主なきノラネコたちの家 (もちごめさん)
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スーパー猫の日番外編 前編

今後百年はないレベルの猫の日なので流石に書かないわけにはいかなかった。
時系列的には三部と四部の間くらいです。


「……へぇ? 眷属女子みんな赤龍帝ちんの家で暮らしてるの? そんな大人数で狭くないのかにゃん?」

 

「いえ、みんなで住むって決まった時に、魔王様が家を増築してくださったんです。お城みたいにすっごく大きくなったんですよ」

 

 私と並走しながら、白音はほんの少し上気した顔で気分よさげにそう答えた。

 「そうなの」と私の口から出る相槌にも、意識せずともごきげん感が滲み出る。私たちはお互いに、ようやく取り戻した姉妹の間の平穏に感じ入っていた。

 

 照りつける朝の日差しは私たちの中の悪魔の血を焼くけれど、その気怠さすら気にならないほど幸福だ。何年もの間失われていたたわいのない会話は交わせば交わすほど心の渇きが癒えるようで、白音と家族に戻ってはや数日が経っても尚やめる気など欠片も起きず、私たちはランニングの最中ですらひたすらしゃべり続けている。

 その過程で飛び出た同棲の話題。驚きと心配がごちゃっと混ざって相槌の後に舌が鈍る。そこに、私たちの一歩後ろを遅れて走るゼノヴィアが、立てた指先に【気】で順に数字を作るという修行をしながら短く息を吐き言った。

 

「魔王が確か、最近の戦いで眷族同士のスキンシップの重要性に気付いた、だとか言っていたな。特にイッセーの能力アップには重要だから、女子は全員強制的に、と……」

 

「赤龍帝ちんのためのハーレムってわけ。ハブられた木場とギャスパーはかわいそうねぇ。……でも、自分の妹を下級悪魔のハーレム要員にするなんて、魔王ってば中々いい趣味してるにゃん」

 

「確かに、部長もあんまり納得はしてなさそうでしたけど……でも一緒に暮らすこと自体はあんまり不満じゃないみたいなんですよね。元々ホームステイって形でアーシア先輩と一緒にイッセー先輩の家で暮らしていましたし。どっちかっていうと、気にしてるのは朱乃さんの存在だと思います。イッセー先輩とのデートがあって以来、朱乃さん、見せつけるみたいにアピールするようになりましたから」

 

「デート? いつの間にかそんなことまでしてたの? 思春期だにゃん。……まあ、あの娘も結構性欲強そうだし、おかしな話じゃないかしら。赤龍帝ちんは言うまでもないし」

 

 けどデート一回で即恋人。若いからでもあるのだろうけど、さすがにちょっとチョロすぎだ。デート中にそれほど出来事があったのだとしても、主が狙っている男にアピールとは恐れ入る。

 とんだ下克上。私が同じ立場なら、とてもそんな真似はできないだろう。

 

(……いや、わかんないけど)

 

 そういえば、私に恋愛の経験はなかった。猫又の女としてどうせなら強いオスの子供を産みたいという欲求がなくはないけれど、ピトーと出会う前まではとてもそんなことにかまける余裕はなかったし、出会った後も、ピトーの強さを見慣れ過ぎて眼鏡にかなう相手がいなかった。

 

 大抵の男はピトー以下。数少ない例外も、ジジイだったりキワモノだったりで全く興味を引かれない。願わくば、適齢期を過ぎる前にピトー並みに強い男が現れるのを祈るばかりだ。

 と、そんな現れるかもわからない相手を夢想しつつ、少なくとも今は理解し難い朱乃の感情を忘れ去った私は、頬に風を感じながらちらりと後ろを振り返った。

 

 【気】の操作をしくじったのか悔しそうに肩を落とすゼノヴィアと、そのさらに後ろ、車二、三台分も空けてヘロヘロになりながら必死に私たちを追いかけて来る赤龍帝を見やりながら、私は呆れ半分の息を吐いた。

 

「それで、あんなザマでリアス・グレモリーと朱乃の修羅場を治められてるの? 赤龍帝ちんは」

 

「……ああ、うん。できてはいないな。今朝も寝室で喧嘩している声がしていた。でもイッセー、部長に副部長にアーシアにと、一緒に寝ているんだろう?」

 

「はぁ、はぁ……え? な、なんだよ、ゼノヴィア。何か言ったか……?」

 

 声が聞こえはしても言ってることは聞き取れなかったらしい。赤龍帝が汗まみれの疲れ切った顔を上げ、聞き返す。親切にもゼノヴィアはスピードを落とし、彼の下まで下がるともう一度同じことを告げたようで、途端に赤龍帝が反応を示した。

 気持ちの悪い笑みと一緒に「うへへへ」とだらしなく鼻の下が伸びたのを見るに、彼にとってそれは随分幸せな時間だったようだ。

 

「……三人もなんて、けだもの」

 

「へへ……はっ! ち、違うぞ白音ちゃん! いや違わねぇけど……部長たちと一緒に寝たわけじゃないんだよ! 両方の意味で! ……朝起きたら朱乃さんが俺のベッドに入ってきてて、それを、俺を起こしに来てくれた部長とアーシアに見つかったっていうのが実際のあらましで……」

 

「でもいい思いしてたんでしょ?」

 

「まあ、そりゃあ……」

 

 白音の軽蔑に下心をしまい込んで訴えたと思いきや、私の一言ですぐに戻ってしまう。馬鹿は死んでも治らない、なんて言うが、彼のスケベも死んだって治らないんだろう。というか実際治らなかったからこうなっているんだけども。

 

 改めてこんなのを好きになってしまったリアス・グレモリーたち三人が悪趣味に思えてくる。こっそり、白音に耳打ちした。

 

「……白音、あなたは間違ってもあんな性欲魔人に惚れちゃ駄目よ? 経験上、ああいうハーレム志望のヘンタイは女の子を幸せになんてしてくれないんだから。食べ飽きたらすぐに新しいのを仕入れてポイしちゃうのにゃん」

 

「……食べて、ポイ……。ということは、部長たちも……」

 

「いやしねぇよそんなこと!! 俺ってそんなに信用ないかなぁ白音ちゃん!?」

 

「……あるわけないです」

 

 かつてのハンターの仕事で見聞きした出来事を思い出す私の言葉には、それなりの真実味が混ざり込んでいたんだろう。赤龍帝は必死な様子で否定して、一方白音は求められた弁護をばっさり切り捨てる。

 

 肩を落として項垂れる赤龍帝。否定の時の彼の汗が飛んだのか、ゼノヴィアがその傍で嫌そうな顔をした。

 

「……信用があると思っていたことが驚きだ。私には愛だの恋だのはよくわからんが、しかしそれでもお前が節操なしだということは理解できるぞ? 【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】然り、下心が明らかじゃないか」

 

「そ、そんなこと言ったって……だって、男の(さが)なんだよ! そこにおっぱいがあるのなら、堪能しないのはむしろおっぱいに失礼だ! おっぱいは信仰なんだよ!」

 

「……やはり、私には君の言っていることがさっぱりわからん。信仰のことなら人よりは理解できる自信があったんだが……」

 

「ただのヘンタイの戯言にゃん。無視無視」

 

 首を正面に戻す。見れば周囲の風景は、いつの間にかゴールの近くのそれになっていた。つまり赤龍帝の家に近い。ようやく覚え始めたこの街の地図からして、このままの速度で行けばあと数分で今朝のランニングは終了といったところか。

 

 スパートをかける頃合い。私は白音に目配せし、走る脚をさらに早めた。

 いや、早める直前だった。赤龍帝がキャンキャン吠えた。

 

「ヘンタイとかじゃねぇから! 普通だから、男っていうかそもそも人間として! なんだよウタ、自分だけすまし顔しやがって……」

 

 遅れて私の台詞に反応して、恨めしげ、というよりは羨ましげな声色。詰られるむしゃくしゃを発散するその口から、ため息と一緒に呟きがポロリと零れた。

 

「ウタだって、フェルさんと一緒に暮らしてるんだろ? あのエッチな身体を毎日好き放題なんて……それこそヘンタイの所業だろ……」

 

「………」

 

 脚は速度を変えずに走り続ける。四人分の走る足音とどこからか鳥の鳴き声だけが場を満たして、しばらく言葉は発せられなかった。

 

 代わりに白音が困ったように苦笑いする。その顔を見て、困惑のあまりに固まった私の脳味噌も、軋みながらも遅れて活動を再開した。

 

「……えっ?」

 

 ただし出てきたのはそんな疑問符が一つ。赤龍帝の捨て台詞を翻訳し、理解するのには時間が必要だった。

 

 曰く、彼はつまり要するに、私がピトーと恋人的な(そういう)関係になっていると……?

 

「えっ? な、なんでそうなるのよ!?」

 

「な、なんでってなんだよ? だってあんたら、五年近く前からずっと一緒にいるって話だし、それにどう見たって仕事仲間とか友達とかのレベルじゃないくらいに仲がいいじゃんか。毎夜ゆりゆりしてるんだろ?」

 

「うむ、近頃は同性のカップルというのも珍しくないからな。カトリック教徒的には祝福すべきかどうかわからないが……あ、今は悪魔だし、どのみちいいのか。今更だが、おめでとうウタさん」

 

 慌てて再び振り返ると、まるでそれが一般常識か何かであると言わんばかりの顔で、私の驚愕と困惑に、赤龍帝は目をぱちくりさせる。さらにはゼノヴィアも難し気にしていた顔を頓珍漢なことを言ってほころばせ、微笑んできた。

 

 どうやらその風聞はゼノヴィアの中でも信じられているものらしい。そして白音の反応から察するに、この二人の間だけでの認識ではなさそうだ。

 

 どうしてそんなことになっているんだろうか。

 

 まず第一、私とピトーは全くそんな関係ではない。彼女と私は家族の関係でありたいと思ってはいるが、それは別に恋人なんていう浮ついたものではないのだ。私自身、そういう眼で彼女を見たことも、想いを抱いたことも今までなく、そしてそれは彼女もそうだろう。恋人なんて、ピトーにとっては家族よりも理解が難しい概念であるはずだ。

 

 にも拘らず、いつの間にか形成されて広まっていたその認識。しかも“毎夜ゆりゆり”って……私がピトーと、ベッドの上でそういう甘ったるい行為を繰り返していたと――

 

「いやない! ないから私とピ……フェルにはそういうの! 別に恋人とかじゃないったら!」

 

 顔が真っ赤に熱くなるのが自覚できた。とめどなく昇っていくのは羞恥の感情だ。それだけだ。心臓がうるさいのだってびっくりしただけ。

 

「……そうなのか?」

 

「いやいや、照れ隠しってやつだろ。けど……残念だったなウタ、もう遅い! お前も俺と同じ、エロ魔人と呼ばれるまでに堕ちて――ほぐぅっ!?」

 

 全く違う。照れ隠しでも、ヘンタイブーメランが怖いのでもない。すべからくが間違いだ。

 

 だけどそれはそれとして手が出てしまった。一瞬で反転した身体が赤龍帝のお腹に掌底を食らわすと、仙術を以てしてその意識を刈り取った。倒れ込むその身体を肩に担ぎ、ついでに眼をやったゼノヴィアには彼女の両手で口を塞がせる。

 

 何も言わないと、こくこく頷かせた私は踵を返し、赤龍帝がいない分、今までの三割増しの速度で道を駆けていった。

 

 するとほどなく、ゴール地点の赤龍帝の家が見えてくる。それは白音の言う通り、ほとんど城に等しい大きさだ。立ち退きやら何やらが合法的に行われたことを願わずにはいられないほどの土地を使い、日照権の侵害で訴えられるんじゃないかと危惧しそうなほどの、住宅街には似つかわしくない建造物。

 

 あわせて広いその庭の出入り口に、赤龍帝の母親の姿が見えていた。彼女は少し遅れて私たちの存在に気付き、次いで私が背負う赤龍帝にも気付いて、お帰りなさいと振りかけた手で口を覆い、あらあらと苦笑する。私はそれに頬の熱を残したまま会釈で返し、そしてやがて、その元までたどり着いて脚を止めた。

 

「ああもうこの子ったら……またトレーニングの途中でへばっちゃったの? ごめんなさいね、ええっと……ウタさん、でいいのよね? フェルさんと一緒にうちの子たちの部の外部顧問をしてくださってるっていう……」

 

「あー……うん、そう。ちょっと飛ばし過ぎちゃって、ダウンしちゃったの」

 

 少し遅れて到着した白音とゼノヴィアに眼で改めて釘を刺しつつ、私は赤龍帝を彼女に任せた。ついでに仙術で軽く気付けし、おかげで僅かに意識を取り戻した赤龍帝は母親の肩を借りて立つ。

 

 とにかく、超常の世界とは無関係の彼女にとって、私とピトーはただの指導員。ヘンなものを見せるわけにはいかない。回復させざるを得なかったことについてはその理屈で手を打って、私は次いで、外部顧問らしく後ろの二人に振り返って告げた。

 

「それじゃ、今朝はここまでね。残りは放課後、いつもの時間に」

 

「あ、そのことなんだけど――」

 

 と、返ってくる返事。それは白音のものでもゼノヴィアのものでもなかった。

 視線を戻すと赤龍帝の家の側、その庭を、こっちに向かって歩いてくるピトーの姿がそこにあった。

 

 ドクン。と、振り払ったはずのさっきの羞恥心が蘇ってきた。不埒な想像が頭をよぎる。思わず眼を逸らしてしまったけど、鋭いピトーにしては珍しいことに気付かれることはなかったようで、変わらずいつも通りに、世間話をするようなトーンが続いた。

 

「今日の修行、休みにしない? ちょっと他にやりたいことがあるんだよね」

 

「や、やりたいこと……?」

 

 妙なことを考えてしまっていることがバレないうちにと、なんとか視線を持ち上げて言う。けれど目にしたピトーの眼は、もうすでに白音とゼノヴィアに向いていた。

 

 求めた同意は二人に少しの疑念を与えたが、しかし連ねた事実に問題なく二人は頷く。

 

「赤髪にはもう言っておいたよ。ついでにハンゾーにも。だから、いい?」

 

「まあ我が儘を言える立場でもないし、私は構わないが……」

 

「……私も、大丈夫です」

 

 白音は少し残念そうだったが、額の汗をぬぐいつつ了承した。対してゼノヴィア、好奇心が続けて問う。

 

「で……どういう用事なんだ? フェルさんがそんなことを言うなんて、今までなかっただろう?」

 

「……つい今さっき、決めたからにゃ」

 

 僅かに躊躇うような間があった。ピトーの眉が少しだけ下がる。

 

 だが反対に、その時偶然私が眼にした赤龍帝の母親の顔には、にやにやと生暖かい笑みが浮かんでいた。

 

「ねえ、ウタ」

 

 ピトーが私を見る。何かを決意したような真剣な眼差し。

 

 そして、言った。

 

「デート、してみにゃい?」

 

「……えっ?」

 

 さっきよりも、私の頭が正気を取り戻すのは遅かった。

 

 

 

 

 

 薄暗い館内、正面の大きなスクリーンではムーディーなBGMをバックに、今人気だという恋愛映画が佳境に差し掛かっている。大人向けという触れ込みの通り、ねちっこくて少しエッチなキスシーンだ。

 

 まあ言うまでもなく、そんな直接的な表現は、ピトーに連れられるままこの映画館の席に座らせられた私の心に盛大な感情の嵐を吹き荒れさせてしまっていた。

 

(え、きす、でーと、わたしが、ピトーと……?)

 

 画面の中の主人公たちにはそれなりのストーリーと紆余曲折があったはずだけど、正直全く頭に入ってきていない。代わりに繰り返し明滅しているのは、ずっと変わらずあの時のピトーの台詞とその表情。『デート、してみにゃい?』と言った彼女の真摯な様子だけだ。

 一緒に聞かされた白音やゼノヴィアは何やら悟り、湧き上がっていたようだったけど、彼女らは赤龍帝共々彼の母親が連れて行ってしまって、挙句その母親が「しっかりね」とサムズアップ。一人置き去りにされた私は何が何やら受け止め切れないままピトー曰くの“デート”に連れ出されて今に至るわけなのだが、その言葉によりもたらされた混乱は映画一本分の時間をおいても尚、収まる様子を見せない。副次効果の妄想で、顔の温度はむしろ上昇する一方だ。

 

 ピトーの言った“デート”とは、いったいどういう意味なんだろう。ピトーは私に“そういう”想いを抱いていたということなのか。

 けど、今までそんな気配を感じたことは全くない。なら“デート”とは、私の認識している“デート”とは別の概念であるはずだ。でもでも赤龍帝の母親のあの顔はまるで初々しい初心者カップルを見守るようなものだったし、それにわざわざ一緒に恋愛映画を見るなんていかにもそれっぽい。ピトーには、恋愛映画どころか映画そのものを見る趣味がないはずなのだ。

 

 だからつまり、ピトーが今こうして私と一緒に映画を見ているのは自分ではなく私のため、もっと言えば“デート”のためで、その“デート”とは恋愛映画を見るに適した行為というわけで……。

 

(あれ……でもそれってやっぱり恋人同士の――いやいやそんなわけが――)

 

 と、思考が終わりのないループに嵌ったまま抜け出せず、私は結局エンドロールが流れるまで、買ったポップコーンにすら手を付けることなく、途方もない宇宙でも見つめているような呆然で、ただただ席に座っていたのだった。

 

 映画が終わり、明るくなった館内で、他の客たちがちらほらと席を立ち始める。私とピトーも半ば機械的にその流れに乗って外に出た。ゴミとして出したポップコーンのおかげで係員に怪訝な顔をされつつ、外の喧騒と空気を吸い込む。

 

 とはいえ今日は平日。人通りはあまりなく、喧騒というほどの騒がしさはない。故に聞こえた。

 

「……ああいうのが、“恋人”……」

 

「えっ!?」

 

 そしてピンク色に混乱する頭がつい反応し、声を出してしまう。ピトーも私に言ったつもりではなかったんだろう。キョトンと私を見てくる彼女に、私は若干パニックとなってまくしたてた。

 

「あっいやまぁ、ひひ、人それぞれだしねああいうのは! 私はどっちかっていうとうじうじするよりさっさとヤってから考えればいいと思――じゃなくて! あの……い、いい映画、だったわね!?」

 

 わけもわからずしゃべったために妙なことまで口走ってしまった。慌てて誤魔化したけど手遅れ感が否めない。

 刹那的な快楽主義者であることは自覚があるけれど、何だって自ら喧伝してしまうのか。いやらしい女だと思われてしまったらどうしよう……ではなく! ……いや、ほんとに。そうではなくて……。

 

 内心の感情がぐちゃぐちゃにこんがらがって、それ以上の言い訳が思いつかない。かといって開き直ることもできず、何に怯えているのかすらわからなくなりながら、私は恐る恐るにピトーの様子を伺った。その顔に軽蔑なんかが浮かんではいないかと。

 

(あ……)

 

 だが目にした彼女の顔には、軽蔑どころか“負”の感情も“正”の感情も存在していなかった。

 

 それを言い表すのなら、無関心。自らが主導しているデートなのに、それ自体に興味が持てないといった表情。

 それは浮かれまくった私をあざ笑われたかのように感じてしまい、吹き込んだ冷たい風が頭の熱をふっと奪い去っていった。

 

「そう。じゃあ次は……ショッピングかにゃ? クロカ、何か欲しいものとかある?」

 

「……え、えっと……そうね、コカビエルとの戦いでだめになっちゃったし、新しい服が欲しいかにゃん」

 

 聞き届け、ピトーはすぐに映画館に背を向け歩き始めた。いいのか悪いのか、冷静を取り戻した私も黙ってその後に続く。

 

 それからデパートで望み通り服を買い、昼食を食べた後は、私の趣味に合わせてくれたのかゲームセンターで少し遊んだ。映画も併せて、やっぱりそれは私の知るデートだったように思う。けど一旦頭が冷却されれば、さっきまでのむず痒い胸の高鳴りが起こることはなかった。

 

 ピトーに連れられ遊び歩いたそれらはどこか、事務的な作業のようだった。今、買った服やゲームの景品の入った紙袋を提げて歩いているのも、ただの買い物帰りであるように感じてしまう。

 淡々とタスクをこなすように巡られるデートコースは、楽しいとは、正直思えない。ピトーはなぜこんなことをしているんだろうという最初の疑問が、冷静な頭に再び浮かんだ。

 

「……ねえピトー、これって――」

 

 楽しいのかと、前を歩く彼女の背中を見つめたまま呟きかけた。

 

 しかし突然その背が止まる。ぶつかりそうになって、言葉も途中で喉の奥に転げ落ちた。

 

 彼女の隣に出て避けて、どうしたのかと彼女の顔を伺った。

 

「どうしたの? ピト――」

 

「静かに」

 

 顔を覗き込もうとした私の身体がピトーの腕に制せられた。その眼はまっすぐ前に警戒心を向けている。それを辿り、私も前に視線をやった。

 

 いつの間にかたどり着いていた繁華街。空に赤みが増し始めて人通りも増えてきた通りの先。

 曲がり角から一人、長いひげを生やしたみすぼらしい格好の隻眼のおじいさんが、杖を突いて現れた。彼は、たぶん警戒するピトーに気付いたんだろう。こっちを見やり、次いで好色そうににやりと唇の端を持ち上げた。

 

「ほぉ、中々のべっぴんが二人も。……そんなに熱烈に見つめられると参ってしまうのう。どうじゃ? 今夜一発、儂と一緒にパーティーせんか?」

 

 どこにでもいるスケベジジイのへたくそなナンパ。そう感じた。別に珍しいことじゃない。私と、特にピトーはパリストンの念能力によって男の目を引きやすく、同じように声をかけられたことも一度や二度じゃない。

 

 だからいまさら目くじらを立てることでもない。はずなのに、

 

「ぴ……フェル……?」

 

 ピトーはスケベジジイを、本気の【気】で威嚇していた。

 私を庇う腕からも伝わってくる。全身に彼女の不気味な【気】が滾り、それは明らかに一般人に向けるべきでない殺気。

 

 なんでそんなことをしているのか、そう思った瞬間、さらにもう一人、人影が角から飛び出してきた。

 

「オーディン様ッ!!」

 

 長身の銀髪女性。何やら叫んで現れた、と思ったのもつかの間、彼女のその手に魔法陣が現れ、たちまち広がり私たちの周囲を囲った。

 

 その時になって、ようやく私は彼女が人間ではないことに気が付いた。術式からして恐らく北欧、英雄の魂をヴァルハラへと導くという戦乙女(ヴァルキリー)だろう。

 その身は人ではなく、半神だ。なんでそんな奴がこの駒王町(悪魔の縄張り)にいるのか、さらなる困惑が頭に生じる。

 

 そして反応する間も身構える間もなかったが、彼女が発動させた魔法陣は人避けの類のものだったようで、周囲を覆って双方の殺気と存在を一般人から隠す。戦う気満々のそれ。ピトーはいよいよ枷を外していつもの不気味な【気】を纏い始め、そしてスケベジジイの前に出て奴を庇うヴァルキリーは、今度こその手に攻撃用の魔法陣を構え、悲愴な表情でピトーを捉えた。

 

「っ……何者です、あなたたち……!」

 

「そっちこそ、誰?」

 

 ヴァルキリーのその眼は明らかな恐怖があったが、同時に、例え死ぬとしても命を懸けて背後のスケベジジイを守るという決意があった。

 その固い決意は、スケベジジイが彼女が見据えた導くべき英雄だからなのだろうか。とてもそうは見えないけど、しかしともあれやる気であるなら抵抗しないわけにもいかない。ピトーに続いて私も【念】を練り上げた。

 

 やがて、続くにらみ合いに焦ったのか、歯噛みした銀髪女性は魔力を使った。一瞬のうちにさらなる魔法陣を組み立て、自身の背後にそれぞれ展開する。その種類は属性も術式も多種多様。一斉に放てばかなりの威力になるだろう攻撃の、前動作。

 それを前にしてようやく私もまともな危機感を抱くに至り、放たれる攻撃を防ぐためにピトーの前に出ようとした。

 

 その直前に、ヴァルキリーに守られていたスケベジジイが、するりと彼女の背を抜け出して、頭にこつんと軽い拳骨を落とした。

 

「これこれ、やめんかバカモン。全く、喧嘩っ早いやつじゃのう」

 

「あいたっ! お、オーディン様!? 何をなさるんです!?」

 

 驚きのために集中力が切れたんだろう。展開されていた魔法陣の全てが一瞬にして崩れて消える。彼女は目をぱちくりさせてスケベジジイ、“オーディン様”のほうに振り向き、無防備だった。

 

 ならまた攻撃される前にさっさと無力化を……と、考えたところで、酷く遅くも、私は気が付いた。

 

(……あれ? オーディンって言って……?)

 

 そういえば、最初にヴァルキリーが現れた時もその名を叫んでいたような気がする。そしてその名の主は私でも知っていた。

 

 北欧神話体系の主神、魔術の神。すなわち、かなり強くて偉いやつ。

 

 顔を見て数秒も経たないうちにナンパしてくるジジイが、神様で、しかも主神?

 

「……え? ほんとに?」

 

「本当じゃとも。儂がオーディン、アースガルズで主神をやっとるジジイじゃ。得意分野は魔法魔力にその他術式や結界術。趣味は夜の風呂屋巡り。よろしくの」

 

 ピトーが真に警戒したのは銀髪女性ではなくこっちだったのだ。ネテロを思わせる飄々とした振る舞いは、しかしピトーの殺気を向けられているというのに小動もせず、挙句に握手の手を差し出しこちらに歩み寄り始めた。

 

 ピトーの【気】の圧が大きくなる。私ですら息苦しさを感じるほどのもの。ヴァルキリーはオーディンの態度にあっけに取られていたが、我に返ると慌てて間に割って入って接近を止めた。

 

 邪悪な【気】をより近くで浴びることになり、顔面蒼白だ。

 

「お、おお、オーディン様っ! 本当に駄目ですこれ以上は! お守りすることができなくなってしまいますっ!」

 

「守る? 誰が儂を襲うんじゃ? ……ロスヴァイセ、そう心配せんとも、彼女らは敵ではない。ネテロの小僧の周りの者らじゃ。のう、ハンターのフェルとウタよ」

 

 『ネテロの小僧』、神様らしい物言いに奇妙な違和感を抱く。

 

 真っ青なヴァルキリー、ロスヴァイセが私たちをちらりと見て、気を奮い立たせて警戒心を継続した。

 

「は、ハンター……。し、しかしこの者たちはオーディン様に殺気を向けて――」

 

 だがそれはすぐ、完全に消え去った。

 

「ああそれは……ホレ、特にこっちのフェルなど色香の塊が如きじゃろ? これほどの女子を前にして口説かんのはむしろ失礼じゃと、こう思っての」

 

「そっ……それは、つまりいつものオーディン様の女性好きが……。ま、またですか!?」

 

 あっさりと、神にあるまじき行為があったことを信じたロスヴァイセ。自白とはいえ、神様が出合い頭にナンパなんてするはずがない、とはならなかったらしい。前科があるんだろう。それも一度や二度でなく。

 

 彼女は直前までとは別の意味で顔を青くして、弾かれたようにバッと私たちに身体を向けると、そのまま腰を九十度直覚に折り、頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません! こ、ここは我々の勢力圏から外れた悪魔の町ですから、てっきりオーディン様を狙う刺客が現れたのだと……。あの、本当に申し訳ありませんっ!」

 

「……ふぅん? まあ、戦う気がないっていうなら別にいいにゃ。結局睨み合っただけだしね」

 

 心なし残念そうに呟くピトー。「ほんとに……よかったです……」と胸をなでおろして苦笑いするロスヴァイセは心底の安堵を噛みしめる。

 

 そこに、またオーディンが茶々を入れるように躍り出た。そして、私をニヤニヤと見つめて言った。

 

「うむ、ではこれで手打ちじゃな。儂も謝っておこう。……連れ合いとの逢引き中にナンパなんぞしてすまなんだな」

 

 連れ合い、“恋人”。逢引き、“デート”。

 

 ピトーの姿を見やる。冷えたはずの頭の中で、またピンク色の熱が爆発した。

 

「な……!? お……あ……!?」

 

「……うん?」

 

 ピトーが私を見つめ返して首をかしげている。ぼふっと一瞬で赤熱した私に向ける不思議そうな顔は、私と違ってオーディンの言葉をあっけらかんと受け入れていることの証。

 

 だからピトーにとってもこれは“デート”で、私は“恋人”で――

 

 と、またしても思考が無限ループに陥りそうなことを察知し、私は慌てて首を振ってそれを壊す。乱された頭の中で残った羞恥心がすぐさま私をピトーの顔から逃れさせ、当てつけのようにオーディンに叫ばせた。

 

「そ、そそそんなことよりっ!! そもそもなんで他所の神がこんなところにいるのよ!? 刺客の心配するくらいなら自分の世界に引きこもってたほうがいいと思うんだけど!!」

 

「っ! そう、そうなんですハンターさん! 私もそう……思うんですけど、オーディン様が……」

 

「いやぁ、日本の風呂屋を体験したくなってしまってのう。日本の神々や悪魔陣営との談合、という体を作ってな。ちょっとした旅行よ」

 

 詰問はどうせドキドキうるさい心臓の身代わり。だから別に彼がこの町を訪れた目的なんかに興味はなかったけど、それにしてもな動機。さっきも言っていた風呂屋も、銭湯とかではない方の意なんだろう。そんな目的のために振り回されるロスヴァイセ。不憫だ。おかげで湧く憐れみが、私の中のピンク色を薄れさせてくれる。

 

 ただ、さすがは初対面にセクハラとナンパを繰り出してきたスケベ神。疲れ切った様子で深々ため息を吐くロスヴァイセなど気にもせず、その顔はまた厭らしく、私とピトーに向けられた。

 

「そういうわけでな、ここらの風呂屋やホテルについては下調べも済んでおる故、儂、ちと詳しいのよ。……もうすぐ夜もふけるじゃろう? もしも逢引きのお楽しみに迷っておるようなら、儂が良い店を教えてやらんでもないぞ?」

 

 銭湯と同様に、ホテルもそのままの意味でないことは明らか。ここまでブレないセクハラの連打には、さすがに羞恥だけに留まらず怒りを通り越した呆れを覚える。

 

「う……もう、これ、本当にあんたたちの神様なのよね? 北欧神話って大丈夫なの?」

 

「……お恥ずかしいです」

 

 熱い顔をあおぎながら、ため息と一緒に眉間に寄るしわを取る。ロスヴァイセが、いわば自身の主への誹謗だというのに一切のフォローをせず、項垂れるように顔を覆った。

 

 もう奴は、アーガルズの主神オーディンではなくただのセクハラジジイと捉えるべきなんだろう。少なくともロスヴァイセはそうしているらしい。だから私も、私たちの反応をニヤニヤと待っている奴を前にして、真面目に答える気はきれいさっぱり失せてしまった。

 

 普通、誰しもそういう気になるだろう。ピトーも同様。そう思っていたのだけど。

 

「案内はいらないにゃ」

 

 いやに真剣に、彼女は首を横に振っていた。硬い表情からセクハラジジイに、そして真に迫った声で言う。

 

「最後に行くホテルはもう決めてるから」

 

 それは最初に私をデートに誘ってくれた時と同じくらい真剣で、冗談に思える余地はなくて、故に再び、私の思考はどこかに吹っ飛んだ。

 

「ほぉ……」

 

「ひゃあ……え、ええと……お、お二人って、本当にそういうご関係だったんですね……!」

 

 ホテルとは、つまるところラブホテル。カップルがエッチな行為をするためのホテルだ。ピトーはどうやら最初から、デートの最後に私をそこに連れ込むつもりだった様子。つまり、彼女はとっくに私とそういう(・・・・)ことをする決心をしていた、ということだ。

 

 “デート”とか“恋人”とかでうんうん頭を悩ませていた私の葛藤など、周回遅れも甚だしい。告白やキスなんかもすっ飛ばし、ピトーは――

 

「は……ふぁ……」

 

「おっと……ウタ? 大丈夫?」

 

 感情が追い付かなさ過ぎて腰が抜けて、ピトーに支えられた。私の腰、隠した尻尾の付け根近くに触れられて、ゾクゾクと身体の奥底からむず痒い震えが来る。心臓は身体がはち切れるんじゃないかと思うくらいの速さで全身の血液を巡らせて、もうピトーの顔が顎の線すらまともに見られない。

 

 だってもう、そんなの愛の告白みたいじゃないか。

 

「ほうほうほう……。こりゃあ本格的に儂らはお邪魔じゃな。さっさと退散するぞ、ロスヴァイセ」

 

「は、はい! ……あの、が、頑張ってくださいっ!」

 

 頑張る……本当にこれから頑張る(励む)んだろうか。

 

 ピトーを見る目とか女同士だとか、そういうことが噴火の如く頭の中に溢れかえって、そのどれもを処理できないまま、初めての告白に慄く私は、去るオーディンたちに背を向けたピトーの手に引っ張られてデートの続きに連れて行かれた。



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スーパー猫の日番外編 後編

百合成分と性的な表現が含まれるので注意。
でもハイスクールDDだし大丈夫な範囲だと思う。


 ピトーに引きずられるように連れて行かれ、たどり着いたのは“猫カフェ”だった。所謂、猫と戯れられる喫茶店。ピトーにデートを唆した赤龍帝の母親が、初デートの緊張を癒すのにいいとピトーに勧めたのだという。

 

 けれど、現実は全く癒されない。

 私とピトーは、その“猫”と近すぎるのだ。人間であるなら耳と尻尾が付いた小さな異種の姿を純粋に愛玩できるのだろうけど、私たちにとってはそもそも完全な異種じゃない。だから猫カフェも、感覚的にはお昼に行ったレストラン、食事する人間たちが周囲にいる状況と大して変わらない。

 加えてその猫たちも、私たちが普段来る人間の客とは違うことがわかるんだろう。私たちを警戒して遠巻きにうろうろと様子を伺うばかりで、こっちには一切寄ってこない。気まずそうな顔をした店員が玩具やおやつやらで私たちに猫をけしかけようとしはしたけど、尽く意味がなかったほどのアウェー感。

 

 私たちは入店してからずっと、うじゃうじゃいる猫たちに檻の中の珍獣でも見るかのように見つめられながら床に座っているばかり。申し訳なさそうな顔をした店員からサービスだと出されたお茶セット、ココアパウダーか何かのくすんだ茶色の粉がかかった小さなクッキーはわきに置き、湯気の立つティーカップを口元で傾けていた。

 

 そして何より、心の安寧が得られない最大の理由は目の前に。

 

「………」

 

「………」

 

 向かい合って座るピトー。私の口が恐ろしく重たいせいで、ピトーのほうもずっと無言のまま。

 

 その時間は正直、ありがたいものだった。ピトーが口にした、“黒歌を性的な対象に見ている”という趣旨の台詞によって壊滅的なまでに引っ掻き回されてしまった頭の中を、私は整え、応える決意を固めなければならないからだ。

 

 いや、()るか()らないかを決めるんじゃない。私がピトーを拒絶することはあり得ない。固めるのは決意だけ。

 

 ピトーのように、私も想い(愛の告白)を告げる決意を。

 

 今はまだ、その決意には()よりも恥ずかしさの方がずっと大きいけれど。

 

「…………。ねえ、ピトー」

 

 黙りこくった末、ようやく私はどうにか声を押し出した。頼りない声量だったけど、静かな中の突然の声に周囲の猫たちが驚き、一斉に目を見張って私を凝視する。

 

 ピトーも、口を付けていたお茶のカップから顔を上げ、私を見た。その眼にまた私の顔の温度が上がる。気恥ずかしさが私の首を曲げようとする。それらの羞恥全てに抗って、私はピトーを見つめ、今の想い(親愛の告白)を口にした。

 

「……私、そ、その……今まで、ピトーをそういう眼で見たことがなかったの。私にとってピトーは、恋人じゃなくて……どっちかっていうと、もう一人の、お……お、お母さん、みたいに、思ってたから……」

 

 これだけでも顔から火が噴き出そうだ。けれど一番最初、抱きしめられた時のあの感覚。それに今まで白音のことでピトーに貰った慈愛。言い表すとすればそれしかない。

 

 だから熱は振り払いつつ、続ける。

 

「でもそれは別に、私がピトーに……れ、恋愛感情を持てないとかそういうんじゃなくて……いや、難しいことはそうなんだけど、それって最初の出会いがああだったからで、私がピトーに“母親”を求めてピトーが応えてくれたから、今日までそれが続いてきたからってだけで……」

 

 一度、喉元までせり上がる羞恥を呑み込む。目を閉じ、息を吐き、脆いながらも決意して、私は告げた。

 

「出合い方が違ったら、“恋人”の関係になっていたってことも、きっとあると思うの……。だから、今からそうなることだってできるはず……でしょ……?」

 

 つまり、私が何を言いたいのかといえば――

 

「けど、そうなるにしたって時間が掛かると思うから……ほ、ほて……ホテルのことは、今日のところは一旦忘れて、ま、また別の日にって、思うんだけど……?」

 

 別にピトーとそういう行為をするのが嫌なわけじゃない。違和感がものすごいのだ。

 

 ――今のままでは“母親”とシてしまう、なんてことになってしまうから。

 

 女の子同士では子供ができないとか、そもそも異種族だとか、後の問題はどうでもいい。私がピトーの想いを受け入れられないのも、あるいは最初に“デート”の意味を疑ったのも、すべてこの一点のためだ。……そんな相手との行為を想像してしまえる自分自身が恥ずかしくてたまらないからだった。

 

 ピトーはこの問題をどう思うのだろう。いや、どうとも思わないんだろう。私がこのことを恥ずかしく思うのは“母親”を、“家族”というものを知っているからだ。生まれた時から一人ぼっちのピトーには、そういうことは想像がつかないんだろう。だから私と違って今まで心を乱したりはしなかった。

 

(……いや、待って)

 

 ということは、“恋人”だって想像がつかないはずだ。知らないものを、なんで彼女は求めようと思ったんだろう。

 浮かんだ疑問。ピトーは私の提案の後、ゆっくりとお茶を置き、それに答えた。

 

「……ボク、クロカはてっきり『嫌だ』って言うものだと思ってたにゃ。心ここにあらずっていうか、身に入ってないみたいだったから」

 

 今まではずっと内心がわかりづらい硬い表情だったけど、ピトーはそれを、ふと和らげさせた。安心するようなふにゃっとした微笑。私の動揺もいくらか緩んで、出た声は拗ねたみたいに萎んでいた。

 

「……だから、恥ずかしかったのよ。いきなり恋人とか言われて、わけがわかんなくなっちゃって……」

 

「そう。じゃあ、やっぱりよかったにゃ。ボクだけが“恋人”をよくわかっていないんじゃなくて」

 

「……それよ。なんでいきなり、よくわかっていないのにこんな……デートなんか……」

 

 今のまま、ゆっくりと慣れていけばいいじゃないか。どうせ悪魔の血を持つ身、時間はいくらでもあるのだからと、口にしたわけじゃないけれど、そう言ったのは他でもないピトーだ。

 

「“恋人”になって“結婚”すれば、ボクたち“家族”になれるんでしょ?」

 

 ただそれでも、見つけてしまった近道には手を伸ばさずにいられなかった、ということなんだろうか。

 

「ボクとクロカとの間には、シロネみたいな血の繋がりはないけど……“夫婦”なら、それが無くても“家族”。赤龍帝の両親は、そうやって繋がってた」

 

 それは確かに道の一つ。家族の形の一つ。

 けど、ピトーが言うのはいわば外面、形だけ(・・)の話だ。“家族”とは本来、目に見える形があるものじゃない。証もいらない。ただそこにある絆を言う。

 

 だから私にとって、既にピトーは家族なのだ。けれどピトーにとってはそうではない。なにせ“家族”というものが理屈ではないことを、彼女は理解できないから。

 

 キメラアントの血が、私をそう(・・)と認めないからだ。

 

 だから彼女はその本能を否定するために理屈を求め、そして私はもう、彼女の本能に寄り添うことはできない。私は元猫又の悪魔で、白音の姉だと、心に決めてしまった。

 それに関して、私からピトーに言えることは何もない。故に、仲良さげに寄りそう二匹の猫を眺めて呟く彼女を、私は静かに見つめていた。

 

「だから試してみたけど……でも、やっぱりよくわからないにゃあ」

 

 ピトーが大きく息を吐く。

 

「“恋人”になって、“結婚”して“夫婦”になったとして、それで何が変わるんだろう? ボクたちじゃ子供()が作れるわけでもないし」

 

「こど、ん゛っ……ま、まあ、そうね。結婚なんて、役所に書類を出せばそれだけで終わっちゃうくらいのものだし……」

 

 止めていた言葉と羞恥心がつい飛び出してしまったけど、頷く。形だけのそれらに意味はない。

 

「“恋心”っていうのも結局ピンと来なかったんだよね。あの人は胸が焼けつくみたいに苦しくなってドキドキするって言ってたけど……クロカならわかる?」

 

「わ、私もよくわかんないわ……。恋、とか……し、したことないから……」

 

 今まさに似た症状が出ているけど、これはあくまで恥ずかしいからだ。すっかりほてりが戻ってしまった顔をぶんぶん振って払い除ける。

 

 勝手に背いてそっぽを向く私の視界、その端では、ピトーも同様に猫を見つめたまま。思い悩んでいる表情で、ため息を吐くように鼻が鳴った。

 

「……なら、赤龍帝とかに聞くべきなのかにゃあ。アイツ、よくメス相手に欲情してるし。それに確か、同棲してる金髪が花嫁修業だとかなんとか……あ、でも、この間、黒髪のほうと“デート”してたんだって聞いたような……。“恋人”と“夫婦”が、両方いるってこと……?」

 

「あ……あれは、あんまり参考にしない方がいいと思うわ」

 

 あれが言うのは“ハーレム”だ。他の形ならともかく、女を侍らすような家族はさすがにごめん被りたい。首をかしげるピトーに、おかげで私は乗じて熱を吐き出すことができた。

 

 幾らか頭に理性が戻る。冷えて凪いだ思考。故に表に出てきた、そのささくれ。

 

(『ピンとこない』、か……)

 

 少しだけ寂しさが滲み出て、ピトーから外れた私の眼は、半ばひとりでに呟いていた。

 

「……私とのデート、ピトーは楽しかった?」

 

「うん?」

 

 なんでそんなことを聞くのかと、不思議がるような声だった。私は一度目を閉ざし、それから改めてピトーを見やる。キョトンとしたその顔が、私の様子を眼にして少し考えるそぶりを見せた。

 

「……いつもとあんまり変わらなかったかにゃ。“デート”だっていう、そういう特別な感じはしなかった。……だからもちろん、楽しかったよ。いつも通り、クロカがいたから」

 

「そう……」

 

 安堵と、そしてむず痒さ。『私がいたから楽しかった』なんて、もはや告白の言葉のようだけど、もちろんピトーにそんなつもりはない。そんな親愛が、私たちの日常であるからだ。

 

「なら、それでいいんじゃない? わかんない“恋人”なんて関係より、楽しい“いつも通り”で」

 

 結ばれなくたって、私たちはもう結ばれているんだから。そのことがピトーに理解できるようになるまで、そのままでいいじゃないか。そう言う。

 

 私は身を乗り出し、ピトーに身体を寄せた。腕が触れ合う。そこに生じる温もりからは、もはやピトーも私も抜け出せない。抜け出す気は欠片もない。

 

 せめてそのことでも伝わればいいなと、私の口は微笑んだ。

 

「……これから先、何が起こったって、私はピトーの傍を離れたりしないから」

 

 ピトーはそれに、私と同じ微笑を浮かべた。

 

「……そうだね」

 

 お互いに、それで緊張が解けたようだった。ピトーの場合は理解できないことによる焦りが、私の場合は理解してもらえないことへのもどかしさが、少なくとも、今は。

 

 にゃあ、と近くで鳴き声がした。見やれば大柄な猫が一匹、恐る恐るといったふうではあるけどこっちへ近づいてきている。

 図体と同じように、特別その猫の胆が太いというわけではないだろう。気付けば周囲の猫たちも、随分私たちへの警戒が薄れてきているようだった。その原因、そもそも彼らが私たちに強い警戒心を抱いた理由は、もしかしたら私たちの正体を見破ったからではなく、私たちの間のその緊張を見透かしていたからなのかもしれない。

 

 しかし事実がどうであれ、もはやどうでもいいことだ。私は、その猫がどうやら床に置きっぱなしのお茶菓子を狙っているらしいことに気付いて、慌ててそれを取り上げた。

 

「ああちょっと、駄目よあなたには――?」

 

 取り上げて、てっきり恨みがましくまた鳴かれるのだと思っていたけど、猫はなぜだかお菓子が置いてあった床の上で寝転がり、ぐりぐりと身体を擦り付け始めた。こころなしうっとりしているようにも見える。

 

(……おねだり?)

 

 しかしそんなにされても駄目なものは駄目。クッキーはともかくとして、上にかかってるココアパウダーなんて猫にとっては猛毒だ。

 故に、そんな毒物はさっさと処分してしまおうと、私はクッキーを一掴みにして、自身の口に放り込もうとした。

 

 ――仮にも猫とのふれあいを主とする猫カフェがそんな毒物を出すわけがないと、そう気付いたのは、ずいぶん後になってからのことだった。

 

「……ああ、でもさ」

 

 不意に、ピトーがこう言った。

 

「まだ“エッチ(・・・)”っていうのは試してないから、最後にそれだけやってみにゃい?」

 

「――んごふぁッッ!!?」

 

 盛大にむせた。口に放り込んだクッキーたちが跳ね返されるみたいに口から飛び出た。粉も噴き出しぼふっと広がるけれど、大部分は喉にへばりつき、私をさらに咳き込ませる。

 

 台詞の衝撃と喉の衝撃とでパニックで、故に感じる味が全くココアでなかったことには気付くことなく、私は急いでそれをお茶で洗い流して飲み干した。

 

「はっ、は……な、ななな、なにをいきなり、え、えええエッチって……! それ、どういう意味なのか本当にわかってる!?」

 

「わかってるよ。交尾のことでしょ? だからボクたちでするなら交尾ごっこ(・・・)になるのかにゃ? ……赤龍帝の母親がさ、『見たところウタはもうあなたのことが大好きみたいだから、必要なのはあと一押し! 思い切ってエッチに誘ってあげてみたら?』って。女同士でも今は大丈夫らしいからさ」

 

「そっそれは! この親にしてこの子ありってやつだからっ! そういうことは恋人同士になってからするものだからっ!!」

 

 なぜか興奮した様子で群がる猫たちをかき分けながら、私の吐き出したクッキーを拾い集めるピトーに必死に首を振る。粉もかかってしまったんだろう。煙たそうに眉を寄せる彼女は、立ち上がり、空いた皿にクッキーを戻すと、私の必死に首をかしげる。

 

「そう? でも赤龍帝なんかはことあるごとに欲情して、誰これ構わず子作りしようと――」

 

「いいから! お願いだから、あれを参考にしちゃだめだから! ほらもう夕方だし、そろそろ帰りましょ!」

 

 話題を断ち切るべく、私は瞬時にそう決めた。せっかく落ち着いたのに、また妙な方向に話が向かってしまうのはごめんだ。火が出たように熱い顔を振って立ち上がる。叩きつけた万札にたじろぐ店員を「おつりは迷惑料!」と言って振り切ると、ピトーの手を引き店を出た。

 

 空は私の体内時計の通り、夕日で赤く染まっていた。道を行くのは仕事終わりらしい人々。いつもの町の風景。

 

 だけど、妙に熱い。羞恥心で血行が良くなっているのだとしてもな気温。地球温暖化ってやつなのかと、いつの間にか浅く呼吸を繰り返しながら、私は道に出た。

 

 その一歩目にまた違和感。地面が傾いているように感じた。足元に見えるはずのアスファルトがどんどん歪んでせり上がって、私の身体から平衡感覚が消えると同時、意識までもが歪んで解けた。

 

 

 

「う……あ……?」

 

 目を開けると、見覚えのない天井が広がっていた。冥界の空みたいに妖しい色でぼんやり輝く、安っぽいシャンデリアが垂れ下がっている。私はどうやらそんな一室で、ベッドの上に寝かされているみたいだと気が付いた。

 

 柔らかすぎて手が埋まるマットレスに手を突いて身体を起こす。掛け布団が身体の上を滑り落ち、胸元にひんやりとした空気が吹き込み、ぶるりと震えた。どうやらシャツのボタンがいくつか外されはだけていたらしい。なんで、と思うもしかし、思考はすぐに溶けるように消えた。

 

 頭の中が、何やらふわふわと霞がかっている。自分が知らない部屋のベッドに寝ていた理由もわからない。直前の記憶が思い出せず、その疑問すら、やがて思考の底に沈んでしまう。

 ただ、熱い身体が妙に息苦しく感じた。周囲を見回す。点いていないテレビと小さな冷蔵庫、見かけだけは高級品っぽいソファとテーブル。見知ったものは、やっぱり何もない。

 

 ピトーの姿も、部屋の中には見えなかった。

 

 気付いて、途端に心細くなった。布団を押しのけ、巨大なベッドの上を四つん這いで降りる。絨毯を足で踏んで、その時、音に気が付いた。

 水音。シャワーの音だ。導かれ、私の脚はふらふらとその方向へ歩いていく。バスルームらしい扉までたどり着く頃、水音が止んで今度は代わりに柔らかな衣擦れの音が聞こえていた。

 

 そして、感じ取るいつもの気配。焦燥が意識に滲んで、私は築けば声も掛けずに扉を開け放ち、その奥で裸で髪をふいているピトーの胸に勢いよく抱き着いていた。

 

「んにゃっ!? クロカ……?」

 

 驚いた声が頭に降ってくる。そしてしっとり濡れた硬い肌に感じる、ボディソープの香りに混じったピトーのにおい。

 

 本物だ。ここにいる。そのことに、少しだけ焦燥が解け始めた。

 

 鼻で深く深呼吸してその存在を堪能し、硬いながらも柔らかい双丘に顔を押し付け、私はより強く、放すまいとピトーの身を抱きしめる。するとピトーの声色が、少し心配の色を増して私に零された。

 

「よかった、目が覚めたんだ。キミが食べたお菓子、猫用のおやつでマタタビがかかってたって店員が言ってたんだけど……んー……やっぱり、大丈夫じゃなさそうだにゃぁ、まだ……」

 

「ん……」

 

 ピトーが何か言っているけれど、頭には入ってこない。ただひたすらにくっつく私を、ピトーは半分呆れたふうに笑って抱き上げた。

 お姫様抱っこみたいな恰好。ベッドまで運ばれて、そっと下ろされた。彼女を抱きしめる私の腕も緩み、寝かされた私はピトーを見つめる。

 

 彼女は濡れ髪を垂らしながら、私の顔を覗き込んで穏やかに微笑んだ。

 

「酔っぱらってるみたいな状態だから、寝ていれば治るよ。大丈夫」

 

「あ……」

 

 伸びた手が私のおでこを撫でる。優しい、揺り籠の中にいるみたいな安心感が私を襲った。

 

 そしてそれは、すぐに私から離れようとしていた。身支度のためだ。全裸のピトーは私から慈愛の眼差しを外し、バスルームに向けている。

 

 置いて行かれてしまう。そんな恐れが噴き出して、私は思わず遠ざかりつつあったピトーの手を捕まえて、力加減も忘れて引き寄せてしまっていた。

 

「んにゃあっ!?」

 

 再びピトーが悲鳴を上げる。そして再び私の顔はピトーの双丘に押し付けられた。

 

 ピトーは慌てて起き上がろうとする。それを私はやっぱり抱き着いて留めた。

 

「ちょ、ちょっと、クロ――」

 

「ヤダ」

 

 彼女の胸の中で言葉も断ち切る。このままがいい、何も変えたくない、この安らぎは。頭の中はそんな思いでいっぱいだった。

 

 尚も私から離れようとするピトーを抱きしめたまま、私はベッドの上でくるりと転がり、上下を入れ替え馬乗りになった。彼女の尻尾に私の尻尾が絡みつく。腕を離して押し倒した彼女を見下ろして、胸の苦しみを押し出した。

 

「行かないでよ……」

 

 私をまっすぐ見つめるピトーは、丸い目をぱちぱち瞬きさせた。何を言っているんだ、とでも言うような顔。見ていられなくて、私はまたピトーに抱き着き、彼女の胸に頬を押し付けた。

 

「……エッチも、していいから……。私の傍から、いなくならないで……」

 

 また捨てられないためなら、それくらいどうってことなかった。ピトーが何かを言う前に、その胸の頂を口に含む。彼女の身体がビクンと跳ねて、鼻が鳴るみたいな小さな喘ぎ声が漏れ出した。

 

 吸いつき、唇で食むたびにピトーは反応したけど、彼女はすぐにそれを抑え込んだ。手が、私の頭を優しく撫でた。

 暖かい。髪の毛を梳くようにされる度、不安が溶けて消えていくようだった。

 

「……いなくならないよ。ボクにだって、クロカが必要だからにゃ」

 

 静かに、その言葉が耳朶に流れる。それは穏やかな安堵になって私の心を揺蕩わせ、いい子いい子と私を寝かしつける手のリズムが、ゆっくりと目を閉ざさせる。

 ピトーに与えられる睡魔は抗い難く、抗おうという気すら起こさせず、私はピトーのにおいと温もりに包まれながら、腕の中でいつしか眠りに落ちていた。

 

 

 

「ふぁ……」

 

 というクロカのあくびと一緒に胸の上の重さが消えて、ボクの意識も目覚めを迎えた。

 

 閉じる瞼を微睡みから引きずり出し、ボクは薄く目を開ける。カーテンの隙間から差し込み、部屋を薄ぼんやりと照らす朝日。小鳥の鳴き声がガラス越しにかすかに聞こえるそんな中、クロカはボクの隣で身を起こし、寝ぼけ眼を擦っていた。

 

 また一つあくびをする。ぼんやりした様子で周囲を見回す彼女に、ボクはいつも通りの習慣で気怠く囁いた。

 

「……おはよ」

 

「ぁふ……おはよぉ……」

 

 朝に弱いボクたちの、普段の光景。ただ、場所は本拠地とするマンションでも、駒王町での拠点でもない。どこにでもある、所謂ラブホテルの一室だ。

 

 クロカもそれに気付いたらしく、気分悪そうに額を押さえながら、目を細めた。

 

「……ここ、どこ……?」

 

「ホテル」

 

 答える。

 

「猫カフェでクロカが食べたお菓子、猫用のおやつだったんだよ。かかってたマタタビを一気に摂取したから……急性アルコール中毒みたいになったのかにゃ? 倒れちゃったから、運んできたんだよ。……覚えてる?」

 

「マタタビ……うぅん……あんまり……猫カフェ、行ったんだっけ……いや、行ったような……って、ホテル……?」

 

 半ば記憶が飛んでしまっているらしいクロカ。彼女はしばらく頭をふらふら揺らして思い出そうと苦心していた様子だったが、やがてふと、思い出せずともそれに気付く。

 

 周囲を再び見回して、眠気のはじけ飛んだ眼が冴える。隣で布団をかぶったままのボクに、彼女は恐る恐るに顔を近づけか細く尋ねた。

 

「わ、私何も覚えてないんだけど……私、変なことしてないわよね……? いやその……ラブホテル、でしょ……?」

 

 やはり、どうやらマタタビにやられてからのことは完全に忘れ去ってしまっているらしい。その前の事象すらあやふやなのだから、当然のことか。

 

 あのクロカをを覚えているのは、ボクだけ。

 

「何もなかったよ」

 

 だからボクは枕の上でゆるゆる首を横に振った。

 

 恐らく、教えれば彼女は羞恥からそれを謝り、否定するだろう。ボクとてあの告白が酔っぱらいの戯言同然に効力を持たないことはわかっているが、しかし、ならばもったいないじゃないか。

 

 心の内に秘めることにして、素知らぬ顔で続けて説明する。

 

「酔って倒れたって言ったじゃにゃい。今までぐっすりだったよ。……で、大丈夫? 意識ははっきりしてる?」

 

「う……ん、ちょっと頭痛い……」

 

「じゃあシャワーでも浴びてきなよ。まだ身体にマタタビがくっついてるのかも」

 

「……そうするわ」

 

 呟くように言って、頭を押さえるクロカはベッドを出てバスルームへと向かった。閉じられる扉を眺めながら、ボクは小さく息を吐く。

 

 彼女があの時を覚えていないなら、それでいい。少し青くなった彼女の顔にため息が漏れても、それでいいのだ。

 

(だって……わざわざ教えるのは、僕もちょっと恥ずかしいし……)

 

 クロカの舌使いの感覚と甘い熱が残る胸の突起と、その奥でむず痒く拍動する心臓。

 

 やっぱりマタタビが残っていたのか、ボクは熱を持つ顔を手で扇ぎ、それでも冷却されない温かさを抱えたまま、布団を押しのけ隠していた裸身を晒し、脱ぎ捨てっぱなしの服を取りに向かった。




以上、ピトーと黒歌の恋愛的イチャイチャでした。
ただあくまで番外編なので、本編とはアレな感じです。よろしくお願いします。
そして感想ください。


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第一部 二房のねこじゃらし
一話


『念』と『仙術』のすり合わせのために設定がふわふわしてるのはご愛敬

20/3/20 本文を修正しました。


 薄い羊膜のような殻を破り、生まれ出たボクの目に最初に映りこんだのは、青い血と臓物と、大小様々な甲殻の破片だった。

 

 ただっぴろい空間。地面を埋め尽くし、積みあがったそれらが、自分と同じく『王』に奉仕するために生まれたものたちであることは、誰に教えられた訳でもなく本能的にわかった。そして同時に、この『巣』が何か致命的な事態に陥っていることも理解する。混乱する暇もなく、ボクは無地の脳へ光を走らせていた。

 この際、発生した『何か』は重要でない。どうすれば、ボクは自身の務めを果たすことができるのか。

 

 存在意義だ。ボクは生まれながら『王直属護衛軍』という役目を背負っていた。無数に存在する『兵』とは違い、ボクを含めて三人しか生まれることのない『護衛軍』の使命は、名の通り、『王』を守り、その覇道をお助けすること。

 だがしかし、『王』はまだ生まれていないだろう。なぜならボクがまだ生まれたばかりで、家臣が『王』よりも遅く目覚めることなどありえないからだ。

 

 故に今のボクがすべきことは、『巣』や『兵』の損失など気にする間もなく、『王』の揺り籠たる『女王』の身を守ること。

 

 ボクは羊水に濡れた地面を蹴り、駆け出した。暖かい金臭さの元を飛び越え、土を固めて建造された『巣』の中を、『女王』を探して駆けずり回る。

 

 そして見つけた。『女王』と、それを囲む皮膜の羽を生やした二本足の生物たち。

 

 思えばそんな確証など、ありはしなかったのだ。『巣』の中はそこら中、兵の死体ばかり。息のあるものなどいなかった。

 

 『女王』もそうであると、どうして思わなかったのだろう。

 

 『女王』は死んでいた。

 

 四肢はもがれ、腹には大きな穴が開き、頭は潰れていた。完全に、完璧なまでに『女王』は死んでいた。『王』をその胎に宿すことなく、死んだ。

 

 誰が?いったい誰が『女王』を、『王』を殺した?

 

 決まってる。

 

 ボクは躊躇いなく、その生物に襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 駆除は驚くほどあっさり完遂された。

 

 不意を突いて数匹を即殺して、あとはあまりよく覚えていないが、立ち上る血の臭いと引き換えに、『巣』は静けさを取り戻した。

 

 ボクは崩れ落ちるようにして地べたに腰を下ろした。ひたひたと、零れ落ちては地に吸い込まれる侵入者の赤い血を眺めていると、頭の中の赤色も一緒に流れ落ちていくようだった。

 

 これにいったい何の意味があったのだろうか。

 

 ふと思った。

 

 『女王』は最初から死んでいて、『王』は生まれてもいない。そして恐らく、他二匹の『護衛軍』もそうだろう。

 例えばもしここでボクが侵入者共に殺されていても、『王』の覇道が潰えた、という事実は変わらない。ボクが一人だけ生き残ったって意味がない。

 

 『王』がいなければこの命に価値など、存在意義などないのだから。

 

「ボクは、いったい――」

 

 何なのだろうか、という呆然とした言葉は、濃い死臭の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 それからボクは『巣』を出て、日も射さぬ樹海の中でいまだ生きている。ただ物を口に入れて眠るだけの日々で、どちらかというと『死んでいないだけ』といったほうが合っているかもしれないが、時折頭をよぎる『なぜまだ生きているんだろう』という邪念を振り払って、ともかくボクは生きていた。

 

 そうやって生きながらえて日が十回は昇ったころ、ボクはその娘に出会った。

 

 

 

 

 

 いつものように何をするでもなく、ただ木にもたれかかってぼんやり宙を眺めていた時だった。突然、すぐそばで大きな葉擦れの音が鳴った。

 

 それに驚き確かめるような情動はすでになく、ボクは梢の枝葉を見つめたままため息を吐く。

 虫か獣か、それともあの時の侵入者の仲間か。ボクがまだ『護衛軍』であれば警戒の一つでもしたのだろうが、今となっては心底どうでもよかった。近づいてこなければ放っておくし、向かってくるなら胃に収めてやるだけだ。それが仇討ちに来たのであれば、あるいはこのつまらない命を終わらせてくれるかもしれない。

 

 そう、それはもしかしたら、いいかもしれない。

 

 ボクは目をつぶり身体を弛緩させた。ようやく、本当の意味での眠りを得ることができるかもしれないと。

 だが、いくら待てどもそれは訪れない。それどころか、葉擦れの主が立ち去ったような気配もしない。

 

 さすがに不思議に思い、ボクは気だるい身体を起こして葉擦れのほうを振り向いた。

 

 瞬間、名状しがたい衝撃が、ボクの全身を襲った。

 

 最初に目についたのは、その耳だった。木々の暗闇に溶け込んだ濡れ羽色の頭に、同色の三角耳が乗っていた。そしてそのうつ伏せの身体をたどっていくと、これまた同色の二股に分かれたしっぽ。

 

 数瞬前まで興味の欠片もなかったにもかかわらず、途端にボクの眼はその姿に釘付けになる。今まで見てきた生き物はおろか、死んだ『兵士』たちや『女王』にも見ることがなかったその形。

 

 無意識的に、自らの頭の、彼女のそれとよく似た耳へと手が伸びた。

 

 水場の水面で知った自分の耳と、彼女のそれは驚くほどよく似ているように思えた。尻尾も、ボクのものは二股ではなかったが毛並みも形状も全くそっくりで、もはやボクは身の内に込み上げる奇妙な衝動に耐えることができなかった。

 

 意を決して、ボクは彼女が倒れる暗がりへと歩み寄る。そろりそろりと近づいて、そして何事もなく傍へ膝を突いた。覗き込むと、口元の草が微かに揺れている。どうやら息はあるらしく、ボクはほっと胸をなでおろし、その身体を慎重にひっくり返した。

 

 耳と尻尾の有無、そしてわずかな差異はあれど、気配と身体のつくりから見て、『巣』を襲ったやつらと同じ種類の生物なのだろう。だが、仇討ちに来たわけではないらしい。

 

 その身体はボロボロだった。

 

 服の裏には殴られた傷や切り傷刺し傷、どうやったのか、内側から爆ぜたような傷が全身を赤で染めており、右腕に至っては肩のあたりから千切れかけていた。顔に刻まれた醜く深い傷は眼球にまで及んでいるだろう。

 

 そして何より全身が冷え切っている。血が足りないのだ。

 

 このままでは死んでしまう。そう理解した瞬間、『女王』の亡骸がボクの脳裏をよぎり、悪寒が走った。その悪寒が『この娘を助ける』という思いに転じるには一秒もかからない。

 

 そうやって思いに突き動かされたボクは、彼女の腕に触れたと同時に固まった。

 

 小さな傷はいい。だが、腹に空いた穴は?えぐり取られた顔面は?引き千切られた右腕は?足りない血はどうする?

 

 どうすれば助けられる?

 

 何もかもが足りない。そもそも、これほどの重傷を負ってまだ生きていること自体が、信じがたいほどの奇跡なのだ。思いつける手当てでどうにかできるような段階ではない。

 

 助けようにも助け方がわからない。手の施しようがない。

 

 なら、諦める?

 

 そんなことは考えられない。

 

 胸の息苦しさが諦めることを拒否して熱いものへ変わり、ボクは彼女の手を、包み込むようにしてぎゅっと握った。

 

 あの『死』を、もう二度と見たくない。

 誰に祈るでもなく、ただ強く願った。

 

(――おねがい)

 

 この子を助けて。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)

 

 ずるりと、身体の中の何かが抜け出たような感覚がした。

 

 固く閉じていた瞼を開けると、『それ』は彼女の上に浮かんでいた。

 大きな頭に大きな目、そして大きな胴体。下半身はなく、ひもが一本伸びているだけの『それ』は、明らかにまともな生物ではなかった。むしろ命があるのかさえ疑わしいものだったが、不思議なことにボクはわずかな警戒心も抱くことはなかった。

 

「キミは……」

 

 吸い込まれそうな透明感の、その瞳を見つめ呟くと、それは一瞬だけボクを見つめ返し、次いで仰向けの彼女に眼を落とした。

 

 ボクはようやく、『それ』が何のためにこの場に現れたのか、いや、ボクがなぜ『それ』を作り出したのかを理解した。

 

「この娘を、助けて」

 

 『それ』の顔は相変わらず無表情だった。だが、その眼はより深く、透き通った色に沈んだように見えた。

 それがきっかけになったのだろうか。突如として『それ』の胸元が扉のようにぱかっと開き、中の闇から細い手のようなものが無数に生え出した。同時に両手の指からも同じものが伸びて、それらはゆっくりと彼女の傷へと降りて行く。

 

 そうして『それ』は治療を始めた。

 

 執刀の手はひどくゆっくりとしていて、今にも彼女が死んでしまうんじゃないかとひやひやするほどだったが、それでも確実に治療は進み、高かった日が夕暮れに沈んだころ、ボクの中の何かを吸い続けながら、『それ』はようやくすべての傷を塞ぎ終えた。

 

 跡一つなく、とまではいかずもとにかく血は止まり、血色も回復しつつある彼女を見やると、『それ』は「役目は終わった」と言わんばかりに姿をかき消してしまう。

 

「……ありがとう」

 

 煙のように消え去った『それ』を、息を吐き出すようにして見送った。ずっとつないでいた彼女の手が暖かさを取り戻しつつあることに気付き、改めて安堵する。張り詰めた気が抜けて、断ち切られた堰の向こうから押し寄せる疲労感に押し流されたボクは、一瞬のうちに全身の力を狩り取られ、彼女の隣に倒れこんだ。

 『それ』に吸われていた何かは、言わばボクのエネルギーだったのだろう。そこまで絞り尽くしたために抵抗はできず、誘惑に負けて目を閉じればもうそれまで。あっという間に、ボクは夢も見ないほどの深い眠りに落ちていった。

 

 なぜ、命を削ってまで名前も知らぬ彼女を助けたのか、根本的なところで気付かぬまま、二匹の猫の姿は着々と深まる夜の闇に飲まれていった。

 

 

 

 

 

「こっちに、来ないでッ!」

 

 声が聞こえる。

 

「どうして、こんなことを……」

 

 愛すべき我が妹の、怒りと恐怖に濡れた悲鳴が。

 

「いやッ!あなたと一緒になんて、行きたくない!」

 

 差し出した手を払い除ける音。

 

「お願いですから……どこかに行って。もうわたしに関わらないで――もう、一人にして……」

 

 ずっと一緒に生きてきたのに、なんでそんな顔をするの?なんで、私を怖がるの?

 

 なんで――

 

「っあ……!」

 

 悪夢からはじき出されるようにして目が覚めた。と同時に全身へ激痛が走り、飛び起きようと跳ねた私は再び地面に転がった。

 

 あまりの痛みに、頭はすぐクリアになった。が、対照的に手足の感覚はひどく朧気で、まるで自分のもでないかのよう。肌に見える傷は大半が薄いかさぶたを張って、快方に向かいつつあるようだが、それでもまともに動けるとは思えないような状態だった。

 

 私は息を吐きつつ、強張った全身からゆっくり力を抜いていく。悪夢の名残を振り払って目を閉じるとこうなった経緯を思い出し、まあ当然か、と私は自嘲した。

 

 あの腐れ悪魔の元マスターと戦って殺し、その眷属と戦って殺し、本家の奴らと戦って殺し。合計すればうん十人にも上る悪魔たちと殺し合ったのだ。こうもなるだろう。あの時散々取り込んだ『気』もほとんど残っていないようだし、むしろ生きているのが不思議なくらいだ。

 

 しかし、いったいここはどこなのだろう。

 

 肌にまとわりつく空気の独特な感触から察するに、冥界から脱出できたわけではないだろうが、眼前に広がるのは木々と木の葉、草花ばかりで直前の記憶とはこれっぽっちも一致しない。どことも知れぬ森の中だ。

 

 転移の魔法が暴発でもしたのだろう。館を逃げ出した後、追手の悪魔に追われている最中の記憶は、正直あやふやだ。意識朦朧としていたその時の自分が苦し紛れに使って、どことも知れぬ場所に飛ばされてしまった、と考えればとりあえず納得はいく。

 悪魔の駒で転生して悪魔になったとはいえ、私は元々妖怪の猫又だ。魔法に関しては成熟しているとは言い難く、そもそも転移魔法とは本来専用の魔法陣を必要とするような高等魔法なのだ。それを死にかけの状態で、しかも魔法陣なしで行使するなど、そんなもの、まともに成功するはずもない。上半身と下半身が別々に転移、なんてことになっていない分、私は幸運だ。

 

 そう、生きているだけ儲けもの。

 

 顔面、特に右目を頭蓋の奥から殴りつけられているような鈍痛に、私は脂汗を流しながらため息をついた。

 

 身体は、結構な個所が駄目になっている。どこをどう動かしても激痛が走った。

 骨は少なくない数が折れているだろうし、筋肉や内臓の損傷だってあるだろう。生憎首が曲げられなくて見えないが、欠損している部位もあるかもしれない。歩くどころか動くことすらままならない身体。

 

(あれ?これって私しばらくしたら死んじゃうんじゃ……)

 

 水音も聞こえない鬱蒼とした森の中、死の淵から半分身を乗り出しているようなこの身体で、いったい何日生き延びれるのか。仮に生き延びたとして、この身体は治せるのか。

 

 なにが「生きているだけ儲けもの」だ。ほとんど詰んでるじゃないか。

 

「どうしよ……」

 

 喉からかすれ声をひねり出した。その時だった。

 

 ゾワ

 

 突然、尋常でなく不気味な『気』が私の全身を覆った。

 

「――ッッ!!」

 

 心臓が破裂しそうなほどの衝撃。怯えに囚われた身体が、痛みを無視してそこから離れようともがく。その拍子に一瞬だけ視界が持ち上がり、そこに私は信じられないものを見た。

 

「んにゃぁー」

 

 などという既視感のある伸びをしながら、この禍々しい『気』をまき散らすそいつ。

 

 うねった銀髪の上には、一対の猫耳が乗っていた。

 腰のあたりにはやはり猫のような尻尾が生えており、猫の獣人か、あるいは自分と同じ妖怪の猫又かと一瞬思ったが、すぐに誤りだと気が付いた。

 

 そいつの関節部は異様なものだった。まるで人形の球体関節のようで、よくよく見れば手の指も四本しかない。きちんと服を着ているところを見るに、知性なき魔獣ではないだろうが、そいつは全く未知の生物だった。

 

 だが、私の本能が真に恐れたのはそこではない。問題なのは、足から手まで順繰りに伸びをするそいつが、いやでも身体が反応してしまうような『気』を放つそいつが、もはや隣と言っていいほどの近距離に突如として出現した、ということだった。

 

 自身の『気』を隠す技は確かに存在する。が、仙術という、体外の『気』を操る術を修めている私でさえ気づけないほど完璧に『気』を隠すことができるなど、信じることができようか。

 

 つまりこの謎の猫は、それらの技術をここまで昇華できるだけの才能があり、『気』はこの世のあらゆる『邪気』を孕んでいるかの如く不気味で、冥界にも人間界にも見られないような異様な造りの身体を持つ、二つの意味でのバケモノだということだ。

 

「あんた、いったい何なのよ……」

 

 そいつの背中を呆然と見つめながら、私は呟いた。その声に反応したのか、耳がピクリと動く。

 

「『いったい何』ねぇ……実はボクも同じことを聞いてみたかったんだよね」

 

 頭だけで振り返ってそいつは言うと、その赤褐色の瞳で私を捉える。次の瞬間、感じていた『気』の圧が何倍にも膨れ上がった。

 

 背が冷える。ただ無造作に垂れ流していた今まででも相当だったが、それが整い、いっぺんにこちらへ向くと威圧感がすさまじい。

 

「ねぇ、キミって、何者?」

 

 その言葉の端々に自分の身体が飲み込まれていくような気がして、気が付けば私の頭でその問いが乱反射を起こしていた。

 

 何者。私とは誰なのか。

 

「く、黒歌(くろか)……」

 

 とりあえず自分の名前を告げた。

 

 答えてから気付く。「名前は?」ではなく「何者か?」という質問に対してそれは違うんじゃなかろうか、と。

 

 実際、そいつの反応は芳しくなかった。

 

「クロカ……?それがキミたちの名前?」

 

「え?『たち』……?い、いやいや!違うわよ!私の!黒歌は私の名前!」

 

「うん?違うの?キミはクロカで、なら他のキミもクロカじゃないの?」

 

 そう言って、訳がわからないと眉を寄せるそいつに、私は頭の中がこんがらがっていくのを感じた。

 

 この謎の猫、個人名と種族名を混同しているんじゃなかろうか。

 

「だ、だから!私の名前よ黒歌っていうのは!種族は妖怪の猫又……いや、今は悪魔に転生したんだけど……と、とにかく!黒歌は私個人の名前で、名称!個人識別名!なのよ!」

 

「個人の名前?」

 

「……そうよ。あんたにもあるでしょ?あんた自身を指し示す名前」

 

 ぜいぜいと息を吐き、酷使した喉から鉄臭い血を吐き捨てる。

 

 謎の猫がうんうん唸って考え込む間、私は痛む胸を押さえて息を整える。幾らか落ち着いて再び顔を上げた時、その真ん丸な眼がちょうど喜色に見開かれた。

 

「ああそうだ!ネフェルピトーだよボクの名前。なんとなくだけど、ずっと前に女王がボクをそう呼んでたような記憶が――」

 

 その時、私の身体がその単語に反応してびくりと跳ねた。反射的に脳味噌が戦闘に切り替わり、そして――腕をほんの少し持ち上げただけで身を貫く激痛に、瞬時に思考の冷静を取り戻した。

 

「……何か変なのでも見えた?」

 

 今目の前に。

 

 などと軽口をたたく余裕はなく、みょうちくりんな体勢で無意味に悶絶するという、なんとも間抜けな有様を晒しながら、私は痛みと一緒に長々と息を吐き出した。

 

 そうやって硬直する身体を解きほぐすと、私は意を決し、尋ねた。

 

「あんた、女王って……もしかして転生悪魔なの……?」

 

 感じる気配はその『気』のせいか、そうであると断言しづらいが、それでも今の私はそれを曖昧にすることをよしとできなかった。

 

 なんといっても、私は悪魔にとってお尋ね者なのだ。

 

 確かに当初は、その外見からネフェルピトーを未知の生物と評したが、しかし転生悪魔に限ってはその判別法は通じない。悪魔たちは悪魔の駒(イーヴィルピース)というチェスの駒を模した道具で、他種族を悪魔に転生させることができるからだ。

 

 かくいう私もそれで悪魔になった身だが、ともかく、ピトーがどういった立場であるかは、私にとって早急に知らねばならない最重要点であった。

 

 そのために、いざとなればと覚悟を決めてピトーの答えを待っていたわけだが、しかし、その覚悟は妙な方向に裏切られた。

 

「『テンセイアクマ』?うーん、知らないにゃ。まあ、ボクが卵から生まれた時には皆死んじゃってたし、知りようなんてないんだけどね」

 

「卵!?あんた、そんななりして卵生なの!?悪魔になってそれなりにたつけど、そんな生物が冥界にいるなんて聞いたことないわ……」

 

「『アクマ』?『メイカイ』?また知らない単語。ねえ、それってどういうものなの?」

 

「うそでしょ……?」

 

 冥界で暮らしているくせに悪魔すら知らないとはさすがに思ってもみなかった。いったいこの謎の猫は何なのだろうか。

 

 私を油断させるための演技?いや、現在の力量差からしてもそんなことをする意味はない。したとしても、もっとましな嘘をつくはずだ。

 だとしたらこれはすべて本当で、ピトーはただの世間知らずということか?それが疑わしいからこそこうやって悩んでいるんじゃないか。

 ならばこれはすべて夢で、現実の私はぐっすり眠っているか、あるいはもう死んでる?あらゆる意味で論外だ。

 

 謎だ。ピトーの正体からその背後、現状に至るまですべてが不明瞭。思えば嫌に禍々しいその『気』の謎も全く解明できていない。まるで、まっさらのパズルを前にして途方に暮れているような気分に、私は嘆息した。

 

 もっと情報が必要だ。

 

 経歴に能力、身長体重嗜好までなんでも、できる限り知ってネフェルピトーという存在を把握しなければならない。でなければ枕を高くして眠れないと直感した。

 

 そしてどうせなら、舌戦の上だけでも優位を取っておきたい。

 

 現在の私とピトーの立場、力関係は明らかだ。ピトーが上で、私が下。戦うなんていう選択肢を選ぶ余地もないくらい、差は明白に隔絶している。

 今はおとなしくおしゃべりに甘んじているが、それも彼女の気分次第だ。いつ豹変して襲い掛かって来るかもわからず、そして私は動くことすらままならない。

 

 故に私の身の安全のためにも、ピトーの中の私の立ち位置を引き上げて、行動を縛ってしまうのが望ましい。

 ならばいっそと、私はわざとらしく咳払いをしてみせた。

 

「こほん。ねえ、ピトー。私と取引しない?」

 

「取引?」

 

 ピトーがきょとんとした顔で首を傾げた。「そうよ」と返し、威厳を示すために歯を食いしばりながら上半身だけ起き上がってその身を木に預ける。過程で何度か苦悶が漏れてしまったような気もするが、それを無視して私はニヤリと、不敵な表情を塗り重ねた。

 

「悪魔の本業でもあるのよ。願いを叶える代わりに対価をもらうの。大昔は魂が対価だったみたいだけどそれは論外として……今回の場合、私が提供するのはあんたの疑問に対する答え。つまり悪魔がどういうものなのか、とかね。一般常識を教える代わりに、私に対価を……あなたのことを教えてほしいの。どう?」

 

 気が急いて身の安全の保障を求めそうになったのを辛うじて自制して、私は痛みに顔を引きつらせながらも微笑みを貫き通した。

 

 いきなり最終目標を提示する必要はない。ピトーがこれに乗ってくれば、どちらにせよ取引中は安全なのだ。砂漠で新鮮な水が詰まった水筒を割るバカではないだろう。

 

「ふぅん。取引ねぇ……」

 

 それもピトーが水を欲していなければ無価値なのだが。

 

「……どうなの?」

 

 内心で冷や汗を流し、私は気付かれぬように拳を握った。痛みが僅かなりとも不安を誤魔化してくれる。

 

「……にゃるほど。うん、いいよ。その取引乗った」

 

 その言葉を耳にした瞬間、脱力した身体がさらに脱力して、スライムにでもなったようなとろける安堵が全身を襲い、私は耐えられずに小さくため息を吐いた。

 

 とりあえず、不測の事態で殺されることは恐らくなくなった。

 

 ひとしきり胸をなでおろし、次いで気が変わらぬうちに施行しなければと急かされた私の頭は、なぜか悪そうな笑みを浮かべているピトーにまた一つ咳払いをした。

 

「じゃあまずは……悪魔についてでいい?さっきも言った通り、人の願いを叶えたりしてる存在で、まあ、私の種族でもあるわけなのよ。とはいえ私は転生悪魔って言って、妖怪の猫又から後天的に悪魔になったんだけど――」

 

「耳は?」

 

 私の言葉を遮って、ピトーが言った。まだおちょくり足りないのかと悪戯顔を想像したが、ピトーの表情は意外にもそれなりに真面目だった。

 

「キミの耳と、あと尻尾は、『ヨウカイのネコマタ』と『アクマ』、どっちなの?」

 

「み、耳?それは、猫又としてのものだけど……」

 

 「なんでそんなことを?」と続く言葉はやめておいた。

 

 余計なことを聞いて地雷を踏むわけにはいかない、と思ったためでもあるが、ピトーが手を伸ばした自らの頭の上に、同じような猫耳が乗っていることを思い出したからでもあった。

 

「にゃるほど、にゃるほど。つまりボクの正体は『ヨウカイのネコマタ』だった、っていうことだ!」

 

「そんなわけないでしょ!あんたみたいなヘンテコな猫又がいてたまるもんですか!」

 

 かといってこんな発想に至るとは思っていなかったが。

 

 「え?違うの?」とでも言いたげに首をかしげるピトーに気疲れのため息を吐き、私は望み薄な答えを求めてとりあえずと聞いた。

 

「次、私の番だけど……まあ、一応聞くわ。あんたっていったい何者なの?どうして私の隣で寝ていたの?」

 

 心なしかしょんぼりとしたピトーが答える。

 

「『何者なのか』、ね。『アクマ』とか『ヨウカイ』とか、キミたちが付けた種族名のことを聞いていて、それが『ネコマタ』じゃないって言うなら、ボクは知らない。けど、そうだねぇ。言えるとしたら、ボクは『王』に仕える『王直属護衛軍』だった、ってことくらいかにゃ。でも、『王』が生まれる前に『女王』も『兵』も全滅しちゃったし、そういう意味では『ピトーだ』としか答えられにゃい」

 

「『王』と『女王』に『兵』……ねえ、ほんとにあんた転生悪魔じゃないのよね……?」

 

「『テンセイアクマ』だと『アクマ』や『メイカイ』を知らないのはおかしいんでしょ?実際ボクは知らなかったし、『テンセイアクマ』だっていう自覚もない。これ以上の証明はいらないと思うけど?」

 

 ごもっともだ。しかしそうなれば、ますますもってピトーの正体がわからない。話から察するに、『王』を頂点としたコミュニティーを築く種族のようだが、冥界が広いとはいえ、ある程度の文明と強さを持つであろう彼女の種族が悪魔たちの中でまったく知られていない、などということがあり得るのだろうか。それにどうやら彼女以外の同族は皆死んでしまったらしい。これがドラゴンなら、悪魔界どころか世界中の神話体系も巻き込んでの大騒ぎになるに違いないというのに。

 

 いや、まてよ。

 

 私はふと気が付いて、ピトーに尋ねた。

 

「ねえ、さっき『全滅しちゃった』って言ってたけど、それってもしかして、殺されたってこと」

 

「うん、そうだよ。ボクが生まれたころには皆殺されちゃってたんだ。多分、『アクマ』にね」

 

 やはり、彼女たちは人知れず迫害されていたのだ。正直に言って異様としか評せないその身体だ。恐れた悪魔は多かったのだろう。

 誰も進んで関わろうとはせず、どこかの辺境に押し込まれたまま、ついに『退治』されてしまったのだ。

 

「まあ、そいつらは全員殺して食べちゃったから、もう確かめようがないんだけど」

 

「た、食べ!?」

 

 前言撤回だ。それなら誰だって排除して退治するに決まってる。悪魔にとっての悪者はこっちだった。

 

「な、なら、これが終わったら私のことも、た、食べる気?そ、そりゃそうよね。あんたにとって悪魔は、仲間を殺した仇なんだし……」

 

「んー、それもいいけど、やめとくにゃ。せっかく気絶してまで治療したんだから、もったいないし」

 

「そ、そう……それならよかったけど……治療?治療って、何を?」

 

「そんなの決まってるじゃない?キミをだよ。特にこことか、すごく酷かったんだから」

 

 と言いつつ、ピトーが私のそこかしこが破れた着物に手をかけて、脱がそうとぐいぐい引っ張ってくる。同性(?)とはいえさすがに羞恥を覚え抵抗を試みるが、傷だらけの身体で何ができるわけもなく、布地が裂ける甲高い音と共に、無残にも私は剥かれてしまった。

 

「ほら、ここ」

 

「な、何するのよ!早く着物返して……え!?これ……」

 

 木漏れ日に晒された自分のおなか。ピトーが示すわき腹のあたりに、大きな縫合痕が刻まれていた。

 

 いや、それだけではない。ほかにも大小無数の縫合痕が、青紫のあざと共に身体中に散らばっている。見えていた胸元辺りよりもずっとひどい、むしろ私は今頃死んでいなければおかしいんじゃないか、と思えるほどに、私の身体はボロボロだった。

 

「腕もね、肩から捥げかけてたんだよ。あと顔も」

 

 平坦な声で告げられて、右肩の違和感に気が付いた。言われてみると左肩よりも少しだけ動かしづらく、皮膚が引っ張られているような感覚がした。

 

 もちろん、それらの治療された傷跡に見覚えはなく、ならばピトーが私を治療したというのも嘘ではないのだろう。

 

「確かに、あんたが私を助けてくれたってのは本当みたい。それにはお礼を言うわ、ありがとう。けど、いったいどうやったらこんなにきれいに縫合できるの?化膿もしてなさそうだし、こんな森の中にこんなことができる設備があるとは思えないんだけど……あと早く着物返しなさいよ」

 

 痛みに耐えつつ腕を伸ばし、もはや布切れと化した着物を奪い取る。何とか隠すべきところは隠すことに成功し、ほっと息をついた私に、なんだかやけに無表情なピトーが言った。

 

「キミを治したのは、あー、なんて言うか、厳密にはボクじゃなくって……ボクのエネルギーみたいなものを吸って生まれた人形のおかげなんだ。あれを出したのはキミの時の一回が初めてで、そのあとはすぐに消えてボクも疲れて眠っちゃったから、どういうものなのかはほとんどわからないんだけど」

 

「もしかしたらとは思ったけど、やっぱりあんた『(ネン)』が使えるのね」

 

 『ピトーの何かを吸って生まれた人形』。私はすぐ、それの正体に思い当たった。あれほどの『気』を操る才能があるのだ。『(ハツ)』を習得していたって何らおかしくはない。しかし、

 

「でも、なんで?魔力がないってわけじゃなさそうだし、どうしてわざわざ『念』を学んだの?だって『念』より魔力のほうが――」

 

「はーい、ストップ!」

 

 突然ピトーの手が目の前に飛び出して、私の口は止まった。

 

 あっけにとられた私を差し置いて、打って変わってピトーは楽しそうに笑いながら、私を指さして言う。

 

「サービスはここまで。ねえクロカ、キミ、自分が取引って言ったこと覚えてる?それと、自分が何回連続で質問したかは?」

 

「え?えっと……」

 

「覚えてない?まあそれはともかく、しばらくはボクの番でいいよね。クロカのルールを守れる程度に質問するけど、ちゃんと答えてね?」

 

 ピトーが纏う『気』に一瞬だけ揺らぎが生じ、ほんの少しの嫌な予感が頭をよぎるが、すぐさまそれは申し訳なさに掻き消える。私の善性がピトーの主張に納得してしまったのだ。

 

「じゃあ、さっそくだけど」

 

 ピトーが私の隣に腰を下ろす。

 

「『ネン』って、何?」

 

 こいつに驚かされることはもう何度目だろうか。それだけ『気』を振りまいておいて、まさかその総称である『念』という言葉すら知らないとは。

 いや、わかってはいる。確かに『念』と知らずに使えるような者もいないわけではないが、それにしたって彼女の力量は高すぎるのだ。ぶん殴ってやりたくなるほどの才能。

 

 話を聞く限り、ピトーは生まれた直後に同胞を皆失ったというし、教える者が居なかったといえばそうなのだろう。だが、ものをよく知らないところもそうだが、彼女の背格好は私と大して変わらない。どれほどかは知らないが、彼女はそれなりに長い間、森で生きてきたはずなのだ。私のように『悪魔喰い』というその正体を知らずに接触した者の一人や二人、いてもよさそうなものだが。

 

 まさか問答無用で食らってきたんじゃ、と怖気が走る妄想にかぶりを振り、私は気付けに咳ばらいを一つすると、頭の奥の『念』の知識を引っ張り出した。

 

「『念』っていうのは――」

 

 自身の肉体の『精孔(しょうこう)』と呼ばれるごく小さな穴から溢れる体内エネルギー、すなわち『気』を操る技術のことだ。

 

 『四大行(よんたいぎょう)』という四つの基本から成り、それぞれ『(テン)』、『(ゼツ)』、『(レン)』、『(ハツ)』。その内、ピトーが私の傍で寝ていた時に使っていた気配断ちの技が『絶』、治療を施した人形が『発』に当たるものだろう。

 

 『絶』はピトーがした通り、自身の気配を絶つ技だ。より詳しく言うのなら、全身にある『精孔』を閉じ、体外に流れ出る『気』を絶つ技を言う。それはつまり体内に生命エネルギーたる『気』を満たすということでもあり、気配断ちの他にも、疲労や外傷の回復などに効果がある。ピトーが私の治療後、『絶』の状態で眠っていたのも、たぶん身体が本能的に休息を欲したからだろう。

 

 そして『発』。これは本来なら『念』の集大成と言うべきもので、『纏』や『練』はおろか、『念』すら知らなかったピトーが習得できるとは思えないのだが、できたものは仕方ないのでここでは置いておこう。

 ともかく『発』とは、自身の『気』を操り、様々な形や性質に変えることを言う。例えば龍の形をとる光線に変えたり、刺せば問答無用で相手を操るアンテナに変えたり、よく伸び縮みしてくっつくと中々取れないような物質に変えたり、あるいは単純に自分の力を強化したり。

 そしてピトーのように、対象を治療してくれる人形を作り出したりと、『発』によってできることは多岐にわたる。『発』は所謂『自分だけの必殺技』なのだ。

 

 そんな『念』だが、使い手のほとんどは人間で、この世界、冥界に住む悪魔や堕天使を含め、人外たちにはてんで人気がない。存在自体を知らない者も多いくらいだ。なぜかといえばすこぶる単純、人外たちが元より持つ能力、魔力や光力に比べて、『念』の使い勝手が非常に悪いからだ。

 

 例えば、目の前の薪に火をつけようと思ったら、魔力なら一瞬だ。火のイメージを魔力に乗せれば、それで事足りる。対して『念』で同じことをしようとすれば、まずそれ専用の『発』を作らなければならない。それだけでも普通なら年単位の修行が必要だろうし、使いこなせるようになるにはもっとかかるだろう。それに、『発』は無制限に作れるわけではない。使い手の能力の限界を超えるようなものは作れないし、そもそも一人に作れる『発』の許容量が決まっているため、そのような細々した能力を作る余裕はないのだ。

 

 その点、魔力や光力にはそういった制約はない。私の使った転移魔法や結界のことも考えると、それらの力の使い勝手が良すぎるだけとも言えなくはないが、ともかく、魔力や光力であふれるこの世界では、『念』はすさまじく珍しい技術なのである。

 

「――ってことよ。正直なところ、私も仙術の修行で少し触れた程度でしかないから、詳しくはないんだけどね」

 

 長々と話し続け、疲れた喉を労わるように私は口の中の唾を呑む。ヒリヒリ痛む喉と胸の奥がじんわりと熱を持ってほっと息をつくと、ピトーは聞き入るように閉ざしていた目を開き言った。

 

「でも、『アクマ』と『ダテンシ』よりは詳しいんだよね?ボクは『四大行』の内二つを使える、ってことは残る二つ、『纏』と『練』も習得できる道理にゃ。そっちも教えてよクロカ」

 

「ええと、確か『纏』は字の通り『気』を身体に纏うことだから……教えること何もないわね。あんた最初からできてたもの。それに『練』も教えられないわ。名称以外何も知らないし……だって、言ったじゃない。元々仙術の修行の一環で少し触っただけなのよ。他三つはまだ仙術に通ずるところがあったけど、『練』には無かったのよ。自身の『気』を操るのと他者の『気』を操るのとじゃ、かなり勝手が違うんだから」

 

 断ずると、途端にピトーが不満げな顔を作る。

 

 仕方ないでしょ、知らないんだから。

 

 心の中の声が通じたわけではなかろうが、痛む喉を鳴らしながらそう思うと同時に、ピトーが「なら」と言葉を続けた。

 

「『センジュツ』を教えてよ。そっちがクロカの得意分野なら、指導も簡単でしょ?」

 

「残念だけど、それも無理。『念』っていうのは自分が元々持つエネルギーを操るものだから、努力さえすれば誰にでも覚えられるけど、仙術は自然のエネルギー、つまり自分のものではないエネルギーを扱うのよ。大前提として、習得するにはそういった『気』を取り込む『精孔』の才能が必要で、見た限りあんたにはそれが無いわ」

 

 もっとも、習得したところで自身の『気』があんなであれば、すぐさま邪気に呑まれてしまうだろうが。

 

 私は二度ほど咳き込んだ。

 

「うーんそれは確かに残念。あ、それじゃあ『マリョク』は?さっきボクにも『マリョク』が使えるみたいな口ぶりで――」

 

「もう!けが人にいったいいつまでしゃべらせる気よ!もう少しくらい労わってくれてもいいんじゃない!?」

 

 ちらちらと主張してきた不満が爆発すると同時に、私は盛大にむせた。喉や胸どころか足の先までが一塊に痛み、その痛みがまた咳を誘発する。

 

 数秒の悪循環に苦しんだ私をあざ笑うかのように、ピトーは悪戯が成功した子供みたいな表情をして、私の顔を覗き込んだ。

 

「そりゃあ、『しばらく』だよ。クロカも同意したじゃない?」

 

「あ、んた、それ答えに、なってないでしょ!私は具体的な数字を聞いてるの!」

 

 かすれ声でなんとか文句を捻り出す。

 

 確かにあの時頷きはしたが、それは『交互に質問する』というルールに対してであって、一方的な質問を許したわけでは――うん?

 

「だから分からないんでしょ?クロカがボクに質問した回数。ボクはその分からないに対して互換的に『しばらく』質問してるだけだよ」

 

「な、なによそれ!そんなのあんたの匙加減ってことじゃない!」

 

 つまり私は見返りもなく唯々ピトーに知識を授けるだけだということか。なんだそれは。誰がそんな屁理屈に納得するというのか。

 

「それに、キミが自分で決めたルールを自分で破ったのが始まりなんだから、それくらいのペナルティがあって然るべきなんじゃない?」

 

 無茶苦茶だ。だが、一応筋は通っている……のだろうか?なんだか頭がくらくらしてきた。

 

 だがしかし、認めてしまうわけにはいかない。私が、私の頭の中をすべてぶちまけてしまえば、多分恐らく、待っているのはピトーに夕食にされてしまう運命のみだ。彼女のことをよく知ってからと思っていたが、やはり早々に質問の対価を自身の身の安全としておくべきだった。

 

 だが不幸中の幸いと言うべきか、ピトーは約束を屁理屈だが順守しており、ならばこちらからの約束、私の身の安全を保障することを約束させられれば、それを破ることも無いはずだ。たぶん。

 

 だから奴の圧力に屈することなく毅然とした態度で――

 

「まあ、冗談だけどね」

 

 気が抜けて、背もたれの木からずり落ちかけた。それを見るピトーの表情は最高潮のにやけ顔で、漏れ出た笑い声にからかわれたのだと確信した私は、火照る顔を自覚しながらもピトーを睨め付けた。

 

 人に悪戯するのは大好きだが、されるのは大嫌いだ。

 

 腹立たしいことに、ピトーはひとしきり私の様子を堪能し終えたようで、半笑いで立ち上がると私に背を向けた。

 

「続きはまた今度にしよう。野ざらしで眠るのにも飽きちゃったし、身体を休めるなら、清潔な場所のほうがいいよね?」

 

 にっこりと満面の笑みを向けるピトーに、私は願ってもないことだと一瞬喜びかけて、数舜後、その奥の悪い笑みの意味に気付いた。

 

 はなから優位など取れていなかったのだ。

 

「でもさ、話がしたくなったらいつでも言ってね?」

 

 そう言って、どこからともなく取り出したおいしそうな果実を見せびらかすように振るそいつは、間違いなく私が嫌いなタイプであった。




Q:ピトーの念能力名前違くない?
A:あのシチュエーションで目覚めて玩具修理者はさすがにないかなと思った

ちなみにこのピトーはメスです


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二話

20/3/20 本文を修正しました。


 あれから既に五日が経過した。

 

 私を拾った性悪猫、ピトーは、今のところ取引を順守している。どでかい木の洞に寝転がって、私は知識と引き換えに彼女に世話をされる毎日を送っている。

 

 木の洞、だ。幼い妹とは対照的に出るとこは出てる体型の私が、横になれるほどの大きさの洞を持つ大樹。初めてここに連れてこられた時には、その百メートルはあろうかという巨躯に愕然とするほかなかった。

 そしてピトーの言い分を信じるならば、ここら一帯にはこの木など歯牙にもかけないサイズの木が、それこそ腐るほど生えているらしい。中にはこれの五倍、五百メートルほどのものもあったという。本当に、冥界とは広大だ。

 

 そんな大樹がそこかしこに生えているおかげで日が差さずに薄暗く、おまけに湿気も相俟って、肝心の洞は当初酷い有様だった。先住民こそいなかったが療養に適しているとはとても言えないくらいに不衛生で、生理的に無理なあれやこれやが散乱している有様は、まさに獣の巣そのものといった様相を呈していた。

 

 私とて過去には妹と共に路上生活を送るくらいのことはしていたが、それにしたって許容できないほどの汚部屋(おへや)具合。我慢できる範疇になく、たまらず私は次の取引で掃除を要求し、徹底的な掃除を以て住み心地のいい空間に変えさせた。

 のだが、しかし嫌々ながらも取引に応じてくれたピトーの手際は、彼女自身にとっても素晴らしすぎた。あまりにも快適になってしまったそこが、木の上で眠る彼女の不満を招かないはずがなく、そしてその魔の手から逃れるには、私の交渉力はあまりにも貧弱だった。結局、大樹の洞は、衛生的な代わりに少々狭苦しい空間へと変貌を遂げたのである。

 

 昼間はともかく夜は身を寄せ合って眠ることになるので落ち着けない。そこにさえ目を瞑ればこの五日間は平穏そのもので、思う存分身体を休めた私は、上体を起こすのに涙を流さなくてもいい程度には回復し、まともな集中力を取り戻した。精神面ですこぶる健康な状態はやがて段々と身の安全や当面の生活の心配を解かし、傍らにある得体の知れない存在(ピトー)に慣れていったのだった。

 

 そうして身体から緊張によるこわばりが緩み消え、生まれた心の余裕が、押し込めた欲のほうにも眼を向け始める。それに気付いたのは、ちょうどそんな時だった。

 

「あ……れ……?」

 

 通気性の良すぎるボロ着物に肌寒さを訴えられた私は、暖を取るために魔力を使おうと思い立ち、そしてごく当然にそれを実行しようとした。

 

 十代未満の悪魔でも使えるような、簡単かつ初歩的な術。もちろん私が使えないはずもない。失敗だってあり得ない。はずだった。

 なのにほとんど習慣的な無意識で術を使った私の身体には、何の変化も起こらなかったのだ。

 

 おかしい。何か間違えたのかと、きちんと意識してもう一度。やはり身体に魔力が満ちず、焦りを感じながら二度、三度と試すも、何も起こらない。五度目になってようやく、私はその事実を受け入れた。

 

(『力』が、使えなくなってる……!?)

 

 魔力だけではない。妖力に加えて自身の『気』も使えない。それらの『力』が通る道はちゃんと生きているが、その『力』自体を身体のどこにも見つけることができなかった。

 

 私の身体は、何らかの要因で魔力、妖力、『気』を生み出せない状態にある。『力』がほんの少しも無いのなら、術が使えないのもなるほど道理だ。

 

 私は今現在、ホントのホントに何もできない。

 

 額にうっすら汗をかきながら、消え失せた自衛手段に背が冷えていくのを、私は感じていた。

 

 ……一応、ピトーとは取引がある。きっと恐らくもしかしたら、他の外的要因からも守ってくれる、ことを期待しよう。こんなこと、ピトーに知られていいことなんて何もないのだから。

 

「あれ?クロカ、どうかした?」

 

「う、ううん。何でもないわ。ちょっと……身体が痛んだだけだから」

 

 木の実の殻を洗面器代わりに、着物の切れ端をじゃぶじゃぶ洗うピトーに向けて、私は努めて平静にそう言った。

 

 果たしてこのどもり具合で誤魔化せているのだろうか。切れ端を絞りながら訝しげな顔をするピトーに自身の演技力の無さを呪うが、しかし感想を求めるわけにもいかない。とりあえず、あははと愛想笑いをして、大根疑惑のある役者を継続した。

 

「……ま、いいか。続きするよ?」

 

 内心は定かでないが興味なさげにそう言って、ピトーは私の腕をそっととった。ひとまずと自身が役者に向いていない事実を端に置いて、私はピトーの腕の導きのまま、じんじん響く痛みに耐えつつ自分の腕を持ち上げる。直後、痛みによる熱を濡らした切れ端で拭われて、その心地よさに詰まった息を吐き出した。

 

 意外なことだが、この清拭はピトーが自発的に始めたものなのだ。何を思ってかは知らないが、不衛生なせいで死なれたら面白くもないと言い張って。おかげで対価に悩む必要のないこの時間は、私にとって最も心休まるものと化していた。

 

 得体の知れない相手に、直接ではないにしろ肌を触られているというのに緊張しないで済むのはなぜだろうか。私は身体が弛緩するに任せて目を閉じて、心地よさの既視感を思い返していた。

 

 まだ妹が生まれていなかったころ、その妹と野良猫みたいな暮らしをしていたころ。

 

 思えば、人に身体を洗ってもらうのなんて本当に久しぶりだ。悪魔に転生してからは毎日ちゃんとしたお風呂を使えるようになって、そういうことをする必要性も機会もなくなってしまった。

 そのころには妹もそれなりの歳になっていたし、たぶん恥ずかしかったのだろう。一緒に入浴する回数も減ってしまって、洗いっこなどもってのほかだと毎回断られるようになっていた。

 

 悪魔の仕事で帰宅時間がめちゃくちゃになることだってざらだったし、その汚れを見せたくない気持ちも相俟ってそれを不満に思ったことはなかったが、いざこれをもう一度体験してしまえば後悔が募る。

 

 頼み込んででも姉妹の触れ合いを増やすべきだった。ピトー相手でこれだけ気持ちいいのなら、さぞ幸せな気分になれただろう。

 身体の汚れが気になるなら一度シャワーを浴びてからでよかっただろうし、時間だってどうにかやりくりできた。

 

 そうだ、家に魔法陣の術式でも書いておけばよかったのだ。『元バカマスター』の屋敷から直接家に帰れるように。

 

 確か当時の私は、その間を行き来する時間と、魔法陣を設置する費用と労力を秤にかけて、結局魔法陣のほうを断念したはずだ。実にもったいないことをした。何なら時間のこと以外にも転移魔法に慣れるといった利点もある。過去に戻って自分を説得してやりたい気分だ。

 

 日常に組み込んでしまえば飽き性な私でも修行を継続できただろう。それならば今頃は、凄腕の転移魔法使いになれていたに違いない。だからきっと、あの時転移に失敗することもなくて――

 

(って、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて!)

 

 『力』を使えないこの状況でどうするかを考えねばならないのだ。

 

 快楽に解けていた脳味噌が我に返り、下りかけていた瞼が飛び起きると、押し寄せる光で眼の奥がじんと痛んだ。

 深呼吸して寝ぼけ気味の脳味噌に酸素を送り込むと、私は思考を切り替え、しかし快楽の残滓を引きずりながらそれに没入する。

 

 改めて考えても、『力』を生み出すことができないというのはやはり妙だ。野良猫生活時代はもちろん、悪魔に転生してからも、転移魔法が不完全に成功したその時まで、私は『力』を使いこなしていた。

 そのはずなのに、今や底までからっけつ。封印か何かで一時的に使えないならまだしも、『力』のエネルギーそのものがないとくれば、それはあまりに異常が過ぎるだろう。あの時の死闘で使い果たしたとはいっても、それからもう五日はたった。それなのに僅かたりとも回復しないなど、ありえないはずなのだ。

 

 しかし実際、『力』の面では肉体も精神も目立った障害は見られず、魔力も妖力も自身の『気』も、全く湧き出てこない。

 

 これらの不可解な現状から考えられる可能性は、一つだけだ。

 

 信じがたいが、『生命の源泉』に何か異常があったのかもしれない。

 

 『生命の源泉』。命そのもの、魂と言い換えてもいい。ゲーム的に言えば『ヒットポイントバーそのもの』だろう。これがあるからこそ生き物は生きられるし、『力』を発揮できる。生命エネルギーたる『気』はもちろん、魔力に妖力、その他の『力』もほぼすべてこの法則からは逃れられない。

 生も死も無い生き物がこの世にいるのなら話は別だが、普通、すべての根幹である『生命の源泉』に無策に手を付けるのは極めて危険だ。

 

 それを、私がやってしまったというのが一つの仮説。元バカマスターたちとの戦闘で、私は死の寸前まで、文字通り命を絞り尽くしてしまったのだ。

 

 『気』を操る仙術を修めている私は、他の有象無象よりもはるかに『生命の源泉』について理解している。命というものは、想像よりもはるかに繊細なのだ。触れるまでは遠いが、触れてしまえばそれはもう、薄いガラス球のようなもの。下手につつけば簡単に砕け、削れれば、ごく一部の手段を除いて、もう元に戻ることはない。少しひびが入るだけで、生涯昏睡し続けることだってあり得るだろう。

 

 だから私は、いまいちこの可能性に確信が持てないのだ。

 

 『生命の源泉』が傷ついたことが原因だとすれば、その影響があまりにも小さすぎる。

 

 しかし、もうそれくらいしか、『力』を引き出し使えないのではなく、引き出すべき『力』そのものが無いとなれば、他に思いつくことができないということも事実であることに違いなかった。

 

 もしこの予想が当たっているなら、対処する方法はある。『生命の源泉』を癒せる数少ない技術。仙術によって他所から都合した『気』を使うのだ。

 『気』とは生命エネルギー。つまり『生命の源泉』にほど近い、命の余剰分とでも言うべきエネルギーだ。親和性は高い。それによって活性化を促せれば、時間はかかるが治すことができるだろう。

 

 ならばさっさと治療なりなんなりすればいいと思うのだが、しかしそうもいかない。可能性に気付いてから今の今まで、私はそれを安易に行ってしまうことを躊躇し続けていた。

 

 なぜなら、私のすぐそばには、『邪気』に満ち満ちた『気』を発するピトーがいるからだ。

 

「よし、これでおわり。じゃあ次……今日も試してみるよ?」

 

 私の体を大体隅々まで拭い清め終わって、ピトーは役目を終えた布切れを代替洗面器にぽいと投げ入れる。そして深呼吸して目をつむり、一瞬だけ瞑想すると『気』を練って、そして使った。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)】。目と頭が大きく、どこか不気味さも感じる人形のような、ピトーのこの能力。ピトーが言うにはこれが瀕死の私を治療してくれたらしく、ほんの少しの指導で自在に発動と解除をできるようになってからは、診察と称して毎日のようにこれを使っている。

 

 仙術を使わなくとも感じてしまう、人形の形をした邪気の塊(・・・・)だ。

 

 その能力が治すためのものだとしても、それを形作る『気』の性質は変わらない。どのような状況であろうと、ピトーが隣にいる限り、仙術を使えば私はその『気』の邪気にもろに影響されてしまうだろう。

 

 世界に漂う悪意の集合体である邪気は、周囲の『気』を操る仙術の技を用いる場合、完全に排除することが不可能だ。少量ならともかく、許容量を超えて取り込んでしまえば、自分の中の悪意や害意、負の感情が刺激され膨れ上がり、やがて制御が利かなくなって、呑まれる。

 体験したのは一度だけだが、あれは本当にすさまじい。殺意を抑えようと思う気すらなくなって、何倍も濃くした心の闇を吐き出さずにはいられなくなってしまう。到底抗えない衝動なのだ。

 

 純粋な正義などないように、邪気を持たない者もまたいない。誰しも心に邪気を抱えているものだが、しかしそれにしてもピトーの『気』はそれが表面に出すぎている。世紀の極悪人でもここまでではないだろう。

 その謎は未だ解けず、そういう体質なのだと諦めるしかない状況だが、まあどちらにせよ結論は同じだ。

 

 もしこの場で仙術を使えば、ものの数分で私は再び邪気に呑まれるだろう。

 

 いくら現状が危険だとしても、ここまで大きなリスクは負えない。そんな大きな壁が、安易な解決策へ手を伸ばそうとする私を留めていた。

 

 危機感と焦燥感からの解放という甘露を前にしながら、歯噛みをすることしかできない。もしもピトーの治療が功を奏して、肉体を十全に動かせたなら幾分かましだっただろうが、しかしそっちの面も解決は望み薄だ。

 

 なぜなら、ピトーがこの診察を始めて四日、【人形修理者(ドクターブライス)】は発動こそするものの、一度としてその目を開いて動いたことがないのだ。

 

 『念』について聞きかじった程度の知識しかない私には、当然『発』についてのそれも少なく、原因はさっぱりわからない。今回もやはり【人形修理者(ドクターブライス)】は微動だにせず、苦々しげな顔をするピトーに私はどうしてか申し訳なくなって、つい言葉が口に出た。

 

「前も言ったけど、『念』って本来多くの修行があって使いこなせるようになるものだから、たぶん、そのうちできるようになるわよ。才能は十分すぎるくらいあるんだから」

 

 ピトーが私を見て、きょとんと呆ける。意外なことを言うんだな、と言いたげなピトーの目に、私は遅れて我に返った。

 

 なんで私が慰めてるんだ。

 

 ピトーが力なく笑って【人形修理者(ドクターブライス)】を解除すると同時に、私は気恥ずかしさに彼女から眼をそらす。

 

「そう、だね。んー、修行かぁ……」

 

 ピトーは少しの間宙を眺めて、それから「にゃるほど」と表情に憂いを消した。

 

「じゃあ、ボクまた出てくるね。クロカの分も食事を探してこなきゃいけないし」

 

 そう言って、ピトーは立ち上がる。「日が沈む前には戻るよ」と、代替洗面器を抱え持つその目の奥には『修行』の二文字が未だ焼き付いているようで、告げられた帰宅時間はいつもより少し遅かった。

 

 案外負けず嫌いなのか何なのか。ともかく私はいったんそのことを頭の隅にやり、その背を大根役者で見送った。

 

「さて、と」

 

 ピトーの姿が木々の奥へと完全に消えたことを確認して、私は保留していた思いがけぬチャンスに目を向けた。

 

 今ここにいるのは私一人。正確な時間はわからないが、お腹の具合から見て今はお昼時。ピトーが用事を終えて帰ってくるまで、少なく見積もって四時間はある。

 

 ピトーの『気』という、仙術を使うにおいて最大の障害が消えたのだ。

 

 いつ襲われるかもわからない無防備な現状に甘んじるか、それとも、無為に終わるどころか悪化してしまうかもしれない危険を負ってでも可能性に賭けるか。リスクとリターンを天秤にかける必要がある。

 

 少しだけ迷ったが、心はすぐに決まった。元々、何もせずにじっとしているのは性に合わない。

 『生命の源泉』を癒すために、四時間という時間はあまりにも心もとない。治るとしても何週間、下手をすれば何ヵ月もかかってしまう可能性だってある。それだけの『気』を取り込んで、邪気に呑まれない保証もない。

 

 しかし私は、それでも行動すると決めていた。

 

 決意すると共に、私はゆっくり目を閉じた。ふう、と深呼吸をして心を静め、『気』を操るのに邪魔な感情の高ぶりを削ぎ落していく。

 

 ピトーにも真っ先に教えた基本の基礎だが、『念』に限らず、『気』を扱うために一番重要な要素は心だ。これが乱れれば『気』も乱れ、逆に落ち着いていれば『気』もまた落ち着く。『気』とはつまり、意思の力でもあるのだ。

 

 長丁場になるであろうこの試み。できるだけ邪気を取り込まないようにするためにも、準備の段階から最高の状態で精神集中しなければならない。邪気対策のために、この洞の家主たる大樹に絞って仙術を使おうという目論みも込みで、そこに手を抜く気は全くなかった。

 

 ほどなくして満足のいく精神状態が出来上がり、私は背を介して大樹の『気』に意識を向けた。

 

 途端に感じるのは、長く生きた木特有の静かでほんの少し温かな、それでいて膨大な量の『気』。何千年もの間蓄え続けられたのであろう『気』に、心の中で思わず感嘆した。

 

 私が今まで見てきた中で間違いなくトップクラス。人間界ではめったにお目に掛かれない雄大さゆえに致し方なしと、少しだけぶれた集中を修正する。気を取り戻すと、私はいよいよ、その圧倒的な『気』に手を伸ばした。

 

 人と木。どちらも生き物であることは違いないが、その『気』の性質はかなり異なる。当然だ。動物と違って植物は思考を持たないし、感情も持たない。

 他にも多々あるが、今重要なのは、同じ『気』でも性質が異なるということ。端的に言えば、植物の『気』は取り込むのがすごく難しいのだ。

 合わない鍵穴に無理矢理ねじ込むような、そんな規格の差異をいちいち矯正しなければならない。

 

 達人ならば心を不動とし、精神を植物の域にまで高めることができるそうだが、当然私にはそんなことできるはずもない。

 おまけに樹齢がうん千年だ。今までにも植物から『気』を取り込んだことはあったが、そんなものは比にならないほど、この大樹の『気』は静寂でとっかかりがなく、私の器に合わせようにもまずはそれから探さねばならなかった。

 

 七面倒な手順を踏まねばならず、精神は着々削られて、想像以上に作業の進行は遅い。そのことに少なからず気が立っていたからこそ、私はその違和感に感付いた。

 

「……ッく!」

 

 『気』の通り道である『精孔』に、刺々しい何かが入り込む不快感。慣れ親しんでしまった異物感。邪気だ。

 

 数分としないうちに感じる大型の不快感は訪れが少々早い気もするが、そのこと自体は驚くに値しない。大樹に限定してもあまり意味はなかったか、と内心で少し残念に思う程度でしかなかった。

 

 しかし、それが連続して何度も続くとなれば話は変わってくる。

 

 十秒後にまた感知。さらにその二十秒後。果ては五秒間隔に精神を邪気がかき乱し、さすがに無視しきれなくなった私は、大樹とのつながりを絶つと同時に『気』の取り込みを一時止めた。

 

 濁流のごとき邪気を一度に取り込んでしまったせいか、絶え間なく感じる精神の不快感に眉をひそめ、私は身体の痛みに耐えつつ身動ぎをした。

 

 ぱきぽき鳴る筋肉の凝りを聞きながら、私は感じる違和感に眼を向ける。

 

 いくらなんでも感知できる邪気の塊が多すぎる。人の悪意が集まりやすい戦場やスラム並みだ。

 

 ここは樹海のど真ん中。辺りにあるのはさざ波一つ立たない大樹の『気』ばかりで、私たち以外の人がいるはずもない。

 

 バカでもわかるだろう。この邪気はピトーのものだ。

 

 とはいえ、食料調達に出ているはずのピトーが『気』を吸収できるほど近くにいるとは考えづらい。

 恐らくこれは『気』の残りカスだ。仙術の感知で見ることができないくらい薄い『気』が、ここに広がっているのだろう。

 

 毎日『発』を使った弊害か、それとも意図して獣除けにしているのか。

 

 ピトーに解決を頼もうにも、それは私の現状を包み隠さず伝えることと同義だ。話そうとは思えないし、かといって『気』の影響範囲から逃れることも、重症のこの身体では無理難題。何十メートルと移動なんてすれば、余計に傷の治りが遅くなるに違いなかった。

 

 となればできる選択は一つ。『生命の源泉』を癒すこの試みを、続行するか否か。

 

「……隣に本体がいるよりはまし、か」

 

 私は自身の性に従った。

 

 しかし、いくら意思がそう決めたところで邪気の影響がなくなるわけもない。時がたてばたつほど集中力が乱されて、効率が落ち、ミスも増える。歩みは遅々として進まず、私の心にはゆっくりと行き場のない怒りが積み重なっていった。

 

 挙句の果てに、なんでこんな苦労をしなくちゃならないんだ、と無益な雑念に囚われ始め、それでも遅れを取り戻そうとする意思だけが空回りしていた。

 

 

 

 

 

 無心、無心と念じながらなんとか集中力を繋ぎ、ふと気付けば空が夕暮れ模様へと変わっていた。

 

 もうそんなにたったのかと、精神的な疲れに盛大なため息をつく。

 そのせいか、私は木の上から顔を出した彼女に気づくのが遅れ、はっとして仙術をやめた時には既に顔が見えるくらいに近づいていた。

 

 ガサガサ木の葉を揺らしながら身軽に枝枝を跳び渡り、水とウサギのような小動物を三匹携えたピトーが音もなく着地する。見られてしまったかもという焦りと、心労が合わさって半ば投げやりに「おかえり」と呟く私に、ピトーは訝しげな視線を向けた。

 

 「ただいま。ねえクロカ、さっきキミの周りで変なもやが見えた気がするんだけど、何してたの?」

 

 予期していた質問であったために動揺を表に出すことこそしなかったが、ピトーが私の周囲のもや、つまり『気』を目で見ることができた点には、少しだけ驚きの息を呑むことになった。

 

 しかし、私はそんなピトーの進歩を無視してぶっきらぼうに言い放つ。

 

「もや?見間違いじゃない?ちょっとお昼寝してただけよ。別のにして」

 

 ピトーが持ってきた水と食料に対する対価に、私の現状を教える気にはなれなかったのだ。

 

「別の……うーん、そうだにゃー……」

 

 大樹の根に腰を下ろしたピトーは一瞬悩むように宙を仰ぐと、すぐに手元に目を下ろし、毛むくじゃらな小動物たちの解体を始めた。

 

 パキ、ポキ、と聴いている分には小気味よい音が鳴り、脚が外れると血の臭いが辺りに漂う。

 所詮小動物。小さな体から流れる血の量など知れている。その臭いも言わずもがなであるはずなのに、この時はひどく不快に思えた。

 

「ちょっと!こんなところで解体なんてしないでよ!やるんならどっかよそでやって!」

 

「うん?あ、そう?」

 

 私の怒声に眉一つ上げず、ピトーは粛々とそれに従った。つまり解体をやめて、近くの葉に未処理のものごとただ置いた。

 

 これでいいでしょと言わんばかりに、呑気に指に付いた血を舐めとるピトーの姿に、私は怒りが増していくのを感じた。

 

 私の言葉が『ここで血の臭いを巻き散らすな』という意味であることがなぜわからない。

 

 もうほんの少しでも遅ければ、私の怒号はただの悪罵となっていただろう。だがピトーは、私が喉を震わす直前にこちらを向き、言ったのだ。

 

「クロカ、体の具合はどう?おかしいところはない?」

 

「はあ?どこもかしこも痛いに決まってるでしょ。相変わらず右腕は動かせないし、骨は折れてるし、おなかのやけど跡は痛いし、まともな部分なんてどこにもないわよ。見てわからないの?」

 

 代わりの怒声を叫んでも、苛立ちが発散されることはなく、未だ胸の内で燻るそれに、私は続けて言い放った。

 

「だいたい、あんたの『発』も悪いのよ。治療する能力とか言っておいて、三日たっても碌に動けやしないじゃない。『気』をしこたま消費して、できたのは精々応急処置程度?そんなの知識があれば誰にだったできるわよ。とんだゴミ能力ね、全く」

 

 間を開けずに言い切ると、私は目を丸くするピトーから顔を背け、横向きに寝転がった。

 

 言い返してくるかと思ったがピトーも黙り込み、辺りがしんと静まり返る。気まずい空気に少しだけ頭が冷えて、私は、我ながらめちゃくちゃなことを言っているなと、小さな後悔を味わった。が、やはりそんなことよりも、私の心を占めていたのは怒りだった。

 

 ただそれは、ピトーの言動に対するものではなく、ましてや遅々として進まない治癒に対するものでもない。

 

 わからないのだ。

 

 自分が何故怒っているのか、大本の理由さえ無い、ただただ行先のわからぬ怒りだけが心に満ちているのだ。だから発散する方法もわからない。

 

 そんなむしゃくしゃとした感情だけが存在していた。原因は馬鹿でも察しが付くだろう。恐らく邪気の作用なのだ。

 

 我を失ってはいないと自覚できるから、邪気に呑まれているわけではない。だが、私もまだまだ修行中の身だ。仙術のすべてを把握しているとは口が裂けても言えないし、呑まれるまではいかずとも、蓄積すれば精神に異常をきたすことだってあるのだろう。

 

 しかし、だからといってどうしようもない。私は結局、これ以降も『気』の取り込みを続けた。

 最悪、邪気に呑まれる直前でやめればいい。感覚は覚えているからと、自分にそう言い聞かせ、身体をねじ切りそうなこの感情も、ピトーの訝しげな眼も、一切合切を無視して私はそれを決行したのだった。

 

 それからさらに三日後、毎日一人になるたびにそれを繰り返した弊害か、私は仙術を使うどころか、『気』に集中することさえ難しくなっていた。

 

 

 

 

 

 頭が重い。頭の中が煮えて、中身が底に沈んでいるような頭重感だった。おかげで考えが巡らず、冷却できないイライラが私の眉間を寄せていた。

 

 ピトーが出かけてから十分足らずでこのざまだ。これでは一体いつになれば『生命の源泉』が癒えるのかわかったものではない。

 ままにならない自身の感情に苛立って、そのせいで益々仙術の精度が下がり、生まれた怒りにまた内心が荒れる。そんな悪循環を何度も何度も繰り返して、また途切れた『気』の流れに私は憚ることなく舌打ちをした。

 

 ああ、イライラする。

 

 最近では五分持つことすら稀になった。何の前触れもなく怒りが湧いて、『気』の流れを断ち切ってしまう。その度に『気』を感知するところからやり直しだ。

 

「ほんと、嫌になるわ」

 

 それでも私は諦めない。邪気に影響は受けていても呑まれていないのだから、まだ限界は先のはずだと、頑なにそれを無視する。

 

 だから私は再び目を閉じた。もはや形だけの深呼吸をして、最悪な気分のまま木肌に集中する。半ば強引に大樹の『気』割り込むと、一息にそれを吸い上げて、

 

 ――どうして、黒歌姉さま――

 

 頭の中に響いた声に、弾かれるようにして目を見開いた。

 

「しろ、ね……」

 

 激しく痛む身体にも気づかぬまま、跳ねる心臓に私は呆然と呟く。

 しかしもちろん、その声の主、白音は居ない。それは幻聴でしかなかった。

 

 そう。そうだ。当たり前だ。白音が、我が妹がこんなところにいるわけがない。だって白音とは、あの元バカマスターの本邸で――

 

「――ッ!!」

 

 自分が考えかけたことに気づき、私は頭を抱えて身を縮めた。

 

 駄目だ、考えるな。あれは間違いだったんだ。大丈夫、まだ私は邪気に呑まれていない。私はおかしくなっていない。

 

 考えるな、大丈夫だと、逃れるように何度も首を振る。荒い呼吸を繰り返し、私は軋む身体をお構いなしにきつく抱きしめた。

 

 そしてその光景を隠れ見ていたピトーが、おずおずといったふうに声をかけた。

 

「クロカ、大丈夫?」

 

 その声が耳に届くと同時に、私は顔を跳ね上げた。

 

「なん……」

 

 あの悪戯好きは死角に潜んでいた。私は後ろ手をつき、愕然とその顔を見やる。「なんでいるんだ」という悲鳴は喉の奥に消えた。

 

 『絶』まで使って、恐らく驚かしてやろうという腹積もりだったのだろう。だが既にその表情に好奇の感情はなく、ピトーはまた訝しげな眼を私に向けた。

 

 憂いを帯びたそれが、私には恐ろしく見えた。

 

「べ、別に何でもないわ!放っておいて!」

 

「どう見たって何でもなくないよ。クロカ。三日前からずっとでしょ?いい加減ボクも騙されてあげられない」

 

 ピトーは気遣わしげにそう言って、無意味かつ半端に後ずさる私の額に手を伸ばした。硬くてひんやりとした手が、こもった熱を少し冷ます。

 

 私はまた恐怖を感じた。

 

「やめてよ!だから何でもないって言ってるじゃない!私は平気よ!」

 

 私はピトーの手を払い除け、必死になってそう叫んだ。

 だがピトーは構うことなく再び手を伸ばした。今度は私の頬を掴むように両の手を。しかしそれも、怯えにとらわれた私の手がまたしても払い落とす。

 

 いつの間にか、あれほど頭を蝕んでいた意味不明な怒りの半分が消えていた。その消えた分を丸ごと置き換わったようにして恐怖が満たしている。

 全く異なる二つの感情は、しかし意外にも似通っていた。児戯のような攻防に負けた私は、ぴたりと繋がるピトーの視線と、脳裏をよぎる白音の姿にそれを感じた。

 

「だから、本当に平気だから……お願いだから、ほっといてよ!」

 

 歪んだ目から涙が零れ、頬に添えられたピトーの手を濡らした。しかしピトーは気にも留めずただじっと、私を見つめていた。

 

 その眼が、そう、温かかったのだ。

 

 そう思えたのだ。

 

「無理だよ。だって――」

 

 ピトーが言った。

 

「――こんなのいつものクロカ(姉さま)じゃないもの」

 

 強烈なフラッシュバック。あの時の白音の声が重なって聞こえて、思い出したくなかったあの感覚が全身を駆け巡る。

 

 私はもはや、心の制御を失った。

 

「あんたに……あんたに何がわかるっていうのよ!!」

 

 ピトーの手を三度振り払う。

 

 粘ついた泥のような言葉を吐き出せば、それ皮切りに次々と溢れ出た。

 

「『いつもの私』っていったい何!?ほんの一週間前に知り合っただけのくせに、あんたが私の何を知ってるっていうのよ!!私のことなんて何も知らないくせに!知ろうともしなかったくせに!!違う、違うのよ私は!おかしくなんてなってない!!壊れてなんていない!!私はバケモノなんかじゃないッ!!」

 

 喉の奥に血の味がして、もはや自分が何を叫んでいるのかすらわからない。頭を掻きむしってかぶりを振って、乱れた前髪の向こうに驚愕したピトーの顔を見た。

 

「何よ……何なのよその目は!!どうせあんたも私を気狂いだって言いたいんでしょ!!恩知らずのクソ猫だって!!なんでなのよ!!ここまで必死に頑張って、頑張って、頑張ってきたのに!!どうして皆わかってくれないの!!どうして皆……どうして私だけこんな目に……」

 

「クロカ……」

 

 泣き崩れる私にピトーが呟くように言う。伸ばされた手はすぐに止まり、それを凝視する私は身の内から染み出る怯えを隠すように大声を上げた。

 

「大体!!私がこんなになったのだって結局はあんたのせいじゃない!!あんたがそんな邪気だらけの『気』をしてるから、私は一日中イライラしっぱなし!!おかげで『力』の一欠片だって未だに取り戻せていないのよ!!あんたの邪気さえなければ、今頃は、今頃私は……」

 

 一人でも生きていける身体になっていたかもしれない。

 

「だ、だから!あんた――ッ!」

 

 喉にへばりついたしこりを飲み下す。

 

「――迷惑、なのよ!!もう私に近づかないでッ!!!」

 

 一際大きな声が洞の中で反響し、遠くで鳥が飛び立つ音がした。それからはほとんどの音が消え、背を丸め、酸素を求めてあえぐ私の荒い呼吸音だけが、しばらくの間空気に流れていた。

 

 どれほどの時間が経過したかはわからない。開いてしまった傷の痛みと、乱暴にかき混ぜられた感情に苦悩させられていた私の耳に、ピトーの平坦で短い声がその時届いた。

 

「わかった」

 

 くしゃりと、床に敷き詰められた木の葉を踏みしめる音が鳴る。恐る恐る顔を上げると、そこにはもう私に背を向けたピトーの姿があった。

 

「ぁ……」

 

 洞を出たピトーの背がどんどん遠ざかる。その歩みには淀みがなかった。

 

「待って……」

 

 無意識に零れた言葉と追うように出た手は彼女に届かず、その姿はすぐに森の薄闇に消えてしまった。

 

「ピトー……」

 

 

 

 

 

 涙の雫が手の甲に落ちて、それが乾いてもピトーは帰ってこなかった。

 

 もう二度と、ピトーは戻らないのではないか。

 

 私は自分の言った言葉を思い出した。どれもこれも、言うつもりなんて、吐き出すつもりなんてなかったのに。

 

 認めよう。あの時私は邪気に呑まれていたのだ。

 

 知る思いから知らない思いまで、ピトーへの怒りからまだそうでない怒りまで、数多の激情が噴出して、私はそれを抑えられなかった。

 そして私は拒絶した。ピトーはまだ私を見捨てなかったというのに、未来を危惧して最初から切り捨てたのだ。

 

 彼女からすれば訳が分からなかっただろう。突然意味不明な罵倒をされて、何故と問う間もなく、近づくな、だ。

 

 だからこそピトーは行った。気狂いとは一緒にいたくないから。

 

(ああ、なんであの時――)

 

 何故あんな事を言ったのだろう。

 気づいた私に襲い掛かったのは、大きな後悔だった。

 

 ……後悔?

 

 私はふと、宙を見上げた。

 

 何故私は後悔をしているのだ?

 

 ピトーが居なくなったことが悲しいから?では何故悲しいのだろう。私自身も言っていたではないか。『ほんの一週間前に知り合っただけ』だと。

 

 たかが一週間共にいただけで、はたして情が湧くだろうか。

 

 私とピトーの関係からしてそうだ。片や身体どころか『力』すら使えない重病人。片やその治療を餌に知識を吸い取る健康体。おまけに口でもかなわないとなれば、どちらの立場が上かなんて一目瞭然だ。言ってしまえばピトーは私の生殺与奪の権を握っている。絆されるなんてありえない。

 

 しかし、と私は自分の右手に眼を落とした。

 

 現実に、私は『この関係を終わらせたくない』という思いでこの手を伸ばした。

 

 小動物のような可愛げがあるわけでもない。庇護欲を煽られたわけでもない。今後のご飯が無くなるからとか、そんな下らない理由では断じてない。

 

 しかし、この右手はピトーを追ったのだ。

 

 わからない。わからないがしかし、私は確実にピトーへの執着心を持っている。だからこそ、ピトーが出て行ってしまったことが悲しくて、そうしてしまった原因に後悔しているのだ。

 

 わかる事はそれだけだった。自身がピトーと離れがたく思ったその過程さえ、私は全く理解できなかった。そのくせ、ピトーにもう一度会いたいというその思いは、ほんの少しも薄れることが無いのだ。

 

 そんなざまで、一体どうしてピトーと顔を合わせることができようか。

 

 大体、会ったとして何を言う。よくわからないけどあなたが私のそばからいなくなるのが嫌なのでここに座っていてください、とでも言うのか。

 違うだろう。そんな空虚な言葉を伝えたいわけではない。もっと他にピトーに伝えたいことがあるはずだ。

 

 こんな空っぽの状態でピトーと対峙すれば、もう二度と私が求める関係にはなれないだろうという、そんな予感ばかりが私にはあった。

 

 だから私は必死になって考える。余計なことを考えないためにも、頭を回さざるを得なかった。

 

「……痛い」

 

 心臓が締め上げられているかのように痛む。ピトーのことを考えるたびに、息が詰まるようなこの感覚が私を襲って、降り積もるその苦しみは耐えがたいものへと成長しつつあった。

 

「う……ッグ……」

 

 わからない。これだけ苦しんでもなお、自分の心がわからない。

 

 ピトーと一緒にいられない。忍び寄る現実に嗚咽が漏れた。

 

 自分がどうしてそんな感情を抱いているのかもわからぬまま、目頭に熱が溜まる。それがいよいよ決壊せんと震えた直後、私は森の奥から漂う香ばしい香りに気が付いて、ぱっと顔を上げた。

 

 ピトーの基本が生食であるために久しく嗅いでいなかった匂い。それは焼けた肉の匂いだった。

 

「我ながら気づかなかったことが不思議なんだけど、ボクの『気』が原因なら、それってボクがずっと『絶』をしていれば問題ないことだと思うんだよね。どうかにゃ?」

 

 そこにピトーが立っていた。

 

 言葉の通り『絶』をしているために気配はひどく希薄だが、その手に持った焼肉が存在感を割り増ししていて、木々に紛れたその姿を見つけることは大して難しくはなかった。

 

 いや、そんなことよりもだ。

 

「――ピトー?」

 

「うん?ああこれ?前にクロカが『肉は火で焼いたほうがおいしい』って言ってたのを思い出したから、キミに教わった魔力の実践も兼ねてみたんだよね。食べるでしょ?」

 

 そう言って若干焦げ付いた肉をゆらゆら振って見せるピトーに、私は心の奥に押し込めていた不安が氷解していくのを感じていた。

 

 本物のピトーだ。

 

 散々酷いことを言ってしまったにも関わらず、それでもピトーは帰ってきてくれた。そして彼女はそのことについて何も言わない。無かったことにしてくれているのだと気づいた私は、迷わずそれに飛びついた。

 

「――そうね、確かにそれで邪気のほうは問題ないわ。ていうか魔力って、ほんの少し口で説明しただけでしょ?それだけで習得するって、ほんとふざけた才能よね」

 

 喜びと罪悪感で物理的に飛びついてしまいたくなる衝動を抑えながら、私は努めて普段通りの調子で肩をすくめてみせた。

 

 そう返されて、ピトーも心なしか肩の力が抜けたように見える。普段は軽薄な彼女が緊張している姿など想像もできないが、やはり思うところはあったのかもしれない。

 

 その様子に、私たちの望みが一致していることを確信した私は、心からの安堵に頬を上げた。

 

 私はピトーの手からへたくそな出来の焼肉を受け取ると、彼女の眼をしっかり見つめ、言った。

 

「それで、対価には何を聞きたいの?」

 

 結局、私の執着心の謎はわからずじまいだ。だが、この取引が生きている限り、心地いいこの関係は続く。

 

「……んー、じゃあねえ――」

 

 これが思考停止だということはわかっている。しかし、それでいい。

 

 この取引を守る限り、私はピトーに見捨てられずに済むのだから。

 

 

 

 

 

 それから私は、邪気のことはもちろん、重傷を負うことになった原因の戦いについても話した。その過程で自分がお尋ね者であることを伝えた時、興味なさげな淡白な反応が返ってきたことに、私は家に帰ってきたような温かい安堵感を覚えた。

 

 けれどやはり、白音のことは言い出せなかった。



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三話

20/3/21 本文を修正しました。


 クロカが邪気なるものの影響で酷く感情的になったあの事件以来、ボクは湧き出る不安感を抑えることが難しくなっていた。たったの一日でまるで別人のように様変わりしたクロカの様子が、ボクには異様なものに見えて、そして少し悲しかったのだ。

 

 確かに、クロカは今までよりずっと明るくなった。取引でしか交わすことのなかった会話も増え、張り詰めていた表情も随分柔らかくなったように思える。警戒心むき出しで一歩一歩距離を測っていた頃のような、出会った当初の関係と比べれば状況は格段によくなった。

 

 それがボクの手によるものならば、こんな憂鬱な気分にはならなかっただろう。

 

 結局あの時、ボクは何もしていないのだ。クロカの様子がおかしくなり始めた時も、彼女が激怒した時も、した後も。

 

 クロカが言うには、邪気に呑まれると感情の制御ができなくなり、心の中の『負』が膨れ上がってしまうらしい。

 

 ならばその怒りの元はなんなのか。

 

 わからない。だからボクはあの時、時間を空ければ落ち着くだろうと言い訳をして、その場を逃げ出すことしかできなかった。ご機嫌伺いにしても、お腹が満ちればなんて見当違いのことしか思いつくことができなかった。

 

 そうしたらいつの間にかクロカが笑っていた。

 ボクの知らないところで、クロカの陰りは晴れていた。

 

 心の重たさは、それだ。

 

 知った時、ボクは愕然とした。何日も一緒に居るというのに、ボクはクロカのことを何一つ理解できていない。いくらクロカに知識を請うても、ボクは無知なままだった。

 

 ボクの能力が不足しているせいなのだ。

 

 クロカと同じ、思考できる脳味噌を持っているのなら、ボクにだって彼女の気持ちを伺い知ることはできるはず。なのに吐き出された負の言葉の心情も、それを収めることができた訳もわからない。

 わかるはずなのにわからないということはつまり、ボクの脳味噌は自分で思っているほど優秀なものではないということだ。

 基礎的な性能が劣っているのか、はたまた別の要因か。考えたところで頭が良くなるわけでもなく、詮のないことではあるが、その事実は負い目と自分へのふがいなさとなり、ボクの精神にグサグサと突き刺さっていた。

 

 おかげでこのところは、クロカの顔を正面にすることすら難しい。彼女の眼を見ることが、なんだか無性に怖いのだ。

 

 そしてその精神状態は、食料調達の合間に行う『念』の修行にも支障をきたしていた。

 

 ボクの『発』、【人形修理者(ドクターブライス)】はクロカの言う通り、応急処置程度の治療しかできないものだった。未だ寝床の上での生活を余儀なくされているクロカは、今でこそ立ち上がるくらいのことならできるようになったものの、それすら単に彼女の身体そのものの自己治癒力による賜物。ボクの手は、直接的には関係がない。

 

 しかし、瀕死の状態から自己治癒力が機能するようになるまで回復させたのは確かにボクの能力だ。どうであれ治療ができたのであれば、その先、クロカの身体を完治させることだって不可能ではないだろう。

 ならば簡単な話、【人形修理者(ドクターブライス)】をそういうふうに進化させればいいのである。

 

 結論を得たボクは、今日に至るまでずっと修練を積んできた。

 『発』の進歩のためには恐らく『発』自体の経験が必要だろうと、半殺しの動物相手に何度も能力を発動させたり、あるいは『気』の量と質が足りないせいかと、精神統一で多くの『気』を練ってみたり。

 

 だが不安感に集中力を削がれたボクは、そのうちとうとう、【人形修理者(ドクターブライス)】の精度向上どころか発動することすらできなくなるという事態に陥ってしまった。

 

 クロカ曰く、生命エネルギーというある種の神秘を操る『念』とは、肉体もそうだがそれ以上に精神力が非常に重要であり、心の強さが『念』の強さに直結すると言っても過言ではないくらいに、自身の心の揺らぎによって精度が大きく上下してしまう能力なのだという。そう思えば確かに今の自分は落ち着いているとは言い難く、『念』が不安定になったこともありえない話ではないのだろう。

 とはいえ『念』自体が使えなくなったというわけではなく、『纏』や『絶』はもちろん、普段より多くの『気』を纏ってみたり一箇所に集めたり、はたまたその『気』を体中に移動させてみたりという、手探りの中で編み出した応用技はほとんど影響がない。簡単なものしか使えないが魔力にも問題はなく、しかしどうにも【人形修理者(ドクターブライス)】、難度の高い複合応用技たる『発』だけが思い通りにならないのだ。

 

 おかげでここしばらくは『発』の修練もままならず、練習用の動物たちは失血死するばかり。膨らむお腹とは裏腹に、もしかしてこの能力ボクと相性悪いんじゃ、という不吉な予感を感じたボクは、故に仕方なく『発』の修行を諦め、『気』自体の模索に精を出していたのだった。

 

 そうして手慰みのように『気』をこねくり回しているうち、また一つ思いついたのが『纏』の応用だ。

 

 『纏』。皮膚の上から数センチの厚さで『気』を纏う、『念』の基本技の一つ。主な恩恵は肉体強化なのだが、驚くべきことにこの纏った『気』、まるでその分だけ皮膚が広がったかのように感触があるのだ。

 

 本物の皮膚のように触れるわけではないが、『気』の層に触れれば目を閉じていても触れられたとわかるし、葉が落ちてくれば皮膚に触れるまでもなくその存在を感知できる。

 それを見つけ、だから思い付いた。この『気』をもっと増幅させ、引き延ばせば、数センチなんてつつましやかな範囲でなく、もっと離れたのものでも感じ取って把握することができるのではないか、と。

 

 そしてその思い付きは、見事に成功したのだった。

 

「おお!すごいよこれ!全部が見える!」

 

 思わず盛大な独り言を叫んでしまうくらいに、その体験は素晴らしかった。

 

 試しにと、『気』の手を伸ばしたのはほんの百メートルまでだったが、それだけでもあまりの情報量の多さに頭がパンクしそうだった。なにせ文字通り、その範囲のすべてが見えているのだ。木も草も、ボクの『気』に気付いて大慌てで逃げていく動物たちも、極めつけには小さな羽虫や石ころだって。どこにどれがあってどう動いているのかまで、鮮明とした光景がボクの脳内に見えるのだ。

 

 目で見るのとは違う神秘的な光景が、一時とはいえ不安を薄めてくれて、ボクは歓喜に口を閉じることも忘れていた。

 

 しかし、そうとなれば俄然気になった。

 

「これ、どこまで伸ばせるのかにゃあ」

 

 もしかしたら、クロカの元まで届くかもしれない。

 

 距離にして凡そ一キロメートルほどだろうか。試した感覚からすると、出力さえあればそれくらいの距離は届いてしまいそうな予感がした。

 

 ボクは自分の口元がにんまりと弧を描くのを感じつつ、『気』を練り始めた。

 

 体内を流れる『気』を一つに束ね均一に練り合わし、それを一気に体表へ放出する。通常の『纏』とは比べ物にならないほどの『気』を身に纏うと、ボクはそれを思い切り前方へ伸ばした。

 

 それはただ呼吸するかの如く、簡単に成功した。

 

 脳内になだれ込んでくる膨大なまでの情報が、伸びた『気』の道筋を、あらゆる角度からの立体映像として頭の中で組み上げる。藪を越え川を越え、五百メートル級の大樹の横を通り抜け、ボクは瞬く間に一キロメートル近くの道のりを網羅した。

 そして『気』の先端に見覚えのある風景を見たボクは、そこでぴたりと停止する。寝床の近くに生えていた木だった。ならばもうほんの数十メートルも伸ばせばクロカの姿が見えるだろうが、今の彼女に邪気に塗れているらしいボクの『気』は向けられない。

 しかし、当初の目標であった一キロメートルに達しても、まだまだボクの『気』には余裕が残っていた。限界の中ほどにも達していないのではないかと思うほど今までの工程に疲労は無く、ならばこれで終わっては面白くないと、ボクは再び『気』の操作に注力した。

 

 多少の蛇行や歪みはあれど、ここに至るまでの道のりは基本的に直線だ。ならば意図的に曲がることはできるのか。形を変えることはできるのか。好奇心に抗うことは難しかった。

 未知が解明されるというのはすこぶる気持ちがいい。しかしその実験をそのままクロカの周囲で行ったのは単なる気まぐれと自信が故で、彼女の周りを丸く囲うように操った『気』にそれが触れたのは全くの偶然であった。

 

 感知したのは生き物の手だった。ボクのものとは違う、クロカのそれに似た五本指の柔らかそうな手。『気』の端にふと現れたそれが、何かを探るような手つきでゆらゆら動いている。そしてその手に感じた『気』の気配は、彼女と明らかに異なるものだ。

 

 侵入者。気づいたボクは、瞬時にそれの全身へ『気』を伸ばす。

 

 気づいたのか、慌てた様子ですぐさま手をどけるもとうに遅く、掴んだ正体に、ボクはボクの始まりを思い出した。

 

 二本の脚と二本の腕。そして皮膜の黒い羽を持つあの生物。

 

 『女王』を、『王』を殺した悪魔共。

 

 途端に頭の中が憎悪で染まった。当然だ。あんな奴らを許してなるものか。

 しかし次の瞬間、『気』にまた新たな手が触れたことによって、ボクの頭はあっという間に冷え切った。

 条件反射的にその手の本体へも『気』を伸ばし、広がった感知範囲にまた新たな気配を感じるころになって、ようやくボクはその集団に、クロカの告白を思い出した。

 

 クロカは悪魔共に追われている。

 

 その周囲一帯に伸ばした『気』に計七匹もの悪魔を捉え、ボクは気付いた。

 

 なぜこいつらはここに来たのか。なぜ大人数なのか。そしてこいつらが進もうとした先に誰がいるのか。

 

「クロカが――ッ!!」

 

 その瞬間、ボクは地を蹴った。溢れる負の感情に途切れそうになる『気』を必死につなぎ止め、木々の間を走り抜ける。

 

 悪魔共とクロカの間にはまだそれなりの距離があるが、ボクとの距離はそれの何十倍とある。樹海に阻まれる一キロメートルの道のりを、両者が鉢会う前に完走できるかは、もはや運の領域だった。

 そしてクロカは魔力を使う奴らに対して今到底戦える状態にない。それどころか逃げる脚すらなく、攻撃されればそれを防ぐ方法だってないだろう。奴らに見つかればクロカは――

 

 最悪の事態が脳裏をよぎり、冷える背に煽られた足に縺れてしまいそうなほど力がこもる。

 しかしどれだけ速く走ってもやはり距離は遠く、気を取り戻したらしい悪魔の群れがじわりじわりとクロカの居る寝床へと近づいていく光景が見えるだけに、ボクの焦燥感は増していった。

 

 顔や腕にビシバシ当たる枝木もお構いなしにひた走り、そしてとうとう、感覚に触れる悪魔の群れが歩みを止めてしまう。その正面にはクロカが沈痛な表情で佇んでいて、ほぼ同時に、ボクは向けていた『気』を解いた。

 その光景を眼で捉えたからだ。

 

 解いた分の『気』を纏い、ボクは勢いのまま突っ込んだ。気付いた悪魔の一匹が声を上げるが関係ない。『念』もを合わせた渾身の一撃を、振り下ろした。

 

 初めて殺したあの時のように、柔らかな悪魔の肉が容易く引き裂かれる、ぬるりとした感触。それを己がツメの切っ先に感じるものだと、その瞬間までボクは確信していた。

 だが赤い血肉が舞う前、視界の外から滑るようにして白銀の盾が割り込んでくる。標的の悪魔を覆い隠してしまったそれは、けたたましい金属音と共に、ボクの攻撃を受け流した。

 

 一瞬身体が硬直してしまうくらいの衝撃が脳内を貫く。初めて攻撃を防がれた動揺は打ち消しがたく、内にあったおごりは、散る火花を見つけた途端に吹き飛んだ。

 

(こいつ、前に殺した奴らのはるか格上……ッ!!)

 

 他六匹も同じような力量であるならば、できる限り早く駆除せねばならない。もしこいつらの注意がクロカに行って同時に襲い掛かれば、そのすべてを防ぐことができるとは、さすがに確信ができなかった。

 

 故にボクは、まず目の前の盾を殺すことを考える。もう一方の手に瞬時に『気』を集め、盾を弾くように薙ぎ払った。

 

 手に伝わる尋常でなく硬質な感触。しかし力任せに押し切り、たまらず盾がめくりあがる。向こう側に見えるは驚愕した悪魔の顔。

 

 露になったそいつの頭をなます切りにしてやろうと再びツメを引き絞り――しかし突き出すことなく、別の場所から飛んできた拳を受け止めた。

 

 砲弾のように飛び込んできた新たな悪魔の顔が、『盾』と同じように驚愕し、次いで痛みに歪む。

 

 今度は確かに肉を貫く感触があり、視界の端に赤色の血が舞った。

 対してボクの手にはダメージが無い。恐らく無視して身体で受けていても同じ結果だっただろうが、しかしどちらにせよ『盾』のなます切りには失敗していただろう。致命傷以外に意味は無いのだ。

 

 それに、もっと殺しやすそうな敵が自らやってきたのだからこだわる意味も無い。苦痛に歪むそいつの顔面を吹き飛ばすため、ボクは拳に『気』を集める。

 

 だが直後、一撃を放つことなく、捕まえたそれも手放したボクは、警鐘を鳴らす本能に従ってすぐさまその場を飛び退いた。一拍遅れてちょうどボクがいた場所に火の玉が着弾し、爆音と共に破裂する。想定以上の威力と爆風に身体を煽られ少々バランスを崩しながらも、なんとかまともに着地した。

 揺れる身体を四つ足になって踏み留め、戦闘態勢を取り戻す。そうしている間に敵の恐慌も落ち着いてしまったらしく、顔を上げると、悪魔共が十メートルほどの距離を保って三方を囲んでいた。

 

 正面には先ほど手を握りつぶした格闘の奴。顔をしかめてはいるが片手は無事で無力化できたとは言い難い。右手では最初に吹き飛ばした『盾』が片手の剣を油断なく構え、その後ろには爆発する火の玉を放った悪魔が三匹。特別な武装は見当たらず、ならあれは魔力だったのだろう。そして残る一方。こちらには両手剣を構えた悪魔と、何故だかやけに注意を惹く緑のグリーブを装備した悪魔がいた。

 

 そして肝心なのは、その二匹の後方にクロカが居ることだった。

 

 クロカは無事だった。敵もさすがにボクがクロカを助けに来たとは考え付かなかったらしく、その状態から脅威にあらずと判断された彼女に悪魔共の注意は向いていない。『両手剣』と『グリーブ』に至っては背を向けてしまっているくらいだ。

 

 だがしかし、奴らのその態度はクロカをいつでも殺すことができるという余裕の表れでもあり、奴らが気まぐれを起こすか、あるいはボクが数匹に掛かりきりになっているうちに、クロカが凶刃に倒れかねないということでもあった。

 

 故にボクは動けない。三方のどれかに襲い掛かれば残りを警戒することができなくなり、下手にクロカを救うそぶりを見せれば彼女が人質たり得ることを奴らに知られてしまう。

 

(どうする)

 

 ボクは頭の中で考える。

 

 全体に注意を払いつつ、クロカのことを意識させずに敵を殺すには――

 

 やはり一匹ずつ確実に殺していくしかない。それもできる限り素早くだ。数さえ減れば加速度的に難易度は下がり、クロカを気に掛ける余裕も増える。

 

(だから、ダメージ覚悟でまず一人を確実に()る!)

 

 火の玉を放った悪魔の一匹が何か叫ぶと同時に、片手を潰した『格闘』が一気に距離を詰めてきた。ほんの少し遅れて『グリーブ』が向かってくる。

 

 先陣を切って残った拳を振り上げた『格闘』だが、ボクはこれを無視した。代わりに目を注ぐのは、蹴りを繰り出そうとする『グリーブ』。『格闘』の力量についてはすでに把握している。覚悟さえできていればダメージどころか身体を揺らされることすらないために、それに防御をする必要はない。しかし『グリーブ』は未知数だ。故に『格闘』の攻撃は身体で受け止め、『グリーブ』はしっかりと防御。両者を受け止めて、今度こそ確実に『格闘(一番殺しやすいやつ)』を殺す。

 

 予想通り全く意味をなさなかった『格闘』の拳が側頭部を小突き、僅かに遅れて『グリーブ』の脚が飛んできた。想定通りの軌道を描くその脚を、難なく『気』でガードする。そうして二匹の攻撃を受け止めたボクは、無事な腕も無意味に費やし無防備と化した『格闘』の頭をミンチするため、残りの『気』を集めた手を振りぬこうとし――

 

 動かない。

 

 いや、動けないのだ。『格闘』にツメを向けたまま、ボクの肉体は意志に反してそこで固まった。まるでボクの時間だけが止まってしまったかのようにその場に取り残され、意思一つで行えるはずの『気』の操作すら行えない。

 その間に『格闘』と『グリーブ』が背の羽でその場を飛び去ると、ボクはようやく自由を取り戻した。が、しかし遅かった。

 

 後方の三匹の悪魔共が放った火の玉、しかも前に放ったものの倍近くはあろうかというサイズの火の玉が、視界の端からもう既に避けれないほどの近さまで迫っていたのだ。

 

 『格闘』を駆除してからでも簡単に避けられると高を括って無視したのは完全に間違いだった。

 魔力か何かが込められているらしきあのグリーブ。『気』のように蹴りの威力が増しているか、あるいは火でも発するのか想像していたのだが、まさかたった一秒とはいえ『気』の防御を無視してボクの動きを止めるとは全くの予想外。そしてそのたった一秒でも今のボクには致命的だった。

 

 回避は間に合わず、ただでさえ高い威力が倍になって襲い掛かる。素の状態で受ければ大ダメージを負っただろうその火弾が、その時爆発した。

 

 しかしその直前、辛うじて防御が間に合った。

 『念』の修行、もとい模索の成果。攻撃のために両手へ集めた『気』を、瞬時に防御へ移し替えることに成功したのだ。

 

 だがもちろんノーダメージとはいかず、炎に焼かれたボクは爆風に吹き飛ばされた。ちょうどクロカとは正反対の方向で距離がますます離れるがしかし、薄目を開けてみれば大きな勝算がその光景に見えた。

 

 ボクを仕留めたと思い込んだのだろう。火の玉を放った悪魔共と空に逃れた『グリーブ』が目に見えて油断していた。『格闘』は手を潰された恨みからか警戒心を保っているが、爆風を避けるため勢いよく空中へ飛んだそいつらに急な方向転換はできない。

 確証はないが、しかし何より、確実にボクの動きを止めてしまう『グリーブ』は危険すぎる。何を賭してでも真っ先に殺すべきそいつが晒した隙を無視する選択肢など、ボクにはありはしなかった。

 

 足がようやく地面にたどり着いた瞬間、ボクは放物線を描く間に腿へ蓄えた力を一気に開放した。

 

 地面が割れて、ばね仕掛けのように飛んだボクの身体はまっすぐに、クロカが居る大樹の対角線上を浮遊する『グリーブ』へと向かう。爆煙を突き破り現れたボクに、奴は気付くことすらない。もっとも、気付いたところで構えまで解いた奴にはどうすることもできなかっただろう。爆煙に遮られた奴の視界に、ボクの姿は直前までなかったのだから。

 

 だが『グリーブ』は気付かなくても、警戒心を剥き出しにした『盾』はボクの動きに気が付いた。

 

 十数秒前の焼き直しのように白銀が目の前に割り込んで、ボクの攻撃を受け止めた。しかしあの時と違ってここは空中。不安定な体勢で『グリーブ』を庇った『盾』は、わずかに勢いを削いだだけで簡単に吹き飛んだ。背後の『グリーブ』にぶち当たり、縺れあって落ちていく。おかげで『グリーブ』の体勢も大いに崩れ、絶好の隙を晒していた。

 

(やっと、一匹――ッ!!)

 

 しかし、そんな安堵。この確信が、ボクの意識を曇らせた。

 幾度となく失敗した策がようやく成功して、僅かに生まれた油断が心に滑り込んだことに、この時ボクは気付かなかったのだ。

 

 『グリーブ』を押しのけて現れた『両手剣』に、反応が遅れた。

 

「がはッ……!!」

 

 その剣を背に隠すように振りかぶった『両手剣』が、上向きの薙ぎ払いを繰り出した。ほとんど『気』を纏っていない胴体に食い込み、衝撃で肺の中から空気が飛び出る。

 

 身体がくの字に折れ曲がり、ボクのツメに込められた『気』は誰にも命中することなく霧散した。が、肉体が飛ぶ勢い自体は『両手剣』にも止められず、刃の上を滑るように流れたボクはそのまま悪魔二匹の頭の上を通り抜け大樹にぶつかり、そしてクロカの目の前に墜落した。

 

「ピトー!!」

 

 背後にクロカの悲痛な声が聞こえる。一瞬の意識の暗転から目覚めたボクは、なんで名前を呼んじゃうかな、と呆れながら、腹部の傷を押さえつつ立ち上がった。

 

 視界内の悪魔共は全員そろって、どういうことだと言いたげな顔をしている。しかしそうかからずに、ボクとクロカが仲間であるという事実に気付くだろう。そうなる前により素早く、奴らを駆除する必要が出てきたわけだ。進歩は無いのに難易度だけがどんどん上がっていく。

 

 勝算は、冗談ですら良いとは言えないほどの状態だ。奇襲は既に二度失敗し、奴らの中の油断がほぼ消えかけであることに疑う余地はなく、勝手に隙を作ってくれるような可能性は皆無。背後のクロカのことを考えれば、もはや自分を囮にする手も使えない。

 加えて、切られた腹からは青い液体が流れている。生まれて初めての流血は案外辛く、命に関わるほどではないと思われるが、それでも脱力感に襲われてこの上なく踏ん張り辛い。この状況下でクロカを連れて奴らから逃げ切ることは、殲滅する以上に難しいだろう。

 

 だが不幸中の幸いか、吹っ飛ばされて三方の囲いから抜け出した今、前に出ても奴らを死角に入れてしまうことは無い。自ら攻め入って一対一の状況を作ることさえできれば、簡単に奴らを駆除できるはずなのだ。

 

 そう考え、ボクは悪魔共に向かっていった。

 

 が、その一対一を作ることが絶望的に難しい。

 

 速攻を狙って放ったツメは速度が出ず『盾』に防がれ、隙の穴埋めに現れた『両手剣』は力ずくで排除することが叶わない。そうこうしているうちに『グリーブ』の蹴りが飛んでくればもう回避に専念するしかなく、そいつらから少しでも距離を取れば、待ってましたと言わんばかりにあの火弾が飛んできてボクの肌を焼いてしまう。

 

 いつまで経っても状況が好転しない。力を入れれば血を噴き出す腹の傷も合わさって攻め手が続かず、代わりに体力だけが減り続ける。身体の動きは鈍く、踏ん張れず、初めて味わう鮮烈な痛みに心が乱れ、『気』の制御もおぼつかない始末だった。

 

 手詰まりだ。

 

 数秒の攻防に顔をしかめ、ボクは悟ってしまった。万全の状態ならともかく、背後のクロカに加え腹の傷という二つ目のハンデを背負った状態で、奴ら七匹の連携を崩すことは不可能だった。

 前衛の悪魔三匹は常に互いをフォローできる間合いを保ち、火の玉の悪魔共はその後ろで虎視眈々と火弾を放つ隙を伺っている。ようやく自らが役立たずであると理解したらしい『格闘』はその中間。万が一にも後ろの三匹に攻撃が行かないようにするための最後の砦。

 

 せめて腹部さえ治療できれば勝機も生まれるかもしれないが、しかし考えるまでもなく、ボクが【人形修理者(ドクターブライス)】を発動することはなかった。そもそも発動できるかも怪しく、よしんばできたとしても治療の間悪魔共が待っていてくれるわけもない。あれは戦闘時に使う『発』ではないのだ。

 

 ……いや待て、戦闘時に使う『発』?

 

 ふと思いつく。

 

(そうだ!それがあった!)

 

 クロカ曰く、様々あるらしい『念』の技の中でも『発』は特に強力だ。本人の資質によるが、まさに十人十色の効果を発揮する、『念』の基本にして集大成。無限に作れるわけではなく、あらかじめ個人ごとに作るための容量は決まっているが、それでも大抵の使い手が二、三個の能力を開発し、使いこなすという。

 

 なら、凡人にもそのくらいの余裕があるのならば、ボクにだって別の能力を、奴らを殺すための能力を得ることができるはずだ。

 

 一筋の光明を見出すが、しかし今は戦闘中。能力について考える暇などあるわけもなく、矢継ぎ早に繰り出される悪魔共の攻撃を捌くうちに、その思考も戦闘の反射の中に溶け、かき混ぜられていった。

 

 そしてやはり、同じような展開が続く。奴らの連携の前に、あと一歩が届かない。

 

 ここでもっと早く動ければ。ここでもっと力が出せれば。ここでもっとうまく『気』を扱えれば。

 そんなことばかりが繰り返される。

 

 後ろで待機する四匹も含めて悪魔七匹に注意を向けながらの戦いで、呑気に思考する余裕などは無い。しかし歯痒さの積み重ねは、『発』という方向性を頭に描いたことによって、徐々に形を成していったのだ。

 

 そしてまた、ボクは何度目とも知れぬ歯痒さを味わう直前にいた。

 

 振り下ろされたボクのツメ。それを防ぐ『両手剣』。そして攻撃を仕掛ける『グリーブ』。

 

 ボクの両手も両足も、奴を迎撃できる体勢にない。しかし指の一本でも『グリーブ』に向けることができたなら、それだけで奴を殺せるのだ。

 

 もし今この時、慣性を無視した動作ができたなら。

 

 もし今この時、全身の筋肉が最も効率よく働き、全集中力を要したあの時以上の速度で、『気』を攻防に移し替えることができたなら。

 

 もし――

 

 ボクの身体を、限界を超えて動かしてくれる能力があれば――

 

 身の内から『気』が吸い取られる感覚があった。

 

黒子舞想(テレプシコーラ)

 

 体勢的に目で見ることは叶わないが、確かに頭上に何かが具現化された。過程で言えば【人形修理者(ドクターブライス)】の発動と似ているが、しかしすべてが決定的に違う。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)】であれば発動から稼働までに三秒はかかるところをこの能力はコンマ一秒で完遂し、その僅かな間でボクの手や足、身体のあちこちに糸を繋いだ。

 

 当然その糸は【人形修理者(ドクターブライス)】のように身体の傷を縫い合わせるものではない。どちらかというと操り人形のそれのようで、ボクは直感的にその役割を理解していた。

 

 剣の腹でボクの右手を止めた『両手剣』と、その隙を突こうとする『グリーブ』を意識する。

 

 二匹を駆除するための道筋は瞬時にいくつも思いついた。しかしそのどれもが自身の実力的にも体勢的にも通ることができない、机上の空論ですらない道ばかりだ。

 

 だがボクはあえてそれを想像する。奴らを殺すための、非現実的な肉体操作を。

 

 頭の中でイメージすれば、少しのタイムラグも無く体は動いた。

 

 威力も勢いも殺されたはずの右腕が、繋がれた糸に導かれて最高速で『グリーブ』に飛ぶ。同時に『両手剣』の剣と身体の隙間から蹴りを叩き込み、その頭を足首で引っ掛けるようにしてこちら側に引き寄せた。

 そして地面と挟んで押しつぶす。足元に『両手剣』の潰れた脳味噌がぶちまけられるのと、『グリーブ』の頭が消え去って首から血が噴き出すのは、ほとんど同時だった。

 

 慣性や身体構造のことごとくを無視した一連の動作が二匹の悪魔を駆除するまで、かかった時間はコンマ三秒。能力の発動を含めても、一秒の半分さえ経過しない。悪魔共の反応速度を優に超えた動きは、死んだ二匹は疎か、傍から見ていた『盾』にさえ何が起こったのかわからなかったのだろう。ぽかんと口を開けて目の中に飛び散る赤色を映していた『盾』は、しかしすぐに我を取り戻した。

 

 こいつがやったのかとボクの顔を見て、血に濡れたその手足に確信し、顔を憤怒に染め上げる。

 

 『盾』の反応速度は、この悪魔共の中で最も優秀だ。だからこそ出合い頭の不意打ちや、爆煙を使っての不意打ちにも対処することができ、今回も三メートルほどの距離から飛び掛かったボクに対して、辛うじて盾を掲げることができたのだ。

 

 今のボクが得たものが速さと精度だけであったなら、まあ一撃は防げただろう。

 

 ドッ

 

 と重い音が盾と、それから『盾』の身体から鳴った。

 

 能力によって極限まで多く素早く圧縮された『気』を載せて、ボクの腕がすべての防具を貫通し、心臓を貫いた。

 延々攻撃を防がれた恨みも相俟って『気』を込め過ぎたのか、次の瞬間貫いた周辺が余波によって爆散し、取り残された頭が宙を舞う。

 

 怒りから恐怖に変わる途中で止まってしまったそいつの表情を、ボクは地に落ちるまでぼんやりと眺めていた。

 

「……死んだ?」

 

 崩れ落ちる『盾』の下半身に向かって問いかける。

 

 今までの苦戦が嘘であったかのようにあっさりとした終わり。自分がやったことながら、夢でも見ているんじゃないかと思うほど現実味が無い。拍子抜けのあまりに、一瞬とはいえ『格闘』と火の玉の悪魔三匹の存在も頭から消えてしまうほどだった。

 

 ぺしゃりと、『盾』だった肉塊も血の池に加わって、いよいよボクの眼前に動くものは居なくなった。

 

 ボクはぐっと背を反って、【黒子舞想(テレプシコーラ)】に目を向けた。

 全体的に黒色で地味な細身の身体。わかってはいたが【人形修理者(ドクターブライス)】とは似ても似つかない姿をしたその人形は、どことなく不満げであるような気がした。

 

 そう見えるということは、つまりボクも不満なのだ。新たに得た力のほんの一部を示しただけで、せっかくの玩具(・・)が壊れてしまったから。

 

 得た力のすべてを見たい。その思いは刻一刻と増していった。

 

 そんな思いを煽るかのように、明らかな恐怖が滲んだ悪魔の声がボクの注意を引いた。

 

 今までの毅然とした雰囲気はどこへやら。残った玩具共は、そのどれもがボクを恐れの目で凝視していた。目も口も体も、全身で絶望を叫ぶそいつらに、ボクの中の何かが蠢く。

 

 口角が上がっていくのを自覚しながら、ボクは一歩を踏み出した。

 

 (知りたい)

 

 今のボクがどれだけ強いのか。

 

 ボクの意思を機敏に感じ取った【黒子舞想(テレプシコーラ)】は、歓喜に震えてボクの身体を動かした。

 

 再び赤い血を目にする頃には、もうボクの中に奴らに対する怒りや恨みなんてものは欠片もなくなっていた。

 

 

 

 

 

 ぎゅるるる

 

 盛大にお腹が鳴る音に、ボクはようやく我に返った。

 

 振り返れば、血の気が引いたような顔をしていたクロカに一気に血色が戻っていくその瞬間。半分寝そべるようにしてミンチの死体を見ていた彼女は、ボクの視線に気づくとさらに顔を赤くした。

 

「ち、違うわよ!?これはその……朝から何も食べてないからであって、生理現象であって!別にあんたの、その……それを見て、お腹が空いてきたとかそういうのじゃないから!ほんとに!」

 

 言い募るクロカの必死さに、ボクの眼が散々遊んだ玩具の残骸に落とされる。バラバラの肉片とその臭いを感じていると――なるほど、思い出したかのように胃が空腹を訴えかける。

 空が赤みを増しつつあることも考えて、ハイになっていたボクならいざ知らず、傍からそれを見つめるクロカには結構な拷問であっただろう。

 

「あー、そうだね。確かにもうご飯の時間だにゃ。お腹の虫が鳴くのも仕方ない」

 

 【黒子舞想(テレプシコーラ)】を解除してにこりと微笑むボクに、クロカの顔の赤みが最高潮に達する。期待通りの反応に声を上げて笑いたくなるのを堪え、ボクはまだ原形をとどめている最初に壊した玩具の方に向かった。

 

「ねえ、そういえばあんた、お腹の傷は平気なの?あんたの『発』、えっと……【人形修理者(ドクターブライス)】って言うんだっけ?それで治療しなくていいの?」

 

 背を向けると、多少は落ち着いた様子のクロカが深呼吸の後にそう言った。

 

 そういえばと、ボクは腹の傷を覗き見る。そこには確かに一線の傷が刻まれていたが、しかしいつの間にか血も止まり、今の今まで負傷したことすら忘れ去っていた程度には痛みもなかった。

 

 問題ないみたいだ。そう告げようとして顔を上げると、その直前、答えを待たずにクロカが言った。

 

「まあ、あれだけ元気に暴れまわれるんだから、そりゃ平気よね。時間も忘れて楽しそうにしている割には『気』もほとんど乱れてなかったし……さっきの新しい『発』のおかげかしら。それにしても、関心を通り越して呆れるばかりよ、あんたの才能。あんな状況下で能力を開発するなんて、ほんとに……」

 

 尻すぼみに消える声を聴きながら、ボクは『グリーブ』の死体に手をかけた。どこぞに飛んで行ってしまったのか、『グリーブ』の代名詞たるグリーブがどこにも見当たらないことに首を傾げつつ、その腕を外そうと試みる。

 

「……ごめんね、ピトー」

 

 ボクはクロカの方を振り返った。

 

「なにが?」

 

「何がって……あんたを巻きこんじゃったことよ。私がお尋ね者だから、ピトーがあいつらと戦って怪我することになっちゃって……」

 

「戦いならご飯のために日常茶飯事にゃ。悪魔とも初めて戦ったわけじゃないし……怪我したのは初めてだけど、結局殺せたんだからいいじゃない?」

 

「……許して、くれるの?」

 

「許すも何も――」

 

 クロカは何を気にしているの?

 

 伏し目の彼女にそう言いかけて、ボクは慌てて口をつぐんだ。ボクは空気が読めるいい猫なのだ。

 

 雑念を追い出して、ボクは再び肉に向き直る。脚はやたらと太いが筋肉ばかりで筋張っていて硬そうだが、腕はいい塩梅で脂肪と筋肉が乗っている。クロカにとっても食べづらくはないだろう。力任せに引っ張ると水っぽい破砕音がして、気持ちいいくらいにあっさりと腕が捥げた。

 

 悪魔の一番おいしい部位は脳味噌だが、しかし頭はどこかに飛んで行ってしまった。他の死体は軒並みぐちゃぐちゃで、だから見つかるまではこれで我慢してもらおうと、いわゆる前菜を考えたのだが、どうやらクロカは不満なようだった。ボクが掲げ持つ腕肉を目にした途端表情が消え、次いで冷や汗を含んだ訝しげな視線が向けられた。

 

「ねえ、ピトー。私の勘違いだったらすっごくうれしいんだけど、まさかそれが今夜の私の夕食になる、なんてことは……ないわよね?」

 

「んー、腕が嫌いなら、じゃあ脚にする?硬いし、あんまりお勧めできないけど……ああ、なら腹肉はどう?後は内臓とかも柔らかくておいしいよねぇ。ちょっと面倒だけど……まあいいや。今切り分けるから――」

 

「そうじゃなくって!!」

 

 ほとんど絶叫だった。こういった豹変が若干のトラウマとなってしまったボクに、突然の激烈な反応が背を跳ねさせ、尻尾の毛を逆立たせる。恐る恐るクロカの方を振り返ると、彼女の顔はさっきが比較にならないほど血の気が引いて真っ青で、その手は吐き気を堪えるように口を押えていた。

 

「え?ほんとに?ほんとに私が食べるの?あれを?」

 

 ぼそぼそとくぐもった声で、せわしなく目を右往左往させるクロカ。呆然と見守るだけなんてことはできず、ボクはついつい口に出してしまった。

 

「脳味噌も、食べたかったら探してくるけど……」

 

「だからそうじゃないって!!」

 

 やっぱり駄目だった。ならばどこの部位がいいのだろう。あばら?背中?それとも『グリーブ』のような硬い肉質からして駄目なのか。

 

(まさかクロカがこんなにも悪魔肉にうるさかったなんて……)

 

 そんなことを考えるボクは、クロカと決定的にズレていた。

 

「だって、その、共食いよ?いくらそいつらが敵だったからって、そういうのって絶対禁忌だし、そうじゃなくても普通食べたいとは思わない……でしょ?」

 

 そのたった一言で、取り繕われた喜怒哀楽は反転した。

 

 せっかく忘れていた重苦しい感覚が封を破り、ボクの思考を飲み込んでゆく。たちまち身体が冷え切って、ボクは手の中のものを取り落とした。

 

(そうか……そうだよね。共食いになっちゃうんだよね。普通、共食いなんて、しないんだよね)

 

 クロカは猫又だが、奴らと同じ悪魔だ。しかし、悪魔を喰らうことになんの忌避感も抱かないボクは――

 

 ボクはたまらず眼をそらした。

 

「に、にゃはははは!だよね不味いよね共喰いは!冗談だよクロカ。ちょっとした冗談。待っててね、すぐに鳥か何か取ってくるから」

 

 言葉の中ほども言い終わらぬうちにクロカに背を向けて、ボクはその場を逃げ出した。背に突き刺さるクロカの視線が恐ろしく、それによって想起される事実がさらに恐ろしくて、ボクはただ無心で灌木の中をかき分け進んだ。

 

 無意識に視界の通らぬ場所を走り、そしてボクはついに足を縺れさせた。直後、運の悪いことに木の根に引っ掛かり、藪のクッションめがけてすっころぶ。

 驚いた動物たちが大慌てで逃げ去っていく気配を聞きながら、しかしボクはしばらくの間そのままでいた。

 

 やがてボクは枝葉の中に顔を突っ込んだまま、大きく深呼吸した。

 

「うん!さてと、早いとこ何か狩って帰ろう」

 

 頭に残すのは、クロカのために獲物を狩って帰るという一点のみ。そのほかすべてを奥に追いやって、ボクは藪の中から立ち上がった。

 

 そしてその視界に、目を引く赤色を見つけてしまった。

 

 鼻を働かせれば、芳ばしく香る血の匂い。つられて向かうとその一角は大きな力で押しつぶされたかのように草木が折れ、小規模なクレーターを地面に刻んでいて、

 その中心には赤黒い塊が一つ、放射線状に血を撒いて鎮座していた。

 

 調べるまでもなく、それは散々玩具にした玩具の破片。

 

「へぇ、こんなところまで飛んで行っちゃったの。すごいね、キミ」

 

 そう呟いて足先で小突いてやるが、もちろん返答などは無い。だがなんとなしににそれを見つめていると、ふと足先に何か硬質なものが当たった。よくよく見ると、肉塊の中に銀色の人工物のようなものが埋もれてしまっているようであり、興味をひかれたボクは手を突っ込んでそれを引っ張り出した。

 

 手のひらサイズの板切れのようなそれは、案外頑丈なようで壊れている様子もなく、二、三度振れば血もすぐに落ちた。

 

 見知らぬ材質のそれが何の変哲もない石板であるなんてことは当然あり得ず、ボクはすぐにそれの正体に思い当たった。

 

「にゃるほど。思うにこれが『すまほ』ってやつなのかな?」

 

 厳密には、魔力によって動くこれは悪魔たちが人間界のものを真似して作った別物なのだが、さすがにそれはあずかり知らぬことだった。

 

「うーんと、確かここを押して……おお!ホントに光った!」

 

 クロカから授かった知識で、その『悪魔製スマホ』の起動に成功する。画面に触れると絵が次々流れて変わり、眼を刺す色取り取りの閃光が辺りに溢れた。だがその内の一つ、画像を見つけた瞬間に、画面をなぞるボクの指はぴたりと固まった。

 

 正直なところ、ついさっき戦ったばかりの『格闘』や『盾』の顔さえ既におぼろげにしか思い出せないが、しかしそこに映し出された悪魔の顔だけはボクの脳に焼き付いていた。

 

 ボクが生まれた直後、一番最初に首を刈り取った悪魔の顔。

 

 『女王』を殺した張本人の顔を見間違えるなんてことはあり得ない。この世で最も憎い害獣の顔写真がそこに載っていた。

 

 だがいくら憎悪を込めて睨もうとも写真は写真。ボクの興味はすぐに逸れた。その下に延々続く模様の羅列、クロカ曰く悪魔文字という悪魔共独自の言語で書かれた文章に目が行って、ボクはすぐさまその解読に夢中になった。

 

 文字という概念からして知らなかったボクにとって、それは物珍しく、同時に理解が難しい代物だった。一からクロカに教えられ、文字の形と仕組みをすべて覚えるまで数日かかったほどで、苦労して習得したそれを試す機会を得られたことは容易にボクを熱中させてくれた。

 

 ただ、それが楽しかったのかと問われれば、多分そうではなかった。

 

 この時のボクにとって、それがつまらなくても他のことを忘れてしまえるくらい集中できるのならば、何でもよかったのだ。

 

 クロカと話をした時も、拒絶された時も、今回も、あるいは初めて出会ったときから既に、ボクはそれに気づくことが怖くて目を背け続けてきたのだ。

 

 その記述を見つけてしまった時、ボクはそう思った。

 

――また、行方不明である上記の下級悪魔が当日向かった森林地帯は、過去に人間大ほどの大きさに突然変異した『キメラアント』が発見された区域であり、それ以前に発覚した八人の行方不明者も含め、捕食されたものと考えられる。

 『キメラアント』は分類的には昆虫であるが、摂食交配という特殊な産卵形態をとり、捕食した生物の特徴を次世代に反映させることが確認されている。性格も、気に入った生物を種ごと喰い尽くすほど貪欲かつ狂暴であり、現在どのような外見、及び能力を保有しているかは全く不明であるため、探索隊は十分に留意して任務を遂行されたし――

 

 『キメラアント』。直感的に、ボクは自身の種族がそれなのだと確信した。

 

 妖怪でも、猫又でも、ましてや悪魔でもなく、『キメラアント』。

 

 クロカと似たこの耳も尻尾も、同じようでまるで別物。クロカと自分は全くの別種である。眼前に提示されたそれは、ボクの中から感情の一切合切を奪っていった。

 

 ボクは自身の腹部に目を向ける。

 

 クロカの血は赤く、ボクの血は青い。

 

 思えば簡単にわかってしまうほど、単純かつ決定的な違いだ。

 

 他にも肌の質感、関節の形状、指の数。明らかな証拠はいくらでもあった。にもかかわらず、『ボクとクロカは同じではない』という事実を、ボクは今の今まで本当の意味で理解したことがなかった。

 

 理解してしまえば、ボクは一人きりになってしまうから。

 

 『女王』は死に、『王』は生まれず、雑兵の『兵』も皆絶えて、生き残ったボクがただ一人見つけた仲間。それがまやかしだなどと言われれば、わかっていても違うと否定せざるを得ない。ボクは気づかないふりをし続ける。

 

 けれどもこれ以上、自分を騙し続けることはできなかった。

 

 ボクの脳味噌はもう修正が利かないところまで理解してしまったのだ。ボクは一人なのだと、ただ一人生き残ってしまった『キメラアント』であるのだと。

 

 ――いや、本当にそうだろうか。

 

 無駄に回るボクの脳味噌は、ふとその疑問にたどり着いた。

 

 顔を上げる。

 

 『王』が生まれることなく死んだあの時、『キメラアント(ボク)』も共に死んだのではなかっただろうか。

 

 『王』なき世界に『王直属護衛軍(ボク)』の価値などない。ボクはそう断じ、そしてそれは『キメラアント』にとって正しい事実であるはずなのだ。

 

 しかしどうだろう。ボクは未だのうのう生き永らえ、あまつさえただの餌であるはずの悪魔を、クロカを救っているではないか。

 

 彼女から知識と力を得るため?なるほど確かにもっともな理由だ。

 

 そんなものを価値のないゴミに与えたところで何の意味がある。

 

 合理性の欠片もない。クロカと出会ってからの出来事全て、『キメラアント(ボク)』の本能にないものばかりだ。

 

 『ネフェルピトー』という生物は、『キメラアント』の生態から著しく乖離している。

 

 ボクは既に『キメラアント』ではないかもしれない。『女王』が取り込んだであろう悪魔の血がボクの『キメラアント』を変えてしまったのか。しかしだからといって、ボクが妖怪や猫又や悪魔であるなんてことはあり得ない。性格も姿形も、クロカとは似ても似つかないことなど嫌というほど思い知っている。

 

 妖怪でも猫又でも悪魔でも、そして『キメラアント』でもない。ならば後に残るのは、悪魔を喰らう貪欲で狂暴なバケモノだけだ。

 

 悪魔の敵たるたった一匹のバケモノだけ。

 

「ボクは――」

 

 クロカの傍にいていいのだろうか。

 クロカを食い殺すかもしれないバケモノが、彼女の傍に――

 

 駄目だ。そんなバケモノをボクは信用できない。クロカが傷つく可能性を、ほんの少しでも残せない。

 

 去らねばならない。ボクという邪悪な害獣から、クロカを守るためにも。

 

「………」

 

 ボクはゆっくりと、クロカが居るであろう方向を振り向いた。

 

 ――ねえ、クロカ

 

「ボク、どうすればいい?」

 

 見慣れた真っ赤な空色が、その時のボクには気味が悪いものに見えた。



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四話

ガールズラブっぽい描写があるので注意。
作者的にはじゃれてるだけだったのでタグは付けませんでした。

20/3/21 本文を修正しました。


「――待っててね、すぐに鳥か何か取ってくるから!」

 

 早口で言うや否や、ピトーは逃げ去るように木々の暗闇に消えていった。その後姿を追った私の眼が、乱れた枝葉のその一点に縫い付けられる。

 

 あっけにとられ、三秒も後に伸ばした手と掠れたような静止の言葉はきっと聞こえはしなかったのだろう。その時にはもう、辺りはいつも通りの静寂を取り戻していた。

 

 その空気に薫る戦闘の破壊痕とピトーの『気』の残りカスが、雲に乗っているような浮遊感に呆けていた私の精神を現実に引き戻した。

 

 身体から力が抜ける。背を預けた洞から少しずり落ち、頭は拍子に地面を向く。

 鼻を突く悪魔だったものの臭いさえ気にならず、私の脳裏では延々と疑問符が浮かんでは消えていた。

 

 否が応にも思い出すのは、現実から目を背けたあの時のことだった。邪気に呑まれ、ピトーを傷つけ、そして一人絶望したこと。

 

 私は顔を上げた。鈍重な動作で左右を見渡して、その視界にピトーの姿が見えないことを理解すると、糸が切れたかのように再び頭を垂らす。

 

 私はまた、ピトーに失望されてしまった。

 

 ゆっくりとその事実をかみ砕いて飲み込めば、途端に脳内が氷のように冷え切った。不明瞭であった疑問符が形を以て、それは私の口からわずかに漏れた。

 

「――何を、間違えたの?」

 

 答える者などいるはずがない。凍結してしまった頭は碌に動作せず、しかしだからこそ私は待った。口を開けて餌をねだるひな鳥のように、欲することしかできなかった。

 

 何故、ピトーはここにいないのか。何故、ピトーは行ったのか。何故、ピトーはあんなにも嫌悪を孕んだ眼をしていたのか。何故、何故、何故……

 

 返答はない。答えも出ない。心の奥底の自分が考えることを拒否して、ただひたすら『何故』だけが頭に並ぶ。

 

 そうして着々と脳内は渋滞し、しばらくするとにじみ出るようにして別の感情が現れた。隙間に滑り込むようにして混ざりこんだそれが、私の手に触れた。

 

 それは恐怖だった。

 

 気が付けば、頭の中のもやがきれいさっぱり晴れていた。おかげで思考は冴え渡り、だから私はその恐怖が何なのか瞬時に理解してしまう。もう二度と味わいたくないと思い出すことをやめたその記憶を、私は思い出してしまったのだ。

 

 首を絞められ、心臓を万力で潰されているような強烈な絶望だった。その傍らに彼女の存在を想起されてしまえば、私はもはや認める他なかった。

 

 最初の印象はあまりよくなかった。意地悪でいけ好かなくて、その上何を考えているかわからなくて不気味だった。けれど何日も彼女と共にいるうちにそれ以上に好ましい部分も知って、そして今度は目の前で命を救われた。

 私を守るために戦ってくれたピトーの姿に、私は、そう、とうとう絆されてしまった。それこそ、白音や母さんと同じくらい大切な存在に、ピトーはいつの間にか化けてしまっていたのだ。

 

 だからこんなにも恐ろしく思える。それを失う絶望を、私は知っているのだから。

 

 信じていたのに、守ってきたのに、突如として裏切られ、その度に心がひび割れていくあの感覚。私の中の大切な何かがすり減っていく悪寒は、私の精神を容易く瓦解させてしまう。

 

 それがもう、ピトー相手でも起こりうる。

 

「そんなの……そんなの嫌よ……」

 

 私の手が、ピトーが消えた暗闇に伸びた。

 

 もう二度とあんな思いはしたくない。頭はそれでいっぱいだった。この望みが叶うなら、私はなんだってするだろう。

 

 ピトーがもっと知識を欲するなら、自分の脳味噌をすりつぶしてでも叶えよう。世話をするのが面倒なら、血反吐を吐いてでも立ち上がって見せよう。共食いを拒否したことが気に障ったなら、腕でも脚でも内臓でも、何でもかんでも食らって見せよう。

 

 狂気的にも、私にはそんな覚悟まであった。もう後が無いのだと悟ってしまえば、こんな発想に行き着いてしまうのにさしたる時間はかからなかった。

 

 だが行き着いてしまったところで私にできることは何もない。今起きていることは、ただの結果だ。

 

 あの元バカマスターに盾突いたことも、数十人の悪魔を前にして生命力まで捻り出したことも、その結果が巡り巡ってピトーの腹に傷を負わせたことも、もはや変えようがない、すべて私の自縄自縛。

 私があの子を助けると決意した時から、否、もしかすると悪魔に転生してしまったときから既に、こうなることは決まっていたのかもしれない。

 

 過去によって生み出された絶望の中では、希望など生まれようがない。ピトーが私を捨てようと決めれば、拾われただけの立場である私にそれを覆す術はない。群れの主が出て行けと言えば、それに従わねばならないのは『悪魔』の世界ですら同じことだ。

 

 だから私は震えて祈ることしかできない。そのことが何よりも恐ろしかった。

 

 自分ではもう手の出しようがないところで、すべての結果が決まってしまう。

 

 もしピトーが今度こそ帰ってこなかったら。帰ってきたとして、それが妙に律儀な彼女の別れの挨拶だったら。想像することしか私には許されず、募った不安がまた新たな不安を呼ぶ無限機関が頭の中に造られる。断片的にでも思い出される絶望に、頭がおかしくなりそうだった。

 もしこれが私に対する罰だというなら、それにしたってあんまりだ。何度も何度も想像を見せられて、もはやピトーの存在そのものに恐怖を覚えさえもする。

 

 だから私は茂みの中からピトーが顔を覗かせた時、喜びよりも先んじて感じてしまったそれに、彼女の顔を直視することができなかった。

 

「あ、その……おかえり……なさい」

 

「……うん、ただいま」

 

 短いが会話が成立したことに安堵が遅れてやってきて、私は心底ほっとした。続けて差し出された獣の肉に、さらに胸をなでおろす。

 

 肉を包んでいる葉っぱのお皿に眼を落として、剥がそうとすれば手元がやけに暗いことにようやく気付く。いつの間にか日が沈みきってしまっていることに驚きながら、爪でひっかくようにして葉をどかしてやると、ようやくそれが顔を出した。いつも通り、血が滴りそうなほど新鮮な生肉が、その金臭さに慣れてしまった私の鼻をくすぐる。

 

 私は眼だけでピトーのほうを覗き見た。

 

 私に夕食を渡してから、ピトーは一言も話さなかった。話を切り出すならタイミングは決して少なくはなかっただろう。だがピトーは洞の入り口に背中を預け、木々の隙間から漏れる月光をじっと見つめるばかりだった。

 

 ピトーの口から言葉が紡がれる気配はなく、彼女にその気がないことを半ば確信した私は、あっという間に肉に興味を抱いていたフリをやめた。

 

 その背中に会話を求めようと決すれば、いつもであれば舌戦を制するため、気の利いた話題を投げかけるべく頭を捻っていただろう。しかし今は、考えることすらしないうちに口が開いた。何かに急かされるようにしてひとりでにしゃべり始めた私の声色は、今までの恐怖が嘘であるかのように朗らかなものだった。

 

「ね、もしかしてこれ、この間も取ってきてくれたやつ?ほら、角の生えたウサギみたいな……あの耳が長い動物よ。あの時も『もしかしたらそうかも』って思ってたんだけど、多分こいつ魔獣よね。他のと比べて内包する力が明らかに高いし……ああ、魔獣っていうのはね、体内に魔力とかの特殊な能力を秘めていて、例えば一瞬で人に化けたり違和感なく声をまねたり、火を吐いたり雷を吐いたり、どう考えても飛べるはずのない体形で空を飛んだり……そう考えてみるとドラゴンとかも魔獣の一種なのかしら?もしかしたら妖怪とか悪魔も……?さすがに拡大解釈が過ぎるわね。とにかく、『力』の強い獣のことなのよ」

 

 ピトーは何かを思い悩むように枝葉の空を見つめたまま、何も言わない。まるで壮大な独り言を言っているような気分になるが、私の口は止まらなかった。

 

「でね、最初に食べた時、私結構感動したのよ?ピトーには理解できないことかもと思うけど、私、肉を生のまま食べたことってあんまりなくて、正直に言うと『肉は焼かないと食べれたものじゃない』って、それまでずっと思ってたのよ。けど、ただの固定観念だったわ。すっごくおいしいんだもん。生の、血と油とを新鮮なまま感じられて、『力』がそのまま身体に取り込まれるみたいな感覚がすごく、その、よかったの。これがドラゴンとかの『力』が強いものだったら、どんな感じなんだろうって、ちょっと興味湧いちゃった、かも」

 

「クロカ」

 

 空虚な言葉を遮って、ピトーが私の目を見据えて淡々と名を呼んだ。まるで、というか実際聞こえていなかったのであろうが、その眼は私のつまらない話に向いているようには見えない。感情の読めないまなざしに、私は強烈な嫌な予感を感じた。

 

「え、えーっと、何かしら?あ、そうだったわね!そういえばお肉の代価がまだだったわ!そ、そうね、じゃあ光力のことは……もう話したっけ。なら、悪魔、天使、堕天使の三大勢力の話――ももうしちゃったし……そうだ魔獣!魔獣……えーっとねぇ……あー、確か――」

 

 私の言葉はまたしても遮られた。

 

「身体は、いつごろ治りそう?」

 

 絶えず話題を探していた口が止まる。

 

 それは恐れていた言葉そのままではなかったが、しかし本質的には同じものだ。ピトーは、私が思っていた以上に誠実であったというだけのこと。

 

 『身体が治ったら、ボクはキミを見捨てて消える』

 

 私にはそう聞こえた。

 

 本来ならばピトーの優しさに感謝すべき場面なのだろう。私が取り付けたのは厳格な契約などではなく、その気になれば簡単に反故にできるような口約束。頑なに守る必要などピトーにはないのだ。しかし彼女は、もう邪魔にしかならない赤の他人でも一人で動けるようになるまでは面倒を見ると、そう言った。

 正規の病院のような、不満を抱く隙さえない好待遇。死にかけていたところを救われて、守られて、衣食住の世話をされる。それを看護が必要でなくなるまで続けてくれるなら、もう十分であるはずだ。それはいわば退院なのだから。

 

 だが私はどうしてもそう思えなかった。

 

「……さあ?わかんないわ。一ヵ月か二ヵ月か……ちゃんと治ってきてる実感がなくって、どれくらいかかるかなんてさっぱり」

 

 我ながら恐ろしいほど違和感なくそう言って、さらには肩まですくめて見せた。

 ピトーがそれをどう受け取ったのかは伺い知れない。何とも言えないような表情を浮かべると立ち上がり、洞の外へ出た。

 

 私はその後姿を眼にしながら、心の中に湧いてくる罪悪感を必死に誤魔化すことしかできなかった。

 

 だってウソだから。

 

 ちゃんと治ってきてる実感がない?どれくらいかかるかわからない?そんなの嘘っぱちだ。身体の痛みは日が経つごとに減ってきており、つい最近はピトーがいないところで数歩歩くことすら成功していた。それがわかれば、まともに動けるようになるまでの時間もある程度割り出せる。

 

 凡そ一週間だ。それだけあれば、今のままでも杖を突いて移動するくらいのことはできるようになるはずだ。

 いざとなれば、邪気を体内に留めることも覚悟して『絶』擬きによる体内からの回復も行って、完治までの期間はさらに短くなるだろう。

 

 ピトーの介護が必要なくなり、退院できるようになるまでそう時間はかからない。だからついた嘘だった。

 身体が治ればピトーが離れていってしまうと瞬時に繋がってしまった理解は、それ故に容易く、完璧な嘘を私に演じさせた。

 

 もちろん、こんなウソでピトーを騙し続けるなんてできないことはわかっている。これがただの先延ばしでしかないことも、ばれた時ピトーが何を思うのかも、きちんと理解は及んでいる。

 それでも尚、私には隠し通す以外の選択をすることができなかった。今この瞬間、ピトーに捨てられずに済むのなら、以降の不安などいくらでも押し隠せる。

 心の奥に押し込んで、忘れてしまわなければ狂ってしまう。一時の快楽に飢える薬物中毒者のようだ。恐怖だけが、今の私の動力源だった。

 

 もはや対面など気にしていられない。なりふり構っていられない。止めようのない自縛の連鎖。

 

 そんな私の苦しみに、ピトーが気付くことはないだろう。私は荒む心を落ち着けるために息を吐くと、彼女が出て行った薄闇を見やった。戦闘の余波で露出した茶色の地肌を、無心に掘り返すその後姿。

 

 よけられ積まれた土砂の下からは、バラバラの肉塊がまだいくつか顔を覗かせている。原形が残っているのなら穴を掘って埋めればいいが、しかしほとんど液状になってしまった一部の死体は、上から土を被せる以外になかったのだろう。染み出てくる赤は最善の処理と言い難いが、放置して異臭をばらまかれるよりはずっとマシだ。

 私はその作業を、ただじっと見つめた。

 

 次々埋められていくその様は、ピトーの容姿も相俟って猫の後始末のようだ。

 

 まるで汚物のような扱い。

 

 私はふと、まだ奴らが死んでいなかった頃の光景を思い出した。

 

 私の目から見ても、奴らは強かった。一人一人の実力もさることながら、言葉を交わす必要すらないような、素晴らしいの一言に尽きるその連携は、もし私が万全の状態であったとしても苦戦を免れ得なかっただろう。そんな強敵を相手に私を守りながら挑まなければならなかったピトーの苦労も、当然察するに余りある。彼女の表情も、怒りと敵愾心と、それと僅かな闘争心に歪み、あの場にはそれ以外なかったように思えた。

 

 だがそれも、『発』が編み出されるまでのことだ。一瞬のうちに三人を殺し、残った者たちの恐怖に塗れた顔を見た時、彼女はどう感じたのだろう。リーダー各の悪魔が震えた声で撤退命令を叫んだ時、彼女は何を考えたのか。

 

 わからない。だが、ピトーの表情はこの目で見た。

 

 あの時ピトーは笑っていた。今までの恨みを晴らすことができるという事実が、うれしくてたまらないと言わんばかりに。

 

 それが済めば、後はこうだ。興味をなくされ、土をかけられる。

 ピトーにとって悪魔は憎い敵で、それ以上でもそれ以下でもない。物言わぬ肉塊になれば、その価値はもうゴミ同然だ。

 

 私のことも憎いのだろうか。

 

 憎いだろう。私は元々猫又だが、今は確かに悪魔であるのだ。

 

 かつて私はピトーの出自を、悪魔に迫害されたあげく滅ぼされた種族の生き残りだと推測した。この推理がどこまで正しいかはわからないが、彼女の恨みの矛先が『女王』を殺した当人だけでなく、悪魔という種の全体にまで及んでいることは間違いない。老若男女一人残らずこの世の悪魔を皆殺しにしたいと、心底で彼女が思っていてもなんら不思議はなく、そこに私が含まれていることも自明の理。

 

 ピトーは私を殺さないと言ったが、憎いことに変わりはないはずなのだ。殺さない理由だってただの義理でしかない。彼女は私との取引に対して筋を通そうとしているに過ぎない。

 

 だからピトーにとって私は、そう(・・)なのだろう。

 

 その時ふと、近づく気配に気づいた私は、悲観の海から顔を上げた。

 

 辺りはもう真っ暗だった。夜目でも色彩はうっすらとしかわからないほどだったが、ピトーによる死体処理はもう終わってしまったらしい。私は自分が結構な間思い巡らしていたことに驚いた。

 

 ピトーが洞の入り口を潜り、寝床に入ってくる。習慣で少し端によってやると、できた空間に腰を下ろし、敷き詰められた葉がガサガサ鳴った。

 それからはもう物音一つしなくなった。肌が触れ合ってしまうほどのすし詰め状態の洞の中で、しかし自分以外の誰もいないんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどの静寂が辺りを包む。

 私のために『絶』をしてくれていることを差し引いても、彼女はやけに物静かだ。一言も話さずに床に就いた彼女の対応が、私との会話を拒絶しているように感じられる。

 

 その無音に、心が軋んだ。

 

「ね、ねえ、ピトー……」

 

 たまらず声をかけてしまう。ピトーの耳がぴくりと動き、彼女の意識が私に向くのを感じた。

 

 しかし、話題を用意していなかった私の口から次の言葉は何も出ない。口をパクパクさせているうちにピトーの興味は薄れていき、何も言わないその背中が恐ろしいものに見えてくる。この機会を逃せば私はこの鬱々とした気分のまま朝を迎えねばならなくなるだろうという想像は、着々と私の喉をひりつかせていった。

 

 そうして膨れた恐怖による圧迫感に、ついに私は耐えきれなかった。この憂鬱を晴らす言葉を探していたはずの思考が、『何でもいいから会話のネタを探す』方向にねじ曲がる。結果、その直後に鼻を突き刺したそれに可能性を見出してしまった私は、何も考えることなくそのままの感想を口にしてしまった。

 

「何か、変な臭いしない?」

 

 数秒の沈黙。自分が何を口走ったか遅れて理解した私は、慌てて言葉を継ぎ足した。

 

「ち、違うの!別に文句を言ってるんじゃなくて、なんだかやけに腐敗臭が強いような気がして……」

 

 私に背を向けたまま、ピコピコと頻繁に動いていたピトーの耳さえ動きが止まり、尻尾はだらんと垂れ下がる。焦りのあまりに口を衝いた言葉が弁明にすらなっていないことを自覚した私は、さらに訂正を重ねてしまいそうな口を閉ざした。今、矢継ぎ早に喉を押し上げる弁明の言葉をそのまま口にしたところで失態を上塗りするだけだということは、いかに恐慌状態であろうともわかりきっていたからだ。

 

「……ボク、そんなに臭う?」

 

「ご、ごめんなさい!違うの、ほんとに!ちょ、ちょっとだけ待って……」

 

 ピトーの沈んだ声にそう言って、私は一つ深呼吸をした。

 

 何とか心を落ち着けて、頭の中を整理する。ピトーの気に障らない理由を探し出し、繋ぎ合わせてさらに一呼吸を置くと、自分の声が震えはしないかという不安を生唾と共に呑み下してから、私は脳に綴った弁明の言葉を口に出した。

 

「その、つまりね、今から水浴びに行けって言ったんじゃなくて、そう、あなたが殺した悪魔たちから腐敗臭がすることが不思議だなって……ほら、まだほんの数時間しかたってないでしょ?そんな短時間で腐敗が始まるとは思わなかったから言葉足らずになっちゃっただけで、ほんとにそれだけなの」

 

 ピトーは背を向けたままだが、私はできうる限り反省しているふうに見えるよう顔を伏せ、そしてちらりとピトーの様子を覗き見る。怒っているわけでも、興味を失ったわけでもないだろう。だがピトーは寝転がったまま、何の反応も見せなかった。

 

 何を思っているのかもわからないその後姿は、十分すぎるほどに私の不安を掻き立て、喚き散らしたくなるような震えを内心に生じさせる。だがしかし、僅かに残った自制心は辛うじてその自暴自棄を押し留め、理性的に理由を見出すことに成功した。

 

(……やめよう。ウザがられて嫌われたら元も子もないわ。心身を休めてもらったほうが、ずっと建設的)

 

 それは焦燥感を説得するために捻り出した、適当な理屈だった。だがしかし、それを思いついた瞬間、私にとってそのひらめきは、正に天啓というべき奇跡の逃げ道であったのだ。

 スイッチでも切れたかのように一瞬頭の中がまっさらになって、自分がそうしていることがさも当然のように感じられる。

 

 理由はもちろん悪魔たちだ。

 

 私を追ってやってきた奴らが定時連絡を怠る常習犯でもない限り、奴らが死んで失踪した事実はすぐに悪魔の上層部にも伝わるだろう。少し頭を働かせれば何が起きたかも察しが付くだろうし、となれば近いうちにより強大な手勢を送り込んでくることは想像に難くない。手負いながらも七人もの悪魔を撃退したと判断され、跳ねあがった脅威度に比例して投入されるその戦力が、ピトーの手にも私の手にも負えないことも、同様に疑いようのないことだった。

 

 だからいずれ私たちはここを離れなければならない。そのためにもピトーにはできる限り万全の状態でいてほしいのだ。

 

 私は無意識的にそんなことを考えたらしい。そしてそれは絶好の話のネタになる。

 そんなふうに扱ってしまうには些か重要過ぎる話題だが、話の切り出しに空模様を使いかねないほどコミュニケーション能力をズタズタにされてしまった私にとって、それは砂漠のオアシス同然だった。

 

 だが、無意識下であろうとも私がそれを口にすることはなかった。

 

 実際、背を押すものが焦りだけであったなら、私は意気揚々とそれで静寂を破っていただろう。しかし、私の眼にはピトーの背中が写っていた。

 

 それを話の火種にするということは、私がピトーの負担になっていることを自ら宣言するも同然だ。どう見たってそれは、私がいるために生じた厄介事であるのだから。

 

 私という災厄のタネは、またしても害悪を呼び寄せた。

 

 ずっと感じていた私の負い目を、ピトーが許すと言ったことは理解している。しているがしかし、今一度それを彼女に喧伝する勇気が、今の私にあるはずもない。

 最初にその弱音を口にした時はまだよかった。ピトーが無事であったことに、その恐れを忘れられていたからだ。けれどもう、存在しない。勇気も楽観も、胸中に予備はない。

 

 私はもうピトーと離れられないと、そう思い知ってから、思考は急落し続けて、彼女に見捨てられるかもしれない恐怖が繰り返して止まらない。

 不信感が積み上がり、ピトーは今度こそ私に愛想を尽かしてしまうかもしれない。そんな不安がどうあがいても無くならないのだ。

 

 けれど私がピトーと共にいたいと願うせいで、ピトーの苦労が際限なく増えていく。私にはとてもその現実を直視することができない。

 ならばこそ、私はこの不安を押し隠し、朗らかな笑みを無理矢理浮かべてピトーと自分自身を騙し続けるしかなかった。いずれ溢れてしまうことを知っていても、もう吐き出すことなどできないのだ。

 

「もう、寝ましょ。あなたもあんな戦いで……疲れてないはずがないんだから、少しでも長く身体を休めなきゃだめよ」

 

 思考の外でそう言う自分の声を聞きながら、私は重たく暗い感情で頭を満たしていた。

 

 そのせいで血の気が引いた私の顔色などわかりはしないだろうが、ピトーが突然寝返りを打ってこちらを向いた時、私は彼女からそっと視線を外した。

 寝釈迦の恰好をしたピトーがおどけたように言う。

 

「クロカが想像するほど弱ってないよ、ボク。いい具合に肩慣らししたせいで、むしろ精神的には絶好調にゃ」

 

「心が元気でも体は違うでしょうに……とにかく、変に盛り上がって夜中の散歩とか行かないでよね。肉体的な疲労が溜まったままだと『気』の回復だって遅くなるんだから」

 

「んー、それは困るにゃあ。力の加減がわかんなくて【黒子舞想(テレプシコーラ)】にだいぶ『気』を持っていかれちゃったんだよね」

 

「【黒子舞想(テレプシコーラ)】って、あのバレリーナみたいな『発』のこと?もう名前付けちゃったんだ。【人形修理者(ドクターブライス)】もそうだけど、どうやって名前決めてるの?」

 

「もちろん、勘だよ。能力を使うとビビビって来るんだ。もう最初からそれと決まってるって感じに。あ、でも【人形修理者(ドクターブライス)】はちょっと違ったかも。決まっていた形から少しだけ変わった……のかな?まあつまりはいんすぴれーしょんってことにゃ」

 

 そう言って唇に弧を描くピトーは、もうすっかり元の調子を取り戻していた。

 会話を交わす度、指数関数的にピトーの声色がよくなっていく。それに釣られて私の気分も表面上は上向いた。

 

 おかげで現実逃避の言葉がすらすらと出る。私は顔を笑顔に歪めながら言った。

 

「確かにピトーって、感覚だけで何でもできちゃいそうところあるわよね。『発』だって、本当ならもっと瞑想とか精神修行とかしてイメージを固めてからようやく開発できるもののはずなのに、あなたは一度戦っただけで作っちゃうし……」

 

 半ば呟くように言うと、私の眼は小さな丘のようになった奴らの墓のほうを見つめた。ほんのり香る残虐の臭いに緩く歯を噛む。

 

 それだけで能力を発現させてしまえるほど、彼女の悪魔に対する感情が強かったのだろうか。

 

 私は慌ててかぶりを振った。

 脳味噌からその感覚を弾き飛ばし、小さく息を吐いて頭を切り替える。

 

 そうしているうちに、不意にピトーが上体を起こした。自らの腕を顔の前に突き出して……においを嗅いでいるのだろうか?

 

 私はピトーが何をしているのかわからずに一瞬だけその姿を凝視して、彼女の視線がたびたび悪魔たちの墓に向いていることに気が付くと慌てて首を振った。

 

「だ、だから違うって何度も言って……あの……ほら、もしかしたら私から臭ってるのかもしれないし……ね?」

 

 意味深に墓へ眼をやってしまったためか。もう私が全部悪いってことでいいから、いい加減その心臓に悪い表情をやめてくれ。

 

 声にも顔にも出さなかったが、心底そう思った。

 

 ピトーは私の作り物の愛想笑いににまりと笑い、身を乗り出してずいっと顔を近づけた。

 

「にゃるほど。じゃあボクの名誉のためにも、それがほんとかどうかちゃあんと調べておかないとねぇ……」

 

 いつかに聞いたことがある悦に入った声色で言うや否や、ピトーはそっと、私に抱き着いた。

 

「……ッ!?」

 

 肌に感じる他者のぬくもり。初めての直接的なスキンシップに、思わず身体が強張った。一拍遅れてやってきた気恥ずかしさに、顔の温度が数度上がる。

 

 心臓から昇っていく血で喉が圧迫されて悲鳴も何も出なかったが、絶えず感じていた恐怖も一時押し流されてしまうほど、私の頭では様々な感情が錯綜していた。

 

 まるで、普段はしゃれっ気の無い女の子が唐突にフリフリの服を着て、その満面の笑みで微笑みかけられた時の男子中学生のような……つまりそんなことはしないと思い込んでいたがための意外性に、私は度肝を抜かれてしまったのだ。何を考えているんだ私は。

 

「えど、どう……どうして……なに?」

 

 いつも以上にどもりつつ、辛うじて疑問の言葉を作り出した。私の胸元に顔を突っ込んで、白銀のくせっ毛を見せつけながらピトーが言う。

 

「んー。クロカってここ大きいよねぇ。……なんだかよくわからないけど負けた気分」

 

 素肌とほぼゼロ距離でそう言うものだから声の振動が胸の奥まで響いてくる。心臓が痛いくらいにびりびりしびれて鼓動が上がり、ほんの少しでも気を抜けば考えなしにピトーを抱きしめ返してしまいそうだった。

 

 その衝動を必死に堪えていると、その時ふと、生暖かい小さな風が素肌をなぞるのを感じた。血行が良くなって火照った肌だからこそわかるようなぬるい温風は、胸の谷間辺りを行き来している。どうやらピトーが起こしているようだった。

 

 私のにおいを嗅いでいるのだと理解が追い付けば、私の頬がますます赤みを増した。

 

「ちょ、ちょっと!いくら女同士だからって、やっていいことと悪いことが……や、やめてったら!わ、私お風呂入ってな……あああ!わかったから!に、臭うの私でいいからあ!」

 

 ピトーがニマニマと悪い笑顔で私の身体をまさぐって、その手がヘンなところにまで達しそうなことを感じ取った私は、くすぐったさに身を捩り、大慌てで抵抗を試みる。それにさしたる意味があるとは自分でも思えなかったが、男に肌を見せるのとは別種の心労に耐性が無い私は、肉体が許す限り遮二無二に腕を振っていた。

 

 不快がられないようにと、頭の真ん中に据えた留意はきれいに忘れ去り、取り繕った笑顔の仮面も剥がされる。

 私を不安がらせたあの雰囲気はどこへやら。ひどく楽し気な様子のピトーに、私は自分を隠すことすら忘れてしまっていた。

 

 見捨てられる恐怖に怯える必要も、絶望する必要も、そうなるまいと苦心する必要もない。何にも煩わされることがない、初めて見つけた希望に、私は心を奪われた。

 それは私が渇望していたぬくもりそのものだった。大きな手に庇護されているような、泣きたくなるくらいの安心感を、私は感じていたのだった。

 

 だから私は丸裸な心のまま、急転換した自分の心情に疑問も抱かず、その温かさに陶酔していた。

 

 そう、脳味噌は酔いに侵されていた。故に私は再び急変したピトーの態度に置いて行かれ、愚かにもぼんやり首を傾けてしまったのだ。

 

「にゃは、やっぱり腐敗臭なんてしないじゃない。さすがにクロカと死骸の悪臭を間違えたりはしないよ。こんなに、比べるのもおこがましいくらいいい匂いなのに」

 

 ピトーが芝居がかった動作で胸を張る。そして、言った。

 

「なんだったらボクが初めて食べた悪魔よりも――」

 

 ぴたりと、一瞬にして石にでもなってしまったかのようにピトーの口も身体も固まった。私に向いているはずの彼女の眼に私が写っていない。私を透かしてどこかの虚空を見つめているようなピトーに、私は純粋に疑問を持った。

 

「ピトー?」

 

 その声にはっと我に返り、ピトーは再び笑顔になった。しかしその表情はどこか歪で、逆に私の安心感を剥ぎ取ってしまう。

 

 相変わらずピトーは私を見ておらず、次に発せられたその言葉が私に向けられたものだと気付いたのは、少しばかり時間が経ってからだった。

 

「――明日はいっぱい歩かなくちゃならないだろうし、ボク寝るね。クロカも……。おやすみ」

 

 何の脈絡もなく言い逃げのようにそう言うと、ピトーは洞の壁を向いて身を横たえた。私はただ茫然として、ガサガサと葉の中に潜り込んでいくのを観覧していた。

 

「……ピトー?」

 

 あまりに突然の切り替わりにすべてが追い付かず、私はまた同じようにピトーの名を呼んだ。

 

 ……反応がない。まさか今の一瞬で眠りに落ちたわけではないだろう。無視されているのだ。

 

 私は思考能力を取り戻した。心を浸していた幸福がひび割れる幻聴が聞こえて、無視に感じる拒絶の意が酔いを急速に冷ましていった。

 悪寒が背に走り、勘づいた私は一度深呼吸をすることに集中した。一旦頭を空にして、幸福の余韻に平然と偽りを思い浮かべた。

 

(会話しながらじゃ眠れないものね。だからきっと、朝になれば元に戻るわ)

 

 あのぬくもりは、本物だもの。

 

 私はそこで思考を打ち切った。全身を改めて葉の上に下ろし、目を瞑る。後は眠ることだけ考えた。残った幸せだけを心に残し、そのほかすべてを切り離して、私は眠りに逃げ出した。

 

 とうとう訪れてしまったのだ。幸福から絶望に突き落とされる、その時が。

 

 

 

 

 

 私は、自分が夢を見ていることを自覚していた。

 

 ふと目を開けば死んだはずの母親が笑っていて、その膝の上にはまだ幼子であった頃の我が妹が、白音がすやすやと寝息を立てている。

 

 多分私が一番幸せであった頃の光景。今となってはもう見ることの叶わない幸福が、私の眼前にあった。そのことを気味が悪いほど強く認識している自分がいて、私はそれがたまらなく不快だった。

 

 場面が移り変わる。そこには私と白音はおらず、顔が見えない男と、そいつに無視されながらも話しかけ続ける母親の姿があった。

 

 こんな光景を私は知らない。深層心理が作り出した想像の産物だろう。

 だから知りたくなくてもわかってしまう。この男は私の父親だ。奴は母親に私と白音を産ませた後、それを認知することを拒んでいたらしい。奴に惚れていた母親はどうしても私たちを認めてもらいたくて度々会いに行っていたという。よく外出する母親を不思議に思い、それを聞き出したような記憶がある。

 

 また場面が切り替わる。今度は私と白音だけがいた。家族三人で住んでいた居間だ。ちゃぶ台だけがぽつんと置かれていて、大して広くもなかったはずが倍くらい広大に見えた。

 

 そんなただっぴろい居間で白音が泣いている。もう何週間も前に父親に会いに行った母親が、それっきり帰ってこなかったのだ。

 

 このことはよく覚えている。私はこの後、もう母親が戻らないことを確信し、白音の手を引いて何もなくなったその家を出たのだ。そうして何年か野良猫のような生活を送り、何時かにあの元バカマスターと出会い、白音の保護と引き換えに奴の眷属として悪魔に転生した。

 

 場面が変わる。

 

「こっちに、来ないでッ!!」

 

 まだ褪せていない、もっとも新しい絶望。悲鳴が鮮明に記憶をなぞり、私の精神を直接殴りつける。

 

 事の始まりは、あの元バカマスターが白音の仙術の才能に目を付けたことだ。あろうことか奴は私との契約を破り、無理矢理白音を仙術に目覚めさせようとした。下手をすれば白音が死にかねないようなやり方に、私は白音と共に逃げ出すことを決めたのだ。なのに――

 

「どうして、こんなことを……」

 

 悪意から隔離されていた白音にとって、元バカマスターは未だ『優しいご主人様』だった。

 

「いやッ!!あなたと一緒になんて、行きたくない!!」

 

 同僚だった眷属を殺し、家人を殺し、奴自身も殺してたどり着いた先で待っていたのは、怒りと恐怖に満ちた眼で私を拒絶する白音だった。

 

「お願いですから……どこかに行って。もうわたしに関わらないで――もう、一人にして……」

 

 私はこの時、またしても大切な存在に見捨てられた。

 

 母さんも白音も、みんな私を捨てていった。

 

 私は一人があんなにも怖いのに、皆は知ったことかと唾を吐く。まるで私一人が悪いのだと言わんばかりに、私を罰する。

 

 そう、だから、

 

 どうせピトーも、私を捨てるのだ。

 

 心を壊す、あの絶望が――

 

「………」

 

 いつの間にか、私は目を覚ましていた。

 

 今までにないほど激しく拍動する心臓の痛みに意識が叩き起こされて、目にたまった水滴がこめかみを伝って流れていく。

 

 私は上半身だけ跳ね起きた。肉の筋がぶちぶち千切れる音を聞いたが、認識すらしなかった。私の頭を占めているのは幸福という名の覆いが外れた恐怖心と、夢での追体験で蘇ったあの絶望だけだった。

 

 そしてそれは、隣の寝床が空になっていることに気付くとさらに加速した。

 

「ピトー。どこ?ピトー……ピトー?」

 

 私は無意識に仙術を使って気配を探っていた。

 

 ――いない。

 

 探知範囲をどんどん広げる。

 

 ――いない。

 

 動物の一匹すら引っ掛からない。ピトーの『気』の残りカスばかりが大量に残留しており、私の集中を散らしてしまう。

 

 ――いない。

 

 ピトーが、どこにもいない。

 

「嘘、だったの……?」

 

 あの言葉は。あの約束は。あのぬくもりは。

 

 あなたは何故、私の心をめちゃくちゃにかき乱してしまうのか。

 

「もう嫌なのに……私……私は……」

 

 どうせ捨てるなら拾わないでほしかった。瀕死のままで放っておいてくれたなら、こんな思いをせずに済んだのに。

 

 すべて消えて、私は楽になれたのに。

 

「……?」

 

 私はふと、それに気づいた。僅かな腐敗臭。昨日の夜、ピトーから感じたあれだ。

 

 そんな希望を残すから、私は余計に傷ついてしまう。

 

 私はふらふらと揺れながらも立ち上がった。寝たきりであったための脱力感と治りきっていない負傷のせいで重心が取りづらい。それでも私は立ち上がり、壁を伝って洞を出た。臭いの続く方向、ピトーが歩いたその道を辿るため。

 

 一歩進むごとに全身が痛み、僅かでも気を抜けばその瞬間にバランスを崩しそうになる。しかし私はあちらこちらによろけながらも、確実に森の奥へ進んでいった。

 

 もはや帰り道など覚えていない。いくつもの木々や草花、大地や岩を通り過ぎ、やがて私は茶色一色の城のような建造物にたどり着いた。暮らしていた大樹よりも背はずっと低いが大きさは何百倍とある。

 明らかに何かしらの生物、人間大の何かが造ったものだ。巣であろうその中に侵入して私が害されない保証はどこにもない。けれど私は迷うことなくその中に入った。死への恐怖は私の歩みを止める要因になりえない。

 

 そして、ピトーを見つけた。いくつもあった部屋の中で最も大きい大広間。そこら中に人間サイズの昆虫が屍を晒していて、比にならないほどの腐敗臭が私の鼻を潰していた。

 

 踏み入ると、彼女の耳がぴくりと跳ねた。ゆっくりとこちらを振り返り、そして、

 

 その表情が母親や白音と重なり見えて、私は自分の心が砕け散るのを感じた。



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五話

20/3/21 本文を修正しました。


 たかが一晩眠ったところで、それを忘れることなどできるはずがなかったのだ。

 

 ボクの口をついて出てきかけたその言葉は、忘却するにはあまりに重大で、そして致命的だった。だからこそ、ボクは夢の中でさえその言葉を一言一句まで意識せざるを得なかった。

 

 あの時、クロカの存在を腕いっぱいに掻き抱いた時、ボクの口は『おいしそうな匂いがする』と言いかけた。ボクの無意識は、クロカのことをおいしそうな餌だと認識していたのだ。

 

 直前になるまで、ボクはそれに気付かなかった。

 

 確かに、ボクの『キメラアント』の嗅覚が悪魔のクロカをおいしそうだと感じることは、悍ましいが理解できる。栄養価が高く、しかも魔力という『力』に溢れる悪魔は、『キメラアント』にとって最高の食料だ。『女王』に強い『王』を産んでもらうためにも、自ら捕食するためにも、その習性から言えばそれはこれっぽっちもおかしくはない。

 しかし、ボクはボクが普通の『キメラアント』でないことを自覚していた。何よりも心に於いて、異なる。理性は、自分が悪魔であれば見境なしに殺し、喰らい啜るような、『キメラアント』という名のクロカの敵ではないと、そう確認をしたのだ。だからクロカの身体が治るまでは彼女を守ると、妥協もできた。

 だが、気付かなかった。気付いていなかった。気付かないほど、その認識に違和感を覚えなかった。以前食べた悪魔のにおいとクロカのそれを比較することがどういう意味なのか、わかっていなかったからこそ、ボクは理解したのだ。

 

 クロカを餌と捉えることは、ボクの理性にとってわざわざ意識することもないくらい、極々当たり前のことだった。

 

 ボクの精神は『キメラアント』でない。そしてクロカのそれと同じでもない。彼女を外敵から守るためだと理屈を捻り出し、自分を納得させたその裏に、まともでないボクの本性は隠れていた。

 

 なら、クロカを助けたいと願ったあの時のボクは何なのだろう。ボクは本当に、クロカのためを思っているのだろうか。

 

 瀕死のクロカを見つけたあの時、クロカが邪気に呑まれたあの時、クロカが悪魔共と出くわしてしまったあの時、本当は心のどこかで舌なめずりをしていたのではないだろうか。クロカを助けたいと思ったあの時のボクは偽物だったのだろうか。

 

 何故ボクはこうも異常なのだろう。身体も心も、すべてに於いてボクはクロカと相容れなかった。

 

 こんなこと、気付きたくなかった。

 

 ボクは紛れもなく、心身ともにバケモノであったのだ。

 

 そのことに、悲しみを感じる。無念さを感じる。怒りを感じる。しかしその一方で、何故心を揺らしているのかわからないと首を捻る自分も確かに存在している。

 複雑に絡み合ったこの感情の名前がわからない。その先が理解できない。そんな自分が恐ろしくてしょうがなかった。

 

 考えれば考えるほど、自分とクロカの間にある違いを意識してしまう。どんどん距離が離れていくような気がして、だからボクは寝床を逃げ出したのだ。

 

 逃げ出して、行き着いた先が生まれ故郷たる『巣』であった理由はあまりよくわかっていない。ここにもう生者がいないことは何度も確かめたというのに、ボクは今更何を求めているのだろう。

 

 ここは『巣』の大広間。最も多くの死骸が散乱している場所で、そのほとんどが当時のまま腐り溶けている。気分が悪くなるほど濃密なその腐敗臭を肺いっぱいに吸うと不快感に咳き込んで、訳もわからぬ感覚がボクの気を逆なでしていた。

 

 ただ、忘れてしまいたかった。

 

 自分にはどうすることもできない、煩わしいこの感情。心臓に爪を立てて引っ掻き回されているような、その感覚を解決しないことにはクロカと会えるはずもない。このわだかまりを抱えたままで、ボクはクロカに何を言えばいいのだろう。

 だからせめて、嘘でも笑えるようになるまでは帰るわけにはいかなかった。クロカの顔を見るわけにはいかなかった。

 

 なのに――

 

「――どうして」

 

 こんなところに来てしまうんだ。

 

「クロカ……」

 

 未だ断裂した肉が癒えておらず、長時間の歩行などできないはずなのに、なぜかクロカはそこに立っていた。脚を震わせ、開いた傷から血を滲ませて、土壁を支えに呆然と、ボクに無色の視線を注いでいた。

 

 どうやってここまで来たのか。身体は大丈夫なのか。かけるべき言葉はいくらでも思いついた。クロカを前にしても頭はやけに冴えわたっていて、言葉だけなら何も知らなかった頃の自分を演じることができるはずだった。

 

 しかし、彼女が僅かでもこちらに近づくそぶりを見せれば、そんなものはすぐに吹き飛んだ。

 

「それ以上、こっちへ来るな……ッ!」

 

 ひとりでに口をついた言葉は恐怖に震えていた。それを耳にしてクロカの動きも止まる。

 

 ボクはいつの間にか、自分がクロカを直視できなくなっていることに気が付いた。

 もしクロカがボクの正体に気付いていたら。その眼から口から身体から、ボクに対する拒絶を発していたら。その感情は怒りか恐怖か、どちらにせよ、ボクは視線を彼女の足元に下げざるを得なかった。できれば耳も塞いでしまいたいほどの恐怖が、ボクの視線を押し下げていた。

 

 ばしゃり

 

 突然、崩れ落ちるようにしてクロカが地面に座り込んだ。脱力した身体に置いて行かれ、宙を舞った着物の端が腐った血だまりの上に落ち、赤黒く変色する。

 

 その拍子に、ボクはクロカの顔を見てしまった。その表情はボクが危惧した感情を宿してはいなかった。彼女は怒っても恐れてもいない。

 

 それをすべて通り越したところにある絶望で、クロカの心は染まっていた。

 

「……ふふ」

 

 今すぐにでも逃げ出したいのに、できない。ボクの目にクロカの顔が焼き付いていて、彼女が顔を伏せて小さく呟こうとも眼を離すことができなかった。

 

「ふふ、ふは、あはははは!!」

 

 クロカが嗤っている。

 

「あはははははは!っひひ、ひふふふふ」

 

 こらえきれないと言わんばかりに、腹を押さえ、脚をばたつかせ、手で地面をバンバン叩く。腐った血が跳ね飛んで自分の身を汚してしまうことも厭わずに、まるでそれ以外考えられないかのように無防備に、クロカは異様なほど楽しそうに嗤っていた。

 

 それが絶望による諦念だと、この時のボクは気付いていなかった。

 

「ピトーってさ、ずるいわよね」

 

 半分嗤ったまま、クロカが言った。

 

「だって一人で何でもできちゃうんだもの」

 

 顔を上げたクロカはボクを見ていない。確かに視線は合っているのに、ボクはそう感じた。

 

「私は駄目なのよ。いつまでたっても」

 

 クロカの腕がゆっくりと持ち上がる。

 

 唇が弧を描いた。

 

「だからさ、今度は私が捨てるの。別にいいでしょ?――ねえ」

 

 瞬間、ボクの頬を何かがすさまじい速度で掠めていった。

 

 背後で轟音。土壁に穴が開き、日の光が広間の明度を少し上げた。吹き込んでくる外の風が砂塵を巻き上げてボクの背を撫でる。視界の端でなびく自身の髪の毛を眼にするまで、ボクは何が起こったのかわからなかった。

 

「クロ、カ、なんで」

 

 そんな眼――

 

 言葉を待たず、またしても何かが、いや、光弾が、反対側の頬を掠めて壁を貫いた。

 

 指の先ほどの大きさの弾だった。サイズは小さく、しかも速い。辛うじて目では追えたがはっきりとは見えず、ボクは二度目でようやくそれを認めた。

 

 その攻撃がクロカより放たれたのは、見間違いではなかったのだ。

 

 信じられず、現実味のないまま唖然とクロカを見つめていると、その背後で何やら不思議な模様、恐らく魔法陣がすらすらと宙に描かれ始めていた。それより感じる膨大な『力』の奔流に僅かなりとも正気に戻り、次に聞こえた平坦なクロカの声で、思考の栓は完全に掻き消えた。

 

「私の前から消えて」

 

 クロカが腕を薙いだ。同時にボクの本能がけたたましく警鐘を鳴らし、それに従ってボクはその場を飛び退った。

 

 一拍の後、すさまじいまでの『力』がそこに突き刺さった。『気』と魔力と、恐らく妖力が入り混じった『力』が渦を巻き、一秒前までボクがいた空間を滅茶苦茶にかき回している。見た目は小さな竜巻のようだが、その威力。悪魔共が放った特大の火弾よりも破壊力は上だった。いかなボクでも、受ければダメージは避けられなかっただろう。

 

 それは間違いなく、ボクの命に届きうる攻撃だった。それ故にクロカの殺意を明確に感じてしまい、ボクはますます血の気が引いた。竜巻が消えても恐怖は消えることなく、『力』を使えないはずの彼女に対する疑問も思考も吹き飛んで、唯々感情のままにボクの口は動いた。

 

「や、やめて……やめてよクロカ――」

 

 しかしクロカは取り合わない。手の中に集わせた、青い火の玉のような『力』の塊を興味なさげに弄っていた。

 

「……あの元バカマスター殺した時も、こんな感じだったのよね」

 

 呟くように言うと、クロカは手を傾けた。『力』の塊が手の中から零れ落ち、青い尾を引いて地面に落ちる。

 

 すると、そこを起点にして地面が燃え上がった。波紋のように燃え広がる青い炎は心が追い付く前に足元まで到達し、ボクの体表を這って登り始める。気が付けば辺り一面を青い炎が覆っていて、その異様な光景にボクは一瞬だけうろたえた。

 

 だが、すぐに気付く。大して熱くないのだ。文字通り、炎が体表を覆っている状態。肉体の表面に膜があって、それが燃えているような、そんな不可思議な炎だった。

 ごくわずかだが倦怠感を感じるところを見るに、ダメージを与えることが目的ではなく、体力の消耗を狙った攻撃のようだが、しかし、ただ覆っているだけならばそれを消すのは簡単だ。肉体から『気』を放出して吹き消せばいい。

 

 斯くして炎は腰に到達する前に霧散した。地にうねる青の揺らめきも消え、削れた体力も雀の涙ほど。まったくもって影響はない。

 

 目くらましにもならないような攻撃を、クロカは何故選択したのか。わからずにいると、クロカが苦笑と共にひらひらと手を振った。

 

「それね、魔力を燃料にして燃え続けるのよ。だからそれしか知らないような悪魔には絶対消せない。死ぬまで窯焼きにされちゃうの。

 ……ふふ、ああ、面白かったなぁ。あのバカ、それに気付かず消そうとして魔力をバンバンぶつけるもんだから、ほんの十分で全身炭になって死んで、その死に顔が面白いのなんのって……なのに」

 

 クロカの手が腐った血だまりを叩く。笑みは完全に消え去り、その眼はどんどん怒りの感情を増していた。

 

「なのに白音は気に入らなかったみたいでね、気付いたら私のことをバケモノを見るみたいな眼で見てた。私は……あんたを助けに来たっていうのに。せっかく、助けてやろうって思ったのに……」

 

 クロカが血に濡れた右手を振り上げると同時に、ボクは走り出した。

 

「なんで……なんでなのよ!!なんであんたにそんなふうに見られなくちゃならない!!」

 

 魔法陣が光り輝き、クロカの頭上に無数の光弾が現れる。彼女が手を地面に叩きつけると、それは弾幕と化してボクめがけて襲い掛かった。

 

「私がバケモノ!?冗談じゃない!!バケモノなのはあのクズ野郎よ!!バカでクズで、自分の名声を高めることしか頭にない!!あいつは私たちのことを使える道具程度にしか思ってないのに!!人を簡単に裏切って、その命を奪うことに良心の呵責も覚えないような、あいつこそバケモノじゃない!!それを差し置いて、どうして私がバケモノなのよ!!」

 

 光弾の群れが、逃げるボクを追うように降り注ぐ。穿たれた地面から鳴り響く甲高い炸裂音に耳を貫かれながらも、ボクにはクロカの激情に塗れた悲鳴が、はっきりと聞こえていた。

 

「私のおかげで今まで生きてこれたくせに。食べ物を探すのも、住処を見つけるのも、あんたを守るのも、全部私にやらせたくせに!!あんたなんて私がいなかったら、とっくの昔に死んでたくせに!!」

 

 クロカの言う、『モトバカマスター』と『シロネ』なる人物に対する怒りの賜物か、魔法陣から感じる『力』がさらに強まった。比例して、光弾もまた威力を増す。一度でも回避し損ねれば足が止まり、たちまちボクは弾幕の中に囚われるだろう。

 

「その結果がこれ!?実の姉を、命の恩人をバケモノ扱い!?白音は、あいつはもう忘れてるんだ!!私がバケモノになった理由なんて興味がない。だからあんな恩知らずなまねができるのよ!!」

 

 クロカがギリと歯を食いしばる。

 

「私だけだった!!あの子を、白音を大切な家族だと思ってたのは!!あいつにとって私は、ただの給仕か召使でしかなくて……だから、あんなに簡単に、私を捨てられたんだ……ッ!!」

 

 血を吐くような悲鳴だった。クロカの頬から水滴が滴り落ちて、彼女はそれを拭おうともせず、唇を引き結んで手のひらを掲げた。

 

「母さんだってそうだ!!私は父さんがいなくたって幸せだったのに、あの人はそのことばっかりで、結局、私たちを置いて消えちゃった。自分がいなくなった後、私たちがどうなるかなんて考えてなかったんだ!どうでもよかったんだ!!」

 

 激しさを増す弾幕に気を取られているうちに、クロカは溜めを終えていた。掲げた手を引き絞り、『力』をほの暗い光線に変えて打ち放った。

 

 真正面から向かってくる光線に対し、ボクはすぐ回避という選択肢を捨てる。同時に【黒子舞想(テレプシコーラ)】を発動。『気』の制御をそれに任せ、光線がまさに目と鼻の先まで近づいたその瞬間、ボクは『気』で固めた腕でその側面を打ち払った。

 腕が光線に飲み込まれ、ガード越しにも鈍い痛みを感じる。しかし光線は確かに軌道を変えた。『力』の帯が胴体を逸れて飛んでゆき、余波が身体を殴りつける。そしてボクは、その勢いを利用してほぼ直角に吹き飛んだ。

 

 一瞬の後、挟み撃ちのように背後から無数の光弾が飛んできて、光線に呑まれ消滅した。

 ほんの数瞬でも離脱が遅ければ、あの間にはボクがいただろう。吹き飛ばされ宙を浮くボクはその光景をちらと見、【黒子舞想(テレプシコーラ)】によってすぐさま体勢を取り戻した。四肢で地を踏みしめ、慣性でガリガリ地面を削りながら着地する。

 

 光線は、バチバチと放電のような余韻を残して消えていた。厄介なあの光弾も残弾は残っていないようで、とうのクロカは光線を放った体勢のまま、肩で息をしていた。荒い息遣いがはっきりと聞こえ、その肌には玉のような汗が浮いている。彼女は明らかに疲弊していた。

 当然と言えばそうだが、やはり本調子ではなかったのだろう。無理を押した結果、クロカより感じる『力』はだいぶ落ち着いていた。

 

 攻撃は止み、次を打ち放つ様子はない。この瞬間、ボクの行動を縛るものはなく、そして彼女は無防備だった。

 

 ボクは詰まった息を吐き、【黒子舞想(テレプシコーラ)】を解除すると、ゆっくりと身を起こした。

 

「……どうせ皆、私のことなんて、何とも思ってないのよ」

 

 舞い上がった砂塵のもやが段々と晴れ行く中、ボクはじっとクロカを見つめていた。息も絶え絶えといったふうに上下する彼女の胸元に、ぽつりと汗の雫が流れ落ちる。

 

「当たり前よね、家族だろうが何だろうが、他人であることに違いないんだから。みーんな、自分が大事。自分さえよければ、他はどうでもいいの。関係ないんだもの」

 

 天井を仰ぎ、擦れた声でクロカが笑う。その声色は、疲弊していることを差し引いても、今までにないくらいひどく乾いたものに思えた。

 明らかに毛色が違うと、そこまで気付かなければ、ボクにはわからなかったのだ。

 

 この時ようやく、ボクはクロカが抱く諦念に気が付いた。

 

 今のクロカを形作っているのは、怒りと絶望と、そしてこの諦念だ。それらの根源であろう彼女の母親と、妹だという『シロネ』との間に何があったのか。話から想像するほかないが、恐らく互いの間に何か行き違いがあったのだろう。クロカの言葉を借りるなら『見捨てられた』だ。

 

 母親。産みの親。つまりボクにとっての『女王』だろうか。妹は……あったことはないが『護衛軍』が近いか。ともかく、彼女らにとってはただの離別が、クロカにはそうではなかったと、そういうことだ。父親や『モトバカマスター』をきっかけにそれが表面化し、クロカにとって『見捨てられた』と感じるような結末をもたらしたのだろう。だからクロカは行き場のないその激情をボクに向けてぶつけざるを得なかった、のかもしれない。

 

 だがしかし、その心情はやはり理解できない。

 

 もしボクが『女王』や『護衛軍』の仲間に不要だと見捨てられたとして、それに怒りや絶望や諦念なんて感情を覚えるだろうか。

 

 悲しいとは、もしかしたら思うかもしれない。しかし、それだけだ。

 

 『女王』や『護衛軍』にどう思われようとも関係ない。『護衛軍』たるボクは、『王』の役にさえ立てればその他はどうでもいいのだ。それが『王』のためになるのなら、喜んで自死だってしてみせる。

 怒りも絶望も諦念も、クロカのような表情をすることは、恐らくないだろう。

 

 だからボクには、母親と妹に拒絶された程度でこれほど心を乱してしまうクロカのことが理解できない。『家族』なるものに対してクロカが抱いている感情を、想像することができない。

 

 彼女の悲鳴に、ボクは何もすることができなかった。

 クロカの心の闇を見たところで、結局ボクはこうなのだ。

 

 唇を噛みしめる。苦しむクロカを前にして何もできない自分が悔しくてたまらない。クロカを理解できない自分に怒りさえ覚えた。

 

 だから

 

 やっぱりバケモノなのはボクだった。クロカの激情を理解できないくせに、それをもたらした母親と妹に対する憎悪のような感情ばかりがあったから。

 

 その対象にボクが含まれているなど、思ってもいなかった。

 

「……ピトーは違うって、信じてたのに」

 

「……え?」

 

 不意に聞こえた自分の名前に、思わず呆けた。

 クロカの眼が暗くボクを見つめていることに気が付いて、頭がすっと冷える。

 

 クロカが顔を伏せ、低く笑った。

 

「まっさらなあなただったら、きっと皆みたいにならないだろうって……今思えば、なんでそう簡単に思い込めたのかしらね。家族にすらわからないことを、ほんの数日前に出会ったあなたが理解できるはずないのに」

 

 ――ドクン

 

 ボクの心臓が大きく跳ねた。

 

 いや、鼓動したのは心臓ではない。もっと根幹の、もっと重要な何かだと、その時ボクは直感した。

 

 クロカの言葉のどこかが、ボクの中の何かを刺激した。

 

 干からびそうなほど喉が渇いて、声を出そうにも胸のあたりのしこりが邪魔をする。魚みたいに口だけがパクパクと、呼吸すらもできない。

 名もわからない何かが、激しく感応している。今にも檻を破ってしまいそうな苛烈さを秘めて、ボクの心臓を叩いていた。

 

「……ッ!」

 

 その脈動の正体を探る間もなく、ボクの意識は表層に引き戻される。

 突如としてボクの周りを囲むように出現する魔法陣。気付いた時にはもう遅く、四方を密閉するように透明な結界の壁がボクを閉じ込めた。

 

「ピトーも、あいつらと同じ。いつか私は見捨てられる。私は……悪くないのに……なんで皆、わかってくれないの……?」

 

 クロカの身に『力』が満ち始めていた。彼女の言葉に思考を奪われていたボクはそれを感じてようやく現状を悟り、反射的に結界へ裏拳を振るった。

 

 いつぞやの『盾』もかくやといった硬度の障壁にひびが入り、切り返しのストレートで砕け散る。それと同時にクロカも準備を終えていて、ゆっくりと顔を上げながらいつかの『力』の竜巻を構えていた。飛び散る結界の破片を通してそれを目にしたボクは、耐えきれずに強く自分の胸元を掴んだ。

 

「もう、あんな思いはしたくない……もう一度、あれに侵されるくらいなら、それなら……」

 

 目からぼろぼろと大粒の涙を零すクロカに心拍数が右肩上がりで上がって、胸が焼けるように熱かった。彼女のその涙声のようにボクの中の何かが揺れていて、眼を離すことができない。

 

 クロカの顔を見れば見るだけ息が苦しくなる。逃げたいのに、逃げられない。わけがわからない。感情が、頭が、嵐のように荒れ狂っている。

 

 喘ぐボクに、彼女は歪に笑った。

 

「それならいっそ、ピトーが私を殺してよ」

 

 その声を耳にした瞬間、感情も何もかもまとめて、ボクの中で脈動する何かが、爆ぜた。

 

「……ふざ、けるな」

 

 眼に捉えたクロカの『力』が、風に吹き消されるようにして唐突に消えた。同時に彼女の表情が凍り付き、ボクを睨むように凝視していたその眼の色が一変した。

 

 無意識だろうか、既に壁に背を付けているというのになお後ずさろうとして身を縮ませる彼女には、さっきまでの狂気が欠片たりとも見当たらず、『力』と一緒に抜け落ちてしまったかのようだった。

 

「『私を殺して』、だっけ?」

 

 一歩踏み出すと、なぜか地面が軋みだし、次の瞬間ひび割れた。ひとりでに言葉を重ねる自分の声を聞きながら、ボクは心の中で首を捻る。『気』を込めて踏み抜かねばこうはならないだろう。

 

 不思議に思い眼を凝らしてよく見ても、そこにあるのは見慣れた自身の『気』だけだった。クロカにとっては毒である禍々しい『気』を大量に纏う自分の身体が見えるのみだ。

 

 ほどなくして自身の『気』が爆発的に増大していることに気付くと、そんなことなど意に介さずクロカに歩み寄ったボク自身が、眼下で怯える彼女の肩を掴み、ぐいと引き上げた。

 

「そのためにクロカはボクを攻撃したの?ボクを、キミと戦わせるために?」

 

 クロカは何も言わず、身を震わせるばかりだった。怯えた眼をしたまま、身体を無理矢理持ち上げられたことに抵抗も抗議もせずされるがままであること、それこそがボクの疑問が真実であることの証拠だった。

 

 殺されるために戦う。ボクには決して思いつけない理由だ。やっぱりそうなのかと、自分とクロカの価値観の差にボクは心の中で嘆息する。

 

 しかし、なぜだろう。ボクは理解できないことに悲しみを抱いたが、その一方で喉を震わす言葉にはまったく別の感情が宿っていた。

 

 どうしてボクはこんなに怒っている?

 

「クロカこそッ!!理解できてないじゃないか!!ボクが、ボクがどんな思いでここに立ってると……ッ!!出会ってからずっと、いつもいつもボクはキミを守ってきたじゃないか!!なのになんで、どうしてボクがクロカを殺せると思える!?できるわけがないだろう!!」

 

 自分でも驚くくらいの大声が出た。

 喉も頭も胴も、燃えるように熱い。感極まってクロカの肩を握り潰してしまうんじゃないかと心配になるくらい、ボクの身体は全身で怒りを発していた。

 

 それを至近距離かつ真正面から浴びせられるクロカが感じている圧はいかほどなものか。哀れなくらい怯えている彼女に申し訳なさを感じつつ、それでも怒りが優先される自分を、ボクは他人事のように眺めていた。

 

(ボクは……どうしたんだろう?)

 

 ほんの少し前まではボクの方がクロカに怯えていたはずなのに、いつの間にか立場が正反対になっている。

 どこに向いているのかさえ分からぬ怒りが、ボクの内に渦巻いていた。いくら思考を回してもその矛先は見つからず、感情だけが荒れ狂う。

 

 これもボクがバケモノであるからかと考えても、それは違うと即断された。根拠のない、それでいて絶対に正しいと思えるほどの強力な確信に否定され、ボクの内心は困惑するばかりだった。 

 

「でも、取引だからでしょ……?」

 

 意を決したようにクロカが呟き、じりじりと手を伸ばしてボクの腕を掴んだ。

 

 その手の確かな熱を感じた瞬間、ボクの中の困惑が膨れ上がった。怒りがわずかに気圧されて、ボクは無意識に一歩後ずさった。

 

「何が――」

 

「最初に交わした約束が邪魔だって言うなら、ほら、私の口から聞きたい?もうあなたを満足させられるような話は何もない。私の知識切れよ!あなたが私の世話を焼いたって、対価はもう出てこないの!ね?心置きなく殺せるでしょ?」

 

 口だけ笑いながら、クロカは言い連ねる。鬼気迫ったその様子にまた一歩後退するボクを、クロカのもう一方の手が追った。

 

「違う……!ボクは、ボクはそんな考えでクロカを助けてなんて――」

 

「でも!だとしても!!私は悪魔なのよ!?」

 

 思いがけぬ力でクロカが腕を引き、大きくなったその眼には、怒りと恐怖が入り混じった名状しがたい表情をしたボクの顔が映っていた。

 

「あなたの仲間を、『女王』を殺したやつと同じ、あなたの敵じゃない!!種族ごと殺したいくらい、憎いんじゃないの!?」

 

「ボクは……違う、そんなことない……!アレとクロカを同一に思ったことなんて、一度もない!!ありえない!!」

 

「嘘よ!!それこそありえないわ!!私は悪魔よ!!あのバカと同じ、ピトーの知ってる畜生と同じ、ただの悪魔なの!!ピトーは私を殺したいほど憎んでいるのよ!!」

 

「違う、そんなんじゃない!!違う違う違う違う!!」

 

 怒ったかと思えばクロカの一言で怯え、しまいには『違う』以外の言葉が出てこない。

 

 何が、ボクをこうさせているのだろう。

 

 クロカのこと以上に自分がわからない。感情に頭の隅っこへ追いやられた理性では、その答えを見つけられるはずがなかった。いや、そうでなくともボクにはわからないだろう。ボクとクロカはあまりにも違い、そして遠いのだ。

 

 それでもボクは、無意味とわかっていても、思考に問いを投げかけることをやめられない。

 

 どうしても知りたい。知らねばならない。

 

 いつまでたってもそんな強迫観念が消えないのは、ボクにそれが見つけられないからだ。だからボクは今日に至るまでずっと『何故』を言い続けた。その答えに繋がる何かを知りたくて、わざわざクロカに対価を求めた。

 いつまでたってもクロカを理解することはできないけれど、だからこそ諦められない。ボクは熱に頭を侵されながらも、それだけは諦めることができなかった。

 

 ボクは思考を回す。名前もわからぬ感情に燃やされる理性では碌に考えることもできないが、それでも知りたいから動く。ほとんどの権利を感情に奪われているけれど、脳味噌はその隙間を潜り抜け、順繰りに過去を回想し始めていた。

 

 クロカの瞳に映る自身の表情、強く震えた自分の中の何か、打ち放たれた光弾に見た己の想い。

 

 一つ一つ確かめるように思い返し、この不可思議な感情を列挙していく。

 

 思い出す。この感情が芽生えたのは、いったい何時だ?

 

 クロカの姿に恐怖を覚えたあの時、自身の性を知ったあの時、クロカを守るために悪魔共と戦ったあの時。

 

 どんどん記憶を遡る。遡るたびにボクの身体が、その根源がぐいぐいと身の内よりボクを押している。理性の先導がない今、その先がびっくりするほど広がって見えた。

 

 まるでボクの身体という殻から別の何かが産まれ出ようとしているような、熱い感覚が刻一刻と強まって、ボクの意識から視覚の情報が薄れていく。

 

 クロカの闇を知った時、クロカの光を知った時。

 

 ボクは何を考えていただろう。

 

 『念』も『気』も知らなかったボクが、どうして【人形修理者(ドクターブライス)】を発現できたのか。瀕死のクロカを見つけた時、ボクは何を感じ、どう思ったのか。

 

 ボクはクロカをどうしたいのか――

 

 白く消えていく視界の中、ボクの眼はその時一際はっきりと、クロカの姿を捉えていた。

 

 ふと、目の前にそれが見えた。

 

 幼子が一人ぼっちで泣いていた。

 

 幼子はクロカだった。わんわんと一人寂しそうに涙を零し、次々溢れるそれを両手で懸命に拭っている。

 

 傍には誰もいない。涙を代わりに拭う者も、慰める者も、そしてボクさえもいない。他に何もない空間でただ一人だけ、クロカは何かを求めて泣いていた。

 

 そんな光景を幻視して、ボクは込み上げる想いを抑えられなかった。

 

 ぎゅう

 

 身体から荒れ狂う激情が抜け落ちて、代わりに顔を出した衝動が、ボクの身体を動かした。

 

 腕がひとりでにクロカの背に回り、その身を力いっぱい抱きしめる。もう一時たりとも離れないと言わんばかりに、ボクの身体はクロカに抱き着いた。

 

「……は……え?」

 

 耳元で呆けたような声がして、数秒後に現状を知り、暴れだす。

 

「や、やめて……!離れてよ!!何のつもりでこんなこと……あんた何がしたいのよ!!」

 

「……わからないよ」

 

 するりとあっけなく、本音が口に出た。

 

「熱くて、痛くて、苦しくて、温かい。この感情が何なのか、ボクにはわからないから」

 

 そうだ。結局ボクはこの胸の疼きの正体を知らない。この先知ることができるのかもわからない。

 

 でも、それでも、丸裸の自分を見て一つだけ、わかったことがある。

 

「クロカのせいだよ」

 

 弱々しいクロカの抵抗が止んだ。

 

「クロカがボクの真ん中にいるから、だからボクはこんなになっちゃうんだ……『殺して』なんて言わないでよ。クロカが死んだら、きっとボクは、すごく悲しい」

 

 いつだってボクの考えの中にはクロカの姿があった。クロカを一目見たあの瞬間から、クロカはボクの中の何かを変えて、そこに居座っている。

 

 そしてそれはたぶん、ボクにとって好ましいことだ。

 

 きっとボクは、クロカなしでは生きられない。それは間違いない事実であり、クロカをおいしそうと感じることと同じくらい、ボクの本心でもあった。

 

「クロカ。ボクはね……バケモノ、なんだ」

 

 堰が、切れた。

 

 クロカの存在を全身で強く感じながら、ボクは声を揺らす。

 

「散らばってる死骸、ここに来るまでにもいっぱい見たと思うけど、あれがボクの正体なんだ。『キメラアント』って言うんだって」

 

 クロカの目にあの異形はどう映っただろう。不安と恐怖は増すばかりだが、ボクは告白をやめられなかった。

 

「悪魔共と戦った後、知ったんだ。あいつらね、実はボクを探してたんだよ。『キメラアント』は狂暴で獰猛だから」

 

 口が重い。けれど、止まらない。

 

「ボクの中には、確かに居るんだ。クロカを餌だって言う、『キメラアント』が」

 

 でも

 

「でも、信じて!ボクはそんなことしたくない!クロカを、失いたくないんだ……!」

 

 恐れにかじかむ手をなんとか解きほぐし、潤むクロカの目を見つめながら肩を掴む。

 

 クロカの心情を知ることが怖い。耐えきれず、目を背けてしまいたいと何度も思ったが、ボクは胸の疼きを以てそれをやり遂げた。

 

 この思いが、願いが、どうしてもクロカに伝わってほしいから。

 

「……ボクが産まれた時には、もう全部死んでたんだ。『兵』も『護衛軍』も『女王』も『王』も、ボクも。

 クロカだけなんだ。クロカがいるからボクは生きようって思えて、クロカがいるからボクはこんなにも楽しくて、満たされて、幸せで……だからボクはキミに嫌われたくないんだ。クロカが、ボクの生きる意味なんだ!」

 

 ボクのバケモノの性は本物だ。けれど、この思いだって間違いなく本物なのだ。

 

「お願いクロカ。もう、逃げないから。キミが嫌がることは絶対しないし、悪魔も、もう食べない。忘れるように努力するから。知るために努力するから。

 ボクはクロカを裏切らないから、だから、どうか――」

 

 身体が震え、視界が歪んだ。

 

「どうかボクを、クロカの傍にいさせて」

 

 溢れる涙の熱に耐えかねて、ボクは祈るように目を固くつむり、伏せた。

 

 心の重しを吐き出して、しかしその軽さが酷く頼りない。剥き出しの感情が空気にひりつき、力が抜けていく。

 

 ボクとクロカの脚が役目を放棄したのは、奇しくも同時だった。

 

「わたしで、いいの……?」

 

 二人そろって血濡れの地面に座り込み、クロカの喉から発せられたのは、細い、細い声であった。

 

「わたし、あなたにいっぱい酷いことした……自分のことしか考えずに、あなたを傷つけた、のに……わたしは、ピトーと一緒に居ていいの……?」

 

 目を開けば、涙を流し、ためらいがちにボクに伸ばされるクロカの手があった。

 

 それがすべてだった。

 

 ボクは躊躇いなくクロカを抱きすくめ、喉元までせりあがる熱塊に任せて、笑った。

 

「もう、この先絶対、クロカを一人にしないから」

 

 クロカの手がボクの背を抱きしめる感覚がうれしくて、心地いい。

 

 噛みしめるボクの手は、いつの間にかクロカの頭をなでていた。

 

「こんな気持ちに、ずっと耐えてきたんだね」

 

 まるであの時の幼子のように、しかしどこか温かく、クロカはしばらくの間、声を上げて泣いていた。

 

 

 

 

 

「……さてクロカ、それじゃあそろそろ行こうか。いい加減、鼻が潰れそうにゃ」

 

 目を腫らしたピトーが、反して剽軽な調子でそう言って、笑った。

 

 釣られて私も笑う。その笑みの内側を探るような真似は、もうしなくてよいのだ。改めて実感して、私は心の奥に人肌のぬくもりを感じていた。

 

 何も心配する必要がなく、ピトーが隣にいるために感じる安心感は何物にも代え難いくらいに温かい。干からびていた器が幸福で満ちていて、これが夢だったらと不安に思うほどだった。

 

 きっと今まで、私たちは自分自身を信用していなかったのだ。

 

 私は過去があったから。そしてピトーはなかったから。心の底では自分が相手に受け入れられるはずがないと思い込んで、拒絶されたくないから、表層は自分の闇を盾にした。

 お互いに本心を晒さなかった。だからこんなにもこじれて、そしてすんなりと納得することができたのだ。なにせ私たちは同じ孤独を抱えていたのだから。

 

 私たちはようやく理解者を見つけたのだ。

 

 まだお互い、すべてを知ったとは言えない。けれど、きっと私たちは、これからうまくやっていけるだろう。

 

 負の感情から解放された私は、目をぐいぐいと擦ってから、かすれ声で答えた。

 

「そうね。かなり汚れちゃったし、水浴びもしたいわ」

 

「んー、じゃあまずは水場に行くとして、それからはどうする?」

 

 立ち上がり、伸びをするピトーが少しだけ心配そうに、私の顔を覗いていた。

 

 言わんとすることはすぐにわかった。

 

「……ピトーに任せるわ。このあたりのこと、さっぱりわからないから」

 

 白音とは、まだ会えない。白音と自分に対する恐怖は消えたわけではないのだ。この気持ちにけりを付けない限り、私たちは傷つけ合うしかないだろう。

 

「うん、わかった」

 

 短く言って腰をかがめたピトーの背におぶわれる。くせっ毛に頬を寄せ、私はぼおっと目を伏せた。

 

 自分のすべてを安心して預けられるこのぬくもり。今はただこうしていたかった。

 

「ところでさ」

 

 私はふと、ピトーに尋ねた。

 

「ここの亡骸があなたの種族、『キメラアント』の仲間なんでしょ?この人?たちが亡くなった直後にピトーが産まれたってことは……ピトーって何歳なの?」

 

「えーっと……たぶん三週間くらい?あんまりよくは覚えてないかにゃー」

 

 生後三週間……

 

(ずっと年下、か)

 

 ふふと、小さく笑った私には気付かなかったのだろう。ピトーはしっかりと私を支え、そして頭だけ振り返った。

 

「さ、行こうか」

 

「うん!」

 

 光弾で脆くなった土壁をぶち抜き、私たちは外へ出た。

 

 これからも、悪魔たちの手は私たちに伸びるだろう。どこへ行っても安住の地はないかもしれない。けど、どうにかなるだろう。

 

「私にはピトーがいるから、にゃん」

 

「にゃん?」

 

 赤みがさす頬に言い訳して、私たちは水場を目指し、森の奥深くへと進んでいった。




  反省点
・ため息&深呼吸しすぎ問題
・気付きすぎ問題
・描写がワンパターン問題
・違和感バリバリ台詞回し問題
・その他もろもろ

総評 ぎぶみー文才

あと感想とかもぎぶみー


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第二部 交差のしっぽ
一話


お久しぶりの一月ぶりです。
想像の十倍くらい評判が良かったので、調子に乗って続き書きました。
なおしょっぱなから文章配分を読み違えたので少し短めです。
あと前五話分の誤字脱字報告ありがとうございました。(いまさら)

3/13 本文を修正しました。


 狭い個室の中で、私はマニュアルの紙束を片手に魔導装置と格闘していた。

 

 一畳もないその空間に所狭しと並ぶ機器の数々。これが速度計であれが魔力計。こっちのレバーは制御装置で、その逆側のがうんともすんとも言わない魔力供給装置。頭上のランプは空調関連、右が防御術式、左は――

 

「だからつまりどうやって動かせばいいのよ!」

 

 冥界と人間界を繋ぐ列車を強奪して数十分。運転席にて、私の脳味噌にとうとう限界が訪れていた。

 

 衝動のまま、分厚過ぎてどこを読めばいいかわからないマニュアル投げ捨てようと振りかぶり――踏みとどまる。眼前のフロントガラスに映る私は落ち着くために深呼吸しようとしたものの、吐く息は大きなため息に変わってしまっていた。脳疲労で頭がずんと重い。

 

「やっぱりこっちはピトーに任せて、私が見回りするべきだったんだわ……何が身体を労わって、よ。あれからもう二月(ふたつき)もたった上に、【人形修理者(ドクターブライス)】も絶好調だったじゃない。敵の一人や二人、潜んでいても後れを取るわけがないし。ていうか、どうせ労わるなら身体じゃなくて頭にしてって話よね。まったく……」

 

 憂鬱な気持ちになりながら椅子に寄りかかると、私は再び表紙を開く。目に飛び込んでくる活字は痛いほどで、急がなければと思うもそれを辿るペースは上がらない。内容は全くと言っていいほど頭に入らず、手持ち無沙汰の思考はぼんやりと、この二ヵ月の平穏とは言い難い日々を思い返していた。

 

 一時たりとも気が休まらない逃避行だった。あの時、ピトーが悪魔の一隊を撃退したあの事件は、案の定悪魔の上層部に伝わっていたらしく、合計すれば四度、私たちは悪魔たちの刺客に襲われた。

 

 私とピトーの距離もなくなり、私も足手まといから脱却したことも相俟って何とかそれらは殲滅された。ただ、四度目の襲撃時、幾人かには逃げられてしまった。

 

 最初からそういう手はずだったのだろう。

 

 私ではなくピトーを探していたらしい奴ら。思えばピトーの人相はもちろん、能力も姿形に関しても悪魔側に情報はなかったのだ。

 

 上層部は、確実に情報を手に入れるために物量での足止めを敢行した。

 

 幾人もの転生悪魔。元人間である故に神器(セイクリッド・ギア)を生まれ持っていた者も、そうでない者も、今までの刺客よりあからさまにランクは落ちるが、しかし物量で勝る彼ら。その肉の壁に隠れるようにして奮闘を監視していた指揮官らしき悪魔たちは、壁の半分ほどをただの肉塊に変えたその瞬間、突然四方に逃げ散った。

 

 当然追った。しかし二人ぽっちではどうしようもなかった。

 

 私とピトーが共に行動していることを、悪魔たちは当然理解しただろう。主もその眷属も、多数の悪魔を屠った『はぐれ悪魔の黒歌』と、悪魔を喰らう狂暴で貪欲な『変異キメラアント』が手を組んでいると。

 

 別件であったはずのターゲットが一つにまとまっている。私たちの討伐に割かれるリソースは統合され、襲撃はより一層苛烈さを増すだろう。今も眠るときでさえ常に気を張っているというのに、これ以上ともなれば、仙術での気配探知が間違いなく手放せなくなる。寝ても起きても二十四時間使い続けるとなれば、さすがに私も耐えられない。ちなみにピトーの『気』での探知はむしろ目立つので論外だ。

 

 故に私は冥界からの脱出を提案した。そもそもここは悪魔の領地。無駄に広大かつ未開なせいで実感は湧かないが、敵のおひざ元なのだ。この地にいる限り、追手の悪魔はいくらでも寄って来る。留まるよりも、悪魔たちの勢力外に逃げてしまったほうが安全なのだ。

 

 というそれらしい理で、私はピトーを説得した。

 

 実際のところ、襲撃が永遠に続くわけがないのだ。なにせ悪魔は今現在、絶滅危惧種とまで言われるほど数が少ない。悪魔の駒(イーヴィルピース)によって増えつつあるものの、やはり人的損失は奴らにとって大きな痛手だ。

 

 もちろん騒ぎを起こし続ければその限りではないだろうが、おとなしく隠れ潜んでいれば、いずれは捜索の規模も縮小するだろう。先も述べたが、冥界はその地のほとんどが未開の原生林だ。広さ的には地球とほぼ同等なうえに、海がない分陸地は四倍近い広さがあった。

 

 おまけに私たちは二人とも気配を消すことができる。一度悪魔たちの眼から逃れれば、それ以降隠れ続けることはさして難しくないのだ。

 

 しかし、私にはどうしてもその未来を受け入れることができなかった。

 

 周りには木しかなく、気持ちの悪い空気を吸って息を潜めながら、原始的な生活を終わるまで続ける。これは本当に『生きている』というのだろうか。

 

 ピトーにとってはそうかもしれない。でもそれは知らないからだ。

 

 ピトーは、生まれてから今までの三ヵ月近く、この原生林以外を見たことがない。彼女はかわいい衣服も、おいしい料理も、温かいベッドも、賑やかな人の喧騒も、知らないのだ。

 

 次元間の転移など魔法陣なくして私に使えるはずもなく、知る魔法陣で飛べる先は例外なく悪魔の拠点であることを考えれば、人間界に行くためには必然的に既存の移動設備を使わざるを得ない。無論危険も大きい。馬鹿正直に提案してもピトーに却下されるのは目に見えていた。彼女は、私を危険な目に合わせることを承知しないだろう。

 

 私は、私のせいでピトーの世界を狭めてしまいたくなかった。

 

 私の存在が彼女の重しになってはいないかと、もう二度とそんなことを考えずに済むように、私は嘘をついてでもそれを決行したのだ。

 

 記憶を頼りになんとか小さな悪魔の街にたどり着き、持ちうる『力』を総動員してこっそり街に、そして目当ての駅内に侵入し、すったもんだの末に駅内の悪魔を全員闇討ちした挙句、この列車を強奪してしまったのだった。

 

 さして使用頻度は高くないであろうこの列車と、ひいては駅内に新たな人が来ることはそうないだろうが、だからといって長居をしていい理由にはならない。たとえ救援を呼ぶ間もなく倒したとしても今は明け方。いつが人員交代の時間なのかは知らないが、そう遠いことではないだろう。

 

 そしてこの現実に戻ってくる。元来『努力』というものが苦手な私はもちろん勉強も苦手であり、なし崩し的に活字嫌いの特性を身に着けてしまった今となっては、文字で埋まった紙面一枚を見ることさえ億劫だ。

 

 別に全部を読破する必要はない。あとはこの列車のシステムを起動する方法さえ見つかれば、有り余る魔力で冥界を脱出することができるのだ。

 

 それを探すためにもう何十分と脳味噌を酷使し続けているわけなのだが――

 

「あ゛ー、もう無理!ギブアップ!助けてピトー!私、頭痛い!」

 

 時間がないとはわかっていても、できないものはできないのだ。

 

 私は小さな背もたれに目一杯体重をかけて背を反らすと、逆さの視界に憎たらしいマニュアルの紙束を掲げ、半目でそれを睨め付けた。

 

 もう駄目だ。もうこれ以上、一文字たりとも読む気がしない。

 

 きちんと章分けすればいいものの、そこまで書くかと作者を怒鳴りつけたくなるほど丁寧に、そしてメモ帳のように思いつくまま乱雑に書きなぐられたこの紙くず。今すぐ焼き捨ててやりたい気分だった。

 

「座席に使われるネジの規格とか、果てしなくどうでもいいわ……」

 

 所々に挟まれていた豆知識的な解説のおかげで無駄に知識を付けた私は徒労感を吐き捨てる。

 

 屍のごとき脱力感で哀れな椅子をギイギイ鳴らしていると、憎き紙くずの向こうから彼女の呆れ果てた声がした。

 

「それは確かにボクもどうでもいいと思うけど……第一なんでクロカはそんなこと調べてるの?そういう雑学は、まずは『レッシャ』を動かしてから後でゆっくり調べればいいと思うんだけど。どうせ人間界に行くには時間がかかるんでしょ?」

 

「好きでやってるんじゃないわ!この紙くずが悪いのよ!もう!」

 

 やけくそに叫んで紙くずを放り出す。バサバサ羽ばたき宙を舞ったそれを、運転室の戸を開けたピトーがキャッチして、私は口を尖らせた。

 

「見てよそれ。びっしり活字で絵も図も一つもないのよ?目次だってないし、そもそも目次でまとめられるかも怪しいくらいぐっちゃぐちゃだし、書いた奴の神経疑うわ」

 

 怪訝そうな顔をして、ピトーは紙くずに目を落とす。ペラペラとページをめくって流し読みする彼女に、私は身を起こすと「そういえば」と尋ねた。

 

「見回りは終わったのよね?客車は大丈夫だった?」

 

「うん。どこにも何も潜んでなかったし、クロカが言ってた盗難防止の術式ってのもちゃんと解除しといたよ。魔力の扱いはまだ苦手だけど、案外大したことなかったかにゃ」

 

 こともなさげにそう言って見せるピトーに、私はついジト目を向ける。貴族が使うような豪華さはないとはいえ、これだけ大掛かりな魔導具たちにかけられた術式が『大したことない』訳がないだろう。

 

「さいのう!ホントに何度言ったかわからないけど、それピトーがすごいだけだから!」

 

 苦手というのはピトーの基準であって、世間一般には当てはまらない。今の彼女の魔力の腕は、一線級の悪魔のそれと比べて遜色ないだろう。

 

 あらゆる要素に於いて、ピトーは上達速度が尋常でなく速いのだ。『気』の面も魔力の面も、私が追い抜かれるのはそう遠いことではないかもしれない。

 

(それは……ちょっとやだな)

 

 悔しさ半分寂しさ少しで、私は椅子をくるりと回して計器の上に頬杖をついた。

 

 と同時に肩口からピトーの頭が伸びてきて、驚く私を気にも留めずに計器の端、赤くて丸いボタンに手を伸ばした。

 ポチっと押すも何も起こらず、そのあからさまなボタンを初期にいじったことを思い出した私は、頬杖つく手を入れ替えて言う。

 

「ほら、ダメでしょ?それだけそれっぽいのになんにも起こらないし、だからマニュアル調べたんだけど御覧のありさまで、もうお手上げって感じ」

 

「うん?そう?たぶんこれで動くと思うんだけど」

 

 首を傾げるとピトーはボタンを押したまま、その下部のレバーに手をかけた。

 

 それもまた、触ったことがあるものだ。取っ手と一緒に握りこむタイプの誤作動防止装置が付いていて、どうやっても動くことがなかったと記憶していた。

 のだが、

 

 がちゃん

 

 と、レバーはあっけなく作動して、一拍の後にブウンと唸るような音がしたかと思うと、まるで応対がなかった供給装置の丸い玉が、魔力を求めて淡い光を放ち始めた。ちょうど頬杖の腕がそれに触れていて、常態の魔力が僅かに吸い取られると、沈黙を貫いていた魔導機器たちが途端に息を吹き返す。あっという間に一畳未満の空間を賑やかに染めてしまった。

 

「ええ……」

 

 私の頭痛はいったい何のためだったのか。頬杖からずり落ちてあっけにとられる私に代わり、ピトーは制御装置のレバーを握るとそれを引く。急発進に身体が後ろへ引っ張られ、次いで揺り戻しが計器に押し倒した。

 

 気が抜けて起き上がる力も出ず、突っ伏したまま顔だけそちらを向いた私と、ピトーの眼が照明の光越しにかち合った。

 

「ね?ちゃんと動いたでしょ?書いてあることが間違ってるわけじゃないんだから、要点だけ拾っちゃえばいいんだよ。うーん、そんなに難しいことかにゃあ?」

 

「だからさいのう!」

 

 脳味噌の出来に関してはもう負けているのかもしれない。そっちはもう諦めがついているが。

 

 ともかく、列車を動かすことには成功した。これであとは列車に不具合が起こらないか、あるいは燃料の私かピトーが魔力切れでもしない限り、十分ほどで人間界側の駅に着くだろう。

 

 進行方向に空間の裂け目が開き、フロントガラスいっぱいに広がる不可思議な異空間を物珍しげに眺めるピトーを横目に、私はようやく身を起こした。

 

「それじゃ、一応人間界に着いてからの予定を確認しておきましょ」

 

「うん」

 

 生返事のように返されるも、ここ三ヵ月の経験からこの状態でもピトーの注意がきちんとこちらに向いていると知っている私は、魔力を玉に与えながら構わず続けた。

 

「まずこの列車。人間界のどこかはわからないけど、たどり着くのは悪魔の支配する土地であることに間違いないわ。もちろん駅内に警備だっているだろうし、隠しようもないデカブツで堂々侵入するわけだから、さっきみたいに気付かれる前に暗殺ってことは無理よ。確実に戦闘になるから、大丈夫だとは思うけどちゃんと準備はしておいてね。それでホントの意味で人間界に出た後は、すぐに『絶』で気配を消して、できるだけ速く悪魔の勢力圏から出ること。一度出ちゃえば悪魔もそう簡単には追ってこないはずよ。人間界は――」

 

「いろんな勢力が混在して縄張り争いしてるから、だっけ」

 

 異空間の鑑賞はもう飽きたのか、ピトーがガラスから離れて機器の上に腰を下ろした。

 

 うまいことスイッチ類を避けて無駄な器用さを発揮するピトーに私は頷く。

 

「そう。悪魔の土地の近くに他の神話勢力がいることはまずありえないし、敵対してる堕天使や天使、教会はもっと無い。必然的に勢力圏の外は人間が統治してる空白地帯になってるはずなんだけど、そこで大規模な捜索とか、悪魔が事を大きくしちゃうと、他の神話体系とかに付け入られる隙になっちゃうのよ。特に教会と堕天使連中なんかは鬼の首を取ったみたいに騒ぐでしょうね。光の剣とか振り回しながら」

 

 私も、そして悪魔の血が入っているピトーも光の類は大敵だ。そいつらに追われる未来がこないことを祈りつつ、私は続けた。

 

「だからとにかく急いで逃げなきゃってわけ。悪魔側に捕捉される前に勢力圏から出られれば、まあしばらくは安全よ。奴らは単身じゃ『絶』に対応できないから」

 

「んー。でもさ、人間にはいるんでしょ?『絶』を見破れる『念能力者』」

 

 ピトーが胡乱げに首を傾げ、その卓越したバランス感覚を以って計器の上で胡坐をかく。

 

「クロカの話はもちろん納得できる。さっさと逃げるべきってのは、ボクもそうだと思うよ?けど、悪魔と堕天使と教会の連中は居ないにしても、人間、『念』を使える『ハンター』は居るかもしれない。クロカの話を聞いてる限り、軽く見てるみたいでボク心配なんだよね」

 

「ああ、『ハンター』ね。確かに総本山の『ハンター協会』は悪魔退治の仕事もしてるし、一人くらいいる可能性がないわけじゃないけど……うん。こう言っちゃうのもなんだけど、所詮人間よ。肉体強度も生命力も身体能力も、私たちよりずっと低い。超常の存在から加護を受けているわけでもないし、もし『絶』を見破られても一人や二人、大した障害じゃないわ。たとえそいつが神器(セイクリッド・ギア)を持っていたとしても。

 ピトーは人間を見たことがないから、心配になる気持ちもわかるけどね」

 

「一人や二人、じゃなかったら?もし『ハンター』が徒党を組んであの時の悪魔みたいに襲ってきたら、一人一人は脆弱でも数は脅威だって、あの泥仕合で嫌ってほど思い知った」

 

「それは、そうだけど……」

 

 しかし、このまま悪魔の領地に留まるよりは百倍マシだ。

 

 元より悪魔の手から逃れるための逃避。動かなければ冥界を脱出した意味がないのだ。どうやったって『ハンター』と出くわすかもしれないという可能性は排せない。小さな危険は無視する以外にないだろう。

 

 そんな少々の憤りで言い淀む私に、ピトーが小さく首を振った。

 

「別に、さっきも言ったけどボクだってわかってるんだ。どう行動したって百パーセント安全にはならないし、いるかもわからない『ハンター』の存在を疑うより、悪魔の群れに追われる危険性を重視するほうがずっと理にかなってるってことは。

 でもさ、クロカの言う通りボクが人間ってのを知らないだけなのかもしれないけど、やっぱり不安なんだ。クロカのその、『大した障害じゃない』って油断がキミを殺してしまいそうで……」

 

 目尻を下げてうつむき気味にそう言うピトーの尻尾が、その内心を表すかのようにへにょんと垂れ下がる。

 

 その様子に憤りはたちまち行き場を失くし、私はせめてもの抵抗にそっぽを向くと、喉を鳴らして独り言を呟くかのように言った。

 

「ま、まあ、確かに、長く悪魔の価値観に浸かってたせいで甘く見過ぎてるってことはあるのかもしれないわね!なら……そう、神滅具(ロンギヌス)が待ち構えてるくらいの気概で行きましょ!それなら慢心の余地はないわ!」

 

「『カミ』を殺せる神器(セイクリッド・ギア)ね……最初の頃にボクが殺した『グリーブ』よりも強力なんでしょ?うーん、それはそれで見てみたいかにゃー」

 

「……私が悪かったから縁起でもないこと言わないでよ。世の中には『フラグ』ってものがあるんだから」

 

「うん?『ふらぐ』ってナニ?旗とは違うの?」

 

 と、なんやかんやでいつも通りのお茶らけた空気感に逆戻り、フラグについて懇切丁寧に教えること数分、唐突に、私もピトーもそれに気付いておしゃべりをやめた。顔を見合わせ、小さく頷く。

 

 予兆なく突然に、フロントガラスに映る異空間の模様に亀裂が入ったのだ。

 

「ようやくだ。じゃあ、手はず通りにね」

 

 糸くずのような裂け目の奥に車止めが見えるよりも早く、ピトーは言うと屈んで運転室を出て行った。

 

「ええ。落っこちないよう気を付けてね」

 

 角に消えるピトーの尻尾にそう告げると、私も裂け目の向こうから見えないようしゃがみ、手探りで制御レバーを握ると列車の速度をゆっくり落とす。

 

 ほどなくして裂け目、異空間の出口にこのデカブツ列車がさしかかる。目視はできないが、仙術により感じる気配で駅員らしき悪魔が一人、停車場にのろのろ侵入する列車に警戒しながら近寄ってくる姿が確認できた。

 

 がしゃん、と、ほとんど車止めにぶつかる形で列車が停止する。駅員が振動にビクリと首をすくめて、恐る恐るの足取りで先頭車、つまり私がいる運転室のガラスを覗き込んだ。

 

 無論、それを予期していた私は悪魔から見られない位置に身を隠している。しかし、となれば駅員悪魔の目に映るのは無人の運転席のみだ。異様極まりない。

 

 当然悪魔は異常事態を認識し、誰もいない運転席を凝視したまま通信の魔法陣を展開して、恐らく警備に事態を知らせるため口を開く。

 

 まさに隙だらけのそこを、列車の屋根からピトーのツメが刈り取った。

 

 たとえ無人の異常に夢中になっていなくとも、反対側の扉から列車の外に出て、しかも全くの視界外に潜んでいたピトーに、非戦闘員たる駅員が対応できることはなかっただろう。

 

 するりと首が落ち、噴き出す血がガラスを汚す。それを通して室内に入る光のせいで、辺りの機器がほんのり赤みを増したころ、ただっぴろいホームを挟んで対角線上に存在する階段の先から複数人の慌ただしい足音が駆け下りて、その中ほどで呆然と立ち止まった。

 

 背の高い空間で、声が反響して響き渡った。

 

「ほ、本部に連絡を――」

 

 その続きは、周囲の悪魔のどよめきと悲鳴に変わった。ピトーによる殺戮が始まったのだ。

 

 一度彼女に接近を許してしまえば、十把一絡げの悪魔など相手にもならない。『キメラアント』の昆虫という特性からくる肉体の強度は飛び来る魔力弾を容易に防ぎ、四肢の剛力は悪魔の肉を紙きれのように切り裂いてしまう。

 

 果敢に、いや、無謀にも立ち向かっていく者から死んでいく。血しぶきが巻き上がるたびに悲鳴の数が減ってゆき、とうとう、その惨劇に負けた悪魔が一人、怯えに囚われ羽を広げた。

 

「ひぃッ!こ、こんなの無理だ!お、おれはまだ、死にたくねぇ!!」

 

「なッ!ば、バカ野郎!!連携を乱すんじゃねぇ!!」

 

 味方の悪魔の、半ば裏返った必死の制止も耳に入らないようで、戦場に背を向けたそいつは一目散に踵を返し、階段へ羽ばたいていく。

 

 ピトーはそれを追おうとはしなかった。代わりに、制止を叫んだ悪魔の頭を殴打で消し飛ばし、天井すれすれを飛ぶ逃亡兵をつまらなそうに見上げていた。

 

 その様子に、たぶんピトーが遠距離攻撃手段を持っていないとでも思ったのだろう。肩口から振り向いたそいつはピトーがただ見ているだけだと気付くと、恐怖心の隙間から流れ込んだ幻想の優越感にこれまたあっさり負けて、口の端を間抜けに釣り上げた。

 

 自身以外の悪魔が皆死んでいることにも気付かず、そいつは腕をぶるぶるふるわせながら振り向いて、手に持つ槍を引き絞った。目をぎらつかせ、ピトーばかりを映していた。

 

 バカな奴だ。もう少し冷静に周りを見れていれば、その背後に展開された私の魔法陣に気付くことくらいはできただろうに。

 

「んあ?」

 

 知能指数が低そうな声で口を開けるそいつの背に、超短距離転移を成功させた私の掌が触れていた。

 

 のろのろと、アホ面を晒しながらそいつは振り返る。握りしめている槍の穂先が未だピトーに向いていることに多少の苛立ちを覚えながら、私は一息吸って、それごと『気』を身体に叩き込んだ。

 

「ごへあ!」

 

 汚らしい断末魔。口と目と、体中の穴から途端に血を噴出したそいつは、撃たれた鳥みたいに、受け身も取れずに地に落ちる。

 

 指の一本も動かせはしないだろう。奴の体内では今、私が乱した奴自身の『気』が、気脈はもちろん、魔力の源から筋肉内蔵、果ては生命そのものまでを滅茶苦茶に引っ掻き回している。

 

 体外の『気』を操ることは仙術の本質だ。植物なんかの、自然にある『気』のように何の制約もなく自由に操作できるわけではないが、意志ある生物であろうとも直に触れさえすればこの通り。ピトーが使う『念』と違い、物理的な破壊力には乏しい仙術だが、対生物に限ってはそれに劣らぬ殺傷力を誇る。

 

 もし奴に『念』の心得があればこれほど簡単にはいかなかっただろうが、魔力という元来の『力』を崇拝する悪魔に生まれ、しかも碌に使われない駅の警備に甘んじているような下級悪魔が、『念』などという知名度の低い技術を知っているはずもなかったのだ。

 

 ごしゃっと、頭から階段に激突した奴は、脱力に身体を振り回されながら段差を転げ落ちる。私が悪魔の羽で落下に制動をかけると同時に、ピトーに足蹴で逆回転を加えられた奴が今度は階段を飛翔し、天井でバウンドした後、上階にてようやくその生命を終えた。

 

 時間にして一分ほどで、ホーム内での蹂躙は終了した。仙術に私とピトー以外の気配がないことを確認し息をつくと、滝のように階段を流れ落ちる血の海を避けて手すりの上を上るピトーに、私は胡乱げな眼差しを向けた。

 

「最後の、私が出張る必要なかったと思うんだけど」

 

「最後だからこそ、クロカに花を持たせてあげようって思ったボクの親切心だよ。大して強いのもいなかったしね」

 

 剽軽ににっこり笑うと、ピトーは赤色から逃れた石材の灰色に降り立つ。不服に眉を寄せてみせるも見切られているために効果はなく、私を放って先に進む彼女を恨みがましく睨め付けながら追いかけた。

 

「そういうのを『おせっかい』って言うの!もう、たまには私に主導権渡してくれたっていいのに」

 

「まあね、ボクはクロカの介助であんなことやこんなことまで見たし知ってるわけだから、あんまりいい反応はできないと思うけど、それでもいいならどーぞ?」

 

「そっ……それを持ち出すのは卑怯よ!反則!あれは、あの頃はその……まだピトーを人として認識してなかったというか……と、ともかく!そっちがそのつもりなら私にだって考えがあるわよ!この間、襲撃の悪魔から服を剥ぎ取った時、一緒になって着替えてみたらピトーってば、服の前後が上も下も逆だったじゃない!やたらセンスも悪かったし!」

 

「んむむ、センスとは失礼な。血に浸ってないのを見つけるだけでも大変だったんだよ?クロカがもうぼろきれの着物は嫌だって言うから、きれいなのを譲ってあげたのに……服の前後は、着てたやつの首が百八十度回ってたからで……服を着るのだって初めてだったし……」

 

「初めてって、じゃあピトーが最初から着てるジャケットと短パンみたいなのはどうなのよ」

 

「これは……生まれた時から着てたから……」

 

「ダメだわ。ピトーの生態に私の常識が通じない」

 

 なら今身に着けているそれは文字通り身体の一部なのか。いやでも感触は普通の布だったしなぁ。などとくだらないことを夢想しながら無駄口を叩き合い、しかし慎重さだけは失わずにゆっくりと駅内を進む。

 

 幸いなことに残敵もトラップの類も存在せず、飾り気のない四角形のチューブのような一本道の通路を抜けると、また現れた階段の先に両開きの無骨な扉が見えた。

 

 そこが人間界の入り口であることを象徴でもしているのか、閉じられた扉の上部には魔力ではなく電気の照明が備え付けてある。チカチカと時折明滅し、長らく交換された様子のない電灯が、扉ごと暗闇を頼りなく照らしていた。

 

 車両からして過去に乗った貴族用のそれとは比べるべくもなかったが、ここはそれ以上に物悲しい。庶民が使うものには装飾どころか補修の金すら回さないのだろうか。貴族制の闇を垣間見た気分だった。

 

 悪魔の、ほの暗い側面だ。

 

 連鎖的に、白音の姿が頭によぎった。

 

 元バカマスターへの怨恨が蘇り、繋がってしまったその不安を、私は頭を振って払い落とす。どのみち、もう当分は会いにも行けない。我が愛すべき妹がどのような境遇に置かれているのかなど、益体のないことを考えても心苦しくなるだけだ。

 

 しかし、一度宿ってしまったそれは思考を切り替えることを許してくれない。

 

 自責と、そして恐れが見る見るうちに膨れていく。

 

 今、白音はどうしているのだろう。私がそうだったように、辛い目にあってはいないだろうか。衣食住は大丈夫だろうか。

 

 そもそも、まだ生きているのだろうか。

 

 例えようのない悪寒が全身を貫いた。

 

 あり得ない話ではない。元々白音は私の身内という身分で冥界に暮らしていた。その肩書がなくなれば、白音はもう一人の妖怪でしかない。転生悪魔ですら差別の対象となるような悪魔社会が白音をどう扱うかなど、正直想像がつかなかった。

 

 けれど、今の私に白音を助けに行くことはできない。物理的にも、そして心情的にもだ。

 

 あの時のように、またバケモノなどと呼ばれてしまえば私はどうすればいいのだろう。

 

 そうなれば、たぶん今度こそ決定的なまでに私と白音の関係が破綻する。胸の内に秘めていたあの鬱屈がすべてを飲み込み、私の中の白音を永久に消し去ってしまうだろう。

 

 それは、私が自らの手で白音を殺す、ということだ。白音への愛情が姉としての義務感にすり替わり、消えてしまう。

 

 見殺しにするよりもよほど耐え難い結末と対峙する蛮勇を、私は持ち合わせていなかった。

 

 それに何より、ピトーをそんな危険に巻き込むことができない。

 

 もしも私が対峙する覚悟を決めたとして、再び白音に会うためには悪魔社会の奥底に入り込むしかない。ピトーも、気恥ずかしいがついて来ようとするだろう。

 

 確かにピトーは強い。私も、ありえない話だがピトーと戦うとなれば全力を出す以外に勝ち筋はなく、それでも尚勝敗は五分五分であろう。

 

 悪魔の中には私より強い者が、悔しいことだがそれなりにいるのだ。特に超越者などと呼ばれる魔王は神にも等しい強さを持つと言う。

 

 たったの二人でそんな奴らと鉢合わせしてしまえば、間違いなく死ぬ。

 

 ピトーが死ぬ。その一点だけで蛮勇を打ち消すに値する。

 

 怖いのだ。これ以上、自らの手で何かを失うことが。

 

 白音しかりピトーしかり、私はもう二度とあんな思いをしたくない。あの時の絶望は私の心に傷跡を残したままだった。もう血を噴いていなくても、ふとしたきっかけで恐怖が身体を覆ってしまう。

 

 ピトーが、ピトーのこの手が、消えてなくなってしまうかと思うと私は怖くてたまらなくなる。ピトーの手の、この熱が――

 

 ようやく気が付いた。

 

「クロカ?」

 

 無自覚にも、私はいつの間にかピトーの手を握っていた。

 握りこんだ力は思いのほか強く、ピトーが不思議そうに私の顔を覗き込んでいる。

 

 平時の三倍近い手汗を分泌する自分自身に一瞬思考停止に陥った後、それの意味するところを察した私は、悲鳴を上げてしまいそうになる羞恥心をなんとかなだめ、繋いだ手はそのままに大慌てで弁明した。

 

「あっいやこれはちがくてその……ぜ、『絶』をしたらお互いにどこにいるかわからなくなるかもしれないじゃない?だからで……うん、それだけよ……?」

 

 顔に血が上ってゆく。身体が火照ってさらにじっとりと汗ばんだ私の手を、ピトーが優しげな笑みで握り返した。

 

「にゃふふ……まあ、そうだね。知らない土地ではぐれちゃったら大変だもんね」

 

 なんだそのにやけ顔は。

 などとツッコミの一つでも入れてやれればいくらかは気が晴れただろう。すべてわかってますよと言わんばかりのその表情に、ツッコめるだけの度胸があればの話だが。

 

 結果的に、私は顔を真っ赤にしながら、被害の拡大を抑制するためにピトーから顔をそらす以外の抵抗をすることができず、恐らくニマニマと笑われながら仲良く手を繋いで階段を上る羽目になったのだった。

 

 恒久にも思えた上昇が終わり、相変わらず手を繋いだまま私たちは人間界への扉にたどり着く。さすがに横を向いてばかりいるわけにもいかず、正面を向いて、シンプルかつ重厚そうなその両開きを見やった。

 

 板チョコのような色味と凹凸をしたそれは冷たく佇んでいる。窓も、当然ドアスコープもない扉の取っ手に、私たちは同時に手を伸ばした。

 

 一秒とかからずに魔力の錠も解除して、期待するピトーに根負けした私は彼女と顔を見合わせた。

 

「クロカの故郷、『ニホン』だっけ?近くに出るといいね」

 

「う、うん。そうね……」

 

 やっぱり頭の出来ではもう敵いそうにない。

 

 すっぱり諦めることを心に誓い、私たちは勢いよく世界の入り口を開け放った。




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二話

「「寒ぅッ!!」」

 

 扉を開け放つや否や、異口同音に叫んだ私たちの眼前に広がっていたのは、猛吹雪に荒れる一面の銀砂だった。

 

 互いに繋いだ手は一瞬のうちに解け、内と外の異常な寒暖差に粟立つ己が身を抱きしめる。駅内は、恐らく魔力で温かく保たれていたのだろうが、それにしたって外は寒すぎた。いったい気温はマイナス何度なのだろう。息をするだけで肺が凍り付きそうなほどの冷気が、途端に私たちの身体を包み込んでいた。

 

 気温だけではない。分厚い風雪が壁のように私たちを叩いていて、こうしている間にもどんどん体温が奪われていく。震えながら辺りを見回しても数メートル先さえ視界が通らず、まるで何もない白霧の亜空間に閉じ込められているような、非現実的な光景が前方に広がっていた。

 

「冷たっ!ク、クロカ?ねえ、これすごく冷たいんだけど、この白いのはいったい何?悪魔とか『ハンター』とか、マズいものじゃないよね!?」

 

 想像だにしなかった方向の危機にしばし愕然としていた私は、ピトーの興奮気味な声色に我に返った。そしてふと理解する。ピトーが生まれ、私と共に歩いた冥界は、半裸で過ごしても風邪をひかなかったくらい温暖な気候であったのだ。

 

「ああ、これは雪って言うの。寒いときに雨が降ると水分がどうたらこうたらするっていう、ただの気象現象よ――しかし、参ったわね……」

 

 吐いたため息が白く煙り、すぐさま吹雪に掻き消える。その残滓の先でピトーがしゃがみ込み、降り積もった雪にずぼっと指を突っ込んでいた。

 

 その手は手袋などしていない。それどころか今ピトーが身に着けている衣類はすべて、防寒機能などほんの少しも有していなさそうな薄手のものばかりだった。それはもちろん私も同様だ。過去に鹵獲し現在着用している衣服は、到底この猛吹雪から私を守ってくれそうになかった。『絶』状態であれば多少の寒さには耐えられるだろうが、しかしそれもこの極寒では限界がある。

 

 一刻も早く防寒着が必要だ。でなければ悪魔の勢力圏から出る前に凍死してしまいかねない。

 

「とにかく、進みましょ。どこか入れそうな家を見つけて、コートか何か頂戴しなきゃ」

 

「ううん……冷たいのはやだにゃぁ……一応訊くけど、空を飛ぶのはアリ?」

 

「ナシ。ていうか、魔力関係は全部、使っちゃだめよ。そういう結界張られてたら一発で捕捉されちゃうから。だからほら、頑張って歩くのよ」

 

 不満たらたらにぼやくピトーの手を再び取って、私は膝下二十センチほどの雪を踏みしめた。

 

 安全面を考えれば魔力だけでなく妖力も、そして『気』も使うべきではない。元妖怪の転生悪魔は、人間のそれほどではないが多いわけであるし、『気』は言わずもがな、『ハンター』に危ない。

 例外は仙術くらいなものだが、これでできることは精々百メートル圏内の『気』を感じることくらいだ。暖を取ることはできないし、もちろん空を飛ぶこともできない。いや、極まった仙人ならできるのかもしれないが、少なくとも今の私には無理だ。扉という風除けがなくなり、嵐のような乱気流へと変貌を遂げた吹雪を、甘んじて素肌で受け止めなければならない。

 四方八方から叩きつけられる冷気に肌を引き裂かれそうな痛みを感じても、私たちは雪中行軍をやめるわけにはいかないのだ。

 

 まずはとにかく建物を見つけなくてはならない。あるいは街灯か、舗装された道でもいい。地下鉄の出入り口みたいに孤立しているこの場所がいったいどのような立地であるかは知らないが、少なくとも荒野にポツンと佇んでいるなんてことはないだろう。人工物さえ見つかれば、その先に人里はあるはずだ。

 

 一際強く吹いた風が積雪の表面をぶわっと巻き上げ、それにピトー共々尻尾の毛を逆立てる。寒さと、先の見えない灰色の壁に挫けそうになる心を叱咤しながら、私は雪と風をかき分け続けた。

 

 凍えながら数分進んだ頃だった。

 

 明け方の頼りない日差しは吹雪によって遮られ、作り出される真夜中の空気。その暗闇と雪片の向こうに、ぼんやりとオレンジ色の灯りが見えた。

 

 自然、歩みも速くなる。耳元で唸る風音に背を押されながら近づくと、不意に左右の白霧からコンクリートの壁が顔を見せた。次いで薄い雪の下にコンクリートの感触を見つけた私は、この時ようやく自分が路地にいるのだと気が付いた。

 

 オレンジの灯りは街灯だった。路地から出ると前後からの冷気が再び乱気流に姿を変えて私を打ち、それに身震いしながら壁に手をついた。

 

 これだけ近ければ、さすがにそのコンクリート壁の正体にも察しがついた。

 

 白霧の視界では到底全貌が見えないくらいに壁は高く、そして広い。中はカーテンで仕切られていて見えないがガラスの窓が付いていて、扉と、幅広のシャッターが辛うじて確認できた。

 反対側も似たような光景だ。人が造った建物だった。

 

 立ち止る私の隣にピトーが来て、同時に手を強く握られる。ようやく肩の力が不安と一緒に緩み、緩んだからこそ、ふと思った疑問が口に出た。

 

「ここ、いったいどこなのかしら」

 

「……どこだとしても、進まなきゃいけないことに変わりない。でしょ?足跡は一応消してみてるけど、どこまで効果があるかはわからないし、気付かれる前に早く進もう?」

 

 その通りである。私は神妙に頷いて、壁伝いに再び歩き始めた。

 

 ぽつぽつと、一定の間隔で直立する街灯の灯りと、延々続くコンクリート壁を辿ってひたすらに進む。体力の消耗を考えて走るわけにはいかなかったが、予想外の疑問に急かされた私の脚は、暴風雪の中でも早歩きほどの速さを保っていた。

 

 代り映えのしない景観に今までとさして変わらない徒労感を味わいながら、とにかくまっすぐ道を進む。しばらく行くと、建物内に人間の気配がし始めるようになった。恐らく、列車の周辺はダミーの建物だったか、人払いの結界でも敷かれていたのだろう。

 

 これまた憶測でしかないが、たぶんここは居住区なのだ。建物の雰囲気を見る限り一戸建てではなく、縦長の集合住宅の集まりであるようで、かなり高い位置にも人間の『気』が感じられる。当然と言えばそうだがその中に『念』を使いそうな気配を持つ者はおらず、ピトーの完璧な『絶』と、仙術によって周囲と同化した私の『気』が、締め切られた室内からこの天候で見破られることはほぼ無いだろうと考えられた。

 

 だが、その安心感を以ってしても、私の焦燥感は消えることがなかった。

 

 当初、一番最初に暴風雪を浴びた時、私はこれほどの『人間』を感じられるとは全く思っていなかった。想像していたのは、雪国の寂れた小村だった。

 

 木造りのログハウスのような民家がまばらに点在していて、住民は春夏秋に農業や畜産を、そして冬には狩りをして生計を立てているような、文明から隔離された古い町。

 豪雪地帯の過酷な環境下に多くの人間がいるとは思えなかった。しかし実際には、途切れることなく立ち並ぶコンクリートの建物に自然的な温かさはなく、地面も茶色い土ではなかった。

 

 無機質で規則的で、自然の『気』はほとんどない。良く言えば近代的な都市の香りが、そこら中に散らばっていた。

 

 そうであれば、民家へ侵入して防寒着を盗むという、当初の予定は変更せざるを得ない。想像していた昔ながらの古民家ならともかく、近代的なコンクリート建築のセキュリティーに対してステルスミッションを完遂するのは些かならず難易度が高かった。密室に侵入するためにはどこかしらを破壊しなければならず、その騒音を気取られずに済むと考えるのはさすがに楽観視が過ぎる。そして、それらの問題をまとめて解決できるであろう魔力の便利さを、私は改めて痛感していた。

 集合住宅内には、それはもちろん目当てのものはあるだろうが、見えている地雷を踏むわけにはいかない。諦める以外になかった。

 

 民家が駄目となれば、他に防寒着を入手する手段、しかも騒ぎを起こさずとなれば、それはおのずと限られる。最も堅実な方法は、この時間でも開いている店、コンビニか何かを探すことだろう。客に紛れて中に入ることができる。

 

 混雑していれば尚いいが、さすがにそれは高望みが過ぎるだろう。時間的に人間は未だ夢の中に揺蕩う者が多いだろうし、そうでなくともこの吹雪だ。外に出る人間が多いとは思えない。

 現に今まで、たった一人の人間とさえ出くわしていない。こんなところで開いている店を見つけたとしても、そこに人間がいるとは……そう、そうだ、人間だ。まずは人間がたくさんいる場所まで行かなければならない。

 

 気配断ちをしていたところで、このような新雪の上を歩き続けたのでは追手を撒けるはずもない。私たちの足跡もすぐに踏みつけられ、そして消えるような人通りの多い場所。まず何よりも繁華街にたどり着くことを考えるべきだ。でなければ先がつながらない。

 

 とはいえ、土地勘どころかここがどの国のどの街なのかもわからない現状、繁華街へと言っても私たちはただ前に歩くことしかできない。行く先にそれがあることを祈るばかりだ。

 

 それで、なんだっただろうか……ああそうだ、防寒着だ。コンビニか何か、とにかく人間がいるところなら、少なくともそいつが着ている衣服はある。追いはぎしても店の中なら凍えることはないだろう。

 

 ……もしかしたらこれは中々の良案ではないだろうか?雪の中に放置せずに済むので心も痛まないし、私たちは温まれる。追いはぎされる人間にも私たちにもメリットがあるという、まさに一石二鳥の最善手ではないか。

 

 いやまて、これのどこが一石二鳥の最善手なのだ。そも何を指して最善手なのかもわからないし、追いはぎされる側には損失しかないだろう。馬鹿なことを考えている場合じゃない。もっと他の、何か大事なことを……

 

(……あれ?私、今何を考えてたんだっけ?)

 

 なんだか頭がふわふわする。そして僅かだが、気温が上がったのだろうか。身体がほんのりと温かかった。

 

 何とも奇妙なぬくもりだった。身体に打ち付ける吹雪が、まるで羽毛のように私を包んで揺らしている。何というか、揺り籠の中にいるような心地がして、いつの間にか眠気を感じるようになっていた。

 

 耐えがたい睡魔の誘惑が刻一刻とひどくなる。抗おうという気持ちもだんだん薄れ、私はそのまま、吸い込まれるように瞼を閉じて――

 

「クロカッ!!」

 

「っあ……!」

 

 ピトーの一喝に意識が舞い戻り、次いでお腹がぎゅっと締め付けられる感覚がした。

 

 目の前に降り積もった雪が映っていた。重力も、何かおかしい。鈍い触覚によれば、足の裏が地面に触れていないような気さえする。

 回転率が上がらない頭で必死に考えた結果、私は前のめりに倒れかけ、地に着く寸前、ピト―に胴を支えられたようだった。

 

 しかし、理解し、悲壮感を漂わせるピトーの顔を見ていても、なぜか身体に力が入らない。眠気も消えないし、虚ろな思考もそのままだった。

 

 身体を持ち上げられ、ピトーの腕の中に収まった私はぼんやりと、その口が激しく動くのを見つめていた。

 

「クロカ!!クロカ!!しっかりして!!ボクのことちゃんと見えてる!?」

 

「……見えてる」

 

 ごく小さく呟いた自分の声が、風のうなりと一緒に聞こえた。

 

 喉を震わす僅かな動作すら億劫で、全身を侵す疲労感が瞼をまた重くする。

 

「ダメだクロカ!!しっかり!!目を開けて!!」

 

 肩を揺さぶられながらの言葉が耳朶を叩き、至極滑らかに脳味噌へ滑り込んだ。それが妙に心地よく、安堵感に包まれた私は無意識にその言葉に従っていた。

 

「……うん。目、開ける」

 

 視界にピトーの姿が現れる。彼女は私の目を見て一瞬だけ逡巡の色を浮かべると、何かを決心したように口を引き結び、そして優しく語りかけるように言った。

 

「……よし。クロカ、いい?目を開けて、周りの景色をよく見るんだ。落ちないようにボクにしっかり掴まって、それから……『絶』は絶対に解かないこと。わかった?」

 

 目を開ける。ぴとーに掴まる。『絶』を解かない。

 

 頭の中にその三つの箇条書きが降ってきて、居座るそれに、私は躊躇いなく頷いた。

 

「……驚いて暴れたりしないでね?クロカ、行くよ……!」

 

 ピトーは私を抱えたまま、ゆっくり腰を落とした。数秒の溜め。彼女の腿が膨れて背を押して、次の瞬間、垂直に飛び上がった。

 

 すさまじい下への重力と上からの風圧が私の全身に降りかかった。眠気とは別の理由で目を開け続けることが辛かったが、それでも私は愚直に約束を守り続けた。

 

 しばらくすると、きつい重力がなくなった。顔面にビシビシ突き刺さる風雪もいくらかマシになり、目をしかめさせる要因も消える。周囲は相変わらず吹雪いていた。

 

 それは本当に一瞬だった。

 

 ほんの一瞬、ピトーの『気』が私を含めて一帯に広がった。この世すべての不吉を孕んでいるかのような、あの特徴的な『気』だ。出会った当初は本能的に恐怖していたその『気』だが、しかし今回はピトーが危惧したように驚いたり、ましてや恐れた身体が勝手に暴れ出す、なんてことは起こらなかった。

 

 ただ、何となくほっとする感じがするな、という感想を抱き、身体を弛緩させるのみだった。

 

 だが、ふにゃふにゃと溶けた身体はすぐに硬直することになる。ほんの僅かな間でピトーが『絶』状態に戻ると同時、一時の停滞は終わりを告げ、今度は浮遊感、というか落下感が私の内臓を持ち上げて、凍る背筋に私はピトーの胴を締め上げていた。

 

 ズン、と静かに落下が終わり、今度は着地の重力がピトーの腕を介して私に伝わる。衝撃吸収材の役目を果たした雪がミルククラウンのように宙に舞い、それが吹き消えると、ピトーは私を抱えたまま走り出した。

 

 どうやら今までのように平らな道を行くのではないらしい。狭い視界に集合住宅の壁が出現するとほぼ同時に、ピトーは再び跳躍した。

 

 しかしそれほどの圧力は感じない。どうやらベランダか何かを足掛かりにしてゆっくり上昇しているようだった。

 

 上昇が終わり、恐らく屋根にたどり着くとピトーはまた走り始める。一定の方向に向かって、文字通り一直線に集合住宅の上を飛ぶように進んでいた。

 

 さっきの『気』の放射で何か感知したのだろうか。ピトーの迷いない足取りに揺られる私はそのようなことを思いながら、抵抗空しくだんだんと睡魔に呑まれていった。

 

 

 

 

 

 気付けば私は温かい安息の中にいた。全身をぎゅっと抱き留められていて、緩い拘束感と人肌の熱が、私に微睡みを与えている。

 

 すごく、落ち着く。

 

 あまりにも恥ずかしすぎるので言ったことはないが、私はピトーとこうやってくっついていることが何よりも好きだ。

 

 言葉を交わしたり傍から見ているのも幸せであることに変わりはないが、しかしふれあいによる多福感には劣る。できることならもうずっとくっついて、そしていつか私とピトーの境目が融解して一つになってしまえばいい、などという、我ながらキモいことを考えてしまうくらいには、私はこのぬくもりが好きだった。

 

 そんな超級の安らぎと幸福が、覚醒しかけた私の意識を布団の中に押し込むのだ。

 

 永久にこのままでいたい。命が尽きるまでずっとこのまま、二人の世界に浸っていたい。

 

 過去も何もかも忘れて、この幸せだけを心に満たせたら、それはどれほど素晴らしいことだろう。

 

 悪魔のことも、『ハンター』のことも、

 

 白音のことも――

 

 ―――。

 

 ――薄く開いた目に、茶色い扉が映っていた。安っぽい木製のドアだ。

 

 短く狭い廊下の向こうで壁紙と同化するそれ。左隣の靴箱は半開きになっていて、中から靴紐らしき細長が垂れ下がっている。壁伝いに視線を走らせ、暖色のカーペット広がった室内に入るとすぐに衣装ダンスが眼に入り、続いて恐らく冷蔵庫、反対側には洗面台、さらには大きな旅行鞄が置かれていた。

 そして私の左隣には背の高いベッドが鎮座して、右隣は螺旋状の白い配管が、壁から押し出されたかのように存在感を発している。

 

 それから感じる熱気に、そういえばこんな形の暖房器具があるって話を聞いたような、と記憶を巡っていると、聞きなれた彼女の声が、頭上から私の寝ぼけ眼に降り注いだ。

 

「よかった……クロカ、おはよう。よく眠れた?」

 

「……ぴとー」

 

 顔を上げると、私を覗き込むピトーの慈愛と目が合った。天井の豆電球が頼りない後光を演出していて、夢見心地のまま私は呟く。

 

「ここは……どこ……?」

 

「えーっと、なんだっけ……『ほてるこんぺてぃてぃぶ』?って建物の部屋だよ。狭苦しいけど、人間たちの寝床なのかにゃ?ボクよりクロカの方が色々知ってると思うけど」

 

 よくわからないがとにかく天国ではないらしい。まあ、それはそうだろう。悪魔が死後に天国に行けるわけがないし、四畳半もなさそうなこの小汚い部屋に天使がいるはずもない。

 

 ここにいるのは私とピトーと、それからベッドの上の人間一人だけだ。

 

 ……え?

 

 途端、脳味噌に吹雪が巻き起こって、私は微睡みから蹴り飛ばされた。記憶がぐるぐると走馬灯のように現状を思い出し、一筋走った電流が私の総身をぐるりと巡る。

 

 驚きのあまりに喉が詰まって口をはくはくさせた私は、落ち着いた笑みを見せるピトーに辛うじて聞こえるようなごく小さいかすれ声を捻り出した。

 

「な、なんでそこに人間がいるの!?ていうかホテルって……え!?私が気絶しちゃってから何があったの!?」

 

「まあまあ、ちゃんと話すからまずは落ち着いてよ。毛布が落ちちゃう」

 

 あくまで落ち着き払って言うと、ピトーは私の背後から手を伸ばし、肩からずり落ちかけた硬めの毛布を引っ張り上げる。

 

 その仕草でようやく自分がピトーの胸に背を預けていることに意識が行った。どうやら半分座りながら眠っていたらしい。

 

 そのことに今更気付き、そして当然のように顔に上る羞恥を誤魔化しながら、私はされるがまま、定位置に舞い戻った。

 

 二人羽織のようにしてピトー共々毛布の中に収まると、そのピトーが私の頭に顎を乗せてきて、さらには肩を抱きながら無駄に明るく語り始めた。

 

「と言っても、別に大したことは起こってないよ。カギがかかってなかったこの建物に忍び込んで、そしたらちょうどこの人間が扉を開けてくれたから、ちょちょいとやってこの部屋を占拠して、それだけ。後は……寝床からこの毛布引っぺがしたくらいかにゃ。もちろん誰にも見られてないし、もう一時間くらいこのままだけど、特に何も起きてない。

 一瞬とはいえこの場所を見つけるために『念』を使っちゃったから覚悟はしてたんだけど……まあ今のところは平気だし、気付かれてはないんじゃない?」

 

 顎が脳天にがつがつ当たって正直少しだけイラっとしたがそれは呑み下し、目を閉じ仙術の感知範囲内を巡回した私は、「確かに」と息を吐いた。

 

 もし仮に、あの時放射されたピトーの『気』に気付いた者がいたとして、瞬時にそれが発せられた方角を突き止めたとしても、その時ピトーは上空で、しかも吹雪の中にいたのだ。その姿を視認できた可能性は極めて低く、その後の対応も含めて考えれば、ピトーの言う通り気付かれなかったと判断して問題はないだろう。

 

 たとえそいつが超人的推察力を以ってピトーの目的と逃げ去った方向を特定したとしても、細かな場所までは知りようがないはずだ。諦めが悪ければしらみつぶしに探している可能性もあり得るが、少なくとも私が知覚できる範囲にそのような人間はいなかった。

 

 そこまで丁寧に懸念を潰して、私はようやく見慣れぬ個室に心を落ち着けることが叶った。一時間もの間、ピトーと毛布と螺旋の暖房に体温を引き戻されて、全身、特に顔がぽかぽかと温まっていることに対し、自責が口元までせり上がったのだ。

 

「そもそも、ピトーが『念』を使ったのだって私のせいよね。私の『絶』が甘かったせいで吹雪にやられちゃったから……」

 

「それを言うならボクがクロカに頼りきりだったのが悪いんだよ。どうせ道なんてわからなかったんだから、ボクが先頭に立てばよかったんだ。それに寒さのことも、身体にどんな変化が起きるのか知ってれば、倒れる前にどうにかできたかもしれない」

 

「それは――」

 

 卑屈が増す私を、ピトーが遮った。

 

「結局さ、一つの失敗もしないっていうのが無理な話だったんだよ。ボクもクロカも知らないことはまだまだいっぱいある。知らないものを知らなかったって、いつまでも悔いていたってしょうがないじゃない?大事なのは過去より未来。失敗は、なくすより減らしていく方が現実的だにゃ。あんまり気負わずにさ、気楽に考えようよ」

 

 駅内で言っていたことと矛盾しているような気がしないでもないが、つまり私は慰められているのだろう。確かに、悪い悪くないを言い争うのは不毛で、そして少しばかり子供っぽいかもしれない。後悔の霧が晴れて自覚が見えると、私はまたしても頬を赤く染めることになった。

 

「それに何も悪いことばかりじゃない。さっきそこの……えっと、小さい部屋の中も見たんだけど、厚手の服が色々入ってた。ボクには判別付かないけど、たぶん、クロカお望みのコートも二人分あるにゃ」

 

 骨導音じみた声が頭の上で鳴り、小さな部屋、恐らくクローゼットに眼をやって言う。

 

「踏ん切りがついたって思えば、むしろ良かったと思うよボクは。あんなに寒いのはもうごめんだし。

 まあそれはそうとして、クロカ、身体の具合はどう?どこか変なところはない?」

 

「え?……うん、平気よ。耐寒装備があるって言うなら、なんなら今すぐに出発でも大丈夫」

 

 手先足先のしもやけと若干の眩暈はまだ残っているが、まあこれらは道中でどうにかできるだろう。一瞬の躊躇いはあったが、私は口を噤んでおくことにした。

 

 のだが、さすがに低体温症で気絶までした身でそこまで断言するのは白々しすぎたらしい。のしかかるように背と頭を押され、くの字に折られた私にピトーが間延びして鼻を鳴らした。

 

「ふーん。ホントに?体調万全なの?」

 

「……ちょっとだけ、まだふらふらするけど……」

 

「ほらやっぱり。きっちり治してからじゃないと怖くて外なんて歩けないにゃ」

 

「うう……でも、だってそこまで慎重になってたら絶対マズいじゃない。私、一時間も気絶してたんでしょ?だったら今まで歩いた分も含めて、いつ悪魔たちが動き出してもおかしくない頃合いよ。大規模な捜査が始まったら、もう隠れていられないのよ?」

 

「そうなったらいつもみたいに全部ぶち殺すだけにゃ。いつもみたいに二人で戦って、それで二人で逃げればいい。それだけのことでしょ?」

 

「闇討ちのアドバンテージがなくなるって言ってるの!それに!さっきは黙ってたけどピトーってば、駅で言ってたこと今とで話がブレッブレになってることわかってる!?」

 

「うん?『私の頭がふらっふらになってることわかってる』って?」

 

「言ってなぁい!」

 

 意固地が増して、結局子供っぽい言い争いに転じることになった。不思議なもので、どちらかと言えばボケに属する性格だったはずの私であるのに、ピトーとのやり取りではもっぱらツッコミの役目を演じることになる。そしてそれが嫌ではないのだ。

 眷属悪魔でいたころは、それが誰であれ、舐めた口を利かれれば条件反射的に皮肉が口をついたものだが……人とは変わるものだ。

 

 ピトーの思惑通り私の中に楽観が顔を出し、協議を忘れて場違いなおしゃべりに興じようと口を開く。その時だった。

 

 ぎゅるるる

 

「………」

 

 いつだったか、同じような間を体験した気がする。顔にまたまた血が上り、羞恥で全身がボッと火を噴く。もうこれで、少なくとも体温に関しては完治したことだろう。素直に喜べないが。

 

「……お腹減った?」

 

「……減った」

 

 今更取り繕ってどうにかなるわけもなく、俯きながら捻り出す。頭上でピトーがにんまり微笑む気配がしたために私はさらに身を縮め、直後背もたれが消えたためにころりと床に転がった。

 

 続けて重心に導かれ、横倒しになった視界をピトーが歩き、数歩でたどり着くと冷蔵庫を開け放った。

 

 扉が開くとよくわかる。懐かしさを感じる芳ばしい匂いが私の鼻にも届き、再びお腹の虫が鳴いた。

 

 毛布を引き付け顔を隠すしかない私の正面に匂いの元の紙袋を持ったピトーが腰を下ろす。羞恥心の最後の砦からちらりと目だけを覗かせると、ピトーが紙袋の中からそれを引っ張り出し、その見知った形状に、私は知らぬ間に唾を飲んでいた。

 

「なにこれ?紙の中にまた紙の包み?ふむ、剥がして食べるのかにゃ?」

 

 それは紛れもなく、ファストフードの王、ハンバーガーであった。

 

 簡単なものとはいえ、まともな料理だ。まともな料理なのだ。

 

 この三ヵ月、サバイバル生活で私たちが口にできたものは、すべて生か、あるいはただ焼いただけの肉と、大しておいしくもない果物類だけだった。

 

 調味料などあるはずもなく、おまけに量も不安定。野性味あふれる食事もまあ悪いものではなかったが、文明にどっぷり浸かってしまった私にはやはり物足りない部分が多かったのだ。

 

 三ヵ月ぶりに美味なる食事を前にして、私の胃袋がその身をねじ切らんばかりに強烈な催促を始めていた。視線がそれに釘付けになり、跳ね起きると毛布が剥がれ落ちる。

 

「ぴ、ぴとー、それ――」

 

 手を伸ばすまでもなく、拳二つ分のサイズのそれを、ピトーは私に差し出した。

 

「はいどーぞ。あとは薄茶色の短い棒がたくさんと……箱の中に……これ肉なの?まあ直接見たほうが早いか」

 

 私がハンバーガーの包みを半ば奪うように受け取ると、ピトーは覗き込んでいた袋を縦に裂く。すると、今度はサイドメニューのほうの王、フライドポテトと、次席のナゲットが姿を現し、裂かれた袋の上に広がった。ついでにその隣に何らかの飲み物、色合い的に恐らくコーラのカップが置かれ、懐かしの三セットに、私は沸き上がる生唾を抑えることができなかった。

 

「た、食べていいのよね?これ」

 

「うん?さすがに毒は入ってないと思うけど?」

 

 少々ズレたことを言うピトーに独り占めして良しとの許可をもらった私は、一秒の間さえもどかしく包み紙を剥がすと、具も見ずにそれにかぶりついた。

 

 油の猛烈なうまみが口いっぱいに広がった。

 

 オーソドックスな牛肉のパテと濃厚なチーズの味。冷めていても尚芳ばしく、衰えない味の暴力が私の舌をこれでもかと刺激する。しかし全くくどいということはない。パテとチーズの上に乗っかったトマトの酸味が油を中和し、レタスのシャキシャキ感がもたっとした肉とチーズの歯触りを心地よいものへと変えていた。

 

 マスタードとケチャップの両方に補助されたそれらが、口の中で手を取り合って楽しげにダンスを踊っている。ともすれば一瞬で離散しかねないそれらを、土台たるバンズがしっかりと一つにまとめていた。

 

 懐かしい味、とするには少しばかり肉感が強かったが、しかし間違いなく美味しかった。一口かじり、急かす胃をギリギリまで焦らして飲み込んだ私はすぐさま次の目標に襲い掛かった。

 

 薄茶色の短い棒、ストレートカットのフライドポテトである。さすがに揚げられてから時間がたっていることもあり、好みのカリカリした部分は残っていなかったが、しっとり柔らかいものもそれはそれで別のおいしさがある。

 

 油を吸い、塩気と混ざり合った滑らかな舌触り。じゃがいものクリーミーな食感と味が前面に押し出されたその部位は、むしろカリカリよりも料理を食べているという感覚が大きかった。

 

 大げさかもしれないが、三ヵ月分の我慢も含めて考えれば過度な評価でもない気がする。元バカマスターの宗家で食べたじゃがいものクリームスープよりも美味しいと、私は感じてしまった。

 

 文化的な食事。ああ、なんて素晴らしいのだろう。やはり私はもう路傍の野良猫には戻れないのだ。

 

 飲み込み、栄養源を受け取った胃が働いてじくじくと熱くなる。しかし、しかしまだ足りない。ハンバーガーをパンくず一つ逃さず平らげ、ポテトの塩気に水分を奪われた私はコーラのカップに突き刺さったストローを吸い上げる。少し弱いがシュワシュワの喉越しと甘味を楽しみつつ、再びポテトに手を伸ばそうとして、ふとナゲットのことを思い出した。

 

 そういえば、まだ手を付けていない。今更のように気付いた私はすぐさま紙箱を探し、そして見つけた。

 

 それはピトーの手の上に乗っていた。さらにはすでに開封されており、それがぼったくりの商品でなければ何ピースか数を減らしているようだった。視線を上に持っていく。ピトーの口がもごもご動いている。

 

(あっやっぱり食べるのね)

 

 実際、ピトーは私の独占に『いい』とも『だめ』とも言っていないわけなのだから文句を言えるはずもない。そもそも目くじらを立てるほどのことでもなく、いやでも一個くらいは食べたいなぁ、と、私は胃の中のガス的な意味で息を飲んだ。

 

 幸い、と言っていいのかは知らないが、ナゲットを咀嚼するピトーの表情はそれほどそれに執着しているようには見えない。口に合わなかったのだろうかと、食い意地の張った思考の隅で考えながら、私は「あれ?」と遠回しに伺いを立て始めた。

 

「あんまり食が進んでないみたいだけど、それ美味しくなかった?私は……まだまだ入るから、無理しなくてもいいのよ?」

 

 ピトーがはっとしたふうにナゲットに落ちた眼を引き上げて、そしてチラと泳がせる。

 

「んー……いやね、別に不味いわけじゃないんだけど……おいしくないってわけじゃないんだけど……」

 

「けど?」

 

 食欲のまま突き進む私にピトーは言い辛そうに口ごもった後、決意染みて喉を鳴らし、無神経な私の追及に短く答えたのだった。

 

「……悪魔のと比べると、ちょっとね」

 

 今度は私が口ごもることになった。

 

 いや、忌避感とか、そういったピト―に対する悪感情からではない。そんなものは三ヵ月前に打ち捨ててきた。なんなら私だって悪魔は憎いし、その死に触れ過ぎた今となってはもう同胞であるという感覚すら消え失せてしまった。たとえ目の前で肉を噛み千切るさまを見せつけられたとしても、私はピト―を恐れたりしない。

 

 だが、私は一度、ピトーに悪魔食いを拒絶する姿を見せてしまっている。彼女にとって、私のこの心境の変化は容易く信じられるものではない。

 

 それでも尚、ピトーは内心の告白を決意した。恐らく、答えをぼかすことによって私の中に生まれてしまう不安を慮ってのことだ。

 

 (悪魔)を好物とする自身の性。己の闇を吐露することは酷く恐ろしい。それを押し殺してまでの献身が、私の咽喉を詰まらせたのだ。

 

 私はこれにどう返せばいいのだろう。感謝?謝罪?それともストレートに『気にせず食べていいよ』と伝えるべきだろうか。

 

 どれも違う気がする。特に最後のは縁起が悪い。ありきたりな言葉では、この喉元の感情をうまく表現できそうになかった。

 

 どうすればいいか、数秒硬直して考えた結果、出てきた答えはこれだった。

 

「もし、私が死んだら、食べてもいいからね……?」

 

 考えたとはいえ、短絡的な自身の性はどうしようもないようだった。

 

 言ってから、それがとてつもない身悶え案件であることに気付き、喉のつまりが破裂した。開いたそこから細い空気が漏れ出して体積が減る。今までも含めてとうとう羞恥心が許容量を超えた私は、一周回って酷く緩慢にピトーから眼をそらした。

 

「……バカじゃないの?」

 

 その通りです。その通りだからもういじめないでやってください。

 

 当然声は出ず、呆れ果てたピトーのため息に私は一切の抵抗ができない。胸のあたりと顔面に溢れる羞恥に対処するだけで手いっぱいだった。

 コップいっぱいに注がれた羞恥心が、その淵で山脈を作りプルプル震えている。それを、零れないようにと念じながらただ見ていることしかできない。

 

 小さな衝撃一つで決壊しかねないその小山が、その時思わぬ追撃を受けて、盛大に爆発した。

 

「クロカが死んだらボクも死ぬんだから、食べられるわけがない。言ったでしょ?クロカがボクの生きる意味だって。クロカが死んだその瞬間にボクも死ぬ。ああでも、それが他殺だったらその前に復讐しちゃうかにゃ?そうなったら時間はできる?まあどのみち、クロカを食べる気にはならないと――ぐへっ」

 

 とても聞いていられなかった。だってもう……いろんなものが抑えられない。

 

 衝動的にピトーのお腹に突撃して、ぐりぐり頭をこすりつける。口元が緩んで変な顔になってしまうのを我慢することもできず、それを隠すためにも私の両腕はピトーの身体にしがみついていた。

 

 頭にポンと、温かいものが乗せられた。ピトーの手だ。私は穏やかに頭を撫でられながら、泣きたくなるくらいの幸福に、しばし身を委ねていた。

 

 

 

 

 

「はい!じゃあ!そろそろ出発しましょ!もうそろそろ人間たちが起き出す時間だから!」

 

 ようやく回復に成功して、身の内にしまい込めるくらいの羞恥心を携えた私は、それを誤魔化すために大げさなくらいに元気よくそう言って立ち上がった。

 

 残っていたナゲットの最後の一つがピトーの口の中に消え、碌に噛みもせず飲み込んだ彼女が私に訝しげな眼を向ける。

 

「眩暈がしてるんじゃなかったの……?」

 

「お腹にものを入れられたからかしら?バッチリ治ったわ!……嘘じゃないわよ?」

 

 未だ懐疑的な様子のピトーに小首を傾げてみせ、私は行動で示すべしとクローゼットを開け放ち、ほんの一瞬悩んでから掴んだそれを投げ渡した。

 

 元の持ち主の体型通り、XLは軽く超えているであろうサイズのモッズコートがピトーの上に覆いかぶさる。「う゛にゃっ」というくぐもったうめき声を聞きながら、対して私はダウンコートを引っ張り出すと袖を通した。

 

 ……うん。十分温かい。この分ならインナーは拝借しなくてもいいだろう。さすがにオッサンが着たそれを何枚も身に着けるのは抵抗が大きい。なんか臭いし。

 

 前を留めつつ振り返り、今度は旅行鞄をあさる。何故か表層にぶちまけられている下着類に眉をひそめながら中を掘削していくと、すぐに目ぼしいものが見つかった。財布と、そして冊子の地図だ。

 

 現在地もそうだが、せめてここがどの国なのかを知っておきたい。イラスト飛び交う観光案内図めいたそれに国旗か何かが登場することを祈りながら、私はそれを引っ張り出した。

 

 よほど有名な都市でもない限り、それが地球のどのあたりにあるかなんて私にはわからない。あれだけ吹雪くのだから北のほうではあるのだろうが、その検索条件では札幌くらいしか都市名が出てこないのだ。

 

 だがその杞憂は表紙を目にした瞬間に融解した。でかでかと英語で書かれたその都市名は、私のポンコツ記憶力でも瞬時に思い出せるくらいに有名なものだった。

 

「『にゅーよーく』……え!?ここアメリカなの!?」

 

 ニューヨークとは、あんなに強烈な吹雪が発生する過酷な土地だっただろうか。

 

 しかし現に、窓の外では未だ風雪が荒れ狂っている。あれが低体温症の幻覚でもない限り、数年に一度の大寒波に鉢合わせてしまった運の悪い二人組という結論は変わらないだろう。

 

(どうりで変なとこに出たと思ったわ……)

 

 地下道を出た瞬間の驚愕を思い出し、ため息をつく。気抜けした私に、ぷは、と息継ぎをしたピトーが言った。

 

「ニューヨークって確か、人間界でも指折りの大都会なんじゃなかった?世界最大のオークションがどうとか。道中じゃそれっぽいものはなかったけど」

 

「ええと……まあ、一口にニューヨークって言っても広いし……それに、ドリームオークションは九月開催よ?今の季節にやってるはずないじゃない」

 

「あれ?そうだっけ。見てみたかったんだけどにゃー」

 

 背後から衣擦れの音が近寄ってくる。振り向いた直後、頭上からの手にあっさりと地図の冊子を奪い取られた。ペラペラとかなりの速度でページをめくるピトーに、無意味と知りつつ頬を膨らませて見せてから、私は再び旅行鞄の発掘に着手し始めた。

 

「むしろやってなくてよかったわよ。検問なんてされたら『絶』でも機械類は騙せないし、世界最大のオークションなのよ?人外だってたんまりやって来るんだから」

 

 言いながら、入用なものをできうる限りコートのポケットに突っ込んでいく。お金と水と、カバンの底で潰れていた携帯食料。あとついでにお菓子。タバコにライター、歯磨きセットは必要ない。体型通りの比率を左右のポケットに詰め込んで、不要物をカーペットの上に撒き散らした私は「さて」と鷹揚に立ち上がり、振り向いた。

 

 ピトーも冊子をしまい、それに振り向く。

 

「じゃあ、行きましょっか。悪魔が支配してるっていっても州全部じゃないだろうし、とりあえずは住宅街を出て――」

 

「いっそのこと『ビル』ってのを見に行こうよ。オークションの代わりにさ!」

 

「まあ、いいんじゃない?この吹雪で見えればだけど」

 

 コートに着られながらの提案に、反論する気にもならず了承する。ピトーはにんまりと得意げに口角を上げ、そして暖房の上の窓を押し開けた。

 

 部屋の中にすさまじい寒気がなだれ込む。剥き出しの顔と足元がやっぱり寒暖差に身を震わせて、たじろぐ私を尻目にピトーは窓枠を潜り、飛び降りた。

 

 一歩遅れて私も窓枠に手をかける。吹雪に紛れ、下にうっすらとピトーの姿が見えていた。二階か三階か、そう高くはなさそうだ。

 

 一通り確かめて、今度こそ私も宙へ身を躍らせた。その際、窓を閉めることも忘れない。

 

 ぼすっと、雪の上に降り立った。いかにも安宿が店を構えていそうな狭い路地だ。雪で汚れが見えないことだけが不幸中の幸いだろう。もちろん人っ子一人見当たらない。

 

 さてどちらへ向かえばいいのやら。先導する腹積もりであるピトーの頭にフードを被せてやりながら、私は白い息を吐き出した。

 

「耳と尻尾は隠しておいてよね。あとできれば手も。人間に見られたら珍獣扱いからの闇オークション行きだから」

 

 他愛もない軽口だ。いくらなんでもその手合いにピトーが掴まるとは思っていない。

 

 いつものように益体もない会話を期待していた。だが、ピトーは私をちらと見もせず、フードを取り払ったのだ。

 

 あれ、さっきまで上機嫌だったじゃない。と内心で動揺し、首を傾げる。ぴたりと静止するピトーに、ややあってから耳に当たるのが鬱陶しかったのかと思い直し、それでも文句を言ってやろうとその肩に手をかけた。

 

 しかし次の瞬間、私は言葉の一つも発することなく、緊張に慄いていた。

 

「クロカ……何かに見られてる」

 

 反射的に私は仙術を行使していた。範囲を限界ギリギリまで広げて探る。ほんの小さな生命の揺らぎすら見逃さぬよう目を凝らし、隅々まで見回して、そして――

 

「だれも、いないわよ……?」

 

 少なくとも、私たちに視線が通る場所に人間は一人もいない。吹雪の目隠しを抜きにしてもだ。

 

 ピトーがゆっくりと自然体に戻り、顔だけで私に振り向く。

 

「でも、一瞬だったけど確かに感じた。クロカ、ボクたち……」

 

 その先をピトーは言わなかった。が、その焦燥感に満ちた表情が意味することは、嫌が応にも伝わった。

 

 息を飲むと、同時にピト―に手を取られた。

 

「ビルはやっぱりやめだ。クロカ、走るよ。ちゃんとついてきてね」

 

 悪魔の聴覚を以てしてようやく聞こえるくらいの小声で言うと、ピトーは私の手を引いた。我に返った私の脚が遅れて一歩踏み出すと、それを待たずにどんどんギアを上げられる。

 

 前後から風に打たれながら、私たちは人間のざわめきから離れ駆けていった。




当初の予定ではここまでを一話にまとめるつもりだったというアレ。次話こそ話が動きます。
感想とかとかはいつでも募集中ですください。


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三話

二部一話を少しだけ修正しました。

20/9/08 本文を修正しました。


 この『雪』というやつは存外に厄介だ。

 

 クロカ曰く、元は雨と同じらしいが、その性質はまるで異なる。まず第一に固体と液体。雨はすぐ地面に吸われて消える。だが雪は、降れば振った分だけ地面の上に積み上がるのだ。

 

 真綿のようなあの形状では、流れもしないし消えもしない。強風が表面を削りはするが、それは降雪の速度に勝るものではなく、今や雪の層はボクの膝にまで届きそうなほど高く堆積してしまっていた。

 

 一見すれば、雪は非常に軽量だ。真綿というのは誇張でも何でもない。手のひらいっぱいに掬っても、ほとんど重さを感じないだろう。

 

 膝下の雪の層を突き進んでいても、その感想はさして変わらない。

 自重と外部からの圧力、つまり疾走するボクによって圧縮され、脚に絡みつく雪の塊。さすがにもう真綿とは呼べないが、それでもボクにとってその重量感はあってないようなものだ。

 

 ただ、決してこれっぽっちも違和感がないわけではない。一歩一歩に感じる抵抗が些細なものでも、それが何度も繰り返されれば話は変わる。

 

 土の上を走るのとは感覚がまるで違う。問題なのはそれだ。僅かだが積み重なる違和感が、脚運びのイメージを少しずつずらしてしまう。重量感の他にも、風、冷気、摩擦係数。吹雪の中を先陣切って走るために意識せねばならないことはごまんとある。

 

 普段と駆ける速度は同じでも、その感覚はまるで違ってくる。いつも無意識下で行っていたことをすべて脳味噌で再計算し、総身各位に伝達する面倒な作業。

 

 それに加え、進行形で感じている視線にも意識を割かねばならないのだから、本当に嫌になる。

 

 避難所に選んだ建物を出て、かれこれもう一時間はたっただろうか。その間、ボクの本能が告げた嫌な予感は一時も消えることがなかった。

 

 むしろ胸騒ぎは酷くなる一方で、この視線が思い違いではないことを、ボクはもう九割がた確信していた。ボクとクロカをつけ狙う賊がボクたちを発見していることはもはや明白で、それを気のせいだと考慮せずにいることなどできるはずもない。

 

 だから今の今まで周囲にも気を張り、駆けながら賊の影でも見えないかと常に目を凝らしていた。相変わらず視界の利かない吹雪の真っ只中、ボクたちを見ているのなら、そいつは間違いなくボクたちの近くを並走しているはずだからだ。

 

 だが、今に至るまでボクはもちろんクロカさえも、一度として賊の気配を見ていない。建物の影を何度も潜り、一人の人間すらいない隘路を何度抜けても、胸騒ぎは収まらなかった。変わらず一定の調子で、ボクは視線を感じ続けている。

 

 これだけしつこく視線を振り切ろうと手を尽くしたのだ。賊がすぐそばでそれに対応しているのだとすれば、ただの一度もボロを出さないというのは考え難い。

 

 となればまず前提から違うのだ。賊は目視できるほど近くにいるわけではない。

 

 目でボクたちを捕捉し続けることは不可能だ。なら今僕が感じている胸騒ぎは、視覚に頼らない監視、超常の技であるのだろう。

 

 といっても、恐らくそれは悪魔によるものではない。奴らはなんでもかんでも魔力を使う、端的に言えば派手好きだ。一時間もの間そんな気配を見せず、こそこそ隠れて様子をうかがってばかりというのは奴らの印象にそぐわない。もし賊が奴らなのだとすれば、建物から出た時点で大仰な名乗りを上げ、周囲ごと魔力で吹っ飛ばすくらいのことをしていたはずだ。

 

 故に残る選択肢、賊は『ハンター』である可能性が高い。

 

 気付かれたのはほぼ間違いなくあの時、『気』で建物を探した一瞬なのだろう。即座に襲ってこなかったのは、はっきりした場所を感じ取れなかったのか、あるいは警戒ゆえか。どうなのかは知らないが、悪魔がそれを為したと考えるよりはよほど説得力がある。

 

 『気』を操る『念』について、ボクはもちろんクロカも、『ハンター』に勝る知識があるとは思えない。故に憶測にしかならないが、賊の『ハンター』はボクたちの位置情報を得るために、そういう類の『発』を使っているはずだ。ボクと同じように『纏』を引き延ばして位置を知っているのならともかく、それ以外の方法となると、千差万別の能力である『発』以外思いつかない。

 

 そしてこの憶測が正しいとすれば、このままその『ハンター』から逃げ切るというのは、恐らくかなり難しい。

 かけられたであろう『発』をどうにかして解除するか、もしくは術者を殺すでもしない限り、この幻惑の視線から逃れる方法はないだろう。

 

 ならばすぐにでも反転し、術者を探し出して消すべきかとも思うが、何度も言う通りこれは確定的な話ではない。どれだけそれらしい理由を並べようと、今まで推察したことはすべて仮説の域を出ないのだ。

 

 もしかしたら賊は『発』ではなく、探索に特化した神器(セイクリッド・ギア)か何かを使っているのかもしれないし、じっくり機をうかがうことができる変わりものの悪魔も、あるいは存在するのかもしれない。

 

 極論を言えば、賊がいるというこの予感すら気のせいである可能性もある。あまりにも情報が不足しているため、これまでの予想が全くの的外れであることだってあり得えるのだ。

 

 今ボクが最も恐れていることはそれだ。現状を解決するために行動を起こしたとして、それが間違いであればどうだろう。

 

 何一つ問題なく、例えば本当にボクたちを監視していた『ハンター』が見つかって、そいつを殺せれば、それで問題は解決だ。

 

 だがもしそれが致命的なミスだったら?

 

 例えばここで逃走をやめ、視線の方向をくまなく探したとしても、術者の『ハンター』を見つけられなければ何の意味もない。わざわざ敵地をうろつくだけの愚か者だ。もし仮に見つけたとしても、『ハンター』が一人ではなく複数人であれば、それは悪魔の襲撃の焼き直しになるだけだろう。

 

 そして例えば、その仲間の大勢がボクたちを打倒しえるだけの力を所持していたら。例えば、この視線自体がボクたちを誘い込むための姑息な罠だったら。

 

 『例えば』が無限にできてしまう。情報不足とはそういうことだ。行動を起こしたとして、それがどういう結果に繋がるか、先が全く見通せない。

 

 ふと気付いた時には『死』が目前に迫っているかもしれない不確定。クロカの命を天秤にかけかねない運任せに行く末を委ねる気には到底なれなかった。

 

 結局のところ、ボクにできることは一つしかない。賊の姿、位置、能力、背景、何もかもが不明であるために不毛と化す心配と、環境からくる負荷に歯を食いしばり、ただひたすらに走る事だけなのだ。

 

 冥界での逃避行は、少なくともこれよりはやりやすかった。攻撃か防御、あるいは逃走しかしない悪魔共を相手にする場合、基本的に戦うことだけを考えていれば他はいらない。頭を回すのは、いかにして殺すかとか防ぐかとか、つまりは一瞬だけだ。後は身体の赴くままに手足を振ればいい。

 

 しかし現状はどうだろう。攻撃はされていない。防御もされていない。逃げられているわけでもない。そもそも賊の姿がない。

 

 何もされていないのだ。異常はただ一つ、見られているかも、というその一点。その一点があるからこそボクは賊の存在を確信してしまい、それ故に行動に出られない。来るならさっさと来いと祈ることしかできないのだ。

 

 もどかしい。もどかしさで頭が茹ってしまいそうだ。疲弊した思考の中には常に不安が居座っている。

 

 このまま白霧の中を駆け続けて、果たして事態は好転するのか。好転しないのであれば、いっそ大胆な方針転換をするべきではないか。しかしそれはあまりにも危険すぎるのではないか。

 

 一繋ぎになってぐるぐると回転し続ける終わりのない思索は、それ自体がまるでボクへの攻撃のようだ。肉体と頭脳が、二重の加速でどんどん疲労を蓄積していく。

 

 脚にまとわりつく雪の抵抗はますます強まり、白霧から急に顔を出す曲道に対する反応も、この数十分でだいぶ悪くなった。

 

 焦りと恐れで形作られた不快感が、ボクの全身を侵していく。コートの防壁をかいくぐり、冷気がボクの背筋を這った。

 

 その時だった。

 

「……ッ!!」

 

 冷気に混じった強烈な悪寒を、ボクはすんでのところでつかみ取った。

 

 前方の十字路。何かがいる。

 

 ボクは瞬時に『絶』をやめた。身体に『気』を滾らせ、靴越しの雪を、その下のコンクリートを踏み砕かんばかりの力で掴み捉える。

 

 そして全身のバネを撓ませて、中心点に佇む黒い影に飛び掛かった。

 

 ほぼ同時、影も動いていた。ボクとクロカをくっつけても尚足りないくらいの巨漢が、その巨躯を隠すマントの中から何かを取り出そうとしている。

 

(知るものかッ!)

 

 剣だろうが盾だろうが構わない。あの時と同じように、それごとまとめてぶち抜いてやる!

 

 想いに応え、【黒子舞想(テレプシコーラ)】が姿を現した。修業の成果か、発動までコンマ一秒を切ったそれがボクの身体に糸を伸ばし、感覚を鋭利に研ぎ澄ましていく。

 

 しかし、意識を占めるもどかしさが戦闘のそれに切り替わるその直前、ボクの視界めいっぱいに広がった眩い光が、瞬きの間すらなく身体を貫いた。

 

 途端、悪寒が最高潮に高まると共に、気付く異常。

 全身を駆け巡る激痛。光を浴びた正面が、爆炎に巻かれるよりよほど激烈な痛みをボクの痛覚に与えていた。

 

 痛みに乱され、【黒子舞想(テレプシコーラ)】がたまらず霧散する。ボク自身も到底攻撃の意思を保つことができず、余裕のない意識ではその一撃を避けることも叶わなかった。

 

「ぐぁッ!!」

 

 反射的に防御の構えを取った両腕に食い込む刃の感触。同時にまたも焼けるような痛みを味わいながら、ボクの身体はきれいな放物線を描いて打ち返された。

 

 空中でどうにか体勢を取り戻し、四肢で着地すると剣圧の吹雪が顔を打つ。視線の先では巨漢が降りぬいた剣を正面に構え直し、その剛毅な眼でじっとボクを見据えていた。先ほどまでは闇に隠れていたその容貌が見えるのは、奴の構えるその剣が、あの眩い光を発しているからだ。

 

 ボクは奴を意識しつつ身を起こし、自身の両腕に眼をやった。

 

 コートの袖はざっくりと裂け、その下のジャケットにも穴が開いている。青色の血を滲ませる傷口も、もちろん切り傷の形をしていた。

 

 燃え跡はない。しかし、ボクの肌は焦げ臭い煙を噴いていた。

 

「ピトー!!平気……!?」

 

 痛みに顔をしかめていると、クロカがボクの腕を取り、その煙を目にして息を呑んだ。ほどなくして煙は収まったが、クロカの衝撃はそれで消えるほど生易しいものではなかったらしい。彼女は唖然とした表情で巨漢を見やった。

 

「まさか、光の剣……?なんで教会の人間がこんなところに……」

 

 吹雪に掻き消えてしまうくらいの小さな声で、クロカは呟いた。漏れ出た心の声であったのだろうが、その時ちょうど吹いた追い風が音を向こうまで運んでしまったのだろう。巨漢が眉の端をちょいと上げて、案外と高い声で言った。

 

「少々訂正が必要だわね。まず一つ、私らはエクソシストじゃない。キョウカイはキョウカイでも、『ハンター協会』所属の『ハンター』よ。んで、もう一つ」

 

 巨漢が構える剣が、一際強く瞬いた。

 

「コイツは光の剣ではなく、れっきとした聖剣だ。あんたたちを狩ろうっていうんだ。光の剣程度じゃ力不足ってもんだろう?」

 

「……にゃるほど」

 

 ようやく合点がいった。

 

 聖剣の強力な光の力。ボクの中の悪魔の血が、それに焼かれてのたうち回る感覚。その光を見ているだけで感じる本能的な悪寒はそういうことだったのか。

 

 しかし――

 

「ならやっぱり、ボクたちをずっと付け回してたのも『ハンター』の仕業ってことか。鬱陶しいんだよね、この視線。一度お礼をしたいからさ、連れてきてよ。

 ――それとも、オマエの後ろの奴がそうなのか?だったらわざわざ時間をかけずともいいんだけど」

 

 巨漢が目を丸くした。

 

 クロカのように仙術が使えなくても、忌まわしいことに悪魔の本能でわかってしまう。微弱に感じる光の気配。酷い悪寒。

 

 十字路の角から、痩せ身の男が姿を現した。

 

「いやあ、ばれちゃいましたか。『絶』はちゃんとできていたと思うんですが……」

 

「このバカウイング!『オーラ』じゃなくて聖剣!ちゃんと隠しておかないと光力でバレるって、あれだけ注意したでしょうが!」

 

「あ……そういえばそうでした。すみません師範代」

 

 半笑いで平謝りする男。巨漢と同じく、はためくマントの裾から聖剣のものらしき光を垂れ流している。足元の雪にきらきらと反射するそれと、そいつの眼鏡越しの顔を見つめ、ボクは歯噛みした。

 

(コイツじゃない)

 

 直感でしかないが、そう確信した。コイツは監視の術者でも、ボクが危惧するもう一人でもない。

 

 ボクはほんの一瞬、クロカに目配せをした。眼が合った彼女が神妙に口を引き締めるのを認めると、行く先に陣取る『ハンター』二人を見据え、気取られぬように深呼吸をする。

 

 どう攻めるべきか。一見では他の姿が見当たらない以上、どうにかして引きずり出すしかない。だが、闇雲に突撃してもさっきの二の舞になるだけだろう。

 精々二人分しか幅のない路地。十メートルほど先の『ハンター』を攻撃しようとすればダメージは必至だ。一直線に突撃するしかないボクに対し、『ハンター』はただ光を放つだけでいい。あれほどの醜態はもうないにせよ、本能的悪寒は如何ともしがたく、その状態で十全の力を発揮できるとはさすがに思えなかった。

 

 それに問題はその後なのだ。十全でないとしても、あの『ハンター』二人を倒すことは、主観ではあるが十分に可能だ。光という不可避を身に浴び続け、消耗した先で聖剣をどうにか処理したとしよう。

 

 ボクの想像が正しければ、恐らくそれでは終わらない。また再び、貴重であり、そう本数は多くないはずの聖剣を携えた『ハンター』が現れるだろう。まず危惧から片づけなければきりがない。気付かれる前に隙を作り、一気に見つけて仕留めてしまいたいところなのだが――

 

「……それにしても、噂に違わぬ硬さだわね。『(リュウ)』は完璧に近く、おまけに『発』も使いこなす。そして外骨格。弱点を突いたはずなのに大きなダメージはなし。こいつは骨が折れそうだ」

 

 大きな白煙を吐き出して、巨漢がやれやれといったふうに肩をすくめた。

 

 なんとも都合のいいタイミングの気の抜けた一言。聞き覚えのない単語はとりあえずわきに追いやって、ボクは口の端を僅かに持ち上げ、不敵に鼻を鳴らしてみせた。

 

「そう思うならさっさと逃げれば?その玩具置いていってくれるなら、特別に追わないであげてもいいよ」

 

「馬鹿言うんじゃないよ。『変異キメラアント』のピトーに『SS級はぐれ悪魔』の黒歌。冥界で色々やったんだって?悪魔のお偉いさんから直々に討伐依頼が出てんのよ。あんたたちみたいな高額賞金首、みすみす逃すわけがないでしょうが」

 

 思っていたよりもあっさり発動した企みに内心でほくそえみ、ボクは驚いたふうを装って声色を一段上げた。

 

「へえ、よくわからないけどすごいんだ?ボクたちもずいぶん有名になったんだね。殺した甲斐があったよ。でも刺客がキミたち二人っていうのは、なんかぱっとしないにゃ……あれ?案外舐められてる?」

 

「舐められてるなら私に話は回ってこないでしょうね。ブラックリスト専門ってわけじゃあないけど、私はこれでも『ダブルハンター』――って、言ってもわからないか。じゃあせめて私の名前だけでも覚えときなさい」

 

 巨漢は、こほん、と咳払いの白煙を爆ぜさせ、言った。

 

「私はビスケット=クルーガー。そっちのひよっこはウイング。あんたたちをとっ捕まえて、そのお金でエステ旅行に行く者たちの名前よ。覚えときなさい」

 

「あの、師範。私は別にエステに興味はないんですが……」

 

「うっさいわね。じゃああんたはヘアサロンでその寝ぐせどうにかしてきなさい。高いところでやればその頑固さも矯正されて――」

 

 『ハンター』二人の視線が、ボクを離れた。

 

 その瞬間、ボクは身体を前に倒した。前傾姿勢のその後ろから、紡がれたクロカの魔力が妖しく光る。

 聖剣の白に対し、魔力の黒。異質な光彩が既存の半分を侵食し、そして扇状に放たれた。

 

 雪片を貫く暗い閃光。周囲の建物に破壊を振りまき突き進むその光に、魔力を感じ取ることができないとはいえ即座に気付いた『ハンター』たちは振り向いた。しかし、振り向くまでの一瞬、それさえ獲得すれば後はどうなろうが知ったことではない。

 

 巻き起こる砂塵の中、脚のバネを解き放つと同時にボクは纏った『気』を一帯に放った。

 

 ――見つけた。

 

「ウイングッ!!」

 

 巨漢の裂帛が破砕音を突き破り、硬直した痩せ身に喝を入れた。はっとして目を見開いた痩せ身は聖剣を振るい、飛び来る瓦礫と魔力の光線を叩き落とす。

 

 掠り傷すら負うことなく、土煙の向こうから高速で迫るそれらをすべてを防ぎ切った腕前は、なるほど大口を叩くだけある。

 

 しかし、奴が見据える先にもうボクはいないのだ。

 

 吹き飛び、空中で暴れる瓦礫の一片を、ボクは踏みつけ空気抵抗を足場にそこへ飛び込んだ。

 

 濛々と立ち込める砂礫。重力が石片を地面に落とし、吹雪が粒子を吹き飛ばしてくれるまで今しばらくの時間が必要であろう建物の中。開いた大穴から飛び散った瓦礫が宙を舞うその間隙で、人間の女が一人、慄然とボクの目を凝視していた。

 

 ようやく見つけたもう一人。そいつの手の中に忌まわしい光が集いつつあることに、ボクは確信の歓喜を感じた。

 

 ボクの身体が砂礫の中を駆け、そいつの命に届く直前、一瞬早く完成した見覚えのある聖剣が、ボクとの狭間で眩く光り輝いた。

 

 痛みと、僅かに覗く虚脱感。口元を歪めはしたが、やはり均一に『気』を纏えば防御は可能だ。聖剣自体に触れさえしなければ、さほど激烈な反応は起こらないらしい。

 

 光に耐え、ボクの拳が聖剣の表面を叩く瞬間、一転して一点集中した『気』が刀身を跳ね上げ、粉々に打ち砕いた。

 

 反動でそいつの小柄で華奢な身体が吹き飛び、白色無地の壁に打ち据えられる。赤い血の霧と一緒に肺から空気を押し出されたそいつの瞳がボクを睨み、その碧眼から香る恐怖の匂いに引かれるようにして、ボクはヒリヒリ痛む拳をもう一度握りしめた。

 

 一歩踏み出し、逸る意思がボクの身体を前に押し出す。

 しかし、広げた『気』に映る巨漢がその時実行せんとした行動が、熱に侵されたボクの脳味噌を急速に冷却した。

 

 前のめりの身体からなんとか横向きに頭を傾ける。一拍の後に矢のように飛んできた聖剣が髪の毛を数本刈り取ると、煙の中に消えた。どこかの壁に突き刺さったらしい硬い音を無意識で聞きながら、ボクの目は拳を振り貫く巨漢の双眸に向いていた。

 

 煙を突き破る聖剣に続いて現れた巨漢の一撃を、白煙を噴く右腕で受け止めた。ズンと芯に響く重さを踏ん張った両脚で支え、受け止め切ったその『気』の持ち主に左の手刀を引き絞る。

 

「ジャンヌ!!解放!!」

 

 耳元近くで爆音が空気を揺らした。途端、何度受けても慣れぬ悪寒が側頭部を貫き、ボクは反射的に視線をそっちに動かした。

 

 壁に埋もれた小柄が、新たに生み出した聖剣を地面に突き立てた。

 

「【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】ッ!!」

 

 ばき、と、石の地面が割れる音。耳障りな金属音がいくつも鳴り響き、暗い部屋の中を反響する。小柄の身より溢れる悪寒の原液が石の下に溶け込んで、そして爆発的に拡散した。

 

 床に壁、そして天井からさえも、無数の聖剣が砂塵を刺し貫かんばかりに生え出した。瞬く間もなく剣山と化す増殖のその波は波状に広がり、一秒もしないうちにボクの元まで到達するだろう。

 

 ボクたちにとって最も危険な神器(セイクリッド・ギア)の一つ、あらゆる属性の聖剣を創造する【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】。

 

 巨漢と痩せ身に感じた『聖剣との繋がりのなさ』はこういうことだ。痩せ身があっさりと正体を現したのも、恐らくはこの【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】の存在を隠すため。コイツを消さねば聖剣はいくらでも湧いてくる。

 

 文字通り目に痛い光の壁の奥を睨み、再度の決意と共に小柄を視界に捉える。同時、ボクはここに来て初めて身の内に眠る魔力を持ち出した。

 

 難しいことは考えない。『力』をそのまま放出する。

 

 自身を中心に爆ぜた魔力が衝撃波となり、周囲の一切を吹き飛ばした。迫りくる剣山にも威力は十分に届き、上下左右のそのすべてに破壊をもたらす。

 聖剣が幾本も砕ける小気味よい音。切り開かれる小柄への一本道。

 

 ボクは地を蹴った。

 

 四散する瓦礫と聖剣が彩るその道を駆け抜け、温存した『気』で全身を奮わせる。そして――

 

「ちいッ!!」

 

 盛大な舌打ちと『気』で、背後から振り下ろされた聖剣を受け止めた。

 

 胴を無理矢理ねじり、先よりも多い『気』で掴んだ刃の向こうを射抜く。憤怒の視線を向けられた巨漢は、その両腕に血を滴らせながらも衰えぬ炯々とした眼光で、ボクに聖剣を押しつけていた。

 

 予備動作もなく、初見であるはずの技。威力的にもそう易々と防げるものではなかったはずだ。なのに吹き飛ばされず耐えた、ということはつまり、巨漢はボクがそうすると予期し、備えていたということ。ボクは奴に見切られたのだ。

 

 こんなことは過去にも覚えがない。完全な想定外。

 先端の欠けた聖剣が、巨漢の胆力と光力を後押しにボクの掌を蝕み始める。やむなく両手で鷲掴み、その刃を砕こうと力を込めるも、聖剣自体に纏わりつく巨漢の『気』がそれを阻んだ。

 

 焼ける痛みが掌から腕を伝い、全身を巡って倦怠感を両脚に生む。僅かな拮抗。押し付けられる聖剣の重みに耐えかね、ついにボクの膝が折れた。

 

 片膝をつくボクを上から見下ろし、巨漢が指示を叩きつける。

 

「ぼさっとすんな、ジャンヌ!!さっさと『絶』して身を隠す!!」

 

「ッは、はい!!」

 

 水音交じりの小柄の声が聞こえ、次いでその気配が薄れた。壁の中から這い出して、よろけながらも背を向け走り去っていく。今はまだボクの『気』の中だが、いずれその外に出てしまえば再発見は非常に困難になるだろう。まして巨漢と戦いながらでは、広範囲の探知は難しい。

 

 もやが晴れた。

 

 ようやく吹き込んだ吹雪が砂塵を攫い、一息で空気のすべてを漂白する。眼前で雪の粒が聖剣の光を反射し、一瞬きらめいてから溶け、刀身を流れてボクの手に乗った。

 雫はふるふると揺れるばかりだった。ボクの両腕は聖剣を押し返すに至っていない。

 

 部屋の大穴の向こうで光力と、クロカの魔力を感じた。

 

 時間をかけ過ぎた。

 

 目くらましが消え、クロカも痩せ身も様子見してはいられなくなったのだろう。その前に三人すべてを殺すつもりであったというのに、まだ一人も倒せていない。

 

 これを押して小柄を追えば、その間にクロカと痩せ身の戦いが始まることは自明の理。下手をすればそこに巨漢が加わることもあり得るだろう。時間切れと悟る以外になかった。

 

 ボクだから軽傷で済んでいるが、聖剣のあの威力はクロカには危険すぎる。一撃をもらうだけで致命傷になりかねないような、綱渡りの戦闘を強いられるだろう彼女を放っておくことなどできるはずもなかった。

 

 しかしどうであれ、まずは渾身の力で押し込められる聖剣から両手を解放しなければならない。地面に縫い付けられているようなこの状況。打破はせずとも抜け出すことが第一だ。

 

 魔力の波動と閃光が、吹雪の薄闇で瞬いた。ぎり、と歯を食いしばる。喉元を溢れそうな焦燥感に蓋をして、腹の底に据え置いたそれを倦怠感の補填に満たす。

 

 吹雪と、瓦礫が崩れる音、そしてボクの手が焼ける音だけが響く中、

 

「……そんなに黒歌が心配?」

 

 その場違いに柔らかな声色が巨漢の口から流れ出たものだと、ボクはすぐには信じられなかった。思わず打開のための足捌きを中断してしまい、色変わりする白霧に注いだ視線が移動した。

 

 その内心を知ってか知らずか、巨漢はボクの無表情を目に映し、鼻で笑った。

 

 ぼそりと呟いた。

 

「随分とまあ、過保護だねぇ」

 

「……オマエ、何のことを言ってる?」

 

 つい聞き返す。詰めた息が吐き出され、光力の進行がほんの僅かに進んだ。

 

「そうカッカしなさんな。別に悪いことじゃない。愛する者を慈しみ、尊ぶことは幸せなことだ。愛を与える者も、受け取る者も」

 

 一拍の間。

 

「だが、盲愛というものは得てして独りよがりになりやすい。いくら善意でも、それが知らぬ間に愛する者を不幸にしてしまうことだってあんのよ。まあ、あんたの生まれでそれを知れって言うのも、少々酷な話だわね」

 

「があッ!!」

 

 すべて吐き出し、引き出した瞬間的な『力』が均衡を弾き飛ばした。押しのけられた巨漢は大きくのけぞり、聖剣に引っ張られて宙に浮く。

 

 対してボクは重く踏み込み、隙だらけのその巨躯に致死を打ち込む一歩手前。

 

 しかし巨漢は、それを目にしても全く声色を変えることなく、訳のわからぬ眼と言葉を言い放った。

 

「精々一方通行にならないよう気を付けることだ。幼き母親よ」

 

「だから何を――ッ!?」

 

 あまりにも突然だった。

 

 唐突に、何の前触れもなく、巨漢の姿が掻き消えた。

 

 振るったツメが空を切り、揺らしてそれにも気付く。周囲の景観がそっくり変わっていた。

 

 建物の白地の壁はどこにも見えず、天井も、石の床もない。瓦礫も聖剣の破片も、戦いの跡がきれいさっぱりなくなって、辺りには唯々まっさらな雪原が広がっている。少なくとも『気』の範囲内には、あれほど目にした人工物はもちろん、巨漢も痩せ身も小柄も、おまけにあの鬱陶しい視線も、生物の気配は一つも存在しなかった。

 

 そしてどうやら白霧の目隠しもだいぶ薄くなっているようだ。空気はさっきほど凍えていない。十メートルほど離れた雪の上で、ボクと同じく呆然とした様子のクロカが周囲をきょろきょろ見回していた。

 

 眼が合い、不安をため息と一緒に処理したクロカが安堵の表情で駆け寄ってくる。その姿にボクも張り詰めていたものが解け、頬が自然に緩んだ。

 

「ああよかった……ピトー無事よね?すごい量の光力感じたから、私もう心配で心配で……」

 

「うん。全然へーき。クロカの言った通り、能力だけならボクの十分の一もなかったし、聖剣も、まあそこまでのダメージにはなってないよ」

 

 にっこり笑い、手をひらひら振って見せる。多少なりとも渋顔の深刻度は抑えられただろうか。クロカはボクの手を捕まえて掌に眼を落すと、ゆっくり瞬きをして息を吐いた。

 

「……あんまり無茶しないでよね」

 

「……うん。気を付ける」

 

 気を付けようがあればの話だが。

 

 つい心の中に生みだしてしまった野暮を咳払いで誤魔化して、ボクは「さて」と空を仰いだ。

 

「ここ、どこなんだろ。さっきまでせまーい路地にいたはずなんだけどにゃー」

 

「『ハンター』の気配も消えちゃったわね。『発』か何かで私たちだけを強制的に移動させたってこと?」

 

「んー、でもそれらしい『気』は感じなかったよ?もちろん魔力も……人間が使えるとしたら魔法だっけ?後は神器(セイクリッド・ギア)もそうだけど、転移をさせるくらいの『力』をいきなりぶつけられたのなら、いくらなんでも気付いたさ。それが無かったってことは……ううん……」

 

 残念ながら想像がつかない。もしかすればクロカも知らない『機械』のせいなのかもしれないが、それこそ考え出せばキリがなく、答えなど出ないだろう。

 

 同じく、ここがどこかという疑問も有意義なものではない。雪以外の何もない平坦な大地。現在地の特定など、何日頭を捻っても不可能だ。

 

「というか、『ハンター』たちっていったいなんでこんなことしたのかしら?」

 

 クロカがなんとなしな声色で呟いた。数メートルから数十メートルに広がった吹雪の視界を眺める彼女に、ボクは小首を傾げてみせる。

 

「何がって?死にそうになったから、敵であるボクらを遠ざけた、ってだけじゃないの?」

 

「……でも、そうならなんでわざわざ私たちを転移させたの?考えてみてよ。どんな方法を使ったのかは知らないけど、敵をどうにかして転移させるより、あらかじめ打ち合わせできる味方を転移させる方がずっと簡単だし、確実だと思わない?」

 

 黒い破片が思考を掠めた。その跡に残る黒色を覗き込むようにして、ボクは理由を捻り出す。

 

「うーん、元々そういう条件が付いた能力だったとか?あるいはボクたちを混乱させるためとか……」

 

 どれも説得力に欠ける。ぱっとしない仮定に眉を顰め、ボクは一度、その思考を放り投げた。それがよかったのかもしれない。

 

「まあきっと大した理由じゃないよ。自信満々狩りに来たって言った手前、自分から逃げるのが悔しかったとか、適当に考えて笑ってやればいい。それに実際、奴らも逃げるって目的には成功して――」

 

 余白に浮かんだ『ハンター』たちの顔。巨漢と痩せ身が幅を利かすその中に隠された違和感を、ボクは衝撃と共に口に出していた。

 

「――なんであの時、【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】は何もせずに逃げたんだ……?もう一度力を開放すれば、ボクにダメージを与えることもできたかもしれないのに……」

 

「そりゃあもちろん、あ奴らの仕事がお主たちを倒すことではなかったからじゃよ」

 

 戦慄。一瞬にして脳天までが凍り付いたかのような心地だった。

 

 ばっと振り返ると、そこにいたのは一人の老人。胸の所に大きく『心』と書かれた薄手の服と、ズボンを一枚身に着けただけの男が、その皺だらけの指で顎を撫でていた。

 

「そう驚くこともあるまいて。ピトー、お主も言っとったじゃろ、能力だけなら自分の十分の一も無いと。ジャンヌのサポートがあるおかげで戦えはするが、それでも少人数では仕留めることは難しい。故に作戦を確実にするためにもお主の実力を計り、消耗させる役割を担うものが必要だったというだけのこと。あの時点でもうその役目は終わっていた、というわけじゃ」

 

 周囲にまっさらな雪を敷き、植物のように静かな『気』を纏う人間。

 

 見つめられるボクをちらりと覗くと、クロカは一歩前に進み出た。

 

「……あんた、アイザック=ネテロね。『ハンター協会』のトップがわざわざ出てくるなんて、全く光栄の極みだわ。それで?散々様子見した挙句、聖剣も持たずに一人で出てきたよぼよぼのおじいちゃんに、私たちは何をすればいいの?おしめでも替えてあげればいいのかしら?」

 

「ほっほっほ。それは何ともありがたい提案じゃ。お主のような別嬪さんに下の世話をしてもらえるなら、引退生活も悪くないかもしれんの。じゃが生憎、ワシはこの通りピンピンしておるでな、もう何十年か経ったら改めてお願いするとしよう」

 

「すけべジジイの余生を看取るなんて御免被るわ。魂を対価にされたって嫌よ。もう百年若返ってから出直してきなさい」

 

 にやりと好戦的な笑みを浮かべるクロカの横顔を視界の端に置きながら、ボクは未だ驚愕から帰ってこられずにいた。

 

 クロカは恐らく気付いていないのだ。

 

 この老人はいったいどうやってこの場に現れたのだろう。老人が言葉を発するまで、ボクはその存在を全く知覚できていなかった。

 

 ボクの『気』は老人の周囲を十分に覆っていた。もし何らかの方法で転移してきたのであれば、その瞬間に気付いたはずだ。超人的な、ボク以上に完璧な『絶』なのか。それだけでもこの老人が強者であることは見て取れる。

 

 しかし、違う。『絶』の腕がなんだ。この老人の『念』がいくら高みにあろうとも、ボクにはこの身体と、それに魔力もある。

 

 恐れるのはいい。だが、怯える要素は無いはずだ。老人の『気』は極めて平坦。肉体的には人間の域を出ず、悪魔よりもずっと弱いはずなのだ。

 

 絶対的な弱点である聖剣を持っているわけでもない。複数人でいるわけでもない。魔力や魔法を使える気配もない。年寄であることも考えて、今までで最も簡単に屠れる相手と言ってもいいくらいだ。

 

 しかし何故、何故なのだろう。

 

 ボクは、眼前の剽軽な老人が今まで出会ったものと何か一線を画しているように思えてならない。いくら否定の理由を並べ立てようと、その確信を些かも打ち消すことができなかった。

 

 それこそ、今までの苦労をすべて投げ捨てる選択肢を、迷わず選んでしまうくらいに。

 

「クロカ、転移を」

 

 極小さな囁き声。クロカの耳がぴくりと跳ね、訝しげな疑問符が小声で返った。

 

「列車の時みたいに不意を突くってこと?でもあれは隠れてたからで、ここでやったらすぐに感づかれ――」

 

「違う。魔法陣を使った長距離転移のことだ。悪魔の拠点でも何でもいい。アイツとやり合うよりよっぽどましなんだ」

 

 早口に言うも、クロカの『気』から懐疑的な色が抜けたようには見えない。当たり前だろう。当のボクも何故これほどあの老人が危険な存在であるように見えるのか、全く理解できていない。

 

 その上で本能が鳴り響かせる危険信号を無視できないのだから、ボクはさらに言葉を続ける以外になかった。

 

 今黙り込めば、何か取り返しのつかない事態が起こる気がする。意味不明な恐怖心に突き動かされ、もはや老人に注意する余裕もなく、この根拠のない確信を伝えるために息を吸いこんだ。

 

 直後。

 

「―――」

 

 脳天に突き刺さる衝撃。地に沈む身体。すさまじい圧の『気』。

 

 これらすべてが、同時とも思えるほど短い間に起こった。

 

 目にも留まらぬとはまさにこのこと。音速をはるかに超えた一連の事態を知覚できたのは、叩きつけられた肉体がバウンドして宙を舞い、波状に広がる雪の波にクロカが飲み込まれる姿を見た時だった。

 

 五感からの電気信号がようやく脳に届けられ、入り混じって乱回転を始める。驚異的な速度で弾け、ボクはそれに眼を向けた。

 

 酷く緩慢に視界が移ろい、写真のように切り取られた静寂の中を、雪の結晶一つ一つを透かして見やる。

 

 この一瞬だけ、ボクの中の『時』は限りなく静止に近い速度で流れた。限界を超越した自身の圧縮。それでも尚、認識できたそれは残像の一端のみだった。

 

 両手を合わせ、祈るように目を伏せる老人。その背後に存在する金色の何か。

 

 老人の腕が動きを見せた次の場面、金色の『気』がボクの身体を打ち払っていた。

 

 あまりにも速すぎる。

 

 そんな感想しか捻り出せないくらい、奴のその一点はずば抜けていた。太刀筋さえ見えないという初めての経験。何故合掌がこれほどの攻撃に化けるのか。まるで理解が及ばないが、しかしわかったことが一つある。

 

 ボクの予感は正しかった。

 

(魔力や聖剣なんかより、危険なのはこの人間……!!)

 

 これほどの力を持つ『念能力者』が控えていたからこそ、あの時巨漢には情動がなかったのだ。

 

 いや、後悔をしている暇はない。巨漢と痩せ身がどうしてあれほど簡単に、時間稼ぎの会話に乗ってきたのか。自分の思慮不足に失望していても、現実は変わらない。

 

 斜め方向に叩き落とされ、今度はしっかりと地面に埋まってしまった己が身を掘り起こす。広げた『気』を自然体まで引き戻し、立ち上がったボクはぼろきれと化したコートを脱ぎ捨てた。

 

 もやを吹き消した吹雪に乗って、ぼろきれがいずこへと消えていく。敵はそれを見送ると、いっそ腹立たしいほど楽しげな調子で言った。

 

「悪いが、逃がすわけにはいかねえのよ。嫌でも付き合ってもらうぜ?」

 

 ボクを捉えたその眼には、老人とは思えぬほど強い輝きが宿っていた。




文才が欲しいと痛感した今日この頃。
それでも感想乞食は続けてます。ください。


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四話

ながァァァァァいッ説明不要!!(文字数)(22222文字)(ฅ^・ω・^ ฅ)


 大きく一息を吐いてから、ボクは猛然と突撃した。

 

 距離感があやふやになってしまいそうなくらい均一な白い大地と空。冷気を切り裂く肌は寒さを感じることもなく、研ぎ澄まされた感覚の上を滑っていく。

 

 自然体のまま先に佇む老人 ネテロは昂然とボクを見つめていた。

 接近するボクに対して、その眼には驚きも恐れも何もない。かといってその要は高慢ではなく、ただひたすらに戦いに対する喜びとか高揚感とか、そういう類のもので奴の口元は笑みを形作っていた。

 

 全力では足りない。

 

 直感したボクの『気』は、今まで最も力強く、強靭な『力』となって顕現した。

 

黒子舞想(テレプシコーラ)

 

(限界を超えて、舞えッ!!)

 

 次の踏み込みから身体が急激に加速した。果たして常時の何倍だろうか。抵抗を増す空気を突き破り、五十メートル近い間隔を瞬きの合間に消し飛ばす。

 

 ネテロはピクリとも動かない。『気』の流れも静謐であり、圧縮された時間の最中、ボクの攻撃は残像を引いて奴の心臓に迫っていた。

 

 普通であれば、もはや回避どころか防御も不可能。今まで生きてきた中で間違いなく最高最速の一撃だった。悪魔やさっきの『ハンター』であれば、気付くことすらできずに胴体を四散させていただろう。命を終わらせる以外の未来を思い浮かべることすらできないくらい、それは致命に近づいていた。

 

 人間に、いや、一個の生物には到底反応できないはずだった。しかし、ネテロのその双眸は間違いなくボクの姿を捉え、そしてにやりと笑っていた。

 

 映像がぶれる。

 

 ボクとネテロの間合いはもう一メートルもない。小数点以下二桁もなかっただろうその合間、切れ切れにしか知覚できない僅かな間の中をネテロの両手が流麗かつ緩やかに動き、そして悠々と合掌の形をとっていた。

 

百式観音(ひゃくしきかんのん)

 

 今度こそ、その姿を確かに目にする。ネテロの背後に出現した金色のそれは、多腕の巨像だった。

 

 全体的な見てくれは人間に似ているかもしれない。顔と思わしき部分には、目、鼻、口、と揃っており、長大な胴体の下には一対足がついている。いくつもの節があり、脇腹にかけて幾多も生える腕には生物らしさが欠片もないように思えたが、仔細に確かめるにはその間はあまりにも短かった。

 

 合掌するネテロの手が離れ、再び残像を作り出した。と思った次の瞬間には、既に事が起こっていた。

 

壱乃掌(いちのて)

 

 限界を超えて圧縮された時の中で、ようやくその起結が見えた。

 

 合掌から、恐らく手刀を振り下ろしたのだ。何もない空間に。

 鋭い一撃。だが、腕の中で行われたそれはボクの身体にかすりもしない。合掌と同じく一見無意味に見える空打ち。しかし、ボクの触覚は確かにさっきと同じ強い衝撃を受けていた。

 

 次に認識したのは、ボクの身の丈くらいの金色の棒だった。いや、棒ではない、これは手だ。手刀の形でボクの身体を打つ金色の掌打なのだと、ボクは瞬時に納得する。そして同時、その長大な手刀の出どころにも理解が及んだ。

 

 背後の巨像だ。

 

 思考の加速が終わり、打ち払われた身体がまたしても大地にめり込んだ。降り積もった雪が舞い、蜘蛛の巣のように亀裂を走らせ、次に衝撃波で破裂する。そのころになって遅れた音がたどり着き、聴覚に瓦礫の音を鳴り響かせた。

 

 しかし、そのような雑音は全く意識に届かない。【黒子舞想(テレプシコーラ)】の発動から今に至るまで、ほんの一瞬すらも逃さずネテロの姿を注視し続けたボクは、ようやく得られた確証を繰り返し脳裏で転がしていた。

 

 それでも尚、起結のみしか見ることはできなかったが、ネテロの不可解な攻撃の正体は割れた。

 

 今もネテロの背後に佇む金色の巨像が、人間故に威力と射程に乏しいネテロの攻撃を代行しているのだ。つまりあの巨像はボクの【黒子舞想(テレプシコーラ)】や【人形修理者(ドクターブライス)】と同じく『発』の賜物、念人形。故に『気』での防御がてきめんに効いて、あれほどの衝撃にもかかわらず、ボクはさしたるダメージを受けずに済んだのだ。

 

 そして同時に、それを身を以って知ってしまったという事実は、ボクがどうあがいてもネテロの速さに追いつけないという屈辱の証明でもあった。

 

 正体不明の攻撃に進んで当たりに行くバカなどいない。少なくともボクはそうだ。

 

 最高の一撃ですら軽く防がれ、一方こちらは攻撃を回避するどころか顛末を認識することすら困難な有様。全力のさらに先を発揮しているというのに、これだ。自身が速さの面ではるかに格下であることを理解せざるを得なかった。

 

 無意識的にボクはこぶしを握り締めていた。もやの向こうではネテロが相変わらず昂然な笑みを浮かべている。底知れない『力』に吹かれた決意の炎がゆらゆらと揺れるのを感じて、ボクは再び突撃せんと四肢に力を込めた。その時、

 

「ピトー!!一度下がって!私がやるッ!!」

 

 地に伏し低く構えるボクの背に、強烈な魔力の波動が吹き付けた。

 

 空気をビリビリと震わせる振動がいくつも重なり、数多の光弾がネテロめがけて頭の上を飛んでいく。

 

 しかしボクはその弾幕の結末を見るまでもなく、次の瞬間、背後を振り向くと、複数の魔法陣を操るクロカに怒声を浴びせていた。

 

「前に出るなッ!!」

 

 クロカが驚愕の眼を向けると間もなく、ボクは再び地を蹴り跳躍した。

 

 まっすぐネテロに向かって飛ぶ身体。直線的な攻撃だ。奴の掌打による迎撃をすり抜けることはないだろう。しかし、やむを得ない。クロカの間近に居続けることは、ネテロと相対するこの状況に於いてそれ以上にないくらいの悪手だからだ。

 

 奴が相手でなければ、逆、傍にいることで敵の攻撃からクロカを庇う立ち回りを選択していただろう。しかしネテロの攻撃は神速。あれから庇うなどという絵空事を実現できるはずもない。二人そろって掌打を食らい、なすすべもなく蹂躙される未来がありありと目に浮かぶ。

 

 そうでなくとも、クロカはボクに比べて防御力が低い。掌打の数発で無視できないダメージを負ってしまうことは間違いなく、万一ダメージを防げたとしても、クロカをあの猛攻に晒すことを許容できるはずもなかった。

 

 故の突撃だ。少なくともボクが攻め入る間は、それを迎撃するために繰り出される掌打がクロカに向けられることはないだろうから。

 

「ぐぅッ!!」

 

 三度、巨像の掌打がボクの身体を打ち据える。『気』の防御の向こうから顔を見せるのは、小さいが確かな痛み。ボクは眼前にある神々しい『気』の威容を睨み続けた。

 

 やはり単なる攻撃は通用しない。今までの力押しが通用しない格上の敵。それを、絶えず攻め続けなければならないという制限の元で打破せしめねばならない。

 

 どうすべきか。制御不可の飛行に勤しむ間、手札を巡回するも目覚ましい有効打などは見当たらず、結局方針はごく単純なものへと定まった。

 

 ボクがネテロに対して勝っていること。一番大きいのはやはりクロカの存在だろう。

 

 つまり攻撃の手が二人分あるということだ。後方から魔力を放つだけならネテロの攻撃を受けることはないと、そう信じて託すしかないだろう。クロカをこんな戦闘に参加させるのは気が進まないが、それでボクがやられては元も子もない。

 

 彼女の母親と同じ轍を踏むわけにはいかない。

 

 ともかく、一人でネテロの速さに追いつけないのなら、二人で連携して迫ればいいのだ。

 

 巨像による掌打とその圧で、入れ替わりに飛んで行ったクロカの光弾がすべて砕けた。それを横目に吹き飛ぶボクは、体勢を取り戻すと同時、自身の足元に魔力を使った。

 

 少量、とはさすがに言えない程度の『力』を注ぎ、瞬時に足の裏で捉えたそれは、握りこぶし程度の大きさの結界だ。

 

 ネテロの打撃に体勢を失い、一度宙を舞ってしまえば、ボクは再び攻撃するために手足が地面に着くことを待つしかない。

 

 それではあまりにも遅すぎる。

 

 数えるほどしか使った覚えのない忌まわしい悪魔の羽では、到底あの威力を制動しきれるはずもない。空中浮遊の術がないのなら、他に手段は己の両脚のみ。宙に足場さえ作れば、それは十全に機能するだろう。

 

 座標の固定と威力を受け止めるだけの頑丈さ。それらを踏まえての握りこぶし大がボクの身体に掛かる慣性を支え、腿の強張りの解放を見届けた後、甲高い音を残して損壊した。

 

 取って返して身体が飛び、鈍く瞬く光弾の破片を突き抜けた。

 

 ネテロが僅かに目を見張る。ボクが掌打を受けてからおよそコンマ三秒、クロカの魔力を打ち消した二撃目に至ってはコンマ一秒も経っていない。

 

 この攻撃間隔が唯一の矛。

 

 ネテロが巨像の掌打を放つ場合の動作、合掌と操作のための一打には、恐らくこれでも届かない。奴に迎撃される前に攻撃を当てる、打撃自体の速度を上回ることは、二人合わせても不可能だ。正確無比な攻撃が続く限り、ボクたちに勝機はないだろう。

 

 殺すためにはそれを崩さなくてはならない。手を誤らせるのだ。

 

 相対しているボクこそが最も疑わしく思っているだろうが、ネテロは間違いなく人間だ。人間である限り、その身は骨と筋肉と内臓と、そして脳味噌によって動いていることは間違いがない。頭の命令によって合掌し、掌打のための型を取る。その基本性能は人間の範疇に留まるはずだ。

 

 『念』というものの性質からしてそうだ。ネテロの『発』が特別強力だとしても、自らの生命エネルギーたる『気』を操る以上、入れ物である人間という種族の限界を超えることはできない。巨像が掌打を放つには、どう攻撃するかという技の選択を必ず挟まねばならず、その処理速度はボクらのそれと恐らく大差ない。

 

 その点でボクらは明確な有利を取れる。技自体の速度ではなく、その前段階で奴を出し抜く。

 ボクとクロカの攻撃をそれぞれ対処させ続け、そのために必要となる攻撃指令の過程を、二人分の脳味噌で切り詰めるのだ。

 

 とにかく攻撃を重ね、奴の思考能力に負荷をかけ続ける。それができれば、あるいは――

 

 みし、と身体が軋んだ。

 

 打たれたことを知覚する間もなく、視界が回転する。その中でネテロは未だ驚きの表情を浮かべたまま。思考が滞ろうが最善手を打ち放つ超人的要領にうすら寒いものが脳裏をよぎり、決意だけを抱いた思考の中に陰が混入する。

 

 本当に、できるのか……?

 

 泉の鏡面のように静かで動じず、それでいて果てしない重圧を有するこの『気』の持ち主からミスを引き出すことが。

 

 決してゼロではない掌打のダメージがボクの命を呑みこむ前に、それを為すことができるのか。

 

 大きなミスでなくてもいい。小さくてもその完璧に隙間さえあれば、そこに一本針を潜らせるくらいのことはやり遂げられる自信がある。人間の脆弱な肉体であるなら、それだけで十分致命傷に届くはずだ。

 

 しかしボクは、その大業が達成される未来をどうしても思い描くことができなかった。

 

 自分が気迫に圧されていることはわかっている。わかっていても、心の中に生まれてしまったその怖気は大きく分厚く、到底打ち破れる気がしない。

 

 もし、本当に打ち破れなければどうなるのだろう。

 

 弱気の暗雲が、決意と入れ替わるようにして感情の表層に現れる。全身が何か頼りないもので満たされているような錯覚に陥り、自身の中の『力』が僅かに揺らいだ。

 

 その精神のまま、知らずに身体は指令の通りにその身を動かし、『力』を行使する。結果、作り出した結界は、足を乗せた瞬間に、ばき、と嫌な音を鳴らして破砕した。

 

 歯を食いしばり、一回転余計に飛んだ後に再度足場を作り出す。新たな魔力弾がネテロめがけて飛んでいくさまを忸怩たる思いで見送りつつ、ボクはそれを以って陰を殴りつけた。

 

(ボクはバカか!?)

 

 彼我の実力差が気迫の通りであり、本当にボクではネテロに勝てないのだとしても、それがいったい何だというのだ。

 

 勝てないなら、諦めるのか。ここで終わらせてしまうのか。

 

 完全無欠に無意味な考えだ。クロカを守る盾は、ボク以外にない。

 

 ボクの諦めと終わりは、そっくりそのままクロカに及ぶ。ボクがやらねば、牙はクロカに届いてしまうのだ。

 

 立ち止まることなど、許されるはずもない。

 

 弾ける光点を目にしながら、ボクは自身の中身が冷え、鋭利さを増していくように感じていた。

 

 雑念など必要がない。ボクはただ、奴を殺すことだけを考えていればいい。

 

 殺すためだけに思考を回し、殺すためだけに身体を動かし、殺すためだけに感情を切り捨てろ。さもなくば、自身を一筋に絞らねば、あの澄まし顔に赤を彩ることなどできはしない。

 

(クロカの、ためにッ!!)

 

 結界の足場を蹴り飛ばした。

 

 掌打の軌跡が眼前を横切り、風圧、もはや風の壁が身体を叩く。魔力弾を吹き消す一撃の余波を突き破り、その続けざま、真に限界を超えたボクの『力』は、新たに繰り出された迎撃の掌打に触れていた。

 

 これもまた、心身一体が故の反射だった。

 

 瞬間、金色の巨像に異彩の光線が弾けた。ボクの身体が打ち払われると同時、光線は巨像の全身を這いまわり、つんざくような轟音を鳴り響かせた。

 

 電撃だ。巨像の掌に叩きつけた魔力が形を変え、隅々までを流れ巡った。

 

 生物の肉体であれば、少なくとも一時的なショックは免れない。ほんの少しでも巨像の動きが止まってくれれば、ことは随分簡単になったのだが――

 

 風圧。斥力を受けるボクと入れ替わりに襲い掛かった魔力弾は、あっけなく次の掌打に打ち消されていた。

 

 やはり巨像は独立した傀儡なのだ。

 

 遅れて到来する痛みと、電撃の余波を腕に感じながらそれを目にする。

 

 ボクの『発』とは違い、術者と直接繋がっているわけではないのだろう。視界のほとんどを塞ぐ多腕の向こうにちらりと見えたネテロは、電撃の影響を受けているようには見えなかった。

 

 であれば、巨像の破壊ないし無力化を目論むことは、あまり効果的ではないだろう。奴の荘重な『気』を打ち砕くことは、奴が繰り出す掌打の軌道を読み切ることと同じくらい難しい。

 

 それに何より、それほどの手間をかけて撃破せしめたとしても、恐らくあまり意味はない。どれほど強力だとしても所詮は『念』、傀儡だ。どれだけ物理的な損壊を受けようが、発動しなおせば元通り、傷一つない巨像が背後に佇んでいるに違いない。

 

 だがしかし、ネテロと繋がらず独立しているということはつまり、あの巨像はネテロの掌打をそのままは反映している、というわけではないのかもしれない。

 

 『気』は、身体から離してしまえば途端に扱いが難しくなる代物だ。

 

 ボクと接続する【黒子舞想(テレプシコーラ)】や【人形修理者(ドクターブライス)】は、その繋がりを通してボクの意思や『気』を受け取り、能力を発揮している。あくまで自身の肉体の延長上に存在するからこそ、ボクは思考とずれもなく自分の身体を操作でき、燃費の悪い【人形修理者(ドクターブライス)】に大量の『気』を注ぎ込むことができる。

 

 その繋がりがない『発』の場合、逐一細かな操作を行ったり、強大な『力』を保持し続けるといったことはほぼ不可能だ。

 

 その足枷はネテロとて同じだろう。ならば巨像の打撃は、ネテロのそれをそのまま拡大、強調したものではない。

 

 恐らく、巨像が放てる攻撃にはあらかじめ決まった型が存在する。軌道、威力、速さ、それらが掌打の一つ一つに明確に定まっていて、ネテロはその中からスイッチを押すかのように選択しているに過ぎないのだ。

 

 巨像は、型通りの動作しかできない。この想像が当たっているなら、もしかすればネテロの悪手を待つよりも素早く、その穴を突けるかもしれない。

 

 吹き飛びながらの帰り際、超高速で瞬いた脳味噌がその可能性に至った。結界に足を引っかけるボクはネテロと視線を交錯させたまま、見通し立たぬ迂遠を離れ、その寄り道を決意した。

 

 足場から反発した身体が飛び、変わらずネテロに切っ先を向ける。このまま直進するならば、この凶刃の末路は前と一片も変わらないだろう。

 

 しかしそんな気は毛頭ない。一足飛びで伸びた脚が縮み、体勢が変わって前に出る。所謂ドロップキック。移行までは瞬き程度の時間しか掛かっていないが、それでもネテロにとっては認識のために十分すぎるほどの時間だっただろう。

 

 それでいい。これもブラフなのだから。

 

 ネテロの目が呆れたように細められた、その瞬間、ボクの足先に結界が出現した。蹴り、今度は直角に地平を滑る。ネテロの視線を横切り、軌道の急転換を為したボクは、すぐにもう一度足場を出した。

 

 まっすぐにネテロを見据える。その光景は前と全く同一だ。一手前、ボクが魔力を打ち込んだ、その前段階。

 巨像とネテロとボクの位置関係、そして角度。一秒前と少しも違わぬ条件下。

 

 有限とはいえ、いくつあるかもわからない掌打の型、そのすべてを把握することはボクにはできない。しかし、その一部だけならどうだろう。

 

 ある一点から放つ、一定の角度からの攻撃。それに対応する型くらいなら、読み切ることもできるのではないだろうか。

 

 読み切り、それらの掌打では塞げない穴を、見つけることができるのではないだろうか。

 直前の掌打の軌道は眼の奥に焼き付いている。もちろん、それが打たなかった空白も。

 

 グッと力んで魔力を放出する。魔法陣と、空白を狙う電気の槍。

 

 最初のこれは防ぎ切られるかもしれない。だが、いい。防がれたのなら、次はその孔もまとめて狙うだけのこと。突き詰めて、一本でも奴の身体に届けばいい。一度痺れさせさえすれば、もうこっちのものだ。

 

 ネテロの目がゆっくりとボクを向く様子に体感時間の加速を感じながら、ボクは三つ目の足場を蹴った。同時に電気の槍も放たれる。

 

 一方ネテロはちょうど合掌をし終え、その目もボクにたどり着いていた。

 

 表情を動かす暇がなかったわけではないはずだ。

 

 その顔はやはりつまらなさそうだった。

 

三乃掌(さんのて)

 

 視界に異変。何をされたのか、考察に入るよりも早く、それはボクの身に襲い掛かった。

 

「があああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 全身を、体内まで貫く熱いものが這いまわった。身体のすべからくがパニックを起こし、暴れ、止まり、焼かれている。

 

 有無を言わさぬ衝撃に絶叫するのみのボク。見開いた眼球の上を光芒が横切って、それにようやく思考を取り戻した。

 

(電撃!?魔力!?ネテロが――いや、これはボクの――ッ!!)

 

 熱線は何十秒も続いたかのように思えた。唯一思い通りに動く脳味噌の酷使が、現状をはじき出す。

 

 狙いを読まれたのだ。今、ボクの視界を埋め尽くし、全身を包み込むように圧す眩い『気』。電気の槍ごと、巨像の合掌の中に囚われてしまっている。

 

 迂闊が過ぎた。悠長に狙いを定めようとしたことがそもそも墓穴。二歩も三歩も使って間をうかがえば、それはもちろん、撃退ではなく捕獲をするだけの余裕も生まれてしまうだろう。絶対にやってはならない制限の一つではないか。

 

 徐々に手足の感覚が戻ってくる。そのそばから押しつぶされてしまいそうなほど強力な圧迫を感じ、舌打ちなんかではとても済まないくらいの激情がほとばしった。

 

 瞬間、巨像の掌の向こうから、鮮烈な気配がその憤懣に叩きつけられた。

 

「ピトーを、放せえええええぇぇぇぇぇ!!!」

 

 見えずともわかる、慣れ親しんだ魔力の鼓動。激甚なる怒りの悲鳴が閉じた空間さえも揺らし、ボクの憤懣に焦りの色を突き刺した。

 

 一刻も早くこの窮地を脱さねば。痺れの残る四肢を張り、猫の額ほどもない隙間を押し広げようと『念』を練る。しかし、ただでさえ重い巨像の『力』。扉が開く気配はない。

 

 そうやって歯を食いしばるうちに、外の気配に変化が生じた。

 

 継続的に続く魔力弾。一層威力の上がったそれだが、ネテロは変わりなくただ防いでいたのだろう。巨像の掌越しに感じる振動に、貫かれた様子はなかった。

 

 その振動に突如、違和感を感じた。巨像に込められた『気』の質。言ってしまえばネテロのそれ。ボクに向いていた殺気が、唐突に薄れたのだ。

 

 薄れたなら、その分はどこに向くだろう。考えるまでもない。

 

 パキ、と、体内で筋が鳴る音がした。と思う間もなく、体表を覆う『気』の量が何段も飛ばして膨れ上がった。

 

 増大したボクの『気』の圧が、一瞬にして巨像の掌を上回る。開かずの合掌が軋み、漂う金色の『気』を、ボクの暗い『気』が覆い隠した。

 いつの間にか、痺れはどこかに消えていた。膠着の隙間が少しずつ広がっていく。

 

 クロカを、やらせて、なるものか。

 

 閉じた掌が一気に解かれた。視界は再び吹雪の白に満たされ、その中で眉一つ動かさないネテロを視認する。息つく間もなく、ボクは攻勢のため結界を発動させようとした。

 

 しかしそれは許されなかった。奴の神速を待たずに二撃を講じることは、やはり不可能。殺意に急かされた身体はもろに巨像の打撃を食らい、吹き飛んだ。

 

 防御を疎かにしたために体勢を取り戻すにも時間がかかり、結局ボクの身体は久方ぶりに地面を抉ることとなった。

 

 ぶつかり、跳ね、転がり、無様に体幹を翻弄されたボクは、数十メートルも移動したところでようやく止まり、上体を持ち上げた。

 

「――っくぁ……はぁ、はぁ、クソ……オマエ、ごときがッ……!!」

 

 詰めた息を吐き出せば、思いのほか呼吸が荒い。急激な『気』の増幅がかなりの負担になってしまったのか、肉体も即時の反攻を拒んでいた。

 

 そうやって身を縮めるボクを訝しみ、警戒しているのか、あるいは、考えたくはないが余裕の表れか。微動だにせず静観の構えを貫くネテロを射殺さんばかりに睨みつけ、ボクは殺意を剥き出しにしながら精神集中に苦心していた。

 

「待って、待ってピトー!これ以上ネテロに向かって行っちゃダメよ!魔力で遠距離戦を――」

 

「無理、だよ!!ボクでも軌道が読み切れるような攻撃じゃ、アイツに届かない!!離れてなんかいたら、殺せるわけがないじゃないか!!」

 

 鬼気迫ったクロカの恐れを遮り、ボクは言い放った。

 

 魔力弾の牽制を放ちながら走り寄ってきた彼女がその怒号にぴたりと立ち止まり、縋るようにボクに手を伸ばす。

 

「でも、だってあなた、こんなにボロボロに……」

 

 クロカの心配がわからないわけではない。だが、それでもボクは向かうしかなかった。思い通りに動かぬ身体を【黒子舞想(テレプシコーラ)】で無理矢理持ち上げ、闘争心を注ぎ込む。

 

 練りあがった『気』を滾らせる最中、クロカはそれでも尚不安を捨てきれないのか、さらに言い募ろうと口を開いた。だが、それを待つ気も猶予もすでになく、地を蹴る寸前、辛うじて自分に言い聞かせるような約束だけを、ボクは口の中で繰り返した。

 

「ボクは、死なないから――ッ!!」

 

 クロカを残して死なないためにも、ボクはネテロを殺さねばならない。決意を新たにボクは突進し、そして背後に制御できるギリギリの数、魔法陣を展開した。

 

 クロカを害そうとしたネテロへの殺意を御しきれず、勇み足になっている。そんな側面ももちろんあるが、それ以上に長期戦に対する不利を自覚したがための行為だった。

 

 電撃の自爆と後先考えぬ『力』の解放が、ここに来てスタミナの限界に一歩足を踏み入れてしまった。ハンターと聖剣での消耗も併せ、表面化してしまったその格差。このまま戦いを引き延ばしたとしても、先に倒れるのはボクだろう。

 

 当初の目論見は破綻した。たとえ強引にでも早急に決着をつけねば、その先に待つのはボクとクロカの死だ。

 

 故に限界まで攻撃の手を増やした。一度それで下手を打ちはしたが、それも結局は立ち回りが悪かったというだけのこと。魔力自体は有効であるはずだ。

 

 今までの急撃に加えて魔力をばらまくのであれば、少なくともあんな失態にはならないはずだ。負担は大きいが、もうやらないわけにいかない。生を求めて、ボクは『力』を振るい続けた。

 

 しかし、それだけ能力を振り絞っても尚、魔力も『気』もネテロに命中する気配すら見出せなかった。

 

 こっちは脳味噌が火を噴きそうなくらい必死だというのに、ネテロは涼しい顔で淡々と攻撃を捌いている。まるで堪えているように見えない。

 

 これでも、まだ足りないのか――!?

 

 無駄な攻撃を重ねるうち、知らず知らずにそんな思いが心に芽生えた。その双葉は無意識から眼球に波及し、そしてその先のネテロの相貌を捉える。

 

 幻覚か現実かはわからない。だがその時、引き結ばれた口元が上向きに歪んでいるように見えてしまったボクは、心に恐れの進行を許してしまった。

 

「くっ!?――このッ!!」

 

 魔法陣に分散する魔力を身に戻し、数が駄目ならとそれらを束ねて右手に集める。それを無意味と断じた自分の言葉さえ忘れ、ボクは結界の上で新たな魔法陣を描き出した。

 

 眼下の雪中にて巨像を従えるネテロはこっちを向いてさえいない。常態であるはずのそれにすら情動を誘発させられ、注意を縫い付けられていたボクは、その時ネテロが見ていたものに気付いていなかった。

 

 唐突に、視界が黒煙に満たされた。

 

 吹雪の白から一転。瞬時にネテロの姿も巨像の『気』も隠れ、激変した環境に驚愕した身体がつい動きを止めてしまう。そしてその驚愕は、後方より来る気配にさらに増幅することとなった。

 

「ピトー!」

 

 クロカが悪魔の羽を広げ、ボクめがけて突っ込んできた。

 

 絶句。思考停止に近い状態で反射的にクロカの抱擁を受け止めてしまい、小さな結界から足を滑らせる。かいた冷や汗が浮遊感でこめかみを上り、それでなんとか我に返ったボクは、やむなく自前の悪魔の羽を出し、落下を止めた。

 

 ぎゅうっとボクの胴体を締め上げるクロカの、柔らかで温かい肉感に現実味が蘇り、そのまま喉になだれ込む。爆発する寸前、辛うじて踏みとどまり、ボクは念話にて怒号を叫んだ。

 

『何を、考えているんだ!!ボクの近くにいたらクロカもアイツに狙われるって、なんで……なんでわかってくれないの!?』

 

 激情に喉をつっかえさせながら、ボクは錯綜する感情を唯々ぶつける。

 

『あの打撃はボクだから耐えられるんだ!!クロカがあれに当たったら、死ぬんだよ!?煙幕だってアイツに通用するかわからない!!早く、早くアイツを殺さなきゃいけないのに、クロカが……なんで……』

 

『わかってる!!わかってるから、お願いだから、せめて冷静になって!!』

 

『冷静!?なれるはずがないだろう!?ボクとクロカが一ヶ所にいることがどれだけ危険か――』

 

 ばっ、と、弾けるようにして、クロカはボクの胸に押し付けた顔を上げた。

 

 その胸中にはいかなる思いが巡っているのだろうか。

 うっすら涙の滲んだ瞳でボクの双眸を見つめるクロカの表情は、やはり不安げに歪められていた。視界は良好とはいえないが、それでも数十センチの距離にあるクロカの顔色を読み違えることなどない。

 

 そのはずだ。そのはずなのに、どういうわけかそれより感じる印象は、下がった眉と似ても似つかない。目にして悠長に疑問を覚えてしまったボクは、次の瞬間、思考停止したさっき以上の衝撃に襲われた。

 

『私もちゃんと生きてるから!!』

 

 クロカが微笑んでいるように見えた。視覚野にはきちんと正しく現実が映っているのに、なぜかそう感じた。

 

 不思議な感覚。覚えがあるような、そんな気がしたが、それより先に想起が進むことはなかった。

 

 重い圧が聴覚に届いたからだ。

 

「さて、もういいかの?」

 

 とっさにクロカの身体を突き飛ばした。直後、黒煙の流れが微妙に変化し、と思えばやはり、ボクの身体に巨大な掌打が叩きつけられた。

 

 クロカを逃がすことはできただろう。掌打に巻き込まれる視界の中に彼女の姿は見えなかった。自制の甲斐なく心の中で安堵のため息をつきながら、ボクは自分の肉体が地面を割る感触を受け入れることとなった。

 

 煙幕に包まれて見えたものではないが、視線の先ではほんのわずかに金色の光が灯っている。そこから聞こえるネテロの剽軽な声色に、ボクは静かに深呼吸をした。

 

「魔力、いや、術者が黒歌であるなら妖術か。ワシにはさっぱり判別付かぬが、ふむ、実に厄介よな」

 

 全くかみ合わない内容。侮っているような悠揚迫らぬ物言いに、敵愾心を掻き立てられる。クロカの言動がなければ、ボクはたまらず飛び出していただろう。

 

 しかしどうやら、脳味噌への衝撃がそういったわだかまりを一旦すべて吹き飛ばしてしまったらしい。冷えた理性を取り戻したボクは、至極冷静に思考を回すことができていた。

 

 そんな心情を知りようもないネテロが、またまた挑発的な調子を連ねる。

 

「理の通じぬ『力』。魔法の才も持たぬワシらのような大多数の人間からすれば、『念』以上に理解しがたい代物じゃ。応用力が極めて高く、出力も膨大。それさえあれば何でもできるという言も、まあ誇張ではないのじゃろうな」

 

 光のほとんどを通さぬ黒煙。しぶとく吹雪の中に居残り続ける理外の煙幕の奥から、変わらずネテロが一人しゃべっている。一つ息を吸い、「じゃが」と少しだけ荘重さを取り戻すと、続けた。

 

「応用力が高すぎるというのも中々考えものでな、それなりに長く生きてはきたが、超常の『力』を極めている、と思えた存在にはついぞ出会ったことがない。ワシなんかよりずっと強く、長命の神々でさえ、恐らくまだ向上の余地が残っているじゃろう。

 まあつまり、何が言いたいかというとじゃな――」

 

 巨像が動く。ぼんやりと、まるで後光のように『気』が輝き、閃いた掌打は、襲い来る氷の蛇を打ち砕いた。

 

 『気』混じりの風圧が煙幕を切り裂き、晴れて純白を取り戻した一画に、魔力をけしかけたボクの姿だけが取り残された。

 口を引き結び、向けた掌に描いた魔法陣で新たな氷の蛇を生み出そうとするボクをネテロが見て、鼻で笑う。

 

「おぬし、魔力の扱いにはあまり慣れておらんじゃろ。強力でも付け焼刃の上っ面なんぞ、ワシには効かんよ」

 

 ぐるりと、その顔が正面のボクの姿を離れ、横を向いた。

 

「理解できずとも、感じ取るくらいはできるのでな――」

 

 眼が合った。

 

 『絶』で気配を消し、魔力で最低限の身体強化をした上で死角から音もなく飛び掛かった本物のボク(・・・・・)を、巨像の二撃目は確実に捉えていた。

 

 偽物が掲げてた魔法陣が消え、その腕に亀裂が走った。蛇よりずっと精巧にできた質感が抜け、見た目が氷像に戻る。

 薄い防御の弊害に想定以上のダメージを負ったボクは、またしても体勢の制御を失いながら、その有様を目にして喉を鳴らした。

 

 まさに奴の言う通り、弄ばれている。そしてそれはボクのせいなのだ。あっけなく激情が蘇り、痛切な感情が行き場を求めて砕かんばかりの力で拳を握り締める。

 

 しかし、ダメだ。自棄になるな。

 

「『絶』の精度は申し分ない。加えてあの煙幕もあれば、ワシとてすぐには気付けなんだじゃろうな。じゃが魔力との併用でそれが乱れておった。併せてむしろ前より読みやすかったわい。殺気も駄々洩れだったしの」

 

 結界の上で荒く息をつくボクに、ネテロがとぼけた顔でにやりと笑った。

 

 見破られていることが腹立たしい限りだが、奴の言葉はどうやら正鵠を射ているようだ。クロカの治療のために【人形修理者(ドクターブライス)】の能力向上を図ったためだろう。『念』と魔力の熟練度。時間で言えば三分の二、好悪を言えばさらに下がる。

 

 だが、だからといってどうすればいい。【黒子舞想(テレプシコーラ)】単体ではネテロの速度に追いつけない。魔力は言わずもがな。『念』との混合も駄目。

 

 答えが出ぬまま、ボクはクロカを守るため舞い戻ろうと両脚に『気』を集める。その直前、響いたクロカの声が否応なしにボクの意識を引き付けた。

 

「惑わされないで!!魔力を感じ取れるっていっても、完璧じゃないはずよ!!だからもう一度!!ピトーも魔力で、手数で押し切るの!!」

 

 煙幕魔力の気配。クロカの思惑を理解する。確かにネテロが『念能力者』である以上、視界の効かぬ中でなら、生身よりも魔力のほうが隠密性は高いだろう。ネテロの言葉を真と取るなら、それは理にかなっている。

 

 ほんの一瞬、ボクは逡巡することとなった。その方法はクロカの安全を保障できるものなのか、と。

 

 瞬きするほどの間だった。けれど、それだけあれば一つの結論を導き出すのに不足はない。すぐさま決心はついた。

 

 しかし、その間を得たのはネテロも同様だったのだ。

 ボクの決心と同じ時、奴はクロカの思惑の、さらにその先までを看破していた。

 

 小さく、嘆息の音が聞こえた。

 

「全く、これでは埒が明かんの」

 

 突き刺さるような悪寒が、突如として全身を貫いた。第六感、野生の本能としか言いようのない危険信号。最初に奴の姿を目にした時の数倍近い戦慄が、その時ボクの頭から決意を吹き飛ばした。

 

 今の今まで直立不動でいたネテロが、ふと、ひざを曲げた。自然な前動作から天高く跳躍する奴より少し遅れて、ボクの身も追って飛ぶ。

 

 しかし、間に合わなかった。

 

九十九乃掌(つくものて)

 

 上空より見下ろすような形で巨像が顕現する。金色を目にするや否や、ボクは自分の顔面に、掌底が叩きつけられる痛みを知覚した。

 

 威力、速度共に今までの掌打と変わりはない。これだけであるなら、むしろこの攻撃はただの隙だったろう。人間であるネテロには空中で身動きする術はなく、地面が消えた分、攻撃の始点は倍増したことになる。

 

 しかし当然、目に見える悪手などに悪寒を感じるわけもない。

 

 打たれ、落下するよりも速く金色の掌が顔を離れる。その後ろから、幾多もの掌底がすぐそこまで迫っていた。

 

 大地に落ちる。間もなく次の掌打がボクを押しつぶした。掌打が直に地面を割り砕き、ボクの身体がさらに深くへ沈む。

 

 打撃の一つ一つを追えたのはそこまでだ。

 

 あっという間に、すさまじい掌打の連打と、何重にも重なる破砕音がボクの総身を呑みこんだ。

 

 今までの攻撃がぬるま湯であったかのような、猛然とした打撃の連続。反撃の隙などまるでない掌底の豪雨。激しさを増す一方の連撃に拘束されるボクは、『気』の防御だけを頼りに、その中に身を晒すことを受け入れるしかできなかった。

 

 意志で指一本を動かすことさえ叶わないそんな中、他に許されることといえば思考くらい。クロカの盾となることすらできない状況でボクが正気を失わずに踏みとどまれている理由は、拘束の向こう側より感じる波動に、それが絶好の好機を見出したからだった。

 

 その声は連打の轟音に掻き消されてわからないが、その強大な『力』の気配は、確かにクロカのものだ。

 

 察するに、恐らく彼女は光線で巨像を破壊しようと『力』を振り絞っている。

 覆いかぶさるようにして連打を放つ巨像。クロカの照準は上部、胴体あたりに向いているだろう。

 

 酷く惜しく、もどかしい。

 

 痛みが意識に上らないほど魅力的な、ボクが見た道筋。そこからクロカはほんの少しだけズレている。

 そのズレさえ正せば、ネテロの慢心が引き起こした、信じられないほどの致命的見落としにクロカが気付いてくれさえすれば、今までの比にならぬ可能性をネテロにぶつけてやれるのだ。

 

 その思いでいっぱいの脳内に、絶望が入り込む余地などない。

 

(違う!!そっちじゃないんだクロカ!!お願いだから気付いてくれ……!!)

 

 この状況では念話も何もないだろうが、それでも念じずにはいられない。だって、千載一遇の機会なのだから。

 

(―――ッ!!)

 

 その時、ボクは唐突に気が付いた。

 

 ボクの偽物の氷人形。クロカが気付けなくとも、あれがあるではないか。

 

 その発見とひらめきの想いが、打撃の檻の外、人知れず雪の中に埋もれていた氷人形に届いた。そして、動く。

 

 ぼす、と、雪の中から這い出た氷人形は、滑らかな動作で走り出した。行く先は当然、囚われの身のボクの方。クロカもネテロも、すぐその動きに気付いたはずだ。だが、気付いたところで何もしない。莫大な『力』のぶつかり合いに、欠片程度の魔力が割って入れるはずもないのだから、気にかける必要もないのだ。巨像に向かって飛び掛かるその姿に、悪あがきの援護を試みたとでも思ったことだろう。

 

 実際、ボクの氷人形にネテロの巨像をどうこうできるほどの魔力は込められていない。連打の一撃で粉砕されてしまうだろう。

 

 だからもちろん、立ちふさがる掌打の壁を目前にした氷人形が狙うのは、そのような無謀ではないのだ。

 

 欠片程度の魔力でも、それがよく知るクロカの『力』であるなら、統率を乱すことは実に容易い。

 

 振るった拳が向けられたのは、クロカの光線のほうだった。

 

 クロカから驚愕の気配が伝わって、次の瞬間、閃光がはじけた。

 

 轟音が、鼓膜を破らんばかりに空気を揺らし、互いに反発しあう魔力と妖力が生み出した衝撃波が一拍遅れて到達する。

 

 物理的な破壊力という点で『気』のはるか上を行く超常の力。二種の力の暴走が引き起こした大爆発は、連打がもたらした破壊を大きく上回り、ネテロも巨像もボクも、すべてを呑みこみ広範囲を吹き飛ばしていた。

 

 より深くの地面をえぐり、消し飛ばす。荒れた『力』は防御もままならない身体を容赦なく襲い、鮮烈な痛みを神経に瞬かせた。純粋なダメージは、恐らく今までで最も大きい。

 

 しかしその代わり、爆発の威力に押され、『力』の乱流に予測不能の軌道を描いたボクの身体は、精密なる連打の狙いをほんの少しだけ外した。

 

 ボクを捕らえる連打の檻の、その間隙をすり抜けることが叶ったのだった。

 

 拘束から弾き出され、檻の内側にもぐりこんだボクはようやく目にする。殺したくてたまらなかったネテロの姿。見開かれた両目と、その表情に現れる動揺を、ボクは確かに認めたのだ。

 

 【黒子舞想(テレプシコーラ)】が歓喜して肉体を操る。無理矢理跳躍するのと同時、ネテロの手が胸元から離れ、合掌した。

 

 足場をもう一度作り出す。ぶれる合掌を眼に映しながら、ボクは記憶の映像を追っていた。

 

 程度は違えど、奴が目を見張るのは、これで二度目だ。

 

 迫る金色は記憶のそれと瓜二つ。浮かぶ軌跡に左腕を伸ばす。

 

 刹那

 

 腕がひしゃげた。掌打の威力を一身に受け止め、殺す。神速の一撃が、ボクの身体を逸れて消えた。

 

 いなしたのだ。

 

 がら空きの懐。繋がる視線。踏み切り、突き出す右腕が、柔らかい肉に触れて切り裂き飛ばした。

 

 しかし――

 

(――仕留め、損ねた!?)

 

 宙を舞ったのは奴の首ではなく、左腕だった。

 

 寸前に身体を反らしたのか。信じ難いがそうとしか考えられない。

 

 極限の集中が途切れ、加速した爆風がボクの身体を押し流す。錐揉みしながら弧を描き、なんとか地面に着地すると、ボクは悔恨に顔をしかめつつ、そっちを見やった。

 

 巨像の全身がすっぽり入ってしまいそうなほどの大穴。その少し離れたふち、視界の通るギリギリの距離に降り立った隻腕のネテロは眉を寄せ、血を噴き出す己の左肩を見つめていた。

 

 やはり致命傷には程遠い。ボクの腕との等価交換、いや、受けたダメージはこちらの方が大きいだろう。見た限り、爆発も防いでしまったらしい奴の深手はそれだけだが、一方ボクは肉体のいたるところに不調を感じている。

 

 スタミナも、もう限界だ。先ほどからぜいぜいと、自分の喘ぎがうるさくてしょうがない。【黒子舞想(テレプシコーラ)】がなければ立っていることすら難しいだろう。

 

 滝のような脂汗を流すボクとは対照的に、ネテロの表情は苦悶にもなっていない。剽軽の仮面は引きはがせても、それ以上の危機には至っていないということか。

 

 その憤懣を証明するように、吹雪に紛れて耳に届いた。

 

「……俺も、人のことは言えねえな」

 

 重低音。しかし迫力は微塵もない。まるで自嘲のようなその響きとは裏腹に、まるで衰えない静謐が奴の残った腕をゆるりと動かした。

 

 認めた瞬間、再度の意識の集中と共にボクの両脚が跳ねた。現れる巨像に、腕がなくても出せるのかと舌打ちしつつ、ならば今度こそその首刈り取るまでと、なけなしの力を振り絞る。

 

 ボロボロの身体を飛ばし、拳を振る。とはいえネテロが二度も悪手を犯すはずもなく、ボクはあっさりと巨像の掌打を身に受けた。

 

 これもまた、当然のことだ。くるりと回り、最短で体勢を立て直す。届かぬ攻撃の再開。もう一度、あの奇跡を引き寄せるしかない。

 

 だが、

 

「――ッぐ……!!」

 

 体内の何かがビシと硬直したかのような不快感が突如として身体を貫き、『力』の発露が妨げられた。

 

 脳裏に追いやった痛みが激烈にぶり返し、結界も、【黒子舞想(テレプシコーラ)】すら発動できない。

 それどころか能力すら解除され、ボクは掌打の向くままあらぬ方向へ打ち払われることとなった。

 

 そこまで身体に限界が来ていたのか。信じられぬ思いでネテロと巨像の姿を凝視する。すぐにそれは吹雪の中に溶け、完全に消え失せたころになってボクの片腕は地面を捉えた。

 

 露出する土肌をガリガリ削りながら静止すると、奇しくもそこはクロカの真横だった。立ち竦む彼女の気配に無事を理解し安堵するも、それ以上に背筋が冷える。ネテロの間隔の前では吹雪の目隠しなどあってないようなものだ。

 

 故にすぐさま離れようとした。不調だが、そんなことは理由にならない。

 

 しかしボクは次の瞬間、あっけにとられて背後を振り向いてしまった。その衝撃は一瞬ネテロへの敵愾心を忘れ去ってしまうほどで、心の奥深くが疼き、反射的に動揺を抑えることができなかったのだ。

 

 クロカの悲痛な泣き声が、ボクの心臓を盛大に跳ねさせた。

 

「ご、ごめ……ごめん、なさい……」

 

「く、クロカ!?」

 

 両目をしとどに濡らしたクロカが、初めて見る一色の絶望を、その表情に漂わせていた。

 

 いかにもただ事ではない雰囲気に、然しものボクもパニックに片足を踏み入れる。気付けばここがどこだかも忘れ、崩折れるクロカに動揺をぶちまけていた。

 

「ごめんなさいって、何がどうしたの!?まさか、どこか怪我を!?」

 

「ちが……だって……わ、わたしの、せいで……ごめん……ごめんなさい……」

 

「『わたしのせい』?いったい何のこと!?どうしたのさクロカ!?」

 

 クロカの嗚咽からそれ以上の言葉は出なかった。ネテロの攻撃によるものではないのなら、いったい何が原因なのか。ボクはきちんと生き延びているし、傷もすぐさま死ぬほどのものではない。クロカを悲しませる要因など無いはずなのに。

 

 困惑に呑まれつつも、半身に残った闘争本能が辛うじて疑問を棚上げした。それよりも、肝心なのはまずクロカを落ち着かせることだ。絶望の理由を知るのは後でいい。

 

 ボクはクロカの肩に手を伸ばした。こういう時はとりあえずスキンシップ。孤独の寂しさには肌の接触が一番だ。

 

 飛び込むようにして、クロカの首元に抱き着く。そうするはずだった。

 

 手足が地に着く体勢からクロカめがけて踏み出した一歩目、硬い地面を踏んだ足が何の前触れもなく沈んだ。

 

 足がもつれた。前傾する身体に気付けば、当然反射神経は手を突こうとする。しかし、無事であるはずの右腕は動かなかった。

 

 いつしか痛みと並び立ち、強烈な脱力が全身を浸していた。指一本すら動かせず、ボクの身体は目算誤りクロカの胸に倒れこんだ。

 

「……ぴとー?」

 

 逆にクロカに身体を支えられ、その呆然とした響きを聴いた。大丈夫、と告げようとするも声は出ない。代わりに、声帯のさらに奥から灼熱が込み上げた。

 

 己の目を疑う。クロカの膝にどくどくと流れ落ちる大量の液体は、まぎれもなくボクの青い血液だった。

 

「あ……ああ……あああああああああ!!!」

 

 後頭部に響く悲嘆。その身を抱きしめてやることさえできないボクは、クロカのコートを汚すばかり。しかし、血が抜けた脳味噌はむしろすっきりとしていて、冷静とはいえずとも、己の状態に思索を巡らすことはできていた。

 

(内臓の損傷!?爆発の時!?いや、そんなはずはない。スタミナはともかく、肉体の限界はまだ先だった!!いつの間に、これほどのダメージを……ッ!?)

 

「うそよ……わたしのせいで……ごめんなさい……ピトー、ゆるして……おねがい……ゆるして……」

 

 けれども原因を突き止めるには至らない。クロカの絶望に何もできないこの状況は、身を引き裂かれそうな心痛を併せ持ち、現状確認より先に思考を進めることなどできるはずもなかったのだ。

 

 ボクの頭に顔を押し付け、呪詛のように同じ言葉を訥々と繰り返すクロカの声に、ボクの吐き出す水音が混ざる。それだけしかない無音の中では、そいつの足音が酷く目立っていた。

 

「そいつをワシは【無間乃掌(むけんのて)】と呼んでおってな」

 

 背後に立ち止まる気配がすると、クロカが僅かに顔を上げた。

 

「打撃すると同時に体内の『オーラ』を乱し、根本から無力化する。要は【百式観音(ひゃくしきかんのん)】に仙術を組み込んだ技じゃ。お主の連れ合いがどうなっておるのかはわかるじゃろう?」

 

「仙術……?」

 

(そんな……バカなことが――)

 

 ――事実なのか?

 

 ネテロの攻撃を『気』の防御なしに受けたことは一度もない。そしてボクの『気』は、少なくとも奴よりはずっと強固で分厚いはずだ。そうやって守りを固めれば、ボクに影響を与えることはクロカにだってできない。

 その防御を貫通し、これほど甚大なダメージをもたらしたというのか。しかも傀儡の拳を通し、加えて一撃で。

 

 そもそも仙術とは、先天的な資質が必要な、習得できる者が極めて少ない技であったはずだ。それを『念能力者』たる『ハンター』の首領が、クロカをも上回る技量で扱えると?

 

 そんなもの――

 

 身体がほんの僅かに強張り、吐血の勢いが増した。しかしそれ以上動けず、ネテロの接近を止めることもできない。

 

 激情のあまり、目の奥に星が散っている。

 

「これが立ち合いであったなら、腕を落とした時点でワシの負け。勝負は仕舞いだったのじゃがな」

 

 足音が止んだ。

 

「言うた通り、取り逃がすわけにはいかんのよ」

 

 明確な殺気が、クロカを自失から呼び戻した。金色の光が辺りを照らし、直後、クロカが展開した結界を、左右から掌打が覆っていた。

 

 ボクが電撃で自爆した時のような型。しかし攻撃的な威力は皆無で、結界には亀裂の一つも入っていない。

 

 が、ネテロに背を向け続けねばならなかったボクは、それ故に気付いた。

 

 クロカの肩口を介して、見る。ネテロではなく、クロカの背後に出現した巨像。大きく開かれたその口内から覗く、眩い死の光(・・・)

 

 振り向いたクロカの目にもそれが映る。感じ取った印象は同様だろう。

 

「ねえ、ピトー」

 

 クロカの落ち着いた声色が、涙と一緒にボクに落ちた。

 

「私、短い間だったけど、すごく幸せだった。あなたと出会えて、本当に良かった」

 

 微笑む。

 

「今まで一緒にいてくれて、ありがとう」

 

 やめろ

 

「―――」

 

 恒星の如き光弾。結界を貫き、音すら消し去る死の無慈悲にボクの腕が喰われ、そしてクロカを呑みこんだ。

 

 何も感じぬまま、ボクの姿もクロカの姿も咆哮の中に消え、そして見えなくなった。

 

 後には何も残らなかった。

 

 

 

 

 

「……すさまじいな」

 

 男は呆然と呟いた。

 

 手にした魔道具を介して見ているものは数キロ先の惨状。剥き出しの大地と大穴、そして、ちろちろと赤く瞬く焼け溶けた土の跡。

 

 『SS級はぐれ悪魔』の黒歌と『変異キメラアント』のピトーの二匹が、ターゲットのアイザック=ネテロと戦い、敗れるまでの一部始終。それを直に目にした男は、驚嘆に呑まれていた。

 

 信じ難い光景だった。実際のところ、戦いはあまりにも速く激しく、男は何が起こっていたのか半分も理解できていない。だがそれでも、いや、だからこそ、己の目を疑うほどの驚きを、男はその喉元から零すことになった。

 

「まさか、これほどの力を、人間が……」

 

 当初この任務を申し付けられた時、男は、ネテロが黒歌とピトーに勝利するとは微塵も思っていなかった。むしろ興味すらなく、ネテロが破れたことをどう穏便に報告するか、下僕に愚痴を洩らすくらいだったのだ。

 

 それがこれだ。人間は、はぐれ悪魔と危険な魔獣に打ち勝ってしまった。

 

 男の常識からすればありえないことだ。神器(セイクリッド・ギア)も持たない脆弱な人間が、純血でないとはいえ悪魔を倒す。

 

 『念』なるものはそこまで強力な力であるのか。光線を放った直後は疲労している様子だったが、今はそれもない。老体に似合わぬ活力はこれだけ離れていても感じられ、否応なしに男の視線は縫い付けられていた。

 

 見つめていると、その隣に霧の塊が出現した。気付き、躊躇なくそれに触れたネテロは、その霧が自身の全身を覆うのを何の動揺もなく受け入れている。

 少しして、人間大に広がった霧が消え去ると、そこにもうネテロはいなかった。

 

 数時間前もネテロは同じように霧に包まれ、この荒野に現れたのだ。今更驚きはしない。しないが、それでも淡い危機感はどうにもならず、男はため息をつくと、手にした望遠魔道具を懐にしまい込んだ。

 

 女は、それを見計らったかのように男を呼んだ。

 

「あの、ライザー様……」

 

「ん?どうしたユーベルーナ。まさか記録術式に何かトラブルでもあったのか?」

 

 振り向いた男に、女は青い顔で手の中の水晶玉を差し出した。

 

「い、いえ、録画はきちんと成功しています。ただその……つい今しがた、魔王様より通信が――」

 

「な、なに!?そういうことは早く言え!すぐ繋ぐんだ!」

 

「は、はい!ただいま!」

 

 女は慌てて水晶玉に意識を向ける。手早く身だしなみを整えた男が咳払いをし、向き直ると、水晶の上には青いホログラムが浮かんでいた。

 

 若い男性の姿を作ったそれは、優しげな声でにこりと微笑んだ。

 

「やあ、ライザー君。ちょうど終わったころかと思ったんだが、どうかな?」

 

「……さすがは魔王ルシファーの名を継承なされたサーゼクス様。そのご慧眼には敬服を禁じえません。はい、たった今戦闘が終了しました。アイザック=ネテロも帰還し、私の任務も問題なく完了しています」

 

「そうか、それはよかった」

 

 ホログラムは満足そうに頷いた。しかしそれで終わることなく、少しだけ目を細めると、緊張に背を伸ばす男にさらなる言葉を向けた。

 

「ならば、簡単にで構わないから事の顛末を報告してくれないかな?できるだけ早く知っておきたいのだよ」

 

「は、了解しました。では失礼して、報告させていただきます」

 

 息を吸い込み、続けた。

 

「『SS級はぐれ悪魔』の黒歌、及び『変異キメラアント』のピトーは討伐されました。高火力の攻撃にて消し飛ばされたため、死体を回収することは難しいでしょうが、証拠としての映像記録も確保に成功しましたので、断定して問題ないかと思われます。

 そして例の情報の真偽ですが、こちらも確認しました。【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】、【闇夜の大盾(ナイト・リフレクション)】、他多数の神器(セイクリッド・ギア)所持者、及び……神滅具(ロンギヌス)である【絶霧(ディメンション・ロスト)】のハンター協会在籍。いずれの所持者もまだ子供ですが、その技量は大人と比べて遜色ありませんでした。将来間違いなく、危険な使い手に成長するでしょう」

 

 終わり、男は気付かれぬように小さく緊張の息を吐く。他に特筆して報告すべきことはなかったはずだと油断していた男は、次に発せられた言葉に素の疑問符を浮かべた。

 

「アイザック=ネテロはどうだった?ライザー君の主観でかまわない。彼への率直な印象を聞かせてほしい」

 

「え?ああ、はい。そうですね……『念』や仙術などは、私にはよくわかりませんが、すさまじい強さだと感じました。悪魔の討伐隊を何度も撃退したあの二匹を倒してしまうとは、正直に申しますと、露ほども信じていませんでした。あれは、人間が持っていていい力ではない、と……そう、思います……」

 

「ふむ、なるほど……ありがとう、ライザー君。とても参考になったよ」

 

 そう言うと、ホログラムは黙り込み、何やら思索するように目を伏せてしまう。その様子に男はつい耐えかね、閉ざした口を開いてしまった。

 

「もしや、魔王様はあの男を眷属にするおつもりですか?」

 

 顎に手を当てたまま、ホログラムが眼を上げた。

 

「いや、しないよ。私に余分の駒はもうない。それに、もしあったとしても、彼は転生を承知しないだろう」

 

「承知しない、ですか」

 

「ああ。過去に何人かの上級悪魔が彼を眷属にしようとしたが、いずれも断られている。矜持、のようなものがあるのだろうね、『ハンター』には。知らないかい?『ハンター』上がりの転生悪魔は、神器(セイクリッド・ギア)持ちのそれよりはるかに少ない」

 

 男はそれを知っている。知っているからこそ言葉を続けたのだ。ホログラムの返答は男の不満を解消させることができず、少しばかり非難がましい口調となって喉を出た。

 

「では、何故あのような老いぼれのことをお聞きになられたのですか……?」

 

 ホログラムが不思議そうに眉を寄せる。男が何故内心を揺らしているのか、全くわかっていなさそうなその表情に、男の口がまくしたてた。

 

「そもそもこの任務からしてそうです!何故わざわざあの二匹の討伐をハンター協会に依頼し、しかもそれを監視するなどという任務を出されたのですか!?

 もしも奴を警戒してのことなのであれば、それには値しないと私は愚考します!確かに奴は異常なまでに強い。しかし所詮は人間、人間にしては強いというだけです!私でしたら奴よりももっと破壊力のある一撃を放つこともできますし、ましてや魔王様なら奴の打撃をすべて消滅させることも十分に可能でしょう!我々の崇高なる悪魔の力の前では、奴は脅威足りえない!お命じ下されば、今すぐにでも私が――」

 

「まあまあまあ、落ち着きたまえライザー君。余計なことを言って悪かった。そのようなつもりで訊いたのではないよ。ちょっと、彼に興味があっただけさ」

 

「……そうですか……いえ、私こそ、失礼いたしました」

 

 まるで納得はいっていないが、それでももう男にはこれ以上追及することができなかった。不承不承に頭を下げ、底に残った不信感を飲み下す。

 

 万事解決だとばかりにホログラムは微笑み、手を打ち鳴らした。

 

「さて、それではこれで立ち話は終了だ。帰還して、報告書と記録映像を提出してくれたまえ。ご苦労だった、ライザー君、ユーベルーナ君」

 

 突然名前を呼ばれた女がびくりと跳ね、裏返った声で「はいっ!」と返事した。

 

 下僕の失態に男が顔を赤らめ、羞恥がわだかまりを吹き飛ばしたことを見届けると、ホログラムは苦笑し、腕を振った。

 

「では私も失礼するよ。妹が……結末を知りたがっているのでね」

 

 ホログラムがぷっつりと消えた。後に残された男は、諸々が合わさってまたしても嘆息し、女に転移魔法陣を出すよう命令する。

 

 優秀……少なくとも魔力の扱いという面ではそうである女が、赤面しながら魔法陣を組み立てていく。さすがに叱責する気にはなれず、見守りながら男はぼんやりと、ホログラムが言った『妹』から想像を膨らませていた。

 

「そういえば、はぐれのほうは話題になってる猫又の姉だったか……リアスはあのチビを眷属にするつもりなのか?」

 

 もしそうであるなら、あのおてんばは中々の命知らずだ。世間からどんなバッシングを受けるかわかったものではない。

 

 愛すべき婚約者殿のやらかし。頭が痛い話だ。

 

 そのような未来が来ないことを祈りつつ、男は完成した魔法陣に足を乗せた。女がそれを発動させると、たちまち二人の姿は消え、そこにはブーツで踏みしめられた雪の地面だけが残っていた。

 

 しかしそれも、じきに埋もれて消えるだろう。大地はすでに、一面の白銀を取り戻していた。




オリジナル念能力

【無間の手】 使用者:アイザック=ネテロ
・百式観音の型の一つ。観音像に仙術の力を加えた打撃。
・仙術によって相手のオーラに直接損壊を与える。ネテロの念と仙術の技量が相俟って、それは不可避の速攻且つ防御無視且つ一撃で致命傷を与える攻撃となっている。

今回から非ログインの方からも感想を受け付けるように変更しました。
べ、別に、前々から他作者様の感想欄に名前が黒文字の人がいっぱいいて何なんだろうなーって思ってたらそういう設定があるってことを初めて知ってその上で感想募集中って言い続けてた自分がなんか恥ずかしくなったなんてわけじゃないんだからね!勘違いしないでよねっ!


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五話

Happy New 令和


 私は、ピトーが傷つく姿を見たくなかったのだ。

 

 何度も何度もネテロに立ち向かい、何度も何度も吹き飛ばされる。顔を歪め、取り乱すほどに追いつめられるその姿を、見ていられなくなった。心が痛んだ。

 

 私のことを脆い玉のように捉えている節があるピトーにとって、私という存在は何としてでも、何をしてでも守らねばならない絶対であり、自身よりも遥かに高い優先度を持つ至上だ。

 

 害されるなどもってのほか。僅かでも怪我を負わせることは疎か、手を煩わせることすら許容できない。彼女の中の私は、何もわからない生まれたての赤子そのものなのだろう。

 

 私はそれが嫌だった。そうであると、他ならぬピトー自身が定めてしまった事こそが、私には受け入れがたいものだったのだ。

 

 ピトーの中の私が無力であるために、当のピトーが苦しんでいる。『私のせい』という自己嫌悪の罪悪感。そんなことを考えたくなかった。

 

 魔力だの遠距離戦だの、迂遠に言い続けたのはそのためだ。とにかくピトーを助けたかった。その身を私の盾にしてほしくなかった。

 

 その時々の心痛を誤魔化すために己の浅ましい性根をひた隠し、私はきれいな字面を取り繕っていた。

 

 『今』を切り抜けるためだけの場当たり的その行為は、つまるところ『逃げ』だ。親切心の裏側から顔を覗かせる『恐れ』を嫌い、しかしどうにもできないから目を逸らすしかない。原因である私自身を認められないのだから当然だろう。

 

 ピトーの苦痛の正体が自分であると思いたくない。その心理の結果が『力』の暴発だ。

 

 たぶん私は、ピト―がネテロに『念』の連撃を浴びせられていたあの時、氷像の行動に啓発されるまでもなく、辺り一面を吹き飛ばすその戦法に気付いていた。

 

 うまくやれば、ピトーが受けるダメージをいくらか減らすことができただろう。暴発させる必要もなく、威力と爆風を制御して効果的にピトーをサポートできたはずだ。

 

 なのに恐れがその発想を掣肘した。ほんの少しのダメージでも、自らの意思でピトーを攻撃することを拒絶した。逃げ出したのだ。私がやらねばピトーが一層のダメージを負ってしまうと、気付いていたはずなのに。

 

 ピトーにとって害でしかない私は、それ故に見捨てられる絶望に怯えた。だから知らぬふりをした。それが献身であると思い込み、目に見える傷害だけを避けたのだ。

 

 そして結果、私はピト―を殺そうとした。

 

 ピトーの命より心の平穏を取った私には、それを否定するに足る根拠などあるはずもない。白音の時も、私は自分自身を選んで他を捨てた。本当に白音を救いたければ引きずってでも一緒に連れ出し、何年掛かろうがわかり合わなければならなかったのだ。

 

 救うために己を殺す勇気を、私は持つことができなかったのだ。

 

 自分自身を守るために周囲を傷つけ、あげくに何もかもすべてを壊してしまう愚か者。『もうクロカを一人にしない』と言ったピトーすら信じず、素知らぬ顔で愛を搾取する裏切者。

 

 繰り返される自己中心的衝動の根本とはつまり、どれだけ自分が害悪であろうと、ピトーとの縁を断ち切るという発想が出てこない、私の内心そのものだ。

 

 そんな奴にピトーの愛を受け取る資格はない。何より私自身がそう思う。今の私がピトーの隣にあることを、私は決して認めない。

 

 ネテロの光線は、そんな私への罰のように思えた。それを為したのは私の意志ではなく位置関係でしかなかったが、ピトーよりも先んじて光線に呑まれることこそが、その時の私には真っ当な贖罪に見えた。

 

 しかし、それもまた、ただの自慰行為だ。

 

 どこまで行っても変わらない愚者は、それでもピトーの隣に居たがった。ならば、もうこれ以上逃げてはいけない。ピトーを裏切ってはいけない。それがピトーの害となるなら、私の心など切り捨てねばならない。

 

 ――たとえその結果、ピトーを愛することができなくなったとしても、それがピト―に愛されるための、最低条件なのだから。

 

 ―――。

 

 

 

 

 

 

「――うっ……ぐう……」

 

 全身を痛みが苛んでいる。肺の収縮で筋がずれ、違和感に私は目を覚ました。

 

 腕を踏ん張り、苦労してなんとかうつぶせの身体を持ち上げる。重労働に息をつき、顔を上げると、不明瞭な頭に顔をしかめつつ呟いた。

 

「……どこよ、ここ」

 

 そもそも何をしていたんだっけ、と左右を見回し、首を捻る。

 

 どうやらここは建物の中であるようだった。天井、壁、床に至るまで一面同一の白タイルが敷かれている。ピトーの生家の大広間くらいの広さはありそうだが、視界内に家具の類は一つもなく、のっぺりとした壁にポツンと鉄扉があるばかり。タイル自体が淡く発光しているのか、照明がないのに辺りは明るく、窓や明り取りすら存在しないことも相俟って、実に落ち着かない無機質な雰囲気を醸し出していた。

 

 こんなところに進んで忍び込み、寝こけるなんてことがあるだろうか。そこまで無警戒でいられるほど、私たちの立場は穏やかなものではなかったはずだ。

 

 寝起きでボケているのかふわふわとした意識には、このヒリつく痛みの覚えもなく、どこか釈然としない。正体不明の疑問に翻弄されながら地べたに腰を下ろすと、私は習慣から無意識に脚を畳んでいた。

 

 正座すれば、自然と両手は膝の上に向かう。ぼーっと呆けて鉄扉を眺めていた私は、手にひんやりとした水気を感じるまで、その臭いにすら気付いていなかった。

 

「あれ?……これ……」

 

 目の前に持ってきた手は、青い液体に濡れていた。わずかな粘性と、鼻に付く金臭さ。認識した瞬間に頭の中で何かが合致し、埋もれた記憶から引っ張り出した。

 

「ピトーの――」

 

 皮切りに、濁流のようにして記憶が蘇った。頭の浮遊感が吹き飛ぶ。気絶する直前、私の前に飛び出したピトーが絶望の光に呑みこまれる光景を思い出し、私は反射的に背後を振り向いた。

 

 果たしてそこにピトーはいた。目にしたと同時、記憶の中の絶望的戦慄すらも継承する。激増する悪寒は一時的な不随に陥るほどで、気持ちとは裏腹に、私はのろのろと、倒れ伏すピトーの下へ這い寄った。

 

 仰向けの身体は所々が焼け爛れていた。辛うじて繋がってはいる左腕も、原形を留めぬほどに捻じれ、折れ曲がっている。そして何より、青い血だまりの中に浮く彼女より感じる『気』は、消えかけのろうそくのように弱々しいものだった。

 

 よくよく見なければ死んでいるようにしか思えない惨状に、私は歯の根が合わぬほどの悪寒と、恐怖と、絶望を、無抵抗な精神に受けてしまったのだ。

 

 がたがた震える手を伸ばし、ピトーの頬に触れる。冷え切った自分の指先をしても冷たい肌には血の気がまるでなく、代わりに薄く開いた口からはゆるい青色が流れ続けていた。

 

 かきあげた髪の奥では瞼が静かに閉ざされ、してみればただ眠っているだけのようにも見える。しかし、そんなわけがないのだ。直接触れれば一層よくわかる。彼女の生命は紛れもなく、死の淵を漂っていた。

 

「――ッ!!!」

 

 私はピト―の身体を抱きすくめた。服の前を引き裂き、覆いかぶさるようにして素肌を付ける。

 

 房中術に類される仙術の技の一つ。他人の『気』を操る場合、特に、複雑であり精密さが求められる治療を試みるならば、彼我の距離は近ければ近いほどいい。ピトーの【人形修理者(ドクターブライス)】のように、短時間での完全治癒とはいかないが、『生命の源泉』等の根本を癒すことはできるだろう。

 

 ただ、これは本来男女間でこそ真価を発揮するものであり、私とピトーでどれほどの効果が望めるかはわからない。いや、たぶん私は理性の底ではわかっているのだろう。この行為は焼け石に水でしかないと。

 

 内面はともかく、肉体は自然治癒力を活性化させたところでどうにかなるような状態ではない。自分の能力の限界を理解できているからこそ、私の目からは滂沱の涙が溢れ出ているのだ。

 

「いや……いやよ、ぴとー……」

 

 負の感情に心を壊滅的なまでに揺さぶられ、両腕の力加減すら見誤ってしまいそうな動揺が私の中で丸くなる。たわみ、その度に心を折らんと襲い掛かる絶望を、私は堪えられずに泣いていた。

 

「おねがいだから、ひとりにしないで……おいていかないでよお……」

 

 首筋の脈動はか細くなる一方だった。もう、いつ止まってもおかしくはない。

 

 ピトーが死に向かって行く様をただ見ていることしかできないという現実は、いともたやすく私の冷静を剥ぎ取ってしまう。『死ぬかもしれない』ではなく『死ぬのだ』というそれは、今までの絶望の比ではなく、我を失っても尚受け止められるものではなかった。

 

 底のない暗い穴に、永遠と落ち続けているような感覚。希望など露ほどもない。ピトーの身体の感触だけがよすがであり、私はそれだけを腕の中に感じて震えていた。

 

 絶望しかない闇の中でぐるぐると想いが巡り、蝕まれた心はもうそれ以外の何も映してはいない。

 

 だから私は、突如として悲嘆の悲鳴に加わった靴音に気付かなかったし、その三人が悠々と接近してくることにも意識が向かなかった。そんな余裕など、あるはずもなかったのだ。

 

 それでも私がそいつらの存在に気付いたのは、何か冷たいものに顎を持ち上げられ、無理矢理視線を合わせられたからだった。

 

「ふむ、間違いないようだ。うまく転送できたみたいだねえ、ノブさん。お疲れ様」

 

 漢服の男、少年と言って差し支えないくらいの背格好が、私に槍を向けていた。喉元を押している穂先は、もう少し力を入れるだけで皮膚を貫くだろう。

 

 しかし私はそれに危機感を覚えることなく、むしろ胸をなでおろしていた。

 

 ピトーのいない世界なんて、生きていたって仕方がない。殺してくれるなら願ったりだ。

 

 ハンターなのであろう漢服が、ネテロと同様私たちを仕留めるつもりであることは間違いない。加えて他二人のうちの一人、なぜか魔法少女のようなコスチュームを纏う魁偉な巨漢は、いかにも強者然としたプレッシャーを放っており、その通りの力量であるなら、聖剣無くとも私を殺すことは容易であるように思えた。

 

 もう片方の黒スーツをぴしりと着こなした眼鏡、ノブも、そのような強者と共にいるのだから木っ端であるはずはないだろう。漢服も同様だ。

 

 私は彼らのやり取りを、なす術なく呆然と見つめていた。

 

「……曹操、全くお前は……まあ、合図通りに能力を発動させるだけだったからな。ゲオルグが表に回ってくれたおかげで下準備も楽だった。とはいえ、会長の【零乃掌(ゼロのて)】の合間を縫って入り口を開けるのは肝が冷える思いだったが」

 

「そうだろうとも。しかし、そうしなければあっけなく悪魔側に看破されていただろう?いくら奴らが『念』を知らないとはいえ、いきなり地面に黒い穴が開いたりなんてしたら、いやでもこちらの思惑に気付くさ」

 

 ノブの声に込められた感情など知りもせず、漢服、曹操は槍を動かさずに器用に肩をすくめてみせた。

 

「ネテロ会長に加えて、神器システム最悪のバグとまで称される【絶霧(ディメンション・ロスト)】を前にすれば、ただの『念能力者』なんて目に入らないだろう。特に悪魔たちは神器(セイクリッド・ギア)が大好きだからな。戦力的な意味もあるが、ここ最近はコレクションとしても人気が高いらしい。忌々しい限りだがね」

 

「それを解決するための第一歩がこの作戦だろう。『ハンター』だなんだの余計な口を叩く前に、さっさと任務を遂行して見せたらどうだ」

 

「ごもっともだ。ではさっそく……と行きたいところなんだけどな」

 

 私を見下げていた眼が移ろい、ピトーに向く。雰囲気は相変わらず昂然としていたが、その内部には確かに哀惜があった。悲しんでいるというよりは残念に思っている程度の僅かな変化でしかなかったが、それでも悼んでいるには違いない。故に私は直後ようやく暗い穴の縁に手を伸ばし、言葉の内容を理解するだけの理性を取り戻したのだった。

 

「計画では生け捕りにする予定なんだろう?死なぬうちにとは言うが、こいつは既に死んでいるようにしか見えないな。どうする?聖杯でも使って生き返らせるのか?」

 

(……生き返、らせる……?)

 

 頭の中で言葉が繰り返され、私の目を覚ました。奴らの目的がゆっくりと理解に昇華されていく。

 

 残ったもう一人、魔法少女の巨漢が言った。

 

「曹操くん、修行不足じゃないのかにょ?キメラアントさんがまだ亡くなってないことくらい、ちゃんと『(ギョウ)』ができていればすぐわかるはずにょ。それに元々、彼女たちを生かすことに決めたのはネテロ会長にょ。自分で定めた条件を守れない、すなわちハントし損ねるほど、会長は弱くないし、下手でもないにょ」

 

 途端にぶすっとした表情に変わった曹操は、首を曲げて、背後に佇む巨漢を見やる。

 

「……けどね、ミルたん。あの戦いを貴方も見ただろう?ならば会長の本気具合もわかったはずだ。あの威力で手加減していたとは、俺にはとても思えないがね」

 

「手加減していたにょ。もしネテロ会長が本気で殺す気だったなら、最初の一撃で終わらせることもできたし、【零乃掌(ゼロのて)】も本来は防御が間に合うほど遅くないにょ」

 

「あれで、遅い……?にわかには信じがたいな。まあ、噂というのは尾ひれがつくものだから――」

 

「噂じゃないにょ。ミルたんがこの目で見て、身体で受けた実体験にょ」

 

 厳つい相貌でよどみなく言ってのけるその様子に、曹操がますます不貞腐れる。

 

 ある種の威厳を剥がされた彼からは年相応の幼さすら感じられ、消失した威圧感は、復活しかけの私の精神を委縮させることもなかった。昇華は着々と進み、心の中に火が灯る。

 

 虚勢を張った曹操の顔が、プイッと私に向いた。

 

「どちらにせよ、ゆっくりはしていられない。手早く済ませようか、はぐれ悪魔の黒歌。そのキメラアントを治療する。身柄を渡してもらおう」

 

 その単語が決め手となった。絶望の中に現れた一筋の希望が目の前の陰りを消し去り、理性を現実に呼び戻したのだ。

 

 たまらず、私はその希望を声に出していた。

 

「治療……ピトーを、助けてくれるの……?」

 

「これだけ近くで話していて、聞こえなかったわけはないだろう?俺たちにとって、そのキメラアント、ピトーというのか?そいつと、ついでにお前はハントのターゲットだ。死なれて条件不達成じゃあ都合が悪いから、医療設備がある部屋に運ぶのさ」

 

 槍の存在など、もう意識からは無くなっていた。希望に急いて僅かに身を乗り出した私は、その喉から滴る血に曹操が狼狽していることにも気付かない。

 

「曹操くん、槍を下げるにょ」

 

 その中で微動だにしないミルたんの冷静な声も、曹操に届くよりも早く、私の嘆願が遮った。

 

「なら……ならピトーは、私が運ぶわ。あんたたちが本当にピトーを助けるつもりなら、仙術使いの私は居たほうがいいでしょう?だから、私も連れて行って……!」

 

「……駄目だ。悪魔を、特にお前のように危険で強大な奴を、医師たちに引き合わせるわけにはいかない。ピトーはともかくお前は、まだ十分に力が残っているようだからな」

 

 喉を鳴らすと、曹操は表情を引き締めて言い放った。わずかに揺れた槍と、また少し迫った私で傷口が広がり、零れた血の一滴が床に落ちる。ピトーのそれと混ざり合い、紫に変わるその様子が、見張られた曹操の瞳に映っていた。

 

 私はそれに薄い陶酔のような感覚を覚えながら、それでも変わらず必死に言い募った。

 

「あんたたちに、全部を任せるわけにはいかない!私は!……私が狼藉を働くと思うなら、支障のない範囲で私を壊して構わないわ。どんな要求でも応える、なんでも、言うことを聞くから、どうか――」

 

 まっすぐと曹操の目を見つめながら、言った。

 

「――お願い」

 

 曹操が、弾かれるようにして槍を引いた。

 

 一瞬硬直してから驚愕の面持ちで離れた穂先を凝視し、それが自分の行為であることを認めた曹操は、歯を食いしばると、喉の奥から底ごもった重い唸りを上げた。

 

「『SS級はぐれ悪魔』黒歌。お前は、自分の立場がわかっていないようだな」

 

「曹操くん!」

 

 もはやミルたんの声も届いていないようだった。

 

 曹操は槍を手元に引き戻し、その石突で床を叩いた。キン、と清涼な金属音が鳴り、次の瞬間、槍が強烈な光に輝いた。

 

 それが及ぼしたのは本能的な恐怖に留まらなかった。焼けるような痛み。とっさにピトーを庇って受けたその気配は、多分に覚えのある光力よりもずっと恐ろしいものだった。

 

 直接向けられているわけではない、ただの余波だけで消滅を意識してしまうほどの悪寒。聖剣どころでは済まされない、もっと強力な聖なるもの。聖遺物(レリック)が放つような光力は、常時であれば私の精神にももっと甚大な変調をもたらしていただろう。

 

 しかし私は、見開かれた曹操の目を見つめ続けていた。

 

 奴らが条件を満たすためには、ピトーの命さえあればいい。つまり生きてさえいれば、意識も自由も、無くてかまわないのだ。ここで目を離せば、本当にそうなってしまうような気がした。

 

「おい!曹操!」

 

 肩を掴んだノブの手を、曹操は忌々しげに振り払った。

 

「ミルたんも貴方も、何故止めるんだ!俺たちの目的は任務を果たすことじゃないのか!?このままゆっくり話し合いなんてしていたら作戦が台無しになる!さっさと任務を遂行しろと言ったのは貴方だろう!」

 

「確かにそうだ!だが――」

 

「俺は作戦通りに事を進めているだけ。誹りを受けるいわれはない!ここは無理矢理にでも言うことを聞かせるのが最善だ!違うか!」

 

 聞く耳も持たず吐き捨てる曹操はとうとう立てた槍を振り、私を睨めつけて掲げてみせる。呼応するように光力を増すそれが、私の素肌に白煙を付け始めた。

 

「これは聖槍。最強の神滅具(ロンギヌス)たる【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】だ。俺がその気になれば、お前を一瞬で殺すこともできる。最悪、ピトーさえ手に入れば、お前を滅しても作戦には問題がない」

 

 青白く輝く穂先が、ゆっくりと私めがけて移動する。少しの間隔をあけて眼前に据えられ、殺気を帯びると同時だった。

 

「だからさっさと――」

 

 がいん

 

 槍が跳ねあがり、曹操の身体が吹き飛ばされた。部屋の端まで飛んだ奴が壁にぶつかって、目を丸くしたまま床に倒れこむ。

 

 けれど私はそれに目を向けることなく、彼女に慄いていた。

 

「ピトー!!」

 

 突如として目覚め、腕の中から抜け出したピトーは、聖槍にその手を掛けていた。

 

 その身からはあの特徴的な『気』がとめどなく溢れ出している。まるで制御弁が外れてしまったかのような怒涛の勢いは聖槍の光すら覆い隠し、もはや痛みや悪寒は感じない。

 

 しかし直に触れているピトーはそうではないはずだ。曹操の言葉を信じるのなら、それは【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】の比にならないほど強い光力、聖なる力だ。並の悪魔であれば威光だけで祓われてしまうような大敵の『力』が、今ピトーを蝕んでいる。

 

 ピトーが息を吹き返したことによる安堵など、端からあるはずもない。半死半生の彼女が、そんな凶器を握り締めているのだ。

 

 私は恐ろしくてたまらなかった。

 

「手負いの獣ほど恐ろしいものはないにょ、曹操くん。ミルたんが止めなかったら、弾けてミンチになっていたにょ」

 

 頭上でミルたんの声がした。声色はずっと一定に落ち着いていて、その手は聖槍の上部を掴んでいる。聖槍が曹操と一緒に飛んでいかなかったのは、奴が防いだからだったのだろう。

 

 私の中に『恐れ』がなければ、まずミルたんの異常さに意識が行っていた。ピトーの死力を片手で防いでしまったそのことに恐怖し、ネテロと対峙した時の己の未熟を思い出したはずだ。

 

 けれど私はこの時、たぶん混乱していたのだろう。自分が何をすべきなのか、訳がわからなくなっていた。

 

 ピトーのことも聖槍もミルたんも、一気に理性に飛び込んできた情報たちの衝撃があまりにも大きく、私はそのいずれも受け止めることができなかった。

 

 ピトーを止めるでもなく、共に戦うでもなく、私は震えながら、指に絡んだ服の裾をつまんだ。

 

 そんな私を一瞥してから、ミルたんの眼はピト―に向いた。

 

「……曹操くんの行為はお詫びするにょ。その上で、信じてもらえないかもしれないけど、ミルたんたちにはピトーさんと黒歌さんに敵対する意思はないにょ。むしろ助けてあげたいんだにょ――」

 

 言葉の間隙に、ばしゃりと血の塊が落ちた。ピトーの口からだ。しぶきが膝の色に溶け、奥の素肌にぬるい温度を伝える。

 

 喉がカラカラに乾いていた。麻痺した意思に反して独りでに手が伸び、そしてピトーの腕に触れる寸前で固まった。

 

「だから、聖槍を離してほしいにょ。いくらピトーさんの『念』がすごくても、そんな身体で聖遺物(レリック)の『力』を受け続けたら本当に死んじゃうにょ」

 

 事実だ。ただでさえ重篤なピトーの生命は、今までにない早さで減り続けている。

 

「魔法少女ミルキーに誓って、もう黒歌さんに刃を向けることはないにょ。ミルたんを信じてほしいんだにょ」

 

 ピトーは手を離さない。聖槍と接触している肌が、文字通り泡立ち、波打っている。

 

 私は膝立ちになり、ピトーの横顔を見た。血走った眼は見開かれていた。口元のみならず顔全体に青色が付着し、狂気じみたその相貌から発せられているのは尋常ではない圧力。強固という言葉ではとても足りないくらい固い、常軌を逸した意志力が、そこには満ちていた。

 

 でも、それではどうにもならない。

 

 比例して、絶望が増していく。ピトーが、死んでしまう。

 

 万力で心臓をゆっくり押しつぶされているような痛みがあった。身体が内側から爆ぜてしまいそうだ。苦しい。苦しくて、息ができない。

 

 何もしない自分。遠くで説得を続けるミルたんの声が聞こえる。

 

(私は……私は、ピトーの――)

 

 その時、ぼやけた耳朶を、やたらと目立つにやけ声が貫いた。

 

「やあーーお待たせ!本っ当に申し訳ない!」

 

 歪んだ視界に暖色の人影が見えた。そいつは場の空気などお構いなしに革靴を鳴らし、近寄ってくる。

 

 ノブが呆然と呟いた。

 

「パリストン、お前……」

 

「あれ?ノブさん、顔色悪いですよ?一応まだ作戦中なんだけど、大丈夫ですか?」

 

 前後不覚の私には、そのパリストンなる人物の姿をまともに見るための余力が存在しない。しないのだが、胡散臭い口調も相俟ってか、不思議と警戒心は湧くことがなく、気付いたころにはもうすぐ近くまで接近を許してしまっていた。

 

 拍子抜けするほど簡単にミルたんの隣までたどり着いたパリストンは、「うん」と頷くと聖槍に触れた。

 

「ピトーさんも、もう目覚めていらしたんですね。ちょうどいい!曹操くん、この槍邪魔なんで消してもらえます?」

 

「あ、ああ……」

 

 見覚えのある腕が伸びてきて、聖槍を掴んだ。すると一瞬にしてそれが消え、四人分の手が宙を掻く。

 

 ぐらりと、ピトーの身体が傾いた。はっとして抱きかかえ、支えると、脱力特有の粘っこい重さが両腕に伝わる。もはや顔を上げる力も残っていないようだった。発せられていた『気』も途切れ、薄く上下する胸と、ひゅうひゅう漏れる呼吸音だけが生きている実感を与えてくれている。

 

 だが同時に、それはピトーの衰弱をも示していた。仙術の使い手として、嫌でもわかってしまう。

 

 間近に迫る、死。

 

 ――間違っていたのだろうか。ピトーに生きてもらいたいなどと思わず、おとなしく奴らに任せるべきだったのだろうか。

 

 もう、何もわからなかった。

 

「やめるにょ、パリストンくん。それ以上近づくとミルたんはきみを守れなくなるにょ」

 

「危ないことなんて一つもありません!それに、直接、目を見て話さなければ、心は伝わらないんですよ!」

 

 ミルたんとパリストンが何か話し合っている。頭も心も、すでに真っ黒だ。他には何もない。何も聞こえないし、何も見えない。すべてが奈落に落ちていく。

 

 感覚に何が触ろうとも、認識されることはなかった。ただ一つ、希望を除いて。

 

 目線の高さに胡散臭い笑顔が来て、それを差し出した。視覚が捉えた赤色の小瓶は以前にも見たことがあるもので、その既視感は、言葉によって滑らかに脳髄へ届けられた。

 

「初めまして、黒歌さん。ボクはパリストン=ヒルという者です。これ、お近づきのしるしに」

 

 表情が、人のよさそうなそれに歪められる。

 

「フェニックスの涙です」

 

 私は迷うことなくそれを奪い取った。ピトーを仰向けに抱えなおすと、口で咥えて栓を開け、中身を彼女の喉に流し込む。

 

 フェニックスの涙。いかなる傷もたちどころに癒してしまう秘薬は、間違いなく効果を及ぼしたようだった。

 

 ピトーが顔をしかめて飲み下すと、目に見えるほどの癒しの力が全身に広がった。ぐずぐずに焼き溶かされた手のひらがゆっくりと元の肌色に戻っていく。飲用させて外傷にこれだけの効果があるのなら、内臓も正しく治癒されているだろう

 

 絶望感が吹き飛んだ。歓喜と安堵と、えもいわれぬ情動とで喉が詰まる。

 

「ぴ、とぉー……」

 

 涙声でそれだけを捻り出した。ピトーの瞳が私を認め、安らかに微笑むその表情は、涙で歪んではっきりとは見えなかった。

 

「……フェニックスの涙はもう残っていないって聞いていたにょ?」

 

 今まで決して感情を表にしなかったミルたんが、初めて人間らしい訝しげな声色を発した。対してパリストンは、やはり変わらぬ胡散臭さを返す。

 

「はい。この作戦のために準備できた涙は、会長が持ち出した一つだけです。ですので!自腹で入手してきました!ピトーさんを助けるために、外科手術の準備だけでは不安だったので。実際、結構危なかったでしょ?」

 

 黙り込むミルたん。確かに、パリストンの言う通りではある。聖槍の影響も併せて考えれば、あの時点で普通の手段ではたぶん間に合わなかった。彼は私たちの恩人とも言えるだろう。

 

 だが、

 

「それにしては、ずいぶんと間がいいね……今言ったことが本当なら、こいつらにも、話を通しておくはずじゃない?」

 

 私の腕の中から上半身を起こしつつ、ピトーが言った。傷は治癒しても、血も『気』も体力もまるで回復していないため、重心がゆらゆら揺れている。頭もあまりうまく働いていないだろう。それでも感づいてしまうくらい、彼の物言いはあからさまだった。

 

「オマエ、何を企んでいる……?」

 

 顔にへばりつけた笑みからして胡散臭いのだ。裏があるようにしか思えない。感情がぐちゃぐちゃに大暴走している私でさえ、都合よく唐突にフェニックスの涙を渡すその行為には多大な不信感を感じた。

 

 彼がいくら人畜無害そうに見えても、この疑念だけは捨て置けない。それが消えない限り、恩人とはいえ静観以上の態度はとれなかった。

 

 そんな私たちの心情はパリストンにも伝わったようで、彼は芝居がかった調子で頷き、微笑むと、高級そうなスーツをためらいなくピトーの血に濡らし、床に膝を折ってみせた。

 

「疑問はごもっともです。ボクも最善の行動をとれたわけではありませんから……わかりました!一刻を争う必要なくなりましたし、作戦のことも含めてボクからご説明いたしましょう!」

 

「パリストンくん、それは――」

 

「大丈夫ですよ!何か問題が発生したら、すべてボクが責任を負いますから!」

 

 ミルたんの抑止も場に似合わぬ明るい声色で振り払い、パリストンは私たちに向き直ると、口を開いた。

 

「まずは根本のところからお話ししましょう。この作戦の目的、討伐依頼が出ているお二人を、悪魔の目をかいくぐって手中に収めんとしたその理由、ですね」

 

 ピトーが何か言おうと口を開いて、そして閉じた。彼女にしてみれば、それは最も知りたい疑問の一つだったのだろう。なにせネテロに敗れて気絶して、目覚めてみたら目の前に【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】などという超級にヤバいものを向けられ、かと思えば戦闘の意思はないと薬まで差し出されたのだ。

 

 何が起きているのかまるでわからない現状。教えてくれるというのなら、まずはそれを聞いてからでいい。ピトーがそう考えるのも当然だ。

 

 一方の私は、恥ずかしながらその不自然さをまるで気にしていなかった。

 

 魔法少女の恰好をしていない最初の方の巨漢、いやたぶん大女が言っていた通り、『ハンター協会』が悪魔からの依頼で襲いかかってきたのだとすれば、そもそも私たち生かしておくわけがないのだ。思いつくメリットはない。悪魔側にバレた時、ネテロやパリストンたちを含め、協会の立場がよくないことになるくらいだろう。

 

 ノブや曹操の言によれば、そのデメリットしかない行為は作戦通りであるらしい。絶望とパニックも合わさって、私は矛盾に気付けなかったのだ。たぶん……頭が足りないとかではないはず……

 

 ともかく、一度気付いてしまえばだんだんとまた不安が湧いてくる。ようやく涙の止まった瞳がじんわりと潤み始めた。

 

「簡単に言えば、『人類のため』です。悪魔などの理外の生物、力、法則が跋扈するこの世界で、それらに脅かされずに生きるための権利を確保すること。それが我々、ひいては人類の目的なんです」

 

 なんともスケールの大きな話。大きすぎて私はいまいち理解できないが、ピトーは言わんとすることの糸口か何かを見つけたようだった。不信感あらわに眇められていた目が少しだけ緩んだ。

 

「生存権、ね……キミらの世界は間違いなく発展してると思うけど。少なくともニューヨークは断然立派だし、脅かされているようには見えない」

 

 パリストンが笑みを深め、首を振る。

 

「いえ、それは単に、彼らが事後処理を行っているからです。魔力などの超常の力を以てして破壊したものを元に戻したり、そもそも結界で防いだり、あるいは……もっと簡単に、人々の記憶を操作したり」

 

 これ見よがしに間を取って、最後の一言が吐き出された。彼の言葉が事実であることは私が一番よく知っている。元バカマスターの下にいたころは当事者だったのだ。

 

 故に私は、己の動揺に気分転換をさせる意味でも、その問答に参加することにした。

 

「後始末ができてるなら、問題無いじゃない……人死には、どうしようもないけれど、世界中の死人の数からみれば微々たる数字だわ」

 

「そうですね、その通りです。幸いなことに勢力を統率する立場の方々は皆、人間界への過度な干渉を避ける方針を示していますし、それでも尚人を殺める存在、例えばはぐれ悪魔などには我々で対処することができます――でもですね、そんなものは氷山の一角に過ぎないんですよ」

 

 思いのほか力強い瞳が私を捉えた。息を呑む。

 

「確かに殺害行為は抑制されているのだと思います。しかしそれ以外は違う。物品の窃盗、土地の不法占拠、銃刀類の不法所持、諸々の軽犯罪などなど、超常の力を使ってやりたい放題している者が少なからずいるのです。明確かつ重大な喪失が発生しない限り、小事は記憶操作すれば証拠なんて残りませんからね。

 その中でも悪魔は特に酷い。悪魔の駒(イーヴィル・ピース)で眷属化するため神器(セイクリッド・ギア)所持者を誘拐するケースが多いのですが、組織ぐるみで近辺の隠蔽工作を行うため、改変の範囲がすさまじく広いのです。攫われたものは人間社会での存在を『なかった』ことにされ、実にその九割が二度と帰りません。ちなみに残りの一割ははぐれ悪魔になります。そうですよね!曹操君!」

 

「あ、ああ、そうだな……」

 

 突然話を振られた曹操が驚きに背を伸ばし、苦々しげに応える。同じく苦々しげな瞳は私とピトーを睨んでいて、何やら言いたげな様子だったが、パリストンは気にせずに続けた。

 

「しかし我々はこういった件にほとんど口を出せません。はぐれ悪魔と同様に討伐しようとすると、必ず勢力の上層部、魔王なんかから掣肘が入るからです。『我が同胞に危害を与えようとするなら、実力行使に出るぞ!』といった具合に。

 彼らの法では人間に対する無法は罪にならず、また、それらが罪となる人間の法を守ることもない。これ、なんでだと思います?」

 

 尋ねはしたが答えを求めているわけではないらしく、私たちの表情を一瞥すると、一際明るい調子で言った。

 

「ナメられちゃってるんですよ!人間に我らを裁く力などないと!そして実際、口惜しくはありますがその通りなんです。『ハンター会員』およそ五百名、その七割ほどは下級悪魔を相手にするまでが精々でして、残りの三割もほとんどが中級止まり。上級悪魔や最上級悪魔、強力な人外を相手取れる実力者はほんの一握りです。ネテロ会長やミルたんさん、将来的には曹操君にゲオルグ君も可能性がありますね。

 でもそれでは全く足りていません!悪魔の横暴に物申し、人類の平和を守るためにも、我々にはさらなる戦力が必要なのです!」

 

 なるほど、と思った。人間を下等と断じる気風が強い悪魔には、確かに人の世の法を守ろうとする輩は少ない。というか私は見たことがない。それを止めるための戦力が無いというのも、まあ当然だろう。ネテロやミルたんのような常識外がそう何人もいるはずがないのだ。

 

 つまりは、

 

「私たちを操って、『ハンター協会』の先兵にでもするつもり?だとしたら残念だけど、私もピトーも『念』で操作なんてされないわよ……!」

 

 抵抗したところで勝機などないだろうが、黙ってそれを受け入れるつもりもない。死んでもごめんだという決意の下、口にした宣言であったが、しかし放った殺気は至極簡単にいなされた。

 

「いえいえとんでもない!そんな非道なマネはしませんよ!それに、たった二人戦力が増えたくらいで状況は何も変わりません。必要なのは少数の強者よりも、ほどほどの力を持った集団。四百名を人外と渡り合えるほどに強化することが肝要なのです」

 

「……なら、なおのことボクたちに用なんて無いはずだ。その四百名にボクらの加護を与えろ、なんて話じゃないんだろう?」

 

「ええ、もちろん」

 

 ピトーの疑わしげな視線などものともせず、パリストンは微笑みながらも息を吐き、膝元に眼を落した。逡巡の気配を醸すと、次いで彼は決心したかのようにふと顔を上げ、私たちの瞳を直視しし言った。

 

「『魔人化(カオス・ブレイク)』、という薬が存在します。これは使用者の肉体を変質させ、超常の存在に近づけることができるのですが、副作用が強い上に、原料の関係上、神器(セイクリッド・ギア)所持者にしか効果を及ぼしません。正直に言って失敗作です。しかしその発想は正しい。脆弱な人の肉体に強靭な種族の能力を加えるという仕組みはつまり、長年魔法使いたちが造り続けている合成獣、キメラのそれです」

 

 おわかりでしょう?と言わんばかり笑みを深めるパリストンに、ピトーは口を引き結んだままだった。

 

「あなたたちが小さな蟻であった頃から、参考資料の一つとして上がっていました。捕食した種の特徴を次世代に受け継ぐその特性。ピトーさんの場合は恐らく突然変異か何かでしょうが、しかし人型生物を取り込んでも何ら不具合が起こらない。これはもう何としてでも身体データを入手して、『魔人化(カオス・ブレイク)』ならぬ『キメラ化(オーダー・ブレイク)』の開発を進めねば、ということになったんですね。

 つまるところ、我々が欲したのはピトーさんの肉体であって、ピトーさん自身ではない。当初は生存に重点を置いていなかったんです。標本さえあれば、後は何とでもなりますからね」

 

「ッ!!あんた、やっぱり――」

 

 と、蘇った危機感で腰を浮かせた私を、

 

「ただ、」

 

 というパリストンの一声が制した。胡散臭いくせによく通る波長は、ミルたんや曹操のざわめきも鎮め、辺りをしんと静まり返らせる。その中を悠々歩むパリストンの言葉は、その胡散臭さに似ても似つかぬ妙な誠意を帯びていた。

 

「それって、あまりにも非道じゃないですか」

 

 間が開く。

 

「もし『キメラ化(オーダー・ブレイク)』が実用化されたとしたら、その寄与は人類の英雄と呼ぶにふさわしいものだと思いません?その英雄を、データだけ取って殺してしまう、ボクはどうしてもそんなことになってほしくなかった……いや、そうですね、ボクは人の道を外れたくなかったんです。ピトーさんと黒歌さんには生きる権利も、自由である権利もある。それを侵せば、ボクはあの悪逆な悪魔たちと同じになってしまう。そう考えて、ボクは作戦にない行動をとってしまったのでしょう。まあ、説明としましてはそんなところですかね」

 

 ふう、と、パリストンが息をついた。達成感に満ち満ちたため息は誰の発言も許さず、そこに一時の静寂が訪れる。

 

 私は唾を呑み、思考に意識を傾けた。

 

 未だ混乱治まらぬ私には理解しきれてはいないだろうが、彼が長々と語った壮大なる作戦とその目的に関しては、たぶん事実なのだろうと思う。『魔人化(カオス・ブレイク)』なるドーピング剤のことは聞いたことがないが、ピトーの身を欲した理由には、とりあえず納得するとしよう。

 

 しかし、完全に信用できるかというと、それは否と言わざるを得ない。

 

 その動機がただの倫理感であることが、彼の雰囲気と相俟ってたまらなく胡散臭いのだ。

 

 しつこくこびりつく印象を拭いきれないのはピトーも同様だったのだろう。思索の跡を残す彼女の口元は、一度固く引き結ばれた後、ためらいがちにゆっくりと開かれた。

 

「それを、信じられると思う?憐憫なんかでボクたちを助けたって?ボクが自分の意志でオマエに協力すると、本気でそんなことを思ってるわけじゃないだろう。さっさと本当の目的を言ってよ。つまらない冗談に付き合えるほど、今ボクは余裕ないんだよね」

 

 苦肉の挑発。しかしパリストンは私の時と同じく、軽やかにそれを受け流した。

 

「あははは!やっぱり信じられませんか?でも――」

 

 笑顔の仮面で笑い、次いですっと素面に戻る。

 

「それで構いません。協力も、しなくて結構です」

 

 その微笑は、ピトーよりも『ハンター』たちに動揺をもたらしたようだった。「は?」と絶句する曹操に、呆然とするノブ。ミルたんさえも衝撃に閉口し、続く言葉をおとなしく聞いていた。

 

「上にも承諾は取り付けました。ぶっちゃけ血液さえあればDNAデータはとれますし、それを完全に解析するにもかなりの時間がかかります。身体データを一緒に取っても、残念ながら研究者の人数からして少ないので、持て余しちゃうんですよね」

 

 足元に広がる血の海を見て、パリストンが言う。つられて私も視線を落とし、唖然としながら目を瞬かせた。

 

 いったい彼は何を考えているのだろうか。というか、今まで垂れ流したご高説はなんのためだったのだろう。あらゆる理由を建前に堕としたその宣言。あの空気感で冗談を重ねる人間には見えないが、本気で述べた言葉だとして、果たしてそれにはいかな意味があるのだろう。

 

 正直、もう私の脳味噌は限界だった。ここまで滅茶苦茶になってしまえば、彼の目的も真意も、なにもかも見当がつかない。

 

 もしかしたら、倫理が理由だという告白は冗談ではないのかもしれない。そんな錯覚さえ覚えてしまうような私には、もう正常な判断など下せるはずもなく、オーバーヒートした頭はすべてを諦め、ピトーにすべての行く末を委ねることにした。

 

 気付いたピトーは思い詰めた表情を一瞬困ったような笑みに変え、息を吐くと、鹿爪らしくパリストンを見据えて言った。

 

「だからさっさと条件を言ってよ。ボクたちが『生きる権利』と『自由である権利』を手にするために必要な対価。もったいぶる必要なんてないでしょ……どうせ、他に道はないんだから」

 

 パリストンがにっこりと微笑んだ。代わり映えのしない胡散臭い笑みは、何も言わずにスーツの懐から何かを取り出し、私たちに差し出した。

 

 今度のそれは小さな矩形の紙だった。二枚ある。縁取りには両方とも同じようなデザインの幾何学模様が描かれていて、真ん中には空白と、別々の模様が書いてあった。

 

 なんだかそれは、出来損ないの名刺のように見えた。

 

「これ、ボクの能力、【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】って言うんです」

 

 名刺に『気』が宿った。不意のことに身構える私。しかしピトーは何やら合点がいったふうに呟いた。

 

「……にゃるほど」

 

 私たちがそれに手を伸ばすまで、あまり時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 ――なんてことがあってから、もう一年と少しが経った。

 

 その間、危惧したことは何も起こっていない。『権利』を守ると言ったパリストンの言葉は嘘ではなく、あの無機質な部屋(ノブの『発』による念空間だったらしい)から解放されて以降、ピトーを研究材料にせんとする輩は一人も現れることがなかった。

 

 それどころか、予想に反して束縛も監視すらなく、相変わらず私はピトーと一緒に居る。ただ、環境だけが拍子抜けするほど平穏なものに変わっていた。

 

 第一に、私たちはパリストンに人間としての身分(・・・・・・・・)を与えられた。

 

 もちろん偽造だ。『流星街(りゅうせいがい)』、詳細は省くが個人情報の存在しない者たちが住む街の出身であり、名前は、ピトーが『フェル』で私が『ウタ』。

 パリストンに腕を買われて、彼の私設部隊に雇われたことになっているが、まあそんな気は全くないのでそれはどうでもいいだろう。

 

 さすがの彼でも、『SS級はぐれ悪魔』の黒歌(・・)と『変異キメラアント』のピトー(・・・)を助けるわけにはいかなかった、ということだ。思うところがないわけではないが、しかしどうなるわけでもない。公式では、私たちはネテロの【零乃掌(ゼロのて)】で死んだことになっている。

 

 私にしつこい不信を募らせた【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】も、そのためのものだった。『神字(しんじ)』という、『念』を補助する模様が書かれた名刺は、パリストン曰く、持ち主の印象(・・)を変える能力だという。つまりそれは、私たちが人間になるための小道具だったのだ。

 

 ピトーがそれを持っている限り、彼女は『色気たっぷりの気だるげなお姉さん』であるように見える。好奇心旺盛で賑やかな普段の彼女とは似ても似つかない雰囲気。

 

 別に姿が変わっているわけではない。単に、無意識的にそのような人物なのだろうと思ってしまうだけだ。

 

 ただ、無意識に作用するため、その効力はかなり強い。真ん中の空白に自分の名前を書くと発動する能力なのだが、初めて使った時、私は一瞬、目の前のピトーをピトーだとわからなかった。

 同じ状況の彼女と一緒にお互いを警戒し合い、次いで愕然としてしまったくらいだ。忌むべき出来事だったが、たぶんこの状態で眼鏡でもかけ、服装も変えてしまえば、私を黒歌と気付く者は誰もいないだろう。

 

 『フェル』と『ウタ』という身分、姿を手に入れた今、私たちが人間社会で大手を振って暮らしていても、それは人間にも悪魔にも、誰にも咎められることがないというわけだ。

 

 ちなみにピト―によれば、名刺を持っている私は『理知的で厳しそうなキツめのお姉さん』に見えるそうだ。キツめってなんだ。理知的が似ても似つかないってなんだ。

 

 文句はともかく、パリストンは私たちに、恋焦がれた安寧をもたらしたのだ。追手に気を張る必要も、隠れ潜む必要もなく、文化的な生活を送れる幸福。

 

 物事は、限りなく良い方向に進んでいる。しかし、だからこそ、やっぱりパリストンの思惑がわからない。

 

 私たちの都合に良い一年と少しに、彼が得をするようなことがあっただろうか。作戦を無視し、高価なフェニックスの涙を消費するだけの価値、リスクに見合ったリターンがあるようには思えない。

 

 そもそも身分を貰ってから今まで、彼との接触すら皆無なのだ。お金のために仕事を斡旋してもらったことは多々あるが、それだってハンター協会を通してのものであり、懐柔されたなどとは言えないはず。だって私にもピトーにも、なんら不幸は訪れていないのだ。

 

 ……いや、しいて言えば曹操だろうか。奴は私たちがマンションの一室に居を構えたころ、ふらりと現れ付きまとうようになった。

 

 とはいえ問答無用に襲ってくるわけではない。来る度ピトーにお金を叩きつけ、試合を申し込んでくるのだ。

 

 理由を尋ねてもぼかしてむっつり黙り込むばかりだったが、あれはたぶんリベンジしに来ているのだと思う。奴からすればあの時、虫の息であったピトーに一撃で戦意を喪失させられてしまった事が、悔しくてたまらなかったのだろう。へし折られたプライドを取り戻すために、奴は彼女に挑み続けている。

 

 ピトーが害されるかもという点については、たぶん曹操が今最も危険視されるべき存在なのだ。

 

 つまり危険はないということ。何故なら奴の目的は未だ達成されることなく、今日もまた、盛大にボコられているからだ。

 

 横っ面を殴られ、くるくる錐もみ回転しながら白木の床に転がる曹操に失笑しながら、私は懸念にそう結論付けた。

 

「はい、これで三十二回目のダウン。大丈夫?今日はもうこれくらいにしといた方がいいんじゃにゃい?」

 

 息の一つも乱れていないピトーが左手に奴の槍を持ち、ため息混じりにそう言った。言の通り、大の字に倒れこんだ奴は返事もせず、満身創痍といったふうに荒く呼吸を繰り返している。街の道場での立ち合い故、槍は光力を放っておらず、ピトーも全く本気ではなかったが、二人の力量差は明らかだった。

 

(別にあいつも、弱いわけじゃないんだけどな)

 

 まあ、全快のピトーが相手ではそうもなるだろう。まだまだ奴は若い、というより幼い。やったことはないが、たぶん私でも負けることはないと思う。『念』もだが、基本的な能力値からしてまだまだ発展途上なのだ。唯一勝っていたのは戦闘経験くらいだったろうが、その差もこの一年できれいさっぱり消え去った。さすがさいのう。

 

「……ま、まだ、だ……俺は、まだ……もう、一戦……」

 

「ああはいはい、わかったわかった。お金も貰ってるしね、キミが満足するまで付き合うにゃ」

 

 息も絶え絶えに伸ばされた曹操の手が、槍の石突を掴んで訴える。呆れたように眉尻を下げたピトーは奴の腕を掴んで引き起こし、ふらつく身体に肩を貸していた。

 

 ピトーもまた、私と同じく曹操に危険を感じてはいないのだろう。最初の頃こそ息が詰まるくらいに怒り、警戒し、今以上にぼっこぼこにしていたが、もはやそれもない。随分と仲良くなったものだ。

 

 はあ、と心情のままにため息をつくと、突然それが鳴り出した。

 

 ピリリリリリリ!

 

 携帯の着信音。私のすぐ隣、壁際にまとめられた曹操の荷物から鳴り響いている。躊躇いなく発掘すると、木の枝でつつかれているような視線と共に、小さな嗄れ声が耳に届いた。

 

「……おい、ウタ……勝手に、出るなよ……?」

 

 私の手の中の端末に向けられた言葉。が、私はにんまり微笑むと、クワガタ型のそれの通話ボタンをポチっと押しこみ、曹操抗議の断末魔をBGMにしながら耳に当てた。

 

 持ち主は思春期のお年頃だ。誰だと聞かれたら彼女ですとでも言ってやろう。

 

 日ごろの恨みも込めて、私は揶揄う気満々でそれを待った。猫なで声で、「はぁ~い。こちら曹操くんのケータイでぇ~す」と告げてやり、誰かは知らぬが奴の知り合いが驚愕し、曹操自身が顔を真っ赤に憤激するさまを夢想した。

 

 だが、それを期待する好色な笑みは、通話相手の言葉を聞くうち、あっという間に崩れ落ちた。

 

 頭が真っ白になり、だんだん音が遠ざかっていく。私は呆然と、その言葉を繰り返した。

 

「白音が……攫われた……?」

 

 無音の中、私はピト―が端末を取り上げるまでそのままの恰好で固まっていた。




オリジナル念能力

ありきたりな微笑(ビジネスライク)】 使用者;パリストン=ヒル
・操作系能力
・神字と共に名刺等の名前が書かれた紙片に刻むことにより、名前の人物がそれを所持する限り、その人物が他者に与える印象を変える能力。
名刺を持つ人物を眼にした第三者の無意識を操作する能力であるため違和感を与えにくいが、半面、操作は絶対的なものではないため見破ること自体は可能。
名刺が破損すれば効力は消滅する。

展開的にも念能力的にも力技感が否めませんが、ここら辺が私の限界です。ハンターハンターキャラのオリジナル念能力はたぶんこれで最後なので許してください何でもしまかぜ。
次回、ようやく原作主人公勢(一部)との邂逅。感想ください。


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六話

偽名がややこしいですが、『フェル』がピトーで、『ウタ』が黒歌です。よろしくお願いします。
もふもふ尻尾に顔うずめて死にたい。

20/9/08 本文を修正しました。


 一度肉体が融解して再構成されるような、そんな転移の感覚が去った後、目を開くと、ボクは何の変哲もない小部屋の中に立っていた。

 

 小さな倉か何かなのだろうか。漆喰の壁に囲まれた薄闇の中を恐る恐るで見回すと、そこには所狭しと木箱が積み重ねられていた。見慣れぬ家財道具やら美術品やらの雑多な中身はことごとく埃をかぶっており、長らく掃除すらされていないようだった。

 

 空気がいがらっぽいこと以外、特筆しておかしな空間ではないようだ。しいて言えば少しだけ気温と湿度が高いような気もするが、それはどちらかといえば異変ではなく、きちんと目的地に到着した証であるのだろう。聞くに、目的地は地形の関係でフェーン現象というものが起こりやすく、この時期は不快指数が上がる傾向にあるという。

 

 と考えれば間違いなく、ボクたちは京都と呼ばれる都市に転移できたようであった。

 

「あー疲れた。随分と小汚いとこに出たねぇ」

 

 腹の底に居座っていた緊張感が緩み、小さく息を吐く。一刻も早く京都に赴くべきと決めた瞬間から今に至るまで、どうしても警戒心を振り払えなかったのだ。

 

 三十分前のその時、曹操をいたぶるボクがいたのはアメリカの端っこだった。通常の移動手段では、京都にたどり着くまで何十時間もかかってしまう。それでは到底『一刻も早く』というわけにいかず、となれば当然、通常の移動手段ではない方法、転移魔法陣の利用を選択せざるを得なかった。

 

 しかし、それを自力で発動させることは不可能であったのだ。ボクもクロカも京都に飛ぶための魔法陣など知らず、もし知っていたとしても、魔法を使えない人間の『フェル』と『ウタ』がそれをするわけにはいかない。転移を実行するためにそれ専門のハンターたち、いわゆる運び屋を頼るのは当然だろう。

 

 それが、消えなかった警戒心の原因だ。

 

 依頼され、ボクたちを転移させるためにやってきた魔法使いのハンターは、よりにもよって中々に因縁深い奴だった。

 

 一年以上も前のこととはいえ、全く気取られることなくボクたちをネテロの下まで強制転移させた張本人、【絶霧(ディメンション・ロスト)】の持ち主であるゲオルグだったのだ。

 

 奴ほどの腕前があれば、魔法陣に何かしら不可視の細工を施すことくらい造作もないだろうし、そうでなくても神滅具(ロンギヌス)である【絶霧(ディメンション・ロスト)】は、対象者を任意の場所に転移させる能力を持っている。例えば依頼の遂行と見せかけ、次元の狭間なんかの、生物が生存できない環境にいきなり放り出すことだって十分に可能だろう。

 奴にそんなことをする利点も悪意も無いとわかってはいるが、一度そう考えてしまえば疑念はもう消えようがない。奴の仕事を信用こそすれ、信頼できるはずもないボクは、一挙手一投足にまで気を張り詰めさせ、見張り、確かめたとしても、不信を貫かないわけにいかなかった。正確に転移が為されたという実証を得るまでは。

 

 そうやって常に万一の事態を意識し続けた結果、たまりにたまった心労を、ボクは今、ようやくため息に変えて吐き出すことが叶ったのだった。

 

 しかし長時間の緊張によって疲労した心身を慰めるためには、それだけでは不十分だったようだ。一段落もつかの間、ボクの不安はさらなる安堵を求めて背後を振り返っていた。

 

 ゲオルグにかかりっきりであった三十分の間もその気配だけは感じていたが、それでは少々実感が足りない。早い話がクロカの顔を見たくなったのだ。

 

 繋いでいた手を引き、最近ようやく舌に馴染んだその偽名を、ボクは呼んだ。

 

「ウタ、転移は平気だった?身体、おかしなとこはない?」

 

 しかし、ウタ、クロカの頭は、ボクのそれとは別個の心配でいっぱいになっているようだった。

 

「………」

 

 隠しきれない不安で顔色を青く変え、俯き気味に床に落とした視線の先には、恐らくシロネの姿が映っているのだろう。心ここにあらずといった無反応は、ウタを自分のことだとわからないくらいに余裕を消し飛ばされてしまっていた。

 

 彼女の元気な姿を見たかったわけではあるが、しょうがない。そして無理もない。シロネが攫われたという突如届いた事件の一報は、彼女にとってそれほど重大なものだった。

 不吉を感じて携帯を取り上げねば、もっと酷いことになっていたかもしれない。その内容は当時のクロカにとって許容量を大きく超えていた。

 

 心を癒している最中だというのに、不意を突いて耳に入ってしまったその情報。ショックを受けてしまうことはもちろんわかる。

 

(わかるけど――)

 

 ………。

 

 馴染みの仲介人曰く、事件が起きたのは五時間ほど前のことらしい。

 

 シロネは数人の連れと共に、京都に旅行に来ていたそうだ。最初の数日は特に何事もなく過ごしていたそうだが、最終日の今日、もうそろそろ帰ろうかと土産物屋に立ち寄った際にそれは起きたという。連れたちがほんの少しだけ目を離した隙、唐突に忽然と、シロネが姿を消したのだ。

 

 時間にして一分もなかったらしいが、その僅かな間、土産の菓子を物色していたシロネは何の前触れもなく、まるで初めからそこに存在しなかったかのようにしていなくなってしまったらしい。気付いた連れたちはもちろんすぐに周囲を探した。が、すでに姿は影も形もなく、手掛かり一つ見つけられない。やがて手に負えぬと悟り、九尾の狐と呼ばれる妖怪の八坂という人物を尋ね、助けを乞うたそうだ。『攫われた』と主張して。

 

 下手人を見たわけでもなく、客観的に見れば失踪とするべき案件ではあるが、それを覆してしまうほど連れが頑固だったのだろう。京都を縄張りにする妖怪たちの長に何を思い、神隠し的失踪を何と称したのかは知らないが、ともかくそのおかげで何かがこじれ、本来は内輪で解決されるはずだった案件がハンター協会にまで浮上してきたのである。

 

 そう、依頼主はシロネの連れではなく、乞われた当の本人である八坂なのだ。

 

 シロネとの接点があるとは思えない八坂から、至急の捜索依頼としてもたらされたその情報。混在する面倒事があからさまに臭っているが、しかし言うまでもなく、クロカにとって大切な人が巻き込まれた事件を放っておくわけにはいかない。

 

 そう考えると、連れの行為にはむしろ感謝すべきなのだろうか。大本の原因であることを考えればマイナスの域を出ないが、それでも知らぬままでいるよりは百倍マシだ。

 

 後は少しばかりタイミングを見計らって怒鳴り込んでくれれば、最低限、連れに対する悪感情は持たずに済んだかもしれない。何故、曹操を弄んでいる最中に連絡が来てしまったのだろうか。

 

 おかげで不本意が、ボクに先んじてクロカの肩に手を置いてしまっていた。

 

「まあそう心配するな、ウタ。日本は治安がいい。そう血生臭いことにはならないさ」

 

 曹操が、いつも通りの飄然とした調子で慰めの言葉を口にしていた。

 

 少し前まで腫れ上がっていた顔は、すっかり元の端正に戻っている。もちろんボクの【人形修理者(ドクターブライス)】によるものだ。治したくはなかったが、あのままでは色々と支障が出る。仕方がない。

 

 仕方がないが、奴の慰撫でクロカの瞳に光が戻ったことも合わさって、もやもやとした気持ちは抑えようがなかった。小さいがはっきりとした声で返事を返すクロカにどうにも説明のつかない感情を抱えつつ、ボクは天井にぼやいた。

 

「どうせならボクに直接依頼してくれればよかったのに……」

 

「指名依頼なんぞ、無名のフェルとウタに来るわけがないだろう。それに八坂殿は『プロハンター』をご所望だ」

 

 そういう正論は求めていない。

 

 睨めつけると、曹操はいっそ忌々しいくらいの仕草で肩をすくめていた。

 

 憂さ晴らしのつもりか。だがしかし、奴の言う通りではある。ボクもクロカも『プロハンター』の証たる『ハンターライセンス』を持っていない。めんどくさかったのもあるが、今までは必要がなかったのだ。

 

 大抵の仕事にはパリストンの名前だけで充分であったし、難易度も回数も、それほど難しいものを請け負う気は端からなかった。

 つまりボクたちは、プロハンターを条件とした八坂の依頼を唯一受けられた曹操に、助手として連れてきてもらった立場であるのだ。が、それの感謝もたった今掻き消えた。やっぱりアイツは好きになれそうにない。

 

 めんどくささによる後悔を噛みしめながら、ボクはため息を吐いた。

 

「……次のハンター試験って、いつだっけ」

 

「半年後、年始だ。今年のにも誘っただろう?せめてそれくらい記憶していてほしいものだな」

 

 そうだっけ?と半分むくれて首を捻るボク。クロカは歪に微笑んだ。

 

「そうよ。興味ないって、そっぽ向いてたじゃない」

 

 沈んだ気分を無理矢理持ち上げ、絞り出したような声だった。

 

 我に返ったとはいえ、やはり普段の調子ではいられないのだろう。それでも平静を取り繕おうとする努力は、むしろ痛々しく見える。

 

 少しばかり考えて、ボクはすぐそばの木箱に腰かけると、なるべく朗らかな声音で言った。

 

「じゃあ今度、二人で取りに行こうか、ハンターライセンス。少なくとも、コイツにでかい顔されずに済むくらいの効力はあるみたいだし」

 

「おいおい、酷い言いようだな」

 

 曹操は懐より取り出した地図に視線を落とした。その片手間、不動の声調で会話を続ける。

 

「だがまあ、受験に関してはぜひともどうぞ、だな。一般人が入れるようなところでは、本気の立ち合いなどとてもできん」

 

「よく言うにゃ。ボクに一発も当てられないくせに」

 

「難関と言われるが、お前たちにはあくびが出るほど簡単だろう。五年前の俺でも合格できたからな。必要なのは時間だけだ」

 

 ガン無視を決める曹操。ボクとクロカの目が合い、そしてまた、形だけの笑みが浮き上がった。

 

「ええ、そうね……」

 

 短い言葉の感情にはどうやら変化がない。ボクの思惑は、やっぱり成立していないようだった。

 

 ――わからない。

 

 あっという間に途切れてしまった会話。しかし間もなく、曹操が声を張り上げた。

 

「どうするにせよ、今のリーダーは俺だ。フェル、不満だろうが何だろうが、任務達成のためには従ってもらうぞ?」

 

 その手が伸び、唯一の板張りである引き戸を開けた。木材が擦れる耳障りな音で重々しく闇が晴れ、飛び込んでくる中天の眩さに目を細める。

 

 憎たらしいその後光を背で受ける曹操は、これまた憎たらしいあのクソジジイそっくりに、厭らしく頬を上げていた。

 

「ウタもな。この面子で妖怪のお嬢さん一人くらい、見つけられないわけがない。だから、そんなに辛気臭い顔をするな。心象まで悪くなる」

 

 クロカの思いつめた表情がのたまう奴を捉え、同時、羞恥と憤怒で赤く染まった。

 

「俺の彼女になりたいんだろう?ならもっと気丈でいてもらわないとな」

 

「なっ!?あ、あんた……!!」

 

 一瞬にして生気が溢れ、クロカから陰鬱が吹き飛んだ。赤面させた二つの感情は、どうやら憤怒が打ち勝ったらしく、引かれた足が曹操に向けて一歩踏み出す。

 

 が、爆笑の直前で踏み止まったような顔の曹操は、それよりも早く框を潜った。日の下に逃げ出す奴にクロカはわなわな震え、握り締めた拳と一緒に胸の内のそれを解き放った。

 

「あいつ、今度は私もぶん殴るわ……」

 

 怒りのまま、しかし吹っ切れた彼女が、後に続いて倉を出る。

 

 わからぬうちに、解決してしまった。

 

 やっぱりだ。

 

 後姿を見つめるボクは帽子を目深にかぶり直し、二人を追った。

 

 

 

 

 

 じりじり照り付ける太陽は曹操以上に嫌いだ。長く浴びると気分が悪くなる体質は、自分に流れる悪魔の血を強く意識させられる。

 

 なるべく日陰を歩いてみるが、あまり意味はないようだ。石畳の照り返しが顔を焼き、目に突き刺さってボクの視界をちかちかと瞬かせていた。

 

 そして何より暑い。行く道は大通りでもないのに人であふれ、立ち並ぶ古風な店々を中心に息苦しいほどの熱気が立ち込めている。夏の本番はまだまだ先らしいが、それでも十分すぎるほど蒸し暑かった。

 

 うだるような不快感は刻一刻と増している。前を行く曹操とクロカはそれほどでもないのか、一つしかない地図を奪い合って、何やら元気に舌戦を繰り広げていた。

 

 仲間外れにされているようで落ち着かないが、しかしもうその輪に入っていけるような元気は残っていない。八坂に指定された料理屋は近いそうだから、まあ別にいいだろう。一人だけの灼熱地獄も、もうちょっとの辛抱だ。

 

(けど、ちょっとだけ休んでもいいよね……)

 

 輪から離れて五メートルほど。九割ほど人ごみに隠れてしまった背を見送って、ボクはちょうどよく店先に現れたベンチにどっかりと腰を下ろした。

 

「あっつい……」

 

 顔を手で扇ぐ。温風しかやってこないが、それでも少しだけ気は休まった。眼前を行き交う人間たちが空気をかき混ぜ、ボクが纏った運動の熱を攫ってゆく。

 

 ただ歩くだけで空気に流れを作り出せるほど、その数は多かった。男も女も子供も、人種も、或いは種族さえも様々だ。

 

 世界有数の観光地に集う彼ら彼女ら。それを相手に商売をする者たち。音も匂いも騒がしくてせわしないが、けれども鬱陶しいとは感じない。『賑やか』、なのだろう。

 不快指数が高かろうが忌々しい日の下だろうが、この光景は見ていて苦にならなず、飽きない。

 

 人間社会の転変は、冥界でのそれと比べるべくもないだろう。クロカが人の世の生活を欲したわけも、今ならよくわかる。静寂はつまらない。

 

 人の流れをぼーっと眺めながら、ボクは茹った脳味噌でそんなことを考え始めた。背もたれにのしかかるようにして、後ろを振り返る。

 

 クロカが好みそうな、着物の呉服店。ショーウィンドウの向こうに佇む大型の姿見には、ちょうどよくボクの姿が映っていた。

 

 ボクの、『フェル』としての装束。これもその象徴だ。

 

 クロカと違ってしまうことができない耳と尻尾を隠すための、ゆったりとした装い。キャスケット帽なる帽子と、踝まである、なんかへんてこな名前のズボン。長袖のジャケットにも何か名前があったような気がするが、忘れた。

 

 作り物の小指と細工が施された、四本指のボク専用の革手袋や、ブーツにインナーまで、人間にはない身体特徴を隠すために必要だったこれら。選んだのはすべてクロカだ。

 

 実用性のみを考えるなら、もっと快適な物が他にいくらでもあるだろう。帽子は耳が蒸れるし、ジャケットもズボンもひらひらして鬱陶しい。そして暑い。

 

 なのに何故、クロカはこのような不合理を求めたのか。そのほうが似合うからだ。

 

 客観的にそれを認識することはまだ難しいが、同じく変装したクロカを見ればその心情は察せられる。

 

 眼鏡をかけ、洋装に着替えただけだというのに、彼女はいつもよりあか抜けた雰囲気に見えた。見知った格好が少し変わっただけで、それは新鮮で好ましい。着飾るというその行為は、確かに無意味なものではないのだろう。

 

 世の人間が高々布切れに手間をかける理由も、段々とわかるようになってきた。観光地が賑わう理由も、旅行へ行く理由も、喧噪を求める理由も。ボクの異常な価値観(キメラアント)は、この一年で知った『普通』に近づきつつある。

 

 だが、

 

(わからない)

 

 価値観がいくら『普通』ににじり寄っても、それはクロカまで届かなかった。

 

 ――何故

 

 シロネこそが、クロカの『闇』を解き放ったのではないのか。

 

 クロカを傷つけ、捨てて、苦しめたはずなのに、何故そこまで、キミはシロネを案じているのだ。

 

 どうしてもわからない。

 

 案じていることがわかっても、理解ができない。どうしてそう思っているのかわからない。

 

 自分の身に置き換えても、仮定して想像してみても、結論は変わらなかった。

 

 『妹』という称号は、そんな理屈を軽く捻じ曲げてしまうほど強力なものなのか。何度裏切られても関係ないくらい、『家族』という存在は大きいのだろうか。

 

 一年経っても、それだけがどうしてもわからなかった。わからないから、それを慰める方法もわからない。曹操の言葉の何がクロカを呼び戻したのか、それすらもわからない。

 

 ボクは視線を通りに戻した。行き交う人間たちの中には当然家族連れも多くいる。

 

 いっそ試してみようかと思ったことも、一度や二度ではない。例えば向かいの店で楽しげに笑い合う姉妹の片方を攫い、操ってもう片方を殺させたらどうなるのだろうか。死の直前、幼子たちはどんな顔をするのだろう。

 

 恐らくそれに意味はない。驚愕だろうが怒りだろうが慈しみだろうが、どうしてそのような表情を作るに至ったかなんて……心の中身は、頭を開いてもわかりはしない。

 

 けど、もしかしたらという思いは捨てきれなかった。知らなければ、試してみなければ、そもそも理解などできるはずもない。認識のとっかかりを体験しなければ、それに手を掛けることすら不可能だ。

 

「………」

 

 ベンチが軋み、腰を上げたボクはまっすぐ前に歩き出した。左右から流れ来る人々をするすると躱して横断し、対岸の店までたどり着く。

 

 姉妹が、影に気付いて同時に振り向いた。もしかしたら双子なのかもしれない。よく似た幼い顔でキョトンとボクの目を見つめ、売り物の玩具を両手に首を傾げる。

 

 手が伸びた。滑らかに、ごく自然に。

 

 ――。

 

 そして姉妹たちを通り過ぎ、陳列されたその玩具を手に取った。

 

 針付きの木槌と赤い球が紐で結びつけられたそれ。名も知らない木製玩具を手にしたボクは、呆然とこっちを凝視する店員らしき人間に、それを振って見せた。

 

「ねえ、コレいくら?」

 

「……え?あ、はい!せ、千円になります!」

 

 そんなものなのか、とシンプルな見た目を一瞥してから、がま口財布を引っ張り出す。がちゃがちゃやって日本紙幣を見つけ出し、差し出した千円札が受け取られるのを見届けると、ボクは踵を返して店を出た。

 一瞬遅れて「あ、ありがとうございました」という口上と三人分の視線を背中で受け止め、雑踏の中を歩き出す。

 

 しばらく行くと、二股の曲がり角が現れた。右の道には変わらず喧騒が続き、人でごった返している。だというのに、誰一人として左の道に進もうとはしない。まるでその道を認識できていないかのように、誰も彼もが左の道を避けていた。

 

 ボクは躊躇わず、そっちに踏み込んだ。ずっ、と、水の膜でも通り抜けたような感覚。どこか遠く、というよりは別の次元から見られているような視線を感じたが、気にせず先に進んだ。

 

 すぐにクロカと曹操を見つけた。人気のない通りで唯一気配を感じる立派な建物。普段は見ることがない異国情緒あふれる造りのその前で佇んでいた彼女らは、ボクに気付くとそろって手を振った。

 

「あ、やっと来た。何かあったの?」

 

「うん。ちょっとお買い物」

 

 クロカの出迎えに笑顔を作ると、ボクはポケットから謎の玩具を取り出した。

 

「ねえウタ。コレってなんていうの?」

 

「え?あら、けん玉じゃない。懐かしい……っていうか、お買い物ってけん玉?しかも知らずに買ったの?」

 

「うんまあ、ちょっと興味が湧いて……で、どうやって使うの?」

 

「ええっと……」

 

 と、胡乱げに呟き、クロカはけん玉を受け取った。先端の針から赤い球を外し、木槌部分に巻きつけられた紐を解きにかかる。

 

 ああそれは解くものなのか、と眺めているとその半ば、曹操の制止がかかった。

 

「おい、二人とも遊ぶのは後にしてくれ。人払いの結界を抜けたのは向こうもとうに気付いている。あまり待たせるわけにはいかないだろう」

 

 呆れかえった眼と声が、ボクらに向いていた。親指で店の入り口、目的地の料理屋を示して迫っている。

 

(また余計な正論を……)

 

 憮然とした顔にまたもやもやを抱えてしまうも反論材料などはなく、ボクとクロカは顔を見合わせ、引き戸を開けた曹操に続いた。

 

 戸が吐き出したガラガラという騒音。向こう側には着物姿の女性がいた。何かしらの妖怪なのだろう。頭には大きな三角耳が付いていて、腰のあたりからはボクらのものより数段毛量の多い尻尾が生えている。

 

 そんな人物が、ボクらを認めると礼儀正しく頭を下げた。

 

「お待ちしておりました。ハンターの方々ですね?」

 

「ええ。遅れてしまって申し訳ない」

 

 曹操がにやけ顔で微笑んでいる。できることなら今すぐにでも殴り倒したい。

 

「いえ、無理を言ってお呼び立てしたのは私どもですので……我が主の下までご案内いたします。こちらへどうぞ」

 

 驚くほどの無表情で無感情に断ると、そいつはボクらに背を向けた。ピカピカに磨かれた板間を音もなく歩き始める。言われるまま続こうとして、その直前、クロカの手に止められた。

 

「靴、脱がなきゃだめよ」

 

「あ、そっか。日本だと店でも土足は駄目なんだっけ」

 

「どのお店でも、ってわけじゃないけど、ここって高級料亭だから」

 

「料金の多寡で履物の有無まで決まる。にゃるほど」

 

 新たな知識を記憶領域に仕入れつつ、ボクとクロカと、ついでに曹操は、玄関の石畳から木材のフローリングに上がった。

 

 導かれ、左右にいくつも引き戸が並ぶ廊下をしばらく歩くと、清澄な雰囲気の綺麗な庭に出た。

 

 膝ほどもない手すりを隔て、廊下に沿うように続く小さな庭園。引かれた白砂が流水のような模様を描き、青々とした草木の合間を流れている。向こうで見るような彩はなく地味ではあるが、しかしそれ故の神聖さ、懐かしさのような気配を、ボクはその光景に感じた。

 

 静かで、何もいないあの場所。生まれ故郷。

 

 妙な感慨を抱きながらも進み、庭と接すると、差し込んできた日が肌を刺す。

 

 刺激を受けて、今度は嗅覚がそれを捉えた。

 

 空気に漂う何やらおいしそうな匂い。微かなそれについ鼻をひくつかせ、堪能してしまう。

 

 ……恐らく料理の匂いだろう。甘さや芳ばしさ、様々な芳香がボクの食欲中枢を刺激している。

 

 ボクは隣を歩くクロカにこっそり耳打ちした。

 

「この仕事終わったらさ、ここの料理食べて帰らない?依頼料も入るわけだし」

 

 ゆっくりと振り向いたクロカの笑みは、やっぱり微妙に歪んでいた。

 

「そう、ね。あっちじゃ毎日バーガーばっかりだったものね」

 

 いつものはじけるような笑顔が懐かしい。ボクが言う言葉は、どうしてクロカにこんな顔をさせてしまうのだろう。

 

 なかなか去ろうとしない自己嫌悪を堪えて微笑を返す。陰り始める場の空気。ふとその暗雲に、曹操が首を突き入れた。

 

「いい案だな。俺も一度京料理を食べてみたいと思っていたんだ」

 

 お呼びでない奴の割り込みは、ボクとクロカの機嫌を容易く降下させた。降下しすぎて声すら出ないくらいに。

 

 なんでコイツと一緒に食事なんてしなきゃならない。色々と掛け違っている今日のボクたちではあるが、こればかりは共通認識であったようだ。

 

 無言の重圧に、さしもの曹操の陽気も気圧された。にやけ顔が引きつり、少しだけ後退る。それでも最低限の愛想笑いは残しながら、奴は再度口を開いた。

 

「……あのね、傷つく上に返しに困るから、せめて無言はやめてくれよ」

 

 肩を揺らした直後だった。

 

 店中に轟くほどの大声が、向かう先から響き渡った。

 

「――ならばどうするというのです!!」

 

 いきなりのことにクロカの背が跳ねた。だけでなく、ボクたちの足音と囁き声くらいしかなかった静寂を突如貫いた男の声は、一定の調子を保つ案内役の歩みすら止めてしまった。

 

 空気もろとも皆の注意を引き抜いてしまったそれに、曹操も表情を引き締めた。立ち止まる案内役に尋ねる。

 

「どうやら取り込み中のようだが?」

 

「……いえ、すぐにお連れしろと、申し付けられておりますので」

 

 ほんの僅かに感情が滲んだ言葉を自分に言い聞かせるように並べると、案内役は小さく深呼吸をしてから歩みを再開した。

 

 突き当りの角を曲がると、そこは案外近かった。すぐそばに優美な庭園があるというのに、それを眺めることもできない奥まった日陰の一室。

 

 紙を張った扉、確か障子というのだったか。ボクはなるべく思考せぬように気を付けながら、案内役がその向こうの誰かに訪いを告げるのを見つめていた。

 

「八坂様、例の方々がお見えになりました」

 

 障子に映る大きな影は、どうやらこっちを振り向いたようだった。

 

「おお、待ちわびたぞ。お通しせよ」

 

 案内役は目を伏せると、横にずれて障子を開けた。するりと滑り、見渡せた部屋の中。影の主であった八坂が、正座したままボクたちを手招きしていた。

 

「よう来られた、お三方。さ、こちらへ」

 

「初めまして八坂殿。なにやら会談の最中であるようだが、よかったのですか?」

 

 にやけ顔とも違う完全なビジネススマイルを纏いながら、曹操は会釈して、勧められた座布団に腰を下ろした。靴下越しに畳の感触を味わいながら、クロカとボクも後に続く。

 

 正方形の座卓の一辺を三人で占領すると、ボクは首を曲げて意識的に正面から目を逸らす。視線の先の八坂が、妖艶な微笑を曹操に返した。

 

「よかったも何も、むしろそう、ぐっとたいみんぐ、じゃな。ちょうどよかった」

 

 着物姿のクロカを彷彿とさせるような恰好をしていた。

 

 盛大に着崩し、はだけた胸元は、下手をすればクロカ以上の大迫力だ。テレビで知ったことだが、普通、ここは大きければ大きいほど男に対して高い特攻能力を持つらしい。京都を治める九尾の狐の本領に、曹操も仮面をかぶらざるを得なかったのだろう。後でからかってやる。

 

 頭には、案内役と似た形の大きな耳。尻尾も同じく似ていたが、その本数は九尾の名の通り九本もある。ボクは一本、クロカは二本。それを大きく超える九本は、もちろん数段毛量が多い。

 空気を孕んでふかふかになっているものが、彼女の背後に九本だ。広がったそれだけで、人一人分もの面積を埋め尽くしている。そこから面を圧すように放たれる妖力の力強さと膨大さは、俗に神獣とも呼ばれる九尾の狐が噂に違わぬ強者であることが伺い知れた。

 

 それだけの危機感に意識を向けていても、座卓に座するそいつらを完全に忘れ去ることはできなかった。轟いた大声から燻っていた憎悪は、身動ぎの気配一つで簡単に思考をこじ開けた。

 

 冥界にいるはずのシロネが、連れと一緒に旅行で京都にやってきた。

 

 わかってはいたことだ。だが気配を一瞬でも感じてしまえば、知らぬふりを続けることなどできなかった。

 

 ボクたちの正面にいる二匹と、八坂の正面にいる一匹。三匹はすべて、ボクがこの世で最も憎い畜生共、悪魔だった。

 

「……八坂殿、この三人は、いったい何者です?」

 

 八坂の正面、ボクに最も近い位置にいる一匹が、汚らしく鳴いた。

 

「見たところ、妖怪ではなく人間のようですが……」

 

「つい今しがた言うたじゃろう?沖田殿。妾が呼んだ折衷案、ハンターじゃ」

 

 顔なんて見る気もしないが、聞く限り、男はどうやらボクとクロカの正体に気付いてはいないらしい。パリストンの【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】とクロカの仙術による気配の隠蔽はうまく機能しているようだ。

 

 殺したいのに殺せないジレンマを心の中での嘲笑で発散しつつ、ボクは悪魔共から眼を背け続ける。

 

 八坂がにこやかに言った。

 

「おや、どうやら沖田殿は信じておらんようじゃな。彼が若すぎるからじゃろうか?ならば安心なされよ。妾とてただ闇雲な人選をしたわけではない。彼はこの若さですでに様々な功績をあげておるのよ。主らの身近で言えば……単独でのS級はぐれ悪魔討伐、とかの。調べた限りでは強力な神器(セイクリッド・ギア)も所持しているらしいぞ?どのようなものかはわからなんだが……のう曹操殿、一つ教えてはくれぬか?」

 

「さすがにそれはご容赦願いますよ、八坂殿。しかし、私をそのように評価していただけるとは思っていませんでした。光栄の至りです」

 

 曹操と八坂の間に形式的な朗笑が流れた。至近距離で悪魔の鳴き声を聞くよりはずっとましだが、曹操のそれも癇に障ることに違いはない。平静を保つことに苦心するボクは、この二人の会話を右から左に聞き流していた。

 

「光栄ついでにもう一つ尋ねてもよいか?人数の指定もせなんだし、文句があるわけではないのじゃが……主が連れてきたその二人はどのようなお人なのじゃ?どうにも見覚えがない」

 

「ああ、それも説明せねばなりませんね。実はこの二人、厳密にはハンターではありません。ハンターライセンスを持たない、所謂アマチュアハンターというやつです」

 

「ほう、あまちゅあ……」

 

「大きな事件にも関わってきませんでしたから、情報も少なかったのでしょう。ですが目立っていなかっただけで、二人ともプロにも劣らぬ実力者です。

 プロハンターになるための試験、というものが存在するのですが、つい今しがたもそれについて二人に話していたのですよ。お前たちなら簡単に合格できるだろう、と。それに関しては、私の命を賭けてもいいくらいです」

 

「ほうほう、曹操殿がそこまで言うなら、そうなのじゃろうな。よかったのう沖田殿。これで白音の安全は確約されたようなものじゃ」

 

「ええ、ご安心ください。二人の能力は特に人探しに有用ですので」

 

 ……やっぱり右から左は不可能であったようだ。もしやわざとやっているのか。言葉の節々に挟まれる曹操の上から目線。苛立ちの悪化を抑えられそうにない。

 

 それでも何とか自制せねばと、ボクは座卓にもたれて息を吐いた。肘をつき、革手袋の手で頭にたまった苛立ちの熱を冷ます。

 

 そうやってもたらされた僅かな冷気に意識を移し替えようとした。その時だった。

 

 耳をつんざく甲高い声が、意識の奥に沈みかけた苛立ちを引き上げた。

 

「つ、つまり、あなた達は白音を助けてくれるってこと、なの……?」

 

 視界の端、反対側の席から身を乗り出して、赤髪の幼体が必死の形相でそう訊いた。

 

「ん?まあ、そういう依頼ですからね」

 

「な、なら――」

 

 と、興奮した赤髪は鼻息荒く、座卓を乗り越える勢いで手を伸ばしてきた。対角線にいる曹操ではなく、正面のボクめがけて。

 

 苛立ちを通り越し、虫唾が走る。

 

 叩き落とした。

 

「触らないでくれる?」

 

 憎悪と殺意と嫌悪感。すべてをその一言に押し込めた。

 

 途端、血の気が引いた赤髪が恐怖に慄き、弾かれたように手を引いた。右隣の男から鋭い殺気が突き刺さるが、しかしそれに応える前に、また曹操が邪魔をした。

 

「いや、申し訳ない。そいつは少々、人嫌いならぬ悪魔嫌いをこじらせていまして……失礼ですが、言葉の通じぬ獣とでも思って放っておいていただければと思います。そこな……あー、悪魔のお嬢さん?」

 

 普段であれば半殺しにするレベルの侮辱すら、気にもならなかった。決して見せてはいけない悪意が、心の内に渦巻いている。

 

 ここで手を出せばすべてが無駄になる。クロカの望みが破綻してしまう。そう思うことで何とかギリギリ踏み止まり、出かかったどす黒い思いを呑み下した。対面に座するもう一匹、なぜか堕天使の気配が混じった黒髪と、それに抱き着き震える赤髪を、せめてもの激情を込めてボクは凝視し続ける。

 

 思考停止状態。冷や汗混じりの笑みを曹操に向けられてからたっぷり三秒を要し、頭の歯車を一ミリだけ動かすこと叶った赤髪は、震える声でさえずった。

 

「リ、リアス……リアス・グレモリー、よ……この子は、私の女王(クイーン)の、姫島朱乃。あっちがお兄様……魔王サーゼクス様の騎士(ナイト)、沖田総司……あ、あなた、は……?」

 

 すでに出ている名前に気付けるほどではなかったが、半泣きになんとか言い切った。曹操がわざとらしく驚いたふうな顔をする。

 

「これは、まさか魔王殿のご息女であるとは思いもよりませんでした……名乗りが遅れて重ね重ね申し訳ない。私は曹操という者です。この二人が……」

 

「……ウタ、です」

 

「……フェル」

 

 無視してやりたいのは山々であったが、仕方なくクロカに続く。視界外で怒りの気配を増していく男の悪魔が、その心情を隠そうともせず、唸り声をあげた。

 

「それで、八坂殿。この者たちが折衷案とは、どういう意味なのです?私が何度も申し上げた嘆願は、その意味すら伝わっていなかったのですか……?」

 

 漂う不機嫌な気配にも一切の変化なく微笑みながら、八坂が柔らかな声音で言った。

 

「ちゃあんと伝わっておるよ。我ら妖怪の手では不安なのじゃろう?じゃから代わりに、ハンターを呼んで探してもらおうと――」

 

「何が代わりですか!!」

 

 ばん、と座卓が揺れ、置かれたグラスが倒れた。零れた中身が上に広がる。

 

「信用できるわけがないでしょう!?たかが人間に何ができるというのです!!ましてや依頼主が貴女では……それに、このような眼をする者がいるんだ!!その悪意を白音に向けない保証はどこにもない!!」

 

「……!!」

 

 瞬間、理性が飛んだ。栓が外れて黒が漏れ出る。殺意が、ボクの身体を動かした。

 

 だがそれもすぐに止まった。袖口に触れるクロカの手。その感触に意思が留められ、ボクの腕はそこより先に進むことはなかった。

 

 クロカの青ざめた表情を目にしながら、ボクは少し早口の曹操を意識した。

 

「心配はごもっともです。ですがその必要はありません。平時ならともかく、仕事に私情は持ち込みませんよ。こいつも承知の上でここに来ていますので。なあ、フェル?」

 

「……うん」

 

 形だけの生返事。曹操の笑顔が引きつるも、八坂による瞬時の助け舟で元に戻る。

 

「というか、種族的には妖怪ではなかったかの?その白音という娘は」

 

「おや、そうなのですか?ならばなおのこと心配ご無用ですね」

 

 白々しい会話だ。二人だけで示し合わせたかのようなやり取りは、またしても轟音を鳴り響かせた。

 

「だからその言葉が信用できないと言っている!!第一、我々が求めているのは戦力ではなく許可だ!!我々悪魔の手で、京都の町を探す許可が欲しいだけです!!話を逸らさないでいただきたい!!」

 

「逸らしてなどおらんよ、沖田殿」

 

 鼓膜をビリビリ震わせる畜生の声に答えた八坂は、その表情を一変させ、冴え冴えとした冷光を向けていた。暴風のように吹き付ける圧力を放ち、続ける。

 

「その話は飽きるほどしたじゃろう。答えもしかりじゃ。一編たりとも変わらん。妾は京を治める者として、そのような要求に応えるわけにはいかぬ。絶対にじゃ。

 我らを信用できぬというなら、それでもよい。じゃがな小童、妖怪にも誇りというものがある。あまり、我らを愚弄してくれるな」

 

 最後に一際強く威圧の重低音を打ち鳴らすと、八坂は反論を許す前に腰を上げた。見下ろし、淡々と告げる。

 

「妾ができる譲歩はここまでじゃ。これも受け入れられぬと言うなら、白音のことなど忘れて主らの世界に帰るとよい。許可証の期限はもう切れておるのじゃろう?止めはせん」

 

「そ、そんな……」

 

 赤髪が呆然と鳴いた。すると八坂は一転して優しげな微笑に戻り、それを幼体二匹に向ける。

 

「どうであれ白音は見つけ出す。安心なされよ悪魔の姫君。ただ、もう主らにできることは何もない、というだけのことじゃ」

 

 黒髪共々ポカンと開口する赤髪を見届けると、八坂は次いでボクたちを見やり、半身振り返って障子の引手に手を掛けた。

 

「そうと決まればじゃ、ハンターの方々。依頼の詳細を説明しよう。妾についてきておくれ」

 

 曹操に眼を向けると、気付いた奴が咎めるような視線を返して立ち上がった。想像通りこじれていたが、どうやら依頼主に従うらしい。ボクも胡坐を解き、腰を上げると、正面でボクに怯える幼体を、なぜか見つめて動かないクロカの肩をゆすって起こし、部屋を出ようとした。

 

 しかし寸前、障子の向こうに消えようとする八坂の姿を、男の声が引き留めた。

 

「随分、頑なですね、八坂殿。我々の信頼関係は、そこまで希薄なものでしたか?」

 

 見もせずに、八坂の冷ややかな声色が、侮蔑を含んで凛と響く。

 

「あのような大勢で押しかけられれば、頑なにもなろう。ましてやお主ではな」

 

 言うと、八坂は少しだけ足早に歩き始めた。

 

 彼女には恐らく聞こえなかっただろう。というか、最後尾のボクにしか聞こえなかったはずだ。それほど微かな、ごく小さいつぶやきだった。

 

「大勢……?」

 

 怒りの類ではなく疑問の色。ボクは部屋を出て、廊下を戻る皆の後に続いた。




八坂殿の口調わっかんねぇ…語尾に「にゃん」付けない黒歌と腰の低い曹操もそうですが、キャラ崩壊してないかすごく不安…
なので感想ください。


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七話

曹操は高校生くらいのイメージ。
黒歌は大学生くらいのイメージ。
ピトーはピトーくらいのイメージ。
言ってなかったけど今原作開始の四年前です。

20/9/08 本文を修正しました。


「フェル……大丈夫なの?」

 

「うん?」

 

 悪魔共の部屋を立ち去り、来た道である廊下を八坂の導きに従って戻る最中、締め切られた障子と白砂に反射する日光で目を瞬かせたボクは、隣のクロカに首を傾げた。

 

「だって……」

 

 何やらおずおずと言い淀み、躊躇いがちに再度息を吸いこんだ。

 

「やっぱりフェルは家に戻るべきなんじゃないかって……ほら、悪魔と関わるなんて、あなたには苦痛でしょ……?」

 

 やや間を開けて、言わんとすることに気付く。別にクロカが気にすることじゃないんだけどなあ、と苦笑しつつ、ボクは肩をすくめてみせた。

 

「まああれは……さすがにちょっとまずかったかもだけど……依頼には関係ないじゃない?別にアレと戦うわけじゃないし……ていうか、戦ったとしてもあの三匹ならどうとでもできるし」

 

「ほう、あ奴は悪魔の中でもかなりの名うてであったと記憶しておるが、そこまで言い切るか。随分な自信じゃの」

 

 前を行く八坂が、首だけひねって楽しげに言った。間に挟まれる曹操は、なぜか得意げな顔をする。

 

「あながち冗談でもないのがこいつの恐ろしいところですよ。我々ハンターの中でも、純粋な戦闘力で言えば迫る者はごくわずかだ」

 

「それは何とも頼もしい。確かに、フェル殿は中々尋常でない気配を発しておられたな。正直、妾も背筋が冷える思いじゃったよ」

 

「そう?それはどうも。あと曹操、オマエ、帰ったら試合の続きやってあげるから、その前に遺書でも書いておきなよ」

 

 さっきの分も合わせて、もはや手加減する気は欠片も残っていない。クロカに刃を向けた時の瞋恚そのまま、死ぬギリギリまでぼっこぼこにしてやる。

 

 という視線で睨みつけると、曹操は「褒めたんだがな」と呟いて困ったように頭を掻いた。その頬は少しだけ持ち上がっている。死刑宣告をされて喜ぶとは……知らなかった。曹操は噂に聞く『マゾ』だったのか。

 

 ともかく、ボクの悪魔に対する憎悪が暴発しないかという不安は、とるに足らない杞憂なのである。少しばかり漏れ出はしたが、クロカのためならこの衝動を抑え込むくらい、やってみせねばならないのだ。

 

 とはいえ手を伸ばしかけたという事実は、クロカの心にしっかりと根を張ってしまっているようだ。眉尻を下げて俯きがちに歩く彼女は何かを堪えるかのように喉を鳴らし、そして恐る恐るの手つきでボクの手を握った。

 

「でも私、あそこまでだとは思わなくて……ねえ、ホントに無理してない?私一人でも、たぶん平気よ」

 

 言ってから、ばつが悪そうにますます縮こまるクロカ。どう答えればまたあの笑顔に出会えるのかと無駄に切り出しを考えてから、ボクは結局思った事のそのままを口にした。

 

たぶん(・・・)じゃあ、ウタ一人を置いてなんていけないよ。……ちょっとイラっとしただけだからさ、そんなに心配しないで」

 

 アイツに自分の危惧を見透かされたような気がして、ほんの少し熱くなってしまっただけなのだから。

 

「……そう」

 

 納得していないことがありありと伝わるくらいの不安顔をするクロカにボクの無念もとうとう臨界点を迎え、たまらず視線を庭にやる。再度照り返しで眼をあぶりながら、ボクはまた、自分の異常性を直視する羽目になったのだった。

 

 そうやって交信が止み、冷えてしまった空気感であるが、そんなものは八坂にとって何の障害にもならないらしい。上に立つ者の風格というものか。羨ましくも思いながら、微塵も揺らがないその声色を聞いた。

 

「しかし妾も、失礼ながらそのことに関しては不安が拭えぬ。無論、白音をどうこうということではないのじゃが、彼女を見つけ出した後、報告には恐らくかの者も顔を出すじゃろう?妾が間を取り持つもりでおったのじゃが、それでも耐え難いようならその方がよいかとも思い始めてな」

 

「そうですね、あれを見た後では……さすがに私もそう思いますとも。しかしながら八坂殿、ご覧の通り、フェルには身を引く気が全くないらしい。無理矢理引き離したら、それこそ大暴れしかねませんよ」

 

「……そのようじゃな」

 

 などという失礼極まりない会話を交わす二人。八坂はともかく曹操のそれをこの場で堪える必要はないだろう。ため息を一つすると、ボクは後ろから曹操の襟首を思いっきり引っ張ってやった。蛙が潰れたようなうめき声に構うことなく、そのまま毒を吐きかける。

 

「オマエさ、いい加減にしないとホントに殺すよ?八坂の前だからって、聞かなかったことにしてるわけじゃないんだからね?」

 

「ああッ……!わかっているとも。お前の『殺す』に脅し以上の意味はないってことくらいな!」

 

「……別に『殺す』っていうのは、肉体的な意味に留まる言葉じゃないでしょ?」

 

 苦しそうに歪んだ表情から、ようやく不敵な笑みが消えた。ほんのりと胸のすく思いに今度はボクが口角を上げ、ぽいっと曹操を投げ出すと声を張ってそっぽを向いた。

 

 八坂はもちろん、あの悪魔共にも聞こえるくらいの声量で、

 

「会ってすぐの頃だっけ?『勝負しろ』って挑みかかってきたオマエを半殺しで返り討ちにした時、あの後目を覚ましたらひっくり返って大泣き――」

 

「待てッ!」

 

 突き飛ばさんばかりの力で肩を捕まれた。口の端が変なふうにピクピク蠢く曹操を見下ろしながら、それが言葉を紡ぐのを見つめる。

 

「そ、それは少々、卑怯の度が過ぎるんじゃないか……?心の傷はお前の能力でも治らんのだぞ……?」

 

 なんとなく既視感を感じる懇願だ。哀れっぽい視線に気分はまた上向いたが、それが謝罪でなかった時点で、ボクの心は固まっていた。

 

 一時停止した声帯が解凍され、続きを無慈悲に喧伝し始める。

 

「大泣きして、『俺は最強に選ばれたんだ』とか『英雄になるんだ』とか、中二病全開なことをしゃくりあげながら何回も――んぐぅ」

 

「あー!あーー!!わかった!!わかったから!!俺が悪かった!!謝るから頼むから、その話だけはやめてくれ!!恥ずかしすぎて死にそうだ!!」

 

「ふふ、そういえばあの頃の曹操ってだいぶ痛々しかったわよね。『自分は三国志の曹操の末裔だ』って言って、古ぅい兵法書なんか読んだりして。そういえばその曹操って名前も、いわば芸名なんでしょ?キャラ作りも大変ね」

 

 ボクの口を塞ぐことに成功したのもつかの間、クロカからの追撃に曹操が呆然と肩を落とす。孤軍奮闘空しく力尽きた奴の笑みは諦念のそれへと変わり、斜め屋根の天井を見上げた。

 

「ウタ……俺はお前とはそれなりの友誼を結べていたと思ったんだ……」

 

「そうなの?私は割と嫌いなんだけど」

 

 容赦のない第三波。よろよろと柱にもたれかかる曹操と、ボクたちのやり取りを楽しげに眺めていた八坂は、声をあげて笑った。

 

「くふ、曹操殿にもそのような微笑ましい時期があったのじゃな。年齢にしては嫌に大人びていると思ったが、聞いてみれば曹操殿も普通の人間ではないか。むしろ親近感が湧いたの」

 

「コレが大人びている?まあ最初に比べれば幾らかはマシだけど、全然落ち着きないよ、コイツ。頼りがいは皆無だにゃ」

 

「お前だけには言われたくな……いや、何でもない……」

 

 一睨みであっさりと、曹操は自身の敗戦を理解したようだ。一回り小さくなった奴の存在感は、ボクの苛立ちを大いに満足させてくれた。

 

 リンチを見守る八坂も、その相貌に笑みを湛えていた。

 

 しょぼくれる曹操と、それに愉悦を感じるボク。失意に立ち止まってしまった奴にさらなる追撃を与えて小突くその光景は、確かに傍から見ても笑いを誘うような喜劇だったろう。ボクが悪魔を惨殺せしめた時のような、嘲弄の愉悦。

 

 だが、ボクと同じ心境に至ったのだとすれば、何故その微笑はとても穏やかで、ともすれば優しげにも見えるのだろうか。

 

 ほのかな違和感。とりたてて重要とも言えないおかしな感情。個人差に収まる程度のその感性が、どうしてかボクは酷く気になった。

 

 だがその疑問は数秒後、八坂が発した言葉の突拍子のなさで、雪片のように四散した。

 

「貴殿らは、羨ましいくらいに仲が良いのう」

 

 ボクたち三人を評するには、あまりにも不相応な表現であった。

 

 というか、百八十度真反対なのではないか。『仲が良い』と、このいじめ的行為を繋ぐものを何一つとして見つけられない。ボクの知る限り、仲良しとは互いに幸福な気分になれる間柄のことであり、ボクと曹操のように嫌い合うそれには当てはまらないものだったはずだ。

 

 突発的な意味不明に、新たな疑問が喉を這いあがる。しかし直前、ボクはふと気付き、「何言ってんの?」という言葉を呑みこんだ。

 

 もしかすれば、ボクの理解がおかしいのだろうか。

 

 自身の異常を眼前に突き付けられたばかりの理性は、まず最初にそれを疑った。違いを認識は受け入れがたく、ボクはしばし、至極真面目に黙考する。

 

 その間に、ボクよりも強い衝撃を受け、目を点にしていたクロカと曹操が我に返り、否定の言葉を並べ立て始めていた。

 

「え、ええっと……いったいどのあたりに仲が良い要素があったんですか?そういう冗談は、その……私あんまりわからないっていうか……」

 

「……その通りだとも。八坂殿、特に私は今、言葉と物理の暴力にさらされている最中なのだが……」

 

「くふふ、『喧嘩するほど仲がいい』と言うじゃろ?妾には貴殿ら二人が……そう、兄弟げんかのように見えるの」

 

「きょう、だい……?は、はは。八坂様ってば面白いこと言うんですね……ない……絶対ない!曹操が弟とかマジであり得ない!悪夢だわ!」

 

「悪夢なのはこっちだよ。お前みたいなのが俺の血縁だなんて、想像するだけで怖気が走る。……何をされるかわかったもんじゃないしな。だいたい、弟ではなく兄だろう?自分の精神年齢をもう一度考えてみろ」

 

「あんた友誼とか言ってたのは何だったのよ!それに精神年齢!?肉体年齢もどっちも、私の方がお姉さんでしょうが!この中二病!」

 

「お前、そういうところだぞ」

 

 ……ふむ、やっぱりよくわからない。

 

 道場や家でもよく見る、平時のありきたりなやり取りだ。

 

 曹操に対する欲求不満。ボクは物理的に解消できるが、試合の標的にされないクロカはもっぱら口撃によってそれを発散している。身体は不能でも口は回る奴にしばしば反撃をもらうこともあるように、それは双方にとって争いであることは間違いない。

 

 ならばどう考えても二人の間柄は良好であるように思えないのだが、しかし八坂はそれを見ても尚、考えを改めた様子がなかった。

 

 ボクは『キョウダイ』がどういうものなのか知らない。シロネのことも、よくわかっていない。ならば、そうなのか。

 

「ふうん。こういうのが『キョウダイ』なんだ?」

 

「いや違う!絶対違う!こんなのがしろ……と、とにかくこんなんじゃないから!変な印象持たないでね!?」

 

 一拍の間も開けずに、顔を真っ赤にしたクロカがボクの肩を揺さぶった。鬼気迫った悲壮感。気圧されてしまうくらいの必死さに、ボクは無意識的に頷いていた。

 

 その真意は『キョウダイ』の概念に対する訂正か、それともいずれ相対するシロネの印象を慮ったのか。頷いたはいいが、結局のところ不明である。

 

 ますます『キョウダイ』、ひいては『家族』への理解が遠のくボクの戸惑いは、罵倒の応酬を始めた二人を追い越し、肩越しにいつもの光景を見守りながら、その歩みを緩慢に押し留める。

 

 本来ならサンドバックに徹するべきである曹操が、許容範囲を超える反撃に出ないか。それだけには気を配って注意に意識を取られるボクの憂慮は、どうやら八坂にも届いたようだった。

 

 二人のべた足喧嘩に配慮してくれたのか、速度をゆっくり落として廊下を進む彼女が、温かな視線をボクに向けた。

 

「フェル殿は一人っ子かの?やはり兄弟や姉妹にはあまりピンと来ぬか」

 

「うん。まあ、そうだね」

 

 曖昧に誤魔化す。『キョウダイ』と言っていいのかは知らないが、同じ血を分けた同胞は確かに存在していた。すでに皆死んだ上、そのあたりの事情を話すわけにいかないためそうするしかなかったが、できることなら訊いてみたかった。

 

 これっぽっちもピンとこないのは、ボクがまだ異常だからなのか。

 

「ふむ、そうか。……やはり、寂しいものなのかの?兄弟がおらず一人きり、というのは」

 

 それを知りたいのはボクのほうだ。とため息をつきたくなる気持ちを抑え、庭の灌木を眺めながらさらに誤魔化す。

 

「まあ、そうなんじゃない?あんまり意識したことはないけど、一人よりはずっとマシだと思うよ。なんにも面白くないし」

 

「……そうか」

 

 ふと気付いた。声色が暗がりに沈んでいる。陰った陽気で呟いた。

 

「九重にも、妹か弟がおったほうがええんやろか……」

 

 うつむいた横顔を覗き込もうとすると、それを察したかのように彼女は正面を向き直ってしまった。『クノウ』なるものを聞き返そうかとも思ったが、なんとなくそれは憚られた。

 

 そうして会話が途切れ、背後に諍いの声を聴きながらしばらく行くと、突然八坂が立ち止った。

 

 到着なのだろうか。しかしそこにある障子の向こうに人の気配はない。訝しみつつ、日が当たった彼女の金髪を眩く感じるくらいにまで接近する。そこでようやく、ボクは彼女が立ち止ったその理由を察することとなった。

 

「全く……困った子じゃ」

 

 八坂は三つ向こうの障子を見つめて呟いた。感じるのは二人分の気配。その正体を半ば確信したボクはそれを確実にするため、尋ねた。

 

「そこにいるのが九重?」

 

「……うむ、そうじゃ。もう一人もその世話係故、心配する必要はない」

 

 ばつが悪そうにはにかみ、八坂は後ろの二人に手招きをする。

 

「ほれ、早う来られいお二人とも。茶も用意させる。少し喉を休めぬか」

 

 たちまち言い争いをやめて振り向く二人に先んじて、ボクと八坂は目的の三つ向こうまでたどり着いた。そのまま八坂は引手に手を掛け、障子を開く。

 

 その瞬間、思いもよらぬことが起こった。

 

 殺気も何もない気配が、突如としてボクめがけて飛び掛かってきたのだ。

 

 胸元に突撃してきたそれを、ボクは反射的に抱きとめた。日向のにおいがするふわふわの塊。身動ぎし、ふにゃりと下がっていた耳が、二秒後にピンと立ち上がる。八坂と同じ金色の三角耳は、ゆっくりと顔を上げ、目が合うとキョトンと首を傾けた。

 

 八坂の発言と、その戦意と力のなさはわかっていたため、ボクは身構えすらしていなかった。完全に不意を突いてきたその小さな人影には、正直少なからず驚かされている。

 

 しかしどうしてか、警戒する気持ちは根元から消失していた。

 

 感じられない殺意がただ隠されているだけなのであれば、次の瞬間には無防備なボクの身体を冷たい衝撃が襲っていてもおかしくはない。むしろ暗殺に於いてはそういった気配消しなど、基礎中の基礎である。大して素早くもない飛び掛かりの姿を視認した瞬間、ボクは反応していて然るべきなのだ。

 

 なのに、ほんの僅かもそんな気にはならなかった。ボクは突然の体当たりを受け止めたまま、ふわふわの髪の毛と尻尾を持つ妖怪の幼女と見つめ合う。それ以外の行動を選択することができなかった。

 

 暖かい塊を抱いて、ボクは数秒の硬直を強いられた。

 

「ああ、これ九重!お客人に失礼を……はあ、申し訳ないフェル殿。何分、このようにまだ幼くてな……」

 

「……うん?別にいいけど……ふうん、九重っていうのはキミのことなんだ」

 

 不思議そうにボクの顔を覗き見ていた九重は、自分の名前を呼ばれたことがわかったのか、打って変わって元気よく返事をした。

 

「うん!わたし、くのう!そなたはだれなのじゃ?ヘンなにおいがする!」

 

「ボク?ボクはフェルだよ。においは……ボクが人間だからじゃないかにゃ?」

 

 まさかボクの正体に気付いたのかと、子供の敏感な感覚に内心で冷や汗をかく。

 

 しかしまあ、子供であるのならそれと同時に、そこまでの発想に行きつくはずもないだろう。そう思いなおして、ボクは顔に伸びてきた九重の手を受け入れる。

 

 興味津々に頬を触る小さな手。こそばゆい感触に唯々諾々と従っていると、ふと八坂が困り顔を解し、べったりくっつく九重の身体を引きはがした。

 

 切なげに眉を下げる幼子を腕に抱えなおし、八坂は言った。

 

「九重よ、妾たちはこれから大事な話があるのじゃ。すまぬが遊ぶのはもう少し後で、な」

 

「……うん」

 

 ボクのほうをちらっと見てから、八坂の懐に顔をうずめてしまう九重。その騒動で立ち往生しているうち、クロカと曹操も追いついた。二人を認めると八坂は一つ頷き、部屋に入る。ボクたちもそれに続き、ようやく忌々しい太陽の光から逃れたのだった。

 

 無垢床からい草を踏むと、奥で脚を畳んでいる妖怪の老女が、八坂に向かって平伏した。

 

「申し訳ありませぬ御大将。九重様がどうしてもと聞かず……」

 

「よい。妾にも責があることじゃ。それよりも、すまぬが四人……いや、五人分、茶を用意してくれぬか。お三方は、どうぞ好きに座っておくれ」

 

 そう言って、悪魔共の部屋にもあった座卓を示す八坂。一方の老女は、かしこまりましたと再度頭を下げ、ゆっくりと立ち上がる。入れ替わりに上がり込むボクたちに会釈をして、彼女は部屋を出て行った。

 

 八坂へのそれと比べればはるかにそっけない態度を見送り、九重を抱きかかえたまま上座に腰を下ろす八坂に続いて、奥側の長辺に胡坐をかいた。逆側、八坂のほど近くに曹操が座り、クロカはボクの隣。

 

 皆そろって腰を落ち着けると、八坂が「さて」と前置きをして九重を膝から降ろし、隣の座布団に座らせた。彼女をあの老女と一緒に下げさせなかったことは不思議であったが、さすがに抱いたままの小さな頭を越して話をする気はなかったのだろう。

 

 しかし座布団の上に座らせられた途端、九重は小動物のような俊敏さで八坂の傍を抜け出し、今度はボクの膝に飛び込んできた。

 

 おやおや、という諦め混じりの優しい声色。

 

 見知らぬ幼女をクロカも気にしていたのか、同時、彼女の身体が強張った。ちらちらと覗き見ることをやめ、ボクの身体を上ろうとする九重を落ち着かない目で見つめる。やがて耐えかね、その矛先を八坂に変えた。

 

「あの、八坂様。この子はその……もしかして娘さんですか?」

 

「うむ、妾の娘、九重じゃ。九重、お二人に御挨拶は?」

 

 呼ばれた九重はジャケットにしがみついたまま、ぱっと振り向き満面の笑みをクロカと、次いで曹操に向けた。

 

「はい!ははうえ!けほん、わたしはくのうじゃ!よろしくたのむ!そなたたちはなんていうのじゃ?」

 

「ああ、うん、よろしく……私は、ウタよ」

 

「そして俺は曹操だ。よろしく、お嬢さん」

 

 言い争いでまた不安が蘇ってしまったのかテンションの格差甚だしいクロカと、厭ったらしくキザな返しをする曹操にも分け隔てなく、「よろしくなのじゃ!」と九重は笑顔を巻き散らす。半身を捻ったあいさつが済むと、彼女はその背にかかったボクの腕の上に乗り、まさに目と鼻の先でボクにも微笑みかけた。

 

「フェルも、よろしくなのじゃ!」

 

「うん、よろしく」

 

 言って、軽いその身を胡坐の中に下ろす。

 

 予測のつかない奇行に、ボクはまたしても惑乱させられていた。この小さな生き物は、どうしてこんなにも突飛な行動をとるのだろう。

 

 そんなものだから、ひとりでに口をついていた。

 

「妹じゃなくて、娘なんだ……」

 

 九重も八坂も、クロカに曹操、さらにはボク自身すら、あっけにとられたような顔をしていた。

 

 一拍を開けて、八坂が腹を抱えて笑い始めた。

 

「くふ、くははははは!そうきおったか!九重が妹ということは、妾は姉か?そのようなことを言われたのは初めてじゃ。そんなに若く見えるかの?女冥利に尽きるわ」

 

「え、えーっと……ほら、妖怪くらいの長寿種族ともなると、姉妹間の年齢差は大きくなるものだって……そんなことを本か何かで読んだもので……ね、ねッ!フェル!」

 

「うん、まあ、そんな感じのだよ」

 

 慌てふためくクロカに便乗して、ボクも適当に注視をやめる。曹操も含めて皆の反応を一瞥した限り、勘違いしていたのは自分だけであり、他はそんな発想にすら至っていなかったようだ。八坂と二人での話で『妹』に対する固定観念ができてしまったためだろうか。

 

「フェル、ははうえはあねうえじゃなくて、ははうえじゃぞ?」

 

 一抹の羞恥が九重の鋭い指摘に膨れ上がり、とうとう頬に血が上る。ボクの腹にどっしり背を預け、見上げながら首を傾げるその仕草。無邪気な追撃は、中々の破壊力を秘めていたらしい。

 

 ほぼほぼ無意識に、ボクは九重の頭をぐいぐい撫でて視線を切った。乱暴にしたせいで「きゃふん」と変な声が漏れるも、九重はされるがまま、ボクの手に合わせてぐわんぐわんと揺れている。

 

 柔らかくて手触りのいい髪。手袋を外せないことが少し残念に思えるほどだ。

 

「くふ、九重は随分とフェル殿が気に入ったようじゃな。すまぬがフェル殿、しばらく娘の好きにさせてもよいかの?」

 

「いいよ。どうせ話は曹操がするし」

 

 八坂の微笑みに頷き、正面の奴にぶん投げた。

 

「いやまあその通りだが……ここまで潔く言われると癪だな」

 

「……いいじゃない。どうせ実際に汗をかくのは私とフェルなんでしょ?なら頭使うくらいはやってくれなきゃ。名前だけとはいえ、一応あんたリーダーなんだから」

 

 当たりもきつく突き放すクロカ。曹操の苦笑は、またしてもいら立ちを刺激するにやけ顔だった。

 

 八坂は、それを認めてやはり微笑んでいた。温かでいてどこか冷静な、春先の湖のような眼で、

 

「感謝する、フェル殿。そしてウタ殿に曹操殿。近頃は忙しくて、あまり九重に構ってやれなんだのだ。年の近い子もおらぬし、寂しい思いをさせてしまうことが多くてな」

 

 ボクたちを見てそう言った。

 

「年の近い、ですか。それはまあ、そうなのでしょうが……」

 

「なに、人の子の年齢など、我ら妖怪からすれば些細な事。それにこの子は次代を担う妾の娘じゃからな、古臭い我らより、お三方のほうがよほど身近じゃろう?どうぞ仲ようしたってくださいな」

 

 曹操は言葉に窮したかのように、何か言いかけた口を閉ざした。貼り付けたような苦笑が見ているのは、八坂の瞳。

 

 出会ったばかりの人間(ボク)に抱きかかえられて、自分の娘が幸せそうに笑っている。その様子に、あの温かな視線を向けている。

 

 言うなれば、そう、慈愛の眼差し。

 

 たぶんこんな眼ができる者が、母親なのだろう。

 

 ボクはふと、あの吹雪の夜を思い出した。

 

 作り物の聖剣を携えた巨漢、後に聞いた話だが驚くべきことに性別は女であったらしいそいつが、紛れもない時間稼ぎに言い放った言葉。

 

 つまり、所詮ボクには縁遠いものだったのだ。ボクには、同じ状況で八坂と同じ眼をすることなどできないのだから。

 

 クロカを失う可能性など、一欠片でさえ受け入れられるはずがないのだから。

 

 ――その時、

 

「……おや」

 

 不意に八坂が明後日の方向を見やって呟いた。クロカと曹操もそろって反応し、入り口のあたりに目を向けている。

 

 気分の沈降と同時であったボクだけが、それに気付くのが遅れた。

 

 ギシギシと、廊下を駆ける足音。ほどなくして、九重すらも障子に胡乱げな眼を向ける。

 

 そいつは、八坂とボクたちが話し合いをしているはずのその場所に、何の躊躇もなくけたたましい開閉音を鳴り響かせた。

 

 スパーン、と。

 

「お話し中、失礼します!!八坂様!!」

 

 赤髪の悪魔は、まっすぐ八坂だけを見て叫んだ。

 

「リ、リアス、だめよそんないきなり……」

 

 もう一匹、黒髪がその背に隠れて服の裾を引いている。まるで効果は出ていないが、赤髪よりは自分たちがしでかしたことを理解しているようだった。初めからいないものと心に決めているかの如くボクたちを無視する赤髪に代わり、黒髪は三人分の冷めた眼を一身に浴びて委縮していた。

 

 八坂が一際大きくため息を吐き、頭を押さえた。

 

「……どうされた、姫君。妾に何か用事かの?」

 

「はい!無礼とは承知していますが、どうしても聞き入れていただきたくて……。八坂様、私たちを白音の救出に連れて行ってください!!」

 

「……まあ、まずは腰を下ろすとよい」

 

 最も忌避する成体の悪魔は、どうやら来てはいないらしい。無言で頷いて、憮然の表情に冷や汗をかいた赤髪は、言われた通にりに八坂の対面に正座した。恐る恐るで黒髪も座り、俯きながらチラチラボクを覗き見し始める。

 

 目を逸らしていても感じてしまうくらいの、あからさまな恐怖。赤髪も黒髪も、あれでバレていないとでも思っているのか。

 

 落ち込んだ気分を押し上げる憎悪。抱いた九重で癒しながら、そこに重ねられたクロカの手を感じて、ボクは無心に目を閉じた。

 

「それで、『連れて行って』じゃったか。それに関しては前も言うたじゃろう?許可証の期限が切れた以上、駄目じゃ。何度言われても再発行はできん」

 

「ッ……。ぜ、絶対に邪魔はしません!謝礼だっていくらでも用意します!許可も、私たちの分だけでかまいません!だからせめて見届けるだけでも――」

 

「駄目じゃ。それに、そういう問題ではないのじゃよ。意地悪をしているわけではない」

 

 食い気味に言うと、八坂は恐らく赤髪の目をじっと見て、ゆっくり言い聞かせるかのように続けた。

 

「この京に気脈が巡っていることは知っておるな?お主ら他神話の者に出される許可証というのはな、身分証であると同時に、その気脈から主らを保護する防具でもあるのじゃよ。なにせ強力な『気』に長時間包まれるわけじゃからな、下手をすれば無自覚のうちに『精孔』が開いてしまうのよ。そのあたりは曹操殿らもご存じじゃろう?」

 

「ええ、有名な話ですからね」

 

 話を振られた曹操がにこやかに頷き、赤髪に向かって言った。

 

「無能力者の人間ならともかく、生来の異能を持つ種族は『力』を使い慣れているせいか、その影響を受けやすいと聞きます。それに自然由来の『オーラ』、もとい『気』は色々とまばらですから、中途半端に『念』に目覚めてしまうせいで体内の『気』が枯渇し、立てなくなるほどの全身疲労に陥ったりもするんですよ」

 

 付け加えるとすれば、そういう事態に陥るのは『力』の制御もできない雑魚に限るのだが、あえて言わなかったのだろう。おまけ機能(防具)であるその理由で説得するなら当然のことだ。

 

 自分の身に危険があるのだと知れば、赤髪も躊躇を見せると踏んでの言葉。しかし委縮させるには、奴の『念』に対する知識は不足しすぎていたようだ。

 

 赤髪は、者の見事に困惑していた。そしてその困惑は、傲慢な悪魔らしく、根拠のない万能感に打ち消されてしまったらしい。

 

 アホ面に空っぽの自信をみなぎらせ、赤髪は床に手を突いた。

 

「えっと……とにかく危険なことはわかりました。でも、かまいません!もし私に何かあっても、責任はすべて私が取ることをお約束します!白音は……あの子は今この時も一人っきりで辛い思いをしている。じっとなんてしてられないんです!八坂様、どうかお願いします……!」

 

 頭を下げ、土下座をする赤髪。はっと我に返って同じように身体を畳む黒髪の気配にも、諦めた様子は見られない。今もプルプル震えているくせに、もはや行けるところまで行ってしまえという心境らしい。

 

「必死に頼まれてもな、そればっかりはできんのよ。許可証は、観光地たる京都と、我ら妖怪の両方を生かし、守るための重要な取り決めじゃ。例外の前例を出すわけにはいかん。わかってくれぬか」

 

「……お願いします」

 

 なるほど、頑固である。赤髪と黒髪は、八坂がいいと言うまでこの茶番劇を演じ続けるのだろう。

 

 我を通すため、こちらの事情を一切顧みない。病的な我が儘。自分勝手。

 お手本のような悪魔っぷりだ。特に奴らのこういう部分が、ボクは嫌いだった。

 

「フェル?どうしたのじゃ?……おこっておるのか?」

 

 九重が立ち上がり、ボクの耳元(実際の耳は帽子の中にあるわけだが)で声を潜めた。離れて、心配そうにボクを見るその眼には、ほんの僅かだが怯えが射している。

 

 気付いたボクは、息と一緒に憎悪を呑みこもうとした。

 

 同時だった。

 

「ねえ、リアス・グレモリー……さん。聞いてもいい……?」

 

 クロカの声が、ボクと赤髪たちの注意を滑らかに引き付けた。

 

 決心でそう言ったクロカに顔が向く。さすがに無視できない赤髪は、なし崩し的に隣のボクをも眼底に映し、震えている。

 

 それを意識から締め出して、ボクはじっと、揺れ動くクロカの瞳を見つめていた。

 

「白音は、あんたにとって何なの……?妖怪だってことは、眷属でもないんでしょ?もしそうじゃないんだとしても、そこまで必死になる理由は何?諦めて、もっと便利で使い勝手がいいのを探せばいいじゃない。魔王の妹なんだから、いくらでも見つかるはずよ。――白音の潜在能力は、それほど魅力的に見えているの?」

 

「ち、違うわ!私は、あの子の力が欲しいわけじゃない!そ、それはもちろん、将来眷属になってくれたらとは思うけど……けれどそんなことは関係ないわ。あの子は、私の家族なんだもの」

 

 ――家族。

 

「………」

 

 クロカの決心を、後悔と一抹の寂しさが侵食した。

 

「……いいとこみせて、白音を誑し込もうって魂胆?弱り切ったところに颯爽と現れて、吊り橋効果でも狙ってるわけ?」

 

「家族が心配なだけよ!家族なら、危ない目に合っているあの子を心配するのは当たり前でしょう!?」

 

「そうね。でも所詮、上級悪魔にとっては他種族なんて奴隷同然じゃない。いいとこペット程度の感覚よね、それ。何を言おうが本心では替えの効く駒としか思ってないのよ」

 

「そんなこと――」

 

 苦々しげに顔を歪めて、クロカは赤髪の反論を睨みつける。

 

「いっぱい知ってるわ、悪魔に傷つけられた人。……眷属になったってそう。たった一度、飼い主の手を噛んだだけであっという間にはぐれ認定。あんたもそうすればいいじゃない。将来のために白音を囲っていた努力がもったいないんでしょうけど、姿をくらまして主を煩わせるような下僕なんて放っておいたら?私たちみたいなのがちゃんと退治してあげるから」

 

「やめて!!」

 

 赤髪の悲鳴が鼓膜を貫いた。九重が身体を強張らせ、尻尾をぶわっと膨らませる。

 

 声量、音域、そして何よりその悲鳴が本心より出たものであることが、ボクと、恐らくクロカにとっては耐えがたいことだった。

 

 赤髪は、クロカが受けた仕打ちを否定したのだ。

 

 ――なら、あれはいったい何だったのだ。

 

 ボクは九重の身体を抱く力を無意識にさらに強めながら、座卓の下で拳を握り締めるクロカが、それを必死にしまい込もうとする葛藤を見つめていた。

 

「何が『やめて』よ……何が『家族』よ……。そこまでして白音の才能が欲しいわけ?それで拒否されたらどうなるのかしらね。脅す?縛る?それとも洗脳でもするの?……バカみたい」

 

「絶対、絶対にそんなことはしないわ!!誰に何と言われようとも、私は白音の味方で居続ける……!たとえこの先、あの子が私とは別の道を歩むのだとしても……そう、決めたもの……」

 

 段々と勢いを失っていく言葉尻。それに伴い赤髪は悔恨の念を醸し出す。

 

 紛れもなく、奴は白音を想っているのだとわかってしまう。ボクにはわからないものを奴は知っているのだと、嫌でも理解してしまう。

 

 うらやましい。いや、恨めしい。

 

 負の感情をすべてごちゃまぜにしたような激情が、クロカのそれにゆっくりと呼応し始めた。

 

 曹操がしゃしゃり出た。

 

「ウタ、お前、フェルの悪魔嫌いが移ったらしいな。勘弁してくれよ、フォローするこっちの身にもなってくれ……依頼主ではないとはいえ、リアス殿も結構偉いお方なんだぞ?」

 

 うなだれて、「嫌われたらどうするんだよ。大口顧客なのに……」とため息をつく。ボクとクロカから白い眼を浴びせられながら、大げさに頭を抱える曹操は赤髪に媚びへつらった笑みを向けた。

 

「ははは……そういうわけです、リアス殿。どうやらこいつの言葉も聞く必要はなさそうだ。どうか気になさらないでください。こいつらがどれだけ反発しようが、八坂殿が下した決断には逆らいませんので、どうぞそちらに集中していただければと……こいつらのことは忘れて……」

 

「……いいえ」

 

 赤髪は顔を上げ、なんとボクとクロカを見据えていた。怯えてはいたが、しかし毅然と言い放つ。

 

 まるでそれは独白のようだった。

 

「ウタの言う通り、なのかもしれないわ。白音がどこかに行ってしまうかと思うとすごく辛いし、何をしてでも手元に置きたいとも、思うかもしれない。私のこの気持ちも、始まりはペットに向けるようなもだったかもしれない。

 ……でも、そうだとしても、今は違うわ。私はあの子を守りたい……守らなくちゃいけないの。私はあの子を……傷つけてしまったから。傷つけてしまっても、愛しているから、愛していたいから、だから、どうしても償いたい……

 京都に来たのも、そのためだったの。あの子が少しでも楽しめれば、って、元気になってくれたら、って、思っていたのよ」

 

 わずかに目を伏せ、赤髪は夢想にふける。あまりに抽象的すぎる内的イメージの吐露。息を吐いて、ようやく赤髪はその事象を口にした。

 

「白音には、黒歌っていう姉がいたの」

 

 クロカの表情が、凍り付いたように固まった。赤髪は気付かずに続ける。

 

「始まりはほんの一年半前、力に呑まれた黒歌の主殺しだったわ。自身が仕える上級悪魔と眷属を皆、残虐に殺したの。居合わせた使用人や警備も含めて、犠牲者は数十人。しかも、キメラアントっていう狂暴な魔獣も手懐けて……討伐隊は何度も全滅させられたわ。

 そんな姉の唯一の血縁者だったから、当時の白音に対する批判はすさまじくて、見ていられなくて……だから私、お兄様に頼んだの。白音を保護して、助けてあげてって。……お兄様はお願いを聞いてくれたわ。あなたたちハンターのトップ、アイザック=ネテロに依頼して、諸悪の根源である黒歌を討伐してくれた」

 

 ――諸悪の根源……?

 

 頭の中で繰り返す。

 

 妄言はまだ続く。

 

「嬉しかったわ。私は浮かれていたの。これでようやく、白音に責任を求める声は無くなるって……けど、そうはならなかった。黒歌討伐の映像記録を見た貴族たちは、皆そろって言ったわ。姉のように危険なはぐれ悪魔になる前に……殺してしまうべきだって……

 そのころにはもうお兄様の預かりになっていることは知れ渡っていたから、実害こそなかったけれど……白音はどんどん心を病んでいったわ。姉に裏切られ、信じられる者は誰もいなくて……挙句、私のせいで悪意の矢面に立たされてしまったんだもの。当然よね……」

 

 脳裏にあの時の光景が浮かび上がる。果てしない絶望に染まった瞳で、殺してくれと絶叫するクロカの悪夢。

 

 何が『心を病んだ』だ。何が『裏切られた』だ。

 

「私は間違えてしまったのよ。あの時、私はお兄様にお願いするべきではなかったんだわ。白音の一番近くにいた私こそが、身を挺してあの子を守らなければいけなかった。そうすれば、悪いのは白音じゃなくて黒歌だって、皆を説得できたかもしれないのに」

 

 あんなにも傷ついたクロカが、あんなにも苦しんだクロカが、何故悪人と呼ばれなければならない。

 

 何故コイツは、この愚者は畜生は汚物どもは、さも当たり前のようにクロカを悪と断じている?

 

 何の権利があって、ボクのクロカを穢している?

 

「私も同類なのかもしれない。黒歌と同じように、白音を引き留める資格はないのかもしれない。でも、だからこそ――」

 

 そこまでされて平静を保てるほど、どうやらボクは優秀ではなかったようだ。

 

 荒れ狂う感情は、勝手にボクの口を動かした。

 

「煩いよ、赤髪」

 

「――ッ!!!」

 

 赤髪の毅然が砕け散る。一緒に漏れ出たボクの『気』に押しのけられ、乗り出した座卓から身を引いた。

 

 口を半開きにして、畜生二匹はボクを凝視していた。

 

「恩の押し売りの次は同情でも買う気?『私とシロネはこんなにもかわいそうなのよ』って?……悪いのはそんな低俗な考え方だよ。悪魔らしい粗末な脳味噌で、自分の無能をよく顧みてみるといい」

 

 喘ぐように唇を震わせていた赤髪は、それと共に意思をも閉ざした。ただ怯えたまま、黙りこくる。反論は何もない。

 

 ……本当に何もないのか。

 

 なんでこの程度のヤツが――

 

 ボクは舌打ちを我慢できなかった。

 

「……何人かなんて知らないけど、たかが殺しでここまで言われるなんてクロカも災難だね。死んでからも心休まる暇がないなんて、こっちのほうがよっぽど同情できるよ。ずーっといじめられて、かわいそうじゃない?

 ま、憎むには手ごろだもんね、死人は文句なんて言わないし。……ボクなら殺せって言った奴らを憎むけど」

 

 何かが眼に入る前に、ボクは矢継ぎ早にまくしたてる。

 

「オマエの罪を黙って肩代わりしてくれる存在は、さぞありがたかっただろう?都合の悪いことは押し付けて、信頼だけ掠め取る。オマエがシロネにやってるのは、結局そんなことでしかない。そんな様で……よく家族だなんだと宣えるね。大層なこと言って、けど現実、今シロネはどこにいるの?攫われたんだろ?オマエが眼を離したせいで。なのに何もできない。何もしない。ただ放置してるだけ。シロネを引き留めるどころか、家族である資格もないじゃないか。……オマエのお遊びに付き合えるほど、ボクの心は広くないし、余裕もない。

 ねえ、イライラするんだよ、オマエの言葉を聞いてると。その口で、家族を語らないでくれる?」

 

 ボクの心の中は、真っ黒に渦巻いていた。憎悪に憎悪が重なって、下地なんてもう見えない。いや、見えなくしていた。覆い隠していたのだ。

 

 同じだ。ボクはどうやってもそれを乗り越えることができない。乗り越えられないから、塗りつぶすしかない。塗りつぶすしかないから、いつまでたっても乗り越えられない。

 

 目を逸らし続けた。けど完璧じゃなくて、その度に躓いてきた。いつかは転んでしまう時が来る。

 

 今がその時だった。

 

「あなたに『家族』の何がわかるのよ!!」

 

 赤髪と目が合った。

 

 瞬間、真っ黒がすべて剥げ落ちた。

 

「確かに私は黒歌に責任転嫁していたのかもしれないわ。白音に正面から向き合えなかったのは、私の責任よ。でも、初めて会ったあの時、あの子は私の手を取ってくれた。私を信じてくれたのよ!あの瞬間から、私たちは家族になったの!これだけはあなたにだって否定させないわ!!」

 

 ――なんだそれは

 

 なんでお前なんかが家族を知っている。なんでお前も知っている。

 

「もし白音が自分の意思で居なくなってしまったのだとしても、私は受け入れてみせる!愛しているから、家族だから、受け入れて、その上で苦しみを取り除いてみせる!私は、白音を助けるためにここにいるのよ!!」

 

 なんでそんなことができる。なんでお前たちは持っている。

 

 皆だ。

 

 赤髪も、

 黒髪も、

 成体も、

 聖剣の奴らも、ネテロも、八坂も、九重も、曹操も、

 

 クロカも、

 

 皆知っている。

 

 『姉』を、

 『妹』を、

 『兄弟』を、

 『母親』を、

 

 『家族』を、

 

 ボクだけが持っていない。

 

 この世で一番愛しているのに、大切なのに、失いたくないのに、

 

 なぜボクだけが、こんなにもクロカを理解できない。

 

 

 

 なんでボクは、こんなにも一人ぼっちなんだ。

 

 

 

 光が、目障りだ。

 

 

 

「――ェル……フェル……」

 

 ジャケットの裾が引っ張られていることに気付いた。

 

 我に返ると、眼前の情報が鮮明になった。まず認識したのは自身の右腕。赤髪に向かって伸びている。元々の距離故に当然届いてはいないが、赤髪は混じりっけなしの恐怖で後退り、腰を抜かしてしまっているようだ。黒髪共々、障子にぴったりと背を付けて目を見張っている。

 

 曹操と八坂はわずかに腰を浮かして、飛び出す寸前といった構え。ボクを呼び覚ました九重も、今すぐにでも声を上げて泣き出してしまいそうなくらい、怯え切って眉尻を下げていた。

 

「フェ、ル……わたし……こわい……」

 

 震えた声で、ようやくボクは自身のしでかしたことに気が付いた。

 

 即座に、ぶちまけた『気』の威圧を引っ込めた。曹操と八坂がほっと息をつき、赤髪と黒髪は脱力してずるずると崩れ落ちる。

 

 九重を見やる。未だ不安そうなその顔。ボクはゆっくりと慎重に、怯えながら頭に手を伸ばした。

 

 柔らかな金髪に触れる。撫でる。一度、二度……

 

 九重の表情が綻ぶまで、実に七撫でを要した。胸の内に広がる苦いものを必死になって臓腑に落とし込む。

 

 ふうっと、部屋の中に風が吹き込んだ。

 

「……とにかくじゃ、姫君。何度も言うが許可証は出せん。何を言われようが、そればかりは変えることができんのじゃ。ただ、お主の気持ちはよく分かった。故に、そうじゃな、協力してくれぬか?白音のことを話してほしい。人となりがわかっていれば、捜索も幾分かやりやすくなろう。良いか?」

 

 赤髪はただ頷くことしかできなかった。

 

 恐怖に呑まれ、考えを巡らすこともできなかったのだろう。それを巧みに利用してしまった八坂は、恐ろしいとか何というか、自分も衝撃は抜けきっていないだろうに、さすが九尾の狐だなという益体のない感想を、ボクは抱いた。

 

 まあ、頭が働いていなかったのはボクも同様であったのだから、さもありなんというやつだ。曹操も九重も、あの場にいた者は皆すべからく、ボクの悪意に影響されたのだから。

 

 ただ――

 

 クロカは始終、ほのかな笑みを浮かべていた。




六話と七話がプロット上では一話にまとまってたってマ?
相変わらず見通し甘くて進みが遅い拙作ですが、これからもよろしくお願いします感想ください。


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八話

神絵師ならぬ神作家の腕を食えば私の文章力も向上する可能性が微レ残…?


 日も暮れ始め、空が赤く染まりつつあるというのに、ボクの身を襲う熱気と人ごみは全く落ち着く様子を見せなかった。

 

 相も変わらず賑わう繁華街。時間的にも食べ歩きをする人間が多いらしく、昼間よりも食べ物のにおいが強いが、それでもにおいの元がすべて和というカテゴリーに属しているためか、多種多様に混ざり合った芳香はそれほど不快ではない。ぽつぽつ灯り始めた灯篭と転じた空気感も相俟って、そこはまさに観光地と言うべきな心躍る様相を呈していた。

 

 できることなら、ボクもそれにあやかりたかったものである。

 

 歓楽の喧噪の中、一人だけ陰鬱を纏ってとぼとぼ歩くボクは、その手に持った一枚の写真に目を落とし、封を解かれた己の闇に沈みこんでいた。

 

 写真は悪魔の赤髪から渡されたものだった。

 

 幸薄そうに俯く白い子供が映っている。胸部が膨らんでおらず見た目では見分けがつかないが、性別は女だ。少しつり上がった目元とつやのある肌。そして何より、その頭部の三角耳と腰から伸びる二股の尾は、クロカそっくりの形をしていた。

 

 つまり、シロネの姿だった。

 

 髪色やら体型やらの違いはあれど、見れば見るほどその姿はよく似ている。少し前に見たあの双子のような、目に見えてわかる二人の繋がり。『姉妹(キョウダイ)』という名で定義される二人の身体には、同じ親から受け継いだ同じ血が流れている。

 

 ボクにとってのそれは、もうとっくに土に還ったであろうあの肉塊だ。腐臭を巻き散らすだけの残骸だったそれには欠片の親近感も抱くことはできないが、ボクとは違って外見にもこれだけの類似点を見ることができる二人であれば、その感覚も全く異なるのだろう。

 

 二人が一緒に居る光景は、シロネの姿を初めて見たにもかかわらず容易く想像できてしまうほど、ごく自然なものだった。ボクでさえ、そのことだけははっきりと理解できる。

 

 それこそ、そこにいるボクが邪魔者に見えるくらい、クロカとシロネ(家族)の繋がりは明らかで、決定的なものだったのだ。

 

 そんな当然の事実が闇の中に注がれて、ボクの心はますますもって冷えていった。

 

 元々、シロネに良い感情を覚えたことはない。クロカが苦しんだ原因の発端、根源はシロネなのだ。今でもその思いは変わってない。憎いと言っても差し支えないほど、その感情は強かった。

 

 しかし、苦しめられた当の本人であるクロカはそうではない。心の深くでシロネを恨んではいても、そうしたいとは思っていない。

 

 あれだけのことがあっても尚、クロカはシロネを憎んでいないのだ。言わば、愛している。

 

 自ら死を望むほどの絶望に突き落とされても、彼女は妹を愛していた。

 

 ならば、ボクはシロネを憎む必要など無いはずだ。シロネに憎悪を向けるということはつまり、クロカの意向に反する行為、反逆に他ならない。そんな考えを抱くこと自体、不敬ですらある。

 

 この憎悪は消さねばならないものだ。ずっと前からわかっていた。

 

 なのに、強く意識した今この時でさえ、ボクにはそれができなかった。

 

 消えないのだ。そうしなければならないという決定事項で何度踏みつけようと、何度水をかけようと、底にある熾火は沈黙しない。勢いを弱めることはできても、たったの一度息を吹きかけるだけで再びメラメラと燃え盛る。

 

 自分自身ではもはや制御が利かない。凡そ一年半の間、心の底に居座り続けたその想いはとうに根を張り、がっちりと固定され、一角を不動のものとして占めていた。

 

 引きはがすにはそれの固定はあまりに強く、そしてボクは弱すぎたのだ。

 

 それはたぶん、根が『家族』に対する嫉妬、否、恐れであるから。

 

 自分自身のためだったからだ。クロカへの依存心を自覚しているからこそ、ボクにはそれが見えてしまう。

 

 クロカは、ボクの唯一にして絶対。彼女がいなければ、ボクはもう生きていられない。想像するだけで胸が苦しくなるほどの強い想いは、際限なく、常に彼女に向いていた。

 

 この世で一番の『愛』を、ボクはクロカに捧げたい。

 

 なればこそ、その想像、別れが現実となり、クロカのその口から『要らない』という言葉が飛び出したとしても、辛かろうが苦しかろうが、ボクは笑って受け入れるはずだ。

 

 それが『愛』なのだから。

 

 そう思いこんでいた。けれど、強く実感してしまった。

 

 そんなことは、どうやったってできっこない。

 

 恐ろしいのだ。

 今、クロカの心に根付いているボクの存在。その場所は本来シロネのものだ。かつてシロネがいた場所だ。一年と半年前のボクは、シロネが捨ててぽっかりと空いた隙間に滑り込むようにして今の関係を築いたに過ぎない。

 

 ならばそこは、『妹』のためにある場所なのだ。ボクではなく、『妹』であり『家族』でもあるシロネのほうが、そこに座すにふさわしい。

 

 裏切られても切れなかった強固な血の絆。家族の絆。ボクが居座るその場所にとって、血縁でもなく、『家族の愛』をも理解できないボクは、邪魔者だ。

 

 クロカとシロネの絆が戻れば、ボクはきっと、そこから弾き出されることになる。二人の絆の中にボクの居場所はなく、外側から眺めることしかできないだろう。

 

 それでもクロカはボクを見捨てることはないはずだ。きっとボクたちの間にはまた別の繋がりができて、関係は続いていく。

 

 けど恐らく、それは長続きしない。

 

 どこの世に自分の好きな相手を憎まれて喜ぶ者がいるだろう。繋がりの名前が変わろうと、シロネに対する憎しみを抱いたまま、ボクの想いは変わらない。

 

 ボクの想いとクロカの想い。変わることも交わることもない二つの核は、ボクとクロカの心に不和をもたらし、いずれあの時のように限界を迎える。ただ、今度はあの時のように解決はできないだろう。ボクのシロネへの憎悪は、間違いなく本物であるからだ。

 

 クロカの傍にいるためにはシロネへの憎悪を消し去らねばならない。しかしできない。ならばボクはクロカの邪魔だ。去らねばならない。それもできない。

 

 愛しているならできるはずなのに、クロカの口から要らないという言葉が響くまで、クロカとボクの心を滅茶苦茶にするまで、不要物のボクは自死することすらできないだろう。

 

 今ボクの身を焦がしているこの想い、『愛』は、クロカを不幸にするだけのものだ。

 

 ――何故だ。

 

 ボクはクロカを愛している。それこそ、生まれるはずだった『王』と同じくらいに想っている。

 

 なのに、『王』にであればできることがクロカにはできない。クロカのために自分の憎悪を打ち捨てることも、クロカのために自分自身を殺すこともできない。

 

 身も心も捧げるべきなのに、ボクはボク自身に価値を見出してしまった。

 

 『王への愛』でも『家族への愛』でもない、ボクの自分本位な『愛』。それは、クロカは疎か『キメラアント』にも理解されないような、別の何かであるらしい。

 

 そうなのか。

 

 人でもなければ『キメラアント』でもないボクは、それ故の歪な価値観と同じように、『愛』を誤認しているだけなのか。

 

 己を捧げられないボクの『愛』は、クロカにとっての『愛』ではなかったのだ。

 

 何もわかってはいなかった。

 

 かねてからの熾火は成体と赤髪で燃え上がり、そしてとうとう、シロネを知ったことで確固たる理解を得てしまった。

 

 同じ『愛』であるはずの、『家族』、『姉妹』、『親子』。クロカが求める『愛』のどれをも理解できず、悪魔と混じったボク(キメラアント)王への愛(最上位の愛)は、それすらも歪んでしまっていた。

 

 ボク(異常)はどこまで行ってもクロカ(正常)にはなれなかった。誰にも理解されない『ボクにとっての愛』しか、もうボクには残っていない。

 

 それでもクロカと共にありたいのなら、もう、それ以外に道はない。

 

 考えたくもないことだ。『ボクにとっての愛(異常な愛)』を示すため、『クロカにとっての愛(正常な愛)』を、壊さねばならないなんて。

 

(――ごめんね、クロカ……)

 

 ……本当に、考えたくもないことだ。

 

 ボクは周囲の誰にも気付かれないくらい小さく、顔を見せた絶望に息を吐いた。

 

「なんで、ボクは……」

 

 『愛』とは、『家族』とは、いったい何なのだろう。

 

 幾度となく聞き、理解しようと努めたその二つの言葉が、この時初めて耳にしたものであるように思えた。

 

 悄然と、ボクは写真をぶら下げ、茜色の空を仰ぐ。

 

 眼に染みる血のような赤さは、冥界のそれを彷彿とさせた。

 

 ――ふと、つまんだ写真が指の腹を滑った。

 

 一応の機密であるそれはあっさりと引き抜かれ、ボクはどちらかと言えば諦めの心境でその犯人に向き直る。

 

 写真をしげしげと眺め、八坂が言った。

 

「ふむ、ほんにため息が出るほどかわいらしい娘さんじゃな。さすが猫又と言うべきか、元の素材がいいのじゃろうな。将来はきっと男泣かせの美人さんに育つぞ。まあ九重には及ばぬがな!」

 

「ははうえ!フェル!ここよりあっちのきがいっぱいあるほうが、すずしくてきもちいのじゃ!あっちをとおろう!」

 

 空いたボクの手を引っ張り、進行方向とは真逆の林道に誘おうとする九重も含め、もはや二重苦、泣きっ面に蜂である。

 

 『姉妹』に加えて『親子』までがここにいる。見せつけられる絶望など片方だけでも手いっぱいだというのに……どうしてこうなった。

 

「これ九重。妾たちは遊びに行くわけではないと言うたじゃろう。フェル殿はお仕事をしているのじゃから、邪魔をしてはならん」

 

「うう……はい、ははうえ……」

 

 しょんぼりと首を垂れる今の九重には、あのふわふわな耳も尻尾も付いていない。八坂もそうだ。そういった能力なのか、それとも何かの術なのか。衣類でそれらを蒸さざるを得ないボクからすれば羨ましいことこの上ないが……いやしかしそうではなくて――

 

「そもそもなんで二人ともついてくるかな。わかってる?ボクたちが受けた依頼はシロネの捜索なんだよ?もし誘拐なら犯人と戦うことだってありえるし、二人にまで手を回せるなんて保証はできないにゃ」

 

 護衛の妖怪すら引き連れていないのだ。大量の人間や人外がひしめく通りを、無力な娘と二人っきりで警戒もせずに歩いている。おまけにボクたち念能力者も傍にいるのだ。危険性を理解しているようには見えない。

 

 そして実際、そうであるようだ。写真をボクに手渡して、八坂は呑気に頷いた。

 

「仕方なかろう?九重が行きたいと言うのじゃから。そのくらいの我が儘、聞いてやるのが親の務めよ。のう九重?フェル殿とおしゃべりしたいじゃろう?」

 

「うん!おしゃべりしたい!」

 

「親の務めがあるなら止めるべきじゃないの……?ほんとに、ボク知らないよ?」

 

 また一つ、ボクは湧き出た失意を呑みこんだ。二人の古風な格好のせいか、物珍しそうに横目を向ける観光客どもを先陣切ってかき分けて、前に進む。

 

 その中でも八坂の声はよく通り、はっきり鼓膜を揺らす内容は、再度ボクに肩を落とさせた。

 

「案ずることはない。妾とて戦えないわけではないからの。それに、親だから、じゃよ」

 

「……親だから?」

 

「うむ。親だから、じゃ。子の喜ぶ姿は何ものにも代えがたいじゃろう?」

 

 その通りなのだろうが、しかしどうしてそれほど簡単に危険を容認できるのか。

 

 ボクの『愛』と八坂の『愛』が別物である証明だ。己が一人であることを再確認させられながら、ボクは無心に脚を動かし続ける。

 

 何か言いたげな視線を向ける九重に知らぬふりをして、続く八坂の言葉に耳を傾けた。

 

「それに、まさかウタ殿が仙術を使うとは思ってもおらなんだのだ。妾も、特殊とはいえ地に満ちる『気』を使う故、一度見てみたくてな。しかし……どうしてフェル殿はウタ殿から距離を取っておるのじゃ?この混雑じゃが、固まっていて邪魔になるから、なんて理由ではないじゃろう?」

 

 そう言って、八坂は数十メートルほども離れてしまったクロカと曹操に眼を向ける。空と空気の色以外は昼頃の移動とほぼ同じ光景。ああ、と呟き、ボクは思考の接続先を知識に切り替えた。

 

「まさにそれ、『邪魔だから』だよ。八坂も九重も『纏』使ってるじゃない?念能力者の『気』っていうのは仙術の邪魔になるんだよ。気配の主張が大きくて、他が感じづらいんだって。まあ、『絶』までしろとは言わないけど、できるだけ離れていた方がいいってわけ」

 

「『ぜつ』!フェル!わたし『ぜつ』ならできるのじゃ!みてて!」

 

 と、突然割り込み、手を繋いだままほんのりと薄れる九重の気配を感じつつ、ボクは付け足す。

 

「……言っとくけど曹操は念のための護衛だからね。集中してるとこを襲われたら厄介だからってだけで」

 

「ふむ?そうじゃったのか。ウタ殿の護衛なら、妾はてっきりフェル殿がするものだと思っておったが……」

 

「ボクより曹操のが適任なの。……口惜しいけどにゃ」

 

 邪気濡れのボクが傍にいては仙術どころではないだろう。当初は『絶』をしてでも護衛の役目を果たすつもりであったが、他ならぬクロカがそれを拒んだのだ。いい加減ボクの『気』にも慣れていきたいということらしい。

 

 確かに、ボクがいることでクロカが本来の力を発揮できないという事態は、ボクからしても喜ばしいことではない。クロカがリスクを負うよりも、禍々しいと言われるボクの『気』自体をどうにかできればよかったのだが、残念なことにそれは非現実的すぎるらしく、ならば今後のためにも己のほうを改善したいという言い分には、当然賛成できる。

 

 ただ、それを実戦で、加えてボクが真横にいる状態で行おうとしていることには未だ疑問が残る。何やら恥ずかしそうに提案してきたクロカの笑みをあまり強く拒否することができず、なし崩し的に今の配置のような妥協案に落ち着いてしまったのだ。が、しかしこうなるのであればもっとしっかり反論すべきだったかもしれない。

 

「はぁ……」

 

 無駄に必死な集中力で『絶』を続ける九重。道行く人間と蹴り飛ばされそうになるその身体を引き寄せて、ボクは何度目とも知れない気鬱にため息をついた。

 

 その動作で、どうやら九重の集中力も途切れてしまったようだ。ぷはあ、と止めていた息を吐き出し、ボクの腕に縋りついてささやかな抵抗をかける。

 

 特に支障はないので勝手にさせていると、突然その荷重のベクトルが横を向いた。

 

「あっ!フェル、フェル!じゃあ、あっちのおちゃやさんはどうじゃ?おかしがすっごくおいしいのじゃ!」

 

 せわしなく表情を変えた九重が指し示すのは、珍しいがここではよくある古屋敷だ。何やら妖怪らしき気配が漂う伝統的日本家屋に寄り道をさせようと、九重は脚を突っ張っていた。

 

 微かな苛立ちがボクの表情に薄く皺を寄せる。

 

 支障はないとはいえ、妨害されていることには変わりないのだ。原理のわからぬ九重の駄々こねは、度重なるストレスにささくれだったボクの感情に、余計な苛立ちを口走らせた。

 

「あのさあ、だからゆっくりしてる暇はないんだって。呑気に間食なんてして、その隙にウタが襲われるなんてことに――」

 

 はっとして、気付いた時にはもう遅かった。

 

 あっという間、九重の目に涙の雫が盛り上がる。零れ落ちる寸前で辛うじて堪えられた悲しげな瞳がボクを見て、そして俯き滴った。

 

「……ごめんなさい、なのじゃ……」

 

「え!?あ、いや、えっと……ああ!別に腰を下ろすことはないじゃない?歩きながらなら、その、食べたいなー、なんて……」

 

 ご機嫌伺い然とした後付けは、あまり意味を為さなかった。

 

 幼子は喜怒哀楽の変化が激しく、よく泣くものだという知識はあったが、そんなものは動転に何の冷却効果も発揮しない。怖々歩くボクと、黙り込んで導かれる九重。周囲のざわめきに呑まれてしまった無言が非常に気まずい。

 

 弱い者を傷つけた罪悪感だけでなく、料亭での負い目も大いに介在する心痛だ。後悔と焦燥感の板挟みでそれ以上九重を慮ることもできず、ボクは停滞する理性に耐えていた。

 

 それを破ったのは、いつの間にかボクと九重の傍を離れ、包みを手に戻ってきた八坂だった。

 

「ほれ、急ぎで包んでもろうてきた。九重もフェル殿も食べるとよい。いやはや、妾の顔が利く店で助かったわ」

 

 その店に眼を向けると、店員らしき妖怪が警戒の視線でボクを睨みつけていた。それで幾ばくか現実を思い出すと、ボクは甘い香りを発する包みから茶色い板切れのようなそれを引き抜き、口の中に放り込んだ。

 

 ばりぼり噛み砕きながら、もう一枚を引っ張り出す。

 

「うん、おいしいね、これ。……九重は食べないの?」

 

「……たべる」

 

 受け取って口に運んでくれたことを静かに安堵し、八坂に目礼を送る。にっこり微笑んだ彼女は自身もそれを摘み取り、咀嚼して飲み込んだ。

 

「やはりこうでなくてはな。近頃……といっても五十年ほど前じゃが、人気の生よりも、妾はこちらのほうが良い。そうは思わぬか?フェル殿」

 

「生憎、生とやらは食べたこともないから何とも言えないね。和菓子自体も食べなれてないし、色々と比較のしようがないかにゃ」

 

「ならば土産に詰め合わせでも送るとしよう。曹操殿やウタ殿と一緒に、帰ったら感想でも聞かせておくれ」

 

「んー、まあ、国際電話でもエアメールでも、渋るほど貧乏じゃないけどさ」

 

 店員である妖怪の視線。警戒を通り越してもはや敵意のように鋭いそれを感じながら、ボクは軽口を吐く。

 

「調達するなら人間の店でにしてよね。毒でも盛られたら感想も何もあったもんじゃないから」

 

 八坂はクスクスと笑った。

 

「すまぬな。護衛も連れずに念能力者に近付くなど言語道断、とな、あの者に叱られてしもうたのじゃ。心配性が過ぎると、言ってやったのじゃがな」

 

「そりゃあ心配にもなるさ。八坂も九重も九尾の狐だし。

 うん百年前の九尾の抜け毛がオークションにかけられて億の値付いたって話、知らない?狙ってる人間なんて星の数ほどだよ。……はあ、どうしてそんなに呑気で居られるかにゃ」

 

「……?フェルはわたしのかみのけがほしいのか?」

 

 食べかけの菓子を片手に、またしても何かが九重の琴線を刺激した。

 

「べつにちょっとくらいなら、わたし、へいきじゃぞ」

 

 と、おずおず上目遣いに言って自身の金髪を引っ張り始めた九重を、ボクは慌てて止めた。

 

「待って待って!そういうことを狙う輩がいるってだけだよ。ボクは全くお金には困ってないんだから……ああ!必要ないってば!」

 

「いらぬのか……」

 

 ようやく乱暴な髪梳きをやめてくれた彼女は、なぜかまたしょんぼりと肩を落としてしまう。

 

 いきなり自傷的な行為に及んだこともそうだが、何故そこで落ち込むのだ。予測のつかない幼子の行動原理に頭と心の奥を悩ませ、途方に暮れる。

 

「くふ、そうじゃろうとも。フェル殿が凡百の悪漢のようなマネをするとは露ほども思っておらんよ。故に、心配性じゃ。

 しかし……ふむ、抜け毛が億か。金が要りようになったら寝床にころころでもかけるとするかの」

 

 恐らくたぶん冗談であろう言葉で笑う八坂に、ボクは愛想笑いを浮かべてため息をついた。

 

 そうしているうちに口の中の甘味も消え、おかわりをと、ボクは再び八坂の包みに手を伸ばす。捻った身体にジャケットが振れ、もそもそと子リスのように菓子をついばむ九重に覆いかぶさった。

 

 こつん、と、ポケットに埋まったそれが、九重の額で小さく鳴った。

 

「あいた!」

 

「あ、ゴメン」

 

 言ってから、ふとそれの記述を思い出す。そういえば、幼子の骨は大人よりも随分柔らかいのだった。

 

 さすがにこの程度では問題ないだろうが、家の書架に収まっている医学書を思い出したボクは少しばかりの心配に侵されてしまう。痛みにうめきながら額をさする九重を落ち着かぬ心地で見つめつつ、下手人であるジャケットのふくらみから、突っ込んで以来その存在すら忘れ去っていたけん玉を引っ張り出した。

 

「九重、大丈夫?ホントごめんね?うっかりしてた」

 

「うう……だいじょうぶなのじゃ……。わたし……なかないもん……」

 

 逆側のポケットにそれを押し込みながら、負い目から必要以上に糾弾を恐れるボクは謝罪を重ねる。

 

 が、批難の声は九重はもちろん八坂からも上がらず、呑気な彼女は、慌てたせいではみ出した赤色に視線を移し、瞬きする間に鈍痛を忘却してしまった。

 

「あ!けんだまじゃ!フェル!かしてかして!」

 

 いつもの如くの突飛にたじろぎ、言われるがまま差し出した。

 

 どういった精神構造をしているのか。興味は尽きないが、とりあえず九重が笑顔になったのだから良しとする。彼女は木槌に絡んだ糸を外すと突然先に走り出し、少し距離を稼いでから立ち止まって振り返った。

 

「フェルー!わたし、けんだまとくいなのじゃ!ばあやにもほめられたのじゃぞ!みててみてて!」

 

 着物姿の幼女がそんなふうに手を振って叫び、何やらしようとけん玉の柄を握って集中している。

 

 その姿はどうしようもなく人目を引いた。ちらほらと観光客たちの脚が止まり、みんな揃って腑抜けた微笑を九重に向ける。

 

 警戒心を掻き立てられるボクとは裏腹、その視線にまるで気付かない九重は、赤い球を垂直に垂らして静止させるとキリッと勇ましく見つめ、「せーのっ」という掛け声と同時に、膝の屈伸で球を宙に浮かせてみせた。

 

 彼女の握りこぶしほどもあった木の球は僅かな浮遊の後、木槌の槌部分、皿のようにへこんだ部分で受け止められた。が、直後球は不安定に揺れはじめ、九重はバランスを取るため慌てだす。衆人環視の中を右往左往。やがてその動きも緩やかに止まり、最終的にはけん玉を持つ腕をめいっぱい突き出すヘンテコな体勢で、彼女は自慢げに口角を上げた。

 

「どうじゃ!フェル、ははうえ、わたしすごいじゃろ?」

 

 ちょうど歩きが追い付いたボクの腰に、九重は思いっきり抱き着いてきた。

 

 ぐりぐり頬を擦りつけてくる彼女。一様ににやけ顔をしながら散っていく野次馬どもに威嚇の眼光を向けてやる。その端に一瞬ちらりと見えた不満顔の八坂は、次の瞬間微笑みに戻って九重の頭を撫でていた。

 

「さすが我が娘じゃ。一度で成功させるとは、上手になったの、九重」

 

「うん。すごいすごい。結構集中力あるね。ちょっとふらふらしてたけど。……ねえ、今ので天辺の針に刺したりはできないの?」

 

 顔を上げた九重が顔を綻ばせ、次いで気まずそうに眼を逸らす。

 

「えっと……『とめけん』は、うぅんと……まだばあやにおしえてもらってないから、しらないのじゃ……」

 

 なんと技の名前まであるらしい。そしてどうやら、ボクの思い描いたそれは九重には難しすぎるようだ。

 

 得意と言った手前、小さな見栄を張らざるを得なかった彼女より、けん玉が返却される。木槌で球を叩いたりするわけじゃないんだなと、手の中でそれを弄んだボクは、その時ふと思い立ち、針に留められた球を解き放った。糸がピンと張り、弾むようにして持ち上がる。

 

「……おお、フェル殿も中々上手いものじゃな。歩きながらは難しかろう」

 

「フェル、すごいのじゃ!」

 

 八坂と九重から感嘆の声が上がる。単に九重の真似をして球を槌に乗せただけだが、確かに立ち止まってするよりは幾分難易度は高いだろう。

 

 とはいえボクにとっては微小な差だが。

 

「うん、いけそう」

 

 呟き、腕を垂直に振った。

 

 くるりと木槌を回し、逆の槌に乗せる。続けて柄の底、そして今度は縦に百八十度回転させ、スコン、と球はあっけなく針に収まった。

 

「すごい!すごいのじゃフェル!ばあやみたいじゃ!」

 

 褒めているのだろうが、しかし残念なことにボクは負けん気を刺激され、そこからさらにけん玉を動かした。

 

 槌の真ん中、縁、針との間。乗せられそうなところはすべて網羅し、その度九重のテンションが上がっていく。調子に乗って木槌のほうを浮かして球で受け止めたりしながら、ボクは法悦ににやりと笑った。

 

「ま、こんなのはちょっと練習すれば誰でもできるにゃ。重心さえ安定してればね。確か……『とめけん』だっけ?それくらいならこの時間でもできるようになるさ。ねえ九重、教えてあげようか?」

 

 教鞭を振るう間は九重の予測不能に翻弄されることもないだろう。ついでに自尊心も補充できる。いいことずくめだ。

 

 自分のことで精一杯な状態であったから、それはカウンター気味によく効いた。

 

「でも……わたし、なんかいやってもできなかったのじゃ……」

 

 たちまち建前も忘れて意気消沈してしまう九重に、ボクの優越感は間もなく吹き飛んだ。またか。という自戒は積み重なって自己嫌悪に転じ、二人とのやり取りで上塗りした心にじっとり苦いものを滲ませる。

 

 九重の気持ち、正常な感覚を、ボクは何度読み違えれば気が済むのだろうか。

 

 咽喉のしこりに喉を鳴らし、頭を掻いた。

 

「あー……いや、大丈夫だよ。コツさえつかめばあっという間だから。……ほら、ちゃんとできるようになるまで付き合ってあげるからさ」

 

「……ほんとう?」

 

 眉尻を下げ、上目遣いに小首を傾げる九重。ボクをしても心を揺さぶられるあざとさは、声色を和らげるに十分な庇護欲をそそった。

 

「うん。約束してあげる」

 

「ほんとに、ほんとう?」

 

「本当だって。もう……」

 

 くどいな、という余計は呼気に変えて吐き出した。

 

「……わかったのじゃ。フェル、わたしにけんだまをおしえてくれ!」

 

「はい、かしこまりました――っと」

 

 わだかまりの平定にほっと息をつくと、一時の平穏の上でボクは九重を抱き上げた。腕に座らせ、けん玉を握らせると、そこに手を添える。

 

「とにかくまずは感覚を覚えることかな。特に腕を上げる時と球を受ける時。引っ張ってあげるから、一緒に腕を動かして身体で覚えること。いい?」

 

「うん!」

 

 元気よく返事をして、九重はボクの導きに従い腕を振った。一度目でスコンと針に貫かれた球に目を輝かせる彼女を、ボクは微笑ましい気持ちで見つめている。

 

 いつも通り、胸を突いた不都合な感情には、こうやって知らないふりをするつもりでいた。

 

 そうやって存在する穏やかな気持ちは、塗りたてのペンキのようなものだ。

 

 九重のように、ついさっきまであった苦い思いを瞬時に忘却できるほど、ボクは能天気にはなれない。表面に決して取れない汚れがあるなら、そのうえから別の感情を塗りたくり、覆い隠す。

 

 根本的な解決には程遠いのかもしれない。隠しても、その下には汚れが存在し続けるのだ。いつ剥げてしまうのかと怯えつつ、その度塗り重ねなければならない。

 

 それでも時間が経って乾けばある程度の水は弾けるのだ。今日の波状攻撃でだいぶ水に薄められてしまったが、それでも元来ペンキは水に強い。一度にすべてが剥げ落ち、下の全体像を見る機会など無いに等しい。

 

 剥き出しにならぬ限り、残ったペンキを基にしてまた隠すことができる。辻褄の合う嘘を吐くことができる。

 

 まだ、留まれる。

 

 成体の時も赤髪の時も、そして白音の時も、ギリギリであったが留まれた。致命的な気付きには、たどり着かずに済んでいたのだ。

 

 一度それを目にしてしまえば、もう自分自身を誤魔化しきれない。そんな境目。

 

 八坂の苦笑は、そこに大きな亀裂を入れた。

 

「ううむ……そうではないかと思っておったが、フェル殿、お主中々『母親』が上手いな」

 

 一瞬、思考が止まった。

 

 単語がぐるぐると、ニューロンを行き来する。やがて思考停止のまま、しかし独りでに、ボクは平淡な声を押し出した。

 

「……母親?何を言うかと思えば。九重の母親はキミでしょ」

 

「いや、そういう意味ではなくてじゃな……つまり九重の気持ちを慮ることが上手い、と言いたいんじゃ。妾ではそう易々と九重を納得させられんかったじゃろう。フェル殿は良い母親になりそうじゃな」

 

 けん玉に熱中する九重に聞こえぬよう、声を潜める。ともすれば喧噪に掻き消されてしまいそうなほど微かな声であったが、その時のボクには、耳元で叫ばれたと感じるほど、それは聞き流しようがなく明確な音であるように思えた。

 

 音の内容を何度か舌先でなぞるうち、ようやく思考が追い付き始めた。真っ先にしたことは、感情に頼らず頬を上げて笑うことだった。

 

「は、はは。なれるわけないよ母親なんて。馬鹿じゃないの?」

 

「む、馬鹿とはなんじゃ、馬鹿とは。これからのことなど誰にもわからんじゃろう。今はおらずとも、いずれフェル殿にも気に入る男ができるやもしれんぞ?」

 

「あり得ないってば。ホントにさ……そんなの、できるわけがない……」

 

 完成度の高い作り笑いだったが、しかし長くは持たなかった。

 

 暗い感情が這い上がる。理解を拒絶してもその進行は止まらず、自然、笑顔も消えた。今ボクの表情は、その心境と同様に醜く歪んでいるだろう。

 

 そんな不穏に八坂も感付いたようだ。苦笑から疑問符、やがて訝しげに片眉を上げ、言った。

 

「……なぜ、それほど頑なに断言する?なぜ母親になど成れぬと思うのじゃ?」

 

 胸の奥で何かがせり上がり、喉元まで登り詰めた。堰き止め、下るのを待ってから、弱々しくその切れ端を口にする。

 

「わからない、んだよ。母親っていうのが、何なのか……」

 

「それは……そうじゃろう。妾も九重が産まれてからようやくその自覚が――」

 

「そんなんじゃない――ッ!」

 

 爆ぜた切れ端に、ボクは無意識で声を荒げていた。九重がびくりと跳ね、けん玉の球を受け損ねる。

 

 瀬戸際で堰き止めていなければ胸の内から爆発していただろうが、今はそれ以降の言葉を発することができなかった。九重と八坂が向ける驚愕の視線。考えることすら辛く、ボクは歯切れ悪く逃げ出した。

 

「……ああ、うん。この話、やめない?九重もつまらないでしょ」

 

「いや、」

 

 と、制したのは八坂だった。

 

「……調べさせたのじゃが、フェル殿は『流星街』の出身らしいの。ということは、やはり親はおらなんだのか……?」

 

 亀裂にタガネでも打ち込まれたような気分だった。蜘蛛の巣状にひび割れは広がり、ぽろぽろと破片が降ってくる。

 

 つまり、ペンキが剥がれ落ちようとしていた。自分自身にも隠されたすべてが、内と外から押され、砕けようとしている。

 

 今まで隠し通してきたそれは、たったの一言であっけなく正体を現そうとしていた。

 

 それは恐らく、揃ってしまったからだろう。

 

「フェル、フェルは、ははうえがおらぬのか?……さみしくはならぬのか……?」

 

 九重が憐れみに満ちた眼でボクを心配そうに見つめていた。それが鋭く深く、心臓に突き刺さる。

 

 寂しく感じたことなど、一度もなかった。

 

(普通は、そうなんだろうな)

 

 脈動と共に鮮血を噴きながら、ボクは九重に微笑んだ。

 

「……うん。ちょっとだけ、寂しいね」

 

 自分の乾いた声が、まるでシンナーのように容易く防壁を溶かし貫き、心の奥深くまで手を伸ばす。幾度となく被せられた水を伝って、ペンキ全体に広がってしまったのだ。

 

 目を瞑る暇もなく、それは海馬に焼き付いた。

 

 あの時のような絶望だった。

 

 

 

 

 

 家族の愛など、わからない。

 

 何も知らなかったあの時からずっと、そればっかりは変わらなかった。クロカとシロネ、八坂と九重、赤髪のそれですら、ボクを理解まで導いてはくれなかった。

 

 今日一日の京都だけではない。アメリカでも数えきれないほど目にしている。家を一歩出れば人間はいくらでも歩いているのだから、家族らしき集団を見つけることは造作もない。

 

 見本は、掃いて捨てるほど知っている。だから当然、大多数の家族は血の繋がりを持っていることも知っている。

 

 その事実に照らして考えれば、ボクの家族は『女王』や『兵』たちだ。ボクを産んだのだから『女王』は『母親』で、同じく『女王』から産まれた『兵』たちは『姉妹』にあたる。

 

 記憶にあるあの肉塊たちがボクの『家族』であることは明らかだ。見本のように血の繋がりがあるならば、そこに『愛』が発生することも、統計的には疑いようがない。

 

 『家族』を理解できずとも、家族の『()』というその繋がりだけは、確かに存在して然るべきなのだ。

 

 なのに何も感じない。

 

 ボクは肉塊と化した彼女らを思い描いても、何の感慨も感じえない。

 

 これに疑問符を浮かべ、何故だろうと一蹴していたのが今までだ。わからないまま、知りたいとただ闇雲にもがいていた。

 

 一歩たりとも先に進まず。

 

 踏み出せば奈落に落ちると、深層心理は理解していたからだ。

 

 ――当て嵌めること自体がバカバカしいことだった。

 

 例えば、最上位の愛。持ちえる『愛』の中で最も崇高かつ強い想いを、ボクはクロカに抱いている。それを以ってして、ボクはクロカを愛しているのにと、そう宣った。

 

 今にして思えば失笑ものだ。その執着は『愛』なんかではなく、ただの『忠誠心』なのだから。

 

 本来、最上位の愛は『王』への想い。主人に仕えようとする『義務』であり、『責任』であり、『使命』だ。ボクはずっと、それをクロカに向けていた。

 

 どこに『愛』の文字がある。

 

 クロカや八坂や赤髪のように、捨てられても尚相手を欲する繋がりも、守るべき者のために当人を危地に晒せる勇気も、血の繋がらない者を助けたいと思える心も、『王』への想いには含まれない。世間一般にいう『愛』は、そこにはない。

 

 ならばそれを核とし模倣した『ボクにとっての愛(異常な愛)』も、『愛』なんかではなく、ようやく手に入れた唯一絶対を失いたくないだけの、単なる『独占欲』だ。

 

 ボク(キメラアント)にとっての『王』とは、ボクがクロカに抱くそれのような、見限られることを恐れるがための執着が向く相手ではなく、無心に、ただ粛々と仕えるべきお方だ。

 

 『王』は()であり、ボクは『家族』ではなく、臣下(・・)。『王』が快適にその覇道を歩むための、一つの道具(・・)でしかない。

 

 ボクは、産まれたその瞬間から、『王』に奉仕することだけを定められていた。そのためだけ(・・)に、産まれてきたのだ。

 

 だからボクという生物には、元来『家族』も、『愛』という概念すらも存在しない。

 

 『王』に仕える宿命に、それらは必要がないからだ。

 

 『キメラアント』のすべては、産まれなかった『王』のためだけに存在する。ボクも、『女王』も、『兵』も、『家族』なんかではなく『王』の道具。つまりは、それだけのことだ。

 

 『忠誠』以外を持たず、執着という一点で己の想いを『愛』と誤解したボクは、それをクロカに押し付けるしかなかった。たとえ『愛』でなくても、クロカを欲するこの想いが、強く美しい繋がりであると思いたかった。紛い物どころか全くの別物であると、自分が『クロカの愛』を決して理解できないかけ離れた存在であると、そんなことを認めたくなかったのだ。

 

 その覆いが、外れてしまった。深層心理の気付きは思考に届き、知らん振りができないほど大きく口を開けた。

 

 もはやボクには、クロカと共にある資格がなくなってしまったのだ。

 

 

 

 

 

「――ならば、そう思うのは、ただ知らなんだから、というだけではないか……?」

 

「……なに?」

 

 心の余力は残っていないはずだった。

 

 自分がクロカに抱いていたモノは愛ですらなかった、という事実。クロカが欲し、そしてボクも欲したそれが絶対に手に入らないのだと確信したその瞬間に、事情も葛藤も何も知らないはずの八坂が口に出した言葉だ。

 

 反応することに何の意味も無いはずだった。だが、ボクの弱った無意識は、それを都合よく解釈してしまったようなのだ。

 

 つまりそれが、ボクの抱える事実に対する否定の言葉であるように思えたのだ。

 

 一歩遅れて事態を把握した理性が、下らないと鼻を鳴らした。

 

「何の話?主語くらいはっきりしてよ。そのわけのわからない――」

 

「フェル殿よ」

 

 遮った声の重さに、ボクははっとして八坂を見た。

 

 さっきと変わらぬ微笑に、どうしてか堂々たる威厳を感じた。

 

「孤児であるお主の心境を完全に察することは、妾にはできておらぬのじゃろう。お主らに何があったのか、もな。じゃがな、妾の言ったことは、やはり間違っておらぬよ」

 

 無意識的に、ボクは歩みを止めていた。後続の人間が訝しげな顔をボクたちに向け、避けていく。

 

 しかしボクの視線は八坂に縛り付けられ、そんな周囲の様子などまるで気にしていなかった。ただじっと、唇の動きを見つめていた。

 

「お主は、母親に向いておる」

 

 そこに憐れみを見つけ、途端、ボクは平静を失った。

 

「そんなこと、あるわけないって言ってるだろ……ッ」

 

 声が震えた。異変を察したのか、九重の手が頬にそろりと伸びる。小さな手に撫でられるその感触すら、今は不快だった。

 

 ――惨めだ。

 

 慰めの言葉など欲しくはない。それを持ちえないと、理解してしまった上からかけられる憐憫は、ただ苦しいだけだ。

 

 ボクはクロカと同じにはなれないと、証拠を突き付けられているようで。

 

「ふむ……難儀じゃな」

 

「……だから、何が」

 

 自身の苦悩と葛藤を踏みにじられたような屈辱感は、鼻にかけた物言いで、すぐさま憤激に転じた。

 

 怒気を受けた八坂は、にも関わらず悠揚迫らぬ穏やかな声音で続ける。

 

「逆に聞くがの、フェル殿。違うと言うなら、どうしてお主はそこまで憤っておる?今でなくてもよいぞ?沖田殿の時、リアス嬢の時。どうして怒っておった?今一度、考えてみてはくれぬか」

 

「どうしてって、そんなこと――」

 

 クロカを手放したくなかったからに決まっている。

 

 奴らのせいで、己の歪が表に出てしまうことが怖かった。変えられない自身の(さが)に、気付いてしまうことを恐れた。

 

 また、一人ぼっちにならないために。

 

 避けようのない未来だとしても、その時が来るまでこの恐れを抱き続ける力はボクにはなかった。それを受け入れることがクロカのためだとわかっていても、できないのだ。

 

 この想いはクロカに向けるもの()ではなく、自分のためのもの(欲望)なのだから。

 

「弱い者に傷ついてほしくなかったから。つまりは、子を守ろうとしたから、じゃろう?」

 

 自分の想いは、彼女らのように尊いものではない。むしろそれらを穢すものだ。

 

 『欲望』は決して『愛』ではない。変化することも、受け入れられることもない。そのことに、間違いはないはずなのに、

 

「……子?」

 

 何故、どうして、ただの戯言であるはずなのに、ボクは心をかき乱されてしまうのか。

 

 何故期待してしまうのだ。

 

 目を逸らす。

 

 ボクはクロカに受け入れられない。本質的に何から何まで違うのだから、どうせ傷つくだけだと、気付いたボクにはわかるはずなのに。

 

「でも、ク……ウタとは血が繋がってない。ボクは、『姉妹』でも、『親子』でも……ない」

 

「『姉妹』や『親子』であるために、血の繋がりなど不要じゃよ。そんなものは一端にすぎん。肝心なのは、その者を愛しているかどうかなのじゃからな」

 

「なら、なおさらありえない……!ボクに……ボクに『家族の愛』なんて……」

 

「……ふむ?ならば、フェル殿はウタ殿と家族になりたくはないのか?ウタ殿を愛しておらぬと、そんなわけはないじゃろう?」

 

 当たり前だ。

 

 そう言い切ることができれば、どれだけ気が楽になることだろう。胸中に渦巻くこの想いが『愛』ではないと知れた時点で、そんな幻想は消え去った。

 

 ボクに『愛』と『家族』を理解する機能があれば、それを欲するクロカの笑みを見ることだって、母親と妹に裏切られ、心に穿たれた穴を、他ならぬボク自身の手で埋めることだってできたはずだ。

 

 そして何より、裏切られても尚途切れぬほど強く、ボクもクロカに想われることができたはずだった。

 

 そんな幸福な幻想を、追い求めないはずがないだろう。

 

「うむ。それだけ苦しむのなら、過ぎるほどの証じゃな。お主にも十二分に、愛はあろう」

 

 淀みなくそう言ってみせる八坂。虚言であるはずのその言葉が、胸の奥を叩いてやまない。

 

「それでもお主が否定するのは、やはり知らぬからなのじゃ。家族の愛の、その伝え方を知らぬだけ」

 

 頭の上に手が乗った。帽子を越して、温かな感触が心に染みる。

 

「ならば、これから知ればよい。知って、お主にとっての愛を見つければよいのじゃよ。案ずることはない。愛とは千差万別じゃが、その根っこは皆同じじゃ。……アレじゃな、ママ友として、妾も手助けしてやろう。九重にけん玉を教えてくれた礼もあるでな」

 

 不思議な感覚だ。そんなはずはないのに、眼前の景色に初めて色彩が灯ったような、そんな感慨が浮かぶ。

 

 いつの間にかボクは、八坂の言葉を嘘だと、本心から断じることができなくなっていた。それが願望なのか、あるいは、もしかすれば真理なのかはわからないが、少なくとも今、頬を撫で続ける九重の手は不快ではない。

 

 自分の中の何かしらが変化し始めたことを、ボクは感じていた。

 

「でも……でも、ボクのこれは……」

 

「紛い物などではないとも。妾はお主の何十倍もの年月を生きておるのじゃぞ?先輩の言うことくらい信用せんか」

 

 断末魔はあっさりと切り捨てられ、急変する己に動揺しながら、ボクは続く言葉を耳にする。

 

「種族も境遇も違おうがな、お主はウタを愛しておるよ」

 

 嘘偽りなく言う八坂の瞳に、輝かしい慈愛を見た。

 

 直視できない眩さに明らかな羨望を感じつつ、ここで改めて生を受けたような心地で、何故だか少し恥ずかしくなる。

 これがどのような変化なのかは、まだよくわからない。ただ、八坂の提案を拒否するという考えは、いつの間にかボクの中から消えていた。




愛愛愛愛うるせーな。南の島のおサルさんかよ(抱腹絶倒ギャグ)

なるべくわかりやすく書いたつもりですが、もう少しうまくできたのではないかという思いがなくもない…
あまりにも伝わりづらいようなら書き直すこともあるかもしれません。ので感想ください。


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九話

八話と九話がプロット上では一話にry


「……何よ、あんなに仲良くなっちゃって」

 

 一歩離れて後ろを歩く曹操にも聞こえないくらい小さく、私はそう呟いた。

 

 苛立ちか、あるいはたぶん嫉妬のようなこの感情が向いているのは、曹操よりもさらに後方。観光客の人波を隔てて三十メートルほどの距離にいる、ピトーたちの一行だ。特に九重に対する比率が高い。

 

 嫌でも察知してしまうからだ。白音捜索のために広げた仙術の目には、範囲内の気配が半ば無差別的に飛び込んでくる。となれば当然、ピトーと九重が何やら楽しそうにけん玉で遊んでいる光景も把握できるし、追随する彼女らのそれを延々見せつけられ、思うところが口にまで登り詰めることも、何らおかしくはないことである。

 

「私にはちょっとよそよそしいくせに」

 

 八つ当たりに近いことは重々承知している。おまけにその原因すらも、自分がうじうじと思い悩んでいたせいであり、二人に非は一切ない。

 

 とはいえしかし、腹立たしいものは腹立たしいのだ。自分はこんなにも苦悶しているのに、という逆恨みめいたそれ。そんなものをピトーと、年端もいかぬ幼女に向ける自分が情けなくもあるが、この飢餓感のような焦りは如何ともしがたい。

 

 肩を落とし、ずり落ちてきた伊達眼鏡を押し上げる私は、ピトーの『気』と光景との相乗効果でペースを上げる精神力の摩耗を感じながら、努めて機械的に両の脚を動かしていた。

 

 吐いても尚燻る想いを噛み殺していると、不意に曹操が私の前に躍り出た。進行的にも仙術的にも邪魔くさいそいつに白い目を向ければ、間もなく顔だけ振り向き、その飄然とした表情を露にした。

 

「おいウタ、『纏』が乱れているぞ。仙術のほうは大丈夫なのか?」

 

「……別に、問題ないわよ」

 

 本当のことを言えば、少しだけ心臓が跳ねた。

 

 『念』と仙術は別物の技術であるとはいえ、似通っていることは事実だ。特に精神力が重要であることは共に同様であり、それが乱れれば両方の行使に影響が出る。

 

 つまり『纏』の乱れは仙術の乱れでもあるのだ。

 

 弱みを見せたくない相手の上位に入る曹操に、自分の失態を指摘された形。そう易々と認められるわけがない。

 

 故に私は目を背けそうになる疚しさの心を毅然と振り払い、鼻持ちならぬ奴の顔をキッと睨みつけてやった。

 

「これでもこの一年は真面目に修行してきたんだから。ピトーの『纏』くらいで、すぐさまどうにかなったりなんてしないわ」

 

 隠せるところは隠しつつ、威厳を込めて言う。

 

 が、私ではその硬度もたかが知れていたようだ。

 

「いや、どうだろうな。お前、どうやら機嫌が悪そうじゃないか。ついさっきまで半笑いでニヤついていたのに――」

 

「にっ、ニヤついてなんかないわよ!!」

 

 その言葉は、変化が解けて耳と尻尾が飛び出しそうになるほどの激しい動揺を、私の精神にもたらした。

 

 思わず反応してしまった手前もはや無意味だろうが、ニヤついてるのはあんたでしょ、という内心での罵倒と共に、飄然を崩した曹操へ怒りの眼光を照射する。多少の照れが残留しているのは、この際仕方ないだろう。

 

 まあ当然、そのように中途半端な視線攻撃は通用せず、平然とニヤニヤ笑いを深める奴に、逆にこちらが羞恥を増幅させられながら、私はもう負け惜しみにしかならない呟きをごく小さな声で口にした。

 

「だって……はじめてだったんだもん」

 

 『黒歌』が庇われたことは。

 

 わかりきってはいたことだが、討伐された私は悪魔社会で極悪人の名をほしいままにしているらしい。実際それに値することをした自覚はあるので、そのことに対しては、『黒歌』としても言い逃れをする気はない。元バカマスターの所業は知られず、私が純粋な悪と化していることにも、『ウタ』は言葉を発するべきではないだろう。

 

 しかしそのような理屈は別にして、感情の面では悔しさや悲しみ、数多の負が存在することは否定できない。

 

 いくら自分は悪人であるとわかっていても、一切の余地なく敷き詰められた邪悪の事実をひたすら黙って受け止めなければならないとなれば、そんな思いだって生じるだろう。

 

 だからこそ、ピトーがあの上級悪魔に言い返してくれたことは嬉しかったのだ。

 

 私のやったことは悪だったとしても、間違ってはいないと、そう認めてもらえたような心地だった。

 

 そんなことは生まれて初めてだ。

 

 あの時の嬉しさは、そのあまりに気恥ずかしさすら生み出し、数十分で過度の羞恥に変わっていった。

 

 故に私は、リアス・グレモリーの情報提供――という割にピトーのせいで委縮しきった彼女は八坂の問いに対して首を縦か横に振るばかりだったが――ともかくそれも終え、いざ捜索開始という頃にはその羞恥をピトーの傍にいるだけで息が詰まりそうな思いをするまでに悪化させ、それらしい理由を引き合いに出してこの二分の状況を作り出すに至ったわけなのだ。

 

 そしてその結果、幼女への嫉妬で自縄自縛に陥っているのだが、少なくともそんなことは、曹操にとって手心を加える理由にはならなかったようだ。

 

 奴は遠い後方、つまりはピトーと九重を一瞥して、その口元に弧を描かせながら、私の感傷をわざわざ真正面からぶち破ってきた。

 

「……ああ、そうだな。お前はニヤついてなどいなかった。俺の気のせいだったな。そういうことにしておこう。これ以上は余計に効率が落ちそうだ」

 

「あんた……!ホントに……ッ!」

 

 喉からすべり出そうになる罵声をなんとか堪えた。

 

 癪だが図星を突かれている今、何を言い返してもそれは恥を上乗せするだけの愚行であり、精神を荒らす動揺に他ならない。おまけにその愚行で、目的である白音の捜索すら滞る始末だ。怒りと羞恥とでごちゃごちゃになった頭に、私は必死の思いで深呼吸に集中し、平定を試みる。

 

 そうやって苦心する私をあざ笑うかのようにして、曹操はあっという間に常態へと舞い戻った。

 

「ま、冗談はさておきだな」

 

「どんだけ人の気を逆なですれば気が済むのよ!」

 

 忍耐を決壊させる私に向けて肩をすくめるという不遜極まりない仕草を見せながら、曹操は飄々と周囲の人ごみを見回した。

 

「これだけ大勢の観光客がそこらじゅうを闊歩しているわけだが、本当にターゲットを見分けられるのか?ウタは白音の気配など知らないだろう?ここでは妖怪など珍しくもない存在だ。だから、その広さの中から……あー、探知の範囲はどれくらいあるんだったか」

 

「……半径一キロとちょっと」

 

 込み上げる反抗心をねじ伏せ、不承不承に答える。せめてもと露骨に嫌そうな顔をしてやったがやはり動じた様子もなく、奴はいつも通りの調子で「ほう、そんなに広いのか」とわざとらしい驚嘆を口にし、僅かに顎を引いて黙り込んだ。

 

 その頭の中でどんな思索を巡らせているのかなど、知ったことではない。ただ私は、一旦閉ざされたその口が再び嫌味な語調を吐き出す前に、嫌がらせも兼ねてそれを妨害することを決意した。

 

「といってもその程度よ。私からすれば訳ないわ、そんな範囲。

 それに、期限切れの許可証も、ただの紙切れになるわけじゃないんでしょ?気脈の『気』から身を守るって機能、期限切れと同時に動作は止まるらしいけど……『気』に干渉するわけだから、『念』が絡んでいるわけじゃない?なら機能停止はしても、込められた『念』そのものは消えないはずよ。わざわざそんなことする必要もないし」

 

 機密に当たるであろうその仕組みを聞くことはできなかったが、たぶん間違ってはいないだろう。

 

 京都に滞在する間、外から訪れた人外の者は常に携帯せねばならない件の許可証。発信機的な機能こそついていないものの、防護を含めていくつかの機能が詰め込まれているそれが『念』を基としている場合、到底大量生産に向かない代物となっている可能性は極めて高い。

 

 そもそもからして、物に『念』を込めることは難しいのだ。それに対する強い思い入れか、それとも特殊な条件でもあれば幾らかはマシだろうが、許可証を製作しているであろう京妖怪が、自分が使うわけでもないそれに本心からの執着などを抱けるとは考え難く、『特殊な条件』も、安く済むとは思えない。

 

 つまり許可証は、量産が利かない貴重品であるはずなのだ。そんな貴重品を、一回使っただけですぐ廃棄するなんてことはたぶんあり得ない。尽きた『気』を補充するなりなんなりして再利用するようなエコロジーで運用されているのだろう。

 

 白音が所持しているであろう許可証も、そうであることは間違いない。期限が切れ、いわば電池切れのような状態になろうとも、込められた『念』のプログラム自体は、決して消えてはいないのだ。

 

 それだけあれば、私にとっては十分だ。

 

「許可証に込められた『気』の気配は、八坂様に見せてもらったので覚えたわ。妖怪の女の子じゃなくって、要はそっちを探せばいいのよ。もし許可証が捨てられてたら、そこからはハンターらしく跡追いでもするしかないけど……でもそれで大丈夫でしょ?」

 

 外向きの理由は、という、私と曹操と、それからピトーにのみ通じる暗喩を視線に起こし、受け止められると即座にまた眼を逸らす。

 

「まあ、跡追い範囲が京都全域ってなるなら話は変わるけど、幸い白音がそう遠くに行っていないことは確認が取れてるんだから、問題も何もないわよね」

 

 八坂によると、彼女が治める京都一帯には、そこら中に結界の術式が張り巡らされているらしい。

 

 たぶん、料亭に向かう時に潜り抜けた、水の膜のようなアレもその一種だったのだろう。遊園地の入場ゲート、もしくは駅の改札機のように、許可証なくして踏み込む者を阻むために仕掛けられているそれには、少なくとも今日一日の間、引っ掛かった侵入者はいないという。白音の許可証が期限切れになったのは、彼女が失踪して一時間ほど経過した時点であるはずなので、その間は結界もスルーパスできただろうが、それでも観光客に紛れながらの移動ではそう遠くには行けないはずだ。

 

 ついでに私たち以外に転移の反応もなかったらしく、双方からもたらされた情報を合わせ考えれば、白音はこの周囲数キロ圏内のどこかに隠れているに違いないのだ。

 

「二時間もあればエリアの全部を回れるわ。そのくらいなら集中力も余裕で持つし。そうすれば、まあ……容易く解決よ」

 

「……ふ、一キロの探知を、余裕、か」

 

 憂思に言葉を詰まらせたせいで、曹操の呟きが独壇場に覆いかぶさった。

 

 奴は夕日に向かって苦笑して、口ごもる私に少しだけ陰の落ちたにやけ顔を向ける。

 

「実に便利だ。羨ましくすらあるな。俺もそんな能力が欲しいものだ」

 

「あんたね、今ここにいるのが私じゃなかったら、たぶんぶん殴られてるわよ」

 

 ノブあたりなら半殺しまでは行っていたかもしれない。曹操のそれ(・・)を知りうる者では、たぶん彼が最も苛烈な反応を示すだろう。

 

 過去に三回出くわして、その三回とも怯えた眼をして即座に逃げ去っていった彼のことを思い出しつつ、私は羨望染みた視線にでかでかと嘆息をした。

 

「羨ましいって言うんなら、私だってそうよ。まったく……神器(セイクリッド・ギア)、せっかくいいもの生まれ持ったんだから、あれこれ手を出す前にそっちを極めるなりなんなりしなさいよ。能力なんて、使いこなせなきゃ何の意味もないんだから」

 

 しかもこいつが宿しているのは神滅器(ロンギヌス)なのだ。仙術の使い手と同じくらいか、下手をすればそれ以上に希少で、強力な『力』。

 

 宿主の想いと願いで如何様(いかよう)にも進化するという、広大な可能性すら持つそれは、奴が本心から望めば、私など足元にも及ばないくらいの探知能力を得ることだってできるだろう。

 

 加えて本人の才幹。今は私から見ても未熟だが、一年近くもピト―に挑み続ける根性と武の上達ぶりは、天才と言って差し支えない。

 

 端的に評してチートな性能を誇る【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】に加えて地力の面も隙がない天賦の才までもを見せつけられ、止めににやけ顔で『お前が羨ましい』などと言われれば、そりゃあ大抵の人間がキレる。キレない方がおかしい。

 

 こいつはそのことをどう思っているのか。腹立たしさのまま、私は少し歩調を速めた。

 

「それに仙術だって万能じゃないわ。第一、気配探知なら『念』でも同じことができるでしょ。ほら、『(エン)』ってやつ」

 

 ピトーが使ったアレだ。自身の『纏』を広げ、それによって範囲内の状況を肌で知覚する技術。

 

 『念』の基礎たる『四大行』、そこから派生する応用技で『円』と呼ばれるそれは、いわば伸ばした手による触覚でモノを探知する技だ。仙術の探知とは根本的に原理が異なるため、比較すれば範囲も狭いが、一方でその情報量は仙術を凌ぐ。

 

 自身の『気』で『触れる』ので、生物の所在はもちろん、無機物や地形、『絶』で『気』を消そうが関係なく、範囲内のすべてを、誇張なく完全に把握することができるのだ。

 

 しかし仙術はそうもいかない。

 

 『円』が『手を伸ばして物体に触れる技』であるのなら、仙術は『漂ってくる『気』を感じとる技』だ。能動的な『円』に対して、受動的な仙術。と言い換えてもいいだろう。

 

 水蒸気を想像すれば、いくらかはわかりやすいはずだ。『念』を使えようが使えまいが、この世に生ける生物たちは皆、その身体に『気』を湛えている。普段は垂れ流しの状態にあるそれは、ちょうどやかんから噴き出す蒸気のように立ち上り、やがて空気に溶けてしまう。

 

 通常、『念』で見ることができるのはその間。蒸気で言う白い部分のみだ。

 

 ただもちろん、蒸発、あるいは揮発した『気』は、消えてしまったわけではない。見えないほど小さく、自然の『気』として一体化してしまうだけだ。見えずとも、確かにそこに存在する。

 

 念能力者でも見ることができないその粒子を感じることができるのが、私のような仙術使いだ。

 

 放出され、宙を漂う微小な『気』。それを取り込むことによって、距離や背格好、強さに種族までもを把握できる。『円』のように『手』を伸ばす必要もなく、ただ『精孔』を開くだけ済むのだ。

 

 が、だからこそ、無機物や『絶』には対応できない。

 

 『気』が発せられていなければ、『精孔』を開いていても何ら情報は入らない。ただ悪戯に邪気ばかりが溜まっていくだろう。

 

 そのこともあって乱用できない分、『円』のほうが使い勝手がいいと私は思うのだが、どうやら曹操にとっては違うらしい。

 

 自身の恵まれた才能すら慰めにはならず、奴はなおも力なく肩を落とし、呟くように口にした。

 

「……しかし一キロという範囲は魅力だ。おまけに『円』とは違って隠密性もあるんだろう?」

 

「あんたもしつこいわね……根本的なこと言っていい?そもそもどれだけ憧れようが、仙術を使う素質からしてあんたにはないのよ。期待させちゃったみたいで悪いけど、悩むだけ時間の無駄なのよね」

 

 身も蓋もない宣言。しかしそれでも曹操の羨望は消えなかった。

 

 呆れと不審を半々にした眼で見つめると、奴は言い辛そうに口をもごもごとさせた後、俯いたまま自嘲のようにそれを歪めた。

 

「……使えないんだ」

 

「……?だからそう言ってるじゃない」

 

 奴は仙術を使えない。先天的な資質が必要である以上、どれだけ頑張ろうが不可能だ。そしてそのことは奴自身も理解しているはず――

 

 という不審で首が傾き始め、それが十五度ほど進んだ頃、ようやく私は気が付いた。『使えないんだ』のイントネーション。落胆や未練がましさのそれではなく、告白のようにか細い口調。

 

 奴はばっと顔を上げ、夕日が添加されたその顔色を私に向けた。そこから飛び出した台詞は、直前のか細さが嘘のように荒んだものだった。

 

「言わせないでくれ……!俺は、『円』が、使えないんだよ!」

 

「……………え?」

 

 言葉の意味を理解するのに、凡そ五秒はかかった。

 

 私たちの間に会話が途切れ、代わりに観光客と客引きの喧騒が割って入る。鼓膜を滑る音に呆然としながらも歩き続け、経過の後に脳味噌が始動。

 

 ピトーに中二病の黒歴史を暴露された時以上の赤面を、その端正な顔に被る少年は、ものの見事に私から驚愕を引き出してしまった。

 

 制御を失い、そのまま口に出るほどに。

 

「え!?嘘でしょ!?できないの!?いつだったかうちに来た時、あれだけ自信満々に『念を教えてやる』とか言ってたくせに!?言ったはいいけどフェルの精度が思いのほかよくて指導する必要を見つけられず、結局ずっと座禅の組み方にケチ付けてたくせに!?それでキレたフェルに『気』だけでぼっこにされた自称英雄の末裔なくせに!?」

 

 悪気はない、と嘯くのはさすがに無謀だろうか。

 

 すれ違った幾人かに生暖かい眼を向けられ、妄想癖のあるそういったお年頃の男の子扱いをされた曹操は、私の生き生きとした顔を憎々しげにしかめた瞳に映し、肩を震わせ拳を握った。

 

「自称ってお前……本当に……お前たちは二人とも、心の傷というものを甘く見ていないか?そこまでされるほど、悪事を働いた覚えはないんだがな。

 ……大体、『円』は『念』の力量とは比例しないものだろう?どれだけ熟達した能力者でもできない者はできないし、逆に雑魚でもできる者はできる。得意不得意が顕著な技だと、その時確かに言ってやったよな?」

 

「うーんと、そうだったかしら?あんまりためにならなかったから、覚えてないわ」

 

「言ったとも!不本意だが俺は思い出したぞ!それを覚えてないと?ためにならなかったと?……そこまで言うならウタ、お前はできるんだろうな?仙術にかまけて『円』を疎かにするなど、仮にも念能力者を名乗る身の上で――」

 

「最長で半径七十メートル」

 

「畜生!どいつもこいつも何故使えるんだ!不公平だ!」

 

 握った拳を空に振り下ろす。トマトを通り越して太陽ばりの熱気すら放つ赤さを得た曹操は半ば涙目だ。爆発して消沈した奴に、お前が不公平を言うか、と心の中で反撃しながら、私はにっこりと肩を叩いてやった。

 

 さらなる悪戯心、と言うには些か度が過ぎているようにも思えるが、そんな私の追加攻撃に奴は抗する気力もない。弱々しく虚空に呟く。

 

「……同期のあいつらも、後輩も先達も、知人は皆例外なく使えるんだ。しかも全員達人以上、五十メートルを超える。そんな中でただ一人、全く使えない俺の気持ちがお前にわかるか?わからないだろうな。もういっそのこと『円』の代わりになる『発』でも作ろうかと、最近は真剣に思い悩むくらいなんだ……おまけに――」

 

 どんより濁った瞳で私を仰ぎ見て、次いで斜め下を見やる。

 

 たぶんピトーにも怨嗟を向けようとして、中途半端なところで力尽きたのだろう。そのまま視線を引きずって、曹操はそっぽを向いた。

 

「お前は七十メートルで、フェルのやつに至っては二キロだろう?加えて通常の円形ではなく、アメーバのように不定形で一方向に伸ばせるんだとか……」

 

「おおむね正しい情報だけど、ちょっと違うわね。フェルの『円』は二キロじゃなくて三キロよ。一年間の修行の成果」

 

 親切に付け足してやると、奴は擦れた声で、ハ、ハ、と笑った。

 

「仙術の三倍か。ますますもって化け物染みているな。その『オーラ』の性質も、何もかも……。はあ……どうしてなんだろうな。どうして俺は、よりにもよってこうも異常な奴に挑みかかってしまったんだか……いや、プライドのためにも、今更やめるわけにはいかないが……」

 

「……化け物とか異常とか、フェルのすごさを理解しているようで結構だけど、称賛するならもうちょっと敬意を込めなさいよ」

 

 十秒も持たなかった親切心を根元から撤回したい気持ちになりながら、私は曹操を睨みつける。

 

 奴は視線に気付くとドロドロと緩慢な動きで振り返り、全く同じ調子ながらも色味を百八十度反転させた声で、再度冷笑を口にした。

 

「敬意だろう?込めてるとも。俺が言う『化け物』だぞ?他には会長とミルたんにしか使わない」

 

「その二人と同列じゃあ、いろんな意味でダメだっての!片やクソッタレのクサレジジイで、もう片方なんか……アレ、人間どころか生物かどうかすら怪しいじゃない!」

 

「……まあ、俺としてもミルたんの『訳のわからなさ』は認めるところだが……生物扱いされていないのは、さすがに同情するな。ついでに会長にも」

 

「人の心配もいいけどね、怨みの度合いならあんたもそんなに変わらないわよ?あの時のこと、たぶん一生忘れられないから」

 

「ほう……一生忘れられない、か。口説き文句としては及第点だな。精々俺の彼女目指して頑張ってくれ」

 

「あん、たッ!まだそれを言う!?……いつまでもネチネチ同じことを蒸し返すなんて、全くもって男らしくないわね!」

 

「男女平等の時代だぞ?そんなことでは時の流れに置いて行かれてしまうな。そろそろその古臭い脳味噌を新しくしたらどうだ?」

 

「この二枚舌!減らず口!ちょっと優しくしてやったらあっという間に調子取り戻しちゃって……どんだけ意地悪いのよ!」

 

「不思議だな。ああ言っているが、俺にはあいつらに優しくされた覚えがないぞ。しかし大丈夫だ。この一年で、口の面でもみっちり鍛えられたからな」

 

「私たちこそあんたに鍛えられてるわよ!口と性格の悪さ世界チャンピョンのくせに!」

 

 という、一転してストレスの溜まるやり取りを続けた結果、比例して曹操の気力が漲ってしまう。忌々しい奴の笑みは、もうすっかり常態となったにやけ顔に戻っており、おかげで私の精神状況は乱れに乱れていた。

 

 失態だ。私も奴も、互いへの思いやりというものを持ち合わせてはいない。つまりやられたらそのまま、自ら反攻に転じない限りやられっぱなし。

 

 やはりこいつには何があっても手心を加えるべきではないな、と敵愾心に似た思いで眉を寄せる。それでも発散しきれない苛立ちが自然に私の歩みも速め、曹操を置き去りに、三人分ほどの間隔を空けた。

 

 その間で流れを取り戻すつもりだった。選んだのが反攻ではなく、嵐の通過を待つ神風主義であることは正直負けた気がしないでもないが、もう手遅れだ。とにかくなんとか平静を取り戻し、きちんと役目を果たさなくてはいけない。

 ついでに曹操へ痛撃を与えるためにも。うん、ついでだ。主目的ではなく。そうに違いない。

 

 だが、それらの思考と目的が遂行されることはなかった。

 

 揶揄いの最初の一言を頭に浮かべ、振り返って吐きかけようと口を開いた時、乱れた仙術の再起動で近辺を強く意識して、おかげでその薄い『気』に気付いたのだ。

 

 元より赴くつもりであった目的地の一つだが、感じ取ったその瞬間、私はそれを凝視して、立ち止まってしまうほどの衝撃に襲われた。訝しげな周りの視線にも気付かず、呆然とそこに足を向ける。

 

 夢見心地のような、どこか現実味のなかった感覚を、曹操が呼び戻した。

 

「ん?ああ、ここか。ターゲットが失踪したという土産物屋は」

 

 周囲の風景によくなじむ平屋だ。ぽっかりと口を開けた店先では、キーホルダーやポストカード、ある意味で定番な木刀などのグッズ類と、箱入り干菓子の数々が夕日に晒されている。生菓子は店の中なのだろう。

 

 全体的にちぐはぐというかなんというか、古き良き『和』と昭和あたりの現代建築が変な具合に入り混じった内装。古都好きとミーハーな観光客の両方取りを目指して失敗し、今日まで引きずってきたような店だ。外にあれだけ人がいるというのに店内には客の一人もおらず、レジ前で雑誌を読む店員は入店せんとする私に見向きもしない。

 

 見てくれだけは、一見さんお断りの穴場のよう。リアス・グレモリーの琴線に触れたのは、たぶんそんな雰囲気なのだろう。

 

 つまりは――

 

「………」

 

 何やらごそごそとやっている曹操の気配を背後に感じながら、私は店内に足を踏み入れた。

 

 天井から空調の冷気。和風洋菓子とでも言うべき、こってりした甘い匂い。それらすべてを素通りし、私はそこにたどり着く。

 

 店の隅、老舗銘菓のお饅頭。私の意識を絡めとった白音の(・・・)()』は、そこでひっそりと淀んでいた。

 

 そういえば、と思い出す。

 あの子は和菓子が好きだった。

 

 なぜだかはわからないが、何がいいかと聞けば決まってそれをリクエストするくらいの執着。よく人間界まで買いに赴いたものだ。

 

 その嗜好は、今でも変わっていないらしい。端っこに追いやられた饅頭も、あの子にとっては吟味に値するお土産だったのだろう。

 

 おかげであの子の気配は掻き消されずに残留し、私はそれに気付くことができた。

 

「しろね……」

 

 私の知らないところで、ここに来ていたのだという、その印。それは心にしまい込んだ後悔を、あっけなく表層に押し上げてしまう。

 

 リアス・グレモリーの言う通りだ。

 

 あの時、白音を捨てて立ち去ってからずっと、私はあの子と僅かでも干渉することを恐れ、何一つそのための行動をしなかった。

 互いのためにならないとか、合わせる顔がないとか、そんな言い訳を用いて、取り残された白音が悪魔たちにどう扱われるか、想像することすら避けていたのだ。

 

 魔王に保護され、我が儘そうだが正しく白音を想っているリアス・グレモリーに気に入られているからいいものの、そうでなかったらと思うとぞっとする。もしも元バカマスターのような奴に拾われていれば、私は白音の危機を知ることすらできなかっただろう。人知れず、あの子は闇に消えていた。

 

 そんなことを、私は今まで良しとしていたのだ。あの時の決断、白音を置いて冥界を脱出したことが正しかったのだとしても、それが白音を傷つけているのだとしたら、それは間違いでしかない。

 

 私は、私が最も恐れ、最も嫌う行為を、他でもない白音に働いていた。

 

 絶対に、見つけなければならない。でなければ、私は本当に白音の姉ではなくなってしまう。

 

 償おうとは思わない。ただせめて、ほんの少しでもそこに残っていたかった。

 

「まあ当然だが、足跡などとても読めないな。店員のほうも、消えた女児など知らないそうだ。あのお嬢様が何かやらかしたのかね、睨まれてしまったよ。そっちはどうだ?」

 

 だから私は、背中に曹操の声を受けた時、負の感情を呑みこんで、食いしばった奥歯をこじ開け言った。

 

「ダメね、なんにも残ってないわ。手掛かりなしよ。やっぱり地道に探すしかないわね」

 

 振り返ると、曹操は何とも微妙な表情で私を見ていた。

 

 いつものにやけ顔に混入した、憂いのような色。あまり見ることのない雰囲気を纏いながら、奴は生菓子の棚を見回し、「ふむ」と顎に手を当てた。

 

「全くか?痕跡も『気』も、何もかも?」

 

「そう。全く、これっぽっちも。大体、白音の『気』は知らないんだってば」

 

「……ああ、そうだったな」

 

 と視線をタイルの地面に落とし、曹操は動かなくなる。まさか意図が伝わっていないのかと、私の中に生じた呆れは、しかしすぐさま立ち消えた。どうにもそのような感じではない。

 

 不思議に思うも、とはいえここにもう用はなく、私は棒立ちする奴の横をすり抜けようとした。心痛に少しばかり時間を持っていかれ、もうそろそろピトーたちが追い付いてしまう頃だろうと、通路のど真ん中に陣取る奴を押しのける。

 

 だがどういうわけか、奴は私の気まずさに反抗を仕掛けてきた。押しても引いても殴っても、一向にそこからどこうとしない。

 

 体幹がしっかりしていると、嫌味でも言ってやるべきだろう。仕舞いには、僅かとはいえ『気』も込めたパンチを背に浴びようが意思を曲げなかった奴に、私はそれを嫌がらせだと断定した。結局それかと歯噛みして、罵倒を吐くべく息を吸う。

 

 が、それは発射されることなく、肺の底に送り返されることとなった。妙な表情を真面目に引き締めた奴がくるりと半身で振り向き、二撃目の『念』パンチを片手に受け止めると、言ったのだ。

 

「ウタ。確か白音は、『念』を使えないはずだな?」

 

 無視して鳩尾に三撃目をぶち込むのも一興かと思ったが、真摯が見える今の奴に対してそれはあまりにも無法だろうと思い直し、睨み返しながら答えも返す。

 

「そりゃあ、そうでしょ。身内が使えたら、リアス・グレモリーだってもう少し『念』の知識もあったわよ。……何?またいつもの憎まれ口なら、ほどほどにしないと本気でぶん殴りかねないんだけど」

 

「いや違うとも。ただ……いよいよもって不可思議だと、思っただけだ」

 

 数瞬思考で眼を閉ざすと、奴は再び私と視線を合わせ、続けた。

 

「そうじゃないか?店内はそこまで広くなく、どうやら繁盛店というわけでもないらしい。それに沖田総司だって居合わせたんだ。悪魔界最強の眷属が一人だぞ?そんな奴を……言い方は悪いが、白音ごときが出し抜けると思うか?一応、この依頼は捜索ということになってはいるが……しかし――」

 

「わかってるわよ」

 

 ようやく、曹操の言わんとすることを理解した。一人分増えた気まずさで、今度は私が眼を逸らす。

 

「覚悟は……してる」

 

 今日ずっと、曹操がうざったらしく絡んできた理由。確かに、誤魔化したままでいるのもそろそろリミットだ。

 

 完璧でなかった上、こんな奴にそれを言うのは非常に癪だが、最後まで責任を持とうとしたその姿勢には、報わなければならないだろう。励まされたことに違いはなく、それが心を固める一助になったのも確かだからだ。

 

 今度こそは、白音を救ってみせる。

 

「……ありがと」

 

 小さく言い捨て、私は今度こそ曹操の身体を押しのけた。

 

 くすん、という鼻で笑ったような音。恐らくたぶん嘲笑の類ではないだろうが、いかんせん悪い意味に聞こえてしまう内の羞恥から、私は逃げるように大股で店を出た。

 

 夕日を浴び、顔に熱を感じながら、大きく深呼吸を一つする。

 

「さて!」

 

 と、それなりの声量で転換を宣言し、周囲を見回した。どうやらピトーたちとの距離は思ったよりも開いていたらしく、その特徴的な一団の姿は視認できない。

 

 白音の『気』に意識を取られ、近辺に集中された今。それでも『円』と同じくらいの範囲は見えているはずなのに、いつの間にそれほど離れてしまったのか。

 

 何かあったのだろうか?不思議に思いながらも私は再度息を吐き、仙術の焦点を広げていった。

 

 じりじりと量を増す『気』の情報。やがて捉えたピトーと九重、そして八坂の気配は、ここよりおよそ百五十メートルも離れた地点に立ち止まっていた。

 

 仔細が伝わり、眉間に勝手にしわが寄る。ピトーに抱っこされている九重にまたしても嫉妬心と情けなさを覚え、なぜか乱れているピトーの『纏』をダシに、せめてもと内心で糾弾して平静を保つ。

 

 そうしてなんとか一キロ圏内を自身の感覚に収め直すと、中断してしまった間の分を取り戻すべく、私は新たに増えた気配を検分し始めた。ピトーとの距離が適当に縮まるのを待ちつつ、遠いものから順に眼を通す。

 

「……あれ?」

 

 精神的な疲労を押しての行使だった。

 

 平気だと見栄を張ったが、確実に無理は来ていた。限界はまだまだ先とはいえ、例えば好調時には一瞬で終わる気配探知の起動に、少しとはいえ手間取ったり、気配の正体なんかは、一度に確認できなかったり、といった具合に。

 

 邪気も入り、感覚が鈍っていたことも起因するだろう。ほんの一瞬、感覚に掠ったそれは、余韻だけを残して手の中をすり抜けた。

 

 正体は知れなかった。だが、胸の表面に残された『嫌な予感』は、運のいいことに私の警戒心にまで手を伸ばすことに成功したのだ。

 

「リアス・グレモリー……?」

 

「あの我が儘姫がどうか――あ!おい!」

 

 曹操の言葉に疑問符がつく前に、私は通りを走り始めた。

 

 逆走。次々感じる驚きの視線を横切り、人々の間隙を通り抜け、ピトーたちに向かって疾駆する。

 

 百五十メートルの距離はすぐに尽きた。周囲と同様に目を見張る九重と八坂。その中で一人眼を泳がせて、挙動不審に私を迎えたピトーが無理矢理作った笑顔で言った。

 

「あ、ああ、うーんと……い、一時間ぶり?お久しぶりだね、ク……じゃなくて、ウタ?」

 

 悪化する『纏』の乱れもそうだが、体調でも悪いのだろうか。

 

 そっちに逸れそうになる思考を寸でのところで押し留め、止まりかけた脚にさらなる疾走を強要する。

 

 早くしなければ、このうっすらとした余韻すらも見失ってしまうだろう。その可能性が『嫌な予感』に直結しているのだと強い確信を持つ私は、やむ得ずピトーに我慢してもらうことにして、中途半端に掲げられた彼女の手を素通りし、追い抜き際に叫んだ。

 

「わかんないけど、とにかく来て!」

 

 背後の喧騒に困惑と理解の気配を感じ取ると、私は邪魔な雑多から逃れるように通りから外れ、人通りのない路地に飛び込んだ。

 

 際限なく入ってくる数多の『気』のノイズが消え、ようやくそれがはっきりと認識に落ちてくる。

 

 一瞬だけ感じた気配は、やはりあの赤髪の悪魔、リアス・グレモリーのものだった。

 仙術で感知できるギリギリの距離。ふらふらと歩くその周辺は目抜き通りから遠く外れた路地の奥底であるようで、他に気配が少なく際立って見える。

 

 同時に、その奇妙もよく見えた。

 

 それは、有効な許可証を持たないはずの彼女が京都にいること、ではない。

 

 その身を覆う見覚えのない『気』の存在だった。

 

 許可証のそれではないし、もちろんリアス・グレモリーが『念』に目覚めたわけでもない。知りえる誰の気配とも一致しない、第三者の『気』。どのような状況なのかは想像するしかないが、少なくとも、私が感じた予感が間違っていなかったことは確かなようだ。

 

 仙術の『絶』擬きで自身の気配を隠しつつ、人ごみに抑制されていた全速力を存分に発揮して、私は音もなく路地を駆け抜けた。

 

 感知範囲の端、つまり直線距離でも一キロ以上ある距離だが、一切速度を緩めずにひた走れば数分でそこまでたどり着いた。

 

 観光のために整備された地帯を外れ、ひとけと日本家屋に代わって台頭するコンクリ建築の密林。角を曲がればそれが開け、舗装された小川が私の眼に飛び込んだ。

 

 河原もなければ土手もない。ほとんど水路のようにちゃぷちゃぷと流れる水筋を隔て、向こう側に彼女はいた。

 

 そしてもう一人、第三者も。

 

(――やばッ!)

 

 慌てて建物の陰に身を隠す。こっそりと覗き見れば、今度こそはっきりその姿を視認した。

 

 ぼんやりと夢うつつの表情でふらふら歩くリアス・グレモリーと、彼女の前でおいでおいでと手招きをする第三者。そいつは、妖怪の青年の姿をしていた。

 

 京都ではよく見る妖狐。明るい色の狐耳と狐尻尾を携え、にっこりと微笑んでいる。

 

 いっそ不気味に思えるほどの不自然さに、私はすぐ、それに気付いた。

 

 妖狐に妖力をほとんど感じない。代わりにあの未知なる『気』が存分に放射されていて、リアス・グレモリーの身体を包み込んでいる。

 

 仙術でなくとも捉えられるほど濃い気配は、まるで妖狐自身が『気』の塊であるかのように、剥き身のままでそこに在った。

 

(あれは……妖怪じゃない?)

 

 息を潜めてじっとそいつを――いや、それを凝視する。

 

 生物ですらない。『念』によって作り出された『念』の獣、『念獣(ネンジュウ)』だ。

 

 もはや疑う余地もない。あれが、あれを生み出した念能力者の何者かが、白音を攫った下手人なのだ。

 

 となれば、と考える。

 

 やはりここは様子を見るべきだろうか。

 

 どうやらリアス・グレモリーをどこかに連れて行こうとしているあの『念獣』。普通に考えれば、その『どこか』は下手人の下である可能性が高い。白音も当然そこにいるだろう。

 

 下手人が複数人であった場合も、そこでまとめて一掃できるかもしれない。私とピトーもいるのだから、取り逃がす心配も無いに等しい。

 

 尾行に成功すれば、あらゆる問題が一気に、かつ確実に解決できる。できるなら、それがベスト。

 

(決まりね)

 

 方針を定め、私はするりと建物の陰を出た。思考の間に離れてしまった彼我の距離。緩やかな曲がりで隠れてしまった彼女とあれを追い、次なる隠れ処に目星をつけて、そこに滑り込む。

 

 が、そうする前に、さっそく問題が起きた。

 

 ふわりと、まるで重さを感じさせない動作で、妖狐の『念獣』が浮き上がったのだ。

 

 催眠状態か何かに陥っているリアス・グレモリーは呆けたまま、上昇するそれを目で追って、見上げている。

 

 問題はその足元。コンクリートの地面を突き破り、今まさに大口を開けた頭を出さんとしている、何か大きな生き物の存在だった。

 

 悟った私は迷うことなく地を蹴った。

 

 一足飛びで水路を飛び越え、突き上げられて体勢を崩したリアス・グレモリーめがけて手を伸ばす。

 

 人一人を容易く丸呑みにできそうなほど、大きく開かれた口の中。彼女の身がそこに落ちる手前、ギリギリのところで間に合った。

 

 品のいいボレロの襟首を引っ掴み、思い切り引き上げた。びっしりと生え揃った無数の歯から救い出すと、反動でその顎を蹴り飛ばし、がちんと空を裁断させてやる。

 

 のけぞり、後傾、あるいは前傾に倒れこむそれ。片手に掴んだ邪魔者を放り、宙返りで着地した私は、そこでようやく、その大きな生き物の全貌を目にした。

 

 一言で言えば、どでかいチョウチンアンコウ。少なくとも魚類であることは疑いようがない。

 

 平たく潰れた顔面としゃくれ気味な下顎。胸びれ背びれに尾びれまでがへばりつき、最大の特徴たるチョウチンの部分からは『気』の線が伸びていて、よくよく見れば浮遊する妖狐に繋がっている。あれは云わば、リアス・グレモリーをこの場所におびき出すための疑似餌だったのだろう。

 

 そして本体のサイズだ。軽自動車くらいはあろうその巨体。もうそれだけで普通ではないことがわかるが、極めつけはその登場方法だった。

 

「やっぱり……ッ!」

 

 アンコウが飛び出してきた、ちょうどその地点を一瞥し、私は薄く舌打ちをする。

 

 あれほどの巨体が出てきたにもかかわらず、そこには穴の一つも開いていなかった。

 

 多少小石が乱れたような跡があるが、それだけだ。たぶん、アンコウは地面を水面のように見立て、泳ぐことができる能力を持っているのだろう。妖狐の疑似餌も同じく、『念』によって具現化されたものであるのなら、そういった特殊能力を持っていてもおかしくはない。

 

 そうであるのなら、尾行など端から不可能だ。

 

 地中深くの気配を探ることは、仙術にも『円』にもできない。ならばもう、やることは一つだけ。

 

 墜落するアンコウを視界に収め、私は身を乗り出した。

 

 瞬きの間で距離を詰め、踏み込み、のたうつアンコウに掌底を叩き込む。ぶにっとした手応え。それが大した威力を持たなかったためか、私を睥睨するアンコウの眼はニタリと笑ったようにも見えた。

 

 だがそれも一瞬のこと。すぐにその全身が硬直した。

 

 スウっと、溶けるようにして巨大魚の身体が消えていく。掌底が命中した腹からそれは広がり、胴体、背中、頭と尻尾と順に、一秒もせぬうちに完全に消滅した。

 

 仙術の、相手の『気』をかき乱す術の応用。ネテロの使う【無間乃掌(むけんのて)】を見て以来必死に修行した成果は、疑似餌の妖狐にも伝わり、その身を微細な『気』へと変換した。

 

 ふう、と息を吐く。消滅を見届け、夕焼け空を仰いで痛くなった首を下げる。

 

 ともかく完了だ。そして早く次の行動を起こさねばならない。

 

 尾行という確実な手段を失い、しかも生み出された『念獣』――いや魚なのだから『念魚(ネンギョ)』だろうか――を滅してしまった。ものによるが、そのことを相手に知られている可能性もある。それによって警戒のレベルを上げられるならまだいいが、恐れをなして逃走を選択された場合が厄介だ。下手においかけっこになれば、白音の消耗と危険は目に見えている。

 

「……うう、いたた……どうして身体が……あら……?私、いつの間にこんなところに……」

 

 背後でキーの高い声。リアス・グレモリーが目を覚ましたらしい。

 

「ほんと、はた迷惑なお姫様だこと」

 

 そうはいっても、あれほど巨大な『念魚』を具現化できるような念能力者が掛けた催眠だ。悪魔とはいえ幼い彼女に、抵抗しろと言うのは酷だろう。

 

 故に織り交ぜての軽口的調子を口にしたが、それでも彼女にとっては過ぎた悪罵だったらしい。

 

 びくりと飛び上がり、顔を青くする。そんな光景がありありと浮かぶほどの気配を発する彼女。実際に目にしてやろうと、私はゆっくり振り返った。

 

 その横目を、銀の光が横切った。

 

「……ッ!」

 

 弾かれるようにして視線を向ける。アンコウが消えた地面で瞬いたそれは、あっという間にその場を飛び出し、すさまじい速さで路地を転がっていった。

 

 だがほんの一瞬、眼にした形から、私はその名称に思い当たる。水路に沿って走り、やがてわき道に逸れた光跡を唖然と眺めながら、呟いた。

 

「……釣り針?」

 

「たぶん、そうじゃにゃい?」

 

 あっけに取られて振り向くと、そこにピトーの顔があった。

 

 全く知覚できない気配が、虚ろな存在感で、前触れもなくそこに在る。

 

 たっぷり数秒後、全身が総毛だった。

 

「おっひゃあ!!」

 

 妙ちくりんな悲鳴を上げてひっくり返り、バランスを崩して一歩二歩と後退った挙句、尻もちをつく。

 

 とぼけた表情でその痴態を眺めたピトーは、途端噴き出し、声をあげて笑った。

「にゃははは!ごめんごめん、『絶』したままだったね。でも、その方が集中できるかと思ってさ」

 

「……も、もう終わったわよ!ていうか、わかってやったんでしょ!?心臓止まるかと思ったじゃない!」

 

「そんなことないよ。ほら、油断大敵って言うじゃない?それに実際、あんまり状況が飲み込めてないんだけどさ――」

 

 と、不意に笑みを消し、ピトーの眼が横を向く。

 

「まず、なんでコイツがこんなとこにいるの?」

 

 底冷えするほど冷たい視線が、リアス・グレモリーに向けられていた。

 

 哀れなお姫様はガクガク震え、死人のように血の気が引いた顔で打ち上げられた魚みたいに喘いでいる。今にも気絶してしまいそうな顔色だが、ピトーの迫力に当てられそれさえも叶わないのだろう。

 

 生き地獄めいた仕打ちに同情しないわけでもないが、どうやら私が何かするまでもなく、救いの手が到着したようだった。

 

 水路の対岸に八坂たちが姿を見せた。九重を腕に抱き、認めたリアス・グレモリーに眉を顰める。

 

「それは妾もぜひ聞きたいの、姫君。何故ここにおる。許可証無くしての京への侵入は、即時の拘束、尋問対象となる。極論、侵略とみなされ殺されることもあり得るのだと、あれほど説明したというのに……」

 

「ち、違うんです!!八坂様!!私はその……狐の妖怪の方に連れてきてもらって……ええっと……あれ?」

 

 言葉に詰まり、眼が周囲を彷徨い始める。件の妖狐を探しているのだろうが、その末路など知りようがない彼女に、これ以上中身のある話ができるはずもない。

 

 それに――

 

「あっ!それ!それよ、フェル!」

 

 パニックに陥りかけたリアス・グレモリーを見ているうち、比例して落ち着きを取り戻した私は、それを思い出し声を上げた。

 

 今は一刻を争う事態なのだ。

 

「『円』!フェル、『円』であの釣り針を追って!あなたのならまだ間に合うわ!」

 

 飛びつくようにして立ち上がり、叫ぶと、威圧を続けるピトーは私の言うことを察したようで、はっと顔を上げて表情を引き締めた。

 

 互いに頷き合い、それぞれ備える。だがそれを発動する前、曹操からの横槍が入った。

 

「おいおい、いきなり走り出したと思ったら今度は『円』だって?フェルの『気』の性質、まさか忘れたわけじゃないだろう?大パニックが起こるぞ。せめてまともな説明をだな」

 

「『念獣』だったのよ!リアス・グレモリーが言う妖狐は!」

 

 怒り半分で怒鳴り、顔のにやけを消す曹操にぶつける。

 

「厳密に言えば『念魚』で、しかもそれが作り出した疑似餌!それで見事に誘い出されたお姫様を今助けてたの!けどその時、本体から消し飛ばしちゃったから、残った手掛かりはそっちに飛んでった釣り針しかないのよ!」

 

 路地の先を指さすと、八坂も事態を理解したようだった。わかっていないのは九重と、それからリアス・グレモリーだけだろう。

 

 どうなってるのと狼狽える赤髪の姫を尻目に、八坂が言った。

 

「つまり念能力者。悪意ある何者かが妾の膝元におるということか」

 

「ええ。だから八坂様、九重様と、ついでにリアス・グレモリーも一緒に、どこか安全な場所に退避してください。ここから先は……危険すぎます」

 

 戦闘はもう避けられない。そうなった時、この三人を守り切って、かつ白音を救出できると断言できるほど、私は自惚れてはいなかった。

 

 『念魚』の他にどんな能力を持っているのか、敵は何人いるのか。もしかすればその中には人間以外も混ざっているかもしれない。

 

 前情報のない戦いで油断などできようもなく、荷を背負うこともごめん被る。ネテロとの戦いで、それらは嫌というほど身に染みた。

 

 だが、

 

「いや、妾も共に行こう」

 

 八坂は毅然と否を言った。

 

 何故、と口を開く私に先んじて、妖怪の頭目の顔をした彼女は言い放つ。

 

「京に曲者がおるというのなら、それを排除するのは妾の務めじゃ。お三方に任せきりにするわけにはいくまい。依頼はあくまで白音の捜索なのじゃからな。……故に、妾らを案ずる必要はない。時間がないと言うのなら、姫君のこともどうにか言い訳を考えよう。じゃから皆様方、構わずやっておくれ」

 

 そう言われてしまえば、もう食い下がる理由もない。

 

 まっすぐ見つめる八坂の眼に苦々しく頷き、次いで曹操に目配せする。わかったよと首をすくめる奴を見届け、私はピト―から一歩離れた。

 

「……じゃあ、いくよ」

 

 ちらりと九重を見やり、呟くピトー。

 

 次の瞬間、彼女の禍々しい『気』が、辺り一面に広がった。




ふわふわしてた仙術の設定をちょっとだけしっかりさせてみました。とはいえやっぱりふわふわしているので、おかしな点があったらご連絡ください。ご愛敬と言い張ります。
あとご感想もください。


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十話

厳密に言えばオリキャラではありませんが、情報がなさ過ぎて九割九分九厘を捏造した結果生まれたオリキャラが登場します。ご注意。
主要キャラじゃないからゆるして。

8/13 本文を修正しました。


「ねえ、さま……」

 

 この響きを、何度口にしたことだろう。

 

 物心ついた時からずっと、黒歌姉さまは私の傍にいてくれた。優しい声で白音と呼ばれ、頭を撫でられるのが好きだった。

 

 私と姉さまには両親がいない。父さまも母さまも、私が小さいころに死んでしまったそうだ。ただ朧げに、抱かれた腕の感触を覚えているばかり。

 

 私にとっての家族は姉さまだけだった。けれど寂しいとも悲しいとも思ったことはない。いつだって傍には姉さまがいてくれたから、小さな家族にそんな思いを抱く余地もなく、私は毎日幸せで、辛い生活にも耐えられた。

 

 姉さまが主さまの眷属になり、今までが比べ物にならないほどの豊かさを手に入れてからは、その辛さだって消え去った。泥水を啜る必要も、硬い地面で眠る必要もない。そんな幸せだけで満たされた日々に、不満などあるはずもない。

 

 優しい姉さまと二人、手に入れた安住の地。希望を持って明日を迎えられる暮らし。

 この幸福は永遠に続くものだと思っていた。

 

 だが違った。幻想は、唐突に崩れ落ちた。

 

「ねえ……さま……」

 

 あの時のことは今でも眼に焼き付いている。

 

 忘れたくても忘れられないあの衝撃。どんな時でも優しかった姉さまが、全身を血で真っ赤に染め、残虐な笑みに顔を歪ませ、燃える主さまを見ながら哄笑している。

 

 あの時、私が感じた激烈な動揺。言葉で表すにはあまりに強く、複雑すぎるが、それでも明らかな変化は内心に渦巻いている。

 

 アレは、姉さまではない(・・・・・・・)。そう思った。

 

 優しい姉さまがあんなことを、あんな顔をするはずがない。私の姉さまが、あんな恐ろしいモノであるはずがない。

 

 目にすることすら苦痛だった。姉さまの姿をした、姉さまではない何か。私の姉さまを乏しめるそれ。どうして姉さまはあんなにも悍ましいものに変わってしまったのだろう。

 

 リアスさまが教えてくれた。それは仙術のせいである、と。

 

 仙術。主さまに仕える眷属の中で姉さまが最も強く、最上級悪魔クラスの強さを持つと言われた所以の一つ。強力な力だ。

 

 姉さまは、他を圧倒する強力なその力に溺れるあまり、呑まれてしまったらしい。暴力に酔い、血に酔い、衝動のまま幾人もの悪魔を屠り続け、そして――

 

 死んでしまったそうだ。

 

 それは当時私に向けられていた数多の批難よりも、よほど強い衝撃だった。

 

 リアスさまにそう聞かされても、まるで現実感が湧かなかった。今までずっと一緒にいてくれた姉さまが、もうこの世に存在しない。唯一の肉親が死に、自分が天涯孤独の身となってしまったことが信じられなかった。

 

 ただ、何か大切なものが壊れたような虚無感と飢餓感を、私は延々と感じていた。

 

「――ぇ……さま……」

 

 空っぽの胸の内で疼く恐怖。頼りなく揺れる地面を踏みしめる不安。

 

 そして何より、すべての元凶たる仙術への絶望が、私の中の現実を埋めていた。

 

 姉さまを悍ましい何かに変え、挙句殺した力。私からすべてを奪い去った仙術が、恐ろしくて仕方がなかった。

 恐ろしくて仕方なくて、自分の中にその恐ろしい力が眠っていることに、絶望がなだれ込んだ。

 

 姉さまと同じ血が流れる私にも、仙術を扱う才が備わっている。かつて主さまに教えられ、抱いた誇らしさはもう欠片も残っていない。あの優しかった姉さまを殺した『力』など、どうして誇れよう。

 

 いずれ私も、この『力』に呑まれてしまうのかもしれない。姉さまのように、恩人であるリアスさまもサーゼクスさまをも裏切って、変わって(死んで)しまうのかもしれない。

 

 一年と少しを経て確立したその危惧は、今や絶え間なく私の心を締め上げ、押し潰そうと圧力を増している。

 苦しくて辛い思い。逃れたいと強く思うも、それができないことはわかりきっていた。姉さまは、もうどこにもいないのだから。

 

 生きている間、永久にこんな思いをせねばならない。気付けばもう、心は折れていた。私に耐えられるはずがない。耐えられたとしても、そうまでして生きる意味もない。

 

 そうなるくらいなら、いっそのこと消えてしまいたかった。ずっと昔に見た流れ星のように、痕も残さず、美しい夜空に吸い込まれてしまいたい。

 

 姉さまと同じように、私も一緒に、その煤けた暗闇の中に――

 

「ねえさま……」

 

 ――どうして私を置いていったの

 

 まつ毛の格子から汚れた暗がりをぼんやり眺め、私は自分の口が馴染んだ形に動くのを感じていた。

 

「――あら、目が覚めたの?」

 

 声のほうにのろのろと視線が移ろった。

 

 ぼやけた輪郭が徐々に形を取り戻し、視界に一対の瞳、次いで顔を捉える。

 

 私を見下ろす誰かは、優しく微笑んだ。

 

「ごめんなさいね、あたしはあなたのお姉さんじゃないの」

 

 少しハスキーな、女の人の声だった。

 

 知らない人だ。少なくとも姉さまではない。ふわふわとおぼつかない意識がようやく認めた顔立ちも、そうであると告げている。

 

 ならこの人は誰なのだろう。疑問に思うも、思考はそれ以上先に進まない。熱に侵されて全身が熱く、頼りない心地がした。

 

 そうやって、ただぼうっと優しげな女の人の顔を見つめていると、緩やかに回復を続ける五感に新たな情報がするりと入り込んだ。今度は男の人の声だった。

 

「――だーからよぅ、どんだけ言われようが、こいつをくれてやる気ぁねえってんだよぉ」

 

 身体は怠いが、それよりも好奇心が勝った。首を傾け、そっちを見やる。

 

 大きなシルエット。麦わら帽子らしきつばの広い帽子と提げた釣竿は、いかにも釣り人然とした雰囲気だ。小さな水たまりすらない中で釣り糸を垂らす格好は珍妙であるが、不思議に思う余力が戻る前に、その隣に腰かけるもう一人の男に気が付いた。

 

「そう言うな。何種もいるうちのたった一種だろう?盗んでも大した問題はないはずだ」

 

 周囲の暗がりに溶け込む黒ずくめ。釣り人と違って格好の特徴はないが、雰囲気がすごかった。言葉では例えにくい感覚的な圧力だ。背筋が寒くなるような、冷たく鋭い悪寒が脳裏をよぎる。

 

「お前の能力はオレの能力と相性がいい。考えてみろ、自在に具現化できるんだぞ?便利な『念魚』はオレのほうで扱ったほうがいいに決まってる」

 

「そーいう問題じゃぁねぇんだよぉ。おいらのオキニなんだってばぁ、【密室游魚(インドアフィッシュ)】ちゃんはぁ。こんだけかわいらしい子は他におらんってのぉ。……大体、『盗んでも』って何だよぉ。もーちょっと態度考えろってんだよなぁ」

 

 焦点が合い始めた視界に、その姿が横切った。

 

 大きな白い魚だった。話している男たちの頭上をのんびり泳いで通り過ぎ、私のほうに向かってくる。

 

 本能的に目で追って、夢中になるうちつぶらな瞳は目の前まで迫っていた。が、瞬間、何か嫌なものでも見つけたかのように突然身をひるがえし、引き返していく。

 

 ふりふり動いて去っていく魅惑の尾びれをやはり追いかけ、口の中に湧いた唾を呑むと、ふとどこからかやってきた生暖かい風が(獲物)を包み、私の顔を叩いた。

 

 おいしそうな匂いが全身に染みわたる。染みて、気付いた。

 

(これ……どこかで……)

 

 感じたことがあるような――

 

「……ッひ!!」

 

 唐突に記憶が蘇り、意識が一気にクリアになった。平衡感覚も取り戻して自分が横になっていることを自覚するや否や、反射的にその場から逃げ出そう立ち上がり――その一歩目も踏み出せずに倒れこんだ。柔らかなクッション、いや、どうやら膝枕をされていたらしく、足がもつれて女の人のそれから滑り落ちるだけに終わる。

 

 固い地面を転がり、巻き上がった埃に咳き込むと、その拍子に、己の全身を蝕む倦怠感に気が付いた。身体が酷く頼りなく、ほとんど力が入らない。

 それにどうやら拘束されてもいるようだ。己の身体を見下ろせば、腕もろとも戒め、お腹に食い込む銀の鎖が眼に入った。

 

 背筋が冷える。思い出したのだ。

 

 お土産屋さんでお饅頭を物色していた時。前触れもない落下感と直後の痛みに、声を上げる間もなく意識を落としたあの時だ。薄れる意識の狭間で感じたあの匂いによく似ている。

 

 そんな異常事態に紛れる明らかな悪意の存在が、私の恐怖に蘇っていた。

 

「うーん?パクノダぁ、ちび助起きたのかぁ?」

 

 咽喉がきゅうっとすぼまった。

 

「ええ、ついさっきね」

 

「想定よりずいぶん進行が遅いな……未覚醒でも特性は健在ということか?ふむ、興味深い」

 

 座っていた何かの機械から飛び降りると、黒ずくめの男はこちらに近寄ってきた。双眸が暗く煌めいている。

 

 倒れこんだ衝撃でくらくらする頭に加え、初めて味わう類の震えが私の意識に絡みつく。死の恐怖、とでも言うべき本能的な恐れは彼我の距離に比例して強まり、歩みを見つめるしかない私の精神を、今にも呑み込んでしまいそうなほど強く圧迫していた。

 

 けれどギリギリのところで踏み止まれたのは、こういう場合に言うべきこととして、その台詞をリアスさまに教え込まれていたからだった。

 

 慄く声帯を無理矢理軌道に乗せて、私はか細い声を押し出した。

 

「わ、私、白音は、魔王サーゼクス・ルシファーさまにその身の安全を、ほ、保障されています。私に手を出すということは、魔王さまの決定に反する、反逆と同義、です。い、いの、命が、惜しくば……」

 

 しかし、威を借りた虚勢はそこで限界を迎えた。

 

 私のか細い警告など、耳にも入っていないらしい。男はよどみない足取りで目の前までたどり着き、その長身から私をじっと見下ろした。

 

 底まで響くテノールで小さく笑う。

 

「威勢のいいお嬢さんだな。だが生憎、オレたちは冥界の出ではなくてな、畏れてはやれないんだ」

 

「ふふ、そうね、あたしたち人間だから」

 

「そうじゃぁなくても知ったこっちゃねーけどなぁ」

 

 笑声。和んだ雰囲気を醸し出す三人とは裏腹に、私の心身は震えあがっていた。唯一のよすがを失い、混乱が頭の中を席捲する。

 

 なら、私を疎む悪魔たちではないのなら、

 

「だれ、なんですか」

 

 黒ずくめの男がにやりと笑った。

 

「『蜘蛛(クモ)』、さ」

 

「……く、も?」

 

 呆然と音をなぞる。

 

「『幻影旅団(げんえいりょだん)』っちゅー盗賊だよぉ。通称が『蜘蛛』なのさぁ。んでなぁ、それだけでわかるだろーってふんぞり返ってるそれが、団長のクロロでぇ、ねーちゃんのほうがパクノダ、おいらはサンペーだよぉ。短い間だけども、よろしくなぁ、ちび助よぉ」

 

「……名前まで教えてやることはないだろう」

 

「構いやぁしねぇだろぉ?目覚めちまったからにゃぁ、どーせ記憶は消さなきゃなんねぇんだしぃ」

 

「少なくとも、あんたが言っていいセリフじゃないわね」

 

「なんだよぉ、しょうがねぇだろぉ?団長の言うとーりぃ、特性ってーのがあったんだからぁ」

 

「だとしても、よ。実際に苦労するのはあたしなのよ?無駄な面倒をかけないでほしいわ。ねぇ、白音ちゃん」

 

 同時に身体を持ち上げられ、全身が恐怖で凍り付く。

 

 抵抗もできずに女の人、パクノダの膝の上に戻された私は、防衛本能が呼び起こしたなけなしの勇気に縋って口を開いた。

 

「ひ、人の盗賊が、なら、な、なんで、私は、どうして、こんなことに……」

 

 恐怖からの逃避にどもり、困惑を叫んだ私の悲鳴は、どうやら黒ずくめのクロロからその興味を引き出し、刺激することに成功したようだった。

 

 彼は近くに転がっていたドラム缶に腰を下ろし、あの暗い煌めきで私を見つめて言った。

 

「知らないわけはないだろう。お前が猫魈だからだ」

 

「……っ」

 

 喉の奥で、掠れた空気の音がした。

 気付くことなく、クロロは続ける。

 

「妖怪、猫又。その中でも特に希少で、かつ仙術という特異な力を扱うことができる種族。レアの二重奏だ。身体の一パーツでもすさまじい価値が付くだろう。そんなお宝は、コレクターにとって垂涎の的。生きていればなおのことだ」

 

 つまり、私は――

 

「売られる、の……?」

 

 自身が誘拐されたことをようやく認識して、足元からじわじわと、何か不穏なものが上ってくる。どこか見覚えのある煌めきも含めて妙な既視感に意識を持っていかれそうで、私は震えてクロロから眼を逸らした。

 

 その先で、運の悪いことに今度は釣り人、サンペーと視線が繋がった。

 

「おまけに器量もいいからなぁ。猫又ってやつぁ、毎年の競りでも五指に入る人気商品なんよぉ。ちび助の顔なら、愛玩用でもいい値が付くだろうなぁ。群がってくるぜぇ、人じゃぁ満足できねぇ変態共がうじゃうじゃとぉ。そういうんは普段発散できない分、ぜぇんぶまとめてぶつけんだぁ。イカれるまで弄ばれて、手加減も気遣いも一切なしよぉ」

 

 そう言って知識に疎くとも、それが怖いことなのだという実感の迫力は、十分すぎるほど私の精神に恐怖を与えていた。許容量は限界寸前で、絶え間ない悪意が縁をぐいぐい押している。

 

 決壊しかけのそれに、再び悪念が注がれた。

 

「……なぁ、耐えきれずに気が触れた奴らぁ、どーなると思う?」

 

 口ひげを撫ぜ、ゆったりとした語調をそのままに、低く悪く笑う。

 

「大半はバラされるなぁ。妖怪の身体はどこもかしこも人気があっからぁ。ほらぁ、妖怪の肉を喰えば不老不死になるとかよぉ、あるだろぉ?そういうの、信じてる輩も結構おるんよぉ。

 んでぇ、もう一つ。本物の変態に限るんだけどもぉ……一回でかい屋敷に盗みに入った時、おいら見ちったんだよねぇ」

 

 これ見よがしに息を吸い、開けた間が、有無を言わさず私の意識を縛り付ける。

 

 まるでそれは、十字架に磔にされているかのようで、

 

「廊下にずらぁっと並んでんのよぉ。どこ見てるかもわからねぇ笑顔でぇ、素っ裸の剥製が――」

 

 目に見えた槍に、私はとうとう、明確な末路を悟ってしまった。

 

「や、やだ……やだああぁぁ!!」

 

 軋む身体が跳ね飛んだ。パクノダの腕と、身を戒める鎖を解けず、身を捩って半狂乱に暴れる。

 

 リアスさまのお屋敷にある鹿の剥製。記憶の中のそれが、私の姿に変わっていた。生気のない眼で身動き一つせず反対の壁を見つめ続ける己の姿は自身の根幹が融解していくかのような強烈な恐怖で、耐えることなどできなかった。

 

 だれもいない暗闇めがけて独り、恥も外聞も捨てて泣き叫ぶ。

 

「たすけっ……たすけてぇ!!リアスさま!!サーゼクスさま!!たすけて……」

 

 ――。

 

 脳裏に浮かぶ人影に向けて、精一杯手を伸ばす。届くはずがないとわかっていても、やめられない。その姿が段々白んでいっても、やめることができない。

 

 早くも声が枯れ、同時に脱力感も耐えがたいものとなり始めた頃、いつの間にか寄ってきていたサンペーが、竿を片手に私の痴態を笑った。

 

「あーはははぁ!そう大声出すなよぉ、耳がキンキンすらぁ。そう無駄に心配せんともぉ、どんだけ泣き叫ぼうが届きゃぁしねぇよぉ」

 

「サンペー、それくらいにしなさい。さすがに悪趣味だわ」

 

 パクノダが諫める。だが反省の様子もなく、サンペーは変わらず同じ調子で嘲笑する。

 

「あぁ、悪ぃ悪ぃ。詫びに一個教えてやるよぉ、ちび助。そーいう変態共は総じて恋愛の経験がねぇからなぁ、媚び売ったら案外コロッと堕ちるかもしんねぇぜぇ?逃げ出せりゃあ、その『サーゼクス様』とやらにも見つけてもらえるだろうよぉ。まぁ、リアスのほうはぁ……ぐふふふぅ」

 

「サンペー!はあ、全く……」

 

 響いた批難の声が頭の中をぐるりと回る。脳天からつま先までがじぃんと痺れ、末端は溶けてしまったかのように感覚がおぼろげだ。

 

 精神に続いて肉体も限界を迎えたのだろう。しかし当然どうしようもなく、少しずつ暗転に向かう意識は純粋な恐怖のみを生み出し続ける。無慈悲に心へ注がれるそれを、私は黙って受け入れ、見守ることしかできない。

 

 抵抗らしい抵抗もできなくなって、身体がパクノダの膝に沈みこんだ。

 

「あら、そろそろ『オーラ』も限界かしら。疲れたならいいわよ、寝ちゃっても」

 

「おぉ?さっきあんだけ言っとったんにぃ、アレは後回しでいーんかぁ?なぁ、団長?」

 

「……お前次第だ。どうだ、調子は」

 

 すぐ近くから動いていないのに、遠ざかる声。頭と五感が上手く働かなくなってきたのだろう。意識が朦朧としている。

 

 最悪の結末が確定しつつあるにもかかわらず、力尽きた心身は呼吸をするだけで精いっぱいで、もはや助けも叫べなかった。

 

 このまま意識が落ちれば、次に目に映るのはサンペーが言った通りの悪夢だろう。リアスさま、サーゼクスさま、優しくしてくれた屋敷の皆にも二度と会えず、弄ばれ、いつか剥製にされてしまう。

 

 姉さまのように消えることもできず、永遠にそこに囚われてしまう。

 

 それは単なる死よりもよほど恐ろしく思えた。想像が転じ、自傷の妄想ばかりを繰り返す悪循環。逃げることも立ち向かうこともできない八方塞がりの状況は、僅かに残った気力すら根こそぎ奪い去っていった。

 

 そんな中、悪意に満ちた場の雰囲気が、不意に崩れた。

 

「ちょーど今まさに、さぁ。ちゃぁんと連れ込めたみたいだしなぁ、すぐにぱくっとぉ……うぅん?」

 

「……どうした」

 

 クロロが顔を上げ、眼を向けた。引っ張られるようにして、半ば抜け殻と化した私も追随する。

 

 サンペーは打って変わった真顔を作り、構える竿に向けたしばしの凝視の後、リールを巻き始めた。

 

「針がぁ……外れたなぁ」

 

 信じられない、というふうな呟きに二人も不穏を感じ取り、息を呑む。

 

「正確にゃぁ、おいらの【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃんが倒された、ってーわけだけどもぉ……」

 

「倒された?なんでそうなる前に言わないのよ」

 

「いやいやぁ、そうじゃぁなくてぇ……たった今ぁ、一瞬でやられちまったんだよぉ。……糸が切れてからほーんの少しで手ごたえが消えたんだってばぁ」

 

「……それこそ意味がわからないわ。ウボォーの【超破壊拳(ビックバンインパクト)】にも耐えた硬さでしょう?たとえ妖怪か悪魔の仕業だとしても、お守の連中じゃあ到底……。つまり、お姫様への暗示が何かの拍子に外れて、消滅の魔力を使われたってことなの?でも――」

 

「あぁ、そりゃぁねぇなぁ。いくら防御力を無視するっつーてもぉ、【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃんの体積を一瞬ってーのはちっとばっかし無理があんだろぉ。そーなる前に腹ん中だろーしぃ……それにぃ、そんだけの『力』があんならそもそも誘導自体が成功しねぇよぉ。おいらは『操作系』じゃあねぇかんなぁ……うぅん……」

 

 意味は右から左へ抜けていくが、身の竦む圧力が逸れたことは私にもわかった。各々黙り込む中、恐る恐るで周囲をうかがい、見回す。

 

 その瞬間、図ったかのようにクロロが腰を上げ、椅子代わりのドラム缶が転がって反響した騒音が鳴り響く。私の心臓はまた縮み上がった。

 

「パク、今すぐアレをやれ。処理のほうはその後でいい。サンペーは戻る準備だ。急げ」

 

「……あいよー、団長」

 

「了解」

 

 短く言い合うと、三人とも一斉に動き出した。何事かと身を硬くする私はパクノダに軽々抱き上げられ、取り残されたドラム缶の上に座らせられる。

 

 元より逃げるという発想すらもう頭にはなかったが、私の髪を梳くように撫でつつ佇む彼女を前にしてしまえばあらゆる方面で逃げ場はなく、真正面から向けられる眼差しにも、それを真っ向から返す以外の選択肢は存在しなかった。

 

 恐怖心を押し殺して彼女を眼に映し、その口の動きを、審判を待つ罪人のような心地で辿る。

 

「ごめんなさいね、白音ちゃん。今からあなたに質問するから、正直に答えて。すぐに終わるわ」

 

 深い瞳で私を捉え、言った。

 

「あなたは仙術について、どれくらいのことを知ってるの?」

 

 ずるり、と、

 

 頭に置かれた手を伝って、得体の知れぬ何かが脳にねじ込まれたような感覚がした。反応する間もなく身を貫いた不快感が、奥底目指してじりじりと進んでいく。なぜだかはわからないが、それが良くないものだと本能的に理解した私は、必死になってその侵入に逆らった。

 

 眼前で眉を顰めるパクノダにも気付かないくらい、集中力をかき集めての決死。しかし、進行を止めるには至らなかった。

 

 時間にして何分か。あるいはもっと掛かったのかもしれないが、結果、私の抵抗は破られた。耳朶にまた、あのハスキーな声色が響く。

 

「……もう一度訊くわ。白音ちゃん、あなたはどこまで仙術を知ってるの?」

 

 何かが、記憶が浚われ、表層に顔を見せた。

 

 私にとっての仙術(絶望)。瞬く間に幸福の記憶が流れ去った後、ことさら粘ついた黒がそこだけを緩慢に、瞭然たる光景を蘇らせる。

 

 破壊されたお屋敷を舐めるように広がる炎。息が詰まりそうなほど濃い血の臭い。あちこち転がる無残な死体。真っ黒になって気持ちの悪い臭気を放つ主さま。

 

 そして――

 

「や……いやぁ!!」

 

 止まらない。何度も何度も繰り返し思い出し、その度にもう見たくないと奥底に押し込めたそれが、どうやっても忘れることができなかったそれが、拒絶を無視して無理矢理引きずり出されていく。

 

 私の感覚野を引っ掻き回して通り抜け、掬い上げられる。瞼のない記憶の世界は、その浮上から決して目を背けられない。

 

 思い出してしまう。姉さまの、変わり果てた(邪悪な)姿が――

 

 ―――

 

(――え?)

 

 焼き付いた再生であるはずの記憶に、一筋、知らない光が零れ落ちた。

 

(ねえさま)

 

 炎の中に消えるそれを手繰り寄せ、私は初めて、頭を押し下げる記憶の圧に抗う。

 

 ノイズに隠れる姉さまの心に

 

 ――どうして、泣いてるの?

 

 声もなく、呟いた。

 

 ―――。

 

「はぁ、はぁ、ひゅう……」

 

 いつの間にか、追憶は終わっていた。その間呼吸が滞っていたことに今更のように気付き、必死に肺を伸縮させる。元からの疲労も合わさって、今すぐに意識が飛びそうなほどの息苦しさ。

 

 そんな破滅を目前にして、私は未だに追憶を見つめていた。

 

 あれはいったい、何だったのか。

 

 私の記憶であるはずだ。あの時の、最も忌まわしい記憶。私の姉さまが、遠くに行ってしまった時の光景だ。

 

 でも違う。私は、あんな姉さまを知らない。私の知っている姉さまには、あんな涙を流すような弱さはない。

 

 刹那的で短絡的で悪戯好きで、色々世話が焼けるけど、産まれた時からずっと私を守ってくれた優しい姉さま。眷属の誰よりも強く、いつも笑顔で私を気遣ってくれた強い姉さま。

 

 あの人のあんな涙、暗い嘆きを、私は知らない。

 

 あれもまた、仙術によって変わってしまった姉さまだったのだろうか。

 

 そうは思えない。私が恐れた仙術はあんなものでは、胸を締め付けられるような痛みに喘ぐものではないはずだ。

 

 私の瞳に、悲しみの涙を溢れさせるものではないはずだ。

 

「……可哀そうね、あなたのお姉さんも、あなた自身も」

 

 頬を伝う滂沱の雫が滴り落ち、鏡面にパクノダの憐れみが映る。服の上に消えたそれに遅れ、私はぎこちなく顔を上げた。

 

 額に、冷たい銀が付きつけられた。

 

「その記憶、あたしが消してあげようか?」

 

 焦点を絞る。滲んだ視界でも、その銀が拳銃であることがわかった。

 

 金属の温度と同じく冷やかに、しかしどこか穏やかな声色で、パクノダが言う。

 

「もうどうしようもない、辛いだけの記憶。この先平穏に暮らすには、邪魔な記憶。忘れたいのなら餞別に一つだけ、後悔を消してあげる」

 

 ――さあ、どうするの?

 

 指がトリガーに掛かり、撃鉄が起こされる。ゆっくりと引き絞られ、弾倉が淡く輝くと共にキリキリと回り出す。

 

 制限時間が迫っていることを意識しつつも、私の頭は真っ白だった。パクノダの言葉を理解し、判断を下すだけの余力は存在していない。

 

 しかし薄く開いた私の口は、最初から答えを決めていた。

 

 溢れんばかりの感情が、その形にゆるゆると動く。

 

 それを認めて、パクノダが微かに微笑んだ。その直後だった。

 

「――ッッッ!!!」

 

 濁流。

 

 あらゆる負を一纏めにしたかのような禍々しい気配が、突如として周囲一帯に溢れかえった。

 

 三人から受けた悪意がそよ風に思えるほどの、すさまじい圧力。死さえ生ぬるい激烈な戦慄は、瀬戸際にあった私の意識を容易く呑み込み、沈める。何かを叫ぶサンペーたちの声もはるか遠くのもので、たちまち闇に落ちゆく私は、無意識に天を仰いだ。

 

 心を占める感情。口にしたその想いを、果てしない姉への恋しさと愛しさを、その瞬間、天を貫いた夕闇と人影に掲げた。

 

 今度こそ、届くことを願って。

 

 黒歌姉さま――

 

 私の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

「――白音ッ!!」

 

 反射的にぶち抜いた天井の奥にいたのは、間違いなく、白音だった。

 

 ピトーの報告通り、その身体からは『気』がごっそりと抜け落ちている。『精孔』の一部が開いてしまっているところを見るに、それは悪意によるものではなく気脈の影響なのだろうが、それにしても一年ぶりに眼にした彼女の姿は痛々しいものだった。

 

 気を失った瞳は薄いまつ毛に伏せられピクリとも動かず、全身は力を失い垂れ下がる。その拍子に見えた首元は骨ばっていて、記憶より背が伸びているにもかかわらず、ずっとやせ細っているように見えた。

 

 栄養不足。しかし、食べ物を得られなかった、というわけではないだろう。なにせあの子はリアス・グレモリーに気に入られている。あの貴族悪魔の住む屋敷では、私が供せるものよりも数段等級の高い料理がいくらでも出てくるだろう。

 

 つまり、私の罪だ。

 

 込み上げる衝動に拳を握る。罪悪感と後悔に胸を突かれ、だからこそ私はその痛みのすべてを拳の中に押し込んだ。

 

 波板の鉄片と木くずが舞い散る中、眼中に開けた奴らの驚愕顔に意識を向け、己が眼でピトーからの情報と照合する。それこそが贖罪だと衝動に言い聞かせ、加速した思考の内に捉えた。

 

 ほとんどピトーが言った通りだ。数は四。男が二人に女が一人、おまけに『念魚』。彼女の『円』に晒され、直後突然の襲撃に見舞われたにもかかわらず、人間三人の『気』は乱れない力強さを保っている。たぶん、全員が高レベルの念能力者だ。

 

 とはいえ、そんな奴らでもピトーの『気』が生み出す激甚なる戦慄を完璧に御することはできなかったらしい。

 

 理性は平常であろうとも、本能は竦み上がる。当然だ。引き起こされた身体の硬直はわずかの間だが、それによって私の狙いは標的に絞られた。

 

 男二人は間に合わぬ位置。白音に銃口を向ける、女の元へ。

 

「ッ!パク!!下がれ!!」

 

 やたらと顔のいい青年から飛ぶ指示は、しかしどう考えても遅すぎる。白音を抱えて飛び退るその前に、確実に私の一撃が刺さるだろう。

 

 確信を抱き、自由落下が終わりを迎える。パクと呼ばれた女の引きつった恐怖まで、凡そ二歩分の距離。衝動任せの拳を振りかぶった、ちょうどその時、

 

 釣り人風の男が、私めがけて何かを放り投げた。

 

 薄ピンクの、ゴルフボール大の塊。矢のように迫るそれに『気』が込められていることを見破って、私はやむなくもう片方の手を伸ばす。

 

 接触。そして破裂。生臭い臭いが広がるも、防御した手の平にダメージはない。

 

 訝る間もなく、次なる矢が飛んできた。

 

 宙に浮く白い魚、いや『念魚』だ。なるほど薄ピンクはマーキングか何かなのかと疑念をなだめ、都合よく手の平を目指すそれを迎え撃つ。横目に見たその姿はなぜかすでにボロボロで、所々が消えかかっていたが、原因は放置して仙術を行使する。

 

 虫の息であった魚は、開いた口先が私の皮膚に触れた瞬間に崩壊した。淀んだ空気を切り裂き、消えた障害の残滓を払って、私は一歩を踏みしめる。

 

 その時、左耳でビィンと何かが震える音がした。開いた天井の暗い夕で煌めく、一本の極々細い光線。

 

 背後に伸びる釣り糸に気付き、振り返ると同時、

 

「来いやぁ!!【一本気魚(ストーカーフィッシュ)】ゥ!!」

 

 古びたコンクリートの地面から、魚が釣り上がった。

 

 カジキマグロのような鋭いツノとヒレ。しかしあれよりはずっと丸っこく、サイズも小さく鰹くらい。しかし色はけばけばしいショッキングピンクで、色彩の薄いこの空間ではすさまじく浮いていた。

 

 そんな奇抜極まった『念魚』と、たぶんその時眼が合った。

 

「――なッ!!」

 

 途端に『念魚』は、その姿が霞むほどの速さで突撃を開始した。狙いはもちろん私。そしてその直線状には女と、白音。

 

 まさか味方ごと――ッ!!

 

 きちんと避けるのかもしれないが、それを試す気にはとてもなれない。何よりこのままでは私も危険だ。身で受けるとしても、あの速さでは仙術も間に合わず、『念』だけで防御しきれるとも思えない。

 

 歯を食いしばり、私は反転した。残ったダッシュの勢いで地面を滑りながら拳を解き、突っ込んでくる『念魚』と対峙する。

 

 正面から見ればゴマ粒のように小さいツノ。このピンクの閃光を捌き損ねれば、下手をすれば心臓を貫かれるだろう。死に至るかもしれない可能性に冷や汗が浮く。

 

 だが、そんな恐れは宙の埃と一緒に吹き飛んだ。

 

 ピトーだ。

 

 目にも止まらぬ速さで突き進む『念魚』を、それ以上の速度を以って捕らえたのだ。

 

 銃を突き付けられた白音の危機に気が急いた私と違い、トタン屋根の上で至極冷静に機を伺っていた彼女は、天井を蹴ってその速度を得たのだろう。たちまちの轟音と土煙、撒き散らされる石礫に私は少しだけ口角を上げ、再度の反転をした。

 

 すると正面、敵の動きにそれを見る。

 

 結果的に隙と時間を与えてしまうこととなった一回転だが、しかしそれによって私にも得るものがあったらしい。

 

 いつの間に寄ってきていたのか、女の前に出てナイフを突き出す青年。私が『念魚』の相手をしているうちに背を刺し貫こうと、策を講じたその表情には驚嘆の色。

 

 不意を突こうとした奴らの、さらに不意を突けた恰好。実際、肘まで伸び切った突きを躱すのは容易だった。

 

 するりと抜けて懐に入り、去り際で突き飛ばす。開けた直線。先には白音を抱える女。

 

 今度こそ――

 

 一跳びで詰め寄り、正拳突きを打ち放つ。

 

 が、またしてもそれは阻まれた。

 

 ――パシ

 

 想像以上に軽い音。驚愕で顔を上げると、釣り人の男が片手に私の一撃を受け止め、嘲りの笑みを口にしていた。

 

「なんだぁ、すげーパンチだなぁ、ねーちゃんよぉ」

 

 響きに一瞬息が詰まる。故に、男が突然頭を横にずらした時、思惑を理解するのにコンマ数秒の遅れが生じた。

 

 奴の肩越しに眩い閃光と、発砲音。女の拳銃が火を噴き、唸りを上げて鉛玉が飛来する。

 

 瞬時に冷えた頭で身を反り、眉間を狙う凶弾を紙一重に避ける。しかし後傾して崩れた体勢はすぐには戻らず、当然、続く攻撃への対処も叶わなかった。

 

「そらァ!!」

 

「――っくぁ!!」

 

 顎に衝撃が突き刺さる。脳が揺れ、平衡感覚が消え去った。『気』の防御で失神は防いだものの、前後不覚の状態は仙術でも即座には回復しない。少なくとも一秒はかかるだろう。

 

 たかが一秒、されど一秒。高速戦闘の真っ只中では気の遠くなるほどの長い時間だ。それだけの間、私はピトーの負担になってしまう。

 

 唇を噛み、地を掴んだ足を踏ん張る力技で吹き飛ぶ身体に制動をかけながら、入れ替わりに突撃するピトーの背を見送った。

 

 だが戦況はめまぐるしく、またしても事態が変化する。

 

 後方からの観察で、今度は間違いなくその揺らぎを捉えた。

 

 後ろ手にした釣竿がしなり、男の背後の地中から大きな『気』の塊が顔を出す。あの時のチョウチンアンコウや消えかけだった白い魚、ピトーが潰したピンクよりも数段強力な気配を発する『念魚』は、釣り上げられると同時に私に照準を絞った。

 

「大当たりィ!!やれぇ、【双頭爆発鮫(ファンタスティックシャーク)】ちゃぁん!!」

 

 鮫だ。しかも二股に分かれて頭が二つある。人一人を簡単に丸呑みにできそうなサイズが大口を開けて迫ってくる光景は恐怖と同時にチープな二流映画を想起させられるが、どちらにせよ、私もピトーもその食道に消えるような事態には陥らない。

 

 腕力と格闘センスに於いて私など足元にも及ばない能力を有するピトーは、私に向かってくる鮫にすれ違いの際、横合いからの裏拳を叩き込んだ。

 

 ようやく静止した私にも届くほど激しい打撃の衝撃。いかに強力な『念魚』であろうとも、その威力の前にはひとたまりもなく倒れ伏すだろうと確信する。

 

 その想像は当たっていた。だが、同時に外れてもいた。

 

 拳が鮫の肉に食い込み、やがて破って穴を穿つ。その瞬間、変質した鮫の『気』に、私は強烈な悪寒を感じ取った。

 

「――ッ!!フェル!!」

 

 叫ぶと同時、揺れる地面に歯向かい飛び出した。振り返った横顔に浮かぶピトーの動揺を認め、一層の気力を振り絞る。

 

 ドクン、と鮫が脈動した。そこでピトーも不穏に気付き、突き込んだ拳を引き抜こうとする。しかし肉が吸い付くように絡みつき、取れない。

 

 最も単純な方法の試行。それだけの時間で、離脱のチャンスは潰えた。

 

 覚悟を決め、精神集中に意識を向ける。だがそのあまり、元より不確かだった脚がもつれた。諦め、今度は残った全力を以って跳躍する。ほとんど脇腹へのタックルだが、おかげで二度目の脈動に間に合った。

 

 ドクン

 

 鮫の肉体が膨れる。同時にピトーに抱き着いた私の手が、ザラザラとしたその皮膚に触れた。

 

 火事場の馬鹿力、というやつだろう。鮫の膨張は瞬時に止まり、石のように固まった。片腕で私を受け止めたピトーに支えられながら、『念魚』を解し、空気に散らしていく。

 

「ごめんねウタ、ボクが迂闊だった。……頭は平気?」

 

「大丈夫、もう治ったわ。元は私が先走ったせいだから、気にしないで。それよりも――」

 

 頭を一振りして重心の不安定を吹き飛ばし、しっかりと二本足で立ってそっちを見やる。鮫を完全に消し去ったことで膠着が生まれた戦局で、釣り人の男が不敵に笑っていた。

 

「なるほどなぁ……変だと思ってたんだぁ。リアス・グレモリーを助けたの、あんただろぉ?眼鏡のねーちゃんよぉ」

 

 一瞬、『眼鏡のねーちゃん』って誰だと訝しむ。すぐに鼻の上に乗った伊達眼鏡の存在を思い出すと、ボロが出ないうちに挑発を返した。

 

「……さあね、どうかしら。こんなにあっさり倒せるなら、別に私じゃなくても誰にだって退治できるんじゃない?まさか触っただけで死んじゃうなんて思わなかったわよ。随分ひ弱なお魚ね」

 

「……ねーちゃん、案外と抜けてんのかぁ?そうでなくともわかりきってんよぉ。ねーちゃんが念能力者で、おいらの『念魚』ちゃんを消し去ってるってこたぁ。しかもあんなにあっさりとぉ……いったいどんな仕掛けなのかぁ、ぜひとも知りたいねぇ」

 

 どうやら私が仙術使いだということには気付いていないらしい。まあ当然というべきか、私のそれが何らかの『発』であると誤解している。超希少な仙術の使い手がこの場にいるなど、奴らは考えもしなかったのだろう。

 

「ふん。それこそ敵に教える義理なんてないわ。勝手に頭でも何でも捻ってなさいよ」

 

 ほくそ笑む内心を押し隠し、仏頂面で悔しげに言ってやる。騙せてるかなと睨んだ男の顔は、迫力の笑みをさらに深めた。

 

「おいらの【双頭爆発鮫(ファンタスティックシャーク)】ちゃんはよぉ、倒されると爆発して分裂するはずなんだぁ。実際、そうなりかけてたろぉ?なのに何も起こらず消滅してる、ってぇことがそもそも普通じゃねぇんだよぉ。……まあ、そーいう意味では――」

 

 ピトーに向かって目を眇める。

 

「そっちのエロいねーちゃんも大概やべーけどなぁ。さっきの『円』は不覚にもビビっちまったしぃ、パワーもどうやらウボォーギン並みだぁ。……ふぅむ、参ったねぇ。『念魚』ちゃんは消されるしぃ、力勝負も勝てそうにねぇなぁ」

 

「そう思うんなら、さっさと諦めてくれる?」

 

 ピトーは男が背後に庇う女とその腕の中の白音を一瞥し、

 

「ボクたちの目的はそこの白音の救出なんだよね。彼女が手に入れば、後はどうだっていい。今なら見逃してあげてもいいよ。ねえ、そっちの」

 

 次いで横、私が突き飛ばした青年を静かに見やって宣告した。

 

「オマエがリーダーでしょ?ほら、さっさと決めないと、今度こそ殺すよ?」

 

 なんと、あのイケメンがリーダーだったのか。

 ピトーの慧眼に敬服を禁じ得ない。心の中で拍手をしつつ、私も焦点を下げ、そいつの姿を視界に入れた。

 

「……来るなら、悪魔か妖怪だと思っていたんだがな」

 

 自然体に構える青年が、やけに落ち着いた調子でそんなことを言う。

 

 対してピトーは余裕綽々に肩をすくめ、苦笑した。

 

「色々ごたごたがあったんだよ。仲違いしちゃったらしくてさ、ボクたちみたいなのにお鉢が回ってきたってわけ。おかげさまですごく有意義な仕事だったにゃ」

 

「なるほど、それはよかった。全く、オレたちも運がないな」

 

「ほんとにね。報酬のお金、分けてあげたいくらいだよ」

 

 場違いに和やかな会話が二人の間に膨らむ。こういった含みだらけの話を苦手とするのはどうやら私だけではなかったらしく、釣り人の男は痺れを切らし、呆れ眼で前に出た。

 

「んでぇ、どーすんだよぉ団長。やるんかやらんのかぁ」

 

 大仰な身振り手振りで嘯く奴に青年は数秒黙考して、ため息混じりに女に言う。

 

「パク、ガキをサンペーに渡せ。ご厚意に甘えようじゃないか」

 

「……わかったわ」

 

「まぁ、しゃーねーわなぁ」

 

 なんともあっさりとした決着だった。誰が反対するわけでもなく、滞りなく白音の身柄が釣り人の男に渡る。奴はそのひげ面に似合わぬお姫様抱っこで白音を運び、対峙する私たちの中間に横たえると、何もせずに下がってしまった。

 

 ……こんなにも簡単に、事が進んでしまっていいのだろうか。

 あっけなさ過ぎて何か大事なことを見落としている気さえする。しかしどれだけ目を凝らせど体外体内共に『絶』状態以外の不審は見つからず、ピトーに目配せされるまま、私は釈然としない感覚と共に、二年近くぶりに白音の身を己が腕に抱くことが叶ったのだった。

 

 久しぶりの抱っこは、やはりその痩せ身のために大した重さを感じなかった。成長しているのに、体重は据え置き。下り始める気持ちを、まだ作戦の最中だと振り払い、私はピトーに頷いた。

 

「……うん、よかった。これで依頼完了だね」

 

「……ね」

 

 腕の中の白い頬を撫で、呟く。

 

 そうだ。どうであれ、白音を助けることはできたのだ。その他に何が必要だろう。奴らに何の思惑があろうが、どうでもいい。

 

 後は、八坂様の領域なのだから。

 

「確認は済んだかぁ?ならぁ、おいらたちももう失礼するぜぇ。手ぶらってのは癪だけどもぉ、命あっての物種だしぃ……あれぇ?」

 

 男は自身を見下ろし、首を捻る。

 

「なんかぁ、身体が動かねぇんだけどぉ……」

 

 ギ、ギ、ギ、と、私たちの後方で、錆びた鉄扉が引っ掛かりながら滑りだした。

 独りでに空いた一人分の隙間から、沈みゆく日の斜光を背に彼女が姿を現す。

 

 辺りを妖力の薄膜で包み、それをじりじりとバレないようにゆっくり敵へ伸ばしていた八坂が、今まさにそれを完遂して、宣言した。

 

「年貢の納め時じゃ、曲者ども。妾の治める京を荒らし、ただで帰れると思うたか?その傲慢と罪、我ら妖怪が正してやろう」

 

「なぁ!おぃおぃ、フェルさんにウタさんよぉ、見逃してくれるんじゃねぇのかよぉ!」

 

 喚く男を振り返りもせず、白音に眼を落したままピトーが答える。

 

「ボクたちは見逃すよ?ボクとウタはオマエたちに手を出さない。八坂はどうか知らないけど」

 

「なんだそりゃぁ!ちくしょー騙しやがったなぁ!鬼ぃ!悪魔ぁ!人でなしぃ!」

 

 九尾の妖力に締め付けられながら地団駄を踏み、しかし間延びした語調で吐かれる気の抜けた罵声。割と事実だが聞き流し、ついでに不気味なほどおとなしい他二人を一瞥してから、私は奴らに背を向けた。

 

 そのため目にした八坂の顔は忌々しげ、あるいは不安げに歪み、それらを押し隠す強い調子で言い放った。

 

「……元気なのは結構じゃが、そのような調子では持たんぞ。日頃人を襲えずに鬱憤が溜まっているような血の気の多い者も、我らの中には少なくないのじゃからな」

 

「うっせーやぃ!そんなことより自分のことを顧みやがれってんだよぉ!大妖怪が人相手にこんな騙し討ちみてぇなマネ、恥ずかしくねぇのかぁ!」

 

「人攫いに対する仁義など、ありはせん。口が止まらぬなら、せめて神妙にしておれ。どれだけ暴れようが、念能力者ではそれは解けんぞ――っと……」

 

 苦虫でも噛み潰したような顔。捕らえた三人を睨んでいた彼女はその内心のおかげで今更私たちの退散に気付き、すれ違う直前、辛うじてそれを引き留めた。

 

 ちょいちょいと、同じ顔のまま無言で手招きをし、至近距離まで顔を近づけささやいた。

 

「のう、フェル殿、ウタ殿。言ってしまった手前憚られるのじゃが、応援の者たちが来るまで、妾と共に見張りをお願いできぬか。奴らの態度がどうにも不自然で気にかかる」

 

「えー……やだよ見張りにゃんてつまらないこと。……九尾なんだし、転移術くらい使えるでしょ?不安ならさっさと飛ばしちゃえば?」

 

「きちんと手順を踏まねば裏京都には入れんのじゃ。そうつれないことを言うでないよ。我らはママ友ではないか」

 

「関係ないでしょ、それ。ただ働きをする気はないにゃ。ねえ、ウタ?」

 

「……え?ああ、うん、そうね」

 

 微妙にむず痒い単語に反応が遅れ、口の中で咳払いをしてから内輪に続ける。

 

「白音も、ちゃんとしたところで寝かせたほうがいいわ。『気』が空っぽな上、フェルの『円』にも当てられちゃったみたいだし」

 

「……ああ、何で気絶してるのかと思ったら、ボクのせいだったの。これ、どうにかならないかにゃあ。九重にも怖がられちゃうし……」

 

「………」

 

 また一単語。今度は眉間にしわが寄り、独りでに喉が鳴った。

 

 誰にも聞かれなかった小さな不満はもちろん考慮されず、八坂からさらなる鋭利となって発せられ、私を波立たせる。

 

「そうじゃ!ならば報酬は裏京都にて受け渡すこととしよう。来ざるを得んじゃろう?居るのは妖怪ばかりなうえ、その案内がなければ入れぬ場所じゃ」

 

「あれ、支払方法は口座振り込みって言ってたと思うんだけど。封筒なんかには入らない額だし、小切手でもくれるの?陰険だにゃあ」

 

「『打ち上げ』というやつもやろうではないか!妾おすすめの京料理を用意しよう。九重も喜ぶぞ?」

 

「……まあ、絶対に嫌ってわけじゃないんだけどさ」

 

 波立ち、そんでもっての彼女の陥落に、割とすぐ堰を越えた。

 

「そーいえば街歩いてた時もだったけど、フェルってばあの狐っ娘と随分仲良くなったのね。よかったわね。『気』が改善して怖がられなくなるといいわね」

 

「そ、そうだけど……ウタ、どうしたの?」

 

「別に。どうも」

 

 八坂から笑い声が漏れる。何笑ってんのよあんたの娘の話でしょと不敬が口を突きかけ、寸でのところで踏み止まった。

 

 そんな私たちの密談に焦れたのか、釣り人の男も再度騒ぎ出す。「何ごちゃごちゃやってんだぁ!」というやかましさで戦いの余韻は完全に崩れ去り、ジェラシー一色の心にも生じた安堵が表情筋まで伝播した。

 

 警戒を解いてしまったわけではないが、幾分か気が抜けてしまったのだ。普通であれば仙術によって、私が真っ先に気付いているべきことだった。

 

 次の瞬間、轟く爆音と共に建物の壁が吹き飛んだ。




プロットは破壊するものだと開き直ったので中途半端なところで終了です。オリジナル念能力の解説は次回か次々回にするのでもう少し待たれよ。
あと何時かにハンターハンターキャラのオリジナル念能力はもう作らないとか言った覚えがありますが、サンペーくんは前書きの通りの生い立ちなのでセーフだと思う。ゆるして。
感想ください。


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十一話

ご報告
前話で破壊したプロットが連鎖爆発を引き起こした結果、今後の展開に支障が出たため第二部十話を大幅(当社比)に修正しました。
具体的には、幻影旅団の警戒心を強調し、白音の失神理由を明白にした形になります。
とはいえ大まかな展開は特に変わっていませんので、読み返さなくてもたぶん問題はないです。ごめんなさい。

誰だプロットは破壊するものとか言った奴。


 突然の爆音に痛撃された警戒心が振り向くと、扉の反対側、捕らえた三人の後ろの最奥で、黒い炎が渦巻いていた。

 

 直径はおよそ三メートル。それなりに高い天井まで届くほどの、黒い炎の竜巻だった。その場の全員が突如の出来事による驚愕で固まる中、ボクは一拍先んじてその異様さに気付き、続いて現状を理解する。

 

 竜巻の向こうに見知った『気』の気配。曹操だ。

 

 炎に向いた視界の、その端に意識を向け、目視したその姿。鉄壁をぶち破り、飛び込んできたのだろう。竜巻の黒の中には壁材の鉄片がいくつも瞬いている。それで負傷したわけではなかろうが、トレードマークの漢服はあちこちが破れ焼けこげ赤色が滲み、おまけに口元からも垂れていた。浮かべた苦悶の表情を見るにそれなりのダメージを負ってしまったらしい。

 

 黒い炎は、そんな奴の両の手から発せられていた。

 

 感じた異様さの大本は、恐らくそれだろう。クロカのような優れた感知能力を持たずとも、それくらいはわかる。

 

 曹操の能力であろうそれは、少なくとも『念』によるものではない。生命エネルギーではなくその逆、負のエネルギーとでも称すべき暗い『力』で燃えているのだ。黄昏時のか細い夕日すら蝕み、呑みこむ邪悪な熱気。ただでさえ薄暗い空間により深い暗闇を灯している。

 

 当然自然現象であるはずはないし、魔法力に乏しい奴がいかにもな異様を生み出す魔法を使えるはずもないだろう。

 となれば残る可能性。人間である奴が超常の炎を操るのなら、後は神器(セイクリッド・ギア)に頼るくらいしか方法がない。

 

 それがおかしいのだ。奴がその身に宿す神器(セイクリッド・ギア)。ボクはすでに目にしているし、攻撃されたことすらある。

 

 奴の【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】に黒い炎を生み出す能力など無い。いくら神器(セイクリッド・ギア)が所有者の想いで成長するのだとしても、そんな進化だけはあり得ないはずだ。あの神々しい輝きから、それを冒涜するような揺らめきが生まれる、などということは。

 

 あの炎を発する能力は、【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】とは別物であるに違いない。つまり奴は最初から二つの神器(セイクリッド・ギア)を宿していたということになるわけだ。が、それもそれで妙な話だ。

 二種の神器(セイクリッド・ギア)(しかもそのうち一つは十三しかない神滅具(ロンギヌス)の頂点)を宿すような天文学的豪運があり得るのかとか、相反する『力』が一人の身体で共存しえるのかとか、そんな疑問が様々と。

 

 しかし、それらの思考は一旦棚上げせねばならないだろう。潜考しかけたボクの警戒心は、瞬きの間もなくそれを発見し、引き上げられた。

 

 ボクの中の、今日一日で今までにないほど溜まったそれ(・・)が疼く。

 

 理解の直後、砂塵と炎の奥ですさまじい量の『気』と炎の邪悪が膨れ、弾けた。

 

 二度目の轟音。ボクの臓腑までを揺らし、予感を確信させるに足るほどの威力を示したその余波が、視界を遮る一切を吹き飛ばした。砂埃だけでなく、黒い炎すら散り散りに掻き消され、攻防の跡が夕日に晒される。

 

 体勢を崩した曹操と、見覚えのない銀の長髪の男(・・・・・・)。大柄で屈強な筋肉達磨が、曹操が展開した炎の盾を打ち砕いたのだ。

 

 気配からして人間だ。それも念能力者。荒れた髪のその奥から覗く眼光は、何ものをも射貫くような鋭さを内包している。

 

 突如現れたそんな奴が、超常の力たる神器(セイクリッド・ギア)の防御を、何の変哲もない『気』を込めただけの打撃一発で破った。

 そこらの使い手が相手であれば、そうおかしな話ではない。だが、あれの使い手は曹操だ。一般的な基準では十分強者の域であり、才能に関しては間違いなく一級品。

 

 並みの人外では手も出せないほどの障壁に、銀髪はあっさりと押し勝った。そして恐らく、その行いも全力によるものではないだろう。致命的な隙を晒している曹操を前にして、追撃するでもなくじっとボクを警戒しているからだ。

 

 自負の表れ。目を凝らすまでもなく、その強さは伺い知れる。サンペーとかいうシロネ攫いの犯人と同等、あるいはそれ以上の実力者。少なくとも、あの一団に劣るものではないだろう。襲撃をかけたあの場面、放った『円』にコイツが見えていても、ボクは何の違和感も抱かなかったはずだ。

 

 つまり、誘拐団の余裕はコイツだったのだ。

 

 敵であることは明白だ。そしてどうやら、曹操の手に余るほどの強者らしい。

 

 これは、早急に手を貸さねばなるまい。

 

「――は、ははうえ……ははうえーッ!」

 

 八坂が開けた扉から、九重の狂騒。その後ろに続く赤髪のリアス・グレモリーを放り出して、彼女は八坂の胸に飛び込んだ。

 

「あ、あの、あのねっ!さっき……さっきへんなおじさんが、そうそうをいきなりぶって……」

 

「い、言い付け通り曹操と八坂様たちを待っていたら、突然あいつが襲ってきたんです!私たち、ど、どうすることも……できなくて……」

 

「大丈夫、大丈夫じゃ、九重、リアス。すべてわかった、安心せい」

 

 負けず劣らず錯乱した赤髪もまとめて抱きしめ、八坂は顔をしかめる。

 

 二人もの庇護対象を抱えたままでは、もう彼女に余裕はないだろう。誘拐団の時のように捕縛術だか何だかを仕掛けるということも、残念ながらできなくなった。

 

 はやる気持ちを抑え、ボクは銀髪から視線を外す。殺気混じりのそれを側頭部で受けながら、抱いた二つの頭をなでる八坂を見据える。

 

 目配せは正しく伝わった。気付くと彼女は一瞬だけ苦慮に唇を引き結び、やがて仕方なしと頷くと、目を伏せた。

 

「……にゃは」

 

 思わず漏れる歓喜が、ボクの唇を丸く歪める。あの銀髪は、排除せねばならない(殺してもいい)敵だ。

 

 心の疼きが、本気の戦いへの渇望が、今叶った。

 

 これほど純粋な昂りは、もしかすれば初めて【黒子舞想(テレプシコーラ)】を発現させた時以来かもしれない。特に今日、お預けが上質かつ多かったことも要因の一つだろう。

 

 全身が歓喜に打ち震え、尻尾が服の中で暴れまわる。曹操のように弱すぎもせず、ネテロのように強すぎもしない。高まった期待にとっては理想的な具合の遊び相手。

 

 再度、銀髪に視線を向ける。直前と全く変わらず構えて佇む奴に、ボクは殺気の抑圧を解き放った。反応して、僅かに身体が強張る銀髪。

 

 クロカには、八坂という強大な守りが付いている。シロネも確保した。生け捕りという煩わしい条件もない。

 相手が一人では後顧の憂いも何もない。あるのは一匹、『フェル』の全力を受け止められるだけの強さを持つ、ただの敵だけ。

 

 無意識のうちに、ボクの身体は低く構えていた。軽く地に触れた両手が、四足獣のような体勢になる直前で止まる。

 

 いつの間にかボクは、犬歯が剥き出しになるくらいの笑みを、その顔に浮かべていた。楽しくて嬉しくてしょうがない。そんな思いをもたらしてくれる鋭利な殺気の持ち主へ向けて、ボクはその時、地を蹴った。

 

 互いの敵意がかち合い、型が様子見から滑らかに移行する。その所作を認めながら、ボクが二歩目を踏み出した時――

 

 焦燥の叫びと黒い炎が、ボクと銀髪の両者に襲い掛かった。

 

「駄目だ!!そいつと戦うなッ!!」

 

 曹操のそれだった。

 

 全く想定外の横槍に一瞬思考が滞る。その一瞬で、回避の余地は消え去っていた。

 

 とっさの防御姿勢。不浄の感覚と熱が全身を舐めまわす。ダメージが通ることこそなかったが、瞬間の硬直に合わせた攻撃はボクの身体を掬い上げ、押し返した。

 

 いつかの窯焼きの要領で纏わりつく炎を吹き消し、着地する。予想だにしなかった攻撃とはいえ銀髪から注意を外してしまったことに歯噛みをしつつ、改めて前方を睨んだ。

 

 ――息を呑む。

 

 眼前に、黒い炎の壁がそそり立っていた。最初の炎よりもずっと強固で範囲も広い。かなりの力を込められていることが見て取れる。

 

 銀髪は疎か、捕らえた誘拐団もその向こうだ。姿は全く視認できない。奴らが何をしていたとしても、炎が邪魔で手出しができない状況。破ればそれが隙になるだろう。

 

 いや、そもそも、

 

(何を――)

 

「何をしておるのじゃ曹操殿!?これでは曲者どもに救出の隙を与えたようなものではないか!?」

 

 自身も炎の威力に飛ばされてきたのだろう。ほとんど墜落の体ですぐ隣に倒れこんだ曹操に、八坂は激しい困惑を言い放った。

 

 ボクを含め、皆曹操の意図が読めない。全員の動揺、一部に心配の念を浴びせられる奴は、食いしばった歯から血を滴らせ立ち上がると、八坂に向けて容体にそぐわぬ鹿爪らしい顔を作ってみせた。

 

「申し訳ない。しかし、今は俺を信じてついてきていただきたい。時間が必要なのです」

 

 血濡れの曹操は、その戦闘の傷跡に怯える赤髪の手を取った。抵抗の間もなく背とひかがみに腕を入れると、抱き上げる。

 顔色を青から赤に変えた赤髪にニコリと微笑み、次いでボクとクロカに八坂へのそれと同じく真面目腐った面相を向けた。

 

「フェル、ウタ、そういうことだ。壁もそう長くは持たないだろう。走るぞ。できるだけ時間を稼ぐ」

 

「は……はあ!?何言ってんの!?時間稼ぎって……こっちは四人もいて、敵は一人なのよ!?そんなことするまでもなく、さっさと倒しちゃえばいいじゃない!……っていうか、あんた思いっきりフェルを攻撃してたわよね!?まさか敵に操作されてるんじゃ――」

 

「そうなればお前がすぐわかるだろう!力尽くは悪かったと思ってるさ!」

 

 切羽詰まった物言いに気圧されるクロカ。曹操はその迫力をボクの眼に照らしつけ、続けて言った。

 

「……とにかく、今あの人と戦うのはまずいんだ。信じてくれ、フェル。頼む」

 

 疼きを押さえつける、重さ。

 

「お前たちの命にも関わることだ」

 

 心の天秤が傾いた。

 

 理性で理解したための決断。しかし感情はその急転換についてゆけず、残滓がボクの意識を炎の壁に引き付けた。それが隔てた向こう側、あの眼差しで壁を見つめているであろう銀髪を意識する。

 

 あれほど良質な相手が、この先どれだけいるだろう。何物にも憚られることなく戦えるような機会は、この先どれだけあるだろう。

 二つの幸運がめぐり合うことは、そうそう起こらない。もしかすればこれが最後かもしれない。戦闘を求める己の根幹。力の顕示を望む欲求は踏ん切り悪く、『諦め』というものを知らなかった。

 

 しかしボクは大きなため息を吐くと、炎から眼をどかす。

 

 曹操に従うのは死ぬほど癪だ。加えて狂暴な本性も騒ぎ立てる内心だが、ボクと、何よりもクロカの命に係わるなどと言われれば、その程度の不服などあってないようなものだ。

 

 それは単に感情より理性が強かったという、ただそれだけのことではあるが、ボクは当然の選択を為したことを無意識の奥深くでこっそり安堵して、その不承不承を喉奥から押し出していた。

 

「に゛ゃぁーもう!わかったよ!逃げればいいんでしょ?いいよもうそれで!……でも、もし臆病風の建前だったらオマエ、半殺し程度じゃすまないからね」

 

 曹操はにやりと、いつもの調子で唇の端を歪め、中身の無い感情を告げた。

 

「ありがとう、わかってるさ。ウタもいいな?」

 

「……まあ、フェルがそう言うなら」

 

 不満をありありと覗かせて、クロカはシロネを抱えなおす。全力で走っても決して落とさないよう、しっかりと位置を固定した彼女。曹操は九重を抱きかかえた八坂を一瞥すると、自身も一層盤石に赤髪の身を支え、走り出した。

 

 炎の壁、正しくはその向こうの銀髪から逃れるため、錆びついた鉄の引き扉を蹴破る。ちょっとした城門ほどもある大扉が地響きを立てて倒れると、ボクたちはそれを乗り越え飛び出した。

 

 

 

 

 

 それまでいたプレハブ建築と瓜二つの、のっぺりした外観の建造物がそこら中に建ち並んでいる。ここら一帯は、そういった無個性極まる様式が蔓延る倉庫街なのだそうだ。

 

 右も左も変わり映えのしない景観。主道路らしき道は広いが人気はまるで無く、従道路はすべからく倉庫に挟まれ陰ばかり。整然として薄汚れたそこには街灯の一つも存在しなかった。

 

 あるのは古ぼけた誘導灯ばかり。つまり黄昏から逢魔が時に差し掛かった今、暗闇に塗れたこの迷路は銀髪には厳しく、ボクたちには優しい逃走劇の舞台と化していた。

 

 京都の気脈を司る八坂の地の利。人間の夜目どころではないボクたちの暗視能力。トドメに一人を除いて皆『絶』までできる。九重は多少精度に問題があり、リアスはそもそも使えないが、二人くらいはクロカの仙術でどうにかなるだろう。

 

 完璧には隠せずとも、曹操の言う通り時間を稼げばいいのだ。どれだけ遅くとも夜が訪れるころには妖怪の応援も到着しているだろうし、それだけ暗くなれば銀髪がボクたちを発見することは非常に困難になる。

 かなりの余裕をもって、銀髪の追跡を逃れることができるはずだ。

 

 そういう腹積もりでの逃走だと、ボクは思っていたのだが、

 

「……遅い」

 

 曹操の足取りは、その余裕を以てしても看過できないほどに遅かった。

 

「何か、ハア……ふう、言ったか……?」

 

 脂汗を滲ませながら、息も荒く奴が言う。本人は恐らく平常の飄然を装っているつもりだろうが、その苦渋は明瞭に見て取れた。

 

 体内にまで及ぶ負傷と疲労。そのうえで赤髪を抱いているせいだ。

 

 重さよりもフォームが崩れていることが問題。割れ物のような扱いで注意を払いつつ走っていれば、それは普段と比にならないほどの負担になる。今の奴は、その負荷すら抱えきれないほどに弱っていた。

 

 邪魔者にしかならない赤髪如きに何を拘っているのだ。

 

 このまま奴のペースに合わせていては、銀髪から逃げ切れない。追いつかれてしまう。

 そうなって再び対峙した時、理由だけ示して事情は隠されたまま、変わらずボクは『戦うな』と制止されるのだろうか。

 

 これ以上のお預けは想像ですら苦痛で、我慢は不可能だった。

 

「のんびり走るなって言ったんだよ!何のつもりか知らないけど、その様で銀髪を振り切れるなんて、オマエ本気で思ってる?その邪魔な荷物、さっさと捨てるなりボクによこすなりしなよ!」

 

 びくりと身を震わせ、怯える赤髪の気配。クロカの腕で眠るシロネに向いていた眼差しが、ボクに固定される。

 

 威圧に気付いた曹操はそっと、いやのろのろと、位置を変えて赤髪の視界からボクを隠した。浮かべた不適を疲労で歪ませ、庇うように口にする。

 

「……おいおい……リアス殿を、脅かすなよ……何のための、時間稼ぎだと……」

 

「知らないって言ったろ!大体、走ってる間ずっと赤髪に構い倒して、ボクらにだんまりだったのはオマエじゃないか!こっちは必死に、始末したいのを我慢してるっていうのにぃ……そこまで言うならもう待たないにゃあ!さっさと吐け!その時間稼ぎの理由ってのを!嫌だって言うなら、頭開いてでも――」

 

「待てっ……!ああ、わかったよ。俺だって、あれに弄くられるのは……勘弁だ。……リアス殿も、少しは落ち着いただろうから、な……」

 

「はあ?なんでそこでリアス・グレモリーが出てくるのよ!?まさかあんた、そういう子供がタイプなの!?」

 

「こんな時に冗談はやめろバカね……くら眼鏡!今話すから、静かにしててくれ!」

 

 クロカにとうとう仮面さえ剥がれ、取り繕うこともできず苦しげに息を切らす曹操。それでも言葉の通り最後の力で赤髪に微笑んで、八坂からも差し向けられる疑念の視線に返答した。

 

「ハア、まず、大前提だがな」

 

 恐らくたぶん、目論見通り落ち着きを取り戻した赤髪に軽蔑の眼を向けられた奴が、微笑の痙攣を振り払い、言う。

 

「あの人は、誘拐団の一味ではない。俺の……その、知り合いなんだ。プロの暗殺者、さ」

 

 数秒間、舗装された地面を蹴る靴音だけが響いた。

 

 届いた言葉の意味がそれの言わんとすることにたどり着き、しかしよくわからないと停滞している。見つけた答えのその内容故に、合っているはずがないと別の解釈を探っていた。だが、どれだけ経とうが新たな解が見つからない。

 

 つまりは、

 

「あんた……ッ!知り合いだからって……そんな理由で逃げ出してきたって言うの!?いくらなんでも嘘でしょ!?」

 

 そうとしか取れない宣言だった。

 

 仮にもハンターライセンスを持つプロのハンター。そんな奴が、『既知の仲だから』、などという甘ったれた身勝手で無謀な逃走を選択したという自白。普段の奴、案外と現実主義な面を知っている身からすれば、到底信じることができなかった。

 

 それでボクたちが納得するとでも思っているのだろうか。そして何より、本気で言っているのだろうか。

 

 どちらかと言えば疑問符のほうが大きい。一度否定された操作の疑いが再燃し、上に乗って懐疑に眉を顰めている。

 

 だが一方曹操は、そんなボクたちの反応に目を丸くしていた。

 

 その、言っていることがよくわからない、とでも言いたげな表情は、ボクたちのそれと違って純粋な疑問の色で首を傾げさせている。自身がおかしなことを言ったとは、本心から欠片も思っていないのだろう。

 

 こちらから見れば奴の言動はどう考えても普段通りではなく、しかし奴自身はそう思っていない。むしろこちらの反応を不思議がっている。

 

 おかしい。双方の認識がかみ合っていない。

 

 奴とボクはさらに数秒して、同時に食い違いに気が付いた。

 

「ああいや、違うぞ!?さすがにそこまで腑抜けてはいない!」

 

「じゃあ何?その暗殺者ってのが、ボクたちよりも強いからってこと?」

 

 そうであるなら、それは曹操の見立てが誤っていたというだけのこと。バカバカしいしい上に腹立たしいが、その後はすぐさまボクの望み通りの展開となっただろう。

 

 しかし曹操はボクの回答に驚くでも感心するでもなく、その中間、何とも微妙な困り顔にてそう応えた。

 

「そうであるとも、言えるが……知らないか……?ゾルディック家を」

 

「何!?ゾルディックじゃと!?」

 

 反応したのは八坂だった。

 

 はっとして驚愕に叫んだ後、段々とその表情が歪み、苦々しげな呟きが漏れる。

 

「……なるほどのう、そういうことか。あの小童め……全く余計なことをしてくれる」

 

「……まあ、そうです……申し訳ない」

 

「それで貴殿らに怒りを向けるほど、妾は非常識ではないつもりじゃ。しかしまさか、これほどの強硬手段に打って出るとはな……」

 

 何やら二人はわかり合ったらしい。だが残念なことに、その単語、『ゾルディック家』に聞き覚えはあれど詳細を思い出せないボク、それにクロカは、納得の理由を覗き見もできない。こじつけの類ではないらしいことに安堵、あるいは不満を抱いたのが精々だ。

 

 その不完全燃焼めいた感情はどうやら曹操にも察せられる気配となっていたらしく、奴は除け者にしたボクたちを嫌味たらしく笑い、口にした。

 

「……伝説ともいわれる、世界最高峰の殺し屋一家さ。裏社会はもちろん、人外勢力ともつながりがあって、家族構成が……いや、これはいいか……。ともかく、そういう家だ」

 

 はあ、ふう、と息を整え、続ける。

 

「あの人は、そんな一家の現当主だ。名前は、シルバ=ゾルディック。何年か前に、関わる機会が、あってな……人となりと、立場は幾らか知っている……。魔王の縁者を攫うような、イカレたことに手を貸す……少なくとも、そんな人じゃない。暗殺が目的なら、まだしもな。……白音は、死んでいないだろう?」

 

「それは……そうかもしれないけど……でもじゃあ、戦えない理由は何なのよ。襲ってきてるんだし、敵であることには違いないじゃない」

 

「……たとえ仲間じゃなくても、その誘拐団がボクらの暗殺を依頼したのなら同じことだよね?納得のいく説明をしてよ。頭開くよ?」

 

「……それくらいは、自発的に気付いてほしい、ものだな……。特にフェル、頭を開くべきは、お前だろう。……憎悪で存在から、忘れたか……?ようするに、だな――」

 

 言葉と一緒に流れた汗が飛んできた。不快に拳が握りしめられる。

 

 次の台詞に同じような語調が含まれれば、間違いなく一撃が後頭部に飛んでいただろう。気絶させ、万一の護衛役を投げ捨てて二人を担いでいたはずだ。

 

 実際に、拳を据えるところまでは行った。もしも打ち所が悪ければ、左右に流れる倉庫のどれかに放り込んでやるとまで思っていた。

 

 だが直後、矛先はきっちり九十度、角度を変えた。

 

 クロカの感覚が、それを捉えたのだ。

 

「――ッ!!フェル!!右通路!!」

 

 そのまま、何の気も無く素通りしようとしていた倉庫同士の間隙。向こう側の道路に伸びる暗闇に満ちたその隙間で、あの眼光が瞬いた。

 

 認識の一瞬後、薄い電光の下に飛び出す銀髪、シルバ。驚きに目を見張りながら、しかし鮮やかに心臓へ伸びる貫き手を、ボクはクロカの注意の元反射的に躱す。そして、迫る巨躯を握った拳で打ち上げた。

 

 主に腕力で放たれた攻撃は見事に腹へ突き刺さった。が、どうやら『気』で防御されたうえ、受け身も取られたようだ。上空へ飛ぶはずだった軌道が下がり、主道路をなぞって転がっている。大したダメージにはなっていないだろう。すさまじい反射神経だ。

 

「なッ……!!おい、フェル!!まさか殺して――」

 

「ないよ。仕留めそこなっちゃった。残念ながら、にゃ。それにしても……」

 

 やっぱり、アレはいいものだ。

 

「『(イン)』まで使えるの。ウタに言われなきゃ、ボクも直前まで気付けなかったかも」

 

 自身の『気』を消すのではなく、見えにくくする『絶』の応用技、『隠』。その力量はボクの直感を誤魔化せるほどだ。クロカ抜きではこれだけきれいにカウンターを決めることもできなかっただろう。

 

 貫き手の重さも鋭さも、躱して尚心を浮き立たせた。体勢を取り戻し、ゆっくりと立ち上がるシルバに熱視線を送りながら、足を止めたボクは低く構えて対峙する。

 

 速度で勝れない以上、一度追いつかれれば単純な逃走は意味がない。どうにかしてあの時の炎のように足止めをするか、打倒する必要があるだろう。

 

 さすがの曹操もそれはわかっているのか、荒い息の合間に苛立ち混じりの大きなため息を吐く。そしてようやく、それを(ほう)った。

 

「えっ!?きゃあああぁぁ!?」

 

「ちょッ――ぶふっ……あんたね!何も言わずに投げ渡すのやめなさいよ!大事なお姫様じゃなかったの!?」

 

 投げ飛ばされた赤髪を、クロカがどうにか受け止めた。シロネと赤髪の二人を抱え文句を叫ぶと、ため息だけでなく声色にも反映された苛立ちが返される。

 

「いいかウタ!それに、リアス殿も!時間がなくなったからな、結論だけ伝える!」

 

 口から血の飛沫が巻き散った。

 

「シルバ氏の依頼主は沖田殿だ!どうにか連絡を取って、今のこの現状を伝えろ!あんたの勘違いだと……このままじゃ、白音やリアス殿も危険だと!」

 

 煮え始めた興奮に、冷水。思いもよらなかった名前に、思い出したくもないその顔が蘇る。

 

 こんな思いをせねばならないのは、まさかあの成体のせいだと……?

 

「そんな……!?本当に、沖田が……?」

 

「聞けば、わかるさ……!とにかく早く行くんだ!俺と、フェルとで時間を稼ぐから、その間に、どうにか話を――」

 

「ちょ、ちょっと!ならあんたじゃなくて私が相手するわよ!その様じゃあまともに戦えるわけないじゃない!」

 

 混乱に呆然とする赤髪を下ろし、シロネを抱えたままでこちらに走る寄ろうとするクロカ。満身創痍の曹操は、その行動を遮った。

 

「今この状況で、一番警戒せねばならないのは、『念魚』だ。あれは恐らく、自動操作(オート)型。術者が拘束されたところで、もしも具現化したものが残っていたら……だろう……?対処できる、お前が守りに就いたほうが、いい」

 

 そう言ってボクの肩を小突く。

 

「それに俺は、こいつの見張りもせねばならん、からな!……八坂殿、こういうわけです、ウタの見張りの方、頼みます」

 

「うう……そ、そこまで言われずとも、わかってるわよッ!でも曹操!もしもフェルに傷の一つでも付けたら、生き残ったとしても絶対殺してやるからね!!ほんとに……ちゃんと覚えときなさいよ!!」

 

「……わかってるさ。ほら、さっさと行って隠れてろよ?流れ弾に、当たらないようにな」

 

「いちいちうっさい!行くわよリアス・グレモリー。あんたに懸かってるんだから、ぼーっとしてないで!」

 

 叱咤し、離れていく気配。その最中、葛藤に一瞬振り返ったクロカの言葉。

 

「……フェル、気を付けてね」

 

 八坂と九重からも、同じような心配が耳に届いていた。だが反応できたのはクロカのそれだけで、しかも軽く手を振るだけのもの。

 

 クロカとの共闘が叶わず、代わりに曹操が我が物顔でいること以上に、印象付けられたその感情は耐えがたいものとなっていたのだ。

 

「ピトー、殺すなよ……?」

 

 ごく小さな声での耳打ち。

 

 ようやく肩の上下に落ち着きを見せ始めた曹操が、ボクの前に立つ。ただ無言でその様子を視界に収めていた。

 

 混じり合った二つの事項に勢いを増した苛立ちで、まっすぐと直視しながら。

 

「やあ、お待たせしましたシルバ氏。できることならもう少しお待たせしたままでいてほしかったところですが、お久しぶりです。二年ぶりくらいですか?」

 

「……ああ。正確には、二年と二か月ぶりだが。その節は世話になった」

 

 ゆったりとした自然体で、シルバはそう応えた。重く、静かに響く声。

 

 知り合いというのはどうやら本当だったようだ。ならばとボクは、感情を深呼吸で押し留め、告げる。

 

「ささっと説得してよ。貸しがあるなら今こそ使う時だよ、曹操」

 

「……だそうだが、どうです?」

 

 返答は、空気を揺らすほど重い回し蹴りだった。

 

 吹き飛んだ分の距離を瞬きの間に掻き消し、その勢いのままに放った攻撃。

 

 速い。だが、来るとわかっている攻撃に当たるほど、ボクも曹操も未熟ではない。屈んで躱し、脇腹めがけて打撃をえぐりこむ。シルバはそれを、畳んだ腕で受け止めた。

 

 重い攻防が合わさり、足元のアスファルトが割れる。動きが止まったそこを、回避に後退を選択した曹操の黒い炎が貫いた。

 

 向かってくる奔流。その速度は遅くはないが、ボクとシルバの攻撃には遠く及ばない。余裕を持って躱せる程度の速さだった。

 

 しかし、ボクもシルバも動かない。重さを重ねたまま、炎は狙い違わずシルバの巨体を呑みこんだ。だが、

 

「まあ……そうだよな」

 

 瞬時に霧散した。シルバはまるで堪えていない。肉体どころか道着のような衣服にすら、焦げ目の一つも付いていない。

 

 ボクのように『気』だけで防いだのだ。技量、身体能力、そして肉体能力も、人間とは思えないほど高水準。

 

 やはりボクの眼に狂いはなかった。

 

 膠着から一歩踏み込み、曹操から盗んだ『心源流拳法(しんげんりゅうけんぽう)』なる武術の技をそのまま叩き込む。鮮やかにいなされ、同時に首筋に飛ぶ反撃の手刀を叩き落としながら、ボクは思う。

 

 コイツは、シルバは、『フェル』が本気でかからねば到底倒せないほど強い。

 

 だからこそもどかしく、腹立たしかった。

 

 こんな相手を前にして、全力を出すことが許されない。殺すまで戦うことを許されない。

 今ここでどれだけ攻防を重ねようと、終わりには消化不良が約束されている。そんな戦闘など空しいだけだ。強者であることが身に染みてわかるだけにそれは激しい。ありえたかもしれない本気の戦闘を現実と重ね合わせ、延々失望するばかりだった。

 

 そんな状況。戦わないほうが随分マシだろう。

 

 しかし戦わざるを得ない。ボクにはなくても、シルバには戦う理由がある。それが成体の悪魔の依頼。

 

 憎悪が膨れ上がるのも宜なるかなだ。

 

 奴のせいで、ボクはやりたくもない単調な攻防をせねばならない。余力を残した攻撃を撃ち、余力を残した防御でやり過ごす。つまりは牽制を繰り返し、互いの決定打になりうる大技を殺すことで、シルバをこのやり取りに縛り続ける。戦闘の形を借りた、ただの時間稼ぎであり、交互にじゃれ合う組み手のようなものだ。

 

 決着がない分、それは試合よりもたちが悪い。もしも本気で戦えたなら、それは夢のような時間だったろう。そんな思いが撃ち合うごとに大きくなっていく。

 それはどうやら、八坂の頼みで早々に説得に入らねばならなかった誘拐団との戦いと合わせて、相当なストレスとなっていたようだ。時間が経つごとに二倍速で増していく負荷に、赤の奔流を求める衝動が堪えきれないほどに荒れ始める。道理を知らなければ、それから逃れることも叶わない。

 

 溢れかえる精神疲労。いい加減、茶番に集中するのも限界だった。

 

「鬱陶しい、に゛ゃあッ!!」

 

「――うおッ!!」

 

 半ばパターン化された競り合いの一瞬の隙間に、ボクは曹操に向けて『気』を放っていた。

 

 幾らか力が入りすぎたが、もちろん殺すほどのものではない。ボクに援護――というかほとんどちょっかいみたいなものだが、備えていた奴でも、それは十分に防げる程度のものでしかなかった。

 

 だが代わりに足は止まった。当然だろう。突然味方から攻撃を受けたのだから。

 

 ボクは頬に迫る拳を紙一重に躱しながら、その奇行に動揺する曹操の憤慨を、苦心して意識に入れた。

 

「フェル!いくら気に入らないからって、この仕打ちはあんまりだろう!こっちは怪我人だぞ!?」

 

 シルバへの攻撃とその後の対処、それに渦巻く業腹から容量を割き、怒鳴り返す。

 

「その自覚があるならおとなしくしてろって意味だよ!ちょっかいかけるくらいしかできないんじゃ邪魔なだけだ!それなら外で話の続きでもしてくれた方がボクの気も紛れるし、何倍もマシ!欲しければ神サマとやらに誓ってやってもいいけど?オマエの話が終わるまで、シルバは絶対殺さないって!」

 

 叫ぶうちに十度の攻防をこなし、背で曹操のためらいを感じながら十一度目の肘打ちを見切る。受けて逸らし、型通りの掌底を返したところで、ようやく躊躇が諦めのため息に変わった。

 

「まあ、事実であることだし、甘えるのも、だな……。わかったよ、あー……そうだな、まずは『戦えない理由』か。全く、普段のお前ならそれくらい簡単に気付けるだろうに」

 

 物言いにさらなる苛立ちを抱くボク。しかし曹操は気にも留めず、もしくは気付かずに、幾らか気迫の抜けた声で語り始めた。

 

「いいか、シルバ=ゾルディックは世界一の暗殺一家のトップなんだ。殺せば家の面子がどうなるか、他の家族がどう思うか、考えてみろ。戦争が始まるに決まっている。一家総出の報復だ。……言っておくが、相手は暗殺者だからな。手段も場所も時間も、選びはしない。気を休める間もなくなれば、いくら戦闘力で上回っていようともいずれ力尽きるだろう。人間なら、どうあがいてもな」

 

「……ッ!ああそう!人の世で生きるのも、大変だなッ!」

 

 負荷のせいか少しやり辛くなった攻撃の合間合間で理解に努め、完了すると力任せにそう吐き出す。

 

 つまりは聖剣を使ったあれのようなこと。ものの見事にはめられた経験があるだけに、反論はできなかった。

 

「だからまあ、我が儘姫がいてくれたことは運がよかった。それと、最初に俺が襲われたこともな」

 

 場違いに呑気な苦笑をする曹操に手を出したくなるがシルバで我慢し、おとなしく続きを聞く。

 

「でなければ、剣豪悪魔殿が依頼主だと確信できなかっただろう。あの時俺は外で子供たちのお守りをしていたわけだが……御覧の通り、シルバ氏にとって俺は大した障害じゃない。やろうと思えば、誘拐団が狙った我が儘姫や、京都に対する強力なカードにもなる九重嬢を襲うこともできたんだ。

 しかし狙われたのは俺だ。誘拐団の前には一度も姿を見せていないにもかかわらず……。依頼主が奴らだとすれば、それはありえない。知らない奴をターゲットとして指定することはできないからな。

 俺の存在を知っていて、かつ疎ましく思っている輩。誘拐団でないとすれば、残る可能性はそれくらいだ。なら後は姫君に告げ口すればいい。大慌てで依頼をキャンセルしてくれるだろうさ」

 

「ふんッ!にゃるほど、ねッ!人の気分を滅茶苦茶にしといて、裏ではちゃっかりそんなこと考えてたわけだ!ホントッ!嫌味な奴!」

 

「誉め言葉として受け取っておこう。コツは冷静でいることだけだからな、ぜひ参考にしてくれ」

 

 心の中でぶん殴ってから曹操に対する思考を閉じて、眼前に迫る拳に対処する。今の話を聞いても尚何事も言わず、組み手もやめようともしないシルバに抱く憤り。喉の中で唸りながら攻撃を弾き、返しを打ち込んだ。

 

 その最中で、ふと気付き考える。

 

 曹操が赤髪にことさら優しかったのは、少しでも告げ口の信用性を高めるためだ。時間稼ぎも本来は逃走や体力の回復などではなく、重要な説得をさせねばならない赤髪を落ち着かせる目的があったのだろう。

 

 すべては奴の言う通り、成体に依頼を取り消させ、シルバとの殺し合いを回避するため。そのために赤髪を利用したのだ。

 

 しかしだ、もし赤髪がいなければどうしていたのだろう。アイツの説得なくしてシルバを止めるにはどうするか。

 

 あの場で赤髪を放置すれば、その方法が採れたのではないだろうか。

 

「それはつまり、赤髪がいなければあの成体を殺しに行けたってことッ?」

 

「……そうならなくてよかったと、心底思うよ」

 

 ボクはまた、絶好の機会を逃してしまったらしい。

 

 依頼人が死ねば、シルバもボクたちを狙う理由がなくなる。そうなればそうなったでそっち側の問題もありそうだが、憎きあの悪魔を正当に屠れる権利を前にすればそんなものは安いものだ。八坂に九重、それに何より赤髪という証人がいる。致命的な問題は免責されるに違いない。

 

 そうなれば、いよいよもって赤髪が憎い。忌々しいあの赤がいなければ、さらに増加したこの三重苦を味わうこともなかった。

 

 そう怨みを持て余し、想像上での赤髪にぶつけていた。だから、というわけではないだろうが、それに気付いたのは暇をしている曹操よりも早かった。

 

「し、シルバ=ゾルディック!今すぐ戦いをやめなさいっ!」

 

 曹操の推察は真実であったらしい。罪悪感にでも駆られたのか、一人のこのこと倉庫の陰から赤髪が飛び出した。

 

「沖田も了承したから、依頼はキャンセルされたのよ!だから、だからもうやめてっ!」

 

 己の身内が原因である、ということがかなり堪えているのだろう。声が震えて毅然になり切れていない。

 

 その上でアイツはこの場に出てきたのだ。当然、言葉以外に何も考えていないことは疑いようもない。信じるに足る証拠すらないその宣言にシルバが従うと、アイツは本気で思っているのだ。

 

 無能な働き者というほかない。ボクが何のためにこんなつまらない戦いを続けているのか、アイツはこれっぽっちもわかっていない。

 

 苛立ちに拳を振るいながら、それだけでは発散しきれない残留の息苦しさを意識する。

 

 こうまで苦労を無下にされては我慢の気さえ起らない。故に喉元までせり上がったそれを呑みこんでやる気はボクにはなく、私情半分ながらもそれを放出するため、赤髪に当たり散らしてやろうと思い立つことは当然の成り行きであった。

 

 だが、怒りが頂点に達し、いつも通りの事務作業的攻撃がシルバに届いたその瞬間、身を蝕んでいた激情のすべてが弾けて消えた。

 

 放った攻撃が跳ね上げられていた。

 

「ッ!」

 

 シルバの防御の結果だ。明らかに手を抜いたそれではない。

 

 今の今まで奴も組み手に殉じていたはずなのに。いきなり何をという驚きと疑問。しかしわずかに体勢を崩したボクは、奴の次なる行動でそれらすべてに納得を得た。

 

 隙で俊敏なるバックジャンプ。距離を取った奴の両手に、今までが何だったのかと思えるほどの潜在能力を秘めた『気』が、稲妻のように瞬いていた。

 

 量にも密度にも、それがもたらすであろう破壊力にも紛れもない本気が透けて見える。ボクをしてダメージ必至と思われるほどの威力。曹操や赤髪も巻き込んでの攻撃が、来る。

 

「――ッフェル!!避けろッ!!」

 

 本気の声色にも従う気は起きなかった。

 絶えずシルバを捉えていたボクの眼には、その内情と内心が見えていたからだ。

 

 変わっていた。ボクと同じように、つまらなさそうに組み手に勤しんでいたその眼が、相手を害する熱い冷徹に。

 

 シルバが、ボクと同じことを願っていたという事実。

 

「へぇ……!」

 

 嗅ぎ取った戦意が、ボクの口角を引き上げた。崩れた体勢を地面に押し付け、構えた殺意の先には、両手の『気』を大玉にまで成長させたシルバ。

 

 アレを、コロス。

 

 枷が外れ、狂暴がいよいよ表に顔を出した。初めての対面時、心躍るあの感覚の続き。弾けた苛立ちのすべてが歓喜に置換される。

 

 雑音はもはや耳に入らなかった。ただひたすら本気の奴と対決できるという思いが。

 

 その首を狩り取り、四肢を引きちぎり、胴体を引き裂く。己の力で蹂躙し、いたぶれる喜びを久方ぶりに味わうことができる。それが、ボクの頭のすべてを埋め尽くした。

 

 元よりボクの中にあった本性。キメラアントと混じり合った残虐性。

 

 それでいっぱいになった脳内は、その瞬間だけ、一番大切なことも忘れ去っていた。

 

「フェルッ!!」

 

「――クロ……ッ!?」

 

 燃え滾る意思が一息に凍り付いた。それまでの思考のおかしさに気付き、それを覆い隠すようにクロカの出現に対する疑問が広がる。

 

「なんッ……で、今――」

 

「ここで負傷すれば正体がバレるわ……!私が止めるから、フェルは支えて!!」

 

 耳打ちされた前半に己の血の色を思い出す。『フェル』と『ウタ』を消してしまうわけにはいかない。クロカのために。

 

(早く……早くシルバを殺さないと、殺して、危険を――)

 

 ――違う。そうじゃない。クロカの――ボクの望みは――

 

 決心はギリギリのところで纏まった。

 

 背中で感じるクロカの存在に前を直視。同時にシルバの二つの大玉が放たれる。くっつき一つとなった『気』が荒れ狂い、迫るそれがボクの手に触れた。

 

 途端、すさまじい威力と重さが全身を襲った。全力での防御でも手にかすかな痛みが覗くほどの攻撃は、ほんの少しでも防御の加減を誤ればすぐさま爆発、逸れて破壊を巻き散らすだろう。

 それほどの精密さの維持は【黒子舞想(テレプシコーラ)】がなければ難しい。しかしあれは使えない。『ピトー』の姿で見せてしまっているからだ。

 

 踏まえて考えれば、とても消滅まで持ちそうにない。これが単純な『念』による弾、『念弾(ネンだん)』であるならまだしも、極限まで圧縮された二つの乱流を長時間そのままで留めることは、今の状態では不可能だ。

 

 手背に重ねられるクロカの手は『念魚』の時のように間違いなく大玉の『気』を消しつつあるのだが、それでも完全消滅までは持ちそうにない。

 

 そう考えた直後、

 

 嵐の中に電子音の連続が聞こえた気がした。決して冷静とは言えない思考の中で異音を耳にし、それでも全くの不動でいられるほどボクの精神力は卓越したものではない。

 

 手の中で、『気』の均衡が崩れた音がした。




夏休み効果かなんなのか、前話でお気に入り登録がいっぱい増えました。うれしみ。
そんでもってさらにはなんと推薦までいただきました。うれしみ。
でも正直プレッシャーで胃痛がします。とはいえうれしみなのでたぶん私はマゾ気質だったのでしょう。新しい扉を開いていただきありがとうございました。今後も胃を荒らしていただけるように頑張ります。
つまりは感想ください。


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十二話

早くお話進めようと展開を圧縮したら逆に文章量が増えるという怪現象に遭遇しました。
おかしい…何かがあったに、違いない…


 耳鳴りが遠ざかると共に、白光する視界を(しばた)かせる。視覚聴覚が消失する直前に受けた『念』の爆発。その閃光と轟音を脳内でリピートしながら、私は腕の中の温もりに縋り、必死の思いで五感の回復に努めていた。

 

 何がどうなったのか。それを知る前に感覚が飛んだためよくわからないが、そんな事態に陥っているということはつまり、私はしくじったのだろう。

 

 飛び出していったリアス・グレモリーを追い、戦場に出てみればいきなりのアレ。対決する気満々であったピトーのフォローに回りはしたが、あまり意味のある行動ではなかったのかもしれない。

 

 そうであれば、(ひとえ)に私の能力不足。こういう時のために仙術修行に励んだというのに、こんな様では意味がない。

 

 悔恨の念に駆られる。彼女のお荷物にはなりたくないと、改めて強く念じたそんな思いが少しは助けになったのか、私の五感は緩やかに回復に向かい始めた。

 

 白一色に薄闇が侵食し、段々と色味が戻っていく。妙に緑っぽい視界の外では爆音の名残にコンクリートの石礫が零れ落ち、もやとなった砂塵がさらさらと地面に降り積もっている。

 

 やがて明瞭が増していくと、目の前にあった緑の正体にも気が付いた。

 

 カーキのキャスケット帽だった。私がピトーに選んだそれが、抱きしめたピトーの頭に引っ掛かるようにして乗っている。

 

 耳が露にされなかったのは単に運だろう。半ば無意識的にそれを直してやりながら、私は囁くようにそれを口にした。

 

「フェル、どこか怪我、した……?」

 

 帽子の中でぴょこんと動き、次いでその顔がこちらを向く。

 

 ほんのり憂い気に、ピトーは笑った。

 

「ううん、どこも。……お尻で挟んじゃったのが一番痛いくらいだにゃ」

 

 二人折り重なるようにして尻もちをついている状態。内腿に、その『挟んじゃったもの』の蠢きを感じた。

 

(……うん、そうよね……しっぽは、痛いわよね……)

 

 ピトーの言動にも『気』にも、負傷の跡は見られない。ようやく安堵に足るだけの確信を得た私は、そのあまりに気が抜けて、彼女の背中にもたれかかった。全身の重みを預けても微動だにしない安心感に息を吐き、抱擁のまま肩口に頬を寄せる。

 

 胴に巻きつけた腕にも温もりが重ねられ、ますますもって身が解ける。和みの極致と言っても過言ではないこの心地。しかしその極楽は、奴の憎たらしい声色で終わりを迎えた。

 

「おい!フェル、ウタ!無事……なようだな、どうやら。全く、逃げろと言っただろう」

 

「……うん、まあね」

 

 無視を決め込むつもりだったが、ピトーが反応したためやむなく一緒に振り向いた。

 

 相変わらずの嫌味な姿。その腕の中にはまたしてもリアス・グレモリーがお姫様抱っこされていて、こんな状況でもやっぱり頬を色付かせていた。

 

 そしてその周囲、辺りを取り巻く砂煙をよくよく見れば、シルバとの初対面時に目にしたあの黒い炎が紛れている。

 

 呪いのように不吉な気配を発するそれは、不思議に思っているうちに薄闇へ消えていった。少し首を捻って、なるほどあれでリアス・グレモリーを守ったのかと納得し、しかしそれにしてはやけに範囲が広かったなと思い直す。

 

 解けきって未だに締まらない頭だが、なんとかそれを悟る程度の思考能力は残されていた。

 

「……もしかして、あんたがあの炎で守ってくれたの?」

 

 だからピトーにも私にも、大した怪我がなかったのか。

 

 ぼんやり尋ねると、そんな緩みを正面からひっぱたくようないつも通りの飄然が返ってきた。

 

「お前がもう少し威力を削いでいたら、俺も使わずに済んだんだがな。ほら、怪我はないんだろう?ならこれ以上手間をかけさせないでくれ。姫君ならともかく、お前たちを担げるだけの気力なんぞ残っていない」

 

 そう笑って、リアス・グレモリーを下ろす曹操。見てくれだけは好青年な奴に王子様的な憧れでも抱いているのか、お子様は残念そうに眉を下げている。

 

 そのうちピトーの存在を思い出し、また面相を変えるのだろう。愉快だろうが、その程度では到底諸々の憂さ晴らしに足りないし、そもそも曹操への反撃にはなりえない。

 

 それに一応は奴の言う通り、正論でもある。ピトーも、私の意を汲んでくれたのか何も言わず、私はそのちょっぴりの惨めさを鼻を鳴らして誤魔化して、減らず口に返してやった。

 

 そうして名残惜しくもピトーの背から離れ、お尻の汚れをはたきながら、変化していくリアス・グレモリーの顔色を鑑賞していると、不意に主道路の真ん中を妖力の風が吹き抜けた。もやが一息に払われ、周囲に薄暗い倉庫街が戻る。

 

 その奥から、白音を預けた八坂が、九重と共に姿を現した。

 

「皆、怪我などしておらぬな?何よりじゃ。肝が冷える思いじゃったぞ。あれほどの威力、もし凶刃に倒れたらと……おっと」

 

「フェル、フェル!」

 

 八坂の傍を飛び出した九重がピトーに突撃した。屈んで受け止め、抱き上げる彼女の腕や頬をペタペタ触りながら、涙目に鼻をすする。

 

「フェル……へいき?どこも、いたくない?」

 

「……うん、平気。何ともないよ」

 

 頭を撫でられると、それで九重の涙腺は決壊した。胸に顔を押し付けわんわん泣き始め、せっかくのロングジャケットを水浸しにしてしまう。

 

 もやっとするも捨て置けず、私はハンカチを取り出して彼女の顔を拭った。おとなしくされるがままに世話をされる幼女。

 

 少しは落ち着いたかと思われたその直後に、ようやく、ピ、という小さな電子音が鳴った。

 

「話は付きましたか、シルバ氏」

 

 曹操の静かな声と共に、私たちもそちらへ視線を向ける。

 

 その意義が取り消される間際になって、あの強力無比な『念』を放った男、シルバ=ゾルディック。その戦意をいったいどこにやったのか、まるっきり殺気を失った奴が、電源を落とした携帯電話を懐にしまい込む。

 

 その雰囲気に流されぬよう、緩く警戒心を保ち続ける私たちを一瞥してから、奴は言った。

 

「ああ、ターゲットに変更があった。引き続き、そいつらを殺せとの依頼だ。……それに――」

 

 怯えるリアス・グレモリーと白音に眼を向ける。

 

「攫われた二人を安全に連れ帰れ、ともな」

 

「ははは、それは何とも……暗殺者にする依頼内容じゃないですね」

 

 笑う曹操。そのにやけ顔に浮いた汗が増したのは、気のせいではないだろう。

 

 私はシルバをじっと睨め付け、数段増した警戒心で敵意を吐いた。

 

「リアス・グレモリーはともかく、白音の救助は私たちにされた依頼よ。横取りしようっていうなら、黙ってる気はないけど」

 

 シルバの冷たい眼が私を見た。その眼差しと滾らせる『気』の迫力に背筋が冷えるも、そんなもので引く気は全くない。

 

 『ともかく』扱いされたリアス・グレモリーに恨みがましい視線を送られながら睨みあいを続けていると、不意にそれが隣へ逸れた。

 

 感情の読めない無表情。ごく自然体で受け流すピトーの姿をその目に映し、ゆっくりと瞬きをすると、呟くように言う。

 

「無傷か」

 

 その平淡な声色と同じく、ピトーが無感動に短く返す。

 

「まあね」

 

 二人の間の寒々しさは、数秒もの間続いた。なんとなく手出しの憚られる空気感。やがてそれは、シルバによって破られた。

 

「一応、礼を言っておこう。後味の悪い殺しをせずに済んだ」

 

「……暗殺者のクセに、後味とか気にするんだ。意外だね」

 

 ちらりと曹操を一瞥する。

 

「恩人、だからな。依頼があれば殺すが、手を出したくないと思う相手もいる。オレたちは快楽殺人者ではない」

 

「真面目顔でよくそんなこと言えるわね。最後の攻撃、あんた携帯鳴ってるのに撃ったでしょ。どう考えても殺す気だったじゃない」

 

 我慢できずに言ってやると、またあの威圧が私に向いた。

 

 魁偉がじっと、私を見ている。八坂から奴の正体と遠回しの理由を知り、納得しはしたが、こんな冷酷な眼光を向けられればそんな気も薄れてしまう。

 

 味方でないことは確かだ。ただ、敵というわけでもない。中途半端な奴の立ち位置。それが無言の圧力によって、私の警戒心を敵意のそれに傾け始めた。

 

 いつの間にか干上がっていた喉に唾を送り込み、緊張によって憤りの上澄みだけが眼差しに注がれる。

 

 威嚇の応酬。少なくとも私にとってはそうだった睨み合いは、九重の涙が止まるまで続いた。しゃくりあげる声が聞こえなくなったころ、唐突にシルバは私たちに背を向け、やはり何も言わずに歩み去っていった。誘導灯の灯りを潜り、暗闇の倉庫街に消えていく。

 

 私はようやく、詰めていた息を吐き出した。とにかく、白音は守り切った。ほとんどピトーと、それから曹操のおかげだろうが、横取りは諦めてくれたらしい。

 

 安堵で気が抜けた私は、張り詰めさせていた神経を解きながら白音のほうに眼をやった。その身は八坂の腕の中。変わらずぐったりと臥せっている。

 

 だが、きちんと私の手の中だ。私は今度こそ、あの子を守れたのだ。

 

 実感が意識まで上ってくる。表情筋が緩む。

 

 その時、対照的に一際厳しい警戒をシルバに向けていた八坂が、らしくない慌てた調子で「あっ」と前に歩み出た。

 

「ま、待たれいシルバ=ゾルディック!お主、先ほど『ターゲットに変更があった』と……まさか妾が捕らえた三人を殺す気か!?いくらなんでもそれは看過できぬぞ!この京で無法な人切りなど……これ!聞いておるのか!?」

 

 聞いていないのだろう。立ち止まる様子もまるでなく、悠々とした歩みはもう大分離れてしまっている。その足取りは間違いなく、八坂の危惧した通りの方向を向いていた。

 

 あの職人気質な殺し屋なら、たぶん本当にやるだろう。悟った八坂は九重と奴との間で眼を右往左往させた後、白音を私に抱かせると、決心を口にした。

 

「よいか九重、妾は少々やることができた。フェル殿の言うことをよく聞いて、皆と一緒に先にばあやの所に戻っていておくれ。わかったな?」

 

「……はい、ははうえ」

 

 目を腫らす九重に「いい子じゃ」と頭を撫で、ピトーに申し訳なさそうな顔をする。

 

「すまぬフェル殿。頼む」

 

「いいよ。文句はあの腐れ悪魔に言っとくから」

 

 肯定とも否定ともつかない微妙な顔で頷くと、八坂は踵を返した。シルバと一緒にわき道へ消えていくその姿を見送って、私は白音を抱きなおす。

 

「さて」

 

 と、曹操が嫌に明るい声色で切り出した。

 

「それじゃあ、俺たちも行こうか。いい加減体力も限界だ。さっさと屋根の下で休みたい」

 

「……あんた、それに関してはほとんど自業自得でしょ。八坂様に聞いたけど、あれくらいなら走りながらでも言えたんじゃないの」

 

「無茶を言うな、疲れてたんだよ。俺の神器(セイクリッド・ギア)は……その、かなり体力を消耗するんだ」

 

「……ふーん」

 

 かなり胡散臭い理由を返す曹操。まだ色々と隠し事がありそうだが、さすがにここでそれを丸裸にするほど、私は外道でも常識外れでもない。下手に刺激して、仕返しに私の秘密をばらせれてはたまらないと――いやさすがにそこまでするほど曹操も愚かではないだろうが――シルバたちとは逆方向に歩き出した奴に続こうとした。

 

 だが、その一歩目を、聞きなれないピトーの声色が押し留めた。

 

「――そんなに心配しなくても、大丈夫だよ、九重」

 

 心臓が跳ねた。波動が私の顔を引っ張り、その音と同じく優しげな微笑を目撃する。

 

 どうやら九重が、母親と離されることに不安を覚えたらしい。しょんぼりと眉尻を下げ、ピトーの肩口から、八坂が消えた角道を見つめている。ピトーはそれを慰めたのだ。

 

 今までで一番、あの狐娘が羨ましく思えた。

 

 だが同時にいつも通り、そんな嫉妬はみっともないと恥ずかしくもなる。結果的に私は、二人のその様子にただ茫然と見入ることとなった。

 

「あの……ウタ。私、白音を――」

 

 だから遠慮がちに小さく話しかけてくるリアス・グレモリーに気付けなかったし、そのささやきを捉えた九重が暗い眼を彼女に向けた理由も、即座に察することができなかった。

 

「ぜんぶ、おまえたちのせいじゃ……」

 

 憎悪のこもった声。とはいえ幼子の癇癪程度のものでしかなかったが、リアス・グレモリーはその背をびくりと跳ねさせた。ますます顔を青くしながら、恐る恐るに九重の恨み節をその眼に受ける。

 

「やしきのみんなも、いっておった。あくまはやっかいごとしかもちこまぬ、それどころか、どうほうをつぎつぎさらっているのじゃと……!」

 

 双方の眦に雫が溜まる。そこに含まれる感情は正反対であろうが、どちらも本物だ。

 

「おまえが……おまえたちがこなければ、フェルもははうえも、ウタもそうそうも……あぶないめにあわずにすんだのじゃ!そこのしろねだって、どうせさらってきたのじゃろう!……あくまなんて、フェルとウタのいうとおり、みんなわるいやつばっかり……だいっきらいじゃ!!」

 

「あー……まあまあ二人とも――というか九重嬢、どうぞそこらへんに」

 

 リアス・グレモリーの身が縮こまっていく様が、さすがに不憫に思えたのだろう。曹操が二人の間に割って入り、頭を掻くと笑みで誤魔化した。

 

「気持ちはわかるが、今はとにかく急がないといけない。日が暮れれば、この電灯のない通りだ。人間の俺たちでは夜目にも限界がある。そうなったらリアス殿、頼りは貴女しかいないんだ」

 

 微笑みかけられ、ほんのり血の気を取り戻したリアス・グレモリーがこくりと頷く。一方で不満そうな九重にも、奴はその微笑を向けた。

 

「それに八坂殿も、こんなところで喧嘩することなど望んでいないさ。言われたろう?『ばあやの所に戻っていておくれ』と。早く帰れば、その分八坂殿も安心だ」

 

「……まあでも、戻ったら戻ったらでまた難癖付けられそうだけどね」

 

 八方美人の結果、子供二人の間を取り持つことには成功した。が、代わりにピトーの機嫌を少しばかり損ねてしまったようだ。沖田を想起してしまった彼女の、悪念と配慮が合わさったぶっきらぼうな言葉。

 

 心情を別にしても、そうなる予感がするのは私も同様で、故に私もつい批判がましいそれが口に出た。

 

「ね。あいつ、あれだけやらかしたのに、私たちを信用する気は欠片もないし。顔合わせた途端に、シルバじゃなくなぜ貴様らが二人を連れてくるのだー、とか言いそうじゃない?」

 

「言うね、間違いなく。それでボクたちを誘拐犯扱いにして、京都の外に出たら襲撃とかしてくるんだよ。全く、どうしてこうも敵視されるのかにゃあ」

 

「……いや、九割以上はお前のせいだろう」

 

 的確なツッコミ。やれやれと首を振り、曹操は私たちに背を向ける。

 

「それにだ。そうなったとしても、また説得すればいいだけのことだろう?リアス殿が俺たちを守ってくれるさ」

 

「……まあ、そうかもしれないけど……」

 

 そっぽを向いたピトーに代わって呟いた。彼女ほどではないにしろ不満の滲んだその調子に、曹操が顔だけの揶揄いで振り向く。

 

「なんだ、まだ白音がペット扱いだって怒ってるのか?……トラウマは知っているが、リアス殿の愛情が本物であることくらい、もうお前にもわかっているだろう?」

 

「……わかってるわよ」

 

 でも――

 

「……嫌いなものは、嫌いなんだもん」

 

 今更、悪魔を好きなれるはずもない。

 

 仮にそう思える時が来たとしても、そうはならない。決して。

 

「別に、悪感情を消せとは言っていないさ。ただ、これ以上リアス殿の前でさらけ出すなというだけで……ふむ、そうだ。考えてみれば差し引きゼロなんじゃないか?沖田殿が引き起こした失態だが、ほとんどリアス殿の活躍で解決したようなものだ。いなければ、本当に血を見る騒ぎになっていただろう?」

 

「血なんてオマエの身体に山ほど付いてるけどね」

 

「……こんなものは掠り傷だ。『血を見る騒ぎ』には入らないさ」

 

 ピトーの野暮で迷惑そうに表情を歪め、滴った汗を拭う。一撫でで微笑を回復させ、またその取って付けたような屁理屈を口にした。

 

「だからあれだ。怪我の功名、というやつだな。リアス殿が正義に基づく良い悪魔であることは、証明されたわけじゃないか。……悪魔が正義に基づいて良い(・・)のかどうかは知らんが……まあ、信用に足る人物であるということは確かなわけだ」

 

 もはや話の大筋も見失っているようだ。しかしそれでもかまわないのだろう。曹操の言い分は、最初から一つだけだ。

 

 リアス・グレモリーを虐めすぎるな。

 

 奴がここまで必死にご機嫌取りをする理由は理解できている。私たちにそれを言い聞かせる理由もだ。

 

 だがどうしても、そのもやっとした気持ちは抑えられない。存在自体には気付けても、生じた過程の推測が少しばかり足りないのだ。だから奴の理解と労力も表面をひっかくのみで、私は彼らの事情に妥協をすることもできなかった。

 

 早々に満足の閾値を下げたピトーにも気付けるはずはない。共有する、悪魔を嫌うその理由。それ以外に、リアス・グレモリー個人を嫌う感情があることを。

 

「信用?今日会ったばかりのお貴族様の何を信用しろって?」

 

「それを言うなら心底まで嫌う理由もないだろう。もう少し考えて、大人の対応をしろと――」

 

 む……、と。思うよりも先に『気』が溢れる。

 

 私のその、愚かでお門違いな嫉妬を理解しろとは言わない。だが、私たちが悪魔を嫌っていること、それだけでもきちんと意識しているのなら、

 

「もう!あんたどっちの味方なのよ!」

 

 曹操はリアス・グレモリーではなく、もっとこっちを鑑みるべきなのだ。

 

 べしんと軽い、平手打ち。

 

 なんとなくムカつくという抽象的な理由を被せ、奴の後頭部をはたいてやった。

 

 イライラを誘発する奴の台詞を止める。それ以上の威力など、その茶々には込めていない。お土産屋でのパンチと同じか、それ以下の力だ。

 

 だが、

 

「黙っておくべきだってことくらい、私にもわかってるわよ。でも……あれ……?」

 

 ふと気付けば、どうにもその手ごたえが妙だった。

 

 例えるならまるで、硬い壁を殴ったつもりが、色付けされた発布スチロールだったようなあっけなさ。

 

 『纏』を貫き、無防備な肉体を直接叩いてしまったかのような――

 

 出た手に首を捻る頭を持ち上げれば、その正体が眼に入った。

 

 前傾に傾く曹操の姿。あ、と自覚した時にはもう遅く、意思が途切れたその身は無造作に宙を掻き、倒れこんだ。

 

 客観的には運悪く、本人的にはたぶん運よく曹操の下敷きになったリアス・グレモリーの悲鳴とうめき声を唖然としたまま耳に入れ、しばしの間、脳味噌がフリーズする。

 

 我に返ったのは数秒後、ピトーが曹操の襟首をつかんで引っ張り上げたその時で、同時に九重の涙の主成分に信じられないものを見たような恐怖を見つけた私は、慌てて首をぶんぶん振った。

 

「ち、ちがっ……わざとじゃないの!……じゃなくて!全く殺す気なんかなくて、ちょっと小突いただけというか――」

 

「うん、気絶してるだけだね、これ」

 

 革手袋越しに脈を計りながら言うピトーの診断に、皆の糾弾と私の懺悔が途切れ、集まった。注目される彼女は手袋に付いた汗を嫌そうに漢服で拭い、しかめっ面のまま肩に担いだ。

 

「疲れて『纏』も脆くなってたんじゃない?どうせ元はただの疲労だし、帰り着くころには起きてるにゃ。もし駄目でもボクが直せばいいし」

 

 いかにもどうでもよさそうに言うと、右腕に九重、左肩に曹操を抱えたピトーはすたすたと歩きだしてしまう。

 

 責任を取って房中術の治療をせねばならないかもしれない、などという錯乱もその背に払われ、代わりにピトーの献身へ驚きが生まれるも、次に横顔に悪い笑みが浮かべられることによって霧散する。

 

 あれはたぶん、治療費と称してカツアゲするときの眼だ。ずっと昔に一度、試合で深手を負った曹操に対して十億くらいをぼったくっていた。当時彼女はお金に様々な種類があることを知らず、通貨を指定しなかったばっかりに、日本円換算で小数点が七桁ほども必要な、一円にも満たない価値の通貨を支払われて懲りたものと思っていたのだが、どうやら満を持してリベンジするらしい。

 

 世界中の通貨名どころか法律まで覚えてしまった今の彼女に、未来の英雄殿はいかなる抵抗をするのだろう。あの時の底意地の悪さには、私も少なからず思うところがある。もしそうなれば、今度は私も参戦する腹積もりだ。

 

 パニックの残滓でとりとめもなくそんなこと考えながら、負債を抱えて涙目になる奴の顔を夢想した。

 

 胸のもやもやがそれに乗じて溶け出していくようで、白音の重みを再度意識した私は気分良く、九重の導きに従い前を行くピトーに続いた。

 

 だが、すぐにその好調は妨げられた。

 

 数歩目で追い抜いたリアス・グレモリーが、その際に私の服をくいと引くと、潜めた声でおどおどと言った。

 

「ウタ……あの……」

 

「……何?そういえばさっきも何か言いかけてたけど」

 

 急かしても尚視線を泳がせ躊躇する彼女。そうしているうちにもピトーは離れていくので元からの嫌忌が増していく。

 

 実に数秒を要してようやく決心を固めたらしく、彼女はそのじれったい態度から勢い任せに顔を上げ、震えた瞳で訴えた。

 

「私に白音を任せてほしいの。曹操も倒れてしまって、二人とも大変だと思うから……力になりたくて……」

 

 反射的に『嫌だ』と答えようとして、その寸前で踏み止まった。開きかけた口を閉ざし、歯を噛みしめ呑み下す。

 

 そうしたくないという想いはあれど、私はわかっているのだ。

 

 リアス・グレモリーの罪悪感は九重の非難を受けて限界を超えているのだろうし、任せた方が安全だという理性の冷静もある。その、貴族悪魔らしくない善性は、好ましいと思っているし、今の境遇に同情もできる。

 

 道理はなかった。だから私は、想いに己個人の身勝手だと蓋をして押し留め、改めて息を吸った。

 

「……この子、あんたには重いわよ。ちゃんと支えられる?」

 

 少しだけ不思議そうに眉を顰め、リアス・グレモリーはまっすぐに私を見る。

 

「大丈夫よ。私はまだ子供だけど、あなたたちと違って悪魔だもの!」

 

 しっかりと地を踏み、許可に喜びを見せた彼女には、臆した様子は見られない。

 

 数秒の間、目に雫が残る彼女を見つめ続けた私は、諦めに小さく息を吐き出し、ゆっくりと瞬きをした。

 

「落っことしたりするんじゃないわよ?あと、遅れないように」

 

「ええ……!わかってるわ!」

 

 目を擦って水気を払い、赤くしながらリアス・グレモリーは頷く。半ば空元気気味に声を張り、差し出される彼女の両腕。私はしゃがみ込むと、己が抱く白音に眼を落した。

 

 またしても時間を浪費するも決心を定め、その成長途中の細腕に白音を託す。

 離れていく重さと温かさに胸を締め付けられる思いを味合わされる中、白音の身体が、私の腕からリアス・グレモリーのそれに渡った。

 

 それまでの葛藤をまとめて吹き飛ばされたのは、ちょうどその瞬間だった。

 

 ――何の前触れもなく、白音が消えた。

 

「――え……?」

 

 私とリアス・グレモリー、どちらかの口から呆然の音が漏れる。

 

 つい今しがた白音を受け取り、抱き上げようとしていたリアス・グレモリーの腕が、そのまま空気を優しく抱く。白音がいたはずのその空間を、感情の止まった瞳で凝視していた。

 

 あまりに唐突。理解など、追いつきようがない。

 

 懸念通り落っことしたとか、横合いからひったくりの如く攫われたとか、そういった物理的な事態ではない。パッと、本当に一瞬のことで、まるで初めから誰もそこにいなかったかのように忽然と、白音の姿は消えてしまっていた。

 

 目を離してはいなかった。もちろん『念魚』も警戒していた。にもかかわらず、そのどれもは欺かれた。

 

 驚愕と動揺に、我知らず呟く。

 

「……なに、が――」

 

 起こったのか。と続いた唇には、しかし声帯が震えなかった。

 

 ふと、そのにおいを嗅いだのだ。

 

 『念魚』が通った後のような、強いものではない。だが、ごくわずかながらも感覚に引っ掛かった、『気』の残り香。

 

 ――知らないにおい。新手?いや違う。知らないが、知っている気配。

 

 言うなれば、他人の器に自分の『気』を流し込み、無理矢理埋めて動かしているような――

 

「……わたしの、せいだわ……」

 

 鼓膜を撫でる陰鬱。震えた自棄が、私の意識を思考の表層に引き上げた。

 

 見ると、リアス・グレモリーはどろりとした重い涙を双眸から零した。

 

「わたし……わたしが、いるから……また白音が……――!」

 

 何事だと思う間もなく、一変するリアス・グレモリーの意思。絶望の表情を上げると、その先に見えたのだろう何が、虚ろな瞳に光を戻した。

 

 それに導かれるようにして、彼女はおぼつかないながらも足を向ける。一歩二歩と進むうち、その光が元の力強さを、愛情を思い出していく。その『歩み』が『走り』に変わった時、ようやく私も我に返った。

 

「ま、待ちなさいッ!」

 

 ピトーとは反対方向。追いかけると同時、リアス・グレモリーが何を見たのかにも気付き、小さく舌打ちをする。

 

 残り香など無くてもわかりきったことじゃないか。今この時に白音が消えるなんて、奴らの仕業以外ありえない。

 

 仙術で探せばすぐにわかった。すぐ近く、通りに伸びる十字路の角。行き交う車の音も聞こえるそこへ駆けていくリアス・グレモリーの手を、間合いに差し掛かるギリギリのところで掴み、引き寄せた。

 

 邪魔をされ、攻めるような眼を私に向ける、考えなしのお姫様。罵倒したくなる気持ちを抑え、戦意を研いだ。

 

 三人の対処は八坂の仕事だと、気を抜いてはいけなかったのだ。

 

 角から姿を現したそいつの手には、あの時とは違う妙なつくりのナイフと、白音が抱えられていた。

 

「その反応……やはりか。素晴らしい索敵能力だ」

 

 八坂が捕らえたはずの誘拐団。その一人、リーダーの青年が、悠然とそこに立っていた。

 

 リアス・グレモリーの短い悲鳴を聞きながら、ますますもっての苦々しさに歯噛みする。

 

 白音の首筋に、そこを易々切り裂ける凶器を突き付けられた今、もう下手には動けない。私が白音を奪還するよりも早く、奴のナイフが閃くのは間違いがないからだ。

 

 あの時はピトーの『円』で虚を突けたからそんな状況を回避できたが、今回はもうどうしようもない。不遜な笑みに作り物の不適を返してやる以外なかった。

 

「……ああ、誰かと思ったらさっきのキミかぁ。何の用?ていうか、八坂に捕まったんじゃなかったっけ?」

 

 背を向けていたとはいえ、さすがに異常には気付いたのだろう。追いついたピトーは気絶中の曹操と九重をリアス・グレモリーの傍に下ろすと、涼しい顔で私の前に出た。

 

 かなりの致命的状況にもかかわらず、一かけらの動揺も無く言ってのける彼女。見事なまでに危機感を見せないその物言いにもたらされ、九重は脚に隠れながら声高に奴を指さした。

 

「そ、そうじゃ!きさまはははうえがたいじしたはず……はっ!わかったのじゃ!さてはあのとき、そうそうがシルバにふいたほのおにまぎれて、あくまどもにたすけられたのじゃろう!きさまらは、ぐ、ぐる?だったのじゃな!」

 

 唐突な超展開で悪魔が悪者にされたが、それを気にしたのはリアス・グレモリーだけだったようだ。イケメン青年は様になった仕草で苦笑する。

 

「……確かに、あれは中々愉快な出来事だったな。まさかゾルディック家が加勢してくれるとは、思ってもみなかったよ。おかげで――」

 

 白音を抱いている方の手が、懐から器用に何かを引き抜き、それを落とした。

 

「これは無駄になってしまったがな。術破りのそれは見事だったから、一時的に妖怪の五感を狂わせるというそっちも試してみたかったんだが」

 

 ひらひらと舞い、コンクリートに落ちる長方形の紙片。お札だった。

 

 しかもそこいらにあるような紙切れ同然のものではない。感じる強力な退魔の力は間違いなく一級品、いや、それ以上だろう。

 

 妖怪退治のハンターにも、入手できるとは思えない。世に出回るようなものではないのだ。

 

 それこそ、日本古来からの異能集団である五大宗家の才ある人間が、幾年もの年月をかけてようやく作り出せるくらいの、すさまじい力を秘めた逸品。

 

「……何よあんた、誘拐だけじゃ飽き足らず、泥棒までやってるの」

 

「泥棒じゃなく盗賊と言ってくれ。というか、そっちのほうが本業だな。普段は物を狙うのが主だが、たまには趣向を変えることもある」

 

 本当に盗み出したのだとすれば、やはりこの連中、実力だけでなく相当に気も狂っている。白音に加えてリアス・グレモリーを狙ったこともそうだが、そんなに次々と敵を作って恐ろしくはないのだろうか。

 

「にゃるほど。やっぱり端から観念なんてしてなかったってわけだ」

 

 ピトーは鼻で笑い、やれやれと首を傾ける。

 

「それにしても……幸運に欲が出たの?バカだねぇ、わざわざ死にに来るなんて。せっかく見逃してあげるって言ったのに」

 

「それを信用できないからこう(・・)しているのさ。尤も、そうであると気付いたのは捕まった後のことだったが」

 

 ナイフの腹で白音の首を撫でた奴が、緊張を多大に受けた私を見て微かな笑みを浮かべる。

 

 どこか昂然とした顔。上から見透かされているような心地に圧倒され、ほとんど生身にその言葉を浴びた。

 

「そっちの女。お前は仙術使いなんだろう?」

 

 それも策略、最終確認だったのだろう。息を詰めた私に、奴の笑みは深くなる。

 

「聞くに仙術は『円』とは比べ物にならないほどの探知範囲を持ち、しかもそれを対象者に気取られないという。仮にあのまま逃げたとしても、お前たちはオレたちに気付かれることなく長距離から追跡することができる。そうなれば対処は困難だ」

 

 知識には偏りがあるようだが、それを指摘したところでどうにもならないだろう。なにせ、『信用していない』のだから。

 

 となればつまり、奴の目的とは、

 

「ふん。ならキミ、シロネを人質に何を要求する気?」

 

「決まっているだろう。言葉では足りない」

 

 懸念の要たる私の、根本的排除に他ならない。

 

「そこの仙術使いの()だ。今ここで命を絶てば、猫又は無事に返してやろう」

 

 視線に、たじろがざるを得なかった。

 

 奴とリアス・グレモリーと、それから自分自身の視線。一瞬、考えてしまったのだ。

 

 ここで命を投げ出し、白音を救うことは、あの時果たせなかった償いなのではないか、という想い。

 

 今度こそ、と、そんな逡巡が頭を横切った。だがすぐに彼方へ流れ去る。瞬間にピトーが、爆発の如き勢いで大笑いしたからだ。

 

「にゃはははは!やっぱりとてつもないおバカだよ、キミ!そりゃあボクたちはシロネを助けるためにあれこれしたけどね、所詮は依頼なんだよ?他人のために死んでやるわけないじゃない!そうなったらなったで死体を持っていくだけにゃ」

 

 大胆なブラフだった。

 

 だが実際、その通り。『ウタ』がここにいるのは単に仕事のためでしかないのだから、命など支払えるはずもない。報酬が多くとも、死んでしまっては意味がないのだ。

 

 そう、これは単なる仕事。他の何でもなく、お金を得るためだけに私はリアス・グレモリーと出会い、仙術で街中を探し、念能力者と戦った。白音を助けるのは、要するにただそれだけの理由。それが事実。

 

 私とピトーは一心同体。だから『ウタ』は、私は、もう白音とは――それでいい。

 

 そうでなくてはならない。

 

「全くよね。報酬額減っちゃうのはそりゃあ嫌だけど、かといってそんな要求、呑むと思ってるの?あんたのお仲間も言ってたじゃない、命あっての物種って。それにその子の飼い主って悪魔だし、いざとなったら悪魔の駒(イーヴィル・ピース)で蘇生させるでしょ」

 

 嘲笑に顔を歪めた。

 

 その先で青年は悪い微笑を残したまま、品定めするような眼をピトーに向ける。顔に止まると、いかにもわざとらしく驚いたふうを叫んで見せた。

 

「おや、そうなのか?これは予想外だな。まさかこの娘に人質の価値がなかったとは」

 

 今までで一番の邪悪が、その見目の良い顔に乗る。ピトーの余裕綽々とした立ち振る舞いがぴたりと固まり、僅かに身がたわんだ。

 

 直後、

 

「なら、もうこいつは邪魔だな」

 

 青年が白音を宙に抛り、ピトーはそれを受け止めるため脚のバネを解き放つ。

 

 気付くのが一瞬遅れた私の身体は動くことなく、眼だけが本能的に軌跡を追っていた。

 

 脱力した白音の身体。ふわりと浮いて、頭の高さを超える。見上げたその位置は存外高く、気絶している白音がそのまま落下すれば、不幸な事故が起きないとも限らない。

 

 瞬きの間に、それらのことを認めた。コンマ一秒経っているかもわからないほど短い時間。それだけの間でピトーは、己と白音の彼我の距離、青年のそれと比べて三倍もあった間隔のほとんどを消し飛ばしていた。

 

 ピトーの動きを見慣れている私をして、ようやく追視できるほどの神速。『フェル』の範疇を越えた『ピトー』の瞬発力がすさまじいまでの初速を生み出し、投げ出された白音の元へ向かっている。

 

 したり顔だった青年も、さすがにこれほどの速さが来るとは予想だにしていなかったのだろう。その顔からは笑みが消えていた。

 だが憎たらしくも、その動きは止まらなかった。虚を突き、表面に動揺を引き出せはしたが、それでも奴のその手は半自動的に持ち上がる。淀みなく独りでに構え、息つく間もなく閃いた。

 

 撃たれ、飛んだのは、白音の肌を舐めたあの妙なナイフ。魚の骨のようにスカスカの刀身を『気』で煌めかせ、白音めがけて上っていく。寸分違わず首を狙うその切っ先は、このままいけば彼女の頸椎をも容易く切り裂き、胴から落としてしまうだろう。

 

 白音に迫る死の瞬き。しかしピトーの視線がそれを捉えていることを理解すれば、もはやさしたる恐怖も感じなかった。

 

 飛ぶように進む足が一際強く地面を掴み、僅かな溜めからの跳躍。ピトーの後出しだが、それをあっけなく覆せるほど、二人の瞬発力には隔絶した差があった。

 

 矢のように迫るナイフに対し、ピトーの跳躍はまるで瞬間移動のよう。とろいナイフをよそに空中で白音を抱きとめた頃にはもう、その勢いのままに蹴りが飛び出していた。

 

 ぎゃりん

 

 ブーツの爪先がナイフの腹を叩き、二人の『気』が光芒を巻き散らす。肉体から直接集った『気』と、肉体から切り離された『気』。当然勝負にもならない。質量的にも劣るナイフは接触の瞬間競り合いに負け、高速回転しながら弾き返される。

 

 銀の円盤と化したそれ。もはや白音の危険は消えた。ピトーも私も、そのために隙を晒してはいない。

 

 危機を煽り、救出の可能性をにおわせ、慌てて突っ込んできたところを打ち取るつもりだったのだろう。『フェル』と『ウタ』にとって人質は、生きていれば儲けもの、といった程度の価値しかない。ならばこのまま長々と交渉するよりも、囮に使って一時の可能性に賭けるべきだと、そう考えたのであろう青年の判断は、ごく自然な成り行きで、唯一の選択肢だったのかもしれない。

 

 が、それもピトーの全力によって無意味となった。奴はピトーの実力を甘く見るべきではなかったのだ。

 

 ある種の誇らしさで胸の奥を温めながら、私は、加速した思考の名残でゆっくりと落下するピトーと白音を見守っていた。

 

 ほっと息をつき、心と脳に一時の余暇を得たのだ。思考と視線を、緊張のそれから離すことが叶った。

 

 奴の行動を思い返し、いくら何でも力量と手札を過信しすぎだろうと笑う。私を殺したいのなら、何故たった一人で来たのか。要求を拒まれ、ピトーと私の二人を相手にしなければならない。今のような事態を考えなかったのだろうか、と。

 

 ――そうだ。

 

 私でも気付くことに、何故リーダーの奴が気付かない。

 

 天啓というにはあまりにも安っぽい、しかし私にとっては鮮烈なひらめきが身を貫く。

 

 奔った電流は眼の筋肉を振るえさせ、移った途端に理解に及んだ。

 

 白音の服の隙間から、ポロリと零れた薄ピンクのゴルフボール大。それがピトーの身に触れ、微塵に砕ける。

 

 瞬間、私は叫んだ。

 

「フェルッ!!」

 

 ほぼ同時に、地面のコンクリートを水面のように突き破り、あの時のチョウチンアンコウが姿を現した。




前書きの通りなのでまたしても中途半端なところで終了です。次話への影響は軽微だったので助かった。ただしサンペーくんの念能力紹介は持ち越し。
感想ください。


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十三話

相手に向かって行く時、『地を蹴った』と『ダッシュする』以外の表現を思いつけず、丸一日頭捻って結局そのままにした。あれがなければたぶん昨日には投稿できてた。タコス。


 電光の薄いオレンジに瞬く鋭形が、ほとんど平行になるまで開かれた大口の上に載っている。見覚えのある不細工な横顔は開口のおかげで見るに堪えないほどに潰れて歪み、暗闇と相俟ってもはやホラー映画の一幕だ。

 

 画面越しなら純粋に怖がって楽しめただろう。だがこの光景は現実。ボックスカーサイズの『念魚』が上空のピトーと白音を喰らおうとしている、という事実を眼にしてしまえば、呑気に喜べるはずもない。

 

 あの時ナイフを投げた青年の、本当の狙いはこれだったのだ。白音を餌に、まずはピトーを排除する。そうすればほぼ一対一。私の抹殺も格段に成功しやすくなるだろう。倒した後は白音とリアス・グレモリーと、ついでに九重も攫い、悠々と逃げるのみ。

 

 奴はそう考えているのだ。だが――

 

 ごしゃっ

 

 と、痛撃を浴びたのは『念魚』のほうだった。

 

 順当なる帰結。元々、地面からの不意打ちを仕掛けてくるチョウチンアンコウは最優先での警戒対象だ。初見の能力でもないし、気構えもできている。ピトーの身体能力的にもそれに不都合はなく、そしてもしかすれば私の警告も一助となったかもしれない。

 

 つまり、ナイフへ放った蹴りの勢いのまま身を捻り、迫りくる無数の歯から逃れると共に側面へ鉄槌打ちをすることは、ピトーにとってさしたる困難ではなかったのだ。

 

 打ち払われ、横向きにのけぞる『念魚』。かなり丈夫らしく、へこみはしたものの、撃破までには至っていないようだ。が、初撃の不意打ちさえ防げれば何ら怖いことはない。いくら堅かろうが、私であれば仙術で一発なのだ。

 

 一番の憂慮も凌いだ今、再び地面に潜ってしまう前にチョウチンアンコウを自然の『気』に還してやらねばならない。否応なしの不安を安堵に変えながら、私は身体を前傾に倒した。

 

 その時ふと、『気』の揺らぎを感じた。

 

 感覚に導かれるまま、それを見る。青年の手の中。『念』で具現化されたらしい、手のひらサイズの『本』。

 

 奴の念能力なのだろう。だが、それにしては違和感が大きい。外側と内側で中身が一致していない、そんな奇妙。

 

 一瞬の後に思い出した。

 

「――ッ!!フェル!!まだ終わってないッ!!」

 

 白音に起こった転移と同じ入り混じった気配が、今度はピトーの身に引き起こされた。

 

 空中から、一瞬にしてピトーの姿が掻き消える。白音の身体だけが取り残され、力なく浮遊する。

 

 眼に映しながら、私は身を震わすほどの焦燥感のまま、『念魚』を目指して地を蹴っていた。『気』を探ればすぐにわかる。ピトーの転移先は、その半開きになった口の中だ。

 

 気配の通り、隙間から彼女の革手袋がちらりと見えた。閉じかけた口の中に直接放り込まれたのだ。故に確認できたのは一瞬。彼女の存在は、すぐに閉ざされ見えなくなる。背に冷たいものが走り、心臓が凍り付くも、私はなんとか理性を保ち続けた。

 

 たとえ胃に押し込められようが即死はしないはず。なら今あの『念魚』を倒してしまえば、ピトーは救助できるはずだ。

 

 ぐっ、と息を呑みこみ、落とし込んで手を伸ばした。その距離およそ十メートル。果てしなく遠く感じるその間隔に、触れなければ『念』を消せない、という能力の限界を恨めしく思う。

 

 そんな無念で歯を食いしばり、また一歩を蹴り飛ばしたその瞬間、

 

 三度目の転移が発動した。

 

 目の前が突如白に満たされる。白音だ。視界を塞ぐように転移してきた彼女にダッシュの勢いがぶつかり、動揺からブレーキを踏む。伸ばした手で反射的に抱きとめ、胸元に下げると、本を片手にもう一方で、弾かれて宙に飛んだナイフの柄を掴む青年と眼が合った。

 

 その奥では、ピトーをその口に収めた『念魚』がジャンプによる上昇を終え、ゆっくりと下降を始めている。

 

 一瞬の思考停止。揺れる息を噛み潰すと、叫ぶと同時に白音を投げた。

 

「――リアス!!」

 

 手放せば、もう後ろを振り返る暇もなかった。青年に一歩遅れて、私も全力で走り出す。

 

 距離は瞬く間に詰められた。青年の腕がぶれ、ナイフが袈裟斬りに振るわれる。いやに大振りな攻撃。カウンターするには絶好のチャンスだろう。

 

 だが素通りする。前傾姿勢をさらに倒し、剣尖を頭上に通過させる。

 

 髪の毛を一房ほど持っていかれるも、やはり私の目的はピトーのほうに向くばかり。彼女を救うため、この場をすり抜けられればそれでいいのだ。

 

 空振る奴を横目に見ながら、屈んだ体勢から片手も使って地を掴み、脇を潜る加速のために踏ん張った。

 

 しかしその思惑はすぐさま頓挫する。もう不要だと、視線を外したその直後、大振りに振り抜いたはずの奴の手が、不自然に折れ曲がった。ナイフ切っ先が軌道の終点で再び閃き、その速度を残したまま突如として続きを描き出したのだ。

 

 どうやったのか。驚愕するも身体は集中を刃に向けて、引かれる軌跡からその身を逃そうと動き出す。着いた手が地面を突き飛ばし、横に舵を切る。無理矢理に身をひるがえしつつ、硬いコンクリートの上を一回転し――

 

 辛うじて、背中を切り裂かれるような事態を回避した。

 

 慣性でなおも転がり続けようとする身体を片足だけで静止させ、ほぼ四つん這いの状態で奥を見る。

 

 『念魚』はまだ『落下中』にあった。ギリギリだが、まだ間に合う。思考が冷静にそう返すと、再び沸き上がる活力が、冷えた四肢に伝わった。

 

 ナイフの射程からも十分に離れている。後は私の瞬発力。ピトーには遠く及ばないまでも人離れしたそれを用い、漲る力に任せて忌まわしい『念魚』の元へ向かおうとした。向かおうと、両手足に力を込めた。

 

「――ッあ」

 

 だがどういうわけか、一歩も踏み出せずにつんのめった。

 

 右腕を中心に、痺れが感覚を上り始める。戦闘とピトーの窮地から、間隔を狭める拍動。引き延ばされた思考の中でドクンと心臓が伸縮する度、どんどん広がっていく。

 

 倒れかける身体。反射的に突っ張った両腕。より頼りなく痺れる右腕に眼を向け、肘に走る赤の一線と鈍い痛みを発見した時、私はようやくそれを悟った。

 

(まさか、毒――ッ!!)

 

 気付き、阻害の原因たる異物の浄化に意識を向けた、ちょうどその瞬間。

 

 脇腹を衝撃が貫いた。

 

「――がはっ……!!」

 

 感じる浮遊感に、蹴り上げられたのだと気付く。狙ったのか、仙術行使の隙を突かれたために防御をし損ねたのだ。

 

 『気』を込めた蹴り。かなりのダメージ。引き起こされる窒息と鈍痛に、身体は悶えることしかできない。

 

 それ以外に選択肢のない空中浮遊。目を見開く私はそれ故に、倍増した絶望感を味わっていた。

 

 ピトーを呑みこんだ『念魚』が地面に着水し、そのまま地下に潜っていく様子。見守ることしかできない。

 

 目の前が暗くなっていく。

 

(そんな――)

 

 浮遊感が消え、遅れて右腕の痺れ越しにおぼろげな痛みと衝撃が響く。墜落し、バウンドした身体はさらに数メートル転がり、うつ伏せでようやく止まった。

 

 よろよろと顔を上げる。ナイフを構え、突進してくる青年の姿があった。立ち向かう気力も湧かず、私は呆然とその様を、地面に広がる波紋を見ていた。

 

 その視界に、ふと二つの影が躍り出た。

 

 赤と金色。魔力と妖力をそれぞれ帯びた二人が、私を守護するかのように立っていた。

 

 小さな背中が、お前は下がっていろと、そう言わんばかりに。

 

「――邪魔、なのよ……ッ!」

 

 広がる淀みを押しのける。

 

 そうだ。たかが『念魚』に食べられたくらいで、ピトーが死ぬはずがない。助けるチャンスは、まだ残っている。

 

 弱々しく揺れる両脚で何とか身を起こしつつ、喉から捻り出した。

 

「あんたたちは、おとなしく守られてなさいッ!!」

 

 ダメージが響く脇腹の回復を試みながら、二人を追い越す。残滓を吐き出し、痺れる全身からかき集めた決意で、私は青年に向かった。

 

 可能性があるならば、諦めてはならない。強く心を鳴らした想い。

 

 方法はいくらでもある。あるいはピトーが自力で脱出するかもしれない。

 そのためにも、私がすべきこと。

 

 青年()と戦い、時間を稼ぐことに他ならない。

 

 四人もの庇護対象に気を配りながら一人で奴を打倒できるとは、さすがに断言ができない。まんまとナイフを当てられたことを鑑みれば、私が奴と比較して体術的に劣っていることは疑いようがないだろう。

 

 元々私は接近戦に向いていない。悪魔に転生する時も僧侶(ビショップ)の駒を二つ使ったくらい、生粋のウィザードタイプ。つまるところは後衛専門なのだ。

 

 守護のため、下手に下がって距離を取ることもできない。相手の獲物も、射程の短いナイフ。必然的にインファイトのような接近戦をせざるを得ない現状では、私が断然不利となる。奴をその場に縫い付けることが精々だ。

 

 故に、稼いだ時間の間にピトーか、あるいは八坂でもいい。味方が来てくれさえすれば、私と奴の勝ち目は逆転する。

 

 だから私は、迫りくる毒濡れのナイフを身を捻って躱し、牽制に回し蹴りを放ちながらそれを叫んだ。

 

「じっとしてられないって言うなら、どうにかして白音と曹操起こしなさい!!」

 

 白音はともかく曹操が目を覚ますとは思えないが、余計な手出しをされるよりは随分マシだ。

 

 心の中で悪態を付きながら、肺から空気を押し出すついでに身を倒し、下段から蹴り上げる。回し蹴りを屈んでいた青年にバックステップを強いつつ、私はさらにそれを追撃した。

 

 奴に私以外を見させないため。端的に言えばあの転移能力を使わせないための苦肉。もう一度白音や、背後の三人を人質に取られたらたまったものではない。攻めすぎて反撃をもらうわけにはいかないが、かといって攻めの手を緩めることはできないのだ。

 

 さらに言えばチョウチンアンコウにも注意を払う必要がある。近づきすぎず離れすぎず、その都度見極め戦局をコントロールせねばならない。

 

 それは圧倒的不利なこの状況に於いて、些かならず無謀な決心だった。

 

「――ッ!!」

 

 痛みはなかった。その代わり、右腕に冷たい不快感。躱し損ねたナイフに皮膚を裂かれ、その下の肉が僅かにえぐられる感覚が伝わる。

 

 痛みがない分、その様は、はっきりと知覚できた。そして同時に、重ねて直接毒を浴びた右腕から、完全に力が抜けたことも。

 

 続く二撃目の閃きから慌てて飛び退り、傷口をぎゅっと押さえる。身体はともかく、だらんと垂れ下がる右腕は回復のために相当の時間と集中が必要だ、という自己診断を苦々しく受け止めながら、私は仙術の治癒に割く意識を断ち切った。

 

 睨みつけた先でニヤリと不敵に笑う奴が、私を見て笑みを深くする。

 

「驚いたな、二度でもまだ動けるのか。0.1ミリグラムでクジラとか動けなくする薬なんだが……仙術には浄化能力もあるのか」

 

「……か弱い乙女になんてもの盛ってくれてんのよ」

 

 ピトーに弾かれ、銀の円盤と化していた時のナイフを思い出す。この上ない猛毒に塗れたそれに、よく手を伸ばせたものだ。

 

 胸中に溢れる不安を誤魔化すため、そんなことを考えて余裕の笑みを浮かべてやる。

 

「だが――」

 

 様子見から攻勢に、再び転じる気配を青年に認めると同時、私も駆けだした。突き込まれるナイフ。半身に構え、いなすため伸ばした左腕。

 

 だがそれは逆側の手、『念』の本に弾き上げられた。能力を使ったわけではない、ただの防御。ナイフの障害はそれだけでなくなった。

 

 簡単な話だ。腕一本で腕二本は防げない。

 

 動いてくれない右腕と、逸らされた左腕。ほとんど浄化できたとはいえ、全身にも微かな痺れが残っている。そんな状態では、掠っただけで致命傷となりうるナイフを捌けない。

 

 歯噛みしながら、閃く刃をひたすらに躱すしかなかった。

 

 屈み、捻り、反る。避けて三歩後退し、その間隙に牽制の蹴りで半歩下がらせるのが精一杯。対応に息つく間もなく巡らせる思考の最中、奴の悠然とした口調がノイズとなって流れ込む。

 

「どうやら完全に解毒できるというわけでもないらしいな。皮一枚でこれなら……ふむ、突き刺せばちゃんと回るか」

 

 物騒なことを言いながらナイフを振り続ける涼しい顔。ぶらぶら振れるだけの厄介物となった右腕を庇う私からは、対照的に、取り繕うこともできないくらいにどんどん余裕が消えていく。

 

 心の決心も侵食され始め、鈍い全身の感覚にひやりとしたものが巡るころ、触覚をも消失した肉袋から三度目の出血を認識したことをきっかけに、とうとうその誤魔化しが砕け散った。

 

 このままでは応援が来る前に私が力尽きるという、理性的な確信。

 

 そんな未来を回避するためには――

 

(『力』を、使うしか……)

 

 もう、禁を解く以外に思いつかない。

 

 魔力や妖力、『黒歌』として本来の『力』を使えば、たぶんこの状況は打開できる。片腕を封じられていようが、それを補って余りある手札は、私のことを人間だと思い込んでいる奴の虚をも突けるだろう。

 

 しかし一方で、使えば私たちの正体が露呈する。

 

 九重はまだしも、リアス・グレモリーに知られてしまえばどうなるか。その眼に私が『黒歌』だと、知らしめられてしまえば、『フェル』と『ウタ』、手に入れた安寧は跡形もなく消え去ってしまう。ピトーの平穏を、奪ってしまう。

 

 それによるストッパーは、確信でもなかなか外れなかった。やらねば己が死ぬと確信していても、所詮は脳内での空想。まだ死ぬような事態には遭っていないのだから、これからも大丈夫かもしれない、という希望的観測が、愚かにも最後の砦として躊躇を張り付けてしまっていた。

 

 このまま何事もなく事が進んでいれば、手遅れになるまで躊躇いは剥がれなかっただろう。

 

 そういう意味では幸いだったかもしれない。

 

「――あ……ッ!?」

 

 回避に下げた右足の甲へ突如として落とされた衝撃は、溜まり溜まった不安に、鮮烈な痛みを伴って、抑制の枷ごと冷静を突き破ってしまった。

 

 理性の冷静が弾け、本能的な精神に切り替わる。負傷への反射で足を引き戻そうとするも、まるで縫い付けられてしまったかのように動かず、逆に身体のバランスを崩す。

 

 視線を下げ、原因を見やる。ピンク色。見覚えのある、カジキだかカツオだかわからないへんてこな『念魚』のツノが足の甲を貫通し、コンクリートに深々と突き刺さっている。ピトーが潰したはずだが、まさか死んでいなかったのか。注意していなかったために、見逃してしまったのか。

 

 いやそれよりも――

 

 視線を戻す。薄く私の赤に濡れる刃。まっすぐに突き進んでくる。青年の顔に嘲りの微笑。

 

 今の私の体勢では、あれを止めることはできない。回避しようにも足を動かせず、距離も近すぎる。

 

 つまり、刺される。

 

 浄化のしようがないほどの量が太い血管に流れ、全身が麻痺してしまう。そうなればもう、成す術がない。

 

 省略されたそれらで、『死』という結果のみが精神を揺らす。そこまでしてようやく、私は左手に『力』を迸らせた。

 

 久方ぶりに発揮した魔力と妖力が、封印の不満を爆発させるかのように、激しい紫電となって瞬く。私の手の中、突如の明滅と小さな魔法陣が青年から笑みを消し、飛び退こうと膝を撓めた。

 

 正面と、加えて背後から向けられる驚愕に、私は最後の悔恨を強く念じる。

 

(ピトー、どうなっても、一緒だから――ッ!!)

 

 せめてもの思いで『力』を引き絞り、奔流を放とうとした。

 

 その直前、

 

「――ッ!?」

 

 私と青年の間を、捉えられないほどの速さで貫いた何かが、瞬時に私たちの注意を奪い去った。

 

 重なった不意で一様に硬直する。立ち直ったのは、仙術にて飛行物体の正体を看破した私のほうが少しだけ早く、正体不明を既知としてしまえば、狭まった咄嗟の警戒心も元通りに広がった。

 

 ごく小さく、しかもかなり損傷しているが、釣り人の男が具現化したのであろう『念魚』の一匹。視界内を縦断したそれを青年が眼で追い、首まで回してようやく捉えたその時には、もうすでに対応のしようがないところまで、私の仕掛けた反撃が迫っていた。

 

 痛みを堪え、地面に突き刺さる『念魚』を脚力だけで引き抜き、消し去ると、反動をもつぎ込んで放ったハイキック。それは何の障害もなく、きれいに奴の横顔へ吸い込まれた。

 

 『気』越しに確かな手ごたえ。上体を後傾させる奴を捉えつつ、続けて蹴りの勢いで宙に浮いた己が身を捩る。そのまま半回転して後ろ蹴りを見舞い、腕を突いて転がるように着地。そして止まることなく地を蹴り飛ばし、顔面を背の後ろに反り返らせる青年へと、束ねた『力』を拳に握りこんだ。

 

 一息に肉薄。防御姿勢も心構えも、何もできない無防備に、私は気合を乗せて打ち放つ。

 

「せあぁッ!!」

 

 重く地面を踏みしめた『力』混じりの正拳突きは、今度こそ、その胸部に突き刺さった。

 

 全身に紫電を纏わりつかせ、青年の身体が木の葉のように舞い、吹き飛ぶ。だが、どうやら致命傷にまでは及んでいないらしかった。

 

 『念』の本と毒ナイフは手から離れていないし、身に纏った『気』も、未だ力強さを残している。そもそも『力』だって少量で、しかも利き腕ではない左での一撃だったのだ。前二発の連続蹴りを含めても、高レベルの使い手である奴を倒せるほどの威力には足りていない。

 

 が、それでもそれなりのダメージは与えることができたはずだ。

 

 もしかすれば、このまま打撃のみで押し切れるかもしれない。そうなれば『力』に対する言い訳もたつのでは……。

 

 ギリギリのところで訪れた幸運と、ようやく与えられた有効打に、怯えから脱した打算がそんなことを思い付いた。『近づきすぎず離れすぎずで戦局をコントロール』という前提条件も、『かもしれない』の甘美には勝てない。

 

 僅かも間を開けずに傾いた天秤にそそのかされるまま、私は再度ダッシュを敢行した。後傾から宙返りし、体勢を立て直しつつある奴へ、それが半端であるうちに追撃をくれてやろうと距離を詰める。

 

 その短絡的な暴挙は、十字路の真ん中にてようやく両足を地面に着けた青年を要因の一半に、踏み留められた。

 

 左の角、連なる倉庫街の方面から後ろ跳びに現れた、見覚えのある麦わら帽子と、釣竿。

 

「――おおっとぉ!危ねぇなぁ……もうこんなとこまで下がってきちまったんかぁ。ちゅーか団長、もしかそれ、眼鏡のねーちゃんにやられたんかぁ?大丈夫なんかよぉ」

 

 青年とぶつかり、よろけるその背に張り手を打ちながら、相変わらずの気の抜けた調子で言ったそいつ(・・・)と、眼が合う。『念魚』の能力者、サンペーなる釣り人風の男だった。

 

 警戒とも好奇ともつかない眼差しは、妙な圧力となって私を一歩下がらせ、思考を冷やす。忘却してしまっていた後ろの四人のことも併せて、戦慄に心臓を跳ねさせる私。全身に溜まった余分な力を解き、痕の残る顎を一撫でした青年は、そんな中でもやはり悠揚迫らぬ態度で返した。

 

「お前には言われたくないな。……まだ十分も経っていないだろう?」

 

「ちーっと釣果が悪かったんだよぉ。それにぃ……あぁ、もう追いつかれちったぁ」

 

 億劫そうなため息をつき、男が釣竿を構えなおす。その視線が向いた先、男が逃げ込んできた角に、釣られて私も眼をやると、ちょうど同時に現れる。

 

 銀髪の偉丈夫。シルバ=ゾルディックが角から飛び出し、次いで私と、たぶん背後の曹操を一瞥すると、誘拐団二人から少し距離を開けて静止した。

 

 次々と起こる突発的事態が、頭の処理能力に掛ける多大な負荷。どうにか受け流し続ける私をよそに、釣り人の男はシルバにひらひらと手を振った。

 

「ほらぁ、天下のゾルディック家が御党首様なんだろぉ?ただでさえ不漁でしんどいってのにぃ、相手は強敵だしぃ……あぁ、そうだぁ。一緒にあの大妖怪までいたんだぜぇ?むしろ褒めてほしいもんだねぇ、そっちはちゃぁんと処理したんだからさぁ」

 

「しょ、しょり、じゃと……?」

 

 呆然とした九重の声。徐々に気配が荒れてゆき、語尾の震えた怯えとなって口を出る。

 

「き、きさま……しるば……ははうえは、どうなったのじゃ……」

 

「………」

 

「へっ……そっちもエロいねーちゃん、フェルって言ったかぁ?いねえだろぉ?そういうこったよぉ」

 

 誘拐団を凝視し微動だにしないシルバに代わって、釣り人の男が鼻を鳴らし、唇を嗜虐的に歪めてみせた。

 

 八坂も、『念魚』に食われたということか。

 

 九重が絶望に膝を折る音を背後に聞きながら、ようやく現状を理解した私は、悟った危機に冷や汗をかいていた。

 

 釣り人の男が言ったことが嘘であれば、さすがにシルバも反応していただろう。ということはつまり、八坂の戦線離脱は事実。最も可能性の高かった応援、一番の当てがなくなった。

 

 加えて敵が二人に増えている。仲間同士、連携して私を殺しにかかるだろう。そうなれば、非常にまずい。

 

 故に私は僅かな望みに賭け、疲労と痺れとダメージが残る身体から、精一杯に声を張り上げた。

 

「シルバ!私に協力して!」

 

 再びちらりと、シルバの眼がこちらを向いた。微かに覗いた期待感で、畳みかけるように声帯を震わせる。

 

「情けないけど、私、今ナイフの毒にやられて右腕が使えないのよ!私が殺されたら、今度はあんたが二対一になる。白音やリアス・グレモリーまで死んだら、あんたの雇い主も困るでしょ?釣竿男の『念魚』は……私の仙術で消せるから、だからサポートを――」

 

「断る」

 

 短く、そう言い切られた。

 

 一切余地のない断言で二の句が継げない私に、シルバは冷たく言い放つ。

 

「指図は受けない。オレはオレの好きにやらせてもらう」

 

「こっ……この、石頭!」

 

 なんとかそれだけ罵倒を捻り出した。

 

 が、それで何が変わるわけでもあるまい。もはやどうでもいいが、心象はむしろ悪くなったろう。

 

 融通の利かない殺し屋に拒絶された、という事実だけがそこに残る。依頼達成のためなら手段を択ばない暗殺一家。私は囮にでもされるだろう。それが示すのは、『力』を行使しなければ生き残れない、という気鬱のみ。

 

 話は済んだと言わんばかりに私から眼を外し、シルバは睨んだ誘拐団たちへ攻勢をかける。可能性からの落差に頭を抱える私は、せめてそれに乗じようと身構えた。

 

 だが、すぐにそれに気付き、『力』の発動を踏み止まらせる。

 

 初撃の思いもよらぬ強打に弾き飛ばされ、「おっとっとぉ」と戯けを装いながらこっちに流れた釣り人の男も、訝しげに目を細めてそれを見ていた。

 

「なんちゅーかぁ……これぇ、フラれちまったんかぁ?」

 

 シルバは、青年一人に照準を絞っていた。

 

 十字路の向こう側で青年を相手取り、完全に抑え込んでしまっている。青年が守りに徹している故、大してダメージは与えられていない様子だが、それができるくらいにシルバの力量は高いらしい。もはやこっちに構う余裕もないくらいに、青年の顔は歪んでいた。

 

 しかしその代償に、背は無防備だ。釣り人の男が一撃を加えれば、タイマンの状況は容易く壊れるだろう。

 

 要は、私に背を預けている。

 

 どうやら、思っていたほど硬い頭ではないようだ。

 

「――あ、後そいつ、相手を瞬間移動させる能力を持ってるから、気を付けてよね!」

 

 だから私は、激しく動き回るその後姿に、そう付け足してやった。

 

「まぁ、どーだっていーけどよぉ。タイマンなら団長でもだいじょーぶだろーしぃ、むしろ願ったりだしぃ……」

 

 釣り人の男はため息を吐くようにそう呟くと、戦うシルバと青年から私に視線を移し替えた。その口調と同じく、まるで緊張感のない態度。奴は、ともすれば私など眼中にないのではと思えるほど無造作に、竿で背を掻いて悠々と伸びをして見せた。

 

 それも挑発の一環なのだろうとわかってはいるが、呼応して迫ってくる焦りと不安は抑えることができない。それでも何とか勝気な表情を上に被せ、せめてもと笑ってやった。

 

「……ふん。願ったりはこっちの台詞よ。あんたの『念魚』がどれだけ強かろうが、仙術の敵じゃないんだもの」

 

 たぶん、私が浮かべたものより数段嘲りの濃い笑みが、奴の唇に作られた。

 

「ねーちゃんよぉ、さっきおいらにぶん殴られたことぉ、もう忘れちったんかぁ?」

 

 直後、自然体から流水のように滑らかに、男の身体が前傾した。

 

 あまりにも自然なその動作。そのために一拍だけ反応が遅れる。背を跳ねさせ、動揺を抱きながらも反射的に身構える私は、しかし次の瞬間、さらに別種の動揺を味わった。

 

 一直線に走る男の姿が、突然複数にブレた。

 

 瞬く間に幅は広がり、男が幾人にも分裂する。数を増やし、襲い掛かってくるそれら。不意に発現した不可解な現象は、それが与える動揺で私の身体を縛め、間隙に命を奪おうと迫る。

 

 その攻撃に帯びた殺気が、ギリギリのところで私に仙術を思い出させた。

 

 首や腕や胴を貫いていく男の攻撃、いや、残像。眼でなく感覚でそれらを無視し、越した先で、飛んできた殴打の一つに構えた拳を打ち込んだ。分厚い『気』の手ごたえ。感じると、同時に四方からの残像も消え、その中からようやく本物(・・)が姿を見せた。

 

 私のパンチを腕一本に受け止めた男が、さらに口角を上げていた。

 

「今の残像も、あんたの能力?どちらにせよ、毒ナイフがない分イケメンよりはずっとマシね!」

 

「やっぱぁ、ずいぶんと気が合うねぇ、ねーちゃん。おいらもぉ、ゾルディックの旦那よりねーちゃんのほうがぁ、百倍は楽に勝てそうだからなぁッ!」

 

 唾を飛ばして笑うと、男は力任せに一歩踏み込む。押され、僅かによろめき後退する私から瞬時に飛び退き、奴はいつの間にか糸を垂らしていた竿を引いた。

 

 コンクリートの水面が盛り上がり、奥で揺らめく『気』の瞬きを、しっかりと眼に映す。

 

 釣り上げられたのは、濃い藍色をしたウナギのような『念魚』だった。

 

「おぉう、早速運が向いてきやがったぁ!行けぃ!【導体粘魚(フルイオンフィッシュ)】ちゃぁん!」

 

 空中で針から外れ、太く長い身体から、頭部と思しき先端がこちらを向く。目のないつるっとしたそれに加え、吸盤のように丸い口と円形に並ぶ歯は、ちょっと例えようがないほどキモい。

 

 ぞっとしてたじろぐも、その存在しない瞳が狙う先を気配に感じ、気付く。

 

 つい数分前に爆ぜたピンクのゴルフボール大は、大半をピトーが浴びたものの、幾らか白音にも効果を及ぼしたのだろう。焦点は私を通り過ぎ、背後の白音に向いていた。

 

 私の右手に付いたものは、とっくの昔に消してしまった。こうなるとわかっていれば、と、無益な後悔を噛みしめる。

 

(けど、いまさら『念魚』の一匹程度――ッ!)

 

 どうということはない。おまけにウナギの動きは、今までの『念魚』と比べて明らかに鈍かった。

 

 身をくねらせて宙を泳ぐウナギに手を伸ばす。脇目も振らずに突き進むそいつは己に迫る必殺を避けようともせず、私の指はしっかりと胴に食い込んだ。

 

 察するに、まずは『念魚』を囮にして、できた隙に自らも攻撃する、というのが釣り人男の基本戦法なのだろう。が、私に対しては無意味だ。奴はまだ、私の力量を見誤っているらしい。

 チョウチンアンコウと鮫の時は撃破に全集中力を要したが、それは時間的余裕がなかったためでしかない。ウナギほど鈍間であれば、意識の大部分を男の警戒に当てていても何ら問題がなかった。

 

 慎重に見極める。奴が馬鹿正直に向かってくるのであれば、手古摺っているふりをして攻撃を誘うのもいい。

 

 その余裕にカウンターを見舞ってやると、ウナギとの葛藤を装いながらひそかに息巻いた。その時、

 

「なにゃあっ!?」

 

 手の中の生温さが、にゅるんと滑る。と同時に、腕に巻き付き上り始めた。

 

 ウナギの全身から溢れる大量の粘液。子供の腕ほどの太さを持つ肉の塊が腕を這うたび、滴るほどのそれを擦り付けられる。その感覚は私に極大の生理的嫌悪をもたらし、奇声の悲鳴を吐き出させた。

 

 半ばパニックに腕をぶんぶん暴れさせ、振りほどこうとするも、締め付けは僅かも緩まない。怯んでいるうちに、素肌を舐める鳥肌は二の腕を越え、肩にまで到達した。

 

 近づけば、いよいよもってキモチワルい。エイリアンめいた頭の冒涜的キモさ。ぬたぬたに塗れる忌避感とパニックも相俟って怖気が走り、つい顔を逸らしてしまう。

 

 その怯えに、さらなる閃光が走り流れた。

 

「があぁッあッ!!」

 

 全身の神経が焼かれる。それがウナギの電撃だと気付いたのは、お腹に釣り人男の拳を受けた後だった。

 

 己の正中線に突き刺さる太腕から辛うじて眼球だけを動かし、端に認めたウナギの胴体。発光し、発熱するそれに脳からの運動指令を妨げられ、硬直する身体の隙にまんまと一撃を決められたのだ。

 

 理解し、湧き出たのは、自分への怒りだった。何度同じ過ちを繰り返すのだ、と、己の短絡による油断を責め立てる。

 

 それが呼び戻した敵意で、私は折れる上体を踏み留めた。

 

 念で『気』を足に集めつつ、同時に全身を流れる電気へ仙術を使う。

 

 電気も『念魚』も、もとを正せば男の『気』でしかない。ならば、

 

「――私の、敵じゃないってのッ!!」

 

 薄れた痺れが完全に消え去るのを待たず、私は男の正拳を蹴り上げた。

 

 直前に攻撃を悟った男が腕を引いたため、真芯からは外れたものの、その身体を弾き飛ばし、浮かせることに成功する。さらに勢いで身体を捻り、お返しに腹へ回し蹴りを食らわせた。

 

 だが残念なことに、そっちは防御されてしまったらしい。手を突き宙返りして着地した奴は、動揺の一つも見せずに言ってのけた。

 

「おぃおぃ、電撃食らってんのにどーしてそこまで動けんだよぉ。……これも仙術の仕業なんかぁ?」

 

「それ、もしかして私に聞いてる?……答えるわけないでしょ。独り言は一人で言うもんよ」

 

 吐き捨てるように返してから、私は一息を吐いて首を横に向けた。肩、電気を流し続けているウナギを見つめる。覚悟を固め、その頭にかぶりついた。

 

 途端、口の中いっぱいに粘液が湧くも、堪えて思い切り歯を立てる。同時に仙術の意識を僅かに割き、干渉してやると、ようやくその締め付けと電撃が弱まった。

 

 再度腕を振ると解け、ウナギの胴体はぬめりに滑って地面に叩きつけられる。噛み千切った頭と、しつこく口に残る粘液の後味を何度かかけて吐き出して、ゲホゲホ咳き込んだ後、息をつく。私は口元を拭い、男を睨みつけた。

 

「……あーもう、最悪。口の中すっごく気持ち悪い。あんた、なんてもの食べさせてくれるのよ」

 

「知るかよぉ。……たくぅ、そのまま喉詰めりゃあよかったんにぃ……」

 

 電撃の苛立ちに任せて踏みつけ、糸を引く粘液溜まりを残して消滅したウナギの残骸にちらりと視線を流し、男は薄く笑う。

 

 と思った次の瞬間には、とぼけた間抜け面で首を傾げ、宣っていた。

 

「そーいや、後ろのにーちゃんはなんで気絶してんだぁ?」

 

「そっ!?そんなのあんたには関係……――ッ!!」

 

 思い出してしまったチョップに身が強張った、その一瞬に、男は地を蹴り私との距離を詰めていた。

 

 薄く動揺を引きずりながら、それでも反射気味に拳を突き出した。さっきのように残像も使わず、ただまっすぐに突っ込んでくる奴に、お手本のようなカウンターを叩き込む。

 

 男が嗤った。無造作に割り込んだ奴の腕に、私のパンチが接触する。

 

 瞬間、いとも簡単に私の攻撃が逸れた。

 

 何の抵抗もなく、拳が男の腕を滑る。その境界に粘液の存在を思い出すももう遅く、懐に入り込まれた私にそれを防ぐ手段はない。

 

 前腕を粘液で濡らした奴の右フックが、そのまま私の頬に突き刺さった。

 

 殴られ、顔が横を向かされる。怯む身体に鞭を打ち、なんとか開き続けた目の前から、奴が流れるように外へ抜けていく。

 

 背後を取られる、と危機感が身体の硬直を取り払い、同時に脇の下へ伸びる奴の手を感じると、両脚で踏ん張り、肘鉄を振るった。

 

 受け止められる感触。肘から腕の骨にじぃんと抜ける痺れのような感覚は、たぶん『気』を纏わせた釣竿の硬さだろう。止まらず脇を潜った方の腕と合わせて締め上げられ、関節を決められる直前で停止する。ギリギリと、互いに譲らぬ均衡の中、変わらない男の調子が感情を刺激する。

 

「つれねぇなぁ、そんなにおいらにハグされんのが嫌かぁ?」

 

「嫌に、決まってんでしょッ!加齢臭が移るわ!」

 

「ひっでぇ。二十代はまだオッサンじゃねぇだろぉ?臭うわけねぇ。てゆーか――」

 

 身動ぎの気配。

 

「どーせねーちゃん、彼氏が心配なだけなんだろぉ?」

 

「――んのッ!!」

 

 ぬめりを信じ、力任せに腕を引いた。見事にすっぽり拘束を抜け、たたらを踏む奴に、助走皆無ながらもショルダータックルをかます。体勢を崩す二連打に、引いた足を重く踏む。奴。私はその身体を支点に半回転して、背中を後ろ蹴りして突き飛ばした。

 

 背には曹操以下四人。正面に前転で体勢を整える男と、奥のシルバと青年。何とか元の位置関係に戻し、心身の疲労を息に吐き出す。

 

 己を戒めなければならないだろう。確かに、『念魚』を主体に戦う奴に対して、私は有利に立ち回れる。だが油断などもってのほかだ。

 

 シルバの『念弾』と異なり、その場で持続的に存在する『念魚』。仙術はこれに対してほとんど無敵に近い相性の良さを誇るが、それは能力のみの話であり、使い手の技量は全くの別問題。つまるところ、私の仙術は男を圧倒できるほど卓越したものではないのだ。

 

 ネテロと比較すれば、その五分の一ほどの技量も有してはいないだろう。例えばあのウナギ、本体と粘液と電気を、それぞれ別個にして対処しなければ消滅させることができなかった。この穴は、近距離戦闘の経験の差と合わせて馬鹿にできないほど隔たりを詰めてしまっている。

 

 アドバンテージはほとんどないものと考えたほうがいい。

 

 改め、ズレた眼鏡の位置を直してから、私は再度疾駆した。

 

 同じく立ち直り、踏み出した男と、拳が交錯。続いて竿を離したもう一方の手が風を切り、アッパーが放たれる。

 

 好機に私は顎を引いた。最低限の動作で躱し、反撃覚悟で今度は自分が相手の懐に突っ込んだ。

 

 背中に肘が落ちた。さらに胸に膝が刺さるも、こちらはあまり肉体的ダメージが無い。金取るぞと言いたくなる気持ちも併せ、理由は言わずもがなである。

 ともかく攻撃を耐え抜いた私は、掴まれてしまう前にと、体当たりに加えて腕で奴の身体を押した。片足ではたまらず、傾くその恰幅。背後に置き去りにされた釣竿を、幸運にも射程に捉えた。

 

 だが直後、私は戦慄によってその進行に制動をかけ、真後ろに跳ね飛んだ。

 

「おいらにばっか夢中になってていいんかぁ?」

 

 という囁きで背後に向いた仙術のアンテナが、『念魚』の『気』を捉えたからだった。

 

 しかし、

 

(――やられたッ……!!)

 

 反転の直後、私は背が泡立つ後悔を噛みしめていた。

 

 そこに泳いでいたのは、今までの『念魚』と比べれば搾りかすのように小さな『気』しか持たない、一匹の小魚。たぶん、私と青年との間を飛翔したあれと同じ種類。リアス・グレモリーや九重にしても、到底脅威足りえない、文字通りの雑魚でしかなかった。

 

 そもそもヤバいものが背後に居れば、二人が何かしらの反応を見せていただろう。私は『念魚』への警戒を忘却していた事実に焦り、先走って反応してしまったのだ。

 

 後悔も遅く、小魚を消し飛ばして着地し、振り向くと、竿を手にした男の口には、私の様を面白がっているような嫌な笑みが浮かんでいた。

 

「全くぅ、煽りがいのあるねーちゃんだなぁ!そらぁ、もう一匹ィ!!」

 

 案の定張っていた糸が引かれ、釣り上げられる。

 

 丸みを帯びた矢じりのような頭。その下に直接生える、吸盤付きの無数の触手。

 

 イカのようなタコのような『念魚』は、姿を露にするや否や、一抱えほどもある体躯から触手のすべてを私に伸ばした。

 

「あっはぁ!【悪魔触魚(スプラットフィッシュ)】ちゃんたぁ、やっぱねーちゃん相手だとツイてんなぁ!」

 

 呑気に笑う男。また同じように、このイカタコの後から仕掛けるつもりなのだろうが、避けるわけにもいかない。壁のように隙間なく迫るそれらを、私は腰のあたりをムズムズさせながら受け止めた。

 

 腕なんて騒ぎではない。顔から足まで、誇張なく全身をまさぐられる。ウナギほどでないにしろ、ぬめった質感が至る所にへばりつき、絡みつく悪寒がゾゾゾっと血の気を下げさせる。

 

 表面積の問題か、あるいは掴みやすかったのかもしれない。ぬめぬめの肉鞭に縛られ、妙に煽情的な強調をされた己の胸。多少なりとも血の気を回復させながら、私は集中のための中途半端な無心につい、感情を荒げさせていた。

 

「電気責めにローションプレイに、お次は触手で緊縛!?このド変態!!」

 

「言いがかりの濡れ衣だぁ!」

 

「うっさいッ、わよッ!」

 

 如何に私が猫又とはいえ、ここまでされれば羞恥の一つも感じるし、怒りもする。爆発するそれで頬に熱が溜まり、衝動的に腕力を振り絞った。

 

 と同時に集中が間に合い、巻き付く無数の触手が仙術によって溶け始める。伝染し、頭、いや胴体部分へ広がっていく消滅の波。だが届く直前で、イカタコの触手が、すべて根元から切り離された。

 

 途絶える拡散。消えゆく『気』の朧げなもやも空気に馴染み、短くなったゲソの奥に見える口。そこから伸びていたのは、たぶん釣り糸だった。

 

 わざと外さなかったのだろう。引かれ、イカタコの胴体が外に退く。私は当初の照準を、その向こうから現れた男に切り替えた。

 

 そしてそのまま振り下ろす。向けられた男は、馬鹿にするような笑みで腕を差し入れた。その意は理解できている。私の拳には、まだ粘液が纏わりついたままなのだ。

 

 故に、私も笑う。

 

(同じヘマ、するわけないでしょ!!)

 

 放った打ち下ろしは男の身体どころか逸らすための腕からも外れ、ずっと内側、私の身体の側に曲がった。

 

 フェイントと助走を兼ね合わせた空振りだった。思い切り振ったその勢いで前宙返り。寸前のところで地から離れた脚が、腰と胴をも連動させ、ばね仕掛けのように落とされた。

 

 渾身の踵落とし。これで決まってくれれば、と思うも、相手はそこまで弱くはない。あの態度でも奴に油断はなく、斜めに首元を狙った一撃は十時にクロスされた腕によって、いっそ見事なほど完璧に受け止められていた。

 

 『気』を纏わせた釣竿は軋みさえせず、盾としての役割を完遂している。肉体へのダメージもほとんどないだろう。片膝だけ突いた体勢で、男は少しだけ声量を増した。

 

「ちーとばっかし驚いたがぁ、ずいぶんと軽いねぇ!!」

 

 間延びしたダミ声を吐き出すや否や、男の四肢に筋肉の束が盛り上がる。と思った次の瞬間には全身が跳ねあがり、私は宙に弾き飛ばされていた。

 

 支点が踵だったせいで後ろ向きに回転しながらの浮遊。一回転半で体勢を取り戻し、上空から下を見やる。

 

 男が、その顔にニヤニヤ笑いの表情を張り付け、私を見ていた。

 

 左手にはピンクのアレが握られている。それもゴルフボールなんかではなく、ソフトボールほどの大きさ。

 

 私に眼を向けたまま、奴はそれを、リアス・グレモリーたちの方へ振りかぶっていた。

 

 あんな大玉が命中し、炸裂すれば、白音にかかった飛沫など比較にならないほどの誘引力を引き起こすだろう。あのチョウチンアンコウを呼ぶ気なのか。宙に打ち上げられている今現在、このままでは危惧が現実になってしまう。

 

 男は、ようやく訪れた大チャンスに笑っているのだ。実際私にも、自身が致命的な隙を晒していることはわかっている。だがそれも、己が意図した結果であるなら、危ない橋を渡っている、くらいには焦燥を希釈できる。

 

 賭けだった。それだけのリスクを背負ってでも、試す価値がある。成功すれば、チョウチンアンコウは疎か奴自身をも無力化できる可能性があるからだ。

 

 その証拠に、私の左手。背に隠したそこに作り出した『気』の光弾が隠しきれないほどの大きさに高まった時、奴の笑みは驚きの滲んだ渋面に変わっていた。

 

 私の策略を悟った奴。構えたソフトボールが投球に入るよりも早く、バスケットボールにまで成長した私の『念弾』は放たれた。

 

 宙に空いた距離は二、三メートルばかり。投球の直前で無理に踏み止まった奴。避けようもない。

 

 狙い違わず、『念弾』は奴の右手からバシと良い音を引き出し、叩き落とした。

 

 再度、釣竿が奴の手中を離れる。くるくる独楽のように回ってから、釣り糸で繋がったイカタコをアンカーにビタリと停止。これならどうやっても外さない。そして奴は間に合わない。今のあれは、炭素繊維でできたただの棒きれでしかない。

 

(今なら――ッ!!)

 

 期待に急かされ、左手に『気』が集う。数舜前のような溜めもなく、できたのは半分にも満たない大きさだが、それで十分に足りる。

 

 発射した。まっすぐに釣竿へ飛んでいく。もはや『気』で守られてもいないそれを、へし折り、粉砕せんと空を割く。

 

 だがその進路の半ほどで、ぐしゃりと湿っぽい音がした。

 

 生臭さが爆発する。男が手の中でソフトボール大を握り潰す様子を視界に捉えるとほぼ同時、イカタコが激烈な反応を見せた。

 

 胴体のみとなり、半ば置物と化したそいつは、今までの生すら捨てたような諦念から突然蘇り、頭を膨らませて飛び出した。全身全霊の、力強く素早い射出。それは当然、糸とその元である釣竿を一緒に連れて行った。

 

 カーボンの表面だけを薄く擦り、私の『念弾』は空を割いて消えた。イカタコはピンクを握り潰した左手にむしゃぶりつくようにとりつき、運ばれた釣竿は男の手に収まる。収まってしまった。

 

「また……もう……ッ!!」

 

 吐き出さずにはいられない。右腕を除いた両手足で着地し、前に据えた男を睨む。

 

 いいところまでは行けるのに、最後の一歩が届かない。それはつまり、奴もその危うさを十分に理解し、心の隅にでも置いていたためか。舌打ちまでしかねない苛立ちに唸る私に、奴はどこかつまらなさそうに首を鳴らした。

 

「あー痛ってぇ。何かと思ったらぁ、ただの『念弾』かよぉ。ねーちゃん『放出系』かぁ?どーりでなぁ、体術からっきしのくせしてぇ、やけに馬鹿正直に殴り合いしてくるから変だと思ったよぉ。初見の隠し玉でぇ、一気においらの釣竿ぶっ壊しちまおうって魂胆だったわけだぁ」

 

 ため息を吐くように言いながら、男はイカタコに食われた手をごそごそと動かす。びちち、と奥まった微音がすると、イカタコの胴体が鮮烈な紅から白に変わり、さらにもう一度、びち、と鳴ると、僅かに残った短い脚からも色彩が消え、泥のように力なく地面に落ちた。

 

 死体となり果て消えゆくイカタコを横目に、解放された腕の調子を確かめるように回し、奴はいかにも呑気に呟く。

 

「まぁ、あんだけやってりゃぁ、気付くよなぁ」

 

「……あんたのその釣竿が、『念魚』具現化の肝だってことが?」

 

 もはや誤魔化す理由もあるまい。身体を持ち上げながら答えてやると、男は表情を笑みに戻した。

 

 件の釣竿を肩に担ぎ、笑みの向こうで窺うような眼を向けてくる奴。私は戒めを以てしてなんとか苛立ちを呑みこむと、続いてほとんど確信に近い推察を口にした。

 

「大体、普通じゃありえないのよね。見た分だけでも七種類、ピンクのマーキングと釣り上げる能力を含めれば、九種類もの『発』。どうせまだ別の『念魚』も持ってるんでしょ?そんな量の能力、普通は作れない。『発』の容量不足に陥るはずだわ。

 にもかかわらず、あんたの能力は成立している。普通の『発』じゃ、それだけの能力は得られない。ということは――」

 

「そーさぁ、『制約』と『誓約』さぁ」

 

 男は私の声を遮り、おかしそうに笑った。

 

「定めたルールを守ってりゃぁ、その覚悟の分だけ念は強く働く。リスクをばねに、ってやつだなぁ」

 

 釣竿を掲げ、硬く握りしめたままゆらゆら振られた。馬鹿にされているような心地で自制心もを悶えさせる私を尻目に、奴は続ける。

 

「おいらの場合、ルールはこいつ、【太公望の漁場(フィッシュスカウト)】ちゅーんだぁ。こいつで釣り上げねぇとぉ、おいらは『念魚』ちゃんを具現化できねぇ。ついでに言えばぁ、自在に操ることもできねぇしぃ、どんな子を釣るかっちゅー選択もできねぇんだよぉ。まぁこっちはちーとコツもあるしぃ、醍醐味っちゃぁ醍醐味なんだがぁ……。だからよぉ、ねーちゃんの竿狙いは割とおいらの急所なんだよぉ。こいつが壊れちまったらぁ、おいらはなんもできねぇ。……あぁ、男なら竿は誰でも急所かぁ!」

 

「……お望みなら、今度はそっちをタマごとぶち抜いてあげるわよ」

 

「うっへぇ、こえーこえー。ねーちゃんにゃぁわからんだろうけどなぁ、あれ、かなーり痛ぇんだぞぉ?フェイの拷問と同じくらいにゃぁ辛ぇ。今んとこはだけどぉ」

 

 ついつい漏れた低い声に、男がおどけて返す。この期に及んでよくもそんな調子を出せるものだ、と心の中で罵り、冷却して平静を保とうと試みる。

 

 また同じような手管なのだ。私を煽り、冷静を剥ぐための言葉。

 

 二度は、いや三度はないという強い思いが、意地と決心に固く固定されていた。

 だから気付けた。猛烈な勢いで近づいてくる『気』の気配。

 

 けれど動けない。ただ、全身を巡る戦慄の冷や汗に必死の思いで思考を回しながら、私は男の邪悪なしたり顔と、その左手をつつく数匹の小魚を凝視していた。

 

「まぁ、そーいうわけでねーちゃんの言う通りぃ、おいらの能力は竿がなけりゃぁ全く機能しねーしぃ、具現化にも時間がかかるんよぉ。だからなぁ、こーいう大仕事んときゃぁ仕込みが欠かせねぇんだぁ。念のための撹乱用だけどぉ、察するにねーちゃんとは相性いーんじゃねぇかぁ?なぁ」

 

 有効な策を思いつかないまま、怖々と背後を振り向く。

 

 曹操の危惧。『もしも具現化したものが残っていたら』。ソフトボールほどもあるマーキングを握り潰したことによって、それらが一気に引き寄せられたのだ。

 

 倉庫街の暗がりから、その濁流の如き勢いが、薄い蛍光の下に明らかとなる。それは、もう数えることすら億劫になるくらい大量の、小魚の群れだった。

 

 確かに、一匹一匹は大したことがない。だがそれが百匹では?千匹では?万匹では?

 

 そして肝心要、私はそれに触れなければ『念魚』を消滅させることができない。あの大軍を一度に消せるほど、大きな手足を持っていない。

 

 『ウタ』では、この状況に抗しえない。白音も、守れない。

 

「さぁ、どーする?」

 

 男が走り出す。魚群との挟み撃ち。

 

 結局――

 

 唇を噛み、私は平穏と願いを諦めた。その瞬間。

 

 その諦念を打ち壊すかのように、コンクリートの地面が禍々しい『気』に瞬いた。




オリジナル念能力

太公望の漁場(フィッシュスカウト)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・釣竿で釣り上げることで念魚を具現化する能力。何種類もの念魚を具現化するためサンペーが己に課した制約と誓約。
サンペーはこの能力でなければ念魚を具現化できず、念魚を操作することもできず、“釣り上げる”という前提のためその種類も数も選べない。ただし釣りのテクニックと念魚の習性を理解することでサンペーはある程度釣り分けることが可能。
・これらの制約をサンペーはむしろ醍醐味として受け入れている。

【エサ玉(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・念魚を誘引する生臭いにおいを撒き散らす能力。
ピンク色のボールであり、破裂すると発動する。大きさは可変。大きければ大きいほど効果の範囲は広くなる。

箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・ボックスカーサイズのチョウチンアンコウのような念魚。地中を泳ぐことができ、ウボォーギンの攻撃でも破壊されないほど頑丈。
疑似餌を用いて対象を催眠状態にし、呑み込み捕らえる。疑似餌は一度呑み込んだ者の姿をコピーすることができるが戦闘には使えず、会話もできないただの人形。
・現実のチョウチンアンコウのチョウチン部分は誘因突起と呼ばれるメスしかもたない器官であり、つまりこの念魚は女の子。女の子が女の子を丸呑みしている。エッチぃ。

一本気魚(ストーカーフィッシュ)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・ショッキングピンクのカツオ、あるいはカジキマグロのような念魚。動きが素早く、最初に狙いをつけた相手をずっと狙い続ける。
・地面に突き刺さったりしたが、奥義ゲージが二〇〇パーセントアップしたりはしない。

導体粘魚(フルイオンフィッシュ)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・深青色のヌタウナギのような念魚。刺激を感じると全身から粘液を放出し、手近なものに巻き付き放電する。一度絡みつかれると引きはがすのは困難。

悪魔触魚(スプラットフィッシュ)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・イカのようなタコのような、無数の触手を持つ念魚。色はその時々でランダムに変わる。今回は紅。
・触手で絡みつく以外に、吐いた墨の中を自由に泳いだりといった既視感のある能力も有するが、今回は使われることはなかった。

小魚と鮫は次回。しんどい戦闘描写は続く。
感想ください。


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十四話

何か書いて前書き埋めきゃ、と思う無意味な強迫観念。
マウス買い換えました。


「マジかよぉ」

 

 という、思わず零れたといったふうな釣り人男の呟きと同時、踏みしめる地面が大爆発した。

 

 地中から、まるで噴火でもしたかのような激しい衝撃が辺り一面を揺らし、吹き飛ばしたのだ。慣れ親しんだ『気』によって、十字路を呑み込んであまりある範囲のコンクリートが持ち上がり、爆ぜ、撒き散らされる。足元から噴出する威力と土砂に否応なく巻き込まれ、私たちの身体も一緒に宙を舞った。

 

 コンクリートの破片と建物の瓦礫、そして先行した土砂が上昇の頂点から折り返し、私たちを中心に花冠のように広がっていく。

 

 周囲を丸く覆い、伸びていく円柱の下。降り注ぐ土砂に埋もれていく小魚の群れを意識の端で認めると、次に私は向けられている殺気の存在を察知した。ちょうどよく空いた『意識の端』を割り当てて見てやれば、その正体は、私たちと同様に打ち上げられた釣り人の男。

 

 奴はこの事態でさえ、僅かたりとも竦んではいなかった。その不動の精神力と集中力を以てして、むしろ本気度の増した敵愾心を私に叩きつけている。小魚と挟み撃ちする策も崩れ、さらにはあの『気』を感じたにもかかわらず、爆発の勢いをも利用して私に迫ってくる奴の姿が暗闇の中にあった。

 一方私はその敵意に構えもしない。このまま殴られたら死んじゃうなぁ、と、他人事の気分でぼんやり思うのみだ。

 

 何故かといえばそれはもちろん、意識の大半を視線の先、真下の彼女に向けていたためであり、その姿を眼にしたが故の安堵と歓喜を心の底から噛みしめていたからに違いない。

 

 つまりは、大地の爆発そのもの。地表が剥がれ、黄土色が露出した歪なクレーターの中心に、ぽっかりと口を開ける深い縦穴。

 

 周囲を覆う大量の土砂の、その噴出口より舞い戻ったピトーの無事を、己が眼で見たためであったのだ。

 

 そんなピトーの双眸が私を捉え、次いで男に向いた。

 

 ピトーの殺意が、男を貫いた。

 

「ちィッ!!」

 

 途端、男の敵愾心に明らかな憤懣が表れる。身を捻って背後を向くのと、跳んだピトーがその少し上に到達したのはほぼ同時だった。目を凝らさずとも目視できるほどおどろおどろしい気配と密度の『気』が、次の瞬間、奴に振り下ろされた。

 

 パキン、と乾いた音がして、めきゃ、と湿気た音が鼓膜を触る。男の背の陰から外れ、飛び散った黒の破片に、付着した赤色が見えた。ピトーの拳が、奴の釣竿とその下の腕を粉砕したのだ。

 

 炸裂した、上から叩きつけるような一撃。ピトーの膂力と『気』によって生み出された威力はすさまじく、振り抜かれるとそこまでのあらゆる慣性が突き破られ、男の身体は滝に呑まれた木の葉の如く真っ逆さまに墜落して、あっというまに縦穴の暗闇に消えた。一拍の後に、耳の奥で残響する噴火の爆音に紛れて、鉄がこすれ合うような不快音が響く。

 

 突然の、噴火のような爆発。もといピトーの『気』が地中から地表までをぶち抜いた結果の一連は、それによる上昇感が消える前に決着した。

 

 男の末路にざまあみろと、平時であれば嗤っていただろうが、今は到底憂さ晴らしの余裕がない。腑抜けた充足感と安心感で頭の大半を満杯にする私は、その対象であるピトーの赤褐色の瞳を見つめ、中にある私と同色の思いに感じ入っていた。

 

 安堵と歓喜と、それから心配。

 

 目にしてしまえば、その他一切など意識に入るわけもない。

 

「ウタッ!!」

 

 殺気を霧散させたピトーの両腕が私の肩に取り付き、次いで頬を包んだ。

 

 間近で見る彼女の顔は汗と土で汚れていた。恐る恐るに私の挫傷を撫ぜ、まるで自分のことのように苦しげな顔をする。その様子に、私はたまらなくなって、彼女の胸元に顔をうずめた。

 

「……ごめんね、クロカ。遅くなっちゃった」

 

 ううん、私が助けられなかったからよ。という懺悔は、喉が詰まって口を出なかった。代わりに背へ回した左腕の力を強め、きつく、きつく抱き着く。ジャケットに付いた土の青臭さの奥に、彼女の匂いを感じる。

 

 じわじわと心地よい安らぎが、眦に滲む涙から情動を抜いていった。はあ、と服の中でため息を吐くと、ザクザクに弄られた心が平穏に落ち着いていく。上昇感がゆっくり反転し、下降感が内臓を持ち上げる気持ちの悪い感覚も、まるで気にならなかった。

 

 けれどその絶対的安心感は、主観にして数秒後、ピトー自身によって引きはがされた。

 

 彼女は落下ではためく帽子を押さえながら、私ではない方を見ている。唇をとがらせる不満。緊張感を忘れて解けた私は、その視線の先と意図を理解しつつも中々その気になれなかった。彼女の少々焦り気味の目配せで、ようやくしぶしぶながらも空気抵抗に抗い、体勢を取る。そして彼女の身体を突き飛ばした。

 

 八つ当たりの冗談で、外れればいいのに、と念じたが、叶うことなく狙い通り、宙を歩いたピトーは庇護対象四人をその両手に捕らえた。

 白音に曹操に、パニックでじたばた暴れるリアス・グレモリー。九重はちゃっかり首元にしがみついている。

 

 恐らくたぶん耳の力で帽子が飛んでいくことを防いでいるのであろうその器用さへの関心を幼女への嫉妬で埋めながら、悪魔と違って飛行手段を持たない私たちは瓦礫共々、引力に従って縦穴に落ちていった。

 

 落下は数秒続いた。距離にして三十メートルほどか。減速も効かないフリーフォール。

 

 叩き落とされた男よりは随分マシだろうが、着地の瞬間、それなりの重力が全身を襲う。四人も抱えて私の三倍近い衝撃を身に受けているはずのピトーは、なんでもなさそうに底に降り立っていた。

 

 続いて降ってくる瓦礫のあれこれを避けながら、私は周囲を見回した。

 

 どうやら、地下鉄の線路上にいるらしい。ピトーのぶち抜きで配電経路も壊れたのか辺りは真っ暗だが、視線を下げれば瓦礫を逃れたレールがいくらか見えていた。建ち並ぶ柱で分かたれた逆車線も合わせて、半円チューブの空間はそれなりに広い。近くに大きな駅でもあるのだろう。

 

 地上まで抜けた天井のおかげで、辛うじて人間の夜目が利く程度の明度は残されていた。故に私は堂々とピトーの傍まで歩み寄り、その首筋にべったりとしがみつく九重を、無情に引っぺがしてやった。

 

「フェルッ!フェルぅ……ッ!うう、ウタ、フェルがぁ……」

 

 号泣して顔をぐしゃぐしゃにするという、私にはキャラと年齢的に許されない狂喜っぷりを表する彼女。耳にしたピトーは「ああ……」と呟き、白音と曹操を地面に横たえ、リアス・グレモリーはポイっと捨てると、私の腕から九重を抱き上げた。

 

「危うく忘れちゃうところだった。ねえ九重、八坂からの伝言があるんだけど――」

 

「は、ははうえの!?フェ、フェル、ははうえは、ぶじなのか!?」

 

 途端に涙を止め、しゃくりあげながらも必死に言葉を押し出す九重に、ピトーはほんのり優しげな調子で答える。

 

「うん。今頃は、どこかは知らないけど安全な所にいるはずだよ。あの『念魚』……ボクを食べたでっかい魚ね、あれ殺して脱出したら、ちょうど同じのに八坂が絡まれてて……助けたんだけどだいぶやられちゃってたから、無理矢理一人で逃げさせたんだよ。せめて九重を、って言ってたけど、どう考えても連れての転移は無理だったからさ。んで、伝言だけど――」

 

 しゃがみ、曹操の傍に下ろす。

 

「座標のマーキングしてだって。気脈を使えって言ってたけど、できる?」

 

 それはちょっと、幼子には難しいのではなかろうか。無茶ぶりに思えたのは九重も同じだったらしく、瓦礫に腰かけさせられる彼女は、何を言っているのか理解できないというふうにぽかんと口を開けて呆けた。

 

 だがすぐに引き結び、ごしごしと両目の水滴を拭った。彼女なりに母親の信頼を感じ取ったのか、正念場の決心で何とか涙を堪え、頷いてみせる。

 

 それを見届けると、私もピトーも身体ごと後ろを向いた。

 

 ようやく瓦礫と土砂の落下も治まり、騒々しさが残響に消えた土煙の中。奴は世間話でもするかのような悠揚迫らぬ調子で、その変わりのない濁声をトンネルの中に響かせた。

 

「チビに頼らざるを得ない程度には、かぁ。妖怪退治も案外やれるもんなんだなぁ」

 

「なんだ、生きてたの。やっぱり空中じゃあ中々威力出ないにゃあ。身体も乗らないし」

 

「……よく言うぜぇ。こんなにしやがったくせによぉ」

 

 もやを払い、現れた男。その右腕は、上腕の真ん中から歪に腫れ上がり、へし折れていた。

 

 平たく潰れた骨が内に突き抜け、絶え間なく血を垂れ流している。見せびらかしているつもりなのかふらふら振り、拍子に赤黒い塊がべしゃりと落ちた。

 骨と一緒に肉もすり潰されたのか。とすればもはや使い物にならないだろう。ピトーの一撃から命を守った代償に、それは気色の悪い肉の塊と化していた。

 

 それほどの惨状でも、やはり奴は悠然を失っていない。地面に転がる黒い破片を拾い上げ、吐かれたため息が漂う砂塵をかき混ぜた。

 

「いい竿だったんにぃ……ったくぅ……ちゅーかよぉ、エロいほうのねーちゃん、【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃん殺したってマジなんかぁ?一編飲み込まれたらぁ、もう力業でどーにかなる問題じゃねぇしぃ……それにぃ、たぶん十分も経ってねぇだろぉ?……もしか団長が言ってた魔法ってぇ、眼鏡のねーちゃんじゃなくてエロいねーちゃんの仕業だったんかぁ?」

 

「答えてあげてもいいけどさぁ、代わりにオマエらの仲間の女、どこにいるのか教えてくれる?」

 

「……じゃあいらねぇ。タネ明かしは結構さぁ。……地下から一発でこんな穴開けるようなバケモンにぃ、理屈教わってもしょーがねーかんなぁ」

 

 ぽっかり空いた大穴を仰ぐと、男は破片を投げ捨てる。怒気の滲んだピトーの素面に二度目のため息を吐いてから、背後の瓦礫の山に呼び掛けた。

 

「まぁ、ここいらが潮時だなぁ。……生きてっかぁ、団長」

 

「……ああ」

 

 暗い声色と一緒に、コンクリートの一枚岩が持ち上がった。どかされ、その下から現れたのはもちろん、声の主たる憎き毒ナイフの青年。『本』も毒ナイフも手にしていなかったが、それでも相当の警戒を抱きつつ、満身創痍に起き上がるその出で立ちを目にする。

 

 シルバに随分やられたのだろう。その身体には土汚れの他にも打撲痕や出血痕などが見て取れる。ボロボロだ。

 範囲的には穴の外で戦っていたはずだが、そのせいで崩落に巻き込まれたらしい。自分の功績と全く関係がないが、無様に少し溜飲が下がった。

 

 口元に嘲笑を露にしてやっているうち、難を逃れたらしい当のシルバが上空より降ってきた。私たちより少し近くで山積みの瓦礫を踏み砕いた彼に、敵二人は注意を向ける。

 

 青年は静かな敵意に眉を寄せ、男のほうは変わらず片頬を上げながら、私たちを一巡に見やる。それを受けてピトーは得意の体勢にて低く構え、害意の『気』を全身に燃やした。

 

「ボクさ、今結構虫の居所が悪いんだよね。お預けされるし、それも悪魔が原因だし」

 

 臨戦態勢の殺気に、私すらも背が跳ねる。爆発する禍々しい『気』。リアス・グレモリーの短い悲鳴に続き、暴虐の気配が背筋をゾクゾクと駆けのぼる。

 

「ウタの腕も頬も、オマエたちの仕業でしょ?……ちょっとやりすぎても、文句は言わないよね?」

 

 引き絞られた弓のように、ピトーの気配が張り詰めた。瞬間我に返り、構える。

 

 どうせ連携などしないだろうが、シルバも加えれば三対二だ。しかも私は今度こそ適正の立ち位置。片腕が使えないのはイーブンとしても、片方は既にかなりのダメージを負っており、もう片方は能力の要を失った状態。圧倒的な優位だ。

 

 戦えば、『ウタ』と『フェル』でも負けることはそうそうありえないだろう。あの時咄嗟に使った魔力パンチさえ誤魔化しきれば、何も変わらず、平穏のままですべてが丸く収まるのだ。

 

 意識に蘇った戦意に伴い、遅れて訪れた実感が、口元の嘲笑を純粋な喜びの形に変える。しかしされども油断せず、と、抜けた気を今更のように引き締めた、そのやたらに遅い対敵の決心に気付いたわけではないだろうが、男はピトーの邪気と緊張の空気感をものともせず、ニヤニヤと厭らしい笑みのまま、これ見よがしに苦笑で喉を鳴らしていた。

 

「文句なら是非とも言いたいねぇ。ねーちゃんと殺りあうとかぁ、おっかなくてたまんねぇしぃ……いやぁ、ほんとになぁ」

 

 言いながら、男は潰れたほうの右肩に手を掛けた。やはり痛むのか、揉み解すような手つき。特別おかしな動作ではない。

 

 だが、男がそれをした途端、青年のほうに動揺が走った。

 

「サンペー……」

 

 尊大の薄れた低い声色が、肩を揉む男の腕を掴んだ。

 

 思わず出てしまった手と言葉だったのだろう。青年は直後に口を噤み、顔をしかめる。中身はたぶん、一色の後悔だ。纏う『気』は、今までの達人然とした静けさからかけ離れて不安定に乱れ、その普通でない精神状態を露にしている。

 

 私だけでなくピトーとシルバも感じ取ったほど、はっきりとした変化。しかしそれはすぐに立ち直った。

 

「生かすべきは個人ではなく、旅団(クモ)

 

 男の言葉。青年の眉間に寄る皺がさらに深まり、ただでさえ光の乏しい暗がりで、表情に陰がかかる。

 

「……しゃきっとしてくれよぉ、団長。おめぇが定めたこのルール、おいらはそいつが気に入ったからぁ、今ここにいるんだぜぇ?」

 

「……わかっている」

 

 俯いたまま、青年はしばらくの間立ち尽くしていたが、やがて何かを断ち切るかのように、ふっと掴んだ腕を離した。閉じられたその口が薄く開き、呟かれた小さな声を、私たちの聴覚が辛うじて捉える。

 

「――すまなかった」

 

 男は口角を大笑の域にまで引き上げた。

 

「後は頼んだぜぇ……クロロ」

 

 それが号令代わりであったのか、表情に反して静かな声が通った瞬間、青年は突然、踵を返して走り出した。

 

 逃走。頭に置いてはいたが、寝起き同然で締まりきっていない思考回路ではその突発に追いつけず、反応が一歩遅れる。鋭い害意を保ち続けたピトーとシルバが、青年の行動とほぼ同時に足元の瓦礫を爆散させる姿を、私は放散させた視界で目にしていた。

 

 逃がすと思ってるのか、と言わんばかりに、怒りで『気』を昂らせるピトー。位置関係的にその前に出るシルバも、気配からは読み取れないが、暗殺者として静かに殺意を燃やしているだろう。

 

 そんな二人が、数瞬駆けてすぐに、たたらを踏んで足を止めた。

 

 そのころになって気を取り戻した私は、仙術を通してそれを見た。笑う男の、その溢れ出る圧。言うなれば『覚悟』が、二人の警戒心を叩き、追跡の選択を打ち砕いた。

 

 それは、ごきゃ、と、骨が外れる音と共に、

 

「そーいや、まだ名乗っちゃいなかったかぁ」

 

 按摩の指が、肩の付け根に沈んだ。

 

 白のシャツが鮮血に染まる。歯を剥き出しに笑いながら、男の左腕で『気』と力こぶが盛り上がり、右腕が伸びていく。いや、引きちぎられていく。

 

 誰も何も言えぬ中、皮膚と僅かな脂肪、筋線維に血管が順に千切れて分かれ、とうとう落ちる。男は肩から血と、伸びた繊維を垂らしながら、捥ぎ取った己の腕のその肘前を、ジャグリングの要領で投げ、掴み直した。

 

 笑顔に血と脂汗を混ぜて作られたその狂気に、私たちは竦み、動くことができなかった。

 

 そんな三人の中で、最初にフリーズから解放されたのは私だった。邪気への慣れ、それもあるが、その悪念に塗れた『気』が左腕を流れて捥がれた右腕に集い、腕だったもの(・・・・・・)に変えようとしている気配に、気付いたことが大きかった。

 

 ギラギラ光る眼で、男は『気』に輝く手の中の腕を振りかぶる。その筆舌に尽くしがたい迫力が、私の意識を絡め取る。

 

「冥土の土産に教えといてやるよぉ。フェルウタシルバ、耳の穴かっぽじってよぉーく聞きやがれぇ」

 

 赤く塗れた袖がすっぽり抜け、その下の素肌に、血濡れを逃れた黒い模様が見えた。

 

 蜘蛛の入れ墨だ。

 

 脳内で、聞き覚えのある事件と合致する。クルタ族なる少数民族を襲った盗賊団。そいつらの象徴。その名前。

 

 出る前に、男の迫力ある間延び声が轟いた。

 

「おいらはサンペー=キリツチ!『幻影旅団(げんえいりょだん)』が八番の色男さぁ!そんなおいらの最後の大勝負!しかとその目に焼き付けてぇ、仲良く『念魚』ちゃんのエサになっちまいなぁ!!」

 

「――フェル下がってッ!!」

 

 私の悪寒戦慄に間もなく、男の『気』が形を成す。捻じれて潰れ、変化した右腕だったもの。

 

 男は掲げたそれを、この上ない悪意を、地面に叩きつけた。

 

終末違漁(ビリ)

 

 短い筒のような『元腕』が爆ぜた、瞬間、既知も未知もあらゆる『念魚』が大量に、波打つ地面から溢れかえって飛び出した。

 

「「「――ッッッ!!!」」」

 

 一匹でも十分に厄介なのに、あまりにも多い。トンネルの半円を埋め尽くさんばかりの大波に、私を含めた全員が息を凍らせた。

 

 能力の発動地点に最も近かったシルバが、反転する間もなく魚群に呑み込まれた。私の悲鳴で一瞬早く動いたピトーでようやくギリギリで回避できたくらいの、圧倒的な勢いと物量の能力。

 

 しかもそれは、躱せば終わりの単なる攻撃ではない。ただの始まりの一端だ。

 

 シルバを捕らえる波から外れたでかいウツボが一匹、後ろに跳んだピトーを追って大口を開けていた。

 

 他にもいくらか『念魚』が弾き出されていたが、数多と転がる形貌(けいぼう)よりも、ピトーを喰らおうとしている鋭い歯に意識が向く。冷水のように走る恐れに慄く最中、後ろ跳びした不安定な体勢に追いつかれ、咬みつこうとしたその上下の顎を、彼女は寸前で鷲掴みに受け止めた。

 

 突進の勢いに押されながらも、ピトーはなんとかウツボを押し留める。手を離すわけにもいかず、自力での撃退は些か大変だろう。

 

 ピトーが長い間動きを封じられるのは得策でない。あるいはそれも私情だったのかもしれないが、ともかく私は一瞬回した思考にそう言い訳して、仙術を使った。周囲の『念魚』たちの位置関係を頭に入れつつ、ウツボを消し去るために前へ出る。

 

 その一歩目が出た直後、充満する奴の『気』からより濃い塊を見つけ出し、私は思い切り右へ胴を捩った。

 

 放った蹴りが、『隠』の見え辛い『気』、仙術風に言えば自然のものに近い『気』を弾いた。続いて飛んできたもう一撃には、左腕の防御が間に合う。

 

 気色悪くも肌同士が触れ、やっぱりか、と忌々しさで蹴りの足を支えに回す。

 

 男は『隠』を解きながら、同じく残った左腕で私の腕を押していた。

 

「やっぱぁ、ねーちゃんに不意打ちはどーやっても無理っぽいなぁ。自信なくすぜぇ」

 

「……釣らないと、具現化できないんじゃなかった、かしらね……ッ!」

 

 『絶』でもしてくればいいんじゃない?という、口を突きかけた煽りは苛立ちと一緒に呑み込んだ。代わりの言葉を言いながら、ささくれ立つ言葉尻に冷静を呼びかける。

 

 男は、そんな私の苦々しい顔に、満面の圧で答えた。

 

「言ったろぉ?『制約』と『誓約』だぁ。覚悟決めて代償払えばぁ、抜け道くらい作れんだぁ――っとぉ!」

 

 競り合いから突然、男は身を引いた。勢い余って前に出そうになる身体へ踏ん張りを入れる私の眼前に、入れ替わるようにしてピトーの打撃が空を切る。

 

 『些かの大変』は、どうやら一人で解決してしまったらしい。彼女はバックステップで逃げた男を視線に追うや否や、軸足一本で舵を切り、勢いそのままに一息で距離を切り詰め、攻め入った。

 

 威力でも気配でも、男を凌駕するピトーの『気』。そのまま貫けば、また男に致命傷を与えることができるであろう一撃は、しかし命中の遥か手前でぴたりと止まった。

 

 双頭の鮫だ。

 

 曰く、死ねば爆発を引き起こす『念魚』。威力も規模も不明である現状、私はともかく、下手をすれば白音たちにも爆発の威力が届きうる。何よりピトーはダメージを受けられない。

 

 偶然ではないだろう。ピトーの事情には気付いていないだろうが、周囲を巻き込む攻撃を避けていることは、たぶんすでに悟られている。計算ずくの行動であるのなら、この硬直も、狙って作られた隙。

 

 しかしわかっていても避けられない。悪魔にとっての光力くらい、どうしようもない弱点だ。

 

 そう理解できているからこそ、私の動揺は後を引かずに治まった。鮫に隠れて投げられたピンク玉がピトーに命中し、瞬時に敵意を灯した鮫が彼女に襲い掛かる様子を眼にしてもパニックを起こすまでには至らず、その集中で横合いから回り込んで突き出された男の拳を、何の問題もなく見切って躱した。『念弾』で牽制しつつ、ピトーの援護に向かうつもりでいた。

 

 そのはずだったのだが、

 

「――がッ……!?」

 

 身を翻して躱したはずのショートアッパーが、何故かボディーブローに変わって腹に突き刺さっていた。

 

 急所からは外れていたことが唯一の幸運か。痛みに耐えつつ保った意識で、私は大きく後ろに跳び退った。

 

 私を呼んでいるのだろう切迫した様子のピトーが、集まる『念魚』たちの中に取り込まれる。助けねばと思っても、ダメージはそれを許してくれない。それほどの威力。肉体的にも精神的にも怯んだ私は、続く男の追撃に全力の防御という選択を取っていた。

 

「あっははぁッ!!おいらも結構やるだろぉ?体術で言やぁ、団長よりも()えーんだぜぇ!!」

 

 重ねられた強打で急造のガードが捲れ上がる。拳を構えるその狂気的な笑顔に、私は自身の戦慄に気が付いた。

 

 こいつは、今まで手を抜いていたのか。

 

 『念魚』込みでも、完全後衛型の私が食らいつける程度の力量でしかなかったはずだ。なのにさっきの攻撃。威力も速さもタイミングも、何もかもが違っていた。全く見切れず、気付いた時にはフェイントに引っ掛かっていた。

 

 能力を使った様子はない。地力の差、としか言いようがないだろう。

 

 己の『死』が、間近に垣間見えた。

 

「――ウタ!!」

 

 鼓膜に叩きつけられた一声に押されて、私は仙術にピトーの意図を見出した。ほんの一瞬停滞した思考に続き、息を呑む間もなく反射的に頭を下げる。

 

 ちょうど側頭部があった場所を、拳ほどの瓦礫片が貫いた。左側から私の陰を越え、突如男の眼前に現れた礫。しかし男は動揺なく射線から頭をずらし避けると、引き絞った拳の『気』を膨らませた。

 

 それでも『避ける』という動作の分、時間は稼げた。私が体勢を取り戻すには足りないが、ピトーがそこに割り込むだけの間は、作り出すことが叶ったのだ。投石で開けた隙間から『念魚』を無理矢理押しのけ、這い出た彼女がそれを足場に跳躍する、それだけの時間は。

 

 不安定な足場からの攻撃も、拳本来の威力とスピードは無いにせよ、かなりのダメージを与えるだけの威力を秘めていた。男の横面に飛ぶ、ピトーの『気』の圧。礫のようには避けられない。致命の隙を晒す私への攻撃をやめ、大きく距離を取らざるを得ないはずだ。

 

 奴はそうするだろうと、私は確信していた。奴の本領は、『念魚』を利用した連携攻撃。言ってしまえば、囮を使ったチキン戦法(・・・・・)

 

 リスクを冒すような性格ではない。事実、腕を失う前の戦い方はそうだった。

 

 隠された力量を眼にしていても、そんな思い込みがまだ、私の中に存在していた。

 

「――!?」

 

 二度目の痛撃は、声すら詰まる衝撃と激痛を伴った。

 

 男はピトーの攻撃を避けなかった。顎に受け、横にのけぞり口から血を噴いているにもかかわらず、膨れた『気』を内包する拳は、殴られた勢いをも使って伸び、私の鳩尾近くにめり込んでいた。

 

 身体が浮き、数歩分押し飛ばされる。両脚が言うことを聞かず、着地で縺れて頽れた。窒息寸前の息苦しさと激痛にお腹を抱えて喘ぎ、呆然と視線を上げると、こっちを見る男の片目。

 

 その狂気の笑みの中に、私は、さっきにはなかった強い殺意を、見つけた。

 

 本気で、私を殺す気なのだ。さっきのような、日和見でなく。

 

 全身に冷や汗が浮いた。

 

「コイツ――ッ!?」

 

 憤激するピトー。地面で支え、もう一撃をと『気』を揺らがせた彼女は、しかし直後、振り絞った膂力を振るわずに身を捻った。

 

 ジャケットの脇腹をピンク色が掠めた。通過し、地面に突き刺さったのは、引き裂かれた塊を抜け出した鰹の『念魚』。傷を負いかねない攻撃は躱すしかない彼女は、突然の高速に反応して拳を引いた己の反射に、歯を噛み砕かんばかりに軋ませた。

 

 男は当然の如く、その隙に身体を前傾させた。遅れて放たれたピトーの攻撃を悠々潜り、私との距離を詰めてくる。

 

 うずくまり、身体の制御を失った現状では、回避も防御もしようがない。遮るものなく、一直線に叩きつけられる『死』のイメージ。

 

 それは逆に、私の精神を冷静にした。

 

 直截的で明瞭な邪悪故、ピトーとの暮らしで培った『慣れ』に引っ掛かった、とでも言うべきか。動揺を溶かし、思考を平常にすることに成功する。

 

 そうして取り戻した戦闘意識で、私は『念弾』を作り出した。

 

 手に、ではない。イメージのしやすさ的にも、使えればそれに越したことはないのだが、今手のひらは明後日のほうを向いている。だから『気』を灯したのは、口の中だ。

 

 手に越したことはない、ということはつまり、手でなくても『念弾』は生み出せるということ。極論、足だろうが腹だろうが脳天だろうが、『気』を纏える範囲であれば、『念』を使うことに支障はない。

 

 それにしても口の中とはさすがに品がなさすぎるような気もするが、気にしている余裕はない。攻撃のために流れる男の『気』を眼に映しつつ、私は開口と同時に『念弾』を放った。

 

 口から吐き出せるようなサイズで、且つ息を吹きかけるような発射。弾速も何もあったものではない射撃だったが、ダウンしたはずの敵が口から攻撃を吐いてくるなど、そうそう予想できるはずもない。

 

 そして突然目の前に現れた『念弾』を避けられるほど、男の反射神経は人離れしたものではなかった。

 

「お――ぶほッ!!」

 

 『念弾』は、吸い込まれるかのように男の顔面に命中した。

 

 小さな威力が頭に叩きつけられ、当然攻撃はそこで途切れる。追いついたピトーのフォローをも腕に受け、男は吹き飛ばされた。

 

 だがしかし、私の『念弾』もピトーの攻撃も、大したダメージにはなっていだろう。どちらも言わずもがな、威力不足。おまけにピトーの攻撃に至っては防御までして見せたのだ。すぐに体勢を取り戻し、また襲い掛かってくることは想像に難くない。冷静で以て巡ったその思考は、明白を帯びて確信した。

 

 また、同じような事態が繰り返されるであろうことも。

 

「……ウタ」

 

 ピトーの手を借りながら顔をしかめて立ち上がる私の苦悶を、彼女の声が追い風となって思考の冷静に押し上げる。

 

「アイツを殺すには、手が足りない。……曹操の奴、どうにか起こせない……?」

 

「……戦いながらじゃ……難しい、わ……」

 

 引きつるように痛む肺を苦労して落ち着けながら、私はそれを口にすると、一緒に明るみに出た不利を苦々しい思いで見つめた。

 

 あまりにも『念魚』の数が多く、あまりにも男の体術的技量が高い。

 

 ピトーの力を以てしても容易には切り抜けられない『念魚』たちの妨害と、私では到底敵わない近接戦闘能力を持つ男。ここから生み出されたのがこの惨状だ。

 

 釣竿で具現化するくらいのペースであれば、私は『念魚』、ピトーは男で分担して、容易く撃破できただろう。しかし数と力量、二つの想定外であっという間に瓦解した。私は『念魚』に手が出せず、ピトーは男に手が出せない。悪循環だ。抜け出すにはどちらかが『想定外』を破るしかない。

 

 私が男を打倒するのは、無念極まることだがたぶんもう不可能だ。フェイントにも気付けないあれをどう攻略すればいいのか、見当もつかないし、何よりお腹への一撃がかなりのダメージを残している。目が追い付いても、そのころには殴り殺されているだろう。

 

 さりとてピトーのほうも現実的ではない。彼女ではどうやったって倒すことができない、鮫という大きな障害もさることながら、大変なのはその数だ。大半はシルバへ引き寄せられているが、はぐれ者もまた多い。今ピトーに敵意を向けている『念魚』だけでも相当数だ。加えて奴の『覚悟』の影響か、気が立っているように見える『念魚』たち。近くにいるだけで襲われかねないような状態だが、奴は気にしたふうもなく、お構いなしに動き回っていた。察するに、『念魚』を引き寄せる能力の反対、遠ざける能力か何かを持っているのだろう。切り替えて扱えるのだとすれば、自由自在とまでは行かずともかなりの精度で『念魚』たちを操ることができるはずだ。奴の能力の穴を突くことも、限りなく難しい。私の貧相な力と発想では、何の足掛かりにもなれはしない。

 

 だからもう曹操に頼るしかない。ピトーに言われるまでもなく、わかっていた。

 

 あいつの使った黒い炎。多数を相手取れるあの能力が、現状、数の『想定外』を突破し得る唯一の手段。

 

 攻撃力はともかく、防御性能の高さは既に証明されている。撃破ないし、男への直接攻撃ができればなお良いが、そうでなくてもシルバに使ったあの時のように『念魚』を隔離できるというだけで、十分すぎるほど有用だ。背後に庇う白音たちを気にする必要もなくなるし、今度こそ真に二対一を作り出すことができる。崩してさえしまえば、もうあの男は大した脅威ではない。不利の中でも、それだけは確かなのだ。

 

 未だに意識を飛ばしている曹操を叩き起こせば、それは実現するだろう。だが――

 

「――させるとぉ、思うかぁ?」

 

 と、俯き加減に笑った男が瞬間左手を閃かせ、複数のピンク玉を投げ放った。頼りなく揺れる身体に鞭を打ち、前に出る私。しかし仙術が効果を及ぼす一歩手前、そのピンク玉たちの一つが他を巻き込み、突如として破裂した。

 

 鰹の『念魚』だった。角の先端でピンク玉を突き破り、臭いの粒子を纏って瞬く間に飛来する。その切っ先は狙うピトーに掠りもせず、本体も彼女の手に握りつぶされて消滅したが、マーキングの効力は押し付けられたまま健在だ。

 

 皮切りに襲い来る『念魚』の大群。ピトーではもちろん、傍にいた私でも対処しきれないほどの数。『念魚』だけに集中すれば、もしかすれば活路を開くこともできるかもしれないが、男が私を狙っている以上、生き残るためには防御を固めないわけにいかない。

 

 この、手に余るほどの物量攻撃が続く限り、曹操を目覚めさせることは、不可能に近いほど難しいのだ。

 

 曹操の気絶の要因は、主に神器(セイクリッド・ギア)を使用したことによる疲労。つまり『気』の過度な消耗だ。私の、極々軽い、羽で撫でるようなチョップ一つが失神のきっかけになってしまうくらい、体力気力がすっからかんの状態。この戦闘中、自然に目を覚ますことはまずありえないだろう。

 

 だからこそ、曹操による攻略法を実現するためには治療の必要がある。そしてそれ故に『不可能に近い』だ。

 

 施術方法自体の難易度は、さして高くない。空になった『器』に、仙術で『気』を分けてやればいいだけだ。自身の『気』の質と流れを操る技は、『四大行』で言うところの『纏』。基礎中の基礎に相当する。

 

 だが時間がかかるのだ。注ぎ口たる『精孔』に、一度に詰め込める『気』の量は限られているし、そもそも基本的に噴き出す方面への一方通行の孔だ。そこに復活に足るだけの『気』を送ろうとしたら、短く見積もっても十秒は奴の身体に触れている必要がある。襲われている最中では、到底それだけの時間を作り出せない。『念魚』か男の妨害が私を殺すことは、想像するまでもない。

 

 結局それで行き詰まるのだ。私が自由に動くために、まず私が自由に動けるようにならねばならない、という、つまらない冗談のような『詰み』の状態。私では、何をしようがこの膠着を破れない。

 

 そう、私では。

 

「――ッ」

 

 ちらりと、背後に眼を向ける。粘液と格闘し、ようやく滅することに成功したウナギの残滓を通して見えるのは、我が愛すべき妹、白音の姿。

 

 あの子なら、と思う。

 

 曹操と同様、『気』不足に陥っている彼女。推察するに原因はこの地の気脈によって『精孔』が中途半端に開いたためだと思われるが、どちらにせよ、見つけた時には体内の『気』を吐き出しきってしまっていた彼女は、その時から今に至るまでずっと『絶』状態にあった。経過時間と猫魈としての体質的にも、目覚めるのは曹操よりもずっと早いはず……いや、姉妹として私と同じ程度の才があるなら、もういつ目覚めてもおかしくないくらい回復しているだろう。曹操ではなく白音を起こすようリアス・グレモリーに言えば、それであの子は起きるはずだ。

 

 曹操の治療は仙術さえ使えれば大して難しくもなく、あの子には仙術の資質がある。私にできずとも白音ならば、このどうしようもないどん詰まりを、解消することができるのだ。

 

(でも――)

 

 そんな、確実(・・)にこの上なく近い方法を思いついていても尚、私の頭はそれから目を逸らし、別の手段を模索し続けていた。

 

 認めてしまえば、それはあの時の繰り返しになるのではないか。そう思えたからだ。

 

 今でも鮮明に思い出せる。白音のあの、怯え切った拒絶の表情。

 

 私のせいで、あの子はたぶん、仙術を恐れ嫌っている。私があの子の前で虐殺を繰り広げたことは、忘却したい悪夢でしかないだろう。リアス・グレモリーが『念』や仙術の知識は疎か、『気』のことさえ碌に知らなかったことがその証拠。無菌室のように、仙術に関しての一切を周囲から遮断していたに違いない。

 

 だから、仙術を強要せねばならない方法は気が進まない。

 

 それしか方法がないとなれば、あの子がどれだけ嫌がろうが使ってもらうほかない。意思を無視して強制するという行いはつまり、私が最も忌避する元バカマスターと同じ所業なのではないだろうか。あの子の心の傷をこじ開け、侵し、ただの道具のように扱うということは、あの子の心を再び殺すことと同義ではないだろうか。

 

 そうしてしまえば、私はまた、白音を見捨ててしまうことになるのではないだろうか。

 

 もう持っていてもしょうがない、『黒歌』の良心が、邪魔な自己中心的未練が、頭と心にしつこくこびりついていた。

 

 ピトーと私が生きるためには、消さねばならない。私もそう願っている。だが消えない。どれだけ必死に擦っても、消えない。奥深くまで染み込んで、絡まってしまっているようだ。これではどれだけ洗おうが落ちるわけがない。

 

 もう、いっそ――

 

 削ぎ落してしまうしか――

 

「ウタ!!避けろッ!!」

 

「は……ッくぅ!!」

 

 物思いに埋没しつつあった意識が一瞬で浮上し、回避とはいかないまでも迫るそれを叩き落とした。

 

 地面に這うレールに着弾し、不快音で圧し折る。ピトーの声があるまで気付けなかったのは、それが『念弾』だったからだ。射線上に見知らぬ『念魚』。開いた口から砲身らしき筒が覗いていた。

 遠距離攻撃タイプだろう。今のところ、小魚の群れに次いで相性が悪いと思われる。

 

 しかしまあ、防げる分、脅威度は遥かに下。初見故に反応できなかったが、わかってしまえばもうこんな失態は冒さない。次はもっとうまく対処できる。と、胸中に湧く動揺をなだめた。

 

 だが次など訪れない。一瞬の後、私はそれに気付いた。

 

 男の拳が放つ拳圧と『気』の威力が、『念弾』の逆側から振るわれる気配。

 

(しまっ――)

 

 ピトーが言ったのはこれのことか、と己の潜考を悔いるも遅く、避けようもなく唸った攻撃は、重く私の顔面を打ち抜いた。

 

「―――」

 

 世界が揺れる。眼前の光景が砕け、度なしの眼鏡が飛んでいく。レンズの破片に、血の筋を噴く自分の顔が反射していた。

 

 意志力のみの踏ん張りで、倒れこむことだけはなんとか回避した。ふらふらと定まらない平衡感覚に歯を食いしばり、来るであろう追撃に身構える。が、見切ることも叶わない猛撃は、いつまで経っても襲ってこなかった。

 

 力も頭もすべてを費やして固めた防御から、その不可解に引き寄せられた警戒が外を覗く。それが認めた状況は、思考もおぼつかない揺れた脳でも悟れてしまうほど、明らかなものだった。

 

 土砂の下に埋もれたはずの小魚の群れが、すぐ近くまで迫っていた。

 

 遅れて回復した嗅覚からは、攻撃された顎あたりを中心に強烈な生臭さが漂っている。消そうがもう間に合わず、ふらつく身体であろうは回避もできず、防御力的にも体力的にも耐えることはできない。

 

 ――ならば

 

 回避も防御も妨害も叶わないのなら、迎え撃つ以外に選択肢はない。

 

 本能的に理解した私の手が、迫りくる『群れ』の前に、導かれるようにしてかざされる。続いて纏う防御分の『気』が集合し、掌に輝きを編んでいく無意識の意思を、私は目撃した。

 

 シルバが使ったものよりも大きく、激しく荒れ狂う『気』。

 私の身体を覆い隠すほどの『念弾』と、直後、『群れ』が激突した。

 

 雨のように降り注ぐ衝撃で、ただでさえ頼りない両脚の踏ん張りが揺らぎ、数歩分後退する。がくんと揺れた頭と左腕で危うい均衡が乱れ、手元を離れそうになる『念弾』の盾。身体を預かる本能が盛大に打ち鳴らした警鐘で、私はようやく、理性と思考能力を取り戻した。

 

 慌てて身体に力を入れなおし、盾の射出を押し留める。自身がひとりでに捻り出した対応策。私は、さすがにこれほどの危機なら魔力を使うべきではないのかと、内心で無意識の判断に驚愕しつつ、しかし案外とうまく機能していることに、自画自賛のような境地を味わっていた。

 

 『念弾』の盾に自らぶつかり、倒されていく小魚の『念魚』。その度私の『念弾』の威力も削がれているはずであり、『群れ』の物量からすれば数秒とかからずにどこかしらが突破されるだろう、という予想が目撃の瞬間に抱いた感想だった。のだが、反してこの盾はデッドラインの数秒を過ぎても尚、一匹どころか残骸の一かけらも逃さずに、次々突撃してくる『念魚』を消し飛ばし続けている。

 

 まるで仙術で消したかのように、跡形もなく空気に溶けていくのだ。いっそ、『念弾』が小魚たちの弱点であったのかと、思わずにはいられないくらいきれいに、一切の痕跡を残さず、自然の『気』の中に紛れて見えなくなってしまう。

 

 ――いや、待て。

 

 なぜ『念弾』で仙術のように倒せているのだ。『念』では人の『気』を自然の『気』に分解することなど、できはしないはずなのに。

 

 ――私は今、どっちを使っているのだろうか?

 

 判別がつかない。

 

 無意識が生み出した、思っても見なかった現象。忌避どころか歓喜してしかるべき取っ掛かりだったが、つい数舜前まで途切れていた思考回路になだれ込んだ疑問思索の数々は、少々許容量を超えた勢いとなって精神を席捲してしまった。

 

 それは、手の中の不安定な奇跡的現象を崩すのに十分な動揺だった。

 

 戦慄が走った。

 

 美しいマーブル模様を描いていた『力』が整然から外れ、解けて消えていく様を眼にした瞬間、

 

「――伏せてッ!!」

 

 盾が霧散し、私は『念魚』の濁流に呑み込まれた。




オリジナル念能力

終末違漁(ビリ)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・自身の肉を元に念魚を具現化する爆弾を作り出す能力。
元にした肉の量が多いほど多くの念魚を具現化できる。サンペーは本来太公望の漁場を使わなければ念魚を具現化できないが、この能力はその制限を無視する能力。故に反動としてこの能力で具現化した念魚は今後二度と具現化できなくなる。
・ちなみに現実世界でいう『ビリ』とは電気ショック漁法のこと。今回の能力は爆破漁法に近い。どちらも原則禁止されている漁法なので、よい子のみんなはマネしちゃダメ。

【念魚避け(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・エサ玉の能力とは逆に念魚を寄せ付けないための能力。
他人に贈与することもできる。具現化されたものの造形は不明(考えてないとも言う)

双頭爆発鮫(ファンタスティックシャーク)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・一つの胴体に二つの頭を持つサメのような念魚。倒されると爆発し、頭が分かれて二匹のサメとなり再び敵に襲い掛かる。時間経過で分かれたサメも双頭となり新たな双頭爆発鮫となる。
・チェーンソーが弱点。

【小魚の念魚(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・イワシのような小さな念魚。特殊な能力はないが一度に大量に具現化することが可能であり、群れを成せば脅威度は跳ね上がる。
・【群体弱魚(ショウタイフィッシュ)】という一応の名前がある。

【大きなウツボのような念魚(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・ウツボのような念魚。特殊な能力はないが、大きく狂暴。咬合力が高く咬みつかれると危険。
・【暴虐頭魚(ギャングフィッシュ)】という一応の名前がある。

【念弾を放った念魚(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・大きなテッポウウオのような念魚。口の中に砲があり、放つ念弾はそれほど威力はないが狙いが正確。
・【砲雷撃魚(スナイプフィッシュ)】という一応の名前がある。

最近自分の書いているものが面白いのかわからない病を患ったので感想ください。


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十五話

八割書き終えたところでほぼ全分の書き直しが発生して心折れかけてました。
危なかった。


 優しくて、どこか懐かしい気配が、闇底から私の意識を押し上げた。

 

 夢現が流れ、身を撫でる暖かな風に浸る。姉さまと一緒にいる時のような懐かしさが、頼りなく揺蕩う身体にじんわりと染み込み、和らいでいく。

 

 長らく味わうことのなかった安らぎに、私はすべてを委ねて沈んでいた。

 

 波風もたたない奥底の、穏やかな気分が心地いい。悪魔たちの悪意ある目も、腫物のように扱われる煩わしさも、心を揺るがすものは何もない。ただ、私の求めた平穏だけがそこにあった。

 

 ――ずっと、このままでいたい。

 

 私は、独りだ。

 

 こんな安らぎは、もうここにしか残っていない。草の一本も生えない荒野を一人で歩き続けるような、そんな今までがあっただけに、余計にこの感覚が得難いものであるように思えた。

 

 それこそ、これを失うくらいなら死んだほうがマシだと、そう思えるほどに。

 

 現実は、辛いことでいっぱいだ。

 

 もう二度と得られない、家族の温もり。夢幻だろうが、焼けつくような渇望もたらす、この想い。だから醒めてほしくなかった。この暖かさと思い出に、いつまでも浸っていたかった。

 

 必死に縋りつき、浮上しようとする意識を堰き止めていた。

 

 だが次の瞬間、冷水が身を刺した。身体を包んでいた暖かな気配が掻き消され、代わりに冷たい悪寒が纏わりつく。

 境に張られた封は砕け、意識が夢裡から顔を出す。故にその半ば、全身に吹き荒んだ冷気が通り過ぎた直後に、私はおでこに響いた衝撃を、痛覚として感じ取った。

 

 途端、私の中の何かが、鍵の外れた扉を開き、外に流れ出る。

 

 そんな感覚が痛覚を越して意識に響き、脳味噌へ冷たい衝撃を浴びせかけた。

 

 それで一遍に夢が弾けた。ヒリヒリ痛むおでこが瞼を持ち上げ、ぼんやりぼやける視覚を取り戻す。

 仰向けになっているのであろう平衡感覚や、上に誰かが覆いかぶさっているような感触と圧迫感。嗅覚聴覚共々、覚醒途中ではっきりとしないが、身体は着々と息を吹き返しつつあった。

 

 けれどそれらは無意識の中で認めたことで、意識に上ってくることはなかった。

 

 すでに頭の中を占拠されていたからだ。

 

 開いた眼に、真っ先に映ったその姿。

 

 片膝を突き、弱々しく肩を上下させながら、ゆっくりと私に振り向く。その、どこか焦点の定まらない視線に、私の注意は縫い付けられ、知らずのうちに呟いていた。

 

「……ねえ……さま……?」

 

 と。

 

「――っぁ……」

 

 弾かれるように開いた口から、手前で引っ掛かったような声が漏れた。

 

 彼女と私の視線が繋がる。驚愕と混乱の眼が、私を捉えて奥に染み込む。

 

 次の瞬間、怯えに変わって逸らされた。

 

 胸のあたりがずきんと痛んだ。

 

(どうして、そんな顔をするの……?)

 

 目はちゃんと開いているのに、まだ夢の中にいるような心地がした。思考がふわふわと定まらず、『何故』も『何』も理解できない。故に、胸の疼きの衝動のまま、遠ざかる何かを捕まえようと圧迫感の中で身動ぎをしたことにも、私の意識が気付くことはなかった。

 

 すぐそばで高まった歓喜の感情が、地面に押し付けられた私の身体を持ち上げる。その感覚にも気付かないくらい、一点に集まった注目は強固だった。たぶんこのまま頬を(はた)かれても、私が我に返ることはなかっただろう。

 

 だがさすがに、視界を何か柔らかいもので閉ざされれば、その限りではなかった。

 

「ッ!白音!目が覚めたのね!ああ、よかった……このままずっと起きなかったら、私、どうしようって……よかった……本当によかった……っ!」

 

 というリアスさまの涙声と、頭に回された腕の感触が、視界いっぱいのダークグレーに押し付けられる私の脳味噌に飛び込んだ。横抱きに抱き上げられ、胸に押し抱くような抱擁を受けているのだと気付く。

 

 息苦しく感じるほどだった。明らかに力加減を見失った抱擁に、図らずも意識が冴える。錯乱気味のリアスさまにも引っ張られ、私は半ばパニックになりながら、拘束を逃れた片腕でリアスさまの身体を突っ張り、胸に向かってもごもごと抗議した。

 

 すると、ふと締め付けが緩んだ。すかさず胸の谷間から脱出し、ぷはぁとまとめて息をする。どうやら私のささやかな抵抗は、無理矢理押しのけはできずとも、その訴えを伝えることに成功したらしい。

 

 私は、解放に喜び勇んで振り返った。

 

 思考も視界も、さっきよりずっとはっきりしていた。だからもちろん、自分の口が紡いだ単語の意味も、音も、憶えている。全く違和感もなく、ごく自然に、私の唇はその形を作って、鳴らしていた。

 

 けれど――

 

 改めて彼女を眼にした瞬間、私はそれが夢裡の残滓であったことを、理解せざるを得なかった。

 

 なぜ私は、この人を姉さまと呼んだのだろう。

 

「う、ウタ……ッ!白音が、白音が目を覚ましたの!……無事だったのよ!ありがとう、ウタ……!ありがとう……」

 

 見知らぬその人は、どこか無機質な眼で、リアスさまに返した。

 

「……仕事、だもの。お礼を言われる筋合いはないわ。それに……安心するには、まだ早いわよ。四人で固まって、おとなしくしてなさい」

 

 錯乱を引きずったリアスさまが頭を下げ、涙を零す。彼女、ウタというらしいその人は、荒い呼吸を繰り返しながら、無感情に言い捨てた。

 

 何かの先生みたいに冷たい雰囲気が、横顔さえもを後姿に消した。

 

 確かに、似てはいた。

 

 暗闇の中で光跡を引く、見覚えのある気がしてならない黄金色の瞳。片膝立ちから立ち上がり、向けた背に流れる艶やかな黒髪。腰を上げた拍子に零れ出る、いっそ腹立たしいくらいの胸。

 

 どれもこれも、黒歌姉さまに似ている。しかし、やはり違うのだとわかる。

 

 厳然とした雰囲気が、姉さまとは似ても似つかない。記憶の中の姉さまと、目の前のこの人が、間違いなく一致しない。これでもかというほど、ウタさまは姉さまではない。

 

(そんなの……当たり前だ)

 

 姉さまは、もうこの世にいないのだ。

 

 二度と会うことは叶わない。そんなことは、わかっている。何度も何度も何度も、言い聞かせられずとも、きちんと理解できている。

 

 いくら思い込もうが、覚めたら苦しくなるだけだと、そんなことは夢現だろうが理解できる。わかりきったことだ。そのはずなのに――

 

 ズバン

 

 不意に空気が、何かを叩きつけられたかのように震えた。吹き付ける風圧と妙な悪寒に思わず目を瞑ってしまい、一拍の後開く。

 

 眼前に、魚の頭が突き付けられていた。

 

 ウタさまだった。背を向けていたはずが、いつの間にか私の近くで腰を落とし構えていて、左腕を私に突き付けている。目の前の魚は、彼女が鷲掴みにしているものだった。

 

 その色は、目に痛いほど鮮やかなピンク色。いかにも普通でない見た目と覚えのある気配に加え、周囲に飛び散る、別の小魚のものであろう白い肉片をも発見すれば、それは明らかな不自然として私の認識に詰め込まれた。

 

 その両方の魚が、次の瞬間、謎の湯気のようなもや(・・・・・・・・・・)と化して溶けるように消える様すらを目にしてしまえば、理解が渋滞を起こすのも当然だ。

 

 正体から原因まで、現状がさっぱりわからなかった。だが辛うじて、その魚たちから感じる悪寒のような嫌な気配から、守られたのだということだけはわかっていた。失神の前、目の前を泳いだあの白い魚。あれと同じ存在であるなら、敵であることは間違いない。

 

 だからたぶん、途端にリアスさまが小さな悲鳴を洩らしたのも、そんな固定観念のような恐怖があったからなのだろう。

 

 見え、感じるのは、ウタさまが纏う、ウタさまの湯気(気配)

 

 ピンクの魚という遮蔽物も消え、視界に収まる全身から、魚のそれとは比較にもならない重量感、圧迫感のような圧が放たれている。離れていても肌に感じるくらいの迫力が、針が肉に突き刺さるが如き悪寒と混ざり合い、私たちの身体を圧していた。

 

 敵意の矛先が向いていなくとも、リアスさまの反応は至極当たり前のものだ。だからこの場では、それを目にしてもパニックに陥ることなく、呆けたままでいる私こそが、異常なのだ。

 

 悪寒の刺々しさを感じていても、私はその湯気に、懐かしさのような安堵感を覚えてしまっていた。

 

 彼女は、別人なのに、

 

「……姉さま……」

 

 どうして、私はまだ、姉さまとウタさまを、重ねて見てしまうのか。

 

 離れ、どこからともなく襲い来る十数匹もの魚たちに立ち向かうウタさまの、その傷だらけの身体を見つめながら、鈍く痛む胸中は、舌に馴染んでしまうその呼び名を口にした。

 

 自分の声ながら、それは酷く乾いていた。

 

「白音……やっぱり、まだ混乱しているのね。……当たり前よね、こんなことになってしまったのだから……。謝って許されることではないけれど……ごめんなさい……。あなたに辛い思いをさせてしまって……」

 

 頭上から、リアスさまの思い詰めたような声がした。思わず、鈍間にだが頭の向きを変える。案の定、眉尻を下げたリアスさまが私を見下ろしていた。

 

 『こんなこと』とは、やはり誘拐のことだろうか。確かにあの人間たち、『幻影旅団』の三人は恐ろしかったが、そのことでリアスさまを責める気には到底なれない。むしろ巻き込まれずに済んでよかった、とも思える。

 

 だからリアスさまの表情が涙を零しそうに歪んだ時、私はそれに反応して、慰めようと口が開いた。胸の詰まりが邪魔をして、言うべきことは思い浮かばなかったが、どうしても泣いてほしくない、という気持ちが勝っていた。

 

 そうして改めて言葉を探す、その間。リアスさまが、瞳に湛えた涙を堪え、ゆっくりと瞬きをした、次の場面。

 

 私より一瞬早く声帯を震わせたリアスさまが、その唇を、全く意識の埒外に合った単語に形作った。

 

「ウタが仙術を使っているから、思い出してしまうのはわかるわ。でも……ごめんなさい。今やめさせるわけには――」

 

「え……仙術……?」

 

 頭に綴った言葉が全部吹っ飛んだ。姉さまではない、と判明した途端に、百八十度真逆の言葉。

 

 それまでのあれこれがひっくるめて思考を駆け上り、引っ張り上げられ思い至る。仙術の源、『気』という存在。万人が持つ生命エネルギー、としか姉さまは教えてくれなかったが、もしやあの湯気がそうなのではないだろうか。

 

 よくよく見れば、というか図らずも意識の膠着から抜け出したためか、リアスさまと私の身体にも、湯気が立ち上っていることに気が付いた。ウタさまのそれと違って、リアスさまのは何というか垂れ流し。わたしのは正に『噴き出ている』という表現がぴったりなくらい、勢いよく迸っている。違いはあれど、ウタさまや魚に見たものと本質は同じであるように感じた。

 

 ということはやはり、この湯気は『気』なのだろうか。

 

 そうであるなら、ウタさまが魚を消し去ったあの『力』こそが、リアスさまの言う通り、仙術だったということになる。

 

 ウタさまは姉さまではないが、仙術使いだということに。

 

(本当に……?)

 

 あの時のウタさまを思い出す。私やリアスさまの『気』とはまるで違う、整った『気』。美しいとすら感じる、『気』を纏うその技。魚を『気』に還した技も、明らかに『気』を操った技だった。

 

 あれが、仙術なのだろうか。

 

 何度も追憶と想像を繰り返したからなのか、ふと気付けば私の『気』も好き勝手に飛び散ることをやめ、身体の周囲に留まっていた。温かい流れの中にいるようなその感覚は、抱いた予想が確信に近付きつつあることを明確に告げている。

 

 故に、私はその湯気に、冷たい恐ろしさを感じた。胸が詰まったような息苦しさを押し隠して、リアスさまへ困惑の表情を作ってみせた。

 

「でも、リアスさま……。仙術は、使い手がとても少ない能力なんです。そんなに都合よく、居合わせるなんてこと……ありえないです」

 

「――あ……えーっと、そのね……。別に、偶然っていうわけではないのよ」

 

 しばしの思考停止の後言い淀み、同じく困惑を返したリアスさまは、言い辛そうなまま、ウタさまを見やって訥々と言った。

 

「つまりね……ハンター、なのよ。……あなたが浚われてしまった後、八坂様が呼び寄せたの。彼女、ウタはその内の一人で……追手から、私たちを守るために戦ってくれているのよ。たぶん、仙術を使って。……だから私、あなたが黒歌を思い出してしまったんじゃないかって、思ったのだけど……」

 

 違うの?

 

 と、恐る恐るに眼で尋ねるリアスさま。保った困惑顔で聞き流す私の注目は、戦うウタさまへ向いている。その手に鷲掴みにされたイカのようなタコのような軟体生物が、握られた頭を始点に消滅していく様子を、私は言い知れない重苦しさと共に凝視していた。

 

 だって、あまりにも違い過ぎる。

 

 私が知る仙術は、もっと悍ましいものだ。暗くて、冷たくて、私から何もかもを奪ってしまう。底なしの穴のように恐ろしい、邪悪の『力』。人を傷つけるための『力』。

 

 なのに、ウタさまにはあの邪悪がまるでなかった。姉さまを殺した悍ましさを、欠片も感じない。忘れもしないあの絶望感がそこにあれば私が気付かないはずはないのに、守られて感じたのは、恐ろしさとは似ても似つかない、暖かな心地だけだった。

 

 そんな優しいものが、私を守った『力』が、本当に仙術なのだとすれば、

 

 ――なぜ姉さまは、あんなにも悍ましく恐ろしく、死んでしまったのだろう。

 

 名前が同じなだけの、全く別の技であると思ったほうが幾らか納得もしやすいくらい、それは信じ難いことだった。

 

 だから、なのかはわからないが、その時私は、巡らせた回想の中に姉さまの教示を見つけ出し、思わずそのまま口に出していた。

 

「『たぶん』、なら……じゃあ、『念』なんじゃないですか……?『気』を操る技にそういうのがあるって、私、聞いたことが――」

 

「ウタは、せんじゅつつかいじゃ」

 

 幼い女の子の舌足らずな調子が、私とリアスさまの間に割り込んだ。

 

 後ろからの声。視界外の気配に驚く。少しばかり恐る恐るの調子で、身を捩って振り向いた。

 

 見知らぬその子は、どうやら狐の妖怪、それも九尾の女の子であるようだった。その甲高い声色の通り、私よりもいくらか年下だと思われるのその子が、土埃で汚れた巫女装束姿で、私をキッと睨みつけていた。

 

 その視線と、身体を覆う『気』の湯気に感じる刺々しさには、当然覚えがない。なぜ敵意のようなものを向けられているのか、という中身の挿げ変わった困惑で動揺を振り落とし、私は、女の子の責めるような物言いを正面に受けた。

 

「フェルとははうえが、うそをつくわけがなかろう!……きっと、そうそうだって、せんじゅつだっていうはずじゃ……!」

 

 身を起こしつつ、微妙に要領を得ないその意味を口中で転がし探る。知らない人物三人から証明されている、ということをなんとなく理解した私は、追及、あるいは反論のために顔を上げ、女の子に尋ねようとした。

 

 が、女の子は痛みを堪えるような顔をして俯き、視線をよそにやっていた。拒絶のような無視に少しだけムッとして、気持ちのもやもやから私を逸れたそれを辿る。

 

 そして間もなく背を跳ねさせた。

 

 瓦礫の上に正座する女の子の膝下、手を伸ばせば私でも触れられるほどの距離に、男の人が一人、目を閉ざして横たわっていた。

 

 漢服のような恰好で、背丈はリアスさまより一、二回り高く、顔立ちは絵になりそうなくらい整っている。そんないかにも目立ちそうな容貌が、振り向いた視界に突然飛び込んできた。

 

 直視するまで、全くその存在に気付かなかったのだ。女の子の視線という目印がなければ、もしかすればそのまま眼が通り過ぎていたかもしれない。『気』を全く発していない、その無機物のような存在感のなさに、私は驚いた。

 

「……九重、ちゃん……その……曹操は、やっぱりまだ起きない……?」

 

 切れ切れに後ろめたそうな問いを、リアスさまが口にした。初めて耳にするリアスさまの卑屈にまた驚き、信じられない思いでパッと頭を戻す。しかし束の間、続く女の子、九重が纏う『気』に感じた激しい怒りの感情で、注意は再度とんぼ返りした。

 

「おきて、おらぬ……。あたりまえじゃろう。おまえたちは、なにもしておらぬのじゃから……!のんきにおしゃべりしていたくせに……あくまどものくせに……よくも、そ、そんなくちが、きけるものじゃな……っ!」

 

「そ、それは……だって、やっと白音が目覚めたから、嬉しくて……。それに……白音は悪魔じゃなくて、妖怪だから……あの……こうなってしまったことには関係――」

 

「あくまのなかまなら、そやつもあくまじゃ!それに、うそをついてもむだじゃ!わたしもしっておるのじゃぞ!もともとは、そやつがかってにいなくなってしまったせいなのじゃろう!」

 

 私を置いてきぼりに、九重が顔を真っ赤にしてまくしたて、リアスさまの身を縮ませていく。

 

 興奮が過ぎて眼に涙の膜をも作っている九重。私たちへの怒りと不信がありありと浮かぶ、その激情っぷりにひたすら困惑しながら、それでも私は精一杯声を張り、彼女の注意をリアスさまから奪い取った。

 

「あ、あの……!私、気を失っていたから、気絶した後のこと、憶えていなくて……『こうなってしまった』って……何が、あったんですか……?」

 

「そんなこと……みればすぐわかるじゃろう!」

 

 『気』を一際強い憤りに爆発させる九重が、その小さな身を震わせ、上を指さした。

 

 言われるがまま見上げると、目を引いたのは湾曲した天井に空く大きな穴。曇り気味な夜空が広がり、雨樋に垂れる雨粒のように、時折土くれが降ってくる。ここが地下なのだと、初めて気付いた。やはりというか、変な機械やらドラム缶やらが転がる、あの時の場所とは違うらしい。

 

 そしてそのまま天井を伝い、地下空洞の奥を見た。暗闇に目を凝らし、九重が指し示すそれを、今更のように現在地を知った鈍間な頭で認識する。

 初めはただの壁のように見えた。トンネルのようなアーチ型の地下空洞、その行き止まりなのだろうと思った。

 

 けれどすぐ、そうではないことに気付いて心臓が跳ねあがる。直接見て、意識すれば、嫌が応にも理解できた。

 

 それは、嫌な気配を発する、あの魚の塊だった。

 

 はるか遠くにある天井まで、魚たちが寄り集まって積乱雲のように渦を巻いている。隙間らしき隙間もなく、中までみっしりと詰まった多種多様な魚の大群。

 

 こんなにもたくさんいたのだ。今、ウタさまを襲っている、十数匹だけではなく。

 

 わだかまっているそれらがもし、一斉に私たちを攻撃すればどうなるか。想像するまでもない。

 

 全く気が付かなかった周囲の様相。全身に冷や汗を噴出させる甚大な悪寒に、私はようやく、現状のこの上ない危うさを悟った。

 

「きさまたちのせいで、こんなことになってしまったのじゃ!きさまたちが……あくまどもがこなければ……!ははうえも、ウタも、フェルも、けがなんてしなくてすんだのに……っ!」

 

 幾度ともなく浴びせかけられた罵声の記憶が蘇る。姉さまが死んでしまっても尚、収まることがなかった怨嗟の声。

 

 あんなにも強大なものが、私を追って現れたのだとすれば。私が浚われてしまったことによって、ウタさまが傷つき、皆が命の危機に晒されているのだとすれば。

 

 それは、あまりにも恐ろしい。

 

 九重が指さす魚の塊に視線を縫い付けられながら、私は全身の血が凍ったような恐ろしさを味わった。

 

 私のせいで皆の命が奪われれば、それは私自身が皆を殺すことと何も変わらない。

 

 自分自身の手で、大切なものを壊す。

 

 まるで、あの時の姉さまみたいだ。

 

 私に仙術を使う気があろうがなかろうが、私が皆の害悪であることに、変わりはなかったのだ。

 

(――なら、私はどうすればいいの……?)

 

 姉さまと同じ道を辿るしかないのだろうか。

 

 リアスさまの腕の中から、逃げるようにして這い出した。

 

 怖かった。行く道の暗闇から、突然奈落の穴が現れたかのような心地だった。道なりに進み続けた歩みが途切れ、先に進めない。それどころか端が崩れ、広がる穴がどんどん足元に迫ってくる。

 

 そんな、急かすような不安感。自問しようが答えが返ることはなかったために、九重の震えた声色は私の耳に届き、意識を絡め取った。

 

「わたしは……なにもできなかったのじゃ……。ウタにも、じゃまじゃといわれて……きっと、わたしでは……フェルとウタのやくにはたてない……けど――」

 

 ぱっと勢いよく上げた顔。涙に濡れながらも決意の眼で、彼女は私を貫いた。

 

「けど、ははうえがいっていたのじゃ……!フェルのいうことよくきいて、って……そうそうをおこせ、って……!だからわたしは……ううん、わたしはみなで、そうそうをめざめさせねばならないのじゃ!」

 

 手を突き、頭を下げる。

 

「あくまはわるいやつらだから、いうことをきくのはだめかもしれないけど……たのむ!ちからをかしてほしい……!」

 

 様々が絡み合う混乱の只中ではあったが、恐怖心はその言葉、罪悪感を押し付けられる道に目敏く反応し、迷うことなく私を九重の近く、仰向けになる男の人の傍に近寄らせた。

 

 曹操というらしい、その男の人。目覚めさせる方法も、そもそもなぜ眠っているのかもわからないが、九重に頷きかけ、ちょっと湿った漢服を揺さぶった。

 

 声をかけようと口を開いた直後だった。

 

「ぎゃ、ぴゅ……」

 

 声ならざる声。何かが潰れたようなくぐもった音がして、同時に背中に悪寒が叩きつけられる。

 

 悲鳴を上げて背後を向いた。

 

 口から血の塊を吐くウタさまと、そのお腹に拳を突き刺す片腕の男が、縺れあうように立っていた。

 

「う……ウタっ!」

 

「そんな……」

 

 九重の怯えた悲鳴と、リアスさまの呆然とした呟き。信じられない、と思考を止めた彼女らを通り越し、見覚えのある男が、聞き覚えのあるガラガラ声でにんまりと笑った。

 

「よぉ、ちび助。また会っちまったなぁ」

 

 所々に殴られたような傷跡を残すその顔。『気』の湯気を纏うサンペーは、あの時と変わらず、獲物をいたぶる残忍さに満ち満ちた視線で私を舐めていた。植え付けられた恐怖が身体を竦ませ、ぐったりと血を垂れ流すウタさまの姿で絶望に落とし込む。

 

 心臓を無理矢理えぐり取られたような、喪失に満ちた戦慄だった。

 

 胸ぐらを掴まれ、足が地面から離れるくらいに引き上げられてもピクリとも動かないウタさまを、意味のある声すら出せずに見つめるばかりの私。サンペーは笑みの邪悪さを一回り増し、私を嗤った。

 

「期待してくれてっところ悪ぃけどよぉ、やべーのがまだあと二人も残ってんだぁ。だからぁ、ちび助たちの相手はその後にぃ……」

 

 言い淀み、わざとらしく、うーん、と唸る。ぴったり二秒後、ちらりと魚の積乱雲を見やって帰ってきたサンペーは、さらに口角を釣り上げた。

 

「あぁ、でもまだ持ちそうだしなぁ……。先にちび助たち殺っちまっても――」

 

「ずいぶん、余裕じゃない」

 

 頭を埋め尽くしつつあった、続きの悪夢の浸食が、その声で止まった。

 

 サンペーが、弾かれたようにウタさまから手を離し、眼に捉えて拳を引き絞った。ウタさまが放っていたそれにも劣らない迫力の『気』が、ウタさまを見据えて震える攻撃に宿る。

 

 その後の一瞬に何が起こったのかは、ほとんどわからなかった。ただ気付いた時には、背を何かに突き飛ばされたかのように、反りかえったサンペーの身体が傾き、それを迎え撃つ形で、地面に降り立つウタさまが掌底の構えを取っていた。

 

 さっきまでの死に体が嘘だったかのように、舞う黒髪の隙間から、暗闇の中にらんらんと輝く敵意の瞳。次の瞬間、静謐にすぼめられた。

 

「ふ――」

 

 短い息。掌底が無防備なお腹に触れ、一拍を置いて逆にくの字に圧し折った。サンペーの頭ががくりと垂れ、ウタさまの肩に伸し掛かる。

 

 けれどそれも、束の間のことだった。

 

 一点に集中を注いでいたウタさまが、突如目の色を変えた。

 

「しつけぇなぁ、ねーちゃんもぉ。『隠』で『念弾』ぶち当ててぇ、鳩尾に一撃たぁ……意趣返しのつもりかぁ?へへぇ、可愛すぎていっそ泣けてくらぁ」

 

 掌底の腕を掴まれていた。ウタさまはその場を離れようとしているが、振りほどけない。二人の『気』が競り合い、押され、みし、と怖気の走る音がした。

 

 増したサンペーの『気』が空気を圧し、ウタさまの顔が歪んだ。悪寒混じりの風に思わず視線を上げると、唇の端を血で濡らしたサンペーが揺れる焦点を絞り、言い放った。

 

「こんくれぇで倒れてやるほどぉ、おいらの念は甘かねぇよぉ」

 

 頭突きが落ちた。

 

 後頭部が叩き落とされ、ウタさまの身体が沈む。腕で引っ張り上げられて、逃げることもできずに続く蹴りをその身に受けた。

 

「……おぉ?」

 

 サンペーの妙な声。身が凍る思いに侵される私だが、しかし恐怖に反して瞬く間に、蹴り飛ばされたウタさまは体勢を取り戻した。かと思えばその左手が閃き、何か眩いものが放たれる。気配に、それが『気』の塊だと察する頃には、その風圧が私の目を塞がせていた。一秒もない間を置いて開いてみれば、離れていたはずの距離が消え、ウタさまとサンペー、二人の腕がぶつかり合っていた。

 

 理解を超えた本物の戦い(・・・・・)に、私は唖然とするしかない。つばぜり合いに交差する目の前の二人は、対照的な表情でそれぞれ口を開いた。

 

「なんか今ぁ、『オーラ』が練りにくくて威力出なかったんだけどぉ……これ仙術かぁ?」

 

「……言うわけないって、いつになったら、わかってくれるのかしら、ね……ッ!」

 

「そいつぁ残念――」

 

 と言いかけたサンペーが突然言葉を切り、後ろに跳び退った。理由はすぐに理解できた。

 

 極寒の吹雪だった。

 

 激烈な悪寒が吹き荒ぶ。先ほどの、サンペーの『気』やウタさまの『気』の弾丸と同様、ただの余波。私に向けられているわけでもない『気』がもたらした風でしかなかったが、そこに溶け込んだ気配だけでも、邪悪の程度はサンペーや魚を軽く上回る。

 

 そんな気配がウタさまとサンペーの間に飛び込むのを、私は察知した。

 

 視覚ではもちろん捉えられない。白い影を引くブレた映像は、過程を飛ばして結果を見た。

 

 なんとなく色っぽく感じる、銀髪の女の人だった。この圧倒的悪寒の持ち主であろう彼女。たぶん、九重の言っていたフェルという人なのだろう。その革手袋の拳でサンペーの胴体を打つ光景を、私は否応なしに震えながら、必死の思いで眼に映していた。

 

 しかし知覚はしたものの、それ理解するだけの猶予はやはりなかった。爆ぜたサンペーの胴から煙幕のような黒い霧が巻き散らされ、その姿と一緒に、表にすべき感情すら見失ってしまう。

 

 速すぎる事象への理解に、処理能力のほぼすべてをつぎ込む私。少しの光も透らない真っ黒の膜から飛び退り、今にも頽れそうなウタさまを支えたフェルさまが発した重く低い声が、職務放棄気味の鼓膜を通り抜けた。

 

「……立てる?ウタ」

 

「大丈夫、よ……まだ……」

 

 途切れ途切れに苦しげな呼吸を繰り返し、ウタさまは口元の血を拭って立ち上がった。だが脚は震え、上体は揺らいでいる。

 

 フェルさまは背後に庇うウタさまをちらりと一瞥し、次いで私にも視線を流した。ほんの一瞬目が合っただけで心が怯え、気つけ代わりとなったその冷たさが、中にウタさまの怪我に対する慄然を戻す。

 

 蘇った感情の、そのほとんどを占める恐怖で血の気を下げていると、まるで追い打ちのように、さらなる悪寒が飛来した。

 

 つまりは、フェルさまの纏う『気』が、その量を爆発的に跳ね上げた。

 

 声もなく悲鳴を上げた。

 

「……左腕、もう駄目だよね。どちらにせよ、限界だ。……使うよ」

 

 呟くようにそう言ったフェルさま。黒い霧を鋭く見据えるその眼には、激しい殺意が宿っている。

 

 だからなのか、勢い余って飛び散った『気』に触れてしまった指先に、私は失神直前に感じたもの以上の『負』を、認めてしまった。

 

 ほんの僅かに触れただけであり、しかも瞬間身を遠ざけたにもかかわらず、指先から悪寒が入り込んでくるような感覚が残ってしまうくらいの、心がすり潰されるような恐ろしさ。ともすれば攻撃を受けているのではないかと錯覚してしまうくらいに冷たい、えもいわれぬ戦慄。

 

 気配だけで絶望感に侵されるほどの悪寒の中で、今度は一瞬、ウタさまが私を見た。

 

「でも……フェル……」

 

 苦悩の色。

 

 黒い霧が晴れた。

 

「『使う』、ねぇ……。よーやくタネ明かしかぁ?よかったよぉ。このままあっけなく殺しちまうんかってぇ、ちーと心配になってきたところだったんだぁ。そっちのねーちゃんは耐えるばっかりだしよぉ」

 

 サンペーは周囲に何匹もの魚を侍らせ、血の塊を吐き捨てると、余裕綽々に手の中でピンク色の玉を弄ぶ。

 

 フェルさまの放つ圧がさらに高まり、体勢が飛び掛かる寸前で引き絞られる。激しい怒り、害意が、邪悪に塗れて吹き荒れた。

 

 それを放つトリガーにフェルさまが指をかけた。そんなふうに感じた、その時だった。

 

 どこか茫洋とした表情でフェルさまを見つめるウタさまが、見張った眼で鋭く叫んだ。

 

「――白音!仙術、使いなさい!」

 

 必死ながらも無機質な声は、トンネルの中を悠々響いた。

 

「……はぁ?ねーちゃん、何のつもり――ッ!!」

 

 と、皆を代表する一拍を置いて、サンペーと、そしてフェルさまの姿が掻き消える。

 

 次の瞬間、二人は私の目の前にいた。

 

「ひぁッ!!?」

 

 本当に、目と鼻の先。サンペーが突き出した拳を、フェルさまが受け止めている。ぶつかり、揺らめく二人の『気』が流れた。

 

「そういやぁ、そうだったなぁ。仙術にゃー、相手を癒す技もあるって話ぃ」

 

 眼までもが、こちらを見ていた。今までのような流れ弾ではない。二人の『気』は、明らかに私を意識している。直接、邪悪や害意を向けられるのだ。動揺も相俟って、私は後退りが九重にぶつかり止まったことにも気付かなかった。

 

 その九重も、どうやら私と同等以上の衝撃に呑まれたらしく、微かに息を洩らすばかり。唯一リアスさまが尻もちをつきながらも思考停止を逃れ、その精神をそのまま押し出したような恐怖を、つっかかりつつ言葉に並べた。

 

「せ、仙術って……ウタ、あなたこんな時に何を言っているのよ!白音は戦いなんてできないわ!それに……わからないの!?この子は仙術の才能を持ってはいても、使ったことなんて……」

 

「できる、わよ!白音よりも小さかった頃の、私でもできたんだから!それに戦うんじゃない、癒すのよ!そこの寝坊助をね!」

 

「あなたッ……!だとしてもよ!黒歌のことを聞いて、何も思わなかったの!?この子に無理矢理仙術を使わせるなんて、そんなことできるわけないじゃない!第一、仙術で曹操が目を覚ますなら、あなたがやれば――」

 

 遮って、一声が轟いた。

 

「ウタ!!避けろッ!!」

 

 サンペーの攻撃を押し返し、前のめりにつんのめったフェルさまが叫んだのだ。それはたぶん、直前にサンペーが蹴り飛ばした何かのため。

 

 ウタさまは、光線のように飛んだそれを避けることができなかった。

 

 フェルさまの警告でも動けないほどの満身創痍。胸に当たり、爆ぜたピンク色の玉からサンペーと同じ気配の『気』が巻き散らされ、ウタさまに降り注ぐ。

 

 万全の状態であったとしても、ウタさまは曹操の治療などできない。

 

 真っ先に襲い掛かったのが、一抱えほどもある胴を持つ大きなウツボのような魚であれば、それはなおのことだ。

 

 なすすべなく食いつかれ、そのまま壁まで追い詰められたウタさま。苦しげに歪む口から凍り付く私に向けて、喝を入れるような大声が、水音混じりに鳴り響いた。

 

「『気』を、曹操に流し込むのよ!やりなさい!――白音ッ!!」

 

 鼓膜を揺らし、脳に溶け込んだぼろぼろの声色。あっさりと抵抗もなく届き、託されて灯った思い。

 

 もたらしたウタさまの姿が、ウツボに続いた魚の濁流に呑み込まれた。

 

「―――」

 

「―――」

 

 隣の九重と前のリアスさまが、悲鳴を上げてウタさまを呼ぶ。私は声も出ず、胸元の布地を掴んで、ただ衝撃に喘いでいた。

 

 あるいは私も、心臓が潰れたかのようなこの絶望感に、何か叫んだのかもしれない。だがそれらは、言葉の一切は、私に認識されることはなかった。

 

 代わりに、その眼差しは驚くほど鮮明に映った。

 

 怖くて冷たい眼。サンペーを押し留めながら私を見る、フェルさまの赤褐色。

 

 そこに浮かぶ逡巡が、不思議なくらいはっきりと、透けて見えた。

 

 だから私は、その言葉を口にせざるを得なかった。

 

「やり、ます……っ!」

 

 フェルさまとリアスさまの反応を眼にする前に、私はすぐさま曹操の身体に向き直った。縋るような眼差しの九重を横目にし、目を閉ざす。震える息で、逃れるように深呼吸。心が鎮まるのを待たず、両の手のひらが曹操の湿った漢服に触れた。

 

 体内に感知した微弱な気配、曹操の『気』、その器。空っぽのここに、私の『気』を流し込む。輸血のようだと、そんなイメージをすれば、やり方なんてわかっていないはずなのに、『気』の湯気が動き始めた。両手を介してするすると、意のままに曹操の器へ流れ込んでいく。

 

 ついさっきまで『気』なんて見えもしなかったのに、もちろん操ったことなんて今までに一度たりともなかったのに、

 

 なのに私は仙術を扱えていた。

 

 何ら躓くこともなく、当たり前のようにあっさりと、『気』を操れた。バクバクと心臓がうるさい。酷く薄気味悪い心地がした。

 

 本能が、知るまでもなくすべて為してしまったのだ。自分に宿る仙術の才をまざまざと感じ、心が、不気味を打ち切って逃げ出したい衝動でいっぱいになる。

 

 それらすべてを苦心して呑み下し続けるのは、やはりあの逡巡が瞼の裏に焼き付いているからだった。

 

 あの時、『やります』と言った理由だってそうだ。別に、ウタさまの仙術を見て恐怖心が薄れたわけではない。姉さまの印象は、そう簡単に消えない。

 このまま曹操に『気』を注ぎ続ければ、あのように呑まれてしまうのではないか。恐れは、常に心を侵している。

 

 義憤に駆られたわけでも、当然ない。ただ私は、『やる』と言わなければリアスさまや九重はもちろん、私もが死んでしまう、というどうしようもない一本道を、その時フェルさまの逡巡に悟ってしまっていた。

 

 それ以外を選択することができなかったから。それだけなのだ。

 

 たぶん、あの時『やります』と言わなければ、フェルさまはサンペーから私たちを守ることをやめ、ウタさまを助けに行っていただろう。

 

 確信があった。フェルさまはウタさまのことが何よりも、少なくとも私たちよりは大切で、私の死とウタさまの死の二択であれば、間違いなく私を切り捨てる。当て嵌めれば今の現状、魚の塊から薄く感じる気配でまだウタさまが生きていることはわかるが、あの身体ではいつまで耐えられるかなんてわからない。フェルさまも、今すぐにでも助けに行きたいはずだ。

 

 なのに迷ったのは、私が曹操を癒すことができればウタさまも、そして多分私たちも助けられるから。つまるところ、一より五を救える可能性。フェルさまには、真にウタさま以外を助ける気がない。

 

 私がやらねば、皆を殺してしまう。……私のことを、家族と呼んでくれた、リアスさま。たった一人の唯一を、私はもう、失いたくない。

 

 仙術よりも、そのほうが怖かった。要するに、その程度なのだ。

 

 そんな浅ましさで作られた決心。ひ弱な精神で、集中のために集中していたせいだろうか。

 

 最初はあれだけあっけなく曹操に溶け込んでいった『気』が、だんだんと操り辛くなっていた。

 

 注げる量も速度もどんどん下がり、滞る。疲労感が増すばかりで、胸の内にもやもやとしたものまで溜まり始めた。急がないとだめなのに、と焦りばかりが先行する。

 

 そんなところにフェルさまの悪寒を吹き付けられれば、心の怯えが爆発的に増大するのも、致し方ないことだろう。戦慄が背中を駆けると同時、私はつい、考えてしまった。

 

 もし、曹操の治療が上手くいかなかったらどうなるのだろう。

 

 フェルさまに見限られれば、やっぱり私たちは死ぬ。こんなに時間をかけていたら、そうなってしまうのではないだろうか。

 

 想像してしまえば、精神は一気に奈落へ引きずり落とされた。全身を見えざる手に蝕まれ、呑み込まれるような絶望感が身を襲い、頭を痺れさせる。手足から身体の感覚が冷えて消え、『気』の気配すら遠ざかり、どろりと染み込む幻覚に、私は思う。

 

 やっぱり、姉さまが抗えなかった『力』に、私が敵うはずがなかったのだ。

 

 心の中に渦巻く黒い泥に。

 

(姉さまも……そこに、いるのかな……)

 

 ひとりでに瞼が開いた。取り乱すフェルさまをすり抜け、私に向かって襲い来る、あの小魚の群れが見えた。

 

(ならいっそ、もうこのまま――)

 

 曹操の身体から手が離れようとした、その時、

 

 黒の塊を、暖かい波動が突き破った。

 

 魚たちを蹴散らす光弾。貫かれた空白の向こうに、一瞬だけウタさまが見えた。すぐに魚の渦で埋まったが、眼にした意思は焼き付いた。光弾が弾け、残った僅かな小魚たちが再び向かってきても消えないくらいに、強く。

 

 放たれた滅びの魔力が残敵を消し飛ばし、眼前に印象のみを残して散る頃になって、私はようやく、傍にリアスさまの温もりがあることに気が付いた。

 

「白音、あなたは、優しい子よ」

 

 リアスさまの、春風のように穏やかな調子が聴覚に鳴った。突然の突飛に驚き、訳もわからずその優しげな横顔を見る私。

 

 続けられる。

 

「優しくて、そして強い子。だって、あなたを傷つけてしまった私を、許してくれたんだもの。私の手を、取ってくれたんだから」

 

 私に、笑みを向ける。

 

「だから、大丈夫。あなたは……黒歌とは違うわ。あなたは、黒歌のようにはならない」

 

 ――何を、馬鹿げたことを。

 

 暖かさを浴びて、這い出た感情はそれだった。

 

「そんなの、わからないじゃないですか……!」

 

 抑えられなかった。

 

「リアスさまに、わかるわけがないんです!黒歌姉さまは私の姉さまで、姉妹なんだからっ、だから、私は……。それに、リアスさまに付いて行ったのだって、私が優しいからじゃない……!独りが、一人ぼっちが、怖かっただけです!リアスさまだけが、唯一手を差し伸べてくれたから、それだけでしかないんです!」

 

 私は、優しくなんてない。自分のことばかりで、人のためを考えられないから。

 

 そして強くもない。姉さまのような、他の追随を許さない圧倒的を、一つも持っていない。力も、心も。

 

 リアスさまの言う通りだ。私と姉さまは違う。姉さま構成する頼もしさは、その一端も私にはない。私が継いだのは仙術の才能だけで、しかもそれすら碌に使いこなせない。

 

 私はどうしようもないほど劣っている。だから、姉さまよりもずっと自分勝手で弱いから。姉さまにできなかったことができるはずもない。

 

 私は――

 

「姉さまみたいに……できない……。一人じゃ何もできない、疫病神だから……私なんて、死んでしまった方がずっといいんです!!」

 

 害にしかならない厄介者なんて、生きているべきではないのだ。

 

 そう叫んだ。胸の中の汚泥を、リアスさまに吐きかけた。

 

 なのに、

 

「私が、いるわ」

 

 私の手に添えられた温かさは、相も変わらず優しくて――頼もしかった。

 

「一人じゃ何もできないって、あなたは言うけれど、私だってそうよ?今回だって、ウタに曹操に……フェルの力がなければ、あなたを助けられなかった。私一人だけじゃ……ううん、曹操たちだって、誰か一人でも欠けていたら、たぶんあなたを見つけることさえできなかった。……一人で何でもできる人なんて、いないのよ」

 

 語りかけるような調子だった。鼓膜を撫でる、ただの言葉。なのに、なぜなのだろう。

 

 黒が晴れていくような安堵があった。

 

「けれど、一人でできなくても、二人ならできる。三人なら……皆と一緒なら、できないことなんて何もない!」

 

 反対側の手の甲に、九重の手が重ねられる。眼前で戦うフェルさまも、ちらりと私を見てくれた気がした。そして、漂うウタさまの光弾の残り香。その意思。

 

 リアスさまの手の熱を感じながら、それは私の心の中を、洗い流すかのように駆け抜けた。

 

「私も、私たちも一緒に戦うわ!だから、だから白音、仙術なんかに、負けないで!!」

 

 暖かさに導かれるようにして、私は再び目を閉ざした。

 

 さっきまでのもやもやが、嘘のように消えていた。心は穏やかで、『気』が雪解け水のように澄み切り、淀みなく曹操に流れる。

 

 それが皆のおかげであることは明らかだった。左右の手の熱を感じれば心が落ち着き、漂う気配を感じれば勇気が湧いてくる。皆が支えてくれるここには、私の恐れる絶望がなかった。暖かい心地だけがそこにあった。

 

 ウタさまが使ったこの仙術(暖かさ)も、やはり私の知る仙術なのだ。

 

 だから私も、ようやく認めた。

 

 あの涙の訳。恐怖に負けてしまった私が、何もできなかった私が、あの時見つけられなかったもの。

 

 姉さまが邪悪な仙術に呑み込まれてしまったのは、独りだったからなのではないだろうか。

 

 私にとってのリアスさま、ウタさまにとってのフェルさまのように、支えてくれる人がいなかったから。いや、私が支えになれなかったから。

 

 一緒に戦わなければと、そんなことを考えもしなかった、私のせいなのだ。

 

 二人で路地裏に暮らした時も、主さまに眷属に取り立てられた時も、そのすべてが壊れたあの時も、寄り添おうなどと思ったこともなかった。姉さまは強いから大丈夫と、すべて任せて頼り切っていた。姉さまには私の助けなど必要ないと、ずっと無意識に甘え切っていた。

 

 私は黒歌姉さまを、姉さまとしてしか見ていなかった。だから、姉さまは死んでしまった。だから、あの時涙を流した。

 

 そうなのではないだろうか。

 

 答えてくれる人はもういない。死んでしまった姉さまには、もう償いもできはしない。

 

 今更気付いても遅すぎる。後悔なんて虫のいい話だ。

 

 けれど、

 

(ねえさま――)

 

 今だけでいい。許してなんて、この痛みを無かったことになんて、しないから。だから、

 

「――力を、貸して――」

 

 私はもう二度と、間違えたくないんです。

 

(ねえさま――)

 

 

 

 ――会いたいよ……。

 

 

 

 ふと、腕を掴まれる感触がした。

 

「もう、十分だ」

 

 知らない声。男の人の声。

 

 聞こえた途端、私は全身に猛烈な疲労感が揺蕩っていることに気が付いた。一気に意識に浸透したそれが集中を遠ざけ、『気』の流れを絶つ。両手が押し上げられて落ち、私は開いた目に、その人の青白い微笑を見た。

 

 目覚めた曹操が、私の頭を撫で、言った。

 

「それ以上はキミが持たない。休んでいるといい」

 

 起き上がりつつ、静かに息を吐く曹操。『気』を纏い、それを膨らましていく彼に、リアスさまが歓喜と興奮で頬を赤くする。

 

「そ、曹操っ!今、ええと……う、ウタが魚に――」

 

「わかっているさ。リアス殿は白音嬢と九重嬢を頼む」

 

 短く鋭く飛んだ言葉に、リアスさまが疲労困憊の私を支える。目が回りそうなくらいの疲れに襲われる私は、曹操の右手に奔る呪いめいた黒い炎を見た。

 放たれたそれが最初に向かったのは、ウタさまが閉じ込められている、魚の塊だった。瞬く間に黒い火球と化す魚たちに、曹操は声を張る。

 

「フェル、ウタ!!こっちは任せろ!!」

 

 炎を突き破り踏み出したウタさまに、フェルさまから距離を取ったサンペーが重く舌打ちした。

 

「任されてたまるかよぉ!!」

 

 言葉と共に振りかぶって投げつけられたのは、二頭を持つ鮫だった。くるくる回転しながら飛んでくるその後ろには、さらに数多の魚たちが連なって突撃してくる。

 

 悪意の『気』に濡れたそれらに怖気が走る。だが、曹操は至極冷静に、炎を纏った手を振った。

 

 炎が吹き荒れた。トンネルいっぱいに広がり、向かってくる魚たちを包み込むように覆う。球体の檻のように受け止め、そして、パンッ、とささやかな音を立て、破裂した。

 

 僅かな黒炎の破片が飛び散るのみとなった眼前。奥の魚の積乱雲まで、三人以外は何もいない。

 

 がくり、と、曹操が膝を突いた。いかにも限界ギリギリといったふうに、荒く息をつく。

 

 サンペーは、怒りと喜びが入り混じった声で笑い、後ろに跳び退った。

 

「ったくよぉ!!これだから神器(セイクリッド・ギア)ってぇのは厄介だなぁ!!」

 

 積乱雲に手を突っ込み、嘲笑の興奮に叫ぶ。

 

「次があったらぁ、その貧弱な体力鍛えときなァ!!」

 

 ウタさまもフェルさまも、邪魔をできる位置にいない。また同じように投げつけられれば、それは曹操に届く。そんな状況を見て、サンペーは笑ったのだろう。

 

 たぶん、気付ける余裕がなかったのだ。

 

 驚くほど静かに、それは成された。

 

 何の音もなく、何の気配もなく、ただあっさりと、まるでリンゴが木から落ちるように、自然に。

 

 黒い炎に焼かれた積乱雲から、銀髪の大男がするりと現れ、サンペーの脇を通った。

 

 すれ違ったその手には、こぶし大の包みが抓まれていた。

 

 ウタさまとフェルさまの足が止まり、サンペーも、突如目の前に現れた大男を凝視したまま固まる。包みが拍動し、白い生地に赤い液体が滲む様を眼にすると、サンペーは消えゆく魚たちの積乱雲から手を抜き、自分の胸に当てた。

 

 その表情が呆然からいつもの笑みに変わった時、私も、ようやく悟った。

 

「あぁ、まだいたんかよぉ、シルバのあんちきしょうはぁ……。静かなもんでぇ、もう死んじまったかとぉ……思ったよぉ……」

 

 身体が後傾し、瓦礫にもたれかかるようにして倒れ込む。

 

 サンペーは、尚も悪寒をもたらす眼で私たち全員を見回し、鼻で笑った。

 

「こんなに身体張ったんにぃ、一人も殺れずぅ、かぁ……」

 

 首が折れ、手が滑り落ちる。俯いて、且つごく微かな声が、しんと静まったトンネルに鳴った。

 

「……ちくしょうめ……」

 

 皆を追い詰めた男の命は、酷くあっけなく吹き消えた。




(ほぼ)オリジナル登場人物
【サンペー=キリツチ】
・色黒で筋骨隆々、麦わら帽子がトレードマークの二十代後半なおっさん。ちなみにクロロはこの時二十二歳。年上。
・性格は豪放磊落。他旅団員、特にウボォーギンとの仲がいい。おかげで高攻撃力の相手とは戦い慣れている。
・砂漠地帯出身で、子供のころからの釣りマニア。とはいえ雨季でないと釣りができないような環境であり、当時は妄想で釣り欲を発散していた。釣り能力や『念魚』も、ほとんどがその産物。現在では釣りはもちろん、新古問わず漁具の収集が趣味。クロロと知り合ったのも、たぶん黄金の釣竿とかそんなのを狙ったから。美術的価値はともかくオーバーテクノロジー釣竿とか、アザゼルが作ってそう。
・ハンターハンター原作における、1996年頃シルバ=ゾルディックに殺された団員No.8。後釜がシズク。名前どころかどんな人物であったかも不明なため、都合よくもといやむを得ず人物像と能力を捏造された。たぶん拙作唯一のオリキャラと呼べる存在。

プロット上では一話にまとまってた病が発動しない限り次話が二部の最終回なので感想ください。


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十六話

誤字報告をいただく度に一々お礼を言うのも鬱陶しいかなと思ったので、全部まとめて最終話に『ありがとうございました。(いまさら)』って書く天丼を目論んでいましたが、話数が十六まで膨れ上がった挙句に本文書ききるのに九ヵ月もかかってしまったので、今度からはちゃんとまめにお礼を言うことにします。
今までの誤字報告ありがとうございました。(いまさら)

そもそも誤字は私のほうでなくすべきなんですけどね。中々ね。


 胸に染み出る赤色と共に、釣り人男の命は静寂に紛れて消え去った。

 

 生気が薄れ、気配が溶ける。奴の『気』が人としての形を失い、散り、還っていくその一部始終。ぽたぽた、と、引きちぎられた肩から滴る水音だけが反響する中で、私もピトーもシルバも、立ち尽くして見守っていた。

 

 曹操の邪炎を逃れた『念魚』たちも皆、それに引かれるように崩れて消え、空っぽの身体だけが取り残される。シルバは、そんな静まり返った地下鉄トンネルに歩を進めた。その歩みに対して、足音はほぼ無音と言っていいほど小さい。

 私と似たり寄ったりの負傷具合である奴は、やがて瓦礫に背を乗せ事切れる死体の間近までたどり着き、衰えることのない冷え冷えとした眼光で見下ろした。少しばかり眺めると僅かにかがみ、地に落ちた死体の手に赤黒く染まった包みを落とす。もう動きを止めてしまったその中身は、奴が一瞬のうちに抜き取ってしまった、釣り人男の心臓だ。

 

 シルバは無感情とも思えるくらいに淡々と、それをやり終えた。立ち上がるとその途端、ピトーの大仰なため息が、水音に取って代わって響き渡った。

 

「あーあ、ホントに死んじゃった。やになるにゃあ、これで三回連続のお預けだよ。ねえ、曹操?オマエも、酷いと思うでしょ?」

 

 振り返り、曹操の息を凍りつかせる。戦意の薄れた苛立ちとはいえ、今のあいつにはスルーしきれないほどの圧だったのだろう。感じる気配だけでビビっている姿が想像できる。

 

 最近ではとんと見ることがなくなったその醜態を内心で笑いつつ、私も続いて振り返った。ギシギシ痛む身体を押して、言ってやる。

 

「別に、わざわざシルバまで助けなくてよかったじゃない。しかもおかげで、また『気』切れ寸前だし。あんたバカじゃない?」

 

「……シルバ氏に、任せるのが、一番安全で、確実だと、思っただけだ……。なんといっても、殺しのプロ、なんだからな……」

 

 私の声に頭を一振りし、荒い息で顔を上げる曹操。座り込んで両足を投げ出し、天井にぽっかり空いた大穴を仰ぐ。

 

 息を整えようと深呼吸する奴は、私が痛みに苦心して身体をもそっちへ向けると、さらなる物言いを飛ばしてきた。

 

「死にかけの黒歌が、返り討ちに合うよりはましだろう?」

 

 我慢できなかった私の一声は、どうやら奴にいつも通りの調子を取り戻すだけの余裕を与えてしまったようだ。

 

 汗に汚れたその顔が私を見て、唇の端を持ち上げる。戦闘で昂った精神は当然その苛立ちに抗しきれず、つい痛みを忘れて前に出た。

 

「返り討ちになんてされるわけないでしょ!ていうか、死にかけはむしろそっちじゃない!」

 

「俺の『オーラ』残量のことを言っているなら、お前が思うほど余裕がないわけじゃない。もう一度くらいなら、あれも撃てるくらいには残っているさ。肉体へのダメージ量でも言わずもがなだろう?両腕ともやられているみたいじゃないか」

 

「べ、別に右腕はともかく、左腕は折られただけだしすぐに治――いッ!」

 

 走った痛みに、私の理性は昂りから解放された。口に出しながらも、半ば自身が骨折していることを忘れていたのだ。おかげで虚勢が容赦なく腕を振り回し、傷口を広げてしまった。

 

 ついさっき曹操をバカ呼ばわりした自分への恥ずかしさも相俟って、うめき声をあげながら蹲ることとなってしまった私のことは、きっと痛みのせいで身を折ったように見えていることだろう。その実七割は羞恥のせいだったが、傍らから聞こえるピトーの気遣わしげな声色を無視はできない。

 

「大丈夫?あんまり痛いなら、今ここで直そうか?」

 

「あ、ああ、えっと……」

 

 なんて無駄な間投詞を並べつつ、私は無理矢理顔を上げた。顔に残った熱に抗い、続きを喉から押し出そうとする。

 

 ピトーのあの能力、【人形修理者(ドクターブライス)】は、フェルで使っても問題ない。しかしそれはそれとして、使用している間ピトーが他の能力を使えなくなる、という能力の『制約』が存在する以上、この場での治療は少しばかり危険なのではないだろうか。

 

 そういう意味合いの台詞を組み上げるため、頭の中を切り替えようとしていた。

 

 だがやっぱり、舌の上に乗る前に、図々しくもあいつが邪魔をした。

 

「やめておいた方がいいな。倒せたのは、そこの一人だけなんだろう?こんなところで隙を晒すことはないさ」

 

 会話に化けるはずだったほぼすべてを、先んじて奪われた私。周囲をきょろきょろ見やって宣った曹操に、犯意があったかどうかは定かでないが、しかし怨みは晴らさねばならない。

 

 私はできうる限りの威圧を、視線に乗せてぶつけてやった。

 

「もう!うっさいわよ曹操!今の今まで気絶してたくせに、勝手に仕切るんじゃないわよ!」

 

「おいおい、お前がそれを言うのか。いったいどこの誰の、俺は失神する羽目になったのか、もう忘れてしまったのか?被害者たる俺は、はっきりと憶えているんだがな?」

 

 いつも通りのニヤニヤ笑いの中に、一滴だけ垂らされた怒気。その感情に、あの時の気まずさを思い出してしまう。

 

 うぐ、と、興奮が冷めて喉が詰まった。

 

「それだって、元を正せばオマエのアレが原因。黒い炎の神器(セイクリッド・ギア)を連発したから、簡単に落ちちゃったわけじゃない?どうしてあんなにバカみたいに『気』を消耗するのかな。アイツの言う通り、もうちょっと体力でも鍛えていれば、あんな欠陥能力でも――」

 

「その欠陥能力がなければ死んでいただろう?二人ともな」

 

 ピトーの援護も無慈悲に潰され、二人そろって曹操から顔をそむけた。あからさまが漂うため息に、なぜこんな大きな顔をされなければならないのか、と憤り、私があの能力を制御できなかったからか、と自爆する。せめてそのひ弱を揶揄してやるべく、私は意を決して立ち上がろうとした。

 

 が、またしてもだ。

 

「まあ、そんなことはともかくとしてだな、ウタ、さっきから妙に調子が出ないというか、気分が悪いんだが……仙術で何とかならないか?」

 

 またしても横槍が入る。痛む身体では奴の頭の回転に追いつけず、懸命に対する意義を奪われてしまう。軽口を差し込む間と一緒に、申し訳ないとかそういう遠慮も消え去ってしまった。

 

 ひっぱたくなりしてまた失神させてやろうか、などと割と真剣に悩みつつ、ピトーの手を借り腰を上げる。神経を駆ける電気信号の余韻を息を吐いて受け流してから、内心で『しったことか』と言ってやった。

 

「『気』が身体に馴染んでないんでしょ。他人のを無理矢理突っ込まれたんだから、当たり前じゃない。酔い止めの薬でも飲んでおけば?」

 

「……薬が、効くものかな。『オーラ』が……ああいや、『気』が原因の症状に」

 

「効くわよ。切れたらまた気持ち悪くなるだろうけど。……っていうか前から気になってたけど、『オーラ』か『気』か、呼び方どっちかに統一しなさいよ。ややこしいったらないわ」

 

「さて、どっちからツッコめばいいかな。お前にこの吐き気を治す気がないってことか、それとも呼び方の違いをいちいち気にするめんどくさい性格のことか」

 

「もういいからあんた黙ってなさいよ」

 

 一を放てば二を返る。三で応戦してやるのもやぶさかではなかったが、それは諦め投げ捨てた。

 

 奴と同じように機会を封殺してやる気に、私はなれなかったからだ。

 

 視線の先、曹操の背後で、もじもじと何やら言いたげにしていた白音が、与えられた間隙にすかさず幼い声色を差し込んだ。

 

「あ、あの……う、ウタ、さま……『気』ってことはもしかして、わたし、曹操さんに何か間違ってしまったんでしょうか……?」

 

 悲壮感が滲んで、私の中に入り込んだ。鼻の上の眼鏡を押し上げようとして、とっくに粉微塵になっていることを思い出し、眼を逸らす。

 

「別に……言ったでしょ?間違いも何もないわよ。一人一人『気』の波長は違うんだから……それを完全一致させてから流し込めなんて高難易度、さすがに求めてないわ。死ぬわけでもないし、ほっといたらそのうち馴染むわよ」

 

「そう、ですか……じゃあ、その……わ、私はちゃんと、仙術を、使えたんですか……?」

 

「……そう言ってるじゃない。まあ、初歩の初歩でしかないけど――」

 

 と、図らずも曹操の杞憂を解いてしまった私の口は、不意な制止の手によって遮られた。ピトーの緊張に何事かとすぐさま意識を向けて見れば、私も同様、警戒心を取り戻さざるを得なかった。

 

 『気』の意識が向く先を振り返れば、静かな戦意に燃えるシルバと眼が合った。

 死体の前で半身だけ振り向き、私とピトーを睥睨している。自然体に見えるその体勢だが、何かきっかけがあれば瞬きの間もなく暗殺者と化すことができるだろう。感じる『気』は、既にその準備を終えているようだった。

 

 殺意とまでは行かずとも、注意の眼を向けられている睨み合い。ピトーはゆっくりと慎重に構えを解きながら、呟くように言った。

 

「……ボクらにまだ、何か用事?」

 

「……いや」

 

 シルバの顔から、ほんの少しだけ険が取れたような気がした。

 

「残りの二人を、()りに行くだけだ」

 

 顔を背け、死体を避けて歩き出す。傷だらけのその背中に、曹操が叫んだ。

 

「シルバ氏、さすがにその身体で一人は無茶でしょう。敵の能力だってわからない。だろう?ウタ?」

 

「まあ……女のほうはそうね。拳銃使いってことくらい」

 

 張られた声に思わず反応してしまい、やむを得ず答える。微かに白音の動揺を感じたが、呑み込んで続けた。

 

「でもイケメンのほうは、一つだけわかってるわよ。あの転移能力。『制約』とかはわからないけど、白音を十メートルくらい先に瞬間移動させてた。でも……」

 

 あの能力に感じた言葉にしにくい奇妙は、未だにその理由を解明できていない。

 

 戦い、特に念能力に於いて、未知とは脅威だ。知らぬ間に条件を満たしてしまい、気付いたころには詰んでいる、なんていうこともざらにある。仙術であればそういった危険のほとんどを防ぐことはできるが、だからといってよくわからない奇妙をそのまま忘れ、捨て置くなんていう気にはなれなかった。

 

 そういう意味合いで言い淀んだ私だったのだが、曹操がそんなことを知る由もなく、私の憂慮から少々外れた解釈が、整い始めた呼吸の後に語られた。

 

「それ一つしか能力を持っていない、なんてわけはないだろうな。……サンペーといったか、そいつと同じ程度の力量なら、もう三つか四つは別の能力を持っていてもおかしくない。俺みたいに神器(セイクリッド・ギア)持ちであるかもしれないし、あるいは魔法使いという可能性もある。奴らが逃げたのなら、当然追跡も警戒するはずだ。今動くには、さすがに状況が悪すぎると思いますよ」

 

 必死になって知り合いを説得する曹操。神器(セイクリッド・ギア)持ちかどうかはともかく、魔法使いの線はまあありえないだろうと呆れていると、その内心のため息を、いつの間にか敵意を解いたピトーが代弁した。

 

「今更じゃない?そんなの。事前に得られる情報なんてたかが知れてるし、縛られすぎるのだって危ない。戦いながら推察するものだと思うけど。――っていうかさ」

 

 振り返り、呆れ眼を向ける。

 

「ボクらには関係なくない?アイツがどうなろうと」

 

「まあ、そうよね」

 

 言い方がちょっと辛辣だけど。と心の中で付け加え、顔をしかめる曹操を見る。

 

 そもそもシルバの行動を止める権利だって、私たちは有していない。命令できるとすれば、依頼主である沖田総司のみだろう。この剛毅な仕事人は、情だけでは動いてくれないのだ。

 

 そんな奴に何を働きかけようが、時間の無駄だ。だから、

 

「好きにさせてあげればいいじゃない。私たちだって戦える状態じゃないし」

 

 諦めてくれるように言葉を繋げた。

 

「それに、絶対負けるって決まったわけでもないじゃない?『念魚』にボッコボコにされちゃっても生き残るくらいには強いんだから、もしかしたら言った通りに二人とも……」

 

 しかし、諭すためのそれは半ばで途絶えた。舌を動かす意識が、眼前のそれに移ってしまったからだ。

 

 最も後方。呆然とする九重のさらに後ろ。濃密な妖力を振りまく陣から、その凛とした声が響いた。

 

「殺してもらっては、困るのじゃよ、ウタ殿。それに、シルバ=ゾルディック」

 

 転移で現れた八坂は、シルバを睨みつけながらそう告げた。

 

 ピトー曰くのダメージはどうやらほとんど回復してしまったらしく、その堂々たる宣告は妖怪の統領としての風格に満ち溢れている。シルバの足さえ止めてしまったほどだ。

 加えて、未だに輝く転移陣は次々と武装した妖怪たちを吐き出していた。精鋭ぞろいの援軍たちは、この状況にて緊張はすれども頼もしく、陣を繋げる要の役割を果たした九重に、私は心の中で労いを言った。

 

 その直後、八人目の兵隊が姿を現した、すぐ後だった。

 

 歓迎されざる気配が陣から飛び出し、兵隊たちの間をすり抜けた。

 

 魔王の眷属であり、リアス・グレモリーの付き人でもある沖田は、座り込む身内二人を見つけるや否や、駆け寄って傍に跪いた。

 

「リアス!白音!……無事でよかった……!」

 

 真隣で、ピトーの邪気が膨れ上がる。

 

 安堵に息を吐く間もなく、沖田は二人を背に庇った。恥知らずにも鬼の形相でピトーを睨みつけ、何も下がっていない腰元に手を伸ばす。ここに来るにあたって取り上げられたのだろうが、それすら忘れているらしい。

 ピトーの放つ憎悪が激しい故だろう。兵隊たちはおろか、シルバも曹操も、八坂に突進して泣きじゃくる九重の声すらも呑まれ、その皆が身体を固くしていた。

 

 そんな悪念を一直線に向けられた沖田が、鯉口を切るような動作をした、次の瞬間、

 

「やめよ」

 

 八坂の鋭く重い一声が空気を切り裂き、鳴り響いて断ち切った。

 

「もうこれ以上の面倒はごめんじゃ。沖田、早うせい」

 

 向けられた沖田はちらりと八坂の方を振り向き、すぐに首を戻した。意識だけは油断なくピトーを捉えつつも、目線が私たちの背後、たぶんサンペーの死体を見据える。

 

 じっと目玉に映しながら、小さなささやき声のようなものを口にした。

 

「白音、あなたを攫った犯人が、人間の……あそこに倒れている念能力者だったというのは、本当ですか……?」

 

「……え?」

 

 沖田の疑念など知る由もない白音は、質問に呆然と首を傾げる。そして続く沖田の硬い口調に、びくりと震えた。

 

「リアス様もです。いつの間にかいなくなられたこと、これも咎人三人の内のどいつかの仕業だと聞きましたが、朱乃によれば……。本当の所は、どうなのです……?」

 

「お……沖田、あなたまさか……まだ曹操たちを疑っているの……?」

 

「疑って……?」

 

 白音は理解と共に悲鳴の息を吸い、沖田の羽織に縋りついた。

 

「ち、違いますっ!ウタさまは……フェルさまも曹操さんも、私たちを守ってくれたんです!」

 

「そうよ!悪いのは全部そこの、『幻影旅団』なんていう者たちよ!曹操たちは、敵なんかじゃないわ……!」

 

 その単語に、とうとう意識もが死体へ向けられた。

 

「『幻影旅団』……」

 

 口の中で繰り返された声が、微かに聞こえた。しばらく考え込むようなそぶりを見せた沖田の眼は、やがてほど近くのシルバを映し、はっきりと声を押し出す。

 

「シルバ=ゾルディック、貴方への暗殺依頼を取り消します。咎人共の追跡も、もう結構です」

 

「……了解」

 

 短く答えた、と思えばすぐさま、その姿が掻き消える。天井に空いた穴に飛んだのだ。子供三人と兵隊のいくらかを驚かせた奴の気配は、地上の暗闇に紛れ、消えた。

 

 余韻も何もあったものではない唐突な別れ。寂しいだとかは欠片も思わないが、幾らか言ってやりたいことも残っていたために、少しだけ残念に思った。

 

 とはいえそういう無駄話は、居残っていてもまともに応じてはくれなかっただろう。そう思うことにして、私はその大穴を見上げていた。

 

 たぶん、シルバが跳躍で足を掛けたのだろう。蹴られた穴の壁が今更のように崩れ、僅かな土塊が零れ落ちる。崩落はもうずいぶん前に収まり、今は車なんかの振動にふるい落とされた土埃ばかりが降っていたため、その塊は見え辛くとも目立っていた。だから目についた。

 

 その土砂が、ふと緩やかに落下速度を下げ、やがて空中で静止した。

 

 徐々に時間が反転していくかのようだった。ビデオを巻き戻しているみたいに、宙に留まった土砂が穴の縁に戻っていく。

 

 さらには、足元に振動。崩れ落ちた天井の瓦礫や土砂が浮かび上がり、昇って穴を埋め戻している。たぶん、地上でも同じことが起こっているのだろう。

 

 八坂の膨大な妖力が、半径十メートル近くもある大穴の瓦礫や土砂を覆っていた。

 

「ふう。やれやれ、戦いには間に合わなんだが、ひとまずは、じゃな。それにしてもフェル殿、随分と派手に壊してくれたものじゃのう?」

 

 あっという間に大穴は塞がった。痕跡の一つも残すことなく、そこで崩落があったことなど信じられないくらい、きれいに天井が修復されている。

 

 額を拭うと、八坂は親切にも狐火で光源を作り、妖しげな笑みをピトーに向けた。

 

「隠蔽工作で話をでっちあげ、その上電車まで止めることになったわけじゃが……はて、これはどこに請求すればよいのじゃろうな?」

 

「……別に、もみ消してくれなんてボクは頼んじゃいないけどね。大っぴらにしても、むしろ拍が付くから」

 

「ほほ、付きはしても悪目立ちじゃろうて。それに、少なくとも普通の人間には言い訳が必要じゃ。『念』も我らの存在も、普通の人間に知られるには都合が悪いでな」

 

 憎悪を燃やすピトーから、内容だけの軽口。九重を抱き上げる八坂は、呆れたふうに微笑み、続けた。

 

「ま、街の面倒は五大宗家の連中にでも押し付けてやるとするかの。まんまと札を奪われよったのは、あ奴らであることじゃしな。なんにせよ、無事で何よりじゃ、フェル殿。それにウタ殿、曹操殿も」

 

「ええまあ――」

 

 と、曹操が外向きの調子でなにやら言いかける。それ以降が続かなかったのは、沖田の警戒心が、ひりつくくらいにますます増して割り込んだからだった。

 

「本当に、あの大穴は貴様が開けたものだったのか……?神器(セイクリッド・ギア)や、妖怪の力ではなく……?」

 

 睨みあうピトーは、怒りのあまりに声までもを震わせて言った。

 

「さっきから、訊いてばっかり。畜生には考える頭もないってわけ」

 

 張り詰める、二人の間。もう数秒続いていれば、たぶんピトーの手が出ていただろう。

 

 そうなれば……すこぶる面倒な事態に陥るに違いない。故に私はピトーの前に踏み出し、代わりに胸の内を露にしてやった。

 

「間違いなくフェルの念だけど、それがどうだっていうわけ?また何か、難癖でも付けてくれるの?……救いようがないわね、お姫様の証言があっても。私たちを殺したくて仕方ないって感じ」

 

「な、なんで沖田さまが……ウタさまを殺したいだなんて……」

 

 白音の混乱と疑問に、リアス・グレモリーは表情を歪め、背ける。ピトーが、声色を平淡に答えた。

 

「シルバ=ゾルディック、さっきの暗殺者を使って、ボクたちを殺そうとしてたんだよ、ソレはさ。おかげでここまで拗れた。なければウタも、あと曹操も、もうちょっとマシなダメージで済んだんだけどね」

 

「……本当、なんですか……?」

 

 振れる眼を向けられた沖田は、見向きもしない。ほんの僅かに眉根を寄せて、あからさまに行儀よく頭を下げた。

 

「それについては、確かに下策だったと思っている。結果的に、白音やリアス様の救出をも妨害してしまった。申し訳ない」

 

「ふん、結局それなわけ。謝る気もないなんて、図々しいことこの上ないわね。私たちを殺そうとしたことについては、ノーコメントなの?」

 

 ピトーの声が、冷たく響いた。

 

「別にいいよ。どう見られようが」

 

 訊くまでもないことだ。その内心の、何もかも。互いの反目はもうどうしようもないところまで張り詰め、ほんの少しのきっかけで弾けるくらいに震えていた。

 

「どうせ自分の手じゃ何もできない腰抜けなんだから。口だけだね、魔王の眷属なんていったって」

 

「貴様ッ……!」

 

 挑発に沖田が殺気立つ。ピトーの憎悪とぶつかり、生じた圧が、おびただしい量の邪気を周囲に撒き散らした。皆が、その影響下に晒される。

 

 うっすらと冷や汗が浮いた。が、

 

「やめよと、そう申したじゃろう、両者とも」

 

 すぐに八坂の威厳が負なる空気を押し流した。兵隊を押しのけ、歩み出てピトーに尋ねる。

 

「そのようなことよりも、じゃ、フェル殿。残り二人の賊はどうなった。倒したのか、それとも逃げたのか」

 

 ピトーは不満げに目を細め、答えた。

 

「黒いリーダーの方は逃げたよ、こっちのトンネルにね。けど女はわからない。廃工場から出て以来、一回も見てないから」

 

「……主ら、聞いたな?駅を塞いでおる者らに通達せよ。必要ならば応援も出せ。地上は、ひとまず駅周辺に集中させるのじゃ。ほれ、行け」

 

 手を指揮棒に振られた兵隊たちは、はっと我に返って一斉に動き始めた。半分が転移陣で消え、見る限りでは最も強そうな二人がトンネルの奥に消えていった。残りの数人は若干浮足立ちながらも八坂の背後に控えている。

 

 それを一瞥して、はぁ、とため息を吐き、八坂は沖田へ向かって言った。

 

「『幻影旅団』、じゃったか。用意周到な上にかなりの使い手じゃから、生かしておける保証はないが、捕縛できたならそちらにも連絡を入れよう。……リアス殿に白音の無事も見届けた。もう十分じゃろう?」

 

「……ええ」

 

 呟くように返し、構えで落とされた腰を持ち上げる沖田。刺すような眼と殺気はそのままに、八坂を見る。

 

 そしてそのまま、告げられた。

 

「沖田総司、貴殿を京への不法侵入の咎にて拘束する」

 

 静かで重い八坂の宣告が、トンネル内を跳ね返る。ぐわんぐわんと何度も鼓膜を揺らすその音に、縋りつく子供二人は呆然と口を開けていた。

 

 たぶん、八坂の転移陣に紛れて現れたために、その可能性を考えもしなかったのだろう。

 

 実際のところはともかく、二人にとって沖田は立派な身内だ。奴の主の妹と、そのお気に入り。当然気に掛けるだろうし、二人は奴の善性の面ばかりを見ているに違いない。リアス・グレモリーの、度の過ぎた動揺だってそのせいだ。

 二人の印象では、沖田総司は紛れもない善人。そんな人物がいきなり罪在りとされ、しかも拘束という明白な扱い示されれば、子供の頭で処理しきれなくなるのも当然だろう。

 

 あるいは沖田が無抵抗無反応だったことも関係しているかもしれない。現実と理解が結びつかないリアス・グレモリーは、残った兵隊たちが沖田から二人を遠ざけ、周りを固めていく様子を眼にする頃になってようやく、我に返って騒ぎ始めた。

 

「ま、待ってください八坂様!そんな、いきなり……!」

 

「いきなり、というわけでもないのじゃよ、姫君」

 

 八坂と沖田との間で右往左往するリアス・グレモリーの混乱を、八坂は至極冷静に受け流す。瞼を閉じ、貫禄たっぷりに間を置いてから、見やって続ける。

 

「それに、許可証なくして京への侵入はまかりならんと、何度も言うておるじゃろう。にもかかわらず、こ奴はそれを見事に破ってくれたのじゃ。やむを得まい」

 

「なら……なら、私も同罪のはずです!私も、許可証を持たずに京都に入りました!」

 

「入ったのではない、連れ攫われたのじゃ。白音もな、京へ無理矢理連れ込まれたそなたらを、妾が見つけ、保護しておった。責があるとすれば、その『幻影旅団』なる連中じゃろう」

 

「……でも、沖田は私たちを心配して来てくれただけなんです!『幻影旅団』みたいに悪いことは……ほ、本人はしていません!それに……」

 

 ぷつりと途切れ、何かを考えこむように視線が下がる。じっと一点、どこか遠くを照準する眼差しの奥で思索を巡らすリアス・グレモリーは数秒後、またしても唐突に顔を上げ、興奮に見張った目でまくしたてた。

 

「沖田は八坂様の転移魔法陣を通ってここに来ましたよね?八坂様も妖怪の皆さんも、沖田に驚いているようには見えませんでした。つまり、気付いていたってことなんじゃないですか?気付いていたうえで通したということは、それは八坂様の許可があったということと、同じなんじゃないでしょうか!」

 

 想うが故の鋭さに、ちょっとだけ感心した。甘やかされた貴族のお嬢様にしては、それなり。

 

 だがまあ、私でなくとも感心を得た程度では何も変わらない。どれだけ正論で言いくるめられようが、八坂もそれだけは曲げないだろう。

 

 想像通り、見破った背後で八坂から苦い顔を引き出すことには成功したものの、その静かな口調は崩れることなく、歴然と子供に諭した。

 

「……もし妾の許しがあったとしても、それは何の意味もないことじゃ。決まりは、妾の一存で変えてよいものではない。

 沖田は自らの足で侵入した。どんな理由であろうと、その事実がすべてなのじゃ。故に――」

 

 視界から、諦めようとしない我が儘姫を外し、おとなしく佇む沖田に向かって告げた。

 

「沖田総司、貴殿を退去強制のうえ、永久的許可証発行禁止処分とする。今後一切、京に立ち入ることはまかりならん」

 

 つまり出禁。迷惑行為を働いた客に対しては当然の罰則だ。永久、というのも、悪魔の寿命を考えればおかしくはない。

 

 だが、八坂が治めているのはキャバクラではなく、いわば一つの国なのだ。しかも人外の世での話。単身で街一つを滅ぼせるような輩がざらにいる超常の種族が相手では、その脅威度もまるで異なる。だからこそ八坂は、極刑もありうるのだと言ったはずだ。

 

 なのになぜ、と、私が不満を呈する前に、同じことをピトーが問うた。

 

「罰が軽すぎない?見せしめはちゃんとやらないと、変な奴らが調子に乗るよ?」

 

「……致し方あるまい。姫君の言う通り、本人が害をなしたわけではないのじゃ。決まりに則り、判断せねばならん。それに……背後の眼もある」

 

 ため息に混ぜ、最後に呟く。

 

 言われてみればその通り。いくら悪魔勢力が弱体化しているとはいえ、八坂の率いる京都の妖怪たちは、所詮一都市の小規模組織だ。強く出られるはずがない。

 

 沖田もそのことは弁えていたのだろう。ただやはり、リアス・グレモリーはそうでもないようで、頭を回し続ける彼女には呟き声も聞こえず、まだ必死に言い募っていた。

 

「永久的なんて……そんなの酷すぎます!害がないってわかっているなら、罪はもう少し軽くてもいいんじゃないですか?!もう京都の侍との交流会にも行けないなんて……そんなの、私、あまりにも可哀そうで……」

 

「いえあの、リアス様、それは……ともかく、納得はしていませんが理解はしているので、収めてください」

 

 一瞬動揺の焦りを見せてから、沖田はまた鹿爪らしい表情に戻る。横で八坂が「侍の交流……?」と訝しげに眉を顰める姿にすぐさま崩されながら、しかしなんとか立て直し、三度目の真面目顔を八坂に向けた。

 

「八坂殿、処分には従いましょう。抵抗する気もありません。代わりに一つ、頼みを聞いてはもらえませんか」

 

「……申してみよ」

 

 八坂の小脇を通り、汚物でも見るような視線が、それを指す。

 

 サンペーの死体に、奴は冷たく吐きかけた。

 

「あの死体を、私たちに引き渡していただきたい。そうしていただけるなら、こちらもこれ以上は口出ししないことをお約束しますが」

 

「ふん、何を言うかと思えば……。死体など、どうするつもりじゃ」

 

「……何か情報を、得られるかもしれませんから」

 

「情報、のお……」

 

 不遜極まりない沖田の物言いに、八坂ならずピトーまでもが舌打ちを堪えるような顔をする。たぶんその意は、横取りするな、だろう。八坂にならばともかく、私たちの存在ごと消したがっているような奴に持っていかれるのは、私だって腹立たしい。

 

 そんな私たちにも構わず、じっと八坂を見つめ続ける奴は、とうとう不信を隠そうともせずに並べたてた。

 

「できすぎているように思えて仕方ないのです。『幻影旅団』のようなA級賞金首が、この日偶然京都に滞在していて、偶然観光する私たちを発見し、偶然入手していた対大妖怪の呪符を以てして、八坂殿までもを撃退せしめた。なんていうその事実が、私には胡散臭くてしょうがない。

 私たちが今日、京都を訪れているという情報は、我々悪魔と貴方がた妖怪しか知りようがないはずです。ならば何者かが情報を流し、連中に手を貸し準備していたと、そう考えるのは何かおかしなことでしょうか?今後のリアスさま、ひいては悪魔の安全保障のために、この背後関係はつまびらかにせねばならない。八坂殿、そうは思いませんか?」

 

 妖怪たちが裏で糸を引いていたのではないか。奴の根幹に根付いた疑念は、結局それに始終する。故にその八坂と繋がる私たちも信用できず、四方すべてに牙を剥き出しにしているのだ。

 

 孤立無援。周囲の全員が敵となれば、外部からの言葉など耳に入るはずもない。つまり、言葉であの敵意を引かせることは、すさまじく難しい。

 

 いよいよ私も覚悟を固めた。曹操も、その渋面を一層険しくする。

 

 だがその意思は、暗にはっきりと疑われた、当の八坂によってわきに追いやられた。

 

「思うとも。此度の事件は奇妙じゃとな。白音や姫君の身柄だけでなく、それをダシにした稚拙な陰謀の存在を、妾はこれの始まりからずっと感じておったわ」

 

 同色の不信を返し、睨みつける。

 

「……まあ、いいじゃろう。事件の解明を望む思いは同じであるようじゃしな、頭くらいは譲ってやらんでもない。あの上質な人の肉を楽しみにしておる者もおる故に肉体すべてをやるわけにはいかんが……情報がほしいというのなら、それだけで十分じゃろう?それに、お主らには悪魔の駒(イーヴィルピース)なる蘇生の魔具が――」

 

 と、信頼関係の締結を投げ捨てた八坂が溜まったものを吐き出して、イライラと続けるその最中、

 

「あ……ひッ!!」

 

 純粋な邪気の波が、感覚に触れた。

 

 発見したその悪寒のあまり、白音が悲鳴を漏らしてしまう。一瞬だけ早く察知した私も、背を粟立てて振り返り、見た。

 

 イケメン青年と、二人の兵隊が消えたトンネルの奥、その暗闇。ぼうっと淡く、白く浮かび上がる、魚のような頭が二つ。

 

 見覚えのある『念魚』が、今度は二匹で且つ完全な造詣のまま、揃ってまっすぐこちらを向いていた。気配に似合わないつぶらな瞳が私たちを見つめ、身をくねらせゆっくりと進んでくる。

 

 迫りくる気配と私たちの反応に、他の皆も気付いたのだろう。息を呑む声が聞こえ、空気の緊張が一気に膨れ上がった。

 

 だが――

 

「あの『念魚』は……ッ!!まさかあ奴、まだ生きておるのか!?」

 

「……いえ、恐らくあれは『死者の念』でしょう。禍々しさが俺でもわかる。深い恨みや未練を抱いたまま死ぬと、死後も『オーラ』が消えず、現世に残ることがあるのです。そして……そうして発動した念は、恐ろしく強くなる。十分に、注意すべきでしょう」

 

 その優美な姿は、私にとって無視し難い奇妙を含んでいた。

 

 曹操の言う通り、『死者の念』ではあるはずだ。執着、憎悪、そういった悪念によって発動するが故の、混じりっ気のない邪気。それが発せられているうえ、能力の持ち主である男は間違いなく死んでいるのだから、原理はそれ以外にありえない。

 

 間違いなくそうであると、判然としてはいる。だが、だがやはり、そうであるとしても妙なのだ。

 

 なぜ今になって現れたのか。

 

 生命エネルギーに理論を言うのもおかしいかもしれないが、普通は死してすぐ、魂が肉体から離れる前に『死者の念』は発動する。どこまでいってもそれが『念』である以上、自身の肉体にある『気』を使う必要がある。

 男の命が消えて十数分が経過した今、その身体には『気』も、そして魂も、居座れはしないだろう。第一、その体内ででも『念』が使われれば、確実に私が知覚できていた。故に同じ理由で、消滅を免れた『念魚』がいて、それに宿り戻ってきた、ということもありえない。私の仙術の索敵能力から逃れられた『念魚』など、存在するはずがない。

 

 第一、『念魚』は釣竿で釣るか他の能力で無理矢理引き上げるかしないと具現化できないのではなかっただろうか。そのあたりが都合よく省略されたということもありえるが、やはり違和感を覚えてしまう。何かが異なっているような、ちぐはぐの感覚。

 

 どうにも打ち捨てられないもやもやに苛まれる。その間に、悠々と泳ぎ寄ってきた『念魚』たちがその行進をやめ、一所、男の死体の上を旋回し始めた。

 

 理解の及ばない奇行。男の憎悪が向くとすれば、とどめを刺したシルバか、追い詰めた私たちであろうに、と訝しく思う。不満が過ぎてもはや諦めの域に入りつつあるピトーや他の皆共々、私は二匹の『念魚』を見守っていた。

 

 唐突だった。

 

 不意にその時、『念魚』たちの二対の視線が、私とピトーを同時に直撃した。ただし敵意が感じられない。面白がるような馬鹿にしているような、魚の目玉から発せられたとは思えないような表情が、それに見えた。

 

 そうして困惑が増した次の瞬間、二匹は大口を開け、食らいついた。

 

 よりにもよって、術者であるはずの釣り人男に。

 

「なッ……!!」

 

 絶句したのは沖田。動きかけたその身体を制し、八坂は『念魚』へ、素早く掲げた狐火を打ち込んだ。

 

 妖炎が燃え上がる。が、『念魚』は堪えた様子もなく、一心不乱に肉を貪っている。噛み千切った痕から全く血が出てこないのは、たぶんその『念魚』の能力なのだろう。加減されたものとはいえ、八坂の力が防がれたことと相俟って、皆の気配に動揺が広がった。

 

 同じく、私の内心も驚愕していた。一緒になって息を呑む。ただ、その中身。理由は、その時起こった『念魚』の変化でそれに気付き、長らくの疑問に答えを見つけたがための情動によるところが大きかった。

 

 『死者の念』、邪気で形作られた『念魚』。収まっている『気』もほとんど邪気一色だったが、隠れていた別物が、取り込まれた肉の微かな『気』に反応して、ほんの僅かに顔を出していた。

 

 男の『気』でも邪気でもない第三者の『気』、イケメン青年クロロの『気』だ。それが手綱を引き、覚えのある内側と外側のちぐはぐを基礎としながら、この能力を形成している。

 

 釣り人男の能力であったはずの『念魚』が、イケメン青年の奇妙な転移能力と似た形で働いている。そしてどうやら、『念魚』は『死者の念』の執着や憎悪だけで動いているわけではないらしい。

 

 それはつまり、

 

「他人の能力を引き出す能力、ってことなのかしらね」

 

「なんだと?貴様、いったい何を言っている……!」

 

 欲した情報源までもが消え去ろうとしている今、何もかもが疑わしくてしょうがないらしい。今にも暴れ出しそうなほど怒り、兵たち立ちに押し留められている沖田が、歯を剥いて怒気を迸らせた。

 

 隣で害意の『気』を燃やすピトーのためにも無視を決め込むつもりであったが、曹操と八坂、その他もろもろからも説明を求めるような沈黙が流れ、やむを得ず整理を始める。

 

 歯が立たず、もうすでに死体の半分以上を虚空の胃袋に収めてしまった『念魚』たちを一瞥してから、私は求められるまま振り返った。

 

「たぶんイケメンのほうの仕業なのよ、これ。言葉にするとややこしいんだけど……釣り人男が『死者の念』で『念魚』を具現化した、じゃなくて、『死者の念』が宿った『念魚』をイケメンが具現化した、みたいな、そんな感じなの。外側は変わらずに、中身がイケメンの『気』に主導されてるように見えたから、だからイケメンの能力がそうだったんじゃないかって話。複製(コピー)奪取(テイク)かは、わからないけど」

 

「……あ、あのっ!」

 

 白音が、いっそ悲壮とも思える表情で声を上げる。

 

「た、確かあの黒ずくめの人、あれと同じお魚に、盗んでもいいだろって……言っていたような気が、します……」

 

「……つまりは、対象から『念』を盗んで使うことができる能力ね。ハマればすごいタイプ。……もしかしたら、『死者の念』っていうのも何か条件の一部だったのかも。こんな能力、相当の『制約』と『誓約』がないと成立するはずがないし……まあ憶測はともかく、ハイリスクハイリターンな能力なら、下手なことしない限り能力を奪われる心配なんてしなくて大丈夫でしょ。周りだけ注意しておけばいいわ」

 

 ピトーの『念』が盗まれそのまま正体が露見する、という状況は私たちが最も恐れるところ。その杞憂を取り払うために付け加えた後半は、八坂に限って真逆の効果を及ぼしたらしい。顔を歪め、兵隊の一人に耳打ちする。その苦々しげな表情が、『念魚』の現れたトンネルの奥へ向かった兵隊二人の安否によるものなのだと遅まきに気付くころ、堪えかねたように曹操が唸った。

 

「……それがわかって、つまりどうなんだ?仙術で倒せるのか?」

 

「ちょっと!勘弁してよね。『念』っていってもあんな邪気の塊……触れるなんて死んでもごめんよ。こっちに害意はないみたいだし、放っておくのが一番だわ」

 

「ならさっきの、いかにもわかったふうな台詞は何だったんだ!?」

 

「知らないわよ!あんたたちが、教えてくれみたいな空気作ったからでしょ!?」

 

 マジかよこいつ、とでも言いたげな視線が突き刺さる。それに、だって仕方ないじゃん、と睨み返しながら、私は無駄に終わった厚意へのため息を呑み込み、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

「そりゃあ、私の正気を犠牲にすれば、消滅させられないとは言わないけどね。でも邪気に呑まれるなんてもうこりごりだし、それにたぶん間に合わないわ。あんたの邪炎なりなんなりで倒すにしても、同じこと。あの『念』の強さからすれば、倒しきる頃にはとっくに死体なんて消え去ってるわよ、『念魚』のお腹の中にね。あれも、エサになれて本望でしょ」

 

 もしかしたら、それ故の『死者の念』だったのかもしれない。死した他人の心境なんていう益体もないことを想像しつつ、食べ終えるまでいよいよもうあとわずかとなったその光景を見つめた。

 

 バラバラ死体も真っ青なくらいのスプラッタ――血と臓物が零れていない分いくらかましかもしれないが――ともかく、とうとう頭に手を付け始めた『念魚』に眼を向けていると、ふと兵隊たちのざわめきと共に、赤熱した鉄塊のように静かな怒号が、漂う邪気の空気をなぞって私に触れた。

 

「やはり、あれを止める気などないのか、貴様らには……!八坂殿、それは、貴方も奴らと同じ意志であると、そう捉えてよろしいのですか……?」

 

 見ると、押しのけられた兵隊に代わり、八坂が沖田の前に立ち、妨げていた。

 

 私たち、というよりはさらに奥の『念魚』が標的だろうが、敵意に眼をぎらつかせる沖田を威圧のみでその場に押し留めながら、八坂はもはや何色もなくなった声色で、冷ややかに言う。

 

「ウタ殿が無理と言っておる。なら他に方法などないじゃろう。妾もこんな状態で全力など出せぬ」

 

「ですから、ならば私があれを滅ぼすと――」

 

 低く重く、底から響いた。

 

「二度目じゃ、小童。我らを愚弄してくれるな」

 

 すさまじいプレッシャーが放たれる。大妖怪の妖力、他の妖怪を平伏させる迫力は、気を抜けば私も膝を折ってしまいそうなほどだった。

 

 そんな、質量までもを感じる威圧に曝された沖田は、息を詰めて心臓近くを掌に握りしめた。玉のような脂汗が浮かぶと共に、その身から、同じく妖力のようなものが噴出し、暴れている。

 

「ここにおること自体が、明らかな罪であることを心得よ。それ以上は、侵略行為と見做す。おとなしく、我らの言うことに従っておれ」

 

 告げると、ようやく圧は治まった。耐えかねた沖田が膝を突き、激しく喘ぐその身に、同じく放たれた白音とリアス・グレモリーが取りすがる。

 

 『念魚』たちのほうを見た。八坂に慄いているうちに、そんなことなど意にも介さない二匹は黙々と食を進め、食べ散らかしすらきちんと浚ってしまったらしい。

 

 そしてその時、最後の一口とばかりに残されていた頭部を、同時にぱくりと、その口腔に収めてしまった。

 

 沖田のうめき声。その体躯からは考えられない質量を完食してしまった二匹は、やはりこちらに襲い掛かってくる様子もなく、そろってくるくると旋回し始める。

 そしてまたしても私たちの姿を捉え、感情を見せた。嘲笑のようなそれに、脳内でふと、釣り人男の表情が重なると、それを悟ったかのように『念魚』は溶けだし、たちまち消えていなくなった。

 

 一拍を置き、トンネルの奥から風が吹き込んでくる。置き土産に漂う邪気も押し流され、痕跡までもが消え去った。そこに死体や『念魚』があったことは、見てももうわからない。

 

 八坂は息を吐き、気配を憤怒から沈痛へ転じさせると、こちらに歩み寄ってきた。

 

「……どうやら、ウタ殿の言ういけめん(・・・・)は、すでに駅の構内からも脱出してしもうたようじゃ。ほんに、すさまじい使い手じゃのう。主らが殺されなんで、よかった。まあ、ともあれ――」

 

 声音が一段、引き上げられる。

 

「これで本当に終わりじゃろう。三人の内の一人が欠けたのじゃから、再び襲ってくることはまずあるまい。姫君と白音にも、相応の守りを付けられるわけじゃしな。とはいえ、調書やらをないがしろにするわけにもいかんが……」

 

 愚痴るように呟きながら、八坂は鮮やかな手並みでピトーの腕の中に九重を据えた。抱かされたピトーと抱かれた九重は、一緒に目を白黒させて、説明無き突然に首を捻る。

 

 息の合ったそれらに「あー」と鳴き声を吐く私をよそに、曹操をも呼び寄せた八坂は、可笑しそうに苦笑しながら、妖力の集ったその手のひらを私たちにかざした。

 

「そういう後処理も妾の仕事じゃからな、とにかく主らはまず休むとよい。必要とあらば治療と……食べる元気があればじゃが、軽食の用意もさせておるでな、妾のことが終わるまで、しばらくゆっくりしていておくれ」

 

「ああ、それはありがたい。この二人、こちらに来てから飯の話ばかりするくらいには腹を空かしておりまして、きっと内心では飛び上がるほど喜んでおりますよ。もっとも、私は少し、入りそうにありませんが」

 

「オマエさ、その、八坂と話す時に毎回口上がキモチワルくなるの、やめてくれない?背中がゾワゾワしてしかたないんだよね」

 

「ほほ、そうじゃな。次は妾も、少しは曹操殿の肩の荷を下ろせるよう、頑張るとしよう。さて……では、飛ばすぞ?」

 

 曹操の頬が少し色付くと、同時に八坂の術が完成した。転移魔法の妖術版。足元に輝く陣が妖力を放ち、私たちの身体を包み始める。

 

 私は一瞬だけ、ピトーから外して奥に眼をやった。

 

 今度は、救えはした。身体だけだが、そもそもそれ以外の救いなど、必要とはされていなかった。

 

 たぶん、それらはあいつと一緒に乗り越えていくのだろう。だからもう、これ以降はない。この後会うことはないだろうと、そう思い、覆われていく視界に一画、その姿を切り取った。

 

 黒歌の役目は、もう終わったのだ。

 

 だから、

 

「――ウタさま!わたし、強くなります……!」

 

 転移の直前、そう聞こえて締め付けられた胸の痛みも、きっとすぐに消えるだろう。

 

 突然込み上げたそれを必死に押し下げながら、私はゆっくり目を閉じた。

 

 

 

 

 

「――とまあ、内外共に不測の事態は多々ありましたが、きちんと治めることができたわけです。会長おすすめの京懐石は、残念なことに食べ損ねましたがね」

 

 なんてふうに曹操は、ネテロに今回の一部始終を報告していた。

 

 ハンター協会本部が会長室。さしたる調度品もなく質素だが空調は完璧な快適空間にて、一面のガラス張りを背後にして執務机に座するネテロに、これでもかというほど事細かに弁舌を振るう奴。未だに戻らない顔色に身振り手振りまでもを加え、ボクが赤髪にキレたことから黒歌のチョップで気絶させられたことまで、合間合間に嫌味を挟み、語られた。日本を発ってもう一日が経過したというのに、奴の吐き気と逆恨みのほうは治まりが付かないらしい。

 

(ホントに、鬱陶しい奴だにゃぁ)

 

 ねちっこく詰られ続ければ、イライラが蓄積されるのもやむなしだろう。いつもであれば適当に反撃して発散するところだが、ネテロを前にしているとなれば、そうもいかない。

 

 そう、最も腹立たしいのはそれだ。

 

 憎きアイザック=ネテロ。ボクと黒歌を一蹴した奴を眼前にして、警戒心を手放すことなどできるはずがない。この場所、ハンター協会本部が会長室にて対峙してからずっと、ボクは意識を緊張させ続けていた。

 椅子の上に胡坐をかきながら、報告の最中、波のように去来する情動に任せて幾度もぶつけた威圧。なのに奴は、ボクの視線のそのすべからくを、まるで眼中にないとでも言わんばかりに軽く受け流してしまうのだ。

 

 発散どころではない。一人相撲をしているようで、空しいばかり。ボクをこんな気持ちにさせておいて、自分は素知らぬ顔をする、それが実に腹立たしい。

 

 勢い余って京懐石から落胆までを思い出してしまうくらい、ボクはイライラに翻弄されていた。無駄とわかっていても敵意を消すことができず、余計な思考ばかりが引っ張られる。

 

 あれは、あの時ボクの食欲を刺激したにおいの正体は、懐石料理ではなかったのだ。本当にろくでもない。

 

 などと、ある種の精神攻撃に揺さぶられてそれらを堪えていると、ふと気付いた。曹操との間に続いていたネテロの会話が、僅かにボクのほうへ傾く気配。

 

「ううむ、それは災難じゃったのォ。つくづくお主は強敵に縁がある。ハンターとしてはともかく、武人としては恵まれておるようで羨ましいわい。そのもっともたるのがその二人であるわけじゃが……さて、」

 

 さしたる間を置かず、方向が変わる。とぼけたふうな老人の相貌が曹操を外れ、意識と同じくボクを捉えた。

 

 それでもやはり、膨れ上がるボクの威圧は素通りし、あまりにも無防備に首を傾げる。

 

「そういえば、お主らが何故ここに居るのか、聞いておらんかったの。曹操の付き添いで来たわけではないんじゃろう?」

 

 飄々とした物言いに、何もかもを見透かされているような気分になる。当然好ましからざる感覚だが、だからといって黙っていたら、堪えて居座った意味がない。不服と不満と、それから多種多様なイライラを呑み込んだ。

 

「……黒歌?」

 

 とはいえそれは、望んだ当人である黒歌が言わねばならないことだろう。隣で踏ん切りつかずに目配せしてくる彼女を小突き、促してやると、ほっとしたように瞑目する。そして一つ深呼吸をしてから、まっすぐネテロに眼を向けた。

 

「アイザック=ネテロ。私に……仙術を教えてください」

 

「ほう、何故に?」

 

 頭まで下げた黒歌に、動揺の一つもせず聞き返すネテロ。呑み込んだものを吐き出しそうになるボクを意識の外に、黒歌は少し言い淀んでから答える。

 

「……それは、自分の力不足を痛感したから。一人で右往左往してる暇はないって思ったから、です……。他に指導者の当てなんてないし……」

 

「ほうほう。らしいがピトーくん、お主はそれで良いのかの?他でもないワシに、黒歌くんを任せて」

 

「ボクのことはいいんだよ!それで?いいのかだめなのか、どっち!」

 

 たまらず張った声に、ネテロはにっこり微笑んだ。

 

「もちろん良いとも。数少ない仙術使いの同胞じゃからな、請われたならば是非もない。それにワシも猫魈の仙術には興味があってな、実は前々から、曹操に話の機会を設けてくれるよう頼んでおったのじゃよ。……その顔を見るに、どうやらワシの頼みはなかったことにされておったようじゃが」

 

「いや、だってあんな無茶ぶり、できるわけがないでしょう?俺はまた、会長の悪いところが出たのだと思っていましたよ」

 

「ふぇっふぇっふぇ、大マジも大マジじゃったよ。今日も、来るって聞いてワシ期待しとったんじゃもん」

 

 さも楽しそうに笑い、ネテロは椅子から立ち上がった。スキップでも始めそうなその陽気が、ほんの一瞬九重のそれと重なってしまったことが非常に不快だが、きりがないのでひとまず見逃すことにする。

 

 おかげで書類が山をなす執務机からも脱出を果たした奴は、カラコロ下駄を鳴らしてボクたちの前を通り過ぎると、扉に手を掛け振り返った。

 

「そういうわけでの、黒歌くん。ちょうど仕事も片付いたことだし、さっそく今からいかがかな?ほれ、ピトー君に曹操も」

 

 黒歌とネテロを二人きりにする気はもとよりない。恐らく永久に消えることがない、奴に対する警戒心。万が一のためにも、誘われずとも修練にはついて行くつもりだった。

 

 が、今しばらくは例外だ。

 

「後で行くよ、ボクたち二人とも。コイツの三半規管を直してあげる約束しちゃったからさ」

 

「そうかの?ならば、先に行っておるよ。場所は曹操に案内してもらうといい」

 

 最後まで全く内心を晒すことなく、ネテロは扉を押し開け出て行った。両開きの片側だけが微かに軋みを上げ、頂点を経て戻り始める。

 

 立ち上がった黒歌は、ちょっと緊張した面持ちでそれを押さえた。

 

「じゃあ、私も行ってるわね、フェル」

 

「うん、ウタ。すぐ終わるから」

 

 隙間をすり抜け向こうに消えると、扉はゆっくり閉ざされた。

 

 再びの密室。さらには見計らい、曹操が半笑いに、「それで?」とボクへ椅子を回す。黒歌の分だけ間を広げて相対し、咳払いを一つした。

 

「何が訊きたいわけなんだ?……いや、察しはついているが、まさか本当に治してくれるわけでは……ないんだよな……?」

 

「さて、どうするかな。十億払うなら考えてあげてもいいけどね」

 

「ドルでも円でも法外だな、全く……しばらくは酔い止め薬がお茶請けか……」

 

「ご愁傷様。でも嫌なら、百円くらいはまけてあげようか?ちゃんと答えてくれるなら」

 

「はっ!俺の善性はジュース一本分の価値も無いのか!」

 

 笑う曹操。ボクはその時、ようやく奴に眼を向けた。

 

 脱いだ帽子を手の中で弄び、それを以て息を吸う。

 

 奴の笑みが、困ったふうに歪んだ。

 

「どこまでが、オマエたちの企みなわけ?」

 

 応えはしばらく返らなかった。

 

 頭の中で言い訳やらこじつけやら、嘘の配分でも量っているのだろう。隠す気はあるようだが、その様子が黒歌のプリンを食べてしまった時そっくりで、隠蔽の効果はまるでない。しかし構いはしなかった。そもそもコイツがすべてを知っているわけがないのだ。

 

 ボクはおとなしく、曹操の呼吸音を待った。

 

「……どう話したものか……とにかく、俺の計画ではない。現場で働かされているような末端でしかないうえ、役職も持たない平ハンターの身であるから、それを前提に聞いてほしいんだが……」

 

 些細なことだ。そこから一つ抽出して組み上げればいいだけのこと。

 

「確かに、あの誘拐事件を画策したのは俺たちの側だ。喧嘩するよう仕向けたのもな。……ただ――」

 

 曹操がぱちりと瞬きをした。

 

「あんな死闘になったのは、こっちとしても全くの想定外だった。両方と同じく、『幻影旅団』なんていう大物が現れるなんて、思ってもみなかったのさ。

 ……適当な、はぐれの悪魔払い(エクソシスト)か妖怪狩りなんかをぶつけて、小さな諍いからお前たちも合わせて炎を煽る、というのが本来目指した予定なんだ。今後のためにな、悪魔と妖怪の関係が良くなると都合が悪かったんだよ。

 大分狂ったせいで、むしろフォローに回る羽目になったが……だからまあ、目的はそれだけだ。白音の誘拐はもちろん、リアス・グレモリーへ伸びる魔手も、成功させてやるつもりは欠片もなかった。それで……あー……だが結果的に白音は助かったわけだろう?目的もあらかた達成したことだし、俺の吐き気を除けば作戦は大成功だった、という話なわけだが……」

 

 緩やかに衰えていった勢いが、そこでとうとうボクの眼に負けた。ごくりと喉を鳴らし、反応を求めて落ち着きなく視線を泳がせる。

 

 脚を組み替え腕を組み替え、思考を回すボクを見守っていた奴は十数秒後、早くも耐え兼ねたらしく、身を乗り出した。

 

「納得はできたのか?これ以上と言われても、俺が話せることはもう残っていないぞ?」

 

「……ふぅん」

 

 一瞬、三半規管の修復にかこつけて頭を開こうかという思いが脳裏をよぎった。

 

「まあ、いいよ。黒歌とボクと……白音に害が及ばなければ、他は関係ないから」

 

 とりあえず、最たる対策法を認めたことに免じて、勘弁してやることにする。

 

 眼が外れ、隠しながらも胸をなでおろす曹操。放ってボクは椅子を飛び降り、帽子をかぶりなおして扉の面を押した。

 

 そして振り向き、告げる。

 

「これの後でさ、パリストンと話せるように連絡しといてくれる?」

 

「……ああ、そうか……。わかったよ、十億だ」

 

「口座に入れとくにゃ、ジンバブエドル」

 

 曹操と違い、パリストンから引き出すには、お金なんかでは足らないだろう。ボクの身体データとなら取引にはなるかもしれないが、口出しは望み薄。それでも知ってしまったからには関わらざるを得なかった。

 

 だからあの時、協力は結構などと言ったのか。下手をすれば奴は、ネテロよりも厄介だ。

 

 気を引き締め直し、ボクはポケットから携帯を取り出した。操り、色を付けた金額を送り付けると同時、響いた非難の声には無視をして、会長室を出た。

 

 また、何かしらが起こるであろうと、予感しながら。




どうにかこうにか一話に収まったので、これにて二房の猫じゃらし二部、終了です。くぅ疲。一部と比べて三倍ほどの話数、更新期間に於いては言わずもがなの長い間、お付き合いくださりありがとうございました。最新話から読み始めるタイプの人は今すぐ残りの十五話+一部の五話分も読んで。
さてはてお知らせ。一部以上にどっちの二次かわからないような展開になってしまった二部ですが、三部ではちゃんと原作と合流します。未だにスタート地点を悩んでいるような有様は、二部後半の京都動乱編(二秒で命名且つパクリ)で加わった白音も交えつつ、どうにかする予定です。未来の私の頑張りに期待しましょう。
なのでそのために英気を養うことにします。連載は短編を書くのと違って大分エネルギーを消費するのでモチベーションの維持が難しく、このまま連続で書いていれば、たぶん恐らく文章力が墜落してしまいます。京都動乱編の真ん中あたりからの失速が読者さんにバレていないか、すごく不安なくらいです。何十話何百話と続けて長期連載している他の作者さんと違って、私は豆腐の角の千倍意志力が弱いことに定評がある穀物なので、それを回復するためにお休みをいただきたいのです。
つまりは、積みゲー消化したり他の短編書いたり他の二次小説読んだりしたいので、次話三部の更新がだいぶ遅くなります。年明けぐらいまではサボってもいいよねって、そんな気持ち。
以上です。また会う日までしばしの別れ。
でも感想はいつでもください。


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第三部 創傷のねこくさ
一話


第一部の五話分を手直ししました。けれど例の如く内容は変えておらず、気持ち悪い文章をいじっただけなので特別読み返す必要はないと思います。
本当は二部もまとめて直そうと思ってたけど無理でした。自分が過去に書いた文読み返すのほんとしんどい。

20/9/08 本文を修正しました。


 ぼーっと、自分の眼が遮光カーテンを眺めている。クロカ選定のその深い藍色をバックに、柄の猫と、視界の左側でせり上がった枕の丘が奇跡的にも一幅の絵画のように合致して、瞳の水晶体に映っていた。

 

 それに見惚れ、ぼんやり十数秒を消費した。そうしてようやく、ボクは自身がベッドの上で目を覚ましたことを自覚するのだった。

 

「……ねむい」

 

 無意識に心境を口にしながら、この時期には少々厚めの掛布団をのける。続いて枕からも頬を引きはがし、丸まった身体を起こすと、ボクは四つん這いでぐうっと順繰りに伸びをした。ぱきぽき言う、腕、首、背骨。脚も股関節も凝りから解放され、と同時に習慣の自動操作が切れたために、ぺたりと腰がマットレスに落ちる。そして一つ、大あくびが寝起きの脳味噌からあふれ出た。

 

「ふぅぁ……今日は……朝かぁ……」

 

 カーテンの隙間に見える朝日の匂い。閉め切られた室内に届く光量は僅かだが、しかしそれでもそれっぽく(・・・・・)規則正しい目覚めになんとなくほっとする。ここ最近は仕事のせいで生活リズムが滅茶苦茶になってしまっていただけに、感慨はなおさらのことだった。

 

 まあ気分的な面はともかく、体調的には早朝起床などしない方がいいのだが。

 

「……夜までねてたい」

 

 半ば夢の中に沈みながらそんなことを口走るくらいに、眠気と気怠さはまだ瞼の上に居座っている。睡眠時間も含め、朝の空気感が存分にボクの気力を削いでいた。

 これが夜であったなら、もう少し寝起きも良かっただろう。しかし文句を言っても始まらないし、誘惑に負けて二度寝をするなんてのはもってのほか。ボクはふにゃふにゃ下がっていく頭と瞼の微睡みをどうにか持ち上げ、寝ぼけ眼を擦りながらぐんにゃり腰を捻った。寝台の逆側、空っぽになっているクロカの床を見下ろし、まつ毛の重さに瞬きした。

 

 枕と、整えられた布団に手を差しいれる。温もりはもう残っていない。なればクロカが既に起床し、朝の準備を始めているのだろう。そんな中で一人のうのうと惰眠を貪るなど許されるはずもなく、故にボクは意を決する必要に駆られていた。

 

「うぅん……」

 

 ため息代わりに再度背の筋を伸ばし、潰れた正座で痺れた脚をベッドから降ろした。床につき、じんわり戻ってくる足裏の感覚がカーペットの質感を思い出すまでしばらく呆け、待機の末にボクは夢現の緩慢で、身体を持ち上げるために後ろ手をついた。

 

 が、腕を突っ張った瞬間、何かが腰を引っこ抜いた。

 直立しようとする身体に反して腰回りが微動だにしない。とっさにそのことを理解できるだけの冴えは頭にも身体にもなく、たちまちバランスを崩して掛布団の上に倒れ込む。スプリングが軋んで、動物みたいな鳴き声を発した。

 

 揺れと音にある種の安心感を見出してしまい、誘発される眠気。しかし抗い、それらが治まるまで耐えたボクの脳味噌は、遅まきにも痛覚を伝ってやってきた刺激に気付き、反応を示した。

 

「しっぽ……踏んだ」

 

 ぎゅむ、と、マットレスに埋められている己の一部。

 どうやら手をつく位置を間違えたらしい。というか、そもそも尻尾のことが頭に入っていなかった。

 

 何をやってるんだ、と天井の模様を眺めながら思った。体勢故にまたあくびがこぼれ出る。

 その目尻に浮いた涙を拭い、連続しそうな睡魔の信号を噛み殺してから、ボクは改めてベッドを離脱すべく身体を起こした。そのまま勢いをつけて一気に立ち上がり、よたよたとドアの方へ歩く。

 もう踏んづけないよう、前に回した尻尾を抱えたままであるためにバランスは余計取り辛いが、しかしまたどこかに引っ掛けてしまうよりはマシだ。

 ため息とあくびを融合させたようなよくわからない息を吐き出して、たどり着いたドアノブを回したボクは、未だ身を蝕む眠気の中で尾の先の毛をいじりながら、洗面所を目指した。

 

 

 

 今現在、ボクとクロカが居を構えるのは、アメリカのとある都市、そこにそびえたつ高級マンションの一室だ。

 『十二支ん』なる著名なハンターが経営する警備会社が入っているため、セキュリティーは標準装備で厳重。そこからさらに自前で『神字』と仙術による術式を施し、魔法的な守りも固めている。もちろん隠密の面でも抜かりはなく、あらゆる手段に於いて、ボクたちがこの部屋を本拠地にしていることに気付き、干渉することはすさまじく難しいだろう。隠れ家としてここ以上に適しており、且つ快適な場所はそうそうないと、自信を持って断言できるほど、ここは安全だった。

 

 そんな手塩にかけた一室故に、この中では大概のことがやり放題だ。例えばボクが修行のために『念』を使っても気配は欠片も外へは漏れないし、秘密に関わる話も盗聴される恐れは皆無に等しい。

 

 すなわちここに居る限り、ボクは『フェル』ではなく『ピトー』として、煩わしい様々な変装用具から解放される。わけなのだが、

 

「尻尾のことまで忘れちゃってるようじゃ、拘った意味ないにゃぁ……」

 

 最近の仕事三昧のせいで、どうやらボクの認識は変装のほうを通常と捉えてしまっているようだった。

 

 洗面台の鏡に映った自分を見ながら、ボクは気怠く片瞼だけを持ち上げた。

 

 耳も尻尾も、あとそれから手も、隠していない状態がむしろ落ち着かない。連続した仕事中、ずっと『フェル』でいなければいけなかった弊害だろうか。薄い寝巻も、布団の熱が冷めた今となっては生地の薄さが違和感だ。

 蛇口をひねり、手のひらに受けた水の冷たさもそう。手袋越しだとなかった液体の肌触りが、ぶるりと神経を撫でてくる。ダメ押しに、指が四本しかないことすら奇妙に感じた。

 

 かなりの重傷だ。慣れというものは、斯くも恐ろしいものなのか。このままでは熱帯地方、もう一度京都なんかに行ってしまえば、今度こそ帽子も上着も脱ぎ捨ててしまいそうだ。

 

 あるいはそれは、ただ寝ぼけているだけなのか。

 

 手に溜めた冷水で顔を洗い、タオルで拭いて、瞼に冷たい棘を打ち込む。しかしそれでも気を抜けば下がりそうな重たさは止まず、ボクはもう一度水を汲み、また顔へ叩きつけることを繰り返した。

 

 そうやって何回かするうち、少しずつ頭も目覚めてきて、色々な感覚にもスイッチが入り始める。鼻先が冷えて出たくしゃみの拍子に蘇った嗅覚は、それの筆頭だった。

 

 ふと、辺りに芳ばしい匂いが漂っていることに気が付いた。恐らく、食品の香り。クロカが何か作っているのだろうか。

 

「料理、ヘタクソなのに……?」

 

 いやもしやこれは、何かが焦げるにおいなのではなかろうか。

 

 キッチンと、繋がったリビングは洗面所のすぐそばだ。ちょっと濡れてしまった前髪も急いで拭いてから、ボクはドアを引き開けた。

 しかし杞憂。飛び込んだキッチンでは、特に火急の事態などは起こっていなかった。そもそも鍋やフライパンは火にかけられていない。いつも通り、使った痕跡が見つけられないくらいに整然と、コンロには薄い埃が積っていた。

 

 そしてにおいの発生源、棚に置かれたちっちゃな機械には、ついさっき適当に水洗いされたような跡。こぽこぽと動作の余韻を引きずる機械の、その単一的な用途を鑑みれば、においの正体は明らかだった。

 

 なんということもなく、その焦げ臭くも芳ばしい香りは、抽出されたコーヒーのものだったのだ。

 

 久方ぶりに起動したブランクをものともせず、コーヒーメーカーは耐熱ガラスのカップの八分目までを黒い液体で満たし終えている。

 ボクは肩をなでおろし、持ち手をつまんで取り出した。もうもうと吐き出される香りを含んだ湯気を直に嗅いでみれば、頭の奥にバチンと痛撃を浴びせられたような心地がした。

 

 つまるところ、クロカもやはり眠かったのだろう。

 それで数回使って以来インテリアと化していたこれをわざわざ掃除し、カフェインをそこら中に巻き散らしているわけだ。缶コーヒーでも買ってくればいいのに、と正直思わないでもない。

 

 クロカもボクと同様、まだ頭が回っていないらしい。そんなことを笑いつつ、つい取り出してしまったコーヒーの原液をどうしようかぼーっと考え、しばらくしてふと思い出すと、ボクはカップを片手に冷蔵庫を漁り始めた。レトルト食品とラップのかかった食べ残しをかき分け、やがて袋入りのベーグルを探し当てる。

 

 好きでもないのにコーヒーメーカーを買ってきた黒歌曰く、朝はコーヒーと、このベーグルで済ませるのがおしゃれらしいのだ。さっぱり意味がわからないが、せっかく淹れてくれたことではあるし、倣って体験してみるのもいいかもしれない。

 芳香剤としてならまだしも、この苦いだけの泥水を飲むと考えると気分が塞ぐが、しかし試さなければわからないことだってあるだろう。

 

 一つ大きな深呼吸をした。それからベーグルをかじり、咀嚼しながら湯気と黒の泉を見つめる。口の中で順調に堆積を減らしていくベーグルのタイムリミットで決意を固め、そして一気にコーヒーを呷った。

 

「ッッ!!!」

 

 やっぱりボクは、まだまだ寝ぼけていたようだ。

 

 熱湯に舌を火傷した。

 

「う……んぐ……ぷはぁ、い、いひゃい(いたい)……」

 

 尻尾が跳ねあがり、毛がぶわっと広がっていた。当然の帰結。呑み下して放り込んだ胃が茹っていくのがわかるくらいの熱量だった。飲んだ時唇に触れた熱気だけでも危ないことはわかるだろうに、我ながらバカとしか言いようがない。味覚が焼かれて苦みがわからなかったことが怪我の功名と言えばそうだが、そんなことなど慰めにならず、ボクは頭を開いて脳味噌を直接ひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。

 が、もうこれ以上の失態はない。なぜなら身体を内側から引っかいた痛みが、頭の中の眠気を完全に消し飛ばしてしまったから。そして何より、やっぱりコーヒーなんてろくでもないと、揺るぎようのない確信を心に抱いたからだった。

 

くよか(クロカ)に、あげよ……」

 

 出しっぱなしの舌を冷やすついでに呟いて、ボクはベーグルの二つ目を取り出した。口を縛って冷蔵庫に戻し、戸を閉めると、再度両手にコーヒーとベーグルを装備。八分目から七分目まで、少しだけ減じてしまった泥熱湯をこぼさぬよう気を付けながら、ボクはキッチンの仕切りを潜り、リビングに出た。

 

 すわ火事かと、鈍い頭で焦るあまりに気付かなかったが、クロカはそこに、テレビの前にかじりつくようにして胡坐をかいていた。

 

 両手を広げたほどもある大型の液晶モニターからの光が、見える彼女の背中に後光を纏わせている。一瞬、朝のニュースでも見ているんだろうと思って、しかしすぐにそうではないことに気が付いた。カーテンを閉め切り、灯りもつけずに熱中するその姿と、液晶が映し出す映像は、明らかに寝起きに想像で描いた認識と様子が違っている。

 

 ボクは舌を引っ込め、声を掛けようと吸った息をため息に変えた。なにせ液晶は忙しなく瞬いているのに、肝心の音がない。髪の毛に溶け込む黒のヘッドホンでしっかりと、声も届かないくらいに没頭しているからだ。しかも周囲には、某有名エナジードリンクの空き缶と、額に貼るタイプの冷却シートが空き箱で転がっている。

 そして内容、クロカの背ではほんの少しも隠せない液晶テレビの大スクリーンで動いていたのは、紛れもなくゲームの画面だったのだ。

 

 ここまで目撃すれば、嫌が応にも認識の誤りを理解してしまう。ボクは二度寝しなかったことを結構本気で後悔した。

 

 そのタイミングを見計らったように、クロカが呻いて手のコントローラーを投げ捨てるのだから、喉が詰まるのもさもありなん。ボクは食べかけの方のベーグルを口の中に押し込み、同時に零れかけた感情の諸々を呑み込みながら、徹夜でもしたかのように疲れ切った(・・・・・・・・・・・・・・・・)クロカの情けない声色を聞いていた。

 

「あー、勝てない倒せないぃ……なんで二体同時にボスが出てくるのよぉ。隙が少なすぎて被弾がマッハ、回復の減りもマッハ……はあ、どうしよ。NPC呼んで片っぽターゲット取ってもらうとか……ああ、必要なアイテムなくなったんだった……またネズミ狩りに戻るのもめんどくさいし……ていうか、また呪われるの嫌だし……わたし石化フェチじゃないし……ふへへ……篝火のバケツメット殺せば、もらえるかなぁ……」

 

 ゲームの中身を知らないからでもあるが、それを差し引いても尚意味不明の台詞を口に、クロカは不気味に笑う。同時に力が抜けたのか、ばたんと背中をカーペットに倒した。ヘッドホンも、頭から外れてそこらに除けられる。

 

「……あ」

 

 それでようやく、クロカはボクの存在と、抱く感情に気が付いた。

 

「おはよ、クロカ」

 

「お、おはよう、ゴザイマス……」

 

 至極いつも通りの調子で言うと、充血気味の眼がボクと合い、そして泳ぎ出す。額の冷却シートを剥がして丸め、彼女は怖々と間投詞を伸ばした。

 

「えーっと……ピトー、もしかして怒ってたり……する……?」

 

「……別に?」

 

 それ怒ってるやつじゃん、と言いたいことがありありと見て取れる気配と口角の歪みっぷりを披露するクロカは、しかし言葉を呑み込んで身を起こした。今度はきちんと正座をして、うっすらクマの浮いた顔は、ボクの手に持つコーヒーに眼を付けた。

 

「こ、コーヒー持ってきてくれたんだ、ありがと。いやね、エナドリと冷えピタ使い過ぎてあんまり効かなくなっちゃって……だから新しい刺激を、と……思って……」

 

「何してるの?」

 

 訊いてやると、たちまちクロカの眼はボクから逸れた。

 

「……ゲームです」

 

「いつから?」

 

「昨日……ピトーが眠ってから」

 

 徹夜だ。紛うことなき徹夜。気の休まらない環境での長期間の仕事が終わり、ようやく己の寝床でゆっくりと休息を取ることができる、そんな日に、ゲームをするため、徹夜。

 

 気を遣って起きることになった原因がそれでは、クロカに対してだろうが、思うところを露にしたっていいだろう。

 

 だからボクは、また笑みを深くした。

 

「怒ってはないんだよ。イラっとしただけでさ」

 

「……ハイ」

 

「目が覚めたら隣にクロカが居なくて、眠かったけど、でもキミが起きたならって思って我慢したんだよね。それだけだから、うん、クロカが謝る必要はないよ」

 

「イエ……私が悪うございました」

 

「『謝る必要はない』ってボク言ったのに、なんでクロカは正座して謝ってるのかにゃ」

 

「その、それは……」

 

 借りてきた猫みたいに恐縮するクロカは、後ろめたさを全開にしながら視線をあちらこちらに飛ばし、もにょもにょ口の中で攪拌する。そして、上目遣いにボクを見上げた。

 

「夜更かし、しちゃったから……?」

 

 最後の最後に疑問形が入ったことには、まあ目を瞑ることとしよう。

 ボクの無感情な笑みに落ち着かぬ様子のクロカへ、大きなため息を吐いてやった。

 

「夜更かしっていうか、疲れたら少しでも長く休息を取るべきって、クロカが言ったじゃない?だから徹夜してたなんて思わなくてさ」

 

「……言ったっけ、そんなこと」

 

 脂汗の滲む顔が、段々変わって怪訝そうな表情で遮る。ボクはちょっとだけ眉根を寄せた。

 

「言ったよ。まだ冥界にいた頃、『巣』で喧嘩した前の日。……憶えてない?」

 

「お、憶えてない……。だって、あの時いっぱいいっぱいだったんだもん……」

 

「……怒ってないよ。別にね」

 

 怪訝に不服を加えたクロカに、ボクは変わらない声色を返す。そしてまた跳ね返ってくる前に、しゃがんで耐熱ガラス器入りのコーヒーを差し出した。

 

 彼女の眼を見つめて、捉えたまま。

 

「ほら、とにかくまずは目を覚ましたら?ちゃんと頭が働いてたらそう苦戦するほどでもないと思うよ、そのボス」

 

「まあ確かに、ここまでは割とサクサク進めてたけど……」

 

 抱えるように受け取って、そして何かに気付いたのか、クロカは一瞬眼を落とした。しかしそれは少し恥ずかしそうで、ボクの内心は杞憂に落ち着く。

 

「……これ、ピトーも飲んだの?」

 

「うん、ちょっとだけ」

 

 容器の縁、コーヒーが伝った跡を気にして見つめ、紛れた熱気で頬に色を乗せると、振り払うようにかぶりを振る。そして口をつけ、一気に傾けた。

 

 末路は言わずもがなである。

 

「あっちゅひぃ!!!」

 

 クロカもボクと同じ苦しみを味わえばいいのだ。

 

 悶絶しつつも揺らさず抱える容器の上にベーグルを置いてから、ボクは立ち上がって少し離れたソファーにどっかり身を投げた。

 

 さて、と。

 

 フラストレーションの解消も為したボクは、残ったベーグルの欠片を口に投げ込み、オーク材のテーブルから端末を取り上げる。恨みがましいクロカの視線に知らん振りをして、起動した画面に目を眇めた。

 

 情報収集。『電脳ページ』や『ハンター専用サイト』なんかでやる本気のそれではないが、一般のニュースサイトにも十分価値あるものは転がっている。特にここ最近はそれが顕著だった。

 異形によるもの、人外共が隠しきれずに巷間へこぼれ出る不可解の量が、把握しているものよりずいぶん多い。京都がそうだったように、北欧、ギリシャ、中国、インド、ルーマニアと、世界中で頻発していた。人の世ではほぼすべてが都市伝説や怪異として面白おかしく扱われているが、そんなエンターテインメントじみたものだけでも、人外の存在を知る者からすれば立派な情報である。故に、情報料を払って詳細を買うまでもなく、ちょっと頭を働かせれば起こったことはすぐに察せられるのだ。

 

 無論完全ではないが、下手に巻き込まれないよう、大まかにでもそれらの全体を頭に入れておくことは重要だ。

 

 トップページにでかでかと掲載された、このドリームオークションの特集からだって明らかな矛盾が見て取れる。いかにも大衆向けのゴシップ記者が書いたような記事には、オークションの開催が早まったのはなぜか、という話題が、結論を放置して延々と根拠のない推論だけで回されている。のだが、その無い中身は無いからこそ、主題と合わせて露になっているものが様々だ。

 

 普通、オークションがこのような中途半端を晒すはずがないのだ。正規と、表には知られない地下オークションには、『マフィアンコミュニティー』、その長たる『十老頭』が深く関わっている。無駄にプライドの高い彼らが開催日時という大前提的な方針を簡単に曲げるとは考え難く、しかし実際曲げられているのなら、それは面子よりも重要な何か(・・)が潰されそうになったためであることに間違いはない。

 問題はその何か(・・)、ではなく誰が(・・)ということ。どこの誰が、世界中の財界政界宗教界隈にまで強い影響力を持つ『マフィアンコミュニティー』の決定を戦争もせずに挫き、そして表向きの理由さえ必要がないほど完璧に騒動を隠蔽してしまったのか。

 

 それは『十老頭』、マフィアのやり口ではない。むしろ悪魔共のそれによく似ていた。

 

 実際のところ、悪魔のせいであるかはわからないし、『マフィアのやり口ではない』と断言できるほど彼らを知っているわけでもない。その可能性が高いだろうという主観と推測だ。確証を得るためには一歩進んで情報を買うか、現地に飛んで調べる必要があるだろう。

 しかしボクはこれの真実など興味がないし、元よりそこ、ニューヨークを再訪するつもりがない。諍いがあったかもしれない、という認識だけで警戒するには十分なのだから詳細を知る必要はなく、かつての猛吹雪と戦闘が腹立たしくもボクの好奇心を制してしまうのだから、そこに関わろうと思えないのだ

 

 それに、別の問題もある。

 

(カタログ、1200万だけでも……ちょっと今は厳しいにゃあ)

 

 金欠なのだ。払えないことはないが、しかし躊躇せざるを得ない程度には懐が肌寒い。主にクロカのせいで。

 

 この四年で貯めに貯めた口座の数字を、その総量から見れば限りなくゼロに近いほどにまで放出してしまったがために、今は少々神経質な金銭感覚を保たなければならなかった。直近の報酬をすべて貯蓄に回しても、その穴は僅かも埋まらないほど深い。一般基準ならともかく、ハンターで言えば今のボクたちは紛れもなく貧乏だ。

 

 だから万一のためにも一つおいしい仕事がしたいなあ、と、そんなことを考えながら、ボクは稚拙なニュースの数々をスクロールして流し読んでいたのだった。

 

 だがしばらく続けても、有益で真新しい情報はほとんど見つからなかった。平和で結構なことだが、それではあまりにつまらない。意気を取り戻したクロカのゲームプレイを眺めていた方がずっと有意義だったろう。

 

 思ってしまって落胆が湧き始め、ボクは情報収集という名の暇つぶしに飽きを見出しつつあった。メールの通知が来たのは、ちょうどページの終わりまで来て、閉じようとしたその時だ。

 

「……んあ」

 

 飛び出したアイコンに操作が重なり、サイトを閉じるではなくメールのアプリを開いてしまう。暇つぶしで初めての情動だ。実に下らない初めてに鼻を鳴らし、ついでに新着のそれを開く。差出人は、いつもの仕事の仲介人だった。

 

 新しい仕事。そしてこの仲介人が持ってくるのは、大抵が人外に関わるものだ。はぐれ悪魔の討伐だったり、邪教集団の殲滅だったり。つまるところ、得意分野の依頼。

 

 殺せばいいだけだから割はいいし、殺してもいいから気分もいい。受けよう、と内容も見ないうちから即断して、決まり文句の挨拶を飛ばし、ボクは本文に眼を走らせた。

 

 そして一瞬、決断が揺らいだ。

 

「よりにもよって、ねえ……」

 

 高揚感をがっつり下げてきた依頼主の名前を、もう一度しっかりなぞる。

 『リアス・グレモリー』と、そう記されていた。

 

 四年前の京都以来、顔を合わせたことはもちろんないが、それでも未だ、『できることなら責め苦の上に殺してやりたい』悪魔の上位に位置する、赤髪のアイツ。しかも内容は殺しなんかではなく、戦闘技術の指導をしてほしい、などというものだった。グレモリー本家からでなく奴個人の依頼であることが、拍車をかけて癇に障った。

 

 だがなればこそ、受ける以外に選びようがないだろう。風のうわさで聞いた、シロネが赤髪の眷属になったという話。当時ずいぶん気を揉んでいたクロカのためにも、彼女に会う機会をふいにするわけにはいかなかった。

 

「――ぃやったぁあ!!ようやくやってやったわこのおデブ!!なーにが第二形態よ、一人になれば片手でちょちょいのちょい!!ねえ見てた?ピトー」

 

 だからボクは、ボスを撃破した喜びでバンザイしながら背を反った彼女に、まっすぐ眼を向けそれを告げた。

 

「見てなかったけど、そんなことより仕事だよ。リアス・グレモリーが、シロネに修行をつけてほしいってさ」

 

「……修行?」

 

 歓喜の表情が、固まったまま繰り返した。衝撃を呑み込もうとしているようで、プツリと途切れた感情の発露を眼にしたボクは、しかしわかりきっている返答が故に気に留めず、端末を叩き返信の文面を書き始めた。

 

「期間は夏休みの終わりまでって……日本のは九月だっけ。二ヵ月もない期間で強くしろだなんて、今のシロネがどれだけできるのか知らないけど、無茶苦茶だにゃ。どうしよう?さっさと向かって時間取ろうか?」

 

 ゆっくりと語らいたくもあるだろう。だがそう考えたボクの指は、次の瞬間、いかにも不満そうなクロカの声色に、その動きを止めた。

 

「えぇー……もう次のお仕事するの?無茶な依頼なら断っちゃいましょうよ」

 

 戸惑いは防ぎようがなく、顔を跳ね上げあっけにとられるボクをよそに、不満顔のクロカはぐでんとひっくり返って机の上に頬杖をついた。

 

「だってめんどくさいし疲れるしゲームまだ中盤だし……駒王ってただの地方都市でしょ?どうせ働くならリゾートとか行けるお仕事探しましょうよ、遊びに行く富豪の護衛とか。私、そういうのがやりたい、にゃん」

 

「……そう?」

 

 かわいらしく小首を傾げてみせるクロカに、ボクは曖昧に微笑んで見せる。それから再び、端末の画面に眼を落した。

 

 少々、感情の整理が難しい。京都の時はあんなにも心配していたのに、と不思議に思うも、乗り気でないことに安堵してしまう自分が思考の邪魔をする。クロカがそう言うのならそれでいいじゃないかと、都合のいい理由がその要因に蓋をしてしまっている。

 

 それで終わってしまうなら、クロカの考えを、気持ちを、想いを、理解できていないも同然だ。

 

 ボクはクロカと、同じになりたい。褪せる気配も叶う気配もない衝動を抱えたまま、ボクはしばらく釣り合いの中心で揺れ動いた。

 

 ふと、八坂とのやり取りを思い出した。

 

 九重が、何でも一人でやりたがる『いじっぱり期』を迎えたという話。手順を知りもしないことまでやろうとするので、やっぱりできずに大泣きして困るが、それが余計に愛おしい。そんな近況報告。

 

 思えば曹操も似たようなものだ。口で言ったことが本心とは限らないということは、人にすれば全くおかしくもないだろう。八坂と九重のように、血のつながった家族であればたちまちのうちに真意を見透かしてしまえるのかもしれないが、そんなものなど持たないボクは思考を回して見つける他ない。

 

 だから想像してみた。妹への想いが、果たしてそう簡単に消えるものなのか。

 

 クロカが、生まれて以来ずっと守ってきた、シロネという大切な存在。裏切られたが、しかし京都でのあの眼差しは確かにシロネを案じていた。つまり愛していたのだ。

 離れていても想わずにはいられない、その気持ちはボクが秘める『王』への想いと十分似ている。そも生まれておらず、故に決して会うことはできないのだが、それでも心の奥深くに根付いて消えることはない。魂にまで焼き付いた忠誠が消えることなど、ありえなかった。

 

 恐らくボクのその楔と同じくらいに強いクロカの想いが、たったの四年で消えうるのだろうか。

 

(……いや)

 

 消えるはずがないだろう。どれだけ楽観的に解釈しようと、その結論だけは変わらなかった。

 

 ボクの悪魔への憎悪慮ってくれたのであろうことは嬉しくあるが、そのためにクロカが自身の気持ちを捻じ曲げねばならないとなれば話は別、本末転倒だ。ボクは、クロカのために生きている。

 

 この場合、クロカのため(・・・・・・)になるのは、これだった。

 

「でも、やっぱり引き受けにゃい?こんなに平和な依頼なんてそうそうないし、それに報酬も、アイツからなら結構搾り取れるよ、きっと」

 

 半ばこじつけめいた理由だが、それでも正解であるはずだ。ますます不満そうに唇を尖らせるクロカに内心を揺さぶられながら、ボクはバタバタ暴れる自分の尻尾を意識して押さえつけた。

 

「そりゃあまあ、危なくなることはないでしょうけど……それを言うんなら護衛に討伐のお仕事でも、京都のアレ以上に危なくなったことなんてないじゃない。殺されかけるくらいのも、あの時が最後だったし。それに――」

 

 クロカが懐から長方形のカードを取り出す。抓んでひらひら見せびらかされのは、『ウタ』の『ハンターライセンス』だ。

 

「プロハンターになったんだから、仕事なんて選びたい放題でしょ?そこまで報酬に拘らなくてもよくない?」

 

「……そうもいかないよ」

 

 口座内の数字が脳裏をよぎり、振り払って鹿爪らしいふうを纏ってから、続ける。

 

「クロカ、この前すごく高いゲーム買ったでしょ?ほら、ハンター専用の~とかいううたい文句のやつ。依頼主がたまたま持ってて、それで富豪のバッテラと競りみたいなことしたじゃない?余裕があるふりしてたけど、あれでボクたちの全財産、ほとんど持っていかれちゃったんだにゃ」

 

「んぬっ!?」

 

 変な具合に喉が鳴って、言葉を詰まらせたクロカが目を丸くする。その手からライセンスが零れ落ちた。ボクはそれを拾い上げた。

 

「ニューヨークのオークションに出るそれには手を出さないって約束で手を引かせた時にはもうギリギリでさ、あそこで頷いてくれなかったら今頃ボクたち破産だよ。あれは久しぶりに緊張したにゃぁ」

 

「だって……レアゲー欲しかったんだもん……」

 

「別に怒ってるわけじゃないよ」

 

 気まずそうにむくれるクロカに、ついさっき口にした言葉と声色で微笑んだ。

 眼前まで伸ばした尻尾にクロカのライセンスを乗せ、弄ぶ余裕を見せつけながら、眼で示す。

 

「お金は使ってこそって言うし。けど今何か入用になったら、これを質入れでもするしかないっていうのも事実。お金の余裕は早いところ取り戻さないとだよ、クロカ」

 

「……だからって、悪魔に関わって稼ぐ必要はないんじゃない?例えば他にも……地下オークションでマフィアに雇ってもらうとか……」

 

「拘束期間の割に実入りが少ないし、何よりボク、アイツら嫌いなんだよね。下品な視線が鬱陶しくてさ」

 

 曰く、『色気たっぷりの気だるげなお姉さん』であるらしいフェルの印象は、ほとんどが男で占められたマフィアの構成員たちにとって、欲の対象になってしまうらしい。二、三人を締め上げれば手こそ出してこなくなるが、全身を嘗め回す視線は何をしようがなくならないのだ。

 男ってそういうもんよ、と、ボクほどの数ではないものの、その豊満な胸で好色の注目を集めるクロカは笑って受け流していたが、ボクはどうにも無視することができず落ち着かない。これがフェルの姿の宿命であるのなら、やっぱりこれはパリストンの失敗、いや、嫌がらせなのだろう。解決しようのない事態であるところが実に奴らしい。

 

 副会長に就任して以来、ますます調子づくようになった奴を想像の中で壊して晴らしつつ、ボクは息を吐いた。

 

 くるくると、しっぽの上のライセンスを回して遊ぶ。それをじっと見つめるクロカが、表情を一層『気まずそう』へ寄せた。

 

「そんなに……お金、まずいの……?」

 

「うん」

 

「……どのくらい?」

 

「昨日までの仕事でようやく衣食住の不安がなくなったくらい」

 

 一年分と見積もって、ほとんどがここの維持費で消える。だから、賄賂工作エトセトラ、そういう類に手を回せない現状。万が一の命綱が、一つ外れているようなものだ。

 もちろん他にも保険は掛けてあるし、危機の到来が目前に迫っているわけでもない。が、お金はいずれ貯まるのだとしても、身の安全にかかわる以上、早いに越したことはないのである。

 

 そういう建前で不安を埋め、クロカのためになるべく押し殺す。机の上に半分突っ伏して頭を掻く彼女の渋面に、ボクは最後の一押しをすべく顔を寄せた。

 尻尾がライセンスを落とし、小さく鳴った音がクロカの注意をボクに引き付ける。

 

「シロネの指導っていうなら当然仙術のことだろうし、その負担は丸々クロカに行くと思う。ボクはあんまり手伝えないだろうから、クロカが嫌だって言うならそれに従うけど」

 

 言うと同時に眉を下げてみせるのは、どうやらやりすぎだったらしい。クロカの眉間に寄ったしわが一瞬にして解け、顔を上げるまでをやってから、彼女は思い出したように視線を逸らした。

 

「別に、教えるくらいなら負担でもないけど。ネテロみたいに偏屈じゃないならなおさら……私のせいでお金が足りないなら、文句なんて言えないじゃない」

 

「じゃあ、これ引き受けてもいい?」

 

 少しだけ申し訳なくなりつつ訊くと、「……うん」としぶしぶの小さな返事が返ってくる。円満とは言い難いが、しかし言質だ。

 気が変わらぬうちにと、ボクはそのまま端末を叩くことに集中した。教科書に載っているお手本の文章のように、無心で了承の意を綴る。

 

 クロカが、独り言のように諦めの吐息を吐いた。

 

「まあ、しばらくは殺伐なことばっかりしてたし、ぬるま湯浸って教師っていうのもいいかもね。簡単な内容でいっぱいの報酬。そんでもってグレモリー絡み。……ねえピトー、これってまるであの時みたいじゃない?」

 

 思えば確かに、と一瞬手が止まり、クロカは「でしょ?」と苦笑した。縁起は、確かに悪かった。

 

 

 

 

 

 などと軽んじていたら、

 

「ものの見事にふらぐ(・・・)だったにゃあ」

 

「……さすがにこんなのを予想したわけじゃないからね?」

 

 と二人でぼやきながら、ボクたちは夜の街を大急ぎで駆け抜ける羽目に陥っていた。

 

 節約のために飛行機と電車で来たのは間違いだったと、そう後悔せずにはいられない。もっと早くにこの地方都市、赤髪悪魔の住まう駒王町についていれば、たぶん曹操くらいなら援軍として引っ張ってくることもできただろう。無手の武闘にてクロカを抜き去り、全力の試合でも五分を演じられるまでになった奴がいれば、そっちの面でもずいぶん楽ができたに違いない。

 だが生憎、引っ張ってくる時間はないし、そもそも事は既に始まっている。

 

 ボクは近道のために住宅街の屋根を走りながら、目的地たる駒王学園の異常を見つめた。

 

 敷地を丸ごと覆う結界。その中では、間違いなく戦闘が繰り広げられていた。

 

 力を振るっているのは、恐らく堕天使。それも最上級に類する格の高い者だろう。それほど出来のいいものではないとはいえ、結界の障壁を突き破って尚強烈に主張する気配は、そう確信できるほど強大なものだった。

 

 普通であれば、それに向かうではなく、逃げることを選択していた。

 いずれあの結界は瓦解し、余波だけでもこの街に壊滅的な被害を起こすだろうが、しかし知ったことではない。ボクたちが日本に来たのは指導の依頼のためであり、人外狩りをしに来たわけではないからだ。ただ働きはごめんだし、それが危険なものともなればより然り。

 

 だが今ボクたちはその選択肢をなくし、割に合わない戦いへ赴かざるを得なくなっていしまっている。堕天使の大きな気配に呑み込まれながら、か細くか弱く、しかし記憶に焼き付いたモノであるが故に目に留まったそれが、早く早くと足を急かし立てていた。

 

 つまり、結界の中で強大な堕天使と戦っているのは、シロネと赤髪たちであったのだ。

 

 知らない気配がいくつか混じってはいるが、それらを加味しても明らかに勝利できる見込みはなく、全滅は時間の問題。他はともかく、シロネが死ぬことは、避けねばならなかった。

 

 ならば早く。気が進まなくとも、とにかくただ、それを防ぐために。

 

 軽口のようなぼやきを吐きながら、だから速度だけは緩めなかった。

 

「――どうする?」

 

 数歩分遅れて続くクロカが、ふとそんなふうに訊いた。ちらと振り向き、首を傾げるのもつかの間、意味していることに気付く。

 いよいよたどり着いた結界の間近、視界が通った学園の校門に、術者らしい悪魔が数匹固まっているのが見えた。

 

 どれも幼く貧弱で、且つ制服らしきものを着ていることを鑑みるに、やはりまともな対応はできていないのだろう。援軍はどうやら、嘆息ものだがボクたちだけらしい。

 

 転移なりなんなりで寄こせばいいのに、それもない。理由は知らないが、この様子では事が済むまでに戦える悪魔が来ることはないかもしれない。全部、ボクとクロカで片付けねばならないということだ。

 

「もういっそ、帰っちゃう?」

 

 苦笑いを漏らしてしまう気持ちもわかる。それでも尚、やらねばならないということも。

 

「冗談、って言わずに済んだらよかったんだけどにゃ」

 

 クロカは苦笑に諦めを滲ませた。

 

「ま、そうよね、お金稼がないとだし。……依頼主が死んだら、日本に来たの無駄足になっちゃうもの」

 

 未だ頑なな建前を口にして、クロカはボクの前に出た。屋根伝いから道路に降り立ち、結界の前までたどり着くと、その赤い水晶質に手を触れる。足音を殺さなかったことも相俟って、悪魔の一匹がその時ようやくボクたちの存在に気が付いた。

 何やら喚く眼鏡の悪魔が、それに反応した他を制して焦燥の表情で寄ってくる。

 

「貴女たち、ここで何をしているのですか!?と言うより、なぜここに来れて……いえ、今はそんなことどうでもいい、すぐに去りなさい!今この学園は、ただの人間が近付いていい場所では――」

 

「ふぅ、もう行けるわよ、フェル」

 

 眼中になく、取りついた結界から身を離したクロカ。そこに、大きく空いた結界の穴(・・・・・・・・・・)を見つけて、眼鏡悪魔は威勢もなくして絶句した。

 

 やり遂げたふうに額を拭うクロカは、眼鏡悪魔のその様を、可笑しそうに笑う。

 

「へなちょこ結界だったから、壊さずに穴あけるの大変だったわ。いいセキュリティーしてるわね」

 

「あ……貴女たち、何者なのです……?ただの人間では……」

 

 呆然と呟く悪魔に、今度はボクがそれを示す。『フェル』の『ハンターライセンス』。

 

「ハンター……?もしかしてリアスが言っていた……あっ!ま、待ちな……待ってください!」

 

 聞く義理はなく、ボクたちは結界にあけた穴を潜って敷地の内に入り込んだ。外で感じたものの比ではないくらいの圧力が全身を覆うが、身を震わす要因にはなり得ない。とうとう直に眼にしたその正体を、追おうと手を伸ばしたまま固まっていた悪魔が叫んだ。

 

「敵の首領は堕天使コカビエル!聖書にもその名が刻まれたほどの手練れです!……お気をつけて!」

 

 開けた校庭に、見知らぬ顔がいくつか。ほとんどが悪魔だが、驚いたことに聖剣使いらしい人間もいる。そしてシロネは、ほとんど『気』を空っけつにして、赤髪悪魔に肩を借りていた。

 

 皆が皆、ぜいぜい息を荒げている。その上空で、十枚羽の堕天使、コカビエルが嗤った。

 

「――先の三つ巴の大戦で死んだのは魔王共だけじゃぁない。我らが父、神もまた、同様に死んだのさァ!!」

 

 狂気じみて眼をギラつかせる大ガラスの哄笑に、聖剣使いとシスター服の悪魔が膝を折った。三大勢力の関係者であれば皆知っているものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。しかしまた、それもどうでもいいことだ。

 

「さ、ちゃちゃっと片付けちゃいましょ」

 

「怪我しないようにね」

 

 互いに言い合うと、不敵に笑んでボクたちは、救うべく戦場に足を踏み入れた。




祝 更新再開

レイナーレとライザーくんをすっ飛ばしてコカビーからのスタートです。どうでもいいですがこの間まで『コカビエル』を『コビカエル』と読んでいました。新種の両生類です。あとライザーとレイザーってすごく紛らわしいですね。
そんでもってまたお知らせ。二部では不定期投稿として書け次第サイト様にぶん投げておりましたが、それをちょっと変えてみようかと思います。区切りのいいところまで書いて一気にドバーする予定なので、再開と言っておきながらまたしても更新に間が開きます。よろしくお願いします。以上です感想ください。


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二話

おまたせ

六話分書けたので各日投稿します。

20/9/08 本文を修正しました。


「――先の三つ巴の大戦で死んだのは魔王共だけじゃぁない。我らが父、神もまた、同様に死んだのさァ!!」

 

 耳朶を叩く狂った笑い声は、皆から強い動揺を引き出していた。

 

 リアス部長も一誠先輩も他の皆も、その表情を彩る感情は一様に驚愕。特に教会の戦士であるゼノヴィアさんと、聖女だったアーシア先輩のそれは酷かった。『神の死』という思ってもみなかった事実は、強い信仰心を持つ二人には相当なショックだったのだろう。ほとんど同時に膝から崩れ落ちた彼女らは、焦点を失った眼で絶望に戦慄いていた。

 

 ゼノヴィアさんの戦意が揺れて消え、アーシア先輩の神器(セイクリッド・ギア)、【聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)】の癒しの光がプツリと途切れる。信じられない、考えることすら恐ろしいと、告げられた言葉を受け入れることさえできずに、彼女の手が力を失い私のお腹に落ちた。

 

 いよいよまずい、と直感する。程度は違えど衝撃に頭を麻痺させる皆の中で、たぶん私は、搭城白音(とうじょうしろね)は最も冷静だった。

 

「神が……死んでいた?そんな話、聞いたこともないわ!」

 

 思考を止める動揺をまともに受け取ることさえできないほど、身を蝕む痛みと疲労が大きかったからだ。

 

 鼓膜を滑るリアス部長の半信半疑の声を聞きながら、私は言うことを聞かない身体に鞭を打ち、手をついてなんとか起き上がった。身を起こし、見渡せた仲間たちの姿は想像通りの惨状だ。

 

 聖剣デュランダルをも取り落として膝を折り、地面にぶつぶつ「嘘だ」と呟くゼノヴィアさんは、たぶんもう戦えないだろう。裕斗先輩は新たに得た『力』、禁手(バランス・ブレイカー)である【双覇の聖魔剣(ソード・オブ・ビトレイヤー)】を構えて立ち上がろうとしているものの、その消耗度合いはかなりのもの。私は言わずもがな、疲労と負傷で立つこともやっとな有様だった。

 『気』の使い過ぎが原因だろうが、悔いることもできない。『神の子を見張る者(グリゴリ)』幹部、堕天使コカビエルは、そうでもしなければ立ち向かうこともできないほどの力を持っていたのだ。

 

 しかしそうまでして、この有様。全員の万全を結集して、辛うじて裕斗先輩がコカビエルの頬を浅く切り裂いた程度のダメージしか与えることができない。ゼノヴィアさんの聖剣デュランダルは全く通用せず、一誠先輩が高めたリアス部長と姫島さんの魔力も、結果防がれた。

 

 そして私の『気』の攻撃だって、やはり私を消耗させただけだ。眼前で飛び交う皆とコカビエルのやり取り、増大するざわめきと、その意味を聞き取ることすら困難な全身疲労。神の死への動揺が、私に一際強く現状の危機を意識させていた。

 

(リアス様を守らなきゃ、いけないのに……)

 

 主人の盾となれる者が、もう誰もいない。

 

 先輩とゼノヴィアさんと私、三人でも抑えきれなかったコカビエルが今リアス部長を標的にすれば、きっとそれは防げない。部長の『戦車(ルーク)』として、リアス様の家族として、たとえそうなるしかないのだとしても、私はその事実を許容することなどできないのだ。

 

 ――私が、戦わねばならない。

 

 ゼイゼイ荒い息の金臭さを噛み潰し、私は両の脚を踏ん張って立ち上がる。今にも気絶しそうなほど蒼白なアーシア先輩の顔が、縋るように私を捉えた。しかし遮り、ひりつく空気をいっぱいに吸い込んだ。

 

「一誠先輩!もう一度、パワーを溜めてリアス部長に譲渡してください。まともに命中すれば、コカビエルだって無事では済まないはずです!」

 

 意識になかったが、たぶん誰が死かの台詞を突き破ってしまったのだろう。全員の動揺から胡乱げな視線を送られる。だが次いで、リアス部長がそれに感付きそれを驚愕に変えた。

 

「白音……ッ!貴女、まさか……!」

 

 不安のような後悔のような、そんな眼差しが向けられる。私は集中せんと、肺の空気を鋭く吐き出した。

 

「私が、隙を作ります。……何をしてでも、必ず」

 

 仙術。四年前のそれのように『癒す』ためでなく『害する』目的で使うとなれば、私の扱いは十全でない。ウタさまを真似して訓練はしたが、ついぞ物にはならなかった。

 だから、これでコカビエルと戦えても戦えなくても、この行為は私の『死』への一本道だ。それでも、リアス様たちが殺されるさまを指をくわえて見ているよりはマシなはずだ。

 

「白音ちゃん!?いけません、それは……!!」

 

「無茶だ白音ちゃん!休んでいるんだ!」

 

 朱乃さんと裕斗先輩の必死な静止をかき分け、重たい脚で一歩前に踏み出す。事情を知らない一誠先輩が、若干の困惑が滲んだ声で叫んだ。

 

「そうだぜ白音ちゃん!なんだかわかんねえけど、『念』だっけ、体力が回復すればまた使えるんだろ?ならその間は俺が部長を守る!……てか、むしろそのままぶっ飛ばしてやるぜコカビエル!この兵藤一誠がな!!」

 

「フハハハッ!!威勢がいいな小僧!!だが無駄だ。お前程度がいくら赤龍帝の能力で力を上げようとも、オレには届かん。それに――」

 

 啖呵を切る一誠先輩に指さされたコカビエルが、口角を吊り上げ私を見下ろす。

 

「小娘のほうもなァ、念能力など、無能の人間が使うつまらん技だろう。まとめて叩き落としてやったというのに、理解する頭もなくしたか?リアス・グレモリーと赤龍帝のコンビネーションに賭けるのは、なるほど道理だろうが、しかし死ぬだけだ。

 ……ハハッ!そうか、死ぬか!グレモリー、もうお前たちを殺してサーゼクスを待とうかと思っていたが……どうだ?お前の目の前で下僕たちを順に殺してみようか。復讐心で奮い立つというのは少々チープかもしれんが、ゲテモノ好きのお前ならちょうどいいだろう」

 

「……!!貴方ッ――」

 

「てめぇコカビエル!!お前どんだけクソ野郎なんだよ!!戦争の続きがしたいだとか、そんなふざけた理由でリアス部長を侮辱してんじゃねえ!!俺の仲間を、バカにすんじゃねえ!!」

 

 リアス部長に注がれる視線。その厭らしい笑みが呼び起こした激情を、一誠先輩の激情が上塗りする。スケベ根性丸出しで、控えめに言って最低な普段の彼ではあるが、その想いだけは本物だ。かつてライザー・フェニックスと戦った時と同じように、部長を守ろうとする熱い震え。

 

 私だって同じものを抱いている。絶体絶命な今の現状でも、その想いだけは捨てていない。けれどコカビエルの強さは、想いだけでは覆しようもないほど一線を画したものなのだ。

 

 一誠先輩が左腕を対価に『禁手化(バランス・ブレイク)』したように、弱い私は何かを犠牲にしなければ、あいつを退けることなどできないのだ。

 

(ここが、私の命の使い所……!)

 

 ずっと救われ続けた私が、負債を払うべきところ。

 

 黒歌姉さまのように『邪気』に呑まれて死んでも、それでいい。どうせ死ぬなら、そのほうがいい。

 

 もう二度と、家族を失いたくない。

 

「姉さま、見てて」

 

 バカで弱い妹が、せめて何かを為すさまを。

 

 口の中だけで冷え切った息を呟き、私は周囲に漂う邪気混じりの『気』に手を伸ばした。

 

 その直後だった。

 

「あ……」

 

 それ(・・)を、捉えた。

 

「どうした、やはり臆したか小娘。……くだらん。ならば最初はお前にしよう。生きたまま四肢を切り落とし、腹を割いて内から光で焼く。じっくりと、時間をかけてな。……リアス・グレモリー、お前は下僕の悲鳴を聞きながら、どうオレを楽しませてくれる?復讐に燃え上がるか、絶望に沈むか、オレとしては前者であるとありがたいが」

 

「シカトしてんじゃねえよカラス野郎ッ!!それ以上部長や白音ちゃん、他の皆にろくでもないこと抜かしてみろ!!その羽全部むしり取って、誰かわからなくなるまで顔面ボコボコにしてからぶち殺してやるッ!!」

 

 燎原の火の如き怒りを露にする一誠先輩の、その身体からあふれ出る灼熱の『気』すら霞むほど濃いはずなのに、誰一人として気付かない。どこか懐かしく、身にすんなりと染みこんでくるその『気』を、私だけが認識していた。

 

 どこからか音もなく飛んできた、黒くて丸い玉(・・・・・・)

 

 するりと自身の羽の中に潜り込んだのに、コカビエルすら気付いていなかった。

 

「弱い犬ほどよく吠える、とはよく言ったものだな赤龍帝。やれるものならやってみろ!サーゼクスが到着すれば、オレはお前たちの首を手土産に戦争を再開できる!あの時の戦いを、オレだけでも続けるのだ!!続けなければならんのだ!!!」

 

「絶対、そんなことさせねえ!!お前のふざけた言い分で、俺たちの町を、仲間たちを、消されてたまるかッ!!!」

 

 一誠先輩とコカビエル、二人の気迫がぶつかって吹き荒れる。皆の注意は今そこにあり、身を固くしたのも、そこに訪れるであろう戦闘の気配を感じ取ったからだ。

 

 だからやっぱり、私一人なのだろう。黒い玉に気付いたのも、その気配に悟ったのも、とびきりの安堵と喜びを見出してしまったのも。

 

「それに、俺は――」

 

 一誠先輩の、思い詰めたような声を遮って、

 

「なら冥界でやれって話よね、正直」

 

「そうそう。直接魔王に挑んでくれればいいのに、なんでこんな面倒なことするかにゃ」

 

 堰を切ったように溢れ出る二人の気配。ウタさまとフェルさまが、四年前のあの時のように、現れた。

 

 戦いの跡がそこかしこに刻まれる校庭に踏み入り、無理矢理に皆の注目を引き付ける。ほとんど気力のみで身体を支えていた私の両脚が崩れ落ちた。

 

 チラリと、フェルさまが私を横目に見て、すぐに戻った。

 胸の奥で、締め付けられるような感情が蠢いた。

 

「ハーレム……っておっぱい!!それにエロスなお姉さん!!いやそうでもなくて――」

 

「何者だ?その妙な気配……人間か……?」

 

 落差激しい一誠先輩の好色は押し流され、コカビエルが眉根を寄せていた。やはり歴戦の強者から見ても、ウタさまとフェルさまの力量は人離れしているのだろう。ゼノヴィアさんには悪いが、デュランダルを加味しても、彼女の強さは二人の足元にも及ばないに違いない。

 

 人間として、二人はトップクラスに――そう、あのアイザック=ネテロと同じくらい、強い。

 だから彼女たちはまた、私たちの前に現れたのだ。

 

 ――また、守られる。

 

 安堵の内、入り混じった心中(しんちゅう)に、私はそれを噛み潰して服の裾を握り締めた。

 

「フェルに……ウタ……あ、貴女たち、どうしてここに……」

 

「あんたが呼んだんでしょ、指導要員として。専門外だけど、引き受けたんだから来るに決まってるじゃない。すっぽかしたら私たちのハンターとしての名声に傷がついちゃうもの」

 

「よ、呼んだって、リアス、本当なの……?私、聞いていないのだけど……」

 

「だって、も、もうちょっと後に来るものだと思っていたから……それに、その……」

 

 話題に出すのが嫌だったのだろう。やはり四年前、私が浚われてしまったあの事件の折、私の知らないところであったらしい何かしらによってリアス部長と朱乃さんが負ったトラウマは未だ癒えていない。

 

 私もフェルさまの恐ろしい『気』を知っている故にわからないでもないが、その、今にも自分が殺されるんじゃないか(・・・・・・・・・・・・・・・・)という怯えっぷりは何なのだろうか。数秒前までの血気を捨て去り、鼻の下を伸ばす一誠先輩もが加わって増した負の感情。言葉の中に聞こえた『指導要員』の意味で何とか隅に追いやって、私は大切な人同士の不和を静かに見つめた。

 

「邪魔」

 

 と、無造作にコカビエルへ歩むウタさまが、途中で自失するゼノヴィアさんの腕を掴み、乱暴にリアス部長のほうへ投げ飛ばした。聖剣デュランダルが宙で手の中を離れ、私の目の前に突き刺さった。

 

 私に一瞥もくれることがなかったウタさまを、私は見つめた。

 

「ハンター、ああなるほど、ハンターか。聖剣どころか光の剣も、天の加護すら持たんのはそのせいか!ハハハッ!これは傑作だ!」

 

 コカビエルが嗤う。大口を開けて大笑し、隙を晒して目を覆う。

 

「実にくだらん」

 

 そしてすぐ、冷ややかに開いた眼は面倒くさそうに光の槍を作り、おもむろに投げられた。

 

「ッ!!あぶねぇ!!」

 

 ウタさまとフェルさまへ向くその切っ先。絶対間に合わないであろうに、一誠先輩が慌てて守ろうと走り出す。

 

 人間が、その槍の千分の一の威力ですら容易く死ぬことは、彼が一番よく知っている。一見ただの人間にしか見えない彼女らに、一誠先輩は自身の死に様を重ねていた。

 

 だがもちろん、そうはならない。

 

 パキャン

 

「え……ッ!?」

 

「……ほう」

 

 金属板でも砕けたような破砕音が長く空気に響き、一誠先輩とコカビエルの驚愕を引きずり出す。

 

 フェルさまが振るった『気』の込められた裏拳が、槍を粉々に打ち砕いていた。

 

「意外だな、なかなかやるじゃあないか、人間。少なくともデュランダル使いよりは戦えるらしい。……ハンター、念能力か。このオレの光と打ち合えるほどのポテンシャルがあるとは、思ってもみなかったぞ」

 

「ボクの方こそ、思ってもみなかったよ」

 

 光の槍を打ち払った革手袋の右手に落とした眼を、フェルさまは宙のコカビエルに持ち上げる。ニィっと、コカビエルに負けないくらい凶悪に、楽しそうに笑った。

 

「聖書がどうとか、もうちょっと強いかと思ってたけどこんなものなの?……キミ、情緒不安定なだけじゃさぁ」

 

 纏う邪悪な『気』が、一息に膨れる。そして、結界の中を埋め尽くした。

 

「つまらないだけだよね」

 

 あの極寒の吹雪が、この場の全員を呑み込んだ。

 

 すぐそば、アーシア先輩のか細い悲鳴。リアス部長たちは震えて身を寄せ合い、最も近くでそれを浴びた一誠先輩と裕斗先輩が本能的に後退る。

 聖なるものに対する悪魔の根源的恐怖すら凌駕する、生命を直接撫でる『邪気』の塊は、味方であるとわかっていても恐ろしく冷たい。呼び起こされる恐怖には、私を含めて誰一人抗うことができなかった。

 

 つまり、コカビエルもだ。

 

「ッ――!!?」

 

 目を見開いていた。フェルさまの異常な『気』と、それによって自身の翼が羽ばたいたことに。

 

 無意識のうちに、フェルさまから逃げようとしていたことに(・・・・・・・・・・・・)

 

「にゃは、やっぱり期待外れみたい。ビビりの堕天使じゃ、暇つぶしにもならなそうだにゃあ」

 

 衝撃に言葉が出ないのか、声無く喘ぐコカビエル。わななき、怒りで全身を燃やして、それでようやく引き攣った不敵を取り戻した。

 

 高くに舞いながら、誤魔化すように笑った。

 

「ハハ、クハハハハッ!!調子に乗るなよ下等種族!!妙な気配をしているようだが、だから何だというのだ!!死にたいというのなら、望み通り叶えて――」

 

 笑って、そう虚勢を張った半端な余裕は、しかしすぐさま消し飛ばされる。

 

 コカビエルが一つ羽ばたいた、次の瞬間、

 

「あ?――なァッ?!!」

 

 木から実が落ちるようにあっけなく、翼を持つはずのコカビエルは落下した。

 

 重力の風にたなびく長髪と五対十枚の翼。機能の一切を失ったらしく、もはや羽ばたくどころか翼を広げて滑空することすらできない。なまじ高くへ飛びあがってしまったために長い自由落下の中、散々私たちを蹂躙してきたコカビエルは、かけ離れた慌てようでいっそ滑稽にもがきながら、しかし何もできずに墜落した。

 

 鈍い音がして、土煙が巻き上がる。地に膝を突いたコカビエルが信じられないといったふうに目を見張り、背中の翼を確かめるも、傷も何も、もちろんそこにある黒い玉も見つけられない(・・・・・・・)

 

 その異常に、呆然と呟いた。

 

「な……に、が……?」

 

「ほんと、フェルの言う通りかもね」

 

 ウタさまのあからさまに呆れかえった声色に、コカビエルは疎か皆が驚愕の眼を向ける。

 

 何が起きたのか。人間が堕天使を見下す光景は、『気』が見えない皆にもすぐにそれを悟らせた。

 

「すんなり成功しちゃってびっくりだわ。……もしかして、私たち挨拶しに出てきたって思われてた?ぺちゃくちゃおしゃべりしたのも、おかしいとか思わなかったわけ?

 ねえ、『下等種族』にご立派な翼を捥がれた気分は、どう?」

 

 人間が堕天使を地に落とす。悪魔である私たちが全員でかかっても掠り傷しか与えられないような相手に、たったの一手で与えた痛打。

 

 皆にとって、信じられないことだった。

 

 理解し、浴びせられた嘲弄で、コカビエルの眼に憤怒が塗り重ねられていく。増す殺意と『力』の波動。小動もせずコカビエルを見据えるその姿に、私は歯を噛みしめた。

 

(私も――)

 

 あの人たちのように、強ければ――

 

 守られる、ではなく、守るために。

 私は黒歌姉さまのように、『守る側』になりたかった。

 

 

 

 

 

(煽り耐性なさすぎでしょ……自分で企んでおいてなんだけど)

 

 たぶん、ピトーも同じことを思ったに違いない。横目にすれば、演技の中にほんのり本物の嘲りを覗かせる彼女がいた。

 

 神器(セイクリッド・ギア)も魔法も使えない人間など眼中にない、という者が多い人外に対する示威行為。注意を引くため度々やるこの挑発も、ここまで見事に激怒を引き出したのは初めてだ。

 

 かつての大戦争さえ生き抜いた堕天使のプライド故に、たった二人の人間に脅かされたことが大層お気に召さなかったらしい。下手に力があるばかりにピトーの『円』にも心折れず、怯えてしまった自身への反骨に変えてしまったのだろう。

 おかげで地上に引きずり落とし、意識の矛先を引き付けることができたのは良しとしよう。依頼主から照準が逸れたことは狙い通りであるのだが、しかし正直やり過ぎ感が否めない。正面切っての殴り合いをせねばならない以上、できることなら侮りは残っていて欲しかった。

 

 しかし期待は実らず、頭に上った血で容赦を忘れたコカビエルは、その両目を鮮烈に燃え上がらせていた。

 

「……許さん……遊んでやろうと思っていたが……やめだ」

 

 身に滾らせた光の力を、奴は無数の光弾に変えて背後に展開する。一発一発に込められたその威力は、『念』における私の全力の一撃と大差ない。たとえ頭が沸騰していても歴戦の戦士であることに変わりはなく、『力』の強大さは今までに殺してきた者たちの中でも突出したものだ。

 

 そんな相手の本気を引き出してしまった。要因の一つではあるが、相対してしまえば、先に翼を奪っておいてよかったとつくづく思う。数分の間とはいえ、自在に空を飛び回られるとなれば『フェル』と『ウタ』的にこの上なく不利だろう。

 

 とはいえ、それを差し引いてもこの状況は厄介だ。

 

「死んで詫びろ、下等種族どもォッ!!!」

 

 轟く狂気濡れの咆哮と共に幾百もの光弾がばらまかれると、それを合図に私たちは左右に分かれて駆けだした。押し寄せる光弾が数舜前まで私たちが居た地面を穿ち、めくれ上がった砂礫の壁を、続く第二波第三波が貫いて、続々私たちに襲い掛かってくる。

 

 容易に眼で追える程度の弾速故に避けることは難しくないが、尽きない波状攻撃と相俟って、だからこそ攻めに転じることが困難だ。長く滞留する光弾の柵は奴の深層の恐れを示しているのか、ともかくこれを縦横無尽に延々とやられたら、やっぱり本格的にマズかったかもしれない。

 

 なにせそんな乱れ撃ちの光弾から、私たちはリアス・グレモリーを守らなければいけないのだ。

 

「も……ッ!どこ狙ってんのよヘタクソッ!!」

 

 逸れた光弾を『念弾』で撃ち落としてやりながら、私はいつかのじり貧を思い出して歯噛みした。

 

 危惧の通り、私たちを面で押しのける弾幕は、狙いがそれほど正確ではない。避け続けるならどうしたって流れ弾は発生する。

 

 意図して狙っているわけではないことが救いだが、悪魔に対する猛毒である光が炸裂するあの光弾は、秘められた威力とリアス・グレモリーたちの消耗具合から考えれば、まず間違いなく即死級。一発でも無視しようものなら高い確率で誰かしらが死ぬだろう。万一それが依頼主であるリアス・グレモリーであったら、その時点で依頼がおじゃんだ。

 

 大変な思いまでして戦って、その末に何も得られないとなれば、これほど悲惨な事もない。口座を空っぽにしてしまった罪悪感は自分でも驚くほど重く、完全無欠の無駄骨なんて想像するのも憚られた。

 

 故の執拗な挑発だったが、それも上手く行き過ぎて逆に裏目だ。結果的に京都でのあの戦いそっくりな状況で、しかも敵が光の力の使い手であり、曹操がいない。あの時と違って打破の手段はあるが、しかしそれでも足手まといを守りながらであれば危険な綱渡りであることに変わりなく、そして私にはそれをピトーに強要する気がなかった。

 

 私のせいでピトーを危険に晒すなんてこと、二度としない。ならこのまま、不服ではあるがリアス・グレモリーを守ることに努めるべきだろうか。

 

 だがそれは、あまりに不自然(・・・)ではないだろうか。

 攻撃の意思がなければ、それは戦闘に見えない。だから私は、真っ先にそれを考えた。

 

 さっさと突撃してしまうべきだ。

 

(コカビエルとの距離は精々三十メートル。光弾を避けながら接近するのに……一秒とちょっと……!)

 

 それくらいの間、自分の身は自分で守ってもらうこととしよう。

 切り捨てれば、そのリソースを私とピトーの二人分に集中できる。であれば攻め入る気にもなれた。それに一旦距離を詰めてしまえば、忘我のコカビエルとて自滅すらしかねない弾幕を使うのは躊躇うだろう。リアス・グレモリーたちも安全だ。

 

 ほんの一瞬だけだ。そもそもあいつらは自らの意思で戦場に立った。ならば一時の危機くらいは自身で回避して然るべきだろう。そう、これも一つの『修行』と言える。

 

 ――碌に回避ができずに死のうが、

 

(別に、いいじゃない)

 

 唇に弧を描く。ピトーのように。

 

 軸足で乾いた地面を捉え、身体を正面に飛び来る光弾を見据えた。慣性の横滑りを踏み留めながら『念』でいなし、手に集中させた『気』を使う。

 定めた意志が、まだ次々迫る光弾を迎え撃つため黒く染まった。その瞬間、

 

「ウタ、任せた」

 

 小さく、耳打ちが鳴る。いつの間にそこにいたのか、ピトーが私の真横を潜り抜け、突然前に躍り出た。

 

 周囲を光弾が覆って逃げ場のない、コカビエルの真正面である一本道に。

 

「ちょ――ッ!?」

 

「死にに来たか下等生物ッ!!」

 

 光弾の光の力は、悪魔と魔獣、『キメラアント』の血を引くピトーにとって猛毒だ。万が一にも被弾は許されない。半面私は出血しようが正体がバレる心配はないし、仙術の関係で多少の無理が利く。最悪でも、手の皮がずるむけに焼けただれる程度で済むだろうと踏んでいた。

 

 だが、

 

「まとめて消し飛べェッ!!!」

 

 放たれた巨大な光の槍は、ピトーと相対する。無謀を装い自身を囮とした策は、彼女の命を捉えうる。

 

(なんだってそんな……もうッ!!!)

 

 肌を焼く光の塊に突き進むピトーの『気』。急激に練られ増幅する気配に、私は情動を呑み込んで、手の『発』を撃ち放った。

 

 ――【黒肢猫玉(リバースベクター)】!!

 

 底の見えない黒色の丸い玉が、音もなく飛翔してピトーを追い越す。後姿の先に潜り込み、そして私は全集中を以てした勘によって、凶器の槍先へそれを導いた。

 

 接触、次いで、瞬く間に起こる変化。玉が弾け、そして莫大な威力を秘めていた堕天使幹部の光の槍が、内側からひび割れた。

 

「それは――ッ?!!」

 

 鈍る輝きにコカビエルが息を呑む間もなく、悍ましいという表現にすら収まらないほど圧縮されたピトーの『気』が、槍を完全に打ち砕く。そしてそのまま止まることなく、増幅したコカビエルの恐怖に突き刺さった。

 

「っば―――」

 

 顔面に拳がめり込み、飛び散る赤い血が私の網膜を彩る。その一画の間を置き、訪れた衝撃波が血と周囲の光弾をまとめて消し飛ばす。肉と骨が軋む鈍い打撃音が一番最後に鼓膜へ届き、そしてコカビエルの肉体は吹き飛んだ。

 

 嵐の中の木の葉のように錐もみ回転して植え込みの樹木をへし折り、瀟洒な校舎の窓ガラスを突き破ったコカビエルは、何枚かコンクリートの壁を破壊してようやく沈黙する。

 

 私は、激しく脈打つ心臓にようやく人心地を入れた。

 

 殺伐とした『念』を解き、革手袋に付いたコカビエルの血を振り落としているピトーの様子に、決行された一連が無事で済んだことを実感して安堵のため息を吐いた。

 そうすると続いて怒りが湧いてきて、緊張に痺れて固まった身体をみしみし鳴らしながら、私は呑気な彼女に詰め寄った。

 

「もう!心臓止まるかと思ったじゃない!私がやるつもりだったのに、急に前に出ないでよ!」

 

「うん?でも防御力で言ったらボクのほうが適任でしょ?ウタがやったら怪我しちゃうと思うよ、アレ」

 

「私が怪我したってどうでもいいのよ!それよりも――。……その、フェルの命を賭けないでってこと!」

 

 唖然としながら、しかしやはり恐怖の勝る表情を作るリアス・グレモリーの存在に、ぼかして精一杯の主張をする。無理矢理ねじ込んだこの攻撃自体、極論を言えばそもそもせずともいいものだ。

 

 だが互いが抱く危機感にはどうやら隔たりがあるらしく、ピトーはあっけらかんと言い放った。

 

「賭けてないよ。ウタの腕と能力なら大丈夫って思ったからさ」

 

「……信頼してくれるのは嬉しいけど、そういう問題じゃなくてぇ……フェルの背中で視界塞がれたまんま能力操作して、あれ、しくじったらほんとどうなってたと思ってるのよって」

 

 光弾よりもはるかに速いあの槍に能力を当てるなら、間違いなく目視があった方が危険は少なかった。

 

「……まあ実際無傷でうまくいったじゃない。だから平気平気、さすがウタだにゃあ」

 

「結果じゃなくて可能性を考えてって……ああ!ちょっと!頬っぺたムニムニしないでよ!誤魔化されないわよ私!」

 

 論争の不利を悟ったピトーによる凶行。こんな場所で何をするんだ、と小っ恥ずかしい所業から逃れようとするも彼女はやたらとしつこく、ワキワキ蠢き続ける手はじゃれつく気満々であるらしい。

 

 家の中でなら受けて立つところだが、マイペースなピトーと違って羞恥の心が存在する私には、リアス・グレモリーたちの視線が無視できない。もどかしいながらも必死に抵抗を続け、話を引き戻すべく言い放った。

 

「とにかく!危ないことやるならせめてもっと早めに合図か何か寄こしてよね。こんな怖い思い、もう二度とごめん――」

 

 と、言葉が途切れたその瞬間、私は自身の迂闊を悟った。感じた気配は本来なら警戒して然るべきものだった。

 

 だがたぶん、警戒していたとしても疑うことは難しかっただろう。ピトーのパンチのすさまじさは、五年とちょっとの間ずっとボコボコにされ続けた曹操の次によく知っている。

 

 よりにもよって頭にピトーの拳を直撃させられたコカビエルに、まだ光の槍を作り出せる元気があるとは思ってもみなかったのだ。

 

「――ウタッ!!」

 

 しかし気付いて逃げようとした瞬間、ピトーの一声に脚が止まる。一際強く煌めき撃ち放たれた光の槍は、避けてしまえば悪魔たちに被害が及びかねないのだ。

 

 不満だが、ピトーが避けないのであれば反抗する暇はなく、私は再び能力を発動させた。

 

 撃ち放った黒い玉、私の【黒肢猫玉(リバースベクター)】が光の槍に命中すると威力を削いで消え、ピトーの『念』が半崩壊となったそれを完全に殴り壊す。同じように粉砕された光芒が溶けて消え、一瞬の後、殴られ陥没した憎悪の相貌が間近にあった。

 

 その両の手に構えられた二振りの光の剣が、両方ピトーに振り下ろされる。

 

「オレのセンソウのォォ!!」

 

 爆発する地面。撒き上がった砂埃を突き破り、私の眼前に眩い光。

 

「ジャマをするなアアァァァッッ!!!」

 

 横薙ぎに、煙る光の尾が線を引いた。

 

「いッ――!!」

 

 さっきの光の槍以上の速度を避け切れず、腕を浅く切り裂かれる。『念』の防御も越してくる久方ぶりの光の力が内の悪魔を焼き、冷や汗が浮いた。

 

 だがもちろんそれ以上呻く暇は与えられず、続けざまに袈裟斬り、再び横薙ぎ、逆袈裟斬りしてまた袈裟斬りと、まるで素人剣術のように振り回される剣を、私は歯を食いしばって避け続けた。茶色の煙幕の中で逃げ回り、しかしその猪突猛進っぷりに埒が明かないと、さらなる負傷覚悟で、逃げに出した足を踏みしめる。

 奴の攻撃の射程に留まって、そして首を刈りに来た二本の剣を、左手に発動させた能力で迎え撃った。黒い玉が光を食い破り、『気』と合わせて相打ちになって砕かれると、ひたすらな突進をいなされたコカビエルはたたらを踏んで体勢を崩す。そのがら空きになったわき腹に、曹操から半ば強制的に教えられた拳法の型を、腕の痛みと一緒に叩き込んだ。

 

「――ッたいじゃないのよッ!!」

 

 あばらをへし折り、衝撃が肺を貫く。攻撃の恨みは渾身の一撃を私から引き出し、コカビエルは身体二つ分ほど吹っ飛んで膝を突いた。

 

 奴の苦悶を、剥かれた眼と痙攣する喉に見る。呼吸ができない苦しみと危機感は中々御せるものではなく、ピトーの一撃も含めればなおのこと、蓄積したダメージは無視して動けるような範疇ではないはずだ。

 

 致命傷を負っているに近しい状況。であれば、追撃しないわけにいかない。

 左手に能力を発動し直し、私は型で踏みしめた地面を蹴った。ピトーも同意見だったようで、一歩遅れて続いてくる。

 

 ほんのわずかな、数歩で縮まる彼我の距離は、一瞬にして消えた。蹲るコカビエルはそれを前に顔を上げもせず、もしやこれで本当に終わりかと、つい期待が頭をよぎる。がやはり、瞬間奴の懐に感じた光のお気配に、ためらうことなく九十度舵を切った。

 

 爆発。眩い光が身体と網膜を焼く。『念』で耐えて、爆風に持ち上げられた重心を空中で取り戻す。同時に、光の残滓を切り裂いた光芒を、身を捻ってどうにか躱した。

 

 土煙に紛れて視認はできないが、気配ではっきりと理解できる。それはコカビエルの光の剣だった。爆発にも巻き込まれ、普通であれば身動きなどできないはずの奴は、それすら無視して攻めてきたのだ。

 

「アザゼルもキサマも、なぜオレのジャマをするッ!!?まだ終わっていない!!オレはッ!!オレたちはまだ、戦わねばならんのだアアァァァッ!!!」

 

「意味わかんないしッ!!あんたの事情なんて、知んないわよッ!!」

 

 相変わらずの荒い剣筋から繰り出される乱舞は、当然回避に苦労しない。むしろ速度が落ちて容易になったほどだ。

 

 だが、私はその無茶苦茶な剣に冷や汗をかいていた。

 

(本格的に、吹っ切れちゃったわけ……!)

 

 奴が消耗して弱っていくにつれ逆に増していくこの圧力が、正直なところ恐ろしい。まさに『手負いの獣』だ。

 

 だからあの状態で動いていることには、もう今更驚きはない。奴が叫ぶ、戦うことへの執着。何があったのかなんて知ったことではないが、ピトーの攻撃でも潰れなかったのであれば、私の打撃でどうこうできるはずもないだろう。

 

 そんな強い意志が、明確な殺意を向けている。まともに剣も振れない状況でも、逃げることすら考えずに、何をしてでも私を殺そうと命を絞り出している。

 

 その狂気は、私に『サンペー』を想起させた。

 

 さすがに、命を代償に強力な力を、なんていう少年マンガみたいな展開がコカビエルに起こるとは思えないが、それでもまともだった時よりよほど油断ならない。自縛も然り、身を顧みない精神であるから、何をしてくるか予測がつかないのだ。

 

(だからって、今更逃げられないけどッ!!)

 

 喉に上る不満を噛み潰しながら、私は再度攻撃を弾いた。また同じようにコカビエルの体勢が崩れ、そして今度はピトーの貫き手が襲い掛かった。

 

 ただし、酷く静かに。

 

「げ、あッ??!!」

 

 背から胸を貫通するピトーの腕。破裂した心臓のどす黒い血が滴るそれが見えて、初めてコカビエルは攻撃されたことに気付き、眼を剥いた。

 

 本能すら竦む彼女の『気』は、『(イン)』によって隠されていた。『(ゼツ)』の応用技であり、『気』を見えにくくするその技は、ピトーの力量と相俟ってほとんど完全な不可視化と隠密を為している。仙術を使う私でもうっすらとしか感じられないほど故に、コカビエルが対応できるはずもない。

 

 今までひけらかした『気』によって植え付けた、『ピトーの攻撃=すさまじい気配』という印象を使った一撃。とどめを刺すために仕込まれた罠の札は、今のコカビエルをそうして直接に殺すよりも、持久戦で負うリスクの方が大きくなったと判断したがために切られたのだろう。実際、大まかに告げたそれ(・・)のタイムリミットまで、戦闘の最中では決して少なくない時間が残っている。

 

 だが知っている私は、それと同時に感じるコカビエルの気配にも、その悪手を悟った。

 

「っグ!!?」

 

 受けた致命傷に沈黙したコカビエルから、じゅう、と、何かが焼ける音が聞こえた。いや、ピトーが漏らした苦悶からしても、出どころなどわかりきっている。

 

 ピトーの腕が焼かれる音が、私の心臓を殴打した。

 

 確かに心臓を貫かれたコカビエルは、それでもまだ生きていた。光の力で命を繋ぎ、血液の代わりに循環するそれを以てして、身体の内側でピトーの腕を焼いていた。

 

「オ、レは……センソウをオオォォォ!!!」

 

「オマエ、ちょっとしつこすぎッ!!」

 

 叫び、ピトーが逆の手の拳を握る。光のせいで多少抑制されているとはいえ、込められた『気』は死に体のコカビエルなど容易く殺せるほどに溢れていた。そうでなくとも光の力で無理矢理命を繋いでいる以上、このままその場につなぎ止めておくだけでいずれ奴は死ぬだろう。

 

 だが私は、両手に光の剣を震えさせるその表情を正面にして、どうしても危惧と不安を拭えなかった。狂いに狂って進む、死と反比例に増大の一途をたどる殺意がピトーを傷つけている現状を、私は容認できない。

 

 だからコカビエルが背後のピトーに遠心力で光の剣を振るう時、私は意を決して飛び出していた。

 

「フェルにッ、引っ付いてんじゃないわよ変態ッ!!」

 

 襟首を掴み、背負い投げの要領でピトーから引き離す。水音と一緒に腕が抜け、胸に虚空の穴をあけたコカビエルが、投げ飛ばされて宙を舞った。

 

 もちろんそんなことであの暴走状態が解けるはずもなく、コカビエルはままならない身体で無理矢理私に照準を絞った。右手に注ぎ込んだ精一杯の光の力で槍を作り出し、投擲しようと振りかぶる。

 

 威力はともかく、今までの私たちからすれば当たるはずがないだろう。しかしもう不自然に感付くだけの理性は奴になく、ならばこれでもいいだろうと、私は光めがけて脚のバネをたわめた。

 

 その時、ふと視界の端に光が走った。

 

「ッ!!」

 

 コカビエルが握っていたはずの光の剣だ。たぶん投げ飛ばされてすっぽ抜けたのであろうそれが、瞬間腿を始動させた私の射線上。

 備えていた能力で、辛うじてそれを打ち消した。だがそのために生じた正面の空間が、光の槍にそのままの通過を許す。

 

 覚悟した激痛が、私の胴を貫いた。

 

「が、はッ……」

 

「ウタッ!!」

 

 槍の勢いに弾き飛ばされる私の身体。思わず一瞬硬直してしまうピトーの脇でバウンドし、土煙の中を転がった。

 

 コカビエルがあっけないそのさまを眼にして、狂暴な喜色で血液混じりに喉を鳴らす。

 

「クハハハハッ!!なんだ!!ようやく死んだかニンゲン!!!」

 

「コイツ、調子に――ッ!?」

 

 意気を取り戻したピトーが突っ込むも、牽制に突き出された光の剣を避けるため脚が止まり、容易く首に手を掛けられる。締め上げられて片腕で身体を持ち上げられ、詰まる息にもがきながら弱々しく抵抗してみせる彼女に、コカビエルはまた喜色と、そして嘲りに満ちた元の尊大を取り戻した。

 

「そう、そうだ。オレがニンゲン如きに後れを取るわけがないのだ!この程度の負傷も、ヒヒヒッ!モンダイないとも、すぐに癒えるにキマってる!!どれだけパワーがあろうが妙な力があろうが、一撃で壊れるような脆いイキモノなど、恐るるに足らんなァ!!」」

 

 現状の認識は想像通りねじ曲がり、コカビエルは私が転がった方向へ楽しそうに狂い嗤う。向く足のその思惑を悟り、ピトーは握り潰される声帯を必死に震えさせた。

 

「――や……めろ……!ウタ、に……は……」

 

「そんななりで、まだナカマの心配か?……ヒヒッ、やはりオレ正しかった。くだらないなキサマ。リアス・グレモリーのように甘い、アマすぎる。だから下等!だから脆弱!!だから何もできずにィ――」

 

 最初のそれよりはるかに巨大な光の槍が生み出されて、またおもむろに構えられる。そして、

 

「こうなるのさァ!!!」

 

 先の土煙に打ち込まれた。

 

 突き刺さる。すさまじい振動と風圧。しかし込められた威力からすればささやかな衝撃波が、吹き飛ばした土煙をリアス・グレモリーたちにまで届けた。

 

 大地も割れず、弾幕や光の爆発と比べれば実におとなしい影響。だがコカビエルは、血液混じりの唾を飛ばして笑った。

 

「さっきもあの黒い玉、使ったんだろうが、本気のオレの一撃を防ぎきれるはずがないだろう!?猿が一匹ならばなおのことだ!!貫通するダメージだけでニンゲンが死ぬには十分……ん?」

 

 そしてすぐ、釣り上がった頬の皺が消える。一転間抜けな疑問符を漏らしたコカビエルは、その時ようやくそれを視認した。

 

 視界の効かない中、気配で探り当て、そして討ったと確信した私の姿。コカビエルが想像したものはどこにもなく、代わりに黒い人型(・・・・)が横たわっていた。

 

「なん……だ……?この……」

 

 形も、それが発する気配も私と瓜二つだ。光の槍が突き刺さっている。間違いようがないほど私であるはずなのに、視覚情報に於いては明らかに違う。

 

 これはなんだ、いやそれよりも『ウタ』はどこなのかと、理解不能で動きを止めた死にかけの脳味噌がその疑問にたどり着く前に、ピトーが動いた。

 

 めり、めしゃっ、と軋んだ骨が捻じれて砕け、肉ごとすり潰される音。

 

 唐突に芯を失って垂れ下がった腕に、コカビエルは痛みにも気付かないくらいに呆けて、そっちを振り向いた。

 

「なんて……あーあ、首が血でべたべた。まあ別にいいけどさ。でも、赤髪と一緒にされるのは……ちょっとヤだにゃあ」

 

 ピトーが、血の手形が付いてしまった首周りを気にしながら、肩をすくめて平然と鼻を鳴らしている。加えて手形の元、鷲掴みにしていたその腕が捻じれて折れて潰れているのだから、理解すれば、プライドを暴走させるコカビエルが彼女への憎悪で燃え上がらないはずがない。

 

 獣のような咆哮を上げて、逆の手に極大の光の槍を生み出した。

 ピトーに集まる、すべての敵意、殺意。それで、

 

「――おしまい、っと!」

 

 背後から、私の手がコカビエルの肉に突き刺さった。

 

「ごぁッ……!!」

 

 胸に空いた大穴は、元より致命傷。補修はしても塞がっているわけではないそこを再度貫かれ、開いた損傷は否応なしに光の力を霧散させる。響いた衝撃で槍は崩壊し、コカビエルの身体から力が抜けた。

 

 だが倒れる直前、間一髪踏み出した右足が前傾を留めた。

 

「ち゛ょうじに゛、の゛る、な゛ア゛アァァァァッッ!!!」

 

 手に感じる肉がミチミチ収縮し、灼熱の血を撒き散らしながら身が捩られる。血走って真っ赤に染まった眼球が飛び出さんばかりの殺意を放って私を捉え、その往生際の悪い意志で腕を持ち上げた。

 

 身体に染みついているのだろう、光の槍を投擲する構え。不発に終わった数秒前の形をなぞり、血を吐きなんとか体を為した。

 

 けれども、

 

「アァ……ぁ……」

 

 その身体に光の力が満ちることはなかった。

 

「な……ぜ……」

 

 呆然と呟いたコカビエルが、次いでぐらりと身体の力を無くす。導線を断ち切られた機械のように一瞬にして脱力し倒れる肉体を、私は肉の中の背骨に指を引っかけて支えてやった。体内をえぐり進んだその感触にすら反応を示さないコカビエルに、抑えきれない加虐心のまま、乱暴に引っぱり起こしてとぼけてみせる。

 

「なぜって、どのなぜ?フェルがピンピンしてること?それともあの身代わり?だったらあんた、もっと疑うことを覚えるべきだとおもうわ。女は皆、生まれながらに女優なのよん」

 

「光を散らす……黒い玉には、触れ……いない……のに」

 

 虫の息であるコカビエルの囁き声に、私の口角が少し下がった。

 

「ああ、やっぱりそれには気付いてたわけ。ご明察。ただ撃ち落したり、羽を潰したりしてたわけじゃないの。念弾と思ってくれたらよかったんだけど……はあ、フェルが前に出ちゃうからさぁ……」

 

「それもボクのせい?でもウタだってあの後いっぱい使ってたにゃ。槍を防ぐには必要なんだから」

 

「一回ばらしたのを隠してもしょうがないじゃない。槍は避けるなりいなすなりして、切り札に取っておきたかったの!……まあ『光を散らす』ってことは、本質的な事には気付いてないみたいだけどね」

 

 わざわざ接触と同時に炸裂させたり、ピトーと同様に『隠』を封じたり、後は挑発に、強調した攻めっ気も。最初に背中に潜り込ませた【黒肢猫玉(リバースベクター)】を意識させないよう講じたあれやこれやは、奥の手を添えずとも見事に役割を果たしてくれた。

 今も羽の間に『隠』で見えなくした【黒肢猫玉(リバースベクター)】がくっついていることなど、コカビエルは想像もしていないのだ。

 

「これもまあ、ここまでボコボコにできたんだから、要らなかったかもしれないけど。直接(・・)触れられた訳だし」

 

 一瞥して能力を解除して、ようやくつかみ取った『生命の源泉』、既に弱り切った命の源を優しく撫でる。

 

 染み出た血を、舐めとって。

 

「ともあれバイバイカラスちゃん。来世があったら、その時コレのタネ明かししてあげる」

 

 おもいっきり握り潰した。

 

「こ――」

 

 脆いガラス玉が砕け、バラバラのガラクタになるが如く。

 

 瞬間、仙術によって命を壊され、コカビエルは死んだ。




搭城小猫?そんな子、ウチにはないよ…

黒歌の新能力の解説をしようかと思いましたが、まだはっきりしてないのとあとめんどくさいので止めておきます。感想ください。


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三話

20/9/08 本文を修正しました。


「――あ」

 

 ただちょっと、予想外の出来事。

 直接触れて使ったために間違えた力加減が、その死を少しばかり愉快なものに変えてしまっていた。

 

 込め過ぎた『力』でコカビエルの胴体が爆発し、詰まった血肉が盛大に撒き散らされる。勢い余って一緒に飛んだ頭を反射的にキャッチしてしまったピトーも、そしてほぼゼロ距離にいた私も、そのしぶきを避けることができなかった。

 金臭さと生臭さと生温かさが全身に覆いかぶさる結末を、私たちは回避することができなかったのだ。

 

「へぶっ!」

 

「うに゛ゃんっ!」

 

 重たい粘液とぶよぶよした肉片が、顔を叩き胸を叩き腹を叩き、そしてべっとりとへばりつく。貫いた肉がきれいさっぱり四散して、汚濁に塗れた私たちは過ぎ去った嵐に目を開けると、互いの惨状に言葉を失い、呆然と見つめ合った。

 

 ぺきん、と硬いものが折れる音が、締まりのない勝利のその只中を断ち切る。同時、軽くなった腕に気付いて視線を下げれば、私の手には肉が吹き飛んだコカビエルの背骨、腰あたりの腰椎だけが握られ、その下の下半身が千切れ落ちて血だまりの地面に頽れていた。

 

 中々にえげつない惨殺事件だ。それで私はようやく我に返り、己がしでかしたことに気が付いた。血と肉片で汚れた眼鏡を外し、泳ぐ眼でもごもご弁明を口にした。

 

「あー……うん。テンション上がっちゃって……能力のほうに感覚がね、引っ張られて、それで加減を間違えちゃったわけで……」

 

「………」

 

 ちらりと横目で様子を伺えば、ピトーが俯いて黙り込んでいた。口を押える手は怒声を堪えているのだろうか。当然だろう。それがいくら彼女の好物の類だろうと、全身にぶっかけられては喜べるはずもない。

 

 とはいえ、それにしてもオーバーリアクションが過ぎるのではないだろうか。

 別に故意にやったわけではないのだから、いつものように鋭い軽口で済ましてくれてもいいはずだ。なのにピトーは未だ顔すら上げず、不機嫌ですよと言わんばかりの近づくなオーラを全開で醸し出している。

 

 ならばぶっかけは原因の主ではないのだろう。道理に合わない怒りの元は、とどめを横取りしたためか、それとも私の未熟そのものか。わからないが、つまり私は何かしら、ピトーのよろしくない琴線に触れてしまったらしい。

 

「あのー……そのー……」

 

 お茶濁しも通じない、正体不明の憤り。挽回しようのないそれから想起されるのは、ホーム出発前の徹夜ゲームの一件、あるいはそれ以上に激しいピトーのお説教だ。

 

 普段滅多に怒ることがない彼女のそれに、私は逆らうことができない。冥界での出来事がトラウマにでもなっているのか、己に向く彼女の怒りを目の当たりにすれば、どうしても身を縮めることしかできなくなるのだ。

 

 彼女の失意を延々受け続けなければならない未来は、考えるだけで大概のプライドを心の奥底にしまってしまう。私は痙攣する頬の端をどうにか持ち上げ、あざとく小首を傾げてみせた。

 

「ゆ、許してにゃん?」

 

 ……あまり効果はなかった。なおも湧く怒りか、ぷるぷる震えるばかりの彼女は、一つ喉を鳴らして何か飲み込んだ後、睨むみたいな眼で私に一層の怯えを植え付けた。

 

「ちょっと、飲んじゃった」

 

「えっと……お、おいしい?」

 

 気の利いた言葉が思いつかず、つい素直な感想が口に出る。ピトーはやっぱり動じず、眼差しは硬いままだ。

 

 本当に怒っているのか、もはやそれすら曖昧に思えた。中身が見えない故の理不尽な眼は、怖いを通り越して涙すら滲みそうになる。お説教を回避できるなら、徹夜の成果を全部無に帰してもいいくらいだった。

 

 だからピトーが、心底恐ろしい『黒歌への怒り』を露にせんと息を吸いこんだ瞬間、駆け寄ってきた足音にそれを呑み込んだことは、私にとってこれ以上ないくらいの福音だった。

 

 私はこれ幸いと振り向いて、途端に背を跳ねさせ足を止めたリアス・グレモリーへ、先んじて皮肉を投げかけた。

 

「っていうか、前々から思ってたけど、悪魔っておバカしかいないの?なんだって戦えもしないのにコカビエルなんかに喧嘩売ったのよ。自分と相手の力の差くらい理解してほしいわ」

 

 長年曹操との闘争で培った口が、すらすら声色を連ねて並べる。子供且つ恐怖心植え付け済みのリアス・グレモリーは、毅然と佇みながらも顔を青くした。

 しかし、精神的疲労が癒されたコンマ数秒後、代わりに神器(セイクリッド・ギア)らしき赤い小手を装備した男が目の前に飛び出し、啖呵を切った。

 

「な、なんだよいきなり喧嘩腰に……いくら巨乳のお姉さんだからって、部長に手を出すってんなら黙っちゃいねえぞ……!」

 

 と宣ったにも拘らず一直線に胸を向いた視線。隠す気もないエロガキは、己のマスターと同じくあからさまにビビっており、警戒心を露にしていたが、その立ち振る舞いはそれでも実に堂々としたものだ。

 

 力は示してやったのに。尚強気に出られるのは男の度量か、それともただおバカなだけなのか。視線を踏まえてたぶん後者だろうと、私は男へ失笑してみせた。

 

「『手を出す』なんて酷いこと言うのね。こんなに苦労して助けてあげたのに。あーあ、私、傷ついちゃったなぁ……これはもう、追加料金に加えて慰謝料も請求するべきかにゃん。ねえリアス・グレモリー?」

 

「い、慰謝料はともかく……助けてくれたお礼は……べ、別に支払うわ、もちろん。……ええと、はぐれ悪魔のものだけれど、討伐賞金の相場に照らして――」

 

「身の程知らずのお子様の尻拭いさせられて全身べっとり汚された挙句、助けたそのお子様にいじめられたら、そりゃあ仕返しの一つもしたくなるものよねぇ」

 

「お、お父様とお兄様にも頼んでみるから……」

 

 なんとか保っていた毅然も剥がれてとうとう涙目になってしまう赤髪の貴族悪魔に、とりあえず私の鬱憤が晴らされる。小遣いのみならず本家からもとなれば、それなりに搾り取れることだろう。

 

 私としては予想通り、というか願望通りに引き出した四年前の怯弱だったが、どうやら小手の男を始めとした見知らぬ面々には、その弱気が大層驚きであったらしい。

 自身の印象に似つかわしくない豹変に、小手の男が再度私に吠えた。

 

「部長……!?ウタっていったか、あんた部長に何したんだよ!?大体、尻拭いったって攻めてきたのはあっちだぞ!教会からエクスカリバーを奪って、それを使ってこの町を破壊しようとしやがったんだ!なあ、ゼノヴィア!」

 

「……あ、ああ」

 

 少々の間を置いた応え。聖剣使いの彼女はまだ神の死の衝撃から脱せられないのか、何やら怯え以外の色でぼおっと私たちを見つめている。

 

 小手の男はぼやけた反応に一瞬口を噤んでから、拳を握りこんでさらにまくしたてた。

 

「駒王町はリアス部長の領地なんだから、町の皆ごと消滅させられるかもしれないってのに逃げるわけねえだろ!戦わずにいられるかってんだ!」

 

「領地っていうか、ただの縄張りでしょ。言っちゃうけどね、人間のほうはだーれも悪魔が領主だなんて認めてないわよ。一般人なんて悪魔の存在すら知らないし」

 

 曹操との罵り合いと違い、面白いように食いついてくる。つい口が緩んだ。

 

「だ、だとしてもリアス部長がこの町を守ってきたことには変わりねえ!たとえ誰からも感謝されなくても、故郷を見捨てるなんてことできるもんかよ!」

 

「……ふぅん。まあ、認める認めないなんて話、私たちには関係ないけど。要は分不相応なのよ、力量も精神も。特にそこの金髪の子、死体見ただけで顔真っ青にしちゃって……あらん?もしかして気絶しちゃったの?ほんとに何しに来たのかしら」

 

「アーシア!……そりゃあこんな……ひでえ死体なんて見たら、アーシアじゃなくてもショック受けるに決まってるだろ……!俺だってそんなので指されたら……う……」

 

「ただの背骨でしょ、こんなの」

 

 金髪ロングの欧州人らしき女子、アーシアなる神器(セイクリッド・ギア)使いを一瞥で沈めたコカビエルの背骨を、私はポイっと投げ捨てる。後方での治療担当なのだろうが、だからこそ生き物の中身を見ただけで機能停止するなんて笑い話にもならない。ただでさえ全員戦い慣れていないのに、彼らは物を抱える余裕などはないはずだ。

 

 部活動の延長のような認識なのか、『オカルト研究部』なる名前で活動していることを鑑みるに、そうかもしれない。そんな認識で領主だなんだと胸を張られても迷惑以外の感想はなく、そして実際、私たちは厄介を被った。

 

 これは、つつきがいがある。それに反意を抱かせることもできるやもしれない。リアス・グレモリーの後悔が見えるようで、私はすぐさまいちゃもんに頭を巡らせた。

 

「とにかく、わかる?あんたたちは弱すぎるの。逆立ちしたってコカビエルには勝てないくらい。立ち向かわれても、あんたたちが死ぬだけで誰も得しないのよ」

 

「ッ!!……勝てないって……わかんねえだろそんなこと!!俺と部長と、みんなで力を合わせれば、コカビエルの野郎だってぶったおせたさ!!それに一時間耐え凌げば、魔王さまだって来てくれる!!」

 

「あんなので一時間も持つわけないでしょ」

 

 コカビエルの目的は戦争を起こすことであったようだし、下僕のほうはともかく、リアス・グレモリー当人は間違いなく殺されていただろう。というか妹が死の瀬戸際にいるというのに一時間もかかるのか。

 

 関係ない思考を振り落としてから、べたつく前髪をかきあげて続ける。

 

「私とフェルが手を出さなかったら、あんたたち全員、確実にコカビエルに殺されてた。そしたら結局町は吹き飛ばされるじゃない?挑んでも挑まなくても、どちらにせよ町は消えてたの。なら合理的に考えて挑むべきじゃないって、そんなことも判断できないようだから、こうやって親切に諭してあげてるの。大変な目に合ったのに、それも水に流してね」

 

「じゃあ……どうすりゃよかったってんだよ!!町を、皆を見捨てて逃げろって言うのか!!」

 

「そう言ってるじゃない、さっきから」

 

 途端、ズン、と、鼓動のように男の『気』が震えた。龍のようなそれに混じり、怒りが、警戒と嫌悪に加わって滲み出る。

 理解できない、と言わんばかりに歪む眼差し。まるでバケモノを見るような眼だ。

 

(やっぱり、おきれいなクソガキ)

 

 口角が上がっていくのを自覚しながら、私はわざとらしく小首を傾げた。

 

「考えてもみなさいよ。挑めば町も人も、あんたたちも全部消えるけど、逃げればあんたたちは助かるじゃない?簡単な数字の問題よ。助かる人数が多いんだから、どっちか選ぶなら後者でしょ」

 

「だっ……けどよ……!!」

 

「これだけ言っても納得できない、と。にゃるほど、ねぇ……。こんなんならもういっそ、隠れてあんたたちが殺されるのを見物してたほうがよかったかしらん?」

 

 やっぱり、毒が回るのを待つべきだった。わざわざ正面切って戦うことなどなかったのだ。

 

 半分本気で考えて、私は冗談を笑った。遠回しに言った『死ね』が、重ねた皮肉のいじめで私への不信をため込んだ小手の男から、いよいよ明らかな怒気を表に引きずり出す。

 

 動いたそれを眼にして、ピトーに倣ってストレス発散してやろうかと嗤った。

 

「一誠君!!」

 

 だがもう一つの見知らぬ顔、金髪の優男が、飛び出す直前だった小手の拳を寸前で妨げた。

 

 似たり寄ったりのお子様正義漢であるらしく、眼は怯え、やはり己の行為への正邪で揺れているが、それでも私にまっすぐ視線をぶつけて立ちふさがる。

 

「……あなたのおっしゃることは、正論なんだろうと思います。あのまま、もし白音ちゃんが命を張って戦ってくれたとしても、僕たちがコカビエルを倒せる可能性は限りなく低かったでしょう。けど……だからといって、町の人々を見捨てて逃げることが正しいとは思わない……!可能性が僅かでもあるのなら、諦めてはいけない。諦めれば、その可能性すら潰してしまうなら、僕はリアス・グレモリー様の『騎士(ナイト)』として、そんなものを受け入れるつもりはない!」

 

 私の内心とは対極的に、酷く真剣な物言いが貫いた。

 

「撤回してください。一誠君の、僕たちの覚悟を笑ったことを……!」

 

 笑い声が漏れないよう、我慢するのに苦労した。

 

()よ、そんなの。だってこんなにマヌケな話、笑わずにはいられないんだもん」

 

 身勝手(おままごとみたい)な正義を大真面目に力説されて、それで笑わない奴などいるものか。しかも逆ギレする子供がセットだ。

 

 ――それはただ、見捨てる勇気がないだけでしょ?

 

「自己犠牲は結構だけど、そういうのはもうちょっとマシに戦えるようになってから言いましょうね、ぼく?」

 

「――ッ!!」

 

「バカにするのもいい加減にしろよあんた!!さっきからいったい何なんだよ!!味方なんじゃねえのか!?」

 

 虚を突かれたみたいに息を呑む金髪男を押しやり、今度こそ我慢できないと小手の男、一誠が前に出る。私は袖をまくって腕の傷を見せびらかしてやりながら、小ばかにした調子でさらに詰り続けた。

 

「こうやって尻拭いしてあげたでしょ。イエスマンじゃないから敵扱いなんて、酷いにゃん」

 

「それはッ……助けてくれたことは、感謝してる。俺たちのせいで怪我までさせちまったのも、もちろんわかってる。コカビエルと戦ったのは、あんたたちからすれば間違いだったのかもしれねえけど、けど、だからってなんで、『町の皆を救いたい』っていうその気持ちまで笑われなきゃなんねえんだよッ!!あんたのほうこそ、なんでこの気持ちが理解できねえんだ!!」

 

「理解できてるわよ?だから不相応だって言ってるじゃない。全部救う力なんてないくせに粋がって、それで結局全部パーにするバカが滑稽だって」

 

「……弱い奴は、救いたいって思うことすら許されないって言うのかよ……!」

 

 ぎり、と歯を噛む一誠に、私は確信した勝利で得意げに言い放った。

 

「何度も言わせないでくれる?そうよ」

 

 調子に乗った温室育ちどもをやり込めることの、なんと気持ちのいいことか。

 

 この説教にさしたる中身は無い。鍛えろと依頼された身であるが、少なくとも私は、こいつらの意識をいい方向に矯正してやろうなどとは欠片も思っていない。これは説教のための説教だ。

 善意なんてこれっぽっちもない、ただの悪罵。実にならないのだから印象だって悪くなるばかりだったろう。それこそ、こんな奴に教えられるなんてまっぴらだと、そう思われるくらいには傍若無人にいじくり倒した。

 

(これでキャンセル入って、違約金も踏んだくれたら言うことなしじゃない?)

 

 二月近くもこいつらに拘束されずに済む。そして何よりピトーのストレスも減ってお説教も軽くなる。たぶん。

 

 加虐心の裏にあった淡い期待が、男二人のしかめっ面に期待を覚えてふんぞり返ったのだった。

 

 だがしかし、敵意すらにじませる不満で眼光鋭く私を睨む一誠は、予想の全く正反対を口にした。

 

「じゃあ……許されるくらいに俺を強くしてくれよ……!!」

 

「……は?」

 

 憤慨して殴りかかるでもなく、背を向けるでもなく、直視したまま意志で射抜いてくる。

 

「リアス部長から聞いた。あんたたち、白音ちゃんを鍛えるために雇われたんだろ?俺が、話にならないほど弱いって言うんなら、一緒に俺も鍛えてくれ!」

 

 嫌そうにしかめた表情は、たぶんこの場合、『挑むような』と称するべきなのだろう。当てつけを一瞬夢想したが、しかしどう考えても意志は本心だし、言葉も聞き間違いではない。

 

 あれだけの罵倒を受け、敵意まで持った相手に堂々と師事を願えるのはのはなぜなのか。数秒を置いてようやく放心から帰った私は、内心の動揺をどうにか押し隠し、作った余裕の笑みで再び期待を追いかけた。

 

「あんたマゾ?ていうか、才能ないのに仙術なんて覚えようとしても死ぬだけよ」

 

「『念』っていうんだろ、あんたたちの……そっちのフェルさんが使った技」

 

 一誠の眼がピトーを見る。こころなし滑らかで、かつスケベ視線、ついでにさん付けであることに突っ込む間もなく、口を覆ってずっと不満を主張していた彼女がぴくりと眼だけで反応すると、奴はそれを肯定とでも取ったのか、彼女に身体を向けて言う。

 

「コカビエルをぶっ飛ばしたあの力があれば、俺だってもっと戦えるはずだ。だから、頼む!白音ちゃんのついででいいから、『念』を教えてくれ!」

 

「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ!なんで悪魔なんかに……大体、私たちが受けた依頼は仙術指導であって、『念』を教える義理なんて――」

 

「ないことは、ないと思うわ」

 

 遮り、まだ震えが残るリアス・グレモリーの声が前に出る。ピトーの存在を極力無視して恐る恐る私へにじり寄った奴は、同じく震える朱乃を背後に置きながら、その手を握り締めた。

 

「わ、私はあなた、ウタへ白音への指導を依頼したけど、ふぇ……フェルには何も頼んでいないわ……!滞在のことも含めて、一誠の指導も引き受けてくれて、いいんじゃ……なくて……?」

 

 耐えていたのに後半結局浮いた涙の雫に、ピトーが顔を上げた様子が反射して映った。憎悪か激怒か、ピトーの不快が噴出する前に、私はその生意気娘を号泣に追いやるべく喉を鳴らす。ただおちょくるつもりがどうしてこうなったのかと、自分の考えなしに苦いものを感じながら。

 

「あんたね、今までも散々面倒ごとに巻き込んでおいて、尚そんなこと言うの?驚きだわ、ここまで図々しい――」

 

「――ウタ」

 

 しかし突然、ピトーの声がまんまの罵倒を掣肘した。驚愕のまま振り返り、まさか引き受けるのか、と思って次の瞬間、空を見上げた彼女に続いて顔を上げ、それに気付く。

 

 空を覆う拙い結界を貫通し、ここまで届く二つの大きな気配があった。

 

「……誰よアレ。なんでこんなとこ来たのよ」

 

「……?なんだよ、何が来たってんだ……?」

 

 ピトーの異様に鋭い第六感も、私レベルの仙術も使えない子供連中には、私たちは突然結界を見上げて意味深なことを呟いた意味不明にしか見えない。一様に疑問符を浮かべたその内心は、答える気のない私たちを真似してやっぱり天を見上げた。

 

 それと、ほぼ同時、

 

「――な、なんだ!?」

 

「結界が……!!」

 

 ぐにゃりと飴細工のように歪み、そのまま溶けるようにして結界が消えていく。戦いが終わったことに外のお子様が気付き、解除したわけではない。

 消えゆく結界に空いた大穴から降ってきた、そいつらのせいだった。

 

 ズドン

 

 墜落、というよりもはや攻撃の速度で私とリアス・グレモリーの目前に降り立つ人影。衝撃波同然の風圧に吹き飛ばされ、尻もちをついた挙句縦に一回転までした赤髪悪魔の痴態を脳内で笑ってやりながら、私は拭いきれない警戒心で、土煙越しのその二人(・・)を見つめた。

 

「さすがヴァーリくんにょ!普通に飛んだら何時間もかかるのに、十分の一もかからなかったにょ!」

 

「俺としてはあんたの頑丈さに驚きだよ。言われた通り全力で飛ばしたが、何故無事なんだ。『念』を使っているでもない、ただの生身だろう?」

 

 と、気の抜けた困惑で首を振る、ヴァーリなる白い全身鎧。気配からして一誠と同じく龍系統の神器(セイクリッド・ギア)使いなのであろう謎の男の背から、少なからぬ因縁のある相手、その得体の知れない容貌が姿を現す。

 

 魔法少女みたいな恰好をした巨漢、ミルたんが、そこに居た。

 

「………」

 

 奴に私たちと敵対する意思がないことはわかっている。ついでに外見の奇抜さとその意味不明な力とは対照的に、内面は非常に常識的で、且つ善だ。そんな人間――これが人間であることを未だに信じることができないが――が気さくな態度を見せているのだから、全身鎧だって悪者ではないのだろう。漂う『力』の圧は相当な強者であることを示しているが、それが今すぐ襲い掛かってきたら、という警戒はする必要がないはずだ。

 

 だが全身鎧の中身、神器(セイクリッド・ギア)を宿した人間であるはずのその気配に、私は確かな悪魔(・・)のそれを見つけてしまっていた。

 

 つまるところ、たぶんハーフなのだろう。半分は人間だが、しかしもう半分はれっきとした悪魔。ピトーの憎悪の対象だ。それと仲良くしているミルたんを見てしまえば、私は諸共を睨みつけ、戦闘態勢を取る以外になかった。

 

「ねえ、ミルたん。その鎧は――」

 

 どこの誰なの、と眉をひそめて喉から出かけた続き。しかし直後、ひりついた警戒心と共に、それは大声で響いた驚愕によって掻き消された。

 

「えええ!!?ミルたん!!?なんでこんなとこにいるんだよ!!?」

 

 叫んだ一誠と私とで、ミルたんは一瞬答える先に迷い、すぐ一誠にその魁偉な顔を向ける。

 

「……悪魔さん、お久しぶりにょ。なんでってそれはもちろん、この町がミルたんのホームだからにょ。町のピンチに駆けつけるのは当たり前にょ!どうやら遅すぎたみたいだけどにょ……」

 

 驚くべきことに、二人は知り合いであったらしい。ホーム、つまり拠点を置いていたことも初耳だ。なんだって悪魔の縄張りでそんなことをしているのか。

 

 湧いた疑問は、ほどなくして回答を示されるまで私の眉間にしわを寄せた。

 

「そうじゃなくてさ……その……や、やっぱりミルたん、人間じゃなかったのか……?」

 

「にょ?ミルたんはれっきとした人間にょ?」

 

「いやだから、ただの魔法少女に憧れたゴリ……漢女(オトメ)じゃなかったのかっていう……ほら、普通の人間じゃあそもそも匙たち生徒会が張った結界で、町が襲われてることなんかわからねえんだし……」

 

「なんだそのことにょ。ミルたんはレヴィアたんから話を聞いたんだにょ」

 

「れ、レヴィアたん……?」

 

 怯えを引きずるリアス・グレモリーが、その名にハッとして目を見張った。

 

「まさか……セラフォルー・レヴィアタン様のこと?魔王様と繋がりがあるなんて、そんなの……あ、貴方、本当に何者なの……?」

 

「ミルたんはミルたんにょ!『魔法少女』ハンターにょ!」

 

「……ああ……なるほど、ね」

 

 意味不明な宣言にたじろいで、そこから何を掬い取ったのか、諦めたかのように納得してしまう。一誠のほうも朱乃に何やら耳打ちされて、引き気味の苦笑いを浮かべた。

 

 私たちを置いてきぼりにして、ミルたんはそのぶ厚い、下手をしなくても私以上にサイズのある胸を張る。

 

「レヴィアたんはミルたんの同志であり、ライバルであり、お友達にょ!そんな人から妹を助けてなんてお願いされて、ミルたんが断るはずがないにょ!……ただその時は、ミルたんお仕事でちょっと遠いところにいたにょ。悲しいけどミルたんは魔法使いや悪魔さんたちが使うような、一瞬で場所を移動する魔法が使えないにょ、普通に向かったのではとても間に合わないにょ?だからヴァーリくんに頼んで近くに瞬間移動して、ついでに連れてきてもらったんだにょ」

 

「まあ、そういうわけだ。貸しに付け込まれて、タクシー扱いされただけの男さ、俺は。……だから、今のところは戦う気もない。安心してくれ」

 

 最後の一言を私たちに向け、ヴァーリは兜の中で低く笑った。

 そして、表にした警戒心が消えないうちに、

 

「アザゼルに頼まれた用事さえ済ませば、すぐに帰るさ」

 

 一滴の愉悦が、凪ぎかけた空気を割り裂いた。

 

 瞬間に、私は警戒を一段上に引き上げた。そしてリアス・グレモリーたちの一部、『アザゼル』を知る奴らが二人に、特にヴァ―リへ敵意を向ける。

 

 理解できない側の一人である一誠が困惑気味にあたふたする中、手に滅びの魔力までもを纏わせながら、リアス・グレモリーは決死の表情で二人に問うた。

 

「アザゼルの手先……そう。ならばこれは、堕天使側の宣戦布告ということかしら。私を殺して、本当に戦争を再開させる気……?」

 

「え……?ええっ!?どういう意味っすか部長!?やっぱりあの鎧野郎は敵……名前は何回か聞いたけど、結局アザゼルって誰なんすか?!」

 

「堕天使、『神の子を見張る者(グリゴリ)』の総督にょ。つまり、コカビエルくんの上司さんにょ」

 

 ミルたんが答え、そしてようやく一誠も事の重大さを理解する。さっきまで戦争だなんだと大暴れしていたコカビエル。ヴァーリはそんな戦争狂が所属していた組織の、そのトップ直々に送り込まれた使いなのだ。

 

 コカビエルの死を大義名分にした報復か、一歩進んで戦争誘発を引き継ぐ気なのか。物騒な目的ばかりを想像してしまうのは、致しかたのないことだろう。私とピトーも、そうではないだろうと思いつつも危惧を捨てきれずにいた。

 

 ミルたんが、そんな私たちの危惧を解こうと言葉を続ける。

 

「けどアザゼルくんは、みんなが思っているようなことは考えていないにょ。むしろ逆にょ。彼は戦争なんて望まない、心優しい人にょ」

 

「……悪いけど、そんな話を易々と信じることはできないわ。確かにコカビエルはアザゼルと袂を分かったと言っていたけど、つい最近の堕天使の襲撃も含めて、心優しいなんてことはとても思えない。それに、私の領地に無断で侵入してまで遂行しようとした『アザゼルの用事』というのは、いったい何なの――ッ!」

 

 言い切る手前で、リアス・グレモリーの顔に恐怖が戻る。

 

「赤髪に同意するのは癪だけど、ボクも信じられないにゃ」

 

 ピトーが沈黙を破った。ちらりと振り向けば未だ硬い目つきのまま、それを全身真っ赤に濡らした返り血で隠し、迫力ある警戒をヴァーリへぶつけている。

 

「オマエ、喧嘩売ってるのなら買うよ?今ボク、結構イライラしてるから」

 

 お約束の如く怯えるリアス・グレモリーたちと、表情は見えないがヴァーリ、そしてもちろんミルたんも、ピトーの敵意を信じただろう。

 けれどその実、半分は歓喜だ。残りに警戒と、未だ消えない正体不明の怒り。別件故に隠しているが、だとしてもまだ引きずるのかという戦慄混じりの驚きが大きかった。ぶっかけたことへ土下座する決意を固めつつ、私は彼女の戦闘狂の性から眼を離した。

 

「……にょ?フェルさん、もしかしたらと思っていたけど、ヴァーリくんとは初対面にょ?」

 

 何を言うのか、という内心だろう。私も同様眉を顰め、ピトーに代わって口にした。

 

「当たり前でしょ。ていうか面識あると思ってたの?こんな混じり――」

 

「おっと、できればそれはまだ秘密にしておいてくれないか?皆が余計に混乱するだろう」

 

 ヴァーリが遮り、ミルたんが得心がいったというふうに頷く。

 

「なるほどにょ、それで最初もウタさん驚いていたわけにょ。ミルたんはてっきり曹操くんから聞いていたと思っていたにょが、違ったにょね。反省にょ」

 

「俺にはよく自慢してくれたがね。フェルにウタ、試合とはいえ曹操が負け越すほど、相当な使い手だと」

 

「アイツの知り合い?……ふぅん」

 

 眼の剣呑が少しだけ薄れ、空いた隙間にまんざらでもなさそうな表情を覗かせるピトー。これまた余人にはわからないほど小さな変化だが、確かに上向きつつある彼女の機嫌は、気休め程度にお説教への恐怖を拭ってくれる。

 

 ならばあのヴァ―リにはむしろ感謝するべきかと、短絡的な思考が警戒心を掣肘し、曹操の知り合いというのも相俟って身体の強張りが解けた。ちょうどそれを見計らったかのように、ヴァーリは軽く頭を振って鎧の兜を消し、素顔を露にした。想像以上に端正な美少年の顔立ちは、強さと合わせて思わず心臓が鳴ってしまうほどのものだ。

 

「では改めて、自己紹介しておこう。俺はヴァーリ、『神の子を見張る者(グリゴリ)』の所属だ。そして、」

 

 ちらりと、その碧眼が一誠を見てから、私たちに笑う。

 

「今代の白龍皇でもある。よろしく、フェル、ウタ」

 

 差し出された手に、一瞬皆が固まった。

 

「……白龍皇?」

 

「は、白龍皇ッ!?」

 

 ピトーは俯き加減に記憶を漁り、リアス・グレモリーは驚愕で後退る。程度は違えど、その言葉は注意に足るものだったらしい。他の連中も、一誠以外似たような衝撃に慄いていた。

 

「……って、なんだっけ」

 

 ただ私はいまいちピンとこなかった。あの変態と同じ理解であることはムカつくが、わからないんだからしょうがない。

 

 どこかで聞いたことがあるような、ないような、なんていうあやふやで首を捻ると、握手の手を引っ込めたヴァーリが苦笑して、自身の背に広がる光の翼を指した。

 

「『白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)』、これに封じられたドラゴン、二天龍の片割れであるアルビオンのことだ。転じて宿主である俺のことを言う。……ハンターなんだろう?凡百の神器(セイクリッド・ギア)ならともかく、神滅具(ロンギヌス)くらいは覚えていないのか」

 

「……だって神器(セイクリッド・ギア)とか、私の領分じゃないし……」

 

 曹操にぶん投げるべき事柄なのだ、そういうのは。というか、神器(セイクリッド・ギア)持ちならともかく神滅具(ロンギヌス)を悪魔のハーフが持っているとか、そんな奇跡的なことを像できるもんか。

 

 などと言い訳をした私の自尊心を、目当ての記憶を掘り起こしたピトーが突っ切って吹き飛ばした。

 

「そうだ。そういえば何時か曹操が言ってたね、白龍皇がどうとか。戦ったんだっけ?」

 

「ああ、戦ったよ、俺も彼も本気で。決着が付く前にミルたんに止められてしまったが、この禁手化(バランス・ブレイク)状態であそこまで楽しめたのは久しぶりだった。だから、試合だとしても彼の上を行く君とは、かねてから戦ってみたくてね、それでつい表に出てしまったんだ。気を悪くしたのなら、一応謝っておこう」

 

 バカに尊大な謝罪はともかく、つまりこいつは曹操の『黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)』と戦ったのだろう。別の、ヴァーリの言うところの凡百の神器(セイクリッド・ギア)を隠れ蓑にひた隠しにしているそれと戦えたのであれば、やはり奴は十分すぎるほどの強者だ。個人的にはあまり歓迎できないが、戦えるとなればピトーも喜んで受けるに違いない。混じっているのが悪魔の血であると知って、彼女がどこまでやるかは定かでないが。

 

 とにかく曹操が認めているのならば、ひとまず今のヴァーリは敵でない。これがわかった以上、一番怖いのはこの後あるかもしれないピトーのお説教だ。

 

 ヴァーリが純粋な人間でないことはわかっているだろうが、しかし巧妙に隠されている中身の『気』を感じ取る術がない彼女は、それに悪魔が関係しているなどと思っていない。たぶん所属からして堕天使との合いの子だと考えているだろう。そこで素性を伝えれば、彼女の機嫌が悪くなってしまうことは想像に難くなく、そしてそれがお説教にまで及んでしまいかねない懸念も同様、避けれるのなら避けておきたい。

 

(……気が重い)

 

 なんで自分だけ場の話題からかけ離れたところで頭を悩ませねばならないのか。

 もうあまり考えないようにしようと、できもしないことを心に決めて、私は噤んだ口の中でため息を吐いた。

 

「さて、ではそろそろ用事のほうを済ましてもいいか?フェル」

 

 僅かも臆した様子なく、ヴァーリはピトーに問いかける。中和されつつある内心をおくびにも出さない不機嫌顔で、ピトーは応えた。

 

「要相談だにゃ。散々苦労させられたし面倒かけさせられたし、ただではあげない」

 

「つまり?」

 

「お金次第」

 

 ずっと手にぶら下げていたコカビエルの生首を、彼女は嫌そうに掲げて見せた。

 

 堕天使の長であるアザゼルが頼んだ用事。その理由に悪魔との敵対がないのなら、ヴァーリを送り込んだ目的など下手人の回収以外にないだろう。

 

 たぶんヴァーリの実力ならコカビエルを倒すことも難しくなかったはずだ。堕天使たちは事件に気付き、釈明のために自らの陣営で処理したかったに違いない。イレギュラー的に私たちが倒してしまったが、だからこそ死体だけでも手に入れて、自分たちはこいつの味方ではないと証明したいのだ。

 

 実にわかりやすい構図だ。そして同時に強引であり、別の疑惑を連想させる原因でもある。

 

 青い顔をする子供連中から、一際顔色の悪いリアス・グレモリーが割って入った。

 

「ちょ、ちょっと待って!用事ってもしかして、貴方コカビエルの……うう……く、首を持っていくつもりなの?駄目よそんなの、ここは私の領地で、勝手なことは……」

 

「コイツを狩ったのはボクたちで、持ってるのもボク。領地だなんだといっても知らないし、話しかけないでよ赤髪」

 

「ひぅ……お、お金、払うから……」

 

「……コレの競りなんてしたくもないよ。それで?ヴァーリ、いくら出す?」

 

 生首から滴る血を眼で追って、ピトーが平坦な声で言った。

 ヴァーリが平然と首を傾ける。

 

「さてな。だがアザゼルなら言い値を払うだろう」

 

「それでいいよ。じゃあほら、さっさと持ってって」

 

 口約束だが大金と引き換えに、ピトーは首を投げ渡した。放物線を描くコカビエルのマヌケ面をリアス・グレモリーが何とも情けない顔で見送り、ヴァーリの手に渡る。

 

 彼は「確かに」と呟いて、次いで思い出したかのように植え込みのほうに振り向いた。

 

「ああそうだ、あのはぐれ神父にも聞き出さねばならないことがあるんだが、あれも貰っていいか?」

 

 否と言わせるつもりはないようで、答えを待つことなくヴァーリはそこに近付いた。聖剣らしき破片が散らばる地面の上に、刀傷を負った白髪の男が失神して倒れている。

 

 私とピトーは同様に眼を瞬かせ、また何か文句をつけようと肩を怒らせたリアス・グレモリーの息を遮った。

 

「……うん?あれってはぐれなの?てっきり教会の人間なのかと思ってたけど」

 

「私も、コカビエルに切られたんだとばっかり。そこの……ええっと、青髪ちゃん?あんたの仲間じゃなかったの?」

 

 見つめて尋ねた青髪ちゃん、未だに抜けない意気消沈で呆けて私を見つめ返す聖剣使いは、数秒続けてようやくハッと我に返り、ぎこちなく答えた。

 

「……あ、青髪ちゃんとは、私か?……いや、違う。奴の名前は、フリード・セルゼン、コカビエルの仲間だ。融合させたエクスカリバーと共に、そこの木場裕斗に切られた」

 

「つまりただの雑魚ってこと。なら別にいいんじゃない?好きにすれば」

 

「そうさせてもらおう。コカビエルが死んだ以上、あらましを喋れるのはこいつだけだからな」

 

 言い分に反してぞんざいに持ち上げ、わきに抱えて振り返る。ヴァーリは挨拶のつもりか、ちょいっと片眉を上げた。

 

「では今度こそ、これで失礼する。ミルたん、お前はどうする?戻るなら、連れていけないことはないが」

 

「ううん、せっかくだし、ミルたんはこのまましばらく駒王町に居るにょ。レヴィアたんと会ういい機会にょ」

 

「そうか」

 

 ということは、結局反故にはならなかった修行の依頼の間、いつまでかはわからないが、このでたらめな魔法少女とも関わらなければならないのか。

 

 何も起こらないわけがない。ついでにどうやらレヴィアタン、つまり魔王もが絡んでくるようだ。正直お友達とか言ってた時点で嫌な予感はしていた。それにしたって今が『会ういい機会』であるとは思わなかったが。

 

「嫌な事って、重なるわよね」

 

「だねぇ」

 

 案の定、ぼやきに帰ってきた小声には苛立ちの色が乗っている。眼だけを寄こしたヴァーリの、その戦意と約束で緩和されることを祈りながら、私はそっと二人のやり取りから身を引いた。

 

 だからそいつのことなど意識の外だった。背後を晒していたから、私は必要以上に肝を冷やすことになってしまった。

 

「フェル、ウタ、機会があればいずれ戦おう」

 

 ヴァーリがそう言って、好戦的な笑みを再び兜で隠した。その時だ。

 

『無視か、白いの』

 

 真後ろで、まるで大力無双(だいりきむそう)のオッサンみたいな声が、重く響いた。

 

「きゃあッ!?」

 

 巨大な魔獣でも前にしているかのような、威圧感のある重低音。聞き覚えはなく、かといって気配もない中、とどめに背中でそんな声を聞いてしまえば、悲鳴を上げて身体を跳ねさせ、戦闘態勢を取ってしまうのも致し方のないことだろう。

 

 拳を構えたその先が一誠の赤い小手であり、奴を含めた子供連中が軒並みキョトンとした眼で私を見ていても、それは仕方のないことなのだ。

 

 仕方のないことなのである。

 

 声の主、小手に宿っているのだろう何者かは、そんな私に気を遣ってくれたわけではなかろうが、全く意に介さずに再び声を鳴らした。

 

『それとも、俺が既に目覚めていると、そんなことにも気付かなかったのか?』

 

 小手の宝玉が、しゃべるたびにピカピカ光っている。わぁ綺麗なんて半分現実逃避する私はやっぱり蚊帳の外で、その『白いの』は同じく威厳の滲み出る声で応えた。

 

『もちろん、気付いていたさ、赤いの。だがどうやら苦労しているようじゃないか。……情けをかけてやったまでのことだ』

 

 ヴァーリの神器(セイクリッド・ギア)、アルビオンが、同じふうに宝玉をピカピカさせていた。

 

『お前もツキがないな。こちらの宿主は才能に溢れ、そっちは欠片もない。勝ちの芽はないぞ。さっさと見限ったらどうだ、ドライグ』

 

『それはあまりに早計だな』

 

 神器(セイクリッド・ギア)同士の会話という奇妙な光景にようやく奇異の視線もなくなって、険悪な内容を尻目に私はこっそりピトーの傍に戻って身を縮める。彼女はぽんぽん、というかペタペタ頭を撫でてくくれたが、それはむしろ恥ずかしくなるばかりなので勘弁してほしいところであった。被った返り血も広がるし。

 

『確かに相棒には才能がない。頭も悪い上に、極めつけには色狂いだ。だがな、確かに秘めているものがある。バカだからこそ、持ち得るものだ。俺はそれが、何かとてつもないことを起こす気がしてならない。……俺たちでは想像もつかない可能性、それを知らずして評してしまえば、恥をかくのはお前だ、アルビオン』

 

『……才も頭もない赤龍帝が秘めるもの、か。なるほど、期待しておこう』

 

『その驕り、命取りになるぞ』

 

 と、慰めの下で悶えているうちにピカピカの応酬は終息したらしく、ヴァーリがちょっと小ばかにした口調で笑った。

 

「可能性は結構だが、どうせ戦うならそんな賭け事よりも、俺ははっきりした強さがいいな。例えば、フェル、ウタ、お前たちのように」

 

 こっちへ向く視線の気配に、私は平常心を念じて顔を上げる。

 

「どうだ?どちらか彼と赤龍帝を交代しないか?そうすればきっと、存分に殺し合いもできる」

 

「やだね。悪魔に入ってた火トカゲなんて」

 

「ああ、うん……私も」

 

 とりあえずピトーに倣う。ヴァーリはさして思ってもいなさそうに「残念だ」と肩をすくめ、そして一誠にその視線を向けた。

 

「そういうわけだ。いずれにせよしばらくは時間があるだろう。その間、精々強くなっていてくれよ、俺の宿敵君」

 

 言うと、ヴァーリは光翼を煌めかせて飛び立った。その『力』にものを言わせた推進力で風圧を押し付け、ジェット機みたいに飛んでいく。すさまじい速度で、すぐにその姿は結界の晴れた夜空に消えていった。

 

 ……結局、何の話だったのだろうか。

 

 ようやく羞恥心をわきに追いやった私は、吹き付ける砂塵に眼をしかめながら内心で呟いた。呟いて、帰っちゃったしまあいいかと放り捨てる。神器(セイクリッド・ギア)同士の会話の内容すら覚えていないし、思い出そうとしても無駄なだけなのだ。

 

 と思って夜空から戻した眼が、ピトーのそれに掴み取られた。

 

「ところでさ、ウタ。アイツが言ってたアレ、ほんとにほんとなの?」

 

「……へ?な、何が?」

 

 彼女は一誠を、その左手の小手を眼で示し、胡乱げに言った。

 

「あんなのが本物の赤龍帝なのかって話。だって言われてもかみ合わないんだよ、弱すぎて。よくよく思い出せばコカビエルもそんなこと言ってたけど……」

 

「よ、弱すぎて悪かったな!これでも最近は『譲渡』も使いこなせるようになったし……『赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)』の力も、コントロールできるようにはなってきてんだよ!」

 

 睨まれて一誠が喚く。まあ確かに、あの白龍皇を見てしまえば凡人など木っ端にしか見えないだろう。コントロールできていようが、とにかく素体がしょぼすぎる。

 

 とはいえそれは一誠という悪魔の評価であり、宿す神滅具(ロンギヌス)のそれではない。ただ素体が足を引っ張りまくって、それ本体がよく見えていないだけなのだ。

 

 だからたぶん、その身体から神器(セイクリッド・ギア)だけを引っこ抜いて比べれば、『赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)』はきちんと『白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)』に釣り合うだろう。

 伝承通りの二天龍、白龍皇の対となる赤龍帝なのだから。

 

 ……赤龍帝?

 

「ええっ!?赤龍帝なの!?このエロガキが!?」

 

 私はこの時、ようやく正気に戻った。

 

 聴覚野で止められていた神器(セイクリッド・ギア)同士の会話が、長き滞留を乗り越えて処理される。ヴァーリが何故残念がっていたのかとか、そういうことも立て続けに巡った思考がまとめて理解し、周回遅れでその事実にたどり着いた私は、思わずまた考えなしに大声の驚愕を上げてしまっていた。

 

 幸いなことに今度集まったのは奇異ではなく呆れ顔と苛立ち顔であり、精神衛生上比較的マシだったが、それでも塞いだばかりの傷口はさっそく開き、私の口は大慌てで弁明のような言葉を吐き出した。

 

「い、いやまあ、確かにドラゴンっぽい気配はしてたし?しゃべった時も変だなあとは思ってたわよ?でもドラゴン系の神器(セイクリッド・ギア)なんてありふれてるし、そもそもそういうのに詳しくないし……ね?しょうがなくない?」

 

「別にボク何も言ってないんだけど……つまりはコイツ、ほんとに赤龍帝だってこと?つくづく哀れにゃ」

 

「あ、ははは。そうね……」

 

 自然と湧き出た愛想笑い。羞恥爆発の可能性が流れてくれたことに安堵すると、それを嘲笑と見たのか一誠が肩を怒らせた。

 

「なんだよ、せっかくの色っぽいお姉さん枠だってのに……あんたもウタもどうしてそう底意地が悪いんだよ!俺に、俺たちになんか怨みでもあんのか!?」

 

 妙に切実な前半の主張に加え、一誠は文句みたいな詰問を吐き掛ける。

 あるに決まっているだろう、と怒鳴り返してやりたいところではあるが、それはピトーの権利だ。だから威嚇のように一歩詰め寄られた私は、それをただ鼻で笑った。一番悪魔をあれこれしたいのは彼女であるのだから、邪魔をしてはいけない。実の内の安堵で誤魔化し、眼を逸らした。

 

 一拍の間。しかしピトーが息を吸う前に、ミルたんが一誠の前に立ちふさがった。

 

「フェルさんとウタさんは、むかし悪魔に嫌な目に遭わされたんだにょ。みんな、あまりそのことは聞かないであげてほしいにょ。みんなにも、知られたくない秘密の一つや二つはあるにょ?だからお願いにょ」

 

「ミルたん……でもよ、俺はともかく白音ちゃんの仙術は、修行するのも危ないんだろ?なのに、あんな奴……」

 

「……フェルさんもウタさんもプロハンターにょ。その修行って話が依頼なら、きちんと遂行するだけの誇りはあるにょ。京都の事件もそうだったにょ?悪魔さん」

 

「え、ええ……。そうね……」

 

 リアス・グレモリーが私たちをチラチラ伺いながら首肯した。『京都の事件』を見ていない一誠と金髪は懐疑を残すも、否定はしなかったマスターにひとまず口を閉じることにしたらしい。

 

 誇りというのは大げさだが、実際どれだけ奴らがムカつく存在だろうと、権力的には私たちなど及びもつかない相手なのだ。口はともかく手を出すことなどできるはずもない。出すとすれば四年前のように、明白な理由と味方を作ってからだ。

 

 思い出して、そういえばこの仕事に沖田は口出ししてこないだろうか、なんて杞憂と期待を抱きつつ、私は再度口角を捻じ曲げ一誠の優柔不断を嗤った。

 

「そういうことだから、追い出せなくて残念だったわね赤龍帝ちん。どうしてもいやなら貴女のマスターに泣きついて、キャンセル料ねだってからまたお話ししに来てにゃん」

 

「……ッ!!この……ッ!!」

 

「やめるにょ悪魔さん。ウタさんもにょ」

 

 ミルたんは一誠の沸騰を止め、鋼鉄の無表情に僅かに呆れを滲ませる。そしてその巨体でいよいよ私と悪魔たちとの視線を絶ち、私たちの全身を睥睨してから言った。

 

「とにかくにょ、二人とも、血まみれのままじゃ病気になっちゃうにょ?ミルたんのホームでシャワーを浴びるといいにょ。のぞき見する人はいないから、ホテルなんかよりもずっと安全にょ」

 

 ピトーの身体を慮っている、よりもたぶん事態に収拾をつける建前の割合が強いだろうその誘い。とはいえ断る理由は特になく、私とピトーは一瞬顔を見合わせた後、揃って頷いた。

 

「決まりにょ。それじゃあ悪魔さんたち、ミルたんたちはこれで失礼するにょ」

 

 くるりと振り向き、告げるとミルたんは植え込みのへし折られた広葉樹を持ち上げ、かと思えばそれにまたがった。何をしているのかと首を捻ったのもつかの間、何ともささやかながら魔法の気配。ミルたんを乗せた丸太が、浮いた。

 

「……なにそれ」

 

 代表して呟いたピトーに、ミルたんは厳つい顔で子供みたいに弾んだ声で答えや。

 

「ミルたんの魔法にょ!ラヴィニアさんに教えてもらったにょ!フェルさんウタさん、さあ乗るにょ!」

 

「いや……遠慮するにゃ。走って追いかけるから」

 

「……同じく」

 

 やばい絵面に加わる気には、私もピトーもなれなかった。

 

 だってそうだろう。筋骨隆々容貌魁偉な成人男性が、月明かりの下丸太にまたがり浮いているのだ。致命的に間違っている。その絵に入りたいわけがない。

 

 通り越して見ているだけでも何かに呑み込まれそうで、私は悲しそうなミルたんから急いで眼を離した。残った得体の知れない感覚を払拭するため、清涼剤代わりにリアス・グレモリーにも縋りつき、表情に怯えを引き戻させる。

 

「それじゃ、また明日もよろしくね、赤髪ちゃん」

 

 打てば響くその反応に心の淀みをすっきり清め、私はふよふよ進み始めたミルたんに続いて奴らに背を向ける。すぐに加速し始めたミルたんのおかげで奴らの反撃を聞くこともなく、口を噤んだピトーと一緒に、悪夢みたいなその光景を追いかけた。




まるで大力無双(だいりきむそう)のオッサン、略してマダオ。
何かいいマダオはないだろうかと悩んだ末のコレです。正直自分でも納得はしていない。のでアイデアあったらください感想ください。


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四話

ハンターキャラ一人追加。それと、筆の赴くまま書いてたらゼノヴィアのキャラが壊れました。全国八千万のゼノヴィアファンの皆様へごめんなさい。

誤字報告ありがとうございます。

20/9/08 本文を修正しました。


 真昼間の公園。お昼時だからなのか人気はなく、遠くの喧騒と、時折吹く生暖かい風だけが周囲に漂っている。

 

 ボクはそんな中で一人、安っぽい時計台の上に座りながら、七月の眩い太陽を見上げていた。

 

「やっぱり、暑いにゃあ……」

 

 初夏だというのにうだるような暑さだ。顔に突き刺さる熱線に目を眇め、我知らずの内に口が呟く。

 

 別にボクが特別暑がりというわけではなく、身に着けている長丈の装束のせい。返り血で新調したその中に、浴びる陽光の熱が延々蓄え続けられているのだ。

 

 正体を隠すためのそれを脱ぐわけにはいかないし、今から日陰に移動するのも少々不都合がある。それらは普通の精神状態であれば気にも留めない程度の不快感でしかなかったが、今ばかりは心の内に留めておくことが難しく、文句として口からこぼれ出た。

 

 今のボクの内心が、普通とは言い難く荒んでいるからだ。

 

 慣れない環境やら気候やら、あるいはミルたんを介して出てきた魔王の名前、そして……コカビエル。等々、要因は山ほどあれど、最大のそれは赤髪悪魔によるものだろう。

 

 あの夜、滞在を認める代わりにお前も働け、という偉ぶった話に無理矢理同意させられ、引き受けてしまった『念』の指導。ただでさえため息が止まらない憎き悪魔を律する行為を強いられて、にもかかわらず今日までの一週間、一度としてその修行が行われていないのだ。

 

 ほとんど恫喝でボクを契約に縛り付け、そのままずっとほったらかしにしているということだ。

 

 悪魔などに行動まで拘束されるという、耐えがたい屈辱。その間したことといえば、当面の住処を探したり、ミルたんに観光案内と称してあちこち連れまわされたり、その先で彼の同志だという、『魔法少女ハンター』を自称する異様に屈強な漢どもと面通しをさせられたり、あるいはちょっとした頼み事をされたりといった些事ばかりだ。……いや自称魔法少女ハンターどもの妙な迫力は些事とは言い難いかもしれないが、ともかく仕事とは無関係のことばかりだ。

 

 確かにそもそも、赤髪が依頼に指定した期間は『夏休みの間』だ。それより早くにやってきたのはボクたちの都合なのだから、その時まで修業を始めないというのは道理なのかもしれない。

 

 だがしかし、始めないその理由が『学校があるから』なんていう、あの時の啖呵は何だったのかと思わずにはいられないようなものであったのだから、お前は何様だと愚痴を吐くくらいは許されるはずだ。ついこの間は『プール掃除があるから』、そして今日は『授業参観日だから』なんて言われて、それでも口を閉ざしたまま頷いた自分をほめてやりたい。

 

 こちらの事情も内心も省みずに振り回され、怒らずにいられる方が不自然だ。だからただの日差しすら忌々しい。

 

 けれどいくら腹立たしくとも、その要因からは逃げられないのだ。悪魔共の横暴然り、炎天下で待たねばならないこの状況然り。

 

 なぜならそれが、クロカの望みに直結しているからだ。

 

 赤髪との契約、眷属を訓練する仕事を反故にすれば、次いつシロネと会えるかわからない。

 シロネに会いたがっているだろうクロカの想いを満たすため、ボクは全身全霊振り絞らねばならない。ボクでは塞げない『妹』の穴を――ぽっかり空いた空白を、ボクは受け入れなくてはならない。

 

 彼女のあるがままを守ると、もう五年も前に定めた要石の前では、ボク自身の心象など意味のないものだ。だからそれを、ボクは見届けなければならない。

 

 そのために、赤髪から見放されないよう、ボクは赤龍帝に続いてそいつの修行をも認めたのだ。

 

「フェル、さん……?なぜそんなところに座っているんだ?」

 

 視線を声のほうに向けてやる。すると、やっと姿を見せた待ち人、いや、待ち()だったそいつ。聖剣使いの青髪ことゼノヴィアが、怪訝そうな眼でボクを見上げ、首を傾げていた。

 

「いや、待ってくれ……確か一誠が参考にと見せてくれたジャパニーズコミックに、似たような修行法が……つまり私もそこに座ればいいんだな!」

 

 などと見当違いのことを読み取り目を輝かせる彼女を見つめ、盛大にため息を吐いてやってから、ボクは時計台を飛び降りる。空気を孕んで翻る長丈コートでついでに放熱し、ゼノヴィアの真正面に降り立つと、たじろぐ彼女の眼をのぞき込んだ。

 

「遅れた挙句開口一番謝罪もなしって、面の皮が厚いってこのことだね、ゼノヴィア?」

 

 途端にぶわっと噴き出す冷や汗。ゼノヴィアの背が跳ねる。どうやら自身の内心は思っていたより大きな苛立ちを抱えていたらしく、自覚すれば声帯の奥が明らかな忌々しさを帯びた。

 

 用意していた言葉のことごとくが脳内から吹き飛び、さらにはその最大の嫌悪にも見ないふりはできず、続くボクの台詞は遠慮なしに彼女の能天気を貫いた。

 

「しかも教会を破門されて……悪魔に転生したんでしょ?その上でボクに『念』を教えてくれだなんて、よく平気な顔してそんなことが言えるよね。それとも……わかってないの?ボクが悪魔を嫌ってること」

 

 ほんの数日前まで人間だった青髪、ゼノヴィアは、奴らと同じ制服を身に纏い、悪魔になってしまっていた。

 

 聖剣使い、悪魔の天敵である教会の戦士であった彼女が悪魔に転生したと聞いた時、最初は耳を疑った。全く相容れない二者。あるいはよく聞くように、赤髪が無理矢理に転生させたのかと思った。

 

 その通りであればハンターとして大義名分を得られたのだが、しかし残念ながら異なる。対面した彼女の平然も然り、それ以前に強引な主従関係であれば、ゼノヴィアは赤髪悪魔経由で、ボクに修行をつけてくれなどと言ってはこないだろう。

 

 ボクが灼熱の日差しに茹でられていた理由の半分がこれだ。ボクはこの聖剣使いの悪魔に『念』を教えるため、ここで訪れを待っていた。赤龍帝と同様望んだのは当人だが、学業にかまけてボクの親切を蔑ろにする赤龍帝と対照的に、所属する学園を抜け出してでも指導を受けると彼女は言ったのだ。

 多少は感心したのだが、一方が酷すぎた故の良い印象は、しかし遅刻で帳消しとなった。残ったのは悪魔への憎悪ばかりで、だから口から出る追及が、ややそっちに寄った嫌味ばかりになってしまっているわけなのである。

 

「それで?ホントにどうして悪魔なんかになっちゃったの?ボクに喧嘩売ってるとかなら、望み通りにしてあげるけど」

 

「そ、そんなわけがないだろう!?教えを請うた相手に喧嘩など……そ、それにだ!そんなふうに言うのなら私だって聞きたいぞ!いや聞くなとは言われたが……何故そうまで悪魔を目の敵にしているんだ?一誠もリアス部長もアーシアも、皆いい人ばかりだ」

 

 ボクの威圧にかぶりを振り、ゼノヴィアはしっかり苛立ちの引き金を見つけ出し、威勢よく主張する。たった数日でもう懐柔されてしまった単純さに呆れつつ、ボクは鼻を鳴らして彼女が離れた一歩分、またずいっと顔を寄せた。

 

「キミの主観はどうでもよくてさ、むしろこっちが聞きたいんだよね。悪魔が嫌いなのはキミたち教会も一緒でしょ?なのに破門されるなりすぐ裏切るなんて、わけがわからにゃい」

 

「うぐ……確かに破れかぶれで転生したのは、今考えれば正直どうかと思うが……けれど、仕方がないだろう?異端の私はもう神に祈ることさえ許されないのだから」

 

「……破れかぶれって、なにそれ」

 

 誤魔化すしかない疑問から話を逸らせば、出てきたのは雲みたいに軽い理由。呆れててものも言えないボクに、ゼノヴィアはばつが悪そうに「破れかぶれは、破れかぶれだ」と眼を逸らす。

 

 それでも止まないボクの白い眼に唇を尖らせ、満足するまで不貞腐れた後、彼女は一つ唸ってから再びボクを見つめて言った。

 

「それに、やはり私はそうする他なかったんだ。リアス部長の力がなければ、私は、フェルさん、あなたに師事することなどできなかったんだから」

 

「うん?別に、直接ボクに言えばよかったんじゃない?というか、そのほうがボクも教えてあげようって気になるよ。……悪魔に転生されるよりもよっぽど」

 

「しかしそれは金を払えればの話だろう?あなたにタダで指導してもらえるなど、さすがに私も思っていない」

 

 そんなふうに思われていたのか、と赤髪からあれこれ理由をつけてせしめた口座の数字を思い出し、ちょっとだけ後悔する。

 

 ゼノヴィアは自信満々に胸を張った。

 

「神の信徒は皆、清貧でなければならないからな、かつての任務でも褒賞はあったが、全部シスターに収めていたんだ。私ほど教えを忠実に守っている者もいなかっただろう。……まあ、神の不在を知った今となっては、それに何の意味があったのかと思わなくもないが、しかしとにかく、破門された私は全くの無一文だったんだ」

 

「へえ」

 

 おざなりな相槌は、そうやって徴収した金で豪遊する司祭や司教を知っているがためのものであったが、ゼノヴィアはそっちには気付くことなく熱弁を続けた。

 

「だからリアス部長に、リアス・グレモリーに願ったんだ。あなたの眷属になる代わりに、私も兵藤一誠のようにフェルさんの指導を受けられるようとりなしてくれ、とな。『騎士(ナイト)』として、快く迎えてくれた。打算的な望みを、受け入れてくれたんだ。

 ……もちろん今まで敵対してきた悪魔の軍門に下ることに思うところがないわけではないが、けれどだとしても、あなたとリアス部長たちが嫌いあっていることが、私には悲しい。なぜなら二人とも私の恩人で、あなたは私の理想の師匠だからだ」

 

「ボク、聖剣どころか光の剣も普通の刀剣も、碌に触ったことないんだけどにゃあ」

 

「ん?そうなのか?ハンターは人外に対して、その種の弱点となるものを使い分けるのだと聞いたが……そういえばコカビエルとの戦いでも、特にそれらしいものは使っていなかったな。しかしそれはつまり、そんなもの使う必要がないほどあなたは強いということだろう?聖剣や、あるいは神器(セイクリッド・ギア)に頼らずとも、あたなはそれほど圧倒的な強さを得ているんだ。すごいことじゃないか」

 

 だからその力を学べれば聖剣と、そして悪魔の力の分、私はもっと強くなれる。などと彼女は考えているのだろう。

 

 実際ボクの強さ、身体の頑丈さや力の強さなんかの基礎的な部分は、ボクがキメラアントであるが故のものだ。そっちのことはもちろん口に出せないが、そうでなくても彼女のその考えは、あまりに『念』に対して、武術に対して無知なものだ。

 

 少々調べた彼女の異名。『斬り姫』やら『破壊魔』などと揶揄されているところを鑑みるに、恐らく今までは聖剣の力に頼った力任せの蹂躙しかしてこなかったに違いない。

 

 『力』は足し算ではない。通じなかった冷やかしに肩を落としつつ、ボクは呆れのため息を吐き出した。

 

「……キミも赤龍帝も赤髪も、『念』を安く見過ぎだよ」

 

「安く……?」

 

 ゼノヴィアが、存外なことを言われたみたいにぱちくり瞬きをする。やはり『念』を便利な道具か何かだと、自身の補強のように捉えている様子の彼女。ボクは口を噤んでこれ見よがしに目の前を横切ると、近くの木製ベンチに腰を下ろして胡坐をかいた。

 

 たっぷり間を開け、生み出した真剣の空気の中で神妙に頷いてやって、続けた。

 

「うん、そう。二ヵ月もないんだよ、ボクがキミたちを教える期間。それっぽっちの時間じゃ、たとえキミが一千万人に一人のすごい才能を持っていたとしても、『四大行』、基本を覚えるのが関の山だにゃ。そんなんじゃ殺し合いの場で役に立たない。むしろ足を引っ張ることになる」

 

「……しかし、無駄にはならないだろう?基本だけでも、私にとっては価値のあるものなんだ。それに一応、あなたたちほどではないにせよ、白音も『念』が使える。修行法さえ知っていれば彼女と一緒に――っ……」

 

 もう一度の深いため息で彼女の胡乱を断ち切り、ボクは真顔で視線を射抜く。

 

「それが安く見てるってこと。『あなたたちほどではない』、なんて言うけど、そんな程度じゃない。シロネ、あの子の『念』だってだいぶガタガタだよ。辛うじて基本の体を為しているって、そんな感じ。たぶん我流なんだろうね。聞いてみるといい、いつから『念』を覚え始めたのか」

 

「いやまあ確かに、彼女には『教えるほどではない』と言われたが……」

 

「へえ、賢明だにゃ。とにかくそういうこと。自力で『念』を覚えるとなれば時間がかかるし、覚えたとしても精度が低くて使いものにならない。研鑽するにはそれこそ『念』の歴史をたどるくらい、途方もない時間が必要になる。その時間を別に当てたほうがずっと有意義だよ。例えばキミなら、魔力とかをね」

 

「しかし――」

 

 またも掣肘し、割り込む。

 

「それでも『念』がいいって言うなら、キミは『念』じゃなくて、『()と剣を使った戦い方(・・・・・・・・・)を学んだ方がいい。無手のボクじゃできないような指導、剣を振るための『念』を知ってるやつに教えを仰ぐべきだね。そうでなくても長く付き合ってくれるような奴を見つければ、まともな技も習得できるかもしれないよ」

 

 しかしやはり、彼女が望むような強さを手に入れることは難しいだろう。数ヶ月どころか何年学んでも底が見えないくらい、『念』というものは奥が深いのだ。

 

 故に、ボクはゼノヴィアの理想の師匠足りえない。『念』をものにするまで付き合う気がさらさらない。強くなりたいのなら、もっと別の人間に師事すべきだ。

 

 という意味合いを彼女が悟ってくれれば、もしかすれば赤髪の反感を買うことなくこの指導の仕事をキャンセルできるかもしれない。自身の師に相応しくないと、ゼノヴィアからそういうふうに思ってもらえればいい。そうすれば今後、ちょっとだけ楽ができる。

 

 うっすらとそんなことを考えながら、しかしいくら圧してもまっすぐなまま、結局一度も曲がることがなかった彼女の眼にそうはならないだろうという予感を抱きつつ、ボクは諦め、解いた神妙であくびと伸びをした。

 

 すると思った通り、ゼノヴィアはぐっと噛みしめた口元を震わせ、一瞬何か言い淀んでから口を開いた。

 

「それでも……私はあなたから学びたい。コカビエルを制した『力』も、確かに憧れではあるんだ。だが、それ以上に私は、あなたのその……なんというんだろうか……覚悟、かもしれない。『力』に秘められた強い意志に魅せられたから、だからフェルさんでないとだめなんだ」

 

「……『覚悟』?」

 

 予想とは少し外れて抽象的だった固執の理由は、正直勘違いが否めない。クロカとシロネを助けたボクの意思など、到底清いものではないだろう。利己と義務感をこね合わせただけのはりぼてだ。

 

 わざわざ告げることではなく、知らずに見誤って信じてしまったゼノヴィアは、ボクを見降ろし右手を軽く握り締めた。

 

「……破門された時、同じようなことを言われた。『念』を学ぶにせよ、師事の先は同じく剣士であるべきだと。……武闘家のそれと剣士のそれは違うのだと、ヴァスコ・ストラーダ猊下直々に賜ったお言葉だ」

 

 その名前に少々記憶を刺激される。ヴァスコ・ストラーダ、ネテロの強さを語る時、よく引き合いに出される人間の一人だ。ちなみにミルたんもその輪に入る。

 

 ハンターではなく、確か教会の枢機卿だっただろうか。ゼノヴィアが持つ聖剣、デュランダルの前所有者であるかなりの大物が、小娘一人のために出てきたなんて話にほんのり怪しげな背後を察知しつつ、ボクは続くゼノヴィアの、何にも気付いていなさそうな真面目腐った顔を見つめ返した。

 

「人も紹介されたよ。あなたが言う、剣を振るための『念』を知っているハンターだった。……けれどその人が持つ強さは、私が惹かれたそれとは違った。信仰を見失って初めてできた『ああなりたい』と思える目標は、やはりフェルさんだけなんだ!適性がと言われても、私の師匠はあなたしかいない。あなたでなければ意味がない!一誠がそう決めたように、私は教会の戦士でなくなっても、己の正義を貫く覚悟のために強くなりたいんだ!」

 

 つまり、頑固なこだわりだ。

 

「んー……精神論、あんまり好きじゃないんだけどにゃあ」

 

 ちょっとだけ罪悪感が湧いた。

 

 彼女が惹かれたボクの強さ、『覚悟』とやらはただの勘違いだ。そんな大層なものをボクは持っていない。ならばそれを指針にした彼女の『ああなりたい』は全くの思い違いであり、ボクに師事する一月と少しを棒に振ることになる。加えてそんな印象を抱かせてしまったことによって、恐らく聖剣デュランダルが悪魔共に巻き込まれることを阻止せんとした枢機卿の目論見を、ボクはお釈迦にしてしまったのだ。

 

 この仕事と同じ、悪魔を利する行為故の不快感。赤龍帝に続いてゼノヴィアにも真逆の効果を及ぼしたクロカの適当なご高説が、フェルの覚悟を学べば念能力者の剣士に師事するよりも強くなれる、というトンデモな思い込みをより強固なものにしてしまっていた。だから指の先ほどだが、彼女らに申し訳ないと思う。

 

 だがしかしその思い込み。真実を言えないとはいえ、どうすればボクの強さの源が、『覚悟』なんていう訳のわからない勘違いであるなどと信じることができるのだろうか。

 

「精神論ではない!私はあなたのように強くなりたいから、だからあなたから学びたいと願っているんじゃないか!」

 

 想い、それが力の一助となることは認めるが、それにしたって大仰。ファンタジーが過ぎる。よしんばボクの『覚悟』とやらが本物だとしても、それはただ『心意気』の話だ。

 

 心の持ちようで習熟度の多寡が変わるほど、『念』は簡単なものではない。散々説明してやっただろう。なんだって意味のない修行を頑なに望むのか。

 

 節穴の眼に加えて理解不能な思考回路の持ち主であると知れた彼女に、呆れるボクは努めて平淡に言葉を口にした。

 

「ボクが想いの力だけで……コカビエルを倒したとでも思ってるの?精神を鍛えたいのか力をつけたいのか、キミが何を目指して修行修行言ってるのか、ボクさっぱりわからないにゃ」

 

「もちろん両方に決まっている!知っているぞ?『念』には強靭な精神力が必要不可欠なのだろう?」

 

「そういう意味じゃなくって――」

 

 と、続けて皮肉を言い放とうとした。その瞬間だった。

 

 ボクはゆらりと漂ったその気配に気付いた。

 

「うぐっ……!ふぇ、フェルさん?なんなんだ、突然……」

 

 逆立つ背からたちまちに噴き出すボクの『気』。内の憎悪が漏れ出して、濃い殺気にゼノヴィアが本能的な怯えを見せる。ベンチから数歩も後退った彼女だが、しかしボクには気にする余裕がなく、緩慢な動きで斜め後ろ、公園の入り口へ振り向いた。

 

 爆発しそうな感情を抑えてどうにか憎悪の範疇に留めたボクの眼を、現れた悪魔の長、魔王サーゼクス・ルシファーは、虫唾の走る微笑を浮かべて眺めていた。

 

「剛毅果断、というのかな、彼女は。並外れて意志が強いということは、もうわかってもらえただろう?」

 

 ボクの視線とその声とで、ようやくゼノヴィアもその存在に気付く。何故ここに、と僅かに焦りを滲ませ呟く彼女にも同じような顔を向け、悪魔の長は続き、汚らしく鳴いた。

 

「私もリアスもその意志の強さに惹かれてね、だから今回のことにも許可を出したんだ。正直なところ、妹の眷属としての忠誠心が薄いことは気にかかったが」

 

「それはしかし、恩義は感じている。だがその……何度も言ったが、私はそのことを忘れるような恩知らずではないぞ」

 

「わかっているよ、君の性根は間違いなく善だ。それに忠誠はなくとも、絆は育める。悪魔の生は長いんだ、これからゆっくりと紡いでゆけばいい。そうやって良き主従になってくれれば、君の目指す正義は、きっとリアスの助けになる。期待しているよ、ゼノヴィア君。でなければ私は学園の理事として、公開授業を抜け出した君を見逃した今日のことを後悔せねばならなくなるからね」

 

「それは感謝している。しかし……そ、そもそもなぜ私は学園に編入させられたんだ?私は勉学に興味がないというのに」

 

「リアスが学園に通っているからさ。眷属たちもね、主人の傍に居たほうがお互いに都合がいいだろう?」

 

「確かに……そうなのか?」

 

 チラチラとボクを怯えで気にしながら会話を続けるゼノヴィアの声が清涼剤になるくらい、ボクには奴のその鳴き声が耐え難いものだった。

 

 奴は、『王』を殺した悪魔の長だ。『王』を差し置いて王を名乗る不届き者なのだ。奴に比べれば、つい最近人間から悪魔となったゼノヴィアなどなんでもない。散ってしまう憎悪がもったいないほど、今、生きとし生ける者の中で最も憎く、そして恨めしい存在。

 

 こんなところに顔を出すなどと思っていなかった。対面する心構えなんて欠片もできておらず、できていても涼しい顔でやり過ごすことなどできなかっただろうが、一番の仇を目の前にして、ボクの全身には殺しの衝動が荒れ狂っていた。

 

「そうさ。それに親睦を深めるためにも、人付き合いを覚えるためにも、学園という場は適している。だからね……フェル殿、一誠君たちは修行を蔑ろにしているわけではないんだよ。学び舎に通うということは、いわば人として生きるための修行だ。大切なんだ、どちらも。ゼノヴィア君の場合はその天秤が『憧れ』に傾いたに過ぎないということを、どうかわかってほしい」

 

 しかしその浴びせかけた『気』、殺意にも涼しい顔をして話しかけられ、しかも『王』を殺したその口で人としての名を呼ばれる。そんな屈辱を受け、それでもなんとか口を閉ざしていれたのは、傍にクロカが居なかったからだ。

 

 一人で大丈夫と行かせたのに、ここで憎悪を叫んで問題を起こせばボクの立場がない。抱える感情を抑え込むにしては小さすぎる頼りだが、それでも辛うじて踏みとどまることができていた。

 

「しかし貴女の気持ちも尤もなものだ。故に、私からささやかではあるが、心づけの金額を振り込ませてもらった。言葉の誠意よりもこちらの方が貴女好みだろう?これでどうか、今後の指導もよろしくお願いするよ」

 

 半ば機械的に、ボクはポケットの端末を取り出す。それを一瞥して確認すると、すぐに立ち上がり、ベンチから降りて奴に背を向けた。

 

 喉の奥から、どうにか赤色でない声を押し出した。

 

「行くよ、ゼノヴィア」

 

「えっ!?あ、ああ!」

 

 返事を聞く前に歩き出した。奴の反対側の出入り口。ゼノヴィアが慌てて後を追ってくる。

 

 呑気に手を振ってくる奴の気配を意識して無視しながら、ボクは足を速めて公園を去った。

 

 

 

 

 

 有り体に言って逃げ出したボクの足は、すぐに駆け足になって公衆の場へと向いた。

 

 さっきまでの穏やかな公園と異なり、ごった返すとはいかないまでも、人と喧騒の絶えない通り。一般人にとっての全速力ほどの速度をぴったり保ち、駆け抜けた。

 抜き去った人々に『何事だ』という反応を浴びせられながら数十分かけて町を走り回ったボクは、後ろのゼノヴィアの息が隠しようもなく乱れ始めた頃になって、ようやく目的地の麓、緑ばかりの小山にたどり着く。

 

 車道に線引きされた山の境目だ。山中へ向かう道も探せばどこかにはあるのだろうが、しかし辺りにはない。幾重にも重なる木々の壁だけがある山の斜面は、普通、人が踏み入る場所ではないだろう。

 

 だがボクは一切足を緩めぬまま、行く手を塞ぐ枝と幹の間に身体を滑りこませた。

 

 植生は全く違っていても、慣れ親しんだ自然の環境。冥界の森で生まれたボクであるのだから、町中を行くよりずっと走りやすいのも当たり前のことだ。

 

 となればつい最近まで人間だったゼノヴィアは、もちろん『慣れ』が真逆だった。

 案の定、そこに突入するや否や、後ろから鈍い音とうめき声が鳴った。

 

 さすがに置いて行くわけにもいかず、立ち止まって振り返る。根っこに足を引っかけたらしく、涙目で地面に這いつくばるゼノヴィアに、ボクは見下ろしたまま首を傾けた。

 

「何やってるの」

 

 簡潔な嘲りに、ゼノヴィアは汗まみれの顔を上げる。

 

「脚が……ハァ、縺れたんだ……!疲れたんだよ……っ!……むしろあなたが……フゥ……人を避けながら、あれだけ走ったのに……なぜ息の一つも……切れていないんだ……」

 

「鍛え方の差。後はキミ、走り方に無駄が多いんだにゃ。……悪魔の駒(イーヴィル・ピース)、『騎士(ナイト)』の特性は速度だったよね?こんなのでバテる程度なら、上り幅も大したことないみたい」

 

「無駄……無駄か……」

 

 せわしなく肩を上下させ、呼吸音の狭間に繰り返す。背を丸めて項垂れるみたいに俯いた彼女は、頭を垂らした両膝の間から、疲労の滲み出た声色で呟くように言った。

 

「ここに、たどり着くまで……無駄に時間がかかった気がしたが……なるほど、そのせいか……」

 

「ううん、気のせいじゃなくて、無駄にあちこち走ったよ。公園からここまで、直線距離で大体五キロくらいかにゃ。たぶんその五倍は回り道したかも」

 

「……私だって、心が傷つくことは、あるんだぞ……」

 

 中心街からは外れていても、人の少なくない通りを全力疾走して、迷惑にならないわけがない。実際、目を剥く人間は多かった。

 

 けれどそれから生じる文句は、何者かもわからないボクではなく、学生服なんていう実にわかりやすい所属証明を身に纏うゼノヴィア、つまりは学園へ向くのだ。余計に走れば走るほど、理事であるあの魔王への嫌がらせとなる。

 

 けち臭い意趣返しであることは理解している。が、町中を走り回った目的に付属するおまけ効果なのだから、わざわざ避ける理由がない。

 それだけのことなのだが、どうやらゼノヴィアの善性に擦り傷を作ってしまったようだった。

 

 まあたいしたことではないし、機嫌が直るのなら謝ってやろうかと、ボクは青臭い緑の芳香を吸い込んだ。しかしそれが声になる前、汗を飛ばして勢いよく顔を上げたゼノヴィアが、やけに明るい声色で、なぜだか息を吹き返した。

 

「しかしつまり、これこそが修行というわけなのだな……っ!心を乱さず、困難な道を走り抜けるという、中々精神的な――」

 

「ただの嫌がらせだよ。森を突っ切ろうとしてるのも含めて」

 

 そして同時に別の目的、ミルたんからの頼まれ事のためでもある。移動に詰め込んだ動機のそっちはやはり口にせず、ボクはゼノヴィアの無事をその唖然とした間抜け面に認めると、頭を触る邪魔な小枝を手折って彼女に向けた。

 

「腹が立つなら帰ってもらっていい、って言いたいところだけど、キミはやる気なんでしょ?心配しなくても、『念』はちゃんと教えてあげるよ。ほら、さっさと行くよ」

 

 枝を投げ捨て、返事を待たずに走り出す。たちまち重なった枝葉の奥に消えるボク。慌てて起き上がったゼノヴィアの脚は、本人の申告通り震えてなかなか前に進まなかったが、その内元気を取り戻すだろうと無視して進んだ。自身の『気』を、『念』を使えずとも感じられるくらいに溢れさせている現状、せめてその気配を感じ取って追って来れる程度の感覚がなくては教え甲斐もない。

 

 しかし憂慮、あるいは期待は生憎叶わず、汗で朽ちかけの枯葉をしこたま貼り付けたゼノヴィアは、歯を食い締めて震えを止めると、迷うことなく駆けだした。自然の障害に気を取られてその速度はだいぶ遅いが、左右に進路を揺らしてやってもしっかりと付いてくる。

 いよいよなくなった、指導をすっぽかす選択肢に別れを告げ、せめてもの抵抗に本気で地面の腐葉土を蹴り飛ばし、彼我の距離を一気に離した。

 

 

 

 数分で、ボクは目的地に到着した。山麓の森の中、ひっそり隠れるように建つ建造物。微かに聖なる力を発するそれは、とうの昔に廃れたのだろう教会だった。

 

 正面扉が倒れて開け放たれた内部には、半ばから折れた十字架と破壊された祭壇が転がり、左右の長椅子、壁に天井にステンドグラスまでがすべからく薄汚れている。人が通れるほどの大穴すら開いていた。

 

 冗談みたいに薄い聖なる力でわかってはいたことだが、やはりこの教会、廃れて長いのだろう。そも悪魔の縄張りに聖書に属する教会が存在すること自体が奇妙なのだ。勢力争いがこじれて両者とも手が出せないのか、知りようも知る気もないが、しかしとにかく、めったなことでは人が来ない場所であることは確実だ。

 

 敷地も広く、ここで『念』に目覚めさせても予期せぬ客人の訪れはないだろう。『気』をものにするまでどれくらいかかるかわからないが、ここでならのんびり待てそうだ。天気の乱れを心配する必要もない。

 

「なんでか知らないけど、地下まであるし」

 

 元々祭壇があったのだろう身廊の先にぽっかり空いた下り階段を覗き込み、案外広そうなその空間へ、興味のまま降りてゆこうとした。

 

 しかしその一歩目で、暇つぶしの必要は無くなった。

 教会の外から、強い光と気配がボクの元まで届いたからだ。

 

 何事かと一瞬身構え、それがあの時見た聖剣、ゼノヴィアのデュランダルであることを思い出し、ボクは心の底からため息をつく。そして次の瞬間、振り下ろされた光が、一直線に木々を押し潰した。

 

 もしかしたらふもとの人間に気付かれたかもしれない。それくらいの轟音と振動。教会内をも照らした光にピリピリ肌を焼かれながら、やむなくボクは携帯を取り出した。足を引き上げ入り口に戻りつつ、予定変更の短文を送信する。

 操作が終わって再びポケットにしまう頃、森を派手に切り開いた犯人が、残った切り株の間から、剣を杖によろよろと姿を現した。

 

「まさか、こんな手に出るとは想像してなかったにゃあ」

 

 体力が底をついているのか、ゼノヴィアは聖剣を取り落としてへたり込み、掠れた声で言った。

 

「……こ――」

 

「……こ?」

 

 ばたんと、仰向けに倒れ込んだ。

 

「この手に、限る……」

 

「アホなこと言えるなら、まだまだ元気そうだにゃ。もう一周してみる?」

 

「い、いや、すまな……すみま、せん……本当に……もう限界……」

 

「そう?残念」

 

 オーバーワークで潰してやろうかと、割と本気で思っていた。

 しかし制服が透けるくらいに全身汗だくな彼女の言葉に嘘はないだろう。平面で散々イジメてやったその脚に山行は、自然の障害も相俟ってちろん相当な辛さだっただろうが、だからといってなぜ聖剣で一帯のそれらを排除するなんて発想に至るのか。

 

 人の迷惑がどうこうと言う割に自然環境への関心が薄いのは、混ざった悪魔の性質か、それともゼノヴィア本人の性格か。興味はあるが、それを責め立てると土地の権利がどうこうと面倒な予感がしたので呑み込んでしゃがみ、いい加減擦れた喘ぎ声がうるさいゼノヴィアの顔に、ペットボトルに詰めた水道水をぶっかけてやった。

 

 飲用に用意したものではなかったが、五百ミリが空っぽになればゼノヴィアは息を吹き返した。今度は真水でびしょぬれになった彼女は、数回荒い深呼吸をすると震える腕を突っ張って上体を起こし、その眼に正面の廃れた教会を映した。

 

「……しかし、皮肉か、フェルさん。悪魔の修行場所に、普通、教会を選ぶか?」

 

「別に問題ないでしょ?もう潰れてるんだから。それに聖剣もまだ使えてるみたいだし、教会の威光の残りカスくらいなんてことないはずだにゃ」

 

「そういう意味ではなく……破門された身で、私がここに居ることが、何かを汚しているような、そんな気がしてな。……まあ今更、どうでもいいことだが」

 

 聞きながら投げ捨てた空のペットボトルに、ゼノヴィアが眉をひそめて不機嫌を示す。やはり基準がよくわからない。

 何か言いたそうにボクを見た彼女だが、さすがに話を逸らしてまでの憤りではないらしく、大きく息を吐くと、疲労でぎこちなく周囲を見回した。

 

「しかし……ここにもウタさんはいないのか。フェルさんが珍しく一人だったから、私はてっきり、何か修行の準備でもしてくれているのかと思っていたが……。なあフェルさん、実際のところ、どうなんだ?魔王のように、白音の公開授業にでも行っているのだろうか」

 

「違うよ。……うん」

 

 つい反射的に否定の返答を送ってしまって、悔いる間もなく危惧通りにゼノヴィアが食らいつく。

 

「それはそうか、厳密にはまだ師弟ですらないものな、あの二人は。……しかしとなれば、私には他にあり得そうな可能性が想像できない。あの人は、今どこにいるんだ?」

 

「……ボクには、キミがそこまでしてウタの所在を知りたがる理由が想像できないよ」

 

 恐らく、またあの訳のわからないこだわりなのだろう。しらを切ってやっても良かったが、ピカピカ派手な森林伐採を許してしまった以上、何をさせようが目的の成否は変わらない。

 

 なら別にいいかと、ボクはゼノヴィアの、答えを聞くまで引きませんと言わんばかりに一直線な眼がまた何か喚く前に、黙らせるべく餌を差し出してやった。

 

「厳密にどこ(・・)っていうのはとにかくとして、この近くにはいるよ」

 

「……近く?」

 

 純粋な眼差しが、そのままぱちぱち瞬きをする。意味を処理する最中であるらしいそこに、続けて呆れたふうを作って言った。

 

「心当たりもない?それは残念だにゃ。こっそり追いかけてくれてたんだけど」

 

 出る直前の言葉と一緒に息を呑み、目が見開いた。

 

「まあ確かに、『念』なしでボクの『気』の中から見つけるのは、ちょっとキミの才能を高望みしすぎたかにゃ。体力も思ったよりなかったし、しょうがないね」

 

「な、なるほど……!ウタさんのこともまた、修行の一環というわけか……!『気』とやらを感じる術を磨けと、そういうわけだな、フェルさん!」

 

「うん、そういうこと」

 

 それっぽく微笑みながら、ボクはでたらめを肯定した。

 

 実際は修行の意図どころか、そもそもゼノヴィアとの関連性すらない。場所をこの、身を隠しやすい小山に建つ教会に決めたのも同様、ミルたんからの頼み事、その対象を誘うために他ならない。

 適当に撒いた『気』で、興味を釣られて自ら姿を現してくれるのが望ましかったが、ゼノヴィアのおかげで警戒心を焚きつけてしまった今となっては叶わぬ理想。

 

 だからボクは、真に受けたゼノヴィアが必死の形相で周囲を見回しても、それを止めることをしなかった。

 

「大丈夫だフェルさん!私は勘には自信がある!それにだいぶ体力も回復してきたしな、期待外れでないことを証明してみせるさ!」

 

 滑稽だなと、ちょっとだけ笑いはしたが。

 

 しかし微かに漏れたその嘲笑は、直後ほんの少しだけ持ち上がり、感心に変わった。

 

 睨むように周囲の木々を見やっていたゼノヴィアが、不意にぴたりと動きを止め、その一点に向いたまま固まった。風に揺らぐ葉をじっと見つめ、そしておもむろに立ち上がると、目を閉じる。

 

 十数秒後、弾かれたように目を開けて、そこを指さし興奮気味に叫んだ。

 

「あっちだフェルさん!さっそく見つけたぞ!人の気配がする――気がする!どうだ!?もしやこれが『念』なのか!?」

 

 期待に輝く眼をボクに向ける彼女の指の先には、確かに隠された『気』があった。

 

 見つけられた理由は『念』とは言い難く、ほとんど彼女自慢の勘によるもの。しかし、差し向けられた指はぴたりとその気配へ向いていた。

 

 資質は、明らかにあった。

 だが、

 

「残念。それ、呼んでない方だにゃ」

 

「……なに?」

 

 呼んでない方(・・・・・・)。向けた言葉に、二人が揃って動揺を見せる。ボクは続けて立ち上がり、その半端な『絶』の使い手に向けて、戦意を表情と声色から押し出し口角を上げた。

 

「他は知らないけど、『念』はヘタクソだね、ヴァーリ」

 

「……そうらしいな。お前だけでなく、まさかデュランダル使いにも気付かれるとは……やはり曹操の猿真似では無理があるか」

 

 ジャラジャラ鎖のついたビジュアル系の恰好で、白龍皇ヴァーリはきまり悪そうに苦笑しながら森の中から現れた。

 

「白龍皇ッ!?また貴様か!!」

 

 顔が見えるや否や、ゼノヴィアは地面に転がったデュランダルに飛びつき拾い上げ、ヴァーリに切っ先を向ける。

 

 彼女の主たる赤髪、ひいては悪魔にとって敵といって差し支えない、『神の子を見張る者(グリゴリ)』の構成員。赤龍帝の存在と相俟って警戒せざるを得ないのだろう。

 だがその震える腕と脚、おまけに全身ずぶぬれのあられもない姿に威圧感など生じるはずもなく、ヴァーリは自分へ向けられた聖剣の『力』を意識すらせずに前を素通りし、僅かな困惑と共にポケットから出した片手を差し出した。

 

「案外と早い再会だったな、フェル。気配がしたから来てみたが、思った通りだ。とはいえ、残念ながら勝負のお誘いではなかったらしいが」

 

 ようやく一瞬、ちらりとゼノヴィアに眼をやって、握手に応じないボクを見限り腕組みをする。疑問で、首がちょっと傾いた。

 

「どうやらこいつは悪魔のようだが……俺は殺すのを邪魔したわけではないだろう?やたらと気配を振りまいて、いったい何をしていたんだ?」

 

 秘密にすることでもない。無視されてご立腹な様子のゼノヴィアを眼で黙らせ、答えた。

 

「『念』を教えるんだよ。元々この町に来たのもそんな理由でさ、要は……うん、ハンターのお仕事にゃ」

 

 己の目的、野望のために何かを狩る、ある意味で『何でも屋』と言い換えることもできるハンターという職業。お金欲しさにこんなことをやっていると、彼は思ってくれただろう。

 

 ついでにやむなき事情の存在を共感してくれるよう片手間に祈りつつ、ボクはゆっくり首を振る。ヴァ―リは、意外そうに目を丸くした。そして続き、期待を覗かせる。

 

「驚きだ。君たちは育てるよりも殺す方が好きだろうに……いや待て、ということはもしや、赤龍帝も鍛えるのか?だとしたら、多少は戦えるようになるんだろうか」

 

「そういう話にはなっちゃってるけど、キミと対等までもっていくのはちょっと無理かにゃあ」

 

「……そうか。そううまくはいかないか」

 

 そう手っ取り早くキミらの差が埋まるわけがないだろうと、呆れる手前で立ち止まる。思っていたよりも肩を落として気落ちしていたからだった。

 

 宿敵としていずれ戦う定めであるらしい、赤龍帝と白龍皇の因縁。ボクに想像できるはずもないが、本来ならば生涯最大の敵であるはずのその相手が、自分に及びもつかないほど格下であるということは、それなりにショックが大きいようだ。

 

 少なくとも、別の敵で慰められるものではないのだろう。途端、微かにあったボクへの戦意もすっかりなくしたヴァ―リは、その端正な顔立ちで絵になるため息を吐く。そして億劫そうに周囲を見回し、気付いて腑に落ちたと顔を上げた。

 

「そういえば、ウタの姿が見えないな。彼女が赤龍帝の担当か。君のそのお誘いは、つまり彼女らへの目印だと」

 

「……今となってはそうかもね」

 

 含んだ言い回しは、ヴァーリの眉間に薄く皺を寄せる。

 仔細を言わずとも、その内疑問は解けていただろう。だがボクは、彼のその眼差しに答えた。

 

「キミも聞いたでしょ?ゼノヴィアが聖剣を使ったおっきな音。あれでもう、おびき寄せることはできなくなっちゃったからさ」

 

「聞いたが……おびき寄せる?赤龍帝をか?」

 

 緊張と気まずさが合わさってそわそわと落ち着きないゼノヴィアを横目に、「違うよ」と否定する。

 

「アレは今、学園。夏休みに入るまで運動したくないんだって」

 

「……なるほど」

 

「そうそう。で、待ってるのはウタと、別の人間。『念』教室するならついでにって、ミルたんに頼まれちゃってさ、一緒に教えることになったんだにゃ」

 

 なんとも言えない表情を作るヴァーリが、ミルたんの名前に反応して眉を上げた。彼の同類、魔法少女ハンターを自称する集団を思い浮かべてしまったのか、それを否定するようにかぶりを振る。

 

 その拍子に気配にも気付いたようで、切り開かれた一帯の反対に顔が向くと、変わり映えのしない森林を透かして見つめてため息のように言った。

 

「……人間か。君の指導を受けられるとは、彼も幸運だな」

 

 クロカはともかく、彼女が連れてくる人間はまだ念能力者ではないのだ。多少なり『念』を修めているヴァーリにここまで悟らせなかっただけでも十分、ゼノヴィアに負けず劣らずの才だろう。

 

 当の彼女は気配どころではないらしく、気付いている様子はない。ましてや『裏ハンター試験』のことなど知るはずもない知識から、ヴァーリの納得と同様の結果を導き出すのは不可能だ。

 

「そ、それはつまり、私と一誠以外に人間の弟子が加わるということか……?だから聖剣が、超常の力の存在が……」

 

 知られるのはまずかったと、そんな自責のようだが、残念ながら的外れ。

 

「むしろ三大勢力とかそっちのことは、キミから教えてやって。言葉よりも実物を見たほうが理解も早い」

 

「しかし……聖剣も悪魔も、一般的には秘匿されるべきで……」

 

「うん、だから、一般じゃないんだよ」

 

 接近した気配が、とうとう音が聞こえるまでに近付いた。風音に混じる気の揺れる音はやはりゼノヴィアには聞き分けられず、きょとんとした表情。

 

「ならば……何なんだ?」

 

「ハンター」

 

 同時、ヴァーリが目する木々の間から、音を立てて人影が飛び出した。

 

 ボクの簡潔すぎる答えと、その人影が担いだ簀巻きに動揺を混乱させるゼノヴィア。言葉を忘れて呆然と見つめる彼女に、ぐるぐる巻きに縛られ猿轡をかまされた禿げ頭を乱暴に下ろした人影は、額を拭って付け加える。

 

「――の、卵ね。半年前にタネが付いたばっかりの」

 

 クロカは満足げにそう言った。

 

「お疲れ様、ウタ。結構時間かかったね。ソイツ、できそう?」

 

 ゼノヴィアに見たように、禿げ頭の評価を訊く。尺取虫みたいに這いずり逃げ出そうとするその背を今度は踏みつけて押さえ、鳴るくぐもった悲鳴を完全無視して、クロカは鼻の眼鏡を押し上げ答えた。

 

「まあ、平均以上であることは間違いないわ。捕まえるの手間取っちゃったし。さすが忍者ってとこね」

 

「ほう、ニンジャ……ジャパニーズシノビか。本物を見たのは初めてだ」

 

「私だってそうよ。そもそも忍者って正体隠すものだし、なのにこいつやたらと自己主張激しいし……ていうか、なんでここに白龍皇がいるわけ?コレより、まずそっちが知りたいんだけど」

 

「ただの通りすがりだ、そう心配せずとも何もしないさ。人の仕事の邪魔をするほど常識がないわけじゃない。……少なくとも今は。

 それよりも、ニンジャはニンポウなる摩訶不思議な術を使うと聞いたぞ。カゲブンシンにゴウカキュウに……どうだった?彼は使えるのか?」

 

「さあ?手間取ったっていっても追いかけっこしただけだし……あ、でも私、影分身の術みたいなことはできるわよ。『念』でだけど。ていうか、忍法自体がそもそも『念』なんじゃない?」

 

「……そうなのか。残念だ」

 

「んぐ――ぷはッ!いやあんたら、マンガの『ニンジャ』毒されすぎだろ!モノホンの忍法はもっとこう……ちゃんとした仕掛けがあんだよ!てか『ネン』ってなんだ!」

 

 皆の視線が一斉に下へ向く。禿げ頭の男が吠えていた。

 自力で猿轡を外したらしく、踏まれながら歯を剥いている。クロカとヴァ―リに珍しい生き物扱いをされることに耐えかねたようで、二人を睨んだ眼は鋭いまま、縛られた身をくねらせボクらをも威嚇し、怨みたらしく鼻を鳴らした。

 

「へんっ!随分とまあ姦しいことで。てめえら全員、このデカチチ暴力女のなか――べぶんっ!!」

 

 侮辱の言葉につい手が出た。べき、と骨の音が混じった乾いた破裂音にクロカが『やっちゃった』と天を仰ぐが、これでも理性は留め、しゃがんでからの平手打ち一発で我慢したのだ。加減もした。むしろ褒めて惜しい。

 

 しかし気絶はしないまでも、一撃はしっかり禿げ頭のヒエラルキーに届いていた。張り飛ばされた顔をゆっくり戻した禿げ頭は、えもいわれぬ真顔にて、真っ赤に腫れあがった片頬と唇を動かした。

 

「……皆様全員、こちらのナイスバディな眼鏡のお姉さんのお仲間なのでしょうか」

 

「うんまあ、今はそう思ってもらっていいよ。説明するの面倒だし。それじゃさっそく、まずは『念』を使えるようになろうか。ねえ、ハンゾー?」

 

「――ッ!?」

 

 禿げ頭の男は呼ばれた己の名に真顔を取りやめ、なぜオレの名を、と声ならぬ声で目を丸くする。

 

 口をあんぐり開けて硬直する主張の強いリアクションはクロカの言う通り、ボクの知識にある忍者ともかけ離れたものだ。本当にミルたんが言った『ハンゾー』はコイツであっているのかと不安になるが、開き直って立ち上がる。どうせ報酬もないハンターの義務活動だ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!ニンジャ?ハンター?頭が混乱してきたぞ。彼が『念』の修行を受けるのか?」

 

 それまでの目まぐるしさにあっけに取られていたゼノヴィアが、進む話に辛うじて割り込んだ。しかしもちろん、惑乱はそのまま。彼女にとって『念』は願い出て教わるもので、間違っても拘束までして教え込まれるものではないのだ。人生を担保にしただけに、無理矢理連れてこられたハンゾーが弟弟子(おとうとでし)であることが理解できないのだろう。

 

 一方のハンゾーも、同じく理解できていない。ただしこちらはそもそも『念』が何かすらわかっておらず、修行云々以前の問題だ。上下関係を植え付けられようが、彼がボクたちを見る眼は異常者に対する忌避でしかなかった。

 

 そしてそんな集団に捕らえられ、転がされている文句と対話の希望は、四人の内、強さも理解も最も下位に位置するゼノヴィアに集まり、向けられた。

 

「『ネン』だろうが『ナン』だろうが知らねえが、そんな訳のわからないもんを教わる気なんてねえよ。それにそんなに嫌ならよ、他の三人も説得しちゃあくれねえか?押し売りレッスンなんてしなくても、解放してくれるならちゃんと礼もするからさ。なあ、頼むよ青髪痴女ちゃんよ」

 

「あ、青髪痴女!?それはまさか、私に言っているのか?!」

 

「じゃなけりゃそんな堂々見せびらかさねえだろ。水かぶってバッチリ透けさせてよ」

 

 ゼノヴィアがバッと弾かれるように自身の胸元に眼を落とし、羞恥で顔を染めて両腕で隠す。

 

 ああ気付いていなかったのかと、場の全員が呆れて苦笑いした。

 

「だっ、黙れ!やめろ!私には羞恥心だってあるんだ!フェルさんもウタさんも……それに白龍皇、特にお前だ!なぜ今まで反応の一つもしてくれなかった!?この私の美乳が露になっていれば、男なら視線の一つも向くだろう!?」

 

「生憎、俺は赤龍帝のような色狂いではないんでな。そういう催しはそっちでやってくれ」

 

「フェルさん!ウタさん!」

 

「見られて困るようなものとは思わなかったからにゃ」

 

「同じく。そういうタイプの娘かと思ってたわ」

 

「……凌辱された気分だ。肌を見られて騒ぐのはアーシアの役目であるはずなのに……けど、やっぱりちょっとは乙女心というのを気遣ってほしい……」

 

 いじけて地面にしゃがみこんでしまうゼノヴィア。高さの合った視線で、ハンゾーが気遣わしげな顔をする。

 

「その……なんだ。オレは里での修行で、変装のための表情コントロールとか……そーいうの身に着けてるから顔に出なかっただけでな……。うん、制御してなかったら、鼻血の一つも出ていたぞ。いい身体してる」

 

「……キモいが、ありがとう」

 

「あと今、パンツ見えてるぞ」

 

「死ね変態!」

 

 腫れた顔面も相成って性事情に疎いボクでも背が泡立つキモい笑みから、破裂したゼノヴィアの赤面が聖剣でハンゾーをかち上げる。剣の腹で殴打された身体が宙を舞って一回転し、頭上を抜ける寸前でボクが襟首を捕まえた。

 

 止められた勢いが喉元近くの荒縄に集中し、蛙が潰されたような音。しかしそれでもノックアウトには至らなかったようで、下ろして首元の縄を緩めてやるなりぜーぜーやかましく深呼吸したハンゾーは、息を整えると、どこか投げやりな調子で笑って言った。

 

「そんでよォ、実際のところ、あんたらみたいなバケモノ集団がオレに何の用なんだ。オレのハンターライセンスでもご入用かい?」

 

「あら、やっと話を聞いてくれる気になったの?」

 

 最終的に全身拘束せざるを得ないほどの追いかけっこを経験したクロカが、ハンゾーの顔を覗き込んで所労を吐き出す。ハンゾーは、今までの強気にも下手にも当たらない乾いた諦めを、口の端に乗せる。

 

「そりゃあな。一番弱そうな青髪すらもあのバカ力だ。正味もうどうにかできる気がしねえ。目的は見当もつかねえが、煮るなり焼くなり好きにしろよ」

 

「……バカだと!?まだ言うか変態ハゲめ!私を愚弄するのもいい加減にしろ!」

 

「そういう意味のバカじゃねえし!それに変態はともかくオレはハゲじゃねえ!!これは剃ってんだ!!」

 

 そこは譲れないポイントらしい。過去に何かあったのだろうか。

 弱みのにおいがするが、しかし今は置いておく。今後のことを思うなら、反抗的なままで放置するより協力的な関係を築いたほうがずっといい。なにせボクは、少なくともゼノヴィアが勝ち取った二ヵ月弱の間、このハンゾーにも『念』を教えなければならないのだ。

 

「スキンヘッドもハゲも、結局は一緒だろう!バカはお前だ変態!」

 

「一緒じゃないですー!一緒くたに捉える方がバカなんですー!大体お前、オレがハンター試験のためにどれだけ勉強したと思ってんだ!その人離れしたバカ力で真剣振って、しかし学生服着てるってことは、つまりそういうことなんだろ!羨ましいなら羨ましいって言え!青髪バカ痴女!」

 

「ま、また言ったな貴様!私は別に、そういう意図で学園に通っているわけではない!ただ仕方なく……うう……なぜ私がこんな役回りを……」

 

 不真面目な生徒は一人で十分。ついでに自身のキャラクターに疑問を抱きつつあるゼノヴィアも放っておいて、ボクはハンゾーを縛る縄を再び持ち上げ言った。

 

「そう、そのハンター試験なんだよ、ハンゾー」

 

「げぅ!……な、何がだ……!」

 

 二度目はなく、首が閉まる寸前で顎に引っ掛け、事なきを得たハンゾーの後頭部に、ボクは続ける。

 

「キミが合格したそれ、実は……言うなれば表のハンター試験でさ、もう一つ、裏の試験があるんだよ」

 

「は。……それが、『ネン』だとかいうモンだってのか」

 

「そうそう、話が早くて助かるにゃ」

 

 息と同時に飛び出した驚愕の気配をすぐにしまい込み、核心を見つけ出す頭の回転の速さ。まあ悪くない。

 

「肉体の生命エネルギーを操って、それで身体を強化したりする技術のこと。これが扱えるくらい強くないと、例えば同じ念能力者とか、あるいは神器(セイクリッド・ギア)使いとか悪魔に魔物だとかの人外に対抗できない。だから『裏ハンター試験』として、表の試験に合格したハンターの受精卵たちに教えることになってるんだよね。……たまたまボクが居合わせたから、だからボクがキミの担当になっちゃったってわけ」

 

 だが長々説明してやったそれらの現実離れした内容には、さしもの彼も感情を隠せなかった。

 

「悪魔に……なんだって?いよいよ話がぶっ飛んできたな。ハンター協会は中二病煩ってる集団だったのか?」

 

「ちょっと待ってくれフェルさん。もしかして、ハンターになったら『念』は教えてもらえるものなのか……?お金がなくとも……?」

 

 決断の意義に気付きかけているゼノヴィアはやはり相手にせず、ボクはハンゾーを引きずってクロカに差し出す。受け渡し、正面を向いた彼の上目遣いを見下ろして、にっこり微笑んでみせた。

 

「世の中、キミが思ってるほどマトモじゃないんだよ。すぐわかるにゃ」

 

 言って、顎を引く彼の不信に疑念が宿るのを見届けると、ゼノヴィアにも手招きをする。気付きへの思考を邪魔されたらしく、ふらふらとやってくる彼女。こちらもクロカに引き渡し、三歩離れてボクは切り飛ばされた丸太の上に胡坐をかいた。

 

「さ、とにかくまずは『精孔』を開かないとお話にならない。成功するかはキミたち次第だから、まあ自然体でがんばってにゃ。ウタ、よろしく」

 

「あれ?私がやるの?」

 

「だって、ボクがやったらまずくにゃい?」

 

「ああ……にゃるほど、ね」

 

 ボクの『気』の性質を思い出し、納得してくれたクロカ。しかし当然、彼女に掴まれた二人には何のことやらだろう。案の定、ハンゾーがじたばたと暴れる。

 

「ちょ、ちょっと待て!好きにしろとは言ったが、せめてもうちょっとまともな説明をくれよ!『ショウコウ』とか、また訳のわからん……なあそこの銀髪の兄ちゃん!なんとか言ってくれ!」

 

「……ハンター試験、合格できればお金なしで指導が……?……あれ?私が悪魔に転生したのって……」

 

「なに、失敗しても死にはしないさ。……まあ恐らくだが。何分俺は『念』に詳しいわけではなくてね。まあ何かの縁だ、見物させてもらうから、頑張ってくれ」

 

 ヴァーリの応援は、残念ながら希望になり得なかったらしい。虚勢も薄れて顔を青くするハンゾー――と全く別の理由で同じく顔面蒼白なゼノヴィア――だったが、生憎クロカは二人の背に触れており、その様子には気付かなかった。

 

 気付いていても、恐らく手を止めることはなかっただろうが。

 

「せ、せめて里の兄弟に遺言を――」

 

「じゃ、いくわよ」

 

 教会の敷地に溢れかえった二人の『気』は、才のおかげか数分で治まった。




ハンター原作を基準に当てはめるとこの時期にハンゾーが念を習得していないのはおかしいとか、色々あるとは思いますが、どうにか時空を捻じ曲げているのでご容赦ください感想ください。


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五話

誤字報告ありがとうございます。ちょっと前に書き直した第一部から誤字脱字が山ほど出てきてて震えた。

20/9/08 本文を修正しました。


 夕方に差し掛かり、強まる西日が地面に佇む人影を着々と引き伸ばす、そんな頃。ただじっと立ち尽くしていた影の主たちが、ふと不動を破り口を開いた。

 

「にしてもよぉ、まさか悪魔なんてトンデモがこんな身近に溶け込んでるだなんて思わなかったぜ。『念』に聖剣に神器(セイクリッド・ギア)に、ほんと世界ってのは広いんだな。なあゼノヴィア」

 

「……その話、いったい何度目だ、ハンゾー。耳にタコができる、と日本では言うんだったか……いい加減聞き飽きたぞ。そもそも私は元教会の戦士で、最初からその『トンデモ』だって知っていたんだ。お前の感動に共感しろと言われても困る」

 

 前者は楽しげな、後者は少々呆れ気味な声色での会話。初めての会合から幾分経ち、持ち前の気質も相俟ってすっかり打ち解けた二人、ハンゾーとゼノヴィアは、目に染みる斜陽を共に浴びながら呑気なやり取りを交わしていた。

 

 ゼノヴィアの言う通り幾度繰り返したかもわからない話題だが、今も以前も、台詞に乗った感情とは裏腹に、彼らが纏う雰囲気は真剣そのものだ。頭をそっちに回していても、集中力と精神力はそのまま静かに毅然としている。

 

 彼らの『精孔』を開いて『念』に目覚めさせてから数日、施した修行の成果が、この『纏』だった。

 

 『纏』は『念』の基礎である『四大行』の中でも最も根本的な技術。身体に『気』を纏わせて身体強度を高めるそれは、ほとんどの場合、『念』に目覚めた能力者が最初に修めるものだ。

 生まれながらに使いこなせたボクにはわかりようがないが、聞けば凡夫はこの『纏』ですら、モノにするために数ヶ月もの修行を要するらしい。それを考えれば彼らの才能は、一般的には素晴らしいものなのだろう。廃教会から悪魔共が通う学園に修行場所を移し、ぎゃあぎゃあやかましい子供のざわめきの中、日が暮れるまでの三時間を途切れさせずに耐え抜いたのだから、それは試験としても合格で差し支えない結果だった。

 

 数日でこれだけ上達し、もはや『纏』の修行に集中する時期は過ぎたと判断できるほど修行の進みが早いのだから、指導役のボクにだって不満はない。

 修行中のおしゃべりを容認しているのだって、全てはそれ、段取りのいい修行のためだ。意識せずとも『纏』を使うことができるよう、たとえ眠って意識のない状態でも使い続けることができるように、身体に叩き込まなければならないのだ。それくらいできるようにならなければ、その先の応用技や『発』にたどり着くことは疎か、『念』の世界に踏み入ることすらできない。

 

 ただもちろん、傍の木陰で手の中の本に眼を落とすボクは、教師ごっこに目覚めたわけではなかった。

 

(ヒマだしにゃ……)

 

 彼らが立ちっぱなしで『纏』を三時間続けているということは、つまりボクも三時間木陰で読書しっぱなし。持参した娯楽はとっくに尽きて、いま眼で追っている文章に至ってはもう三週目だ。つまるところ、退屈を紛らわせるものがもうハンゾーとゼノヴィアくらいしかないので、わざわざそれを邪魔する気にならなかったのだ。彼らのじゃれ合いも、横から聞いている分にはつまらなくない。

 

 だからボクはもう頭にすら入ってこない文字列をなぞりながら、呆れのため息を越えて再開した彼らのやり取りにこっそり耳を傾けていた。

 

「そりゃあお前にとっては今更だろうよ。でも……あー……伝わらねえかなこの気持ち!今までただの創作物だって思ってたモンが、目の前に存在してるんだぜ?こんな未知、男ならハンターでなくても興奮しねーわけがねえ!」

 

「だからそんなことを言われても、ハンターですらない私には理解できない。おめでとうくらいなら言ってやってもいいが、どのみち後だ。今は修行の最中だろう」

 

「黙らないとできないほど『纏』も難しくねーだろ。付き合い悪いな、姉弟子だってのに……。あ、それとももしかして、脳筋なゼノヴィアちゃんにはこの程度の『気』の操作も難し――ぐほッ!」

 

「ふ、ふざけたことを言うな!私は脳筋ではないっ!フェルさんにだって……ちょっと短絡的だと言われただけだ!」

 

 どうやら拳が飛んだようだ。ちなみにボクがゼノヴィアに送った『ちょっと短絡的』は、そのまま脳筋と言い換えてもらって差し支えない。初めて『精孔』を開けた時、潜在的な『気』の量が多かった彼女は噴き出す大量の『気』が制御できず、ならばと勢いを落とすため、ボクたちの忠告を無視して全力で『気』を放出するという力技に出たのだ。

 

 思惑通り量も勢いも落ち着き制御には成功したが、それすべてが彼女の本能によって実行され、しかも危惧した通り失神寸前に陥った、というそんな過去を、同じく知っているハンゾーは、『纏』のおかげもあってすぐに調子を取り戻し、ゼノヴィアへ白い眼を向けた。

 

「ほらみろ手が出る。図星だろ?『纏』も乱れてるぞ」

 

「う……これは……三時間も続けていれば、多少疲れるのも当たり前だろう……?」

 

「そりゃお前がじっとしていられない性質だってだけの話だ。オレは何ともないぜ?始めたての頃ならいざ知らず、こんだけ続けりゃ嫌でも慣れる」

 

 言い訳も一蹴して、ハンゾーは首を振る。そしてそのまま向いたゼノヴィアの対面、目を閉じ静かに『纏』を続ける白髪の少女へ言った。

 

「なあ、白音ちゃん……だったよな?あんたもそう思うだろ?」

 

 シロネは、クロカと同じその金の眼を薄く開いた。

 

「……はい?何が、ですか……?」

 

 今日ようやく初めて修行に参加して、ハンゾーとゼノヴィアの関係の外で黙々と努めていた彼女。どこか物憂げにぼんやりと、ハンゾーの顔を見返し首を捻る。

 

 ボクと同じくハンゾーもその応えと様子を予期していなかったらしく、僅かに目を見張って息を呑んでから、申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

「いや……別に、大したことじゃないんだ。邪魔して悪かった」

 

「おいハンゾー、貴様、私と随分態度が違うじゃないか。白音に惚れたのか?ハゲのクセに」

 

「……そういうとこだよお前」

 

 ここぞとばかりに切りかかるゼノヴィアに、ハンゾーが半笑いで青筋を立てる。が、その割に二人の『気』は大して揺らがない。挟まれたシロネは、そんな二人の軽口に微かな笑みを浮かべた。

 

「二人とも、仲がいいんですね」

 

 漠然とした笑みで告げられた印象。同時に二人は不満も露に眉を顰め、顔を見合わせ、次いでそっぽを向く。

 

「へんっ、冗談きついぜ白音ちゃん。誰がこんな脳筋痴女と……」

 

「こちらの台詞だ変態ハゲ。私だって、この男と仲がいいなどと思われるのは心外だ」

 

「……喧嘩中、なんですか?」

 

 笑みが反転し、シロネの顔色が明らかに悪くなった。わかりにくいが、何か思い詰めているような、そんな表情。

 

 しかし顔を背ける二人は気付かず、不機嫌なまま渋面で唸った。

 

「喧嘩、というほどのものではない……。参観日にこいつと初めて顔を合わせた時、下着を見られた。それだけならともかく、ずっとネタにして侮辱してくるんだ。好意を持てるはずがないだろう」

 

「だからそれはそういうつもりで言ったんじゃねーって釈明したろ!それに、侮辱してんのはそっちの方だ。どんだけ訂正してもハゲハゲ言いやがる……!スキンヘッドを嗤う奴に、やり返して何が悪い!」

 

「私だって侮辱された分をやり返しているんだ!貴様のそれが通るなら、私の怒りだって正当だ!」

 

 平行線だ。互いに譲る気は無いらしい。

 だが、それでも二人の『気』の様子を見れば、特別大した問題ではないだろう。憎しみ合っているわけでもなし、修行に支障はない。クロカと曹操のように、いずれ兄弟のようとでも評されるような関係にでも落ち着くはずだ。乏しい経験則からして、たぶん。

 

 ボクが二人のやり取りに抱くとすれば、そんな感想。要するにどうでもいい。どうせ二ヵ月弱の付き合いなのだ。

 

 外から見ればその程度の、ただの他人同士のいざこざだ。シロネにしてもそれは同様のはずなのに、彼女は明らかに、過剰なほどの否定を発していた。

 

「……つまり二人とも、相手が自分の何に怒っているのか、わかっているんですよね?」

 

 声色の異様さに、ようやく二人が気付く。

 

「お互いに、自分が悪かったって気付いているんですよね?」

 

 あっけにとられ、二人はシロネの視線に射抜かれた。意志で重い眼差しに、まずハンゾーが耐えかね、引きずり出された後ろめたさで眼を逸らすと、続いてゼノヴィアも顔を背ける。

 

「わ、悪かったも何も、オレはこんな奴……」

 

「……そうだぞ、白音。何に怒っているのか知らないが、今日初めて会ったばかりの男の肩を持つなど、らしくも――」

 

 シロネの『気』が、その声のように震えた。

 

「憎んでいるなら、そんな顔にはならないです!」

 

 つい、ボクもそっちへ視線を引っ張られてしまう。その『気』か言葉か、ハンゾーとゼノヴィアは背を跳ねさせ、とうとう『纏』が解けた。

 

 慄いたままの二人は、なぜか眼に涙を浮かせたシロネの悲しげな表情を見つめる。

 

「仲直り、するべきです。ハンゾーさんは……ウタさまとフェルさまと一緒で、夏休みが終わったら帰ってしまうんですよね……?今のまま別れてしまったら……仲直りできる機会を無くしてしまったら、絶対にそのことを後悔します。……悔やんでも、どうしようもないのに……だから、私は……そうなってほしくないです……」

 

 奥底から押し出すようにして言って、そこで耐えかねたシロネは俯いて黙り込んだ。引き結んだ唇から、ほんの微かに喉が鳴る音が漏れ出る。

 

 悪魔の鋭い聴覚でそれを耳にしたゼノヴィアも、耳にしなかったハンゾーも、眼に浮かべたのは一様に困惑だ。すなわち、なぜ関係のない他人の不和にこれほど感情的なのか、という疑問。

 ゼノヴィアとは仲間であろうが、だとしてもその様子は度が過ぎている。そして同時にあまりに真剣な気迫は、お茶を濁して理由を訊くことすら憚られるほどのものだった。

 

 ハンゾーとゼノヴィアが、いざこざを放棄してシロネをなだめに掛かったのも当然だろう。息の合ったことで、二人同時に居心地の悪そうな顔をした。

 

「いや、まあ……確かに、ずっといがみ合ったままってのは、いいことではねーな、うん」

 

「恨み続けるというのも、生産的ではない。……だから、そうだ。白音の言う通りでは……あるな……」

 

 絞り出すように言うと、ゼノヴィアはハンゾーに向き直り、口を尖らせたまま頭を下げた。

 

「……ハゲと呼んで、悪かった。もう口にしないので、許してほしい」

 

 眼は余所を向いたままだが、確かに謝罪の言葉。ハンゾーも、あからさまな不承不承で眉を寄せながら、やはり詫びを呟く。

 

「こっちこそ……すまん、痴女だのバカだの言って。……はぁ、じゃあ解決だ。これでいいか、白音ちゃん」

 

「よくなければ困る。そう何度も下げられるほど、私のプライドも安くないんだ。機嫌を直してもらわねば――」

 

 しかし二人の仲直りは、どうやらシロネには認められないものであるようだった。尻すぼみに言葉を霧散させたゼノヴィアの足元に、ぽたりと滴った雫が一つ。土を濡らしてすぐに乾いたその涙は、シロネから零れたもの。

 

 ただよくよく見ればそれはそれまでの感情的とは違い、目からのものではなかったが。

 

「まだ、解決なんてしてません……!」

 

 余所を向き、気を取られていた二人は雫の出どころに気付かず、ぎょっとして焦燥を見出す。シロネは潤んだ眼を、意志と『気』に乗せ二人にぶつけた。

 

「形だけの仲直りなんて、そんなの意味がないです。二人とも、全然納得していない……。不満が残っているなら、それも全部、一緒に解消しないとだめなんです……!」

 

「け、けどよ……んなこと言われたって……」

 

「不満も何も……ううん……」

 

 と、やはり言い辛そうにして二人は口を噤む。とはいえ言えないことに対する負い目はあるらしく、シロネの瞳から眼を外していた。最初にあった互いへの憤りは、顔からも気配からもすっかり吹き飛ばされている。

 

 引き出されつつある不満の理由は、本心からのものではない嫌忌と負い目と、そして一時頭から飛んだ憤りを話さぬ意義によって、もう舌に乗る寸前である様子。二人の仲を憂うシロネの涙、のように見せかけた魔力由来の水滴に端を発した二人の罪悪感と後悔は、限界まで膨れた風船の如く、既にもういっぱいいっぱいだ。

 

 故にそこにもう一度、カマトトぶった嘘泣きを投げ込んでやれば、話さなければと二人が決壊するのも当然だった。

 

「し、白音!そんな、泣くほどのことでは……ああもう!わかった!包み隠さず言ってやればいいんだろう!?」

 

 俯き、垂れた前髪の白幕から水滴が落ちる瞬間を今度こそ眼にしてしまって、ゼノヴィアは思惑通り、大慌てで言った。続いてハンゾーに向き、しかしその時の不満とはまるで違う、怒りの混じった羞恥で頬を薄く染めながら睨みつけた。

 

「私が腹立たしいのはな、ハンゾー!わ……私の、胸と下着を見たというのに、あの時以降、何の遠慮も興味も見せないことだ!いつもいつも、涼しい顔して私の先ばかり歩くから……」

 

「……はあ!?意味不明だぞお前!理不尽にもほどがあるわ!忘れてやろうってんのに、なんでそれでキレられなきゃならねーんだ!?」

 

「私にだってわからん!!」

 

 一際激しく、滅茶苦茶にかぶりを振ったゼノヴィアに、台詞と相俟ってハンゾーが余計に混乱する。だがそれ以上に、ゼノヴィア自身がその衝動を理解できていないようだった。

 

 感極まったのか赤い顔に涙も滲ませ、ぎりと歯を食い締める。

 

「わからんが、ただ癇に障るんだ!一誠のような色情の眼に進んで見られたいわけではないし、お前の気遣いにも文句はない!けど……あ、あんなことを言って、しかも私が姉弟子だというのに、それ以来気にした素振りもないというのが……眼中にないと言われているようでどうにも気に障る……!理不尽だっていうのもわかっているさ。だから黙っていた!ほら、私のはこれで全部だ!次はお前の番だぞハンゾー!洗いざらい吐き出せ!」

 

 人差し指を向けて半ばヤケになって叫んだゼノヴィアに、ハンゾーはシロネの哀れっぽい様子をちらりと一瞥してから、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「洗いざらいも何もねーよ、オレが和解できてねーっていうんなら、それはその理不尽だ。見ちまったのが不可抗力な上に、もう何に怒ってるのかもわからんくらいどう言っても言い返してくっから、謝るのに嫌気がさしたってだけだ。……だから、もうやめる!」

 

「な、なんだ?私にはもう、どうしようもないんだ。いっそもう、腕っぷしで決着をつけるか?あの時の腕相撲の二の前になるぞ」

 

「十戦全敗の話はするんじゃねーって!悪魔の身体能力がすごいってのはわかったから!……そうじゃなくて、お前がオレにキレてる理由が……まあ、わからんけどわかったから、気にするのをやめにするってことだ。そういうもんなんだと思うことにする。だから安心してオレの才能に嫉妬しろ、ゼノヴィア」

 

「し、嫉妬!?私がハンゾー、お前の才能に嫉妬していると……!?そ、そんなわけあるかっ!な、なあ、フェルさん、そうだよな……?私は一番弟子なんだから……少なくとも同格くらいではあるよな……?」

 

 と、羞恥の赤面のまま不安で顔を青くするという離れ業をやってのけたゼノヴィアが、弾かれるようにしてボクに尋ねる。

 

 実際彼女の言う通り、『念』の才能という点において、二人のそれにほとんど差はない。聖剣やら天の加護やらで消費されている分、多少劣るだろうが、それでも誤差の範囲内だ。彼女がこれほど不安がっている理由、三時間の『纏』でハンゾー以上に疲労してしまっているのは、単に体調と精神状態の問題だろう。

 不知の世界を知って大興奮の彼と違い、考えなしの悪魔への転生を悔い始めている彼女は好調とは言い難い。精神エネルギーである『気』を操る『念』は、そんな些細な気分でも精度が揺らぐのだ。

 

 ということを、聞いてないふりをする間もなくゼノヴィアに眼を掬い上げられてしまったボクは、ため息混じりに告げようとした。シロネの手のひらで転がされ、その子供みたいな内心を暴露させられてしまった彼らへの憐れみ付きで。

 

 だがその前、演出での興奮でボクの息に気付かないハンゾーが、割って入ってシロネの顔色を伺った。

 

「一番弟子だの姉弟子だのはこの際どうでもいいだろ!好きなだけ弄ればいい!だから、どうにかお前もこれで妥協してくれよ。オレもうこの空気に耐えられねー……」

 

「変なことを言うな!自分を殴れなんて言う奴を殴る趣味は、私にはない!うう……わ、私もわかった!お前に倣うことにする!細かいことを気にするのはやめだ!元々私は、フェルさんの教えを受けるために悪魔にまでなったんだ!関係のないことで時間を無駄にしてなるものか!」

 

 二人は顔を見合わせて頷き合い、合意に至ってシロネに提出する。一番最初に浮かべた涙を、とうに引っ込めてしまったシロネに。

 

「ほら、白音ちゃん!これで完璧仲直りだろ!?」

 

「私とハンゾーは、これで生涯の……ええと、そう、マブダチだ!……だから、そろそろ機嫌を直してくれ。君を泣かせたとなっては、私が部長に叱られてしまう……」

 

「……ほんとに、もう嫌いじゃないですか……?」

 

 明らかに作っているとわかるレベルの震えた声で、シロネは僅かに顔を上げ、髪の隙間から上目遣いに二人を見上げた。だが当然、ようやく得られた合格に喜ぶ二人は違和感に気付かない。ここぞとばかりに肩まで組んで、健気なアピールまでして見せた。

 

「ああ、もちろん!オレたちもうマブダチの大親友だからな!なあゼノヴィア!」

 

「そうとも!これからもフェルさんの弟子同士として、互いに頑張ろう!」

 

 そうやって、本心に色まで付けた宣言をさせるため、道筋を引いたシロネ。結局、何故そんなことをしたのかはわからずじまいだが、まあ案外、単なる気まぐれかもしれない。なにせクロカの、妹だ。

 

「よかったです……」

 

 顔を上げ、涙目に顔をほころばせながら悪びれもせずに言うその様。目的のために情を使う手管は、クロカが使う色仕掛けにもよく似ていた。

 

(『女は生まれながらに女優』、だっけ)

 

 こっそり息を吐く。そんな、何とも言えない感慨に瞑目するとその瞬間、和解もといシロネの機嫌の回復を喜び合う三人に割り入って、ボクの端末がタイミングよくアラームを鳴り響かせた。

 

 三時間『纏』を維持する修行の終了を告げるそれにこの場で最も驚いてしまったのは、恐らくボクだろう。完遂を常に意識する当事者の三人は、快哉を破った電子音に強襲されようとも、もちろん安堵を浮かべるのみ。不覚にも気を取られ、セットしていたことを忘却していたのは、指示だけを出したボクばかりだ。

 

 ようやく終わった、とそれまでの企みの分も合わせて息を吐くシロネに、そういえば途中で『纏』解けたんだった、と気付いて喜びを消し、半口開きで硬直するハンゾーとゼノヴィア。彼らがボクの動揺と内心に気付く前にと、ボクは手の文庫本を音を立てて閉じ、騒々しいアラームを黙らせ立ち上がった。

 

 伸びをして心に渦巻く様々を誤魔化しつつ、二極する三人の顔色を順に眼で撫でる。それに肩を震えさせるという反応を見せたハンゾーが、怖々と瞬きをして口にした。

 

「あー……もしかしてオレら、『纏』三時間やり直し……?」

 

「うぐ……そんな……今日も『纏』だけで修行が終わるのか……」

 

「いいよ、数分の誤差だし。合格にしてあげるにゃ。そもそも……シロネが妨害したみたいなものだから」

 

 一際絶望が色濃く、項垂れ呟いたゼノヴィアが、ボクの台詞にパッと顔を明るくした。反対にシロネは見抜かれたことに気づいたらしく、気まずげな表情。ボクは視線を外し、主に遊びつくした玩具類で埋まるショルダーバッグを持ち上げる。

 

「それに時間も無いしね。三時間保つまでできるようになったから、後は他の修行と並行して進める。いい?これからは生活の中でも常に『纏』をしたまま過ごすこと。意識せずに維持できるくらいになれば、それでようやく『纏』が完成だから」

 

「……『常に』?それは……休憩の時でもか……?」

 

「もちろん。『意識せずに維持できるくらい』だから。まあキミたちなら、そうかからずに寝ながらでもできるようになれるにゃ」

 

「……悪魔の身とはいえ、しばらくは寝不足がきつそうだな……」

 

 心のへだたりが解き放たれたためなのだろうか、ゼノヴィアにしては珍しく、弱気を吐き出す。その嘆きをするりとくぐり、ハンゾーが問いかけた。

 

「んで、じゃあ次は何をやるんだ?『四大行』は、確かあと『練』『絶』『発』だったか。……どれがなんだかは知らねえけど」

 

「『練』は通常以上に『気』を生み出す技で、『絶』は反対に『気』を絶つ技、『発』は……その人固有の能力のこと。……です、よね?フェルさま」

 

「……うん。大体そう」

 

 代わりに答えてくれたシロネには眼を向けられず、ボクはバッグの中身を漁りながら肯定する。しかしそのまま、「けど」と続けた。

 

「シロネ、キミも『纏』はともかく、他三つは碌にできないんだから、もう他に構ってる余裕はないからね」

 

 ぐう、とシロネの喉が鳴る。ほんの少し見ただけではあるが、京都で『念』に目覚めてからそれなりの時を経た彼女の『念』は、しかし『纏』で止まっている。

 今まで指導を受けたことがないのだろう。いかにクロカの妹、『気』を操る仙術の才を生まれ持つ猫魈とはいえ、勝手の違う『念』を我流ではどうしようもない。それらがどういったものなのかなど、言葉でわかるはずもないのだ。

 

 『纏』がまともにできていただけで十分。そもそもの才能も全く悪いわけではない。しかしそのシロネを尊敬している節があるゼノヴィアにはボクの評価が意外なものだったようで、目を丸くして息を呑んだ。

 

「コカビエルとの戦いで見たあのパワーでも、まだ修練の余地があると……?」

 

「うん、当然。まあ実際に見てないけど、ちょっと頑張った『纏』ってとこかにゃ。『練』はもっと、爆発的に『気』を増やす技だから」

 

「余地……。フェルさま、どうすればうまくできるようになりますか……?」

 

 シロネが意欲を露にすると同時、バッグの中に目的のものが入っていないと諦めて、ボクはすまし顔で彼女の眼を見返した。途端に湧き出す息苦しさを、堪えてどうにかやり過ごす。

 

「修行法は色々あるけど、『水見式』をするつもり。ついでに『系統』も調べられるし、『発』の修行にもなるし」

 

 だからこちらのバッグになかった道具を求めて、木の葉ごと枝を折り取り、

 

「ウタ、適当に準備しちゃったから、たぶんそっちに水とグラス入ってると思うんだけど……出してくれる?」

 

 と、隣で携帯ゲームに夢中のクロカに言った。

 

「ええ……いいとこなのに……」

 

 イヤホンを取り、嫌そうな顔でボクを見上げる彼女。受講者三人の騒ぎは無視しても、さすがにボクまで意固地に拒絶する気は無いようで、頑固に不満を見せたまましぶしぶゲームを横に除ける。

 

 言わずとも伝わり、彼女は準備を始める。取り出したグラスに注がれる水に、それがボクらの労いだとでも勘違いしたのかハンゾーの手が伸びた。ありがたいと礼まで口にされる前に訂正して叩き落とし、オーバーに痛がる彼をよそに、水で満たされたグラスの上に一枚葉を浮かべた。

 

「これが『水見式』。これに『練』をして、出た反応で何系なのか判別するんだけど……うん、まずは『系統』の説明が必要だにゃ」

 

 シロネとゼノヴィアも、グラスからボクに眼を移した。注目を、手にした枝に絡めて集め、夕日の下の土を突く。

 ガリガリ削って溝を刻みながら、頭に浮かべた。

 

「簡単に言うと……個々人の『念』の傾向、かにゃ。『気』の特徴といってもいい。生まれ持った得意不得意のことだね」

 

「フェルさんの不気味な『気』のような、か?あるいは私が……『纏』を苦手としているように……」

 

「んー……それは、関係なくはないと思うけど……もっと大雑把な枠組みだよ。大別して六種類。上から順に――」

 

 ゼノヴィアも二人も覗き込む中、地に書いた図形、六角形の頂点を、十二時から時計回りに示して諳んじる。

 

「モノの力を高める『強化系』、『気』の性質と形を変える『変化系』、『気』を物質化する『具現化系』、他に分類できない『特質系』、物体を操る『操作系』、『気』を身体から離して維持する『放出系』。『念』は必ずこれらのどれかに分類できる。だから『発』、固有の能力を作る場合は、戦闘スタイルに加えてこの『系統』を意識することをお勧めするにゃ。

 ただ、自分の『系統』の能力だけしか作れないってわけじゃない。『系統』は六角形内で相関関係にあってね、例えば強化系能力者が『強化系』で百の性能を出せたとしたら、両隣の『変化系』と『放出系』は八十くらいの性能、もう一つ下がって『具現化系』と『操作系』は六十っていうふうに、性能は落ちるし習得速度でいっても非効率だけど、一応習得はできる。『系統』っていっても、いわば得意分野でしかないから。あ、けどちなみに『特質系』は他系統の能力者じゃ習得できないから、こっちも憶えといてね。今は能力開発じゃなくて『練』と『発』の修行だから関係ないけど、将来も見据えて知っていた方がやる気も出るでんじゃないかにゃ?……はい、じゃあここまでで、何か質問ある?」

 

 教師の真似事は疲れる。大分省略した説明でも大いに気力体力を消費して、最後に穴埋めを任せるとボクは教鞭兼チョークの枝を抛り、元の場所、読み終えた本類の詰まったバッグの上にどっかり腰を下ろした。

 

 お尻に何冊か折れた感触が伝わるが、つまらなかった報いと片付ける。すると挙がった手、ヒエラルキー的に行儀よく挙手するハンゾーを顎で促し、捕捉を問わせた。

 

「他の五つはまあ、なんとなくわかったけどよ、『特質系』がよくわからん。『他系統じゃ習得できない』ってのもそうだが」

 

「……この六角形の相関関係、『六性図』っていうんだけど、そもそも『特質系』ってここに分類できない、別の側面にあるような『系統』なんだよ。後天的に変化する可能性が高い系統が『具現化系』と『操作系』だからこの位置に置かれてるけど、基本的には血統だったり特殊な生まれだったりに起因する、特異なタイプ。だからウタや、シロネの仙術みたいなものだって思って」

 

「……先天的な資質、か」

 

 呟き、シロネを気にして横眼を向けるハンゾー。しかしいつの間にか挙手制が確立していたらしく、鹿爪らしく自分の番を待つシロネは気にも留めない。同じように尋ねてやると、真面目顔から少しの必死が顔を見せた。

 

「じゃあ、一番強いのも、その『特質系』なんですか?」

 

「強い?」

 

「え、っと……私、リアス部長の『戦車(ルーク)』だから、か、格闘戦で強くならないといけないので……」

 

 聞き返すと興奮が解け、今度は委縮し彷徨う視線。少し悩んでから、ボクは書き出した答えを口にした。

 

「基本的には、『強化系』かな。一番効率よく肉体強化ができるから、直接的な攻防力に繋がりやすい」

 

 再びボクに定まる眼に、「けど」と続ける。

 

「元が非力だと、焼け石に水になることも多いよ。人間が人外を相手にした時なんか顕著だね。ハンゾーも、ゼノヴィアに腕相撲、勝てなかったんでしょ?」

 

「あ、ああ……」

 

 再度公にされたハンゾーの渋面と、非力と切り捨てられたシロネの歯噛み。ボクはシロネのその、三人の中でもとびぬけて小さく華奢な体躯を見つめた。

 

 元々、向いていない。彼女に埋め込まれた悪魔の駒(イーヴィル・ピース)、『戦車(ルーク)』の駒でどれだけ攻撃力と防御力が上がっていようと、体形が変わらない以上、正面切っての殴り合いはどうあがいても不利だ。格下でも体型差で負けることは十分にあり得るだろう。

 

「だから『具現化系』とか『操作系』、『特質系』もそうだけど、条件達成で即詰ませるような能力が合ってると思う。仙術もあるし、力自慢になるのは諦めた方がいいんじゃにゃい?……ていうか、『系統』って生まれ持つものだから、理想を気にしても仕方ないんだけどね」

 

 我ながら、ずいぶん親切な長台詞だ。シロネの思いつめたような表情が愉快で、少し自分に嫌悪した。

 

 そうして最後、ゼノヴィアが手を挙げて、指す前に首を捻った。

 

「それで、その『系統』とやらがわかる『水見式』は、どうやってやるんだ?」

 

「『練』するのよ。これに」

 

 答えたのはクロカだった。

 ゼノヴィアが見つめるグラスを手に取り、どこからか持ってきた金バケツを逆さにして、その上に置く。使い古された波打つ底で水が少量零れたが、クロカは気にせずその前に腰を下ろし、グラスを包み込むようにして手をかざした。

 

 胸中の入れ替えを必要としたボクの代わりに、めんどくさそうに三人を見渡した。

 

「お手本、一回しか見せないからしっかり見てなさいよ?……いい?『練』は内の力を溜めて、一気に放出するイメージで――」

 

 注釈付きで言いながら、実になめらかに発動したクロカの『練』は、各々頭に巡らせる三人が指示通りにグラスに眼を向けると同時、すぐさま変化を引き起こした。

 

「おあッ!なんだこれ!」

 

「水が、一瞬で」

 

「真っ黒……」

 

 夕日も淀みなくすり抜けるグラスの透明は、一秒も経たずに光を通さぬ漆黒へと転じた。

 

「とまあ、こんな感じに変化が起こるわけ。ちなみに水の色が変わるのは『放出系』の証。黒色なのは私個人の特徴。『系統』ごとに反応が違うのはもちろん、同じ『系統』でも、例えば私と同じ『放出系』でも、色が赤だったり青だったりするの。あと言うことは……もういいか。『練』ができればひとまずはいいから……ほら、次はあんたたちの番よ。ご自由にどうぞ」

 

 畳みかけるように言い終えて、クロカは水を換えると元の木陰に戻ってしまう。役目は果たしたとゲーム機とイヤホンをつける姿に、頑なだなあと呆れた。そしてやっぱり、自分に嫌悪もした。

 

 息を吐き、立てた膝の上で頬杖をつく。その頃にちょうど目の前の感動も治まり、いち早くゼノヴィアが手を挙げた。

 

「……では、まず私が……いいか?」

 

 他二人の首肯を受け取って、グラスの前に胡坐をかく。息をつき、やたらに長く深呼吸をしたゼノヴィアは、最後に一つ気合を入れると、ようやくグラスに手をかざした。

 

 その一瞬、キラリと瞬きボクの眼に夕日の跡を残したのは、彼女の手のひらに滲んだ汗だろう。

 彼女が『気』を集中させて間もなく、ボクはそれを察知した。彼女の身体に残る、クロカの『練』を間近で感じたたために巡った緊張。他二人と比較して『纏』が上手くできなかった劣等感と、プライドによるプレッシャーが合わさり、『念』の精度を著しく落としている。

 

 歯を食いしばり、悲愴の眼でグラスを睨み踏ん張る彼女の、『練』には程遠い程度の『気』には、それが如実に表れていた。始めて数十秒しか経っていないが、空回りし続ける彼女の性格上、このまま続けさせて事態が好転することはないであろうことは明らかだった。

 

 これではグラスになにがしかの変化が起こるまで、つまりゼノヴィアが『練』を成功させるまで、少なくない時間が必要となってしまう。そして暇つぶしのネタはお尻の下だ。

 退屈を予感したボクはやむを得ず、その暗いしかめっ面にも聞こえるよう、嘆息して声を張った。

 

「ただ闇雲に念じればいいってわけじゃないよ」

 

 びくりと背が跳ね表情が凍り、からくり人形みたいなカクカクの動作でボクを見上げる。怒られるとでも思ったのか、合うや否や潤み始めた眼に、出かかった二発目のため息を呑み込んで続けた。

 

「もっとこう……最初に『纏』した時みたいに思いっきりさ。キミの場合、潜在的な『気』の量が多いから、遠慮せず吐き出したほうが上手くいく」

 

「『気』の量が多い……のか……?私は」

 

「うん」

 

 三人の中では頭一つ抜けている。聖剣を扱える器であるのだから、そうおかしなことではないだろう。それが強さに直結するわけではないが、しおれかけた彼女の自信には繋がったようだった。

 

 競争相手がいれば習得も早かろうという思惑があったからこそ、ボクはすんなりハンゾーを受け入れたのだ。だというのに折れてしまっては困る。欲をかいたためにマイナスを被るなどごめんだ。

 

 こんな心労、ハンゾーとゼノヴィアの予想以上の仲の良さ――あるいは悪さか――の対処に追われる時点で既にプラスマイナスゼロであるような気もするが、ともかくこの場は切り抜けたらしく、ゼノヴィアは眼の悲愴を必死にまで持ち上げ、『気』を振り絞った。

 

 ほどなくして、『練』は成功した。

 

「……お?なんか、水が……」

 

 と最初に気付いたのは、傍でずっと熱心にグラスを覗き込んでいたハンゾーだった。伝って落ちるほどに汗を増やし、悪戦苦闘で疲弊した当人、ゼノヴィアは、しかし変化に気付かず、座らぬ眼で手元を凝視したまま呆然と聞き返した。

 

「なんだ……色が変わったのか……?」

 

「いや……ちょっとだけど、湯飲みのふちから溢れてないか?」

 

「……気付かないうちに、汗でも落ちたか。フェルさん、純粋な水でなくなってしまったようだが、大丈夫なのか……?」

 

 汗の数滴で水が溢れるという、まずそのことに疑問を持ってほしかった。

 

 グラスの下、錆びの浮いた銀色を僅かに濡らす水を眼にして言ったゼノヴィア。しかしまあ、脳筋なのでしょうがない。敬虔な神の信徒などをやっていた人間に、一度信じたことを疑わせるのは困難だ。少なくとも自発的には。

 

「あ、いえ、ゼノヴィアさん、今ちょっと溢れました。汗じゃないです」

 

 一歩先んじて確信に至ったシロネに続き、目を剥いて勢いよく顔を上げたゼノヴィアに告げた。

 

「水が増えるのは『強化系』の証だよ。おめでとうゼノヴィア、ぴったりだにゃ」

 

「『強化系』……。わ、私、今のが『練』なのか?できたのかっ?」

 

「心配しなくても、『水見式』で変化が出てるんだから。……シロネの『練』もどきより、よっぽどうまくできてる」

 

「ッ!……くぅ……ッ!!」

 

 今までの重圧が、ようやくそれで解放された。汗と涙を弾き飛ばし、身体を震わせるほどの喜びよう。在庫一掃の褒め殺しにしてもやりすぎだったかと後悔しかけたが、仮止めしたため息を吐き出すそのきっかけ、ゼノヴィアは爆発する歓喜を自分の内に留めることに成功し、ニマニマ笑いながらも黙ってグラスの前を退いた。

 よってボクも彼女に白い眼を向けるだけに留まり、気味悪げに片眉を歪めながら交代したハンゾーに、気を取り直して注視した。

 

 それでもなお続いていたゼノヴィアのニマニマは、ハンゾーが彼女の半分の時間で水に変化を起こしたことによって、無残にも砕け散った。

 

「お!来た来た!色が変わったぞ!ってことはオレは『放出系』か!」

 

 クロカのそれには遠く及ばず、透明度に変わりはない。だが夕日の中でも認められるほどはっきりした色彩は、ゼノヴィアが起こした反応よりも劇的なものだ。

 併せて敗北感を味合わう彼女に膝を突かせ、しかし一瞥もくれることなくやる気に拳を握り締めるハンゾーを眺めていたシロネは、我関せずのクロカに視線を彷徨わせると、一瞬眼を閉じ、そして身体に『気』を滾らせた。

 

「……次は、私の番ですね」

 

 呟き、使った『念』は、前二人の試行錯誤をその体質で見ていたためか、ハンゾーよりもさらに早い時間で『練』となった。

 

 最終的に膝を抱えて不貞腐れ始めたゼノヴィアはやはり意識の外にして、シロネはグラスの中を見つめながら、何とも言えない表情を作る。閉口する彼女に代わり、テンションの高いハンゾーの生き生きとした声色が、興味津々に変化の様子を追っていた。

 

「おお!今度は葉っぱが動いてんぞ!となれば残りの『変化系』か『操作系』か……なあどうなんだ、フェル」

 

「……『操作系』だにゃ。こっちも相性ぴったり」

 

 取って付けたような敬称すらもなくしたハンゾーの逸りに答え、ボクは立ち上がった。クロカが用意してくれた後二個のグラスを、それぞれ気落ちする二人の前に置く。

 

「『系統』が後天的に変化する可能性もなくはないけど、まあよっぽどのことがない限りはだから、諦めて受け入れることだにゃ。さてじゃあ、当面の修行ね」

 

「……『水見式』を、繰り返すのか……?」

 

 引きずる敗北感と想起した疲労でどんより曇った眼差しを、意外にもゼノヴィアがボクに向けた。

 全く頭が回らないわけではないらしい。どちらかと言えば平時に力を発揮できないタイプなのか、思い直し、「そう」と肯定を挟んでから続ける。

 

「『練』の力強さに比例して変化も顕著になるから……とりあえず一週間くらいかにゃ。『纏』と一緒に毎日続けて。ウタみたいな強い反応を起こせるように」

 

 これで『纏』と『練』と、そして『発』を同時に鍛えられる。『水見式』を利用した方法は本来『発』のほうの基礎修行として用いられることが多いが、今の段階で『練』と『発』はほぼイコール。多少の不足はあれど、これがベストだろう。

 

 何がともあれ時間がないのだ。特にシロネの関係で、できるだけ早く、可能なら本格的に時間が取れるようになるまでに、『凝』までは習得させねばならない。

 

 それに、クロカとシロネが二人きりになれる機会も、なるべく多く作らねばならないのだ。

 

「わかったらじゃあ、ほら始め!」

 

 ボクは意識して無心に入りながら、手を打って三人を急かした。




ハンゾーが放出系という設定は公式のものではありません。まだ未判明なので、そうなんじゃないかと思う系統を仮置きしました。情報が出たら更新します。(果たして出るんだろうかとかは思っちゃいけない)
それと、白音とゼノヴィアの系統について、こちらも納得できない方がいるかもしれません。もしどうしても許せないのであれば、貴方がハンターハンターのクロスを書きましょう。もれなく私が喜びます。
感想くれても喜びます。


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六話

20/9/08 本文を修正しました。
21/2/14 本文を修正しました。


 ピトーが生徒三人に『水見式』をさせてから凡そ三十分。当初発動すらおぼつかなかった彼らの『練』は、どうにか手間取ることなく使うことができる程度にまで進歩していた。

 

 一周回って吹っ切れて、ガラスのコップにかじりつくゼノヴィアはもちろん、『纏』の段階からかなりの適性を見せたハンゾーも、みんなとにかく『練』のスタートラインには立てたようだ。後はここから地道に反復練習し、練度を上げていくのみ。この様子ならば、ピトーが計画する修行メニューのステップアップも早そうだ。

 

 ただ、そう真面目に働くことないのにと、私は思わなくもない。

 所詮は今回限りであろう悪魔からの依頼。評価なんてどうでもいいのだから、口出しなんかせずに適度にさぼっちゃえばいいのだ。何なら修行の方法さえ提示すれば、リアス・グレモリーも文句は言えないだろう。

 なのに彼女は今も、汗水たらして『練』を繰り返す彼女らにアドバイスを飛ばしている。人間でありハンターでもあるハンゾーに関してはわかるが、悪魔に目を掛ける意味があるのだろうか。

 

 ピトーでなく私が受けた依頼に関しては特にそう思う。リアス・グレモリーは『仙術を教えろ』と言ったのであって、『『念』を教えろ』とも『強くしろ』とも言っていない。私がパパっと仙術だけを教えてやればそれで終わる話だ。ピトーは習得に効率的だからなんて言うが、極論を言えばそもそも習得させる必要すらもないだろう。なぜならここでまともに仙術を扱えるのは私のみ。基本の触りだけでもそれが完成形と私が言えば、確かめる術など彼女らに存在しないのだ。

 大嫌いな悪魔相手に、いったい何を考えているのやら。

 

(暇なら私とゲームしてくれればいいじゃん。せっかくパーティゲー持ってきたのに……)

 

 三時間に及ぶ『纏』のテスト終わり、同じ本を何度も読み返していると気付いた時に、ためらわずに誘えばよかった。もっと言えば、懇切丁寧に相手される三人にイライラしている場合じゃなかった。

 

 くだらない後悔に意識を取られながら、私は手に持つゲーム機の画面、星を手に入れ歓喜する赤帽子団子鼻のキャラクターを見つめていた。

 終盤に差し掛かったすごろくゲームの戦績は、やはりNPCの敵では相手にならず、ぶっちぎって私が一位。先を見るまでもない確定的な勝利に退屈と不満が混ざった息を吐く。ちょうどその時だった。

 

(……ああ、やっと帰ってきた)

 

 感覚に、それらが触れた。

 

 とうとう沈んだ夕日に背を押されて帰る生徒が多い中、逆に駒王学園の敷地に入ってくる三人分の気配だった。私たちが居るこの旧校舎の裏を目指して一直線にのろのろ進むそいつらを、私は感知した。

 

 赤龍帝たちだ。本来なら今日『念』を学び始める予定だった彼。ゼノヴィアとハンゾーのように『精孔』を開けてやるはずだったがしかし、私とピトーとで改めて検分したところ発見された不安要素を確かめるために、リアス・グレモリーともう一人のおまけを一緒に、近くを少々走らせていたのだ。

 

 それが今、帰還したらしい。『纏』のテストの間、三時間くらい適当に走れと指示し、三十分押している。より多く走るための時間超過であるならいいが、気配のへばり具合を見るにたぶんそうではないのだろう。予想が当たっているなら、同様に不安要素も的中だ。

 

 感じ取ってしばらくして、ようやく校舎の角から姿を現したその様子は、想像のド真ん中。ぷるぷる震える脚がゴールの安堵で仰向けにひっくり返ってしまうほどの、文句のつけようがない疲労困憊っぷりだった。

 

 目視で確かめるために三十分ぶりに顔を上げた私の視界で、湯気までが漂うほど全身を汗でずぶぬれにした彼が、掠れた呼吸で忙しなく胸を上下させていた。

 

「ひぃ、ひぃ……やっと、終わった……脚が、肺が、身体が、死ぬぅ……」

 

 『水見式』に熱中していた三人もが、その哀れな様子に憐れみの眼を向ける。似たようなマラソンもといイジメを課せられた経験を持つゼノヴィアは、当時の自分と重ね合わせてしまったのか、苦しげに顔を歪めていた。

 

 赤龍帝の場合は時間まで走ることだけを定め、それ以外をあまあまのリアス・グレモリーに投げたためにゼノヴィアほどの難行程ではなかっただろうが、この疲れようだ。せめて彼の頑張りだけは評価してやるべく、私はゲーム機と外したイヤホンを腿の上に落とすと、続いて自転車を押して現れたリアス・グレモリーに、先んじて尋ねた。

 

「で、どこまで走ってきたの?」

 

 いつものように肩を微かに震えさせたリアス・グレモリーは、ちらりとピトーを伺ってから答えた。

 

「え、ええっと……二駅向こうの町まで行ってきたわ。あちこち走って、だから往復で三十キロくらいかしら。放課後なのに、結構頑張ったと思わない?」

 

「……三十?」

 

 一瞬、数字の理解が滞る。三十キロを三時間、つまり時速十キロ。たったそれだけで、息も絶え絶えなあの現状。

 

 アマチュアのマラソン選手でももっといい結果が出せるだろう。人間よりはるかに頑強な悪魔の肉体を以てしてこの程度とは、正直さすがに想像していなかった。

 

「走れって言ったはずだけど、競歩でもしてたの?いや、だとしても論外だわ。弱いとは思ってたけど、身体能力もどんだけよあんた」

 

「ば、馬鹿を言わないで!言ったでしょう?イッセーは数ヵ月前までただの一般人だったのよ。鍛え始めたのはここ最近だし、一生懸命走って完走したのだから、それだけで十分すごいわ。私のコレと、ちゃんと並走できていたもの」

 

 己の下僕の雄姿に精一杯胸を張ると、リアス・グレモリーは自転車のハンドルをポンと叩いた。前かごの中で、カラの水筒と湿ったタオルが揺れる。

 

 ふうん、と私は鼻を鳴らし、心の中で盛大に嘆息した。

 

 手厚く補助されて三時間で三十キロしか走れないなんて、やっぱり評価なんてする必要はなかったらしい。あまりにも身体のスペックが低すぎだ。

 

 彼に『念』は教えられない。

 

(さてさて、どうやって諦めさせようかしら)

 

 『念』関係はピトーの領分だが、リアス・グレモリーとのやり取りは私の役目。なにせお互いまともに会話ができないのだ。ピトーは憎悪で、リアス・グレモリーは恐怖で。

 

 そのために、この問題には私が頭を回さねばならない。凝った首を鳴らすと、私は、相変わらず仰向けの赤龍帝を見やった。

 

 彼は、そのあまりの衰弱ぶりに同情したハンゾーから、何やら丸薬のようなものを口に放り込まれている。何なのかとか細い声で尋ねる赤龍帝に、兵糧丸だとサムズアップするハンゾー。二人は初対面のはずだが、もう意気投合したようだ。

 気質が似ているのか、それとも女だらけのこの場で数少ない同姓だからなのか。ごくスムーズに友人にまで昇華された交流に、もういっそハンゾーに『念』の何たるかを教えさせるべきかと、思いついた時だった。

 

「ところで……色々聞きたいことがあるのだけど、いいかしら」

 

 リアス・グレモリーの問い。赤龍帝から戻すと、彼女は顔を困惑にしてハンゾーに注意だけ向けていた。

 

 どうやらハンゾーの人のいい笑みでも、リアス・グレモリーは器を大きくできなかったようだった。どうぞと応じると、疑心たっぷりに首を捻った。

 

「イッセーを介抱してくれている、あのスキンヘッドの方は、どちら様?」

 

 そういえば、赤龍帝だけでなくリアス・グレモリーにも、ハンゾーを紹介していなかった。

 

 思い出して答えようとした。が、その間もなく張り上げられる喜びの声色。いよいよ『水見式』だけでなく『練』をも放りだしたハンゾーが、満面の笑みでリアス・グレモリーの前に飛び出した。

 

「そう!そうなんだよ!スキンヘッドなんだよコレ!剃ってるんだよ!いやあ、ようやくまともに認識されて、ちょっと感激しちまった!あんたいい人……いや、人じゃなくて悪魔なんだよな?一誠のやつのご主人様なんだとか」

 

「え、ええ、そうよ。貴方はイッセーのお友達……になったのは今なのよね?ええと……とにかくまず、お名前を教えてくださる?」

 

「ああこりゃあ、名乗らずに失敬を」

 

 無暗に高いテンションに引きながら、それをなんとか押し留めて微笑み尋ねるリアス・グレモリー。それに幾らか興奮を静められたハンゾーは、軽く会釈をして懐をまさぐった。

 

 取り出した長方形の紙片、私とピトーの肌着の裏に縫い付けられている、『ウタ』と『フェル』の証によく似たサイズのそれを差し出して、言った。

 

「オレ……いや私めは、こういう者です」

 

「は、はあ……これはご丁寧に、どうも……ッ!」

 

 サラリーマンみたいに名刺を手渡されたリアス・グレモリーは訝しげにそれに眼を落とし、次いでそれまでの警戒がまるごと嘘だったかのような明るい驚愕に、その豊かな胸を弾ませた。

 

「雲隠流の……ニンジャ!?あ、貴方本物のニンジャなの!?」

 

 瞬間それに呼応して、ハンゾーの眼も嬉々と輝く。

 

「おうとも!幼くして里のあらゆる忍法を習得し、数多くの過酷な修行を乗り越えた神童、数少ない上忍の一人である最強の忍――になる予定の――『半蔵』とは、他でもないオレ様のことさ!」

 

「感激だわ!まさかこんなところで本物のニンジャに会えるなんて!……さ、サインとか、貰ってもいいかしら?」

 

 子供のような笑顔、という表現に合致するだろうか。リアス・グレモリーは混じりっ気のない純粋な喜びで声を上げ、祈るみたいに手を組み合わせた。

 

 間違っても神への感謝を示しているわけではなかろうが、つまりそれほどの感動。名刺まで用意したハンゾーが、実に嬉しそうにサインペンのキャップを抜いたのも、リアス・グレモリーの感動に、目立ちたがりの欲求を満たすことができたためだ。

 

 となれば私は、もう両者に呆れしか感じない。二人の『忍者』と『スキンヘッド』への喜びようは、ちょっと引くほど大げさだった。

 

「あ、の……リアス部長、は……日本の文化が、お好きなので……」

 

 横から聞こえるオドオドした注釈があったとしても、呆れかえった私の眼は二人を見つめたまま。

 渡した名刺の裏側にすらすらペンを走らせるハンゾーを、ピトーに代わって『修行に戻れ』と一喝してやろうかと舌を咥えた。ついでに、サインを心待ちにそわそわしだしたリアス・グレモリーにも嫌味を一つと。

 

 しかし脳内から喉に檄の言葉が流れるよりも早く、そのそわそわが解放された。

 

「……ね、ねえ、もしよかったらだけれど、ハンゾー、貴方、私の眷属にならない?」

 

 落ち着きがなかったのは、つまり『欲しかった』からであるらしい。達筆なサインの途中で顔を上げたハンゾーに、リアス・グレモリーは息せき切って続ける。

 

「つい最近ゼノヴィアが二人目の『騎士(ナイト)』になって、あと残り一つ、『戦車(ルーク)』の駒が余っているの!相性で言えば、忍者のあなたには『騎士(ナイト)』や『兵士(ポーン)』のほうが向いているかもしれないけれど、『騎士(ナイト)』はもちろん、『兵士(ポーン)』もイッセーの分で使い果たしているから……ああ、ええっと、この駒っていうのは――」

 

「ゼノヴィアに聞いた。悪魔の駒(イーヴィル・ピース)ってので悪魔に生まれ変わるんだろ?んで、その代わりにあんたに仕えなきゃならないんだとか」

 

「そうよ!悪魔の身体なら何万年も生きられるし、お金も地位も思いのまま!試験を受けて上級悪魔に昇格すれば、自分の眷属を集めてハーレムだって作れるの!」

 

 そんな明るいばかりのプレゼンは、覚悟していたとはいえ、私に若干の吐き気をもたらした。甘っちょろいリアス・グレモリーでも、こういう部分はやはり悪魔なのだ。嘘は言わないが、本当のことも言わない。

 

 不老に権力におまけに女、これが欲しくない男などそうはいない。悪魔の眷属になるだけでこれらが手に入ると言われれば、多くは甘言に釣られ、ゼノヴィアのように『眷属』の意味を知らずに手を取るだろう。

 

 しかし、『眷属』とは言い換えて『下僕』、主たる上級悪魔、特に生粋の貴族悪魔たちの言葉では、『奴隷』という。

 いわば物だ。自らの所有物だから何をしようが、それこそ殺してしまおうが罪ではない。主が悪でも反抗すればそれが逆転し、容易く『はぐれ』の烙印を押され殺される。例え上級悪魔になったとしても、そこを牛耳る生まれながらの上級悪魔、元の主の呪縛は続くのだ。

 

 デメリットを抜かしてメリットだけを主張すれば、それはもちろんお得な話に聞こえるだろう。が、実態はこう。一方的に搾取されるのみだ。私はそれを、少なくともここにいる誰よりもよく知っている。

 

 だから当然、私がリアス・グレモリーの妄言に抱いたのは強い拒否感と嫌悪のみだった。ゼノヴィアはもう手遅れだが、悪魔への転生など、知り合いという理由を抜きにしてもしてほしくはない。

 

 けれどハンゾーとリアス・グレモリーの間に、私が介入することはなかった。なるがままに任せたのは、既にハンゾーの眼が、ハンターのそれであったからだった。

 

「だから……どうかしら?悪い話ではないでしょう?」

 

 と、この勧誘が成功すると、半ば信じ切って気付かないリアス・グレモリーを、表情を引き締めたハンゾーが短く断ち切った。

 

「いや、遠慮しとく」

 

 躊躇も迷いも一切ない拒否。リアス・グレモリーは驚愕で一瞬固まった後、サインを済ませて返却された名刺を呆然と受け取りながら瞬きした。

 

「ええと……待遇に不満があるなら、幾らか譲歩もできるわよ?……私にできる範囲でだけど、なんでも一つあなたの願いを叶える、なんてどう?」

 

「オレは、自分の願いは自分で叶える。だからやっぱりその話、断らせてもらおう。誰かの下に縛られるってのは、どうにも性に合わないんでな。そのためにハンターにまでなったんだ」

 

「あ、あなたもハンターだったの!?」

 

「ああそうだ。つってもまだひよっこだけどな」

 

 頷くハンゾーに、リアス・グレモリーは眼を見張った。そうとわかってなおさら欲しがるものと思っていたが、しかし続いて眉尻を下げ、一転して諦めを見せる。ハンターを目指す者たちの、その気質を既に理解していたかのようだった。

 

 ハンターたちの規則、十ヶ条の、確か一番最初の項にもある通り、ハンターは何かを狩る者だ。

 狩人、つまり『挑む者』。ハンターライセンス自体が目的の連中――言ってしまえば私たちもその範疇だが――は別として、そういう奴らが、いわば誇りを捨てた飼い犬ハンターになることを良しとするはずがない。

 

 ましてハンゾーは、私とピトーの悪魔嫌いも承知している。

 

「それにオレ、フェルたちに『念』の修行つけてもらってるからよ、今悪魔になっちまったら何されるかわかったもんじゃねえ。中途半端なところで放り出されんのも、ゼノヴィアみたいに無暗に強く当たられんのも、オレはごめんだ。だから、悪いな」

 

「そ、そう……」

 

 頭を掻くハンゾーはそう言って、リアス・グレモリーが握る名刺をポケットにしまわせた。

 

 見届け、私は誰にも気付かれないくらい小さく息を吐いた。すると吐き出した呼気に沿って、ゼノヴィアのどんより曇った恨み節が耳に入る。

 

「やっぱり……傍から見ても、私は嫌われているんだな……。うう……ずるいぞ、ハンゾーばかり……」

 

「……それで恨まれて、オレはどうしろってんだ」

 

「知るものか!貴様は精々、人の身をありがたがっていればいい!寿命の分、私は必ずお前以上の高みに上ってみせるからな!」

 

「あー……そうだな、うん。楽しみにしとくわ」

 

 噴き出す強がりと負け惜しみに、この話題を地雷と認識したハンゾーが顔を背ける。受け流そうとする彼に対して、二人が口にした悪魔の不満にいたたまれず身を寄せるリアス・グレモリーは、しかし咳払いと共に威厳を奮い立たせ、私とハンゾーに続けて眼をやった。

 

 微かに残る未練と、そして後悔を振り払うように咳払いを一つして、凛然と引き締めた。

 

「ともかく、ハンゾー、貴方がここにいる理由も、人間のままでいたいこともわかったわ。ゼノヴィアや白音と一緒に修行をすることにも、文句は言わない。けれど今更だけれど、ここは学園で、つまり私有地なの。近々警備も厳しくしなければならないから、あらかじめ申請してくれないと……少し困るわ」

 

「あ、そういや確かに――」

 

 変わった話題にばつが悪そうに一般常識を思い出すハンゾー。しかし静観に限界を迎えた私は遮り、叩きつけられた苛立ちを発散するため口をはさむ。

 

「悪魔が私有地云々持ち出すなんて滑稽だわ。それに、今言ったでしょ?」

 

「へ、屁理屈を言わないで!確かにお兄様はここの理事の一人だけれど、きちんと人の法で運営されているの!」

 

「どうだか。記憶記録の修正は悪魔の得意分野じゃない。あんたたちが人間界で生活するその下にも、どれだけ不正があるのかしらん?」

 

「不正なんて……あなたたちだって、流星街の出身じゃない……」

 

 苦々しげにもぞもぞ動いた口が呟くように言って、そしてすぐ、言うべき言葉ではなかったとでもいうように固く引き結ばれる。にやと上がった私の口角は、一瞬何のことかわからず呆けたが、一瞬後にフェルとウタが流星街出身であったことを思い出した。確かにまあ、大っぴらにするべきことではないだろう。

 

 正直なんと言われようがどうだってよかったが、ハンゾーはそれを気にして聞かなかったことにすると決めたらしく、あからさまに明るい声を捻り出した。

 

「んまあ、じゃあアレだ、普通の学校は勝手がわからんが、教師の誰かに言えばいいのか?今から行ってくるから、それで勘弁してくれよ。……だからちょっと外してもいいか?人の法ってんなら、ハンターの特権だって機能するだろうし」

 

「特権……そう、立ち入り禁止区域にも合法的に入ることができる、なんていうのもあったわね。けれど今日の所は行使しなくても結構よ。というか、注意をしただけだから、次から気を付けてもらえれば構わないわ。もうすぐ日も暮れて、私たちの時間になるのだもの。修行だってここからが本番だわ。――という認識なのだけれど……」

 

 駆け出す寸前のハンゾーを制して、リアス・グレモリーの言葉は私に向き直った。それが伝わると、今度はゼノヴィアたちの方を眼で示し、表情を硬くする。

 

「あのグラスと木の葉の道具は、ゼノヴィアとハンゾーも使っているのだから、『念』の修行に関わる何かなのよね……?白音には、仙術の指導をお願いしたはずなのだけれど……」

 

 ほらやっぱりこの認識。と、私は横目でピトーを睨みつけた。適当に仙術の技の一つか二つ、教えるだけでよかったのだ。

 

 だがもちろん、私の不満に気付いてもピトーは何も言わず、リアス・グレモリーとの会話を私に丸投げして余所を向く。胡坐をかいた己の膝に頬杖をつく、自堕落な横顔へため息を吐いてから、私は諸々の不平不満を我慢して、せめてもの抵抗にぶっきらぼうに応じてやった。

 

「仙術以前に『念』の習得が必要だからよ。……いい?仙術っていうのは、殺傷力はあっても戦闘力はそれほどのものじゃない。誰かの後ろで術だけ使うならいいけど、『戦車(ルーク)』は前に立って殴り合うんでしょ?格闘戦をさせたいなら仙術以外、要は『念』を、せめて基礎だけでもしっかり覚えてもらわなきゃ意味ないの。実際、私の知る仙術使いは皆、同時に念能力者よ」

 

「……本当に?」

 

「しつこい!そんなに心配しなくても、仕事はちゃんとするわよ!強くしてあげるって言ってるんだから、黙って従ってればいいの」

 

 疑心まで合わさると本当にめんどくさい。疑いが残るリアス・グレモリーを両断した。

 

 それでも尚、ピトーが無関心なのをいいことに追及で口を開こうとするリアス・グレモリー。毅然とした立ち姿に、ピトーみたいに私にも怖がれ、と内心で悪態を付き、背後の木の幹を頭で小突く。軽い八つ当たりで消化できなかった分は、赤龍帝の体力測定という役目が終わったのだからもうご退場願おう、という台詞に改め、そして口に出そうとした。

 

 だが思考がそっちに振れるまでの数瞬の内、リアス・グレモリーが面倒を続けるよりも早くと急いだその言葉は、第三者によって喉の奥に消えた。

 

「大丈夫っすよ、部長。白音ちゃんも言ってたじゃないですか。ウタ、あんたのあの黒い玉も、『念』と仙術の合わせ技なんだろ?」

 

 赤龍帝が、上体を起こして私に挑むような眼を向けていた。

 

 もしかせずともハンゾーの兵糧丸が効いたのだろう。それでもまだ息は荒いが、身動き一つとれない疲労から、微かに笑みを浮かべるまでに回復している。

 私の能力の内を見た気でいる彼は目に垂れてきた汗を拭い、ますます視線を一直線にして言った。

 

「そりゃあ初対面の時はムカついたけど……ってか今も、部長への態度は気に食わねえけど……けどドライグにミルたんに……ヴァーリの奴も、みんなあんたたちの腕を認めてた。強くなるには、強いやつから教わるのが一番だろ?だから俺は、あんたたちが俺たちのことをどう思っていようと、この夏の最後までついてってやるって決めた!……コカビエルにも楽勝で勝てるくらい、強くならなきゃだめなんだ」

 

「……コカビエルか。イッセー、お前、少し前に白龍皇に再会してからずっとその調子だな」

 

 バケツに零れた『水見式』の水を拭きながら、ゼノヴィアが苦笑気味に顔を上げた。

 

「両親を殺すと言った、あのブラックジョークは確かに怒って当然のものだが、拘り過ぎれば足を踏み外すぞ?」

 

「別にヴァーリが憎くて言ってるわけじゃねえよ。いつかは戦わなきゃならないんだろうけど、それより……もしあいつくらい強くて、あいつが言った冗談を本心から言える奴が現れたらって、想像しちまってさ……いてもたってもいられないんだ」

 

 だから、と、赤龍帝は私たち、特にピトーに長く注視し、噛みしめた歯をゼノヴィアが手をかざすグラスに向けて開いた。

 

「早く俺にも『念』を教えてくれ。まず……『ショウコウ』?ってのを開けるんだろ?」

 

 その要求に対する返答は、数分前から決まっている。

 

「ダメよ」

 

 間を開けずに私が答えた。

 

 叩き切られた流れに、赤龍帝のみならずピトー以外の全員が唖然と動きを止める。やがて当事者は、自信が予想した了承とは違う言葉を呑み込み、認識して数秒後、ようやく驚愕にずいっと身を乗り出した。

 

「な、なんでだよ!?あんたたちの言った通りに、マラソンだって死にそうになりながらこなしたんだぞ!そしたら教えてくれるんじゃなかったのか!?」

 

「そんなこと一言も言ってないし。それに『死にそうになりながら』って、高々三十キロでへばっちゃうことに、まず危機感抱きなさいよ。ゼノヴィアとハンゾーだったら、倍の距離でも軽く走れるわ」

 

 鼻で笑い、同意を求めて二人に眼をやると微妙な表情が返ってくる。さすがに『軽く』は盛り過ぎたかと反省しつつ、爪の甘皮をいじって手を組んだ。

 

「……要は、基礎能力が低すぎるのよ、赤龍帝ちん。『念』だの強くなるだの以前に、戦うための身体ができてない。今のままじゃ、『念』を覚えたとしても宝の持ち腐れだわ」

 

「低すぎ……って、そんなことねえだろ!?あんたたちは知らねえだろうけど、ちょっと前に俺、ライザーの奴も倒したんだぜ?」

 

「知ってるわよ、左腕を食わせて無理矢理禁手化(バランス・ブレイク)したんでしょ?けどそれはあんたのじゃなくて神器(セイクリッド・ギア)の、中にいるドラゴンの力。『念』でそれを強化するつもりなのかもしれないけど、そんなの手順違いにもほどがあるわ。鍛えられるところは他にいくらでもあるのに」

 

 自身の能力を一定時間ごとに倍加させる彼の『赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)』。『念』も倍加できるのだから、確かにその分強くはなれる。

 

 だがそれは基礎能力を高めても同じことだ。例えば走れる距離を三十キロから四十キロに伸ばすだけでも、倍化を加味してすさまじいパワーアップになるだろう。筋力も体力も瞬発力も、碌に鍛えていない彼にはまだまだ伸びしろがあり、それらをもしゼノヴィアやハンゾーに近いレベルに押し上げることができたなら、今の数十倍は強くなれるに違いない。

 

 そして同じ効果を『念』で望もうとすれば何百年かかるかわからないという、つまりそういう理由だった。

 

「当分は『念』よりも身体作り。あんたが、『()を覚えたい(・・・・・)んじゃなくて強くなりたい(・・・・・・)っていうんなら、こっちのほうが近道よ。それでも『念』がいいのなら、別に止めないけど」

 

「ぐ……ほんとに、身体鍛えたほうが強くなれるんだな……?」

 

「赤龍帝ちんがどれだけ強くなろうが私たちには関係ないし、嘘つく必要なんてないのよ。お仕事、ビジネスなんだから。……わかったらまあ適当に、腕立て伏せなら……三百回くらいかしら。脚を休ませるついでにやってみて」

 

 私はため息を吐くように言って、喉元に何かをわだかまらせたリアス・グレモリーを見やった。

 

 契約内容と大分外れるが、しかしそれよりもずっと効率よく強くなれる方法だ。お仕事と言いながら、筋トレなんていう私たちが苦労する必要もない手段を提示したために、リアス・グレモリーも思うところがあるのだろう。

 が、実際一番効率的なのだから、渋面もそのうち納得に落ち着くはずだ。言いたげに見返してくるリアス・グレモリーの無駄な時間を払い除け、説明責任を果たした私は、ゲームの続きに没頭すべくイヤホンを手に取った。もうすっかり違和感がなくなった人間の耳にそれを突っ込む。

 

 スリープ状態を解除しつつ、もう片方のイヤホンも装着しようとした。が、斜陽に満たされた音が閉ざされる前に、乾いた笑いが鼓膜から私の人心地を平手打ちした。

 

「……マジかよ、こっからまた筋トレとか……。へへ……じゃあ虚弱同士、ギャスパーも『念』じゃなくて筋トレからだな、たぶん」

 

 まるでもう一人、ギャスパーなる悪魔まで面倒を見なければならないと、既に決まっているかのような発言だった。

 

 実際のところ、そんなわけはない。リアス・グレモリーと交わした契約は三人分のみだ。故に、例え彼らの中での決定事項だろうと、契約にない以上私たちに従う理由も義務もない。

 

「……あれ、ギャスパー?……あいつどこ行ったんだ?」

 

 と首を捻った赤龍帝然り、それらはたぶん、さして考えずに出た台詞だったのだろう。どうせ辛い修行をするのならその『ギャスパー』も道連れに、という、軽口か揶揄か願望か。しかしそんな、何でもない言葉であると思い至るよりも早く、私の内心にはコカビエルと戦った後にやらかした気まずさが蘇っていた。

 

 要は、また私は何か下手を打ってしまったんじゃないか、という恐れ。自分が先のことをあまり考えられない性質であるという自覚がある分、その危惧は内心でたちまち育ち、考え過ぎであるという冷静な思考を打ち消した。

 だから姿が見えないギャスパーを探す赤龍帝の様子も眼に入らず、私は思わずそこへ、校舎傍の植え込みに隠れる気配(・・・・・・・・・・・・・・)へ視線を向けてしまう。赤龍帝から突然あらぬ場所へ視線をやった私は傍から見ればただ奇妙で、それ故に集めてしまった注目はすぐギャスパーと結びつき、理解された。そこに隠れているのかと目を眇めて覗き込んだ赤龍帝は、やはりすぐに目視できたらしく、半ば這いずるようにして灌木の中に頭を突っ込む。

 

 自分の失態でピトーに失望されるかもしれないと怯えながら、私はその、茂みから突き出た赤龍帝のお尻を見守っていた。

 

「ギャスパー?初耳だが……なあゼノヴィア、この前聞いた名前以外にも悪魔の仲間がいたのか?」

 

「うん……?ああ、そうだ。つい最近封印が解かれてな、ハーフのヴァンパイアで、しかも引きこもりらしい。極めつけに女装趣味の男だ」

 

「そりゃあ何とも……個性的な仲間だな」

 

 片耳にイヤホンを垂らしたまま、ハンゾーとゼノヴィアの何でもない会話を聞いて、せめて落ち着こうと深呼吸する。『念』も仙術も何もかも、冷静沈着が肝心要。

 

「――ひっ!い、嫌ぁ!お外怖いぃ!知らない人がいっぱいいるところになんてもう行きたくないですぅ!」

 

 と、念じた理性がパニックに打ち勝ったのかはわからないが、ギャスパーらしき声、まるっきり女の子な高音が意味するところは、私にも認識できた。おまけに赤龍帝に引っ張り出された彼女……もとい彼のその背格好。

 ハンゾーの言う通り、いやそれ以上に、少なくとも一瞬、あちこちに泳ぎまくる己の両目が縫い留められるくらいにはちぐはぐで、個性的(・・・)だった。

 

「……マジでか。あれで男とか、もはや詐欺だろ……」

 

「……気持ちはわかる。私も未だに、あれが男だなどと信じられない。貧弱が過ぎる」

 

 来ている服、制服はは女性ものだし、顔も身体も線が細いし、もはや感じる『気』だって女っぽい。「もうここは外だ、男なら覚悟を決めろ」と、何も間違ってはいないはずなのに違和感がはなはだしい檄を飛ばしながら、なんとかその彼を引っ張り出そうと歯を食いしばる赤龍帝と、それを拒否して灌木の細い幹に抱き着き目に涙を浮かべるという抵抗は、拍車をかけて事態に混沌を生んでいた。

 

 暴行を働く男と、なすすべなく震えるか弱い女。そんなイメージが流れ込んできて、事実との矛盾に余裕のない私は困惑するしかない。呆然と眺めていると、平常のハンゾーは世の不可思議を呑み下し、まともな疑問を取り戻した。

 

「てか、ほんとにあんなとこに隠れてたんだな。勘は鋭い方だと思ってたんだが、全く気付かなかったぜ。吸血鬼ってのは気配消しの技かなんか使えるのか?」

 

「いや、そんな話は聞かないな。神器(セイクリッド・ギア)は持っているが、そういう効果でもない。引きこもり生活のせいで存在感が薄くなっているとか……そうだ、あれじゃないか?『四大行』の『絶』。知らずに自然と身に付けてしまう者もいると……そんな話があっただろう?」

 

 私とピトー以外、誰もギャスパーの所在を知れなかったその理由。直感で導き出したそれはほとんど正解だ。だがそれどころでない私はもちろん、さっきからずっと本に眼を落したままのピトーも、ゼノヴィアを褒め称えることはない。

 

 代わりに、赤龍帝が反応した。

 

「ゼノヴィア、それ本当か?ってことは……すげーぞギャスパー!お前『念』が使えるんだな!神器(セイクリッド・ギア)的にも身体鍛える必要はあんまりねえし、まさかお前もゼノヴィアたちの修行組に行っちまうのか!?先を越されるのはちょっともやもやするけど……頑張れよ!」

 

「い、いやね、赤龍帝ちん、そもそもその吸血鬼は契約に入ってなくて――」

 

 そう言いつつ、主にピトーに向けての釈明。焦りが押し出した反射の言葉はしかし、半ばでギャスパーの声に覆いかぶさられる。

 

「嫌です嫌です嫌ですぅう!これ以上こんな場所にいたら、僕干からびて灰になっちゃいますよぉ!だいたい、ちょっと外を走るっていうだけの話だったから頑張って出てきたのに、どうしてこんなことになってるんですか!……まだこんなことが続くなら、いっそのこともう一度僕を封印してくださいリアスお姉様ぁ!」

 

 とうとう本格的に泣き叫び始めた。どうやら強引な引きこもり脱却プログラムを敢行してしまったらしいリアス・グレモリーは一つため息を吐き、眉を下げて優しげな表情を作る。赤龍帝と彼が取っ組み合う植え込みの傍にしゃがみこみ、やめさせると、涙が伝う薄い頬を撫でた。

 

「封印だなんて、そんなことを言わないで、ギャスパー。それにマラソンも、ほとんど私の自転車に乗っていたでしょう?……それでも、外に出ること自体が辛かったのはわかるわ。でもね、どこかで頑張らないとずっと怖いままよ?封印が解けた今が、一番いいきっかけなの。だから、ね?一緒に頑張りましょう?」

 

「そうだぜギャスパー!部長がこう言ってるんだからさ、俺たちグレモリー眷属の男同士、一緒に助け合っていこうぜ!それに鍛えて『念』を覚えれば、もしかしたらお前の神器(セイクリッド・ギア)も制御できるようになるかもしれないだろ?そしたら俺の野望が……でゅへへへ……」

 

「野望って何ですか!それに『鍛えて』って言ったって、神器(セイクリッド・ギア)は僕のいうことなんて聞かないんです!……僕はそんなこと望んでないのに、みんな勝手に止まっちゃう……みんな勝手に止めちゃう……!制御できるようになんてならなくていい……こんな、みんなに嫌われるだけの力……僕は欲しくなんてなかったのに……!」

 

 二人の必死の説得も、全く意味をなさなかった。それほどにギャスパーのコミュ障ぶりと、そしてどうやら宿しているらしい神器(セイクリッド・ギア)は闇の深いものであるようだ。

 

 そこでふと、私は吸血鬼の中で膨れていく『力』の気配に感付いた。

 

 叫んだ憤りのその激情に引っ張られ、みるみる強まっていく。たぶん神器(セイクリッド・ギア)が呼応しているのだろうが、しかし制御すらままならない下級悪魔の能力だ。恐れる理由はない。普通であれば、無意識下でそう切り捨てただろう。

 

 だが感じた『力』は、無視することが難しいほどの邪悪を含んでいた。今この場面でなかったら、例えばサンペーやコカビエルと戦っている時にこれを感じたなら、動揺なんてすることはなかっただろうが、それを感じたのが泣き虫でひ弱なお子様吸血鬼となれば話は変わる。釣り合わない『力』に、指導には不要と忘れていた警戒心をいきなり叩き起こされ、比較にならない衝撃を私は感じた。

 

 おかげで修行関係の頭のごちゃつきも吹き飛んだ。ピトーも同様、何かを感じ取ったのか弾かれるようにして顔を上げる。一緒にギャスパーのほう、膨れた『力』が集中する赤い双眸に意識を向けた。

 

 すると直後、気圧されるリアス・グレモリーと赤龍帝、私たちを含む皆を撒き込んで、

 

「――だからもう、僕のことなんて放っておいて……き、傷つくのは、もう嫌なんですッ!」

 

 周囲の、時が止まった。

 

 爆発するかのように『力』が放射され、それにリアス・グレモリーも赤龍帝も、ハンゾーやゼノヴィアたちも包み込まれている。そして彼らは直前の姿のまま、動かない。

 しかし周囲の草木は風を受け、いつも通りざわざわと揺れていた。しばしあっけにとられてからそのことに気付き、ぽかんと呆けた口を閉じる。どうやら時を止めるといっても、それはそこまで広範囲に及ぶものではないらしい。

 

 とはいえ、だ。

 

「……すごい能力だね、コレ」

 

 隣のピトーが宙に固定された本をつついて言う通り、恐ろしい力であることは間違いない。力量差からか私とピトーには効かなかったが、そうでなくても物まで動きを止めることができるのだから、いくらでも応用が利く。

 

 目を押さえてはあはあ喘ぐギャスパーの様子から『力』を暴走させたのであろうことも加えて、確かに封印されるのも納得な特大の爆弾だ。

 

「それだけに、何考えて封印解いちゃったのかしらね」

 

 外に出して、もし変な奴らに利用されたらどうするのだ。

 

 そんな尤もな疑問と呆れを呟くと、それはどうやら喘ぎ声を破り、ギャスパーに届いたようだった。

 

「な……なんで動けているんですかっ!?僕また、勝手に能力を発動させちゃったのに……!」

 

 覆いの外れた彼の眼が停止していない私たちを見つけ、そして驚愕を走らせた。悲鳴と一緒に放出すると今度は恐怖が勝ってきたらしく、慌てて茂みの中に引っ込む。

 もちろんそこの時間は停止していない。眼を起点にした力であることも鑑みて、効果の及ぶ範囲は視界内に留まるのだろう。という推察を、私はギャスパーの挙動を見張りながら考えた。

 

 怯えた被食者のように隠れて眼だけを覗かせる彼の、その内の力がまた震えて増大し始める。同じく震えて狭まった喉が、ひゅ、と音を鳴らして息を吸う。

 

「ご、ごごご、ごめんなさい……!巻き込んだの、わざとじゃないんですぅ……ぶたないでぇ……」

 

 いっそ笑えるくらいに私たちを恐れるその台詞に、ピトーと顔を見合わせ失笑した。

 

 その瞬間に、突然それは現れた。

 

「なんだ、フェルにウタ、相変わらず悪魔をいたぶるのが趣味なのか?彼は確か、お前たちの雇い主の眷属だろう」

 

 驚き視線を戻せば、ギャスパーの茂みの傍に佇む男。いつの間にか、曹操がそこにいた。

 

「――ッひやぁぁぁ!!まままままた知らない人ぉ!!もうやだ僕おうち帰るぅうう!!」

 

 傍の声に振り向きとび上がって駆け出すや否や、脚が縺れてすっころんだギャスパーは放っておいて、私は苦々しい思いで数ヵ月ぶりに見るその端正なドヤ顔を睨みつけた。

 

 不覚を噛みしめる。声が発せられるまで、接近にまるで気付かなかった。

 リアス・グレモリーたちの帰還にいち早く感付いたように、私は常態でもある程度の気配が読み取れる。それをすり抜けた曹操の『絶』がかなりのレベルにあることは確かだが、それでも以前会った時は気付けたのだ。

 

 私だって常に研鑽を積んでいるのに、努力を上回られた気がして実に悔しい。なぜこんなところにいるのだとか、そういう疑問を、誇らしげな顔面に一発ぶち込んでやりたい欲が押し流し、私は拳を握って立ち上がった。

 

「なんで曹操、あんた――」

 

 いや立ち上がろうとして、数センチ浮いただけで落ちた。腿の上のゲーム機も時間が止まり、動かなかったのだ。

 引っかけて根っこの上に押し戻された身体がそのことに気付くのに、ピトーに呆れの視線を浴びながら数秒を要した結果、私の行動の前に曹操は逃げ出した。小賢しくも優越感に浸りながらしゃがんだまま停止するリアス・グレモリーの前を横切ると、倒れ込んだギャスパーに手を差し出した。

 

 武人らしいその硬い手のひらを認識した途端再び零れる悲鳴の呼吸を遮って、曹操が微笑む。

 

「初めまして吸血鬼君、俺は曹操という者だ。名前を訊いてもいいかい?」

 

「え……あ、あの……はい……えっと、ギャスパー・ヴラディ、です……」

 

 パニック状態に構わず冷静を返された、そのギャップが故なのだろうか。人当たりのいい笑みに、ギャスパーは今までの様子からすれば驚くほど落ち着いてその手を取った。

 

 中身は中二病が入った皮肉屋だぞ、と暴露してやろうかとも思ったが、どんな反撃をされるかわかったものではないので、ようやくゲーム機の束縛から逃れた私は黙って木に背を預けた。

 

 結局反抗しなかった私に動揺したのか、笑顔のままぴくりと微かに眉を動かす曹操のその反応。オドオド見上げるギャスパーに、それを隠して代わりに思案の顔を見せた。

 

「……そうか、ギャスパー……。用事があるのはそこの二人だけだったが、どうやら君とも、少し話をするべきらしいな」

 

「へ……?あ……も、もしかして、曹操さんもリアスお姉様みたいに、ぼ、僕に酷いことするつもりじゃ……」

 

「いやいや、違うさ。聞こえてしまったが、君を鍛える話だろう?それはフェルとウタの仕事だ」

 

 いや違う、と内心で首を振る。一方強引にもたらされた落ち着きも剥がれ始め、起き上がったギャスパーは曹操の手を離し、胸の前で握った。身を引いたその怯えに首を振ると、私たちの方を向いて肩をすくめた。

 

「頼まれてもいないのに勝手に手を出してしまえば、それこそ俺が怒られてしまうよ。割り込みはどの世界でも嫌われる」

 

「ボクは別にいいよ、割り込んでも、この仕事なら。むしろキミのほうが適任じゃない?」

 

 そもそも鍛える気は無いが、ピトーが鼻で笑う。そういえば曹操は、私や彼女に度々自分が知る武術教えたがっていた。何のつもりかしつこいので、なし崩し的にコカビエル相手に使えるくらい、いくつか覚えてしまっている。

 そのことを揶揄されたと理解して、曹操のドヤ顔が逸れた。

 

「……空気を読んでくれ、フェル。それにそうだとしても生憎、俺はしばらく忙しいんだ」

 

「ふぅん……働き者だにゃ。でっかいヤマ、片付けたばっかなんでしょ?」

 

「おいおい、耳が早いな。誰から聞いた。会長か?」

 

「誰からも。キミの旅行先から、なんとなく予想しただけにゃ。その反応を見る限り、当たってたみたいだね」

 

 私には何のことやらだが、ピトーは曹操をやり込めているようだった。

 ムッと口を閉ざした奴は、せめてもの抵抗にキザっぽく唇を尖らせた。一秒だけそのまま、ギャスパーの唖然も私の愉悦も受け入れて、改めて無視して微笑みかける。

 

 そして、芝居がかった憂いを浮かべながら、言った。

 

「ヴァレリー・ツェペシュから、ギャスパー、君の境遇は聞いてるよ」

 

 出したその名は、一瞬にしてギャスパーの眼に尋常ならざる激しさをもたらした。

 恐怖に困惑、人間不信の気がたちまちのうちに消え去り、曹操に詰め寄る。数舜前とは異なる唖然で凝視して、つっかかりながら震える唇を動かした。

 

「ヴァ……ヴァレリーを、な、なんで曹操さんが知ってるんですか……!?あそこの人たちは、人間なんて家畜みたいにしか見ていないのに……」

 

「だから俺がツェペシュ派の姫君と会えるはずがない、ということか?まあ、悪魔の眷属をしていたのだから、知るはずもないか。……要は人間がどうのと言っていられない時だったんだ、俺が彼女に会ったのは。なにしろクーデターの真っ最中だったからね、混乱に紛れて忍び込むのはさして難しくなかった」

 

「く、クーデター……!?」

 

「ああ。ある意味、君と似たような事が起こった。ヴァレリー・ツェペシュは君と同じハーフヴァンパイアだろう?君が出奔した後、彼女にも神器(セイクリッド・ギア)、それも神滅具(ロンギヌス)クラスのものが目覚めてしまってね、つまりその力を巡った争いさ。酷いものだったよ、あちこちでヴァンパイア同士が殺し合っているんだから」

 

 『でっかいヤマ』とはそういうことかと、ほんのちょっとだけ感心する私の内心とは対照的に、ヴァレリーとやらがそれほど大切なのか、ギャスパーはどんどん情動を大きくする。少し前の気弱が嘘のような必死さだった。

 

「それで、ヴァレリーは!?ヴァレリーはどうなってしまったんですか!?」

 

「心配せずとも、助け出したさ。そのために潜入したんだから。ただヴァンパイアたちの認識では、死んでいるが」

 

 その必死さの熱に少し間を開けさせてから、苦笑してみせる。

 

「たとえ助け出してどこかに逃がしても、神滅具(ロンギヌス)を宿していると知れている以上、追手は掛かるだろう?だからまず、その原因を取り払う必要があったんだ。わかりやすいようにね、ヴァンパイアたちの目の前で、ヴァレリーが宿す神滅具(ロンギヌス)を抜き取ったのさ」

 

 そしてそう続けた。が、私はその、いかにも用意していたふうな台詞の中に一つ矛盾を発見してしまう。別にそれを明らかにしてやる必要なんてないのだが、指摘されしかめっ面をする曹操を思い浮かべると、それはひとりでに口に出た。

 

「あれ?そもそも神器(セイクリッド・ギア)って、抜き出しちゃったら死んじゃうんじゃなかったの?」

 

 魂が密接に関係しているからだとか、そんなことを他ならぬ曹操から聞いた覚えがある。知らなかったらしいギャスパーの安堵が逆転する瞬間、しかし曹操に望んだ表情は現れず、微笑んだまま、肩を怒らせ腰を上げたギャスパーをなだめた。

 

「それが当たり前だったのは昔の話さ、人の技の進歩だよ。吸血鬼を含めてほとんどの勢力が知らないが、今は安全に摘出する方法もあるんだ。……それと、悪いけどこれはリアス・グレモリー嬢にも内緒にしてもらっていいかな。結構デリケートな秘密だから」

 

「暴露する方が悪いにゃ」

 

「聞いといてなんだけど、同感」

 

「だから空気を読んでくれと言ってるだろ。……はあ、お前たちの性根の悪さに郷愁なんて感じたくなかったよ」

 

 私とピトーとで浴びせてやった憐れみが、曹操の眉間にしわを寄せた。しかし喜ぶのもつかの間、神妙に彼を見つめるギャスパーが真剣を引き戻し、曹操がそれに便乗してまたしても逃げ出した。

 

 再び、演技の善意を台詞に乗せる。

 

「そういうわけで、安全に抜き取った神滅具(ロンギヌス)を見せつけてから、ついでに城ごとまとめて吹き飛ばした……ように見せかけた。晴れてヴァレリーは死亡、神滅具(ロンギヌス)も瓦礫の下ってわけだ。ヴァンパイアの連中は今も発掘作業に勤しんでるよ。

 ……要約するとまあ、こういうことがあったんだ。ギャスパー、君のことを聞いたのもその時だ。ヴァレリーは、自分よりも神器(セイクリッド・ギア)に苦しめられてきたギャスパーが、今も辛い思いをしていないか心配だと……逃げ出してからもしばらく一緒にいたんだが、ずっと心配していたよ」

 

「……今、彼女は、どうしていますか……?」

 

「どうだろうね。君を探すと言っていたが、再会できていないのなら、そういうことなんだろう。まあ、いずれ会えるだろうさ。……それに俺は、君の懐旧を煽りたかったわけでも、知らなかったことを責め立てたいわけでもないよ」

 

 口当たりのいい言葉をそう奏で、腰をかがめた曹操はごく自然にギャスパーの頭を撫でた。

 

 俯き歯を噛んだギャスパーの、今にも決壊しそうだった涙が支えられ、持ち上がる。容易く掌握され凪いだ心が曹操と視線を繋げ、じわりと染み入っていくのが傍目にもわかる。

 

「俺も……いや、運がいいことに君たちほどの不幸には見舞われなかったが、神器(セイクリッド・ギア)を生まれ持ったせいで色々あってね。だからというわけではないが、力になりたい。力が怖いのなら、捨てることもできるんだ、心を殺してまで立ち向かう必要はないよ。ヴァレリーのような選択もあると……今は、覚えていてくれさえいればいい。すぐに決められることでもないだろう」

 

 どれもこれも、実に作為的な話だ。都合がいいばかりで、曹操の内心は全く見えない。それでも救われたような眼をしているあたり、ギャスパーに疑いはないようだった。

 

 最初に出会ってからもう五年、すっかり幼さも消えて磨きがかかった好青年の笑みは、初対面だろうが大概の相手に信用されてしまう。カリスマ性というかなんというか、その、人に慕われる才能は、正直私も侮りがたしと思っているが、久々に現場を眼にしてしまうと違和感が拭えない。

 いっそ念能力で操作でもしているかのようだ。もちろん仙術使いの私にはそうでないことなど一目瞭然なのだが、奴の『発』が不明である事も合わさって、何か仕掛けがあるのではないかと思えてならなかった。

 

 しかしどうやら今回もその仕掛けを見破ることはできず、ギャスパーの中の人物像を、突如現れた外敵からよき理解者へと、あっという間に押し上げてしまった曹操は、気持ち悪くもずっと撫でさすっていたギャスパーから手をどかし、覗き込んで重く頷いた。

 

「さてそれじゃあ、そろそろリアス殿と他の皆を起こさなくてはな。挨拶もまだだ」

 

「あ、は、はい!……でも、その……僕、能力の解除もへたくそで、いつも何回も失敗しちゃうから……ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 曹操が微笑む。慌てて居住まいを直し、ギャスパーは目に力を込めた。

 リアス・グレモリーたちの方へ眉を寄せ、真剣にぐぬぬと唸る。が、動いているのは表情筋ばかりで、感じる『力』に変化はない。眼に関連する能力とはいえ、ただ必死に睨みつけているだけでは、それはもちろん制御なんてできるはずがないだろう。

 そのことに気付いてもいない。何回も失敗するはずだと、私は宙で止まったままのゲーム機への注意を後回しに息を吐いた。宣言の通り、事の進展までしばらくかかるであろうことを予感して、ありきたりな感動ものの映画でも見るような眼をするピトーの傍に腰を下ろそうとした。

 

 だが場所を見つけ、木の根に座ったその瞬間、二つの気配が連続した。

 

(……曹操?)

 

 奴の『念』と、次いでギャスパーの神器(セイクリッド・ギア)が発動し、周囲に広がる。驚いて顔を上げれば、ちょうど止まっていた面々が動き出していた。

 

 同時、半ば反射的に伸ばした足で落下してきたゲーム機を受け止めながら視線を投げると、片目をつぶった得意げで、人差し指を唇に当てる曹操と眼が合った。停止が解けた仲間たちに呆然と口を半開きにするギャスパーもつまり、そういうことなのだろう。

 ついさっきも抱いた操作の疑惑が遅れて解消され、私は鼻を鳴らして曹操の小憎たらしい顔から視線を外した。

 

 それが凡そ三秒。時間停止の能力が解除されてから経過したそれだけの間で、動き出した彼らはその違和感、ギャスパーの能力が暴発していたことに気付き、そしてすぐに直前までそこにいなかった人物、曹操を発見した。誰もが目を見開いて、しかし一番に、リアス・グレモリーの喜色の声が驚愕をまとめて押し流した。

 

「ッ!曹操!来ていたのね!いきなり現れるから驚いたわ!」

 

「俺はあなたが止まっていたことに驚きましたよ。お久しぶりです、リアス・グレモリー殿」

 

 京都由来の曹操へのあこがれはどうやら健在、むしろ双方の成長によって悪化しているようで、小走りに寄ってきたリアス・グレモリーのその声色は、さっき聞いたものより一段高い。媚びを売るほうも売られるほうも両方等しくムカつくが、あのイケメンは誰だと騒ぐ赤龍帝と同列になりたくはないので、やむなく腹の底に落として静めた。

 

 そうして一つ瞑目してから目の前の騒ぎに意識を戻すと、主人が見ず知らずの男に謙遜していることが気に入らないのか、赤龍帝はさらに何やら曹操を指さし、敵対心も露に歯を剥いていた。下僕が抱く嫉妬に気分も悪くなかったリアス・グレモリーだったが、どうやらそれは気に食わなかったようで、怒った表情に変わる。

 叫んだ台詞が、私の鼓膜を揺らした。

 

「イッセー、失礼なことを言わないで!彼はライザーのような男性ではないし……そ、それに、れっきとした客人よ。とても高名なハンターなの。だから……フェルとウタの様子を見に来たわけではないのよね?……やっぱり、あの件かしら?」

 

「ええ、挨拶はしておくべきだとね。ネテロ会長共々、しばらく町に滞在させていただくわけですから」

 

「……ちょっと待って、ネテロのジジイも来てるの?」

 

 黙っているつもりだったが、その名前には反応せざるを得ない。同じく反応した幾人かは放っておいて、性格の悪いあの師匠との修行を思い出す。

 

「まさかまた組み手させられるんじゃないでしょうね。だとしたらミルたんか……『十二支(じゅうにし)ん』だっけ、そいつらに相手してもらえって言っといてよ。仙術使いだからってことあるごとに遊びに付き合わされるの、もうごめんだわ」

 

「いや、違う違う。もしそうなら俺が護衛に就くはずがないだろう。もっと真面目な理由があるのさ」

 

「真面目な理由って?」

 

 本を閉じてピトーが訊くと、曹操は肩をすくめて言った。

 

「近々この学園で、悪魔、天使、堕天使の三大勢力による会談がある。それに呼ばれたのさ。コカビエルの件で話し合いをするんだそうだ」

 

「……ふぅん、会談ねぇ」

 

 呟き、リアス・グレモリーを見やったピトーに、奴はいつもの如き反応を見せ怖々頷く。

 

 確かに、実際がどうであれあの出来事。悪魔のテリトリーに堕天使が侵入し、危うく魔王の妹を殺しかけた事実に変わりはない。追及なり言い訳なりをする場を設けるのは当然だろう。天使はその仲介役か何かか、『三大勢力』なのだから、関わらないわけにいかなかったに違いない。

 

 となればやはり、それは疑問だった。

 

「その会談とやらに、なんであの性悪ジジイが呼ばれたのよ。関係ないじゃない」

 

 例え三大勢力で何が起きようが、神話勢力なんて他にいくらでもいる。先細りの神話形態が滅びたとしても、彼らがどうとでもするだろう。わざわざハンター協会が出張ることではないはずだ。

 

 それとも人間界で戦争を起こすなと、釘でも刺しに来たのだろうか。想像し難いその理由を思い浮かべたが、曹操はまたしても肩をすくめ、やれやれと首を振った。後で殴る。

 

「関係ないわけがないだろう?コカビエルを倒したのはお前たちだそうじゃないか。しかも仕事があったわけでもないのに、偶然その場に居合わせたんだとか。……まあ、依頼の日にちを前倒ししたっていうことは想像がつくが……ハンター協会として何か意図があったのかと、彼らは話を聞きたいんだよ」

 

「……やっぱり、ネテロが赴くだけの理由には思えないけどにゃあ」

 

「それだけじゃないってことなんだろう」

 

 じゃあやっぱり直接文句を言いに来たのか。と的外れに思い直す恥の上塗りは、幸運なことに寸前で自制された。それでもやっぱりあのよぼよぼジジイの心の内は読めないが、どのみち私たちには関係あるまい。裏で誰の思惑が蠢いていようと、最悪、ピトーと一緒に逃げればいいだけだ。

 だから私は、ゲーム機のイヤホンを耳に突っ込み、他人事に手を振った。

 

「そう。ま、お仕事頑張ってね曹操。変な事件にならないよう、祈っとくわ」

 

 だが応えは、三度目の呆れだった。

 

「何を言ってるんだ。お前たち二人とも重要参考人だぞ、当然会談にも出席だ」

 

「はあ!?だとしてもそんなもん出るわけないでしょ!私たちはこいつらを教えるためにここにいるんだから、関係ない要請なんてブッチするだけよ!」

 

 言ってやっても、腹の立つ仕草は崩れない。極めつけに、キザなウインク。普通であれば手が出るコースだがしかし、

 

「心配せずとも、学び舎で『変な事件』なんて起こらんさ」

 

 それらの重ね掛けに、何を思ったのかピトーは、苦々しげだが頷いてしまったのだ。

 彼女が行くといえば、もちろん私も追従する以外にない。私はがっくり肩を落とし、項垂れる。たちまち変化する気分を示すかのように、久々に見たゲームの画面では、私の配管工が没落して最下位になっていた。




色々な乖離。一誠の念習得を楽しみにしていた皆様へごめんなさい。感想ください。


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七話

20/9/08 本文を修正しました。


「ねえ曹操……本当にこれ、出なきゃダメかにゃ」

 

 らしくない未練がましさを発揮して、ピトーは本日何度目とも知れない不平を口にした。

 

 三大勢力とハンター協会による会談、それに私たちが出席しなければならないとわかって数日経った今日、会談当日の朝を迎えてからずっとこの調子だ。嫌そうな顔と嫌そうな声のセットが一日中続き、気付けばもう夜。私だって会談なんかに関わりたくはないが、ここまで来るとそれよりも、ピトーのおかげで鬱々とした気分が募ってくる。

 

 この町に来てからただでさえ気が休まることがなかったというのに、どうしてさらに二重の追い打ちを受けねばならないのだろうか。そう思って見上げた夜空は結界の赤で覆われ、懐かしい色に染まっていた。

 

 そうやって半ば現実逃避する私の横で、ピトーがまた露骨に不満げな顔をする。

 

「だってさぁ、魔王って奴が二人も来るんでしょ?そいつらの前でおとなしく質問されろって……そんなの拷問と変わりないにゃ。絶対殺したくなっちゃう」

 

 その前を歩き、常にフラストレーションを向けられていた曹操は、しかし今回は無視せず、半身だけ振り向いた。いつの間にかすぐそこまでたどり着いた会談場所、学園の旧校舎に向かう階段に足を掛けながら、やはり私の内心と同様、めんどくさそうに吐き捨てる。

 

「お前の悪魔嫌いはもちろん十分わかってる。殺しかねないと言ったさ俺も。だがそれでも呼べと、天使と堕天使からの要請だ」

 

 くるりと身を翻し、古い石造りの段差を上り始める。数段で、これまた古ぼけた両扉にたどり着くと、奴は取っ手に手を掛け、向けた背でさらに続けた。

 

「そんなに嫌なら、いっそすっぽかせばよかっただろう。町の外にでも行けば見つかりやしない。その代わり、天使との関係は悪くなるがな。……教会からの仕事がなくなるのは嫌なんだろう?だから逃げてない。ならもう、ウザ絡みするのは止めて覚悟を決めてくれよ。俺とウタとで、フォローはしてやるから」

 

「……悪魔嫌いは私もなんだけど」

 

「程度の問題だ」

 

 私の反論をため息混じりにあしらい、曹操は重厚な扉を開け放った。

 

 ろうそくみたいにか細い灯りが飛び出して、私たちを出迎えた。肩口から覗き込めば、奥まで伸びる板張りの廊下。掃除は行き届いているらしく外観よりはきれいだが、曹操に続いてそこを歩けば、途端に鴬張りみたいに騒がしく軋んだ。

 

 旧校舎、という名称に偽りはないようだ。なんでこんなところに勢力のトップが集まるんだと訝しく思う。最低限の光量しかないことも然り、悪魔や天使、堕天使はこれで問題ないのだろうが、曹操たち人間には少々見え辛いだろう。

 私だったら一流ホテルを貸し切って、豪華絢爛なシャンデリアの下で料理なんかもいっぱい並べるのに、なんて益体のないことを考えながら三人でギシギシ進んでいると、それで再度苛立ちを刺激されたのか、ピトーが忌々しげに鼻を鳴らした。

 

「天使堕天使が、ってことは、悪魔にボクを呼ぶ理由はないんだよね。ならそっちで止めればよかったんだ。……せっかく脅してやったのに、あのにやけ顔……」

 

「……サーゼクス・ルシファー殿のことか?なんだ、もう会っているのか」

 

「ちょっと待って、私は知らないんだけど……それってもしかして、私がハンゾー探してあちこち駆け回ってた時のこと……?」

 

 ゼノヴィアの訪れを待ちつつピトーが公園で待ち構え、私は離れて網を張っていた時。この町で私とピトーが一緒にいなかったのはあの時だけだ。

 

 あんな危険な奴と一人で出くわして何かあったらどうするのだ、という私の心痛に、しまったと、手遅れながらも口を噤んだピトーは、気まずげに身体を竦ませ眼を逸らした。

 

「んー……まあ、ちょっと色々言われただけだよ」

 

「ちょっとも何も、一人で出くわしてる時点で大事よ!もう、なんで黙ってたのよ、心臓に悪いわ……だから手分けするのはやめようって、あの時言ったのに……」

 

「まあまあまあ、結局何もなかったしさ、ね?大丈夫だにゃ」

 

「はにぅッ!だ、だからいきなり頬っぺたムニムニするのやめてってば!あやふやにされたりしないって、いい加減わかって……わかってよぉ!」

 

 一瞬で背後を取られ、ピトーの凶行に侵されるさまを、半笑いの曹操に観賞されている。恥ずかしくないはずがなく、もがいても逃れられない拘束の無駄な強固さに泣いた。

 しかしそれでもガツンと言ってやらねばという意思は持ち続け、耐えた。のだが、こねられすぎていい加減変な感覚に陥り始めるころ、ふと曹操が隣の通路へ眼を向けた。

 

 私たちの視線が通らないその突き当りは、たぶんここでクラブ活動に勤しむお子様たち、リアス・グレモリーたちの部室になっているのだろう。メンバー全員がいる騒々しさは、探らずともすぐ知れる。曹操だって、今気づいたわけではないだろう。

 

 では何を見つけたのかと訝しみ、しかしその前に脱出せねばとさらにもがいて徒労に終わったその直後、曹操は恩着せがましくにやりと笑って、そっちを顎でしゃくってみせた。

 

「なにやら揉めているらしい。話でも聞きに行こうか、弟子が心配だろう?」

 

 言ってすぐ歩き出す曹操にピトーはすぐさま同調し、私を開放して後を追う。気疲れと羞恥を開放感でため息に変え吐き出し、遅れて続いて床を鳴らした。

 

 そういえば今回も前回も結局はぐらかされたな、と肩を落としつつ、これが習慣にならないよう祈る。そうしてノロノロ行く内に曹操とピトーは到着して、リアス・グレモリーから好感と恐怖の渦巻きを向けられていた。

 

 やがてどうにか落ち着いたリアス・グレモリーは、曹操に尋ねられると、己の背後、部室内に眼を戻して困ったように眉を下げた。

 

「白音に、ギャスパーの話し相手をしてもらおうと思っていたの」

 

「……というと、眷属の皆さんも証人として呼ばれているわけですか」

 

「ええ、そうよ。けれど貴方も知っての通り、ギャスパーはまだ人前には出られそうにないから……それに、かと言って一人にするのも……特に今は、少し心配なの」

 

 口ごもりつつ言うその間に私も到着し、開け放たれた室内が視界に入る。件のギャスパーは隅の段ボール箱の中で膝を抱え、何やら思索するようにぼおっと一点に眼を落していた。

 

 それが曹操の口車によるものであることは、どうやら知らされていないらしい。哀れにも純真な憧れを抱き続けるお姫様は、背信者の下僕をなおも気遣わしげに見つめて続ける。

 

「だから、仲のいい白音に一緒にいてもらおうと思ったのだけど……白音、嫌なの…?」

 

「……嫌、というほどではないです。ただ、その……私はコカビエルとの戦いでも、皆より活躍できたと思っています。だから証言を求められているなら、その分私が話すべきなんじゃないかって、そう思ったんです」

 

 あっちにこっちに往復し、私を巻き込む煩わしいその視線。挙動不審っぷりにリアス・グレモリーは唇を噛み、一つ息を呑んでからそれを押し出した。

 

「――けど……今回の会談は、ハンター協会の会長、アイザック=ネテロも出席するの」

 

「そ……れは……」

 

「……私が言うべきことではないけれど、会いたくはないでしょう?」

 

 言い辛そうにリアス・グレモリーも視線を逸らすと、それで説得は終了したようだった。

 俯き微かに頷くその様子を眼にして、身の強張りを緩める。それから改めて気合を入れ直し、リアス・グレモリーは成り行きを見守っていた己の眷属たちに号令を飛ばした。

 

「さあみんな、そろそろ時間よ。身なりはちゃんと整っているわよね?これから各勢力のトップの方々とお会いするんだから……イッセー、貴方も前のボタンはちゃんと留めておくのよ?」

 

 首肯なり笑みなりを返す面子の中で、一人名指しされ慌て出す赤龍帝を一瞥してから、私たちも彼らに背を向け、来た道を戻り始めた。

 

 増えたギシギシ音を引き連れ曹操の後ろをしばらく行くと、やがて玄関ほどではないが大きな扉が正面に見えてきた。さっきの部室や横に続く教室のそれとは異なる佇まいは、しかしそうでなくても一目で会談場所であると知れた。

 

 強い気配がいくつも感じられる。天使が一つ、堕天使が一つ、人間が二つ。そして悪魔が四つ、いや三つだ。つまり魔王どもの気配。扉に近付くにつれ濃くなるそれに比例して着々とピトーの機嫌が悪くなっていくから、もう気配を探る必要さえないくらい明らかだった。

 

 気がかりだった沖田総司はいないようだからよかったが、それでも私は気を揉まずにいられない。一歩離れた後ろで怯えるリアス・グレモリーたちと共にそれを押し切って、長かった一直線の廊下をどうにか踏み越える。扉の目の前までたどり着き、先頭に立つ曹操がノックしておとないを告げると、すぐに返事が返り、微かに軋んで扉が開いた。

 

 そうして中の様子が眼に伝わった瞬間、やはり懸念通り、ピトーの憎悪が跳ねあがった。

 

 脚が止まり、二人の魔王、特にサーゼクスを睨みつけたまま固まる。一歩下がって佇む、噂に名高いサーゼクスの最強『女王(クイーン)』はすまし顔をしていたが、そのさらに後ろの壁際に控える子供悪魔たちには影響を及ぼした。見覚えのある眼鏡と転生悪魔が弾かれるようにして身構え、さらには天使側の護衛らしき金髪ツインテールが張り詰めた顔で聖剣の柄に手を掛ける。堕天使側のヴァーリに至っては、愉快そうに凶悪な笑みを浮かべていた。

 

 ネテロの後ろにはなんとミルたんが屹立していたが、やはりというべきか彼――彼女は、こちらを厳つい眼で睥睨するのみだ。

 これはまあともかくとして、私たちの背後、ピトーに堰き止められたリアス・グレモリーの内心は、どうやら眼鏡悪魔の側に近いようで、抗議の声を上げようと、引き攣りながら恐怖混じりに息を吸っていた。だがしかし、ピトーはこれでも抑えられている方なのだ。手も口も出ていないことがその証拠。彼女の頑張りのどこに、責められる理由があるだろうか。

 

 故に私はリアス・グレモリーの不遜にやり返す気満々であったが、しかしするまでもなく、ピトーは魔王から無理矢理に視線を外した。そしてそのまま早足に奴らの対面、ネテロが腰かける席の後ろに向かう。

 

 ピトーの抱く果てしない憎悪を考えれば、そんな行動をとれたことはもう奇跡のようなものだ。彼女の自制心の強さに私は感心し、曹操とリアス・グレモリーたちが安堵のため息を吐きながらそれぞれ自身の陣営側に立つ。椅子に座る偉い面々がそれを微笑ましげに見守って、そしてようやく、その声が私たちに向けて放たれた。

 

「私の妹とその眷属たち、そして件のハンターの方々だ。さて、これで全員が揃った。会談を始めたいが……しかしその前に、まずは感謝を述べさせてもらってもいいかな」

 

 魔王サーゼクスは、いっそ不気味なくらいに柔らかな笑みを浮かべて私たちに眼を向けると、不意に頭を下げた。

 

「ありがとう、フェル殿、ウタ殿。君たちがコカビエルを退けてくれたおかげで、妹たちは無事で済んだ。魔王ではなく兄として、お礼を申し上げたい」

 

「私からも、ソーナちゃんの姉としてお礼を言うわ。あのままコカビエルが倒されなければ、きっと結界の外のソーナちゃんも巻き込まれてた。守ってくれて、本当にありがとう」

 

 と、続いて隣のもう一人の魔王、確かセラフォルー・レヴィアタンだったか、ミルたんのライバルであるらしい女悪魔も伏して礼を言う。

 

 『結界の外のソーナちゃん』とはやはり、学園に突入する時私たちに何やら言ってきた、あの眼鏡悪魔のことなのだろう。背後で微かに頬を赤らめる本人の様子から察するに、どうやら彼女も魔王の血縁であるらしい。

 そんな重要人物を大した守りもなく人間界に置いて、そりゃあコカビエルが狙うわけだと呆れつつ、私たちはそれらの感謝を聞き流していた。

 

 何も返さない私たちにリアス・グレモリーは何やら言いたげだったが、しかし魔王二人は気にせず、顔を上げて微笑みを取り戻す。

 サーゼクスが卓上の四人を見回した。

 

「では改めて、議題に入ろうと思う。リアス、コカビエル襲撃の詳細を――」

 

「必要ねえよ、今更そんなことは」

 

 しかし遮り、堕天使のいい加減そうなチャラついたオヤジ、たぶんヴァーリの存在から考えて総督のアザゼルが、鼻で笑って首を振った。

 

 にこやかを止め閉口するサーゼクスをよそに、アザゼルは茶化すように頬杖をつく。

 

「わざわざ説明されるまでもなく、全部把握してる。コカビエルがバルパーと聖剣エクスカリバーを盗んで、融合させるついでに町ごと吹っ飛ばそうとしたんだろ?そんくらいの調べも裏付けも、とっくについてる」

 

「付け加えるならその果てに、先の大戦を再開させるため、そこのリアス・グレモリー殿を殺害しようと企んだとか。……ふむ、そう考えれば、私たちもお二人にお礼を言わなければならないかもしれませんね」

 

 さらに続いて天使の優男。「後にしろよミカエル」とアザゼルにめんどくさそうな顔をさせた彼は、目礼だけしてネテロに尋ねた。

 

「しかし、となればやはり、なぜフェル殿とウタ殿ほどの実力者がその場に居合わせたのか、聞いておく必要があるでしょう。その理由が今一つ知れないのです」

 

「そうですな、確か何かの依頼だとか――」

 

 ちらりと一瞬背後の私たちに眼をやって、ピトーと目線を合致させてから露骨にため息を吐いて正面に戻る。

 

 話を代わる気がないと悟ったからなのだろう。実際私も、特にピトーは憎悪を抑え込むのに精いっぱいな様子で、魔王を視界に入れないよう、その苛立ちごとさっきからずっとネテロの後頭部にぶつけている。

 わざわざ眼で確認せずともわかっているだろうに……鈍感なんだか図太いんだか。性格の悪い狸ジジイは咳払いをしてから、好々爺然とした顔で言い直した。

 

「ワシの聞いた話では、仙術の指導のために雇われたらしいですな。リアス・グレモリー殿の眷属には猫魈の者が在籍しているらしく、素質はあるがうまく扱えないその者のために依頼したのだと」

 

 一瞬、ミカエルの目元がぴくりと痙攣した。アザゼルが「ほう」、と感嘆の声を上げる。

 

「仙術と言やあ、とんでもなく珍しい技だって話だが……ネテロ、ハンターの中にもお前以外の使い手がいたんだな。弟子か何かか?」

 

「ウタだけですがな、一応はそういうことになっております。フェルの仕事は把握しておりませんが、大抵ウタとのコンビで活動しているようですから、今回もその手伝いをやっておるのでしょう」

 

 どうにもとぼけた調子で言うネテロの台詞に、私の眉間に自然と皺が寄る。大体あっているし真実なのだが、このジジイに弟子と言われるのが少々気に食わない。だってジジイが修行中に何か理論立てて教えてくれるようなことはなく、ただひたすらに模擬戦闘をするばかりだったのだ。

 

 もちろんその経験があって能力を作ることができたのは事実だが、これからずっと『ウタはワシが育てた』的な紹介をされると思うと、もやもやせずにはいられなかった。この場で反論してやるべきだったろうが、しかしその覚悟を固める前にサーゼクスが、先ほどの朗らかとは異なる真剣な表情で口を開いた。

 

「フェル殿とは、妹の眷属に『念』を教えてもらうよう契約している。それだけだ。それよりもアザゼル、詳細は必要ないと言ったが、ならばもう聞かせてほしい」

 

「あん?何をだ?」

 

 やる気ゼロで肩眉を上げるアザゼルに、少しだけ眼の色を剣呑なものにする。

 

「決まっている。コカビエルの襲撃についての、君の意見だ」

 

 場の空気が緊張するのを感じた。

 

 大人どもはもちろん表に出さないが、子供連中は金髪ツインテールを含め、眼に見えるほどざわついている。しかしそれは致し方のないことだろう。なぜならだって子供だから。平和なぬるま湯に守られてきただけに、理不尽に殺されかけた怒りを抑えることができないのだ。

 

 まあそうでなくても、私もアザゼルのその言い分は気になるところだ。なにせ実際に死にかけたのは私たちで、ヴァーリの言った通りコカビエルの首と引き換えに随分のお金が振り込まれたが、それはそれ。どういうわけであんな騒動に巻き込まれたのか、知りたくないわけがない。

 

 理由の如何によってはさらにたかる気も無きにしも非ずであったが、残念なことに呆れたふうに肩をすくめながら飛び出した釈明は、無難にケチが付けられないようなものだった。

 

「説明するもの何も、あの時すぐ書状で叩きつけてやったろ。もうなくしちまったか?なら繰り返すが、あれはコカビエルが勝手にやったことだ。俺は全く、関与してねえ」

 

「……あくまで自分は無関係であると?」

 

「ああそうだ」

 

 堂々宣言し、口角に作る不敵の笑み。対岸の赤龍帝がそんな彼を、歯噛みして睨みつけている。

 

 しかし当然堕天使の総督には児戯の如き威嚇など通じず、実に軽い調子で手を振り、机の上に置いた。

 

「まあ、悪かったとは思ってるぜ?一応はウチに所属するやつがやらかしたことだからな。監督不足だったのは認める。ちょっと色々忙しかったもんで、あいつの動向にまで気を向けるような余裕はなかったんだ」

 

「忙しかった、とはどういう意味です?」

 

 ミカエルが、懐疑の眼で割り込む。

 

「それではコカビエルの件と関係があるように聞こえてしまいますよ」

 

「だから関係ねえっつっただろ。何聞いてやがったんだファザコン。……趣味の研究がちょうどいいところだったんだよ。それだけだ。俺は戦争なんかより、そっちの方が大切なのさ」

 

「それは否定になっていませんね、アザゼル。むしろ野心有りと告白したようなものですよ」

 

 昂然と言うミカエルに、アザゼルはまた頬杖をついて首を傾ける。片手をひらひら振って、笑った。

 

「相変わらずひねくれた野郎だな、ミカエル。趣味に興じるオヤジのどこに野心があるってんだ?今日日俺ほど平和を愛してるやつなんぞ、そうはいないぜ」

 

「あまり私たちの情報網を見くびらないでもらいたい。貴方が人間たちの神器(セイクリッド・ギア)研究の場に度々姿を現していることくらい、知っているのです」

 

 その告発でとうとう、アザゼルの笑みが崩れた。表情が固まり、しかしすぐに挑むように細められる。

 

 なんだかヒートアップしてきた二人のやり取り。私たちにはまるで関係のない舌戦だが、ただ突っ立っているだけの身には見世物のようで、二者間の火花は案外愉快だ。

 

 長く息を吐いて答えを探っている様子だったアザゼルは、それが済むと一度低く唸り、また余興を続けて言った。

 

「それが、どうかしたか?人間とつるむことが悪だなんて、そんなバカな話はないだろう。人間……てかハンターと関わりのない神話勢力なんて、今どき滅多にいやしないんだ。なあネテロ?」

 

「ネテロ殿は関係ありません。問題は人間と関わることではなく、研究対象が神器(セイクリッド・ギア)であるという点です。つまり、戦力の増強に他ならない。人間たちがそれをする分には、天使としてあまりいい気分ではありませんが……元々彼らに託されたものです、目を瞑りましょう。しかし堕天使がとなれば話は変わる。白龍皇殿のように神器(セイクリッド・ギア)所持者たちも囲って、それで野心がないとよく言えますね」

 

「……おいおい、囲うも何も、俺の所にいる神器(セイクリッド・ギア)使いってのは――」

 

 と、呆れつつ眉を下げるその顔は少し気圧されているようにも見えたが、構わずミカエルは声を上乗せ、糾弾を連ねた。

 

「それだけではありませんよ。やはりコカビエルの件も、貴方は監督不足だったといいますが、そもそも止める気がなかったのではないですか?我々天使や悪魔に対する野心があるのなら、決して考えられない手ではありません。『コカビエルの襲撃に自分たちは関与していないが、それを理由にして天使と悪魔が仕掛けてきた』とすれば、戦争再開の大義名分にはなります」

 

「……色々ツッコミどころはあるが、第一その『大義名分』とやらは、サーゼクスとセラフォルーの妹が殺されなきゃ成立しねえだろ?仮に俺にお前の思う通りの野心が存在したなら、コカビエルの結果はどうであれ、暗殺でも何してでも二人だけは必ず殺すだろうぜ。全部コカビエルにおっかぶせりゃあいいんだからな。

 だが実際はどうだ?本人どころか眷属にも死人は出てねえし、俺はヴァーリを行かせて事態の収拾を図った。ほら見ろ矛盾だ。それはお前の被害妄想だよ」

 

「しかし実際にコカビエルを倒したのは、そこのフェル殿とウタ殿でしょう」

 

 久々にミカエルと、そしてアザゼルの渋面が私たちに向く。確かにその通り。手柄を横取りされたような心のもやもやに、あの時の苦労と心労を思い出して適当に頷いてみせると、ミカエルは我が意を得たりとばかりに畳みかけ、追及を向けた。

 

「彼女たちが居なければ、皆死んでいました。その認識には私も異論ありません。白龍皇殿は事態の収拾に何一つ貢献していないのです」

 

「ふふ、手厳しいな」

 

「呑気に笑ってるなよヴァーリ、こっちが難癖付けられてんだぞ」

 

 難癖と言われてさすがに眉をひそめたミカエルを無視して、哀れなヴァ―リを叱責するアザゼルは苦しげに額を押さえた。

 

「ミカエル、そう言われると俺も苦しいが……ヴァーリの奴には、そこのミルたんも同行してた。俺経由じゃなく、セラフォルーからの依頼だ。だったな?」

 

「……ええ、そうよ。私たちは動けなかったから、お願いしたの」

 

「ミルたんがレヴィアたんに頼まれたのとほとんど同時に、一緒に修行をしていたヴァーリ君にも連絡が来たにょ。同じ目的だったから、一緒に駒王町まで飛んできたんだにょ」

 

 素直に答える二人に頷き、アザゼルは真剣の眼差しを投げかける。ミカエルは顔を険しくして受け止める。

 

「聞いての通りだ。俺たちがコカビエルを処理できなかったのは確かだが、それでもミルたんと共に解決に当たろうとはしてた。そういう心境であったことくらい、認めてくれてもいいだろう?」

 

「……どうでしょうね、案外、白龍皇殿が貴方の言う『何をしてでも二人を殺す』手段だったのかもしれません。ミルたん殿も現地で口封じするつもりが、フェル殿とウタ殿までもが居合わせたために今のような手段に切り替えたと、そう考えることもできます」

 

「それこそ憶測にすぎねえだろうが。『かもしれない』じゃなく、現実でモノを語れよ現実で」

 

「その現実を貴方が認めないから、こうやって頭を働かせているのでしょう?手に負えなくなった部下の一人を差し出すことで、将来有望な悪魔たちと神滅具(ロンギヌス)に加え、聖剣まで奪い去ることができるなら、それは十分損失に見合うだろうと、私は言っているのです。事実関係から導き出した私の意見が気に入らないなら、まずは否定するだけの根拠を示すべきではないですか」

 

「だからよォ!その意見からして的外れだっつってんだろ!?天使に悪魔と事を構える気なんて、俺にはねえんだよ!神器(セイクリッド・ギア)研究だってもちろん趣味だけとは言わねえが、軍隊作ったわけでもなしに、ささやかに有事に備えてるだけで叩かれちゃあたまったもんじゃねえ。自衛権の侵害ってやつだ。最近色々きな臭いことくらいわからねえのか?」

 

「そうですね、どこかの不満分子のおかげで」

 

「……はッ、駄目だ話になんねえ」

 

「奇遇ですね、同感です」

 

 お互い睨みあっていたアザゼルとミカエルは、そう吐き捨てて視線の火花を四散させると、乗り出した身を椅子に落ち着ける。大きく軋む一つの音に二人の気質を感じた。

 

 あるいは乱暴に椅子に座り直したその心情は、内心の疲弊から来ていたのかもしれない。それもそうだと思う。見物していた限り、まあ難しいことはわからないが、二人の意見がほとんど噛み合っていないことはわかった。野心があるかないかなんていう、目に見える証の立てられない事柄なのだから、下手をせずともこの問答は決着など付かずに延々と平行線を辿るだろう。

 

 だらしなく椅子にもたれかかるアザゼルはともかく、ぴしりと背を伸ばすミカエルにまだ千日手を続ける気があるのかは微妙な所だったが、しかし懸念をサーゼクスは重く見たらしく、ブレイクタイムを逃すまいと踏み入った。

 

「ミカエル殿、貴方がアザゼルを疑わしく思う気持ちはわかります。私も、セラフォルーも同じです。しかし……今回のコカビエル襲撃も、言ってしまえば小競り合いに過ぎない。被害も、結果的にはほとんどなかった。なのにあまりにも大それた疑惑を向けるのは、どうなのでしょう……?」

 

 大事にすれば、それこそ戦争になりかねない。政治の場でよくある現状維持の方針。

 

 だがミカエルの張られた声は、自身こそが戦争を推し進めたい野心を抱いているかのように迷いなく響いた。

 

「逆に尋ねますが、果たしてこれは、いえ、これらは小競り合いと言えるのでしょうか?重ねれば小競り合いも大戦です。僅かずつでも力を削がれ続ければ、いざという時に打つ手がなくなる。今、我々はそれに晒されているのですよ」

 

 見つめて返したその言葉は、同調ではなく明らかに敵意を含んでいた。堕天使だけでなく悪魔も疑っているのだと、言外告げられたそれは、サーゼクスはもちろんセラフォルーにも動揺を走らせる。

 

「み、ミカエルさん、どうして……」

 

 そうしてぽつりと漏れ出た声に答えたのは、ミカエルではなく、腑に落ちたとばかりに顔を上げたアザゼルだった。

 

「『僅かずつでも』、ね。なるほど、つまりお前、聖剣盗まれて疑心暗鬼になってるわけか」

 

「……盗まれたが、取り戻しただろう……?破片を元に、現在も修復中と聞いているが」

 

「エクスカリバーのことじゃねえ。いや、それも原因に含むだろうが……どうやらミカエル、お前ら行方もまだ掴めてないらしいな」

 

 意味がわからず首を傾げるサーゼクスと、何か感付きじっと凝視するミカエル。アザゼルはそれらにまた余裕の笑みを取り戻して、声に出した。

 

「盗まれたんだろ?龍殺し(ドラゴンスレイヤー)アスカロン」

 

 ミカエルの眼が見開かれた。

 

「アザゼル……!貴方、やはり……ッ!」

 

「犯人だったのかって?おい落ち着けよ、俺が盗んだのならこんな堂々告白なんてしねえって」

 

「では……なぜ盗難に遭ったことを知っているのです。この件は私以下、ごく少数しか知りえないはず……」

 

 それについてはミカエルのみならず、私や悪魔たちにも同様の驚愕と疑問を与えていた。

 

 無名の聖剣でもそうそう流出することはないというのに、伝説にもうたわれる強大な聖剣が、しかも盗まれるなんてこと、前代未聞の大事件だ。にもかかわらず私たちも悪魔たちも知らず、なぜアザゼルだけが知っているのか。

 

 しかしそれは、すぐに知れた。

 

「そういや、ニューヨークでやってるドリームオークションってのを知ってるか?」

 

 底意地の悪そうな顔だった。

 

「知っていますが……ッ!まさか……!」

 

「ああ。誰が持ち込んだかは知らねえが、盗品専門の方でな、バッチリ噂になってたぜ。……アスカロンを盗む時についでに盗ってきたんだろうな、実際、格は下がるが無銘の聖剣やら聖具やらが競売にかけられてたよ。俺も部下を行かせていくらか買わせてる」

 

「……アザゼル、その聖剣や聖具は……」

 

「返せというなら返してやらんでもない。その代わり……もうわかったろ?変に疑うのはこれっきりにしてくれよ」

 

 思いもよらない身近なところから出てきたその結末は、他人事でも、特に私たちには印象的なものだ。つい先日ピトーとの話題に出たイベント。悪い意味で思い出深い都市だから。もしも子供のお守りではなく、こっちに行って護衛か何かを受けていれば直に眼にできていたのかと、少しもったいないことをした気分になった。

 

 ピトーも何かしら思うところがあったのか微かに反応し、ネテロの後頭部からアザゼルの方へ視線を動かした。曹操も、どちらかと言えばピトーを気にして一瞥する。

 

 そのアザゼルが、しぶしぶ頭を縦に振るミカエルに続けて言った。

 

「で、運がいいんだか悪いんだか、今会場でちょっとしたごたごたが起きてるって話でな、競売が途中で止まってるらしい。アスカロンもまだ出てきてないそうだ。いつ再開するかわからねえし、教会の人間をやるにしてもマフィアの只中じゃあ体面も悪いだろ。無理矢理するわけにもいかねえ。アスカロン含めて盗まれたモノ全部、確保しといてやろうか?」

 

「……では、頼みます」

 

「それがいい。人間じゃねえほうの参加者とも鉢会うかもしれんからな。……そういやサーゼクス、その反応からして、お前もアスカロンのことは知らなかったらしいだな。会場には何人か悪魔もいたって報告があるんだが」

 

「それは……恐らく大王家の者たちだろう。彼らはその手のオークションに熱心だ」

 

「ハハッ。だとしても、だな。人のことは言えねえが、相変わらず政治はうまくいってないらしい。そりゃ不満分子(・・・・)も山ほど出るはずだ」

 

「ちょっとアザゼル!今そのことは関係ないでしょ!」

 

 顔をしかめるサーゼクスと声を荒げるセラフォルー。ついでに憤って文句を叫ぶ寸前に取り押さえられる赤龍帝。

 

 現魔王政権と古い悪魔たちの間にある軋轢は、あまりにも有名だ。

 それらをコカビエルと同じ不満分子と括ることには少しばかり違和感を感じるが、どうでもいい事柄に違和感を感じる間もなく、話は過ぎる。

 

「セラフォルーの言う通り、今日は互いの粗を掘り返すために集まったわけではないはずだ。意味のない話題は、ここまでにしよう」

 

「そう思ってるなら最初から止めろってんだ。……それで?堕天使に天使に、ついでにハンター協会まで引っ張ってきて、お前らは何が話したかったんだ?」

 

 サーゼクスは一瞬セラフォルーと顔を見合わせると、鋭く息を吸い、言った。

 

「提案は二つある。まず前提として、三大勢力で和平を結びたい」

 

 ミカエルが目を閉ざし俯き、アザゼルが鼻を鳴らした。しかしサーゼクスは構わず、あるいは世迷言と笑われていることに気付かず、二人へ力強い眼差しを向け続け、力説する。

 

「我々のこの三すくみの現状は、世界にとって害でしかない。それに、戦争の大本である神も消滅した。争う理由がないのだから、今回のような事件を防ぐためにも協定を結ぶべきだろう。三大勢力で団結することができれば、他の神話勢力に対する牽制にもなる。それに――」

 

 ネテロへフォーカスが移る。

 

「――ハンター協会と協力すれば、その枠組みに他の神話勢力を巻き込むことも可能なはずだ。アザゼルの言う通り、ハンター協会と繋がりのない神話勢力はごく少ない。しかも人間の組織が和平に賛同するのだから、信仰を糧とする神々も無視できないだろう。宗教間の争いで被害を被る人間も減ると思う」

 

「……ふむ、なるほど」

 

「随分風呂敷を広げるな、サーゼクス。世界平和がお望みか?」

 

「ああ、そうだ」

 

 顎をさするネテロと茶々を入れるアザゼルにそう言われても、しかし止まらず、サーゼクスは恥ずかしげもなく堂々と机の上で手を組んだ。

 

「だが絵空事ではない。うまくいけば、世界から無駄な争いを無くすことができる。どれほどかかるかはわからないが、今の時代、人間の世でも我々超常の世でも、戦争などあってはならないんだ。ここにいる全員がそう思っていると、私は確信している。だから共に、手を取り合ってはくれないか」

 

 ミカエルとアザゼルからその答えが出るまで、一秒と掛からなかった。

 

「お断りします」

 

「俺も、和平はごめんだな」

 

 私にしても、それは当然のことだった。

 

「てか世界平和なんてもっと無理筋だろ。なんだってお前、そんな自信たっぷりに言えるんだ?」

 

 悪魔が嫌いだということを別にして、客観的に考えたとしても結論は同じ。三大勢力間の和平など、成立するはずがない。まして世界平和の構想などはもってのほか、絵空事にすらならない盲目的な妄想だ。

 

「な、なんでよ!アザゼル貴方、戦争は嫌いだって、平和を愛してるって言ったじゃない!ミカエルも、信徒たちが戦争で死んじゃってもいいの!?」

 

 それに気付いていないのは、悪魔たちばかりであるようだった。机を叩いて身を乗り出すセラフォルーに同調して、その妹たちも赤龍帝もアザゼルを睨みつけている。

 常の行いの賜物か、ミカエルの分まで非難を一身に浴びるアザゼルは、わざとらしく大きなため息をついてみせた。

 

「何故かって?簡単だ。突然和平なんかしても、大概の連中は昨日まで殺し合ってた敵と仲良しこよしなんてできねえんだよ。大本の神は死んでも、原因までは消えやしねえのさ」

 

 それのさきがけが、他でもないコカビエルだったのだ。

 

 同胞、仲間、友を殺された憎悪はそう簡単に消えない。なのに和平で押し込めれば、当然それは反乱やテロリズムとして爆発するだろう。他でもないサーゼクスが旧魔王派を排して現在の政権を打ち立てたような、そんな事が繰り返されかねない。

 トップがいくら理想を語ろうが、人心を顧みないそれに下が付いて行くはずもない。人間界の政治を見ていれば素人でもわかるような理屈が、どうやら高すぎる野望を見上げるせいで見えていないようだった。

 

 サーゼクスは苦虫を噛みつぶしたような顔をする。

 

「しかし……どこかで断ち切らなければ、永遠に憎悪は巡り続ける。今がその時だろう?人間たちのように、前を向こうとは思わないのか」

 

「人間と我々のそれを同列に言うことはナンセンスでしょう。彼らは、百年もすれば寿命を迎え、争いの憎悪も忘れることができますが、しかし我々はそうもいかない。人間たちに倣うなら、大戦を知る者すべてを滅する他ありません。……それでも残る禍根は残るでしょうが」

 

「つまり断ち切る(・・・・)なんてことは不可能だってことだ。わかるか?突然和平なんて結べば、それこそ小競り合いじゃ済まないような大事が起こりかねないんだよ。それでも和平がしたけりゃミカエルの言う通り力ずくか、時間かけて意識改革か、あるいは……いや、それくらいだろう」

 

 決死の訴えも一蹴され、とうとうサーゼクスは意気に溢れた気迫を失った。

 隣のセラフォルーも言い返せずに黙り込むが、しかしそれだけに留まらず、何やらもごもご口の中で言葉を転がしたアザゼルは、一瞬だけネテロを見やるとすぐ戻り、三度だらしなく居住まいを崩してさらなるダメ出しを重ねた。

 

「まあ色々と無視すれば……可能不可能で言って、和平を結ぶこと自体は可能だ。こんな世の中じゃ、俺は絶対お断りだが。……しかしな、例えこの問題がクリアされ、大団円に三大勢力の同盟ができたとして、さらにおまけでハンター協会の協力も取り付けたと仮定しても、お前の企み通り他所の神話を撒き込むのはやっぱり世迷言さ」

 

「……なぜ?」

 

 サーゼクスの眼が緩慢に、得意げなアザゼルを見上げる。

 

「悪魔が世界一の嫌われ者だからだ」

 

 背後のお子様連中も含めて、悪魔全員が虚を突かれたかのように目を丸くしていた。

 

 やがて数秒後、制御装置たるリアス・グレモリーまでもが衝撃で硬直してしまったために、赤龍帝が散々言われた鬱憤を威勢良く吐き出した。

 

「おいオッサン!堕天使の偉いやつだか何だか知らねえが、適当なこと言ってんじゃねえ!悪魔が嫌われ者だって!?こんなにも優しいサーゼクス様やリアス部長が……アーシアを追放して、殺したあんたたちより、嫌われるわけがねえだろ!」

 

「……そういや、そんな話もあったな。悪かったな、【聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)】の嬢ちゃん。部下が迷惑をかけた」

 

「……ッ!!てめえ……ッく!?」

 

 おざなりな謝罪にさらに怒りを増した赤龍帝だったが、アザゼルの一睨みでたちまちのうちに委縮する。

 

 元聖女だという経歴を持つ金髪ロング、当時を思い出したのか怯えるアーシアへミカエルも一瞬眼をやったが、微かにすまなそうに眉を下げただけで何も言わず、静かな声で場の怒りを拭い去った。

 

「確かにサーゼクス殿本人は人格者です。妹君もそうなのでしょう。しかし赤龍帝殿、だからといって他の悪魔もそうだとは限らない。悪魔の駒(イーヴィル・ピース)による強引な眷属化、放逐されるはぐれ悪魔、各勢力への横暴な干渉、他にも、一般的に()とされる行動をとる悪魔は少なくないのです。それに――」

 

 リアス・グレモリーたちと、それから私たちを見渡す。

 

「四年前ですか、京都で貴女方が起こした騒ぎで、かの地では悪魔に対する規則がより厳格なものになったと聞きます。京妖怪の監視が付くんだとか。強硬な者は鎖国まで叫んだそうです。

 それだけではありません。北欧神話、ギリシャ神話、インド神話、須弥山等々、ここ最近、悪魔は似たような騒ぎを起こし続けています。……個人のことではなく、種族全体の信用がなくなっているのですよ。どんな迷惑を掛けられるかもわからない相手と同盟を結びたいとは、普通思いませんね?」

 

「そ……そんなこと……」

 

「そしてその考えは、私たち天使も同様なのです。サーゼクス殿でも妹君でもなく、そういった暴虐非道な悪魔が……もっと言うなら、そんな者たちを制御できない悪魔という種族の構造を。私は天界を守る者として、信用するわけにいかないのです」

 

「――と、つまりそういうわけだ。信用がないってのがあまりにもでかすぎる。俺たちも、和平なんかして巻き込まれたくはねえし、そこまで急ぐ理由もねえ。……サーゼクス、お前は統治者とするにはいい魔王だが、政治家としては二流三流だ。そんなやつが中心になって提案する協定なんて、怖がって誰も入りたがりやしないのさ」

 

 ミカエルの丁寧な説明を華麗に攫って、アザゼルがそう括った。今度こそ悪魔の誰も何も言えなくなり、室内がしんと静まる。

 

 これでもう、終わりだろう。魔王の馬鹿らしい思惑も、この退屈なばかりの会談も。

 結局、意見を求められることもなかった。やっぱり私たちが会談に出席する必要はなかったんじゃないか、と曹操の横顔を睨みつけるが、気付いて私に振り向く奴はいつも通りのムカつくにやけ面のまま。ここで口喧嘩を繰り広げるわけにもいかないので喉のしこりごと呑み込み顔を背ける。するとその視界の先で、ちょうどミカエルが席を立つところだった。

 

「……話は終わりですね。それでは、私は失礼させていただきます。イリナさん、行きますよ」

 

「……はい、ミカエル様」

 

 金髪ツインテールは粛々と頷き、ミカエルの後に続いて悪魔たちの間を通り抜けた。ゼノヴィアとすれ違う一瞬、彼女を気にする様子を見せたが、しかしすぐ、お互い逃げるように顔を背けた。

 

 ミカエルの護衛に戻り、前に出て扉を引く。開くその間にミカエルは思い出したように背後、アザゼルに振り向き、言った。

 

「アスカロンの件、協力をありがとうございます。お礼に、貴方が天界に置いて行った研究資料の一つ、最近発見したのですが、お返ししましょう」

 

「なん……ッ!おい、ミカエルそれは――」

 

 それほど重要なものだったのだろう。今までの軽いノリが嘘のような必死の形相で引き止めようと叫んだアザゼルだったが、ミカエルはその慌てように小さく喉を鳴らしただけで、そのまま扉の向こうへ消えてしまう。バタンと閉じて、残されたアザゼルは、長いため息を吐き出した。

 

「……マジにいけ好かない野郎だ。はあ。……じゃあヴァーリ、俺たちも帰るとするか。これ以上ここにいる意味もねえ――と、ああそうだったな、一つ忘れてた」

 

 呼びかけたヴァーリに責めるような眼を見つけ、アザゼルが私たちを見やる。

 

「悪魔からの依頼期間は八月の終わりまでだったか、その最中でも後でもいいが、暇ができたら連絡してくれ。ヴァーリと戦うって話、もうついてんだろ?冥界にいるなら好都合だ」

 

「うん、まあ、九月になってからになるかにゃ、たぶん。……って、冥界?」

 

 首を傾げるピトーの疑問には応えず、ヴァーリとアザゼルはよく似た調子でにやりと笑い、席を立った。そして悪魔たち、主に赤龍帝から嫌悪と憎悪を浴びせかけられながら、やはり部屋を出て行った。

 

 悪魔と、私たちハンター組だけが残された。しかし和平が決裂した以上、この間で話すこともない。だからこっちもさっさと解散しろと、未だ座すネテロの後頭部にピトーと一緒になって訴えた。が、老齢なジジイに圧迫はやはり通じず、軽く受け流されたその隙に、サーゼクスの失意が染みた声が差し込まれた。

 

「……ネテロ殿、貴方の返事を、まだ聞いていない」

 

 静けさの中で響き、全員の眼がそこに向く。

 

「私は……この世界の混沌を、次の世代に継がせたくはない。この世界の争いを、なくさなければならない。魔王となった責任を……私は、諦めるわけにいかないんだ。……だからネテロ殿、どうか貴方だけでも、協力してはくれないだろうか……?」

 

「私からもお願い、ネテロさん。今のリアスちゃんとハンターさんたちみたいに、みんなと仲良くしたいの」

 

 どこを見れば仲良く(・・・)なんて称せるんだ。頓珍漢なことを言うセラフォルーを、私は睨みつけた。

 

 私たちが悪魔と融和するわけが無いし、そもそもハンター協会とて、こんな話を受けるはずもない。天使や堕天使と同様、否それ以上に被害を受けているのは、他でもない人間たちなのだ。

 人間が悪魔に対する信用度は、他の比にならないほど低い。私の眼の険峻も半分は怒りだったが、もう半分は、どの口で平和を叫ぶのだと、そんな呆れを漂わせていた。

 

 だからネテロが首を縦に振るはずがないと思っていたのだが、しかし数舜後、私たちの想いは盛大に裏切られた。

 

「すでに受け入れる結論が出ております。貴方がたと協力関係を結びたいということは、前々から」

 

「は……?ネテロ、あんたジジイらしくボケて――むぐぅッ!?」

 

 私たちの事情も忘れたのか、と、信じられない思いで続くはずだった非難の叫びが、曹操によってふさがれた。お前もかと怒りがこみ上げるが、羽交い絞めされた身体は抵抗もできない。悔しいが、私はもう膂力の面でも曹操に敵わないのだ。

 

 しかしピトーは別。性別以前に種族として力持ちである彼女は、曹操には押さえられない。そもそも私で手いっぱいだろうが。

 ピトーならばたとえミルたんの妨害に遭おうが、私たちの憎悪を表明してくれるだろう。今お子様悪魔たちと関わっているだけでかなりの苦痛だというのに、その上仲良くしましょうなんて言われたら、本当に自分を抑えられなくなってしまう。

 

 私の思いは、ピトーと同じだ。そのはずなのに、眼だけ動かしてどうにか伺い見た隣の彼女は、しかし唇を引き結んだまま、ネテロと魔王たちの会話を見つめていた。

 

「それは……本当か?ネテロ殿」

 

「もちろん。しかし厳密に言えば受け入れたのはハンター協会ではなく、『V5』ですが」

 

 『V5』、どことどこの国なのかは忘れたが、近代的な五つの国家による集合体か何かであったはずだ。ハンター協会はそれの橋渡しというわけなのだろう。

 

 それなら多少、納得がいかないわけでもないが、しかしやはり、何故ピトーは黙るのか。

 

「『V5』……いや、どうであれ、協力できるのであればありがたい」

 

「我々人類も、世が荒れることを望んではおりません。今までのように取引としての情報共有ではなく、連携することができれば、はぐれ悪魔や眷属の選定などへの対応も、より安全かつ確実なものになるでしょう」

 

「……なるほど、了解した。ではネテロ殿、さっそく協定の内容について審議したく思う。三人……いや、五人か。ミルたん殿とグレイフィア以外、退室してもらおう」

 

 言われるまでもないことだ。色々思うところは残っているが、それはともかく、仲良くさせるための審議など聞きたくもない。

 そんな私の内心を悟って、曹操がようやく腕を解いた。きつい拘束で痛む身体の腹いせに小突いてやって、私はいの一番に出入り口の両扉を押し開ける。

 

 そうして、巻き込まれた会談は、私たちにさらなる嫌悪の元だけを残して終了した。




色々な乖離その二。
これにて連続更新終了。また三ヵ月後くらいにお会いしましょう。
感想ください。


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八話

前回までの三行あらすじ

コカビエル倒して
『念』教えて
三大勢力和平が平和に決裂した

思ってたよりも筆の進みが早かったので投稿します。今回も各日で計六話です。
それと第二部の七話までと第三部を修正しました。いずれも書く必要がないくらいの微修正ですが一応お知らせ。
最後に毎度の誤字報告をありがとうございます。日本語って難しいね。


「だ、だから……この間の協定で、人間がこの正式なルートで冥界に入る場合に、特別な手続きが必要になったの……!」

 

 という、相変わらず耳慣れないリアス部長の怯えた声色を、俺、兵藤一誠は黙って聞いていた。

 

 部長の眷属、『兵士(ポーン)』として転生させてもらった恩のためにも、恐怖の元は取り除いて差し上げるべきなのだろうが、しかしそれを試みてもう数週間、何度止めてもあの二人が止まらないことはわかっている。

 

 すなわち、怖いがエッチなお姉さんハンターのフェルさんと、そしておっぱい大きいけど性格が悪いハンターのウタからリアス部長を救い出したければ、そもそも他所から手を出してはいけないのだ。

 

 リアス部長がなじられているこの状況では、割って入っても事態を悪化させてしまうだけ。いかにこの俺が駒王学園にギリギリ入学できた程度の学力しかないのだとしても、数週間も同じようなことを経験すれば、最適解は放置であると理解できないはずもなかった。

 

「この列車の中でもできることだから……だ、だから少し、時間をもらうだけなの……」

 

 だから俺は部長の助けに入ることなく、冥界に行くための列車の中で、二人に従い愚直に腕立て伏せを続けていた。

 汗を垂らしながら無心で回数を百の大台に乗せ、しかし一方の二人はこっちには全く無関心なまま、変わらず部長に嘲りの眼を向ける。

 

「えー、めんどくさーい。一応あんた、私たちの依頼主なんだから、そういうの全部そっちでどうにかしてよね。冥界に行く事情を作ったのだって、他でもないあんたじゃない。責任取りなさいよ」

 

「………」

 

「そ……そんな眼で見られても……。夏休みはいつも、グレモリー領に里帰りするのが通例だったのよ……。当たり前すぎて言い忘れていたのは……悪かったと思ってるわ……。け、けれど、責任はとったはずよ……!ハンゾーの件も、曹操経由で連れて来るってことで許可を取ったし……本来ならもっと色々な手続きがあったところを、どうしても代行ができないこれ以外片付けてあげたのよ……!これだけして……貴女の言う通り、私は依頼主なんだから、少しくらい言うことを聞いてくれたっていいでしょう……?」

 

 二人が文句を思う理由は、正直わからなくはない。夏休み中、眷属全員で冥界に帰ることを知らされたのは、本当に数日前のこと。もちろん文句なんてないし、アーシアと同様に俺も旅行気分でウキウキだったのだが、しかし悪魔が嫌いだというこの二人にはサプライズではなく、まさに寝耳に水な忌々しい話だったのだろう。

 それは不満に思っても仕方ないと、俺もそう思う。だが同時に、場所が変わっただけ騒ぎ過ぎだという憤りも内心に存在していた。冥界じゃ修行ができない、なんて話があるわけでもないのに、それをネタにまた嫌がらせを繰り広げているのだ、という、修行で関わるうちに形作られた不信感。

 

 そういう怒りを吐き出してしまわないためにも俺は無視するしかなかったが、しかしリアス部長は違う。俺の自慢のご主人様は、必死の声色でフェルさんの不機嫌な視線も跳ね退け、貫通路の扉を開けた。顔を見合わせ同時に馬鹿にするように薄く笑う二人を前の車両へ追いやりつつ、俺たちの方に振り返る。

 

 嘲りのすべてをものともせずに、まるでこれから戦地に向かうかのような覚悟の表情で全員に告げるその様は、改めて惚れ直すほど堂々としたものだった。

 

「そういうわけだから、私たちは少し席を外すわ。……あとはお願いね、朱乃」

 

「ま、待ってリアス!い、いえ、部長!せめてお供に誰か一人くらい――」

 

「大丈夫よ……ただ手続きをするだけだもの。それに、やるべきことがある子もいるでしょう?」

 

 一瞬、部長の視線が俺に向いた。諸々の想いを噛み潰して踏ん張り、身体を持ち上げ切り顔を上げると、ハンター二人が前の列車に消え、部長も続くその瞬間。扉が閉まりゆく中、向けられた背に、部長の緊張が滲むその言葉を聞いた。

 

「――みんな、頑張って」

 

 耳の奥の脈動の中で小さく呟き、閉まるスライドドアがリアス部長の姿を隠した。

 それと同時に、俺は床に倒れ伏した。

 

「やっと……監視が消えた……疲れた……ッ!」

 

 すみません部長。頑張って言われてももう限界です。

 

 オカルト研究部のメンバーやフェルさんにウタ、ちょっと前に下車したシトリー眷属たちの靴跡で汚れることも構わず、仰向けにひっくり返る。投げ出した両手がじんじん痺れ、抜けた力が返ってこない。腹筋も背筋もミシミシ張って、痛いほどだ。

 それほどの疲労だった。駒王町の地下からこの冥界行きの列車に乗り込み、以来ずっと休みなしで続けさせられていた筋トレ。フェルさんとウタに強くしてくれと頼んだのは確かに俺だが、この運動量はさすがに頭がおかしいと思う。たぶん大いに私怨が混じっていることだろう。

 

 どうであれ指導の体を取っている手前、目の前で堂々休憩することは憚られたが、今はフェルさんもウタも扉の向こう。せめて戻ってくるまで修業という名の拷問は中断したかったし、言われるまま一人だけ腕立て伏せに殉じてきたのだから、休憩の権利だって当然俺は有しているはずなのだ。だって俺は、もう十分すぎるくらい頑張っている。

 

「あ、イッセーさん、休憩ですか?お疲れ様です!」

 

 いち早く気付いて席を立ち、常備品と化したタオルと水筒を手渡してくれるアーシアだって、それを認めてくれていた。

 近くからずっと見守っていてくれて、そして今、俺の疲れ切った顔を覗き込んで聖母の如き微笑みを浮かべている、大切な女の子。やっぱ天使だ、と一周回ってシンプルな感動でちょっと涙し、同時に、こんな優しい子を追放した天使のやつらって……と会談で眼にしたミカエルの優男面を思い出す。ついでに、嫌味な堕天使の親玉も。

 

 一下級悪魔の自分が魔王様に反対などすべきことではないだろうが、やっぱり腹立たしいことばかり言う奴らとの和平なんてなくなってよかったと思う。話が通じる人間、ハンターとだけ協定を結ぶ方がずっといい。子供のころから知っていて、且つ当時将来の夢にハンターと書いた自分からすれば、天使や堕天使よりもよっぽど信頼できた。まあ、実際に知るハンターは大概がアレだが。

 

 という、疲労でとっ散らかった思考のまま、俺はお礼を口にして、アーシアから汗拭きと水筒を受け取った。

 顔を拭い、一口呷る。するとそれを見計らったかのように、ゼノヴィアから既視感のある意地悪な言葉が投げかけられた。

 

「一誠、あまり飲み過ぎるなよ。運動しているうちに横っ腹が痛くなってしまうからな」

 

「わかってるよ、子供じゃねえんだから」

 

「そうか、ならいいが……早く腕立て伏せに戻るんだぞ?ノルマまであと176回だからな、のんびりしていてはグレモリー家に到着するまでに終わらせられん」

 

 顔をしかめざるを得ない。そうだ、監視はまだここにもいた。修行バカだ。

 

 薄く水が張った金盥の中心に置かれた水入りのグラスに両手をかざしたまま、『水見式』とかいう『念』の修行を続けながら、フェルさんの後を継いだゼノヴィアがこっちにじっと眼をやってくる。どうやら手続きに行った二人が返ってくるまでの間でも、サボりを許すつもりはないらしい。

 普段からフェルさんやウタと一緒にいることが多いだけに、どっちの味方なんだと思わずにはいられない。修行の進み具合よりも俺の体調を気遣ってほしいものだ。

 

 いや、というか、

 

「なんでお前が残り回数数えてんだよ!?そっちも修行中だろ!?」

 

「『纏』と同じく集中せずとも『練』ができるようにと思ってな、カウントするのも立派な修行なんだ。なあ白音?」

 

「……そうですね。けどゼノヴィアさん、イッセー先輩の残り回数は176回じゃなくて186回です。どこかで数え間違いしちゃってます」

 

「な、なに!?……うう、私もまだ……いや待て、白音の方が間違えている可能性もあるぞ!どうだ木場!」

 

「ふふ、残念、ゼノヴィア。現在カウントが214回だから、白音ちゃんが合ってるね」

 

「なん……だと……」

 

 いつものイケメンスマイルを浮かべて手の中のカウンターを見せる木場に、ゼノヴィアが愕然と呟く。同じく『水見式』をしていた白音ちゃんは、水面に浮かぶ葉っぱに眼を落としたまま、薄い表情を微かに勝利でほころばせていた。

 

 どうやら元より、俺の味方はアーシア以外になかったらしい。

 

「……なんだとは俺の台詞だよ。なんだよみんなして俺を虐めて、そんなことして楽しいか!?ちょっとくらい憐れんでくれたっていいだろ!特に木場!お前だ!」

 

「……僕かい?」

 

 とぼけた顔で首を傾げる木場に、今だけは友達を解消して糾弾する。

 

「そうだ!グレモリー眷属の男子同盟を組んだばっかだってのに、腹筋400回、スクワット400回、腕立て伏せ400回とかいう地獄に突き落とされた俺を助けないどころか、数を誤魔化せないようそんなものまで持ってきやがって……!お前には情けってもんがねえのか!」

 

「情けも何も……回数を改ざんしてやったことにするのは、君のためにも良くないよ。それは……君にはかなりハードだとは思うけど……」

 

「そうだぞ一誠!地獄と言うが、それはお前が強くなるために必要なことだと、ウタさんも言ってただろう。あともう少しなんだから、やり遂げてみせろ!いつまでたっても強くなれんぞ!」

 

 あっという間に失意から復活したゼノヴィアに、俺は喉が詰まり、眼だけで反抗心をぶつけてやった。

 

 その姿に感じる妙な迫力、たぶん『念』であるのだろうそれを見せびらかして言うその言葉は、正論だとしても、『念』の指導を望んだ三人の内、唯一資格なしと叩き落された俺に、もやもやした感情を与えてしまう。

 一人だけ何の変哲もない筋力トレーニングをやらされて、本当に強くなれるのかという不安。自分だけが停滞する中、着実に『力』を身に着けつつある姿を見せられる焦り。そんな気持ちが疼いてならなかった。

 

 しかし嫉妬していても始まらない。俺はどうにか詰りを呑み下して、起こした上体の重みを再び地面に押し付けた。

 

「へいへい、どーせ俺はただの筋トレもきついくらいの過去最弱の赤龍帝ですよーだ。ヴァーリにも人間に毛が生えたくらいの強さとか言われたし、そんなに追い詰めたらそのうち潰れるからな!」

 

 不貞腐れて言ってやれば、さすがに木場とゼノヴィアも申し訳なさそうに眉を下げた。期待したものとはちょっとズレた憐れみが入ってるように見えるのはたぶん気のせいだろう。

 

 もういっそのことこのまま困らせて休んでやる、と我ながら情けない妥協点を見つけ出し、数十分前のスクワットで脚がガクガクであることも見抜いてくれたアーシアの手伝いで、ふかふかの座席に上ろうとした。

 

 その時ふいに、車内にアナウンスが流れた。

 

――まもなく、グレモリー領に到着します。

 

 シトリー領に入った時も聞いた誰とも知れぬお姉さんの声が、今度は俺たちの目的地を告げていた。視点が低いのと座席の背もたれが邪魔なせいで窓の外は空しか見えないが、しかし風景が、ついさっきまで通っていた次元の狭間の謎空間から見慣れたものに変わっている。

 こうなるとやはり、下に広がるであろう悪魔の町を見てみたいと思うのも、ごく自然なことだろう。冥界に来るのはライザーの時と併せて二度目だが、行きは転移で帰りはグリフォン。ゆっくり見物する暇などなかったわけで、俺の好奇心に、里帰りを知らされた時の旅行気分が蘇っていた。

 

「なあアーシア、やっぱり席じゃなくて窓際まで――」

 

 運んでくれ、と言いかけたが、やっぱりすぐに復活を果たしたお目付け役が引き留めた。

 

「だから一誠!サボっていては終わらないと言っているだろう!私の目の黒いうちは、フェルさんに虚偽報告などさせんからな!」

 

「ああもうわかったよ!チクるでも何でも好きにしろよ!……でも俺は意地でも休憩するぞ!もう一秒でも運動なんかするもんか!」

 

 修行に、あるいはそれを科したフェルさんとウタに殺されるかもという、それは割と差し迫った危機感だった。

 

 そうしてゼノヴィアのお節介を三度切り抜け、やり取りの間に挟まれいたたまれないアーシアの手を借りて、俺はどうにか車窓までたどり着いた。一緒に覗き込んで、眼下の整然とした街並みに感嘆の声を上げる。

 

 ゼノヴィアがため息を吐く。

 

「……一誠、あの時の意気はどこに行ってしまったんだ。私はそれに勇気づけられたというのに……これでは本当に、フェルさんとウタさんの修行から脱落してしまうぞ」

 

 脱落も何も、各400回をノンストップという、絶対に悪意からの嫌がらせが入っているであろうこの修行メニューが正しいはずがない。それに気付かないほどの信頼をフェルさんとウタに抱いているゼノヴィアの内心は相変わらずさっぱりだが、どちらにせよトレーニングのし過ぎで潰されるのはごめんだ。

 

 何か俺が悪いみたいな方向に向いている失望の声にも、屈するわけにはいかない。野暮に割り込んでくるゼノヴィアに対抗して、やむなく心躍る風景から眼を離し、振り向いた。

 

 が、俺が何か言い返す必要もなく、朱乃さんが優しくかばってくれた。

 

「いいじゃないですか、ゼノヴィアちゃん。少しくらい休ませてあげても」

 

 部長を見送った不安から、ようやく落ち着きを取り戻すことができたのだろう。部長に次いでフェルさんとウタを恐れている朱乃さんは、未だ僅かに残るそれをいつもの微笑で覆い、悪戯っぽく言う。

 

「何もすべてを完璧にこなすことはありませんもの。気分転換のためにも、時にはおサボりだって必要ですわ」

 

「む……副部長、堕落は何も生み出さない。私は一誠のためを思って言っているんだ」

 

「一誠君はすでに十分頑張ったのだから、そう言ってあげるものじゃありませんよ。ちょっとくらい休んだって、バチは当たらないわ」

 

「そう!その通りっすよ朱乃さん!俺も頑張った分報われたいです!……特にウタなんか、あれこれをやれって言うだけ言ってそれっきりだし、こなしても一々嫌味言ってくるし……おっぱい大きくてもあんなに性格が悪いんじゃ、やる気も出ませんもん……」

 

「………」

 

 秘めた不満を言ってやって、途端になぜか白音ちゃんから熱烈な視線が飛んできた。しかもあまり好意的なものではなさそうだ。表情も口数も乏しい、オカルト研究部マスコットから飛んできた思わぬ憤懣だったが、言葉が伴わないためにどうにも返せない。

 

 数秒見つめ合ってから仕方なしに咳払いで振り切り、そんな彼女を悲しみと慈しみが混ざったみたいな表情で見つめる朱乃さんに、俺は視線を戻した。

 

「ま、まあフェルさんは……怖いことを除けば、悪くないですけどね、嫌味言わないし。けどやっぱり、大体傍にウタがいるからストレスが溜まるばっかりなんですよ。どうにかなんないですかね、あれ」

 

 と、また怒りの眼差しが側頭部に突き刺さる。修行内容はともかく、同じハンターであるハンゾーですら常時のウタの性格が悪いことは否定しないというのに、なぜ……。

 

「……あの人たちも、悪い人ではないのよ……?」

 

 そう思っていたところに、朱乃さんがいかにも自信なさげに庇うような言葉を呟いた。疑問にさらに驚愕が混じるのもつかの間、白音ちゃんに感じる怒りがちょっと治まり、それに気付く。

 

(……ああ、なるほど)

 

 悪く言ったことがそもそもの原因かと納得し、しかし白音ちゃんがそれに怒る理由も、よりにもよってリアス部長と並んであの二人を恐れている様子の朱乃さんがそれを理解し言った理由もよくわからず、俺は首を捻った。

 

「いや、そうは言っても……あいつらいっつも俺たちのことを散々罵って、挙句に……あの曹操とかいう変態イケメン野郎とも知り合いなんですよ!?これで性格が悪くないわけがないじゃないですか!」

 

「……曹操が、『変態イケメン野郎』ですか」

 

 白音ちゃんの機嫌をまた悪化させてしまった俺の台詞に、朱乃さんは苦笑しながら、それでもさっきとは打って変わってちょっと嬉しそうに頬を緩めて答えてくれた。

 

「フェルとウタに関しては、正直に言って私も、少々言葉が汚いと思いますわ。けれど……けれどやはり、悪い人ではないのよ……きっと。以前彼女たちは、誘拐されかけた白音ちゃんを救い出しているのですから」

 

「……え!?ちょっと待ってください!誘拐されかけた!?白音ちゃんが!?」

 

 普段の修行中でも二人に無視されがちな白音ちゃんを、その二人が救い出したというだけでも十分な驚きだが、それ以上に、仲間の過去に思いもよらぬ危機があったことに震えが来た。もう解決済みの事柄なのだろうが、それでも当時を想像して肝が冷える思いだった。

 

 朱乃さんは頷き、同じく動揺するアーシアとゼノヴィアにも眼を向けて続ける。

 

「度々耳にしたでしょう?京都のでのことです。私と部長と白音ちゃんと、後は護衛の方と一緒に旅行へ赴いた時……運悪く人間の盗賊団に襲われ、捕まってしまったのです。動機はまだはっきりとはしていませんが、恐らく白音ちゃんの猫魈という希少性を狙って、何処かへ売り飛ばそうとしたのでしょう」

 

「ミルたんという巨漢と……それに、ミカエル様も言っていたな。なるほど、あり得る話だ。裏社会ではそういった取引が日夜行われていると聞く」

 

「そ……そんなことが……」

 

 いけ好かない天使の名前を思い出してしまったゼノヴィアが顔をしかめ、その肯定に俺と同じく想像を確固なものにしてしまったアーシアが、ショックのあまりふらふらと身体を揺らして後退った。

 その脚が座席のふちに引っ掛かり、ふかふかの革張りに落ちると、勢いのまま倒れ込みそうになる。ちょうど隣で修行をしていた話題の当人、白音ちゃんがその身体を支えると、瞬く間にアーシアの両腕が白音ちゃんの頭を絡め取り、力いっぱいに抱きすくめた。

 

 優しいアーシアは、あったかもしれない白音ちゃんの悲惨に、心が痛んでたまらないのだろう。突然のことに困惑し、『水見式』のグラスから離した手でわたわた慌てる白音ちゃんの様子からして誘拐のことは引きずっていないようだが、だとしても四年前の当時は、きっとすごく怖かったはずだ。

 

 そこから救ってくれたのが、フェルさんとウタなのだ。

 

「つまり白音ちゃんにとって、フェルさんとウタは命の恩人だってことか……。そりゃあ、悪く言われたらいい気はしないよな。……ごめん、白音ちゃん」

 

 例えるなら、俺にとってのリアス部長。俺は白音ちゃんの大切な人を侮辱していたということになる。それは、怒って当然だろう。

 

 しかしだからこそ、俺はフェルさんとウタが悪い人ではないなどと――少なくともいい人であるとは、絶対に思えなかった。

 

 自身なさげに言った朱乃さんだって、本心では信じていないに違いない。過去に白音ちゃんを救ったのだとしても、現在の態度がフェルさんとウタのその善性を掻き消してしまっている。聞いた印象と見た印象が全くかみ合わず、いっそもう別人の話と混ざってしまっているんじゃないかとすら思えるほどのかけ離れっぷりだ。

 ウタの嫌がらせの数々もさることながら、フェルさんがリアス部長に向ける殺気だってそう。味方であるはずなのに命までもを脅かすかのような視線は、手が出なくてもそれだけで信用することが難しい。フェルさんもウタも、たとえその原因が悪魔嫌いにあり、よほど酷い目に遭わされたのだとしても、知りもしないそれを勝手にぶつけられたって納得できるはずもなかった。

 

 だから、白音ちゃんのためにもう口には出さないだろうが、俺には白音ちゃんの気持ちを真に理解することはできない。おっぱいと見た目は別として、俺が白音ちゃんのように彼女たちを好くことはないだろう。

 

「……んん……ぷはっ!ええと……別に、謝ってもらいたかったわけじゃないんです。確かに私も、ウタさまとフェルさまのことは……イッセー先輩のトレーニングも含めて、ちょっとやり過ぎだって思う時もありますから」

 

 俺が目を伏せ謝意と反抗心に葛藤しているうちに、どうやら白音ちゃんはアーシアの抱擁から脱出を果したようだった。アーシアの肩から頭を出して、意外なことに俺の主張の一部を肯定してみせる。そして続けて僅かな逡巡の後に、俺をしっかりと見つめて言った。

 

「悪魔である私たちとは、相容れない方々なのかもしれません。四年前もそうでした。リアス部長も……私も、お嫌いなのだと思います。けれどそれでも、あの方々は私たちを守ってくれたんです。その背中がすごく頼もしくて、優しくて……安心できた。今回もそうでした。だからリアス部長も、イッセー先輩とゼノヴィアさんをお二人に任せることを認められたんじゃないでしょうか」

 

「……部長が、フェルさんとウタを信用してるってことか……?」

 

 訝しく思って尋ねると、白音ちゃんは力強く頷いた。

 

「私のためにウタさまとフェルさまを雇ってくださったこともそうだと思いますけど、でなければ眷属思いのあの方が、私たちをハンターに任せることはないと思います。好き嫌いではなく信用という意味で、部長はお二人に、曹操さまと同じくらい(・・・・・・・・・・)のものを抱いているんです。だからウタさまもフェルさまも、イッセー先輩が思っているような非道な人では――」

 

 と、一生懸命にフェルさんとウタの善性を説く白音ちゃん。部長の名前を出されて、俺もちょっとだけ己の考えに疑問を巡らした。

 

 それでも結局意見は不変だったのだが、かといって俺は決して妨害したかったわけではない。したかったわけだはないのだがしかし、突如飛び出してきたそれ(・・)には突っ込まざるを得なかった。

 

 なぜここで曹操を例えに出す。

 

「……おいおい、ちょっと白音ちゃん。曹操と同じくらいって言ったら、そんなの信用なんかあるわけないじゃんか。それどころかフェルさんもウタも、とんでもない極悪人になっちまうよ。ははは!白音ちゃんってば、こんな空気で間違えちゃ駄目だって!」

 

「え……ええっと……曹操さまは四年前のあの時にウタさまたちと一緒にいて、リアス部長を助けたんですが……?」

 

 なんとまたしても驚愕の事実が明らかとなったが、しかし変わらず俺の声には笑いが漏れる。そもそも曹操はフェルさんやウタをも凌ぐほど、疑いようもなく悪いやつなのだから。

 

 最初に奴が姿を現した時リアス部長に何をしたのか、白音ちゃんはもう忘れてしまったらしいが、俺の記憶にはしっかりと焼き付いている。ギャスパーの神器(セイクリッド・ギア)が発動した違和感を感じ取った瞬間、突如として出現した開口一番に、その調子に乗ったすまし顔のイケメン面で、奴はウタの嫌がらせよりも許しがたいことをした。

 

 にっこり微笑みかけ、「お久しぶりです。リアス・グレモリー殿」。つまり俺のリアス・グレモリー様に色目を使いやがったのである。

 

 ライザー並みのゲス野郎だ。いつ手を出すかわかったものではない。フェルさんとウタをそんな奴と同列に並べるのは、さすがに可哀そうだろう。信用できないにしても、そう思うくらいの情けは持ち合わせていた。

 

 のだが、どうやらそうであるのは俺一人だけらしい。しんと静まる周囲に気付き、見渡すと、木場もアーシアもゼノヴィアも、皆一様にあっけにとられたような表情。

 なぜわかっていないのかと、唯一いつも通りの笑みを浮かべている朱乃さんに同意を求めて眼を向けた。

 

「いやだって、顔を見るなり部長をナンパしようとした奴なんですよ!?部長がとんでもない美女だからって、いきなり色目を使うような奴が『いい人』なわけありませんもん!ねえ朱乃さん!?」

 

「あらあら、そうかもしれませんわね。けれどどちらかと言えば、色目を使っているのは曹操ではなく部長のほうかしら」

 

「……はい?」

 

 何か、異物が入り込んで思考が止まった。『色目を使っているのは曹操ではなく部長のほう』?そんな意味不明な日本語があっただろうか?

 

 あまりにも理解不能すぎて視界までもがぐにゃあと歪んできた頃、不意に朱乃さんの手が俺の頬を挟んだ。そのまま顔が目の前まで近づいて、唇が触れ合う寸前で止まる。アーシアの慌てたはわわの声と、俺の眼を覗き込む朱乃さんの色っぽい眼が超至近距離で合わさり、それで俺はどうにか忘我の極致から抜け出すことが叶った。

 

 にこりと変わらぬ笑みを浮かべ、朱乃さんの吐息が、熱くなりつつある俺の頬をさらに茹でる。

 

「白音ちゃんのように、部長も四年前に襲われたのですよ。だから盗賊団と、それにフェルとウタの詰問から庇ってもらったことが嬉しかったらしくて、それ以来ずっとお熱なの。眷属として勧誘したこともあったのよ?すげなく断られていたのだけど。……私も彼に庇われたのだけれど、リアスはちょっと夢中過ぎですわね」

 

 非常に、非常に身の凍る思いだったが、頬の熱と、朱乃さんが幸運にも曹操の魔の手から逃れていたことが相俟って、俺は辛うじて正気を保つことができた。

 

 朱乃さんは無事だったのだと安堵の息を吐き、するとその朱乃さんの目が、嬉しそうに細められた。この前、堕天使のハーフであることを告白した彼女に半ば告白めいたことを言った時にも見た表情だった。

 

 驚いて見つめていると、やがて朱乃さんは俺の頬から手を離し、一撫でしてから顔も離して近くの座席に腰を下ろした。間を置いてやってきた気恥ずかしさにドギマギする俺を見て楽しそうに笑い、そして話をまとめる。

 

「だから、イッセー君が曹操を嫌うのは自由だけれど、やり方を間違えれば、勢い余ってリアス部長にも嫌われてしまいますからお気をつけて、ということです。うふふ、とはいえ人間である曹操と上級悪魔である部長が結ばれることは難しいですから、イッセー君がちょっとかっこいいところを見せれば、案外すぐに取り戻せるかもしれませんわね」

 

「す、すぐに取り戻せる……?」

 

「ええ、だって部長の眷属なのだもの。ライザーの件もあることですし、ハンターであり滅多に接触のない曹操よりも、チャンスと可能性はずっと多いでしょう?」

 

 確かにそうだ。思い返せば確かにリアス部長は曹操との再会を喜んでいる様子だったが、しかしそれは久しぶりに会うことができた喜びで水増しされていたものなのかもしれない。

 

 だとすれば絶望なんてしている暇ではない。むしろ今すぐアピールせねば、と、与えられた希望で背中の怖気を完全に消した俺は、続いてそんな焦りに襲われる。部長は曹操の色目を嫌がっているに違いないと思い込んでいた過去の自分の呑気さが恨めしく、その緊張故に意味もなく背筋を伸ばして尋ねた。

 

「そ、それで……かっこいいところって、具体的にどうすれば……」

 

「そんなもの決まっているだろう!強さだ!つまり、トレーニングの続きだ!」

 

 微笑む朱乃さんに代わって、機を得たとばかりに逸ったゼノヴィアが声を上げた。

 白音ちゃんすらフェルさんとウタのトレーニングがやり過ぎであることを認めたというのに、未だ一人だけ二人を信じ切っている。俺を含めた周囲の呆れ顔にも気付いていないようで、俺はまた繰り返さねばならないことに気疲れを先取りしてため息を吐き、ジト目で修行バカを睨みつけた。

 

「……だから、それに関しては俺はもう意地でもやらねえぞ!筋トレで強くなれるんだとしても、やりすぎは筋肉の疲労がなんとかで逆効果なんだ!さっきから思ってたけど、お前もしかして知らないのか!?」

 

「知っているさ……!少なくとも、フェルさんとウタさんはな!そんな二人が設定した回数がやりすぎになるはずがないだろう!ギリギリを狙ったハードモードなのは認めるが、それも偏にお前を強くするために――」

 

「それが一番あり得ねえっての!!絶対、強くなる前にオーバーワークで殺されるわ!!やるにしてもちょっとは休ませろよ!!」

 

「この程度で死ぬわけがないと、何回も言っているだろう!!私は人間時代に、種類も回数もさらに多いトレーニングをしたことがあるし……ハンゾーなんてもっとすごいぞ!!なんと腕立て伏せ千回が、忍者の里での訓練で罰ゲーム扱いだったらしい!!となれば当然、本来の訓練の運動量は腕立て伏せ千回以上のハードさだ!!人間でさえそれだけできるのだから、悪魔のお前にできないはずはない!!」

 

「え嘘あいつそんなやべえことを――」

 

 と、また話がそれて驚愕と称賛へ向きかけた。その時だった。

 

 突然車内の全員を襲った振動が、出かかった言葉を動揺の中に吹き飛ばした。

 

「のわ――ぐげっ!?」

 

 前触れのない横への重力に引っ張られ、白熱の論戦に立ち上がろうとした両脚がなぎ倒された。同じくみんなの悲鳴が響く中、俺は再び床へダイブしてしまう。

 顔だけ持ち上げ何事かと見回すと、すぐにその答えは鳴り響いた。

 

 ――緊急停止信号です

 

 という、短いアナウンス。

 大分疲労が取れてきたと思っていたが、どうやら列車が急停止した慣性に耐えられるほどではなかったらしい。手を突いて身体を持ち上げながら、同時に両腕の疲労もいまだ健在である事に煩わしさを感じつつ、俺は図らずも一回分腕立て伏せの回数を消化してしまったことと含めて、それをため息に混ぜて吐き出した。

 

「いってて……いったい何だよ。列車まで俺をコケにしてんのか……」

 

「……緊急停止信号と言っていたから、先で事故でも起きたんじゃないか?運がよかったな一誠、これで腕立て伏せの制限時間が伸びるかもしれん」

 

「いや、事故なんてそうそう聞かないから……たぶんハンター協会の関連じゃないかな?」

 

 俺の恨み言とゼノヴィアの的外れを木場が否定した。訝って眉を顰めるゼノヴィアに頷く。

 

「ほら、さっきも部長が言ってただろう?人間が列車のルートから冥界に入る場合、手続きが必要になったって。この間の学園での会談で決まったのだと思うけど……聞いたところによると、今その協議の続きのために、ハンターや人間界の偉い人たちがこっちに来ているらしいんだ。そのせいで色々ごたごたしているんだと思うよ」

 

「ほー、なるほどなあ。そりゃあ、でっかい協定が一日やそこらで纏まるわけないもんな……」

 

 俺の知っている人間社会での条約や何やらも、大概は長い会議なんかの後に結ばれるものだ。

 

 納得しながら、ふとこの異常で手続きに行った三人が戻ってきてしまうのではないかという危惧が脳裏によぎり、反射的に貫通路に視線を投げた。変わりなく閉ざされたままのそれを凝視したまま、急いで身体をひっくり返し、うつ伏せに戻る。

 

 その瞬間、またしても異変が起こった。

 

「あ……れ……?空が――」

 

 悪魔の町に広がるくすんだ青色から、一瞬にしていつぞやの謎空間に塗り替わった。

 

 そのことを口に出す間もなく、

 

「ッ!!」

 

 仲間の姿と周囲の風景が失われ、踏みしめた床と振れた座席の感触が霞のように消え去った。たちまち全身を襲う落下感。唐突に起こった訳もわからない謎の出来事の連続に、俺は馬鹿の一つ覚えみたいに「うわああ!!」と叫ぶことしかできなかった。

 

「――あれ……?」

 

 が、ふと気付けばその怪奇現象は終わっていて、身体の前面に硬い地面の感触があった。列車のそれではなく乾いた岩肌と砂のようだったが、しかし疑問はともかくうつ伏せ状態の身体を起こすべく、俺はまた慣れた動作で両手をついた。

 

「どこだ、こ――ごほぉ!!」

 

 そして腕の半分を持ち上げた途端に背中に落ちてきた重量物で、都合三回目の腕立て伏せをする羽目になってしまった。

 

 また地面に押し付けられながら、人でも落ちて来たんじゃないかと思うほどの痛撃に耐えつつそれを振り落とす。どさっと結構重そうな音がして、今度こそ身体を落ち着かせると、風景を捉えた。

 

「い……岩山!?」

 

「……の、ようだ。強制転移させられたのか?」

 

 聞こえたその声の通り、振り向けば、服にさっきはなかった土汚れをつけたゼノヴィアが、俺と同じくそびえたつ険峻な斜面を見上げていた。

 

 いや、ぐるりと周囲を見渡してみれば、アーシアも朱乃さんも白音ちゃんも木場も、みんな唖然として辺りを見回している。だがリアス部長とフェルさんにウタの姿は見えない。

 どうやらあの車内にいたメンバーだけが、ゼノヴィアの言うところの強制転移を受けたようだった。

 

 ならさっきの停止信号然り、これは何らかの事故なのか。見知らぬ場所に放り出され、これからどうすればいいのか。

 心に湧き出るそんな不安と恐れを噛み潰して、俺は立ち上がろうとした。

 

「……うう……いたい……で、出ますから、これ以上僕に乱暴なことしないで……」

 

 が、誰もいないはずの真隣から聞こえたその高い声に、驚いて飛び退かざるを得なかった。

 

「おわあッ!!――って、そうかギャスパーか!びっくりさせんなよまったく……」

 

 あの時俺の背中に振ってきた謎の物体は、お気に入りらしき段ボール箱に隠れたギャスパーだったのだ。

 

 そうだ、グレモリー眷属みんなで冥界に里帰りするのだから、こいつもついてきていて当然だ。隠れていたうえにあまりにも影が薄くてしゃべらなくて、しかもつい最近仲間と認識したばかりだという三拍子が揃ったために、今の今まで忘れていた。

 

 そんな俺の失態を知らないギャスパーは、俺と部長の努力実らず未だ人見知りと引きこもり癖が治らないために、たぶん落下の衝撃に、そのことを責められていると思ったのだろう。あるいは顔を見せろと催促されていると解釈したのか、俺の驚きの大声に身を――というか地面に鎮座する段ボール箱を震えさせた後、ゆっくり恐る恐るに蓋を開け、目だけをちらりと覗かせた。

 

 そして一瞬の後、悲鳴を上げて引っ込んだ。

 

「ど、どどっどど、どこですかここぉ!?なんで僕、外に連れ出されて……ま、またイッセー先輩、僕に酷いことをするつもりなんですか!?も、もうやだ誰か僕を再封印してくださいぃ!!」

 

「お、おい落ち着けよギャスパー!これはあの時みたいな特訓じゃなくて……俺も訳がわかんねえけど、何かの事故に巻き込まれたんだよ!」

 

「……そうですわギャスパー君。私たちは何もしないから、安心してください」

 

「うう……ほ、本当ですか……?」

 

 いつの間にか隣に来ていた朱乃さんの言葉に、ギャスパーが辛うじて落ち着きを取り戻す。いつもの優しい声と笑みで「本当ですよ」と肯定し、朱乃さんは手招きして他の仲間たちも呼び寄せると、近くの岩に腰を下ろした。

 

「さて、とにかくみんな無事ですわね。……部長たちはわかりませんが、フェルとウタが付いているでしょうし、きっと……ええ、きっと大丈夫でしょう。しかし部長の不在で指示系統を混乱させるわけにも行けませんから、再会できるまでは私が代理として取り仕切ります。いいですわね?」

 

「はい副部長!……けど、実際さっきの、何が起きたんですか?ゼノヴィアは強制転移って言ってましたけど……」

 

 皆に先んじて空元気気味に返事をしてから、しかし保てず不安を口に出してしまう。何が起きたのか、なぜ転移させられたのか、全く想像がつかず、不気味だ。

 

 しかしそれは朱乃さんにもわからないらしく、その優しげな笑みに陰を乗せてしまった。

 

「……何らかの事故、としか。乗員の緊急脱出が必要な事態が起こったとは思えませんし……考えられるとすれば、そういった装置の誤作動を起こしたとか、そのような理由でしょうか」

 

「僕もそうだと思います。しかし、となれば、僕たちはどこかに転移させられた部長を探しに行くべきでは?『騎士(ナイト)』として、僕は部長をお守りしたいと思います」

 

 木場がそう言い、俺も首を縦に振る。しかしそれは、白音ちゃんに止められた。

 

「やめておいた方がいいと思います。見た限り、周辺は森ばかりですし、闇雲に探し回っても迷うだけです。……こうなったらいっそ、転移魔法でお屋敷に飛ぶべきだと思います。怒られてしまうかもしれませんが……」

 

「うむ、私もそれが正しいと思う。規則だなんだと言っている場合ではないだろう。下手に動けばアーシアと、それにそこのギャスパーをも危険に晒すことになる」

 

「え、ええと……私は大丈夫ですから、お気になさらないでください。皆さんの意見に従います」

 

 ゼノヴィアの同意に続き、アーシアがちょっと震えて山裾の樹海に眼をやり、頷いた。

 そんな姿を見せられ思い至ってしまえば、俺の頭も重くなる。八対二で部長の捜索に傾いていた思いが六対四くらいにまで持ち上がり、しかし何があろうがアーシアは絶対守ると覚悟を宣言する前に、朱乃さんの言葉で天秤が逆転した。

 

「そうですわね、私も転移すべきだと思います。それに、列車で何かしらの事故があったことはもうしれているでしょうし、明確な非常事態です。イッセー君もアーシアちゃんもゼノヴィアちゃんも、罪に問われたりはしないでしょう」

 

「……まあ、朱乃さんがそう言うなら……」

 

 従わないわけにいくまい。根拠があるならなおのことだ。

 木場も神妙に頷いて、それでもう全会一致に結論付けられた。皆を見渡しそのことを確認すると、朱乃さんは微笑んで言った。

 

「それでは、決まりですわね。もどかしいかもしれませんが、部長の無事を信じて転移魔法陣で移動しましょう。……とはいえ――」

 

 苦笑が挟まる。

 

「この人数が転移できるだけの魔法陣を完成させるのには、少し時間が掛かります。十分程度でしょうか、その間、少しお待たせすることになってしまいますわね。ごめんなさい」

 

「全然!大丈夫っすよ朱乃さん!魔法陣引いてくれるだけでありがたいですもん!十分くらい、そこらへん散歩してたらすぐですよ」

 

「そうかもしれんが、一誠、少なくともお前は散歩などせずとも時間が潰せるぞ。こういう時こそ修行だろう!」

 

 なんとゼノヴィアはまだ言うつもりらしく、立ち上がった俺の肩を押さえてくる。もう苛立ちを通り越してうんざりするほどのしつこさだが、仲間のよしみだ、無視だけは勘弁してやることにして息を吐いた。

 

「あー……ほら、あれだ。山とか森とかを歩くのも、立派な訓練だろ?そっちで頑張るからさ、だから――」

 

 もうほっといてくれと、言いかけたら間もなく意外な首肯。

 

「む……確かに、森歩きはいいトレーニングになるな。……むしろそのほうがいいかもしれん」

 

「お、おう……だろう?……なんで突然そんな物分かりいいんだよ……」

 

「そんなことはないぞ?そっちの方がお前のためになると思っただけだ。存分に走ってくるといい。……さて白音、私たちは……『水見式』のコップも水もなくなってしまったし、『纏』をするか。今更という気もするが」

 

「存分にって……走るわけねえだろこんな足場の悪いところを。……ですよね?朱乃さん、走るわけじゃないですよね……?」

 

「うふふ……どうでしょう、やっぱり特訓のお手伝いをするのもいいかもしれませんわね。白音ちゃんとゼノヴィアちゃんがここで修行をするのなら、ちょっとくらい時間がかかっても構わないでしょうし」

 

「ええまあ……暇つぶしには困りませんから。……それとゼノヴィアさん、今更っていっても、維持はともかく精度はまだ私でも改善の余地があると思います。いつもずっと揺れてますから、もっと静かに、です」

 

「そ、そんな、朱乃さん!『イッセー君は休むべきだ』って言ってくれたじゃないですかぁ!」

 

「だ、大丈夫ですイッセーさん!今度も私がサポートしますから!」

 

「……『もっと静かに』?……なるほど、努力してみる……」

 

「あらあら、アーシアちゃんったらさすが。これは私も、気合を入れてお手伝いせねばなりませんわね」

 

「僕は……うん、僕はイッセー君の散歩に付いて行くよ。君が強くなりたいというのなら、僕も心を鬼にしないとね」

 

 などと、俺が驚きと失意で呆然としているうちに混雑してきたグレモリー眷属の会話。部室での賑やかさが返ってきたようで、確定した修行への絶望感は残りつつも、この強制転移などという未知の事態に対する緊張は大分ほぐれ始めていた。

 落ち着きを取り戻し、報告や会議でなく談笑のようなやり取りが、自然と皆の表情をも温める。和らぎ、リラックスした空気感は、もちろん俺の内心をも呑み込んだ。

 驚きと失意が薄れ、だからこそ特訓にも、まあ仲間が指導してくれるならいいかと、言い訳を作って納得した。しぶしぶ首を縦に振り、じゃあ早速行こうと岩山のてっぺんを指さす木場に従って、目を閉じ『纏』とやらを始めた白音ちゃんとゼノヴィア、そして気配を殺して段ボール箱に閉じこもり続けるギャスパーに背を向けた。

 

 続く談笑の下、剣山のような岩肌に手を掛けた。その時聞こえた見知った声に皆が振り向いたのは、ちょうどその瞬間だった。

 

「全く、危機感の欠片もないな、君たちは」

 

 初めてのクライミングに背を支えてくれていた木場の手が突然離れ、俺は驚きと併せて背中から落ちてしまう。

 まだ一歩も進んでいなかった故に大してダメージはなかったが、それでもぶつけた後頭部を抱えて呻き、染み出る涙で視界が潰される。だがそんな滲んだ視界でも、俺たちとも白音ちゃんたちともほど近い、この台地の端に誰かが降り立ったことはわかった。

 

 たぶんそれがこの声の主、憎き曹操の野郎なのだろう。

 

「ああ、曹操。よかった、貴方が助けに来てくれたのですね。それで、部長たちは無事なのですか?恐らく私たちと同様に、どこかに飛ばされたのだと思うのですが……」

 

「いや、あの三人は転移させられていないよ。今も列車の中で書き物でもしているだろうな」

 

 その台詞に、朱乃さんも俺も得も言えない違和感を感じた。奴に対する敵対心も一瞬冷えてしまったそれは、聞きなれない奴の投げやりな口調と、中に含まれた奇妙な刺々しさ。

 

 最初にフェルさんを見た時のそれに、少し似ていた。

 

「れ、列車、ですか……。ということは、これに巻き込まれたのは私たちだけということですか。事故にしては何とも妙ですが……いったい、何があったんでしょう……?」

 

 曹操が、朱乃さんの質問に露骨に失笑した。失礼だと詰め寄るべき場面だが、俺も他の皆も、それができない。できないほど、曹操が纏う気配が重い。

 

「ハハッ!『何があった』、か?これが事故?まだわからないのか、君たちは。ここまで言って思い至りもしないとは、さすがに腑抜けすぎじゃあないか」

 

「……さっきから、お前何言ってんだよイケメン野郎……!俺たちを、助けに来てくれたんだろ!?なら早く……リアス部長の所まで連れてってくれよ……ッ!」

 

 起き上がり、俺はどうにか声を張り上げた。

 

「……しょうがない、ヒントを上げよう」

 

 だが曹操は全く取り合わず、困惑、そして怯えが混じった動揺で息を呑む俺たち全員を薙ぐように見やって呟き、呆れたとでも言いたげに肩をすくめると、続けた。

 

「ハンターは、その専門分野によって俗称が付くんだ。財宝の採掘だったり保全保護だったりを専門にすれば『財宝(トレジャー)ハンター』、凶悪犯罪者や手配犯などの賞金首を狙うことを専門にすれば『賞金首(ブラックリスト)ハンター』、といった具合にね。ちなみにフェルとウタは、二人とも『悪魔(デビル)ハンター』として知られている。何が専門なのかは、言わなくてもわかるだろう?まあこれは関係ないが……」

 

 合間に、キンと金属音が鳴った。曹操が手に持った長い棒で地面を突いたのだ。ようやく目尻に涙を消して、俺はそれを認識した。

 

 長く、シンプルな格好の槍。

 

 紛れもなく、人を傷つけるための武器だ。

 

「それに当てはめると、俺は『神器(セイクリッド・ギア)ハンター』だ。つまり、神器(セイクリッド・ギア)を狩るのが仕事なわけなのさ」

 

 まさかそんなことがあるわけがない。そう否定するように、すぼまる気道で必死に息を吸う。きらりと光を反射して瞬く槍先から眼を離せぬまま、俺は言葉を絞り出す。

 

「――だから……なんだよ……!」

 

 だが奴は笑って、俺と、アーシアと、木場と、そしてギャスパーを見やって言った。

 

神滅具(ロンギヌス)である【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】に、【聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)】、【魔剣創造(ソード・バース)】と禁手(バランス・ブレイカー)の【双覇の聖魔剣(ソード・オブ・ビトレイヤー)】、それに……【停止世界の邪眼(フォービトゥン・バロール・ビュー)】。これほどのモノを目の前にして指を咥えて見ているだけだなんて、そんなのあんまりだと思わないか?」

 

「だから――なんだよッ……!!」

 

 俺は渦巻く激情のあまり、繰り返すことしかできなかった。もう、その答えは予想できてしまっていた。

 

 そして、曹操は、

 

「君たちを、殺すよ」

 

 そう言って、さわやかに笑った。




デビルハンターといってもどこぞのスタイリッシュなオッサンのことではない。
次回は第三部に於ける曹操の貴重な見せ場です。感想ください。今『感想ください』を『肝臓ください』と打ち間違いそうになったことを告白します。


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九話

「僕たちを……殺す……?」

 

 ギャスパーが段ボール箱から顔を出し、呆然と曹操を見る。

 

「ああ、殺す。でなければ神器(セイクリッド・ギア)取り出せないだろう(・・・・・・・・・)?」

 

 昂然とした答えを浴びせかける曹操。ギャスパーはやはり、ぽかんと呆けるばかりだ。いきなり殺すだのなんだの冗談みたいなことを言われて、まともに受け止められるはずがない。

 

 だが俺にはその冗談が、むしろ宣言が本心であると強く印象付けていた。ずっと前、忘れたくても忘れられないあの女、レイナーレも同じことを言っていた。持ち主の生命力や魂と密接に結びついているから、神器(セイクリッド・ギア)は持ち主を殺さなくては抜き取ることができないのだ。

 

「正直、最初はこんなことをするつもりはなかったんだ。君たちは上級悪魔の下僕にしてはかなり仲が良い。例えば一人でも殺せば血眼で犯人を捜すだろう。俺が犯人であるということに、恐らくたどり着いてしまう。協定が結ばれるこのタイミングで今の立場を失うことは、あまり望ましくない」

 

 ギャスパーと同じ、いや、事態を把握しつつある分だけ不安を増した皆の静寂の中、曹操は言う。

 

 へらへらと、何でもないことのようにしゃべり続ける。

 

「だが運のいいことに、聞けば君たち、列車で冥界に帰るそうじゃないか。四角い檻に自ら入ってくれるということなら、危険を冒してこそこそ暗殺する必要もない。まとめてどこかに飛ばして、そこでゆっくり殺せばいいんだから。冥界には、悪魔の目も届かない未開の地がいくらでもある。そこで君たちが死んでも、まさか列車にも乗っていない俺の仕業だと思う奴はいないだろう?」

 

「そ、曹操……貴方……本当に、いったい何を言って……」

 

 朱乃さんの絞り出したような言葉も無視して、続く。

 

「面白いのがね、この状況を作り出すために俺がしたことが、列車のシステムへの細工だけだって点さ。たったそれだけでここまでおあつらえ向きの状況を作り出すことができた。愉快だと思わないか?今まではどれだけ策を弄しても実現できなかったことが、たった一つ手を加えるだけでものになったんだ。あまりにも都合がよすぎて、俺はもう笑いを堪えるのが大変だったよ」

 

「……うそ……だろう……?曹操、お前は……」

 

「そんな……まさか、貴方が……」

 

 ゼノヴィアと木場が呟く。白音ちゃんも呆然としたまま、曹操がゆらゆら揺らす槍先を見つめている。

 

 誰一人、現実を受け止められない。それほど曹操の様子に異質を感じるのだろう。

 

 そこに、俺はとうとう限界を迎えた。

 

「――曹操、お前、ずっとそんなこと考えてたのか」

 

 ぴくりと肩眉を上げ、曹操は応える。

 

「ああ、そうだ」

 

「ずっとみんなの信頼を……リアス部長の信頼をッ……裏切ってたのかよ……ッ!」

 

「ああ、そうだ」

 

 全く変わらない調子で繰り返し、にやけ顔で頷いた奴は、晴れ渡った空を見上げて微かに肩を揺らす。

 

 馬鹿にするような笑いを残したまま、俺を見つめた。

 

「というか裏切るも何も、そもそも味方になったつもりはないんだけどね。リアスのことだってそうさ。京都の時にちょっと優しくしたらなつかれたんで、まあ害があるわけでもなしに、そのまま放っておいただけさ。……思えば、本当に何ともツイてるな、俺は。ただの子供と思っていた彼女が……まさかあれほどに成長して、これほど役に立ってくれるだなんて、思ってもみなかった」

 

「……そうかよ。お前は最初っから、部長を騙して、弄んでたってことか」

 

「まあ、そうなるな。安心するといい赤龍帝君。悲劇的にも眷属全員を失ったリアスは、俺が責任をもって慰めておいてやろう。……ああ、俺のために四つも神器(セイクリッド・ギア)を集めてくれたことに、お礼も言うべきかな」

 

 そこまで言っても尚、曹操の顔はへらへらと笑っていた。まるで何でもないかのように、馬鹿にするように歪んでいる。

 

 悔いても、悪いとすら、奴は思っていなかった。

 

 みんなを裏切り、騙し、それだけでも許せないというのに、この期に及んでも奴はまだ、俺のリアス・グレモリー様を食い物にしようとしている。部長の想い人だからこそ、もはや俺に『許す』という選択肢は存在しなかった。

 

「――曹操、てめえは……ッ!」

 

 熱く煮えたぎった眼の奥の激情が、左手に伝って硬く握り締められた。

 尋常でない怒りが、俺の【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】を呼び起こす。

 

「部長に、相応しくねえ!!ライザーなんて比較にならないくらいのクズ野郎だ!!」

 

「クズ野郎?おいおい、心外だな。女性の扱いのことを言ってるのだとしたら、少なくとも君よりはいい自信があるんだが。俺はフェルとウタと初めて出会った時も、卑俗な言葉は使わなかったぞ」

 

「うるせえよ……!!みんなを騙したこと……何よりも、部長の好意を踏みにじったてめえなんかに、これ以上部長は穢させねえ!!絶対に、許さねえッ!!」

 

 『Boost!!』と、左手の【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】が実体化すると同時に倍化が始まる。奴も槍を揺らすのをやめた。

 

「許さないなら、どうする?どう思われようが、俺は君たちを殺して神器(セイクリッド・ギア)を回収するつもりだが」

 

 ずっと変わらないその笑みは、そんなこともうわかりきっているだろう。

 

 更なる倍化の合図と共に、俺は叫ぶ。

 

「仲間も、リアス部長も、俺が守る……!!お前を、ぶっ倒してやるッ!!曹操ッッ!!!」

 

 そして、猛然と曹操に襲い掛かった。

 

 奴との間、十メートルほどの距離を駆け抜けるのはあっという間だった。一秒も経たないうちに半分が過ぎ、俺は両拳を構える。

 

 それと同時に曹操も動いた。片手に握られた槍の先が、無造作に俺のほうに向けられた。

 だがまだ遠い。このまま突っ込めば串刺しだろうが、そんなものに引っ掛かるほど、俺の戦闘経験は浅くない。

 

 つまり曹操がそれほど俺を舐め腐っているのだろうが、しかしこれはチャンスだ。片手で差し出された穂先は、どうぞ弾き飛ばしてくださいと言っているようなもの。武器を奪ってしまえば、あいつの戦闘力は激減するに違いない。

 そんなことを数瞬の内に判断できるくらいには、俺も悪魔になってからの数ヶ月で戦いに慣れてきている。だからその経験に導かれるまま、俺は倍化を開放した。

 

『Explosion!!』

 

 身体に力が満ちる。四倍となったそのパワーで、俺は槍先に裏拳を振るった。

 

「吹っ飛べぇッ!!」

 

 だが、接触の直前だった。

 

『――ッ!!よせ、相棒ッ!!』

 

 【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】に宿るドラゴン、ドライグが突如として叫んだ。

 

 いきなりしゃべったことも、その制止も驚きだが、振るった攻撃はもちろん止められない。反射的に身体が強張ってしまって勢いが削がれたが、しかしそのまま槍先を殴打した。

 

 瞬間、弾かれたのは槍ではなく、俺の拳のほうだった。

 

「――な……ッ!!??」

 

 曹操は何もしていない。片手で持った槍を俺に突き付けていた。それだけだ。

 

 振られもしない細い棒など容易く弾き飛ばせるはずなのに、しかし実際に弾かれたのはこっちの拳のほう。四倍のパワーの小手で殴りつけて、にもかかわらず威力は丸ごとすべてこっちに返ってきた。。

 

 それはまるで、巨大な鉄の塊でも殴りつけたような重さだった。

 

 俺はドライグの忠告の意味を理解した。

 突進の勢いもすべて込めた一撃が跳ね返され、後傾した身体を辛うじて片足を下げて支える。一切変化のないにやけ顔の目に、俺の愕然が写り込む。その時になってようやく、痛覚がビリビリと震えていることに気が付いた。

 

「ぐ――があぁッ!!?」

 

 左腕に、筋肉痛の千倍は酷い痛みと痺れがなだれ込んできた。骨が、筋肉が、神経が、跳ね返された裏拳の威力をそのまま受けて悲鳴を上げている。

 これが小手のない右腕だったら、本当に潰れていたかもしれない。そう思えるくらいの痛みに膝を折りかけたが、目の前の憎き敵の存在で、俺はなんとか戦意と集中を繋ぎ止めた。左腕を庇いながら、せめて歯を食いしばって睨みつける。

 

 すると曹操は槍を軽々引き戻し、俺の背後のみんなを鼻で笑って、そして言った。

 

「……そう、そのままいつまでも呆けていてくれ。君たちが現実を受け入れる間に、すべて片が付く」

 

 ぐっと、ゆっくり槍が振りかぶられる。奴の眼が俺に向き、刃が水平を向き、また瞬く。

 

 薙ぎ払いだ。避けなければいけないということはわかったが、しかし腕の痺れがそこまで到達してしまったのか、脚が動かない。

 

 俺の眼は、貫くような曹操の眼に釘付けになっていた。

 

『避けろ相棒!!死ぬぞ!!』

 

 出会ってからたったの一度も聞いたことがなかったドライグの焦り声、それが連続してもどうにもならない。とうとう振られ、神速の切っ先が煙って消えた。

 

 反射的目を瞑り、腕を盾にした。だが次の瞬間訪れたのは肉を切られる鮮烈な痛みではなく、柔らかい重みだった。

 

「――イッセー君ッ!!」

 

「――一誠!!」

 

 目を開ける。木場とゼノヴィアの背が、曹操の一撃の前に躍り出た。木場は二刀の聖魔剣で、ゼノヴィアは聖剣デュランダルで、同時に薙ぎ払いを受け止める。そして、

 

「ぐわああぁぁッ!!」

 

 やはり容易く打ち払われた。

 

「――ッぐぅ……!!木場!!一誠!!」

 

 デュランダルを大きく跳ね上げられ、押し流されながら、それでも両脚で踏み止まったゼノヴィアが、悲愴を露にそう叫ぶ。つまり、耐えられたのはゼノヴィアだけだ。

 

 木場の聖魔剣は粉々に砕かれていた。しかもその守りのさらに奥までを貫かれ、肉体にまで剣閃の到達を許している。血が噴き出し、苦悶の叫びが上がっていた。

 

 しかしそれでも尚、木場は俺を背に庇ったまま、薙ぎ払いに吹き飛ばされた俺たちは宙を舞った。痺れた頭に入り込む浮遊感。見開いた眼に映る空の色は、しかし不意に純白に消えた。

 

「イッセー君!!裕斗君!!」

 

 同時に浮遊感と吹き飛んだ勢いも消え、先ほどの柔らかいもの、木場の背中よりも数段ふかふかした何かに包み込まれる。木場と合わせてサンドされ、声からそのふかふかが朱乃さんのおっぱいであると、少しの間があってから俺は気付いた。

 しかし感情の浮かぶ間もなく地面に下ろされ、柔らかな双丘は離れていった。緩慢にその朱乃さんを眼で追うと、抱えた血濡れの木場をアーシアの傍に下ろしている光景が映る。隣で覗き込み、朱乃さんは息を呑むギャスパーと白音ちゃんに眼をやると、曹操と、戦うゼノヴィアを見つめて歯を噛み、決死の表情で告げた。

 

「アーシアちゃんは、裕斗君とイッセー君の治療を。白音ちゃんはゼノヴィアちゃんと一緒に、曹操への対処に当たってください。私は援護します。……もうこうなってしまった以上、戦うしかありません」

 

「はい、副部長」

 

「……あ、は、はい、副部長!」

 

 白音ちゃんが酷く落ち着いた声で応えた。それを聞いて我に返り、遅れて返事をすると、朱乃さんが安堵で俺を一瞥する。

 

「イッセー君は、コカビエルとの戦いのようにパワーを溜めてください。時が来れば私に『譲渡』を。……行きますよ、白音ちゃん……!」

 

 同時に白音ちゃんが地を蹴り、悪魔の羽を広げて飛んだ朱乃さんが、制服から巫女服に変身する。その手に雷の魔力が集い、発射されるのを見届けると、ふと俺は左腕に温かな波動を感じた。

 

「イッセーさん、すぐに治しますからね……!」

 

 振り向けば、アーシアが【聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)】で俺を癒してくれていた。緊張のためか汗を滲ませながら、真剣な眼差しで淡い癒しの光を手に、俺の腕へ押し当てている。

 

 じわりと染みこんで、腕に残る痛みと痺れが取り除かれていく。その心地よさと、それから地に伏し息を荒げる木場に気付いて、俺は慌てて声を上げた。

 

「あ、アーシア!俺のは掠り傷だから……それよりも木場のやつを――」

 

「その木場さんが……イッセーさんを先に治してと、おっしゃったんです……」

 

 遠慮がちなその台詞に驚き、木場へ振り向く。苦しげに薄く開いた眼が俺を見て、微かに頷くと途切れ途切れに口にした。

 

「僕は……たぶん、治っても……すぐには……戦えない……。だから……イッセー君……代わりに君が、みんなを……守ってくれ……」

 

「な、何言ってんだよ木場!!お前の方がダメージがでかいんだから、アーシアに治してもらうのはお前が先だろ!?」

 

「……そうさ、僕の受けたダメージは大きい……。ぅぐ……御覧の通りに、ね……」

 

 ぐっしょりとどす黒い血で染まった制服を示し、木場は呻く。大きく斜めに切り裂かれ、皮膚の下の肉がはっきりと見えた。

 それは生々しく、心臓の鼓動と共に脈動し、蠢いてまた血を噴き出した。

 

 流れ出る仲間の命を、初めて見たような心地になった。

 

「き……ば……」

 

 怯えて木場に動かないよう懇願するアーシアの声を聞き流しながら、俺はすぼまった喉で必死に息を吸う。

 

 木場が、血で染まった唇に苦笑を作る。

 

「自分の身体のことは、自分が……一番、よくわかる……。死には、しないさ……けど……この戦いで、役に立つのは……無理だ……。……不甲斐ないけど……たったの一撃でやられた僕は……手負いじゃ、役に立たない……!だが、イッセー君、君なら……君の力なら……!」

 

 堪えきれない苦痛が歪ませた木場の眼が見たのは、アーシアに癒される俺の左手、【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】。あの重すぎる槍を攻略するには、それ以上の重さ、それ以上のパワーが要る。そういうことだろう。

 

 朱乃さんの指示も、要はそういうことだったに違いない。曹操の槍を打ち破るための圧倒的攻撃力。俺に求められているのは、それ。

 

「……頼んだよ……イッセー君……」

 

 囁くように言うと、それっきり木場は眼を閉じて、か細い呼吸の中に沈んだ。アーシアが震えて悲鳴を漏らし、しかし大半を涙の中に呑み込むと、息を閉じて俺の治療に意識を引き戻した。

 

 辛そうなその表情を、見る。そして木場の苦悶。

 改めて感じた。これを引き起こしたのは、俺の弱さだ。

 

 俺が曹操の殺気に竦んでしまったから、木場は大けがを負い、アーシアに辛い選択をさせてしまったのだ。

 

(……フェルさんと、ウタの言う通りだ)

 

 あの時言われた言葉が脳裏に蘇る。俺が弱いせいで、こうなった。強ければ、木場もアーシアも守れた。怒りだけで向かって行った、その結果がこれだ。

 

 俺は、硬く左手を握り締めた。

 

『……相棒、考えていることはわかるが落ち着け。黒髪の言う通り、『倍化』にだけ集中しろ』

 

 さっきの焦りに息をついたドライグの声。それが俺の、今度こそ曹操をぶん殴ってやるという決意を諫めてきた。

 

 いつもなら威勢よく戦意を露にするのに、まるで曹操を恐れるかのような口ぶりだった。信じられず、驚愕の眼を小手で瞬く宝玉に向ける。

 

「ドライグ……俺の気持ちがわかってるなら、なんで止めるんだよ。俺は……やっぱり、直接ぶっ飛ばしてやらないと気が済まねえ……!たとえあいつが、曹操がどれだけ強くたってさ……!」

 

 立ち向かうことすらできなければ、俺は本当に、いつまで経っても強くなれない。仲間を守れない。

 

 曹操と戦うゼノヴィアと白音ちゃん、そして朱乃さんの姿を見つめ、唇を噛んだ。

 

『わかっている。相棒の気持ちも、あの槍使いが相棒の何万倍も強いことも』

 

「な……何万倍……」

 

 さすがにそこまでかけ離れているとは想像していなかったが、しかし俺の意思は変わらない。

 

 ドライグが続ける。

 

『だが、たかが『何万倍』だ。いざとなれば身体の大半をドラゴンにして勝たせてやれる。……奴とて、所詮は人間でしかない。ネテロや、あの奇怪な格好の巨漢のような、規格外の力を持っているわけでもないようだからな』

 

「身体の大半で『たかが』って……いやもう突っ込まねえよ。けど勝てるんだろ?なんだって曹操と戦うなだなんて言うんだよ。ライザーの時もコカビエルの時も、フェルさんとウタの時も、格上の相手にだって、お前そんなこと言わなかったじゃねえかよ!……そんなに、あいつの槍がヤバいのか……?」

 

『……いや、あれは……業物だろうが、特別な力を持たないただの槍でしかない。相棒の攻撃が弾かれたのは、あいつの『念』によるものだ。……そのはずだ』

 

「……なんだよ、『はずだ』って」

 

 やっぱり、どこか様子がおかしい。最初の慌てようもそうだが、この歯切れの悪さ。明らかにドライグは怯えている。

 

 コカビエルにも、フェルさんのあの恐ろしい気配にも動じなかったこのドラゴンが、勝てると断言する相手をなぜこうも恐れるのか。

 

『……わからんが……ただ、嫌な予感がする』

 

「……はぁ?」

 

『……言葉で表現し辛い。相棒に例えると……相棒を殺した堕天使の女が、突然目の前に現れたような……そんな感覚を、あの槍使いに感じた。……奴は……恐らく何か、尋常でないもの(・・・・・・・)を隠している』

 

 そんなあやふやな、と非難が口を突きかけたが、『相棒を殺した堕天使の女』レイナーレの存在を出されれば話は変わる。そんなことがもし起これば、呼び起こされたトラウマで俺だって身が凍っただろう。

 

 だが、だがしかし、それでもだ。

 

「……心配すんなよドライグ、だったらその杞憂ごと、俺があいつをぶっ飛ばしてやる!大丈夫さ。俺は、部長のおっぱいをこの手に揉みしだくまで、絶対に死なねえ!」

 

 ハーレム王になるという大いなる夢のためにも、『尋常でないもの』くらい乗り越えられなくてどうするのだ。

 

 ドライグが恐れるくらいの、過去最大の敵であるということはもうわかった。その覚悟はもう、できていた。

 

『……ふ……そうだったな、俺の相棒は、そういう奴だった』

 

 ドライグが薄く笑った。と同時に、続いていた左腕の心地よさが消え、汗を垂らしたアーシアの顔が俺に叫ぶ。

 

「治りました!イッセーさん!これでもう腕は大丈夫なはずです!他に痛むところはありませんか?」

 

「ああ、もう何ともないよ。ありがとう、アーシア」

 

 にいっと笑って答える。癒しの光から放たれ、かざしてみせた小手が『Boost!!』と倍化の開始を告げた。

 

 息をつき、弾かれるようにして木場の治療に向かったアーシアと入れ替わり、俺は立ち上がる。見据えるのは、仲間の三人が戦う戦場。気合を入れ直し、そして、拳を握った。

 

「よっしゃ!行くぞドライグ!俺たちの力を見せてやろうぜ!」

 

『ああ。だがどちらにせよ、しっかりと力を溜めろよ、相棒。生半可な威力では、槍使いに到底通用しない』

 

 わかってるよ、と疼く左腕に内心で応え、俺は地面を蹴った。

 数歩分も駆ければ、すぐに全員の注意が俺に向くのを感じた。曹操も、やはり神経を逆なでする笑みを俺に向ける。睨み返しながら、二度目の倍化の合図に拳を構えた。

 

 するとその瞬間、上空から声がかかった。

 

「イッセー君!!」

 

 朱乃さんだ。白と赤の美しい巫女装束のまま、勢い良く降下してきて俺の肩を捕まえる。振り払うわけにもいかず俺は止まり、首だけ振り返って見上げると、有無を言わさぬ鬼気迫った雰囲気が、俺の意志ごと鷲掴みにした。

 

「今、どれほどの力が溜まっていますか!?」

 

「え!?ええっと……二回分、だから四倍です!」

 

「ッ!……なら、あともう四回……いえ、五回倍化したら、それを私に譲渡してください!なるべく早く、それまで私の傍に!」

 

「ま、待ってください朱乃さん!譲渡じゃなくて今度こそ、俺が直接あいつを――」

 

 どうにかねじ込んだその意思は、しかしすぐさま覆い隠される。

 

「ごめんなさい、イッセー。けれどもう、余裕がないの。曹操の狙いである貴方を守りながらでは、二人とも戦えない……!」

 

 言葉の通り痛みを堪えるように顔を歪め、朱乃さんは白音ちゃんとゼノヴィアに視線を向けた。促されるまま俺も眼をやって、そしてアーシアに癒してもらっていた時には見えなかったその表情を見つける。二人とも、俺や朱乃さんの比ではないほどに苦し気で、明らかに疲弊していた。

 

 傷も一つや二つではない。それでも曹操に食らいついているのは、人離れした気力と『念』によるものなのだろう。

 

「『念』に対抗するには『念』が最も有効だけれど、それは曹操にとっても同じこと。恐らくもう、あまり長くは持ちません。私の雷も……軽々防がれました。だから今の均衡が破綻してしまう前に、イッセーと私とで最大の一撃を打ち込み、一気に倒します!……わかってください……!」

 

「……わかりました……」

 

 曹操を自身の拳で倒せないことも、必死に戦う白音ちゃんとゼノヴィアを見守ることしかできないことも、何もできない自分が苦しくてたまらない。けれどそんな命令でも、同じく苦しむ朱乃を眼にすれば、拒否できるはずもなかった。

 

 俺の我が儘でみんなが殺されてしまえば、それこそ最悪だ。三度目の倍化で溢れる力を、俺は拳の中に押し込めた。

 

「おや、赤龍帝君は後方待機か。当てが外れたな、また突っ込んできてくれれば楽だったんだが」

 

 曹操が、緊張感のない呆れ声で言った。戦闘中だというのに俺へ視線を向けたまま、撃ちかかるゼノヴィアすら気にも留めない。

 

 それに抗議するかのように、ゼノヴィアが気合の雄叫びと共に大上段から振り下ろした。

 

「曹操――ッ!!」

 

 まだ教会の戦士であった頃でさえ、デュランダルすら使わずに木場の魔剣を粉砕してのけたゼノヴィアは、『倍化』を使った俺を除いて、眷属内で一番のパワーを持つだろう。だが本来の武器をも使って放たれた唐竹割は、届くことなく槍に妨げられる。

 

 ギリギリと鍔迫り合いが起きるが、それでもほんの少しも押し込めている様子がない。本当に、生半可なパワーではあいつの『念』に届かないのだ。

 

「……はあ、まだやる気か、デュランダル。伝説の聖剣には確かに惹かれるが、俺は神器(セイクリッド・ギア)専門なんだ。後にしてくれないか?」

 

 ため息を吐くと、それにゼノヴィアは祈るような眼を向けた。

 

「曹操……お前は、本気でアーシアたちを殺すつもりなのか……?」

 

「全く、何度もそう言っているだろう?そのために君たちにも近付いたんだ」

 

「本当に……裏切ったのか……?フェルさんとウタさんを……」

 

「裏切るも何も、フェルもウタも、君たちが死んだら喜ぶだけだと思うけどね。ゼノヴィア、君、『念』を教わっているからって、自分の死に二人が泣いてくれるとでも思っているのか?」

 

 ゼノヴィアは一瞬だけ目を閉じ、そして開けた。祈りが諦めに変わり、決意が溢れた。

 

「――ッと……!」

 

 曹操の脚が半歩だけ下がった。つまりそれは、ゼノヴィアのパワーが一瞬とはいえ曹操を上回ったということ。僅かに進んだ聖剣を両手に握り締め、その溢れかえる気配、『念』と眼が、はっきりと()に向けて告げられた。

 

「悲しんではもらえないだろう……。だが、同時に喜びもしないことは私にもわかる!なぜなら私たちが死ねば、真っ先に疑われるのはフェルさんとウタさんだからだ!」

 

 同じ列車に乗り合わせ、なのに巻き込まれずに生きている。隠す気もない悪魔嫌いを合わせて、犯人だと想像が結びつくのは自然な流れだ。

 

 曹操は「そりゃあそうだな」と苦笑して、空けていた左手を槍に添える。下げさせた半歩を徐々に押し返される中、さらに『念』の気配を増幅させたゼノヴィアは、唸るように言った。

 

「フェルさんとウタさん……お前以外の誰もが望まない殺しをして、皆の信頼に背いて、それのどこが裏切りでないというんだ……!私は認めないし、許さんぞ曹操!絶対に、皆に謝らせてやる……ッ!!」

 

「おお、怖い怖い。さすが『強化系』だな。『練』もだいぶうまくなってきたじゃないか。……まだまだ殺し合いには耐えないがな」

 

 すると曹操は突然、添えたばかりの左手を自身の背後に突き出した。何のつもりと思う間もなく、その手にパンチを受け止められた白音ちゃんの姿が眼に入った。

 そういえばさっきから姿が見えなかったが、しかしいつの間に回り込んでいたのかと驚愕する俺をよそに、少しも余裕を崩さない曹操が、悔しげに顔を歪めた白音ちゃんを笑った。

 

「『絶』……いや、仙術のほうか。俺がゼノヴィアに気を取られているうちに不意を突く。力で勝れない以上、単純だが悪くないやり方だ。しかしウタを真似るにしては、『オーラ』の同化がお粗末過ぎたな」

 

「くッ――でも……ッ!!」

 

 曹操の両手と、動きは封じた。

 

 白音ちゃんの決死の表情がゼノヴィアにも伝わり、頷いた。そしてそれは、俺の神器(セイクリッド・ギア)にも。

 

『Boost!!』

 

 合計七回目の倍化が完了し、俺と朱乃さんの眼が合致する。羽を広げ、飛び立とうとする朱乃さんの背中に、俺は躊躇うことなく溜まった力を受け渡した。

 

「朱乃さん!!頼みますッ!!」

 

『Transfer!!』

 

 譲渡された力が身体に満ちる感覚に身を震わせ、飛んだ朱乃さんはその力のすべてをつぎ込み、手のひらに特大の魔法陣を展開した。一人に集中した分コカビエルの時よりも強大となった雷の力が、曹操と、その動きを縫い留める白音ちゃんとゼノヴィアを照準に捉える。

 

「こっちは魔力で守れる!!諸共やれ!!副部長!!」

 

「曹操さんが動く前に、早く……!!」

 

 その決意に、朱乃さんの躊躇もすぐに消えた。

 

「雷よ!!!」

 

 絶大な威力を秘めた雷撃が、甲高く空気をかき鳴らして放たれた。

 

 今まで見たあらゆる攻撃の中で、間違いなく最大の一撃だった。ライザーよりもコカビエルよりも、そしてフェルさんやウタよりもはるかに強力な攻撃が曹操に迫る。

 

 俺は、勝利を確信した。こんな馬鹿げた威力の攻撃に、人間が耐えられるわけがない。回避は封じられ、防御も無意味。朱乃さんもゼノヴィアも、俺と同様に倒れる曹操の姿を幻視した。

 

 だが当の曹操と、止められたほうと逆の拳を握った白音ちゃんは違った。

 

「これだけ時間が掛かって、備えていないわけがないだろう?」

 

 呟くようなそんな台詞が冗談の類ではないと、次の瞬間証明された。

 

 突如曹操を中心に、黒い炎(・・・)が爆発した。

 

「なッ!?」

 

 驚愕に声を上げたのは俺一人。爆風が白音ちゃんとゼノヴィアを呑み込み、押し退けた。しかしその二人も、もちろん朱乃さんにも、ダメージによる苦悶はあれど動揺はなく、舞い散る黒い火炎を睨む。

 

「ぐッ……これが話に聞く曹操の神器(セイクリッド・ギア)……だが!!」

 

「もう遅いですわ!!食らいなさいッ!!」

 

 そうだ。動けるようになったとはいえ、間近まで迫った雷を今から回避することは不可能だ。だから俺たちの勝利に変わりはない。

 

 そのはずだという確信を抱きながら、しかし同時に、俺の脳裏にはその確信に対する否定がよぎっていた。

 

 そしてその、白音ちゃんに寄った俺の不安は、悪いことに的中する。

 

 曹操が槍を構え、跳躍した。上空数メートルほどの高さ。もちろん俺にも、朱乃さんにも届かない。それ以前に、真正面に朱乃さんの雷。

 

 刹那。

 

「――!!?」

 

 朱乃さんが息を呑んだ。声も出ないほどの驚愕は、俺にも十分理解できた。

 

 眩く弾ける雷が、ふと気付けば小さく、そして濃縮されて纏わりついている。

 曹操は、その手の槍で強大な雷を絡め取っていた(・・・・・・・)

 

「返すぞ、雷の巫女」

 

 低く言い、そして、雷が秘められた槍を振るった。

 

 再び眩い閃光。他に見ないあの威力を保って、雷が返ってくる。狙いは当然、俺の頭上。

 

「――ッ!!朱乃さんッ!!!」

 

 見上げて叫んだ俺の声で、朱乃さんは我に返った。辛うじて寸前に防御の魔法陣が展開される。だがそれも、あっけなく焼かれ砕かれた。

 

「きゃあああぁぁぁぁッッ!!!」

 

「朱乃さんッッ!!!」

 

 雷が朱乃さんの身体を貫き、その意識をあっという間に刈り取った。俺の身体が考えるまでもなく動き、電流が霧散し落下するその身体を、飛び上がって受け止めた。

 

 広げた悪魔の羽は、飛び慣れない故に落下の勢いを抑えられず結局一緒に地面に落ち、しかしどうにか自分の身体を下敷きにして朱乃さんを守る。痛みと絶望感で半ば呆然としながら、俺は抱えた朱乃さんの身体を見下ろした。

 巫女装束がボロボロに焼け焦げていた。露出する肌も、所々火傷しているようで赤く腫れている。あれだけの威力に打たれたにしては軽傷であるようだが、それは俺の力で高められたとはいえ元々自分の魔力であることと、寸前に辛うじて防御することができたためだろう。

 

 しかしそうでなければ、朱乃さんは死んでいたに違いない。あるいは曹操の狙いが俺に向いていれば、俺が死んでいた。

 

「雷返し。雷を切る剣豪やら英雄やらの話は、日本にだって少なくないだろう?それとまあ、似たようなものさ。電撃は確かに強力だが、何も混ざらないただの雷(・・・・・・・・・・・)ではな」

 

「――ッ!!クソッ……!!」

 

 恐怖と怒りでおかしくなりそうな頭を振り、俺は朱乃さんを抱え上げた。ますます顔色を悪くしてしまっているアーシアの傍、木場の隣に、任せるの言葉も言えずに朱乃さんを横たわらせ、そして四人を庇って前を向く。

 

 白音ちゃんもゼノヴィアも、立ち上がって曹操を睨みつけていた。ただ、ゼノヴィアは息を荒げながらもデュランダルを構えているが、白音ちゃんは今にも倒れそうなほど苦しげだ。ゼノヴィアが言うには神器(セイクリッド・ギア)であるらしいあの黒い炎は、それだけ危険だということか。

 思えば訓練以外で神器(セイクリッド・ギア)使いと戦うのは初めてだ。その初戦が、まさか朱乃さんの雷すら通じないほどの難敵になろうとは……。

 

『……あれは……ヴリトラ、か……?』

 

「ッ……何がだよ、ドライグ?」

 

 気を抜けばこぼれそうになる泣き言を必死に抑え付け、不意に呟いたドライグに尋ねる。しばし考えこむような間の後、答えが返った。

 

『……あの黒炎、呪いの炎のことだ。あれは恐らく……五大龍王の一画、『黒邪の龍王(プリズン・ドラゴン)』ヴリトラの力を宿した神器(セイクリッド・ギア)、【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】……なのだろう。匙とかいう小僧と同じ系譜だ』

 

「……マジかよ。よくわからねえけど、どっちもすげえってことはわかったよ。それが嫌な予感の正体か。ならなおさら、白音ちゃんの代わりに俺が――」

 

『待て、相棒』

 

 一歩踏み出し、被せられた制止に立ち止まる。

 

『【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】は、解呪が困難な呪いの炎を操る神器(セイクリッド・ギア)だ。迂闊に近づけば、あの猫又のようになるぞ』

 

「ッ!そうか、白音ちゃんは素手だから……クソッ!パンチが封じられたってことか……」

 

『それにお前が前に出たとして、後ろの連中はどうなる。『炎を操る』と言っただろう。ここまで届かない保証はない。それに嫌な予感は……たかが五大龍王の破片ごときを恐れるような俺ではない』

 

「じゃあ……どうすれば……!!」

 

 ほぼ唯一使える遠距離攻撃技、【ドラゴンショット】で援護するくらいしかないか。しかしそれが、朱乃さんの雷すら受け流した曹操に通用するのだろうか。それ以前に、あのままもう一度【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】が発動してしまえば、今度こそ白音ちゃんが殺されてしまう。

 

 どうにか解決できる手はないかと、俺は必死の思いで思考を巡らせた。しかし見えない糸口に、ただでさえあまり出来がよろしくない脳味噌が煙を噴き始める。ショートするその寸前、不意に響いたアーシアの悲鳴が俺の意識を取り戻し、振り返らせた。

 

「木場さん!まだ動いちゃだめですッ!!」

 

 二本の聖魔剣を杖代わりに、血まみれの木場が立ち上がっていた。戦慄し、アーシアと同じことを叫ぼうとした俺の口を、目の前に突き出した片方の聖魔剣で塞ぎ、切れ切れの息で言う。

 

「アーシアちゃんと、朱乃さんと、ギャスパー君は……僕が、守るよ……!だから、イッセー君は構わず、行ってくれ……!」

 

「木場……お前……!」

 

「僕は……大丈夫さ。……けど、このままじゃじり貧だ……みんな、殺されてしまう……。そうなる前に……僕の剣を使って、イッセー君……!」

 

 一瞬の迷い。また俺のせいで木場を苦しめるのかという葛藤は、しかし木場の眼の光に掻き消えた。

 

 苦しめるとか諦めるとか、そんなことより、仲間を信じれなくてどうする。

 

 そうだ、仲間を信じるんだ。

 

「……わかった。ちょっと待ってろ木場、すぐにあいつをぶっ倒してきてやる!」

 

 聖魔剣を受け取る。剣の扱いは、以前ライザーと戦う前の合宿で少しは身についている。それでも到底曹操には通じないだろうが、要はこれで炎さえどうにかできればいいのだ。

 

 そしてその次、果てしなく硬い奴の槍の壁を突破するため、第二の手段を仲間に頼る。

 

「ギャスパー!俺が聖魔剣で炎をどうにかしたら、ほんの一瞬でいい!お前の神器(セイクリッド・ギア)で曹操の動きを止めてくれ!」

 

「ひッ……え……あ、の……」

 

 段ボール箱のギャスパーはやっぱりおどおどと、意味のある言葉を発することはなかったが、しかし事態は一刻を争う。明確な返事がなくとも信じた俺は、剣を携え、そして三度の突撃をした。

 

 白音ちゃんを庇いながら曹操と睨み合いをするゼノヴィアが、血と汗にまみれた険しい表情を俺に向け、しっかりと頷いた。

 

「行くぞ、イッセー!!」

 

「おう!!」

 

 俺とゼノヴィアの二人で、曹操に向かって剣を構えた。一緒に攻撃せんと立ち上がった白音ちゃんを左手で押しのけ(・・・・・・・)、そして瞬く間に迫った曹操の顔面へ、撃ちかかった。

 

「食らえ、曹操ッ!!!」

 

 目の前を銀閃が瞬く。そして振り下ろした剣に、とてつもなく硬いあの感触。ビリビリと腕の骨に響くこの衝撃は、見るまでもなく、槍に斬撃を受け止められたことを示していた。

 

 二人がかりでも打ち崩せない。その事実に苦いものが走る。

 

「……赤龍帝君も、『念』が使えたら『強化系』かな。あまりに攻撃が単純で、作戦も短絡的だ」

 

 槍と、曹操自身からすさまじい圧迫感。渾身の力を込めて押していた剣が、軽々と押し上げられる。

 俺たちの力を無視するかのように槍が跳ねあがり、また同じように俺とゼノヴィアは弾き飛ばされた。だが今度はそれだけに収まらず、宙に打ち上げられた俺たちに、槍と逆側の手が向けられた。

 

 ごう、と。呪いの炎が渦を巻いた。

 

「まあ、やれるかどうか見せてくれ」

 

 手から放たれた黒炎は、大きく膨れ上がって俺たちに襲い掛かった。悪魔の羽を広げたゼノヴィアに受け止められ、俺は迫ってくるそれに意識を集中する。余波だけでもすさまじい熱量と呪いの悍ましさにくじけそうになる心を叩き出し、託された聖魔剣の存在を手の中に確かめる。

 そして、振りかぶった力を、黒煙に叩きつけた。この先の、舐め腐った奴の失笑をも切り裂けるように。

 

「木場を、舐めるんじゃねええぇぇぇッ!!」

 

 想いを込めた全身全霊の一撃は、聖なる力に輝き、魔の力に蠢き、そして、

 

 【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を打ち破った。

 

「――ゼノヴィアッ!!」

 

 黒炎の壁が四散し、飛び散る飛沫のさらに奥。曹操は、今なら無防備だ。

 

 そのことを声に詰めて叫んだ名前は、きちんとゼノヴィアに届いた。役目を果たして砕けた聖魔剣の柄だけを手にする俺を離し、いつかのヴァーリのような勢いで突っ込む。

 

 黒煙の欠片を吹き飛ばし、輝く聖剣デュランダルを、またしても大上段。

 

「デュランダルッ!!曹操のバカ者を、吹き飛ばせえぇッ!!」

 

 振り下ろし、同時に、最後まで残った黒炎も消え去った。そうしてようやくはっきりと視認した曹操の姿。それは、直前に見たものと僅かも変わっていなかった。

 対角線上に下げられた厄介極まるあの槍も、突き出された手のひらも。

 

 何より、その余裕の表情も。

 

「――ッ!!!」

 

 併せて俺は、その手のひらに再び黒煙が集まりつつあることに気が付き、叫んだ。

 

「ギャスパーッッ!!!」

 

 止めなければ、ゼノヴィアが呪いの炎をもろに受けてしまう。そして聖魔剣を失い落下中の俺は、何もできない。

 

 しかし、強力極まる時間停止の力は、発動しなかった。

 

 一瞬の後、

 

「ゼノヴィアアアァァァッッッ!!!」

 

 あまりにも速く連射された黒炎が、ゼノヴィアを呑み込んだ。

 

 二度、眼前に黒炎が広がる。しかし今度は手遅れだ。呪いの炎に焼かれるゼノヴィアの身体から力が抜けていく様子を、俺は見ていることしかできない。振り下ろす途中で止まった手で、握り締められていたはずのデュランダルが滑った。

 そしてさらに、命中して弾けたために薄れた黒炎の隙間から、曹操の動きが見えた。下げた槍を、突きの体勢で構えている。

 

 ゼノヴィアに、とどめを刺す気なのだ。

 

「やめ――ッ!!?」

 

 止めるため、手だけが必死に伸びた。が、すぐに驚愕で固まった。

 

 失神したのだと思っていたゼノヴィアが、その時、霧散させていた『念』の圧迫感を蘇らせた。

 呪いの炎に蝕まれながら、しかししっかりとデュランダルを握り直し、そして、気合が続く。

 

「ハアァァッッッ!!!」

 

「――っ!」

 

 初めて曹操の顔から余裕が消えた。見開いた目をゼノヴィアに向け、槍の軌道を僅かに変える。デュランダルの軌道に、切っ先が滑り込んだ。

 

 だがそれも、辛うじての防御。炎に焼かれる苦痛を凌駕したゼノヴィアの覚悟の一撃は、曹操の『念』でも完全には防ぎきれない。剣と槍とで火花が散り、そして吹き飛ばされたのは曹操だった。

 

 手から槍が飛び、大きく体勢が崩れる。勢いのまま地面を叩き切ったゼノヴィアが、力尽きたかのようにそのまま、眼だけを俺に向ける。

 

「やれッ!!イッセー!!」

 

 黒炎の残り火に纏わりつかれた咆哮が、その時着地した俺の脚を押した。飛び出し、運動能力の限界をも投げ捨てて飛ぶように、曹操の目前まで迫る。

 

 もしかしたら、ここからまた【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】が発動するかもしれない。あるいは、奴の肉体も槍のように恐ろしく頑丈なのかもしれない。けれど、そんなこともう関係ない。黒炎が襲い掛かるなら、ゼノヴィアのように耐えるだけ。頑丈なら、打ち破れるまで殴り続けばいいだけだ。

 

 倍化された力が溜まっていなくても、防御さえ突き抜ければ、人間の肉体を持つ曹操に通じないはずはない。ダメージが入るなら、倒せる。曹操をぶっ飛ばせる。

 

「みんなの痛みの分、受け取りやがれええぇぇぇッッ!!!」

 

 左腕を、振りかぶった。

 

 だが、

 

「ご――」

 

 飛び散った血は、俺のものだった。

 

 痛む頬。揺れる脳味噌と、そして横倒しになった視界。

 殴りかかった数瞬の後、俺は地面に叩きつけられた。

 

 何をされたのかは、ちゃんと見えていた。それも至極単純、俺のパンチが繰り出された直後に、曹操が崩れた体勢から、同じく拳を振るっただけ。それが俺のパンチよりもずっと早く俺を突き刺したという、ただそれだけだ。

 

 けれどだからこそ、俺の思考は信じられない思いのまま、停止した。

 

「まさかあそこから攻撃されるとは思っていなかった、ということかな、その呆けっぷりは」

 

 背中にぐっと重しが加わり、地面に押し付けられた俺は、どうにか首を回して、重しとその声の姿を見た。

 

 曹操が俺の背中を踏みつけ、肩をすくめていた。

 

「まったく……無茶をするものだ。予想よりうまくやったことは認めるが、そもそも作戦自体が強引すぎる。奇策でもあるのかと思えばそうでもないし、格上とわかっている相手に正面突破なんて、どれだけうまく行っても通るはずがないだろう」

 

「……曹、操……ッ!!」

 

 台詞と仕草が徐々に身を侵し、俺の頭に感情を走らせる。蘇った怒りと混じった悔しさに、歯を食いしばって睨みつけた。

 

「……その様子じゃあ、本当に他の策はないらしい。ならもう、そろそろ殺そうか」

 

「――ッ!!?」

 

 みんなの戦慄を肌で感じた。背を踏みつけ俺の動きを封じる脚が、すさまじく重く、冷たく思える。

 

「ふ……ざける、な……曹操……!!そんなこと、絶対に……ぃッ!!」

 

「おお、まだしゃべる元気があるのか、デュランダル。少し自信を無くすな。倒す気で【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を使ったというのに、未だ失神すらしないとは。……が、さすがにもう動けないか」

 

 身体を這いまわる呪いの炎に脂汗をかきながら、膝を突くゼノヴィアが掠れた声で喘ぐ。意気はあれど曹操の言う通り身体は限界らしく、立ち上がろうとした脚はすぐに揺れて崩れ落ちた。

 

 他のみんなも、もう碌に動けないだろう。白音ちゃんはやはり呪いの炎で立ち上がれないし、俺もそう。もがくも、重心を押さえられているというやつなのか、全く起き上がれる気がしない。

 立つだけで精いっぱいの木場も、気を失ったままの朱乃さんも、アーシアもギャスパーも、みんなもう戦えない。曹操はそれを確認するように見回し、一つため息をついた。

 

神器(セイクリッド・ギア)に聖剣に血筋に、これだけいいものが揃っているというのに、使い手がこれでは宝の持ち腐れだな」

 

 曹操がおもむろに片手をあげ、かと思えばその手に、弾き飛ばされた槍が降ってきて納まった。そして、俺に突き付けられる。

 

「そういえば、ヴァーリも言っていたそうじゃないか。君が相手では戦いの定めもつまらないと。……『力』は、それを必要とする者、使いこなせる者にだけあるべきだ。なあ、兵藤一誠。君も死ぬ戦いを強制されるのは嫌だろう?だから代わりに、俺がその力を貰ってあげよう」

 

 刃が首筋に食い込む。微かな痛みと共に、血が滴った。周囲から、俺の名前を呼ぶ声と悲鳴が聞こえる。真っ白な頭の中で、俺はそれらの感覚を連続して感じた。

 

 白熱して弾けたその感情は、紛れもない怒りだ。

 

「――ふざ、けんじゃねえ……!!」

 

 拳を握り締めた。

 

「勝手な事ばっか、言いやがって……必要とする者だとか、使いこなせる者だとか……そうだとしても、少なくともお前に、それを判断する資格はねえ……!!俺はこの力を、ドライグを失望させる気は、ねえ!!」

 

「……失望か。神器(セイクリッド・ギア)と仲がよろしいようで何よりだ。だが現実問題として、君は果たして、自分がその力を持つにふさわしいと思えるのか?『力』は、使いこなせなければ不幸を生むだけだ。今の君のように『力』に使われているようでは、そう遠くないうちに破滅するぞ」

 

 一瞬、曹操が俺の眼のさらに奥を見る。

 

 しかしぶれた焦点に見透かされようが、どれだけ正しい事実を並べられようが、これだけは許せない。

 

「俺の破滅なんて、そんなのどうだっていいんだよ!!たとえここで死んだとしても、曹操ッ!!お前だけは絶対に倒してやる!!みんなを、リアス部長の優しい心を殺すお前を、絶対に止めるっ!!」

 

「威勢のいいことを言う。だが君の命程度で――」

 

「部長の、みんなのおっぱいは、てめえなんかに渡さねえッ!!!」

 

 怒りのまま、叫んだ。

 

 こんなクズ野郎にみんなの命と心と、そしておっぱいを、好き勝手に弄ばれるなんて、何をどうすれば許すなんてことができるのか。『力』がどうとか、そんなことを抜きにしても、裏切った挙句におっぱいを手にかけるというそれだけで、絶対にこいつは生かしておけない。

 

「だからてめえは、みんなのおっぱいを奪うてめえだけは!!絶対に許さねえエエェェェッッッ!!!」

 

『Welsh Dragon Balance Breaker!!』

 

 頭の中で凝縮した怒りが真っ赤な炎となって【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】を満たし、そして『力』を溢れさせた。

 

 ライザーと戦った時、左腕を売り渡さなければ至れなかった禁手(バランス・ブレイカー)、【赤龍帝の鎧(ブーステッド・ギア・スケイルメイル)】が、俺の身体を覆った。対価なしに発動できたのはトレーニングの成果なのか、しかしそれすらも意識しないまま、俺は格段に上がった力を全開にして、無理矢理曹操の踏みつけに抗う。

 

「諦めるわけ、ねえだろッ……!!てめえをぶん殴るまで、絶対に止まってやるもんかよッッ!!」

 

「は――おいおい……何の冗談だこれは……」

 

 一瞬の呆然から返った曹操が、さらに踏みつける力を強めた。具現化された全身鎧すら踏み砕かんとするその『念』はやはりすさまじく、上がりかけた身体が徐々に押し下げられていく。

 

 ドライグが『相棒の何万倍も強い』と評したのも当然の強さだ。禁手化(バランス・ブレイク)してさっきとは比べ物にならないほどパワーアップしたというのに、一人ではとても押し返せない。せっかくの『力』でも、一人では反撃の糸口を生み出せず、槍に貫かれて殺されてしまう。

 

 だから俺は、『必要とする者』でも『使いこなせる者』でもなく、『信じられる仲間を持つ者』こそが、『力』を持つにふさわしいと思うのだ。

 

 助けて助けられ、守って守られて、協力して困難に立ち向かうために。

 

「――ッ!」

 

 俺に信じられないものを見る眼を向けていた曹操が、瞬間視線を横に振った。白音ちゃんの、俺でも感じられるほどの『念』の圧が、突然そこに現れる。

 

 二度目の【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】の前、押し退けるついでに(・・・・・・・・・)譲渡(・・)した(・・)俺の力が合わさって、曹操にも劣らないほどの『念』を身体に滾らせる。白音ちゃんは呪いの苦しみを噛み殺し、拳を振るった。

 

「――えい……ッ!!」

 

 地面に。

 

「そう来たか……っ!」

 

 亀裂が走る。瞬く間に岩肌が砕け、崩壊が俺と曹操の下までたどり着いた。不安定な足場で背中への踏みつけが外れる。すかさず転がって拘束を抜け出して、勢いのまま崩れる地面の上で立ち上がった俺は、同じく立って槍を構える曹操へ、瞬時に拳を振りかぶった。

 

「みんなのためにも、俺がぶちのめさなきゃならねえんだッ!!曹操オオオォォォォッッッ!!!」

 

『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』

 

 雄叫びと共に『倍化』の合図が無数に重なり、瞬時に発揮された『力』が最後の一歩の踏み込みで足元の岩を粉微塵にすり潰す。今まで出会った誰よりも、それこそフェルさんすら大きく上回るパワーがパンチとなって、目を見開く曹操に放たれた。

 

 人間どころか悪魔でさえ、到底耐えることなどできない一撃。コカビエルすら打ち倒せるほどの威力を秘めた攻撃。あまりの速さが槍を置き去りに、すかしたイケメン面にめり込む。

 

 その直前だった。

 

『Reset』

 

 予想だにしなかった時間切れの宣告が、俺の『力』のすべてを一瞬にして洗い流した。

 

 ライザーとの戦いのように【赤龍帝の鎧(ブーステッド・ギア・スケイルメイル)】が解除されて溶けて消え、それどころか【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】すらなくなり、完全な無装備状態。一般人に毛が生えた程度の悪魔に戻って速度も威力も失った俺のパンチは、軽々と曹操の手に受け止められた。

 

「―――」

 

 あまりのことに声も出なかった。

 

『――バカな……!!』

 

 ドライグが呆然と呟く。手を掴まれたまま、今の自分が致命的な状況にあることにも気付かず、俺はさっきまで小手が存在した左手に言葉を漏らした。

 

「……なんで、こんな早く制限時間が……俺が、禁手(バランス・ブレイカー)を使いこなせなかった……のか……?」

 

『そんなはずはない!!神器(セイクリッド・ギア)のシステムにこんな機能があるはずがない!!オレが感知できないなど……なのにこれは……まるで、強制的に解除させられた(・・・・・)かのような……』

 

 俺の能力によるミスではなかったらしいが、しかし要領を得ないドライグの困惑で、ますます惑乱が激しさを増す。逃げろと叫ぶ仲間の声も聞こえず、しかし目の前の曹操の声だけははっきりと思考に入り込んだ。

 

「さすがに今のは肝が冷えたよ、一誠。やっぱり君が一番のダークホースだったな。それもまさか命や心よりも、女性の胸で強くなるとは……本当に恐れ入る」

 

 苦笑と共に言うと、不意に手が離された。

 

 俺はバランスを崩し、一歩二歩と後退った後、尻もちをつく。ぼおっと額の汗をぬぐう曹操を見上げ、やがて遅れて伝わった尻の痛みに我に返ると、慌てて立ち上がって拳を構えた。

 

 だが曹操は相手にせず、槍の刃を地面に突き立てると、一つ指を鳴らした。白音ちゃんとゼノヴィアを蝕んでいた呪いの炎が、瞬く間に消え失せる。

 

「まあとにかく、これくらいでいいだろう。訓練は、これで終わりだ」

 

「……やっぱり」

 

 と、続いたのは白音ちゃんの声。曹操の戦意のない行動も相俟ってあっけにとられた俺は、斜め上を見上げた曹操に続き、振り返った。

 

 その岸壁には、リアス部長とフェルさんとウタと、列車に取り残されているはずの三人が佇んでいた。

 

「――ええ!?部長!?な、なんでここに……!?」

 

 その俺の驚きに、リアス部長は羽を広げた。と思う間もなく、全速力でこっちに突っ込んでくる。現状を呑み込めないまま俺はそれを見守り、そして勢いをそのまま抱き着かれた。

 

 あの大きな双丘が、俺の顔にふにゃりと。

 

「ああイッセー!!怪我はない?曹操を相手によくやったわ……!みんなも、本当によく頑張ったわね……!」

 

「ぶ、部長……それにフェルさんにウタさんも……ずっと見ていたのか……?ならつまり、曹操が裏切ったというのは……あ、あれ?どういうことなんだ……?」

 

「相変わらずおバカだにゃあ、ゼノヴィア。訓練なんだってば」

 

「つまり、私たちを戦闘に慣れさせるために、曹操さんが相手役をしてくれていた……って、事ですよね……?」

 

「ああ。レーティングゲーム以外では、この間のコカビエルくらいしかまともな戦闘経験がないんだろう?まあそれが普通なんだが……。だからつまり、あれこれ言ったことは全部冗談さ。俺と君たちが知り合っていなければ挑発する必要はなかったんだが……すまなかった。リアス殿も、申し訳ない」

 

「……よくはないけど……いいのよ、貴方が悪いわけではないわ。そうでもしないと本気で戦おうっていう気にはなれなかっただろうからって……お兄様が提案したことだから、だめと言えなくって……」

 

「……僕は全く、演技だなんて思いもしませんでしたよ……。一撃で死にかけましたし……」

 

「そ、そうだぞ曹操!それに訓練だというなら、あの呪いの能力はあんまりだ!死ぬかと思った!」

 

「木場君には悪かったと思っているが、しかしお前に関しては言い分があるぞゼノヴィア。三発目の時、あそこでさらに向かってくるなんて……寸前で俺がガードに切り替えなかったら、君は死んでいたぞ」

 

「それは最後で唯一のチャンスだと思ったから……うう……訓練ということは……だめだったんだろうか……」

 

「別に不合格を出すためのものじゃないし、そもそも私たち関係ないし。あんたがやるべきって思ったんなら、それでいいんじゃない?反省会は自主的にお願い」

 

「……だとしても、こんなところでする必要はないわ。手加減してくれていたとはいえ、朱乃やみんなの治療も必要よ。うちの屋敷までの転移魔法陣を引いてあるから、早く行きましょう!……ほら、イッセー」

 

「――うへへ……おっぱい……ふぁっ!?は、はい部長!すぐに!」

 

 と、名前を呼ばれて、俺は極上の快楽から叩き出された。部長(おっぱい)が離れ、気絶したままの朱乃さんを抱えると、すぐ近くで赤く輝き始めた魔法陣へ向かう。

 

 仲間のみんなも、フェルさんとウタさんも、もちろん曹操もそれに続いた。その様子に、俺は違和感を感じずにはいられない。悦楽にどっぷり浸って皆々の話をあまり聞いていなかったからなのかもしれないが、曹操が仲間面をして皆がそれを受け入れているという、そんな光景に緊張を覚えた。

 

 ついさっきまで裏切者の大敵だと思っていた曹操が、実はリアス部長も納得済みの状況を演出していただけだったというその事実。それはまあ、他でもないリアス部長本人が言うのだから納得しよう。しかし実感は全く湧かないし、曹操への警戒を解く気にもなれない。俺の中の印象で、曹操は未だ敵の分類だ。

 だから『あれは全部冗談さ』なんていう曹操の台詞が、胡散臭く思えるのだろうか。

 

 俺の神器(セイクリッド・ギア)の異常もそう。曹操が悪人ではなかったと、いくら理屈でわかっていても、どうにも印象にもやが残る。そしてそれは楽園追放によって、より一層強く内心に焼き付いていた。

 

 とはいえリアス部長の慈しみの笑みの前では何も言えない。たぶん興奮か、あるいは混乱しているのだろう、と自己診断を投げ出して、俺は頭を振り、曹操のあとに続いた。

 

 それでもやっぱりまだモヤモヤする視線に気付き、ちらりとこっちを振り向いた曹操は、相変わらずのイケメン面でさわやかな苦笑いを浮かべていた。




一誠君の自力禁手化はまだ早いかと思ったのですが、かっこいいのでさせました。今回は半分偶然で成功しただけでまだ自在ではないということで一つ。
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十話

21/2/14 本文を修正しました。


 曹操と赤髪眷属たちの手合わせは、あの忌々しいサーゼクスとかいう悪魔が主張して行われたものだ。

 

 曰く、修行に当たって個人の能力だけでなく、突発的な危機への対処や連携、格上との戦闘経験も積ませておくべき、だとか。つまるところ、少しは懲りたのだろう。ただでさえ襲撃される理由が多い面子が揃っているのだから、()に備えるべきと、ようやく悟ったらしい。

 

 多少手荒になろうとも、妹を守る駒を育てるためならそれでいい。要はそういうことだ。

 

 ただまあそんな他所の思惑はともかく、ボクとしても、格上に対する戦い方を覚えるべき、という方針には異議はない。特にシロネには、せめて自分の身を守れるくらい強くなってほしいからだ。

 京都の時や今回の学園での一件のように、ボクたちが守ることができればいいのだが、毎回そんなご都合主義を期待するのは楽観が過ぎる。またいずれ危機に陥り、そして今度はボクたちが知る間もなく死んでしまうかもしれない。そうなれば、クロカが悲しむ。クロカのために、シロネに死んでもらうわけにはいかないのだ。

 

 しかし、今回の手合わせにクロカの悲嘆を防ぐ効果があったかどうかは、正直微妙なところだ。

 結果としてほとんど一方的にいいように弄ばれていただけであるし、ついでに言えば曹操の戦い方。眷属たち当人からすればすさまじいパワータイプを相手にした死闘だったのだろうが、しかしそもそもあいつは完全なテクニックタイプだ。技を駆使して相手を翻弄するのが本来の戦い方で、肉体の膂力や頑丈さは人間にしてはかなりのものだが、それでもクロカと大して変わらない。

 

 そんなやつに力でねじ伏せられて、それが果たして格上との戦闘経験(・・・・・・・・)になるのだろうか。回避も技も封じた曹操など、『フェル』でも『ウタ』でも一人で容易く蹂躙できる程度の強さでしかない。それだけの手加減をされて複数人で戦い、結界一矢報いることすらできずに全滅なんて、そんなのお話にならないレベルだ。

 唯一最後はいい所まで行ったのかもしれないが、それでも、赤龍帝の練度不足か、それともどうやったのかは知らないが曹操の仕業か、直前に鎧ごと『力』が消え、同時に戦意喪失してしまったことは如何ともしがたい。女の胸でパワーアップしたというのも――ボクの感性がキメラアント的でおかしいという可能性も無きにしも非ずだが――どうかと思う。結局、地力と精神面のもろさと変態性が露呈しただけではないだろうか。

 

(まあ……ボクたちの担当はゼノヴィアと赤龍帝と、それに……シロネだけだし、別にどうでもいいけど)

 

 周りが強くなればシロネが危機に陥る可能性も下げられるだろうが、迂遠だし悪魔の育成なんてただでさえやりたくないし、これ以上契約外の面倒を見る気はない。赤髪も指導要因も見つけているというのだから、三人の他は放っておけばいいだろう。

 それで勝手に強くなって、シロネを守る盾が増えてくれたら御の字。というまあ、曹操の無双は、それ始終するだけの見世物だった。

 

 ボクはそんな結論に至るまでの思考に徒労を見出しながら、ブロック型の携帯食料をかじっていた。

 

 機械的に口をつけていた朝ごはんのそれが、頭の中に向けた集中が落ち着くにつれて意識に上る。口の中にモソモソした食感が蘇り、やたらに甘いチョコレート味も手伝って増した不快感を、水で一息に流し込んだ。

 

 はあ、とため息を吐く。クロカのためにボクがやるべきは、シロネと、そしてついでにゼノヴィアと赤龍帝を鍛えることのみ。これらだけでも十分なストレスなのに、喉を滑り落ちていく不快感をいちいち真に受けていられない。

 

 というか、これに不快感を感じる要因が、そもそもストレスに端を発したものだろう。苛立っていると些細なことが気になってしまうという、公園でゼノヴィアを待っていた時のような連鎖反応。今いるここが冥界の森の中、ボクの故郷に似た環境であるというのに落ち着かない理由だって、きっとそのせいだ。

 

 昨日の夜、すなわち手合わせ見物の後に苛まれたそれが、恐らく火種だった。

 

 赤髪が『治療のためにうちの屋敷まで転移魔法陣を引いている』なんて言った時から覚悟はしていたつもりだったが、しかしやはり、悪魔の屋敷に連れていかれる嫌悪感には耐えがたいものがあった。前後左右、どこを向いても悪魔ばかり。それも、控えるメイドやら執事やらのすべてが純血で、人間が転生したわけでもない、正真正銘の悪魔ばかりだったのだ。

 

 すぐに人のいない離れへ通されたが、その間でもその距離でも、殺意を堪えるのに苦労した。泊るとなって、もちろん気が休まるはずもなく、夜が明けるなり修行の準備を理由にして飛び出すくらいのストレス。それが尾を引いて、せっかくの朝食もマズくしているに違いない。証拠に、隣の木の上に寝そべるクロカは、ボクのと同じチョコレート味をおいしそうにほおばっている。

 

 ボクの手のそれが一本混じった欠陥品でない限り、おかしいのはボクの精神状態のほう。食事すら苦痛に感じるようになるなんて、もしかしたら大分末期に近付いているのかもしれない。そう思うと、ストレスに加えて危機感までもが頭を侵すかのようだった。……そもそも食事を楽しいと思ったことはあまりないが。

 

 暗い頭の中を追い払うようにしてかぶりを振ると、ボクは手に残った半欠片のブロックを口に押し込んだ。ほとんど噛まずにそのまま呑み込み、眼前に拓いた小さな広場と先の大樹海を眺めながら、なんとなしに話題を探した。

 

「……そういえばさ、知ってる?」

 

「ん?何が?」

 

「ここ、シロネの領地なんだって」

 

 ボクを見下ろしながらもしゃもしゃと続けるその咀嚼が、一瞬ぴたりと固まった。しかしすぐに再開し、視線を枝葉ばかりの宙に戻すと、つまらなそうな顔になって応える。

 

「へえ、そうなの。さすが冥界、土地が余りまくってるだけあるわ。あんな小娘にまで与えるなんて、そんな無駄遣いするくらいなら人間にでも売ってやればいいのにね。絶対いい値段付くわよ」

 

「……そもそも、人間に売る気なんてないと思うよ。外患誘致になりかねない。だからシロネとか、身内にしか分譲しないんじゃないかな」

 

「土地転がしは無理かぁ。楽にお金稼ぎできると思ったんだけど、残念」

 

 と、台詞に反して全く残念に思っている様子のない調子で言うクロカは、やっぱりこの話題に興味を示さない。ずっと続く、シロネ関連への徹底的な無視。

 

 だからつまり、シロネなんてどうでもいいと、そう装っている。

 

 恐らくそれは数週間前、依頼の受注を嫌がった時と同じ、ボクを慮るためのものだ。悪魔との関りが苦痛であるボクのため、それを極力取り除こうとしてくれているのだろう。

 

 その思いやりは嬉しく思うが、しかし不要だ。ボクはクロカに気を遣わせるためにここに来たわけでは、悪魔に囲まれ続ける昨日の拷問を受け入れ、そして耐え切ったわけではない。

 クロカに幸福なってほしいからなのだと、もうそろそろわかってはくれないだろうか。

 

 腰かける切り株の根をじっと見つめながら、ボクは三度も深呼吸をして恐れを振り払うと、それでも重い口をどうにか開いた。

 

 口ではっきりと伝えるのは、思っていた通り苦しかった。

 

「……昨日、シロネと……食事とかお風呂とか、一緒にしなくてよかったの……?」

 

 喉から押し出した言葉。昨日、グレモリー邸に泊まることを決めた理由の大半がこれだ。そろっての食事会や大きなお風呂場やら、シロネと関われるチャンスが多かったから。

 それを拒否する必要は――ボクの憎悪を汲んでシロネを避ける必要はないのだと、己の口からそう告げた。

 

 けれどクロカは、言っている意味がわからないと言いたげな表情で首を傾げた。

 

「え?なんで?」

 

 また一つ息を整え、どうにか声に出す。

 

「ボクは……特にお風呂なんて絶対無理だけど、けどクロカまで断ることなかったんだよ。シロネと一緒にご飯食べたりする機会なんて……これを逃したら、もう今後あるかわからないんだよ?」

 

「……何言ってるのかよくわからないけど、別に機会なんてなくっていいじゃない。あいつらをボコボコにした曹操と違って、別に私たちは点数稼ぎする必要とかないもん」

 

「だから……シロネに、だよ。下手したら、会うのだって今回が最後になるかもしれないんだしさ……ボクに構わないで、話したりしていいんだよって……」

 

「仙術の指導のこと言ってるの?ならもっとわけわかんないんだけど、どうせ『念』のほうが一段落着いたら嫌でも二人きりよ。だいたいピトーって、なんでそんなに指導指導って熱心なわけ?いいじゃない、テキトーにモノだけ教えて、できないなら放っておけば。私だって悪魔となんか関わりたくないんだから」

 

 忌々しげなふうに吐き捨てて、クロカは二個目の携帯食料の包装を剥いだ。今度はプレーン味のそれに舌鼓を打ち、打って変わってご機嫌に頬を緩める。

 

 それらの仕草も、すべてが作り物。何年もずっと一緒にいたから、ボクにはそれがわかってしまう。わかってしまうから、やっぱりもう言わざるを得ない。

 

 言いたくなくても、言わねばならない。それが、クロカのためなのだから。

 

 錆びた機械のように重く硬い声帯が軋み、切れ切れに言葉を並べた。

 

「けど……姉妹……でしょ……?」

 

 クロカの顔色が一変した。

 

 ご機嫌から、何も読み取れない虚無の表情。数秒そのまま固まり、やがてまた突然、思い出したように慌てて周囲を見回した。

 

 まるで引きずり出された内心を隠すかのような間と大げさな慌てようは、ボクの想像が正しかったことを実感させた。

 

 食べかけのプレーン味を片手にわかりやすく肩をなでおろしたクロカは、次いでボクにジト目を向け、寝そべっていた枝から飛び降りた。静かに着地し、ボクに詰め寄る。

 

「もう、誰に聞かれるかわからないのに、こんなところで危ないこと言わないでよ。冥界の森だからって、また前みたいな逃避行サバイバルでもするつもり?」

 

「……でも、大丈夫だったでしょ?近くに誰もいないことくらい、ボクにだってわかるよ。木の洞で寝るのは……うん、嫌だからにゃ」

 

 正直に言えば、それは嘘。あの頃に戻りたいと少しだけ思った。少なくとも五年前は、クロカの心に開いたシロネの穴が自分には塞げないものであると、気付かずに済んでいたから。

 

 あの頃は、何の憂いなくシロネを憎むこともできていたのだ。

 

 クロカを傷つけ、自死を望むにまで追い詰めたシロネ。その悲しみに寄り添うことはできても、癒すことはできなのだと、気付いたのは四年前のクロカの眼だ。

 

 あれだけ苦しめられても尚、クロカはシロネを憎んではいなかった。それはたぶん、シロネが『妹』で、『家族』だから。裏切られ、心にぽっかり空いたその穴を、クロカは埋め戻したく思っているだろう。

 

 そしてボクは、クロカにそう思わせる『家族』というものが未だに理解できない。だから『家族』を求める彼女の苦しみを癒してあげることもできない。

 

 京都の九尾、八坂はボクに『母親に向いている』と言ったが、しかしそれは少なくともクロカの(・・・・)ではないのだろう。ボクがクロカに抱く『愛』が受け入れられるものだとしても、『家族』はまた別の問題だ。

 

 それが唯一可能なのは、元より『家族』であり、『妹』であるシロネだけ。故の今の状況。シロネをクロカに近づけたくはないが、しかしそうしなければクロカの苦しみが永遠に続いてしまう。やりたくはないが、やらねばならない。そしてクロカを『愛』しているなら、ボクはそれを喜ばなくてはならないのだ。

 

 困難極まるその事情に苦しまずに済むから、ボクは懐旧を感じていた。

 

「……まあ、確かに私と白音は姉妹だったけどさ……」

 

 ボクの内心の感情も、やはり長年の付き合いでわかったのだろう。クロカが眉尻を下げ、後ろめたそうに言う。しばらく視線を彷徨わせると、小さく「けど」と呟いた。

 

「嘘ついてるわけじゃないのよ?ほんと。それに、第一もう『黒歌』は死んじゃってるわけじゃない?『ウタ』にとっては全くの他人。関係性なんて、精々同じ仙術の素養があるってことくらいだわ。ネテロみたいに学べる部分があるわけでもないし、そんなんで話したいことなんてあるはずもないわよ」

 

「………」

 

「……それに、そうじゃなくても私と白音の関係は、もうとっくに終わってる。何があったか知らないわけじゃないでしょ?せっかく苦労して助けに行ってあげたのに、拒否った挙句にバケモノ認定。あっちは私のことを姉なんて思ってないし、私ももう、アレを妹だなんて思ってないわ。百年の恋も冷める、ってやつ?まあ、冷めたのは家族愛(・・・)だけどね」

 

「……っ」

 

 そんなはずがないだろう。苦しみから何度も口を突きそうになる八つ当たりを、ボクは何度も押し留めた。

 

 クロカが言うシロネの拒絶は、すべてボクのための言い訳。『家族』も『愛』も、それを求める心までもが本当に消えてしまったのなら、クロカもボクもこんなに苦しんではいない。そうに決まっている。

 

 それに、もし本当にクロカの中でシロネへの想いが消えてしまったのだとしても、その穴が残っていることは確か。クロカがボクを受け入れてくれた場所だからだ。

 

 しかしそれでは、ボクでは『家族愛』とやらを満たせない。クロカは猫又で、ボクはキメラアント。血も姿も一目瞭然に繋がっていないボクたちはそもそも『家族』でないのだから、当然クロカが求めるシロネ(家族愛)に取って代われるわけもない。そうなれるための資格からして、ボクにはなかった。

 

 京都の時からの四年間、どれだけ脳味噌を働かせても、それが変わらない結論だ。

 

「クロカは……『家族』が欲しいんでしょ……?」

 

 クロカの憂いは、すべてこれに尽きるのだと思う。幸せだったころを取り戻したい。それがボクのせいで妨げられているなら、それは全く望むところではなかった。

 

 クロカに幸福を捧げること。ボクが望むのはそれだけだ。

 

 そう押し殺して、ボクはぎこちなく微笑んでみせた。

 

 それがシロネにしかできないことだとは、本当は認めたくないが、けれどどうしようもない。クロカの嘘で強まった確信に押しつぶされそうでも、クロカを幸福にできる唯一がボクではなくシロネだという事実は変わらない。だからそのために、ボクは自身を殺すしかなかった。

 

 悲しみと悔しさと失意に痛む心を押さえながら、ボクは接いだ決心で、感情に引き下げられた顔を持ち上げた。

 

 しかし、瞬きを一つした後に見えたクロカは、

 

「家族なら、ピトーがいるじゃない」

 

 キョトンとしながら、そう言った。

 

「――え……?」

 

 たっぷり十秒。冥界特有の淀んだ風が駆け抜けていくだけの間が開いて、クロカが胡乱げに目を眇めた頃に、ようやくボクの口から反応の声が出た。何の意味む含まないただの疑問符だが、しかしそれが精一杯。それほどに、クロカが放ったその言葉は衝撃的だった。

 

 『家族なら、ピトーがいるじゃない』。それはつまり、ボクがクロカの『家族』であると、そう認めてくれたということか。

 

 血は繋がっていないし『妹』であるシロネは嫌いだし、それに何より、おいしいと言って食いかねないボクを、それでも『家族』の枠組みの中に入れてくれるということか。

 

 あまりにも突拍子で想像すらしていなかった言葉の並びが、そこまで熟考してようやく理解にたどり着いた。

 

 しかしまだ信じられず、聞き間違えかもしれないと耳を隠す帽子に手を掛ける。それをやや焦りの顔で止めたクロカが、近づいた顔に今度は呆れと困惑を乗せ、瞬きをした。

 

「……何をびっくりしてるのか知らないけど、そりゃあそうでしょ?ていうか……あれ?そう思ってたの、もしかして私だけだった……?」

 

「……え……っと……」

 

 理性の復活を待つボクに疑念が正しかったことを悟ったクロカは、今度こそ本心からの苦々しげな表情で、長々とため息を吐いた。

 

「……マジなわけ?確かに周りにはコンビくらいにしか思われないかもだけど、だってもう五年もずっと一緒にいて……いやまあ、私は……だけど……」

 

 もごもごと口の中で言葉が途切れ、ほんの少し頬を赤らめたクロカはしかし、すぐにボクを睨みつけて続ける。

 

「と、とにかくだって、私にとっては家族も同然なんだもん!……少なくとも繋がりって意味なら、五年も前に妹をやめた白音よりも、ピトーのほうがよっぽど大事よ!」

 

「……それは……ほんとに……?冗談なんかじゃなくて……?」

 

「冗談でこんな恥ずかしいこと言わないわよ!……だから、私はピトーが居てくれるだけで……それだけで十分幸せなの!」

 

 血が上った頬で言い捨て、照れくさそうに顔を背けるその様子には、やはりシロネを否定した時のような嘘がない。嘘がないということは、本心からの困惑だったということ。クロカがボクを、本心から『家族』だと思ってくれているということだ。

 

 ボクの頭は、ようやくそのことを理解に引き上げた。

 

「あーもう恥ずかしい!なんだってこんなことを大声で宣言しなきゃ……って、え?ピトー?なんでそんなにじり寄って――むぐっ!?」

 

 歓喜に身体が勝手に動き、気付けばボクはクロカの頭を抱きしめていた。他の誰でもない、クロカが言うからこそ信じられるその言葉。八坂からでも、もちろんボク自身からでもなく、クロカがボクのことを『家族』と呼んでくれたから、だから今までボクを苦しめ続けたそれは、幸福の言葉に転じた。

 

 自分がシロネに負けないほどクロカに想われる存在であると、そんなあり得もしない話が、しかし今、クロカの口に認められた。シロネでなくとも、ボクはクロカが求めるものになれるのだ。

 

 八坂でもボク自身でもない、他でもないクロカがそう言うから、そう思うことができた(・・・・・・・・)

 

 それは、とてつもない幸福だった。

 

 あの時の孤独を、もう恐れずに済む。クロカの心をシロネに明け渡さずに済むと、抱いていた怯えが融解した。 そうなりたいとずっと望み、しかしできないと諦めていたそれ。クロカが心の奥で『最も求めている存在(家族)』にボクがなれるのだと、そう思え()から、ボクは喜んだ。

 

 喜ぶことにした。

 

(――キミがそう認めてくれるなら……ボクももう、何も言わないから……)

 

 たとえそれが『黒歌(・・)』が死んだ諦め《・・・・・・》だとしても、クロカが『クロカ』でいいと、ボクという悪魔喰らいのバケモノに『母親』を求めているのなら、そうしよう。それでクロカが幸せになれるのなら、きっとそれが、ボクがクロカの『家族』であることが一番いい。

 

 そんな歪みで軋む心には気付かないふりをして、ボクはそう思い込むことにした(・・・・・・・・・)。 シロネを必要としなくても、クロカはボクで幸せになれる。そっと抱き返してくれる彼女の腕に、ボクは信じて目を伏せた。

 

 

 

 

 

 ピトーが唐突に私の頭をホールドし、加減なしでぎゅうぎゅう締め付けてきた時は、正直また何か茶化しているのかと思った。

 

 思えば一度も言ったことなどなかったし、いきなりの家族認定はそりゃあ引くかと顔が茹ったが、しかし私を胸に掻き抱く手、その温かさはどちらかと言えば抱擁で、しかも直前に見た深刻を思い出せば、明らかに頬っぺたこねこねの類とは違うとすぐにわかった。

 

 ピトーはたぶん、引いたのではなく喜んでいるのだろう。そしてそれは私の言う通り、五年もの長い付き合いであるから。彼女は、私の中に未だしつこく残る白音の残り香に、目敏くも気付いてしまったのだ。

 京都での出来事からもう白音のことは忘れると決めて実行し、隠し通してきたつもりだったのだが、しかし読み取られた私の内心からは完全に消すことができなかったらしい。自分でも気づかないほど僅かな白音への想いを気取られ、それでピトーはあれこれといらぬ気を回したのだ。

 

 深刻そうな顔で姉妹に家族にと言っていたのも、今思えばそういった不安、あるいは不満。実は黒歌は、悪魔を、白音を嫌ってはいないんじゃないかと、そんな疑念を抱いてしまった。

 

 つまり裏切られた思いだったが、しかし私の家族認定でそれが否定され、反転して喜んだと、そういうことだ。

 

 よくわからなかった感情の激変に理由を見つけ、ほっと息をつき納得した。そして同時に呆れと、ほんの少しの怒りを覚える。

 ピトーの胸から顔を抜け出して、薄いコートの襟に唇を尖らせてやった。

 

「私がピトーを見捨てるなんて、そんなことあるわけないじゃない。そんなに信用ないなんて、酷いわ」

 

 私もピトーも、独りの怖さを知っている。だからこうやって一緒にいるのだ。なのに裏切って、しかもよりにもよって白音を取るなんて、そんなこと絶対にありえない。例え何があっても、私がピトーを置いて行く日は来ない。もう二度と、あれはごめんだ。

 

 そんな思いだったが、しかしはっきりとは伝わっていなかったらしい。やっぱり言葉にするのは大切だなと子供みたいな理解を得た私は、小さく「うん」と呟いたピトーの、優しく頭を撫で始めた手に、目を細めて浸った。

 

 その数秒後に、私の感覚に無粋にも異物が混じった。

 

(……空気読みなさいよ、あいつら)

 

 悪魔の気配。件の白音と、そしてゼノヴィアに赤龍帝だ。

 

 まあそもそも私たちは奴らにつける修行の準備でここにいることになっているのだから、忌々しく思うのはお門違いだろう。先に屋敷を出た私たちを待たせまいと思ったのなら、それは褒めて然るべき師匠思い。

 

 だから、要は有難迷惑だというだけだ。良識的に忌避すべき逆恨みは、しかし相手が悪魔であるなら問題なく表情に出る。とはいえ抱き合う姿を見せることは羞恥心的に許容し難く、私は名残惜しくもピトーの背に回した腕を解いた。

 ピトーも察してしぶしぶ離れ、そして一緒に気配のほうを見やった。

 

「こんなガキ共のとこに行くだなんて思われてたの、ほんと心外だわ」

 

「ごめんってば」

 

 はにかみ、おどけるようにピトーが笑う。どうやらお邪魔虫なお子様たちの訪れでも、いつも通り(・・・・・)の調子に戻ることができたようだ。安堵で気配への忌々しさが相殺され、私にも笑みが浮く。

 

 家族という言葉がピトーにとってそんなにもいいものであるなら羞恥を呑んでこれからも言ってあげようと決意して、私は余りのエナジーバーを口に放り込んだ。

 

 値段の割に中々おいしいそれを味わい終えて、その頃になって耳にも騒々しさが届き始める。主にハンゾーとゼノヴィアと赤龍帝の間でぎゃあぎゃあ交わしながら、そこに白音を加えた四人の姿が、冥界らしいねじくれだった巨木の陰に見えた。

 

「――にしてもマジですげーとこだなぁ、冥界ってのは。こんなでっかい木があちこち生えてるような手付かずの樹海が、まだまだあちこちあるんだろ?魔境とか秘境とか、未知の宝庫じゃねえか!」

 

「……もっと大きな木、五百メートル近い高さのものが生えている土地も、どこかにあるらしいです」

 

「五百メートル!?はー……東京タワーよりもでっかい木か……想像もつかねーなあ……」

 

 きょろきょろ周囲を見回して目を輝かせていたハンゾーが、手を掛けた巨木の梢を感嘆と見上げる。確かに私とピトーが長い間を過ごした森の木々は、ここのものよりはるかに大きかった。それこそ白音の情報通り、五百メートルもの高さがある木もあったほど。

 

 私はひやりと若干肝が冷える思いを味わいながら、しかしまだこちらに気付かずおしゃべりを続ける奴らはのんきに感心するばかり。ゼノヴィアが代表してうんうん頷いた。

 

「確かに。さすがは冥界、ということか。この世にそんな木があるとは……あ、いや、冥界だから『この世』ではないのか」

 

「……筋トレの時もそうだったけど、ほんと妙なところで細かいな、お前。けど確かに、すっげえよな冥界って。前に来た時はよくわかなかったけど、他にも面白い土地があったりするのかな」

 

「いいねぇいいねぇ!ロマンがたっぷりだ!なあ白音、ここってほんとにお前の土地なんだよな?なら後でいいからさ、ちょっと探検させてくれよ!」

 

 ハンターとしての本能を丸出しにするハンゾー。さすがに眷属悪魔に与えられるような領地にお宝があるとは思えないが、まあどうぞご勝手に、だ。私たちが困ることはないのだから好きに遊んで来ればいい。

 

 しかし修行大好きのゼノヴィアが、言葉に渋面を作った。

 

「だがハンゾー、お前が冥界にいられるのは夏休みの間だけだ。同様に、フェルさんとウタさんから教えを受けられる期間もな。『念』もまだ基礎しか覚えていないのに、そんな時間があるのか?白音の領地と言っても、たぶん駒王町くらいの広さはあるだろう」

 

「うぐ……」

 

 と息を呑んだハンゾーが、助けを求めるように白音へ眼を向ける。白音は居心地悪そうに二人を交互に見やって、そして言い辛そうに口を開いた。

 

「ええと……どうなんでしょう。大雑把にしか説明してもらったことがないのでわからないです。けどたぶん、私の領地はほとんどこんな感じの森だから、すごく歩きにくくて調べ辛いと思います」

 

「原生林はむしろ得意分野だぜ!……てか、少なくとも俺の里よりは広大だってのに、そんな適当な管理でいいのか悪魔社会って……。まあオレとしちゃあ好都合だが。……あとは、森だってのに空気に変な感じがしてなけりゃ文句なしなんだがなぁ」

 

「……?そうか?俺はなんにも感じないけど……」

 

「冥界の空気だからな、人間には合わないんだろう。……平気か?」

 

 不思議そうな赤龍帝に続き、ゼノヴィアが少し心配そうな顔をする。

 

「おう、修行する分には問題ねえ。屋敷で朝メシたっぷり食わせられたしな。悪魔の、それも貴族の朝メシなんてどんなもんかと思ってたが、結構旨かったし。ほら、曹操もお前たちと戦った翌日だってのに、うまそうに食ってたじゃねーか。平気平気」

 

「まあ……そうか」

 

 そして歯切れ悪くもそう頷いた。

 いやツッコんでよ、という私の心の叫びも空しく。

 

「なんでハンゾーも曹操も、悪魔と仲良くご飯食べてんのよ」

 

 結局、止まらずに私の口がツッコんだ。

 

 いやまあ失った好感度稼ぎの一環だろうが、知ってしまえばこっちの好感度が反比例で減っていくのだから我慢ならない。そのせいで思いのほか大きな声が出てしまって、四人がたちまち一斉に私たちが居る方向に振り向いた。

 

 しかし習慣から軽く気配を消している私たちの姿は、『(ギョウ)』すら覚えていない奴らには容易く見つけられない。静まり返って声がした辺りに慎重に視線を走らせ、そして間もなく、仙術の才もあっていち早く発見した白音が声を上げた。

 

「あ……ウタさま……!」

 

「ん?おお、フェルもウタもそこか!声まで聞いたのにわからねーもんだな。それも『念』、確か『絶』とかいうやつなのか?」

 

 無視していた当時から気づいてはいたが、『ウタ』に対する態度が妙によそよそしい白音のことはまたしても放っておく。こっちの気も知らず元気に手を振って見せるハンゾーに、私は嫌々ながらも応えた。

 

「これが『絶』なら、あんたたち程度に見つけられるわけないでしょ。ちょっと静かにしてただけよ」

 

 ある意味ではそれも『絶』の範疇かもしれないが、業界用語の意味など説明してやる義理はないので否定した。呆れで鼻を鳴らしてやる。なんだ違うのかと落胆するハンゾーに続いて下草をかき分けてくる三人を横目に、私はピトーの後へ退いた。

 

 今日もまだ、私の出番はなしなのだ。『念』の修行担当のピトーと入れ替わり、切り株に腰かけた。

 

 事前準備で作ってやったこの小さな広場にたどり着いたハンゾーが、そういえばとピトーに尋ねる。

 

「ここにいたってことは、聞いてたんだよな?なら、暇があったらやってもいいか?探索。どうせしばらくはここでサバイバル生活なんだろ?」

 

「……やりたいのなら、好きにすれば?」

 

 ちょっとの、悩むような間があってから、ピトーは頷いた。「やったぜ!」と右手を突き上げるハンゾーに、続けて言う。

 

「ボクは修行メニューを提示するだけだから。やるかどうかはキミたち次第にゃ」

 

「……フェルさん?なんだか、やけにあっさり認めるんだな。寝る時間以外ずっと修行漬けにするのだと思っていたぞ」

 

 さっきの抱擁のやり取りで心境の変化があったのか、ピトーのその、前よりも若干テキトーさが増した修行への態度は、修行バカのゼノヴィアに違和感をもたらしたようだった。ピトーはそれに、というか後ろでコクコク頷く赤龍帝に、冷たくした眼差しを向ける。

 

「うんまあ、ボクたちの方針に文句があるやつがいるみたいだしね、思い直したんだ。曹操も節穴だよね、何がダークホースなんだか」

 

「うげっ……!ま、まさかおい……ゼノヴィア、お前ほんとにチクりやがったな……!」

 

「まてイッセー、違うぞ、告げ口はしていない。曹操の特訓でうやむやになってしまったんだから。……普通に聞かれていたんじゃないか?」

 

 その通りである。列車の扉一枚で声がシャットアウトされるものか。

 

 ついでに半分嫌がらせでもあるので気になどしていなかったが、建前に使って話を終わらせるピトー。何も言えなくなる赤龍帝と肩を落とすゼノヴィア、それにわくわくで話を聞いていないハンゾーの間から、白音がおずおずと前に出た。

 

「それで……その、今日は何の修行をするんですか……?また『纏』と『練』を続ければいいんですか……?」

 

 やっぱりなぜか、ピトーに加えて後ろで頬杖ついて眺める私にも、白音はチラチラ視線を送ってくる。いい加減鬱陶しいが我慢して眼を逸らし、ピトーの後姿で中和した。

 

 その後姿、キャスケット帽が乗ったふわふわの銀髪が、おざなりに横に振られた。

 

「『四大行』の反復練習はもう一人でできるでしょ。まあ『纏』も『練』もどっちもまだ半端だし、『絶』に至っては触れてもいないけど……何度も言う通り時間がないからさ。とりあえず戦える()にするのが先。特にキミは、仙術もある。さっさと基礎を作って覚えてもらわないと。契約不履行で違約金を取られるのはごめんだにゃ」

 

「……なるほど、です……」

 

「じゃあ、何やるんだ?」

 

 白音の代わりに、ようやくロマンの夢想から帰ったハンゾーが尋ねた。ピトーはそれに人差し指を立て、目の前にかざして答えた。

 

「応用技の一つ、『(ギョウ)』。簡単に言えば、『すごく注意して見ること』だにゃ。例えばボクの指先、何も見えないでしょ?」

 

「まあ……手袋が云々ってわけじゃないなら。……結構いいもん使ってるな、どこで売ってんだ?」

 

「……話続けていい?」

 

「あっはい」

 

 件の指先、伸ばした『気』で描いた猫マーク。『隠』を使ったそれに現れた苛立ちが、見えずともハンゾーを威圧し、黙らせる。

 

 通常、そうでもしなければ感じ取ることもできないのが『隠』だ。私のように『念弾』や、『念』で具現化したものを使う念能力者にとっては、特に強力なものとなる『絶』の応用技。それを見破る唯一の方法が『練』の応用技である『凝』、なのだが、

 

「あ、あの……フェルさま、私、なんとなくわかります。……猫のマーク、ですか……?」

 

 仙術の素質があるなら別の話。それが『気』によるものである以上、見えなかろうが感じ取ることはできる。樹木の茫洋な『気』だろうが羽虫の微細な『気』だろうが、それこそ邪気だろうが問答無用で感知し吸収してしまう仙術を以てすれば、ピトーの『隠』とて見破るのはそう難しくない。

 

 つまり白音はピトーの言葉で仙術を使ってしまったのだろう。しかめっ面になりそうなのを必死にこらえてマークを見つめる白音に、ピトーはそれを察して小さく「ああ……」と呟いた。

 

「けど、見えるわけじゃないんでしょ?仙術じゃなくて『念』で見れるようになること。要は『気』を身体の一部に集中させる技術を身につかなきゃだから」

 

「集中……そうか、それで『すごく注意して見ること』、なわけか」

 

「うん、そう。『練』で生み出した『気』を眼に集める。最低限、これくらいの『隠』を見破れるようになって、それで合格だよ。んじゃ、頑張ってにゃ」

 

 はい解散とでも言うようにひらひら手を振るピトー。少なめなやり方の説明に目をぱちくりさせたゼノヴィアとハンゾーと白音は、顔を見合わすと、やがて佇まいを直してピトーの指先に熱視線を送り始めた。

 

 傍から見ればちょっとヘンテコな光景だが、『隠』を使った『気』がなければできているかもわからないのだから、仕方ない。しかしということはつまり、ピトーはずっと指を立てたままでいなければならないのか。

 

 今更気付いて、時が来ればさすがに交代してあげようと、働きたくない私も決心した。

 

「えっと……俺はどうすれば……」

 

「筋トレに決まってるでしょ。いつもの各四百回を、とりあえず四セット。終わるまで休憩禁止ね」

 

「あ……悪魔め……!」

 

 よくわかったわねと内心で赤龍帝を笑ってやって、私は食料なんかを詰めてきた鞄から、隠していたゲーム機を取り出した。




言葉にしないと伝わらないこともあるんやなって。(なお微妙に伝わってない)
感想くださいをまた肝臓くださいって打ち間違いかけました。


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十一話

『念』関係のオリジナル要素追加。整合性のためなので許して。


「――よし、じゃあ次が最後、ゼノヴィアの番だよ」

 

 白音から視線を動かして、ピトーはニヤニヤと頬を緩ませながらそう告げた。

 呼ばれたゼノヴィアが白音の様子を気にしつつ入れ替わり、椅子代わりの平たい石に腰を下ろす。一段高い切り株の上に座すピトーを見上げ、若干の怯えと共に呟くように言った。

 

「……フェルさん、本当に、私も今のをやらないといけないのか……?」

 

「『念』を覚えたいのなら、ね。でなけりゃ別にやらなくてもいいよ?修行を諦めるのなら、ボクたちは止めない」

 

「ぐぬ……」

 

 ゼノヴィアが唇を噛む。『念』のために悪魔にまでなった彼女がそれを言われて、今更『辞める』なんて口にできるはずもない。

 

 それを知りながらも辞退を勧めたピトーは、覚悟を決められずに呻くそんなゼノヴィアを、また愉快そうに笑った。その嘲笑を纏ったまま、腕を広げて手と手の間、『隠』を使った『気』を操り、さっきの白音とその前のハンゾーの時のように文章を綴る。

 

 展開された『念文字』を前にして何をすればいいのか、前二人分を見学したゼノヴィアは当然理解している。一瞬躊躇の後、『纏』の『気』を両目に集中させ、一週間で一応の形になった『凝』を発動させた。そしてそれを以てして、絶妙に見え辛いピトーの文章を、恐る恐る眼でなぞった。

 

 だが、その恐る恐るは読み進めるうち、徐々に赤面へと変わっていった。おっかなびっくりの一行目が二行目でしかめっ面に変わり、三行目となった途端、一気に羞恥が赤く色付く。

 

 真っ赤なまま最後まで読み終え、もう一度読み直し、内容に見間違いがないことを確認して、残った怯えもすべて羞恥心に変えたゼノヴィアは、少々の困惑が混じった恨めしそうな眼でピトーを睨んだ。

 

「……思っていたのと違うが、しかし……これを言えと……?」

 

「もちろん。ハンゾーやシロネみたいに、大きな声ではっきり言うこと。でないと何回でもやり直しだから」

 

「う……ぐうう……!」

 

 羞恥心の狭間で震えて葛藤するゼノヴィアは、やがて消沈すると、大きなため息を吐き出した。涙が浮いた眼にジトリと恨み節を乗せ、溢れる羞恥を必死に押し退けようとしながら、呟く。

 

「……絶対に、強くなるんだ……!」

 

 パッと勢いよく顔を上げ、息を吸いこむ。一拍を開け、そしてどうにか『大きな声』ととれるくらいの声量で、つっかかりながらも肝心な部分は『はっきり』と、より血が上った顔で張り上げた。

 

 ハンゾーが受けたのと同じ、恥辱の台詞を。

 

「わ、『私は以前、真剣に行うべきこの修行の途中で、疲労困憊のあまり、フェル、を……か、母さん、と、呼んでしまったことを、ここに告白します……』」

 

「ん゛ッ!」

 

 と、瞬時に顔を背けたハンゾーの喉から何か鳴り、ゼノヴィアの顔がますます赤くなる。その歳で、しかもフェル相手にかよ、と内心で大爆笑していることが明らかなハンゾーの後姿を意識してしまうゼノヴィアは、もはや眼が滑って読めてもいないだろう『気』の文章を凝視したまま、一段上擦ってしまった声調で続ける。

 

「『前の夜にアーシアとイッセーと眷属の絆について話していて……冗談で、もしもフェルが自分の母親だったら大変な事になっていただろうと、いう、話題になってしまったことが原因、です……こ、今後は、気を抜いてバカなことを考えてしまわないよう……気を付けます……』うぅ、ぎゅう……!」

 

 言い終わるなり、ゼノヴィアは頭を抱えて蹲ってしまった。

 

 顔の赤みは最高潮だろう。過ぎた羞恥で潤んだ眼が地面に押し下げられ、丸まった身体が哀れっぽくぷるぷる震えるその姿。コカビエルとの戦いで赤龍帝や聖魔剣たちのような、言いたいことはあるがしかし言えない、膨れたフグみたいなこの赤面。

 

 私は、私が求めていた類の愉悦がようやく提供されたことに、言い知れぬ感慨のようなものを感じていた。

 

「そう!こういう反応が見たかったのよ!わかる?ハンゾー、あんたがした漫才みたいなつまんないボケツッコミは求めてないわけ!」

 

 お預けを食らって掣肘を食らって、焦らされていたために、喜びのあまり思わずそんなことを叫んでハンゾーの背をひっぱたいてしまう。それくらい、私はゼノヴィアのそれに、ある種の快感を感じていた。

 

「いってェッ!!ウタお前、白音ちゃんの時からずっと静かだったのに、いきなり何すんだよ!しかもバッチリ『気』ィ込めやがって!『纏』してたのに死ぬほどいてーわ!!てか誰のボケツッコミが『つまんない』だって!?」

 

「あんたのよ!……やっぱり日本人でも、関西人でないとああいうのはダメだってことね。なんでやねんも通じないし」

 

「今の張り手ツッコミだったのかよ!悪かったな!関西人じゃなくて!」

 

 久方ぶりの愉快を堪能する私。「ちゅーかボケツッコミだの関西人だの、漫才よく知ってるな」と、呆れ八割懐疑二割の呟きでやらかしに対する過敏反応を揺さぶられ、すぐに我に返って口を閉ざす。

 

 こっちのそんな内心には幸いなことに気付くことなく、ハンゾーは非難混じりに頭を掻いた。

 

「大体よお、『凝』の上達具合を見るためのテストなんじゃなかったのか?これ。……オレの時も、エロDVD買いに行ったこと暴露しやがって……」

 

「そりゃあ言うわよ。ほんとに変態ハゲだったんだもん」

 

「だからハゲじゃねーって!!変態ってのも……そもそも買いに行ったのは、一誠に頼まれたからだよ!あいつまだ十八禁の店には入れねーし……」

 

「へえ、それでお尻だとかおっぱいだとか言い争ってたわけ。あんたも大変ねぇ」

 

「とどめに性癖まで暴露するなよ!ほら見ろ!白音ちゃんにまで引かれちまったじゃねーか!」

 

 指さし、文句を喚く。怒るその様は、しかしやっぱりゼノヴィアほどの愉快さを感じない。

 

 ハンゾーの言った通り、『凝』のテストとして順に行われたこの恥辱朗読会。一番手だった奴ももちろん受けた辱めだが、その時も同じ調子だった。元からの性格なのか、どうにも演技臭い反応しか返ってこない。どうやらその頃から、ハンゾーは不審に思い至ってしまっていたようだった。

 

 つまり、テストなら何も暴露大会でなくともよかったのではないか、という。

 

「最初みたいに、絵とかを当てさせるだけでよかったろ。性格わりーなぁ、うちの師匠どもは」

 

「まあ確かに、言わせたかったからではあるけど……なに?悪い?」

 

 ついでに言えば、心を折って『辞める』の言葉を引き出せれば、という思惑もありはしたのだが、しかし成果は芳しくない。ゼノヴィアでさえもそうだった。

 

「そ、それは……つまり私は……何のためにあんな恥ずかしい思いをしたんだ……?」

 

「フェルとウタの憂さ晴らしだろ。いつものやつだよ、全くなあ……」

 

「いつもの……それでバラされて……うう、今回ばかりは、あまりにも非道じゃないか……」

 

「……やり方に文句あるなら、別に辞めてもらってもかまわないけど?」

 

「……!それは嫌だ!辞めたりなんてしないぞ、私は!」

 

 言うや否や、必死の表情で否定するゼノヴィア。やっぱり羞恥よりも『念』の修行ができない方が嫌らしい。わかってはいたことだが、本人の口から聞くのは失望もひとしおだ。

 

 そして失望という意味では、白音にもそれが当てはまる。

 

「まあ、弟子いびりなんて珍しいことでもねえし、オレたちは慣れてるからいーけどよぉ……」

 

 ため息を吐いたハンゾーの後ろから顔を出して、何とも穏やかに白音は言った。

 

「そうです。それに、ゼノヴィアさん。『念』は精神力も重要……のはずです。心を乱さない精神トレーニングも、きっと大切だと思います」

 

 ハンゾーと同じく、その表情にも気配にも、ゼノヴィアのような愉快さはない。羞恥も怒りも、その感情にはない。

 

 それどころか、私たちへ向く『負』すら、ただの一つも感じなかった。

 

「ッ!そうか!精神トレーニング!だからフェルさんもウタさんも、私にきつく当たっていたのか!そうだとは露知らず……すまない、疑ってしまって……ハンゾー!お前もだぞ!」

 

「どんなお花畑してんだお前の頭!……十中八九嫌がらせに決まっとるわ!」

 

「えっと……三割くらいは、可能性あると思います……」

 

 当人が目の前にいることも忘れて失礼なことを言う三人。相変わらず斜め上のことを考え付くゼノヴィアと、比較的ツッコミがマシなハンゾーの感情は納得がいく。だが、白音は何なのだろう。

 

「いやいやいや!どんだけ甘く見積もっても三割はねえって!白音ちゃんも『そうです』って……大概だな。……一人だけあんだけ滅茶苦茶言われたのに、ムカついたりしないしないのか……?」

 

「……無茶苦茶、ですか?」

 

「そうだろう?オレとゼノヴィアは、まあ程度はともかく揶揄われただけだが……白音ちゃんのはもうほとんど罵倒だったろ」

 

 『『戦車(ルーク)』の特性が相殺されるレベルのチビ』だの『曹操相手に仙術の有用性を全く発揮できない役立たず』だの『いてもいなくても大差ない要らない子』だの、一週間前のあれ以来だいぶハードコアになったピトーの口。私だったらすぐにでも泣いてしまいそうな理不尽を、白音はテストとして受けていた。

 

 私の知る白音は、それらに耐えられるはずがない。怒りか怨みか、どうであれ反発しないはずがなかった。

 

 だが当の彼女は、地団太踏んで喚き散らすでも、恨みがましい眼で頬を膨れさせるでもなく、陰りの入ったささやかな微笑を浮かべて、答える。

 

「気にならない、と言えば嘘になってしまいますけど……でも、ムカついたりはしません。私がダメダメなのは……全部、本当のことですから」

 

 ハンゾーどころか、次いでピトーに向けた眼差しにすら、あるはずの『負』は存在しなかった。

 

 普通、自らを痛めつけた相手には、大なり小なり怨みが生まれる。どれだけ隠そうとしても、それは相手を見る眼に現れるものだ。ごく小さくはあるがハンゾーにすら見て取れるそれは、ちょっとやそっとで消えるものではない。

 

 それが、白音にはなかった。あるのはただ苦しみだけ。罵倒で付いた傷のみだ。

 

 痛みはあれど、怨みがない。ピトーの悪意をその身に受け止め受け入れ、且つ平気な顔をしている。その様が、私には理解できない。

 理解できるはずがなかった。だってそれは、私の妹である白音と、あまりにも異なっているものだ。

 

「……白音ちゃん、それ自虐ならやめといたほうがいいぜ」

 

「え?いえ、自虐じゃないです。本心です」

 

「ならなおさら。ゼノヴィアが死んでる」

 

「――私は、『念』の練度だけでなく、精神面でも負けるのか……。もう救いようがないじゃないか……」

 

「あ、その……ごめんなさい」

 

 乾いた笑いで片頬に自嘲を乗せるゼノヴィアとは全く別物。想定も望みもしていない反応を白音が見せるのは、何故なのだろう。

 

 ――理解できないその理由は、私が白音の姉でなくなった証拠か。

 

 幼少の五年をリアス・グレモリーの下で過ごすうち、奴らに当てられ性格も変わってしまったということか。

 

 もしそうなら、記憶にある妹の物差しで測で白音をることは全くの無意味だ。内心がどうなのかとか、そんなことを考える必要はない。

 

 それに、物差しが使いものにならなくなろうが、別に困ることはない。

 

 だから考えるのはやめようと、私は白音に向けた思考を断ち切った。

 そこに、見計らったかのようなタイミングで、ピトーが変わらず機嫌のよさそうな調子で言った。

 

「救いようがなかろうが、ゼノヴィア、キミは『念』を覚えたいんでしょ?なら頑張らなきゃ。シロネもね」

 

「……!はい……!」

 

「ああ……!私は諦めないぞ、フェルさん!……励ましてくれるなんて、やっぱりあなたはいい人だ!」

 

 身体を緊張させる白音に、落として上げる詐欺師の常套句に引っ掛かるゼノヴィアが続いてピトーを見上げた。私と同種の違和感からか微妙な表情で頷くハンゾーを見届けると、ピトーは一瞬私に眼をやり、そして己に注目する三人へ言った。

 

「じゃあ、『凝』は一応全員合格でいいね。なら早速、今日から次の技をやるよ。いい?」

 

 全員の気が引き締まる。次なる『念』を聞き逃すまいと集中する彼らを眺めながら、私はピトーの眼の促しに従い、しぶしぶ木陰から立ち上がった。

 

 荷物を持ち上げ肩にかけている合間に、彼らは『それは何だ早く教えろ』とざわめき出す。

 

「また応用技か?それとも、まだやってない『絶』ってやつ?」

 

「応用技。『絶』はずっと後回しにゃ。とにかく『念』で戦闘ができるように急がなきゃいけないって、言ったでしょ」

 

「それで……どういう応用技なんですか……?」

 

 緊張を押して、ハンゾーの前に出て尋ねる白音。

 その首根っこを、私は、これは仕事だと内心をなだめて引っ張った。

 

「興味津々のとこ悪いけど、あんたの『念』修行は今日で終わりよ」

 

「え……ッ!?」

 

 弾かれるように私に振り向いた眼が驚きを呟き、次いで言葉の内容に驚愕の息を呑む。混乱はすぐにでも説明の要求で埋まりそうなほど口の端で震えて現れ、だから私は、それが解き放たれて収拾がつかなくなる前に襟首を離した。

 

「だからつまり、仙術の修行に移るってこと。元々そういう趣旨の依頼だったでしょ?『凝』覚えて『気』のコントロールがある程度できるようになって、もうそろそろ始めていい時期だわ。……お仲間と離れたくないっていうなら別に、『念』チームに居残ってもいいけど」

 

「あ……い、いえ!やります、仙術!ウタさまの下で……!」

 

 理解するに至って困惑が喜びに変わり、そこに微かな不安が入り混じる。やっぱり理解不能なごちゃごちゃの感情はとにかく無視して、私は白音に背を向けた。

 

 場所を変えるべく、鬱蒼と茂る手付かずの樹林のほうへ歩を進めながら、独り言を言うように告げる。

 

「……じゃあ、ついてきて」

 

「はいっ……!」

 

 白音は迷うことなくそう返事をして、私の後ろをついてきた。唐突な事態に文句の一つもなく、同様すら、むしろ残された二人の方が大きい。

 

「よ、よくわからんが……頑張れよ!白音!」

 

「……白音ちゃん、手ぇ出されないよう気をつけろよ!」

 

 なんて白音への声援と私への悪口を背に浴びながら、私はピトーとのしばしの別れで頭をいっぱいにして、無心を念じながら木々の間に分け入った。

 

 

 

 そうして暗い森の中をしばらく行くと、やがて小川に面した小さな空間にたどり着いた。

 

 ちょろちょろと鳴る水音とときたまの葉擦れの音が合わさり、聴覚に清涼が走る。視覚的にはさすが冥界といったふうでしかないが、しかしさっきまでの広場よりはよっぽど仙術の修行に適した場所だ。

 

 ならまあここでいいかと、私は川べりに鎮座する大岩の上に荷物を置き、一つ伸びをした。今のうちにリラックスしておかねば、これからのストレスでぶっ倒れかねない。

 半分冗談でそんなことを考えて、肩の凝りを解すべくぽきぽき回す。最後にもう一度伸びをすると、ちょうどその頃に、遅れて白音が川辺のこの空間に到着した。

 

 慣れない樹林に足を取られたらしく、少しばかり息が上がっている。彼女は二度深呼吸してそれを押さえつけると、ちょっと前までの喜びが移動の内に薄れたのか、少し不安そうな顔でためらいがちに私へ視線を向けた。

 

「あ……あの、ここで……その……するんですか……?仙術の修行……」

 

「……そうよ。何?猫又だから水の近くは嫌いってわけ?」

 

 謎の躊躇に対するモヤモヤを呑み込み、ヘタクソな煽りを振った。白音はちょっと怯んだ様子をみせるが、しかし黙ることなく、続けて問いを口にする。

 

「どうして、フェルさまやみんなと離れなければならなかったんですか……?やっぱりこういう綺麗な場所の方が、仙術を使うにはいいんでしょうか……」

 

「……まあ……そう。場所っていうか、環境の問題よ。生物の『気』が傍にあると、仙術ってやりにくいの。未熟ならなおのこと、効率が悪いから」

 

 素直についてはきたが抱えていたらしい疑問に、丁寧に答えてやる。白音の仙術の腕はほとんど素人と言って差し支えない程度でしかないのだから、最も制御しやすい自然の『気』に対象を絞ったほうがまだやりやすいのだ。

 

 それに、だ。

 

「あんたも気付いてると思うけど、フェルの『気』もね。邪気塗れのフェルが近くにいたら、さすがに修行にならないわ」

 

 たぶん一時間としないうちに邪気に呑まれる。修行が進まないだけなら別にいいのだが、それで怪我だったり後遺症だったりが残ってしまえば、批難されるのは指導していた私。それによって、少なくとも報酬に悪影響があることは、想像するまでもないことだ。

 

 ただ働きは金欠の元凶として絶対に回避せねばならない故に、私は仙術の修行に至って万全を期する必要があった。

 つまりそれだけの話。だが白音は眼を皿のように見開き、今までにないほど驚いていた。半分呆ける彼女を、私も何だと怪訝に見つめ、数秒経ってようやく口が動いた。

 

「……フェルさまの『気』は……邪気、なんですか……?」

 

 上がった息と一緒に浮いていた額の汗が、一滴だけ滴った。真に迫った必死の様子が伝わり、思わず私も歯を噛んだ。

 

 なんとなく察した私は、強張った顎をどうにか動かし、答える。

 

「……そうよ。どれだけヤバいものかは、『黒歌』の件で知ってるでしょ?」

 

 今度こそ、白音は沈黙した。

 

 不安と、恐怖と、何より、傷口をえぐられたような苦痛。表情に見えたそれらに、私は、白音にとっての『黒歌』が未だバケモノであることを見せつけられる。

 

 何でもないような表情を作って、思い出している風に顎に指を当てた。

 

「あんたの姉が邪気でタガが外れて何十人と殺したって話。ああなりたくはないんでしょ?なら精々、気を付けることね」

 

「……う、ウタさまは……そんな……フェルさんと一緒にいて、平気なんですか……?」

 

「は?何よ大丈夫って」

 

「だって……邪気、なんですよね……?」

 

 何かを堪えるように胸のあたりを握り締めながら、白音は恐る恐るの痛切な眼で私に尋ねる。それに少々、ピトーを危険物と見ている気配を感じて、私は憤りに鼻を鳴らした。

 

「……邪気って言ったけど、普通よりもその側面が大きいってだけのことよ。勘違いしてるようだけど、邪気ってそんなに特別なものでもないのよ」

 

「……特別なものじゃない……って、どういう……?」

 

「『邪なる『気』』なんて、そんなの誰でも持ってるってことよ。ハンゾーもゼノヴィアも、もちろん私にあんたに、リアス・グレモリーもね」

 

 生命である以上、邪気を持たない存在はいない。思った通り、己の中にも仲間の中にもバケモノの種が眠っていることを知らなかったらしい白音は、握り締めた手を震えさせた。

 

 またしても絶句し、青ざめつつあるその顔に向けて、私はピトーの名誉のために頭を回す。

 

「邪気をたくさん持ってるから悪い奴だ、とは、一概には言えないわけ。例えば……赤龍帝とか、あれ性欲の塊じゃない?ああいう欲望も邪気ではあるけれど、けどリアス・グレモリーとかには好かれてる。少なくとも、アレから見れば赤龍帝は悪人じゃないってことでしょ」

 

「それは……はい……」

 

 白音が一瞬言い詰まる。どうやらあの眷属の大半と違ってそこまで赤龍帝に好意はないらしく、あけすけな性欲と相俟って『悪人じゃない』に納得できないらしい。

 

 まあこの年代の女子なら、そういった男子の事柄は汚らしく思えるものだろう。猫又としての自意識が形作られなかったのなら、尚のこと。

 

 しかし私は我関せずに、続ける。

 

「だから要するに、邪気なんてのは一つの側面でしかないの。それだけを以てして邪悪と決めつけるのは、あまりにもせっかちだわ。……邪気っていうのは、仙術に悪影響を及ぼすだけのただのエネルギー。それ以上でもそれ以下でもない。悪人の証明書にはならないってこと、ちゃんと覚えといてよ?」

 

 でないと、ピトー、いやフェルまで黒歌と同じバケモノに堕とされてしまう。それは、かなり不愉快だ。

 

 そういう思いで長々と言ってやった言葉だったが、しかし白音の顔色が好調に戻る様子はなかった。変わらない、思い詰めたような苦渋の表情が、何か発しようと開けた口を悩むように閉じ、そして数度目の躊躇を経て声に出した。

 

「……けど、あの……邪気が仙術使いにとって良くないものなのは、確かなんですよね……?ならウタさまは、フェルさまの邪気の前で仙術を使って、大丈夫なのか……って、思って……」

 

「ああ……なるほど、そっちもね」

 

 ピトーの善悪よりも、かつての黒歌への恐怖が先に立っていたらしい。仲間にすら邪気があり、呑まれる危険があると知って、曰く『力に溺れて主も眷属も残虐に殺した』自身の姉のようになってしまうことを恐れたのだ。

 

 さしずめ、ピトーの邪気のすぐそばにいるウタが既に狂っているんじゃないかと、心配にでもなっているのだろう。そうなら私は、母親に死なれた時からずっと狂っている。忌々しい。

 

「別に、慣れよ」

 

 ぶっきらぼうに言ってやった。それを口の中で繰り返す白音に瞬間的に我に返り、仕事であることを思い出して、付け加える。

 

「……と、それだけって言い切れればいいんだけど、実際はまあ……ちゃんと発散してるから、ね」

 

「発散……できるんですか?だとしたら、どういうことで……」

 

 唇を噛んで黙り込み、俯く白音。方法を聞きたいのか聞きたくないのかどっちなんだと、その半端に消えた言葉尻に思うが、ここまで言って言葉を切るのはそれこそ面倒くさい。

 

 だから私は気恥ずかしさを我慢しつつ、思い出した鼻の上の眼鏡を押し上げてから教えてやった。

 

「色々やり方はあるけど、要は気分転換と一緒よ。自分が心地良いって感じることをやるの。例えばおいしいもの食べたり、ゲームしたり、渋いところだと座禅組んでみたり、あと……た、大切な人と一緒にいるとか」

 

「……ッ!!」

 

 白音が息を呑んだような音がした。まさか笑ったのか、と疑心暗鬼に若干パニックになる私。しかし実際、ピトーと一緒にいるという、それが一番利くのだ。ピトーで邪気が溜まってピトーで解消される、という特例過ぎる永久機関だが、例なんて自分のものしか知らないのだから、話すとしてもそれしかない。

 しかしそうは言っても甘えていると宣言するのはやっぱり恥ずかしく、奇しくもついさっきのハンゾーとゼノヴィアの気持ちを理解してしまった私は、それから逃れるべく視線を周囲の自然へもって行き、辺りを一周回ってどうにか心を落ち着けてから、荷物を置いた大岩の上に腰かけた。

 

 改めて白音に眼をやればさすがにもう笑っている様子はなく、覚悟の表情が固く引き締まっている。諸々の不安やらも消えて修行の開始を待ち望む彼女に、私は念のために深呼吸を一つして、お腹の前で腕を組んだ。

 

「……まあ、発散できるっていっても完全じゃないし個人差もあるだろうから、とにかく邪気には気を付けろってことしか、はっきりとは言えないけど。とかそんな話より、もうそろそろ修行のほう、始めるわよ。いい?」

 

 威厳を取り繕って、聞くまでもない答えが返る前に昂然と命じた。

 

「じゃあまず、この辺りの『気』を取り込んでみて。……京都の時、曹操のために同じような事やったんだから、できるでしょ?」

 

「は、はい……!」

 

 ほんの一瞬、たぶん邪気への恐れで返事を詰まらせるも、白音はすぐに頷いて眼を閉じた。深呼吸の集中を数秒使って整え、ゆっくりと、周囲に漂う自然の『気』に手を伸ばしていく。

 

 それはお世辞にも上手いとは言えない手際。やはり独学では大して身にならなかったらしく、その速度は四年前と大きく変わらない。ただ精度は幾らか上がっているようで、結果的に白音は過去と比べて随分早く、集中に閉じた瞼を開いた。

 

「でき……ました……!」

 

 彼女が『練』で出せる『気』のマックスの、凡そ三倍ほどだろう。顔をしかめる白音に制御できる限界量が、その小さな身体に滾っている。

 

 量だけなら私の『練』と同じくらいだ。がしかし、だからといって彼女が私と同程度までパワーアップできたわけではない。体格や戦闘技術の話ではなく、そもそも白音は、自身の(・・・)()の上から自然の(・・・・・・・)()を纏っただけ(・・・・・・)であるからだ。

 

「触りだけでも『念』を覚えたんだからわかると思うけど、自然由来の『気』っていうのは極端に攻撃性に乏しいの。取り込みやすい代わりに、ほとんど戦闘力には繋がらない。それだけ集めて、精々『練』の十分の一程度のパワーアップにしかならないわけよ。他所の『気』だから、『肉体の生命エネルギーを操る』技である『念』にも使えないしね」

 

「は……い……。じゃあ、私のこれは……あまり意味のない技だったんですね……」

 

「コカビエルの時にやろうとしてたアレを言ってるなら、そうね。別方向の使い道はあるけど、そっちは悟りだとか不老不死だとか、純粋な仙人としての行程だわ。でも今から教えるのは、あんた自身の身体強化、敵を打倒するための仙術よ」

 

 自身の必殺技を否定され、気分と共に『気』も減退する白音をよそに、私は彼女と同じように自然の『気』を取り込んだ。

 同量を取り込むのにかかった時間は一瞬だが、これはただ慣れているというだけのこと。何度か続けていればいずれ白音にもできるようになるだろう。

 

 だから私が手本を見せて示したかったのはそれではなく、その次。

 

 纏った自然の(・・・)()』を、私は自身の(・・・)()』へと変換した。

 

「――ッ!」

 

 つまり、私の『念』が倍近くに膨れ上がったということだ。

 

 同じ『気』でも、自然のそれと人のそれとではわけが違う。その第一が攻撃性の多寡。仙術では、『念』のように身体能力の強化ができない。白音が格闘戦の強さを求めるなら、自然の『気』はさして役に立たない。

 

 ならどうするかという、最も単純かつ基本的な答えがこれだった。

 

「言っちゃえば簡単な事よ。自然の『気』が駄目なら、それを全部自身の『気』に混ぜて変えちゃえばいい。仙術で『念』を使えるようにしちゃえばいいのよ」

 

「仙術で、『念』……!大量の『気』を操れれば、いつもよりも強力な『念』が練れる……って、ことですか……?」

 

「そういうこと。要は自然の『気』まで『念』にして上乗せできるわけだから、当然『纏』も『練』も『凝』も、あらゆる技の性能が上がる。あんたが扱える限界の『気』を全部変換できたら、単純計算で今の四倍強くなれるってわけね。そこまでできるようになれば、まあとりあえずは戦いにも使えるようになるでしょ」

 

「四倍……!」

 

 そもそも『気』の量が強さに直結するわけではないし、増大した『気』の制御の感覚も変わってくるために事はそう簡単ではないが、しかし間違いではないしやる気も出たみたいであるし、まあいいだろう。やって損はない。困難だろうが操れる自然の『気』の総量も増えれば、さらなるパワーアップも可能なのだ。

 

(……けどそう考えると、十秒待つだけでどんどん倍化できる【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】って、改めてとんでもないわね。こっちは一ヶ月死ぬ気で頑張って四倍強くなれるかどうかなのに……。かわいそ)

 

 憐れみには気付かず、白音は己の手に溢れる『気』を見つめ、ぎゅっと握った。硬いその表情に、私はしゃべり疲れを我慢して、最後だからと息を吐いた。

 

「つまりこれ、仙術と『念』の合わせ技なわけだけど……だから、これも『凝』と同じ応用技の一つなわけね。こういうふうに『念』と異なる『力』、例えば他にも魔法とか神器(セイクリッド・ギア)とかを掛け合わせる技を、まとめて『(ケツ)』って言うの。特に今やってるみたいな仙術との融合は『闘気』って名前ついてるから、ちゃんと覚えること。指示する時面倒だし」

 

「……わかりました……!」

 

「じゃあ、自然の『気』と自分の『気』を少しずつ練り合わせるようなイメージで。はい、始め」

 

 適当な開始を合図してやると、おずおずと意気を燃やす白音は黙って修行に殉じだす。ハンゾーやゼノヴィアみたいに文句やくだらない質問を吐かれるよりはマシだが、やっぱり彼女の感情は意味不明でちょっと不気味だ。

 

 拭い切れず、結局最後も感じてしまったその感覚にかぶりを振って、私はこの苦痛なばかりの時間がさっさと終わってくれることを祈りつつ、鞄からゲーム機を取り出した。

 

 

 

 

 

「――というのが、『結』って応用技。ハンゾーには無縁かもだけど、ゼノヴィアは聖剣を使う以上、必須になるだろうね」

 

 仙術のためにクロカとシロネが離れてからの数分間、『それで今日からやる次の技ってのはなんだ』と、突然の別れから立ち直った二人にせっつかれたボクは、長々と連ねた説明の一区切りに、ようやく息を入れることが叶った。

 

 やっぱりシロネが抜けても前でしゃべるのは疲れるなとため息つき、期待に顔を明るくするゼノヴィアを見やる。すると彼女は鼻息を荒くして、興奮気味に伸ばした手を何もない空間に突き込んだ。

 亜空間というやつだろう。同時に溢れた聖なる力がボクの身に少なからぬ悪寒を走らせ、すぐに歪んだ空間の境目から柄と、青い刀身が姿を見せる。

 

 意気揚々と聖剣デュランダルを引き抜いたゼノヴィアは、それを手に、ボクへずいっと詰め寄った。

 

「つまりこのデュランダルの聖なるオーラを、より強力にできたりするのか!?すばらしいな、それは!フェルさん、それでその『結』とやらはどうやるんだ!?」

 

「うん?ボクが知るわけないじゃん。聖剣なんて扱ったことないんだから」

 

「……へ?」

 

 一変して呆けるゼノヴィア。滞っている落胆の背を押してやるべく、ボクは半笑いを浮かべる。

 

「それどころか魔法も神器(セイクリッド・ギア)も仙術も使えないから、そもそも『結』自体ができないんだよね、ボク。だから最初に言ったじゃない?『剣を振るための『念』を知ってるやつに教えを仰ぐべき』って」

 

「じゃ、じゃあ、『結』の修行は……」

 

「やらないよ。だって教えようがないにゃ」

 

「そ、そんなぁ……」

 

 じりじりボクの肌を焼いていた聖剣が、ゼノヴィアと一緒に地面に頽れる。それでもまだ足元でピカピカ光り、いっそ砂をかけて埋めてやりたい衝動に駆られるが、やり過ごすために意識を割く必要が出る前に、横でずっと聞いていたハンゾーが横倒しになったそれを持ち上げた。

 腰を入れてもかなり重そうで、顔を真っ赤にどうにか両手で構えた彼は悔しそうにぐぬぬと唸る。

 

「確かにこりゃあ……構えるのも一苦労だもんな……ッ!」

 

「デュランダルくらいの格になると、剣が主人を選ぶって話だからね。道具のクセに生意気な奴にゃ」

 

 言ってやった瞬間聖なる力が強くなった気がしたが、しかし微細な変化は踏ん張るハンゾーもショックのゼノヴィアも気付くことはない。やがて諦めたハンゾーは切っ先を地面に突き立てると、込めた力と一緒に気落ちしたため息を吐き出した。

 

「……ま、オレも不思議超パワーなんて持ってねえみたいだし、『結』は別にいいわ。で、最初の話に戻るが、『結』じゃなかったら次は何の修行なんだ?二ヵ月でとりあえず戦える『念』を教えるって言ってたが……『纏』と『練』で身体能力、『凝』で観察力をクリアしたとして……後は戦闘能力か?」

 

「いや……っ!まてハンゾー、それにフェルさん!『結』を諦めるのはまだ早いぞ!今まで聖剣を扱ったことがないのなら、今使ってみればいいじゃないか!ハンゾーは駄目だったが、ここは一度試してみて――」

 

「戦闘能力、その通りだにゃ。要は攻撃するための『念』。それで攻、防、見と一通りでしょ?だからハンゾー、キミも腕の剣出して」

 

「フェルさん!?一瞬でいいんだ一瞬で!それで駄目ならちゃんと諦めるから!」

 

 何やら聖剣を持たされそうな気配がするゼノヴィアの発案は完全無視して、ボクはハンゾーに言った。無視に憤り縋りつくゼノヴィアが声を張り上げるが、取り合わないの意でボクの無視を汲んだハンゾーは、轟く声を押し流すようなオーバーリアクションの驚愕を演じて、腕に巻かれた包帯――とその下に隠されているらしい刃を押さえる。

 

「うげぇ!なんでお前、オレの仕込み刀のことまで知ってんだよ!?駒王町来てからは誰にも見せてねえんだぞ!?」

 

「ミルたんに聞いたから。ミルたんはネテロから聞いたんだってさ。……小さい男の子を拷問して、なのに結局負けちゃったんだって?」

 

「負けてねえよ!あれはゴンのやつを気に入っちまったから諦めたってだけだ!それに二回戦はちゃーんと勝った!……てかネテロ会長はなんでオレの手の内をばらしてんだよ!ハンター試験の内容だってのに口軽すぎだろ!」

 

「そういうお前たちはなんだ!?耳に私の声をカットする機能でも付いているのか!?私を虐めてそんなに楽しいか!?」

 

「そりゃあ楽しいけど?」

 

 限界に達したニヤニヤ故に言ってやった。途端に息を詰めてしまうゼノヴィアに、ハンゾーも呆れを向ける。そう言えばそうなるだろう、と言いたげなそれは、どうやら大分ボクの性質を理解できているようだった。

 

 半面ゼノヴィアはなぜこうなのか。人というもののややこしさを大仰にも感じながら、しかし同時に彼女のしつこさも感じ取ったボクは、まだ絞り取れそうな愉悦を我慢して仕方なく話を戻した。

 

「まあボクのことはともかく、今からやる修行も『結』に無関係ってわけじゃないよ。うまく行けば自力で『結』まで覚えられるかもしれない。保証はできないけど」

 

「なにッ!?本当か、フェルさん!?」

 

 一瞬にして元気を取り戻したゼノヴィアに頷く。そしてすぐそばの地面に転がるねじくれた小枝を拾い上げ、次の修行となるそれ(・・)を使ってみせた。

 

 『気』を、身体だけでなく物にも纏わせる技。

 

「コレが、『(シュウ)』。見ての通り、『纏』の範囲を武器にまで広げる技ね。元から備わった機能、例えば剣なら、切れ味を向上させる効果がある。ゼノヴィアの場合は聖剣を強化するんだから、『結』のきっかけか何かにもなるんじゃない?ハンゾーも、シロネと違って武器を使うし、ちょうどいいにゃ」

 

 こっちもまたボクには縁の薄い技ではあるが、しかし二人にとってはそうならないはずだ。思った通りハンゾーの眉も上がり、こころなしテンションの上がった声色を発した。

 

「ああ、なるほど!思えば『纏』を物にまでってのはやってなかったな!それで刀……こうか?」

 

 腕の包帯からするりと仕込み刃を引き出し、薄いそれを見つめると、すぐに『纏』が刃を覆った。

 

 きちんと『周』だ。『纏』の応用であるそれがさほど難しいものでないことを加味しても、そも『纏』を覚えて一月も経っていない彼が一度で成功するのは少々意外。『纏』と『練』を毎日しっかりやらせていた成果だろう。

 

 そしてそれはどうやら、ゼノヴィアも同様であるようだった。

 

「わ、私もできたぞ!フェルさん!こうで合ってるな!?」

 

 両手で構えたデュランダルにも、きちんと『周』が為されている。元々ハンゾーより多い『気』の量とデュランダルの刀剣としてのレベルが相俟って、刀身に感じる迫力はボクでも少々ヒヤリとするほどだ。

 

 しかしそれらの関心やらは調子付かせるだけなので黙っておいて、ボクは目を見開くゼノヴィアに適当に頷いてみせた。

 

「うん、二人とも完璧。すごいにゃあ」

 

「ふ……ふふふ!そうだろうそうだろう!なにせ私は剣士だからな!元よりデュランダルとは一心同体だ!」

 

「なんだ、ゼノヴィアも一発成功か。案外簡単なんだな、『周』ってのは」

 

「ぬぅ……そう、だな……」

 

 適当な誉め言葉に胸を張っていたゼノヴィアが、ハンゾーのそんな台詞で、表情からご機嫌を消してしまう。しかし、しょげて落としたその肩に納得の気配があったのは、彼女もハンゾー同様に『周』を簡単だと感じていたということだ。

 なのに自慢げにしていたのはただただ滑稽だが、それもある意味では仕方のないことなのかもしれない。教え込んだ技、『纏』はともかくとして『練』と『凝』に関しては、ボクはひとまず発動できた時点で二人に合格のハンコを押してきた。その『纏』だってもう一日中続けて使うことも可能であり、そのせいで二人とも、『纏』の範囲を少し広げるだけの『周』を簡単だと言うのだろう。

 

 だか彼らが感じるそれは間違いだ。『周』は発動は容易くても、維持して自在にコントロールすることはそうではない。攻撃なりなんなりに振り回せばなおのこと、基本の『四大行』から一段上がった応用技である通り、ただの『纏』より断然辛い技なのだ。

 

 ということを、『精孔』を開ける前段階の座学と精神修行をすっ飛ばしたハンゾーとゼノヴィアは知る由もない。『念』への知識が不足している故に、知れるとしたら、それは実際に体験したときのみだ。

 

 そこまで考え、ボクはふと思いついた。頭に浮かんだいい考えに導かれるまま、それぞれ『周』した剣を前にどっちが強いだのと言いあう二人に、提案した。

 

「簡単すぎるって言うなら、じゃあ一つレベルアップしてみる?」

 

「……?レベルアップ?」

 

 オウム返しするゼノヴィアに頷いてやり、続けてもう一度、握った木の枝へ。

 

「『纏』じゃなく、『練』で増幅した『気』を込める。想像が付くだろうけど、これなら『纏』の応用技である普通の『周』よりも、ずっと強力に強化できる」

 

 さっきの『周』とは比べ物にならないくらい『気』が込められた小枝は、もはや下手な鉄剣すらへし折れるほどのものになっている。それは多少なり『念』に触れてきた二人にも理解できたようで、特にゼノヴィアの眼がたちまちビタリとくっついた。

 熱量は違えどハンゾーも興味深々で、ボクの『気』で鈍く輝くそれを食い入るように見つめた彼は、やがて離して蓄えた輝きをボクにぶつけた。

 

「いいじゃん!やるぞオレはレベルアップ!より強くなれるってなら願ってもねぇ!」

 

「わ、私もだ!『結』のためにもなるんだろう!?ならやらないなんて選択肢はない!『周』に結びつくものは何でも絶対にマスターしてみせる!」

 

「……にゃは」

 

 迷いなく放たれた二人の同意は、ボクの口から微かな愉悦を零れさせた。

 

 『練』での『周』は、普通の『周』のさらに何十倍と難しい。

 

 そもそも、『纏』の代わりに『練』で生み出した『気』を纏わせ維持するという、つまり『練』の状態を維持し続けることからして、かなりの難易度。『周』と同じく、発動は容易だが維持とコントロールが難しい類の技であり、『纏』と『練』を複合した一つの応用技、『(ケン)』として定義されるほどなのだ。

 

 つまり『練』での『周』は、言ってしまえば応用技である『堅』をさらに応用した、高等応用技とでも言うべき『念』の神髄。あるいは『凝』を併用することを思いつくかもしれないが、どちらにせよ、段階を一つどころか二つも三つも一気に跨いで上ろうとするそれは、間違っても『念』を覚えて一ヶ月のひよっこがすることではなかった。

 

 わかっていながら、それでも黙って薦めた理由は、クロカのために悪魔のご機嫌取りをする必要がなくなったからだ。難しすぎて上達せず、ずっとその場で足踏みしてくれるなら、それはテストだなんだと面倒を見るよりも、少しは楽であるに違いない。

 

「じゃ、決定。とはいってもキミたちならすぐに発動できるだろうし、その後は実戦形式で使い方とかを覚えていくことになるだろうけど」

 

「なら、決まりだな!ハンゾー!習得でき次第、私と試合だ!体術では敵わなかったが、剣術なら私の土俵!ボッコボコにしてやるぞ!」

 

「ふん……上等!そういうことなら里の決めに倣って、負けたほうが腕立て伏せ千回な!泣いても知らねーぞ!ゼノヴィア!まずはどっちが早く『練』の『周』を成功させるか、勝負だァ!」

 

 と、恐らく今日からしばらく分のテンションの頂点で最初の競争を始めた彼らに、ボクは、扱いやすい弟子たちへの労わりを眼にやってから、外してうーんと伸びをした。背骨を鳴らすついでに枝葉に隠れた空を見上げ、帽子越しに頭を掻くと、丸太の上に座り直してため息を吐く。

 

 とりあえず、疲れ切って休憩しようとするのを『修行するって自分で決めたでしょ?』と言って背を押してやるまでは暇だ。いつものようにのんびり観戦と考えていたが、しかし『腕立て伏せ千回』のフレーズにふとそれを思い出し、首を横に向ける。

 

 そういえばもう一人いたのだ。修行と称してずっと筋トレさせていたやつ。

 

「……ねえ、イッセー、ていったっけ?」

 

 どれくらい回数をこなしたのかなんて知らないが、バケツの水を被ったのかと思うくらい汗でずぶぬれになりながら黙々と――しゃべる元気が残っていないだけかもしれないが――腕立て伏せを続けていた彼に、ボクは暇つぶしの可能性を見出し、声をかけた。

 

 今までなかった自分への言葉、それも労わりからは遠く外れた声色に何か支えが外れたのか、途端に腕が折れてべしゃりと地に伏す彼。ゆっくりと頭を動かし、恨めしそうに面倒くさそうにボクを見やった。

 

 無言で『なんだよ』とふてくされてくる彼に、ボクは続けて身体もそっちに向き直った。

 

「キミ、筋トレばっかりじゃ飽きるでしょ?ボクとゲームしない?」

 

「……げー……む……?」

 

 微かに眼の色が変わった。干からびた喉を震えさせて興味を示し、生まれたての小鹿のような腕を突っ張り、起き上がろうとしている。

 

 その様子に釣れたことを確信したボクは、強まる声の抑揚を堪えながら続ける。

 

「うん。とりあえず夜になるまであっちの二人は続くから、制限時間はそれまでかにゃ。その間にキミはボクの、身体でも服でもいいから触れる。それができたら明日の筋トレは免除してあげるにゃ。そんなゲーム。やる?」

 

 疲れた頭でもわかるような簡単なルールを提示してやった。所謂、一発勝負の鬼ごっこだ。イッセーが鬼で、ボクが逃げる側。

 

 単純明快故に、彼は間違いなく乗ってくる。特大のエサも吊るしてやって、食いつくことはわかりきっていた。

 

 のだが、言った途端に弾かれるようにして起き上がり、生気に溢れたギラつく眼でボクを捉えたイッセーには、さすがに動揺しないわけにいかなかった。

 

「さっ、触れればって……触るのか!?フェルさんに!?」

 

「う、うん、そう……。どこでもいいから触れられたら、キミの勝ち。だからこっちからは攻撃もしないよ。……やるんだよね?」

 

「もちろんやる!!やるに決まってる!!……ど、『どこでもいいから触れられたら』って……ほ、ほんとだな……?二言は、ないよなぁ……?」

 

 徐々に眉尻が垂れ、起こした身体の前で両手がワキワキ動くのは、いったい何の感情なのだろう。厭らしく歪んだその表情はいつかのマフィアたちの獣欲を彷彿とさせたが、しかしさすがにこんな状況で盛りはすまい。マフィアたちとて痛めつければ眼を恐れに変えたのだから。

 

 なら、やはり勝機でも見えているのか。確かにそう見えるような条件だが、しかし力量差を計ることはできていないらしい。

 

(まあ、受けたのならこっちのものだけど)

 

 彼の頭の中がどうなっていようとも、だ。

 ボクは動揺を拭ってもう一度頷くと、心の中でニマリと口角を持ち上げた。




本文で大体説明したつもりですが、『結』です。『念』とだだ被りする闘気の設定を生かすために定義しました。『念』と異能の融合で、『周』が物理攻撃力アップなら『結』は特殊攻撃力アップです。
つまりサイラオーグ君は闘気使いではなくなりました。彼はメガトンパンチかメガトンキックしか使えませんので。
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十二話

 どさり、と人が倒れ込む音に、ボクはそっちを振り向いた。

 

 ハンゾーだ。びっしょりと汗まみれで、必死の呼吸を繰り返しながら仰向けに転がっている。『纏』すらか細くなるほどの、もう何度も目にした限界値の疲労は、ボクの視線に気付くと力なく顔をしかめた。

 

 見てんじゃねえよ、とでも頭の中で言っているのだろう。なにせ両手足を大の字に放り出したこの状況、今日だけですでに十回目だ。難癖をつけるまでもなく無様。その原因の一端となっているゼノヴィアとの剣戟に於いても、剣士という適性と悪魔の膂力によってやはり防戦一方で、今までいいところが一つもない。腕の仕込み刀も、折れてはいないが、聖剣との打ち合いであちこち酷く刃こぼれしていた。

 

 そんな有様だが、とはいえゼノヴィアが好調というわけではない。ぐらぁん、と、今度は重い金属の塊が地面に身を落とす音。前傾した聖剣デュランダルの青い刀身、その重量と勢いを支えられず、堕ちた切っ先が地面を叩くと同時に、担い手の彼女が巴投げされるみたいに一回転して投げ飛ばされた。

 長く残る金属音の中でその身体が落下して、「ぐげ」と肺の中の空気が押し出される。ハンゾーと同じくほとんど『絶』に近いほど『気』を空にして、干からびた呼吸音を吐きながら、ぐったりと身体が地面に沈んだ。

 

 やらせた剣戟の勝ち負けはともかくとして、疲労の度合いはどっちもどっちで最高潮だ。立つだけの元気も出し尽くし、少なくともすぐには回復すまい。

 彼らが決めた罰ゲームをハンゾーに促すことも、啖呵切ったのに休むのかと煽ることも、恐らく意味がないほどに疲れ切っている。故にボクは疲労で全く動けない彼らに休息を与えてやるべく、取り出した端末の時計を確認し、にっこり感心しているふうな笑みを浮かべてやった。

 

「んー、今回は十一分くらい維持できたかにゃ、『練』バージョンの『周』。……二週間前、『周』を始めたばっかりの頃から三分も伸びてる。纏わせられる『気』もちゃんとしてるし、うん、順調なようで何よりにゃ」

 

 楽をするための企みとはいえ、紛れもない労いの言葉であるつもりだった。のだが、向けた先のハンゾーはそう捉えてくれず、億劫そうに回した首でボクをジトっと睨みつけてきた。明らかな不審が滲むその視線で、彼は荒い息の狭間から声を発する。

 

「……これが……ハァ……順調な、もんかよ……ふう……こんな……ぶっ倒れてんのに……」

 

「うん?そんなことないよ。大丈夫大丈夫。……倒れたら、また立ち上がればいいんだよ」

 

 暇つぶしに読んだ三文小説の台詞を引用してやるも、やはり眼差しの色は変わらない。よっこらせ、とオッサン臭く上体を起こしたハンゾーは、ちょっと咳き込んでから不審の続きを言った。

 

「……立ち上がって、また倒れるってのを、ずっと繰り返してるだけな気が……するんだが……。……なあ、フェル……この実戦形式、ほんとに、『練』での『周』を習得する修行になってる、んだよな……?」

 

「そうそう。ボクもこれやって苦労して覚えたからさ、折り紙付きにゃ」

 

「……なんか、やっぱ適当っぽく聞こえるのは……気のせいか……?」

 

「気のせい気のせい」

 

 人当たり良くした笑みと共に言ってやって、さらにはまた嘘を重ねるが、それでもハンゾーが納得に転じる気配はなかった。むしろ疑心が深くなってしまったようで、腕を組んでボクを睨みつける眼には、不審のみならず小さな憤りまでもが見て取れる。

 

 視線を通して深くを暴かれそうで、ボクは曖昧に微笑んでハンゾーから眼をどけた。その行き先はゼノヴィア。漏洩を心配する必要がない彼女の、その意識も定かでないほど疲れ切った様子を見物し、身体ごとそっちへ向けた。

 

「気のせいだろうけど……でも疲れすぎて集中力が落ちてるのかもね。休憩、あげよっか?」

 

「……休憩……」

 

 息だけが出入りしていた口元に、小さく言葉が通り抜けた。呟いたゼノヴィアは眼だけで隣に転がるデュランダルを見て、そして瞬きと共に木の葉の天井に視線を戻すと、投げ出された両の手をグッと握り締めた。

 

「……私は……このままで、本当に『結』を会得できるんだろうか……」

 

 ゼノヴィアが初めて漏らした泣き言だった。クロカに修行バカと称されるほど鍛錬に熱心である故に、ボクも聞くことはないだろうと思っていたその弱音。

 反応した動揺が愉悦に変わらないよう気を付けながら、ボクはまた誤魔化しを試みた。

 

「大丈夫だってば。何がそんなに不安なの?」

 

「だって……ほとんど進歩していない……。『周』をしたまま戦うどころか、私なんて、もはや発動することすら覚束ないんだぞ……?もう二週間も修行しているのに……!」

 

 そう、会得できるはずがない『練』での『周』を薦めて実戦闘の修行を言い渡してから、すでに経過した二週間。ボクの思惑など知らず、習得できるものと信じて耐えてきた彼女には相当に長い時間だっただろう。

 

 なにせ今までに学んだ技は、どれも一週間ほどで会得できていた。『なんとか使いものにはなるレベル』が合格ラインであり、そもそも『練』の維持、『堅』がそれらとは比べ物にならないほど難しいためであるが、しかしそうであるという意識が薄いであろう彼女には、目に見える上達を感じられない二週間という倍の期間はかなりの精神の摩耗があったに違いない。

 

「……今休憩なんてしたら……心が折れそうだ……。修行で疲れたからうまく行かないなんて……それこそ、今まで頑張った意味がなかったと、言っているようなものじゃないか……」

 

 それほどの間、進歩のなさに苦しんで、今とうとう溢れてしまったのだ。となれば今更の『休憩』は、彼女にとってはボクシングで投げられる白タオル。気性と合わせて憐憫と捉えられるのみだろう。彼女に『周』の才能がないと告げるようなものだ。

 

 『周』の先、『結』に今までで一番のやる気を出していた彼女が、その言葉に耐えられるはずもない。

 

 だからボクは、そこをさらにえぐってやろうと笑みを深めた。

 

「まあでも、そもそも応用技っていうのは体力を消耗しやすい技だし、『纏』や『練』よりも疲れるのは当然だよ。だから長く続けてたら失敗しやすくなるのも当たり前」

 

 ゼノヴィアはびくりと背を跳ねさせ、その疲労の具合からすれば驚くほどの機敏さで身体を起こし、必死の形相をボクに向けた。

 

「でも、『凝』ができなかったことはない……!だから『周』は……何か、アドバイスとか……い、至らない点くらい、あるだろう……?私が気付けていないだけで、そういうのを潰していけば、きっとちゃんと習得が……」

 

「そういうの、特にはないかにゃあ。だから、うん、やっぱりちょっと休憩してみれば?そりゃあもちろん劇的には変わらないだろうけど、一日くらい休めばちょっとはうまくできるようになるかも。ゆっくり地道に続けていけば、その内ものにできると思うよ」

 

「でも……でも……うう……やっぱり、才能の問題なのか……?」

 

「早熟か晩熟かって話じゃない?ネテロも、強くなったのはだいぶ年になってからだって話だし。……まあ、さすがに『周』にこれだけ手間取ることはなかっただろうけどね」

 

「慰めるのか追い打ちをかけるのか、どっちかにしてくれ!」

 

 涙の感情をごちゃまぜにされたゼノヴィアが、血色の良くなった顔で叫んだ。

 

 そのいかにもな動揺ぶりのツッコミは、必死と混ざってボクの口角を上げる。二週間前であったら追い打ち一辺倒であったところだが、しかし今となってはそこにさほどの執念はない。正直に言って、元気付いて無為な修行を再開しようが、心を折られて諦めようが、もはやどちらでも構わないのだ。

 

 そうであるが故の、攻撃ではない揶揄い。それで混乱して喚く姿は愉快だった。

 

 だから、少し気が緩んでしまっていた。

 

 恐らくボクの台詞を疑いを以って聞いていたハンゾーが、横から疑心ばかりの口調で、それを言う。

 

「待て、『ゆっくり地道に続けていけば』、つったか?」

 

 身体から、一息に興奮が流れ出た。無理矢理冷静に戻された頭がハンゾーの言わんとすることを瞬時に悟り、小さく笑いを零していた喉がきゅっと閉まる。

 

 迂闊だった。確かにそれは、指導する気が一かけらもない(・・・・・・・・・・・・・)と取られても不思議ではない。

 

「……?どうした、ハンゾー?フェルさんも……継続は力なり、という話だろう?……才能がなくても、続けていればいつかは、という……」

 

 自分で才能を認めてしまって勝手に再度落ち込むゼノヴィアは、やはり気付いてはいないようだ。身体の疲労と修行への悩みにかかりきりの頭では、先のことを考えていられないらしい。

 

 だが平時でも多少頭が回るハンゾーは、そもそも『ゆっくり(・・・・)している暇がない(・・・・・・・・)ことに気付いている。だから恐らく、疑心から辿ってボクの台詞の適当に気付き、確信へと固めてしまったのだ。

 

「……ゼノヴィア、やっぱお前、頭から飛んじまってんな?」

 

「は……?何の話だ……?」

 

 首を捻るゼノヴィアを、ハンゾーは呆れに鼻を鳴らしてジト目を向けた。

 

「日本の高等学校における夏休みってのは、通常約六週間だ。つまり、オレとフェルとウタが冥界にいられる期間、修行の期間も大体そうなる。そのうち最初の一週間は冥界に行くための準備やらなんやらで潰れて、次の一週間は『凝』、さらにその次の二週間は『周』で潰れた。……合計四週間。残るは約二週間なわけだ」

 

「馬鹿にしているのか?そんなことはわかっている!だから二週間かけてゆっくりと――」

 

「だからよぉ!その二週間は悪魔の用事で埋まってるって、リアスから話があったろ!」

 

 その用事の最初の一つである、ハンター協会と『V5』の人間を撒き込んだパーティーが、ちょうど明日の夜に行われる。つまり、そういうことだ。

 

「要は『ゆっくり』も何も、お前たちは実質、今日が修行の最終日なんだよ!」

 

 だからゼノヴィアが元気付いて無為な修行を再開しようが、心を折られて諦めようが、どちらでも構わない。面倒なだけの苦役となった悪魔への奉仕は、もはや今日で終わりであるのだ。

 

 合間合間に空けられる時間はあるだろうが、細切れでは、特に『周』なんかの持続が肝心な修行が全く意味をなさない。そうでなくても、倒れるまで『周』のまま試合を続けるといった本気の修行はとてもできないだろう。

 だから人間であり、パーティーに出なければいけない立場でもないハンゾーはともかくとして、ゼノヴィアにとっては今日が実質的な最終日(・・・・・・・・・・)なのだ。

 

 冥界に向かう列車を前にしたその当時、申し訳なさそうに説明していた赤髪の言葉が、どうやら本格的な『念』修行への期待と興奮で忘却の彼方に消え去ってしまっていたようだった。

 

「……へ……?今日が……最終日……?つまり……私の『周』は……『結』は……?」

 

 ショック過ぎて思考が止まり、放心のゼノヴィアは何も見えていない眼でハンゾーを凝視している。感情まで彼方に消え去ってしまった彼女から、ハンゾーは憐れみを以てして視線を外し、次いでそれを批判に変えてボクへ向けた。

 

「んで、フェル。お前はそれを知っていながら黙ってたわけだ。またいつもの……いやいつものってか、ここのところ加減を知らなくなった悪魔嫌いが出たんだろうが……」

 

「まあ……うん、そう。わざと黙ってた。シロネもいなくなっちゃったし、ゼノヴィアしかいじめられるの、いないんだよね」

 

「いじめ……はは……本当なのか、それ……」

 

「しかもそれだけじゃないだろ、性悪師匠」

 

 肯定してゼノヴィアにお待ちかねの追い打ちをかけてやると、愉悦で一息つく間もなく続く詰問。姉弟子の仇討ちだけでは終わらないだろうと思ってはいたが、とはいえボクの思惑のすべてを見破ったと宣言されて、いい気分になるわけもない。

 

 しかしこうなった以上、無暗に否定しても意味はなく、故にボクはせめてもの抵抗に、不敵を笑みに組み込んだ。

 

「ヘンタイ弟子のクセに、酷いこと言うにゃあ。なに?言ってみなよ、『それだけじゃない』って?」

 

 間違っても『見破られて悔しがっている』なんてことを悟られないよう、蔑みを込めて鼻を鳴らす。『ヘンタイ』に毎度の如くいきり立ったハンゾーが、なんとかそれを押し留め、言った。

 

「……『練』での『周』の修行法、あれ、どこまでか知らんが嘘っぱちだろ」

 

 残念、大正解だ。

 

「う……そ……?」

 

「だってそうだろ。二週間で進歩ゼロだぜ?『凝』やってる時はだんだん上達してく実感だってあったのに、それすらねーんだ。オレら二人とも『周』の才能が欠けてるんだとしても、さすがに限度があるわ。順調とか適当言いやがるし」

 

 ショックの過剰摂取でゼノヴィアは今にも失神してしまいそうだが、ハンゾーは続けてボクに向き直り、詰る。

 

「……『纏』も『練』も『凝』も、今まではなんやかんやでちゃんと指導してくれてたし、オレもマジかって思ったけど……思えば一誠も大分やられてんだ。それに筋トレと違って『念』なんて、何が正しいのかオレたちには判断つかん。だから調子に乗ってこんな大嘘言えたんだろうよ」

 

「じ……実戦形式が……嘘だったという……?」

 

「何がかはわかんねーよ。オレらはまだまだ『念』素人だし、知識は全部フェルとウタ産だし。……まあたぶん、『纏』の『周』から『練』での『周』にレベルアップってのがまずかったんじゃねーの?ぶっ倒れるのは大体『練』を保てなくなった時だから……いや、そうだよ、そうじゃねーか……。はあ、なんだってこんな簡単なことに気付けなかったんだか……」

 

 改めて呆れと批難のため息を吐いて、うんざり肩を落としたハンゾーは再度地面に大の字になった。

 

 面倒くさかったという理由にはたどり着かなかったが、しかし凡そハンゾーの想像通り。二人の『周』がボロボロになっている原因は、勧めたレベルアップの『堅』が、段階飛ばしで難しいからだ。

 

 それに今まで気付かなかったのは、ハンゾーが言ったように、今まではなんやかんやで正しく効率よく教えてやっていたから。『堅』を『纏』と同じように捉えて、できないはずがないと思ってしまったから。そういった信頼と固定観念が発想の邪魔をしたのだろう。ゼノヴィアはともかくハンゾーも案外盲目的だ。

 

 ほぼ堕ちかけの信頼で、本当かとボクを見つめてくるゼノヴィアに、ボクは半分嗤いながら口を開いた。

 

「うん、確かに、『練』を維持したまま戦うっていうのはひよっこがやることじゃないね」

 

 信頼が底を叩いた音がしたが、ひとまず無視して続ける。

 

「『練』を『纏』のように維持するっていうことが、そもそも『堅』っていう応用技なわけだから。それに『周』も、キミたちは簡単だって言ってたけど……それは発動が『纏』の延長だから容易いっていうだけで、長時間制御するのはちゃんと難しいんだよ。そんな技二つを併用してたんだから、そりゃあキミたちに扱えるはずがない。どっちもまずは単体で会得して、それからっていうのが適当な順序だと思うよ。……まあボクは、普通の『周』を会得した次に『絶』をやる気でいたけど。ハンゾーはハンターなんだから、気配消しの技は必須にゃ」

 

 自白されたボクの悪事に意気が失墜し、さらにはついでのように修行終了の宣言を突き付けられたゼノヴィア。既にハンゾーのための修行が計画されていることに、彼女は己がこなしてきた二週間を遡って夢想した。

 

 段々萎んで涙を堪えるみたいにとがった唇は、底に零れた最後の一滴の信頼を、恨めしさに混ぜてボクに垂らす。

 

「つ、つまり……私のこの二週間は、最初から無駄なものだったと……?」

 

 その表情に頭をよぎった彼女のチョロさで一瞬迷い、そして結局、頷いて終わらせるより、首を横に振って長く楽しむことを選んだ。

 

「んー、まるっきり無駄だったってことはないよ。碌にできてなかったとはいえ『周』と『堅』の二つに触れられた訳だから、もしキミが夏休みの後も『結』の会得を目指すなら、結構なアドバンテージだと思うにゃ。どっちも足がかりにはなったでしょ?」

 

 ゼノヴィアもハンゾーも、疲労さえなければ『周』と『堅』使うこと自体は可能だ。維持はできないが、それはつまり、維持さえできるようになれば使い物にはなるということ。そして持続のための修行は『凝』と違って指導者がいなくても可能であるし、もし相手が必要だとしても、仲間の悪魔たちに頼めばいい。

 

「ついでに言えば、物事って口で教えられるより自分で気付いたほうが身になりやすいからさ。ほら、百聞は一見に如かず――のアレだよ。だから要は、そういう理由もあって、あえて黙ってたわけなんだよね」

 

「ッ!な、なるほど!そんなに深い考えがあったのか……!すまない、危うくフェルさんのことを悪い奴だと誤解してしまうところだった……。私は……未熟だな……。どちらにも気付くことができなかったなんて……」

 

 適当にくっつけた言い訳が、少しも引っ掛かることなくゼノヴィアの納得を引っ張り出した。見える安堵は今まで勝手に溜まり続けた信頼の賜物か、それを元に戻せたということは、つまりこれからもこれを崩して遊ぶことができるのだ。

 

 今日で修行をつけるのは終わりだが、しかし細切れの空き時間を修行に充てる意味がないことを知らなかった赤髪によって、あと二週間は冥界に滞在する契約になっている。おちょくれる機会はいくらでもあるだろう。願わくばその時は今回のように、『凝』の時の羞恥ではなく、絶望漂う苦しみの表情を見せてほしいものだ。

 あるいはそこに、近いうちにと予約済みのヴァーリとの試合をねじ込めれば、より楽しくなるかもしれない。

 

 「まーた誤魔化されてら」と興味を無くして首を逸らしたハンゾーと対照的に先への楽しみを見出すボクは、ピコピコ勝手に動く己の尻尾を長丈ズボンの上から押さえつけた。

 

 そんなボクたち二人の内心など露知らず、一気に元気を回復させたゼノヴィアは、溌溂としたそれで勢いよく立ち上がった。

 

「よし!そうとわかればうじうじしている場合じゃない!ハンゾー!修行を再開するぞ!」

 

 一方のハンゾーは、背もたれにしていた幹から梯子を外されたみたいにずるっと滑り落ち、数舜呆けてから我に返ると、こちらも勢いよく立ち上がって喚き出した。

 

「アホか!いったいどーなってんだてめーの頭はよ!修行法がでたらめな上に、今さっきもう時間がねーって教えてやったばっかだろ!?今度はどこに飛んでいきやがったその記憶!」

 

「む……忘れるわけがないだろう?今日が最終日であることくらいわかっている!それに、最終日といっても今日はまだ続く。それまでに……そう、フェルさんの言う通り、アドバンテージをもっと稼ぐんだ!目指すは『周』と、それに『堅』の完全習得!そら、始めるぞハンゾー!」

 

「だからその自信はどっから来てんだよ!騙されたばっかだろ!?ちょっとは疑うこと覚えろお前!大体、『堅』の完全習得だぁ!?本気で言ってんのか!?」

 

「もちろんだ!是が非でも習得してみせる!それくらいの気概がなくてどうするというんだ!」

 

「気概だなんだ以前に、修行にしてももうちょっと自分で考えてからにしろって話だろうが!またお前騙されるぞ!?そうでなくても、一日足らずで応用技を二つも覚えるとか、無茶にもほどが――」

 

「何が無茶だ!イッセーを見てみろ!彼は私たち以上の困難にずっと立ち向かい続けているんだぞ!?」

 

 と、二者間で応酬されていた言葉の矛先が、その名と共に突然明後日の方向に向いた。ゼノヴィアの指が示した大樹の、捻じれた枝葉の奥がびくりと固まり、次いで唾を飛ばしまくっていたハンゾーの口が、そっちを向いて勢いを弱めた。

 

「……ありゃあ、無茶じゃなく無謀って言うんだよ」

 

「いやお前ら!なに居場所ばらしてくれてんだよ!?」

 

 あやふやになった言い争いに割り入って、信じられないとばかりに叫ぶ三人目の声。気付いていないふりをやめてボクも見上げてやると、その太い枝木の上にはもう見慣れてしまった茶髪の転生悪魔、赤龍帝が、身を縮めてしゃがみ込んでいた。

 

 ボクが視認するとほぼ同時に赤龍帝も見られていることに気付き、反射的に周囲の枝を引いて、茂った葉っぱで視線を切る。その勢いでバランスを崩したのか、次の瞬間には慌てて手を離し均衡を取り、そしてどうにか落ち着いて息を吐いた後、ようやく再びムッとした声を投げ落とした。

 

「……ほら見ろ、せっかく苦労して登ったのに、気付かれちまったじゃねえか!ゼノヴィア、ハンゾー、お前らのせいだぞ!」

 

 その台詞にはさすがの二人も言い争う余地なく肩をすくめ、呆れの息を吐き出した。

 

「多分……てか間違いなく、フェルは最初から気付いてたぞ」

 

「ああ、木に登る音も普通に聞こえていたしな」

 

「ええ!?マジ!?」

 

 その通り。むしろ気付けない奴は戦う者として論外だ。

 

 それは逆も然りなのだが、しかしそんな言葉の裏を悟ることなく、ぎょっとして目を見張った赤龍帝は頭を振ってそれを掻き消した。次いで改めてボクに視線を向け、握った左手に本体である【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】を顕現させる。

 

「く、くそぉ。奇襲しようと思ってたのに……。しかしせっかくここまで来た以上、やることは一つ!」

 

 やけに力強く独り言を言って、ワキワキ蠢く両手が前に出る。眼下のボクへ覆いかぶさるみたいに身体が傾き、まっすぐボクを見たその表情が、あの厭らしく歪んだ獣欲で染まった。

 

 高らかと、盛ったサルのように、

 

「いざ……お触り自由の極楽浄土が、俺を呼んでいるんだああぁぁぁ!!」

 

 ボクめがけて真っ逆さまに降ってきた。

 

 『ボクに触れることができたら筋トレはナシ』というあのゲームは、今日までずっと続いていた。ひたすら遊んでやったというのにものともせず、全く諦める様子がないそのしつこさは途中まで感心すらできたのだが、しかしその動機。

 

 今日になるまで確信を抱きたくはなかったが、それは筋トレの免除ではなく、ボクの身体であるようだった。

 

 より正確に言えば、胸か。いっぱいいっぱいに伸びた気色悪い手が狙うのは毎回そこで、なんなら頭上からの奇襲を掛けんと潜伏していた時でも、視線はしっかりこの双丘に向いていた。そんな不純が、数多のマフィアすら比にならないほどありあり感じられるのだ。

 

 だからこの赤龍帝は、女日照りのマフィアすら凌駕するほどの女好きということなのだろう。一応でも弟子である奴がそうであると認めたくはなかったが、しかし今日、ゼノヴィアと同様に修行の最終日を迎え、そのことを木の上で聞いていたであろう奴が、ゲームの勝利の無価値を知っても尚ボクに触れる欲望を剥き出しにしてくるのだから、もうどうしようもなかった。

 

 禁手化(バランス・ブレイク)の経緯も含めて、赤龍帝はちょっとイカれてるレベルで性欲の塊だ。

 

「いっただきまああぁぁぁっす!!」

 

 受け入れなければいけない事実と『フェル』に設定された印象にため息を吐いて、ボクはボクに抱き着こうと広がった赤龍帝の腕を、身を引いて躱した。

 

 ゲームを始めた最初の一週間だったら、このまま地面に激突していただろう。だが、もはや数えるのも億劫なほど襲撃を繰り返し、その度あしらわれてきた奴は、それらを学習してしまっている。故にばさりと、背から悪魔の羽を生やした。

 頭からの落下が支えられ反転し、靴の底が地面を向く。羽で飛ぶことすらできない奴が一週間でどうにか会得した、空中で体勢を立て直す方法。とはいえやっぱり飛ぶことはできないので、そのまま地面に着地した。

 

「ぬふふふ……そう、ここまでは織り込み済み……!だからこそ俺はここでぇ……脚力を倍加ッ!!」

 

 鼻の下が伸び切ったドヤ顔がニタァと笑い、左腕の小手から『Boost!!』と、すぐに続いて『Explosion!!』の声が響いた。倍増した力は言葉の通り、両脚に集まる。

 少ない時間で高められた力は二倍ぽっちとはいえ、ボクと赤龍帝との距離はあまりに近すぎる。奴が動いてからでは回避が間に合わず、故にボクは奴の脚の力が発揮される前に動いた。今度は横軸で突っ込んでくるその軌道を、横に避ける。

 

 それとほぼ同時に、赤龍帝はボクが動くであろう分、足で蹴る地面の角度を調整していた。

 

 ぴったり、ボクの動きの兆しに合わせてきた。

 

「もらったアアァァァッ!!」

 

 だがさすがに、フェイントにまで気は回っていなかった。

 

「避けることくらいわかって――ってあれ――んぶッ!!」

 

 ずん、と。背の高い草の群生とボクの背後に隠れていた木が揺れる。己の欲に夢中であったために周りが見えていなかった赤龍帝は、強化したダッシュ力のまま、太いその幹に正面から激突してしまったのだった。

 

 断末魔のうめき声が事切れ、樹皮にめり込んだ顔が剥がれる。仰向けにひっくり返った赤龍帝は衝突の衝撃で鼻血を噴いて白目を剥き、ぴくぴく痙攣だけを繰り返していた。どうやら、気絶してしまったようだ。

 攻撃しないと明言したが、しかし怪我をさせないとは言っていない。勝手に自滅(・・・・・)した赤龍帝へ、ボクは発見してしまった嫌悪と共にため息を吐いた。

 

「な?無謀だったろ?」

 

「……さすがに、この部分を見習えとは言っていない……つもりだ」

 

 ハンゾーとゼノヴィアも呆れは同様で、伸びた赤龍帝を見下ろし言う。仲間だろうが友だろうが、あの獣欲には近づきたくないらしい。

 

 しかしそのまま放っておくわけにもいかず、やがて諦めたゼノヴィアがハンゾーを小突いて回収に行かせた。しょうがなしと引っ張り上げた赤龍帝の身体を背負うハンゾーの働きを眺めながら、ゼノヴィアは躊躇いがちにボクへ寄ってきた。

 

「今までゆっくり見たことはなかったが……イッセーはフェルさんに対してもいつもこうなのか……?つまり、その……そう、セクハラというやつだ」

 

「らしいね。思えば初めて見た時から胸がどうこう言ってたし……まあ、あれはウタへ言ってたみたいだけど。……惹かれるのはわからないでもないし、男がそういうものだってことは知ってるつもりなんだけど……どうしてあそこまで夢中になれるのかにゃあ?ねえ、ハンゾーはどう思う?」

 

「おい馬鹿やめろ!!オレを巻き込むなよこういうことに!」

 

 声を潜めたゼノヴィアの配慮を踏みにじって、ハンゾーを吠えさせる。赤龍帝を荷物の傍に下ろしながら、そんないつかの羞恥で大仰に反応する彼。それに何を思ったのか一瞬自分の胸元に眼を落としたゼノヴィアの注意は若干茫洋としてしまっているが、しかし終われば修行バカが蘇るだろう。終了まで、つまり夜まではもう数時間だろうが、しかしあの熱量を相手にするのはやはりちょっと面倒くさい。

 

 だからボクは、赤龍帝唯一の功績である今の呆れで止まった空気感を引き延ばすべく、クロカと曹操に倣って再び揶揄いの言葉を口にした。

 

 その最初の一音が出る寸前だった。

 

「――ッ!!」

 

 ボクの第六感が突然騒ぎ、言われるがままその方向、幅広の葉で埋まった空を見上げる。もちろん警戒すべきものなど何も見えないが、しかし反してどんどん警戒心の度合いが高まっていった。

 

 ただならぬその様子に、まずハンゾーが気付いてやかましく動く口を塞いだ。冥界という未知の異界に対する警戒はきちんと残していたようで、わざとらしい表情を消し、一転した真面目で尋ねる。

 

「フェル……敵か?」

 

「……さあね」

 

 呟き返す間に、ボクの本能の部分がそのざわめきの正体を看破していた。

 

 野生の魔獣なんかの、サバイバル的な危険ではない。感じる最も大きな気配は、そんなものよりもずっと強大だ。

 

 恐らく、ドラゴンが近付いてきている。それもただのドラゴンではなく、強い上に、悪魔混じり。

 

「な、なんだ、二人ともどうしたんだ……?」

 

 仲間外れで危機感のないゼノヴィアが不安そうに首を傾けると同時、上空から吹き付ける風圧によって、ボクの予想が凡そ正解であることを確信した。

 

 ハリケーンもかくやといった暴風に立ち割られた木の葉の天井から露になったのは、間違いなく、翼をはためかせる巨体だった。

 

「――ど、ドラゴン!?モノホンのドラゴンだぁ!!?」

 

「なぜこんなところに!?」

 

 人間の世では空想上の生物とされているそれを眼にして、興奮に警戒心を吹き飛ばされたハンゾーとゼノヴィアだったが、しかしもちろんボクは我を失いはしない。

 

 できるはずがない。現れたそのドラゴンに感じる強者の気配、恐らく転生悪魔であろうことへの忌避、それらもあるが、それ以上にボクの内心を覆ったのは、憎悪。視認したドラゴンの背に、屋敷以来の純血悪魔の存在を感じたからだった。

 

 羽ばたくドラゴンが降りてくるにつれ、嫌が応に気分がささくれ立っていく。溢れる『気』で二人の興奮が冷えていくのを感じながら、拓いた広場の端に着地したドラゴンの、その背から滑り降りた偉丈夫の男悪魔へ眼を注いでいた。

 

 引き締められた表情筋に一筋汗を滴らせてから、ソイツはボクを直視して、口を開いた。

 

「失礼する……!ハンターのフェル殿とお見受けするが」

 

「……そうだけど、何の用?ドラゴンまで引き連れて」

 

 眼を、ボクの何十倍もある図体で佇むドラゴンのほうにも持ち上げる。すると少し焦ったようにして、純血悪魔が前のめりにドラゴンを庇った。

 

 しかし何か言う前に当のドラゴンがそれを制し、純血悪魔よりは幾らか落ち着いたふうに目礼をした。

 

「自己紹介が先だな。俺は、タンニーンだ。……元龍王の一角、『魔龍聖(ブレイズ・ミーティア・ドラゴン)』……と言えば、用事(・・)もわかってもらえるだろうか」

 

「わからないね。その龍王とやらが悪魔になってることも含めて」

 

 言葉と声に敵意が溢れる。巨体が息を詰めるが、すぐに取り戻し、腕を組んで軽く頷いた。

 

「それは……もっともだ。転生に関してはやむを得ない事情があってな。……しかし、用事のほうには関係ない」

 

 はぐらかすと、次にその眼がびくりと背を伸ばしたハンゾーの、まさにその背中に背負われた赤龍帝に向き、白目鼻血で失神するその姿を見てしかめられる。

 

「ドライグを宿す者が鍛えていると聞いて、様子を見に来たのだ。……が、ふむ、随分熱心にやっているようだ」

 

『どちらかと言えば、これは相棒が暴走した結果だ、タンニーン。だがまあ、身体能力という意味では、大分成長したな』

 

「……なるほど、ならば俺が手を貸す必要もなさそうだ。よかったな、ドライグ」

 

 赤龍帝に代わって中の本人が答えた。小手の宝玉の明滅に、実体が在るほうのドラゴン、タンニーンが、ドラゴン故にわかりにくい笑みを零す。

 

 封印された知り合いに対する懸念のためか、とりあえずはそれで納得し、次にボクは本命へ意識をやって促した。視線をやらずとも純血悪魔は肩を震えさせ、間に用意したらしい自己紹介で、強張る身体に鞭を入れた。

 

「俺は、サイラオーグ・バアル。バアル家の次期当主だ。俺も赤龍帝には興味がないわけではないが、しかし、ここに来た目的は違う。……フェル殿、俺は貴殿に会いに来た」

 

「……で?」

 

 よくいる尊大な物言いではないが、しかしそれでも増した不快感で睨みつける。奴は恐れに湧いた生唾を呑み、それでもまた一歩前へ出た。

 

「……リアスが通う学園での活躍を、聞いた。『念』の拳でコカビエルを打倒したと。……ハンターの中でも指折りの念能力者であり、武闘家なのだろう?俺と同じ、拳一つのパワータイプだ」

 

 まっすぐボクの眼を捉えたまま、『フェル』の評価を言う。ボク本来は『武闘家』でも『拳一つのパワータイプ』でもないつもりだが、ボクの肉体を人間に当てはめればそう評されるのも無理はない。戦闘用の能力、【黒子舞想(テレプシコーラ)】は、『フェル』では使えないのだ。他の能力も、結局今のところ人前――否、悪魔前では使っていない。

 

 だから目をつけられたのかと、奴のその視線を憎悪を以って睨み続ける。すると純血悪魔はまた挑発されているとでも感じたのか、一つ大きく息を吸いこんだ。溜めの間が開き、冷や汗でない汗が滲む。

 

 そして次の瞬間、奴の『気』が爆発的に増大した。

 

 『練』だ。

 

 はち切れんばかりに膨れ上がった筋肉達磨に、ボクの隣のゼノヴィアとハンゾーが驚きの声を上げる。その『気』の圧と、そもそも『念』が使えたことがその理由だろうが前者はともかく後者に動揺するのは失点。最初から『凝』で見てさえいれば、常態の奴の『気』が非能力者のように垂れ流されておらず整っていたことくらい、二人の未熟な技量でもわかっていただろう。気圧されるだけで済んだはずだ。

 

 怪しいと感じたら何を措いても『凝』。この鉄則はさすがに教えておこうと意識の端に留めるボクに、筋肉達磨は険しさを増した顔で言う。

 

「見ての通り、俺も、一応は念能力者だ。が、ほとんど独学な上、冥界にはもう俺に教えをもたらせるほどの念使いがいなくてな、ここ数年は、正直伸び悩んでいる。……応用技とやらも碌に知らない故に、『練』の『オーラ』で殴る蹴るが関の山だ」

 

 などと言うが、しかしその『オーラ』――『気』に裏打ちされた『練』は、凡庸なハンターを軽く凌ぐほどのものだ。それだけで大抵の敵は押し潰せるだろう。もちろんボクをどうこうできるほどではないが、しかし警戒心は引き上げざるを得ない。少なくとも、敵にはなり得るのだから。

 

 そんな思いを憎悪の上に塗りたくって無言で睨むばかりのボクに、筋肉達磨はゆっくりと拳を握った。

 

「……念能力者として、俺は未熟だ。だからといって、『念』を諦めることはできない。『念』しかないんだ、強くなる方法が。……フェル殿が今、リアスの眷属に『念』の修行をつけているのは知っている。それに混ぜてくれとは言わない。ただ……手合わせを願いたい」

 

「それを知ってるなら、ボクが悪魔嫌いなことも知ってるよね?……殺してほしいの?」

 

「……できることなら、殺しはよしてほしい。俺にはまだやるべきことが山ほど残っているからな。だが、その手前までなら覚悟はできている。本気でやってもらって結構、そうでなければ戦う意味がない。だから……どうだろうか」

 

 つまり武者修行をしているつもりなのだ、コイツは。戦いを通してボクの技を盗んでやろうという魂胆。そしてそれは、ボクにとっても利のある話だ。

 いつものはぐれ悪魔なんかではない、正真正銘純血の貴族悪魔。赤髪と同列の存在を好きにいたぶれる機会など、これを逃せばもう訪れはしないだろう。ヴァーリとの戦いと並ぶ、いや、それ以上の喜びだ。

 

 が、しかしだ。

 

「やだね。断る」

 

 頷くはずがない。

 

 筋肉達磨はボクの返答に一瞬目を見張り、低く唸るように尋ねてきた。

 

「……それは、なぜだ?その三人、いや、二人に念能力者同士の戦いを見せるという意味でも、そちらにメリットのない話というわけでもないはずだ。もし俺が後で何か言うかもしれないと思うなら、誓約書を書いてもいい。どれだけ手ひどくやられても、文句は言わない」

 

「死んだら誓いも何もないでしょ」

 

「――ッ!!」

 

 吐き出した殺意に、筋肉達磨が言葉を呑み込む音がした。

 

 そう、殺す手前までなんて言うが、もしそこまで行ったとしたらだ。

 

「勢い余って殺しちゃうし、絶対」

 

 今だって、目の前の仇を殺したくてたまらないのだ。我慢なんてできるはずがない。

 そしてバアル家、七十二柱の一つである名家の次期当主を殺してしまえば、そんなものを悪魔共が見逃すわけもない。『フェル』と『ウタ』までもがお尋ね者の仲間入りしてしまう。それは駄目だ。

 

「わかったら、ほら、さっさとどっか行ってくれる?ボクが我慢できるうちに」

 

「……だ、だが……」

 

 殺意を受けて『練』が随分萎んだが、しかしあっという間に一刀両断されて感情が追い付かないらしく、未練の言葉が口を突く。それにまたかさを増した苛立ちを、瞬時にボクはぶちまけようとした。

 

 それを、聞き知った声が諫めて止めた。

 

「そう言うな、フェル。若手最強との呼び声高いサイラオーグ殿からの、せっかくのお誘いだぞ?」

 

「ッ!……曹操……」

 

 いつものにやけ面が、いつの間にかタンニーンの隣に立っていた。

 

 悪魔共に気を取られるあまり、気付かなかった。失態だ。というかなぜコイツはわざわざ気配を消して現れるのだろうか。

 もしかしたら上手さを自慢しているのかもしれないが、ともあれおかげで忌々しさの熱量がさらに上がった。が、しかし同時にその台詞を言ったあからさまな批難の口調から、ボクは曹操の意図を悟って爆発しかけた頭を冷やす。

 

 膨張を止めたその憎悪に恐らく内心で安堵のため息を吐いてから、曹操は手の槍を突いて筋肉達磨の一歩前に進み出た。

 

「本当なら、お前が意見できるような方じゃないんだ。命令することもできるのに、頭を下げてくださっているんだぞ?それを――」

 

「知らないよ、そんなの。命令だろうが何だろうが、聞いてやる義理なんてないね。ホントに殺すよ?」

 

「おいおい、大王家の御子息になんてことを言うんだ。……本気か?」

 

 言う理由を理解していてもイラつくその悪魔贔屓が呟かれると、瞬間ボクは溢れる『気』を一つに握り、地を蹴った。

 

 ほんの一瞬が空き、突き出した拳が固い感触にぶち当たる。迫力に思わず身を引いた筋肉達磨の前でボクの攻撃を受け止めたのは、もちろん曹操。両手に構え『周』が為された、槍の柄だ。

 

 束ねた『気』の凡そ八割を乗せたボクの殴打とギシギシせめぎ合いながら、曹操がちょっと本気の焦りを滲ませ言う。

 

「……まさかここまでするとは、想像の埒外だな。本気を出すなよ」

 

「ふん……オマエが調子に乗るからだよ。それに、ちゃんと寸止めするつもりだった。……とにかく、本気だっていうのはわかってくれた?」

 

「はぁ……ああ、わかったさ。どうやらやはり、お前には貴人に対する態度というものを教える必要がありそうだ。その度が過ぎた悪魔嫌いの抑え方も」

 

「無理だね、こればっかりは……。やれるものならやってみなよ、曹操」

 

 槍にかける力をじわじわ強め、演出する(・・・・)一触即発の空気感。幸いなことに違和感はないようで、曹操の奥のタンニーンもが動揺で身を固くする。

 背後のハンゾーとゼノヴィアもボクたちの『気』に充てられて、凍り付いていた。それを認識すると、関連して思考の中にまで、今まさに曹操が『周』を使っている事実が転がり込む。それが芋づる式にこの前のお遊び的な戦いを思い出し、そういえばコイツ『結』もできるじゃん、という気付きを弾き出した。

 

 今後の自主修行でゼノヴィアに泣き付かれた時のぶん投げ先を発見したボクは、その例も兼ねて『調子に乗ったこと』を水に流してやることに決め、最後のダメ押しに、空いた左手のほうに残り二割の『気』を集めて見せた。

 

 そこでようやく、筋肉達磨が必死の声を上げた。

 

「やめてくれ!曹操殿も……争ってまで俺の願いを聞いてほしいとは思わない。地位にものを言わせるのもな……。……わかった、フェル殿。手合わせは、諦めよう」

 

 赤髪と似た甘さを利用して自ら取り下げさせるという曹操の作戦が、見事に成功した瞬間だった。

 

 それを悟って息を吐き、ボクと同時に半ば本気の戦闘態勢を解いた曹操がこの場に来たのは、そもそも筋肉達磨を止めるため、穏便に事を治めるためだ。実際、下手をすればタンニーンと合わせてまずい事態になりかねなかった。そこは、感謝をすべきだろう。

 

 だからついでに、筋肉達磨のボクへの注意が消えないこともどうにかしてくれと、それを浴びながらボクは曹操に無言の抗議を送っていた。

 

「だから諦める代わりに……せめて見学をさせてはくれないか。リアスの眷属と……もう一人のスキンヘッドの彼は、人間の弟子か?とにかく、その様子を見せてくれるだけでいい。他はもう何も望まない」

 

「あー、それは……それくらいなら、いいんじゃないか?なあ、フェル」

 

「……いいわけないよ」

 

 職務放棄した奴を一つ睨んでやって、ボクは息を吐く。その内訳は悪魔への憎悪と、そして上手い断り方が見つからない腹立たしさだ。

 

 何しろあの眼。甘くはあるが、しかしゼノヴィア似ている。我が強く熱意は高く、つまるところ、『念』にすべてを賭けている故に、奴には諦めて去るという選択肢が端から存在しないのだ。

 

 その尋常ならざる硬い意志の理由は知ったことではないが、とにかく奴は何としてでも『念』の技術を掴むつもりなのだろう。『争ってまで』だとか『地位にものを言わせて』だとか言っているが、いよいよとなればその甘さすら熱意の炉にくべるかもしれない。そうなった場合、ボクはとてつもない拷問を受ける羽目になる。

 曹操の計略で最初の致命的はうやむやにできたが、それも永遠に続けられはしない。だから今のうちに妥協すべきなのだ。見学するだけというならボクの衝動も暴れはしないだろうし、我慢の苦痛も最低限で済む。

 

 ただそれでも素直に受け入れることが心情的にできない故に、ボクは苦労して拒否の理屈を捻り出した。

 

「……ここに留まりたいなら、シロネに話を通してくれる?あのチビッ子の土地なんだから」

 

 言ってからシロネが拒否できるはずがないことに気付き、閉口する。案の定、筋肉達磨は緊張と恐怖の表情を少し不思議そう歪めた。

 

 そして何かしらの言葉が、その忌々しき純血悪魔の口から吐き出される――その直前に、今までの耳障りをすべて洗い流し、内心に蓄積した『負』までもを吹き飛ばしてしまうくらいの『大切』が、ボクの聴覚を優しく揺らした。

 

 二週間ぶりのクロカの存在に、安らぎが全身を覆った。

 

「生憎、話は無理ね。だからさっさと消えることをお勧めするわ、タンニーンに、サイラオーグ・バアル」

 

 振り向いてその姿を眼にすれば、視覚的にも欠けていたものが満たされるのを感じる。それは黒歌も同じなようで、眼が合うと微かに表情をほころばせた。

 

 その背中にはなぜか気絶しているらしいシロネが背負われているが、しかしクロカはまるで気にしていないふうに乱暴に彼女を下ろすと、改めて招かれざる悪魔二匹を険峻な眼で見やって、言う。

 

「ていうか、これはそもそもどういう状況なわけ?すごい気配がしたと思って慌てて来てみれば睨みあってるだけだし、それに曹操までいるし」

 

「俺のことは気にしないでくれ。要はサイラオーグ殿が修行の見学を申し出て、フェルがそれにごねてるだけだ」

 

「別にごねてるわけじゃない。……曹操、キミどうして毎回腹が立つことばっかりするわけ?」

 

「……いや、別に毎回ということはないだろう?それに、今回ばかりは正当性もある。槍の仇だ」

 

 ちょっと言い辛そうにして鼻を鳴らし、次いで曹操は手にする槍をくるりと回転してみせる。と思えばボクの打撃を受け止めた柄からぽっきり折れてしまい、「結構いい値がする業物だったんだぞ」と、半笑いの中に確かに見える恨めしげを認めてしまって、思わず顔を背けた。

 

「……オマエがでしゃばったせいだからね。ボクは知らない」

 

 だがまあ、二割くらいは謝ってやろう。内心でおざなりに詫びてやった。

 

 だというのにまだまだ言い足りない様子の曹操を排するため、ボクは土の上に倒れ伏してピクリとも動かないシロネに注意を向けた。

 

「それで、ウタ。そっちは何があったの?……見たところ、骨まで折れてるみたいだけど」

 

「……な、なに!?骨!?ウタさんは白音に何をしたんだ!?」

 

 ようやく我に返り、横入りするゼノヴィアの心配。駆け寄ってシロネを抱き上げた彼女に、クロカは面倒くさそうに答えた。

 

「何でもないわよ。修行中のちょっとした事故と、オーバーワークでぶっ倒れただけ。ほっといてもいずれ目を覚ますわ。まあ、骨折は治るまで時間が掛かるだろうけど」

 

「……疲労はまだしも、骨折は良くないぞ、フェルさん。まさか知らないのか?私たちはもうすぐ悪魔の催し物に出席しなければならないんだ。怪我をしたままというのは困る。……だろう?ハンゾー」

 

「……まあ、そうだな」

 

 歯切れ悪くした同意には、お前もさっきまで忘れてただろ、という呆れが表れていたが、しかし巻き込まれたくないハンゾーは賢しくも沈黙を選んだようだ。

 

 ボクも大いに不満であるところだが、僅かに眉を上げたクロカは実際そのことを忘れていたようで、喉を鳴らした彼女の前に挟む言葉を、ボクはハンゾーと同様沈黙に変えて見守った。

 

「そういえば、そんなことも言ってたかしらね。じゃあまあ、治す手伝いはしてあげる。で、その『出席しなければならない催し物』っていうのは、いつにあるわけ?」

 

「……え、ええっと……それは……」

 

 苛立ち混じりのクロカの問い。しかし知るはずもないゼノヴィアは、もごもご口を噤む。せっかくのハンゾーの行為も無為に、結局いびられるかと思ったが、しかしそれは引き継がれて持ち上げられた。

 

 筋肉達磨が、恐れを顔色に露にしながらも堂々と答えた。

 

「明日だ。明日の夜に、俺たち若手悪魔の交流会と、ハンター協会や『V5』の面々のレセプションを兼ねたパーティーがある。……確かに、怪我を残したまま参加というのは、主の恥となりかねん。あまり褒められたものではないな」

 

「……そう、なら、アーシアとか言ったっけ?ゼノヴィア、あいつ、回復系の神器(セイクリッド・ギア)持ってるんでしょ?やらせればいいわ。修行にもなるし」

「それは、まあ……そうかもしれないが……」

 

 いかにも腑に落ちないふうに、首を捻りながらゼノヴィアは頷く。器用なことをやったその原因は修行の言葉でも隠し切れない対処の他人任せだろうが、しかし反論するまでには至らなかったようだ。

 

 とにかく、面倒な話はこれで終わりだろう。というか終わってくれなければ困ると、再びの純血悪魔の声に噴き出す憎悪を抑え込んでいたボクだったが、しかしその意識と視線を両方ビタリと一手に引き付けていた筋肉達磨の言葉は止まず、忌々しい方向へ逆戻りした。

 

「その件もあって、ここに来る前にリアスと話してな。フェル殿、その時にリアスから、この土地に一日滞在する許可は得ている。これに関しては問題ない。だから――」

 

 お前の許しをくれと、言われるまでもなく拒否の理屈が意味をなさなかったこと理解し、苛立ちからまた憎悪が膨れた。

 

 大多数の怯えと曹操の諦め、おまけにクロカの憤りとが入り混じるが、全員の注意がボクに向く。だが怯えようが諦めようが、それこそボクがこれ以上の苛立ちを露にしようが、もう筋肉達磨の見学を阻止することはできないのだ。

 

 拒否すればそれ以上の面倒が襲ってくるから。またこちらが折れねばならない屈辱感に震えそうになる身体を腕組みして押さえ、ボクはもう一度、不承不承に頷いて受け入れの言葉を吐き捨てようとした。

 

 それが了承とわかるギリギリまで崩した台詞を舌に乗せた。言葉に変える、その直前だった。

 

 不意にぐいっと身体が引っ張られ、言葉が喉の奥に滑り落ちた。思わず呑み込み、瞬間的にその正体と理由に気付いて顔を向けた。

 

 上着の裾を握った赤龍帝が、若干頭を揺らしたまま、焦点の定まらない眼でボクを見上げていた。

 

「……ぬふ、ぬふふふ……!とうとう、やってやったぞ……!」

 

 自慢するのはまあ確かに、ボクが筋肉達磨のあれこれに気を取られていたことを加味しても、称えていい所業だろう。

 

 いつの間に目覚めたのか、そしていつの間に接近していたのか、正直全く気付かなかった。それは恐らく――狙ったことではなかろうが――ボクの激情の合間合間に事を為したからだ。

 ボクの憎悪に自身の欲望を紛れ込ませたということ。だとしても気付けなかったのは間抜けな話だが、しかしただのゲームとてルールはルールだ。認めるしかあるまい。それに、とうに飽きたし、もう報酬に意味はない。

 

「……フェル、その赤龍帝、何してるの……?邪魔なら追っ払うけど」

 

「ああ、うん。これはね――」

 

 ちょっと顔をしかめたクロカの疑問に答えつつ、ちょっと触るだけでいいというのに未だ裾を握ったままの邪魔な手を払い除けた。

 

 ゲームも何も終わったのだからと、何の気もなしに引っ張られる服を引っ張り返して剥がしたのだ。

 

 翻った裾が見せるのは裏地のみで、だからボクはそれ(・・)に気付くのが遅れた。

 

「――ッ!フェル!!」

 

 先んじて発見し、あっという間に血の気が引いたクロカの手が届く前に、

 

「お楽しみのぉ――【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】ウウゥゥゥッッ!!」

 

 赤龍帝の獣欲塗れが響き渡った。

 

 瞬間、裾に刻まれた魔法陣が赤く輝き、防ぐ間も声を上げる間もなく、発動した。

 

 ボクの纏う衣服、羽織っただぼだぼの上着もその下のジャケットも長丈ズボンも、ボクの身体の秘密を隠すそれらが一斉に裂け、四散しようとしている。

 

 さらにはそれらのさらに下。小さな名刺、パリストンの能力《ボクが『フェル』であるための証》が縫い付けてある、下着までも。

 

 ボクは生まれてから今までで一番の、とてつもない戦慄に襲われた。

 

 その、次の瞬間。

 

 帽子と手袋を含めて衣服のすべてが弾け飛ぶとぴったり同時、一瞬にしてボクの周囲を黒い炎が覆い隠した。

 奇跡的に無傷であった名刺だけは捕まえ、握り締めた。バクバクなる心臓に十秒近くも頭を真っ白にされてから、ようやく返ってきた理性でボクは周囲を見やる。

 

 ……誰も見えない。辺りは黒い炎、曹操の神器(セイクリッド・ギア)による邪炎の壁だけがある。円柱状に伸びたそれで、どうやらボクを隠してくれたらしい。苦労して十秒前の光景を思い出し、そのタイミングに、もしかしたらボクの裸身は目撃されなかったんじゃないかと、微かな希望が芽生える。

 

 なんとも幸運なことに、それを肯定する落胆の声が、我に返ってすぐさま邪炎の壁の外から聞こえてきた。

 

「あ……ああーっ!!曹操てめえ、なにしてくれてんだよお!!邪魔ばっかしやがって……俺が苦労に苦労を重ねて、やっとの思いでやり遂げたってのに!!見れなかったじゃねえか、フェルさんのおっぱ――い゛ん゛!!」

 

 言い終わる前に、炸裂したクロカの『念』と重い打撃音。以降しんと静まり返って数秒後、手に布束を抱えたクロカが、壁を潜ってボクの前に現れた。

 全裸のボクを前にして、しかし彼女は無言のまま、瞬きの上に眼を擦り、確かめるようにボクの身体と周囲の地面を見回した。なんだと思ってすぐ気付き、手の名刺を見せてやると、詰めていた息がようやく安堵と共に吐き出される。

 

「……よかった……。とりあえず、それはどこか……内ポケットにでもしまって、早くこれ着て。曹操の気分次第って恐ろしすぎるわ」

 

「……確かに」

 

 今更曹操が変な気を起こすとは思えないが、しかしこれはボクたちの最重要の秘密。たとえアイツでも任せれはしない。

 手早く袖を通し、だぼだぼ上着の代わりに、すっぽり全身を覆う予備のマントのような貫頭衣をかぶる。空になったクロカの右手に返り血らしい赤色を見ながら耳を帽子に隠し手袋をはめ、念のためにクロカのチェックを受けてから、ボクたちは邪炎の覆いから出た。

 

 風景が重苦しい冥界の森に戻り、正面に曹操のほっとしたような表情を見る。能力を解除した奴に、折った槍のことも含めて今回ばかりはきちんと礼をしようと善行を誓い、次いでゆっくり、視界を回した。

 

 最初に眼に入った乱入者どもは、揃ってあらぬ方向を向いていた。曹操の邪炎のカーテンがあっても見ないようにしていたらしい。「もう、いいか……?」などと聞いてくるので、無視してさらに視線を横に動かした。

 

「……言っとくが、見なかったからな。見えなかったとかそれ以前に、俺は見なかった。本当だからな?なあ、ゼノヴィア?」

 

「……うむ、見ていなかった。今回ばかりは保証する。……それにしても、イッセー……まさかその破廉恥な技を、よりにもよってフェルさんに使うとはな。こうなると予想できなかったのか……」

 

 ハンゾーと、ゼノヴィア。反応やらも鑑みるに、どうやら誰もボクの身体や気配に気付かなかったらしい。望外の僥倖だ。全く必要のない危機ではあったが。

 

 ボクは最後にゼノヴィアの視線の先、地面に半分頭をめり込ませ、拳の跡が付いた顔の側面全体から血を流す赤龍帝を見やる。クロカも同時に、出会ってから一番のとてつもない殺気を向けながら、絞り出すように憤激の声を押し出した。

 

「……こいつは、今のうちに殺しとくべきだと思うの」

 

「やっちゃったらボクたちお尋ね者だよ。我慢して」

 

 自分に言い聞かせるようにしてボクは応える。クロカも無理矢理首を動かして頷き、固く握り締められ震える右手は、下げられたまま止まった。

 

(……確かに曹操の言う通り、ダークホースだったにゃ)

 

 もちろん悪い意味で、本当に予想外のことをしてくれる。バカらしいことを考えながら、ボクは眼下で気を失う真正の変態から眼を逸らした。




さすが一誠!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ
そこにシビれる!あこがれるゥ!
その後泣く間もなく一発ノックアウトされたけど。
感想ください。


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十三話

 あの後、結局筋肉達磨の修行見学が成立することはなかった。

 

 というか、修行自体が中止されたのだ。放って続けても夜には赤髪の屋敷に戻る予定だったが、しかしシロネはともかく赤龍帝がクロカに与えられたダメージはやはり大きく、夜までの僅かな間でも放置するのは危険であると、医療の知識がなくとも明らかだった。故に、中止はほとんど必然的なものだっただろう。

 

 その必然に先陣を切ったのがゼノヴィアだ。修行バカであり、赤龍帝が起こした致命傷寸前の大事件に自業自得と呆れた彼女も、一応は仲間である者の命と修行の継続のどちらを取るかなど、さすがに天秤にかけるまでもなかったに違いない。そんな決断、最後のまともな修行の機会を放って帰還すべきだと言い出した彼女に、赤龍帝は深々感謝すべきだ。ボクと、特にクロカは、正体の秘密を暴きかけた赤龍帝を救いたくなどなかったのだから。

 

 ただまあ実際に死んでもらっても困るし、続けるにしても筋肉達磨の視線に精神をすり減らす羽目になってしまう。それから逃れられるメリットでもあったために、ボクたちも赤龍帝の命を優先した。しつこかった筋肉達磨に仕方がないと言わせて、なら俺が運ぼうと提案してきたタンニーンと、事情の説明やらの諸々を曹操とゼノヴィアたちに任せて見送ると、ボクとクロカの二人は後から悠々と赤髪の屋敷にたどり着き、医者だ薬だと騒がしいそこ素通りして初日の離れに腰を落ち着けた。

 なぜか日本旅館風の平屋にはやはり悪魔の気配が漂い神経がささくれ立ったが、しかし明日からはハンゾーだけに教える修行が始まり、少なくともゼノヴィアやシロネを相手にするよりも気楽になるだろうと、久方ぶりにクロカと二人でちゃぶ台もどきのテーブルを挟み、会話を交わしていたのだった。

 

 後は騒がしい本邸から流れてくる悪魔の気配に耐えてどうにか一夜を明かすのみ、であるはずだったのだが。

 

 障子を乱暴に開き、交流の邪魔をせんとばかりにどかどか上がり込んできた五人。曹操とハンゾーとゼノヴィアとシロネと、それを率いた朱乃が、現れるなり発した台詞。

 

 それを耳にした時点で、ボクは今日一日の面倒がまだ終わっていないことを半ば確信させられてしまった。

 

「……鬱陶しいにゃあ」

 

 隠さずそのまま不満の角度で呟いてしまうほど。

 

 包帯でぐるぐる巻きにされた片腕をだらりと垂らす、失神から目覚めたばかりであろうシロネへの憎悪は言わずもがなであるが、今はそれ以上に、朱乃が告げた要請がボクの苛立ちを大きくしていた。恐らく赤髪からの指示だと思われるそれの内容も、通ると考えた思考も、いつまでも纏わりついてくるようで忌々しい。

 しかし極論を言えばすべて赤髪の手のひらの上である故に、ボクはそれだけ呟き黙り込み、並んで脚を畳んだ朱乃の怯え顔をじっと睨みつけていた。

 

 そしてそんなもやもやとした苛立ちを抱えたのはクロカも同様で、ボクに続いて彼女も、朱乃めがけてさらなる追撃を加える。

 

「えーっと……あんた、なんて言ったの?なんかとっても不遜なことが聞こえた気がするんだけど、きっと聞き間違いだろうから、もう一回言ってくれる?」

 

「……わ、わかりました……。聞き間違いではないと、思いますが……」

 

 クロカに移された眼には警戒が混じったが、しかし半端とはいえ成功した追撃によって、朱乃は首を縦に振るしかない。すっと息を吸いこんで、繰り返して告げられた。

 

「……イッセー君の傷が、深すぎるのです。もちろんタンニーン殿が運んでくださったおかげで命に別状はありませんし、治せないものではありませんが、明日のパーティーまでに完治させるためには、グレモリー家の設備とアーシアちゃんの力を集中させる必要があります。つまり、白音ちゃんの治療に割けるリソースがありません……」

 

 シロネの肩に手を置きながら言い、そして怖々と、またボクに視線を向ける。

 

「だから……ふぇ、フェル、貴女に白音ちゃんの、治療を、お願いしたいのです……。身体の怪我さえ治れば、ひとまずはパーティーも問題がないですから――」

 

「えーうそ信じらんない。ほんとに聞き間違いじゃなかったみたいね。それ、本気で言ってるわけ?」

 

 遮り、クロカが見せつけるように肩をすくめた。わざとらしくため息までついてみせ、肘置きにだらりともたれかかる。

 堂に入ったその仕草はだらけているのに妙な威圧感を放って朱乃を睨み、シロネの腕の包帯を冷たく見やった。

 

「自力で歩いてここまで来れたみたいだし、要らないでしょ治療なんて。肌を隠せるようなものでも着て、パーティーでも何でも行けばいいわ」

 

 顔をしかめるシロネ。と思えば、部屋の端で正座に悪戦苦闘していたゼノヴィアが、反応して勢いよく顔を上げた。

 

「む、それは無理だぞウタさん。私たちは今着ているこの制服の他、体操着しか持ってきていないんだ」

 

「いや別にどうとでもできるだろそれは。……まあでも治せるなら、さすがに治してやってもいいんじゃねーか?見てるだけで痛々しいぜ、あれは……」

 

 いつも通りのズレたゼノヴィアに続いて、正座ができない彼女を揶揄っていたハンゾーも、ツッコミついでにシロネへの心配を口にする。言葉はボクたちの悪魔嫌いでやんわりとしているが、さすがに彼の善性は哀れに思わずにはいられないのだろう。

 

 その気持ちはわかる。がしかし、それ以上にボクたちの憎悪と、それを一端にした苛立ちは大きかった。憐れみなどで発言を覆すはずもなく、そしてそれは苦渋の表情を見せた朱乃も理解の内。故に彼女は早々にそれを持ち出した。

 

「これは……取引と、捉えてもらって構いません」

 

「……はあ?これ以上何を取引するってのよ」

 

 せっかく修行の依頼を終わらせたのにと、疲れた顔でクロカはひらひら手を払う。朱乃は怯えを除けてクロカに向くと、毅然と言った。

 

「皆が目撃していますから、イッセー君がフェルに何をしたのかは知っています。彼があの技、【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】をフェルに使ってしまったことに関しては、動けない彼に代わって私からお詫びします」

 

「あんたの詫びなんてどうでもいいわ。赤龍帝からもね。あのにやけ面、曹操以上に見たくないから」

 

「……同レベルとか言われるよりはマシだが……そもそも比較対象に俺を持ってくるなよ」

 

 曹操の引き攣ったにやけ顔を無視して、クロカは朱乃を見やったまま、その眉をひそめる。

 

「この際だからついでに言うけど、あんたたち、あの変態赤龍帝にどんな教育してんのよ。魔力まで使って女の服を引ん剝くとか……悪魔になったら良識まで吹っ飛んじゃうわけ?」

 

「い、いえ……あの子がスケベなのは、その……元から、なのよ……。人間だった頃から、覗きやセクハラの常習犯で……」

 

「……それはそれで呆れるわ、色々と。そんなのを眷属にしたあんたたちの親玉、やっぱりイカれてるんじゃない?」

 

 その言葉で朱乃は息を詰めたが、しかし怒りが詰まった喉を突破する間を与えずに、クロカは続けた。

 

「だってね、そっち悪いんだってわかってるなら、普通はもう厚かましく取引だとか言えないわよ。……また辱めを受けろって言ってるようなもんだわ」

 

「ッ!そういう……『どっちが悪いから』っていうのを終わらせるための取引なのよ!」

 

 段々冷たさと鋭さを増し、威圧感と相俟って本当に身を刺しそうになった視線で、クロカは取引と聞いた時からずっと内にため込んでいた憤りを吐き出した。

 不発の怒りも併せて、朱乃のおとなしそうな印象から大きく外れた大声が上がり、一つ深呼吸の間を置いてから、彼女はクロカを睨み返す。

 

「さっきも言ったけれど、この件の過失がこちらにあることは私も、主人のリアスも認めるところです。けれど……貴女がやった報復に関しては異議があるわ!」

 

 興奮で赤みが増した顔に、押し隠された怒りと怨みの表情が姿を見せる。膝の上で握り締めた拳にその衝動だけは押し込めた朱乃は机に身体を乗り出し、不動で寝そべるクロカに詰め寄った。

 

「明らかにやり過ぎよ!あと少し、運び込まれるのが遅れていたら、本当に危なかったのですよ!?いくら服を脱がされそうになったからって、それで命が危うくなるほどの手傷を負わせるだなんて信じられません!……貴女はイッセーの顔も見たくないと言いましたが、私もそうです。正直に言って、イッセーを殺しかけた貴女とこうして話をしているだけで、はらわたが煮えくり返りそう……!……できることなら、同じ苦しみを味合わせてやりたい……!」

 

「……ふぅん。仇討ちがしたいなら、いいわよ?相手になってあげる。ねえゼノヴィア、仕掛けたのはこいつだって、ちゃんとリアス・グレモリーに報告してよ?」

 

 だが恐らく、ゼノヴィアもシロネも、ボクたち以外の全員は元々取引の内容を聞かされていたのだろう。身体を起こして『気』を練り始めたクロカに曹操を除いた四人は冷や汗ををかいていたが、しかし誰もそれを諫めることはなかった。

 

 なぜなら、朱乃にはその怒りの衝動を解き放つメリットも実力も、度胸もない。ボクも、恐らくクロカもそれを確信している故に、脅かすだけして、気圧され気味の激情に歯を噛む朱乃の続きを待った。

 

 しばらくするとようやく朱乃は身を引いて、悔しげに歪めた口元から、絞り出したような声で言った。

 

「……いいえ、争うつもりは、ありません。私たちが言いたいのは、つまり、双方に償うべき点がある、ということです」

 

「……罪の大きさで言ったら、段違いだと思うけどね」

 

 にやりと楽しげな笑みを作っていたクロカだったが、朱乃の台詞の後、数秒して眉を寄せながら呟くように言った。『フェル』と『ウタ』を破滅させかけたという意味のそれにも勢いはなく、どうやら彼女も取引の内容に気付いたらしい。

 

 そして、その苦虫を噛み潰したような表情から察するに、それが断れない話であることも。

 

 久方ぶりにボクに眼を向け、残った憤りの大部分を怯えに押し流される朱乃が、それでもどうにか口を開いた。

 

「ですから、そういう問答をしないための痛み分けです。イッセー君の怪我の件については、私たちはもう何も言いません。その代わりに……フェルは、白音ちゃんの治療をしてください。……今後のしこりを残さないよう、清算してしまおうと……そういう、事です……」

 

 ならボクが受けた【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】の清算はどうなるんだ、と思わずにはいられないが、しかし口にはできなかった。奴らの中では未遂に終わり、そこまで大きな非を持たないと認識されているらしいその部分で騒ぐのは、それこそ『フェル』と『ウタ』の破滅に近付くばかりであるし、それを抜きにしても、赤龍帝を殺しかけたという罪と並べられるものではない。

 

 少なくとも今この場では、そうだ。この痛み分けとやらは、【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】の非とシロネの治療という徳を合わせて、ようやく赤龍帝の殺害未遂への赦しと釣り合うという認識の下で組まれた提案なのだ。

 

「厚顔無恥って言葉がぴったりだね、ソレ。……ふん。いいよ、直せばいいんでしょ?」

 

 眼をやらずともクロカの嫌そうな顔が見える。もちろんボクだって、屈するのもシロネを直すのだって嫌だが、しかし抵抗するのもここ辺りが限度だ。

 

 それは正義でも正しさでもなく、ただの立場。悪魔に支配されるこの冥界に於いて、赤髪の持つそれはとてつもなく大きい。殺害未遂という大義名分がある以上、魔王の妹の上級悪魔の肩書が一声鳴けば、悪魔のすべてが動くことだってありえなくはないのだ。コカビエルの一件だって、実際そうなりかけた。

 

 だからつまり、最初から赤髪の手のひらの上。それが受け入れ難いものだろうが、最終的には逆らえない。毎回これだ。雇われてここにいる以上、結局は赤髪の言うことを聞くしかない。憎悪と怒りを呑み下せねば、破滅するのはこっちのほう。クロカのためにもならない依頼を引き受けてしまったことには、もう後悔しかなかった。

 

 そんな内心を知ってか知らずか、提案に頷いたボクを見て、朱乃とシロネがほっと安堵の息を吐いた。まあこの際、もう何も言うまい。これ以上は負け犬遠吠えだ。

 だからボクは、喉元まで出かかった燻りを静めるため、その矛先を変えて胡坐の脚を組み替えた。

 

「けど一つ、聞いておきたいことがあるんだよね。朱乃」

 

 名前を呼んでやるなり怯えに逆戻りして、朱乃の眼がボクにビタリと張り付く。言葉が出ない注目を返事と見做して、続けて彼女の眼を覗き込んで聞いた。

 

「シロネを直すのは、ボクなんだよね?仙術が使えるウタじゃなくて」

 

「……え、ええ……。そうよ……」

 

 『気』の問題だけでなく肉体的な損傷も、仙術は癒すことができる。ただし自己治癒力を高めて回復を早めるそれはあくまで気力回復の副次的なものであり、効果はそこまで高くない。少なくとも、折れた骨を一日で支障なく繋げることは不可能だ。

 いや、実際クロカの力量ならそうでもないのかもしれないが、そう思えるのはボクがクロカの全力を把握しているからだ。だから、それを知らない奴らがクロカに治療を頼まなかったことには納得がいく。だがしかし、だ。

 

「じゃあなんでボクに頼んだわけ?」

 

 人も悪魔も、生物であれば凡そすべてを修理することができるボクの能力、【人形修理者(ドクターブライス)】。フェルとして使える数少ない能力の一つだが、しかし治療のための能力である故に、実戦で使ったことは皆無に等しい。そもそもボクは『フェル』である間、ダメージは絶対回避が常であったし、クロカも、人間界での仕事で怪我をすることは滅多になかった。能力を使わねばならないほどの深手はなおのこと、京都で戦った時くらいだ。

 それだって誰も見ていない部屋で、曹操にも見張らせた。つまり『フェル』の【人形修理者(ドクターブライス)】という能力を知る者はごく限られる。少なくとも、赤髪たちや悪魔が知っているはずがない情報だ。

 

 なのに朱乃は、ボクがシロネを治療できると知っている。自力で知れるはずがないとなれば、教えたであろう犯人は一人だけだった。

 

「……曹操、オマエ、ボクの能力をしゃべったんだ」

 

 怒りを込めて首を動かし睨んでやれば、曹操は一瞬目を見張った後に、いつも通り芝居がかった調子で軽く首を振ってみせた。

 

「だってね、フェル、こういう時のための治療能力だろう?ハンゾーの言う通り、治せる手段があるのに治さないなんて、それはさすがにあんまりじゃないか。俺には到底、黙っていることができなかったんだよ」

 

「あんた……!それでもほんとに念能力者!?あんまりだとか、そういう問題じゃないでしょ!人の能力、それも『発』なんて生命線をそんな軽々と……ありえないわ!」

 

 ボクが詰ってやる前に、所業を知って、途端に苛立ちのやり場を見つけたクロカが怒声を叫んだ。そしてボクが言いたかったこともおおむねその通り。戦闘面での不利にはあまり繋がらないが、下手に知られて余計な虫が寄ってくるのは厄介だ。

 あれが直せるのならこれも直せ、なんて展開が容易に想像できる。曹操もわかっているだろうし、もちろん能力の暴露がその者への信頼を大きく損なう行為であるという一般常識だと、きちんと理解しているだろう。にも拘らず言ったのは、ボクとクロカへの度の過ぎたちょっかいではなく、恐らく善意によるものだ。クロカとシロネの確執を知る一人である奴は、クロカの気持ちを慮って、シロネと接する機会を増やそうとしたに違いない。能力の暴露による信頼の喪失よりも、二人を引き合わせた感謝のほうが高いだろうと踏んだのだ。

 

 それは二週間前のボクになら通用しただろう。だがクロカがシロネの存在を必要としていないと知れた以上、もう賛同は得られない。

 

 クロカの容赦ない怒号とボクの他意ない憤りに、曹操も朧気にそのことを悟ったようだった。見張った目に驚きを見せ、瞬きしながらボクとクロカを交互に見やり、疑問符を浮かべる。しかしその先は棚上げすることに決めたらしく、動揺で少しぎこちないながらも笑みを作って小首を傾げた。

 

「……まあ、うん、確かに少し軽率だったな、すまない。だがそれにしても……ウタは随分機嫌が悪いな。そう怒鳴らないでくれよ」

 

「機嫌?機嫌が悪いって?むしろこれで機嫌がいい方がどうかしてるわ!あの変態赤龍帝にあんなことされて、かと思ったら朱乃は図々しいし……おまけにあんたにまで裏切られたんだもの!」

 

「……裏切りときたか。赤龍帝に関しては、俺がいなかったらもっと大変なことになってただろう?それでどうにか帳消しにしてくれよ。痛み分けだ」

 

「あんたが言うと余計にムカつくわね!大体……【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】だっけ?あんたが赤龍帝の魔力にもっと早く気付いていれば……ぐぅ……あの変態、ぶっ殺して止めれたかもしれないのに……!」

 

 それを言うなら自分が早くに気付けていれば、という自爆で口ごもったクロカを、曹操は腕組みしながら半分呆れて笑う。その眼が頑なにボクを見ないのは、その自爆がボクにも言えることだからだ。びっくりするほど弱いあの赤龍帝に警戒心を持てというのも難しい話だが、魔法陣が生地の向こう側で見えなかったとはいえ、あれは気付いてしかるべきだった。

 痛い目を見ただけにもう気を許すことはないが、とにかく赤龍帝の行為は全員が予想だにしなかったもの故に、曹操にだけ責任を押し付けることもできない。理解して歯噛みするクロカは、しかしそれを呑み込むことに失敗した。自分で言った通り、イライラの三重苦が祟ったのだろう。

 

 彼女は曹操に苛立ちと屈辱感の入り混じった眼を向けたまま喉の奥で何度か唸ると、突然限界を迎え、勢いよく立ち上がって曹操を指さした。

 

「もうッ!!……いいわよ!話は終わり!ここからは身体でわからせてあげる!今日という今日はボッコボコにしてあげるから、表出なさいよ曹操!」

 

「……今日はもう何を言っても駄目そうだな、頭が沸騰してる。……ま、いいだろう。しばらく試合もしていないしな、ストレス発散の相手になってやる。朱乃さん、庭を使うが、いいか?」

 

「……え?あ、は、はい、どうぞご自由に……」

 

 怯えで凍り付く朱乃が、また一時解凍されて頷く。曹操はキザににこりと微笑むと、次いで期待の視線を投げていたハンゾーとゼノヴィアに応えて尋ねた。

 

「そうと決まれば、ついでだ。ゼノヴィアとハンゾーも来るといい。念能力者同士の戦闘を見ておくのも、いい修行になる」

 

「お、おう!見る見る!ゼノヴィアばっかりがあんたたちの戦う姿を見てるってんで、オレも一度はって思ってたんだ!……サイラオーグ、だったか、あの人とフェルとの戦いも、結局流れちまったし……」

 

「そういえば、ハンゾーは尽く戦いの場にいなかったな。しかし、念能力者同士というのは私も初見だ。ぜひ見たい――っとと……」

 

 腰を上げる曹操に続いて、二人も迷うことなく立ち上がる。正座の痺れでふらつくゼノヴィアに腕を引っ張られて巻き添えを食らうハンゾーを、曹操は愉快そうに笑った。クロカの方は全く変わらずむすっとしたまま、ボクの背後を歩いて通って鼻を鳴らした。

 

「……わかったわよ、見学でも何でもすればいいわ。私も仙術じゃなくて『念』だけで戦ってあげる。槍折っちゃったんでしょ?ちょうどいいハンデだわ」

 

折られた(・・・・)、だがな。そこの悪魔嫌いに。……しかし、本当にいいのか、仙術なしで。純粋な『念』では、武器がなくとも俺の方が上だ」

 

「武器があっても私の方が上よ。神器(セイクリッド・ギア)使ってようやく対等ってところかしら。しばらくやらないうちに力量差も計れなくなっちゃったの?」

 

「その言葉、そっくりそのまま返してやろう。格下とばかり戦って、勘が鈍っているんじゃないか?コカビエルとの戦いも、気つけにはならなかったらしいな。なら俺が現実というものを見せてやろう」

 

「……言ってなさいよ中二病!」

 

「……ちょっとは黙れ性悪のへそ曲がり!」

 

「もういいから、二人とも早くやってきなよ」

 

 何か別方向に勃発しそうな予感を感じ、ボクは口に割って入って背中の方を押してやった。暴れられる二人に対して一人でシロネの治療をせねばならないことには少々の妬ましさがあるが、かといってこのまま続く罵り合いに、そのため息を引き延ばされるのはごめんだ。

 

 合わさりちょっとイライラしながら向けた眼に、クロカと曹操は途端に口を閉じた。逃げるみたいに背を縮め、こちらも気まずげなハンゾーとゼノヴィアを引っ張って、四人そろって障子の外に出て行った。

 

 ぴしゃりと閉じた和紙張りの影が遠ざかる足音。その音も聞こえるということは、少し離れた庭からの戦闘音だってもちろん聞こえるだろう。やっぱりボクだけ生殺しだ。

 

 一人だけ置いてきぼりにされたことはあまりない。どう取り繕ってもため息が出た。加えてシロネだと、大きく肩を落としてから眼をやる。

 

 シロネは、クロカの影が消えた障子の端に、まだ視線を措いていた。それにまたもやが溢れそうになるのを寸前でどうにか堪え、ボクはもう一つため息を吐いてから、能力を発動させた。

 

 大きく穏やかな瞳でシロネを見下ろす大きな人形、【人形修理者(ドクターブライス)】。突如真上に出現したそれにはさすがに目を見開いて反応し、シロネと朱乃は同時に驚きの悲鳴を漏らした。

 

 ボクはそのまま、念のための予備であるためにあまり肌触りのよろしくないマントの背中側――のさらに下に隠した尻尾――から【人形修理者(ドクターブライス)】に伸びるヒモを引きずってシロネの隣に移動し、腰を下ろした。宙に浮いて自分を見下ろす謎の人形に気を取られるあまり、その時までボクに気付かなかったシロネの眼が、驚愕で弾かれて、半ば唖然としながらこっちを見る。

 

「『絶』は……できないんだよね、たぶん。まあ、いいか。呑まれないように、精々お祈りでもしてるといいよ」

 

「……え、えっと……あの――ッ痛!!」

 

 口を半開きに目を瞬かせる彼女と混乱のままでいる朱乃が何かを言う前に、ボクはシロネの、隙間なく包帯を巻かれた腕を乱暴に持ち上げた。

 

 数時間前、気絶していたシロネを見た時から大体その負傷の程度は察していたが、しかし直接触れてみれば、その骨の予想以上の惨状に驚いた。まさにただの肉塊だ。単なる骨折ではなく、肘から指の先まで粉々の粉砕骨折。痛みに呻くのだって当然だろう。やせ我慢だとしても、今まで痛そうな様子を見せなかったことが奇妙なくらいの重傷だ。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)】から伸ばした手で包帯を切り取ってみれば、それは確信に変わった。この様子なら、当初想定していた完治までの時間を大幅に伸ばさざるを得ない。発現したての頃より治すまでに掛かる時間は格段に短くなったが、それでも凡そ二十分は必要だろうと思われた。いったいどんな修行をすればこんなことになるのだろうか。

 おかげでボクはその二十分もの間、燃費の悪いこの能力で『纏』も『練』も封じられることになる。襲われてどうにかされるとは思わないが、しかし余計な危険を背負わされたことに変わりはなかった。

 

 全く、本当に忌々しい。シロネへの憎悪をますます募らせながら、ボクは治療のために能力を操り続けた。

 

 肉に食い込んだ骨の破片を繋げて元に戻すという、その作業を繰り返して幾らか慣れ始めた頃、ボクはふと、またしてもシロネの苦悶の呻きが聞こえていないことに気が付いた。余裕が出てたので顔を上げて見てみれば、彼女は朱乃のように顔を青くして施術の現場を見つめるでもなく、いつかの角度のまま、その方向に眼を固定されている。

 

 シロネは、痛みよりも何よりも、クロカと曹操の戦いにばかり気を取られていた。治療への集中から帰った聴覚に意識を向けてやれば、その方向からはやはり打撃音やら破裂音やら、実に楽しそうな戦闘音が聞こえてくる。

 

 思わず顔が歪み、ボクはついその表情を換えぬまま、唸るようにシロネヘ言った。

 

「そんなに、気になるの」

 

 肩が震え、シロネはボクに振り返る。眉が下がっていた。

 

 ボクは障子のほうに眼をやったまま、淡々と続けた。

 

「『念』勝負だし、それにしたって『凝』とかのレベルじゃない。音だけ聞いても参考にはならないよ」

 

「……あの……はい……」

 

 何か言いかけ、しかし口から出さずに頷くシロネ。骨接ぎのために開いた腕に落ちた視線はやはり上の空であり、納得していなことは明らかだったが、クロカたちを気にされるよりは顔も歪まずに済んだ。

 

 とにかく片付けた問題に息を吐き、ボクも再び視界からシロネを外して治療に戻した。そのまま治療完了までそのままおとなしくしていて欲しかったのだが、しかし数分としないうちに、シロネは余所にやっていた思考で、さっき黙ったことを考え直してしまったらしい。彼女はゆっくりと顔を上げ、つられてボクも眼を持ち上げた。

 

 それが、少しまずかった。揺れそうな視線をどうにかボクに向けるシロネの眼とボクの眼が合ってしまい、震えて開いた口から出た言葉が、真正面からボクの動揺に突き刺さった。

 

 寂し気で且つ悲しげに、シロネはボクに尋ねた。

 

「フェルさま……ウタさまは、どういう方なのですか……?」

 

「……それは、どういう意味?」

 

 それが、ウタの人柄が知りたい、という今更な意味合いでないことはすぐにわかった。シロネの感情は世間話のようなそれではなく、もっと深刻なもの。眼を捉えられて逃げることもできず、尋ね返す。

 

 シロネはそれにまた言葉を詰まらせ、振り払うように鋭く息を吸いこむと、答えた。

 

「フェルさまは……いえ……フェルさまとウタさまは、お互いのことを、どういう存在だと思っているのかなって……その……ウタさまが、フェルさまと一緒にいると、邪気の問題が解消されるとおっしゃっていたので……」

 

 ますます顔色を暗くしながら綴られたその理由に、ボクは疑問を抱かずにはいられなかった。

 

 確かに、仙術使いが邪気を恐れるのは当然だ。クロカも、そしてあのネテロさえも、手を焼いている様子だった。完全に排除できるものではなく、せめて影響を少ないものにすべくやりくりせねばならない。

 その方法の一つにクロカがボクの存在を上げてくれたのは、少々くすぐったいが嬉しい。だからボクの何がクロカに良い影響を及ぼしたのか、知りたく思う心理は理解できる。

 

 だがなぜ、ボクにとってクロカがどういう存在なのか、なんてことを訊くのだ。

 

 何の意味もないはずだ。クロカの邪気にボクが役立つのは、クロカがボクの存在に何かしらを感じているから。ボクがクロカに邪気を消す『力』を浴びせている、なんてことではない。むしろ浴びせているという点では、邪気塗れらしいボクの『気』、『力』は逆効果だろう。

 

 だからつまり、シロネのその問いはクロカへ向けるもの以外全くの無意味。さらに言えば、これはそもそもボクとクロカの間だけで成立しているわけであり、シロネにぴたりと当てはまるわけでもない。ボクにすり寄ってもシロネの邪気の問題は解決されないのだ。

 

 そんなことはわかっているはずだ。なのに深刻そうに訊いてくる。意味不明で、だから疑問だった。

 

 だから、ボクだってすぐに答えることができなかった。

 

 その答えは、ボクが未だに出せないものだったからだ。

 

 ボクは硬い唾を呑み込んでから、意図不明のその質問に、クロカに提示された答えを言った。

 

「まあ……『家族』、かな」

 

「……家族……」

 

 僅かに見張られたシロネの眼が繰り返し、歪んで、腕よりもさらに深くに俯いた。

 

 どう捉えたのか、隠れた顔は見えないが、しかしそれがボクとクロカの関係だ。

 自分で言っても信じられないそれが、ボクの知る唯一の呼称。いつかこれに自信を持てればと望みながら、シロネには触れられたくないその悩みを口にすれば、数舜後に頭の中でごちゃごちゃと絡まった。

 

 そこに無遠慮に手を突き入れられれば、ボクでなくても憤りを覚えただろう。だが思案顔を残したまま言ったその内心が気づかれることはなく、故に不運なことに、朱乃から軽い疑問を引き出した。

 

「家族……血が繋がっているようには見えませんが、つまり――」

 

 続く言葉は耳にする余裕もなく、望みの否定に、ボクの喉は自分でも気付かぬうちに怒りに塗れた低い唸り声を吐いていた。

 

「そっちもでしょ、血が繋がってないのは。むしろキミたちの方がお笑いだよ。あの時から、随分数も増えたみたいだし……また『家族』も増えたんじゃない?」

 

 シロネの白い頭をこれ見よがしに見やり、鼻で笑ってやった。

 

 過剰反応の上、八つ当たりであることはわかっていた。それこそ四年前から、それは理解している。それでも朱乃が、赤髪たちがそう言えば、憎悪を抜きにしても、ボクは歯を剥く以外にない。

 

 ようやく能力と治療の光景に慣れて緩んでいた気をボクの急変に吹き飛ばされた朱乃は、息を呑んでから眉根にしわを寄せ、軋む口を動かした。

 

「それの……何がおかしいのです……?白音ちゃんだけでなく、私たち眷属は皆仲間、家族も同然です……!そのことを、貴女にとやかく言われる筋合いはありませんわ!」

 

「にゃは……筋合いなんてなくても、言わずにいられないくらい笑えるんだよ。節操なしに、眷属にした傍からみんな『家族』にするなんてそんな薄っぺら、ごっこ遊びにしか見えないね。外側だけでも一緒くたに包んでやらないと仲良くまとまれないみたい」

 

 上級悪魔の下僕にしては仲がいい、なんて言っても所詮は耳障りのいい言葉で幻惑しているだけ。そうであると、せめて言葉だけでも笑ってやらねば、ボクの望みの立つ瀬がない。

 

「……ああ、にゃるほど。駒を与えて悪魔に変えたから、みんな自分の子供だって理論?悪魔の駒(イーヴィル・ピース)が血の代わりなわけだ」

 

「血なんてッ!……そんなものに、何の意味もありません……!大切なのは、そんなしがらみなんかではない……駒がなくたって、私とリアスの絆は途切れたりしないもの」

 

「血が、しがらみかぁ……。じゃあキミ、どうして赤髪を『家族』だなんてなんて言うの?『駒がなくたって』って言うなら、それは他人、友達止まりだよ。まぐわう予定があるわけでもないんだからさ」

 

「お互いがお互いにとって大切な存在かどうか……愛しているかどうかという……家族の条件は、その一点のみです……!……四年前と変わりませんね、フェル。私たちの……リアスの愛の、いったい何がそんなに気に入らないのですか……!」

 

 顔を歪めていた朱乃が、上に険峻な目つきを被せてボクを責める。その眼にボクは、内心の苛立ちを隠し損ねた。

 

 だってその通り、四年前からずっとだ。

 

 血の繋がりがないかない『家族』。血で結ばれた繋がりでないそれが、ボクには理解できない。

 それはどうすれば見えるのか、どうすれば結べるのか。知っている赤髪が、だから妬ましくてたまらなかった。

 

 だから赤髪が、さっき出会った筋肉達磨よりも、駒王学園の結界前で見た眼鏡悪魔よりも憎たらしい。ボクがずっと求めているものを、よりにもよって『王』を殺した悪魔が理解し軽々振るっているその現実に、憤死しそうなほど腹が立つ。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)】のおかげで『念』が使えない状況でなければ、また独りでに手が出ていただろう。眼もどうにかシロネの腕に落としたまま、頑丈なはずの手袋が軋むほどの力で握り締めた拳の力を、ボクはなんとかやり過ごして、声だけの失笑に変えた。

 

「にゃるほど、にゃるほど。思えば赤龍帝以外、みんなそうだね。朱乃、キミも」

 

「……なにが、です」

 

「『大切な存在』ってやつ。キミたちみんな、それが赤髪しかいないんだ。他はなくしちゃったから」

 

 封じられた攻撃の代わりに口撃のほうを放ってやると、朱乃の顔が凍り付いたように固まった。ついさっき想起してしまっていたために何を言っているのか察したらしく、固まった眼はどこでそれを知ったのだと戦慄していた。がしかしその出所は単純、ハンターサイト。シロネの周囲の情報には大抵お金を払っている。

 元から教えてやるつもりはないが、どのみち動機が動機である故に言えず、無視して朱乃に口角を引き上げた。

 

「朱乃の場合は……確か、バラキエルだっけ。母親も死んで、父親とも絶縁状態。そこを赤髪に釣り上げられたわけだね」

 

「そ……んな……ッ!」

 

 朱乃の眼の奥で怒りがわだかまる。凍り付いた身体を粉砕せんと小刻みに震える彼女に、内心の怒りを覆った作りっぱなしの笑みで鼻を鳴らす。

 

「……何かの本にもあったけど、人に好かれる簡単な方法はその人の傷に寄り添うことって、まさにその通りだよね。それでキミたちみんな、赤髪に唆されちゃったんだ」

 

「……そ、唆されたなんて……きっかけはそうだったとしても、それから築いた絆が、わ、私たちには――」

 

 捨てた父親に意識を取られて歯切れ悪い朱乃にはもう話す気にならず、無視して俯くシロネへ向けた。

 

「シロネもそういうクチなんでしょ?邪悪なクロカを見限ったんだから」

 

 静かに垂れ下がっていたシロネの頭が、その言葉にぴくりと反応した。ゆっくりと持ち上がる彼女に、ボクは湧いた衝動のまま吐き続ける。

 

「キミが悪魔に転生したって聞いた時は、やっぱり赤髪が取り込んだのかって思ったけど、まあ凡そその通りだったね。姉を捨てて空いた穴を、赤髪で埋める。上級悪魔の翼の下は、クロカのそれよりもずっと安全だから。……シロネにとって、姉はもうクロカじゃなく、赤髪なわけだ」

 

(……そう、きっと、そういうことなんだろう)

 

 自分で紡ぎ出した罵りの言葉が、思っていたよりもずっとすんなり、納得に落ちてきた。

 

 もしそうであるなら、クロカが心の深くで求め続けるシロネは、もうどこにも存在しない。すでに挿げ変わってしまっているのだ。クロカの妹であるシロネは、とっくの昔に死んでいた。

 

 クロカの諦めが無くても、クロカの心に在れるのはボクだけだ。

 

 シロネが赤髪の眷属になることを選んだことによって、そうなった。

 そしてそれは、もしかしたらボクとクロカにも当てはまる関係なのかもしれない。傷に寄り添うことが、シロネと赤髪が『家族』なら、すなわちボクとクロカも『家族』であるということ。

 

 そうであるならさっきまでの揚げ足取りめいた言葉の数々も取り消してやろう。もう、クロカの『家族』から蹴落とされることを恐怖せずに済むのだから。

 

 そうしてついたため息の弛緩は、一瞬のことだった。

 

 シロネの顔が持ち上がり、ボクを見たその眼の、まっすぐな物言い。

 

「黒歌姉さまの代わりを、リアスさまに望んだことはありません」

 

 はっきりと、純粋な言葉の中に見えたのは、否定ではなく硬い意思だった。赤髪とクロカなんかを一緒にするな、ではなく、赤髪とクロカは別のものなのだ、というそれは、ボクがそうであると、否、そうであれと思い込んだ安堵を、真正面から一蹴し、粉々に打ち砕いた。

 

「フェルさまの……おっしゃる通り、黒歌姉さまは悪人として亡くなりました……。けど……そうだとしても、私の姉さまはクロカ姉さまだけなんです。……許されないことなのだとしても、私は……姉さまを……」

 

「大丈夫よ、白音ちゃん。どんな事情があろうと、肉親を想う気持ちまで禁じはしないわ。私も――いえ……邪気に呑まれる前までは、黒歌は良い姉だったのだもの。恋しく思うことは、何も悪くない」

 

 言葉を押し留めたように言い淀んだシロネの肩を抱き、朱乃が囁く。背後のその声に、シロネの顎の力がググっと強まった。

 

 朱乃には見えない、言いたいことを我慢しているような表情。それが示すものが、安堵を突き破り恐怖にまで手を伸ばしてくる。

 

「……私は、守られてるばかりで……もう、後悔したくないから、せめて強くなりたいから、だからリアスさまの眷属になったんです……!」

 

 ――後悔(・・)せめて(・・・)、そんな単語が出て来るはずがない。

 

 シロネはクロカを忌み嫌っているはずなのだ。赤髪も言っていたではないか、クロカに裏切られたせいで心を病んだと。

 シロネにとってクロカは、自身の境遇をどん底に突き落とした、死して尚憎い仇敵であるはずだ。そうであるから、奴はクロカを捨てたはずなのに……。

 

 シロネヘの憎悪の根底が、どうして今更ボクの中で揺れているのか。

 

 揺れて急速に傾いて、『まさか』という動揺が駆け巡る。聞きたくないが、聞かねばならない。自身の居場所が崩れ落ちてしまいそうな恐れを振り切って、ボクは縮こまった己の舌を、使命感を以てして動かした。

 

「……じゃあ、シロネは……クロカのことを、どう思ってるの……?」

 

 シロネはまた歯を噛みしめて押し黙ると、言葉を選ぶようにゆっくり口を開け、そして答えた。

 

「ずっと変わっていません。クロカ姉さまは、姉さまです。恋しいとは、もう思えないし、そんなことを思ってもあの時に戻れるわけじゃないけど……もう一度会うことができたらって、考えることはあります……」

 

「白音ちゃん……」

 

 呟き、憐れみの眼を向ける朱乃には、恐らくその言葉が『優しさ』に聞こえたのだろう。恋しいとはもう思えないほど堕ちてしまった姉だが、しかしそれでも救いたいという、そういう意味合いだと思ったはずだ。

 だが背後から抱き着いていた彼女には、シロネの感情が見えない。だから言葉の真意が『せめて』の『後悔』であることもわからない。悪人であるクロカを恋しいと言うことができない立場でも、それでももう二度と会えないクロカに会いたいと思わずにはいられないほどの想い。

 

 シロネにはまだ、クロカへの『愛』と『家族』が残っていた。

 

 それはきっと、ボクとクロカの出会いのきっかけを、そっくりやり直せてしまうほどの量が。

 

 クロカの諦めとか、『家族』と信じることができないボクの意識とか、そんな問題は端から意味がなかったのだ。クロカの心の欠落、空いた『家族』の穴は、ボクで無理矢理埋めようとせずとも元通りにできてしまう。シロネがそこに収まり、再び、クロカが本来望む『家族』を取り戻すことができる。

 そうなれば、ボクはもうクロカの『家族』には収まれない。シロネが抜けた穴にシロネが収まれば、もう隙間など僅かも空きはしないだろう。ボクは恐れた通りに蹴落とされ、クロカとシロネ、二人だけの『家族』から締め出される。

 

 それは、嫌だ。受け入れがたい。ボクはもっと、クロカに必要とされていたい。だが、それが本来だ。本来クロカが持ち、求めた形。ならボクは、それを叶えなければならない。

 

 自分を殺してでも、相手のために尽くすこと。それがボクにとっての『愛』、ボクが示せる唯一の『家族』の証なのだから。

 

 ――そんな『家族』は、嫌だけれど。

 

 ボクは、決心した。少し影の入ったシロネの眼から視線を外し、腕に向ける。ちょうど治療が終わり、開いた腕の傷が塞がる。役目を終えた【人形修理者(ドクターブライス)】が解除されて溶けるように消え、それに気付いたシロネが自分の腕をゆっくりと動かした。

 

 痛みも動かしにくいことも全くないことに、朱乃と一緒に感嘆の息を吐き、そしてボクに頭を下げた。

 

「あ、あの、フェルさま、ありがとうございま――」

 

「ウタと曹操は、まだ戻りそうにないね」

 

 しかし遮り、ボクはぴったり閉じたままの障子へ眼をやった。何をと、困惑して顔を上げる彼女には応えぬまま、腰を上げて部屋の真ん中に陣取るちゃぶ台を持ち上げる。

 

 座布団や座椅子や肘置きも一緒に部屋の隅に追いやり、広くなったそこでボクはようやくシロネに言った。

 

「あっちはまだ修行中なのに、それまで待ってるのも不公平でしょ?だからボクも、四人が帰ってくるまで教えてあげる。格闘術とか、技の一つくらいなら覚えられなくもない時間だろうし」

 

「え……ええと……」

 

「なに?いらない?」

 

「い、いえ……!ぜひ、教えてほしいです!」

 

 初めてボクのほうから教えを薦められたことが驚きだったらしい。胡乱げな顔でそれを見つめる朱乃は、何か良からぬことを企んでいるのではと疑っているのだろう。

 

 企みであることは否定しない。けれどそれは酷く小さく、我ながら未練がましいだけのものだ。クロカの『家族』を譲り渡す代わりに、せめて少しでも二人の仲に自分の存在を残したい。そんな想いが微かに顔を出しただけだ。

 

 ボクは感情で詰まってしまいそうな喉で呼吸して、やはり大嫌いなシロネの腕を取り、乱暴に引っ張り起こした。




各日更新終了。
そしてお話の準備も完了(長い)
次話から三部の本体(なんなら二部からの本体)
感想ください。


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十四話

前回までの三行あらすじ

曹操がなろう系主人公みたいな無双して
修行つけてたらイッセーがイッセーして
ピトー黒歌白音の間で色々拗れた

なんかまた筆の進みが早かったので投稿します。今回は五話分です。これはもしかしたら私の筆力的なものが上がったのかもしれない。だったらいいな…

そしてやっぱり誤字報告をありがとうございました。どちらかと言えば最近でなく過去に書いた文に対する報告が多いので震えています。


「……あー、やっぱり、においが来ちゃうみたいだにゃあ」

 

 深呼吸で吸い込んだ冥界の森特有の空気。全部を使って呟いたボクに、皿に乗った料理を取るクロカと、その皿を差し出していたシロネの眼が集まった。

 

 二人の注目を引き付けたボクは、そのまま頭の中で用意した段取りをなぞり、視線を横へ、今まさに悪魔と人間のレセプションが開かれている巨大な城へと向ける。そしてもう一度、声を張った。

 

「あんなに悪魔がいるんじゃ、もうどうしようもないね。こんな空気で食べても何もおいしくない。うん、だからボク、ちょっと気分転換にそこら辺を散歩してくるよ」

 

 串料理を二本手に言い捨てると、ボクは間髪入れずに踵を返した。クロカとシロネと城に背を向け、碌に手も入れられていない森の奥へ足を向ける。すると望んではいないが思った通り、下草を一歩追いかけたクロカが少し困惑を残したまま言った。

 

「じゃあ、歩きながら話しましょっか。白音はともかく私たちは元々無許可だし、敷地のどこでも構いやしないわ。……文句ないわよね?」

 

「あ、の……はい」

 

 並んで聞こえた足音に喉が詰まった。

 口がひとりでに閉じて、まるで石のように固まっている。だがボクは決意を以てそれをこじ開け、どうにか硬いままの言葉を押し出した。

 

 決意のための、これが最後の言葉だ。

 

「――二人は、ここに居て」

 

「……え?」

 

 あからさまに動揺するクロカ。その言葉が続いて決意が鈍らぬうちにと、ボクは彼女を置き去りに跳躍する。昨日から着っぱなしのマントを翻して木の枝に飛び乗った。

 

 きゅうっと締まる胸の奥に悶えるボクの背に、クロカの赦しがぶつかった。

 

「ちょ、ちょっと、待ってよフェル!白音に用があるのはあなたじゃ――」

 

 しかし、ボクはなんとか振り返らずに留まった。再び両脚に喝を入れ、そして気配を消して、日の落ちた深緑の中に逃げるように飛び込んだ。

 

 ボクの胴より太い枝々を跳び渡り、その度何度も不安に足を引っ張られたが、それでも堪えてボクは走り続けた。恐れに耐えて、それ以上の恐れから逃げ出す。

 

 クロカとシロネを二人きりにするために。

 

 シロネにクロカへの想いが残っていることを知ったあの日の翌日、つまり今日、開かれるパーティーからシロネを抜け出させ、連れてきたクロカと引き合わせたあの状況。お膳立てするだけでも心的な苦痛がすさまじかったあれを無駄にするなんてことはできず、もう一度作り直すなんて考えたくもない。だからボクには、足を止めることが許されない。

 

 クロカに、シロネと家族に戻れることを悟ってもらわねばならなかった。

 

 けれど、そうだ。心に据えたそんな目的とは裏腹に、内心は、悟ってもらわなければ(・・・・・・・・・・)

 

 ボクはクロカに、シロネと家族に戻れるかもしれないというその事実を、直接伝えることができなかった。

 

 実際、ボクが本気でクロカとシロネの仲を取り持つつもりなら、お膳立てなんて手のかかることなんてする必要がない。クロカにただ一言、シロネはキミを嫌っていないと言ってやればいいだけだ。

 だが、できなかった。クロカのために、自分で自分の首を切り落とす覚悟を持てなかった。自らでは絶てないから、代わりにギロチン台だけ用意して、誰かが刃を落としてくれる時を待っているのだ。

 

 頭はクロカとシロネのために動いているのに、心がそれを自分のために捻じ曲げている。決意と感情が何一つ合わさっていなかった。この逃げは、クロカの幸せを踏みにじっていた。

 

 なぜ、と、自分のことなのに疑問に思わずにはいられない。

 

 クロカにとっての『幸せ』とは、つまり『家族』であることだ。母親を失いシロネを失い、だからボクはその穴に受け入れられた。シロネとの『家族』が『幸せ』だったからこそ開きっぱなしになっていたその穴だから、元に戻ることはクロカにとって当然『幸せ』だろう。代替であるボクとの関係よりも、血の繋がった本物の『家族』のほうがより強い『幸せ』であるはずだ。

 

 『家族』はクロカを『幸せ』にするもの。ならば代替でもクロカの『家族』であるボクは、クロカをより『幸せ』にする必要がある。そしてシロネとの仲を取り持てば、それが叶う。

 『家族』であるなら、そうありたいのなら、言葉を伝えることが正しい。だができない。伝えて、自ら『家族』であることを、クロカとの繋がりを捨てることができない。つまりボクはクロカの幸せよりも、自分の感情を――シロネにクロカの『家族』の席が奪われてしまうことへの恐れを、優先させてしまったのだ。

 

 そしてその相反する二つの衝動は、本質的に同一のもの。だからボクを『家族』と呼んでくれたクロカの声と混ざり合い、マーブル模様を描いてお膳立てというどっちつかずを生み出してしまった。

 

 『家族』という繋がりがなくなってしまえば、ボクはクロカにとっての何になってしまうのだろう。わからないが、しかし何かが決定的にズレてしまう確信があった。

 

 つまりはそんな恐れが心の中に蔓延しているから、ボクはクロカに伝えることができなかったのだ。

 

 『家族』であるためには告げられないが、しかし告げないことそれこそがボクがクロカの『家族』ではないという証。どちらにしても『家族』であることを失ってしまうからこその、このどっちつかず。

 行き詰まった矛盾の塊。破綻した理解と価値観、存在意義が頭の中をも侵食するから、もうどっちが正しいのかもわからなかった。

 

 どう足掻いても、ボクは『家族』の何たるかがわからない別物(・・)だ。――そう、ボクだから。

 

 ――やはり、クロカの『家族』にはふさわしくなかったのだろう。

 

「……なら、これでよかったんだよね」

 

 元々、彼女が言ってくれた『家族』が諦めであることはわかっている。シロネが『家族』に戻るなら、それだけで何の問題もなくクロカの幸せは叶うだろう。

 ボクが黙ってさえいれば、すべて良い方向に収まる。結局のところ、それだけ。

 

 故に、これでいい。代わりですらなくなったとしても、クロカの傍に居られるだけでも、きっと思うほど悪くはない。

 きっと、シロネと悪魔が嫌いなだけのピトーだとしても、クロカは捨てたりしないのだ。……そう、信じるしかなかった。

 

「………」

 

 いつの間にか地面に降りて脚を止めてしまっていたボクは、ふと背後を振り返った。ずっと続く森と、軽く切り開かれただけの荒れた道。忘我の内に渡ったのだろうその向こうからはもう気配も感じ取れないが、クロカとシロネが今も二人きりで居るはずだ。

 そっちをしばし見つめ、意志の力で逸らしてから、喉の奥でため息を吐いた。ずっしりと重い脚を引きずって傍の木にもたれかかり、腰を下ろす。拍子に、言い訳のために持ってきた串料理を思い出し、思考の沈下に耐えかねて口に突っ込んだ。

 

 冥界にいた頃、よく狩って食べた魔獣の肉と同じような味がした。人間界の食べ物よりもよほど美味であったはずの味だ。だがしかし、不味い。全くもっておいしいと感じない。結局片方を一口だけかじっただけで、串は木の根に突き立てられた。

 

 苦しさを誤魔化すように、意識と思考をその味に向けた。

 

「……ちょっと、期待してたんだけどにゃ」

 

 無理矢理、口に出す。携帯食料を我慢して胃に押し込んでいた時以上に気分が落ち込んでいる自覚はあったが、それでも多少なり『力』に富んだものならばもしや、という呟き。多少はマシな味だったが、ほとんど誤差だ。不味いことに変わりない。

 しかし逃避には都合がよく、連想ゲームで次々食べたものの味を思い出す。ここ数日の食事が最悪であることに間違いはないが、改めて思い返せばどれもこれも酷い味だ。

 

 少なくとも、

 

アレ(・・)の味に、比べれば――」

 

 心臓が跳ねあがった。

 

 回想の内、不意に蘇ったそれが口に出てから気付き、戦慄して頭を振った。当たり前のように顔を出してしまったことを否定し、再び封じるべく瞬間的に頭を空にする。

 

 アレを、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、思い出してはいけない。

 

 キメラアントの欲望を、表に出してはいけない。

 

 シロネに役目を奪われようと、ボクはクロカの敵になりたくなかった。

 

 必死の思いで思考を止め、早鐘を打つ心臓を抑え付ける。数度の深呼吸で、戦慄は鼓動と共にどうにか落ち着いた。本能の衝動も、再び頭の奥底に沈めることに成功する。

 固く握りしめていた手を解いたボクは、その残滓までも綺麗に払い除けるため、一際大きなため息を吐いた。

 

 だが払い除ける暇はなく、静まった感覚に気配が伝わった。

 

 複数だ。目を凝らすまでもなく、悪魔のもの。初めて能力に目覚めたあの時を思い出しそうな状況だが、しかし今回はあの時とは違う。人間と悪魔の協定が成立しようとしているこの場で、『フェル』と『ウタ』が襲われる道理はない。

 

 そのことは、未だ余波の動揺が残る頭でも理解できていた。が、反してボクは反射的に串を回収し、森の中に滑り込んで姿と気配を隠した。

 

 勘が、血の臭いを嗅ぎつけていた。

 

 そしてそれは奴らが近付くにつれ、確信を持ち始める。

 悪魔共の中に、ハンゾーの気配が紛れ込んでいた。

 

「――こんな汚らしいところを歩いているというのに、甲斐もないなぁ。人間、もっと無様に抵抗してみせてほしいよ、おとなしくなりすぎてつまらない。……それとも、ひょっとしてもう壊れてしまったのかな?」

 

「あん……?なんだ、言葉が通じてねー、わけじゃなかったんだな……。しゃべってほしいってーなら、一つ教えてやろうか……?」

 

 葉と枝の陰から視認した、先頭を歩く優男然とした男。侮蔑の口調と豪奢な装い、そして何より、赤髪と同じかそれ以上に濃い『力』の臭いは、間違いなく奴と同じ純血の貴族悪魔だ。

 

 だが憎悪が膨れる前に、歩く奴のその後方が続けて見えて、沸騰しかけた衝動を寸前で抑えつけた。

 

 勘が隠れろと言っていたためでもあるが、それ以上に、思いもよらない衝撃を見たからだ。

 

 ハンゾーは魔法陣に張り付けられ、見るからに痛めつけられていた。

 身体のいたるところに傷を作った状態のまま見世物のように晒上げられ、後ろを歩く数人の転生悪魔らしき女たちと共に純血悪魔に続いている。

 

 ここまで見れば、誰だって事件であることに気付けるだろう。少なくとも、悪魔共の熱烈な歓迎でないことはわかるはずだ。

 

 いや、ある意味では熱烈な歓迎であることに違いはないが、どちらにせよハンゾーが望んだわけではあるまい。縛られ見世物にされ、さらに息が乱れるほどの身体的な損傷まで負わされて喜べるのは、それこそ赤龍帝レベルで酷い変態的嗜好を持つ者に限られる。

 

 そしてその中にハンゾーは含まれず、証拠に彼は顔をしかめながら、貴族悪魔の背に吐き捨てるように言っていた。

 

「まあ、何度も言ったけどな!どこのどいつか知らねーが、お前!オレはグレモリー家の、一応客人の身分だ!捕まってボコられるようなことをした覚えも、筋合いもねーんだぞ!」

 

「ハハハッ!実に滑稽をことを言うじゃないか、人間。客人の身分、だって?」

 

 口元を嘲笑で歪めた純血悪魔は顔だけ振り向いて、また歩きながら続ける。

 

「下賤な人間風情が、僕たち悪魔と対等にでもなったつもりかい?ありえないね。筋合いというなら、そう考えることそのものが罪なのさ」

 

「……てめーの考えはどーでもいいが、冗談でなく事実だぜ。オレは、リアス・グレモリーに招待されて、あの館に泊めてもらってんだ。もちろん親父さん……当主様からもな」

 

 微かに揺れる純血悪魔の肩。ハンゾーはそれに解決の糸口を見たのか、小さく息を吐いた。

 

「わからねーか?オレは、お前のことを心配して言ってるんだぜ?なにせ今は、少なくとも上の悪魔さんがたにとって、『V5』との協定を結ぼうって大切な時だ。拘束即処罰はスピーディーで、まあ何よりだが、そうする前にちょっとそのことを考えてみろよ。……ついでに言えば、協定の先鋒のサーゼクスって魔王様は、グレモリー家の出だって話じゃねーか。そこに喧嘩吹っ掛けるようなマネすれば……貴族社会なんだ、今のうちに信じてくれねーと、お前の立場だって――」

 

「協定など結ばれないよ。どうせ、皆殺しだ」

 

 遮り、忌々しげが混在する声調で純血悪魔は言った。解決とは正反対の色をした否定に驚いて息を呑んだハンゾーには、背を向け歩く純血悪魔の顔が見えていなかったのだ。

 だから改めて振り返ったために見えたその表情が、彼には意外なものに思えたのだろう。あるいはずっと、この事件を、警備か何かである純血悪魔たちが、その業務に熱心であるが故に起こしてしまった勘違いだと考えていたのかもしれない。

 

 しかしどちらも、そうではない。コイツは最初から、悪意を以ってその言葉を発していた。

 

 それに匂った血が確信を促して、その時点でボクは隠れるのをやめた。

 

「へえ、何を皆殺しにするの?聞かせてよ、オマエ。興味あるにゃあ」

 

 ハンゾーと、そっちに顔を向けていた純血悪魔も背を跳ねさせ、弾かれるようにして、どこからともなく現れたボクを凝視した。

 

 すぐに『絶』であることに思い至ったハンゾーは微妙な安堵で肩を下ろしたが、しかしボクがまっすぐ見つめる純血悪魔は固まったまま。どこか怯えるようにも見えるその姿に痙攣する口角を手で覆いつつ、ボクはゆっくりと近づいた。

 

「オマエみたいな純血悪魔なんて顔も見たくないんだから、黙ってないではやくしゃべって終わらせてくれる?……でないと、殺すよ?」

 

 憎悪も覆い隠してしまうほどの殺意、殺しの衝動に、ボクは我慢ができなくなってしまう。

 

 なにせ目の前にいるコイツは、ボクが初めて出会った、純粋な敵の(殺してもいい)においがする純血の悪魔なのだから。

 

「えーっと……よう、フェル。それもいいが、ひとまずオレのことも助けてくんねーかな。……ほんとマジで、切実に。どうなるにしても、お前のその殺気に巻き込まれんのは勘弁だ。下手すりゃチビるかもしれん」

 

「……ほら、聞いた?マーキングされたくなかったら、さっさと放したほうがいいと思うよ」

 

「オレは犬か猫か!想像以上に弟子の扱いがひでえ!」

 

 なんならもっと粗雑な師弟関係だったように思うが、言う意味もないのでボクは再び純血悪魔に眼を戻した。

 

 胸の内の疼き(・・)が勢いを取り戻していく感覚に浮足立ちながら、ボクはもう一度、音もなく歩を進める。

 

「ねえ、どうにか言ってよ」

 

 ――早く、言ってしまえ。

 

 純血悪魔は、ようやく引き攣った笑みで笑い声を上げた。

 

「ああ……ああ、そうか、フェル……君がフェルか!堕天使幹部、コカビエルを下した人間の一人!……情報は確かだったわけだ。よかったよ、汚らしい森を練り歩いた甲斐はあったみたいだ」

 

「ふぅん、ボクを探してたんだ。で、用はなに?」

 

 もはやわかりきっている、それを尋ねる。奴の悪意はそれを受けて蘇り、口元の笑いをまともな尊大に戻すと、軽く片手を上げた。

 途端にボクの後方、道の両脇とその上空に気配が飛び出す。奴の後ろをハンゾーと共に続く転生悪魔と同類、潜伏していた仲間たちだ。それらが、魔法陣を構えてボクを狙っている。

 

 ハンゾーの顔が一気に緊張感を増し、純血悪魔はその嗜虐心を溢れさせながら、合図に上げた手の中で残忍を弄ぶ。

 

「人間風情が、僕の大いなる目的を知る必要はないよ。それに、そもそも僕は急いでいるんだ。こんなところに一秒でも長く居たくない。……慈悲深く、別れの挨拶をする時間だって与えてやっただろう?それだけでも、十分すぎるほど寛大だ」

 

 言うと、奴は見せつけるようにして指を動かし、

 

「だって君たちは、今ここで死ぬんだからねぇ!!」

 

 パチンと、合図に指を打ち鳴らした瞬間、背後の魔法陣が火を噴いた。

 

 四本の魔力光線が着弾して爆発を引き起こし、一瞬にして辺りに爆煙と土煙を巻き散らす。吹き飛ばされた木々の破片がすぐそばに突き刺さり、それに僅かな動揺と、盾にならなかった眷属悪魔に対する憤りを見せた純血悪魔は、しかしそれ以上の嘲笑を以てして甲高い笑い声を上げた。

 

「アハハハハッ!!粉々だ!なんだ、コカビエルはこんなモノに負けたのか?聖書に名を連ねたなんていうが、どうやら名前だけだったらしいな。……やはり、彼の言う通りだったね。堕天使も、そして天使も、恐れるに足りない。それに気付かず人間にへりくだる現魔王も、排されて当然だ。哀れな子羊を探すためにこそこそ隠れ伺う必要なんて、全く一切なかったんだ!」

 

 純血悪魔は何か吹っ切れたように叫び、ひとしきり肩を揺らした後、一つ息を吐き出して腕を組んだ。

 

「となればやはり、今すぐにでもアーシアを迎えに行こう。リアス共々彼に消されてはたまらない。……ああ、その前に、ウタとやらのほうも掃除しておかなければいけないのか。全く、僕をこんな雑事に使うなんて……現魔王を排するのは構わないが、そこはまたきちんと言っておくべきだな」

 

 腕組みの中で片手をちょいと振り、緩く起こった風が辺りに立ち込めるもやを晴らしていく。開けた爆心地に歩み寄り、クレータの底を覗き込んでニヤリとまた笑った純血悪魔は、そして振り返り、背後の転生悪魔たちに声を発した。

 

「さあ、さっさと済ませるよ。やはり思った通り人質を取るほど警戒する必要もないから、あの禿げ頭はここで殺せ。また同じように一気に囲んでしまえば、逃げるような暇、も……?」

 

 だが半ばまで言って、純血悪魔は異変に気付いた。土煙を撒き込んで流れ去っていく風の中に、やけに濃い血の臭いがしていた。それに何か、明瞭になっていく視界、地面に、赤い血が流れ込んでくる。

 

 奴にしてみれば、それはおかしいのだ。ボクが吹っ飛んだクレーターは、今、踵を返した奴の真後ろで下り坂を作っているのだから。

 

 つまり、前から流れてくるその血は、ボク、『フェル』のものではない。

 

「コカビエルが名前負けしてるっていうのは、うん、ボクもそうだと思うよ。けど、オマエが言うことじゃないね」

 

 まず最初に、もやの中で彷徨っていた奴の眼は、真正面に立つボクを見つけた。凡そ、ついさっきまでの位置が入れ替わったような恰好。気付き、次いでゆっくり、その周囲の空気からも茶色の微粒子が薄れていく。

 

 明瞭を取り戻す視界では、奴に追従していた転生悪魔たちのそのすべてが、首をねじ切られ絶命していた。

 

 まあ、ボクがやったのだが。

 

「四人合わせて朱乃にも届いてないくらいの魔力量だったんだけど……うーん、これじゃあちょっと弱いかにゃー。悪魔の基準じゃ、ちょっかい程度のレベルなのかもしれないし。ねえハンゾー?」

 

「……オレはそのちょっかいで、ご覧の通り死にかけたわけなんだが。言いたかねーけど、さっきの状況、オレだったら死んでたぜ」

 

 ハンゾーももちろん、既に解放されている。魔力が使えず解除できなくとも、ボクにとってあの程度の拘束を破壊することは難しくない。これまたハンゾーには難しかったらしいが。

 

 しかしとにかく、あちこちやられながらも解き放たれたハンゾーはこの場には邪魔だ。ダメージがあることも含めて、足手まとい。それに、純血悪魔の独り言から察するにもう手遅れかもしれないが、一応クロカにも警告を送っておくべきだろう。厄介払いと念のためを兼ねて考え、首なし死体を見回して現実を受け止めるのに忙しい純血悪魔を見張りながら、ボクは言ってやる。

 

「じゃあ、巻き込まれないうちにウタにこの状況を知らせに行ってくれる?城のほうに……まっすぐ行けばいいから」

 

「……ああ、わかった。ちょっと待ってろ、すぐに呼んでくる!」

 

「いや、知らせるだけでいいよ。コイツ相手にウタの協力は必要ないから」

 

「そういう問題でも……ったく、わかったよ!くれぐれも、やりすぎんなよ!」

 

 聞けない忠言を叫び、ハンゾーは木に跳んで消えた。するとその、殺せと言った人質が逃げたことで現状の認識がカチッとうまい具合に嵌ったらしく、愕然と死体を見やっていた純血悪魔の口から乾いた笑声が再び零れた。

 

 額を押さえ、その腕の間から覗く片目だけでボクを睨んだ。

 

「よくも……せっかく集めた僕の眷属を殺してくれたね。人間如きにここまでコケにされたのは初めてだ。……だが、僕は寛大だからね、許してあげよう。考えてみれば、手ずから君をいたぶれるんだ。そう悪いことじゃない。それに、せっかく手に入れた『力』も試してみたいしね」

 

 言うと、手のひらを前に突き出す。そこに確かに何かしらの隔絶した『力』を感じ取り、どんどんボクの中の疼きが激しくなっていく。

 

 魔法陣を展開させた奴はボクの内心など何も知らずに、さらに笑みを深くした。

 

 その邪悪な表情で、とうとうそれ(・・)を言ってくれた。

 

「喜ぶといい、人間。君は特別に、現魔王の血筋であるこのディオドラ・アスタロトが、直々に殺してあげよう。逃げた禿げ頭の代わりに、その首を切り落として仲間の下に――」

 

「殺すんだ、ボクのこと」

 

 純血悪魔の残忍が、押し流されて消え去った。言葉が止まり、表情は一転して恐怖で満たされる。魔法陣すら、感情通りに崩れて消えた。

 

 ボクはもう、衝動の抑えを解き放っていた。

 

「ねえ、オマエ、ボクを殺す気なんでしょ?」

 

 一歩近づけば、奴も一歩後ろに下がる。クレーターの縁を踏み、後がないことに気付いて、背後とボクとに視線を行ったり来たりさせる奴を、噴き出る『気』の波が襲った。

 

 ボクに張り付き動かなくなった眼に見える死と絶望の色は、ボクの顔が今どうなっているのかをはっきりと理解させた。

 

 この純血悪魔、ディオドラ・アスタロトは、もはやボクの眼に獲物としてしか映っていなかった。

 

「殺す気ならさ――」

 

 奴の何倍も残忍に、口角が持ち上がる。

 

「ボクに殺されても、仕方ないよね(・・・・・・)……?」

 

 失意から芽吹き、殺しの中に混じった欲望の衝動が、次の瞬間、背を向けた純血悪魔の肉に飛びついた。

 

 

 

 

 

 伺うような白音の視線に晒されながら、私は黙って串焼きの肉を噛んでいた。

 

 うんざりだ。料理は、城のパーティーで出されていたものを持ってこさせただけあっておいしいが、しかしチラチラ断片的な眼は嫌が応にも感覚に触る。仙術を教えていた時やらも似たような目に遭ってきたが、しかし今回のは少し熱の度合いが違う。物欲しげというか何というか、近づこうとしてくる白音のそれをずっと追い払い続けるのは気障りなことこの上なく、そんな状況故に、せっかくの携帯食料じゃない食事も台無しだった。

 

 噛み過ぎて味がなくなった肉の筋を飲み込んで、私は心の中でため息をついた。

 

 大体、ピトーはどうして私と白音を二人きりにしたのだろうか。

 

 行く気分も予定も義務もなかったはずのパーティー会場の近くまで半ば無理矢理連れてこられ、リアス・グレモリーに報酬の上乗せでもたかりに行くのかと思えば、呼んだのは料理だけを持ってきた白音一人。お金のにおいはなく、しかもそのまま何か話すわけでもなく、気付けば森に行ってしまった。ご丁寧にも私と白音の二人で待機するよう言い残し、おまけに『絶』で追えなくしてまで、だ。

 

 建前的にも現実的にも縛り付けられ、ならば今のこの二人きりの状況が、ピトーが望んで作り出したものであることは確実だ。

 だとすれば、やっぱり悪魔の気配が何だというのは建前。実際にここは、耳を澄ましても賑わいの音が聞こえないくらいには会場から離れている。悪魔の気配が気になるほどのものではない以上、ピトーの目的もまた別だ。

 

 ……たぶん、やっぱり私と白音の関係性のことなのだろう。

 

 言わば、これはテストなのだ。本当に白音への想いを消しきれているかと、自分を裏切ってはいないかと、ピトーはそれを試している。

 

 だが私には、つい最近訂正したはずのその疑心に文句を言う気も、資格もない。それだけのことを五年前にしてしまった。どうであれ見限り、裏切ってしまった事実は消せない。消したいとも思わない。

 

 だから示し続けることを求められているのなら、私はそうする。ピトーに捨てられずに済むなら何でも何度でも。そのための決意はとっくにできている。

 

 それに実際、私は白音にもう用がない。

 どちらにせよ、無視し続けるのみだった。視線だって払い除け続ける。そうすることで、きっと少しは、私がピトーと同じであると証明できるはずなのだ。

 

 考え、心持ちが若干軽くなった。これからもピトーと在れる安堵に緊張と困惑の糸が緩み、食べ終わった串を抛り捨てた。

 

 ちょうどその瞬間だった。

 

「―――」

 

 不意に聴覚に何かが届く。小さいがしかし、ずっと風の音くらいしか変化のなかった環境音故に、私は反射的に音の方向に振り向いた。

 

 城だ。今まさにパーティーの真っただ中であるはずのそこから、似合わない殺伐とした怒号の音。狭く留めていた仙術の感知範囲を広げてやれば、届く詳細に、途端に明白な異常を感じ取る。

 

「……木っ端悪魔がたくさんと……強い気配が……三つ増えてる……?」

 

 何かが、確かに起こっているようだった。そしてもう一つ、ピトーが消えた森の奥から近づいてくる、こちらははっきりとした顔見知りの気配。

 

「あ……あの……ウタさま、気配って……どうかされたんですか……?」

 

 そのどちらにも気付いていない白音には眼も耳もくれずに私は立ち上がり、その瞬間、木々の間から息せき切って飛び出してきたハンゾーを出迎えた。

 

「随分お疲れみたいね、ハンゾー。なんだってあんたがここにいるの?パーティーに興味でも湧いた?」

 

「は、ハンゾーさん?なんで……ッ!!そ、その怪我はどうしたんですか!?酷い……」

 

 遅れて駆け寄ってきた白音がハンゾーの腕を取り、拍子に力が抜けたのか、ハンゾーが地面に両手をついた。その腕にも身体にも脚にも、白音の言う通り無数の傷が刻まれている。どれもこれも、枝に引っ掛けたりしたものではないだろう。どちらかといえば、拷問でもされたような傷跡だった。

 

 ピトーがいるはずの方向から来たことも併せて、さすがの私でも察せられないはずはなかった。

 

「け、怪我は、後でいい……。無理して走って、ちょっと疲れただけだ。それより、ウタ。フェルが、悪魔に襲われてんだ!……いや、今はもう襲ってる(・・・・)かもしんねーけど……とにかく、行って止めてくれ……!」

 

「……え?あ、悪魔に、襲われてる……?」

 

 跪く格好になったハンゾーを見下ろす格好で、白音が呆然と呟いた。今まさに協定を結んでいるはずなのに、というその困惑は放っておいて、私は小首を傾げてみせた。

 

「んー?襲われたんだから、やり返したんでしょ?それをなんで『止めてくれ』なの?」

 

「冗談、言ってる場合じゃ、ねーって!相手さんが、なんか……『現魔王を排する』だのなんだの、物騒なこと言ってたんだよ!どー考えても、オレたち、少なくともフェル一人で処理できるような、そんな小さい問題じゃないだろ!?」

 

「あら、そう?はぐれ悪魔狩りと同じようなものじゃない。人を襲うわるーい悪魔を殺すんだから。どちらにせよ、フェルを襲った奴を助ける気は無いわよ?私には」

 

「ま、待ってください!『排する』って、どういうことですか!?ハンゾーさん、ハンゾーさんとフェルさまに、いったい何があったんですか!?」

 

 またしても当惑して動揺を露にする白音。その勢いに流れて寄った顔は、さすがにハンゾーも捌ききれず、私との間で板挟みになる。

 

 彼は呼吸のために口を半開きにしながら私と白音とを交互に見やり、しかめっ面で頭を掻いた。

 

「あー……つまり、最初はオレが掴まったんだよ。なんかの、リアスさんがやってくれたっていう手続きの関係かと思って、言われるがまま。したら……魔法陣っていうのか?捕まっちまって連れ出されて、まあ、色々やられたわけだ。んで突然現れたフェルが、攻撃してきた悪魔の何人かを……殺しちまって……そう、そうだ、あの野郎、『アーシアちゃんを迎えに行く』だとか、『リアス共々消される』だとか……それに、ウタ!お前も殺す気だったぞ!」

 

「へえ、もっと生かす理由がなくなっちゃった」

 

「しまった逆効果だったァ!」

 

 こんな時でも大仰に頭を抱えるハンゾーに閉口する白音を横目に、私は安堵でケラケラ笑う。どうやらやっぱり、私が出向く必要はないらしい。聞く限り、敵はピトーにとって、ハンゾーを救出しながら殺せる程度の強さでしかないからだ。ハンゾーを、囮にするではなく逃がして私の下に向かわせたことも鑑みて、手助けする必要も、もちろん止める必要もないだろう。

 

 私たちは、ことを済ませたピトーが帰ってくるのを待つだけでいい。今冥界で何が起こっているのかも、その頃には明らかになっているはずだ。

 

 なにせ『たくさんの木っ端悪魔』のその一部は、私たちの方へも向かってきている。

 

「けど……もういっそそれでいいからよ、ウタ、フェルんとこに向かえ!助けはいらんって言ってたが、殺しちまったせいでまた別のトラブルに巻き込まれるかも――ッ!!」

 

 どうしてもフェルと、悪魔殺しが正当防衛になるかが不安であるらしいハンゾーも、それに気が付いた。たぶん白音も、ハンゾーの説明に混乱を増幅させられながらも察知したはずだ。

 

 そろって緊張で身を固める二人を背に、私もそっちに眼をやった。

 

「残念、こっちもトラブってて、やっぱり行けそうにないわね」

 

 上空だ。そろいの戦闘服の兵士然とした悪魔が十人ほど空を飛び、私たちを囲って見下ろしている。その眼はどれも傲慢で、家畜でも見るような眼差しだった。

 

 つまり典型的な悪魔至上主義者たち。元バカマスターを思い出す、私が最も嫌いなタイプ。

 その一団のリーダーらしき槍持ちの悪魔へ、私はわざとらしく腕を広げ、やれやれと首を振ってみせた。

 

「それで?あんたたちはどこのどちら様?用事があるなら手短にお願いしたいんだけど」

 

「黙れ人間。貴様のような下等な存在に、言うべきことは何もない」

 

 取り付く島もない傲岸不遜な物言いが返ってくる。が、別に気にはならなかった。口の端をニヤリと持ち上げる私に、リーダー悪魔は同じく口角を上げて続けた。

 

「だがしかし、だ。まだあのお坊ちゃまはいらしていないらしいからな、冥途の土産というやつだ、教えてやろう」

 

 周囲でニヤニヤ下品に笑う悪魔たちを見回して、リーダー悪魔は権威に酔ったような顔をする。

 

「我々は、『禍の団(カオス・ブリゲード)』、その最大派閥である『旧魔王派』!この冥界の、正当なる支配者だ!」

 

「……カオス……なにその、曹操ばりの中二病が効いた名前」

 

 全く聞き覚えのない名前に、ついそのままの感想が口から出た。

 

 これに関しては別に煽ったつもりではなかったのだが、しかし奴らにはそう取られたようで、全員のニヤニヤが一転して害意に塗れる。

 

 だがそのために白音の危機感と認識能力が戻ったらしく、カオスなんたらの下に不穏を見つけた彼女は私の前に飛び出し、なんと庇うように両手を広げてリーダー悪魔を睨みつけた。

 

「か、『禍の団(カオス・ブリゲード)』も『旧魔王派』も、わからないですけど……けど、とにかく何かの間違いです!ウタさまもフェルさまも、何も悪いことはしていません!敵じゃないんだから、襲う理由なんてないはずです!!」

 

「……いいや、敵だ。人間など、我らの世界をその薄汚い魂で汚す、穢れそのものだ。転生悪魔として我らのためにただ尽くすだけならまだしも、奴らは金や権力まで攫っていく。かと思えば……今度は、転生すらしない連中にまで、媚びへつらわなければならないだと……!?ふざけるな!!我らは決してそれを認めない!!」

 

 何やら知ったことじゃない怒りまで合わせて爆発し、憎悪で城を睨みつける。すぐに私に視線を戻すと、リーダー悪魔はまた吠えた。

 

「人間、貴様は我らの目的を訊いたな?それがまさしく、あれだ!!あの城に汚らしい人間を呼び込んだことが、我らの怒りに火をつけたのだ!!偽りの魔王、サーゼクスめ……!奴はもうすでに、悪魔の駒(イーヴィル・ピース)に対する制限を受け入れてしまった!外の穢れた血が入ってこなくなるのは歓迎だが、しかしそれは、悪魔が人間に屈したという事実に他ならない!下等種族たる人間に唯々諾々と従うだけの魔王など……悪魔の誇りすらなくしたあの男に、魔王の資格などあるものかッ!!」

 

 そこで一つ吐き出しきった息を吸い、眼だけに熱を残して、とうとう言った。

 

「故に、我ら『旧魔法派』が正す。冥界に蔓延る人間を根絶やしに殺し尽くし、現魔王を排することで正しき血統に戻すのだ!!」

 

「ふーん、そう。つまりクーデターってわけ。気に入らないからひっくり返す、悪魔のお家芸。……つまりあんたたち、私とハンゾーを殺すつもりってことでいいのよね?」

 

「そうだッ!!貴様らも、それに、人間の血を引くゴミどもは一人残らず、俺がこの手で串刺しにしてやる……ッ!!」

 

 殺意に白音が息を呑み、たじろぐ。今にも飛び掛からんと張り詰めるその気迫にハンゾーも顔をしかめるが、しかし構えた槍が始動する前に、強張る肩を傍にいた別の兵隊悪魔が引いて咎めた。

 

「隊長、あなたの気持ちはともかく、わかっているとは思いますが……今回指示が出ているのは人間の掃除だけで、元人間の転生悪魔は捕らえるだけの予定ですからね?」

 

 ぐぐっと、リーダー悪魔の顎の筋が盛り上がった。

 

「……ッ!わかっている!皆まで言うな!」

 

「まあそこの転生悪魔は妖怪ですしグレモリー家の所属ですし、消しても問題ないでしょうけど。しかし指示で言うなら、こいつらハンターを掃除する場合、奴らは悪魔と戦う備えとして光の剣等の聖別されたアイテムを所持している可能性があるので魔力で遠距離から焼却せよ、という条項がありますが」

 

「わかっていると言っているだろう!!女のほうの人間が、あのコカビエルを打倒した一人だという話も承知している!!指示を無視するつもりはない……!少し、手に力が入ってしまっただけだ……!」

 

「それに加え、攻撃はアスタロト様の到着を待ってからと――」

 

「これ以上ごたごたと抜かすようなら、貴様をここで殉職扱いにしてやるからな……!!」

 

 それでようやく、兵士悪魔の小言は終わった。

 

(なんだ、自分で話を引き延ばす必要はなかったわね)

 

 悪魔も堕天使も、人間を見下す輩は油断してばっかりだ。内心で嗤う私を憤怒のまま見下ろして、リーダー悪魔は片手を突き出し魔法陣を展開した。それを合図に周囲の悪魔の全員が同じように魔力を滾らせ、私たちを射線に捉える。

 

「う、ウタさま、ハンゾーさん……逃げて、くださ――っ!?」

 

 怯えと妙な決意でファイティングポーズを取る邪魔な白音を自分の背後に引き戻し、私は、見上げるばかりでずり下がる眼鏡を元に戻しながら、堪えきれない嗤いの一部を漏らして言った。

 

「正直、クーデターに関してはむしろ応援しちゃいたいところなんだけどね。私たちも大手を振って殺しに行けるから。……でも、まあ結末はお察しよね」

 

「……遺言はそれでいいか、人間。ならばもう、さっさと死――」

 

 唸りの混じったその台詞の合間、私が、使った能力、【黒肢猫玉(リバースベクター)】を発動させたその瞬間。

 

 宙で煌めく魔法陣のすべてが、一度に爆発を起こした。

 

 轟音と共に、悪魔たちを呑み込む爆炎が頭上で円を描く命の輝きに変わる。字の通り突発的な事態に目を剥いているであろうハンゾーと、それに白音には変わらず背を向けたまま、私は狙い通りが過ぎるその光景に鼻を鳴らした。

 

「私がコカビエルを殺ったってことは知ってるのに、能力は知らなかったわけ?私に差し向ける刺客がこの程度。侮りまくって戦力分析もまともにできてないような連中じゃあ、革命なんて夢のまた夢だわ」

 

 ピトーの下に現れた悪魔たちも、きっとこれらと同じレベルなのだろう。たぶん、城で同じようなことを言っているであろう三つの強い気配たちと数多の雑魚悪魔が主力のすべて。そろい踏みしているはずの四人の魔王たちと、もしかしたらネテロも警戒して戦力を固めたのだろうが、それにしたって雑魚十数人だけで私を殺せると思われているのは、心外を通り越して呆れるばかりだ。だから嘲笑ってやった通り、そんな連中に現魔王を排することができるはずもない。

 

 そしてその確信を後押しするように、爆発で吹き飛んだあれやこれやが降ってきた。指やら手やらのパーツがばらばらと、血の雨と混ざって地面に放射状に叩きつけられる。遅れて本体のほうも落ちてきたが、驚いたことに命ごと吹き飛んでいる奴も少なくなかった。

 

 予想以上に脆かった連中が、凡そ半分ほどか。それでもやかましい絶叫が、さっきまでの嘲笑とは桁外れの大音量で鳴り響く中、絶句の白音が唖然の呟きを漏らした。

 

「魔法陣の、暴発……」

 

 パニックに陥りかけてバラバラ死体を認識から外しつつ、それでもちゃんと見ていたらしい。しかし直前に私を庇おうとしたことからして、戦闘スイッチが入っていないその時に、私の『隠』は見破れなかったようだ。

 

 差し引きゼロ点をつけてやると、それ以前に魔法陣の知識がないハンゾーが、久方ぶりに聞いた本心からの動揺の声色で白音の呟きに反応した。

 

「ぼ、暴発!?それって……自爆したってことか?全員一斉に、その魔法陣ってやつの扱いをとちって?」

 

「はい、たぶん。……けど、子供でもないのに、普通、そんなことは……」

 

 起こらない。訓練された兵士らしい奴らが、よりにもよって自爆なんて危険極まる間違いを揃って犯す、などという偶然があるはずがない。という続きの言葉のその『偶然』を、たぶん白音は私に見つけ、考え込んで内心に呑み込んだのだろう。私の背に刺さる視線をハンゾーも見つけ、興奮気味に訊いてきた。

 

「まさかウタの……『発』ってやつか?……マジか、『念』ってこんなことまでできるのかよ……それか、仙術とかか?」

 

「たぶん……けど、わかりません。ウタさまの能力、あの黒い玉も、『隠』のレベルで見えないだけかもしれませんし……」

 

「黒い……?ああ、そうか、話してくれたことあったな、コカビエルってやつの戦いのときの黒い玉……けどあれは、光の力とかいうもんを消してたんだろ?それでしかも魔法陣を、消すんじゃなく暴発させるってのは、できるもんなのか?」

 

「……できるもんよ、残念ながら」

 

 出て来る話題に、思わず私は答えてしまった。コカビエルのあの時は、万が一に備えて出し惜しみしていただけなのだ。決して、コカビエルの激しい動きにくっつけていた能力の操作に手間取って余裕がなかったとか、そういうわけではない。

 

 そのことを理解させてやるべく、私は能力を、散った悪魔たちそれぞれから呼び戻し、『隠』を解いた。十数個の黒い玉を周囲に漂わせながら振り返って、その一つを突いて二人の目の前に送って見せる。

 

「私のこれ、【黒肢猫玉(リバースベクター)】はね、要は『念弾(・・)を介して仙術を行使する(・・・・・・・・・・・)っていう能力なの。だから光力も魔力も魔法陣も関係ない。仙術で操る『気』はそのすべての根幹たる生命エネルギーなわけだから、操っちゃえば弱化も暴走も思いのままってわけよ。……まあ規格が違う分、完全にどうにかするにはちょっと時間がいるけどね」

 

「お、おう……よくわからんが、とにかくすげーな……。しかし、良かったのか?能力はみだりに教えるもんじゃねーんだろ……?」

 

「……別に、いいわよ。あんたたちに知られたところで」

 

 一瞬で口が滑ったと後悔し始めたが、まあ実際、シンプルな分知られてもさして問題はない。だからよしと決めつけて、けれど少々いたたまれない私は興味津々の白音とハンゾーから身体を戻した。

 

 そして眼が合うのは、生き残っていたリーダー悪魔。片腕が吹き飛ばされ、丸ごと焼け焦げた半身を襲っているであろう激烈な痛みを、滝のような脂汗を流しながら耐えている。

 食いしばった歯の隙間から泡を吹き、私に鬼の如き憤怒の形相を向けてくるそいつと、暴発から生き残ってしまったために苦しんでいる他の兵士悪魔たちも見やって、私は一つ息を吐いた。

 

「さてと、よ」

 

 口角が上がるのを自覚した。その途端、私に集められた奴らの視線、その眼の色が一変する。

 

 憤怒が、百八十度恐怖に転落した。まさに絶望のそれ。五年前、ピトーが動けない私に代わって悪魔の一団を殲滅した時の、斬り飛ばされたリーダーの首によく似た表情だった。

 

 周囲も同様、すっかり絶望に絡め取られ、それらを引き付けたまま、私はなおも騒がしい城のほうへと顔をやった。

 

「フェルの方は言うまでもないけど、あっちもまあ、そうかからずに鎮圧されるでしょうね。クーデターは失敗して、晴れてあんたたちは賊軍決定。ならこのまま生かしておいて、後で突き出してやるっていうのがベターなわけだけど……」

 

 迷うみたいに大仰に首を傾げ、それからリーダー悪魔に戻す。

 

「その時までただ待つっていうのも、ちょっと暇よねぇ」

 

 また一段、悪魔たちの恐怖の度合いが上がる。血走り、見開かれた瞳孔に、私の顔が反射した。

 背後に白音の怯えを感じていたが、しかし私は直視し続ける。

 

「だからそれまで、ねえ、ちょっと遊んでもいいわよね……?」

 

 我ながらよく似た残忍の表情で、私は言っていた。吹いた風に運ばれる血の臭いを手で払って、私はゆっくり、能力を引き連れ奴の下に向かった。




このタイミングで黒歌の念能力解説をするつもりでしたが、めんどくさいし需要もないだろうと思ったので止めます。感想ください。

需要あったみたいなので念能力解説します。

オリジナル念能力

黒肢猫玉(リバースベクター)】 使用者;黒歌
・放出系能力と操作系能力に仙術を融合させた【結】(『結』に関しては三部十一話を参照)
・念弾を介して仙術を行使する能力。
手で直接触れるよりは精度は落ちるが、代わりに【隠】を併用して念弾を不可視化したり、念弾の【気】を操作し囮としたりといった使い方が可能。念弾は大きさも形も変幻自在だが、弾速はあまりない。
・能力名は黒死病の当て字。ベクター『Vector』は媒介者の意であり、致死の仙術に気付かぬうちに侵されて…という感じでうまく名前に落とし込めたのでお気に入り。そしてリバースは『Reverse』ではなく『Rebirth』のほう。転生などの意味で、つまるところ六道輪廻。色が黒いとこも含めて某N〇RUTOの鬼つよ術がモチーフ。


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十五話

グロい描写とエグい描写が七割増しなので注意。

あと誤字報告…というかサイト様の仕様を教えてくださってありがとうございます。これで太文字デカ文字動く文字なんか使ってる人はすごいなーと思う。


 十数匹の散乱した悪魔の死体から香る、むせかえりそうなほど濃い血のにおい。どんよりとした夜の空気を完全に呑み込んだこの惨状だけでもたまらないが、今はそれすら添え物だった。

 

 それほどに印象強く芳ばしい芳香を発する赤黒い肉塊にうっとり視線を注ぎながら、陶酔の只中にあるボクは我知らずに、知った事実を呟いていた。

 

「にゃるほど、クーデターね。それで殺しに来たんだ。……迷惑だにゃあ、ボクたち巻き込まれただけじゃん」

 

 緩んだきり戻らない頬に手を置いてため息を吐く。呼吸の拍子に嗅覚が刺激され、思考が綻ぶが、それでも言葉の反芻と共に襲撃の理由を把握した。つまりやはり、ボクたちは悪魔の事情に巻き込まれただけなのだ。

 

 反体制派の悪魔たちが、人間と協定を結ぶ今日を機に反攻の狼煙を上げた、ということ。これを巻き込まれたと言わずに何と言おう。会場となっている城にも当然攻勢をかけているらしく、ならばボクたちだけでなく、そこに出席する人間全員もが被害者だ。そっちが協定を持ちかけたというのにこの仕打ちはいったい何だと、悪魔共への責任追及が今から楽しみでしかたない。

 

 これで城の人間が皆殺しにされたりすればさらに愉快なことになっただろうが、しかしそこまでの大事は残念ながら望み薄だ。というより、そもそもこのクーデター自体が到底成功しないだろう。忌々しいサーゼクスを含めた四匹の魔王共と、ネテロや曹操の手で食い止められるに決まっている。

 この六人だけでも、まとめて殺すにはコカビエルがウン百人は必要だ。サーゼクスとセラフォルー以外の魔王を知らないボクの甘い概算でこれだというのに、聞けばそこに注いだという反体制派の戦力は、初代魔王の血統であるという三匹の悪魔だけであるらしいのだ。

 他に雑魚悪魔の集団も連れているが、それは恐らく城の警備と中の戦える連中とで拮抗している。助力にはならないだろう。だから正真正銘三匹のみの力で六人を倒さなければならないわけなのだが、しかしどう考えても無謀だ。座を奪われた血統が現魔王よりも強いとは思えないし、捨て身の自爆特攻にしても、当の血統故に考え難い。

 

 正直、いったい何の勝算があって攻めたのかと不思議になるほどの戦力差だ。三匹のみという情報が真実でないのか、それとも勝てる自信とその根拠があるという可能性もないわけではないが、しかしやはり、論じるまでもなくそれらは自信過剰の思い込みか、あるいは勘違いであるのだろう。

 

 なにせその、相手の戦力を見積もる眼が、目が明いたばかりの赤子並みであることはもう証明されている。ボクを、アスタロトなる血だけの純血悪魔とその眷属のみで殺せると、本気で思った程度の連中なのだ。

 

 そんな連中が率いる組織、『禍の団(カオス・ブリゲード)』の『旧魔王派』なる、今の悪魔を取り巻く情勢を全く理解していないような雑兵でクーデターを為せるはずもないし、それによる被害も、さして大きなものにはなり得ないだろう。だから賠償やら何やらを要求するにしても、現魔王共は困り顔などしない。

 そして同時に、クロカにも差し向けられたという刺客も、同じく警戒する必要はないのだ。

 

「そこはまあ、改めて安心だよね。オマエが知っててよかったよ」

 

 そんな事実と理由を認識して、ボクは眼前の肉塊、頭蓋を開いて露出させたアスタロトの脳味噌(・・・・・・・・・)に語りかけていた。

 

「……だよね?」

 

 両手に持った串でぐちゅりと刺激を与えてやると、投げ出した手足を痙攣させながら、かくかくした動作で眼前の脳味噌が縦に振られる。拍子にブレた串がどこかを切り裂いたのか、何かの汁が噴出し、襟足まで滴った。

 おかげでさらに芳香が強まったことには一周回ってもはや気付かず、ボクはアスタロトの脳味噌へさらなる問いを投げかけた。

 

「それでオマエ、なんでそんなクーデターに協力してるの?現魔王の血筋だって言ってたけど、その魔王を殺しちゃったら権力も何もなくなるだけじゃん」

 

 聴覚は生きているから、問いは聞こえはしただろう。しかしその答えを引き出す脳の機能は既に死んでいる、というか壊してしまったし、待っていても答えは出ない。

 だからそのための串だ。医術書の知識と経験に従って脳味噌をいじくり、直接脳味噌に命令を下して無理矢理答えを引きずり出す。【人形修理者(ドクターブライス)】の強化のための修行と趣味とが合わさった結果編み出された、能力ではなく技術。

 それで情報をしゃべらせて、もうすぐ二桁になる。串が太いせいで大分損傷が激しくなってきた脳味噌に、近付きつつある限界を見つめながら、ボクはまた串を動かし、むわっと溢れるにおいを嗅ぎつつそれを答えさせた。

 

「彼が、あっ、シャルバ・ベルゼブブが、言って、あっ、くれた」

 

 少し前の傲慢が全く存在しない平淡な声色で、ノイズを混ぜながらアスタロトは言う。

 

「協力すれば、あっ、アーシアや、聖女たちを手に入れるために、手を貸してくれる。それに、もしこのまま人間との協定が成立すれば、あっ、聖女を堕として眷属にすることが難しくなる。今の眷属たちも騙して堕とした元聖女、あっ、の、人間たちだから、それも、あっ、あっ、問題になるかもしれない。だから、協力することにした」

 

「聖女?聖女って、教会にいるアレ?」

 

「そう。教会で手厚く守られ育てられる、あっ、清らかな乙女」

 

 ぐちゃぐちゃ脳味噌をかき混ぜられながら、感情を排してひたすら淡々とした調子で答え続けていたその台詞に、その時微かに欲が混じった。ある意味それは答えた『理由』の証明で、思わず一瞬赤龍帝を思い出してしまったボクは、一際深く串を突き刺してしまう。

 

 おかげで一音、一際甲高い奇声が鳴り響く。帽子を貫き耳が痛くなるほどだったが、においの中ではそんな不快感は些事だった。構わずまた汁を噴かせ、促した。

 

「特に、あっ、アーシアは、素晴らしかった。まさに純真無垢な彼女をこの手で汚したいと、信じていた教会を追放され、堕ちた彼女を、あっ、もう一度堕としてあげたいと、初めて姿を見た時からずっと考えていた。教会の、あっ、女が見せるその時の表情が、僕はたまらなく好きなんだ」

 

「……ふぅん、変わってるにゃ」

 

「あっ、けれど、僕にとっては至上の――」

 

 と、何やら続いてしまいそうな気配はさすがに余計で、ボクはまた別の部分に串で穴をあけた。

 途端に電源が切れたように静かになるアスタロト。そこからさらに脳味噌に刺激を与えてやるとその身体がびくりと激しく反応し、まるで早回ししているかのような速さで痙攣を始めた。指が好き勝手に蠢き、口から零れたのだろうあぶくが血濡れの腹の上を伝う。それから再び急に停止し、欲が切り落とされた続きが、やはり何でもなかったかのような調子で紡がれた。

 

 どちらかといえば、知りたかったのはコイツの性癖ではなく、こっちだ。

 

「それにシャルバは、あっ、『力』をくれた。アガレスもサイラオーグも、足下にすら及ばないほどの『力』。それがあれば、もう、あっ、アーシアの時のように慎重を期して後手に回り、結果リアス・グレモリーに横から掻っ攫われて予定をご破算にせずに済む。あっ、『力』があれば、はるかに容易く聖女たちを手に入れることができる」

 

「で、その『力』っていうのは、なに?」

 

 脳味噌をえぐる途中で、ふと気付いたことだった。他と比べてやけに強い魔力のにおいが、どうやら他とは違うこと。顔を近づけ嗅いだそれには、うっすらと悪魔ではない類の気配が見えていた。

 

 実際は大したことがないアスタロトの能力を、その『力』が強烈に押し上げているのだ。その正体を、ボクは知りたい。

 

 なにせ恐らく、それこそが最もおいしそう(・・・・・)だから。

 

「『力』。あっ、それは……」

 

 ガクガク震えながら、アスタロトは短く答えた。

 

「オーフィスの、『蛇』」

 

「ッ!……へえ、オーフィスって、あの『無限の龍神(ウロボロス・ドラゴン)』のこと?思ってたよりずっとでっかい名前が出て来たにゃ」

 

 さすがに驚かざるを得ない。ヴァーリとあの変態赤龍帝に宿る二天龍すら越える、最強のドラゴンとまで称される龍神の一角だ。強い『力』だとは思っていたが、まさかそれほどの大物由来であるとは思っていなかった。

 

 もしそれが城を攻めている三匹にも与えられているというのなら、少しだけ評価を上方修正する必要があるだろう。が、しかしだとしても不足に変わりはない。それほどに隔たりが大きいのだ。だからこそ、そんなマヌケの集団に大物が協力しているという事実が、アスタロトの性癖以上に謎だった。

 

 とはいえその談からオーフィス本人がこのクーデターの場に出ている様子はない故に、どうでもいい。警戒しておくに越したことはないが、しかし今はそんなことよりも(・・・・・・・・)、だ。

 

 この、尋常でなく食欲をそそるにおいの正体が悪魔ではなかったという、それだけで今は十分だ。

 

 なぜならもう、次々口に湧き出て来るこの唾に、忌避の必要がなくなったから。

 

 それにたぶん、もう我慢の必要もない。

 アスタロトの頭を覗く度に徐々に持ち上がる口角の、その最後ピース。確信を得るために、ボクは逸る気持ちを抑えて脳味噌の皺を貫いた。

 

「ボクとウタが城の近くまで出て来てるって、誰から聞いたの?」

 

「……だれ、から……あっ、聞いた、だれ……」

 

 シロネ以外の誰にも言っていないし、聞かれていない。尾行されるようなヘマもしていない。クロカにすら黙っていたのだ。情報を知らなければ、わざわざハンゾーまで捕まえて、ボクたちを目当てに森を行進したりはしないだろう。

 

 だから可能性は一つ、パーティーを抜け出し森庭に来るようシロネに告げた屋敷の廊下で、誰かがボクに悟られずに会話を盗み聞いたのだ。そしてそれができるだけの能力を持つ者、当時屋敷にいたという条件を加えれば、心当たりは一人だけ。

 

「名前は、あっ、知らない。グレモリー邸に送り込んだ、スパイからの情報だと、あっ、聞いている」

 

 それは、曹操以外に考えられない。能力と条件と、動機を持つのは奴だけだ。

 

 屋敷にうじゃうじゃ蔓延る使用人悪魔の存在にボクが気付かないはずはないし、何かしらの装置での盗聴も、仮にも貴族で且つ魔王を輩出した名家である以上、まずありえない。少なくとも、何の重要性もない廊下には仕掛けない。当主やそれの眷属ならば可能性はあるが、こちらは動機が存在せず、あったとしても、そうであればボクを殺すのにアスタロトのような雑魚を送り込んだりはしないだろう。

 

 故の消去法。実際ボクはタンニーンの背に乗ってきた奴の気配に気付けなかったし、シロネに話した朝方には、確かにまだ屋敷から出てはいなかった。

 

 それに動機も、奴には京都での前科がある。それにもしかしたら、ヴァンパイアの一件も同じ流れの内なのかもしれない。騒ぎに乗じて裏で暗躍するのは、もはや奴の十八番と言っても過言でないだろう。だから今回も、今度は悪魔社会に対して何か企んでいるのだ。アスタロトにボクたちの行動を教えたのは、だから何かの目的があっての一環に違いない。

 

 その『何か』も、暗躍の目的だって何も想像できないのに、ボクはそう思い込んだ。口角の上がりきった視界には、もう獲物(アスタロト)しか映っていない。

 

 だから確信を得てしまったボクは、次の瞬間、用済みの首を引きちぎった。

 

 ――身を縛り付けていた鎖の一つが壊れたような、奇妙な解放感だった。

 

 途端噴水のように噴出する血と爆発するにおいに、ボクはまずそれを感じた。赤色の瀑布がマントを汚し、生暖かく染み込んでくるその感覚ですら、全く不快にならない。気にならないほど、口が解けていた。

 

 歓喜の形に唇を歪めたまま、ボクは提げ持った首をひっくり返す。切るでなく引きちぎったために荒い切断面からは脊髄が飛び出し、垂れ下がる筋線維と血管からは、未だぼたぼたと粘った液体が零れ続けている。そうして血が抜け蒼白になりつつある顔の表情は、やはり間抜けな表情をしていた。

 

 茫洋と目を開いたまま、痴愚のようにだらしなく口を開けて死んでいた。あの絵にかいたような尊大な物言いが、こんな死に顔。見ていると、今度は胴体のほうが自重に負けてどさりと横倒しになった。

 

 そっちに視線を動かし、見下ろして、また嗤う。

 

 死んだ。そう、ボクが殺したのだ。純血の悪魔を。

 

 この時を、ボクはどれほど待ち望んだことだろう。はぐれ悪魔狩りでは到底慰めること叶わない『王』の無念。ボクの憎悪を唯一晴らせるであろう純潔悪魔は、赤髪も筋肉達磨も使用人共も、そしてあの魔王共も、見つけたすべてが殺すことを許されない立場にあった。

 

 ボクはクロカと在るために、我慢するばかりだった。

 

 だが今回は、このアスタロトは違う。れっきとした貴族悪魔であるというコイツを、クーデターに加担した逆賊だと証明する前に殺してしまえば言い訳ができなくなると、今まで邪魔をしてくれていた理性ももう不要。これが曹操の差し金であるのなら、我慢の必要もない(・・・・・・・・)からだ。

 

 ボクのことをクロカに次いでよく知っている奴が、悪魔を憎悪する理由を知っている奴が、ボクにけしかけられた悪魔が無傷で戻ると考えるわけがない。ましてや純血悪魔で、尚且つ主たる魔王を捨てた『はぐれ』の如き悪魔であるのだから、むしろ何かが起こることを期待してすらいるだろう。

 

 つまり、殺していいとのお墨付きだ。例えば奴の暗躍の一環でアスタロトの死が必要だとか、恐らくそういった理由。勝手に役者に組み入れられた格好、曹操の計画の内ゆえに、だから潔白の『証明』など、そもそも最初からいらないのだ。

 

 すべて曹操か、その仲間が処理してくれる。でなければ奴の企みに支障が出るから。

 

「だから……死体が食い荒らされていても(・・・・・・・・・・・・・)、オマエならうまく誤魔化せるよね」

 

 ボクの正体だって奴は知っているのだから、喰らうことだって想定しているに決まっている。

 それに実際、ボクはアスタロトではなく、その内の『蛇』を目当てに喰らうのだ。悪魔を食べたくて食べるわけではないのだから、問題ない。悪魔が、食べたいわけではない。

 

 だから、ボクはこのおいしそうな(悪魔の)肉を食べてもいいのだ。

 

 そんな無茶苦茶な理屈で、頭の中が埋め尽くされようとしていた。

 

 悪魔を食べることが普通でないと知った時以来、一度もそんなことはなかったというのに。いつの間にか、そうなっていた。

 

 舌なめずりをしていた心の中の自分が、すでに大口を開けて待っている。ついさっきまでの葛藤すらもう影も形も見当たらず、ボクは内心の衝動に導かれるまま両手でおいしそうな頭を抱え、その剥き出しの脳味噌に顔を近づけた。未だほかほかと温かい空気がにおい立ち、鉄臭さと生臭さが混ざり合う臭気の芳香が、コカビエルの血のみならず、遠い昔に喰らった悪魔の味までもを容易く記憶の封印から引き上げる。味覚に蘇るそれにボクの頭は愚直に反応し、開く口の端から零れるほど唾が湧き、それと一緒に、建前と化した誓いすらも頭の中から流れ落ちた。

 

 理屈も状況も、本能さえも許す中、小さな理性だけではとてもそれらを押し留めることができなかった。その何もかもに、抵抗などできなかった。

 

 抗うだけの気概など、クロカの『家族』でなくなるボクには残されていなかった。

 焼けつくように疼く胃袋と急かしてくる過去の記憶も、正者のいない周囲を見回し受け入れ、そのすべてを曹操のせいにして、ボクはとうとう、大口を開けた。

 

 そして、

 

 食べた。

 

「―――」

 

 においでの陶酔が全くの紛い物に思えるほど、舌に触れたそれは、ボクにとてつもない感動を及ぼした。

 

 全く形容できないが、しかしとにかくすばらしく良い感覚。下から染み込みたちまち全身を巡ったその快感は、つまり『美味』なのだろう。今までずっと欠けていたものが満ち足りたような、そんな充足感に、念入りに咀嚼した脳味噌を呑み込んだボクは、思わずため息と共に興奮の熱を吐き出した。

 

「――おいしい……!」

 

 濃い味とにおいと、法悦。これこそが、ボクに必要だったものだ。

 

 暴かれた本性と、それによる飢餓感が命ずるまま、ボクは続けざまに脳味噌にかぶりついた。その度溢れんばかりに広がる極上が、細胞の隅々にまで染みわたっていく。その感覚が心地よ過ぎて、頭がどうにかなりそうだった。今までの我慢がつまらない意地にさえ思えてくるほど、ボクはこの食事に心の底からの幸福を感じていた。

 

 だから比例して、この五年間への後悔が際立つ。なぜボクはこんなにもおいしいものを食べることを自分で禁じ、代わりに携帯食料やらバーガーやら、悪魔と比べれば残飯同然のものばかりを食事にしていたのだろう。『蛇』を取り込んだアスタロトほどではないにせよ、仕事で殺すはぐれ悪魔だって、少なくとも残飯よりは圧倒的にマシだったろうに。

 なぜ、今まで一度も食べようと思わなかったのか。頭からすっぽり抜け落ちてしまったその理由に首を捻りながら、ボクは長らく感じてこなかった純粋な幸福感に魅了され、欲望のままそれを貪り続けた。

 

 そうして夢中になって欠落を埋め続け、御馳走の残りが腕一本になってしまった頃だった。

 

 ようやく薄れ始めた飢えの感覚が焦りを消し、同時に恐れも完全に忘却してぼんやりと幸福に浸るボクは、当然警戒心すら忘れていた。全く筋肉のついていないひょろひょろの腕から肉をこそぎ落とし、口に運ぶことのみに集中していた故に、その羽ばたきの音も、もちろん気配にも、意識が向くことはなかった。

 それを認識したのは、羽ばたきの環境音から言葉としての音が飛び出して、ボクの言語中枢をノックしてからだった。

 

 幸福をぎっしり詰め込んだお腹にまで響く昂然とした低い声が、影と共にボクの後頭部に降り注いだ。

 

「妙な声と気配がしたと思えば……酷い有様だ。おい、そこの……誰だ?貴様は」

 

 あの時のドラゴン、タンニーンだ。台詞の後半でようやく声色に気付く。そして眼が悪いのか何なのか、ボクであると気付いていないらしい彼に、呆けた頭で緩慢に振り返った。

 

「そこで、いったい何を――」

 

 見上げ、眼と眼が合った。その直後、

 

「して――ッッッ!!!」

 

 ドラゴン故にわかりにくいタンニーンの表情が、見間違えようがないほどの恐怖、戦慄を表した。鋭く息を呑んだと思えば大きく羽ばたきボクから距離を取り、その首をいっぱいに反らして引き絞る。

 

 なんだろう、と、ボクは口の中で骨を噛み砕きながら首を傾げた。貪欲と狂暴に揺蕩い、血と死に口角を上げたまま、何の不審にも思い当れないまま、ただ不思議に思った。

 

 だからタンニーンの咢に赤熱の火炎が溢れ、ボクに向けられようとしているさまを眼にしてもそれは変わらず、

 

 放たれた炎が目の前のすべてを覆う頃になって、ようやくボクは我に返った。

 

 そして同時に、今まで呑まれていた自分に絶望する。その理由が正当だろうが屁理屈だろうが、そんなものは関係ない。

 

 悪魔が食べ物である事実を受け入れてしまう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)という。ボクは最低限の資格さえ、失った。

 

 その事実に気付いた愕然では、もちろん元龍王であるタンニーンの本気はどうにもならない。迫る隕石の如き炎は防御の暇もなく身を襲い、血でぐっしょり濡れたマントを一瞬で燃やし尽くしてその下のジャケットまでもを焼いた。

 

 視界の端で、消し炭となる長方形の紙片が悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

「ゆ、ゆるしてっ、くれ、よ。もう、お、おれは、ぜんぶ――」

 

「許して『くれ』?言葉遣いがないってないわね、やり直し、っと!」

 

 歯をすべて抜かれた切れの悪い声で、震えて命乞いをするリーダーだった(・・・)悪魔の男。その指の爪を、私はニヤリと笑みを作り、躊躇なく剥がしてやった。

 

「ぐぎゃあああぁぁぁッッ!!!」

 

「あはは!あんた大げさすぎよ。爪が一枚剥がれただけじゃない。……まあ、これで四枚目なわけだけど。でも片腕が吹っ飛んだ痛みよりは全然マシでしょ?情けないわねぇ、上位種族の悪魔サマのくせに」

 

 夜の薄闇に投げ捨てる生爪と、それを鼻で笑う私の言葉。つい数十分前までのこいつであれば即座に言い返してきただろうが、今はもう涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で絶望を作るのみだ。料理の鉄串と仙術とで木にはりつけにされた状態で、もはやリーダーとしての威厳も、悪魔の誇りとやらも完全に失っていた。

 

 ここにいるのは、私の拷問に怯え、泣き叫ぶだけの哀れな男だった。

 

「ほら、許してほしいんでしょ?ならどう言えばいいのか、わかるわよね?」

 

「あ、ぎ……ゆ、ゆるして、ください……」

 

 さらに、残忍に見えるよう意識して口角を吊り上げる。

 

「だぁーめ!許してあげなーい」

 

「な……なんで、くださいって、おれ、いったのに」

 

「だってあんた、これの目的忘れちゃってるんだもん。ちゃんと知ってること全部吐いてくれないと、やめてあげるわけにはいかないにゃん」

 

「い、いった!ぜんぶ!おれ、もうぜんぶはなした!ほかには、もうなにも――」

 

「それが本当だって保証はどこにもないわけじゃない?なら、それが得られるまでは続けないと意味ないでしょ。……拷問はまだまだ始まったばっかりだから、楽しんでねぇ」

 

「あ、ああ……や、め゛ッ――」

 

 最後の一枚を、ぶちっと。

 

「あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァッッ!!」

 

 引きちぎって絶叫を聞きながら、ふう、と、私は内心で疲労に息を吐いた。

 

 実のところ、誰かを拷問するのなんて初めてだ。わざわざ痛めつける必要なく情報を引き出せる技能をピトーが持っているからだが、しかし彼女がいない今のような状況ではそれが仇。まだまだ始まったばかりだというのに、既に少々疲れてきた。

 

 表にはまだ出ていないが、正直時間の問題だろう。どこかでちゃんと練習しておくべきだったと、初歩の初歩で躓きかけている自分が不甲斐なく思えてくるが、とはいえせっかく奴の心に積み上げた私への恐怖を、弱音を吐いて台無しにはできない。

 それに、ピトーならもっとうまくできるはずだ。その思いで私は気合を入れ直し、心を奮い立たせると、次いで今度はピトー式拷問の次段階、目玉をやってやるべく、磔で余った鉄串を手に取った。

 

 しかしその手は、痛みの脂汗が滲んだハンゾーがすぐに掴んで止められた。

 

「おい、ウタ。いい加減、終わりにしとけよ」

 

「……まさかあんた、憐れんでるの?こいつじゃないにせよ、やられたんでしょ。傷のことはもう忘れちゃったわけ?」

 

 ムッとして振り向けば、難しそうにしかめられたハンゾーの顔。そもそも拷問なんかは忍者でもある彼の方がずっと慣れているだろうに、なぜそんな顔をして邪魔するのだ。

 

 内心で悪態を付くと、読心でもしたのかと思うほどタイミングよく、ハンゾーは首を振った。

 

「あれであんたらみたいな無差別悪魔嫌いにはならねーよ。人間と同じだ、良い奴もいれば悪い奴もいる。……だが今はそっちの問題じゃねぇ、白音ちゃんはオレたちと違ってこーいうエグいのに慣れてねーんだ。ちょっとは気遣ってやれよ」

 

 視線を移すと、白音は青い顔で胸を押さえながら、慌ててそれを否定した。

 

「い、いえ、私はそういうわけじゃ……とにかく、大丈夫です……。情報を得る必要があるのは、わかっていますから」

 

「こんな下っ端じゃあ、これ以上情報なんて出てこねーよ。……そんなことはウタだってわかってんだ。だからほんとに、無理せず言ってやっていいんだぜ?どーにも白音ちゃんは主張が弱いからな。我慢してばっかじゃこの性悪師匠が調子に乗るばっかりだ」

 

「その師匠が目の前にいるってのに……ハンゾー、あんたもだいぶ生意気になってきたわね。ちゃんと敬わないと『念』の修行つけてあげないわよ」

 

「敬えってーならまず敬えるような態度を取れよ!……はあ、なんやかんや一月以上も顔合わせてんだぜ?それだけあれば、あんたら相手に遠慮しちゃいけねーってことぐらいわかるっての」

 

 話が逸れて実に失礼なことを言い、おまけに開き直ってくるハンゾーに、私は警告の意を込めて一睨みを送ってやる。だというのに懲りずに舌を出すそのアホ面へ鉄串を投擲してから、続けて白音に不敵の余裕を見せつけた。

 

「それで?白音、あんた本音ではどうなわけ?この程度の拷問でビビっちゃった?」

 

 反応して肩を震えさせるその姿は、実際ハンゾーの指摘通り、どう見ても怯えている。気分も悪いようだ。表情に見るまでもなく、わかりきっているその内心。

 

 それは、残念ながら私たちの笑みを深めるだけのものだ。

 

「見るに堪えないんだったら、消えれば?」

 

 半笑いで言ってやった瞬間、白音がびくりと身を震わせ、恐れを以って私を見返した。

 言葉に詰まって漏らした息を無視して、私は続ける。

 

「フェルとの話なら、まあこんな事態だし、私から言っといてあげる。重要な件ならなおさら、この騒動の事後処理が終わった後の方がいいでしょ。あんたのご主人様、リアス・グレモリーのとこでもどこでも行ってらっしゃい」

 

「ウタ、相変わらずお前なぁ……まあ構いやしねーけどよ」

 

 撃った鉄串を指二本で挟んで白刃取りしたハンゾーが、それをくるくる回して弄びながらため息を吐く。呆れの表情であった奴は、しかしすぐに白音へ言った。

 

「でも実際んとこ、そのほうがいいかもな。リアスさんもパーティーに来てるんだから、もしかしたら助けが必要かもしれん。ウタとフェルは必要ない……戦力の意味ではそうだろうし、何言っても無駄だろうし。だから一緒に助太刀に行こうぜ、白音ちゃん。ここで突っ立ってるより、そうしたほうが色々とマシだ」

 

 私もぜひそうして欲しいと思った。負傷塗れのハンゾーが白音を城までエスコートできるかどうかは微妙なところだが、しかし仮に下手を打ったとしても私たちの責にはならない。

 なら、そのほうがいいだろう。ハンゾーの提案は、三票中二票の賛同を得た。残る白音も当然賛同に票を投じ、満場一致で決定する。

 

 と思っていたのだが、白音は全く逆、縦ではなく横に首を振った。

 

「いえ、私は……ここに残ります」

 

「……なんでだ?」

 

 胡乱げなハンゾーの、今度は疑問にまたしても私は賛同を示しつつ、伺うように一瞥をくれた白音に気付かないふりをして言葉を待った。

 

「……ウタさま、とフェルさまが、もしかしたら今後本当に勘違いされてしまうかもしれませんから。その……拷問を、していらっしゃいますし……」

 

「あー……なるほど、そうか。……ほんといい子だなぁ、白音ちゃんは。それに比べて……」

 

「『比べて』、なに?」

 

 凄んでやれば「何でもありませーん」なんていう間抜けな声で返してくるハンゾーにまた鉄串を投げた私は、次なる修行をさらに苛烈なものにしてやる決意を固める。

 

 しかし真に忌々しいのは白音のほうだ。お優しき勘違いを正してやるべく、ため息と共にハンゾーへの威嚇を切り離し、鼻で笑って腕を組んだ。

 

「あんたもそうよ、白音。おべっかなのか何なのか知らないけど、そんなの余計なお世話だわ。大体、クーデターが起きてるこんな状況で、私たちハンターが無辜の悪魔を虐めてるだなんて見る奴なんているわけないし。いたとしたら、それは十中八九敵よ。あるいは頭に脳味噌が入ってないバカか、どっちか」

 

 言って、集まる二人の視線を、なお賑やかな城の方へ促す。

 

「あっちはまだ治められてないみたいね。まあ敵の本隊だろうし、つまり私たちの方と違ってちゃんと戦いになってるわけよ。この悪魔サマがしゃべったことが正しいなら、パーティーに出てる人間はみんな殺害対象。ネテロや曹操がいるとはいえ敵の数が数だし、自衛手段のない普通の人間は殺されちゃっててもおかしくない。……悪魔側が開催したパーティーでそれだけの事件が起きたんだから、まともな神経してるなら、純然たる被害者である人間を責めるなんてできないわ」

 

「それは……」

 

 怯んだみたいに眉を下げ、言葉に詰まる白音。どうやら反論は思いつけないらしく、私は説得成功の安堵を隠して胸を張り、おどおど見上げてくる彼女を見下ろした。

 

 残ってそのお優しさを発揮する理由は消えた。ならもう拷問の鑑賞をしようとは思わないだろう。その忌避でだけでも白音は消えてくれるだろうが、しかし確実に排除するため念を入れ、今の白音が最も大切にしているであろうモノを取り出した。

 

「リアス・グレモリー、あれも、そろそろあんたがいなくて不安になってる頃じゃないかしら」

 

 その名前に、白音は表情を歪めた。

 

 ピトーが白音を呼び出した森庭は、当然城の敷地に含まれる。招待もされていない私たちがそこに踏み入るのは、まあもちろん適法とは言い難く、公になれば問題になることを承知しているであろう白音は、自身がここにいることも含めて、リアス・グレモリーには報告をしていないはずだ。黙ってリアス・グレモリーとその眷属どもの前から消え、そのままここにいる。そんなところにクーデターを企てたテロリスト悪魔が現れれば、彼女らが『もしや』と思うのは火を見るよりも明らかだった。

 

 情愛を是とするグレモリー家の姫君は、猜疑心をこじらせて暴走しかねない。結果、もしかすれば、一際強い三人のほうにまで突っかかっていく可能性もある。

 さすがにそうなると考えるのは妄想の度が過ぎているかもしれないが、可能性だけでも白音には効くだろう。なにせ……命を賭けるほど、今の白音にとって大事な存在の危機なのだから。

 

「……だから、心配ならさっさと行ったほうが――」

 

 僅かに揺らいだ自覚のある不敵の笑みで、背を押した。

 

 その瞬間だった。

 

 ピトーの気配を感じた。

 

 ようやく戻ったのかと、台詞を中断した私の口は、最初に文句の形に動いた。だがそれは声になることも、気付く(・・・)こともなく、絶たれる。振り向き、眼に入った森の眩い(・・)風景が、

 

 視界いっぱい炎の壁になぎ倒された。

 

「――私の後ろにッッ!!!」

 

 真っ暗な夜の森を貫く眩い光線に、反射的に二人に叫ぶ。声にならぬ声で喚く磔状態の悪魔を木から捥ぎ取り、すさまじい勢いで迫る炎の壁の盾にした。

 瞬く間に、喉が焼けるほどの熱気が辺りを包んだ。悪魔の絶叫は一瞬で止み、炎の奔流を受け止める肉はどんどん炭に、そして灰となって消えていく。ボロボロ崩れる有機性の盾から溢れた炎に炙られながら耐え、そしてとうとう破られるその直前、ようやく身を打つ炎は止んだ。

 

 息をつき、横目で背後を見やる。所々の火傷はともかく二人とも生きていることを確認し、私は手で掴んだ嫌な臭いを発する炭の塊を投げ捨てた。

 残った手足は消し飛び、辛うじて目と口だった穴がわかるのみの焼死体。眼にしたのだろう白音が喉を鳴らす音を聞きながら、しかし私は別の意味合いの冷や汗が止まらなかった。

 

 『念』と仙術で全力で強化した肉盾でもこの有様なのだ。周囲にあった草木は軒並み跡形もなく消えているし、私たちの経つ地面以外は溶けて赤熱さえしている。射程の外、余波で火が付いた木々は多く、一帯に溢れる光源で夜が一変し、まるで時間が変わってしまったかのようだった。

 

 そしてそれを為した範囲も威力も、すさまじいの一言に尽きる、このレベルの炎。私自身の身体で受けていればどうなっていただろうと、息を呑んでしまうほどのものだ。

 

 それ私たちに放った何者か、察するにハンゾーとピトーが戦ったという敵が、これほどの攻撃力を持つという事実。適当を言って助けに行かなかった自分を絞め殺してやりたいほどの戦慄を、私は感じた。

 

 しかし、悔いるのは後だ。まずはとにかく敵を片付けてから。『フェル』一人では手に余る相手だろうが、『ウタ』と二人がかりならどうにかなる。

 だから私は、その時、半分溶けた大岩の裏で同じく火炎をやり過ごしたピトーに、大声で言った。

 

「フェル!!平気!!?いつも通り、連携で片付けるわよ!!」

 

 『隠』を使って能力の黒い『念弾』を生み出した。たとえ相手がどれだけ強力だろうが、『凝』ができない限り初見殺しのこの攻撃を防ぐことは難しい。やり慣れた定番の戦法だからこそ、これが最も安全で確実だ。

 

 そう考え、私は叫んだ。戦慄と緊張でいっぱい故に、白音の呟きは思考には入ってこない。

 

「え……フェル(・・・)……?」

 

 火傷の痛みも忘れて呆けるその直後、ピトーがこちらを振り向いた。たぶん彼女は戦闘への集中で私たちの存在に気付いていなかったのだろう。驚愕の表情が張り付く。

 

 同時に、紛れもない恐怖を示して、その三角耳(・・・)が揺れた。

 

 耳だけではない。長い尻尾はピンと天を指し、四本指の手は中途半端に構えられたまま固まっている。着ていたはずのマントは影も形も見当たらないし、剥き出しになっているジャケットとズボンは所々破けて穴が開き、素肌が露になっていた。

 

 そして、気配の印象(・・)。色気たっぷりの気だるげなお姉さんである『フェル』ではなく、ありのままの『ネフェルピトー』だった。

 

 人間のハンターではなく、世間ではとうの昔に死んだはずの、『変異キメラアント』のピトーに戻ってしまっていた。

 

「――ッ!!い、生きて……」

 

 憎き姉の仲間たるその顔はさすがに記憶に残っていたらしく、ほどなく気付いて声を震わせる白音。戦慄の呟きに、ピトーの眼が私を捉えた。

 

 不安と怯えと。そんな感情が読み取れた。

 

「―――ッ!」

 

 ぎゅっと歯を噛む。

 

 ピトーはこの状況を作り出してしまったことを、私たちの人間としての生を終わらせてしまうことに責任を感じているのだろう。だが、彼女に滲んだ青い血が焼けて蒸発しているほどの強敵なのだ。防御し損ねてピトーを『フェル』にするためのパリストンの名刺を守り切れなかったとしても責めることなんてできないし、それを言うなら私だって、ピトーと『フェル』の区別があやふやなために口を滑らせてしまった。

 

 どちらかと言えば、そっちの方が致命傷だ。今は『変異キメラアント』の生存という驚愕に呑まれているが、いずれ疑念は真実まで届いてしまうはずに違いない。

 

 だから、この程度で私がピトーを嫌うことなど、ましてや見捨てることなど、ありえない。

 

 それに私だって――もう白音に、用事なんてない。

 

 どっちを選ぶかなんて決まっている。

 

 私は自分の胸元を、服の下の『ウタ』である証を握り締め、そして、

 

 妖力を以てしてそれを焼き尽くした。




ディオドラ君RIP。正直羨ましいぞ。
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十六話

 パリストンの能力である名刺、【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】が燃え尽きると同時に、私は己の『気』を人間に見せていた仙術の封印をも解き放った。眼鏡も投げ捨て、耳と尻尾の変化も解除する。『ウタ』であるための縛りのすべてを解き放った私は、五年ぶりに完全な『黒歌』を取り戻した。

 

 身体に満ちる十全の感覚。解放感に身を震わせる私をほっとしたような表情で見るピトーは、きっとその内心、喜んでくれていることだろう。戦力的にもそうだが、それ以上に、見て見ぬふりをして裏切らなかったことに。

 

 大体、ピトーを捨ててまで人間のままでいたいなんて、そんなこと思うはずがないのだ。安寧や平穏だって、そもそもピトーのために求めたもの。そこに彼女がいないなら何の意味もない。

 

 何よりもまず認められ、見捨てられないため。だから私は力を取り戻すや否や、彼女と戦うべくその下に駆け寄ろうとした。

 

 その足が、小さな呆然の呟きで縫い留められた。

 

「――黒歌、姉さま……?」

 

 心臓を内側から叩き壊されるような衝撃が、私の全身を襲った。

 

 懐かしき、(黒歌)を呼ぶ白音の声。過去の記憶が走馬灯のように蘇り、たちまち頭の中が真っ白になる。幸せそうなあの子の笑顔が私の幸せであった、遠いあの頃の光景が、私に何かを訴えかけてくる。

 

 けれど私は、辛うじてそれから目を逸らすことに成功した。

 

 肺の中の息を吐き出す勢いで動揺を胸の内にしまい込み、怯んだ足をどうにか地面から引きはがす。全集中を以てして逃れ、動かし、なんとか一歩を踏み出した。

 だが使い果たされた集中力は、二歩目の前にハンゾーのひたすらな困惑へ引っ張られ、ピトーに固定させていた視線を簡単に明け渡した。頭に浮かんだ通りの表情をする白音を通り越し、あんぐりと口を開けたままのハンゾーに向ける。

 

「く、ろか……?え?だって、今さっきまで、ウタで……な、何が、どうなって……耳に、尻尾に……」

 

 要領も何もあったものではない単語の羅列。だが、それほどの混乱も仕方のないことだ。私とピトーだって初めて体験した時は盛大に混乱したし、しかも今回はパリストンの能力だけでなく私の仙術まで同時に解除されたのだ。あまりにも大きすぎる差異故に、理解が追い付かなくてもおかしくはない。

 さらに言えば、今まで関わってきた『ウタ』が変装の姿であったこと自体がそもそも思いもよらないことであるはずで、とどめに明らかに人間ではない姿形まで眼にしてしまえば、それであっさり現状を処理して理解できるはずがないだろう。ハンゾーからすれば、ふと気付けば一瞬前まで人間の『ウタ』が居たはずの場所に似ても似つかない猫又美女が立っているという、全く予想外の、意識もしていなかった領域からの不意打ちを食らったも同然なのだ。

 

 とはいえ滑稽なものは滑稽だ。目を逸らす私はそれに便乗して忘れ去り、周囲で燃え盛る炎に照らされたハンゾーの間抜け面に、いつも通り揶揄いの笑みを向けてやった。

 

「ふふ……さあ、何がどうなったのかしらね。けど一応言っておくなら、耳も尻尾も本物よ。かわいいでしょ」

 

「ほん……まさか、お前ウタなのか……?それにあの猫魔人がフェルって……でもってウタが黒歌で……待て、白音ちゃん、『姉さま』だって?」

 

 視界の端の白音は尋ねられても呆然のまま、眼だけを私にぴったりくっつけ、それ以外の意識をどこかにやってしまっている。こっちもこっちで処理が追い付いていないようだ。

 

 過去に捨てた姉だとしても、死んだはずなのに生きていたという衝撃は、ハンゾーのそれよりもずっと大きいのだろう。完全にフリーズしてしまった様子ではしばらく帰らないだろうと鼻で笑い、代わりにハンゾーにそのフリーズの理由でも教えてやろうかと口を開けた。

 

 だが言葉が出る前に正面からの突風に押し流され、気配に気付くと同時に危機のことを思い出す。正常に戻った思考が警戒心を取り戻し、反射的に気配の方向を見上げた。

 

「……嘘でしょ、よりによって……あれ、タンニーン?」

 

 焼かれて開けた森の奥から、滑るように翼の生えた巨体が飛んでくる。それは見間違いでなければ、つい昨日に出会ったばかりのドラゴン、タンニーンだった。

 

 つまり、こいつがハンゾーの言っていたピトーの敵。いや、さすがにハンゾーが見た悪魔は別物だろうが、とにかく奴は私の近くで黒焦げになったり灰になったりした悪魔たちや城を襲っているという連中と同じ、『旧魔王派』なるテロリストの一員ということになる。

 

 その登場に対する驚愕の、およそ半分を占めたのがこの思いだった。『まさかこいつがテロリスト!?』という。

 

 まだ元バカマスターの下にいた頃に聞いた話だが、奴は下種や馬鹿や屑が山ほどの冥界で数少ない常識人と言われるような、比較的まともな人格を持っていたはずだ。実際そう見えたし、『旧魔王派』の主張に賛同するとも思えない。サイラオーグ共々、珍しいことに人間への侮蔑の類を吐くことはなかったし、二人ともいわば『現魔王派』であると思っていたのだが、果たしてどういうことなのだろう。

 

 昨日までの態度が全部演技で、裏側に黒いものを隠してたということか。我ながら驚くほど納得がいかないが、しかしそれ以上出ないのなら、深く考えるのは後回しにすべきだった。どちらにせよピトーを襲うタンニーンは私の敵であり、倒さなければどうにもならない。仮に何かの間違いだったとしても、そもそも『ピトー』と『黒歌』は悪魔の敵だ。

 

 だからとにかく、まずは目の前の敵を倒すのみ。

 

 元龍王で魔王レベルのタンニーンは、確かに楽には勝てないほどの強者だろう。その強さはピトーが己の正体を露にしていることからも簡単にわかるし、見渡す限りの森を焼き尽くしたブレスも、隕石の衝突に匹敵する、という評価に違いはないようだ。負けないにしても、勝つために相応の時間を必要としてしまうことは間違いない。

 

 だが城の情勢と私たちの立場を考えれば、『時間が掛かる』というのがまずよろしくない。戦っている間にクーデターを片付けた城の連中が来てしまえば、事態はさらに混沌と化す。下手をすればタンニーン共々討伐されかねないのだ。

 だからピトーもタンニーンを私の下まで連れてきたのだろう。過保護気味な彼女がそれを良しとしたのも、私の十全に見せた安堵の半分弱も、二人で協力して素早くタンニーンを倒し、逃げるため。一人では危ういが、二人なら打倒も随分やりやすいはずだだ。

 

 意思が一つなら、言わずとも心は伝わる。受けたダメージの前では緊張するのか表情が固いピトーに、私は合図の視線をやった。返答を見届ける間もなく、迫りくるタンニーンに照準を絞って『力』を使った。

 

 『気』ではなく妖力を両手に集め、濃密なその奔流を頭上に構える。発現したのは車輪の形をした特大の黒い炎、火車。猫又の十八番であるそれを使ったのは随分と久しぶりだが、錆びついていても破壊力、つまり派手さで言えば『念』や仙術以上だ。

 

(まずはとにかく一発かまして注意を引きつける……!二人の攻撃で撹乱して、隙を作ってとどめよ……ッ!)

 

 大技故の負担に歯を噛みしめながら、私は全力全開のそれを放った。

 

 そして次の瞬間、轟音と風圧。特大火車はピトーに向いたタンニーンの横っ面に狙い違わず命中し、奴のブレスにも劣らないほどの爆発を引き起こした。目論見通り派手な爆炎に奴の巨体が跳ね返され、バランスを崩して墜落する。燃える木々を押し潰し、質量が地面までもを揺らした。

 

「す……すげぇ……」

 

 ハンゾーの驚嘆。それがタンニーンの巨体が倒れるさまではなく私の火車に対してのものであれば、自分で言うのもなんだが同感だ。

 

 思っていたよりも威力が出た。というか、思いがけずクリーンヒットしてしまった。

 

 てっきり寸前で気付かれて防御なり回避なりをされるものと思っていたが、反してもろに入った。大技に無防備な隙を晒し、しかもそのまま撃墜されるというのは、奴の名声に対して奇妙。不穏ですらあるが、ともあれ与えた痛烈な一撃は奴としても無視できないほどのダメージだろう。

 

 ならば隙を作り出すまでもなく、このまま力で押し潰すべき。そう考えた直後だった。

 

「グ――オォォォ……ッ!!」

 

 地の底から絞り出したような呻き声と共に、倒れ伏したタンニーンの身体が持ち上がった。そして開かれた牙剥き出しの口の奥に、ほとんど白色に近い、閃光のような火炎が生じる。

 

 四つん這いのまま、照らされ見えたその眼は、恐怖と、それを上回る決意にのみ輝いていた。

 

「貴様のような邪悪な存在に――これ以上、殺させはせんッッッ!!!」

 

 私には眼もくれず、ひたすら、ピトーに向けて。

 

 極大の灼熱が、再び放たれた。

 

 森も大地も消し飛ばし、真芯でピトーを襲ったそれをどうにかするような間も方法もなく、噴き出る冷や汗を瞬時に蒸発させるほどの余波を放つ熱線は、やはりピトーを呑み込んだ。

 

 それを彼女は咄嗟の『堅』で防御する。おかげであまりダメージは入っていないようだが、勢いの方は防げず、吹き飛ばされていく彼女。閃光の中に消えたその姿を気配で感じつつ襲い来る熱風の圧力に耐えながら、私は再び強調されたその『奇妙』に、ピトーが攻撃されている最中ではあるが勝機を見た。

 

 目の前の敵以外に欠片も向かない警戒心と、その眼。似たものを、少し前に見ている。

 コカビエルだ。つまり今のタンニーンはあいつと同じような状態なのかもしれない。ピトーの『気』に引き出された恐怖で、周りが見えていないのだ。

 

 邪悪だなんだと叫んでいることを鑑みて、たぶんそうだろう。そうでなかったとしても錯乱状態にあることは明白だった。それなりの痛手となったはずの火車を放った私すら完全に意識の外に置いているのだから、当然そう。

 

 作るまでもなく隙を晒してくれているのなら、奴を殺すことはあまりにも簡単だ。こそこそと【黒肢猫玉(リバースベクター)】を使うまでもない。

 

(近づいて直接触れちゃえば、一分もかからない……!)

 

 ただし、防げているとはいえそれまでピトーに耐え続けてもらうことになる故に、ゆっくりはしていられない。気だって進まないに決まっている類の囮作戦だし、せめてできる限り早くやろうと、私は不満を呑み込み悪魔の羽を広げ、『絶』を使った。

 

 魔力の気配は僅かに漏れるが、気配さえ絶てば今のタンニーンには十分だ。そう考え、妖力以上に久しぶりに使う羽で浮き上がる。感覚に慣らし、そして飛び立とうとした。

 

 その腕が、ぐいっと引かれた。

 

 思いがけない重量で浮力が潰れ、躓きそうになりながら地面に引きずり下ろされる。

 

 靴底に感じた焼け土の感触。急がなければという時のその所業に、だが私は、ピトーが受ける責め苦への焦燥も、憤りも、その一瞬にだけは感じることがなかった。触れた手のひらの感覚が、それらの想いを一時遠くへ運んでしまっていた。

 

 その正体は、振り返って見るまでもなかった。

 

 手のひらに飛びついて引っ張ったのは、白音だった。

 

「――ッ!!ちょっと、白音ッ!!」

 

 感触が全身を駆け巡ってごちゃついた思考のすべてを妨げた後、我に返った私は反射的にその手を振りほどこうした。

 

 しかし実力行使に出る前に手が止まり、奥歯を噛む。合ってしまった白音の眼は、まっすぐに私を見つめて静止していた。唖然と、信じられないものを見る眼。そこで止まっている。

 

 我慢ならず顔ごと背け、私は無理矢理腕を振った。呆然自失から立ち直ったわけでもなく、どうやら反射的に出たらしい手はすぐに外れるかと思ったが、しかしなかなか外れない。怨みの中、報いを受けさせるまで逃さない、という深層心理でも働いているのだろうか。

 

 ――だとしてもだ。

 

 そんなものに付き合う義理はない。

 

「もう、いい加減――」

 

 腕を思い切り引き、いよいよ本気で振りほどこうとした。だがしかし思わぬ事態はなお続き、気配に気付いて言葉を呑んだ、その隙間。

 

「見つけた……ッ!?てめえ!!白音ちゃんに何してやがんだ!!その手を離しやがれッ!!」

 

 城で騒動に巻き込まれているはずの赤龍帝が、白音を発見し、怒声を響かせた。

 

 少し前の私の揶揄いが的中してしまったらしい。白音がいないことに気付いて探しに来た彼らが、つい今しがたまで大火力の攻撃が連発していたこの場所にたどり着くことはおかしくない。

 だからいずれ誰かが騒ぎに釣られてやって来るだろうことはわかっていたが、とはいえこのタイミングで、しかもそれが赤龍帝たちであったことは忌々しい限りだ。ピトーに辱めを与えようと企んだ奴の顔など見たくもなかったが、『その手を離せ』なんて見当外れなことを好き勝手言われるのはもっと腹立たしく、私は、燃え盛る森の跡と逆方向、ブレスの被害を免れた茂みから顔を出した奴に視線を移す。

 

 白音を誘拐せんとしている見覚えのない女悪魔に向ける、憎々しげが混じった憤怒。炎の照明を真正面に受けるそんな形相は私に向けられ、赤龍帝は害意がありありと浮かんだ眼のまま、左手に左手に【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】を発動させた。しかし威勢のいい啖呵を切る前に、どんどん連続するために定まらない困惑を叫ぶハンゾーに気付き、一瞬だけ目を剥いた。

 

「い、一誠!?お前、どうして……いや、なんでここにいるんだ!?」

 

「ッ!!ハンゾーまで……くそッ!!……おいそこの女悪魔!お前も『禍の団(カオス・ブリゲード)』とかいう奴らの仲間なんだろ!?もしハンゾーと白音ちゃんに傷の一つでも負わせてみろ!!絶対にぶっ飛ばしてやるからな!!」

 

 目を瞬かせて叫ぶハンゾーに、赤龍帝は憎悪の増した声色で私を威嚇する。というか、何やらひどい勘違いまで抱えているようだった。

 

 もはや確信に近い領域で、奴は私をあの中二病集団の一員だと思い込んでいるらしい。まあ確かに、クーデターが起こっている最中に誘拐みたいな状況に出会ってしまえば、そう思考が結びつくのも自然なことだろう。思い込みの方は、たぶんすぐそばに転がっているリーダー悪魔の焼死体。城のほうは大分盛り上がっていた様子であるし、そこで見ただろう『禍の団(カオス・ブリゲード)』の悪魔と重なって見えるのかもしれない。

 

 赤龍帝には、私はとんでもないクズ悪魔に見えていることだろう。許すまいと拳を握り締め、絞り出すように絞り出した。

 

「待ってろハンゾー、白音ちゃん。絶対に助け出してやる。……絶対に、もうこれ以上、お前たちテロリストの好きにはさせねえッ!!」

 

 厳めしい言葉だったが、ハンゾーの混乱は勇気ではなく、ひたすらに困惑を口にする。

 

「『助け』……いや待て、そうじゃなく――」

 

「イッセーの言う通りよ!」

 

 だが一文字ずつ探しながらの手探りは、最後まで続かない。

 

 こっちも来ていたリアス・グレモリーの昂然とした声色が、茂みの奥から遮り言った。

 

「冥界のみならず、人間界までもを混乱に陥れるだなんて、そんなことは絶対にさせないし、できないわ!今なら最低限、命の保証はしてあげる。おとなしく二人を解放して投降なさい!」

 

 木の陰からゆっくり歩み出て、そのドレス姿が炎に照らされる。

 

「貴女たちの幹部の一人、クルゼレイ・アスモデウスは既に倒されたわ!他の二人、カテレア・レヴィアタンも、シャルバ・ベルゼブブも、じきに魔王様やハンターたちが倒すでしょう。……人間たちには多少の死傷者が出たけれど、けどそれまでよ!貴女たちの反乱は潰えたの!だから、それでもまだ抵抗するというのなら……もう容赦はしないわ。その子は私の大切な眷属なの。テロリストなんかには、ぜった、い……」

 

 灯りの下に出て、そしてリアス・グレモリーは、逆光の中の私にとうとう気が付いたようだった。

 

 溶けるように消えていった言葉から、昂然がありえないものを見る眼に変わり、怯えるように揺れた。

 

「う、そ……まさかあなた、黒歌……?」

 

「……へ?黒歌?……って、どっかで聞いたような……」

 

 主の様子に怪訝を浮かべ、首を傾げた赤龍帝も続けて気付く。寄せた眉がパッと開き、私を指さして叫んだ。

 

「思い出した!!黒歌っつったら、白音ちゃんのお姉さんじゃんか!!けど……あれ?死んだんじゃなかったんすか!?」

 

「死んだ、はずよ。そのはず、なのに……生きていたの……?しかも、『禍の団(カオス・ブリゲード)』の一員だなんて……」

 

 やっぱり一様に困惑し、しかも赤龍帝と同じ勘違いを呟くリアス・グレモリー。訂正してくれないかとハンゾーと、そして嫌々ながら白音にも眼をやったが、二人とも同じく困惑の只中なのか、一言もしゃべらない。特に白音に関しては私の手を捉えた時のまま、時間でも止まってしまったかのように不動だ。

 

 半開きの口を見つめるのをやめ、私はため息を吐きつつ答えてやった。

 

「……想像はご自由に」

 

 発した声に、場で困惑する白音以外の全員が反応し、眼に我を取り戻した。それで私という存在に実感でも湧いたのか、身を固くした悪魔二人に呆れの眼差しを向ける。

 

「どうせ後でわかるわ。……生き残りのからくり以外はね」

 

「か、からくり……?」

 

 ハンター協会ぐるみのあの隠蔽工作は、まあ別に教える必要はないだろう。彼らから恨まれるのはごめんだし、思惑の出所からして、下手をすればその怨みは人類全体に広がりかねない。

 

 教えなくてもショックから回復した後の白音からバレそうな気もするが、それは小娘一人の証言で露呈するような脆い地盤が悪いのだからと開き直ってやることにする。だから心置きなく、それ以外は好きにしてやろうと、私は白音に掴まれた方と逆の手を二人の前に突き出した。

 

 そして展開するのは妖術の陣。言葉ではなく暴力が返ってくる事態に、二人の緊張が一気に跳ね上がった。

 

 しかし警戒心があろうがなかろうが、無意味だ。

 

「今は、あんたたちに構ってる暇ないのよ」

 

 陣の妖力と仙術とのミックスで、発動したのは毒の霧。瞬く間に周囲一帯を薄い紫に包んだそれは、悪魔や妖怪なんかの魔の者に強烈に働き、麻痺(・・)させる。

 回避する方法は二つ、私のように相応の仙術の技量を持つか、でなければ引いて毒霧自体から逃げるしかない。が、害される直前の白音とハンゾーを助けるという、バカバカしい使命を背負う二人はやはりそうせず、漂う紫煙になすすべなく呑み込まれた。

 

 私の手に引っ付く白音にも当然効果を及ぼし、なかなか外れなかったその拘束がようやく解ける。崩れ落ちるように倒れ込んだ彼女に声を上げかけたリアス・グレモリーも、その悲鳴の前に麻痺が回って倒れた。

 

 だが赤龍帝は、主と仲間をやられた怒りにわめきながら、しかし麻痺に侵されることはなかった。

 

「て、てめえ!!部長と白音ちゃんに何しやがった!!」

 

「……あれ?これドラゴンには効かないのかしら。それとも魔力がへぼすぎて『魔の者』にカウントされなかったとか?だとしたら、面白いわね、それ」

 

 表面上は笑いながら、内側では舌打ちする。リアス・グレモリーも赤龍帝も、弱いがしかし『力』と青臭い使命感だけは強いのだ。放置すればタンニーンとの戦いの邪魔になることは間違いがなく、だからさっさと無力化しておこうと使った毒霧だったというのにこの結果。二度手間になるくらいなら無力化なんて言わずに倒してしまえばよかったと、ため息が湧き出てくる。

 

 ……まあ、赤龍帝は個人的に殺してやりたいと思っていたところであるし、機会だと思えば悪くはないだろう。そう考えることにして、私は向けた手のひらをそのまま、続けてため息を呑み込みながら念弾を見舞った。

 

「ッ!!――ガハッ……!!」

 

 狙った赤龍帝に、当然の如く命中。後ろで倒れるリアス・グレモリーのために避けれたとしても避けなかっただろうが、とにかく直撃した攻撃は服を貫き肉にまで食い込み、口から血を吐かせた。

 

 が、そこまで。どうやら私が思っていた以上にタフだったらしく、折れかけた脚は膝が地に着く前に止まり、当たったお腹を押さえて持ち上げられた顔は、痛みに耐えながらも戦意を消していなかった。

 

「……ふーん、これで倒れないの。加減間違えちゃったかしら」

 

「ッぐ……どうせ今の、念弾てやつだろ?仙術使いならみんな『念』が使えるって、ほんとだったんだな……。生憎、ちょっとばっかし慣れてんだよ、そういうのにはな……!!」

 

 というよりは、純粋に肉体の耐久力が上がっているのだろう。私の殺意の原因であるあの騒動、奴を調子付かせる原因となったピトーのゲームの賜物か。

 思えば私が与えた顔面への一発も、きれいさっぱり完治して痕も残っていない。悪魔の医療技術が優秀とはいえ、私の本気が一日でなかったことになることなどそうありえないはずだ。だからつまり、奴はダメージの逃がし方が上手くなってしまったのだろう。

 

 今の念弾も、破壊力はともかく殺傷力がないわけではない。少しは本気を出す必要がありそうだった。

 

「まあ、いいけどね。全力でやれた方が爽快だわ」

 

「ッ!……言ってろよ……!!とにかく、白音ちゃんとハンゾーは返してもらうからなッ!!」

 

 一瞬日開いた目で動揺と怯えを噛み潰し、言葉通り全力のために『気』を練る私へ、赤龍帝は吠える。

 同時に、奴は小手の拳に魔力を集めた。生み出されたのは米粒ほどのごく小さな魔力の塊で、知ってはいたが、そのしょぼさに思わず呆れが喉に出かかって『念』を乱す。ほんとにこれ相手に本気出すの?と首を傾げる心の声を苦労して諫め、折衷案としてもう一度、能力抜きの念弾を構えた。

 

 しかしそれは次の瞬間、再び発射されることはなかった。突然ハンゾーが私たちの間に飛び出し、慌てた様子で静止をかけたからだった。

 

「待て!待て待てちょっと!!二人とも落ち着けって!!」

 

「ハンゾー!!そうか、人間にもあの霧は効かねえのか!!なら今すぐ逃げろ!!それまでの時間は稼ぐ!!」

 

 赤龍帝の物言いは私がミスを犯したとでも言うようで、ちょっと眉間にしわが寄る。能力的にも混乱的にも脅威でないから放置していただけなのだが、『禍の団(カオス・ブリゲード)』の一員という勘違いの前提があるのではそう思えないのだろう。

 

 とはいえ、逃げてくれるのならこっちとしては大助かりだ。そもそも私はピトーの加勢に向かうためにお邪魔虫たちを排除したいだけなのだから、自ら去ってくれるというなら是非もない。赤龍帝と違って、殺したい理由もないのだからなおのこと。

 

 なのだが、飛び出したハンゾーは赤龍帝の決死に一も二もなく首を横に振り、視線を私と奴とに行ったり来たりさせながら叫んだ。

 

「えーっと……とにかく、攻撃するな!一旦拳を収めてだな……」

 

「攻撃しねえよ、お前が逃げるまでは……!てか、俺がドラゴンショットを寸止めしてっから黒歌も動けねえんだよ!!いいから早く逃げろって!!」

 

「いやだから、そもそもそうじゃなく……だから……ああクソ!どう説明すりゃあいいんだこんなの!!」

 

 やはり動揺ばかりの眼だが、その詰まりながらの台詞から察するに、ハンゾーはどうやら私を敵と思っていないらしい。混乱した挙句に『黒歌』ではなく『ウタ』を信じたのだろうが、とはいえそれを赤龍帝やリアス・グレモリーに納得させる言葉が見つからないのだろう。

 

 『ウタ』が『黒歌』に変わったその瞬間を見た自分自身ですら信じ難く思うのに、というような心境。見てすらいない悪魔二人にそのことを言っても余計に混乱させるだけだ。もしかすれば白音の言葉なら信じるかもしれないが、当人は呆然自失のうえ麻痺したまま。どのみち悪魔界でも人間界でも特級の犯罪者である私たちとは敵対するしかないのだが、知らない、あるいは気付かないハンゾーは情けなく頭を抱えてうんうん唸る。しかしその末とうとうひらめきがあったらしく、一転して晴れ渡った表情で、今度ははっきりと言葉を喋った。

 

「そうだ!曹操連れてこればいいじゃんか!付き合い長いあいつなら、何か知ってるに違いねぇ!」

 

 思っていたより正解に近いひらめきに、私は顔が動かない程度だが驚きを抱く。が、一方の赤龍帝はたまらず露骨な嫌悪を露にした。

 

「なんでよりにもよって曹操なんだよ!何知りたいのか知らねえけど、あいつと一緒に戦うくらいならフェルさんとウタのほうがずっとマシだ!たぶん今日は屋敷にいるはず……助けを呼んできてくれるのはありがてえけど、連れて来るならそっちにしてくれ!」

 

「おま……ッ!ったくよぉ!いいから、オレが戻ってくるまで戦うなよ!!頼むから……そのままじっと、待ってろ!!」

 

 叶うはずもない赤龍帝の要望に半分キレながら、ハンゾーは言い残し、走り出した。後半は私に言っていたような気がするが、残念ながらそれは叶わないだろう。例え曹操が間に合ったとしても、せっかくなのだから赤龍帝は殺して逃げる。

 

 そう心に決めている私は、私の後方にそびえる城を目指して脇を走り抜けるハンゾーを見送った。

 

 徒労に走る後姿に手も振ってやる。もちろんその意のほとんどは嘲笑だったが、しかし途端、表情を見せる前に突然魔力が空気を切り裂く甲高い音が鳴り響き、私の目の前を貫いた。

 

 赤い魔力光線。誰にも当たらず、森の奥でちょっとした爆発を起こしたそれの出所は言うまでもない。赤龍帝が攻撃を放った体勢のまま、私をじっと睨みつけていた。

 

「結局曹操の所に行きやがったのはムカつくけど、だからってハンゾーに手は出させねえぞ……!!」

 

「……あら、また勘違いさせちゃった?ならご生憎だけど、私、別にあいつに用はないのよ。言ったでしょ、構ってる暇ないって」

 

「へっ、負け惜しみかよ。霧が人間に効かなくて残念だったな!……これからそのこともっと後悔するぜ。言いたくねえけど曹操の野郎、強さだけは本物だからな!」

 

 ハンゾーの逃走を庇ったつもりらしい赤龍帝の目算では、どうやら私よりも曹操のほうが強いらしい。しかも聖槍なしでだ。

 

 実体験故の補正で色が付いているのだろうが、それにしても酷い侮辱。赤龍帝は私を向かつかせる才能でもあるのだろうか。そりゃあ昨日の喧嘩では少し遅れを取りはしたが、あれは『念』と体術に絞った戦いであったからだ。仙術が使えれば、タイマンでも負けはしなかった。

 

 嘲笑の顔が歪みそうになる。邪魔を排除できればいいと思っていたが、そろそろいい加減本気で殺したくなってきた。本気でボコって思い知らせてやりたい気分だ。

 

(――いや、むしろ……)

 

 私は、そうするべきなのかもしれない。

 

 ふと、そのことに気付いた。

 

 吹き飛ばされた先で戦っているだろうピトーには、さっきの『堅』を見るにまだ余裕があるだろうし、なら私はこっちを優先すべきではないか。思い至って頭が邪魔の排除から切り替わった。そのために、これ見よがしに出した念弾を己の周囲に漂わせながら、煽り全開で忍び笑いを送りつける。

 

「へえ、そうなの。じゃあ来ちゃう前にあんた殺して逃げちゃいましょっか。……ああ、やることは結局変わらないわね」

 

「……そうだな、変わらねえ。あんたが女だろうが、白音ちゃんの姉さんだろうが、『禍の団(カオス・ブリゲード)』のクズ野郎どもと同じだって言うなら……俺の、敵だ……!!」

 

 中二病集団への憎悪と混ざって見事に徹底抗戦を取ってくれた赤龍帝は、拳を構えて足を一歩前に出した。受けた念弾からの実力差も記憶の彼方に飛ばし、恐れを忘れた無謀の光が眼に宿る。

 

「随分憎まれちゃったものよね。そんなに私を殺したいなら、戦うよりも逃げちゃった方がまだ可能性があるんじゃない?曹操に任せて、ね。……わかってるんでしょ?自分じゃ黒歌に勝てないって」

 

 さっきまで期待していた薄い選択肢も、その瞬間、私の煽りに消え去る。

 

「勝てないも何もあるか!今逃げたら、白音ちゃんもリアス部長も、あの人たちみたいに殺されちまう……なら、黒歌、お前がどれだけ強くても関係ねえ!!これ以上俺の目の前で、人を……よりにもよって大切な仲間を、殺されてたまるか……ッ!!俺の大切な人たちを傷つけるやつは、誰であろうと許さねえッ!!」

 

 『Boost!!』と倍化の音。小手の宝玉が始動し、奴の『力』が引き上げられる。

 それが向けられる先は私だ。奴が見てきた他の『禍の団(カオス・ブリゲード)』同様、クーデターのために虐殺をよしとしている、過去に白音を捨て、傷つけた『黒歌』。

 

 そう思い込んでいるのなら、それがいい。それなら私も、白音の仲間を(・・・・・・)思いっきりやれる。

 

 ただの悪魔ではない、それができればきっと――ピトーも、私のことを信じてくれるだろう。

 

 私と白音を会わせたその不安も、きっと消してあげられる。

 

 そんな想いが私の口角を持ち上げる。赤龍帝はそれを眼にしてより激しい敵愾心を灯し、全身を強張らせた。

 

 だが、私へ放つために振り上げたその拳を、リアス・グレモリーの手が引き留めた。

 

「ぶ、部長!?何を……」

 

 驚愕の赤龍帝にも、そしてなんと毒霧にも抗い、リアス・グレモリーは赤龍帝の肩を掴んで立ち上がると、当の赤龍帝には何も答えないまま、その表情が一瞬躊躇うようにきゅっと閉じられた後、私に向けられ言葉を発した。

 

「……白音を……取り返しに、来たの……?」

 

「……は?」

 

 せっかく見出した『悩みの種の消し去り方』が、まとめてゴミ箱に叩き込まれるかのような台詞だった。

 

 脚も腕もプルプル震えるほど、今もまだ身を蝕む痺れを必死に耐えながら、脂汗を垂らしてようやく言ったのが、それ。意味がわからず、キョトンと呆けて疑問符を呟く以外になかった。

 

 そして突然はしごを外されたようなその気分は赤龍帝も同じだったようで、敵愾心の熱を抜かれた奴はやはり、言葉の意図がわからず戸惑うばかり。話題の当人たる白音も、うつ伏せに倒れたまま動かず、数秒の静寂をもたらしたリアス・グレモリーは、ぎこちなく息を吸った後、続けて言った。

 

「だから、黒歌……貴女の目的よ。貴女は……本当に『禍の団(カオス・ブリゲード)』の思想に傾倒してここにいるの……?それとも、白音のため……?」

 

「……なによ突然、キモいんだけど。そんなこと聞いて何になるのよ。どうせ敵同士であることに変わりはないんだから。……それとも、やっぱり時間稼ぎ?なら無駄よ、起きちゃったなら、あんたもまとめて殺すから」

 

「……その前に、答えて。それ次第では戦うし、貴女の言う通り……逃げもするわ」

 

 思わず息を呑んだ。赤龍帝が言ったように、『逃げる』は即ち白音を見捨てるということだ。

 

 リアス・グレモリーがそれを良しとすることはまずありえない。私でさえそう思っていたのだから、下僕の赤龍帝にその宣言はすさまじい衝撃だっただろう。さすがに遠慮を投げ捨て、必死の形相で詰め寄った。

 

「ぶ、部長!!……聞き間違いですよね……?白音ちゃんを置いて、逃げるだなんて――」

 

「黙って一誠!!私にとって……いいえ、私と白音にとって、重要なことなの……!」

 

 しかし上回る覚悟の声が、赤龍帝の詰問を跳ねのけ、押し流した。そうするのにどれだけの苦悶があったか、表情にありあり現れるそれに赤龍帝は困惑しながらも、私への警戒とで意識を半々にして押し黙った。

 

 リアス・グレモリーはまた一つ大きく深呼吸すると、痺れとは別の苦しさで眉を歪めながら、さらに続ける。

 

「……あの日、力に溺れた貴女が主を殺した日、白音を連れて行こうとしたことは知っているわ。白音の抵抗で、それが叶わなかったことも……。だからこれは……あの日の続きなの?……白音を……迎えに来たの……?」

 

「……ああ、なるほどね」

 

 リアス・グレモリーからのそれに、つい不満の蓋が緩んだ。

 

 つまりこいつも、私を白音の姉として見ているのか。妹が何よりも大切で、そのためにすべてをなげうち、尽くして、結局裏切られたあの時から、私が何一つ変わっていないとでも思っているのか。

 

 曹操も、そしてピトーもそうだ。それだけの仕打ちを受けて、私が変わらず白音を愛せていると、なぜそう思えるのだろう。今はもう、白音のことが何よりも(・・・・)大切な姉の黒歌なんて、どこにもいるはずがない。今のその席は他の誰でもなく、ピトーのものだ。

 

 勝手に奪ってくれるなと、私はそれを証明するために、苛立ちで痙攣を始める口の端を吊り上げ、ピトーがするような残酷の笑みを作ってみせた。

 

「それもいいかも。生きたままなら利用価値なんていくらでもあるし……うん、今ちょっと金欠なのよね。売り払ったらいい値が付くかもしれないにゃん」

 

 そうだ。白音の仲間なんて言わず、白音そのものを標的にした方がずっと手っ取り早い。

 

 最初からこうすればよかったのだ。何なら私の拷問の練習台になってもらうのもいい。死ぬよりもずっと辛い目に私自らが遭わせてやれば、いくらなんでも信じてもらえるだろう。

 

 私が、ピトーを決して裏切らないことは。

 

「これならほんとに、毒霧はいらなかったわね」

 

 倒れ伏す白音の襟首に手を伸ばした。リアス・グレモリーのように復活されないうちに処理をしてしまうつもりだったのだが、しかし私のその手は次の瞬間弾かれるように引く。首ではなく放たれた赤い魔力を迎え撃ち、掻き消した。

 

 その赤い魔力、滅びの魔力の散った残滓越しに、私はリアス・グレモリーへと眼を向ける。

 

「教えてくれたのあんただってのに、邪魔するの?やっぱりご主人様は白音が惜しくなっちゃったのかしらん」

 

「……白音が、あの子を傷つけてしまった私の下にいるより、姉である貴女と一緒にいたほうが幸せになれるのなら、止めなかったわ」

 

 ゆっくり閉じられた目が開き、私を睨みつけた。そこにはもうさっきまでの苦悶はなく、吹っ切れたそれの分、純粋な敵を見る眼で続けて言う。

 

「けどやっぱり、力に呑まれた貴女は白音の幸せにはなれない。姉妹に戻っても傷つくだけなら……絶対に、そうはさせないわ。今度こそ、私が白音を守って見せる……!白音は、貴女の妹じゃない。私の可愛い眷属よ!!」

 

「……へえ」

 

 心に何かが刺さったような感覚がして、一瞬言葉が出なかった。誤魔化すように笑みを深め、首を傾けた。

 

「酷いこと言うのね。『力』に呑まれただの、幸せになれないだの」

 

「事実でしょう!主も眷属も、無関係の人たちまで何十人も殺して……『禍の団(カオス・ブリゲード)』、『旧魔王派』と関わっていたのなら、知らないわけではないはずよ。貴女があんなことをして生み出した悪意に、白音は巻き込まれてしまったの……!裏切られて、頼る先を無くして、処分までされかけて……私があの子と出会った時、あの子に感情なんてものはなかったわ。それだけ、貴女はこの子を傷つけてきたのよ!」

 

「もちろん、知ってるわよ。リアス・グレモリー、あんたが私たちを殺させたせいで、さらに増して地獄みたいになったってことまでね」

 

「ッ!!それは……」

 

 疲れたリアス・グレモリーが唇を噛む。しかしすぐに立ち直り、反論せんと口を開いた。

 

 が、今度は私の方が誤魔化しきれなかった。止められず、吐き出した声に怒りが混じる。

 

「けど、誘拐されかけたのもそうだけど、そんなの全部、白音が自分で選んだ未来じゃない」

 

「自分、で……?」

 

 疑問符を跳ね飛ばし、眼はリアス・グレモリーに向けたまま、さらにまくしたてる。

 

「あんたの言う通り、白音は私の手を跳ねのけたの。いい?せっかく一緒に連れて行ってやろうって思ったのに、それを拒絶したのよ。私と来れば、あんたの言うように悪意の矢面に立たされることもなかったし、誘拐だってされなかった。それを蹴って、私のせいで傷ついた?そんなの自業自得じゃない。なんでそこまで責任取らされなきゃならないわけ?冗談じゃないわ、知ったことじゃないのよそんなこと」

 

 一つ、息を吸う。

 

「あの時とっくに道は分かたれたんだから、都合のいいときだけ姉妹を持ち出さないでほしいわね」

 

 とっくの昔に、私と白音は姉妹ではなくなっているのだ。なぜそんな簡単なことをわかってくれない。

 

 リアス・グレモリーも曹操も、何より、ピトーも。わかっていてもどうしようもない、信じてくれない事への憤りは隠せはしても消し去りようがなかったのだ。

 

 他でもないリアス・グレモリーが言うから、私は堪えることができなかった。

 

 その怒涛の放流に気圧されていたリアス・グレモリーは、やがて眼に白音を思い出し、そのために怯みを振り払って唸るように言った。

 

「……でも、それならなおのこと、貴女に白音はあげられない。言葉はもう不要よ!さあ、私の大切な眷属を返して頂戴!!」

 

「おしゃべり始めたのはあんたでしょ。ほんと勝手よね、情愛のグレモリーさん?そんなに手放したくないなら、首輪とリードでも付けておけば?……そうだ、そこまで言うなら、いっそ白音に決めてもらいましょうよ。よくある離婚劇みたいに。ほら、こういう場合って当人の意思が重要なもんじゃない?」

 

 リアス・グレモリーの決意の号令もスルーして、私は白音へ尋ねる。

 

「さ、白音。私とリアス・グレモリーと、どっちに付いて行きたい?」

 

「あ、貴女はッ……!!」

 

 遅れたリアス・グレモリーの戦慄。その意味もどうでもいい。しゃがみ込んで白音の目を覗き込むと、ちょうどその瞬間、瞳の中に思考の光が蘇った。

 それを、辛うじて保った表情のまま見つめる。勝手に鼓動を速める心臓を気のせいと断じて黙らせて、麻痺のせいでか細く震えた白音の唇が紡ぐ言葉を見守った。

 

「……わたし、は……」

 

 ――いや、見守る必要など、ないだろう。

 

「なーんてね!」

 

 半笑いで張った声が遮り、たちまち眉が歪んだ白音を尻目に立ち上がる。

 

「心配しなくても、白音、あんたが私のこと大嫌いだってことは、ちゃあんとわかってるわよ。自分の手で殺してやりたいくらい憎んでるってこともね。だからあの時、私の腕を掴んできたんでしょ?」

 

 応えは求めず、眼を、怒りが戻りつつあるリアス・グレモリーに向けながら、私は続けて首を振った。

 

「けど、ごめんね白音。ぶっちゃけ、あんたが私をどう思ってるかなんて知ったことじゃないの。……私もあんたが大嫌いだから」

 

「……ねえ、さま……」

 

 小さく弱々しい声が呟いて、私の眼はそっちに戻る。再び合わさった視線の、その瞳に映る私の邪悪な笑みが、またぴくりと跳ねて手を伸ばした。

 

「だから、せっかくお勧めされたことだし、静かなところでじっくりゆっくり時間をかけて――殺してあげる」

 

 投げつけた残忍な死の未来が、白音を凍り付かせる。

 

 ……これでいいのだ。

 

(これで私は、ピトーに――)

 

 それを、

 

「させねえッッ!!」

 

 やっぱり、赤龍帝が止めに来た。

 

 叫び、突進してくる。気合迸る声の迫力と溜めていたらしい小手のパワーはともかく、足は大して速くない。機動力だってたかが知れている、さっきと変わらない無謀な正面突撃だ。

 

 だからこれで十分と、漂わせていた念弾の一つを向かわせた。頭の中がごちゃついた中での、お世辞にも集中できているとは言えない攻撃だったが、念弾はその波に揺らされることなく、赤龍帝を真正面から迎え撃つ。

 奴の能力で避けられるはずがなく、命中すれば二発目のこれは耐えられないだろう。そうなればよかったのだが、しかし今度はリアス・グレモリーがいた。飛んで割り入った滅びの魔力が私の念弾と相殺し、道が開ける。遮るものがなくなった赤龍帝はそのままそこを走り抜け、拳を振り上げた。

 

「――ッ!!」

 

 だが、念弾はまだあるのだ。引き絞ったパンチが放たれるよりも早く、漂わせたうちのまた一つが飛び、小手を跳ね上げた。

 

 そしてバランスを崩し、がら空きになった正中線に一発を……と思ったが、しかしその瞬間目の前で起きた事態に、私は構えた連撃を止めた。力んだ左腕を撃たれた赤龍帝が、予想を外れてバランスを崩すだけに留まらず、身体ごと浮いて吹き飛んでしまったのだ。

 

 半端な集中で放っただけに、今の念弾にそこまでの威力はない。違和感が生まれるがそれはいったん置いておいて、私はリアス・グレモリーの下まで跳ね返されて尻もちをついた赤龍帝に、とりあえずの嘲りを口にする。

 

「……もしかして、これが全力?あんな啖呵切ったのに、二人合わせても結局この程度なの?……こんなにも弱いのに白音を取り返すだなんて、お笑いにもならないわよ」

 

「……確かに、俺は弱いよ。歴代最弱の赤龍帝ってお墨付きまでもらってんだ。……だけどな、舐めるなよ黒歌……!俺と部長の力はこんなもんじゃねえ!今ので勝った気になるのは、まだ早いぞ!!」

 

「ええ……!そうよ!黒歌が格上と認めるのは悔しいけれど、曹操と戦ったあなたなら大丈夫。それに私もいるわ!だから……二人で白音を救うわよ!!」

 

「はい部長!!」

 

 相変わらず威勢だけはいい。曹操の蹂躙から何かしら得たらしいが、ボコボコにされて手に入るのは精々耐久力くらいのものじゃないだろうか。

 

 後は、もしかすればあのスケベ技を使う気か。やった瞬間がお前の最後だと、思い出して湧いた苛立ちのおかげで、そぞろになっていた戦闘への集中力が図らずも息を吹き返す。念弾へ込める『気』が上がり、わきに追いやられた邪魔事が頭に明瞭な思考を取り戻した。

 

 そうして、ようやくまともに戦闘へと傾いた私の意識。身を起こし、私を静かに見つめる赤龍帝と、勇ましい顔で滅びの魔力を構えるリアス・グレモリーに警戒心を向けていた。

 

 すると赤龍帝が、構えもせずに神妙に言った。

 

「……部長。実は俺、秘策があるんです」

 

 スケベ技が頭をよぎる私とは異なり、リアス・グレモリーは同じく神妙に返す。

 

「ええ、わかっているわ。禁手化(バランス・ブレイク)ね」

 

(……そういえばそんなのもあったわ)

 

 失念はスケベ技のインパクトのせいと決めつけ、また一段階警戒を引き上げる。赤龍帝は一つ頷き、じっと私に眼を向けたまま言った。

 

「あの時は成功しましたけど、後で試したら一度も成功しなかった。悩んでたら、フェルさんとの修行中、ドライグが教えてくれたんです。『禁手化(バランス・ブレイク)は劇的な変化がなければ至れない』って。それで俺、気付きました」

 

 視線がその身体と一緒に反転し、リアス・グレモリーに向けられた。私に背を晒した姿で、続けて言った。

 

「だから、部長!!」

 

 その明らかな隙に、私が念弾を放とうとしていることにも気付かず。

 

「おっぱいを突かせてください!!」

 

 赤龍帝は、そう言った。




おやくそく。
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十七話

「…………え、なに?」

 

 たっぷりと呆けた挙句、構えた念弾のことも忘れて頭の中を困惑でいっぱいにしてしまった私のことは、誰にも責められないはずだ。唖然として敵意も警戒心もすっかり削がれたとしてもしょうがないと思う。

 

 だって今まさに殺し合い、というよりは殺戮が始まるであろうこの状況で、赤龍帝が鹿爪らしく言った言葉が『おっぱい突かせて』なのだ。

 

 こんなのどうすれば集中(シリアス)を保てるんだ。

 

 だというのにどういうわけかわかってしまったリアス・グレモリーも、同じく神妙に、しかし僅かに顔を赤らめながら言った。

 

「……わかったわ。けど……その、揉むとかでは、ないのね……?」

 

「はい、揉むだけじゃあ駄目なんです。それは、『劇的な変化』じゃない。手のひらに感じるあのふわふわも素晴らしくはあるんですけど、禁手化(バランス・ブレイク)するにはまだ足りないんです……。もっと……もっと、おっぱいにはまだまだ可能性があるはずなんです……!!それで俺、ずっと考えてて……思いついたんです。手のひら全体より、一点集中。指先にすべての可能性を凝縮すればいいんだって!!」

 

 そしてやっぱり赤龍帝が返した熱弁も、相変わらずよくわからない。どうしておっぱいの可能性とやらが禁手化(バランス・ブレイク)の話になるのだ。

 

 奴が曹操にボコられる最中、仲間の胸がどうたら言って怒りで禁手化(バランス・ブレイク)したことは覚えているが、まさか本気でこういう方向の覚醒を目指すつもりなのか。

 

「……何のための筋トレなのよ、ほんとに」

 

 思わず口に出た呆れは、さっきの困惑共々、喜劇みたいなやり取りをする二人に届いていない。止める者もおらず、私を置いてきぼりにますます明後日の方向にぶっ飛んで、リアス・グレモリーはしっかりと頷いた。

 

「それで貴方が至れるのなら、異議もないわ。私の胸、好きに突きなさい!」

 

「ッ!!……本当ですか?突くんですよ?おっぱいの正中線、乳首という名の頂を……!!」

 

 躊躇う赤龍帝に、リアス・グレモリーは自分のそれごと振り払うようにして、ドレスの上をたくし上げた。

 

 夜会用の薄いドレスはもちろんその下に何も纏っておらず、たぷんとまろび出たのは重量感のある乳房。肌の手入れはしっかりしているようで、ハリツヤも弾力も一級品だ。まあ私ほどではないが――いや別に今はマウントを取っている場合ではなく、だ。

 

「いっそ何かの作戦だったりするのかしら、これって」

 

 一応、今は戦闘中であるはずだ。これが私の集中力をかき乱すつもりであるなら大成功としか言いようがないが、同時に赤龍帝の眼もお目当てのおっぱいに釘付けになっているようでは意味がない。だから私は煽り八割、残りの二割の願望を込めて、今度こそ聞こえるように言ってやった。

 

 が、願いは叶わず、振り向いた赤龍帝は焦りの表情を私に向けた。

 

「集中できねえからちょっと黙っててくれよ!!俺の初めてのおっぱいプッシュなんだぞ!!」

 

 どうやらその焦りすら、『黒歌』の存在ではなくおっぱいに向いている始末。初めてと言うなら私だってこんな状況は初めてだ。猫又の女として男の欲望は熟知しているつもりだったが、色欲を前にして敵を放置するような、度を越した変態がこの世に存在するとは思ってもみなかった。

 

 そんな相手と理解してしまえば、緊張が切れるのも早かった。辛うじて保っていた僅かな戦意も消え去って、本気を出すどころかこれから戦うことすら馬鹿馬鹿しく思えてくる。脱力してしまった拍子に念弾たちも消え、なんだか投げやりな気分のまま、私はため息を吐いてひらひら手を振った。

 

「はいはい、終わるまでおとなしくしてるわよ。けど早くしてね、何度言ったかわからないけど、私急いでるんだから」

 

「早くとかそんな簡単に言うなよ!!俺は今、過去最大級に難しい問題と戦ってんだ!!……おっぱいプッシュを思い付いた時からずっと、これだけは答えが出ねぇ。その時になればわかるかと思ってたけど……やっぱり無理だ!!右のおっぱいと左のおっぱい、どっちを突けばいいのかわからねぇッ!!」

 

 もはや笑いしか出てこない。

 

「どっちでもいいんじゃない?けど……強いて言えば左のほうが張りがいいかしら。最近弄ったでしょ」

 

 適当なことを、それっぽい表情で注視しながら言ってやった。巻き込んでやったリアス・グレモリーは目論見通り赤い顔をさらに赤くして、「弄っ」と繰り返して鼻血を噴いたっきり硬直した赤龍帝へ、必死の否定で首を振る。

 

「ち、違うわよ、イッセー!!黒歌が適当なことを言っているだけよ!!い、弄ったんじゃなくて、……ちょっと最近、みんなと比べて私のは……その……どうなのかって、気になっただけで……とっ、とにかく!!騙されちゃ駄目よ!!彼女は敵なんだから!!」

 

 冷静になって敵対関係のことを思い出したあたり、案外私の適当は当たっていたのかもしれない。実際どうなのかは闇の中だが、とにかくその勢いに押されて赤龍帝は頷いた。鼻血はぼたぼた垂れたままだが再起動を果たし、曰く過去最大級の問題との対峙に戻る。

 

 がしかし、私の適当はしっかりその変態性に根付いていたらしく、左胸に眼が向いた途端、真面目顔に絶妙なキモさが紛れ込み、ニヤついた笑みとなって声に表れた。

 

「もちろん、わかってます部長。黒歌の言ったことは、俺を惑わすための嘘……わかってるんです……!けど……もしかすれば、左おっぱいの張りがいいっていうのは、本当なんじゃ……?」

 

「い、イッセー!?」

 

「もしかしたら、俺も部長も気付かないことに気付いてるのかもしれない……!黒歌は仙術使いなんですよね?俺はウタの仙術くらいしか知らないからそうだとは言い切れないけど……けど違うと否定もできない!……記念すべき最初のひと押し……間違えるわけにはいかないのに……黒歌が嘘をついていないなら、正解は左のおっぱい……嘘をついてるなら右のおっぱい……いや、嘘をついてるからって右のおっぱいが正解とは限らないのか……くそッ!!どっちだ……俺はどっちのおっぱいを突けばいいんだ……ッ!!」

 

 リアス・グレモリーの顔がどんどん赤くなっていくことにももはや気付かず、思考の沼にはまっていく赤龍帝。その発端が私の悪心による適当発言であるのだから、ここまでになるとさすがに後悔が滲み出てくる。

 

 とはいえしかし、ここまでめんどくさい迷走をすると誰が予想しただろう。誰にもできるはずがない。おっぱい一つでここまで思い悩める奴なんて、世界中探しても間違いなくこいつ一人だ。

 

 故に予測不可能。ついでに回避も不可能。だから私は悪くないと、やっぱり責任から逃れた私は仕方なく、やる気を振り絞って念弾を一つ構えた。

 

 赤龍帝の頭が決着をつけるのを待っていたらいつになるかわからないし、何より私はピトーのために急いでこいつらを排除しなくてはならない。

 というか、そういえばそうだった。思い出してから危うく忘れかけていた重要度も同時に思い出し、そしてどうにか二つ、念弾を生み出した。

 

 だがその時、不意にリアス・グレモリーが赤い顔をぷいっと背け、言った。

 

「も、もうバカっ!……そんなに悩むのなら、いっそ両方突けばいいじゃない……」

 

「両……方……?」

 

 赤龍帝が正気――中身は相変わらずだが――に戻り、目線をリアス・グレモリーの乳房から顔へと持ち上げる。一瞬呆然として、それからいかにもな驚嘆で目を丸くした。

 

「そんな……そんな心躍る日本語があったなんて……!でも……部長、本当にいいんですね?右のおっぱいと左のおっぱい、両方の乳首を同時に押しちゃうんですよ……?」

 

「い、いいから、早くなさい……。いい加減、恥ずかしいのだから……」

 

「……はい、部長。……行きます」

 

 腕で鼻血を拭い、【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】を解除して素手に戻ると、突き出した両手の人差し指。赤龍帝は鼻息荒く、血走った眼で凝視するリアス・グレモリーの乳首へとゆっくり伸ばした。そのそばから溢れる鼻血で足元に小さな池を作りながら、そしていよいよ、指先がピンク色の突起に触れた。

 

 ぴくりと僅かに身を震えさせるリアス・グレモリーに一瞬指の進行を止めるも、しかし欲望に呑まれる赤龍帝はすぐにかぶりを振り、そのまま勢いよく突く。指が柔肉に沈みこみ、形が歪むも変わらない弧の線とその弾力に、赤龍帝の表情が歓喜を叫んだ。

 

 それが声にも出る、その直前、

 

「……ぃゃ」

 

 とうとう羞恥に我慢ができなかったのか、リアス・グレモリーの口から喘ぎのような声が漏れた。

 

「…………何か、鳴った……?」

 

 歓喜が滞り、呆然の呟き。たぶんまだ女を知らない赤龍帝には掴めない正体は、だが恥ずかしそうに目を伏せるリアス・グレモリーの姿によって拒絶でないことだけは理解して、歓喜の中に組み入れられた。

 

「……素敵なものが、鳴った……!」

 

 表情に歓喜が戻り、そして、不純な満面の笑みに昇華された。

 

「鳴ったぁ!!!」

 

 瞬間、『力』が、爆発でもするかのように溢れかえった。

 

『至ったァ!!本当に至りやがったぞッ!!』

 

 赤龍帝の左腕から、そこにあった宝玉と同じ緑の閃光が巻き散らされ、一緒に聞き覚えのある大力無双なドラゴンの、歓声のような嘆きのような、どうにも私と似た投げやりの気配がする叫びが響く。

 

 しかしとにかく溢れかえったドラゴンの『気』はやがて纏まり、『Welsh Dragon Balance Breaker!!』と、禁手化(バランス・ブレイク)が発動する。瞬く間に奴の身体は赤いドラゴンを模した鎧に包まれ、さらに背中にはドラゴンらしき翼までが生えた。さっきまでとは比べ物にならないほどの『力』を宿して雄叫びを上げ、赤龍帝は鎧を鳴らしてポーズを決めた。

 

禁手(バランス・ブレイカー)、【赤龍帝の鎧(ブーステッド・ギア・スケイルメイル)】!!主のおっぱい突いてここに降臨ッ!!」

 

 たぶんあの時の曹操も、私と同じ気持ちだったに違いない。観客として見る分には、まあ一応愉快な見世物だったが、当事者になってみれば感想はただの一つだけだ。

 

「ほんと、なにこれ」

 

 それ以上に何を思えばいいのだ、こんなもの。

 

『おめでとう相棒!!しかし酷い。俺は本格的に泣くぞそろそろ』

 

 そう思うなら止めればよかったのに、とある意味での同志を心の中で憐れんでやって、私はおざなりに拍手をしながら失笑を口に乗せた。

 

「はいはい、パワーアップおめでと。面白い覚醒シーンじゃない。……じゃあ、もう始めていいわよね」

 

 何度もやる気を挫かれたが、いい加減にしなければ。言うと私は、漂わせていた念弾の一つを操り、赤龍帝に放った。

 

 奴はすでにダメージを負っている身だ。さっきまでなら、これで終わっていた。しかし命中し、炸裂したそれは、赤龍帝に膝を突かせることすらできない。

 

「ッ……こんなもんか?全然効かねえな……!!」

 

 やせ我慢を見るにある程度は効いているようだが、仁王立ちしたままの奴にはやはりもう効果が薄いようだった。

 

 わかってはいたことだ。鎧という防具に加え、かなり高まった『力』。私の念弾は、一発でそれを抜けるほどの威力を有していない。そもそも【黒肢猫玉(リバースベクター)】ありきのものであり、元から威力的には大したことがないのだ。

 

 だから仕方がないことではあるが、赤龍帝如きに防がれたというのは中々に腹立たしかった。かといって今更このふざけたザコに本気を出すなんてこと、馬鹿馬鹿しくてとてもできない。

 だからせめて『念』だけで倒しておちょくってやると決めた私は、まともなダメージを与える手を脳内で探しつつ、念弾を手に、赤龍帝と一発のおかげで戦闘のスイッチが戻ってきたリアス・グレモリーの出方を伺った。

 

 しかし動き、次に飛んできたのは反撃ではなかった。

 

「どうだ、わかっただろ!!お前の攻撃は今の俺には通じねえんだ!!逃げるなら今の内だぜ……!!」

 

「……曹操も、もうすぐ到着するわ。そうなればもうおしまいよ、黒歌!!」

 

「……ふぅん」

 

 威嚇。いや、それも違うか。

 

「なら、倒してみれば?」

 

 私ではなく、私の背後で倒れ伏す白音に向いていた二人のそれに、私は口角を上げて念弾を放った。

 

 今度は二人とも反応し、その場から飛び退いた。左右に分かれ、赤龍帝は正面から、リアス・グレモリーは回り込むように向かってくる。

 

 私を倒すのではなく、白音を救出しようとしているのは明らかだった。

 

 赤龍帝が私を引き付け、その間にリアス・グレモリーが助け出す、という作戦なのだろう。確かに人質を取られている現状、利用されないうちにとそっちを優先させるのは至極妥当な手だ。一人が相手をして一人が隙を突くというのも、定石にあることに違いない。

 

 ただそれは、私と彼女たちほどの実力差があれば成立しないものだ。

 

「かは……ッ!」

 

「ぶ、部長ッ!!!」

 

 躱された念弾を操り、リアス・グレモリーの剥き出しの背に当ててやった。不意の攻撃で詰まった息が苦悶と共に血を吐き出し、眼にした赤龍帝が戦慄に足を止めた。

 私への突撃をやめ、膝と手を突き倒れたリアス・グレモリーを助け起こす赤龍帝に、嘲弄いっぱいに笑ってやる。

 

「あはは!ま、無理よね、私を倒すだなんて。だってあんたたち、こんなに弱いんだもの。ざまあないわ」

 

「ッてめえ!!よくも部長を……!!」

 

 眼の割合を増す怒り。煽りに乗った赤龍帝は、今度こそまっすぐ私に突っ込んできた。

 そこまで距離があるわけでもないが、その間を、ドラゴンの羽で文字通り飛ぶように駆けてくる。改めて認識したその速さは中々のものだ。防御力も然り、腐っても神滅具(ロンギヌス)の一角である神器(セイクリッド・ギア)禁手(バランス・ブレイカー)だ。雑魚悪魔のパワーアップとはいえ、侮っていいものではないだろう。

 

 怒りで振りかぶられた拳は、真正面から受ければ痛手を負いかねないほどの力を秘めている。さっきまでの赤龍帝とは確かに違うと認めざるを得ないが、とはいえまだまだ私の下だ。速いといっても十分追いつける範疇だし、防御力も……まあどうにかできるはずだ。

 攻撃に関してもそう。受けれはせずとも受け流す方法はいくらでもある。だから私も禁手化(バランス・ブレイク)を見た最初、釣り出した赤龍帝にただカウンターを見舞ってやるつもりだったのだが――白音への注意を眼にして思い直した。

 

 ピトーから借り受けた悪意に身を任せる。迫る赤龍帝のストレートパンチを見つめたまま、後ろに回した片手にそれを掴み、奴の前に引っ張り出した。

 

「な――ッ!!」

 

 麻痺に侵された白音の身体に、赤龍帝はやはりビタリと拳を止めた。

 

 兜で表情が見えないのが残念だ。あるいは止まらなければそれはそれで面白かったのに、と小さく鼻を鳴らす。うすら笑いを浮かべたまま、私は白音を背後に抛り捨て、返しの手に念弾を撃ち放った。

 

「仲間を盾にされたら攻撃もできないなんて、ほんと甘々すぎよ……!」

 

 至近距離かつ怯んで硬直した身体で回避も防御もできるはずはなく、念弾はがら空きの頭にめり込み、のけぞらせると同時にその脳を揺らす。

 

 私に乗せられて白音の救出を忘れかけたのもそうだが、総じて覚悟が、ルール無用の殺し合いに対する経験が足りない。戦闘力どころか精神面でも圧倒的に劣る連中に、私をどうにかできるはずもないだろう。

 

「そのことくらい理解してくれないと、張り合いもないわね!」

 

 ただでさえつまらない雑魚戦である上、馬鹿馬鹿しいものまで見せつけられたにもかかわらず、仙術抜きとはいえ本気を出してやっているのだ。せめて楽しませてくれなければ割に合わない。

 

 言い捨てて、ふらつく赤龍帝にもう一撃を加えるべく再び念弾。威力を求めていつもより二回り巨大化させた『気』の光球を操り、放った。

 

 痛撃と衝撃を脳に受けて前後不覚の状態であるはずの赤龍帝には、やはりこれも避けられない。うまくいけばこれで止めになるはずだったが、しかしさすがにそこまでうまくはいかず、射線上に赤黒い魔力が割り込んでくる。反応して念弾を操り、その滅びの魔力から逃がすと、そっちへ向いた私の意識に、リアス・グレモリーは背の痛みで歪んだ顔のまま立ちはだかり、魔法陣を私に向けた。

 

「甘いだなんて……理解していないのは貴女よ、黒歌!!くらいなさいッ!!」

 

「あれを甘さでなくなんて言うわけ?まあ、温室育ちのお嬢様に理解できるはずもないかしら」

 

 飛んできた滅びの魔力を片手間に弾いてやりながら、避難させた特大念弾を操作する。分裂させ、普段通りのサイズの十数個の念弾に変えてリアス・グレモリーにけしかけた。

 

 これだけの数を操れるとは思っていなかったのだろう。青い顔をして魔法陣の障壁を張るリアス・グレモリーに、私は次々念弾を撃ち込みながら言ってやる。

 

「いい?何かを得るには必ず対価が必要なのよ。守られて甘やかされてきた貴族感覚じゃ薄いかもだけど、人間界で高校生やってたんならわかるでしょ?お金と同じよ。モノにしてもサービスにしても、釣り合う金額を払わなければ手に入らない」

 

「……何の、話よ……!」

 

 おちょくられていると感じたらしいリアス・グレモリーが、軋む防壁の維持とは別方向で眉を歪める。

 

 構わず続けた。

 

「買い物だけじゃない、物事全部そうよ。何かを為すには対価を払わなければならない。要は、犠牲ね。釣り合う犠牲を捧げてようやく、あんたのそれは手に入るのよ。……なのに、でかい顔して家族(・・)だなんて言っちゃって……今度は私もどうにかできるって思ってる。守ってくれる人も甘やかしてくれる人も、ここにはいないのにさ、知らないから、私を倒して白音を取り返して、何も失わなずに『みんな幸せハッピーエンド』を迎えられるって思ってるでしょ」

 

「……だから、何の――ッ!!」

 

「人生の先輩として教えてあげる」

 

 疑問符を浮かべたリアス・グレモリーの防壁が、その瞬間にとうとう砕けた。

 

「『どっちも』なんて選択肢はこの世界にはないの。片方が惜しいなら、もう片方は諦めなくちゃならないわけ」

 

「きゃ――あぐっ……!!」

 

 防御を突き破り、鳩尾近くに念弾が突き刺さる。再び膝が地に着き、震える両の手が胴に回る。

 

「えーっと……何言ってたんだっけ?……ああそう、だからつまり――」

 

 適当に思いつくまましゃべった興奮の彼方に消えたが、『言ってやろうとしたこと』は思い出し、内臓の激痛に苦悶するリアス・グレモリーを見下ろしながら、わだかまり続ける文句を告げた。

 

「私を殺したいなら、下僕全部使い潰すくらいで来てもらわないと勝負にすらならない、ってわけなのよ」

 

 正直それでも蹂躙劇には違いないだろうが、とにかく、麻痺してお荷物状態の白音すら見捨てられない程度の中途半端な覚悟では、私を倒すことも、その白音を助け出すことすら不可能だ。どちらを優先するにせよ、自分のせいで仲間を殺したくないという甘さがある以上、その先は何もない。

 

「できなきゃ、ふつーに負けて死ぬだけよ?」

 

 だって私が通った道だ。あれをなぞって何が面白い。殺してピトーへの手土産にすると決めたのだから、そんなあっけない結末では困るのだ。やる気も出ないし。

 

 だから一つ、痛めつけて心と一緒に揺さぶって、何かが吹っ切れることを期待した。のだがどうやらリアス・グレモリーはそこまで至れず、歯を食いしばりながら顔を持ち上げ、途切れ途切れに怒りを押し出した。

 

「……使い潰す……だなんて……眷、属は……道具じゃ……ないわ……ッ!!」

 

「そうなの、変わってるわね。で、遺言はそれでいい?」

 

 首を傾げて聞き流し、もはや戦闘不能状態のリアス・グレモリーに歩み寄り、とどめを刺しにかかる。

 

 通ればもちろんそれが一番だったのだが、しかし話で少し時間を使い過ぎたようだった。小さな緑の魔力塊が、視界の端で煌めいた。

 

 脳への衝撃から立ち直った赤龍帝の魔力砲撃。身体一つ分下がって躱し、ほとんど無力化済みのリアス・グレモリーは後回しにして、私の念弾は次に赤龍帝の撃破へと狙いをつける。だがさすがの赤龍帝も二度同じ攻めはせず、来ると身構えた突撃は、砲撃の後ではなく同時に始まっていた。

 

 砲撃に紛れてスタートを切り、気付けばもう中ほどまで距離を詰めてきている。やられた頭を守るためか、腕を前でクロスしてまるっきりタックルだ。鎧を抜けずとも揺らせばダメージになる頭に念弾を当てられない以上、反撃は大して効果がない。

 

 やむなくさらに下がって逃れ、ブレーキをかけリアス・グレモリーを背に庇った赤龍帝と対峙する。

 

 怒りに震えながら、赤龍帝は歯を剥いた。

 

「てめえ!!よくも部長にまで……ッ!!」

 

 しかし燃える怒りはすぐに勢いを弱め、少しだけ顔色を曇らせる。その内を思い出して悟った私は、つい声を漏らして笑った。

 

「ふふ、ちゃんとわかってるようで何よりね。そうよ、あんたが弱いからリアス・グレモリーはやられちゃったの。ただでさえない勝ち目がさらになくなっちゃったわね。……強くなければ、救いたいって思うことも許されない。二兎追う者は一兎も得ず、納得してくれた?」

 

「……クソ、ウタみたいにムカつくこと言いやがって……!!部長も白音ちゃんも見捨てちまったら、俺はすっげぇ後悔しちまうんだよ!!そうなるくらいなら死んだほうがマシって思うほどにな!!」

 

「だから自分も一緒に死ぬ、ってこと。心中とか綺麗事みたいに言うけど……だからそれが甘いっての!!」

 

 切り捨てる勇気がないという、それだけのことだ。過去の自分を見せつけられるようで気分が悪く、思考を打ち切ると同時に私は念弾を放った。リアス・グレモリーの止めのために作り出した一発きりは大したダメージにならないが、それでも少しの時間稼ぎにはなる。

 その一瞬でもあれば十分だ。威力で押し潰すも数で蜂の巣にするも自由。リアス・グレモリーという、白音に加えて新たに増えた枷で回避ができない赤龍帝は、やはりいずれ倒れるだろう。

 

 面白くはない終わり方。望んだものではないが、私にはもうこれ以上どうしようもない。時間もあるわけではない故に、私は、諦めた。

 

 だがどうもこの二人は、とことん私を翻弄してくれるようだった。

 

 気が抜け、別のものに入れ替わる直前の隙、単なる偶然だろうが警戒心が緩んだその間に、赤龍帝の背から滅びの魔力が飛び出した。

 

 寸前気付くもまともな対応はとれず、赤龍帝を狙う念弾が滅せられる。気付いた赤龍帝はすぐさま防御体制から攻撃に移り、小手の拳を握ってダッシュした。前傾になり、開いた腕の脇から見えるリアス・グレモリーの様子。少なくとも援護の余裕はなくしてやったはずなのに、苦悶を噛み潰して突き出した手の平の魔法陣にはまだ滅びの魔力が感じ取れる。たぶん、急造で念弾を放ってもまたあれに消されるだろう。

 

 念弾だけで切り抜けるのは難しい局面。とうとう、面白みのある場面が来た。ならばそれを、あえて念弾のみで切り抜けてみせる。そうして縛りの上で打倒し、手を抜かれたうえで負けたという事実に対する憤激を肴に三人を殺して、ピトーからの信頼を勝ち取るのだ。待ち望んだその展開の訪れに、私は笑みの中の嘲弄を追い出した。

 

 どうして『面白み』を、自身の敗北の可能性(・・・・・・・・・)を待っていたのか、私は結局その矛盾には気付くことなく、念弾のための『気』を集中させた。

 

 その時ふと、気付いた。

 

 赤龍帝の拳、身体、脚のぎこちなさ。感じた違和感は、唸りを上げて迫る赤龍帝のパンチに急なブレーキがかかっていることを示していた。

 

(……そういうこと)

 

 赤龍帝は、どうやら私が思っていたよりもずっと甘い(・・)ようだった。

 

 『凝』の要領で『気』を集中させた右手ではなく、『堅』ですらない左手を無造作に差し出す。そうして立てた人差し指。

 

 その先で、赤龍帝のパンチはぴたりと止まった。

 

「――ッ!!」

 

「い、イッセー!?」

 

 拳圧による衝撃波が私の髪を翻し、焼け森を突き破る。驚愕の赤龍帝とリアス・グレモリーだが、別に私が指一本で攻撃を止めたとか、そういうわけではない。ただ、そこで拳が止まるという確信の下、指を添えてやっただけだ。

 

 つまるところ、私は赤龍帝の寸止め(・・・)を悟っただけのこと。

 

 そしてその理由は、白音の目の前で黒歌()を殴れないという、甘さだ。

 

「……聞こえなかったのかしら。私と白音はもう、姉妹でも何でもないのよ」

 

 こいつまでもがそれをわかっていない。どいつもこいつも、なぜなんだ。

 

 何故私から、ピトーを取り上げようとする。

 

「それで脅かして、白旗でもあげさせるつもりだった?お優しいわね、ほんと。……ほんとに、どんだけ舐めれば気が済むのよ」

 

 右手が力と『気』で握り締められ、私はそれを、感情のまま赤龍帝に振るった。

 

 踏み込み、全体重を乗せた突きが腹をえぐり、赤龍帝の腰をくの字に折る。砕ける鎧の感触と音、飛び散る破片だけを私の眼に映し、赤龍帝は成すすべなく吹き飛んだ。途中リアス・グレモリーを巻き込み転がり、木の幹にぶつかってようやく止まる。

 

 先に呻き声を上げたリアス・グレモリーの悲痛な心配を聞きながら、私はじんじん痛み出した右拳に眼を向け、憤りをため息に変えて吐き出した。

 

「あー痛ったぁ。指の骨、ヒビくらい入っちゃったかしら。鎧を素手で殴ったりするもんじゃないわね、やっぱり。……でもってまだ生きてるし、完全に殴り損だわ」

 

「黒、歌……ッ!!」

 

「なに?あんたも仲間がやられてお怒り?文句なら自分と、その赤龍帝に言ってよ。甘っちょろい考えで私と戦おうとするからこうなるの。敵を殴ることすらできない奴が、殺し合いの場に出て来るべきじゃない。一つおりこうさんになれてよかったわね。活かす機会はもうなさそうだけど」

 

 涙の浮いた眼で憎悪をぶつけてくるリアス・グレモリーをまた煽る。情動が過ぎて反論の言葉も出ないようで、彼女は震えて私を睨みつけるばかりだ。

 

「……甘さじゃ、ねえ……!」

 

 代わりのつもりか、赤龍帝の声が通った。まだ言うかと私は口を開くが、罵りを挟みこむ隙もなく続けられる。緑色をした兜の眼が、私を睨みつけた。

 

「仲間は……絶対に傷つけさせねえ。これは、俺が俺であるための……誇りだ……ッ!!」

 

「お子様の正義感よ、そんなの。理想ばっかり追いかけた結果がこの有様。そろそろ現実見始めてもいい頃だと思うんだけど?」

 

 テレビのスーパーヒーローに憧れる歳でもないだろうに。綺麗なものにばかり包まれてきたガキんちょはこれだから嫌だ。

 

 誤魔化し、嗤った。押し黙り、次に吐かれた赤龍帝の声は、失望に満ちていた。

 

「……お前、白音ちゃんを囮にしたな」

 

「それが卑怯だっていうつもり?私だってびっくりしたわよ、ほんとに攻撃中断しちゃうんだもの。あのまま白音ごと殴り飛ばせばよかったのにね。重症だろうし、下手すれば死ぬかもしれないけど、少なくとも、私の拷問からは救えたわよ」

 

「ッ!……お前は……どうしてそうなっちまったんだよ……!!血の繋がった姉妹だったんだろ!?お互い頼り合って生きてきたんだろ!?なのになんで白音ちゃんを裏切って、死ぬとか拷問とか、そんなことを言えるんだ!!……どうして、白音ちゃんの痛みがわからなくなっちまったんだよ……ッ!!」

 

 心からの笑みが浮かんだ。

 

「さあ、なんでかしら?白音に聞いてみれば?」

 

 答えなんて出て来るはずもないが。

 

 赤龍帝は再び喉を鳴らした。握り締めた拳を見つめ、縋るように言う。

 

「でも……何かちょっとでも、残ってないのかよ……!力に溺れて邪気に呑まれる前の、白音ちゃんが愛してた『黒歌』は……!」

 

「だからいないってば、そんな都合のいい存在」

 

 何ならもっと早くに捨ててしまえばよかったとすら思うほどだ。あの時の私は残っていないし、残す気もない。『白音の姉の黒歌』は、もうこの世にいない。

 いては駄目なのだ。今の私の中心は、ピトーなのだから。

 

 私はそれを、こっちに近付いてくるその気配(・・・・)に強く意識して、笑みに変えた。

 

「イッセー」

 

 とうとう言葉がなくなった赤龍帝の肩に、リアス・グレモリーが手を置いた。吊り上がった私の笑顔に嫌悪で顔をしかめ、一つ大きく息を吸いこんだ。

 

「……覚悟を決めなさい。黒歌は……やはり、もう死んだの。あそこにいるのは、ただの亡霊よ」

 

 白音を視界から外しながら、はっきりと言い切った。決意が込められた号令は俯く赤龍帝に顔を上げさせ、命令として許しを与える。

 

 甘さを消すための許しだ。もはや時間切れであることなど知る由もなく、赤龍帝はゆっくりと頷いた。

 

「……そうっすね、諦めます。もしかしたら改心させられるかもって思ったけど……やっぱり駄目っすね、俺。……俺じゃあ、白音ちゃんを救ってあげられない……」

 

「貴方のせいではないわ。白音の傷は黒歌と……私のせいだもの。責任を感じる必要はないの」

 

「部長だって悪くないっすよ。悪かったとしても、黒歌とは違う。部長が俺たち眷属を大事にしてくれているのは、白音ちゃんだってわかってますから」

 

 呑気に言って、赤龍帝は立ち上がった。『力』が倍増する気配がして、溢れるドラゴンの『気』の矛先が、視線と共に私に向いた。

 

 憎悪などではなくはっきりとした敵意と嫌悪が、声に乗って響く。

 

「誰かの責任って言うなら、それはお前だ、黒歌。白音ちゃんを裏切って、傷付けたことを後悔してないお前が、一番白音ちゃんを苦しめてる!だからそれを解けるのはお前だけだったけど……もう、容赦しねえ」

 

 腰が少し沈み、突進の予兆。

 

「外道に堕ちちまったのなら、俺がけじめをつけてやるッ!!!」

 

 地を蹴った。『Boost!!』『Boost!!』『Boost!!』と、いくつも重なって連続する『倍化』。既にもう、私が防げる攻撃力ではない。回避できなければ大ダメージを負うことは間違いないだろう。

 

 だが、私は動かず笑顔でそれを見守った。それ(・・)に眼を向けたいのは山々だったが、失敗してしまった以上、もう邪魔はできない。だから、突っ込んでくる赤龍帝に無防備を晒した。

 

 そうして、次の瞬間。

 

 ピトーが、赤龍帝を大地ごと叩き潰した。

 

 ばき、と、兜が砕ける甲高い音がそれだけ。後は爆弾が爆ぜたかのような轟音と砂礫だけが辺りに撒き散らされる。悲鳴も怒号も呻き声も、どれも上げる暇さえなく、焼け森から飛び出してきたピトーが為したこの一連。【黒子舞想(テレプシコーラ)】は使っていないが、間違いなく本気であったその速さは私でも眼では捉えられず、『念』の威力は言わずもがな、赤龍帝をも軽く凌駕している。

 

 不可避不可知の不意打ちで、魔王級の一撃を、赤龍帝は喰らったのだ。

 

 死、以外に顛末はあり得ない。か細く感じる赤龍帝の『気』、魂の残滓も、いずれ吹き消えるだろう。

 

 それだけのことを確認した私は妖力で土煙のもやを一掃し、ピトーの拳撃が生み出したクレーターに飛び込んだ。

 

「もう!ピトーってば、そいつは私が殺りたかったのに!」

 

 我慢をやめ、普段通りの笑顔に戻った私は、拳を収めて立ち尽くす彼女の背中に抱き着いた。身体中の火傷の具合を見ながらついでに安心感に浸り、次いで『時間切れ』に立ち向かう。

 

「けど、ごめん。文句は言えないわよね。結局援護は間に合わなかったわけだし……タンニーン、どうなったの?」

 

 肩から首を出し、顔を覗き込んだ。赤褐色の瞳は私を見て、しかしすぐに逸らされる。どこか元気のないその表情は怒っているようには見えないが、さすがに思わずにはいられないのだろう。こいつら程度の雑魚に何を手間取ったんだ、と。

 やる気が出なかった、という言い訳は通用するのかしないのか。しないに決まっているだろうと理性的な思考回路が断言し、なら別のをでっちあげるかと心の中の悪魔が囁いた。そもそも天使なんているわけがないので、囁きに従い頭を回していると、沈黙していたピトーがようやく口を開き、いつもより少し歯切れ悪く言った。

 

「ああ……うん、倒したよ、どうにか」

 

「さっすがあ!龍王って魔王クラスの強さって話よ?すごいじゃない!」

 

「……まあ、殺せてはないんだけどね」

 

 それでも致命的な怪我も負わずに退けたのだから、十分にすごいことだ。その頑張りの分ますますこっちの結果が申し訳なくなってくるが、それでお説教に突入してはたまらないと、努めて明るく声を上げる。

 

 するとふと、呆然の声が寄ってきた。

 

「い……イッセー……?」

 

 リアス・グレモリーが死にかけの赤龍帝によろよろと近寄って、傍に膝を突いた。半身を地面にめり込ませ、頭からどくどくと血を溢れさせる奴に、恐る恐る手を触れる。

 

 触れて、手の震えが一層ひどくなったのは、その死を感じ取ったからなのだろう。いつでも殺せる雑魚を見下ろす私たちに、リアス・グレモリーは純粋な憎悪を爆発させた。

 

「よくも……よくも私のイッセーを……ッ!!」

 

 溢れる滅びの魔力が全身に纏わりつき、殺意の『気』が私たちの全身を刺す。まだまだかわいらしいそれは逆に私の嗜虐心を呼び起こし、脚をピトーの前に進ませた。

 

「黒歌、それに……変異キメラアント、ピトー……たとえこの身の血の一滴までが蒸発しようと……私は貴女たちを、絶対に許さない!!!」

 

「あらあら、大事な下僕がやられてご立腹だわ。……ピトー、こっちは私がやるからね」

 

 背後でしぶしぶといったふうに頷く気配。一方の私はさっきまでとは異なりやる気も十分だ。ピトーの目前で殺せる上に赤龍帝もいないのだから、これで気分が乗らないわけがない。

 

 最初から本気の仙術で片を付ける。その気で構えた、直後のことだ。

 

 突然、前触れなく目の前を黒い炎が覆った。驚いて反射的に飛び退り、数舜後に唇を噛む。

 

 なんともタイミングが悪い。邪炎の覆いが解かれたリアス・グレモリーの傍には、戦闘態勢の曹操が息を切らして立っていた。

 

 しかもその片腕には、なんと白音までもが担がれている。クレーターの縁に置いてきたのがあだになったらしい。ますますな忌々しさを押し殺し、無理矢理に嘲弄の形に歪めて向けた。

 

「もうご到着?大変ね、あんたも」

 

「……さすがにね、リアス殿たちが襲われてるなんて知らされては、黙ってなどいれないさ。……俺が一番乗りだが、その内魔王殿たちも来るだろう。首謀者たちが逃げ、城はもう凡そ片が付いている」

 

「……ふぅん、じゃあ来る前に、全員殺しちゃわないとねぇ」

 

 実質的にはあまり変わっていない。リアス・グレモリーさえやれば、曹操は口でどうにかなるはずだ。最悪、【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】と奴らの企みの件で脅してやればいい。このカードは無視はできないだろう。

 

 奴もそれはわかっているらしく、言ってやった途端に眉間にしわが寄った。そこに憎悪で我を忘れたリアス・グレモリーが、思いがけず曹操の精神に攻撃を仕掛ける。せっかく庇われたのを無視して滅びの魔力を私に放とうとして、寸前気付いた曹操に止められた。

 

「何をするのよ曹操!!邪魔をしないで!!」

 

「落ち着くんだリアス殿。赤龍帝のことはわかる。だが自棄になるな」

 

「自棄になんてなっていないわ!!私の……私の大切なイッセーが殺されたのよ!?黙って受け入れろっていうの!?」

 

「君の眷属は彼一人ではないだろう?今攻勢をかければ、白音はどうなる。無茶をして戦って、彼女まで殺す気か?」

 

「ッ……!!」

 

 私たちを見つめたままの曹操が差し出した白音に、リアス・グレモリーは辛うじて止まった。放とうとしていた滅びの魔力を握り締め、歯を食いしばって俯く。

 

 曹操が、ちらりとピトーのほうに眼をやって、続けた。

 

「……フェルに槍を折られたからね、素手じゃさすがにこの二人は相手にできない。わかってくれ」

 

「それって白旗ってこと?で、もしかしておまけにリアス・グレモリーたちを見逃せって言ってるわけ?……馬鹿なのあんた」

 

 たぶんもう二度とないこんな好機、今更逃せるものか。邪魔をするというなら、多少無理をしてでも押し通す。【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】を隠し通したいのなら、それも好都合だ。

 

 どのみち、もう私たちは奴にとっても敵。後には引けない。

 

 だがそんな決心は、ピトーによって破壊された。

 

「クロカ、引こう」

 

「……え?引くって……撤退……?」

 

 首肯。どうやら本気らしい。

 

 ピトーにとっても憎き悪魔を殺すチャンスだろうに――いやしかし、そうするしかないのかもしれない。魔王まで来るというのなら、敵のテリトリーで戦うのは確かに危険が大きすぎるだろう。今の曹操のように、予想外に早く現れる可能性も否定できない。バレてしまった以上、仕切り直すのが最善か。

 

 考えて、最後に白音すら掻っ攫われたことに鼻を鳴らすと未練を捨てて、私はため息を吐き出した。

 

「……りょーかい。じゃ、飛ぶわよ」

 

 他はともかく、修練を怠らなかった転移魔法は、たちまち陣を私たちの頭上に広げた。すぐに転移が始まり、真の前の風景が剥がれるように消えていく。構えて微動だにしない曹操とリアス・グレモリーと、白音も、すぐに眼前から消えた。

 

 

 

 一瞬して、足が土の地面でなく木材のフローリングを踏んだ。眼を開ければ薄暗い簡素な室内。アメリカのホームに、私たちは早めの帰宅を果した。

 私は肩を落としてもう一度ため息をつくと、床にどさりと腰を下ろし、相変わらず表情が暗いピトーを見上げた。

 

「で、これからどうする?すぐここにも手がかかるわよ。ハンター協会とも敵対関係になっちゃったわけなんだから」

 

「……うん。……ごめん、クロカ。これは、ボクが……」

 

「言いっこなしよ、私にも原因があるんだし。それに大した問題じゃないわ。悪魔だろうがハンターだろうが、逃げるだけなら難しくないもの」

 

 ピトーの『絶』と私の仙術、それに今まで培ってきた経験があれば容易だろう。……闇を渡り歩く放浪生活にはなるだろうが。

 

「何ならまた冥界の森に戻ってもいいしね」

 

 ピトーは何か言いたげだったが、口を噤んだ。しばし歯を噛みしめ、表情が和らいだ。

 

「……そう、だね。とにかく、必要なものだけ集めてここを出よう。この街からも離れて……考えるのは、それからかにゃ」

 

 言いながらドアノブに手を掛け、開けた。緊急時の転移先兼修行場であるこの部屋は、リビングに隣接している。アメリカは昼下がりの時間らしく、開いたドアから差し込む日の光は緩やかに辺りを照らした。見えたリビングは駒王町に向かったあの時のまま、片付け忘れたゲームのコントローラーと、ピトーの大型端末が投げ出されている。それに――

 

 コーヒーを飲む、男が一人。

 

 瞬時に緊張が跳ねあがった。気付けなかったことにまたしても己の油断、そしてもう刺客が放たれたのかと驚愕に呑み込まれ、咄嗟に取った戦闘態勢は四つん這い。

 

 しかし、そこまでで止まった。

 

 ピトーも同じく驚愕し、戦闘態勢を取ったが、手は出ずに今度は困惑し、警戒するばかりだった。

 

 しばしそのまま、男がコーヒーを啜る音ばかりが響き、耐えかねピトーが口にした。

 

「……オマエ、幻影旅団のクロロ=ルシルフル、って言ったっけ。……何のつもりで、なんでここにいる……?理由と目的は何?」

 

 忘れるはずもない、あいつだった。五年経っても変わらないイケメンな顔面と、曹操のような、所謂カリスマの雰囲気。

 

 仙術の感覚もそうだと言っている。そんな奴が、『()を全く使わずに(・・・・・・・)、ソファーに沈んでくつろいでいた。

 

「なんで、か」

 

 湯気の立つマグカップをテーブルに置き、奴は私たちにその静かな眼を向ける。

 

「こっちこそ、『なんで』だな。なぜオレの名前と、幻影旅団であることを知っている?二つが一致する情報を持つ奴は限られるはずなんだが」

 

「………」

 

 僅かだが、ピトーがしまったと言うように顔をしかめる。おかげで私も気が付いた。奴と戦ったのは『フェル』と『ウタ』。今の私たちは『ピトー』と『黒歌』だ。

 

 低く笑って、奴は変わらず落ち着いたまま、言った。

 

「なるほど。やはりお前たちが『フェル』と『ウタ』の正体か。奇妙だとおもったんだ。大して名を聞かなかった奴らが、片方は化け物染みた『円』と『オーラ』。そしてもう片方はあの猫魈と同じ仙術使い。極めつけに……ふっ……確かに、よくよく見れば随分似ている」

 

「……だから、なに。脅す気なら無駄だよ」

 

「そんな気はないさ。というか、そんなことをすればお前たちはオレを殺すだろう?そうなれば、今のオレには万に一つも逃れる術がない。ここに入り込むのだって、一月近くかかったんだ」

 

 腕を広げ、肩をすくめる。

 

「こんな状態だからな、殺すことなど、赤子の手をひねるよりも簡単だろう」

 

「それよ。……そもそもなんで、『纏』すらしないわけ?舐めてるわけじゃないって言うなら、ほんと何のつもりなのよ」

 

 あれほどの男がこんなにも無防備なのだ。気味が悪くてしょうがない。私とピトーの警戒心のほとんどはそれで、だから安易に攻撃の決断ができなかった。意図が全くわからない奴の行動は、私たちの内心をグラグラ揺らしてばかりいる。

 

 その思いで、立ち上がりながら私も言ってやった。すると奴はほのかな笑みのポーカーフェイスのまま、黙って自身の胸を指さした。左胸、心臓の位置だ。無地の黒いシャツにしわだけが寄る。

 

「……馬鹿にしてる?」

 

 ふざけていると断じて、念弾を生み出した。しかしそれで望み通り捻ってやろうとした直前、気付く。

 

 奴の体内にうっすらと、奴のものではない『気』の気配。目を凝らして、ようやく見えた。

 

「……鎖?」

 

 クロロの顔に、やはり薄くだが喜びが宿った。

 

「……予言通りだ」

 

「……あのさ、いい加減ボクたちにもわかるように言ってくれる?何しに来たのかも含めて、次誤魔化すようなら殺すから」

 

 殺気を漏らしたピトー。クロロは降参とでも言うように、しかし嬉しそうな微笑のままで答えた。

 

「黒歌の言う通り、オレの心臓には今鎖が刺さっていてね、それが『念』の使用を禁じている。破れば心臓が握り潰される、らしいのさ。……オレの目的はこれだ。これを『除念』してほしい。見えているなら、できるだろう?仙術で」

 

「……まあね。でも――」

 

「してやるメリットが、ボクたちにはない」

 

 私に続いて、ピトーが言った。尤もなこと。そして間違いなく、それは奴もわかっている。

 

「ああ、だから――」

 

 頷き、前で手を組んで身を乗り出す。

 

「取引をしよう」




H×Hのヨークシン編は大体原作通りに進んだというバックグラウンド。大体ね。
感想ください。


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十八話

21/2/14 本文を修正しました。


「魔王様、お呼びと伺い参りました。リアスです」

 

「……入りたまえ」

 

 少しの間を置いて、扉の向こうでサーゼクス様が応える。入室の許可を得た部長に続いて執務室であるそこに入ると、来客用らしきソファーの他は意外と簡素な内装の奥、立派な木造りの椅子に座って机の上で手を組むサーゼクス様の姿が眼に入った。傍目にも明らかなほど、疲れ切った様子だった。

 

 そんなサーゼクス様は億劫そうに顔を上げると、途端に部長と白音ちゃんもが頭を下げる。お供の俺もお高そうなソファーの座り心地を試したい欲望を捨てて礼をしようとして、しかし直前にサーゼクス様に制された。

 

「楽にしてくれていいよ、どうせここには私しかいないんだ。二人とも、いつものようにリアスの兄として接してほしい」

 

「無茶を言わないでくださいお兄様。昨日のクルゼレイ・アスモデウスを滅したお兄様の戦いぶりを見て、みんな恐縮してしまっているんです。それにまだお仕事中なのでしょう?ちゃんと私たちの偉大な魔王様でいていただかなくては」

 

「ははは、手厳しいな。……これでも丸一日、朝昼夕と寝ずに頑張ったんだよ?そろそろいい加減肩が凝ってきたんだ」

 

「ま、丸一日?」

 

 お説教モードに入りつつあった部長が、それを聞いて恥じたように身を縮めた。疲れ切った様子は、曰くオフが軽い魔王様の悪癖が出たと思ったのかもしれない。俺たちと違って家族故に頭になかった魔王様の弱音で、下がったトーンが申し訳なさそうな心配の言葉に変わる。

 

「そこまでお忙しかったなんて……知らなかったわ。大丈夫なの?お兄様」

 

「大丈夫だとも。人間との協定を進めるにあたって忙しくなることはわかりきっていたんだ。想像から仕事が多少増えた程度さ、問題ない。……それに、私以上に大変な目に遭った者がここにいるわけだからね。私が無理とは言えないよ」

 

 部長の心配を笑って受け止めた魔王様が、続けて俺を見やった。

 

「どうかな、一誠君。その後の調子は」

 

 俺はどうにか畏怖と緊張を呑み込んで、ついさっき包帯が取れたばかりの頭を掻いて笑った。

 

「いやぁ、見ての通りです。黒歌にやられた傷もピトーにやられた傷も、もうどっちも完璧治りました!」

 

「そうか、それはよかった。頭部に重大なダメージと聞いたが……後遺症もないんだね?」

 

 心配そうな視線が俺の頭に持ち上がる。確かに当時は相当ひどい有様だったらしいが、目覚めた時にはもう治っていたので自覚としては薄い。しかしとにかく今は無問題、もうすっかり元通りだ。

 

「はい、さっきまで念のためってベッドに寝かされてたんですけど、ほんとにもう全く!全然大丈夫っす!なんせフェニックスの涙(・・・・・・・・)がありましたから!」

 

 怪我を瞬く間に癒してくれるあのアイテムを、俺はクーデターが起こる直前に、プレゼントとしてそれを渡されていたのだ。

 

 くれたのはレイヴェル・フェニックス。あの焼き鳥野郎、ライザー・フェニックスの妹だ。お近づきのしるしに、なんて言われて手渡された小さな包みは宝石かなんかだとばかり思って気に留めていなかったが、そのおかげで助かった。

 

「本当に、それに関しては良かったわ。あれがなければ死んでしまっていたかもしれないもの。本当に……よかったわ、イッセー。後でレイヴェルにお礼を言いに行かないとね」

 

「……はい、部長!」

 

 本当にうれしそうに、部長は俺の生還を喜んでくれる。愛されているという実感がむず痒くも俺の頬を緩ませ、誤魔化すように大きくお決まりの返事をした。

 

 部長はそれににっこり微笑むと、表情を改めサーゼクス様に戻し、聞く。

 

「それはさておき……お兄様、イッセーの容態を聞くためだけに、私と白音まで呼び出したわけではないんでしょう?」

 

 ちらりと一瞬、サーゼクス様は、俺の隣で俯き気味に佇む白音ちゃんへ眼を向けた。黒歌に襲われてからずっと、麻痺が解けて一日経っても元気をなくしたままの俺の後輩。サーゼクス様の視線に思わず解決のヒントを期待してしまったが、さすがにそれは虫のいい話だ。魔王としての仕事で忙しいサーゼクス様はゆっくり瞑目し、柔和な微笑みに真剣さを宿らせ、静かに開いた眼で部長を見つめ返した。

 

「……そうだね、本題に移ろう。しかしその前にもう一つ、認識の確認が必要だ」

 

「認識の確認……?」

 

 まだ続くらしい前置きに、部長が首を傾ける。サーゼクス様はオウム返しな呟きへ頷き答えた。

 

「今回の、『禍の団(カオス・ブリゲード)』の『旧魔王派』によるクーデターについてだよ」

 

「ッ……」

 

 ということはつまり、呼び出しの理由もそれ関係のことなのだろう。そりゃそうだ。このタイミングでの話題なんてそれくらいだし、何よりあれはそれだけの大事件だった。

 あの惨劇、城で大暴れする『旧魔王派』悪魔も、そいつらに殺された人間の断末魔も……そして黒歌のことも、眼を閉じれば簡単に蘇ってくるくらい、しつこく記憶にこびりついている。だから確認などせずとも全部覚えているのに、と思い出したくないその時の確認を告げられた悶々とした感情で、たぶん眉間に一本くらいの皺が寄った。

 

 しかしそれがサーゼクス様のためになるのなら、部長も俺ももちろんちゃんと答えるつもりではあった。あったのだが、しかし次に出された問いは予想を若干外れ、はっきりとは答えられないものだった。

 

「『ハンター協会』と『V5』、つまり人間側に出た被害内容の内訳を、リアス、どこまで把握している?」

 

「う、内訳?」

 

 またしてもオウム返し。肩透かしを食らったように部長は目を瞬かせる。だが無理もないことだ。俺だってそう。戦闘とか黒歌の様子とか、もっと踏み込んだことを聞かれるのかと思ったら、テレビのニュースレベルのこの質問。もちろん俺が持ち合わせる情報がサーゼクス様を満足させられるとは思えず、助けを求めるように俺に向いた部長の視線には、同じように目を瞬かせることしかできなかった。

 

 数秒そのままで結局僅かな落胆と諦めにたどり着いた部長の眼は、しぶしぶ戻って後ろめたそうに、サーゼクス様の役に立てない無念を口に出した。

 

「……貴族間で広まっている情報止まりです。ハンターには人的被害が出なかったが、『V5』には数名の死者と多数の重軽傷者が出たと。……具体的な数字や被害者名なんかは、全く……」

 

「……曹操殿からは何も聞いていないのかい?フェル殿やウタ殿(・・・・・・・・)でもいい」

 

 その名前につい、背が震えた。

 

 白音ちゃんも同じく反応し、俯いたまま身体を固くする。部長も思うところはあっただろうが一人だけ心を制することに成功し、息を吐く。

 

「ああ、なるほど。それで、というわけなのね。……けど、やっぱりごめんなさい、お兄様。昨日から今日まで、連絡が取れていないの。曹操は『V5』の面々の警護で忙しくなる、というようなことを言っていたから、フェルとウタもたぶんその関係で動いているのだと思うけど……」

 

「……そうか。いや、いい。ありがとう」

 

 ついでに言うならハンゾーとも連絡が取れなくなっているが、まあたぶん同じような理由なのだろう。ハンゾーもフェルさんもウタも人間のハンターなのだから(・・・・・・・・・・・・)、理由がなければ三人ともこっちに来るわけがないのだ。

 

 修行の依頼はあったが、それも事実上終了している、らしい。それを思い出し残念がっているのだろう白音ちゃんの俯いた後頭部を見つめていると、部長恐る恐るのふうにサーゼクス様の顔を覗き込んだ。。

 

「それで……どうしてこんなことを?詳しく知っていなければ言えないようなお話だったのですか……?」

 

「……いや、そうではない。むしろ知らないのが普通だ。……彼らだってハンターだからね、情報の扱い方は心得ているだろう。もしかすれば曹操殿から情報が引き出せないかと、淡い期待を持ってしまっただけなんだよ」

 

「……でも、曹操が知り得る情報くらい、魔王であるお兄様が知らないわけはないでしょう?被害の内訳だって、魔王様の城で起きた事件なんだから、把握できているはずだわ」

 

 もっともなことだ。悪魔のトップのお人なのだから、少なくとも下っ端の俺たちよりは詳しいに決まっている。

 

 だがサーゼクス様は首を横に振った。

 

「それがね、できていないんだ。私の持つ情報もリアスとさして変わらない。精々、死者にそこまでの要人はいなかった、ということくらいだよ」

 

「それは……どういうことなの?普通は下から報告が上がってくるものでしょう?」

 

 僅かに目を見張り、訝しげに眉を寄せる。困ったような表情で黙り込むサーゼクス様に、部長は瞬きをして言った。

 

「まだ報告させていない、と?」

 

「……違う」

 

 サーゼクス様は短く言って、下がった視線を部長の眼まで持ち上げる。

 

「報告できなかった(・・・・・・)んだ。報告すべき事実が公表されなかった、ということだ」

 

「……ええと……それはつまり、人間側が情報を止めたということ……?でも……できるの?軽症者はともかくとして、重症者は冥界の病院に運ばなければ間に合わないでしょう?なら、お兄様にまで隠蔽できるとは思えないのだけど……」

 

「そうした場合はできないだろうね。だがそもそも、今回の事件で人間側は誰一人冥界の治療設備を利用していない」

 

「ッ!それは……」

 

 つまり……どういうことなのだろう?

 

 難しい話に、早くも俺の脳味噌が煙を噴き始める。二人のやり取りに横入りする気は白音ちゃん共々なかったが、しかし聞いているだけでかなりのダメージだ。

 

 部長とサーゼクス様の手前できるはずもないことを考える俺をよそに、何かを悟ったらしい部長は沈痛の面持ちで唇を噛んだ。がしかしそれは、どうやらすぐに否定された。

 

「手遅れだった、というわけではないよ。情報がない故に恐らくだが。……パーティーに護衛として付いていたハンターの一人に、大規模な転移が可能な神器(セイクリッド・ギア)を持つ者がいる。怪我人はその者が人間界の病院にでも搬送したのだろう。あるいはフェル殿が治したのかもしれないね。彼女はそういう念能力を持っていただろう」

 

「ああ……なるほど、確かにそうよね」

 

 どうやら重症者すべてが死人に変わってしまったと思っていた部長は、小さく息を吐き、強張った肩の力を抜いた。白音ちゃんも同じ考えだったのか、少しだけ安堵で脱力したように見える。気付けなかったのが自分だけという事実に口がへの字に曲がりそうなのを堪えながら、俺は気を紛らわすために、目を伏せ、取り戻した落ち着きで呟くように言う部長に眼を向けた。

 

「フェルの念能力、【人形修理者(ドクターブライス)】と言ったかしら。アーシアでも簡単には癒せないほどの深手を、あっという間に治療してしまうあの能力。あんな素晴らしいものがあるなら、それは悪魔の医療技術に頼る必要もないわよね」

 

「そうだね。コカビエルを打倒できるほどの戦闘能力と、稀有且つ強力な回復能力を持ち合わせている。あれほどの人材は滅多にいないだろう。知れ渡ってしまえば是が非でも眷属に、と望む者もいるかもしれないから、せめて回復能力のことは黙っておくことにしようか。いいね?リアス」

 

「……もちろん言わないわ。というか、言えないわよ。どんな仕返しをされるか……」

 

 途端に青い顔になった部長の気持ちはよくわかる。悪魔嫌い、というか憎悪の度合いで言えば、たぶんウタ以上のあの人のことだ。勧誘してきた悪魔のみならず、情報の発信源があると知ったらそこまでを標的に加え入れ、少なくとも半殺しくらいにはするだろう。想像に難くない。

 そんなものに巻き込まれ、またウタのパンチを食らうのはごめんだ。殴られるならせめてフェルさんのおっぱいを拝んでからがいい。

 

 いつの間にか思考が逸れて、過去の雪辱とまだ見ぬ希望が頬から力を抜き取りつつあった。しかし不意に、空気が引き戻される。

 

「だが、理由はなにもそれだけではないだろう」

 

 雑談に傾きつつあった声のゆるみが引き締まり、真剣の色を取り戻したサーゼクス様が落ち着いて余韻を切り払う。それが吹かせた鋭い風に慌ててお供の役目を思い出した俺は、同じく身を震わせた部長と一緒に、心の中で首を傾げた。

 

「……他にあるの?こちらの治療を断った理由なんて。悪魔嫌いのフェルを慮った、くらいしか思いつかないのだけど……」

 

「そう思うかい?なら思い出してみなさい。……城でのあの戦いだ」

 

「ッ……!」

 

 部長も俺も、別の不運に見舞われていた白音ちゃんを除いて息を呑む。やっぱり恐れてしまうその光景。頭を振って怯えを追い出す俺をちらりと見やって、サーゼクス様は静かに目を伏せた。

 

「……あの戦い、敵の数はかなりのものだった。比べれば、我々が用意していた警備の兵はあまりに少ない。全く手が足りず、せめて君たち若手悪魔や出席していた貴族たちを守ることに戦力を集中せざるを得なかった。広く守れば必ずどこかが崩壊し、乱戦になってしまうことは眼に見えていたからね。実際に、リアス。君と君の眷属たちにも苦労をかけた」

 

「いえ、私はサイラオーグに発破をかけられただけですから。『未来を担う我々若手悪魔こそが戦い、冥界を守るのだ』と。むしろ勝手な行動をしてごめんなさい」

 

「……それを止めるのが我々大人の役目だ。レーティング・ゲームならいざ知らず、殺し合いの場に君たちを巻き込むべきではなかった。辛い思いをしただろう?すまなかった」

 

 重ねられた謝罪に押し黙った部長の脳裏にも、やはり蘇っているのだろう。見てばかりいられないと立ち上がり、しかし僅かに手が届かず、『旧魔王派』の悪魔に殺されてしまったあの男の断末魔。名前も知らない、顔だってその一瞬しか見なかったのに、記憶に焼き付いてしまっている。

 

 救おうとした人のリアルな死は、他人でも恐ろしいものだった。

 そしてそれは、身内であればなおのことだ。

 

 視界の端に白音ちゃんを入れたまま、俺は左の拳を握り締めた。

 

 小さく息を吐き、サーゼクス様は続けて言った。

 

「しかし、あの時はあれが最善だったと私は思う。君たちが蜂起してくれたおかげで敵の陣形が乱れ、私も皆を守ることを任せ、攻勢に転じることができた。あれがなければ事態はもっと悲惨と化していただろう。……だがそれでも、問題が起きてしまった」

 

「……それが、『他の理由』?」

 

 部長の疑問の声に頷き、さらに続ける。

 

「戦力を一方に集中させれば、当然もう一方は疎かになる。今回の場合、疎かになったのは人間側の守りだ。ネテロ殿や曹操殿、先ほど言った転移能力の神器(セイクリッド・ギア)使い、他の者たちも皆、そこいらの悪魔にも負けない強者ぞろいだった。だがやはり、数が多すぎた。結果的に守り切れず、多数の死傷者が出てしまったわけだが……そのせいで、どうやら『V5』側は我々に不信感を抱いたらしいんだ」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいサーゼクス様!不信感って……俺たちにですか!?襲ってきたのは『旧魔王派』とかいうテロリストのやつらなのに!?」

 

 黙っているつもりだったが、思わず叫んでしまった。守り切れなかったというハンターですらなく、なぜ必死に戦っていた俺たちがそんな感情を向けられなければならないのか、という咄嗟の憤り。

 

 だが一瞬の後、苦しげに顔を歪める部長の表情に気付き、同時にその理由を理解した。

 

 部長が、答え合わせを口にする。

 

「……私たち悪魔が主催したパーティーでの出来事、ですものね」

 

「そうだ。我々が管理する場で死者までが出てしまった以上、批判は避けられない。実際に、我々はあれほど大規模な襲撃を予想できず、十分な警備の兵を用意できていなかった」

 

 サーゼクス様の言う通り、仕方がないことなのだろう。矛先に納得ができるかは置いておいて、人の死をなかったことにするのがいいことだとは俺も思わない。

 

 不信感くらいなら、むしろ抱く方が当然か。考え、文句は呑み込んだ。しかしサーゼクス様は残念そうに続けて言う。

 

「それにいくら協定を受けてくれたとはいえ……アザゼルの言う通り、我々悪魔は今現在、種族単位での信用が低下している。我々の兵が人間たちを守れなかったことと合わせて、クーデターを装い、あるいは乗じて人間側を殲滅するつもりなのではないか、と考えてしまったらしいんだ」

 

「っ!でも……でもそんなの、殲滅なんて普通するわけないじゃないですか!意味だってない……!」

 

 つい口が出た。が、語調には勢いが乗らない。

 

 確かに殲滅などという行為がありえないものだとしても、貴族悪魔たちが転生悪魔を、つまりは人間の血を馬鹿にしていた様子は記憶に残っている。客観的に見れば、そりゃあ疑わしく思えてしまうだろう。人間側にとってはどっちも同じ悪魔なのだ。

 

 理解してしまって何も言えなくなってしまった俺に、サーゼクス様は少し曇った微笑を向けた。

 

「そう、普通はあり得ないことだ。証拠も何もあるはずがない。だから明確な断罪ではなく、不信感なんだ。彼らに治療設備の用意があることを伝えた時、断りの言葉にそれが紛れていた。……まあきっとそう遠くないうちに、所謂『匂わせ』ではなくなるだろうがね。このような危惧を抱いたまま、協定など結べるはずがない」

 

「……そ、それじゃあ、人間との協定は事実上……白紙に……?」

 

「ええ!?不信感ってだけで、そこまでになっちゃうもんですか!?」

 

 言ってから、しかしふと考えが巡る。

 なっちゃうもんかもしれない。だって俺とフェルさんウタのように、自分に害意を持ってるかもしれない相手と心の底から仲良くなれるはずがないのだ。……ゼノヴィアを除いてだが。

 

「このまま放置すれば、そうなるだろう。協定は破棄される。しかしもちろん私も、そして『V5』も、そんな結末を望んではいない。不信感を知り、こちらに悪意がないことを示すために、条約の一つを無理矢理進め、人間側に治外法権の領地を与えたんだが……それだけでは少々楔としては弱い。自衛の手段を持たせはしても、それでは根本的な解決にはならないだろう。不信感、つまり我々悪魔への恐怖感そのものを拭う必要がある」

 

「な、なるほど……?」

 

 全くなるほどではないが相槌を打ち、サーゼクス様を見つめ返す。しかし部長はまたしても悟ったようで、はっと目を見開き呟いた。

 

「っ!そうなのね、だからイッセーと白音を連れて来るように、ってことなの……」

 

「……え、やっぱりこの話、俺も関係あるんすか?てか白音ちゃんまで?」

 

「そうよ。つまり――」

 

 俺と、相変わらず俯き加減で顔が見えない白音ちゃんを見やってから、部長は一つ深呼吸を挟んで答える。

 

「……つまり、貴族とその眷属として、唯一『旧魔王派』から痛手を受けた私たちを、テロリズムへの反対の証明にしようということなのよ。……ですね、お兄様」

 

「……凡そ、その通りだ」

 

 サーゼクス様が頷いた。しかし一方の俺はやっぱり部長と違って頭が冴えず、精一杯働いた脳味噌が白旗を上げる。

 

「あのー……それでその『証明』ってのをするためには、俺たち何すればいいんすかね……?」

 

 とうとう部長の顔にも呆れの色が入ったが、だってわからないものはわからないのだ。国語は得意なほうだが、そもそもの地頭があまりよろしくない。断片の情報から推理しろだなんて言われても無理だ。

 

 くすりと鼻が鳴るような笑い声を漏らすサーゼクス様に羞恥心を刺激されながら、俺は言い訳を呟きつつ眼を逸らす。それを部長が拾い、しょうがないなと微笑を浮かべて口にした。

 

「この間の会談と同じよ。あの時はアザゼルのせいで台無しになったけど……要は人間の面々に、クーデターが起きたあの時、私たちが体験したことを説明するの。敵の敵は味方、なんて言うでしょう?私たちは精いっぱい戦ったんだと訴えて、『旧魔王派』は共通の敵であることを理解してもらうのよ」

 

「ああ!なるほど、確かにそれが一番の『証明』っすもんね!なんだ、簡単じゃないっすか!」

 

「……黒歌のことも、話す必要があるわ」

 

 その一言で、理解したことへの安堵がまとめて吹っ飛んだ。そうだ、何も思わずに話せるはずがない。……白音ちゃんにとっては。

 

 思わず視線を右下の白音ちゃんに向けた。相変わらず俯く後頭部に流れる白髪が見えるだけだが、その姿はどこか辛そうにも見える。

 

 サーゼクス様はその様子に少し表情を硬くして、静かに言った。

 

「だが、話してもらわねばならない。これで冥界の命運が決まるかもしれないんだ。わかってくれ」

 

「……魔王様が、そうお望みなら」

 

 と、一瞬の間で葛藤があったのだろうが、白音ちゃんは頷いた。未だショックは抜けていないが、『冥界の命運』なんて言われては断れなかったのだろう。

 

 かと言ってサーゼクス様を恨むこともお門違い。実際、説得の適役は俺たちしかいないのだ。無傷だった他のみんなでは『敵である』という証明が薄れるし、かといって兵士悪魔たちの死は、お偉いさんには響かない。

 

 だから魔王の妹とその眷属という肩書を持ち、実際に『旧魔王派』の一員(黒歌)に致命傷を負わされかけた俺たちでなければ意味がないのだ。

 

 つまりそれで言うと、一番説得に適しているのは俺かリアス部長だろう。言っては何だが白音ちゃんはずっと麻痺したままだ。俺のように死にかけたわけでもないし、部長のように高い地位を持っているわけでもない。

 きっと俺たちが表に立ってフォローできる。これ以上白音ちゃんを苦しませないために決めた決心は部長と同じで、同時に顔を見合わせた俺と部長は同時に頷き、それをサーゼクス様に向けた。

 

 サーゼクス様は優しげに微笑んだ。

 

「……ありがとう。君たちの想い、無駄にはしないよ。……では早速、説得のための段取りを――」

 

 と言って、机の上で組まれた手を解く。その直後だった。

 

 ばたん、と突然背後でドアが開け放たれる音がして、俺たちは皆反射的に振り返った。驚きの眼で発見したのは、仰々しいローブを纏った一人の男。薄く汗をかいた妖艶な顔はどこかで見たような気もしたが、しかし記憶を辿る間もなくこっちに迫り、おざなりに『失礼』と言って俺たちを押しのけた。机までのしのし歩き、手の紙束をサーゼクス様に突き付ける。

 

「……アジュカ、突然なんだい?」

 

 コミック誌くらいの厚さのそれを受け取りながら、サーゼクス様はアジュカなる男を見上げて尋ねる。男、アジュカは唸るように息を吐き、短く言った。

 

「とにかく読んでくれ、サーゼクス。問題が起きた」

 

 言われ、紙束に眼を落とすサーゼクス様。書かれた文字を眼がなぞり、進むたびにどんどん眉間の皺が増えていく。紙をめくり、黙々と読み始めたサーゼクス様を、アジュカはやはり黙って見下ろしていた。

 

 その時間で突然の乱入者がもたらした驚きから立ち直った俺は、代わって湧いた僅かな警戒心と憤りを、声を潜めて部長に聞いた。

 

「部長、あのアジュカってやつ、誰なんですか?なんかサーゼクス様にタメ口聞いてましたけど……」

 

「イッセー……知らないのだろうけど、間違っても『やつ』なんて大声で言っては駄目よ。あのお方はアジュカ・ベルゼブブ。お兄様と同じ、四大魔王のお一人なの」

 

「……マジっすか」

 

 言われてみれば顔への既視感、城のパーティーでサーゼクス様の隣の席に座っていたような気もする。魔王様に不敬じゃないかと思っていたが、どうやら不敬だったのは俺のほうだったようだ。

 

 冷や汗がドバっと出た。恐る恐るアジュカ、いやアジュカ様へと視線を戻して聞かれていないかと確認し、動きがなかったことに息をつく。

 

 と思うや否や代わりにサーゼクス様が吐き出したため息は、直後俺に向いたものではないと気付いても、しばらく俺の心拍数を上げることとなった。

 

「……これ全て、協定破棄の嘆願書か」

 

「大王家からのな」

 

「っ……割って入って申し訳ありません、アジュカ様、サーゼクス様。ですが私たちはたった今、協定を繋ぐための御役目を賜った身……どういう意味なのか、お尋ねしてもよろしいですか……?」

 

 鼓動の振動と下がってしまった血の感覚で言葉が出ない俺に代わり、部長が言いたいことのほとんどを言ってくれた。

 

 そうだ、なぜ今ここで人間側からではなく悪魔側からそんな話が出て来るのだ。援護でそんな視線を送ると、アジュカ様はこっちに振り向き、一瞬サーゼクス様と眼を合わせた後、次いで身体ごとこっちに向いた。

 

「割って入ったのはこちらのほうだ、君が謝る必要はない。故に、侘びも含めて答えよう。私がサーゼクスに渡したものは、彼の言った通り、人間との協定を破棄せよとする進言の束だ。ほぼすべて、大王家に連なる貴族たちからのものになる」

 

「そ、そんな、なぜ……やはり、彼らが人間を蔑視しているからなのでしょうか?」

 

「内心はそうだろう。だがアレに書かれている理由は別だ」

 

 アジュカ様は部長と、そして俺の予想に首を振り、難しい顔をして神をめくり続けるサーゼクス様のほうを眼で示す。『アレ』、つまり大王家たちが人間との協定を否定する理由。それは――

 

「黒歌と、ピトーだ」

 

 息を呑んだ。ここでもその名前が出て来るのか、という思いを喉のあたりで押し留め、続く言葉を聞く。

 

「この一人と一匹は、本来ハンター協会会長のアイザック=ネテロによって討伐されたはずだった。サーゼクスが相当な金を費やして協会に依頼してな。……この辺りは君たちも詳しいだろう」

 

 部長は何も言わず頷いて肯定を示し、俺もそれに倣う。しかしやはり反応できない白音ちゃん。アジュカ様はしばらく見つめていたが、やがて諦め近くのソファーに腰を下ろした。

 

「しかし、生きていた。生きて、再び事を起こした。もう聞いているだろうが、タンニーン殿に未だ意識が戻らないほどの重傷を与え、十数人の悪魔を……殺した。加えて現在行方不明となっている貴族悪魔、私の身内であるディオドラ・アスタロトも、奴らに殺された可能性がある。それらの原因はすべて、奴らを殺せていなかった(・・・・・・・・)ハンター協会に責任がある、というような論調が進言のほとんどだ」

 

「だからそんな失態のある組織を有する人間側は、協定を結ぶに値しない、と……?」

 

 解せない、というふうに部長は眉を歪めた。確かに理屈はわかるが、しかしそれだけで人間全体に資格無しとするのか?という疑問。協定を結ぶ先はあくまで『V5』であり、ハンター協会はその補佐と仲介でしかないはずだ。それに二人を取り逃がしてしまった協会の力が不足しているのなら、それに文句を言うのは悪魔ではなく『V5』だろう。

 

 他にその失態とやらを協定の破棄まで結び付けられる理由は見当たらない。人間を疎ましく思う貴族たちの気持ちが、どうして魔王様の意思すら無視するほどにまで成長してしまったのか。

 

 わからずにいると、ふとアジュカ様に向いた視線の横で、サーゼクス様の顔が忌々しげに歪んだ。同時に気付いたらしいアジュカは、俺がそれを疑問に思う間もなく、答える。

 

「しかし一部にはもっと過激な主張をする者もいる。仮にも悪魔である黒歌が人間であるネテロに討伐されるはずもない故に、そもそも討伐されたという事実こそが奴のフェイクであり、ネテロとハンター協会はすでに奴に操られた傀儡なのだ、と。そんな組織は協定の破棄だけではなく、部隊を送って壊滅させるべきだ、という意見もちらほらとあったな」

 

「……そのようだ」

 

 サーゼクス様が眼を紙に落としたまま、低い声色で肯定する。部長が憤りの声を上げた。

 

「そんな……馬鹿げています!確かに黒歌は……戦ってみてわかりましたが、強かった。しかしネテロ以上だとは思えません……!それどころか私には、フェルやウタや曹操のほうが強いように思えました!全力を見たとはいえないでしょうから、確かなことは言えませんが……」

 

「私もリアスと同感だな。このような話がありえるとは思えない。ネテロを上回るほどの実力が黒歌とピトーにあるのだとしたら、五年前の逃亡の折、私たちが差し向けた討伐部隊は一人として戻りはしなかっただろう。……今回もね。……アジュカ、君はなぜ私にこんなものを読ませたんだ?」

 

 半分ほどを読まずに閉じ、サーゼクス様は進言を机の上に投げ出した。

 

「まさかこのような破綻した言い分が協定の障害になると思っているわけではないだろう」

 

「ああ、そうだ。ネテロのあの戦いっぷりを見て、黒歌に屈したと本気で考える奴はいないだろう。大王家は今の魔王政権を叩きたいだけだ。だから……こんなものは無視してしまえばいい」

 

 アジュカ様は以外にもあっさり同意を示すと、紙束に眼をやりちょいっと指を振った。途端に火が付き、灰も残さずに燃え尽きる。見届けたサーゼクス様がなおも疑問の表情で口を開くと、それを遮りアジュカ様は続けた。

 

「しかし問題なのは、この疑惑が大王家の内に留まらず、貴族どころか民衆にまで広まってしまったということだ」

 

「……なるほど。民たちの間でも、協定に対する反感が生まれているのか」

 

「今はまだ、そこまで大きなものではない。しかし気付いたころには口止めできる段階を過ぎていた。すぐに全土に広がり……サーゼクス、お前の想像した通りの声が上がるだろう。ネテロの、ハンターの強さを知らない市民たちからすれば、人間が悪魔に敵うはずがないという常識は実に納得がしやすい。……それに、そのほうが大衆受けもいいからな」

 

 ソファーの背もたれに身体を預け、天井を見上げながらそう付け足す。声色は明らかな嘲りだったが、その言葉は俺にも不快感を抱かせた。魔王様同士の会話を邪魔するなんて恐ろしくてできなかったが、しかし小さな呟きとして漏れ出す。

 

「……大衆受けって……」

 

 何もわかっていない奴らに、なぜサーゼクス様の平和への想いを踏みにじられなければならないのか。我慢できなかったその憤りに部長が気付き、俺を小突いて注意しようとしたその直前、なんと聞こえてしまっていたらしく、サーゼクス様が俺に微笑みかけた。

 

「ありがとう、一誠君。気持ちは私もわかるが、しかし彼らを疎ましく思ってはいけないよ。正しき道を示し、導くのが我ら貴族の責務なのだから」

 

 そう言われるともう俺は縮こまるしかない。ガキっぽい言いがかりであることを突き付けられ、サーゼクス様の温かな眼がさらなる羞恥を呼び寄せる。

 

 その一連を、不意に響いた咎めるようなアジュカ様の声が止め、サーゼクス様の魔王としての顔を引き戻した。

 

「ならまずは、導くための土台を修繕する必要があるぞ、サーゼクス」

 

「……なに?」

 

 ソファーに身を沈めたまま、アジュカ様は顔だけでサーゼクス様を見やり、言った。

 

「協定への反感というのはあくまで副次的な結果だ。……巷間に出回っているこの噂を、そのまま教えてやろう。『傀儡であると見抜けず協定を結ぼうとしているサーゼクスは魔王に相応しくない。クーデターの首謀者を二人も取り逃がしたとあってはなおのこと』、だ。不信感の大元は協定ではなく、サーゼクス、君なんだ」

 

「カテレアとシャルバのことまで出回っているのか……!それで、弱い私は『ルシファー』の名に不相応だと……。しかし、自分で言ってしまうのは何だが、私は民衆人気が高い方だと思う。取り逃がした程度で民心が私を否定するものか……?それに……『サーゼクスは』?非難するつもりではないのだが、そういう噂が出回っているのなら、私がクルゼレイを倒したことも伝わっているはずだ。代わってアジュカ、君たち他の魔王は敵兵悪魔の対処を頼んだ故に、これには関わっていない。なのに批判の対象が私だけというのは……些か奇妙じゃないか?」

 

「また別の噂があるからだ」

 

 アジュカ様が短く答える。きっぱりした調子は聞かずとも理由の明朗さが明らかで、サーゼクス様のみならず俺たちの懐疑を取り払った。

 

 そして、アジュカ様はサーゼクス様から反対の部長へと首を回し、懐疑の代わりに驚愕をもたらした。

 

「リアス・グレモリー、君が件の黒歌と内通しているのではないか、という疑惑が広まっている」

 

「……は……?」

 

 誰もすぐには言葉を発することができなかった。俺もやはり言葉の意味に理解が及ばず、止まった脳味噌で呆けているうちに、アジュカ様は続いて白音ちゃんに眼を向けた。

 

「正確には黒歌の妹である白音が疑われているわけだが、しかしそれも巡ればサーゼクスへの不審になる。裏切者を身内に抱えている魔王、となるわけだからな」

 

「……それは……馬鹿げている。白音が内通者など、馬鹿げているとしか言いようがない噂だ」

 

 サーゼクス様が我に返り、首を振った。続いて俺も思考を取り戻し、半ば叫ぶように訴える。

 

「そうです!!ありえないですよそんなの!!だって白音ちゃんは……黒歌の奴は、白音ちゃんを裏切って見捨てた奴なんでしょ!?しかも今回は拷問して殺すだなんて言ったんだ!!なのになんで白音ちゃんが悪者になってるんだよ……ですか!!」

 

「君たちはあり得ない話だと知っていても、民衆は知らない。タンニーン殿に致命傷を与え、ディオドラを殺したテロリストの妹である、というだけで疑うには十分だ。それに、言ったろう?そのほうが大衆受けする。『何もなかった』よりも『何かがあった』のほうが愉快なんだ。ほとんどの大勢は事実ではなく、より過激なゴシップに惹かれる」

 

「そんな……」

 

 震える声で口を覆い、とうとう直立の姿勢を崩した部長は白音ちゃんの頭を抱きしめた。俯くその表情はやはり見えないが、今となってはむしろ見ようと思うこともできず、俺は憤りを拳に押し込め、二人から視線を外す。

 

 するとその先、サーゼクス様が不意に椅子から立ち上がり、隠しきれない怒りで足を鳴らして、アジュカ様に詰め寄った。

 

「誰なんだ、アジュカ。その噂とやらを流した人物は……!」

 

「……わからん。まあ間違いなく大王家に連なる誰かだろうが、証拠は何一つない。それよりもだ、サーゼクス」

 

 アジュカ様も立ち上がり、真正面からサーゼクス様を睨んで肩を掴んだ。

 

「犯人捜しよりも、まずは早急に噂を払拭する必要があるだろう。このままでは協定も、お前の地位も消えてなくなる。唯一繋がった人間との協定という繋がりを失ってしまえば、我々は世界から取り残されてしまう。今、悪魔が再び分裂してしまえば、待っているのは以前よりももっと酷い、悪魔という種族の破滅だ。あらゆる勢力からの信用を無くした我々には、もう後がないんだ」

 

 『もう後がない』、その言葉にサーゼクス様ははっとしたような顔になり、怒りの気迫を押し込める。

 

 元一般人の高校生である俺には政治の話はわからないが、つまり『ぼっち』がまずいということなのだろう。魔王様二人が認めている以上俺も認めざるを得ないが、堕天使の総督が言ったように世界中の神話勢力から嫌われている俺たち悪魔は、人間の勢力からもそっぽを向かれれば味方がいなくなってしまう。

 

 万が一の時、誰も助けてくれないのだ。寄ってたかって虐められても、庇ってくれる人は一人もいない。そういう主人公がパシリにされたり恐喝されたりするような展開と結末は、漫画でいくらでも知っている。人間側、『V5』との協定とは要するに、唯一自分を見捨てないでいてくれた親友なのだ。

 

 だから、どれだけ困難だろうと(・・・・・・・・・・)人間との協定は結ばなければならない。そのことは、さすがに俺でも理解できた。

 

 間違いなくそんな俺以上に重要性を理解しているサーゼクス様も、数秒押し黙って怒りをやり過ごした後、再び椅子に戻って机の上で手を組んだ。

 

「……それで、どうやって払拭する。私への悪意による噂なのだろう?『V5』たちのように言葉で解決できるとは思えないが」

 

「明確な行動が必要だ。大王家、いや、噂を流した連中の口も噤ませられるほどの、確固たる実証。……故に提案する。サーゼクス、君の妹たちと共に『旧魔王派』の拠点を襲撃し、取り逃がした幹部の二人と黒歌を打ち取れ。それを完遂できれば、あらかたの問題は解決できるだろう」

 

「……『打ち取れ』、かい」

 

 サーゼクス様の視線が、アジュカ様から少し下にずれた。その眼の心配はもちろん部長と、そして白音ちゃんに向いている。

 もちろん俺も、白音ちゃんを抱きしめたままの部長も気持ちは同じだ。曰くどうやら戦いに赴かねばならない事それ自体はともかくとして、その中に白音ちゃんまで含まれているというなら、彼女の心を案じずにはいられない。

 

 黒歌がもうすっかり悪に染まってしまったとわかっていても、そうでない優しかった時、自分の大好きなお姉さんだった姿を知っている白音ちゃんには辛いだろう。

 

 たぶん俺と同じくそんな心配を思い浮かべたサーゼクス様は、しかしゆっくり瞬きをしてアジュカ様に視線を戻し、唸るように言った。

 

「確かに、それができればベストだろう。彼ら不満分子を叩くことができれば、後顧の憂いも絶つことができる。しかしその提案の通りにするにしても、我々は『旧魔王派』の拠点の所在どころか、彼らが属する『禍の団(カオス・ブリゲード)』なる組織の実体も把握できていないんだ。そんな組織が存在していたこと自体、知ったのはつい昨日のこと。これでどうやって襲撃するというんだ?」

 

「それに関しては問題ない。協力者がいる。というか、協力者が現れたからこの策を思いついたんだ」

 

「……協力者?」

 

「ああ。……特に赤龍帝君は少し驚くかもしれないが」

 

 サーゼクス様の怪訝に頷き、次いで俺を見やるアジュカ様。何のことやらで俺は『はい』も『いいえ』も言えず、その沈黙は結局『はい』に捉えられたのか、視線はさらに移って俺たちの背後、扉のほうに向けられた。

 

 そして、声を上げる。

 

「さあ入ってくれ、ヴァーリ・ルシファー君」

 

 ほぼ同時に、重いブーツの足音と共に、銀髪のイケメン野郎が入ってきた。

 

 あまりの予想外による驚愕で声が出ない俺たちには眼も向けず、堕天使側の『人間』であるはずの白龍皇、ヴァーリは俺たちの間をすり抜け、不敵な笑みでサーゼクス様を見やり、言った。

 

「一月ぶりだな、魔王サーゼクス。紹介の通りだが、改めて名乗ろう。俺は今代の白龍皇、ヴァーリ・ルシファー。君たちに協力しに来た。よろしく頼む」

 

「……まず一つ、尋ねてもいいかな。『ルシファー』というのは?」

 

「紛れもなく、本物だ」

 

 俺たちと違って驚きを御し、尋ねるサーゼクス様に、ヴァーリでなくアジュカ様が答えた。断言に喉が詰まったみたいに鳴るのをよそに、続ける。

 

「血、魔力、能力、調べたが、すべてに於いて先代ルシファーのものと一致した。人間とのハーフだが、彼は間違いなく『ルシファー』の子だ。……ちなみに、アザゼルは最初から知っていたそうだ。知っていて自分の傍に侍らせていたとは、本当にあの男は解せん」

 

「……なるほど、そうか。まだ血は途切れていなかったのか。まさか彼に子がいたとは……」

 

「納得したか?サーゼクス・ルシファー」

 

「……やめてくれよ、私の『ルシファー』はただの称号だ。君はグレモリー姓かサーゼクスで呼んでくれ。……しかし、そうとわかれば俄然気になるな。なぜ今、アザゼルの下から我々に――」

 

 その時ようやく俺は突っ込むべきところを思い出し、叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!それっすよそれ、アザゼル!!こいつは堕天使の仲間なんでしょ!?なのに協力者とか、絶対危険っすよこんなやつ!!」

 

「『堕天使の仲間』はもうやめたよ。今はフリーだ」

 

 叫んだが、しかし即座にお前には興味がないと言わんばかりにバッサリ切り伏せられ、その背に気圧され言葉が止まる。

 

「疑わしいなら後でいくらでも調べてみるといい。それにどうせ、見定めるのは君でなく、魔王だ」

 

 またしても言い返す言葉がなくなって、黙る。尻目にそんな俺を見てから、ヴァーリは魔王様たちに向き直った。

 

「だから信頼を勝ち取るために、少し情報を開示しよう。サーゼクスも気になっているだろう?俺が本当に『旧魔王派』のアジトを知っているのか。どうやって知ったのか。……簡単だ、その『旧魔王派』から教えられたのさ」

 

「……と言うと?」

 

 鋭くなったサーゼクス様の眼差しにも全く怯む様子はなく、ヴァーリは鼻を鳴らして笑う。

 

「君たちよりも一足早く俺の血を知ったらしくてね、スカウトされたんだ。了承し、かの組織の幾らかにまで入り込むことに成功して、そして今に至る。俺はシャルバ・ベルゼブブと同じ、魔王の座を追われたものだからな、俺が持つ情報がガセである可能性はほぼ無い。信憑性と理由に関しては、これで信用してもらえたかな?」

 

「……いやつまりそれ、お前が『旧魔王派』のメンバーだってことじゃねえか!!信用も何も、敵だろ敵!!」

 

「スパイという言葉を知らないのか、赤龍帝」

 

 ……もういい。もう喋ってやるもんか。

 

 黙らせられた俺は自主的に顔ごとやつから背け、代わりにサーゼクス様がしばしの沈黙の後、こころなし柔らかくなった声色で尋ねた。

 

「ヴァーリ君、君に我々を害する目的がないということは信じよう。……それで、情報の条件は何かな」

 

「……さすが、話が早くて助かる」

 

 ズボンのポケットに突っ込まれていた手が出て、背後の俺たちを親指で示した。

 

「彼らは黒歌、そして君はカテレアとシャルバを殺るんだろう?なら余ったピトーとやらと、俺を戦わせてくれ」

 

「……それだけかい?」

 

「ああ、俺は強い奴と戦えればそれでいい。アザゼルの下に留まっていたのも、その立場が相手を見繕うのに都合がよかったからでしかないのさ。しかし今回は逆に都合が悪い。元龍王タンニーンを倒してのけたほどの相手と、しかも死闘ができる機会はめったにあるもんじゃない。だからこうして交渉している、それだけだ。条件を呑むのなら、代わりに俺もアジトの場所を教えよう」

 

 間が開き、サーゼクス様は組んだ手を見つめたまま、呟くように聞く。

 

「……アジュカ、アザゼルは何と言っていた?」

 

「好きにしてくれ、だそうだ」

 

 アジュカ様が答え、サーゼクス様の悩むような、再びの間。今度は数十秒続いた黙考は、しかし開けず、業を煮やしたアジュカ様は立ち上がり、サーゼクス様の机に手を突いた。

 

「サーゼクス、決断しろ。リアスたちが黒歌と戦うのは不安だろうが、もう一匹の敵、あのキメラアントを相手にしてくれる白龍皇がいるだろう。リアスの名誉を回復させる目的である以上、人間であるハンターは元より、他の悪魔の戦力も多くは連れていけない。裏切りの危険性もあるが、しかしこれがリスクの底だ。話を聞く限り、黒歌一人ならリアスたちでもどうにか倒すことができる。……気持ちはわかるが、これが冥界の平和を保つ唯一の道なんだ」

 

「だが……」

 

 真に迫った説得は、しかしわかっていても容易には頷けない。いざとなって躊躇してしまう気持ちは、俺だって同じだ。

 

 だが、苦しげに呻いた、その時だった。

 

「……やります」

 

 小さな声。皆の注意がそっちに向く。

 

 思わぬことに呆ける部長の腕が解け、露になった白音ちゃんの眼が、まっすぐサーゼクス様に向いていた。

 

 その眼と声は、この場の誰よりも決意に満ちたものだった。

 

「私が、黒歌を殺します」

 

 言った白音ちゃんが、俺にはまるで別人に見えた。




各日更新終了。一足早くヴァーリが仲間に加わりました。白音もやる気出したみたいだし、黒歌ピトー戦もこれで安心だぜ!
そしてお察しの方もいらっしゃるかもしれませんが、次回の更新が三部の佳境、つまりラストになる予定です。年末年始も近いので今度こそ三ヶ月かかると思います。かからなかったら空いた時間ゲームするのでやっぱり三ヶ月後になります。ゆるして。
感想ください。


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十九話

前回までの三行あらすじ

冥界でクーデターが起こって
ピトーがアスタロト君もぐもぐして
リアスと一誠ぶっ飛ばして逃げた

今回も五話分です。書き直しが頻発して普通に時間かかりました。そのぶんいい感じになってる…といいなぁ…

そしてやっぱり毎度のことながら誤字報告をありがとうございます。第三部の一部をまたも手直ししたので今のうちに土下座しておきます。


 こっそりと覗き込んだ広い空間には、やはり誰もいなかった。

 

 敷き詰められた石材パネルと絨毯を歩く音は一つもせず、二階へ続く大階段にも人影は見られない。少し埃っぽい空気だけが、空間のすべてを満たしている。

 

 それは、どう考えても見覚えのある大広間の風景だった。

 

「……さっきも来たよな、ここ」

 

 外観と同様、いかにも宮殿然としたそこはゲームの舞台のようで正直心躍ったが、二度目且つ徒労までもが合わさればそれも薄れる。視覚情報に落胆を注ぎ込まれ、俺は肩を落とした。

 

 この大広間の大階段、思い違いでなければ上の階には玉座の間があるはずだ。そっちを正面とすれば、対面の大扉の先はエントランスを経て中庭で、さらに先には外庭と正門。中外の庭を断ち切る境の通路は城壁と同じく四角く巡り、この大広間に繋がっている。

 

 俺たちは、ちょうどそこを巡ってきたばかりだった。そして他に見落としがなければ、宮殿のすべてを一通り回り終わったということになる。

 その間、悪魔どころかねずみの一匹すら見ることはなかった。だから俺はもはや明確な確信を以てして、隠れる柱の陰から小声で文句を叫んでやった。

 

「おいヴァーリ!!黒歌もピトーもどこにもいねぇじゃんか!!『旧魔王派』のアジトって、ほんとにこの宮殿なんだよな!?」

 

 俺たちは部長と白音ちゃんのため、アジュカ様が立案したあの作戦を遂行している最中なのだ。

 

 サーゼクス様は魔王の威厳を取り戻すために『旧魔王派』のトップであるシャルバとカテレアを、そして俺たちは部長と白音ちゃんの裏切り疑惑を打ち消すため、黒歌を倒さねばならない。そのためにヴァーリのもたらした情報から『旧魔王派』のアジトを襲撃し、実際、サーゼクス様のターゲットであるトップの二人と配下の軍団には、宮殿の門前で出くわしていた。

 

 だからこの宮殿はアジトで間違いない、そう思ったのだがしかし、俺たちが倒すべき黒歌とその仲間であるピトーは軍団の中にはいなかったのだ。ならばと探した宮殿のどこにも見当たらない。

 

 ヴァーリはここがアジトだというのに、この結果は明らかにおかしいだろう。罠の臭いがプンプンする。

 おかげでとうとう溢れたそんな文句だったのが、一番に反応したのは通路の壁に寄りかかって腕を組むヴァ―リではなく、ちょうど俺の隣で集中していたゼノヴィアだった。

 

「イッセー、この大馬鹿者……!私たちは敵陣に潜入しているんだぞ!?そんな大声を上げる奴があるか……!」

 

 声は十分抑えたつもりだったが、それでもゼノヴィア的にはやかましかったらしい。怒声に気まずさが勝ち、俺は素直に陰に引っ込んだ。しかしそれでもゼノヴィアの眉根の皺は付いたまま、治まったようには見えないその苛立ち、精神の消耗は、やはり彼女が使っているという『念』の技、『凝』によるものなのだろう。

 教わっていた時は俺も隣に居たはずであるのに全く覚えがないが、とにかくものすごく注意して見ることによって隠れた『気』を見つけることができるそうだ。それで黒歌を見つけようという腹積もりであるらしいが、今の今まで俺の目視と同様、何の成果も得られていない。

 

 だからそれも含めてのヴァーリへの懐疑なのだが、しかし続く賛同はゼノヴィアを含めて一つもなかった。代わりに朱乃さんが、ちょっと困ったふうな顔をした。

 

「信用できないという気持ちはわかりますが、イッセー君。今、魔王様が戦っているのは間違いなく『禍の団(カオス・ブリゲード)』、『旧魔王派』のシャルバ・ベルゼブブとカテレア・レヴィアタンなのですから、やっぱりここが彼らのアジトであるというヴァーリの情報は正しいと思いますわ。黒歌とピトーも、かの組織の一員であるのだから、必ずどこかには……」

 

「でも……今となっちゃそれも怪しくないですか?第一、一員ならボスのシャルバの傍についてるはずでしょ?なのに黒歌もピトーもいなかったじゃないですか。他の兵隊はみんな戦ってたのに」

 

「しかしそれは――」

 

「宮殿の守りを任されてるから。でもその割には誰もいなくて……それを言い出したのは、ヴァーリっすよ。俺たちはスパイをしてたお前が言うならそうなんだろうって思ったけど……なあヴァーリ、お前、本当に俺たちの味方なのか……?」

 

 もしかして、例えば魔王様から俺たちという戦力を削ごうとしているのではないだろうか。あるいは思いつけないような思惑か、それがどんなものであれ、嘘を吐いているのなら碌なものでないに決まっている。

 

 俺たちを、部長を陥れようとしているなら、それを許せるはずがないのだ。だが睨みつけてやったヴァーリはムカつくにやけ顔のまま、俺の疑念に失笑を返してきた。

 

「味方さ。前魔王の子孫が悪魔の敵であるはずがないだろう。……彼女らのように心の芯まで、というわけではないが」

 

「っ!……やっぱり、なんか隠してやがんだな」

 

 口角が上がった嘘を認めるようなヴァーリの台詞に、俺だけでなく皆も身を跳ねさせた。視線の集中を受けながら、ヴァーリは、奴はますますにやけた笑みを深くする。

 

「そう警戒するな。隠していたといっても裏切ったわけじゃない。ちょっとした、かわいらしい嘘をついただけさ。……ピトーと黒歌が宮殿にいるはずだ、という確証のない話をな」

 

 ヴァーリは俺たちの反応を面白がるように、もったいつけてそう告げた。やっぱりか、と思うと同時、それを裏切りでないと言い切った奴への怒りが湧き出て来る。我慢できず、声を潜めるのも忘れて詰め寄った。

 

「つまり俺たちを騙してたってことじゃねえか!!二人とも宮殿にいないなら、じゃあどこにいるんだよ!!あいつらの居場所を隠して、裏切りじゃないってんならてめえ一体何のつもりだ!!」

 

「ピトーと全力で戦いたかったから。余計な邪魔が入る余地を消したかったから、だ。無人の宮殿なら、俺も奴も戦いに集中できるだろう?」

 

「……いや、そのピトーと黒歌が宮殿にいるってのが嘘なんだろ!?言ってることが滅茶苦茶じゃねえか!!……ってことはお前……二人がどこにいるのか、本当にわかってなかったってのか!?」

 

「まあ……そうだ。そもそもあの二人が『禍の団(カオス・ブリゲード)』に所属していると知ったのは、悪魔側に着いたあの時だった……シャルバの秘密の隠し玉だったんだろう。その上奴らは二人とも『念』を使う。『絶』でもされれば、存在に気付くのはまず不可能だ」

 

「じゃあ……マジでどうするんだよ!!あいつらがこの戦いに参加しているのかいないのかもわからないってことなんだろ!?」

 

「いいや?参加はしているさ」

 

 どこにいるかわからないと言いながら、しかし直後そんなふうに断言してみせるヴァーリ。もう訳がわからない。俺は頭痛がしそうな苛立ちでむしゃくしゃしながら頭を掻きむしり、凄んでみせた。

 

「だからさっきから何が言いてえんだよヴァーリ!!俺をおちょくってるのか!?この前も父さんと母さんのこと……クソッ!!冗談だとか言って人を怒らせることばっかしやがって……!!」

 

「イッセー……!いい加減落ち着け、今は潜入中だと何度も言ってるだろう……!」

 

 ゼノヴィアの別の方面の苛立ちも、俺の怒りと同じく限界が近い。このままでは本当に、ヴァーリのこのムカつくイケメン顔をぶん殴ってしまいそうだ。

 

 そんな激情を寸でのところで堪えてやっているというのに、ヴァーリの顔にはやっぱり笑み、愉快そうな表情しかない。おかげでもはや増大に際限はなく、あっという間に限界を超えて噴き出しかけたその寸前、見計らったかのようなギリギリのタイミングで、ようやくヴァーリは口を開いた。

 

「残念だが、今は落ち着け宿敵君。そう怒らずとも説明するさ。……まずはピトーと黒歌がこの戦いに参加しているとする理由、か?簡単だ。奴らが『禍の団(カオス・ブリゲード)』であるのなら、組織存続の瀬戸際であるこの戦いに参加しないわけがないだろう」

 

 だがしかし、実際戦っているどころか、姿すらどこにもなかったじゃないか。そしてそれは、ヴァーリ自身も認めた事実。

 

 そう声を荒げかけるも、その間を与えずヴァーリは続けた。

 

「話を聞く限り、奴らは二人とも、かなり鍛えられた念能力者だ。当然『絶』も会得しているだろう。レベルの高い『絶』で気配を絶ち、本気で隠れられたら、俺やお前たちはもちろん、サーゼクスにだって見つけることは不可能。……単純だ。奴らは隠れて、サーゼクスに不意打ちを食らわせる機会を待ってるのさ」

 

「そ、そんな……!なら、早く知らせなければ――」

 

「知らせたところでどうにもならないだろう。いることがわかっても、『どこに』も『いつ』も知りようがないんだからな」

 

 知り、動揺を見せた部長だったが、ヴァーリのその言葉で必死に心配を噛み殺そうとする。確かにヴァーリの言う通り、教えても無意味なら邪魔にならないよう我慢すべきなのかもしれないが……やるせないばかりだ。

 

 そういうところに全く気遣いのないヴァーリは、部長の様子を全く気にする様子もなく、それどころか鼻で笑って目を伏せ、大扉に向けた。

 

「とはいえ、そもそも気配を感じないんだから、確証なんてない憶測だ。例の『オーフィスの蛇』、あれを込みにしても、シャルバ程度の強さでピトーと黒歌の手綱を握れるとは思えないしな」

 

「……要はパワーアップアイテムなんだよな、『オーフィスの蛇』ってのは。それでも手綱が握れてないって……どういうことだよ!?憶測って、またお前――」

 

「落ち着けと言ってるだろう。もし二人が不意打ちなんて狙ってない場合、つまりシャルバを見限ってとっくに逃げ出してた場合でも……黒歌はその白音を攫おうとしているんだろう?ならこうして孤立していれば、またとないチャンス。誘われて出て来るはずだ」

 

 言いながらヴァーリが眼で示した白音ちゃんは、その視線に緊張のあまりかずっと感情の見えない無表情で唇を噛んだ。

 

 しかし、だ。

 

 ヴァーリは、肩をすくめてみせた。

 

「……と思っていたんだがな。この現状だ、影も形もない。そこまでの熱意でもなかったのか……あるいは俺の存在を恐れたか、どちらにせよがっかりだ」

 

 黒歌とピトーは姿を現さない。ヴァーリ曰く、それが答えなのだ。

 あの二人、いや黒歌は、白音ちゃんへの悪意よりも己の身の安全を取ったのだ。なにせこっちの戦力がいかにも過剰。魔王様自身とその眷属、留守を守るために『女王(クイーン)』であるグレイフィアさんを含めて何人かを残したらしいが、それでも半数がいるし、加えて白龍皇で前魔王の血筋でもあるヴァーリと、俺たちオカ研メンバーが引きこもりの治らないギャスパーを除いて勢ぞろいしているのだ。これだけを敵に回したら、俺でも確実にビビってしまう。

 

 だからヴァーリの『見限った』というその予測は、たぶん外れている(・・・・・)のだろう。あの時、黒歌が実の妹である白音ちゃんに向けた残虐の執着。直に目にしていないヴァーリにはわからないのだ。ビビった程度で諦めるわけがない。

 

 となれば黒歌とピトーはやはり魔王様のいる戦場に隠れて隙を伺っている可能性が高く、ヴァーリにとってもピトーがシャルバたちのサポートに気を取られるかもしれないから、戦闘狂の本懐である『お互い全力の戦い』ができる見込みが薄くなってしまって不満の戦闘。この先に舞っているのは、つまりはそういう事態だ。

 

「……後はピトーがシャルバに付いていて、殺された恨みをサーゼクスだけでなく俺にも向けてくれるか、という可能性に賭けるくらいか」

 

「……やっぱり俺、お前の考えにはついていけねえよ。なんでそんなに戦いが楽しみなんだか……まあ、きっと戦えはすると思うぜ。俺たちはそれで十分だ」

 

 理解はできないがしかしかわいそうとは思えたために、黒歌たちが逃げ去ってはいない確信を言外に言ってやる。眼にして、それで悟ったヴァーリは眉を上げて驚いて、ふん、とまた鼻で笑った。

 それが嘲りではなくどこか認めるような苦笑であったために、俺も何も言わずに頷く。するとヴァーリは、ふと明後日の方に視線を泳がせ、口にした。

 

「となればやはり、奴らが言っていた秘密兵器とやらはピトーと黒歌のことだったのかな」

 

「……は?秘密兵器?」

 

 なんだそれは。

 突飛な単語に思わずヴァーリを疑っていたことへのほんの少しの申し訳なさも吹っ飛んだ。理解が追い付かずさらなる追求もできないでいると、それらを押しのけその重大さに気付いたリアス部長が、さっきまでの俺のように警戒心を纏って声を上げた。

 

「貴方、秘密兵器なんて私にも魔王様にも、今まで一言も言わなかったじゃない!なぜ隠していたの!?」

 

 ヴァーリは怒気混じりの部長の声をさらりと受け流し、笑った。

 

「あの時は言う必要がないと思ったんだ。秘密兵器があるってことは城でのパーティーへの襲撃前に聞いていたんだが……てっきり『蛇』のことだと思っていたからな」

 

「オーフィスの……。既にシャルバが明かしていたから、ということ。けれど今は考えが変わり、黒歌とピトーという戦力がそれだろうと……」

 

「ああ。あの時、妙に気が進まなそうな顔をしていた理由もそれで合点がいく。かたや元猫又の転生悪魔で、もう片方は悪魔の血が入っただけのキメラ。シャルバの思想からして、あの二人の存在を誇れるわけがない」

 

「……なるほど。それで、なぜわざわざその話をしたの」

 

 言わなかった理由に納得はしたが、そもそもそんな疑われるだけの話、黙っていればよかったじゃないか。当然今度はそんな疑問が出て、部長は怒気を抜き、その分を困惑に変えて眉をひそめた。

 

 睨みつけられたヴァーリは壁から背を離し、組んでいた腕を解いてひらひら振った。

 

「なに、ちょっとした礼だ。腹の中を見せれば、少しは信用もできるってものだろう?っとまあ、そんなことより……今はやるべきことがあるんじゃないか?」

 

 言いながら、広間を堂々歩くヴァーリはその行く先を大扉に向け、頭だけ振り向いた。

 

「黒歌もピトーも魔王と戦っているんだろう?なら、こんなところで突っ立っている意味はない。そっちもそうなんじゃないか?」

 

「っ!言われなくとも……!行くわよ、みんな!」

 

 部長の号令。俺もみんなも、当然ゼノヴィアももはやうるさく言うことはなく、急いでヴァーリの後を追った。

 

 援護……するのは確かに邪魔になるだけかもしれないが、しかしきっと何かできることはあるはずだ。戦う覚悟を決め、そして閉ざされた大扉手を当て、押し開こうとするヴァーリに追いつく。

 ヴァーリはまたちらりと背後に眼をやってそれを認め、そして小さく頷いた。

 

「さあ、行くぞ」

 

 大扉が軋んで動き出す、その直前だった。

 

「「「「「「「「――ッ!!!」」」」」」」」

 

 全員の身を、突如として猛烈な悪寒が襲った。

 それに感じる感情は、恐怖。世界中の悪意を煮詰めて凝縮したかのようなすさまじい奔流が、気付けば周囲一帯を覆っていた。

 

 コカビエルと戦っていた時のフェルさんにだってかなりの圧迫感を感じたが、これはそれ以上。明らかに俺たちに向けられた迫力に声も出ず、視線すら、ヴァーリの背中から動かすことができないほどだ。

 

 明らかに、扉の向こうに何かがいる。そんな圧倒的な気配に、ヴァーリがふと独り言のように呟いた。

 

「……なんだ、やっぱり御せてはいないのか」

 

 素早く大扉から離れ、一瞬で『力』を纏う。

 

禁手(バランス)――」

 

 しかし禁手(バランス・ブレイカー)、【白龍皇(ディバイン・ディバイディング)の鎧(・スケイルメイル)】の発動は、

 

 大扉の爆発によって吹き飛ばされた。

 

「きゃあっ……!!」

 

「ッ!!アーシアッ!!」

 

 わきをものすごい速さで飛ぶ何かと、遅れてやってくる風圧。巻き込まれたアーシアの姿が眼に映る。俺の身体もバランスを崩しかけていたが、気付けば反射的に手が伸びていた。地面を蹴って抱きとめ、一緒にごろごろ絨毯の上を転がると、やがて背中を大階段にぶつけて止まった。

 

 扉からこの階段まで、結構離れていたはずだ。それほどの爆発とはいったい何事かと顔を上げれば、同じように吹き飛ばされ、放射状に散らばった仲間たちも、顔をしかめて吹き飛んだ扉の方を睨みつけていた。

 

 そこに佇む人影。巻き上げられた埃や土煙が治まって露になったその姿は、禁手(バランス・ブレイカー)状態の俺を一撃で瀕死に追いやったあいつ。

 

 黒歌の仲間である、キメラアントなる魔獣の姿だった。

 

「やっぱり……ピトー!!」

 

 ほんの一瞬殴られる直前に見た姿と服装は変わっているが、間違いない。銀髪と猫耳に尻尾。その禍々しさすら感じる気配にも憶えがある。フェルさんを除けば、そんな気配を発していたのは奴だけだ。

 

 そんな敵が、城門前の戦場ではなくここにいる。予想は結局外れていたことになるのだろうが、しかし、となればやはりその後ろに彼女もいた。

 

「あら、ほんとに少ない。私たちを殺すって話なのに、これだけしかいないの?」

 

 黒歌の不思議そうな顔が、倒れる俺たちを見回していた。悠々と広間に足を踏み入れると、その眼が白音ちゃんを見つけて止まり、侮蔑で染まる。

 

「もっと大勢で来ると思ってたんだけど……ふぅん、そう。ほんと、どいつもこいつも甘っちょろいわよねぇ」

 

「好きに言っていなさい!どうであれ、私たちがやることは変わらないわ……!」

 

 部長は白音ちゃんを背に庇い、やはり優しさを理解できない黒歌の言葉を払い除ける。実際討伐隊が俺たちだけなのは部長と白音ちゃんの名誉回復が目的にあるからだが、何やら勘違いしているらしいのをわざわざ正してやることはない。

 それに少数だとしても、過去に上級悪魔であるライザー・フェニックスとのレーティングゲームにも勝利して若手悪魔としても期待されていたりする俺たちは、精鋭であることに間違いはない。さらに、戦力の面で言えば頼もしい奴がこっちにはついているのだ。

 

「そうだぜ黒歌、そっちから来てくれんなら好都合だ!!この前みたいにはいかねえぞ!!みんなもいるし、それに白龍皇のヴァーリもいるんだからな!!白音ちゃんはお前の好きにはさせねえ……!!もう、容赦もしねえ!!今度こそ、きっちりぶっ飛ばしてやる!!なあヴァーリ、ピトーは任せた、ぞ……?」

 

 フェルさんやウタや曹操とも張り合う、いや、もしかすれば凌駕するかもしれないほどの強者。奴までもが味方なのだから、たとえ黒歌とピトーが『蛇』を使ってパワーアップしているのだとしても、協力すれば俺たちは戦える。

 

 その思いで、俺はヴァーリを探した。吹き飛ばされて大広間に散らばったみんなの背中を見渡して、しかしヴァ―リの黒革ジャケットが見えなかった故に言葉尻がしぼんで疑問符が付く。

 

 だが姿の代わりに、音が後ろから響いた。

 

「頼まれずとも……奴は俺の獲物だ」

 

 瓦礫がガラガラと階段を転がってきて、驚き振り向けば、破壊された段差に埋まった身体を引き抜くヴァーリの姿があった。

 

 しかも額から一筋血を垂らしながら、怒りの敵意でピトーを睨みつけている。その負傷、曹操と同じく中身は気に入らないが信頼できる実力を持つはずの奴がダメージを負ったという衝撃は、俺の驚きをますます激しいものにした。

 

「どっ、どうしたんだよヴァーリ!?お前だけそんな傷……!!」

 

 奴も俺たちと同じく扉の爆発で吹き飛んできたのだろうが、しかし眷属のみんなはほとんど無傷なのにお前だけなぜ、という疑問。少し考えればわかるようなこと故に、ヴァーリはしかめっ面の目だけを一瞬俺に向け、乱暴に息を吐き出した。

 

「ピトーの攻撃を、少し見誤っただけだ。禁手化(バランス・ブレイク)が間に合わなかった。だがもう問題ない。次は見切れる」

 

 ピトーの攻撃とは、つまりあの扉の爆発だ。俺たちが吹き飛ばされたのもそう、ヴァーリに突き刺さったそれの余波だったのだろう。

 数舜後にそうだと気付き、ピトーの強さに改めて戦慄を覚える俺は、それを無理矢理呑み下して立ち上がり、小手の拳を突き出した。

 

「とにかく黒歌!!お前は俺たちと戦ってもらうぜ!!お前たちもそのつもりなんだろ!!」

 

「……だとしても、分かれて戦ってあげる筋合いはないんだけど。ていうかわかってる?あんたたちの中で私たちとまともに戦えるの、そこのヴァーリくらいなものよ。それをピトーにあてがって、私にはあんたたちだけ?それで倒せると思われてるのはほんとに心外だわ。……それを良しとしたなら、ヴァーリ、あんたも案外苦労はしなさそうね」

 

「……別に構いはしないのさ。何なら二人同時にいただきたいくらいだ。が、そういう契約なものでな」

 

 忌々しげに言い捨てて、ヴァーリは今度こそ禁手化(バランス・ブレイク)した。一瞬でコカビエルの時に見たあの純白の鎧に包まれ、背中から光翼と、四対八枚の悪魔の羽が生える。力の強大さを示すその枚数は、奴が初代魔王の子孫である証だ。

 

 たぶん黒歌たちもそのことは知っているだろうが、しかし奴らは全く怯まず、ひそひそと、ヴァーリを横目に耳打ちし合っていた。

 

「……なんか調子こいた女好きみたいなこと言ってるけど……あいつもあの変態に汚染されたのかしら。ヤよねぇ、せっかくのイケメンだったのに」

 

「……まあ、うん。敵の目の前で主の胸を突くくらいだからね」

 

「おい聞こえてんぞ!!誰が変態だって!?ヴァーリは元からあんなスカした野郎だったろ!!」

 

 潜める気もない言葉に、つい心外が漏れる。なぜか味方からも冷たい眼が送られているような気がするが無視し、悪評ごと断ち切るため、精神を集中。部長のおっぱいブザーを思い出し、高まる幸せな気持ちを一気に力に変え押し出した。

 

『Welsh Dragon Balance Breaker!!』

 

 ヴァーリに続いて俺も禁手(バランス・ブレイカー)、【赤龍帝の鎧(ブーステッド・ギア・スケイルメイル)】を発動させる。多少時間はかかるが、あの頃を思えばもはや自在だ。

 

 下りてきたヴァーリの機嫌の悪さを隣に感じながら、俺は黒歌を指さして言ってやる。

 

「けどもう、どうでもいい。これ以上お前と話すことなんか何もねえ!!かかってこい黒歌!!俺たちで決着をつけてやる!!」

 

 だが黒歌は相も変わらず、舐め腐った笑みを浮かべた。

 

「自分たちだけ好き勝手言って、ちょっとひどくない?私にもしゃべりたいこといっぱいあるのよ、ピトーに殺されたはずのあんたが生きてることだとか、色々。まあいいけど……あ、じゃあ一つだけ」

 

 白音ちゃんへ向け、残忍を付け加えた。

 あの時と同じ、冷酷な笑みだった。

 

「わざわざ白音を連れてきてくれてありがとう。おかげで最後にじっくり嬲ってあげられるわ」

 

 仲間たちが皆息を呑み、そしてゼノヴィアがデュランダルを握り直し、呟くように口にする。

 

「……なるほど、白音の姉だと言うからどんな人物だと思っていたが……どうやら外道に堕ちたというのは本当らしい」

 

「正直、少し安心したよ。……これなら楽に切れそうだ」

 

 木場も続けて頷いた。見える背中から少し強張りが消える。

 朱乃さんやアーシアも同じだ。みんな、恐怖と同時に安堵。部長が敵と定めた相手とはいえ、白音ちゃんの姉と戦うという事態に感じていたのだろう抵抗は、今の瞬間に消え去った。

 

 もう白音ちゃんが愛した黒歌はどこにもおらず、戦うしかないのだと。もうどうしようもなく手遅れなのだと、奴のその表情ははっきり物語っていた。

 

「わあ、酷いことばっかり言うのね。殺意マシマシって感じ」

 

「当たり前でしょう……!!」

 

 部長が、白音ちゃんを背に庇って鋭く言った。その後姿からも、部長が黒歌の言葉に抱いた怒りの激しさがわかった。

 

「何度も言わせないで、黒歌……!!もう貴女を許す気も、救う気も私たちにはない。絶対に白音は渡さないわ!!」

 

「そっちこそ、何度も言わせないでくれる?あんたのその上から目線な態度も、的外れな憐れみもどうでもいいの。白音の気持ちだって関係ない。私は私のやりたいようにするだけよ。他の何でもない、これは私の意思なんだから」

 

 張り合っているつもりか、黒歌も強い調子で応じて部長を睨んだ。その身体に、徐々に『念』特有の圧迫感が高まっていくのを感じる。あの時の念弾を思い出し、背中にじっとりと冷や汗が浮いた。

 

 だが部長はその威圧に怯むことなく、毅然と立ち向かった。滅びの魔力を身に滾らせ、言葉を返す。

 

「なら、私たちも私たちのやるべきことを為すわ」

 

 背を白音ちゃんと俺たちに見せたまま、続けて戦意を引っ張り上げるため、叫んだ。

 

「世界に仇なす『旧魔王派』の一員、はぐれ悪魔の黒歌。悪魔のためにも人間のためにも、そして白音のためにも、私は貴女を許さない。……今度こそ、絶対に倒すわ!みんな、覚悟はいいわね!!」

 

「はい、部長!!」

 

 眷属の皆が、部長の決意にそう応えた。共に戦い、部長と白音ちゃんを救うため。内通者なんて疑惑を打ち消し、大好きだったお姉さんを今度こそ失ってしまう白音ちゃんの悲しみを、少しでも軽くしてあげるため。

 

 にや、と、こっちを嘲るように笑う黒歌。俺も、鎧の拳を握った。

 

 だがみんなと違い、次に脚は動かなかった。

 

「……ああやっぱり、思い違いはそのままなわけ。ほんと滑稽……じゃあせっかくだし、そんなあんたたちにいいモノを見せてあげ――」

 

 と、何かを言おうとして、以前の恰好とは違う大きくはだけた着物の胸襟に手を掛けた。その声と動作に気を取られ、他の皆には聞こえなかったのだろう。俺の背にいたアーシアにもわからなかったはずだ。

 

 唯一部長の背に跳ね返った声が届いた俺だけが、その小さな呟きを耳にした。

 

「――ごめんなさい、リアス様」

 

 感情を押し殺したような、そんな声の直後、

 

「きゅ――」

 

 と、部長の喉から、奇妙な音が零れ出た。

 

 みんなが一斉に振り向き、そしてぽかんと呆ける。ぼたっと地を打つ血の塊。

 

 それが部長のものだと悟った時には、既に身体は傾いていた。

 力なく膝を突き、部長は地面に倒れ伏した。吐いた血に頬がぺしゃりと浸り、それを押し広げるように擦りながら、その首が緩慢に背後を向く。信じられないと語る眼が見ているのは、小動もせずそこに立ち尽くす白音ちゃんの姿。

 

 後ろから、俺はすべてを見ていた。だからその眼の理由も、白音ちゃんが一切の衝撃を受けていない理由もわかってしまう。

 

 突然の事態にみんなが混乱する中、俺だけが呆然と見つめ、呟いた。

 

「――なに……やってんだよ?……白音ちゃん……?」

 

 俺には確かに、白音ちゃんが部長の背中を攻撃したように見えた。

 

「な……に?どういうことだイッセー……!?部長が、突然……」

 

「倒れて……っ!黒歌に攻撃されたの!?白音ちゃん、すぐに手当を!!」

 

 呆然とするゼノヴィアと、一人我に返って指示を飛ばす朱乃さん。だが、的外れだ。

 

 白音ちゃんは朱乃さんの声にまるで耳を貸さず、部長を避けて無造作に歩き出した。足の向く先は、黒歌とピトーのほう。理解が追い付かない。

 

 そうして脳味噌を止められているうち、白音ちゃんはゆっくりと、俺たちと敵二人の中間ほどまで歩を進め、そこで木場もここが戦地であることを思い出した。

 

「ま、待つんだ白音ちゃん!!それ以上一人で近づくのは危ない!!黒歌の目的は君なんだよ!?」

 

「白音ちゃん……!」

 

 不穏を感じ取ったアーシアの声にも、まるで耳を貸さない。歩みはそのまま続いている。

 

 どんどん離れていく。

 

 質の悪い冗談だと思った。

 

「……白音ちゃん、お前、何考えてんだよ……!!」

 

 脚がようやく止まった。

 

 白音ちゃんはしばらくそのまま立ち止まり、そして肩が膨れるほど大きく息を吸い、ため息にして吐いた。再びの僅かな間。その次に、響き渡った。

 

「――あははははっ。『何考えてる』って、イッセー先輩、見てたのならそれくらいわかるんじゃないですか?」

 

 黒歌のそれによく似た、嘲弄の笑い声。白音ちゃんは半身振り向き、その歪んだ笑みを俺たちに向けた。

 

「そもそも、私たちが黒歌姉さまを倒そうとした理由って、私の内通疑惑を払拭するためでしょう?馬鹿馬鹿しい話です。疑惑も何も……その通り、私は正真正銘、内通者なんですから……!」

 

「……何を……何を、言っているの……?白音ちゃん……」

 

 ますます強まる朱乃さんの困惑すら狂気的な笑みに変えて、白音ちゃんは続ける。

 

「まだわかりませんか?つまり、私は元から裏切りものなんです。黒歌姉さまと、ピトーさまにずっと情報を流していました。……みんな、私に騙されていたんですよ」

 

 徐々に無感情に、冷たく平淡になっていく口調。突き放すように言い切って、白音ちゃんは再び俺たちに背を向けた。そして、着物に指を引っかけたまま固まる黒歌の下に行ってしまう。

 

「……しろ、ね……」

 

 か細い部長の声。裏切られたことへの、いや、裏切らせてしまった自分自身への絶望感が滲み出ていた。

 

 だが満ち溢れた慈愛すら、白音ちゃんには届かない。足を止めることさえせずに言う。

 

「残念でしたね、リアスさま。せっかく覚悟を決めてここに来たのに。さっさと撤退して、今度は大勢連れてきたらどうですか?その頃には……もうここにはいないでしょうけど」

 

 みんな、確信せざるを得なかった。冗談なんかではなく、事実。それは白音ちゃんの言葉だ。

 普段と何も変わらない声で作り出された拒絶の言葉だったから、みんなわかってしまった。

 

「なんでだよ、白音ちゃん……なんで……ッ!!」

 

 なんで俺たちを、部長を裏切ったんだ。

 

 なぜ、どうして。過去、一緒に戦ったあの思いは、部長を愛していたあの時の白音ちゃんは、いったいどこに行ってしまったのだ。

 

 わかっても、信じてしまいたくなかった。その時だった。

 

「――へえ、さすがクロカ。仙術での操作、うまくいってたみたいだにゃ」

 

 ピトーがそう言った。

 

「は……!?」

 

 言葉を耳にして反射的に俺もそっちを見れば、黒歌の驚いたような表情が(・・・・・・・・・)弾かれるようにしてピトーに向く(・・・・・・・・・・・・・・・)、その瞬間だった。白音ちゃんの脚も止まって、それで俺は、自分が完全な思い違いをしていたことに気が付いた。

 

 なぜそれを思いつかなかったのだろう。白音ちゃんが裏切ったなんていう、その理由も定かでないありえない可能性よりも、そっちの方がずっとありそうな話じゃないか。

 

「そうか!!あの時、お前が白音ちゃんの腕を引っ張ってた時……!!黒歌お前、白音ちゃんを操っていやがったんだなッ!!」

 

 『気』という生命エネルギーを操る技である仙術。どれほどまでのことができるのかはわからないが、他人の生命エネルギーまで操れるなら、その肉体も操ることは可能なはずだ。証拠に、見た黒歌の驚愕と共に白音ちゃんの動きも固まった。黒歌の意思で操作されていたことは、もはや疑いようもない。

 

 そしてそうであるなら絶望の必要はない。白音ちゃんは裏切ったのではなく、裏切らされていただけなのだから。

 

「操作……ッ!!そういうことか……!!黒歌、貴様よくも……!!」

 

「……ますます許せなくなったよ。裏切りを強いるなんて……!!」

 

「……ということはつまり、黒歌さえ倒せば白音ちゃんは元に戻る……!!」

 

 ゼノヴィアと木場も気付き、絶望を怒りに変える。冷静に努めて道を見出した朱乃さんも、応えて戦意を黒歌に向けたまま頷いたゼノヴィアに、意気を取り戻す。

 

 その内にそれぞれ安堵を抱えながら、倒れ伏したまま動けない部長に代わって、朱乃さんが前に出た。

 

「己の主人を手にかけただけありますわね、黒歌。まさか白音ちゃんにも同じことを強制させるだなんて……。もはや一切の慈悲はありません。あなたは、私たちグレモリー眷属が必ず倒す……!!」

 

「そして白音ちゃんを救い出す。当初とやることは変わっていないけど、俄然やり通さねばならなくなった。君のような邪悪は、ここで絶たれるべきだ……!!」

 

「そうだな。私の妹弟子に手を出したこと、必ず後悔させてやる!!」

 

 みんなの士気が高まっていく。俺も拳を固く握りしめた。

 

「ああ……!!黒歌、お前がもう白音ちゃんの姉さんでも何でもないってことは、もう十分わかったよ。だから絶対、白音ちゃんは渡さねえ……!!俺たちの可愛い後輩を苦しめるお前は、俺たちの敵だ!!」

 

 ここで必ず決着をつける。白音ちゃんの苦しみを絶ち切ってみせると、俺は誓った。

 

 その決意の敵意はさすがに届き、黒歌は驚きの表情のままこっちを見やると、その感情を、戻らないながらもさっきまでの余裕の態度へと捻じ曲げた。歪な不敵を浮かべながら、ピトーに言う。

 

「色々何のつもりって聞きたいところなんだけど……どうするのこれ。あっち変にやる気出しちゃったみたいだし」

 

「……そうだね、うん。じゃあもう始めようか」

 

「いや、だから――」

 

 と何か言いかけた黒歌までもを黙らせるようにして、瞬間、ピトーからすさまじい圧が噴出した。

 

 『気』なのだろうが、やはり白音ちゃんやゼノヴィア、曹操にウタのそれとは違い、フェルのように恐怖心を直接掻きむしってくる類の気配。ついさっき、扉の爆発の直前に感じたものと同じだ。

 

 何度身に受けても、これに慣れるということはないだろう。否応なしに俺たちの身体は凍り付く。その中で唯一ヴァ―リだけが、歓喜の嬌声を上げていた。

 

「ほう……!やはり……いいぞキメラアント!『オーラ』は曹操以上か、そうでなくては!」

 

 感じているのだろう恐怖に抗うように叫び、圧の最中で足を一歩踏み出した。兜に光る青い目がピトーを捉え、姿勢が低く傾いていく。

 

「やはりシャルバの誘いなど蹴って正解だったな!これほどの手練れと殺し合う機会をふいにしかけていたと思うとぞっとするよ……!さあ、前口上はもういいんだな?ならもう我慢も限界だ。悪いが俺から行かせてもらおう……ッ!」

 

 戦意を剥き出しに、ヴァーリは突撃しようとした。しかしその時、またしても突然の事態。

 

 じゃりんと頭上で甲高い音がして、反射的に見上げれば、天井にいくつもの線が走っていた。と思えば間もなく、動く。

 

 天井が落ちてきた。

 

「……なぁッ!?」

 

 鋭利な刃物で分割でもされたかのようにして、するりするりと抜け落ちた瓦礫が静かに次々に降ってくる。特に前方、大扉辺りが酷いようで、見れば仲間のみんなも、そして黒歌までもが驚愕をみせていた。

 

 その苛立ち混じりの声が、俺の耳にも届く。

 

「もう……ッ!!ピトーもあいつも、いったい何のつもりよ!!」

 

 仲間であるはずのピトーにも向けられた悪態。なぜかそんなことを吐き捨てながら、やはり降ってくる瓦礫を避けようと動き出す。

 

 その一歩目が出たと同時、ピトーが白音ちゃんを突き飛ばした。

 

 「きゃん」とかわいい悲鳴を上げてつんのめった、その先は――

 

「へ……?」

 

 黒歌だった。

 

 二人がぶつかって、唖然とした黒歌の脚も止められる。崩れた着物がさらに崩れて余計に胸元が露になり、白音ちゃんの身体に挟まれふにゅりと歪むそのエロスと、肌に張り付いた黒い何か(・・・・)が見えた。

 

 しかし頭も理性も反応する間もなく、瓦礫は手遅れなまでに落下して、その結果。瓦礫が床の石材パネルを割り砕き、擦れて崩れる轟音と土煙の中に、白音ちゃんと黒歌は呑み込まれた。

 

「し、白音ちゃんッッ!!!」

 

 衝撃に叫ぶと、ほぼ同時に大きな振動。大量の瓦礫が落ちた扉前を中心に、地面が蜘蛛の巣状にひび割れ、そして砕けた。

 

 天井どころか床までが崩落した。抜けて起こった揺れは俺の脚を掬い上げ、転ばせた。その瞬間運の悪いことに真上から降ってきた瓦礫を、傍のアーシアを突き飛ばしてからぶん殴って破壊し、その後も白音ちゃんがどうなったか不安に駆られながらも、やむなく降り注ぐ瓦礫からアーシアを守ることに注力した。

 

 そうしてやがて治まり、俺は改めて正面の惨状を眼にした。

 

 大扉前に大きな穴が開いていた。あれだけ振った瓦礫のほとんどがそこに吸い込まれたらしく、変わらず平坦な大広間にみんなの姿はすぐに確認できた。部長を抱えて下がり、宙に浮く朱乃さんと、同じく難を逃れた木場とゼノヴィア。絶句して巻き上がったもやを凝視するみんなも、アーシアも俺もヴァーリも、もちろん無事だ。

 

 白音ちゃんと、そして黒歌の姿だけが、広間のどこにもなかった。

 

「あーあ、ちょっとやりすぎちゃったかにゃあ、これ」

 

 ピトーが穴の端から底を見下ろし、言葉の調子とは少し外れて苦しげに呟いた。

 

「……瓦礫で塞がってて見えない。んー、クロカどうなっちゃったかにゃあ」

 

「……まさか、白音ちゃんを殺すために仲間ごと……?……言葉を話すから信じ難かったけれど、キメラアント、やはり所詮は魔獣ということなのね」

 

 首を振って気を取り戻し、嫌悪に満ち満ちた朱乃さんがさらに上から見下ろすが、しかし直後、反応して見上げたピトーの邪悪な眼に怯んでしまう。息を呑む朱乃さんをしばらくひたすらに残忍な眼差しで見やって、それから少し右に移し、再び平坦を纏うと言った。

 

「一応言うけど、やったのはボクじゃないよ。天井を切ったのは、ほら、アイツ」

 

 導かれ、視線を向ける必要もなく、それは吹き抜けになった二階から飛び下りた。結構な高さだというのに、着地は軽い足音。乾いた擦過音を鳴らして、そしてその不機嫌そうな冷たい眼差しでピトーに言った。

 

「おい、なんでオレのせいになってんだ。やれっつったのはてめぇじゃねぇか」

 

 着流しを身に纏い、腰に刀を指した侍のような風体の男だった。片手に長い棒状に膨れた布の包みを持って、続けて鼻を鳴らす。

 

「……てか、何のつもりか知らねぇが、あんまり変なことは言わねぇほうがいい。オレもあいつらも、てめぇらを完全に信用したわけじゃねぇ」

 

「……またその話?ノブナガ、キミしつこいにゃ。やったのはボクじゃないんだってば……一応。それに、そういう加入の仕方もアリなんでしょ?」

 

 侍、口の悪さと恰好的には野武士であるノブナガなる男は、小馬鹿にするようなピトーの口調にますます機嫌を悪くし、舌打ちまでする。何の話なのかはほとんど読み取れないが、あまり仲は良くないらしい。

 

 いや、というかだ。

 

「貴方は……人間……!?なぜ人間が『旧魔王派』に手を貸しているのです……!?」

 

 現魔王のサーゼクス様たちを倒し、人間や他の神話勢力とも戦争を起こす、というようなことが『旧魔王派』の主張であったはずだ。そんな組織に協力する人間がいるのか、と抱かずにはいられない疑問。もう宮殿内にはいないはずの敵が現れたことよりも、そっちの方が衝撃だった。

 

 だがそれらすべての情動を、ノブナガは一纏めに否定した。

 

「『旧魔王派』だぁ?んなもんに入った覚えはねぇな。オレたちは盗賊よ」

 

「『オレたち(・・)』……?『盗賊』……?」

 

「特にお前は当事者の一人だろ。……『蜘蛛(クモ)』さ」

 

 怪訝そうに繰り返した朱乃さんの表情が、その一言で固まった。木場も、どうやら同じ。ノブナガの登場に続いて少なくない衝撃を受けたようで、息を呑む音がこっちにまで届いた。

 

 その激烈な反応の理由がわからない俺は、思わず素直に口にする。

 

「蜘蛛って……何だよ。でっかいバケモノ蜘蛛とか、そういうのを使役してるって話かよ……?」

 

 でなければ、何にあれほどの衝撃を受けるというのだ。

 そんな疑問には、当人たちではなくゼノヴィアが答えてくれた。

 

「『蜘蛛(クモ)』というのは通称だ。実際の名称は『幻影旅団』、人間界では最高峰の賞金首だ」

 

「さ、最高峰……」

 

 名称のほうも初耳だったが、さらに警戒心を引き上げたゼノヴィアを見るに、本当にヤバい連中なのかもしれない。だが止まらず、今度は朱乃さんが「それに」と続いた。

 

「京都での件、覚えていますね?白音ちゃんが誘拐されかけた事件」

 

「……はい。そりゃあもちろん――って、まさか……!!」

 

「……そうです。かの『幻影旅団』が、白音ちゃんを誘拐しようとした張本人なのです!」

 

 だからこその朱乃さんと木場の反応だったのだ。

 そして、あの時のみんなの絶句はそれだけではなかった。

 

「……黒歌と、同じ目的です。それにあの時、胸の上に一瞬見えた刺青……あれはまさか、見間違いなんかではなく……!」

 

「蜘蛛、だったと……!」

 

「……え?あ、あの黒いの、刺青って蜘蛛のタトゥーだったのか!?おっぱいの上に!?そりゃあ……びっくりするのも納得のエッチな――って、あれ?『蜘蛛(・・)』?」

 

 朱乃さんと木場の苦い表情に、続いてゼノヴィアが頷いた。

 

「『幻影旅団』のメンバーは、その身体に団員の証である刺青を掘るらしい。それが、蜘蛛なんだ。つまり黒歌たちは、『禍の団(カオス・ブリゲード)』ではない。奴らは元々テロリストではなく――」

 

「そ、『蜘蛛』に入ってるんだ、ボクたち」

 

 割り込み、言ってのけたピトーがジャケットの首元をぐいっと引っ張れば、見えた。鎖骨のあたりに、十一の数字が刻まれた蜘蛛のタトゥー。

 

 ゼノヴィアの言った、『幻影旅団』のメンバーである証だった。

 

「別に勘違いさせたままでもよかったんだけどにゃ。ボクたちのこと、悪魔なんかの下についてるってあまりにも信じ切っちゃってたからさ……クロカもネタばらししたくなったんだよ、たぶん」

 

 服を整えながら言うピトー。確かに、俺たちは皆、二人が『禍の団(カオス・ブリゲード)』だと思い込んでいた。その一環で、白音ちゃんを攫いに来たのだと。疑いすらしなかったのは間抜けな話なのかもしれない。

 

 だがしかし、それが何だというのだ。

 

「……お前たちがどんな組織に入ってるとか、そんなのどうだっていいんだよ……!」

 

 二人が『蜘蛛』だったという事実はそのまま部長と白音ちゃんの疑惑の否定だが、そんなことを馬鹿正直に言っても治まるはずがないのだ。そもそもこんな馬鹿げた疑惑を指示しているような連中なのだから。

 

 それにもしこの問題がなかったとしても、部長と白音ちゃんを傷つけた黒歌とピトーを許せるはずもない。

 俺もみんなも、その思いは同じだ。だから俺の憤りに頷き、地面に降り立ったゼノヴィアは冷や汗をかきながらも言ってのけた。

 

「確かにな、我々はどうであれ、黒歌を倒して白音を救い出すだけだ。それに……貴様ら『蜘蛛』は、一度フェルさんとウタさんに撃退されているんだろう?弟子たる私が同じ功績を上げればきっと私を見直して、ハンゾーと一緒にまた修行だってつけてくれるはずだ!こういうのを『たなぼた』と言うんだったか……とにかくラッキーだな、私は!」

 

 その私情はとにかくとして、実際そう。やることは変わらない。黒歌ごと白音ちゃんを穴に突き落としたのだって何の意図もないわけがないのだ。操作されている白音ちゃんが自力で切り抜けるのは難しいだろうし、早くなんとかしなければならない。

 

 まずい事態だが、それでもまだ終わったわけではないのだ。危機感と『禍の団(カオス・ブリゲード)』という前提の消失に身を焦がされながらも、諦めはしない。

 

 だがそんな思いを逆撫でするように、ノブナガは嘲りで笑った。

 

「ほーん、あながち間違ってねぇが、一番愉快なとこが見当外れだな。『フェルさん』『ウタさん』ってのが――」

 

「ノブナガ、オマエ出番はまだ先のはずでしょ。勝手なことしてるくせに、無駄なことまでしゃべらないでよ」

 

 しかし言葉の途中でピトーが遮り、ノブナガは変わって意地の悪そうな笑みを浮かべた。一瞬低く笑って、睨むように見やる。

 

「お目付け役だ。おめぇが取引を守るように見張ってろってな」

 

「へえ、『守る』だなんてよく言うにゃ」

 

「んでついでに、新しい刀の試し切りがしたくてな」

 

 言いながら、ノブナガは片手に持つ包みを振ってみせた。拍子に布の結び目が解け、中身が露になっていく。

 

 そうして剥がれ、瞬間漂う気配、強い光にピトーもが僅かに顔を歪め、一方の俺は背筋を凍らせた。

 

 初めて見た時のゼノヴィアのデュランダルや、イリナの擬態の聖剣(エクスカリバー・ミミック)と相対した時と似ているが、それよりもずっと酷い悪寒がした。

 

「伝説の龍殺し(ドラゴンスレイヤー)、聖剣アスカロン。西洋剣は好みじゃねぇが、一剣士としても振り回したくなっちまうんだ、こういうのは」

 

 それは盗まれ、オークションで競売にかけられているはずの聖剣の名前だった。

 

「な、なんでお前がそれを持ってるんだよ!?」

 

 堕天使の総督であるアザゼルが回収すると言っていたはずだ。だから奴が持っているはずがないと、俺は反射的に偽物を疑う。

 

 だがその内心を見透かしたように、ノブナガは薄笑いで剣を抜いた。輝く刀身が俺に向けられ、たちまち身を襲う悪寒でたじろぐ俺に、奴は言う。

 

「その様子じゃだいぶ効いてるらしいな。ならこいつは本物だ。悪魔と龍の混ざりもんであるお前らにゃ、猛毒も猛毒だからな、この『オーラ』は。なあ、赤龍帝に白龍皇?」

 

「ああ、確かに本物のようだ。ピトー、お前を倒した後も黒歌に奴にと……楽しみが増えたよ」

 

 隣でヴァーリが毅然と応じる。悪魔であり、ドラゴン。奴も俺と同じ悪寒を感じているはずなのに、その調子には影響が微塵も感じられない。

 

 その姿に反骨精神を刺激され、俺もぐっと腹に力を込め、喉を鳴らした。

 

「また、俺たちが負ける前提で話してんじゃねえよ、ヴァーリ……!!聖剣があろうがなかろうが、俺たちの邪魔をするっていうんなら、誰であろうとぶっ飛ばすだけだ!!」

 

「活きがいいねぇ!オレは好きだぜそういうの!あの小僧みたいに、こんな時でなけりゃあスカウトしたんだが……残念だ。侘びに……どうだ、行かせてやろうか?猫又のガキんとこに」

 

「出て来たならちゃんと戦ってくれる?それこそ『取引』、にゃ」

 

 もちろん本気ではなかったのだろう。ノブナガは肩をすくめて、アスカロンの鞘も投げ捨てた。ピトーも戦闘態勢で、俺たちもいよいよを予感し戦意を研ぎ澄ます。

 

「ほら、さっさと始めちゃおう」

 

 ため息混じりにそう言って、次の瞬間、溢れかえったピトーの『気』が顕現した。




二次元キャラの刺青にエロスを感じるのは私の性癖です(唐突な告白)
感想ください。


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二十話

黒子舞想(テレプシコーラ)

 

 練り上げた『気』を一瞬で発動させ、ボクの頭上に出現する。身体と思考がその人形を介して一体となる感覚と共に、久しぶりの全力を身に纏ったボクは静かに息を吐いた。

 

 本気のそれを使うのは少し前、曹操の腕試しに付き合ってやった時以来だろうか。いや、それだってただの試合だ。我を失ったタンニーンも使うほどではなかったし、となればやはり、最後にこの感覚を味わったのはネテロと戦った時だったのだろう。

 

 実に五年ぶりの強敵。相手は白龍皇で、なんと悪魔とのハーフであるらしいこの男。しかもルシファーの直系だという奇跡のような存在だ。血も実力も、戦うとすれば全力を出す価値のある相手。

 

 だからこそ、『この状況で』ということが残念だった。

 

 ただ静かに白龍皇を見つめ、広間にぽっかり空いた穴の前に立ちふさがり、構える。そんなボクとは真逆に大興奮の白龍皇は、真っ白の全身鎧までガシャガシャ鳴らして、楽しそうに戦意を弄んでいた。

 

「聞くと見るのでは大違いだな、すさまじいプレッシャーだ。これがタンニーンを下し、ネテロの片腕を落とした念能力か……!」

 

「知ってるんだ、ボクの能力」

 

 一応、驚いたふうな表情を作る。白龍皇の足が一歩前に進み出た。

 

「お前がネテロにやられた時の記録映像が残っていたのさ、戦い方だけでもどういう能力なのかは想像がつく。……自身を操作し、戦闘力を上げる類の能力だろう?生物の限界を超えたあの反応速度は、『念』を使っている証明に他ならない」

 

「まあね、大正解。……そこまでわかってて、キミ、ボクに勝つつもりでいるわけだ」

 

「そうでなければここに来はしない。その程度の気概、この、俺の宿敵君すらも持っているさ」

 

「……おいヴァーリ、『すらも』って、なんか悪意があるように聞こえんだけど」

 

 白龍皇の隣の赤龍帝が不服を呟く。こっちは真っ赤な全身鎧で、実際白龍皇の神器(セイクリッド・ギア)と対になる禁手(バランス・ブレイカー)だが、並んでみれば一目瞭然、その力は圧倒的に劣る。

 故に数を減らす観点からすれば真っ先に殺しておきたいのはこっちだが、しかし『この状況で』はできるはずもなく、ボクは傍でピカピカと鬱陶しい聖なる力を振りまく聖剣を担いでいるノブナガへ、声だけを向けた。

 

「ノブナガはアイツら雑魚の相手してね。ボクは白龍皇やるから」

 

「まあ……いいけどよォ、そんくらいねぇと張り合いねぇし。てめぇに指図されんのは癪だが」

 

「なら代わる?白龍皇、譲ってあげてもいいけど」

 

「……俺が相手してどうすんだ」

 

「おいおい、これ以上焦らさないでくれよ。能力を見せつけておいてまだお預けか?」

 

 不服そうに逡巡をみせたノブナガの呟きに白龍皇が首を振った。拒絶して、そして再び兜の目が射抜くようにボクを見る。

 

「ピトー、お前の相手は俺だ。せっかく穏便に勝ち取った権利なんだよ。誰からも咎められず、どちらかが死ぬまで続けられる真剣勝負……!!逃がさないぞ、絶対に!」

 

 白龍皇に感じる『力』が爆発的に高まった。赤龍帝に加え、周囲の仲間もその迫力に目を剥いた。

 

 だからそれを直接向けられているボクにとってそれは、奴らが感じている以上の、殺気。これまた久方ぶりな純粋な殺しの意思を向けられ、身体はますます高揚した。

 

 そしてやはり、理性は逆に冷えていく。それもこれも『この状況』のため、赤龍帝に憂さ晴らしをすることすらもできない。ならノブナガに任せた方がまだマシで、それでも出て来るため息を呑み込みながら、ボクは兜の奥で戦闘狂の顔を露にした白龍皇の動きを見つめていた。

 

「――さあ、待ちに待った戦闘(・・)だ」

 

 そんなボクの内心など知る由もない白龍皇は、笑い、その背の光翼で飛ぶようにしてボクに襲い掛かった。

 

 放たれる拳。予想よりも鋭いそれに驚きが横切るが、しかし【黒子舞想(テレプシコーラ)】に操られたボクの身体はそれを悠々躱す。どれだけ速い攻撃だろうとネテロの【百式観音(ひゃくしきかんのん)】よりは遅いのだ。ならば回避に苦労はしない。

 

 続けて飛んでくる二撃目三撃目のパンチも最小限の動きで躱し、盛大に空を叩いた連撃の手応えに、白龍皇が戦闘への集中を取り戻し始める。四撃目にフェイントが混ざり、五撃目では殴りの代わりに蹴りが飛んだ。

 しかしやはり、それらすべての攻撃は掠りすらせず、そこでようやく白龍皇は近接戦闘でボクにダメージを与えることが困難だということを自覚した。六撃目、唐突に攻撃を止め、一気に後ろに飛んで悪魔の羽を広げた。

 

 宙からボクを見下ろして、その身の膨大な魔力で一気に魔法陣を発動させる。

 

「これなら、どうだ――!!」

 

 瞬きほどもないほんの僅かな間の後、魔法陣から複数の魔力光弾が放たれた。降り注ぐ眩いそれを眼に捉え、ボクはその射線上、自身の背後を意識する。

 

(回避――は、できない)

 

 クロカとシロネが落ちた穴がある。避ければそこに着弾し、何らかの支障をきたすことは間違いない。

 

 なら、好き嫌いは言っていられない。歯を噛みながら、ボクはその血に宿る魔力を使った。

 

 盾として展開する、防御魔法陣。初めて使うそれだったが、次々襲い来る光弾を防ぎ止めた。

 

 さすがはルシファーと言うべきか、神器(セイクリッド・ギア)だけでなく魔力のほうも強大で、すさまじい威力の一発一発を防ぐごとに魔法陣がミシミシ嫌な音を立てる。そしてやはり、気配に捉えた最後の一発が障壁を叩いた瞬間、魔法陣は砕け散った。

 

 その破片の光芒をも切り裂いて、怯む間もなく白龍皇の拳が突っ込んできた。

 

 ただの殴打が当たらないのなら魔力との合わせ技で、ということ。実際、魔力攻撃に対処したばかりの今、さっきのような最小限の動きでの完全回避は難しい。

 

 故にボクはやむなく、【黒子舞想(テレプシコーラ)】でその場から大きく飛び退いた。

 またしても白龍皇のパンチは空を切り、勢いがそのまま床の石板に突き刺さる。遅れて伝わる威力がそれも粉砕し、穴の縁まで波及し崩れるのと同時、手を引き抜いた白龍皇が愉しくてたまらないといった戦意でボクを睨みつけた。

 

「これも躱すか!!本当に、大した能力だな……ッ!!」

 

「ボクもキミがここまでできるとは思ってなかったよ。神器(セイクリッド・ギア)だけじゃなかったんだね」

 

 兜の奥でニヤッと笑った。

 

「当たり前だろう?手札は使いこなせなければ意味がない。お前のような強者と戦うためにはなおのこと。……お前も、『念』だけでなく魔力も中々じゃないか」

 

「……苦手なんだけどにゃ、魔力」

 

 というよりは嫌いなのだが、ほぼ同義。それっぽく嘲笑が混じった笑みを浮かべてやると、思った通り、白龍皇は一瞬押し黙り、言った。

 

「……ほう、苦手であのレベルか。嬉しいぞ、ピトー。それほどの強さ……それでこそ、全力で殺す甲斐がある――ッ!!」

 

 ボクの嘲りも戦意に変えて拳を握った白龍皇。またしても飛んで突っ込んでくるその姿と行動に、ボクは奴の精神構造を確信した。

 

 他の連中、赤髪や赤龍帝は、仲間を守るためにクロカを倒しに来ている。要は守るためにやむなくの戦いだが、白龍皇にそんな思いは全くなく、ただただ戦いたいだけ。

 

 強い敵を倒して自分の強さを証明したいから。戦うために戦う、バトルジャンキーだ。

 

 つまり、ある意味ボクと似ている。奴の目的はボクを殺すこと、ただそれだけ。それを為すまでは止まらない。

 

 故に、内心では虚しさが勝っていた。

 

(――もうそろそろ、いいかにゃ)

 

 本当に殺すまでできればよかったのだが、そういうわけにはいかないのだから仕方ない。だからボクは筋肉達磨の悪魔の時と似たような気分を抱えながら、それを早く終わらせるべく、予定よりも随分早いが決断した。

 

 一瞬崩れた天井のほうを見やり、認めると、すぐに戻した視線に白龍皇を捉え、地を蹴った。瞬く間に距離が縮まる。白龍皇の警戒が少し高まるのを感じた。

 だが無視して突撃し、再び魔法陣を使う。しかし今度は防御ではなく攻撃のため、生み出した灼熱の火球を放った。

 

 牽制だが、それなりの高威力。人一人を呑み込む大きさのそれを白龍皇は避けるか迎え撃つかするしかないが、どちらを選択しても問題ない。

 

 さっきの自分が使った戦法をやり返された白龍皇は一瞬動きに動揺をみせたが、すぐに身体の強張りは解け、火球に鎧の手をかざした。そして、『力』を使った。

 

『Divide!!』『Divide!!』『Divide!!』『Divide!!』『Divide!!』『Divide!!』

 

 【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】の『半減』が、連続して発動した。向けられた火球はたちまち威力を削がれ、一瞬のうちにろうそくの火のようにか細く転じる。それはよろよろとたどり着いた鎧の表面を、僅かに舐めて消え去った。対象に触れることなく『半減』が行使できるとは知らず、少しだけ予想外ではあったがしかし、やはり問題はない。

 

 場面転換の暗幕の役割はきちんと果たされた。

 

 障害が取り除かれた白龍皇の眼には、ジャケットから何かを取り出し、片手に構えているボクの姿が映っていた。

 

 回避するばかりだったさっきまではなかった、明らかな近接攻撃の気配。念能力者の本領であるそれに、奴は注目せざるを得ない。警戒心が引きつけられれば、まともに『念』を修めていない奴に察知できるはずもなかった。

 

「なにを――がッ!!?」

 

 白龍皇の背後を、『隠』で気配を隠していた悪魔(・・)が突如現れ、殴りつけた。

 

 その正体はボクではないし、もちろん穴の底にいるクロカでもノブナガでもない。誰も名前を知らない、ただの一匹の悪魔。恐らく白龍皇たちが表で見たであろう『禍の団(カオス・ブリゲード)』の装備を身に纏ったソレの攻撃は完全な不意を突き、白龍皇は地面に叩き落とされる。

 

 雑兵の評価がふさわしいその力ではそれでも大したダメージにはならないが、衝撃と同時にバランスを崩された体勢はそれだけでボクには十分。無様に落下する白龍皇に手の中のモノの狙いを定め、たわめた脚の筋肉を跳ねさせ一気に加速し詰め寄った。奴の全身鎧の隙間、今この一瞬だけの無防備を晒した肉の部分に突き刺すため。

 

 だがしかし、あと一跳びでそれが叶ったその直前、ボクの視界の末端にぎりぎりその影が映った。

 

 赤龍帝の姿だった。ノブナガが抑えていたはずなのに大穴の手前、白龍皇の醜態に驚愕の表情を見せてはいるが、その足は明らかに大穴の底を目指している。

 

 クロカとシロネの下に向かうつもりなのだ。それに気付いたボクは、標的を変えざるを得なかった。

 

 前への勢いを押し留めた軸足で舵を切る。一瞬で赤龍帝の背後に跳び、ボクを見失って狼狽えるその背に手のひらを当てた。

 

 そして、ただ突き飛ばした。

 

「う、わあぁッ!!?」

 

 驚きと衝撃に悲鳴を上げながら、赤龍帝は白龍皇の下まで飛ばされる。衝突の間際というところで白龍皇は体勢を取り戻し、赤龍帝の身体を片腕で受け止めた。

 

 その表情は苦々しげだ。赤龍帝にボクとの『死闘』を邪魔された苛立ちと、それが無ければ自分がボクに何かをやられていただろうという、二律背反。感謝とで矛盾して処理できない感情をぶつけるように、白龍皇は己の背後、その背に痛烈な不意打ちを食らわせた悪魔へ向けて、振り向きざまに魔力を放った。

 

 それは単なる雑兵悪魔ではどうしようもない一撃だった。普通であればその悪魔は、自分が攻撃されたことにも気付けずにその身を消滅させられていただろう。それほど強烈で、且つ避けようのない速攻攻撃。

 

 だが悪魔は、体捌きのみでそれを容易く回避してみせた。

 

「ッ!?まさか、こいつは――ッ!!」

 

 並みの悪魔ではあり得ない身体能力。眼にして白龍皇はその異常に気が付いたらしく驚愕するも、同時にそのまま突撃してくる悪魔に向かって、身体は動揺を置き去りに動いた。

 

 鎧に包まれた腕が伸び、そして特大の『力』は発揮された。

 

『Half Dimension!!』

 

 瞬間、突撃する悪魔の脚がねじ切れた。

 

 続いて下半身までもが、まるで圧縮(・・)されるかのように縮まって弾け飛ぶ。筆舌に尽くしがたい事象だったが、その気配は『半減』のものと同一だ。

 

 恐らく白龍皇は、空間自体に『半減』を使ったのだろう。局所的に空間を半分としただけであり、悪魔の下半身はそれに巻き込まれて押し潰されただけ。

 白龍皇帝の『力』の応用技であるだけだ。それでもかなり脅威的ではあるが、全く別の能力という最悪の不確定要素が出なかっただけ良しとする。手札を一枚切らせただけと考えればむしろプラスだ。

 

 予兆も把握した。次はボクでも対処できるだろう。そう脅威にケリをつけ、息と一緒に吐き出す。

 

 悪魔の残った上半身が突進の勢いのまま、おびただしい量の血を撒き散らしながら吹っ飛び、ちょうど突き飛ばされた衝撃から立ち直ったばかりの赤龍帝と衝突した。上がる悲鳴。パニックに陥る奴は全く無視して、白龍皇は油断なくボクを睨みつけたまま、その死体を片手で持ち上げた。

 

「……先制点を取られた、ということにしてやろう」

 

 言うと同時、首を握り潰して止めを刺す。そんなことをせずとも既に壊れていただろうが、目当てはそこではないのだろう。なぜなら奴は気付いている。

 

 痛みも何も感じていない、それどころか己に起こった自体も理解できていなさそうな茫洋とした表情でぴくぴく痙攣する悪魔の残骸、その潰した首から、白龍皇はソレを引き抜き目の前にかざした。

 

「他人を操作する能力、それがお前の二つ目の『発』ということか」

 

「お見事、大正解にゃ」

 

 適当に応じた。ボクも一緒に、手に持つソレを見せびらかす。

 

 コウモリのようなデザインの、小さなアンテナ(・・・・)だった。

 悪魔はそれで操作されていたのだ。

 

「奇妙だと思ったさ、あの動き……無名の悪魔にできる動きじゃない。まるで熟練の武闘家だ。それに、寸前まで俺がその存在に気付けなかったのは、『絶』か『隠』でも使っていたからだろう?悪魔が『念』を修めているわけもない。そしてとどめにこのアンテナ。典型的な操作系能力のトリガーだ」

 

 白龍皇はアンテナを握り潰した。さらに念入りなことに魔力で消し飛ばし、開いた手の隙間から残ったくずが零れ落ちる。

 

 ボクはその様子に、いかにも悔しそうな顔をしてみせた。するとその表情の理由も全く理解できていないらしい赤龍帝が、悪魔の死体への怯えを引きずりながらも今度こそ起き上がり、白龍皇帝の横腹を小突いてボクの持つアンテナを指さした。

 

「と、トリガーってどういう意味だよヴァーリ?今の……うぇ……この悪魔、『禍の団(カオス・ブリゲード)』の奴だろ……?操作系能力ってことは、つまり……」

 

「……ピトーが念能力で操っていた、ということだ」

 

 少々面倒くさそうに白龍皇が答えた。赤龍帝が息を呑み、ボクとアンテナとへ警戒心を向けた。白龍皇も、やはりその眼は油断なくボクとアンテナへ向いている。

 

 だがその『ピトーが(・・・・)』という部分は大いなる間違いなのだ。

 

 念能力には気付いてもそのことには気付けない白龍皇。ボクはその様子に神妙の表情を保ったまま、続く会話を黙って聞いた。

 

「一定の条件を満たした対象を操作する能力……奴の場合はあのアンテナだ。恐らく、事前にこっそり攫うなりなんなりして準備していたんだろう。宮殿内を一周する羽目になったのはそのせいだろうな」

 

「……やっぱりこいつも黒歌の同類ってことか。躊躇なく人を利用しやがる。しかも黒歌もピトーも結局『禍の団(カオス・ブリゲード)』じゃなかったんだろ?ならこの悪魔、ぜんぜん関係ねえじゃねえか……」

 

「なんだ、憐れんでいるのか?奴らじゃないが、甘いなお前は。どうであれ、お前たちにとっては敵だろう」

 

「うるせえよ、ヴァーリ。けど……つまりあのアンテナに刺されたら操られちまうってことだろ。たぶん俺たちも例外じゃねえ。気を付けろよ、ヴァーリ」

 

「俺は、そうだろう。だが赤龍帝、お前が警戒する必要はなさそうだぞ」

 

 言い捨てて、白龍皇は悪魔の羽を広げると宙に浮かび上がった。取り残された赤龍帝は、見上げながら困惑を露にする。

 それで得意げに鼻を鳴らした白龍皇が、やれやれと首を振って答えた。

 

「ついさっき背を攻撃された時、ピトーはお前にアンテナを刺さなかっただろう?それだけだ。奴はお前を操る気は元からない」

 

「い……いや、単に刺せなかっただけだろ。鎧を着てるから――」

 

「それは俺にも言えることだ。普通にやったのでは操作の条件を満たせない。だからピトーはあらかじめ操作しておいた悪魔を使って俺に隙を作り出し、鎧の継ぎ目を狙ったんだ。お前も背中を取られただろう?やろうと思えば同条件、やれたはずだ。だが……そうしなかった。それはなぜか」

 

 一つ息を吸いこんだ。

 

「操作するための条件であるアンテナが、手元にあの一つしかないからだ」

 

 自信満々に言い切った、その予測。

 ボクは顔をしかめてため息を吐いてみせた。

 

「……それも正解。うーん、結構鋭いにゃあ」

 

「たった一つのものを赤龍帝に使えば、俺を操作することができなくなる。そのアンテナは確かに、俺たちにとってのアスカロンと同じ、食らえば即ゲームオーバーな一撃必殺の武器だ。そんなものをわざわざ赤龍帝如きに使うこともない、そんな驕りだろう、余計に持っていないのは。わざわざ隙を作って刺すより直接殴り倒したほうがずっと楽だ。……俺の場合は、殴り合うことそのものが負け筋になるわけだがな。だろう?」

 

「まあ、ね。下手に仕掛けてカウンターでも貰ったら、『半減』でこっちが詰む。……触れた相手の『力』を、そのまま自分のものにできるんでしょ?」

 

「ふっ……神器(セイクリッド・ギア)使いの弱点だな、能力が隠せないというのは」

 

 だが把握されているとわかっているから、アンテナが操作能力の要であると、白龍皇は理解できたのだ。

 

 ボクの得意分野は、【黒子舞想(テレプシコーラ)】を見る通り近接戦闘。しかし白龍皇相手ではそれが命取り、要は触れるだけでボクを戦闘不能にできるのだから、迂闊に攻撃を仕掛けられない。

 故の一撃必殺の操作系能力。攻撃を何度も重ねる必要がないこれならば、一度でボクの勝利が叶うのだ。

 

 白龍皇はそう考えた。そしてそれは凡そ正解だ。奴の『半減』の力を警戒して、隙を待ち仕掛けた。それは事実。

 

 だがその策がボクだけ(・・)のものではないことに、やはり白龍皇は気付いていなかった。だからボクはしかめっ面のまま、その内ずっと失笑を堪えているのだ。

 

 白龍皇のそのしてやったりという表情がボクの内心のそんな事実を知りもせず、再び得意げに言った。

 

「まあ、ある意味これで条件は五分五分だな。互いに能力は割れ、一撃で相手を殺せる手札を有している。が……いや……手札の数で言えば俺の方が有利かな。なにしろ一つ潰したばかりだ」

 

 悪魔の死体を足蹴にする。

 

「これの悪魔離れした動きはお前が直に操作していた証拠。それほど精度の高い操作が可能なら、操作可能な人数もそう多くはないだろう。アンテナのことはそういう理由でもあるんだろうが……仇になったな」

 

「ほんと、何から何までお見通しみたいで。ムカつく奴だにゃ、白龍皇」

 

「今に限っては誉め言葉だな。戦闘中に敵の能力を考察するなんて基本だろう。お前のアンテナのように、知らずの内に条件を満たしてしまって即負け、なんてことは、特に念能力者相手では珍しくもない。嫌というほど思い知らされてるさ」

 

 その思い知らされた相手とは、恐らく曹操かミルたん辺りなのだろう。特に曹操は神器(セイクリッド・ギア)に干渉できると思われる能力を持っている。それを使われたからこその、『思い知らされている』。

 

 つまり、試合(・・)の戦闘経験が多いようだ。ボクの内心に気付けないのは、やはりそれが故か。

 

「随分、戦闘の機会に恵まれてるみたいだね、キミ」

 

「おかげさまでな、何なら念能力者相手が一番慣れているくらいだ。使う方はからきしだが、知識からの考察は得意分野であるつもりさ」

 

 慣れと、それ故の驕り。とうの昔に落とし穴に落とされていたことなど知る由もない白龍皇は、ボクの様子にただ愉悦した。それを見て、赤龍帝がちょっと嫌そうに感嘆の声を上げた。

 

「やっぱり……認めたくねえけどすげえなヴァーリ。強いことはわかってたけど、頭もいいのかよ。顔もいいし……ほんと嫌味な奴だぜお前はよ!」

 

「……その怒りを力に変えてくれればいいんだがな。全く……まあいい。赤龍帝、とにかくお前もこちらに出てきたんだ。ならせめて、邪魔にだけはなってくれるなよ?ピトーは俺の獲物なんだ」

 

「それって……手を出すなってことか?悪いけど、それは無理だぜヴァーリ。俺は部長たちが作ってくれた隙で一人ノブナガを突破してきたんだ。みんなのためにも、ピトーの奴をぶん殴ってどかして白音ちゃんを助けに行く!お前の戦いが終わるのを指咥えて待ってるわけにはいかねえ!!」

 

 奮い立ち、赤龍帝の兜の眼がボクに戦意を叩きつけた。一歩踏み出した足が転がる瓦礫を踏みつけ、砕く。やはり『力』だけ(・・)は大したものだ。

 

 だからそれだけでノブナガから逃げられるわけがない。まず間違いなくわざとであることを確信するボクは、赤髪たちをあしらうノブナガの後姿を、こればかりは表情通りに睨みつけ、余った眼の忌々しげをそのまま赤龍帝に向けた。

 

「じゃあボク、これからはキミも同時に相手しなきゃならないってこと?めんどくさいにゃあ。めんどくさいし……先に殺しちゃおうか。ねえ白龍皇、キミもタイマンのほうがいいんでしょ?」

 

「まあ、そうだな」

 

「ヴァーリ!?」

 

「だがまだ彼には死んでほしくないんでね、邪魔させてもらおう」

 

「ヴァーリ……!」

 

「なにせ赤龍帝だ。あれも俺が強くなるための、大切な踏み台の一つなんだからな」

 

「ヴァーリぃ……」

 

 という三段活用で三転した好感度。結局見捨てられた赤龍帝は恨めしそうに白龍皇を見上げるが、奴はまるで意に介さない。ボクを殺すタイミングを今か今かと待っている。

 

 その戦意は悪いことではないのだが、しかしその内では着々と準備を、魔力を練り上げているのだろう。ごく単純な理だ。近接戦でアンテナを刺される危険があるなら、遠距離から叩けばいい。それに魔力の打ち合いは間違いなく初代魔王の血筋である白龍皇に分がある。

 

 だから勝てないというわけではないが、それに徹せられるのは面倒だ。であればと揺さぶってやるべく、ボクはそこに手を伸ばした。

 

「踏み台ねぇ……それってボクまで眼中にないみたい。他に倒したい相手でもいるの?」

 

「安心しろ、お前だけじゃないさ。赤龍帝もフェルもウタも曹操も、それにミルたんも、すべては通過点に過ぎない」

 

 いい気になるなよ、と見せかけの不快感を露にして言ってやると、白龍皇は途端に乗ってきた。思っていたよりも傲岸不遜な名前を出して、続きは一息吸いこんだ覚悟を以て言った。

 

「俺は、真なる白龍神皇になる。そのために、いつか最強の存在たる『真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)』グレートレッドを倒す。お前も赤龍帝も、そのための糧だ。……これで満足したか?お前だけじゃない、すべて等しく眼中にないんだよ、俺は。ただ一つ、グレートレッドだけが――」

 

「『俺の倒すべき相手』って?にゃるほど、眼中にないんじゃなくて目が見えてないだけだったわけだにゃ」

 

 遮って言い、合点がいったという風に笑ってやった。

 

 あからさまな嘲笑。そんな反応をされるとは思っていなかったのだろうか。白龍皇はあっけにとられたかのように言葉を止めた後、兜越しでもわかるほどの明確な苛立ちをボクに向けた。

 

「……何が言いたいキメラアント。まさか……無謀な夢だとでもいうつもりか……?」

 

「それ以外に何があるの。ミルたん……は、確か最強って言われる人間の一人だよね。名前を出すならまだ倒せてはいないわけでしょ?フェルとウタと曹操って奴らも」

 

「……単に試合までしかできていないというだけだ。味方と殺すまでやりあうことはできないだろう。だがもしその気でやりあえば、ミルたんはともかく他は人間だ。俺が敗れる道理はない」

 

 だろう?と歪に作り出した不敵の笑みがノブナガをちらりと見やった。

 

 確かにそうだ。悪魔と人間の間には絶対的な差がある。魔力だけではなく、力も体力も寿命までも、生物的に言えば悪魔は人間の上位種と言っても過言ではない。例え戦闘技術で勝っていても、生物としての格の違いはそう易々と越えられはしないのだ。

 

 それは確固たる事実。動きようのない真実。だからこそ、白龍皇は確信しているのだろう。

 

 それは他の悪魔、人外たちと何も変わらない。

 

 奴は人間に興味などないのだ。だから、気付けない。

 

「あれらは所謂修行の一環さ。実践の場はまた別、つまり今だ。さあ、戯言はもういいだろう。再開しようじゃないか……!!」

 

 白龍皇は抑えられない歓喜だけを叫び、そしてやはり魔力を放った。

 

 瞬時に現れた数多の光弾がボクめがけて降り注ぐ。一発一発が石張りの地面を穿つほどの威力だが、ためらわず、ボクは宙の白龍皇めがけて跳躍した。

 

 光弾の間を縫い、いつかのように結界を足場にして駆け上った。あと一息で拳の射程といったところまで接近したころ、そこでようやく白龍皇も弾幕をやめ、次なる魔法陣に魔力を移した。

 

「虚勢か、それとも本気かは知らないがな、キメラアント!!」

 

 叫び、展開される数珠つなぎの魔法陣。高出力の光線が、一瞬の後に撃ち放たれる。周囲の空気まで焼き焦がすほどの攻撃だったが、しかしボクは既にそこから離れ、白龍皇の死角でアンテナを出していた。

 

 だがそこに、白龍皇の小手の手のひらだけが向けられた。

 

「無謀などと偉そうな口を叩くのなら、その理由(強さ)を俺に証明してみせろ!!」

 

『Half Dimension!!』

 

 空間半減の力で周囲の空間が軋む、その予兆を感じ取った瞬間、ボクの能力がボクの身体を引き戻した。

 

 逃れた直後、目と鼻の先で『半減』が発動し、不発に終わる。かと思えば、離れたはずの白龍皇の拳が目の前に迫っていた。空間の半減、つまり奴との距離も半減され縮まったのだと気付くと同時、再び動く能力に身を任せながら、至近距離で響く白龍皇の声に眼を向けた。

 

「俺はそれすら打ち破り、俺の夢を証明してやるッ!!」

 

 恐らく歯を剥いている白龍皇が、その怒りで放ったボディブロー。だがボクは躱してのけた。見切り、動いた能力が最小限で致命の攻撃を回避し、そのままするりと懐に潜り込みながらアンテナを抜く。

 

 渾身の打撃が空を切ったことによって伸びた脇の下辺りに突き刺そうとした。が、頬に感じた風圧がそれを押し留め、前傾姿勢の身体を横に反らせた。

 

 一瞬の後、白龍皇の脚がボクの頭があった位置を蹴り抜いた。その威力は風圧からしてもかなりのもの。避けなければ間違いなく昏倒してしまっていただろう。アンテナを刺せてもボクが気を失ったのでは意味がない。

 その理由を、白龍皇は『操作を行うことができなくなる』からであると思っているだろうが、それが誤りであると教える気はボクにはない。黙って退き、距離を開けた。

 

 豪快に後ろ蹴りを空振りさせて難局を乗り越えた白龍皇は、恐らくその安堵で喉を鳴らし、身体の向きをボクへと戻した。

 

「……ずいぶんよく避ける。頑丈な上にその柔軟さは……もはや液体だな。そんな肉体を持つ上に魔力も『念』も使いこなすとなれば……俺が白龍皇でなければ、本当に勝ちの目はなかったかもしれないな……。だが、負けん……!俺はお前を、曹操をミルたんを、世界に溢れる強者どものすべてを下し、最強の存在になる!!」

 

 だからそれは不可能なのだ。例えこの作戦がなくとも、例えそれすら覆してボクたちを倒してのけたとしても、叶わない。ルシファーであること、そして白龍皇であることを明かして悪魔の軍門に下った今、それは決定的だった。

 

 あの魔王は、世に混乱をもたらすような真似を許しはしないだろう。例え他すべての貴族悪魔が声を上げようが、封殺する。でなければ人間に、『V5』に見限られるからだ。

 白龍皇が最強を求めれば、いずれは当然他の神話体系にも手を出す。そうなった場合の混乱は当然『V5』には都合が悪く、許したとなれば関係悪化は必至。それを良しとするほどの無能では、さすがにない。

 

 代替を寄こすのかそれとも封じ込めるのかは知らないが、魔王はそうするはずだ。そしてもし、もし仮に白龍皇がそれで満足できず、反逆したとしても。

 

 奴は牙すら、曹操とミルたんにもがれているのだ。

 

「……かわいそうなやつ」

 

 背を丸めて結界の足場に手足を置くボクの口から、戦闘の落ち着きがため息と混ざり、つい一緒に口に出た。

 

 耳聡く、白龍皇は反応した。

 

「……いいだろう、そこまで言うなら俺ももう何も言わん。本気で行くぞ、キメラアント!!その戯言を負け犬の遠吠えに堕としてやる!!」

 

 怒りで膨れた龍の『気』が巨大な魔力の光球に変わり、ボクに放たれた。

 

 回避はしない。備えて練っておいた魔力を使い、防御魔法陣でそれを迎え撃つ。着弾、そして炸裂。閃光が大広間を覆い尽くした。

 

 それに紛れ、動かした。

 

 その数舜後、防ぎきれなかった魔力に焼かれるボクめがけて、閃光を突き破った白龍皇の追撃が飛んでくる。眇めて光を絞った眼で、ボクはそれと、奥の白龍皇の姿を捉えた。

 

 前傾姿勢。光弾に続き、奴自身もが攻め入ろうとしている。アンテナの危険よりも攻めの手を選んだその頭には、程よく血が上っているようだ。

 

 それを悟って好機と見た新たな悪魔が、天井から白龍皇に襲い掛かった。

 

 これも『禍の団(カオス・ブリゲード)』の兵隊悪魔。さっき肉塊になったものと同じ装備、二股の槍で白龍皇を刺し貫かんと振り下ろす。だが二度目はなかった。

 

「やはりなッ!!わかっていたさ、まだ駒が残っていることくらいは!!」

 

 ボクを狙っていた鎧の腕が弾かれるようにして跳ね上がり、槍を捕らえて圧し折った。続いてもう一方の腕が拳を握って悪魔の腹に突き刺さり、同時に発動した魔力がその肉を一瞬で食い破った。

 

 貫通し、空いた大穴。絶命と同時にがくりと垂れた首から、拍子にアンテナが抜け落ちた。

 

「貴様の能力が多くを操作できずとも、アンテナさえあらかじめ刺しておけば残機としては扱える。駒が潰れたのなら別の駒を出せばいいだけ、なんだろう?あの余裕は。……だが、俺に何度も同じ手が通じると思わないことだ!!」

 

 嘲笑いながら、片手間に飛ばした光弾でアンテナを破壊する。粉々になったその残滓が、閃光の余韻できらきらと瞬き、地面へ降り注いだ。

 

 明瞭を取り戻した、その足元の光景。

 

「ヴァーリッ!!」

 

 光にやられた眼を瞬かせる赤龍帝が、それに気付いて叫んだ。

 

 片手に悪魔の死体をぶら下げたまま、白龍皇の視線がボクから下に移り、そして寸前身構えどうにか防いだ。

 

 三匹目の『禍の団(カオス・ブリゲード)』の悪魔だった。真下に潜んでいた悪魔が仕掛けた、やはり槍での攻撃。その切っ先を魔法陣で止めながら、白龍皇は悪態を付く。

 

「ふん、手が割れた途端にもう次か。……いいさ、どれだけ用意しているのか知らないが、すべて俺が――ッ!!?」

 

 だがその悪態は、半ばで驚愕に変わった。

 

 右腕で貫いた二匹目の悪魔。死に、アンテナももう刺さっていないはずのその身体が、動いた(・・・)のだ。

 

「なん――ッ!!」

 

 しかし声を上げる暇もない。鎧ごと腕を締め上げんと蠢く悪魔を弾かれるように見やって、その先に、白龍皇は見た。

 

 何十匹もの悪魔の大群(・・・・・・・・・・)。それらが一斉に、白龍皇へ襲い掛かった。

 

 それからはもう、白龍皇はボクに眼をやる余裕をも失った。動揺と槍によって四方から肉薄されうまく反撃ができないらしく、右腕から悪魔を振りほどく暇もないまま、次々襲い来る悪魔を左手の魔法陣のみでいなし続ける。大技でまとめて吹き飛ばせば大群は一掃できるが、その隙にボクに襲われればと思うとできないのだろう。悪魔どもに纏わりつかれている限りは肉の壁がある。それが剥がれて無防備な所に接近されれば、相打ちになったとしても『半減』の後に倒すという手間がある分向こうが不利だ。

 

 警戒は再びボクに向いた。故に後は適当なタイミングと場所を待つだけ。地面に下ろしてやればなお都合がいいはずだ。

 悪魔どもを使ってじわじわとそのついでも成しながら、ボクは足場の結界から飛び下りた。ゆっくりと落とされていく白龍皇、その姿を覆い隠す肉団子を見上げる。なんとなく食欲をそそる光景にくねる尻尾と一緒に見物していると、やはりというか何と言うか、赤龍帝が襲い掛かってきた。

 

「このッ!!……ピトーお前……!!何やったんだよッ!!」

 

「うん?何って?」

 

 全力で攻撃しているつもりだろうが、白龍皇のそれと比べればお遊び同然の拳を受け止め、首を捻る。

 

 赤龍帝は歯噛みしながらボクの眼を睨みつけた。

 

「だって……おかしいだろ!!お前の能力はアンテナが無けりゃ使えねえはずだろ!?なのにあの悪魔たち、首にもどこにもアンテナが刺さってねえ(・・・・・・・・・・・)!!」

 

 どしゃりと、白龍皇の『半減』にすり潰された悪魔の一匹が落下した。赤龍帝の言う通り、その肉塊の中にアンテナは破片すらも存在しない。

 

 元から、あの悪魔どもにアンテナなど刺さっていない。

 

「へぇ、意外と眼がいいね、キミ」

 

「おかしいのはそれだけじゃねえ……!!死んだはずのやつが動くし何十人も一度に操作してるし……そんなことできるはずがないのに、なんで……ッ!!」

 

 必死の表情は得体の知れなさに引きずり出された恐怖を噛み殺し、止められた拳を引いて飛び退いた。睨みつけたまま、『Boost!!』と倍化された力を握り締める。

 

「それ、半端な『念』の知識しかないキミたちの推測でしょ?勝手に決めつけて勝手に驚いてるだけにゃ。あの悪魔どもを操作してるのは、間違いなくボクだよ」

 

 というか、あれこそ(・・)がボクの能力であるのだ。筋トレばかりさせていた赤龍帝にも、中途半端にしか会得していない白龍皇にも、悪魔どもの頭上で(・・・・・・・・)その肉体を操っている人形たち(・・・・・・・・・・・・・・)の姿を見ることができるはずもなかった。

 

 死体が動くのだって、そういう能力であるというだけだ。直に肉体を操る故に、アンテナと違って対象の生死は関係ない。数も、アンテナよりも精度が劣る代わりに多くの数を操れた。

 

 だが、それに奴らは気付けない。そこに全く別の二つの能力が働いていることは、奴らにとって、白龍皇にとって理の外なのだ。

 

 なぜなら、白龍皇の頭の中ではこれが『戦闘』であるから。奴にとっての戦闘とは、自分の最強を証明するための行為。相手と自分、どちらが上かを決めるため、つまり目的は相手を倒すことだ。殺すだなんだというのは所詮、本気度の表れでしかなく、堕天使の下にいた頃には曹操とミルたん、他にも相手はいたのかもしれないが、人間離れした実力者たちとそんな戦闘に明け暮れていたはずだ。

 

 故に奴はリング上での戦闘(試合)しか知らず、勝ち負けも勝負も何もない戦闘(殺し)など知らない。知られないよう、囲われてきた。だからボク以外の敵の存在(・・・・・・・・・)を考えもしない。

 

 ただの『殺人(・・)』が、奴に理解できるはずがなかった。

 

「う――おおおォォッッ!!」

 

 咆哮と共に、悪魔だったものが放射状に撒き散らされた。弾丸のようにボクへ飛んできた一際大きな肉塊を、ボクは反射的に払い除ける。

 

 赤い血が散るその視界。純白だった鎧を赤く染めた白龍皇が、もうすでにボクめがけての突進を開始していた。爆発的に増した殺気と『力』。真反対からも、何重もの『倍化』を重ねた赤龍帝が襲い来る。

 

「……案外、早いにゃ」

 

 挟み撃ちを認識して、つい眉間に皺が寄った。最後の準備にほんの少しだけ時間が足りないのだ。悪魔どもでもう少し持たせられると思っていたが、そううまくもいかないらしい。

 

 ならば仕方がないだろう。内心でため息を吐きながら、まず振るわれた赤龍帝のパンチを片手で防いだ。

 

 その力だけはさすがに強大だ。衝撃が身体を伝い、ボクの足元の地面を割り砕く。さらに続いて白龍皇の拳が放たれて、もう片方のボクの腕が受け止めた。

 

 更なる威力と、その危険を上回る『半減』という名の致命が身を襲った。

 

「赤龍帝、また邪魔を……!!だがこれで――」

 

 白龍皇は手応えに、翳ってはいるが歓喜を吐き出す。だが遮って、赤龍帝の眼がそれを捉え、ひっ迫を叫んだ。

 

「ヴァーリ!!また上だ!!」

 

 攻撃を止めて作った僅かな間だが、どうにかそれで間に合った。白龍皇の頭上に、また新たな悪魔の軍団。

 奴らには見えないボクの人形たちが操るそれらが再び天井より降り、白龍皇を襲った。

 

 だが白龍皇は振り向きもしない。

 

「構うな!!こいつさえ倒せば問題ないッ!!」

 

 そう吐き捨てた。確かに、大抵の念能力は術者が死ねば解除される故に、その判断は間違いではない。そもそも悪魔どもの攻撃も白龍皇には大したダメージにならないのだから、優先順位は間違っていないだろう。

 

 白龍皇は攻撃をその身に受けてでも、ボクにとどめを刺すつもりだ。宝玉が輝き、『半減』が『力』を奪い取ろうとする。

 

 その直前だった。

 

 眩い閃光と共に、悲鳴がその発動を掻き消した。

 

「が、ああァァァァッッッ!!!」

 

 激痛を示す絶叫。白龍皇のものだ。そのあまりの激しさに赤龍帝までもが怯み、パンチに込められた力も硬直する。

 

 その眼が愕然としたまま凝視するのは、白龍皇を襲った悪魔どもがそれぞれ手に握った剣。ボクにも悪寒をもたらす閃光と、絶叫の原因であるそれだった。

 

「あ、アスカロン(・・・・・)!!?」

 

 ノブナガの手にあるはずの伝説の聖剣が、悪魔どもにそれぞれ一本ずつ。二桁の龍殺し(ドラゴンスレイヤー)が、白龍皇の身体に突き立てられていた。

 

 あり得ない光景。しかしそれが現実であると認めた赤龍帝は、驚愕と恐怖で肉体のみならず思考までもを停止させた。その隙にボクは、掴んだ赤龍帝の拳を投げ飛ばした。

 

 白龍皇に叩きつけられ、悪魔どもを巻き込んで地面を転がった。衝撃で白龍工の肉にアスカロンがより深く食い込み、さらに上がる苦悶の声は間違いなく本物の苦痛。悪魔でありドラゴンの魂をも宿す白龍皇には、コピーであっても(・・・・・・・・)十分すぎる効き目があるようだった。

 

 それでも歯を噛みしめ、顎を震わせながら、串刺しにされた白龍皇は鬼気迫る憤怒の声でボクを睨みつけていた。

 

「きッ……さま……ッ!!いったい、どれだけの能力を……ッッ!!!」

 

「んー、お得意の考察でもしてみるか、数なら数えてみればいいんじゃにゃい?【黒子舞想(テレプシコーラ)】と操作能力とアスカロンの能力と……ほら何個?」

 

 正解は二個。『フェル』の能力も併せればその限りでないが、しかしどちらにせよ気付けない白龍皇は怒りだけを募らせる。

 

 そしてそれはすぐさま、『力』へ変わった。

 

「なめ……るなぁッ!!!」

 

『Divide!!』

 

 聖剣によって削り取られ続ける『力』と血。どくどくと身体から流れ出るそれらに吠えた白龍皇は、執念でボクに手を向け、こんどこそ『半減』を発動させた。

 

 赤龍帝のパンチと一緒に白龍皇のも受け止めたために、すでに条件はそろっていた。故にどうすることもできず、ボクの身体から『力』が抜け出た。その分が白龍皇に渡り『吸収』され、そして最初に危惧した通り、有利が逆転する。

 

 とは、ならなかった。

 

「あ、が……ッッ!!?」

 

 『吸収』したボクの『力』、『気』は、邪気塗れなのだ。五年経っても尚原因不明な、悪意や負の感情の集合体である邪気をたっぷり含むボクの体質。ボク自身やクロカは慣れているから問題ないが、そうでない白龍皇がボクの邪気の半分をいきなり取り込めばどうなるか。

 

 悩むまでもなく、膨れ上がる心の衝動に呑まれる。

 

 白龍皇の場合であれば、恐らくボクを殺すという、最強も真なる白龍皇も忘れた一つの殺意のみに。

 

「がアアアァァァァッッッ!!!」

 

 吸収され、爆発的に膨れ上がった魔力が無差別に撒き散らされた。周囲の悪魔たちとアスカロンは跡形も残さず消し飛び、勢いは赤龍帝の身体も押し流す。膨大な魔力を纏ったまま、白龍皇は殺意で捉えた。

 

 そして呟くように紡がれる、呪文。

 

『――我、目覚めるは!!覇の理に全てを奪われし二天龍なりッ!!』

 

 神器(セイクリッド・ギア)の最終到達点である禁手(バランス・ブレイカー)の、そのさらに先へ至らんとしたものの成れの果て、覇龍(ジャガーノート・ドライブ)

 

 ある種の暴走状態であるそれは、邪気に呑まれたやつに相応しい手なのだろう。それに実際、それは有効だ。覇龍(ジャガーノート・ドライブ)がどれほどのものなのかはわからないからはっきりとは言えないが、白龍皇が『戦闘』でボクを下そうというのなら、いっそ理性くらい飛ばしたほうが可能性がある。

 

 だがなんにせよ、遅すぎた。

 

 三節目が始まる前に、白龍皇の身体をノブナガの『円』が包み込んだ。

 

「あ――」

 

 全くの同時、背に斬撃。【白龍皇(ディバイン・ディバイディング)の鎧(・スケイルメイル)】が、あっさりと砕け散った。

 

 曰く『『円』の範囲内のものを切る』という単純故に強力な能力を持つノブナガ。背後に突然転移(・・)されれば、防ぎようがない。

 

 それがとどめとなった。

 

 本物のアスカロンの力も合わさって呪文は途切れ、白龍皇の身体は傾いた。

 ボクは再びアンテナを構え、その肩を支えてやった。

 

「まあ、ボクも残念だとは思ってるよ」

 

 白龍皇が想像したであろう『戦闘』などここにはない。そしてボクにとってもこれは『戦闘』ではない。ただ、殺し合いという名のただの作業。戦いでも勝負でもなく、あらかじめ決めた道筋をなぞるだけの、ただの手順の積み重ね。そのために、実に六人がかり(・・・・・)で作り出したのが、今のこの瞬間だ。

 

 それだけの人数で白龍皇を叩くと、いや、処理するとボクたちが決めた時から、もうこうなることは決まっていた。なぜなら確実なものにするための六人がかりであるから。もしも白龍皇がそれらを『戦闘』に引き戻せたとすれば、最初から覇龍(ジャガーノート・ドライブ)という強力無比な切り札を切り、小細工ごと蹂躙する以外になかっただろう。

 

 だが白龍皇はそもそも小細工があることを想像できない。そうなるように、ミルたんたちに戦闘経験をコントロールされたから、正々堂々の決闘によって個の最強(・・・・)が欲しい白龍皇(強い存在)は、ボクもそうだと信じて疑わなかった。

 

 だから他人の介入など認識にすらない。それをする人間が取る手段も想像できない。暴力で敵わないことがわかりきっている弱い存在だからこそ、代わりに人は知恵を絞るのだ。

 

 そこに正々堂々も、殺しに卑怯も正義もあるはずがない。

 

 白龍皇は、今になってそのことに気付いたようだった。

 

「ピトー……貴様ァッ……!!!」

 

「ボクも今は、人の中にいるからさ」

 

 だからまあ、仕方のないことなのだ。

 

 兜も砕けて露になった白龍皇の憎悪の表情にため息を吐きながら、ボクは奴のその首筋にアンテナを突き刺した。




うちのヴァーリくんはきっとヒソカと仲良くなれる。
感想ください。


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二十一話

 ふと目を開けると、遠くに剥き出しの岩肌と、中央にぽっかり空いた大穴が見えた。

 

 凡そ二十メートルほども離れた平面から、大穴はさらにその四、五倍ほども深く続いている。そんな穴の底をふと奇妙な光線が横切り、不自然なくらいに滑らかな壁面を舐めた光が、私にも降り注いだ。

 

 眩さに、せっかく開いた目を眇める。と同時に顔の上を降ってきた砂粒が転がって、私は見ていた壁が底ではなく、天井であることに気が付いた。自身が仰向けに転がっていることを認識して、続けざまに身体の感覚も蘇り、自分がどうやら岩の隙間に埋もれているということも理解する。痛みはないが、伸し掛かられている圧迫感があった。

 

 だが気付いたとほぼ同時、岩がこすれる音と共に、その圧迫感が取り除かれた。

 

 「えいっ」というかわいらしい声。眼を向けると、私を押し潰していた大岩を投げ捨てたその子の顔が、同じく私の姿を捉えてくしゃりと歪んだ。

 

「姉さまっ……!!よかった……無事でよかった……!!」

 

 白音は鼻を鳴らしながら、私の傍で膝を突いた。その手がためらいがちに伸ばされ、恐る恐るに私の手を握る。両手で包み込み、祈るように押し抱いた。

 

「せっかく……なのに、死んじゃったらどうしようって……」

 

「死ぬ?……ああ、そうね」

 

 疑問符が浮く。だが身を起こし、周囲に大量に散らばる大小無数の瓦礫片、そして大穴とその奥の光、戦闘の気配に、すぐに直前までの出来事と、自分が何をしようとしていたのか思い出した。

 

 呆けから平坦へと引き戻す。その突然の声調の変化に驚いた白音が顔を上げた。私の手は握ったまま、今度はあっちが間抜け面を晒している。

 

 その桃色の頬を、私は裏拳の平手打ちで吹き飛ばした。

 

 声も出せずに瓦礫の山を転がり落ちる白音。その無様を見物しながら私は立ち上がる。新調させた着物についた埃を払いながら、高くなった視点で改めて周囲を見回した。

 

 洞窟か何かかと思っていたが、所々にある人工物的な滑らかな壁面はどちらかといえば遺跡のようだ。長い年月で風化したようなそれらの傍に、掘っ建てだが近代建築めいたプレハブ小屋のようなものがいくつも建っている。たぶん、『旧魔王派』の兵士たちの住居なのだろう。地下深くの遺跡を間借りして暮らしているらしい。落ち目のテロリストとは哀れなものだ。

 もちろん住人はすべて魔王との戦いに駆り出されており不在だが、奴らがこんな環境で人間や現魔王たちへの憎悪を蓄えていたと思うと憐れまずにはいられない。

 

 どうせもう不要な施設であるし、いっそ派手に壊してやろう。そう考えながら、私はふもとまで落ち、へたり込んだまま驚愕の眼でこちらを見上げる白音に嘲笑を向けた。

 

「馬鹿よね、あんた。『死んじゃったらどうしよう』って、まさか私を助けようとしてたの?」

 

「あ、当たり前です……!だって、私は……」

 

 言葉は続かず、押し黙る。喉の手前で留められたその続きに、私はゆっくりと瓦礫の山を下りながら、唇を醜悪に歪めてみせた。

 

「『姉さまに媚びを売って部長の命乞いをしなければならないんですから』、ってとこかしら。だからあんな下手な芝居までして私たちに近付いたわけね。殺すよりも生贄で満足してもらう方が可能性があったから……裏切り者の汚名を被ってでも、大事な大事なご主人様を逃がしてみせる、みたいな調子?」

 

 まあそこはピトーが台無しにしちゃったわけだけど。と笑いながら、私は広がる天井の大穴を見上げた。相変わらず感じる戦闘の気配。遠くに見える地上の、その傍で今も戦っているであろう彼女を思い浮かべながら、私は続けた。

 

「仙術で操ったとかいう嘘設定出したり突き飛ばしたり、いきなり何するんだって思ってたけど……つまりピトーはあんたの思惑を読んでたってわけね。私たちの計画の内ってことにしとけば……逃げられて『作戦』がめんどくさいことにならなくて済むし、こうやって隔離すれば、自棄になったあんたに余計なことバラされずに済むもんね」

 

 私が一瞬抱いた危惧は、すべて気のせいであったのだ。

 

 こっそり息を吐き、言ってやって視線を戻すと、白音は表情の驚愕に怯えを含ませ始めていた。ふるふると、幼子のように首を横に振る。

 

「ち……違います……。私、そういうつもりじゃなくて……」

 

「何が違うの。私とピトーが『ウタ』と『フェル』の正体だってこと、あんた黙ってたんでしょ?ご主人様を見逃させるための交渉材料にするために。……けど残念。あの野武士が勝手なことしたせいで段取りは狂っちゃったけど、やることは変わらない。知っちゃったあんたを生かしておく理由もないわけなのよ。そういう意味でも、生き残りたいなら、やっぱりあんたは私を殺すべきだったわね」

 

「殺す……違う、違うんです……!そういうんじゃない……!」

 

 本当に子供に戻ってしまったかのようだ。怯えた顔で駄々をこねるようにひたすら首を振る白音。

 

 その目の前に、私は飛び下りた。足音にびくりと身を強張らせる白音を声を漏らして嘲笑い、屈んで、耳元に口を寄せた。

 

「私を殺せる力量なんて、そもそもあんたにはないけどね」

 

 姿勢を戻し、今度は右足で蹴り飛ばした。

 

 プレハブ小屋まで吹き飛び、激突した衝撃で粗末なつくりが崩壊する。鉄板やらが崩れる耳障りな音の中に、白音の苦悶の呻きが聞こえた。

 

「返り討ちに合うだけだから……そっか、そう考えれば一縷の望みに賭けるっていうのは道理よね。少しでも多く助かる可能性、教えたこと、ちゃんと覚えてるみたいじゃない」

 

 蹴りが突き刺さったお腹を抱えながら、鉄材の山に半ば埋もれた白音の眼が持ち上がり、私を見た。

 

 未だに呆然と驚愕を映していた。攻撃されたという事実にすら頭が追い付いていないらしく、せっかく言ってやった嘲りもろくに頭に入っていないらしい。こっちが何度も『殺す』と言っているのに、反撃どころか逃げるそぶりすら全く見られない。

 

 信じられていないのか。ならその理由は、やはり私を見るその眼と同じなのか。

 

 笑みが保てなくなって、私は唇を噛み、地を蹴った。一跳びで白音の下に着き、そしてすれ違いざまに再び蹴った。

 同じくお腹。抱える両腕の隙間を貫き、白音の身体がまたいくつかの小屋を打ち壊す。しかしどうやらダメージは大きくないらしく、吹き飛ばされながらも顔は私に向いていた。

 

 そしてやっぱり、その感情は変わっていない。見てしまい、確信した私は拳も握り込み、続けて休まず襲い掛かった。

 

「――『纏』で防御はできてるみたいだけど……耐えるばっかじゃどうにもならないわよ……ッ!」

 

 真正面で殺意を吐き掛け、大振りのストレートを一撃。モーションとでようやく白音も反応し、顔に飛んできたそれを腕でガードした。が、威力は受け止め切れずに押され、バランスを崩して倒れる。

 

 私はそこに追撃のもう一発を引き絞りつつ、白音の視線を捉えて無理矢理笑った。

 

「それとももしかして、ほんとに反撃する余裕もないのかしら?私、格闘は苦手なんだけどねッ!」

 

「うぐ……っ!」

 

 ガードの上から力任せに地面に叩きつけた。これはさすがに効いたようで、苦悶が表情と声に漏れる。

 

「あんた、『戦車(ルーク)』の駒貰って悪魔に転生したんでしょ?高い攻撃力と防御力、そうまでして手に入れた力ってこんなものなの?ほら、やり返してみなさいよ!」

 

 苦いものを噛みしめながら、連打。押し倒した白音に連続で拳を振り下ろす。続き、伝わる威力が、踏みしめる小屋の床材にひびを入れた。

 

 何十発か、殴ってやっても尚白音は一切の反撃をしてこなかった。ただ耐えるのみだ。切れかけの息を呑みこみ、私は最後の一発を大きく振りかぶった。

 

「ゴマ粒みたいな可能性でもせっかくのチャンスなのに、このままじゃ、普通に殴り殺されちゃうわよ……!」

 

 しかし白音は何もせず、私の拳はその身体を貫いた。

 

「………」

 

 ひび割れていた床材が粉々に砕け散った。半開きになった白音の口が、つっかかりながらも必死に呼吸を繰り返している。

 

 拳にへばりついた柔らかい肉の感触から逃れるようにして、私は白音の上から退いた。立ち上がり、一歩二歩と後退る。

 

 もう疑いの余地はなく、勝手に歯軋りが鳴った。

 

「あんた……まだ見逃してもらえると思ってるのね」

 

 だからつまり、私が昔の通りの優しい姉のままだと、そう信じている。

 

 リアス・グレモリーや赤龍帝たちですら打ち消したそれを、未だ持っているのだ。よりにもよって白音自身が。

 

 酷く腹立たしく思った。

 

「……五年前のこと、もう忘れちゃったってわけ」

 

 深呼吸の後、それでも抑えられなかった思いが顔を出す。

 

「『こっちに来ないで』、『一緒に行きたくない』、『関わらないで』。全部あんたが言ったのよ?ここまで言われて、私がまだあんたたちの言う『優しい黒歌』のままでいるとでも思うわけ?……それにあの元バカマスターのこと、あんた好きだったんでしょ?そりゃそうよね、あいつが私を眷属にしたから、いいもの食べていい寝床で寝られるようになったわけだし」

 

「……あ……ぐ、うぅ……」

 

 呻き声を上げながら、白音が身体を起こそうとしている。眼は怯えの一色だ。

 

 私は続けて冷たい呼気を吐き出した。

 

「だから、それを全部ぶち壊した私が憎かったのよ。それに、聞いてるわよ。馬鹿な悪魔共に責められて病んじゃったんだって?可哀そうね。……それもこれも全部私のせい。なら白音、あんたは私を憎んでるのよ。自分を不幸にした、姉の黒歌をね」

 

 「なのに」と呟く声が震えた。

 

「なにを都合のいい事ばっかり信じてるのよ……!最後には私が改心して、許しを求めるとでも!?馬鹿にしないでよ!あの時、元バカマスターたちを殺したことを、私はこれっぽっちも後悔してない……!これからあんたを殺すことだって……!何一つ、悔いてなんかいない!だって私もあんたが憎いんだもの!」

 

 感情に押されて『気』が荒ぶる。増大したそれを身に纏い、下がった足を再び前に踏み出す。

 

 喘ぐ白音へ殺気をぶつけた。

 

「だから、さっさと諦めてかかってきなさい。もうあんたの憎悪を真正面からぶち壊してやらないと気が済まないのよ!」

 

 だが白音は怯えるでも怒るでもなく、叫んだ。

 

「違うんです……ッ!!」

 

 思わず気圧されてしまうほど、強い否定の言葉。真に迫った訴えに、滾った戦意が引いてしまう。

 

 それほどの迫真で私を退け、白音は受けたダメージで身体を震えさせながらたち上がった。傍に残った鉄骨柱を支えに身を起こし、苦しげな呼気を吐き出す。そしてもう一度大きく吸い込み、その眼の迫真を、私に向けた。

 

 あらわになる。

 

「わたし、姉さまが主さまを殺した理由を、知っているんですッ!!」

 

 ドクン、と全身に響くほど大きく、心臓が拍動した。血が巡り、熱くなる。一瞬にして私の思考は止まり、だが数舜後、辛うじて残った理性が頭に冷水を流し、引き締められて思い出した。

 

「……ああ、はいはい。力に溺れるあまり、殺しの衝動が抑えられなくなった、ってやつね。凡そその通りよ。邪気に呑まれたのもそうだし、殺したかくなったから殺したの」

 

 憎悪が故の殺しだった。でなければわざわざ窯焼きで苦しめたりはしない。

 だがそれが何だというのだ。叫んで痛みがぶり返したのか、お腹を押さえて歯を食いしばる白音に、私は嘲笑の笑みを取り戻した。

 

「修行で教えてあげたでしょ?邪気っていうのはそう特別なものじゃないの。誰でも持ってる負の側面、それが『気』として表面化したしただけのモノ。取り込んじゃえば影響されちゃうけど、いきなり見知らぬ憎悪が降って湧いてくるわけじゃない。元から持ってる負の感情が影響されて、膨れちゃうだけなのよ。だから元バカマスターを殺したのも、あんたのことが憎たらしいのも、邪気で狂わされたわけじゃない……全部私自身の、本物の意思」

 

 だから私が『優しい黒歌姉さま』だということは、絶対にありえないのだ。わかっただろうと、私は無意識に胸元を握り締めていた手を解き、腕を組んだ。

 

 もう、私を信じる理由はなくなっただろう。そう思った。憎悪の状況証拠と殺意の自白、殺気を浴びせて態度まで示してやった。これで私を信じ続けるには、もはや狂人にでもなるしかない。

 

 だが私を見つめる白音の眼は、やっぱりそのまま、澄みきっていた。

 

「やっぱり……。ならきっとそれは、私のため、なんですよね……?」

 

 本心からの言葉であることが明らかなそれは、容易に私の喉を詰まらせた。

 

 反論が出て来るはずもなく、硬直する私に白音はよろよろと歩み寄りながら、続ける。

 

「主さまを殺すことが、なんで私のためになったのかは……わかりません。主さまと姉さまの間に、眷属の皆さんとの間に何があったのかも、私にはわからない……。あの頃は、そんなこと気にもしなかった。だから姉さまが主さまを殺した時も、考えすらしなかったんです……。仙術のせいで私のことが嫌いになってしまったんだって、ずっと思っていました……」

 

 頼りない足取りながらもすぐ近くまでたどり着いた白音が、私の眼を覗き込んだ。

 

「でもあの時、姉さまは泣いてた」

 

「……泣いてた……?」

 

 自分と同じ金の瞳を見つめ返しながら、呆然と呟く。泣いていた?意味がわからない。

 

「……涙なんて、流すはずがないでしょ。だいたい、なんで今――」

 

「後から、思い出したんです。京都で攫われた時、拳銃使いの女性に、たぶん念能力で記憶をのぞかれた時に」

 

 それはあのパクノダという女のことだろうか。拳銃ばかりでどんな能力を持っているのか謎だったが、記憶を探る能力者だったらしい。

 

 そしてその事実は繋がって、クロロが私たちの正体に気付いた理由も明らかにした。記憶の中の黒歌を見ていたから、連想しやすかったのだろう。さすがにそれだけで気付いたわけではないだろうが、きっかけではあったはずだ。

 

 結果正解にたどり着いたということは、精度も悪いとは思えない。そんな能力に見せられたというのなら、私の涙も思い違いなんかではないのだろう。私は実際にあの場で涙を流していたということになる。

 

 その内にあったものも、見透かされているということだ。

 

「私に拒絶されたことに流した涙。私を、想ってくれていたから、傷ついたから、流れた涙、だったんでしょう……?」

 

 語尾も眼も震えている。おぼつかない足取りが、恐る恐るのそれに見えた。

 

「だから……だから私……」

 

 手がお腹から外れ、私へとゆっくり伸びてくる。何かを求めているかのようだ。

 

 私はそれを、勢いのあまり裏返ってしまった哄笑で払い除けた。

 

「あははっ!何よあんた、それで自分が殺されないって考えちゃったの?誘拐犯の能力で見せられたものを信じちゃったわけ?どんだけおめでたいのよ!」

 

 びくりと震え、白音は弾かれるようにして手を引き戻した。足も下がり、怯えの度合いも増す。

 

 だが嘲りが功を奏してしまったのかすぐに気を取り戻し、首を振った。

 

「わ、私、そんなんじゃ……でも、私は、本当に――あぐッ!」

 

 反射的に身体が動き、白音の言葉の続きを蹴り飛ばした。またも地面に転がった彼女をゆっくり追いながら、私は大きく息を吐く。

 

 そんなに知りたいのなら、事実を教えてやるべきだ。

 

「まあ、あの頃の私は確かにあんたの言う通り、『優しい黒歌姉さま』だったわ。それは認めてあげる。あの元バカマスターが自分の戦力にって、白音を……あんたを仙術に目覚めさせようとしてたのよ。私が反対するもんだから、命が危うくなりかねない危険な方法で無理矢理、ね。だからぶっ殺したの。ついでに今まで散々こき使われた分も上乗せして」

 

「あ……主さまが、私を……?」

 

「信じられない?そうよね、世の中に出回ってる話じゃ全部私が悪いことになってるし。別に信じなくてもいいわよ。信じられないくらい、あのろくでなしはあんたにとって初めて出会った『良い人』だったものね。……おかしいったらないわ。あのクズ野郎の笑顔を信じ切って、疑いもせずに呑気に暮らしてたなんて」

 

 そういった汚いものから白音を隔離していたのは私自身であるわけだが、それからは眼を逸らして責め立てる。これは今までの答え合わせ。白音に、自身がしてきた行いを確認させるためのものなのだから。

 

 だから私は絶望と苦悶がごちゃ混ぜになって蹲る白音に、躊躇なくもう一度、後ろ蹴りを食らわせた。

 

「それでまだ(・・)私が白音を愛してるなんて、どうして思えるわけ?」

 

 小屋、と言うには他と比べて少々大きい建物の外壁を白音の矮躯が突き破り、柱にめり込み辛うじて受け止められた。私も追って入る。どうやら上官か何かが使う家らしく、平兵士の掘っ建て小屋と比べてちょっぴりの豪華さを一巡り見やってから、柱ごと白音を張り飛ばした。

 

 居間らしき空間のソファーがへし折れるのを見つめながら、私はさらに拳を握る。

 

「あんたを助けに行ったあの時は、確かにまだあんたを愛してた……!クズの元バカマスターと無能の眷属どもに振り回されて苦しかったけど、あんたがいたから頑張れた……!白音のためだから、今までずっと頑張ってこれた……ッ!……そう思ってたら、あの裏切り……。せっかく一緒に逃げようって迎えに来てやったのに、『こっちに来ないで』よ?差し出した手をひっぱたかれて、それでもう一回助けようなんて思う馬鹿がどこにいるのよ……!」

 

 拳を振り下ろす。やはりガードされたが、それでも貫き響く痛みで白音の身体が硬直した。その襟首を掴んで持ち上げ、無理矢理身を起こさせた。

 

「しかも無理に助けに行ったせいで逃げる途中に殺されかけるし、踏んだり蹴ったり。……まあそのおかげでピトーに会えたわけだから、これに関しては感謝するべきかしら。一応言っとくわ、どうもありがとう」

 

 ふらふらと辛うじて二本足で立つ白音の胴を、アッパーで打ち上げる。

 

「だからこそ、私はあんたは殺さなきゃなのよ。……わかった?私たちに媚び売っても、あんたが助かるなんて道は万に一つもない。私が、必ず殺す」

 

 興奮のためだろう、震える拳を、とどめの一撃として向けた。

 

「今の私は……白音の姉じゃないのよ!!」

 

 振るわれた。寸前、ぴくりと反応した白音にガードされてしまうも、ふらついた脚では受け止め切れるはずもなく、威力に押された身体は内壁を打ち壊した。そのままよろよろと後退し、地面に転がる木片に足を取られて尻もちをつく。

 

 今度は恐らく、寝室だ。木片は、突き抜けた私の打撃の威力で粉砕されたベッドなのだろう。見れば周囲には布切れと、幾らかの羽毛が宙を舞っている。

 

 居間も然り、想起させられる()の感覚に隔意が震えた。

 

 私はまた長く息を吐き、妖力を使った。手の中に火車を生み出し、さらに『力』を注いで大きく育てていく。

 

「ここまで言ってもまだ信じたいなら、もう知らない。……知ったことじゃない。あんたが信じる黒歌も全部、ここで焼き尽くしてあげる」

 

 いらないものは燃やしてしまえばいい。いかにしつこくても、なくなってしまえば迷うこともない。

 

 灼熱の温度を手のひらに感じながら、私はそれを、床に叩きつけようとした。

 

 だがその直前、白音が叫んだ。

 

「なら……なんで私を助けたんですか……!!」

 

 火車が一息で消し飛ばされた。思わず妖力のコントロールを失ってしまうくらい、その叫びに混じった『怒り』は、容易く私の心臓に突き刺さった。

 

 ただちょっと凄まれただけなのに、なんでこんなにも動揺しているんだ、と理性が呆れて肩をすくめる。だが頭の中では虚勢を張れても、心は全く落ち着かず、怯えた。

 

「助けた……って、だってそれは、あんたが元バカマスターに殺されるかもって、そう思ったからじゃない……!」

 

 そんな話ではなく、言葉で誤魔化せるような話でもなく、起き上がりながら向けてくる白音の眼が私の心の奥までもを見透かしていると、そう確信してしまったからだった。

 

 事実で隠した私の本心。遮ることなどできず、それが白音の口から告げられた。

 

「姉さまは、今も私の知ってる優しい姉さまのままです……!」

 

 痛みに喘ぎながらも静かに、しかし確固たる確信と共に言い、白音は私に歩み寄る。その一歩の度に私は後退り、居間の半壊した机に止められると、乾く喉から言葉を押し出した。

 

「そんなわけ……ないじゃない。今までの話、聞いてなかったの……?」

 

 だが皮膚を薄皮から一枚ずつ剥いでいくかのように、白音は続ける。

 

「聞いていました。私のせいで姉さまがどんな思いをしたのかも、わかっているつもりです……。でも……それで姉さまが、本当に私を見限っていたのなら、私は京都で攫われたまま、助かることはなかったはずです……!」

 

 そうだ。私が白音を五年前から憎めていれば(・・・・・・)、あの救出劇は起こらなかった。私がそれを望めば白音を殺すことだってできたのだ。

 

 なのに私はあの時、白音に裏切られてからも、白音を救うことを望んで動いていた。

 

「私たちがコカビエルに襲われた時だって、そうです……。無視していれば、少なくとも私は死んでいた。……それについさっき、ピトーさまに穴に突き落とされた時も、降ってくる瓦礫から私を守ってくれたでしょう……?代わりに自分が瓦礫に押しつぶされてしまうことも厭わずに……。姉さまが、殺したいほど私を憎んでいるっていうなら、自分を犠牲にそんなことはしなかったはずです……!」

 

 私の真正面に立ち、食いしばった歯の隙間から、「けど」と私の怯えを射貫く。

 

「姉さまは、ウタさまに名前を変えても、ずっと私を守ってくれていた……!傷つきながら……ずっと……!それが……それが私の大好きな姉さまの証でなくて、いったい何だっていうんですか……ッ!!」

 

 だから私は、本心では白音を憎んでなんていないのだ。

 

 白音はそれを知ってしまっていた。私を攻撃しなかったのも、そもそもリアス・グレモリーたちを裏切ろうとしたのも、そのため。『優しい黒歌姉さま』なら、何を言ったとしても、妹を殺すことだけは絶対にしない。それがわかっていた。

 

 その通りだ。

 

「……私が、憎まなければならない(・・・・・・・・・・)って思うほどのことを、姉さまにしてしまったことは、わかっています。文句を言う資格も、許してもらう資格もないことは……。でも……姉さまがもう私を愛せないのだとしても……」

 怒りが徐々に冷め、代わりに悲しみが染み出してくる白音。私は、じっとそれを見つめていた。

 

「せめて、それだけは――」

 

 確信し、諦めた私の内心は、さっきまでの怯えが一転して冷たく冷えていた。

 

「……『優しい黒歌姉さま』が、そんなに大切なわけね」

 

 どれだけ否定しても私の心はあの時のまま、『優しい黒歌姉さま』なのだ。

 

 心の根底にそれがあるから、あのまま白音への憎悪を身に纏っていても、結局私は白音を殺せなかっただろう。だから私の心の奥に『優しい黒歌姉さま』がある限り、白音が殺されることはない。それは正しい。どれだけ言葉とフリで脅そうが、私は白音を憎悪することができなかった。

 

 ずっとそうだ。白音を捨てようと決意した京都での出来事から今日この時まで、口と身体では拒絶できても、私と白音の間にある『姉妹』という繋がりは絶てなかった。修行の依頼はお金という免罪符一つで受け入れてしまったし、コカビエルとの戦いだってそう。修行も、オーバーワークだろうが骨折だろうが放っておけばよかったのだ。

 

 なのにウタの正体がバレてからも、そして今も、殺すという最後の一線だけは越えることができなかった。

 

 私は、心の奥では常に白音を想っていた。

 

 私の本心は、『白音の姉』でいたいのだ。

 

 それを白音も、そして私も知っていた。

 

「……そうよ、あんたにもバレちゃったわね、私の気持ち。憎みたくても、どうしても心の底からは憎めない。どこまで行っても私たちは姉妹で、家族で……心底から憎み合うなんて、端からできないのかもね」

 

 ため息と一緒に言った。私を見上げる白音の顔が呆け、そして緩やかに喜色が咲き始める。

 

 私の心の『優しい黒歌姉さま』は、それを嬉しいと思った。

 

 

 

「それが一番憎たらしいのよ」

 

 

 

 私の殺気が周囲に吹き荒れた。白音の身体が本能的に恐怖し、私の正面から逃れるように跳ぶ。

 硬直したその身体を、私は殺気に身を任せて打ち据えた。

 

 さっきまでのように吹き飛びはしない。筋力頼りのそれではなく『念』での攻撃だからこそ、攻撃の威力はすべて白音の肉体に浸透した。逃げようとした脚がたたらを踏み、背が折れ、咳き込む音に水音が混じった。

 

 己の手のひらに吐き出された血を見つめ、白音は呆然と呟いた。

 

「あ……れ……?ねえ、さま……?」

 

「あんたの言う通りよ、白音。私はホントのところ、別にあんたを憎んじゃいないの。そりゃあ言われたことに思うところはあるけど、たった一人の妹だもの。急に嫌いになんてなれないわ。……元バカマスターの時も京都の時もコカビエルの時だって、大事な妹を守りたいっていう根底の想いは同じ……『優しい黒歌姉さま』な私が、白音を憎むどころか、殺すなんてできるはずがないじゃない」

 

 白音の顔が持ち上がり、本能に感じる恐怖に感情が追い付いたのか、その表情が呆然から恐怖に変わっていく。心の中に悲しみが広がった。それが、私の憎悪をまた膨らませた。

 

「私が本当に憎いのはね……私に白音を憎ませてくれない、この『優しい黒歌姉さま』なのよ……!!私そのもの(・・・・)が、私はこの世の何よりも憎くてたまらない!!」

 

 怒りの衝動でもう一度拳を握る。白音を殴った感触で未だじくじくと痛むそれ。『念』で塞ぎ、再び白音へ振るう。

 

「ピトーのために、あんたを憎まなきゃいけないのにッ!!」

 

 肉にめり込んだ。飛び散った血が、初めて腕を濡らした。

 

 身体が震えた。

 

「……ずっと私の心に居座って、ずっと私の邪魔をするの。消さないでだなんて……そもそも、消せないのよ。白音のお姉ちゃんだった今までの生は。けど私は、それを消さなきゃならない。白音を憎みたいのに、憎まなきゃならないのに……憎ませてくれない。自分の望みを自分が邪魔してるって、どう?おもしろいでしょ?私の頭の中」

 

 白音を殺したい自分と守りたい自分とが常にせめぎ合っている。だから感情ですらも殺しの手前で怯んで止まる。

 

 滑稽以外の何物でもないだろう。口から吐く憎悪と心の内にある想い、そのちぐはぐに、みんな気付かないはずがない。

 

 赤龍帝もリアス・グレモリーも、白音も、そして――ピトーも、だからみんな、引きずり出そうとする。私の本心は憎悪か愛か、どちらなのかと。

 

「私は……ピトーの家族であるために、白音を憎まなくちゃいけない。悪魔は全部、捨てたいの。けど……できない。私の心にとって、白音はずっと妹だから」

 

 未だどちらにも傾かないその天秤がピトーにも知られているから、だから彼女は私を試すのだ。白音(悪魔)を愛しているのか、それとも自分と同じように悪魔(白音)憎んでいるのか、自分と白音、どちらかを選べと言っている。

 

 今までずっと捨てられず、選べなかったから、だからたぶん、白音共々私を穴に突き落とした今回が最後のチャンスだ。この場は、もう二度とない。

 

 だから、どれだけ痛くてもやらねばならない。

 

 逆の拳を握り締めた。

 

「ッ……!!私は……!!ピトーを裏切らない……!!今度こそ今までの私を殺して、証明してみせるッ!!」

 

 私はピトーと同じバケモノで、だから家族なのだと。

 

「……私が白音のお姉ちゃんで、白音を憎んでいなくても、殺したくなくても、そんなの関係ないの」

 

 頬を殴られよろめき、一際大きな血の塊を吐き出す白音へ、私はその心を押し潰しながら言う。白音を想う気持ちとピトーを想う気持ちは同等で、しかし交わらないから、片方が欲しいなら、もう片方は諦めなければならない。どちらかを選ばなければならないのだ。

 

 私はもう、捨てられたくない。

 

「だから白音、私はあんたを殺すわ。あんたは別に、いなくなっても構わない。『優しい黒歌姉さま』共々、絶対に完全に殺し尽くして忘れ去る。白音との家族を捨てて、私はピトーとの家族を手に入れるのよッ……!!」

 

「………っ!!」

 

 ゆっくりと持ち上がり、私に向きつつあった白音の顔を、私は妨げるようにしてまた殴った。

 

 無駄に力が入り過ぎたのか、浮いた白音の身体が家の壁にめり込んだ。がっくりと頭が垂れるが、自身の血で汚れた服の胸は確かに上下している。

 

 まだ殺せていない。荒い息と震えっぱなしを身体を無理矢理動かして、私は一歩ずつ白音へ近づいた。

 

「……まだ、生きてるの。しつこいわね……」

 

 なら今度こそ確実に殺せるように、頭の中を空にして『念』を練る。機械的に増幅させた『気』を右手にすべて集中させる。眼は、動く胸の心臓へ向いた。

 

 集中するあまり、そこに埋め込まれたのであろう悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の気配すらも感じた。己の身体にも存在するそれに、救いのように憎悪が湧いた。

 

「……あんたも私も、悪魔に関わったのがそもそもの間違いだったのよ。あの時、私があのクズ野郎の口車に乗らなかったら……もしかしたらこんなことしなくても、済んだのかもね」

 

 白音の下までたどり着き、ゆっくりと拳を引いた。これを叩きつければ、間違いなく白音は死ぬ。いかに私の意思が弱くとも、『戦車(ルーク)』の防御力があろうと、一切合切を貫き、破壊できる。

 

 これで終わりだ。その時ふと、白音の口から言葉が漏れた。

 

「……そうかも、しれません」

 

 それだけで、拳は動きを止めた。引き絞られたままぴたりと静止する。

 

 白音は、垂れた髪の毛の隙間からそれを見ていた。私が気付き、眼を合わせると、続けた。

 

「私は何もできなかったから……ううん、何もしなかったから、姉さまの傷に気付けなかった。……間違ったのは、私です。だから、もう元に戻れない」

 

 私は思わず身を引いた。これから殺されるというのに白音の眼には相も変わらず抵抗の意思が見えず、そして何より、酷く穏やかだった。

 

 彼女は既に、すべてを受け入れていた。

 

「わかっています……。私の間違いが、許されるものではないことは……。……虫のいい話だってことは」

 

 埋まった両腕が引き抜かれる。一緒に身体も壁から脱し、私を見上げる。そして……床に手を突いた。

 

「私はただ……もう一度姉さまに会いたかった。会って、ごめんなさいって謝りたかったんです……。……ほんの少しでいいから、姉さまの本心が知りたくて……リアス様を裏切ってでも、姉さまを二度裏切りたくなかったから……」

 

「……なんで、謝るだなんて……」

 

 衝撃に、思わず私の心からも言葉が漏れ出る。白音はそれを噛みしめ、静かに目を伏せた。

 

「もう、私は十分です。こんな私を、姉さまがまだ想ってくれていたって、それを知れただけで……満足です……。それが捨てられるものだとしても……これが、償いになるのなら……」

 

 身を起こし、立ち上がる。直立で、両腕はだらりと垂れ下がったままだ。

 

 私に殺されることを受け入れ、白音はその首を差し出した。

 

 構えたままの私の拳が激しく震え出した。聞こえてくる自分の呼吸音が荒くなり、目の前がぐらぐらと揺れ始める。憎悪なんてものは、とうの昔に押し流されていた。

 

「姉さま」

 

 白音が、私に微笑みかけた。

 

「ピトーさまと、いつまでもお元気で」

 

 涙が滴った。

 

 震えを噛み潰し、痛みを押し潰し、心を殺し尽くして、

 

 『死』が、振り下ろされた。




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二十二話

 ピトーさまの存在が姉さまの心の要になっていることは、なんとなく察しがついていた。

 

 家族、と呼ぶには少し歪な依存だが、しかしそれ以上に強固な関係。ウタさまとフェルさまの姿だった時の様子を見ていれば、それは明らかだった。だからそれを自分が邪魔しているのだと知らされた時、私は想像だにしなかったその事実に、驚愕と共に底なしの沼に落ちゆくような深い絶望感に襲われた。

 

 五年前と同じだったからだ。姉さまの涙に気付けず、恐怖してしまった時と同じ、他でもない私自身が姉さまを傷付けているのだという事実。知らずの内に後悔を繰り返していた自分が情けなくて、悲しかった。

 

 そんなふうに姉さまの心を傷つけることしかできない私と比べて、ピトーさまのなんと優しいことだろう。私が姉さまを拒絶してしまった時からずっと、あの人は姉さまの心の傷に寄り添い続けていた。あの日から今日までの五年間、ずっと傍に居て、その苦しみを癒し続けてくれていたという。

 

 姉さまにとって、ピトーさまは自身を救ってくれた大切な人。私にとってのリアス様。

 そんな人との関係を、私は引き裂こうとしているらしいのだ。

 

 そんなことをしたいとは思っていないし、した覚えもないが、しかし私の存在が障害になっているというのは事実だ。当人がそうだと言うのなら、間違いであるはずもない。私は、またしても姉さまを涙させようとしている。二度も姉さまを傷つけてしまうのは、嫌だった。

 

 だから私は受け入れた。私が姉さまに殺されることが姉さまの幸福につながるのなら、それでもいいと思った。

 

 それがいいと思った。

 

 私はずっと罰が欲しかったのだ。姉さまの涙を知り、しかしもう償うことはできないのだと悟ったあの時から。ならばせめて姉さまと同じように、私は私を救ってくれたリアス様を命を賭けて守ろうと、そう決めた。

 だが今、悪魔の長い寿命の中、永久に背負い続けなければならなかったはずの罪を濯ぐことのできる奇跡のような機会が目の前にある。死んでしまったはずの黒歌姉さまに、あの果てしない後悔の贖罪をすることができる。

 

 そう喜んでしまう私が許されることは、たぶんない。だからこそ、すべてを費やさなければと思った。リアス様やサーゼクス様、大好きな仲間もみんな裏切って、そして自分の命を捧げてでも、何もできずに死なせてしまった姉さまを、今度こそ私が救いたかった。

 

 だから、私は姉さまに殺されることを受け入れた。それが姉さまの救いなら、と。

 

 本心だった。何を想っていようとも、そう考え、姉さまの捌きに身を委ねようとした。

 

 だからこそ、それは私にとっても驚愕のことだった。

 

「は……え……?」

 

 思考が全く追いつかない。私も姉さまも、目の前で起こったそれに、呆然とすることしかできなかった。

 

 受け入れ、とうとう姉さまの貫き手が私の命を狩り取る、その直前だったはずのこの瞬間。

 

 私の手が、その貫き手を払い除けていた。

 

 手を動かしたつもりなんてなかった。突然死ぬことが怖くなったわけでもない。だというのに、私の身体は姉さまからもたらされる『死』を拒絶した。気持ちと思考は変わらないのに、身体だけが勝手に動いた。

 

 呆然が解ければ今度はその不可思議な己の行動に混乱と、そして恐怖が身を覆った。

 

「あ……ちっ、違……」

 

 『死』を拒絶するということは、姉さまの幸福を拒絶するということ。しかし私にそんなつもりはないのだと、私は己の腕に落ちた視線をパッと持ち上げ、必死の思いで言い募ろうとした。

 

 しかし持ち上げ、姉さまに訴える私の眼は、その表情に全く異質なものを認めた。手を払われた勢いで一歩二歩と足を下げる姉さまは、私の突然の裏切りに怒るでも悲しむでもなく、ただ呆然のまま、信じられないという面持ちで、私の頭上を凝視していた(・・・・・・・・・・・)

 

「――なんで……」

 

 呟く言葉に導かれ、私も背後を振り返り、見上げた。

 

「なんで、邪魔するの……?ピトー」

 

 見上げた私の真上には、ニタリと笑みを浮かべた道化師のような人形が浮いていた。

 

 しかもよくよく見れば、その人形の手からは糸が伸び、私の身体に、腕に繋がっている。瞬間、それが私の身体を操り、姉さまからの『死』を妨げたのだと悟った。理解した途端溢れかえる得体の知れない恐怖感に、小さく悲鳴が漏れた。

 

 だが、ピトーさまだ。怒涛の如く流れ込む情報を受け止める理性は、混乱の中でもその言葉を聞き逃さなかった。姉さまの呟きは感じる恐怖のその中から、覚えのある『気』を思い出した。

 

 思い出せば、すぐにわかった。恐怖の一端である不気味な人形の、恐怖を呷る冷たい『気』。背中が泡立つそれは、紛れもなくピトーさまのものだ。

 

 この人形は、ピトーさまの念能力なのだ。いつの間にか、気付かぬうちに身体に仕込まれていたのだと、私は確信した。

 

――ならばなぜ、私は生かされたのだろう。

 

「あは……あははははッ!」

 

 姉さまの笑い声。調律が狂ったような狂気的な音に、気付きかけた思考の冷静が剥がれた。怯えを抱きながら、私は姉さまに視線を戻した。

 

 顔を覆った手の隙間から、焦点の合っていない眼が人形の向こうを凝視していた。

 

「そう……そうなのね、ピトー……」

 

「ねえ、さま……?」

 

 様子のおかしさに、私は煽られる不安を呑み込んで眼の中を覗き込む。ほぼ同時、姉さまの眼も人形から私へと移った。

 

 だがやはり、私を映してはいない。

 その眼は明らかに、塞がれていた。

 

「……ピトーが悪魔に抱く憎悪は、こんなものじゃないわよね……。ただ殺すんじゃ、足りない……。殺すならもっと……むごたらしくッ!!」

 

 自らに言い聞かせるように呟いた。その次の瞬間、姉さまは無造作に、再び私へ貫き手を放った。

 

 それに私は反応できない。内心にはやはり回避する気も防御する気も存在しなかったが、しかしピトーさまの人形は私を動かした。操られた私の身体は姉さまの突きを容易く見切り、身を反らして紙一重にそれを躱す。ただでさえぼろと化している制服がまた切り裂かれるが、身体には届かない。

 

 なぜこうなっているのか、わからなかった。わかっていることは一つ、ピトーさまが再び私を守ったということ。ピトーさまは、私が今殺されることを望んでいないということだけだ。

 

 その理由は姉さまの言う通り、ただ殺すだけでは不満だからなのだろうか。

 

(でも、だとしたら――)

 

「………」

 

 頭上で動く人形の気配が、一瞬ゆらりと霧のように霞がかった。それを見た姉さまが、引っ込めた貫き手を拳骨に変えつつ不気味に笑って言った。

 

「ふふ……ほら、合ってた。ピトーのソレ、もうすぐ消えるわよ。役目の終わり」

 

 展開に徐々に追いつき始めた頭が、ゆるゆると再び人形を見上げる。確かに、人形は気配だけでなくその姿をも薄れさせ始めていた。そこに宿った『気』が、ゆっくりと減じている。

 

 そうかからずに空になり、消えるだろう。だがやっぱり私は、その理由が姉さまの言う通りピトーさまの憎悪だと、どうしても思うことができなかった。

 

 役目の終わりとは、そうではなく――

 

 私の心にあるのではないだろうか。

 

 その時ふと、視界に違和感が生じた。ほんの僅かな間だけ明滅し、目玉を『気』が覆う感覚。『凝』をさせられたのだと瞬時に気付き、と思えば、視界の端に迫りくる黒い球体を発見した。

 

 さっきまでは全く見えなかったそれ。姉さまの能力、【黒肢猫玉(リバースベクター)】を思い出すと同時にまたしても身体が操られ、それを躱した。

 

 そして突然、頭上から人形の気配が消えた。

 

「……ああ、言った途端、ね。安心して、ピトー。ちゃんと捨てるから」

 

 法悦すらをも感じている様子の姉さまが呟く。人形の突然の消失が、姉さまには己の意思を認められたように感じたのだろう。

 

 しかし私は反対に、否定だと思った。その証拠に、ピトーさまが人形の力をすべて費やし施してくれた『凝』は、人形が消えても未だ保たれたままだった。

 

 私に、私個人の『凝』では見切れない姉さまの『隠』を見切るための力を与えてくれたのだ。

 

 だから私は、続けて逆側から飛んできた姉さまの能力を、屈んで避けた。

 姉さまの笑みが、それを眼にして削げ落ちた。

 

「は……?」

 

 呆け、固まる。自在に動くはずの能力も私を追いかけることなくその場で止まり、そして崩れて消えた。

 

 姉さまも、理解せざるを得ないはずだ。テストの時のようなピトーさまの甘い『隠』で隠された『気』ならともかく、仙術使いでもある姉さまの本気の『隠』を見破れるほどの力量を私が持たないことは、修行をつけていた姉さまが一番よく知っている。だからこの『凝』はピトーさまのもので、私が今回避したことも、すべてピトーさまの意志であると。

 

 わかってしまったはずだ、ピトーさまが何を求めているのかが。

 

 だが姉さまは、狂気を声に呼び戻した。

 

「あ……はははははッ!!ちょっと、こんな土壇場で急成長?覚醒なんて、ゲームじゃないんだからさぁ!!」

 

 否定を叫び、姉さまは拳を振りかぶった。

 

 それを認識した瞬間、私は未だ僅かに残る迷いを振り切り、大きく後ろへ飛んだ。今度は自分の意思で、私は姉さまにとっての幸福を払い除けた。

 

 笑みの形は保たれたまま、姉さまが歯を食いしばるのが見えた。

 

「……ッ!!」

 

 無言のまま、姉さまは空を切ったパンチの手を広げ、再び能力を発動させた。出現した一つの黒い玉が、瞬時に私へ飛ぶ。至近弾だ。が、元より【黒肢猫玉(リバースベクター)】の念弾は私にとっても避けられないほど早くはない。

 集中すれば猶予の間がなくとも回避できた。能力の念弾に込められた『気』が、頬掠めて飛んでいく。しかしそれだけで終わるはずもなく、次なる念弾、そして何より姉さま自身による打撃の気配を感じ取った私は、反射的に頭を両腕で防御した。

 

 一瞬の後、両腕に重い痛みが走る。利き腕ではない方のパンチ。筋力量からして素の威力はマシなのだろうが、その衝撃はコカビエルの一撃と大差ないように感じるほど、込められた『気』の量がすさまじかった。

 

 それに質も、紛れもなく冷酷だ。私への殺意が滲み出て、受けた腕が凍り付くかのような錯覚に陥る。姉さまの『気』は、それほど冷たく満ちていた。

 

 だから余計に際立つ。私の身体に宿る、ピトーさまが残した『気』。同じような冷たさと恐ろしさの中にある、確かな暖かさ(・・・)

 

 背を押され、私は殴られた勢いでまた後ろに跳ぶと、そのまま距離を取るため駆け出した。

 

 姉さまは当然追ってくる。能力の念弾も風を切り、次々と私を襲った。背後からも前からも襲い来るそれらだが、直線的に飛ぶそれらは姉さまの精神状態を表して避けやすい。とはいえしかし避けるたびに一瞬とはいえ足の動きが犠牲になるわけで、いずれ姉さまの打撃に追いつかれることは明白だ。

 

 ジリ貧を自覚しつつ、私は己がどうするべきか、頬を掠める念弾の冷たさを感じながらか頭を回す。するとその時、何個目とも知れぬ念弾を放った姉さまが、追いかけっこだけのせいではないだろう荒い息のまま、歯を剥いて叫んだ。

 

「殺されますって空気ガンガンに出してたくせにッ、何逃げまくってんのよ白音ッ!!『むごたらしく』に怖気づいちゃったわけ!?」

 

「っ!!ち、違いますっ!!そうじゃない、私が、私が怖いのは――ッ!!」

 

 思わず振り向き、言い返してしまう。それで集中が削がれ、生まれた死角を貫く念弾に気付くのが少し遅れた。寸前でどうにか躱すが、その代償に、視界の端に殺意の『気』を纏った姉さまの拳が写り込んだ。

 

 片腕だけが、なんとか防御に間に合った。受け、めしゃりと右腕から嫌な音が鳴る。一拍の拮抗の後に身体も衝撃に押され、地面に叩きつけられて弾んでから、反対側の壁にまで吹き飛ばされて激突した。

 

 散乱していたおんぼろ小屋の残骸と一緒にがれきに埋もれる。遅れて腕に激烈な痛みと針のような冷たさを感じたが、それを碌に認識する間もなく、私はすぐに瓦礫からから這い出し、横に跳んだ。

 

 ほとんど同時に姉さまの追撃、念弾ではなく黒い炎である火車が着弾し、その場所を覆った。たちまち赤く赤熱し、融け始める瓦礫の熱。それを引き起こした攻撃から辛うじて逃れた私は、感覚の消えた右腕以外にその熱さを感じながら、正面に立つ姉さまを見上げた。

 

 はだけた着物の奥の素肌に刺青と、いっぱいの汗をかきながら、半開きになった口でせわしなく呼吸を繰り返している。揺れる焦点は見えているのかいないのか、しかし私に向いていた。

 

 私はその眼を見つめ返す。こちらもうっすら汗が浮く足を踏ん張って立ち上がり、言った。

 

「私が怖いのは、死ぬことじゃない……!!」

 

 姉さまの足が止まる。眼の揺れが、動揺がさらに激しくなった。

 

 だが、言わねばならない。ピトーさまの暖かさ。それが教えてくれた、彼女の想い。

 

 私の死は、姉さまの幸福になり得ない。それどころか――

 

「私が死ぬことで、姉さまはきっと、不幸にしかなれないから……」

 

「……何を……言ってるのよ……」

 

 つまり、

 

「ピトーさまはきっと……私を憎悪なんてしていない」

 

 だから私を守った。姉さまが私を殺せないようにして、姉さまの心を守ったのだ。

 

 それはほとんど確信に近いものだった。

 私の存在が姉さまとピトーさまの仲を邪魔している。それは事実なのだろう。フェルさまの中にあった悪魔への憎悪は紛れもなくピトーさまのもの、だから姉さまはピトーさまに認められるために私を憎悪しなければならなかった。

 

 そこが、たぶん違うのだろう。ピトーさまは、自分が憎悪しているからといって姉さまにまでそれを求めるような、そんな束縛なんてしないはずだ。まして姉さまはまだ私を愛してくれている。それを捨てろだなんて鬼畜な所業、するわけがない。

 

 悪魔への憎悪があろうが、姉さまの幸福以上に優先するものなど無いはずなのだ。

 

 それが、私の知るピトーさまだ。そんな私よりずっと長い間ピトーさまと一緒にいる姉さまであれば、あの人がどれだけ姉さまを想っているのか、その優しさだってわかるだろう。

 

 そう、これは単なるすれ違い。

 

 お互いを想いあうあまりに起きた、拗れた優しさなのだ。そう言おうとした。

 

 が、

 

「黙りなさいよ」

 

 姉さまの口から飛び出したのは、一瞬にして器の縁まで満たされた、一色の怒り(・・)だった。

 

 背を押された勇気が反転し、恐怖が暖かさを押し流す。ゆらりと動いた姉さまの手に、私は逃げることもできず、反射的に身を固くした。

 

 次の瞬間、怒りに塗れた姉さまの拳が私のお腹に突き刺さった。

 

 息が詰まる。今までに受けたパンチよりもはるかに強いものだった。すぐに喉の奥から灼熱が駆け上がり、飛び出す。持ち上がった身体が、地に着くとバランスを崩して膝を突き、粘っこい血を撒き散らした。

 

 拳にかかり、糸を引いて垂れる赤色は、小刻みに震えていた。

 

「あんたに……ピトーの何がわかるっていうの」

 

 その言葉に、心臓が一瞬強く脈打った。だが眼に映る姉さまの凍えるほどの怒りに遮られ、口から血として零れ出る。

 

「ぅ……ぁ……」

 

 一緒に僅かな声が漏れた。だが姉さまは意に介さず、私を蹴り飛ばした。

 

 あばら骨が砕ける激痛にも何もできず、赤い線を引きながら地面を転がる。大きめの瓦礫に背をぶつけようやく止まった時には、痛みと恐怖と動揺とで姉さまの顔を見上げることもできなかった。

 

「……ピトーがどうして悪魔を憎むのか、その理由も知らないくせに」

 

 投げ出された右手が踏みつけられる。冷え切った感覚に激痛だけが流されて、出ない悲鳴の代わりに半分吐血の咳が出た。

 

 姉さまはそんな私に、冷たい忌々しさを吐き掛けた。

 

「ピトーはね、悪魔に仲間を殺されたの」

 

 言葉の衝撃が眼だけを動かし、その怒りの激しさを認めた。

 

「一人や二人じゃない、全員が殺されたわ。ピトーが仕えるべき『王』を産むはずの『女王』も……ピトーが生まれる頃には殺されていた。たった一人、仲間も主も奪われた世界に生まれてしまったのよ。……自分の生のすべてを踏み潰したのが、悪魔なの。その苦しみが、憎悪が……全部嘘ですって……?」

 

 私の手を踏みつける力が強くなる。折れた骨に響いて益々高まる痛みに歯を食いしばり、私はなんとか、掠れた声で主張した。

 

「嘘、とは……言いません……ッ!私も、もし『(キング)』や『女王(クイーン)』、リアスさまや朱乃さんが殺されてしまったらと思うと……すごく辛い、です。でも――」

 

 それらはきっと、乗り越えられるものだ。だって現にピトーさまは、キメラアントの社会に囚われず五年も姉さまと一緒にいる。

 

 しかし姉さまは、激しくかぶりを振って遮った。

 

「『(キング)』とか『女王(クイーン)』とかッ!!私たちの身体に埋まってるちんけな主従関係とはわけが違うのよッ!!」

 

 足が振り上げられて、私の手が踏み潰される。絶叫が地下空間全体に響いた。

 

「……ピトーにとっての『王』は、もっともっと重要な存在なの。裏切ろうなんて一かけらも思わないくらい、絶対的。だからその忠誠は……私との絆よりも、はるかに強固で重たい」

 

「そん……な、こと……っ」

 

 激痛が響く頭は朦朧としながら、血のあぶくと一緒に必死の否定を口にする。姉さま一つ息を吸いこみ、足をどけた。

 

「それを奪った悪魔、その枠組みにある全てを憎んでも尚足りないくらいの憎悪。それほどの忠義。ピトーの根幹は、どうあがいてもそれなのよ。心も身体も命すらも、『王』のための道具として存在する。それが……キメラアント(ピトー)なの」

 

 命。

 

 すべてが『王』のために奉仕し、すべてが『王』に収束するキメラアントのその生態。ピトーさまも、そこからは逃れられないと言うのか。

 

 そうではないと一番言いたいのは姉さまであるはずだ。『その枠組みにあるすべて』ということは、つまり姉さまもピトーさまにとっては憎悪の対象であるということ。だというのにした否定の断言には、それ故の重さがあった。

 

 しかしならばこそ、せめてこの身に宿ったピトーさまの暖かさだけは、何としても伝えねばならない。

 

「……ピトーさまは……それでも……!」

 

 ピトーさまの、その思いの強さ。

 

 託された、果てしない優しさを。

 

(姉さま)を、憎悪なんてしていないっ!!」

 

 まっすぐ、姉さまにぶつけた。歯を食いしばり、無事な左腕で倒れ伏した身体をなんとか持ち上げる。動かない右腕をぶら下げ立ち上がって真正面から姉さまと対峙した。

 

 そうして改めて直視した姉さまの表情には、やはり一つの混じりものもない激情が渦巻いていた。

 

「知ったふうな口利くなって、何度も言ってるでしょッッ!!!」

 

 つばと一緒に血濡れの拳が私に飛んだ。すさまじく濃い『気』に思わず心が怯える。元より避けるつもりではあったが必要以上に大きく下がり、大げさな間を取ってしまった。姉さまは止まることなく追い、次なる攻撃を振りかぶりながら続けて叫んだ。

 

「ピトーはあんたたちとは……私たちとは、違うのよ!!身体も、心もッ!!何も知らないその口で、ピトーを語らないでよ!!」

 

 疼く心臓と身体。だが衝動を噛み殺し、私は続く攻撃から逃げ続ける。避けたパンチが地面に突き刺さり、岩盤を砕いて再び私を追ってくる。

 

「私は……だからピトーと同じにならなきゃいけないのよ!!悪魔は全部、実の妹だろうが自分だろうが殺さなきゃ……私は、ピトーに憎まれるなんて嫌なのッ!!」

 

「そんなこと、する必要はないはずですっ!!ピトーさまは私とも姉さまとも何も変わらない……あんなに優しいただの人じゃないですかっ!!」

 

「うるさいうるさいうるさいッ!!違うのよ!!私は猫又で悪魔だけど、ピトーはキメラアントなの!!全く別の生物なの!!私はどうやっても悪魔の肉をおいしいなんて思えないし、生まれてもいない主人に尽くす忠誠心も理解できない!!元々わかり合うことなんてできない同士なのに、その上自分が憎悪する悪魔を、白音を好いている私を、心から信用できるわけないじゃない!!どれだけ優しくても……その事実だけは絶対に変えられないのよッ!!

 

「でもピトーさまは姉さまとずっと一緒にいたんじゃないですか!!憎んでいたならそんなことはしない……むしろ愛している。家族なんでしょう!?」

 

「それはピトーの優しさでしかない……!!そうよ、あんたの言う通り、ピトーは優しい。だからこんな私でも、仲間として家族として、受け入れようとしてくれてる……。そんなことくらい、私がわからないわけがないでしょ……ッ!!」

 

 「でも」と、姉さまは拳がギリリと硬く締まる。

 

「キメラアントの性は、想いなんかじゃどうにもならない。私が白音を捨てられないように、ピトーも『王』への想いを捨てられない。もうどうしようもないって、いい加減わかってよッ!!」

 

 たぶん今までで一番の『気』が、悲鳴が込められた攻撃。私はほんの一瞬だけ押され、迷った。が、躱した。

 

「……だからって、そのピトーさまの優しさを……今までキメラアントの性に抗い続けたピトーさまの勇気を、姉さまは無駄にするつもりなんですか!?キメラアントじゃなくて、人であろうとしたピトーさまを……姉さまはどうして否定してしまうんですか!!」

 

「仕方ないじゃないッ!!何を言われようと……私はこれ以上、私のせいでピトーを苦しめたくないのよ……!!私が人でいることがピトーの苦しみだから……だから私はキメラアントに、ピトーと同じにならなきゃならない……!!」

 

 黒い念弾が飛来して、回避に手間取ってしまったために姉さまとの距離がぐっと縮まる。パンチが肌を掠めた。

 

「……ピトーのその勇気だって、永遠に続けられるようなものじゃない。心を捻じ曲げるようなマネ、いつかは限界が来る。どうせいつかは正しい形に戻っちゃう。だから今のうちに、私がピトーの苦しみを消さなきゃならないのよ!!」

 

「そう思ってるのはピトーさまも一緒です!!ピトーさまだって、姉さまに妹殺しの苦しみなんて与えたくないから――」

 

「その苦しみからずっと守られてきたあんたには、私の気持ちなんてわかりっこないわ」

 

 激しい何かで、喉が詰まった。あのあまりに同時に一瞬身体も硬直し、回避できたはずの姉さまのパンチが腕にめり込んだ。

 

 バランスが崩れ、身体ごとなぎ倒される。それでも余った威力で数メートルほど吹き飛ばされた私を、姉さまは見下ろしながらゆっくりと追いかけてきた。

 

 静かに言う。

 

「……ピトーは悪魔が憎い。それがすべてよ。ちょっと何かがズレるだけで、私もその輪に引き戻される。優しくてもそれくらい脆いのが、ピトーが用意できた私の居場所。守るのは、私の仕事」

 

 立ち止り、しゃがみ込む。そしてなんとか身体を持ち上げようとする私へ伸びる手のひら。

 

「すべてに甘えるわけにはいかないの。もうこれ以上はね。だから……殺す。私がこれからもずっとピトーの家族であるために、ピトーが憎む悪魔じゃないって、ピトーの中のキメラアントに証明する。そうするしかないのよ」

 

 首を掴まれた。息苦しさを感じる前に身体が持ち上がり、壁に叩きつけられる。肺から押し出された息は喉元で止められ、僅かに飛んだ血が姉さまの手にまた赤を付け足した。

 

 身体の痛みと、徐々に迫ってくる窒息の苦痛。死の予感に、左手がひとりでに姉さまの腕を掴む。だがそれ以上は進まない。

 進んではいけない。

 

 私の心が身体を抑え、眼だけが痛みを堪える姉さまの歪んだ表情を凝視した。

 

「私はもう……家族を失くしたくないの……。だから、ねえ、白音」

 

 流れる、光。

 

「お願いだから、なにも言わないで殺されてよ」

 

 霞み始めた視界に、火車の炎が見えた。

 

 私はやはりそれに焼かれて死ぬべきなんじゃないか。その黒い炎の熱に感応して、酸素不足で朦朧とする頭があの時の覚悟を思い出した。

 

 少し前までの私は、そう思っていた。元々そう感じたから、私はリアスさまを裏切ったのだ。ひっそりと姉さまに殺されることが、リアスさまにも姉さまにも一番迷惑が掛からない、正しい道で唯一の道だと、そう思ったから。

 

 だがそれが『正しい』で、『唯一』だと思ったのはなぜなのだろう。

 

 それは――姉さまの涙を知ったからだ。

 

 いや、違う。

 

 姉さまの涙しか(・・)知らなかったからだ。

 

 そうじゃないか。

 

「ピトーの忠誠心も、私の苦しみも、あんたには私たちの何も理解できるわけないんだからさ」

 

 その通りだ。いくら頭の中で考えても、姉さまやピトーさまの気持ちをそのまま理解することなどできるはずもない。

 

 ただそれは――

 

「……もう、私たちは姉妹でも家族でもないんだから」

 

 自らに言い聞かせるような言葉は、決して、そうではない。

 

 私の右手が、首を締め上げる姉さまの手を打ち払った。

 

「あっ……!?」

 

 あっさりと拘束が外れる。私が明確な反抗をするなどと思っていなかったのだろう。

 

 だが酸欠から解放され咳き込む私の衝動は止まらず、息も整わぬうちに爆発した。

 

「姉、さまの……」

 

 虚を突かれた様子の姉さま。その口が滅茶苦茶にした私の心は、積もり積もった想いで限界だったのだ。

 

 右腕の痛みも忘れるほど。

 

「姉さまの、バカああぁぁぁッッ!!!」

 

 手のひらが、姉さまの頬を思いっきり打った。

 

 ばちぃん、と乾いた破裂音。やはり思いもよらず、姉さまはよろよろと後退して尻もちをつく。赤くなった頬を押さえながら、呆然と私を見上げた。

 

 私はそんな姉さまに、眼に染み出る涙を振り払い、ぶつけた。

 

「姉妹でも家族でもないなんて、勝手に決めないでくださいッ!!そんなことまでどうして……どうして姉さまは一人で全部言っちゃうんですか!!」

 

「……か……勝手って、だって……あんたも私も、もう……」

 

 もうそんな関係には戻れない。だってそうするしかないから。そうであることが一番幸せだから、そういうことだろう。

 

 私の喉が、裂けんばかりの必死の否定をする。

 

「私はそんなの嫌です!!私の心を、幸せを決めつけないで!!私は、たとえそれが不幸でも、姉さまと姉妹で家族であることを否定したくない。裏切っても、殺されても、みんなに何と言われても……!!私はそれだけは絶対に捨てません!!」

 

 姉さまは何も返さない。私は荒れる内心に深呼吸をして、それでも全く落ち着かない衝動のまま続ける。

 

「……そうです。姉さまの言う通り、人の気持ちなんてわかるわけない。私も、姉さまが考えていることなんてわかりません。だって……姉さまは、私に何も言ってくれないじゃないですか……!!」

 

「……言ってるじゃない。私は、あんたのことを――」

 

「『憎まなきゃいけない(・・・・・・・・・)』でしょう!?主さまの所にいた時も京都の時も、今も何も変わらないです!!何もかも隠して、嘘をついて誤魔化して……本当のことなんて、一度だって教えてくれたことがない!!」

 

 すべて『失くしたくないから』だ。そんな思いで出た言葉が本当の望みであるはずがない。

 

 だから、その裏にあるものなんて私にわかるわけがないのだ。

 

「……ずっと見せてくれていた笑顔が偽物だったなんて、そんなこと……。私は、姉さまの妹です。心を読める覚妖怪じゃない。苦しいって言ってくれないと、わからないんです!!」

 

 本心を覆う外側の声しか知らない私は、だからその言葉を信じるしかなかった。姉さまが苦しみ、傷ついているのは私のせいだから、その憎しみを濯ぐための償いには私の命を差し出すしかない。そうとしか、考えることができなかった。

 

 必死に私を守ってくれていた姉さまが、主さまから受けた内の苦しみをも隠していたから、私はあの時、姉さまを救うことができなかったのだ。

 

「私だって……姉さまを救いたかったのに……」

 

 でもやっぱり、そうであっても救えはしなかっただろう。私は幼過ぎた。だからこそ、姉さまは何も言わずに私を守り続けてくれていたのだから。

 

 どうしようもないことだ。だから姉さまにも、ピトーさまの気持ちがわかるはずがない。これもだって、『キメラアントの性』というどうしようもないことだから。

 

 けれど私は知ってしまった。ピトーさまの優しさ。背負った業に決して劣らぬ、その暖かさ。その想いの強さ。

 

 だから私は、もう我慢しないと決めた。

 

「……あんたに救われたいなんて、思ったこともないわ」

 

 姉さまが身を起こした。脚は震え、身体はふらふらと揺れている。

 

「それでも救いたいって言うなら……邪魔しないでよ」

 

 怒りの表情が、私を威圧した。

 

「死んで、私を救ってみせてよ……!!」

 

 だが今度は全く怖くはなかった。今の私にはちゃんと見えている。その眼に浮いている涙の、その理由。

 

 そして何よりも、私にはピトーさまが付いている。

 

 思いっきり、首を振った。

 

「嫌です!!」

 

「っ……!!」

 

 気圧され息を呑む音。私は軋む身体を動かして、姉さまに一歩近づく。

 

「私、もう姉さまの言うことなんて聞きません……!!もう守られているばかりの子供じゃないんです!!私は……ピトーさまの優しさを信じます!!」

 

 圧され、同じく一歩後ずさった姉さまの足が、食いしばられる歯と共に前に進み出た。

 

「なんで……どうしてあんたばっかりがピトーの気持ちを語るのよ……ッ!!嘘に決まってる……!!私でもわからないのに、関りもないあんたが……!!」

 

「それは姉さまが気付きたくないからです!!私と姉さまを二人っきりにしたのも、私を裏切りものにしなかったのも、姉さまと一緒にしたのも、全部ピトーさまの優しさ……私と姉さまを、仲直りさせようとしてくれていたからじゃないですか!!」

 

「そんなこと……そんなこと絶対ありえない!!ピトーはキメラアントなの!!悪魔とは相いれない存在なの!!なのにピトーがっ……ピトーが、私を悪魔に戻そうだなんてッ……そんなの絶対、本心じゃないッ!!」

 

 震え出した自身の身体を姉さまは抱きしめる。私が手の刺し伸ばすと、姉さまは怯えたようにそれを避け、下がった。少しの躊躇。しかし私は力を込め、手を伸ばし続けた。

 

「……姉さまをそうしてしまったのは、私のせいです。私に姉さまを救う力がなかったから、あの時姉さまを一人にしてしまった……。だから姉さまにはピトーさましかいなくて、ピトーさまの気持ちを認めてしまったらその唯一も失ってしまうから……だから、怖いんですよね……?姉さま……」

 

「………」

 

 怯えた眼の沈黙は肯定と同じだった。私はそれにゆっくりと首を横に振った。

 

「でも、そう思っているのは姉さまだけです」

 

「……どういう、意味よ」

 

「姉さまも、覚妖怪じゃないんです。銃の女の人みたいにそういう念能力を持っているわけでもない。自分のものじゃない心の中を覗き見ることなんてできない。姉さまこそ、ピトーさまの気持ちをわかってないです……!」

 

 姉さまの怯えに怒気の気配が戻る。だが私はそれが姉さまの中の迷いを消してしまう前に、震えるその手を掴んだ。

 

「捨てられたくないばかりに、姉さまはピトーさまをキメラアントとしてしか見ていない!!」

 

 姉さまを傷つけるだろうその言葉を、言った。

 

 私に手首を取られた衝撃とで、姉さまが怒ることはなかった。私がピトーさまを語ることを理由にした怒りが縫い留められ、姉さまは過去を直視している。そこには姉さまの心に目隠しをさせたモノがたくさんあったのだろう。

 

 しかしそれだけではないはずだ。私はそう信じながら、耳と尻尾までがぺたりと伏せてしまった姉さまに、込み上げるものを必死にこらえ、続ける。

 

「ピトーさまは残忍なキメラアントなんかじゃない、優しい人です。姉さまが信用を疑う必要なんてないくらい、あの人は姉さまを愛しています。私を能力で守ってくれたのも、力を与えてくれたのも、姉さまを苦しめるためじゃない、姉さまに幸福でいてほしいからなんです……!

 

 だから、ピトーさまは姉さまと一緒に、今まで私を守ってくれていたんじゃないですか。京都の時もコカビエルの時も、ピトーさまが姉さまの悪魔の部分を疑っていたなら、私を疎ましく思っていたなら、あんな風に命を賭けることはなかったはずです。……ピトーさまが戦ったのは、全部姉さまの幸せのため……自分の中のキメラアントよりも、姉さまの幸福を願える普通の人になりたいからじゃないですか」

 

 だから姉さまが悪魔を憎もうとする必要はない。私を殺し、ピトーさまと同じ悪魔嫌いのキメラアントにならずとも、ピトーさまは姉さまを家族として認めている。いや、認めたいと思ってくれている。

 

 ピトーさまの方こそ、姉さまと同じになりたいのだ。ただ偏に、姉さまが幸福であるために、私に託してくれた。

 

 悪魔を憎悪する自分に抗って。

 

「……でも――」

 

 姉さまが、震える声で歯を食いしばった。

 

「私は、ピトーに苦しんでほしくない……。私は、ピトーの重しにはなりたくないの……っ!」

 

「なら私は、姉さまにもピトーさまにも幸せになってほしいです」

 

 姉さまの言葉が止まる。何を虫のいい話を、とでも思っているのだろう。しかしそう思っているのも、やはり姉さまだけだ。

 

「自分さえ変われば、姉さまの心に陰を落とすこともない。ピトーさまはそう思っているから、だからピトーさまは姉さまを捨てたりなんてしません。……あんたにそんなことわかるか、なんて言うのはなしですよ?人の心は覗けないんですから」

 

 けれど私は、そして姉さまも、知っているはずだ。頬を伝い、血を洗い流す涙は、そうだ。

 

「……例え家族でも、交わさなければ思いは伝わらない。けど交わした思いは真実なんです。ピトーさまの『気』は、あんなに暖かかった」

 

 あれこそが、すべての答えなのだ。

 

 私も姉さまも、もう限界だった。

 

「ピトーさまは……っ、私たちに、仲直りのチャンスをくれました……。憎悪よりも愛を選べる人だから……きっと、きっと……大丈夫、です……っ」

 

 跳ね、言うことを聞かなくなっていく咽喉。詰まる言葉に加えて、目の前の姉さままでもが滲んで歪んでいく。

 

「きっと……姉さまが苦しまなくても、家族でいられます……。もし、何かが、ず、ズレてしまっても……今度は私がっ、今度こそ、救ってみせます……っ!だから、だから……」

 

 姉さまの腕を強く掴んだ。

 

「わ、私も、姉さまの家族でいさせて……姉さまの(本心)を、聞きかせてくださいっ……!」

 

 震える声がきちんと言葉を紡げたのか、もはや自分でもわからなかった。掴んだ腕に額を押し付け、ぎゅっと瞑った目からはとめどなく水滴が流れ落ちる。

 

 永劫かと思われるほど、その間は長く感じた。ふと、何かに導かれるようにして顔を上げる私と、上から涙と言葉が零れ落ちてくるのはほとんど同時。

 

 初めて目にしたその表情は、記憶にある頼もしいそれではなく、一人の小さな女の子のものだった。

 

「わたし……」

 

 初めて知った姉さま。私と同じぐちゃぐちゃの声は、しかしはっきりと聞こえた。

 

「白音を、失いたく、ないっ……」

 

 もう片方の手が、震えながら私に伸びる。

 

「殺したくなんて、ない……ずっと、家族でいたい……!」

 

 弾き飛ばしたはずの涙が、また溢れた。伸びる手がぴたりと止まり、酷くつっかかりながら私に聞く。

 

「何回も、わたし……しろねに、ひどいこと、し、したのに……ひどいこと、言ったのに……それでも、い、いいの……?わたしが、家族で……しろねの、お、おねえちゃんで本当に……」

 

「ねえさまじゃなきゃ、だめなんです……!」

 

 当たり前じゃないか。

 

 すごくうれしかった。嬉しいのに、涙が出て止まらなかった。

 

 だから、もう言葉はない。私も姉さまも、同時に互いの身体を抱きしめた。あらん限りの力で強く、強く。もう離れ離れにならないように、痛いほどきつく。

 

 耳元で、姉さまがしゃくりあげる音がした。

 

「……ごめんね……」

 

 抱きしめる力が強くなる。

 

「あの時、置いてって……駄目なおねえちゃんで、ごめんねぇ……」

 

 私も、より強く抱きしめた。

 

「わたしも、気付けなくて、駄目ないもうとで……ごめんなさい……っ」

 

 ただ二人、ようやく再開できた姉妹を抱きしめながら、泣いた。

 

 温もりの中で、ただずっと泣いていた。




愛が故に。
感想ください。


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二十三話

ほぼエピローグ。
そして誤字報告をありがとうございました。


「お……おい、ヴァーリ……?」

 

 恐る恐るに声をかけた赤龍帝だったが、当然応えは返らなかった。

 

 ボクによってアンテナを刺され、操作された白龍皇は、ゆらりと幽鬼のように起き上がり赤龍帝に振り向く。だがその眼はしかし、何も映していない。虚ろにどことも知れない虚空を見つめるばかりの生気のない動きは、その事実を受け止め切れない赤龍帝に激しい動揺をもたらした。

 

 それに追い打ちをかけるように、白い鎧の宝玉から声が響いた。

 

『……逃げろ、今代の赤龍帝』

 

 悔しさが滲み出た声色。使い手を操作していても神器(セイクリッド・ギア)の中に封じられたドラゴンまで操れるわけではないらしい。新たな発見を心の中にとどめつつ、しかし直後、掛けられていた『半減』を解除してくれたのか身体に力が戻ったことで操作自体には問題がないことを悟り、息を吐いて戦闘の緊張を解いた。

 

 恐らく最難関の課題の完了に肩の力を抜くボクだったが、しかし赤龍帝は生まれた明らかな隙よりもドラゴンの言葉の方が衝撃だったらしく、驚愕に身を跳ねさせ、鎧を鳴らした。

 

「に、逃げろって……確か、アルビオンっつったっけ?なあ、ってことは……まさかほんとにヴァーリは……」

 

『……完全に操られてしまっている。奴の言葉、意思一つでヴァーリはお前たちを襲うだろう』

 

「嘘だろ……いやでも、どうにかならねえのかよ!?念能力だか何だか知らねえけど、そんな奴の力くらい、ヴァーリなら跳ね退けれたりしねえのか!?なあヴァーリ!!敵にいいようにされるなんてらしくねえぞ!!戻ってこい!!」

 

『無駄だ。ヴァーリ本人にはもちろん、私にもどうすることもできない。それほど強力な能力だ。……こんな形で今代の因縁に決着が付いてしまうのは、私もヴァーリも望んでいない。こうなってはもう……貴様たちが立ち向かっても死ぬだけだ』

 

 故にボクたちが白龍皇を使って赤龍帝を殺そうとする前に逃げろと、アルビオンは歯切れ悪くそう言った。わかっているのだろう。そのせめてもの望みが叶う可能性が果てしなく薄いことが。

 

 単純な実力差。赤龍帝が手も足も出ない白龍皇を倒してしまったボクを相手に逃げ切ることが、果たして奴に可能なのか。客観的に見て、ほぼ不可能だ。

 

 それがわかっていないのは、当の赤龍帝だけだった。しかも首を横に振って、奴はボクに怒りの衝動を向けた。

 

「……逃げるってことは、白音ちゃんも見捨てるってことだろ。そんなこと、俺は絶対にしねえ……!!ヴァーリも……ムカつく奴だけど、俺たちの仲間だ!!見捨てるなんてできるかよ!!」

 

『そういうことだ。悪いなアルビオン、俺の相棒はバカなんだ』

 

 赤龍帝のほうのドラゴン、ドライグも、宝玉の中から呆れ半分な声を出す。アルビオンの返事はないが、顔が見えれば頭痛を堪えるような表情をしていたことだろう。

 

 ボクにしてみてもただの無謀だとしか思えないのだが、しかしその勇気に感応するものはドライグ以外にも存在した。自身をバカと評されたことにぼそぼそ文句をつける赤龍帝に、ヴァーリを切った聖剣アスカロンを肩に担いだノブナガが、いかにも愉快に大笑した。

 

「あっははははは!!やっぱおめぇ面白れぇな!こんな状況で啖呵切れるなんざ、バカでも大したもんだぜ」

 

「う、うるせえ!!褒められてんのか貶されてんのかわからねえけど……とにかく俺は逃げねえ!!白音ちゃんもヴァーリも、俺たちが絶対に助け出す!!」

 

「へえ、俺たちねぇ」

 

 ノブナガが顎を撫ぜた。口が閉じ、半笑いの口角が残る。

 

 その嘲りの通り、赤龍帝は気付いていないのだ。赤龍帝と白龍皇以外の連中をまとめて相手していたノブナガが、赤龍帝の対面でのんびり茶化しているその理由。

 

「後ろ、見てみろよ」

 

 ノブナガが顎で促し、何かを感じ取った赤龍帝は緩慢に背後を振り返った。

 

 大階段の傍、そこで戦っていたはずのやつの主と眷属の仲間たち。

 

 全員が地に伏していた。

 

「……ぶ、部長!!みんな……!!」

 

「ぅ……ぐ……」

 

 苦悶だけが返る。アスカロンの聖なる力に焼かれ、動くことも、まともに声を出すことすらもままならない様子だった。

 

 ノブナガの実力と武装を考えれば当然の帰結であるわけだが、曰くバカである赤龍帝は信じられないと言わんばかりに目を見開き、呆然と衝撃を持て余している。主である赤髪の下に膝を突いて助け起こす赤龍帝はひとまず放置することにして、ボクはしたり顔で赤龍帝の様子を見つめるノブナガに、呆れの視線を向けて言った。

 

「殺すんじゃなかったの?」

 

 途端、にやけた口がへの字に曲がる。元々皆殺しにはするなと言ってはいるのだが、それにしてもただの一匹も死んでいない。ノブナガのその反応で逆にボクの口角は上向き、さらに続けて言ってやった。

 

「それに、倒すだけにしても時間かかり過ぎだよね。キミの役目、聖剣での不意打ちで確実にヴァーリの動きを止めることでしょ?なのに勝手に試し切りだって出てきて遊びだして、それでこの体たらく。あんまり遅いから、おかげでボクも一発貰う羽目になっちゃったしさ」

 

「……うるせぇな。全部織り込み済みだったくせしてよく言いやがる。てか、仕損じたのは俺の技量のせいじゃねぇぞ?このアスカロンとかいう聖剣がなまくらなのが悪いんだ。伝説とか言うくせに……ただの骨董品だった。碌に切れやしねぇ」

 

 顔はそのまま眼だけをボクにやって、アスカロンでぞんざいに地面を突くノブナガ。流麗な鋭さを見せる刃は言う通り、転がる瓦礫の一片に傷の一つさえつけることができない。

 

 なるほど確かになまくらだ。赤髪たちの身体に刻まれるのが火傷ばかりで刀傷がないのはそういう理由なのだろう。

 

 そしてその原因は、恐らくゼノヴィアが言っていたアレなのだ。記憶を遡って思い出しつつ、ボクは大きく伸びをした。

 

「因子、だっけ確か。それが無いんじゃない?」

 

「あ?なんだよ因子って」

 

 顎に置いていた手を着流しの懐に突っ込むノブナガが首を傾げる。ボクは薄ら笑いで肩をすくめてみせた。

 

「ふぅん、やっぱり知らないんだ。……聖剣を扱うための資質みたいなものらしいよ。それを持ってないなら、なまくらになっちゃうのも納得だにゃ」

 

「んだそりゃ。聞いたこともねぇぞそんな話……。聖剣どころか剣も扱えねぇくせに、なんでそんなこと知ってんだ。適当言ってんじゃねぇだろうな?」

 

 残念ながら恐らく本当。その聖剣使いであるゼノヴィアからの情報だ。何でもあいつの元仲間は因子のおかげで聖剣を扱えるようになったらしいし、現仲間の聖魔剣も、取り込んだからこそ聖と魔が融合したその特異な能力を手に入れたという。細かいことは興味もないが、因子が欠如していることが要因ではあるのだろう。

 

 それが物で後付けできるものであることには触れてやらず、首を横に振って適当であることを否定した。それであっさり信じたノブナガはがっくりと肩を落とし、倒れ伏すゼノヴィアのほうを覇気なく見やった。

 

「……マジか。ってこたぁあのデュランダルも、オレが振ったらただの鉄の棒きれになっちまうってことかよ。興奮してたのが馬鹿みてぇじゃねぇか」

 

「棒切れとは難いサイズだにゃ」

 

 しかし馬鹿みたいなのはそうだろう。特別ガタイがいいわけでもない野武士が身の丈に合わない大剣を担いでよろけているような、あるいはそんな光景もあったはずだ。

 

 想像して失笑が零れた。ますます気を悪くした様子のノブナガ。なんでもないちょっとしたやり取りだったが、しかし気の抜けたその態度が赤龍帝の怒りを刺激してしまったようだった。

 

「くだらないこと、しゃべってんじゃねえよ……!!」

 

 食いしばった歯から唸り声を押し出したような、激怒を感じる言葉。腕の中で痛みに身動ぎする赤髪をそっと地面に下ろし、赤龍帝は再度立ち上がって顔を向けた。

 

 兜の眼が、感情を映して鋭くノブナガを貫いた。

 

「よくも部長を……みんなを酷い目に合わせやがったな……!!許さねえぞ野武士野郎!!」

 

 純粋な怒り。纏うドラゴンの『気』が膨れ上がる。それを眼にしたノブナガの機嫌はたちまち好転し、感嘆の声を上げた。

 

「ほー、すげぇもんだ、またパワーが上がりやがった。やっぱあいつを思い出す……。なぁ、ほんとにお前、『蜘蛛』に入らねぇか?」

 

「てめえらみたいなちんけな泥棒になる気なんてこれっぽっちもねえよ!!そんなもんより、俺にはハーレム王になるっていう崇高な目標があるんだよ!!てめえもピトーも、まとめて俺がぶっ倒してやる!!」

 

 到底崇高には程遠いことを本気で怒りながら宣う赤龍帝に、ノブナガの笑いはまた大笑にまで逆戻りした。ボクの言葉もそっくり洗い流されてしまったようで少し残念に思ったが、そんなことは我関せずに、赤龍帝の怒りはひたすら右肩上がりに高まっていく。

 

 『Boost!!』と『倍化』が発動して、溢れた『力』の波動が吹き抜けた。その風圧を受けながら、ノブナガは再びアスカロンを肩に担いだ。

 

「ははっ、やっぱりフラれちまったか。こうと決めたら聞きやしねぇ。だが……自分が置かれてる状況がどれだけやべぇかってことは、しっかり理解しておいた方がいいな」

 

 僅かに真剣の眼差しで、続ける。

 

「このクソ猫一人ならまだしも、オレを同時に相手して、本気で勝てると思ってんのか?しかもおまけで白龍皇。大してお前はもう一人だけで、味方は全滅だ。戦闘経験もねぇ、ちょっとパワーがあるだけのガキなんだからよ。相当頭捻らねえとマジで死ぬぞ?」

 

「仮にも敵になんで真面目なアドバイスしてるのかにゃ、このなまくら人間。頭を捻る以前に自分の実力見誤って殺し損ねてるくせにね」

 

「なまくら人間ってなんだてめぇ。この骨董品使わなきゃあいつら程度、殺すのなんざわけねぇよ。何ならてめぇで証明してやろうか?」

 

「できもしない事を言っちゃうと恥かくよ?……ほら、白龍皇も呆れてるにゃ」

 

 正確には白龍皇を操作しているあの男が、だが。しかし白龍皇は気付いたその事実に、どうやら赤龍帝は気付いていないらしい。「呆れてんのは適当言うてめぇの口だろうよ」と返してくるノブナガは無視して打ち切って、ボクは憤怒を滾らせる赤龍帝へ更なる燃料を注ぎ込んだ。

 

「で、実際のところはどう?何か作戦でもある?」

 

 でなければボクたちには対抗できないと、そう言ったノブナガの見解に異議はない。普通に考えれば今の状況は赤龍帝たちにとって絶望的、ボクとノブナガを倒すどころか、逃げることすら不可能に近いのだ。

 

 その上でただ突撃してくるだけなら、例えばこれがいつもの仕事、ただの悪魔狩りであるなら歓迎すべきなのだろう。実力も考えもない相手なら、殺すのは楽だ。

 だが今回は少し事情が異なる。ノブナガたちに皆殺しを禁じたように、多少の傷ならともかく、死なれるのは都合が悪い。それに保険のためにも、『力』が強い赤龍帝には無事でいてもらう必要があった。

 

 戦意があるのはいいが、ちゃんと方法が、ボクたちを殺せるだけの(・・・・・・・・・・・)()』がなくなってしまっては困るのだ。

 

 それが奴ら『蜘蛛』との取引であり、作戦。意識するとつい沈みそうになる心を無理矢理口角を保ってどうにか支えていると、ようやく煽りの燃料が引火した赤龍帝が地面を踏みしめ吠え立てた。

 

「うるせえって言ってんだろ!!勝てるとか勝てないとか、そんな小難しいこと知るかよ!!お前たちを倒せなきゃ、部長たちは殺されて、ヴァーリは操られたまま。白音ちゃんも、下手すりゃもっと酷い目に合うかもしれねえんだ!!ならやるしかねえ……てめえら全員、俺がぶっ倒す以外にあるか!!」

 

「……へっ、どうやら本気らしいな。十二のガキだってここまで偏屈じゃなかったぜ。なら――」

 

 と、何かしらの思い出でもあるのか一瞬宙に視線を向けたノブナガが、いかにも仕方なしといったふうに一歩下がった。適度な加減はお前に任せると、暗に告げて来るその態度。

 

 ボクが小さく頷いた、その瞬間だった。

 

 背にした大穴から、二人分の気配が飛び出してきた。その正体は見るまでもない。

 

「し、白音ちゃん!?」

 

 赤龍帝の驚愕の眼が宙を追い、そして己の真隣に着地した。服も身体もボロボロなシロネが、しかし生きてそこに戻った。

 

 と、一拍置いて今度はクロカがボクめがけて落ちて来る。シロネに殴り飛ばされました、というふうに投げ出された身体が、ちょうどよくボクの腕に収まった。頬に綺麗な紅葉が咲いた彼女が、閉じたその眼を開けて微笑んだ。

 

「……仲直りは、うまくいったみたいだね」

 

「……うん。ありがと、ピトー」

 

 腕がぎゅっと握られた。喜ばしいことだ。だがやはり、言いようのない苦痛は生じた。

 

 呑み込んで微笑み返すが、見抜かれているのかクロカの笑みが少し翳る。見ないふりをして彼女を下ろすと、恐らく何も聞こえていないはずのノブナガがクロカの顔、シロネにやられたと思われる平手打ちの痕を覗き込み、嘲笑で鼻を鳴らした。

 

「おいおい、まさかお前、あのチビにやられちまったのかよ。いったいどんなドジ踏みゃぁ負けられんだ?」

 

「負けてないわよ!ちょっとした、その……事故で一発貰っちゃっただけ!」

 

 頬を撫でながらノブナガを睨みつけるクロカは、そう言うと不意に正面シロネたちの方へ視線を戻した。続いて見ればなんと立っている影がもう一つ、アスカロンの『力』を叩きつけられ倒れ伏していたはずの赤髪が立ち上がり、足を引きずりながらもシロネの元へ向かおうとしていた。

 己の背後のその気配に遅れて気付いた赤龍帝が慌てて身体を支えに行くと、同時に力が抜けた赤髪は赤龍帝に肩を借りたまま、恐れるような眼をシロネに向けた。赤龍帝のように、窮地に陥っていたはずのシロネの帰還を喜びもせず、何も言わず、ただじっと見続ける。

 

 その重たい沈黙に耐えかねたのか、シロネは同じく表情を暗くして、眉尻を下げた。

 

「……リアスさま、迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。けど私、もう大丈夫です。姉さまの操作は――」

 

 しかし、謝罪と無事のアピールは赤髪の耳に入らず、遮った。

 

「私を……選んでくれるの……?」

 

「………」

 

「ぶ、部長……?」

 

 唇を引き結んだシロネと、明らかに『喜』ではないその感情にひたすら困惑する赤龍帝。赤髪はやはりシロネにのみ、その言葉を向け続けた。

 

「私は……私があなたの主人としてふさわしいとは思えない……。あなたが幸せになれるならって思っていたけど……でも貴女が黒歌に操られていたって知った時、喜んでしまった。あなたの身の心配よりも……それを許した黒歌を白音が選ぶはずがないって……あなたの心を取られずに済むってっ……!綺麗なことを言いながら……私はあなたを手放す勇気がなかっただけなのよ!」

 

 視線が背けられる。何かを押し留めるように固く口が閉じ、しかし震えながらそれをこじ開け、自嘲のように言う。

 

「……ウタの言う通り、私、ただ自分勝手なだけだった。情愛のグレモリーが聞いて呆れるわね。……私がしたのは全部あなたの幸せのためじゃなく、あなたに好かれるための偽善で、ずっとそんな気持ちだったから、全部白音を傷つけて……結局、一つも与えてあげられなかった。なのに……」

 

 とうとう足も崩れ、赤龍帝諸共地面に座り込んだ。顔が上がり、許しを請うようにシロネを見上げた。

 

「それでも白音は、私の眷属で、家族でいてくれるの……?貴女の幸せを望めずに、苦しめることしかできなかったこんな私を、それでも……」

 

「苦しめることしかできなかっただなんて、そんなことありません」

 

 卑屈に連ねる赤髪を、今度はシロネが遮った。静かに首を振り、続けて言う。

 

「黒歌姉さまは確かに私の唯一の姉さまで家族です。けどリアスさまだって同じ、私の大切な家族なんです。リアスさまが自分勝手だとしても、捨てたいなんて思うわけがないじゃないですか」

 

 歪んでいた赤髪の表情が緩やかに解ける。ボクの隣で、クロカがひっそりと嬉しそうな笑みを作った。

 

 だが、ボクにはわからない。そのことに吐き出されるため息を呼吸に混ぜて、ボクは赤髪の目から零れ落ちる水滴の瞬きを見ていた。

 

 それを通して、シロネの言葉に呼応する悪魔どもの姿が見えた。

 

「……そうですよ、リアス様。その思いが何であれ、僕たちが救われたことには変わりない」

 

 聖魔剣が、その剣を支えに起き上がる。さらに続いて堕天使混じりの黒髪も。

 

「それに……私たちを、愛してくれもした。その事実だけは、確かよ、リアス」

 

 元聖女の金髪。

 

「みんな、部長さんにかけがえのないものをいただきました……。離れ難いと思っているのは、部長さんだけじゃありません。私たちも……。そう思うほどに、強く愛しているということなんじゃないでしょうか……?」

 

 そしてゼノヴィアも、ダメージを乗り越え立ち上がった。

 

「そういう、ことだ。そんな想いを疎ましがる奴など、ここにはいないさ。私もな、拾ってもらった恩をまだ返せていないんだ。心折れてしまっては困るぞ、部長……!」

 

 なんと、ノブナガに倒されたはずの全員が戦意を取り戻してしまった。見せつけられ、当のノブナガはやはり忌々しげな様子。恐らくそれを内心でからかって留飲を下げるクロカを横目に、ボクはまだ、悪魔どもの茶番を黙って見届ける。

 

 赤髪が、目元を拭って奴らの言葉にゆっくりと頷いた。

 

「……そうね。私こそ、みんなに色々なものをもらったわ。なのに私が、それを捨ててしまうわけにはいかないわよね」

 

 赤龍帝の手を借り、もう一度立ち上がる。己の眷属たちの顔を見渡して、覇気の戻った堂々とした声色で言った。

 

「みんな……私と白音のために、力を貸してちょうだい。ヴァーリを救って、あの三人を倒すわよ!白音がやり遂げたように、あなたたちの力を見せつけてやりなさい!」

 

「「「「「「はい部長!!」」」」」」

 

 揃った号令で、その全員の視線がまっすぐボクたちに向いた。どいつもこいつもさっきまで地に沈んでいたということも忘れ、身体のダメージも嘘のよう。

 

 気力を燃やして戦う気満々になってしまった奴らの様子に、ノブナガは苦り切った表情を引き攣らせる。クロカはとうとう我慢ができず、心に留めていた失笑を溢れさせた。

 

「ちょっとノブナガ、私がどうこう言ってたくせに、あんたはあんたで一人も倒せてないじゃない。勝手なことしてくれたくせに、なに?ホントに『幻影旅団』の特攻なの?先輩がザコすぎて心配になっちゃうわ」

 

「チッ、おめぇもうっせぇな!天井崩したのはピトーの指示だし、()りきれなかったのはこの聖剣がなまくらだからだ!……ちょっとそこで見てろ、今からきっちり殺してやるからよ」

 

 こめかみに血管を浮かせながら、ノブナガは聖剣を地面に突き立て、己の本来の武器、腰にさした刀に手を掛ける。

 

 頭に血が上った様子。本気を出すつもりであるようだが、それはそれで心配だ。作戦(・・)あるいは取引の内容を忘れてはいないか、若干動揺を見せたクロカに代わり、ボクはぼかして念押しする。

 

「……殺すのはいいけど、ちゃんと真面目に働いてよ?」

 

「わかってるよ!いいから黙ってろ!」

 

 吐き捨て、鯉口が切られる。シロネが身体を固くし、悪魔どもが身構え、ノブナガが脚をたわめた。

 

 しかしそれは、前に放たれることはなく、

 

 ボクとクロカと、操られた白龍皇も一緒に、瞬間横に跳んだ。

 

 一拍の後、寸前までボクたちが居た穴の前を、破壊された大扉から赤黒い魔力の塊が貫いた。それは猛スピードで赤髪の前までたどり着くと、止まり、人の姿を取り戻した。

 

「お、お兄様!?」

 

 魔王サーゼクスだった。

 

 憎き悪魔の王。嫌が応にも感情が泡立つその称号を持つ者は、意識だけはボクたちに向けたまま、動揺する赤髪の姿を眼にして安堵のため息をついた。

 

「よかった、怪我は……ないとは言えないようだが、無事だね、リアス」

 

「……ええ」

 

 こくりと頷く赤髪。魔王の突然の登場に唖然としていた表情が、徐々に理解を経て口惜しそうに歪む。

 

 その理解がなかったらしい赤龍帝が、動揺のまま困惑の声を漏らした。

 

「な、なんでサーゼクス様ここに……?外で敵のボスと戦ってるはずじゃ……」

 

「あちらは掃討戦に入ったよ」

 

 敵は片づけたから、だから赤髪たちに手を貸しに来たのだ。手が空けば、それはもちろん妹に手を貸すだろう。それが『家族』というものだから。

 

 知っている故に、ボクにとっても魔王の参戦は予想の範疇。予定通りだ。だが続く言葉は、その事情が少し異なるようだった。

 

「カテレアは、倒すことができたんだが……シャルバを取り逃してしまったんだ」

 

 赤髪や赤龍帝たちのみならず、ボクたちにとってもそれは衝撃。予想外だ。強いとはいえ奴ら程度を倒せないなど、思ってもみなかった。作戦には大きな支障がないだろうことが救いだが、少々違和感が引っ掛かった。

 

「どこで手に入れたのか、妙な武装を使われてね、仕留めきれず逃走を許してしまった。もしや黒歌とピトーと合流する気かと思って急いで駆け付けたんだが……まさかシャルバではなく人間がいるとはね。しかもその顔、知っているよ。『幻影旅団』のメンバーだね?」

 

 言い、敵意の眼をノブナガに向ける。京都でシロネと赤髪が浚われかけた事件の怒りがまだあるのだろう。赤龍帝からボクとクロカも団員らしいと告げられると、その眼はボクらにも向けられた。

 だがそんなものに一々構う気はないし、それに、違和感。『妙な武装』にそれを感じたボクは、魔王をじっと注視したまま、頭の中でそれを転がしていた。

 

 しかしそんな余裕があったのも僅かな間。魔王がやってきた以上、作戦は最終段階だ。刀を収め直したノブナガが、地面に突き立てられ置き去りにされた聖剣アスカロンをちらりと見やってから、着流しの中に腕をしまい込んで気の抜けた軽薄を言った。

 

「おーおー、わらわらと、今度はラスボスまで来やがった。さすがにアレは相手にしてらんねぇなぁ」

 

 先ほどまでの戦意が嘘のように消え、一瞬ボクに目配せをする。そして、背を向けた。

 

「ちっとばっかし心残りだが……しゃーねぇ、オレはとんずらさせてもらうとするか。後は頑張れよ、ピトー、黒歌」

 

 軽く手を振って、ノブナガは跳躍した。ボクもクロカも見送るが、さすがに魔王はそれを見逃さない。

 

「逃がさないよ、君たちのような悪人は」

 

 滅びの魔力が放たれる。防御など意味はなく、当たれば人間の身のノブナガはひとたまりもないだろう。

 

 そのための白龍皇だった。

 

「ッ!?」

 

 魔王の静かな敵愾心が、明らかな動揺に変わる。瞬時に腕を振るい、発射した己の魔力を掻き消した。

 

 ノブナガを狙ったその射線上に、味方であるはずのヴァーリが飛び出したからだ。

 

「なぜ……!!」

 

「そ、そうだ!!サーゼクス様!!ヴァーリのやつ、今ピトーに操られてるんです!!操作系の能力とか何とかで……」

 

 相変わらず勘違いしている赤龍帝だが、そこはどうでもいい。重要なのは、これで魔王は白龍皇を決して傷つけられなくなったということ。裏切ったのなら戦う理由もあっただろうが、そうでなく意志に反して操られているだけである以上、些細な失態も冒せない奴の立場は、初代魔王の子孫である白龍皇を犠牲にすることなどできないのだ。

 

 目的である権威の回復どころか、下手をすれば周囲を巻き込んでの破滅もありえる。だからこそ白龍皇は、魔王に対して絶好の牽制になり得た(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 間違いなく一番の不確定要素である魔王の行動を縛るために、ボクたちはわざわざ白龍皇を殺さず、操作した。いわば人質である奴は、その能力と相俟ってボクたちに手を出そうとする魔王を立派に邪魔してくれる。現に魔王は、崩れた天井を飛び越え消えていくノブナガを、ボクたちと一緒に見送ることしかできなかった。

 

 「なるほど……」と呟く奴のその眼が、そんな現状を理解してしかめられる。光の翼を広げた白龍皇にその命までもを盾に使われ動きをも止めさせられる奴の眼前を、ボクとクロカは悠々通り抜けた。

 

 そして、赤髪や赤龍帝どもと対峙する。場はできた。後は戦うのみだ。

 

「……リアス、みんなを連れて逃げるんだ」

 

「お兄様……」

 

 撤退の命令を喉から捻り出す魔王に、赤髪は先の言葉を噛み殺す。それができるできない以前に、逃げたくないのだろう。今遁走を選べば己と、それにシロネにかけられた疑惑が拭えない。

 

 しかしそれでもと、魔王は白龍皇を注視しながら説得を重ねる。

 

「こうなってしまった以上、危険すぎる。黒歌一人ならともかく、ピトーとも同時に戦うのは……無謀だ。私の眷属たちはまだ表にいる。だからせめて、そこまで……」

 

「………」

 

 答えない赤髪。しかし揺れているのは見て取れた。さすがに実の兄からの言葉は効くらしい。

 

 とはいえ戦意喪失されるのは困る。故にボクはクロカと、そしてシロネに視線をやった。

 

 それを認め、クロカは鼻を鳴らした。

 

「無謀ってったら逃げるのだって無謀よ。だってお目当ての白音はまだ手に入ってないんだもの。そう易々逃がすと思う?京都も含めたら二度も失敗してんのよ、こっちは。……三度目はないわ」

 

「私は、攫われる気なんてありません!」

 

 応えて、シロネが声を張る。前に歩み出て全身に『力』を滾らせた。

 すると頭と腰から、髪色と同じ純白の三角耳と二股尻尾が生え出た。クロカと同じ、そしてボクのものともよく似た、その猫の象徴。背後に仲間の驚きを背負いながら、シロネはそれらを引っ張り、続けて拳を構える。

 

「それに、もう逃げる気もありません。……姉さまもピトーさまも、ここで倒します!!」

 

「白音ちゃん……ああ、そうだな……!!」

 

 赤龍帝が身体を震わせ、そしてそれを噛み潰した。

 

「サーゼクス様、すみません。でも俺らも、白音ちゃんと部長を救いたいんです!!大丈夫っす!!俺たちみんな修行して強くなったし、力を合わせればピトーも敵じゃない!!それに白音ちゃんは一人で黒歌ぶっ飛ばして戻ってきたんだ。負けてらんねえよ!!なあ、みんな!!」

 

 各々、賛同の声。その気迫に、魔王も挟む言葉はなかった。

 

 戦闘の始まりと作戦の終わりは繋がった。準備は、整った。

 

 ボクは不敵の笑みを作った。

 

「クロカをやったくらいで随分調子に乗ってるね。言っておくけど、ボクはクロカよりも強いよ?もちろんノブナガよりも。あいつ程度にボコボコにされたくせに、やっぱり悪魔ってバカばっかりだね」

 

「あら酷い言われよう。私だって一応悪魔なのよ?まあ……ピトーと比べたら否定はできないけどね、強さのことも含めて。とはいえ――」

 

 肩をすくめるクロカが、手のひらに火車を作り出す。

 

「ラッキーパンチ一発で騒がれるのはムカつくし、ちょっと本気出しちゃうから」

 

「当たり前だよ。さっさと倒して攫って……終わらせないとね」

 

 だから本気で、ボクたちは奴らに倒されねばならない(・・・・・・・・・)のだ。

 

 それが作戦。その目的。準備が整ったのなら、時間をかける意味はない。ボクは全身に『気』を纏い、戦闘態勢を整えた悪魔どもに突っ込んだ。

 

 攻撃の手は、握り込んで拳に変える。シロネが合わせて飛び出した。

 

「えいッ!!」

 

 気の抜けた気合の声と同時、互いの拳が激突した。一瞬拮抗の間ができ、しかしすぐに、ボクの攻撃が打ち勝つ。

 

 たちまちシロネは押され、弾き飛ばされた。だが、できたその隙は数の利ですぐさま埋められる。シロネと入れ替わるように、今度は赤龍帝が前に出て、『倍化』がされた『力』をボクに叩きつけた。

 

 逆にこちらが攻撃直後の隙を突かれた形。とはいえ防御できないわけもなく、ボクは余った片腕でその攻撃を受け止める。重い衝撃とほんの僅かな刺激が痛覚に走るが、それだけで赤龍帝の攻撃は止まった。

 

「ッ!!やっぱ硬え……!!」

 

 息を呑む声を捉えながら、ボクはゆっくりと、引き戻した拳に『気』を集中させた。

 

 怯んでしまった赤龍帝には必中の距離、そして間違いなく大ダメージを与えるだろう威力。それを構えたボクと赤龍帝との間に、しかし次の瞬間、閃光が降り注いだ。

 

 轟音と共に視界に入ったのは、黒髪の雷撃。迫りくるそれを眺めてから、回避を決める。飛び退き、直後その場に転がっていた瓦礫が爆散した。

 

 さらに間髪開けず、飛び散る破片と土煙を押しのけ、二つの剣尖がボクに襲い掛かる。ゼノヴィアと、聖魔剣。二人が振りかぶる剣見切りつつ、ボクはそれをまた腕のガードで受け止めた。

 

 やはり感じる衝撃と痛み。デュランダルの聖なる力の分、赤龍帝の時と比べて僅かに痛みは大きいが、だが変わらずダメージは皆無だ。

 

 打撃も斬撃も通じない、キメラアントであるボクの身体の防御力。それを見せつけられた剣士二人の表情が歪んだところで、その後方から、シロネがいかにもひっ迫した様子で声を上げた。

 

「やっぱり、『気』も身体も頑丈すぎます……!!物理攻撃じゃ碌にダメージが通らない!!」

 

「貫くには僕らじゃ火力不足か……!!またこんな状況、少し悔しいね!!」

 

「言うな木場!!言われなくても今嫌というほど実感している!!まさか私のデュランダルまで素手で止めてしまうとは……だがッ!!」

 

 返し、二人は同時に無理矢理剣を振り切った。しかしやはりボクを切れてはいない。むしろ自分から弾き飛ばされに言った格好。

 

 その意図は、開けた正面を見ずともわかる。

 

「リアス!!君の滅びの魔力ならば通じるはずだ!!」

 

 魔王が叫び、次の瞬間頷く赤髪から放たれる滅びの魔力。あらゆるものを滅するそれは、キメラアントの硬い身体すらをも無にできる、奴らの唯一の矛だ。

 

 そうであることを気付かせるために、ボクは黒髪の魔力以外の攻撃を避けずにわざわざ防御して受け止めた。それしか有効打がないのだと知れば、赤髪は滅びの魔力でボクたちを派手に殺してくれるだろう。それこそ、赤黒い魔力の奔流が全員の眼を塞いでしまうほど(・・・・・・・・・・・・・)

 

 さらにせめて最上級悪魔クラスの破壊力くらいがなければ不自然故に、黒髪の雷撃よりも、できることなら赤龍帝よりもこっちが適当。なのだがしかし、今まさに放たれた滅びの魔力は些かならず弱すぎた。身体に溜まった聖剣のダメージが思っていたよりも大きいらしく、これでは少々、殺されるには足りない。

 

 赤龍帝を重ねさせる必要があるだろう。判断したボクはやむなく、クロカに目配せをした。

 

「……りょーかい」

 

 小さな返事と共に、構えていた火車が放たれた。妖力で生み出された黒い炎はたちまちボクの眼前を横切り、それと比べれば解くゆっくり僕の身に迫っていた滅びの魔力を貫き、消し飛ばした。

 

 流れ弾が僅かに残っていた天井に命中し、爆発を引き起こす。より広がった夜空から、雨のように降り注ぐ天井の破片に打たれる悪魔ども。クロカはそんな奴ら、特に赤髪に向け、嘲弄を口にした。

 

「まあ確かに滅びの魔力は脅威だけどぉ……ちょっと威力しょぼすぎない?あれなら守らなくてもよかったかしら。ねえ、ピトー?」

 

「……そうかもね。『堅』で十分だったかにゃ。でもクロカもアイツらいたぶってやりたいんでしょ?このままじゃボク一人で片付いちゃいそうだけど……代わる?」

 

 乗じた煽りは狙い通り、クロカよりも悪魔どもの苛立ちを引き出した。

 

「クソ……余裕こきやがって……!!なめんじゃねえ!!両方いっぺんににかかって来いよ!!」

 

 赤龍帝が怒りに任せて言い放つ。頭に血が上りはしたが奮い立った奴はしかし、すぐに聖魔剣に制せられ、その背に隠された。それはそうだろう。突撃でもされたら赤髪の滅びの魔力に『譲渡』ができなくなる。

 

 故に、声を荒げないまでも苛立ちをため込んでいたらしい聖魔剣が、その柔和な顔つきにらしからぬ険峻を浮かべ、手の中に形作った。

 

「イッセー君じゃないけれど……その驕り、命取りになるよ!!」

 

 さっきまでの『聖魔剣』に代わり、ひたすらに巨大な大剣が奴のその手に握られた。そして、横薙ぎに振るわれる。

 

 奴の長所であるスピードは死に、中途半端な威力だけがあるトロい攻撃。回避は言わずもがな余裕だが、どうやら驕りがあるらしいボクは、やはりそれを受けた。

 

 重量と合わさり、僅かに押される。そしてその大きな刀身によってふさがれる視界。何を狙っているのかは明白で、もちろんクロカも気が付いた。

 

「驕りもするわよ、手がこんなに陳腐なんだから!」

 

 ボクからは見えないが、閃光からして黒髪の雷だろう。ボクに放たれたそれに、クロカはまた火車を構えた。だが――

 

「させませんっ!」

 

 掣肘。迎撃を放たんとするクロカの胴に、気配を消したシロネのパンチが突き刺さる。火車は立ち消え、クロカも体勢を崩した。

 

 となれば防ぐ者のいない雷撃は、大剣を貫きボクを襲った。

 

「うッ、ぐ……!」

 

 電流が全身を駆け巡る。無いに等しいダメージだが、身体の動きは封じられた。そして奴らの狙いは正にそれ。瞬間、砕けた大剣を捨て一跳び下がった聖魔剣は、地面に手を突きたて、『力』を解放した。

 

「【双覇の聖魔剣(ソード・オブ・ビトレイヤー)】ッ!!」

 

 ボクの周囲の地面から数多の『聖魔剣』が、文字通り生えた。いつかに見たような剣山となってボクの周囲を囲い、電撃と合わせてボクを縫い留める。

 

 そして引いた聖魔剣の後ろに、滅びの魔力の魔法陣を構える赤髪の姿が見えた。

 

 必殺の一撃を確実に命中させるために、という意図であるわけだ。

 

 麻痺が解け、逃げようとしてももう遅い。聖魔剣によるダメージは無いにしても、その拘束からは一瞬では抜け出せない。それだけの間があれば、当てられる。

 そして当たればボクを殺せるのだ。ボクを射抜く赤髪の眼はそれを叫び、放った。

 

「私の可愛い下僕たちを甘く見たこと、後悔しながら消し飛びなさい!!キメラアントのピトー!!」

 

 だがその威力は、ボクの望む水準には届いていなかった。

 

 ボクがあまりにもあっさり拘束されたことで、準備が間に合わなかったのだろうか。赤龍帝は奴のさらに後ろで未だ『力』を溜めている。

 

(……ちょっと、急ぎすぎちゃったかにゃ)

 

 なら仕方ない。この場は切り抜け、もう一度機会を待とう。ボクはそう決めて、『堅』を使った。

 

 『練』で練り上げた『気』が全身を覆い、滅びの魔力がその守りを食い荒らす。相殺して薄くなっていく面の守りに纏った『気』を集中させて、そして『堅』に使った『気』がほぼ消し飛ばされたころ、滅びの魔力も霧散した。

 

 ボクは鼻を鳴らして、ついでに腕の一振りで剣山の拘束を破壊してやってから、唇を引き結ぶ赤髪へと言った。

 

「いくら滅びの魔力がボクの肉体を貫けるって言っても、『気』はまた別問題。魔力でも、もっと威力がなきゃ話にならない。そういう意味で言ったんだけど……わかってる?」

 

 だから早く、赤龍帝の『譲渡』で限界までパワーアップして撃ってこい。何なら拘束なんてせずともこっちから当たりに行ってやるから。

 

 それくらいが最もちょうどいい威力なのだ。そう思いながら嘲笑った、ちょどその時、気付いた。

 

「ピトー!!」

 

 背後。振り向くと同時、クロカがその間に割り込んでくる。眼前にいたのは、『絶』で気配を消したゼノヴィアで、

 

「なら、これはどうだ……!!」

 

 振りかぶられた聖剣デュランダルの青い刀身に、彼女の『気』のすべてが吹き込まれた。

 

「躊躇わず、一気にッ!!」

 

 そして、振るわれた。無視できない威力。背を向けるボクはさっきのように受けられるはずがなく、故にクロカが両の手で、聖剣の力とゼノヴィアの『周』とを受け止めた。

 

 『念』と仙術の同時使用。『堅』、いや、すべての『気』を集中させる技である『硬』で刃を受け止めつつ、仙術で威力を抑え込もうとしている。その目論見は成功しているようだが、そもそもクロカの身体はボクのように硬くない。完全には防ぎきれず、血が舞った。

 

 寸でで蹴りを繰り出し弾き飛ばしたが、一瞬見えたのは手のひらに刻まれた赤い一線。しかしそれに動揺する暇もなかった。

 

 再び正面、赤髪のいた方向から、赤龍帝の眼がボクたちを射抜いていた。

 

「言ったろ、両方いっぺんにかかって来いって」

 

 静かに言うと、手を突き出す。そして、

 

『Boost!!』

 

 という『倍化』の合図がいくつも何度も重なって響き渡る。膨れ上がる奴の『力』。曹操の時やクロカの時の値をはるかに超えて、想定していた制御できる限度も容易く飛び越える。それほどの『力』が、小さな魔力の塊に押し込められていた。

 

 赤龍帝が狙っているのは、ボクとクロカを同時に攻撃できる今この瞬間。赤髪が放てる最大威力の滅びの魔力よりもはるかに強力な攻撃。それは少々――

 

「マズ――」

 

 呟くよりも早く、手がクロカを突き飛ばす。そのほぼ同時、

 

「部長と白音ちゃんの分、受け取りやがれッ!!」

 

 赤龍帝は、拳でその撃鉄を叩いた。

 

「ドラゴン――(ショット)オオォォォッッ!!!」

 

 視界いっぱいに広がる眩い光と、空間を引き裂くような耳をつんざく轟音。極大な魔力は間違いなくボクたちを捉え、そしてその身体を内に呑み込んだ。

 

 

 

 魔力の砲は、すべてを貫き消し飛ばした。大扉はもはや跡形もなく、床の石板は融解し、外の庭園にまで大きなクレーターを作った。

 そんな赤龍帝の一撃から、『気』を絞り尽くし動けずにいたゼノヴィアを救い出す役目を終えたシロネは、その爆発跡にゆっくり歩を進めていた。

 

 ちらりと、途中に転がる青い血の千切れた腕に眼をやって、次いで残った肉片ではなく、半ば土に埋もれるようにして横たわる赤い血の身体、クロカの下に膝を突く。片腕と両脚、胴の一部が消し飛び、もはや死ぬのみであるクロカの眼が薄く開いてそれを認め、掠れた震え声を絞り出した。

 

「……やめ……しろ、ね……ゆる……し……」

 

 しかしシロネは、すっと伸ばした指先をクロカに向けた。『気』を纏い、とどめを刺すための、貫き手。

 

 引き絞って、感情のない眼と声調で、放った。

 

「サヨナラ、姉さま」

 

 肉が突き破られる音。血が噴き出し、僅かに残っていた命が零れ出る。引き抜けば、その瞬間に尽きた。

 

 シロネと、その仲間たちは、黙ってその様子を見つめていた。

 

 

 

 という光景を、ボクとクロカは双眼鏡を手に眺めていた。

 

 宮殿から遠く離れた崖の上、岩に腰かけて作戦の完了を見届けると、息を吐く。双眼鏡を外し、それを背後のクロロ=ルシルフルに投げ渡した。

 

「やっぱり、ボクのはほとんど消し飛んじゃったにゃ。クロカはどうにか形を残せたし、まあいいんだけどさ」

 

「肉片でも死体があるのなら、まさか生きていると思われはしない。実証済みだ」

 

「だろうね。ボクも見た目じゃ判別できなかった。コルトピ、だっけ?すごい能力だね、【神の左手悪魔の右手(ギャラリーフェイク)】って」

 

 振り向き、眼をやったロン毛の毛玉は、ボクの言葉に小さく頷いた。

 

 薄い反応。その裏には警戒心が透けて見える。ならばとちょっかいを出してやりたくはあったが、そう思った瞬間、ぱたんと、本を閉じる音が威圧的に響いて断ち切った。クロロは念能力の産物であるそれを手の中から消して、両手で双眼鏡を弄びながら薄く笑った。

 

「だが、失態だな。オレもお前も赤龍帝の潜在能力を読み違えた。転移が発動する前に少し食らっただろう?」

 

「……さすがにちょっと痛かったけど、全然平気だよ。シロネにも作戦が伝わったんだから、後はつつがなく済むだろうし……だよね、クロカ?」

 

「……まあ、そうだけどさ」

 

 巻き込むと、不満の色が混じった声色が返ってきた。ずっと覗いていた双眼鏡を放り出し、手のひらの傷を舐めながらコルトピへその不満を向けた。

 

「けどあの命乞いの台詞は何なのよ?あんたの能力で私たちをコピーしたのがあれなら、おかしくない?あんな無様なこと、私絶対言わないわよ!そりゃあ、白音にはちゃんといいところで人形と入れ替わるってことも説明してあるから、あれが私じゃないってわかってるけど……あの顔、どう考えても引いてるわよ!せっかく取り戻した姉の威厳がまた消えかかってるんだけど。何?嫌がらせ?」

 

「……違う。まだ、慣れてないから」

 

 確かにクロカが、いや、コピーされたクロカの人形がしたのは、らしくないお手本のような命乞いだった。それが無様かどうか、シロネが引いているのかはわからないが、クロカにとっては看過できないものであったらしい。

 

 故のクレームを、しかしコルトピは突っぱねた。短く小さく呟き、「はあ?慣れてないって何よ?自分の能力でしょ!」と羞恥も含めて凄むクロカをものともせず、淡々と続けて言う。

 

「【神の左手悪魔の右手(ギャラリーフェイク)】は、本来生物はコピーできない。できるのは、動かない死体だけ。だったけど、つい最近、生命体としてもコピーできるようになった。同じ理由で聖なる『オーラ』も。……仙術との『結』、闘気を使って」

 

「……そういえば――」

 

 そうだった。確か初めて顔合わせした時、クロカ本人が言っていた。コルトピに仙術を使う資質があると。

 

 元々持つ者が滅多に存在しないその才能。興味を惹かれてはいたが、しかしクロカがしたのは指導とも言えない会話の一、二言であったはずだ。それで会得したのであれば、コルトピへの評価は改める必要があるかもしれない。

 

 受け流していた警戒心に、ボクも警戒心を抱かざるを得ない。だがボクと違ってそこまでには至らず、少々驚くまでに留まったクロカが、鼻を鳴らして面白くなさそうな顔をした。

 

「半分冗談のアドバイスだったんだけど……あんたあれだけで、能力に組み込めるまでレベルアップしちゃったわけ?すっごい、特級のびっくりだわ。……白音の記憶、探ったんならやり方はずっと前からわかってたんでしょ?なのに『つい最近』って、ね」

 

「……『記憶を探った』?」

 

 聞き覚えのない事実。クロカは頷き、遠くの宮殿を眼で示す。

 

「白音がそんなこと言ってたのよ。ほら、あの拳銃使いの女。あれに頭の中覗かれたんだって。『黒歌』の顔知ったのもそれなんじゃない?」

 

 次いでクロロに訊くと、奴は「ああ」と肯定を返した。

 

「正解だ。お前たちが言う拳銃使い、パクノダは相手の記憶を読み取る能力を持っていた。その記憶を弾丸に込め撃てば、対象も記憶を得ることができる。とはいえ……百聞は一見に如かずともいうだろう?それにあれは、幼い故に穴だらけだった」

 

「……ああ、そう。やけに詳しく仲間の能力明かすじゃない……?」

 

「殺されたよ。クラピカっつう鎖野郎にな」

 

 と、クロロではなく一段上の岩棚に胡坐をかくノブナガが答えた。眉を寄せ、憎悪を滲ませながらボクたちの下まで飛び下りる。

 

「見かけたら教えてくれ、礼はする」

 

「……信用してないとか言ってたくせにね。まあ、覚えとくよ」

 

「おう。奴の能力はどうやら旅団メンバー相手には無敵に近いようだが、お前たちなら敵じゃねぇ。仮入団お疲れさん。刺青はてめぇの能力で消しとけよ?」

 

「はいはい、言われなくてもこんなのつけたままにする気はないにゃ」

 

 適当に返事をすると、ノブナガは満足そうににやりと笑った。他の連中以上にクラピカなる男への恨みが強いらしい。

 

 もちろん関わるつもりなんてこれっぽっちもないボクは、腰を上げると大きく伸びをした。一緒にクロカも促して、頬を膨らませたままの彼女も立ち上がる。ひとまずその疑念は解けた故に、「さて」と続けてクロロを見やった。

 

「それじゃあ、これで取引は完了ってことでいいよね?ボクたちは、生きていた『ピトー』と『黒歌』をもう一度殺すことができた。それに……シロネとクロカの仲直りもできたし、大成功。そっちはキミの鎖が解けて、死体とはいえ悪魔の身体手に入れた」

 

「ああ。カテレア・レヴィアタン、魔王の血となれば金を出す人間も大勢いる。人体収集家も魔物収集家も魔法使いも錬金術師も、皆が欲しがるお宝だ。あの戦場でこっそり持ち出すのは骨が折れた」

 

 言いながら、クロロは小さな風呂敷包みを取り出し見せる。手のひらサイズのその中に、件のお宝が入っているのだろう。恐らく、奴が盗んだ念能力の一つ。コルトピのコピーとこっそり入れ替え、小さくして運び出したに違いない。

 

 しかしそのあたりの苦労などに興味はない。あの時、ボクたちの拠点で躱した取引のすべては、今双方完全に完了した。もうこれ以上、共に行動する必要はない。それだけだ。

 

 その時、ちょうどよく二人分の人影が、より宮殿内部が観察しやすい岩の向こう側から姿を現した。

 

「団長、白龍皇のアンテナが壊された。もうすぐオレたちの存在にも気付いて探し始めるよ。早く逃げたほうがいい」

 

「………」

 

 ボクの能力だと思い込ませたアンテナの操作系能力、その本来の持ち主である童顔の男、シャルナークと、対面してから今まで言葉も眼も向けようとしない日本人形のような子供、カルト。

 

 唇を固く引き結んだままのそいつは、紙を操る能力で遠い宮殿内の音を聞くことができる故にこの場に連れてこられているのだが、実力的には赤龍帝たちと同程度。自分が雑魚であることを知って自尊心でも傷付いたのだろうか。

 

 わからないが、どうせもう関わらないのだ。関係ないとそのぶすっとした横顔から眼を逸らし、ボクはシャルナークの言葉に頷いたクロロに手を差し出した。

 

「次元を渡るのは大変でしょ?急ぎたいなら転移魔法で送ってあげようか?クロカが」

 

「ヤダ」

 

 カルトと張り合うようにむくれるクロカの即答に、クロロは苦笑を漏らして答えた。

 

「結構だ。ちゃんと手はずは整えているんでね」

 

 言うなり、クロロたちはみんな背を向けて崖の上から飛び下りた。最後尾のカルトの姿が視界から消えて、次いでその気配も消える。全員、見事な『絶』。確かにこれなら次元を超えるための列車に無賃乗車することだって可能だろう。

 

「……クラピカってのも、随分な連中に手を出しちゃったもんね」

 

 横目で見送りながら、クロカがそんなことを呟く。「だね」と肯定すると、眼はじっと奴らが消えた一点を見つめたまま、気がかりなふうに声を出す。

 

「あいつら、ほんとに殺さなくてよかったの?私とピトーの秘密、知られちゃったのに」

 

「……あいつらが暴露したところで、大してダメージはないよ。泥棒の言葉とハンターの言葉、どっちが信用に足るかは言うまでもない。そのことはクロロもわかってるだろうしね、だからあいつも最後までボクたちを裏切らなかった。裏社会に喧嘩売ったばっかりらしいから、表にまでそうする余裕はないにゃ」

 

 なにせボクたちの秘密はハンター協会だけでなく、恐らく、もっと上にとっても急所たりうる。それがどこまでなのかは未だにわからないが、もしもの時はそれらすべてが敵に回るのだ。どう考えても『幻影旅団』にはデメリットしかない。

 

 それに、だ。

 

「裏切られても、別に問題はなかったよ。そうなってもシロネは『フェル』と『ウタ』のことをしゃべらなかっただろうから」

 

「そう……ね。パリストンから新しい名刺貰えばいいだけの話……」

 

 だというのにボクがクロロの取引に乗ったのは、より完全な解決を目指したためであり、それに何より……クロカとシロネの望みを、叶えるため。

 

「………」

 

 静かに息を吐いた。するとクロカは、ボクの腕にぎゅっと抱き着いた。

 

「言っとくけど、白音と姉妹に戻っても、ピトーとの関係は変わらないからね?」

 

「……うん」

 

 どうにか口角を持ち上げた。

 

 クロカはそれに少し翳った笑みを見せると、足元に転移魔法陣を展開した。

 

「……じゃ、帰りましょ。情報くれた曹操にも、今回ばっかりはお礼しないとね」

 

 そう言うクロカにボクは奴の、奴()の悪だくみを予測する故に苦笑いに変えながら、彼女の魔力に乗って人間界へと転移した。

 

 

 

 

 

「おのれ……おのれサーゼクス……!!忌々しい偽りの魔王どもめッ!!ぐ、うぅ……この借り、いずれ必ず返すぞ……!!」

 

 薄暗い密室に、男が一人、息も絶え絶えに蹲っていた。食いしばった歯の間からだ液と混じった血を垂らし、消し飛んだ片腕の傷口を押さえながら、己にその深手と屈辱を与えた相手へ悪罵を吐き続ける。

 

 男は、シャルバ・ベルゼブブといった。現魔王を排し、世界を再構築せんとした『禍の団(カオス・ブリゲード)』の首謀者であり、そしてほんの数分前、現魔王であるサーゼクス・ルシファーに敗れ、辛うじて逃げ延びた敗者であった。

 

 そう、シャルバは負けた。唯一残った同格であるカテレア・レヴィアタンを失い、強力な手駒になるはずだった白龍皇、ヴァーリ・ルシファーにも裏切られ、恐らく、雑兵の部下さえ一人残らず失った。

 

 個人に留まらず、組織としても完全な敗北。だからシャルバは敗者で、自身もそのことを理解せざるを得なかった。しかし認めたくはなく、ひたすら罵り、呪い、怨みを吐き出す。声高に叫び続け、安全な隠れ家の中で、シャルバは現実から眼を背け続けた。

 

 そうし始めていくらの時間が経ったのか、ある時ふと、シャルバはその気配に気付いた。見知ったそれに顔を上げると、目の前に立っていたのは目深なフードとローブで姿を隠した一人の人間。己の熱心な崇拝者である男だった。

 人間は皆、下等生物の虫けらとしてしか見ていないシャルバだが、どういう訳かこの男だけは別だった。出会ってそう日にちは経っていないが、すでにある程度の信頼を持っている。他の誰にも教えていないこの隠れ家の場所も、つい教えてしまっていたほどだ。

 

 それほどの信頼を抱いていた故に、シャルバの表情はすぐさま怒りに歪み、勢いよく立ち上がってフードの男に詰め寄った。

 

「貴様ッ!!よくものこのこと姿を現せたな!!貴様の……貴様のせいで!!私はサーゼクスに敗れることになったというのに!!」

 

「……何を、お怒りなのでしょう」

 

 くぐもった困惑の声。それはますます怒りを掻き立て、シャルバは衝動的に、傷口から引きはがした手を男の目の前に突き付けた。

 

 すると、血まみれの手の中に出現する。龍のような象眼が施された、細長い棒。半ばから先がなくなってしまった槍のようなそれが、次の瞬間、微かな聖なる力に瞬いた。

 

 それは、神器(セイクリッド・ギア)。それも間違いなく神滅具(ロンギヌス)の頂点である聖槍。

 

「見てわかるだろう!?貴様が私に捧げた【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】だ!!」

 

 それが、折れてしまった姿だった。

 

「サーゼクスの攻撃一つを受けただけで、これだ!!聖槍がこれほどあっけなく破壊されるなど……いったいどうなっている!!おかげで私は不意を突かれ、敗北し、逃げおおせることになったのだぞ!!これを貴様のせいでなく何という!?」

 

「……なるほど」

 

 男は呟き、俯いた。シャルバはまだ止まらず、まくしたてる。

 

「謝罪しようが何をしようが、貴様に償い切れることではないぞ、人間!!貴様は私の栄光に傷をつけたのだ!!気に入っていたが……もはや許せん!!せめてもの慈悲に、私自らが貴様の息の根を止めてやろう!!」

 

「慈悲、か」

 

「……恨むなら、神器(おもちゃ)に堕ちた聖槍を恨め。運がなかったとな」

 

 憎悪を叫ぶ内、頭が冷えてきたのだろうか。お気に入りの人間を消すという事実に、シャルバはほんの少しだが眉を歪めながらそう言った。しかしもはや殺さないという選択肢はない。敗北の理由を聖槍に被せなければ、シャルバは立ち直れなかったのだ。

 

 だからせめて、今度こそサーゼクスを倒し、真なる悪魔の世を再構築する。その意思を固め、槍と共に男の命を狩り取ろうとした。

 

 だがシャルバが振るった、ただの人間には反応すらできないはずの一撃は、あっさりと身を引いて躱した男によって、男が纏っていたフードだけを切り裂いた。

 

「『玩具』、もそうか。言い得て妙だな。ああ、その通りだよ、シャルバ・ベルゼブブ」

 

 まるで人が変わったかのような物言いに、シャルバは躱されたことへの怒りも出せずに眼を見張った。とてつもなく、意外に思えたのだ。男は、そんなことを言うような雰囲気(・・・)の人間ではなかったから。

 それに、男は特別強いわけでもない、警戒する必要などなさそうな(・・・・・・・・・・・・・)只人であったはずだ。なのになぜ、と、シャルバの思考が止まる。その間にフードの切れ端を頭の上から払いながら、男は独り言のように言った。

 

「……さすがに超越者と戦えるほどの強度にはまだ至れず、か。試作段階とはいえ、これでは使い物にならんな。碌なデータすらとれない有様では……」

 

「試作……だと……?」

 

 シャルバは、働かない頭でどうにか疑問の言葉を捻り出す。男はくすりと鼻で笑い、指を鳴らした。すると折れた槍が光の玉に変わって男の手元に飛んでいくが、それにすら反応ができない。

 

「もう少し違和感を感じないものかな。まあそれだけこの能力が強力ということか。……シャルバ、君は『神器(おもちゃ)に堕ちた』と言うが、だとしても伝説の聖槍であることに変わりはない。破損するわけがないだろう?これはコピーだ。本物は、こっちさ」

 

 言うと、男の手の中に一本の槍が出現した。聖なる光の輝きは、シャルバの手元にある聖槍よりもはるかに激しい。紛れもなく、【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】だった。

 

 そしてその光に照らされた、初めて目にする男の顔。

 

 シャルバには、覚えがあった。

 

「き、さま……!!ハンターの――」

 

「曹操だ。改めて初めまして……いや、お久しぶりと言うべきかな。今の俺は聖槍の担い手である曹操だから、前者の方が正しいと思うんだがね」

 

 城のパーティー会場を襲撃した時、ハンター協会の会長であるネテロの隣にいた男だった。

 

 それを理解し、シャルバはすべてを悟った。自分がずっとハンター協会にはめられていたこと。フードの男、曹操が自分に接触してきたのはただ実験に利用するためだけであったこと。

 

 すさまじい屈辱。シャルバは吠え、展開した極大な魔法陣を、にやけ顔を作る曹操に向けた。

 

 しかし次の瞬間、頭に尋常ではない衝撃が叩きつけられた。

 

 それは身体の自由を失うのには十分で、たちまち魔法陣が掻き消え、シャルバは地に沈みこむ。薄れる意識を必死につなぎとめ、眼だけで曹操を見上げた。

 

 そこに、曹操とは違う小柄な少女の肢体が写り込んだ。

 

「オー、フィス……」

 

 『禍の団(カオス・ブリゲード)』の名前だけのトップ、『無限の龍神(ウロボロス・ドラゴン)』オーフィスが、シャルバには眼もくれずに曹操へ、起伏のないその声を向けた。

 

「聖槍の担い手、曹操。これでグレートレッドを倒してくれる?」

 

「いいや、オーフィス。それはできない。しかし君が欲しいのはグレートレッドの首ではなく、『真の静寂』なんだろう?それなら提供できるさ、彼ら『禍の団(カオス・ブリゲード)』と違ってね」

 

「それでいい。我、グレートレッドを倒したいわけじゃない。邪魔だから、排除したかっただけ」

 

「なら、場所は別に次元の狭間でなくてもいいわけだ。何も問題はないさ、任せてくれ」

 

 こくりと頷き、幼い少女のその身体がシャルバの鎧の襟首を掴んだ。背を向け、歩き出した曹操のあとに続いて引きずる。シャルバはそれに全く抵抗できず、おとなしく連れていかれる他なかった。身体は動かず、動けたとしても、最強のドラゴンの一角とされるオーフィスから逃げ切れるとも思えなかった。

 

 だからシャルバは、やはり呪うことしかできなかった。背を向ける直前、一瞬目にした曹操の表情。どす黒い悪意を、落ちゆく意識に焼き付けながら。

 

(サーゼクス……!!人間などと手を組んだこと、必ず後悔するぞ……!!)

 

 シャルバは、そのまま何処かへと運ばれていった。




以上ッ!第三部完!
こんな感じで幕引きです。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。そしてお察しのこととは思いますが、四部に続きます。どこかで三部作にするとか言っていたような気がしますが気のせいです。またプロットまとめたり他の作品書いたりして間を開けてから再開する予定なのでよろしくお願いします。

で、それに際して重要なお知らせ。
タイトルを変えようかと思います。元々短編として付けたタイトルだったのに今は白音も加わって二房でなくなっちゃいましたし、それに何より検索欄に出て来る拙作のポエミーなタイトルがいい加減恥ずかしく…。多くの方に読んでいただけたのは大変光栄なのですが、どうやら私は羞恥プレイには向いていないようなのです。
なので四部も読みたいと思ってくださる読者さんはタイトル変更の混乱を避けるために拙作のお気に入り登録をしておくことをお勧めします(乞食)
あと感想もください(乞食)


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第四部 黒白のくびわと一つの心
一話


前回までの三行あらすじ

ピトーと黒歌が一誠一行と戦って
白音と黒歌が姉妹の絆を取り戻し
ピトーと黒歌の正体バレも免れた

タイトル変えて心機一転、四部開始です。二房の猫じゃらし改め、主なきノラネコたちの家、おしまいまでこれからもどうぞよろしくお願いします。
とはいえしかし章分けの副題も含めてポエミーなのは変わっていませんね。
こうやって黒歴史は紡がれてゆくのです。
そして今回の更新は計五話。

さらには誤字報告をありがとうございます。
いつかはやるだろうなと思っていた間違いをとうとうやらかしてしまった…。


 “ピトー”と“黒歌”をもう一度殺すべく戦ったあの企みは、凡そ成功した。ごく一部を除いて、ボクらは今まで通り“フェル”と“ウタ”のまま。おかげで幻影旅団はとうとうその名が冥界にまで知れ渡り、二度も妹とその眷属を狙われた魔王サーゼクスがその首に直接懸賞金を掛けるまでになったが、ピトーも黒歌もフェルもウタも、その名がそこに書かれることはなかった。

 ボクたちは、全くもって以前と変わらない立場、ハンターであり人間の“フェル”と“ウタ”を取り戻すことが叶ったのだった。

 

 そんなことがあってから、すでに一月が経過していた。つまり今は九月の終わり。シロネたちの夏休みはとっくに終わり、もちろん当初に赤髪から依頼された修行の契約期間もきっぱり終了している、そんな時期。

 

 だというのに、ボクたちは未だ冥界にいる。腰を落ち着けているのは赤髪の家のあの離れ、日本旅館風の平屋だ。絶えず漂う悪魔の気配を意識から締め出しつつ、ボクは座布団の上でお茶を飲みながらテレビが映す映像をぼーっと眺めていると、画面の悪魔がマイクを片手にくだらない感想をほざき、それも終わって“おっぱいドラゴンの歌”なるさらにくだらない音楽が流れ始めたところで電源を切った。

 

 リモコンを畳の上に放り投げ、飲み干した湯飲みをちゃぶ台もどきに置く。そしてボクは、クロカの方を見ないままため息を吐いた。

 

「順当な結果だったにゃ、赤髪のレーティングゲーム」

 

「……まあ、それに尽きるわね」

 

 クロカは同じく息を吐き、ちゃぶ台の上で組んだ手に顎を乗せた。

 

「ソーナ・シトリーっていったかしら、対戦相手のあの悪魔。本人も眷属もそろって決定力は皆無。ちょっと神器(セイクリッド・ギア)が使えるのが二人いるだけで、あとは全員普通に魔力で戦うだけ。あんな有様じゃあね、人数がいてもどうしようもないわ。……それに何より、リアスのほうには白音もいるし」

 

「……そうだね」

 

 自慢げに頬をニヤつかせるクロカがボクを見る。横目にそれを認めて、どうにか短く返した。

 

 クロカのその様子を見ると、やはりどうしても込み上げてしまうのだ。それを慮ったわけではないのだろうが、隙間にタイミングよく、男の声が割り入った。

 

「確かに、白音ちゃんすっげー活躍だったもんな」

 

 ちゃぶ台を挟んで向かい合わせに座るボクとクロカ。その後ろ、部屋の奥で寝釈迦の恰好をする、ハンゾーだった。

 部屋にある座布団のほとんどを独占して寝そべりながら、一緒にレーティングゲームの生放送とその後の解説を見ていた彼はあくびして続ける。

 

「【練】と【絶】切り替えて暗殺しまくって、結局一人で半数は倒しちまったんじゃねーか?フィールドを破壊しないっつールールも関係なかったな」

 

 だらしなくそう言う彼もまた、本来であればボクたちと同様に冥界でのんびりくつろいでいるはずのない人間だ。なにせここはもちろん彼の家でもないし、当初修行のために得た滞在期間もボクたちと同時に過ぎた。さらに言うなら冥界を訪れるために必要な手続きの数々。少なくとも、旅行感覚で揃えられるものではない。

 だというのに、それらの面倒を乗り越えてまで、ボクたちは冥界への再訪を果した。その理由はやはり赤髪たちのレーティングゲーム、悪魔どもが自身の力をひけらかすショーを見届けるためだ。

 

 ボクたちの場合、目的は主にシロネ。大事な妹の晴れ舞台を応援したいクロカのために、ここに滞在している。

 ハンゾーも似たような理由だろう。応援の対象はもっと広いのだろうが、観戦したかったからこそ、事件によって奴らの夏休みの終わりから今日にずれ込んだこの行事のために、面倒を乗り越えわざわざ冥界に足を運んだのだ。

 結果的にはその甲斐もあったかわからないくらいの危なげない無双であったわけだが、人間界でレーティングゲームを放送するチャンネルなんてない。観戦できただけでもクロカは満足な様子であるし、ハンゾーだってそうだろう。苦労の甲斐はあったはずだ。

 

 あるいはそれは、ハンター協会からの命令であったかもしれないが。

 

 ボクたちの秘密を知ってしまったハンゾー。その存在が協会に与えるであろう不安、しかしそのハンゾー自身がまだ生きている事実を頭の中で転がしつつ、半分冗談の警戒を向けてやった。

 

「他の奴らは力押ししかできないからね、ボクたちを倒した時も結局はそうだったし。ハンゾー、一月もあったのに教えてあげなかったのかにゃ?」

 

「……そりゃもしかして、お前らの正体のこと言ってんのか……?」

 

 きちんと伝わったようで、ハンゾーはぴくりと肩を跳ねさせ、実に嫌そうな顔をした。

 こんなにもぼかされた台詞でボクの意図を理解できたのは、やはり彼もそのことを意識しているからだ。

 

 妹であるシロネはいずれにせよ知ることになっただろう事実だが、ハンゾーに関しては違う。その気もないのに知ってしまい、完全なとばっちりで背負わされてしまった特大の爆弾。秘密の漏洩を憂うボクとそしてハンター協会にとってハンゾーは、正直殺しておいた方が安全な人間だった。

 

 そのことを、ハンゾーはきちんと理解している。となればその状況で生き残るための最善は、やはり今の通りだ。

 

「しゃべるわけねーだろ。オレはまだまだ死にたくねー」

 

 苦々しげな顔をボクに向け、ハンゾーははっきりとそう言い切った。

 そうしてボクの表情を見やり、半分を占める揶揄いの度合いに気付いたのだろう。途端、しらけたふうに喉を鳴らす。それを眺めていたクロカが不思議そうに言った。

 

「まあそうだろうけど……それがわかってても私たちへの態度が変わらなかったの、未だにちょっと意外だわ。てっきり怖がるか媚び売るかしてくるものだと思ってたんだけど」

 

「あんなんでビビってたら忍者もハンターも務まらねーよ。それに……曹操から聞いたからな、あんたらのあれこれを色々と」

 

 そう言う眼は、再びボクに向く。クロカはその意味を計りかねて小首を傾げたが、すぐに合点がいったようでハッとなり、困ったふうに眉を下げた。

 

「あー……そう、ピトーのを、ね……」

 

「……んまあ、それもあるが――ん?なんだよフェル」

 

 クロカに続けてなにやら言いかけたハンゾーだったが、しかしその途中でボクが止めた。胡乱げな顔をするも、クロカ共々すぐに気付く。

 

 二つ、外を走る悪魔の気配。この離れを目指しているのだ。

 そしてその正体の片方には今の話題が適さない。故にボクは帽子をかぶり直し、クロカも外していた眼鏡を掛けなおした。

 

 その直後、ちょうどのタイミングで襖が勢いよくスライドした。

 

「ウタさまフェルさま、私たちの試合、見ていてくれましたか!?」

 

 シロネは部屋に入ってくるなり、喜色満面でそう叫んだ。

 叫んで、同時に入り口傍のクロカの懐へ飛び込む。クロカも抱きとめ、見せるのは負けないくらいの嬉しそうな笑顔。ボクは疎外感でいたたまれなくなって、思わず二人から眼を逸らした。

 

 するとちょうど目が合ったのは、シロネの後ろに続いてきたゼノヴィアだった。シロネとは打って変わって気まずそうな彼女の様子でひとまず重たくなった心のことは忘れ、ボクは唇の端を揶揄いで歪めてみせた。

 

「随分来るのが早いにゃ、さっきまでテレビの中でインタビュー受けてたのに」

 

「まあ……私も白音も、皆と違って無傷だったからな。治療を眺めていてもしょうがないから、その足でこっちに、と……」

 

 おずおずと、ゼノヴィアは答える。早かった理由はその通りだ。シロネもゼノヴィアも、一つの傷も負わずにその戦いを終えた。

 

 そして続く、今度は目的。ボクの傍まで来て膝を折り、正座して恐る恐るに尋ねた。

 

「それで……どうだった?師匠。レーティングゲームでの私は」

 

 やはり評価を気にしていた。私の方はそもそも彼女を弟子だなんて思っていないが、師匠うんぬん言うあたり、弟子としての立場が心配になっているのだろう。

 

 それもそのはず、今回の試合の彼女は評価とかそういう以前の有様だった。

 そのことを、ボクの代わりに呆れかえったハンゾーが口にした。

 

「どうもこうも、お前開始早々反則リタイアしたじゃねーか」

 

「うぐっ……」

 

 ゼノヴィアは、戦わずに脱落していたのだ。

 

 だから無傷。大活躍のシロネと違って不名誉の無事。反論も一切できずに言葉を詰まらせたゼノヴィアに、ハンゾーは容赦なく追撃を放った。

 

「フィールドの破壊はご法度っつールールだったってのに、ドでかいのぶっ放して周囲一帯吹っ飛ばしたろ。リアスさんは教えてくれなかったのか?」

 

「教えてくれたし、理解もしていたとも!ただ……せっかく能力として形になったから使ってみたくて……」

 

「いやアホか!!前々からアホだとは思ってたけどほんとにアホか!!んな下らねー理由で自爆したのかよお前!?」

 

「あ、アホとはなんだ!!下らないというのも聞き捨てならんぞハンゾー!!結果的に失格になってはしまったが、威力はすごかっただろう!?私のデュランダル斬をバカにするな!!」

 

「【硬】の【周】だろ、ただの。そりゃ確かに必殺技名乗れるくらいすげー破壊力してたけど……デュランダル斬?名前まで付けちまったのかよ。しかもそんな安直な」

 

「なんだ悪いか!かっこいいだろう!【デュランダル斬】!」

 

 バカにされてムッとするゼノヴィア。技の名前はともかくとして、じゃれ合いの中で己の口から出た失格の理由はバカと言われて当然のものだと思うが、ボクは情けで口を噤んだ。

 

 代わりにクロカが、その膝の上にシロネを抱きながらクスクス笑った。

 

「普通にダサいわよ、名前も内容もね。コントロールできてなきゃ、ほんとにただの自爆だもの」

 

「ええっと……そうですね。実際にあれで倒せた敵はいませんでしたし、どちらかといえば部長たちにばっかり被害が行っていましたし……」

 

「……そ、そうなのか?」

 

 そうなのである。

 

 苦笑いのシロネの言う通り、ゼノヴィアの【デュランダル斬】でリタイアに陥った敵は一匹もいない。崩れた瓦礫でに双方が巻き込まれたのみであり、なんなら仲間の女装吸血鬼は段ボールに引きこもっていたために避けられず、瓦礫が直撃して戦闘不能にされてしまったくらいだ。

 

 驚愕のその反応を見る限り、ゼノヴィアはそのことを知らされなかったのだろう。赤髪の配慮か、しかし知ってしまったゼノヴィアはショックに項垂れ、正座していた身体を一層いたたまれなさそうに縮めた。

 

「……全く気付かなかった。白音も皆も、もっと早く教えてくれたらよかったのに……。後で謝りに行かないと……」

 

「で、でも!ゼノヴィアさんが起こしてくれた混乱のおかげで私はうまく動けましたし、何人も倒せたのはあれがあったからこそです!名前も……私は格好いいと、思いますよ……?」

 

 励ましの言葉と、最後に明らかに無理矢理な笑みが付け加えられる。さすがに騙せず益々落ち込むゼノヴィアに、シロネは失敗を悟って視線を彷徨わせた。

 その果てに、シロネは気まずく止まった口の矛先としてボクに目を付けたようだった。一度閉じて唾を呑み、それからぎこちなさを勢いで誤魔化して声を張った。

 

「そ、そうだ!フェルさま、私はどうでしたか?【絶】、ウタさまから教えてもらったばかりですけど、うまくできていましたか……?」

 

「……うん、まあ……よかったと思うよ」

 

 緊張がありながらもまっすぐボクに向いた目から、ボクは目を逸らしてそう答えた。

 

「【練】は完璧に近かったし、【絶】も、修行を始めて一月も経ってないってことを考えれば中々だよ。切り替えの手際だってお見事だったにゃ」

 

「そう、ですか……!」

 

「ただ――」

 

 喜ぶシロネに、しかしボクは続けて首を振る。記憶の中の映像を引っ張り出しながら、胸の奥の黒いものと戦いつつ批評を捻り出した。

 

「全体的に見れば完ぺきとは言えない。何度も奇襲が成功したのは運と、後は相手が戦闘慣れしてなかったって所もあるよね。【念】も知らないただの転生悪魔だったから。……そうでない、例えば神器(セイクリッド・ギア)持ち、女王(クイーン)兵士(ポーン)の二匹とは出くわさなかったしにゃ」

 

「……つまり調子に乗らないように、ってこと?まあ、大方私も同意見。これからも頑張って修行しないとね、白音?」

 

「はい、ウタさま!」

 

 総括するクロカに、シロネは笑顔で返事をした。クロカの表情にもやはり笑みがあり、首を反って見上げてくるシロネを愛しむその様子は実に幸福そうだ。

 

 ボクは再び反射的に目を逸らしてしまう。するとそこにいるのはまたしてもゼノヴィアで、意気消沈に落ちた肩を絶望のそれに変え、囁くようにか細く呟いた。

 

「しゅ、修行……?これからも……?いや、確かその前も、少し前から教えてもらったと……」

 

「……え?なに?ゼノヴィア、あんた何か言った?」

 

 ちゃぶ台を挟んで対面のクロカも、辛うじて耳に捕らえたらしい。が、どうやらきちんと明瞭に聞いたのはボクだけのようだ。故に一人、めんどくさい思いを先取りしてしまう。

 

 ボクたちと別れられない事情とハンターの立場を持つハンゾーと、クロカとの“家族”を取り戻したシロネには、指導をしてやる理由がある。しかしゼノヴィアにはそれがないのだ。

 特に自身と同じくハンターでない転生悪魔であるシロネ。事実を知れば、ボクから学びたいと鼻息を荒くしているゼノヴィアが反応するのは、まあむべなるかなといったところであった。

 

「ず、ずるいぞ白音だけなんて!私もフェルさんに修行をつけてもらいたいのに!」

 

 四方八方に向けられる非難の目の終着点にいるボクは、大きなため息を吐き出した。

 

「私なんてハンゾーからの伝え聞きでしか学べないというのにぃ……!まさか白音、ここの所妙にウタさんと仲がいいと思ったのはそのためか!?仲良くなって師事しやすくするという……でも、いったいどうやったんだ!?方法があるなら教えてくれ!そうしたら私もフェルさんに――」

 

「あー、そういうんじゃなくてね、その……逆よ、逆」

 

 シロネに対する今までのぞんざいな扱いを見ていれば、当然湧く疑問だろう。微妙に痛いところを突っ込まれ、事態に気付いたクロカが弁明のために頭を捻る。

 ゼノヴィアの期待の眼差しを努めて無視するボクを庇い、どうにか理由をまとめて続けた。

 

「白音ってば、一人で、その……黒歌を倒しちゃったわけじゃない?それで私、白音のこと見直してね、それくらいの才能があるなら私が伸ばしてあげたいなーって、思っちゃったわけなのよ。……うん」

 

 少々苦しい言い訳。自覚するクロカは僅かに眉を下げたが、ゼノヴィアは全く怪しむ様子もなく、ともすれば増大した期待を以てして、無理矢理ボクの視界に割り込んだ。

 

「ならなら!フェルさん!私の【デュランダル斬】だ!あの威力はこう……将来に期待できるほどのものだっただろう!?未完成だった頃だが、私も黒歌にダメージを与えたんだぞ!?」

 

 それについては残念ながらマイナスポイントだ。

 とはいえなんにせよ面倒くさい。自然と眉間に寄る皺で下がっていく瞼をまばたきで持ち上げて、ボクは込み上げるため息を呑み込み言った。

 

「うん、すごいね。立派な必殺技、【発】だよ。だからずるいってことはないんじゃないかにゃ。シロネより先に進めてるってことなんだから」

 

「『先に進めてる』?そんなわけあるか!フェルさんは知らないのかもしれないが、私は知っているぞ、白音!君も【発】を習得しているんだろう!?」

 

 思いがけない事実が、ムっと頬を膨らませるゼノヴィアの口から吐き出された。

 

 指導したにしては嫌に段階が早い。何故と思ってクロカを見やるが彼女が教えたわけではないようで、ボクと同様驚愕に息を呑んでいた。一方、未だ歯抜けになっていた基礎鍛錬しかさせていないハンゾーは、その驚愕に加えて悔しげな表情。彼は知らぬ間に一人だけ置いてきぼりにされていたのだ。

 

 普段はおちゃらけている分、はっきりとハンゾーの機嫌が悪くなった。悟ったシロネが慌てて首を振り、半端な弁明を口にした。

 

「しゅ、習得しているっていうか、しかけているっていうか……とにかく、ゼノヴィアさんみたいに完成しているわけじゃないんです。……黒歌姉さまたちとの戦いでイメージが固まり始めた、っていうだけで……」

 

「う……ん、そ、そうだったのか……?」

 

「でも結局、形はできてんだろ?変わんねーじゃねーか。あーずるいずるい」

 

 『黒歌姉さまたちとの戦い』というところで勢いを止めてしまったゼノヴィアと、その必要などないことを知っているために不貞腐れてしまうハンゾー。それで早くも打つ手がなくなってしまったらしく、シロネは居心地悪そうに身体をすくめた。

 

 その様子を捉えたクロカが、懐のシロネを胸と膝で押し潰すみたいにもたれかかった。

 

「ふぅん、それならそうと言ってくれれば、相談でもなんでも乗ってあげたのに。ねえ、どんな能力なの?」

 

「ぐえ……それはちょっと……恥ずかしいので、秘密です……」

 

 折られた身体に肺の空気を押し出されたシロネは、しかしそのことは何でもないふうに受け流し、恥ずかしそうに頬を染める。その眼がちらりとボクを見て、ボクはそこからまた逃げた。

 

 すると空気を読む気ももはやないハンゾーが、寝釈迦の体勢から身を起こしてちゃぶ台に手を突いた。

 

「どのみちずるい!二人がやってんなら、なあフェル、オレだって【発】の修行してもいいだろ?どんな能力にしようかってイメージくらいはオレにもあんだ!」

 

「……まあ、いいんじゃにゃい?次は【(リュウ)】をやろうと思ってたんだけど……うん、イメージがあるのなら【発】でもいいかもね」

 

「なに?【流】ってのは……新しい応用技か?……ちょっと待て、そういうことならまた話が違ってくるかも……」

 

「ぐうぅ……やっぱり……やっぱりお前もずるいぞ!!ハンゾー!!」

 

 ハンゾーが頭を捻って静かになったと思ったのもつかの間、ゼノヴィアの不満が復活して爆発した。ハンゾーのそれが解消された今、不公平しがらみを背負うのは彼女のみ。【流】の説明をしてやろうと思っていたボクをも遮り、ハンゾーを追い越しちゃぶ台に身を乗り出してまでボクに不満を主張した。

 

「フェルさん!やっぱり私も我慢できない!私にもまた修行をつけてくれ!」

 

 まあそう言うだろうなと、思ってはいたことだ。至近距離で叫ばれて帽子の中の耳がキンキンするも押さえるのは我慢して、ボクは代わりに胡坐の脚を組み替えつつ、面倒臭いのをあからさまなため息に変えて吐き出した。

 

「……シロネのレーティングゲームも終わったし、ボクたちすぐ人間界に帰りたいんだけど」

 

「べ、別に冥界での修行に拘りはない!夏休みの前みたいに私を修行に加えてくれればそれで――」

 

「ハンターの仕事もするから、ボクたち駒王町には留まれないにゃ。ゼノヴィア、キミは赤髪と一緒にいなきゃならないんでしょ?」

 

「う……それは……でも、なら白音はどうするんだ?彼女の修行も今日で終わりなのか……?」

 

「あ、いえ、ウタさまには私を召喚していただくことになってます。そこで修行をって……ほら、悪魔の仕事で使うチラシです」

 

 言いながら、一向に解かれる気配のないクロカの拘束の中で、苦労して取り出した小さな紙きれを示すシロネ。描かれた召喚用の魔法陣を利用するのだ。既にクロカは山ほどそれを渡されている。

 

 「もちろん部長には許可を取りましたよ」と付け加えられ、ならばと希望を見出したゼノヴィアの不安は見るからに明るくなった。

 

「それだ!フェルさんに私の召喚魔法陣を持ってもらえさえすれば、問題は解決じゃないか!ちょっと待っててくれ!今すぐ取りに行って――」

 

「だとしても、ボクがキミに修行をつけるかどうかは、全くの別問題なんだけどにゃ」

 

 正座から立ち上がりかけたゼノヴィアが途端に固まり、遅れてやってきた足の痺れが彼女の身体を横倒しにした。痺れと台詞とで悶絶する彼女を眺めながら、ボクは続けて希望と面倒を断ち切る。

 

「召喚だのをしてまでウタがシロネを教えるのは、気に入っているから。ハンゾーに関しては、ボクに後進のハンターを教える義務があるから。で、ゼノヴィア、キミにはそのどっちもないんだよ。キミはハンターじゃないし、ボクはキミが……というか悪魔が、嫌いだし」

 

「そ……そんなぁ……」

 

 刺激が来ないよう足を上げたままのおかしな体勢で、ゼノヴィアは弱々しく失意に落ちる。視線をその滑稽に固定させるボクへ、それでも諦めきれないゼノヴィアの口がゆるゆると動いた。

 

「じゃあ……こちらからまた修行の依頼を出したりすれば……」

 

「値上げするけど、赤髪にお金出してもらう?アレ、最近忙しいらしいけど」

 

「ぐ、うう……でも……でもでも……!頼むからどうにかしてくれフェルさん!私はまだまだフェルさんの下で学びたいんだ!」

 

 いよいよ悲壮感すらも纏って、ゼノヴィアはボクに懇願する。しかしボクの答えは変わらず、首を横に振った。

 

 嫌なものは嫌だとはっきり断じてやろうとした、その時。不意に再び正面の襖が滑って、開いた。

 

「それはよかった。なにせ数日は四六時中一緒にいることになるわけだからね」

 

 現れたのは曹操だった。最近お詫びとして買ってやった槍をこれ見よがしに肩に

担ぎ、いつも通りのにやけ面でニヤニヤ笑っている。

 

 クロカも気付いて振り向いて、うへぇといやそうな顔をした。

 

「うわ出た。曹操、あんたなんで毎度毎度【絶】して近寄ってくるわけ?キモいんだけど」

 

「心外だな。というか、ふむ、あの程度の【絶】にもお前は気付けなかったのか?それは仙術使いとして大丈夫なのかな、ウタ」

 

 すげなく返す曹操に、黒歌の眉が寄る。直った姿勢で首だけ振り返ったまま、不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「……っていうか、あんたって魔王からもらった土地、治外法権のなんとかってとこいるんじゃなかったの?大使館的なもの作るんだとか言ってたような気がするんだけど、なんでこんなとこにいるのよ」

 

「それはもちろん、お前たちに会いに来たんだ。直接報告しなきゃならないからな」

 

 何のことやらだ。クロカの表情にも訝しげが加わったが、曹操はまた笑むだけで、クロカに二枚の紙切れを差し出した。受け取ると、一つ咳ばらいをしてから演技臭い真面目な声色でボクとクロカを見下ろした。

 

「えー……プロハンター、フェル、及びウタ。堕天使コカビエル討伐の功績を称え、貴殿らを一ツ星(シングル)ハンターに認定する」

 

「……なに?シングル?」

 

「今後とも益々の活躍を期待する――という話なんだが……その反応、もしかして()を知らないのか……?」

 

 言いながら、己のハンターライセンスを取り出し見せる曹操。そこにはボクたちのそれにはない星が一つ刻まれている。

 

 曹操も星持ちハンターだったのか、と少しだけ驚くボクと、ついでにハンゾーだったが……やはりここにいるハンターの中で唯一一人、知らないのだろう。首を傾げて答えたクロカに、曹操の肩が力が抜けた。

 

「……星というのは、つまり称号さ。特定の分野で活躍したハンターに送られる証。名誉なことなんだぞ?」

 

 つまり、特に意味のないものだ。しかし大抵のハンターであれば目指す目標の一つであり、曹操の言う通りの名誉だろう。

 

 ハンターであれば誰もが知っているだろう星の制度。ボクたちにとっては特にありがたいものではないが、それを抜きにしてもクロカは未だピンと来ていない様子だった。そのことと、わざわざ報告までして伝えてきたくだらなさで気が抜けたボクに肩をすくめてみせてから、曹操はクロカへ続けた。

 

「お前の大好きなゲーム風に言えば、ランクが一つ上がったんだ。お前たちが有能だという証明書さ。よりいい依頼、より重要な仕事を任されるようにもなったんだ。名指しの依頼だって増えるだろう。半分協会専属ハンターであるお前たちにはいい知らせだと思うんだがね」

 

「それってつまり……パリストンに仕事の仲介料とか取られずに済むってこと?最高じゃない!……それに曹操、知らなかったけど、もう力でも権力でも私を見下せなくなっちゃったわねぇ……!」

 

 ようやく理解したクロカは一転して喜びの声を上げた。膝の上で喜びを共有するシロネにさらに気をよくしたのか、煽りまでして得意げな笑みを浮かべる。

 

 だがまあ仲介料や指名依頼と同じく、そううまくはいかないようだった。

 

「力は俺の方が上だし、権力に関しても今まで通りさ。なにせ俺も昇格した。お前たちと同時に、俺は二ツ星(ダブル)ハンターなるわけだからな」

 

「……星とかクソだわ」

 

 鮮やかにカウンターをもらってしまい、不貞腐れた顔へ戻ってしまうクロカ。ボクとしては慰めか、笑って流してあげるべきなのだろうが、しかしこの時ボクの頭には一つの条項が浮かんでいた。それを、曹操に告げる。

 

「そういえば……二ツ星(ダブル)ハンターに認定されるための条件に、弟子が(・・・)一ツ星(シングル)ハンターに認定されること、っていうのがあったよね。もしかして……」

 

「想像の通りさ。だからお礼を言っておこう、フェル、ウタ。優秀な弟子を持って俺は幸せだよ」

 

 なんとも白々しい物言いで、曹操はボクとクロカを己の弟子だと言い切った。

 

 もちろんそんなわけがあるはずがない。だがしかし、そんなボクたちの認識が他人と共通したものであるわけでもないのだ。

 

「え!?二人って曹操の弟子だったのか!?ってことはオレらは孫弟子……?」

 

 ハンゾーが目を丸くして、ゼノヴィアとシロネも言葉はないが驚いた表情。知らない人間には嘘も真実で、つまりこうなる。

 

 思い至って踏み止まったボクとは対照的に憤慨を露にしたクロカが、わなわな震えながら肩を膨らませた。

 

「だっ、誰がこんなやつの弟子なんて!逆ならともかく、気持ち悪いこと言わないでくれる!?」

 

「だが色々と教えてやっただろう?【念】も拳法もハンターとしての心得も。なんなら何度も修行相手だってしてやったじゃないか」

 

「だから逆だってば!私たちがあんたを鍛えてやってたんでしょ!それに拳法とかだって全部押し売りだし、ほんとにあんたに弟子入りしたつもりなんてこれっぽっちもないんだけど!?」

 

 だが他所から見れば、先輩ハンターである曹操と後輩ハンターであるボクたちのその関係。師弟の間柄であることに不自然はなく、とすれば師は先輩のほうと思えるだろう。

 

 少なくとも、そう取ることは可能だ。今まで何かとつけて妙に絡んできたのは、そう言い張るためでもあったのかもしれない。

 曹操の昇進のために体よく使われてしまったわけだ。クロカのようにムカッとしないわけではないが、だが正直、どうでもいいという無気力な思いが大きかった。

 

 ゼノヴィア然り、やはり何もかも気が重い。ボクは何度目かもわからないため息を吐いた。するとクロカの苛立ちを得意げな顔でからかっていた曹操が、ハンゾーが寝そべっていた座布団の山から一枚を引き抜き、その上に腰を下ろして意識を移した。

 

「ま、認めないでも構わないさ。そうなるだろうことはわかってた。その代わりと言っては何だが、フェル、ウタ、いい仕事を持ってきたぞ」

 

「それは……最初に言ってた『四六時中一緒にいることになる』って話?」

 

 曹操は頷いた。孫弟子のまま話題に置いて行かれているゼノヴィアを横目にして、手の槍を隣に寝かせた。

 

「彼女らが、もうすぐ修学旅行の季節だろう?行き先が京都だ」

 

 それだけで、ボクは何となくその“いい仕事”とやらを悟った。恐らく悪魔への嫌悪感が薄れておらず、むしろ激化しているだろう京都を治める妖怪たち。だというのにゼノヴィアたち、赤龍帝や聖魔剣がそこを訪れるとなれば、それが必要だろう。

 

「期間の間、駒王学園二年生の悪魔たちを監視、警護する。言ってしまえば、それだけの仕事なんだが」

 

 重要だ。少なくとも京都の妖怪たちの長、八坂にとってはそうであるだろう。故に“いい仕事”と曹操が称したことにも納得がいったが、しかしゼノヴィアにとってはそうも言い難い内容であったらしい。一拍あってから、ようやく足の痺れから脱して身体を起こした。

 

「確かに、そういえばそんな行事もあったように思うが……警護はわかるとして、監視というのはどういう意味だ曹操!」

 

「……興味のない学園行事を思い出したのは素晴らしいが、もう少しだけ考えてみるべきだな、ゼノヴィア」

 

「む……なんだと?まさか曹操、お前も私をバカにしているのか……?」

 

 と顔をしかめるゼノヴィアに、曹操はシロネを眼で示した。気まずそうにしているその様子でゼノヴィアも京都でシロネが浚われた事件を思い出したらしく、途端に威勢のよさもなりを潜めた。

 

 それに加えて引き起こされた悪魔への不審。曹操は全く悪びれもせず頷いて、胡坐の膝に手を置いた。

 

「悪魔が京都を訪れる際、事件を防ぐために必ず第三者の監視を付けること。あの事件の後、妖怪たちの不満を抑えるために八坂殿が魔王との間で定めた法だ。その受注先が俺たちハンター協会、というわけさ。俺たちはどちらの勢力にも寄らず中立……つい最近そうとも言えなくなったわけだが、今までそれが慣例的に続いているわけなんだ。恐らく近いうちに見直されるだろうが、不安定な最後の一度を当事に解決まで導いたフェルとウタに、とね」

 

 二人なら妖怪たちの反感も少ないだろう。何より八坂の娘の九重が懐いているし。そんな思惑が透けているが、やはり反感はわかなかった。

 

 それに、考えてみれば今のボクには都合がいいかもしれない。

 

 その間にクロカも弟子呼ばわりの苛立ちを沈め、ぶすっと表情を曇らせながらも、曹操が提示した仕事へ肯定的なふうに鼻を鳴らした。

 

「前の話が無きゃケチもつかなかったんだけど、でも確かにいいんじゃない?気分転換にもなるし。あ、でもゼノヴィアの修行は別よ?」

 

「……だろうとは思ってたけど、言うのは聞くまで待って欲しかったぞ……」

 

 さりげなくワクワクしていたゼノヴィアの希望を踏み潰し、しかし欠片も慮ることなくクロカは続けて訊く。

 

「で、その修学旅行ってのは何時にあるの?二年生ってことは白音は行けないわけだから、その間までだけど一緒――」

 

 だがボクが、クロカの言葉を遮った。その先を止めて、思わず天井を見上げながら、言った。

 

「ボク一人でやるよ、その仕事」

 

「――え?」

 

 クロカが呆けたような声を出した。息をついて視線を戻せば他の全員もあっけにとられたような顔をしている。

 

 それらはすべて無視して、ボクはゼノヴィアに続けて言った。

 

「修行も、いいよ。ハンゾーのついでに面倒見てあげる。そもそも念能力はボクの担当だったわけだしさ、シロネが関係ないのならウタまで巻き込むこともにゃい。別にいいでしょ、曹操?」

 

「……まあ、構いはしないが……」

 

 さらに曹操へ振ってやると、彼は歯切れ悪く了承を返す。とはいえ、と向けた視線の先のクロカは、ボクの意思に言葉を定められずにいた。

 

 その内に、クロカよりもはるかに単純な成果を得たゼノヴィアが、一気に喜びを爆発させた。

 

「ほ、本当かフェルさん!聞き間違いじゃないよな!?今、私にも修行をつけてくれると……!」

 

「うん、本当だよ。修学旅行の間だけだけどにゃ」

 

「それだけでもありがたい!……そうか、また学べるんだな!そうと決まれば俄然修学旅行が楽しみになってきた!ハンゾー!さっそくいつ出発なのかを部長に聞きに行くぞ!」

 

「は?オレも?……ってお前、問答無用で引っ張んじゃねー!オレはその修学旅行には直接関係――ってやっぱり力つよ――じゃなくてゼノヴィア話聞けよ!せめて引きずるんじゃなくて一旦立たせて歩かせてぇー!」

 

 と、歓喜のあまりにじっとしていられなかったゼノヴィアは、お共にハンゾーを引きずりながら、瞬く間に部屋から出て行った。どたどたうるさい足音とハンゾーの断末魔が、みるみる遠ざかっていく。

 

 ボクが唆したわけではあるが、落ち込んだり喜んだり、びっくりするほど忙しない奴だ。呆れ半分で見送るボク。しかし曹操はその間ずっと伺うようにボクの眼を凝視していて、そして足音と断末魔がとうとう聞こえなくなった頃、静かにまばたきをして腰を上げた。

 

「俺も、もう行こう。仕事の件はこちらで手続きをしておく」

 

 短く言って、開けっ放しになっていた襖を潜り、閉じた。音もなく消える気配。部屋はボクとクロカとシロネだけになる。

 

 クロカと、たぶんシロネにとっての“家族”のみになって、ようやくクロカは発するべき言葉を決めた。

 

「私……ピトーが悪魔に抱いている憎悪のこと、わかってるつもりよ……?」

 

 シロネも、顔色を悪くしながらも頷いた。恐る恐るの空気感はクロカをも包み込みながら、不安に歪んでいく表情から告げられるのはその否定。

 

「その憎悪が、簡単に消せるものじゃないことも。でも何があっても、もしピトーがそれを消すことができなくても、私たちはずっと、ピトーのか――」

 

 ボクはまたしても、それを制した。

 

「わかってる。大丈夫だよ、そんなに心配にならなくても」

 

「ピトーさま……」

 

 苦しげに眉を歪めたシロネにあるのは負い目のようなものだろう。あの時、宮殿の地下でクロカと何を話したのかは聞かなかったが、それはどうやらボクが見据えた未来には繋がらなかった。

 彼女はボクからクロカを奪い返すのではなく、ボクに自身を認めさせようとした。ボクまでもを救いたいと、そう考えてしまったようなのだ。

 

 ボクの“キメラアント”を弑し、これ以上もう誰にも“家族”を捨てさせないために。

 

 示して、そして今のボク。クロカを拒絶するかのような言葉。それを引き出し、直面させてしまったことへの負い目が、彼女を俯かせている。実際、心の内には否定のしようがないほど明らかに、クロカの下にいるシロネへの抵抗が存在していた。

 

 だが、それを受け入れてしまうわけにはいかない。だから続ける。

 

 ボクが欲しいのは“家族”という名の、クロカが望む形の繋がり。それ以外を欲してはいけないのだから、ボクはシロネへの気持ちと一緒に深く息を吐き出した。

 

「……そのうち慣れるよ。しばらくはまた悪魔に囲まれることになりそうだし、克服の環境にはぴったりだにゃ。それより、せっかくの機会なんだから、二人は二人で遊んで来れば?ほら、この前のあのゲーム、グリードアイランド」

 

 念能力者専用のゲームらしいから、きっと修行にもなるだろう。その意図も含めて努めて自然に言ったつもりだったが、内心の闇はクロカどころかシロネにまで悟られたようだった。揃って暗い表情。空気が重くなる。

 

 だがやがて、憂いを含んだ微笑みでクロカが了解を口にした。

 

「……わかった。そうするわ。ピトーが私たちを好きになれるまで……待ってる。悪魔なんだから、何万年だって」

 

 そうだ。きっといつかは、時間の流れが遠ざかってしまったクロカを取り戻してくれる。シロネへの嫌悪も悪魔への憎悪も洗い流し、そしてやがて、

 

 “王”のことも、忘れさせてくれるだろう。

 

 ――それでいいのか。

 

(それでいいんだ)

 

 口を閉ざして、喉の奥の淀みを呑み込んだ。




次話より京都再訪編(二秒で命名)です。
感想ください。


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二話

 遠くで響いた列車のブレーキ音を、帽子の中の耳が捉えた。広い構内で反響し、続いて空気が吐き出されると共に、開くドアの駆動音と靴音もが聞こえてくる。

 

 それらを認識して、占領した壁際の石スツールに身体を沈みこませながら、ボクは隣でぼーっと突っ立っているハンゾーへ口だけを向けた。

 

「新幹線、着いたみたいだにゃ」

 

「さすが、よく聞こえるな」

 

 腕組みが解け、顔が持ち上がった。構内側の電光掲示板を見やり、次いで時計を一瞥する。得た情報は彼の期待と一致して、安堵と共に疲れの滲んだため息を混ぜて、ボクへ冷たい横眼を向けた。

 

「時間ぴったし、なら一誠たちで間違いねー。はあ……ようやくだぜ。だから言ったんだよ、我慢して一緒の列車に乗りゃあいいだろって。どーせ三日間も監視でべったりなんだから数時間くらいなんでもねーだろ?なのにわざわざ一本前ので来て待ってるなんてよ」

 

「……うるさいにゃあ、車内の狭い空間でっていうのがヤなんだよ。修学旅行のアイツらを見張るのとはわけが違うにゃ」

 

 ボクは気怠い身体の首だけをハンゾーに向け、不機嫌とで折半した半目で睨みつける。話題だけで精神がすり減らされていくのを自覚しながら、構内の奥の気配から意識して注意を切った。

 

 ほどなくしてその努力をふいにし、ボクの前に現れるだろう“アイツら”。ゼノヴィアたちが修学旅行で京都を訪れるその当日が、まさに今日のこの時間だった。

 同じく監視、警護する仕事が始まるのも、もちろん今日。だからボクは言葉の通りの理由で先んじて京都へ移動し、他の学園生徒と共に新幹線で到着する悪魔どもを駅の出入り口で待ち構えていた。

 

 しかしそれに付き合い、ボクと共に奴らを待つと決めたのはハンゾー当人なのだ。別にボクが強制したわけではない。だからボクは続け、これ見よがしに息を吐き出し投げやりに言った。

 

「そんなに嫌ならキミ一人でアイツらと来ればよかったのに。ボクと違って悪魔なんて平気でしょ、ハンゾーは。赤龍帝なんかとは仲もいいし」

 

「……師匠ほっぽり出して弟子が勝手するわけにいかねーだろ。生徒のゼノヴィアはどーしようもねーけど、あいつの分も媚び売ってんだよ」

 

「……ああ、そう」

 

 真っ当な正論のつもりであったがしかし、案外と真面目な反論を返してきたハンゾー。それを言葉通りに受け取るなら、つまり師匠冥利に尽きる……のだろうか。ただしそれがボクを思ってのことなのか自身の矜持に従ってのことなのかは一考の余地がある。故にそれきり、黙ったままハンゾーからも注意を外した。

 

 代わりにあくびをして、居住まいを直す。硬いスツールで凝った身体に再び楽な姿勢を見出すと、ふとその時、ハンゾーとは逆の傍からくつくつと隠す気のない忍び笑いが割り込んだ。

 今度はそっちに首を傾けてやれば、肩を震わせ笑いを抑え込んでいる曹操の姿が眼に入った。

 

「フェル、褒めてやればいいだろう。師匠思いな弟子を持ってよかったじゃないか。なあ、ハンゾー?」

 

「……やっぱこの周辺、誰も彼も性格わりーな」

 

 槍をしまったギターケースを椅子代わり壁に立てかけ、引っかけるようにして座っているために視点は高い。ハンゾーの力ない嘆きもあれど、笑いも相俟って見下されているようで、ボクは不機嫌を露に睨めつけ、鼻を鳴らした。

 

「オマエこそ、来なくてよかったんだけどにゃあ」

 

 ハンゾーはともかく、奴は数日前までの段階ではここに来る理由のない人間だった。

 

 ハンゾーのようにボクの指導が欲しいわけでもないし、監視の仕事はボク一人が受けたもの。そして何より、クロカすらも置いて一人でやると言ったボクを、一番に了承したのは奴であるのだ。その内側、一旦一人で自身のキメラと対峙したいのだという内心も、奴はわかってくれているものだと思っていた。

 

 のだが、奴はほんの数日前にいきなり口を出し始めた。俺もフェルの仕事に連れて行け、と。

 

 曰く一人で監視するには悪魔の数が多いから、ということ。これは正直ボクも言われるまで気付かなかったのだが、修学旅行に赴く駒王学園の悪魔は、ゼノヴィアや赤龍帝たちだけではなかった。

 

 二月前に学園ごとコカビエルを結界で覆っていた一団、最近ではシロネのレーティングゲームの対戦相手であった連中だ。あの転生悪魔たち、駒王町を巣とする悪魔のもう一派であるソーナ・シトリーとかいう純血悪魔の下僕たちも、学園に通う生徒の一人だったのだ。

 その中で修学旅行に参加する二年生は五人。ゼノヴィアたちと合わせれば九人だ。確かに一人で連れ歩くには些か多い。そんな論調で、曹操はいつの間にかボクの仕事にその身を無理矢理食い込ませていた。

 

 いい気なんてするはずもない。しかし依頼を受けただけのボクはそれを拒絶できるような立場ではもちろんなく、そして結局曹操はここにいる。奴もボクに付き合って悪魔たちの列車には乗らなかった辺り配慮はあるようだが、それで帳消しできるものでもない。

 だからそうまでしてねじ込んだ胡散臭い理由は、どうせまた悪いことの建前か何かなのだろう。企みにはもう慣れっこだが、巻き込むのは勘弁してほしいところだ。

 

 結論として益体のないため息に着地して、ついでに顔から不機嫌の色も下ろす。最後にため息で振り払って、ボクは姿勢の崩れ切った身体を起こし、胡坐をかいてぼーっと正面、見覚えのある制服を着た人間らが混じり始めた人波を見つめた。

 

「何なら半分はハンゾーに見張らせたのに。人手が余っても暑苦しいだけにゃ」

 

「日が暮れればちょうど良くなるだろう。今は構内の熱気と外の放射熱が合わさってるだけさ」

 

「あー確かに、最近は地球温暖化もあってこの季節でも結構……とかいう話じゃないような……っていうことでもなくて!え!?フェルお前それ、オレ下手したらただ働きされてたってこと……?」

 

 やっぱ性格……、といつも通り大げさにがっくり肩を落としたハンゾーが視界の端に映る。反射的に眼が動きを追っていた。

 

 だからその瞬間、何の偶然か眼と眼が合ってしまった見知った青髪が、ボクたちを見つけて周囲に構わず大声を上げていた。

 

「フェルさーん!」

 

 ぶんぶん手を振り、割れた人波の間を突っ切って駆け寄ってくる転生悪魔。ゼノヴィアは、周囲の注目のすべからくを引き連れ、たちまちボクたちの傍までたどり着くと、目を煌めかせて勢いよく言った。

 

「おはよう!いや、もうこんにちはか?とにかく、いよいよ今日の夜からだ!よろしく頼む、フェルさん!」

 

 そして台詞と同じくらい勢いよく頭を下げる。その背に遮られていた奇異の視線がそのままボクたちへ到来し、さすがにいたたまれなさで喉が鳴った。

 

「……キミさ、自分が人間界では正体隠さなきゃいけない種族だってこと、忘れてるよね。どうして自分から目立とうとするの?」

 

「え?あ……そ、それは、修行のことを考えると嬉しくて、つい……」

 

「それと、ボクの名前を大声で呼ぶのもやめてほしいんだよね。仮にもハンターなんだよ、ボク。目立ちたくないのはキミら悪魔と一緒、と思ってたんだけどにゃあ」

 

 呼び戻した不機嫌で落胆し、肩を落としてみせる。ゼノヴィアはその様子を眼に映し、たちまちしゅんと身体を縮めた。

 

 彼女をあれほどまで――まあ平常運転かもしれないが――狂喜乱舞させた修行、ボクと交わした約束は、しかしあくまでハンゾーのついでだ。契約があるわけでもなし、ボクの気分次第でいつでも反故にされるようなものでしかない。その考えなしっぷりに反して、恐らく今までのボクの態度から常に意識させられていたのだろうこの危惧が、だから、高かったゼノヴィアのテンションを一変させた。

 

 縮まった身体の肩をぴくりと跳ねさせ、恐る恐るにボクの顔色を伺い、明らかにおっかなびっくりなご機嫌取りを開始した。

 

「ええっと……そ、そうだ!フェルさん、う、上着を着るにはまだ早くないか?外も日差しがきつくて暑そうだし、脱ぐなら、わ、私が持つぞ……?」

 

「別にいいよ。脱がないから」

 

「そ……そうか……」

 

 出ばなから挫かれて、おずおず差し出した手をゼノヴィアは引っ込める。前へと傾いていくその顔には、もはや絶望の色すら見えた。

 

 本当に忙しないやつだ。実際、暴走しやすい彼女の危惧などボクの内にはない。故にまあお仕置きはこのくらいでいいかと、ボクは話を修学旅行のそれへ戻し、他のメンバーの所在を尋ねようとした。

 

 がするまでもなく、割り込んできた気持ちの悪い声に黙り込んだ。

 

「ぬ、脱がない!?それはいけない!我慢しちゃ身体に悪いっすよフェルさん!そうだから、全部脱いじゃいましょうよ!そしてそのお召し物をお預かりする役目はぜひ俺に――ん゛か゛ッ!!」

 

 赤龍帝だった。ゼノヴィアにぶん殴られていた。

 

 沈黙し、さらに首をホールドされて、これ以上ボクの機嫌を悪化させたくないゼノヴィアによって必死の説教が開始される。声を潜めながら怒鳴るという器用なことをする顔色に、些か戻り過ぎではあるが赤みが戻った。

 

 とても褒められないような赤龍帝の介入だったが、まあゼノヴィアを意気消沈から引き戻したのだから構うまい。寸劇に微妙な顔をする曹操とハンゾーを横目に、ボクは腰を上げてスツールから降りた。赤龍帝の後ろに続いてきた他の悪魔ども、聖魔剣と金髪に、続いて意識を向ける。

 

 咳払いを一つして空気を切り替えてから、言った。

 

「道中、列車の中でも問題とか起こしてないよね?土を踏んでなくても妖怪のテリトリーなことは違いないんだから」

 

 ボクが見張る予定の残りの二人、特に聖魔剣のほうが露骨に身を固くした。金髪をボクから守るかのように進み出て、眉が僅かに警戒に傾く。

 

 それはもちろん好かれているとは思っていないが、しかし以前、冥界で修行が始まる前に会った時までは、少なくとも味方としては見られていたはずなのだが……何か嫌われるようなことをしただろうか。

 

 思い当たる節はなく、ならばどうでもいいと、ボクは黙りこくってじっと凝視してくる聖魔剣から眼を外し、改めて金髪に向けた。

 

「で、どうなの?ボクはオマエ……キミらを捕まえるべき?」

 

「あっ……い、いいえ!皆さん、おかしなことは何も……。イッセーさんも、ずっとトレーニングをしていらっしゃったので、その……い、いつものようなエッチなイタズラも、なさってはいませんでしたし……」

 

 喉の引っ掛かりを呑み込み言うと、その日常的らしい“エッチなイタズラ”を想起したのか、緊張から羞恥が顔に上っていく金髪。微かな敵意の滲む聖魔剣にすら気まずげな顔にさせた元凶は、ゼノヴィアの小言から抜け出して、疲れ切った声色を吐き出した。

 

「筋トレ、した(・・)っていうかさせられた(・・・・・)んだけどな。ゼノヴィアがご丁寧にダンベルまで用意してきやがったんだよ」

 

「ちょうどよかっただろう?狭い空間で、座席に座りながらでもできるトレーニングだ。まさか通路で今までのように腕立て伏せや腹筋をするわけにもいくまい」

 

「だからそうじゃなくて!そもそもなんで俺まで筋トレさせられなきゃならないんだよ!?修行ってのはお前とハンゾーの話だろ!?俺はもうこりごりだぜあんな地獄!」

 

 夏休み前までは強くなりたいと吠えていたのに、すっかり心が折れてしまったらしい。僅かながら恐怖心の眼がボクを掠める。そしてその心境の変化はゼノヴィアも承知していることのようで、声調は説教終わりで落ち着かせたまま、冷やかに弱気を憐れんだ。

 

「しかし、お前はハーレム王?とやらになるんだろう?上級悪魔となって眷属をもつには、やはり“力”が必要だ。が、足りないことは以前のレーティングゲームでわかったはずだ。私はその手助けをしてやっているつもりなんだが」

 

「いやお前の戦績で言われても……っていうか、やり方が極端なんだって!そりゃ、朝とかのトレーニングは真面目にやるよ。でも……今は修学旅行中なんだぞ?一生に一度しかない高二の思い出なんだぞ?そんな時まで腕を筋肉痛にしたくねぇんだってば!」

 

 赤龍帝は迫真の訴えと共に、痙攣する己の両腕を突き出してみせた。服越しにも以前より筋肉が付いてきたことは見て取れるが、それでもこの有様。どうやらゼノヴィアはほとんど休憩を入れさせなかったらしい。

 

 もしかせずともボクの影響なのだろうか。「なあ見てくれよ酷いだろ?」と必死に同情を買おうとする奴だったが、弱音は聞き慣れているようで、仲間のことごとくは心を鬼に見て見ぬふりをする。唯一ハンゾーだけが友の憔悴に心を痛め、「ならこの兵糧丸を」と懐をまさぐった。

 いつかに見た光景。だがその時、またまた別の声がその間を割り、ボクの視界に入り込んだ。

 

「ま、そのおかげで俺は若干楽できたんだけどな」

 

 赤龍帝の一行に続き、出入り口を行く人波に増え始めた学園の制服。その中の一団が、ボクたちを見つけて向かってきていた。

 五人のうち唯一の男が、落胆に落ちた赤龍帝の肩に手で叩いた。

 

「三馬鹿も、お前がいなけりゃ口ほどにもないな。悪魔の力を使うまでもなく成敗してやったよ」

 

「な、なにぃ!?てめぇ、松田と元浜に何かしやがったのか!?」

 

「いつも通りだよ。記念撮影用のカメラのビデオ機能でこっそりエロい動画見ようとしてたから没収した。どうやら連中、お前を見捨てて二人だけで楽しむつもりだったらしいぞ」

 

「な……んだとぉッ!?あいつら、俺を見捨ててそんな……ゆ、許せんッ!!……だが、お前が奴らの抜け駆けを止めてくれたんだな?ありがとう、匙!今回ばかりは礼を言うぜ!」

 

 そう、確か名前は匙といったか。以前に見たシロネのレーティングゲームで対戦相手の一人だった神器(セイクリッド・ギア)持ちの転生悪魔だ。

 曹操と同じブリトラ系列のそれを宿す彼は、嘲ったはずなのに感謝を向けてきた赤龍帝に頬を引きつらせ、咳払いで誤魔化した。それからボクと、そして曹操に意識を向け、背筋を伸ばす。

 

「それで……お二人がフェルさんと曹操さん、ですよね?今日から三日間、よろしくお願いします」

 

 そして礼儀正しく頭を下げた。一緒に付いてきた女生徒四人、同じく試合で見覚えのある転生悪魔たちも続いて腰を折った。

 

 彼らもまた、ボクたちの監視対象だ。あの学園に巣くうもう一派の悪魔、魔王セラフォルーの妹の眷属たち。そこにも当然二年生、修学旅行に参加する者はいた。

 曹操が今年は人数が多いと言ったのは、まさに奴らが理由だった。ゼノヴィアたちと合わせて計九人は、確かにまとめて連れるにしても手に余るかもしれない。

 

 だからやはり曹操がでしゃばるのは仕方のないことで、奴は顔を上げた悪魔たちに微笑を返し、見渡した。

 

「ああ、こちらこそよろしく。これで全員そろったね。じゃあ、そうだな。ソーナ・シトリー……いや支取蒼那殿の生徒会メンバーは俺が、リアス殿のオカルト研究会メンバーはフェルが付くことにしよう。ハンゾーも一緒だ。気心が知れた相手の方が、お前もやりやすいだろう」

 

「気心なんて、そんなのあるわけないにゃ」

 

 とはいえ別に反対する理由もない。悪魔と行動を共にすることはどちらにせよ変わらないのだから、それだけ言って口を閉ざす。了承を受け取った曹操はギターケースを持ち上げながら、何かを締め付けたようなはっきりした調子で頷いた。

 

「さてそれじゃあ、さっそく出発しようか。確か夕方までに宿に帰ればいいんだったか。荷物は……ああ、そうだった。宿の者が運んでくれているんだったね」

 

「そうだ。古い旅館らしいんだが……“オモテナシ”というやつだろう?サービスがいいな!」

 

 それが妖怪による体のいい荷物検査であることなど知らないゼノヴィアが、ボクの方を見て眼のきらめきを取り戻し始めた。曹操はそんな彼女と周囲の全員を見回して、ここよりはマシな炎天下の外へ身体を向けた。

 

「全くだ、同じところに宿を取っておいてよかったよ。……さてシトリー眷属諸君、まずはどこに行ってみたいか、希望はあるかな?地図は頭に入っているから、多少の案内はできるよ」

 

 と、曹操は人当たりのいい声を作り、いつかの吸血鬼を篭絡した時のような顔で悪魔どもに微笑みかけた。効果はてきめんで、特に女四人は初対面の相手に抱く緊張というものもすっかり忘れ、男のほうも礼から続いた肩の強張りがなくなった。

 そして、もちろん行程の計画は決めてあったのだろう。曹操のそれに応えるべく、男の口は淀みなく開いた。

 

 だが言葉が出る前に、突然飛び出してきた二人の人間(・・)が、男にラリアットを食らわせていた。

 

「オラァッ!逃がさんぞ匙ぃ!」

 

「貴様俺のカメラとお宝動画、どこに隠したッ!」

 

 曹操に気を取られて不意打ちで、しかも喉に入ってしまったために、転生悪魔の身でもそれなりに効いたらしい。悶絶する彼に、新たに現れた坊主頭の男とメガネの男の二人は鬼気迫った迫真の形相で、さらに胸倉を掴み上げた。無理矢理立ち上がらせて、血涙を流さんばかりに見開かれた目で詰め寄った。

 

「宿の人が持ってこうとしてたお前の荷物の中にはなかった!ならお前の手元にあるはずだ!違うとは言わせないからな!」

 

「あれはなぁ、元浜がテレビ画面を二時間も直撮りして作り上げた、汗と涙の結晶なんだよ!リビドーの中で手振れを抑えるのがどれだけ大変か……匙!お前にわかるのか!?」

 

「ゲホッ、ごふ、ぐ……わ、わかるも何も、そんなものを持ってくるお前らが――」

 

「そんなものだとぉッ!?てめえ、こいつの苦労を……ッ!そんなもの扱いか!?お前にんなこと言う資格があるのかよ!?」

 

「そうだぞ匙!松田の言う通り、いくらお前が生徒会の一員だったとしても、言っていいことと悪いことがあるだろ!エロは男の夢、男のロマン!……俺のことはいい。だがエロに対してその態度は何だ!同じ男として、誇りを持って戦えよ!そうでなけりゃ、お前に俺たちの夢を邪魔する資格はないッ!!」

 

「そうだ!返せ!なにはともかく俺にあの脱衣シーンの続きを見せろ!資格のない奴にあの動画は渡さねぇッ!!」

 

「――資格がないのは、お前らだああぁぁぁっ!!」

 

 理解不能な男三人の戦いは、とうとうキレた赤龍帝によって唐突に終了した。

 人間二人、話に聞く松田と元浜の首を後ろから、落とす一歩手前くらいに腕で締め上げている。おかげで二人は、自分を除け者にして観賞しようとしていたことに怒り狂う赤龍帝へ、何の弁明もできずにタップしていた。

 

 人間なのだから助けてやるべきかもしれないが、しかし三人は友人であるようだし元々罰を受けるべき行いだし何よりすべてが低俗すぎるしで、ボクも曹操もハンゾーも手を出す気になれない。お仲間の女たちもドン引きの様子で、唯一騒動の外にいる聖魔剣は関わりたくないかのように眼を逸らしている。

 

 お手上げだ。がそこに、救世主たるおさげ眼鏡の女生徒が現れた。

 

「まーまー兵藤、気持ちはわかるけどそこら辺にしときなさいよ。二人とも、股間膨らませる間もなく取り上げられちゃってるんだから」

 

 救世主だが、コイツもまた低俗だった。だがその人間の女が告げた事実は赤龍帝を幾分冷静にしたらしく、キョトンとして緩んだ腕から、松田と元浜は無事脱出することに成功した。げほげほ咳き込む二人に気まずげな眼を落としながら、赤龍帝は呟くように訊く。

 

「それ……ほんとか?なあ匙、どうなんだよ……?」

 

「……たく、言っただろ、『大したことなかった』って。精々十分かそこらじゃないか?」

 

「ま、マジか……」

 

 そこで表情が完全に申し訳なさそうなものへ切り替わった。地面を舐める松田と元浜の傍に屈みこみ、無駄に悲愴感のある謝罪を始める。

 

 何故だか三人分の泣き声まで混ざり始めるそれは一層理解不能で、とうとう興味の尽きたボクはそれらから眼を離した。理解が及ばないほどの性への執着を持つ存在は赤龍帝くらいだろうと思っていたが、もはや疑いようもない。奴らも同類だ。世界は広いということだろう。

 となればおさげ眼鏡も怪しく見えて、ついうっすらと警戒心を抱いてしまう。こちらに移動してくるその手足を意識してしまう中、彼女の眼鏡越しの視線を受け止めた。

 

 彼女は値踏みするみたいにボクの身体を眺めると、一つ息を呑みこんでから、どこかぎこちなくも見える微笑を向けた。

 

「それで、あなたが件のフェルさん?ゼノヴィアっちの御師匠さんなんだとか。そっちのスキンヘッドが弟弟子(おとうとでし)のハンゾーで、イケメンさんが……師匠の師匠?まあよくわからないけど……ああ、私は桐生、桐生藍華。今日から三日間、あんな奴らも一緒だけどよろしくね」

 

「ああ、うん、よろしく。……ところで」

 

 今日から三日間って、いったい何のことだ。

 

 ボクはこの三日、ゼノヴィアたちを監視するだけであるはずだ。人間である彼女は関係がない。しかしその言いぶりは、もしかしたらそうではなく……。

 

 唐突に降ってきた疑念は、訝しげな桐生から逃れてたどり着いたゼノヴィアによって、またも悪くなる顔色を対価に回答された。

 

「ええっと、その……い、イッセーがな?私たちには京都を案内してくれる人の伝があると、そういう風に言ってしまって……」

 

「……それで私、てっきり今からいいとこ連れて行ってくれるんじゃないかと思ってたんだけど……あれ?もしかして、何か勘違いしちゃってた?」

 

 首を傾げる桐生。なるほど、またあの変態が原因か。

 

 彼女のフランクな態度を見るに、ハンターだとかの秘匿すべき部分はきちんと隠したようだがしかし、そもそもなぜしゃべるのか。嫌がらせなのか。

 

 どちらかといえば奴がバカであるという線が濃厚だが、ともあれそういう話になっている以上、ここで勘違いを肯定するのも不自然だ。断る理由を考えるのも面倒だし、人間の三人くらい、加えて連れても問題はないだろう。

 ボクは号泣しながら二人と肩を組み和解を果した赤龍帝に冷たい眼をやってから、半分投げやりに声を押し出した。

 

「……まあ、確かにキミたちも一緒って言うのは聞いてなかったけど、別にいいよ。三人増えても何かが変わるものじゃないし、案内してあげるよ。……ハンゾーが」

 

「えっ!?オレ!?」

 

 だって日本人だろう。言外にそう言って押し付ける。

 

 思いもよらぬ攻撃を受けたハンゾーは、集まった注目を挙動不審に見回して、ボクに顔を寄せるとこっそり否定を主張した。

 

「オレは確かに日本人だが京都人じゃねーんだよ……!それにここらは五大宗家って組織の管理下で、オレたち忍者も大っぴらに活動が――」

 

 と、既知のことを必死に説明するハンゾーの口を、ボクは続いて冊子を押し付けることによって物理的に黙らせた。

 

 “京都観光ガイド”のタイトルを眼で読ませ、有無を言わさずその背中を押しのける。

 

「友達なんでしょ?頑張って付き合ってあげなよ」

 

「……マジでマジかよ」

 

 ボクと曹操は奴ら悪魔の監視の仕事。ならハンゾーも、少しは働いてしかるべきだ。

 そんな半ば以上のこじつけを以てして、悪魔たちの修学旅行はスタートした。

 

 

 

 ハンゾーは人間三人の目を縫ってガイドブックにかじりつきながら、赤龍帝が作ってしまった案内役の姿を、どうにか演じ続けていた。

 

 到着したばかりの初日故に近場の観光名所を回るだけで済んだのは、彼にとって幸運だっただろう。カンニングしつついくつかのうんちく披露し終え、やっと混雑する土産物屋の通りにたどり着いた今、明らかにほっとした表情を浮かべている。

 それに少々申し訳なさそうな顔をしながら何やら話しかけている赤龍帝と、同じく会話に混じっているも、どうやら売られている土産物の木刀に興味を引かれている様子のゼノヴィア。そしてその落ち着きのない子供っぽさに楽しげな微笑を見せる聖魔剣と金髪に加えて何やらニヤニヤしている松田と元浜の後姿が、ボクの二十歩ほど先を歩いていた。

 

 その集団が、ゼノヴィアの好奇心のせいでショッピングに惹かれたのか、傍で大きく店先を開いた土産物屋へまとめて入って消えていく。見張るボクは、訪れた一時の休憩に大きく息を吐き出した。

 

 人ごみと土産物屋と京都の通り。いかんせんシロネを探し回っていた時のことを思い出してしまう。

 首を振って早いうちに心痛を追い出し、突き出た軒先の日陰に寄って足を止めた。一息つこうとしたのだが、許されず、いつの間にか前の集団から抜け出していたらしいあのおさげ眼鏡、桐生が、ボクの顔を覗き込んできた。

 

「ねえねえフェルさん、聞きたいことがあるんだけどさ……いい?」

 

「……うん?内容によるけど、なに?」

 

 唐突に一緒の陰の下に入ったその笑顔には、やはり僅かなぎこちなさが見える。なんというか、ボクのことをを計りかねているといったふうな強張りだ。その理由はわからないでもないのだが、しかしやはりどうにもできず、ボクはせめて穏やかに首を傾けた。

 

 すると彼女は「えーっと」と口ごもってから、垣間見えた罪悪感を呑み込んで質問を言った。

 

「フェルさんって、ゼノヴィアっちとあのハンゾーって人の師匠なんでしょ?それで、何の師匠なわけ?剣道とか柔道とか、ほら、そういう意味でさ」

 

「んー……まあ、そうだよ。武術。教えてくれってしつこく押しかけられちゃってさ、夏休み中教える羽目になっちゃった。ハンゾーはボクから声をかけたんだけど……ほんとに大変だったにゃあ」

 

 一般人に【念】の存在を教えられるはずもなく、ぼかして答えて苦労話で逸らす。だがどうやら桐生の関心ごとはそこにはなかったらしく、さして変わらない調子にて続けて口にした。

 

「それってきっと兵藤とかアーシアも一緒なんだよね?なら教えてほしいんだけど……あの子ら、武術なんて覚えて何してるの?なんか最近、私に内緒で色々無茶やってるんじゃないかって気がすることが多くてさ、心配なのよね」

 

「ああ……にゃるほど」

 

 それが本命の質問だったのだろう。どこで感付いたのかは知らないが、コカビエルやボクたちとの戦い然り、危険に襲われ続けている赤龍帝たちが気になっているようだ。

 

 ほんの少しの予感だが、“師匠”の単語で手元に振ってきた手掛かりに、友の秘密を暴く負い目はあれど探る気になったか。友達思いで結構なことだが、ボクにとってその友情は酷く厄介だ。全く赤龍帝は思っていた以上に忌々しいことをしてくれた。

 

 しかしそれはさておき、どう誤魔化そうか。あまり下手な嘘をついても、どうやら案外聡いらしい彼女のことだ、むしろ不信感を持たれかねない。となればやはり、事実で以ってうやむやにするべきだろうか。

 

 ボクはそう決め、無意識に顎を撫でていた指を立て、唇の前に持っていった。

 

「言うなって言われてるから、他に漏らしたりしないでね?」

 

「え、ええ。なに?もしかしてほんとに深刻な話なの……?」

 

「うんにゃ、大っぴらにすべきじゃない話ってだけだよ」

 

 不安はあっさりと否定して、続けて手招きして彼女を近くに招き寄せる。至近距離のその耳に口を近づけ、こっそり耳打ちした。

 

「ハンターになりたがってるんだよ」

 

 ゼノヴィアが。ついでに言えば後の祭りな上過去形だが。

 

 しかし省いたそれらは形を変え、桐生の脳内にてあの気弱な金髪と合わさり、困惑となって少し身を引かせた。

 

「え……?ハンターって、あのハンター?すっごく危険な職業って言われてる?」

 

「うん、どこまで本気か知らないけどね。まあそれなりに熱を入れて頑張ってたよ」

 

「まさかあの子が……いや、さすがにアーシアは応援してるだけ……よね。それにしても、ゼノヴィアっちはともかく兵藤がハンターって……」

 

 目指すにしても無理がある。彼女の知る赤龍帝のスペックではそうなのだろう。事実神器(セイクリッド・ギア)なしなら悪魔であることを加味してもそんなものだ。

 

 だから彼女のその感想は妥当。ついでにボクも追従し、恐らく、今後友達二人が過酷な試験を受けるのかもしれないという不安でとうとう明白に笑顔を曇らせる彼女へ、無用な心配をさせることになってしまった申し訳なさもほんの少し、頬を緩く持ち上げてみせた。

 

 その瞬間、ふと近くでカシャッという音がした。

 

 知覚し、反射的に手が伸びた。革手袋の下でプラスチックと電子部品、そしてフィルムが握り潰される。遅れて意識もそっちに届き、ボクたちに向けたカメラを破壊され眼を点にする松田と元浜に、ボクはつい飛び出てしまった殺気を急いでひっこめた。

 

「あー……ごめん、つい。ボク、写真を取られるのって苦手なんだよね」

 

「……え?あ、ああ。そう、なのか。こっちこそ、あの、すんませんです」

 

 しばしの硬直から蘇った松田が、どもりながらも会釈気味に頭を下げる。シャッターを切った張本人である元浜は未だ帰らないが、ほんの一瞬とはいえボクに殺気を向けられたのだから無理もあるまい。念能力者であるボクの威圧が一般人にはどれほどのものかということくらい自覚している。

 

 だからこそ二人の表情が厭らしいニヤニヤ顔のままであることは驚きだったが、しかし目を瞑ってため息にとどめた。だがどうやら桐生には看過し難いことだったようで、ボクの背中で殺気に気付かずに済んだ彼女は、なぜだか挙動不審になっている二人に呆れたように鼻を鳴らした。

 

「……やるんじゃないかとは思ってたけど、まさかほんとにやるとはね。誰これ構わず変態行為するの、私が言うのもなんだけどいい加減止めたら?そろそろほんとに警察のお世話になっちゃうわよ」

 

「へ、変態行為とは失礼な!覗きは男のロマンであり存在理由……っていうか!今回に関しては違うだろ!?フェルさんのその、す、素敵な微笑を記録に収めようと……な、なあ元浜!?」

 

「……ふぁっ!?そ、そうだぞ!?あのエロティックは笑みだけでも十回はシコ――し、至高の作品だと評価されそうなもので、芸術的な価値があってうんたらかんたらで……」

 

「ほら下心」

 

 瞬く間に墓穴を掘ってしまった元浜が、冷や汗を垂れ流しながらショックでがっくりと膝を折る。憐れみの眼でそれを見下ろす桐生。もう一人の松田もあわあわと狼狽し、四方八方に逃げ道を探し始めた。

 

 そしてふとボクにその眼がたどり着き、瞬間活路を見出したようだった。パッと明るくなって、動揺に流れる汗はそのまま、半分裏返った声色で口を開けた。

 

「そっ、それはさておき……フェルさん、意外というかなんというか、力持ちなんだな!千円フィルムカメラとはいえ、さっきそこで買ったばっかの新品を片手で粉砕しちまうなんて!」

 

「まあ、これでも武術の師匠だからね。それより、本当にごめんね?カメラ。お詫びに新しいの買ってあげるにゃ」

 

「ほ、ほんとっすか!そりゃ助かる!千円っつっても俺らには結構な金額で……んで、そのあと改めてお写真とかは――」

 

「撮ってもいいけど、今度は手ごと潰すことになるかもしれないにゃ」

 

 殺気を浴びた彼らには十分な脅しとなっただろう。はいつくばってカメラの残骸を片付けている、と見せかけて下からボクの身体を射抜かんばかりに凝視していた元浜もびくりと震え、己の手を守るかのように押し抱いた。

 

 それらは無視してボクは日陰から脱し、通りの人の流れに戻る。慌てて続く三人の気配を背に感じながら財布を取り出して日本円を探しつつ、彼がカメラを買ったという店、赤龍帝たちが買い物をしているはずの店内へ足を向けた。

 レジの前、眼と手は財布を探るまま、ついてきた松田たちに商品を持って来いと短く告げる。向かってすぐに戻ってきた松田に、ようやく見つけ出した千円札を手渡した。

 

 そうして顔を上げてふと気付くと同時、桐生が怪訝そうに首を傾げていた。

 

「あれ、兵藤たちはどこ行っちゃったのかしら」

 

 店の中には、そこにいるはずの悪魔たちが一人もいなかった。

 

 おまけにハンゾーの姿もない。監視対象と弟子が同時に消えて、眼を離してしまっていた己の失態に後悔と、そして想像だにしなかった事態への困惑が頭をよぎった。

 

 まさか、いつかのシロネのように攫われたのか。仕事の失敗を上回る面倒な事件までもを想像してしまい、覚えた危機感で息が詰まる。それでもなんとか喉を開け、もしかすれば事態を眼にしているかもしれないレジの店員にそれを尋ねようとした。

 

 その直前に、遠くに感じた“力”の気配がボクの台詞の必要を消した。

 

 弾かれたようにそっちを見やる。通りの脇から小山に伸びる小さな鳥居の連なり、その天辺だ。瞬時に悪魔たちがそこでトラブルを起こしていることを悟ったボクは、その苦々しく曲がる口元を無理矢理開き、どうしたんだと言わんばかりの視線を投げてくる三人へ短く告げた。

 

「探してくるから、キミたちはここにいてね」

 

 言うと、返事を待たずに早足で店を出た。なるべく目立たぬよう、且つ急いで鳥居の下までたどり着くと、途端に消えた人影でボクは人払いの結界が張られていることを発見する。そしてそれが妖力を源にしたものであることにも気が付いた。

 

 ということはトラブルの相手は妖怪、監視のボクが傍に居ないことを咎められてでもいるのだろう。第三勢力という最悪がなかったことには安堵しつつ、同時にお咎めが確実であることに肩を落としながら、ボクは長い階段を駆け上った。

 

 するとすぐ、剣戟らしき争いの音と必死の声が聞こえてきた。

 

「――だから何回も言ってるだろ!?俺たちは侵略者とか、そんなことしに京都に来たんじゃないって!ただの修学旅行なんだよッ!」

 

「僕たちはあなた方妖怪と敵対する気はない!だからとにかく一度剣を収めてくれ!」

 

 両方とも男の声。赤龍帝と聖魔剣だ。そして台詞からしてトラブルの内容もボクの想像通りであるらしい。

 

 だが想像から大きく外れるかわいらしい声が一つ、二人の説得の言葉を思いっきり切り裂いて響き渡った。

 

「聞く耳など持たん!!我らの決めに従わぬ悪魔は皆、敵じゃ!!」

 

 四年ぶりで少し感じは変わっているが、間違いない。九重の声だった。

 

 聞いて、しかし最初に覚えたのは懐かしさではなく困惑。京都を治める八坂の一人娘である彼女が何故こんなところで、しかも戦っているのだろうか。

 

 不安だ。若干芽生えたそれで焦りを足に伝えるボクは、道を外れて木々の中を最短距離で突っ切り始めた。

 

 その最中にも、変わらず争いの音と声は続く。

 

「ぐっ……!反撃するわけにもいかんし、せっかく買った木刀ももうそろそろ限界だ……!一誠!元はといえばお前が怪しい人影を見たとか言って飛び出して行ったのが悪いんだぞ!どうにかしろ!」

 

「お、俺のせいかよ!?だって本当にあの人影、あれは確かに……って、言ってる場合じゃねえ!なんとか誤解を解かねえと……そうだ!お前が言ってた“決め”って、確か悪魔が京都に行くにはハンターの警護と監視が、ってやつだろ!?ならあのハンゾーが――」

 

「あのようなハゲのハンターなど、私は知らんのじゃ!」

 

「な、なに!?ハンゾー、お前ハンターではなかったのか!?」

 

「アホか!!警護と監視を任せたハンターじゃねーっつうだけだ!!……ってかハゲって……なんでそんなあっさり……」

 

「ハンターには我らから仕事を依頼するのじゃからな!!私が小さいから騙せるとでも思ったか、汚い悪魔に、その手先の人間め……!!それに、特に今回はフェルが来るのじゃ!!忘れるわけがない!!」

 

「ハンゾーが落ち込んでるのはそっちじゃないと思うけど……しかしその言い方、君はあの人に随分な思い入れがあるらしいね!……つまり、君が部長たちの言っていた九尾の姫、九重か!」

 

「ッ!そうか、貴様らあの赤毛の悪魔の……!!ならますますもって逃がせん!!覚悟――!!」

 

 九重の勇ましい気合の声。その手に握られている刀が【念】を纏い、飛び掛かって高くから放たれる。標的の聖魔剣と、九重の部下らしき紙の面をつけた妖狐たちと対峙する仲間たちが、眼を見開いてその一撃に息を呑んだ。

 

 木の葉の向こうにようやくそれを視認したボクは、勢い良く跳躍してその合間に割り入った。

 

 ばきん、と、腕で受けた九重の刀がへし折れ、飛んだ刀身が近くの木の幹に深々と突き刺さった。聖魔剣の方は剣ごと突き飛ばし、吹っ飛んだ身体が道の鳥居を破壊する音が一拍遅れて聞こえてくる。

 

 緊急故に乱暴にはなってしまったが、しかしともあれ乱入で周囲も驚き止まったことを認識し、折れた刀を手に呆然とボクを見つめている九重へ、ボクは詰めた息を吐き出した。

 

「久しぶり、九重。ごめんね刀折っちゃって」

 

「……ふぇ、フェル――」

 

 ボクの姿をその金の瞳に認め、そして徐々に呆然が歓喜に傾く。

 その瞬間に、我に返った妖狐の一人が慌てて跳んできた。九重の身体を抱きかかえ、取って返して大きく下がる。他の妖狐も動いてボクとの間に立ちふさがり、構えた刀をボクへと向けた。

 

 九重はその頃になってようやく部下の突然の行動、有無を言わせずボクから遠ざけられた理由を理解し、非難の声を上げた。

 

「なっ……何をしておる!!刀を下ろせ!!フェルはこの悪魔どもとは違って、敵なんかでは――」

 

「お(ひい)さま、お母上と約束なされたでしょう。あの者は力あるハンター、であればこれより先は私にお任せいただきます。……ご心配なさらぬよう、話を聞くだけです」

 

 妖狐は冷静に九重を諫め、抱いたまま、面の奥から“話を聞くだけ”とはとても思えぬ鋭い眼をボクへ向けた。

 

「お主がハンターのフェルだな。今日より三日、悪魔どもを監視する手はずとなっていた者の一人。であればこ奴らは言い分通り、京に無断で侵入したわけではなかったということとなる。ならば、此度の騒動の責がどこにあるのかは、わかっておろう……!」

 

 向けられている刀が、ほんの少し牽制から前に出る。

 

「弁明があるのなら、そこで申せ」

 

 そう言いながら、向けてくるのは相変わらず明らかな警戒心のみだった。ボクがうっかり悪魔たちから眼を離してしまった瞬間を偶然にも捉えてしまっただけ、ということは理解している様子であるのに、しかし何らかの悪意が存在する可能性を捨てきれないらしい。ボクか悪魔か、あるいは協力して何かよからぬことをしようとしていたんじゃないかと、周囲の妖狐たちも疑っているようだ。

 

 やはり、協会が悪魔と協定を結んだことが響いているのだろう。はた迷惑な話だ。癪だが素直に頭を下げてやろうと決め、溜飲も呑み込もうとした。

 

 しかしその前に、半分ひび割れた木刀を握り締め、ゼノヴィアが必死にボクを庇いだした。

 

「ち、違う!フェルさんは悪くないんだ!私たちがフェルさんに声も掛けずに離れてしまったから……その、勝手な行動をしてはいけないということばかりが頭にあったから、突然飛び出して行った一誠を連れ戻さねばと、頭がいっぱいになってしまって……」

 

「いやだから俺のせい……いやでも……本当に見覚えがあった気がしたんだよ、人影が!なああんた――狐の人!こっちに上ってったはずなんだよ!見ただろ!?」

 

「そんなものは知らん。忠告しておくが、嘘は貴様らの立場をも悪くするだけだぞ」

 

 反論を切って捨てられた赤龍帝が「ほんとに見たのに……」とうなだれる。だが機運に乗ろうとしたのか、もがいて妖狐の腕から脱出した九重が、その袴を引いて説得を言った。

 

「とにかく何も起こらなかったのは確かじゃろ!?フェルが悪いことなんてするはずがないし、監視していた悪魔どもも……たぶん、人影も何かの勘違いじゃ!悪気があったわけじゃないと、私は思う!」

 

「……お(ひい)さま、その確証はありません。お(ひい)さまの印象だけでは――」

 

「だが悪意があるという確証もないじゃろう!少なくともフェルはそうじゃ!監視に関してもたまたま一瞬眼を離してしまっただけ、それだけで敵とみなすのはあまりに乱暴すぎる!それでも怪しいというなら、母上に意見を仰ぐのが自然ではないか!?」

 

「………」

 

 しょうがないお嬢様を見る眼だが、妖狐は黙り込んだ。周囲で構えられた刀も、戸惑いがちにだが下りる。

 

 一方微妙に庇われたのかそうでないのか微妙な悪魔たちだったが、しかし事を荒立てるわけにもいかずどうしたものかと迷いの表情。そこに、妖狐を言いくるめることに成功した九重が、さらなる一手を叩き込んだ。

 彼らに向かい、頭を下げた。

 

「だから……そちらの面々にも悪いことをした。邪悪なる悪魔とはいえ話も聞かずに切りかかってしまったこと、謝罪するのじゃ」

 

「え……ああっと……まあ、敵じゃないってわかってくれたんならいいけど……」

 

 罵倒されながら謝られ、微妙のまま受け入れる赤龍帝だったが、しかし全く聞いていない九重は続け、パッと上げた顔をボクに向けていた。

 

「お侘びに、私自ら京都を案内してやろう!ついでに見張ることもできるし、一石二鳥じゃ!なっ?なっ?」

 

 その期待の眼差しは、あの頃のようにボクと一緒に遊びたい、と思ってくれていると信じていいものだろう。ボクからしてもそのほうが楽しいし、ハンゾーも、大して知らない京都の観光案内の役目から逃れられると、無言でぶんぶん首を縦に振っている。

 

 妖狐に眼をやっても苦々しげなばかりで何も言わず、であるなら断る理由もなかった。

 

「うん、じゃあ、お願いしようかにゃ」

 

「っ!やった!じゃあ早く行こうフェル!あの時の八つ橋屋、新しいメニューがすっごくおいしいのじゃ!」

 

 嬉しそうに言って、ボクの手を掴み引っ張る九重。それでやっと戦闘の空気が消え、所々納得がいっていなさそうな顔は残るも武装を解いて動き始めた。

 

 だが少々残念なことに、空は夕日の赤みを増し始めていた。




原作での修学旅行シーン、木場くんがハブられててかわいそうだと思った思い出。クラス違うからまあしょうがないんですけどね。ていうか一人だけ違うとこからしてかわいそう。
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三話

 妖怪の警ら隊と一応の和解を果した後、時間の迫っていたボクたちは結局九重の観光案内の世話にはならず、遅いおやつにお勧めの八つ橋だけを買って旅館へと向かった。

 

 そして到着した三日間の宿は、事前に聞いていた話通りホテルではなく古い旅館。年季の入った木造の三階建てで、灯るオレンジの灯りと相俟って妙な温かさを感じさせる面構えだった。出迎えてくれた従業員たちもみんな和装であり、導かれて中に入れば内装も和の一色にまとまっていた。

 イメージできる“日本の旅館”のお手本のような建物で、学生をまとめて放り込むには少しばかり場違い。だからこそ気配が目に付いた。

 

 出迎えてくれた数人を含め、中で働く従業員も、恐らくすべて妖怪だ。何時かの料亭のように、直接手の届く範囲で悪魔を管理しておきたいという大きな意図が見える。

 

 より苛烈になったという悪魔に対する警戒心の、ボクという監視に続く一端。常に見張られ続ける三日間、彼らはさぞ息苦しい思いをすることになるだろう。

 と思いながら宛がわれた部屋へ向かう彼らを見送ったのだが、しかしどうやら全員、自分たちが妖怪の監視の檻に入れられていることに全く気が付いていないようだった。

 

 人の姿を取る妖怪の変化に違和感すら抱いていない。その原因は修学旅行の興奮か、少し前に妖怪たちに剣を向けられたことももはや記憶の彼方であるようで、人の生徒たち共々部屋に通され腰を下ろした後、そのままぎゃあぎゃあと遠慮なく騒ぎ始めてしまっていた。

 

 だからといって何を思うわけではないが、間抜けな連中だと呆れるばかり。ともかくそうしてボクの初日の仕事は終了し、警ら隊という問題は残るもひとまずお守から解放された。翌朝になるまでは旅館の妖怪たちが彼らの面倒を見てくれる。

 

 となれば空いた時間、ボクは約束を果さねばならなかった。ゼノヴィアとハンゾーに言ってやった、修行をつけてやるというそれ。旅館のほど近くの竹林に二人を集め、ひとまず今の力量の確認ということで【纏】と【練】をさせていた。

 

 ただしそこには、仕事にも約束にも当てはまらない九重までもがついてきていた。

 

「ふぅ、ふぅ……どうじゃフェル!私の【念】、すごいじゃろっ!?」

 

 ゼノヴィアとハンゾーと同様に【纏】と【練】を使ってみせ、頬を紅潮させた九重が自慢げに胸を反りながら期待の眼差しをボクに向けた。

 褒めろという主張で、実際、結果はそれに値する。【気】の練り方も力強さも精度も、驚くべきことにゼノヴィアとハンゾーの二人に全く劣るものではなかったのだ。

 

 【周】の刀を受けた時にも感じたが、子供にしては素晴らしいの能力だといえるだろう。だからボクは、そもそもなんで九重が修行の輪の中に加わっているのかという疑問はひとまず脇に置き、四年経ってもまだまだ小さなその身体を抱き上げた。

 

「うん。すごいよ九重。まさかこんなに強くなってるとは思わなかったにゃ」

 

「ほんとにな……歳でものを言うつもりは元からねーけど……ゴンやキルア然り、ガキのくせにすげーよな」

 

「……そういえば前にも言っていたが、そのゴンとキルアというのはハンターの仲間か?買っているんだな」

 

「まーな、同期のダチだ。今頃はオレたちみてーに【念】の修行でもしてんのかね」

 

 過去に出た名前を思い出すゼノヴィアに、ハンゾーは疲労の息を吐き、眼を細めて竹の葉に覆われた空を見上げた。

 

 そんな二人、そして話のほうの二人にも、九重はボクの腹にわさわさ尻尾を動かしながら得意げに鼻を鳴らした。

 

「そのゴンとキルアとやらは知らんが、私がすごいのは当然じゃ!フェルに聞いたが、そこの悪魔もお前も【念】を学び始めて一年も経っていないんじゃろう?なら四年間ずぅっと頑張ってきた私が負けるはずがないのじゃ!」

 

「四年間……なるほど、それならあの【周】も頷けるな。……木刀と真剣とはいえ、一方的にボロボロにされたのはちょっと悔しかったんだぞ……」

 

 口をへの字にしたゼノヴィアが、竹に立てかけてある折れた木刀へ眼を向ける。土産物屋で買ったばかりであるはずのそれは、もう使いものにならないだろう。

 【念】の技量は、見たところ同程度。なら後は武器の問題であり、であれば折れるのは木刀のほうであることは当然。旅行の思い出を早くも失ってしまったゼノヴィアに気持ちだけ憐れみを向けて、ボクは手袋が滑ってずり落ちそうになる九重の身体を支え直す。

 

 ハンゾーはそんなゼノヴィアの肩を叩きながら、しかし関心は全く別方向に、ボクへ呟くように言った。

 

「だが正直、オレは四年間ずっと【念】の修行にかまけちゃいらんねーぞ。ハンターになったのは隠者の書を探すためだし……いつになったら免許皆伝になれんだかな」

 

「うん?そもそも四年なんかじゃ利かないにゃ。ボクだって【念】を極めたなんて言えないんだから」

 

「極めるだとか、簡単に言えることじゃねーってのはわかってるよ。けどだから、一定のレベルっつーか……例えばお前、九重ちゃんの刀を腕で受けて圧し折ったろ?ああいうくらいの、とりあえずは一人前と認められる、って具合な」

 

 応え、【念】は奥が深い、の言葉を復唱しようとすると、ハンゾーは頭を掻いて視線を水平に戻し、そうじゃねーよと呆れて首を横に振った。言われてみればその通り、とにかく戦えるようになるまでと言いはしたが、指導に明確なゴールを定めていなかった。

 

 となれば最低限、ラインを決めるとするのなら、

 

「んー……まあ、【(リュウ)】が使えるようになったら、かにゃ?」

 

 後は【堅】もそう。それら二つがまともに使いこなせれば、戦闘面での不安はあらかたなくなるだろう。いっぱしの念能力者と呼んで差し支えない。

 

「じゃ、今日はそれをやろうか。【堅】のつもりだったけど、そっちはボクがいなくてもできるだろうし」

 

「……【流】も気になるが、しかしフェルさんがいなくてもというのは本当か?【堅】、なかなか上達しないんだが……」

 

「そりゃそうだにゃ、【堅】は持続時間を十分伸ばすだけで一ヶ月はかかるって言われるし。で、いい?そもそも【流】がどういう技なのかっていうことだけど――」

 

 と、いつかのおざなりな指導を思い出すのか不安そうに言うゼノヴィアを真実で突き放してから、ボクは改めて、そこにあるだろう聞き覚えのない新たな技への期待を見せるハンゾーを含めた彼女らに、何たるかを教えてやるべく口を開いた。

 

 だが言葉が喉を出る前、腕の中で九重が優越感に浸ってドヤ顔をした。

 

「ふふん、念能力者というくせに【堅】も【流】も碌に知らないのか!やっぱり悪魔はダメダメじゃ!……いいか?【流】というのは攻防併せ持った重要な技、高等応用技の一つなのじゃ!身体の一部に【気】を集中させる【凝】、それを応用して、コントロールすることによって、えっと、攻撃と防御を素早く入れ替える……じゃよな、フェル!」

 

「うん、大体そう」

 

 途中で言葉が怪しくなり、諦め投げ渡してきた九重に頷いて、ボクは気を取り直して続けた。

 

「教えた【凝】は【気】を眼に集中させて【念】を見破るものだったけど、あれは突き詰めれば九重の言う通り、【気】を一部に集中させる技。だから二人ならもうできるはずだよ。それを素早く、戦闘に合わせて効率的にやる、っていう技の総称が【流】って呼ばれてるにゃ」

 

 例えば攻撃するとき、全身にまんべんなく【気】を纏ったパンチより、拳に【気】を集中させたパンチのほうが当然威力は高くなる。防御にしても見切れるのなら【堅】より【気】の消耗は少ないし、余った分の【気】を別に回せば同時に攻撃することもできるのだ。

 

 そうやって【気】を各所に振り分け、攻防力とするその技術。【堅】と共に、ある程度のレベルの戦闘では必須技能となるからこそ、一人前といえるボーダーラインだった。

 

 ――ということを長々説明してやって、意欲の高まったゼノヴィアがぐっと両手を握り締めた。

 

「なるほど!つまり適度に加減をするということか!マスターすればデュランダルの悲劇を繰り返すこともなくなるな!」

 

「ちょっと違うけど……まあキミはそれでいいや。っていうか、“デュランダルの悲劇”?あの試合のこと?」

 

「……オレらが思ってたより気にしてたんだな、ゼノヴィア」

 

 納得ついでに悪乗りするハンゾーに、ゼノヴィアは明るくなった顔を赤くした。ぶんぶん頭を振って振り払う。

 

 今度こそ何の話かわからない九重はさすがに渋い顔になってしまったようで、ボクの腕をぺしぺし叩いて抱擁から降りると、ハンゾーとゼノヴィアの傍でボクに振り向き、声を張り上げた。

 

「そんなこといいから!早く【流】修行がしたいのじゃ!私、知ってるだけでやったことはないから……っ!」

 

 慌てて余計なことまで口走ったと両手で口を押さえる九重。ハンゾーとゼノヴィアは、しかし気にせずそれもそうだと息を吐いて切り替えた。弟子のそれを取り戻し、ゼノヴィアはボクを見やって肩を回す。

 

「なら早く始めよう!戦いに合わせてというなら、やり方は今度こそ実戦か?」

 

「となると組手……でも一人余るな」

 

 お前が相手するのか?とハンゾーの眼が訪ねて来るも、しかし無用の杞憂。ボクは三人から二、三歩退いて、手ごろな太さの竹に手を触れた。

 

「組手はもうちょっと後かにゃ。まずは……うん、ボクが指示するからその通りに【流】してみて。右拳に八十、全体に二十、みたいに」

 

 言いながら、触れた竹を【念】で切り倒す。倒れる竹がかき鳴らす葉音に、ちらりと一瞬旅館のほうを気にしたゼノヴィア。九重も驚き目を丸くして、ハンゾーは呆れのため息をつきながら、やがて落ち着き各々構えを取った。

 

 ボクは倒した竹の切り株を椅子代わりにして座り、皆を見回す。どうやらハンゾー以外は格闘術に難がありそうな構えだったが、しかし目を瞑った。どうせ二人は武器主体、組手も武器を使うのだろうから別に構うまい。

 

 しかしとにかくまずは自分の身体でできるようになってからだ。【周】との併用で躓かないかという一抹の不安はひとまず忘れることにして、ボクは緊張の様子を見せ始める三人へ告げた。

 

「じゃ、改めて……右拳に八十、全体に二十」

 

 そうして修行が開始され、何度か不備の指導を挟みつつ、三人は【気】を操り続けた。

 

 

 

 最初は【気】の配分も移動速度も残念な有様だったが、しかしやがて皆コツを掴み始める。最も早かったのはやはりハンゾーで、彼はすぐにスムーズに【気】を移動させることができるようになっていった。反してゼノヴィアは、その大雑把な性格から細かい調整に苦心気味。その二人の真ん中程度の速度で上達していった九重も、ハンゾーに遅れて多少覚束ない部分はあれど、やがて指示通りの【流】に成功した。

 

 故に後はゼノヴィア。彼女が成功すれば、次は一段階レベルを上げて時間制限でも付けてみようか。

 【気】の連続使用による疲労で汗を流す三人を見守りながら、竹の少ない面積に座るボクは思考を巡らせた。その背後、竹藪の中を進む二人分の足音が聞こえてきたのは、ちょうどその頃だった。

 

「おお、九重はここに居ったか。皆も探したぞ」

 

 姿を見つけ、疲れて萎んだ九重の表情に生気が戻る。ボクもそっちに振り向くと、柔らかな微笑みが九重に次いで向けられた。

 

「久しいの、フェル。元気そうで何よりじゃ」

 

 足元に転がる青竹に眼を落とし、八坂は呆れたふうにそう言った。

 

 そしてその後ろに控えている、見覚えのあるお面の妖狐をもボクは発見する。警ら隊の件であることに気付き、まあ多少は反省を示すため切り株から降りて落ちた葉で埋まった地面を踏んだ。

 

「うん、久しぶり、八坂。それで、用件はやっぱり?」

 

「それもある。後は九重の迎えと……個人的にも主の顔を見たかったのでな」

 

 だからわざわざ自ら来たのだと言う八坂。だがその前の台詞に、母親の登場で綻んだ九重が少し険しくなった。膝元に駆け寄る脚の勢いが落ちて止まり、悲しそうな顔が八坂を見上げる。

 

「母上……お迎えって、私もう帰らなきゃいけないの?せっかくフェルと修行してたのに……」

 

「我が儘を言うでない、九重。もう夜中じゃ。それに……うむ、早く寝て早く起きねば、明日フェルたちに京を案内してやれなくなるぞ?」

 

「っ!あ、案内……いいの!?母上!」

 

 八坂は優しく頷き、九重の内心を見透かしたようにそう言った。姫の立場や警らの役目もあるだろうに、それを許す笑み。やはり娘には甘いものなのか。

 

 喜ぶ九重と、しゃがんでその汗まみれの顔をハンカチで拭く八坂。するとその触れ合いを慮ってこっそりと、ゼノヴィアがボクに耳打ちをしてきた。

 

「……なあフェルさん、私は今回の修学旅行に当たって部長に、『特に八坂という人物には失礼のないようにすること』、と言われているんだが……もしかしてこの女性が、そうなのか……?」

 

「うん、そうだよ。九尾の八坂、京都の妖怪たちの首領」

 

 それは赤髪だって忠告するだろう。ヤツ本人が散々迷惑をかけたのだから、その眷属までもがとなればいよいよもって立場がなくなる。

 

 そのことを理解しているかいないのか、「やはりそうなのか」と身を正すゼノヴィアは神妙な表情。続いてハンゾーが息を吐いた。

 

「“お(ひい)さま”なんて呼ばれてっからそうなのかとは思ったけど、マジで姫様だったんだな、九重ちゃん。……で、オレたちそんな相手と戦っちまったわけなんだけど……」

 

「ああ、そうじゃった。まずはその話を済ませておかなくてはな」

 

 潜めた声でも八坂の狐耳には届いていたようで、言われた言葉にハンゾーの背がびくっと伸びた。つられてゼノヴィアも固まって、刑の執行を待つ罪人のような不安げな面持ちを八坂に向ける。

 

 そんな二人に八坂はクスと一つだけ息を鳴らし、腰を上げて二人と、そしてボクに顔を向けた。

 

「とはいえ、そう心配せずとも罰は与えぬよ。明確に決めを破ったわけでもなし、数分間フェルの下から離れただけじゃからな。損害もまあ、フェルが折った刀と鳥居以外には起こらんかった」

 

「あー……うん、それに関してはごめん。ちょっと余裕がなかったんだにゃ」

 

「構わぬ、鳥居は直せばよいし、刀にしても元々買い替えようと思っていた頃じゃった。……そもそも武器も持ってほしくはないんじゃがな、親としては」

 

「で、でも母上。私、戦えるようになりたいのじゃ……」

 

 と不意に会話の標的になってしまった九重が、許しを求めて八坂の袖を引く。その途中、なぜかボクの方をちらりと見やって顔を赤くしてしまう九重に目をやって「わかっておる」と頭をなでると、彼女は一つ咳払いをした。

 

「ともかく、此度の一件は不問に処す。……戦闘に関しても、悪魔に対する嫌悪でこちらが過敏になってしまった面もある。じゃから、今度は双方より注意せよ。問題を起こさぬように、な」

 

 後半がボクたちと、そして背後の妖狐に向けられる。深く腰を折る姿に、ボクも一応会釈で返す。

 

 ハンゾーとゼノヴィアもほっと息をつき、それで空気にあった緊張も解けて消えた。目的の一つを完了した八坂は軽く肩をなでおろし、頷くと、赤くなったまま顔を伏せる九重の手を取る。金髪の上でペタンと倒れる狐耳を見やりながら、言った。

 

「では九重、妾と共に家へ帰ろう。早く風呂に入らねば、そのままでは気持ち悪かろう?」

 

 八坂は握った手の下、汗を吸った九重の巫女装束風の着物を眼で示す。言われて意識したのか、持ち上がった九重の顔が不快に歪んで逆の腕の長い裾をひらひら振った。

 しっとり湿気ったその質感に渋々頷きかける。が直前、竹林の隙間から微かに届くオレンジの光を眼に捕らえ、ハッとなって再び八坂を見上げた。

 

「そうじゃ母上!お風呂!帰る前にみんなでお風呂に入ろう!そこの宿で、な?フェルも一緒に!」

 

 困り顔をする八坂。原因たる期待の眼差しは、次いでボクにも向けられる。

 

 せめてそれだけでも、という懇願。やたらと必死で叶えてあげたくはあるのだが、しかし駄目だ。

 

「んー、ごめんね九重。それは無理」

 

「なっ……なんでじゃ……?」

 

 九重は悲しそうに眉尻を下げた。それについ後ろめたさを刺激され、頭の中にあった適当な言い訳が思考の奥に消える。代わりに、ぽろっと口から零れ出た。

 

「……見られたくないんだよね、身体」

 

 半ば真実が混ざってしまった。直後ほのかに後悔がよぎるも、タイミングよく、勝手に想像力を働かせたゼノヴィアによって遮られた。

 

「そういえば夏休みの時も見たことはなかったな。傷跡でもあるのか?戦いの傷は戦士の誉れだと思うが……というか治せばいいだろう?フェルさんの――んぐぅ!」

 

「ばっかお前!人の能力、しかもこいつのを無暗にしゃべるなって!それに……アレだ!フェルも一応女なんだから、そういうのは気にするもんだろうよ?」

 

「むぐ……私も女なんだが」

 

 余計なことまで出そうになったゼノヴィアの口を慌てて塞ぎ、ハンゾーは視線をあちこち彷徨わせるもどうにかフォローを捻り出した。男が女に女を解くという、急ごしらえで少々お粗末だが、しかし九重にもそれが触れてはいけない問題だということは伝えられたようだった。息を呑み、気まずそうに眼を逸らす。

 

 が、期待は終わらず、おずおずと再び視線が戻った。

 

「なら……なら、ご飯を一緒に食べたい。なあフェル、それならいいじゃろ……?」

 

「……まあ、それなら」

 

 さすがに断れるはずもない。ちらと八坂に眼をやれば、仕方がないと諦めの表情。根負けして苦笑に変わった微笑みを九重と、それから背後の妖狐に向けた。

 

「しょうがない子じゃ。わかった、そうしよう。……ついでに風呂も済ませてくる故、お前、先に帰っておれ」

 

「……かしこまりました」

 

 少し長い間があったが、妖狐は再び腰を折り、背を向けすぐ竹藪の闇に消えた。そして願いが叶った九重と、ご飯と聞いて思い出したように腹の虫を鳴らし始めたゼノヴィアに挟まれるボクは、呆れのため息を吐いてそれに頷いた。

 

「じゃ、修行もここまでにしよう。……別にゼノヴィアは勝手に抜けて構わないんだけどにゃあ」

 

「それをしたら二度と教えてくれなくなるだろう!?それくらいの常識はある!しかしとにかく夕食……の前に風呂か?私たちも汗まみれだからな」

 

「ってかオレたちが一緒に食えるってわけじゃねーだろ。いいもん食えるのは九尾のお二人とフェルだけだ。あーいいなー、羨ましーなー」

 

 その、どこからどう見ても催促のチラ見。真に受けてショックにあんぐり口を開けるゼノヴィアを、八坂は愉快そうに笑った。

 

「よければ二人も一緒にどうじゃ?せっかくの宴だというのに、我ら三人だけというのはあまりに寂しいでな」

 

「っ!本当か――ですか!?」

 

「えっいいんすか!?そりゃぜひとも!」

 

 ある意味対極的な二人の反応は、八坂の笑いをまた深くした。それでも声は抑えて喉を鳴らし、恐らく笑みに歪んでいるのだろう口元を袖で隠す。

 

「では、行こうか。早くせねば料理人が帰ってしまうやもしれん」

 

 残業代を弾んでやらねばな、と続けながら、八坂は九重の手を引いて竹林をかき分けたその九重が逆の手でボクを捕まえ、一緒に引かれて修行の場を後にする。踏む枯葉の音が背後にも続き、その二人も、見るまでもなく“ご飯”に胸を躍らせているがわかった。統領である八坂が用意せよと言うのだからおいしくないはずがない、ということなのだろう。

 

 八坂も九重も、皆食事が楽しみであるようだ。そうでないのはボクだけ。ボクにとっての“おいしいご飯”とは悪魔の肉であり、それ以外は酷く薄味でおいしいとは思えない。

 喰らったディオドラとかいう貴族悪魔の味を未だ舌が覚えてしまっているから、このところ以前にもまして普通のご飯が憂鬱だった。

 

(……なんでかにゃあ)

 

 本当に、なんでなのだろう。なんでボクは、未だにキメラアントなのだろうか。

 

 些細なきっかけで顔を出すその苦悶。キメラでいる意味、“王”に仕えることは今後もうできないのだから、ボクはそれを捨て去りたい。そのためにクロカたちと離れているのだというのに、食事も風呂も、突きつけられるだけで芋づる式に引きずり出されてしまう。

 

(なんでボク、こんなに悪魔が嫌いなんだろう)

 

 もはや憎悪は、クロカとの繋がりを妨げる邪魔なものでしかない。“王”を奪われた憎しみと怒りなんて、ボクも忘れてしまいたいのだ。

 

 だというのに容易に頭の中を満たしてしまう感情。いない存在に抱く想い、忠義なんて、無駄でしかない。消してしまったほうがよほど意味があることは明らかだった。

 なのにどうしても、何年経ってもそれができない。感情の面でも理屈の面でも、ボクはキメラを捨てたいと思っている。なのにできないから、ボクはずっと立ち止まったままだった。

 

 時間の流れも、ボクの背を押してくれることはないのだろうか。かしゃかしゃ重なる足音に紛れれてこっそりため息を吐き、ボクはちょうど竹林を抜け、煌びやかな旅館の灯りに目を眇めた。

 

 

 

 それから四人と別れて自室に帰り、身体を拭き清めてから九重たちとの夕食に赴いた。風呂場で赤龍帝が覗きをしてきたのだと怒るゼノヴィアの話を肴に料理を胃に押し込み、家に帰る九重と八坂を見送ってから眠りに就く。慣れない布団で若干の寝不足になりつつ夜を明かし、赤髪の眷属として他の悪魔たちと共に朝練習をこなすゼノヴィアと、それに付き合うハンゾーを眺め、ついでに曹操と報告なんかを交わし終わると、時間は午前九時。修学旅行の二日目が始まった。

 相も変わらずボクは赤髪眷属たちの担当。ハンゾーも、桐生たち人間組も一緒にいる。ただその内の男二人、松田と元浜が、赤龍帝を交えて何か不埒なことでも考えているのか、カメラを片手にだらしなくニヤついていることが、また昨日のような騒動を起こすんじゃないかという不安の材料でもあった。

 

 二度目となれば、さすがに何かしらのペナルティが下るだろう。そのカメラのレンズが和装の金髪親子に向いているのだから、心配はなおのことだった。

 

「見よフェル!あれが金閣寺じゃ!ピカピカで綺麗じゃろう?」

 

「正式名称は鹿苑寺じゃ。その舎利殿となる。……で、実はあの舎利殿、何度か燃えて再建されたものでの、実は当時は三層目にしか金箔が貼られておらんかったそうじゃ。そのさらに昔には二層目にも貼ってあったという説がある故の変更らしいが、違うという説もまた存在する。さてはて、本当はどうだったのじゃろうな」

 

 と、恐らくは真実を知っているはずなのに含み笑いを浮かべる八坂と、ボクの手を引っ張りながら池の向こうの金色の寺を指さす九重。

 その姿は二人とも人間のもの。彼女らは役に立たないハンゾーの代わりに、人に化けて観光案内をしてくれていた。

 

 九重は昨日の通りだが、それに八坂が付いてきたのは少々意外。一人で行かせるのは心配だということらしいが、それを部下に任せなかったのは、ボクの自惚れでなければボクとの交流のためであるのかもしれない。とにかくそういう理由で新たに加わった二人と共に、ボクたちは京都を歩き、そして観光の定番だというこの庭園にたどり着いたのだった。

 

「おお!これが金閣寺!銀閣寺と違って本当に金色だ!アーシア、記念写真を撮ってくれ!」

 

「はいゼノヴィアさん。でも、ちょっと待ってくださいね……」

 

 眼を輝かせて寺と池を背に陣取るゼノヴィアに、振り回される元聖女の金髪は応えた。そして後方、八坂のはだけた着物の衿から覗く真白い双丘に眼を奪われている男たちへ足を向け、どこか寂しそうに下がった声色で赤龍帝の気持ちの悪い顔を覗き込んだ。

 

「あの……イッセーさん、その、カメラを貸していただけませんか……?」

 

「うへ、うへへへへ……なんて眼福……なんて素晴らしきおっぱい……ああ俺、京都に来てよかった……」

 

 だが赤龍帝には聞こえていないようだった。眼は八坂の胸元だけを映し、頭の仲まで性欲で染まっている。

 

 傍らで同じように突っ立ったまま、同種の欲望を向けている松田と元浜もそれをにやけた口元からデロデロ零した。

 

「すげぇよマジで……八坂さん、泊まってる旅館のオーナーがこんなわがままボディだったなんて……」

 

「しかもあの格好……!見てくださいと言うかの如き北半球……!圧倒的、圧倒的感謝……!」

 

 挙句に手を合わせて拝み始める二人。九重のことは八坂のインパクトのおかげで眼中にないようでなによりだが、頭のおかしな言動は止まらず、鼻息はますます荒くなる。

 

「だからこそ……昨日は惜しかったよな。苦労して見つけた露天風呂の除き穴、バレるのがもうちょっと遅けりゃ、ゼノヴィアだけじゃなく八坂さんの生おっぱいと生尻も拝めただろうに……」

 

「それだけじゃなくてお前、もっともっとなトコロまで見れるかもしれんぞ……!エロDVDの、モザイクの向こう側まで……!!」

 

「お、おお……!俄然やる気になってきた!松田、元浜!俺たちの学園生活で最大のチャンスだ今日こそリベンジするぞ!!」

 

「「おう!!」」

 

「せめてこっそり話せこの馬鹿者ども!!」

 

 ボルテージの上がった馬鹿はとうとうゼノヴィアの耳に届き、そしてキレた。間近で聞かされ顔を真っ赤にする金髪を背に庇い、怒声に慄く男たちを、こちらも少々赤くなった顔で睨め付ける。

 

「しかもこの往来で……見ろ、変に注目されているじゃないか……!」

 

「べ……別にいいだろ、何かしたわけじゃないし……」

 

「そ、そうそう!俺たち今日はまだ何もしてねえぞ!」

 

「そもそも昨日のだってお前の馬鹿力で仕切り板ごと吹っ飛ばされて碌に見れなかったし、罰にしても俺と松田が気絶してる間に一誠がまとめて代わりに受けたんだろ?ならお前に口出しする権利があるのか!」

 

「むしろないわけがないじゃないか!!」

 

 注目を気にしていたのはボクの言葉があったからなのだろう。浅くにしか据えられていない意識は容易く消え去り、怒声はよほど周囲の観光客の関心を引き付けた。

 

 その分羞恥と合わさりますます顔に血の気が上り、いかにも爆発寸前といった雰囲気。喉元まで出かかった更なる怒声を懸命にこらえる彼女に、それを傍から呆れ顔で見ていた桐生が寄り添った。

 

「まーまー、お説教は私に任せてよゼノヴィアっち。私たちのお風呂の後、フェルさんとの修行帰りにやられたって話よね。……まあ私が言えることじゃないかもしれないけどさ、兵藤。それに松田も元浜も、覗きもそうだけどそのために板に穴開けるとか、普通に器物破損じゃない?程度は知っとかないといずれ捕まるわよ」

 

「あ、開けたんじぇねえよ!穴開いてるのを見つけたんだ!なあ元浜!?」

 

「お、おう!板に張り付いて探し回って、そしたら植え込みの奥にあったんだよ。半分腐ってたから、それを風邪ひきそうになりながらちょびちょび広げて――」

 

「……それ言い訳になってないと思うわよ」

 

 削って広げたのなら結局器物破損だ。それごと吹っ飛ばしたというゼノヴィアのほうが罪状は重いのかもしれないが、しかしともかく釈明の余地はなく、もう話すことは何もないと、ゼノヴィアは桐生の気遣いを払い除けて元浜の手から問答無用にカメラを奪い取った。

 

「とにかく!次にやったら拳骨だけでは済まさんからな!よく覚えておけ一誠!それに二人も!……ほらアーシア、行こう。写真を撮ってくれ」

 

「……あ、はい」

 

 手渡され、直視はできないが三人へ会釈して、金髪は肩を怒らせるゼノヴィアに続いて背を向けた。

 

「最初っから拳骨で済まないようなことされたと思うんだけど……」

 

 という赤龍帝の情けない声が背を追って、終わりに話題から身を引いていたハンゾーと聖魔剣が慰めと、説教の続きにかかる。同性故かあまり勢いのないそれにはもちろん三人とも反省は見えず、気圧されていた表情はふてぶてしくも笑みに戻った。

 

 そんな様を、怒声に注意を引かれてボクと同様眺めていた九重は、軽蔑しきった調子でふんと鼻を鳴らした。

 

「……やっぱり悪魔は愚か者ばっかりじゃ。露天風呂の仕切り板を壊すなど、いったい何が楽しいのじゃ」

 

「楽しいのはそれじゃないと思うけど……まあ、いいや。ボクも上手いこと説明できないし。ねえ八坂?」

 

「……妾もできんよ。いやしかし……うむ、いずれはせねばな。男の眼というのは、知っておかねば」

 

 不安そうな眼が娘を見る。恐らく覗きが発覚した直後もこんな感じだったのだろう。この場にはいなかったようだが、子供を好く輩や獣の部位を好く輩だって世の中には存在しているのだ。

 

 警戒心が足りていない。だがそれをキミが言うのかと、ボクは男たちの注目を集める八坂の胸元へ、白い眼を向けた。

 言葉を発する必要もなく、言わんとすることを捉えた八坂が苦笑する。

 

「妾はよい。そもそも……九尾という種が、そういう存在であるわけじゃしな。癖のようなものじゃ」

 

「じゃあ、九重も将来そんな格好するのかにゃ。……なんか不格好になりそうだけど」

 

 声を潜めて片目を瞑る八坂。ボクは釈然としない内心で肩をすくめ、八坂のはだけまくった和服を身に纏う九重を想像する。小さくなだらかな体躯に……うん、完全に服に着られている。

 

 そうして脳内に思い浮かべ確かめるボクを、キョトンと見つめ次いで愉しそうに喉を鳴らす八坂と、頬を膨らませた九重が否定した。

 

「ぶ、不格好なわけがないのじゃ!私だって、もうちょっとしたら母上みたいにおおきくなるもん!」

 

「くふふ……そうじゃな、九重は妾に似て美人さんじゃから、きっと似合うようになれよう。子の成長はまだまだ止まらんよ、フェル」

 

 そうなのだろうか。当たり前だろうと笑う彼女に反して、ボクはそう言われてもいまいちピンとこない。当然これ以上大きくなる九重も想像できず、首を傾げて二人から眼を外した。

 

 少し遠くでゼノヴィアが写真撮影に勤しむ池の柵、それに手を突きもたれかかり、金色の寺を眺める。理解の及ばないそれへの思いは小さなため息と一緒に吐き出して、その頃に、追ってボクの隣に手を突いた八坂が言った。

 

「そういえば、ウタはどうしておる。仲違いしたわけではないのじゃろう?」

 

 ボクとクロカが今までずっとコンビで仕事に当たってきたことは、彼女のみならずボクたちを知る誰もが知るところ。どちらかを雇えばもう片方も必ずついてくるという認識故に、八坂は首を傾げた。ボクはそれに、少し言い淀んでから答えを押し出す。

 

「……元気だよ。シロネ、っていたでしょ?今は手分けして、ボクと同じようにそっちを鍛えてる。グリードアイランドっていうゲームの中で」

 

「ゲームの中……?とは、どういうことじゃ?」

 

「プレイすると、肉体ごとゲームの世界に吸い込まれるんだよ。でも、んー、ボクもやったことがあるわけじゃないから想像だけど、裏京都みたいな異空間なんじゃない?入るための条件がゲーム機の前で【練】をするだけなんて簡単なものだから、【念】以外の力も働いてるって考えるのが自然かにゃ」

 

 人外か、それとも魔法使いかは知らないが、念能力者の集団という噂のある製作者たちはそれらの協力を得てゲームを作り上げたのだろう。

 

 一般販売されたとはいえ限定百本の念能力者専用ゲーム。八坂がその名にも首を傾げたのだって無理もない。おまけにゲーム機という単語にもあまり馴染みがないようで、表情は理解しきれていなさそうなままだった。

 

 一方九重にはある程度の知識があるようで、ふぅむと悩ましげに眉尻を下げる母親に代わってボクの胴に抱き着いた。

 

「楽しそうじゃ!フェル、じゃあ今度そのゲーム……白音というのはあの時寝ていた猫又なのじゃろう?あいつも一緒というのはちょっとだけ……だけど、うん、一緒にやりたいのじゃ!どのハードじゃ?」

 

「ハードはともかく、ソフト自体が高いから買うのは無理だと思うよ。定価は58億で、ボクが買った時はその五倍近くしたから」

 

「58億!?その五倍ということは、つまり……」

 

 指折り計算し、その大きすぎる金額に一周回って呆然とする九重。現実味がない出費をしたボクへ、困惑の顔を向ける。

 

「……フェルって、お金持ちだったんじゃな」

 

「おかげで貯金もすっからかんになっちゃったんだけどね。だからとにかく……ああでも、同じ機体を使うなら可能かにゃ。マルチタップっていうのを使えば一つのソフトで三人以上もプレイできるって、ウタが言ってたような……」

 

「っ!じゃあ、今度遊びに行ってもいいか!?フェルとウタの家はどこなのじゃ!?」

 

「今は駒王町に部屋を一つ借りてるよ。遊びに来るのはいいけど……あそこ悪魔の巣窟なんだよね。大丈夫?」

 

 認めるかどうかはともかく、悪魔にとってあの町は自分たちの領土。他勢力の者が足を踏み入れるのなら何かしらの交渉は必要だろう。

 

 そもそもいつの間にこんな話になったのかと、適当にしゃべった自分に呆れつつ、ボクは来る気満々である九重から眼を離し、八坂へと尋ねた。彼女はしばし悩む様子を見せた後、その真剣の表情を滑らかに微笑に崩した。

 

「申し入れれば、あの魔王は無下にはせんじゃろう。主らハンターの楔はしっかりと食い込んでおるようじゃしな」

 

 朗らかな表情で朗らかとは言い難い裏の事情に触れる八坂。あまり細かな情報は伝わっていないだろうが、やはり見るものからすればそれは明らかな事実であるようだ。

 

 だがとにかく八坂が認めるなら、ボクにももう言うべきことはない。九重が喜ぶのならそれは好ましいことであるし、ボク自身も、慕ってくれる彼女と交流を深める機会は望むところだ。その時の前に部屋は片付けておかないと、と記憶にメモ書きをした。

 しかしその内側、容易に想起させられるクロカとシロネの存在が、同時に時期をを尋ねようとしていたボクの口を閉ざした。九重と、そして二人と一緒、そう考えると途端に気分は反転し、重たくなってくる。

 

 そんな内心など知る由もなく、八坂が言った。

 

「しかし……ウタがあの娘の鍛錬か。確か悪魔に転生しておったはずじゃろう?良い方向に向かっておるようで安心じゃ」

 

「……良い方向、かにゃあ……」

 

 ボクにはそう評することができない。二人の仲は戻っても、ボクはまだ一人だ。

 

 八坂は首を横に振る。

 

「良い方向じゃ。少なくとも、悪い結果にはならんじゃろうよ」

 

「……なんで?」

 

「フェル、主がきちんと悩んでおるからじゃ」

 

 などとよくわからないことを言い、ボクの頭を撫でようとする八坂。不意のことで、寸前に慌てて手を伸ばして止めると、苦笑しながら、八坂の手がボクのその手を包んで握った。

 

「主とウタと白音にどんな問題があるかは知らぬが、そこに悪者がおるはずもない。悪意は存在せぬのじゃから悪い方向に転げ落ちることもなかろうて。……気張れ、母親じゃろう」

 

 ボクを見つめる眼は優しく、しかし力強くボクの背中を叩いた。相変わらず言っている意味はよくわからないが、頼もしさで少し心が軽くなる。どうにかなるんじゃないかと、そう思える。

 

 前々からだが、この人の、この妙な包容力は何なのだろう。薄れる心のもやもやを感じながら、ボクは包まれた手を見つめた。

 

「適当なこと言ってる?ママ友とかいうのもそうだけど、本気かどうかは怪しいところだにゃ」

 

「少なくとも、友であることは事実じゃろう?友人の悩みにいい加減など話さんよ」

 

 むず痒くなり、ボクはそう言う八坂から手を引き抜いた。笑って誤魔化している彼女に言い返してやるべく、しかし言葉は友は否定し難く考える。

 そして結局当たり障りない皮肉が生まれ、言おうとした。

 

 その瞬間、ボクは敵意を感じた。

 

「……?フェル、どうかしたか?」

 

 急に固まり、感じた気配に意識を集中させるボクを、八坂が不思議そうに見やる。ばれないよう、帽子の中で注意して耳を向けるボクは、しかし無視して彼女と九重に背を向けた。

 

 一瞬溜め、そして跳んだ。突如突進してきたボクに目を見開く赤龍帝たち。その頭上を飛び越え、

 

 振るったボクの掌底は、同時に赤龍帝たちに飛び掛かった男を地面に叩き落とした。

 

「おっ、ごっほおおおぉぉぉッ!!お腹!!お腹つぶれちゃうぅッ!!」

 

 掌底が命中した腹部を抱えて、いかにも怪しいフード付きマントが石畳の上をごろごろ転げまわった。めくれた裾から見えた内側は、どうやら神父のような格好だ。

 

 あまりにも場違い。奇声と暴力の気配も相俟って、周囲の人間が何事かとざわめき始める。だがそれ以上に大きな動揺が悪魔たちの顔に浮いて、よろよろ起き上がるその男を見つめていた。

 

「お……前、やっぱり、あの時見た人影は……!!」

 

「人影?一誠、お前が言ってたのって、男のことだったのかよ!?……てっきりまた女の尻追っかけてったんだと思ってたぜ……」

 

 悪い、と平謝りしながら警戒心を見せるハンゾーと同じく、悪魔の仲ではいち早く、赤龍帝がそれを敵と認識する。敵意を向けられながら、流血沙汰はまずいかと加減した掌底のダメージやり過ごした男は、ゆっくりと顔を上げた。拍子にフードがズレて頭から滑り落ち、その長い白髪と、小ばかにするように歪む切れ長の赤眼が日に晒された。

 

「……はいそうですどうもどうもクソ悪魔くん。お久しぶりでごぜーます。お腹の贅肉すり潰されてスリムになった超絶新生のスーパー神父」

 

 邪悪な笑みと、ちぐはぐに整った敬礼。ふざけたその口が裏返る。

 

「フリード・セルゼンの登場でぇっす!よろしくぺろんちょ!」

 

 舌を出して名乗った男、フリードは、ボクを透かして背後の悪魔たちにそれらを向けた。

 そしてそれは、容易く悪魔たちの敵意を剥き出しにさせる。聖魔剣の声が、いち早く憎悪までもを帯びて言い放たれた。

 

「フリード……!!なぜ君がここにいる!?捕まったはずだろう!!」

 

「……まさか、堕天使どもの襲撃か!?」

 

 その怒気に気を取り戻し、しかし動転してそんなことを言ってしまうゼノヴィア。一瞬の後に気付き、口を閉ざすももう遅く、そのさらに背後の桐生と松田と元浜が困惑の声を漏らした。

 

「え……堕天使?悪魔とか、何かのゲームの話?ていうか、その人知り合いなの?ゼノヴィアっちも兵藤も」

 

「ってか木場もだし、なんかあったのか?結構ぶっ飛んでる奴みたいだけど」

 

「いやしかしそんなことよりもだ松田!お前は見れたか!?頭の上を跳んだ時のフェルさん!ズボンだったが股間がドアップ!ほんのりうっすらと、パンツの線が浮いていたような――」

 

 とそこまで言って、三人の身体は同時にぐにゃりと弛緩した。それだけでなく周囲の観光客たちも、皆一斉に頽れる。

 

 八坂の妖術だ。どうやら混乱になる前に眠らせてしまうことに決めたらしい。一通り終えると、静かに前へ進み出た。

 

「して、フリードと申したか、主。何用じゃ。人の身でありながらこちら側の事情に通じているのなら、当然ここがどのような土地かも承知しておろう」

 

「当然ご承知しまくっちゃってまっすよ、ブツが九本の欲張りクソ狐さま。知ってるからほら、丸腰のふるティーンでござんすよほらぁ!」

 

 叫んでマントの留め金を外し、前を広げてカソックを見せつける。確かに教会の悪魔狩りが携帯する光の剣も銃もそこにはないが、しかしそんなことはわかりきったことだ。所持していれば京都に入ろうとした時点で弾かれる。

 馬鹿にしていることは明らかだ。八坂は眉を顰めるにとどめたが、しかし九重には受け流せなかったらしく、八坂の隣でぽぽんと生え出た狐耳と尻尾を怒りで立てた。

 

「貴様ッ!!人間だからと調子に乗って変なことばかり言いおって!!この京で騒ぎを起こすなら、何者であろうと許さんぞ!!」

 

「おおう、今度はチビッ子のクソ狐さまじゃあーりませんか!でもでもぉー、か弱い僕に腹パァン食らわしてきやがったのはそっちのドスケベ不審者ゴリラおねーさんなんですよぉ。どうせあの下、クッソエグい格好とかしてる露出狂なのよぉ!ああ怖いわぁ!」

 

 気持ちの悪いねこなで声がボクに向いて、それで九重の怒りはもう言葉では表現できないほどになってしまったらしく、黙り込む。

 代わりに赤龍帝が左手に神器(セイクリッド・ギア)を出現させ、握り締めたそれをフリードに向けながら言った。

 

「フェルさんも、八坂さんもわかったろ?こいつは敵で、クソ野郎だってこと!だからあの時はレイナーレに、次はコカビエルに従って、それでヴァーリが捕まえたはずだ!なのにここにいる、ってことはお前……!!」

 

「いやー、さすがに堕天使の下で働くのは懲り懲りたんですわ。ちゅーわけで天才フリードちゃん、その際を遺憾なく発揮してすたこらさっさと決めさせていただいた……と言えればよかったんだけど、させてもらった、って感じなんすよねぇ」

 

 赤龍帝の台詞に、ボクはようやくコカビエルとの戦いでヴァーリが連れて行った神父がこのフリードであることを思い出した。しかしその間もなく、適当な口調から放たれる事実。

 

 奴を堕天使から逃がした何者か。恐らく、奴はその思惑で赤龍帝たちを襲った。

 

 だからもちろんボクの存在は考慮の内で、そのまま戦えば赤龍帝一人だけでも撃破は可能であろう程度の実力でしかない奴に、手札はもたらされていた。

 

「だがだがしかし、おまけで素敵パワーも貰ったのでフリードちゃんは大満足です!なので大満足ついでに、俺様を二度もボッコにしてくれたクソ悪魔どもに復讐がしたくて、はるばる再び極東まで飛んできたってわけなんですた」

 

 懐から、何やら銀色の筒のようなものを取り出した。手のひらに収まるサイズのそれが握り締められ、皆が警戒する。だがそれはボクたちに向けて振るわれるでも、投げられるでもなく、

 

「超絶新生スーパーフリード、見せちゃります」

 

 自身の首に突き立てた。

 

 ぷしゅっ、と微かに空気の漏れるような音。どうやら筒は注射器であったらしい。

 

 ドーピングの類ということだ。例えばあの“オーフィスの蛇”のような、パワーアップアイテム。だが関係ない。どれだけ基礎能力が向上しても、素材はあの程度。

 

「片付けるけど、いいよね八坂」

 

 怨みだとかは知らないが、悪魔に戦わせるわけにもいかない。その気満々であった悪魔たちを手で制し、八坂に一応の確認を取る。

 

「……致し方あるまい。任せよう」

 

 フェルに使えない結界術やら何やらで忙しい彼女が渋々に頷くのを横目に見て、そしてボクは【気】を練った。

 

 殺す必要もない。気絶させ、堕天使をゆするネタにでもしようか。そんな当然の余裕を以てして、ボクはフリードに視線を戻した。

 

 そして、

 

「―――」

 

 思考が止まった。

 

 フリードの身体がボコボコ膨れ、カソックを突き破って変化していく。

 

 肥大化し、カメレオンのようにギョロギョロ動く両目。背にはカのような薄く透明な羽が生え、腹は蜘蛛のように丸く膨らんで八本の脚が皮膚を突き破り生えてくる。そしてサソリの尾が、骨を割り砕くような異音と共に形成された。

 

 いくつもの生物が混ざった、まさしくキメラの姿。

 眼にし、感情までもを堰き止められるボクの目の前で、バケモノのそれへと変わったフリードの顔が嗤った。

 

 ――【神の不在証明(パーフェクトプラン)




フリード君の台詞難しすぎ問題。
キメラ化(オーダー・ブレイク)については第二部五話で触れられているのでなんやそれと思われた方はそちらへ。
感想ください。


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四話

「消えた……じゃと!?」

 

 八坂が驚愕の声を漏らす。その背後に庇われる子供たちも皆そろって目を剥き、きょろきょろ辺りを見回した。

 

「さっきまでそこにいたのに……まさかまたエクスカリバーかよ!?」

 

「いや……【透明の聖剣(エクスカリバー・トランスペアレンシー)】は使い手を透明化できるけど、他のエクスカリバー共々、あの時に僕が粉々に砕いたはずだ。何より彼は剣を持っていないし、聖なる気配も全く感じられないよ。むしろ……」

 

「【念】だ!一瞬、奴は明らかに【気】を使っていた!だろうハンゾー!?」

 

「ああ、オレも感じた。野郎、あの姿になったことで念能力を会得しやがったってことか!」

 

 赤龍帝と聖魔剣と、ゼノヴィアにハンゾー。それぞれ警戒と共に己が手に武装を出現させ、唯一戦闘能力がない元聖女の金髪を囲んで守る。しかし四方を向いた彼らの眼、悪魔の感覚にもフリードの姿は見つけられない。その理由は恐らく、確信している様子のハンゾーの推察通りだろう。

 

 能力による透明化。彼らの未熟がフリードを見失わせたわけではなく、現にボクの視界からも、数舜前までその目前にあった姿は消え失せていた。

 となれば八坂も彼らも警戒するのは当然。曰く赤龍帝たちへ復讐しに来たフリードが、その姿を隠してすることなど一つしか考えられない。不意打ちを許し、もし仮に誰かが殺されれば、ボクとシロネとの関係にも支障が出るだろう。

 

 だからボクとて他人ごとではいられない。警戒し、備えて然るべき状況だ。

 

 だがボクは、拳を構えることすらできていなかった。

 

 頭は消えたフリードの姿を探そうともせず、両方の目玉は姿の消えた石畳の一点を映して固まったまま。そこにあった異形の姿のみを、焼き付けられた水晶体の裏側に見つめ続けている。

 

 陰として残るその身体を、何度も何度も仔細になぞった。カメレオン、カ、クモ、サソリ。そして人間。それらすべてが混ざり、繋がったあの姿。それがフリードを敵と認めず、思考を縛り付けていた。

 

「――ェル……フェル!!」

 

 ふと鼓膜を叩く大声に気付き、忘我から帰って身が跳ねた。半分怒声となった八坂の声が帽子の中の耳にまで響いて、視界に石畳と、周囲に八坂に眠らされて倒れている観光客たちの姿が戻る。それらを経て、緩慢に背後の八坂を振り返った。

 

「しっかりせい!姿が見えぬのなら別の眼で感じればいいだけのことじゃろう!許可するゆえ、早く【円】を使え!」

 

 思考の硬直が打つ手なしの諦念に見えたらしい。だからこその怒声、気付けの指示に、ボクは困惑しながらも従った。

 

 八坂はフリードを敵だと言い、実際そうだとわかってもいるが、しかしどうしてもそう思えない。事実と認識が食い違い、混乱が頭を占める精神状態の中、ボクはどうにか【気】を練り、引き伸ばす。

 

 アメーバ状に広がって、たちまちボクの【円】が周囲一帯を覆った。半径凡そ一キロほどでとても好調とは言い難いが、それでも感知に問題はない。

 

「うっ……!!な、なんだよこの、すっげえ悪寒……!!」

 

「なんて、禍々しさだ……!!これは確かに、師匠の言葉通り……」

 

「一誠に木場、それにアーシアも、気持ちはわかるが耐えてくれ!フェルさんに悪意があるわけじゃないんだ!【円】とは自身の【気】を広げて周囲を覆うことで、その中のすべてを把握できるという技でな……」

 

「おっかねーのは、つまりフェルの【気】に包まれてるからってだけだ。警戒する気持ちはわかるが勘弁してやってくれよ。特に木場、何があったか知らねーけど、あの人自身にもわからねーんだよ。どうしてこんなおっそろしい【気】してるんだか」

 

「お、おっそろしいとか言うでない!フェルの【気】は……ちょ、ちょっと変わっておるだけじゃ!それだけで剣を向けるなど、やはり悪魔!知ってたけどやっぱりろくでもない!」

 

 根を張ってしまっている憎悪をそう叫び、聖魔剣と、ついでに赤龍帝たちを睨め付ける九重。ボクに向きかけた聖魔剣の剣先諸共それをなだめるハンゾーの、口調に反して神妙な表情と、そんなことより金髪を守らねばとフリードの姿を探しているゼノヴィアと赤龍帝の姿。さらにその中心で不安そうにしている金髪の、今度はボクの【気】に対する身の震えまで、ボクの【円】は認識できていた。

 

 つまり十分に機能している。何ならその瞬間、ちょうど範囲の内に入ってきた曹操たちの気配もボクは感じ取れていて、ならば周囲で機を伺っているはずのフリードの姿も、ボクは発見できるはずだった。

 

 しかし、感じるいくつもの気配の中に、フリードは存在していなかった。

 

「……いない……?」

 

「なに……!?」

 

 ボクの身体を動かしていた八坂の指示が短く事実を告げさせて、遅れてその意味を理解した彼女が絶句する。

 姿は見えない。気配もしない。さらには【円】でも感知できないなど、普通ではない。

 

「それはつまり、奴の能力は――」

 

 と能力を悟る八坂の、その口が続きを言うよりも早く、背後、ボクの首の後ろに鈍い痛みと鋭い衝撃が突き刺さった。

 

「がっ――」

 

 針か何かで打ち抜かれたような攻撃は脊髄に響き、一瞬息まで潰れて、貫く勢いが身体をも吹き飛ばす。敵と認識できない相手からの攻撃を予測できるはずもなく、防御も受け身もできなかったボクの身体は衝撃にされるがまま、林の木々をなぎ倒した。

 

 景観の一部になっていた雑木林に一本醜い道を作り、やがて一際大きな老木にぶつかって止まる。衝撃を受け止めた代わりにへし折れ倒れる巨樹。放たれる轟音に巻き込まれながら、ボクの耳は九重の悲鳴を聞いた。

 

「フェルッ!!そんな、フェルッ!!」

 

「……嘘、だろ……!?」

 

 続くハンゾーの驚愕。ボクの身体を知る彼が九重や他の皆のようにボクの戦闘不能を意識したわけではないだろうが、そもそも攻撃を食らうこと自体が思ってもみなかったことなのだろう。

 

 万全の防御である【堅】を教えたのはボク。そのボクが攻撃された瞬間にも【堅】を使えなかったどころか、常態たる【纏】すら乱れていた事実は、ハンゾーの【凝】でも明らかなほどだった。だから“信じられない”という思いが声に出た。

 

 あるいはそれにしてもな大げさは、曹操に起因するのかもしれない。しかしともかく、その恐れたちも威力の割に大きく残る痛みもすべてボクの脳味噌の混乱が故。どうしていいかもわからず、呆然と垂れる頭を持ち上げ、地響きと巻き上がる土煙の向こうを見つめた。

 

 するとちょうど煙の隙間にその瞬間が映り込む。八坂たちから少し離れた石畳の上、画用紙の裏から絵具を滲ませたかのようにじわりと、透明であったフリードがその姿を現していた。

 

「ぶっはぁー!クリティカルヒィッツ!とはいえさすが俺っちの元上司を倒しただけのことはある。首ちょんぱするはずだったんですけど、防御でもされましたぁ?あ、聞こえてない?首の骨がポッキーしちゃいましたかねェ!」

 

 土煙と木の陰でボクの姿は見えていないのだろう。大きく息を吐き出した後、こちらを見やって勝ち誇ったように、辛うじて人間の形が残る胸を張るフリード。拍子に蜘蛛の脚と腹が不安定に揺れ、ボクの首を突いたと思われるサソリの尻尾もゆらゆら揺れる。

 

 その様子にショックから立ち直る悪魔たち。九重とハンゾーはいまだ衝撃を引きずるが、それらをすべて背に庇い、八坂がフリードを睨みつけた。

 

「……まさか【円】でも感知できぬとはな。その能力、透明化できるというだけのものではないらしい」

 

「ピンポンピンポンご明察!しかし大正解をなされたところで俺様から逃れる術はないのであります!てか逃がしちゃったらヤバいっしょ!透明化で二回もやられちゃこっちの面子がボロボロのボロっすよ!」

 

 にいっと醜悪に曲がった笑みが、聖魔剣の方へ向く。

 

「どうだいイケメン悪魔クン、今回は見切れたかよ?てめえの中二病ソードに負けた伝説の聖剣(笑)なんて目じゃないこのスーパーフリード人モード、切れるもんなら切ってみなよぉ!」

 

「っ!君は――」

 

「よく言いおる。伝説の聖剣とやらも今の力も、主のものではないじゃろう」

 

 見え見えの挑発に乗りかけた聖魔剣の前を背で塞ぎ、八坂は地面に転がる短い筒、フリードが己の首に突き刺した銀色の注射器へ眼をやる。

 

「先ほど打った薬品、借り物の力じゃ。そんなものをどこで手に入れた」

 

 どこだろうとどうでもいいことだ。

 それに、八坂は知りようがないことだがボクにはもう察しがついている。察する他なかったのだ、その正体も、理由も。

 

 ボクの中の“キメラアント”が惹き付けられるフリードの姿。それをもたらした注射器。

 人間に超常の力を与える薬とは、初めて人間界へやってきたあの日に聞いた言葉だった。

 

 あれが四年前のパリストンが言っていた、ボクの血から生まれた“力”、“キメラ化(オーダー・ブレイク)”なのだろう。

 

 だからボクはあれを眼にして思考が止まるほどの衝撃を受けた。自分と同じ“キメラアント”をそこに見たからだ。様々な生物の混ざりものであり、悍ましい内面を持つ、悪魔を食らうバケモノ。

 

 しかし本能が呼応する一方で、理性はしっかりと事実を認識している。あれは“キメラアント”ではない。ボクと同じものでは決してない。ボクの遺伝子情報に刻まれた、それまでの進化の道筋。その過程にありえた“力”を人間に注ぎ込んだだけのもの。

 むしろボクにとっては忌避すべきものだろう。キメラの面で言えば今まで積み上げてきたものを横取りされた屈辱の結果であるし、それに自らの血からこんなにも気持ちの悪い外見の化け物が生み出されたという事実には、正直憤慨しそうになる。作るにしてもこんな形にするなと、パリストンたちに怒鳴りに行くべきところだ。

 

 わかっているのだ。喜べるようなものではないことくらい。

 

(なのに――)

 

 どうしても、惹かれてしまう。フリードに、同胞(・・)に近付きたいという欲求が止められない。

 

 巨樹に押しつぶされる半身を引きずり出し、相反ゆえの混乱に翻弄されながら、ボクはふらふらと皆の方に向かって林を出た。

 

 きつい日差しの下に戻り、照らされたことでボクがやられたものだと思い込んでいた皆もボクの存在に気が付いた。凝視するフリードの化け物の顔が、わかりやすく苛立ちに染まる。

 

「なんスか、死んでねーじゃんゴリラ女。くたばっとけばいいのにさぁ!あーめんどくせぇったらねえぜ!」

 

「フェルッ!!よかった、無事だったのじゃなっ……!!」

 

 眼に涙を浮かべた九重が、感極まってボクへ走り寄ろうとする。だがハンゾーがその両肩を捕まえて留めた。

 

 肩にかかる力で自分が危険に飛び込もうとしていたことに気付き、ボクに伸ばした手を戻してぎゅっと握る九重。安堵からの衝動を必死に抑え込む彼女の表情とは真逆、不安の色が全く消えない、むしろ増してすらいるハンゾーの渋面が、ボクを見つめて絞り出したような声で言った。

 

「フェル、お前……大丈夫、なんだよな……?」

 

 その言葉は怪我の有無を心配するものではなく、つまりフリードのあの“力”と戦えるのかという意味。ボクの内心を凡そ把握しているということで、ボクは改めて確信した。

 

 ハンゾーはキメラ化(オーダー・ブレイク)の存在もその由来も知っている。しかしつい先日まで【念】も知らなかった彼に深い知識があるはずもなく、ならば一目でそれがキメラ化(オーダー・ブレイク)だと判断できた理由は、元からフリードがそれを使って急襲してくることを知っていたからだなのだろう。

 

 そこまで考えれば情報と注射器と企みの元は一目瞭然。ボクに事前の情報が入っていないことも鑑みて、奴の独断専行だ。その目的はわからないが。

 

 だが後でどう報復してやるにせよ、今は後だ。ボクはフリードを見つめたまま、ハンゾーに応えて頷いた。

 ただのやせ我慢だが、ボクを倒したと思い込んでいたフリードには十分な威圧になったようで、彼はチッと小さく舌打ちをした。

 

「もっかいぶっ殺してやらなきゃだめっスかそうっスか!まあ別に構いやしねえですけどね。能力使った俺様を見つけられる奴なんてこの世にいないわけなもんで……なんならゴリラ女やっちゃえばもうこっちの勝ちですし、後はもうババア狐なんか小指の先っちょでちょちょいのちょいでおすし」

 

「っ……あの野郎、俺たちのことは眼中にないってのかよ。白音ちゃんにも木場にもぶっ飛ばされたくせに」

 

 赤龍帝が憤りと一緒に拳を握り締める。抑え込み、喉の奥でくぐもったそれをフリードは耳聡く捉え、怒りが今度はそっちに向いた。

 

「だーから今の俺様はスーパーフリード人なんだって!耳も眼も頭も悪いクソ悪魔が、勘違いして格上気取ってんじゃねえぞ!!」

 

「勘違いしてんのはてめえのほうだ!!そっちがどれだけ強くなろうが、俺たちだって今日までずっと修行してパワーアップしてきたんだ!!あの時とは違う……それを、証明してやるよッ!!」

 

 吠え返し、滾った怒りが左手の【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】の力に変わる。ゼノヴィアと聖魔剣も容易く侮辱に乗り、とうとうそれぞれの戦意を滾らせるが、しかしそれを許さない八坂が、前に出ようとする三人を乱暴に押し戻した。

 

 その毅然の眼が一瞬、不安を覗かせボクを見た。

 

「若人を危険に晒すまでもない。貴様など妾一人でも十分じゃ。その透明化の能力、絶対の自信を持っておるようじゃが……念能力なのじゃろう?であれば“絶対”などということはない。はぐれの神父でしかない貴様は知らんのじゃろうがな」

 

 しかしすぐに離れ、フリードを睨め付ける。その一瞬の目配せが言わんとしたことはすぐにわかった。フリードが姿を現している今のうちに攻撃しろと、そういうことなのだろう。九重や赤龍帝たちを守らなければならない八坂は迂闊に手が出せず、実力的に安全な排除が可能なのはこの場でボク、フェルのみだ。

 だがそのフェルの様子がおかしい。もろに攻撃を食らったのもそうだが、纏う【気】も戦意も明らかに乏しいのだ。不安はそのためで、事実、その危惧は正しかった。

 

 攻撃しろと命じる理性に反して、やはり身体はそれを拒んでいる。再びの八坂の指示にもそれは変わらず、どっちつかずで固まる身体は続く八坂とフリードの舌戦をただ見つめ続けた。

 

「はいはいここにも馬鹿が一匹。寝言跳ねて言うのがこの世のルールでござんすよ?」

 

「馬鹿などと、主の方こそどうなのじゃ。人からかけ離れたその身体に変わり、随分と動き辛そうじゃのう。これではむしろ弱体化ではないか?」

 

「……うるっせえんだよクソアマ!あーもう罪、罪っすわコレ!神に代わってお仕置きしちゃいましょうねぇ!」

 

 怒りの面持ちが、その瞬間邪悪へと転じた。眼が見る先は八坂を越してその後ろ、庇護対象たち。

 

 全員がその悪意に身を竦ませた、その瞬間にフリードは大きく息を吸いこむ。そして、姿が消えた。

 

 虚を突かれた間の出来事で全員反応できず、一拍遅れて妖力を発揮した八坂が寸前で自分たちと倒れる人間の観光客たちへ結界を展開する。直後、自身と赤龍帝たちを覆ったそれに重い打撃音が打ち付けられ、結界の表面にいくつもの波紋が広がった。

 

 やはり見えも感じもできない、フリードの攻撃だ。ただ攻撃の跡と振動だけしか把握できないそれに、悪魔たちはそれでもなんとか姿を捉えようと無意味に目を凝らしている。頼もしい将の厳然を保って結界を支え続ける八坂と、そしてハンゾーの視線が、焦燥を加えて再びボクを一瞥した。

 

「っ……ふんっ!このような攻撃、例え何十時間と続けようが、妾の結界は破れぬぞ!身の程を知ったか小童が!」

 

 応えるものはない。が、挑発の後、攻撃が止まった。

 

「……なん、だ?諦めたのか……?」

 

 眉をひそめて辺りを見回すゼノヴィアの推測は、恐らく間違いだ。気付いた八坂は苦虫を嚙み潰したような顔に変わってボクへ叫んだ。

 

「フェル!!そっちへ行くぞ、気を付けよ!!」

 

 守りに入った八坂たちに攻撃が届かない以上、そこに入らないボクに攻撃の手が向くことは道理だ。やはり気配は感じられないが、フリードは今、ボクへとその八本の脚を動かしているのだろう。

 

 そんな危険への忠告が鼓膜を揺らすのを感じながら、ボクはその場に立ち竦んでいた。

 

 ズガッ、と、腹部に衝撃。【気】でジャケットに拳ほどの穴が開く。続いて腕、背中、脚に、次々フリードの攻撃が突き刺さった。

 

 肉体へのダメージは、あるとはいえ微々たるものだが、対して丈夫でない衣服はどんどんボロボロになっていく。つまりその下の素肌もどんどん九重たちに晒されて、このままではいずれ決定的な部位を見られてしまうだろうという強烈な危機感が、ボクの身だけでなく精神までもを激しく打ち据えていた。

 

「フェル、しっかりしろよお前!!マジでほんとに死んじまうぞッ!?」

 

「死ん……ッッ!!嫌じゃ、フェル!!いつもみたいに戦ってよッ!!」

 

 ますます困惑と焦燥を強めていくハンゾーと、“死”の言葉に恐怖を煽られた九重の悲鳴が聞こえてくる。見えない攻撃が唯一発する打撃の音と痛み、それらにただ巻かれるだけの中、あちこちに張り飛ばされるボクの眼は、一瞬八坂の姿を視界に捉えた。

 

 眉の間がいかにも不本意、やむを得ないという風に歪み、結界を支えていた両手が離れた。次の瞬間、一瞬にして彼女らを守る結界は解け、代わりに八坂の手からいくつもの火の玉が発射された。

 

 狐火なのだろう。放たれたそれらは一直線にボクへと向かい、そして爆ぜた。だがしかし撒き散らされる炎はボクではなく、その周囲を球状に覆って渦を巻く。多少の熱気はあれど、全く動こうとしないボクへの喝でないことは明らかだった。

 

 炎と同時にフリードの攻撃は止まったのだ。しかしそんなことは攻撃を受けていたボクしか知覚できず、おまけに傍から見ればボクごと攻撃したようにしか見えない炎の竜巻の威容は、それぞれの眼からその意図を隠してしまっていた。

 

 そして瞬時に、炎の竜巻はすさまじい勢いで膨張した。

 

「なっ、何をしているんだ八坂さん!?フェルさんだけじゃなくて私たちまで……!!」

 

「ッ!!イッセー君!!」

 

「くっ……!!伏せろアーシア!!」

 

 すぐさま彼らの目の前にまで迫る炎の壁。ゼノヴィアは冷や汗をかきながら八坂に詰め寄り、叫ぶ聖魔剣に背を押された赤龍帝は、罵倒を堪えて金髪を庇い抱きしめた。

 

 だが彼らよりは修羅場慣れしているハンゾーと、母親に対する信頼が深い九重にはその緊張はない。そしてその通りに、妖力の炎は八坂たちへとたどり着いたその瞬間、彼らを避けてぽっかりと空間を作った。

 

 周囲を炎に覆われ、ボクとほとんど同じような状況。いつまで経っても訪れない燃焼の痛みにようやく恐る恐るながら赤龍帝たちが顔を上げた頃、巨大な狐火を操るため集中する八坂の閉じた目が、ふと開いて敷かれた道の一点を見た。

 

「炎で触れてもわからんか。じゃが……ッ!」

 

 燃えて転がっている炭の塊は、フリードのクモの脚の一部だ。焼かれ、砕けたその一部へ向けて、八坂は竜巻を制御する手の反対、右手で妖力を放った。

 竜巻と結界の両方に集中力を割いているためその威力は大きくないが、しかし狙い違わず着弾した。薄紫の妖力が炸裂し、瞬間何もないその空間にフリードの姿が滲み出た。

 

「ぐぼああぁぁぁッッ!!痛熱痛いィィーーッぅ!!」

 

 悲鳴と共に、八坂が左の手のひらを握って広がる火炎をたちまち抑える。数舜で消えた炎の壁のその先では、異形の身体のあちこちが焼け焦げたフリードが、赤熱する石畳の上をのたうち回っていた。

 

 痛々しいその様を、ボクは焼き開かれた林から漂う嫌な臭いを嗅ぎながら見ていた。

 

「マジ……マジですかこれぇ……!!アバズレクソ狐がこんなやべーだなんて聞いてねえぞ……ッ!!」

 

「……誰から何を聞いたのかは知らぬが、妾はこの地の主じゃぞ。姿を捉えられずとも攻撃する方法はいくらでもある。貴様程度の人間、元より相手にならんわ……っく……」

 

 肩をせわしなく上下させながら言う八坂が、不意にふらついて膝を突いた。見て取れる疲労。あれほど巨大な炎の竜巻を操りながらしかも観光客たちのための結界も維持するという力技は、彼女にとって少なからぬ負担となっていたらしい。

 

 その苦しげな声を耳にして、フリードは勢い良く身を起こした。残った人間らしさの一つであった白い頭髪は燃え尽き、カの羽も脚の一本も消し飛ばされていたが、それらの激痛を越えた先に見えた八坂の様子が、彼の顔に醜悪を取り戻させた。

 

「へ……フヒッヒッヒャヒャぃ……!なんだなんだ、随分お疲れじゃあねぇのクソ狐。あのトンデモぶっぱ技、二発目の余裕はあるんすかねぇ?」

 

 じゅっ、と焼けた石畳をクモの脚が踏む音。立ち上る熱気が陽炎となって揺らめき、フリードの笑みを一層邪悪に曲げている。

 

 八坂の技に感嘆と、消耗に不安を抱いていた悪魔たちと九重とハンゾーが、八坂に向けられるその邪悪の余波で身を凍らせた。が、かぶりを振り、怖気を振り払って赤龍帝は厳めしく吠えた。

 

「てめえの方こそもう限界だろ!!復讐だとか、いい加減諦めろよッ!!」

 

「おやぁ?『諦めろ』って、もしかしてビビってんスかぁ?クソトカゲのクソ悪魔くん?……ぶぁーか!クソ悪魔は全部俺様にぶち殺されるの!これ決定事項なんだもん!」

 

 内心の払いきれない恐れを見透かされ、言葉を詰まらせる赤龍帝。その間に立ち直った八坂が再び前へ出た。

 

「無駄じゃ、その決定事項とやらは。貴様はもうこれ以上、妾とは戦えぬよ。もう勝負はついた。仕舞いじゃ」

 

「あ……?何言ってんですかクソ狐」

 

 芝居がかった調子で首を傾げ、フリードは次に、ただその場に佇み続けるボクへと眼を向けた。

 

「さっきはぶっぱされて中途に終わっちまったけど……それまでを見ていらっしゃらない!?このゴリラ女、俺様がボッコにしてやってたんですけど……あそっか、見えないんだった!」

 

「……確かに見えてはおらんが、知っておる。主がそれを自分の実力と思い違いしていることもな」

 

「なぁにイキっちゃってんだかねぇ、俺様の能力を破るぶっぱ技はもう使えねぇのでしょう!?」

 

 唐突に真顔になってふざけるフリードに八坂は鼻を鳴らす。だがフリードはそんな反応など気にもせず、再びにぃっと笑い、大きく息を吸いこんだ。

 

「対して俺様の【神の不在証明(パーフェクトプラン)】に回数制限なんてねえのよ!!ならもうここからは、俺様の独壇場――ッ!!」

 

 そして周囲の空気を肺に取り込んだ、次の瞬間、一瞬にしてフリードの余裕の笑みが崩れ去った。

 

「ごっほぇッ、げふ、げっ、んぐへぇッ!」

 

 代わりに無茶苦茶な咳が出る。背中が折れ、ビクンビクンと痙攣を繰り返す異形の身体を油断なく凝視しながら、八坂は告げる。

 

「だから、もう勝負はついたと言ったじゃろう。貴様の透明化の能力はあらかた把握できた。透明化していても実態がなくなるわけではないこと、自身の身体から離れたものは透明化できぬこと、そして今貴様がやろうとしたように、息を止めることが能力発動のカギであることもな」

 

 炎の竜巻で落ちた脚の破片と、そして今までも能力の前後に大きな呼吸をしていた事実。使った後しばらく息が荒かったことも含めて、様子を見ていればそのルールを推測することは容易かった。

 なにせ今のボクでもわかったほどだ。だからつまり、フリードは八坂の言う通り、彼女と戦えるような人間ではない。“力”は強力でも器が小さいのだ。だからこのまま戦っても、勝利者が八坂であることは疑いようのないことだった。

 

 故に八坂はボクを当てにすることをやめたらしく、鋭い眼差しをフリードに向けたまま告げる。

 

「じゃから狐火に少々細工をした。燃えた気が喉を刺す毒となるように。……安心せい、無関係の者たちも多い場じゃ。咳を誘発するのみで大した害はない」

 

「げほッ、ごっ……せ、せき゛ィ……!?」

 

「うむ。じゃが貴様の能力を封じるには十分。まともな呼吸ができぬようになれば、透明化の持続時間も頻度も著しく落ちよう」

 

 透明化が使えなくなる。それが致命傷であることを、フリードは誰よりも強く理解したに違いない。強力で、しかも誰にも破れないと強く信じていたその自信が砕かれれば、動揺は理屈以上に能力に影響する。

 

 それを理解しているとは思えないが、しかし瞬間、彼の眼に残っていた攻撃的な色がすっと抜け落ちた。震える喉を締め上げんばかりに手で押さえつけ、裏返った声で叫んだ。

 

「とんずらさせていただきやす!!」

 

 一息吸いこみもう一方の手で口も塞いで、そして姿が消えた。長く息を止めていられなくなったとはいえ、我慢すれば逃げる程度はできると考えたよう。皆がまたざわめくが、しかし八坂にそんなものはない。

 

「阿呆め。身体から離れたものは透明化できぬと教えてやったじゃろう」

 

 眼が追っているのは、フリードの捥げた脚から滴った血痕。段々と冷えてきた石畳に線を引くそれが彼の居場所を示している。脚を引きずりながらゆっくり遠ざかり、先の森へと逃げ込もうとする血の道しるべ。その赤色(・・)が見えていた。

 

 頭の中をぐちゃぐちゃにされる。そんなボクを横目に見てから、八坂は再度右手に妖力を集わせた。放ち、宙に命中。吹き飛ばされるフリードの姿が現れる。

 

「ぶっはぁ!!げふ、ごほぉッ!!いっだぁい!!」

 

「全く、往生際の悪いことじゃ。もう一度言おう。もはや貴様の手は二度と我らの下には届かん。妾の目の前に姿を現したこと、後悔しながら縄に――」

 

 攻撃が命中したらしいクモの腹を抱えて丸くなり、仰向けで悶絶するフリードへ八坂は最後の勧告をする。が、それは途中で途切れた。

 

 彼女の意識が振られ、鋭く己の背後を向く。悪魔たちの頭上を越して片手がかざされ、次の瞬間、展開された結界に犬のような化け物の牙が激突した。

 

「おわあッ!?な、なんだ!?」

 

 ぱきぃん、と背後で響いた大音響に、遅れて赤龍帝たちも振り向いた。と同時に、その奥でさらに異変。周囲で倒れ伏していたはずの観光客たち、その一部ではあるが、さっきのフリードのように変身を始めていたのだ。

 

 肉と骨が歪に膨らみねじ曲がり、それぞれクマやサイやカメなど、多種多様な生物の特徴を持つ化け物へとその姿を変える。そしてそれらは犬の化け物に続き、次々八坂の結界へと攻撃を始めた。

 

 悪魔たちはそれらの生物たちを見る眼に驚愕と不快感を灯しながら、その正体を叫ぶ。

 

「フリードの仲間!?彼らもあの薬とやらを使ったのか……!」

 

「っ、まさか観光客の中に敵がいるとは……!フリードほどの力はないようだが、どうする八坂さん!この数はやはり一人では難しいだろう!?」

 

 だから私たちに戦わせろというゼノヴィアの意思は、だがやはり拒絶された。首を振る八坂は、防ぐ隙に再び息を吸いこむフリードを憎々しげに見送るほかない。

 

「舐めるでない小娘!撃退するだけなら片手で足りる!」

 

「な、ならどうして倒さないのじゃ!?母上、早くしないとほら、あの男が透明に――」

 

 と、八坂と悪魔たちの背の間で震えた九重の言葉は、寸前八坂がその片手を振るったと同時に途切れた。

 

 透明化するフリードへと、そちらを見ずになんとか捻り出した妖力の攻撃。がしかし狙いも荒いそれは今度は外れてしまったようで、奥の広葉樹を一本へし折って終わる。舌打ちを辛うじて堪える八坂の眼は、次に流れる血の跡を追いながら半分吐き捨てるように叫んだ。

 

「フリードの仲間など、ここにはおらんからじゃッ!!倒せるはずが無かろう、彼らから薄く感じるフリードの【気】、彼らの変身は薬ではなく、奴の能力によるものじゃ!!」

 

「な、なんだとッ!?」

 

「最初の透明化の際、我らの驚愕の隙に術を施していたに違いない!!操られておるのじゃよ彼らは!!」

 

 だから撃退ではなく拘束の必要がある。そう言う八坂の推察は、恐らく正しい。彼ら一般人の垂れ流しの【気】には、確かにフリードの【気】が感じられる。技もなく、ひたすら己の武器である牙や爪をぶつけるのみの攻撃も、いかにも戦いを知らなさそうな一般人のそれに見えた。

 

 それらの事実を、八坂は今までの技の数々に加え、己の力が及ばず無辜の民を巻き込んでしまったという悔恨を一身に受け止めつつ、反対側のフリードの気配にまで注意を配りながら悟ったのだ。精神的消耗はもうすでに限界だったのだろう。

 

 だから、平常では見落とすはずがないものを見落とし、見逃すはずがないものを見逃した。

 

「フリード、妾は貴様も捕らえようと思っておった。まだ若いのじゃから、と。……反省しよう。妾が甘かった。貴様のような危険な存在は、今ここで討たねばならぬ……!!」

 

 結界を維持する手がぐっと握り締められ、フリードに化け物に変えられた人間たちの動きが途端に止まった。妖術で縛ったのだろう。どさどさ頽れて地面に転がる。

 

 そうして自由になった片手がフリードの跡に照準を定め、もう一方が背後を庇った。

 

「主ら、しっかり固まっておれよ。攻撃に集中する故、離れていては守れなく――」

 

 その手が空を切り、そしてようやく気が付いた。弾かれたように背後を向く八坂。化け物たちを気にしていた悪魔たちも振り向き、眼にする。

 

「九重は、どこじゃ」

 

 背に隠していたはずのその姿が、いつの間にか消えていた。

 

 影も形もない。ただ誰もいない空間が、八坂と悪魔たちの間に空いているばかり。動く気配も何もしなかったのに、という驚愕は、だがすぐに理解し、戦慄へ変わった。

 

「ぶえっほげっほ……ここっスよ、ここ」

 

 咳き込みつつ息を吐き出しながら言い、姿を現したフリードが背負うクモ糸。皆の視線が一様にそこへ向く。

 

 ぐったり目を伏した九重が、その糸に縛られ囚われていた。

 

 そうなるまでの経緯は驚くほど単純だ。フリードがそのクモの腹の尻から粘着質の糸を発射し、九重に付けて引っ張った。ただし付けるのも引っ張るのも、実行したのは恐らく透明化している最中だろう。ボクの眼に見えたのは、八坂の背に隠れて戦いを見守っていた九重の身体に繋がる糸が、フリードが透明化を解除した瞬間現れた、その光景だけ。

 それが二つ前の透明化の時。恐らくその時に糸を付け、次、つまり今さっきの透明化の時に引っ張り、九重を捕まえた。フリードはクモ糸を含めた自分自身を透明化、不可知化する能力だけでなく、それを他人にも適応する能力をも所持していたのだ。

 

 立ち竦むボクは、その場から離れて全体を眼にしていた故に、すぐそれに気付いた。だが九重に付いていたクモの糸の存在にも気付けなかった八坂は、気を失った九重を背に担ぎ見せつけるフリードの姿に、その動きを止めてしまっていた。

 

「天才フリード様は、んげっほ、戦力の差を見誤ったり、げへッ、しないのです……んぐっふ!なので、下水のヘドロみてえにお優しい皆々様に、ッぐ、朗報!人質取っちゃいました!次攻撃してきたら、これバーガーのパテにしちゃいやす!」

 

「きッ……さ、まぁ……ッッ!!」

 

 尻尾の毛がぞわ、と逆立ち、見張られた金の目に強烈な怒りが滾る。周囲の悪魔たちの身も凍り付くほど激甚。それが無理矢理に舌を動かして、歯が固く食いしばられた。

 

 そんな中で、同じく怒りの気配に呑まれかけのハンゾーの視線が、必死の叫びとなってボクに向く。

 

 ――しっかりしてくれ。本当に、手遅れになるぞ。

 

 そう急かしている。実際、この場をどうにかできるのは、キャパシティーの限界に達している上、大事な娘を人質に取られた八坂以外ではボクだけだ。しかも簡単に片を付けられる。【絶】で気配を絶って暗殺するか、何なら身体能力だけでも押し切れてしまうだろう。悪魔たちを守らなければならない八坂と違ってボクは自由に動けるのだから、透明化の能力があれどフリード程度の実力者なんて、倒そうと思えば一瞬だ。

 逆に、ボクが倒せなければ九重は限りなく危うい。フリードはその宣言通り、攻撃を察知すればすぐさま九重を殺してしまうだろうし、かといって見逃しても、用済みとなった九重を生かして返すとは考え難い。どちらに転んでも九重は殺される。

 

 だからなおのこと、ボクはここで行動しなければならなかった。ハンゾーに言われるまでもなく理解していること。今気づいたというわけでもなく、それまでもずっとわかってはいる。

 

 そして、それを直前で塞ぎ止めているフリードのキメラの身体は、未だに少しの変りもない。

 

 狭間で震えるボクをあざ笑うかのように、フリードのカメレオンの眼がこっちを見た。

 

「んじゃあそっちのゴリラ女も完全にビビっちまってるようですし、げふ、ごほっ、そろそろ俺様は行かせていただきやす!」

 

 喉を押さえ、大きく息を吸いこむ。もはや見慣れたものとなった透明化の前動作を、八坂もボクも見ていることしかできない。胸の内で気が狂いそうなほどの怒りや焦燥と戦う八坂の眼は血走って消えゆくフリードと九重を凝視して、力んで切れた口端からは血の筋までが流れていた。

 

 そして二人の姿が視界から消え去ると同時、八坂の正気はとうとう失せた。ガクガクと揺れながらも、脚が一歩前に踏み出す。どちらにしても殺される危険に変わりはないが、しかしそれを黙って見ていることは、親である八坂にはできなかったようだった。

 

 だがそれに妨害が入る。彼女の足元で縛られ、倒れ伏していた、化け物に変えられた人間たち。八坂たちを襲えという命令が生きていたのだろう。動かないその身をねじ折ってまで、再び動き出そうとしている。

 

 敵意に塗れた唸り声。一人が前に出た八坂の脚に咬みついた。

 出血すらしないほどのものだが、しかしそれで、爆発せんばかりに膨れ上がった八坂の怒りは彼らに向いた。

 

「邪魔、じゃあッ!!」

 

「ッ!!駄目だ八坂さんッ!!」

 

 叫んだのは、悪魔たちに先んじて我に返り、八坂が向けた殺意に気付いたハンゾーだった。八坂は殺す気なのだ。化け物に変えられたただの観光客たちを。

 

 それでも、もう言葉などで八坂は止まらない。内の怒りを内包した狐火が、これまでに見ないほどどす黒く染まって化け物たちに放たれた。

 

 が、直後。邪炎を纏った槍の穂先がその狐火を絡め取る。炎と炎は激しくせめぎ合い、やがて槍に込められた力の分打ち勝ち、反れて空へと飛んでいった。

 宙を駆け上ったそれは、八坂がその槍の持ち主を見つけた途端、崩れて消えた。眼に冷静が戻る。

 

 槍の持ち主、八坂を鎮めた曹操は、ぱっと振り向き、ボクを信じられないものを見るような眼で見て小さく呟いた。

 

「……何があった」

 

 ハンゾーが緊張をため息に変えて吐き出し、短く答えた。

 

「九重ちゃんが浚われた。最初はフェルが相手しようとしてたんだが、相手がバケモンになった途端動けなくなっちまった」

 

 応えを受け、しかし曹操はハンゾーに一切目もくれず、化け物たちを邪炎で地面に縫い留めながら、眼の色も変わらずボクを見つめて歩み寄ってくる。

 

 しかし追い越し、加減を忘れた八坂の両手がボクの肩を掴んだ。

 

「そう……そうじゃ、フェル、なぜ……!!なぜ手を貸してくれなんだ……ッ!!」

 

 悲愴の表情。しかし責める言葉はすぐにしぼみ、俯いた顔から小さく「済まぬ……」と聞こえて止まる。

 

 曹操はそれを見やり、深く息を吐き出してから言った。

 

「……事情はある程度理解しました。人を呼びましょう。化け物と化した彼らを治せる者にも心当たりがあります。大丈夫、逃走のための人質なら、少なくとも京都を抜けるまでは生かしておくに違いない」

 

 その言葉にゆっくりと持ち上がる、涙にぬれた八坂の顔。横を向くそれを見つめながら、しかしボクの眼は未だ、フリードのキメラの身体を映していた。

 

 罪悪感とで、身が二つに割れそうだった。




キメラ化=ピトーの血=キメラアントの血=メレオロン、ザザン等、他全てのキメラの力

みたいな力技が、フリード君がキメラアントの念能力を使用できる理由です。ゆるして。
最強能力神の不在証明(パーフェクトプラン)があればフリード君もこのくらいやれる…はず…。
感想ください。


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五話

「いやー、我ながらマジでびっくりしたぜ。まさかこんな時期に熱中症でぶっ倒れるなんてなぁ」

 

 目覚めた人間の一人、丸刈りの松田は、昼過ぎの高い日に手をかざして見上げながらそう言った。その顔は自身が言ったことだというのに怪訝に傾いているが、それも無理のないことだろう。

 フリードが九重を攫って消えて数時間。それだけの時間で施した記憶修正は、どうやら違和感を完璧には消せていないようだった。同じく数時間の記憶の欠落を、気付かぬうちに発症した熱中症での失神と説明されたもう一人、眼鏡男の元浜もやはりいまいち納得がいっていないふうな表情のまま、不思議そうに首を捻った。

 

「しかもみんな一斉にだしな、覚えてないが。だがまあしかし、悪かったな一誠。みんなも、せっかくの京都観光中断しちまって」

 

「あー……いや、別にいいって。気にしてねえよ、ちょっとくらい。な、アーシア」

 

「……あ、はい、そうですね……」

 

 歯切れ悪く答える赤龍帝と金髪。元浜と視線が合わないのは必要があるとはいえ嘘をついている負い目か、それともその原因を作ったフリードが、悪魔たちにとって少なからぬ因縁のある相手であったからだろうか。

 

 だがどちらにせよ、そんなことを知る由もない元浜には、その言葉が言葉の通りに聞こえなかった。すまなそうに顎が引き、閉じた口がおずおず謝罪を口にした。

 

「……悪かったよ、次からはちゃんと気を付けるからさ」

 

「ちゃんとこの白濁した甘い液体も飲むから、許してくれよ一誠。あ、お前も飲むか?この命育む母のミ――」

 

「いや変なふうに言ってっけど、ただのスポーツドリンクだろそれ!?」

 

 半ば以上の中身が残ったペットボトルをじゃぷじゃぷ振ってみせる松田に、赤龍帝は盛大なツッコミを入れる。その光景から眼を離し、前を行く彼らの上方、広がる青空に少し目線を上げながら、ボクは唇を軽く噛んだ。その先には、まだ薄く煙りが立っていた。

 

 フリードの襲撃があった、あの林だ。それなりの面積が八坂によって焼かれたはずだが、結局小さなボヤとして片付けられつつあると聞いている。故に特別通行禁止などはされておらず、修学旅行を再開した一行がそこを通って金閣寺へ向かっているのも自然なことだ。

 

 が、近づきつつあることを認識する心はどうにも落ち着かない。ついさっきあの場で見た光景が、元人間の化け物たちとフリードのあの姿が、脳内に蘇る。

 

 どちらももう、そこにいないことはわかっている。前者の元人間たち、そして適合できなかったのか死んでしまっていた一部と無事であった半数も含めて全員は、今は妖怪たちの管理下であるし、フリードだって野次馬をしに戻ってきているわけもないだろう。

 

 なのに変わらずボクは彼らの姿を見ていた。

 

 いや、今だけではない。今までも、だ。松田たちのやり取りだって、見ているようで見てはいなかった。眼球はそれを映していても脳内にあるのはフリードの姿だけで、様々な生物が混ざったキメラのようなあの姿が、ずっと頭の中を占めていた。

 

 あれはキメラアントではない。ただの人間、ただの敵。なのに、なぜ害意の一かけらも抱けないのか。

 

 ボクはいったい、何を欲してその手を止めているのだろう。その理由が、ずっとわからない。

 

 空に上る煙を見つめながら、ボクの意識はずっとそこに向いていた。その姿は傍から見れば呆けているように見え、集団熱中症があった今では朦朧としているようにも見えたらしい。「だって見ろよ、商品名にそう書いてあるんだぜ?」という気持ちの悪い笑い声に混じって、気遣わしげな声色が耳に入った。

 

「ねえ、フェルさんは大丈夫なの?熱中症」

 

 機械的に眼をやる。桐生の心配そうな顔がボクを覗き込んでいた。見つめ返すボクはやがて視線を戻し、適当な返事を口にする。

 

「大丈夫だよ、鍛えてるから。それに、大人だしね、ボク」

 

「そうは言うけど、八坂さんも倒れちゃったんでしょ?しかも私たちよりも重症。九重ちゃんと一緒に休んでるって話じゃない」

 

 当然といえば当然の話、攫われた九重はもちろん、八坂も今はこの一団にいない。救い出すために妖怪の統領として動いているのだ。

 

 それを誤魔化すために伝えられた理由を口にし、次いで桐生はボクの顔から全身へと視線を移し、眺めて少し呆れたように息をついた。

 

「それにずーっと厚着のまんま。四人も倒れたっていうのにね。……まあ、仕方ないってことはわかってるけど」

 

 どの口で大丈夫とか言ってるのよ、と竦めた肩が続けかける。だがその遠回しな心配がボクと彼女との間に浮かぶ前に、聞き慣れた笑声が揶揄いを含んで後頭部に響いた。

 

「安心するといい、桐生君。もしこいつが倒れたら、その時は俺が叩き起こすよ。担いで病院へ運び込むような羽目にはならないさ」

 

 振り向けば、余所行きの笑みにほんのりニヤニヤ笑いを浮かべてボクを見やる、曹操がそこにいた。

 

「最高級のスポーツドリンクも用意したからな、倒れたら頭から浴びせてやろう」

 

「……それって、松田たちが騒いでるアレのこと?」

 

「ああ。商品名は置いておくとして、効果のほどは申し分ない。一流スポーツ選手も愛飲しているとかどうとか」

 

「……置いとけないほど商品名は問題だと思うんだけど。っていうか、曹操さんの恰好も結構暑いんじゃないの?」

 

 ジト目の桐生が会話に横入りされた分も含めて曹操を睨むも、曹操は笑って流して首を振った。

 

「案外と涼しいものだよ。少なくともフェルの上着よりはマシさ。熱気が籠らない」

 

「けど、そっちは大荷物だにゃ」

 

 反論は叶わず、ボクは曹操が背負うギターケースを見やって鼻を鳴らす。その中には奴の獲物が収められているはずなので、見かけ以上に重いことだろう。

 

 それでも曹操にとってさしたる負荷ではないはずだが、それらを知らない桐生は同意するようにうんうん頷き、続いてギターケースに眼を向けた。

 

「そんな大きいの、宿に置いて来ればよかったじゃない。まさか路上ライブするわけじゃないんでしょ?」

 

「これは……うん、ちょっと大切なものだからね、肌身離さず持っておかないと落ち着かないんだ。置いておいて、盗まれたらと思うと気が気でなくてね」

 

「フェルさんもそうだけど、曹操さんも大概かわってるわね」

 

「……一緒にしないでほしいにゃ」

 

 まさか桐生の言う通り、壊してしまったお詫びにボクが買ってやった槍が大切だから、なんてかわいらしい理由であるはずもない。単にそれは武力が理由。万一フリードが襲ってこないとも限らない状況で、それを手放すはずもないだろう。

 

 しかし、ということはつまり、曹操はフリードを殺す気であるのだ。それは当然のことで、且つそうする以外に事態の解決は不可能。フリードを殺し、九重を救出する必要があることは、ボクも理解していた。

 だがそれでも、想像したそれをボクは喜べそうにない。心の中に黒いもやが射し、呟くように吐き捨てたボクは歩みを速めた。

 

 それを追ってわざわざ目の前に割り込む曹操が、わざとらしく落ち込んだ風に言った。

 

「俺と一緒なのがそんなに気に食わないのか?酷いじゃないか、短い付き合いでもないというのに」

 

「短い付き合いじゃないから嫌なんだよね。例えばその余所行きの顔とか、見てるだけで背中が痒くなっちゃうにゃ」

 

「……全く」

 

 こちらを振り向く顔から仮面が剥がれ、ムッと不貞腐れたように潰れる。変わりっぷりに息を呑む桐生を余所にため息を吐き出し、再び仮面を被りなおすと前を向いた。

 

「酷い言われようだ。それだけ曹操はボクに心を許してくれているんだ、とでも思っておくものだろう、そういうのは。……なあ、匙くん。君も配慮は重要だと、そう思うだろう?」

 

「……なんで俺を巻き込むんだよ、曹操さん」

 

 そうして訳のわからない捨て台詞の後呼ばれた名前に、前を歩いていた男の悪魔、匙の嫌そうに歪んだ顔が振り向いた。

 曹操はその肩に腕を回し、親しげな調子で言う。

 

「そう言うなよ、互いに共通点を持つ同士じゃないか」

 

「そうだけど……いや、それとこれとは話が別だろ。俺関係ねえじゃん。フェルさんとも、ほとんど今日が初対面みたいなもんなんだぜ?頼るなら桐生に頼ってくれよ。同性だし、なんか仲良さそうじゃんか」

 

「あれ?匙、なんでこっちにいるの?あんた生徒会メンバーのグループでハーレム状態だったはずじゃない」

 

「気付くの今かよ!?ってかハーレムとか、兵藤みたいなこと言うんじゃねえ!!」

 

 すっとぼけてそんなことを言う桐生に、匙はツッコミと同時に、そのさらに前方でざわつき始めた眷属仲間の女生徒たちに向けて、大慌てで首を振った。

 

 曹操と共に分かれて京都観光をしていた彼、そして仲間の眷属たちも、曹操と一緒にこちらへ合流していたのだ。彼らにも、悪魔に対する妖怪の決め、すなわち監視は必要故に、仕方のない事態。合わさり結構な大所帯となってしまっているが、理由はどうにか付けられていた。

 

「ああ……マジで、お前たちが熱中症でぶっ倒れたから、心配で俺らはここにいるんだぞ?感謝しろとは言わねえけど、何で揶揄われなきゃならないんだよ」

 

「そうとも。体調不良の生徒がいるなら対応するのは生徒会の務め、だそうだ。せっかくの修学旅行だというのに、立派じゃないか」

 

 相槌の如く褒め称える曹操の言うようなことを、人間三人は説明されている。だからそこには強く出れないものだと思っていたが、ここまで言われても桐生の顔には自責の類は薄い。代わりにどこか挑戦的に首を傾け、言った。

 

「まあその志は素晴らしいと思うけどさ、さすがに全員来ちゃうのはお節介の領域よ。気絶しちゃった時のことは覚えてないけど、とにかく今は全然大丈夫なわけだし」

 

 その台詞が、いわば懐疑のそれを含んで告げられた事柄は、ボクたちはともかく匙たちの眉を動かした。松田と元浜も、声を聞きつけやって来る。集団の左右で立ち止まり、歩くボクたちを待ち構えていた二人が、悟った曹操が離れた途端に匙の両肩を捕まえた。

 

「そうだぞ匙!俺たちはもう何ともない。どうせお前……生徒会の責任がどうたら言って、また俺たちのお宝動画を取り上げるつもりなんだろう!?」

 

「そうはいかねえぞ!せっかく夜中お前の部屋に忍び込んで取り戻したんだ!二度と奪われてたまるかよ!」

 

「はあ!?まさか朝に鞄の中がぐちゃぐちゃになってたのは……!!」

 

「いや松田に元浜!お前らまた俺を除け者にしやがったのかよ!?」

 

 驚愕する匙と、またしてもなにやら被害を被ったらしい赤龍帝もが現れ、ボクたちの前で騒ぎ出す。呆れる他の面々と、桐生は愉快そうにケラケラ笑った。

 

 ボクはそこから一歩分、身を引いた。この間にと、一緒に曹操も引っ張り込む。そうして、空の煙でに延々高まり続けるその思いから、ようやく自制の鎖を取り払った。

 

「ねえ、曹操。そもそも何のつもりで、ボクにあんなものを――」

 

 見せたのか。そう続きかけた言葉は、しかし目の前を落下した小さな水滴に掣肘された。

 

 一度気付けばぽつぽつと、水滴は続々天から降ってくる。前を行く一団もそれに気付き、空を見上げた。

 

「あれ……天気雨?こんなに晴れ渡っているのに、降ることもあるのね」

 

 生徒会のほうの、名も知らない女生徒の一人が呟く。他も同じ認識、珍しいものを見たという感嘆を見せるのみだ。が、隣の曹操は一人、困ったふうに喉を鳴らした。

 

「さすがに、気付かないほど腑抜けてはいないだろうな、フェル」

 

「……まあ、ね」

 

 これは単なる天気雨などではない。地面に濃い点を描き、すぐに蒸発するその気は、明らかに自然現象のそれではなかった。超常の力。そして、どこか妖力のようにも感じる気配。

 

 微かな予感がした。

 

 ほぼ間違いなくこれが襲撃の前兆であると確信、あるいはすでに知っている曹操は手を振り、戦闘を行くハンゾーと聖魔剣を呼び止めた。

 それで察し、身構えるハンゾーの様子に、聖魔剣や他の悪魔の面々にも緊張が走った。

 

「まさかこの雨は……彼の仕業なのか……?」

 

「な、なんでだよ!?あいつ、逃げたんじゃねえのか!?だから俺たち、八坂さんたちに手伝えることはないって言われて……」

 

 聖魔剣と赤龍帝の驚愕。他も似たり寄ったりの動揺に囲まれて、蚊帳の外である人間三人は困惑の眼で見回す。だがそれらの対処をする間もなく、次の瞬間視界が明滅した。

 

 妖狐の異能の一つである【狐の嫁入り】の天気雨が、その能力によって、ボクたち全員を転移させたのだ。明滅に感じたその気配。終わり、そして一変した周囲の風景を眼に映し、しかしボクは皆とは別の理由で息を呑んだ。

 

「うおっ!?な、なんだこれ!?俺たち今まで普通の道歩いてた……はず、だよな……?」

 

「……私もあんたたちも、ほんとに熱中症で頭やられちゃってるのかもね。なによここ……茶色い、洞窟……?」

 

 否、()だ。

 

 キメラアントの、ボクが産まれたあの場所の風景。転移させられたこの空間は、それにとてもよく似ていた。

 

 予感がますます強くなった。

 

「ま、松田たちも一緒に転移させられちまったのかよ!?ど……どうしよう!?魔力とか妖力とかで忘れさせるのは、何度も繰り返すのは危険だっていう話、だったよな?」

 

「まあ、そういう話は後で考えればいいさ。君たちは彼ら三人をしっかり守ってやってくれ。欲をかいた間抜けの退治は、俺たちの役目だからね」

 

 眼を瞬かせたり天井を仰ぎ見たりして現実と戦う人間三人の様子に慌てる赤龍帝へ、曹操はにこりと笑う。直後、ばすっと空気が皮か何かを叩くような音がして、ほぼ同時に超高速で飛来した小さな何かを、反応した曹操が背負うギターケースで受け止めた。

 

 粉砕されるケース。しかしその奥から金属がこすれる鈍い音がして、それが“何か”を叩き落とす。迎撃し、くるりと回転して曹操の肩に担がれたそれは奴の槍だ。同時にもう一つ、ケースの中身はそれだけでなかったらしく、槍の半分ほどの長さ、しかし幅は数倍ほどありそうな包みがごすんと音を立てて土造りの床に転がった。

 

 それを横目に見やる曹操に、狙撃の先、空間の中央辺りで怒りに歯を食いしばるフリードが叫んだ。

 

「おいこらそこのクソ人間!誰に向かって間抜けだなんだと言ってんだぁ!?」

 

「紛れもなく、君だよフリード・セルゼン。まさか俺も、これほど愚かなことをするとは思っていなかったのさ。せっかくの逃走のチャンスだったというのに俺たちを襲い、その上――」

 

 曹操はフリードの隣、タコのような触腕をしならせ、銃身のような片腕をこちらに向ける金色の毛並みを持つ化け物(・・・・・・・・・・・・)を、痛ましいものを見る眼で見やった。

 

「九重姫を、そんな姿にしてしまうとはね」

 

 ボクの予感は、曹操にも肯定されることとなった。

 

 天気雨もこの空間も、すべて九重の力によるもの。しかし彼女が害意を以てボクたちにその力を使うはずがない。なら、使わされたと考えるのが自然だ。

 そしてその方法は、フリードが観光客たちを化け物に変身させ操った能力は、確かにボクも眼にしている。

 

 だからつまり、フリードの隣で殺意を放つタコの化け物は、間違いなく九重なのだ。

 

「おい……まさか、あれが九重ちゃんなのかよ……!?」

 

「イェース、オフコース!その通りっスよおハゲになってるお兄さん!その反応を今か今かとお待ちしておりました!正真正銘、このタコは俺様がお持ち帰りした、あのクソチビ狐でござんすよぉ!」

 

 こちらに、というよりは恐らく曹操へ向けられるハンゾーの、どこか責めるような驚愕も、ようやく見れた望み通りの反応に満悦のフリードの様子すら、ボクの意識には入らなかった。

 

 フリードのキメラの姿を見た時よりも、衝撃は大きいものだ。元より親密であった相手が、キメラと化している。

 その事実に、ボクの心は間違えようもなく、歓喜していた(・・・・・・)

 

(……そうか)

 

 ようやく、ボクはフリードに抱いた耐えがたい想いの理由を理解した。彼も、そして九重も、キメラアントではなくても限りなく近い存在となった二人は、ボクの眼にはどうしようもなく仲間(・・)に見えてしまっていたのだ。

 

 そんな単純な、自分の心に気付くことができなかった理由も、同じく悟る。彼女らがボクの仲間で、それを求めているということはつまり、そこに居たはずのクロカが、もはやボクにとっての仲間足りえないと認めることと同義であるから。

 

 ボクはもう、シロネの下に行ってしまったクロカと一緒にいられないと、心の深くではそう考えてしまっている。

 

 クロカが求めるものではないものを、欲してしまっていた。

 

(そんなわけ……)

 

 ない。かぶりを振る。しかしその決意は弱々しく、キメラの九重を凝視したまま、脚がひとりでに前へ進み出た。

 

 だが無理矢理に止められた。進む身体に突然、槍を押し付けられ、ボクを我に返すと同時に、曹操は床に転がる包みを拾い上げる。巻かれた布を解きながら、ため息を吐き出した。

 

「全く、八坂殿にどう報告すればいいのやら。自分の娘があんな風にされてしまったと知れば、さしものあの人も怒り狂うだろうな」

 

「おやおやそれはいらぬ心配ですなぁ。だってここにいるクソ悪魔とクソ人間全員、俺様にぶっ殺されちゃうんですもの!」

 

「自信も随分なものだ。俺如きは敵じゃない、ということか」

 

「当たり前すぎて失笑ですわ!あのクソ狐にやられた喉もマシになってきたし、そのクソ狐自身もここにはいない。どっかで結界を使って、街全域を封鎖してやがんでしょ?」

 

「正解だ。ということは、その結界が容易く破れるようなものじゃないことも確認済みなわけだ。九重姫の力があったとしても、子供の力でどうこうできるはずもない」

 

「だとしてもあんなもん、もう一回脅してやりゃあ一発なんすよ。ついでにお前らの首も一緒に持ってったら効果倍増じゃない?ちゅーわけで……」

 

 と続いた罵り合いを、とうとうフリードは打ち切った。飛び掛かるべくキメラの身体をたわめ、残った七本のクモの脚がぎちぎちと軋んで鳴る。

 

 曹操へ向く照準が、その一拍の溜めの後、放たれた。

 

「愉しい愉しい復讐のお時間ですッ!!」

 

 巨体が跳ね、大砲の玉のように一直線に飛んでくる。背後に聞こえてくる慌てた声。

 

 それとほとんど同時に、ようやく曹操が動いた。ほとんど解けかけた包みを、振りかぶって投げたのだ。巻かれた布が置いて行かれ、その中身がとうとう露になる。

 

 諸刃の直剣だった。剣先をまっすぐフリードに向けて飛ぶそれは、素人のボクでも一目で業物とわかるほどのすさまじい鋭さを秘めている。

 

 もし命中すれば大変な深手となってしまうだろう。だが刃のすさまじさは、切れ味だけではなかった。

 

 フリードのカメレオンの眼が、一瞬にして零れんばかりに見開かれる。同時に背後からも、聖魔剣の驚愕の叫び。

 

「まさか、それはッ!?」

 

「魔帝剣グラム!!?」

 

 強力な龍殺しの力を持ち、魔剣の帝王とも呼ばれる強力な魔剣の名前だ。まるで投げナイフのような扱いを受けているあの剣が、伝説の魔剣そのものであるということか。

 

 理解し、ボクも曹操の奇行に驚愕すると同時、それを肯定するかのようにグラムが龍殺しの薄暗い【気】を噴き出した。龍でなくても緊張が走るほどのものだったが、しかしフリードは顔を引きつらせながら、どこか呆然とその手を伸ばした。

 

 飛んでくるグラムを受け止める気なのだ。続くだろう曹操の攻撃を考えなければ、確かにそれは可能だろう。強力な武器を奪取することを優先したのかもしれないが、それにしては様子がおかしい。目前にあるグラムを拒絶しつつ、しかし一方で欲する心がせめぎ合っているような、そんな呆けた表情。

 

 ボクの心臓が、締め付けられたかのように疼いた。同時に考えてしまう。フリードがグラムを手にした場合、曹操を相手にどれだけ勝ちの芽があるか。

 だが思わず巡ったそれらの思考は一切が無意味であり、数舜後、曹操が敵を利するような愚を犯すはずがないという当然の事柄と一緒に、ボクはその前兆を、【念】を感じ取った。

 

 直後、グラムの絵を掴もうと伸びたフリードの腕が、飛んだ。

 

「あ……?」

 

 たたらを踏んだフリードの、肩口の滑らかな切断面から遅れて飛び散る鮮血。それを避けるため身を捻る、一瞬前までそこにいなかったはずの、フリードによく似た白髪の人間の男。突如現れたそいつが振るったグラムに、一滴だけ血の雫が滴った。

 

「やあ、我が同胞。……とも呼びたくないほど酷い姿になっているが」

 

「お……おま……ッ!!」

 

 呆けた眼をそのまま白髪の人間に向けるフリードだったが、我に返ると肩の切断面を押さえて思い切り後ろに後退した。食いしばる歯の隙間から興奮したような荒い息を繰り返し、その合間に持ち上がる頬をぴくぴく痙攣させる。

 

「う、腕痛に加えて、まさかまさかの感動の再開……!!フリード様、涙ちょちょぎれっすわ!!」

 

「……それは何よりだ。元はともかく今のその姿じゃ、感動も何もないけどね。……とはいえこれ以上無駄話をする必要もないだろう。始めるが、いいかい?曹操」

 

「ああ、任せたよ」

 

 顔半分でこちらに振り向く白髪の人間に曹操が頷くと、瞬間男はグラムを構えて走り出した。フリードに向けて振るい、その恐るべき切れ味を身を以って知った彼が飛び退いて回避する。

 

 痛みと合わさり必死の表情を浮かべるフリードと、涼しい顔で次々剣技を繰り出す白髪の男。その戦いに抱いてしまう好悪ごちゃまぜの感情を、ボクは預けられた曹操の槍にぶつけて堪えるしかない。見つめていると、ふと背後から感嘆のため息が聞こえた。

 

「……曹操さん、彼は……何者なんです?突然現れ、しかも魔帝剣グラムまで操るなんて……」

 

「味方さん、なんですよね……?」

 

 聖魔剣と、語調に不安を覗かせる金髪の質問。曹操は戦いを見守りながら、ああ、と軽い調子で答えた。

 

「もちろん味方だ。お察しの通り、魔帝剣グラムの今代の使い手であり、俺のハンター仲間。名前はジークフリートという」

 

 白髪の人間の名前が告げられて、悪魔たちは一様に息を呑む。似ていた容姿と合わせて思うところがあるのだろうが、しかし曹操は触れず、続けて言う。

 

「実力も折り紙つきさ。加えて最初の一撃、大量出血を強いたことで、透明化の能力も封じた。そうかからずに片は付くよ。とはいえ……」

 

 と視線を少し横へずらす。触腕の銃口を、戦うジークフリートの背中に向けている九重だ。萎んでいた九本の尻尾が、空気を蓄えて膨らんでいる。そして一拍の後、聞き覚えのあるばすっという音と共に、圧縮されて銃口から放たれた。

 

 つまり九重の触腕は、空気銃のようなものなのだろう。【念】が込められた、よくよく見ればノミのような形をした弾丸は、ジークフリートへかなりの速度で飛んでいく。悪魔たちはもちろん、九重を操作しているフリードにも見切るのは不可能だろう弾速だ。

 

 が、ジークフリートは戦闘の片手間にノミの弾丸を弾いてみせた。フリードの身体を浅く切り裂いたグラムが瞬間的に加速し、剣の腹で方向が変わる。壁にめり込むそれを見ることもなく、流れるように再びフリードへ振るわれた。

 そんな剣舞を見せつけるジークフリートは、余裕の表情を横顔に乗せて言う。

 

「彼女、件の攫われたお姫さまなんだろう?この化け物は僕が相手をしているんだから、そっちでどうにかしてくれよ。狙撃はやっぱり面倒だ」

 

「わかっているよ。俺も今、それを言おうとしていたところだ」

 

 肩をすくめて答えた曹操は、次の瞬間ボクの手から預けていた槍を抜き取った。思いがけずするりと奪われた心の支えが、封じられていた脚を前に踏み出させた。ボクは思わず、それを止めていた張本人であるはずの曹操の顔を見上げる。

 その顔はにこりと微笑み、見慣れた類の笑みを作っていた。

 

「フェル、やってくれ。九重姫はたとえ姿がどう変わろうと、守らなきゃいけない」

 

 無力化して捕まえろ、ということだ。耳聡く、フリードはいたるところが切り裂かれた血だらけの身体にいっぱいの意気を振り絞り、必死に叫んだ。

 

「ッ!!動くんじゃねえゴリラ女!!それから槍チン野郎も!!ちょっとでも動いたら、クソチビ狐!!お前自分で死ね!!」

 

 もしも九重を奪取されれば状況がすこぶる悪くなる。それに気付いたフリードが、今更のように指示を下した。九重の意思無き瞳がボクたちへ向く。

 

 その眼、指示を、ジークフリートに使わなかったのはそこまで思いつく余裕がなかったためなのか、それとも似た顔と名前が理由であるのか。しかしどちらにせよ意味はない。

 

 それが仲間を守るためであるから、ボクの身体は滑らかに動いた。

 

「かひゅっ……」

 

 九重が瞬きするだけの時間で、ボクには十分だった。一瞬で九重の背後に跳び、視界からボクが消えたと気付く前に意識を刈り取る。異形となった九重を既知の手段で失神させられるか少しだけ不安だったが、しかしうまくいったようだ。力が抜け、ぐたりと倒れる九重の少しひんやりとした身体を支え、抱き上げる。その様子を唖然として見るフリードが、ぽかんと呆けて口を開けた。

 

「は、えぇ……?あれ、なんでそんなに速いんスか?あんた、アリンコのようにクソ雑魚だったじゃありません?」

 

 一番初めに彼が赤龍帝たちに飛び掛かった時には、何者かもわからない以上間違っても殺さぬようにと手加減したし、その後もキメラの身体を見てから何もできなくなってしまった。彼はそんなボクしか知らないのだ。

 

 実力を誤解してしまうのもおかしくはない。そんな観察眼が彼にないことは、とうに明らかになっている。

 

「さあ、最後の保険もなくなった。身体はボロボロ、【狐の嫁入り】の空間に於いては逃げることもできない。詰みだよ、フリード・セルゼン」

 

「……はあ?なにわけわかんねえこと言ってんですかね完成品サマは。詰みだとか、んなもんあるわけねえだろうがよォッ!!」

 

 激情を見せ、叫んだフリードは残った僅か三本の脚をたわめ、ジークフリートの頭上(・・・・・・・・・・)を飛び越えた。

 

 その先、九重を抱くボクへと飛び掛かる。そんなこと、普通に考えればありえないのだ。

 

 ジークフリートほどの実力者が対応できないような行動では全くない。フリードと戦っていた時もそうだ。展開こそ一方的でフリードの反撃の一つも許すことはなかったが、しかし実力差からして、殺ろうと思えば一瞬で頭から両断できていただろう。

 

 つまり、ジークフリートはフリードを殺さぬよう、ずっと手を抜いていた。その理由はボクの手加減でも、もちろんキメラの身体への同調でもない。

 

 恐らくは、今この状況を作るため。

 

 ボクは九重を片腕に、もう一方の手で、隻腕となったフリードが伸ばす異形の手を受け止める。せめぎ合う意志に、ようやく悟った。

 

 曹操がフリードとキメラ化(オーダー・ブレイク)を用意した理由。それは、

 

(ボクに、キメラアントを殺させるため)

 

 ボクの中の“キメラアント”を殺させようとしているのだ。

 

 その目的は、どうせクロカやシロネと関係ない何か。ろくでもないものなのだろう。だが結果はボクの求めるものと一致する。ボクの中の“キメラアント”、悪魔を受け入れることを許さないその一面を消すことができれば、ボクはクロカとシロネを憎まずに済むからだ。

 

 だからもう、曹操やジークフリートに対する憤りの類はなかった。奴らの目的とやらもどうでもいい。だから、九重を守るためにも、フリードを殺すのだ。

 

 しかし、それでもボクは、フリードを殺せなかった。

 

「ん、がぁ……!」

 

 肩から噴水のように激しく血を噴き出させながら、開いた瞳孔でボクに憤怒を向けるフリードが、大きく口を開けた。そこからずるずると、大きな針がゆっくりボクの額へ伸びてくる。

 

 それは死の淵にあるという必死さゆえか、驚くほどの【念】が込められていた。額へ到達すれば、致命傷にはならずとも出血してしまうだろう。ボクに流れる青い血が露見すればあらゆるものが終わりだ。

 

 だからフリードを殺して止めることは、九重だけでなく、ボク自身を救うということでもある。ありあり理解できたとしても、できない。フリードは、殺せない。

 

(だって――)

 

 それをしてしまえば、仲間を失ってしまえば。

 

(クロカと出会う前の、あの頃みたいに……)

 

 長くをクロカと共に過ごし、より濃い影となったあの孤独。ボクだけが生き残ってしまった虚無感に、再び戻されてしまう。

 

 だからボクが“キメラアント”である限り、仲間であるフリードは救いたいと感じる対象ですらあった。

 

 確信し、抵抗の心も折れる。その寸前。

 

「我が友から離れよッ!!下郎めがッ!!」

 

 迫るフリードの顔があったはずのその場所を、恐ろしいほどの密度の妖力が貫いた。

 

 眼前に広がる薄紫の奔流。一瞬、頭が真っ白になる。すぐに途切れ、視界が戻った。

 

 そこに見えたのは、頭部と上半身がもろとも消し飛んだ、フリードのキメラの身体。呆然と見つめる中でそれはゆっくりと傾き、やがて力なく横に倒れた。

 

 フリードが、死んだ。遅れて理解がやって来るが、しかし何かしらの感情が意識に上る前に、ボクの腕から九重のキメラの身体が取り上げられた。

 

「ありゃりゃ、九重ちゃんも変身させちゃっていたんですね。確かに操作してしまえば戦力にもなるでしょうけど……まあ、こうなりますよね」

 

 大きな三角帽をかぶった金髪碧眼の、恐らく魔法使いであろう少女だ。九重を掲げるように持ち、憐れみを含んだ眼差しを、黒い粒子となって消えていくフリードの亡骸に落としている。

 

 その眼にほんの僅かな、仮にも敵に向けるものではない痛切が見えた気がしたが、しかし間もなく消え、フリードの亡骸に油断なく攻撃の構えを向けていた八坂が、消滅でようやく死を確信し、手の妖力を引っ込めた。代わりに優しく、震えながら魔法使いから九重を受け取り、腕に抱いて一滴涙を零す。

 

「ああ……本当に、九重なのじゃな……。すまぬなぁ……妾が至らぬせいで辛い目に合わせてしもうた……」

 

「……申し訳ありません八坂殿。しかしフェルが上手く保護してくれましたのでご安心を。それに、そこのルフェイが九重姫を元の姿に戻せます。被害に遭った観光客たちを人の姿に戻す場面は、もうご覧になったでしょう?」

 

 九重を抱きしめる八坂に頭を下げてから、隣にやってきた曹操が傍の魔法使い、ルフェイを眼で示した。八坂は涙を振り払い、ゆっくりと顔を上げる。

 

「うむ……そうじゃな。感謝する、フェル殿。……ルフェイ殿も、頼めるか?」

 

「はい、もちろん」

 

 笑顔で頷くと、ルフェイは九重に手をかざし、何やら魔法陣をいくつも展開した。九重を元に戻すための術式なのだろう。途端、九重のキメラの身体が淡く光り輝き始めた。

 

 その光に、ボクの眼はフリードの亡骸から離れた。キメラではなくなっていく九重の身体。噴き出し、付着したのだろうフリードの血が、今更頬を流れていくのを知覚する。

 

「……なんか、ようやくいかにもなファンタジーって感じの光景だよな。魔法陣か?あれ」

 

「そう、なんじゃない?でも正直、いかにもって言っても……」

 

「もうとっくの昔に理解が追い付かねえよ。剣にモンスターに魔法に……待て、八坂さんもなんか尻尾生えてねえか……?」

 

 人間三人がぼそぼそ言い合い、それにどう触れたものかとまごついている悪魔たちの様子も把握できていた。だが意識は微動だにせず、九重へ。ひたすら焦燥ばかりが膨れ上がった。

 

 フリードが死に、そして九重も同じように死んでしまうという恐れだ。せっかくの仲間が、殺されて(キメラでなくなって)しまう。

 

 だが、一瞬だけボクへと向いた八坂の眼が伸びそうになる手を留め、ボクにその光景を見守らせていた。

 

 するとやがて、九重を覆う光が一際強くなり、そして、解けてしまった。

 薄れ、遠ざかる光の奥には、元通りの九重の姿。八坂はまた涙を、しかし今度は歓喜で流し、暖かい柔らかさの戻った九重の頭を優しく撫でた。

 

「おお……!よかった……。九重、妾がわかるか?大事はないか?」

 

「うう……はは、うえ……?」

 

 ちょうど意識を取り戻し、九重が呻く。弱ってはいるが、母親の八坂には正気を取り戻したとわかるらしく、たちまち顔がほころんだ。が、その目が開いた瞬間、息を詰める。

 

「あ……ええと、これ、人間用の術式なので……妖怪の九重ちゃんにはちょっとした問題が出てしまった……ようですね……」

 

 九重の顔を覗き込み、発見するなり目を泳がせるルフェイの焦り顔。そんな反応の二人を九重はきょろきょろ不思議そうに見まわして、それでボクも気が付いた。

 

 片目だけが、キメラだった時のそれのままだ。

 

「ああでも!もうフリードの支配からは解放されているはずですし、種族的にもちゃんと妖怪です!手も足も、他はちゃんと元に――」

 

「フリード……そ、そうじゃ!私、あいつの尻尾に刺されて、そうしたら身体が変に……!」

 

 自己弁護を始めたルフェイを遮り、記憶の鮮明が戻ったらしい九重が、ハッとしてボクを見やった。異形の眼が銃身だった右腕に向き、次いでボクへと向けられた。

 

「わ、私、まだあの化け物のままなのか!?フェル!私の顔、どうなっておるのじゃ!?」

 

「……眼、が……」

 

「眼!?私の眼が、元に戻っていないの!?」

 

 必死の形相となり、その頃にようやくボクは幾らか我を取り戻した。フリードの死というショックから、九重の眼が引き上げてくれたのだ。

 

「……ああ、うん。そうだけど……でも、すごく、いい(・・)と思うにゃ」

 

 語調をも侵しかける喜色はどうにか塞ぎ止め、ボクはそう答えた。九重は表情を一変、キョトンとして目を丸くすると、数秒後、微笑んだ。

 

「なら、よかったのじゃ!」

 

 

 

 ――まあ、一定の成果は得られたか。

 

 曹操は新幹線の駅のホームにて、この企みに於いて一緒に行動した面々とハンター仲間の二人、そして孫弟子の二人に加えてピトーが、眼帯をした九重と別れを惜しむを様子を見やりながら、内心でそう呟いた。

 

 ――失敗ではないが、成功とも言い難い。キメラの楔を砕くにはまだ遠い、だな。

 

 寂しそうな顔で、何時か近いうちに遊びに行くと手を握る九重に、喜びと後ろめたさがぐちゃぐちゃに混ざり合った表情で返すピトー。そこの面だけ見れば、キメラアントに対する執着が残っていることがわかる。企みは失敗だ。

 だがそれでも、最終的には八坂が撃破することとなったがしかし、ピトーはフリードの攻撃を受け止めたのだ。抵抗もできなかった最初に比べれば、明らかな進展だろう。小さすぎる一歩であることには違いないが。

 

 それにしても、だ。なぜ毎回、この京都では事件がこじれてしまうのだろう。本来であればピトーがキメラ化(オーダー・ブレイク)を使ったフリードを殺し、それで終了するはずだった今回の事件。それが数人の人間の死者を出し、大掛かりな事件処理と記憶処理、それがができず裏側の世界を知ってしまった一般人が三人と、さらには京妖怪重要人物である九重に傷跡までもを残す結果となってしまった。

 

 普段の策はもう少しうまくいくというのに、この土地に呪われてでもいるのかと、思わず考えてしまうほど。あるいはピトーに、かもしれない。バカバカしいことを考えそして曹操はそれを失笑と共に吹き消した。

 

 そうしてやがて、曹操は新幹線の発車時間が迫っていることに気付く。未だ続くピトーたちの別れの挨拶を片付け、自分たちも列車に乗り込むべく、肩をすくめて歩を進めた。

 

 その瞬間、ぞっとするほど冷やかな殺気が、曹操の肩にポンと置かれた。

 

「……一つだけ、聞かせよ、曹操」

 

 八坂のものだった。まあそりゃ察するよな、と、曹操は額に薄く冷や汗を浮かせながら、ゆっくり息を吐く。

 

 妖怪の統領は、冷たく尋ねた。

 

「此度の件、主は誰のために企んだ」

 

 吐いた息を再び吸い込む。間はほとんどなかった。

 

「もちろん、俺自身のためだ」

 

 嘘は言っていない。言えば八坂にはわかってしまうだろう。だから安易に「フェルのため」なんてことは言わなかった。

 

 それで果たして騙されてくれるのか。嘘に自身はあれど冷や汗が止まることはなかったが、しかし数秒後、肩から手が退いた。

 

「……その言葉、信じよう。じゃが曹操、覚えておれ」

 

 一際強く、首筋に殺気が食い込んだ。

 

「次はない」

 

 ようやく消え失せた。立ち竦む横を、さっきまでの威圧を全く感じさせない微笑を浮かべた八坂が通り過ぎ、ピトーへ別れを告げる。

 

 肩をなでおろしながら、曹操は改めて意志を固くした。

 

 ――だが、やらねばならないんですよ、俺は。

 

 なぜならそれがハンターで、俺が目指す英雄であるから。

 

「おい曹操!もうすぐ列車が出るぞ!修学旅行は終わったのに、まだ京都に居残るつもりか?」

 

 他は皆列車に乗り込んだ後らしく、手を振るゼノヴィアの他には、ピトーがいると思われる席の窓に何かを話す九重と八坂の姿しかない。曹操は瞬きして背に残る震えと思いを覆い隠すと、応えて手を振り返した。

 

「いや、今行くよ」

 

 そこに、ふと声がかかる。

 

「失礼。あなたが曹操と、あちらはリアス・グレモリー殿の眷属、ゼノヴィアさんか?」

 

 整いはしているものの、まだ粗が残る【纏】。そして口にした情報。恐らく、なって日のないルーキーハンターだと、主観的に悟った曹操は声のほう、背後を振り向く。

 

 金髪に、カラーコンタクトのような不自然な黒目。黒いスーツを身に纏う中性的な男は、曹操の反応を是と受け取り、続けた。

 

「ノストラードファミリー若頭、クラピカという者だ。リアス・グレモリー殿に取り次いでもらいたい」

 

 発車寸前を告げるアナウンスが鳴った。




前話の後書きでフリード君がキメラアントの念能力を使用できる理由を説明しました。
なので今回は能力を受けただけの九重がイカルゴのような能力と姿になってしまった理由を説明したいと思います。

性癖です。

感想ください。


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六話

前回までの三行あらすじ

修学旅行の付き添いで京都再訪して
キメラ化したフリードが襲ってきて
撃退したら帰り際にクラピカ来た

今回の更新は全四話。の割に時間が掛かったのは迷走の証。結局当初の流れから大きく変わることはなかったので無駄に一週間とかしたわけです。よろしくお願いします。


「初めまして、リアス・グレモリー殿。私がクラピカです。時間を作っていただいたこと、感謝します」

 

「……まあ、どうぞ座って頂戴」

 

 奴の拠点である部室、地位にものを言わせて設えたのだろう、質素ながら高級そうな調度品の数々に囲まれながら上座のソファに腰かける赤髪は、どこか気の進まなさそうな顔をしながら対面の席を示して言った。

 

 それに対しクラピカ、数日前の修学旅行の帰りの列車にて出会った金髪の中性的な男は、頭を下げてから席に座った。赤髪の後ろに控えていた朱乃が、すかさず湯気の立つティーカップをテーブルに添える。

 赤髪の前にも同じものが置かれるがクラピカと同様意識も向けず、代わりに出入り口傍でその三人を眺めるボクへ、社交辞令のように言った。

 

「フェル、貴女も、どこかに座ったらどう?」

 

 同調する朱乃の顔には、しかし対照的に隠しきれない忌避の色が浮いていた。その心の内はどうせ“さっさとどこかへ行ってしまえ”なのだろう。実際この部屋にいる四人の中でボクだけが無関係。赤髪との面会を願ったクラピカ、当人たる赤髪と女王(クイーン)の朱乃のどの事情とも、本来であれば関りはなかった。

 

 その、なかったはずの関りが新たに生じてしまっていたから、ボクは首を横に振った。

 

「ボクはクラピカをここまで案内してきただけだから」

 

 そのついでにクラピカの目的と結果を見届けて来てくれと、曹操に頼まれたからだった。

 

 曰く奴には“やらなければならない仕事”とやらがあるらしい。そう言って投げて寄こした頼みだが、どうせその仕事とやらは京都のこと、その後始末やら何やらであるのだろう。白々しい。

 

 そう、白々しいが、しかしボクはその頼みに頷いた。奴の勤労を労ったりとか憐れんだりとかそういうことではもちろんなく、単にあの出来事、キメラと化したにもう触れたくなかったからだ。

 

 少なくとも今は直視したくない。だからそれがちらりとでも話題に出る前に、ボクはクラピカを先導した。素直に頼みを遂行しているのは、ただそれだけの理由だった。

 

 後は他に、“クラピカ”という聞き覚えのある名前に興味が湧いたという理由もなくはないが、もうボクは“蜘蛛”ではない。故にノブナガに報告する義務もないので、それは単なる好奇心。

 しかしどうであれもうボクにはこれを見届けないという選択肢はなく、ボクの台詞を言葉通りに受け取った赤髪と朱乃も『ならもう用はないはずだろう』と言いたげだが、ボクに動く気がないことは伝わったようで、諦めて視線を外した。

 

 ごほん、と咳払いをして、なんとかボクの存在を意識の外に出すと、赤髪は脚を組み、真剣の眼をクラピカに向けた。

 

「それじゃあ、さっそく用件を聞きましょうか、クラピカ。……ハンゾーと同期のハンターであり、しかも海外のマフィアの若頭でもある貴方が、日本にいる私に何の用なのかしら。この時勢でお兄様、魔王様とのパイプが欲しいというのなら、残念ながら無駄足と言ってあげるしかないのだけれど」

 

「……悪魔は人間の願いを叶え、糧とする種族だと聞いています」

 

「ええ、そうよ。ただ知っているならわかっていると思うけど、願いには対価が必要よ。さすがに今はもう魂を要求したりはしないけど、それがお金でも物でも、対価に見合ったことしか私はできないし、する気もないわ。……それと個人的に、願いがマフィアの悪事であるなら、どれだけの対価であっても叶えてあげるつもりはないから、そのつもりで」

 

 赤髪がクラピカに対して微妙な表情であったのは、恐らくその危惧が原因であったのだろう。調べたのか把握しているクラピカの経歴。そこから導き出される彼の目的として、最初に思い浮かんだのがそれであったわけだ。

 

 そして実際がどうであったかは不明瞭だが、赤髪の毅然にクラピカの口は一瞬止まった。何か記憶を辿っているかのように一瞬唇が震え、しかしすぐに呑み込み、改めて言った。

 

「対価は……この身です」

 

「……それは、魂を、という意味?さっきも言ったけれど、もうそういうものを対価には――」

 

「いいえ、ある意味では確かにそうだが、違います」

 

 遮り、そしてさらに赤髪の表情に疑問を重ねさせ、クラピカはまっすぐに赤髪を見つめて、言った。

 

「私を、貴女の眷属にしていただきたい」

 

 赤髪も朱乃も、そしてボクも驚かざるを得なかった。

 

 一見して、クラピカは誇りを持つハンターだ。態度や言動からも察しは付く。ハンゾーのように、金や権力に服従するタイプでないことは明らかだ。

 

 そのはずが、眷属にしてほしいというその望み。誇りを捨てた飼い犬ハンターになることを望むもので、特に一度ハンゾーに眷属への誘いを断られている赤髪は驚きのあまり目を丸くして絶句した。

 

 朱乃に肩をゆすられどうにか正気を取り戻すと、赤髪はティーカップを手に取り、口を付けてから言った。

 

「……私の眷属、ね。それがどういう意味なのか、貴方はちゃんとわかっているの?」

 

「もちろんです。チェスの駒をかたどった悪魔の駒(イーヴィル・ピース)で他種族を悪魔に転生させる。悪魔の人口減少を食い止める目的で開発され、今は“V5”との協定で新たな眷属を探すことが困難になっているという事情も承知しています。それに、貴女に一つ、未使用の戦車(ルーク)の駒が残っていることも」

 

「……それを自分に授けろと、そう言いたいのね、貴方は」

 

 頷くクラピカ。対して赤髪は相変わらずの困惑と、そして不審が見えた。

 疑いもするだろう。始終真剣、端的に言えば無表情であるクラピカが言う提案。読めない心情は気味が悪い。確かに協会の眼が入って様変わりしたと聞く眷属収集事情の中でクラピカの申し出は、赤髪にとっても嬉しいものなのかもしれないが、その動機が見えないとなっては手を取る気にもなれないだろう。

 

 そしてボクもその動機は気になる。故に、口を挟んだ。

 

「ふぅん、つまり売り込みに来たんだ、クラピカ。でもなんで?ハンターなら悪魔になんてならなくても、大体のことはできるじゃにゃい?」

 

「……その“大体”の外にあるものが目的だからだ。そしてそれを貴女に教える義務はない」

 

 首が僅かに曲がり、黒い眼の端がボクに向く。しゃべりたくないという拒絶が言葉になるが、しかし赤髪もボクと同様の思いであったらしく、口を開いた。

 

「聞かせて頂戴。でなければ話に頷くこともできないわ」

 

「……だってさ」

 

 改めて見やると、座るクラピカの頭が前に向き直り、僅かに俯いた。迷っているというよりは、話すことで変化するであろう状況を再計算しているといったふうの間。

 

 それらが終わり、持ち上がった顔がすうっと息を吸いこんだ。が、それが言葉に変わる前、ボクは悟り、壁際から一歩退いた。

 

 ほぼ同時、ばきっと扉の蝶番が壊れる音と、悲鳴が室内の静寂を突き破った。

 

「おわぁッ!!ぐぶ……!!お、おい、何すんだよ一誠、ゼノヴィア……!」

 

「あ、ああ、済まないハンゾー。やはりどうにも気になって、つい力が……すぐに退く」

 

 つい数舜前までボクが立っていた場所も巻き込み、外れたドアごと折り重なるハンゾーと赤龍帝とゼノヴィアの姿があった。最初からドアの裏で聞き耳を立てていたことは承知していたが、まさかドアを破壊するほど気になっていたとは予想外だ。

 

 それもすべてクラピカの来歴、ハンゾーの同期であり【念】使いのハンターであることが故なのだろう。だが一人、赤龍帝だけは違うと見える。一番上のゼノヴィアが身体をどかしたというのに「おっぱい……背中におっぱい……」と気持ちの悪い顔でうわ言を繰り返すばかりの赤龍帝は、業を煮やしたハンゾーに振り落とされても変わらず好色のまま。敷かれたカーペットの上にあおむけに転がっている。

 

 要は彼がクラピカを気にした理由もまた女。曹操に燃やした対抗心と同じであるのだろう。証拠に赤髪が呆れ顔で「イッセーったら……」と失望のため息をついた瞬間、赤龍帝は正気を取り戻し、慌てて手を貸しに来た朱乃の世話になるまでもなく、弾かれたように起き上がって必死な言い訳に口を回した。

 

「いやその!……あの、えっと……そ、そうっすよ部長!たまたま、ほんとにたまたま聞こえちゃったんですけど!そのクラピカって野郎が俺たちの仲間になりたいって言ってきてるんですよね!?そのくせご主人様になる部長に隠し事するなんて、そんなの俺だって信用できないですよ!だからクラピカ!悪いけど転生悪魔になってハーレムが作りたいってんなら、他の上級悪魔を当たってくれよ!」

 

「……少なくともハーレムが目当てじゃねーと思うぜ、オレは。だよな?」

 

 赤髪の冷たい眼差しに眼が泳ぎまくる赤龍帝に割って入り、身を起こしたハンゾーはソファの背に手をかけクラピカの顔を覗き込んだ。クラピカはそんなハンゾーにちらりと、そして赤龍帝とゼノヴィアにも視線をやって、吸っていた息を吐き出した。

 

「……わかった。信用のためになるのなら、話そう。だがその前に一つ、こちらからも尋ねたい」

 

 赤髪に向き直りそう言うクラピカは、ふと顔に手を伸ばした。後姿からは何をしているのかわからないが、少しして離れた手の指には、半球の黒っぽい膜のようなものが乗っていた。

 

 恐らくカラーコンタクト。気付いて視線を赤髪の方へ戻せば、その驚きに見張られた眼に、クラピカの美しい()眼が映っていた。

 

「“緋の眼”、という言葉をご存じですか」

 

 聞き覚えがある。確か世界七大美色の一つだとかなんとか。

 とはいえ知る情報はそこまでだったが、一方の赤髪にはより詳細な知識があったらしく、神妙な顔つきで頷いた。

 

「……知っているわ。世界で最も美しいと言われるいる色を持つものの一つ。“クルタ族の眼球”のことね」

 

「が、眼球って、なんか物騒な名前だな……。そういう見た目の宝石か何かなんすか?」

 

「いや、名前の通りのシロモンだ」

 

 答えたのはハンゾーだった。その表情に僅かに覗くのは恐らく忌避感で、怪訝そうな顔をする赤龍帝とゼノヴィアと朱乃へ、続けて言った。

 

「クルタ族っつー少数民族が、感情が高ぶると目が赤くなる特殊な一族だったんだよ。美しいって言われるのはその色でな。だから……まあその……」

 

「緋色になったまま死ぬと、色が眼に残り続ける。だから殺し、奪い去られた眼球にそういった名が付いている。“緋の眼”、“クルタ族の眼球”とは、殺された私の同胞、クルタ族たちの本物の瞳なんだ」

 

 言い詰まったハンゾーの後を継いだクラピカの、感情を殺した口調。憎悪が聞こえてくるようで、それで三人も、そしてボクも口をつぐむこととなった。特にボクは台詞の『殺された』という部分について、その犯人、クラピカが憎悪を向ける先に少しばかりの心当たりがある。

 

 ボクもまあ、曹操の頼みを抜きにしても百パーセントの無関係とは言い切れないということだ。つまるところ、クラピカが赤髪の眷属になることを望んだ理由、目的とは、

 

「幻影旅団へ、復讐がしたいのね、貴方は」

 

 それに他ならない。

 

 恐らく一度は、旅団の頭であるクロロの心臓に鎖を刺し、念能力を奪うことによって、復讐は為されたのだろう。しかしそれをボクたちが解いてしまった。故に再び始動。ボクたちを含めた旅団と赤髪たちがぶつかったことを知り、ここまでたどり着いたに違いない。

 

 無論それを表に出せばせっかく“ピトー”と”クロカ”を殺した意味もなくなってしまうので、ボクもクラピカの境遇を悟って憐れむ三人に倣って押し黙る。

 

 赤髪はゆっくりと、クラピカの憎悪を見つめながら言った。

 

蜘蛛(クモ)が起こした悪事について、少し調べているから知っているわ。数年前に彼らが貴方の集落を襲い、皆殺しにしてしまったと。……生き残りなのね」

 

 クラピカは硬い息を吐き出しながら頷いた。

 

「……そうです。しかし、復讐という理由もあるが……今はそれよりも、奪われた同胞の瞳を全て取り戻し、弔いたい。そのためにマフィアに取り入りましたが、しかし人間界でいくら地位を高めても、冥界の貴族悪魔が所有する“緋の眼”を取り戻すことは難しい」

 

「そう……。確かにそうね。私も何度か、他所の家のパーティーで自慢気に見せられたことがあるわ。綺麗だけれど趣味の悪いものだとしか思えなかったけど……少なくとも、簡単に手放そうとはしないでしょう」

 

「それでリアスさんの眷属にってか」

 

 黙したまま、ハンゾーの言葉にクラピカは頷いた。次いで「それに」と続ける。

 

「貴女と貴女の仲間が蜘蛛(クモ)と対決し、結果二人を倒したことは聞いています。黒歌もピトーも、どちらも私の知らない名前ですが、しかし旅団メンバーを殺したのなら、奴らが復讐に動いてもおかしくはない」

 

「……それは私も危惧しているところよ。それに向こうにその気がなかったとしても、悪魔として彼らを野放しにするつもりもないわ。あの時、戦場から消えたカテレア・レヴィアタンの亡骸。聞くところによると、それらしきものが人間界の裏取引に流れているという話だもの。彼女が現魔王に対する反逆者だとしても、そのような冒涜は許せない」

 

「ならばなおのこと、私を眷属とすることは貴女にとっても悪い話ではないはずです。私は以前に一度奴らと対決し、うち二人を殺しているのだから」

 

 少し言い淀むように言うと、殺人の告白にどよめく赤龍帝たちは無視したまま、クラピカはふと右手を前に突き出した。

 

 すると民族衣装の袖の先、素手の手に【念】が発動し、五指に能力と思われる鎖が具現化した。その内の中指と小指の鎖が袖から出て垂れ下がり、蛇のように独りでに動いてかぎ爪と槍先のような先端を持ち上げた。

 

「主にこの二つが、私の旅団攻撃用の念能力です。中指が【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】、拘束した旅団メンバーを【絶】状態、念能力を全く使えない状態にするもので、小指が【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】。これは相手に私が定めたルールを順守させるものです。どちらも使用に際して制約があり、特に【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】は旅団メンバーにしか使えないのですが、しかし念能力者の集団である幻影旅団に対して有効に働くことは確認済みです」

 

「お、お前ももう能力作ってんのかよ……。いやでも、それにしてもやけに詳しく話すが……いいのか?」

 

 なるほどその【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】なる能力がクロロの心臓に刺さっていた鎖の正体か、と納得するボクをよそに、ショックにかぶりを振り尋ねるハンゾー。確かにその疑問、能力の詳細だけでなく弱点までもを明かすことは、わざわざ言うまでもなく大きなリスクだ。

 

 だがボクはノブナガの台詞を思い出し、なんとなく明かした理由を察する。しかし隠して驚きを演じていると、クラピカが涼しい顔で振り向き、頷いた。

 

「問題ない。というより、今更隠したところで意味がない。すでに私の能力は旅団に割れてしまっている」

 

「……そりゃあ……」

 

 意味がないと言うわけだ。クラピカが旅団のメンバー二人を倒した際、引き換えに露見したのだろう。ノブナガ曰くクラピカの能力は旅団に対してほぼ無敵らしいが、奴らもそう甘い集団ではない。

 

 それでもハンゾーと同期、つまりピカピカの新人ハンターであるクラピカが二人も倒せたという事実は驚きだ。今年のハンター試験は随分な才能に溢れていたらしい。

 

 そしてその才能は交渉の面でも同様であったようで、クラピカは赤龍帝たちが落ち着きを取り戻す間にカラーコンタクトを付け直すと、彼らの一人一人を見やってから、再び赤髪を見つめて言った。

 

「ですが、私の能力が旅団に対する強力な矛となれることには変わりない。彼らのような仲間と協力すれば、リスクのカバーも可能。彼らを守ることができる。黒歌やピトー、ノブナガと戦ったのならわかると思いますが、他のメンバーも同程度には手ごわい。それに罪を償わせる、捕らえるという目的であるのなら、なおのこと私の能力は有用でしょう」

 

「それは……そうだけれど……」

 

「ならば改めてお願いします。私を貴女の眷属として、悪魔に転生させていただきたい。叶えていただければ、貴女に忠誠を誓いましょう」

 

「………」

 

 頭を下げるクラピカと、その頭頂部を見つめて唸るように黙り込む赤髪。痛ましいものを見るようなその眼は、赤龍帝が建前半分で言った信用などではなく、もっと別なものを心配しているように見える。

 

 だがそれを言葉にするには、クラピカはもう遠すぎる(・・・・)ようであった。故にかける言葉がなく、沈黙。そんな赤髪が、眷属にするか否かを迷っているように見えたのか、赤龍帝がその嫉妬ばかりの表情で何かを叫ぼうとした。

 

 その寸前、破壊されて素通しになった部屋の出入り口から、仮にも高等学校の敷地内であるこの場に見合わない、甲高い少年の声が響き渡った。

 

「あっ!クラピカ!ハンゾー!やっぱり、声がしたと思ったんだ!」

 

 大声の割に静かな足音と気配。間違いなく常人でない。というか、クラピカと知り合いであるらしい時点で、この学園に通う兄か姉の下に遊びに来た下の兄弟、なんていう可能性はないだろう。

 

 ならば何者か、声に気付いた他の全員と同時に、ボクも壊れた出入り口のほうを振り向いた。

 

「………」

 

 重力に逆らう黒髪のツンツン頭。元聖女の金髪くらいの背丈の、知らない少年が満面の笑みでクラピカと、そしてハンゾーに手を挙げていた。

 

 その眼はやがて赤髪や赤龍帝たちに回り、虚を突かれたような表情を認めて遅れること数秒、自分の登場が歓迎されているわけではないことに気付いて気まずげになる。終わりにボクと合致した視線で、居心地の悪さに身を縮めた。

 

 そしてボクも、妙に落ち着かない心地にさせられながら少年から眼を逸らした。すると再び視界に映った出入り口の向こう、続く廊下に、今度は銀髪のトゲトゲ頭の少年の姿が見えた。いかにも生意気そうなニヤニヤ笑いを湛えた猫目の彼は、クロカもの少年の下まで全くの無音で忍び寄り、その肩をポンと叩いた。

 

「ほら言わんこっちゃない。こっちは悪魔のテリトリーだって、あいつらも言ってただろ?仕事かなんかの大事な話してるに決まってんじゃん。……あ、久しぶりハンゾー。クラピカはニューヨークのオークション以来だから、全然久しぶりって感じしないけど」

 

「お、おお!久しぶりじゃねーか二人とも!いや、というか……」

 

「なぜここにいるんだ?ゴン、キルア」

 

 もう一人の少年、キルアの登場で、ハンゾーとクラピカの驚愕に、ようやく反応するだけの冷静が戻ったようだった。声を上げ、黒髪のツンツン頭、ゴンにも見張られたその眼を向ける。

 

 だが真っ先にリアクションを返したのはその二人ではなく、念能力を見せられ今までぐっと余計な興奮を堪えていた、ゼノヴィアだった。

 

「ゴンにキルア!そうか、君たちがそうなのか!同期のハンターだと、ハンゾーから話は聞いているぞ。本当にまだ子供なんだな!」

 

「ハンターなのはゴンだけだよ。てか、いきなりなんだよあんた。オレたちのこと知ってんの?」

 

「ああすまない!先に自己紹介すべきだな!私はゼノヴィア、ハンゾーの姉弟子だ!そしてそっちがフェルさん、私たちの【念】の師匠だ!」

 

 興奮からかズレて名乗り、さらにはボクまで示すゼノヴィア。気圧され気味に一歩退いていたキルアだったが、しかしボクの名前を聞いた瞬間、顔色が変わる。微かな驚きと、そして納得の後、値踏みするような眼をボクに向けて呟いた。

 

「……へえ、あんたがフェルか。こんなとこで……いや、コンビなら当たり前か」

 

「……どこかで会ったこと、あったかにゃ?」

 

 そんな覚えはないが、しかしコンビと言われて意識が向けば、ふとそんな既視感が湧いてきた。こんな感じの銀髪に、以前見たことがあるような……。

 

 小首をかしげるボクに、キルアは肩をすくめて答えた。

 

「あんたが会ってるのはオレじゃなくて、オレの親父だよ。親父が仕事で“旅団”の一人を殺った時、あんた、一緒に戦ってるはずだぜ」

 

「『旅団の一人を、殺った』……!?」

 

 告げられ、既視感に思い至ったボクの納得を掻き消すくらいの声が、クラピカの驚愕から吐き出された。能面膿瘍だった顔にようやく明らかな表情が現れ、ソファから勢いよく立ち上がる。

 

「そういえばクラピカには話したことなかったっけか。……四年位前だっけ、親父が日本の京都で仕事受けてさ、最初はこのフェルたちを暗殺しろって依頼だったらしいけど、色々あって共闘して旅団のメンバーの一人を相手したんだよ。んでその時、親父、言ってたんだよね。『旅団と、フェルとウタには関わるな』って」

 

「え……それって……」

 

 と、反応したのは朱乃。赤髪に振り向き、そして同様に眼を見張った赤髪が、キルアを見つめてその内情を口にする。

 

「貴方……まさかシルバ=ゾルディックの息子なの……!?」

 

「ああ、あんたのことも親父から聞いてるよ。リアス・グレモリーさん?」

 

 ニヤッと笑う小生意気な笑み。あのシルバとは全く性格は異なるようだが、しかし確かに、改めて見ればよく似た顔立ちをしている。ボクたちに対する評価、息子への忠告は守られなかったようだが、どうであれ驚きだ。

 そんな奇妙な縁が、まさかボクの知らないうちにクロカに繋がっていたとは。

 

「ほんと、私もびっくりしたわ」

 

 呟きながら部室内に入ってくるクロカとシロネの足音を、ボクは背中に聞いていた。

 

 その存在も声も、感じるのは修学旅行の前以来、数日ぶりだ。だがその数日間で発覚したボクの心が、久々の再会を喜ぶことを許してくれない。顔を合わせることすらいたたまれず、できない。

 

 だからボクは芽生えたその想いをわだかまらせて留めたまま、続くクロカの嬉しそうな声をただ聞いた。

 

「グリードアイランドの中のお店で偶然会ってね、【気】もそれっぽいなって思って声かけたら、まさかよ。世界の狭さを再認識したわ。ね、白音?」

 

「そうですね。それに……そうだ!ゴンくんもキルアくんもすごいんですよ!【周】を覚えてから数日で、修行で何キロ分も岩山を掘り抜いてお店までたどり着いたらしいんです!」

 

 続くシロネの声も、何かが偽物であるように感じた。ボクは反応を返せない。しかし代わりに、ゴンが苦笑いして頭をかいた。

 

「あはは……あの時は食料と水だけ買って、すぐに元の場所に引き返さなきゃならなかったから、あんまり話もできなかったよね」

 

「と思ったらあのババアたちの用事のおかげで再開して、しかも現実世界に戻る羽目になったんだもんな。……にしても、ハンゾーはわかったけどさ、クラピカはなんでこんなところにいるんだ?旅団の話を知らなかったならフェルに会いに来たわけでもないだろうし、悪魔になんか願い事?」

 

「……まあ、な。だが――」

 

 頭の後ろで腕を組むキルアに、クラピカはぎこちなく頷いた。未だ動揺が抜けきっていないように見えるその眼は、しかし次いでクロカに向けられ、尋ねた。

 

「仙術使いのウタ、で合っているか?」

 

「へ?ああうん、そうだけど」

 

「なら一つ、聞いておきたいことがある」

 

 仙術使いであることを知られていた驚きと、そして唐突な質問に面食らうクロカだが、クラピカは構わず続ける。

 

「仙術で、他人の掛けた念能力を除去することは可能か?」

 

 それがクロロに施し、解除された【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】のことであることは、恐らくクロカには察せられなかっただろう。疑問符を浮かべながら、素直に答えた。

 

「可能よ。まあ実力と、かけられた【念】の強さにもよるけど」

 

「ならば、私の心臓の鎖はどうだろう」

 

「心臓?ああ確かに、よく見ればなんかあるわね。ちょっと技量があれば余裕よこんなの。つまりあんた、これを解除してほしくてこんな……」

 

 そこまで言って、その鎖がクロロの心臓にあったものと同じであることに、クロカは気付いたようだった。同時にクラピカの名前を初めて知ることになった相手のことも思い出したに違いない。黙る口元に隠しようもなく驚きが滲む。

 

 だがさすがに、クラピカが除念の事実を“ウタ”に繋げることはなかった。「なるほど」と呟き、小指から伸びる鎖を軽く握りしめた。

 

「ならやはり、除念をしたのは黒歌か。であれば彼女が倒された以上、私の能力はまた安易に解除できるものではなくなったはず」

 

 と、具現化された鎖を消しながら言うと同時、さっきまでとは一転して表情を険しくしたキルアが、再びソファに座ろうとするクラピカの腕を引いた。

 

「お、おい、ちょっと待てよ!さっきから鎖の解除って、まさかクロロのことか!?」

 

「……そうだ。今からちょうど一月前、八月の終わりか。その頃にはもう、奴に仕掛けた【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】は解除されている」

 

「解除されたこと、わかるんだ」

 

「そういう風に能力を作った。……当然だろう?他人にかける【念】があるなら、その逆、解除する方法もあると考えるのはごく自然なことだと思うが」

 

 続くゴンの驚きへ無自覚に煽りを答え、クラピカは素知らぬ顔で腰を下ろす。口の中で「仙術にその効果があると知ったのはつい最近だがな」と付け加え、赤髪へ向き直った。

 

「しかしとにかく、旅団が完全復活したということには変わりない。黒歌とピトーの穴が埋まれば、すぐにでも仕掛けて来ておかしくないでしょう。なぜなら、ここにいる全員で合わせて五人もの旅団メンバーを殺しているうえ、目的は達せられていないまま。そして最近は人類と悪魔の間で条約がむすばれた混乱の最中。……仇討ちにしても盗みにしても、奴らからすれば今以上の好機はない」

 

 膝の上で拳を握ったまま、クラピカは僅かに身を乗り出し、赤髪に迫る。

 

「ですがこちらからしても、これは奴らを一網打尽にできるチャンス。だから『貴女にとっても悪い話ではない』願いなのです。……私のためであるが、同時に貴女のためにも、私は貴女の眷属になることを望んでいる」

 

 赤髪の眼をまっすぐに、じっと見つめて逃がすことなく捉えたまま、クラピカはそう言った。

 

 決意の固さがありありと伝わり、皆が黙って静まり返る。その決意を初めて知った友人、ゴンとキルアは衝撃に口をあんぐりさせながら、クラピカが願っている転生悪魔であるシロネに無言の驚きを行き来させていた。

 

 もちろん当のシロネとクロカにとってもそれは驚き。最初にボクが感じた類のそれも、中に含まれているのだろう。そんな彼女をいいことに、ボクは気付かれぬように、半ば触れ合っていた身体を彼女から離した。

 

 赤髪はもちろんそんなボクの動作など気付かない。それどころか目の前のクラピカすら見えていないかのような様子だった。自分の頭の中だけに眼を向け、数秒の思考。悩み、そしてやがてクラピカへと戻った。

 

「貴方の決意は、わかったわ。……いいでしょう、その願い、叶えてあげる」

 

「ぶ、部長っ!」

 

 ぶれない赤龍帝の悲嘆の声。しかし直後、「ただし」と赤髪は続けた。

 

「幻影旅団だけの使い捨ての矛なんて、私には必要ないわ。私の眷属になりたいというのなら……そうね、まずは力を見せて頂戴。幻影旅団を倒した後も、ずっと私の矛であり続けられるだけの実力を」

 

「……なるほど、わかりました。どうやって証明すれば?」

 

 はっきりとした声で告げられた赤髪の条件に、クラピカは静かに頷いた。そして続けて訊き返す。どうすればその条件が満たせるのか。

 

 それに答えたのは赤髪ではなく、その眼が通る一番奥。クロカたちのさらに背後から現れた、少なくない因縁のある彼女たちだった。

 

「レーティングゲームに出るって手があるわさ」

 

 特徴的な語尾。その背後に身を縮めて隠れているもう一人の正体も、気配を探らずとも理解する。

 

 初めて人間界に出て様々なものを失い、そして得たあの日、作り物の聖剣でボクをボコボコにしてくれたあいつら。確か、名前は――

 

「……ビスケット=クルーガーね。まさか貴女まで来ているなんて……」

 

 そう、確かそんな名前。シロネに大きな影響を与えてしまった事件から覚えていたらしい赤髪が、彼女を見ながら息を吐いた。

 

 気詰まりの感情が見えるそのため息に、ビスケットは「邪魔して悪いわね」と謝罪に手をかざし、赤髪が「今更だわ」と肩を下ろして首を振る。その一連の間、念能力の賜物か以前とは違いまるで少女のような外見をした彼女を見つめ続けるボクの眼を、過去の戦闘による苛立ちと捉えたのか、クロカがそっとボクに近付き耳打ちをする。

 

「ゴンとキルアの師匠してるらしいのよ、あいつ。二人と出会った時、一緒に鉢合わせしちゃってさ」

 

「……そう」

 

 絞り出した返事は機械的な無感情だったが、幸いなことにこれも怒りと捉えられたようで不審がられた様子はなかった。そうして何事もなく続く眼前の光景で、ゴンの純朴な瞳が疑問を得て斜めに傾いた。

 

「レーティングゲーム?ビスケ、それって何?」

 

「上級以上の悪魔が自分の眷属同士を戦わせる、特殊な条件だったりが付いた試合みたいなもんよ。それが天空闘技場みたいにエンタメ化してんの。悪魔の世界では地位まで決定するくらい重要なものだから、あんたたちもハンターならちゃんと覚えときなさいよ」

 

「それにクラピカを出して力量を見定めるってことか?でもそれ、矛盾してんじゃん。クラピカをリアスの眷属にするかどうかって話なのに、その眷属になってないと出場できない試合に――んがっ!?」

 

 不意にキルアへと拳骨が飛び、台詞を止めた。ビスケットは手袋の拳を払いながら頭を抱えて蹲るキルアを見下ろし、鼻を鳴らす。

 

「離れてるから聞こえないとでも思った?……まあそれはそれとして、別におかしなことを言ってるわけじゃないわさ。そういえばあんたたちには現実世界に戻ってきた理由、言ってなかったけどね。そのルールに当てはまらない、ちょっと特殊なレーティングゲームがもうすぐ開催されるんだわよ」

 

「ああ……確かに、まだ兵士(ポーン)の枠が埋まっていないと聞いているわ」

 

 赤髪が得心がいったという風に頷く。「魔王の妹が推薦するなら一発でしょ」と片目をつぶるビスケット。だが奇妙だ。赤髪はともかく、悪魔と特に深い関りがあるわけではないはずのビスケットが言うその“特殊なレーティングゲーム”とやらに、ボクは全く心当たりがない。

 

「なにそれ?」

 

 思わずそのまま、疑問が口を突くと、なぜだか驚いたように眉を上げたビスケットが首を傾げつつ答えた。

 

「若手悪魔と新米ハンターで競わせて、互いに切磋琢磨しつつ親睦を深めましょうって催しよ。表向きはね。フェル、あんたも選手の一人に選ばれてるんだから……曹操辺りから、何も聞かされてないの?」

 

「……初耳だにゃ」

 

 思っていたよりずっと寝耳に水な話だった。いつの間にそんなことになっていたのだろう。

 

「……伝え忘れたのかしら。珍しいわさ、あの子がそんなミスをするなんて」

 

「嫌がらせで黙ってたって線のがありそうだけどな」

 

 怪訝なビスケットに苦笑いをするハンゾーの推測は、凡そ正解だろうとボクも思う。なればこそそんな奴に屈する気にはならず、それを理由に催しへの拒絶を言おうとした。

 

 が、それを悟ったのか直前に、ビスケットは肩をすくめた。

 

「まあ出場を断るのは自由だけど、何分悪魔の大王家が主催で、しかも結構規模が大きいのよ。それにあんたたち二人、堕天使のコカビエルを倒したんでしょ?新米ハンターの顔みたいなもんだから、それに断られたとなっちゃ面目丸つぶれ。冥界でもかなりの権力を持つ彼らに睨まれたら、色々とやりにくくなるんじゃない?」

 

 ボクに、というよりボクとクロカの正体に向けてそう言うビスケット。そして確かに、そう言われてしまえばボクはもう要請を断れない。

 

 その理由はもはや、背後でクロカが聞いているからという、ただそれだけになりつつあるが。

 

「えっと……そういうわけでさ、私もあのババアから話聞かされて、それでピトーのもまとめてオッケーしちゃったのよね。目的にそぐわないわけじゃないし……」

 

「いい加減にしないとほんとにキルアみたいにぶん殴るわよあんた……。とにかく、事実上強制の招集なのよ。だからあたしたちもしょうがなしに修行を中断して、呼ばれたジャンヌを……ジャンヌ、いつまで隠れてんのよ。ビビってないで出て来なさい」

 

 ボクの機嫌を伺おうとするクロカの視線をどうにか回避していると、ビスケットが半ば苛立ちを引きずりながら己の背後、今の今までずっとその背に隠れていた女を引きずり出した。

 

 こっちの姿はビスケットと違ってほとんどあの時のままだ。神器(セイクリッド・ギア)、【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】の使い手であるジャンヌは、その碧眼にあからさまな恐怖を宿し、ボクを認めて小さな悲鳴を漏らした。

 

「ひぃっ!か、勘弁してよ師匠!く……ウタだけでも怖いのにフェルにまで注目されるなんて――」

 

「そんなふうにこそこそしてる方が注目されるわよ。それにどうせ同じチームで戦うんだから、遅かれ早かれでしょ?」

 

 睨むボクにますます顔色を青くする彼女、ジャンヌもどうやらボクたちと同じくレーティングゲームに出なければならないらしい。そのあまりにもなビビりっぷりは、悪魔たちにはボクのそもそもの印象からして何かやったんだろうなとしか思われなかったらしく、一様に憐れみが向けられる。

 

 その中心で、まるで意に介さないクラピカが久しぶりに口を開いた。

 

「レーティングゲームの件はわかりました。それで私の実力が証明できるというなら是非もない。私をそのチームに推薦していただけますか」

 

「……わかったわ。貴方を眷属にするかどうかは、その結果を見て決める。それでいいわね」

 

「ええ」

 

 応えるクラピカ。そして再び騒ぎ出す赤龍帝と、区切られた堅苦しさに解かれた自制で、そもそも眷属になるとはどういうことだとクラピカに詰め寄るゴンにキルア。それに加わろうとするハンゾーやゼノヴィアたちの様子を見やりながら、ボクは最大限の注意を以てして、静かにクロカの顔を見やった。

 

 眼が合う。しかし苦心して作ったいつも通りの表情に、クロカはボクの内心の変化に気付かない。

 

 返される笑みに、ボクは改めて、京都でのことを彼女に告げないことを誓った。

 

 クロカの顔にボクと同じような今までの絆への疑問を――ボクにとってのクロカという存在が、自身で思っていたよりも重要でなかったという事実を、見られたくなかったからだ。




クラピカ眷属志望。つまり私は全国八千万のロスヴァイセファンの皆様に土下座をせねばならない可能性があるということ。
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七話

 扉を押し開けた先の空間、豪勢なシャンデリアがぶら下がる大きなホールの中では、多くの悪魔と人間たちが料理や飲み物を片手に談笑のざわめきを響き渡らせていた。

 

 まるで上流階級のパーティーのようだ。バックにクラシックでも流れていればきっと奴らは中央でダンスを踊っただろう。がしかし実際、今回の催しの主目的はそれではなく、記念式典と発表会。悪魔と人間の間での条約がやっと纏まり、それを祝して二つの種族の融和を説く、ということらしい。

 

 ボクたちの目的、若手ハンターと若手悪魔のレーティングゲームとは、つまりそのための余興の一つであるのだ。

 より見世物の要素が強まったわけで気に食わないが、ここまで来てしまった時点でもう逃げられるものではない。それに注目という意味でもコカビエルを倒してしまったボクたちには今更だろう。扉が開いた音に気付いてこちらに振り向き、そしてボクたちの顔を見てひそひそ内緒話を交わし始める貴族悪魔どもから苦労して意識を外し、深呼吸して疼く気を静めたボクは、代わりにクロカと、彼女と話す同行者たちへと眼を向けた。

 

「さ、どうかにゃ桐生。これがキミの知りたがっていた、ゼノヴィアたちが生きる悪魔の世界。大したものじゃないでしょ?」

 

 眼前のパーティーに気を取られていたおさげ髪が、びくっと跳ねてボクを見る。京都で悪魔の存在を知ってしまった一般人、学園の女生徒である桐生藍華は、いかにも緊張しきったふうに硬い表情をしたまま、ぎこちなく言葉をささやいた。

 

「……いや、十分大したものだと思うけど。こんなに煌びやかだし、それにさっき乗ったロープウェイで見えちゃったんだけど、この建物……っていうかこの島、空に浮かんでるみたいだし……」

 

 自身の常識では、とてもじゃないけどフェルさんみたいに平気な顔はできそうにない、とでも言いたげに見上げてくる桐生。それを隣のクロカがケラケラ笑った。

 

「まあ、空中都市アグレアスっていったら冥界でも指折りのだものね。何でも悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の原料は唯一ここでしか取れないんだとか。でもそんな重要地帯がレーティングゲームの聖地って観光地になってて、しかも民衆も見に来れるんだしさ。そういう意味では人間界とあんまり変わらないんじゃない?」

 

「そりゃあ、豊かではあるようだけど……そうじゃなくてさ」

 

 呟き、桐生は己の両手に眼を落とす。そして次いで、眼前の着飾った悪魔や人間たちを見て言った。

 

「今更だけど私、場違いじゃない?悪魔の人とかウタさんやフェルさんみたいに、魔力に……【念】?そういう超能力なんて持ってないし、かといって人間の偉い人たちみたいに仕事でってわけでもない。アーシアやゼノヴィアっちが心配だってだけなのにさ」

 

「別に気にすることじゃないわよそんなの。おめでたい場なんだから楽しく騒いじゃえばいいの。ほら、あの子らみたいにさ」

 

「……あの子ら?」

 

 小首をかしげる桐生と一緒に、ボクもニヤニヤ笑いのクロカが示す方向を見やる。ホールの隅、料理類が配膳されたテーブルの陰に隠れる二人の男の姿があった。だらしなく鼻の下を伸ばしているのは悪魔を知った一般人のもう二人、松田と元浜だった。

 

「ああ冥界!ああ悪魔!誰も彼も若くて美人でドレスもエロくてたまんねぇ!一誠の奴、俺たちに黙ってこんな楽園を……!」

 

「おおおっ……あの金髪ツインテールの子、小柄ながらなんて肉体の黄金比!上から85、59、84!きょろきょろ誰か探してないでこっち見て、そんでその露出のないドレスの下をまくってみせてくれっ!」

 

 なんて鼻息を荒くしながら、こっそり興奮を叫んでいた。

 桐生と一緒についてきていたはずだが、いつの間にあんなところに行っていたのだろう。しかしそれはさておき、見たままの感想。あれはどう見ても不審者だ。

 

 ボクでもわかる。となれば同じ人間の桐生にそのヤバさ、所謂“偉い人物”たちのパーティーで変態行為を働くことの社会的リスクにも意識が向いた。背後の出入り口、そこを守るガードマンたちに二人の行為がバレていないことを一瞬確かめ、桐生は素早くその回収へと向かう。うまく気付かれぬよう人の間をすり抜け、二人の下にたどり着くや否や頭に拳骨。鈍い音を鳴らしてから、引きずるようにして連れ戻してきた。

 

「せめて時と場所は選びなさいよ、あんたたち。身内が人類と悪魔の関係を台無しにした、なんてことになるの、私は嫌だからね」

 

「最悪、赤髪か眼鏡の眷属ってことにすればいい。同じ制服着てるんだから、案外バレないんじゃにゃい?」

 

「……いやダメじゃないそれ。何も変わんないわよ」

 

 とほんの一瞬、恐らくボクの言う“眼鏡”が学園での支取蒼那であることを悟り、桐生は呆れたように肩をすくめた。思いのほか強烈だったらしい拳骨に未だふらつく松田と元浜はわけがわかっていない様子だが、その顔はこころなし困惑しているようにも見える。

 

 残念ながら試みはうまくいかなさそうだ。「そう?残念」と呟いて、ボクはその制服のほう、桐生たちではなく(・・・・)その向こうへと、見つけたそれらに眼をやった。

 

 少し遅れてクロカも気付いた。ボクの視線を追い、そして表情の明るさが増す。ボクが眼を少し下げた頃、相手の一人もこちらの姿を発見して手を振った。

 

「お、いたいた!おい兵藤、お探しの変態仲間、フェルさんとウタさんが連れて来てくれたぞ」

 

「そ、そうか、匙。……よう、松田、元浜」

 

 眼鏡のほうの眷属悪魔、匙に呼ばれ、赤龍帝もボクたちの方へ振り向く。だがその表情と語調はどこかおっかなびっくりしており、軽く手を上げ挨拶するのみで足はボクたちへと向こうとしなかった。

 

 が、その時、そのさらに後方から出てきた影が四つほど、ほとんど押し退けるようにして赤龍帝の背中から現れた。

 

「おおフェル、なあ聞いてくれよ!ゼノヴィアに白音ちゃんにクラピカだけじゃなく、ゴンとキルアすらもう能力手に入れてるんだよ!同期で何もないのもうオレだけ!アイデアはあるから、いい加減オレにも【発】の修行をさせてくれぇっ!」

 

「えっと……ハンゾー、白音さんはともかく、オレとキルアの能力はまだ全然完成してないんだよ?特にオレなんて【硬】のパンチってだけだし……」

 

「オレのもまだ殺傷能力とかはないしな。……ってかハンゾー、お前昨日から思ってたけど、【発】一つでどうしてそこまで盛り上がるんだよ。キャラ変わってね?」

 

「変わって悪かったな!オレだってお前たちみたいな自分だけの必殺技が欲しいんだよ!だってかっこいいだろ!?」

 

 変なふうに熱が入り過ぎてしまっているハンゾーにボクと、そしてゴンとキルアは気疲れのため息を吐き出した。

 

 昨日から、どころかそれ以上前からずっと言い続けているその欲求。それは続けざまに同期と再会して自身の遅れを見せつけられたことにより、とうとう周囲から向けられる訝しげな視線すら遮断して叫べるまでに膨れてしまっていたらしい。

 まだまだ他に教えるべき部分は多いのだが、そうまで言うならおとなしく【発】の修行、系統別のそれをやってやるべきだろうか。どうやらゴンとキルアのほうのベテラン師匠、ビスケットはそうしているようだし。

 

 その成果が二人の纏う【念】であるなら、ボクも指導の熟練者に倣うべきだろう。そんなことを考えながらゴンとキルアと一緒に項垂れるハンゾーを見下ろしていた。

 

 するとその頃、影のもう一人であるシロネが、唯一残って赤龍帝の背をこちらまで押しやってきた。かなり緩慢な、気の進まなそうなその足取りが松田と元浜の前で立ち止まり、眼を明後日の方向に向けたまま口にした。

 

「えーっと……二人とも、来てくれてありがとうな。正直、悪魔だってことがお前たちにバレて、嫌われるんじゃないかとか思ってたんだよ……」

 

 拳骨から正気を取り戻した二人が顔を見合わせ、赤龍帝のその言葉に呆れたふうに鼻を鳴らす。二人の手が、赤龍帝の両肩を叩いた。

 

「バーカ、そんなことで俺たちがお前のダチをやめるかよ」

 

「忘れたのか一誠、俺たちは女体という名の神秘を探求する同士!たとえ種族が違おうと、俺たちのエロスは永久に不滅だっ!」

 

「っ……!松田、元浜……!」

 

 感極まって涙ぐむ赤龍帝が二人と肩を組む。これだけ見れば感動的な場面のようだが、中身が故に釣られて泣く者は彼ら以外にいなかった。

 

 その中で一人、同じような境遇でありながら置いてきぼりにされた桐生が、ジト目で赤龍帝たちの抱擁を眺めながら言った。

 

「どこかの副生徒会長が喜びそうな光景ね。……まあいいけど」

 

「ん……?副生徒会長って……?」

 

 疑問符を浮かべる匙は無視して、桐生は少し俯き、ボクを見上げた。

 

「それよりフェルさん、一誠や白音ちゃんたちが居る今のうちに確認しておきたいんだけど……これからみんなで戦うのよね?悪魔と人間の、親善試合って名目で。確か特殊なルールがあるとか……なんていったかしら」

 

「“ダイス・フィギュア”ね」

 

 クロカが答えた。傍らのシロネも頷く。

 相変わらずそっちを向けないボクは、視線を移した桐生を見下ろしたまま、続くそれを聞いた。

 

「お互いの(キング)がサイコロを振って、その出た目の合計分の価値を持つ駒を出し合って戦わせるってやつ。わかりやすい自力勝負のルールよね」

 

「ああそう、それよ。……あくまで試合だし、京都の時みたいな殺したり殺されたりじゃない、格闘技みたいなものだってことはわかってるんだけど……大丈夫よね?」

 

「さあ、どうかしら」

 

 なんて悪戯っぽく言うクロカに顔をしかめる桐生。その反応を愉快そうに笑って、クロカは続けた。

 

「まあ知り合いだったら適当に手加減もしてあげられるけど、こればっかりは駒の出目次第ね。私は僧侶(ビショップ)一個で駒価値3の扱いだから、当たりやすいのは騎士(ナイト)で同じく駒価値3のゼノヴィアとか、それくらいかしら。戦車(ルーク)の白音とはちょっとかち合い辛いわね」

 

「そんなことないです、ウタさま。私は今回、駒価値2個分の兵士(ポーン)ですよ」

 

 シロネが首を振って言い、視界の端に映したクロカが目を瞬かせる。「そうなの?」と首をかしげると、頷くシロネと、そして傍の匙が口を出した。

 

「今回は色々な眷属から選抜したチームだからな、色々補正が入ってるんだよ。俺も本来は兵士(ポーン)の駒四個で転生してるけど一個分の扱いだし、会長なんか僧侶(ビショップ)だぜ。なあ兵藤、お前のところもそんな感じだろう?」

 

「ん?ああ、確か俺は……駒価値3って言われたかな。木場は変わらなかったけど……あ、あと部長が女王(クイーン)役なんだとか」

 

 変態三人でまだ続いていた抱擁から顔を出し、赤龍帝が記憶を探って思い出す。はっきりと聞いてしまった数字に匙の表情が曇るが、しかし基準としては実際のところ妥当だろう。二者を比べれば赤龍帝に軍配が上がるのは明らかだ。赤髪と眼鏡のほうも。

 

 だがそんなことよりも驚きだったのはその人数、発覚した悪魔チームの内訳十二か十三人の内、赤髪の眷属が本人含めて五人も含まれていることの方が驚きだった。しかも赤髪が女王(クイーン)、二番目に価値ある駒が奴だとすれば、そのチームパワーもある程度推し量れる。

 正直、そもそも勝負になるかすら疑わしいほどのレベル差だ。

 

「へえ……こっちはまあ、得物で適当に分けられたって感じよ。あんたたちが会ったっていうジークフリートと、ゴンとキルアの姉弟子のジャンヌは騎士(ナイト)で、曹操とクラピカは二人とも兵士(ポーン)。確か曹操の駒価値はちょっと高くて、2だったかしら」

 

 顔見知りを言うなら他にもクロカと同じく僧侶(ビショップ)のルフェイ、そして女王(クイーン)には【絶霧(ディメンション・ロスト)】の使い手たるゲオルグが据えられている。

 

 何ならこのゲオルグ一人でも悪魔チームの蹂躙は可能だろう。そうなった場合、仮にも両種族の友好のための親善試合でそんなことになってしまえばどうなるのか。どちらの思惑にも興味はないが、もし起こればボクにとっても大変心躍る事態となるだろう。

 

 故に驚き。面子を聞いて喉を鳴らした渋顔の赤龍帝を、ボクは見つめた。次いでクロカの声がそれを追い、その方向へと向けられる。

 

「そんでフェルは戦車(ルーク)。ぶっちゃけ女王(クイーン)どころか(キング)でいいと思うんだけど……アーサーだっけ、名前繋がりで掻っ攫われちゃったのよ、ねえ?」

 

「……だね」

 

 それが無くてもボクが“王”などと、そんな恐れ多いことはしたくない。だからこそアーサーというルフェイによく似た金髪の男にも思うところがありはしたのだが、あくまで(キング)なのだと割り切って己を納得させた経緯がある。

 

 そんな心境すらクロカには告げられていないから、ボクへ向いたクロカの声色は少しぎこちない響きを帯びていた。

 我が事のように自慢げに、しかし一方、その共感は合致しているのかという不安を、ボクへと問いかけている。そしてボクはそれに答えない。言葉にしてしまえばそれが二人の事実になってしまいそうで怖かった。

 

 せめてクロカにはそう思ってほしくないのだ。そうして場に沈黙ができたから、その粗暴なだみ声はよく通った。

 

「おい、そこの人間。今戦車(ルーク)だとか聞こえたが、ひょっとしてお前がサイラオーグの言ってたフェルって野郎か?」

 

 野郎、と言う割にボクへ向くその視線は“女”を見ている。不快故にその眼を切るため仕方なく振り向くと、色黒で顔に刺青のある、見覚えのない悪魔の男が立ってボクを見下ろしていた。

 

「……そうだけど、何か用?」

 

 顔を合わせると滲み出る尊大さ、そして特有の気配が漂ってくる。奴が純血の貴族悪魔であることを悟るのと、嘲るような大笑が爆発したのは同時だった。

 

「く……ハハハハッ!!マジか!!あの野郎、こんな娼婦みてぇな女にビビってやがんのかよ!!バアル家の無能じゃなくて不能だったってか!!」

 

「ッ……!あんた、確かゼファードル・グラシャボラス……!サイラオーグさんをそんなふうに言って、ぶん殴られたのにまだ懲りてねえのかよ!」

 

 赤龍帝が眉を寄せ、そのゼファードルなる刺青を睨めつけた。口元に描かれていた弧がスッと逆を向き、刺青は一転して忌々しげな声を吐く。

 

「黙れ、転生悪魔風情が……!!赤龍帝だか何だか知らねえが、グラシャボラス家次期当主の俺様に舐めた口きいてんじゃねえ!!……それに、あの時はちょっと油断してただけだ!レーティングゲームで戦えば、あんな無能野郎なんざ屁でもねえよ!!」

 

「だとしても、それを口に出すべきではないわね。負け犬の遠吠えにしか聞こえないわよ、生憎だけど」

 

 と、新たな女の声。こちらも見知らぬ、しかしはっきりとわかる気配を放つ長髪眼鏡が割り込み、赤龍帝と刺青を振り向かせた。

 

 貴族悪魔どうし、刺青と長髪眼鏡は睨みあって嫌味を交わす。

 

「あ゛あ゛!!?誰が負け犬だクソアマ!!アガレスのお嬢さんは股は硬いくせに頭は緩いのかよ!!俺がいつ、誰に負けたって!!?」

 

「旧魔王派が襲撃してきたパーティーで、サイラオーグに、でしょう?ほんの一月前の話だというのに、もう忘れてしまったの?……はあ、こんなバカが同じチームだなんて、私、なんて不幸なのかしら」

 

「ハッ!不幸なのは不幸なのは俺の方だぜ!なんだって魔王様は選抜チームにこんな雑魚を選んだんだかな!ま、俺が戦車(ルーク)でお前は僧侶(ビショップ)、この駒価値の差に関しては真っ当な仕事だと思うがな!」

 

「……残念ながら、それは単に得手不得手の問題じゃなくて?あなたみたいな脳筋は突撃しかできないようだけれど、私はきちんと頭を使えるの。これも一つの魔王様の恩情ね」

 

「文句を言うか感謝するか、どっちかにしやがれ蝙蝠女が!!」

 

「それはあなたも同じでしょう!?」

 

 ヒートアップしていく二匹の舌戦。ゴンたちや桐生たちといった人間組のみならず、いつの間にか赤龍帝も放って繰り広げられる戦いには、もう誰も手出しができなくなっていた。

 

 もっともボクも、恐らくクロカも、こんな雑魚同士の喧嘩に口を挟もうなんて元から考えてもいなかったが、しかしとはいえ目の前で続くそれがいい加減鬱陶しく思えてきたころ、騒ぎを聞きつけまたしても二匹、貴族悪魔どもがやってきた。

 

「……またか、ゼファードル、シークヴァイラ。今度は何を騒ぎ立てている」

 

「ここは悪魔と人間の未来のための大切な場なのよ?なのにこんな時でも喧嘩って……大変なことをしている自覚はあるのかしら」

 

 筋肉達磨と赤髪が、顔を険しくしながら現れた。だが諫められた二匹には全く反省の色はなく、むしろ度合いの強まった憎悪を、赤髪へと吐き捨てた。

 

「偉そうなこと抜かしてんじゃねえよグレモリー、バアル!!コネ野郎どもがよ!!」

 

「あらどうも、魔王様の妹様?眷属もたくさん選ばれ、自身も女王(クイーン)に任命されたお偉いあなたの気分を害してしまい、お詫び申し上げますわ」

 

 その棘に、赤髪は思わずといったふうに身を跳ねさせた。次いで気まずそうに歪み、眼が逸れる。

 

 代わりに筋肉達磨がその前に進み出た。

 

「二人とも、何度も言うが場をわきまえろ。内心はどうであれ、それを大声で吹聴することは己にとっても悪手であることを理解した方がいい」

 

「事実を言って何が悪ぃ!!実際、喜色の悪ぃ仮面の眷属を兵士(ポーン)に置かせたうえに、魔力もねえてめえが俺と同じ戦車(ルーク)に任命されてんじゃねえか!!グレモリーの繋がりで魔王様に媚び売ったんだろ!?」

 

「……あれ?戦車(ルーク)?私てっきり、筋肉達磨ちゃんが(キング)だと思ってたわ」

 

 二匹のにらみ合いに、ふとクロカが思い立った疑問を口にする。確かにパッと見ればその首の角度の通り、筋肉達磨の強さはこの中で頭一つ抜け出たもの。であれば刺青と同格に収まっているのは違和感でしかない。

 

 恐らく、強気な態度を崩さない刺青とてそのことには気付いているだろう。むしろ強がりは他より強く意識させられていることの証明だ。だから奴は真っ先にこちらに振り向き、顔に血を上らせて吠え立てた。

 

「こいつが、無能のバアルが(キング)だと!?この俺よりも強いだと!!?ふざけたこと抜かしてんじゃねえ人間のメスごときがッ!!!ゲームなんか待つまでもねえ、今ここで俺が殺し――ッッ!!?」

 

 しかしホールいっぱいに響き渡り、パーティー参加者のほとんど全員の注目を引き付けた絶叫は、その瞬間、一息に止められた。

 

 筋肉達磨の威圧だった。独学ながらに鍛え抜かれた【念】、そこから発せられる【気】が害意までもを含んで刺青へとっ向けられている。たぶん奴は、自身を頭から両断せんとする長大な大剣を幻視したことだろう。

 

 そしてそれほどに重厚な圧は周囲のざわめきすら押し潰し、静寂の中で筋肉達磨は口を開いた。

 

「いい加減にしろ、ゼファードル。俺とリアスのことは、最悪構わないが……人間やハンターに対するその物言いは目に余る。もう一度言うぞ、改めろ」

 

「ッぐ……!な、んだよ、自分の思い通りにならないことがそんなに気に食わねえか……!!またあの時みてえに俺をぶん殴るかよ!?」

 

 引けた腰で辛うじて胸を張り、再び吠え返す刺青。しかしその勢いは子犬の如き弱々しさで、筋肉達磨に対抗できるものでは全くなかった。

 

「そんなことはしない。お前は今日のゲームの大切な仲間なんだからな。一人欠けた状態で勝てるほど、彼らは甘い相手ではない」

 

 僅かに上がった眼がボクを見る。そして横に滑り、長髪眼鏡に言った。

 

「シークヴァイラ、君もそのことを理解しておくべきだ。特に今回の人選、君の頭なら目的も予想がつくだろう。反抗は得策でないと思うが」

 

「……目的、ね。私の眼には既に破綻しているように見えるのだけど。……でも別に、反抗なんてしたつもりはないわ、私は。絡んできた狂犬をあしらっていただけだから」

 

 一瞬だけ赤髪を睨んでから、長髪眼鏡は身体ごと眼を逸らした。背を向け片手を振って別れを告げながら、息を呑むパーティー参加者の間を去っていく。

 

「では、失礼するわ。そろそろゲームの支度を始めなければならないから」

 

 横顔も後姿に消えて、やがて人影の合間に隠れて見えなくなる。さらにそれに刺青までもが、歯を噛み砕かんばかりに食いしばった忌々しげな獣面で後に続いた。

 

「チッ……お覚えてろバアル!!ハンターどもをぶっ飛ばしたら次はてめえの番だ!!本物のレーティングゲームでぶちのめしてやるからな!!」

 

 いかにも負け犬の遠吠えといった捨て台詞を残して消えていく。その姿を見送ったことでようやく周囲の静寂も消え去って、再びざわめきに満たされる。その内容の半分ほどはさっきの諍いに起因するものへと変わったが、しかしどうであれ、ボクたちへの注目も薄れ始める。

 

 故にやっと息をついたハンゾーが、安堵を込めて呟くように言った。

 

「ふぅ……さすがに貴族悪魔の登場にゃ胆が冷えたぜ。トラウマが……。あんな風に言われたのに、フェルもウタもよく平然としていられたな」

 

「あんな雑魚に一々構っててもしょうがないにゃ」

 

 無論、向かってきたなら大義名分で殺してやったが。

 

 だから筋肉達磨には余計なことをしてくれたという落胆しかなく、続けて聞こえた好戦的な含み笑い的な声に、ボクが返すのはしらけた視線のみだった。

 

「雑魚、か。確かに、貴女ほどの力があれば奴程度の相手、片手で足りるだろうな。だが俺はそう易々とやられるつもりはない。……戦車(ルーク)同士、戦えるのを楽しみにしている」

 

 言うと、筋肉達磨もまた背を向け立ち去った。取り残された赤髪。奴はまだ気まずそうな顔をしていたが、しかしそれらを頭を振って追い出すと、深呼吸してからいつもの図々しい調子を取り戻した。赤龍帝とシロネを見やり、それからボクたちへも向けて告げる。

 

「それじゃあ、私たちも失礼しましょう。準備とそれから作戦も……考えないといけないから。それから桐生さんたち、いい席を取っておいたから、アーシアたちと一緒に観戦を楽しんで――」

 

「楽しめるかどうかはわかんないけどね」

 

 歓迎の台詞に空いた言い淀みの間。それに気付いて最中に悟るまで至ったクロカが、ニヤニヤ笑いで赤髪を遮った。

 

「……なんだよ、俺たちじゃ勝負にならないとでも言うのかよ……!」

 

 赤龍帝は、嘲りの意味を自分たちとの力量差と捉えてムッとする。自覚はあったようで感心だが、しかしクロカの言わんとすることは少し違う。差なんてわざわざ口にするまでもないくらい、メンバーを知った時点でわかる程度のことだ。

 

 だから赤髪もクロカの言葉に憤りではなく、図星を突かれたような顔をした。クロカはそれでますます楽しそうに、クックッと笑みで喉を鳴らした。

 

「じゃあ聞くけど、あんたたちの(キング)って誰?サイラオーグじゃないってなら、それ以上に強い奴、しかも若手ってなったら、残る数なんてそうないと思うけど?」

 

 腕組みしながら「まさかディオドラ・アスタロト、二階級特進したわけでもないんでしょ?」と肩をすくめて煽りを言う。が、一方の赤龍帝と、そしてシロネもその中身に気が付いたようだった。一様に眉が下がる。

 赤髪は、ため息交じりに答えを言った。

 

「……ヴァーリよ。ヴァーリ・ルシファー。ここ最近絶不調の、ね」

 

 悪魔の(キング)として、奴ほど適当な者もいないだろう。今更すげ替えられるはずもなく、故に不調だろうとどうしようもない。

 

 付け加えればそれが肉体的なものではなく精神的なものであることが、余計に事態をややこしいものへと変えてしまっていた。

 

「確か、ピトーと旅団にボッコボコにされちゃったんだっけ?それでしょぼくれちゃったんだとか」

 

「しょぼくれた……というより、不貞腐れた、の方が正しいように思うわ。ウタの言うように、以前の旧魔王派征伐の折、黒歌たちとの戦いで敗れたことが、彼の中の……そう、“戦い”というものを変に変えてしまったようなのよ。それまでの彼なら強敵と戦う機会を、それこそ所属する陣営を変えてまで望んで欲していたはずなのに……」

 

「今では興味もなくしちゃったって?……白龍皇に覇気がなくなった、って聞いてたけど、どうやら思ってたより酷そうね。なまじ強いからコケるの初めてだったんでしょ」

 

 嘲笑うクロカ。彼がボクに幾らかの痛打を与えたためか、その印象は以前よりも悪くなっているようだ。

 

 ともかく、赤髪たちもそんなヴァーリの状態を知るからこそ、言い返す言葉を失くしてしまったようだった。味方だというのに思うところができてしまうほど、度合いも酷くあるのだろう。

 

「……今日に備えて魔王様も彼を元気付けようと、古巣からアザゼルを呼んだりしたのだけど……あまり効果がないようなの。ねえフェル、もしかしたらなのだけど……貴女の能力って心の傷も治せたり――しないわよね、ごめんなさい」

 

「なに馬鹿なこと言ってんのよ」

 

 正確には、あるいはできない事もないかもしれない。頭蓋を開いて脳の感情を司る部位をうまく切り離せば、きっと不貞腐れることはなくなるだろう。

 

 ただしもう二度と元に戻らないが。そんなことをヴァーリが受け入れるはずはないし、そもそもボクもやる気はない。無駄とわかっているだろうに思わず尋ねてしまうほど、赤髪も切羽詰まっているようだ。(キング)に次ぐ女王(クイーン)たるものの重責か、小ばかにするようなクロカの態度に怒る元気もない。

 代わりに赤龍帝が吠えそうだったので、ボクは会場の奥のほう、人と悪魔の海のどこかにいるのだろうそいつを探しつつ、赤髪へ言った。

 

「そういえば、アザゼルを呼んだって。アイツ、悪魔にとっては敵じゃなかったかにゃ?」

 

「え?……ええ、そうなのだけど……魔王様がいずれは天使や堕天使とも同盟を結びたいと考えていることは知っているでしょう?だから元々、対話の窓口は開いているのよ。その縁でヴァーリの不調を伝えたらアザゼルが手を貸してくれる運びになった、ということらしいわ」

 

「……ふぅん、そんなことで総督自らが敵の懐に?白龍皇って親不孝者ね」

 

 つまらなそうに呟き、鼻を鳴らしたクロカは、次いで頭を一振りしてから息に変えて吐き出した。

 

「まるで手のかかるクソガキの王子様みたい。大事に大事に扱われて、それこそゲーム自体があいつのために用意されたくらいに過保護にされてるのに、本人は見向きもしない」

 

「……実際、そのための催しなのよ」

 

 赤髪もつられてため息を吐く。

 

「魔王様たちにとっても、それに大王家にとってもヴァーリは最も次期魔王に相応しい。その血筋も能力も、そして人間との友好の象徴としても。……だから望む望まないにかかわらず、ヴァーリには“王”としての自覚を持ってもらわなければいけないのだけど……それ以前の問題なのよね」

 

 僅かな間があって「まあ、貴女たちにこんなことを言ってもしょうがないのだけど」と、少々泳ぐ眼で付け加えるその様子。言わなくていいことまで言ってしまった、いやそもそもこの話題自体言うべきではなかったと気付いた赤髪は、やがて冷えてきた頭で動揺と一緒に眼を閉ざすと、静かに深呼吸した。

 

 そして数秒、開かれると同時にすっと切り替えられたその眼はシロネと赤龍帝へ向き、改めてホールからひっそり伸びる通路、筋肉達磨どもが消えていったを示して言った。

 

「……さて、もう時間も迫っているわ。イッセー、白音、匙も、他の皆が待っているでしょうし、行きましょう」

 

「あ……はい、部長!俺もヴァーリの奴に発破かけないとっすからね!」

 

「二天龍の繋がりで奮起してくれるといいんですが……。それじゃあ、ウタさま、フェルさま、失礼します」

 

 目線に手を引かれて、シロネと赤龍帝と匙は頷き、歩き始めた赤髪に続いてこの場を発った。だが数歩、先頭が止まって赤髪の顔がこちらに振り向く。

 気丈な笑みが言った。

 

「お互い、いいゲームにしましょう」

 

 ボクもクロカも返事をしなかった。単に赤髪に言葉を返すのが嫌だったという理由もあるが、それ以上に、嘘でなければ“そうだね”なんて言えるはずもない。

 

 だってこれは、余興だ。

 ヴァーリの件と同様に、思惑があるのは人間側も同じ。疲れ切っている奴には気付けるはずもなく、そのまま人影に消えていく。

 

 眼を離し、ボクはゆっくりと瞬きしてから、ようやくクロカに振り向いた。

 

「そろそろボクたちも行こうか。遅いとか怒られても面倒だし」

 

「……正直、怒られるのはもう回避不可だと思うわよ。ホールにもうメンバー一人もいないし」

 

「あれ、そう?」

 

 ならいっそとことんまで遅れてやろうか、なんて悪戯心が揺れるが、目にしたクロカの表情で掻き消える。ほんの一瞬息を呑んだような緊張。ボクがなかなか眼を合わせなかったことに起因するものだろうが、頭には別の嫌なものがよぎってしまう。

 それに、こんな悪魔だらけの場に望んで居続けるなんて狂気の沙汰だ。そういうことに切り替えて、ボクはクロカから再び眼を外し、ハンゾーたち観戦組へとやった。

 

 が、眼にしてすぐ、悩みが馬鹿らしく思えてしまう。

 

「……キミたちも、赤髪の席なら軽食くらい貰えるんじゃにゃい?」

 

 些か投げやりになってしまうボクの口調に、いつの間にかテーブルの上で食事会を楽しんでいた彼らがうぐっと喉を詰まらせた。

 

 男連中の間で大食いでもしていたのか、パンパンに膨れた頬のものを呑み下し、それぞれ顔を見合わせる。

 

「そう……だな、行くか!料理もうなくなっちまったし!」

 

 ハンゾーが固めの作り笑いを皆に向ける。言葉の通り、テーブルの上の皿をよくよく見れば、少なくないそれの中身はほとんどが空だ。隣のクロカが少しだけ残念そうに見つめているのが気配でわかる。

 

 しかしどうやらまだ食欲が満たされていないらしいゴンとキルア、食べ盛りの子供二人はまるで気に留めず、皿に残った料理の僅かな残骸に、その煌めく眼をやった。

 

「じゃあさ!あの肉料理、また食べれるかな!?ハンター試験で食べたクモワシくらいおいしかったんだ!」

 

「オレはあっちのデザートがよかったな。お菓子なら結構食べてきたと思ってたけど、こっちのは全然違ってた。なあウタ、冥界の食い物ってみんなこうなのか?」

 

「……まあ、うん。植生も生態系も、人間界とは何から何まで違うからね。今みたいに人間が簡単に冥界へ行けるようになる前は、冥界産の食材って人間界ではバカが付くほど値が張ったのよ」

 

 それは食材に限らず、例えばそれが乗っていた皿も、テーブルクロスも、テーブルそのものも。この場にないものはすべて人間界には存在しない資源。

 なるほど“V5”が冥界の地を欲するはずだと、ボクは二人の反応に、ようやくその実感を得たような気がした。

 

 だが当然そんなことは一般人の意識にあるはずもなく、比較すれば若干グロッキーになってしまっている松田と元浜が、膨れたお腹をさすりながらうへぇといったふうに眉を歪めた。

 

「二人とも、まだ食うのかよ……。その身体によく入るな……」

 

「お、俺たちはもう限界だ。さすが、年下でもプロハンター……」

 

「馬鹿ねぇほんと。張り合って無理するからよ」

 

 一人優雅にグラスを傾けていた桐生が、それを置いて呆れの息を吐く。そして空いた両の手で、二人の背中を押しやった。

 

「じゃあ、私たちももう行くわ。フェルさんウタさん、二人とも応援してるからね」

 

「……ちゅーか、俺たちはやっぱり人間側を応援すべきなのか?それとも一誠たちが居る悪魔側……?」

 

「オレたちはクラピカもいるし断然人間側だけど……んなことどうでもいいだろマツダ。好きにやればいいさ」

 

 運ばれていく松田にそう言いやってから、キルアはその後を追って行った。ハンゾーとゴンも、ボクたちに手を振ってから去る。

 

 とうとうクロカと二人になって、それからボクは眼で示し、一緒に控室のほうへと向かった。赤髪たちが通った通路の対面にある、同じく目立たない廊下。貴族悪魔をなるべく避け、あるいは気配を消しながらその最中を泳ぎ切り、その入口へと到着する。

 

 するとその傍に着物姿の小さな人影が、待ち伏せに疲れたように俯きがちな格好で佇んでいた。

 

「……九重?」

 

 声をかけるか一瞬迷った。が、その一瞬の隙に口は名前を呼ぶ。結果弾かれたように顔を上げた九重の隻眼が、ボクを見つけて嬉しそうに輝いた。

 

「あっ、フェル!よかった、ここで待っていたら会えると思ったのじゃ!応援しに来たぞ!」

 

「……そう、ありがとう。八坂は一緒じゃないの?」

 

「母上は……ぱり……ぱりすとん?とかいう名前の人間たちとお話ししておる。フェルに会いたかったから、私だけ待っておったのじゃ!」

 

 その言葉がなぜか自慢げなのは、周囲の貴族悪魔たちの存在なのだろう。大嫌いなそれらの眼に耐えて頑張って待っていたのだ、というそれ。

 

 褒めるべき……なのだろうか。その姿を認めざるを得なかったくせに、ボクの中の九重に対する態度は定まらない。その存在を自分の中でどう受け止めればいいのか、胸の奥が疼き出したのは修学旅行のあの時からだ。

 

 それに、クロカは気付いて首を傾げた。

 

「……ああ、九重なのね。久しぶり過ぎて気付かなかったわ。身長とかもそうだけど……その眼帯、なに?」

 

 右目の眼帯だ。八坂のセンスか着物に似合う和風のそれは、キメラのものとなった異形の眼を隠すためのもの。

 

「うむ、これか?これは――」

 

 と生地に手を当て、自慢げな頬に笑みも加えて答える九重。だからボクは、それを遮った。

 

「お洒落なんだよね。うん、似合ってるよ九重」

 

「……ん、ふふふ……!そうか?そうじゃろう、そうじゃろう!今日のは一番のお気に入りじゃ!」

 

 嬉しそうに笑うその姿、塞がれた眼の奥に、ボクは出会ったばかりの頃のクロカに抱いたような、身体の奥底からくる口渇感に似た感覚を味わっていた。

 

 もはや今のクロカには感じることのできないそれだった。意識して、返す笑みが歪になってはいないか不安になる。

 

「あー……そっか、そういう……。まあ、九重もそういうお年頃よね」

 

「……?お年頃って何のことじゃ?」

 

 クロカは何やら生暖かい眼で何でもないと首を振り、そしてボクの手を掴んだ。そして引きつつ、背中越しに九重へと告げる。

 

「とにかく、応援ありがと。急がなきゃならないから悪いけどお話はまたあとでね!」

 

 早足に廊下を進んでいった。振り向けば、煌びやかなホールを背景にした九重が「頑張るのじゃー!」と両手を上げて振っている。

 

 それに独りでに伸びかけた手は、ボクのクロカへの執着がキメラアントへの想いの代替でしかなかったことを、改めて強く意識させた。




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八話

 転移した先の戦闘フィールドには、スタジアムの熱気とは正反対の、驚くほど清涼な空気が満ちていた。

 

 周囲に広がるのはのどかな草原。少し先には小さな林と湖が広がっており、見上げれば空も青々としている。いや、よく見れば魔法陣らしき赤色と混ざって奇妙に歪んではいるが、そこさえ見なければあまり冥界らしくない、人間界の高原にありそうな湖畔といった風景。

 

 ここで私たちは、誰とも知れない敵チームと戦うのだ。景色に釣られて気が抜けてしまいそうな自身を、私は使命感を以てして 咤した。ついでに同じくのんびりの空気に呑まれかけている一誠先輩の横腹を、少し強めに肘で小突く。

 

「一誠先輩、しっかりしてください。今不意打ちでもされたらどうするんですか」

 

「お……おう、そうだな。部長をがっかりさせるわけにはいかないし、気合入れねえと……!」

 

「はい。これ以上負けるわけにはいきません」

 

 なにせ現在、この試合で四回戦目なのだ。

 

 そしてそれまでの戦いはずべてこちらの敗北で終わっている。一試合目の戦車(ルーク)戦ではゼファードル・グラシャボラスがヘラクレスに敗れ、続く二試合目、僧侶(ビショップ)対決ではシークヴァイラ・アガレスがルフェイ・ペンドラゴンに敗れた。この試合の前、三試合目も、二人で出場した木場先輩と匙先輩が騎士(ナイト)のジークフリート一人に圧倒的な実力差でねじ伏せられた。

 

 だからいい加減に勝ち星を上げねば、こっちの士気が危ういのだ。そうでなくても(キング)のヴァーリさんにやる気がないというのだから時間の問題。観客も、ほとんどが悪魔市民であるために、元々(キング)であったゼファードルとシークヴァイラが倒れたこともあってお通夜気味であるし、その意味でも空気を一変させる必要がある。

 故にダイスで出た駒価値5、残ったメンバー内では最も上手くコンビネーションが取れるだろうと、(キング)の代理と化しているリアス部長は私と一誠先輩を選出した。その期待は裏切れない。

 

「みんなのためにも絶対に勝ちましょう、一誠先輩!」

 

「ああ!勝って部長にご褒美貰うんだ!誰だろうがどっからでもかかってきやがれ!真剣勝負だ!」

 

「『どこからでも』、ねえ。やってほしい?味気なく終わっちゃうと思うけど」

 

 気合の意気込みで、私たちは頷き合っていた。お互いに戦意を盛り上げ、身に宿そうとするその狭間だったから、耳が外に向くまで間があったのだ。

 

 一拍、どころか三拍ほども遅れて、私は後に続いた悪戯っぽいその声が、黒歌姉さまのものであることに気が付いた。

 

「ねッ――う、ウタさまッ!!?」

 

「いッ!?い、いつからそこに……!!」

 

 と、そこからさらに少しだけ遅れて一誠先輩も声の方へと振り向いた。弾かれるようにして顔を向けたその先は、一本の木の枝の上。林のちょうど端っこで、黒歌姉さまはニヤニヤと笑みながら寝そべり、私たちを見下ろしていた。

 

 驚きと、触発された半端な警戒心で腰が引けている私たちの姿に姉さまは一通り満足したらしく、枝を飛び降り地面に降り立つ。生え茂る下草を音もなく踏み、直後私たちの背を撫でやってきたそよ風が、姉さまの身体から気配の不明瞭を攫って行った。

 

「『はい。これ以上負けるわけにはいきません』の辺りからかしら。……いやね、気配で次に白音が出て来るって気付いて、脅かしてやろうと思って気配消しながら転移したの。場所、案外近かったのよ?」

 

「そして俺はそれに付き合わされたというわけだ。師弟の戯れに巻き込まれた被害者同士、仲良くしようじゃないか赤龍帝」

 

 さらに続いて木陰から登場した人影は、肩に槍を担いだ曹操さん。その駒価値は兵士(ポーン)の2で、僧侶(ビショップ)の姉さまと合わせて5。つまりこの二人がこの試合での対戦相手であると、立ち直りつつある私の脳味噌は、あからさまな敵対心に歯を向いて抗議する一誠先輩の姿を横目に見ながら理解した。

 

「うるせえ!!仲良くなんてしてたまるかイケメン野郎!!元から誰でもぶっ倒すつもりだったけど、お前が出てきたおかげで断然やる気が湧いてきたぜ!!」

 

『Welsh Dragon Balance Breaker!!』

 

 音声と共に禁手化(バランス・ブレイク)し、全身鎧を身に纏う一誠先輩。爆発的に増大する“力”の勢いが空気を押して草原がざわざわと音を立てるが、しかし頼もしいはずのそのパワーは、この場では圧倒的なものではない。すぐ隣で波動を浴びる私の不安を覆すには、全く至らない程度のものだった。

 

 だって、勝てるのだろうか。姉さまと、さらに同等程度の力量であると思われる曹操さん。その強さは、少なくともチーム内では私が一番よくわかっている。なにせ私たちは姉妹、黒歌姉さまの時もウタさまの時も、私からすれば姉さまは庇護してくれる側。守られてきた私よりも弱い道理はない。

 

 半分固定観念と化してしまっていることは否定できないが、それでも強いことには間違いないのだ。それが二人。誰が相手でもチームのために勝たねばならないということはわかっているが、しかしその勝ちの芽が見えない。

 

 理解した私は、戦意をぎらつかせて足を踏み出す一誠先輩とは逆に、思わず一歩引いてしまっていた。

 背後に消えた、そんな私の内心。兜の後頭部にカメラが付いているわけではないだろうが、一誠先輩はその時、戦意を消して穏やかな声で私に言った。

 

「大丈夫だって白音ちゃん。そっちも修行、頑張ってきたんだろ?今までの俺たちじゃないってこと、見せてやろうぜ!」

 

「で……でも、ただ修行をしたくらいで……それに、曹操さんには神滅具(ロンギヌス)も、恐らく操れる念応力があるんです……!うまくやれても、またあの時みたいに鎧を解除されたりすれば……」

 

『そこにはオレも同感だ、相棒。奴は得体が知れない。策もなく突っ込めば二の舞になるぞ』

 

 一誠先輩の神器(セイクリッド・ギア)に封じられたドラゴン、ドライグさんも、思わず飛び出た私の弱気に一部同意する。さしもの一誠先輩もあの時、夏休みに冥界入りした時の実力テストの内容には喉を鳴らさずにいられなかったが、だがその危惧には曹操さんが首を振った。

 

「あれは今回使わないよ。赤龍帝の力を封じて勝っても興覚めだからな、安心してかかってくるといい」

 

 言ったからにはその通り、曹操さんは約束の言葉を守るだろう。考えるまでもなく皆無であった勝利の可能性に思考の余地が生まれたが、しかしそれは一誠先輩にとっては余裕故の挑発。語調に再び敵意が戻った。

 

「舐めやがって……!!絶対ぶっ飛ばして、リアス部長にお前の情けない姿を見せつけてやるッ!!」

 

「あっ……!い、一誠先輩ッ!」

 

 怒りの方向と駆動する両脚。それを目にして手を伸ばすが間に合わず、一誠先輩は曹操さんへと突進してしまった。

 

 目にもとまらぬ速さで拳を振るい、それが曹操さんの槍に受け止められて火花が飛び散る。せめぎ合うそれらから一拍遅れて訪れた衝撃が身を打ち、私は思わず腕で顔を覆った。

 

 するとその轟音の去り際に、ほど近くで草が鳴る音がした。顔を上げればそこには二人の戦闘から逃れた黒歌姉さまが降り立っていて、戦う二人を見やったまま、呆れ混じりに呟いた。

 

「赤龍帝ちんってばおバカだけど、思い切りがいいのはまあ美点よね。そこのところは白音も見習っていいんじゃない?」

 

「ッ……!」

 

 思わず身体が跳ねる。が、どうにか恐怖心は抑え込み、私は大きく下がって距離を取った。身を拘束しようとする固定観念を振り払い、拳を握って構えたのは、姉さまに言われるまでもなく一誠先輩の気迫を思い出したからだ。

 

 そう、もうゲームは始まっているのだから、勝てるだの勝てないだのを考えるのは時間の無駄でしかない。私は大きく深呼吸をして気力を振り絞ると、“力”を解放した。

 

 普段は隠している猫耳と尻尾が生え、全身に【気】と妖力が満ち溢れる。姉さまは私が戦意を取り戻したことに気付き、振り向いてその頬を持ち上げた。

 

「それじゃ、私たちもそろそろ始めましょっか。来なさい白音、観客もお待ちかねだわ」

 

「はい、ウタさま……。行きますッ!!」

 

 覚悟を決めて、私は姉さまに飛び掛かった。一跳び二跳び、最短で距離を詰め、最後の一歩を踏みこむと同時に、構えもせず隙だらけに見える姉さまの胴へ、渾身のパンチを振り抜く。

 

 だがしかし、期待した手応えが拳から伝わってくることはない。純粋な膂力では戦車(ルーク)の駒の特性を持つ私が勝っているだろうが、私も姉さまも仙術使いであり念能力者。事はそう単純ではない。

 

「私と真っ向勝負するにはまだまだ【流】が足りないわよ白音!確かに私、他と比べれば格闘戦は苦手だけど……この程度でどうにかなったりしないから!」

 

 腕が払われ、と思えば間髪入れずに蹴りが飛んできた。しかも【流】も使っていないフラットな状態で、しかしそれでも込められた【気】は私のパンチと同等以上だ。

 

 さらりとこんなことを、少なくとも私にはできないような【気】の攻防移動をしてのける姉さま。辛うじて防御した腕がビリビリと痛むのを自覚しながら、押されて後ろ足を踏んでしまう私は改めて確信する。

 

「だからもったいぶらずに、さっさと能力使ってみせてよッ!」

 

 やはり能力なくしては、私は姉さまと戦うことすらできないのだ。続く追撃、迫る姉さまのストレートパンチを凝視し、脳内にある記憶と重なる動作を見つけた私は、瞬間、練り上げた【念】を発動させた。

 導かれて身体が動き、パンチを避けると同時に、さっきまでの私とは打って変わって滑らか且つ鋭い【流】が拳を包み、吸い込まれるようにして黒歌姉さまのお腹へ伸びる。

 

 その一連の動作に姉さまは目を剥いて、故に攻撃は防御のヒマもなく突き刺さった。

 

「……がふッ!!そ、れ……ピトーの……ッ!!」

 

 混じった苦悶で折れた身体が固まる。怯んだ隙の、恐らく唯一の打倒のチャンスは逃すわけにいかず、私は再びピトーさまの攻撃(・・・・・・・・)を、続けて姉さまへと打ち放った。

 

 これが私の能力、【空想崇拝(ソウルトランス)】だ。効果を端的に言い表すなら、それは他人の攻撃のコピー。一度見て記憶した、例えばパンチを打つ時の筋肉の動きや姿勢、【流】などを使っているならその比率を、その通りに自分の身体で再現する。

 つまり私は、攻撃の瞬間だけピトーさまになれるのだ。知りうる中で最も強い体術を扱うピトーさま。その力を真似して己が物とすればどんな相手だろうと、それこそ姉さまとだって戦える。

 

 そのはずだと、ある意味でのそんな信頼から生まれたのがこの能力だった。そして初の実戦、身の丈に合わない力を無理矢理引き出し使っているためか消耗は大きいが、しかし攻撃は通じた。私の能力は証明されたのだ。

 

 そのことに喜びと、そして姉さまを攻撃しているという罪悪感で心は乱れるが、能力によって次々ピトーさまの攻撃を繰り出す身体には一切の動揺はない。記憶をトレースして操作され、動作する肉体は正確無比に、姉さまにとどめの一撃を叩き込んだ。

 

「――っぐ、はぁ、はぁ……」

 

 重い打撃音と共に姉さまは背中から倒れ、私を操作していた攻撃の動作が止まるや否や、消耗の分の疲労感がまとめて身体に伸し掛かり、思わず地面に手をついてしまう。引き攣る肺を抑え込み、大きく深呼吸をして息を取り戻そうとする私。

 

 だが次の瞬間聞こえた声は、私に休憩を許さなかった。

 

「……ふぅ。にゃるほど、ね。これが白音の念能力……。悪くはないけど、正直戦闘向きとは言い難いかしら。特に私とは相性最悪」

 

「ッ!?」

 

 声も出ず、地に向く顔を跳ね上げた私の視界には、私の肩を蹴り抜く姉さまの脚が映っていた。

 

 そして訪れる痛みと衝撃。なすすべなく吹き飛ばされた私の身体は地面を転がり、林の木の根元にぶつかって止まる。その背中の痛みにも顔をしかめながら目を開けると、倒れたはずが宙返りするように体勢を取り戻した姉さまの、私へ向く少し冷めたような眼が視界に入った。

 

 その身体には、声色と同様にダメージの跡が見えなかった。

 

「さしずめ人の格闘戦を模倣する能力、ってとこ?修行用にはいいかもだけど、いずれ不要になるかもしれない能力っていうのは感心しないわね。……やっぱりちゃんと見張って止めるべきだったわ」

 

 姉さまはため息と一緒に後悔を吐き出した。どういうわけか私の、ピトーさまの渾身の攻撃が効いていないという事実が、その平然とした様子で確信に変わる。

 

 理屈は全くわからないが、再び勝ちの芽が消えうせたようだ。が、私の闘志はまだ消えていない。今のままでだめなら、さらに先へと向かえばいいだけだ。

 

 ……使えば間違いなく怒られるだろうから、できればこんなところで使いたくはなかったが。

 しかたない。私は決心して身を起こしながら、もう一つの能力(・・・・・・・)のため、【気】を内で練り上げ始めた。

 

 ただ懸念点はまだ一つ、この能力が本領を発揮するためには【空想崇拝(ソウルトランス)】よりもさらに多くの【気】を必要とするという点がある。なんなら【空想崇拝(ソウルトランス)】の併用が条件である故に、相当の集中力も必要だった。

 だからそれまではどうにか耐え忍ばねばならない。困難だが、それさえできればまだどうにかなる。そう思って気力を支え、私は腕で冷や汗を拭った。

 

 その時だった。運がいいのか悪いのか、問題を解決できる手段が向こうからやってきた。

 

 いや、吹っ飛んできた。

 

 瞬間的に気配に気づき、私は吹き飛ばされてくる一誠先輩の鎧の背を、辛うじて捕まえ受け止めた。だが勢いは支えきれないほどのもので、結局押し込まれるようになって一緒に吹き飛ばされる。生い茂る木々をへし折り、突き抜け、そして湖に突っ込み派手な水しぶきを上げたところでようやく止まった。

 

「ぐ……わ、悪い白音ちゃん。巻き込んじまった」

 

「大丈夫です。けど、一誠先輩の戦況はあんまり大丈夫じゃないみたいですね……」

 

 耳や尻尾にも降りかかる不快な水滴を払いつつ、私は息を吐き出して一誠先輩の鎧を見やる。所々の破損に加えて、全体に広がる焼け焦げたような跡。曹操さんの神器(セイクリッド・ギア)、【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を受けてしまったのだろう。呪いの炎はくすぶり、今もなお一誠先輩に少なくないダメージを与えているに違いない。

 夏休みでパワーアップしたとはいえ、やはり今なお一誠先輩の力量は曹操さんには届いていないようだ。当然といえばそうだが、歯噛みせずにはいられない。

 

 その心の声が聞こえたのかはわからないが、一誠先輩は水の中から立ち上がり、憤慨するように鼻を鳴らした。

 

「吹っ飛ばされたのはちょっと油断しちまっただけだ!心配すんなよ白音ちゃん、曹操の野郎は俺が責任もってぶちのめしてやるから!……それより、白音ちゃんの方は大丈夫か?受け止めてもらった時の一瞬、腕に怪我してるように見えたけ――どおぅ!!?」

 

 と続いて心配を口にしながらこちらに振り向いて、そして私を目にした途端に一誠先輩は素っ頓狂な声を上げた。いきなりなんだ、敵襲かと身体が強張るが、しかしすぐに兜の眼の先、視線を辿って力が抜ける。

 

 水を被ってしまったせいで透けてしまった服、学園の制服の胸元に、兜の奥の一誠先輩はだらしのないスケベ顔に変わっていた。

 

 私はじんじん痛む腕でそこを隠しながら、一誠先輩の顔面へ一発を見舞った。

 

 兜の口から吐血、いやたぶん鼻血を吹きながら後傾し、再び巻き上がる水しぶき。完全に水中に沈みながら、しかし見えないはずの表情は満足そうで、私はさらにその微笑ましいものでも見るような面を踏みつけてやろうかと真剣に考えた。見られたのは下着だけだが、リアス部長たちとは外見も中身も正反対のそれに対して性欲に混じったその表情。比べられているようで腹立たしいやら恥ずかしいやら。

 もういっそのこと、ご立派な姉さまに倣って付けない方針に切り替えようかと、私はやけくそ気味に考えた。ちょうどその時、聞こえてきた足音が私を戦いのそれへ引き戻した。

 

「よくやったわ白音、そういうケダモノは殴って躾けるのが一番なの。これからも変なことやってきたら遠慮なくボコボコにしてやりなさい」

 

「ぶはぁっ!……だ、誰がケダモノだ!どんな状況でも、そこにおっぱいがあるなら無視しちゃならねえ……!それが男としての、おっぱいに対する礼儀ってもんだ!」

 

 だから非難されるいわれはないと、本気で言ってしまうのが一誠先輩だ。今もその言葉には欠片の嘘も疑いもなく、勢いよく起き上がって三度しぶきを撒き散らした一誠先輩は、文句を付ける黒歌姉さまに、本心から憤然として胸を張っている。同じリアス部長の眷属として尊敬できるところはあるがしかし、やっぱりこればかりはどうにかならないものだろうか。

 

 ならないのだろうなと、これから先の何万年を想像しても見えてこない“更生した一誠先輩”の図にため息を吐き、私はやるせなさに襲われて一誠先輩に向けていた拳をだらりと下ろした。

 

 黒歌姉さまもいくらかそんな一誠先輩に慣れてきてしまっているのか、私と同じく諦めを含んだ表情で首を振り、湖のほとりの木陰で立ち止まった。

 

「にしてもほんとに元気ね、赤龍帝ちん。曹操、あんた腕落ちたんじゃないの?」

 

「そこは彼の成長を褒めるべきじゃないか。このわずかな期間で禁手(バランス・ブレイカー)を完全に習得してみせたんだ。土台の上に何もない分、その速度に関しては俺やお前以上かもしれないぞ」

 

 姉さまに続き、曹操さんも林の中から姿を現した。槍を担ぎながら姉さまに向かって肩をすくめ、次いで一誠先輩を見やる。

 

「しかし、とはいえすごいな赤龍帝。俺もそれなりに本気でやったつもりだったんだが……少し鎧が焦げ付いたくらいか。以前と比べて鎧の強度も格段に上がっているようだ」

 

「当たり前だ!それに、防御力だけじゃねえぞ、夏休み中ずっと続いた筋トレ地獄も乗り越えた俺のパワーは!あのピトーだってぶっ飛ばしたんだ……もう、お前なんかにゃ負けねえ!!」

 

「そうか。ならもう一段、俺もギアを上げて――」

 

 と、その登場に敵意を露にして構える一誠先輩に続き、曹操さんも槍を構えて穂先を向けた。その全身から噴き出す【気】、【纏】も強まります圧迫感に、私と、恐らく一誠先輩の背にも冷たいものが走る。

 

 だが緊張で見つめていた曹操さんは、ふとその視線を、スライドさせるみたいに横に逸らした。一瞬遅れて私と、そしてジト目の姉さまがその理由に気付いた。

 

「……なに気にしてんのよ、ドスケベ」

 

「……気を遣っただけなんだが。あんまりなトラップじゃないかそれは」

 

 私の濡れ透けを見られたのだ。理解すると同時に込み上げてくる羞恥。もう一方の腕も半自動的に胸元を覆い隠すが、辛うじて残った冷静がそれを思い出させ、すんでのところでそのチャンスを見出した。

 

「――い、一誠先輩……!」

 

 今にも飛び掛からんとしていたその背中を捕まえて、耳打ちした。

 

「考えがあります。私に先輩の“力”、【譲渡】してください……!」

 

「ッ!……ああ、わかった!」

 

 理由は言う暇がないし、一誠先輩も聞きはしない。その信頼に応えるため、私は一つ頷くと、羞恥を振り払って一誠先輩を追い越し走り出した。

 

 派手に水音が鳴り、当然すぐ気付かれる。だがそれでも曹操さんの“気遣い”は一瞬その身の動きを止め、私の接近を許す。そのほぼ同時、後ろに伸ばした手の平に、一誠先輩の小手の手が触れた。

 

「行くぞ!!【赤龍帝からの贈り物(ブーステッド・ギア・ギフト)】ッ!!」

 

『Transfer!!』

 

「――ッ!!」

 

 【譲渡】された力が全身に満ちる、ともすれば多幸感のような感覚。しかし浸ってなどいられない。【倍化】もされた、その溢れんばかりの“力”、すなわち【気】を大量に纏った今なら、燃費が極悪な“もう一つの能力”もすぐに発動させることができる。

 

 勝っても負けても訪れるだろう姉さまのお説教のことは一時忘れて、私は一誠先輩の手が離れると同時、【念】を発揮した。

 

 自分の【気】と、そして【譲渡】された一誠先輩の【気】が、一瞬にして変質する。途端に身体から溢れ、私自身も怖気が振るいそうになるその【気】は、しかし姉さまと曹操さんにそれ以上の戦慄をもたらした。

 

 当然だ。変質させ、今の私の身体を満たすピトーさまの(・・・・・・)()】は、それだけの迫力を持っている。

 

 【空想崇拝(ソウルトランス)】とは異なり、こちらは念応力というよりはほとんど仙術。他人の【気】へと、その性質をコピーし変える技。それこそが私のもう一つの能力、【猫依転成(ドッペルオーバー)】なのだ。

 だが同時に発動させる【空想崇拝(ソウルトランス)】も含めて、これらはただの前提条件。身体と【気】の動き、そして性質の全てをコピーして、【猫依転成(ドッペルオーバー)】は真価を発揮する。

 

 ここまで同化した私は、もはやピトーさま本人だ。

 

 ――【黒子舞想(テレプシコーラ)】――!!

 

 瞬間、私の頭上に出現したバレリーナのような人形の姿に、曹操さんたちの動きは完全に固まった。

 

 迎撃の槍もその動きを止め、となれば弾き飛ばすのも簡単だった。人形に操られて我ながら恐ろしいほどの【気】を纏った右手がその穂先に触れ、容易く跳ね上げる。一緒に上体ものけぞり、がら空きとなる曹操さんの正面。

 

 そこめがけて、一誠先輩がふざけた気合と共に拳を振りかぶった。

 

「お前に、リアス部長のおっぱいは、渡さねぇーーッッ!!」

 

 曹操さんのお腹に一誠先輩の赤龍帝の力が突き刺さる。押し潰された肺の空気と血を一緒に口から噴き出しながら、攻撃を凝視する曹操さんはしかし踏ん張りがきかなかったらしく、振りぬかれた打撃に吹き飛ばされた。

 

 木々や岩々の破砕音を撒き散らし、林の中に消えていく。それをわざわざ見届ける、なんてことはせずに、私は続いて戦意の矛先を横に振った。

 

 すなわち、黒歌姉さま。

 

「一誠先輩ッ!!一緒にウタさまを!!」

 

「ッ!!わかった!!」

 

 曹操さんを追おうとしていた一誠先輩も呼び止め、黒歌姉さまへ向かう。二人がかりに若干の後ろめたさはあるがこれはレーティングゲーム、私情は抜きだ。

 

 決心し、私は【黒子舞想(テレプシコーラ)】を動かした。意思からタイムラグなしに身体が動き、瞬きの間もなく姉さまの懐に入る。見上げれば驚愕と、生じ始めの怒りが見えたが眼を逸らし、一緒に拳に握り込んだ。

 

「えいッ!!」

 

「っぐぅ……!!」

 

 当然息遣いまで聞こえてくるほどの至近距離で姉さまは躱せるはずもなく、ジョルドブローは命中した。苦悶の呻き声に手が止まりかけるが、これも無視して攻撃を続行。ストレート、ボディーブロー、ハイキックと連続攻撃はすべてもろに突き刺さり、遅れて姉さまの身体がよろめく。

 

 そこに一誠先輩が、再び拳を構えて突っ込んできた。重なる『Boost!!』の声は今度は私のためでなく、すべて一誠先輩の攻撃力へと変換される。威力は圧倒的に高く、いかな姉さまでもこれに攻撃されれば戦闘不能は間違いない。

 

 故にそんな一誠先輩の気配を捉えていた私は、その一撃を通すために渾身のアッパーを放った。顎を打ち上げ、威力が両足を地面から浮かび上がらせる。これで回避は不可能。連撃を止め、ステップで一歩下がって一誠先輩に道を開けた。

 

 その、一瞬だけ攻撃が止んだ瞬間。隙とも言えないその隙に、まるで狙っていたかのように黒歌姉さまは【念】を発動させた。

 

 【黒肢猫玉(リバースベクター)】、黒くて丸い、仙術の媒介である念弾。それが一誠先輩の進路上に、【隠】をしながら出現する。ピトーさまの【黒子舞想(テレプシコーラ)】で【凝】ができる私と違い、一誠先輩には見えないそれ。

 

 瞬時に悟り、私は隣を駆け抜けようとする一誠先輩の腰を、体当たりして押し倒した。

 

「食らえこの――んぐえッ!!?」

 

 内臓への衝撃で押し出される、首を絞められたような悲鳴。それを肩で押しのけ、滑って横倒しになりかけた身体を、私は掬い取るようにして抱え上げた。一緒にもらい受ける前方への勢いは能力と気合で踏み留め、直後真反対、後方へ思い切り跳び込んで下がった。

 

 低くした体勢の背中に念弾の気配が掠るが、しかしそれは今の私の動きについてこれるほど早くない。辛くもその魔の手から脱出し、地面を削りながら静止した私は一誠先輩を下ろし、詰めていた息を吐き出した。

 

 だが、

 

「……はあ、残念、赤龍帝ちんはやれたと思ったのに。これじゃあ痛いばっかりのやられ損じゃない」

 

 顔を上げ、見やれば姉さまの険しい表情。頭を振って口の端から垂れた血を袖で拭いながら、表情と同様に苛立っていることがありありとわかる声色を放っていた。

 

「効いて、ない……!?」

 

 ダメージは、あるだろう。痛がっているし、少なくとも血は流れている。しかしその程度はどう見ても私の想定に届いていない。

 

 能力を使った私の攻撃は、つまり本気のピトーさまの攻撃と同等。五大竜王、をも倒したそれを受けて平気でいられるはずはなく、しかもこれは正真正銘最後の切り札。私が繰り出せる最大威力の攻撃であるというのに、眼前にあるのは間違いのない、無残な現状。

 

 またしても、手応えに反して黒歌姉さまは無事だった。

 これが通じなければ、もうどうすればいいのか。そんな私の動揺に、姉さまは荒れる感情を押し殺すため、一瞬だけぎゅっと目を閉じ、開いた。

 

「確かにピトーの……あー……こっちでも話題になってたから知ってるんだけど、強力な能力よ?肉体の限界を超える、ってなればさすがに私じゃ敵わないわ」

 

「ぐぅ……それ、やっぱり、あのピトーの……くそっ……!ならなんで、そんな平然としてやがるんだ!」

 

 腰を押さえて苦しそうにしながら起き上がる一誠先輩が一瞬私の頭上を見上げ、次いで私の代わりに姉さまへ言う。姉さまは呆れたように鼻を鳴らし、自身の眼を指さしてみせた。

 

「だってはっきり見えちゃうんだもの、【気】の流れ」

 

「……【気】の……?」

 

 流れ。それが要するに【流】のことであるのはわかる。グリードアイランドでゴン君やキルア君と一緒に修行したように、【気】をそれぞれに分配する時のその動き。私が【空想崇拝(ソウルトランス)】でコピーできるあれのことだ。

 

 それがどうかしたのかと、首を傾げてその半ば、私はようやく気が付いた。知識のない一誠先輩が、黒歌姉さまを警戒しながら一人疑念に顔をしかめる。

 

「流れって、なんだよそれ。っていうかそもそも、よくわからねえけど、見えてたって言ってもお前、全然防御もできてなかったじゃねえか……!」

 

「してたわよ防御。まあ赤龍帝ちんが思ってるように“腕で”とかじゃなく、【念】、【硬】でだけど」

 

 【硬】とは、【纏】【絶】【練】【発】【凝】すべての複合技だ。端的に言い表すなら究極的な【凝】。最大限に高めた【気】を一ヶ所に、その他全ての【気】をゼロにして塞ぐことにより、その集中量を爆発的に増大させる。

 

 代償に“その他”の防御力は完全になくなるが、しかし姉さまレベルの念能力者がそれをやれば、“一ヶ所”はすさまじい力を持つようになるだろう。それこそ、【黒子舞想(テレプシコーラ)】の攻撃を受けても平然としていられるほど、高い防御力を得られるに違いない。

 

「普通だったらこんな危ない橋を渡ったりしないけど、でも白音、ピトーの能力に集中してるからかもしれないけど、あんた攻撃がうるさすぎるのよ。【凝】の部位とそれを動かす周囲の筋肉への【気】の比率とか……まあそういうのが丸わかりだから、使う技も狙ってる場所も見なくてもわかるわ」

 

 だから姉さまは的確に私の攻撃命中箇所を予測し、【硬】を使ってピンポイントにそれを防いだ。防御姿勢が追い付かずとも、それだけで十分だったのだ。

 

 理屈はわかった。一誠先輩も【念】に詳しくないからこそ、要は私の攻撃を見切っていたのだと無理矢理納得した様子。だが私は【念】と、そして仙術を知っているからこそむしろ、その絶技に愕然とせざるを得なかった。

 

「うそ、そんな……【凝】ならともかく、周囲の筋肉……?私がどこを攻撃するかわかるほど細かく把握するなんて……そんなこと、どうやったら……」

 

 少なくとも、私には到底不可能な技術だ。直に触れて、たっぷりの集中力とたっぷりの時間をかけても、肘から上より下の方が【気】が多いかもしれないとか、わかるとすればそれくらいがせいぜいだろう。

 しかし姉さまは明らかにそれ以上の精度で、しかも【黒子舞想(テレプシコーラ)】の超高速連撃を見抜いてみせた。どうやればそんなことができるようになるのか、私にはまるで想像がつかなかった。

 

 そんな思いで姉さまを見やると、姉さまはまるで威圧するかのように無造作にこっちへ歩みながら言った。

 

「私の師匠がさ、そういう【気】の流れがほんとありえないくらい静かなのよ。それをどうにか見切ってやろうって頑張ってたら、いつの間にかできるようになったわけ。だからたぶん、ピトー本人の【黒子舞想(テレプシコーラ)】も見切れるわよ、私。それを見越したフェイントとかで、勝ち負けは別だけど……白音の記憶の中のピトーはそういうことしなかったみたいね」

 

 姉さまの言う通り、私はピトーさまのフェイントを知らない。となれば記憶の通りに【気】と身体を操作する【空想崇拝(ソウルトランス)】では姉さまの“見切り”に対抗することは不可能。発動させた【黒子舞想(テレプシコーラ)】の能力を使ってそれを試みようにも、コピーでない私の地力でそんな細かな操作は頭がこんがらがること間違いない。実質三つの能力を併用している関係上、必要なのが思考のみとはいえ、集中できる自信はまるで湧かなかった。

 

 いや、自信が湧かないなんて話ではない。やはりこれも不可能だ。

 そのことを、私は黒歌姉さまがその距離の半分を詰めてきたころ、とうとう明確に、それは私の身体を侵し始めた。

 

「――ッぐぁ……!」

 

「ッ!?お、おい、どうした白音ちゃん!?」

 

 心臓が膨張したかのような衝撃と共に、堰を切ったようにして全身に広がる冷たい悪意(・・)。臓器が縮こまるような恐ろしい感覚に胸を押さえる私の、その身から溢れる気配に味方の概念は消え去って、とうとう一誠先輩もが顔を青くして驚愕を露にした。

 

「ああもう、やっぱり……」

 

 黒歌姉さまの、『言わんこっちゃない』という呆れと苛立ちが混ざった声色。

 

 そう、私は今、ピトーさまの能力である【黒子舞想(テレプシコーラ)】を使っている。その発動条件は二つ、【発】である【空想崇拝(ソウルトランス)】によってピトーさまの身体と【気】の動きをまね、仙術の【猫依転成(ドッペルオーバー)】でその【気】の性質をもまねること。

 

 つまり今の私はピトーさまの邪気塗れの【気】を纏っているわけで、それは当然、仙術使いである私にとっての猛毒だった。

 

「コピー能力はいいけど、よりにもよってピトーにするなんて。自殺行為ってことはわかってたんでしょ?」

 

「自殺行為……?おいウタ!それってどういうことだよ!?」

 

 要は白音は自分で自分の【気】を毒に変えているのだと、短く説明する黒歌姉さまの声はもはやまともに聞いていられない。全身の肌を焼き溶かし、内側にしみ込んでくる悪寒の瀑布に耐えることで精いっぱいだ。

 

 何度か傍で体感し、一度はその身に能力を受けたこともあるから、という感覚でいたが甘かった。さっきまでは【黒子舞想(テレプシコーラ)】のおかげもあって動けたが、しかしこんな状態では碌に戦えそうにない。

 

 それでも何とか歯を食いしばり耐え、私は頽れそうになる身体を必死に留めて姉さまを見上げた。姉さまはじっと静かに私を見下ろす。

 

 交差した視線に、その意思は伝わったようだった。

 

「……その能力、解除するつもりはないってわけ。そんなに苦しいのに」

 

「ここで……やめたら、黙っていた意味も、なくなってしまいますから……」

 

 事前にこの能力を明かしていれば、姉さまは間違いなくその習得を止めただろう。だが邪気塗れの【気】は、私がピトーさまと縁を結ぶための資格の一つ。諦められない。

 

 着々と胸の奥に刺々しい氷塊のような感覚が積み重なり、その冷気を何度もかけて排気しようとしながら、私は身を引いて持ち上げて、頭上の人形に命じて両手の【気】を集中させた。

 

 姉さまも構え、そして再び能力を使った。

 

「わかったわ。なら仕方ないけど、さっさと強制終了させてあげる。……数分だし大丈夫だとは思うけど、これ以上邪気を吸っちゃわないよう、ベッドの中ではおとなしくしてるのよ」

 

 周囲に出現する黒い念弾。既に出現させていたものを合わせて数は六。それを私が認めた瞬間、姉さまの身体が前に傾き、その姿が霞むほどの勢いでダッシュした。

 

 私はそれを辛うじて視界に捉える。念弾を従えながらの突撃。それの速さは今までの余裕、手加減の類を一切含まず、間違いなく本気のもの。だがその纏った【気】と念弾も、ぎりぎりとはいえ眼で捉えられるのだから、【黒子舞想(テレプシコーラ)】によって対処は可能。私は迷わず身を蝕む【気】を振り絞り、それを迎え撃とうとした。

 

 そのはずが、唐突に視界を埋め尽くした黒色によってその意思は砕かれた。

 一瞬遅れてそれが【黒肢猫玉(リバースベクター)】の黒い念弾、それが槍の形に急速に変形して伸びてきた穂先であることを気配に悟る。顔を貫かんとするそれを、私は半ばの恐怖心と反射を以てして、頭を右にずらして避けた。

 

 そのたった一瞬、迫る槍が黒歌姉さまの姿を覆った僅かな間の後に再び前を見やれば、眼前まで迫っていたはずの姉さまの姿は消え去っていた。

 

「ッ!!?白音ちゃんッ、後ろだッ!!」

 

 何、と思う間もなくその瞬間、一誠先輩の大声も突き破るほどの衝撃が、私の後頭部に突き刺さった。

 

「あ……ガ……ッ!!?」

 

 意識が飛びそうになる。しかし【黒子舞想(テレプシコーラ)】によって【気】を増幅されていたおかげでなんとか堪え、倒れかけた身体も踏み出した右足が支え、耐える。

 

 そして残る痛みと衝撃を噛み殺し、背後を振り向けば――やはりそこには誰もいない。

 

 いや、視界の端に何かが写り込んだ。

 瞬時に【堅】、さらに腕をかざして防御しようとするが、しかしそれはすり抜けてガードの少し下、今度は左の脇腹に痛撃。折れる身体を無理矢理操り、ちらりと見えた何かを追おうとするも、どこからともなく現れた黒い念弾がそれを妨げ、見失ってまた攻撃が身をえぐる。

 

 その三発目のダメージで、私の身体は限界を迎えた。

 

「あッ……!!」

 

 維持するだけの集中力が失われ、頭上の【黒子舞想(テレプシコーラ)】がばらばらと解けて消え失せた。同時にその前提能力、【空想崇拝(ソウルトランス)】と【猫依転成(ドッペルオーバー)】も解除され、私の【気】も元に戻る。邪気から解放されて清涼な空気に歓喜する身体だったが、それを覆うほどのショックで私の膝はとうとう折れ、へたり込むと呆然と荒く呼吸した。

 

「……ピトーのその能力は操作に本人の意識が必要だから、認識できない攻撃には対応できない。能力それ単体なら、簡単な目くらましだけで攻略できるのよ」

 

 いつの間にか目の前に黒歌姉さまが戻っていた。手のひらに念弾を弄びながら、静かに諭すように続ける。

 

「あれはピトーの戦闘勘があって初めて強力な能力足りえる。そこを鍛えず能力任せじゃ誰と戦ってもこうなるわ。特に念能力者同士の戦いでは、知られている能力はむしろ隙になるってこと、覚えておきなさい」

 

 告げると、姉さまは立てた人差し指に念弾を乗せる。それで私を戦闘不能にするつもりだろう。能力が解除され、【気】も体力も邪気に蝕まれて尽きた私には、もうそれに抗する力はない。

 

 敗北の悔しさはもうなかった。それ以上に、どうしよう、やっぱりこれでピトーさまのコピーは禁止されちゃうのかなと、無念の波が痛みも忘れて身を侵す。

 

 しかし姉さまは一際大きく、盛大に肩の力を抜きながら、深々とため息を吐き出した。

 

「まあ仙術との【結】で拡張性は高そうだし、可能性の開拓って意味でも、これからはその修行も付けてあげる。……時間をかければ、いずれはピトーの能力も使いこなせるようになるでしょ」

 

 荒い呼吸から無念が解けて、私は今放たれんとする念弾を見上げて安堵する。ただ一つ、リアス部長たちチームに勝利を届けられなかったことが残念ではあるが、しかし負けてしまったのだから仕方がない。きっと残りのメンバーが仇打ち……ができるかは疑問だが、祈りつつ、私は己の敗北を受け入れて眼を閉じた。

 

 だがどうやら、負けを認識したのは私だけであるようだった。

 

『Explosion!!』

 

「――ッ!」

 

 聞き慣れた音声と姉さまが息を呑む音。眼前にごうっと重い風切り音が現れて、これまた慣れた“力”の余波が風圧と一緒に私の身体に吹き付けた。

 

 眼を開けると、さっきまで黒歌姉さまがいた場所にパンチを打った格好の一誠先輩が立っていた。

 

「悪い白音ちゃん、ちょっとぼーっとしちまってた!!」

 

 兜の眼が、背後に庇う私をちらりと一瞥して言う。次いで敵意に変わったそれが向くのは一誠先輩の牽制に一跳び分ほど下がった黒歌姉さまで、冷やかに視線を返していた。

 

「赤龍帝ちん、ここはほら、エンターテインメント的にも白音がリタイアするまでおとなしくしてる場面じゃない。もしかして空気読めない子?」

 

「うるせえ!空気よりも白音ちゃんを守るの方が大事なんだよ!それに……さっきの邪気ってやつ、やばい気配はなくなったから、もう白音ちゃんは大丈夫なんだろ?だったらもう悩む必要もねえ!今度こそ白音ちゃんと一緒にお前をぶっ飛ばすだけだ!!」

 

 当の私に力は残っておらず、諦めているのだがしかし、どうにも気付いていないらしい一誠先輩の語調に気後れは欠片もないようだ。白音ちゃんなら大丈夫、という信頼がすごく痛い。

 

 だがしかしそこまで信じてくれるのであれば、最後の最後、悪あがきくらいはして然るべきかもしれない。私は一旦、諦めをため息に変えて、一誠先輩のその信頼に応えるため、なけなしの気力を振り絞って腰を持ち上げた。

 

「……一誠先輩。ごめんなさい、私にはもう、ウタさまと戦えるだけの力は、残っていません」

 

「……そうか。なら任せろ白音ちゃん!俺一人でも――」

 

「その代わり、ウタさまの【隠】、見えない念弾を見破れるように、一誠先輩が【凝】を使えるようサポートします……ふッ!」

 

 と、その言葉の意味に姉さまが勘づくよりも早く、私は再びその内の【気】をピトーさまのものへと変化させる。記憶から引き出すのは私と姉さまを決定的なすれ違いから救ってくれたあの時、姉さまの攻撃から私を守ってくれた、いつの間にか私の掛けられていたあの能力。

 

 一度に何体も出現させられる人形であれば、残り少ない私の“力”でもどうにかなるはず。「ちょっと白音!」と非難に焦りの色を混ぜる姉さまの声を意志で聴覚から締め出しつつ、私は邪気で震える手を一誠先輩の肩に乗せた。

 

 しかし能力は発揮されることはなく、他ならぬ一誠先輩によって私の手が外された。

 

「やめてくれ白音ちゃん……!確かに……ウタの言う通り、俺、余計なことしちまったのかもしれないな。ごめん白音ちゃん、無理させるようなこと言っちまって」

 

「い……え、でも、ウタさまと戦うのなら、最低限あの能力は見切れないと――」

 

 一誠先輩の戦意が無駄になってしまう。一番最初、曹操さんを撃退した後に二人で向かって行った時のように念弾に襲われて、それを見ることができない一誠先輩に今度こそ命中し、姉さまの仙術がたちまちその意識を刈り取ってしまうだろう。

 

 私の力なくして立ち向かえばそうなることは必至。勝ちの目がないことを、一誠先輩はわかっていないらしい。あるいは実は目測のような屈強な戦意では元からなく、私が戦えないと知った時点で折れてしまっていたのだろうか。

 

 だがしかし、逆に勝つための説得をする羽目になった私の言葉を塞ぐように、一誠先輩は拳の親指を突き立て、恐らく兜の奥でニヤッと笑った。

 

「心配すんな!曹操最手に苦戦してたとこ見せて不安にさせちまったのかもしれないけど……あいつは男だからな、ウタ相手なら勝算はある」

 

 びくり、と一誠先輩に向いたフォーカスの外で、眉に皺をよせていた姉さまの顔色が変わった。だがよく見えなかったこともあってその時はさして気に留めず、私は尋ねる。

 

「勝算……?黒い念弾、【黒肢猫玉(リバースベクター)】は一誠先輩には見えないんですよね……!?」

 

「大丈夫だって、無様に負けたりなんてしねえよ。なにせ……せっかくちびっ子たちも身に着てくれてるんだからな!!」

 

 “ちびっ子”と聞いて思い出す。そういえば会場入りの前、一誠先輩は応援メッセージやファンレターなんかを受け取っていたなと。

 

 ついでに修行を理由に断り続けていた同士のゼノヴィアさんと、そろそろ出演しなければ眷属としてまずいだろうかと話し合った記憶も蘇る。次いで脳裏にその、グレモリー家主導の特撮ヒーロー番組で一誠先輩がモデルとなった主人公、彼を称する二つ名的なキャッチコピーの文字列が浮かび上がった。

 

 黒歌姉さまの表情、それが嫌な予感を察知した故のものであるということに、私は遅れて気が付いた。

 

「“おっぱいドラゴン”……行っきまぁぁっす!!」

 

 見えずともわかるスケベな顔。そしてその手には、あのスケベ技の魔法陣。

 

 欲望を見せつけながら雄叫びを上げた一誠先輩は、まっすぐ黒歌姉さまへとそれを向けた。

 

「んの――ッ!!」

 

 直後の突進を察知した姉さまは、怒りと、そして恐れで念弾を発射した。

 

 一誠先輩のその技は、一度ピトーさまをその毒牙にかけたらしい。最悪の事態は辛うじて曹操さんが防いだと聞くが、それ故の怒りと、もし命中すれば黒歌姉さまをウタさまとしているという念能力、【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】が解除されてしまうという恐れ。それらを侵す一誠先輩を私が応援できるはずもなく、止める力がない代わりに、私は眼前の光景には口をつぐんだ。

 

 姉さまの念弾が視界いっぱいに広がっていた。一誠先輩でも見ることが可能な六個を中心に、その周囲に【隠】の念弾がおおよそ三十。それらの球体ががまるで網のように広がって一誠先輩へと投げられていた。

 見える六個を避けようとすれば確実に見えないどれかに接触する。こんな状況でも隙のない黒歌姉さまの技から逃れる術は一誠先輩にはないだろう。一瞬の後、訪れることが確定的であるちびっ子たちのヒーロー像が粉砕される未来を、私は自業自得の呆れを以って黙って眺めることに決めた。むしろ今までの気持ちが反転し、さっさとやられてくれと、仮にも味方に酷いことを思うくらいだった。

 

 だからそんな私の予想、願望は、二重の意味で喜べない方向へと捻転した。

 

 身を低くしてスタートダッシュの前傾姿勢をとっていた一誠先輩が、両手の人差し指を突き出し、黒歌姉さまの、恐らくその豊満な胸に向けて、

 

「見せてやるぜ……俺の新技!!煩悩開放イメージマックス!!さあさあウタのおっぱいさん、心の声を聞かせてちょーだいなっ!!」

 

 何か使った。

 

「【乳語翻訳(パイリンガル)】!!」

 

 私も姉さまも一瞬にして警戒心を跳ね上げた。もしや今すぐにでも服がはじけ飛びはしないかと構えたが、しかし直後、特別何も起こらない。一誠先輩が念弾に倒れるまで、あとほんの数舜。

 

 目に見える変化はなくてもその効果が表れたのは、一拍遅れたその時だった。

 

「なるほどつまり……ここだァッ!!」

 

 見えないはずの念弾を、一誠先輩はダッシュを開始すると同時、見事に避けて見せたのだ。

 

 網の隙間を、まるでそこにどう配置されているかわかっているかのように捉え、潜り抜けた。あてずっぽうではありえないその動きに、私の絶句は意志を必要としなくなる。

 だが反して黒歌姉さまは同様に驚愕しつつも手を止めず、眼を見張りながら新たな念弾を一誠先輩に放つ。今度は私でも碌に見えないほど強い【隠】がかけられていたが、やはり一誠先輩は身を捻り、恐らく躱してそのまま再び一足、距離を詰めた。

 

 何をしたのかはわからないが、一誠先輩は黒歌姉さまの【隠】を完全に見切っていた。であればただ愚直に念弾を投げつけるだけの攻撃は無意味。姉さまは瞬時に理解して身を翻す。今の一誠先輩をどう攻略するにせよ、まずは距離と時間を稼がねばという判断だ。

 

 それすら、まるでその考え、心の声を盗み見たかのように、ほとんど同時に一誠先輩は吠えた。

 

「にが、すかぁッ!!」

 

 響く振動。呼応して震える鎧の装甲が、一部だけ吹き飛んだ。

 その勢いが爆発的な加速となって、一誠先輩の身体を黒歌姉さまの下まで一息に押しやった。一緒に張り手のように伸びる魔法陣を構えた手は、その一瞬の接近で姉さまを間合いに捉えてしまっている。脚を軸に後方へ身体を向け、今まさに逃走を試みようとしていた姉さまは伸びる魔法陣を凝視しながら愕然の表情。念弾を回避された時点では保たれていた冷静も、とうとう消し飛んでしまうほどの信じ難い光景の連続。

 

 一体全体どうなっているんだ。たぶん私たちはそんな動揺に頭の中を支配されたまま、もはや打つ手がなくなった一誠先輩のスケベ魔法陣を見つめるしかなかった。

 

 そこに、寸でのところで救い、あるいは生贄の手が伸びた。

 

「ひぅ――!?」

 

 という短い悲鳴を突き飛ばし、黒歌姉さまの背中側、木漏れ日が射す林の中から現れたその手が、ほとんど捨て身のぶちかましのようにして、次の瞬間、代わりに一誠先輩と衝突した。

 

「――っぐ……!」

 

「あっちょっ――ぐむんっ!?」

 

 正面衝突の勢いは死なず、互いに跳ね飛ばされて宙を舞う。手足をばたつかせながら真っ逆さまに落下していく一誠先輩とは正反対に、一秒ほどの滞空時間で体勢を取り戻した。ちょうど私と姉さまの中間あたりの草地に着地したその人の顔を、私は日の当たったそこでようやく認識した。

 

「曹操さん……!」

 

 一誠先輩の攻撃でも、彼を倒せてはいなかったのだ。立ち上がったその背中から顔だけが私に向き、不敵にニヤリと微笑んだ。

 

 それに警戒心も、そして感謝も抱く暇はなく、さらに事態は怒涛の如く。

 

 ぱちん

 

 曹操さんの笑顔の向こう、とうとう地面に激突した一誠先輩が、その拍子に指を鳴らしてしまう光景。次いで曹操さんの漢服に一誠先輩の魔法陣が輝いて、そして――

 

 ビリビリビリィッ

 

 と、いっそ清々しいくらいに見事な勢いで、曹操さんの服が破れて四散した。

 

 もちろん、漢服も学生服もその下の下着すらも分け隔てなく、何から何まで。

 

「………」

 

 皆、数秒の静寂。眼前の光景に顔へと血が上っていくのを自覚しながら、私はそっと手で両目を塞いだ。

 

「お……ろろろろろ、げぇぇぇッ!!お、お前ッ!!曹操っ!!俺の快適夢空間を邪魔するに飽き足らず、なんっ、なんて悍ましいモノ、見せつけてきたがんだ!!頭おかしいんじゃねえの!!?」

 

「…………ははっ」

 

 一誠先輩の嘔吐音と、正直意識できないその言葉。のちに一つだけ、乾いた笑い声がして、次の瞬間すさまじく重い打撃音が響き渡った。

 

 そして少しして、こころなし引き攣った姉さまの声が鼓膜に届き、私は覆った目を解放した。

 

「曹操、どっか行ったからもう大丈夫よ……」

 

「あ、はい……」

 

 恐る恐る見やると、確かに曹操さんはいなくなっていた。同じく一誠先輩の姿もない。さっきまではなかった血だまりが広がっているのを見るにそういうことなんだろうと、羞恥の息を吐き出した。

 

 そして一方、姉さまは頬のあたりを赤く染めながら、私とは視線を合わさずにそれを言う。

 

「……で、まあ、勝負は決まったわけじゃない?だからほら、あいつのためにも速く降参してほしいなー……って……」

 

「あの……はい、一誠先輩がすみませんと、お伝えください……」

 

 けほんと咳払いをして、私も姉さまから眼を逸らしたまま、宣言した。

 

「リタイア、します……」

 

 お互いに気まずいまま、私たちは転移の光に包み込まれた。




オリジナル念能力

空想崇拝(ソウルトランス)】 使用者:白音
・操作系能力
・記憶にある体技や【気】の動きと配分をコピーし、その通りに自身を操作する能力。
コピーの範囲は包括的なため、例えばコピーしたパンチの軌道を曲げるといったアレンジは一切きかない。

猫依転成(ドッペルオーバー)】 使用者:白音
・操作系能力と仙術の【結】
・記憶にある対象の【気】の性質をコピーする能力。
それ単体では大した意味はないが、【空想崇拝(ソウルトランス)】との併用により対象の能力をコピーし使用することができる。
ただし【空想崇拝(ソウルトランス)】と【猫依転成(ドッペルオーバー)】とコピーした能力の三つを同時に発動させる関係上、消耗がすさまじい。【空想崇拝(ソウルトランス)】と同様にアレンジはきかず、本編のようにピトーの邪気等、よくないものまでコピーしてしまうこともある。
・操作系能力は早い者勝ちで同時に他の念能力には操作されないというルールがあるが、仙術が噛んでいるのでセーフ…ということにしていただきたく…。

感想ください。


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九話

脱字報告ありがとうございます。


「……あの技は、少なくともゲームでは封印しておくべきものだ。なぜ今の今まで放置されていた?誰も注意しなかったのか?悪魔とはこれほど非常識な連中だったのか?」

 

「ああ、そうだな。わかったから少しは落ち着け、曹操」

 

 戦闘フィールドから帰ってずっと俯きぶつぶつ呟くばかりの曹操に、ゲオルグは自身のローブをかけてやりながら呆れ半分でそう言った。引き締まった裸体が隠れ、それによって女性陣、ジャンヌとルフェイとそれから曹操と共に帰還したクロカも息を吐き、ようやく視線の自由を取り戻す。

 ボクも建前的に逸らしていた眼を戻し、精神的な負傷が激しい裸ローブの奴へ微笑みかけた。

 

「スタジアムの映像で見てたけど、モノ自体は映ってなかったから大丈夫。上がってたのも黄色い悲鳴だけにゃ」

 

 その内の凡そは嘲りだったが、慰めた。同時に視界の縁に映るクロカの顔がまた一段赤みを増したが、しかしそうでなくても適当な言葉で羞恥を克服できるはずもなく、むしろ悪化してしまい、曹操は頭を抱えてうぐぐぐと唸り出した。

 

「まさかこんな……大勢の前で醜態を晒してしまうとは……。俺がいったい何をしたと……」

 

「心当たりはありそうなものだけどね、君の場合」

 

 そう苦笑するのはジークフリート。曹操の槍を肩にかけ、ソファーの背の上に腰かける。

 そしてその感想はボクも同感だ。彼とボクとでは“心当たり”の内容は違うだろうが、しかしあくどいやり口は似通ったものらしい。

 

 罰が当たったのだと言ってやろうかと思ったが、はっきり言葉にするともっと面倒なへこみ方をしそうなので寸でで止めた。そんなボクの代わりに、頭を振って羞恥を追い払うことに成功したらしいクロカが、曹操のそれをも抹消しようと咳払いをして注目を引き付けた。

 

「それはともかくさ!白音よ白音、私の……弟子。すごいと思わない?つい最近まで仙術どころか【念】すら教えられたことなかったのに、たった数ヶ月であんな立派な能力!まだまだ調整は必要だけど、極めればピトーの念能力だけじゃなく他の能力も……それどころか念能力じゃない能力もコピーできるかも!将来性の塊にゃん!」

 

「……そうだな、赤龍帝をコピーしないことを祈るばかりだ」

 

 後半あたりから、恐らくボクにも向けられていた喜びの声だったがしかし、曹操の傷は塞がるどころかぱっくり開いた。というか空気を読む気もない投げやりそれで自ら傷口を開き、クロカはそれに言葉を詰まらせられた。

 うぐ、と鳴る喉へ、曹操は顔を上げると力のない半笑いの顔を作る。

 

「師匠なら、まかり間違って赤龍帝のあの【洋服崩壊(ドレス・ブレイク)】まで真似てしまわないよう、しっかりと見張っておいてくれよ?あれは存在から抹消してしまったほうが世のためだ……」

 

「……心配しなくても、そもそも人の服を剝くような子には育ててないわよ」

 

 ジト目を向けて言ってから、クロカはボクの隣の席に腰を下ろした。諸々の疲れで長々息を吐き出して、弛緩した身体が革張りのソファーに沈みこむ。お尻と背にも伝わってくるそれがボクの手を引こうとしているようで、ボクは思わず身体を固くした。

 

 ちょうどその時に、それまで静かに集中していたクラピカが、組んだ手に落としていた視線を上げ、尋ねた。

 

「ところで……四連続で勝利してしまったが、どうする」

 

「どうする……とは?」

 

 真っ黒のサングラスをかけた男、コンラといったか。何時かにボクとクロカをストーキングしていたという奴が、何のことかと首をかしげる。

 その本心からの困惑を見るに、聞いていないのか。いや、どちらかといえば奴が、伝える必要がない程度の強さであるからなのかもしれない。

 

 となればクラピカが知っているのは曹操辺りが教えたからなのだろう。推察を裏付けるかのように、曹操は未だ消沈しながら弱々しくそれを言った。

 

「本来この三回戦目、俺たちは負ける予定だったんだよ……」

 

 コンラの口が驚きの形で固まる。がそれも一瞬のこと、悟ったらしい。

 

 これはレーティングゲーム。戦闘ではなく、“ショー”だ。

 

「片方が勝ち続けても面白くないだろう?盛り上がるのは接戦。一方的なばかりのショーなど、退屈なだけだ」

 

 現に今も、そしてその前も観客たちはお通夜気味。曹操の裸体で盛り上がったのはごく一部だけだ。それらも含めて観客の大部分は一般人、冥界に住まう悪魔どもで、ハンターチームと悪魔チームのどちらを応援しているかは言うまでもなく、また負け続けている現状の感想も言うまでもない。

 

「だからまあ、つまるところこれは悪魔たちのガス抜きなんだよ。知っていると思うが現在、悪魔界では人類の進出が進んでいる。魔王が認めたとはいえ自分たちのテリトリーによそ者がやって来ることをよく思う者は少ない上、貴族だけでなく民衆にも人間を下等種族とみる風潮は強いんだ。その爆発を抑制するためにも、適度に負けて不満を忘れさせる必要があるわけだ」

 

「適度と言わずゲーム自体に敗北してもいいんだがな。……さすがにそこまでは強制しない」

 

 後に続けるゲオルグは、その台詞に不満そうな顔をしたヘラクレスへやれやれという風に首を振る。彼は既に一匹、純血貴族悪魔を倒していたが、どうやらまだまだ戦い足りないようだった。

 

「……だが次の試合は負け試合にする気なんだろ?なら俺は出ねえからな。あのサイラオーグって野郎の【念】、ぶっ潰してみたいんでな!」

 

「あ、それ、私もパス……して、いいかしら?一勝くらいしないと、師匠とかゴンとかキルアとかとかに色々言われそうだから……」

 

 などと言いながら、相も変わらずチラチラとボクへ恐れの視線を向けるのは、金髪碧眼のジャンヌ。いつまでやっているのかと、視線を返したボクは益々青くなる彼女を見やっていた。するとさらに、クラピカの拒絶が続いて首を振った。

 

「私も八百長を受ける気はない。眷属化の件があるからな」

 

「……物好きなやつだ」

 

 ヘラクレスが肩をすくめた。次いで頭をかきながら、周囲の顔ぶれを見回した。

 

「で、どうすんだ?ルールじゃ同じやつは連続して試合に出れねえんだろ?……っつーことは――」

 

「フェルに出てもらうべきでしょう」

 

 そして見回した眼が一点で止まる。ボクの名前を出したソイツ、アーサーは、リング側にしつらえられた台から降りつつ、そうボクへ視線を向けていた。

 

 そのほとんど同時、リングの中央上空に浮かぶディスプレイが試合のリプレイ映像から切り替わり、ショーらしく騒がしい実況者の声が、それを煽り立てるように読み上げた。

 

『さあダイスが振られ、出目の合計は再び5です!両チーム、駒価値の合計が5以下になるよう選出することができます!』

 

 ダイスフィギュアなるルールのそれだ。『そろそろ若手最強と名高いあのお方の登場を期待したいですが……』なんてまくしたてるスピーカーを一瞥してから、(キング)の役目でサイコロを振ってきたアーサーは、押し上げた眼鏡でボクを見下ろしながら続きを言った。

 

「相方なんでしょう?ならばその失態は貴女がカバーしてください」

 

「……失態って言うなら曹操じゃない?」

 

 クロカが眉を寄せたが、しかしアーサーの整然とした表情が崩れることはなく、その面のまま見返した。

 

「黒い念弾で赤龍帝を撃退できていれば、曹操が貴女の身代わりになる必要もなかった。つまり、貴女の油断が原因ですよ。調子に乗り過ぎた、ということです」

 

「なにせお弟子さんの晴れ舞台でしたもんね!……そういえば、おっぱいドラゴンさんもフェルさんの弟子なんでしょう?」

 

「……教えてたのは筋トレだけにゃ」

 

 違う、とはっきり言いたかったがしかし、名目上は弟子である以上、それは嘘。諦め、せめてもの抵抗に首を振り、「いいなぁ、私、おっぱいドラゴンのファンなんですよ!」なんて眼を向けてくる彼女の趣味を心の中で嘲った。

 

 だが一方クロカは、「わぁ……ずいぶん変わった趣味してるわね。ルフェイって言ったっけ、あんた」と口にまで出してしまう。同感なのだろうアーサーの口は噤まれたままだが変なふうに引き攣っていて、ボクはそれも内心の慰撫に使うと、師弟の件を頭の隅に追いやり、大きく息を吐き出した。

 

「まあ、いいけど。負ければいいんだよね?」

 

「……ええ。恐らく次はサイラオーグが出て来るでしょう。戦力の出し惜しみはしないはずです。ヴァーリを除いたあのチームの中では突出して強く、その姿勢から民衆の人気も強い。こちらにとっても波風が立ちにくく、ショーとしてもヒーローにちょうどいい、負けるには最も適当な相手です」

 

 それにコカビエルを倒したボクを倒せば、それは間接的に筋肉達磨が伝説の堕天使をも超えたという証になる。観客の悪魔どもはそれはもう大喜びするだろう。

 

 だからボクはもう一度、計二度のため息を吐く。クロカのためクロカのためと心の底を宥め、必死に取り繕った“人間”をアーサーに見せる。

 

「適当って、言う方はそうだろうけどさ……。アイツ強いし、勝つよりうまく手加減して負ける方が難しいくらいだと思うんだけどにゃあ」

 

「そうそう、簡単に言うんじゃないわよ。っていうか、フェルもフェルよ!あっさり受け入れちゃって……そういう危ないことは、ヘラクレスみたいな野蛮人とかにやらせとけばいいのに」

 

「おい誰が野蛮人だ!!」

 

 こめかみに青筋を立てるヘラクレスだが、しかしクロカの眼は冗談のそれではない。他はともかくボクの場合、血の一滴でも流してしまえば致命傷となるからだ。

 

 だからその事情を知らないアーサーやその他の耳を誤魔化しつつ、クロカはボクに顔を寄せた。ボクの身と正体を案じる、あるいは不安がっているその表情に、ボクは心配ないと首を振った。

 

 だがそれを目にしたクロカの表情を見るに、ボクの中でのクロカとシロネの決心は、もう大分擦り切れてしまっているようだった。

 しかしそれでも、アーサー達は騙せたらしい。

 

「生憎、もう交代はなしですよ。登録してしまいましたから」

 

 アーサーが(キング)用の席に座ると、同時にボクの身体が光と、そして魔法陣に包まれた。たちまち観客の喧騒や実況の喚き声も遠ざかり、我に返って何かを告げようとするクロカの声と姿も、すぐにボクの感覚から消え去った。

 

 一瞬の明滅。転移させられたボクが目にしたのは、やはり予想通り、筋肉達磨の姿だった。

 

「……俺の運がいいのか、それともそちらの(キング)が聡いのか。……どちらにせよ、嬉しく思う。フェル殿、ようやく貴殿と戦えるな……!」

 

 練られた【気】が膨れ上がり、風圧となってボクの髪の毛を揺らす。応える気も、そもそも答えられすらしないのだが、ボクも静かに【念】を纏った。

 

 威圧をいなすが、しかし生じた風圧に応えるものは一つもない。さっきのフィールドに広がっていた草原でもない、円形に広がる一面の石板敷き。埃の一つもなく筋肉達磨の【気】だけが巻き上がり、それを眼で追った拍子に周囲、僅かな赤色が入った透明の結界の向こうに観客や選手たちの姿を発見した。そして筋肉達磨と同時に、それに気付いた。

 

「【念】のみの格闘戦であればわざわざ異空間を使う必要もない、ということか。カメラを介さない生勝負、いよいよもって情けない姿は見せられん」

 

 筋肉達磨の【気】と観客のボルテージがどんどん上がっていく。盛り下がっていた会場に対する運営側の思惑だったようだ。

 が一方、見世物にされている感覚がますます増したボクにとってそれは面白いわけもなく、喉がひとりでに鳴り、続く声も一段不機嫌なものへと変わって口に出た。

 

「……気が散るにゃあ。四方八歩から見られてたんじゃ、下手なこともできないし」

 

「ふ……ならばあの時言ったように、殺す気でかかってきてもらって構わないぞ。というか、その気で戦ってほしい。俺も、全力で挑ませてもらおう」

 

 にやりと笑う奴は恐らく、ボクの言う『下手なこと』が悪魔への憎悪からなる嫌がらせか何かだと思ったのだろう。実際、そんな意識がないわけでもなかったが、しかしボクの頭の中にはそれよりもアーサーの言葉が座っている。

 

 つまるところ負け方だ。筋肉達磨もやる気十分であるようだし、果たしてどうやって負けようか。

 パッと思いつけるような解はなく、そして時間もなかったようで、実況の声をも掻き消すほどになった観客の歓声を、さらに押し退ける筋肉達磨の戦意が、ボクの聴覚と警戒心を打った。

 

「今日という日のこの戦いのために、俺も【念】を磨いてきた。それを今、見せよう。行くぞ、フェル殿……!!」

 

 一歩の踏み込み。石板が縦横にひび割れ、砕ける。

 

「【猛虎の(バイフー)――」

 

 ゆっくりと引かれる拳に【気】が集中し、【硬】となる。さすがに笑えない威力を目にし、ボクも回避のためにそれを見極めようと構えて見つめた。

 

 その一瞬の膠着。放射される圧迫感にあれだけうるさかった観客すら息をつめる。

 

 その瞬間だった。

 

 がしゃぁぁあん

 

 ガラスが割れるような騒音が頭上で鳴り響いた。

 

 筋肉達磨の拳にばかり意識を取られていたために、それはボクを驚愕させるに十分なものだった。しかしもとからあった警戒心も手伝って面には出さず、それに任せてその場を飛び退く。

 だが、てっきり筋肉達磨の攻撃かと思ったそれは、同時に同じように飛び退った筋肉達磨の驚愕の眼と、その間に落ちてきた人影によって否定された。

 

 駒価値的にどちらも一対一が決まっているから、という理由もあったが、それ以上にその正体。

 

「貴様……!!まさか、シャルバ・ベルゼブブ!!?」

 

 敵に違いなかった。

 

 破損が波及する結界の外側もざわめく。実況の戸惑いと、両チームメンバーの絶句。そして一瞬遅れて、貴族や招待客向けのVIP席から赤髪魔王の敵意が大波のように押し寄せた。

 

「グレイフィア!!結界再展開の準備を!!総司とベオウルフはリング内へ!!彼を拘束しろ!!」

 

 切迫した声で指示が吐かれ、いつかの侍ともう一人の男が席から飛び出した。そのただならぬ様に、突然の事態にあっけに取られていた観客たちも現状を認識し、途端にパニックが巻き起こる。我先にと出口に向かう民衆の顔には一様の恐怖。VIP席の貴族悪魔や人間たちも、落ち着いているようには見えるがしかし、発するその気配には一部を除いて恐れがあった。

 それは見た通り、初代魔王の血族の能力が故か、あるいは旧魔王派の再来、それが引き起こした犠牲を想起したのかもしれない。筋肉達磨の顔もそのさらに奥の悪魔チームの連中もそういった様子だった。

 

 それらの中で唯一、ボクだけが恐怖を感じていなかった。

 

 名前も姿も、思考までは届いていなかった。ボクが理解できたのは筆舌に尽くしがたい何かだけ。フリードや九重に感じたような、不可視の糸に心臓を絡め取られたような情動が、ボクの意識をそれだけに釘付けにしていた。

 

 ボクは、目の前のシャルバに“キメラの力”を感じていた。

 

 とてつもないものだった。だからその時、既視感の中で停滞していたボクは、起こったそれをほとんど認識できなかった。

 

「フェルッッ!!」

 

 クロカがリング傍の控え席から飛び出していた。振り返らずともわかるほど、その声は焦燥と恐怖に濡れている。それらを敵意に変えて向ける先はもちろんボクの眼前、シャルバだ。

 

 攻撃、いや、殺そうという意志が、ボクの傍をすり抜けた。

 

 その直前に、ボクの手は全力の【気】を纏ってクロカの身を打っていた。

 

 肉と、その奥の骨までをへし折る感触。がひゅ、と吐き出された血が見えて、そこでボクはようやく我に返った。

 

「――そんなの……」

 

 振り向く。恐れの眼がボクを見て絶望へと傾いている。一瞬で脳味噌の最奥までもが冷え切って、しかし手は止まらず、振りきられてクロカの身体は跳ね返された。

 

 観客席の壁まで弾んで転がり、衝突して石板を粉砕した。半ば埋もれたまま、気を失ったのかクロカは動かなくなる。ボクはそれを認めて、俯いていく頭がやがてそれを成した己の手に落ち、固まった。

 

「……あ……れ……?」

 

 自身のしたことが信じられなかった。無意識であった分、より驚きで、そのあまりに続く言葉は出なかった。ただじっと、皮手袋についた赤い血を見つめていた。

 

 しかしそれはただ、見つめることによって眼を逸らしていただけなのかもしれない。意味する事実を認めることを拒んで。

 

 だが、見ないふりなどもう許されない。

 

「サイラオーグ様ッ!!」

 

「ッ!!?フェル殿!!ここから離れろッ!!」

 

 悪魔チームの兵士(ポーン)の一人であった仮面の悪魔が叫んだ。飛び出したのはクロカとほとんど同時だったのだろう。魔王の眷属どもは客席の外、リングと控え席のあるフィールドに降り立ったばかりだが、仮面のその足は既にリングを踏んでいた。

 そして放たれた警告のような声色に反応し、驚愕を戦慄まで引き上げた筋肉達磨がボクへとつなぐ。だがしかし、通常ならば言われるまでもなくそれには気付いていただろうが、今は大声の知らされてなお、気付くのに時間がかかった。

 

 一瞬の間だったが、それだけでもう手遅れだった。

 

 周囲、リングの外周を囲うようにして、どこからともなく生じた無数の糸がひゅるひゅると天へ伸びている。それらは互いに編まれ、壁となり、頭上までもを半円に覆っていき――数秒と掛からず、ボクと筋肉達磨どもをその内側に閉じ込めてしまった。

 

 光も音も途切れ、糸の壁をすり抜ける僅かなそれらだけが、どこか懐かしい静寂となって空間を満たす。それ故に慌てることもできないボクの耳に、どがッという、何か恐ろしく硬いものを叩いたような打撃音が響き渡った。

 

「くッ……!!なんて硬さ……脱出路を開くのは困難か……!」

 

 見れば筋肉達磨がボクに向けるはずだった拳を壁へ振るい、ひびの一つも入らないそれに歯噛みしている。あの威力を以てしても破壊不可能。その上出口も見えないとなれば、魔王の眷属どもやレーティングゲームのメンバーたちも、少なくともしばらくはこの中に入っては来れないということだ。

 

 ならば筋肉達磨が決心するのは当然だっただろう。拳へ集わせたその力を、今度はリングの中央、着地してからずっとその場に蹲るシャルバへと向け、敵意の言葉を口にした。

 

「……一応聞いておくが、投降しに来たわけではないんだろう?貴様が魔王様の説得を拒絶し、挙句敗走したことは聞いている。……たった一人生き残り、今更何をしに来た、シャルバ・ベルゼブブ!!」

 

 奴が率いていた組織、旧魔王派は、幹部を含めたその構成員のほぼすべてが魔王によって壊滅させられた。生き残りは奴以外に、少し戦えるくらいの下級悪魔が精々数匹といったところだろう。

 

 減りに減ったその戦力では、組織の目的たる現魔王の排斥などという夢は叶わない。子供の頭でもわかることだ。だから筋肉達磨は敵意を向けながら、その中に僅かばかりの疑念も含ませていた。

 

 もしかすれば前提から覆すほどの企てがあるのか。あるのなら、それを止められるのは、冥界を守れるのは己だけだと、筋肉達磨は拳をより強く握りしめた。

 だがその拳も、使命に燃える表情もすべて、次の瞬間に憐れみのそれへと変わった。

 

「……あ……ば……」

 

 首だけが動き、その顔が露になった。

 

「あばっばばぶば!!ぶい、びばばあぁぅぅっ!!」

 

 気狂いと、そう評する以外にない有様だった。

 

 言葉にもならない呻き声を吐き出す口からはだらだらと唾が垂れ、両目はそれぞれあらぬ方向へ向いてどこを見ているのかさえ定かでない。理性も知性も何もない、それはもはや悪魔ですらなく、ただ醜悪なだけの動物だった。

 

 驚愕。そんな、直視に耐えないモノが、“キメラの力”を使っていた。

 

「っ……。そうか、狂気に呑まれ、まともな思考を失くしたのか。……ならば、もう言葉は無意味。せめてバアル家次期当主である俺が、終わらせてやろう!」

 

 筋肉達磨がちらりとボクを見る。手を出すな、という意味合いであろうそれを寄こした後、筋肉達磨は傍に控える仮面の悪魔へと手を伸ばし、唱えた。

 

『我が獅子よ ネメアの王よ 獅子王と呼ばれた汝よ 我が猛りに応じて、衣と化せ!!』

 

 ――【獅子王の剛皮(レグルス・レイ・レザー・レックス)】!!

 

 光輝き、次の瞬間、仮面の悪魔の姿は消えていた。代わりに筋肉達磨の身体を覆って現れた、金色の全身鎧。

 赤龍帝の禁手(バランス・ブレイカー)に、それはよく似ているような気がした。

 

「冥界の危機のため。行くぞ、レグルス!!」

 

『はっ!!』

 

 鎧自体から応える声がして、同時に筋肉達磨はシャルバへと突撃した。

 

 対するシャルバも見えているのかすらわからない眼でそれを見つけ、反撃する。だが、拳だ。元来から魔力を扱えないという筋肉達磨はともかく、シャルバまでもが拳を振り回す。かといって元から格闘戦が主力であったのかと思えばそうでもないらしく、シャルバの打撃は素人同然、赤子如き稚拙な動作であっさりと空を切り、筋肉達磨の打撃は逆に完璧に、シャルバの顔に突き刺さった。

 

 その時点で筋肉達磨も顔をしかめたが、しかし今更止まるはずもない。シャルバの抵抗を難なく躱し、次々打撃をえぐり込む。そうまでされてもやはりシャルバは変わらず魔力を出さず、幼児のように腕を遮二無二振り回すだけだ。

 

 最初に抱いた切望の感覚に、大きな亀裂がいくつも走った。

 

「……あれには……」

 

 思った通り、もう理性も知性も残っていないのだ。ただその力を無様に振るうだけ。キメラの力を持て余し、そしてやがて、無様に負けるだけの存在だ。

 

 そんなものが果たして、ボクの仲間(家族)であるだろうか。

 

 守るべきものだろうか。大事に庇護し、受け入れれば、そう思えるだろうか。

 

 そんなわけがない。

 

 あれはキメラの力を持ち、呑まれながらも振るっているが、その芯は所詮悪魔なのだ。悪魔を好んで食らいはしないし、種のすべてを憎悪したりもしないだろう。

 それは、“キメラアント”では、決してない。あれはただキメラの力をその身に宿し、それを無様に貶めただけの悪魔。仲間でも家族でもなく、ボクたち(キメラ)の怨敵だ。

 

 だからボクは、筋肉達磨の目配せを無視して駆け出した。キメラアントを凌辱された怒り、憎悪を手に乗せ、シャルバに向けて引き絞った。

 

 ――だけど、

 

 なら、ボクの家族(キメラ)はどこにいるのだろう。

 

 思い至る。構えた手に、クロカを打った時の感触が蘇る。

 

 どこにもいないのだと、気付いて怒りがすぅっと冷えた。

 

 そして、ボクの眼はシャルバと筋肉達磨を捉えた。戦いとも呼べないほどの一方的な蹂躙で、とうとう止めを刺さんと仕掛ける筋肉達磨。全身と、特に拳に集中する【気】が神器(セイクリッド・ギア)のそれと混ざり合い、黄金に瞬いている。

 

 その攻撃はシャルバを、肉袋に押し込められた“キメラの力”をも殺し、フリードの時のように消し去ってしまうだろう。

 あの時、ボクが欲したのは何だったのか。それをはっきりと理解したボクは、今度こそその矛先を間違えなかった。

 

「――ッ!!?フェル殿!!?」

 

 地を蹴り加速する。一瞬で肉袋まで距離を詰め、そして追い越し、本気の攻撃を筋肉達磨へと叩きつけた。

 

「ぐお――ッ!!」

 

 味方だと思っていたボクからの攻撃に筋肉達磨は目を見開くが、しかし身体は殺気に反応した。攻撃のための拳が瞬時に守りに入り、ボクのそれを受け止める。鎧の強度はかなりのもので、バキバキとひびは入るも中身は守り、吹っ飛んだ。

 

 受け身を取って即座に体勢を取り戻した筋肉達磨は、着地で砕けた石板の上でボクを見上げ、その驚愕の顔を忌々しげに歪め、肉袋に向けた。

 

「く……やけに手応えがないと思えば……そうか、フェル殿を操る術か何かに魔力を割いていたわけか。つくづく魔力を感じられない己が恨めしい……!」

 

 そして次いで、ボクへ言う。

 

「聞こえているかはわからんが、済まないフェル殿、加減の余裕はない。手荒く行かせてもらう!!」

 

 ボクの両足が床の石板に付くと同時、襲い掛かってきた。鎧まで纏った巨体のくせに素早く、さらに膂力と【念】から生み出される右ストレートの威力は、間近にしてみると想像以上に圧迫感が強い。すなわちその一撃はボクでも身で受けるわけにはいかないほどで、即座にボクは回避を決めた。

 

 ごう、と顔の横で筋肉達磨の太い腕と黄金色が空を叩く。重ねて脇の下を潜らせるように、ボクも攻撃を放った。が、もう片方の腕のガードをすり抜けても、拳が打つのは奴が纏った鎧の装甲。大したダメージにはなっていないだろう。

 

 短い苦悶の呻き声を聞き、瞬時に下がって攻撃を避けては反撃。そういう攻防を幾度か繰り返し、筋肉達磨の想像以上の厄介さ、硬い上に高火力、そして鈍重というわけでもない脚と頭が身に染みて厄介に思えてきた頃、ようやくその膠着の戦況が動き始めた。

 

「がっ……!!」

 

 積み重ねたボクの打撃は筋肉達磨自身に大したダメージを与えなかったが、しかし鎧は別。何本も入ったひびがついに縦横に走り、砕けたのだ。

 

 一部、脇腹の装甲のみだったがとうとう貫き、内臓まで伝わった威力が筋肉達磨の口から血が噴き出させた。慌てて跳び退り、距離を取った奴は口元を拭いながら、食いしばった歯の隙間から悔しさを絞り出した。

 

「まさか……【獅子王の剛皮(レグルス・レイ・レザー・レックス)】を纏った状態でもこうまでいいようにされてしまうとは……。だが、ここでやられるわけにはいかん……!!許せよ、フェル殿!!」

 

 険しい表情から眉間の皺をさらに深くし、筋肉達磨は力強く一歩を踏みしめる。先ほど見た踏み込みと同じ動作。そして同じように拳が【硬】となり、やがて白銀に輝いた。

 

 ボクがボクの間合いに奴を入れるよりも早く、二歩目が跳んだ。

 

「【猛虎の剛腕(バイフーウードゥ)――】!!」

 

 地面を滑る矢のように、前傾姿勢で突っ込んでくる。【硬】の手は前に出し、ボクを射抜く眼はこれでの決着を決意していた。

 

 それだけの威力であるという自信の表れでもあるし、実際並み以上の使い手でも確実に必殺。そしてボクにとっても、躱してしまいさえすれば【硬】のためにがら空きになったその他の防御は、奴を倒す絶好の機会だ。

 

 時間もない。逃げるわけにはいかない。故にボクも突撃した。【堅】を維持しつつ、見切るために筋肉達磨の白銀の両拳を凝視する。

 

 互いにあと三歩で接触する、という時に、それは動いた。届きもない拳が引き絞られ、打ったのだ。

 

「【――滅】ッ!!」

 

 念弾だ。拳本体と比較すればさほどのものだが、それでもすさまじい威力と速度。受ければ少なくとも無傷ではいられない。

 

 悟ったボクは反射的に回避を選択した。低い姿勢から跳ね上がるように胴に迫る白銀の光に対し、跳躍する。間近で放たれたそれを回避する道は上空しかなかった。

 故に反射の行動だとしても致し方のないことなのだが、それが筋肉達磨の狙い。跳躍を予測していた奴は、すでにもう片方の拳を打ち放っていた。

 

「【――破】ッ!!」

 

 打撃。今度こそ本物の拳が襲い掛かる。宙に逃げたボクにはもう回避の術はなく、必中。筋肉達磨の変わらず鋭い眼は、最初からこれを本命としていたのだ。

 

 そう、ボクは考えた。故にその策をかいくぐる術も頭の中には描かれている。集中し、同じく【硬】となった手のひらを、迫る筋肉達磨の拳へ向けた。

 それで受けずに軌道を逸らし、腕を軸に鎧の破損したわき腹に蹴りをくれてやるつもりだったのだ。だが寸前、気付いた。

 

 拳の【硬】が解けている。それを筋肉達磨の修行不足と思うほど、ボクは奴を甘くは見れなかった。

 

 ボクの手と奴の拳が接触した。気付きの通り、大した衝撃もなく拳は叩き落とされる。いや、むしろ自ら引いたように思えた。そしてその感覚もまた正しく、

 

「【奥義――】」

 

 引いた拳ともう一方は、白銀と黄金が混ざり合い、新たな型を取っていた。

 

「【獣神撃滅拳(ライガースマッシュ)】!!」

 

 低くから跳ね上がってくるそれは、今までの攻撃をはるかに上回る威力を秘めた一撃だった。脇腹に蹴りを叩き込むための軸を失い、再び宙に置いてきぼりにされたボクがその一撃に対して取れる行動は、さっきと同じく一つだけ。

 

 だがしかしさっきとは異なり、そのあまりの威力への緊張は、ボクの脳から回避以外を気にする余裕を削いでいた。

 

 ボクの【硬】と奴の【硬】、神器(セイクリッド・ギア)の【気】とも融合した【結】が、今度こそ衝突し、周囲に破壊の余波を撒き散らした。攻撃は、破壊力だけを見ればネテロ並み。つまり今のボク以上であり、押し負ける。辛うじていなしはしたが身体の重心は壊滅的なまでに乱され、手のひらで受けた衝撃が腕を伝って上体を叩き、のけぞらせた。

 拳の圧がまさに頭を弾き飛ばしたかのようで、一瞬意識が飛びかけるほど。だから瞬間、頭の頂点にすうっと生暖かい風が入り込んだ違和感を、余裕を削がれたボクの意識は掴み損ねた。

 

 改めて気付いたのは、筋肉達磨が一撃に留まらず、もう片方の拳の二撃目をボクに見舞おうとする、脂汗の滲んだ決死の表情を見た時だった。

 

 筋肉達磨の顔、感情と煽れを表す拳が固まり、次の瞬間、一瞬にして驚愕へと塗りつぶされた。

 

「――フェル、殿。耳――」

 

 呟くその目玉に反射する、かぶっていたはずのキャスケット帽が引き裂かれ、中から人間である“フェル”には絶対にない猫の耳が出て来る光景。驚愕が疑念、そして戦慄と敵意に変わる一瞬の様子。

 

 ボクの頭は、それを認めると瞬時に能力の封を解いた。

 

黒子舞想(テレプシコーラ)】――ッ!!

 

 我に返った筋肉達磨の拳が再び瞬くよりも早く頭上に出現した念人形は、筋肉達磨の動きの全てを置き去りにして力を振るった。

 

 のけぞった上体を抑え込んでかかと落としが脳天に、続いてもう片足が顎を蹴り上げ、たまらず力が抜ける巨体。蹴り上げの勢いで浮き上がった身体の鎧を、さっきのパンチを受けてとうとう壊れたらしい義指付きの手袋を突き破った左手が掴み、引き寄せ、瞬時に膨大な【気】を【硬】にした右拳が鎧ごと腹を貫いた。

 

 ばぎゃっ、と一撃で、その破壊は鎧の全体に及んだ。至る所まで侵食したひび割れは、そしてたちまちのうちに鎧を黄金の破片に変える。砕け散り、床の石板できらきらと綺麗な音を奏でるそれら。そこに中身の筋肉達磨が大量の血を吐き出して、赤く濡らした。

 

 虚空を見つめて震える瞳孔は、その意識ももはや消えかけだった。それでも着地し、ふらふらと揺れながらも二本の脚で立つ筋肉達磨へ、同じく足の裏に石板を踏んだボクは手をかける。残った僅かな戦意も狩り取るため、もう一度【硬】をした。

 

………

 

「……ふぅ」

 

 と、ボクは糸の壁の傍で血濡れに転がっている筋肉達磨と、神器(セイクリッド・ギア)であったらしい仮面の悪魔を見やり、ようやくの息を吐き出した。

 

 キメラであることを知られてしまい、生じた焦りも一緒に吐いて気を静める。能力も解き、戦闘のスイッチも切ってから、筋肉達磨どもから眼を外す。そして、次いで肉袋へと意識を向けた。

 

「あ……ばぶ、ぶぼあ……あ、あ……」

 

 半開きの口から相変わらず漏れ出る意味の分からない声は、その肉体の状態と同じくすでにボロボロだ。筋肉達磨の攻撃になすすべなく叩きのめされ、弱った状態で今まで放置されていた奴。狂い、もはや感情などあるはずもないが、ゆっくりと近寄るボクに対し、合いもしない眼は救いを求めているようにも見えた。

 少なくとも抵抗する気はないようだ。自分を圧倒した筋肉達磨をも圧倒したボクに対し、服従する気満々であるらしい。

 

 強者に媚びへつらうその姿はもはや獣以下。プライドも誇りも、シャルバ・ベルゼブブであったことすらもう消え失せている。

 

 ならばこの肉袋には、もう何一つ意味がない。

 

 傍まで近づくと、ボクは躊躇なく、その頭を踏み潰した。

 

 ぐしゃり。砂埃だらけの石板に広がる脳漿と脳髄。純血で、しかも魔王の系譜のものと来ればそれはボクにとって最上級の御馳走だが、狂った姿に食欲の類は湧かなかった。

 残った肉体に関しても、筋肉達磨の殺しを誤魔化すのには使えるだろうとか、興味はもはやその程度。ボクの確信は、ひたひたと広がる赤い“死”にのみ向いていた。

 

 それはやはり、キメラアントではなかった。フリードや九重も、所詮は他種族。ボクが守りたいのはそれではなく、その中身だった。唯一本物、この世にあるボクの“家族”とは、このキメラアントの力だけなのだ。

 

 ぴちゃ

 

 血の上に膝をつく。散らばる脳味噌の欠片を掬い上げ、目の前に持っていく。

 

 まだそこに“キメラの力”は留まっていた。いずれ霧散するだろうが、今は確かにそこにある。フリードや九重とは違い、手が届く。

 

 ボクはゆっくりと、それを口に運んだ。

 

 初めて、ボクはボクの意思でそれを食らった。

 

「………」

 

 本来であれば存在しえないものだっただろう。

 

 ボク以外のキメラアントはみんな死に、あるいは生まれなかったために。だからボクは代替を求める他なく、そしてクロカとシロネの関係を目の当たりにし、それは叶わないものだと知らしめられた。

 

 だが今、存在しないはずのボクにとっての本物が目の前にある。肉はないけれど、この“キメラの力”は確かにボクと血の繋がった存在、“家族”であるのだ。

 

 ならボクはそれが欲しい。クロカとシロネの“家族”は手に入れられなかったが、これならきっと大丈夫。憂いなく愛することができるだろうし、それはたぶん、クロカと共にいた時と同じくらい幸福であるはずだ。

 

 そう、ボクが幸福になるためにはそれしかない。キメラアント以外を本物とすることなど、ボクには許されないのだから。

 

「――それでも……」

 

 何度も口に運び、血まみれになったボクの顔が、ふと空を見た。

 

「ボクがキメラアントでも、クロカはボクのこと、愛していてくれるかにゃ……」

 

 糸の壁にその姿を見ながら、ボクはそう思った。

 

 キメラアントを受け入れれば、ボクはもうクロカの隣にはいられないだろう。それがどういう形になるのかはわからないが、少なくとも、悪魔であることを選んだ彼女とはもう、今までのようにはいられない。離れることになって、そしていつか再開した時、せめて同じハンターとして笑えるだろうか。

 

 そうなればいいなと、ボクは散らばる“力”の最後の一かけらを口に入れ、そして呑み込んだ。

 

 その瞬間、

 

「――あ――」

 

 訪れた喜びに、ため息のような歓喜が零れ出た。




オリジナル念能力

猛虎の剛腕(バイフーウードゥ)】 使用者:サイラオーグ・バアル
・強化系能力
・手に集中させた【気】を、“滅”の放出系、“破”の強化系、“斬”の変化系のいずれかの形にして放つ能力。
ゴンの【ジャジャン拳】サイラオーグ版。

獣神撃滅拳(ライガースマッシュ)】 使用者:サイラオーグ・バアル
・強化系能力と【獅子王の剛皮】の【結】
・自身の【気】と【獅子王の剛皮】の力の全てを一点集中させた攻撃を放つ能力。
・【獅子王の剛皮】の防御力をもすべて攻撃力に変えるため、カウンターは致命傷。

白音のと比べて書くこと少ないのさすが強化系。そしてピトーに色々起きましたが今回の更新はここまでです。続きを待たれよ。
感想ください。


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十話

前回までの三行あらすじ

クラピカ巻き込んで親善レーティングゲーム始まって
白音&一誠が黒歌&曹操に負けて悪魔チーム連敗が続き
ピトーVSサイラオーグで不穏なことが色々起こった

今回の更新は全六話。怒涛の展開。


 私の眼はずっと眼前のステージ上、リングの上を半円に覆った結界を見つめていた。

 

 まるで何かの卵のようで、血管が走るかのような筋模様を刻んだ白い表面は、全くその内側を見通させない。その上どうやらひどく硬いようだ。今更場にたどり着いた魔王の眷属たちが、先ほどからずっと刀で切りつけたり魔法で焼いたりを繰り返しているが、ひびどころか傷の一つも付けられていない。

 

 常軌を逸した頑丈さ。その中に、ピトーは対戦相手のサイラオーグと乱入してきたシャルバ・ベルゼブブと共に閉じ込められてしまっていた。

 

 シャルバ・ベルゼブブは旧魔王派の残党だ。サイラオーグたち悪魔だけでなく、人間勢力に属するピトーも奴にとって敵であることは明白。そんな二人を諸共閉じ込め何をする気なのかはわからないが、まさかお土産片手に秘密の内緒話というわけではないだろう。

 であれば私も動かないわけにはいかなかった。魔王の眷属にも破壊できないものを私が破壊できるのか、なんて現実は関係がない。もし本当に破壊できず、それがどうしようもないものだとしても、大事な人が大変な目に遭っているかもしれないのに何もしないなんて、そんな不義理に耐えられるはずがないのだ。

 

 と、そういう類の意気で身体を動かせたのは数分前までのことで、今の私の身体はステージ外周の客席壁に半ば埋まったまま、呆然と結界を見つめるばかりだった。

 

 頭の中では意気を挫かれた光景、ピトーが自分を拒絶したその瞬間ばかりが延々と繰り返されている。あの時、シャルバがピトーとサイラオーグが戦うリング上に不意に出現し、意気を抱いて奴を排除しようと飛び掛かったあの瞬間、追い越し際に私を打ち返した鉄槌打ち。

 

 眼が、明らかに敵を見るそれだった。

 

 なんでそんな眼が私に向いているのか。それを向けるべきは私ではなくシャルバ、あるいは、あったとしてもサイラオーグであるはず。なのに向けられたのは私。その理由、理由は――。

 

 わからない。わかりたくない。だから思考が前に進まず、打たれてあまりにも冷たく痛むお腹の疼きも意識に上らず、私は結界を見つめたまま沈黙していた。

 

 ふと突然、見つめていた結界がピンク色の布生地に塞がれた。同時に肩を揺さぶられていることに気付き、私は顔を上に持ち上げた。

 

「ウタさん……ウタさん!しっかりするにょ!」

 

 厳めしい顔と、その頭の上に乗るには似つかわしくないファンシーな帽子。ミルたんだった。

 

 しゃがんで目線を合わせていた彼は、私の眼が光景のあまりの落差に正気を取り戻したことを認めると、立ち上がって手を差し出した。

 

「今は非常時にょ、ウタさん。この場はミルたんたちに任せて、他の選手たちと一緒に早く避難するにょ!」

 

「あ……え……」

 

 有無を言わさず手を取られ、壁の中から引っ張り上げられる。瓦礫が崩れる音の中、遅れてミルたんの言う言葉の意味を認識した私は、どうにかそれに首を振った。

 

「で、でも……私、ピトーを、助けないと……」

 

 我ながら、声はか細いものしか出なかった。おかげでピトーの名前はミルたんにしか聞こえなかったが、それでもミルたんは、正気を取り戻したとはいえショックから抜け出せていない私の内情を見抜いたようで、厳めしい顔がさらに険しくなり、しわが寄る。

 そして一つ息を吸いこみ、目を閉ざした彼の手が再び私の肩を鷲掴みにして、カッと開いた。

 

「しっかりするにょ!黒歌さん!」

 

 見開かれた眼差しの迫力。さらにはそれなりの大声を至近距離で浴びせられ、さすがに身体がびくりと跳ねる。しかしミルたんに手心はなく、畳みかけるように私に迫り、言い放った。

 

「ミルたんはネテロ会長との戦いの後、ノブくんの念空間での黒歌さんとピトーさんしか知らないにょ。それから今日まで、二人の間に何があったのかも知らないにょ。けど……これだけはわかるにょ。黒歌さんがピトーさんを想う気持ちは、あの時から全く変わっていないにょ!」

 

 肩が揺さぶられる。

 

「ならその愛と、何よりピトーさんの愛を信じてあげるべきだにょ!」

 

「ッ……!」

 

 肩からの熱が、心臓まで伝わって大きく鼓動した。意気を挫いたあの光景へ手が伸びる。

 

「例え何が変わっても、愛は絶対になくなったりしないにょ!黒歌さんとピトーさんが紡いできた、その思い出だけは絶対に不変なんだにょ!だから黒歌さん、あなたの信じるピトーさんを(・・・・・・)、信じてあげるべきなんだにょ!」

 

 そうだ、と、脈動する心臓が頷いた。

 

 今までずっと、二人で一緒に生きてきたのだ。助け合って支え合って、そしてそれこそ家族同然に愛し合って。

 そんな彼女が、私に敵意を向けるなんてありえないのだ。ならばそこには何かの理由があるに決まっている。それが、本心であるわけがない。

 

 私は、私の信じるピトーを(・・・・・・・・・)信じるべきだ。

 

 頭の中で私を見やるピトーの敵意を、私は破り捨てた。

 

 ミルたんはそうして気力を取り戻した私の顔を見つめ、また少しだけ眉を寄せた。

 

「……大丈夫にょ?」

 

「ん……もう平気。そうよね、こんなの、何かあったに決まってるんだから」

 

 呟くように言う私に、ミルたんは何か言いたげに口をもごもごとさせた。が、結局その言葉は出てこず、代わりに一つ頷いた。

 

「なら、だからこそ今は逃げるべきだにょ」

 

「っ!?な、なんでよ!」

 

 呆然自失で使い物にならない状態だったからこそ、ミルたんは私に避難しろなんて言ったんじゃないのか。しかしミルたんは首を横に振る。

 

「ウタさんが消耗してしまっているからにょ」

 

「してないわよそんなの!」

 

「しているにょ。白音ちゃんとの戦いで、彼女の攻撃を正面から受けていたにょ?いくら【流】が完璧でも、あれだけの威力となれば防御側も相応のオーラを消費してしまうのは当然のことにょ。誤魔化そうとしても、ミルたんにはわかるにょ」

 

 唇を嚙む。流石にネテロやストラーダと並んで最強の人間の一人に数えられる彼を欺くには私はまだまだ修行不足らしい。確かに彼の言う通り、私のオーラ、【気】は、白音の打撃やコピーした【黒子舞想(テレプシコーラ)】によって幾らか削れていた。

 

 だがしかし、確かに万全とは言い難いコンディションだが、それでも結界と対峙できるだけの【気】は十分に残っているのだ。なんならそれだけでなく仙術だってある。その意を込めた眼で私はミルたんを睨んだが、もちろんそれで彼の顔色が変わるはずもなく、やはり淡々と首を振る。

 

「けれどあの異常とも思えるほどの頑丈さ。……それに、シャルバ・ベルゼブブくんのことも考えれば、不十分なんだにょ」

 

 ミルたんは結界を、厳めしいその両目を細めて見ながら言った。

 

「これだけで終わるとは、ミルたん思えないんだにょ」

 

「はい、大正解」

 

 と、そこに何か聞き覚えのない声色が響いた、次の瞬間、

 

「ッ!!?危ないにょッ!!」

 

 眼前を、極大な魔力の光弾が覆い尽くした。突然のことに反応できない私。それを見てかミルたんが叫び、襲い来るそれに立ちはだかるようにして身を投げ出した。

 

 そして爆発。甲高い炸裂音と爆風が撒き散らされ、ミルたんも私も一様に吹き飛ばされた。特に直接受けたミルたんの方はすさまじく、巨体が一瞬のうちに私の目の前から消え、恐らく後方、逃げ出し空席となった客席に突き刺さって轟音を上げる。

 私も再び壁に背を叩きつけられ、爆発の衝撃と合わせて抑えようもなく苦悶の呻き声が漏れ出した。それを一息でどうにか噛み潰し、頭を振って衝撃も追い出す。私は次いで、この攻撃を打ち放ったであろう聞き覚えのない声の主、上空に浮かぶそいつへと、敵意を以って眼をやった。

 

 六対の羽を持つそいつは間違えようもなく悪魔だった。しかも羽の数に見合う大悪魔然とした強者の気配。魔王だと言われても信じてしまいそうな、ある種のカリスマ性すら感じさせられる男だった。

 

 そして何より、その【気】の性質に加えてニヤニヤと愉快そうに笑うその顔。誰かの面影が見える。

 その面影の本人はすぐに、男の正体共々、殺意のこもった声で叫んだ。

 

「貴様……ッ!!リゼヴィムッ!!」

 

「やっほーヴァーリきゅん。その通り、リゼヴィムおじいちゃんですよーっと、アヒャヒャヒャヒャ!」

 

 今日の試合中ずっと憮然とした表情しか見せなかったヴァーリの顔が、激しい憎悪に荒れ狂っていた。

 

 ともすれば悪魔を前にしたピトーのようにも見える情動。そして“おじいちゃん”ということはやはり、二人は血縁なのだろう。顔と【気】がわずかに似ているのはその証、奴は初代ルシファーの、その息子というわけだ。

 

 ここから人間とのハーフであるヴァーリに繋がるまでに何かがあったのか、小ばかにするようなリゼヴィムの笑い声にヴァーリはますますいきりたち、背に神器(セイクリッド・ギア)を出現させる。

 そのまま飛んで向かって行ってしまいそうな彼をリアス・グレモリーたちが必死に押し留める中、逃げずにVIP席に残った者の一人、もう一人のルシファーは、声色に明らかな敵意を乗せながら言った。

 

「……リゼヴィム。君をこのゲームに招待した覚えはないんだが、何の用だい。この結界も、シャルバではなく君の仕業か?」

 

「これはこれは魔王さま、ご機嫌麗しゅう……なんつって。別に招待されてないからって来ちゃいけないなんて決まりはないでしょ?あっても知ったことじゃないけどねぇ」

 

 ヴァーリやサーゼクスだけでなく、周囲に残った皆から敵意を向けられているというのに、なお薄っぺらく笑い続けるリゼヴィム。唯一曹操だけは奇妙に訝しげな表情をしていたが、それら全てにリゼヴィムは関心を持たず、続けて大仰に首を傾げた。

 

「で……なんだっけ、何の用かって?そりゃあもちろん決まってる。察しがつかないほど腑抜けじゃないでしょ、魔王やってんだから。おまけに俺より若いくせに俺より歳食ってるじいちゃんも傍にいるしさぁ」

 

 その台詞が指すのはネテロ。性根の悪い私の師匠もこの場を訪れており、そしてやはり残ったままだ。滅多に見せないおふざけ抜きの真剣で、研磨された刃のように鋭い、肌に突き刺さるような【気】を放っている。

 

 それを向けられ、やはり大げさに身を抱いて怯えてみせたリゼヴィムは、さらに続けて言い放った。

 

「まあぶっちゃけ、宣戦布告だよ目的は。犯行動機はシャルバの所の旧魔王派と、まあ似てなくもないかな?人間と仲良くして世界平和なんて言っちゃうサーゼクス君。おじちゃん、君の存在がひじょーーーに気に食わないのよ。それを良しとした悪魔たちも含めて」

 見回し、サーゼクスやその眷属たちを視界に収めると、リゼヴィムは眉間に皺を作った。

 

「悪魔っていう存在はそんなものじゃなかったはずだ。間違っても人間とおてて繋いで楽しく踊る生き物を指す名前じゃない。悪魔とは……人を騙し、唆し、奪う、“悪”のことだろう?」

 

「違う!悪魔とは、冥界に住まう一つの種族。それだけだ!悪など決して本質ではない!」

 

「いーや、違わないね。悪魔の本質とは悪であり、そうあるべき存在なんだ。俺が隠居してる間、特に最近なんか顕著でしょ。サーゼクス君の言う通りなら、いろんな勢力にちょっかい出す悪魔なんていなかったんじゃない?」

 

「っ……!」

 

 そこには恐らく人間側の思惑があったはずだと、ピトーがそう言っていたことを思い出す。リゼヴィムがそれを知っているのかどうかは読み取れないが、一転して再びニヤニヤ笑いに戻ったその顔を、私は心の重さの分だけ拳を握り締め、警戒心に変えて睨めつけ続けた。

 

 沈痛な面持ちで歯噛みするサーゼクスの言葉を待つのをやめて、リゼヴィムはこれ見よがしにため息を吐いた。

 

「ほらね?なのに君ったら悪魔の駒で人間の血を入れたりレーティングゲームなんてお遊びでお茶を濁したり、挙句に今度の同盟。あれナニ?家畜にでもなりたいの?悪のくせに正義になりたがるから、結局どっちもない畜生に堕ちてるじゃん。愉快なこと大好きな僕ちんでも、さすがにこれは笑えないよ」

 

「家畜……だと……!?」

 

 絞り出したようなサーゼクスの声には応じず、リゼヴィムは両手を広げて空を仰いだ。それから胸に何かを抱くように腕を縮め、呟くように言う。

 

「言うなれば俺は、悪魔という種族を救いに来たんだ。親愛なる同胞が家畜に堕とされてしまう前に、この両手で掬い上げるために……。って感じで、平たく言えば戦争しに来たのよ。人間に屈した君らの“正義”と俺の“悪”、どっちかが潰れるまで殺し合おうじゃないの!ヒャヒャヒャヒャ!」

 

 狂ったように嗤い出す。向く先はサーゼクスと、そしてネテロ。

 リゼヴィムは悪魔と人間、二つの勢力に喧嘩を売ったのだ。勝算があるというのだろうか。私を含めた周囲の眼にリゼヴィムの正気を疑う色が混じり始める。

 

 だが一人、ヴァーリは全く変わらずに憎悪を向け続けていた。

 

「……さっきから、訳の分からんことをべらべらと……ッ!!貴様がどんな思惑でそこにいるのかなど興味はない!!リゼヴィム・リヴァン・ルシファー!!俺と戦え!!貴様だけは絶対に、俺の手で葬ってやるッ!!」

 

 しかしヴァ―リの殺意は、ネテロやサーゼクスのそれのように、リゼヴィムに怯えるふりすらさせることも叶わなかった。

 

「どーしたのヴァーリきゅん、そんな葬るだのなんだの殺伐としたことばかり言って。ピトーとかいうお化けキメラアントと……幻影旅団だっけ?に殺されたのがそんなにショックだった?ああ、それとも――」

 

 つまらなそうな表情が、一転して嘲弄のそれ。

 

「目指していた“最強”が、その気になれば簡単に踏みつぶされちゃうくらいしょーもないものだってこと、気付いちゃったのかなぁ?」

 

 そしてその嘲弄は、ものの見事にヴァーリの憎悪に戦慄を差した。

 

「修行先にハンターを選んだ、ってのがまずダメダメだよね!半分とはいえ悪魔で魔王なんていう強い血が混じってるんだから、人間みたいな弱い血用の“殺し方”なんてわざわざ教えてくれるわけないじゃん。実戦にしても、守られてるヴァーリきゅんを殺しにかかってくる格上なんてそういないし、同格以下はその白トカゲちゃんのおかげでワンパンだから経験値なんてたまるはずないもんねっ!」

 

「ッッッ―――!!!」

 

「だ、だめッ!!ヴァーリッ!!」

 

 ヴァーリの動揺が一息で殺意に振りきれる。寸前に感付き、上がった赤髪の必死の制止は意味をなさず、

 

『Vanishing Dragon Balance Breaker!!』

 

 一瞬にして禁手化(バランス・ブレイク)したヴァーリは、すさまじい勢いでリゼヴィムめがけて飛翔した。

 純白の鎧に殺意の【気】を纏い、そしてその拳が振るわれた。

 

「死ね……ッ!!リゼヴィムッ!!」

 

 ゴォッ、と、恐ろしいほど重い打撃音が空気を揺らす。強烈な殺意に押し上げられたその威力は、さっき見たサイラオーグのそれにも迫るほど。そんなパンチがきれいにリゼヴィムの顔に突き刺さり、そしてさらに、打撃音に紛れて響き渡った。

 

『Divide!!』

 

 【半減】。触れた相手の“力”を半減させ、さらには【吸収】までしてしまう彼の神器(セイクリッド・ギア)、【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】の能力。禁手化(バランス・ブレイク)までしたそれに一度攻撃を許せば、リゼヴィムの言う通り、同格以下はもう相手にもならなくなってしまう。

 格上でも、よほどの差がない限りは同じことだ。そしてヴァーリとリゼヴィムの間には、ヴァーリの元々の強さも相俟ってそこまで絶対的な差は存在しないように思える。

 

 少なくとも、迫る拳を避けもせずにニヤニヤ見つめてられるほどの差はないはずだった。だが殴られ、威力に押されて背を反ったリゼヴィムは、平然とその身を起こして言った。

 

「あれ?ヴァーリきゅん、おじいちゃんの能力教えてあげたことなかったっけ?」

 

 とぼけた顔には焦りも、何より傷の一つもついていなかった。

 

 効いていない。それどころか【半減】が発動していない。ピトーの“力”も問答無用に奪い去ったはずなのにと、私の頭に混乱が生まれる。

 

 兜のせいで見えないが、恐らく忌々しげな顔をしたヴァーリが唸るように呟いた。

 

「【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】……ッ!」

 

「なんだ、ちゃんと知ってんじゃん。忘れちゃってた?そんなんだからお遊びから抜け出せないんだ……ぜッ!」

 

 すっと身をかがめたリゼヴィムの脚が、次の瞬間、煙るほどのスピードでヴァーリの胴に振りぬかれた。

 どうやら体術の腕も相当に高いらしい。躱すことなどできず、吹き飛ばされるヴァーリ。地面に激突する前にどうにか体勢を取り戻し、そして鎧越しだというのに相当なダメージを負ったらしい脇腹を抱え、身を折る。

 

「こ、の……ッ!!」

 

 だが殺意は止まらず、今度は大量の魔力弾。瞬く間に次々と打ち込まれ――その尽くを魔法陣の盾で弾きながら、リゼヴィムは憐れみの眼をヴァーリに向けた。

 

「……まあ確かにさぁ、神器(セイクリッド・ギア)じゃなくて魔力攻撃って考えるのは普通だろうけど……ヴァーリきゅん、ほんとに“戦い”しか知らないんだねぇ」

 

 弾幕の中でヴァーリを見やりながら、リゼヴィムはゆっくり距離を詰めて来る。私は二人の間に行き交う怒りと呆れを見つめつつ、静かに【念】を練った。

 

「俺の能力、【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】はその名の通り、神器(セイクリッド・ギア)の全てを無効化する。特性とか高められた力とか、関係するの一切ね。……だから【半減】とかは効かないし、ついでに体術でも敵わないなら残るは魔力勝負。んー、もうちょっと頭使ってみない?」

 

 肩をすくめ、そしてその眼が、前触れなしに突然動いた。

 

「例えばさ、紛れ込ませた(・・・・・・)そこの彼女くらいには」

 

 私に、いや、正確にはこっそり放った【黒肢猫玉(リバースベクター)】に向いた。驚愕と同時に向けられた手のひらから魔力の光線が打ち放たれ、リゼヴィムを狙っていた念弾は一斉に蒸発する。

 そしてそれだけに止まらず、光線は直線上、私をも射程に収めて弾幕を突っ切った。危機を察知した身体が半自動で動く。その場を飛び退こうと脚をたわめ、解き放つその直前。

 

「ふんッ!!」

 

 ミルたんが上から降って来て、気合を込めた腕の一振りで光線を叩き潰してしまった。

 

「おおう、驚き!もう復活しちゃったわけ?結構本気だったんだぜ?アレ」

 

「ミルたんは、ミルたんを信じてくれるみんながいる限り負けたりしないにょ」

 

 砂埃に汚れてますます厳つさの増した顔で、静かにリゼヴィムを見上げるミルたん。その、まるで堪えた様子のない立ち姿は確かに驚きであるが、今の私にはそれ以上の驚きが頭の中に溜まったまま。【黒肢猫玉(リバースベクター)】にかけた【隠】を見破られたことへの困惑ばかりがあった。

 

 相応の【凝】を使えるのであれば不思議はないが、しかし見た限り、リゼヴィムが発する【気】には念能力を修めた者らしい“滑らかさ”が全くなかったのだ。【念】を使わない悪魔や一般人同様、好き勝手に垂れ流されている。にもかかわらず眼の精孔、【気】の通り道が開いていて、見えている。

 【念】を使えていないのに【念】が使えているという、ひたすらに意味不明の状態だ。

 

 意味不明過ぎて言葉にはならず、胸のうちに抱いたまま、私は急けようとして中途半端のまま固まった身体を起こし、口を覆ってまた愉快に笑い始めたリゼヴィムへ警戒心を引き戻した。

 

「アヒャヒャヒャヒャ!なんてファンタジーだ!英雄っぽくて大好物だぜそういうの!今日はお知らせと仕込みだけのつもりだったけど、年甲斐もなく燃えて――うおっ!?」

 

 ひとしきり嗤い、次いで戦意を滾らせ始めたその身体が、唐突に途切れてその場を飛び退いた。一拍後に瞬く斬撃。結界破りを試みていた沖田が悪魔の羽を広げ、刀を振りぬいた体勢のまま敵意の表情を悔しげに歪めている。

 だがさらに、地上で妙に妖艶な僧侶(ビショップ)らしき男が何やら唱え、魔法陣を展開した。飛び退くリゼヴィムの背後で瞬く魔法の気配。素早く反応し、同じく展開したリゼヴィムの魔法陣が激突し、激しい紫電が撒き散らされた。

 

 バチバチうるさい騒音。だが掻き消すほど大きな哄笑が、リゼヴィムの喉から吐き出された。

 

「アヒャヒャヒャヒャ!いつになったら来るんだって思ってたよサーゼクスちゃん!なかなかいい駒、揃えたじゃないの!」

 

「私の自慢の眷属(・・)だ、リゼヴィム。それに、彼らだけではない。この場には神器(セイクリッド・ギア)に頼らない強さを持つ者が大勢いる。ウタ殿やミルたん殿のようにね」

 

 サーゼクスが応じ、手の中に滅びの魔力を構える。油断なくリゼヴィムを睨め付けながら、続けて訝しげな顔をした。

 

「君の【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】は、この場では決定的なものじゃない。だというのに……我々悪魔と人類双方に、しかもシャルバを含めても経った二人で宣戦布告など……リゼヴィム、君は、気でも狂ったのかい?」

 

「気狂い?その自覚は大いにあるよ!正気なんてクソくらえだね、俺に言わせれば」

 

 リゼヴィムはつばぜり合いする魔法陣をとうとう弾き飛ばし、魔法使いに魔力弾を一発見舞う。

 命中故の爆発には見向きもせずにサーゼクスを見下ろしながら、これみよがしに肩をすくめた。

 

「まあそうは言っても正直、そこんとこが一番の悩みどころでさぁ……。戦争っつったらやっぱり頭数は必要じゃない?最初はシャルバちゃんとこの旧魔王派で都合つけようと思ってたんだけど……あの子のおバカさ見誤ってたわ。彼以外全滅しちゃうんだもん」

 

 「最悪だよねー」なんて乾いた笑い。毛色は違えど睨み合ったまま、リゼヴィムは続けておどけたふうに言う。

 

「まさか生き返しちゃうわけにもいかないし、てかできないし、かといって他所から都合するのも手間なんよね。どこもかしこも悪魔アンチで門前払い。いやはや色々痛い目にあっちゃったよ」

 

「ならばさっさと諦めて、潔く俺に殺され――ッッ!!」

 

 台詞を突き破り、ヴァーリが再びリゼヴィムへと突撃した。しかし頭に血が上ったそれはあまりに単調が過ぎて容易く見抜かれる。僅かに身を捻っただけで躱され、叩き落とされた。

 その全身鎧の塊はサーゼクスたちのいるVIP席めがけて降ってくる。頭に突き刺さったカウンターはさっきのように体勢を立て直すことを許さず、悟ったらしいサーゼクスは顔をしかめながら悪魔の羽を広げた。

 

「ッ!!お兄様ッ!!」

 

 飛び出し、飛んで墜落するヴァーリを受け止めるサーゼクスに、突然リアス・グレモリーから悲鳴が上がる。降ってくるヴァーリに隠れ、サーゼクスにはリゼヴィムが放った魔力弾が見えていなかったのだ。

 一瞬遅れて気付いたが、しかし避けるにはもう間に合わない。迎撃するには抱きとめたヴァーリが邪魔。リアス・グレモリーはまとめての被弾を想像してしまったのだろう。

 

 だがVIP席に残ったもう一人が、動揺のあまり見えていなかったらしい。認識したのはすべてが為された後だった。

 

百式観音(ひゃくしきかんのん)】――【参乃掌(さんのて)

 

 私の性悪師匠、ネテロが静かに掌を合わせ、現れた観音像が次の瞬間には魔力弾を押し潰していた。

 

 迎撃の一部始終を見切れた者はこの場にいないはずだ。それほどに静かで滑らかで、そしてあまりにも速い合掌。実際に目の当たりにして、リアス・グレモリーやその仲間たちは一様に戦慄する。

 

 だというのにその戦慄を敵に回しているリゼヴィムは、相変わらず愉しそうなままだった。

 

「ヒャヒャヒャ!こっちもさすが!振れ幅はデカいけどここまで強いのが生まれる、ってのが人間のいいとこだよね!数が多いからさ!」

 

 そしてその笑みが、さらに醜悪に歪んだ。

 

「そんな種族が、唯一悪魔と仲良しこよししてるらしいじゃん?」

 

 だから戦力調達に好都合なのだと、表情だけで言い放ったリゼヴィムに再びネテロが動く。合掌し、動きが見えないが、恐らく手刀。

 

無間乃掌(むけんのて)

 

 観音像からのそれが振り下ろされた。威力がリゼヴィムのみならず後ろの客席と、リング上の結界までをも打ち据える。ピトーたちが囚われるそれにはやはり傷もつかなかったが、仙術が組み込まれたそれはリゼヴィムを戦闘不能にするには十分、

 

 であるはずだったのだが。

 

「うそ……!?」

 

 思わず呟いてしまうほどの光景。ネテロの【百式観音】に打ち据えられたはずのリゼヴィムは、依然変わらない様子、場所で、その場に浮いたままだった。

 

「嘘じゃないよ?ほら五体満足。おじさんは健康そのものさ!」

 

 反応して両手を開き、ひらひら振って見せてくるリゼヴィム。言葉通りダメージを負った様子はなく、おかしな点といえば、冥界の空に溶け込んでしまうくらいの薄い紫色の霧(・・・・・・)を周囲に漂わせているくらいだ。

 

 私にとって絶対的であった【無間乃掌(むけんのて)】が破られたというショックに呑まれる私には、その正体がさっぱりわからない。しかし眼にし、ネテロが僅かに眼を見張った。

 

「……サーゼクス殿、あの者は【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】以外にも特殊能力を持っておったかな?」

 

「いや……。彼は初代ルシファーの息子。純粋な悪魔のはずだよ。特殊な能力は【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】だけのはず……」

 

 兜が砕け、脳を揺らされたために未だふらつくヴァーリを席の椅子に下ろしつつ、サーゼクスはリゼヴィムを見やる眼を細くする。その応えに、ネテロの眉間の皺が深くなった。

 

 私や彼らだけでなく周囲からも驚愕を向けられるリゼヴィムは、やはり嗤い続けた。

 

「そういうこと!ロマンがあるっていっても大半の人間はハズレくじ、そんなもんを手駒にするよりさ……もっといいもの、手に入れたんだよねぇ。……ヴァーリきゅん、よく見ときな。びっくりするよ……!」

 

 片手をかざし、ヴァーリを見やるリゼヴィム。そして不安定に身体を揺らしながら立ち上がり、それを睨み返すヴァーリ。次の瞬間、身体の揺れごとその眼が驚愕に凍り付いた。

 

『Half Dimension』

 

 背に生える七対目の、見覚えのある光翼。劣化したカセットテープのような音声が鳴って、そして手のひらの先、佇む巨大な【百式観音】が、潰れた。

 

「ッ!!それは――ッ!!」

 

 さらに動き、今度の標的はVIP席の三人。寸前悟ったサーゼクスが結界を張り、拮抗して軋みだす。かなりのパワーなのか苦しげに汗を垂らすサーゼクスの様に、またしても悲鳴が上がった。

 

「嘘……!!ヴァーリの……!!」

 

 ただし今度のそれは困惑の割合が多い。それも当然、リゼヴィムの背に宿り、使われた“力”は空間の【半減】。二つとない神滅具(ロンギヌス)、ヴァーリが宿しているはずの【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】なのだ。

 

 ありえない。ヴァーリとリゼヴィム、二人が白龍皇の力を使っている現実。

 

「なぜ……ッ!!貴様が、アルビオンを……俺の“力”を……ッ!!」

 

「ハンター協会、正確にはそっちのストリッパーくんがだけど、神器(セイクリッド・ギア)集めしてることは知ってるだろ?それを研究してることも。ミカエルちゃんがしゃべったらしいじゃん」

 

 僅かな恐怖が垣間見えるヴァーリの動揺をニヤニヤ笑みで一瞥し、リゼヴィムはストリーッパーくん、恐らく曹操に意味ありげな眼を向ける。その曹操がどんな反応を示したのかは前に立つミルたんの背で見えないが、不満足なものではなかったらしく、リゼヴィムは続ける。

 

「ところがさ、俺も意外なことにその研究ってのが、思ってた以上の深みにまで手ぇ突っ込んでたんだよね!マジで驚いたよ、人類が神器(セイクリッド・ギア)、それも神滅具(ロンギヌス)をコピーできちゃうなんて!」

 

神滅具(ロンギヌス)を、コピーだと……!?」

 

 ヴァーリの驚愕の声が上がる。他の悪魔たちやハンターたち、そして私もその驚きは同様だ。宿主を死なせずに神器(セイクリッド・ギア)を抜き出せる、と曹操が言っていた時でも驚きは相当だったが、これはその比ではない。

 

 だが明らかにでたらめではないようだ。【半減】から守り続けるサーゼクスからの眼に、ネテロは否定もせず、険しい表情でリゼヴィムを見やっている。

 

 リゼヴィムは表情からどんどん余裕をなくしていくヴァーリへ、やれやれとばかりに首を振った。

 

「さっきも言ったけど、ほんとに世の中舐め腐ってるよねヴァーリきゅん。神器(セイクリッド・ギア)研究してるとこにのこのこと。そりゃデータの一つも取られますわ――っおう!芸がない!」

 

 その瞬間に再び沖田と魔法使い。主の危機を救うため、機を伺っていた二人が動く。

 まず魔法使いが注意を引くための魔法を放ち、一瞬遅れて沖田が切りかかる。その身体から巣くう妖怪たちが溢れ出し、思惑通り防がれた魔法の残滓を縫って先行するが――

 

「くッ!!よせ、沖田ッ!!」

 

 苦痛を噛み殺しながらサーゼクスが叫んだ静止の言葉。その通りに、妖怪たちも振るった刀の斬撃も、やはりすべて、薄紫の霧の下にすり抜けた。

 

「だが、まだ――ッ!!」

 

 しかし沖田は一太刀では止まらない。横一線に振りぬかれたはずの軌道が跳ね返った。妖怪の力を纏い、より一層の速さと威力を伴って、伸びて沖田の身体を包み込もうと蠢く霧すら無視してさらに切りかかる。

 

 無謀であることは明らかだ。恐らく攻撃がすり抜ける要因である霧。見上げるリアス・グレモリーたちも、もちろん沖田自身も、それが無視していい要素でないことは理解しているはず。

 だがそれでもかまわないと放たれた神速の連撃。雷光の如き一閃は、覚悟の下、確かにリゼヴィムの肉を切り裂いた。そして侵食し、身体を覆ってしまった薄紫の霧は――

 

 ふと気付けば私の視界の端、リング傍で皆と構えるゲオルグの隣に、より濃い霧の塊となって移動していた。

 晴れ、無事な沖田の姿が現れる。警戒するように身を固めていたが、うっすら汗をかきながら息を吐くゲオルグに気付き、警戒を解いて微笑んだ。

 

「……ありがとう、魔法使い君。おかげで命拾いしたよ」

 

「どういたしまして。……まあ、試さずにいられなかっただけだから、こっちもあまり偉そうなことは言えないけどね」

 

「……ということは、やっぱりそう(・・)なのかい?ゲオルグ」

 

 と、沖田の礼をお互い様だと流したゲオルグに、腕組みしながら訪ねるジークフリート。ゲオルグは次いで上空、ざっくり切り裂かれた腕を押さえて大げさに痛がっているリゼヴィムの、その周囲で蠢く薄紫に霧を睨めつけ、自身が操る霧とよく似たそれに若干の不愉快を差し向けた。

 

「ああ、干渉できた。あれは恐らく、俺の【絶霧(ディメンション・ロスト)】のコピーだね。……白龍皇の気持ちが少しわかったよ、自分の力を我が物顔で使われるのは面白くない」

 

 【絶霧(ディメンション・ロスト)】、霧に触れたものを転移させる、これも【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】と同じく一点ものの神滅具(ロンギヌス)。攻撃がすり抜けた理由は恐らくこれで、纏った霧に攻撃自体か、あるいは攻撃された自身の部位を転移で逃がしていたのだろう。

 

 からくりは割れた。しかも本家の能力者がこの場に揃い、さらには干渉までできるのなら脅威度はかなり下がる。神滅具(ロンギヌス)のコピーという衝撃にかき回されていた周囲もいくらか落ち着きを取り戻す。何より解放されたサーゼクスたちの存在が、皆に揃って戦意を抱かせた。

 

「……わかっただろう、リゼヴィム。君がどれだけの“力”を手にしようが、それに意味はないんだ。例え私たちを殺したとしても、悪魔と人間の全てと戦い勝利するなど不可能だよ。おとなしく投降するんだ」

 

「いってて……馬鹿言ってんじゃねぇよサーゼクス。その不可能をひっくり返すために泥棒したって言ってんじゃん。……まあ、認めるさ。お前たちは強いよ。禁手化(バランス・ブレイク)できない上に魔力消費も馬鹿でかいパチモンだけじゃ、相手するにも限度がある。けどね――」

 

 魔力で傷口から滴る血を止めると、リゼヴィムは痛みに震える頬を、高く愉快に吊り上げた。

 

「こんなもん、ただのおまけだよ?」

 

 手の中で指を擦る。その身に【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】でも【絶霧(ディメンション・ロスト)】でもない“力”が集いつつあるのを、私は感じた。

 

「能力だけじゃなく、数もまとめて解決できるぶっ壊れの神器(セイクリッド・ギア)、そのオリジナル、引っこ抜いたのって君なんでしょ?曹操くん」

 

 皆がリゼヴィムの攻勢を悟り、そして誰もそれを止められない。それほどまでに規模が大きかった。

 

「中二病のおじさんに、素敵なプレゼントをありがとう」

 

 “力”が発動した瞬間、周囲にそれらは現れた。

 何匹、何体も、姿形もばらばらの化け物がそこら中に、地面から湧き出るように出現する。舞台やリングだけでなく、無人の客席にもひしめく。とんでもない数だ。

 

 それらの目が一斉に開いて害意を灯すと同時、

 

「さあ、善と悪でぐちゃぐちゃの殺し合いしようじゃないの!アヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

 

 私はそれらに、ピトーの生まれ故郷で眼にした死体たちの面影を見た。




リゼヴィムおじさんの口調よくわからないのでとりあえずアヒャらせとけの精神。
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十一話

 害意を灯した化け物たちはたちまち私たちへ襲い掛かった。その中で私のほど近くに出現した一体、たてがみを生やしたライオン型のそいつが、にたりと残虐な笑みを浮かべて両手の爪を私へと剥く。一瞬だけ身を縮め、ばね仕掛けのような勢いで私へ飛び掛かった。

 繰り出されんとする爪の一撃はあっけに取られていた私へ戦意を取り戻させるのに十分な威力を秘めていて、私の手は半ば自動的にそれを迎え撃たんと能力を構えていた。だが戦意を容易く覆い隠してしまうのが、ライオン型のその造形。キメラの姿を意識してしまうとたちまち躊躇が生まれ、【気】を散り散りにしてしまう。迫りくる攻撃に身体も強張り、気付けば防御姿勢を取っていた。

 

 ズガッ、と腕に激しい痺れが伝わる。支えきれない威力が私を数歩分後退させて、喉からは躊躇と合わせて苦悶が漏れ出した。その様子にライオン型は忌々しそうに鼻を鳴らし、にやにや笑いを引っ込めた。

 

「……お前、柔そうなくせにやたらと硬いな。それが【念】ってやつか」

 

 そしてしゃべった。警戒の意思を込めて言葉を話した。それもまた私にとっては衝撃で、喉が詰まる。しかし今度はどうにか呑み下し、痺れる腕をぎゅっと握った。

 

「あんたこそ……何なのよ、その姿……っ」

 

「――!……『何なのよ』って?おいお前、このたてがみを見てもわからねえのかよ。百獣の王に決まってるだろ。……いや、“王”は名乗れねえが」

 

「っ……この……!」

 

 軽口なんて求めていないのだ。今すぐにこの、胸の内に生まれてしまった躊躇の元を否定してしまいたい。それはライオン型に“キメラ”の面影を見たくない一心で、つい熱が上がってしまう頭が奴を睨みつけ、脚を一歩踏み出させた。

 

 だがその感情は狙われたものだった。

 

「オレたちの王は、リゼヴィム様だからな」

 

 ライオン型が笑みを取り戻すと同時、

 

「あの方の【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】に生み出されたしもべ故に!」

 

 全く別の声が、頭の後ろで鳴り響いた。

 

 反射的に振り返る。するとそこには私めがけて矢のように降ってくる、コンドルのような異形の姿。眼にし、ライオン型の軽口が私の注意をコンドル型に向けないためのものだったと悟った時には、もはや避けようがなくなっていた。

 

 ほとんど頭上の、斜め上から突っ込んでくるその角度はさっきのような防御も難しい。【気】だけで防ぐしかないと、私が覚悟を決めたその瞬間、

 

「――ぐおぉッ!!?」

 

 コンドル型に、横から青色の血に塗れた何かがすさまじい勢いで衝突した。

 

 ウサギのような長い耳が見えた気がしたが、しかしそれを確かめる間もなくコンドル型ともみくちゃになって、降下のベクトルの一切をぶち抜いて吹き飛んでいった。向こう側の客席で他の化け物を巻き込み血しぶきが撒き散らされる光景を呆けて見つめ、すぐに我を取り戻すと、それを引き起こした当人のほうを見やった。

 

「く……こいつ……」

 

 ライオン型も同じく我に返り、認めて私に向けた以上の警戒と、そして明らかな恐れを、食いしばった歯の隙間から零す。

 ミルたんは、その眼を静かに見つめ返しながら私の前に出た。

 

「【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】、彼は確かにそう言っていたにょ」

 

 その言葉はライオン型でも、もちろん私でもなく自分自身に向けられたものだった。事実を確かめるように、呟きは続く。

 

「確かあれは、以前曹操くんが小さな男の子から回収していたはずにょ。つまり……【絶霧(ディメンション・ロスト)】や【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】のようなコピーではなく、オリジナルにょ?」

 

 その瞬間、突然辺りに爆発音が響き渡った。しかし遠い。視線を上げればスタジアムの外側、この浮遊都市アグレアスと地上とを繋ぐロープウェイの近くで黒煙が上がっている。

 リゼヴィムの襲撃に際して逃げ出した観客たちが集まっているだろう場所だ。加えて言うなら、私たちに負けた白音もその近くの医療機関に転送されて治療を受けているはず。

 

「白音……」

 

 思わず口から零れ出た。ミルたんは眉間に皺を寄せる。

 

「……神器(セイクリッド・ギア)のバクとまで言われる神滅具(ロンギヌス)……やっぱり規模が桁違いにょ」

 

 凄みの増大した顔が爆煙を見上げ、ライオン型から視線が逸れた。じっと捉えられ続けていたそれがなくなって、その時が唯一の隙、仲間の化け物を容易く屠ったミルたんを倒す最大のチャンスだと、恐れで視界が狭まったライオン型は感じたのだろう。ミルたんが呟くなり、叫んだ。

 

「ッ!!今だッ、お前ら!!」

 

 ミルたんという強固過ぎる存在と白音への心配で幾らか内心の困惑を忘れられた私は、その声とほぼ同時にそれらの気配を察知した。故に瞬間、ウシ型とワニ型とサイ型が四方から襲い掛かるのを跳んで躱すことができたが、しかしミルたんは動かない。三体に組み付かれ、抑え込まれる。

 そして端からミルたんが標的だった三体は逃した私など気にすることなく、一様に決死を叫んだ。

 

「捕まえた!死んでも離さんぞ、人間!」

 

「早くオレたちごと!」

 

「拘束しろ!」

 

 そして決死はやがて上空に向く。上に跳んでいたのはクモ型の化け物だった。そいつは妙に気持ちの悪い顔を厳めしく変え、丸く膨れた下半身をミルたんたちへ向けた。

 

「任せるべ!ケツの穴がぶっ壊れるくらい、全力全開だべ!」

 

 恐らく彼の肛門であろう部分がぶるぶる震え、

 

「【愛の放射線(ラブシャワー)】!!」

 

 糸の網が噴き出した。そしてそれは狙い違わずミルたんと三体の化け物たちに降り注ぎ、捕らえる。粘着質でぴったりと絡みつき、三体の上からさらにミルたんを戒めた。

 

 着地し、その様子を一瞥した私は、今度こそ【念】を練り念弾を構えた。向ける先はミルたんと一緒にがんじがらめにされた三体でも、『よし』と喜ぶライオン型でもなく、私と同じく着地、というか墜落してきたクモ型。八本もある手足をばたつかせ、痛そうにお尻を押さえながら起き上がった彼は、ミルたんに次いで私に敵意を向けた。

 

「け、ケツ、()ってェべ……。けど、まァーだまだオラは戦えるべ!そこのオナゴ!次はオメェを捕まえて、リゼヴィム様に褒めてもらうべ!」

 

「リゼヴィム様リゼヴィム様って……ほんとに、見てるとちょっとイライラしてきたわ、あんたたち。……けど、ありがと」

 

 その、キメラの姿でそんなことを言う。それが少し癇に障る。けれどだからこそ、そんな連中にピトーを想起し、重ねてしまって生まれた躊躇が酷く馬鹿らしく思えた。

 

 吹っ切らせてくれたことへの感謝の言葉。クモ型は意味が分からないと首をかしげたが、理解なんて待つ気はない。私は念弾を彼に飛ばした。

 

 注意がそっちに向く。迎撃しようとしているのか、肛門が念弾に向いてぴくぴくと二度ひくついた。

 

「……へぇ」

 

 無視してくれれば能力で簡単に終わらせられたのだが、過度に警戒してくれるならそれはそれでやりやすい。迎撃を選んだのであればなおのことだ。

 

 念じ、念弾を槍の形に変形させた。さほどではない速度の念弾を一転して急速に伸ばす、白音の時にも使った手札。不意を突かれたクモ型はそれでも辛うじて糸を撃ち放ち、命中させた槍先が軌道を変えて己の頬を掠めるのを緊張の顔で見送る。

 予想外の動きをした得体のしれないものから眼を離せるはずがないのだ。となればその陰に隠れた私は当然フリー。死角から一息に近付いて、仙術でその身体を打ち据えた。

 

 攻撃は一撃でクモ型の命を破壊した。血が噴き出し、目から光が消える。

 その時、私は別に気を抜いていたわけではなかった。まだライオン型や、ちょっと離れれば別の化け物は山ほどいるのだ。だがその接近と攻撃に、私はまるで反応できなかった。

 

「うぐっ――!?」

 

 気付いた時には背に衝撃だけがあった。弾かれるようにして背後を振り向けばその途中、糸の網に囚われたミルたんの下に、私の背を突き飛ばしたのだろうそいつはもうたどり着いていた。

 

 さらには攻撃まで打ち放った後らしい、網の隙間から拳を引っ込める様子だけが辛うじて見えて、あまりにも素早いそいつは楽しそうに笑っていた。

 

「はははっ!言われた通り来てやったけど、何だよこいつもう捕まってんじゃん。意味ないんじゃ――ッ!?」

 

 だがすぐに喜色は途切れて戦慄に変わる。ライオン型や、一緒に囚われる化け物三体も同じだった。囚われ身動きが取れないと思われていたミルたんが、腕で糸を引きちぎり始めたのだ。

 

「ば、バカな!オレの力でもびくともしない強度が……!?」

 

「ク……!でも糸とそいつらをくっつけたままじゃ、オレの脚には追い付けない!今度はお前が鬼――」

 

 ウシ型が叫ぶのに続き、さっきまで笑っていた彼、チーター型の化け物は必死に威勢を吐き出した。一緒になにやら“力”の気配が生まれるが、だが間もなく、掻き消える。

 チーター型の言葉に反して一瞬のうちに立ち上がって距離を詰めたミルたんが、自由を取り戻したその拳を叩きつけたのだ。

 

 ドガアアァァァン!!

 

 パンチは爆音のような音を撒き散らした。私にも威力の余波と石片やらが襲い掛かる。驚愕に意識を取られずそれらを防げたのは、ミルたんの強さを間近で味合わされた経験があるからだ。瀕死のピトーが最後に振り絞った一撃から曹操を守り受け止めてしまった彼が、この程度できないはずがない。

 もっと言うなら、そもそも彼は化け物たちの攻撃を避けなかったのだ。避けられないはずはなかったのにわざと捕らえられたとなれば、何かを企んでいることは明白だ。

 

 もっとも、

 

「……一撃で糸と化け物四体、まとめて吹っ飛ばしちゃうとは思わなかったけど」

 

 治まった石片から顔を守っていた腕をどけてもやも吹き飛んだそこを見やれば、パンチを向けられたチーター型だけでなく、ミルたんに纏わりついていたそれらも余波だけで消し飛んでしまっていた。

 一緒に地面もえぐれ、できてしまったクレーターの底に佇むミルたん。その周囲には肉片どころか血の一滴も存在しない。パンチ一発で、恐らく人間や悪魔の皮膚よりもずっと硬い甲殻を持つはずの化け物を四体、存在から消滅させてしまったという事実は、味方であるにもかかわらず私のこめかみに冷たい汗を流させた。

 

 が、戦場は一切の停滞を許さない。冷や汗の冷たさが、瞬間、左手の甲に感じた鋭い熱に追いやられた。

 

「いッ……!?なに、これ……!?」

 

 反応して持ち上がった手を見れば、なぜだか魚が突き刺さっていた。一瞬過去に戦った念魚使いの幻影旅団を思い出すが、しかしすぐにそんなわけがないと気付く。奴はもう死んだのだ。

 

 それに何より、手に突き刺さるまで私はこの念魚の存在に気が突けなかった。うぬぼれるわけではないが、そこそこに大きい念魚の飛来を私が見過ごすはずがないというのに、この現実。いっそ手に突き刺さってから具現化されたのではと思えるほど、まるで予兆はなかった。

 

 いや、むしろ本当にそうなんじゃなないか。例えばあのチーター型にぶつかられた時、何かマーキングのようなものを付けられていて、それを導に何らかの能力を使っているとか――。

 

「うぐっ……!やっ、ぱり……!」

 

 今度ははっきりとその瞬間を眼にした。服のお腹に食い込み皮膚に触れるくらいの位置で突然出現し、突き刺さる魚。痛みと驚きは噛み殺し、想像が正しかったことを確信した私は仙術での気配感知の範囲を思い切り広げ、その魚の【気】と同じ気配を求めて探った。

 

 過程で引っかかる敵のあまりの多さに頭が痛んだが、しかしすぐに見つけた。スタジアムの内部、私たちも使っていた控室の一室。外に敵がひしめく現状では手を出し辛い場所だ。その方向を見やりながら、私はつい歯噛みしてしまう。

 

「そのお魚さん、犯人さんはあっちにょ?」

 

「っ!ミルたん……!」

 

 だがふと気付けば、クレーターを上ってきたミルたんが、茫洋にも見える無表情で私の見つめる先を見やっていた。突然のほど近くに驚きつつ頷くと、ミルたんは次いで、イラつきながらもゆっくり後ずさりしているライオン型へと眼を向けた。

 

「ク……!どいつもこいつも、囮にもならねえかよ……!クソ――がぶッ!!?」

 

 ライオン型も眼を付けられたことに気付き、悪態をつきながら覚悟を決めたように構えるが、辿る先は他と同じだった。巨体に見合わぬ素早さで一瞬のうちに接近したミルたんに顔を鷲掴みにされてしまう。そして、“犯人さん”めがけて投げられた。

 

 ライオン型は周壁を突き破った。勢いのままスタジアムを貫通し、やがて島まで飛び出して見えなくなってしまう。だが間違いなく死んだだろう。地上に落下するのはぐちゃぐちゃの死体であるはずだ。二体分の。

 

 身体に突き刺さっていた魚たちが消え去り、栓がなくなったせいで血が溢れ出る。傷口を仙術で応急処置しつつ、私は呟いた。

 

「……ほんとにとんでもないわね、やっぱり。もうあんた一人で解決できるんじゃない?」

 

「そんなことはないにょ。現にほら、見るにょ。新しい敵さんがまた生まれてきているにょ」

 

 私の冗談に、大真面目に見える無表情を返してきたミルたん。しかし彼の言う通り、見渡せばそこかしこで化け物の陰が地面から湧き出してきている。術者のリゼヴィムは上空で魔王と眷属を相手にしているが、それでも他の神器(セイクリッド・ギア)の存在も相俟ってそれくらいの余裕があるらしい。

 

 戦況は、はっきり言ってよくない。ミルたんの意見もそうらしく、見上げたリゼヴィムから、次いで未だに黒煙が止まないロープウェイ方面に厳しい眼をやった。

 

「このぶんだと、あっちはもっと酷いはずにょ。守らなきゃいけない人たちがいるのに、戦力はこっちよりもずっと少ないにょ……。やっぱり、応援に行った方がいいにょ。ハンターチームのみんなであっちを守ってほしいにょ」

 

「……それ、もしかして私を含めて言ってる?」

 

 途中までは同意するところだったが、その部分には口を挟まざるを得ない。冗談を言う余裕くらいはあったはずだが消え失せ、私は思わず荒くなってしまう語調を苦労して抑えつつミルたんを睨みつけた。

 

「もしそうなら、絶対にお断りだから。ピトーを……フェルを見捨てるなんてごめんよ」

 

 同じくリゼヴィム絡みな中央リング上の酷く硬い結界。白音のことも気になるが、しかしだからこそ、あの中に閉じ込められてしまっているピトーを放っておくわけにはいかない。

 白音も、例えば同じ状況だったら私と同じことを言うだろう。二人でそう決めたのだ。

 

「あれがリゼヴィムの力なら、リゼヴィムを倒せば解除されるのが道理でしょ?それに……フェルを信じろって言ったの、あんたじゃない……!逃げるわけない!私は絶対、フェルを助けるんだから……!」

 

 だから言ってやった。他人任せになんてもちろんしない。それは私たちの役目なのだ。

 

「………」

 

 黙り込むミルたん。私を見つめるその眼に、何か危ういものを見るようなそれが見えた。リゼヴィムに挑むのは無謀だと言外に言われている気がして、否定してやろうとしたその瞬間、

 

「諦めたほうがいい、ミルたん。そいつは中々に頑固だぞ……っと!」

 

 いつもの声、曹操が、いつの間にか近くまでやってきていた。手にする槍に邪炎を纏わせ、はねた化け物の首を焼きながら、くるりと私たちに振り向いた。

 その顔を見て、私の口からミルたんへ向けた否定がただの息になって抜け出てしまった。それくらい、奴は全くもって意外な表情をしていた。

 

「それに、俺もね。……自分の不始末は、自分でつけなきゃならない」

 

 声も顔も、見た覚えがないくらいの真剣に満ちていた。

 

 いつものへらへらとした態度は鳴りを潜めてしまっている。ピトーや私との組手でも見せたことがない気迫。どこか自罰的な眼が、まっすぐにミルたんを見ていた。

 

 恐らくそれが見えていない曹操の後方、同じく戦い聖剣王コールブラントを振り回している金髪眼鏡のアーサーが、揶揄うように言う。

 

「自分が回収した神器(セイクリッド・ギア)が利用されたからといって、そこまで責任を感じることはないと思いますが。……とはいえ、曹操があの下品な悪魔の相手をするのは賛成ですね。彼が最も相性がいい」

 

「相性って……曹操の神器(セイクリッド・ギア)のこと?」

 

 邪炎でなく、聖槍のほう。秘密になっているそれをアーサーが知っているのかを見極めつつの質問に、アーサーは目だけで頷いた。相手をしていた化け物を両断して斬り殺し、剣を払って血糊を落とすと続けて曹操自身に振り向いた。

 

「それもありますが、主に念能力のことです。あなたももう目にしているんでしょう?彼は神器(セイクリッド・ギア)を操れる」

 

「……条件は中々厳しいけどね、相手が空中にいるのではなおのこと。だからウタ、お前の力も必要になる」

 

「……それはいいけど、へぇ、アーサーは能力のことよく知ってるみたいね。私たちにはつい最近まで明かしてくれなかったのに。というか未だにどういう能力なのかしゃべろうとしないくせに」

 

「ああ。なにせお前たちにはまるで関係のない能力だからな。というか、そんなことよりも――」

 

 と、なんとなく恨みがましいものになってしまった私の白い眼をあっさり断ち切ると、曹操はふと、真面目顔を崩した。いつも通りのにやけ顔に戻り、立ち尽くして見守っていたミルたんを越してさらに後方に眼をやり、言った。

 

「遠くの心配をするよりも、まずは直近の危機に対処すべきだな。リアス殿たちがもうそろそろ限界だ」

 

 ミルたんは慌てた様子で振り向いた。つられて見やれば確かに、今の今まで忘れていたが、化け物たち相手に苦戦している様子のリアス・グレモリーたちの姿があった。

 サイラオーグやヴァーリを欠いて、残っているのはリアス・グレモリーとゼノヴィアと、後は確かソーナとかいう名前の眼鏡の三人だけだ。敵が【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】で生み出された魔獣故にゼノヴィアの聖剣デュランダルが上手く働き防いでいるが、防ぐだけでは増す一方の物量はもう彼女らの姿を隠してしまうほど多くなってしまっている。

 

 曹操の言う通り、もうすぐ限界が来るだろう。助けられそうなのは、リゼヴィムと戦う魔王たちを除けば私たちだけだ。そして、まあ恐らく察するのも面倒な諸々を加味して出した適役が、

 

「……わかったにょ」

 

 ミルたんなのだろう。本人も厳しい表情で一秒だけ考えこんでから頷いた。すぐさま駆けつけるべく走り出そうと踏みだして、一瞬止まって告げた。

 

「だから、そっちも頼んだにょ」

 

 そして行ってしまう。たちまちたどり着いて始まる無双を尻目にして、「さて」と曹操は私やアーサー、戦う他のメンバーを見渡し言った。

 

「頼まれたことだし、それにやはり無視するわけにもいかない……うん、ここで一つ、分かれてみようか。ネテロ会長もヴァ―リを連れて行ったようだが、足りないのは力ではなく手数だろうし」

 

「ふんっ……!つまり、俺たちは向こうの奴ら助けに行けってことか!?おいしいとこ一人締め……じゃねえや!二人締めする気かよ曹操っ!」

 

 身体中トゲトゲの世紀末染みた恰好をしたヘラクロスが、棘付きの拳をミサイルのように飛ばしながら鼻を鳴らす。呼応して、曹操でなく生み出した無数の聖剣で壁を作るジャンヌが喜びを含んだ声を上げた。

 

「願ったりだわ!師匠と弟弟子たちのことも気になるし!……クラピカだっけ?そっちも、ゴンとキルアとは知り合いなんでしょ?」

 

「……ああッ!そうだな……ッ!」

 

 クラピカが応えた。彼の能力なのだろうか、やたらに多くの【念】を込めて具現化された鎖を振るいながら、喉から無理に押し出したような声を出す。

 他のメンバーからは戦いに集中しているのか返事が返らなかったが、拒否の声は出なかったという方向に受け止めたらしい曹操は、次いで頷き、襲い来る化け物たちを見やって言った。

 

「決まりだ。ゲオルグ」

 

「わかってる」

 

 短く交わし、魔法使いでもあるゲオルグは先ほどから何やら唱えてかざしていた手のひらを頭上に上げた。すると次々現れる魔法陣。見知った体系もあるがほとんどが知らないもので一瞬何をするつもりなのかわからなかったが、一瞬の後、明らかになった。

 ごうっ、と、眩い閃光が周囲に降り注いだ。どうやら浄化のそれだったらしい。浴びた化け物たちは次々に蒸発し、消え去る。当たったわけでもないのに私にもピリピリと針でつつかれるような痛みを与えたそれはやがて収まり、視界の戻った周囲には何もなくなっていた。

 

 化け物たちの攻撃が止んだ。しかしすぐ、波はまた押し寄せるだろう。その間にゲオルグが叫ぶ。

 

「ルフェイ!早く!」

 

「行きますよー!はいっ!」

 

 ジャンヌの傍で一緒に守られていた三角帽の魔女が、次の瞬間、私たち以外の全員に魔法陣を発動させた。こっちはよく見る転移魔法。皆が転送されていく中、ゲオルグが曹操を案じて呟く。

 

「気を付けろよ。くれぐれも……彼には」

 

「わかってるよ。そっちも頼んだ」

 

 眼が閉じ、姿が完全に消える。そして次に私と曹操が見やるのは、ゲオルグの魔法で行く道の開いた先、リゼヴィムの姿。あの魔法でもこちらに一瞥もくれない奴へ、その油断を後悔させるべく、私と曹操は同時に地を蹴った。

 

 だが一時とはいえ地上の化け物を一掃した魔法は、上空のものまでは排除できていなかった。感度の悪い人間耳に、一瞬聞こえた風切り音。気配を見つけ、私は疾走にブレーキをかけて隣の曹操を突き飛ばした。

 一緒に飛び退き、次の瞬間降ってくるそれ。コウモリ型の化け物は、地面を両脚で砕き割りながら目隠しに隠れた視線を私に向け、忌々しげに口元を歪めた。

 

「ッ!いい反応してるじゃない……ッ!?」

 

 苛立ちを湛える彼女に、すかさず曹操が槍を放った。一転して驚愕へ変わってそっちを確かめようとしているが、それすら間に合わずにコウモリ型は串刺しにされる。

 はずが、その間に新たな陰が割り込んだ。槍はコウモリ型でなくそれを貫き、切り飛ばす。青い血と、そして羽毛が舞った。

 

「ぐおぉッ!!?わ、ワガハイの翼が……ッ!!何と強烈な一撃か!!」

 

「く……時間稼ぎのつもりだったけど、こうなったらここで両方倒すわよ!!」

 

 コウモリ型が唇を噛んで羽ばたいた。そして片羽となったもう一体、ミミズク型の化け物はどうするのかと思えば突然、苦痛に震えるその身体が急激に膨れ上がる。ミミズクからまるでゴリラのように筋骨隆々な姿に変化して、血を撒き散らしながら隻腕を振るった。

 

「ワガハイの身体がもつうちに、決めさせていただきますよォッ!!」

 

「援護するわよ!!【超不協(シークレット)――」

 

 決死のゴリラ型にコウモリ型が動きを見せて、それに私たちが身構える。いずれにせよさっさと片付けなければと、私は念弾を生み出した。

 だがまたしてもそれが活躍することはなく、生み出すと同時に再び空気を切り裂く音がした。それはコウモリ型の時のそれよりずっと重く、速かった。

 

「ノ、ぉ……」

 

 コウモリ型の首に、撃ち放たれた刀剣が突き刺さった。発動しようとしていた能力ごと断たれ、首と剣が突き刺さった身体が落下する。

 

「ッ!!?そんな――」

 

 と、こちらも驚愕を露にしたゴリラ型の悲鳴も待たずに続く展開。ゴリラ型のすぐそばに落ちてくるコウモリ型を貫く剣に、人間の男が一人、前触れなく現れたのだ。

 そして男は貫く剣、いや魔剣。恐ろしいとすら思えるほど鋭そうな刃に続く柄を左手で握りながら、右手のもう一振りの魔剣を眼にもとまらぬ速さで振るう。ゴリラ型は全身を切り刻まれ、呻き声の一つも許されることなく瞬時に絶命した。

 

 崩れる元ゴリラ型の肉塊を一瞥してから左の剣を引き抜き、転がるコウモリ型の頭に突き立て止めを刺すその男。曹操は構えを解き、呆れたふうに肩をすくめた。

 

「まったく……少し協調性が足りないんじゃないか、ジーク」

 

「そうかもね。けど友達思いの僕を止める人は一人もいなかったよ」

 

 答える男、ジークフリートは、右手の剣を肩に担ぎながらこちらに振り向き、不敵に笑った。

 

 その、いかにも都合のいい言い訳じみた理由はともかくとしてだ。活躍の機会を奪われ続ける私は曹操と違って軽口を通して受け入れることなどできず、見る眼と声色には非難がこもっていた。

 

「……聖魔剣とブリトラの子相手には使ってなかったけど、それがあんたの能力?自身を剣の下に転移するって、まあまあ使い勝手はよさそうじゃない」

 

「おまけに右手では剣を自身に転移させる。“まあまあ”というのは過小評価だな、彼の剣技と所持する魔剣を含めて考えれば」

 

「転移距離が剣の格に比例するのが厄介だけどね」

 

 ジークフリートが答えて右の魔剣を地面に突き立て、代わりに新たな魔剣を転移させる。それまでの二本とは違って禍々しさがなく、清らかに輝く白い刀身。聖剣、ジャンヌが神器(セイクリッド・ギア)で生み出したものだろう。

 それを掲げ、上空で戦闘を繰り広げるリゼヴィムへ向けて言った。

 

「けど、これだけ近くなら何の問題もない。二人とも、飛んでいる相手には邪炎と念弾の遠距離で戦うしかないだろう?前衛が必要なはずだ」

 

 言われ、少しの間曹操は怪訝そうな顔をしていた。すぐに思い至ったように元に戻る。

 

「……ああ、そうか。確かに君にはこっちの神器(セイクリッド・ギア)はあまり見せたことが――って、おいジーク!」

 

 だが何か言おうとしていた曹操を、ジークフリートは聞かずに駆け出した。追い越される寸前、辛うじて私は戦闘中であることを思い出して【念】を練る。一方反応の遅れた曹操を揶揄ったのか、走りながら一瞬私たちへ振り返り、その戦意へと移り変わった表情を向けた。

 

「おしゃべりをしている暇はないだろう!さっさと片付けないと、また雑魚散らしからやり直しになる!」

 

 叫び、ジークフリートはあっという間にリゼヴィムの直下、ピトーが囚われる結界の傍までたどり着く。駆け上り、頂上から跳躍した。それでも全く戦場には届かないが、左手の剣を振りかぶり、投擲する。禍々さを放つ魔剣は、まっすぐにリゼヴィムへと飛んでいった。

 そして無防備に見える背中へ吸い込まれる、その直前に、落下し始めたジークフリートの姿が掻き消えた。

 

魔剣が導く覇の旅路(カオスシフト)】――!!

 

 転移する。リゼヴィムの背と羽が彼の間合いの中。投げた剣を掴むジークフリートは、それを軸に構えていた聖剣を、次の瞬間もう振るっていた。

 

 だが、

 

「――ッ!!」

 

 リゼヴィムの背から生え出た銀色の腕に防がれた。

 

 驚愕に眼を見開くジークフリート。しかも腕は聖剣を受け止めた一本だけでなく、他に三本。それらが一斉にジークフリートに襲い掛かった。

 

「それは――!!」

 

「やっほー、試験管ベイビーくん」

 

 リゼヴィムは、タイミングを合わせたサーゼクスや沖田の攻撃を本物の腕で防ぎつつ、それだけ言って振り向きもせずにカウンターを叩き込んだ。

 

「んのッ!!」

 

 だが命中の寸前、ジークフリートにこっそりくっつけていた私の念弾が間に入った。私たちも結界の傍までたどり着き、正直心は乱れていたがそれでもなんとか能力を発動させる。

 結界の内を気にしつつもカウンターの初撃を受け止めることに成功し、その間でジークフリートも我を取り戻した。

 

 能力が発動し、曹操が回収していたらしい魔剣に転移してくる。リゼヴィムの腕はあまりにも硬かったらしく、ひびが入ってしまった聖剣を一瞥して投げ捨ててから、顔をしかめた。

 

「……迂闊だったね。よりにもよってそれまで盗んだのか」

 

 私もため息の後に見上げ、改めてその阿修羅みたいなことになってしまっている腕を見やり、呟く。

 

「ってことは、あれも神器(セイクリッド・ギア)でいいのよね?やたらと気持ち悪いけど」

 

「ああ。ずっと前にジーク本人から抜き出した神器(セイクリッド・ギア)だ。【龍の手(トゥワイス・クリティカル)】、その亜種になる」

 

「……ふぅん」

 

 仕事を手伝ったか何かで知っているだけだと思っていたが、まさかの元所持者本人だったらしい。そっけなくしてやったが驚きはばれていたらしく、曹操が素早く反応して鼻で笑ってくる。

 

「彼が持つ最強の魔剣、魔剣帝グラムには強力な龍殺しの呪いが掛かっているからな、ドラゴン系の神器(セイクリッド・ギア)である【龍の手(トゥワイス・クリティカル)】を宿したままでは本領を発揮できないのさ。だから取り除いてくれと言われたので、やった」

 

「そういうわけだよ。後悔も特にないけれど……いや、あれは禁手化(バランス・ブレイク)かい?魔剣を同時に六本振るえると考えれば、やっぱりちょっと惜しかったかもしれないな」

 

「だから言ったろう、もう少し慎重に考えるべきだろうと。神器(セイクリッド・ギア)は【念】よりもかなり自由が利くんだから。……ほら、こんなふうに」

 

 ジークフリートの後悔に呆れで応え、曹操はこれ見よがしに邪炎、【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を使ってみせた。手のひらから溢れ出す黒い炎は消えずに宙に蟠り、大きく平べったく、ちょうど踏み台にできるくらいの塊に変化する。

 それが続けていくつも現れ漂えば、言わんとしてることはすぐにわかった。実体のあるそれをポンと叩き、曹操は上を見上げた。

 

「俺が足場を作ってサポートする。これなら曲芸じみた攻め方をする必要はないだろう?二人で削り、疲弊させたところで機を見て俺が神器(セイクリッド・ギア)を封じる」

 

「封じるって、今更だけど……見えてるだけで神滅具(ロンギヌス)クラスが三つと普通のが一つあるけど、大丈夫なの……?」

 

「問題ない。が、多めに見積もって十秒は時間が欲しい。奴の動きを止めていてくれ」

 

 私の不安にも、曹操はにやりと笑って首を振る。しかし……十秒。リゼヴィムからそれだけの時間を奪い取るのは中々に難しそうだ。

 

 だが、やらねばならない。ピトーを、フェルを救うために。

 

 右手に先ほど投擲した魔剣、一際禍々しい気配を放つ、恐らく魔剣帝グラムを転移させ、厳しい眼で見上げるジークフリートも私のものとは毛色は違うだろうが決心を見せる。

 私を含めて三人ともが、リゼヴィムに敵意を向けた。そしてようやく一塊になったそれが、とうとうリゼヴィムにとっても無視できないものになったらしい。首ごと振り向き、見下ろした。

 その眉は、あからさまに面倒くさそうに下げられていた。

 

「あー……今から三人加勢はさすがに過労だねぇ。ワンオペでやんなっちゃうよ。飛べる魔獣はほとんど全滅しちゃったし、さすがにもうイメージ力のネタ不足って感じ」

 

「それは諦めて投降する、という意味かい、リゼヴィム」

 

 宙に浮かぶサーゼクスが尋ねる。しかし噴出する滅びの魔力の波動は全く弱まらず、すでに答えを予期してしまっているようだ。

 そしてその通り、リゼヴィムは唇の端を吊り上げた。

 

「まさか!まだ切り札(禁手)もお披露目してないのに!」

 

 叫び、広げた両手の先に二つ、陰が生まれた。見知った魔法陣(・・・・・・・)が現れ、その中から何かが出てこようとしている。

 

「ッさせん!!」

 

「曹操ッ!!」

 

 待たず、剣士二人がそれぞれに切りかかった。悪魔の羽を羽ばたかせる沖田は細身で華奢に見える陰へ、曹操による邪炎の足場を駆け上ったジークフリートはごつごつ大きな巌のような陰へ、【周】を以って迫る。

 

 リゼヴィムはそれを止めようとしなかった。止める余裕がなかったのかもしれないが、ともかく恐ろしい速さで放たれた二人の斬撃は、確かに二つの陰に命中して切り裂いた。

 

 だが直後、二人の顔に現れたのは驚愕の表情。

 そして現われる。蝶の羽を広げた優男と赤い肌の大男。それぞれ閉ざされていた目が開き、腕に負った小さな傷と剣を握る二人を見やり、やがて悪意が灯った。

 

「「いきなりひどいじゃないですか(ひでぇじゃねぇか)」」




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十二話

 魔法陣から出現したチョウ型は、すぐに羽を広げて空中に浮遊した。だがもう一方の赤肌筋肉には羽も翼もどちらもなく、魔法陣が役目を終えて消えるや否や落下する。

 真っ逆さまで、その直下はちょうど私たちの近く。察したジークフリートがそれを追い、私と曹操も戦闘に構えるが、しかし落下の中ほどで赤肌筋肉は体勢を取り戻した。

 

 翼が生えたのだ。背中がぐにぐにと蠢いたかと思えば、内側から皮膚を押し上げるかのようにして肉が突き出し、形作った。肉の質感が羽ばたいた。

 例えば悪魔も羽を出し入れできるし、私のような妖怪ならば全く別の姿に変化することも可能だ。が、しかしそれらは魔力的な機能として元より備わっているもので、変化に至ってはただ化けているだけで実際の姿を変えられるわけではない。

 一方、赤肌筋肉の翼は変形だ。元々備わっていない器官をたった今作り出したということ。故に本能も慣れもそこには存在していないらしく、羽ばたいて宙に制止したと思った次の瞬間には再び体勢を崩して落下した。

 

「ぐお……ッ!」

 

 少し離れたリングの縁をちょうど掠って墜落する。巨体の振動が足に伝わり、それからしかめられた顔と頭をさする手だけが舞台の上から見えた。

 

「……練習が必要だな」

 

「生憎、今はそんな暇はないようですよ。私がこちらを片付けるので、貴方はそちらをお願いします」

 

 チョウ型が応え、その眼を宙のサーゼクスたちへ向ける。ぼやく赤肌筋肉は軽く頭を振り、肯定を示した。

 

「ああ、いいな、それ。……切られた礼もしなきゃならねえしなァ……!」

 

 そして同時、チョウ型と赤肌筋肉から発せられていた悪意が明確に定まった。一人ずつに向いたのだ。チョウ型は沖田に。そして赤肌筋肉は、ちょうどその時地面に降り立ったジークフリートに。

 

 ただ一人にだけ向けられた濃密な【気】の迫力は、その()でたちまち二人の身体を凍り付かせた。

 

「ジーク!!避けろッッ!!!」

 

「ッ――!!!」

 

 一拍の間があって曹操の絶叫。その時には赤肌筋肉はもうリングの縁を踏み壊し、ジークフリートの間近で拳を引き絞っている。膨れ上がった腕の強張りが、辛うじてジークフリートの腕を動かすと同時に撃ち放たれた。

 

 凍り付いた身体では回避も能力発動もできなかったが、それでもジークフリートは右手の魔剣帝グラムで赤肌筋肉のパンチを迎え撃った。浅くとはいえあの硬い肌を貫いた魔剣の切れ味ならその威力ごと切り裂けると踏んでのことか、同時に【周】が、ほとんど【硬】に近い割合の【流】を併用してグラムに宿る。

 

 しかし、

 

「もう見たぜそれ!!オレも同じことすりゃあ、潰れるのはお前だァッ!!」

 

 直後振るわれた拳には、一瞬にしてジークフリートの【周】を容易く上回るほどの【気】が込められた。もはやどちらも止まらず、接触。そして酷くあっけなく、ジークフリートの剣は押し返された。

 メキメキと骨のへし折れる音がして、パンチは絶大にまで膨れ上がった威力を撒き散らしながら振りぬかれる。ジークフリートの身体は吹き飛ばされ、私の視線を振り切りあっという間に見えなくなった。

 

 そして一瞬遅れてやってきた余波は私と曹操をも吹き飛ばした。風圧に巻かれて瓦礫と一緒に身体が宙に巻き上げられる。悲鳴を食いしばりながら着地して見上げると、そこには凄惨な笑みを浮かべる赤肌筋肉と、それによってもたらされたミルたん並みの破壊の跡だけが広がっていた。

 

「ど……どんだけ――」

 

 ふざけた【念】なのだ。

 

 恐らく赤肌筋肉はその口ぶりの通り、【念】を使ったのは初めてだったのだろう。見た限りでも随分荒い技だった。

 それで尚この威力。技術の不足を補って余りあるほど、潜在する【気】が膨大。ミルたんやピトーすらも軽く超えている。

 

 強さを目の当たりにして、そしてそれが私たちに向けられていることを改めて意識して、押し込めた悲鳴が戦慄に変わった。すると逆立つ怯えにもう一つ、上空のそれが引っ掛かって私の視線を無理矢理引き上げた。

 そこではチョウ型が魔法陣に拘束されていた。魔王の眷属の魔法使いであるマクレガー、知名度も、もちろん腕もトップクラスである彼の功績であるらしい。そうして押さえている間に力を溜め、一息に倒すのが魔王たちの作戦であるようだ。

 

 だが赤肌筋肉に植え付けられた私の恐れは、最大の一撃を叩き込むため集中する沖田とサーゼクスと同じ未来図を描けない。代わりに抱いた危惧は、すぐに現実になった。

 

「……なるほど、こちらも面白い節理ですね。魔法というのですか」

 

「なに――ッッ!!?」

 

 マクレガーが訝しげな顔になるが、瞬時に一変する。チョウ型を睨みつけていた眼が見開かれ、突然下へ。自身に現れた魔法陣を驚愕で凝視した。

 

 動揺も当然のことだろう。その魔法陣はチョウ型に使っている拘束魔法陣と同じもので、さらに込められた魔力はチョウ型のものだったのだ。赤肌筋肉と同じく初めて見るらしい魔法を眼だけで真似してしまったチョウ型は、一方己にかけられた拘束を無視してゆっくり腕を持ち上げた。

 

「ッ!!しまっ――ッッ!!」

 

 そしてそれは、仲間の危機を見て溜めの半ばで力を解き放たんとした沖田へと向けられた。

 

「では、こうすればどうでしょう」

 

 魔法陣。しかし感じるのは拘束ではなく攻撃の意思。まさかこの数秒でその魔法体系を理解し、攻撃の術を作り出したのだろうか。見たことも聞いたこともない術式が組み合わさり、強力な殺しの波動を帯びる。

 それを向けられて、構えの体勢から切りかからんとちょうど動き始めたばかりだった沖田は、今更回避に動くことも、かといって迎え撃つこともできず、眩い光を放つチョウ型の攻撃を見つめることしかできなかった。

 

 だが寸前、その間に人影が割って入った。手の魔法陣が攻撃を受け止め、しばしのせめぎ合いの後、なんとか逸らすことに成功する。もちろんその正体は拘束されているマクレガーでも、沖田と同じような状況にあったサーゼクスでもなかった。

 

 メイドの恰好をした銀髪の女悪魔、サーゼクスの女王(クイーン)であるグレイフィアが、その美貌に少なからぬ汗をかきながら険しい眼をチョウ型に向けていた。

 

「おや……貴方は……?」

 

 動きを止め、首をかしげるチョウ型。勇ましく気迫を返さんという様子で息を吸いこんだグレイフィアだったが、しかしそれよりも先に滴る沖田の呆然とした呟きに意識が向く。

 

「避難誘導をなされていたはずでは……?」

 

「……そちらはハンターの方々の協力もあって安定しました。なので私はリアス様の避難をと思いやってきたのですが――」

 

 背に庇う沖田から、改めてチョウ型に言葉の矛先を向け直す。

 

「どうやらそれは難しい様子。私も前に立たせていただきます」

 

「……すまない、苦労をかけるねグレイフィア」

 

 サーゼクスが安堵の息と一緒に僅かに目元を歪める。一瞬横顔だけで振り向き薄い微笑でグレイフィアが返すと、その瞬間、さらに上から大音量の哄笑が降り注いだ。

 

「アヒャヒャヒャヒャ!誰かと思えば尻軽女のグレイフィアちゃんじゃないの!ルキフルグス家のくせして下半身で動いた裏切者がさぁ!」

 

「っ……!!その下品な口を閉じなさい、リゼヴィム・リヴァン・ルシファー!!私は、悪魔の未来を血ではなくサーゼクスに見た。だから彼と家族になった。それだけです!!」

 

 見上げ、さらに表情を険しく怒りのそれにして言い返すグレイフィア。リゼヴィムはチョウ型と赤肌筋肉二体の召喚に消耗したのか疲労の様子を見せながら、しかしなおも嘲笑う。

 

 妻を口悪く言われて不機嫌、どころか明らかに殺意が増したサーゼクスは、さらに激増する滅びの魔力を全身から迸らせつつ、吐き捨てるように言う。

 

「君にはわからないのだろうね。……そもそもあの大戦の折、戦いすらせず冥界から逃げ出した君に裏切者などと言える義理があるのかい?」

 

「アヒャヒャヒャ!それもそうか!言い訳するけど、あの頃はまだ悪魔とかどーでもよかったんだよね。興味が出たのはここ最近!サーゼクスちゃんたちがくだらないことしちゃったからだねぇ」

 

「くだらないことなどではありません!!それこそが私たちの……いいえ、悪魔全体の希望。貴方などに壊させはしない……!!そこの得体の知れない化け物共々、ここで倒させていただきます!!」

 

 威勢よく言い切り、そしてそれはチョウ型にも向けられた。それまでずっとグレイフィアを見つめて何やら考え込んでいたらしい彼は、急に自分を捉えた視線にハッとした顔になり、しかしすぐに収めるとゆるゆる首を振った。

 

「……“得体の知れない化け物”ですか。そんな呼び方をするのなら、いっそのこと名前で呼んでください。私はプフ、シャウアプフです。そしてあちらがモントゥトゥユピー、ユピーと呼んでやってください」

 

「おい、オレはこんなゴミどもに呼ばれたかねェぞ」

 

 余裕の表れか、私には全く意識も向けない赤肌筋肉、ユピーがプフを見上げて言い返す。だがもう手遅れで、ちらとユピーにも眼をやったグレイフィアは毅然を返した。

 

「……なるほど、では覚えておきましょう。お墓に刻む名前が“得体の知れない化け物”では、確かにあんまりですものね」

 

「ほう、敵に墓を作るのですか。お優しいのですね」

 

 顎に手を当て薄い驚きを見せるプフ。しかし応酬の最中でも場の空気はどんどん張り詰め、狂暴なものになっていく。

 

 グレイフィアの登場によって膠着した戦況がまた動き出す。彼らも、そしてもちろん私も予感して身構えた。

 

 その時ふと、プフの口が紡いだ。

 

「――さすがは姉上」

 

 その単語は、皆の戦意に一瞬眉をしかめさせた。グレイフィアに向かって吐かれた意味のわからない台詞。他はすぐに関係のないことだと意識から締め出したが、それが遅れたものが一人。

 

「……あね……?」

 

 グレイフィアは困惑と、それから僅かな悲しみを見せて呟いた。しかしかぶりを振って遅れて単語を追いやり、身に魔力を滾らせる。

 一方ユピーも、揶揄うように鼻で笑った。

 

「何を訳のわからねぇこと言ってんだ。“姉上”だとか、“家族”なんてもんがオレたちにあるわけねぇだろう」

 

「……“姉上”?何の話ですか?」

 

 緊張が突然喉奥に滑り込んできて詰まったものを呑み下し、私は次いで訝しげに繰り返すプフを見上げる。その反応にユピーは揶揄いの笑みを消して、「ああ?」と首をひねった。

 

「何の話って、お前が言ったんだろ」

 

「耳がおかしくなったんですか?ユピー。しっかりしてください。たかが一人、敵が増えただけですよ」

 

 平然と切って捨てる。その言いようにわけがわからんとしばらく頭を掻いていたユピーだったが、やがて私に意識を戻し、大きく息を吐く。

 

「……まあ、いい。やることは変わらねぇ」

 

 そして吐いた分だけみしみしと肉体を膨張させた【気】が、一斉に私へ牙をむいた。

 

「全部ぶち殺してから考えりゃいいだけのことだろ!!」

 

「まさしくその通り」

 

 と、プフもまた殺意を取り戻す。天に掲げた手のひらから巨大な魔法陣が発動し、サーゼクスたちが止める間もなく発動する。

 

 とうとう来た。向けられた巨大な【念】にわかっていても身体が震えてしまう私は、ユピーの凶悪な笑みから眼を離せぬまま、代わりに仙術の気配探知を駆使して降り注ぐ魔力の爆撃の回避に動いた。

 重なる爆音。ジークフリートを助け起こす曹操やミルたんに守られるリアス・グレモリーたち、それに未だひしめく化け物たちを少なくない数巻き込んでいるのがわかる。しかし心配していられる余裕は全くない。ユピーのあのパワー、もし他に余計な注意を回して見切り損ねれば、その瞬間、間違いなく私も潰される。警戒は僅かも緩められなかった。

 

 爆撃でもうもうと立ち込める土煙の中でもユピーの気配から意識は外せない。見つめ、変わらずそこにあるのを確かめ、動かないその気配に何をする気だと冷や汗が流れるばかり。

 このまま様子見を続けるべきか、それとも打って出るべきか。決めかねていたその時だ。

 

「ッ!!?気配が――」

 

 突如霧散した。消えたわけではなく、文字通り霧のように広がって周囲に散ったのだ。瞬く間に周囲の土煙全体からまんべんなくユピーの気配を感じてしまい、捉えられない実体に私は後ずさりし、せわしなくあたりを見回す。

 そのおかげか眼に、というか指先の触感に留まった。土煙の乾燥した感触ではなく、本当に霧のような冷たさと水気。ユピーの気配を僅かに濃く感じるその奥から、一転して灼熱の温度が迫ることを瞬間悟った私は、頭に響く警鐘に任せてその場を飛び退いた。

 

 一瞬後、以前に眼にした魔龍聖(ブレイズ・ミーティア・ドラゴン)タンニーンの火炎に勝るとも劣らない威力が、私が立っていた場所を焼き払った。地面が瞬時に赤熱して溶け、抉れる。そしてまたも爆発。無理な回避を強行した私は爆風に煽られる。

 そこを狙われた。土煙とそれに紛れた霧も吹き飛ばされ、すぐ近くの範囲だが復活する気配探知。そこに鎌のように変形したユピーの腕が私へと襲い掛かるさまが引っ掛かった。

 左からの鋭い刃が刈り取ろうとしているのは私の首で、尋常でない悪寒が喉元まで迫る。しかし、辛うじて抑え込んだ。

 

「い――ッッ!!」

 

 顔を地面に叩きつけるほどの勢いで倒し、首狩りを逃れる。代わりに冷気がざっくりと頬を切り割いたが御の字だ。痛みは噛み潰し、さらにそのまま倒れた勢いを利用して、振るわれた鎌の腕をかかとで蹴り上げた。

 

 前転して離れ、振り向いて対面する。血の滴る鎌の腕を見せつけ笑うユピー。私の頬からも、遅れてバクバク鳴り始めた心臓のせいで血が噴き出し、地面と首元までを汚す。

 

 だが、そんなことよりも、

 

(かっっったい……!)

 

 ちゃんと【流】も込めたというのに、ユピーは蹴り上げのダメージを全く受けていない。私の攻防力移動に追いつかず、故に【気】の防御もできていない上に比較的脆いであろう関節を狙ったというのに、むしろ攻撃した私のかかとのほうが痛いくらい。すさまじい肉体だ。

 

 それこそ筋肉どころではなく、ピトーのような甲殻みたいに。

 

 ――違う、落ち着け。

 

 余計なことを考えている場合じゃない。湧き出た妙な感想は心の奥に押し込める。一つ息を吐き出し、傷口ごと頬の血を乱暴に拭うと痛みで意識を引き戻した。

 とにかく、私の膂力では物理的なダメージを与えられないのなら、残る手段は仙術のみ。彼に宿る【気】の多さ、生命の守りの分厚さはは尋常なものではないが、どうにかしなくてはいけない。

 持久戦を覚悟した私は、ゆっくりと距離を詰め始めたユピーを恐れを押し殺して睨みつけながら、【黒肢猫玉(リバースベクター)】を発動させるために【念】を練った。

 

 そのはずが、【気】が全く発現しなかった。

 

「え……?」

 

 思わず腕に眼を落とす。そして気付いた。腕だけでなく全身から、ほとんど【気】が湧いてこない。何かに削り取られてしまったかのように、内にため込まれているはずの【気】が欠けているのだ。

 

 言うなれば、生命力を刈り取られた。悟るも遅く、ユピーが今度は真正面から突進するように距離を詰めて来た。ジークフリートにしたように、歪に膨れる腕が拳を握り、振るわれる。

 まるで超巨大な隕石が迫ってくるような迫力。生命力を削り取られた脚は避けられない死に奮起できない。ただ眼だけが見開かれ、それを見つめた。

 

「ウタッッ!!」

 

 だがその間に、必死の声と【念】に輝く槍先が割って入った。【硬】を纏った槍とそれを繰り出した曹操は、私を通り越して次の瞬間、ユピーのパンチと打ち合った。

 

 甲高い金属音のような音が辺りの空気を震わせる。あまりに激しいそれは風圧に転じ、いよいよ周囲のもやを完全に吹き飛ばした。そうして光に照らされる曹操の表情。見たことがないほど必死なそれで、噛み砕かんばかりに食いしばった歯と血管が浮き上がるほど筋肉が盛り上がった両腕は、奴の全力でもユピーの一撃を受け止め切れないことを示していた。

 みし、ぎし、と、曹操自身に先んじて槍のほうが悲鳴を上げ始める。じりじりと槍を押し戻されつつある曹操はちらりとそれを見やり、歯の隙間から咆哮を押し出した。

 

「う、おおおおおォォォッッッ!!!」

 

 僅かに身体が捻られる。それは槍の角度も僅かに変え、結果、ユピーの拳は刃の腹を滑って地面を貫いた。

 

「う、ぐぇ……ッ!」

 

 地面が爆発し、吹っ飛んでくる曹操が私を巻き添えにする。もみくちゃになって瓦礫と一緒に転がって、そして爆音による耳鳴りが治まるのと同時にようやく止まると、私は頭を振って衝撃の余韻を振り払い、抱えた曹操の背中めがけてわざとらしく鼻を鳴らしてみせた。

 

「……遅い。助太刀する気があるならもっと早くに来なさいよ」

 

「ふぅ……勘弁してくれ。ジークを介抱しなければならなかったんだ。腕が潰れただけじゃなく、あばら骨までへし折れていたんだぞ」

 

 ということは、期待はしていなかったがやはりジークフリートは戦力外。私たちはたった二人で、あの鬼のように頑丈な筋肉の塊を相手しなければならない。

 

 いや、“頑丈さとパワーだけ”でないことは今さっき明らかになった。

 

「しかし見ていたが……吸血鬼の霧にドラゴンのブレス、おまけにあの攻撃、死神の鎌のように生命力を刈り取ったか。……まさにキメラだな」

 

「やめて」

 

 耳に入らないうちに切り捨てる。しかしとにかく、あのふざけた肉体に加えていくつも備える特殊能力。他にもあると見るのが自然で、正直、私一人での対処はもうほとんど不可能だ。

 

 切って捨てた私の内心を悟ったものだろうか、何かを悔やんでいるような表情の曹操から一旦眼を離し、深呼吸。仙術で削られた生命力を回復させると、私は静かに曹操の背を押し、立つよう促した。

 

「……とにかく、曹操、手を貸して。あいつを()ってからじゃないとリゼヴィムの動きを封じるなんて無理。だから、あっちが先よ」

 

「それはそうだろうな、放置できないというのは俺も同感だよ。というか、元からそのつもりだ」

 

「そ……で、倒す手段になんか当てあるの?仙術がそれなら、正直ちょっと分が悪いわ。コカビエルとかは光力ばっかりで【気】が薄かったから簡単だったけど……」

 

「そうか……【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】が通じるかどうか……まあ最悪、あっちの槍(聖槍)を使う。どちらにせよ時間をかけてられないからな、手早くやろう」

 

 言い、さっきの一撃を受け止め随分ボロボロになってしまった槍を杖にして、曹操は私の膝から立ち上がる。穂先を少し残念そうに見つめると、それを正面、忌々しそうにこちらをにらむユピーへ向けた。

 ユピーは鎌の腕を元に戻し、またボコボコと変形するそぶりを見せながら、その苛立ちを吐き出した。

 

「弱ぇ癖に生き残りやがって……しゃらくせぇ!!」

 

 瞬間変形が完了し、腕が巨大化した。集まる大量の【気】。パンチを凌ぐ威力を秘めたそれが持ち上がり、そして私たちへ叩きつけられた。

 

「まとめて、潰れろォッ!!」

 

 私たちは瞬時に分かれて飛び退き、さっきのような無様を回避する。三度破壊され八方に飛ぶ瓦礫もよけながら、さらに私は能力を発動させた。

 

 【黒肢猫玉(リバースベクター)】、黒い念弾が数十も生まれ、叩きつけの反動で浮き上がったユピーの身体めがけて飛んでいく。もし一つでも見過ごされれば楽ができたのだが、しかし苛立ちで思考が乱暴になっているとはいえユピーはそれほど甘くない。

 

 またも変形。肉体が蠢き、頭から肩にかけて全方位を見やるための目と、そして見つけたものすべてを打ち落とすための腕がいくつも生え出る。そしてそれらが、余さず私の念弾を粉砕した。

 身体の周囲で鞭のように振るわれ続ける攻撃。これではいくら撃っても私の念弾は通らないだろう。

 

「なら――ッ!!」

 

 これでどうだ。と、私はさらに練った【気】を注ぎ込み、特大の念弾を形作る。ユピーの身体すら覆い隠せるほどのサイズなら、鞭では恐らく破壊できない。

 

 予想は正しく、瞬間ユピーは鞭を止めた。だが続く。

 片腕、止まった腕のそれぞれが、今度は拳を握ったのだ。そして放たれ、迫る特大の念弾を打ち据えて破壊した。

 

「はッ!!そんな小細工が――!!」

 

 そしてそこまでが私たちの策。破壊した念弾の奥、その陰で曹操が練り上げた“力”。嘲笑を詰まらせたユピーの眼に映るのは、全面を覆い尽くす邪炎の壁だ。

 

 私の念弾を囮にこれを食らわせるのが本当の思惑だ。神にすら消すことが難しいという邪悪な炎。これならば、あるいはユピーを倒せるかもしれない手の一つ。それが“点”を処理した次の瞬間、“面”として襲い掛かるのだ。

 パンチでも鞭でもこれは防げない。弾けて散り散りになる念弾の光芒から、私は確信してそれを見つめていた。

 

 今まで戦って集めた情報からの推測だったから、だから私は頭から抜けていたのだ。

 変形。背中から、まだユピーの強さを認識できていなかった時に眼にしたものが生え、広げられる。

 勢いよく羽ばたいた翼は、巻き起こした風圧で邪炎の壁に穴をあけてしまった。

 

 穴は波及して広がり、やがて壁自体の形を保てず崩れていく。ユピーは消えゆくそれを口角を上げて笑い、次いでつまらなそうに周囲を見回した。

 

「おいおい、なんか知らねぇが作戦会議して、結局こんなもんかよ。しかもいねぇし、逃げるための目くらましか?」

 

 見回すあたりの土煙、そのどこにも私と曹操はいなくなっていた。故にそう呟いたユピーだったが、

 

「ま、そんなわけねぇよな!!」

 

 もちろん、見えている。あらゆる方面を監視する彼の眼は、瞬間背後の土煙から飛び出してきた槍を捉え、そして変形した。

 

 まるで針山。背から勢いよく生え、突き出した針がボロの槍をとうとう折り、さらにその奥までを貫いた。だが砕けて舞う穂先はともかく、そっちの手応えのなさにはすぐ気付く。

 

「武器だけ、ってことはこっちは囮ィ!!」

 

 そして真反対、つまり正面の土煙の僅かな揺らぎと、それを発生させた大きな存在が放つありありとした気配をユピーは察知した。その拳は導かれるまま握られ、振るわれた。

 

 土煙を吹き飛ばして、そしてめり込むその感触。

 

「まず一匹――!?」

 

 それもまた異常。一瞬の後、ユピーの眼にその正体、コカビエルに使ったものと同じように念弾を私の形に変形したものが映る。

 

 これも囮?なら、まさか本当に逃げたんじゃ……などと考えたことがよくわかる呆然と、次ぐ憤怒の表情。その変化の狭間こそ最大の隙だ。

 

「やられっぱなしが性に合わないのは、僕も同じでね……ッ!!」

 

 次の瞬間、吹き飛んでちょうどユピーの懐に転がり込んだ折れた槍の穂先に、私と曹操を連れたジークフリートが転移した。滴るほどの脂汗をかきながら、左手に槍の穂先を握って鬼気迫った笑みを向けている。

 

 残った気力の全てを使って私たちを運んだジークフリート。その身体を掴んだ手を放し、私と曹操が詰める一歩。穂先が舞っていたのはそれだけでユピーを拳に捉えられる距離で、そしてそれだけの時間では、ユピーの思考は私たちの攻撃に追いつけなかった。

 

「「せやあああああッッ!!」」

 

 私と曹操の全力の【硬】を込めた拳が、ユピーの胴体に突き刺さった。下からアッパーのように放ったそれはさすがの巨体も持ち上げ、そして上空に打ち上げた。

 

 それでも彼のあの肉体、硬い手応えからしても、ダメージは決定的なものではないだろう。アッパー一発にすべての力を吐き出した私たちには体勢を崩した彼への追撃もできないし、ジークフリートも然り、私たちを運んだので限界だ。

 が、上空には肉体強度など意に介さない滅びの力の使い手が構えていた。同時にプフを相手にしていた眷属たちも彼に一撃を入れたらしく、よろめくその身体がちょうどユピーと衝突する。

 

 二人が重なったそこに、魔王は強大な滅びの魔力を撃ち放った。

 

「はあッ!!」

 

 目にしているだけで身がすくむほどの魔力は、互いようもなくユピーとプフを呑み込んだ。悲鳴の一つも上がる間もなく、どんな拳も刃も通さない肉体があっけなく消滅する。滅びの波が通り過ぎ、後に残ったのは巨体故に残ったユピーの下半身と、寸前に回避の選択に手を掛けることができたプフの、辛うじて残った半身だけだった。

 

 いずれにせよ、二体とも即死のダメージであることは疑いようもない。サーゼクスたちもその死体をちらりと見やってからすぐに残った最後の大敵、リゼヴィムへと鋭い眼を向けた。

 

「……リゼヴィム、いい加減にわかったんじゃないかい?いくら“力”を手に入れようとも、君の目的は達成されない。空虚に笑い続けるだけの君に、私たちの結束は打ち砕けないんだ。……これが最後だ。全て諦め、投降してくれ」

 

 リゼヴィムは静かに告げるサーゼクスに、なおも笑って応えた。

 

「空虚?そりゃあもう、悪に中身なんて必要ないよ。悪にあるのは悪だけでいい、だからこその邪悪な悪魔だぜ!?俺はそれを取り戻そうとしてるだけ」

 

「……結局、狂人には何を言っても無駄ということですか。……サーゼクス様」

 

「……ああ。わかったよリゼヴィム、君がそう言うのなら、私ももう腹をくくろう。……一人で私たち全員を倒すことができるか、試してみるといい」

 

 呟くように言い、構えるサーゼクス。湧き出る気迫はもはや爆発のようで、波動のように空気を揺るがせた。

 

 ビリビリと、私にまで届く振動。それを向けられたリゼヴィムは、

 しかしそれこそが愉快であるかのように、声を上げて大笑いした。

 

「ア――っヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッッ!!おいマジかよサーゼクスちゃん!俺が一人!?目ん玉どこに付いてんのよ!」

 

「……下の有象無象のことを言っているのなら、そもそも数には入らないよ。残る君さえ倒せば、後は掃除と変わらない」

 

 恐らく集団戦に向かないミルたん一人で抑えられるほどののだ。新しい個体の発生さえ止めてしまえば容易くケリが付くだろう。そうでなくても彼ら程度がサーゼクスとリゼヴィムの戦いに手を突っ込めるはずもない。

 

 だが、ニンマリ弧を描くリゼヴィムの眼が見やるのは、地上ではなくもっと上。

 

「いやいやいや、おめめどっか行っちゃったサーゼクスちゃんでもさすがに見えるでしょ。いるじゃんそこに」

 

 ユピーとプフの、その死体。

 

「二体」

 

 滅せられたはずの箇所が、再生されて生者に戻るその様子。

 凍り付く全員の中で、あっという間にプフとユピーは目を開けた。

 

「あれは――」

 

 傍で曹操が何かを呟きかける。上の二体に視線を縫い付けられ、その両方の眼に一度殺されたことへの憤怒が宿るさまを見つめさせられる私には続く言葉を聞くことができない。

 

 いや、そもそも言葉が続くことはなかった。二体の怒りに呼応するようにして、響き渡ったその音が、曹操をも巻き込み皆の驚愕を上塗りしたからだ。

 

 ばきん

 

 硬いものが割れる音。私の身体はゆっくりと、音の咆哮に首を回す。

 

 結界だった。リング上に出現し、シャルバとサイラオーグ、そしてピトーを閉じ込めた、驚くほど硬い半球。何かの卵のようなその表面に、ヒビが入っていた。

 ヒビは徐々に広がり、やがてぽろぽろ崩れるように穴が開く。段々と露になる奥の暗闇に、リゼヴィムの歓喜が響き渡った。

 

「アヒャヒャヒャヒャ!!なんてナイスタイミング!!大ボス戦の始まりだよォッ!!」

 

 誰も何も反応できなかった。もちろん、最も近くで目の当たりにした私も。

 

 広がり、人一人分ほど開いた穴。そこから出た足がリングを踏んだ。次いで手と身体と、そして顔。

 その眼を私は見る。見てしまう。

 

 ピトーの冷たい眼差しが、私の絶望を何でもないふうに眺めていた。

 

 ピトー、なのだ。フェルではない。耳も尻尾もさらけ出し、肌を隠す上着はどこにもない。

 その下に着ているジャケットとパンツ姿で悠然と結界から出ると、やがてその眼は興味を失ったかのように私から逸れた。

 

「ぁ――」

 

 脚から力が抜けた。へたりこみ、私はピトーの横顔を見つめる。

 

 その顔は、溢れ出る【気】は、もうどうしようもなくプフやユピーと同じように、“キメラアント”にしか見えなかった。

 

 ピトーは人間ではなくなってしまったのだと、思い知らされる眼だった。

 

「……ッ!!」

 

 曹操の叫び声も聞こえない。ピトーは意に介さず、すっと右手を天に向けた。

 瞬間、さっきのプフの数倍は大きい魔法陣が、スタジアムを覆い尽くさんばかりに展開された。その術式に見えるのは破壊の一色。より強力な、悪魔も人間もキメラも、私すら巻き込むことにためらいのない魔力が魔法陣に注がれる。

 

 強張った曹操の腕が私のお腹に回り、抱え上げられる感覚があったが意識もできず、

 

 次の瞬間、悍ましいほどの破壊が降り注いだ。




オリジナル念能力

魔剣が導く覇の旅路(カオスシフト)】 使用者:ジークフリート
・放出系能力と魔剣の力の【結】
・右手は魔剣を手に転移させ、左手は魔剣の下に自らを転移させる能力。
いずれの転移も手のひらと剣の柄を支点としている。魔剣の格により転移可能な距離は増減し、魔剣帝グラムであれば次元を越えた移動すら可能。


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十三話

ここからしばらく曹操のターン。

誤字報告ありがとうございます。


 降り注ぐ魔力の波動に俺が【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】を発動させたのは、ほとんど反射的な行動だった。

 本能的な危機感。これをまともに受ければ死ぬ。例えば瀕死のジークと黒歌を守る必要がなかったとして、【堅】の防御や【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を応用した盾で身を守っても、なお貫きこちらに致命傷を与えるだろう威力。迫る魔力は瞬時にそれを悟らせ、聖槍の聖なるオーラで俺たちを覆わせた。

 

 その直感は正しかった。聖槍の圧倒的なパワーの全てを費やし展開した障壁を介しても、襲い来る魔力は槍を握る手がしびれるほどの衝撃を俺に与えた。そうして辛うじて凌ぎ、思わず瞑ってしまった目を開けて見た光景も、また衝撃的なもの。

 

 辺り一帯は見るも無残に変えられていた。広かったはずの舞台は半壊の結界が乗る部分を残してきれいさっぱり砕け散り、その外側も、敷かれていた石板は影も形も見当たらず、でこぼこに抉れた地肌ばかりが広がっている。土煙でよく見えないが、この分では客席側も酷い有様なのだろう。

 

「……となれば、生み出された魔獣たちも、ほとんど消えたかな」

 

 であればその脅威に晒されていたリアスたち、その護衛に付いていたミルたんがフリーになる。こっちに参戦してくれれば、特にユピーのあの怪力と張り合えるほどの尋常ならざるパワーは確実に値千金。大きな戦力となるだろう。

 

 というか来てくれないとかなり不味い。なにせ今、こちらの戦力は実質俺一人。しかも動くことすら叶わない者を一人、抱えている状態なのだ。

 

 血反吐を吐くジークだけでなく、黒歌もまた、その気力と一緒に意識を飛ばしてしまっていた。

 

 俺の腕の中で目を伏せ、ぐったりとしている彼女。見下ろして軽く揺するが、やはり起きる様子はない。ただしその肉体には、俺が守ったこともあって大したダメージはなかった。だからつまり、問題は心なのだろう。心が折れてしまうだけの光景を、黒歌はその眼に見てしまったのだ。

 そして俺もまた、その光景を眼にしてしまっている。周囲の破壊の跡ではない。それを引き起こした張本人。「アヒャヒャヒャヒャ!!俺まで巻き込むの、ちょっとひどくない?まあ無事だけど!!」なんて上空で笑うリゼヴィムを気にする余裕もない。

 

 俺は眼前、結界の傍で悠然とこちらを見つめるピトーを見つめ返し、ひりつく喉からいつもの笑みを絞り出した。

 

「……魔力は嫌いだ、なんて言っていたのを聞いた覚えがあるが。その割にはとんでもないのを使ったな。名のある大悪魔でも、ここまでのは難しいんじゃないか?」

 

「んー、そうでもないんじゃない?術自体は大雑把だし、魔力量でゴリ押しただけ。全魔力の半分くらいをつぎ込めば、まあこれくらいの威力は出て当然かにゃ」

 

 いかにも普段通りの何でもないような調子で返すのは、“ピトー”だ。“フェル”ではない。パリストンの【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】の効果は消え去り、耳も尻尾も隠す気もなくさらけ出されている。

 

 印象も姿形も、完全に“ピトー”のそれだ。加えて、平然とした様子に反してらんらんと輝く眼の、怖気が走るほどの明白な殺気も。

 

 抑えようもなく冷や汗が滲む。その恰好も相俟って、俺の頭の中では初めてピトーと出会った時の光景が繰り返されている。瀕死の彼女に突きつけた槍ごと、たったの一撃で吹き飛ばされたあの光景。心身共々叩き伏せられた、あの時の衝撃。

 息が詰まる。一つ深呼吸をしてやり過ごしてから、俺はもう一度会話を紡いだ。

 

「……それにしても、舞台に上がり込んできた敵はシャルバだったと思うんだが、見間違いだったか?それとも奴に化けていたとか」

 

 ピトーは表情だけを疑問形に変え、首をかしげる。

 

「なんでボクがあんなのにならなきゃならないの。さっさと殺しちゃったよ。……弱らせたのはサイラオーグだったけど……っていうか、曹操は知ってたのかにゃ?あの時飛び込んできた仮面の悪魔、あれって神器(セイクリッド・ギア)そのものだったらしいんだよね。サイラオーグの金色の鎧になって襲い掛かってきた時はびっくりしたにゃ」

 

 どうにか“ピトー”と“フェル”の間のイコールを切り分け言ってやったのに、完全に無視して素知らぬ顔。それでもう、俺も理解せざるを得なかった。

 

 黒歌も、これを見てしまったのだろう。今のピトーの平然、その奥にかつての親愛や友好はもう存在しない。

 あるのはただ敵意であり、それをピトーは隠そうとしていないのだ。

 

「そ、曹操……こいつは、まさか……」

 

 故に正体に気付きかけるジークを制し、その傍に黒歌を下ろす。槍を手に、俺はようやく腰を上げた。

 そして冷や汗を肩で拭い、うすら寒い作り笑いで言う。

 

「それはご愁傷様。だがもう終わったことなんだろう?そのことは水に流して、こっちを手伝ってくれ。俺一人でジークと黒歌二人も運ぶのは大変だ」

 

 対してピトーは、相も変わらず平然と。

 

「それは……無理かにゃぁ」

 

 その瞬間、俺とピトーは同時に相手に打ちかかった。

 

 聖槍と、剥き出しになったピトーの爪とが激突し、衝撃が轟く。聖なるオーラが混じった俺の【オーラ】と、ピトーの悍ましいほどの【オーラ】。せめぎ合いは、しかしすぐに傾いた。

 

「ッ――!!」

 

 重さに耐えかね、俺の片膝が地に付いた。地面が歪んでひび割れる。聖槍を以てしても足りないほど強大なピトーのパワーに、俺はその殺意の本気を見る。

 軋む身体を必死の思いで支えながら、俺はピトーを見上げ、食いしばった歯の間から押し出す。

 

「なぜ……だ、ピトー……!!なぜお前が、こんなことに……!!」

 

「……こんなことって?もしかして黙って刺されろって言ってるのかにゃ?だったらさすがにごめんだよ。あれってすごく痛いんだから」

 

「なぜキメラアントに堕ちたかとっ……!!聞いているんだッ!!」

 

 気合と共に、俺は身体ごと捻ってなんとかピトーの爪を弾いた。しかし間髪入れずに襲い掛かるもう一方の手。膝は突いたまま、今度は槍の石突でそれを受け止める。

 

 京都での失態がピトーの心に一つのささくれのようなものを生み出してしまったことは理解している。敵であったフリード・セルゼンはまだしも、九重に残ってしまったキメラアントの証。それをピトーがどう感じたのか、詳細は推し量るしかないが、“キメラの性を忌避させる”という目的からは遠いものを抱かせたことは間違いない。

 そこに現れたこの状況だ。フリードや九重のような“一部”ではなく、明らかにキメラアントを模した形で生み出された魔獣たち。特にプフやユピーは、纏う禍々しい気配すら、ピトーのそれとよく似ていた。

 

 だが、だとしてもなのだ。

 

「お前と黒歌の関係は……ッ、その程度で消し飛ぶようなものじゃないだろうッ!!」

 

 だからこそ俺は京都を含めていくつかの荒療治も画策したのだ。それが助けとなったかはともかく、白音も加えて深まる彼女らの絆はより固く、より解き難い“楔”となってピトーを縛り付けた。そのはずだったのに。

 

「……この状況がリゼヴィムの差し金でも、操作されているわけじゃないんだろう……?なら、なぜなんだ」

 

 今のピトーが何一つわからない。だからどうすればいいのかも、正直よくわからない。

 

 ピトーはそんな俺の困惑を映した眼を、その瞬間、そっと逸らした。

 

「……キミには、わからないことだよ」

 

 “わからない”のその先を、ピトー自身の手が塞いだ。俺の困惑が固まる。ピトーはきゅっと数舜口を引き結び、それから重ねた。

 

「曹操だけじゃない……シロネにも、クロカにも、わかるわけがない。……ボクのコレ(・・)は」

 

 放つ殺気が徐々に揺らいでいった。二撃目をと引き絞られていた片手が離れ、胸元で握り締められる。

 

 こころ。それを眼にして、俺はふと自分のそこにも妙な疼きが生まれていることに気が付いた。荒々しい熱、それが怒りであることに、俺は、ハッとしてこっちを見やったピトーの様子で理解する。

 その眼に映っていた俺の顔からは、さっきの困惑が消えていた。

 

それ(・・)は、黒歌や白音よりも大切なものなのか」

 

 “家族”を売り払ってでも欲しいものなのか。

 

「……そうだよ」

 

 短い肯定が返る。

 

 熱が全身に広がった。

 

「……そうか」

 

 その結果が、リゼヴィムの手先ということなのか。プフやユピーやキメラの魔獣たち、それを生み出すリゼヴィムこそが守るに値すると。だから、それを害する俺たちを排除する。

 

 反吐が出る。

 

「なるほど、それは確かにわからない。……いや、わかりたくないな――ッ!!」

 

 身体の熱が膨れ上がり、槍がピトーの爪とのせめぎ合いを弾き飛ばした。一緒に俺も後ろに跳んで距離を取る。そうして仕切り直され、改めて俺がピトーに向けるのは、もはや戦意のみだった。

 弾かれた手に顔をしかめ、少し眉を寄せて見やってから、ピトーも気を取り戻して俺を見る。

 

「ピトー、お前を止めるにはもう、実力行使しかないらしい。……覚悟はいいな?」

 

「……おとなしくしてくれれば、痛くないように殺してあげられるんだけど」

 

「こちらの台詞だ」

 

 キレのない冗談を冷たく突き放す。【オーラ】を練り、聖槍のそれと合わせて纏わせる。

 

 増幅された聖なるオーラは悪魔の血を引くピトーにとって致命的だ。並の悪魔なら威光に触れただけで消滅するほどの“力”は、ピトーとはいえまともに受ければ戦闘不能を免れないはず。

 “殺す気”を露にしてやれば、応じてピトーの【オーラ】も禍々しく爆発した。数多の試合は交わしたが、しかし初めての殺し合いが迫る。

 

 怒りで噛みしめていた口が、闘志に笑んだ。今まさに放たれんとしたその時、

 ぽん、と、不意に肩が叩かれた。驚き、ピトーを視界に入れたまま僅かに顔を傾ければ、そこにはミルたんの姿。

 

「ミルたんは、黒歌さんにピトーさんを信じようって言ったにょ」

 

 偉丈夫は、しっかりとピトーを捉えて言う。期待していたその登場、リアスたちは無事なのかと聞く余白もなく、彼の力強い【オーラ】が身に溢れていた。

 それはつまり、ミルたんもまた覚悟を決めているということだった。

 

「結界に囚われるピトーさんを助けようとして拒絶された時、黒歌さんはピトーさんの変化に気付いてしまったにょ。だからミルたんは黒歌さんを元気付けたくて、言ったんだにょ」

 

「……そう」

 

 ミルたんを見つめ返すその眼は硬かった。どうでもよさそうな無感情に固定され、返される。

 

 黒歌の想いを無価値にしようとする心。つまり今は無価値でないということで、それを上回るものを望む彼女の内心が、ミルたんの顔に一瞬陰を作った。

 

 だが、拳は握られる。

 

「……それがどうしてこんなことになっちゃったのかは、ミルたんもわからないにょ。けどピトーさんの中にフェルさんが、“フェルさんであろうとしたピトーさん”がいるのなら、ミルたんも黒歌さんも曹操くんも、みんなずっと信じているにょ」

 

 強大な【オーラ】が溢れかえった。

 

「それだけにょ」

 

 そして、爆発した。

 

 目にもとまらぬ速度でミルたんの巨体が突っ込む。俺と、恐らくピトーも、それを認識したのは間近まで接近したミルたんがピトーを攻撃しようとするその直前。すさまじいとしか言いようのない量と精度の【オーラ】を纏った拳が、ピトーの胴に振り下ろされた。

 

 だがそれが届く前、直前の察知と攻撃のその狭間、一瞬とも評せないようなわずかな時間で、ピトーは能力を発動させた。

 【黒子舞想(テレプシコーラ)】。自身を操作することによって限界を超えた動きを可能にする能力。ピトーの頭上に出現したバレリーナのような人形は、間違いなくその効果を発揮した。

 

 回避。まるでミルたん自身が攻撃を当てずに逸らしたかのように滑らかに、操られたピトーの身体はミルたんのパンチの横をすり抜けた。

 もし俺であれば指の一本も動かせなかっただろう。だがピトーは躱してみせて、さらに懐に潜り込んだ腕がカウンターまで繰り出した。

 

 ミルたんに負けないほどの【オーラ】が下から顎を打ち上げた。防ぐことなどできるはずもない。そして脳が揺れれば、仮にも人間であるミルたんは耐えられない。

 

「ッ!!?」

 

 はずが、息を呑んだのはピトーのほう。

 ミルたんは微動だにしていなかった。顎に突き刺さった拳はそこで止まり、威力を脳まで伝えていない。首の筋肉のみで受け切って、さらにミルたんは止まらなかった。

 

 二撃目が飛んだ。対してピトーは表情に動揺を引きずりながらも再び瞬時に反応する。上から振り下ろされた剛拳が大地だけを割り砕き、ピトーはその盛り上がった腕の筋肉を踏んで跳んだ。

 そしてほんの一瞬だけ宙で静止したピトーの脚が、瞬間激しい強張りをみせる。目視できるほどの濃い【オーラ】が迸る、踵落としの予兆。それを眼にして、ようやく俺は聖槍の力を解き放った。

 

 いわば聖なるオーラの光線だ。無視できるはずもないそれにピトーは攻撃を中断し、代わりに強張りを足元に展開した小さな結界へぶつけ、空中で体勢を変えて光線を回避する。光線は背のギリギリを貫いた。

 

 ダメージを与えられはしなかったが、とにかく間は開いた。俺は急いで脚を進め、地面に突き刺さった拳を引き抜くミルたんへ呆れを言った。

 

「まったく、一人で先走らないでくれよ。おかげで攻めの段取りが滅茶苦茶になったじゃないか」

 

「……できれば、曹操くんに戦ってほしくなかったんだにょ」

 

 だから一人でやろうとしたと。

 

 だが、弱々しい口調はもう理解してしまったようだ。圧倒的なパワーと耐久力を誇るミルたんだが、しかしピトーが相手ではそのパワー、そもそも当てることが難しい。体技も速さもレベルで言えば文句なしに高いのだが、ピトーの能力がそれをはるかに上回ってしまっているのだ。

 

 加えて繰り出そうとした踵落とし、そしてさっきの魔法陣を鑑みるに、ピトーは俺が知る時よりもかなりパワーアップしているらしい。鍛えていたのだとしてもすさまじい上り幅。あらゆる攻撃を見切ってしまう“技”に魔王レベル以上とも思えるほどの“力”が合わさって、もはやピトーは“強者”程度で立ち向かえるような相手ではなくなってしまっている。

 だからこその、ミルたんの苦言だ。自分一人ではピトーを倒すことは難しいが、かといって手を借りることのできる曹操は、この場では弱い(・・)。ミルたんは肉体面でまだピトーに勝るが、俺は“技”でも“力”でも“身体”でも彼女に劣っている。

 ピトーと戦うには、人間ではあまりによわっちいのだ。

 

「そんなこと、五年も前から知ってたさ!!」

 

 叫び、攻めあぐねるミルたんを置いて俺は地面を蹴り飛ばした。瞬く間に距離を詰める。ピトーが構え、拳の先が俺に向くのを感じ取った。

 

 殺意ではないが、戦意を向けられるのは決して初めてではない。組手や試合は星の数ほど繰り返してきた。そしてどうあがいても人間でしかない俺は、その度に打ち負かされてきた。

 一度も勝てたことはない。悔しくて、増す一方の闘志に行き場が無くて、だからその度、その気がなくても考えてしまった。

 

 組手でも試合でも勝てない。だがもし本物の戦いであれば(ルール無用なら)どうだろうか、と。

 

 あるいは、ピトーという強大な獲物をどう狩るかという妄想。幼稚でくだらないことだとは思う。頭の中での憂さ晴らしも同然だ。まともな喧嘩で勝てないからと、ナイフを片手に夜道を襲う想像をするチンピラのようなもので、仮にそれで倒せても、自分がピトーよりも弱いという事実に変わりはない。

 

 だがしかし、幼稚でもくだらなくても、俺はどうしても、ピトーを相手に“勝ち”を見たかったのだ。

 そんな思いで変化した能力、殺意も剥き出しにした全力を、俺は初めて解き放った。

 

禁手化(バランス・ブレイク)!!」

 

 【|極夜なる天輪聖王の輝廻槍《ポーラーナイト・ロンギヌス・チャクラヴァルティン》】――!!

 

 瞬間、俺の背後に輪後光が射すと共に、ボウリング大の球体が計七個、【七宝】が現れた。その一つ一つにはそれぞれ異なる能力――この場面に適するものも適さないものも含め――秘められている。

 

 が、ピトーがそんなことを知るはずがない。ジークやヴァーリにも見せたことがない禁手(バランス・ブレイカー)なのだ。故に彼女が想像するのは、偶然にも似通ってしまった黒歌の念能力、【黒肢猫玉(リバースベクター)】。その全てが触れれば致命傷となり得る黒い念弾。

 

 だからピトーの警戒は、【七宝】の全てを自身めがけて飛ばされた瞬間、七個それぞれ平等に差し向けられ、回避へ動いた。

 身体に接触させたくないという思いの先行。少なくともその瞬間、彼女に迎撃の選択肢はない。おかげで無事に射程距離に捕らえた球体の一つ、【女宝(イッティラタナ)】は、見事にその効力を発揮した。

 

「ッ――!!?【黒子舞想(テレプシコーラ)】が――」

 

 眩い、しかし目つぶしにはなりえない程度の輝きが放たれ、ピトーを包む。すると瞬時にピトーの頭上の人形が解けて消えた。

 

 【女宝(イッティラタナ)】、本来は女性の異能を一定時間封じるというものだ。しかし強力な効果の代償に、相手がある程度の強者であれば全く通用しないという欠点も有していた。

 そしてその“ある程度の強者”の範疇には、確実にピトーが入ってくる。つまりこの能力は無意味。故に無駄を削ぎ落した。

 

 対象は女性の、すでに発動している能力だけでいい。期間はほんの一瞬でいい。そして“封じる”ではなく“解除”でいい。

 さらには連続使用ができない条件まで設定し、そこまで限定して、ようやく【女宝(イッティラタナ)】はピトーの圧倒的な速さを奪うに至った。

 

「――ぐッ!!」

 

 初見且つ、輝きという不可避。さしものピトーも【黒子舞想(テレプシコーラ)】を前提としていた動きを途中で止められれば即座に体勢を取り戻すことは不可能。驚愕は能力の再発動も遅らせて、迫っていた【七宝】、【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】に胴体を打ち据えられた。

 

(だが……)

 

 決定打には程遠いだろう。

 単純な破壊力のみを求めたそれは確かにピトーにダメージを与えたが、しかしそれまで。膝をつかせることもできない。俺の手札でそれが叶うのは、やはり聖槍本体による攻撃のみだ。

 

 ピトーもそれはわかっている。故に次なる警戒は、【七宝】の後に続き突っ込む俺に向いた。それから逃れるようにして、打たれた勢いに身を任せた彼女は自ら吹き飛ばされ、俺との距離を離そうとする。

 

 接近する俺の方が速いが、しかし彼女が手に入れたのは逃避ではなく時間だ。聖槍が届くまでの間が伸び、その間に【黒子舞想(テレプシコーラ)】を再発動しようという目論見。【女宝(イッティラタナ)】が為したのが“解除”である以上、その発想は当然だ。

 そしてそれは十分に叶うだろう。凡庸な使い手であれば能力の発動に数秒かかったりもするが、ピトーのそれは段違い。コンマ一秒を切る。手に入れたのが僅かな間でも、それだけあれば聖槍が届く前に【黒子舞想(テレプシコーラ)】を発動し、回避することは容易なはずだ。

 

 そうやって俺の追撃をかわし、振出しに戻して蹂躙。

 

(できると思っているなら、少し俺を舐め過ぎだ――ッ!!)

 

 ネタ一つで打ち止めなわけがあるか。

 厳しい表情ばかりのピトーの戦意に対し、俺は段々と頬が持ち上がっていくのを自覚した。

 

(――【馬宝(アッサラタナ)】!!)

 

 ピトーの背後にするりと逸れていった【七宝】の三個目。これもまた、強敵相手には通じない欠点を持った能力だった。しかしこっちも制約、インターバルと効果範囲の制限を設けることによってそれをクリア。

 

 発動するその効果は、強制的な短距離転移だ。

 

 眼前のピトーの姿が掻き消える。そして直後に現れたのは、振り下ろされている途中のミルたんの拳。その目の前だ。

 

「――!!」

 

 息を呑む間すらない。例えここから【黒子舞想(テレプシコーラ)】を発動したとしても、その頃にはパンチが命中している距離。つまり回避不可能。俺の能力に見事なタイミングで合わせてくれたミルたんの全力を食らえば、受けるダメージは聖槍と同等、うまくいけば致命傷まで手が届く。

 

 確信した。が、ピトーは【黒子舞想(テレプシコーラ)】を発動させなかった。代わりに腕が閃く。ほど近くにあったそれが辛うじて己が身とパンチの間に滑り込み、そしてパンチに込められていたミルたん渾身の【オーラ】と、急ごしらえであるように手のひらしか覆わない奇妙な(・・・)オーラ(・・)】とが衝突した。

 

 防御された。しかし【硬】ですらない【念】でミルたんの攻撃を受け切れるはずがない。無事では済まないはずと、振り向く俺はその攻防を視界の正面に捉えた。

 

「な――に!!?」

 

 そして絶句する。ミルたんも驚きに眼を見開いた。

 

 確かにピトーは吹き飛ばされはした。だがそれは僅かな距離で、体勢さえ崩れていない。パンチの勢いで地面を滑り、それだけだ。

 ダメージを受けた様子がない。だがどうなっているんだという困惑はあれど、それで攻めの手まで緩めはしない。致命傷に留まらず止めを刺す手札まで、すでに俺は切っている。

 

 俺はゆっくりと【念】を練った。それを全て聖槍に注ぎ込む。たちまち溢れる極大なオーラは、嫌が応にもピトーの注意を引いた。

 首だけが振り向き、鋭さの増した眼が俺を見る。少しでも動けばすぐに対処できるよう、槍だけでなく俺の手足も顔も、じぃっと。

 

 それだけの意識が向いていれば、四個目の【七宝】、【居士宝(ガハパティラタナ)】によって生み出された幻影には気付きようがないはずだった。

 

 しかし、突如ピトーが纏う【オーラ】が広がった。

 

「ッ!!?」

 

 【円】だ。アメーバ状の特異なそれが広がり、猛烈な悪寒が俺やミルたんを包み込む。

 

 もちろん、今まさに奇襲を仕掛けんと気配を消してピトーに襲い掛かった幻影もだ。

 

「……そっちのやり口は、ボク組手とかでさんざん見てきたから」

 

 小さく呟き、そして一瞬だった。【円】を収め、振り返りざまに振るわれた拳が幻影を捉えて叩き潰した。幻影と、それを生み出していた【居士宝(ガハパティラタナ)】までもが破壊され、粉々に砕け散る。

 

 それを認める前に、俺は脚を動かしていた。再突撃。構える槍は注ぎ込んだ【オーラ】のおかげでさっきのミルたんの一撃にも届く威力で、聖なるオーラも併せればあれ以上にピトーを蝕む力を持つ。

 

 切った手札は潰えたが、しかし隙も生み出したのだ。幻影を消し飛ばすために向けた背中、その上空には【黒子舞想(テレプシコーラ)】の姿がない。【円】も併用しているために余裕がないのか、それとも別の理由なのかはどうであれ、素の状態ならば聖槍の攻撃も通せなくはないはず。

 何連撃とかけてでも彼女の体捌きを追い越す気概で、俺は聖槍に【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を纏わせ、突き込んだ。

 

 だが、

 

「受け止め――ッ!!?」

 

 想像は根底から外れ、ピトーは槍を避けなかった。腕を突き出し、手のひらで止めたのだ。

 

 真正面から切っ先を、だ。いくらなんでもありえない。そんな驚愕のあまりに見開かれる俺の目は、ピトーの手のひら、切っ先との間に挟まる奇妙な(・・・)オーラ(・・・)】に気付き、その正体を認めることとなった。

 

「人形――!!念能力か!!」

 

 所謂、藁人形によく似ていた。手のひらに収まるサイズのそれがクッションのように衝撃を受け止め、さらには攻撃の【オーラ】を吸っていることに俺は気付く。

 似た能力の存在が頭をよぎり、俺は焦燥を噛み潰し、急いでそこを離脱した。防がれてしまった聖槍を握る手が強張り、力が入る。息を吐き出しどうにかそれを緩めようと気を落ち着けながら、静かにピトーへ言葉を向けた。

 

「……まさか俺の知らない能力を作っていたとは……薄情だな。俺とお前の仲なんだ、教えてくれたってよかっただろうに」

 

「お互い様じゃない?曹操だって、禁手(バランス・ブレイカー)だっけ、使えるなんて初めて聞いたにゃ」

 

「それはお前、【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】自体隠しているんだ。わざわざ話すわけが――っと、俺にも返って来るな、この言葉は」

 

 強気に笑みを浮かべてみせる。知りもしなかったピトーの新能力、あの盾があったからこそミルたんのパンチに耐えられたのだろう。そして俺の聖槍も、衝撃と共にその威力の源、聖なるオーラを吸収されたことで効果を発揮しなかった。

 

(いや……“吸収”というよりは“肩代わり”に近いか……。やり返されたな)

 

 叩き込まれる衝撃と【オーラ】、つまりダメージを人形が代わりに受けた。その割に人形に傷がついた様子はないが、感覚的にはそう感じた。改めて考えれば、ヴァーリの【白龍皇の光翼(ディバイン・ディバイディング)】による【吸収】とは明らかに異なる。

 

 離れるべきではなかったのかもしれない。元々あった印象を利用し返され、吐き出す域に苛立ちが混じる。

 

 それでも頭には上げずに、直後俺は三度踏み込む。しかし今度は一人ではなく、先に飛び出したミルたんの背を追ってだ。【七宝】、新たに生み出した【居士宝(ガハパティラタナ)】も併せて周囲に集め、援護の体勢。

  藁人形への警戒だ。効果が“肩代わり”であるのなら、代わりに受け止めた“力”は果たしてどうなるのか。何が起きるかわからないからこそ肉体強度の高いミルたんが前で、対応力の高い俺が後ろ。

 

 【馬宝(アッサラタナ)】はまだだが【女宝(イッティラタナ)】のクールタイムは終わった。なら取り返しのつかないタイミングで人形ごと能力を解除してやればいい。

 むしろチャンスとそう切り替えて、拳を引き絞るミルたんの奥をじっと見つめる。するとやはり、ピトーと藁人形に動きを捉えた。

 

 ただし藁人形は俺の攻撃を止めたものではなく逆の手に握られていたものだった。恐らくそっちはミルたんのパンチを受けたほう。ピトーはそれに【オーラ】を注ぎ、そして変化は急激に起こった。

 

 藁人形を滑らかな素材が覆い始めた。たちまち藁人形の全身はその下に隠れ、姿が変わる。変化したそれはどうやら、ミルたんを模した人形であるようだった。

 

 ――嫌な予感しかしない。

 

 しかしできることなら効果の詳細を確かめるまでは【女宝(イッティラタナ)】を使いたくない。衝動を呑み込む。するとその時ふと、ピトーの眼がミルたんから俺へと移り、そしておもむろにミルたんの人形を抛り捨てた。

 

 同時に空いた手に魔法陣。魔力攻撃かと身構えるが、現れた魔法陣はあまりに小さい。それによって生み出された氷も比例して小さく棘程度の大きさ、しかも一つきりだ。

 ミルたんどころか俺にすら傷の一つも付けられないだろう。ピトーはそれを、抛り捨てた人形に向けて発射した。

 

 予想していなかった方向、さらにはそもそも人形はピトーの真横、破壊された舞台の結界へ向けて抛られている。止める手もなく、またその余裕もなく、氷の棘はミルたんの人形の片腕に突き刺さり、さらに結界にまで突き刺さって縫い留めた。

 

 それこそが、ピトーの能力の発動条件だったのだ。

 

「ッ!!?ミルたんの腕が――!!」

 

 動かない。宙に固定されたように、殴りかからんとした剛腕が突如として停止した。繋がる身体もそれに縫い留められ、脚が止められる。

 

(これかッ!!相手を模した人形で相手の動きを制限する能力――!!)

 

 その条件が“素体となる藁人形に相手の“力”を受けさせること”なのであれば、俺もまたその条件をクリアしてしまっている。証拠にピトーのもう一方の手の中ではすでに藁人形が変化を始めており、見せつけるように突き出されたそれには濡れ羽色の髪が生えてきていた。

 

(俺まで動きを止められるのは不味すぎる――ッ!!)

 

 そこに待っているのはなぶり殺しだ。戦慄に導かれるまま、俺は【女宝(イッティラタナ)】を発動させようとした。

 

 が、

 

「――なんで……逃げてって言ったはずにょ!!」

 

 ミルたんの大声とほとんど同時に、人形の変化が止まった。ピトーの目からは戦意を含めた感情がスッと抜け落ち、見開かれた丸い目が俺ではなくその背後、ミルたんも見やっているそれを見つめている。

 

 あまりの激変に俺の“力”も固まって、思わずそっちを振り向いた。

 

 リアスたちの姿があった。黒歌と、とうとう気を失ってしまったらしいジークを運び出そうと、三人で奮闘している。それらの顔が一斉に恐怖に囚われ、こっちを、ピトーを向いた。

 

 その瞬間、ピトーの【オーラ】が膨れ上がった。

 

 【黒子舞想(テレプシコーラ)】が発動し、ハッとして振り向く間もなく、操られたその身体が俺の隣を駆け抜ける。俺は遅れながらも、ほとんど反射でその能力を消し去ろうとした。

 

「ダメにょッ!!」

 

 だが反射故に、その絶叫で【女宝(イッティラタナ)】は留まった。代わりに爆発するミルたんの【オーラ】。ピトーが放つ悍ましい気配も覆い隠すほどのそれが一点、固定された腕に集まり、鬼と思えるほどに歪んだ形相と咆哮が、宙の拘束を引きちぎった。

 

 人形に突き刺さっていた棘も砕け、自由を取り戻したミルたんは、常軌を逸した肥大をみせる筋肉から湯気を吐き出し、用いてたちまちピトーへと追いついた。一方ピトーも予期していたのか振り向き、両者同時に攻撃の構え。

 

 いや、勝負を決する気合だった。二人とも攻撃の手には【硬】。防御力はゼロで、当てれば相手を殺すことが叶う。

 

 そんな状況を、ミルたんははっきりと眼に見てしまった。

 

「っ――」

 

 ほんの一瞬、生まれた躊躇。ピトーを殺すことがどういうことなのか、頭の中に巡った。

 

 しかし感情が消し飛んだピトーにはそれがなく、

 

 どぎゅっ

 

 ミルたんの鋼の身体を、ピトーの貫き手が貫いた。




そんなわけで曹操の【七宝】に少し手を加えております。せっかくの能力なのにピトーに通用しないっていうのは寂しいので。
ところで【女宝】とかいう自分よりも弱い女性を(戦闘能力的に)丸裸にする能力ってなんだか一誠味がありますね。
感想ください。


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十四話

誤字報告ありがとうございます。


 ピトーが手を引き抜いた。途端どばっと溢れ出る鮮血。胸に大穴を開けたミルたんの身体が力を失くしてゆらりと傾き、そして倒れ伏した。

 

 地面に赤色が広がっていく。その上でピクリとも動かなくなったミルたんに、リアスの顔がどんどん自責で染まっていった。

 

「あ……わ、わたし……」

 

 その震え声に、ピトーはゆっくりと振り向いた。己が下したミルたんから眼を外し、緩慢に背後へと持っていく。眼差しは、明らかに殺意のままだった。

 

 それを認めて、ようやく俺も動揺を振り払った。

 

(――ッ!!【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】!!)

 

 【七宝】の一つを差し向ける。あっさりと弾き返されるが時間稼ぎには十分で、その間で回り込み、ピトーとリアスたちの間に滑り込んだ俺は聖槍でピトーの裏拳を受け止めた。

 

 【オーラ】と【オーラ】がぶつかり合う衝撃。拳の背と合わさっているのは刃だというのにどちらも傷つかず拮抗してしまう光景は、わかっていても些かならぬ心理的なダメージを俺に与えた。だからその分リアスと同様、ミルたんを守れなかったことに激しい後悔が迫り来る。【七宝】の能力も過半数が割れてしまった今、自分一人でリアスたちを守りつつ格上のピトーを倒すのはかなり困難だ。

 おかげで歪む俺の顔を、ピトーは相も変わらず丸い眼で見つめながら、ふと呟いた。

 

「ボクの念を解除する能力、使わないの?ほら、使わないと、曹操の技量じゃボクに追いつけなくなる」

 

 せめぎ合うピトーの拳が滑り、しなって流れるようにこちらの懐に入り込もうとする。俺は脳が焼き切れそうな感覚を味わいながら速度に必死に食らいつき、再び槍でそれを止めた。

 

 余裕もなく、拳を凝視したままなんとか返す。

 

「頭が、冷えたんだよ……ッ!ミルたんのおかげでねッ!」

 

 あの時の静止の声。遅れて我に返って気付いたのだ。【女宝(イッティラタナ)】でピトーの【黒子舞想(テレプシコーラ)】とミルたん人形の能力を解除しようとしたあの場面、よくよく考えれば妙だった。

 今ピトーが言ったように、ピトーは【女宝(イッティラタナ)】の効果を既に把握している。にもかかわらずこれ見よがしに俺の人形まで具現化しようとして、まるで【女宝(イッティラタナ)】を使って来いと言わんばかりの能力の大盤振る舞いだ。クールタイムの制約に気付いてその隙を狙っているという可能性もあるだろうが、俺の動きを制限できる人形は強力なうえに恐らく簡単に再度具現化できるものではないはず。それを失って得る隙は決して対価に見合うとは思えず、故に普通は“使わせよう”ではなく、【女宝(イッティラタナ)】の発動を“躊躇させるよう”に動くのではないだろうか。

 

 無論ブラフの可能性もある。だが【念】と名のつくものの大抵に干渉できる仙術を操る黒歌が傍にいるのだから能力強制解除への対策を考えようとするのは自然であるし、その可能性がある以上、一人となった今は危険など冒せない。もし厄介なカウンターを食らってしまえば、フォローしてくれる味方はもういないのだ。

 

(【女宝(イッティラタナ)】は、もう安易に使えない……!)

 

 だが言の通り、使えなければピトーの速さは奪えない。つくづくあの時点で見抜けなかった己が不甲斐なかった。

 

「んー……やっぱりミルたんって、無茶苦茶だけど鋭いよね。さっさと倒せてよかったにゃ」

 

「……その割には、少し残念そうじゃないか……!キメラの仲間欲しさに裏切った割に、まだこっちにも情が残っていたのか……?」

 

「『残念そう』?……ああ、まあ、確かに最後の最後でしり込みされたのは残念だったかも。どうせならちゃんと戦って()りたかったにゃぁ……ッ!」

 

 戦闘狂らしい返しを放ち、間もなく再びピトーの拳が膠着を抜け出し、俺へと襲い掛かる。鬱憤を誤魔化すか、あるいは別の何かを押し隠そうとするような唐突な再開だが、思考に沈む余地もなく俺の脳味噌は見切りと反射にばかり割り当てられた。でなければもはやピトーの攻撃を捌けず、しかもその攻撃は徐々に徐々に速くなり始めていたのだ。

 

 さあ使え。使わなければすぐ死ぬぞ。ピトーはあからさまにそう言っている。つまり【女宝(イッティラタナ)】を発動させた瞬間、俺の負けが決まるということか。

 

(さあ、どうする……!!)

 

 スパークする脳の隙間に思考能力を捻り出し、考える。逆転の手、打開法、何でもいいからできることはないかと探し回る。

 

 槍と拳の打ち合い。そんな只中に、ふとリアスの震えた声色が蘇った。

 

「殺し……そ、そうよ……!早く、早くミルたんを助けないと……あ、あんなに血が……」

 

 音で気付く。リアスがこちらに来ようとしている。怒鳴り散らしたい衝動に駆られたが、幸いなことにその余裕も必要もなく、ゼノヴィアが大声でそれを留めた。

 

「ダメだ部長!!あんなところに飛び込めばあなたが死んでしまう!!」

 

「落ち着いてリアス!大丈夫……大丈夫だから……」

 

 と、恐らくリアスを抱きとめたのは残ったもう一人の悪魔、ソーナ・シトリーだろう。トラウマの再発か、不安定なリアスに続けて語りかける。

 

「貴女のせいじゃないわ。貴女は正しいことをしたの。ウタとジークフリートを助けたでしょう?だから自分を責めないで……」

 

「その通りだ!以前も皆が言っただろう!?部長の優しさは誰が何と言おうと正しい!それだけは間違いないんだ!!」

 

「いーや、リアスちゃんのせいだね」

 

 哄笑混じりのその声は、突然上から降り注いだ。ちょうどその時なんとか打ち合いを再びせめぎ合いに持っていった俺は、注意はピトーに向けたまま、視線を一瞬そっちに向ける。

 

 リゼヴィムは、その背をプフとユピーとの戦いで疲労困憊な様子の魔王たちへ晒し、大胆にもまっすぐこちらを見下ろしていた。

 責める視線を叩きつけ、身を震わせるリアスへさらに言う。

 

「みんなを助けたい、誰も見捨てたくない、だって私は情愛のグレモリーなんだから!……アヒャヒャヒャヒャ!結果、守ってくれてた大恩人を殺しちゃった!だから正しくは“せい”じゃなくて“おかげ”だね!ありがとう!厄介なミルたんを倒せたよ!」

 

 底意地の悪い顔がリアスに向けてにっこりと笑いかける。深まる絶望の声色が「また……私……」と呆然として呟くと、すぐさま二人の怒声が覆って塞いだ。

 

「ふざけるなッ!!元はすべてお前のせいだ!!ミルたんや曹操を襲わせているのはお前だろう!?」

 

「それに変異キメラアントのピトーは本来、五年前にアイザック・ネテロに討伐され、しかもつい最近、生き延びていた彼女をリアスたちが倒したはず。……禍の団(カオス・ブリゲード)に加わっていたことも考えれば、貴方が彼女を従え、手助けしていることは明白!この戦いを引き起こしたのは他でもない貴方でしょう!!」

 

「そうだ!!部長の優しさを利用しておいてよくもそんなことが言えるな!!

恥を知れ下種め!!」

 

 語気の荒いゼノヴィアとソーナ。しかしリゼヴィムは芝居がかった調子で首を振る。

 

「いやいやいや、なんでもかんでもおじいちゃんのせいにしないでくれない?おじいちゃんはあの魔獣なんて助けてないし、操ってもないもんね!」

 

 言い切り、リゼヴィムは全く信じた様子のない二人を鼻で笑ってから、少し俯き気味に考え込む様子をみせる。

 

「でもまあ、そうかもねぇ……。甘さを知っててそれを利用したことは間違いないわけだし、そういう意味じゃあ戦略の賜物ってことになるのかな?じゃあ褒めてあげないと!褒めて伸ばすのがウチの教育方針なんだ!」

 

「この……!!どこまでもふざけたやつだ!!」

 

 憤慨するゼノヴィアは構える聖剣デュランダルの刃を、思わずといったふうにリゼヴィムに向ける。がもちろんリゼヴィムが取り合うはずもなく、それどころか嘲笑うかのように言葉が続いた。

 

「というわけで……リゼちゃんポイント百点あげちゃう!よくやったねぇ」

 

 表情まで厭らしい。

 

「フェ~ルちゃ~ん!」

 

 ピトーに向けて、リゼヴィムはその名を口にした。

 

 やっぱり知っていたのか、という納得と共に、とうとう衆目の前で言いやがった、という舌打ちが俺の口から零れ出る。サーゼクスたちやリアスたち、特にゼノヴィアが、憤然を固まらせて困惑に眉をひそめた。

 

「なにを……なぜここでフェルさんが出て来る!お前が救い、手懐けて曹操と戦わせているのはピトーだろう!?」

 

「だーから何もかも違うって言ってんでしょデュランダル。バカだねぇ、救ってないし手懐けてもないし、フェルはピトーだって言ってんだよおじいちゃんは!」

 

「だから意味が……ッ!まさか、京都でフリードが使ったあの薬!あれでフェルさんがピトーの姿に!?」

 

「そう――いや違う!フェルは最初っからピトーの変装なんだってば!なんかの念能力で人間の姿になってたの!……全く、ない頭でももうちょっとうまく使って理解してほしいもんだね。でしょ、曹操くん?」

 

 リゼヴィムは意味を呑み込めないゼノヴィアから、その矛先を突如として俺に向けた。心臓が跳ね、受け損ねたピトーの拳が服を貫き肌を掠める。

 込められた【オーラ】が激しい痛みを伝えて来るが、それでも意識はリゼヴィムへとその注目を寄せたままだ。

 

キメラ化(オーダー・ブレイク)だっけ?あんな作りかけのアイテムなんか、俺が仕込みに使うわけないでしょ。てか、まともな形に変身できるはずないもんね」

 

 キメラ化(オーダー・ブレイク)まで知られていることの驚きだった。名称も、その開発が道半ばであることも、知る人間は決して多くない。おまけにどうやら京都の事件に俺が関わっているということまで知っている様子。

 

(その情報源は……)

 

 やはり、彼なのだろうか。確証も何もないまま、疑惑はその解を求めて俺の顔に不敵の笑みを作る。

 

「なら、何を仕込んだだリゼヴィム……!まさかペットよろしく“お座り”の――ッ!!」

 

 と、自然と出てきたジョークはピトーのほうから怒りを引き出してしまう。一際パワーの増したパンチが槍を襲い、その重さが俺に膝を突かせた。

 

 叩き伏せられる寸前で歯を食いしばり、必死にそれを受け止める。その奥からピトーの冷たい視線が俺を射抜いた。しばしの間があり、眼と同じく冷たく言う。

 

「……羨ましいなら、ボクが仕込んであげようか?“お座り”」

 

「結構、だ……っ!人間の誇りは、そうそう捨てられないもんでね……!」

 

 さすがに怒るのか、というか手まで出るほどかと、内心で冷や汗を拭いながら応じる。しかしとにかく押し込まれたままではまずい。何度とも知れぬ必死を振り絞って“お座り”からの脱出を試みていると、あの狂ったような笑い声がまたリゼヴィムの喉から放たれ響き渡った。

 

「アヒャヒャヒャヒャ!!“人間の誇り”!?ジョークセンスキレッキレじゃん!その“誇り”のためにピトーを生かしちゃったからこんなことになってんのにさぁ!」

 

「なに……?どういう、意味だ。リゼヴィム……!」

 

 サーゼクスがプフの魔力を弾き返しながら、疲れ切った様子で息を吐きつつ疑問を吐き出した。

 

 それはこちらにとってかなりの致命傷、しかし噴き出た血の量はもはや隠し切れないほどだ。故にどうしようもなく、俺は膂力の全てを注ぎ込み、辛くもピトーのパワーをいなして重いパンチをすり抜けた。

 

 距離を取り、立ち上がると、ひとしきり笑ったリゼヴィムの返答がその上空からサーゼクスへと返る。

 

「意味も何も、さっきからずーっと言ってるじゃんよ。……わからん?フェルの正体はピトーでしょ?じゃあそのフェルが所属している勢力は?」

 

「ッ――!!」

 

 一拍置いて息を呑む音。そして再発する哄笑が全員を舐める。

 

「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!どいつもこいつもバカばっか!そんなんだから三流政治家とか言われちゃうんだぜサーゼクスちゃん!相手のことなーんにも知らないのに仲間に引き入れちゃうんだもん、悪魔の駒(イーヴィル・ピース)もそうだけど、もう笑うしかねェよこんなもん!」

 

 疲労消耗を吹き飛ばすほどの衝撃的な事実。意識が戦闘からリゼヴィムの怒りへと切り替えられたらしく、眷属たち三人は皆、激怒の眼をそっちへ向ける。が一方、リアスとゼノヴィアは傍で伏す黒歌を見つめ、驚きに呑まれていた。

 

「そんな……ということはまさか、ウタも……?」

 

「今まで、すっと……」

 

 深く関わってきた二人だからこそ、信じ難いという思いが強いのだろう。しかも黒歌の方はまだ“ウタ”のまま、パリストンの能力は持続し続けてとても黒歌の印象とは繋がらない。

 

 が、疑われた時点でもはや挽回のしようがない。本当にどうしようもなくなったのだ。今までの苦労は無に帰し、ため息をつきたくなるが、当人たるピトーには、もうそんな感傷などは存在しなかった。俺は実際に息を吐く間もなく、それに対応せざるを得なくなる。

 

 せっかくとった距離を、ピトーが急速に詰めてきた。正確にはその予兆で、脚が曲げられ、筋肉が膨らみ強張っている。俺は槍を固く握り、それと同時にピトーの身体が半ば煙って飛び出した。

 眼が追い付かないほどの速度。しかしもう幾度も眼にし、そのスピードには随分慣れた。とはいえギリギリではあるがとにかく捉え、聖なる刃がカウンターのように、突っ込んでくる胴体を切り裂いた。

 

 と一瞬は思えたほどの軌道だったが、ピトーの【黒子舞想(テレプシコーラ)】はそれをも避ける。ただし意外な方向に。

 

「――ッ!!また無視かッ!!」

 

 大きく横に躱していた。俺の槍は届かないがピトーの拳も届かない距離。そうしてそれた凶刃の目当ては、背後のリアスたちだ。狙うことで俺の行動を制限するとかそういうことではなく、やはりどうしてもリアスたちを殺したいらしい。

 

 だがもう二度目はない。俺はピトーのパワーに集中するため意識を切っていた【七宝】を再び操作し発動させた。

 

「【馬宝(アッサラタナ)】!!」

 

 同時に槍を操りながら自身を転移させる。次の瞬間、俺の目の前にあるのはピトーが通り過ぎた軌跡ではなく背中そのもの。俺を抜いたと思い込み、リアスに夢中なピトーのそれは無防備だ。滑らかに閃く俺の槍は動きを止めず、直後にそこを貫かんと突きを放った。

 

 静かな連撃。ピトーの類まれな第六感は寸前にそれを察知するが、目がそれを捉えたのみでとても回避の暇はないはずだ。狙ったのは身体の正中線で、しかも転移した刃はミルたんの時のようにもう打ち放たれた後。【黒子舞想(テレプシコーラ)】で動こうが身体のどこかには傷が行く。

 再発動のインターバルで連発できない事と、これでもなお致命傷には程遠いことが難点だが、今の手札では数少ない“ピトーに攻撃を当てる手段”。こんなところで切りたくはなかったが――

 

(やむを得ない!!リアスたちをここから離して、それからまた仕切り直す!!)

 

 俺は全力でピトーの身体を貫いた。

 

 その寸前に、不可視の力に腕が引っ張られた。

 

「ッ――!!?」

 

 槍先が明後日の方向を向き、ピトーの肉ではなく空を貫いた。またも空振り、しかも今度のピトーは避けてもおらず、脚はリアスに向いたままだ。

 

 動きを見せたのは片方の手のひら。その下に吊り下げられた俺の人形が、四指から伸びる魔力の糸に片腕を上げさせられているという、それだけだ。そしてその腕と同じように、俺の右腕も独りでに動いたのだ。

 

 思い違いを悟る。

 

(行動の制限じゃない、人形と本人の状態をリンクさせる能力――!!)

 

 間接的に相手を操作する能力だ。アンテナを使うようなよくある操作系能力の、少々効果が劣ったバージョン。しかしその条件が圧倒的に簡単だ。おまけにかけられれば即詰み、という面では大して変わらない。

 

 想定していたよりもずっと凶悪。【女宝(イッティラタナ)】の発動が頭をよぎるが、どのみち間に合わないと切り捨てられ、代わりに左手が槍を受け継ぎ、連撃を繋いだ。

 だがいずれも空を切る。動きを把握され、的確に行われる妨害操作が【黒子舞想(テレプシコーラ)】と相俟って最小限での回避、そして、リアスたちへの接近を許してしまった。

 

「ぐお――!?」

 

 追いすがろうとするが、地面に叩きつけられた人形にまたも氷の棘を撃たれ、動けなくなる。その間にピトーは、呆然とするリアスとゼノヴィアを守ろうとするソーナが放つ水龍を容易く砕き、そして返しに悠々、魔力を放った。

 

 強烈な爆発が、リアスたちを呑み込み辺りを揺らした。轟音と爆風。動けない俺はそれをもろに喰らうことになり、リアスたちを移動させるために動かそうとしていた【象宝(ハッティラタナ)】、飛行能力を有する【七宝】を反射的に盾に使う。瓦礫のいくつかを弾き飛ばし、そしてようやく治まった周囲を確かめれば、三人はやはり吹き飛ばされて気を失い、血まみれで倒れ伏してしまっていた。

 傍に寝かされていたジークと黒歌の姿もある。しかし当たり所がよかったのかはたまた別の要因か、全員生きてはいるようだ。すぐに治療を施さなければ危ういだろうこともまた、間違いない。

 

 それほどの惨状。それを生み出した轟音は、もちろん上空の戦闘にも割り入って皆の鼓膜を揺らし、一人の男を愕然とさせていた。

 

「――リアス……が……!!!」

 

 サーゼクスは瀕死のリアスを認め、途端、その内の滅びの魔力が爆発した。

 

 悪寒が走った。凝視する彼の姿から“人”が消え去り、代わりに内側のオーラの塊が人の“形”だけをなぞって現れる。剥き出しになった“力”はミルたんやピトーとも異なる、まさに別次元のものだった。

 

(……これが、超越者サーゼクス・ルシファー……!!)

 

 話だけは聞いていた。初代ルシファーの十倍の魔力量を誇る彼の真の姿は“人型に浮かぶ滅びのオーラ”であると。

 

 これがそうで、しかもその激情がリアスの惨状に向いているのなら――

 

「ピトー!!!」

 

 彼女とて、太刀打ちできるとは思えない。思わず叫んでしまうくらいの圧倒的な“力”は、次の瞬間、ピトーめがけて襲い掛かった。

 

『【滅殺の魔弾(ルイン・ザ・エクスティンクト)】――!!!』

 

 一つ一つにとてつもない威力の滅びの魔力が濃縮された球体。それらが一斉に憎悪すら伴い放たれる。

 

 とても受け切れない。避けることもできない。ピトーが消し飛ばされる光景を容易に想像できる威力と数。

 

 だがそんな想像を、瞬間、爆発的に増大したピトーの“力”が打ち崩した。

 

「う……があああああぁァァァァッッッ!!!」

 

 気合、あるいは絶叫と共に、ピトーは膨れ上がった“力”で魔法陣を発動させた。展開した“盾”にはサーゼクスの滅びの魔力の球体にも劣らないほどの濃密な魔力が込められ、それは驚くべきことに、防御不可と思われた滅びの雨を防いでしまう。

 

 次々滅びの魔力の球体を放つサーゼクスと、それを何発も防いでまだ力尽きないピトーの魔力。二者の間にあった見る間でもないほど深い“力”の差は、疑う余地なく消え去っていた。

 

(どういう……)

 

 ことなのだ。

 

 ピトーのその“力”はいったいどこから湧いて出た。戦っている最中に感じていた成長によるパワーアップとは比にもならないほどの異常な上り幅、まさかサーゼクスのように“真の姿が――”などということがあるわけもない。

 

「アッッッヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!すッげぇ!!すッッッッッげーーーーっぇ!!元鞘だとこうも違うかよ!!シャルバはあんなだったのに!!本気(マジ)のサーゼクスちゃんと戦えちゃってるよ!!ヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

 

 渦を巻く疑問はテンション最高潮に大笑いするリゼヴィムにその答えを感じ取り、叫んだ。

 

「リゼヴィム!!これが貴様の言う“仕込み”か!!ピトーにいったい何をした!!」

 

「アヒャヒャヒャヒャ!!人間(君ら)のアイテム使ってちょっとパワーアップしてあげただけだよ!ホントそれだけ!」

 

「そんなことがあり得るか!!」

 

 これほどの能力上昇を可能にするものなど聞いたこともない。キメラ化(オーダー・ブレイク)然りコピー神器(セイクリッド・ギア)然り、まだまだ完成とするには程遠い出来栄えばかりだ。“人外に抗しえる兵器の開発”という目的の、その一段階目で悪戦苦闘しているのが現状。

 

 俺の知る範囲では、そのはずだった。だが自供した犯人はその詳細を口にしないまま、好き勝手に嗤い続ける。

 

「あり得てんじゃん、目の前よく見な曹操くん?サーゼクスちゃんにも届くパワー、それさえ与えてあげれば、知ってる人は知ってる通り、悪魔が大大大っっっ嫌いなピトーちゃんだもん。何もせずとも勝手に悪魔をブチブチ踏み潰してくれる、悪魔殲滅兵器の誕生ってわけよ!エコロジーだろ!?」

 

 正気を疑うような台詞が飛び出る。理解不能の度合いはもう彼からろくな情報が得られないであろうことが明らかなほどで、俺は舌打ちしつつ意識を眼前のピトーへ戻す。身体は動かないが能力の使用は可能な故に【七宝】での介入を考えたが、するとその時、介入するまでもなく事態が動く。

 

 リゼヴィムの直下で【滅殺の魔弾(ルイン・ザ・エクスティンクト)】を防ぎ続けていたピトーの盾がとうとうひび割れ、砕け散ったのだ。一方のサーゼクスもその頃にはもうほとんどの魔弾を撃ち尽くしてしまったいたが、最後の一発だけが残って傍に浮遊している。

 

 形成が傾いた。チャンスと捉えたのであろう人型の滅びのオーラ、サーゼクスは、疲れ切ったように放つ圧力が衰えさせながらも散り散りになる魔法陣とそれに込められた魔力の向こう、盾の破壊で体勢を崩すピトーを消し去らんと、魔弾を撃ち放った。

 

 最後の一発を残してちょうど防御が解けるなど、あまりにもタイミングが良すぎる。怒りで我を忘れた彼は、こんな見え透いた誘いも見抜けなくなっていた。

 

 いや、その強さ故に半端な小細工などないも同然に打ち破れる彼には、元々戦闘に於いてそれを警戒するという認識自体、薄かったのだろう。格上どころか同格の敵もいない強者だからこその経験不足。ヴァーリと似た業を負う彼は、だから発射された魔弾に合わせて誘ったピトー(同格)の思惑を見抜けなかった。

 

 体勢を崩した背に隠れていた腕が、【黒子舞想(テレプシコーラ)】に操られて伸び、手の中の人形を突き出した。サーゼクスの姿を模している。恐らく魔法陣での防御に紛れて条件を満たし、具現化したのだろうそれは代わりの盾に使われ、魔弾の最後の一発を受け止めた。

 

 ピトーの膨れ上がった【オーラ】と合わせて見事に防ぎきる。魔弾は消滅し、しかし同時に人形もまた滅びの力に侵され、消滅した。

 

 外側だけが。

 

 あっけないと、一瞬感じたのは全くの間違いだった。サーゼクスを模した外装が剥がれ、中から出てきたのは埋まっているはずの藁人形ではなく、それがドロドロに溶けて形作られたかのような闇色の流体。そしてその正体は一目でわかるほどの圧倒的【オーラ】、サーゼクスが放った【滅殺の魔弾(ルイン・ザ・エクスティンクト)】の、全力の滅びの魔力そのものだった。

 

 藁人形がサーゼクスを模すために、身代わりとして受けた魔力なのだろう。それらが露になった途端、一斉にサーゼクス本人へと返った(・・・)

 

「――ッ!!?」

 

 攻撃性もそのまま、襲い来る滅びの魔力はかつて放った全力(・・)そのもの。そして今のサーゼクスはその全力を絞り出した後で、咄嗟に迎撃として放った滅びの魔力ではとても及ばない。これもまたあっさりと、噴き出た魔力はサーゼクスのみならず、周囲に漂うその眷属たちまでもを呑み込んだ。

 

 寸前にマクレガーとグレイフィアが結界を展開したように見えたが、やはり防ぎきれるはずもなく大爆発を起こす。勢いに吹き飛ばされたそれぞれの身体が墜落して地面に叩きつけられ、魔力のダメージと衝撃が次々に彼らの意識を飛ばしてしまう。だが唯一、サーゼクスだけは人の姿に戻りながらも意識を繋ぎ止めており、なんとか膝をついて着地しながら、自身の魔力によってボロボロになった身体を苦しげに持ち上げると、大威力の発射口となった反動に手を押さえるピトーを見つめて、傷だらけになったその顔を歪めた。

 

「ぐ……リゼヴィム、なんてことをしてしまったんだ……。これが……彼女が我々を、今の悪魔社会を破壊するための殲滅兵器、だって……?」

 

 ダメージを負った肉体から絞り出すように呟く。

 

「彼女は……ただの、爆弾だ……!」

 

 それなのだ。咳き込むサーゼクスは俺を一瞥し、静かに息を吸う。

 

「見境なんて、ない……。悪魔だろうが人間だろうが、邪魔者を皆吹き飛ばす。……君の打った手は、正義も邪悪も、戦いも何もない……滅亡じゃないか……!わかっていないのか。リゼヴィム、君もまた、彼女にとっての邪魔者なんだぞ……!?」

 

 ピトーは悪魔を憎悪している。この世の全てから消し去ってしまいたいほどに。

 【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】でピトーが求めるキメラを生み出せようともそれは変わらず、“力”を与えただけだと、つまり洗脳などの操り紐を付けていないというのなら、間違いなく後々にリゼヴィムへも牙は向く。神器(セイクリッド・ギア)は宿主から取り出せる、という事実は既知のものであり、尚且つ与えられた巨大な“力”があればそれも容易だからだ。

 

 早い話、強いとはいえサーゼクスに劣る実力でしかないリゼヴィムではピトーをコントロールできない。故にリゼヴィムの“仕込み”とやらは自滅の手、皆を道連れに滅びようとしているも同義。現に今さっきの滅びの魔力はリゼヴィムをも呑み込んだ。

 

 そう、俺も思っていた。だが見上げた上空、爆煙の晴れたそこには、

 

「だから、なに?」

 

 全くの無傷のリゼヴィムが、変わらぬ邪悪な顔で笑っていた。

 

「いやまさかサーゼクスちゃん、俺がそんなおバカに見える?シャルバじゃあるまいしさぁ」

 

「……あれを受けて、無傷、だと……!?」

 

 サーゼクスが目を見開く。リゼヴィムを襲ったのは要するにサーゼクスの全力攻撃であり、それで毛ほどのダメージも与えられないということはつまり、リゼヴィムはサーゼクス以上、下手をすれば最強のドラゴンである真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)グレートレッドクラスの実力を持つということになってしまう。

 

(そんなことはあり得ない……)

 

 故に、動揺するサーゼクスとは逆に俺は内心に疑いを抱くことになった。何か仕掛けがあるのだと、そして直感から、それがこの戦いに勝利するためのキーであるということを確信する。

 

 思考を巡らせる。

 

「どういう、ことだ……!?まさかそれも、盗んだ神器(セイクリッド・ギア)の能力なのか……!?」

 

「かもねェ……。でもこれでわかっただろ?サーゼクスちゃんの言ってることは全部杞憂、俺は“爆弾”にはやられない。君らが全部死んだらピトー始末して、ちゃんと悪魔も復興してあげる」

 

 『杞憂』、『爆弾にはやられない』、『ピトーも始末』。つまりリゼヴィムはピトーにも勝つ自信があるということ。

 

 ――いや、ピトーには(・・)、か?

 

「そう難しく考えなくてもいい、リセットするだけさ。“悪魔”という種族が誕生する前に戻して、俺がもう一度作り直す。パパンの仕事を息子の俺が継ぐわけよ。だから安心して、殺されてくれればいいよ」

 

 考えてみればリゼヴィムを襲ったのは実質的にはサーゼクスの魔力であったが、実際のところはピトーの【念】、増大した“力”によるものだ。通用しなかった、つまりリゼヴィムが無効化したのは己が仕込んだピトーの“力”であるということで、加えてその“無効化”という現象、そこだけを見れば彼の能力、【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】と繋げることができる。

 

(もしや、ピトーのパワーアップの正体は……)

 

「とはいえまあ、区切り的にも責任的にも、後は冥途の土産にも、とどめくらいはおじいちゃんが刺してあげようか。悪魔に冥土も何もないけどね!アヒャヒャヒャヒャ!」

 

 羽音と笑い声に気付いて思考の海から顔を上げれば、リゼヴィムがゆっくりと下降し、サーゼクスの傍に降り立つその場面。もはや立つだけで精いっぱいらしく、ふらふらと身体が揺れるサーゼクスはリゼヴィムを睨みつけるが、当のリゼヴィムはそれに愉悦を見出すのみ。このままではサーゼクスは殺されるだろう。

 

(であれば、ここが切り時か)

 

 俺はそう悟り、手の聖槍を握り締めた。

 

 最後の切り札。リゼヴィムやピトーどころかサーゼクスたちにまで影響を与えてしまうために今までは発動が憚られたが、言っていられる場合ではなくなった。さすがに助けなければ、後にリゼヴィムとピトーとプフとユピーの四人を一人で相手せねばならないと考えると選択肢がない。

 それに一方、ピトーへの戦略もある程度立てられた。むしろ通常時よりも楽に倒すことが叶うはずだ。他三人と同じように、その“力”を弱点に変えることができるはず。

 

(まあ、予想通りに“力”が“神器(セイクリッド・ギア)”であったならの話だが)

 

 神器(セイクリッド・ギア)ハンターを自称する身でそれなりに詳しいつもりであるが、俺はあれほど強力な能力強化系の神器(セイクリッド・ギア)を知らない。となればその正体の可能性は“新しく出現した新規の神器(セイクリッド・ギア)”か、それとも“複製ではなく創造された新たな人口神器(セイクリッド・ギア)”かの二択だが、恐らく後者だろう。リゼヴィムが言っていた『元鞘』という言葉は、つまりそれが元々ピトーに関係するものだったことを示している。そして真っ先に思いつくのは、五年前に採取されたピトーの遺伝子情報、血液だ。

 

 神器(セイクリッド・ギア)の複製には、何にせよ“核”となる力の源が必要だ。

 それはいわく付きの宝物だったり力ある魔獣の肉片だったり、つまり超常の“力”が宿る何か。そこから元となる神器(セイクリッド・ギア)のシステムを写し取るわけで、システム自体の解析にはまだ至っていないというのが俺の認識であったのだが……。

 

(秘匿されていた可能性は、今の状況を鑑みても十分にあり得る)

 

 “核”は力ある魔獣、ピトーの血液で機能する。もしも俺のあずかり知らぬところでキメラ化(オーダー・ブレイク)とは別の使い方をされていたのであれば、あれほどのパワーアップを可能とする神器(セイクリッド・ギア)を作り出すことも可能――なのかもしれない。

 

(前例がないから何とも言えんが……)

 

 しかし、たかが少しの血液程度でこれほど強力なものが造り出せるはずがない、という与えられた知識による前提も、この際捨ててしまうべきだろうか。とにかくリゼヴィムの“仕込み”が神器(セイクリッド・ギア)を指していることは八割がた間違いない。であれば思い描く通りに事を進めることができるはず。とにかくそこに集中すべき。

 

 それにいくら強力だろうと正体が何だろうと、掌握してしまえば同じことだ。

 俺は蟠ったままの疑問はひとまず横に置き、自らの内で【オーラ】を練った。

 

「……さてじゃあ、さよならだねサーゼクスちゃん」

 

 ひとしきり笑ったリゼヴィムが、息をついて気を静めると、静かにサーゼクスに言う。

 

「化けて出ないでね?おじちゃんお化けとか苦手なタイプだから」

 

 魔力で作り出した刃が迫る。それから逃れようとして脚を縺れさせたサーゼクスは倒れ込み、脚を踏みつけられてもはや次はない。

 

 瞬間に、俺は練った【オーラ】を発露させ、聖槍のそれ諸共に纏う。気付かれる前に能力を発動しようとした。

 

 その直前。

 

 するっ、と、滑らかに銀色の一閃が走った。零れ落ちるように断面が離れ、丸いものが転がる。

 

 リゼヴィムの首が、あっけに取られて呆然とした表情のまま地面に落ちた。

 

「さっきから聞いていれば……やはり不遜ですね、貴方」

 

「向かってこねェからほっといたが、やっぱ先にぶっ殺しときゃよかったな」

 

 プフと、そして腕の鎌に血の雫を滴らせるユピーが、その傍にゆっくりと降り立った。




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十五話

誤字報告ありがとうございます。


 ふと気付けば身体の、首から下の感覚が消えていた。頭だけに落下しているような感覚があって、視界も横倒しに傾き、やがて頬が地面の土を擦る。その地面も跳ねたりしながら横に流れていって、ようやく制止した時、俺は視界にそれを見た。

 

 自分の、リゼヴィム・リヴァン・ルシファーの身体が、そこに立ち尽くしていた。

 

 だが首がない。ぶしゅぅっと血が噴き出る様に、噴水のようだとありきたりな感想を抱いた。そして視線が行った血の噴水の奥に、さらに二つの人影を見つける。

 俺が【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】の禁手で生み出したはずの二体、プフとユピーだ。奴らは俺を見下ろしている。まるで道端に転がる虫の死骸でも見るような冷やかな眼が、遥か高みから降り注いでいる。

 

 俺の首を切り落とした奴らが、地面に転がる俺を無関心に見ているのだ。

 

 俺はその時、ようやく自分が殺されたことを悟った。

 

 ――殺され?

 

 ――死ぬ?

 

 ――まだ何もできてない

 

 ――まだ死にたくない

 

 ――助けて誰か

 

 頭の中で数多の悲鳴がバチバチ弾けた。急速に尽きていく命の炎が抗おうと必死にもがき、しかし無意味に消えていく。

 

 わかっている。けど止まらない。だって俺は、やらなければいけないのだ。

 

 ――今のつまらない悪魔を滅ぼして本来の悪魔らしい“悪”を作り直し、それを俺が統治して王に――

 

 ……いや、王様はめんどくさいな。それはまあ、先々代に倣ってもっかいガキでも作って押し付けるとして、それから……

 

 隠居して、またあの自堕落で屍のようなつまらない毎日に……?

 

 ――あれ?

 

 おれ、ナニがしたくてこんなことしてるんだっけ?

 

 苦労して人間の施設に潜り込んで、わざわざあの男をたぶらかしてまで手に入れた“力”。あくせく真面目に働いて、その目的は……。

 

 ――特になくない?

 

 ――あれ、もしかしなくてもおじちゃん、謀られた?

 

 俺は迫るプフの靴裏を見つめながらそれに気付き、そして次の瞬間、踏み潰される感覚を最後に永久に意識を消した。

 

 

 

 めしゃぐしゃり。踏み潰され、粉砕されて飛び散る血と脳漿と頭蓋の欠片。それが足元にまで飛んできて、立ち上る悪臭が唖然とする俺を我に返した。手の聖槍を握り締め、高まる浄化の【オーラ】が頭の中をクリアにする。

 そうして認めた現実。ユピーがリゼヴィムの首を切り落とし、そしてプフがその頭を踏み砕いてとどめを刺した一連の光景。それはリゼヴィムの【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】による被造物であるはずのあの二人が実際はそうではなかったという、一つの明確な事実を示すものだった。

 

 恐らく彼らが出現したときに見えた魔法陣は【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】のそれではなく、ただの転移魔法陣だったのだ。加えてサーゼクスの滅びの魔力を浴びた時にも見せた異常な再生能力、含めて考えればさらに一つ、とんでもない事実が透けて見える。

 

 だがそれを知る由もないサーゼクスはその眼に未だ困惑を映し、ボロボロの身体でなんとか上体を起こすと、プフとユピーへ余計に増した警戒をぶつけた。

 

「なぜ……!?君たちは、リゼヴィムが生み出した魔獣……リゼヴィムが主人であるはずだろう……!?いやそもそも、【神器無効化(セイクリッド・ギア・キャンセラー)】のリゼヴィムには、君たちの攻撃は効かないはず……!」

 

 得体の知れない敵がさらに得体が知れなくなった。俺たちがピトー戦っている間ずっと戦い、そして滅せられなかった敵ゆえに、僅かながら恐怖心も混じっているように見える。それを向けられた二人、ユピーは、言葉もなくサーゼクスのほうに振り向いた。

 

 同時、背中の肉が変形して伸びる。黒歌の念弾を弾き飛ばした鞭の拳。それが瞬時に飛び出てサーゼクスを襲った。

 早業で、しかも距離が離れている上にピトーの能力に拘束される俺にはどうしようもなかった。そして満身創痍のサーゼクスにも。鞭のパンチはサーゼクスの顎を捉え、打ち上げた。寸前に辛うじて魔力でガードしたようだが、その程度で完全に防げるようなものではない。吹っ飛び地面を転がり、そして気を失ったのか動かなくなった。

 

 だがユピーは殺すつもりでパンチを放っていた。それを防御され、殺しきれなかったということ自体が不満なのだろう。舌打ちし、その脚がサーゼクスを追おうとする。

 それは、不味い。隠し続けた奥の手、タイミングがあまりよくないがサーゼクスを殺させないためにもここで切るかと、俺は内に【念】を練り上げた。

 

 が、その時ふと眼に入る。ユピーのパンチの風圧に押されたのか、とうとう傾き倒れるリゼヴィムの身体。首のないそれが頽れてうつ伏せに倒れ、拍子に血に濡れた首元から零れ落ちた何かがユピーの足元に転がった。

 

(あれは――ッ!!)

 

 小さなアンテナだった。うっすらと、よくよく見なければわからないくらいの微かな【オーラ】を纏った物体。リゼヴィムに突き刺さっていたのだろう、それ。

 

 俺は打って変わって迷いなく、奥の手ではなく【七宝】、【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】を放ち、叩きつけた。

 

 当然ユピーは反応し、その場を飛び退く。しかし狙いのアンテナは一瞬にして粉砕、欠片も残さず消え去った。

 代償として先手を入れる前にプフとユピーから怒りの眼を向けられたが、まあ致し方ないだろう。どのみちだ。それくらい、あのアンテナが一瞬でも長く存在するのは不味かった。

 

 なぜならそれは、この騒動がハンター協会、人類の謀略である証拠だから。

 

 正しくは一人の男によるものだろうが、一方そっちの証拠は手元にないし、これからも存在しないだろう。それに余所から見れば個人も全体も違いはない。

 つまり人類の“悪”を巷間に晒しかねない危険物だ。運のいいことにもうこの場に意識ある悪魔関係者はいないが、それでも何かの拍子に伝わってしまう可能性はなくはないだろう。

 

 そうなる前に、プフとユピーに気付かれる前に抹消できたことに覚える安堵は噛み殺しつつ、俺は二人の敵意に不敵の笑みを返してやった。

 

「わかったかい?敵に背を向けちゃ、危ないんだ。他ごとに意識を向けるのは敵を完全に倒しきってから。こんなことを注意するなんて落第もいいところだが……まあ、二人とも生まれたての赤子なんだ。一度くらいは大目に見てあげようか」

 

 幼子を諭すような口調で放つ挑発。二人の意識をサーゼクスから離すためのあからさまなそれは、見事に二人の激怒を釣り上げた。あながち間違っていないのも要因で、だからこそ苛烈なものとなった殺意が振り向き、俺を射抜く。

 

 が、邪悪なものと化す二人の顔を、前に進み出てピトーが制した。

 

「いいよ、二人はあっちの掃除で。曹操はボクがやる」

 

 端的な言葉は、二人の怒りをピトーにまで向けさせた。

 

「おい、どういう意味だそりゃあ」

 

「まるで我々ではアレの相手をするには不足だと、そう言っているようにも聞こえますが」

 

「そう言ってるんだよ、プフ。ユピーもにゃ」

 

 しかし視線を受け止めて、ピトーはなおも断言する。その毅然に二人は怒りを困惑に変えたようだ。

 

 そしてそこから見える信頼関係と仲間意識。ピトーと彼らが顔を合わせたのは俺よりも後で、しかも言葉を交わしたのは初めてであるはずなのにその度合い。同じキメラだとしても、それだけではあまりにも不自然なほどで、故に俺は抱いていた確信に次いでもう一つ、新たに気付く。どうせならそれも探ってやるかと、息を吐きつつ不敵を演じ続けて言った。

 

「いいじゃないか、手伝ってもらえば。わざわざタイマンを張る必要なんてないだろう?それに……一人で勝てると思っているのか」

 

「……オマエこそ、ほんとにボクを倒せると思ってるのかにゃ?今までだって勝ったことないのに」

 

「勝てるさ」

 

 言い切る。確かに現状、身体能力では劣ったままだし、そもそもピトーの能力である人形を通じて身体の動きを止められているが、だからなんだというのだ。そう、眼で威圧する。

 

 実際、勝算はあるのだ。本気のサーゼクスを相手に見せたあの“力”、今は鳴りを潜めているが、もし再び表に出てきたとしても対応できるはず。

 

「それ、神器(セイクリッド・ギア)によるものなんだろう?」

 

 “力”の源がそうであれば、俺の能力で操れる。無論操作のために条件をクリアする必要があるし、その内容も、現場を二度も見ているピトーには凡そ把握されているだろうが、それでもその“力”を封じ、むしろ弱点へと変えられる手札を俺が持っている事実に変わりはない。

 

 現状、有利なのは俺の側だ。

 

「掌握して、暴走でもさせれば一発だ」

 

 だから不敵の笑みも、まるっきりの虚勢ではなかった。追い詰められているのはピトーたち。

 しかしそんな俺の自信に対し、返ってきたのは寒々しい眼差し、冷たい憤りの眼だった。

 

 少し面食らう。“怒り”が来るとは思っていなかった。それも三人が一斉に。

 プフもユピーも漂わせる【オーラ】はピトーとよく似て酷く不気味なもので、それらが敵意を以ってこちらを向くとさすがに慣れも役に立たない。身が震え、しかし寸前で聖槍を両手に握って抑え込み、嫌が応にも戦闘態勢を取って低くなる姿勢から、俺はプフとユピーを見上げて言った。

 

「……ピトーだけじゃない。プフにユピー、君たちもそうだ。サーゼクスたち相手には暴力と、そしてその再生能力で渡り合えたようだが……それはむしろ俺に対した時、弱点だ」

 

「……あぁ?」

 

 怒りがほんの少し薄れ、滲む訝しげな表情。プフもユピーも、どうやらピトーと違って自覚はないらしい。

 

(まあ……そりゃそうか)

 

 やはり二人とも生まれたて。そして再生能力は彼らの認識では生まれ持った能力だ。

 造られている最中、埋め込まれるものを知れるはずもない。

 

「それは九分九厘神器(セイクリッド・ギア)、【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】だろう」

 

 元々はリアスの眷属であるギャスパーの幼馴染、ヴァレリー・ツェペシュが所持者であった神滅具(ロンギヌス)。彼ら二人の所謂“核”は、恐らくそれだ。

 

「三個がセットになっている亜種のものでな、俺が抜き取った。だから見覚えがある」

 

「……にゃるほど、それで……」

 

 と、深呼吸と一緒に憤りを吐き出したピトーにとっても、やはり二人の再生能力は異様に感じるものだっただろう。正体が明らかになり、納得の様子を見せる。その様子に【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】の話が真実であると悟った二人は、少々忌々しげに自身の肉体を意識した。当然だ。見も知らない誰かにいつの間にか身体をいじくられていたという事実の象徴を好ましく感じるはずもない。

 

 だがどうであれ、嫌悪までには至らないようだ。あくまでそれは“核”だけの話であるから。

 

「死者蘇生すら可能な神器(セイクリッド・ギア)だ。故に……恐らく、不可能じゃないだろう。キメラ化(オーダー・ブレイク)も、まあ似たようなものだ。ピトーの血液から情報を抽出し、肉と、魂までもを作成してしまったんだろうよ。連中は」

 

 “核”を除いた他の全ては紛れもなくピトー由来、つまり、正真正銘“キメラアント”だ。

 ピトーのみしか生まれなかったというキメラアントの近衛兵、“護衛軍”は、ある意味で【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】が再生できる“死者”とも言える。【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】を“核”にしてまでそれを蘇らせ、動かしているのがこの二人。

 

 このプフとユピーは紛れもなく、“キメラアント(ピトーの仲間)”というわけだ。

 

 ただ、しかし。

 

「ある意味でピトー、お前の息子たちというわけだ。よかったな、お望みのものができたじゃないか」

 

 “家族(黒歌と白音)”では、ない。

 

 俺はそう思う。だがピトーにとっては、違う。

 

 結局のところ、“人とキメラは交わらない”。そういうことなのだろうか。

 

「……言われてみれば、そうかもね。そっか、“家族”って、こういうもののことなのかにゃ」

 

「ケッ、プフが一人増えちまった。勘弁してくだせぇよ、“女王”サマ」

 

 首を傾げるピトーを、ユピーが口上のみで敬う。そこには特別の温かみはないが、俺のように温度がないというわけでもない。

 

 確かに彼女らを繋げている“楔”、黒歌や白音よりも大切であるらしいそれは、プフも引き込み俺に牙をむく。

 

「いい加減しつこいですよ、ユピー。……ともかく、我々の中に神器(セイクリッド・ギア)とやらが入っていようがいまいが、彼が我々に対して強力無比な能力を有していようがいまいが、関係のないことです。邪魔(・・)になるものは全て殺す、それだけのこと。でしょう?ピトー」

 

 プフがピトーに、なぜか試すような視線。送られて、ピトーは俺から微塵も眼を動かさず、

 

「うん、そうだにゃ。それ(・・)はもう……どうでもいいんだ」

 

 小さな声が間を開け、そう言った。

 酷く無機質な声だった。動揺を刺激されるが、思考の深くに付く刺さる前に頭を振って追い出す。

 

 ピトーはまた一つ間を開け、血の気を戻して続けて言う。

 

「……それよりも、曹操。キミの神器(セイクリッド・ギア)を操る能力、確かにボクたちにとって脅威的なものだよ。けど……それは、発動できればの話。“どうやって何十秒もボクたちの身体に触れているつもり”なの?」

 

 それはピトーの言う通り、能力の発動条件。ある程度、どころではなく、ほぼほぼ正確に把握されていた。

 

 能力の詳細が割れている、という不利。

 

「もちろん俺の技量で覆す、と言いたいところだが、さすがに身のほどはわきまえてる。実際のところは聖槍と念能力、必殺の武器が二本になったというだけの話だ」

 

 だがそれでも、俺の勝機は消えなどしない。

 

「だが……ピトー、俺の能力を見抜いて攻略した気になっているようだが――」

 

 生憎、

 

「相手の神器(セイクリッド・ギア)を操る、なんてのは、ただの副産物(・・・・・・)なんだよ」

 

 ピトーの表情が久方ぶりの動揺を見せた。ガキかと思いつつも持ち上がる己の頬を叱りながら、俺は一息に、練った【オーラ】を発露する。

 

「見せてやろう……俺の、最後の切り札ッ!!」

 

 発動させたそれ(・・)。遡ればピトーと黒歌に出会うよりも以前、【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】を初めてその手に出現させた時に知った“力”だった。

 

 比類なきほど強力無比。しかしその詳細を教わったネテロ会長に言われるまでもなく、俺はその“力”の欠点を理解することになる。

 発動に呪文の詠唱が必要。さらには宿る“遺志”の気分次第で発動するモノが異なり、挙句にそもそも発動しなかったりもする。

 あまりの欠陥だ。そう捉え、そして同時に癪に障った。聖書の神だろうが何だろうが、どうして自分でないものに自分の“力”を管理されなきゃならないのか。

 

 なら俺が、その聖書の神(システム)自体を管理し、操ってやる。

 

 転じて、そして持ち得る念の才能、天才と評される全てを費やして、それは完成した。

 

 【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)

 

「発動しろ、【覇輝(トゥルース・イデア)】!!!」

 

 聖槍の聖なるオーラが退魔の力となり、辺り一帯に溢れかえった。

 

 規模も出力も圧倒的なものだ。眩い光はすっかり崩れ去ってしまったスタジアム全体を包み込む。そしてそれが及ぼすのは、“魔の者の弱体化”。

 

 サーゼクスたちも巻き込むが、不幸なことに今となってはその心配は不必要だ。故に念によって操り、繰り出させた全力全開の“力”はプフとユピーほどの強者にも間違いなく影響を及ぼした。

 

 が一方、戦闘経験が豊富なピトーは怯んでたたらを踏むプフとユピーとは異なり、俺が聖槍に【オーラ】を集中させたその瞬間にすでに動いていた。

 飛び込み、手に収めたのは氷の棘で地面に縫い付けられていた俺の人形で、退魔の光から守ったそれを指の糸でぶら下げ戦闘態勢。おかげで磔も解けて身体は動かせるようになったが、成果としては最低限に近い。

 

「……人形(それ)も諸共、祓ってやろうと思ったんだがな。よく判断できたものだと思うよ。破壊された人形によるカウンターでなく、操作による妨害を取るとは」

 

「……この人形の芯になってるのは、あの時受けた【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】、邪炎。破壊されて“返って”も、聖槍の光の前じゃほとんど無意味にゃ。……こんなにすさまじいのが飛び出してくるとは思わなかったけど」

 

 その眼がちらりとプフとユピーを一瞥する。二人とも聖なる力に焼かれて苦しげだ。脂汗をかいて膝をつきながら、しかし受けている苦痛以上に憎悪を俺へ向けてきている。

 

 当のピトーも、見かけは平然としているがその実、内心は彼らと大して変わらないはずだ。肉体は光に焼かれ、相当の負荷を負っているはず。なぜなら人工神器(セイクリッド・ギア)によるパワーアップを使っておらず、自身の【オーラ】のみを纏っているからだ。

 言葉を返す前に、それに少しだけ疑問が芽生える。

 

(……何か使えない理由でもあるのか……?)

 

 例えば、強力ゆえに聖なるオーラ以上に身体へ負荷をかけてしまうから、とか。余裕からの出し惜しみなんかでないことを祈りつつ、俺は一つ息を吐き、掲げる槍を再び手元に引き寄せ、構えを取る。

 

「ともかく、これでわかってもらえただろう。『どうやって何十秒も身体に触れ続けるのか』、つまりこういうことなわけだ。ついでにプフとユピーも排除できる優れものだよ」

 

「ぐぅ……!!この程度、慣れればなんということもありません……!!排除できるなどと――ッ!!?」

 

 憎悪を源に立ち上がり、威勢よく叫ぶプフと、そしてユピーが戦闘態勢に入る前に、俺は二人に【居士宝(ガハパティラタナ)】を差し向ける。俺とほぼ同等の技量を有する分身ならば、弱体化した二人を倒せはしないまでも、しばらく抑えるくらいには十分。それに任せ、残り六個の【七宝】と聖槍、それらに邪炎を纏わせ、笑ってみせる。

 

「さ、お望みのタイマン、最終決戦だ。ピトー――行くぞッ!!!」

 

 そして練り上げた“力”の数々と共に、ピトーへ渾身の攻撃を打ち込んだ。

 

 始まり、そして振るわれる神速の攻撃がいくつも重なり、たちまち烈風を巻き起こした。だがそれらが渾身、手札の全てを使っての全力でも、【黒子舞想(テレプシコーラ)】を使うピトーは簡単には捉えられない。加えて放つ槍術はピトーの手の人形によって巧みに動きを妨害され、通ると確信をもって放つ一撃はまともな攻撃にすらならないことがほとんどだ。

 故に自然と、攻撃の手段は身体を使わない遠距離攻撃に偏っていく。【七宝】、邪炎、聖槍による光の攻撃。特に意志のみで自在に操ることができる【七宝】が主となり、ピトーの速さを攻略せんと打ちかかった。

 

 とはいえ【女宝(イッティラタナ)】が安易に使えないのはさっきまでと全く変わらない。唐突な能力強制解除は常に警戒され、【黒子舞想(テレプシコーラ)】にはもう無茶な動きが全くない。最低限の動きで紙一重に避けられ続け、おかげでいくらか動きを見切りやすくはなったが、しかしそれでも追いつくのがやっと。こちらが攻撃すればあっちは避け、あっちが攻撃すればこっちも避ける、その繰り返しだ。

 

 早速の膠着状態。しかし一度ミスして攻撃を食らえば、身体能力の差で俺は致命傷を受けるだろう。しかしその逆はない。遠距離攻撃では、例え聖槍のオーラといえどそこまでのダメージにはならないのだ。

 

(――つまり、現状はやはり俺が不利……!!)

 

 しかし、それもいつものことだ。故に理解した瞬間、俺の脳は一つの策を思いつき、すぐさま実行した。

 

「【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】!!」

 

 【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】を弾き飛ばし、突進しようとするピトーへ邪炎を放つ。視界を覆う面の炎だ。ピトーもすぐさまその理由を悟り、大きく横に跳び退った。

 

 そしてもちろん、その先にいるのは先回りした俺の槍。首を切り飛ばすように振るわれて、しかし当然の如く少し身をかがめただけで躱された。

 さらに繋げる連撃も、腕を操作されて当たらない。空振りにされた攻撃をかいくぐり放たれたカウンターを【象宝(ハッティラタナ)】で飛んで避け、再び距離を取る俺へ、ピトーは丸い眼を少ししかめて呟く。

 

「……いやに攻撃が単純だ。曹操、何を狙ってるのかにゃ……?」

 

「さあね……!案外、他に手がないのかもしれないぞ!」

 

 誤魔化そうと試みるが、当然鵜呑みにはしないだろう。しかしそれでいい。俺が有する決定打は【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】か聖槍による直接攻撃、つまり近接攻撃のみであり、俺もそれを悟っているからこそ、単純だろうが近接攻撃をしかけざるを得ない。そう印象付けるだけでいい。

 

 そうして、一瞬でいい。ほんの一瞬、そちらに注視させ、飛翔する【七宝】をピトーの意識から外させることができれば――

 

(――糸口ッ!!)

 

 見つけ、俺は強く大地を踏みつけた。

 

「聖槍よ!!」

 

 全くの射程外から、突く。恐らく【馬宝(アッサラタナ)】による強制転移を警戒したピトーだが、そうではなく、気合の叫びと共に発動させた【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】が、再び【覇輝(トゥルース・イデア)】を操った。

 

「ッ――!!」

 

 空気を揺るがし、挙句に余波で地面を削りながら聖槍から放たれたのは、聖なる力の光線だった。退魔による弱体化のために割かれた力はそのままだが、しかし余りだとしてもそれはいわば神の一撃。突如として放たれたそれは、さしものピトーにも戦慄をもたらした。

 

 故に眼にし、回避に身体が動いたのは、いつもよりもほんの少し早かった。【女宝(イッティラタナ)】による強制解除のために残していた余裕が、僅かだが削れて【黒子舞想(テレプシコーラ)】が動く。

 

 逃す手はなかった。

 

(【女宝(イッティラタナ)】――!!)

 

 輝く。閃光がピトーの頭上の【黒子舞想(テレプシコーラ)】と、そして手の中の人形をも消し去った。光で姿が霞むが、直後貫いた聖なる力の光線は人形に宿った俺の邪炎をも消し飛ばしてしまったらしく、唯一の危惧であったカウンターも発生しない。

 そして光線を回避してのけたピトーも、【黒子舞想(テレプシコーラ)】による操作が切れて体幹をふらつかせる。そこに俺は、【象宝(ハッティラタナ)】の力で加速して突っ込んだ。

 

「く――ッ!!」

 

 しかしバランスを崩してもピトー自身の卓越したバランス感覚が戦意を支え、突撃する俺を迎え撃たんと動いた。

 身体は後傾しながらも腕が伸びる。半端に作られた拳は聖槍を止められないだろうが、それでも減殺して致命傷を遠くのものにするはずだ。

 

 そんな目算。しかしするまでもなく、俺とてこれだけの策でピトーを倒せるなどと思っていない。打った手にはまだ先がある。

 

 槍と拳の間に、周囲を飛翔していた【七宝】の一つが割り込んだ。だがピトーの拳は止まらない。それを弾き飛ばして事を成す意思、俺が【七宝】を囮に切り込もうとしていると見抜き、その上で真正面からぶち抜くつもりであることを、込められた【念】がをはっきりと示している。

 

 その選択は当然だ。なぜなら割り込んできた【七宝】は今まで幾度も撃退せしめた威力重視の【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】であるから――と、ピトーが思い込んでいるから。容易く打ち破ってきたからこそ、それ以外にない。だから俺もそう動くだろうと予測が付けられる。

 そう見越したからこそ、俺が、ピトーが【七宝】から意識を外した隙に位置を入れ替えていたことは、その全てがまったく同じ外見であることも相俟って彼女に感付けるはずもない。唯一の付け入る隙だった。

 

「がッ――!!?」

 

 【珠宝(マニラタナ)】、攻撃を球体の正面に生み出した渦で受け止め、さらに別の渦から流すカウンターの【七宝】。それは無理な体勢で放たれたピトーの攻撃をどうにか受けきり、それをそのままピトー脇腹へ打ち放った。

 

 横殴りにされ、ただでさえ不安定だったピトーが完全に体勢を崩した。最後の一歩を踏みこむ。同時に【七宝】のほとんど(・・・・)を解除し、その分の“力”を込めた聖槍が、我ながら恐ろしいほどのオーラを放つ。

 

 その切っ先はピトーに致命的な損害を与えられる。もはや人形に妨害されることもなく、いっぱいに伸ばした腕が突きを放ち、もう少し、あと僅かな距離で貫く――

 

 はずだったその直前、ピトーの【黒子舞想(テレプシコーラ)】は復活してしまった。

 

「――!!!」

 

 音すら置き去りに、極光を放つ聖槍は躱された。首筋の肌の表面を掠めて焼き、しかし怯みすらさせられず、返しにピトーの爪が瞬く。

 

「―――」

 

 辛うじて防げはするはずだった。槍を操り柄で受けられる攻撃。反撃できたとはいえピトーにも余裕はないようで、距離を取りたい故の牽制のようなものだった。

 

 だから俺も、それに乗って仕切り直すことはできた。【覇輝(トゥルース・イデア)】すら用いた攻撃の閃光を間近に浴びたのだから、ピトーの動きはさらに鈍くなっただろう。それを突き、何度か打ち合えばまたチャンスは巡って来る。

 

(だが――)

 

 それではピトーの想定内。この時俺の頭からは、戦闘の“理”がきれいに消え去ってしまっていた。

 

 代わりにあったのは、“ピトーに勝ちたい”という、それだけだった。

 

 ぞぶッ、と、右耳に音が響いた。同時に眼前、さらに一歩を踏み出した先のピトーが驚愕の眼で俺を凝視する。

 

「オマエ、腕――」

 

 俺はピトーの攻撃を防がなかった。つまり、右腕が飛んだ。掴んでいた聖槍も明後日の方向に弾き飛ばされる。

 

 ピトーを打倒できる武器の片方である聖槍と、そして片腕を犠牲にして詰めた距離。容易く手が届くほどのそれは、もちろん【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】を狙ってのものだ。しかし、武器もないのに、どうやって条件達成の時間まで押さえるけるつもりなのか。ピトーの眼は、動揺の中にもちろんその困惑を含んでいる。

 

(忘れたか?)

 

 それは油断だ。

 

(お前がくれた、とっておきのがあるだろう――!!)

 

 温存していた【馬宝(アッサラタナ)】を発動させた。左手に、ユピーとの戦いでへし折れていた(・・・・・・・)業物の槍が転移する。その柄の先には、聖なる力に光り輝く穂先が繋がっていた。

 

 【七宝】の最後の一つ、【輪宝(チャッカラタナ)】は、当初の能力から最も変化した【七宝】だ。【将軍宝(パリナーヤカラタナ)】と酷似していたそれは、敵の武器を破壊できるほどの有り余るパワーを今、左手の槍に灯している。

 

 いわば聖なる力による強化(エンチャント)。その“力”に覆われた刀身は、硬直するピトーの腹を、今度こそ間違いなく貫いた。

 

「が、ぐァ……ッ!!!」

 

 とうとう倒れる。勢い余ってもつれ合い転がるが、決して離れない。ようやく止まり、遅れてやってきた右腕の灼熱を全身の高揚感で掻き消す俺は、馬乗りになったピトーを見下ろし、血混じりの唾を撒き散らしながら叫ぶ。

 

「十秒、いや……十五秒ってところか……!!ハッ!!やはりその人口神器(セイクリッド・ギア)神滅具(ロンギヌス)並みか……ッ!!」

 

「っ……十五秒、死ぬよ、曹操……ッ!!」

 

 青い血を零しながら、苦しげなピトーが言う。だが今更、考えるまでもない。

 

「死なないさ……俺はもう、あの時とは違うんだよ……!!」

 

 ピトーと初めて出会い、そして鼻っ柱を叩き折られたあの時。あの頃。

 

 俺とピトーの血が混ざり、地面に広がるのは赤紫色だ。頭に響く脈動とゆっくり霞みゆく視界を意識しながら、俺の心には闘志が溢れんばかりに噴き出していた。

 

 見張られたピトーの目が、ゆっくりと諦めを帯びたように閉じる。あと五秒、そう感じた時だった。

 

「がッ!!?」

 

 突然、背に衝撃が走った。身体が浮き、流血のせいで力も入らず、槍から手が離れてしまう。

 慌てて掴み直そうとするが踏ん張りがきかないことも相俟って、俺は衝撃に押し退けられてピトーの上から転げ落ちることとなってしまった。

 

 地面を一回転し、体勢を取り戻した。そうしてバッと見上げ、眼にした背中の衝撃の正体。

 

「サイラオーグ……ッ!!」

 

 と、その頭上にピトーの人形が浮いていた。

 操作し、今までリング上の結界の中に潜ませていたのだ。こういう場面に備えて。

 

(やられた……!!とうに食われたと思っていたが……)

 

 しかしどうやらそんな跡はなく、しかも死んでいないようだ。【絶】がされていた状態から、一息に膨れ上がる【練】に移行したことからそれは明らか。腹部が大きく損傷した【獅子王の剛皮(レグルス・レイ・レザー・レックス)】を身にまとい、気絶しているらしい光のない眼で茫洋と俺を見つめている。

 

 その頭上、ピトーの“他人を操る念人形を作り出す能力”は大して精度がよくないことは知っているが、脅威だ。それに何より、ピトーが腹に突き刺さった槍を引き抜き、自由を取り戻してしまった。消耗もこちらの方が大きく、ここにきて敗色濃厚となったことを、俺は理解せざるを得ない。流れる血から、タイムリミットももう間近。

 

 考える余地もなく、短期決戦を仕掛ける以外になかった。突っ込み、操られたサイラオーグの拳を難なくすり抜け、ピトーに肉薄する。拳を握り、放った。

 

「な……ッ!!」

 

 外れた。いや、外された(・・・・)。左腕が意思に反して全く別の方向に動いた。

 

 空振りした拳の先に、ピトーの指に吊り下げられ、操られている俺の人形(・・・・)の姿が見えた。何故、と困惑が頭を駆け巡るが、一つ天啓のように思い至る。そういえば、ミルたんの人形はいったい(・・・・・・・・・・・・)どこに行ったのだろう(・・・・・・・・・・)、と。

 

(あの時破壊したのは、ミルたんの人形か……!!)

 

 やっと気付くも、もう遅い。狙いを動かされた俺の拳は、導かれるようにピトーの手にある俺の人形を捉え、破壊した。たちまち中に封じられていた邪炎が噴出し、襲い来る。

 

 回避は間に合わない。迎撃も、聖槍を失い、残る手段の【念】や【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】は一瞬で捻り出すほどの余力がない。

 

 ならばもう一度、捨て身で攻めるしかない。今度の犠牲は右腕ではなく全身だが、攻撃は元々自分の“力”である邪炎。耐えればいい。

 耐えられる保証も、耐えたとしてピトーを倒せる力が残る保証もなかったが、かといって“引く”選択肢は元からなかった。実情でも心情でも、俺は前に踏みでる。闘志だけが燃えていた。

 

 その時だった。ピトーと眼が合った。

 

「……強くなったね、曹操」

 

 敵意も狂気もなく、なぜかそれは、俺に優しげなものを感じさせる呟きだった。

 

(あ……)

 

 瞬間、俺の中の闘志がフッと消えた。穏やかに音もなく、しかし燃え尽きてしまったかのように唐突に。

 

 何をしているんだと、邪炎を前にする身体がそう叫んだ。だがもう耐えてやるなんて気力はなくなっている。しかもそれは、悪くない気分だった。

 

(もしかしたら……)

 

 ふと気付く。

 

(俺が求めていたのは勝利じゃなくて……これだったのかもしれない)

 

 わからぬまま、そんな感傷に似た想いが心に浮かび、そして直後、目の前を黒い炎が覆い尽くした。

 痛み。潰れた視界。吹き飛ばされて転がる身体。感覚に触れるのを最後に、俺の意識は急速に遠ざかっていった。だがその寸前、

 

「――ぶちょう……?」

 

 赤龍帝、兵藤一誠の呆然とした声が傍で聞こえたような気がした。

 

 

 

 ボクの念能力【形代浄瑠璃(ジェスターマリオネッター)】の反撃を受け、吹き飛ばされた曹操はそのまま動かなくなった。認めると同時に、曹操の右腕と一緒に転がる聖槍もその輝きを弱め、消え去る。絶えず身を蝕み続けた聖なる力が消え、さらにプフとユピーを責め立てていた【居士宝(ガハパティラタナ)】なる分身も溶けて消えた。

 

 そこまでを見届けて、とうとう気を抜くことを許されたボクは、腹の傷を押さえて膝をついた。

 

 【覇輝(トゥルース・イデア)】のそれほどではないにしろ、聖槍の聖なる力に貫かれた傷は尋常でない痛みを発している。身体を内側から焼く光の残滓に苦しむボクに、戦闘から解放されたプフが少し不機嫌そうに近寄った。

 

「死なないでくださいよ、ピトー。わかっている(・・・・・・)とは思いますが」

 

「ふ、ふぅ、ん……死なない、にゃ。わかってる(・・・・・)、から……」

 

 荒れる呼吸の最中に応える。より一層不機嫌なユピーまでもが、忌々しそうに曹操を睨み、舌打ちをした。

 

「あの野郎……オレたちは分身なんぞで十分とかほざいた挙句、ピトー一人に殺されやがって……ああクソ!イライラするぜまったくよォ!」

 

「まだ息はありますよ、彼。じきに死ぬでしょうが」

 

「んなこたァわかってんだよ!お前はわかるだろプフ!……クソッ!もういい!ここらの掃除はこれで終わりでいいんだろ?オレは外を片付けて来る。この死にぞこない共はお前らで……」

 

 と、険しい眼をプフに向けていたユピーは怒りを紛らわすように頭を掻きむしり、なおも治まらないそれを発散するために脚を外に向けた、その途中で言葉を止めた。

 プフと、ボクもつられてその原因、ユピーの視線の先を見る。

 

「……ゼノヴィアも、生徒会長も……みんな……ぶちょう……」

 

 赤龍帝が、赤髪の傍に膝をついていた。その眼は虚ろ。目の前の光景を受け入れられずに彷徨っている。

 

 見ただけで言うのなら、何でもない光景だ。力ない悪魔が一匹、首を垂らして殺されるのを待っている。ただそれだけ。

 

 しかしボクもプフもユピーも、それを感じていた。

 

『ゆるさなイ』

 

 赤龍帝の少年の声と、内に宿る憎悪の声が重なった。

 

『ゆルさナイ』

 

 対して肉がついているわけでもないその身体が、内側からドラゴンの【気】に押されて膨れ上がり、変化する。

 

『ユルサナイィィィィィッッッ!!!』

 

 “覇”が、巨大な人龍の姿となってそこに顕現した。

 

「【覇龍(ジャガーノート・ドライブ)】――!!」

 

 その名を思い出す。と直後に赤龍帝はその巨体で一息に跳んだ。一直線にボクめがけて。

 

 その突進はあまりに素早く、巨体も相俟って消耗したプフやユピーには止められなかった。ボクも、回避ができなかった。

 

「が、ああぁッッッ!!?」

 

 なす術もなく、咬みつかれた。鋭い歯がとてつもない咬合力と合わさってボクの肌を噛み砕き、食い破ろうとしている。

 

 抵抗できない。血と一緒にどんどん力が抜けていく。死の冷たい予感が腹の底から這い上って来る。

 

(――いや、だ……!!)

 

 こんなところで死ねない。何のために黒歌たちを裏切ったというのだ。ここで死ねば、それすら無意味になってしまう。

 

 だが使命を想う一方、ふと思う。

 

 無意味だからこそ、これはある意味、罰なんじゃないだろうか。

 

 黒歌の想いを裏切った、その報い。自業自得じゃないかという諦め。

 

(なら――)

 

 ボクは、何も成せずに消えるべきじゃないか。

 

 眼を閉じた。消えゆく意識。だがその暗闇の中に、

 

(あ……)

 

 “光”が、見えた。

 

 ――お、う……?




オリジナル念能力

神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】 使用者:曹操
・操作系能力と【黄昏の聖槍】の【結】
・一定時間身体に触れ続けることにより、対象の神器のシステムを掌握できる能力。
曹操が、自身に宿る【黄昏の聖槍】に封じられた聖書の神の遺志を操作するために造ったもの。他人の神器を操作できるのはあくまでこの副産物。
一度掌握した神器は誤作動や強制解除させることはもちろん、所持者から抜き取ることも、逆に植え付けることも可能。

【|形代浄瑠璃《ジェスターマリオネッター】 使用者:ネフェルピトー
・具現化系能力、特質系能力
・対象の行動を制限する人形を具現化する能力。
第一段階はただの藁人形であり、それに対象の魔力や【気】など、力の一部を吸収させることにより、対象の姿を模した人形へと変化する。この状態になると人形と対象の状態がリンクし、例えば人形の手を上げさせれば対象の手も上がり、縫い留められれば同じく動かせなくなる。
人形が破壊されれば能力は解除されるが、代わりに吸収されていた力が呪いとして対象へと跳ね返る。本人と繋がった呪いであるため逃れることはできない。

これにて更新終了。
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十六話

前回までの三行あらずじ

リゼヴィムがコピー神器などなどを手に襲撃してきて
かと思えばプフとユピーに始末され
キメラ堕ちしたピトーが曹操たち皆を倒して暴走一誠に襲われた

半年以上ぶりの本編更新。
どれだけの方が覚えてくださっているかはわかりませんが、お待たせしました。
そしてご報告。今回の更新で最終話まで駆け抜けます。全九話です。よろしくお願いします。
そしてしれっと各話後書きのオリジナル念能力詳細を整え直しました。


「――さま……姉さま……っ!」

 

 声がして、私の意識は暗闇から抜け出した。うっすら開いた視界の中に、涙目で私の身体に縋りつく白音の姿が見える。

 

 なんで泣いているんだろう。そう不思議に思いながらも、半ば無意識に伸ばした手が固めのベッドの上から抜け出して白音の頭を撫でた。ハッとして顔を上げた彼女は、丸く見開いた目から涙を弾き飛ばす。

 

「黒歌姉さまっ……!!」

 

 そして飛び出た歓喜の悲鳴に、意識に続いて私の頭も叩き起こされる。夢現から弾き出されて、勢い良く身を起こした。途端に感じる身体の痛みに息が詰まるも、拍子に鼻に入り込んだ薬品臭漂う空気がすぅっと気道を気付けのように通り抜け、呼吸はすぐに正常に戻る。

 しかし故に、私の頭には困惑が広がった。

 

 まず周囲、広い室内にはずらっと簡易ベッドが並んでいる。私のように寝かされている者はほとんどいないようだが、代わりに見知った顔が幾人も見える。上に腰かけたり、あるいは治療を受けているようだった。

 レーティングゲームで同じチームだった連中、グリードアイランドで白音のついでに少しだけ修行を手伝ってあげたゴンたちや、そしてなぜか意気消沈しているリアス・グレモリーと眷属たち。非戦闘員のアーシアと何か思い悩んでいる様子のギャスパーまでが固まり座り込んでいる。

 

 そして私がそれらの姿を認識した時、白音の歓喜に反応して、彼ら彼女らの顔が持ち上がる。その眼が、ことごとく私に向いて明らかな不審を発していたのだ。

 

 少なくとも、信頼できる仲間を見る眼ではなくなっている。元々それほどの信頼関係があるわけではないが、それでもこうまであからさまな、ともすれば敵意を見せられたことはない。

 

 場所にも状況にも私の理解は追いつかず、そして安堵で私に抱き着いたままの白音に迫る気にもなれず、私は周囲の面々の中で唯一敵意でなくオドオドと不安の類に身をよじっていたゼノヴィアに向けて、直前までの記憶を辿りながら訊いた。

 

「……あれから、どうなったの? キメラもどきと戦って、それから……ピトーが、現れて……。彼女は……? それに、ここはいったい……」

 

「こ、ここは避難所だ。ほとんどの避難はもう終わったが、私たちは、その……見ての通り、まだ移動できていない。外で戦いが……続いていて……」

 

「戦い……って、まだピトーが――」

 

 戦っているということか。例えばここに姿が見えないネテロやサーゼクスたちと。

 

 強さで言えばピトーを殺せるだけの実力者たちの存在に、私の身体を戦慄が駆け抜けた。しかしそれを表に出すことは堪える。ピトーの身を案じることはつまり、私の正体の露見に繋がるからだ。

 

 しかしその心配が不要なものであると、直後理解させられる。

 

「そうだ。戦闘は続いている。お前と同様、ルアス・グレモリー殿らに殺されたはずのピトーがな」

 

「……私と、同様――っ!」

 

 クラピカの眼が、まるで私の心を見通そうとするかのようなまっすぐな視線で私を貫き、そう言った。一瞬だけ何の話か分からなかったが、すぐに悟る。ピトーだけでなく私もが、“ウタ”ではなく“黒歌”だとバレてしまっているのだ。

 

 そういえばついさっき、私を呼んだ白音も『黒歌姉さま』呼びだった。もはやそれは公然の事実となってしまっているのだろう。私は胸に白音を抱きしめながら、警戒心露なクラピカと、そしてどうやら似たような心境らしい周囲を見回し、大きく息を吐き出した。

 

「……そりゃね、いくらなんでも碌な実戦経験もないお子様なんかに殺されたりしないにゃん。私もピトーも」

 

「や、やっぱり、ウタさんは……」

 

 ゼノヴィアの表情が歪む。ほんの少しだけ心が痛んだが、無視し、私はゼノヴィアに代わってクラピカへ、改めて当初の質問を向ける。

 

「で、ピトーは今、どこで誰と戦ってるの? 戦況は? プフとユピーと他のキメラアントもどきたちは?」

 

「……それを知って、どうする気だ」

 

「決まってるじゃない。……ピトーを助けに行くのよ」

 

 本心をそのまま口にする。たちまち周囲の面々に緊張が走るが、その中で一人、こわばりの欠片もない声が穏やかに言った。

 

「拒絶されたのに、か?」

 

 言葉に弾かれ振り向けば、ベッドに横たわる曹操の口先が、呆れたふうに苦笑していた。

 

 嫌が応にも思い出してしまう、あの時、彼女が私に向けたあの冷たい表情。それに感じた、曹操が言う通りの拒絶の感情。

 

 吐いた言葉が揺らいでしまいそうになる。けれどもぐっとこらえ、心に残る熱をかき集めて、私は反論しようとした。

 その時、ゆっくりと身を起こす曹操の姿にようやく気付く。

 

「っ! 曹操、その、目……!」

 

「ん? ああ、フェニックスの涙は治癒はできても、消し飛ばされた眼球を再生することはできないからな」

 

 肩をすくめていかにも気楽に言い、フェニックスの涙の小瓶を摘まんで揺らす曹操は、その両目を失っていた。焼けただれ、閉じた瞼のその奥は空洞なのだ。

 

 そして恐らく、それをやったのはピトー。故の苦笑。僅かに滲んだ棘に私はほとんど確信し、けれども想いは崩れず、それを喉から押し出す。

 

「……そう、ご愁傷様ね。で、現状を教えてくれる?」

 

「おいおい……。全く、お前には負けるよ。ピトーに何をされたか、忘れたわけじゃないんだろう?」

 

「……それでも、よ」

 

 深く息を吐き出す。無論疑われるまでもなく、あの時のピトーの眼、(ヒト)を捨ててしまった眼は、今も私の心を苛んでいる。ちらりとでも思い出せば、それだけで足がすくんでしまいそうになる。それでも私が膝を突かずに済むのは、やはり記憶にピトーの存在があるからだった。

 

 初めて出会った時も、ハンターに居場所を持った時も、白音と再会した時も。彼女はずっと私たちと共にあり、そして確かに彼女も、それを望んでくれていた。

 

「ピトーはキメラアントじゃない。“人”よ……。私はそれを信じてる……!」

 

 だからピトーが私たち(ヒト)を捨てたのは、きっと何かの間違いだ。理由を確かめない選択肢はない。

 

「私も……同じ気持ち、です……!」

 

 そして私のこの想いは、白音も同じだった。私の腕の中から顔を上げ、まっすぐな眼でそう言う。

 

 ベッドから降り、私の手を握るその熱さも相俟って、振りほどく気にはなれない。白音は決して部外者でも、他の連中のようにピトーを敵対視しているわけでもなく、確かに家族の一員だ。

 

 置いて行かれる失意と後悔を再び彼女に味わわせることはできない。私も手を握り返し、身体の痛みは意識から締め出してベッドから出た。立ち、呆れ顔の曹操と周囲の面々を見回す。

 

「教える気がないんなら、それでもいいわ。どのみち私たちは私たちで、勝手に動くだけだから。……行きましょ、白音。……危ないだろうから、離れないでね」

 

「はい、姉さま」

 

「だめ、よ……そんなの……っ!」

 

 振り返る。まるで幽鬼のような生気の欠けた声で最初は誰のものかわからなかったが、見やればすぐにわかった。周囲の眷属たちまでもがぎょっとした顔をし、見つめるのはその輪の中央。

 青い顔で目だけを赤く腫らしたリアス・グレモリーが、座り込んだまま白音へ必死に手を伸ばそうとしていた。

 

「イッセーだけじゃなく、あなたまであんなのと戦うなんて……わ、私が、許さないわ……! ……命令、だから……お願い……白音……」

 

 しかしその手は次第に落ち、彷徨った。そのまま手を伸ばして白音を止めるべきか、それとも行かせるべきなのか。衝動なものが去って、表に出てきた怯えの顔が選択を止めてしまっている。

 

 止めているのはやはり、彼女が纏う絶望の雰囲気。何があったのかは知らないが、ぽっきり折れてしまっている彼女の心の怯えだ。『イッセーだけじゃなく』というセリフからして、彼に何かあったのだろうか。そういえばこの場にも姿がない。

 

 とすればさすがに口ははさめず、代わって白音がそんなリアス・グレモリーを悲痛な面持ちで見つめて、申し訳なさそうに首を振った。

 

「……ごめんなさい、リアスさま。でも私、行かなくちゃ駄目なんです」

 

 歯が食いしばられて、同時に握った手の力がまた強くなった。

 

「そんな……いや……白音……」

 

 リアス・グレモリーの手が悲嘆と共にとうとう地に落ち、涙にぬれた顔が前に傾いて紅の髪の幕に隠れてしまう。眷属たちもその様子を痛ましそうに、そして白音に何とも言い難い残念そうな眼を向けた。

 

 ちょうどその時、音が響いた。

 

 薄く、遠くから空気を揺らす地鳴りのような重低音。そしてその質量を物語るぶ厚い気配が、不意に届いて私の感覚に触れる。

 そして囁き声程度のそれがほんの一瞬で爆音へと変わった瞬間、危機感に刺激された私の本能は瞬時に私を動かした。

 

「――ッ!!?」

 

 皆を守る結界が展開され、ほぼ同時、周囲が吹き飛んだ。

 

 外が一変する。ベッドに加えて外壁だけでなくそれらが巻き起こす砂埃までもが一瞬のうちに背の向こうの彼方に消え、代わりに外の光景、天井に広がる空と破壊しつくされた市街の光景が広がった。

 

 そして破壊の理由。その衝撃波を撒き散らしたドラゴンらしき赤い巨体が、街の中央に巨大なクレーターを造っていた。

 

 墜落してきたのだ、その巨大なドラゴンが。

 

 ――いや、

 

「イッセーッッ!!!」

 

 リアス・グレモリーの絶叫を聞くまでもなく、そのドラゴンは明らかに赤龍帝、彼女の眷属である兵藤一誠そのものだった。

 

「そんな……イッセー君っ!!」「イッセーさん!!」「イッセー先輩!!」

 

 この世の終わりのような表情で絶望するリアス・グレモリーに続き、眷属たちも一誠の姿を認めて駆け寄ろうとする。私の結界の壁を押し破らんばかりの必死さだ。

 

 それもそのはず。こちらは気配を探らずとも明らかな事実。一誠は明らかに死にかけていた。無機物的な鱗はそこかしこが剥げて血まみれで、翼は片方が根元から千切れなくなり、極めつけに腹部には太一と同じように、何か巨大な砲弾のようなもので抉られたような傷跡が刻まれている。

 

 巨大化した彼の生命力など知りようがないが、身体の【気】も肉体も、その巨体に反して酷く小さくか細く、今にも燃え尽きてしまいそうだった。

 

 そんな状況を眼にして、仲間たちが動揺しないわけがないだろう。白音までもがそうだった。

 

「姉さまッ、結界を!! は、早く助けに行かないと――」

 

 結界を展開する私の手を引き叫ぶ白音だったが、私がそれに応じる前にさらなる事態。

 

 彼方から、すさまじい威力を秘めた魔力の光線が一誠を貫いた。

 

「あ――」

 

 守ってやるにはその攻撃は突然で、そして強力すぎた。光線は貫通して大地を砕き、腹部の傷が裂け血を噴き出す。一誠のドラゴンの頭が跳ね、光線の先に声なき悲鳴を吐き出すと、やがて傾き、緑の眼が結界の中のリアス・グレモリーたちを見つけて弱々しく振り向いた。

 

『ブ……チョウ……』

 

 最後の吐息だった。ゆっくりと、張り詰めていた糸が解けるように目が伏せられる。やがて巨体から命がとうとう消え失せ、その肉体が魔力の粒子に変わって消えていった。

 

 リアス・グレモリーたちの悲鳴や慟哭が響く。が、私は光線の先、それを放ち一誠を殺したその人物を見つけてしまい、その時、他の全てが頭に入らなくなっていた。

 

 宙に浮き、地を這う虫でも見下ろすような冷酷な視線を一誠に向けている、見慣れているはずのその姿。

 

 ピトーだった。だが、違う。ピトーが一誠を襲い殺したことは、彼らの陣営との敵対を認識した今、ここまでの動揺にはなり得ない。

 私の思考を止めたのは、赤龍帝から視線をゆっくりとこちらに向け、私を捉えた彼女の、その瞳だった。

 

「あれ……だれ(・・)――?」

 

 ピトーが、全くピトーではなかった(・・・・・・・・・)からだった。

 

「姉、さま……?」

 

 私の様子は一誠をなくした白音にすらわかるものだったらしい。その困惑は当然理解できるものだ。だって見かけはピトーと変わりない。いつも見て、そして気を失う前にも見たそのままの姿。

 だが明らかに違う。彼女は私を拒絶すると同時に“人”であることも捨てたが、そんな次元の違いではない。

 

 決して彼女ではありえない眼差しは、まるでピトーの身体を別の何かが乗っ取り、動かしているようにも見えた。

 

 いったい――

 

「なに、が――!!」

 

 私を見つめていたその“誰か”の眼が不意に反れた。背も向けられ、羽はそこから飛び去らんと羽ばたく。一誠以外を害する気はないらしい。

 

 ただ私は他のハンターたちのように戦意がなかったことに胸をなでおろすなんてことはできず、気付けばその後を追おうとしていた。結界を解除し、白音と共に野戦病院もどきの跡地を出る。

 

 その前に、曹操が聖槍を杖に立ち上がり、私に投げかけた。

 

「黒歌」

 

「……なに? あんたに何言われようが、私は行くから! ……ピトーを乗っ取った奴を、ぶっ飛ばしに……!!」

 

 言葉にして、そうだ、と気が付いた。

 ピトーが一変して(ヒト)を捨てた理由。それはきっとあの“誰か”のせいなのだ。ならばそいつさえ殺せば、ピトーはきっと元に戻る。

 

 やるべきことが定まって、私の中の困惑が憎悪に転じた。私からピトーを奪った“誰か”を許さない。怒りがエネルギーに変わり、私の【気】が荒々しく膨れていく。

 

 だが曹操は威圧染みた私の気迫にもまるで怯むことはなく、再び言った。

 

「ピトーを乗っ取ったのは神器(セイクリッド・ギア)だ」

 

「っ!」

 

 仇の正体を指す言葉に、さすがに私の足も止まった。白音が振り返り、聞き返す。

 

神器(セイクリッド・ギア)!? それって、どういう……」

 

「正確には人工神器(セイクリッド・ギア)、いや、人工神滅具(ロンギヌス)と言うべきか。とにかく、そのレベルの強力なパワーアップが可能な……人工物だ。恐らく、プフやユピーと同様、ピトーに連なる何かを封じた、な」

 

「何か、って……!」

 

 どんどんとピトーを侵したその正体が明瞭になっていく。私はその時、もうほとんど確信に近い予想を得た。

 

「ピトーにとってその“何か”は、よほど重要なものらしい。お前をあっさり捨てて、そっちを取るほどのものだ。それを『ぶっ飛ばす』ことがどういうことか――」

 

「“それ”が消えれば、ピトーにだって執着はなくなるわ」

 

 “それ”、ピトーを乗っ取った“誰か”とはつまり、“王”だ。

 

 自惚れではなく、彼女にとって私以上に価値あるものなどそれしかない。彼女は元々“王”に奉仕するために生まれた。そのキメラアントの血に、そう定められているのだ。だからその血の大本、産まれず、存在するはずがない“王”を消し去ることが叶えば、その定め(・・)だって消えてなくなる。

 

 ピトーの“王”への想い、その在り様を知っているのはこの場で私だけだから、私のやるべきことは変わらなかった。

 

「ピトーの中から神器()を消し飛ばせば、それで全部解決。心配しなくても私たちで全部片づけるから……だから曹操、ウタとフェルの後始末は任せるわよ。もう使えないだろうから。……じゃあね」

 

 呟くように言って、私は私を“ウタ”足らしめている懐の名刺、【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】を破り捨てた。背に羽を生やし、白音と共に“王”が飛び去った市街の外へと向かう。

 

 背に刺さる視線と握った白音の手を意識しながら、私はより決意を固く、全力の“力”の火種を身に熾した。

 

 

 

 

 

 真っ暗闇の中、別れの言葉を最後に黒歌と白音が飛び去ったことを、俺は鼓膜に届く音で悟った。

 

 できることならついて行きたかった。黒歌の言う通り、ピトーから神器(セイクリッド・ギア)を抜き取ることでピトーを元の彼女に戻せるのなら、やはり俺の神器《セイクリッド・ギア》を操る能力、【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】はあった方がいい。仙術でどうこうするにも限界があるだろう。

 だが両目とも潰れた今、とてもではないがその後を追うことはできなかった。黒歌が俺を運んでくれたとしても、やはり両目、盲目で、ほとんど聴覚のみでしか周囲の状況を知ることができないような状態ではお荷物にしかならないことは明らかだ。

 

 故に、歯噛みしながら見送ることしかできなかった。

 

 そしてお荷物なのは何も俺だけではない。一人彼女らの後を追おうと駆け出し、俺のすぐそばを走り抜けようとしたゴンの襟首を、俺は微かに感じる気配と足音を頼りに捕まえた。

 

 ゴンはすぐに俺を非難するような、あるいは懇願するような声色を叫んだ。

 

「曹操さん……! 離してよ、オレも白音と黒歌さんと一緒に――」

 

「君程度じゃ、余波に巻き込まれて死ぬだけだ。彼女らの助けになることなんてできないし、足手まといになるだけだ」

 

「……じゃあ、なんで白音を止めなかったんだ。オレたちと白音の戦闘能力は……そりゃ白音の方が強いけど、そこまでさがあるわけじゃない。オレたちが足手まといなら、白音だって足手まといだ」

 

 ゴンと違って時折怯えるように詰まる声はキルアだろう。二人ともグリードアイランドなるゲームで共に修行励んだ仲であるらしく、故に俺の対応は無視できないことだったようだ。

 

 ただ、二人とも内心ではわかっているのだろう。言葉は言い辛そうにそこで止まる。そして俺も、その理由を言葉にするには重たい口をこじ開ける必要があった。ある種の羨望のためだった。

 

 押し黙っていると、俺が寝ていたベッドの隣から野太い高めの声が響いた。

 

「止められるはずがないにょ。黒歌さんも白音さんも、ピトーさんの家族なんだからにょ」

 

「あっ、ちょ、ちょっとミルたんさん!? もう回復しちゃったんですか!?」

 

「……というか、あの傷で生きているのが不思議ですね……。心臓、止まっていませんでしたか……?」

 

 驚きの声を上げたのは、腹に大穴を開けられた彼の容態を見ていたルフェイ。半分呆れた調子なのはその兄のアーサーだ。

 

 そしてその兄妹二人の心配をよそに、すでにダメージの見えない静かな口調でミルたんは続けた。

 

「黒歌さんたちも言っていたようだけど、止めても行こうとしたはずにょ。二人と争う余裕は今はないにょ。……悪魔さん、一誠くんも……死んでしまったんだからにょ……」

 

「……まあ情を抜きにしても同感だな。彼女らはさっさと逃がすべきだ。また一人減る前にね」

 

 言葉を返したのはゲオルグだ。黒歌の結界が解かれ、消滅してしまったらしい一誠の下へ駆け寄ろうとするリアスたちを抑えているのは彼らしい。その声の隙間から、絶望に満ちた嗚咽がいくつも聞こえていた。

 

 そんな状態で、しかも戦闘能力もこの場に於いては高くない彼女らは、確かにさっさと下げるべきだ。外に出られない原因の主であったピトーが去った今が、その絶好の機会。

 

 故に俺もゲオルグに同意を示そうとしたが、その前に割り込まれる。

 

「けどよ……実際あいつらだけで……黒歌だけであのバケモンがどうにかなるもんか? 瞬殺される以外想像できねぇぞ」

 

「まあ……そうでしょうね。少なくとも白音ちゃんは、私も実力は知ってるけど……やっぱりあいつ相手じゃ戦力にはなれないと思うわ。二人ともやられて、またあいつが戻ってくるかもしれない」

 

 ヘラクロスとジャンヌが言う通り、二人がピトーを倒せない可能性は客観的に見て非常に高い。兵藤一誠の覇龍(ジャガーノート・ドライブ)を、恐らくほとんどダメージを受けずに屠ってしまうほどに、神器(セイクリッド・ギア)に操られたピトーは今やそれほど強いのだ。

 俺たちがこの場に隠れ留まっていたのも、その戦闘に巻き込まれかねない危険を嫌ったからだ。けが人やリアスたちだけでなく、戦える面々までもが全滅してしまいかねない。それほどの相手に挑む無謀は誰にでもわかることであり、だからこそゴンは理解しながら俺を攻め、周囲もその認識を否定することはなかった。

 

 だからまあ、全員大なり小なりの恐怖で眼が曇っているのだ。ピトーを乗っ取った神器(セイクリッド・ギア)が一誠を殺した後に俺たちを襲わず、黒歌の方に思わせぶりな眼をやってから去った理由。ついてこいと言わんばかりの眼差しが示す意味。

 

 ピトーの黒歌たちに対する愛情は、神器(セイクリッド・ギア)に押し退けられたとはいえ消えていないということだ。一誠を殺したように俺たちをまとめて攻撃しなかった理由はそれで片が付く。黒歌に用事があるのなら、目の前で俺たち(仲間)を攻撃することは普通避けるだろう。

 

 であるなら、ピトーは今すぐには戻ってこない。

 

「少なくとも、それまでにいくらかの時間は空くはずだ。ならその間にさっさと逃げるべきだろう」

 

 言うと、隣のベッドから衣擦れの音。

 

「どのみち、もうこんなところに隠れてはいられない。彼女らが時間を稼いでくれている間に、皆を連れて行こうじゃないか。僕ももう、幾らかは回復できた」

 

 ジークはベッドを出て、出した足で床材を踏み立ち上がった。その動作が緩慢なのは、彼の傷が癒え切っていないからだ。俺のフェニックスの涙をやろうと言ったのだが、最後の手段に取っておけと拒否して応急処置に留めた故の傷ついた肉体。引きずって身を起こした彼は、その手にヒュンと、恐らく能力で魔剣を転移させ、息を吐く。

 

 それから彼と、魔法使いのゲオルグとルフェイとの間で話し合いが始まった。そもそもどこに避難するのかとか、この浮遊都市アグレアスに張られているという防犯用の対転移魔術術式をどうかいくぐるかとか、そんなことをするくらいなら歩いて街に元からあるはずの転移装置を探すべきだとかいう、俺たちには理解できない相談。

 しかしどのみち、冥界というこの異界から脱出するには彼らの力に頼るほかなく、おとなしく待つしかない。故に他の皆、今度の災難に巻き込まれた皆は三人のそれを静観した。だが一部は口を開く。仲間を失った悲しみを押し殺し、ゼノヴィアが、呟くように言った。

 

「……助けては、くれないのか……?」

 

「ゼノヴィア……」

 

 ハンゾーが諫めるように、しかし躊躇いながら、身を乗り出す彼女の肩を止めたらしい。

 

 理由も気持ちもよくわかる。ゼノヴィアの求めている“助け”が、自分たちの身の安全でないことも。

 

「だって……白音とウタは、このままだとフェルさんの神器(セイクリッド・ギア)に殺されてしまうんだろう? みんな……みんな仲間じゃないか……! だというのに、こんな……時間を稼いでくれるとか、そんなの、見捨てるみたいじゃないか……!」

 

「……仕方ねーよ。仲間って言ったって、別に一蓮托生の関係でもねぇ。それにあの強さ、死にに行くようなもんだ。そんなもん、もう逃げるしかねーだろ」

 

「だからって――!」

 

「大丈夫さ」

 

 興奮しかけたゼノヴィアに割り込んだ。二人と、もしかすれば他の者たちの視線が俺に向く。俺はそれに、当たり障りのない希望を答えた。

 

「悪魔陣営も無能じゃない。これだけの騒ぎがあったことに加えて魔王の一角まで落とされたんだ。気合を入れて解決に臨むだろう。例えば軍と、残る三魔王が動けば、さすがの奴もひとたまりもないさ」

 

 それはもう既に動いているだろう。ことが起こってからもう随分時間が経っている。黒歌たちが殺されるようなことになる前に討伐隊が到着する可能性は高い。故の真実味は、幾らか彼らの心配を取り除いたようだった。

 

 だがそれでは、黒歌と白音は救えてもピトーを救うことはできない。彼女は殺されることになるだろう。

 故に、その時は――

 

(その時は……“最後の手段”か……?)

 

 いや、あれは人一人の命を救う、なんていう程度の小さな目的で使っていいものじゃない。

 

 だから本当に黒歌頼りだ。彼女がピトーの想いをどうにか引っ張り出してくれることを願うしかない。どのみち、目が見えない俺には何もできない。

 

「……ピトーがいてくれれば、【人形修理者(ドクターブライス)】で新しい眼を作らせたんだがな……」

 

「………」

 

 誰かが息を呑みこむような音がした。

 

 その直後だった。

 

「ンだよぉ。にーちゃん、もう傷モンになっちまってるのかよぉ」

 

「――ッ!!」

 

 ふと鳴る間延びしたその口調は、もう五年も前に聞いた覚えのあるものだった。

 

 そしてその声の主は、同じ時に死んでいた。俺は今はない目ではっきりとその瞬間を眼にしていた。故に驚愕で言葉が詰まり、見えるはずがないのに思わず声の方向を振り向く。

 

 同時、新たな声がさらに二つ。

 

「そいつは残念だ。サンペーを()ったって相手なら、オレも戦ってみたかったんだがなァ」

 

「でも一番のお目当ては健在みたいよ。それで十分でしょう?」

 

 「ちげぇねぇ!」と応じる太い男の声と女の声。前者は一転、聞き覚えはないがしかし、その正体は思考を回すまでもなく想像できた。

 

「パクノダ!? それに……」

 

「ウボォーギン……!!」

 

 そしてサンペー。皆、死んだはずの幻影旅団のメンバーだ。

 

 認めて、ゴンの困惑を押し退けるほどの憎悪がクラピカの口から吐き出される。サンペーを倒したのは俺たちだが、聞いたところによれば残る二人はクラピカが打倒したのだという。自身の部族を皆殺しにされた復讐を成したというのに、その首謀者たちが蘇って再び目の前に現れたのだ。心を乱されないはずがない。

 

 ジャラジャラと聞こえる金属がこすれる音が響く。クラピカが彼の能力である鎖を具現化させた音だ。しかし続いて走る鎖の音、彼が旅団を攻撃する音は聞こえてこなかった。

 憎悪を押し殺して様子見に踏み止まれたその理由は、やはり死者が蘇ったという異常事態への警戒のためだろう。その仕掛けを記憶から瞬時に悟った俺は見えないながらも聖槍を両手で構え、歯噛みしながら呟いた。

 

「……奴らの“聖杯”か……」

 

「その通り」

 

 応えは頭上から、降り注ぐ破壊の音と共に返ってきた。

 

 建物ごと魔力で攻撃されている。そして前も三人に塞がれ逃げ場がないことに気付いた瞬間、漂う生暖かい空気の感触と共に音が薄れた。ゲオルグの【絶霧(ディメンション・ロスト)】だ。転移し、逃れた先で避難所が跡形もなく消し飛ばされる音を聞きながら、改めてその声を聞いた。

 

「【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】、でしたか。おかげでいい駒が手に入りましたよ」

 

「ピトーが言うにはあいつら、人間にしちゃあかなり()ぇんだろ? しかもお前らに殺されたって話だ。露払いには都合がいい」

 

 プフとユピー。()としてそれぞれに【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】を埋め込み生み出された二人のキメラが、宙から地を這う蟻を見下ろすようにそう言った。対してサンペーが、自身を蘇生した彼らに遠慮なく叫ぶ。

 

「おい、おめぇらよぉ! 虫のくせに、人様を駒扱いなんぞしてんじゃねぇよぉ!」

 

「下等なサルが何を言うのやら。不満があるなら死人に戻っていただいても構いませんよ。いなければ寄ってくる雑魚が鬱陶しいですが、しかしそれだけのこと」

 

 プフは目くじらを立てることもなく、というより本心からどうでもいいらしく冷たく返す。対してサンペーたち旅団の三人も、文句を言いつつ扱いを全く気にしていないようだ。互いに利用し、されるだけの関係ということなのだろう。

 

 協力はないが、故に仲間割れもない。俺たちに向けられるのは純粋に両者の合計だ。

 それだけで、俺たち怪我人や心の折れたリアスたちを連れたこちら側にはすさまじい脅威となってしまう。

 

「確かにな、どうでもいい。虫どもは後でぶっ殺しゃぁいい。まずは旅団(クモ)の障害を取り除くのを兼ねて、やり返さねぇとなァ……鎖野郎……ッ!!」

 

「クズめ……一度で足りないのなら、もう一度始末してやるだけだ……ッ!!」

 

 個人ではなく旅団(クモ)という集団を生かすことを掟とする奴らは、つまり対旅団特攻能力を持つクラピカを殺すことが目的なのだろう。そしてそれと合致する、プフとユピーの目的。こちらはまあ、さっきの攻撃からして明らかだ。

 

「騒がしい濁声……やはりいい駒とは言い難いかもしれませんね。が、まあいいでしょう。駒として不適格でも、あれほど良質な【気】を宿した肉なら“王”にもお喜びいただけるはずです」

 

「ああ。どのみち“王”さまの命令は冥界の掃除だろ? 二匹や三匹、増えたところで変わらねぇ。……奴らもちょうどいねぇし、さっさとやっちまおうぜ」

 

 俺たちを殺すこと。去ったピトーの後片付けだ。

 

 だが、黒歌も口にしていたが“王”という単語。ピトーを乗っ取った神器(セイクリッド・ギア)を指すのであろう名前と、そしてプフが居ないことに安堵した“奴ら”。

 

 自分の認識がどこか僅かに、しかし決定的に違っているような気がした。だがそれに深く思考を巡らせる暇はなく、敵たちは瞬間、俺たちに襲い掛かった。




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十七話

誤字報告ありがとうございます。


「ッ!! 曹操、避けろッ!!」

 

「――!!」

 

 それが誰の声であったか、声音の記憶は、次の瞬間に俺を襲った衝撃と一緒に吹き飛ばされた。

 

 潰れた眼に視界はなく、無防備な所に襲い来る攻撃は瞬時に俺の身を凍らせる。が、直後に感じたのはぶ厚い風の壁に叩かれた感覚のみだった。

 それを及ぼした攻撃自体が、俺の目の前で止められたのだ。そのことを、巨大な鋼鉄を同質の槌か何かで殴りつけたような轟音と、【オーラ】に悟る。

 

 【円】すら碌にできないほどその手の“感じ取る”才覚に乏しい俺でもわかるレベルの強大な【オーラ】が、攻撃を放った方と受けた方、両者の身から迸っていた。

 

「……確かに、強ぇなお前。オレと力で競える人間がいるなんてとは、まぁ知っちゃぁいたが、驚きだな。……こりゃ、聖槍野郎より、先にお前を()っちまったほうがよさそうだ」

 

「誰一人、殺させるわけにはいかないにょ」

 

 プフと、ミルたん。その声色は双方ともに重い。全力を発揮しなければ勝利できない強敵だと、お互いに感じた攻防だったのだろう。

 それを、感じはできても目視できない俺は、やはり足手まとい。即殺されかねなかった攻撃に反応することすらできない。恐らく初めてピトーと相対した時以上の危機を前にして自衛手段すらない現状を改めて実感させられ、さすがに身体に震えが走った。

 

 そして同時に口惜しさも。

 

(目さえ無事なら……ッ!)

 

 プフもユピーも、その不死身を剥ぎ取ってやれるのに(・・・・・・・・・・)

 

 その動きを追うことができれば、一瞬でもこの手に捉えられれば、と思うもそれが叶わない無念。聖槍を握る手に力がこもり、脚が勝手に後退る。

 だが歯噛みしている場合でないことは明らかだ。ユピーとミルたんの戦いでなくても、今や戦闘はそこかしこで繰り広げられている。あの二人には及ばないが、近くで強力な【オーラ】と、鎖の音が重なって鼓膜を叩く。

 

「【超破壊拳(ビックバンインパクト)】!!」

 

「ぐぁ――ッ!! この威力は……!!」

 

 ばきぃぃん、と響く甲高い音は、恐らく鎖が砕かれた音だ。【念】により具現化された物体の損耗は、使い手が受けるイメージに大きく影響される。つまるところクラピカはウボォーギンの攻撃に対して以前よりも強力な、自分の鎖を上回るほどの威力を見たということだ。

 

 以前に同じ鎖で殺した相手に彼が気圧された可能性は、彼の憎悪も鑑みて有り得ないだろう。となればクラピカが感じた敵のパワーアップは現実。

 プフやユピーの動きどころか奴のその力量すら満足に知覚できない俺は、周囲の状況をそうやってどうにか推察する。一方、視認ができる面々俺のようにおぼろげでなくその凶悪さを実感し、驚愕と恐れを露にした。

 

「【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】……連中、強化させられたうえで復活しているってこと!?」

 

「な、なんだそりゃ!? まさかプフたちみてーに不死身だ、なんて言うんじゃねーだろうな!?」

 

「そこまでじゃないでしょうけど、たぶんすごーく丈夫になってるんだと思います! だから捨て身みたいな【硬】の大安売りしてるんですよ!」

 

「よく見てるわね。正解よ、お嬢ちゃん!」

 

 ジャンヌとハンゾーの驚愕に応えるルフェイ。直後パクノダが撃った銃声がルフェイに命中したようで、小さな悲鳴が上がる。

 

「まぁおいらにゃぁ、あんまり関係ねぇけどなぁ!!」

 

「曹操ッ!!」

 

 そして続くサンペーの嘲笑に、必死なゼノヴィアの声と腕が割り込み、庇うように俺を押し退けた。

 実際庇ったのだ。空気を掻く音からして恐らく念魚のものであろう攻撃にも気付けなかった俺の代わりに、ゼノヴィアのデュランダルが念魚を迎え撃つ。

 

 その念魚がどういう個体かはわからないが、本人が【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】で強化されていようが念魚にそれは及ばない。故に念魚そのものの強さは四年前とさほど変わらないだろうが、ゼノヴィアにとってはそれでも一刀に伏すことなどできない強敵。襲うそれと聖剣とで、一時拮抗する。

 

「ジャン、ケン――グー!!」

 

 それを横からゴンが、一声と共に吹き飛ばした。感じる【念】はクラピカには及ばずとも、【念】を覚えて半年も経っていないとは思えないほど強力なもので、恐らくゼノヴィアと併せて念魚も倒されたのだろう。ほんの僅かに息を緩めた彼が、サンペーを警戒して呟く。

 

「あの人も、オレたちは知らないけど、幻影旅団だったんだよね。確かクラピカが、曹操さんたちが倒したって言ってた……」

 

「ああ、厄介なやつだよ。釣竿が必要だが、具現化できる念魚の種類は知る限りでも十を越える。気を付けろよ、ゴン、ゼノヴィアもすべての念魚に固有の能力が――」

 

「釣竿……? は、持っていないように見えるが……」

 

 首を傾げるふうに、ゼノヴィアが呟いた。

 

 戦慄を覚える。それはつまり、サンペーのもう一つの具現化能力を発動しているということになる。

 苦い唾を呑み込み、声をサンペーに向けた。

 

「……初手からそれか。今度はどこを捥ぎ取ったんだ?」

 

「そりゃぁサオ(・・)だよぉ。ついでにタマ(・・)もなぁ、戦うにゃ必要ねぇしぃ」

 

 光のない視界に響く、狂気的な声。腹の底からあらゆる意味での震えが上った。

 

 奴の能力、【終末違漁(ビリ)】は恐らく奴自身の肉体の一部を使うことで、通常は一匹ずつ釣り上げ具現化しなければならない念魚を一度に大量に具現化することができるのだ。それは奴にとって所謂切り札であるはずで、最初からそれを切ってくるとは予想外。

 しかしそんな想像の埒外は現実となっている。証拠に、傍でキルアの口から怯えた掠れ声が零れて聞こえた。

 

「マジかよ、こいつ……。親父の言ってた……幻影旅団って、こんな……っ、くぅ……!」

 

「――! キルア!?」

 

 掠れ声から不意に飛び出た苦しみの呻き声を心配してゴンが傍に寄る。同格の旅団メンバーとは対峙したことがあるという話だったが、恐らく()として見られるのは初めてだったのだろう。サンペーの本気の殺気はもちろん俺たちだけでなく、キルアたちをも貫いている。

 

「ウボォーが殺されちまった件、お前ぇらも関わってるらしいなぁ?」

 

「っ……!!」

 

「ウボォーは鎖野郎とタイマンをお望みだしぃ、どうせ虫どもに掃除されちまうんならぁ……ヒマだしよぉ、落とし前っつぅことでおいらがぶっ殺しちまっても、別にいいよなぁ?」

 

「っ!!しまっ――!!」

 

 空気がうねるような、恐らく念魚が泳ぐ音。回遊する大勢の念魚に紛れたその音はゼノヴィアを欺いたらしく、サンペーの前に立ちふさがる彼女は焦りに息を呑む。

 彼女をすり抜ければ、その後ろに位置するのは無防備な俺たち。一歩前に踏み出し、僅かな気配も逃すまいと全力で集中しつつ聖槍を構えた。

 

 そうして発揮された【円】とも呼べないほど狭い感知の網を、次の瞬間、念魚ではなく手裏剣が切り裂いた。

 

「させねーよ!! ゴンたちを殺したきゃ、こんな念魚じゃなくてめぇで来いよヘタレ野郎!!」

 

「ハンゾー!!」

 

 俺の【円】の範囲、皮膚のギリギリを掠めるようにして飛んだハンゾーの手裏剣は、見事念魚を捉えたようだ。肉を突く鈍い音が目の前で鳴り、次いで落ち、足元でびちびち跳ねる念魚がやがて力尽き消える。

 

 そうして挑発を決めたハンゾーに、サンペーは変わらず鷹揚な間延び声で不気味な殺気を向け応じた。

 

「手前ぇら雑魚なんざぁ、念魚ちゃんだけで十分なんだよぉ!!」

 

 ブン、と今度は念魚の遊泳ではなく、もっと太いものが空気を叩く音。

 

「あいつ、念魚を投げ――!! ハンゾー!!」

 

「おうよッ!!」

 

 投擲された念魚に、恐らくまた手裏剣が突き刺さった。ハンゾーが捉え、勢いを削いだ念魚であれば、ゼノヴィアが振るうデュランダルという重い巨剣でもその狙いを違えない。

 

 最高の切れ味を誇るその刃は確実に念魚を殺し、その身を両断したようだった。その片割れ、分かたれた念魚の半身が宙を舞い、俺の下まで降ってくる。

 感知し、瞬時に聖槍で払い除けようとした。反射的に腕は動いたが、直後に思考が追い付き、気付く。

 

 念魚は分かたれても尚、一匹のサメの形をしていた。サメの念魚。その能力を、思い出した。

 

「爆発――ッ!!」

 

 瞬間的に聖槍を傾け、刃ではなくその側面でサメを打ち払う。遠くへと弾き飛ばすと、同時に背後へ、もう一方のサメが飛んだであろう方向へ振り向き、叫んだ。

 

「逃げろ!! そいつは倒すと爆発するッ!!」

 

「な――ッ!! 部長ッ!!」

 

 聞き悟ったゼノヴィアの切迫。サメの脅威はリアスたちに牙を剥く。

 そして彼女たちがそれから逃れることができないという確信は、俺もゼノヴィアも同様のものだった。精神的支柱たる兵藤一誠を目の前で亡くした彼女たちは、未だ現実を受け入れられず、今、生きる気力すらをも失いかけていた。弧を描いてゆっくりと降ってくるサメ(爆弾)にすら反応することができないほどに。

 

 危惧の通り、直後に爆発音が轟いた。届く爆風の勢いはそれだけでも痛みを感じるほどで、後衛(ウィザード)タイプの悪魔であるリアスを殺すに十分な威力であったことが理解できてしまう。ゼノヴィアやハンゾーたちも言葉を失い、爆煙の向こうに凄惨な光景が広がっていることを想像してしまったはずだ。

 

 だが心折られた彼女らの中、ゼノヴィアの他にもう一人、主の危機に自身を奮い立たせた者がいた。

 

「ぶ……ちょう……。無事、ですか……?」

 

「裕斗……!」

 

 聖魔剣使いの木場裕斗。弱々しく主の安否を尋ねるその声から察するに、彼が盾となって守ったようだった。

 

 ただ彼が悪魔の駒(イーヴィル・ピース)に能力を強化された騎士(ナイト)とはいえ、その駒特性には戦車(ルーク)のような防御力はない。それでもリアスから授けられた役目に殉じた彼は、やはりそれで力尽き、倒れ込む。

 

「裕斗……どうして……」

 

 呆然と、自分と同じ虚無感を感じているはずの彼がなぜ自分を守ろうとしたのか、リアスがどこか怯えるような声で呟いた。木場は立ち竦む彼女に、身体のダメージを押し殺して囁くように答える。

 

「グレモリー眷属男子訓戒その一、男は女の子を守るべし。……イッセー君が言っていたことを、思い出しました……。部長……彼は……彼の、言葉は……僕たちの、中に……」

 

 先細り、声はやがて途絶えた。死んだか気を失ったか、どちらかはわからないが、命を投げ捨てるその行為と言葉はリアスだけでなく朱乃とアーシアにも届き、閉じたその目を開けさせる。

 

「イッセー君……」

 

「イッセーさんが……」

 

 反応を見せた二人。しかし眼は開いても虚ろなままで、その心にまた自ら思い出したように影を落とす。

 

「でも……イッセーさんは、もう……」

 

「フェルに……ピトーに、殺されてしまった……」

 

 アーシアと朱乃に続き、リアスまでもが、呟く。

 

「イッセーは、私の大事な下僕は……もう……」

 

 いない。その言葉を否定するように、ゼノヴィアの大声が遮った。とうとう耐えかねた、というような怒りの混じった声だった。

 

「けど、その想いは今でも私たちの中にある!! 今まさに、木場がそう教えてくれたじゃないか!! だというのに部長、副部長、アーシアも、あなたたちはなぜまだ諦めているんだ!? どうして戦おうとしないんだ!? 私が信仰を捨てて仕えることを決めたのは、そんな弱い悪魔ではなかったはずだッ!!」

 

「私は……元から、弱い悪魔よ……。グレモリー侯爵家に生まれただけで、“強さ”なんて、これっぽっちも……」

 

「ふざけるなッ!!」

 

 ゼノヴィアが叫ぶ。心折れたリアスに、彼女は息を荒げながら怒りを吐き出した。

 

「ということは何だ、私の眼は節穴だったとでも言うつもりか!? コカビエルの時やゲームの時のように堂々と指示を飛ばしていたあなたは、いったいどこに行ってしまったんだ!! 敵がどれだけ強大でも、あなたは希望を失わず、仲間を信じて共に戦ってきただろう!! だというのに、この場で戦う仲間たちを信じられないのはなぜなんだ!! なぜ……私たちと共に戦ってくれないんだ!! リアス部長ッ!!」

 

「戦えるわけ、ないじゃないッッ!!!」

 

 主に信じてもらえないゼノヴィアの怒りと悲しみは、瞬間、血を吐くようなリアスの絶叫に押し流された。ゼノヴィアのそれよりもより苦し気で痛切なその叫びに、彼女らだけでなく俺の意識もが持っていかれる。

 

 リアスはぜいぜいと息を吐き、そのまま堰を切ったようにその思いを溢れさせた。

 

「私だって……私だって助けたい!! 一緒に戦いたい!! 誰も死んでなんて欲しくない!! けど……どうしようもないでしょう!? 私には、誰かを助けられるような力なんてないんだから……!!」

 

「そりゃ……そうだろうよ!! そうやって地面に座り込んでるだけじゃあ、なんにもならねーよ!!」

 

「違うのよ!! 立ち上がったって意味なんてない!! むしろみんなの迷惑に……それこそ足を引っ張って、みんなを……わ、私が殺してしまうかもしれない……っ!! ゼノヴィアッ!! ……貴女は、間近で見たでしょう……? 私が……私が、どれだけ愚かなことをしてしまったか……!」

 

 ハンゾーが意識の硬直を振り払ってリアスに否を突き付けるが、リアスはそれにまた激しく首を振る。頬に涙が滴るのが見えずともわかるほど、己の思いと引き起こした事態に苦しむ彼女の声は酷く怯えたものだった。

 

 そして気付く。リアスの心をへし折ったのは赤龍帝の死だったが、へし折れるだけのひびを入れたのは彼でも俺たちでもリゼヴィムでもなく、かつての黒歌の言葉だったのだろう。

 

「……リゼヴィムと【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】の魔獣たちに襲われた時、私は逃げなかったわ。一緒に戦って、せめて傷ついた人たちを、ジークフリートやウタを助けようって思った……。でも、そのせいでミルたんが犠牲になってしまった……! 一緒に戦っていた曹操や、それに……イッセーも……私が殺してしまったようなものじゃない……!!」

 

「そんなことは――」

 

「“ない”なんて言わないで!! ……全部……私が弱いせいなのよ……。主のくせに、イッセーよりも白音よりも弱いのに……なのに戦って、負けてしまったから、イッセーを死なせてしまった……。白音も行ってしまって……次は、誰……?」

 

「り、リアスお姉さま……」

 

 不安そうに呟いたのはギャスパーか。しかし愛すべき眷属の心配もリアスの耳には聞こえないらしく、折れた心はピクリともせず地に伏したまま。

 

「私は、もう戦えない……。ウタの言った通りだったのよ。弱い私は戦ってはいけなかった……。私にもう、みんなの命を背負わせないで……っ!」

 

 涙を堪えた必死の声を、リアスは叫んだ。

 

 その嗚咽に応えられる者はいなかった。いたのはただ、悪意を向けるサンペーだけ。

 

「じゃぁ、楽にしてやるよぉ、嬢ちゃん!」

 

「ッ!! うわぁッ!!」

 

「ぐあッ!!」

 

 サンペーが駆け出す音の直後にゼノヴィアとハンゾーの悲鳴。恐らくサンペーからの攻撃をもらってしまった二人は弾き飛ばされたらしく、俺は反射的にその中心、突っ込んでくるサンペーへ、勘のみで突きを放つ。だがあてずっぽうはもちろん当たるはずがなく、反撃を躱した奴の手は、正面から俺の顔を突き飛ばした。

 

 顔面への張り手は俺の身体を怯ませ、足を地面から浮き上がらせる。そのまま顔を鷲掴みにされ、次の瞬間、奴はそのまま俺を投げ飛ばした。

 

「きゃあっ!!」

 

「ぐっ……リアス殿……!!」

 

 投げられた自分がリアスに受け止められたことを理解して、俺は直後、すぐに身構えた。俺にリアスを背負わせた時点で、サンペーの狙いは明らかだった。

 そしてどのみち、念魚やハンゾーの手裏剣以上に速いだろうサンペーの攻撃を、目視できない俺は対処できない。

 

「めくらと一緒にぃ、逝っちまいなぁ!!」

 

「――ッ!!」

 

 息を詰め、全身に全力の【オーラ】を纏った。精いっぱいの防御で、その一撃目の衝撃を覚悟した、その時、

 

「曹操ッ!!」

 

「おぉッ!」

 

 俺とサンペーの間に飛び込んできたジークの声が、鋼鉄同士がぶつかるような鈍い音で、押し寄せるサンペーの圧力を弾き返した。

 

 俺を庇ったのだ。ユピーから受けたダメージが抜けていない身であるはずなのに、それを押し切って。

 

「ジーク……!」

 

「……聖杯を封じるために、君に死んでもらっちゃ困る! それに……目の前で友が殺されそうなのに、見て見ぬふりなんてできなくてさ……!」

 

 彼はそう言うと、恐らくにやっと笑ってみせた。

 だが反して、余裕などがあるはずがない。サンペーの攻撃を弾いただけで止まっているのがその証拠。それだけで精いっぱいの彼に対して、サンペーはジークとは逆に本心からの笑みを、その声に乗せていた。

 

「へへぇ、いいねぇ、友情ってぇのはぁ。……じゃぁ、まずはお前ぇさんから死んどくかぁ!!」

 

 二撃、三撃。サンペーの攻撃が続いた。ジークはそれを剣技と魔剣帝グラムの力で防ぐがしかし、一撃ごとにその息は目に見えて荒くなっていく。

 

 サンペーはそんなジークを嘲るように小さく笑い、底意地の悪い声を張り上げた。

 

「よかったなぁ、赤髪の嬢ちゃん。一緒に死んでくれる男が二人に増えたぜぇ? あの余でも楽しくやれそうじゃねぇかよぉ」

 

「ぐ……! この……!」

 

 ジークには声を上げるような余裕すらなく、いたぶるような台詞はまっすぐ、リアスに突き刺さる。俺の背後で、彼女の中の絶望が深くなっていくのを感じた。

 

「そうさぁ……雑魚のお前ぇを守るために、もうすぐこいつは死んじまう。邪炎のにぃちゃん一人なら、抱えて逃げるでも何でもできただろうがなぁ……かわいそうになぁ……」

 

「や……や、め……」

 

「やめてほしいのかぁ? 自分のせいで味方を殺したくない、だったかぁ。……馬ぁ鹿。やめるわけねぇだろぉ? お前ぇ、自分で言ったじゃねぇか、『私には、誰かを助けられるような力なんてない』ってよぉ。……そうだ、後ろのお前ぇらもだよぉ」

 

「ッ……!」

 

 震える声で呟くリアスに続き、朱乃やアーシア、ギャスパーにも向けられたその悪意。それはまるで子供がする悪戯のようで、今まさに殺さんとしているリアスたちに向けてもサンペーの利にはならないことだがしかし、故にある意味では純粋な、言葉の連なりとなって彼女たちに響く。

 

「口だけの雑魚なお前ぇらにゃ、“誰か”どころか“自分”すら守れやしねぇ。だからその分、他の誰かが傷を負うことになる。だからよぉ、戦うことも守ることもできねぇ弱ぇ奴に、できることなんざぁ端から一つだけなんだよぉ……!」

 

「がはっ……!!」

 

 肉体のダメージによる消耗と合わさり、ジークがとうとう攻撃を受け損ねた。身体が俺の前に倒れ、受け止め開いたその向こうに、彼が対峙していたサンペーの強大な【オーラ】の攻撃を悟る。

 

 その口が、哄笑するように叫んだ。

 

「目ん玉見開いてぇ、こいつらの死に様見届けてやりなぁ!!」

 

 その時だ。

 

「ジャン、ケン――」

 

「お――ッ!?」

 

 間近に突然現れた声。サンペーが反応し、俺への攻撃を止めて息を呑む。瞬時に緊張を取り戻したようだったが、それでも応じるには遅かった。

「グー!!」

 

「ぐぉお――ッ!!」

 

 重い打撃音と共にサンペーの身体から肉がひしゃげる音がして、どうやら奴は、そのまま地面に叩きつけられる。

 間近で爆ぜた石片やらから身を庇う俺は、やがてサンペーの拳から強大な【オーラ】が消え去ったことを悟り、防御姿勢の腕を下ろす。その時に、サンペーをその子供とは思えないほど強力な【念】の拳で沈めてみせた彼が、驚き固まる俺に構わず、ほとんど叫ぶようにしてリアスの涙に訴えた。

 

「違うよリアスさん! リアスさんは弱くなんてないよ!」

 

「ゴン……」

 

 ゴンのまっすぐな言葉は、やはりリアスの心に届いて揺らした。彼女の絶望の根幹に対する否定。だが自身の眷属の言葉でも解けなかったその戒めはその否定をただの慰めに改編し、再び首を振る。

 

「……ありがとう。でも、もうやめて……私を守らないで……。そんな価値、私には――」

 

 しかし途中で遮られた。

 

「――いいパンチしてんじゃねぇかよぉ、ガキんちょがぁ……!」

 

「っ!!」

 

「やべぇ、逃げろゴンッ!!」

 

 地から響いたサンペーの怒りが、ゴンに戦慄の息を呑ませた。

 

 いつから狙っていたのか気配を消し、不意を打ったからこそゴンの攻撃は通じたのだ。正面戦闘に於いてゴンに勝ち目などないほどの実力差がある事実は誰の目にも明らかで、故にハンゾーも声を上げたが、しかしその頃にはサンペーの【オーラ】は完全に蘇っていた。

 

 今度はゴンに、反撃としてその矛先が向けられる。

 

「どこに隠れてやがったのかぁ、達人レベルの【絶】使いも厄介だなぁ。まぁ、とりあえず死んどけよぉ、ガキんちょ!」

 

 奴の拳に集中する【オーラ】は、【硬】の攻撃で全身の【オーラ】を使い果たしたばかりのゴンにはとても耐えられない。俺は反射的に彼の服の袖を掴んで自分の側に引き、焼け石に水ながらも攻撃の威力を和らげようと試みた。

 

 その時、さらにもう一人。

 

「ッ――【落雷(ナルカミ)】!!」

 

 今度は奴の頭上あたりにキルアの声が、バリバリと空気をつんざく雷鳴の音と共に叩きつけられた。

 

 しかし少々ぎこちない。恐怖を押し殺して捻り出したような雷撃は、ちょうどゴンを巻き込まずサンペーだけを焼いたようだが、その身の【オーラ】は揺らいでいない。動きが一瞬止まったのみで、故に俺はゴンと背後のリアスの手も引いて飛び退り距離を取れたが、同時にサンペーが身を起こす間をも与えてしまったようだった。

 

 直後、慌てて俺たちと奴の間に入るゼノヴィアとハンゾーの足音。サンペーは振出しに戻った戦況を前にして、今度は意地の悪そうなそれではなく、明らかな苛立ちを乗せて嗤って言った。

 

「ッはぁ……なるほどなぁ、お前ぇの仕業かぁ、影の薄いにぃちゃん」

 

「……俺程度の使い手は眼中になかったようなので、利用させてもらったまでだ……!」

 

 張り詰めたコンラの声に納得する。彼の神器(セイクリッド・ギア)、【闇夜の大盾(ナイト・リフレクション)】の能力で、影の中にゴンとキルアを潜ませていたのだろう。本人の戦闘力はこの場では然程だが、かつてピトーと黒歌のアンテナすら欺き二人を尾行したその能力は、サンペーではさすがに見破れない。

 

 しかしそれは感知能力の話であり、戦闘能力は別問題。ゴンのパンチもキルアの電撃も大きなダメージになっていないらしい状況で振出しに戻そうが、無論油断などできるはずがない。故にゼノヴィアとハンゾー、もちろん俺も、気を引き締め直すとともに強く内の【念】を練る。

 

 しかし一人、ゴンは臨戦態勢の気配を放つサンペーすらほとんど意識せず、未だその言葉をリアスたちに向けていた。

 

「ねえリアスさん、本当に、自分に価値がないだなんて思ってるの?」

 

「え……?」

 

「本当に、弱い自分を守るためにイッセーが死んだって思ってるの?」

 

 ついさっき死にかけたはずのゴンが、前と全く変わらないトーンで口にする言葉。自分の死よりも許し難い事柄だとでも言うような真剣の声に、リアスが思わず呆けた声で返す。しかし重ねられ、言葉にされた(一誠の死)は、容易く彼女の堰を壊させた。

 

「そう……そうよ!! 私が、私が弱いせいで、イッセーを殺したの!! それをもう思い知ったのっ!!」

 

 半狂乱に叫ぶリアスは、震える声でさらに続ける。

 

「魔力量はヴァーリに遠く及ばないし、制御技術もソーナに劣る。肉体の力だって、サイラオーグとは比べるべくもない、でしょう……? 私にあるのは、滅びの魔力だけ。でもそれだって……通じなかった……! そんなことはわかりきってたはずなのに、なのに私は私なら大丈夫って、私は強いって思いこんで……ッ!!」

 

 そして失敗し、結果、一誠が怒りに狂って死んだ。

 

 助けようとしたから、もっと言えば立ち向かおうとしたから、一誠が死んだ。レーティングゲームのような娯楽ではない、本物の殺し合い。脅威を前に自分が無力であることを知らず、故に知った今、とめどない後悔が一誠の死と共に彼女の心を深く蝕む。

 

 一誠(愛する人)を助けられなかった自分に、やはり価値はないのだと。

 

「違うよ」

 

 しかしゴンは幾度となっても変わらず、それを否定する。

 

「確かに、オレはリアスさんのことも、悪魔や下僕のことだって何も知らない。グレモリー家っていうのにどれだけ価値があるのかもわからない。けど、それでもリアスさんは死んじゃいけないってことだけはわかる」

 

「どう、して……?」

 

 呟くリアス。縋るようなその声に、ゴンは力強く、言った。

 

「イッセーは、リアスさんたちを守るために戦ったんだよ」

 

 その一言が、リアスと、そして朱乃とアーシアの眼に光を灯したことが、見えずともわかった。

 

 一誠は、彼は殺されたがしかし、確かに守ったのだ。己が命よりも大切な彼女らを。

 

 そして気付く。諦めた自分たちが、それを捨てようとしていることを。

 

「リアスさんたちが弱いからでも、イッセーが下僕だからでもない。イッセーは、ただリアスさんたちが大事だったから……自分の命よりも大切な人たちだったから、戦えたんだ……! だから、イッセーがそんな思いで守ったリアスさんたちの命を捨てちゃうのは、絶対にダメだ!!」

 

 それは他でもない、一誠の死すらをも無にする行為であるのだから。

 

 残された彼の想い、存在が、心を暗闇から引き上げる。最愛を亡くした悲しみに打ちひしがれていた彼女に、再び気力を取り戻させた。

 

「……イッセーくんが、私を……」「イッセーさん……」

 

 朱乃とアーシアの心の中にも、また一誠の存在が戻る。そのたった一つで立ち直りかけている彼女たちは、あと一押しで気力を取り戻し、それまでの戦意を、戦う力を取り戻すだろうと感じた。

 

 しかしやはり、彼女たち程度の力量では戦況を動かすには足りない。今のような事態は避けられても、サンペーを念能力の戦闘になれていない者たちで相手せねばならない戦力差の不利を覆せるわけではないのだから。

 

 故に傍で繰り広げられたゴンとリアスの言い合いに、それまで俺は関心がなかった。取り戻しても折れたままでも、どちらでも大した違いはない。

 ゼノヴィアのように悪魔の力を使っても、あるいはハンゾーやジークの【念】でも念魚をどうにか倒すのがせいぜいで、カギとなるクラピカはウボォーギン一人にかかり切りで、且つ警戒されている特攻能力は不意を突かねば辺りもしない。だから無意味と半分そう聞き流し、いつ来るかもしれないサンペーの攻撃にのみ集中して精神をすり減らしていた。

 

 のだが、その時。

 

(――ッ!!)

 

 不意に天啓のような閃きが、頭の中に舞い降りた。

 

 じり貧でしかない現状を打破する一手。敵に痛打を与えるどころか、うまくいけば一人、仕留められるかもしれない。

 

 悟り、気付いた瞬間、俺は咄嗟に組み上げた聞こえのいい言葉を投げていた。

 

「そうだ! 君たちグレモリー眷属の強さとは、一人一人の個人のそれじゃあない。皆が想い、信じ合う絆の強さ、それこそがリアス・グレモリー眷属の力! 仲間こそが、君たちの強さなんだ!!」

 

 強敵に挑む気概や度胸は、その絆から生まれたもの。それが黒歌の言う通り蛮勇だろうとも、今はどうでもいい。

 

「君たちの仲間である兵藤一誠の、最後の願いだ。それに応えないでどうする! ……さあ、立って戦うんだ、リアス・グレモリー眷属!!」

 

 ジークや他の皆、黒歌やピトーをもう神器(セイクリッド・ギア)に奪われないために、俺は無意識に、彼女たちが求める言葉を吐いていた。

 

 本音では“グレモリー眷属の絆”などどうでもいい。興味もない。だがその空虚は、今まで積み重ねてきたリアスからの信頼が埋めて塞ぎ、彼女たちに届いていた。

 彼女たちの身に魔力が蘇っていく。俺は気を失ったらしいぐったりしたジークを抱えたままゆっくりとそちらへ寄る。

 

 その途中で、とうとうサンペーが動いた。

 

「なぁ、おい。想いだのなんだの、くっせぇ展開はもう終わったかぁ? 背中、痒くなっちまったよぉ」

 

 その【オーラ】が、再び俺でも知覚できるほどに膨れ上がる。

 

「そういうもんはぁ、念魚ちゃんのエサにでもしちまうのが一番だなぁ。ほらよぉ」

 

 小さな物体が風を切る音。恐らく念魚を引き付けるエサ玉のようなものが投じられ、俺たちの近くで破裂した。香ってくる生臭いにおいに反応し、周囲を泳ぐ念魚たちがすさまじい勢いで殺到してくる気配を感じる。

 ゼノヴィアとハンゾー、多数を相手取るには向いていない二人ではとても防ぎきれないだろう。だが一方、彼女たちの能力は、むしろ多数に適している。

 

「私は……ッ!!」

 

 荒い息遣いを押し込めたリアスの一声が、同時、ぎゅわっと空気ごと食い破るような音と共に放たれた。

 念魚たちを襲う、滅びの魔力。範囲にも破壊力にも優れるそれで念魚たちに断末魔を上げさせたリアスは、サンペーに、何より自分自身に叩きつけるように、地に付いたその決意をはっきりと口にした。

 

「イッセーの……かわいい下僕の想いを踏みにじるような女じゃないわッ!!」

 

「はっ……ザコがよぉ、いっちょまえに景気づきやがってぇ……いいのかぁ? 向かってこねぇなら苦しまねぇように殺してやるつもりだったがよぉ、やるってぇなら容赦は――っとおぉうッ!?」

 

 雷鳴が轟いた。直後、低い声で威圧するサンペーが飛び退きそれを回避したらしい。

 

 面食らった雰囲気のサンペーに、こちらも決意の滲んだ、それどころかより強い気迫を発する朱乃が続いて言った。

 

「……私たちはザコなんかじゃない……弱くなんてありません……!! 私を、皆を、イッセーくんが命を捨ててまで守りぬいた大切なものを守るためなら、私は……私の運命だって、受け入れて見せる!!」

 

「……んだぁ? お前ぇ、堕天使だったのかぁ」

 

 羽音は、朱乃が背から悪魔の羽だけでなく堕天使の羽をも見せたことの証。さらに続いてアーシアも声を上げる。

 

「私は戦う力はないけれど、でも、イッセーさんが守ってくれた私たちのこの命、泥棒さんなんかには絶対に渡しません……!!」

 

「ぼ、僕も……」

 

 ギャスパーも、熱量はそこまでではあるが怯えた様子でリアスたちに続いた。ゼノヴィアやハンゾー、ゴンとキルアの士気も、つられて高まる。

 

 ちょうどその時に、俺はリアスの耳元に告げていた。

 

 思いついた奇策。伝えると、彼女は一瞬驚いて息を呑み、すぐに無言で吐き出した。その様子は皆の気迫で、恐らくサンペーは気付かなかっただろう。

 故に、リアスはただ堂々と、眷属たちの主たる立ち振る舞いでまっすぐサンペーを貫いた。

 

「……お待たせしたわね、幻影旅団。クラピカや曹操を殺したいようだけど、お生憎様。曹操は私の友人で、クラピカももう私たちの仲間なの。手を出すのなら、私はそれを決して許さない。グレモリー侯爵の、いえ、私の名に置いて、貴方たちを消し飛ばしてあげる!!」

 

「決め台詞、ご苦労さん。全くめんどくせぇなぁ」

 

 サンペーが忌々しげに鼻を鳴らす。しかし次いで、半笑いを声に浮かべた。

 

「で、一つ聞きてぇんだがよぉ……『吹き飛ばす』って、どうすんだぁ。おいらの念魚ちゃん、あれっぽっちで攻略した気になってるなら、忠告しとくぜぇ?」

 

 実際にその通り。いくらリアスの滅びの魔力や、堕天使の血を受け入れた朱乃による雷光があろうとも、それだけでサンペーの念魚を殲滅することはほとんど不可能だろう。かつて目にした念魚の大渦と同等の数がいるのなら、仮に殲滅できたとしても、もうその時には皆ガス欠だ。

 

 それでは策が成立しない。俺が伝え、そのことを理解するリアスは故に、毅然と返す。

 

「ご親切にどうも。けど承知しているわ。私たちでは貴方たちに敵わない。他のみんなも、このままじゃじり貧になるだけでしょう。だから――」

 

 その眼が移り、今まさに戦っている最中の()を捉え、その注意を向けさせる。

 

「クラピカ、私の眷属になってちょうだい!」

 

 策の要を口にした。




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十八話

「……あぁ? 何言ってんだぁ、お前ぇ」

 

 怪訝なふうに呟いたのはサンペーだった。威勢よく立ち上がったリアスに対峙しながら、吐かれたのはクラピカへの眷属化の要請。“私を守りなさい”と、まるで助けを求めるような台詞に、奴は肩透かしを食らったような心地なのだろう。

 

 そしてそれは向けられたクラピカも同様。サンペーのように間抜けに呆けたわけではないが、困惑を吐き出す。

 

「リアス殿!? 今はそんな場合では――」

 

「いいえ。クラピカ、貴方が今、必要なの……!! お願い、私を信じて眷属になって!!」

 

 遮り、必死に訴えるリアス。確かにクラピカの言う通り、今は戦闘中。悪魔への転生などしている場合ではない。無防備に儀式を行うこと自体、自殺行為だ。

 

 だがそれでも必要だった。クラピカが悪魔に、リアスの眷属になることが、俺の思いついた策の必須条件なのだ。

 そして必須であるその理由は策自体を明かすことと同義であるので明かせず、それ故にリアスはただ『信じて』と繰り返す以外にない。それではクラピカにその内の困惑を越えさせることがわかっていても、やはりそれ以外になかった。

 

 加えて追い打ちするように、彼の今の状況。ウボォーギンの攻撃がクラピカに命中する、大きく鈍い音が響き渡った。

 

「おい、シラケさせるなよ鎖野郎……!!」

 

「ぐあッ!!」

 

 肉が潰れ、骨が折れる音。苦悶の呻きを漏らすクラピカは今もウボォーギンに狙われて、僅かに意識を逸らしただけで隙となってしまうほどギリギリの戦いを続けている。戦闘を続けながらリアスに構う余裕はない。

 

 とどめに、たとえそれらの問題を解決して悪魔となったとしても大した意味がないという事実が、公然とそこにある。だからこその躊躇、しかしリアスの声調に即断できないクラピカに、ウボォーギンは忌々しげに鼻を鳴らした。

 

「悪魔の力があれば、一瞬そう思ったな? バカが。悪魔の駒(イーヴィル・ピース)だったか、使った程度でお前が勝てるわけねぇだろ。オレがあの虫野郎の力で強くなったってのもあるが、それ以上に、お前の能力()がもう見えてんだ(・・・・・)よ。……期待してたんだが、リベンジのしがいもねぇ」

 

「く……!!」

 

 彼の武器である対旅団能力、【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】。五指の鎖に込められたその他の能力も、多くがすでに奴らに露見していると聞いている。一度それらの能力で殺されたウボォーギンになら見切ることは難しくないだろう。

 

 そして、悪魔化によって得る力、身体能力の向上や魔力の獲得などがあっても、それら“詳細を知られた念能力”という穴を埋められはしない。

 故にリアスの懇願も、僅かなクラピカの傾きも、そこに見た希望の全ては幻。意味はない。

 

「――あー……、そうかぁ、そういやぁ、悪魔の駒(イーヴィル・ピース)ってぇのがあったなぁ」

 

 が、一人サンペーが気が付いた。奴の落胆と呆れが、面倒くさそうな苛立ちの滲むため息に変わって吐き出される。

 

「あれは確かぁ、死んだ奴でも蘇らせて悪魔にする、ってぇもんだったよなぁ」

 

「……おい、つまり今鎖野郎ぶっ殺しても、そいつが生きてたらまた蘇っちまうってことか?」

 

 ウボォーギンも気付く。プフとユピーの【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】のように際限なくとまではいかないが、こちら側にも蘇生の手段があるのだということ。

 

 踏まえ、見えてくるのは殺害の優先順位だ。

 

「なら決まりね。ウボォー、鎖野郎の前に、あの娘よ」

 

 パクノダの声に続いて、三人の殺気が一度にリアスへと向けられた。

 集まる眼はリアスが恐怖を思い出すのに十分で、その毅然が剥がれ、喉の奥で悲鳴が鳴る。そんな彼女を守るために前に出るゼノヴィアと朱乃だが、その身はカタカタと音まで立てて震えている。彼女たちが一時の盾にしかなれないことは明らかだった。

 

 故に、瞬間に地面が爆ぜる音が響き、迫るのを知覚したと同時に俺は叫んでいた。

 

「ジャンヌ!! リアス殿を――」

 

「言われなくてもわかってるわよッ!!」

 

 しかし叫ぶ前からジャンヌも動いていた。

 

 旅団の二人からダメージを受けているのだろう。苦しげな声で、それを堪えながら、恐らく能力である聖剣を地面に突き立てた。

 

禁手化(バランス・ブレイク)――【断罪の聖龍(ステイク・ビクティム・ドラグーン)】!!」

 

 解放された【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】の力が矢のように地面を走り、そして俺たちの眼前で発動した。

 

 見えないが、現れるのは聖剣で作られた大きなドラゴンだ。彼女はかつてピトーに襲われトラウマを植え付けられたらしく、そのせいでドラゴンの図体は禁手(バランス・ブレイカー)に目覚めた当初よりも防御寄りに変化している。

 

 攻撃性がその分防御能力に回されており、つまり守りに関しては一級品の盾。それから、次の瞬間、すさまじい破砕音が響き渡った。

 

「【超破壊拳(ビックバンインパクト)】!!」

 

「そんな……これですら……ッ!!」

 

「ハッ!! 脆いなァ!! こんなもんじゃ俺のパンチは止められねぇぞォ!!」

 

 ウボォーギンの攻撃、拳は、もはやピトーのそれのレベルなのだろう。ジャンヌ一人では抑え込めず、粉砕されゆくドラゴンが苦痛の叫びをあげる。

 

 そこに、ルフェイの慌てた声が割って入った。

 

「ッ!! ジャンヌさん、援護しますっ!!」

 

「ぬ、うおっ……!!」

 

 恐らく魔法による支援。それで辛うじてドラゴンは蘇り、ウボォーギンの攻撃と突撃は跳ね返されたらしい。しかしそれでも一歩後ろにのけぞらせるのが精一杯だったようで、一瞬の驚きはあれど、ウボォーギンの戦意は衰えなかった。

 

「褒めてやるぜ、半分程度の力とはいえ、オレの拳を止めやがるとはな。……じゃあ次は遠慮なく、全開でやってやるぜ!」

 

「……ふん! それって負け惜しみか何か? クラピカのストーカーなんかに、私たちが負けるもんですか!」

 

「そうですそうです! クラピカさんもリアスさんもやらせません! お二人を狙うって言うのならまず私たちを倒していってくださいっ!」

 

 如何にも余裕といったふうなウボォーギンに強気に返すジャンヌとルフェイ。しかし、あの二人でもこの状況ではあまり長くは持たないだろう。ウボォーギンの余裕の中に本人の言う通りの余力があるのは、恐らく本当だ。

 となれば、今の攻撃でぎりぎりであったドラゴンが本気のパンチに耐えられると考えるのは楽観的すぎる。身を焦がすような危機感は、加えて二人がウボォーギンにかかりきりになればパクノダがフリーになってしまうという事実に加わりさらに増した。

 

 危惧の通り、直後に銃声が轟いた。考えるまでもなく、その銃口が向いているのはリアス。空を貫く【念】を纏った弾丸が彼女の身体に風穴を開ける光景を幻視し、潰える望みに対する恐怖心が、聖槍の反対の手に反射的にもう一つの神器(セイクリッド・ギア)、【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】を発動させ、邪炎の盾を展開した。

 とっさのそれで奴らほどの念能力者の攻撃を防ぎきれるかはわからない。それでも少しでも威力を削げればとという思いだったが、しかし盾は弾丸を焼き溶かすことも、素通りさせることもなかった。

 

 その直前で、ぎゃりん金属が金属にめり込むような音。そして彼は、リアスの身を案じる言葉を告げた。

 

「無事ですか、リアス殿!」

 

「あ……う……」

 

 クラピカは、その鎖の能力でパクノダの弾丸を止めたのだろう。守られたリアスは向けられた殺意を改めて理解し怯えるが、しかしすぐに我に返り、もう一度クラピカへ言う。

 

「そ、そう、大丈夫……。だからクラピカ、私の眷属に――」

 

「申し訳ない、リアス殿。今は本当にそんなことをしている暇がない」

 

 だがやはりというべきか、間を置いた彼はリアスの要請時間の無駄と認識したようだった。場の殺意の恐怖に彼女が錯乱でもしたのだろうと考えたのだろう。

 そこで俺も、背を押す焦りに任せて声を出した。

 

「暇はないが、必要なんだクラピカ! 頼む……!」

 

「曹操……!?」

 

 “策”の説明は、時間がなく、近くにサンペーもいるはずなのでできない。故に声を出した俺も、リアス以上のことは言えなかった。が、それでもリアスに加えて俺までもが必死にそれを言う光景は、妄言と切って捨てることを思い止まるだけの余地を再び彼に与えたようだった。

 

 生じる迷いと困惑。しかし周囲の脅威を思い出したようで、彼は改めて憔悴から漏れる呼吸音を噛み潰し、その言葉に少しだけ怒気を滲ませる。

 

「……最初にリアス殿にそれを願ったのは私だ。奴らを再び捕らえることが叶えばもちろんあなたの眷属になりましょう。だから今は――」

 

「クラピカ」

 

 苛立ち混じりのその声が、不意に遮られて止まった。

 

 止めたのはゴンだった。真剣なその声色がクラピカと、そして俺たちをも捉え、そしてまた短く言う。

 

「信じよう」

 

 ゴンは“策”を知らないはずだ。クラピカが今、リアスの眷属になる意義など理解しているはずがない。

 なのにその一言には、長き時と苦楽を共にした真なる仲間に向けるような信頼に満ちていた。

 

 リアスと俺の言うことを無条件に信じ、任せると言わんばかりの、信頼故に自信のこもった一言。眼にも、きっと同種の光が宿ってクラピカを見つめているのだろう。リアスと曹操は信頼に足る人物で、だから大丈夫なのだと。

 

 そしてその信頼は、眷属たちにも伝わりその絆を思い出させた。

 

「……そうだ、私たちが部長を信じなくてどうするんだ! なあ副部長!」

 

「そう……ですね……! 私たちはリアスの下僕、リアスはいつも私たちを正しい方向へ導いてくれた……! 私たちの、(キング)のリアスは……!」

 

「ゼノヴィア、朱乃……みんなも……!」

 

 二人だけでなくアーシアやギャスパーの頷く声も聞こえ、リアスが感極まったように声を震えさせる。ついさっきまで無様を晒していたことを思い、それでも信用してくれている下僕たちの存在が彼女をそうさせているのだろう。

 

 そして信頼は眷属だけに留まらず、ハンゾーの口からも出る。

 

「リアスさんはもう大丈夫だよ。こんな状況で無駄なことを言う人じゃねーってことは、もうお前にもわかってるだろ? ……心配すんな。転生が終わるまで、お前とリアスさんは俺たちが絶対守る」

 

「……そういうこと。オレも……念魚くらいならどうにかなる。あんたが悪魔になるってあんまり現実感ないけど……大丈夫だからいって来いよ、クラピカ」

 

「………」

 

 ハンゾーと、次いで少し弱気ながらもキルアが言い、その背を押す。黙り込んだクラピカは、しかしその時、覚悟を決めた。

 

 リアスの傍に、ざっ音を立てて膝を突く。

 

「リアス殿、先ほどは失礼しました。眷属となる以上、私もあなたを信じるべきだった。こん私ですが改めて……あなたの眷属にしていただきたい」

 

 リアスはやはり震えた声で、しかし嬉しそうに、毅然の声でそれに応えた。

 

「……ありがとう、クラピカ。……貴方はもう、私たち眷属の、家族の一員よ!」

 

 そして続き、周囲の眷属(仲間)たちへ、

 

「だからみんな……転生の儀式が済むまで、私とクラピカを守りなさい!」

 

「「「はい、部長!!」」」

 

「うん!」

 

「ああ!」

 

「任せとけ!」

 

「は、はいぃ!」

 

 眷属たちと、ゴン、キルア、ハンゾーの声が、その意思に束ねられた。ギャスパーすらも弱々しくだが同調する。一息で、俺たちの希望が蘇った。

 

 だが打ちのめされていたはずの彼女らの復活。それは当然、サンペーたちにとって面白いはずもない。その声に含まれる苛立ちが、さらに濃く大きく吐き捨てられた。

 

「あぁくそぉ、また演劇かよぉ、どいつもこいつも舐め腐りやがってよぉ……! 作戦か何か知らねぇけどぉ、そんなにぶち殺してほしいならぁ、お望みどおりにしてやるよぉ!!」

 

「ッ!! みんな伏せて!! 雷光よ……ッ!!」

 

 恐らく念魚が、サンペーに誘導されて襲い掛かる。察知した朱乃が叫び、直後に雷鳴と、まるで光線のように鋭い水音が響き、ぶつかった。

 

 確かサンペーの念魚には口からウォーターカッターのように水を吐くものがいたはずだ。それと対峙した朱乃の電撃は、そこに含まれる光の力の熱によってほとんど水蒸気爆発のような蒸発を引き起こす。

 

 俺の周囲にまで蒸気が満ちるのがわかった。肌に纏わりつくような湿気を感じる。と思えば次の瞬間、頬の生暖かな空気の感触が切り裂かれ、冷たい空気の圧がそれらを吹き飛ばした。

 

「はぁッ!! 副部長に任せっきりにはできない!! 私たちも一匹でも多く念魚を倒すんだ!!」

 

「わかってるし、そのつもりだよ!! けどさすがにこりゃ……」

 

「……いくらんでも多すぎだぜ……!! このままじゃ、すぐにこっちの体力が尽きる!!」

 

 ゼノヴィアとハンゾーとキルア。それぞれ戦うが、やはり皆、朱乃の雷光のような広範囲かつ高威力の技を持たない以上、念魚の“数”には押されることとなっているらしい。いや、正確にはゼノヴィアのデュランダルを使った念能力に類する大技があるが、あれはコントロールがまだ甘く、味方を巻き込みかねないので使えないのだろう。

 

 さらに、念魚に加えてサンペー本人もがこちらに戦意を剥けている状況だ。取れる手段はなお少ない。

 

「ジャン、ケン――ッ!!」

 

「どけぇガキんちょぉ!!」

 

 だが一つ、手がある。念魚をまとめて葬る方法。

 俺と同じくそれを知っている、否、覚えているからサンペーはゴンを押し退け俺を攻撃しようとし、そしてゴンは直感的にそれを悟ったのか、抗った。

 

「グー!!」

 

「ぐぅッ……ちぃ、相変わらずパンチ力だけはいっちょ前だなぁ!! 邪魔くせぇ!!」

 

 ゴンのパンチに、しかしサンペーは耐え切ったようだった。そのまま力を出し切ったゴンを払い除けたのか、彼から呻き声と共に焦りの声が飛び出てくる。

 

「うわぁッ――!! 曹操さん!!」

 

「ッ――!!」

 

 【念】で身を固めた。直後、俺の身体にサンペーの攻撃が突き刺さる。身体の内側であばら骨が軋む音がした。

 

「が、は……ッ!!」

 

「クソがよぉ……おとなしく吹っ飛べ邪炎野郎がぁ!!」

 

 俺の【邪龍の黒炎(ブレイズ・ブラック・フレア)】は過去にサンペーの念魚を一掃したことがある。できるだけの威力があることを、その時に証明しているのだ。

 

 故にリアスたちの前に俺へと狙いをつけたサンペーだったが、しかし俺が防御したことで攻撃は致命傷には至らず、悪態をつく。

 しかし声に反してその【オーラ】にはそれほどの焦りは感じられなかった。理由は当然俺の目。念魚に狙いをつけることができなければ、呪いの炎はゼノヴィアのそれと同様に不用意に放てない。その、狙いをつける暇さえ与えなければいいと、奴はそう考えているのだろう。

 

 だが奴はどうやら、俺たちには“仲間”の存在があることを忘却しているようだった。

 正確には、非戦闘員たるアーシアの存在だ。

 

「え、えいっ!!」

 

 戦場に似つかわしくない彼女の可憐な声が、上空で響いた。そして直後、

 

「お――!!」

 

 サンペーの驚きを掻き消す破裂音が、空を覆うように鳴り響いた。

 

 それは恐らく、彼女たちがレーティングゲームなどで使うトラップの類の術式だ。敵の接近に反応して発動するその騒音は、周囲の空中を回遊する念魚たちをトリガーに即発動。ダメージはないが、音と光と衝撃を撒き散らす。

 

 それに対して、自立した一生物のように具現化された念魚たちがどう反応するか。驚き、それから逃れるように動くだろう。それさえわかればサンペーのエサ玉のように、俺たちにもある程度は念魚をコントロールできる。

 

「いいぞ曹操! そのまま撃て!」

 

 破裂音の中で耳元に聞こえるのはコンラの声。彼がアーシアと共に術式を仕掛けたのだろう。なら、不安も躊躇も必要ない。

 あばらのダメージに折れそうになる身体を必死に留め、俺は正面に手を突き出した。

 

「燃え、尽きろッ!!」

 

 ごぉっ、と空気をも焼き尽くしながら、邪炎は念魚たちへと放たれた。

 

 俺が一度に放てる限界の規模の【オーラ】を費やしたそれは、集められた念魚の尽くを焼き殺せるだけのものだった。取り逃しはない。そのはずだと、そう確信した。

 

 だが、それは一瞬のことだった。

 

「なぁ、【終末違漁(ビリ)】ですでに具現化してるとはいえぇ、おいらが今まで釣竿持って戦わなかった理由、わかるかぁ?」

 

 これ見よがしに奴の手の中で、釣竿を弄ぶような音がした。

 

 そして術式の破裂音が止み、聞こえるようになった周囲の音に含まれる、直前まではしていなかった、重量感ある鳴き声のような低周波音。

 

「【暗黒大戮鯨(ブラックホエール)】ちゃんはなぁ、デカすぎるから自分でいくらか浮上してくれるまで待たねぇとだめだったんだよぉ」

 

 その正体は、

 

「巨大な……クジラ……!!」

 

 巨体が大勢の念魚を燃やすはずの邪炎を一身に受け止めたのだと、俺は悟った。

 

 突如現れた未知且つスケールの大きすぎる念魚に、一瞬俺の思考が止まる。いや、止まったのは俺だけではなかったらしい。念魚が突進してくる音と打撃音が、コンラの呻き声と共に聞こえた。

 同時に俺の身体にも攻撃の衝撃が走り、重いそれに重心が持っていかれる。倒され、背中を固い地面に打ち付け、その時ようやくクジラからの動揺から抜け出した俺は、明瞭を取り戻した耳に迫りつつある低周波を感じ取った。

 

 俺めがけて襲い掛かってくるクジラの念魚との間に、もはや守りが何もない。それが絶体絶命の状況であることを、俺は悟らざるを得なかった。

 

「じゃぁなぁ、邪炎のにぃちゃん」

 

 周囲で念魚と戦う皆の悲鳴が聞こえた。その声がクジラによって塞ぎ止められる、その直前。

 

断罪の(ステイク・ビクティム)――、聖龍(ドラグーン)……ッ!!」

 

 息も絶え絶えなジャンヌの声で、クジラの放つ低周波音の鳴き声が悲鳴に変わった。

 

 聖剣のドラゴンがクジラを食らったのだろう。巨体とはいえクジラは所詮一匹の念魚。加えて俺の邪炎を受け止めたその身にジャンヌの禁手(バランス・ブレイカー)を受け止める耐久力は残っていない。悲鳴と宙を泳ぐその音は、やがて薄れて消え去った。

 

 だが一方、荒く息をするジャンヌの体力は、再度の禁手化(バランス・ブレイク)の発動で明らかに尽きていた。故にその背、俺を守るために力を使い果たしてしまった彼女の傍からどこか憮然としたウボォーギンの声がしたことには、息が詰まるような恐怖感はあれど、驚きは存在しなかった。

 

「せっかくのタイマンだってのによそ見なんぞしやがって……と言いてぇが、嫌いじゃないぜ、その根性」

 

「く……ッ!!」

 

 苦しげに呻くジャンヌ。動くことも叶わないほど消耗した彼女に、ウボォーギンの【オーラ】が膨れ上がる。

 

「……ジャンヌっつったか、名前は覚えといてやるよ――ッ!!」

 

 増大した【オーラ】の攻撃が、放たれた。確実にとどめになり得る威力には悲鳴すら聞こえない。だがそれほど圧倒的なパワーに一人、割って入る逼迫の声。

 

「ダメです――ッ!!」

 

 ルフェイだ。魔法による障壁か、ウボォーギンの攻撃はジャンヌではなくまず硬い壁にぶつかったような衝撃音を撒き散らした。

 

 しかしそこに舌打ちが混じり、次いでバキバキと破砕音。結界はウボォーギンのパワーを防ぎきることはできず、砕け、そしてそのままジャンヌを穿った。

 

「ジャンヌさん!!」

 

「く……くそ……!!」

 

 吹き飛ばされた彼女を、彼女と浅からぬ縁のあるゴンとキルアが受け止め歯噛みする。声色からして死んではいないのだろう。ルフェイの結界が辛うじてその命を繋げたらしい。

 

 だが戦闘不能であることには変わりない。さらに、続く銃声が一発。

 

「あう……っ!」

 

「彼を生き延びさせたのはいいけれど、代償に見合うものかしら。二人もやられちゃったわよ?」

 

 パクノダの手によりルフェイもやられてしまったらしい。致命傷にはならずとも、知っているだけで二発もの【オーラ】が込められた弾丸をその身に受けてしまっている彼女もやはり、戦えなくなる時が近いだろう。

 

 そして俺たちもそうだ。サンペーの念魚たちはほとんどが顕在で、俺たちを狙ったまま。一掃の機を逸した以上、もう持たない。

 

「リアス!! まだか!?」

 

「もう少し……もう少しなの……!!」

 

 クラピカの転生が完了すれば事態を動かせるが、このままではその前にこちらが全滅してしまう。腹の底から上ってくる冷気のような恐怖感があった。

 

 サンペーが、そんな俺たちを嘲笑うように声を張った。

 

「ははぁっ! 辛抱強く待った甲斐があるってもんだなぁ、ようやくだぁ」

 

「っ……勝った気になるのは、まだ早いですわよ……!!」

 

 念魚たち相手に戦いながら強気に返す朱乃だが、どうあがいてもそれは虚勢。念魚の撃退ももはや焼け石に水だ。消耗の方が大きすぎる。

 

「何を企んでるかは知らねぇけどぉ、それやる前にぶっ殺しちまえば終わりだろぉ? 諦めて現実受け入れなぁ、堕天使のねぇちゃん」

 

「ぐ……誰が、諦めるものか……!! 一誠のためにも、みんな私が死なせない……!!」

 

 疲労からか息を荒くしながら、ゼノヴィアが改めて強く聖剣を握る。そんな抵抗の意思も、もはやサンペーの眼には滑稽にしか映らないようで、

 

「じゃ、頑張って守ってみせなぁ!!」

 

 嗤い、念魚たちを差し向けえた。

 

 生臭いエサ玉のにおいが弾けると、釣られて念魚たちの殺気が一斉にその鋭さを増す。迫りくる濁流のような音に皆が息を詰まらせ、俺の胸中にも戦慄と絶望感が溢れかえった。

 

 直後だった。

 濁流の音が止まった。

 

「なぁ……っ!?」

 

 驚愕を露にするサンペー。奴が目にしたであろう光景を、数舜後、遅れて俺も感知した。

 

 魔力だ。それも朱乃たちが使うそれとは段違いに強力なものが、襲い来る念魚たちを包んで止めている。

 そしてその強力さ、感じるその魔力の気配の正体は、記憶に残る彼女のものと一致する。それは、

 

「ぐ、グレイフィア!?」

 

 リアスが驚き思わず声を上げる。それは魔王サーゼクスの女王(クイーン)、リゼヴィムたちに戦闘不能にされたはずのグレイフィアのものだった。

 

 突如現れ、俺たちを守った彼女。しかしやはり負ったダメージが癒えているわけではないようで、相当無理をしているらしい彼女の叫ぶ声は苦しげに歪められながら、唐突な事態へ怯む間を許さずすぐさまリアスへ向いた。

 

「そう長くは、持ちません……! リアス、早く……!」

 

「ちぃ……させるかよぉ、死にぞこないの悪魔女がぁ……ッ!?」

 

 忌々しげなサンペーの舌打ちが真っ先にそれに応えるが、一瞬遅れて止められる。ゼノヴィアとハンゾーが、決死の気合で奴のその脚を戸を止めてみせた。

 

「させないは、こっちの台詞だ……ッ!!」

 

「行かせ、ねーぞ……!! おとなしくしてやがれッ!!」

 

「ガキどもがぁ……!! ウボォー!!」

 

「おう、まとめていくぞォ!! 超破壊(ビックバン)――」

 

 念魚とサンペーを辛うじて止め、今度はウボォーギンの攻撃の矛先が向く。そして今度こそ、その攻撃を防ぐことができる者は残っていなかった。コンラはそもそも戦闘向きではなく、ゴンとキルアは力不足。朱乃とアーシアはウィザードタイプであれほどの物理攻撃には耐えられない。

 

 残るは、俺だけだ。だから俺はこの局面、盲目状態の手の中で隠し続けた唯一の切り札を、ここで使った。

 

禁手化(バランス・ブレイク)――【居士宝(ガハパティラタナ)】!!」

 

「――ッ!! (インパクト)ォ!!」

 

 手の聖槍が輝き、現れる【七宝】から俺の分身がウボォーギンの攻撃を受け止めた。

 

 それは俺が持つ能力で唯一の自立行動型。俺の技量を元にして動く幻影の分身だ。つまり俺の目が見えなくとも、勝手に動き戦える。今の今まで使わなかったのは、文字通りこれが最後の奥の手であることと、何より敵に俺自身を脅威でない存在と思わせるためだ。

 

 ボロボロにされる友人たちの様子に歯噛みしながら仕掛けたその策略は、確かにウボォーギンを驚かせその肉体を一瞬強張らせる。しかしそれは所詮一瞬のことで、ギョッとして攻撃が緩んだとしてもその威力は【居士宝(ガハパティラタナ)】では受け切れない。一撃で破壊される。

 

 だが、その一撃は止まった。止まったその間、稼いだ一瞬の時間で、辛うじて足りた。

 

「みみっちい小細工しやがって――!!」

 

 ウボォーギンが気付く。俺も背に感じていた。リアスの儀式を受けていたクラピカの気配が、人間から悪魔のそれへと変化したのだ。

 

 念魚とウボォーギンの攻撃で撒き散らされた砂塵を払う羽の音。クラピカの背からその証が現れたのだろう。既に転生したての下級悪魔のものとは思えないほどのプレッシャーを放つ彼は、その主と共に立ち上がった。

 

「……さあクラピカ、私の眷属として(・・・・・・・)最初の仕事よ」

 

 リアスの毅然とした声が響いた。

 

「彼ら幻影旅団を貴方の能力で捕え、この戦いを……終わらせるのよ!」

 

「了解しました、部長殿……!」

 

 クラピカの眷属化も完了していた。その事実を確認し、俺は聖槍を杖にしながら内心で安堵した。

 

 そして一方、サンペーはそれまでの情動の熱をそのまま吐き出すようにため息をつき、呟いた。

 

「あぁ、残念。間に合わなかったかぁ」

 

 びぃん、と糸が張る音が鳴る。

 グレイフィアが念魚を抑えていても、サンペーの手には釣竿がある。

 

「まぁ、どっちでもいぃけどよぉ。嬉しぃのはわかるけどぉ、隙だらけだぜぇ……っ!」

 

「ッ!! リアスッ――!!」

 

 朱乃が気付き、叫んだがしかし、同時にそのリアスの足元あたりから噴き出す水音がその先を掻き消した。

 

 釣り上げられたのは、音からして恐らく大型の念魚。リアスの焦った声が響く。

 

「っ!! これ、クラピ――」

 

 直後、彼女の声もまた唐突に途切れた。しかし何が起きたのかは見えずとも明らかだ。何の仕業なのかも、容易く想像がつく。

 

 彼女は過去に、その念魚に誘拐されかけている。

 

「こいつ――チョウチンアンコウみてーな――!?」

 

「おうよぉ。なかなか食いついてくれねぇんで、おいら参っちまったよぉ、【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃぁん!」

 

 ハンゾーと、そしてサンペー本人の言う通り、それは大きなアンコウのようなあの念魚だ。地面から飛び出したその大口に、リアスは食われたのだ。

 

 突然のショッキングな光景に思考が止まるのか、一瞬の間。それから息を詰めた朱乃と、僅かに遅れてクラピカが同時に動いた。

 

「っ! リアスッ!!」

 

「……ッ!!」

 

 雷光と、クラピカが撃ち放ったのは恐らく水系の魔力だろう。それらは同時にアンコウに命中したようで、炸裂し、念魚の水鉄砲のように大量の水蒸気を撒き散らす。

 

 以前のそれと異なり味方同士の電気と水は共鳴し、互いの威力を高め合って念魚の身を焼く音。だがアンコウは、ピトーの力でも容易には破れなかったほど強靭で、故に充満する熱気の向こうから朱乃たちの悲愴な嘆きが響く。

 

「そんな……!!」

 

「部長さん!!」

 

「う……部長……ッ!!」

 

 誰もどうすることもできず、アンコウは釣竿に引かれるままに泳いだようだった。知覚した直後、ウボォーギンの太腕が無造作に振るわれ、俺を薙ぎ払った。咄嗟に【オーラ】で守ってもそれなりの痛みが襲い来るが、しかしそれ以上の追撃は来ず、距離を開けたウボォーギンはその拳を叩き、釣竿を操るサンペーにニヤリと叫んだ。

 

「おい、こっちに寄こせよサンペー! これ以上悪魔の駒(イーヴィル・ピース)ってのを使えねェように、オレが念入りに潰しといてやる!」

 

「蘇られちゃあ面倒だしなぁ! 逃がすなよぉ? そら行くぞぉ!」

 

 サンペーが応え、念魚から針が外れる音がした。ウボォーギンが拳に【オーラ】を集める。リアスの力では到底生き残れないほどの威力が、誰も止められないまま、念魚に向けて振るわれた。

 

 上がる悲鳴。だが俺も、そしてリアスにも(・・・・・)、動揺はない。この状況、クラピカがリアスの眷属となった状態で当のリアスが奴らに攫われることこそが、俺の思いついた起死回生の“策”であるからだった。

 

「ッ!!?」

 

 消滅する念魚の悲鳴。肉と骨がひしゃげる音に、さらに別の音が重なる。

 それは鎖同士がこすれて流れる音だ。強靭な【オーラ】が込められたそれらは瞬く間にウボォーギンの身体を覆い尽くし、瞬間、一際強く鳴って張り、奴の動きと【オーラ】を堰き止める。俺が感じ取れるほど強い奴の気配が消え失せた事実は、奴が強制的に【絶】状態にされたことを示していた。

 

 紛れもなく、それは対旅団用のクラピカの能力、【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】によるものだった。

 

「――なんだと……!!」

 

 ウボォーギンの困惑は当然だろう。クラピカの鎖は幻影旅団のメンバーである奴らに対してほとんど無敵だが、しかしそれは命中すればの話。どうにかして不意を突く以外に方法はないが、能力の存在を知られて警戒されている以上、それは不可能に近い。真っ向勝負もそう。蒸気に紛れて攻撃を試みようとも、ウボォーギンがそれに気付けないはずもない。能力を抜きにしてしまえば、念能力者としての格の違いは明らかであるからだ。

 

 故のウボォーギンの困惑。己が身に絡みつき【念】を奪うその鎖が信じられないのだろう。だがその鎖を辿った先、目にする光景で、それはすぐに氷解したはずだ。

 

 そしてその頃に、穏やかな声でリアスが、クラピカがいるはずの離れた場所(・・・・・・・・・・・・・・・)から静かに声を響かせた。

 

「……キャスリングよ」

 

「なに……!?」

 

 ウボォーの間の抜けた声に、リアスは続ける。

 

(キング)戦車(ルーク)の位置を入れ替える、チェスの特殊なルール。私が念魚に食べられた後、水蒸気に紛れてクラピカと入れ替わったの。それだけよ。……戦車(ルーク)の防御力を得たクラピカなら、以前にも受けたあなたのパンチは耐えられる。そしてゼロ距離では、鎖を避けることも叶わなかったでしょう?」

 

 念魚の口の中にいたのは、クラピカだったのだ。さしものウボォーギンでも間近から、しかもリアスだと思い込んでいたモノが自身のパンチを耐え、しかも致死の攻撃を放ってくることなど、想像すらできなかったに違いない。

 無論対応できるはずもなく、結果クラピカはウボォーギンのパンチ【超破壊拳(ビックバンインパクト)】に恐らく腕を潰されるも、その鎖で奴を捕らえることに成功したのだ。

 

「一度捕えることができれば、貴様の怪力でも鎖を破壊できない事は証明済み。聖杯で強化されていようとも、それは私の悪魔化でのパワーアップを大きく凌ぐものではないようだ」

 

「こ……の、野郎……ッッ!!!」

 

 一転して憤怒のウボォーギン。以前に殺された時も同じくクラピカの鎖に囚われたらしく、同じ技を二度もくらったのだとなれば苛立ちも相当なものなのだろう。しかしそれだけの怒りを以てしても尚、鎖は全くきしむ音を慣らさず、壊れる気配はない。

 

 であれば、結末はもう揺るがなかった。

 

「終わりだ。……もう二度と、私の前に現れるな……ッ!!」

 

「く、そおおォォォッッ!!!」

 

 バキン、と、一際強い憎悪と共にクラピカの魔力が一瞬にしてウボォーギンを氷へと変える。そして返す刀で、クラピカ自身の拳がその氷像を叩き割った。

 

 粉々になった氷片が、その材料とは裏腹に涼しげな音を立てながら地面を流れて転がった。




オリジナル念能力

暗黒大戮鯨(ブラックホエール)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・巨大なクジラのような念魚。その大きさ故に釣り上げることも困難でサンペーの
腕でも時間を要する。巨体だが戦闘能力は高くなく、輸送能力に特化している。

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十九話

「ウボォー……」

 

 獅子奮迅の暴力をふるっていた男が死に、一時静まり返った中にパクノダが呟いた。彼女にとってその喪失は二度目であるはずで、同胞を失ったその声はより深い悲しみが滲んでいる。

 

 仲間の一人、サンペーも、攻撃の手を止め深く息を吐き出した。

 

「……そりゃぁよぉ、油断してたおいらが悪いよぉ。わかってるさぁ、けどぉ……はぁ……わかれやしねぇ(・・・・・・・)なぁ、こりゃぁ。……なぁ、クロロよぉ……」

 

「……後は二人。クラピカ、みんな……! グレイフィアが念魚を止めているうちに倒すわよ……!!」

 

 語末が囁くように途切れるサンペーに、リアスは皆と共に気を緩めることなく敵意を研ぎ澄ませる。ウボォーを倒し、念魚を封じて戦闘力が削がれているとはいえ、サンペーもパクノダも幻影旅団、評価としては最も危険なA級賞金首の一人であるのだ。凶悪な念能力者で殺人鬼であるという事実は変わっていない。

 

 そしてやはり、その通りだった。サンペーが纏う悔恨と自責の気配が、一転して殺気に変わった。

 

「“生かすべきは個人ではなく、旅団(クモ)”。あぁ、そうだなぁ。その通りだぁ」

 

「お、おい……あいつ、何を……」

 

 ハンゾーが動揺をみせる。彼が気圧されたのは、俺にも覚えがあるサンペーの気迫。

 

 死を受け入れた狂気のそれだ。

 

「……ならやっぱぁ……鎖だろうが何だろうがぁ、おいらの念魚ちゃんたちは捕まえられねぇだろぉ」

 

「みんな気を付けろ!! 何か仕掛けて――」

 

 声を跳ねさせるゼノヴィアをも覆うように、その【オーラ】が膨れ上がる。否、感じたのはサンペーの全身そのもの(・・・・・・)が自身の【オーラ】に呑み込まれるような、そんな気配。

 

 意味するところを、俺は遅れて理解した。それは全身を使った能力の発動。自らを対価にした、【念】の具現化だ。

 

「――ッ!! 全員、奴から離れろ――ッ!!」

 

 俺の絶叫に皆が反応する間もなく、

 

「後は頼んだぜぇ、パクノダぁ……!!」

 

 発動した。

 

「【終末違漁(ビリ)】ィッ!!」

 

「な――ッ!!」

 

 誰かの驚愕は、鼓膜をつんざく大音量の破裂音に掻き消された。

 

 サンペーの【終末違漁(ビリ)】は推察するに、対価とする肉の量、大きさに比例して、具現化できる念魚の量や大きさが変化するものであるはずだ。クジラの念魚を具現化するためあらかじめ竿を垂らしていたのがその証拠。

 そして今、奴は捧げられる肉の最大値、自身の命までもを使って能力を発動させた。加えて以前、一度目の死の際に見せた死者の念。恐らく今もそうであり、つまり通常以上の強い念が込められているだろうその能力。

 

 俺たちの正面で爆音と共に弾けたそれは、それ以上の轟音を伴って、大量という言葉ですら足りない数の念魚の気配を生み出した。

 

 そしてそれらが、比喩でなく津波となって俺たちに遅いかかった。

 

「―――!!」

 

 波は俺を突き飛ばし、一瞬にして呑み込んだ。耳にはひたすら濁流が響き、身体の余すことなく全てに痛打を感じる。

 

 だがそれでも俺は運のいいことに濁流の薄い部分に当たったらしく、やがて全身を打つ勢いが僅かに緩み、同じく衰えた轟音の中に念魚以外の音を感じた。

 

「きゃあぁっ――!!」

 

「あ、朱乃――あぁッ!!」

 

 空を飛んでいるはずの朱乃の悲鳴と、連鎖するリアスのそれ。他にもまばらに皆の、ともすれば断末魔の叫びが聞こえてくる。

 ゼノヴィアたち眷属も、俺たちハンターたちもゴンとキルアとハンゾーも、そしてクラピカやグレイフィアも新たな念魚たちを止められない。呑み込まれたようだった。

 

 もはや誤差の範囲内ではあるが彼女が抑え込んでいた分も加わり、念魚たちはさらに勢いを増していた。そしてその進撃はやがて進行方向とは逆側で戦っていたルフェイにも及び、その身を襲う。

 

「くっ、うぅ……!! み、皆さん……!!」

 

 間があったために結界か何かで防御ができたようだが、息づかいは明らかに苦し気だ。銃弾に二回も身を穿たれ、血を失ってしまったのだろう。

 

 そしてそこに、三発目が放たれようとしていることを俺は悟った。サンペーの能力で、念魚はパクノダを襲わない。

 

 カチリと拳銃の撃鉄が起こされる音が、念魚が生み出す轟音の中でやけに鋭く響いた。もちろんルフェイにも聞こえただろう。察せられないはずがないが、消耗している彼女は念魚から身を守ることで精いっぱいで、銃弾には手の出しようがないことは明らかだった。

 

「まずはあなた。さようなら、お嬢ちゃん」

 

「っ――!!」

 

 ルフェイの声なき声。できることといえば自分に向く銃口を睨むくらいしかない彼女から、口惜しさと恐怖に歯が食い締められる音さえ聞こえた。

 

 皆は念魚に倒れ、彼女を守れない。もちろん俺も動けはしない。誰にもどうしようもなく、その時とうとうけたたましい銃声が俺たちの鼓膜に突き刺さった。

 

 だがその数舜前に、彼女の兄であるアーサーの動転した叫び声が銃弾の前に飛び込んだ。

 

「ルフェイ、危ないッ!!」

 

「に、兄さん……っ!?」

 

 銃弾が弾き返される音。彼の持つ聖王剣コールブランド、最強と称される聖剣が、凶弾からルフェイを守る。だが助けられ、兄の無事をも確認した彼女に喜びの類の感情は発生しなかった。

 

 アーサーに続いて地上に降り立つ二つの足音、そのうち一つが力なく倒れた事実によって、そこに起きている事態を認識したからだった。

 

「へぇ、とどめが必要かと思いましたが、その必要もなさそうですね。これほどの数の念魚を生み出すとは……人間にしては中々」

 

 プフだ。ルフェイたちのさらに上、頭上から、似つかわしくない凪いだ声が降っている。それに俺も、遅れて気付いた。奴に挑んでいた三人、アーサーたちは奴に敵わなかったのだ。

 

「とどめ、か……! 勝った気になっているようだけど、ヘラクレスだってやられただけで死んじゃいない。待っていなよ、すぐにその減らず口も塞いでやる……!」

 

「どうぞご自由に。まあ、できるできない以前に、あなたたちにはもうそんな余裕もなさそうですが」

 

「く……!」

 

 返す言葉も、中身に反して息が荒い。相当なダメージを負っていることが明らかなほど苦し気で、反してやはりプフのそれは平坦だ。ヘラクレスが倒れたのであればなおのこと、アーサーとゲオルグの二人で戦闘を繰り返しても、勝ちの芽はないだろう。

 

 あの二人でも歯が立たないという事実は信じ難い思いだが、しかしそれが現実だ。そして今、二人とも念魚の濁流の渦中に落ち、万事休す。俺にも正直、もはや碌な手が見つからない。

 

 そうして言葉を告げなくなる地上に対し、プフはさっきと同じく平坦な人を見下し嫌悪するかのような冷やかな声調で、感心するふうに呟いた。

 

「しかし……ミルたん、とか言いましたか。アレもまた素晴らしいですね。たった一人でユピーと渡り合っている。……いえ、聖杯とやらの再生能力がなければ、あるいはあちらが勝るかもしれません」

 

「『だというのに三対一であなたたちは』、とでも言いますか? ……王直属護衛軍と言う割に、随分底意地の悪いことを――」

 

「ふむ、後始末は念魚に任せて、私はユピーの援護に回るべきでしょうか」

 

 底意地どころかもはや興味もないと言わんばかりに、普段のクールさを殺して歯噛みするアーサーの言葉に被せる。プフは、恐らく戦うミルたんとユピーのほうに眼をやって、首を振るようにため息を吐き出した。

 

「……いえ、“王”の命令は彼らを残らず始末すること。私たちにそうお命じになられた。である以上、後始末とて手を抜いてはいけません」

 

「ッ!? 何を――!!」

 ひゅんと風切り音のような音がして、直後パクノダの困惑の声が途絶えた。邪魔をさせないためにプフが彼女を捕らえたのだろう。

 

「く……来ますよ、ゲオルグ――」

 

「待って兄さん! 念魚が……!!」

 

 そして再び殺意のその矛先を向けたプフに備えるアーサーだが、直後のルフェイにその緊張が揺らぐ。結界を盾にしたルフェイたちを通り抜けた念魚の大波が、また押し寄せようとしているのだろう。下手に飛び出せばアーサーたちも危ない。

 

 故の躊躇も何もないだろうが、その時、プフはその身にゆっくりと魔力を巡らせ始めた。

 時間をかけて高まっていく魔力は一点に集まり、すぐに地上一帯、俺たち全員を殺してなお余りあるほどの威力を秘める。慢心を消し、確実に“王”とやらの命令を遂行するため、奴はその魔力を携え、俺たちに向けた。

 

「それにどのみち、一瞬の手間です。大差ない、それだけのこと」

 

「ッ!!」

 

 プフの魔力が一際強く脈動し、そして放たれる気配。

 だがそれが俺たちの身を撃つ前に、周囲の念魚たちの気配の奥に、ふと感じた。

 

 そこに迫っているはずのプフの魔力の前に、別の魔力。そしてそれらは直後、ぶつかった。

 そして、炸裂する。爆発の余波は周囲の念魚の流れをも乱すほどで、俺も身体が押し流されそうになる。

 

 しかしおかげでプフの魔力がこちらまで届くことはなかった。突如現れた別の魔力と打ち消し合ったのだ。つまり同等の威力、魔王級以上と思われるプフの魔力と同レベルということで、それが意味するところは一つだけ。

 バラバラになった念魚の群れの中から、消耗しきったリアスの声が、驚愕してその名前を呼んでいた。

 

「お、お兄、さま……」

 

「リアス……ハァ、遅れて、すまない……!」

 

 魔王サーゼクスだ。グレイフィアに続いてその主である魔王までもが現れた。

 

 さらにその眷属たちらしい気配もが、乱れた念魚の群れの中に突入し、退けようと戦い始める。だが現われた援軍は、やはりリアスの声色から恐れの色を取り除くことはできなことはできなかった。現れた彼らから感じる魔力や【オーラ】が、到底万全なものではなかったからだ。

 

 彼らは既に、リゼヴィムや【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】との戦いで相当に消耗してしまっていた。命をとした念魚とはいえただの人間の能力相手に苦戦を強いられていることがその証拠。全快且つ眷属総出であればたちどころに殲滅できてしまってもおかしくない程度の相手にてこずるほどのダメージと消耗が、未だ身体に残ってしまっているのだ。

 特にサーゼクスのそれは他の比ではないだろう。彼は一度、ピトーに瀕死の状態まで追い込まれてしまっている。傷ついた身体を引きずってプフの攻撃と相撃ったのはさすがだが、しかしそれ以上のことはとても期待できそうにない。

 

 荒い息からして、リアスの目にすらそのことは明らかだった。サーゼクス本人もそれがわからないはずはなく、念魚の濁流にやられたリアスを眼にし、怒りと無力感を味わわされているだろう。しかしそれは振り払った怒りのみを表に、彼はプフへと言い放った。

 

「よくも……私の大切な妹を、痛めつけてくれたね」

 

「訂正しておくなら、念魚は私ではなく人間の能力ですよ。もう死んでしまいましたが」

 

「サンペーか。蘇らせたのは君たちなのだから、関係ないと言うには苦しいだろう。それにどうであれ、私には、君が怨敵に見えている……!!」

 

 ぎゅわっ、とその時、空間を諸共食い破るような音が予兆なく響いた。ほんの一瞬の間もなく放たれたのは、プフの魔力を削り散らしたサーゼクスの滅びの魔力。

 それは間違いなく、プフに命中したようだった。奴の肉体が消滅する音。しかし奴の不死性は、何事もなかったかのようにその声でサーゼクスに返した。

 

「全く……先ほどの人間たちもそうですが、あなたがた、できもしないことを自信満々に言うのがお好きですね。実に滑稽です」

 

「なに……!?」

 

 嘲弄され、苛立ちを露にするサーゼクス。それへの応えは、しかし全く別の方向から聞こえてきた。

 

「だってあなた、もうとっくにガス欠じゃないですか! 今の攻撃だってすっごいしょぼい!」

 

「なッ!? ぷ、プフ、が、二人……!?」

 

 聞こえてきたのはゴンの驚愕。念魚の攻撃からどうにか生き延びたらしい彼が、プフと、新たに現れたもう一方のプフのほうとで視線を行ったり来たりさせているらしく、左右に振られる声がさらに続く。

 

「カストロさんの【分身(ダブル)】みたいな……」

 

「いや、違う……! あんなもんじゃ……二人だけじゃない……! 見ろ、もっといる……!」

 

「ええ全く、その通り」

 

 怯えの色を濃くしたキルアに、さらに三人目(・・・)のプフの声が頷いた。

 

「私たちはみんな本物。私自身」

 

 と、四人目。

 

「まあその分け身ですから、本体よりはぶっちゃけちょっと弱いですが」

 

 五人目が続き、

 

「でもでもそれでもお前たちを殺すには十分すぎる! 死んだ人間なんか使わなくてもよかったのに、全く私ってばおまぬけさんですねぇ!」

 

 六人目のおどけた言い口に、周囲で何十、何百人ものプフの笑い声が重なり空気を震わせた。

 大多数は本体と思われる最初のプフと違って声が甲高く、しかも物言いが幼稚だ。が、そんな分身一体一体でも侮れない能力を秘めていることは明らかだ。ゲオルグたちは、恐らくこれらにやられたのだから。

 

「奴は聖杯の能力だけじゃなく、肉体を粒子に変換し、再生できます! さらにはそれで分身まで造り出す……! 下手な攻撃は無意味どころか、奴の分身を手助けしてしまうんです……!」

 

「く……そんなのどうすれば……」

 

 体験したのだろうプフの能力を口にするアーサーに、ゼノヴィアが受けたダメージに苦しみながら息を詰まらせる。しかし能力を明かされたプフはまったく気にした様子もなく、分身の自分へ呆れを返した。

 

「あの人間たちを蘇らせたのは“王”の指示です。彼ら(アーサーたち)の実力の底が不明であるから、と。……まあそんなことよりも――」

 

 瞬間、周囲の全員が一斉に戦慄に息を詰めたことがわかった。プフが再び魔力攻撃を構えたのだ。先ほどの攻撃以上の圧を感じるそれは、恐らく威力も前以上となるだろう。

 

 サーゼクスが辛うじて防いだものを、さらに上回る攻撃だ。一度目のそれで力を使い尽くしたサーゼクスに、二度目を防ぐだけの余力など残っているはずがない。わかっているからこそ、プフの声色からも興味は抜け落ちていた。

 

「さっさと片付けてしまいましょう。ちょうどよく出がらしになったゴミも纏まってくれましたし」

 

「出がらし、だと……!」

 

「おや、また否定しますか? では試してみるといいでしょう」

 

 途端、空に広がる魔法陣の気配。展開したそれらは、見えはしないが冥界の不気味な空色を覆い尽くしているだろう。俺を含めた全員に逃げ場はなく、そして威力は必殺。サーゼクスが必死な様子で魔力を絞り出そうとして、小さなプフたちがそれを嘲笑う声がした。

 

 そこに紛れ、プフが呟いた。

 

「さようなら」

 

 だが、

 

「待ちなさいっ!!」

 

 プフの魔力は俺たちへは放たれず、冷酷なそれを打ち消すかのような、グレイフィアの制止の大声に制止した。

 サーゼクスが苦しげな様子で、その名を呼ぶ。

 

「ぐ、グレイフィア……」

 

「はぁ……全く下等生物というのはなぜこうも……あなたも彼らのように妄言を吐くつもりですか? 私を倒すなどと」

 

「はぁ、はぁ……ええ、そうです……!」

 

 グレイフィアは息も絶え絶えに、ため息を吐くプフの呆れを肯定する。息遣いで言えば、その消耗はサーゼクスよりも深刻だろう。だがそれは当然のこと、彼女はサーゼクスたちと同じく傷付いた身体で、念魚たちからリアスたちを守り、その上で魚群に呑まれて攻撃を受けている。

 

 だが、彼女は言った。

 

「貴方に、リアスたちは殺させない。サーゼクスも……代わりに私が、相手を、して、差し上げます……!」

 

「守りたいと。……ふむ……妙ですね。あなたは心の中ではそれが自殺行為であると知りつつ、最善の選択だとも考えている様子。そしてそれは自己犠牲のそれではない、と……?」

 

 身を投げ出すようなグレイフィアの言葉だったが、プフは手に練る魔力を止め、疑問符を浮かべた。人の感情を読み取る能力でも持っているのだろうか。奴が言う彼女の心境は、確かに値する矛盾だ。

 

 それを要約すれば、グレイフィアはこう考えていることになる。

 

「そこの悪魔にも、ハンターたちにも私は倒せないと知りながら、自分にだけはそれができると……? この中であなただけが私を殺せると、そう考えているのですか……?」

 

 魔力も体力も尽きている、彼女がだ。意気は頼もしいが、しかしそれはあまりに荒唐無稽。プフの分身たちが一斉に笑い出した。

 

「アハハハハ!」

 

「マジ!? マジで言ってるんですかこの女!」

 

「頭おかしくなったんじゃねーの!」

 

「今のお前なんて分身の私一人でも軽ーく捻れちゃいますねぇ!」

 

 重なって不協和音となる笑声には、怒りは生まれどサーゼクスでさえ否定の言葉を出せない。今のグレイフィアがどれだけ満身創痍であるかは、それほどに明らかなのだ。

 

 が、それでも彼女は笑い声を切って捨てた。

 

「そう思うなら、やってみればいい」

 

 一瞬でプフたちの笑いが止まる。なおも揺るがない声色が、とうとう奴らを捉えて言った。

 

「確かに今の私には、貴方を倒すどころかその攻撃を防ぐ力すら残っていない。貴方の一撃で、私は簡単に死ぬでしょう。……けれどそれでも、貴方に私は倒せない。そう……信じていますから」

 

 『信じている(・・・・・)』。その一言が、未だ念魚が跳ね泳ぐ中で不思議なほどよく響いた。それはもちろんプフにも届き、開く数秒の間。

 

 そうして奴は、本体も分身たちも一斉に大声で笑った。

 

「アッハハハハハ!! 信じている!? 何ですかそれは!? どうやら本当に頭がおかしくなってしまったようですね!! なら――」

 

「っ!! だめ――」

 

 俺の第六感を貫く危機感と、再起動を果たす強大な魔力の波動。放たれる攻撃の予兆に威力を悟るリアスが悲鳴を上げるが、待たずして、

 

「どうぞ、消えてください」

 

 二発目の極大魔力攻撃が放たれた。

 

 ただ本のページをめくるように、それは無造作だった。鳴り響く炸裂音は間違いなくグレイフィアを直撃しただろう。消耗しきった彼女に回避や防御の余力はなく、プフは動かない相手に攻撃を当てれないような使い手ではない。命は一撃で、あっけなく刈り取られた。

 

 そのはずだった。だが間近で響く爆発も衝撃波も、いつまでたっても俺に襲ってはこなかった。代わりにはるか遠くから爆発音がこだまして、その中で、リアスが絶望ではない唖然の声で、信じられないとその結末を呟いた。

 

「――え……こ、これどういう……」

 

「……へぇ、確かにどうやら、全くの無策というわけではないようですね。避けましたか」

 

 プフの声色が曇る。彼の魔力に晒されたはずのグレイフィアは、どうやら生き残っているようだった。確かに気配は健在。そしてプフ曰く、攻撃を避けたらしい。

 

 がしかし、それはおかしい。そう俺が思った通り、グレイフィアは否定した。

 

「いいえ、避けてなどいません。……貴方が外したのですよ」

 

 彼女が避けても、攻撃はその傍にいる俺たちを消し飛ばしてしまうからだ。

 しかし実際俺たちは無傷。微動だにしていない様子のグレイフィアもそうだろう。言った通りプフが攻撃を当てなかったとしか思えない状況に、少しの間、誰もが言葉を失った。

 

「……アハハハ! 外した? 私が? 自分の意志で!?」

 

「そんなわけねーじゃん!」

 

「何を言ってるんでしょうこの女!」

 

 やがて気を取り戻した小さなプフたちがゲラゲラ笑った。そして瞬間、宙にいる無数のそれらが一斉に一変し、獰猛な牙を剥く。

 

「わけわからないこと言ってないで、さっさとその正体を見せろッ!!」

 

 露になった狂暴性は、やはりというかピトーのそれとよく似ていた。

 

 キメラアントの本性。それが脅威と見做したグレイフィアに、恐らく分身体全てから攻撃が集中する。さっきの比ではない威力。余波だけでも嵐のようだ。

 そしてその只中で、やはり攻撃に当たらないグレイフィアが静かに語る言葉が、轟音の中で不思議なほどよく通り、俺たちの耳に届いていた。

 

「……私の弟は、幼いころから私を好いていてくれました。それこそ少し、度が過ぎるくらいに」

 

「なん、です!? 弟!?」

 

 当たらない、否、当てようとしていない攻撃を次々放ち続けながら、プフは出てきた単語を繰り返す。そしてその時、俺も思い出した。意味不明で思考の隅に追いやってしまっていたが、少し前の出来事だ。

 

 あの時、意識はしていなかったようだが、確か彼は――

 

「そんな子だからか、私がサーゼクスと結ばれた時、心の均衡を壊してしまったようで……以来、今日まで消息不明。かつての主たるリゼヴィムに付き従っているのではという噂もありました。ですから私も、もう二度と会うことは叶わないかもしれないと思っていました」

 

 そんなグレイフィアのことを、彼は一度、『姉上』と呼んでいた。

 

「……リゼヴィムの傍に、弟は、ユーグリットの姿はありませんでした。しかし代わりに現れた貴方は、聞けば彼の手で様々な生物を掛け合わせて人工的に生み出された魔獣だそうですね。……貴方に姉上と呼ばれてから、ずっと“そうではないか”と考えずにはいられませんでした。そして……やはり、そうだった」

 

 プフの攻撃が止む。そこに感じる気配からは、いつの間にか禍々しさが失せていた。代わりにある感情は、何だろうか。相反するもので混濁し、揺れ動いているように思える。

 

 グレイフィアは、そこに真実を告げた。

 

「貴方が扱うその魔力、悪魔の血は、ユーグリットのものでしょう……?」

 

「ッッッ!!!」

 

 喜怒哀楽の判別もつかない激情で、プフは声なく身の魔力を爆発させた。

 無理矢理に操り、そのせいで少なくない数の分身の気配が巻き込まれて塵に消える。その代わりに束ねた魔力は一塊に掲げられ、極大な威力を生み、放たれた。

 

 だが、

 

「貴方の中にユーグリットがいるから、貴方は私を殺せない。シャウアプフ、そういうことなのでしょう?」

 

 それは炸裂することなく、グレイフィアの言葉に吹き消されるようにして途中で霧散し消滅した。

 

 グレイフィアを守っていたのは、彼女の弟の病的なまでの愛情。プフの中に根付いていたそれに、意識があるわけではないだろう。ある意味で彼は死んでもおらず、プフを構成する一パーツとなり様々なモノたちと混ざり合ったのだ。その原型はもはやない。

 

 故に、グレイフィアを守るその想いは、間違いなくプフ自身のものだった。それはプフも理解できる、理解できてしまうのだろう。だからグレイフィアが言ったその言葉を、彼は否定することはできなかった。

 

「…………。だから、何だというんです?」

 

 だが、拒絶した。

 

「私は……シャウアプフ。誰に造られ、どう生まれようとも、この身の全てはただ一人、“王”のために……!!」

 

 激情をそのまま吐き出すかのように叫んだその直後、周囲から分身体の気配が一斉に消えた。いや、戻ったというべきだろう。粒子と化したそれらの気配はプフへと還り、その身の“力”をさらに高めた。

 

 本来の力を取り戻したプフは、それらを全てグレイフィアへと向ける。しかしそのどれもがグレイフィアを捉えない。空ばかりを切る。

 

「く……私の、身体……!! 言うことを……ッ!!」

 

「……本当に、バカな弟ね」

 

 何かがズレれば即死必死の猛撃の中、グレイフィアは全く恐れもなく、穏やかに苦笑した。その言葉にプフの攻撃はさらに激しさを増す。

 しかしやはり、そのどれもが無意味に終わる。魔力攻撃を捨て、近接攻撃を試みたらしいプフの拳が、恐らくグレイフィアの目前で急停止して空気を押し出した。

 

「けれど、どれだけ愚かでも私の弟。もう助けることが叶わないのなら、せめて、私の手で眠らせてあげたい」

 

「私は、ユーグリットじゃない!! 私は……私は、シャウアプフ……っ!」

 

 絶叫からはどんどん力が抜け出ていった。そして拳を止めたプフはそれ以上動くことなく、差し伸べられるグレイフィアの手を払うことはできなかった。

 

 魔力の気配。グレイフィアが自身に残った魔力をかき集め、発動させるその予兆。

 

「この忠誠は、決して、悪魔に、など……」

 

 力なく朦朧と呟くプフへ、

 

「だから貴方も、もうおやすみなさい」

 

 放たれた。

 

 そして、プフが持つはずの再生の力は、発動することがなかった。

 軽いチョウの身体が地に落ち、崩れた肉体から夥しい量の水音が噴き出し広がっていく。身が凍るほどの圧を放っていた【オーラ】も魔力も萎むように消えてゆき、やがて一切がなくなった。

 

 プフはその時、確かに死を迎えたようだった。

 

(……“キメラ”と“人”、か……)

 

 混ざり合わない、合えない(・・・・)、その原因。ふと俺は重ね合わせ、心の中で思った。

 

 そんな思考の中に静寂が響く。あれだけの猛威を振るった敵が、あまりにもあっさり倒されたことにみんな実感がないようで、歓声の類は生まれない。事を成したグレイフィアも、静かに深く息を吐き出すばかり。

 

 故に最初に声を上げたのは、上空でミルたんと戦うユピーだった。

 

「プ、フ……!? おい、何かの冗談か!? お前がこんなカス共にやられちまったのか!?」

 

 能力が遠く及ばないリアスたちと、すでに退けられたアーサーたち、おまけに立つのもやっとといった具合のグレイフィアという、到底プフを打倒したとは思えない面々。しかし実際プフは倒されているという事実が目の前にあり、ユピーの中で驚愕と混乱、そして怒りが、膨れ上がった。

 

 そしてその時、俺は気配を消した。

 

「……ふざけやがって!!」

 

 それは不甲斐ない同胞へ向けたものか、それとも弑したグレイフィアたちへ向けたものか。わからないのは、その怒りが爆発せず、彼の内にため込まれていたからだった。

 

 憤怒が彼の【オーラ】をも増大させて、実態を持つかのように増した圧力がボコボコと、内側から彼の肉体を変形させる音が鳴る。筋肉と骨がひしゃげさせながら、巨体は膨張し続けた。

 

 その巨体が身の毛もよだつ化け物の気配を放つ頃、ミルたんが仕掛けた。

 

「お仲間がやられて悲しいのはわかるけど、よそ見はいけないにょ!」

 

 激戦を越えて尚衰えを見せないミルたんの【オーラ】は、ユピーの身体に甚大なダメージを与えるのに十分な威力を持つ。だからこそ、怒りに呑まれるユピーの本能を刺激したのだろう。

 

 膨れ上がった怒りのエネルギーの全てが、その瞬間、全てミルたんへ牙を剥き、

 

「てめぇら全員、ぶっ壊死(こわし)()()!!!」

 

 爆ぜた。

 

 奴を中心に、膨大なその【オーラ】がすさまじい爆発を引き起こす。それはたちまちのうちにミルたんを襲い、放たんとしたパンチを押し返したうえに彼の強靭な肉体をも焼き、切り裂いたようだった。

 

 なんとかその場に踏み止まったミルたんだったが、怯まざるを得ないほどの威力。ふらつく彼に、プフは発散しきった怒りのエネルギーで若干の虚脱状態にあるのか、比較的穏やかに言った。

 

「……プフがやられて、面倒になったってことは認めてやる。けどよ、忘れてねぇか。オレには聖杯の力がある。いくらダメージをもらおうが無意味。“弟”とかいう身体に混じった不純物にしたやられたプフのようにはいかねぇ。そのプフも、この力で生き返らせりゃいいんだからよ」

 

「……【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】による死者復活は、その性質上、使うたびに見せつけられる生命のありようのせいで、精神に大きなダメージを受けてしまうにょ。そう何度も使っちゃ、ユピーくん自身が壊れてしまうかもしれないにょ。もう、やめるにょ……!」

 

「そんなことは関係ねぇ。オレたちは、“王”にとっての障害をしさえすればいい。“王”をお守りする、そのためだけに……」

 

 一瞬、言葉が淀む。それはやはり、彼にもキメラアントではない血が混ざっているということなのだろうか。それとも……。

 

(いや……)

 

 ただやはり、どちらにせよ変わらない。

 

「お前らさえ殺せれば、“()は覇道を取り戻せる(・・・・・・・・・)んだよォ!!」

 

 ユピーの身体が変形の音を立て、恐らく槍のように変形した腕が肉を貫いた。

 が、貫かれたのはミルたんではない。

 

「――! なんだ、死にに来たか腐れ悪魔……!」

 

「ぐッ……命、など……新選組としての生で、何度だって捨ててきた……!!」

 

 サーゼクスの眷属の一人、かつての侍、沖田総司が、その身に槍を受けていた。

 

 元々病弱だったという彼には、ミルたんほどの耐久力も、訳の分からない再生能力もないだろう。だが生前、その病弱を克服するために施したという邪法が、生命の危機に瀕してその時、溢れ出す。

 

「やれ……【百鬼夜行】――ッ!!」

 

 その身に巣くう数多の妖怪たちが飛び出し、住処を害するユピーへと襲い掛かった。

 

 百鬼夜行、いわばそれは妖怪の軍勢だ。そこにはありとあらゆる物の怪たちが含まれる。鵺などのメジャーな妖怪もいればその逆、マイナーなものも。

 

「ああ鬱陶しい!! 邪魔なんだよザコ共がァ!!」

 

 だがユピーにとっては等しく雑魚。纏わりつく妖怪たちに邪魔以外の感情はないだろう。

 

 故に、その中、()の妖怪である影女の中に脅威が潜んでいることには気付かなかったようだった。

 

「オラァッ!!」

 

「がは……ッ!!」

 

 やがて苛立ちが頂点に達したのか、鬱陶しいとユピーが振るった腕で妖怪たちは四散した。沖田も払い飛ばされ、血を流しながら地面を転がる。

 リアスたちとアーシアが、その傍に駆け寄り治療を始めた。

 

「沖田っ!! しっかり!! アーシア、治せる?!」

 

「ッ……、わ、私じゃ……早く、病院に運ばないと……!」

 

「そんな……」

 

 回復系神器(セイクリッド・ギア)、【聖母の微笑(トワイライト・ヒーリング)】の使い手であるアーシアが言葉を詰まらせるほどの負傷。悟り、絶望に染まるリアスの声。傍で聞き覚えのない、恐らくサーゼクスの眷属の一人だろう人物の声が慰めている。その声が沖田へ尋ねた。

 

「……なぜ、あんな無謀なことを……」

 

 ミルたんとユピーの戦いに無理に割って入り、挙句致命傷を負った。そう見える故の疑問。

 沖田はそれに、弱々しいながらも答えた。

 

「い……以前に私は、ジークフリートに助けられた……その恩返しだよ……」

 

 なるほどと理解する。ハンターにあまり良い印象を抱いていない彼が協力を申し出た(・・・・・・・)のはジークのおかげだったのだ。彼が目覚めたら礼を言わねばなるまい。

 

「まあそれも、この()を生き残れればの話だが」

 

 そこに向かうための布石を打ち終えた俺は、コンラと共に沖田の影から抜け出ながら呟いた。

 

「そ、曹操さん……!? コンラさんも、いつの間に……」

 

「ま、まさか……さっきまでずっと沖田の影の中に……!?」

 

 アーシアとリアスが驚きに声を上げる。影の中から人が現れる、なんていう馴染みのない光景を目の当たりにしてしまえば当然の反応だ。

 

 そしてそれはユピーも同様だが、奴はアーシアとリアスよりももう一歩だけ深く、光景の意味を理解した。

 

「……なるほどな。さっきの羽虫は全部、お前の能力を使うためか。オレの身体にくっついてきた影のヤツ、あれを介してオレの中の“聖杯”を操ろうとしてやがったわけだ」

 

「ご名答」

 

 俺の念能力、【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】の発動条件は、対象に一定時間触れ続けること。これさえ達成すれば、ユピーの身から不死性は失われる。

 

 だが、

 

「短すぎたな。羽虫共も、そこのゴミも弱すぎた。……確か【赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)】とかいう奴でも何十秒もかかるんだろ? てめぇでなくてもそんなにベタベタ触らせるかよ、きしょくわりぃ」

 

 その通り。コンラと沖田の協力でユピーに触れられたのは、時間にして凡そ一秒足らず。これでは神滅具(ロンギヌス)どころか通常の神器(セイクリッド・ギア)ですら条件を満たせない。

 

 そもそもが、一瞬触れることすら難しいほどの大敵だ。盲目となってしまった今の俺にはなおのこと。故に当初の俺は、不滅の肉体に苦戦するミルたんたちを知りながら歯噛みすることしかできなかった。

 そんな状況、相手に対し、“仲間の死という動揺”、“沖田の捨て身”、“ピトーにすら察知できないコンラの隠密性”という三つの助けを得たうえで、ようやく一秒にも満たない時間、奴に触れることができるのだ。あるいは、それだけやって一秒も触れていられない、でもいい。

 

 つまるところ、ユピーの【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】を封じるために何十秒も奴に触れていることは、どうやっても不可能だということだ。

 

 それを示したユピーは、だからお前なんぞ最初から脅威となんざ見ちゃいねぇと吐き捨て、さらに続けて嘲笑うように言った。

 

「他のゴミどもはお前のそれが頼りだったんだろうが、ざまぁねぇな。てめぇらカス共にオレは殺せねぇってことがわかっただろ。だから諦めてさっさと殺されろ。それとも……今度はプフみてぇに姉だ弟だとやってみるか? 来いよ、カス共……!!」

 

「いや、もう終わりだよ」

 

 再び剥き出しになるユピーの怒りの【オーラ】が皆に死を予感させ、震え上がらせる中、俺は首を振り、手を持ち上げた。コンラと、そして沖田に見守られる中、そこに【オーラ】を掴んで確かめる。

 

 想像通りの結果となった。恐らくそれでミルたん辺りは感付いただろう。二人に続いて理解し、身構える気配がした。

 

「あぁ……!? なんだ、本当に諦め――」

 

「一瞬君に触れられれば、それで十分だったんだ」

 

 第一、ユピーに長時間触れ続けることが不可能であることなど、いまさら言われずともわかりきったことなのだ。そして俺は、それを知りながら接触を強行した。

 

 その理由は、決して奇跡を信じたからではない。

 

 怒りの中に怪訝を滲ませるユピーを遮り、俺は続ける。数十秒とは、神器(セイクリッド・ギア)を掌握するために必要な、いわば初期設定(・・・・)の時間なのだと。

 

「君も耳にしただろう。本来【幽世の聖杯(セフィロト・グラール)】は、俺がハントしたものだ。俺が神器(セイクリッド・ギア)を操るこの能力で、元の所持者から抜き出したんだ。……つまり、君の中のその“聖杯”は、すでに一度、俺の能力に支配されている」

 

「は……!?」

 

 俺の言わんとすることを理解したのか、絶句するユピー。しかしすぐ我に返り、反論が飛ぶ。

 

「……いや、だとしても、その“支配”がまだ残っているなら、どうして今まで出し惜しみしていやがった!? 使わねぇのは、能力がとっくに期限切れだからだろ!!」

 

「俺の能力に期限切れなんてないよ。けれど神器(セイクリッド・ギア)というものは、そのどれもが所持者の魂、【オーラ】と深く結びつき、影響される。神器(セイクリッド・ギア)という本質は同じでも、人によってその形は微妙に異なるんだ。だから操る方法がわかっていても、変化する以前(前の持ち主)の【オーラ】を元にしている故にそれを実際に操ることができないのさ」

 

 【オーラ】の規格が異なるために操作を受け付けない、あるいは操作権限を得るためのパスワードが変わっている、というような状態。ならばどうすればいいのか。

 

そこ(・・)だけを修正すればいい。君の【オーラ】を把握し、当てはめればいい。そして【オーラ】の本質を感じ取るだけならば、一秒以下でも十分だ」

 

 俺の手に集った【オーラ】、発動条件と、そして操作条件も満たした【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)を、ユピーの声の方向へと向ける。

 

「だから、終わりだよ」

 

 雷が落ちたような咆哮が聞こえた。だがそれが俺へと達するよりも早く能力が作用し、そしてほとんど同時、ミルたんが瞬時にその身に膨大な【オーラ】を発露し、集中させ、振るった。

 

 肉と【オーラ】が弾け飛ぶ音がした。

 

「あ……が……ッッ――お゛お゛お゛ォォォォッッ!! お゛、ウ゛ゥゥゥゥッッッ!!!」

 

「……ミルたん、あなたのことはずっと覚えておくにょ」

 

 二つ目の音。ユピーの雄叫びが止み、次いでどしゃりと水っぽい音が倒れ込んだ。

 

 絶えず発せられていたユピーの【オーラ】も完全に消え去る。息が詰まる圧迫感が消えうせ、その時俺もようやく息を吐き出した。

 

 終わったのだ。実感し、倒れるように座り込む。俺の疲労や負傷など他の面々のものに比べれば何でもないレベルだろうが、それでも十分すぎるほど心身が疲れ切っていた。

 

 しかし、

 

(……俺も、向かわないと)

 

 思い、気力を振り絞って再び立ち上がる。するとその時、それを諫めるようにサーゼクスが言った。

 

「楽にしていてくれ、曹操殿。君のおかげでユピーを倒せたんだ、あとは私たちに任せてほしい。もうすぐアジュカやセラフォルーが増援を連れて来てくれる手はずになっている。ここから先……“王”の対処も、あとは彼らに任せよう。後は、この女の処遇もね」

 

「処遇? 意外ね、個人で賞金を懸けるくらい、私たちはあなたに恨まれてるものだと思っていたのだけれど……!」

 

 答えたのはパクノダの声。プフの魔力に捕らえられていたはずだが、奴が死んで術が解け、次は魔王たちに捕らえられたのだろう。そういえばいつの間にか、周囲からは念魚の音も消えている。旅団のほうも片が付いたということだ。

 

 そして増援の件も、疲労困憊の俺たちには渡りに船。瀕死の重傷を負っている者もおり、そうでない者にもこれ以上戦場に向かう余力は残っていない。よしんば残っていようとも、対峙せねばならない“王”は、もはや個人で太刀打ちできるような敵ではない。皆、とうにそれを実感していた。

 

 ここで立ち上がっても死にに行くようなもの。だから彼女のことも、もう彼らに任せてしまうべきだった。

 

 だが、俺は少しばかりふらつきながらも、両の足で立ち上がる。

 

「……ピトーと黒歌たちんとこ、行く気かよ。その身体で」

 

 念魚の中を無事に生き抜いたらしいハンゾーが、俺の不穏に気付いたのか口にした。手が、俺の肩を捕まえ止めようとする。

 

 それを振り払いながら、俺は頷いた。

 

「まあね。だってそうだろう? ピトーに憑いた“(神器)”は、俺にしか剥がせない」

 

「無茶、です……!」

 

 叫んだのはグレイフィアだった。荒い呼吸を繰り返しながら、その忠告にやがて憐れみの影が差す。

 

「……わかって、いるでしょう……? あれは、“王”は、あまりにも強すぎる……。貴方の念能力を行使することは、到底……」

 

「だからといって、もう俺も諦める気にはなれないのですよ」

 

 意識して強い口調で、俺は鋭く言い放った。

 

 それは幾人もの悪魔を殺したピトーの味方をすること。ともすれば悪魔への敵対宣言とも取れるような宣言だ。

 だがピトーの言葉に改めてその存在を強く心に焼き付けられてしまった俺は、それがわかっていながらもはや見過ごすことができない。自分に彼女を救う手立てがあるのに、無視することはできなかった。

 

「魔王殿の軍団は、“王”を止めるためにピトーもろとも“キメラアント”を殺すでしょう。そしてそれは、“悪魔”にとってそう難しくはないはずだ。所詮一“個”でしかない“王”は、悪魔という“種”に及ばない。……だからこそ、俺は行かねばならない」

 

 その戦いを生き延びピトーも黒歌も救うために。

 

「だって俺、まだ一度もピトーに勝ってないんですよ。勝ち逃げされたんじゃたまらない」

 

 あるいは、最後の手段(・・・・・)を使ってもいいとさえ思えるほどに。

 

「……そ、曹操さん……!」

 

 止める言葉を持たないらしい皆の中を歩くと、数歩の後、背にギャスパーの声がかけられた。相変わらず頼りなさげだが、一つの決意を抱いた声だった。

 

 だが、その先を聞く前に、察知する。「ぐあっ」と、パクノダを捕らえていたはずの眷属の呻き声と共に、拳銃の撃鉄が起きる音。

 そして間髪入れずに、銃声が鳴り響いた。

 

「が、はっ……!?」

 

「く、クラピカッ!!」

 

 クラピカの口からの苦悶と、ゴンの動揺。だが倒れる音は続かない。

 

「ぐ……だ、大丈夫だ……急所は、どうにか避けられた……!」

 

 恐らくパクノダという仇の一人が生け捕りにされていたことで、彼の警戒は解けていなかったのだろう。おかげで辛うじて致命傷は避けることができたらしい。

 そしてそのパクノダ。どうやったのか自由を取り戻した彼女が、決死の銃撃の結果に歯を噛む気配がした。

 

「……ごめんなさい、ウボォー、サンペー。利用された挙句、チャンスも無駄にしてしまったかも」

 

 呟きつつ、二射目の引き金が絞られる。が、彼女もわかっていただろう。さすがにそれが許されるはずがなく、

 

「無駄だよ。チャンスなど……魔王の名に懸けて、もうこれ以上殺させない……!」

 

 サーゼクスの滅びの魔力は一瞬のうちに拳銃と、そしてパクノダ自身を消し飛ばしたようだった。弱っていても尚魔王の名にふさわしい強力な魔力が覆いかぶさり、その存在と音の一切を消滅させる。

 

 それが始まりの合図となった。

 

「―――」

 

 声なき叫び声をあげ、プフ(・・)の膨大な魔力が、ユピー(・・・)の莫大な【オーラ】が、爆発する。そしてそれらはほんの一瞬、全く何の理解も追いつかない間に、俺たちに襲い掛かった。

 

「――ッッ!!!」

 

 一瞬で致命傷を負わされたとわかるほどのダメージが、瞬間俺の身体に叩きつけられた。死んだと思い込んでいた二人からの攻撃に、反応もできなかった。恐らく他の皆も似たようなものだろう。ほとんど一斉に皆が倒れる音がした。

 

 その中に、一際目立つ言葉の悲鳴。

 

「な――!! あ、あなたたち、リアスをどうす――」

 

 朱乃の声は、しかしすぐに途切れた。意識を飛ばされたらしい。やはり何が何だかわからないが、しかし攻撃に感じた【オーラ】に、俺はその時それを見つけて気が付いた。

 完全な死者と化した二人が襲い掛かってきた、その仕組み。それはピトーの能力だ。

 

 だからつまり、“王”の仕業だ。気付き、俺は遠座狩る意識をギリギリ繋いで懐を探り、使わなかったフェニックスの涙を握り潰した。飛び散る涙はたちまち俺の身体を癒す。やはり視覚は戻らなかったが、力を取り戻した俺は聖槍を手に全力で周囲を警戒しつつ声を上げる。

 

「大丈夫か、皆!! 無事な者はいるか!?」

 

「あ……ぼ、僕とアーシア先輩は無事です……! ゼノヴィア先輩たちが庇ってくれて……。で、でも、魔王様たちやハンターさんたちが……」

 

 把握する。恐らく最たる脅威の無力化を優先したために、その間でゼノヴィアは間に合ったのだろう。あるいは脅威にあらずと見做されたか。しかしそれよりも、把握せねばならないこと。

 

「プフたちは!? それにリアスと朱乃は――」

 

「つ、連れて行かれてしまったんです!! あの、な、亡くなったはずの魔獣さんたちが、気を失った部長さんを抱えて、そのまま、どこかに……」

 

「“王”の下へ、か……!」

 

 その理由は、どうせろくでもない。が、立ち上がる理由が一つ増えただけだ。俺がやることは変わらない。

 

「……大丈夫、リアス殿も俺がどうにか助ける。アーシアとギャスパーは皆にできる限りの応急処置をして、増援の到着を待っていてくれ。……皆、とどめは刺されていないはずだ。助けられる。頼んだよ」

 

「は、はい……その……どうか、ご無事で……!」

 

 ほっとしたような怯えるような、相反する二つで戸惑うアーシアの言葉に俺は頷いてみせる。言葉尻に叩きつけるように首肯した。

 

 そう、これはある意味でチャンスなのだ。ピトーを救おうとする俺に疑いを向ける者が倒れた現状は、つまりこれ以上の邪魔が入る恐れがないということ。訪れる増援も、まずは彼らの救助を優先するだろう。時間が稼げる。

 

 故にこれ以上の会話を続ける気は俺にはなかった。例えばアーシアが、倒れる皆を守るために残ってくれと言ったとしても、俺はそれを無視しただろう。

 

 だが、その声には脚が止まった。

 

「あ、あの……曹操さんっ! 僕……お願いが、あります……!」

 

 直前に聞いた声が、より覚悟で固まっている。怯えを押し殺した決心が、そこにあった。

 

 直感する。蒔いた種が、今まさにこのタイミングで芽吹いたのだ。

 

「……なんだい?」

 

 そこに、あるいは最後の手段に頼ることのない可能性が生まれ出た。




曹操が盲目になっているせいで描写にすごく苦労した三話でした。
それはそれとして感想ください。


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二十話

 僅かに意識が蘇った。見えるのは冥界の懐かしい空色と、目下の崩壊した市街。自分はどうやら空を高速で飛んでいるらしく、瓦礫の山は激しい濁流のように次々と後ろに流れ去っていく。

 

 戦火に焼かれた浮遊都市アグレアスの街並みだ。その光景を、ボクはモニターの画面でも眺めるように見つめていた。

 

 身体の感覚は全くなかった。羽ばたく悪魔の羽も空気を切る手足も、ボクの意識とは関係なく動かされている。ボクの、ネフェルピトーの肉体は、今、ボクの手の中にはなかった。

 

 が、それらのことにボクは不安を感じていない。思うところは、何もない。

 

 故にただ、蘇った意識は動く肉体が映す視界をそのまま、寝起きのような微睡みの中で感じていた。が、その時不意に他人事の視界が振り向いた己の背後、そこに映る光景は一転してボクの傍目の感覚を揺るがした。

 

 瓦礫の山を駆けボクを追いかける、黒歌と白音の姿がそこにあった。悲愴な表情だった。ボクでなくなったボクを見上げるその顔を、必死に怒りで覆い隠そうとしているように見えた。

 

 もうとっくにボクのものではない心臓が、きゅっと痛むような感覚がした。

 

 気のせいだ、とは、言えそうにない。この痛みはきっと、ボクが“人”であろうとした、その名残だ。黒歌と白音に貰ったそれを捨て去りたくないと、ボクの中の“人”が悲鳴を上げているのだ。

 

 けれどそれは“キメラアント”とは混ざり合わない。だから“人”と“キメラアント”、どちらかは捨てるしかない。

 そうしてボクは後者を取り、前者を捨てることを決めた。ボクの王直属護衛軍という生まれながらの宿命は、“キメラアント”を捨てることを許さなかった。

 

 だからこれ以上、二人を想うことは許されない。心を揺らすことさえも、許されることはない。

 

(ボクの全て……“王”のために……)

 

 そのための存在であるボクは、故に再び、ゆっくりと(意識)を閉ざした。

 

 

 

 

 

「はっ、はぁ、はぁ……やっと、追いついた……!!」

 

「こ、ここ……スタジアム……?」

 

 “王”の後を追いかけて私と白音がたどり着いたのは、最初に奴が現れたあの大きな決闘場。その、崩れ去った残骸の上だった。

 

 私が気を失う前、最後に見た光景から、スタジアムはさらに破壊されてしまったようで、もうほとんど跡形も残っていない。周囲を囲む観客席も軒並み崩れ去り、開けた平面の上にはいくつかの瓦礫の山が作り上げられているのみだ。そこに数時間前は何千人もの観客が詰めかけていたなどと、初めてこの光景を目にする者に言っても信じられはしないだろう。

 

 それでも私たちが、そこが戦いを繰り広げたあのスタジアムだとすぐさま理解できたのは、中央で僅かに残った舞台の上に、ピトーが“王”を宿してしまった結界が残っていたからだった。

 

 卵のような形のそれは、周囲の瓦礫の砂塵で薄汚れてはいるものの、形を保ってそこにあった。直立する楕円の形、穴とヒビだらけの側面から弧を描き、頂上の丸い先端までがしっかりと見て取れる。

 

 そしてその上に、ピトーが、いや“王”が、降り立っていた。

 

 羽がしまわれ、閉じていた眼がゆっくり開く。再び露になった赤褐色色のきらめきは、ほの暗い【気】の気配と共にやはり冷たい荘厳を纏い、私と白音を見下ろした。

 

 胸が締め付けられるように痛んだ。あの眼の中に、やはりピトーを感じることができない。そのことに涙が零れそうなくらいの悲しみと、不安を感じた。

 

 けれどもそれも、“王”さえ倒せば解消されるはずなのだ。奴さえ倒せば元のピトーが私の下に戻って来てくれる。その想いを心の支えに、私は身に【念】を滾らせた。

 

 白音も【気】を練り、揃ってみせる戦闘態勢。戦うその意思は、しかし次の瞬間、“王”からは返っては来なかった。

 

「――余が貴様らをここまで導いたのは、貴様らの身を害するためではない」

 

 静謐だった水面に一つの水滴を落とすように、“王”がピトーの声で呟いた。

 

 身の内で渦を巻く【気】が、それだけで凍り付いたように固まった。情動が止まり、私の眼は“王”を凝視する。

 

 ピトーの身体は結界の上に膝を立て、腰を下ろした。いかにも隙だらけといった無警戒をさらけ出し、続けて、私たちへ発した。

 

「黒歌、白音。二人とも近う寄れ。話がある」

 

 “王”が、そう言った。

 

 目の前のピトーから発せられたそれを、私は遅れて認識し、理解した。途端、一転して燎原の火の如き勢いで【念】が巡り、怒りが噴き出す。

 

「お前が――ッ!!」

 

「姉さまっ!?」

 

 白音の咄嗟の制止は届かず、私の【念】は顕現した。

 

「お前が!! その姿と声で、私たちの名前を呼ぶなッ!!」

 

 出現した無数の黒い念弾、【黒肢猫玉(リバースベクター)】は爆発する怒気に背を押され、今までにないほどの勢いで“王”に向かって放たれた。

 

 だがそもそも元がたいして速度のない私の念弾は、加速したとしても“王”にとってなんて事のないものだったようで、見切られ、無造作な腕の一振りで全てが爆散させられる。【念】も怒りも、まとめて弾けて散る【気】の残滓。その間から、“王”の冷たい眼が変わらず無感情に私を射抜いた。

 

「……見事。ピトーの記憶にある通り余には縁なき力ではあるが、それほどに至るまでの研鑽は並大抵のものではなかったであろう。褒めて遣わす」

 

「こ、の……ッ!!」

 

 その眼と声。全力の攻撃をこともなさげに防がれても、それらが私の憤怒の鎮火を許さない。歯が軋むほど食いしばられ、そしてまた生じた怒りを原動力に、私の操作する念弾の残滓が力を取り戻した。

 

 四方に散った残滓がそれぞれ纏まり、小さな四つの念弾となって再び“王”に襲い掛かった。それに気付き、眼で追う“王”もさすがに打ち落とすには手が足りないと判断したのか、結界の弧を滑るように飛び降りる。

 

 しかし沸騰しかけの私の頭でも、その行動は予想の利く範疇のもの。腰を下ろした状態ではそれくらいしか回避方法がないことは白音にだって読めただろう。そして飛び下りたその瞬間、落下というそれ以上の身動きが取れない状態がまたとないチャンスであることも、容易く理解が及んだはずだ。

 

 故に私は“王”を睨みつけ、白音に対して声を張り上げた。

 

「白音ッ!!」

 

「ジャン、ケン――」

 

 白音は既に【気】を集中させていた。二つの念能力、【空想崇拝(ソウルトランス)】と【猫依転成(ドッペルオーバー)】を発動。動きと、そして【気】を記憶の中のそれに変え、

 

「パー!!」

 

 引いた拳に溜めた【気】を、念弾にして放った。

 

 白音のコピー能力。数日の間ともに修行し、記憶したゴンの念能力だ。念能力といっても練り上げた【気】を状況に応じて三つの形に変え使うだけのシンプルなものだが、そのシンプルさ故、白音の地力がそのまま反映される。私同様決意を胸に抱く彼女が放った【念】は、以前見たゴンのそれよりもより強力な輝きを放ち、ちょうど着地する直前の“王”に命中した。

 ように見えたが、やはり通用はしなかった。手足に代って尻尾がしなり、打ち払われた念弾は容易く弾けて消えた。

 

 私の攻撃と合わせて奴の表情どころか【気】にすら僅かな動揺も生じさせられない事実が私の眉を歪ませるが、しかし“王”が強いことなど、赤龍帝を一蹴する姿を見た時から、もっと言うならその肉体がピトーのものである時点でわかりきったこと。簡単に倒せるわけがないのだと、意識を引き締め直す私は、弾けた白音の念弾の光芒に紛れて術式を組み上げた。

 

 “王”の足が地に着くのと同時に、その足元に術を発動させる。出現する魔法陣は魔力、魔術、妖術、仙術、それから【念】も、持ち得る力を全てミックスさせた一品だ。ごちゃ混ぜで、完全に扱い切れているとは言い難いほどこんがらがっているが、その分複雑で解きにくい。

 

 その力が大きな五本の鉤爪になって、“王”を掴むように地面から突き出した。

 

「そこで、死ぬまでおとなしくしてなさいよ!!」

 

 しかし、飛び出した爪が“王”の、ピトーの身体を戒めるその寸前に、【気】が頭上に具現化した。

 

黒子舞想(テレプシコーラ)

 

「――ッ!!」

 

 “王”を操り、着地直後の無理な体勢からあっさりと爪の間をかいくぐって脱出させてしまったその人形は、ピトーが操るものと全く同じだった。バレリーナのような、黒くて細身の念人形。

 

 しかしそれを生み出した者の眼は紛れもなく冷酷で、“王”のものだ。

 

 姿、声、【気】に続き、

 

「能力、まで……っ!!」

 

 怒りのあまりに手が止まってしまうほどの激情が、私の中で荒れ狂った。

 

 やはり、許せないのだ。その力、その声、その身体を、まるで自分のモノ(・・)のように扱う“王”が。

 

 その激情が固まって、やがて更なる殺意に生まれ変わった頃だった。

 

「……気は済んだか?」

 

 “王”がそう呟いた。

 

 一切の揺らぎのない眼が私を、静かにじっと見つめていた。その言葉と、そしてあれだけ攻撃されたというのに怒気も戦意も何一つ見せない“王”に息を詰まらせる私たちを前にして、奴はさらに言った。

 

「貴様らが、この身を殺すではなく捕らえようとしていることはわかった。それがピトーを想ってのことだということも」

 

 そして、地面に腰を下ろした。ピトーの能力を解除し、同じ体勢で、無防備に。

 

「故に……機会をくれてやろう。二人とも、余に下れ」

 

 “王”はあっさりと、そんなことを言った。

 

 怒るどころか、仲間になれというその言葉。道理に合わない。“王”にとって悪魔は自身を誕生させなかった原因で、ピトーに私を含めた悪魔を受け入れさせなかった憎悪の、その根源であったはずだ。

 

 正反対の物言いにますます困惑と、そして怒りが、処理しきれないほどの勢いで私を襲った。そんな私と白音めがけて、“王”は淡々と続ける。

 

「ピトーは、すべてを捨てて余に肉体を明け渡した。それ自体は当然のことだ。ピトーは余の臣下として、そのために生み出されたのだから。……しかし、あまりに長き時が過ぎた。余の存在しない五年間。今日に至るまで貫き通したその忠義には、報いてやらねばならぬ」

 

「むく、いる……?」

 

 白音が恐る恐る、疑問符を付ける。その単語の、その意味は。

 

「ピトーは黒歌と白音、二人が死ぬことを望んでいない」

 

 ピトーは“王”に乗っ取られても尚、私たちを想ってくれているということだ。

 そのことに深い安堵が広がる。今まで、あるいは本当に私たちの絆など忘れ去って“王”の下に行ってしまったんじゃないかと、そういう恐怖をも怒りに覆い隠してきたからだった。それが杞憂だったと、全くそんなことはなかったのだとわかったことが嬉しい。やはり“王”さえいなくなれば、ピトーは私たちの元に戻って来てくれるのだ。

 

 故に、

 

「そう、思ってるなら――」

 

 結局、私の怒りは変わらないのだ。

 

「あんたがこの場で消えなさいよ!!」

 

 私たちと同じくピトーを想っている、などと抜かす“王”へ、私は爪の力を火車、黒い炎に変えた攻撃を放った。

 

 五つの火車が“王”の背中に襲い掛かる。“王”はそれを避けれなかった。いや、避けなかった。攻撃をわかっていながら地面に腰を下ろし続けていた奴の姿が、次の瞬間、巨大な火球に呑み込まれる。爆発し、初めてまともに奴を捉えた攻撃は、しかし私に歓喜も何も与えない。衰えを知らない私の激情はさらに続けて【黒肢猫玉(リバースベクター)】を発動させ、遠距離武器の念弾ではなく、頭によぎる曹操の戦いぶりから薙刀のように変形させて、爆炎めがけて地面を蹴った。

 

 影が見えた途端、それに切りかかる。影、目にした“王”は、やはりほとんどダメージを受けていない様子で一歩引いて斬撃を躱したが、代わりに空を切り裂いた私の切り払いが爆炎を断ち切った。

 

 晴れる炎。視界に現れた“王”に次々薙刀で切りかかり、その尽くを躱されながら、私は吐き出し足りない怒りを叫ぶ。

 

「あんたさえ死ねばッ!! 全部元通りになるのよ!! 全部今まで通り……私も白音もピトーも、曹操もハンゾーもゼノヴィアもみんな死なない……みんな幸せ!! ピトーのためを思うなら、それが一番いいに決まってるでしょ!!?」

 

「……それは叶わぬ。余は覇道を……世界の統一を、為さねばならぬ」

 

 私の攻撃を回避し続けているというのに、息一つ乱れない“王”が言う。そのすぐそばに、仙術で気配を紛れ込ませた白音が近寄って、そしてその手が“王”に触れるか否かのところで、能力を使った。

 

「【雷掌(イズツシ)】ッ!!」

 

 多大な危険を冒して放ったそれは、今度はキルアの能力だ。電気に変換された【気】が白音の手で弾け、そして“王”の身体を駆け巡る。

 

「統一……世界征服が、あなたの目的なんですか……!? そんなことのために、ピトーさまを――ッ!!」

 

 肉体を貫く電流は、本来ならスタンガン。つまり、一瞬だが生物の動きを止められるはずだった。しかし、

 

「そうだ」

 

 短くそう応えた“王”の動きは一瞬たりとも止まることなく、動いた尻尾が白音の身体に触れ、そして押しのけた。

 

 電流はぶ厚い【気】の防御を貫けず、身体の表面を流れただけだったのだろう。故の滑らかな一撃は殴打ではなかったが、それでも白音の小さな身体は吹き飛ばされ、瓦礫の山に叩きつけられる。

 

 横目に認めて“王”のその認識、赤子の児戯をあしらうが如き扱いと、それを跳ね除けられない現実が、私の攻撃を荒くした。力が入り過ぎ、からぶった一閃の勢いの身体を持っていかれる私を、“王”はまた、殺意なく腕で押し退けた。

 

「ぐ……っ!!」

 

 それでも薙刀が砕けて霧散し、白音と同じく大きく押し戻された。地面を転がりなんとか体勢を取り戻し、膝を突きながら急いで顔を起こして“王”の動きを捉えようとする。

 

 しかしその必要もないくらい、未だ“王”はその場にただ佇んでいた。静かに、何事もなかったかのように続ける。

 

「キメラアントは、その生態によって余にあまねく種の全てを集約した。悪魔も人間も、吸血鬼や死神やドラゴンすら、余を育む揺り籠に過ぎない。余は、この世すべての生命の惜しみない奉仕を受け、たどり着いた賜物。生まれながらの……唯一絶対の“王”なのだ」

 

 わかるだろう、と、私に向く“王”の眼がそう告げる。確かに、キメラアントの摂食交配という生態は、ユピーに見たようにあらゆる生物を取り込み進化を続ける。すべての生物の血を束ねるキメラアントの血、その王であれば、“この世の王”を名乗っても許されるのかもしれない。

 

 ピトーが“王”のために生まれたように、“王”もまた、その目的を遂げるために生まれたのかもしれない。

 

「だから、自分が一番偉いって……何をしてもいいんだって、そういうこと……? ――ふざけないでよッ!!」

 

 それが変えようのない運命であろうが、そんなものには全くもって意味がない。ピトーの身体を取り上げていい理由には、到底ならない。

 

「“王”だから……だからなんだっていうのよ!! ならしょうがないって、私たちがそう諦めるって、“王”を受け入れるだなんて、本気で思ってるわけ!!?」

 

 “王”が、ほんの僅かではあるがこの時初めて眉を動かし、表情を作った。

 

「……聞く耳を持たぬか」

 

「当たり前じゃない!!」

 

 吠え、同時に私は再び“王”へ向かって突っ込んだ。今度は手に薙刀はなく、無手。その分の【気】で両の拳を覆いながら、次々殴り掛かる。やはりそのどれもが空のみを打つ手ごたえを感じながら、怒りのまま、私は危なげなくすべてを躱す“王”の、私を見つめ続ける冷たい眼差しを、睨み返して貫いた。

 

「だいたい、何が“王”……何が統一よ!! そんなもの、とっくの昔に潰えてるわ!! あんたの母親、“女王”が、あんたをお腹に宿す前に巣ごと滅ぼされたあの時から!!」

 

 “王”は間近でその言葉を叩きつけられても、動揺の一つもしなかった。

 

「そうよ……あんたはそもそも、この世に生まれてすらいない!! 生まれる前に母親も仲間も殺されて、生き残ったのはピトーだけだった……!! 奉仕の賜物だとかいうキメラアントの血を、あんたは最初っから継いでなんていないのよ!!」

 

「知っている」

 

 そして、短くそう答えるだけだった。

 

 私の憤りは独りでに、拳を振るう力をさらに強めた。

 

「ッそれに!! 今のあんたは神器(セイクリッド・ギア)じゃない!! キメラアントどころか、人間の手で造られた武器の一つ……!! あんたはあの時生まれるはずだった……ピトーの“王”になるはずだった“王”ですらないのに……っ!!」

 

「知っている」

 

 再び、全く変わりのない調子で“王”はそう答えた。私はその声に、曹操から盗み覚えた武術の理も頭から飛ばしてしまう。繰り出す殴打が大振りでお粗末なものになり果てて、空振りの勢いのまま身体が流れた。

 

 二歩、三歩と躓いて、途切れた連撃。向けてしまった背中越しに、疲れよりも怒りで荒くなる息を吐き出し振り向いて、私は叫ぶ。

 

「ならッ!! なんでそんな奴が、ピトーを弄ぶのよッ!!」

 

 “王”は自らが“王”でないことを知っていた。

 

 肉体も血も持たない、ただの()だけの存在。ピトーが仕える“王”足りえない存在だ。

 だから覇道とやらが成しえない夢であることも、奴にはわかっているはずなのだ。奴がそれを使命と定めたその想いもただ人間に作られたものであり、価値のないものであることも。

 

 彼は、“力”という皮を被っただけの紛い物の“王”。そうであると知るのなら、何故そうまでして“王”であろうとしたのか。なぜピトーは、そんな存在に身を捧げてしまったのか。

 

 ――どうして、私からピトーを奪ってしまうの

 

 それは、

 

「余は、それでも“王”であるからだ」

 

 短く、単純な理由だった。

 

 そして私は、それを認めることができなかった。

 

「……栄光を、諦めきれないってわけ!? 御大層なこと言ってたくせに、結局それ!? なら何回でも言ってあげる!! あんたは“王”じゃない!! そのふり(・・)をしてピトーを騙して、統一なんていう叶うはずのない望みのために殺そうとしてる……ッ!! そんなあんたがピトーに報いるだなんて、冗談にもならないわ!!」

 

「……そうか」

 

 歯を食いしばる私への応えもまた、短く単純なものだった。しかしその応えの前、しばし空いた間に、“王”はその脚を前に出す。

 

「まあ、好きに受け取れ」

 

 その一歩目で、次の瞬間“王”の姿は掻き消えた。

 

 と思った時にはお腹に衝撃。私の両足が土から離れ、大地と、そしていつの間にか目の前にいた“王”の姿が、遠ざかりつつ後傾して視界の下へと沈んでいく。

 遅れて、私は自分が“王”に殴り飛ばされたのだと気が付いた。

 

「姉さ――くぅ……!!」

 

 ちょうどそこにいたらしく、白音が私の背を受け止めてくれた。がすぐ、遅れてやってきた鈍痛に腰が折れる。「ね、姉さま、平気……!?」と私を案じる白音にも応えられないほど、息が詰まる痛みに喉が鳴った。

 

 だが、しかしその程度だ。つまり今までは私たちの攻撃を避けるばかりで一切反撃してこなかった“王”の初めての攻勢は、それでも尚、全く全力ではなかったことを示している。全力であったなら、奴のあの【気】は私の胴体を消し飛ばしていただろう。

 

 “王”は、この期に及んでまだ同じ言葉を吐き続ける。そのための、子の頭に軽く拳骨を落とすような、そんな拳だったのだ。既に自然体に戻っていた“王”は、苦痛の怒りを眼だけでぶつける私に向けて、静かに言葉の続きを言った。

 

「貴様らがピトーを想っていることはよくわかった。ならばこそ、理解しろ。貴様らのその想いが報われるのは、もはや余の手を取った時のみだ。余に歯向かおうとも、ピトーは貴様らの元には戻らん。……二度、言わせるな。黒歌、白音。二人とも潔く、余のものとなれ」

 

「そ、れは――!!」

 

 絶対に呑めない。引き攣る喉と身体から押し出した意思は、“王”の表情を僅かに陰らせた。

 

 少しの間が開き、“王”はさらに言い連ねる。

 

「……特別に、余の傍に控えることを許そう。キメラですらない者には、本来であれば叶うはずのない名誉である。……余には、これ以上の譲歩は思いつかぬ」

 

「だとしても、です……!」

 

 それが“王”の理屈すら曲げたことなのだとしても、受け入れることはできない。受け入れるわけにはいかないのだと、その思いは私よりも白音の方が強かった。

 怯えによる震えは私を支える手に残るが、けれども私たちのその想いを、叩きつけるように口にした。

 

「ピトーさまは……私たちは、“人”です……! もうキメラアントじゃない……! みんなと一緒にいられない運命は、やめにしたんです! だから……だからもう、私たちを振り回さないで! ピトーさまを、“キメラアント”から解放してあげてくださいッ!」

 

「人……」

 

 “王”が呟く。私もその時ようやく苦痛を呑み下し、立ち上がって言った。

 

「あんたに下っても、私たちの、“人”のピトーは返ってこない……それがすべてよ……!! あんたを倒して、ピトーを“王”の呪縛から、“キメラアント”の運命から取り戻す。そのために、私たちはここにいるの……!!」

 

 “王”さえいなくなれば、きっとピトーにとっての“王”、ピトーの中に蘇ったキメラアントもいなくなる。そうすることが、それだけが、今の私たちの望みだ。だから、引くわけにはいかない。

 

 “王”に敵わないのだと、わかっていても。

 

「……愚の骨頂だ」

 

「だからって――」

 

 諦める気はない。そう、何度でも言おうとした。がその前に、“王”の言葉が続いた。

 

「貴様らはなぜ眼を逸らす。なぜ理解しようとせぬ。……そのようなことは決して叶わぬのだということが、なぜわからぬ」

 

「叶わないなんてこと、ないです! 私たちは、あの時約束を――」

 

「キメラと人は、決して交わらぬ」

 

 白音の言葉すら切り捨てて、“王”は淡々と言う。

 

「幾度となく理解させられたであろう。黒歌、貴様らが冥界の森で悪魔どもに襲われた時も、京都の街で赤髪と対面した時も、そして今も。……挙句に一度、貴様はそれを認め、キメラアントを受け入れようとしたはずだ」

 

「っ……」

 

 ピトーの記憶を覗いたのか、“王”の口から飛び出た出来事の数々。言い返そうとしたが、言葉が詰まった。

 

 悪魔は食料であり、憎悪の対象。それが彼女にとっては当たり前。変えることはできなくて、だから私はあの時、自分自身を変えようとした。白音と共に“人”を殺し、“キメラアント”になろうとしていた。そうすることでしか、ピトーの隣には在れないと思っていたからだ。

 

 けれどピトーもまた、自らを変えようとしていた。

 

「ピトーは……“キメラアント”でありながら、“人”であろうとしてくれた……!!」

 

 だから私が白音を殺すのを止めた。

 

「私も白音も、ピトーも、“人”なの……!! 私たちは家族だって、そう信じてる……!! 一緒に、そうあろうって決めたんだもの!!」

 

 五年間共にいて思い知った。ピトーは“キメラアント”だ。でも“人”にだってなれる。ピトーがそう願ってくれているなら、必ず。

 

「キメラと人は、一緒に在れる……ッ!!」

 

 白音を生かしたピトーの想いを、決して否定などさせない。

 

 “王”は、その身の【気】を威圧するようにゆっくりと増幅させながら、返した。

 

「何度言えば悟る。ピトーがキメラである事実は決して変わらぬ。ならば余が“王”であるように、ピトーもまた、その定めを捨て去ることなど叶わぬ」

 

「そんなこと、ない――ッ!!」

 

 “王”が拳を引き、腰を落とし、構えまで取る。今までの受け身とは違う明らかな戦闘態勢は、無理矢理に私の心に激烈な恐怖心を生じさせた。

 

 散り散りになりそうな気をどうにか引き締める。振り払いきれない恐怖心も決意で押し潰し、ピトーのためにというその一心で、私も発動させた能力と共に“王”を見据えて構えた。

 

 その時だった。同じく決意で身を奮い立たせる白音が、その存在に気付いて声を上げた。

 

「っ! 姉さま、後ろから敵が……!」

 

 気配で感じ、私も見つける。あの魔獣だ。ピトーと同じキメラアントを象った、作られた生物。その一体が、どこか心ここにあらずといった様子で二歩なしを動かし、よろよろとこちらに近付いてきている。

 確かに、幾度と戦った敵の姿だった。故に白音はその登場を、新たな敵の参戦とと捉えて警戒心を露にしたのだろうが、その未熟な仙術はその内にまでは届いていないらしい。

 

 それはトンボのような姿をした、【魔獣創造(アナイアレイション・メーカー)】のキメラもどきだった。そして、その中身の気配。

 

「九重か」

 

「え……?」

 

 呟き眼を向ける“王”に、気の抜けた声で瞬きをする白音。だが次の瞬間、トンボの背が割れた。まるで羽化のように内側から身体を破り、現れるのは狐の尻尾。

 

 たぶん念能力だったのだろう。被っていた死骸の皮を脱ぎ捨てて、九重はその全身を私たちと“王”との間に晒す。そして私たちには目もくれず、

 

「――王、さま……」

 

 眼帯のない目の横長の瞳孔が、“王”を見つめて畏れと怯えでぎゅっと歪んだ。




“王”の正体。

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二十一話

「――九重……? なに、その眼……」

 

 何よりもまず、私の意識はそれに向けられていた。

 

 人のものではない縦長の瞳孔は、もちろん左の眼、九尾の狐のそれでもない。例えるならタコのような異形の瞳が、九重のかわいらしい顔で不釣り合いな異物感を放ちながら丸く見開かれている。

 

 その様は、あまりにも合成獣(キメラ)めいていた。故に生じた動揺はただの忌避感か、それとも羨望なのか。判断できない自身の感情に戸惑いながら、しかし私は一つ、最初に眼帯を付けた九重と会った時のことを思い出す。

 あの時、彼女に代って眼帯を中二病的お洒落の産物だと答えたピトーの、その様子。思い返せば、まるで何かを誤魔化すかのように九重を遮っていたような気がする。

 

 彼女はたぶん、元から九重の眼のことを知っていたのだ。そしてそのキメラ(ピトー)と同じ様相を私に見つけさせないために、あんな風に誤魔化したんだろう。これもたぶん、今の私と同じように九重(キメラ)に惹かれて、一瞬でも“人”忘れてしまいそうになったから。そしてそれを、誰にも悟らせないために。

 

「京都での出来事だ」

 

 私の動揺など気にするそぶりも見せず、“王”は勝手にピトーの記憶を漁り、単調に言う。

 

「貴様らも知っての通り、ピトーは悪魔どもに付き添いあの地に赴いた。そしてその時、キメラ化(オーダー・ブレイク)によってその身に余たち(キメラ)の力を宿した人間が現れ、余たちを襲い……九重に血を注いだのだ。何者の差し金かは知らぬが、余という存在を造ったキメラの血をな」

 

「キメラの、血……」

 

 思わず呟く。それが本当であるのなら、今の九重は私が思っていた以上にそっちに近い存在なのかもしれない。

 

 キメラ化(オーダー・ブレイク)は、所謂一種のドーピング薬。ピトーの血液を元にしたアイテムであるはずだ。悪魔に追われる私たちを匿った曹操やパリストンが示唆していたのはそれを作るという目標だけで既に完成していたことは知らなかったが、しかしそれが九重の眼を変えたというのなら、その源流は“王”やプフやユピーとも同じだ。

 

 ピトーの中に流れる、本来の“キメラアント”の血。それはピトーにとって私を捨てて、この目の前の“王”に傅くに十分なもの。

 ピトーを戒める二つ目の楔の存在に、奈落に落ちるような冷気がお腹の底から這い上がってくるような心地がした。

 

「余と同じく、キメラの血を継ぐ存在。であれば、九重、貴様も余の配下として迎え入れてやらぬこともない」

 

「あ、ぅ……」

 

 “王”の眼が再び九重に戻った。人を人とも思っていないようなその冷たさと物言いに、九重は身体を縮めて身を震わせる。

 “王”は無造作に彼女へ足を向けた。不気味な【気】を放ちながらゆっくりと歩み寄るその様を前に、しかし九重は一歩も動かない。元より自ら“王”に近付いた彼女は、キメラの血に囚われ逃げることも叶わない。

 そして私も、心を侵す奈落の底の絶望感に足を取られ、怯え切った様子の九重に指し伸ばす“王”の手をただ見つめるばかりだった。

 

 やがて手は九重の目の前に突き付けられ、“王”は唐突に言った。

 

「寄こせ」

 

「っ……!」

 

 差し出せと。“王”の言うそれが配下となるための忠誠心だとか命だとか、そういう類のものでないことはすぐわかった。震える身を跳ねさせた九重の手が、その時ゆらりと操られるように動いたからだ。

 

 畏怖と恐怖を共存させていた顔が瞬間真っ青の戦慄に変わり、巫女風の着物の懐に伸びていく様を見つめている。それを見せてはいけないと、理解しながらも抗えない九重はやがて、それを取り出した。

 

 それは、手のひら大の水晶球のようなものだった。

 透明度の高い、美しい一品。しかしもちろんそれは美術品などではない。“王”が寄こせと言ったのは、その内に封じられているモノ。私もすぐ、その存在と強さ(・・)に気付き、理解した。

 

「っそ、れ……!?」

 

 水晶球の中心に、赤黒い霧が渦を巻いていた。それは“力”だ。それも、すさまじく強力な。

 

 水晶球という封印の中にあっても感じ取れるほどのパワー。何なら僅かに漏れだした赤い霧が、それを手に持つ九重に纏わりついているほど。そんな僅かに見える片鱗でさえ、上級悪魔クラスを優に超える。

 

 となれば本体、赤黒い霧自体に込められた強さ(・・)はどれほどか。

 あるいは、“王”にも届き得るのではないか。

 

「“王”、にも……ッ!!」

 

 心に纏わりつく絶望が弾け飛んだ。

 

 足が瞬き、血に操られるまま“王”に水晶球を捧げんとしていた九重に飛び掛かった。彼女の身体ごと捕まえ、そのまま“王”から引きはがす。抱えた彼女の身体ごと地面を転がり離れると、間に合ったようでまだ九重の手には水晶球が握られたままだった。

 

 そして私は、“王”のようにそれへ向けて手を伸ばす。

 

「九重ッ!! それっ、私に!!」

 

「っ!! う、ウタ……!?」

 

 九重もまた我を取り戻したようで、水晶球は手に硬く握りしめられていた。しかし私を認めてもその力が緩まない。見やれば私を見上げる彼女の眼には困惑の色が残っていて、そのせいかと、私は続けて声を荒げた。

 

「そう、別人に見えるかもしれないけど、私よ!! ほら、私の【気】、【念】が使えるんだからわかるでしょ!?」

 

 九重が知っているのは“ウタ”の私。“黒歌”を知らず、故の困惑かと【黒肢猫玉(リバースベクター)】を見せてやる。これで信用に足りなければ白音に証言してもらうしかなかったが、たぶん最初から、情報としてはこのことは聞いていたのだろう。実際に見ての驚きも過ぎ、納得はいったらしい。

 

 ただ、困惑そのものは彼女の眼から消えていなかった。

 

「わかる、けど……でも、ウタ……」

 

「『でも』!? なに!?」

 

 彼女は私たちが人に化けてハンターの身分を得ていた話を聞いているのだから、私の目的だってわかっているだろう。だというのに歯切れの悪い言葉と眼、そして一向に私に渡そうとしない手の水晶球。

 時間なんてないのに、と焦りが苛立ちに変わり、やがて無理矢理にでも奪い取ろうと、差し出した私の手がさらに動いた。

 

 それが水晶球に届く前に、声が響いた。

 

「まあ、よい。くれてやれ」

 

 “王”の言葉にまた九重と、そして私も身を跳ねさせて振り向いた。

 

 “王”は動いていなかった。私が九重を攫った時のまま立ち、私たちを見下ろしている。その顔に水晶球に封じられた絶大な“力”を奪われることへの恐れなどはなく、それどころか平静に吐かれたその言葉。

 

 むしろ不気味で、私は水晶球に伸ばした手と【念】を、今度は“王”へと向けていた。

 

「……どういうつもり……?」

 

「それを得れば余を殺せると、そう考えているのであろう? 試してみよ」

 

 “王”の不変の態度は、その余裕によるものなのだ。この力があっても黒歌は“王”に及ばないという、己の実力への自信。そして私への侮り。

 私にピトーは救えないと、奴はそう言っている。

 

「なら……お望み通りにしてあげる!!」

 

「っ!! ま、待って姉さまッ!!」

 

 白音が不意に声を上げたが、しかし“王”の言わんとすることを否定せねばならない私はもはや止まれず、白音の恐れも九重の躊躇も無視して彼女の手から水晶球を奪い取った。

 

「身の程を知れば、貴様も考えを改めるやもしれぬ」

 

 呟く“王”の言葉も耳には入らず、私は次の瞬間、手の中の水晶球を破壊した。

 

 パリンと、水晶球はあっけなく砕け散った。そして直後、封じられていた“力”赤黒い霧が、瀑布の如き勢いで溢れ出す。その勢いは、それだけで傍の九重を吹き飛ばすほどのものだった。

 巻き込まれた彼女はたぶん、下手をすれば骨の一本や二本が折れかねないほどの衝撃に見舞われただろう。だが、私にそれを気にする余裕はなかった。

 

「ッ!! ……こ、の……!!」

 

 “力”の強大さは理解しているつもりだったが、なお足りなかったのだ。想像を超える荒々しい“力”の奔流は制御を試みる私の手から次々溢れ、私の身体を貫いてくる。仙術を介して流れ込んでくる邪気が、まるで子供の癇癪のような破壊衝動を私に生み出し、蝕んでいた。

 

 だが、邪気に堕ちるギリギリで私は耐え続けた。ピトーのため、その一心で意識を保ち、荒れ狂う“力”を邪気ごと己の肉体に押し込めていく。

 

 風船のように破裂してしまいそうな自分の身体。肺の酸素をすべて吐き出してもなお消えない感覚が私の手に地を突かせ、堪える衝動に身が丸まる。“王”を意識する余裕すら消し飛び、永劫とも思える苦しみに悶えながらもピトーのために耐え切り、そしてやがて――

 

「く――あ……っ、はぁっ……!!」

 

 周囲から溢れる“力”の霧が消え、とうとう私は、“力”の全てを自身に収め切った。

 

 途端、ぐん、と、頭に血が上ったような充血感と熱が全身に生まれた。立ち上がって自分の身体を見下ろせば、確かに“力”はすべて私に宿り、【気】となって吹き出し全身を覆っている。そしてその強さも、やはり期待した通りに“王”並み、いや、それ以上のもの。

 

 今、私は“王”を倒すための力を手に入れたのだ。

 

「こ……これ、で――」

 

 実感し、溢れる【気】を操ろうとした、その時だった。

 

「――あッ、ぐ……あァッ!!?」

 

 感じていた充血感と熱が、突然、身を貫くような激痛に転じた。

 頭のてっぺんからつま先、尻尾の先端に至るまでに感じる痛み。自分という器を内側から滅多切りにされているような激痛に、私は到底立っていられず倒れ込む。邪気も合わさり強烈な嘔吐感がこみ上げ、えずく私の下に白音の声が駆け寄った。

 

「姉さまッ!! ……!! 九重ちゃん!! あの水晶の玉、いったい誰から!?」

 

「わ、わからない、のじゃ……。ただ、知らない小汚いおじさんが、何も言わずに……」

 

「小汚い、おじさん……?」

 

 あるいはその正体の知れない人物が敵側で、私が苦しんでいるのはその罠か何かじゃないか、と私のあまりの苦しみようにパニックを起こしかけているのだろう九重と白音が叫ぶ。しかしそうではないのだ。

 

 “王”の声が、自明だと言わんばかりに私に告げた。

 

「そ奴が何者であろうが、黒歌の惨状に関係はない。これは単に、黒歌の器に対して注ぎ込まれた“力”が大きすぎたという、それだけだ」

 

「ッ!! 器、って……」

 

「単純な話であろう。キメラの王たる余に匹敵する“力”が、猫魈なれど一妖怪に過ぎぬ黒歌の身に収まるはずがない。御し切れぬ、身に余る“力”が、黒歌を内から嬲っているのだ」

 

 つまり私の容量不足。空気を入れ過ぎた風船が内の圧力で弾けるように、私の中でも“力”が私を内から押し破らんと暴れているのだ。

 

 “王”を倒せる“力”はある。意思もある。しかし、身体がそこに及ばない。

 “王”はこのことをわかっていたのだ。だから水晶球をあっさり私に渡した。無駄であることを知っていたから。そして私にこのことを思い知らせるために。

 

「余の……ピトーの能力は知っていよう。その“力”が貴様を食い破れば、死ぬ前に治療してやる。苦痛から逃れたくば、さっさと捨ててそう(・・)なれ。“力”も余が始末してやる」

 

 “力”を身の内に押し留めるのをやめ、さっさと開放してしまえ。“王”はそう言う。“王”を倒してピトーを救う、その可能性を捨てろと、“王”はそう言った。

 

 さっきまでの私であれば、考えるまでもなく拒絶しただろう。何度でも、ピトーのためにと。だが今は知ってしまった。“力”があっても意思があっても、私では“王”を倒せないということを。

 

 思惑通りに思い知らされた事実は、身の内で荒れ狂う“力”だけでなく意思をも削り、私に感情を生んでいた。

 

 私ではピトーを救えないなら、

 

(なら、いっそ“王”の言う通りに……)

 

 諦めが頭をよぎった。

 

 その時、さらなる激痛が私を襲った。

 

「――ッう、ああああぁぁぁぁッッ!!?」

 

「きゃあ!! な、なに、これ……っ!? 姉さまっ!!」

 

 内側から切り刻まれるような痛みの中に、より鮮烈なものが加わった。涙も滲み痛みをこらえる眼を必死にこじ開けると、白音の驚愕も視界に映る。私自身の身体から、血と、赤黒い【気】が無数に噴き出し、そこから()が生え出ていた。

 

 本物ではない。“力”が表に出て具現化したのだ。不安定に溶けかけながらも形を保ち、慌てて払い除けようとする白音の手も巻き込んでのたうち回っているその光景。蛇たちには声も言葉もないが、叫んでいるのはどう見ても激しい怒り。“力”の邪気の意思だった。

 

 邪気に包まれた“力”の暴走。私の仙術が何か影響してしまったのかもしれないが、わかったところで激痛と苦痛はどうにもならない。何故という考えもまともに回らず、私は悲鳴を撒き散らす。

 “王”はそんな私を、憐れむように見下ろし言った。

 

「爆ぜたか。しかし……」

 

 そして眼が動く。今度は私から生える蛇を見つめ、興味深そうに変わった。

 

「なるほど。ようやく合点がいった」

 

「な、ぁっ……に、が……ッ!!」

 

 わかったというのか。

 苦痛で痙攣を起こす喉を無理矢理抑えつけ、声を捻り出す。

 

 “王”は全く無警戒に私の傍に近寄ってきた。その気になれば今すぐにでも私を殺せるほどの距離に立ちながら、しかしやはり殺気はなく、伸びる蛇の一匹を手に取り、ふとその名前を呟いた。

 

無限の龍神(ウロボロス・ドラゴン)、オーフィス」

 

「ッ!!」

 

 出た名の驚愕に、食いしばった歯が緩んで息が漏れた。九重は傍に現れた“王”を呆然と見上げて何のことやらと眼を瞬かせたが、しかし苦痛の中でも私の頭は、続く“王”の言葉と、それが真実であることを確信していた。

 

 水晶球に封じられ、今は私の身体を侵す“力”。黒い蛇の“力”の、その正体。

 

「それは、龍神の“力”の半分(・・)だ」

 

 正体不明から一転して確信。“王”が導き出したその結論を信じるのに躊躇がなかった理由は、半ば以上が本能的なものだった。自分の中で暴走する“力”そのものが、そうだと肯定しているような気がしたのだ。私とそれが同化してしまっている故に、自分のことは自分が一番よくわかる、ということなのだろう。

 

 そして何より、私の身に収まらないほどの力を持つ存在などそうはいない。加えてそこにドラゴンの気配を感じるとなればなおのこと、龍神くらいしかありえない。

 

「ドラ、ゴン、の……!!」

 

 そう、ドラゴンの、気配だ。湧き出る“力”にそれが含まれていることに、私は言われて今更気が付いた。

 

 同時に、そのことに今まで気付けなかった理由にも気が付いた。異質であるはずのその気配が、今までこの場では目立っていなかったためだ。全く同じ(・・)気配を“王”が発していたせいで、意識するに至らなかったのだ。

 

「龍神……に、半分……? ま、待つのじゃ……! それって、まさかもう半分は……!」

 

「余、自身だ。龍神の“力”のもう半分(・・)は、核となり余自身に宿っている」

 

 造られた“王”の強さの源は、私のこの“力”と同じ、オーフィスのものだったのだ。

 

 封じられていた“力”が“王”並みの強さを持っていたのも、“王”がその正体にいち早く気付いたのも、そのせい。私と同じく、いや、それが核であるのなら私以上に深くオーフィスと同化した奴にとって、私の身体から生える蛇たちは自らの半身のようにも感じられるのかもしれない。

 

 だからなのか、“王”は続けて口を開きながら、その手はさらに深くへと伸びていった。

 

「……人間どもはオーフィスの力の全てを操ることができなかったのであろう。故に二つに分け、半分をピトーの血と共に余を造るための“力”として使い、そしてもう半分は玉の封印の中に封じられた。黒歌、今の貴様や、禍の団(カオス・ブリゲード)の旧魔王派どもが使ったように、蛇の“力”を与える道具とするために」

 

「旧……?」

 

 呆然と呟く白音。理解が追い付かないようだが、しかし私は思い出す。あの襲撃の折、その幹部たちの異様な強さに悪魔たちが苦しめられたという話を耳にした覚えがある。その元、塊が、今私を蝕むこの蛇の力だということ。

 

 そして今、それを“王”が欲している。今私の意識にあるのはそのことと、その欲望を表し伸びて来る“王”の手だけだった。

 

「余と同じ“力”……想像するまでもない、美味……。故に、余はこれほどに惹かれるのであろう。それは、余が手にするべきものだ。黒歌、さあ、早く寄こせ」

 

 苦痛が身を苛み、私は“力”を奪おうと伸びるその手を止めることができない。“王”の動作はすべてが無造作で隙だらけだが、纏う【気】は強大なものであるにもかかわらず小動もせず静謐で、その事実がまた私の意思から抵抗を奪っていく。

 “王”に対して私は“力”を身に留めることもできない在り様。抵抗など、鼻から無駄だったんじゃないかという思いが、苦痛からじわじわと染み出して心を侵し、抗い必死に起き上がろうと地を突く腕が折れ、身体がまた地面に落ちた。

 

 このままでは殺される。戦わねば。せめて立ち上がらなければ。か細い思いは脳を駆け抜けるも、身体はそれに応えてくれない。そうしてとうとう達した手を滲んだ視界に認めた私は、その眼をぎゅっと閉ざした。

 

 だが暗い視界の中に、その時必死の声が届いた。

 

「だめッ……! ダメ、です……ッ!!」

 

 再び開き、涙で滲んだ視界には、白音の背が広がっていた。

 

 彼女は“王”の手を払い除け、その前に立ちふさがったのだ。“王”が下げたその手を軽く払うだけで、自分は殺されてしまうと知りながら。

 

「しっ、ろね……ッ! あなたは、にげ……う、ぁッ……!!」

 

 しかし痛みに途切れる言葉は誰にも届かず、白音は肩で息をしながら悲愴な表情で“王”を睨み、そして“王”冷やかにそれを見下ろした。

 

「……止めるか。何故だ。黒歌の死骸は放置して腐らせるべきだとでもいう気か」

 

「姉さまは死にません! 私が死なせません! だから、あなたに姉さまを殺させもしません!!」

 

 あの時、ピトーの意思を得て私に立ち向かった時のように、白音は強い決意でそう叫んだ。だがしかし、“王”の言う通り、私はこのままでは死ぬ。“王”が何をせずとも、内で暴走を続ける“力”に殺されるだろう。今“王”に立ち向かうということは、【人形修理者(ドクターブライス)】による治療も捨てることにもなる。

 

「白音、そして九重も。余に下る気がないというのなら、今、この場を去れ。余は追わぬ。……なお抗い、それが何になる。その頭でよく考えよ」

 

 今だ白音はパニックの只中なのだろうか。“王”の念押しに、しかし白音は首を横に振った。

 そして再び、私の身体に覆いかぶさるようにして抱き着いた。手から足まで、全身を私に密着させるような勢い。もちろん、より強く暴走する“力”の影響を受けてしまう。

 

 だがその直後、皆が白音が正気であることに気が付いた。そして私の背に、白音の(・・・)()】と共に戦慄が走った。

 

「だ、だめじゃ、白音っ! そんなことをしたら、お主まで“力”に食い尽くされてしまう!」

 

「それでいいの! “力”の暴走が姉さまの許容量を超えてしまったために起こったのなら、その不足分を、私が補えばいい……!! うぅっ……私が、姉さまの苦しみを、少しでも肩代わりできるようになれば……ッ!!」

 

 彼女の能力を用いれば、理論上、それは可能だろう。

 【猫依転成(ドッペルオーバー)】。自身の【気】を別人のものに変質させる、白音の念能力。それは彼女のもう一つの能力と合わせて相手の念能力をトレースするためのもので、単体ではさしたる効果はないが、この場合では異なる。別人の、私の【気】に自身の【気】を同化させるということは、つまり外付けの記憶媒体として限界超過している私の()の容量を増やせるということなのだ。

 

 オーフィスの“力”を、もしかしたら(・・・・・・)御せるようになるほどに。

 

 だが今の私と同化するということは、私を蝕む“力”はまだしも、邪気の影響すらもろに受けてしまうということ。彼女は私がまだ耐え、自我を保っているのだから大丈夫だと考えたのかもしれないが、私が無事であるのはピトーとの生活で邪気に幾らかの慣れができているためであるところが大きい。白音がこの強烈な破壊衝動に呑まれずに済むと、私は確信ができなかった。

 

 故の背に走った戦慄。直観的に九重も危険を察知し叫んだが、白音は止まらず、能力を発動させた。

 オーフィスの“力”が暴れる私の身体に触れた彼女の手、感じる【気】が、どんどん私のそれと混ざり、同化していく。荒れ狂う“力”とそしてやはり邪気もがコピーされ、白音を蝕む様を、私は目と耳に見せられた。

 

「だ……め、よ……ッ! 白音、無茶……あぁッ!! 離れ、なさい……ッ!!」

 

「う……あぁッ……!! いや、ですッ! 一人で逃げるなんて、絶対に……!!」

 

 きつく眼を閉じ、私と同じ苦痛に耐える白音の身を襲うのは、やはり想像していた以上の苦しみと痛みだろう。だがそれでも白音は私の身体から手を離さない。

 

「私は……ッ、もう、見捨てたり、したくない……ッ!! せっかく元に、戻れたのに……また、姉さまを見捨てることなんて、できませんッ……!!」

 

「し、ろねっ……!?」

 

 白音が必死に押し出す想いに私の諦めが僅かに追いやられる。と思ったその時、感じた。白音と私の【気】が溶けあい、混ざっていくような感覚。触れている肌同士の境界線をも解けていくような、そんな同化の感覚が私に伝わった。

 その感覚は徐々に強くなっていく。苦痛も、ゆっくりとだが薄らいでゆき、蛇となって噴き出る“力”は、縮んで私の身体に引っ込んだ。

 

 見つめる“王”が、残念そうに息を吐いた。

 

「何故……こうまでして抗うのだ。白音まで、何故、無為に死のうとする。ピトーのためにと言いながら、何故、余がこの世界を統べることを……ピトーの願い(・・)を、砕こうとするのだ……」

 

「あなたが、従えてるのは……ピトーさまじゃ、ありません……!! ピトーさまの中の、“キメラアント”の血なんです……っ!!」

 

「あんただって、言ってたでしょ……!! 血の定め、呪いに、ピトーは抗えなかっただけ……!!」

 

 だから私は、キメラアントの王(“王”)を許すことができないのだ。

 そのことを思い出すと、途端、弱気はすべて消し飛んだ。白音と共にゆっくりと立ち上がる。【気】と意思と、そして声もが共鳴して、私たちの同化は、その時とうとう達せられた。

 

「「私は、“キメラアント”から、ピトーを解き放つ!!」」

 

 私たちの、“人”のピトーを取り戻すために。

 その想いが一つとなった、その瞬間、私と白音は完全に溶け合った。

 

 オーフスの“力”がとうとう静まり、膨大な【気】が全身に沸き上がる。そして同時、それは勢いのあまりに私の皮膚をも突き破るが、今度のそれは苦痛を生むことなく、手足や頬の辺りに、どす黒い赤色の硬い鱗になって現れた。

 

 加えて頭からは角のようなものまで生えたらしい。“力”の影響であろうそれは、私を半竜人のような姿に変えていた。

 

『けど……大丈夫です、姉さま。ちゃんと操れます……!』

 

 私の口から、白音の声が飛び出した。

 

 そんな怪奇現象は本来なら恐れ戦くところだが、動揺はない。溶け合ったその瞬間に、私はもう感じていたからだ。彼女のその存在を、私自身の中に。

 

「……憑依したか」

 

 呟く“王”の言う通り。

 私たち(・・)は背後を振り向き、ぐったりとして目を閉ざす白音の身体を抱く九重へ、言った。

 

『九重ちゃん、私の身体、お願いします』

「心配しないで。すぐ、倒すから……!」

 

 唖然と私たちを見上げていた九重が、続けて出る白音と私の声にびくりと身を竦ませた。驚きに見張られたその眼から、私たちは次いで“王”へと、視線を移す。

 

 敵意を以って告げた。

 

「これでもう、『黒歌にピトーは救えない』なんて言えなくなったんじゃない? 余裕ぶって今まで私にとどめを刺さなかったこと、後悔させてあげる……!!」

 

 【念】を練り上げる。今までの私のそれとはケタ違いの【気】が溢れ、勢いに押されて砂埃が巻き上がる。

 それらがさらに吹き飛ばされ、浴びる直前に、“王”もその【気】を身に纏った。

 

「……そのために、余を殺すか。ピトーを“人”にするために」

 

『そうです! そのためなら、私たちは何だってします……!! もう、迷いません!!』

 

 白音が叫ぶ。その直後。

 

「そうか」

 

 短く“王”が言った。そして、

 

「無意味だ」

 

「『ッ――!!』」

 

 私たちの死角から、突如音もなく拳が襲い掛かった。

 

「わぁッ!? う、ウタっ!! 白音っ!!」

 

 拳の圧に巻かれたらしい九重の悲鳴が遅れて響く。が、それ本体は私たちに命中するも、寸前で防御が間に合った。

 

 【気】を纏った腕で受け、ダメージはほとんどない。だが代わりに、その拳打の正体は、私たちの頭に動揺という衝撃を与えてその動きを止めさせた。

 

「あんた、ユピー……!?」

 

『け、けど……』

 

 死んでいる。頭が半分潰れている。にもかかわらず、光を灯さない片方だけの眼が私たちを捉え、【気】を纏った拳を振るっていた。

 

 仙術でも生気を感じず、なのに【気】を宿す死体が動いているという現実。だがすぐに、その頭上に見知ったものを見つけて気が付いた。これはピトーの能力で操作されているだけなのだ。

 

 ならば問題はない。誰だかは知らないが殺された後であるのなら、それを操るピトーの能力はあまり精度がよくはない。加えて今や力でも圧倒している私たちにとって、それは全く敵ではなかった。

 

 防御した腕で拳と腕をかち上げ懐に入り、一撃。それだけでピトーの能力は解除され、ユピーは崩れ落ちて死体に戻る。見届け、顔を上げた。

 

「何のつもり? 今更こんなので私たちがどうこうなるわけ――」

 

 視線をやったのは、もちろん“王”のほう。その意図をうかがい知るためのものだったが、目にした途端に思考が止まった。“王”の腕に、彼女が抱えられていたからだった。

 

 気を失っているらしく、静かに“王”の腕の中で眼を閉じる彼女。

 

『リアス部長ッ!!?』

 

 私の中で白音が戦慄した。

 

 彼女にとっての恩人が、最も危険な人物に囚われているという事実が突然目の前に現れたのだ。彼女が感じた恐怖と驚愕は私にも伝わり、一瞬身体を硬直させた。

 

 その一瞬を狙っていたのだろう。視界の端に、今度はプフが、私たちめがけて放った魔力の砲弾。迫るその眩い光が、私の網膜を焼いた。

 

 硬直した身体はそれを避けられない。防げもしない。受ける以外になかった。

 

 しかし直撃する、その直前、

 

『Divide!!』

 

 聞き覚えのある音声が響き、砲弾の魔力が半減した。減じたその威力は爆ぜて私たちの身を焼くが、痛痒も感じない威力に成り下がっていた。

 

 そして感じるドラゴンの気配たち(・・)。私たちは彼らへと、顔を向けた。

 

「なるほど……確かにこの“力”、とんでもないな」

 

 宙で羽ばたき、言葉に反して高揚を露に“王”を見つめる純白の鎧、ヴァーリ。

 

 そして、

 

「おい、てめぇ――俺の部長に、なにお姫様抱っこなんかしてやがるんだぁーッ!!」

 

 “王”からリアス・グレモリーを奪い取り、嫉妬の叫びで“王”の身体を殴り飛ばす真紅の鎧、兵藤一誠。

 

 二天龍の力を宿した悪魔たちが、現れ、その戦意を一人に向けていた。

 

「い……いっせー……?」

 

 目覚めたリアス・グレモリーが、自身を抱く一誠に茫洋と目を開ける。一誠は信じられないと言わんばかりの彼女に、素顔を露に二ッと笑みを作ると、言った。

 

「はい、部長。正真正銘、あなたの下僕の兵藤一誠です。ハーレム王の野望のため、再び現世に舞い戻ってきました!」




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二十二話

『イッセー先輩っ……!!』

 

 堪えきれずといったふうに、白音の感涙の声が飛び出した。

 

 リアス・グレモリーと同様にその死の瞬間を目撃してしまい、且つ悲しむ間もなく“王”との戦いに赴かねばならなかったのだから、負い目からも歓喜が沸き上がる。

 結果私の眼から涙を零してしまうほどの歓喜に身を震わせた白音の声は、一誠をその笑みのまま振り向かせ、直後認めた私の姿に目をぱちくりとさせた。彼はリアス・グレモリーを抱えたまま、困惑しきった顔で言う。

 

「え……えっと、ドラゴン? いや、黒歌だよな……? その姿は……ていうか、あれ? 今、白音ちゃんの声が……」

 

「白音は今、私の中。姿は……まぁ、別に気にする必要もないことにゃん」

 

『……ほら、一誠先輩も神器(セイクリッド・ギア)の力の代償に、腕がドラゴンになったじゃないですか。あんな感じです』

 

 説明を半ばで放棄する私に続き、白音が付け加える。私の知らない出来事の話題が飛び出し、それでどうにか、不思議そうな顔をしながらも一誠は私たちの事象について納得したようだ。

 

 そこにすかさず、省いた説明の分、私は“王”を遠くに殴り飛ばしてしまった一誠へ、その内心に積もりに積もる疑心をぶつけた。

 

「で、赤龍帝ちん。あなたどうやって生き返ったの?」

 

 歓喜でいっぱいである白音やリアス・グレモリーはまだ意識が及んでいないが、まずそこだ。彼は確かに私たちの目の前で死に、その肉体は消滅したはずであるのだ。

 

 さらにその、“王”へと向けられた力の強さと、気配。どちらも私の知る一誠とは遠くかけ離れ、気配に至っては全く別人、いや、別の生物と化していた。

 

 人間や悪魔の気配はまるっきり感じられない。一切がドラゴンのそれだ。

 

「あんた……本当に赤龍帝ちん? 赤龍帝の小手(ブーステッド・ギア)に封じられてる赤い龍(ウェルシュ・ドラゴン)に乗っ取られたとか、そういうことじゃないでしょうね……」

 

 代わりに感じるそのドラゴンの気配も、そう思えるほどただならないもの。というか、でなければ禁手化(バランス・ブレイク)しているとはいえ、“王”を殴り飛ばすなんてことは不可能だ。

 

 白音に引っ張られる心のゆるみを引き締め、睨むようにじっと見やる。果たしてその正体は、

 

「違う。イッセーの肉体はドライグじゃない。真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)、グレートレッド」

 

 全く別の方向から、抑揚の薄い少女の声がそう答えた。

 

「ッ!!?」

 

 抱く警戒心がそのまま跳ね、振り向くと、そこにいたのは痴女のような恰好をした、白音くらいの女の子だった。

 

 派手に胸元が開いた――もとい、貧乳を丸ごと放り出したゴスロリ衣装に、バッテンテープで辛うじて局部を隠した、紛うことなき痴女。それだけでも驚愕ものだが、それ以上に目を引く彼女の特徴。

 

 ふわふわと、重力を感じさせないふうに浮いていた。しかも半透明だった。

 

 生気もない。感じられる存在感はゴマ粒ほどの、その種族すらわからないくらい小さな“力”の残滓だけ。それはつまり、

 

『ゆ、幽霊さん、ですか……?』

 

 既に死した存在だ。確かに悪魔や人やらキメラもどきやらがたくさん死んだこの場なら、一人や二人、未練に縋って化けて出て来ることもあるだろう。

 しかし、なぜそんな者が一誠の正体などを、とそこまで思考を巡らせて、私は遅れて彼女のその台詞の内容に気付き、思い至った。

 

「ぐ……グレートレッドって……次元の狭間にいるっていう、あの龍神のこと……? それが赤龍帝ちんにって、どういう……」

 

「ええっと……まぁ、俺もまだあんまり実感がないんだけど――」

 

 と、そこから続いた説明の言葉曰く、グレートレッドの肉の一部で自分の身体を造り直したらしい。

 

 一誠の肉体が滅び、魂だけがどういうわけか次元の狭間に入り込み、そこでグレートレッドと出会ったのだという。彼の強いドラゴンの気配と“王”を殴り飛ばした肉体のパワー、言うなれば人型のドラゴンに変わってしまったのは、つまりそのためであったのだ。

 

「そういうわけで……部長、白音ちゃんも。俺……もう人間どころか悪魔でもなくなっちゃいましたけど……それでも、俺……!」

 

「いいわ……何も言わなくていい……。イッセー、貴方が何者に変わろうとも、貴方は私の下僕……私たちの、大切な仲間よ……!」

 

『眷属のみんなも、ハンゾーやゴン君たちだって、そんなこと気にしません! 本当に……生きていて、よかったです……』

 

 リアス・グレモリーを下ろしながら、一誠は気まずそうにその眼から顔を背ける。しかし頬を挟むリアス・グレモリーの両手に視線は戻され、一直線に見つめる彼女は力強く頷き、白音はまた私の身体で涙ぐんだ。

 

 彼女たちは、また一段と強い結束を得たようだった。ただし一人、その輪の中に入ろうとする新参の顔。

 彼女に、今まで息をひそめるかのように押し黙っていた九重が、警戒心からか僅かな敵意を滲ませ、我慢できずといったふうに言った。

 

「それで……悪魔じゃなくなった赤龍帝。そ奴は……誰なのじゃ……!?」

 

「へ? ……ああ、京都の時の! 『そ奴』って――」

 

 九重は抱く白音の身体を片手に移し、まっすぐに指さした。

 

「決まっておる! そこの、ヘンテコな格好をした幽霊じゃっ!」

 

 最初に一誠の正体を言った、あの痴女だ。

 

「ええと、あいつは――」

 

 一誠が答えようとした。その声を遮り、

 

「中々、食いでがありそうだ」

 

 強くすさまじい“王”の【気】が、声と一緒にその場を貫いた。

 

 今漂っていた歓喜の空気が残らず吹き飛ばされ、悪意の【気】が周囲に満ちる。私以外の皆は、文字通り、まるでこちらを食らいつくような【気】に身を凍らせた。

 

 その前に庇うように立ち、私は身に吹き付ける邪気に【気】を纏って耐えながら、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる“王”へ返す。

 

「『食いで』? ま、リアス・グレモリーなんかは色々おっきくて柔らかそうではあるけど」

 

「アレも、中々に旨そうな“力”を宿していたな。奪わせるつもりはなかったが、しかし、グレートレッド、真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)か。……あまりなレアモノに、つい気が逸れてしまった」

 

 弧を描く口元は、遥か昔、ピトーが私の追手であった悪魔たちを食らっていた時によく似ていた。その食指が向けられているのは、今はリアス・グレモリーではなく、一誠らしい。

 

 と思えばしかし、もう一人にもその眼は向いた。痴女幽霊に、“王”歯を剥いて笑った。

 

「其の方、オーフィスであろう?」

 

「――!」

 

「……オーフィス?」

 

 眼だけで後ろを見やる。あるのは、乏しい表情筋を固めて驚いている風な、半透明の彼女の姿。

 

(彼女が、オーフィスだと……?)

 

 私たちの、そして“王”の“力”の大本たる、無限の龍神(ウロボロス・ドラゴン)だと、そう言う“王”にも私たちの視線にも、彼女は否定のそぶりを見せなかった。そしてさらに、一誠が邪気の中から遅れて警戒心を取り戻した声を上げた。

 

「お前……なんでオーフィスのこと知ってやがるんだ!?」

 

 その言葉は、彼女が本当にそう(・・)であると認めるも同然のもの。察するに一誠と彼女には既に浅からぬ縁があるようであるし、たぶん、それは真実だ。

 

 グレートレッドに続いて、もう一体の龍神までもがここにいた。

 

「は……もう、ますますわけがわかんないわ。なんでまた龍神が……いや、幽霊になってるのはわかるけど……」

 

 ついでに、その気配が残りカスの如くか細く、判別すらできないほどだったことも。彼女の力のほぼすべては、今や私と“王”の内にあるのだ。

 

 が、それはともかくとして、

 

「そんなとんでもないやつが、なんで一誠たちと一緒にこんなところに出て来るのよ。ドラゴン繋がりの情? それとも――」

 

 私たちの内にある、彼女の“力”を取り戻しにでも来たか。

 

 そっとゆっくり身構える。殺気が漏れ出たのか、オーフィスの眼が私に向いてその身が僅かに後ろに引いた。

 

 そこに一誠が、割って入るように飛び出した。しかし私の眼には気付かなかったようで、威勢よく飛び出る声は“王”へと向けられ、人差し指がびしっと付いて宣戦布告を言い放つ。

 

「俺の身体の材料はグレートレッドだけど、作ってくれたのオーフィスだ! 部長やみんなを酷い目に遭わせた挙句、オーフィスを、俺の生みの親に手を出そうっていうなら、もう絶対許さねぇ!! ドラゴン(ドライグ)×ドラゴン(グレートレッド)なこの力で、みんなの分、ぶっ飛ばしてやるぜ!!」

 

 宣言と共に兜が戻り、鎧には力強いドラゴンの【気】が満ち溢れる。取った戦闘態勢と共に背にはドラゴンの翼が生え、浮き上がり、さらに背のブースターのような筒からエネルギーの気配が迸った。

 

 見え見えの突撃の予兆。力を得てもやはり経験に乏しい彼がひとり突っ走る、その直前、ふわりと浮いた半透明の手が、鎧の胸元に触れてそれを制した。

 

 オーフィスの行為に、一誠は困惑したふうに言う。

 

「え……お、オーフィス? なんで止めるんだよ!? みんなみんな、こいつにやられたってのに――」

 

「だからでしょ、おバカ」

 

 とうとう黙っていられず、オーフィスの前に私がそう言い捨てた。そして直後、ドラゴン化して筋力までもが増強された両脚で地を蹴り、一瞬で一誠のもとまで跳躍する。そしてそのまま無造作に肩を掴み、その動きを全く見切れていない彼を地上に叩き落とした。

 

 「ふげぇっ」と情けない呻き声を聞きながら、私も地に降りる。眼は“王”を警戒したまま、尻餅をつく彼に、代わりに白音がその身を案じて不足を告げた。

 

『一誠先輩……先輩は、確かに強くなりました。けど、それでも足りないんです。……覚えてますか? 先輩は、覇龍化した上で“王”に殺されてしまったんですよ? せめてあれくらいの……今の私たちの動きを見切れるくらいじゃないと、また死んでしまうんです……!』

 

「ぐ……けど……!」

 

「止める権利はないはずだ、お前には」

 

 戦力どころか身体能力すら足りていないのだと言い聞かせると、そこに割って入るヴァーリの声。同様に降り立つ彼は、一誠の傍で強がりが明らかな不敵の声を出した。

 

「それに、今度は我が宿敵君一人だけじゃない。俺がいる。お前も。……もちろんタイマンのリベンジマッチといきたいところだが、やれるさ、三人なら」

 

「……最強が云々でいじけてたって話なのに、随分饒舌じゃない。それに協力だなんて、変なモノでも食べたのかしらね」

 

 鼻を鳴らして言葉に乗せた嘲りだったが、ヴァーリは全く意に介さず、それどころか認めてみせる。

 

「そうかもな。彼の、兵藤一誠という男の熱にやられてしまったのかもしれん。……だってそうだろう? 曹操やお前たちに軽くあしらわれる程度だった彼が、この危機にここまでパワーアップを成したんだ。いつかにドライグが言ったような、バカの可能性ってやつだ」

 

 一つ、呼吸の間。

 

「あいつはまだ、これからも先に行く。なら俺もこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。俺の“最強”は……俺自身が決める……!」

 

 ヴァーリは自分に言い聞かせるかのように声を吐き、その身の【気】と魔力を爆発させた。

 “力”の迫力は一誠のそれに勝るとも劣らない。そして何より言葉に込められた意志の強さが一誠に、身体と共に私に叩き落とされた気力をも取り戻させた。

 

 一誠とヴァ―リ、二天龍の二人が揃ってその身に戦意を燃やす。だがしかし、二度、その意気は制せられた。

 

「だめ。イッセー、ヴァーリも。このままアレに挑んじゃいけない」

 

 オーフィスが、“王”を示して今度こそそう言った。

 

 そしてその理由は、やはり変わっていない。

 

「今の二人じゃ、あいつに敵わない。二人一緒でも、絶対に死ぬ」

 

 “力”を得る前の私がそうだったように、“王”は、オーフィスの“力”とは、それほどに強大なのだ。その半分であっても、二天龍では相手にならないほど。

 

 本来の持ち主であるオーフィスだからこそ、その事実がよくわかる。故に彼女が求める、自分の半分(“王”)に抗するほどのもの。

 

「だから……我の半身、“力”を、我に返してほしい」

 

 それは、自分のもう半分(私たち)に他ならない。薄くだが緊張に身を強張らせ、彼女は私を見つめてそう言った。

 

 わかりきっていた台詞だった。だから同様もなく、私は彼女のその視線を受け止める。そして恐る恐るに私へ向かって伸ばされる彼女の手。矮小な存在と化したオーフィスが、自身を押し潰してしまいかねない“力”を求め、触れようとする。

 

 だが私はその瞬間、ひんやりと冷たい霊体の手を払い除けた。

 

「っ――!」

 

 怯えるオーフィスが私を見つめたまま息を呑む。言葉を失い固まる彼女はゆっくりと後退し、打たれた手にはきっと私の拒絶の強さが伝わったことだろう。

 

 故にそれを向けられなかった一誠が、私の狼藉も見えないままに狼狽えた。

 

「……お、おいオーフィス、どういうことだ? 『我の半身』って、それってまるで……」

 

『姉さまが……私たちが、前とは比べ物にならないくらい強くなっていることはわかりますよね? こんな姿になったのも、全部彼女の“力”を取り込んだからなんです』

 

 私の代わりに白音が答えた。その事実に一誠もが口を開きかけで固まり、そしてヴァーリが驚嘆と共に納得したように頷いた。その眼はさらなる戦意と武者震いを生じさせながら、“王”へと向いた。

 

「なるほど……死と共に失われたオーフィスの“力”の半分……。ということは、もう半分は……奴か」

 

 “王”の内にある。それが知れて、だからこそ、一誠には私の拒絶が理解できないものだった。再起動を果した彼が訴えるかのように声を上げる。 

 

「なら……黒歌と白音ちゃんの“力”がオーフィスのものだって言うなら、尚のことオーフィスに返したほうがいいだろ!? 幽霊から蘇ることもできるんだし、それに、その“力”はオーフィスが一番うまく扱える!」

 

「だからよ!!」

 

 だからこそ、なのだ。ただ突き放すだけだった憤りが、とうとう私の口から吐き出された。

 

「“王”どころかピトーまで殺そうとしている奴らに、私が協力するわけないじゃない!!」

 

 一誠、ヴァーリ、オーフィスも、突如現れた三人はみんなそう。いや、私がベッドの上で目覚めたあの時、あの場所にいた者たち、私たち以外のこの世の全てが、今やピトーの敵なのだ。

 そんな連中に“力”なんて与えられるわけがない。オーフィスの“力”は、私たちの中にあるからこそピトーを救う“力”であるのだ。

 

 ピトーを救うためには、私と白音だけで戦うしかないのだ。

 

「違うわ……!!」

 

 突如リアス・グレモリーが上げた大声が私へ叩きつけられ、その思考を乱して止めた。

 

 『違うわ』という否定は何に対してのものなのか。よりにもよって最も強く恐怖心を植え付けられているはずのリアス・グレモリーが口にした言葉が、信じ難く、半ば呆然と彼女を見やる。

 

 その眼は偽りない本心を示してまっすぐで、何故だか見とれるほどだった。

 

「ピトーは、“キメラアント”は、悪魔の敵。私も彼女のことは受け入れ難いわ。けど……今のピトーは、“王”という名の神器(セイクリッド・ギア)の傀儡。操られているその心が黒歌や白音の言う通り“人”であるのなら、私はそれを信じたい……! 黒歌、私は……これだけ失敗しても、やっぱり甘いままなの。白音の笑顔を曇らせてしまいたくないの……!」

 

 だから、と、続く言葉が、私の中にあった“リアス”を砕いた。

 

「お願い……貴女と同じ、白音の家族の私を信じて……!」

 

「………」

 

(姉さま……)

 

 唇を引き結び、私は何も言えなくなる。 頭の中で白音が、はにかむように呟いた。

 

 その直後、

 

「【黒子舞想(テレプシコーラ)】」

 

「ッッ!!!」

 

 発せられ、漂っていた邪悪な【気】が、“王”の頭上にその形を成した。

 現れるピトーの念能力。殺意が、私たち全員の背を泡立てる。

 

「談話はもう十分であろう? 余をあまり待たせるな」

 

「ッぅ、こ、この――!」

 

「勝手に待ってたのはあんたでしょ? 何のつもりか知らないけど……!」

 

 向けられる“王”の“力”に本能的な怯え抱く一誠の前に出て、私は纏う【気】でそう応じる。今まで私が警戒の眼を向け続け、“王”は妙な動きをしてはいないはずだがしかし、ならば一層気になるその静観。

 

 つい口に出て、そして直後、気が付いた。

 

「であろうな、黒歌。身に余る力を持った貴様にとって、こ奴はもはや路傍の石にも等しい」

 

「ッ!! プフ……!!」

 

 ユピーと共にピトーの能力に操られて現れた、あの死体。ユピーのほうの能力は解けたが、奴のものはまだ健在だ。

 

 振り返る。オーフィスの、その背後。皆の死角から伸びた気配のない【絶】の手が、彼女のその身を捕まえようとしている、まさにその瞬間。オーフィス自身も、一誠もヴァ―リも、私たちとほぼ同時にその存在を見つけるがしかし、助けるには間に合わない。

 

 間に合わないなら、人質に取られて邪魔になるなら、いっそ――と、その考えが頭をよぎって【気】を集わせた、その時だった。

 

 突然ビタリと、まるで時間が止まったかのようにプフの動きが固まった。

 

 そして、ドヤ顔を思わせる聞き飽きた声が言う。

 

「急なパワーアップも考え物だな、黒歌」

 

 降ってきたそいつが、停止したプフを貫き、そこに降り立つ。聖槍を切り払い、同時に再び動き出したプフが身体の正中線から真っ二つに分かれ、オーフィスを避けて地面に転がる。

 

 それを成した奴、曹操は、やはり想像通りのムカつくにやけ顔で嘯いた。

 

「鱗に角に……その【オーラ】、オーフィスか。制御するために白音と融合したのか? “力”に弄ばれるとは情けない。俺を見習え」

 

 奴の眼窩に収まる真紅の瞳が、魔法力の光を湛えつつそう言った。

 

 奴はそんなものを持っていなかったはずだ。瞳の色は青であったはずだし、光ったりもした覚えがない。というかそもそも、両目ともピトーに潰されてしまったのではなかったか。

 

 その目はいったい誰のものであるのだろうか。答えは私の中の白音と、そしてリアスが驚愕と共に吐き出した。

 

『そ、それは、ギャー君の……!!』

 

「ギャスパーの【停止世界の邪眼(フォービトゥン・バロール・ビュー)】じゃない!!」

 

 自身の力を恐れる、あの引きこもり女装吸血鬼。その瞳なのだという。

 

 まさか無理矢理に奪い取ったんじゃ、と二人の眼差しが疑いを向けるが、曹操は嘲笑うようにそれを一蹴する。

 

「彼から譲り受けたのさ。戦えない自分でも役に立てるなら、とね。そしてもう一つ、訂正すべきことがある」

 

 そして視線を、私たちから“王”へと向けた。プフを倒されたことへの苛立ちか、より濃くなった邪気が、視線と入れ替わりに曹操へ。

 

 だがその応酬は直後崩れる。ハッとして視線を下げる“王”の見る先、奴の周囲に、()が滲み出た。

 

「ギャスパーに宿っていた神器(セイクリッド・ギア)は【停止世界の邪眼(フォービトゥン・バロール・ビュー)】であって【停止世界の邪眼(フォービトゥン・バロール・ビュー)】ではない。……自分の身体に移してようやくわかったよ。これは魔神バロールの意識の断片と融合し、生まれた新たな神滅具(ロンギヌス)――」

 

 己に纏わりつき、覆い尽くそうとする()を“王”は叩き落とそうとした。が、腕が振るわれる、その週舜前に、

 

「名付けるなら、【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】。その能力は時だけでなく、空間()をも操作する……!!」

 

 闇は“王”の全身を呑み込んだ。

 

 呑み込まれ、そして“王”の気配も途切れて消えた。あの闇に完全に遮断されたのだろう。見かけは黒い霧のようだが、しかし明らかに異質な、底知れない気配を放つ暗黒は、“王”を封じるほどのものだったらしい。数秒、半ばあっけに取られて見つめるも、“王”がそこから出てくる気配はない。

 

(……これで――)

 

 終わったのだろうか。封じられた“王”を前にして、私は唐突故に警戒を解く気になれない。

 

 そうして闇の塊と化した“王”を見つめていたのだが、ふとその時、耳朶を叩く静かな怒号が、私の呆然を解き振り向かせた。

 

「曹操……ッ!!」

 

「おや……どうかしたかい? 赤龍帝」

 

 一誠が、兜を脱いでその奥の怒りの面持ちを露にしていた。向けられる曹操は、へらへらと笑いながらもほんの僅かに、恐らく長い付き合いのある私にしかわからないくらい小さく、その顔を嫌そうにしかめた。

 

 けれどもちろんそんな様子など見えない一誠は、怒り、あるいは憎悪までが含まれる眼で曹操を睨み、オーフィスを庇うようにして、唸るように奴に激情を吠えた。

 

「お前……よく平気な顔していられるな……!!」

 

「……平気な顔、とは? ……そこまで言われるほどのことを、俺は君にした覚えはないんだけどね」

 

 “王”へ向けた構えを緩め、一誠に応じる曹操。私と、ヴァーリやリアス、九重にも一誠のその怒りはわかっていないだろう。リアスの憧れであった故の嫉妬ならまだわかるが、憎むレベルとなっては困惑ばかりが生まれて私たちの口を閉じさせる。

 

 だがそれを絶句に変える一言が、次の瞬間、一誠から放たれた。

 

「俺じゃねぇ、オーフィスにだ!! すっとぼけても、俺はもう知ってるんだよ!! お前が、お前たちがオーフィスを殺したってことは!!」

 

「……へぇ」

 

 と、何でもなさそうに応じながらも残った僅かなにやけ顔を消す曹操の様子は、一誠のその糾弾が正当なものであることを証明するに十分。

 そして曹操自身も、ため息を吐きつつあっさりと首を縦に振ってみせた。

 

「はぁ。まあ、誤魔化してもしょうがないか。……ああ、そうだ。オーフィスを殺したのは俺たちだ。“力”を抜き取り、死という永遠の静寂、永遠の眠りを提供した。なぜならそれこそが、彼女の望みであったからだ」

 

 「だからやっぱり俺が怒鳴られる筋合いはないだろう?」とわざとらしく大真面目な顔で言う曹操。オーフィスの現状は、彼女自身が望んだことなのだという主張は、しかし一誠の怒りを煽るだけだった。

 

「ふざけんじゃねぇ!! 静寂っていったって、なんでそれが殺すことになっちまうんだよ!! それにオーフィスは、仲間も何も知らなかったからそんなことを言ったんだ!! 独りぼっちだったから……! 他にできることなんて、お前たちにもいくらでも――」

 

「なら訊くが」

 

 そして燃え盛る一誠を、今度は曹操が冷たく遮る。突然冷や水を浴びせかけられたように、一誠はその炎の浸食を止めた。

 

 止まったその眼を捉えた曹操の台詞が、まっすぐに貫通した。

 

「オーフィスが協力し、蛇を与えていた禍の団(カオス・ブリゲード)によっていったいどれだけの命が奪われたか、君は知っているのか?」

 

「っ……!!」

 

 赤龍帝の顔から怒気が薄れた。代わりに顔を出す、曹操の狙い通りの負い目。

 

 曹操は構わず訴えかける。

 

「俺を糾弾するというのなら、知らないとは言わせないよ。オーフィスは……彼女は、禍の団(カオス・ブリゲード)に協力していた。そうして“力”を得た彼らが何をしたのかも、君はよく知っているはずだ。……悪魔や人間、それ以外にも途方もない数の命が彼らの手で奪われた。犠牲者たちの前で、君はさっきと同じ言葉が吐けるのか?」

 

「そ、それは……」

 

 あっという間に消火され、嫌な臭いを発する正義心という薪をちらりと、後ろめたそうにオーフィスを、一誠は見やる。オーフィスはそんな視線にびくりと身を竦ませて、彼の背に触れていたその手を離した。

 

 しかし見捨てられた子供のような表情は、すぐに再び、臭いを振り払おうと激しく首を振った一誠が背に庇った。曹操から、その背後の“世界”から、守るように。

 

 曹操はそこで糾弾の演技をやめ、代わりに同情の仮面を被って言った。

 

「だから、君はそうやってオーフィスを守ってやるといい」

 

「な……どういう意味だよ。お前、オーフィスを殺したいんじゃないのかよ!?」

 

「人を快楽殺人者みたいに言うなよ。そうしなければならなかった、というだけさ。そしてその原因である強大すぎる “力”はもう彼女にはない。ならもう、”そうしなければならない”理由はないだろう?」

 

 それらは今、私と“王”の中にあるのだから。そして片方、“王”の身も捕らえた今となっては、曹操が魂のオーフィスを意識する理由はない。

 

 故に一誠が抱く警戒は怒りと同様に不要だと、曹操は微笑み、思い通りに一誠の心から消し去ってしまう。敵意を忘れ、オーフィス共々詐欺師の常套句にひっかけられた彼らは、そうとも知らずに安堵と、思ってたよりもいいやつだと、曹操への信頼を内心に帯びた。

 

 その時、空間が軋むような音がした。

 

「ッ!! な、なに!?」

 

 同時に再び吹き荒れる、邪悪な【気】の嵐。恐怖心を叩き起こされたリアスが怯えた声を上げるが、この場のほとんどにとってその気配には疑問の持ちようもない。

 

 九重が、畏れるかのように呟いた。

 

「“王”……!」

 

 “王”だった。その身を包む闇がひび割れ、刻一刻と広がる隙間から邪気が溢れ出している。

 【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】の封印が、破られようとしているのだ。

 

「……甘く見ていたつもりじゃなかったが、なお足りなかったな。神滅具(ロンギヌス)をこんな短時間で攻略してくるか」

 

「赤龍帝ちんになんて構ってないでさっさと操作しちゃえばよかったのに……! このバカ!!」

 

 曹操の登場と新たな力にあっけに取られている場合じゃなかったと、邪気に吹かれてようやく頭がクリアになる。

 

 同時に【気】と、槍を構え、曹操はため息交じりの声だけを私に向ける。

 

「得たばかりの力で、勝手がな。もう少しいけると思ったんだよ。……しかしこうまで早く破られるのなら、そもそも操作条件を満たすには間に合わないだろう。消耗させないと……黒歌、白音、頼むぞ……!」

 

『はい……!』

 

「わかってるわよ……!」

 

 なにせ“王”とまともに戦えるのは、同じ“力”を宿す私たちだけなのだから、矢面に立つほかない。曹操にできるのは援護と、最後の“王”へのとどめだけだ。一誠とヴァ―リも、同じく私が守らねばならないのだ。

 

 覚悟を固めた、その直後だった。オーフィスが再び、それを叫んだ。

 

「黒歌……! あいつが襲ってきたら、我たち殺されてしまう! だからその“力”を――」

 

「っ――こんな時に、もうッ! 返せなんて、何度言われても無理だから! それに、曹操だって言ってたでしょ!? あんたが力を取り戻したら、今度こそ見逃してあげることもできなく――」

 

「我のためじゃない! 我は、イッセーたちに死んでほしくない!」

 

 オーフィスの懇願を遮り吐いた苦言の言葉に、オーフィスはさらに畳み掛けるように悲愴な顔でそう叫んだ。

 

 意思の強さは迫力となり、私の反論をも押し留める。そして彼女は続けて一誠と、そしてヴァーリの手を両手に掴み、震える声色で続ける。

 

「我は……死を、知った。我がみんなに振りまいていたものが、すごく冷たくて、苦しいことを知った……。イッセーたちに、こんな気持ちになってほしくない……!」

 

 だから、と彼女の眼はまた、私たちへと懇願する。

 

「我はこのままでいい。けど少しだけ……イッセーとヴァ―リの、二天龍の可能性(・・・)をこじ開けるために、“力”が欲しい……! 黒歌、白音、曹操も……お願い……!」

 

 そして頭まで下げた。その言葉の通り、何も考えず人々に劇物を撒くような超然とした龍神としてのオーフィスはそこにはなく、あるのはただ、孤独に怯える小さな少女。

 

 私の心の中でかつての姿が重なり、拒絶が揺れた。そして曹操の一言。

 

「……猫の手も借りたいんだ。戦力が増えるなら、賭けたっていいだろう」

 

 決心した。小さな球体に変えた“力”をオーフィスに飛ばす。

 

 それとほぼ同時に、とうとう“王”の封が砕け散った。




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二十三話

 私と“王”は、同時にお互いめがけて飛びだした。蹴った地面を跡形もなく吹き飛ばし、瞬きにも足りない間の後、互いの間の距離が消える。

 踏み込み、砕ける地面を蹴る勢いに【気】の全てを乗せ、そして私と“王”の拳がぶつかった。

 

 拳から全身を突き抜ける衝撃。音を置き去りにした【念】の衝突は、一瞬遅れて爆発のような音と破壊を周囲にもたらした。

 

「ッ――!!」

 

 それは、互角にせめぎ合うはずだった。

 

 私と“王”が宿すオーフィスの“力”はそれぞれ半分ずつなのだから、その差はほとんどないはずだった。肉体の生物的優劣もそう、“力”のスケールの前では誤差にしかならない。

 

 しかし、全ての【気】を集中させた私の【硬】の拳は、“王”のそれに押されることとなった。

 

『姉さまッ!!』

 

「ク……んのッ!!」

 

 技術の差であれば、悔しいとは思えど驚くことはなかっただろう。だが明らかに【気】の強さで負けている。拳に纏ったその量、威力で押し負けてしまっている。

 

 しかし、どういうことだと頭を回すのは後回しだ。白音の声に従い、私はやむなく“王”の攻撃を受け流すように身体と【気】を傾ける。かち合う威力が真から外れ、拳の側面が削られる感覚と共に、私は大きくその場から飛び退いた。

 

 余波で再び地面が弾け飛ぶ。“王”の拳の【気】が赤熱し、抉れた土が焼ける光景が、威力の圧で遮るものの消えた視界に映っていた。

 

 炎を纏ったわけでも地面を殴りつけたわけでもない、空振りなのにこれなのだ。やはりその【気】は私をかなり上回っている。

 その事実を認め、そして跳び退って宙にいる私は、次に再び“力”を引き出し練り上げた。

 

「【念】が駄目なら、こっちはどう?!」

 

 上空に掲げた手の先に、巨大な黒炎。魔力と妖力を合わせた火車が、“王”の鋭い視線と交差した。

 

 “王”は瞬時に、解いた拳に魔法陣を綴り、応じる。

 放たれた魔力は、火車を打ち破るに十分なほどの威力を内包していた。

 

「ッッ――!!!」

 

 放った火車を貫き私にまで襲い来る魔力の槍を、私は防ぐではなく躱した。直感の通り、頬を掠めて彼方に消えた“王”の魔力は遠くの空で炸裂して火球に転じ、太陽の如き白光と熱線をばらまいた。

 

 拳と同じ、余波だけで戦慄が駆け抜ける威力。いや、それ以上だ。【気】以上の差が、私の眼前に叩きつけられた。

 

 悠然とそこに佇む“王”に、後回しだと遠ざけた震えが、私の喉から零れ落ちた。

 

「そん、な……どうして、ここまで――ッ!!」

 

「ピトーではない、余自身の能力だ」

 

 身が跳ねる。爆発の轟音の中であるにもかかわらず私の呟きを捉えたらしい“王”が、諭すかのような調子でそう言った。そして私を見上げる目線の前に、自身の手を、私を上回る“力”をかざしてみせる。

 

 感じる気配の不気味さが、一際強くなった。

 

「余は、喰らった者の【気】や魔力、すなわち“力”を我が物とできる。……余の道を遮った尽くは糧となり、余の“力”の一部となった。黒歌、余たちの間に存在する差は、それなのだ」

 

 今までに“王”に食われた悪魔たちの“力”。私が気を失っている間、この浮遊都市を破壊し尽くすまでに生じた犠牲者はどれほどだろう。

 その分の、この差なのだ。あまりの多さを想像して、私の中で白音が慄いた。そして私も恐怖を覚える。オーフィスのそれだけではなかった“王”の“力”。私との差が明瞭になり、再びあの、ピトーを救う術のない無力感が身を襲う。

 

 そうして私の戦意が一瞬怯んだその時に、“王”が跳躍した。

 

 ほんの一瞬で私の眼前。その手に私を倒せるだけの“力”が集うのを眼にして、私は正気を取り戻す。が、それはあまりに遅い。

 

 故に私が動く前に、曹操の援護が私を助けた。

 

「おいしっかりしろ!! そんな程度で圧倒されてるんじゃない!!」

 

「ッ! 曹操……!」

 

 そして眼前、“王”との間を横切る、闇から生まれたような異形たち。【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】の能力だろうそれらが攻撃を妨害し、私はその隙に距離を取る。

 そして視線を下げると、曹操が、舌打ち混じりで嫌そうに続きの激励を吐き捨てた。

 

「“力”の総量で勝負がつくなら、俺など一度たりともお前に勝てなかっただろうよ!! ……手札はこっちが多いんだ、頭を回して考えろッ!!」

 

 そして同時に眼が輝く。神器(セイクリッド・ギア)の力は闇の異形たちを一蹴した直後の“王”を捉え、その動きを止めた。

 が、纏わりついた闇はすぐさまひび割れる。時間停止と無形の闇という強力な力に、“王”は既に適応し始めているようだ。そのあまりの速さに戦慄しながら、喝を入れられた私は瞬時に戦意を取り戻し、思いつく。

 

「白音ッ!! 私に【空想崇拝(ソウルトランス)】!!」

 

『ッ! はい!!』

 

 思考は繋がり、発動した【念】が私の身体を包み込む。そして、手を合掌の形に動かした。

 

「【猫依転成(ドッペルオーバー)】――【百式観音(ひゃくしきかんのん)】!!」

 

 ネテロとピトーが戦った、あの時の光景通りにすべてが動き、私の背後に顕現する観音像。その瞬間、恐ろしいほどの反応速度で“王”が振り向き、後光が指すその輝きを眼に映す。が、それを上回る速度の動きを私はなぞり、手刀を振り下ろした。

 

「【壱乃掌(いちのて)】!!」

 

 観音像の手刀が目にもとまらぬ速さで閃き、大地ごと“王”を叩き潰した。

 

 それは記憶の通り、ネテロの【百式観音(ひゃくしきかんのん)】と同じ鋭さ。込められた【念】の威力でいえばそれを遥かに凌ぐものだった。たとえ“王”であっても避けられず、ダメージは避けられないほどの一撃。

 

 使ったのがネテロ自身であったなら、あるいはこれで決まっていたかもしれない。しかし私たちが【猫依転成(ドッペルオーバー)】で使う【百式観音(ひゃくしきかんのん)】はその性質上、私の記憶にある型の攻撃しか繰り出せない。つまりその一撃はピトーの記憶にもあるもので、それを継いでいる“王”にとっては十分に対処が可能なものだった。

 

「――【黒子舞想(テレプシコーラ)】」

 

 巻き上げられた土煙が【気】の圧で一気に晴れる。さらに深く砕かれた大地のその底、岩盤を叩き割る傀儡の手刀のその横で、冷たい赤褐色の眼が瞬いた。

 

 “王”は【百式観音(ひゃくしきかんのん)】の掌打の威力を受け流し、ほぼ無傷で立っていた。そして再度発動するピトーの能力。身体を操るバレリーナを頭上に顕現させる。

 

 奴の再びの跳躍と同時に、私もまた記憶に身を任せた。

 合掌、そして掌打。それらの所作は“王”の速さをはるかに上回り、跳んだ奴が彼我の距離の中ほどを詰めた時、観音像の一撃に変わった。

 

 だが直後、像の動き出しと同時に人形も“王”を操る糸を動かし、その動作を操った。生物の限界をも超えたあまりの速さに私はそれを見切れなかったが、しかし確かに次の瞬間、【百式観音(ひゃくしきかんのん)】の張り手は“王”の場所をすり抜けた。

 視界に映る“王”は、空振りした掌の少し上の位置。回避してみせて、そして再び私に飛び掛からんと羽を生やし、両手に【念】を集わせた。

 

 しかしまたしても、その身が止まる。

 

「全く、参ったな。速すぎて碌に見れん……!! これではどっちが援護されているかわかったものじゃないな……っ!!」

 

 自嘲気味に叫ぶ曹操。ほとんど別物に転じたのだとしても、【停止世界の邪眼(フォービトゥン・バロール・ビュー)】を元にした【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】が効力を発揮するのは視線の先のみ。故に、その能力もまた対象を視界に捉えなければ発動しない。“王”が【百式観音(ひゃくしきかんのん)】の攻撃を避けたその瞬間でなければ、人の身である曹操には条件を達することが不可能だった。

 

 だがやはり、やっとの思いで止めた“王”の時間は、すぐさま再び動き始める。

 闇が砕け、曹操を見やった“王”が呟くように言った。

 

「……存外、面倒だな、その力」

 

「浮気する暇なんてあげないから……!! 【参乃掌(さんのて)】ッ!!」

 

 三度目の合掌から、観音像の両手が闇から逃れたばかりの“王”を包み込み、捕えた。だが無論、この拘束も長くはもたない。閉じた掌の境が歪み、こじ開けられようとしている。

 

 かつてピトーもネテロのこれに対し、力技でそれを逃れたのだ。今現在の状況でそれはより簡単であるはずで、故に直後、私は自らの意思で観音像の掌を離した。

 

 拘束が解け飛び出す“王”。その瞬間の思考、【黒子舞想(テレプシコーラ)】は、瞬時に【百式観音(ひゃくしきかんのん)】にその警戒を向けるが、私の両手はその型を取らない。

 【百式観音(ひゃくしきかんのん)】による追撃を予想していたのだろう“王”に対して、結果的にそれは不意を突くこととなり、そして凡そ成功した。

 

「ッ――!!」

 

 【念】と仙術を纏った渾身の掌底は、その時、解除し消えゆく【百式観音(ひゃくしきかんのん)】へ向けられた凝視をかいくぐり、“王”を捉える。だが【百式観音(ひゃくしきかんのん)】を見据えていた“王”の極限の集中力は私の構えた掌底にも気付いて認め、ほぼ同時に動く【黒子舞想(テレプシコーラ)】が受け止めた。

 

 手足のような末端ではなくど真ん中、肉体に宿る“力”そのものを貫くはずだった攻撃に歯を噛みながら、私は掌底を防御した“王”の左手に、そのまま【黒肢猫玉(リバースベクター)】を叩き込んだ。

 

「はああぁぁぁぁッッ!!」

 

 能力が肉の中に浸透。そして威力も、“王”を地に叩き落とした。

 

 その肉体が三度、大地を抉る。砲弾でも撃ち込んだような爆発染みた衝撃が底の岩盤を砕き、地のひび割れが穴の底から外にまで、蜘蛛の巣状に及んだ。

 

 受けられたことを除けば渾身の一撃だった。がしかし、晴れた視界の“王”はやはり健在。掲げた防御の手の後ろから、その眼がじっと私を見る。

 

 やがてその眼は自身の左手に移った。私の能力、【黒肢猫玉(リバースベクター)】を押し込まれたその部分は私の仙術によって【気】を削り取られている。しばらくはそこに【気】を纏うことはできないだろう。

 しかしそれだけだ。それ以外の部位に問題はない上、左手だってそう遠くないうちに回復してしまう。本来は“王”の“生命の源泉”そのものを機能不全に陥れる目論見であったのに、これではもはや無意味も同然。

 

「はっ……はぁっ……!」

 

『ね、姉さま……平気、ですか……?』

 

 加えて白音のコピー能力の消耗も思いのほか大きい。渾身の掌底に使った【気】も併せて疲労感に息が切れる。

 

 そのことに、やはり曹操は気付かないはずがなく、舌打ち混じりの息が私にまで届いた。

 

「……厄介極まりないな。速い上に硬い。黒歌の仙術ですらコレとなったら、どうやって拘束すればいいか……」

 

「……貴様もそれか、曹操。貴様も余からピトーを救うなどと、無為な望みを抱いているらしい」

 

 左手をだらりと下げ、“王”が曹操へ、その冷たい視線と共に言葉を投げた。クレーターの端から覗き込む曹操は反応して僅かに足を下げ、聖槍をより固く握りしめる。

 額に滲む冷や汗を振り払い、叫ぶようにその意思を返した。

 

「まだ無為と決まったわけじゃない……! 手札はまだあるさ!」

 

 直後、周囲に声が響く。

 

「イッセー、ヴァーリ、我と一緒に」

 

 オーフィスが短く言って、そしてその声がブレた。

 

「「我に宿りし紅蓮の赤龍よ、覇から醒めよ」」

「「我に宿りし無垢なる白龍よ、覇の理をも降せ」」

 

 一誠とヴァ―リの声が、二つのオーフィスの声と共鳴して呪文を紡ぎ出す。見やれば彼女たちの身に、うっすら満ちる“力”の気配。

 

「……ほう」

 

 “王”の意識が、警戒かそれとも好奇か、ともかく三人へと逸れた。

 

 その瞬間、

 

禁手化(バランス・ブレイク)……!!!」

 

 曹操の身から、強大な“力”と闇が噴き出した。それはたちまち“王”を呑み込み周囲に満ち、ある種の“領域”のようなものを構成する。

 

 振り向く“王”。その姿を、“領域”から無数の邪眼が見つめていた。

 

「【禁夜と真闇たりし(フォービトゥン・インヴェイド・)翳の朔獣(バロール・ザ・ビースト)】……ッ!!!」

 

「――!」

 

 途端、“王”の時間が止まった。禁手化(バランス・ブレイク)、つまりさっきまでよりも強い闇の力が“王”を絡め取ったのだ。

 

「黒歌……ッ!! お前も、時間を稼げッ!!」

 

 そして曹操はその顔を苦しげに歪めながら、眉間に寄る皺のまま閉じそうになる眼を必死に開き叫んだ。

 その様子に、なぜ奴が今まで禁手化(バランス・ブレイク)を使わなかったのか、その理由に気付く。恐らく禁手化(バランス・ブレイク)、というより【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】という神滅具(ロンギヌス)級の力を宿す神器(セイクリッド・ギア)に適応しきれていないためなのだ。

 

 連発できず、長くももたない。悟り、消耗した【気】の代わりに私は魔力を使った。

 背後に展開される魔法陣。同時にまた“王”が闇を破り、爆ぜる【気】の圧が邪眼の尽くを吹き飛ばして時間を取り戻す。私の魔法陣を見つけて瞬時に対抗し、そして次の瞬間、互いに放った魔力の攻撃がぶつかり合った。

 

 その威力の優位は、やはり変わらず“王”にある。けれども必死に“力”を捻り出し相殺し続けるが、やがて傾き、弾かれ飛び散る魔力の残滓が私の身体を焼き始めた。

 

 その頃に、視界の端で魔力の衝突でない光、一誠とヴァ―リの神器(セイクリッド・ギア)が放つ“力”の光が、より力強く瞬いた。

 

「「――汝、燦爛のごとく我らが燚にて紊れ舞え!!」」

「「――汝、玲瓏のごとく我らが燿にて跪拝せよ!!」」

 

 オーフィスと共に紡いだ呪文の終わり。彼女にやった“力”の欠片が、二人からより強い力を引き出し、内で巡って渦を成す。“王”の眼がそっちを向き、捉えた時、とうとう二人が覚醒を迎えた。

 

『Dragon ∞ Drive!!』

『Dragon Lucifer Drive!!』

 

 禁手化(バランス・ブレイク)の時のように、同時に二人の身を鎧が包み込んだ。が、フォルムは知るものと違ってどこか有機的。加えて一誠には二対のドラゴンの翼が、ヴァーリには十二もの悪魔の翼が生え出た。

 

 そして、彼らのその秘めた“力”。比べ物にならないほど増したそれは、あるいは私や“王”に、オーフィスの半分に届くのではないかと思えるほどの強さで、私に圧迫感のようなものすらを感じさせた。

 

 戦うに十分な強者の気配を身に着けた二人は、その成長を促したオーフィスの手が離れると、同時に地を蹴り飛び出した。背の翼から生やしたブースターをふかし、一誠が先行して“王”の佇むクレーターの内に飛び込む。

 

「いくぜ……“王”ッ!! リベンジマッチだ!!」

 

 今度こそ、かつて暴走した挙句に殺されたようにはいかないという決意を叫び、同時に彼から【倍化】の音声が重なった。握り、引き絞られる拳に宿る、何十倍にも膨れ上がった強大なパワー。元が“王”にも届き得るドラゴンの身体を得た一誠は、出力だけは“王”やこの場の全員を上回るほどのものだった。

 

 当たれば、防御されようが“王”を戦闘不能に陥れることも叶っただろう。

 

「【黒子舞想(テレプシコーラ)】」

 

「きゃぅッ――!!」

 

「なッ――ごはぁッ!!?」

 

 直線的な拳の一閃は、“王”が僅かに身を捻るだけで容易く躱された。さらに魔法陣の魔力を一段階上げて私を弾き飛ばし、【黒子舞想(テレプシコーラ)】によって握られた拳に【気】が集中する。そして閃く返しの拳が前のめりに、突撃した一誠のお腹にカウンターとなって突き刺さった。

 

 血反吐を吐きながら吹き飛ばされ、彼はクレーターの斜面の壁に叩きつけられた。打たれたお腹を中心に鎧に亀裂が走るが、“王”の攻撃を無防備に食らってそれだけで済むほどの防御力は中の一誠をも守り、苦しそうにしながらも彼はすぐそこを出る。

 

「ぐぅ……く、くそッ!! 【倍化】が足りなかったか……!?」

 

「間抜けッ!! お前に足りないのはパワーではなく頭だ!! あのピトーの能力、お前も散々見ただろう!?」

 

 宙を飛びながら、ヴァーリが呆れと怒りを半々にして怒鳴った。一誠の進化に奮起させられたと言いながらこれでは情けなくもなるだろう。

 そして何より、あの【黒子舞想(テレプシコーラ)】はヴァーリに自身の醜態を思い起こさせたはずだ。故に増幅した憤慨が、彼の魔力を引き上げた。

 

「ルシファーの魔力――食らえッ!!」

 

 ヴァーリの後方に出現する無数の魔法陣。一面に広がったそれらから、おびただしい量の魔力弾が“王”へと放たれた。

 

 まるで雨のように――いや、量も威力もそんな生易しいものではない。光弾たちは重なってもはや極太の一本の光線のようであったし、その一発一発が、そこらの雑魚であれば骨も残らず消滅させてしまうほどの威力を秘めていた。

 

 そんな圧倒的な殺傷能力。迫る光弾は、“王”の眼には自身を押し潰さんとする光の壁のように見えただろう。しかしその光景を瞳に映しながら、奴は一誠を殴り飛ばした体勢を解き、逃げるそぶりも見せず、ただ手のひらを光の壁へと付き出した。

 

 発動する結界。直後光弾が降り注ぐが、そのこと如くが“王”の手の先に立ちふさがる結界に阻まれ弾け、光芒に変わる。ただの一発も、その守りを揺るがすことは叶わない。

 

 私が体験した通り、“王”は【気】だけでなく魔力に於いても相当にその出力が上がっているのだ。力比べを擦ればヴァーリが劣るのは自明。

 

「おい、お前も駄目じゃねぇか!! 仕方ねぇ、こうなったら俺がもう一丁――」

 

「黙って見てろ――ッ!!」

 

 しかしヴァーリは、再びドラゴンの“力”を集中させ始める一誠に否を返し、弾幕を防ぐ“王”を鋭い眼差しでじっと睨む。そして奴にかざした手の平を、途端、神器(セイクリッド・ギア)に込めた魔力と共にグッと握った。

 

『Half Dimension!!』

 

 “王”めがけて次々放たれる光弾。それらが飛翔する、空間のみに【半減】が連続で行使された。

 

 その一瞬、魔力弾の威力や規模はそのままに、“王”への距離だけが限りなくゼロになる。ヴァーリが魔法陣から魔力弾を撃てば、即“王”に着弾する状態。それ以前に放たれ、“王”めがけて飛翔していた弾幕たちも含めて全てが。

 

 結果、ヴァーリの能力が発動したその瞬間、極太光線の如く降り注ぐ光弾たちはすべてが一気に“王”の結界で炸裂し、その凝縮された破壊力を叩きつけた。

 

 ある意味一誠の【倍化】のように、光弾として溜めた魔力を爆発させたその威力は、その一瞬だけだが確かに“王”の魔力を上回った。結界が砕け、“王”の姿が光弾と、それが引き起こした爆発の中に消える。

 その炸裂する魔力弾を認めるや否や、ヴァーリは両手に【半減】の力を纏い、巻き上がる土埃と魔力の残滓のもやに突っ込んだ。

 

「無力化する!! これでいいな、黒歌――ッ!!」

 

 だがヴァーリがもやの先に見た()は、ただの幻だ。私だけが、そのことに気付いていた。

 

 次の瞬間、もやの中から、【隠】によって隠された“王”の【気】が現れた。

 

「ガ――ッ!!?」

 

 気付けないヴァーリの勢いは止まらず、一誠と同様にカウンターの痛撃をもらってしまう。【黒子舞想(テレプシコーラ)】に操られる“王”の拳が、もやと相俟って到底捉えられない速度で突き出し、ヴァーリの顎を打ち上げて兜を粉微塵に粉砕する。

 

 “王”の一撃をも防ぐ装甲が剥げ、晒された柔らかな肉。その首に、次いで“王”の眼が向き、ヴァーリを打ち上げた拳が開いて爪が出る。【気】を纏ってさらに増す鋭利さは、ヴァーリの首など簡単に飛ばしてしまうだろう。

 

「ッッ!! ヴァーリィッ!!」

 

 理解し、戦慄のあまり半ば裏返る一誠の叫び声。しかし恐れる光景を引き起こさんと“王”はそのまま爪を振り下ろし――そしてその半ばで生じた闇に止められた。

 

「あぶ……っないな!! 全く、あまり酷使させるなよ……ッ!!」

 

「そ、曹操!!」

 

「っ――私にあんな言って、泣き言なんて言ってんじゃないわよッ!!」

 

 焦りのあまり飛び出しかけた一誠の肩を掴んで留め、曹操が苦しげに両目の力を使っていた。その口から出た情けない嘆きは条件反射的に私に反発の台詞を叫ばせるが、しかし内心は一誠の感嘆の声色と同様、

 “王”の魔力に弾き飛ばされてから遅れて体勢を取り戻した私は、“王”が闇の拘束を破るまでの僅かな間で、ギリギリヴァーリと奴との間に割り込むことに成功した。

 

 腕で爪の斬撃を受け止める。腕を覆う鱗の一部が割れて剥げ、飛び散る私の血。傷口と腕にかけられる重さで足元の地面が砕け、足首までが沈んだ。

 その重さに耐えながら、脳を揺らされ前後不覚の状態にあるヴァーリの身体を押し退ける。尻餅をつく彼を横目に見届けた。

 

 そして正面に返った視界にふと見つけた。“王”の視線、それがヴァーリでも私でもなく、曹操へと向いている。

 

 二重の理由で湧く憤りに、私の身体に【気】が満ちた。

 

「あんたの相手は、私よ……ッ!! 曹操によそ見なんて、してんじゃないッ!!」

 

 奴にはピトーから“王”を引きはがすという大事な役目があるのだ。それまではやられてしまっては困る。

 それに、“王”にとっての最大の障害、ピトーを“人”に取り戻すのは、私たちだ。

 

「『【猫依転成(ドッペルオーバー)】――【黒子舞想(テレプシコーラ)】!!』」

 

「――!!」

 

 私と白音の意思が重なり瞬時に発動した念人形が、“王”の腕を跳ねのけ正拳を叩き込んだ。

 

 硬い手応え。懐にもぐって打ち据えたが、【気】で防御されたらしい。しかしそれだけで私の一撃が防ぎきれるわけもなく、“王”の脚がよろめく。崩れた体勢に、私はさらに追撃を見舞った。

 だが不意を突いたものではないその拳では、“王”の反射神経と【黒子舞想(テレプシコーラ)】を破れない。崩れた体勢であるのに、能力が最小限の動きで私の攻撃を回避させる。

 

 そこからさらに反撃までが繋がってしまうのが、ピトーの手により磨き上げられた【黒子舞想(テレプシコーラ)】の強さ。限界を超える動きを可能にするそれには、一誠やヴァーリがそうだったように正面戦闘が無謀に近い。

 しかし発動された私と白音の【黒子舞想(テレプシコーラ)】は、【百式観音(ひゃくしきかんのん)】とは違い五年も共にし蓄えられた記憶を元にし限りなくオリジナルに近い精度となっていた。

 

 故に“王”のその反撃も、私を捉えることはなかった。記憶の中の無数の型から一つを引き出し、その通りに動く身体と【念】が飛んでくる“王”の拳に触れて逸らす。

 そしてどちらかが攻撃すればもう一方はそれを躱して攻撃、と繰り返され、堂々巡りに陥る戦闘の中、やけに大きな一誠の声が響いた。

 

「よし……!! 黒歌、そこから離れろッ!! 一発デカいのぶちかますッ!!」

 

「――ちゃんと加減しなさいよ!? 曹操ッ!!」

 

 見ずともわかる、膨れ上がっていく一誠の“力”。やはり威力だけなら他の追随を許さない赤龍帝とオーフィスのそれを、私は一瞬の逡巡の後に許す。そして直後、曹操の名を呼ぶと同時に“王”の攻撃を回避しながら後ろに跳んだ。

 

 四度、“王”が闇に捕らわれる。停止し、私も離れたことで“王”という的まで一直線に開く道。

 

 一誠の四枚の翼から飛び出した四つの砲身に、膨れ上がった彼の“力”が集約した。

 

「いくぞォッ!! インフィニティ――!?」

 

 が、時を止められたはずの“王”の眼が、その時赤く輝き、起動させた。

 

 クレーターの底、私と曹操、一誠とヴァ―リが踏む焼け焦げた地に、突如魔法陣が出現した。内包する魔力は“王”のもの。いつの間に、という驚愕が声に出る出る間も、逃げる間もなく、発動した陣の輝きが一瞬で私たちを縛めた。

 

 まるで曹操の【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】のように、眩い光によって停止させられる。私も曹操もヴァ―リも、もちろん、一誠の背の砲も、発射の寸前で停止する。

 

 誰もが意識のみを動かして、その時、弾け飛ぶ闇を見つめた。自由を取り戻す“王”。閉じていたその眼がゆっくりと、開かれた。

 

「させ、るか――ッ!!」

 

「――!!」

 

 そしてその眼が見張られ、弾かれたように横を向く。ヴァーリの方だ。私の視界の端にも映る彼が、次の瞬間、封じられたはずのその身の“力”を解き放った。

 

『Satan Compression Divider!!』

 

 足元に広がる魔法陣の眩い光を、ヴァーリから、その“力”を高めに高めて放たれた耀きが塗りつぶした。

 

 陣の魔力、“王”の光が上書きされ、私たちの拘束が解ける。輝きに目を焼かれたか、顔を押さえて怯む“王”。そして無理矢理にこじ開けた眼の先に、一誠。

 

「――【(インフィニティ)・ブラスター】ッッ!!」

 

 お預けを強いられた砲身が、“王”の光線すら上回る極太の光線を発射した。

 

「きゃぁ――ッ!!」

 

 紅と漆黒、赤龍帝とオーフィスの“力”が混ざり合ったエネルギーの爆発。撒き散らされる破滅的なまでに強大な威力は着弾点の間近にいた私をも巻き込んだ。有り余るパワーは直撃せずともかなりのもので、私の防御を貫き明確なダメージまでもを与えてくる。全身を衝撃と轟音に貫かれ、挙句地面に叩きつけられた。

 

 爆発音にやられて響く耳鳴りを振り払い、めまいのせいか妙に頼りなく感じる重力と、痛む全身に苦労しながら身を起こす。そうして瞼を上げ、私はその時、周囲の状況を眼にした。

 

 一誠の強力極まる攻撃が生み出した“破壊”は、私の想像を超えたものだった。

 

 まず、クレーターが大幅に広がっていた。

 というより壁面が吹き飛ばされていた。爆発が周囲の大地を消し飛ばし、かつてここにあったスタジアムは、僅かに残っていた舞台を含めてもはや影も形も残っていない。それどころかその先、広がる市街の瓦礫すら吹き飛ばされ、遠ざかった地平線に向かって赤熱した建物の溶け残り(・・・・)だけが散らばっている。

 そして大地と建造物の尽くを消滅させてしまうほどのそれは、スタジアムや市街のみならずこの浮遊都市そのものにもダメージを与えてしまうほどだったようだ。めまいが解けはっきりした意識の中、尚も感じる僅かな落下感が紛いようもなくその事実を示している。

 

 そんな“破壊”の中央、直撃した一誠の攻撃に、“王”は倒されていた。

 

 仰向けに身を投げ出し、動かない。その身はいたるところが傷つき血が滲み、感じる“力”も眼に見えて減っている。戦意もろとも、その意識が断ち切られていた。

 

 半ば呆然としながら足を動かし、私はそんな“王”の元に近寄る。その顔、眼を閉じたピトーを見下ろすと、やがて私よりも早く白音が我を取り戻した。

 

『――倒し、た……?』

 

 “王”を。一誠が、あの一撃で?

 

 ――いや、違う。まだ終わっていない。奴は気を失っているだけだ。意識が戻ればまた力を取り戻す。

 

 “王”を、ピトーの中の神器(セイクリッド・ギア)を倒すには、ピトーから奴を引きはがさねばならない。それができるのは、業腹ではあるが奴だけだ。

 

「――曹操っ!」

 

「わかってる。元より俺もそうするつもりでここに来たんだ」

 

 振り返る。私と白音を見送った時にはピトーを助けるという目的に批判的な物言いだったはずだが、曹操はあっさりそう頷いた。

 万一一誠の攻撃に巻き込まれてやられていたら、と頭に一瞬よぎった不安も無問題。奴は無事で、しかも無傷だった。傍のヴァーリの鎧は随分ぼろぼろになっているのを見るに、彼が曹操を守ったのだろう。

 

 そのヴァーリが曹操と同じく倒れる“王”を見やり、どこか残念そうにため息を吐いた。

 

「ようやく届いたか……。それにしても全く……我が宿敵君はめちゃくちゃだな。まさか、ついでに俺たちも始末しようと思ったのか?」

 

 次いで一誠を見やると共に、そんな軽口で肩をすくめてみせる。しかし“王”を倒してみせた彼は“力”を絞り尽くした攻撃の反動で極度の疲労に襲われているらしく、焼けた地に手を突き、ぜいぜいと乱れた呼吸音を漏らしてゆるゆる首を振るばかり。言い返す言葉は返ってこない。

 

 その代わり、ふとその隣に降り立ったオーフィスが、そんな彼を労うように頭を撫でつつヴァーリへ応じた。

 

「イッセーはそんなこと思ってない。証拠に、ちゃんと今の攻撃も手加減してた。全力を出していたら、この都市全体が消滅してる」

 

「……ああ、そうだな。変なことを言って悪かった」

 

 ヴァーリの言った軽口に、薄い表情で大真面目に弁論するオーフィス。冗談に対して純粋を返され、ヴァーリはばつの悪そうな顔をする。

 

 それを誤魔化すように今度はまた“王”へ、その手を取り能力を発動させた曹操へ、彼はその注意を向けた。

 

「それで、曹操。“王”はどう(・・)だ? 確か赤龍帝の場合は一分弱だとか聞いたが」

 

「……恐らく二分……いや、三分かかるかもね。……本当に規格外だな」

 

 曹操の【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】が神器(セイクリッド・ギア)を操るために必要な時間。それは曰く神器(セイクリッド・ギア)の格が高いほど、つまり強いほど長くなるらしい。

 

 神器(セイクリッド・ギア)を操るという強力な念能力の、所謂制約の部分。それがあるために戦闘中に発動させることはほぼできないが、一度戦闘不能にしてしまえばそれも関係ない。

 

 そう――もう少しだ。

 

「三分か……。まあ、それだけでは起き上がるだけの力も戻ることはないだろうが……念のために警戒しておこう。……いいな?」

 

「ああ、そのほうがいい。万一があったら、こいつがどうなるかわからんからね」

 

 曹操とヴァ―リが、なぜか私の方を伺い見るようにしてそんなことを言う。だが反応する気にもならなかった。“王”を見つめたまま、それ以外は意識すらしていない。今の私の頭を占めるのは、静かに眠る彼女の姿だけだった。

 

 ――もう少し。あと少しで、取り戻せる。

 

 ピトーを

 

「“王”を、殺せる――」

 

 その時だった。

 

「ま、待つのじゃっ……!」

 

 能力を使う曹操の手を掴みながら、私の目の前に立ちふさがるようにして、突然九重が飛び込んできた。

 

 面持ちの感情は不安定で、怯えと決意の狭間で戸惑ったまま、なぜ自分がこんなことをしているのかすらわかっていなさそうな視線が私を見つめる。そして案の定、『待て』と言った後に続く言葉は出ず、故に先に、私の手が彼女へ伸びた。

 

「……何を待つっていうの? その()が邪魔しろって言ってるなら、できないように縛って転がしといてあげるけど……?」

 

「あぐ……ぅっ……!」

 

 巫女装束の胸元を吊り上げる。首が締まって苦しいのか、漏れる呻き声と恐怖が勝る彼女の眼。植え付けられたキメラの血(異形と化した左目)に、私の心が憎悪で燻る。

 

 もしこれでも彼女が憎き“王”を庇おうとする様子を見せていたなら、ドラゴンのそれと化した私の手が力加減を誤ってしまったかもしれない。しかしそれらの杞憂が現実になる前に、九重を追って、白音の身体を抱えたリアスが私を留めた。

 

「なにをしてるの!? 黒歌、白音も、やめて頂戴!!」

 

『部長……』

 

 主の声に、白音が冷静を取り戻した。覚えたばつの悪さは私にも流れ込み、九重の胸倉を掴む手が緩む。その小さな身体が重力に従って落ち、尻餅をついた彼女が取り戻した正常な呼吸に咳き込んだ。

 

 その様子をちらりと見やった曹操が、諭すように彼女に言った。

 

「とにかく落ち着け。……九重、君も、よく思い出すんだ。キメラの血じゃない、自分の想いを。植え付けられた忠誠心の下にあるはずだ、ピトーを――」

 

「言われなくてもっ……! 私は、忘れてなんかない……! 例え“フェル”が全部嘘だったとしても……私はピトーが好きじゃっ! ピトーがいなくなってしまうのは、いやじゃ……っ!」

 

 遮り、九重は荒い息のまま無理矢理叫んだ。その言葉に、途中で止まった曹操も口を閉ざす。

 

 だがしかし、彼女の台詞は『でも』と続いた。

 

「でも……みんな……みんな、変じゃ! 黒歌も白音も、曹操に赤龍帝に白龍皇だってそうじゃ! なんでみんな……そんな顔をしているのじゃ……!?」

 

「……何の話だ?」

 

 ヴァーリが純粋な、混じり気なしの疑問符を付ける。曹操やリアス、そして私もそうだ。そんな顔を、九重はさも信じられないというふうに見回して、得体の知れないものを見る眼を私に向けた。

 

「だってみんな、憎んでる……! “王”さまを、悪い(・・)()さまだと思ってる(・・・・・・・・)じゃろう!?」

 

 それの何がおかしいのか、という当然の応えは、私を含めて誰の口からも出なかった。全員が確信したからだ。九重が未だ、キメラの血に囚われていることを。

 

 彼女にとって“王”はピトーを奪った敵であるが、同時に絶対的な主君であるのだろう。つまり会話にならないということ。

 哀れな彼女に、曹操はため息を呑み込みもう一度説得を試みる。

 

「……確かに、彼もある意味ではただの被害者なのかもしれない。俺たちの敵にしかなれないよう、キメラアントの“王”として造られ、それに殉じるしかなかったのかもしれない。けれど、だからといってピトーを食い物にされていいのかい?」

 

「いいわけない! けど、そういうのじゃない……! そういうことじゃないのじゃっ! どうしてみんなわからないのじゃ!? 敵とか戦うしかないとかじゃなくて……っ、お、“王”さまを、どう……だ、だから、どうしてそういうふうにしか――ッきゃぅっ!?」

 

「もう黙ってなさい。あんた」

 

 もはや自分が何を言いたいのかもわかっていないのだろう。詰まり、見つからない言葉に先んじて口が動く九重を、私は腕を一振りして術で縛めた。魔力の輪に手足を捕らえられ、バランスを崩して“王”の前で倒れ込む。

 

 起き上がることはできない。それでも尚、芋虫の体勢で顔だけを私に向け、キメラの感情ばかりが前に出て来る彼女。はくはく口を開け閉めするだけの彼女を、私は魔力で持ち上げた。

 

「全部終わればそれ(・・)も元に戻るわよ。だから安心して、ただ待ってなさい」

 

 リアスの方へ抛った、その直後だった。

 

 ぐちゃり、と、死肉を踏む音が私の鼓膜に触れた。




王の正体。

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二十四話

 戦慄に振り向く。音がした場に死体が二つ、立っていた。

 

「――ッ!! なんで、まだ動いて――!!」

 

 プフとユピーだ。あちこちが欠損し、顔すら定かでない壊され切った肉体が、まるでゾンビのように起き上がってこっちを向いている。

 

 そして、声がした。今度は反対の方向、振り返った私の後ろから。

 

「能力を掛けなおした。それだけだ」

 

「ッッ!!? ヴァーリッ!!」

 

 “王”の声。驚愕に叫んだ曹操とほぼ同時にヴァーリは目覚めた“王”を神器(セイクリッド・ギア)の力で封じようとしたが、弾かれる。そしてその頭上、【凝】を以てして得た視界に映る、【黒子舞想(テレプシコーラ)】ではない念人形。プフとユピーの死体をも操るそれが、かつての白音の時のように今発動し、“王”を動かしていた。

 

 一誠に“力”を削り取られる前に、“王”は自身にそれを仕込んでいたのだ。ピトーを救えるということばかりに気を取られてその気配に気付けなかったことに、私は全身の血が凍り付くような慄然とした動揺と共に気が付いた。

 

 そして内から爆ぜるような勢いで引き上げられる“王”の“力”が、物理的な衝撃となって周囲の私たちを弾き飛ばす。それと同時に“王”の頭上の念人形と、それからヨタヨタ歩みを進めたプフとユピーの死体を動かしていたそれも消え、二体が再びぐしゃりと崩れ落ちる。

 

 “王”は、そんな二体にゆっくりと、手をかざした。

 誰かに向けて、呟くように。

 

「余は――死ねぬ」

 

 プフとユピーの死骸が、その時、光に溶けた。

 そして二体をかたどるその光はどんどん収縮を始める。肉体と、そこに残った“力”を諸共凝縮させているのだと気配でわかった。その理解の頃には光は随分小さくなり、“王”の手の中に収まる二つの小さな玉に変わってしまう。

 

 “王”はそれを、じっと見つめ、そして静かに呷った。

 

 途端、嵐が吹き荒れた。

 

「ッッ!!!」

 

 “王”の身から、あるいは神にも届くパワーアップを遂げた私たちをしても圧倒的と思えるほどの、あまりに強大凶悪な“力”の圧が噴き出した。

 

 “王”は食べた“力”を己のものとする能力を持っているというが、間違いなくそんなものじゃない。残っていたとしても死体同然な二体の“力”では、取り込んだ程度でこれほどのパワーアップになるはずがないのに、しかし目の前の現状、私の感覚は、あり得ないはずの気配を間違いようもなくはっきり感じてしまっている。

 

 オーフィスの半分の“力”を持つ私、そして彼女の手で新たな“力”に目覚めた一誠やヴァーリをも、この“王”は上回る。

 

『そん、な……!!』

 

「――我……よりも、グレートレッドよりも……!!」

 

 世界における“最強”の序列を一段下げてしまうほどの“力”。文字通りの“バケモノ”が、私の目の前に立っていた。

 

 次元の違う“力”に震えが走る。“王”がこれほど強いわけが、ピトーを救うことがこれほど難しいわけがないと、信じられないという思いが目の前のそれを否定しようとする。しかしそれを許さないほど、溢れ出るその“力”ははっきりしていた。

 

 はっきりと、奴から“王の“力”が放たれていた。

 

「なん……だよ、このパワーアップ……禁手(バランス・ブレイカー)なのか……!!」

 

「……あるいは俺の覇輝(トゥルース・イデア)に当たるものか、はたまた赤龍帝君たちのような特例か……。いずれにしろ、馬鹿げてる……!」

 

 違う。息を吹き返した一誠と曹操が“王”の“力”を評するが、その認識ですら足りない。なにせ次元(・・)が違うのだ。奴の“力”、強さはもはや、私たちに測れるところにはない。嵐に見舞われた人間が、それが過ぎ去る時を家に籠って待つように、それは根本的に立ち向かうモノではない。

 

 それほどの、()ではなく違い(・・)を、私や白音のように仙術が使えるわけでも、オーフィスのように元々“王”に近い“バケモノ”のレベルにいたわけでもない一誠と曹操は理解できていない。しかもこの天災には意思があり、纏うのは悪意をなみなみと湛えた邪悪な【気】。それが目の前に立っていることを、一誠と曹操は認識できていないのだ。

 

 そして、ヴァーリもそうだった。

 

「――真なる赤龍神帝(アポカリュプス・ドラゴン)、グレートレッド以上……!! ははっ……いいじゃないか。そこが真なる白龍皇の――“最強”の、頂か――ッッ!!」

 

 己を奮い立てる声が、次の瞬間、私が振り向くと同時に飛び出した。

 

 制止の言葉はそもそも出ない。ただ眼だけが彼を追い、そして発動させる力を眼にした。

 

『Venom!!』

 

 “王”の“力”、肉に骨に魂までが減じ始めた。徐々に徐々にと、その勢いは緩やかだが、着実に弱体化が進む。急激に崩れるそれらは、さっきまでの(・・・・・・)()であれば(・・・・)その体勢を崩し、隙を作ることができただろう。

 そして続く一誠との連携は、“王”に確かなダメージを与えることができたはずだ。

 

「ヴァーリ!! 悪いけど、俺も参戦させてもらうぜ!! ――“王”のとんでもない防御力……普通の攻撃じゃ碌にダメージが通らないってことはわかった!! なら、これならどうだッ!!」

 

『Penetrate!!』

 

 と音声が響き、握り締められた拳が、ヴァーリの【減少】の力を受けたまま佇む“王”へ叩きつけられた。

 

 一誠の新たな力は、いわば【透過】。“王”が纏う【気】の守りに元来の装甲である肉体の防御力をすり抜け、直接その肉体を叩く。そういうパンチであったはずだ。

 

「『Penetrate』」

 

 “()の声で(・・・)、音声が鳴った。そして一誠の表情が、戦意に満ち溢れたそれから一転、唖然としたものに変わる。

 

「へ……!?」

 

 一誠のパンチが、空を切った。命中させたはずの、“王”の身体をすり抜けて。

 

 続く。

 

「『Boost』」

 

 “王”の“力”が増した。【減少】によって削られた“力”や肉や骨や魂、すべてが個別に増し、一瞬で元の状態に引き戻される。そして戻った【気】が、信じ難い事態に硬直する一誠へと、見せつけるようにゆっくり落ちる。

 

『Divide!!』

 

 故にヴァーリが間に合った。割り込み、“王”の無造作な攻撃に【半減】を用いて受け止めようとする。だが半分でも有り余る【気】は撫でるようなその攻撃でも尋常でない威力を生み、ヴァーリは一誠と共に容易く吹き飛ばされた。

 

 宙でなんとか勢いを留め、浮遊するヴァーリは“王”を見つめる。【透過】と【倍化】の力。その発生源へ、彼はあり得ないものを見るような眼を向けた。

 

「まさか……なぜ、貴様が赤龍帝の能力を……!? それに――」

 

「……俺よりも、使いこなして進化させてやがる……のか……? どうして……」

 

 理解が及んでいない二人。しかし私はすぐ思い至る。食らった相手の“力”を己が物にできるなら、その能力だって奪えてもおかしくはない。そして“王”はそんな進化の前、暴走して巨大なドラゴンと化していた一誠が殺された時に彼を食らっていた。

 だから一誠の、赤龍帝の能力が使えるのだろう。そしてこの推測が当たっているなら、他の、“王”が食べた二体の能力も使えるはずだった。

 

 “王”の腕がボコボコと顔のように膨れるのを眼にして、その時、私の中の白音が反射的に飛び出した。

 

『ダメッ!!』

 

 一誠たちに向け、“王”の手のひらに開いた口から念弾が放たれる。白音はその前に立ちふさがり、仙術でもってそれを受け止めた。受けた手のひらと、そして全身に伝わるすさまじい衝撃と威力。吹き飛ばされるのはどうにか堪えたが、踏ん張る脚が徐々に押される。そこで私も半ばの自失から意識を取り戻し、背の二人へ叫んだ。

 

「ッ――さっさと逃げなさい!! 下手したら爆発して皆吹っ飛ぶわ!! だから私が抑えてられるうちに、早くッ!!」

 

「な……ッ!! 逃げられるか、今更……!! どういうわけかは知らんが、奴が赤龍帝の能力を使うのなら、俺はそれを超えるだけだッ!!」

 

 ヴァーリが反発し、手を念弾へと向けると、白龍皇の力を発動させた。

 

『Divide!!』

 

「『Boost』」

 

 しかし【半減】した念弾は、すぐさまその威力を取り戻す。“王”の力だった。ヴァーリのように直接念弾に触れずとも、その【気】に【倍化】が発動する。

 

 無意味だ。しかも“王”は現状維持以上の【倍化】を使っていない。どこかに逸らす余裕もなく受け止めるだけで精いっぱいなその威力で、私をここに留めているのだ。

 

 悠然とこちらに歩みを進める“王”を念弾越しに見つけ、故に私は振り向き二人にこの状況のマズさを訴える。

 が、声が出る前に、私の両頬のあたりを魔力の弾丸が貫いた。

 

「がッ――」

「ぐは――」

 

 一誠とヴァーリが同時に後傾し、倒れた。一瞬の思考の硬直。起きた事態を理解すると、私の頭は機械仕掛けのように正面に戻った。

 

 “王”の顔が、間近にあった。

 

「むぐッ――!!?」

 

 反応する間もなく、口を塞ぐようにして頬を鷲掴みにされた。同時に抑えていた念弾が、役目は終わりだと解除されて消滅する。その脅威からは解放されたが、しかし“王”に掴まれ、そしていくらもがけどその手が小動もしないほどの【気】を纏っている事実が私の思考を消し飛ばした

 

 代わりに感情的な感覚が間近の“王”を、ピトーの顔を見つめ、私に冷静を与えた。いつもの彼女。そのもう一方の手、ボコボコ膨れていた腕と手が、私の胸元へと近づいてくる。

 

「……余は――」

 

 ピトーの表情が、一瞬歪んだ。

 

「――“王”は、“王”であらねばならぬのだ」

 

 手のひらの顔、人形の顔が私に押し付けられ、 瞬間、私の【気】が吸収される感覚が始まった。

 

 我に返る。と同時に思い出すのはピトーの能力。相手の攻撃を吸収し、依り代としてその人の人形を具現化して操る【形代浄瑠璃(ジェスターマリオネッター)】。赤龍帝の力のように進化したものがこれなら、この後に待つのは“王”の操り人形と化した自分かもしれない。

 

 生まれる拒絶の意思が、半ば無意識のまま仙術で抗った。

 

「――ッッ!!」

 

 私の【気】を吸い尽くそうと伸びる“王”の腕を反射的に両手に掴み、引きはがそうとする。しかし“王”はその身体能力もとうに私を凌駕して、いくら力を込めても腕は止まらず私に触れてしまった。同時に仙術も、能力に込められた圧倒的なぶ厚さの【気】であまりに重く、その浸食は能力自体まで届かず妨害が叶わない。

 

 それどころか、逆に仙術を介して“王”の【気】、キメラの本質たる邪気が、その魔の手を私へと向ける感覚に気が付いた。その浸食は止められない。抗えない。

 

 “王”と私の【気】が、その時繋がった。

 

 そうして私が感じたのは、“王”そのもの。ピトーに取り付き乗っ取った神器(セイクリッド・ギア)の【気】であったはずだ。

 

 憎い敵。私からピトーを奪った“悪”。そのはずなのに――何故だろうか。私はその邪気に、

 

(――あ、れ……? これ、あったかい――)

 

 ほっと微睡んでしまいそうな懐かしさを、感じてしまった。

 

 暖かいはずも安堵できるはずもない、それは確かに奴の【気】であるはずだ。しかしそれが確かな事実であるように、“王”であるはずの奴に感じる懐かしさもまた事実で、現実。

 邪悪の中に感じるその温もりは、私と、そして内の白音にも、ピトーのそれを思い起こさせた。

 

(なんで――“王”の中に、ピトーの意思が、混ざって――?)

 

 そうではない。“王”の“力”にある意思は“王”だけだ。ピトーの意識はそれに塗りつぶされ、到底感じ取れないほど深くに沈んでいる。この懐かしい温もりは、確かに“王”のものだ。

 

 だから理解が及ばない。しかし与えられる安堵感は強制的に私から抵抗の意思も力も奪い取ってしまって、私は“王”の、いわば魂を見つめたまま、そこに自身の“力”が吸収されていくのをただ見つめることとなった。

 

 だが、

 

「【覇輝(トゥルース・イデア)】ッッ!!!」

 

 光が私たちを貫いた。

 

「かは――ッ!!」

 

 圧倒的な祝福の力が叩きつけられ、身体の芯までを焼かれるような痛みとそれとが合わさり、私を安堵の茫洋から締め出した。【気】も大いに乱され“王”との繋がりも乱暴に断ち切られ、同時、【気】の吸収も外れて弾き飛ばされる。

 踏ん張りどころか立つ意識も追いつかず、そのまま私は尻餅をついた。しかし眼は“王”を見つめたままだった。そして()は、平然としたまま。曹操の【覇輝(トゥルース・イデア)】を受けながら何の影響も受けず、曹操の方を見やって佇んでいる。

 

 ため息を吐くように、言った。

 

「……曹操、貴様の相手は後でしてやる。大人しく待っておけ。それとも……貴様も、死ぬか?」

 

「……いいや」

 

 曹操は片眼を押さえたまま、息も絶え絶えに短く言った。【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】に加えて【覇輝(トゥルース・イデア)】の消耗で、もう限界なのだろう。立っていることさえやっとな様子で、戦うことなどとてもできないに違いない。

 

 故の“王”の言葉だった。しかし首を横に振った曹操は、続けて大きく深呼吸をした。

 

「だが、もういい……。正攻法で倒すのは、もう諦めた」

 

 そして持ち上がった曹操の表情。決死の決意した顔に、“王”の眉が僅かに寄る。

 

 次いで、曹操のその眼が私たちを見やり、言った。

 

最後の手段(・・・・・)だ。尻拭いは手伝ってくれよ?」

 

「最後の、手段……っ?」

 

 曹操が言い放ったその台詞は、私の心に言い知れない不安を生じさせた。

 

 それはつまり、“王”を殺す手段が存在する、という意味。そして今まさにそれを使うことを決意した言葉だ。そのことに不安を抱く要素など何一つなく、むしろ希望に胸を高鳴らせてもいいはずなのに、しかし私の心中にそれらはなく真逆の感情ばかりが渦巻いている。

 

 何故なのか、理由はわかっている。“王”のせいだ。“王”が放つ、あの懐かしい温もりのせいだ。

 あれが私たちの心をかき乱す。白音も、その困惑に呑まれてしまっている。“王”に対する感情がぐちゃぐちゃにかき乱されて、もはや好悪もわからない。

 

 そんな感情の混沌に見舞われる私たちが繰り返した震える声に、曹操は僅かに怪訝そうな顔をした。すぐにそれを深刻そうな険しい表情に変え、聖槍を地面に突き立てると片手を持ち上げた。

 

「……これは、ある一家の者に発現した新種の神器(セイクリッド・ギア)だ。俺はそれを神滅具(ロンギヌス)級の、しかも最上位に位置するレベルのものだと思っている。その能力の本質は――」

 

 視線が移り、曹操は“王”を見つめて言った。

 

「――他人の願いをなんでも叶えること」

 

 そして私を見下ろす形で佇む“王”が、曹操を見つめ返した。

 

 その眼に警戒の色は欠片も浮かんでいなかった。無関心、と言っていいふう。

 しかし“王”以外には驚愕に足る一言で、リアスが、私に拘束された九重を抱えつつ、倒れ伏す一誠とヴァ―リの介抱の手を止め、呆然と顔を上げた。

 

「願い、を……? そんな神器(セイクリッド・ギア)、聞いたことも――」

 

「【時空を支配する邪眼王(アイオーン・バロール)】と同じ新たな神器(セイクリッド・ギア)だからな、それはそうだろう。加えてこれは、それがあまりに強力で、しかも万能であった故に秘匿されてきたんだ。なにせ文字通り、願いをなんでも(・・・・)叶えられる。使い方は誰にでも、いくらでも思いつけるだろう」

 

 “王”を見つめたまま応えた曹操は、手のひらをゆっくりと“王”へと向けた。そこに、たぶん仙術使いである私たちでしかわからないだろう緩やかさで、僅かずつゆっくりと【気】が集められていく。

 

「人間だけでなく、悪魔や天使や堕天使、神器(セイクリッド・ギア)に興味がない他の神話勢力ですらよだれを垂らす代物だ。露見すれば、一家は世界から狙われることになる。そうならないために、万が一にも知られないため、何かのはずみで発動することすらないように、俺は【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】でそれを封じた。俺は一家に、封印の鍵を任されているわけだ」

 

 手に集中された【気】が、その時、眩い光を放ち始めた。ついさっき、“王”に対して使っていたものと同じ【気】の流れ。【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】が、発動する。

 

「その信頼の全てを裏切って、俺は今、封印を解く。だから、文字通りの“最後の手段”なのさ……!!」

 

 最後の一言、一気に押し出したようなその声は、視線こそ“王”を睨んだままだが私へ向けてのものだっただろう。無秩序にかき乱された感情に戸惑う私たちへの叱責と共に、次の瞬間、奴の【神は人の為ならず(セイクリッド・アドミン)】の光が一際強まり広がった。

 

 曹操が神滅具(ロンギヌス)の最上級レベルと言ったのも納得の、強烈な“力”の波動が周囲に轟いた。一度に顕在する“力”の量でいえば、曹操の【覇輝(トゥルース・イデア)】を遥かに凌ぎ、一誠の【(インフィニティ)・ブラスター】すら上回っているだろう。

 それを費やす、“何でも願いを叶える力”。能力によってその持ち主から引き出した輝きを、曹操は“王”に向けつつ、今度こそ私へその決死の顔を見せ、そのままに気迫を叫んだ。

 

「これは言った通り、他人の願い(・・・・・)を叶える能力だ!! 俺一人では使えない!! だから黒歌、お前が願え!! お前が――」

 

 “王”を、殺せ。その声が、酷く遠ざかって聞こえた。

 

 わかっているのだ。それをすれば、私たちはピトーを取り戻せるのだと。ただ一言、“王”を殺すと言えばすべてが解決するのだと、放つ輝きの強大さで能力を確信した思考も正しくそこに着地している。

 

 だがやはり、

 

「う、あッ……!!」

 

 どうしても、“王”を殺める言葉は出てこなかった。

 

 その意思すら生まれない。温もりが、敵意の全てを解かして理性を孤立させる。感情を伴わない事象のみで動くには、感じる懐かしさが重すぎた。

 

 白音もそうだ。頭が真っ白で、その思考も働いていない。故に私たちは、曹操の懇願染みた叫びを浴びてもどうすればいいのかわからず、ただ呻き声を漏らして立ち尽くすのみだった。

 

「黒歌ッ!!」

 

 鬼気迫った曹操の声と顔が怒りを混ぜ、何度も私に訴えるが、それでも私たちの愛憎の混沌が鎮まることはない。そんな有様は、曹操だけでなくオーフィスとリアスから見限られるに十分な醜態だった。

 

「っ……!! 曹操!! つまり、ただ貴方に願えばいいのね!? なら黒歌と白音でなくてもいいんでしょう!?」

 

「――ああッ!! もう誰でもいい!!早くッ!!」

 

「なら、我が――」

 

 リアスの切迫した問いに頷き、ならばとオーフィスが前に出た。曹操が携える輝きへと、息を吸いこんだ。

 

 それが吐き出される直前、九重が飛び出した。

 

「だ、だめぇッ!!」

 

「ッぅ……! なぜ、邪魔する……!?」

 

 手足を縛められたまま、芋虫のように飛び跳ねオーフィスに体当たりした九重。幽霊である彼女の身体にはすり抜けてしまうが、突然の凶行に驚く彼女の言葉は止まる。

 

 お腹から地面に叩きつけられた九重はやはりその理由など答えられず、ただその“王”に死んでほしくないという感情のみで繰り返した。

 

「だめ……だめなのじゃ、“王”さまを殺したら……っ! こ、これが私のなかのキメラの血のせいでも……それでも――!」

 

「九重……っ!! ごめんなさい。でも“王”さえ倒せば――」

 

 彼女のその想い、キメラの呪縛も解けるからと、辛そうに寄せた眉を決意の形に引き締めたリアスの声。それはしかし、半ばで力づくに止められた。

 

 目にもとまらぬ速さで閃いた“王”の指。放たれた小さな魔力の弾丸が、彼女の頬を貫いた。

 

 小さいとはいえ、それは“王”の魔力。今やこの世界で最も強い存在の害意だ。たらりと頬から流れる血は、リアスにその痛み以上に激烈な恐怖を与えた。

 

「う、は……あぁ……っ」

 

 震える膝が崩れ落ち、涙を浮かべてへたり込むリアス。血の気の引いた彼女の顔を、“王”はその眼に流し込むように見つめて告げた。

 

「貴様の滅びの魔力にも、もはや興味はない。控えておれ。あとで殺してやろう」

 

 次いで、

 

「貴様もだ、抜け殻」

 

「……っ!」

 

 オーフィスを見やると同時に、“王”の【気】がまた増した。

 

 それは怒気。露にしたのは子供をしかりつけるような、そんな僅かなもの。しかしこれもまた私たちの尺度ではそのプレッシャーはすさまじく、“力”のほぼすべてを失っているオーフィスが耐えられるものではない。その動きがぴたりと凍り付いたかのように固まって、その一瞬後、背を向けリアスと失神している一誠たちの下に逃げ帰った。その背に隠れて震え、声はそれ以上ない。

 

 “王”はそれで本当に興味を失い、この中で唯一戦意を保つ者となってしまった曹操へとその眼と【気】のプレッシャーを向ける。重圧に曹操は顔を歪め、片手で聖槍をきつく握ると、はばかることなく私たちへ舌打ちをした。

 

「クソッ!! どうしてこうなる……!!」

 

 吐き捨てるようなその声色に混ざったのは悔恨。もっと早くに、黒歌と白音がおかしくなる前にこの最後の手段を使っていれば、という苛立ち。

 

 最もな怒りだと思う。応えなければとも思う。がしかし、やはり今尚どうしても、“王”の死を望むことが私たちにはできない。その言葉がどうしても口にできない。

 

 口にすれば“願いをなんでも叶える能力”がそれを叶え、“王を殺してしまうから。殺してしまえば、“王”から感じる温もりが途絶えてしまうから。

 

「何故だ?」

 

「――ッ!!?」

 

 驚きで、びくりと震えるように身が跳ねた。聞こえた声と、そして気付けば私の顔を覗き込んでいた赤褐色の瞳。間近に、ピトー(“王”)の顔が現れていた。

 

 いつの間にここまで近づいてきていたのか。全く気付けず接近を許してしまったが、しかし彼を敵とすら認識できなくなっている私が感じた驚きはさほどのものではなく、むしろ傍に感じる温もりに安堵すら覚えてしまった故に、警戒は僅かに身を引いただけでその声に応じていた。

 

「……なぜ、って……?」

 

「何故突然、余を殺すことを躊躇った?」

 

 まっすぐに見つめる赤眼には、声の通り、心底不思議だと首をかしげていた。

 つまり“王”は認識していない。彼にすら、私の感じるこの懐かしい温もりは理解の及ばないものであるということだ。なら私たちが理解できる道理はない。

 

 むしろ教えてくれと、縋りたい思いさえした。しかしその想い、感情が手に伝って“王”へと伸びかけたその瞬間、響く衝撃音と聖なる力がそれらを遮る。仕掛けた聖槍の攻撃を腕で受けられた曹操が、憎悪を帯びた眼光を“王”へと向けた。

 

「『何故』だと……? 白々しい……お前(キメラ)のせいだろう!! 九重と同じように、黒歌たちもそっちに引き込みやがって……ッ!!」

 

 かつてに見た覚えがないほど、曹操はその憎悪を露にして槍を振るった。“王”の【気】に易々と弾かれ、傷一つ付けられていないことを理解しながら尚、攻撃を続ける。

 その聖なる槍に眼の力、闇を纏わせ神と魔神の聖魔を成した一撃を、奴は放った。

 

「皆を――返せッッ!!」

 

 しかし、あるいは【覇輝(トゥルース・イデア)】による破壊すら上回る絶技は、全く変わらず軽々と“王”の【気】に防がれた。

 

 それどころか“王”は、曹操のその一連の攻撃に一瞥すらくれることはなかった。その眼はずっと私たちに、その内心を覗かんと集中していた。

 

 “王”の身体から光の粒子が溢れ出て、私に纏わりつく。“王”は曹操の槍を受け止めたまま僅かに目を伏せ、呟くように口にした。

 

「いや……躊躇った、ではなく、その気が失せたか……? 黒歌と白音双方から、僅かな警戒と……安堵……?」

 

「っ! まさか、私たちの心を……!」

 

 読んだのか、と白音が気付いた。粒子の能力なのだろう。仙術の感覚に【念】の【気】を感じる。

 

 そしてその【気】が、やはり温かい。包まれてしまって、もはや曹操のように戦意など抱けるはずもなかった。

 

 この安らぎを捨てるくらいなら、もうこのままでいい。そう思えるほどで、薄れかかった意志がとうとう消え去ってしまう。その寸前だった。

 

 曹操が私に叫んだ。

 

「白音、黒歌も……ッ、お前たちはそれでいいのか!? こいつに安堵なんて……そっち(キメラ)になって、それでいいのかッ!?」

 

「……だって――」

 

 それほど失い難いのだ。

 

 今、“王”を失えば私はどう感じるのだろう。白音が私に捨てられ、私が白音に見限られた時のような、あるいはずっと昔、私たちの母親が二度と戻ってこなかった時のような、永遠に落ち続けるような喪失感。そんな絶望に見舞われるだろうことは容易に想像がつく。それほどに、“王”の温もりは私たちの深くへ食い込んでしまっていた。

 それを無理矢理引きちぎられる痛みを、私たちは何度も味わわされ、忘れられない。もうそんな思いをしたくないという気持ちは、二人分合わさってより強い。少なくとも、曹操の言葉では緩みすらしないほど硬かった。

 

 ただ、それほどの絶望との対比故に、それ(・・)が私たちの頭から飛んでいた。

 

「お前が望まなければ、ピトーはもう戻ってこないんだぞッ!!?」

 

 ハッとして目を見開いた。視界、眼前でじっと私を見つめるその顔は、ピトーではあるがピトーではない。温もりも、ピトーのものではなく“王”のもの。

 この安堵の中にあるものはピトーの形に開いた穴を埋められるのかもしれないが、しかしそれは絶対に、ピトーではないのだ。

 

 そのことに今更気付き、そして、脱力した私の身体に力が戻った。

 

 ――私が取り戻したかったのは、ただの温もりでも安堵でもない。

 

「お前は、ピトーを救うために戦ったんだろう!!?」

 

 彼女の存在だ。一緒に過ごすあの日常を、私は取り戻したいのだ。

 

 だから戦う。私を認めてくれた彼女に隣にいてほしいのなら、立ち上がらねばならない。彼女を救うそのためなら、

 

「――“王”の温もりは、捨てないといけない……っ!」

 

「………」

 

 僅かに眉を下げ、無言でゆっくりと顔を離す“王”を、私は殺したくはない。しかし“王”を殺すことは目的でなく手段。その先に遂げたい想いが強くはっきりと眼に映ったから、私たちの中で天秤が傾いた。

 

 私たちは、やはり“(キメラ)”よりも“ピトー(人間)”の方が大切だ。

 私たちのピトーを取り戻す。だから、そのために必要であるのだから――

 

「“王”は……消えて……ッ!!」

 

 私たちはそう願うしかないのだ。

 

『あい』

 

 と、少女の声のような音がうっすらと頭の中で鳴った気がした。

 そして次の瞬間、曹操の手の光、願いを叶えるその能力の“力”が、周囲一帯に広がった。

 

 全員が光に呑み込まれる。視界に入る全てを白く塗りつぶしたそれは“王”の姿すら溶かすように包み込み、やがて直視できないほどの光量が集中した。

 

 それに感じるすさまじい“力”は今や地響きすら起こすほどで、それほどの“力”が今“王”を蝕み殺しているのだと、実感するには十分だった。そしてその実感は、私の心にあの耐えがたい喪失感を与えるにも十分。かざした腕で光から庇う両目から、私と白音の涙が滴り頬を伝った。

 

 “王”が、死ぬ。あの暖かな邪気が、消える。そうして――

 

 パリン、と、何かが砕けるような音がした。

 

 直後に、周囲を埋め尽くしていた光も、まるで風船が弾けるように一瞬にして消え去った。視界が元に戻る。リアスたちが怯えながら、光の影響で眼を瞬かせている。

 

 彼女たちは、まだまともに見えていないのだ。そして“王”の威圧に怯え切ったままであり、だから曹操の様子にも気付いていなかった。

 

 奴はとうとう魔法力も【気】も気力もすべての力を使い果たしてしまったようで、地に両手を突き苦しげな呼吸を繰り返している。全身にはびっしょり汗をかき、その身体も心なしか縮んでしまったようにも見える。

 

 そして何よりその表情は、絶望を描いて()を凝視していた。

 

「――お……まえ……ッ、まさか……!!」

 

 見上げた先は【気】も魔力も気配も、何一つ変わっていない。私にもそのことがわかる。故に、見止めたくない現実が見えてしまう。

 

『そんな……』

 

 白音が呆然と呟く。信じられないという思い。しかし、現実だ。

 

 “()”の眼が、私を見つめてその口からため息のように冷厳を吐き出した。

 

「……貴様も……結局、そうか」

 

 私の願いは、“王”に効いていなかった。

 

 喋っているそれは“王”だった。取り戻したはずの“ピトー”はどこにもない。光に呑み込まれる前と、何一つ変わっていない。

 

 向けられる失意の眼差しが、私から希望も絶望も意思すらも、何もかもを残らず攫っていった。

 

神器(セイクリッド・ギア)無効化(キャンセラー)……ッ!!」

 

 歯を食いしばる曹操の台詞も、もう意識には上らない。頭に残ったのは己に向けられた“王”の失望の表情と、そこにはないピトーの面影。我欲を追った結果“王”に見限られ、“ピトー”は戻らなかったという事実だけだ。

 今、私には何も残っていない。“王”の温もりもピトーとの幸福もすべて失い、空っぽ。取り返しのつかない間違いを冒した私の心が、真っ黒に沈んでいた。

 

「リゼヴィムも……食ったのか……ッ!! 俺たちに対する、鬼札として……!!」

 

「……貴様の強さは嫌というほど理解している。切り札の、さらに最奥に何かを隠しているだろうという予想程度、とうの昔についている」

 

「『とうの昔に』だと……?! どういう――」

 

 曹操の言葉はそこで途切れた。眼にもとまらぬ速さで一瞬にして曹操の背後に回り込んだ“王”が、ギロチンを待つかのように垂れた曹操の首に軽く手刀を放ち、その意識を刈り取ったのだ。

 

 糸が切れたように倒れ込む。その様子も、私の目には映っていない。しかし見下ろした曹操から“王”がゆっくりと私の元へ戻り、呆然と見つめる虚空の間に割り込んで、そこでようやくその姿を認識した。

 

 恐怖も何も、すべての機会を失ってしまった私はもはや感じないが、ただ、先のないそれに感じる冷たさは、“王”を殺すと決めた時よりもずっと強かった。

 

「余は、死ぬわけにはいかぬ。それは余のためではなく、ピトーのために」

 

「――ピ、トー……っ」

 

 その名前に身が震えた。僅かに残った悲しみが疼く。

 “王”は冷たい眼で私を見つめたまま、静かに語るように続けた。

 

「ピトー自身のために、余が必要なのだ。余がいなければ、奴はピトーとはならぬ。黒歌、白音、貴様らが求めるピトーも、余なしでは存在せぬのだ」

 

 呼吸が一つ。“王”はその眼の冷酷に、僅かな影を落とした。

 

「つまり貴様らは――ピトーの死を願ったのだ」

 

「そん……な、こと……ッ」

 

「否定することなど許さぬ。ピトーや貴様らが何を望もうが、ピトーがキメラアントであることは不変の事実。そこから眼を逸らし続ける貴様らが求めるのはピトーではなく、己に都合のいいただの願望だ」

 

 それは何度目だろうか。ピトーはキメラアントだと突きつける“王”。そしてそれ故に、キメラアントにとって絶対的な要である“王”を殺す行為がピトーを殺すことと同義であると、展開するそんな理屈に辛うじて白音が反発する。がしかし、“王”の冷たい失意がそれを押し潰した。

 圧し、そして“王”は自らの身体に、ピトーの身体に触れ、続けて触れているその手を握り締めた。

 

「ピトーは人間であるという貴様らの言葉。耳と尾があり指は四本、甲殻の肌と関節に青い血を通わせ、何より悪魔を憎悪し喰らうこのピトーを、貴様らは否定しているのであろう? ……本質(キメラ)を否定し、取り除いた先。まばらな残骸で作り上げられるのは、ピトーとは似ても似つかぬ何かでしかない。それはピトーの死と、何一つ変わりない」

 

 手が解かれ、私たちに向けられる。

 【気】がそこに集い、撒き散らされる邪悪が視界いっぱいを覆った。

 

「そんな貴様らにピトーを救うことなど、端から不可能だったのだ。だが……それも仕方のないことなのであろう。余たち(キメラアント)貴様ら(人間)が理解し合えぬことは……不変の事実であるのだから」

 

 絞り出すように、“王”は最後にそう言った。

 

 しかし一方、微かに目を伏せる“王”とは逆に、私はその時、ほんの少しだけその垂れた首を持ち上げた。

 それはただ、単純な疑問だった。“王”がキメラで、人間とは混ざり合わないというのなら――

 

(――この温もりは、いったい誰……?)

 

 “王”の邪気が、今尚ピトーのそれのように温かく感じるのはなぜなのか。

 失われゆくその最後に、それだけが気になった。

 

「待つのじゃッッ!!」

 

 間近まで迫る“王”の邪気を虚無感の中でただ見つめる私の鼓膜に、必死な九重の声が響いた。

 

 ノロノロとそっちに眼を向ける。術が解けて両手足の自由を取り戻した九重が、恐怖に震えながら“王”の前に立っていた。

 

 圧倒的な力にあちする本能的な恐怖、そしてキメラの血故の畏怖に抗って“王”に正面から立ちふさがり、彼女はもう一度、キメラの混じった目を涙目にして叫ぶように言った。

 

「お、お願い、だから……っ、もう、やめるのじゃ……っ! これ以上、殺し合うのは……! 曹操は倒したんだから、黒歌たちは殺さなくてもいいじゃろう!? “王”さまが望んでないことを、わざわざする必要はないはずじゃっ!」

 

「………」

 

 言葉を返すことはなく、しかし迫る手は止まり、私を見つめ続ける“王”。

 その、邪悪とは程遠い慈しみの色も、やはり私にはわからない。キメラの“王”がなぜ、そうなのか。

 

 噛み合わない。

 

「それに……そうじゃ! 黒歌と白音も、本心では“王”を殺したいなんて思っていないのじゃ! 願いの言葉のためらいはそういうことのはずじゃろう!? のう、黒歌、白音! お主らにもきっと、私みたいにキメラの血が――」

 

 私たちに向き、必死な表情の中に微かな希望を見出した九重は、しかしその瞬間に“王”に吹き飛ばされた。

 

 薙ぎ払う尻尾が彼女の身体を掬い上げ、墜落した彼女は毬のように弾んで気を失う。動かなくなったその小さな身体を一瞥し、“王”は再び私に【気】を、殺意を向けた。

 

「……どちらにせよ、だ。貴様らの“愛”がピトーを殺すのだから、もはや殺す以外にない。余はピトーの望む“キメラアント”の“王”である故に――」

 

 その殺意に宿る深い悲しみは、表情にもはっきりと表れている。九重の言った通り、敵であるはずの私たちを殺すことに対する、明らかな忌避。

 

 そもそもだ。その忌避や何度も私たちを引き込もうとした動機自体には、“五年もの間ピトーが貫き通した忠義に報いる”という理由があるが、しかしなぜ、たかが臣下のためにここまでするのか。

 己を曲げ、譲歩し、拒絶されても尚繰り返す。“王”はなぜそこまでピトーを想っているのだろう。私と白音のためとはいえ“王”が悪魔に対してこうまで心を砕くことは、他でもないピトーが望まないはずなのに。

 

 思い返せばすべてがそうだ。“王”の行為はすべて“王”らしからぬものだった。言葉を重ね、慈愛を重ね、そして今、叶わなかった慈愛に苦悶している。

 

 “王”はあまりにも“王”ではなかった。

 

 なら、彼は誰なのだろう。

 ピトーを想うがために戦う、その心は、“誰か”に似ていた。

 

 否、

 

「――我が“母”の、そのために」

 

 私たちと、同じじゃないか。

 

 なんということはない。それはただ、大切な人を守りたいから(・・・・・・・・・・・)。私たちと“王”のその想いに、いったい何の違いがあるだろう。

 

 気が付いた。九重の想いもわかった。私たちは()を“(キメラ)”としてしか見ていなかった。

 

 ピトーの血から生み出された()は、今や一人の誰か(人間)なのだ。

 

「――ねぇ、王さま」

 

 静かな白音の声に、王は怪訝そうな顔をした。見つめるその眼に映る、穏やかな自分の表情。そして続いて、私が訊いた。

 

「あなたの、名前を教えて?」

 

 その瞬間、

 

「……っ!」

 

 瞠目した王が、一瞬だけ嬉しそうに微笑んだような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 ひたひた、ひたひた。足音がする。閉じた意識が微かに開き、隙間から、ボクはここ(・・)に“王”が訪れたことを悟った。

 

 すべてが終わったんだろう。そう思った。

 

 “王”の覇道を阻む障害の全てを、“王”は殺し尽くしてきたのだ。確信する理由は単純。それこそが“王”であるから。

 

 “王”とは、絶対。この世の全てを統べ、支配することが許された唯一の存在。その行く道を妨げる不遜な愚か者の尽くを弑し、何人にも妨げることは叶わず、頂へと登り詰めることを運命付けられている。

 だから“人間”である黒歌たちもまた、“王”を阻もうとする不遜な愚か者になる運命。彼女たちを“王”が殺さない理由はなく、故に“王”が治める世界の選別は平等に、定められた通りに彼女たちを殺すのだ。

 

 だからきっと、実際にそうなった。それが終わったから、“王”ボクの下にやってきている。

 

 なら、

 

(もうボクも、“王”に殺されるべきだ)

 

 無気力なボクの意識は、そう願っていた。

 

 ボクの役目はもう終わったのだ。

 

 今日まで生き延び、そして肉体なき“王”に己が身を捧げる。それがボク、“王直属護衛軍”のピトーの役目であり、それを遂げた今はいわば用済み。

 ならボク自身を終わらせたって“王”への不忠にはならないはずだと、ボクはそう考えていた。

 

 だってもう、生きていたいと思えないのだ。黒歌も白音も、曹操たちももう死んでいるのなら、彼女たちのいない世界を“王”の意識の隙間から眺める生などは嫌だった。

 

 彼女たちを失った悲しみと、彼女たちが存在しない世界を見続ける絶望。そんなものに囲まれて生きたくはない。それに自罰的な思いもあった。そもそもボクが“王”に身体を捧げなければすべては起こらなかったのだから、つまり彼女たちの死はそうしなかったボクの責任。その償いにはボクという意識の消滅では到底足りないだろうが、それでも罰が欲しかった。

 

 それを、自ら動かず“王”にただ願っている時点で、ボクに許される資格なんてものはないのだろう。しかしその願いの想いは“王”に対する不忠。“王”の意に背くことができないよう、“キメラアント”にそう造られたボクにはどうすることもできず、故にボクにはそもそも心の中だけで願う以外のことができない。ならやはり、ボクは黒歌たちと共には在れない

 

 ここまで至っても尚、ボクは己の根幹(“キメラアント”)を捨てられない。ボクは“キメラアント”であり、黒歌たちのような“人間”にはなれないのだ。

 

(だから……どうかもう、ボクを――)

 

 “王”さま。

 

 “王”の顔がその時見えて、続く言葉はぴたりと止まった。

 

 その眼は、何の変哲もない慈しみを湛えていた。

 

「……ピトー。余は、今理解した。余がすべきことを。余が、いったい何者であるのかを」

 

「おう……さま……?」

 

 変わらぬ無表情で言う“王”が、ボクを静かに見つめている。それはボクの知っている、いや、望んでいる“王”とはかけ離れた姿だった。

 

 その重圧、気迫、すべてが穏やか。ボクに黒歌や白音と過ごした平穏を思い出させる()はボクの下に跪き、そしてまるで縋るようにボクを見上げた。

 

「ピトー、余に……名を付けてほしい」

 

「……名、を……?」

 

 名。名前。“王”の――いや、彼の名前。

 

 頭にふと、彼の【気】の眩い光がよぎって、浮かんだ。

 

「――メルエム……」

 

 口にする、その名前。メルエムは、噛みしめるようにその音を繰り返した。

 

「メルエム……。そうか。それが余の、名前か」

 

 ゆっくりとメルエムは腰を上げた。立ち、それから何も言わずにボクに背を向け歩き出す。だがその数歩目、足が止まり、何でもない声色だけがボクへと言った。

 

「余は、“王”ではなく“メルエム”だ。だからピトー」

 

 振り向く。その顔が、穏やかに微笑んだ。

 

「貴様も、“人”として生きるがよい」

 

「っぁ……」

 

 なんだ。

 

(“王”も、ボクと同じだったのか)

 

 涙がとめどなく溢れ出る。悲しいとも嬉しいともつかない、胸を潰されるような感慨がボクを襲う。

 けれど嫌とは感じなかった。だからボクは頬を伝って零れる雫を拭うこともしないまま、嗚咽を堪えて“王”に深く叩頭した。

 

 頭を地に着け涙の染みを作りながら、ボクは“王”が光の中に去りその姿を消す時まで、そうし続けていた。

 

 

 

 

 

 身体の感覚が戻った。身体に纏わりつく冥界の空気と、そして周囲の、ボクを心配している気配を見つける。最も近く、俯き加減で眼を閉ざすボクの顔を覗き込むようにしているのは、黒歌と白音だ。

 

 胸が温かくなる。息苦しさは、今は奥に引いていた。そしてボクは、ゆっくりと閉じた眼を開く。

 光が入ったその瞬間に、息を呑む黒歌と白音の顔が見えた。そこにはすぐ涙が滲み、破顔する。堪えきれずといったふうに二人が同時にボクに抱き着いてきた。わんわん泣きながら、よかったと、嬉しいと喜びの言葉を口にしてくれる。

 周囲には、曹操を始めに九重やリアス、一誠とヴァーリもその顔に安堵と喜びを浮かべている。それらにゆっくりと眼を巡らせて、そして再び黒歌と白音に、泣いて崩れてぼやけた二人を、ボクは思いっきり抱きしめた。

 

「……ただいま……っ」

 

 二人はほとんど泣きながら、

 

「「おかえり……!」」

 

 そう言って、強くボクの身体を抱き返した。




願いを叶える神器(仮称)
・ハンターハンターにおいてアルカが所持していた能力。拙作では神器由来のもの。
それ以外に特に違いはない。

これにて拙作は完結となります。感想や評価をくださった方々、そしてここまでお付き合いくださった方々、今まで長編作を完結までもっていけたことがない私が三年半もの間書き続けてこれたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました!
正直色々ときつくて疲れ果てていますが感想は最後まで欲しています。ください。


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