りびんぐでっど→どぉるず (野良野兎)
しおりを挟む

出会いと目覚め

本作は「小説家になろう」様にて投稿していた同名の作品を大幅に改稿した物です。
後日上記サイト様の方でも投稿予定となっております。


 

 柔らかな光を滲ませる満月の下。優しい光が差し込む森の木々が夜風に吹かれ、青々と葉を茂らせた枝を揺らしている。

 草木も眠り、鳥たちが羽を休めるその足元を、一人の少女が駆け抜けていく。

 うら若く美しい、細身の少女だ。

 月光に照らされ、胸元の首飾りが煌めく。

 

「ああっ……!」

 

 額に汗を浮かばせていた少女が足元を這っていた木の根に足をとられ、小石や小枝が散らばる地面の上を転がった。

 土埃が舞い、少女が苦悶の表情を浮かべる。

 何度もそうしてここまでやってきたのだろう。本来であれば美しい輝きを放っていた筈の金色の長髪は土埃でくすみ、珠のようだった瑞々しい肌には細かな擦り傷や裂傷がいくつもの赤い線を刻んでいる。

 身に着けたドレスはもはや襤褸(ぼろ)のように頼りなく、万が一の為にと腰に提げていた護身用の細剣が、今にも折れてしまいそうな少女の心を寸でのところで支えていた。

 口の端をきつく結び、目端から零れそうになる涙を堪えながら少女が立ち上がる。

 ああ、どうしてこんなことに。

 激しく乱れる少女の心を映し出したかのように、森の木々が一斉に枝を鳴らす。

 走り出す。少しでも遠く、少しでもあの者たち(・・・・・)から遠くへと。

 ぎゃあぎゃあと、少女の頭上で鳥たちが叫び声をあげた。

 風を切る音。森の闇を切り裂きながら、何者かが少女の背後から襲い掛かる。

 少女は腰の細剣を抜き放ちながら振り向くと、飛来するそれを剣先で打ち払った。鞭のようにしなる、どこか優雅さを感じさせる一撃。

 胴を真っ二つにされ、少女の足元に落ちたのは一本の矢であった。その矢じりには、粘着質な液体が塗られている。間違いなく、毒。これによって少しでも肌を傷つけられれば、それだけで少女の華奢な身体は身動き一つ取れなくなってしまうだろう。

 毒矢が飛来したその奥から、複数の野太い叫び声が響いた。まるで獣の様に、とても言葉に出来ないような品性の無い罵声を飛ばしている。

 

「くっ、もう追いついてきたの……!?」

 

 苦し気な表情を浮かべ、少女はまた走り出す。

 背後から響く怒声に追い立てられるように、森の暗闇の奥へ、奥へ。

 それはまるで奈落の底に転がり落ちていくかのようで、少女の胸の奥にあった小さな恐ろしい感情が、じわりじわりとその心を穢していく。

 

――逃げなさい。あの場所へ(・・・・・)……! 私と約束を交わした、あの場所へ!

 

 脳裏に過ぎるのは、自分を逃がすために賊たちに立ち向かった最愛の父の姿。

 少女の父はここ、バルラキア王国にて辺境を任された領主であり、かつては戦場を駆け抜け、幾つもの武功をあげた武士(もののふ)でもあった。老いたとはいえ、その剣技の冴えはいまだ健在。そう易々と賊に後れをとるとは思えない。しかし――

 

「いいえ、お父様なら、きっと大丈夫だわ!」

 

 頭を振り、長い髪が闇夜に揺れる。

 追手に気付かれる事さえいとわず声に出したのは、そうすることで己の心に広がる不安を拭い去ろうとしたからか。

 もうすぐ、もうすぐだ。

 細剣で枝を払い、何度も小石に足をとられそうになりながら、少女は必死の思いで駆ける。

 駆けて、駆けて、駆けて。そうしてついに辿り着く。

 木々が生い茂る、これまでの光景とは全く異なる開けた空間。

 まるでそこだけ木々が避けているように、森を丸く切り抜いたようなその場所を、頭上から巨大な満月が照らし出している。

 そこは、小さな丘であった。

 弓なりに盛り上がった大地の表面には、四角い石碑らしきものが乱立している。

 墓標のようにも見えるその石碑たちの合間を縫って、少女は丘の反対側へと回り込む。そこにあったのは、ぼんやりとした光を漏らす祠の入り口であった。

 松明の光ではない。大小様々な石で固められた祠の壁や天井。そこに生えた苔や菌類が、どういう訳かぼんやりと光を放ち内部を照らしている。

 少女は小さく息を呑み、胸元に下がる首飾りをぎゅっと握りしめながら祠の中へと歩を進めた。

 

――ここにはね、リリィ。天使様が眠っているんだよ。

 

 祠の内部。半円形をした小部屋の奥には、地上にあったものとよく似た、しかし地上のものと比べて一回り程大きい石碑が一つ。

 表面には何やら複雑な文様――古代帝国文字が刻まれ、中央にある窪みの左右から、羽ばたくように大きな翼が三対広がっている。

 

――いいかい、リリィ。よく覚えておきなさい。もしお前が理不尽な悪意、暴力に晒されて助けが必要になった時、ここに来るんだ。きっと天使様が、お前を救ってくださるだろうから。

 

 父の言葉を思い出しながら、少女――リリィは握りしめていた首飾りを、そこに嵌め込まれている赤い宝石を見た。血のような色をした石が、祠の光を受けて妖しく煌めいている。

 

「お父様……。天使様、どうか私をお救い下さい……っ!」

 

 彼女は石碑の前に跪くと、首飾りを外し祈りを捧げる。両手は胸元で固く握られ、その目尻から涙が一筋流れ落ちた。

 祠の外で、男たちががなり立てている。ここが見つかるのも、時間の問題だろう。

 リリィは祈りを終えると、ネックレスを石碑の中央にある窪みにそっと差し出した。

 するとその直後、ネックレスがふわりと彼女の胸の高さまで浮かび上がったかと思えば、その装飾部分が音を立てて砕け散ってしまう。後に残ったのは、中央に嵌め込まれていた赤い宝石のみである。

 突然の自体に言葉を失う彼女を前に、剥き出しになった赤い宝石が石碑の窪みへと吸い寄せられ、まるで拵えたかのようにぴったりとその窪みへと収まる。

 そして宝石が一瞬妖しく光ったかと思えば、突如、彼女の足元が眩い光を放った。

 

「な、なに!?」

 

 突然の事に彼女は目を丸くする。

 そして、光と共にその足元に現れたのは、見たこともない複雑な文様であった。

 丸い枠をなぞるように古代帝国文字――いや、これは恐らくもっと古いものだ――が刻まれ、その内側には星や月、夜空を象ったような文様が煌めいている。

 ともすれば一種の芸術品のようにも見える、美しい方陣である。

 そして、これと似たような物を彼女は知ってた。

 かつて、まだこの大地が一つだった頃。魔科学という不思議な技術が発展し、それを用いて世界統一を成し遂げんとした超大国、ヴァンセリアン大帝国。

 数多の国々を征服し、伝説によれば聖魔大戦と呼ばれる、人と悪魔による百年続いた戦争にすら勝利してみせたこの超帝国は、ある時を境に忽然と姿を消す。

 学者たちは疫病や大飢饉が原因で滅びた、などと言っているが、真偽のほどは定かではない。

 少女は、この超大国が世界中に残した遺跡、そのうちの一つを調査した学者が書き記したという研究書を、父にせがんで読ませてもらった事がある。

 たしか、その研究書の中にこれと似た物があったはずだ。

 その時、足元の紋様が一際激しく輝き、少女の視界を白く染める。彼女はたまらず目を瞑り、やがて光が収まったあと恐る恐る目を開けば、そこには信じられない光景が広がっていた。

 先程まで彼女がいた、祠の中ではない。

 廊下のような細長い空間である。

 天井も、壁も、床板も、その全てがつるつるとした光沢のある一枚の白い板で覆われており、それは磨かれた大理石でもなく、鉄でもない。彼女がこれまで見たことのない物質であった。

 さらに驚くべきことに、どうやら部屋を照らしている光はこの板から発せられているようである。

 これまで目にしたことのない物質。そしてそれを作りだす技術。魔科学。

 彼女は束の間、追手の恐ろしさも忘れ、まるで恋する乙女のように高鳴る自身の胸にそっと手を当てた。

 その足元で、先程の魔法陣が解けるようにして消えていく事にすら気付かずに。

 

「凄い、大帝国の遺跡……よね? 信じられない、ここまで完璧な状態で残っているなんて」

 

 傷一つ無い床を、小さな靴底が叩く。

 古代帝国が栄えたのは、今より千年以上前の太古の時代だと言われている。

 だというのに、壁や床には汚れ一つ無く、埃すら積もっていない。いったいどんな手段を用いれば、これほど完璧な建造物を遺せるというのだろうか。

 想像すら出来ない高度な技術力の前に言葉を失いながら、少女は鏡のような壁に手を着き、長く伸びる廊下を進んでいく。

 そうしてしばらく歩いていると、やがて大きな広場のような場所にたどり着いた。天井は見上げる程高く、壁から壁まで歩けば息が切れてしまいそうなほどの広さである。

 その圧倒的な光景にしばし言葉を失い、立ち尽くすリリィであったが、やがて視線を部屋の中央へと戻すと、そこに佇むある物に気が付いた。

 目を細めてそれが何かを確認すると、彼女ははっとして走り出す。

――それは、天井より伸ばされた幾つもの細く透明な糸に吊るされていた。

 すらりとしなやかな手足。触れれば弾けそうな瑞々しい褐色の肌。顎から首筋、僅かに実った二つの果実を通って腰、臀部へと流れる線はまるで彫刻のよう。

 一糸纏わぬその美しい裸体は全身に鉤爪のような赤い文様が刻まれ、月が溶け出したような美しい銀色の長髪が流れ落ち、宙に揺蕩っている。

――それは、一人の少女だった。

 まるで操り人形のように無造作に吊り上げられたその姿を見上げ、少女は束の間言葉を失う。

 天使。

 その単語が脳裏を過ぎると同時に、リリィは自身の胸が高鳴るのをたしかに感じた。

 それは、昔々の物語。

 栄華を誇ったかの古代帝国をもって存亡の危機に瀕するほどの、大きな戦があった。 

 異界より現れたとされる異形の侵略者、悪魔との戦い――聖魔大戦。

 百年続いたとされるこの大戦において、天上におわす女神リアディアは人々を救うために四人の天使たちを遣わした。

 流星のハティ、双星のフィーエルとディーエル、そして明星のレイリアである。

 誰もが心奪われるほどの美しい姿をした天使たちは、その銀の髪を煌めかせながら人々の元へと降臨し、女神より授かったとされる神器を手に悪魔たちを打ち払い、果てには一人の勇者と共に彼らを統べる者、魔王を討ち果たしこの世に平和をもたらしたという。

 彼女は幼い頃から、この天使たちの物語が大好きだった。

 戦場を駆ける戦乙女たちの雄姿に思いを馳せては、彼女たちのように立派な騎士になるのだと鍛錬を重ねた。

 

「そんな、まさか……」

 

 わかっている。リリィはそう自身に言い聞かせる。

 彼女達は、戦場を舞い悪を滅した天使たちの物語は、あくまで伝説だ。実在するはずがない。

 しかし、ならばこの目の前にいる少女は何者なのか。

 古代帝国が栄えたのは、千年以上前。であるならば、現代において誰も立ち入った筈のないこの遺跡の深部で眠る、この少女は――

 

「あっ……っ!」

 

 リリィが声をあげた。

 突如として銀髪の少女を吊るしていた糸が緩み、その華奢な身体が倒れ込むようにして彼女の方へと投げ出されたのだ。

 慌てて両手を広げると、彼女は崩れ落ちた少女の身体を受け止める。背に手を回せば、吸い付くような肌の感触と、温かい少女の体温が伝わってきた。

 そう、温かいのだ。驚く事に、少女は生きていた。

 その小さな膨らみは規則正しく上下し、可愛らしい唇からは微かに吐息が漏れている。

 遺跡に遺された少女。よもや古代帝国人か、はたまた本当に伝説の天使なのか。

 羽のように軽いその身体を胸に抱きながら、彼女の心中は正しく混沌の極みにあった。

 

「ど、どうしよう。とりあえず、何か着せる物を……!」

 

 その正体がなんであれ、いつまでも年頃の少女を裸のままにしておくのは忍びない。

 様々な感情がない交ぜになる中で辛うじてそう考えた彼女は視線を右往左往させるも、部屋の中に少女に着せられるような物は見つからない。

 平時ならば、屋敷の者に手配させるなり、自分で取りに戻る事も出来たのだが。

 と、その時である。腕の中で眠る少女に、僅かな動きがあった。捩るように身を震わせ、覚醒する素振りを見せたのだ。

 長い睫毛が僅かに震え、閉じられていたその双眸がゆっくりと開かれる。

 その瞼の奥から現れたのは、赤い、まるで血のように赤い硝子玉のような大きな瞳であった。

 露わになった二つの瞳がゆっくりと、辺りを伺うように左右に揺れる。

 

Se siuq ut(お前は誰だ), Sutcer(どう)repxe(して) mus(俺を) diuq(目覚めさせた)?」

 

 鈴を転がす様な澄み切った声で紡がれたのは、リリィが知り得る中で最も古い言語、古代帝国語であった。

 今では一部の学者のみが収めている言語。幼い頃より父が集めた古代帝国に関する文献に目を通し、古代帝国語にもある程度の学があった彼女ではあるが、まさか今はもう廃れ切ったその言語を耳にする機会がやってくるとは思ってもいなかった。

 しかし、覚えがあるとはいえ所詮は座学で少しばかり話を聞いた程度、少女が口にしたのが古代帝国語であるとはわかっていても、その意味までは汲み取る事が出来ない。

 そうして彼女が右往左往していると、少女はやがて自身を抱えるリリィの瞳をじっと見つめ、小さな掌をそっとその頬へと添えた。 

 何事かと呆気にとられる彼女の脳内は、次の瞬間閃光に焼かれる事となる。

 不意に近づく、少女の顔。一呼吸の間に互いの間にあった距離が――。

 

「ん――!?」

 

 唇に伝わる柔らかな感触。

 突然の事態に目を丸くし、リリィは少女を引き剥がそうと肩に手を駆けるも、少女の両腕は彼女の首に回され、その細腕からは想像も出来ないほどの力で抱き寄せられており微動だにしない。

 そして数秒程経った後、二人の唇はようやく離される。

 訳も分からず顔を赤くするリリィの瞳を少女は真っ直ぐに見つめると、いまだ彼女の香りを残した唇で再び言葉を紡いだ。

 

「ご馳走様。寝起きの一杯としては、随分と上等だったよ」

 

 驚く事に、少女が口にしたのはこの大陸において最も一般的な言語、バルラキア語であった。 

 突然流暢に母国語を話し出した少女に、リリィは目を見張る。

 

「さて、それじゃあ聞かせてもらおうか。俺を叩き起こす必要があるほどの、あんたが抱えた厄介事ってやつをな」

 

 立ち上がり、長い銀髪を揺らしながら少女は不敵に笑う。

 

 千年前に止められていた運命の歯車が、今動き出す――

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

汝、その力を示せ

 

 立ち上がった少女は、具合を確かめるように手足を二三度ぶらつかせると、ぐっと背伸びをした。

 くあ、と可愛らしい欠伸が漏れる。

 ちなみに少女はいまだ一糸まとわぬあられもない姿のままなのだが、本人はそれを知ってか知らずか、一切それを気にする様子はない。

 

「くっだらねえなぁ。そんな事で態々俺様を叩き起こしたのか」

 

 少女がリリィからこれまでの経緯を聞き、その顔に明らかな呆れの色を浮かばせながら発した第一声がそれであった。

 その銀色の髪を指先で弄ぶ彼女の、その美しい外見とはあまりにも似合わない粗野な口調にリリィは思わず言葉を失う。

 はて、聞き間違いだろうか。きっとそうだろう。

 そして、それを聞いた彼女がそうして現実逃避するのも無理からぬこと。

 唇を、それも初めてを奪われた衝撃も合わせ、もはや彼女は正常な思考を行う事が出来なくなっていた。

 

「屋敷が賊に襲われた? 父親の命が危ない? 知るかそんなもん。テメェらでどうにかするんだな」

 

 だが、少女がため息交じりに零したその一言に彼女ははっとする。

 

「そんな、貴方は伝説の、魔王を打ち滅ぼした天使様ではないのですか!?」

 

 少女は弄んでいた毛先をぴんと指で弾くと、怪訝そうに眉を寄せた。

 リリィは続ける。助けを乞うように、濁流の中であがくように言葉を吐きづづけた。

 千年前に栄えたとされる古代帝国。悪魔との戦い。女神や天使、勇者の物語。

 彼女が口早に語り続ける中、少女の表情が徐々に神妙なものへと変わっていく。

 やがてリリィが一通り語り終わると、少女は顎に手をやり、目を伏せて何やら物思いに耽っているようだった。ゆっくりと、少女が目を開く。

 

「……そりゃアンタの勘違いだ。その帝国ってやつには、まあ心当たりがあるが、俺様は天使なんて胡散臭い代物じゃあないし、悪魔も、勇者も、それこそ魔王なんて見たことも聞いた事も無い」

 

 それは先程よりも落ち着いた、どこか諭す様な声であった。

 その後も少女はなにやらぶつぶつと独り言を呟いていたが、やがて自身を見つめる視線に気が付くと気まずそうに首を一揉みする。

 その視線の先では、力なく座り込んだままのリリィがその瞳に大粒の涙を浮かべ、少女を見上げていた。ところどころ破け、土まみれになったドレスに涙が流れ落ち、シミを作っていく。

 溜息。

 

「ったく、これだから女は……」

 

「そんな、私、天使様ならきっとお父様をお救い下さると……っ!」

 

 両手で顔を覆い、白い部屋の中にリリィのすすり泣く声が悲しく響く。

 だが、残酷な現実はなお、少女に涙を流す(いとま)すら与えてはくれなかった。

 

「とりあえず立て。そうやって泣き続けても、俺様は甘やかしたりは――」

 

 そう言って泣き崩れるリリィに肩を貸そうとした少女であったが、不意に言葉を途切れさせるとリリィの背後にその身体を滑り込ませ、何かを打ち払うように右腕を薙いだ。

 甲高い音が響く。

 その音にはっとし、目を向けたリリィが見た物は、硬質な床に音を立てて転がる短剣の姿。

 何故そんなものが、と彼女は一瞬思考し、すぐさま一つの可能性に気が付くと、いまだ涙に濡れた瞳を部屋の出入り口へと向けた。

 

「おい、ありゃあお前の友人か何かか?」

 

 そこには、二人の男が立っていた。

 一人は背が低く、枯れ枝のように痩せた身体つきの不気味な男。全く手入れしていないのだろう。脂ぎった髪は肩にかかりそうなほど伸ばされ、男の目元に影を落としている。

 そしてもう一人は、そんな小男とはまったく対照的だった。

 背は小男よりも頭二つ以上は高く、まるで岩の様な筋肉の上に動物の毛皮で拵えた腰巻だけを巻き付けた大男である。

 茶色の瞳に浅黒い肌、背にはその体格に見合うだけの巨大な斧を背負っており、剥き出しの刃が鈍い光を放っていた。両刃の、リリィの身の丈程はありそうな斧である。

 それを見た途端、少女はすっと目を細め、何かを思案する様子を見せた。

 

「やっと追いついたぜ、お嬢様ァ。まさか、あんな森の中に遺跡が隠されているとはなァ」

 

 小男が腰に幾つも差した短剣の一本を引き抜き、手元で弄びながら言った。ぬめりとした粘着質な嫌な声に、リリィはぞっとする。

 次いで小男は彼女の前に立つ少女の爪先から頭までを嘗め回すように見やり、にたりと厭らしい笑みを浮かべた。ここでようやく、大男に注意を向けていた少女がその視線に気付き、露骨に嫌な顔をする。

 

「しかし俺たちァ運が良い。まだ手付かずの遺跡を見つけたばかりか、こんなご馳走にありつく事が出来るんだからなァ」

 

「ゼイゼル、気を、つけろ。あの女、普通じゃ、ない」

 

 舌なめずりする小男を、大男が諫める。

 訛りのあるぎこちないバルラキア語だ。肌の色から、恐らく大男の方は大陸の南に広がるアルセン海にあるアルセン諸島連合から流れてきた傭兵なのだろうと、リリィは当たりを付けた。

 バルラキア王国は諸島連合と盛んに貿易を行っている為、それに伴う人の出入りも激しい。ならず者の一人や二人、やってきても何ら不思議ではないだろう。

 ゼイゼルと呼ばれた男は血走った目で大男を見上げ、その骸のような顔を歪めながら言った。

 

「テメエの目は節穴かァ、ええ、ベルガラよお。どっからどう見てもただのガキだろうが。たしかにこの辺りじゃ見ない肌の色だし、素っ裸なのも気にはなるが、それだけだ。お前、臆病風にでも吹かれたんじゃねェのか?」

 

 ぐむ、と大男――ベルガラは言葉を濁らせる。

 ゼイゼルは気が付いていないが、ベルガラはたしかに見たのだ。この醜悪な男が放った短剣を、あの少女が素手で撃ち落としたのを。

 さらにあの短剣には即効性の高い麻痺毒が塗られてあった。あの刃先でほんの少しでも傷つけられれば、すぐさま四肢の動きを奪い、言葉すらまともに発せられなくなるほどのものだ。

 しかし、見たところあの少女が毒に犯された様子はない。

 ベルガラはその事がただただ恐ろしく、えも言われぬ恐怖に汗ばんた手を握りしめた。

 そんな彼の心中など知る由も無く、ゼイゼルはその獣欲に塗れた笑みを顔に張り付けたまま、少女へと一歩、また一歩と近づいていく。

 ちらりと、少女が背後で座り込んだリリィに視線を投げた。

 

「おいリリィ、リリィ・ヴェル・ファルベルム。テメェが撒いた種だ、テメェで何とかしろ。戦う力はあるんだろう?」

 

 リリィが腰に差した細剣を見やり、少女は淡々と告げる。

 

「あ、貴方、どうして私の名前を……」

 

「そんな事はどうでもいい。問題はテメェがちゃんと、自分のケツを拭けるかどうかって事だ。まあ、テメェがやらなきゃ俺様たちは、二人仲良くあの糞に塗れたような連中に犯され穢され、人以下の犬畜生に成り下がるだけだ。そら決めろ、奴さんはそうのんびりと待ってはくれないぞ」

 

 歩み寄るゼイゼルに二人の会話は聞こえていない。

 彼の頭の中には、既に二人を制圧した後の光景がありありと浮かんでいた。

 まずは丸腰の少女の自由を麻痺毒を以て奪い、抵抗するリリィを組み敷き犯してやろう。領主の娘、育ちの良い貴族様だ、きっと処女に違いない。さぞ良い声で泣いてくれる事だろう。

 これまでお目にかかった事のない程の美しい少女は、それが終わってからゆっくりと味わえばいい。

 二人が脅威になる事など、これっぽっちも考えていない。

 

「言っておくが、俺様はあてにするなよ。剣を持つものなら、幼気な少女一人ぐらい守ってみせろ」

 

 腕を組み、堂々とした態度で少女は告げる。

 その赤い瞳には強い意志が、リリィの心を惹きつけ、奮い立たせる不思議な光があった。

 リリィは想像する。最悪の未来を、訪れるかもしれない光景を。

 目の前の少女を、あのような下賤な輩に穢させて良いのか。否、許せるはずもない。

――何の為に、日々剣を振り続けてきた。

 涙を拭い、リリィは立ち上がる。

――弱者を虐げる者、悪から人々を守る為だ。

 腰の剣を引き抜き、少女を庇うように前に出た。背後で少女が不敵に笑う。

 

「それでいい。仮にも俺様を目覚めさせた女だ、ちょっとは魅せてもらわないとな」

 

 少女の言葉が、リリィの背中を叩く。右足は少し前に。剣先はまっすぐに近付いてくる男へ。狙いは喉。手の甲が身体の外側に向くよう腕と手首を絞り、柔軟かつ機敏に動き出せるよう全身の力を抜く。毎日欠かさず行ってきた、基本の構えである。

 すぐそこまで近付いていたゼイゼルが顔を顰め、立ち塞がるリリィを馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 

「おいおいお嬢様、まさかとは思うが、そのお遊びの剣で俺とやろうってのか? 馬鹿な女だ、大人しくしてりゃあ優しくしてやったのによォ」

 

 そう吐き捨て、ゼイゼルは手にしていた短剣をおもむろに投げ放った。

 腹部目がけ飛来したそれをリリィは身を捻り、躱すと同時に剣先で打ち払う。万が一にも、自身の背後に控えた少女に当たらないようにだ。ふっと息を吐く。淀みの無いその動きを見て少女が口笛を吹き、拍手する。

 呆気なく防御された事が気に食わないのだろう。ゼイゼルが舌打ちし、腰から新しい短剣を取り出した。しかし今回は投擲してくる様子はなく、腰の位置でぶらりと揺らしながらゆっくりとリリィとの距離を縮めていく。

 じわりじわりと近付く両者。先に仕掛けたのはゼイゼル。リリィの間合いに踏み込んだ直後、ぐっと腰を落とし、床に鼻先が掠るかと思われるほどの低い姿勢でリリィへと襲い掛かった。

 これに対し、リリィは後ろに引いていた左足を横へとずらし、それを軸に身体を回転。剣の切っ先をゼイゼルに向けたまま、その側面へと回り込む。自身が遊びの剣と嘲笑ったその剣術に、ゼイゼルは目を剥いた。その喉元目がけ、鋭い二連突きが放たれる。

 しかしゼイゼルもさるもの。不意を打たれる形になったが、寸でのところでこれを回避。リリィの剣先は首と頬の皮を切り裂くだけに終わった。

 リリィが細く息を吐き、ゼイゼルの顔が屈辱に歪む。

 

「この売女(ばいた)がァ……!」

 

 予想外の反撃に激昂し、顔を真っ赤にしたゼイゼルが再びリリィへ襲い掛かる。彼からすれば、ご馳走を前に水を差されたような心持ちだろう。獣のように襲い来るゼイゼルの短剣を、舞踏のような軽やかな動きでリリィが捌く。

 一見リリィが圧倒しているように見えるが、二人を眺める少女の表情は険しい。

 それは、二人の間にある圧倒的な経験の差。

 ならず者とはいえ、それなりに修羅場を潜ってきたゼイゼルに対し、リリィは実戦での経験が全くない。さらにゼイゼルの武器には毒が塗ってある。掠る事さえ許されないというその重圧は彼女の精神を瞬く間に消耗させ、体力すら削っている。

 その証拠に彼女の額には玉のような汗が浮かび、初めは穏やかだった呼吸も今は肩で息をするほどだ。こうなってくると考えるのは、早く勝負を決したい。敵に決定的な一撃を浴びせたいという欲。焦り。

 場数を踏んだ者であれば、その甘美な誘惑を経験を積み重ねて強靭となった精神で振り払うのだが、これが初陣である彼女にそれを求めるのはあまりに酷といえるだろう。

 ふっと息を吐き、リリィが踏み込む。彼女が初めて見せる、攻めの動き。

 それを見て少女は目を伏せ、静かに息を吐いた。

 腕を引き絞り、矢のような一撃がゼイゼルに放たれる。

 

「馬鹿がァ!」

 

 歯をぎらつかせ、ゼイゼルが嘲笑う。真っ直ぐに伸びたその一撃を蛇のような動きで掻い潜り、ついにリリィの懐へと飛び込んだ。

 短剣が振るわれ、リリィの白い肩から鮮血が舞う。

 勝った。ゼイゼルは確信する。

 麻痺毒は数秒で彼女の身体から自由を奪い、指一本動かせなくするだろう。慣れない剣術のせいで多少手こずりはしたが、だが、これまで――

 不意に、勝利の余韻に浸っていたゼイゼルの思考が途切れた。

 自身の胸部を襲う、猛烈な痛み。見れば、そこには銀の細剣が深々と突き刺さっていた。

 何故。

 ゼイゼルは血が溢れる傷口を抑え、口から血の泡を吹きながら悟る。

 あれは、あの大振りは決着を焦っての行動ではない。初めから、この女はこれを狙っていたのだと。

 

「この、くそ、がァ……ッ!」

 

 どうと倒れ伏すゼイゼル。やがて彼が動かなくなるのを見届けると、リリィはその傍に膝をつき、彼の上着に手を伸ばす。

 もはや感覚が無くなった指先でなんとか取り出したのは、一本の小さな瓶。それは、解毒剤であった。毒を扱う者ならば、誤って自身がその毒に犯された際に使う為の解毒剤を持っている筈。

 危険な賭けではあったが、リリィは己の推測が間違っていなかったことに安堵し、小瓶の栓を抜くとその中身を確かめそれを呷る。

 しかしゼイゼルに勝利し安堵したのも束の間、いまだ身体の自由が利かないリリィを覆う影があった。ゼイゼルの後ろに控えていた大男、ベルガラである。彼はゼイゼルが倒されるなり静かに背負った大斧を握り、リリィの背後に忍び寄っていたのだ。

 その身の丈ほどはある巨大な斧が、へたり込むリリィめがけ振り下ろされる。今の彼女に、この一撃を躱す術はない。

 やられる――!

 リリィは自身の死を覚悟し、固く目を瞑る。

 しかし、振り下ろされたはずの斧は、どれだけ経とうとも彼女の頭蓋を砕く事はなかった。

 

「おいおい、一戦ヤったばっかりの女にがっつくんじゃねぇよ」

 

 少女の凛とした声が響く。

 恐る恐る目を開いたリリィが見たものは、自身の身体よりも大きな斧を、片手で易々と受け止める少女の姿であった。

 

「化け、物め……!」

 

 ベルガラが斧を握る手に力を籠めるも、何の冗談か斧は微動だにしない。まるでそこに縛り付けられているかのような、万力のような凄まじい力で刃を掴まれている。

 額に汗を浮かべるベルガラを見上げ、少女は不敵に嗤う。

 

「光栄に思え、テメェはこの俺様直々に相手をしてやる。この、レイリア様がな」

 

 鈍い光を放つ巨大な白刃に、少女――レイリアの小さな指先が食い込んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死を纏う者

 

 明星のレイリア。

 それは女神より遣わされた天使たちの中で最も勇ましく悪魔たちと戦った天使であり、彼女の振るう神器『薙ぎ払う銀翼』は山を砕き、地を裂き、嵐を巻き起こしたと言われている。

 彼女が舞う戦場において悪魔はその身の一片すら存在することを許されず、彼女が訪れた地には穏やかな夜明けが訪れる。故に彼女は『明星』をもたらす者と畏れ、崇められた。

 そして、幼き頃より彼女らの物語を聞いて育ったリリィにとって、どんな苦境にあっても気高く、決して挫ける事のないその姿は正しく憧れであったのだ。

 

「ほら、どうしたオッサン、もうバテちまったのか? 前戯ぐらいはしっかり付き合ってくれよ」

 

「おのれ……!」

 

 そんな彼女が、今目の前で戦っている。

 打ち下ろし、切り上げ、薙ぎ払い。

 まるで嵐のような斬撃が飛び交う中を、レイリアと名乗った銀の少女が舞い踊る。

 リリィとはまた違う、跳ねるような軽い足運びで大斧を躱し続けるその顔には嘲笑を貼り付け、顔を真っ赤にしたベルガラがさらに激しい攻撃を浴びせかけるも、振るわれる大斧は彼女の髪の毛一本すら断ち切る事が出来ないでいる。

 

「モノは立派だが、力任せに振ってるだけじゃあ宝の持ち腐れだな。それに――」

 

 振り下ろされ、強かに床を打ち付けた大斧の刃の上にふわりとレイリアは腰を下ろし、どこか呆れを含んだ瞳でベルガラを見上げた。研ぎ澄まされた白刃の上だというのに、彼女の柔肌には傷一つ付く事はない。

 

「アンタの目には迷いが見える。故に解せん。俺に武器を向ける事を躊躇うなら、何故あんな下種と一緒にいる」

 

「だま、れッ!」

 

 ベルガラの豪脚が、レイリアの頭蓋を砕かんとうねりを上げる。

 しかしレイリアは軽く右手をかざし、迫りくる丸太のような脚を溜息交じりに受け止めると、掴み取ったそれ(・・)を、まるで小枝でも振るような気軽さで振り払った。

 たったそれだけで、彼女の倍はあろう大男が宙を舞い、床に打ち付けられる。苦悶の声を漏らし、口から血を吐くベルガラを傍目に、レイリアはその場に取り残された大斧をおもむろに持ち上げると、その場で二三度振って見せた。轟音。ベルガラが振るっていた時の比ではない暴風が吹き荒れる。

 レイリアはその感触を確かめるように斧を握り直し、ぺたりぺたりと素足で床を叩きながらベルガラの前まで歩み寄り、その前に膝をついた。

 真っ赤な瞳が、ベルガラをじっと見つめる。その瞳に覗き込まれた途端、ベルガラは背筋に冷たい物が走るのを感じた。まるで心の奥底まで覗かれているかのような、不気味な感覚。

 きし、とレイリアが歯を軋ませながら笑った。

 

「決めた、お前は奴隷として飼ってやろう。ひとまずは、そうだな、そこで腰を抜かしてるお嬢さんの面倒でも見てもらおうか」

 

「ふざ、け――!?」

 

 突然奴隷扱いされたベルガラは当然怒りを露わにし、彼女を噛み殺さんばかりの勢いで睨み付ける。しかし伸ばされた細い指が彼の太い首を掴み上げ、その巨体を床に叩きつけた。

 ベルガラが血反吐を吐き、苦悶の表情を露わにするその腹の上に、レイリアが馬乗りになり睨み付ける。宝石のような瞳が妖しく揺れた。

 

「勘違いするな、オッサン。お前の命はもう、お前のものじゃない、俺のものだ。生かすも殺すも俺次第。まあ、せいぜい役に立てるよう尽くす事だ」

 

 手を離し、斧を担ぎ直すレイリアを見上げベルガラは力なく項垂れた。彼は決して無能ではない。その実力、経験はリリィが下したゼイゼルに勝る。その経験が告げていたのだ、彼女に逆らう事は、荒れ狂う大海へ船を出すより無謀だという事を。

 

「どういうつもりですか、レイリア様」

 

 しかし満足げに鼻を鳴らし立ち上がるレイリアに対し、異を唱える者があった。言わずもがな、リリィである。

 彼女はようやく毒が抜けきった身体を引きずるようにしてレイリアの前に立つと、その澄んだ蒼い瞳でレイエルを睨み付けた。

 

「そう畏まらなくていい。どうもこうも、あのオッサンはまだまだ利用できる、だから生かした。それに、あれほど体格の良い奴隷はそうはいない。荷物持ちや、庭や畑の手入れ、何だったら夜の(・・)相手をさせても十二分に遊べるだろう。まさに掘り出し物だ、なんの不満がある?」

 

「そうではなく、何故私が賊の面倒を見なければいけないのですか! 奴隷だと言うのなら、貴方様が所有者となるのが当然でしょう!」

 

 食って掛かるリリィに、レイリアは鼻を鳴らす。その背後ではようやく落ち着いたベルガラが、どこかばつが悪そうな顔で息を吐いていた。年端もいかぬ少女が夜の相手だのと言い出した事もあるが、二人の会話から、自分がいよいよ奴隷として扱われるのだと実感が沸いてきたからである。

 無論、奴隷とはいえ犬畜生のような扱いを受ける事は稀だ。

 奴隷とは貴族の財産であり、高級品だ。これを粗末に扱えば、他の貴族から品位を疑われる程度には扱いに気を遣っている。使い潰して殺してしまうなど、以ての外だ。

 故に奴隷には最低限の生活は保障されるし、美しい女ならば側室として取り入る事も可能だろう。尤も、貴族に買い取られた場合の話ではあるが。

 特に自分は少女の言う通り体格に恵まれているし、病気にもなっていない。農奴程度の扱いは受けられるだろう。

 

「ああ、アイツの所有者は俺だ。だが、誰かさんが勝手に目覚めさせてくれたおかげで、俺には行く当てがない。そこで取引だ。お前が今巻き込まれている面倒事を、俺が解決してやる。代わりにお前は、俺の面倒をみろ。着るものと、食い物、酒、温かい寝床、あとは金だな。この要求を呑むのなら、俺はお前の一切合切を救ってやる」

 

 腕を組み、傲慢ともとれる態度でレイリアは言う。

 先程のベルガラとの一戦。あの体捌きは、明らかに尋常なものではなかった。彼女の助力を得る事が出来れば、これ以上頼もしい物はないだろう。

 しかし、とリリィは唇を噛んだ。

 

「貴方様は、かの女神リアディア様が使わした天使、明星のレイリア様では無いのですか。何故、そのような事を……」

 

 天使とは悪を滅ぼし、人類を守護する者、高潔な存在ではないのか。それがこんな、救いに対し見返りを、それも金銭を要求するなどと。

 憧れ続けた存在が心の奥底で崩れていくのを感じ、リリィが涙をこぼす傍らでレイリアは顔を顰めた。彼女の零したその言葉の中に、決して見逃せないものがあったからだ。

 

「女神リアディア様、明星のレイリア、ねぇ……? ホント、千年の間にどこがどう歪んでそうなったんだか、まあ、だいたいの見当はつくが。とりあえず、その小奇麗な伝説は忘れちまった方がいいぜ、あの戦争(・・・・)は、聖戦なんてご立派なもんじゃあなかった」

 

 そう言って、その瞳に憂いの色が浮かぶ。そしてどこか遠くを見つめるその姿はつい先ほど大男を手玉に取り、大斧を振り回していた少女とは思えないほど儚げで、リリィはその姿につい目を奪われてしまう。

 しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間にはその表情は先程までと同じ、自信に満ち溢れたものに戻っており、見間違いだったのかとリリィは目を瞬かせた。

 

「とにかく、だ。今はとりあえず、最低限必要な物だけ頂くとしよう」

 

 そう言ってレイリアは、何を思ったのか既に事切れて冷たくなったゼイゼルの亡骸へと歩み寄ると、その傍らに膝をつき背負った大斧を自身の前に置くと、胸の前でそっと手を組んだ。

 その姿はまるで天へと祈りを捧げるようで、そこには目を奪われる程の、犯しがたい神聖さがあった。瞳を閉じたレイリアが、そっと言葉を紡ぐ。

 

「Siutrom xe sic(死者は)songa de iru(死者によって)d rep siutrom(葬られよ) ed」

 

 古代帝国語で唱えられたそれが何を意味しているのか、リリィとベルガラには理解できない。しかし、それはきっと死者を弔う祈りの言葉なのだろうと、漠然とそう感じた。

 そして次の瞬間、もたらされた異変に二人同時に言葉を失う。

 まずはゼイゼルの亡骸が不思議な光に包まれ、浮き上がった。粉雪のような、儚げな光である。

 しかし、二人が真に目を疑ったのは、次なる変化だ。光に包まれたゼイゼルが、その末端から光となって崩れ始めたのだ。それはまるで、織物が一本の糸へと解けていくような、あるいは降り積もった雪が春になり溶けて消えていくかのような、不思議な光景だった。

 ゼイゼルから溶けだしたその光は目の前のレイリアへと吸い込まれるかのように集まり、その身体を包み込む。

 やがてゼイゼルの身体全てが光へと変わり、レイリアの身体を包む光がより一層その輝きを増したとき、彼女はその瞳をゆっくりと開き、大斧を手に立ち上がった。うねりを上げて大斧が振るわれ、纏っていた光が爆ぜる。

 二人がたまらず目を瞑る輝きが収まった時、そこには先程までと変わらぬ表情を浮かべ、しかし少しばかり異なった趣の少女が立っていた。

 胸と腰には細長い布が巻き付き、耳には銀の耳飾りを、足には木で拵えた靴を履いている。そして手にした大斧は水銀につけたような銀色に変わり、その柄には武骨な鎖が巻き付いていた。

 鎖を鳴らしながらレイリアはその大斧を担ぎなおし、二人を見やる。

 

「さて、それじゃあ行こうか。千年ぶりの大暴れだ」

 

 きし、とレイリアは犬歯を露わに凶暴な笑みを浮かべる。

 しかしいざ出陣せんと部屋の出口へと向かったところで、再びリリィが待ったをかけた。怪訝な表情を浮かべレイリアが彼女の方へ振り向き、その隣でベルガラが息を吐いた。

 

「いちいち水を差すなよ、面倒な女だな」

 

「も、申し訳ありません……って、そうではなくて!」

 

 先程の現象はいったい何なのか。あの男の死体はどこへ消えたのか。そもそも、伝説の天使ではないと言うのなら、貴女は何者であるのか。

 口角泡を飛ばす勢いで食って掛かるリリィにレイリアはさも鬱陶しそうに眉を寄せ、羽虫を払うような仕草をした。かつかつと木靴で床を叩きながら彼女は溜息交じりに口を開く。

 

「万物魔素理論を知っているか?」

 

「……ある程度なら」

 

 少し前に歩いた道を引き返しながら、やや不満げにリリィは答えた。

 万物魔素理論。それは古代帝国が誇った超文明、それを支えた魔科学技術の根底にあったとされる考え方であり、この世の全ての物質は〝魔素〟と呼ばれる目に見えないもので形作られている、という考え方である。

 しかし現代においては、この理論は徐々に否定され始めていた。

 その原因は遺跡から関係資料や遺物が発掘されてはいるものの、それを正しい形に復元し、その理論を実証できる者が誰一人として現れていない事が大きい。

 果たして本当に古代帝国はこの理論を用いて文明を発展させていたのか。もしや現代人たる我々は、何か大きな思い違いをしているのではないだろうか。

 そんな疑念を抱かれ始めているもの、それが万物魔素理論であり、古代帝国の魔科学技術である。

 しかし少女は、レイエルはリリィのそんな話を鼻で笑い、その長い銀髪を乱暴な仕草で掻き揚げた。

 

「情けないな、お前たちは。まあ、千年も経てば多少はオツムもゆるくはなる、か」

 

 むっとするリリィをしり目に、レイエルはぴんと人差し指を立てながら続ける。

 

「この世の全ては魔素と呼ばれる、小さな小さな粒子で構築されている。そして魔素の性質は一つではなく、お偉いさん方(俺の時代の学者)が発見したその数は百と十八。万物はこれらが複雑に絡み合って出来ている、らしい」

 

 俺は学者ではないからな、詳しい事は知らん。

 言葉を一度区切り、レイエルは咳払いをする。

 そんな彼女の言葉を一言一句たりとも聞き逃すまいと、リリィはじっと耳をそばだてた。実際に千年前の古代帝国時代を生きた、正しく生き証人の言葉である。王都にいる学者たちが大金を叩いてでも聞きたがる程の価値が、彼女の言葉にはあるのだ。

 

「そして知っているだろうが、俺たちはこれを利用する。さっき俺があの下種の死体に使ったのがこれの応用だ。特殊な術式によって人間の身体を構築している魔素を分解し、任意の形に組み直す。しかしこの術式は意識がある生物には使えない。己が己であらんとする意志の力が働いて、魔素の結合が解けないからだ」

 

「無理、分解すると、どうなる」

 

 そう疑問を呈したのは、隣を歩くベルガラであった。

 言葉を遮られ、レイエルの眉間にほんの少し皺が寄るものの、僅かに視線を彷徨わせるだけで特に嫌味を口にする様子も無い。よほど彼を気に入っているのかと、リリィは少しばかり胸が痛くなった。

 

「……無理矢理組み替える事も可能ではあるが、それは禁忌とされ行われた例は無い」

 

「しかし、それならば床や天井を用いてもよかったのでは? 何故遺体を弄ぶような真似を……」

 

「人間の身体が一番都合が良いんだよ。肉、骨、血、人間の身体を構築する魔素の種類、数は他の物質を遥かに凌ぐ。それに、武具として利用しない余剰分は全て俺の動力へと回しているからな、死して尚大量の生命力を残す人間の死体はその点でも好都合なのさ。何より――戦場において、最も手軽に入手できる素材でもある」

 

 レイエルの深紅の瞳が妖しく光り、口元に裂けるような笑みが浮かぶ。

 それを見た瞬間、リリィはぞっとして身を震わせた。そして自身の中の疑念が、確信へと変わる。

 彼女は決して、伝説に残る天使などではない。もっと怖ろしく、邪悪で、悍ましいもの。

 そう、これではまるで――

 

「無駄話はここまでだ。着いたぜ」

 

 床を叩く木靴の音が止まる。

 通路をずっと進んだ先にある行き止まり。リリィが初めてこの遺跡に降り立った場所に、三人はやってきていた。

 

「扉、ない。どうする?」

 

 磨き上げられた壁に手を付き、ベルガラが首を捻る。その様を見て、レイエルが呆れたように肩を竦めた。

 

「お前ら、まさかろくに調べずに転がり込んできたのか。よかったなあ、俺が目覚めて。でなけりゃお前ら、全員仲良くここで飢え死にしてたぜ」

 

 そう言ってレイエルはおもむろに壁へと手を伸ばし、ぐっと力を籠める。

 

Maunai irepa(扉を開け), oge Lyall」

 

 そして彼女が古代帝国語でそう唱えれば、鏡の様な壁面に光の線が走り抜け、三人の足元を覆うほどの巨大な魔法陣が出現した。リリィが遺跡に入る際に現れた、あの魔法陣である。

 

「下らない事で時間を使ったな。さあ行くぞ、美味い飯と酒と、柔らかい寝床が俺を待ってる」

 

 じゃらりじゃらりと鎖を鳴らし、大斧を肩に担いだ少女は不敵に笑う。

 神話の時代を生き抜いた修羅が、現代に解き放たれた瞬間であった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東方の獅子

グロテスクな表現があります。ご注意下さい。


 

 辺境の街ファティア。

 ガルジダ王国との国境にほど近い場所にある街であり、北にそびえるジェリア山脈を源流とするキイル川が北から南へと流れ、その清流を活かしたぶどう酒造りが盛んなのどかな街である。

 そんな穏やかな街を守るのは、周囲をぐるりと囲む巨大な二枚の防壁。〝ファティアの双盾〟と呼ばれる、隣国バルラキア王国からの侵攻を幾度と無く跳ね退けたこの街の誇りであった。

 この街が別名〝不落都市〟とも呼ばれる由縁の一つである。

 そんな街から少しばかり離れた場所に、この地を治める辺境伯、グラス・ヴェル・ファルブルムの屋敷は建てられていた。煉瓦造りの屋敷の周りを石で組まれた高い塀が、さらにその外側には水を張った堀がぐるりと囲んでいる。

 屋敷へと続く橋の先には鉄製の門が嵌め込まれ、それを抜けた先には手入れの行き届いた庭園が広がっていた。

 そして夜風に揺られながら草花たちが眠るさらに奥。室内の蝋燭がぼんやりと照らす格子窓の向こうで、この屋敷の主である辺境伯、グラス・ヴェル・ファルブルムは目を覚ました。

 今宵何度目かになる目覚め。椅子に縛られた両手足には未だ鈍い痛みが残り、腫れ上がった瞼のせいでいつも以上に室内が薄暗く見える。

 歯が折れ、血だらけになった口内から彼はゆっくりと息を吐いた。

 脳裏を過るのは、自身が身を呈して守った最愛の娘の姿。彼女は無事に、あの場所へと辿り着けただろうか。

 幼い頃から伝説の天使たちに憧れ、花を愛でるより剣を振っている事の方が多いお転婆娘ではあったが、女神リアディアのご加護か大病を患う事もなく無事に先日十五の誕生日を迎えた、妻の面影を色濃く残す我が娘。

 あの深い森の中に逃げ込むことが出来れば、土地勘のある娘ならば追手を振り切る事も出来るだろう。遺跡に入ってしまえば、それこそ〝扉が開いているところを〟追手に見られない限り、追跡は困難だ。

 しかし、自身も彼女を逃がすために刃を交えたからこそわかる。自身たちを襲った賊たちは、決してただのならず者たちではないと。

 辺境伯は(ほぞ)を噛む思いで身を捩る。手足に食い込む荒縄が更なる痛みを与えるが、今も賊に追われている娘を想えばこの程度の痛みなど何するものぞと、彼は手足を捨てる覚悟で縄を切らんと、その手足に更なる力を籠めた。

 

「いけませんよ旦那様(・・・)、もっとご自愛くださらなくては」

 

 暗闇から声が響き、辺境伯の背後からぬっと伸びた手が彼の肩にそっと置かれた。

 蛇の様な、人の心を絡めとるような男の声。辺境伯が顔を歪め、自身の背後を睨み付ける。

 現れたのは汚れ一つ無い白い綿の服の上に黒の上着を羽織り、白い手袋を付けた優男であった。白金の髪を後ろに流し、銀縁の丸い眼鏡をその整った鼻先に引っ掛けている。

 彼はかつかつと革靴を鳴らしながら辺境伯の前に回り込むと、その痣だらけになった顔を見下ろしながら不敵な笑みを浮かべた。蝋燭の火に照らされて、眼鏡の奥にある青い瞳がぎらぎらと妖しい光を放つ。

 

「ギルバート、何故だ、何故お前が!」

 

 口から赤い泡を飛ばしながら、辺境伯が噛みつかんばかりの勢いで叫んだ。

 それもそのはず。現れた優男は、十年以上辺境伯に仕え続けた、彼の右腕と呼ぶべき人物であったのだ。

 誠実で頭も良く、その人柄に娘のリリィもよく懐いていたというのに。何故。

 辺境伯は歯を食いしばる。彼に(・・)殴りつけられた時の傷が、じくりと鈍い痛みを発した。

 そう、辺境伯の目の前で冷ややかな視線を浴びせるこの男こそが、今回の襲撃を手引きした黒幕であったのだ。

 

「しかし幾たびも隣国、ガルジダ王国の侵攻を退けたかの〝東方の獅子〟も、こうなってしまえば随分と情けないものですねえ」

 

 ガルジダ王国とはこの街より東、荒涼とした荒野を抜けた先に広がる、その国土の殆どを砂漠地帯が占める大国である。彼らは肥沃な土地を求めて過去何度もこのバルラキア王国を侵略せんと兵を差し向けたが、その度にこの辺境の街ファティアを攻略することができず撤退を余儀なくされた。

 その要因こそが街をぐるりと囲む二枚の防壁と、〝東方の獅子〟と褒め称えられた名将グラス・ヴェル・ファルブルムの存在である。

 だが全盛期には倍近い戦力差を覆す知略、一騎当千に値する剣の冴えを誇ったかの猛将であっても所詮は人の子。老いによる身体の衰えからは逃れようがない。

 しかし、衰えたとはいえ獅子は獅子。

 驚く事に彼は最愛の娘を屋敷の隠し通路から逃がした後、それを追おうとした傭兵三十人を相手取り半数以上に致命傷を与え戦闘不能にするという、獅子の二つ名に恥じぬ大立ち回りを演じたのである。

 戦場ではその剣の一振りで十の首を飛ばしたと語られるその剣技と、齢五十近い男とは思えぬ圧倒的な気迫に傭兵たちは恐れおののき、ギルバートが侍女の一人を人質に投降を迫るまで、誰もが凍り付いたかのようにその場から動く事が出来ない程であった。

 

「目的は何だ。私の財産が目当てならば、諦める事だ」

 

 辺境伯は、貴族にしては珍しく節制を旨とする人物である。

 宝石や貴金属、骨董品の類を蒐集する事も無く、自身の得た財はその殆どを街の整備や土地開発などの費用に充てていた。この地を治める人間として、上位者としての威厳を保つ為に領民と比べると多少は贅沢な暮らしを送っていたが、その蓄えは他の貴族と比べると随分と少ない。わざわざ数十人の傭兵を雇ってまで狙うほどの物ではない筈だ。

 しかし彼の言葉にギルバートは心底呆れたように肩を竦め、薄ら笑いを浮かべながら眼鏡の縁を中指で押し上げた。

 

「これはまたご冗談を。聡明な貴方の事だ、もう察しがついているのでしょう? |我々≪・・≫が何を求めているのか」

 

 ゆっくりと辺境伯に近づくと、突然ギルバートは身動きの取れない彼を椅子ごと蹴り倒した。大きな音を立てながら倒れた辺境伯がぐっと呻き声をあげ、苦悶の表情を浮かべる。白い手袋がおもむろに彼の髪を掴み上げ、ぞっとするほど冷徹な瞳が、丸眼鏡の奥から彼の瞳を覗き込んでいた。

 

「さあ、教えて頂きましょうか。貴方が、いや、貴方たちファルブルム家が|千年前≪・・・≫から隠し続けてきた古代帝国の遺跡と、そこに眠る天使について」

 

 どこでその事を――

 思わず口をついて出そうになったその言葉を、辺境伯は寸でのところで飲み込んだ。

 脳裏に過ぎるは森に隠された遺跡と、その奥で眠り続けているという天使の言い伝え。そして、今は亡き父から教えられた伝説の正体。

 ギルバートは先程、|我々≪・・≫と言った。つまり、今回の騒動は彼が単独で計画した物ではない。額に冷ややかな汗を流しながら、辺境伯は思考を巡らせる。

 ファルブルム家が隠匿する遺跡や天使の秘密は門外不出。彼の代に至るまで、家督を継ぐ長男長女以外には決して明かしてはならぬという鉄の掟が遵守されてきた。そしてそれは彼の娘であるリリィにも徹底させており、一族の何者かから漏れ出た可能性は極めて低い。

 では何故、自身の頭を掴み上げ、不敵に笑うこの男は遺跡や天使に関しての情報を知り得ているのか。辺境伯は、それがただただ不気味であった。

 何者かが。辺境伯である自分でさえも見通すことが出来ない何者かが、彼の背後に潜んでいる。

 そしてその何者かは、少なくとも千年前の、あの聖魔大戦の真実を知っている。悪魔とは、天使とは何か。その正体を掴んでいる。

 

「……いったい何の話だ。まさか、伝説の天使が実在するなどと世迷言を――」

 

 辺境伯の言葉は最後まで続かなかった。ギルバートが薄ら笑いを浮かべたまま、掴み上げた彼の頭を床へと強かに打ち据えたのだ。

 鈍い音が室内に響き、裂けた額から鮮血が滴り落ちた。

 

「言い方を変えましょうか。かつて古代帝国により生み出され、しかしその力の強大さ故に封印された|古代兵器≪・・・・≫が眠る場所を、貴方は知っている筈だ」

 

「……そんなものは知らん」

 

 床を打つ音が響く。

 ギルバートは溜息を吐き辺境伯の頭を掴んでいた手を離すと、懐から何かを取り出して辺境伯の目の前で揺らす。それは二枚の鉄片を三つの螺子で繋いだ、掌に収まるほどの小さな器具であった。内側には三角錐状の突起が並び、中心を支える螺子の頭は指で抓んで回せるように平たく加工されている。

 

「ふふ、私も出来る事ならこんな血生臭い物は使いたくはないのですが、貴方がどうしても教えたくないと仰るのであれば仕方ありませんね」

 

 それは〝指潰し機〟と呼ばれる拷問器具であった。

 二枚の鉄片の間に手や足の指を挟み込み、中心の螺子でゆっくりと締め上げるという簡単な仕組みではあるが相手に与える苦痛は凄まじく、その小ささから持ち運ぶ事も容易であるので罪を犯した者への罰や、捕虜への尋問を行う際によく使用された。

 ギルバートは不気味な笑みを浮かべながら後ろ手に縛られた辺境伯の手を取り、その右手の親指を〝指潰し機〟に挟み込んだ。僅かに中心の螺子が絞められ、内側の突起が親指の肉に喰らいつく。

 

「この状況で顔色一つ変えないその精神力には感嘆いたしますが、残念ながら人の指は二十本あるのですよ。潔く〝天使〟について喋って頂いた方が賢明だと思いますが」

 

 辺境伯はこの問いかけに対し、ただただ黙する事で応える。

 未だ強い意志を宿したその瞳にギルバートは再び溜息を吐き、力いっぱい〝指潰し機〟の螺子を回した。

 そこからは、正しく地獄の様な光景であった。

 まずは爪が割れ、突起が肉を抉った。室内には辺境伯のくぐもった声と血の滴り落ちる音だけが響き、口を割らない事に苛立ったギルバートが時折彼の腹を蹴り上げ、頬を殴る。

 やがて右手の親指の骨が砕け、潰れ、左手の親指もほどなく同じ結末を迎えた。

 辺境伯の額には大粒の汗が流れ、しかし彼はこの責め苦を受けながら一度たりとも悲鳴をあげたり、助けを乞う事はしなかった。驚異的な精神力である。

 しかし、だからこそギルバートは苛立ちを隠せないでいた。時間ならまだ余裕はある。月はまだ天高く輝き、傾き始めた様子は無い。屋敷を固める警備の人間には金を掴ませ、こちら側へと引き込んだ。街の人間が異常に気が付いたとしても、それは日が昇ってからだ。

 苦痛を与える方法ならば幾つも思いつくが、これまでの様子を見る限り、肉体的な痛みで辺境伯が口を割るとは考え難い。金銭で靡く低俗な人間でもないだろうし、どうしたものか。

 そうギルバートが頭を抱えていたそんな時、部屋の扉を乱暴に叩くものがあった。

 何者かと尋ねてみれば、どうやらギルバートが雇った傭兵の一人のようだ。扉の向こうから、くぐもった低い男の声が届く。

 

「女、捕まえた。領主の、娘」

 

 どこか訛りのある言葉ではあったが、その知らせを聞いたギルバートは思わず手を叩きたくなった。交渉の鍵でもあった辺境伯の娘、リリィ・ヴェル・ファルブルムがついに自身の手に落ちたのだ。それは、彼が勝利を確信した瞬間でもあった。

 腹の底から響くような笑い声が漏れる。その整った顔に裂けるような笑みを張り付けて、ギルバートは顔を真っ青にした辺境伯を見下ろした。

 

「馬鹿な、リリィまで……そんな、そんな!」

 

「くく、ははは、残念でしたねえ、伯。ここまで随分と手こずらせてくれましたが、これで貴方だけに拘る必要もなくなった。まずは貴方の目の前で、ゆっくりとお嬢様からお話を伺うとしましょうか」

 

「待て、娘には手を出すな!」

 

 辺境伯の悲痛な叫びに心を昂らせながら、ギルバートはゆっくりと立ち上がる。如何に屈強な精神を持つ人間であろうとも、目の前で肉親が辱められる屈辱に心が折れない筈はない。娘の手足を縛り付け、適当な傭兵共に襲わせればあの固い口も少しは柔らかくなるだろう。

 そんな事を考えながら、ギルバートは大手柄をあげた傭兵を招き入れる為に扉へと手をかける。

 閃光。

 視界が白く染まる。

 浮遊感。

 全身を暴風が襲い、落雷を受けたような衝撃が頭からつま先までを刹那の間に走り抜けた。

 何が起こったのか。ギルバートは明滅を繰り返す視界の中で考える。

 それは、俄かには信じがたいものであった。

 扉が爆発したのだ。彼が手をかけ、今まさに開かんとしたその瞬間に。

 打ち破られた際の轟音は屋敷全体を揺らす程で、木っ端微塵に粉砕された扉の破片はまるで石礫のようにギルバートの全身を打ち据え、その余波だけで彼の身体は部屋の反対側まで吹き飛ばされてしまった。

 

「よう、野郎二人でシコシコお楽しみ中に悪いんだが、これも仕事でな」

 

 じゃらり、と鎖の音。

 凛とした声と共に暗闇から現れたソレに、二人は言葉を失う。

 華奢な身体。褐色の肌に銀色の髪。血のような瞳で二人を|睨≪ね≫め付けるソレは、絵画の如き美しさを誇る一人の少女であった。

 そしてソレは自身の身の丈以上はあるだろう巨大な銀色の戦斧を担ぎ、裂けるような笑みを浮かべる。

 

「断罪の時間だ。まあ、せいぜい楽に死ねることを祈るんだな」

 

 白銀が走った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

顕現する異形

 

「おいお嬢様。とりあえず状況的な判断ってやつでこの、いかにも女を食い散らかしてますって面したナニの先っぽみたいな奴から捕まえたが、まさかこいつがお前の父親って訳じゃないよな?」

 

 レイリアは部屋に突入するや否や、速やかにギルバートの首を掴み上げながら視線を後方へと向けた。その華奢な腕からは想像もできない膂力で締め付けられ、ギルバートが声にもならないうめき声をあげる。

 彼女が視線を向けた先、まるで爆薬で吹き飛ばされたかのような大穴から恐る恐る顔を覗かせたリリィは室内の凄惨な光景に顔を真っ青にする。短く息を呑み、やがて部屋の中央で倒れている父の姿を見つけると、とうとう一切の血の気がなくなった顔でその傍へと駆け寄った。

 

「酷い、どうしてこんな……! お父様、お父様っ!」

 

 その身が血で汚れることすら厭わずに彼を抱き起し、目に大粒の涙を浮かべながら呼びかける。その声は、まるで悲鳴のようであった。

 

「ああリリィ、無事だったのか……。しかし、あの少女はいったい……?」

 

 以前とは違う、どこか力強さを宿した愛娘の瞳を見上げながら、呻くように辺境伯が呟く。

 意識がはっきりしていることに喜び一瞬顔を綻ばせたリリィであったが、次の瞬間にその笑顔は消え失せ、睨みつけるようにレイリアの方へと目をやった。

 

「お父様、私、“あの場所”に辿り着いたんです……彼女とは、そこで出会いました」

 

 “あの場所”

 それが何を指し示すのか。それを理解した辺境伯は目を見開き、いまだギルバートを壁に叩きつけたままの少女へと視線を向けた。それに気づいたレイリアが軽薄そうな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。

 

「なるほど、アンタが辺境伯か。なかなかいい男じゃねえか、また今度酒でもやろうぜ」

 

「き、さま、何者だ……! 護衛の連中はなにをやっている!」

 

 レイリアの腕をつかみ、何とか拘束を解こうとあがきながらギルバートが叫ぶ。しかし彼がどれだけ暴れようとも、その首を掴む腕はまるで微動だにしない。

 混乱の極みにあるギルバートであったが、リリィにはその足掻き続ける姿がひどく滑稽に見えた。それもそのはず、レイリアはあの巨大な戦斧を片手で振り回すほどの怪力をもっているのだ。その拘束が、常人に振りほどけるはずもない。

 

「護衛だァ? ああ、無抵抗な女を組み伏せて腰降ってた、あの猿共のことか。連中ならここにいるよ」

 

 そう言って、レイリアはその巨大な戦斧を見せつけるように彼の目の前に掲げてみせた。銀色の、美しい斧である。それを見たリリィが、何かに耐えるようにその顔を伏せた。怪訝そうに眉を顰める辺境伯とギルバート。

 それは、彼らには知りようがない事実であった。

 

「連中はイイ材料(・・・・)になったよ。おかげさまでだいぶ調子が戻ってきた」

 

 この少女は、この美しい少女はなにを言っているのだ。

 ギルバートは背筋に氷を入れられたような得も言われぬ寒気を感じ、ぶるりと身を震わせた。

 

「くそ、化け物め! おい、貴様! 貴様の顔は見たことがあるぞ、雇い主である私を裏切るのか!」

 

 どうしてもレイリアの拘束を振りほどけず、窮したギルバートが次に目を付けたのはリリィを守るように立っていた大男、ベルガラであった。アルセン諸島連合から流れてきた傭兵で、この辺りでは珍しい褐色の肌もさることながら、雇った男たちの中でも群を抜いた巨体であったのでギルバートも彼のことはよく覚えていた。

 思えば、初めに辺境伯の娘を捕まえたとギルバートを扉の前まで誘い込んだのも彼である。それなりの大金をかけて彼らを雇い入れたギルバートからすれば、ベルガラの裏切りはまさしく寝耳に水であった。

 

「俺、負けた。金は、返す」

 

 ぎこちない言葉でそう返すベルガラに、ころころと笑い声をあげたのはレイリアである。それはまるで無邪気な少女のような笑みで、鈴を転がすようなその笑い声は屋敷の中によく響いた。

 

「おいベルガラ、お前もなかなかの悪党だな。これからぶっ殺す相手に、金を返すもなにもないもんだ。だろう?」

 

 だがその前に、とレイリアは続ける。

 その瞳を覗き込んだ時、ギルバートは短く悲鳴をあげた。

 血のような赤い瞳の奥深く。そこにあったのは、僅かな光さえ宿さない深淵であった。魂さえ引き込まれそうな闇が、ギルバートをまっすぐに見据えている。

 

「だが、地獄に落ちる前に知っていることを全部吐いてもらうぜ。どこで〝天使〟について知った。テメエの飼い主は誰だ。何を考えてる」

 

「レイリア様、この屋敷でこれ以上人を殺めるのは止めて下さい! ギルバートへの取り調べは、後日こちらで行います。それで宜しいでしょう!」

 

 ぎょろりと深紅の瞳が動く。

 

「宜しくねえんだよお嬢様。辺境伯を拷問にかけてまで〝天使〟を狙う連中だ。牢に入れたところで、あの手この手で口を封じようとしてくるだろうぜ。そうなってから、真実は全て闇の中、だなんて馬鹿な結末は御免被るんだよこっちは」

 

 リリィの抗議をそう言って突っぱねると、レイリアはより強くギルバートの首を締めあげた。しかし、喉を潰さんばかりの力で首を絞められながらも、ギルバートの心にあったのは死ぬかもしれないという恐怖ではなく、歓喜であった。

 満足に呼吸すらできず、青白くなっていたその顔に狂気の色が浮かび上がる。

 

「レイリア……まさか、貴様があの、明星のレイリアか! おお、なんという幸運か。よもや、既に覚醒していたとは思いもよらなかった!」

 

 舌打ちをして、レイリアがまたリリィへと鋭い視線を向ける。表情にこそ出してはいないが、敵に無駄な情報を与えるなと、その瞳が雄弁に語っていた。

 

「……人違いだ。名は同じだが、俺様は天使だなんて大層なモンじゃない」

 

「いや、この力、そしてその美しい姿! 伝説に語られる〝天使レイリア〟に相違ない! 素晴らしい、傭兵共では相手にならん訳だ!」

 

 口から泡を飛ばしながら、まるで恋に浮かれる乙女のように語るギルバートに対し、レイリアの表情はまるで氷のように冷ややかなものであった。

 殺すか。

 脳裏に湧いて出た考えを、彼女は即座に否定する。

 ここで彼に止めを刺すのは至極簡単なことだ。首を掴むその手にあとほんの少し力を加えてやれば、脆弱な人間の身体などいともたやすく壊すことができるだろう。

 だが、それはこちらが欲している情報を引き出してからだ。

 裏で誰が糸を引いているのか。ギルバートという傀儡を誰が操っているのか。

 それを聞かずにこの男を殺してしまうことは、あまりにも軽率な行いといえた。

 そして、そのほんの僅か、刹那にも満たない彼女の葛藤。それこそが分水嶺であった。

 

「月光が如き銀の髪に、紅蓮の瞳。ああ、あの御方(・・・・)と同じで実に美しい!」

 

 歓喜に打ち震えるギルバートが発したその一言。それはまるで巨人が振るう大槌の一撃にも似た衝撃を以て、レイリアの心を打ち震わせる。

 は、と一瞬目を丸くしたレイリアであったが、ギルバートの言葉の意味を正しく理解した次の瞬間、その喉元に食らいつかん勢いで、彼に食って掛かった。背後で、リリィの慌てふためく声が響く。

 

「貴様、今何て言った……?」

 

 彼が発した一言。それは彼女にとって到底看過できないものであった。首を掴む手にも、自然と力が入る。ぐっと、ギルバートが短い悲鳴をあげるのを見て、たまらずリリィが止めに入った。

 

「レイリア様、落ち着いて下さい! これ以上は本当に死んでしまいます!」

 

「喧しい! どこまで間抜けなんだテメェは! これ以上邪魔するなら部屋から叩き出す――」

 

 その時、レイリアの言葉が不意に途切れた。同時に、何か、硝子が砕けるような音が室内に響き渡る。

 ぐらりとレイリアの小さな身体が揺れ、軽い衝撃を伴ってリリィの胸へと背中から倒れこんだ。

 突然の出来事に声をあげ、たたらを踏むリリィ。何事かと目を丸くし、受け止めたレイリアの姿を見下ろして彼女は悲鳴をあげた。

 その原因は彼女の右手。今までギルバートの首を掴み上げていたその細い腕の、肘から先がない。まるで枯れ枝を無造作にへし折ったように、そこには無残な傷跡だけがあった。

 

「この、糞がァ……!」

 

 変わり果てた己の右腕を見て、レイリアがぎちぎちと歯を食いしばりながら前方を、右腕を奪った下手人を睨みつけた。

 リリィもまた、その視線を追うようにして前方へと目を向け、そして息をのんだ。

 そこには、男がいた。言わずもがな、先程までレイリアが取り押さえていた男、ギルバートである。レイリアの腕から脱してはいるが、いまだに息苦しいのか胸元のボタンを外して大きく息を吸い込んでいる。しかし、今のリリィにとってはそんなことどうでもよかった。

 彼女が目を離させないでいるもの。それは彼の右腕であった。

 明らかに、人のモノではない。

 それは三本指があり、カエルのようにぶよぶよとした湿り気のある皮で包まれ、熊のように太く巨大で、鷹のような爪が生えていた。時折皮の下から気泡のようなものが浮かび上がり、ぱちんと弾けては腐った魚のような悪臭を放っている。

 そしてその大きな手の中には、しなやかな細い少女の腕があった。他でもない、へし折られたレイリアの右腕である。

 それを見てリリィは顔をしかめ、背後に控えたベルガラと辺境伯はその姿に戦慄し、身震いした。

 

「ギルバート、お前はいったい何者なのだ……」

 

 力ない声で、辺境伯が言う。

 握っていたレイリアの右腕を無造作に投げ捨てながら、ギルバートが不敵な笑みを浮かべた。

 巨大な右腕が振り上げられる。真っ先に動いたのは、レイリアを胸に抱いたリリィであった。

 レイリアの小さな身体を強く抱きしめ、身を挺してギルバートの攻撃から彼女を守ろうとしたのである。だが胸の中の少女が、それを是とする筈もない。

 

「馬鹿が! テメェは引っ込んでろ!」

 

 声を荒げ、レイリアは乱暴にリリィを突き放した。

 彼女の膂力は先程見せたとおりである。リリィの細腕でどうこうできる筈もなく、あっさりと弾き飛ばされた彼女は、あわや転倒するその直前でベルガラに抱き留められた。そこで、衝撃的な光景を目にすることになる。

 振るわれる巨大な右腕。

 残った左腕で身体を守りながらも、まるで小石のように打ち払われる少女。

 けたたましい音をたて、崩れ落ちる壁の音。それが何度も。

 隣の部屋どころか、下手をすれば屋敷の外にまで飛ばされてしまったかもしれない。

 馬鹿な。と、リリィの頭上でベルガラが重苦しい声を吐き出した。

 あれほどの強さを見せていたレイリアが、こんなにも呆気なくやられてしまったのだ。信じられないのも無理はない。リリィに至っては、まだ正しく状況が呑み込めてさえいない様子であった。

 

「伯よ、私は人を超えた力を手に入れたのです。何者も逆らうことができない、圧倒的な力を!」

 

 どこか恍惚とした表情を浮かべたギルバートがそう叫び身を縮こませると、その身体はさらなる変貌を始めた。

 床がきしみ、絹を裂く音ともに上着が引き裂かれる。その下から現れたのは、腕と同じく、どう見ても人ではない異形の身体。

 見る見るうちに倍以上にまで膨れ上がったその肉体は、見るに堪えない醜悪極まるものであった。

 悪臭を放つカエルのような皮。端正だった顔つきは見る影もなく、本来頭があった場所には水膨れの塊のようなものが引っ付いているだけである。

 背には蝙蝠のような翼が一対生え、鹿のような蹄のついた足が耳障りな音とともに床板を削った。

 ぶくぶくと泡を立てながら、怪物の胸からギルバートの顔だけが浮かび上がる。

 リリィが悲鳴をあげ、彼女を守るようにベルガラが前に立った。

 

「化け物め……!」

 

 それはあの遺跡で、彼がレイリアに吐き捨てた言葉であった。

 だが、彼女は力こそ人間離れしているが、見た目は美しい少女であり、人間そのものだ。それに引き換え、この、目の前で吐き気すら催す悪臭を放つモノはなんだ。

 化け物とは正しくこのようなモノなのだろうと、ベルガラは理解した。

 浮き上がったギルバートの顔が歪に歪む。

 

「化け物とは失礼な。これこそは、かつて人類を窮地においやった悪魔の力そのもの! 私は今、あの伝説の力を手に入れたのです!」

 

 化け物が両手を天高くつき上げ、歓喜の雄たけびをあげる。その拍子に皮に引っ付いていた水泡が弾け、辺りに粘液をまき散らした。

 

天使(あれ)は私が手に入れる。あの御方より授かった、この大いなる力を使って……だがその前に、お嬢様にはここまで天使を連れてきて頂いた礼をしなくてはなりませんね」

 

「ああ、そんな、レイリア様まで……。どうして、どうしてこんな……」

 

 文字通り、唯一の希望を打ち砕かれた心持ちなのだろう。リリィは力なくその場にへたり込み、ただただ涙を流し続けた。だがそれも、この化け物にとっては加虐心を煽る調味料にしかなりはしない。

 垂れ下がった頭部が裂け、口のようになった部分から霧のような息を漏らしながらギルバートが嗤った。体液を滴らせながら、異形の化け物が迫る。

 どうすればいい。

 リリィを庇いながら、ベルガラは考える。

 武器ならばここに来るまでに他の傭兵から奪った剣があるが、それがこの化け物相手に通用するかどうかは怪しいところだ。

 ならば背後の二人、辺境伯とリリィが逃げるだけの時間を稼ぐことは可能か。

 正直、これも難しいところだ。

 なにせ相手はあのレイリアを一撃で吹き飛ばした化け物だ。リリィだけならまだしも、負傷している辺境伯がいることを考慮すると十数分はここでやつを足止めしておかなければならない。

 それを自分一人、加えて剣一本で為せるかと問われると、ベルガラは首を捻らざるを得なかった。

 だが、やらなければならない。この場において、まともに戦えるのは自分一人なのだから。

 そう決意し、ベルガラは腰の直剣を引き抜いた。それを嘲笑うかのように、化け物が身を震わせる。

 

「おやおや、抵抗しようというのですか。まったく度し難い、そこまでして守るほどの義理などないでしょうに」

 

「俺、一度死んだ」

 

 それはぎこちなくも、確固たる強い意志を乗せた言葉であった。

 剣を構え、緩やかに息を吐きながらベルガラは目の前の化け物を睨みつける。

 

「俺の命、奴の物になった。主人が守るもの、俺も守る」

 

 あの時、レイリアはまるで託すかのようにリリィをベルガラの方へ突き飛ばした。

 無論、彼女にそんな意図はなかったのかもしれないし、ただの偶然だった可能性もある。だが、彼女はリリィを守ろうとした。それだけはたしかだ。

 ならば、その遺志は尊ぶべきものだと、ベルガラは剣を握る手に力を籠めた。

 

「愚かな、全くもって度し難い。いいでしょう、それほど死にたいのならば、二人仲良く殺して差し上げましょう!」

 

 化け物がその巨大な腕を振り上げ、鋭い三本の爪が鋭く光った。

 そして轟音とともにその腕が振るわれ、ベルガラの身体を無残に引き裂かんと――

 

「――誰が、誰を殺すって?」

 

 銀の光が走る。

 振り下ろされた剛腕が、ぴたりとその動きを止めた。

 

「ば、馬鹿な……!」

 

 化け物の腕を止めたもの。

 それは先端に十字の重りがつけられた、巨大な銀の鎖だった。それはベルガラもよく見知ったもので、だからこそベルガラは驚愕に目を見開き、鎖が伸びる方へと弾かれるように目を向けた。

 視線の先、崩れ落ちた壁の陰から美しい少女が現れる。

 

「まったく、粗悪品(・・・)の分際でよくもまあやってくれたもんだ。不完全な状態なら、ほんの少しばかりはやばかったかもな」

 

「レイリア様、ご無事だったのですね!」

 

 もはや見ることはないと思っていた。打ち砕かれたと思っていた少女(希望)の姿に、リリィは涙をぬぐって笑みを浮かべた。

 しかし、それも一瞬のこと。舞い上がった煙の向こうから現れた少女の姿を見て、リリィはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。

 失われたはずの、先程折られたはずの右腕が完全に治っている。これは、まだいい。

 たしかに俄かには信じがたい出来事だが、彼女が人間ではない、女神より生み出された天使であることを考えれば、まああらゆる負傷を治癒することも可能かもしれないと、多少は納得できる。

 だが、その変わり果てた身体は、いったいどういうことなのだろうか。

 現れたレイリアの身体を先程まで覆っていた、あの絹のような褐色の肌が、ない。

 いや、あるにはある。腰や胸、腕の一部には、まるでそこだけ焼け残ったかのように、少しだけ以前の肌が残っている。

 だが、その肌の下。

 そこにあったのは、まるで人形のような、人工的な関節や継ぎ接ぎだらけの白い骨格であった。

 

「れ、レイリア様、その身体はいったい……」

 

「ん? あー、これか。だから言ったろ、天使なんてお綺麗なもんじゃないって」

 

「ぐ、ぐぐ、おのれェ!」

 

 腕を絡めとられ、寸でのところで獲物を捕らえ損ねた化け物がレイリアを睨む。ぎちぎちと、腕を締め上げる鎖が耳障りな音をたてた。

 

「天使めが、所詮は使い捨ての人形如きがよくも私の邪魔をォ!」

 

「おっ、詳しいな、それもあの御方って奴に聞いたのか? まあ、いいや」

 

 ぐっと、レイリアが鎖を引く。

 ただそれだけで、絡みついた化け物の腕が不快な水音とともに千切れとんだ。

 刹那の間。怪物の絶叫が屋敷中に響く。

 

「もう、死んでいいぞ。お前も、俺の糧になれ」

 

 血のような深紅の瞳が、静かに化け物を見据えていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暴力

食人表現があります。
苦手な方はご注意下さい。


 

 夜空が赤く燃えていた。

 紅蓮の炎がまるで赤い絨毯のように大地を覆い、天を焦がさん勢いで燃え盛っている。

 散乱するのは焼け落ちた家々。悪臭を放つ家畜の死骸。人の亡骸。

 そして、そのどちらでもない、異形の肉塊であった。

 炎に焼かれ、身体の殆どが炭になって崩れ落ちていくなかで、ソレは身の毛がよだつ悍ましい呻き声をあげながら、辛うじて形を残した剥き出しの眼球を動かした。

 人の拳大はあろうその眼球が映し出したのは、炎に照らされながら佇む美しい少女の姿。

 あどけなさの中に妖しさを宿したその顔立ちに感情は一切なく、少女は目の前で焼け死んでいくソレらを硝子玉のような瞳で眺めながら、手にした凶器を振り上げる。

 月夜に掲げられたのは、少女の身の丈を超える巨大な銀の戦斧であった。

 轟音。

 叩き切るでもなく、打ち砕くでもなく、少女の細腕で振り下ろされた戦斧は、燃え盛る異形の肉塊をその肉の一片すら残さずに爆散せしめた。

 舞い上がる血煙が、少女の戦斧へと吸い込まれていく。

 それはまるで、乾いた大地が水を吸い上げるように。その刃は血を、肉を、魂を貪る。

 

――もう、終わったのね

 

 少女の背後から声がかかる。

 美しい金髪を伸ばし、腰に長剣を帯びた肌の白い少女であった。

 その少女は悲痛な表情を浮かべ胸で手を組み、祈るように戦斧の少女を見つめていた。

 戦斧の少女は応えない。ただ無言で振り返り、まるでその少女など眼中にないかのように呆気なくその横を通り過ぎていく。

 

――ごめんなさい

 

 歯を食いしばり、俯きながら少女が漏らしたのは、懺悔の言葉であった。

 

――ほんとうに、ごめんなさい

 

 家屋が焼け落ち、紅蓮の炎が天を焼く。

 炎が爆ぜる音の中に、少女の慟哭が響いた――

 

 

 

――爛々と輝く月に照らされながら、辺境伯邸の前で二人の男が話し込んでいる。

 この二人は屋敷に誰も立ち入らないよう、門前での見張りを命じられたならず者たちであり、レイリアたちが正面からではなく、隠し通路を利用して屋敷内に直接乗り込んだことで、その襲撃から逃れることが出来た数少ない人間であった。

 今の今までくだらない雑談を交わしていた二人であったが、今は揃って眉をひそめ、少しばかり神妙な表情を浮かべている。

 原因は、先ほど屋敷の方から響いた大きな物音であった。

 まるで何かが打ち倒したような、雷でも落ちたような音に二人はぎょっとして、何事かと訝しんだ。

 

「屋敷の方で何かあったのか?」

 

「お前、ちょっと屋敷に行って見て来いよ」

 

 幸いこの屋敷は街の外れに建てられているので、街の者が屋敷の異変に気付いた様子は無い。

 だが下手に騒ぎ続けて感づかれたら厄介だと、男は相棒の肩を小突いた。

 

「おいおい俺が行くのかよ……ったく、また酒でも奢れよ」

 

「わかったわかった、また一杯奢るから、さっさと行けって」

 

 溜息を吐き、小突かれた男がやれやれと門を開こうとした、その瞬間だった。

 門の向こうに見える屋敷の正面、その二階部分が轟音と共に弾け飛んだのである。

 突然の出来事に二人は飛び上がり、反射的に屋敷の方へと目を向けた。

 そして視界に映ったのは、降り注ぐ無数の木片や瓦礫、そして飛来する巨大な影。それはまるで流星の如く一直線に門へと激突し、今まさにそれを押し開こうとしていた男もろともに木っ端微塵に吹き飛ばした。

 あっという声すら上げる間もなく、扉に手をかけていた男は一瞬で物言わぬ肉片へと変わり、その凄惨な光景にもう片方の男は呆けたようにその場に立ち尽くすばかりであった。

 

「オノレェ、人形ごときガァ……!」

 

 やがて、立ち昇る土煙の中から悍ましい声が響くと、そこでようやく男ははっとして腰に帯びた剣を引き抜き、震える手を押さえつけながら声の方へと向ける。

 そして、切っ先の向こうから現れたソレを見るや否や、男はその場に尻もちをつきそうになった。

 人ではない。

 牛や馬ほどはある巨体は皮が爛れ、魚が腐ったような強烈な悪臭を放っている。

 まるで巨大な蝦蟇のようなこの化け物こそが男を雇い、辺境伯暗殺を目論んだギルバートの変わり果てた姿であった。

 男も人間であった頃のギルバートとは面識があるが、まさかこのような化け物があの紳士風の男だとは気づこう筈もない。

 そして化け物――変貌したギルバートの頭部にある、人の頭ほどの大きな目玉がぎょろぎょろと動き、男の方を向いてぴたりと止まった。

 

「ひぃ、ば、化け物!」

 

 男はその瞬間、全身の毛が逆立つような寒気に身を震わせ、悲鳴をあげた。

 だが、ギルバートの意識が男に向いたのはほんの一瞬。次の瞬間には化け物はその二つの大きな目玉を屋敷の方へと向け、まるで何かを警戒するように身を起こしていた。

 直後、屋敷の二階にあけられた大穴、先程化け物が飛び出してきたそこから、小さな人影が一つ飛び出してくる。褐色の肌は闇に溶け、しかしその美しい銀の髪を翼のように広げながら夜空を飛ぶ少女、レイリアの姿に男は目を奪われた。手にした銀の戦斧も相まって、まるで天上から舞い降りた戦乙女のようである。

 だが、それこそが命取りであったと、男はすぐ後悔することになる。

 横からぬっと伸ばされた巨大な腕が、男の胴を掴み上げたのだ。

 

「ひぃ、ひぃぃ!」

 

 男は情けない悲鳴をあげ、ギルバートの腕に剣を振り下ろす。

 しかし剣を何度打ち付けようとも強靭な表皮を切り裂く事は叶わず、やがてギルバートは男を頭上高く掲げると、粘着質な音と共にその大きな顎を広げた。蝦蟇に似た口には、鋸のような不揃いな鋭い牙が所狭しと並んでいる。

 眼下に広がった奈落の穴に自身の末路を察し、とうとう失禁までした男は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら言葉にならない悲鳴をあげた。

 みちり、と肉を引き千切る音。

 まずは男の上半身が化け物の腹に収まった。

 ぐちぐち、ごりごりという寒気を催す咀嚼音のあと、化け物は(はらわた)がぶら下がった男の下半身もその口内に放り込み、ぶるりと一度身震いをする。

 そうして化け物は男をすっかり喰らい尽くすと、傍でそれを眺めていたレイリアにぎょろりとその目玉を向けた。

 退屈を誤魔化そうともせずレイリアは欠伸をすると、杖代わりにしていた戦斧を担いでぐっと伸びをした。

 

「餌の時間は終わりか? ったく、手当たり次第に食い散らかしやがって。飢えた野犬の方がまだいくらか行儀がいいぜ」

 

「ググ……私は、ヒトヲ、超えタのダァ……!」

 

 腐臭と共に化け物の口元から汚泥が漏れる。

 どういうわけか、化け物の身体は先程よりも一回りは大きく膨れ上がっていた。

 巨大な目玉は白濁し、背には新たに魚類のような背びれが並んでいる。

 増えすぎた体重を支える為に両手足を地面につき、左右に裂けた口の隙間からだらりと鞭のような舌を垂らしたその姿は、正しく蛙のようであった。

 

「もう意識もはっきりしてねぇだろ。楽にしてやるよ」

 

 じゃらりと鎖を鳴らし、レイリアがゆっくりと戦斧を構える。

 一瞬の硬直。

 直後、レイリアの姿がかき消えたかと思えば、先程まで彼女が立っていた場所を化け物の舌先が強かに打ち据えていた。

 円形に窪み、轟音を響かせる一撃を躱し、レイリアが現れたのは化け物の懐。その顎先。

 戦斧がうねりをあげる。

 嵐のような風切り音を伴って放たれた一撃は化け物の腹を横一文字に切り裂き、その切り口から(おびただ)しい量のどす黒い体液が吹き出した。

 地の底から響くような、化け物の悲鳴が響く。

 

「ちっ、思ったより分厚いな」

 

 刃が皮と肉の奥、臓腑まで達していない。

 両手に伝わったその感覚にレイリアは舌打ちし、自身の頭上にその巨大な刃を掲げる。

 地面が、大気が震え、その刃に化け物の右腕が振り下ろされた。しかし、地を割る化け物一撃であってもその銀の刃を打ち砕く事は出来ず、逆に自身の腕の半ばまでを切断されて化け物はまた悲鳴をあげた。

 

「グギ、ギギ、オンナァ、テンシィ、アノオカタノタメ二ィ……!」

 

「黙れよ、駄犬」

 

 固く握られたレイリアの拳が、化け物の顎をかち上げる。あろうことかその一撃は化け物の巨体を易々と宙に浮かせ、化け物は土埃をあげながらどうと仰向けに倒れた。

 顎を砕かれたのか、だらりと垂れ下がった下顎から体液を撒き散らしながら化け物が起き上がる。

 ぎょろりと巨大な目玉が向いたその先には、月光に照らされ空を舞うレイリアの姿。

 繋がれている鎖を伸ばし、まるでスリングのように振り回される戦斧がごうごうと嵐のようなうねりをあげていた。

 その時、化け物が感じたのは圧倒的な恐怖。

 抗い様のない、絶望的なまでの力の差。

 それこそは、暴力の化身であった。

 

「じゃあな、また地獄で会おうぜ兄弟」

 

 大地を砕く、神の鉄槌が振り下ろされた――



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

 父の応急処置を済ませたあと、大穴から飛び出していったレイリアを追って中庭に駆け込んだリリィが目にしたものは、まるで地獄と見まごうほどの凄惨な光景であった。

 中程からなぎ倒された木々、砕け散った正門、無惨に抉られた大地。

 むせかえるような血の臭いにリリィは咄嗟に口元を押さえ、喉をせり上がってきた物をすんでのところで飲み下した。

 

「これはいったい……!」

 

 リリィの大きな瞳が驚愕に見開かれる。

 彼女が、レイリアが屋敷を飛び出してからまだ十分と経っていない。

 たったそれだけの間でこれほどの破壊をもたらすなど、いったいどれほど、あの二人の戦いは苛烈を極めたのだろう。

 震える両手を胸元できつく握り締めながら、リリィは意を決してその変わり果てた中庭を進んでいく。

 そして、その身を半ばから吹き飛ばされた門を抜けた先、まるで大量の火薬を爆発させたように大きく抉られたその場所にたどり着いた時、彼女はとうとう言葉を失った。

 

「よう、随分と遅かったじゃねぇか。もう粗方終わったぜ」

 

 その中央に居たのは不敵な笑みを浮かべ、美しい白銀の髪を月の光で輝かせる少女、レイリアであった。

 手にした巨大な戦斧は大地へと突き立てられ、そのしなやかな脚の下で何者かが蠢いている。

 僅かな水音とともに呻き声をあげるソレの正体を目にした途端、リリィは口から漏れる悲鳴を押さえることが出来なかった。

 

「ああ、そんな、ギルバート……!」

 

 ソレは自身を、そして父を裏切り、命を奪わんとした男、人であることを捨てて化け物と成り果てたギルバートの末路。

 あれほど巨大に膨れ上がっていた身体は千々に砕かれ、辛うじて原型を留めている頭部をレイリアの脚が踏みつけている。

 浮かんだのは僅かな同情、憐れみの念。

 だがそれ以上に、これほどまでの破壊を受けて尚、死にきれずにいるそのおぞましさに、彼女は恐怖した。

 身を震わせるリリィにレイリアは鼻を鳴らし、その踵で化け物の、カエルのような頭部に浮かび上がったギルバート本来の顔、そこにある眼球を踏み潰す。

 化け物が身の毛もよだつ叫び声をあげた。

 

「どうだ、笑えるほど無様だろ? こいつらは身体のどこかにある“核”を砕かない限り死ぬことはない。こうして頭だけになったとしても、周囲から魔素を吸い取りながら身体を修復してやがて復活する。まったく、反吐が出る歪さだ」 

 

 踏み潰した眼球を丹念に磨り潰しながらレイリアは顔を歪める。

 

「オ、オジョウ、サマ……」

 

 それは風の音に吹き消されてしまいそうな、余りにもか細く、弱々しい声。

 レイリアの脚の下、残ったもう片方の目玉がゆっくりとした動きで、頭上から自身を見下ろすリリィの方を向いた。

 

「タスケ……シニタ、ク、ナイ……」

 

 それは赦しを請う、救いを求める声であった。

 信頼を裏切り、大切な人々を傷付け、あげく人を捨てて化け物となった男が、今は涙を流しながら命を乞うている。

 なんと哀しく、憐れな人なのだろう。

 静かにただ一筋、リリィの頬を涙が流れ落ちた。

 

「レイリア様……彼を人へと戻してあげることは、できないのでしょうか」

 

「無理だね。これは周囲に漂う魔素と、人を構築する魔素を混ぜ合わせ、作り替える術式だ。一度形を成してしまえば、もう元に戻すことはできない」

 

 レイリアは苛立ちを隠そうともせず、その整った顔を歪めながら言う。

 これは血と水を混ぜ合わせたようなものなのだと。核を砕き、魂を解き放つことこそが唯一与えられる救いなのだと。

 そしてレイリアはおもむろに手にした戦斧を振るい、ギルバートの顔が浮き上がる化け物の頭部を切り裂いた。

 露になったその内部に覗くのは、宝石のような赤い結晶。

 人の拳ほどあるそれは怪しい光を放っており、よく見れば周りの肉へと根を張り巡らせ、僅かに脈打っているのがわかった。

 

「これが核だ。こいつが宿主の魂を縛り、魔素を食らう化け物へと堕とす」

 

 戦斧の刃先が僅かに、爪の先ほど赤い結晶へと食い込む。ただそれだけでギルバートは獣じみた断末魔の叫びをあげ、その悲痛な声にリリィは堪らず目を伏せ、唇を噛んだ。

 

「本当に、本当に手立てがないというのならば、お願いします、どうか、どうかせめて安らかに……」

 

「……あまっちょろいなぁ。ま、俺様としてもこいつはもう用済みだからな。手早く片付けて問題がないならそうするさ」

 

 戦斧を持つ手に力がこもる。レイリアがギルバートの核から一度刃を引き抜き、それを大きく天へと掲げた。

 月光に煌めくその白刃を見上げ、己の末路を悟った化け物が絶叫する。

 

「イヤダ、イヤダイヤダイヤダアアア!」

 

「テメェもつくづく往生際が悪いな。最後ぐらいは男らしく、潔く散ってみせろ」

 

 頭だけの状態で、尚も拘束から逃れようと足掻くギルバートに、レイリアは底冷えするような冷たい視線を向けた。

 そして掲げられた刃が無慈悲に、一切の容赦なく、ギルバートという化け物を殺し尽くす為に振り下ろされる。

 闇夜に響き渡る断末魔の絶叫。

 リリィは決してその光景から目を逸らすまいと、必ず見届けるのだと固く拳を握り、戦斧の一撃が核を打ち砕くその瞬間を待つ。

 唸りをあげて振り下ろされた戦斧の一撃はギルバートの核を正確に撃ち抜き、その余波を受けてまるで雷が落ちたような爆発音とともに地面を大きく抉りとる。

 舞い上がる土埃がリリィの視界を奪い、やがてその中から、しかめっ面を浮かべたレイリアが小さく咳き込みながら現れた。

 その背後では散り散りに吹き飛ばされた肉片のようなものが、嫌な音をたてながら煙をあげて燃え盛っている。

 

「けほっ、けほっ。あーくそ、ちょっとばかり加減を間違えたか。思ったよりも身体が鈍ってやがる」

 

 肌についた埃をはたき落としながら、レイリアはそう一人ごちる。その手の内には、きらりと光る宝石のようなものが。

 二つに砕かれてしまっているが間違いない。先程彼女自身が打ち砕いた、ギルバートの核だったものだ。

 

「レイリア様、それをどうするおつもりですか?」

 

 無論、それを見たリリィが黙っているわけもなく。赤くなった目元を隠そうともせず、リリィはレイリアの行方を遮った。

 それに対し、レイリアはその顔に愉悦の色を浮かべながら握っていた核を指先で弄ぶと――おもむろにそれを口内に放り込んだ。

 突然の奇行に、リリィは思考が追い付かない。

 しんと静まり返った月夜の下、レイリアが宝石を噛み砕く音だけが響く。

 リリィがようやく正気を取り戻したのは、レイリアが小さく喉を鳴らし、甘い吐息を漏らした直後であった。

 レイリアの赤い舌先が小さな唇を妖しく舐めあげ、彼女の全身に刻まれた紋様が脈打つように蠢く。

 

「何を、したのですか」

 

 顔を青くし、唇を震えさせながらなんとか発したのは、風に吹き消されそうなほど小さな呟き。

 彼女は先程、核は宿主の魂を縛るものだと言った。ならば、それが砕かれた今、そこに縛られていた魂はどうなってしまったのか。

 解き放たれ、女神リアディアのみもとへと旅立っていったのか、あるいはまだあの核の中に縛られたままなのか。

 

「そう真っ青にならなくても、あの屑の魂ならもうここにはねぇよ。砕いた核に残るのは人間を変異させ、魂を縛るほどの力、その残りかすだけだ」

 

 ため息を吐き。

 

「そもそもあんな糞みたいなやつの魂なんざ、頼まれたって食わねえよ。ネズミの糞でも食らった方がまだましだ」

 

 肩をすくめながら、レイリアはそう締めくくった。

 

「あらあらぁ、いけないわお姉様」

 

 リリィがレイリアの言葉にほっと胸を撫で下ろしたその時、蕩けるように甘い声がリリィの肌を撫でた。

 それはまるで蜜のように芳醇な香りを放ち、心を絡めとるような魔性を孕んだ声。

 そしてレイリアがゆっくりと視線を向けた先、打ち砕かれ、もはやその役割を果たせなくなった門の上に、その少女は立っていた。

 透けるような白い肌を黒いドレスが包み、淡い月明かりがその華奢な体つきを闇の中に浮き上がらせている。

 真っ赤な瞳が爛々と輝き、瑞々しい唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「せっかく用意した玩具でしたのに、もう壊してしまったのですね」

 

 夜風を受けて、少女の長い金髪が揺れる。

 その少女の姿に、リリィは見覚えがあった。といっても以前会ったことがあるだとか、そういった訳ではない。しかし――

 

「レイリア様……?」

 

 意図せず、リリィはその名を呟いていた。

 そう、目の前のこの少女の顔立ちは、あまりにもレイリアと酷似していた。

 勿論、肌や髪の色、体つきなど多少は異なる部分もある。しかし、まるでそこだけを差し替えたのではないかと思ってしまうほど、レイリアと少女は瓜二つであった。

 双子、あるいは姉妹。いずれにせよ、無関係というわけではないだろう。

 

「やっぱりテメェの仕業か。随分と久しぶりじゃねぇか、フィーエルさんよぉ」

 

 フィーエル。

 その名を聞いた瞬間、リリィは不思議な既視感の正体を悟り、それと同時に己の耳を疑った。

 何故ならばそれはかつて悪魔を打ち倒し、人々を、世界を救った天使たちの、幼い頃から憧れた名のひとつであったから。

 くすくす、くすくす。

 言葉を失うリリィをよそに、少女は穢れを知らぬ子どものような笑みを浮かべるとその指先でドレスの裾を摘まみあげ、優雅に一礼してみせる。

 

「お久しぶりお姉さま。そしてそちらの貴女は初めまして。私はフィーエル。貴女たちが天使と呼ぶ者の一人よ。ふふ、仲良くしましょうね?」

 

 そう言って、少女――救世の天使たちの一人、双星のフィーエルは妖艶な笑みを浮かべた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

激闘と夜明け

大変お待たせ致しました。


 

 リリィは己が目を疑った。

 第二の天使が現れたことに対して? 否。

 では現れた新たな天使、フィーエルの姿がレイリアに酷似していることに対してか。

 否。

 無残に崩壊した庭園。鼻を突く異臭が漂う地獄の空で、銀と金が交差する。

 甲高い音が響き、生じた突風で辛うじて残っていた芝生が吹き飛ばされていく。

 

「くすくす。流石はお姉様です。こんなに激しく求められると私、壊れてしまうかも」

 

「ああ、壊してやるよ……テメエのその不細工な顔面を、徹底的にナァ!」

 

 火花が散る。

 レイリアが振るう大斧と、フィーエルが握る、持ち手の部分が大きな輪になった片刃の大剣がぶつかり合う。

 耳障りな音をあげ、拮抗する両者。しかし浮かべるその表情はまるで正反対。

 牙をぎらつかせ、狂犬のように血走った目で睨み付けるレイリアに対し、フィーリアは友人と談笑する淑女のように、その顔に薄く笑みを張り付けている。

 どうしてこうなったのかと、リリィは軽いめまいを覚え、その場に倒れ込む。

 しかしその直前、素早く彼女の肩を支えるものがあった。館から彼女らを追いかけてきた元傭兵の大男、ベルガラである。

 彼は庭の凄惨な光景と、いまだ尋常ではない戦いを繰り広げる二人の少女を見やり、その額に玉のような汗を浮かべた。

 

「なん、だ、これ、は」

 

 それは正しく伝説の再現。

 目にもとまらぬ速度で追い、追われる二人の少女が交差するたびに閃光が走り、大斧が地を砕き、大剣が木々を薙ぎ払う。

 狂ったようなレイリアの笑い声が響き、フィーエルの長い金髪が踊る。

 何故、あの二人が争うのか。

 震える身体を気力で支えながら、リリィはゆっくりと立ち上がる。

 伝説ではレイリア、フィーエルたち天使は勇者と力を合わせ、共に悪魔たちからこの世界を守り抜いたといわれている。

 そう、かつては手を取り合い、志を同じくした仲間だったはずなのだ。

 だというのに、どうして。

 

「恐れていたことが、起こってしまったか……」

 

 リリィの背後から、呟くような声が届く。

 はっとして見れば、そこには満身創痍であるはずの辺境伯、グラムが立っていた。

 どうやら応急処置はされているようだがその両手に巻かれた包帯には血が滲み、杖を使わなければ立っているのがやっと、といった風である。

 

「お父様、どうしてここに! 早く屋敷の中へお戻りください!」

 

 本来ならば、安静にしていなければならない筈の傷。

 さっと顔を青くしたリリィが駆け寄って肩を貸せば、恐らくは限界だったのだろう、辺境伯は崩れるようにしてその場に膝をついた。

 息を粗くし、それでも天使たちが激突する光景から決して目を離そうとしない父の険しい表情に、

リリィは意を決して問いを投げかける。

 

「お父様は、ご存じだったのですね。レイリア様のことを」

 

 しばしの沈黙。

 返されたのは、肯定の言葉。

 

「ああ、知っていた。伝説の天使たちが実在することも、そして、あの森の遺跡に彼女が封印されていたことも」

 

「封印……? 封印とは、いったいどういうことですか!?」

 

 縋りつくように問いかけるリリィの真っ直ぐな瞳に、辺境伯は目を伏せて言い淀む。

 伝説では、彼女たち四天使は魔王を討ち果たした後、女神リアディアが待つ天界へと帰っていったとされている。

 それが、封印されていた(・・・・・)

 なぜ。誰が?

 かの女神リアディアが?

 否。それでは伝説の内容と矛盾が生じる。

 では誰か。

 決まっているそれは――

 リリィの胸の内で膨らんでいく疑念。

 だがそんな彼女の思考を妨げたのは、頭上で響き渡った轟音であった。

 まるで大砲が炸裂したような音とともに、リリィたちのすぐ傍へと金色の天使が突き刺さる。

 瓦礫が飛び散り、土煙が舞い上がる中で、リリィはしかと見た。

 普通ならば即死してしかるべき衝撃で地面に叩きつけられたにも関わらず、その美しい肌に傷一つ負っていない少女の姿を。

 そして、その血のように赤い瞳がリリィをしかと捉え、蠱惑的な笑みを浮かべたところを。

 

「呑気によそ見なんざしてんじゃねェぞ、がらくたァ!」

 

 フィーエルを叩き潰さんと、頭上から流星の如く大斧が打ち下ろされる。

 だが彼女は薄ら笑いを浮かべながら大剣を頭上に掲げると、まるで木の枝でも受け止めるかのようにその一撃を防ぎきってしまった。

 火花が散り、フィーエルの細い両脚が大きく地面へとめり込む。

 

「酷いわ。お姉様はあんなに美味しそうな子を傍に置いているのに、私は味見もさせてくれないのね」

 

「腹が減ってるならたらふく食わせてやるよォ、テメェの(はらわた)をなァ!」

 

 拮抗する斧と剣。

 フィーエルがふっと腰を落とし、剣の腹を滑らせるように斧を受け流すと、その刃が地面を抉るより早く片手を離したレイリアがフィーエルの顔面を砕く勢いで肘打ちを放つ。

 それをフィーエルが左手で受け止めるのと同時に斧が地面を砕き、その衝撃で浮き上がった石のつぶてをレイエルが器用に足の爪先で蹴り上げた。

 上体を逸らすことでそれを避けるフィーエル。

 そこを狙って、半ばまで地面に埋まった大斧がうねりをあげて斬り上げられる。

 だがそれも不発。

 ドレスの裾を優雅に翻しながら、くるりと後方へと飛び退いたフィーエルが音もなく着地し、仰々しく一礼してみせた。 

 

「ああ、イイ、イイ、楽しい、とても愉しいわ。このままだと私、気持ち良すぎて達してしまうかも」

 

 震える身を煽情的に掻き(いだ)きながら熱い吐息を吐き出し、頬を赤らめるフィーエル。 

 そのまま踊るようにくるりと左へ回ってみせれば、鎖の音と共に先程までフィーエルが立っていた場所へと大斧が突き刺さった。

 

「喧しいンだよ畜生風情が。テメェだけは壊す、この俺様がァ……!」

 

 鎖を握る手に力がこもり、銀の大斧がレイリアの手元へと引き戻されていく。

 

「どいつもこいつも、亡霊共が雁首揃えて墓穴から這い出してきやがって。さっさとくたばれ! さっさと消え失せるべきなんだよ、俺様も、テメェらも!」

 

 吐き出すようにそう叫び、狂気に染まった瞳がフィーエルを貫く。

 ゆらりと大斧を構えるそのさまは正しく幽鬼そのもので、見る者の魂さえも凍てつかせそうなその姿は、離れた場所でなりゆきを見守っていたリリィですら身震いするほどであった。

 だが、レイエルが獣の如く身を縮めて必殺の一撃を繰り出そうとしたその瞬間、事態は急変することとなる。

 始まりは閃光。そして、フィーエルの嘲笑うような一言。

 

「ダメよ、お姉様。今日はここまで。お楽しみは取っておかなくっちゃ」

 

 吹き飛んだのは、今まさに飛びかからんとしていたレイリアの左腕であった。

 言葉を失う一同。リリィの顔からさっと血の気が引く。

 そして宙を舞う自身の左腕をレイリアが目で追ったその直後、次はその身が右肩から腹部にかけて、袈裟懸けに切り裂かれる。

 舞い散る鮮血。

 夜空を紅い飛沫が彩り、リリィの悲鳴が闇夜を切り裂いた。

 

「ズルいよ、姉さん(・・・)。ボクを除け者にするなんて。ボクだって、お姉様(・・・)に遊んでもらいたかったのに」

 

「……アア、そうだな、すっかり忘れてたぜ。フィーエルの糞野郎が生きてたんだ、そりゃあテメェ(おまけ)もいるに決まってるよなァ、ディーエルさんよォ!」

 

 舞い降りたのは、フィーエルと同じ美しい金髪を肩で切り揃えた、青い瞳の少女。

 その名は伝説の天使、その一翼を示すものであった。

 双星のフィーエルと対をなす、双星のディーエル。

 比翼の天使。その片割れ。

 しかし顔つきこそ瓜二つであるが、燕尾服にも似た紳士然とした上着に膝が覗くほど短いズボンと、一見すれば少年にも見えるような服装をしている。

 そしてその手には、フィーエルのそれと同じ形の大剣が一振り。

 同じ形の凶器を手にした少女たちは、まるで鏡合わせのように互いに頬を寄せ、互いの熱を確かめるように軽く口付けを交わす。

 

「ふふ、ごめんなさいね。お姉様の匂いがしたから、私もう我慢できなくって」

 

「しかたないな、姉さんは。今夜は特別だよ?」

 

「――俺様を無視して乳繰り合ってんじゃねェゾがらくた共ォ!」

 

 咆哮。

 そして次の瞬間、リリィはまたしても言葉を失った。

 つい先程切り飛ばされたレイリアの左腕と、どう見ても致命傷だと思われた胴体の傷。それらの断面から深紅の、おどろおどろしい蔓のような物が伸びてきたかと思えば、それらが腕を形作り、あるいは引き裂かれた胴を繋ぎ合わせ、あっという間に身体を元通りに治してしまったのだ。

 どういうことか、纏っていた衣服までもが完全に復元されている。

 化け物。

 そんな言葉が、リリィの脳裏をよぎった。

 

「この程度で余裕こいてンじゃねェぞ糞が! おら来いよ、纏めて相手してやる!」

 

 再生した腕でしっかりと大斧を掴み、些かも衰えていないレイリアの気迫が鏡合わせの天使を襲う。

 だが二人はそれに対し一切動じずに顔を合わせて微笑むと、互いの身体を抱きしめながら手にした大剣を天高く掲げた。

 

「残念だけど時間切れだよ、お姉様」

 

「ええ、本当に本当に残念だけど、時間切れなの。お姉様」

 

 二人の大剣が震え、目に見えない何かを纏い始める。

 次は何が起こるのかと身構えるリリィたちであったが、レイリアにとってはそれだけで敵の意図を察知するには十分だったようで、舌打ちと共に飛び上がり、二人を叩き潰さんと大斧を振り上げた。

 だが先に振り下ろされたのは、二振りの大剣。大気を切り裂き土煙を巻き上げながら、不可視の刃が空中にいるレイリアへと襲い掛かる。

 振り下ろされる大斧が不可視の刃とぶつかり、一瞬の均衡の後、不可視の刃が中央から真っ二つに切り裂かれて霧散していく。その先にいた筈の、二人の天使の姿と共に。

 着地したレイリアが、獣のような唸り声をあげる。

 そんな彼女を嘲笑うかのように、天から降る少女の声。

 

――お楽しみはまた今度。

 

――次はもっと、もっと遊びましょうね。

 

――ボク()たちの、愛しい愛しいお姉様……。

 

 風が吹く。

 それは闘争の終わりを告げる風。

 静寂が流れ、街から駆け付けてきた兵士たちの足音が遠くから響いてくる。

 唸る。唸る。地の底から響くような呪詛の声が漏れた。

 

「逃がした、まんまと、逃げおおせられた……? 糞が、糞が、クソガアアアアア!」

 

 静かに、僅かに白み始めた空の元、亡霊の雄叫びが木霊する。

 長い、永遠にも感じられた夜が、ようやく明けようとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

父と子

 

 その部屋は床、壁、天井、その全てが磨き上げられた大理石で覆われていた。

 部屋の中心には円形に掘り下げられた湯舟があり、その周囲を装飾が施された円柱がぐるりと囲んでいる。

 湯舟の縁に置かれている獅子の像からは止めどなく熱い湯が流れ落ち、そこから立ち昇る湯気が浴室内を真っ白に染め上げていた。

 そしてそんな室内に充満した白い湯気を払いながら、静かに現れる者があった。

 揺れる銀髪。すらりと伸びた、異国を思わせる褐色の手足。赤い瞳。

 慎ましくも僅かに女を感じさせる肢体を惜しげもなく晒しながら、少女――レイリアは感嘆の声を漏らす。

 

「へぇ、こりゃすげえ。どんな世の中だろうと、持ってる奴は持ってるもんだなァ」

 

 ぺたぺた、ぺたぺた。

 小さな足が大理石を叩く。

 レイリアは浴室の中を歩き回りながら壁や浴槽、彫像などをまじまじと眺めながら、その都度なるほど、なるほどと興味深そうに頷いて見せた。

 

「お粗末な出来だが、仕組みは魔工技術の応用か。水に〝火〟の属性を加えて湯にしている。術式はこの不細工な獣(彫刻)の中か? いやはや、何年経っても強かだねぇ、人間って生物は……なァ、お前もそう思うだろ?」

 

 獅子の像を平手で叩きながら、レリアが振り返る。

 その先には白い腰布だけを身に着けた浅黒い肌の大男、ベルガラがどこか呆れた表情をして立っていた。

 何故、レイリアの手によって奴隷として捕らえられた彼がここにいるのか。

 それは昨夜、ギルバートの裏切りを端に発した事件が一時的な終息を迎えたあと、レイリアが辺境伯へと、身を清めたいからすぐに湯を用意しろと、辺境伯に要求したことから始まる。

 勿論、辺境伯の癒えてはおらず、事件に巻き込まれたことで多くの使用人を失った――これは使用人に死者が出た訳ではなく、心に傷を負い憔悴(しょうすい)した者へ伯自ら暇を出したからである――直後で人でもろくに足りていない状態で、だ。

 しかしその身に強大な戦力を宿す彼女の要求である。下手に突っぱねて機嫌を損ねる訳にもいかないし、何より自身と最愛の娘の命を救ってもらった大恩もある。

 そして我こそはと手をあげたのは顔を真っ青にして街から駆け戻ってきた兵士たち……ではなく、意外にも屋敷に残った数少ない使用人たちであった。

 彼らは自身の窮地を救ってくれた恩人に少しでも恩を返したいと、疲弊する身体に鞭打って立ち上がったのだ。

 ちなみに街へ出ていた兵たちはというと、現在は全員が懲罰房へと入っている。それはギルバートの策に嵌まって守るべき主君を危険に晒したことへの罰であり、兵たちもその決定に粛々と従うのみで異論を唱える者は誰一人としていなかった。

 裏切り者に対して随分と生ぬるいものだとレイリアは毒づいたが、辺境伯がその決定を覆すことは終ぞなく、現在へと至る。

 そもそも己の過ちを悟り館へと駆け戻ってきたのは古くから辺境伯に深い忠誠を誓う一族の者たちであり、比較的新参の者や、元々ギルバート側だった者たちはいつの間にか街から姿を消していた。

 数にして全体の約三分の一。

 これは辺境伯にとって正しく寝耳に水といえるものであったが、それをレイリアに皮肉られた伯は、獅子身中の虫を一掃できていっそ清々しいと返してみせた。

 東方の獅子いまだ衰えず、といったところだろう。

 ともかく残った使用人、主に女中たちの手によって湯が用意された訳だが、いざ湯浴みへと向かうその直前でレイリアは何を思ったかベルガラを捕まえ、否応なくここまで連れてきたのである。

 勿論ベルガラも始めは何事かと抵抗したが、いかに鍛え上げられた彼の膂力があろうと、相手は伝説に名を連ねる存在であり、その力がどれほどのものかは先日目の当たりにしたばかり。

 彼がどれだけ抵抗しようが、それは彼女にとってそよ風ほどの影響も与えるものではなかった。

 

「何故、俺を」

 

 言葉少なく、ベルガラが問う。

 するとレイリアは湯舟の縁に腰を下ろし、その細い脚を艶めかしく組みながら呆れたように鼻を鳴らした。

 あまりにも無造作に座り込んだ為、彼女の長い銀髪が半ばから湯舟の中で泳いでしまっているのだが、本人はそのことに関してあまり頓着していないようである。

 

「阿呆が。テメェは何だ? そう、俺様の奴隷だ。なら、主人の世話をするのが当たり前だろうが」

 

 手招きする。深紅の瞳が流れる。

 玉の肌は湿気を纏い輝き、髪先へと伝った水滴が滴り落ちて水面へと波紋を描いた。

 口元が歪む。 

 

「ま、触れていいのは髪だけだがな。いかに慈悲深い俺様であっても、貴様のような下郎が肌に触れることを許す程お人よしじゃあない」

 

 やれやれ。よっこらしょっと。

 いまだに頭の整理ができていないベルガラに業を煮やしてか、レイリアは少しばかり身体を揺らして飛び起きると、浴室の脇に置かれていた椅子やら木桶やらを拾ってきて好き勝手に湯浴みの準備を始めた。

 溜息。

 肩を落としたベルガラが重い足取りでそちらへ向かう。

 

「しかし、あの嬢ちゃんの話じゃあ俺様は千年以上寝てたらしいが、その間に他の阿呆共はいったい何をやってたんだ? 見覚えのある物が、そのまんまの形で残ってやがる」

 

 次に溜息を漏らしたのは、レイリアの方であった。

 その手には茶色い正方形の物体が握られており、湯を汲んだ木桶にそれを漬けて軽く揉んでみれば花のような爽やかな香りとともに白い泡がもくもくと沸き出してきた。

 そうして木桶が泡でいっぱいになると彼女は満足げに一度頷いて、それをベルガラへと渡す。

 くるりとレイリアが回る。銀髪が踊り、まるで天幕のようにベルガラの前に広がった。

 

「そら、手早く頼むぞ。慣れてるだろ(・・・・・・)?」

 

 首を回し、僅かに覗く瞳が光る。

 その瞳に射貫かれたその瞬間、ベルガラの身体が石像のように硬直した。

 くつくつと、少女の華奢な肩が揺れる。

 それを見てベルガラは諦めたように肩の力を抜くと、溜息とともにレイリアの髪へ手を伸ばした。

 軽く全体を湯で湿らせた後、木桶の泡をすくい上げると手櫛を通すようにして髪全体に馴染ませていく。

 それは無骨な外見からは誰も想像できないであろう細やかな仕事っぷりであり、相当手慣れていることが伺えるものであった。

 くかかっ。

 満足げにレイリアが笑う。

 

「やっぱりな。こんな仕事、日ごろ召使いにやらせてるあの嬢ちゃんや色男にゃあちと難しいだろうからなァ」

 

「……どこで、気付いた」

 

 天井に張り付いた水滴が落ち、水面を叩く。

 

「お前と初めに打ち合った時だよ、阿呆。あんときのテメェの目を見てな、ピンときた。迷い、焦り、戸惑い、まあ随分とわかりやすかったぜ?」

 

 白い泡が、絹のような銀色の上を滑り落ちていく。

 

「……で、娘か女房か、どっちよ?」 

 

 まさかこれだけ手慣れてて、相手が妹ってわけないわな。

 そう言って少女はまた肩を揺らす。

 

「……娘、だ」

 

 そうしてぽつりぽつりと、言葉少なくベルガラは語り始めた。

 彼はかつて南方のアルセン諸島連合に属する、名もなき小さな村で暮らしていたのだという。

 妻を流行り病で亡くし、忘れ形見の娘とともに貧しいながら平穏な生活を送っていたのだと。

 しかしある日突然、村を盗賊が襲った。

 多くの村人が殺され、女が、子どもが奴隷として売り払う為に攫われることとなった。

 当時まだ幼かったベルガラの娘、ソフィまでもが。

 彼は元々猟師であり、獲物を売る為に街へと向かっている最中に襲撃は行われた。

 己の手で最愛の娘を守ってやれなかったことを彼は悔やみ、もし娘が生きているのならばきっと探し出してみせると、傭兵にその身をやつしてでも大陸へ渡ってきたそうだ。

 

「襲った盗賊、すぐ討伐された。そこ、俺もいた。やつら、聞いた、村の女、王国の奴に売った」

 

「それ、いつの話だ」

 

「五年ぐらい、昔。生きてる、お前と同じぐらい、恰好。髪、黒い、肌の色、同じ」

 

 レイリアは知る由もないが、彼女と同じ褐色の肌はアルセン諸島連合に暮らす民族の多くにみられる特徴であり、だからこそ、初対面の際にベルガラは彼女に刃を向けることを躊躇(ためら)っていたのである。

 ふぅん、とレイリアはさほど興味もなさそうに木桶の泡をすくい、自身の肌へと馴染ませていく。

 

「まともな奴隷商に仕入れられてりゃいいが、まあ、仕入れ先に盗賊を選ぶような下種だ。商品(・・)が流れていく先にもおおよそ見当がつくわな」

 

 良くて娼館、悪ければそういう趣味(・・・・・・)の変態共を相手に死ぬまで慰み者にされる。

 非情ではあるが、ベルガラもそれは覚悟していた。

 覚悟の上で、それでも救わねばならぬと娘を奪われてから五年、泥をすする思いで生き残ってきたのだ。

 みしりと、木桶が音をたてる。

 湯が髪についた泡を綺麗に流し落とし、待ちかねたとばかりにレイリアはぐっと伸びをした。

 ベルガラの手から木桶をひったくり、すくった湯を豪快に自身の身体へとぶちまける。

 そうして乱暴に身体についた泡を落とすと、足先からゆっくりと浴槽へと浸かっていく。

 

「ま、幸いここの家主はこの辺り一帯を仕切ってる領主だ。あの色男がそんな阿呆を見逃すとは思えねぇが、風呂から出たら一度聞いてみるといい」

 

 手足を伸ばし、ともすればそのまま眠ってしまうのではと心配になりそうなほど寛ぎ始める少女の口から漏れたのは、ベルガラが思いもよらないものであった。

 まさかこの暴君を絵に描いたような少女から、他人を気遣う言葉が出るだなんて誰が想像できようか。

 これがリリィならば、驚きのあまりひっくり返っていたかもしれない。

 だからこそ、問わなければならない。問わずにはいられない。

 

「どうして俺、気にする」

 

 飢えた狼よりも獰猛で、蛇よりも狡猾で、なにより軽薄。

 それがベルガラから見た、レイリアという少女――いや、化け物であった。

 ベルガラは目の前で寛ぐ小さな、自分の愛娘ほどの年頃の姿形をした少女の背中を見やる。

 別に邪な思いがある訳ではない。むしろそんな余計なものを抱えていれば、今頃自分は壁の染みにでもなっているだろう。

 彼の視線の先にあるもの。それは傷一つ無い、小さな背中。

 跡形もなかった。

 昨夜、間違いなく袈裟懸けに切り裂かれたはずの傷が、まるで嘘だったかのようにその姿を消している。

 切り飛ばされた左腕だってそうだ。

 どんな魔法を使ったのか、まるでとかげの尻尾のように新たな左腕が生えてきた。

 そこらの大人が数十人束になっても勝てない膂力と、なまくらでは傷一つ付かない肌。そしてどんな重傷もたちどころに完治させる強力な治癒能力。

 底が見えない。

 

「……ただの気紛れだ。面白そうだからテメェを生かして、ちょうど思い浮かんだからそのまま口に出した、それだけだ。特に深い意味なんかねェよ」

 

 静かに冷や汗を流すベルガラをよそに、レイリアはぼんやりと天井を眺めながら呟いた。

 ぐっと伸びをした後、ゆっくりと湯舟から立ち上がる。

 湯舟からあがったその身体は熱を帯び、濡れた肌に長い銀髪を張り付けたその姿は、妙な妖しさを纏っていた。

 それはベルガラでさえも一瞬目を奪われるほどで、そういえばこの少女は伝説の天使であったな、などと、彼はぼんやりとそんなことを考えた。

 去り際に、レイリアの小さな手がぺちぺちとベルガラの肩を叩く。

 

「ま、娘が可愛いなら、せいぜい俺様に尻尾を振るこった。気が向きゃあ、迷える子羊に手を差し伸べることだってあるかもしれねェぞ?」

 

 からから、ころころと少女が嗤う。

 天使。

 悪魔たちを滅ぼし、魔王を討ち果たし人々を救った女神の使い。

 こんなものが、そうであると言うのだろうか。

 ベルガラは先程浮かんだ考えを即座に否定する。

 天使だって? 悪い冗談だ。

 

「……あれは、悪魔、だ」

 

 しんと静まり返った室内に、水音だけが響いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

真実

 

 事件から一週間が過ぎた。

 当時は深い傷跡を残していた辺境伯邸も、街きっての名工たちの手により今は中庭にほんの僅かその面影を残すのみとなっている。

 平穏を取り戻した夜空の下、純白のテーブルクロスが敷かれた長テーブルの上には豪華な、しかし貴族としては少しばかり質素な料理たちが並ぶ。

 そこにはあの時のような剣戟の音も悲鳴も、血の香りもなく、しかし肌を刺すような静寂だけがあった。

 

「……そんな、そんな馬鹿なことが――」

 

「ああ、本当に馬鹿みたいな話だ。だが、真実だ」

 

 肩を震わせるリリィの言葉を、白いワンピース姿のレイリアが遮る。

 ふてぶてしく頬杖をつきながら、しなやかな褐色の脚を組み替えて彼女は自虐的な笑みを浮かべた。

 彼女がこの屋敷で暮らし始めてから一週間。人々の混乱も収まり、レイリアやベルガラがこのファティアでの生活に馴染み始めた矢先、いつも通りの夕食の席で彼女がもたらしたものはリリィの顔色を豹変させるには十分すぎる衝撃を秘めたものであった。

 

「気持ちはわかる。痛い程な」

 

 しんと静まり返った室内に、レイリアの透き通った声だけが響く。

 

「特にこの国は(・・・・)随分と、例の与太話に染まり切ってるからな。信じていたものに裏切られる……寄り掛かっていた大木が急に朽ち果てたような気分だろう?」

 

 そっちは(・・・・)違うだろうがな。

 そう言ってレイリアが視線を投げたのは部屋の奥。そこには手を組み、神妙な面持ちで目を伏せる辺境伯の姿があった。

 その表情を、その瞳を見てリリィは悟る。レイリアの語ったことが真実であるのだと。

 そして自身が今の今まで、与えられた平穏をただ貪るだけの愚者であったということを。

 

「知っていたのですね。父上は全て……」

 

「……私とて、全てを知っていたわけではない。それにリリィ、このことはお前にも機を見て伝えるつもりではあったのだ、かつて私がそうであったように」

 

 それは血を吐くような、喉から絞り出すような声であった。

 そして語る。辺境伯の一族、ファルブルム家は先祖代々、神代より伝わる秘密を守り続けてきた一族であると。

 一族の秘密。それこそが森の奥、遺跡に眠る天使であり、その真実。

 天使とは、悪魔とはなにか。

 彼ら、彼女らはどこからやってきたのか。

 女神とは、魔王とは。

 受け継ぐごとに掠れ、風化し、或いは戦火によって焼かれながらも、リリィの代にまで連綿と受け継がれた秘密のさらに奥にある真実。

 それを受け入れるには彼女はまだ若すぎ、純真すぎた。故に告げられなかったのだと、辺境伯は言う。

 

「そもそも、私自身あの遺跡でレイリア様の姿を目の当たりにするまでは信じられなかった。まさか天使が実在するなどと――」

 

「いいや違うぞおじさま(・・・・)。天使なんてどこにもいない。ここにいるのはただの亡霊だよ、それも千年程前の、かなりタチが悪い年代物だ」

 

 杯を煽る。

 溢れんばかりに注がれたぶどう酒を口内でゆっくりと転がした後、レイリアの細い喉が小さく鳴った。

 

「さて、どこまで話したか――」

 

 空になった杯へとまたぶどう酒を注ぎながら、少女の口元が歪に歪んだ。

 

――それは昔々ではじまるような、おとぎ話にも似た物語。

 

 千年前、古代ヴァンセリアン帝国がいまだ健在だった神話の時代、とあるところに一人の少年がいた。

 帝国のしがない学者の息子として生を受けた彼であったが、その頭脳は正しく天才的であり、悪魔的であった。

 彼はその頭脳をもって様々な技術、道具、兵器を発明し、古代帝国はその力をもって大陸全土を征服するに至る。

 彼は知ってしまったのだ。この世のありとあらゆるものは、目には見えないほど小さな小さな()で形作られているのだということを。

 彼はこれを魔素と名付け、これを自由自在に組み替え、操ることができる技術を生み出した。

 万物魔素理論。そして魔科学、魔素学の誕生である。

 彼がもたらしたこれらの力は、魔道具という超常の力を人類へ与えた。

 それはときに炎を掌で躍らせ、ときには岩を浮かせ、またあるときは大海さえ割ることができた。

 人類には過ぎたる力。それこそが古代帝国を根底から支え、形作ったものであったのだ。

 正しく神にも等しい巨大な力。しかしそれを振るう人間はあまりに脆く、傲慢であった。

 結果として古代帝国は、その大きすぎる力の代償をすぐに支払うことになる。

 きっかけは、とある魔道具の暴走。

 制御を失ったそれは周囲の魔素を次々に吸収し、使用者を醜い化け物へと変えた。

 もはや人としての心すら失った化け物は古代帝国に暮らす民たちを喰らい、森を枯らし、泉を干上がらせた。

 これに対し当時の皇帝はすぐさま化け物の討伐を命じたが、これが更なる悲劇を呼んだ。

 化け物を討たんと挑んだ兵士たちの魔道具が次々と暴走し、化け物へと変じ始めたのだ。

 生まれた化け物たちは姿形は違えど、その習性は概ね同じ物であった。

 ただ喰らう。人を、木々を、水を、大地を。

 そして古代帝国は、その存亡をかけた大戦へと身を投じていく。

 戦いは熾烈を極め、百年続いたその大戦は大陸の半分を命なき砂漠へと変えた。

 だが、帝国は滅びなかった。一人の天才によって、寸でのところで人々は反撃の剣を手に入れたのだ。

 それは一人の少女であり、かつて帝国に魔道具をもたらした()の娘であった。

 毒を以て毒を制す。

 化け物には化け物を。

 彼女は当時の帝国でも選りすぐりの精鋭たちに、化け物の力を完全に制御するための術を授けた。

 そうして化け物を制する力を得た四人の精鋭たちにより化け物たちは討ち果たされたが、帝国に残された傷はあまりにも大きく、繁栄を誇った古代帝国はこの大戦の後、滅亡の道を辿る事となるのだった――

 

「で、その選りすぐりのクソッタレ連中の一人が俺様ってわけだ」

 

 語り終えたレイリアは肩を竦め、(わら)ってみせる。

 つまりは、そういうことなのだ。

 その魔道具の暴走によって生み出された始まりの一体こそが伝説に語られる魔王であり、悪魔と呼ばれる存在。

 そしてそれらを滅ぼすために作られた兵士こそ、レイリアをはじめとした天使たちのことなのだと。

 異界からの侵略などではなく、ただの自業自得。

 力におぼれた人間が手痛いしっぺ返しを食らったと、それだけの話。

 それがどういう訳か美談として語り継がれ、伝説となり、信仰にまで至った千年前の真実であった。

 

「勿論、いきなり俺様たちが仕上がった(・・・・・)わけじゃない。何度も試行錯誤し、実験を繰り返した結果こうなった(・・・・・)んだ。あの色男が使ったのはいわば試作品、失敗作だ。僅かに自我は残るが、見てくれは化け物のまま。俺様ほど芸術的じゃない」

 

 故に、粗悪品(・・・)

 だからこそ、彼女は豹変したギルバートをそう呼んだ。

 では何故、化け物との戦いは聖戦と呼ばれ、その物語が信仰にまで昇華されたのか。

 そして何故、役目を終えて眠りについたはずの彼女らが、突然現代に蘇ったのか。

 

「だいたいの目星はついてる。裏でこそこそしてる連中の正体も、連中が千年ぶりに何をやらかそうとしてるのかもな」

 

 おもむろに彼女がワンピースの胸元から取り出したのは一本の葉巻。それは彼女らがこの席に着く前にレイリアが辺境伯に要求し、用意させたものであった。

 そして彼女は取り出したそれを右手でおもむろに握り込むと、それを口元に寄せて細く息を吹き込んだ。

 するとどうだろう。葉巻が握り込まれた右手から光が漏れだし、辺りを照らし始めたではないか。

 突然のことにリリィと辺境伯が息を呑む中、レイリアがその右手をそっと開く。

 そこにあったのは葉巻を小さく押し固めたような、細長い筒状の何か。それがざっと二十本ほど、彼女の掌に収まっている。

 よくよく見ればそれは葉巻の材料として用いられる煙り草を細かく刻み、滑らかな白い紙で包み込んだものであることがわかった。

 そのうちの一本を咥え、あろうことかテーブル上の燭台で火をつけたレイリアは大きく息を吸い込むと、天井を仰ぎ見ながら細く紫煙を吐き出した。

 そして掌に余ったそれらを数本、二人の元に転がして寄こす。

 

「これが魔科学の力だ。物質を形作る魔素を解き、同じ構成の、全く別の物に作り替える。これを応用すれば傷を塞ぐことも、切り飛ばされた腕を復元することすら可能になる」

 

 その言葉を聞き、リリィの脳裏をよぎるのは庭園で彼女が見せたあの驚異的な回復能力。

 たしかに彼女は肩口から腹部に至るまで切り裂かれた傷を即座に塞ぎ、失った右腕すら再生させてみせた。

 そしてあの化け物となったギルバートすら圧倒した戦闘能力。

 もしも彼女が、彼女たちがこの王国に牙を向いたとすれば、果たしてその犠牲はどれほどのものになるのか――

 

「それだよ」

 

 震える肩を抱きしめるリリィを見やり、しかし一切の容赦なくレイリアは過酷な現実を突きつける。

 

「お前が、お前らが今考えた最悪の事態。まさにそれが起こる。それに近しいものが起こされる。俺の勘が正しけりゃ、裏で糸を引いてるのは一級品の糞野郎だ。手段はどうあれ、どう転んでも〝めでたしめでたし〟じゃあ終わらねぇだろう」

 

 だが――

 レイリアが手にしたそれを握りつぶす。煙をあげ、自身の手が焼かれることすら構わずに、彼女は不敵に笑った。

 

「お前らはとびきり運が良い。何てったって選りすぐりのクソッタレの中でも、とびっきりのクソがここにいる。あっち(・・・)じゃなく、こっち(・・・)にな。安心しな。骨董品(がらくた)共の下らねえ企みは、この俺様が一切合切ぶっ潰してやるよ」

 

 天使が嗤う。牙をぎらつかせ、瞳を紅く光らせながら。

 その姿には常人ならばすくみ上がり、身動き一つ取れなくなるであろう覇気があった。

 だがそんな鬼気迫る中にあって尚、それに抗える古強者がこの場にはいた。

 

「……もしレイリア様の話通りのことが引き起こされるとすれば、それはこの王国だけの問題ではない。周辺国家の、いや、人類全体の脅威になりえるだろう」

 

 辺境伯の絞り出すような声が室内に響く。

 組まれた手は軋み、その皺だらけの顔には娘のリリィをもってしてもぞっとする程の迫力が宿っていた。

 当時幼かったリリィは知る由もないが、これこそが彼の、東方の獅子とまで呼ばれた将としての顔であった。

 

「となれば、これをレイリア様お一人に任せる訳には参りません。かの女王陛下に仕える者として、そしてこの地を任された者として、私には民を守る義務がある」

 

 沈黙。レイリアと辺境伯の視線が交錯する。

 ため息を吐き、レイリアはその真っ白なワンピースが捲れ上がるのも構わずに脚を崩すと、しな垂れるように椅子に身を任せ天井を仰ぎ見た。

 長く美しい銀の髪が、流水のように床に広がる。

 

「その(こころざし)は立派だがね、おっさん」

 

 レイリアの呆れたような声。

 彼女は反動をつけて上体を元の場所へ戻すと、テーブルに転がったままの紙巻たばこを拾い上げて火をつけた。

 

「あんたらじゃ無理だ」

 

 桜色の唇から、くすぶるように煙がのぼる。

 

「別に、あんたらが弱いって訳じゃない。単純に、アレは人間がどうこうできる代物じゃないってだけだ。そもそも、ただの人間が束になってどうにかなるなら、俺様たちはこんなざま(・・・・・)にはなってねえ」

 

 そう、今とは比較にならないほどの文明を、力を手にしていた古代帝国でさえも、悪魔たちの前にはなすすべもなく蹂躙されたのだ。

 戦力的には圧倒的に劣る、あまつさえその古代帝国の遺産を糧にしている者たちがそれに抗うことなど、できるはずもない。

 千年前を、あの伝説の中を戦い抜いたレイリアの言葉であるが故に、辺境伯は返す言葉もなく、ただその両手を握りしめることしかできなかった。

 

「それに、あんたらには悪いがね、俺様はこの国を信用してない」

 

「な、なぜですか!?」

 

 レイリアの言葉に、こんどはリリィが食って掛かった。

 

「馬鹿が。話聞いてたかテメェ。国民の殆どがそのクソッタレ共を天使と呼んでありがたがったり、そのクソをひり出した元凶を女神様だの言って信仰してるような国、信用できるできるわけねぇだろうが。胡散臭くて仕方ねぇ」

 

 その言葉にリリィは今度こそ椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がると、両手をテーブルに叩きつけた。並べられた食器が悲鳴をあげ、真紅と黄金の視線がぶつかり合う。

 数秒の硬直。

 リリィは固く唇を噛むと、レイリアに軽蔑にも似た眼差しを向けて部屋を飛び出していく。

 それはまるでいまだ幼い子どものようで、開け放たれた扉を見ながらレイリアはまたため息を吐いた。

 

「やれやれ、狂信者ってのは面倒なもんだなあ」

 

「いえ、そうではないのです」

 

 紫煙を吐き出しながらそうごちるレイリアの言葉を、辺境伯が即座に否定する。

 

「あれは幼い頃から、天使たちの物語を気に入っておりましたから。子どもの頃から憧れの存在であったレイリア様にその物語を否定され、悔しかったのでしょう」

 

 どちらかといえば、あれはそう信仰深い方ではないのです。

 そんな辺境伯の言葉に、レイリアは味気なく扉の方を一瞥し、息を吐く。

 

「それはまた、純粋なこった」

 

 紫煙が揺れる。

 沈黙。

 煙の奥にある真紅の瞳が、不意に細められた。

 

「いい娘だな」

 

「――ええ、自慢の娘でございます」

 

 細められた瞳のその向こう。真紅の底に宿る光を見て、辺境伯は優しげな笑みを浮かべる。

 僅かに欠けた月の元、子守歌のような虫の音だけが響いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

旅立ちの予感

お待たせ致しました。


 

 快晴。

 頭上には雲一つない澄み切った青空が広がり、温かな日射しを受けながら、赤い三角屋根の上で風見鶏がくるくると踊っている。それに見守られる市場は人々の喧騒に包まれ、行き交う大人たちの隙間を子どもたちが笑いながら駆け抜けていった。

 そんな平和な、何の変哲もない平凡な風景の中にあって、ひときわ人目を惹く一人の少女の姿があった。

 長い銀髪を赤いリボンで二つに纏め、黒を基調とした飾り気の少ない、袖口が花弁のように開いたドレスを着たその少女は、眺めていた露店の主から小さな籠を受け取ると木漏れ日のような優しい笑みを浮かべてみせる。

 受け取った籠の中には瑞々しい、色とりどりの野菜が詰め込まれ、それを渡した店主――畑仕事で鍛えられた筋肉が厳めしい大男である――はその白い歯をきらりと輝かせながら、力強く親指を立てた。

 

「いつもありがとうございます。今回も素晴らしい出来栄えですね」

 

「おうともさ。そりゃあお前、お嬢ちゃんみてぇな別嬪さんに貰われるってなりゃあ、うちの野菜どもも気合が入るってもんよ」

 

「ふふ、また来週もお願いしますね」

 

 頬に手を当て、褐色の頬にほんのりと赤みを差しながら少女は一礼し、豪快な笑い声とともに手を振る店主に見送られながら市場を後にする。

 そうして市場を抜け、街の大通りを進みながら少女の背後、市場から彼女の後ろに控えていた大柄な男がこれ見よがしに溜息を吐いた。

 

「随分と、器用なやつだ」

 

 男の言葉(皮肉)に、少女は笑う。

 しかし美しい(かんばせ)に浮かんだそれは先程のような、見る者を魅了し、蕩けさせるようなそれではなく、犬歯をぎらつかせた獣のようなものであった。

 

「世渡り上手と言ってほしいね。俺様は品物を安く手に入れ、相手は俺様のような美しい女の微笑みを見て心を満たす。誰も損をしない、素晴らしい取引だろ?」

 

 少女――レイリアはそう言うと手にした籠をベルガラに投げ渡し、軽やかにステップを踏んだ。

 スカートがふわりと揺れ、その奥に隠された艶めかしい太ももがさらけ出される。

 幸か不幸か、その一瞬を偶然目にしたとある行商人が、魅了され呆けたところを足元にあった石ころに足を取られ、担いだ商品を盛大にぶちまけていた。

 背後から響いたその音にベルガラはまた溜息を吐き、レイリアは愉快痛快とばかりに肩を揺らす。

 彼女は、猫の被り方が天才的に上手かった。

 それはもう、どこで覚えたのか食事の作法や挨拶、細かな身振り手振りに至るまで。もし彼女を知らぬ者が見ればどこかの貴族の御令嬢か、はたまたどこぞの姫君ではないかと勘違いしてしまう程度には、その姿は堂に入っていた。

 事件が起きて早一月。

 その短い時間の中で、余所者であるはずのレイリアがこうもこの街に溶け込んでいるのも、彼女のそういった外面の良さが大いに役立っていると言えるだろう。

 というのも、レイリアを迎え入れた――要求を呑んだ、とも言えるが――辺境伯、東方の獅子グラム・ヴェル・ファルブルムはあろうことか彼女を遠い知人、アルセン諸島連合のとある豪商の一人娘であると街の者たちに知らしめたのである。

 そして同時にレイリアが捕らえ、奴隷として扱っていたベルガラは正式に彼女の召使い兼護衛ということになり、こうして彼女が街をうろつくたびにその後ろを、それらしい態度で引っ付いて回ることを余儀なくされた。

 もっとも、はじめはバルラキア人とは思えぬ二人の肌、髪色のことを鑑みて打たれた一手ではあったのだが、それに際しレイリアが先程見せたような完璧な立ち振る舞いを披露した結果、辺境伯の想定よりも早く人々は二人を受け入れ、蝶よ花よと愛でられることとなった。

 ちなみに初めてその様子を見た辺境伯と愛娘は、彼女のあまりの豹変ぶりに度肝を抜かれることとなったのだが、それを語るのはまた別の機会としよう。

 

「しかし、まさか男だったとはな」

 

 以前よりも少しばかり流暢になったバルラキア語で、ベルガラが唸った。

 それは一月前の夜。レイリアが辺境伯たちに伝説の正体を語り聞かせたあの夜が過ぎた後のことであった。

 レイリアが美しい少女の姿へと変わる、天使へと変異する前、気が遠くなるほど大昔の話ではあるが、なんと彼女は元々男性だったと言うのだ。

 たしかに荒々しい、ともすれば野蛮とも思える普段の言動を見れば、それは女性ではなく男性的だと捉えられるだろう。

 何も知らぬ者からすれば極めて荒唐無稽な、馬鹿馬鹿しい話であるが、それを聞いた者たちは頭を抱え、押し黙る事しかできなかった。

 何故ならば、彼らは知っていたからだ。古代帝国の技術が、ただの人間を悍ましい化け物に変えてしまえることを。そして、当時の強者たちの中でもさらに選りすぐりの本物たちが、天使へという超常の存在へと至ったことを。

 たしかにその技術をもってすれば、大男を天女が如き少女に変える事ぐらい造作もないだろう。

 ちなみにその話を聞いた直後、度重なる衝撃によりリリィは白目をむいて卒倒した。

 

「まあ、この身体になってからもう随分と経つがな。今となってはこっちの方が色々と都合が良いぐらいだ」

 

 それはもう、そうだろう。

 先程の店主とのやり取りを見るに、この少女はこれまでもその見目麗しい容姿を利用してあくどい商売をやっていたようだ。

 普通ならばそこから手痛いしっぺ返しを食らい、ある程度は自重するようになるのだが、この少女に限りそれはない。

 例え悪漢に襲われようと、この少女を組み伏せることができる男など世界中を探してもそういないだろう。それは数を揃えたところで変わらない。

 そしてどれほど徳の高い神父が説法を垂れたところで、この少女の性根を正す事など不可能だろう。

 結局は己が巻き添えを食わないように、嵐が過ぎるまで隅の方で縮こまっているのが一番正しいのだ。この少女に対しては。

 

「さて、ようやく見えてきたか……。おーおー、相も変わらず頑張ってんなあ」

 

 そうしてしばらく歩いたあと、レイリアはその白い手を額にかざしながら意地の悪い笑みを浮かべた。

 見えてきたのは彼女らが暮らす辺境伯の屋敷。

 その姿はもうすっかり事件が起きる前の状態にまで修復され、庭中央に備え付けられた噴水には鮮やかな虹がかかっていた。

 そしてそんな庭の隅、青々と茂る芝の上で汗を流す人物が一人。

 金の髪を華麗に舞い踊らせながら剣を振るう少女、辺境伯の愛娘リリィである。

 突き、切り払い、切り上げ、振り下ろし。軽やかな足さばきでその身を滑らせ、敵の脇腹を撫でるように切り抜ける。

 木偶(人形)さえ置いていない中での鍛錬であったがその動きは実に見事で、それを見たベルガラが、なるほどこれはゼイゼル(三下)が負けるわけだと舌を巻くほど。

 しばらく眺めていたくなるほどの美しい剣舞。

 しかしそれを妨げたのは、手を叩く乾いた音であった。

 

「お見事お見事。随分とそれらしくなったじゃないか」

 

 手を広げ、大仰な仕草で笑ってみせるレイリアの姿にベルガラはひっそりとまた溜息を吐き、リリィはすっと眉間に皺を寄せる。

 そして日の光を受けて輝く、透き通るような細剣を鞘に納めると、その鋭い眼光が真っ直ぐにレイリアを貫いた。

 予想外だったのはそれから。

 彼女は鍛錬用の木靴を鳴らしながらレイリアの傍へとやってくると、腰に手を当てて胸を張ってみせたのだ。

 それはまるで己の力を誇示する清廉な戦士のようでも、姉に負けじとがむしゃらに虚勢を張る可愛らしい妹のようでもあった。

 

「いつまでも貴女に頼りっぱなしでは、ファルブルム家の名折れですから」

 

 これもまた、一つの変化。

 レイリアが語った真実を受けたあと――否、具体的にはその翌日に卒倒したあと、リリィとレイリアの関係は劇的に変化した。

 盲目的に物語を信じ、追い続けた少女は、ようやくその夢から覚めることができたのだ。

 もっとも、己が夢みていた美しい天使像を、正しく火薬で吹き飛ばして踏みにじるような人物(現実)が目の前に現れたのだ。

 たった一月という時間でそれを呑み下し、受け入れられたのはひとえに彼女の気高く、力強い精神性故だろう。

 今の彼女にとってレイリアは(ひざまず)き尊ぶ信仰の対象ではない。

 気が強く、意地悪で下品な、ちょっとばかり万軍に値する戦力を内包しただけのくそ生意気な妹分ぐらいには、その格を落としている。

 敬(けん)な女神教の信者が目にすれば卒倒し、口から泡を吹くであろう事態であるが、レイリア本人としてはむしろこちらの方がやりやすいぐらいだった。

 

「さすがはお嬢様、ご立派だねぇ。なんだったらよお、またちょっと相手してやろうか?」

 

「……本当に、貴女はどこまでも傲慢なのですね」

 

「呵々。俺様からすれば、なんでお前らはそこまで堅苦しく生きてんのか、そっちの方が理解できないがね」

 

 で、やるのか、やらないのか。

 やるに決まっているでしょう。

 そんなやり取りをして、二人はまた庭の隅へと移動を始める。

 それを傍から眺めていたベルガラとしては、また袖にも触れられずに足腰立たなくなるまで振り回されるのだろうな、と頭を抱えずにはいられなかった。

 ちなみにリリィは現在、二十八連敗の記録を更新中である。

 

「さて、今回はどこまで粘るかねえ」

 

 犬歯をぎらつかせながら笑うレイリアの全身が、淡い光を帯び始める。

 纏められていた髪は解け、漆黒のドレスが光に呑まれるようにその姿を変えていく。

 そして光が収まった時、彼女の姿はいつぞやの、踊り子のような煽情的な戦装束を纏ったものへと変貌していた。

 その手には細く美しい、リリィが愛用している物と酷似した細剣が握られている。

 これもまた、レイリアが操る力の一端。

 万物を形作る魔素を操り、あるいは自身が蓄えた魔素を使って万物を生み出し、作り替える超常の力。

 レイリアが細剣を柔らかく握り込み、無造作に振るう。

 笛の音に似た、鋭く甲高い音が鳴った。

 

「どこからでもいいぜ。自由に攻めてきな」

 

 だらりと腕を下げ、脱力したレイリアに向かってリリィが大きく踏み込んだ。地を蹴り、滑るように距離を詰めるとリリィは細く鋭く息を吐く。

 引き絞られた細剣が、まるで矢を射るかの如く三度放たれる。

 遠慮はない。狙いは全て急所だ。

 日の光を反射するそれは稲光にも似て、熟練の戦士であるベルガラをもってしても(かわ)すことは容易ではないと思わせる程の三連突き。

 だが、レイリアはそれすらも呆気なく、小枝を払うかのような気安さで躱してみせる。

 それはまるで風にそよぐ草花のようなしなやかさで、最後の突きに吸いつくようにリリィの懐へと滑り込んだレイリアは手にした細剣の()を、彼女の細い腰を撫でるように振るった。

 だが、それが彼女の肌に触れることはない。

 レイリアの剣を防いだのは、横から割って入るようにして振るわれた銀の短剣であった。

 金属同士が擦れ合う、澄み切った音色が響く。

 耳を撫でるような残響音を感じながら、レイリアは絡めとられ、受け流された己が剣を目に口笛を吹いた。

 

「いいねえ。助言を素直に呑み込めるのは美徳だぞ」

 

 息を吐き、構えるリリィの右手には銀の細剣が、左手には篭手と短剣が合わさったような、独特な形状の武器が握られている。

 

受け流しの短剣(マン・ゴーシュ)、上手く使ってるじゃねえか」

 

 それは幾度目かの手合わせの際、レイリアがリリィに与えたとある助言。

 なぜ右手だけで剣を振るうのに、左手に何も備えていないのか。

 甲冑を着込む騎士の真似をしろとは言わないが、どうせ暇をしているならばその左手には盾を構えるべきではないのか。

 そう問いかけるレイリアに、リリィはこう返した。

 盾など持っていては重心が乱れ、速度も殺されてしまう。何より、貴族たる我らがそんな無粋な物を携帯するわけにはいかない、と。

 無論、レイリアはこの言葉を聞いた直後、リリィを叩きのめした。

 貴族の誇りなど糞くらえだ。戦場で、頭上から矢を射られたらどうするつもりなのか。

 聞けば、東方の獅子と呼ばれ、戦場で活躍した父親のほうはきっちり甲冑やら盾やらで身を固めていたと言うではないか。

 女だからと、まあ剣を振る程度は大目に見ようと、そうして長年甘やかしてきたツケがここにきて押し寄せてきたのだ。

 そこでレイリアが提案したのが、今しがたリリィが披露した短剣を使っての防御である。

 細剣に生じる隙を補う受け流しや払い、あるいは不意打ち。刃の形を変えれば、相手の剣を絡めとって奪ったり、そのままへし折ることも可能になるだろう。

 しかしそれを使いこなすには、それなりの修練が必要となる。

 先程はレイリアがかなり手加減をしていたうえに、同じような細身の剣であったためうまく受け流せたが、もし相手がベルガラのような大男で、力押しで攻めてくるような手合いであればああはならなかっただろう。

 

「ほら、気を抜くな。どんどんいくぞ」

 

 リリィが息を整えたのを見て、今度はレイリアが飛び込んだ。

 鞭のようにしなる切り払い、袈裟斬り、突き、あるいは切り上げ。

 多種多様な斬撃を、リリィは寸でのところで躱し、受け流していく。

 

「双方、それまで」

 

 そうして彼女の息が上がり、細剣を握る手に痺れを覚え始めた頃、もはや何度目かも覚えていないしりもちをつかされたところで、屋敷の方から声がかかった。 

 両手を地につき、大粒の汗を流すリリィと、汗どころか息一つ乱していないレイリア。

 そんな対照的な二人を見下ろすのは、ここしばらく書斎に籠りきりであった辺境伯グラムであった。

 杖を突きながらもゆっくりと階段を下りてくる辺境伯を見やりながら、レイリアが肩をすくめる。

 

「これからだってのに、水を差すなよオッサン」

 

「いやはや、それは申し訳ない。実はレイリア君に頼みたい事があってね」

 

 そう言って取り出したのは、一枚の書状であった。

 押された赤い封蝋の上で、ファルブルム家の紋章である獅子が猛々しく雄たけびをあげている。

 ただの手紙ではないことを察するには、十分すぎる材料であった。

 目を細め、訝しむレイリアをまっすぐに見つめながら、伯は告げる。

 

「王都リアディエルにある聖アウレア学園。君たちには、そこへ行ってもらいたい」

 

「王都、ねえ。そりゃあまた、随分と楽しい旅になりそうだ」

 

 辺境伯の言葉に、レイリアは獣のように獰猛な笑みを浮かべて応えるのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

学び舎

話が進まないオブザイヤー2019


 

 バルラキア王国。 

 大陸の西側、その三分の二を占める巨大国家の首都リアディエルは、反り立つ断崖絶壁を切り崩し建築された天然の城塞都市である。

 堅牢な城壁の最奥にあるのは、都に住まう民たちの誇りでもある難攻不落の王城。

 崖と半ば埋もれるようにして建てられたそこを起点にして、崖を切り崩した際に出た石材を利用した灰色の街並みが扇状に広がっている。

 そしてその中でも異彩を放ち、圧倒的な存在感を示す建造物があった。

 聖アウレア学園。

 国内最高峰の士官学校であり、さらには国教としても定められている女神教会――伝説の女神リアディアを信仰する者たちが本部とする場所である。

 正面には天を衝く四つの尖塔。

 大きく曲線を描く巨大な半円形の門の上部には信者たちが崇める、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神リアディアの像が彫られ、その傍にはそれぞれ剣や槍を携えた美しい天使たちが彼女を守護するように左右二体ずつ配置されている。

 そして、見る者すべてが思わず(ひざまず)いてしまいそうなほどの荘厳な佇まいのさらに奥、正面の尖塔よりもなお高く伸びる塔の最上階に、彼女たちはいた。

 

「いや、無事でなにより、なにより。実は先日、君のお父上から早馬が届いてね。かの地で何が起こったのか、すべて聞かせてもらったよ」

 

 使い古された机の向こうで、老人が唸る。

 灰色の頭には大きなとんがり帽子が乗っかり、小さな丸眼鏡のその奥で、不思議な光を宿した青い瞳が真っすぐに正面を射抜いていた。

 胸の前で枯れ枝のようになった手を組んで、老人は深くため息を吐く。

 漆黒のローブに女神教の紋章である絡みつく蔓の輪と光――二本の線で描かれた円の中に五つの玉がはめ込まれた首飾りを下げたこの老人こそ、この学園の最高責任者であり、女神教会の最高指導者、大司教マーレイ・アルスその人である。

 

「まさか彼の領地で暗殺を企む者が出るとは、実に嘆かわしいことだ」

 

「はい、父も悲しんでおりました。ですが貴族たるもの、何があろうとも常に民の規範であれと。学を疎かにし、礼節を欠くようなことがあってはならないと。そう申しておりました」

 

「なるほど、なるほど。実に高潔で、誇り高い。東方の獅子らしい心のありようだ」

 

 にこりと、そのしわくちゃな顔に笑みが浮かぶ。

 そしてそのまま、彼の視線はリリィの後ろ、そこに控える二つの影へと投げられた。

 

「そしてそちらが、獅子が認めた精鋭たちか。うむ、うむ。たしかに只者ではないようだ。こうして目を向けるようで、この老骨が震えるようだ」

 

 そこに立っていたのは、褐色の大男と、その半分ほどの小柄な少女であった。

 言わずもがな、ベルガラとレイリアである。

 ベルガラは特別にあつらえた麻の服に革の胸当てと比較的身軽な恰好をしていたが、鍛え抜かれた分厚い胸板がそれを押し上げ、二の腕などは今にも弾け飛びそうなほどであった。

 さらに目を引くのは、隣に立つレイリアである。

 身体をすっぽりと覆う闇色の外套(がいとう)に、顔の上半分を覆い隠す烏の面。

 フードの中から零れ落ちる銀髪とわずかに覗く口元からかろうじて彼女がレイリアであることだけはわかるが、その見てくれは疫病が流行り始めた際に現れるという黒い医者の姿そのものである。

 だがマーレイはそれを少しも訝しむ素振りを見せずにうむ、うむと二度頷くと、蛇を模した杖をつきながら立ち上がり、リリィの元へ歩み寄った。

 

「よろしい。そちらのお二人も、護衛として学園に入ることを許可しよう。部屋はリリィ殿の隣を使うといい。ただし、生徒たちが授業を受けている間は、お二人とも教室の外で静かにして邪魔をしないように」

 

 ちっ、とレイリアが陰で舌打ちをする。

 彼女の身体から不穏な空気が立ち上り始めたところで、リリィが二人の間に滑り込んだ。

 

「感謝します、マーレイ大司教。それでは、明日からの準備もありますので、私たちはこれにて失礼致します」

 

 朗らかに笑うマーレイに頭が振り落とされそうなほどの勢いで礼をすると、リリィはレイリアの手を引っ掴み、慌てて部屋を飛び出していった。

 そしてまんまと置いてきぼりを食らったベルガラが開け放たれた扉とマーレイを何度か見比べた後、気まずそうに一礼してそのあとを追いかけていく。その背が随分と小さく見えたのは、きっとマーレイの気のせいだろう。

 はてさて場面は移り変わる。

 塔の最上階、学園長室を飛び出したリリィは額に汗しながら階段を駆け下り、廊下を早足で進み、事前に割り当てられた寮室へと飛び込んだ。

 ちなみにこの学園の右半分が学生寮として使われており、中庭を挟んだ反対側が教室になっている。リリィが今回割り当てられたのは学生寮の三階、その一番奥の部屋だ。

 板が打ち付けられた壁に、簡素な勉強机と棚。

 煌びやかさ、華やかさなどとは無縁な士官学校の気風故か、室内はひどく殺風景に映った。

 

「はー、随分と息苦しい場所だなあ、おい。昔放り込まれた豚小屋を思い出すぜ」

 

 真っ白なシーツが敷かれたベッドに足を投げ出しながら、レイリアは心底うんざりした様子で天井を仰ぎ見た。一人用ながらもしっかりとした作りのベッドが軋み、彼女のしなやかな肢体が沈み込む。烏の仮面が宙を舞い、机の隣にある帽子掛けに引っかかってくるくると躍った。

 

「そんなことより、学園の中にいる間ぐらいは自重してください! それも、よりにもよって大司教様に。まさか噛みつくんじゃないかと、生きた心地がしませんでしたよ!」

 

 猫のように毛を逆立てながら、リリィはまくし立てた。

 しかし当の本人はどこ吹く風。さっさと外套を取っ払ったかと思えば、腹も足も露になったその格好で窓を開け、涼み始めてしまった。

 ぐぬぬ、とリリィが唸り、その後ろでベルガラがため息を吐く。

 風になびき、長い銀髪を躍らせるその姿は実に絵になっていたが、今後もこの意地の悪い天使に振り回され続けるのだろうなと、そう思うとリリィは頭が痛くなった。

 ため息。

 

「もう、せめて素顔を晒すことだけは、極力避けて下さいね。伝説の天使と同じ顔をした人間が歩き回っていると知れたら、いったいどれほどの騒ぎになるか……」

 

呵々(カカ)ッ。そういえば、あれは傑作だったな。どいつもこいつも、這いつくばってまで熱心にあーだこーだ阿呆みたいに祈ってやがんの。そんな御大層なもんかよ、あの阿婆擦(あばず)れが」

 

「……人がいる場所では、絶対にそういうことは言わないで下さいね。本当に、ほんっとうに、お願いします」

 

「わーってるよ。やれやれ、本当に息苦しいったらありゃしない」

 

 ぐちぐちと小言をこぼす彼女の指先に火が灯る。

 そうしてどこからともなく取り出した煙草を咥え、火をつけると独特の香りとともに細長い紫煙がゆらりゆらりと立ち上った。

 なんてことのない、リリィ自身も見慣れた何気ない光景。

 しかしこの数秒の間に、いったいどれほどの奇跡が、今はもう失われてしまった技術が秘められているのだろうか。

 少なくとも、今もなお古代帝国の遺跡で発掘作業に当たっている学者たちが見れば卒倒してしまう程度には異常な光景なのだろう。

 

「ま、金はたんまり貰ってるからな、契約中はしっかりきっかり守ってやるから安心しろよ」

 

 紫煙を吐き出しながら笑うその瞳はまるで獣のようで、リリィは思わず身震いする。

 が、その肌を刺すような鋭い雰囲気を一瞬のこと。レイリアはおもむろに吸い終わった煙草を握りつぶすと、よっこらせと両足を窓の外に投げ出した。ぎしり、と窓枠が音を立てる。

 あまりに突然の奇行にぎょっとするリリィをよそに、彼女はひらりひらりと手を振った。

 その顔にはいつの間にか、先ほどと同じ烏の面が。

 じとりと、リリィの背を冷たい汗が伝った。

 

「それじゃあ、ちょっくらその辺ぶらついてくるわ。そいつ(・・・)は置いていくが、もし俺様に助けてほしい時は呼べ。十ほど数える内には駆けつけてやる」

 

 じゃ。

 可愛らしく片目をつぶってそう言い残すと、まるで猫のような身のこなしで彼女はふわりとその身を躍らせた。

 あっとリリィが手を伸ばすも、時すでに遅し。

 残されたのは唖然として立ち呆けるリリィと、やれやれと頭を掻くベルガラの二人。

 開け放たれた窓に小鳥が舞い降り、ちゅんと鳴いた。

 

「あ、あの人は本当にもうー!」

 

 晴れ渡った空に、少女の慟哭が響く。

 驚き、飛び立つ小鳥たち。

 ひらりひらりと舞い落ちた羽とともに、小鳥のような笑い声が聞こえた気がした。

 




お待たせいたしました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

口は禍の元

お待たせしました。


 

 小鳥のさえずり。

 朝日が優しく学舎を照らし、穏やかな日差しが風にそよぐカーテンの隙間から差し込んでいる。

 僅かに開いた窓の隙間から吹き込むそよ風に鼻先をくすぐられ、小さく声を漏らしながらリリィはゆっくりと瞳を開いた。

 硝子のような彼女の肩から白いシーツが滑り落ち、少しばかり寝ぐせのついた金色の髪が胸元へとはらりと落ちる。

 寝ぼけまなこを擦りながら起き上がると、彼女はぐっと伸びをする。窓際でたわむれる小鳥たちを眺め、優しく微笑んだ。

 しかしそれもつかの間、昨日の出来事を思い出したリリィはその口元をきゅっと結んだ。

 あの時突然部屋を飛び出していったレイリアは、(つい)ぞ戻らなかった。

 荷解き自体はリリィとベルガラの二人で何とか片付いた――傭兵という、一か所に留まらない生活が長かったためか、彼は驚くほど手際がよかった――のだが、夕飯の時刻になっても彼女は帰らず、ほんの少しの不安と共にリリィは昨晩眠りについたのだった。

 掴みどころのない、飄々(ひょうひょう)とした人物ではあったが、こんなことは初めてである。

 実家の屋敷に暮らしていた頃にもこういったことはあったが、それでも夕飯の時間にはしっかりと戻ってきていたのだ。

 それはこの時代の食事がとても好みに合っているという、彼女らしい理由によるものではあったが、今回はそれすらもなく、リリィは昔飼っていた猫が突然帰ってこなくなった時のような、言いようのない不安にかられていた。彼女に限り、万が一という事はありえないと思いつつも。

 

「無事でよければいいのですが……?」

 

 その時、リリィはふと自身の身体に違和感を覚えた。

 下半身、太ももの付近に感じる温かな感触。見れば真っ白なシーツのそこだけが不自然に盛り上がり、規則正しく上下しているのがわかる。

 直感。

 半ば確信めいたそれに従いシーツをめくると、リリィは思わず声を上げそうになった。

 何故ならば、そこには傷一つ無い褐色の肌を惜しげもなく晒す少女――レイリアが、一糸纏わぬ生まれたままの姿で穏やかな寝息を立てていたのだから。

 しなやかな肢体を銀の髪が包み込むように流れ落ち、丸くなって眠るその姿は気紛れな猫を思わせる。

 あどけない寝顔を、朝日が照らす。長い睫毛が僅かに身じろぎ、その奥から紅玉のような瞳がゆっくりと顔を出した。

 

「なんだよ、もう少し寝かせろよバカ」

 

 リリィはシーツを引っぺがした。

 

「色々とお聞きしたいことはありますが、とにかく何か服を着て下さい! どうして裸なんですか!?」

 

「朝からキーキー喚くな頭に響く。寝る時に裸なのは当たり前だろうが」

 

 まるで悪びれもなく伸びをして、レイリアはリリィに不機嫌そうな顔を向ける。

 シーツが取り払われ、今は赤い紋様が走るその裸体を完全に晒している状態なのだが、本人はそれを気にかける様子すらない。

 逆に顔を赤くしたのはリリィの方である。

 朝日に照らされ輝く銀髪。それはうなじを流れ落ち、艶やかなラインが浮き上がる鎖骨を通り胸元へ。そこで控えめな膨らみに押し上げられ、よく引き締まった腰から臀部へと降りていく。

 その姿は幼い容姿であるにも関わらずどこか官能的であり、リリィは高鳴る胸の鼓動を誤魔化すように彼女へとシーツを投げ返した。

 

「と、とにかく、服を着て下さい! 淑女たるもの、気安く肌を晒してはいけません!」

 

 背を向け、胸に手を当てるリリィ。

 落ち着け、落ち着けと自身に言い聞かせる彼女の背後でレイリアは受け取ったシーツとリリィを交互に見やり、にやりと意地の悪い悪魔のような笑みを浮かべた。

 リリィにとっては不幸以外のなにものでもない話だが、レイリアは人の感情の機微、とりわけこういった色を含む感情に対しての嗅覚は抜群であった。

 受け取ったシーツで胸元を隠しながら、レイリアは慎重に――無論、悪い方の意味で――言葉を選んでリリィの背に投げかける。 

 

「何だ、俺様の裸に欲情したのか? まあ、お前には随分と世話になっているからな、足を舐めて懇願すれば一度ぐらいなら抱かせてやっても――」

 

 言葉の代わりに返ってきたのは、しっかりと羽毛が詰め込まれた枕。

 それを首を少し傾けることでさらりとやり過ごすと、レイリアはさも楽し気にその細い喉を鳴らした。

 

「あいもかわらず初心だねえ。そんなんじゃあ、初めての時に苦労するぞ」

 

「余計なお世話です!」

 

 そうしてリリィは肩を怒らせ、先程とは違う意味で顔を真っ赤にして制服に着替えると、叩き壊さんばかりの勢いで扉を開けて部屋を出て行ってしまう。

 それと入れ替わるようにして、何事かと部屋を覗き込んだのは隣部屋に控えていたベルガラである。

 彼は一糸纏わぬレイリアの姿と乱れたベッドの様子を見て、なるほどと溜め息を吐いた。

 

「あまり、いじめるな。あの年頃は、色々難しい」

 

呵々(カカ)。そりゃあ無理な相談だ」

 

 ぐっとひと伸びし、レイリアはそっとベッドから降りる。

 ぱちんと指を鳴らせば全身に這う紋様が淡く輝き、まるで身体に巻き付くようにして靴をはじめ、胸元や腰回りなどの局所だけを覆う踊り子めいた衣装が出現した。

 最後に黒い外套が肩から流れ落ちるように出現すると、褐色の柔肌を守るようにすっぽりとその身体を覆ってしまう。

 そうして早々に身支度を整えたレイリアは、身体の具合を確かめるように肩をぐるりと回すと改めてリリィが飛び出していった扉を見やり、呆れたように息を吐いた。

 

「馬鹿が。形だけとはいえ、護衛を置き去りにして飛び出す奴があるかよ、まったく」

 

「自業自得、だ」

 

「うっせ。さっさと追っかけるぞ」

 

 唇を尖らせ、ベルガラの脛を蹴飛ばすとレイリアはカラスの仮面を被りながら、飛び出していった護衛対象(リリィ)の後を追う。

 幸い、彼女が向かった場所の見当はついている。

 早朝に学生が制服を着て向かう場所。

 授業が始まるにはまだかなりの余裕があることを考慮すれば、行きつく先はただ一つ。

 つまりは――

 

食堂(メシ)だ。便所って線もあるが、まあ結局はここに行きつく。任せろ、ここの構造はだいたい覚えた」

 

 たしかに、そう自信満々に語る彼女の歩みに迷いはない。

 真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を右に、階段を降り、中央に立派な噴水が佇む中庭へと差し掛かった辺りで、なんとも香ばしい小麦の香りが二人の鼻孔を刺激し始めた。

 がやがやと、生徒たちの賑やかな声。

 どうやら食べ盛りの若者たちが、我先にと食堂へ集っているようだ。

 しかしそうして思い思いに食卓を囲む生徒たちの、その殆どが何やら祈りを捧げるように胸で手を組み、ぶつぶつと呪文を唱えているのを見てレイリアは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「女神様ありがとうございますってか。やれやれ、飯を食うだけで大げさなこった」

 

 その生徒たちは、敬虔(けいけん)なリアディア教の信者であった。

 彼らからしてみれば毎日の恵みを感謝するのは至極当然の、それこそ自身が生まれた時から続いている習慣であるのだが、その女神を詳しく知るレイリアからしてみれば、知り合いの名を呟きながら祈りを捧げるその光景は奇妙以外の何物でもない。

 その時、思わず零したレイリアのその声に反応する者があった。

 

「レイリア、迂闊な発言は控えて下さいとあれほど言ったではないですか!」

 

「おっと、お転婆お嬢様のお出ましだ」

 

 食堂の奥から慌てた様子で駆け付けたリリィに、レイリアは肩を竦めてみせる。

 どうやら先程のレイリアの声は思いのほか食堂内に響いたらしく、辺りには訝し気な目を向ける者や、なにやら突き刺すような視線を浴びせる者の姿がちらほらと見受けられた。

 国教でもある女神を蔑ろにするような発言を、こともあろうにその教えを伝える総本山で行なってしまったのだ。この結果は、むしろ当然のものと言えるだろう。

 だが、普通ならば委縮してしまうような針の筵であっても、この少女にとっては朝の陽だまりとさほど変わりなく。

 

「やれやれ、これだから温室育ちの馬鹿は嫌いなんだよ。そんなにあの女神(マヌケ)が大事かねえ」

 

「貴女、いい加減になさい!」

 

 怒声が響く。

 リリィのものではない。彼女よりも高圧的なそれは、どこか天空を舞う鷲の声に似ていた。

 靴を鳴らしながら三人の前に表れたのは、渦のように巻かれた金髪が特徴的な蒼い瞳の少女である。脇には護衛とみられる燕尾服を着た初老の男性が控えており、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 体格自体はリリィと殆ど変わらないが、その胸元に実った母性の象徴は同年代の中でも相当立派と言って過言ではなく、それを見たレイリアは何とも言えない表情を浮かべ、口の端を僅かに釣り上げた。

 

「誰だよ、この牛女」

 

「う、うし……っ!?」

 

 ぴしりと人差し指を向けて、あっけらかんと言い放ったレイリアの言葉に金髪の少女が固まる。

 その白い頬が、かあっと朱に染まった。

 

「彼女はローズ・フォン・ヴァレンシュタイン。王国の西方を治める貴族、ヴァレンシュタイン家の長女であり、私の幼馴染でもあります」

 

「ほほぅ。なるほど、西方の鷲って奴の娘か」

 

 アクィラ家というのは、レイリアも聞いた事があった。

 東方の獅子、グラス・ヴェル・ファルブルムと対を成す王国の剣。西方の鷲、ヨーゼフ・フォン・ヴァレンシュタイン。

 王国が誇る英雄が一人。彼が掲げる鷲の旗を見た敵兵たちはみな恐れおののき、指揮する騎兵隊は敵軍を縦横無尽に切り裂いたという。

 

「いかにも! 西方の鷲、ヨーゼフ・フォン・ヴァレンシュタインが一人娘、ローズ・フォン・ヴァレンシュタインとはわたくしのことですわ!」

 

「長ったらしい名前をだらだら並べるな牛乳(うしちち)。食った栄養が全部その乳に行ってるのか、このド阿呆」

 

 空気が凍る、というのは正しくこのようなことを言うのだろう。

 ローズは得意げに胸を張った姿勢で固まり、リリィとベルガラはまたやった、と呆れ顔で額に手を当て、ため息を吐く。

 他の生徒たちも歯に衣着せぬレイリアの物言いに驚愕し、あるいは口元を隠し必死に笑うのを堪えながら、事の成り行きを見守っていた。

 何の反応も見せなかったのは、ローズの隣に立つ初老の男だけである。

 そうこうしているうちに首元から頬、耳の先まで、見る見るうちにローズの顔が真っ赤に染まっていく。

 それを眺めるレイリアは実に満足げで、いつもならリリィに向いているその邪悪な笑みは、今度ばかりは目の前の可哀想な少女に向けられていた。

 

「か、彼女の無礼は謝罪します。彼女は南方の出身なのだけど、こちら(王国)の言葉を覚えたのもつい最近でまだ上手く扱えていないの、だから、その……」

 

 リリィが咄嗟に助け舟を出そうとするも、その言葉は尻すぼみになり、やがて困ったように視線を右往左往させ始める。

 どう考えても手遅れである。

 容赦なく、的確に急所を突き刺された者をどう処置すればいいというのか。

 

「も、もう我慢なりませんわ!」

 

 もはや熟れに熟れたリンゴのようになっていたローズは、怒髪天を突く勢いで怒鳴り散らすと身に着けていた白い手袋を乱暴に剥ぎ取り、レイリアへと投げつけた。

 それが意味することはただ一つ。

 失言に次ぐ失言。最初から最後までレイリアの方に非があることは明白なのだが、これにはリリィも全身から血の気が引く思いであった。

 

「お嬢様、それは短慮が過ぎるのでは――」

 

「お黙りなさい! 女神リアディアのみならず、ヴァレンシュタイン家のわたくしまで侮辱するその傲慢、叩き潰して差し上げますわ!」

 

 老執事の制止も、もはや意味をなさない。

 完全に頭に血を昇らせたローズは射殺さんばかりにレイリアを睨み付け、指を差し言い放った。

 言った。言ってしまった。

 白い手袋を投げつける行為。それは貴族における決闘の申し入れに他ならない。

 にわかにざわめき出す食堂内。

 面白い玩具を手に入れたと悪魔のような笑みを浮かべる少女の姿に、リリィはまたしても頭を抱えるのだった。




学園で金髪ドリルは基本。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。