アザレアの花束 (暮れ)
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雨音、彼女、歌声。《氷川紗夜》
彼女は、歌だって歌える。
彼女は、ギターを弾く。
中学生の──二年、その後半、一二月くらいからか。彼女は、エレキギターを弾き始めた。理由は知らない。
でも、人が音楽を始めるなんて、他人の音楽に魅せられたなんてのが大抵のことだ。彼女は誰かのギター捌きに魅せられたのだろう。
僕の行きつけの楽器屋、何度も何度もギターコーナーの前に来ては唸って帰っていく彼女に声を掛けてしまったのは、純粋に音楽に触れて欲しかったから。
実際にギターを演奏して見せたのはその二週間後。
家にまで上がり込んできたのは、今から一〇ヶ月前。
そして、今では立派に自分のギターを買って練習している彼女。
ギターを演奏しているときの表情はまだまだ固いけれど、その目はギターコーナーに目を輝かせていたあの時のままだ。
「……貴方のように、私も歌えれば良かったのですが」
囁くように響いていた僕の歌声がピタリと止まる。
僕が腕を預けたソレよりも遥かに薄い、深青に彩られたギターを肩から下げて、彼女はそう言う。
なかなか様になる格好だ。カラーリングも彼女の印象に合っていて、雰囲気が全体的に締まっている。
右手で撫でられたネックが、弦を通して掠れた音を立てた。
─だったら、君だって歌えばいいじゃないか。そんなに綺麗な声を持っているのに、勿体無い。
「……私はあまり歌は歌わないのですが」
気まずそうに目を背ける彼女。どうせ妹のことだろうと、勝手知ったるように予測する。いつまでも気にしていてはいけないと、彼女自身もよくわかっているくせに。
─それでもさ。上手さなんて努力すれば勝手についてくる。声の綺麗さは君が生まれ持った持ち物さ。君にしか出せないもの、君にしか出来ないことなんだ。
"君にしか出来ない"
彼女にとっての、魔法の言葉。
天才の妹がいる彼女にとって何でも真似してしまう妹は、まるで自分の上位互換のように自尊心にのしかかってくることだろう。
だから、妹に出来ないことを示してくれるこの言葉は、彼女にとって魔法の言葉。
言葉巧み、といえば聞きは悪いかもしれない。
少しばかり、個人的な願望が含まれていたことは否定しない。
僕は、彼女の歌声が聞きたかった。
長い時間、思案する彼女。
僕はその間に腕に抱えたモノ──アコースティックギター──で一曲、弾き終えていた。
最後のコード。その響きが静まる直前、彼女は意を決したように言った。
「……貴方の」
突然の声に驚きながらも、彼女の声に応える。
─僕の、なんだい?
「……貴方のアコギが合わせてくれるなら、
─練習。
「私も、バンドを組めばコーラスという形で歌うこともあるかもしれない、と考えたまでの結果です」
─そうかい。
なんて。
わかっているよ。もう二年も付き合ってきてるんだもの。表情の変化くらい造作もなく見抜けてしまうさ。
だから、イタズラしたくなっちゃうんだ。
─……ねえ、紗夜。
「……なんでしょうか」
─僕は嬉しいよ。君が、僕の前でだけ歌うって言ってくれて。
「~~~っ、い、言い方ってものがあるでしょう!」
─なんら変わらないでしょ?
「変わりますっ! わかっててやってますよね!?」
─それはそうだ。紗夜は反応がかわいいからね。
「かわっ………っうぅ……。質が悪いです……まったくもう……」
膨れっ面になる彼女。外ではこういう顔は見せないのに、僕の前ではこんな風に振る舞ってくれる辺り、心を許してくれてるみたいで心が踊ってしまう。
─さあ、早速歌おう?
「………わかりました」
そう言って、ギターをケースにしまう彼女。黒光りするギターケースの表面には、アクセサリーなどは見当たらない。
あ、でもジッパーのところにひとつだけ。青い薔薇の小さなストラップ。
ギターを買ったって聞いたときにプレゼントしたものだけど、大切にしてくれているみたい。
プレゼントしたものをつけてもらえるのは嬉しいことだな、とちらちら見ながら、僕も少しだけ移動する。
ベッドの前から、外がよく見える大きな窓の前へ。横を見たときに二人とも景色を見ることができる、いつもの場所。
背中に、トンと暖かいものがぶつかる。彼女の背中。
背中合わせで僕の演奏会。それが、いつもの僕らの時間。
ただ、今回は少しだけ違うみたい。
「何を歌えばいいのですか?」
息遣いが耳元で聞こえる。クラスメイトも、僕らの両親も知らない、僕らの距離。
─そうだなぁ。今は夕焼けが綺麗だし、これでもどう?
そう言って弦を
「…………夕焼けこやけ……ですか」
─そう。子守唄みたいに歌って欲しいな。
「……眠らないでくださいよ?」
歌ってくれる、ということだろう。素直じゃないな。
彼女の頭がこちら側に倒れ、二人の後頭部がぶつかり合う。彼女なりの演奏の催促の仕方。これが、僕らの演奏会の始まりの合図。
─ありがとう、紗夜。それじゃあ、弾くね。
部屋に響く柔らかい音。前奏の終わりに聞こえた、彼女の息遣い。
彼女は、歌も歌う。
◇
彼女は、青が似合う。
高校一年の夏。確か、入道雲が今年一高くて、蝉がやけにうるさかった日。
「……ちゃんと、今日も来ましたよ」
額に汗を滲ませた彼女は、少々うんざりしたようにこちらを見る。
─うん、えらいえらい。……ほらタオル。冷えた麦茶も用意してあるから、そんなところにいないであがってよ。
「貴方はそういう準備はいいですよね……」
─仕方ないでしょ?「学校で話題になるのは避けたいからー」って言って僕とスタジオ行くの避けてるのは紗夜じゃないか。
「……それは、そうですけど……」
歯切れ悪く返す彼女は、逃げるように視線を下に向けてうちに上がった。タオルで汗を拭き取りながら、あらかじめ用意しておいた麦茶をコップ一杯あおる。
「相変わらず片付いていますね」
コツン、とコップがテーブルに置かれる音。
ダイニング全体に広がった音の響きに反応して、彼女は呟く。遮るものがあまりないこの空間では、スリッパと床が擦れる音でさえやけに響く。
─リビングはあまり使わないからね。部屋に居たり、学校にいることの方が多いから。
そこまで喋ったところで、ひとつ思い付いた。
─そうだ、紗夜。
「……練習ですか? それなら部屋に……」
─その練習、今日はここでやらない?
「はあ……構いませんが、なんでまた」
─音、だよ。
「音……ああ、よく響く、ということですか」
そう。今思い付いた案。音のよく響くダイニングで演奏するならば、きっといつもより良い音が出せるだろう。
今日はご近所さんも出掛けていると聞いている。近所迷惑にはならないはずだ。
彼女は数秒考え込む。最初は納得したような表情をしていたのに、途中から怪訝な顔になって、そして意を決したようにうんと頷いた。表情の変化が随分分かりやすいけど、学校ではこういうことはないらしいのだから不思議なもの。
「…………いえ、やはり貴方の部屋でやりましょう」
……珍しい。彼女が他人の意見を却下するなんて。
─何か、あるのかい?
「………それは……その……」
純粋に不思議に思って投げた問いかけは、どうやら彼女を困らせてしまったらしい。
口を開きかけてはまた閉じる、という行為を繰り返す彼女。
─言うのが恥ずかしいなら、聞かないけど。
「いえ! ……その………いつもみたいに、背中合わせがいいな………と……」
段々と尻すぼみになっていった言葉も、音がよく響くダイニングでは、きっちりと僕の耳に届く。
彼女から発せられた言葉は、お互いの顔を紅潮させるのに十分な効果があった。
─…………。
「な、何か言ってください!」
─う、うん! えーっと……じゃあ、移動しようか。うん。
「そ、そうしましょう」
─そっ、そっか。なるほどね、あれがお気に入りなんだね……。
「………そ、そうですよ…」
お互い、歩幅をわざと合わせないようにして、階段を昇る。
胸のうちが熱くなるのを感じる。あの空間が好きなのは彼女だけじゃない。僕だって、静かに音を響かせるあの時間が好きなんだ。あの、彼女と背中合わせでいる時間が好きなんだ。
部屋に着いて、電気をつけずにいつも通り背中合わせで座る。
クーラーは効かせていて、部屋は適度に涼しいはずなのに、なぜだか今日は背中が熱くて。傾けられた彼女の頭がやけに重たくて。
背部を、彼女と癒合したかのような感じがした。
「…始めましょう?」
─うん、そうだね。
気にしてないような振りをしても、お互いの
今更、この背中合わせが恥ずかしいような気がしてしまった。そんなことで僕の心拍が早くなる度、彼女の心拍も早くなって。
互いに熱を持ったまま、外で鳴く蝉たちの喧騒が止むのを待つ。
残響を残して鳴き終えた蛁蟟が静まるのと同時に、僕が口を開いた。
─それじゃあ、今日は……
今日も始まる、二人だけの演奏会。
僕が奏者で、彼女が歌手。
僕しか知らない、彼女の歌声。
窓から覗いた青は、やがて蒼に。僕らは夜まで背中合わせ。
彼女には、夜の青が似合う。
◇
彼女は、恋だってする。
高校二年の秋。雨粒と屋根が心地よく音を奏でた日。
扉を開けた先にいる彼女は、いつかの時と違ってきちんと蝙蝠傘を掲げていた。
「バンド活動が落ち着いてきたので、歌いに来ました」
─歌いに来た、なんて君から聞く日が来るとはね。
……うん。いいよ、あがって。
「お邪魔します」
律儀なところ、本当に変わらない。
うちに上がるのは一年ぶりくらいじゃないかな。学校が違っても、ライブで会ってたから離れていた感覚は無いし、むしろ距離は近くなったと思う。
─突然だったから、お茶請けにはクッキーしか準備出来なかったよ。
「十分です。…突然、それも強引に来ることになってごめんなさい」
─いいって。僕も久し振りに紗夜の歌声が聞きたかったんだ。
ライブで彼女の歌声を聴くことは少ない。彼女の傍らにはいつも歌姫がいるから。間に入るコーラスが、彼女の歌声を聴く唯一の瞬間だった。
「…今日は、歌いたい曲があるんです」
─珍しいね。……でも、僕が弾けるとは……
「大丈夫です。貴方が弾ける曲ですから」
さて、どれなのか。どうやらタイトルは教えてくれなさそうだし、また背中合わせになってから聞くしかないのかな。
「……ほら、早く歌いましょう」
彼女はまるで何かを急ぐように僕を急かす。
彼女に押されて、またいつもの僕の部屋。換気のために窓を開け放っていたから、流れ込む空気が少し冷たい。
「…窓は、閉めないでください」
─どうして?
「……雨の音を聞きながら歌いたいんです」
今日の彼女は、なんだか注文が多い。
違和感を感じても仕方ないので言われた通りにしているが、一体何を画策しているのか。
─そっか。うん、紗夜の頼みなら断るわけにはいかないね。
「……ホントに、そういうところ」
小さく呟いた彼女の声は、雨にかき消されて聞こえない。僕はそんな声はいざ知らず、いつも通り窓を右側に、ギターを抱えて座り込む。
背中にそっと伝わる衝撃、そして人肌の熱。もう何回目になるかわからない、いつもの二人。
─さて、いい加減歌う曲を教えてもらえないと困るのだけれど。
数秒の静寂。彼女は答えない。
僕がもう一度催促をしようとしたとき、彼女の頭がこちらにぶつかる。
刹那、彼女が息を吸う音が聞こえた。
「──♪」
確かに、知っている曲だった。僕だって弾ける曲だった。僕が一番最初に憧れた曲だったから。
でも、これは──
「──♪」
彼女は歌うことを止めない。雨に消え入りそうな声でも、確かに僕には伝わる声。
僕は迷って、迷って、とりあえず伴奏を弾くことに決めた。
ちょうどAメロが終わる。Bメロの開始に合わせて、弦を
僕の伴奏が入ると、途端に彼女の声も鮮やかさが増した。
その色を持った声は、間違いなく僕に向けられているもので。嫌でもその歌詞は僕の心に訴えてくる。
彼女が歌い始めたのは、「恋」をテーマにした歌。
相手に思いを伝えるための歌だった。
彼女がこの歌を歌うということがどういうことなのか。そんな事がわからないくらい僕は朴念仁じゃない。
間違いなく。
彼女は「僕のことが好きだ」と言っているんだ。
もう、彼女との付き合いも四年目になる。
僕が彼女の感情を読み取れるなら、僕の考え方など彼女にはお見通しだということだろう。
……ああ、もうすぐサビだ。確かこの曲には男性のコーラスがあったっけ。
なら、答えようかな。弾き語りでコーラスをやるなんて珍しい事この上ないけど。
「「───♪」」
背中に張り付いていた暖かさが少しだけ揺れる。
それでも声は揺れずに、確かにメロディを紡ぎ続ける。
……ああ、そうだよ。
「「──♪」」
僕は、貴女のことが好きなんだ。
「「────♪」」
貴女が僕を思ってくれるように、僕も貴女を思っているんだ。
「「──────♪」」
そうして僕らは、淡くささやかに恋をする。
◇
いつの間にか歌は終わってしまって。
湿度の高い部屋に、ギターの音が反響し続ける。
背中の暖かさが揺らいで、離れる。
それに反応して振り向いたとき、二人の顔の距離は数センチを数えるほどになっていた。
「──好き。貴方のことが、 好き」
ふわり、と吹き込んだ風が彼女の髪をなびかせる。
彼女の口から放たれる、想いの結晶。そのすべてを受け止めて、僕も口を開く。
─ああ、僕も。紗夜のことが好きだ。
君にギターを教える時間が好きだ。君に演奏を見てもらうのが好きだ。
背中合わせで演奏するのが好きだ。背中合わせで一緒に歌うのが好きだ。
君が歌う、その歌声が好きだ。
彼女が、目をつむる。そういうことだろう、と半ば本能的に理解した。抱えていたギターを脇においやって、彼女の肩を掴む。
互いの息遣い、表情、そんなものを読み取る余裕なんてなかった。
ただ少しずつ縮まる距離を、顔を傾けて迎える。
響くのは雨の音。二人の息遣い。
その音の中で僕らは、初めてのキスをした。
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初雪、三毛猫、マフラー。《湊友希那》
彼女は、いつもマフラーをしない。
◇
十二月。
今年も、この街に雪が降った。
例年より二日ほど遅かった初雪。液晶の向こうのニュースキャスターは今年も冷え込むことを伝えていた。
空からしんしんと降り続ける、雪。
その雪は地面にたどり着く度に溶けて、コンクリートに小さく染みを作っている。この分なら、降り積もるのはまだまだ先だろう。雪かきをしなくてすむのは面倒でなくていい。
静かな空間に、僕の靴音だけが響く。空をちらちらと見ながら歩いているうちに、公園前に到着していた。
立ち止まり、少し待つ。公園の時計は、彼女が来る時間を教えてはくれない。
みゃーお。
空に向けて息を吐いていると、足元で鳴き声がした。
三毛猫の一匹。公園に住んでいる野良猫の中でも、特に僕になついている一匹。
こんな寒い中でも外にいるなんてかわいそうだなと思いながら、手袋を外して、しゃがんで喉を撫でてやる。マンションがペット禁止でなければ、持ち帰っていただろうに。
目を細めて気持ち良さそうに唸る猫。元々持っていたであろう名前を、僕が知らないのが残念なことだ。
「おはよう」
突然後方から掛けられた声には驚かない。彼女が後ろから追い付いてくるのは、いつものことだから。
下に向けていた視線を、立ち上がってからゆっくりと後ろへ向けて、その姿を認める。
三毛猫はスラックスに頬擦りなどせず、僕の足元に座る。毛が付くのがわかっているからだ。全く、利口な猫である。
「おはよう、友希那。今日も寒いね」
二人の吐いた白い息が空中で重なる。風に流れていった白はやがて霧散し、消えて無くなる。
みゃーお。
もう一度、猫が鳴く。彼女の視線が僕の足元へと動いた。
「あら、あなたも居たのね」
喋っているセリフは落ち着いているのに、随分表情と合わない人だ。そこがこの人のかわいいところではあるのだけれど。
猫が僕の足元から離れて、彼女の元へ行く。
彼女もしゃがんで、手慣れたように猫を撫でる。その手に手袋ははめられていない。
時間にして十数秒、彼女は猫を撫で続けた。
「……そろそろ、行きましょうか」
さっきまで崩していた表情を手を使って戻して、彼女が立ち上がる。撫でられていた猫は、再びどこかへと去っていった。おねだりなどしない、やはり利口な猫なのだった。
彼女と僕の間、距離にして一メートル半。その間を3歩で詰めた彼女は、僕と並んで再び道を歩き始めた。
「初雪……貴方と見るのは初めてかしら」
「知り合ったのが今年の春だからそうなるね」
春。入学式から一週間経ったか経たないかの頃。今日のように、彼女と僕は公園で出会った。
朝の通学路。入学式以降なつかれてしまった、あの三毛猫とじゃれていた日。
─猫。
後方から掛けられた声に驚いて、しゃがんだまま振り向いた先に、彼女はいた。
美しく長い銀髪に、すらりとした体型。一言で言えば「美少女」の類いに入るような姿。制服からして、僕の通学している高校の近く、羽丘女子の生徒だろう。
こちら、正確には僕の手に撫でられている三毛猫の方を見ながら、だらしなく頬を緩めてしまう彼女。
それが、僕が初めて見た「湊友希那」という女性だった。
─貴方の猫なの?
─いいや、一週間前くらいからなつかれてしまっただけです。飼えれば良かったんですけどね。
通学中だというのに、二人して猫に釘付け。灰色の制服の彼女がこちらに近づいてきた。
─……私も、撫でていいかしら。
─それはこいつに聞かないとわかりませんよ。
そう言って、三毛猫を彼女の方に向かわせてやる。
最初こそ心配したものの、もともと人懐っこい性格だったようですぐに彼女にじゃれ始めた。
それを幸せそうな顔で撫でる彼女は、少なくとも僕にはごく普通の女子高校生に見えた。
それから僕らは、暗黙の了解のように毎朝公園で待ち合わせをした。
時間は決まっていない。たまに彼女と会わないまま遅刻しかけたこともあったし、長期休業の間は会わない日の連続だった。
それでも、約八ヶ月に渡って彼女との奇妙な関係は続いている。
「……そういえば、なんでマフラーしないんだっけ」
「持ってるマフラーが肌に合わないの」
「…歌に影響とかは」
「無いわ。ちゃんと喉は大切にしてるもの」
彼女の歌声を聴いたのは、今年の文化祭だった。彼女と朝以外の時間に話したのも、それが初めてだったはず。
「それならいいけど」
それっきり返ってくる言葉はなく、そのまま二人並んで、しんしんと降り積もる雪の中を歩く。
十五分。それがあの公園から彼女の女子高までの徒歩での移動時間。
一緒に通うようになった理由はなんだったか。
……ああ、別に大した理由はなかったな。たまたま通う方向が一緒だったってだけ。
別々に登校するよりも、一緒に登校した方がつまらなくはないだろうって僕が提案したはずだ。
「そろそろね」
右隣から響いた彼女の声で、顔を前に向ける。
目視できる距離に、彼女の通っている女子高が見えてきた。
「……………」
無言のまま、彼女が小走りになる。当然僕の隣はがら空きになり、彼女と僕の間の距離は大きくなっていく。
さっきまでほのかに暖かさを感じていた右隣に、冷たい風が吹き抜けていく。
学校の前まで着くと、彼女はいつも僕から離れる。
僕としても女子高で話題になるのは避けたいので好都合ではあるのだが、いかんせん寂しさを覚えてしまうあたり僕はそれなりに彼女を大切に思っているのだろう。
彼女との別れを惜しむように小走りに走る姿を眺め続ける。
不意に、彼女が振り向く。
目が合って、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめる彼女は、そのままこちらに声をかける。
「また、明日」
─彼女の世間的な評価というのは、僕の知る彼女とは正反対だ。
世間でもてはやされる歌姫も、蓋を開けてみれば一人の女子高生なのだと、一体どれだけの人が知っているだろうか。
「ああ、また明日」
振り返り、僕に向けて微笑んだ彼女の表情はあまりにも綺麗で。
マフラーをしてなくて良かった、なんて、その表情を見ながら思うのだった。
僕は、彼女の笑顔に恋をする。
◇
高校二年、冬。
彼女との付き合いも、一年と八ヶ月になる。
去年よりも二日早かった初雪の中、腕にビニール袋を抱えながら彼女を待つ。
みゃーん。
「今日も寒いな、リゲル」
足元にやって来るのは、いつもの三毛猫。
リゲルとの付き合いも一年八ヶ月。野良猫にしてはかなり健康に過ごせているのではないだろうか。
名前がついたのは、今年の一〇月。雲の無い夜にこいつと会ったとき。
空に流れたオリオン座流星群がとても綺麗で、オリオン座で最も明るい星になぞり「リゲル」と名付けた。
名前を呼ばれることが嬉しいのか、リゲルは前にも増して僕らになつくようになった。
「おはよう」
後ろからの声。
いつも通り……ではない。最近となっては珍しい方だ。
リゲルがその声に反応して、僕の手の内から逃げていく。
リゲルはどうやら、彼女の方が好みなようだ。オスかメスかわからないが、まあ好む匂いというのはあるのだろう。
僕も立ち上がり、彼女の方へ向き直る。
「おはよう、友希那」
二人の吐いた息は空中でぴったりとは重ならず、いくらか僕の息が空に近い。
出会った頃と挨拶は変わらないのに、身長差は少しばかり広がってしまった。
こうして会うのは何週間かぶりになる。
彼女は、春の間にバンドを組んだ。疎遠になっていた幼馴染ともまた仲良くするようになったらしく、僕と会わない日は、その幼馴染と登校しているとのこと。
ああ、でも。
バンドを組んだ当初と、それから少しした後。その期間は毎日一緒に通ったっけ。
あの時期は、彼女が朝現れる度に心を痛めたけれど、今はそんなことはない。
僕の挨拶に、いつかのような沈んだ顔ではなく、柔らかく微笑んで返してくれた彼女は、僕が腕に抱えているものを見て頭を傾げた。
「………あら? それはどうしたの?」
「ああ、これね。はい、一足早いクリスマスプレゼント」
「私に?」
疑いながらもきちんとプレゼントを受け取ってくれる彼女。僕の消えていった二万円も、役目を果たすときが来たようだ。
ガサガサと音を立てながら、ビニール袋からソレを取り出す。
「……マフラー?」
「…君の首元が寒そうに見えて仕方がないんだ」
彼女は、今日もマフラーを着けていない。
どうにか彼女の肌に合うマフラーはないものかと検討を重ねて、結局検索エンジンに頼るハメになった。情けないことである。
「……これ、高かったんじゃないかしら?」
「ブランドモノだし、まあそれなりに」
早速マフラーを取り出して見る彼女。
マフラーは表が白、裏がグレーのリバーシブル。白黒の方が普段着にも合いやすいという知恵袋からの入れ知恵だ。
「……随分と長いわね……」
「あー、長さ分かんなくてさ」
首に二周巻き付けても腰まで長さがある。いささか長すぎたかもしれない。
まあ、長いのを買ったのはわざとなんだけど。
「……マフラー……首ったけ……」
「………友希那?」
口元まで隠してボソリと呟く彼女。
モゴモゴした声では、残念ながら何を言っているのかわからなかった。
「…いいえ、なんでもないわ。行きましょうか」
「……リゲルがおもむろに寂しそうにしてるけど」
随分と慌てたように言う彼女に、足元にいたリゲルが尻尾を落とした。
僕が指摘すると、ハッとしたようにしゃがんでリゲルを撫で始めた。
しんしんと降り積もる雪。
二人してしゃがんで、一匹を愛でる。
「……マフラー、ありがとう。凄く肌に合うわ。大切にする」
「本当かい? それはよかった」
今年の初雪。
彼女は、僕がプレゼントしたマフラーを着けた。
長いマフラーは、首ったけ。
スマホに教えてもらった、小さな知恵。
僕なりの、不器用な思いの伝え方。
◇
彼女と出会って、三度目の初雪が降った。
僕は受験生。彼女はバンド活動を続けるらしく、進学はしないのだそう。
互いに忙しくて、もう二年前のように頻繁に会うことは少なくなってしまった。
空に消えるため息に感情が溶けて行く。
僕のうちに燻る火種は、いつの頃から在ったのだろう。
寒さに似つかわしくない感情と共に彼女を待つ。
みゃーん。
「お前との付き合いももうすぐ三年か……なあ、リゲル」
みゃー。
懐かしむような声が、分かったか分からずか………いや、こいつは利口だからきっと分かっているんだろうな。
応援するようなリゲルも、いつもよりずっと頼もしく見える。そんなリゲルの喉を、初めて会ったときのように撫でてやる。
気持ちよさそうにうなり声をあげるリゲル。随分と声も低くなったものだ。
雪を踏む音。時々コンクリートを踏みつける音。
後方から、彼女の足音が聞こえた。
「おはよう」
去年から変わらず、寒くなる度にあの長いマフラーを巻く彼女。
彼女はそのまま僕の前に回り込んできて、しゃがむ。
二人の距離は、彼女の歩幅一歩分もない。
「おはよう、友希那」
二人の頭に、しんしんと雪が降り積もる。
二人に挟まれて撫でられるリゲルは幸せそうに目を細めている。
雪の降る日は、決まって街が静かになる。
朝の静寂の中、僕らは言葉を交わすことなく向かい合う。
初雪は、柔らかく二人を包む。
「……行きましょうか」
「……ああ、そうしようか」
彼女と共に立ち上がると、足の痺れが響いてきた。しゃがんでいたせいだろう。
踏ん張って、体勢を整える。足元を見ると、まだ彼女はリゲルを撫でていた。
最後に両手で撫でて、口惜しそうに彼女も立ち上がろうとする。
「……っあ……」
「………えっ」
初雪に足を滑らせたのか、足の痺れが予想以上だったのか、その両方か。
いや、あるいは、いつまでも足踏みをしている僕らへのプレゼントだったのかもしれない。
偶然に受け止めた彼女の身体は、やわらかくて、小さくて、暖かくて。
「……っ?!」
思わず、両の腕で抱き締めてしまった。
そのまま、二人で固まる。
時間が流れるのが遅い。腕にすっぽりと収まった彼女は時折身体を動かすも、力が込められていない。
僕は到底、放すつもりはなかったし、彼女も本気で抜け出そうとはしなかった。
「………………」
不意に、彼女の腕が動く。
直後、コートの上から何かにしめつけられるような感覚に襲われた。
不快ではない。もちろん苦しくもない。
彼女が、抱き返してくれたのだから。
ドクリと、心臓が跳ねる。
彼女は僕の胸に抱えられているのだ。きっとこの音も聞かれてしまっているだろう。
足元で、リゲルが鳴く。
その声を合図に、二人とも一度離れる。
そう、一度。
「ねえ」
彼女が口を開く。
「なんだい?」
「このマフラーの正しい使い方、わかったの」
そういって、僕が答える間もなく首に手を回す。
マフラーのあまり部分、彼女の腰まで伸びていた部分が、僕の方に飛んできた。
そのまま有無を言わせず僕の首にマフラーを二周回す。
一つのマフラーを二人で使う。
そんなことをした僕と彼女の顔の距離は、もう五センチもない。
耳に触れそうな程近い距離で彼女が呟く。
「この長いマフラーは、こうやって、貴方と私を繋ぎ止めるためにあるんだって。私だって、贈り物のマフラーのジンクス位、知っているわ」
そう呟く彼女の頬は赤い。目の前にその顔があることが何より愛しい。
きっと、僕の頬も赤く染まっていることだろう。
首ったけ。
マフラーのあまりの長さは思いの大きさ、なんて。日本人ならではのロマンチックな思考。
「行きましょうか」
「……歩調の心配は、無いね」
「二年も一緒に歩いてきたんだもの。今更でしょう?」
珍しく、リゲルが後をついてくる。足元を先に行ったり、後に行ったり。ぶつからないように歩いてくれる。
「友希那」
「何かしら」
いつもの、短い会話。
これが終われば、また静かに二人で歩き出すのだろう。また、お互いのことを考えながら歩くのだろう。
「好きだよ」
「ええ、私も」
いつもとは違う道。
首に巻かれたマフラーは、きっと外れることはない。
彼女と出会って、三度目の初雪。
彼女は、僕の恋人になった。
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夕暮れ、髪止め、ラテアート。《羽沢つぐみ》
注ぐミルクは、想いの目安。
ハートを描くのは一度だけ。
商店街、十字路の一角。
静かに鈴を鳴らして、開き慣れた扉の取っ手を引く。
肌を包む暖かな空気を感じながら、背負っていたリュックの肩紐を片方外した。
軽く中の様子を一望。
椅子に
柔らかなアコースティックギターの音色が包む店内は、今日も橙色の照明に包まれている。
入り口のマットから足を踏み出し、数秒。後ろから扉の閉まる音が聞こえた。
足に嵌めたスニーカーが、ブラウンのフローリングとぶつかって僅かに音を鳴らす。
誰かが本のページを
陶器製のカップが、コーヒー受けに置かれる音。
それらを天井のスピーカーから流れる音と共に聞き流しながら、目指すのはいつものダークブラウンの丸机。
カウンターから見て、奥に二番目の壁際。どんなに日が傾いても、足元までにしか日が当たらない席。
丸机の足元にリュックを置いて、音をあまり立てないように椅子を引く。
扉の方──外の景色が見える、窓の方を向きながらゆっくりと椅子に腰かけると、急ぐでもなくポケットからスマホを取り出して、スリープ解除。
ロック画面に表示された時計盤は、午後五時を指していた。
─ん。
時計の示す時間に少し驚いて声を漏らせば、扉から差す光に陰りが生まれた。
「ただいまー!」
僕が開いたときとは幾らか勢い強く引かれた扉から、もう何回目になるかも数え飽きた声と言葉を聞く。
今日は僕も大分遅く着いた。
いつもはもう二○分ほど見つめる画面をそっと閉じて、流れるように足元のリュックへ。
扉の方を見やれば、その声の
微笑みを浮かべた彼女に、ただいつも通り一言。
─おかえり。つぐみ。
「えへへ……うん! ただいま!」
柔らかな初夏の風が、彼女の髪を揺らした。
◇
僕が彼女の自宅こと羽沢珈琲店に訪れる日に、決まって彼女は僕より遅れて帰ってくる。
─相変わらず、毎日忙しそうだね。高校に進学してからは、尚更。
「生徒会に入ったからね。時々練習日に仕事が入ったりするから、困っちゃうかな」
学校から帰ってきた彼女は流れるようにエプロン姿に着替えて、早速お店の手伝いを始める。
普段は忙しい彼女がこうして僕と彼女が話していられるのは、今日が偶々お客さんの少ない日だから。
─あまり、無理はしないでね? ……それじゃあ、オーダー、いいかな?
「はい。
──ラテアート、ミルク多め。
この言葉を使わなくなってから、既に半年経つ。
名前も、砕けた口調も、その笑顔も……いや笑顔は違うか。
それらは全て、僕がこの椅子に座った回数分積み重なって来たもの。
元気よく店の奥へと消えていく彼女を見送って、目を閉じる。
最初は、彼女の父親が淹れるドリップコーヒーだった。
限りなく黒に近い色をしたコーヒーは、残念ながら僕の口には合わなかった。
次は素直に、カフェラテを頼んだ。
胸にトレイを抱えた彼女の姿を見たのは、それが初めてだった。
次も素直に、カフェラテを頼んだ。
次も、その次も。
差し出されるメニュー表に目を通した振りをして、カフェラテを頼んだ。
数日おきに来店する度、僕はカフェラテを頼んだ。
そして、この椅子に座った回数が一六を数えた時。
─カフェラテ、ひと─
「カフェラテ、おひとつですね。承りました」
先を越されるように、注文の確認が飛んでくる。
驚いて顔を上げた時、僕は初めて彼女の笑顔を見た。
「いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます」
若干一五歳の僕の頭は、素直になったほうがいいことがあると知った。
それが、一年前。
葉桜の間から日の光が漏れ出す、梅雨前の初夏。
「──おまたせ!」
だんだん大きくなる足音、それと共に響いた声に目を開ける。
手前に置かれたコーヒーカップには、半年前よりも綺麗に描かれたリーフのラテアート。
僕だけの特別メニューは、カフェラテと同じ値段。
─ありがとう。
「えへへ……どういたしまして!」
柔らかい彼女の笑顔に、自ずとこちらも頬が緩む。
僕に出されるラテアートは、必ず彼女が淹れる。
ダークブラウンのテーブルに勉強道具を広げるようになった、去年の秋。
直径数十センチのテーブルの向こう側、僕がギリギリ手の届く位置。
そこに置かれたカフェラテは、いつも通り流し目で見るには
真っ白のカップの中心、そこに描かれた葉っぱの形。
─これは。
僕はいつも、カフェラテが運ばれてきた時、第一声に「ありがとう」と言葉を告げていた。
そこに返される「どういたしまして」の弾んだ声。
そのラテアートが届けられるまで、彼女と交わす会話はその二言だけだった。
「なんというか……サービス、みたいなものです。いつもお父さんのカフェラテを飲んでくれるから……」
─もしかして、これは君が?
「も、もちろん、お代はとりません! ……その、大切な友達に見せたいなって練習してたんですけど、味に自信がなくって……」
─それで、いつも店長さんのカフェラテを飲んでる僕に?
「………はい。……その嫌だったりしたら──」
その言葉を聞き終わる前に、陶器のカップを手にとって口に運ぶ。
………店長の出すカフェラテよりも、ミルクが多い。
残念ながら僕は、彼女が期待しているほど舌が肥えているわけではなかった。
つまり、普段飲むカフェラテとの簡単な違い、その程度の感想しか出てこなかったわけだったが。
─……いいな、これ。
ぼそりと呟く。
甘さがちょうどいい。自分が思うより僕は甘党だったのかもしれない。なぜ最初にブラックコーヒーなど頼んだのか。
「本当!?」
がばり、と顔を寄せられる。
吐息すら感じられそうな距離に、どくり、と心臓が跳ねた。
それが、半年前。葉を散らした木が商店街に並ぶ、冬の日のこと。
─うん、おいしい。……すっかり舌を掴まれちゃったな。
「この半年間、一番淹れてたのは君へのラテアートだもん。いつもおいしいって言ってくれるから励みになるよ」
─なんか、専属のバリスタを抱えた感じ。
「あはは! そうかもしれないね!」
彼女のことを呼び捨てにするようになったのが、三ヶ月前。
彼女の敬語が外れたのは、つい一ヶ月前。
ゆっくり、ゆっくりと縮まる距離は、まるでフィルターを通るコーヒーのよう。
「すいませーん!」
笑い合う僕らの方に向かって、声が飛んでくる。
彼女の後ろ、窓際の席のお客さんから注文らしい。
─ほら、呼ばれてるよ。
「……今日はこれまで、だね」
僕らと彼女が話せるのは、お客さんが少ないから。
長い時間話せることは
それでも。
─また、僕が来たときに、ね。
「……うん! それじゃあね!」
最後に笑顔を向けて、彼女が離れていく。
店内の時計を見れば、示す時間は五時二○分。外はもう暗くなり始め、強かった西日もその姿を隠し始めている。
今日のお話はもうおしまい。それでもきっと、数日後にまた会える。
彼女の笑顔に会うために、また僕はここに来る。
◇
街路樹の紅葉が眩しい季節。
すっかり夜の帳が落ち、外灯が商店街を照らす午後六時。既に人の居なくなった店内を眺めながら、文庫本に目を通す。
白い紙に、橙色の照明が落とされる。
あまり利用していなかった学校の図書館に頻繁に足を運ぶようになってから既に半年近く経つ。
羽沢珈琲店に閉店までいることが多くなったのも、ここで読書をするようになったから。
彼女の両親も、僕のことを随分と気に入ってくれているようで、特に咎められることもなく、逆に歓迎さえしてくれた。
「ただいまー……」
疲れた様子の彼女が帰ってくる。
今日は随分と遅かった。流石にラテアートを作って貰おうなどとは考えていない。
ただいつも通り、一言。
─おかえり、つぐみ。
「うん、ただいま」
それでも笑顔を返してくれる彼女。
僕は少しだけ眉をひそめる。
─今日はもう遅いし、ラテアートはお預けにしておくよ。とにかく、ちゃんと休んでね。
「だめだって。君のラテアートは、私が作るんだもの」
彼女は、この期に及んでラテアートを作る気らしい。
─つぐみに無理させてまで、ラテアートを頼みたくはないよ。
学校生活、生徒会、バンドと、様々なことをこなす彼女だからこそ、僕の前でくらいは働いて欲しくない。
「……君が、私のラテアートをおいしいって言ってくれることが癒しになる、って言ったら?」
僕がそう言っても、彼女は一歩も退こうとしてくれない。
何も言い返せない僕の様子に、彼女はさっきの疲れも見せずに得意気に微笑んでみせた。
─わかった、わかったよ。降参だ。
「それじゃあ、少し待っててね」
彼女はさっきよりも明るく笑って、店の奥へ。
─はぁ。
ため息を吐いて、栞を挟んでおいたページを開く。
さっきと変わらず薄く橙色に染まった紙に目を落としては、描かれた世界へと入り込んでいく。
六回ほど紙を
また栞を挟んで、本を閉じる。
「おまたせ!」
ああ、いつもの彼女の言葉。
─ありがとう、つぐみ。
一年前、延いては半年前よりも、上手くなった彼女のラテアート。僕の舌も、もはやすっかりこの味に染められてしまった。
対面の席に彼女が座る。
今日はもう僕以外にお客さんは居ない。
「こうやって話すのも、あまり珍しくなくなったね」
─閉店まで居座ることが多くなったからね。……迷惑でなければいいんだけど。
「全然! そんなことないよ。君と話すのは楽しいから、むしろ居て欲しいくらい」
言葉を交わす度に顔に浮かべた微笑みを大きくしていく彼女。
ほんのりと赤く染まった頬が、とてもかわいらしい。
─……そういえば、さ。
「ん?」
手に持ったカップを揺らせば、描かれたリーフも揺れ動く。
ずっと、というか、この数ヵ月間気になっていたことを、彼女に訪ねた。
─リーフ以外の形って、描いたりしないの? ほら、例えば……ハートとか。基本だって見たことあるけど。
そう言うと、肩をびくりと揺らして、ほんのりとだけ染めていた頬を真っ赤に染める彼女。
その様子を見て、初めて自分の言ったことに気づいた。
─……ごめん。異性にハートのラテアートを作れっていうのはまずかったね。
そもそも、彼女がラテアートを作る相手など僕か、
「あっ、いや……こっちこそ、変な反応しちゃって、ごめんね……その……っべ、別に練習してない訳じゃ……」
ぼそりと付け加えられた後半、その言葉を聞き取ることは、スピーカーから流れるアコースティックギターが許してくれなかった。
─……まぁ、気が向いて出してくれることがあれば、嬉しいよ。
相変わらず真っ赤なままの彼女に、さも気にしていない、というように言葉を掛ける。
その日一杯、というか僕が店を出るまでの数十分間、彼女が目を合わせてくれることはなかったけれど。
「……うん、いつか、いつか、ね?」
それでもはっきりとそう答えてくれた声に、僕は内心、とても嬉しくなっていたんだ。
◇
新年の騒がしい空気も落ち着き始め、多くのお店が営業を再開した、その夜。
─じゃあ、頼もうかな。
「うん、それじゃあ、淹れてくるね」
店の奥に消えていく彼女の姿を見るのは、一体何回目になるだろうか。
すっかり日も落ち、さっきまでの喧騒が嘘のように退いていった閉店後の店内。
お店の看板が「close」に切り替わるのと同時に、お店を立ち去ろうとすると、突然、彼女に止められたのが、つい十数分前のこと。
今日は、彼女の誕生日だった。
彼女の友人、お店の常連さん、その他、今日来店していた人々みんなが、彼女の誕生日を祝った。
もちろん僕も、その中の一人。
彼女が髪に着けているひまわりの髪止めは、数時間前に僕がプレゼントしたもの。
花言葉は───言うまでもない。
中心にいることに慣れない彼女は、持ち上げられる度に恥ずかしそうにしていて、見ていてとてもかわいらしかった。
──最後に、一緒にラテアート飲もっか。
そう僕を誘った彼女は、今二人分のラテアートを描いているに違いない。
いつもの席、ダークブラウンのテーブルの前に座って、何をするでもなく彼女を待つ。
商店街は静まり返り、ただ外灯が僅かに道を照らす。
営業を終えたこのお店も、普段のアコースティックギターの音色は響いていない。
やがて聞こえてきた足音。
珍しく声を掛けられる前に顔を上げた。
「──おまたせ」
─うん、ありがとう。
最早、大切にすら思えるほど交わしてきた、僕と彼女のやり取り。
そして僕の前に、綺麗にリーフの描かれたラテアートが───
─え。
置かれなかった。
驚きに、目を見開く。
いや、ラテアートは置かれているのだ。
ただ、そこに描かれた形は───
「……今日の私は、ちょっとだけ欲張りだけど、いいかな?」
─それは、いいんだけれど。
目の前に置かれたラテアート。
その中に描かれていたのは、正真正銘、ハートだった。
震える声で、恐る恐る尋ねる。
─……これは、友愛?
「ううん、違うよ」
そう答える彼女の頬は、いつかの時ほとではなくとも、十分に赤い。
──つまり、そういうことだろう。
目の前の席に、彼女が座る。
彼女の側に置かれたラテアートにも、ハートの形。
ああ、そういえば、彼女もブラックコーヒーは苦手なんだっけ。
じゃあきっと、唇に触れるのは甘い方がいい筈。
二人で一緒に、ラテアートを飲む。
口に吸い込まれていくハートの形。まるで彼女の想いを飲み込んでいるみたい。
ほっと一息つけば、彼女がまた口を開く。
「……いっこ、お願いしていいかな?」
─……いいよ。今日の主役は、つぐみだから。
カップを口に運んで、一口。
「……私、君の前だと、結構甘えんぼうになっちゃうみたいなの」
─うん。
「うちに帰って、真っ先に君の姿を見つけて、ついつい駆け寄っちゃって」
─うん。
「私が泣いちゃいそうな時だって、そういう時に限って、君は私の近くに居てくれた」
─うん。
「私には、沢山大切にしたいものがあって、もちろん、君のことだって、君とのこの関係だって、ずっと大切にしていきたいから」
─……うん。
また、一口。
カップに残るカフェラテは、あと少しで飲み干されるだろう。
リーフを描いていた時よりも、ミルクの量は多くて、とても、とても甘くて、おいしい。
「……だから君にはこれからも、私の隣に居て欲しい、です」
小さく、ぽつりぽつりと彼女の口から
どれも落とさないように、しっかりとカップに受け止めて、最後のハートを飲み干した。
─もちろん。
一言だけ。
この静寂を、声帯を震わせただけで崩れてしまいそうな、彼女の描いた
「……ありがとう」
二人のカップが
一息吐くのは、同時。
彼女の腕が伸びてくるのは、きっとお互いが予想できたこと。
刹那、目に映った時計の針が示すは、午後七時。
誰も知らない、二人きりの、お店の一角。
賑わう店内を忘れ、二人のための静寂が、縮まる距離を彩る。
アコースティックギターも響かない、橙色に照らされたお店の中。
触れるようなファーストキスは、甘い甘い、ラテアートの味がした。
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フェリチエートは水色に。《松原花音》
敬語かのちゃん先輩概念が浮かんだので。
あれだけ積もっていた雪が溶け始めた。
朝、息を吐いて、それが白くないことに少しだけ寂しさを感じている。こんな歳になっても、白く凍りつく吐息は何故か面白く見えていた。
二月下旬でも、もうこの地域は最高気温が一桁後半になる程度には暖かい地域だった。進学先はもっと寒い地域なので、体調を崩さないかとよく親に心配されている。
冬は、空が白く見える。
あるいは、夏の空が青く見え過ぎるのかもしれない。
どちらにせよ、冬の空は白んでいる。雪が降っていなくても、曇りでも、青空でも。
元々白いキャンパスに、色鉛筆で青空を描いて、その上からまた白い絵の具で塗ったみたいに、冬の空は白い。
─花音。
でも例えば、彼女の髪はいつだって水色だった。少しウェーブの掛かった髪の毛は、彼女の色を表している気がした。
モノトーンとは言い切れない、けれど彩度の限りなく低い景色の上で、彼女の水色は揺れている。水を多く含んだ絵具のように、景色を洗い流して、塗りつぶしている。
その水色が、目の前で揺れた。
別に家が近所だとか、そういうわけではなかったけれど、僕は花音を学校近くまで送る、ということを時々していた。
いつもは友達が一緒に登校している、と彼女から聞いていた。
僕の通学路から外れてだいたい五分ほど歩くと、花音の自宅があった。
七時と、二〇分。それくらいに彼女の自宅の前に行くと、ほんのたまに、彼女が立っていることがある。
「あ……おはよう、ございます」
彼女は返して、こちらに近寄ってくる。
今日は僕が送る日、らしい。
高い塀に囲まれた玄関を覗くまで、その日なのかどうなのかは分からない。
学校に提出した通学路は、一度も書かれたその通りに歩いたことはなかった。特に悪いことだとは思っていないけれど、実際はまずいことなのかもしれない。
僕は、すっきりと朝を迎えられる方ではない。
目覚ましが鳴ってから、大体五分ほどでやっと布団から出てくるくらいに、寝起きは悪い。
気を抜けばふらりとしそうな眠気と、少しの倦怠感に包まれて、僕は彼女に挨拶をする。
だからなのか、彼女の声は、やけに頭のなかで反響する。
それが少しだけ心地良い。
「先輩」
─……ん。どうしたの。
「どうしたの、はこっちの台詞です。やけにボーッとしてますよ」
─眠いだけだから、気にしないで。
「……そうですか」
彼女も眠そうにしている。いつもよりも、瞼が下がり気味だった。
コンクリートの黒を見つめているうちに、それが明るくなっていくのが分かった。後方から差す朝日だった。
影が濃くなって、僕が見つめている場所だけが、まだ黒いままになっていた。
一度だけ、彼女の友人に会ったことがあった。
一年前の、まだ息が白く凍りついていた時期だった。
僕は、敬語を話す花音しか知らなかったから、崩れるように丸くなる彼女の声を、やけに物珍しく感じていたのを思い出す。
「卒業式、明後日ですね」
─……ああ、うん。
「えっと、受験、お疲れ様でした」
─まだ合格したわけじゃないけどね。ありがとう。
歩調を花音に合わせて、半歩だけ花音よりも前を歩く。
そうしないと花音は迷ってしまう。
住宅街は迷路のようで、彼女はよく迷う。けれど、住宅街を抜けてしまえばあとは一本道だった。
住宅街を抜けて、まっすぐ。お寺の前に繋がる急勾配の石造りの階段。
僕はその手前を右に曲がり、彼女は階段を上っていく。
一五分くらいの長くも短くもない道のりの、そこが最後だった。
「──先輩」
─……ごめん、またボーッとしてた。
「大丈夫ですか? 受験が終わったから、体に来てるのかも」
─そんなに心配することじゃないよ。大丈夫。
苦く笑ってはぐらかす。感慨に耽っているとは言えなかった。
誤魔化すために、舌の上に乗った言葉を連ねてゆく。
─花音こそ、来年度は受験生だろ。進路とか決まってるのか?
「……方向は、はい」
─優秀なことで。
「釘を刺したのは先輩じゃないですか」
─そんなことあったっけ。
「ありました」
白く空を覆う雲の中に、一際重たい、鈍色の雲を見つけた。海月は、あそこまで気味悪くはないなと思って、口を開く。
─また海月見に行こうか。
「──行けるんですか……!?」
眠気眼だった花音の表情に白が差して、少し明るくなった。
さっきまでお互い前しか向いていなかったのに、花音がこちらを振り向くものだから、反射的に僕も花音の方を向いてしまった。
─……ん…………まぁ、来年帰省したときとか。
「……遠い……」
─遠いか。ごめん。卒業後は時間取れそうに無くてな。
「いいんです。けど、楽しみにはしてますね」
彼女が静かに笑う。笑って言う。
透き通った吐息が舞って、彼女の前髪がふわりと揺れた。広がっていく筈の白い残り香は、やはり見られなかった。
風が吹く。そよ風に似た、春を告げる優しい風なのに、まだマフラーに顔を埋めていたかった。
─……まだ、寒いな。
「早く、暖かくなるといいですね」
緩やかな坂道の向こう側に、灰色の階段が見えた。
傷んだコンクリートの階段と、錆び付いた赤い手すりの、よく見慣れた分かれ道。
「先輩」
─ん。
「その、卒業式、袴とか着るんですか?」
─うーん、それはお楽しみで。
「むぅ、意地悪ですね」
─意地悪って程でもないでしょ。
歩調を緩めたりはしなかった。緩めたりしたら、きっと惜しくなって、立ち止まって、そう、遅刻してしまう。
手すりの右側から、彼女が階段を上り始める。僕は初めて立ち止まって、その様子を見ていた。
いつも通りの光景に少しだけ飽きてしまって、四段目に足が掛かったのを見て、僕も背を向ける。
「先輩」
歩き始めて間もないところ。彼女の髪を横凪ぎに仰ぐ風が吹いたところで、彼女に向かって振り返る。
階段は、八段目に足が掛かったところだった。だから僕は彼女を見上げている。そして、横に太く手足を伸ばした樹木のせいで、彼女があと一段階段を上るともう、彼女の顔が欠けてしまうような位置だった。
「その、ご卒業、おめでとうございます」
振り返った直後に目が合って、思わず瞬きをした。もう一度目を見たときにはもう目線はズレていて、そんな言葉が飛んできていた。
僕が何も言わず、しかも歩き出さないうちに、彼女は小さな歩幅のまま急ぎ足で階段を上っていった。
そのまま靴音が小さくなっていったのを聞いて、僕は彼女を追いかけるべきだったのだと、やっと気が付いた。
一度やり損ねたことをやろうとするのは僕にとっては凄く億劫で、散々迷った挙げ句、全部明日の僕に任せることにした。
そうやって思考が纏まる頃には、既に階段から遠ざかっていた。
三月はもう、明日だった。
もう吐息も白くないことを、やはり寂しいと思った。
◇
筒型の卒業証書ホルダーが好きだった。
卒業証書を二つ折りにして明確な折り線を付けてしまうのは、なんとなく、ガラスにヒビを入れてしまうような背徳感がある。
そんなことを小学校からずっと思っていて、でも結局は、四つ角をきちんと嵌め込んで、パタリと綴じ込んでしまう。
あまり綺麗にできなかった折り目を見て、晴れの卒業式なのだから、となるべく考えないように、気にしないことにしていた。
僕らの部活の同期は、他の所と比べても袴を着る人が多かった。
逆に僕のスーツは浮いている気がする。白いワイシャツにしなかっただけ、まだ溶け込めていると思いたかった。
可愛がった後輩たちと、沢山話をして、沢山写真を撮った。
同期と、近いうちに旅行に行こうかと約束をして、互いの合格を祈り合った。
別れを惜しむように皆と話をして、皆で笑い合っていた。
『学校、着きました』
皆にさよならを告げて、人混みの中を掻き分けて進んでいく。ある一点を過ぎた辺りで景色が明るくなって、白んでいる。
思っていたよりもとても近いところで、水色が揺れていた。
親には、せっかくなんだから、と言われていた。さっさと帰って、豪勢な夕食準備しておく、とも言われていた。
─花音。
僅かに反応して、彼女がそのままこちらを振り返った。
先輩、とこちらに呼び掛ける姿は、制服のせいで周りよりも一際目立って見える。
桜の蕾が膨らんでいるのを、彼女は見ていた。もう三月なんですね、と呟いていた。
─校門前でも固まってるのもマズいし、帰ろうか。
「はい」
頷いて、隣に彼女が立つ。
三月になって、何かが変わったわけではないと思っている。
桜の蕾は昨日も同じくらい膨らんでいた。
三月なんですね、と言った彼女の真意は違うところにある。それがなにかは、あまり知りたいことではなかった。
「先輩、卒業証書見せてもらっていいですか?」
─ああ、いいよ。
脇に抱えていた藍色のホルダーを渡す。それを両手で受け取った彼女は、表紙を見て、卒業証書と象られた金色の文字をなぞる。それから丁寧に表紙を捲る。
彼女が卒業証書を見つめたまま立ち止まったので、僕も立ち止まって彼女を見つめる。
「……」
未だ寂しい街路樹、冷たい枯れ葉が風になびいている。
彼女を見飽きて、空を見上げて、でも空はやはり白いままだった。
空に向かって吹いた吐息は白ですらなかった。
「ありがとうございました」
パッと顔を向ける。丁寧に差し出された卒業証書を受け取って、また脇に挟む。
革靴とローファーの底が硬い音を鳴らしているだけ。
─海月を見に行く約束だけどさ。
花音の目がこちらを向いた。
─もしかしたら、今月中に行けるかもしれない。前期で終われば。
「…………本当、ですよね?」
随分と訝しげな目をする。
特に何も言わずにいると、安心したように表情を柔らかくした。
「それは、良かったです。もう会えないかと思ってましたから」
─受かれば、だからね。
「先輩なら、受かってますよ」
─そりゃ、どうも。
「本気ですよ。買い被ってなんかいませんからね」
─わかってるって。ありがと。
◇
それから五日後。
彼女の輝く瞳を裏切ることにはならなかったようで、胸を撫で下ろした。
その、七日後。
彼女と、水族館に行った。
◇
荷物は全て送り終わっていた。
貴重品を詰めたバックだけ持って、インターホンを押す。
「──あ、先輩」
─寝てたらいいって、昨日も連絡したはずなんだけど。
「ダメですよ。暫く会えないんですから、挨拶くらい」
未だ寝間着で、寝癖の跳ねた頭のまま。眠気眼を擦って、そう言う。
最近、花音は随分とはしゃぐようになった。
こんな格好を見るのは、前までとても珍しいことだった。
「準備、しますから。待っててくださいね…………あ、やっぱり上がっててください」
彼女は廊下の奥に消えていく。紐靴を脱ぐのが面倒で、扉をくぐった玄関で時計の針を見つめていることにした。
規則正しい針の音に瞼が重くなり始めた頃、お待たせしました、と目覚ましが鳴る。
「行きましょう、先輩」
─……ん。
未だ乱れかかっていた水色を梳いてやる。
長い睫毛の瞳を閉じて、開いて、彼女は感謝を述べた。
「行ってきます」
それに重ねて、行ってらっしゃい。
玄関をくぐり抜けた先、道ばたのコンクリートの隙間から黄色い花が顔を覗かせる。
いつの間にか冬は終わっていて、空は青く、草木は緑に繁り始めていた。
「じゃあ、行きましょう、先輩」
彼女の髪は、春になっても目を惹く。
色づく景色の中で、風に揺れる水色を追いかける。
─花音。
「なんですか?」
─また、海月見に行こうか。
彼女がふわりと笑う。
応えるように水色は揺れて、彼女と目線がぶつかった。
「──はい。約束ですよ?」
今日は、別れ道はない。
目的地に着いてしまうまで、沢山、惜しみ無く話をしよう。
そう呟いて、手を繋ぐ。
確かな楔を一つだけ。
決して、離れることのないように。
フェリチエート。
日本語で表記するなら「フェリチェート」が適切なんですけど、語感的にこの方がいいな、と。
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喧騒、便箋、水溶ラブレター。《奥沢美咲》
奥沢さんの書くラブレターは長文だと思います。
『一成へ
手紙なんて初めて書くから、変だったらごめん。
どうしても伝えたいことがあって、こうやって手紙を書きました。』
寿命の近い、少し暗くなった電灯の元で手紙を読む。
手紙を読むときは自然と姿勢が正される。
文章に込められた思いを理解しようとして、なんとか真摯に応えようとして、昔からそうなってしまう癖があった。
『正直、手書きで書くのは嫌だった。
一成、やたら字上手いし。なんか負けた気がするから。
でも、こういう手紙にワープロで打ち込んだ文字をなんて、それはダメな気がするでしょ。
一生懸命書いたから、読んでくれたら嬉しい。』
三つ折りの便箋に、びっしりと二枚分。インクで書かれていたのは驚きだった。返事をするときに何枚書き損じたのか聞いてみようと思う。
『小学校のときの、夏休み前のことはよく覚えてる。
時々聞いてくるから言っておくけど、あの時一成の字が綺麗って言ったこと、本当のことだから。』
少しの混乱と、期待と、結構な気恥ずかしさを混ぜた、神妙な心持ちで、手紙を読む。
彼女が初めて書いた、ラブレターを読む。
◇
「あっ」
小学校のクラスは、それこそうるさいものだった。
授業中も休み時間も、給食の時間だって、元気の有り余るクラスメイトたちが大騒ぎしていて、耳が痛くなる。
ましてや、夏休みを目前に控えた三年生の教室。浮足立つ児童たちの声は、いつもよりも煩く響いていた。
そんな喧騒の中では、その声は一瞬で飲まれてしまうほどに小さかった。
しくじってしまった。
夏休みの宿題のために一冊新しく配られた漢字ドリル。
真面目に記名をしていたときに、乾いたかと思って親指でなぞった名前が変に滲んで汚れてしまった。
油性と水性の違いなど分からなかった年頃に、家族で共有していたペン立てからくすねてきたペンだった。
当時の僕は、取り立てて繊細な性格でもなかった。
インクの黒いシミなど特に気にすることはなく、その上からだろうと堂々と記名はできた。
「それ、水性でしょ」
「え?」
「書いても、消えちゃうよ」
再び名前の一文字を書き終えたところで、前から声が掛かってきた。ニ学期前に席替えしたばかりだったけれど、名前はよく覚えている。そう、奥沢美咲、美咲ちゃんと呼んでいた。
「消えちゃうって、どういうこと?」
「水性だから、消えちゃう」
「……そうなんだ」
物知りだなぁと思ったものだ。
その頃から美咲は落ち着いていて、俺は彼女の大きな声なんて聞いたことないまま卒業を迎えたのを覚えている。
彼女と近い席になったのは、確かこの時と、もう一回だけだったと思う。
「これ、貸すよ」
「これは……えっ、と……ゆせい?」
「うん、これで書けば消えないから」
窓から差し込む日光にやられて、お互いけだるげに話していた。
彼女の筆箱から取り出されたペンには、簡素なシールが貼り付けられていて「おくさわ みさき」と綺麗な字で書かれていた。
「ありがとう、みさきちゃん」
「うん、どういたしまして」
彼女は、何が面白かったのか、僕が漢字ドリルに名前を書くところをずっと見ていた。
僕が覚えていることと言えば、ペンに書かれた綺麗な字に気圧されて、頑張って綺麗に名前を書こうと努力したことぐらいだった。
繊細な性格ではなかったはずなのに、この時ばかりはペンを持つ手に力が入っていた。
鉛筆と違って、失敗できない。そう思うだけで、指先が震えて、上手く字が書けないような気持ちになる。
そんな恐れのせいでゆっくりと書いていると、インクが出すぎてしまう。名前にある小さな「つ」が潰れそうになって、慌ててペンを離したりした。
彼女の名前と同じ長さの名前を書いて、一息つく。
息でインクを乾かすよりも先に、彼女にペンを返そうとキャップを締めた。
「いっせいくんさ、字、きれいだね」
とても驚いた、と同時に、そんなことはないとも思った。僕は彼女の字を見て、綺麗に書こうと思っただけだったから。
そんな思いが口をついて、ポロリと溢れる。
「そう、かな」
「うん、私よりきれいだよ」
ニコニコと笑いながら、彼女は繰り返しそう言う。
若干の疑念と、嬉しさと、沢山の恥ずかしさのせいで、彼女の表情を伺うことができなかった。
「……ペン、ありがとう」
「どういたしまして」
ペンを返してから、また親指で字をなぞってみる。今度は掠れることなく、インクは乾ききっていた。
夏休みを挟んで、二学期。登校日の一番長いその時期の中で、美咲と沢山の会話をした。
彼女と仲良くなったのは、その頃だった筈だ。
◇
ふらり、ふらりと流麗な字で思い出が書かれている。
『夏休みに遊んだりとかは無かったけど、それにしてはよく話したなって思う。喧嘩とかも全然なかったね。
中学からは別々だったし、正直会うこともなくなるかなとは思ってた。
一成の方から連絡先聞いてきたの、結構驚いてたよ。』
ほとんどこちらが忘れてしまったような、そんな出来事ばかり書かれている。
連絡先の話なんて、あったかどうかも定かじゃなかった。
『部活も、結局たくさんの試合を見ることになっちゃったし。
幼馴染でもなくて、恋人でもなくて。腐れ縁ってこんな感じなんだね。』
◇
彼女の出ていた試合に、応援に行ったことがある。
中学入学当初にテニスを始めたと聞いたときは驚いたけれど、いざ眺めてみると、中々様になっているなと失礼ながら思った。
大会の日程は去年に聞いていた。一年の頃はペラペラと喋ってくれていたのに、いざ自分が試合に出るとなると全く喋らなくなるのだから困る。
『知り合いならともかく、一成に見られるのとか、絶対無理だから』
試合は見てみたい、けれど彼女の邪魔になるようなことは避けたい。ならばせめて目立たぬようにと場所と帽子で隠れるようにした。今思えば、サングラスでもつければ良かったと思う。
それでもバレていたかもしれないが。
プラスチックベンチと、簡単な日除けが設置された客席に座る。
今年の夏も暑すぎる。直射日光が当たっていたベンチに触ったときは、本気で火傷したのかと思った。
彼女の背中が見える位置、ここならば目をやることも少ないだろうと試合を眺める。
日陰に居てもじわじわとした暑さに纏わりつかれる日で、直射日光を浴びる彼女のことがそれなりに心配になった。自分の知る限り、彼女も日を浴びるのはあまり好まないと思っていたから。
二ゲームが終わったところで、不意に焼かれるような暑さを感じた。
西日になり掛けた太陽が、日除けの端から足を照らしていた。
サンダルで来ていたものだから、日の光が直接足を焼いている。
仕方無しにもう一段後ろのベンチに座り、持ってきていた水を飲む。自販機から出てきたばかりのはずのペットボトルはすっかりぬるくなっていて、捨てようかとも思っていた。
「え」
からりと乾いた喉に、水が染み渡る感覚を享受しているところに、聞き慣れたような声が聞こえてくる。
やけに静かだと思っていたが、どうやら自分が座っていたベンチは不人気だったらしく、人がほとんどいなかった。
先の声に嫌な予感を覚えて、上に傾けていた顔を戻す。
懸念材料である彼女のベンチに目を向けると、ばちりと彼女と目があってしまった。
固まったままの彼女は、こちらを凝視したままわなわなと口を震わせていて、思わず吹き出してしまいそうな表情をしていた。
諦めて、手を振る。
「な、なんでなんで」
困惑したまま、彼女の休憩時間が終わる。
さぁ、ラケットを持って、コートに立って。
それでも試合に勝ってしまうあたり、流石だなとも思っていた。
「……久しぶり」
「ん、ちゃんと合うのはかなり久しいな」
試合終了直後、誤字に溢れた文面で『あの』だの『ちょっと』だのと連投されてきた後に『後で話あるから』と送られてきた。
全体スケジュールの後、彼女の学校は各自解散となったらしい。
コート入り口近くのベンチでぼーっとしていると、上から彼女に覗き込まれた。
嬉しいような申し訳ないような、微妙な表情のまま彼女を迎える。
「いや、ホントさ…………」
「勝ってたじゃん。練習頑張ってたんだな」
「ん……ありがと。いや、それはそれとしてだよ」
こちらから少し離れたところに彼女が座る。
夏真っ只中では六時でも十分明るいし、風もまだまだ涼しいとは言えなかった。
「みんなに心配されたんだからね」
「いや、その件はすまん。バレるつもりじゃなかった」
「帽子程度でバレなかったら楽なもんだよ……」
唇を尖らせて咎められる。
彼女と会って話すのは本当に久しぶりで、表情の一つ一つが新鮮味を帯びていた。
「そっちは今何やってるの?」
「あー……」
「ここまではぐらかしてきたんだから、いい加減教えてよ」
「……いや、部活はやってないんだけど」
空色に似た青い瞳がこちらを向く。
「まぁ、書道はやってる」
パチリと大きく一回、彼女が瞬きをした。少し驚いたような表情で、でもすぐに微笑ってずいっとこちらに寄ってきた。思わず仰け反る。
「展覧会とかやってるの?」
「ああ、一応あるけど」
途端に、彼女の顔が悪戯っ子の顔になる。小学校の頃より表情豊かになった気がして、花が咲くようだった。
「今度いつ?」
「そんなうまくないんだけど」
「いいから。見たいの」
「…………わかったよ」
観念して、素直に日程を伝える。してやったと言わんばかりの彼女の表情が可愛らしかった。
彼女とは対象的に、どうしたものかと空を仰ぐ。
夕焼けは背中のテニスコートに隠れているけれど、上を見れば空が仄かに赤く染まっている。
それと同時にうっすらと見える藍色が、空を少しずつ夜に染めていた。
「あのさ、また試合見に来ていい?」
空を見上げたまま、隣の彼女に訊ねる。視界の端で少しだけ、彼女のうなずく様子が見えていた。
「あー、うん、まぁ、絶対無理とか言ったけど」
それでも、と続けて。
「今度からは、見てみたいとか言ってくれればいいよ」
ちゃんと対価も貰ったから、とまた得意げに笑う。
それを横目に見ながら、夕焼けに染まる天蓋を眺め続けていた。
◇
『ずっと一緒だったし、ずっと噛み合い続けてきたし、このままでいいかななんて思ったこともあったけど。
やっぱり、これはきちんと伝えないといけない事だったし、伝えたいことだったから、ちゃんと書きます』
◇
雨の時期、彼女はいつも通り無気力に見えていた。
梅雨の真っ只中、天気図を見ても梅雨前線が日本を横断している時期。
放課後にふと教室から窓の外を覗いて、窓ガラスにびっしりと雨粒が張り付いていたのには辟易した。
どうしたものかと刹那思考したが、置き傘、というよりは使わなかったまま持ち帰り忘れたままの傘があることに気がついた。
しかも、部活終わりには雨脚自体かなり弱まっていた。
ズボンの裾が濡れない程度で、でも傘を差せば小気味の良い雨音が弾ける空模様。
差し渡し一○八センチ。大きめの傘の骨から雨粒が滴る。
考え事をするには最適で、人々の喧騒も静まるこの天気が好きだった。
商店街を縦断する。雨天でも、そこらを歩く主婦の表情は明るい。この程度なら気にしないと言わんばかりに、小さな長靴を履いた子どもたちが路を駆け回っている。
夏至も過ぎた頃で明るいはずの空も鈍色の雲には負けて、既に夜闇が空の端から手を伸ばし始めていた。
前から吹き付ける風に合わせて傾けていた傘を、少しだけ持ち上げる。
目の前を駆けて行った子供たちの足並みに合わせて、パシャリ、パシャリと水溜まりが踊る。
それに足を止めながら、急ぐことなくゆったりと歩く。
「……あ、一成?」
声が掛かったのは右から。それなりに暗い視界のせいで、きっと顔は隠れているだろうと思っていたのだけれど。
「────雨宿り?」
「うん、急に降ったから」
「折り畳みとか持ってないの?」
「この前骨組みが壊れたばっかり」
シャッターの閉まった店の前、未だに突き出たままのテラス屋根に隠れた彼女に傘を被せる。
「一体いつから雨宿りしてんのさ」
「雨脚が多少弱まってから出てきたけど、意外と濡れちゃった」
「弦巻さんとか、放っておかないと思うんだけど」
「あー、こころは……うん、ちょっと今回は断った」
「はぁ……」
やけに濁した返事だったけれど、詮索は悪いだろうと打ち切る。
少なくとも次のライブまでは会えないだろうと思っていたから、数ヶ月ぶりの対面には驚いた。
とりあえず、と呟いて、また少し傘を深く被せる。
「帰るか。一緒の傘で悪いな」
「──ん、うん。ありがと」
飛び込むように、彼女が傘の下に入ってくる。一瞬こちらを見上げたのを見て、彼女がずっと俯き加減だったことに気がついた。
高校生になってから、彼女との身長差は開く一方だった。
二○センチ弱の身長差では、傘にちゃんと隠れられているかと心配になる。
差し渡し一○八センチの傘でも二人で入るには少々狭くて、ワイシャツを透過して肩が濡れる。
「あ、肩」
「ん、まぁ半ば様式美みたいなもんでしょ、これ」
街路樹から落ちる大きな雫が、一層大きな音を立てて傘の上で踊る。
風向きに合わせて傾けてやれば、張り付いていた雨粒がパタパタとコンクリートの歩道に落ちていく。
言葉数は少なめ。晴れていても、晴れていなくても、たまたま一緒に帰るときはこれが普通だった。
「雨、長続きするらしいよ」
「前線が全く動かないんだったか?」
そういえばと覗いてみたが、彼女の髪はスラリと降りている。癖っ毛の俺とは対照的に、彼女の髪はとても素直だった。
小学校の頃からいつも同じシルエットに見えていたのは、そのせいなのかもしれない。
「──で、今回はなんでまた」
「あー……」
商店街の喧騒を抜けてから、住宅地を縫う様に歩く。彼女の家は知っているのだから、わざわざ尋ねたりしなくても良かった。
視線は変えずに前を向いたまま、尋ねる。
いつの間にか灯り始めた街灯が雨に濡れた地面に光を落とす。月を池に落としたみたいに、ぬらりと黒光りするコンクリートに波打った黄色い光が映っている。
「いつもなら勢いよく楽屋での事とか話してくれるけど」
「あーいや、今日はそれとは別件で……」
こうやって鉢合わせたときは、大体彼女から沢山話があるときだった。
弦巻さん他バンドメンバーのこと、ライブのこと、着ぐるみのこと。
高校になってからバンドを始めたと聞いたときは、テニスの事を聞いたときより驚いた。
度々ライブチケットを買っては、全ライブの数回に一回くらいは行かせてもらっていた。
今日はその話がなくて、またはライブのお誘いかと思えばその予定はないはずだった。
さっきから彼女の言葉が独特な質感を持っていて、靴が濡れていることを忘れる。
歩き続けたまま、彼女は何度か言い淀むように言葉を詰まらせて、やっと声が聞き取れたのは二分が経った頃だった。
「あのさ、一成、これ」
突然立ち止まるものだから、彼女から雨ざらしになりそうで焦って傘を突き出してしまった。
傘の縁から溢れた雨粒が髪に掛かる。随分と大粒なせいで、皮膚にまで到達してしまっていた。
「う、わっ、冷た」
「あ、ごめん」
彼女にしては珍しく、随分と早口で取り乱していた。
手で雨粒を払いのける前に、彼女が差し出したものに目が向かった。
「……手紙?」
「うん」
「はぁ……これはまた、珍しい」
少々混乱した。珍しいどころではなく、彼女が俺に手紙を書くなど初めてのことだったはずだ。
口頭でも、ラインでもなく、手紙。それも手書き。
雨粒を払い、それとは逆の濡れていない方の手で手紙を受け取る。
手紙を受け取ってから、雨音が大きくなったような気がした。
けれど、ただ雨のことなど気にも止められなくなっていただけだと気付く。
「……あー、まぁ、家で読むわ」
「ん、ありがと」
なにを書いたのか、なんで書いたのか、それを聞くのも憚られて。彼女も答える気はなさそうで、黙り込んだまま帰路を歩き出す。
傘に当たる雨粒の勢いはそのままに、パラパラという雨音が精細に聞こえている。
「あのさ」
次に声が聞こえたのは隣からで、ハッとして見渡すと既に彼女の家の前にまで来ていた。
危うく通り過ぎてしまいそうで、彼女に裾を掴まれて、やっと気が戻ってきた。
「あの手紙、なんだけど」
急激に雨脚が弱まっていく。霧の様な雨になっていて、傘に響く雨音がとても、とても小さくなっていた。すぐにでも止んでしまいそうな雨だった。
もう少し待っていれば、彼女は傘がなくても帰れたのだろうかと思う。
ほのかに空が明るい。
まだ日は沈む時間ではなくて、雲間から手を差し込むように光を落とそうとしていた。
そう、その光に当てられて、少しだけ彼女の瞳がちらりと光った気がした。
「……それ、ラブレターってやつ、だから」
遠くで、セミの鳴く声がする。この時期の雨上がりにはよく聞こえていたような気がする。
湿気に当てられたせいなのか、手汗のせいなのか、手紙が湿っている気がする。
晴れ間が差してきて、それでも霧雨は止まない。
そうして、傘を下ろすこともせずに、夏の予鈴を聞いていた。
◇
『私は、一成のことが好きです。』
◇
下駄箱に挟まれたラブレターを見つける。高校の頃、そんな青春に思いを馳せたことがあった。
けれど、公立高校の下駄箱は思っていた以上に汚くて。
こんなところにラブレターなど入れたならば、それはそれは砂と泥にまみれてしまうだろうと落胆していた。
高校までは毛筆も硬筆を嗜んでいたものの、最近はめっきり筆を持つことが少なくなった。
鉛筆を持ったり、万年筆を持ったり。太い線と細い線、ふたつを行き来しながら手紙を書いていた。
手紙を書くのは五回目、送り出すのはこれが初めてになる。
ラブレターを受け取ってから、彼女に合う機会はめっきり減っていった。彼女のバンド、自分の受験。予定が交互に重なり合って、春までに書き溜めた返事は四通あった。
一度書いてから一月、見直しては書き直して。結局使った便箋の数は彼女のそれを上回ってしまった気がする。
何度か下書きを重ねて、便箋何枚かにびっしりと連なるくらい綴ったこともあったけど、結局はシンプルに一枚にあまりが出るくらいに纏まっていた。
前々から買おう、買おうと言っていながら、ついに万年筆に使っていた染料インクを切らしてしまった。
そんなに使わないだろうと高を括って一本しか買っていなかったのが問題だったのだろう。こういう肝心なときに切らしてしまう。
あと一文で完成だったのだ。無理矢理にでも書かなかったのは、それが一番大事な文章だったからで。
どこかに換えは無かったかと机を漁ってみると、ほとんど未使用のインクが出てきた。
これは僥倖と眺めてみれば、あまり見慣れないパッケージをしている。
「顔料インク……」
思い出した。一度書き心地を試したくて買ってみたものの、手入れの手間を考えて放置していたインクだった。
開封日時はまだ数ヶ月前で、十分に使えるインクだった。
蓋を開ける。
水洗いしたばかりの万年筆をまた後で洗い直すのは気が重いけれど、きっとこれなら雨に濡れたって滲んだりしない。
試しに裏紙をなぞってみれば、やけにくっきりとした弧線が描かれる。
『美咲さんへ』
時候の挨拶もなく、結びもなく。そんな手紙を書くのは初めてだと思う。
『手紙、きちんと読ませていただきました。
長い間お返事できなくてごめんなさい。
貴女からの手紙で、夏休みなどに二人で遊んだことがなかったのだと初めて意識した気がします。あまり、離れているような思い出がありませんでした。』
頻繁に遊んだりしたこともなかったはずだけれど、特に疎遠になった時期もなかった。
そんな曖昧な距離感は、そう、高三まで続いていて。
『こちらはもうすぐ夏休みです。二月と長い休みなので、そちらに帰省する期間も長いもので。
よければ海にでも行きませんか。』
思い返せば、ラブレターを貰った日は相合い傘をしていたのだった。こういう時になって、そういう思い出はちらちらと頭を過っていく。
『ラインでも、電話でも話していなかったこともいくつかあります。そんな話もしたいし、貴女の話も聞いてみたい。』
そう、あのラブレター。
ずっと伝えていなかったことだけれど、ところどころ字が滲んでいた。
肝心な文字が潰れていたりして、本当、彼女がラブレターだと言ってくれなければ困惑していたに違いがなかった。
『手紙の返事ですが。』
そう、ここで染料インクが、水性のインクが切れてしまったのだった。
そこから一行空けて、一層強く光を照り返す一文。
『私も、貴女が好きです。美咲さん。』
句点まで丁寧に繋いで、万年筆を離す。
罫線に従ってまっすぐ、我ながら綺麗な字で書けたと思う。
便箋を折り曲げる。封筒に入れる。
窓から外を覗く。山から入道雲がせり上がってきていて、急いで外に出る支度を始めた。
梅雨明けは近い。梅雨前線もこの地域は通り過ぎてしまった。
ピロンとスマホが鳴る。
通知から覗けば、彼女からのラインだった。
『今年、海にでも行かない?』
思わず笑ってしまう。
『ずっと一緒だったし、ずっと噛み合い続けてきたし、このままでいいかななんて思ったこともあったけど』なんて彼女の手紙の一文を思い出した。
スマホをポケットに滑り込ませて、ドアを開ける。
思った以上に日が照っていて、眩しさに思わず目を覆った。
夏が近くて、雨が降る機会が少なくなっていた。
そういえば、今年はまだ虹を見ていなかった気がする。
そう、例えば今日、夕立の後にでも掛かってくれるだろうか。
◇
相変わらず、字が綺麗だと思う。
あの手紙だって頑張って綺麗な字で書いたつもりだったけれど、宛名に書かれた住所と名前の時点で敵わないなぁと思ってしまった。
手紙を書くのは初めてだったし、手紙を読むのだって慣れてはいなかった。
どんなことが書かれているんだろう。どんな彼が書かれているんだろう。封を開けるときはそんなことばかり考えていた。
三つ折りの便箋、一枚分。綺麗な楷書で、でもいつもより細い線で、一行空けで伸び伸びと書かれている。
万年筆を買ったと言っていたから、きっとそれの字だろうと思った。
少しの不安と、それよりも大きな期待、そこに僅かな気恥ずかしさを込めて、手紙を読む。
『美咲さんへ』
彼が書いてくれた、手紙を読む。
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