡した後ろめたい事実に、視線を泳がせる。
「えっ、ま、まあ、ソウダネ……」
葵とゆかり、そしてオマケの茜の三人による議論は、特に異議が飛ぶことなくすんなりと整合が済んだ。
葵の意見もゆかりの意見も、どちらもがお互いに論理構築を補強し合う結果となった。
今向かっているのは、二つの現場のどちらでもない、ロイドボイスから離れた南の山である。 二つの現場には地理的な共通点があった。それは、その山から流れてくる川に隣接していることである。
そして、その川と共に、山から流れるオドの通過点──霊脈でもあった。
「そこに居らんだらどうする?」
「川の最上流から下っていくしかないかな……」
「うへぇ、山登りかぁ。ウチはともかく、寝不足の二人はしんどいやろ」
「まあ、近くまでいったら何かしらの反応はあるだろうしその心配はしてないけどね」
「そんなもんか」
「うん」
車の中は静かに、人影一つと見えない野原を走っていく。
数時間後。川沿いを走る。
誰も居ないどころか、ここに人間がやって来たのは何時以来かも分からない僻地である。
茜はそんな場所で車を走らせながら、抱いた違和感を口に出す。
「……なんやろ、全然魔物が出てこんな」
目を覚ましていたゆかりは、前方を眉間にしわを寄せながら見つめる。
「既に嫌な予感しかしないんですけど」
「私も」
茜の予想では、こんな視界の開けた草原ならば視界一周どこでも魔物が目に映り、その間を車で駆け抜けていかないとダメかと思っていた。
しかし現実は、見かけだけは至ってのどかで平和な平地だった。
「……んん?」
そして、見かけさえも異常になる。
茜が捉えた視界の前方は、川の岸から伸びるように、事件現場を覆っていた氷が──
「停まってお姉ちゃん」
葵は冷静な声音で指示を飛ばした。
車が停止する。
「あ、葵?」
「ここからは徒歩で、気を引き締めて進もう。単なる勘だけど、この先に何かがいる」
二人は頷いた。
外に出る。茜とゆかりは自身を両手で抱き、震え声を出す。
「さ、寒っ! これはアカン!」
「こ、これは寒いですね……! 葵さんは平気なんですか?」
葵は小さく首を傾げ、言う。
「うん、全然。私の魔力特性もあって、寒さにはめっぽう強いんですよね」
羨望の目線が葵に集中する。
葵はふと気が緩み、
気づけば。
空に何かがいた。
「ッ!」
葵は身構え、空を見上げる。
それに気づいた茜も一瞬にして臨戦態勢へ。
何が何やら、といった様子なのはゆかりだ。
「えっ、え? どうし────て、あれは……」
ゆかりは空を見た。
確かに、そこに居る。ただそこに存在するだけで、圧倒されるこの感覚。
まるで氷の彫刻のような、全体が薄い青色の大きな鳥。
あれが資料に残っていた、この霊脈を司どり、数百年前に姿を消したという”氷の不死鳥”────!
ゆかりは震える声で、言う。
「あ、あれは神獣クラスですよ!? どうしてそんなのがいるんですか!」
「分からない……でも一つ分かるのは、あれが凄い機嫌を損ねていることですね」
「ヤバいってあれ……完全にウチらを補足してるで」
ゆかりは頼りにしていた二人の震え声に、ますます不安になってくる。
「ちょ、どうするんですか!? 敵わないなら逃げましょうよ!」
「いや、逃げたら解決できないですよ」
葵は氷の不死鳥に向かって歩き出す。
「……とりあえず、私が行く。近づいただけでマズいだろうからお姉ちゃんは相性悪いだろうし」
「あ、葵……無理だけはしたらアカンで」
葵は振り返り、何のことかと視線を持ち上げる。
「え? ……あ、そういうこと? 大丈夫、無茶はちょっとだけに留めるから。危ないと思っても来ないでよ?」
「ちょっとも駄目やて!」
茜の叫び声を無視して、葵は氷の不死鳥の元へ歩く。
「────」
明確に、葵へと意識を向けたことが分かった。
葵は見上げる。
脳に響く、甲高い咆哮が辺りに響いた。
何とか対話を試みようとしていた葵だったが、氷の不死鳥は翼を振りかぶる。
「くっ!」
そして氷の不死鳥は翼を振り、風を起こしたと思えば。
氷柱の波が地面を這うように、葵へと襲い掛かる────!
すぅ、と葵の心境が凍り付いていく。
心はしばしば、火や炎、水たまりと比喩されるが、今の葵の心情風景は──生命の絶えた極寒の銀世界。
この世全てを、感情、私怨、あらゆる琴葉葵というフィルターを介さず、ありのままを捉えられる感覚。
飲まれれば死ぬ。そんな恐ろしい氷が迫るにも関わらず、葵は寝起きでボソリと時計の時間を読み上げるように、呟く。
「────”私は、銀世界をただ独りで歩く”」
それは詠唱だった。
まず変化が見られたのは、髪。
気づけば、蒼い髪色は白が強くなっていて、キラキラと氷の粒が付着し、日光を反射して輝いている。
魔力が漏れ出しているのか、薄く白煙を身に纏っている。
これが葵の氷魔法の力を引き出した姿であった。
葵は迫りくる氷柱を見つめる。
──冷気、魔力がそのくらいなら。
「────”召喚:銀世界の竜”……お願い」
葵の前に掲げた右腕から大きな魔力の動きが起こった。
すると前方にゲートが生成、白煙と共に現れるは──全身を氷で構成された飛竜。
サイズこそ氷の不死鳥には及ばないものの、その咆哮は大地を揺らす。
雄叫びと共に、銀世界の竜は白銀の光線──冷気を込めた魔力を口から放った。
間もなく氷の不死鳥の氷柱と衝突する──!
「…………」
光線が氷柱を食い止める……かと思いきや、じわじわと押されている。
このままではいずれ、銀世界の竜もろとも葵は飲み込まれてしまうだろう。
それを凍てついた冷静さで把握した葵は、右腕に更に魔力を込めた。
「頑張って」
銀世界の女王の加護を受け、気張らないしもべが居るものか。
「────────!!」
銀世界の竜が吐き出す光線の威力が増した。
そして今度こそ、逆に氷の不死鳥の氷柱を飲み込んで──凍り付かせていた。
葵は光線を止めた竜の足元へ向かい、左手で優しく撫でる。
「お疲れ様、ありがとう」
銀世界の竜はまるで頷くような仕草を見せ、身体が魔力へと変化、やがて空間へと霧散していった。
氷の不死鳥は地面に降り立った。それだけで地面が揺れ、川の水面が荒れ狂う。
「…………」
葵は顔を見上げ、見つめる。
「──その力……どうやって手に入れた?」
頭に響く声だった。いや、人間のように声帯を介して発生したかも分からない。
葵は答える。
「まだ小さな頃、よく分からない妖精が自分勝手に送り付けてきたんです。そんなことより……とりあえず、お話を聞いていただけますか」
「──構わぬ」
葵は二人を呼ぼうと振り返ると──
「葵っ!!」
飛び込むように、茜が葵の両肩を掴んだ。
「大丈夫か!? ウチのこと分かるか?」
葵はキョトンとして、やがて、微笑む。
「うん、平気。これくらいなら制御できるようになったよ」
茜は葵の瞳に光があることを確認して、心底安心したように、大きく息をついた。
「はぁ~~良かった! またあの時みたいになったらどうしようかとヒヤヒヤもんやったで」
「心配かけてごめん、でもこうしないと危なかったから」
葵の髪色がじわじわと元に戻っていく。
茜の後を走ってきたゆかりが、息も絶え絶えに、言う。
「あ、葵さん、今のは……?」
葵は頭を掻く。
「あー、まあ、ゆかりさんなら話してもいいかな。後で教えますけど、絶対に秘密ですよ」
そう言って、葵は再び氷の不死鳥に向き直り、
「でもその前に、まずは事件調査の協力をお願いしましょうか、警察さん」
△△△
数日後、ロイドボイス、とあるスイーツ店。
午後三時頃、おやつの時間である。
葵はONEとの約束通り、一緒に食事をしていた。
「それでどうなったんですか?」
「とりあえず事情を話して調査させてほしいって頼んだよ。受け入れてくれたから、一旦私たちだけで調査したらすぐに諸悪の根源は見つかって」
ONEはケーキにフォークを刺して、ぼんやりと言う。
「へぇ、ということは霊脈から魔力を吸い取っている犯人が居て、それに怒った神獣が生き物を襲い、魔力を補充していたというのが真相ですか」
葵はチョコミントのショートケーキを咀嚼し、頷く。
「うん、今回はちょっと調査の視点が行ったり来たり、検討違いな方向ばかり気になってたから苦戦しちゃった」
あの後、魔力を奪い取る禁忌魔法を解除して、魔力を元に還すと、氷の不死鳥は怒りを鎮め、その姿を消したのだった。
ONEは尋ねる。
「それで、犯人を捕まえてめでたしめでたし、てわけですね」
「え? 犯人は捕まってないよ?」
ONEは顔を上げ、のんきな顔で、言う。
「へっ? 仕事が終わったって……」
葵はフォークの柄尻をONEに差し、諭すように言う。
「いい、ONEちゃん? こんな格言があって──『誰でもよかったは完全犯罪への近道である』。私の師匠、マスターの言葉だよ。今回は無差別ではないかもしれないけど、禁忌魔法を発動してから時間も経っちゃって、ゆかりさんでも全く跡が追えなかったし、探すだけ無駄だよ」
「探偵って……」
ONEの呟きを聞いて、葵はニヤリと笑う。
「それこそ、もしONEちゃんたちが尻尾を掴んだら、私に教えてよ。証拠探して、警察に突き出すから」
「それこそ探偵の仕事じゃないですか! ……それにしても、犯人は何がしたかったのでしょうね?」
「さあ? どうせろくでもない魔法を実験するための材料集めでもしてるんじゃない? ん~! 美味しい!」
ONEは気が緩みっぱなしな葵に、この人大丈夫だろうかと顔をしかめた。
ふと、話題を切り替える。
「ところで葵さん、ウチのばか姉用の茜さんのサイン色紙は……」
身をよじっていた葵はぴたりと静止する。
「……あ」
「あ、って。忘れちゃいました? まあそれならまた今度で──あっ」
ONEは店の外を向く。葵は釣られてONEの視線の先を見る。
物陰から顔を出し、じぃ~~と葵を睨みつけるIAの姿が映った。
「うわ、あれ多分、葵さんがサイン忘れたの気づいてますよ」
「え、ちょ、どうしよう、また噛みつかれちゃう!」
葵は逃げようかと席を立ちあがる。
すると、救いの神が舞い降りた。
「──あっ、お姉ちゃんだ!」
何という奇跡。偶然、茜が店の前を通りかかっている。
「あ、本当だ」
ONEも気づいた。
葵は必死に手を振って、小声で言う。
「お姉ちゃん、気づいて!」
想いは通じた。茜は店内の葵に気づいて、手を振り返す。
カモンカモン、と葵はジェスチャーで伝える。茜は少し戸惑いながらも、店の入り口へと向かい始める。
その一部始終を見ていたIAはといえば────気づけば、居なくなっていた。
「姉ちゃん、また逃げたな……」
「あはははは! 今回は私の勝ちだね、IA!」
「んん? 一体どうしたんや?」
「何でもないよ、ただ、お姉ちゃんに憧れるファンが居ただけ」
呼ばれて入店した茜は、状況を把握できず、ただ首を傾げるのだった。
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琴葉探偵事務所 ~呪いの指輪~
魔道士の集う町、ロイドボイスに一つの探偵事務所がありました――――
※琴葉探偵事務所シリーズは短編集です。登場人物、世界観等はシリーズ内で統一されていますが、一作品ごとにお楽しみいただけます。ですが、もしよろしければ、同シリーズの他の話も読んでいただけますと幸いです。
当シリーズの新作、別話はシリーズ、ツイッター(@KordAzisasing)等からお探し下さい。
心臓が飛び出そうになる感覚とはこのことか。
深夜、暗闇の中。
浮かんでいるはずの月は、こんな時に限って一切の姿を見せてはくれない。
青髪の少女は必死に自身の発する全ての音を抑えようと、左手で口を抑え、荒い息遣いを強引に引っ込めている。
チッ、チッ、と携帯している時計の短針が鳴っている。この瞬間に限っては、そんな些細な音が、絶望的な程に大音量だった。
耳に、頭に響き渡る。その振動で警鐘の鐘が揺れ、甲高い金属音(アラート)を発する。
身体は震える。その動作によって何かしらの音を立ててしまうかもしれないからと、必死に自身をなだめる。
しかし、自分の身体だというのに全く言うことを聞いてはくれない。
「……ははっ」
今は”恐怖”の前に膝をつく、従順で哀れな存在であることを自覚し、自嘲的な苦笑いを浮かべた。
────刹那。少女の耳に、新たな音が届く。
弛緩していた口元をキュッと噤む。
口から続く管全体を握りしめられたような感覚。
地面に足の裏が接地する。その足で地を蹴る。今度は逆の足の裏が着く────そんな光景が脳内で展開されていく。
そのイメージは、意図的に視界を下げていた。
────その恐ろしい姿を思い出さないように。
琴葉探偵事務所~呪いの指輪~
────────
──────
────
朝。といっても、小鳥のさえずりは止み、人の動きが活発になった頃。
「──ハッ!?」
青髪の少女は最悪の目覚めを迎えた。
先程まで見ていた夢と、こうして意識が覚醒して流れる現実の時間とが繋がっている感覚。
そのせいで、先程の悪夢が物理的に近い距離にあるように感じた。
「ゆ、夢か。はぁ、良かった……」
とはいえ、現実に起きた出来事でなかったということはありがたい事実であった。
全身が酷く強張っていることを自覚する。寝汗もひどい。睡眠を強引にブツリと断ち切られたせいで、まだ身体のどこかは眠っていると勘違いしている。
夢を見たのも久しぶりだったが、それが背筋も凍る恐ろしい悪夢だったことに、少女──琴葉葵はため息をついた。
「自分で自分を苦しめてるみたい……アホか」
やり場のないストレス。葵は頭を抱えて上半身を起こす。
布団がそれに倣って、肩から胸、そして足へと滑り落ちる。落ちた体温も相まってか、少しだけ寒さを感じた。布団を抱きかかえる。
まだ全然エンジンのかかっていない状態で、葵は今日の過ごし方をイメージする。
「どうしよう……まず朝ごはん、今日は私の担当。それ食べて、コーヒー淹れて……そうだ、今日はいい加減に残件整理をしないと」
探偵業の性質から、特定の日時を指定された仕事も幾つか抱えている。それらは整理しておかないと後々痛い目を見ることは分かっている。
全く把握できていない仕事が突然降りかかってくる恐ろしさは、何事にも例えることはできないだろう。
──分かっているのに、さあやろうと意気込んでから三日間手付かずであった。
葵は立ち上がる。ぐらりと一瞬意識が揺らいだが、すぐに持ち直した。
「んぅ~~~! ……よし、起きた」
真上に向かって伸びをして、睡魔をやっつけた。
自室を出て、事務所として運用しているリビング。
葵はポールハンガーに掛けてあるエプロンを着る。
「お姉ちゃん起こすのは……もうちょっと後でいいか」
事務所にジュウジュウと香ばしい音が広がっていく。
魔道士の集う町、ロイドボイス。
最も栄える商店街から少し離れたところに突然ぽつりと現れる平屋こそが、琴葉探偵事務所である。
今日も姉妹はのんびりと朝を過ごしている。
朝食のトーストを食べ終えてコーヒーを優雅に楽しむ葵は、向かいに座る姉に向かって、言う。
「──今日は特に仕事は無いかな。私は予約されてる依頼の確認だけ進めるけど」
「なら、ウチはいつも通り売り込んでくるわ!」
自身はフリーである、と理解した瞬間に目を輝かせてそう言ったのは、葵の双子の姉──琴葉茜だ。
二人は容姿が瓜二つで、髪色以外に目立った違いはない。どちらも美少女に区分されるだろう。端正で可愛らしい顔つきにスレンダーな体型。
葵は薄目で茜を見つめ、言う。
「……変な依頼持ってこないでよ?」
「葵は心配性やなぁ、ウチが真っ当じゃない依頼を持ってきたことなんて──」「あるよ」
冗談交じりの言葉に跳ね返って来たのは、冷めきった、地の底から響くような低い声だった。
「何度も、あるよ」
茜はあまりの恐怖に身体を縮こませ、ぼそぼそと言う。
「す、すいませんでした……」
「反省しているなら今度からその辺しっかり考えて依頼受けてきて下さーい」
葵はふふっ、と笑みを零して立ち上がり、食器を台所へ運ぶ。
「あ、お姉ちゃん私洗い物してるから、事務所開けてー?」
茜は立ち上がり、扉へ向かう。
「…………ん、何やこれ?」
そして扉を開けてみると、入り口付近の足元に小さな箱が落ちていた。
茜は反射的に拾った。
高級感のある黒色。ふわりとした手触り。茜は首を傾げる。
「これって、指輪入れるヤツちゃうの?」
パカリと開けてみると、クッションの切れ目に収まった銀色の指輪が入っていた。
「うわっ、入っとる──葵ー!」
葵は首を捻り、振り返る。
「何ー?」
「何か事務所の前に指輪が落ちとる! 綺麗な箱付きで」
葵は眉を潜める。
「え、どういうこと……?」
ぼそりと呟き、洗い物を一時中断。手を拭いて茜の元へ行く。
「指輪って何?」
「ほらこれ! そこに落ちてた」
葵は茜からリングケースを受け取る。
汚れもない、綺麗な状態だった。中を確認する。これは安物ではないだろう、それこそ結婚指輪ではないか?
売れば高くつきそうだ、という思考が一瞬現れ、すぐさま振りほどいた。
「うーん、何だろうこれ。持ってる感じ、魔法的な罠が仕掛けられているとも思えないし。……さすがに指にはめはしないけど」
この手の呪術は定番である。アクセサリーを身に着けた者の運気を落とす、体調を崩させるくらいはまだまだ甘い方だ。
優秀な魔道士であるほど、呪術を探知させまいと忍び込ませるのが上手い。葵の知り合いである優秀な解析魔法の使い手ならばともかく、葵は自身の判断をそこまで信頼していなかった。
「とりあえず、落とし物の張り紙でも貼っておいて、この指輪は事務所で保管しておこう。外気に晒し続けるにはもったいない綺麗さだし」
というわけで、琴葉探偵事務所に謎の指輪が舞い込んだ。
数時間後。お昼時。
葵は指輪の忘れ物を預かっている旨を伝える張り紙を作成した後、予定通り残件のスケジュール整理を行っていた。
進捗は上々だ。葵にしては珍しく、午前中から集中力を高く維持できていた。
バタン、とノックなしで事務所の扉が開く。
「ただいま~お昼にしよや葵」
「おかえり。ちょっと今いい感じだから後でいい? 食べに行ってきてもいいけど」
「なら待っとるわ、後で一緒に食いに行こ」
「了解────もう少しでキリ良いとこまでいくから待ってて」
茜はボフンと中央の来客用ソファに勢いよく座る。
手持無沙汰な彼女の目に映ったのは、テーブルに置かれている、朝に見つけた指輪。
「…………」
茜は何となく箱を手に取り、360度、クルクル回して観察する。
何気なく中を見て、指輪を手に取る。上にかざすと、キラリと室内に入り込む陽光を反射して輝いた。
「綺麗やなぁ……」
茜はそう呟いて、ふと、自分の指に入るだろうかと気になった。
そして、右手の薬指にはめてみる。
おっ、思っていたより丁度良いやん。
「────えっ。ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」
葵は集中できていた故、茜の行動に気が付かなかった。
ガタンと立ち上がり、言う。
「指輪付けちゃったの……?」
茜は葵の勢いに面食らう。キョトンとして、言う。
「え、う、うん。サイズええ感じやな~って……」
「呪われてるかもしれないのに! 何も異常はないの!?」
茜は急いで自分の状態を確認する。
特に、身に起こったことはなかった。
「別に何も……あ、指輪も取れたわ」
茜は左手で指輪を掴むと、スルリと指から抜いた。
葵は息をつく。
「あぁ、良かった……。もう、軽率だよ。今回は何もなかったからよかったけどさ」
「ごめんて、ちょっとぼーっとしてたわ」
葵はふぅ、と脱力して天井を見上げる。
「何か集中力切れちゃった……」
茜はここぞとばかりに笑顔を向けて、言う。
「ほんなら今から食べに行こや! もうお腹と背中引っ付くわ」
「はいはい……。あ、指輪貸して。誰も居なくなるしこっちの引き出しに入れておくよ」
葵は確かに、指輪の入ったリングケースを事務机の引き出しに仕舞った。
ササっと『外出中』と張り紙を作る。
「よし、どこに食べに行く?」
「小戸屋!」
茜は即答した。エビフライが大好きな茜が「あそこのエビフライがロイドボイス一や」と認める料理店である。
葵は肩をすくめる。
「好きだよねぇ、そこのエビフライ。美味しいけどさ」
「何や、葵もよく分かっとるやん。あそこのエビフライは格別やで~」
「ブリッブリだよね、ブリッブリ」
「そうそう、サクッと噛んだ時に帰ってくるあのブリッブリの食感が堪らへん! くぅ~話してるだけで早よ食べたなるわ!」
二人は談笑しながら事務所を出る。葵は振り向き、ぺたりと張り紙の上にもう一枚重ねて張り付けた。
しっかりと鍵を閉め、ドアノブを回して開かないことを確認する。防犯対策はばっちりだ。
他愛のない話を展開しながら、二人は商店街方向へと歩いていく。
───────
────
──笑う。不敵な笑み。
路地裏。暗い空間。
間違いない。持ち主が更新された。
これで私は安全だ、と口端が吊り上がる。痙攣しているかのようだった。
──私は悪くない。
────悪いのは……。
───────…………。
ごめんなさい───────若い探偵さん。
異変に気付いたのは夕食をとっくに食べ終え、月が空高く、淡く闇夜を照らす頃だった。
外は日中の喧騒も遠く、深夜である。
葵は残件整理を続けていた。
「うっ! 肩が……!」
肩こりが唐突に葵を襲う。筋肉の繊維が完全に固まって、可動範囲が極端に狭まってしまったかのようだ。
堪らず首を回し、両肩をぐりぐりと回す。血が凝り固まっていた筋肉へと流れ、循環が活発になる。
「んん~~~!! ふぅ、コーヒーでも淹れようかな、いやでも飲み過ぎるな、と医者さんに注意されてるし……」
伸びをして、独り言を呟いた。
それだけでは足りず、葵は立ち上がり、腰をぐるぐる回す。
「あ、今日は満月だったっけ」
窓から何気なく見上げた夜空には、丸い月が浮いている。
太陽に比べれば何て地味だろう。積極的に光るわけでもなく、やんわりとした明かりで町を包んでいるだけだ。
しかし、地味だというのに、その明かりは太陽のそれよりも強く印象に残る。葵はなぜだろうと考え込んで、すぐに納得できる回答を見つける。
「そうか、周りが暗いから……」
そこで葵は、件の指輪を連想した。あれも、金のように豪華絢爛に光り輝いてはいないが、鈍く、静かに美しさを主張する──まるで月のようだった。
「そういえば、結局指輪の持ち主は来なかったな……」
じぃ、と指輪を仕舞った引き出しの入り口を見つめる。
こうなると、この目で見たいという欲求がふつふつと湧いて出てくる。
葵は引き出しを開ける。ケースを手に取り、ぱかっと開けて────
「あ、あれ?」
葵は目を疑った。肝心の中身はクッションのみ。指輪がどこにも入っていない。
ざわり、と全身の肌が不安に撫でられる。
「え、どこどこ、もしかして失くした? いやそんなはずは、だってちゃんと入れたし……」
葵は引き出しの中、足元の床に急いで目を配る。
見つからない。スゥ、と身体表面の血が下っていく。
昼下がりに寝ぼけて触ったりしたのだろうか? 実は席を外した僅かな時間で泥棒が入ったのか? 必死に消えた指輪を探しながら、脳内で答えが分かるはずもない予想が勝手に展開されていく。
「────うん」
葵は折っていた腰を持ち上げ、静止する。
これはもう、焦って探しても見つからないだろう。一旦、冷静になることにした。
すると、事務所の扉が開く。
「ただいま~、ごめん遅なったわ、でも依頼貰ってきたで」
「あ、お姉ちゃん」
茜は葵の顔色をチラリと窺う。日は跨いでいないが、それでも帰宅するには遅すぎる時間だ。 いつもならばガミガミと叱られるので身構えたが、
「朝に見つけた指輪知らない? 中身がなくなってたんだ、さっき確認したら」
特に怒った様子もなく、尋ねた。
茜は首を傾げ、言う。
「へ? あの指輪は葵が引き出しに仕舞ってたやん」
葵は眉を潜める。
「それは知ってるよ。さっき見てみたらなくなってた、中の指輪だけ」
「ん~そう言われてもウチは別に持ち出したりなんてしてへんし……」
茜は一応、着ていた服のポケットの中に手を突っ込んでみる。
すると。
「────……うん? あれ、何で!?」
茜は右手を恐る恐る引き抜いて、手の平をまじまじと見つめる。
ポケットから取り出したのは──葵の探していた、銀色の指輪だった。
「ウチ、取ってへんで……?」
「…………」
冷や汗が流れる。
何かが始まってしまう。そんな予兆。
「や、やっぱ何かあったんかな、この指輪」
茜の声も心なしか震えている。
葵は立ち上がる。
「お姉ちゃん、今からでもゆかりさんに鑑定してもらおう? それで解呪もして────」
そんな提案の途中。
──二人の背中を、ゾワリとした感触が襲った。
「「っ!?」」
二人は咄嗟に身構える。
しかし、不気味なほどに何も起こらない。
絶対に居る。それなのに。
「誰かがいる、よね……」
葵は茜に尋ねる。
「おるはずや……多分」
「何でそんな自信なさげなの……いつもみたいに動物的な直感はどこにいった」
「ウチは動物ちゃうわ! だって変やもん、生命感がないというか……」
「────本当に生きていないモノ、だったりして」
茜はビクリと反応して、大きな声で否定する。
「はっ、な、何を言うとるんや! ユーレイとかか? おるわけないやろ、そんなん……」
幽霊など、学問で説明のつかない物事を総じて”オカルト”と呼称される。幽霊はその中でも定番の話題だ。
恨みだとか、強い感情を持った人間が死んだ際に残った思念である、などと専門家を名乗る者は説明している。
しかしこの界隈の話は、信じる信じないの差が激しかった。
学術的に説明ができないならあり得ない、という反対派と、実際に見たから間違いなく存在するとか、居た方が面白いと愉快さを求める派閥が常にバチバチと火花を散らせている。
葵と茜はと言うと、葵は信じていない派で、茜は居た方が面白い派であった。茜はたった今、居ないでほしい派へと衣替えしたばかりだが。
だが、この状況に限っては、二人の脳内で同じような光景が浮かんでいる。
そうら、どこからともなく壁をすり抜けて姿を現す、生物でない存在が────
そして何の音も無く。
一瞬の内に、世界が暗転した。
「わっ!?」「ひゃあっ!?」
二人は短く悲鳴を上げる。
室内の明かりが突然消えたのだ。
「え、ライト壊れた?」
「ど、どうしよう何も見えへんで!」
葵は右手を胸の前あたりに掲げ、
「いや、魔法で照らせば一旦は凌げ────あ、あれ?」
どうしてか、魔法が上手く使えない。
歳が一桁の子供でも使える程に浸透している簡単な魔法なのだが……なぜか、全く上手く機能しない。
「葵、どうしたん?」
「全然魔法が使えなくなってる! お姉ちゃんはどう?」
葵に促された茜も同様の魔法を試すが、こちらも結果は同じだった。
「あれ、ホントや! 使えへん!」
火を点ける魔法も試したが、やはり結果は同じだった。
月の明かりを頼りに、葵は事務机裏の窓に向かう。
「やっぱりおかしいよ、街灯が点いてない……! でも近くだけだよ、遠くはまだ明るいもん」
葵の言う通りだった。
時間は深夜に差し掛かる頃だ、まだ周囲の窓が真っ暗になるには早すぎる。更には街灯まで消えていた。
特異なのは、事務所の近くだけでその現象が発生していることだ。少し遠目に見れば、照明器具は問題なく機能しているようだった。
「一体何が、魔力が何かしら操作されているとか────」
葵が思考の海に浸かろうとした時、
「────ぁ」
玄関を向いていた茜は何かに気づいて、声にならない声が漏れた。
「あ、葵っ──玄関、に」
震える声で叫ぶ。
葵はその声色から危機感を募らせ、恐る恐る振り返る。
「ちょ、驚かせないでよ──」
葵は振り返った。
────そして、視覚にその”何か”を見た。
暗闇よりも更に黒いシルエット。
人型のように見えるが、全身がまるで粘度の高い液体、溶けた金属のようにドロリと垂れている。
目と思われる位置には鈍く光る、赤い球が二つ。これも原型から崩れ、溶けだしている。泣いているようにも見えた。
人外。
異形。
人ならざるモノ。
理解不能。
二人に恐怖を刻み込むには十分過ぎる外見だった。
そんなモノが、玄関の扉も開かずに、音もなく、事務所の中に入っている。
「──ぁ、あ」
茜の喉が鳴る。カクカクと顎が震え、上手く喋れない。
「────」
”何か”は音を発さず、ゆっくりと前進して、やがて止まる。
二人は身動きが取れない。
そして静寂を破ったのは、
──────見ツ ケタ
空間に響く音だった。
背筋が腰から上へとみるみる凍り付いていく感触。
刹那、動いたのは葵だ。
「お姉ちゃん、この窓から逃げよう!」
「──っ、分かった!」
提案した葵は、急いで窓を上へと開き、外へと脱出する。
屋根のない外に出ると、月のおかげで暗さはまだマシだ。地面に足を着いたところで、中を見る。
「お姉ちゃん!」
”何か”は鈍重だ。辛うじて真っ暗な室内でも、赤い瞳のおかげで距離感は掴める。
しかし茜に近づいているのは間違いない。葵は焦った。
茜は暗闇の中窓に向かって急ぐ。
「今行く! ──あ痛ぁ!?」
鈍い音がした。
急いだことが災いしたか、事務机の角に足をぶつけたのだ。
「だ、大丈夫!?」
「脛打ったぁ! いつつつ……よっと!」
茜は痛みをこらえながら、どうにか窓枠を飛び越えた。
「走れる?」
「問題あらへん、逃げるで!」
──始まった。
あの二人は今から、心底恐ろしい体験をするだろう。きっと、これから毎年。
ターゲットが完全にあちらに向いたことを確認した。
もう思い残すことはない、と町を出ることを決意する。
しかし、ふと、最後にこの目であれが自分ではない者を狙っている姿を見ておこうと思い立ち、探偵が駆けて行った道を覗く。
「────えっ? 何、あれ……」
家と家の隙間から覗いた視界に映ったのは、”何か”の背中だ。
それは記憶していた綺麗な人型とは程遠く。
追いかけずにはいられなかった────
二人は暗い暗い町を走る。
「で、どこに行くんや?」
「公園はどう? あそこなら視界開けてるし、隠れる場所もあるし、街灯いっぱいある!」
葵の提案に、茜は頷く。
「よし決まりやな──で、何やアイツは!!」
暗闇と夜の町との境界線を跨いだところで、茜は愚痴るように叫んだ。
葵は息を荒げながら、吐き捨てる。
「知らないよ、それこそ幽霊なんじゃないの!」
「幽霊なんか居るわけないやろ!」
「じゃあアレは何!? まさか着ぐるみ着た普通の人間とか言わないよね?」
「……い、いやもしかしたら魔物かもしれへんやん!」
「それだったら明らかに人間と同じ言語を発して、扉をすり抜けるようなとんでもない能力を持ってることになるね! 生きたまま捕獲して魔法学園の生物科にでも引き渡せば私たち一生遊んで暮らせそう!」
茜は苦虫を嚙み潰したような表情で、ぼそりと言う。
「…………やっぱりアレ、幽霊なんかな」
「もうそう考えた方が良いかな~って! それにアイツから離れたら街灯も家の明かりも普通に点いてるし、やっぱり、ハァ、ていうか走るの速すぎ! ちょっと休ませて!」
葵は立ち止まり、両ひざに手を着き肩を大きく上下させる。
「運動不足やで、葵……」
「お姉ちゃんに、ハァ、付いていける人なんてそういないって……!」
葵は茜の顔を見上げて睨んだ。
茜はソワソワとして、言う。
「いやでも早よ行かないと追いつかれるかも……」
「大丈夫だって……ふぅ、ああいうのは決まって動きは鈍いものなんだから」
心臓の鼓動が落ち着きを見せ、葵は身体を持ち上げる。
「それより気になるのはやっぱり──」
葵の言葉を遮るように、また周囲の照明が突然消えた。
「うわっ、また真っ暗になった!?」
おどおどと辺りを見渡す茜に対し、葵は思考の海に沈む。
「そうそう、これこれ。この現象は一体何だろう? さっきはちょっと驚いてそれどころじゃなかったけど、もしかして魔法が使えないわけじゃなくて──」
茜は口をあんぐりと開けた。
後方──ドロリとした黒い液体が発生する。みるみる内に背が伸び、事務所で見た”何か”の様相へと変貌した。
「うわあああ! また出た!!」
「えっ、うわ本当だ、思ったより速い!」
茜は”何か”に背を向ける。
「葵逃げるで!」
「うん、あっ、ちょっと待って────」
葵は走りながら振り返り、左手を後ろに伸ばす。
「凍りつけ……!」
魔力を流し込むと、”何か”の前方、地面から氷の柱が生え、波のように押し寄せる──!
「えっ、魔法使えるんか?」
葵は先に魔法の発動に失敗した時、魔力の流れそのものは阻害されている感覚はなかった。
だから魔法そのものを完全に封じている訳じゃないと踏んだ予想は当たりだった。葵の詠唱を省略した氷魔法は問題なく発動したのだ。
「これで凍れば……!」
これで後は”何か”を氷の中に捕えてしまえば、魔法学園の誰かに連絡を取れば解決だ。オカルトを魔法的に解明してやろうと意気込んでいる人は多い。きっと有意義に使ってくれる。
────しかし、常識が通用しないからこそオカルトである。
「──嘘ぉ!?」
葵は目を疑った。生成した氷の波の向こう側から、何もない平坦な地を進むように前進してくる姿が、やがて氷の波を超えてこちら側にやって来る。
「凍らんやんけ! やっぱりアイツ幽霊か……!」
「物理的にじゃなくて、概念から攻めないと難しいか──お姉ちゃん、ちょっとだけ使うよ」
葵は茜の返答を待たず、秘めた能力を解放する。髪色が銀世界に近づいていく。
「”銀世界の扉よ開け”────”生命も時間も動くモノである”」
抑揚の弱い、低い声で詠唱を行った。簡易的な能力の解放だ。
先程と同じような氷の波が生成される。
色がより白に近い、綺麗な氷だった。
それは”何か”を瞬く間に飲み込んだ。周囲で細かな氷が舞い、キラキラと月の光を反射する。
「今度こそどうや!?」
茜はどうか凍っていてくれ、と懇願しながら行方を見守る。
「……ダメ、手応えなし」
葵がそう呟くと、”何か”は先程と同じように、氷の中をすり抜けて見せた。
──逃ゲ、ナ デ
二度目の”何か”の声に、茜は恐怖で背筋を震わせる。
葵は冷たいくらい冷静な様子で、言う。
「もっと強くしないと無理みたい」
茜は葵を見て、強く言う。
「絶対アカンで! こうなったら逃げるしかない!」
葵の髪色が元に戻っていく。
この力は制御を誤ると体内で暴走を始め、最終的に葵そのものを凍り付かせてしまう──それを知っている茜は、あまり葵にこの能力を使わせたがらない。
葵自身も危険性は承知しているので、素直に頷く。
「了解、公園まで走ろう!」
二人は”何か”に背を向け、全力で地を蹴った。
「…………」
茜はふと、何か心に引っ掛かりを感じ、ちらりと後方を振り返る。
遠目に見える”何か”は、身体をドロリと溶かし、液状に垂れて地面に落ち、影へと溶け込んでいく。
──そういえばアイツ、何でウチらを追いかけて来よるんやろ。
茜は気になったが、まずは距離を取るため走ることに集中した。
数分後、公園。
葵はぜぇぜぇ、と苦しそうに息をしながら、公園の敷地内に入る。
建物もない芝生の平原、豊富な街灯のおかげで視界は良好だ。例え”何か”の接近により街灯が消えたとしても、満月の明かりを全面に受けることができるここならば、最低限の情報は見えるだろう。
「ちょ、むり……!」
葵は足を止め、息を荒げる。
「大丈夫か、葵?」
茜は葵の背中を撫でる。
「はぁ、ぜぇ、大丈夫じゃ、ない……!」
「ごめんて」
だからペースが速すぎる、そんなに急ぐ必要もないだろうと怒る体力さえ残っていなかった。
茜は走ってきた方角を注視する。
「アイツは……まだ見えんな。隠れる?」
「……」
葵は『ちょっと待って』と挙手して、息を整える。
「…………ふぅ、取り敢えず、死角になりそうなところに隠れよう」
「死角と言っても、あるか……?」
茜は公園を見渡す。
広がる平原には噴水のオブジェクトとベンチが点在している。
右側には並木道。平原との境界は木の生い茂っている幅が広く、隠れんぼでの定番スポットになっている。
もちろん並木道自体は流れ方向に視界がとても開けているので、隠れる場所はない。
「噴水の水中に潜ってみるとか?」
「風邪は引きたくないなぁ……」
寒冷期ではないが、さすがに夜中の外は少々冷える。
「じゃあ……木の陰?」
茜は並木を指さす。
「あそこくらいしか目ぼしい隠れ場所ないで……暗いからリスクあるけどな」
「今は街灯の明かりが入り込んでるから向こう側もなんとか見えるくらいだけど、確かに消えた後は真っ暗になるかもね」
葵も公園内を観察して考え込むが、他に妙案などは出てこなかった。
「じゃあ、適当に木の中に混じって隠れよう。何か、思ってたより隠れ場所なかったな」
「でも怖ないか? 近づいてるのに気付かないかも……」
二人は並木へ小走りで向かいながら話す。
「走ってきた方角にちゃんと気を付けていれば大丈夫だよ。明かりも消えるし、事務所の室内とそう変わらないくらいでしょ」
「まあ、それは確かに……」
二人は木の隙間に入っていく。気温が少し落ちた気がした。
地面は土がむき出しで、少し柔らかい。
大人の肩幅を少し超える程度の間隔で木々が三次元的配列で生えている。これならば360度どの方角からでも身を隠せるだろう。
「真ん中あたり……この辺かな?」
「もしバレたら逃げ遅れることのないように気を付けな……」
二人は隣り合った木に身を隠し、公園の入り口方向の様子を伺う。
ひゅるひゅると弱い風が、木の葉をぱさぱさと揺らす。
自然的な音以外は全くといって起こらない、静かな夜。
寒さか、緊張か。茜は全身に鳥肌が立つ感覚に襲われる。
もういっそ、朝までこのまま穏便に過ぎてほしいとさえ思う。
「…………消えた」
しかし、そんな願いは照明の明かりと共に消え去った。
豊富な明かりがあっただけに、いくら満月の光が真っすぐ届くからとはいえ、暗いと感じる。
二人はそんなことは微塵も気にしていなかった。意識にあるのは、”何か”がこちらに気づくかどうか、である。
会話したい欲を抑え、口を噤んでじぃ、と注視する。
来ない、まだ来ない。
「…………?」
さすがに気になってきた葵は、茜へと顔を向け、
「全然来ない……──っ!?」
心臓が飛び出るような感触。
左方向から茜に向かって手を伸ばす”何か”の姿が──!
「お姉ちゃん左!!」
葵は重心を下げながら、叫んだ。
茜の動きは最適だった。左を見ずに葵の懐向かって飛び込み、すぐさま距離を取る。
「うおっ!? 本当や、全然気付かんかった!」
二人は並木を抜け、開けた芝生地帯へと脱出、全力で走る。
「やっぱり隠れてもバレとるってこれ!」
「じゃあ視覚で私たちを追いかけてる訳じゃないね!」
茜は吐き捨てる。
「ならどうやってウチらの場所把握しとんねん!」
「知らないよ、どうせオカルトめいた謎のちか──あっ、指輪!」
葵は閃いた。
「指輪だよ、それを頼りにしてるんじゃない?」
「指輪?」
茜はポケットに手を突っ込み、指輪を手の平に載せる。
「でもこれウチの手元に返って来るやん……」
「今は少しでも情報が必要だし、適当にその辺に投げてみてよ」
茜は眉を潜めながらも後ろを振り返り”何か”と距離が取れていることを確認して、
「──よっ!」
向かって右方向へ指輪を投げた。
「……どう?」
二人は”何か”の動きを観察する。
すると。
「──あ! 指輪の方行った!」
間違いなく、二人へと向かっていた動きが変わった。
立ち止まり、様子を伺う。
”何か”は指輪の元に辿り着くと、ゆっくり、両腕をまるで人を抱くかのように空間を包み込む。まるで、人を抱きしめるかのように見える。
当然、そこには何もない。
「…………」
茜は何かが引っ掛かる。
自分たちはアレから逃げている。なぜ?
「なあ葵、アイツ、ウチらを襲って来たんと違うんちゃうか?」
「え、じゃあ何しに来たっていうの?」
茜は考え込む。そういえば、先程も『どうして追いかけてくるのか?』と気になった。
”何か”を観察する。抱きしめようとした空間で腕をふわふわさせていた。
「────!!」
突如、”何か”から文字にならない音を響かせる。
「うわっ!」
葵は驚いて声を漏らした。怒らせたか、と警戒を高める。
──その時、茜の頭の中でバラバラに浮遊していたパーツがかっちりと組み合わさる。
「……あ」
「ど、どうしたの?」
葵が振り向くと、茜は決意を覗かせる気を引き締めた表情で”何か”を見据えていた。
「葵、分かったで。ちょっと行ってくる」
茜は堂々とした足取りで歩き出す。
「え!? ちょ、ちょっとお姉ちゃん! 危ないよ!」
葵は静止の声を掛けるが、茜は止まらない。
「大丈夫やって、心配せずにそこで見とき」
葵は面食らい、警戒はしつつも見守ることにした。好奇心から前のめりになることは多くとも、このような事は記憶になかったからだ。葵は茜の直感を信頼することにした。
茜は”何か”の近くまで進み、立ち止まる。
「……なあ、聞こえるか?」
”何か”に声を掛けると、動きを止めて、茜に振り向く。
茜は左手を前に差し出し、優しい声音で、言う。
「ごめんな、ウチはアンタが探してる人じゃないんや」
──そうか、アレは誰かを探していて、それをウチやと勘違いしていた。
──あの指輪を頼りに、きっと、本来の持ち主を探していた。
”何か”はしばらく固まったと思ったら、左手を茜の手へと向かわせて──
触れ合うと同時に、茜の脳内に誰かの記憶が流れ込んでくる────
それは、幸せそうな生活だった。
冴えないが優しそうな夫に、美人の妻。二人の住む家はボロっちい。
二人は決して不自由なく生活できてはいなかった。貯蓄も少ない。それでも、彼/彼女と共に過ごす時間は何物にも代えられなかった。
歯車のかみ合わせが狂い始めたのは、とある男の登場だ。彼は妻に惚れ込んだ。既に夫が居ることを知りながら、妻に何度も声を掛ける。彼は裕福だった。
お金に困る状況になったこともタイミングが悪かったのだろう。妻の気持ちは揺れた。
そして時は来た。妻の裏切り、夫の死。
「──ぇ」
──そんな、もしかして。
妻はその男と結ばれる。豪邸に住み、お金に不自由などない、求めていた生活。
そのままならそれでよかったんだ。でも、時間が経つにつれ、妻は自分の心に傷をつけ始めた。自分はなんてことをした、と。
──もしかしてアンタは……。
このまま放っておいたら、いつか自殺でもしてしまうのではないかと怖くなったんだ。だから僕が声を掛けてあげないと。
──許したんか、そんで。
でも無条件で許しても、妻は納得しないだろう。だから罰として、少し驚かせてやろうとしたんだ。そうしたら、僕が思っていた以上に怖がらせてしまって……。
──しかも今度は自分に非があるとそんな姿になってまで。
うん、謝りに来たんだ、驚かせてゴメン、と。どうしてか、今日、結婚記念日にしか姿を見せることが出来なくて、ここまで待たせてしまったのだけれど。
妻には幸せに生きてほしい。この過ちを何時までも引きずらないで欲しいんだ。
「あ、アンタって人は……!」
茜は震える声で言った。
”何か”の溶けだしているような姿が変わっていき、一人の男性に見えるシルエットになる。
消えていた街灯が一斉に灯る。
「ありがとう、僕のために泣いてくれて」
茜の瞳からはボロボロと涙がこぼれていた。
「どうして、許してあげるんや……? 殺されたんやろ?」
真っ黒で表情なんて見えないはずなのに、男ははにかむ。
「う~ん、お金に困らせちゃったのも元はと言えば僕が悪いし……」
「そんなんおかしいやろ!? 優しすぎるで……」
「でも僕が呪ったとして、皆不幸になってしまうじゃないか。それならちゃんとこの件について反省して、前に進んで欲しいんだ」
茜は絶句する。本当に人なのだろうか? いや、今は幽霊なのだが……。
「何はともあれ、ありがとう。ちょっと制御できずに姿も変になっちゃってたけど、今ならこうして話すことができる。────おーい! そこに居るんだろ?」
男は公園の入り口を振り返り、声を掛けた。
「…………」
すると、一人の女性が姿を見せる。
「もしかして、あの人が?」
「うん、僕の元妻。綺麗でしょ?」
惚気か、と茜は苦笑する。
「ま、後は二人の問題やな。ウチらは帰るわ」
「……本当にありがとう、僕たちを会わせてくれて」
「……お人よしにもほどがあるで、アンタ」
「多分君もそう変わらないだろう?」
茜は無視した。
「葵、帰るで~。もうこれで終わりや」
葵は全く理解が追いついていなかった。
「え、え? どういうこと?」
「まあ、一旦ここを離れよ。その後に説明するわ」
二人は公園の入り口──女が居た方角へと帰る。
すると、女は綺麗に着飾った走りづらそうな姿にもかかわらず、全力で男の元へと駆けていく。
すれ違い様、茜と葵は女の顔を見た。
「……あんな顔じゃ美人かどうかも分からへんわ」
女の叫び声、男の包み込むような優しい声を背に、二人は事務所へと歩く。
△△△
こうして、琴葉探偵事務所に降りかかった恐ろしい体験は終わった。
あの後、件の女が事務所へと謝罪しに来た。どうやら一年前の同じ日に男が出てきたようで、幽霊か何かに呪われたのだと思ったらしい。調べていくと指輪に問題があることを知り、それを当日に探偵事務所へなすりつけたのだとか。
茜が怒った様子で「これからどうするのか」と尋ねると、これからは罪を償うために慈善活動に励みます、らしい。
男は女と話して満足できたのか、姿を消したという。きっと天に還ったのだろう。もしかすると彼の事だ、まだ女を見守っているかもしれないが。
そして、茜と葵はといえば。
「……いや、もう少しちゃんと説明してくださいよ、そんな内容じゃ誰も納得してくれません」
「嘘でもでっち上げでもなく、これが真実なんですよ……私もまだ半信半疑ですけど」
翌日、ロイドボイス警察。
照明が突然消えるという現象がロイドボイスの町内で発生し、その時に二人の目撃情報が警察に寄せられたことで、二人は朝イチ、巡査の結月ゆかりに呼び出されていた。
朝の早い時間に叩き起こされたことで、二人の寝起きは最悪である。
「突然明かりが消えた、魔法で光源も確保できない、そんな事件を『幽霊のせい』で片付くわけないじゃないですか!」
「ゆかりさん、本当やで。ウチらは幽霊に追いかけられてたんや。だから事務所から公園へ線を引いた箇所でこの現象が起こってる」
ゆかりは頭を抱える。
「いや、こんなのでどうやって上司を納得させればいいんですか……! こんなのまるで真相分からないから苦し紛れに捻りだした報告と思われちゃいますよ」
「知らんがな……」
「この女性にお話を聴けたら話は違うんですけどね」
葵は肩をすくめる。
「本当に何も知らないですよ、その幽霊に二人で話したいから帰ってほしいと頼まれちゃいましたから」
「せめてこう、顔とか、どのあたりに住んでいるとか、些細な情報でもいいので……」
「全く、ありません」
ゆかりはがくりと肩を落とす。
「……ん?」
茜は壁に掛けられた時計を見る。午前十時。
──何かあったような。
葵は時計を見て、席を立とうと腰を上げる。
「あっ! もうこんな時間だ、今日は依頼があるのでもう帰らないと」
「嘘ですね、葵さんなら私が事務所に居た時にそれを伝えているはずです」
「……チッ」
葵は再び座り直す。
「依頼? 依頼……」
茜は同じ言葉を何度も呟く。
葵が疑問に思ってどうしたのかと声を掛けるために口を開いた瞬間、
「あああぁぁぁ!!」
茜はがたりと立ち上がった。
葵とゆかりはびくりと震える。
「えっ何ですか!?」
茜は葵を見降ろし、乾いた笑みを浮かべて、言う。
「あ、葵……今日の十時にお客さん来るんやった……」
「────え?」
サーッ、と血の気が引いていく。
これほどまでに恐ろしいことがあるだろうか。
「何で言ってくれなかったの!? せっかく残件整理してたのに!!」
「昨日貰ったばっかりの依頼なんや、指輪を失くした、て話と幽霊が来たから話す機会失くしてた、ほんまにゴメン!!」
葵は思い出す。確かに夜中、茜が帰って来た際に──
──ただいま~、ごめん遅なったわ、でも依頼貰ってきたで。
言っていた。確かに。葵は一瞬俯いて、すぐに立ち上がる。
「私も忘れてたしお互い様! すぐ戻ろう!」
二人は立ち上がり、ゆかりに言う。
「すいませんゆかりさん! というわけで戻ります!」
「えっ、待ってくださいよ! まだ話は──!!」
二人は急いで部屋を飛び出す。
「すまんゆかりさん、今度ご飯奢るわ!」
「待てーー! せめて一人は残って下さい!!」
警察署内を、二人は慌ただしく駆けて行った。
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