ロミーVer.1:第1部-藤原Sisters (松村順)
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1話

これまでいくつか『ヒカルの碁』の二次小説を投稿してきましたが,この『ロミー』はオリジナル作品です。
愛し合う姉と弟の物語ですが,あからさまな姉弟愛の描写はありません。

これまでと同様,
声に出して語られるせりふは「 」で,
心の中のつぶやきは〔 〕で示しています。

Pixiv,「小説家になろう」にも投稿しています



 

 「南国」と呼ばれる九州にあっては不吉なほど白く透き通った肌,亜麻色の髪,青い目,外人のようだということで「ロミー」と呼ばれ,いつ頃からか自分でもそう名乗るようになった。

 医学的にはアルビノ症,メラニン色素が合成できない先天異常。直射日光を浴びるとやけどのように肌が赤く腫れあがり,長期的にはガンのリスクが上がる。だから,日中の外出は厳重に制限されている。陽光を浴びる外の景色を部屋の中から眺めることは許される。夕日が沈むころ散歩することも許されている。それが限界。だからボクは物心つく頃からほとんど外でほかの子たちと遊ばず,家の中で本を読んで過ごした。

 でもそれは,病気のためのいやいやながらの選択ではなく,ボクにとってうれしいことだった。姉=ヒカル以外の子供,とりわけ男の子はボクにはがさつな野蛮人としか思えない。そんな子たちと一緒に外で遊びたいなんて一度たりとも思ったことはない。

 本はたくさんあった。両親が医者だったから医学関係,科学関係の本はたくさんあったし,ボクのためやヒカルのために買ってくれた本もある。やがて学校や街の図書館から借りることも覚えた。

 

 ヒカルは2歳年上。正確には1歳半年上。ヒカルは真夏の7月生まれ,ボクは真冬の1月生まれ。性格にも現れているかも。動と静,陽と陰,太陽と月。学校に行くようになって,ボクは早上がりなので,学年は1年違いになった。だからいつの間にか1つ年上と意識するようになった。

 ロミーという呼び名は,ヒカルが付けてくれたもの。ボクの本名ヒロミから「ロミー」。幼いボクの髪をなでながら「ロミーは外人みたいにきれいね」と言ってくれた。そして,外国の絵本に描かれている天使のような子供たちや,外国映画に登場する子役たちの写真などを見せ,「ロミーもこんなふうにきれいなんだよ」と語りかける。

 幼い頃はヒカルと一緒に寝ていた。ヒカルの柔らかで温かい肌に触れていると,いつの間にか寝入っていた。やがてボクにも個室が与えられ,そこで寝ることになったけど,自分の部屋にいるのは好きじゃなかった。本をもってヒカルの部屋に行き,机に座って勉強したり本を読んだりしているヒカルの脇で,ベッドに寝転んで本を読んでいた。時おり,ヒカルは勉強に疲れたのか,ボクのそばに来てくれる。そしてボクの亜麻色の髪を指でくしけずるように撫でてくれる。その指の感触が心地よかった。そして,かすかに香るヒカルのにおい。

 一緒にリンゴを食べることもある。二人ともリンゴが好きだった。秋から冬にかけて,リンゴを1個もってヒカルの部屋に入り,ボクが2口~3口丸かじりしてヒカルに渡す。ヒカルが2口~3口丸かじりしてボクに返す,そうやって1個を代わる代わる丸かじりして食べた。

 やがて寝る時間になると,ボクは自分の部屋に戻る。その時,ヒカルはボクを優しくハグしてくれた。

 

 夕日が沈む頃,ボクは散歩に出かける。ヒカルも一緒に付き合ってくれる。細長い湾の向こう側の半島の低い山並みに夕日が沈み,夕映えが広がり,それが明るいオレンジ色から紅,暗赤色へと暮れていくのを二人で眺めていた。三日月がかかっていることもある。夕映えの空が暗くなるにつれて月が輝きを増すのを眺めていた。日の光より月の光が好きだけど,とりわけ三日月が好きなのは,この頃からのこと。時には,三日月のそばに明るい星が輝いていることもある。

「金星=宵の明星よ」

とヒカルが教えてくれた。帰り道,夕映えの光は西の山ぎわに残るだけ。空には宵の明星だけでなく,いろんな星がまたたいていた。

 星も好きだった。かつて北九州工業地帯の一角を占め,工場の煙で星も見えないと言われていたふるさとの街の空。ボクが子供の頃にはずいぶんきれいになっていた。日本全体で製造業が衰退するのにあわせて,ボクの街もさびれていったから。衰退はボクが生まれる前から始まり,子供の頃,日本中がバブルに浮かれていた頃,加速度的に進んだ。そして,街がさびれるにつれて星空は美しくなった。

 興味に任せていろんな本を読み,いろんな分野になじんでいったけど,最初に興味を持ったのが星の話であるのは,自分でも必然だと思う。星の話。星にまつわる神話,とりわけギリシア神話。オルフェウスの竪琴。美少年ガニュメデスをさらうために鷲に変身するゼウス。目の前に現れた熊が母の変身した姿だと知らずに矢を射かけようとして子熊に変えられ母と共に空に上げられた若い猟師。それらの神話を題材にした文学作品や絵画。そして,星の科学~天文学,ニュートン力学,相対論,宇宙物理学,原子物理学,素粒子論~。100億年以上も昔のビッグバンによる宇宙の誕生。元素の生成,星々の誕生。そして,やはり100億年以上先に予想される星々の死,それから遙か先に予想される宇宙の死。生と死の狭間にあって光り輝く星たちの成長,衰退そして運動を記述する理論。

 

 ある時,ボクは学校の図書館から借りた本を読んでいて,ヒカルに声をかけた。

「消しゴム貸して」

ヒカルは消しゴムを手渡してくれた。ボクは読んでいる本のページの落書きを消そうと思って,〔消しゴムのくずをベッドに落としてはいけない〕と思って,立ち上がり,ヒカルの勉強の邪魔にならないよう,机の隅に本を置いて,

「なんでこんな下品な落書きをするんだろう」

と言いながら,せっせと落書きを消し始めた。ヒカルは,そんなボクと本のページを見て,笑った。

「まあ,小学生の男たちって,そんなものよ」

 ボクが読んでいたのは,星にまつわるヨーロッパの神話・伝説の本。ところどころ,挿絵がある。著者が描いたのではなく,それなりに有名な昔のヨーロッパの画家たちがギリシア神話などに題材を得て描いた「名画」といわれる作品。古典的なヨーロッパの美意識に従って,女性はほとんど裸体で描かれている。それに鉛筆で下品な落書きがされている。〔なんで,きれいな女の人の体を素直に『きれい』と思って眺めることができないんだろう?〕と思いながらボクは落書きを消していった。ボクには小学生の男の子というのがますます理解不可能な生き物に思えるようになった。

 

 解剖学に興味を持ったのは,たまたま家にあった比較解剖学の図鑑を手にしたから。やがて,ヒトの体の構造の巧みさに心を奪われるようになった。もともと魚から進化したヒトという生き物が,遠い昔の魚類や爬虫類から受け継いだ体の構造を,直立歩行という自分の条件にあわせて変化させ,使いこなした。その結果としての今のヒトの解剖的構造。その構造の部品一つ一つもまた機能にあわせた意味ある形になっている。やがて,解剖学の学名に使われるラテン語にも興味を持つようになった。

上小脳動脈 Arteria cerebelli superior

前下小脳動脈 Arteria cerebelli inferior anterior

後下小脳動脈Arteria cerebelli inferior posterior

など・・・・そして小学校5年生頃に勉強し始めた。

 

 地図帳を見て楽しむようになったのは,たぶんヒカルが社会科の副教材として地図帳を配布された時から。ヒカルが使わない時に自分でいろんなページを開いて眺めていた。2ページ見開きに,日本なら九州とか関東といった地方別,世界ならヨーロッパとかアフリカといった州別の地図が印刷され,ところどころにもう少し詳しい地図,たとえば京阪神地域とか,首都圏とか,地中海沿岸地域などの地図が合わさって一冊の本になっている,あのありふれた地図帳。

 時として人の横顔や動物の姿を連想させることもある海岸線の不思議な形。平野は緑に,低い山地は薄い茶色,だんだん標高が高くなるにつれて濃い茶色に色分けされた陸地,浅いところは薄青,深くなるにつれて濃い青で塗られた海。陸地には山や川が記され,見知らぬ街の名前とそれを結ぶ鉄道や道路が描き込まれている。何度も繰り返し見ているうちに,まだ一度も行ったことのない土地の名前を覚え,ある種の親しみを感じるようになる。「いつか,行ってみたいなあ」というかすかな憧れを伴いながら,そして,「でも,すべての土地には行けるはずもない」という諦めをも伴って。

 好んで開いたページはヨーロッパ。まず心惹かれたのはギリシアや地中海地方。ただ,その強い日差しにボクの肌は耐えられないと思えた。でも実際に緯度を調べてみると,アテネでさえ東京よりは北にある。ローマは函館くらい。マルセイユは札幌と同じ緯度。〔地中海って,イメージと違ってかなり北の海なんだ。日本海とほぼ同じ〕。パリは北海道の最北端の稚内より北にある。イギリスは全体がカムチャッカ半島に重なる。

「スコットランドに住めば,ボクもあまり日差しを気にしないで済むかもしれないね。パリだって,東京よりはずっと北にあるんだよ」

とヒカルに話しかけた。

「本気でイギリスやフランスに住みたいのなら,英語やフランス語を勉強しないといけないね。フランス語はラテン語の進化形らしいから,ロミーには英語よりフランス語の方が楽かもね」

とヒカルは応じてくれた。実際にボクがフランス語を勉強し始めるのは,もうちょっと先のことだけど。

 ボクは,ヒカルと二人でヨーロッパに住むための小さな家の図面を描いたりもした。大きな家でなくていい。必要最小限の家具があるだけの家。木造がいいな。でも冬の寒さを防ぐよう断熱はしっかりして,窓は紫外線を遮るガラスを使った二重窓。ボクが,窓ガラス越しに日差しを浴びて外の景色を眺められるように。部屋は居間兼用のダイニングキッチンと二人の寝室のほかはバス・トイレだけ。普段使わないものは天井裏にしまっておく。天井裏に上る階段は,寝室に取り付けるか,居間に取り付けるか・・・・。こんなことをヒカルに話す。

「ずいぶん具体的ね。本気で実現したいの?」

どうだろう? ボクにとって,ヒカルと一緒にヨーロッパに住むなんて,夢物語でしかなかった。でも,夢であっても,夢であればこそ,緻密な夢を見たかった。そして,こんなことを考えているのが,それだけで楽しかった。「この街でないどこか」への憧れだったのかもしれない。

 

 学校は,おもしろくなかった。だけど,嫌がって登校拒否するほどでもなかった。

 外でやる体育の授業は免除され,教室で一人静かに本を読んでいた。校庭での朝礼も免除された。これはみんなの嫉妬を買った。確かに,校庭に立たせられるのが好きな子供なんかいない。

 登校時間も下校時間も日差しのある時間帯だから,ボクは真夏でも長袖に長ズボンで手足を保護し,つば広の帽子をかぶって首から上の衣服に覆われていない肌を日射から守り,サングラスで目を紫外線から遮蔽して通学した。髪を肩まで届くほど伸ばしたのも,襟から出ているうなじの肌を日射から守るため。その姿を優雅と感じる美意識を持ち合わせていない子供たちにとって,ボクの通学姿はからかいの種だった。もちろん,ボクの亜麻色の髪も,青い目も,白すぎる肌も。ガイジン,ロミーとはやし立てた。

 ヒカルが褒め言葉として付けてくれた呼び名を,小学校の子供たちは嘲りとからかいの渾名として使うようになった。ヒカルとボクの二人だけの世界と外の世界はまるっきり別なんだと自覚した,これが最初のできごと。外の世界の嘲りやからかいは,無視することにした。ボクには,ヒカルがそばにいてくれれば,それだけでいい。それに,嘲りやからかいがそれ以上ひどいイジメに増悪することはなかった。それは間違いなく,ボクが「ヒカルちゃんの弟」だったから。

 ヒカルは,学校一の人気者。頭が良くて,美人で,性格もいい。ヒカル自身は常識を疑うこともできる人だけど,世間のたいていの人たちは常識に盲従して生きていることをわきまえて,世間では常識に従った振る舞いができる。場の空気を読むこともできる。誰からも好かれた。そんな優等生で人気者のヒカルの弟だから学校のガキたちの悪意から守られている,これはボクが小学校に入学してじきに感じ取ったこと。ヒカルはボクの守護天使。そしてボクを励まし,慰めてくれる。

「小学生なんて,特に男子は,美意識を持ち合わせていないし,自分と違うものをバカにするから,ロミーを『ガイジン』と言ってバカにするけど,ロミーはすごい美人なのよ。この透き通るような白い肌も,亜麻色の髪も,青い目も,女の子より可憐な顔立ちも・・・・。小学生の子供には分からないけど,大人になったら,みんなロミーの美しさに驚くようになるよ」

 大人になったら・・・・小学生のボクにとってそれは遥か遥か遠い,現実感のない話だった。ただ,そういって慰めてくれるヒカルの優しさはうれしかった。そして,学校一の人気者がほかの誰よりボクをかわいがってくれるのが,誇らしかった。

 

 ヒカルが中学生になり,ボクが6年生になった頃,フランス語を勉強し始めた。ヒカルに勧められていたからということもあるし,その頃,ピエール・ルイスの“Chansons de Bilitis”に出会ったからでもある。『ビリティスの恋唄』と日本語タイトルを付けられた吉原幸子の翻訳。大判でところどころに東逸子による美しい挿絵があり,フランス語の原詩もいくつか収録されている。この原詩をフランス語で読みたいと思った。その年が暮れる頃には,辞書を引きながら読めるようになった。そして,「ベルエポックのサフォー」と賞賛されたルネ・ヴィヴィアンに出会った。

 春休みも間近なある日,ボクはヒカルに語りかけた。

「ヒカル,ボクと手を合わせて」

そう言って,ボクは右手を開いてヒカルに伸ばした。ヒカルは左手を重ね合わせてくれた。

- A l’heure des mains jointes,

Je t’ai donné les derniers lys de mon passé -

- 手と手を重ね合わせる時

わたしは過ぎし日の最後のユリを君にあげた -

「誰かの詩?」

「うん,ルネ・ヴィヴィアンという19世紀末から20世紀初め頃のフランスの詩人。正確には,イギリスに生まれたけど,パリで暮らしてフランス語で詩を書いた女性」

「ふーん,女流詩人なんだ」

「そう。でも,最後のユリをあげる『君』も女性なんだよ。ルネ・ヴィヴィアンの詩はほとんど恋愛詩だけど,女性への恋を歌った詩なんだ」

こう語りながら,ボクはヒカルの脇に座り直し,体をもたせかけた。ヒカルは腕を回してボクの肩を抱いてくれる。ボクはもう一度,ヒカルと手を重ね合わせて,

- A l’heure des mains jointes,

Je t’ai donné les derniers lys de mon passé -

と繰り返した。そんなボクにヒカルは

「ロミー,女に生まれたかった?」

ボクは首をかしげた。そんなこと,ヒカルに問われるまで,考えたこともなかった。ルネ・ヴィヴィアンとその恋人たちとの関係,サッフォーと彼女を取り巻く少女たちの関係,そんな関係に憧れはしたけど・・・・。

「ロミーは女にならなくていいよ。男にならなくてもいいよ。ロミーは今のままでいいの」

ヒカルはそう言ってボクを抱き寄せた。膨らみ始めた胸の感触が心地よかった。

 小学生と中学生の狭間の春休み,ボクはルネ・ヴィヴィアンを読んで過ごした。

 



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2話

 ボクが中学生になった春,母がアメリカ留学に旅立った。母はその頃40歳くらい。最後のチャンスだったのだろう。そして,それっきり,母は戻ってこなかった。家事と育児のあいまに夫を手伝うパートタイムの医者という生き方に納得していなかったということを後になって伝え聞いた。

 姉とボクにヒカルとヒロミという男女どちらでも通じる中性的というか両性的な名前を付けたのは母の意向だったらしい。母がどんな思いで姉とボクに命名したのか,知るよしもない。

 ともあれ,母がいなくなってからボクたちは分担して家事をこなした。朝食は3人分をボクが作った。といっても,トースト,目玉焼き,あり合わせの野菜,それに紅茶。昼は,ボクたちは給食,父は外食か出前を取っていた。夕食は,気が向けばボクとヒカルが一緒に何か作ったけど,総菜屋さんで買ったもので済ますことも多かった。

 掃除は,それぞれの部屋は自分で掃除して,キッチンやお風呂の掃除はヒカルが手の空いた時にやってくれた。ボクも手伝った。父は仕事人間で家では影が薄かったから,家の中はますますヒカルとボクの二人の世界になった。

 

 中学の部活。運動部など入る気もなかったし,そもそも外で日を浴びてはいけないボクにはありえない選択。天文部には興味があったけど,覗いてみて20~30人も部員がいるので,やめた。〔部員が一人もいない部活がないかな〕と思ったけど,それは無理なこと。でも,顧問らしい女の先生と部員が3人いるだけの部があった。化学部。

「3人とも3年生で,受験を控えてそろそろ部活に来なくなるから,自然消滅かなって思っていたんだけど,キミが入ってくれるなら存続するね・・・・あっ,でも無理しなくていいよ。自然消滅するならするんで構わないから」

という彼女の話がなんだかおもしろくて,入部することにした。

 放課後,ほぼ毎日,部室を兼ねている理科実験室に行く。3年生の部員が3人とも揃うことは稀で,ボクが一番熱心な部員のようだった。ボクの場合,日が長くなるこれからの時季,授業が終わる3時頃はまだ真昼同様に日差しが強いから,日が傾くのを待たせてもらう目的もあった。

 先生が来ないうちは,『化学実験事典』という分厚い本を読んでいる。そこに記述されている実験の中には中学にある試薬や実験器具ではできないものもあるけど,それらも含めて実験の解説を読むのはおもしろかった。先生が来ても,そのまま事典を読んでいることもある。そんな時,先生は「この実験は,そのままでは器具がないからここでできないけど,やり方をこんなふうに変えると,ここにある器具や材料でもできるようになる」みたいな解説をしてくれることがある。

 だけど,先生が来たら,ボクは準備室の鍵を開けてもらって,試薬棚に並んだ試薬の瓶を眺めていることの方が多かった。試薬が変化しないよう薄暗くされた部屋。かすかに酸っぱいような匂いがする。無色の粉や液体の間に赤,青,黄色などさまざまな色の試薬が元素名に基づいて命名され,化学記号を付けられ,瓶に入れられて並んでいるのを眺めるのが好きだった。水酸化ナトリウムNaOH,酸化第二鉄Fe2O3,硫酸銅CuSO4,硝酸銀AgNO3,クロム酸ナトリウムNa2CrO4,重クロム酸ナトリウムNa2Cr2O7・・・・ラテン語を勉強していたボクには化学記号の意味が分かる。FeはFerrum,CuはCuprum,AgはArgentum,SはSulphurから作られた。

 時には,ボクだけか,たまに3年生部員が来ている日なら2~3人でもできる実験をやらせてもらうこともある。試験管,フラスコ,ビーカー,ピペット,上皿天秤,ブンゼンバーナー・・・・。先生はボクを「実験がじょうず」と褒めてくれる。器具の取り扱いがていねいで,計量も手を抜かずきちんとやるし,実験経過の観察も入念・・・・そんなことボクにとっては当たり前だけど,「中学生の男子なんてガサツと相場が決まってる」と先生はあっけらかんと語る。

 化学反応の前と後で反応物の重さを量るのは化学実験の基礎の基礎だけど,反応式が分かっていれば,実験する前に計算して予想できる。

「アルミニウム1グラムが酸化されると何グラムの酸化アルミニウムができるか,藤原くんなら計算できるでしょう。反応式を書いて,それぞれの分子量を計算してごらん」

4Al+3 O2→2Al2O3 ・・・・ 4x27+3x32→2x102 ・・・・ 108+96→204

「アルミニウム108グラムが酸化されれば,204グラムの酸化アルミニウムができる。なら,アルミニウム1グラム燃やせば,何グラムの酸化アルミニウムができるか? 比例式を立てて簡単な方程式を解けばいいのね・・・・あっ,でもまだ1年生だと比例式を習っていないのか」

「でも,知ってます。ヒカル・・・・お姉さんが教えてくれました」

「それじゃあ,計算してごらん」

ボクは言われたとおり計算した。

「1.8888・・・・になるから約1.89グラム」

「そうね。ただ,アルミニウムはふつうに保存しているとすぐに表面が酸化されてしまう。準備室にあるアルミニウムもそうなの。アルミニウム箔とラベルに書いてあるけど,表面を緻密で薄い酸化アルミニウムの膜で覆われているの。だからそれを1グラム秤量しても,単体アルミニウムが1グラムではない」

ボクはちょっと考えた。

「つまり,単体アルミニウムにごく少量の酸化アルミニウムが一緒になって1グラムになっている」

「そういうこと・・・・」

今度は先生の方がちょっと考えた。

「・・・・そうか,逆に,実験に基づいて,準備室に保存してあるアルミニウム箔の純度を計算できるんだ。やってみよう・・・・藤原くん,まず試薬のアルミニウム箔を正確に1グラム秤量して」

ボクは,言われたとおり正確に秤量した。次に,過酸化水素水に少量の触媒を入れて発生させた酸素を水上置換でビーカーに集め,その中でアルミニウム箔を燃やし,できた酸化アルミニウムをまた正確に秤量した。

理科実験室の古典的な上皿天秤は最小100mg(0.1グラム)の分銅があり,さらに,針の目盛りが20mgきざみなので,20mg(0.02グラム)単位で計量できる。一方の皿に生成した酸化アルミニウムを載せ,反対側の皿に1.8グラム分の分銅を載せると,酸化アルミニウムの側がわずかに傾いた。ほぼ針の目盛り2つ分。酸化アルミニウムは1.8グラムより約0.04グラム重い。

「だいたい,1.84グラムです」

「つまり,単体アルミニウムが1グラムあれば重量が0.89グラム増えるはずなのに,0.84グラムしか増えなかった。では,最初に何グラムの単体アルミニウムがあったのか? ヒントは,ここでもまた比例式を立てる」

「・・・・分かった。

1:0.89=X:0.84

という比例式を立ててXを求めればいいんだ」

「そう言うこと。あとは簡単な方程式を解くだけ」

計算の結果は,0.84÷0.89≒0.94

「1グラムのアルミニウム箔のうち,アルミニウムそのものは0.94グラム。残る0.06グラムは酸化アルミニウム。つまり,このアルミニウム箔の純度は約94%」

「そういうこと・・・・」

ここで先生は一息入れて,

「これが試験問題なら,高校入試どころか大学入試問題のレベルだと思うよ」

と感心してくれた。

「先生に手伝ってもらったから・・・・」

「そうは言っても・・・・」

「それに,ヒカル・・・・姉に比例式を教わっていたから」

「そうね。お姉さんにお礼を言っておきなさい」

「はい。それにしても,比例式って使いでがあるんですね」

「うん。大学レベルはともかく,高校レベルの化学の計算問題はたいてい比例式を使って解ける。なぜなら,反応物のモル数の比や,同じモルの反応物の分子量の比が問題になるから」

 それから先生は,化学の基本というべきモルの概念を説明してくれた。説明が終わった時,もう夏の日が落ちて夕焼けが空に広がっていた。化学の個人授業。なんてぜいたくな時間。

「明日は,モルの概念の応用として,中和滴定をやってみようか? 今日の実験や計算問題よりずっと単純よ」

 家に帰って,ボクはヒカルにこの日のことを話した。

「役に立てて良かったわ。それにしても,そんなに使いでのあるものなら,数学の授業でそう話してくれればいいのにね。わたしも今日ロミーから聞いて初めて知った」

 

 翌日,先生は1モル=1規定の塩酸を適量取り,水を加えて濃度不明の塩酸10mlを調合してビーカーに入れてくれた。

「1モル=1規定の水酸化ナトリウム溶液を調合して,この塩酸を中和させ,塩酸の濃度を計算しよう。水酸化ナトリウムは湿気を吸って重量が変化するから,秤量は手早く正確にね。溶液は10ml作れば十分。塩酸の濃度が1モル以下なのは確かだから,10mlあれば間違いなく中和できる」

 まず塩酸溶液に少量のフェノールフタレインを加えておく。それから,水酸化ナトリウムを0.01モル=400mg秤量し,メスフラスコに入れ,水を加えて10ml(0.01リットル)の溶液を作り,ビュレットに注ぎ入れる。その水酸化ナトリウム溶液をビーカーの塩酸溶液に滴下する。滴下された水酸化ナトリウムが一瞬だけ赤く染まるけど,周囲にある塩酸に中和されてすぐに無色になる。やがて,滴下された液がしばらく赤いままに留まるけど,ビーカーを振って攪拌すると色は消える。最後に,攪拌してもごく薄いピンク色が残るようになる。ここで滴定終了。

「使った水酸化ナトリウム溶液の量は3.6mlだから,塩酸の濃度は0.36モル」

先生はうなずいてくれた。ボクは素朴な疑問が思い浮かんだ。

「ほんとうは,中性じゃなくて,アルカリ性になったんでしょう? 液がごく薄くてもピンクになったんだから」

「鋭いね。実は,そうなのよ。ただ,フェノールフタレインはとても敏感な試薬だから,ほんのわずかにアルカリ性になっただけで色が変わる。だから,ごく薄いピンクの時はほぼ中性と見なしていい」

「ふーん。意外とアバウトなんですね」

「アバウトとは,きついなあ」

と先生は笑った。

 こんな実験をやりながら,ボクはそれまで自分で知らなかった自分を発見した。理詰めに考えて計算するのもおもしろいけど,ボクは,力を使わない細かな手作業も意外と好きみたいだった。

「ロミーは料理も嫌いじゃないみたいだしね」

と,この話を聞いたヒカルが語る。

「それにしても,ロミーの能力を認めてくれる先生が一人だけでもいてくれて良かったね。学校はつまらなくても,化学部は楽しいでしょう?」

「うん」

ボクは明るく答えた。

 

 結局,この年の新入部員はボクだけ。2学期になり,3年生がまったく顔を出さなくなると先生と二人だけで理科実験室で過ごすことになった。秋になると日も短くなり早く帰ることもできたけど,先生と一緒にいるのはいやじゃなかった。

「藤原くんは不思議な子ね」

ある時,先生がつぶやいた。

「変な子だってことは,自分でも分かっています」

「変な子じゃないの。不思議な子なのよ」

と先生はボクの言葉を訂正した。

 2年生になると,新入部員が3人現れた。ただし,3人とも新入生ではなくてボクと同じ2年生の女子。先生とボクの小さな楽園は消え去ることになる。なりゆき上,ボクが部長になるのだけど,そんな仕事はしたくないし,そもそもリーダーなんて役目は務まるはずもないことは分かっている。

「立場上,ボクが部長になるけど,部長らしい仕事は期待しないで。みんな,自分のやりたいことを勝手にやってください」

と宣言し,それを実行した。ボクはそれまでどおり『事典』を読むか,準備室の試薬棚の前にたたずむ。ヒカルにこの話をしたら,

「ロミーの美しさを分かる女子が現れ始めたってことね。無理にその子たちを好きになる必要はないけど,嫌う理由がないのなら礼儀正しくエレガントに対応してあげなさい」

と言われた。それで,器具の取り扱い方とか実験のやり方について質問されれば,分かる範囲で答えるようにした。それ以上のことは・・・・。

 3年生になると,さらに7人の新入部員がやって来た。そのうち5人は2年生,2人は1年生。全員,女子。部員数は11人に増えた。ボクにとっては「大所帯」。3年生になったのを口実に部長は新入の2年生のうちの一人に代わってもらった。ただ,理科実験室は好きなので,放課後毎日のように顔を出した。ほかの部員たちからちょっと離れて静かに『事典』を読んだり,試薬棚の前にたたずんで試薬の名前をたどったり。もちろん,部員たちからアドバイスを求められれば,「礼儀正しくエレガントに」答えた。

 

 英語はあまり好きになれなかった。アルファベットをローマ字読みするラテン語に慣れていたボクは,英語の綴りと発音の関係が無秩序なのに戸惑った。“a”,“e”,“i”,“o”,“u”,5つの母音字すべてに2つ以上の発音があり,どんな時にどの発音になるのかがまったく不規則(この時のボクにはそう思えた)。子音字にも“c”とか“g”とか“s”とか“th”などは不規則な読み方をする。それに加えて,ボクは“cat”や“hat”の“a”の発音が嫌いだった。「美しくない」。ほとんどの国の言葉では,“a”は大きく口を開けて明るく発音する「ア」の音なのに・・・・。

 北国スコットランドへの憧れが消えたわけではないけど,それだけでは英語への違和感を乗り越えられなかった。その分,フランス語に熱を入れた。

 

 北九州の小都会では,生のフランス語を聞く機会はない。だからボクはフランス映画を見に行った。ロードショー館は中学生の小遣いには負担が重いから,二番館で古い映画を見た。ヒカルも,高校受験の年だったのに,たいてい付き合ってくれた。フランス語の勉強のためだから,名作,駄作を問わず,上映されていれば見に行ったけど,それでも印象深い作品にいくつか出会えた。一番印象に残っているのは『天井桟敷の人々』。上映期間中に2度見に行った。それから,『アデルの恋の物語』,『ル・ジタン』など。

 歌も聞いた。当時「フレンチ・ポップス」と呼ばれていたミッシェル・ポルナレフやフランソワーズ・アルディ。もうちょっと伝統的なシャンソンではバルバラやジュリエット・グレコ。バルバラの“Aigle noir"(黒い鷲)がお気に入りだった。

- 湖のほとりにまどろむわたしのそばに見事な1羽の黒い鷲が舞い降りる。ルビーの色の目,夜の色の羽。その嘴をわたしの頬に寄せ,その首をわたしの手の中に預けて・・・・突然わたしは思い出す。子供のころの夢の中,この大きな鷲に乗って白い雲を越え,太陽に火を灯し,雨を降らせたことを・・・・そして今,黒い鷲は大きな羽ばたきの音と共に再び大空に舞い上がる。-

 ボクは,黒い鷲に乗って空を飛べると信じるほどには幼くなかったけど,そんな夢をリアルに思い描くくらいには子供だった。

 

 フランス語を勉強していて,ラテン語からフランス語が生まれる言語史を勉強し,ついでにゲルマン古語からドイツ語や英語が生まれるプロセスも勉強した。かつては綴りと発音が一致していた古英語が,発音は時代とともに変わるのに綴りが変わらなかったために,今の英語のような綴りと発音が一致しない状態になった。そして,一見むちゃくちゃに見える英語の綴りと発音の間にもそれなりの規則性がある。このことが分かって,英語を少しは「許せる」気になった。

 それにしても,どうして中学の英語の授業ではこのことを教えないんだろう。綴りと発音が一致しない理由,そして,一見でたらめのように見えるけど,綴りと発音の間に一定の規則があることを,どうして教えないんだろう。理由と規則を分かって学ぶ方がずっと能率的なのに,とは思った。

ちょうどその頃,ヒカルが

「ロミーにぴったりの歌があるよ」

と言って,キング・クリムゾンの“Moon child”を教えてくれた。〔美しい〕と思った。旋律も,歌詞も。汚いと思っていた英語の発音が,音楽に乗せられるとこんなに美しく響くものか・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=q2DDv7mvFeA

「これって,一応ロックなの?」

「うん,一応ね」

ボクはこの時代のこの傾向のロックの曲をいくつか好んで聞くようになった。ドアーズの“Crystal ship”,ユーライア・ヒープの“July morning”,クリームの“Dance the night away”,マウンテンの“One last cold kiss”・・・・。英語も嫌いではなくなりそうだった。

https://www.youtube.com/watch?v=GKa1W4a_5mI

https://www.youtube.com/watch?v=l685JEwFPb4

https://www.youtube.com/watch?v=HBf5MviDSGM

https://www.youtube.com/watch?v=uQwldCpm91U

 

“One last cold kiss”の歌詞に

“Their love was like a circle, no beginning and no end”

「彼らの愛は円のようだった。始まりも終わりもなく」

というフレーズがある。「円のように始まりも終わりもない(=永遠だ)」,ヨーロッパ文化ではありふれた表現かもしれないけど,ボクにとっては新鮮だった。〔ボクたちの生活も円のように始まりも終わりもない・・・・〕この言葉,ヒカルに語ってみたかった。

 

 ヒカルの部屋のベッドに寝て,ボクはフランス語の本を読み英語の歌を聴くだけじゃなくて,ほかのいろんな本も読んでいた。そして,その感想をヒカルに語りかけることもある。

 ある日,高校受験の勉強をしているヒカルに,ボクは感動したような口調で話しかけた。

「よく『真理は単純だ』って言うけど,ほんとうは『真理は,分かってしまえば,単純だ』というのが正しいんだね」

ヒカルは「急にどうしたの?」というような顔でボクを見ている。ボクは『遺伝子の分子生物学』を読んで,DNAの二重螺旋(らせん)構造に感動してヒカルに話しかけたのだった。

「分かってしまえば,遺伝情報を保存し,複製し,伝えるのに,これほど最適の構造はないじゃない。4種類の塩基が必ず2つずつペアになるのなら,二重螺旋を引き離せば,それぞれ1本ずつの螺旋から自動的に二重螺旋が2本作られるんだから・・・・分かってしまえば単純な仕組みだけど,それに思い至るのが難しかったんだよね」

 ヒカルも話が見えてきたらしい。ボクをじっと見つめ,それからベッド脇に来て,ボクの髪を撫でる。ヒカルの指がボクの髪の間の滑っていくのを感じながら,ボクは話し続けた。

「相対性理論だって,そうだよね。分かってしまえば,それが一番シンプルでエレガントな説明だと納得できるんだけど,思いつくのが大変なんだよね」

ヒカルは,指を動かすのをやめ,手のひらをボクの頭に軽く乗せて,ボクの目を見ながら語りかけた。

「わたしはふつうの秀才だけど,ロミーは天才ね。ただ,中学のテストではロミーの天才を計れない。『生命形態学序説』とか『遺伝子の分子生物学』とか『動いている物体の電気力学』なんて本に書かれていることは,中学の理科のテストには出ないからね。世界の驚嘆“Stupor mundi”と呼ばれたシチリア王ことや,コルシカ生まれの砲兵士官がフランス皇帝に上り詰めることができた戦術史的条件なんて,中学の社会のテストに出ないからね。ラテン語やフランス語を勉強しても中学の英語の成績が上がるわけじゃないからね。でも,大人になったら,誰もがロミーの底知れぬ知性に驚くようになるよ」

 こんなことをボクに語ってくれるヒカルは,中学1年生の1学期から3年生の3学期まで学年でトップを通した人。ボクは学年で20~30番くらいだった。男尊女卑の風潮が色濃く残る九州の小都会。ボクたちに面と向かって「ヒカルとヒロミが男女逆だったよかったのに」と平気で口にする親戚もいた。父もそう思っていたかもしれない。

 

 ヒカルはボクたちの学区でトップの名門校に進学した。さすがに,その高校で学年トップを通すことはできなかったけど,医学部進学は十分可能な成績だった。

 ヒカルが医者になるのは,幼い頃から親を含め誰もが信じ,期待していた。本人もその期待を裏切るつもりはなかった。ボクは,特に医者になりたいとは思っていなかったし,周りも中学時代の成績から,さほど期待はしていなかった。ただ,ボクはずっとヒカルと一緒にいたかった。だから,ヒカルと一緒に仕事をしたかった。ヒカルと一緒でいられる仕事に就きたい,それがボクの願い。医者になるヒカルと一緒に働ける仕事。そんなことを話したこともある。ヒカルが高校生になって間もない頃。

「ヒカルは医者になるんだよね」

「きっと,そうなるね」

「ボクもヒカルと一緒に仕事したい。医者は無理だと思うけど・・・・化学が好きだから薬剤師とか臨床検査技師とか・・・・そして,ずっと一緒に暮らすんだよ。

“Our life is like a circle, no beginning and no end”

「ボクらの生活は円のよう。始まりも終わりもなく」

ボクは節を付けて歌った。そんなボクを,ヒカルは優しい眼差しで見つめ,両手で頬を包んでくれた。

「あと3年くらいしたら,ロミーが高校3年生になる頃には,きっと医学部進学を勧められるよ」

ボクは驚いてヒカルを見つめ返す。

「その頃には,ロミーの知性を誰もが認識するようになる。医学部の入試問題は,ロミーの知性にとって不足はないから」

そう言ってくれるヒカルの優しさがうれしかった。

「そうしたら,一緒の学部に行って,一緒に暮らして,一緒に勉強するんだね」

「そうよ」

 



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3話

 翌年,ボクはヒカルと同じ高校に入学できた。

 入学してすぐ化学部を覗いてみたら,中学とは違って部員が何十人もいる大所帯だった。それで,部活はどこにも入らないことにした。初夏から夏休みにかけての日の長い季節には,日が傾くまで図書館で本を読んで時間を過ごした。

 この頃から,ヒカルが予言したように,ボクは「美形」として注目されるようになった。学校の女子生徒と,一部の男子生徒から。そして,見知らぬ人たちからも。二人で街を歩いていて,すれ違う人が振り向いた時「ロミーを見てるのよ」,「ヒカルを見てるんだよ」と楽しい言い合いになることもある。そんな時,ヒカルはボクの髪を,優しく指でくしけずるのではなく,クシャクシャかき混ぜた。そして,

「あら,髪型が乱れるとかえってかわいくなるんだね,ロミーは」

と笑いながら話しかけた。

 

 幼い頃から,ヒカルと並ぶとボクの方が背が低かった。だから,ボクはヒカルのお下がりを着ていた。親はボクのために服を買おうとするのだけど,ボクは「ヒカルが着た服をボクも着るんだ」と頑固に言い張り,いつの間にか親も諦めた。

 やがて高校入学の頃に背丈が並んだけど,追い越しはしなかった。その頃からずっと,ヒカルとボクは身長も肩幅もウエストもほとんど同じ。だから,同じ服を着回すことができる。ヒカルが買ってきた服をボクも着る。ヒカルは私服ではめったにスカートをはかず,パンツスタイルだったから。

 ボクは自分で服を買った記憶がない。ヒカルが服を買うのについて行くだけ。ヒカルがいろいろ見て,いくつか試着して,気に入ったものを買う。それをあとでボクも着る。ヒカルが買った服はボクにも似合った。でも,今から思うと,ヒカルは試着しながら自分だけでなくボクにも似合うことを確かめていたのかもしれない。

 ヒカルがキュロットパンツと半袖ジャケットのスーツを買ったことがある。深いマリンブルーの色合いとボーイッシュなデザインはヒカルにとてもよく似合った。だけど,ボクは腕や脚の肌を露出させることができないのに・・・・と不満そうな顔をしていると,

「日が落ちてから着ればいいのよ」

と言われた。

「あっ,そうか」

 高校生になって,たまには夜の8時か9時くらいまで外を出歩くことも大目に見られるようになっていた。夏でも7時半頃には日が落ちる。まだ明るさの残る夕方の街を,生まれて初めて短パン・半袖といういでたちで歩いた。腕や脚の肌に触れる外気が新鮮な経験だった。

 夏,祇園山笠祭り。街はすたれていくのに,お祭りは昔と同じように賑やかだった。この年,初めてヒカルと二人だけで夜祭りに出かけることを許可された。ボクはキュロット・半袖ジャケットのスーツ,ヒカルはタンクトップの上に薄手のジャケットを羽織って並んで歩いていると,何度か男から声をかけられた。

「たぶん,おんな二人連れと思われてるんだね」

「『たぶん』じゃなくて,『確実に』よ」

 

 秋,父と母の離婚が正式に決まった。3年前から別れて暮らしていたけど,法的にも母と父の関係は切れることになり,まだうちに残されていた母の品物は処分されることになった。その中で目を引いたのはダンス衣装。女物のドレスだけでなく,男物のパンツスーツも。母は結婚するまではダンスを趣味にしていたらしい。それもリード役が好きだったとのこと。

「もらってもいい?」

とヒカルが父に尋ねる。

「まあ,構わないが・・・・ダンスを習う気か?」

「だめ?」

「だめとは言わないが,ほどほどにな」

「うん。分かっているよ」

二人だけになって,ヒカルはボクに言った。

「ロミー,一緒にダンスしよう」

「ボクも?」

「もちろんよ・・・・わたしがリードしてあげるよ。ロミーはドレスを着て踊るの。きっと似合うよ。もちろん,二人ともドレスを着て踊ってもいい」

 近所にもダンス教室はあったけど,ヒカルはちょっと離れた所にあるダンス教室に通うことにした。

「『あっ,藤原先生のお嬢さんとお坊ちゃんね』なんて言われたくないでしょう。ロミーがドレス着て踊ってるなんて,おもしろおかしく噂の種にされるのも,いやだし」

と言ってヒカルが見つけたのは,かつては賑わっていたらしいけど街の衰退とともに今は寂れたダンス教室。古風な木造の建物で,玄関には木の引き戸。ボクが「ダンス教室」という言葉からイメージしていたのとはかけ離れた建物だった。

「ヒカル,ここ,ほんとうにダンス教室?」

「だって,看板が出てるじゃない」

ヒカルは構わず引き戸を開き,

「ごめんください」

と声をかけた。やや間があって奥から

「はい,ただ今」

と返事があり,高齢と言っては失礼だけどもう若くはない女の人が出てきた。

「ダンスを習いたいんです」

ヒカルはあいさつもそこそこに自分の希望を述べた。

「わたしたち二人ともドレスを着て踊れるダンスと,わたしが男物のパンツスーツ,この子がドレス姿で踊れるダンスを習いたいんです。プロになりたいとかコンクールに出たいという野心はありませんから,きれいな踊りを楽しく習いたいんです」

ヒカルはこんな時にももの怖じしない。先生はそんなヒカルのわがままとも思える願いをにこやかに聞いていた。

「よろしいですよ。なるべくご希望に添うようにしましょう。お二人ともきれいだから,はたで見てても美しい舞姿になるでしょう」

 秋から冬にかけて,日暮れは早く,ボクが学校から戻って夕食までの間,1時間くらいダンス教室に通う時間があった。先生はまず二人ともドレスを着て踊るペアダンスを教えてくれた。「サルサ風」とか「サンバ風」と先生は説明した。それからジルバ。ヒカルにリードされてクルクル回るのは楽しかった。時おり,パートを入れ替えて,ボクがリードしてヒカルがくるくる回る。それも楽しかった。先生は,そんなボクたちを楽しそうに見ている。

「美しいわ。『うまい』とは言わないけど,とても美しい。お姉さんもだけど,妹さんはひときわ美しい。『花の容(かんばせ)』という言葉そのもの」

ヒカルはボクの方を向いてそっと笑った。

 ボクはいつもドレスを着たけど,ヒカルはドレスを着る日とパンツスーツを着る日と半々だった。ヒカルのパンツスーツ姿も先生は褒めてくれた。

「宝塚の男優さんみたい。凜々しいわ」

ボクも,ヒカルにリードされて踊るのは好きだった。

 教室への行き帰りの道すがら,こんなことを語り合ったこともある。

「お母さんは,スーツ姿の時,どんな女の人をリードして踊ってたんだろうね?」

「そうね・・・・『花のかんばせ』の持ち主かな」

ヒカルはちょっと笑った。そして,言葉を続けた。

「でも,お母さんも相手も二人ともスーツ姿で踊っていたのかもしれないよ。その時の気分でリード役を交替しながら」

 

 その年の冬休み,二人で1泊の旅行をした。と言っても,行き先はすぐそばの山口。冬至を過ぎたばかり,一年中で一番日射の弱い頃。そして「南国」九州も,その北岸は日本海。冬,季節風が吹き寄せると空は曇り,冷たい雨が降る。時には雪も降る。この日も冷たい雨が降っていた。でもそれは,ボクが外出するにはありがたい天気。ヒカルは黒の,ボクは濃緑のコートを着て,二人で傘を差して駅まで歩いた。新幹線を使うこともできるけど,のんびり在来線に乗った。車内の暖気で曇った窓ガラスを拭いて,外を眺める。雨は途中で上がったけど,曇り空の下に冬枯れた景色があり,時おり鈍色の海が見える。昼間外を出歩くとしたら曇りか雨の日を選ぶのが習慣になっているボクにとっては見慣れた景色。

 山口駅に着き,駅のそばの旅館に荷物を預けた。切符の手配も宿の予約もヒカルに任せていたけど,ホテルじゃなくて旅館なのに驚いているボクに

「ロミーは畳の部屋に布団を敷いて寝たこと,ないでしょう? いい機会じゃないの。何事も体験よ」

「ヒカルは,布団に寝たことあるの?」

「わたしもないけど」

 こんなことを語り合いながら,外に出た。もう雨は止んでいたけど,ボクだけ傘を差した。曇り空からも漏れてくる紫外線を避けるため。そして,また雨が降り出した時の用心に。

 ボクたちは大内氏ゆかりの「西の京」の街並をのんびり歩き,瑠璃光寺五重塔や亀山公園などいくつかの名所も見て回った。毛利氏にちなんだ記念碑や像はわりと目に付くけど,大内氏にゆかりのものは少ない気がした。

「意外と大内氏の影が薄いね。山口は,ボクにとっては毛利氏の城下町じゃなくて大内氏の城下町だなあ。山口を『西の京』にしたのは大内氏じゃない」

「ロミーはご不満かしら?」

「不満っていうほどじゃないけど・・・・」

 こんなことを話しているうちに,雨がぱらついてきたので,二人肩を寄せ合って一つの傘に入った。しばらくそうやって歩いていると,喫茶店が見つかったので,入った。

4人掛けのテーブル。向かい合わせに座ろうとしたけど,やっぱり隣り合って座ることにした。いつも食事の時にはそうやって座っているし,それ以外でも並んで隣り合って座ることが多いから,ヒカルと向かい合わせで座るのは,なんとなく落ち着かない。

ヒカルはもうコーヒーを飲み慣れている。ボクは紅茶。

「ヒカル,コーヒーって,おいしい?」

「うん」

「大人だなあ」

ヒカルは笑った。

「ロミーだって,紅茶をストレートで飲んでんだから,立派な大人よ」

「紅茶はコーヒーみたいに苦くないから・・・・」

「ほんとうのお子ちゃまは,紅茶にもたっぷり砂糖を入れて飲むのよ」

「まさか,それじゃあ紅茶の味がしないじゃない」

「でも,そうなの」

「信じられない」

「まあ,そんな世間知らずなところはお子様だけどね」

ヒカルはまた笑う。それからメニューを眺めて,

「プチフールがあるよ。いくつか食べる?」

とボクに問い,ボクが答える間もなく,ウェイトレスさんに声を掛けた。すぐに,小さなケーキを盛り合わせたワゴンがやってきた。

「ロミーはイチゴのショートケーキ?」

「うん」

「ほかには?」

「じゃあ,このレアチーズケーキも」

ヒカルは自分用にチョコレートケーキとベークドチーズケーキを取った。ボクはいつものように手でつまんで食べる。食べ終えて,指に着いた生クリームを舌で舐める。それを見ているヒカルが

「ロミーはふだんエレガントなのに,変なところ不作法ね。リンゴは丸かじりするし,ケーキは手でつまんで食べるし」

「その方がおいしくない?」

「まあね。それに,そうやって指を舐めるしぐさも,ロミーなら可愛いから許すよ」

 

 夜,一緒の部屋に泊まる。

「久しぶりだね。同じ部屋で寝るの」

「そうね」

 ヒカルと同じ部屋なのと,生まれて初めての畳の部屋の布団にちょっとはしゃいだけど,外を歩き回った疲れと,ヒカルと一緒の安心感で,ボクは安らかに眠りに落ちた。

 翌日は,あいにく晴れわたった。いくら冬至の頃といっても,昼の日差しの中を歩くのは怖い。だから,チェックアウトの時間まで部屋にいた。部屋を出る時,思いついてコートを取替えた。ヒカルが濃緑のコート,ボクが黒のコート。帳場には前日と同じ人がいる。びっくりしてボクたちを見た。チェックアウトを済ませて,旅館を出て,二人して笑った。それからすぐ近くの喫茶店でモーニングセットを食べながら,外の景色を眺めていた。ありふれた地方の小都会,通りを過ぎる人や車や・・・・。喫茶店を出ると,雨傘を日傘代わりに差して,日陰を選んですぐそばの駅まで歩いた。

 帰りは,宇部線,小野田線を通り,瀬戸内海を眺めることにした。逆光線の中で色を失って広がる海。時おり船が通り過ぎる。そうやって帰り着いた頃には冬の短い日はすっかり傾いていた。ボクたちは駅から,家の前を通り過ぎて,いつもの散歩コースをたどり,海岸まで歩き,夕焼け空を眺めた。

 

 高校2年生の時,化学の授業の後に教師に何か質問して,それに教師が答え,それにまたボクが質問し・・・・というふうに問答が続いて,教師とボクは教室を出て廊下を歩きながら話し続け,理科教官室に着いてしまった。その辺でだいたい問答は決着していたけど,教師はボクを自分の机のそばに呼び寄せ,引き出しから1冊の本を開いて見せた。そこには微分記号や積分記号に飾られた数式がずらりと並んでいた。

「化学もつきつめれば結局,数学になるんです」

と教師は語りかけた。ボクが化学が好きなのを見込んで,大学レベルの化学を紹介したのだろう。でも,ボクはむしろ落胆を感じた。色とりどりの親しみやすい化学の世界の果てにある究極が,数式が並ぶだけの味気ない世界だとしたら,残念というか味気ないというか・・・・。

 数学は,苦手じゃないけど,天文学や化学や解剖学,ラテン語やフランス語,文学や歴史ほどには興味がなかった。そして高校に入って間もない頃,教師への反発からつまずきかけたこともあった。その教師は数学以外の知の領域を見下して,文科系の領域は言うに及ばず,理科系でも生物学や化学などは二流,三流扱い。数学ができない者は知性のない人間の屑のように扱う。どの世界にも愚劣な人間はいるものだけど,そんな人間に教えられる数学も嫌いになりかけた。それでも,数学教師の下劣さに引きずられて数学を嫌いにならずに済んだのは,2年生で微分を習っているヒカルがボクに微分の基本発想を教えてくれたから。

 瞬間速度や1点における傾き,そんな不可能を,論理的に突き詰めて可能にするプロセスがおもしろかった。速度とはある時間内に移動した距離のこと,1秒でも1ミリ秒でも1マイクロ秒でもいいけど,ともかくどれほど短くても時間の経過が前提になるはず。瞬間=ゼロ秒の移動距離なんて無意味なはず。傾きというのは2点を結ぶ直線の勾配のこと。1点における傾きなんて,そもそも存在しないはず。でも,そんな無意味なもの,存在しないものの値を理詰めで求めてみせる鮮やかな手口がおもしろかった。

 

 この頃から,成績についてもヒカルの予言が的中し始めた。幼い頃から本を読みふけって蓄積した知識が試験の成績に反映するようになった。ボクが蓄積した知識が活用できるような問題が試験に出されるようになり始めた。そして,ヒカルが重要な情報を教えてくれた。

「大学入試では,外国語として英語だけじゃなくてフランス語も選択できるらしいよ」

「えっ?・・・・」

それがほんとうなら(もちろん,ほんとうだった),ボクも医学部に入学できるかもしれない。

 

 ヒカルもボクも,大学進学を機会に実家を離れ,ふるさとの街を去ることに決めていた。窮屈だったから。周りの人たちみなに「藤原先生のお子さん」として顔が知られていただけじゃなくて,小さな街の小さな常識の枠が窮屈だった。ヒカルは一応常識を尊重して生きていたから,枠の小ささを切実に感じていた。ボクだって,常識の枠にぶつからずに済むなら,それに越したことはない。

 でも,実家から通えない大学(東京近辺を考えていた)に進学するなら,「ヒカルとずっと一緒に」という願いがどうしても叶えられない時がやってくる。ヒカルが遠くの大学に進学すれば,ヒカルの方が1年先に出ていき,ボクが残されることになる。

 ヒカルは千葉大医学部に入学することになった。できることなら,ボクも千葉に引っ越したかった。高校は千葉の高校に編入すればいい。ランクをちょっと下げれば可能なはず・・・・でも,父は許してくれなかった。

 4月初めにヒカルの引っ越し。別れは悲しかった。

「夏休み,冬休みには,わたしのところに遊びにおいで。それから,ロミーを送ってわたしも何日かこっちに戻ってもいい。1週間ずつとして,2週間くらい一緒にいられるよ」

ボクは,悲しい顔でうなずいた。

「過ぎてしまえば,1年なんてあっという間よ」

と慰めてくれる。でも,過ぎてしまうまでが長いんだよ。

「ヒカル,お部屋に二段ベッドを買っておいてね。来年はボクも一緒に住むんだから」

ヒカルはうなずいてくれた。

 こんな悲しみとは別に,あっけないほど現実的な問題にも直面した。ボクの服をどうするか。ボクはいつもヒカルの服を着ていたから,自分の服をほとんど持っていなかった。ヒカルが服を持って行ってしまったら,ボクの着るものがなくなる。それで,夏物,春秋物,冬物それぞれ2~3着ずつ残すことになった。ボクに選ばせてくれた。ボクは自分の気に入ったものを選んだ。コートは迷ったあげくに濃緑のコートにした。ボクの選んだものを見て,ヒカルはマリンブルーのキュロットパンツと半袖ジャケットのスーツを加えた。

「これも着なさい。ロミーに似合うと思って買ったんだから」

ボクは,うれしかった。

「これから暖かくなったら,なるべく毎日このスーツを着て夜出歩くようにする」

「人通りの多いところを歩くのよ。人通りの少ないところを夜ふらふら一人で歩くのは危ないからね」

ボクがそんなヒカルの説教を聞いて笑ったら,ヒカルはまじめな顔で叱った。

「わたしはまじめに注意してるのよ。ロミーを女と間違えなくても,男と知った上で襲う男もいるんだから」

言われた瞬間,びっくりしているボクを見て

「まったく,こんな世間知らずな弟を一人残していくなんて,お姉さん,心配で仕方ないわ」

と説教を続けるヒカルの言葉は冗談ぽいけど,表情はまじめなままだった。

 

 ヒカルと離れてふるさとの街で過ごす1年は長かった。ヒカルがいないことだけでなく,父を含め周りの人たちの視線,期待がうるさかった。高校3年のボクの成績は医学部を狙えるレベルになっていた。2~3年前までヒカルだけに期待を寄せていた人たちが,急にボクにも期待するようになった。その視線がうるさかった。ボクも医学部に行きたいと思っていた。でもそれは,ヒカルと同じ学校で勉強したいからなんだ。

 夏休みになると,ボクは逃げるように千葉のヒカルのところに出かけた。そして,グチをこぼした。ヒカルは黙って,優しい表情で聞いてくれた。

「ヒカルは子供の頃から,こんなふうに言われ続けてたんだね。よく我慢できたね」

「まあ,子供の頃からそうだったから,慣れているのかも」

ヒカルは笑って答えた。

 ヒカルの部屋には二段ベッドが置いてあった。約束をちゃんと覚えていてくれて,うれしかった。そんなこんなで居心地が良くて,1週間の予定だったけど,2週間近くヒカルの部屋に居座ってしまった。そして,ボクが帰るのと一緒にヒカルも付いてきてくれた。ヒカルは実家で2週間くらい過ごしたから,結局,この夏休みは1ヶ月近く一緒にいることができた。

 冬休みはまずボクが千葉に行って1週間ほど過ごし,年が明けて元日に二人一緒に帰って,ヒカルはまた1週間くらい実家にいてくれた。

 そして3月,医学部受験と同時に引っ越した。予備校の模試でほぼ確実に受かると判定されていたし,仮に不合格でも後期日程は薬学部に出願するから,そちらは受かるはず。どちらにしても,これからはずっとヒカルの部屋に住むんだ。

 合格発表は二人で見に行った。ほかの合格者の名前と一緒に掲示されているボクの名前を見てヒカルは,

「ロミーは,結局,好きなことだけやって医学部に受かってしまったのね」

とつぶやいた。

 



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4話

 医学部の1年目。バリバリ理系の同級生たちは教養科目の文科系の科目に苦労していたけど,ボクにとっては何でもないことだった。

 

 夏休みは実家に帰らなかった。

「夏は千葉というか関東地方の方が過ごしやすいよ」

と前年の経験のあるヒカルが言う。ボクも去年2週間くらい過ごして,そう思っていた。全体として湿度が低いし,東風が吹くと千島海流で冷やされた空気が入り込むから気温も下がる。でも,それだけが夏休みも千葉に留まった理由ではない。Early Exposure(早期実体験)として,1年生の希望者は基礎医学の研究室に入れてもらい,できる範囲の実習をさせてもらえた。ボクは病理学を希望した。

 1年目の授業は西千葉のキャンパスで行なわれるから,この時が亥鼻(いのはな)の医学部校舎に出かけた最初だった。部屋から医学部に歩く道はほとんど建物や木立の日陰を通る。一緒に歩いているヒカルに話しかけた。

「ひょっとして,ボクのことを考えて,日に当たらずに通学できる場所に部屋を探しておいてくれたの?」

「それもある。それだけで決めたわけじゃないけどね」

ボクはヒカルの心遣いがうれしかった。

 

 初日,教授にあいさつした時,

「できれば病理解剖からやらせてほしい」

と言ったら,

「優しい顔してずいぶん度胸があるな」

と言われた。それで,

「病理解剖をするのに度胸は要らないと思いますが」

と答えたら,教授は笑った。そして別の質問を振ってきた。

「なんで病理学なんて地味なところを選んだんだ? 分子生物学とか遺伝学とか免疫学とか,最新流行の分野でなくて?」

「川喜田愛郎(かわきた・よしお)という人の『近代医学の史的基盤』という本があるのですが・・・・」

「おや,川喜田先生を知っているのか?」

「いえ,面識はありません」

「もちろん,そういう意味ではない。つまり,名前を知っていて著書を読んだことがあるということだ」

「はい。そういう意味でなら,知ってます・・・・先生こそ,川喜田愛郎を知っておられるのですか?」

「昔の千葉大の学長だよ」

「そうなんですか」

「別に,川喜田先生の遺徳を慕って千葉大に入学したわけではないようだな」

「ええ。たった今,先生に言われるまで知りませんでした」

「まあ,それはいい。ともかく,あの本を読んだんだな」

「はい。とても感銘を受けたのですが,あの叙述を読む限りでは,病理学こそは近代医学の基盤というか土台というか・・・・」

「うれしいこと言ってくれる・・・・それにしてもあの分厚い本を受験勉強の合間に読んだとは・・・・」

「いえ,中学生の頃に読んだんです」

「中学生の頃?!」

教授はびっくりしたような顔でボクを見る。

「藤原ヒロミ君だね・・・・卒業したら病理学に来ないかね? まあ,新入生に『卒業したら』なんてことを言うのは,鬼が笑うどころか,鬼が気絶する類いのことだけどな」

ボクは,卒業後のことなど何と答えていいか分からずに黙っているので,教授は話題を変えた。

「君にとっては歴史上の人物かもしれないが,まだ生きておられる。ただ,もうかなり衰弱されて,めったに人にお会いにならない。それでも,千葉大医学部の学生なら,会ってくれるかもしれない。会いたいのなら,ウイルス学研究室の教授に頼んでみるといい。川喜田先生の愛弟子だから」

ボクはちょっと考えて,

「いえ,ご遠慮いたします」

と答えた。そして,しんみりした空気を変えるためと,説明を補うために,

「病理学を選んだのは,死体を病理解剖し,摘出した臓器や組織を固定,包埋し,切片を作り,染色し,顕微鏡で観察するという手作業がおもしろそうだからでもあります」

と付け加えた。

「ああ,おもしろいぞ。おおいに期待してなさい」

 

 ボクの希望したとおり病理解剖から立ち会えた。患者さんの死因は前立腺ガン。前立腺ガンは甲状腺ガンや直腸ガンと並んで予後の良いガンとして知られているけど,それでも不幸な偶然がいくつか重なると死に至ることがある。

 教授も立ち会うけど,主たる執刀者は卒後5年目の医師。博士論文を作成するため病理学教室に在籍している。ボクもメスとピンセットを持って手伝った。食道に白っぽい斑点がいくつか見える。

「カンジダ?」

教授はボクのつぶやきを聞き逃さなかった。

「おお,そう思うか。じゃあ,そこの切片を作成しておきなさい」

 食道を含め,肉眼観察で病理変化が想定される部位から標本を採取する。解剖の後,それらを固定し包埋し,切片を作って染色する。同じ部位から3つの切片を作っておき,1つは標準的なHE(ヘマトキシリン・エオジン)染色を施す。残りはHE染色標本を見た上でさらに特殊染色が必要と判断した時のために保存しておく。

 ボクは食道の切片を顕微鏡で観察した。残念ながらカンジダはいないようだ。教授にそう報告すると,

「そうか」

と言って教授も顕微鏡を覗いた。そして,

「これと同じ切片をPAS染色してみろ」

PAS染色は真菌を観察するのに用いられる染色法。

「えっ,カンジダがいるんですか?」

「まあ,PAS染色して顕微鏡で観察してみろ」

教授は笑って指示を繰り返した。

PAS染色して観察すると,紛れようもなくカンジダがいる。

「先生,HE染色標本をさっと見ただけで,カンジダが分かったんですか?」

教授は愉快そうに笑った。

「まあ,無駄に年は取っておらん」

その後でHE染色標本を見直すと,確かにカンジダが目に留まる。

 前立腺ガンの骨転移では,溶骨性変化ではなく造骨性変化が生じることは,本の知識として知っていた。でも,造骨性変化とはどのようなものか,目で見たことはなかった。骨の病理組織標本を顕微鏡で見ながら,ボクはそばにいた助手さんに質問した。

「これって,造骨性変化なんですか?」

助手さんは

「ああ,そうだね。確かに造骨性変化を示している」

と答え,標本室から別の標本を出してきてくれた。

「こっちが溶骨性変化だよ」

見比べると,明らかに違う。

 こんなふうに,病理学のEealy Exposureは楽しくて充実した2週間だった。最終日,金曜日の夕方,病理解剖と病理組織観察のレポートを提出した。教授はざっと目を通して,

「新入生にしては上出来だ」

と褒めてくれた。

「病理学教室の連中がEealy Exposureの打ち上げの飲み会を計画しているんだが」

「えっ,ボクはまだ未成年です」

と答えたら,

「意外と堅物だな。そう言われると誘うわけにもいかんな・・・・まあ要するに,連中が君をダシにしてみんなで酒を飲もうと企んでいただけだがな。ああ,それと,卒業したら病理学教室に入るよう勧誘する計画もあった」

「先生,鬼が気絶しますよ」

と言うと,先生はちょっと苦笑いした。

 小説や映画の『白い巨塔』はフィクションだと思いながらも,それにしても医学部教授というのはどんな人だろうと,ちょっとばかり不安を抱いていたけれど,病理学の教授は気さくな人だった。

 

 この2週間のほかは,日中はほとんど部屋で本を読んで過ごし,夕方になると散歩に出かけた。週1回くらいは,夕暮れ時に西千葉キャンパスの図書館に借りた本を返し,新たに本を借り,そしてランゲージラボでフランス語のカセットテープを聴いたりした。

 夏休みが終わり,秋になると,スーパーの食品売り場にリンゴが並んだ。子供の頃,大好きだった。今も好き。買って帰り,1個洗って丸かじり。2口~3口食べて,ヒカルに差し出した。ヒカルは笑って受け取って2口~3口食べて,ボクに返す。ボクはまた丸かじりして・・・・こうやって,1個を二人で食べ終えた。

「子供の頃,いつもこうやって食べてたね」

「そうね」

「ボクは今でもリンゴが好きだけど,ヒカルも?」

「うん。そうよ」

「じゃあ,明日もね」

 ボクは翌日もリンゴを買ってきた。それから数日後,今度はヒカルがプチフール,小さなケーキの詰め合わせを買ってきた。二人それぞれ自分の好きなものを選び,ボクは手でつまんで食べた。食べ終えて,生クリームの付いた指を舐めようとすると,ヒカルがぼくの手首をつかんで引き寄せ,自分の舌でボクの指に付いた生クリームを舐め取った。そして,いたずらっぽく笑った。ヒカルは行儀良くフォークで食べていたから,指は汚れていない。

「ヒカル,ずるい。自分の指は汚していないのに」

このボクの言葉を聞いて,ヒカルはまたいたずらっぽく笑った。こんなささやかなことが,ほかの何にもまして,ヒカルと一緒に暮らしていることを実感させてくれる。

 

 西千葉キャンパスの秋学期は事もなく過ぎていく。12月,事務室の脇の掲示板に「元千葉大学学長 川喜田愛郎氏 死去」という告知が貼られていた。

 

 冬休み。夏だけでなく冬も関東地方の方が過ごしやすいかもしれない。季節風が吹き寄せると曇り空から冷たい雨や時には雪も降る北九州と違い,千葉の,南関東の冬は晴れの日が続く。むしろ暖かいくらいに感じた。ただ,ボクはその晴れた空がなんとなく物足りなかった。

 ふるさとの街の冬の雨の日,日中でも日差しがないから,傘をさし,防水靴を履いて,散歩した。こんな奇妙な散歩にもヒカルは付き合ってくれた。二人は海岸に向かって歩き,傘をさして海岸にたたずむ。海と言っても白砂青松の浜辺ではなく,ところどころに廃油やゴミが浮かぶ船着き場の埠頭,岸壁。狭い湾の海面に雨が無数の波紋を作る。すぐ向こうにある半島が煙っている。こんな景色も好きだった。

 南関東の晴れ渡った冬空を見ながら,ボクはそんな場面を思い出す。そして,北九州の冬空が恋しくなった。父から,せめて正月くらいは帰ってこいという催促もあり,年が明けてから帰省することにした。4~5日の間に,みぞれ交じりの冷たい雨が1回降った。

 そんな4~5日のうちの1日,ボクたちは実家に置きっ放しになっていたダンス衣装をもって,あのダンス教室に出かけた。あの年の秋から冬にかけてサンバ風・サルサ風のペアダンスとジルバを習った後,ヒカルが3年生になり受験が迫ってきて,レッスンを中止していた。それっきり。

 教室の前に来たけど,看板が出ていない。建物はここで間違いないはず。ヒカルの記憶とも一致している。何度かインタホンを押すと,返事がして,ドアが開いた。

「あら,お懐かしい。藤原シスターズ!」

「覚えていてくれたんですね」

「忘れないわよ。さあ,お入りなさい」

先生は,中に入れてくれた。

「去年いっぱいで教室はたたんだの。生徒が来なくなったから。今のご時世,ジャズダンスやフィットネスばかり。昔風の社交ダンスを習おうって人はいなくなったのね」

そんなしんみりした口調だったけど,ボクたちがダンス衣装をもっているのに気づくと,明るい口調になった。

「あら,踊るつもりで来たの?」

「ええ,でも・・・・」

「じゃあ,ぜひ見せてちょうだい・・・・ああ,今暖房を入れますね」

「あっ,いや・・・・いいんです」

「遠慮しないで。わたしも見たいんだから」

部屋が暖まって,ボクたちは着替えて,先生の前で踊った。ペアダンス。そして,二人ともドレス姿だけど,互いにリード役を演じながらジルバも。先生は楽しそうに眺めている。

「今でもお美しい。いや,今の方がもっと美しい。妹さんもすっかり大人になられて・・・・」

 

 この年から後,お正月には数日だけでも帰省することが父との暗黙の了解になった。そして,そのたびに,ボクたちはこの元ダンス教室を訪れ,先生の前でダンスを披露するようになった。

 



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5話

 2年目から本格的に医学関係の講義が亥鼻の校舎で始まった。基礎医学の授業はほとんどボクにとっては復習のようなものだった。

 組織学の授業の時。下垂体について説明していた教師は,ふと思いついたように「(下垂体は)どこにある?」と学生たちに問うた。誰も答える人がいないから,ボクが「トルコ鞍(あん)」と答えた。教師はボクの方を微笑んで,「骨の名前は?」と問うた。ボクは,「蝶形骨」と答えた。教師は,ちょっと興味深げに,「学名は,ラテン語では何という?」と問いを重ねた。ボクは“Sphenoidale”と答えた。教師は一瞬だけ驚きの表情を見せ,そしてニコッと微笑んだ。

 生化学の授業で,たまたまちょっと早めにきりの良いところで話が終わったので,教授がボクたちに質問した。

「人間の体は原子レベルで言えば,炭素,水素,酸素,窒素およびその他の微量元素で構成されている。それらをひっくるめて,人体にはおよそ何個の原子が存在するか,概算してごらん。概算でいい。桁を間違えなければ,つまり10億と100億のような違いでなければ,上下2倍くらいの誤差範囲は許容する。およその目安として人体の総原子数を見積もる方法を考えてごらん」

と問いかけた。

 ボクは考えた。〔炭水化物にしてもタンパク質にしても脂質にしても,原子数で言えばほぼ半分が水素原子,それに炭素原子や酸素原子が4分の1,いや5分の1ずつくらいかな。次に窒素,それよりずっと少なく鉄とかカルシウムとかリンといった原子が含まれている。水素の原子量は1,その他の原子は炭素が12,酸素が16,窒素が14,鉄やカルシウムやリンはもっと大きい。としたら,人体を構成する原子の加重平均の原子量はおおざっぱに10と見積もってもいい。人体10グラムにアヴォガドロ数,6x10の23乗の原子が存在している。体重50キロなら,その5000倍,60キロなら6000倍の原子が存在している〕ボクは挙手して自分の計算方法を説明した。教授はうなずきながら聞いている。

「高校の理科の知識だけで計算できる,うまい方法だな・・・・ほかに思いついた人はいないか?」

しばらくして,女子が

「人体の原子のモル比の正確な数値は分からないのでしょうか?」

と質問した。

「もちろん,それくらいのデータはある」

「それなら,そのモル比を使えば,もっと正確な加重平均が計算できると思います」

「もちろんそうだが,計算が複雑になるな。それに,水素の原子量のように誰もが知っている範囲を超えたデータも必要になる」

 それからちょっと間を置いて教授は話を続けた。

「臨床の現場では,正確な数値は分からなくていい,1.12か1.13かは問題じゃない。1なのか,10なのか,100なのか,大ざっぱに見積もれればいい。大ざっぱな数値を見積もって,それに応じた処置を迅速に行なわないといけないような場面も多い。だから,誰もが知っている基礎的な知識やデータを活用して大ざっぱな見積もりをする能力も重要なのだよ」

 

 3年生になり,生理学や生化学,組織学や解剖学の実習が始まると,「手際が良いね」と褒められるようになった。ボクは中学の化学部を思い出した。この頃から時おり,

「お姉さんもなかなか優秀だけど,君はそれに輪をかけて優秀だね」

と教師から言われるようになった。なんだか,くすぐったいような,奇妙な感覚だった。小学校から高校まで,逆のことを言われてきたから。「君もそこそこにできるけど,お姉さんはぶっちぎりの秀才だね」,そしてそれに続けて「君もやればできるはずだ,頑張りなさい」・・・・ひょっとして,今はヒカルがこんなことを言われているのかな。ボクは,ヒカルに訊いた。ヒカルは笑った。

「そんなこと気にしてるの?」

ボクはその笑顔を見て安心した。

「まあ,わたしの周りがちょっとばかり騒がしいのは事実よ」

「騒がしい?」

「うん。『姉弟,二人揃って才色兼備』って」

今度は,ヒカルは声を出して笑った。

「今のところ同級生からロミー宛のラブレターを預けられたことはないけど・・・・ロミーこそ,同級生の女の子,ひょっとしたら男の子からも,告白されたことはないの?」

「ないよ!」

ボクはあわてて否定した。ヒカルはそんなボクの髪をクシャクシャかき混ぜた。

「そのあわて方が怪しい。ロミー,お姉さんには正直に何でも話なさい」

「ほんとうだよ。そんなこと,一度もないよ」

「おやおや,それは何とも・・・・同じクラスのこんな美形を放っておくなんて。上級生や下級生にさらわれても知らないぞ」

ヒカルは相変わらず冗談めかした口調。そしてついでのように,

「ロミー,先生たちから褒められるって,うれしいでしょう?」

と問いかけた。ボクはハッとしてヒカルを見つめる。ヒカルもボクを見つめる。そうしているうちに,ヒカルの表情から笑みが消えた。

 それっきり,二度とこの話題に触れることはなかった。ボクもヒカルも。

 

 同級生の女子学生からクラスの飲み会に誘われた。ボクも飲酒してよい年齢は過ぎていたけど,断った。

「大人数で飲んで騒ぐのは,趣味じゃないんです」

その子は,

「それは残念」

と言って,一呼吸おいて言葉を継いだ。

「じゃあ,一人か二人で静かに飲むのは趣味なの?」

「それも趣味じゃない」

「ああ,それはまたまた残念」

その日の夕方,ボクはこの話をヒカルにした。ヒカルは一瞬ためらうような表情を見せてから

「実は,今週の金曜日,クラスの飲み会に出るから,帰りが遅くなるわ。夕食は一人で済ませて」

医学部に入学して4年目,初めてのことだった。ボクはびっくりした〔ヒカルがクラスの飲み会に参加する?〕。思わず,

「ボクといるより,飲み会の方が楽しい?」

と聞き返してしまった。ヒカルはフッと笑った。

「バカなこと言わないで。わたしはロミーと違って,人付き合いや常識もそれなりに尊重しているということ。それだけよ」

ボクはちょっと寂しそうな顔をした。〔常識とボクと,どっちが大事なの?〕と問い詰めるべきでないことは,ボクにも分かる。ボクはヒカルにもたれかかり,額をヒカルの肩に付けた。ヒカルは,頬がボクの髪に触れるようそっと首を傾け,髪を指でくしけずるように撫でてくれた。その感触が心地よい。その感触をしばらく味わって,ボクは頭を上げた。

「何時頃帰ってくるの?」

「たぶん,10時くらい」

 

 翌日,医学部の建物の入口で,前日ボクを飲み会に誘った人とばったり顔を合わせた。行き先は同じ教室だから並んで歩く。歩きながら,ボクは彼女に話しかけた。

「昨日,飲み会に誘ってくれた人ですよね」

「そうよ」

「お名前は?」

「宮坂・・・・まだ名前を覚えていなかったの?」

いささか詰問口調だった。機嫌を損ねたのかな。

「あっ,いえ,あなただけ名前を覚えていないのではありません」

彼女はあきれたように笑った。

「同級生の名前なんか興味がないってことね」

ボクは,何も答えられない。そんなボクの様子を彼女は半ばあきれ,半ば興味深げに眺めて,苦笑いした。

「こういう時,何か場を取り繕う言葉が思いつかないの?」

「申し訳ありません」

「別に,謝ってくれなくてもいいけど」

彼女はまた苦笑いする。

「あの,宮坂さん・・・・一人か二人で静かにお酒を飲むのは趣味ですか?」

この言葉を聞いて,彼女はにこやかな表情になった。

「うん。それも好きよ」

「それなら,今度ボクをそういう場所に連れて行ってくれませんか? ボクは行ったことがないので」

「それは,お安いご用よ。いつがいい?」

彼女は明るい口調で尋ねる。

「もし可能なら,今週の金曜日」

「OK!」

彼女はほがらかに答えた。

「ところで,わたしは昨日藤原くんを飲み会に誘った人だけど,2年前,生化学の授業で藤原くんの次に人体に含まれる原子数の計算法について発言した人でもあるんだよ。覚えていないみたいだけど」

「ああ,あのエピソードは覚えています」

「でも,人物までは覚えていなかった」

宮坂さんは,ちょっと皮肉っぽく笑った。

 

 その週の金曜日,実習が長引いて6時半頃に終わった。日の暮れるのが遅い初夏でも,夕日が沈みかけていた。宮坂さんはボクを連れて医学部を出た。

「どのへんにあるの?」

「亥鼻公園を突っ切って,丘を下ったところ」

 1ヶ月ほど前は花見客で賑わい,今はすっかり葉桜になった桜の木立の間を抜け,丘を下った。ひょっとして,ヒカル以外の人と二人だけで外を歩くのは,これが生まれて初めてかも・・・・。

 小さく“Dimple”という表札の付いてるドアを彼女は開けた。

「ママ,もういい?」

「ああ,まだ開店準備中なんだけど,それでよければしばらく座って待ってて」

「うん。それでかまわないよ」

彼女は慣れた場所のように中に入り,カウンターに座った。ボクも隣に座る。

「バーというから薄暗い所かと思ってたけど,ずいぶん明るいんですね」

とボクが問いかけると,彼女とママさんが同時に笑った。

「開店準備中だから照明を明るくしてるのよ。営業が始まればもっと暗くなるわ」

15分ほどして,開店準備が終わったらしく,照明が絞られた。

「じゃあ,営業開始。マリさんはいつものマーテニーでいいの?」

「うん」

「お連れ様は?」

ボクは,何も分からない。遠い記憶をたどると,子供の頃,甘いワインをちょっとだけ飲んだことがあるような・・・・。

「ワインをお願いします。なるべく度の低いもの・・・・初めてなんです」

「こういう場所は初めて?」

「はい。というか,そもそもお酒を飲むのが初めて」

隣で彼女が笑っている。

「それじゃ,口当たりの良いサングリアを出しましょう」

「サングリア?」

「ワインにフルーツを漬け込んで甘みを付けたもの。飲みやすいわよ」

と彼女が説明してくれた。

「じゃあ,それをお願いします」

 赤い,まさにワインレッドの液体が注がれたワイングラスがボクの前に出された。手にとって口に近づけると,甘いフルーツの香りがする。一口含むと,確かに甘くて飲みやすい。ボクはグラスをカウンターに置き,うなずいた。

「飲みやすいでしょう?」

「はい」

それから,彼女の前にマーテニーという名前のカクテルの入ったカクテルグラスが置かれた。

「乾杯。藤原くんのバー初体験を祝して」

と言って彼女はグラスを手に取った。ボクはあわててグラスを手に取り,

「乾杯」

とだけ言った。そして忘れないうちに言い添えた。

「9時くらいには出たいんです」

「誰か,待ってる人がいるの?」

ボクは返事に困った。彼女は笑い出した。

「みんな知ってるわよ。美しくて優しいお姉様が待ってるのよね」

 

 その夜,ボクはサングリアの次に,そのお店で一番度数の低い赤ワインを1杯飲んで,帰った。まだヒカルは戻っていなかった。〔よかった〕と心の中でつぶやいた。万一,ヒカルの方が先に帰宅していたら,気まずい思いをしそうだったから。30分ほどして,ヒカルが帰ってきた。

「ヒカル,お帰りなさい」

ボクはうれしくて,明るい声で迎えた。

「ただいま」

と言って部屋に入ると,ヒカルはボクの顔を見て,

「ロミー,顔が赤いわ。どうしたの?」

酔えば顔が赤くなる,そんな当たり前のことに気が回らなかった。何と答えればいいんだろう・・・・ウソはつけないけど,ありのままを語るのも気が引けたから,ちょっとだけ脚色した。

「ボクがバーとかそういう場所に行ったことがないって同級生に話したら,連れて行ってくれたんです」

「そう,それはいい体験をしたね」

ヒカルはボクの説明を信じてくれた,ように見えた。そして,赤みの差したボクの頬をなで,言葉を掛けてくれた。

「ほろ酔いの顔もきれいね。ロミー」

 

 翌週の月曜日,宮坂さんがボクに話しかけた。

「ディンプルは,気に入ってくれた?」

「はい」

「じゃあ,またいつか,一緒に行く?」

ボクは返事に困った。そして,思いついた答えを口にした。

「一人の方が落ち着くかな・・・」

彼女はキッとした表情でボクを一瞬見つめ,それからくるりと背を向けて立ち去った。

 

 それから3~4ヶ月くらいして,ヒカルがまたクラスの飲み会に付き合うことになった。ボクは一人で軽く夕食を済ませて,外出した。のんびり歩いて,ディンプルに行くつもりだったけど,考え直した。〔宮坂さんに会うと,気まずいな〕。それで,同じビルの1つ下の階を歩いた。1つの階に4~5軒のお店が入っている。そのうちの1軒のドアに“Romy”というプレートが貼ってある。ボクは思わず微笑んだ。そして,そのドアを開いた。

 中は,ディンプルと同じくらいの広さ。10人くらい座れるカウンターをママさん一人で切り回している。奥に2人連れが座っている。ママさんとお客がボクの方を見ている。

「よろしいですか」

と声を掛けたら,

「ええ,どうぞ」

と答えてくれたので,ボクは2人のお客の反対側,一番手前の椅子に腰掛けた。

「お一人?」

「はい」

ボクは赤ワインを頼んだ。

「一番アルコール度の低いものをお願いします」

 ママさんは差し障りのない話をしながらワインを出してくれた。それから,奥のお客のところに戻っていった。しばらくして,新たに2人連れが入ってきたけど,奥のお客の顔見知りのようで,互いに声をかけあって,隣に座っていた。

 ママさんはそちらの相手をして,ボクは放っておかれるけど,それがボクには心地よかった。意地悪されて冷たく仲間はずれにされるのではなくて,それなりの心遣いをされながら一人でそっとしておかれるのが,心地よい。ほかのお客さんどうしの会話が聞くともなしに聞こえてくる。仕事の愚痴や自慢話,あるいは他愛もない日常茶飯事を語る会話。〔ふつうの人たちは,こんなことを語って喜んだり怒ったりしながら生きてるんだなあ〕と思って聞いている。それも楽しかった。毎日なら音を上げるだろうけど,たまになら。

 ママさんは時おりボクの前に来て一言二言声を掛けてくれる。気を遣ってくれているのかな。

「お構いなく。一人でそれなりに楽しんでいますから」

「それはどうも,ありがとう。それにしても,日本語がお上手ですね」

ボクは一瞬,戸惑ったけど,彼女がボクを外人と思っているのだと分かった。敢えて,否定しなくてもいい。

「はい,日本で生まれ育ったんです」

「ああ,道理で・・・・お名前を聞いてもいいかしら」

「ロミーです」

予想どおり,彼女は笑った。

「それで,このお店に入ってくれたのね」

「はい」

「ロミーさん。それとも,ミス・ロミーと呼ぶ方がいい?」

「ロミーさんでいいですよ。でも,『さん』も『ミス』付けずにロミーと呼ばれる方が慣れています」

 彼女はボクを女と思っているらしい。それもまた,敢えて否定しなくてもいい。いちいち「ボクは日本人です。ボクは男です」と説明する方が面倒くさいし,そう説明された時の相手の反応もわずらわしい。女の外人と思われているのなら,ボクはこの“Romy”では女の外人でいよう。その方が楽。そして,自分のことを語る時は「ボク」ではなくて「わたし」を使うようにした。男の子用の「ボク」を使った時の相手の反応が面倒だから,男女両用の「わたし」を使うことにした。そしてこの習慣は“Romy”だけでなく,ほかの場所にも広がり,いつの間にかヒカルと話す時以外は「わたし」を一人称の代名詞として使うようになった。

 

 それからもたまに,3~4ヶ月に1回くらい,ヒカルがクラスの飲み会に付き合って帰りが遅くなる夜に,ボクは“Romy”に出かけた。そして,一人でワインを飲みながら,ほかのお客たちの会話を聞くともなしに聞く,そんな気楽な時間を過ごした。ロミーという名の女の外人を演じながら・・・・いや,演じていたわけではない。そんな意識的なふるまいではない。ごく自然に,ボクは“Romy”でロミーという名の女の外人になっていた。

“Romy”はボクの心の中の小さな世界。ボクの中に初めて生まれたヒカルが知らない世界。それを隠し立てするのは気が咎めたから,気楽な口調でヒカルに話した。

「そうね。いちいち自分の正体を説明するのも面倒くさいよね」

ヒカルも気楽な口調で答えた,ように思えた。

「いつも,一人で行ってるの?」

「うん」

「一緒にそういうところに行くような友達はいないの?」

「うん。一人の方が気楽」

「まあ,そうかもしれないけど・・・・」

ヒカルは,そう言って伏し目がちになり,小さな声で

「わたしのため?」

とつぶやいた。ボクは聞こえないふりをした。

 

 “Romy”に2度目か3度目に行った時のエピソード。居合わせた男客がボクにしつこく言い寄ったから,「わたしは,男には興味ないんです」ときっぱり断った。そしたら相手は,「なんだ,レズかよ・・・・ママがお目当てか」と吐き捨てるように言った。その侮辱的な言い方に怒ってもよかったのだけど,ボクは怒るより相手の愚かさにあきれてしまった。「男に興味がない」からといって「女に興味がある」とは限らないのに,そして「女に興味がある」としても,相手は誰でもいいわけではないし,色恋抜きでこの店の雰囲気が好きで来ているかもしれないのに,そんなことに思い及ばない思慮の浅さにあきれてしまった。ともあれ,その日はそれで帰ることにした。

「ごめんね,ロミーさん。気を悪くしたでしょう」

「まあ,いいけど・・・・ママこそ,わたしがいるのが迷惑なら,もう来ないけど」

「そんなことないわよ。いつでも待ってます。めったに来ないけどね」

と言って笑って送り出してくれた。確かに3~4ヶ月に1回しか来ないから上客ではないなあと思って店を出た。でも,そんな気さくな語り口のママがボクは気に入っていた。

 一度だけ,宮坂さんと顔を合わせたことがある。ボクが階段を降りてビルの出口に向かっている時,エレベーターから降りてきた彼女と鉢合わせになった。

「あら,お姉様をほったらかして飲み歩いているの?」

「ヒカルは・・・・姉はクラスの飲み会です」

「そうなんだ。お姉様に振られたんだ」

彼女は笑った。ボクはちょっとムッとした。

「そんな顔して,せっかくの美貌が台無しよ・・・・あら,赤くなってる」

「ワインのせいです」

そう答えて足早に立ち去るボクの後から彼女の笑い声が聞こえた。

 

 



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6話

 4年目の冬,国家試験の模擬試験を受けてみたら,合格ラインに達しているようだった。一安心した。医師免許は取れる。でも,医者としてどんな仕事をするのか,したいのか。ボクには分からなかった。〔ヒカルと一緒に仕事をしたい〕という思いだけで医学部に入り,医者を目指していたから。ただ,医療チームのリーダーとして,ほかのスタッフを指揮して病気に闘いを挑むような「体育会系」の仕事が自分の柄じゃないことは分かっていた。

 たまたま,図書館の本棚で目に留まった遠藤周作の『死海のほとり』。ボクは中学生の頃に読んだことがある。本棚から取り出し,パラパラとページをめくって,借り出して自室で再読した。途中で「ああ・・・・」と感慨がわき起こった。何となく記憶に残っていた印象的な場面を読み返していた時。

 

- ・・・・仲間たちの端で,アルパヨは膝をかかえたまま別のことをぼんやりと考えていた。彼もまた自分がなぜ,あの人のあとをついて歩くようになったかを思い出していた。

あれは一年前のことで,熱病にかかった彼はガリラヤ湖の寂れた岸のちかくの小屋で苦しみながら死を待っていた。彼の寝ている小屋は,昔,癩者が住んでいたもので漁師たちも避けて近寄らぬ湿地帯のそばにあり,周りには葦の葉がおい茂り,その葦のなかで暑くるしい声で蛙が鳴きつづけていた。・・・・

・・・・友人はもちろん肉親さえも彼を看とりには来なかった。住民たちは彼が悪霊に憑かれていると怖れたからである。ガリラヤの人間は悪霊に憑かれた者に近寄ると,自分も同じ運命になると信じていた。一日に一度,小舟にのった彼の兄弟が,小屋から離れた岸に水を入れた小さな壷と食物とをおいて,うしろも見ずに急いで立ち去っていった。這いながらアルパヨはそれを取りにいかねばならなかった。

蛙の声は一日中,絶えなかった。昼も夜もひどく長く苦しかった・・・・

・・・・ある日,何故か小屋の戸が軋んだ音をたてて開いた。突然ほの暗い内側に鉛を溶かしたような陽光がながれこんだ。そしてその一条の光にあの人の影が地面に落ちていた。あの人は一人で小屋にやって来たのである。そしてアルパヨの顔を濡らしている汗を布でふいてくれた。水を飲ませ,少しずつ食べものを口に運んでくれた。薬草をせんじた薬を与え,彼が眠るまで,じっと横に坐っていた。高熱にうなされてアルパヨが悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をあげる時,あの人は小さな声で言った。「そばにいる。あなたは一人ではない」あの人が彼の手を握ってくれると,苦しみはふしぎに少しずつ減っていくような気がした。「そばにいる。あなたは一人ではない」その声は昼も夜もアルパヨの頭のなかで聞えていた。・・・・ -

 

 「あの人」とはイエスのこと。最初に読んだ時も感銘を受けたけど,その時はまさか自分が将来医者になるとは思ってもいなかった。医学を学ぶ身として読み返すと,また別の感慨がわき起こった。

 進行ガンをはじめとして,現代医学で治せない病気がたくさんあることを学んでいた。そんな病気を担わされた患者に寄り添って「そばにいる。あなたは一人ではない」と語りかける仕事・・・・そんな仕事でも,そんな仕事でこそ,ボクが興味のままに身につけたいろんな知識が生かせるかもしれない。・・・・でも,人の心が分からないボクに,空気を読むのが苦手なボクに,できるかな? やってみたいとは思うけど。

 

「ヒカルは,医者になって,どんな仕事をしたいと思ってるの?」

ボクはふとヒカルに尋ねた。

「どんな仕事って・・・・」

ヒカルも,こんな質問をされて戸惑ってるようだったので,ボクは再読した『死海のほとり』の読後感を語った。ヒカルは静かに聴いてくれた。

「そういう仕事もいいと思うけど・・・・」

「けど?」

「別に否定するわけじゃないし,それともつながる話だとは思うけど」

と前置きしてヒカルは語り始めた。

「子供の頃からお父さんの仕事を見ていて,思っていたんだ・・・・」

そこでヒカルはちょっと間を置いた。

「医者は何のために存在しているのか? 医学,医療は何のためにあるのか? と問われたら,どう答える?」

「えっ?・・・・」

ボクは突然そんな根本的な質問をされて,戸惑った。

「まあ,こんな大問題はふだん考えもしないけどね,でも,よくある答えは『人の命を救うため』じゃない?」

「まあ,そうだね」

「でも,よく考えてごらん。医者が,お父さんのような町医者が,実際に人の命を救う場面って,どれくらいある?・・・・逆の立場から考えてもいい。患者は命に係わる病気でなくても医者にかかるのよ。もちろん,それが命に係わる病気かどうかを判定するのが医者の仕事だという主張もあるし,それはもちろん正しいのだけど,初めからほぼ確実に命に係わらないと分かってるケースも多いよね。そういう患者は『医者の担当範囲外だ』と言って追い返すの? 命に別状はなくても,病気で辛い,苦しい思いをしている人の辛さや苦しさを軽くしてあげるのも,医者の仕事じゃない? 大学病院や癌センターみたいな所には毎日のように命に係わる病気の患者さんがやって来るし,そういうところの医者は確かに『人の命を救うのが仕事だ』と言えるかもしれないけど,町医者の場合は,命に係わらなくても辛くて苦しい病気に対応するのが主な仕事じゃない?」

「ヒカルは,そういう町医者になりたいの?」

ヒカルはうなずいた。そして話を続けた。

「ロミーも医学部で4年も勉強してきたから分かっていると思うけど,今の医学は命を救うことに焦点を当てている。ガンや心筋梗塞や脳卒中については,山ほどの研究があって,治療法についても研究が進められていて,それぞれの治療法の有効性についてのエビデンスも蓄積されている。でも,命に係わらない病気は,研究も手薄だし,エビデンスも少ない。たとえば,くも膜下出血や髄膜炎みたいな重病と無縁のただの頭痛とか,生理痛とか,子宮ガンを否定できるただの不正出血とか,アトピーでも乾癬でもないただの湿疹とか。だからといって,そんな病気の患者さんを放っておいていいわけじゃない。Sureな治療法がなければ,Probableな治療を試みるべきだし,Possibleな治療を探ってみるべきじゃない? 医者がそうやってまじめに対応しないと,患者は怪しげな民間療法や健康食品ビジネスやカルト宗教に取り込まれるんじゃない?」

「でも,それって,治療についてのエビデンスのそろった重病に対応するより難しいんじゃない?」

「だから,やりがいがあるんでしょう」

ボクはヒカルを真剣な眼差しで見つめた。ヒカルがこんなふうに医者の仕事,自分の将来の仕事について真剣に考えていたとは,知らなかった。

「そして・・・・」

とヒカルはさらに話を続けた。

「確実な治療法がない時には『そばにいる。あなたは一人ではない』と語りかけるのも医者の大事な仕事だと思うよ。だから,さっきのロミーの話にもつながるの」

ヒカルはボクを見つめる。優しさと真剣さがこもった眼差し。その眼差しにボクは引き込まれる。

「ヒカルはボクのヒーローだね。これまでもそうだったけど,これからもそうだよ」

ヒカルはちょっと笑った。

「やめてよ。なんだか気恥ずかしい」

ボクは首を振った。

「だって,ほんとうなんだもん。近ごろはボクの方が勉強ができるって言われるようになったけど,でも,それでも,ヒカルの方がボクよりえらいと思っているよ。ほんとうだよ。だって,ヒカルは人の心がわかるじゃない。場の雰囲気を読めるじゃない。そうやって,どんな相手にもきちんと対応できるじゃない」

ヒカルはなんだか戸惑うような,複雑な表情をした。ボクはそんな表情をするヒカルの気持ちに立ち入ろうとせず,話を続けた。

「ヒカルは,ボクよりずっと大人だよ」

「そりゃあ,お姉さんだからね」

ヒカルの表情に穏やかな優しさが戻ってきた。

「年の差以上に大人だよ。ボクが幼いのかもしれないけど」

「でも,これから,ロミーも大人になるのよ。大丈夫よ,と言うか,今でも大人よ。自分は空気が読めない,自分は人の心が分からない,それをきちんと認識しているのは,自分にできないことをちゃんと把握しているのは,立派な大人よ」

 ヒカルは優しい眼差しをボクに投げかける。でも,眼差しに寂しさも混じっているような。

 

 5年生になり,本格的にベッドサイドの臨床実習が始まった。この頃はまだ卒後研修は法的な義務ではなかった。体育会系というか軍隊の教練風の卒後研修を2年も受けると,ある人が「心のうぶげ」と呼んだ繊細な感性が跡形もなく刈り取られそうで気が重かったし,ヒカルとも語り合ったような医者を目指すなら,大学病院での専門医志向の強い研修は時間の無駄に思えた。そうであるなら,5年生,6年生の臨床実習を卒後研修なみに真剣に受け,その場で学べるものはすべて学びきって,卒業したらさっさと大学を去ろうと心に決めていた。国家試験のことを心配する必要はないから,実習のベッドサイドに医師国家試験用の参考書や問題集を持ち込んで,患者を診るより本を読むような愚かなことはせずに済む。

 そう思っているボクにとって採血をやらせてもらえないのは残念だった。「侵襲的」な手技なので資格のない者はできないらしい。聴診やエコー検査はやらせてもらえた。そして何より期待したのは,初診の患者さんへの問診。

 患者は,何か困っていること,辛いことがあるから受診する。お腹が痛い,頭が痛い,熱があって体がだるい,などなど・・・・。それに対してまず,「いつから?」,「症状の程度は?」,「症状は同じ程度で続いているか,変化するのか? 変化するとしたらどれくらいの周期で?」,「症状を悪化させる要因が思い浮かぶか?」,「ほかにも困っている症状はないか?」など,定型的な質問をする。さらに,可能な範囲で生活環境,ペット飼育の有無,海外旅行歴なども尋ねる。こうやって,基本的な情報が得られたら,それに基づいてとりあえず,いくつかの病気を仮説的に想定する。その際。それらの病気を確率順と重大度順に並べ,もっとも確率の高いand/or重大度の高い病気をいくつか想定して,それらのうちのどれであるかを絞り込むような問診をする。このプロセスが医者の仕事で一番おもしろそうに思えた。

 だけど・・・・大学病院を受診する患者さんの多くはほかの病院から紹介された患者。そこで一通りの問診は終わっており,一応の診断も下されていることが多い。もちろん,その診断を確認し,時には誤診を見つけることは大事な仕事だけど,それにしても,ほんとうの初診の患者さんになかなか出会えないのは残念だった。たまに,そんな「ほんとうの」初診の患者さんを担当すると,たっぷり時間を使って熱心に問診した。もっとも,指導医からは「実際の臨床の現場では,そんなにのんびり問診してられないぞ」と言われることもあったけど。

 

 この頃,性同一性障害という概念が医療の世界だけでなく世間一般でも注目されるようになった。きっかけはどこかの大学病院で性転換手術が施行されたから。それまでも,性転換手術は行なわれていた。ただし,どちらかというと人目を避けるようにひっそりと,グレーゾーンで行なわれていた。それがこの時は性同一性障害への治療というか正当な対応法として堂々と行なわれ,厚生労働省もそれを正当な治療と認めた。

 ボクは興味をそそられた。自分が「男らしさ」の規範から外れていることを子供の頃から自覚していたから。それで,症例報告や当事者の手記などを意識的に探し出して読んだけど,その結果,ボク自身はどうやら性同一性障害ではないと分かった。そして,当事者の意識がボクの意識とずれていることも。

 ボクには,性同一性障害の当事者たちの性自認(Sexual Identity)へのこだわりがどうしても理解できない。ふだん,自分が女か男かなど意識しないで,気にしないで生きているから。ただ,自分の好みや美意識に正直に生きているだけ。結果として,世間の常識的には女っぽく振る舞うことが多くなるけど,それならそれで構わない。それについていちいち悩むような面倒くさいことはしない。生物学的に,そして法律的に男であるけど,だからといって無理して男らしさの期待に応えるつもりはないし,男らしく振る舞うつもりもない。子供の頃から身についた習慣。そしてボクにとって一番自然な生き方。

 ただ,世間には性自認にこだわる人がいる。自分の性自認,自分が男なのか女なのかということにこだわり,しかも自分の精神的な性自認と生物学的な性別が一致しない時,性同一性障害という状況におちいる,そういう現実があり,それに悩んでいる人がいるということは,理解できた。ただ,ボクはその悩みを共有していない。ボクはそういう人たちに「なんで,自分が男なのか女なのかなんてことで悩むの? そんなこと,どうでもいいじゃない」と語りたい。でも,そう言われる相手にとっては,そんなボクの言葉は「自分の心の痛みを分かっていない」と受け止められるのだろう・・・・。

 この頃,ヒカルは国家試験を間近に控えていたから,あまりよけいなおしゃべりに付き合わせてはいけないと思いつつ,このテーマについては,つい話したくなった。ヒカルは,おざなりではなく真面目に聴いてくれた。

「ロミーは物心ついた頃から,男らしさ,女らしさだけじゃなくて,ほかのいろんなことでも世間の規範から外れているというか『変な子』と呼ばれるのに慣れているから,性別の規範から外れることを怖がらないというか,そんな規範をごく自然に無視できてしまうということね」

「けがの功名ということ?」

「そうかもしれない」

ヒカルは笑った。それから,まじめな顔になって話を続けた。

「わたしも,男か女かなんてことにはこだわらない。ロミーはたまたま男だから最愛の弟だけど,女なら最愛の妹になったはず。ロミーが男であっても女であっても,ロミーがロミーである限り,わたしはこの世の誰よりロミーを愛する,そう言い切る自信があるわ。でもね,こんなふうに考えるのは世の少数派なの。極少数派かもしれない。世間のほとんどの人たちは男か女かということにこだわるの」

ヒカルはここでちょっと間を置いた。

「わたしの同級生にレズビアンの子がいるの」

「ふーん」

「その子から告白されたことがある」

「ああ・・・・それは分かる。ヒカルはそのタイプの子から好かれると思う・・・・まあ,それ以外のタイプの人たちからも好かれるとは思うけど」

「ありがとう」

ヒカルはちょっと笑みを浮かべた。

「わたしはお断りしたの。その子とそんな関係になりたいとは思っていないから。でも,その子は『わたしが女だから?』と問い返した」

「そうじゃないんだよねえ。別に,ヒカルはその子が女だから断ったわけじゃないんだよね」

「そうなんだけどね・・・・」

ボクは,その話を自分に置き換えて考えてみた。

「もしボクが,同級生のホモセクシュアルの人から告白されたら,やっぱりボクもお断りするけど,そしたら『ボクが男だから?』と問い返されるのかなあ」

「その可能性は高いね・・・・それにしても」

ヒカルはちょっといたずらっぽい表情になった。

「お断りするって決めつけてるけど,その告白を受入れるという選択肢はあり得ないの? その人が超絶的に素敵な男性であっても」

「あり得ないよ」

「どうして?」

「だって・・・・」

ボクはここでちょっと言い淀んだ。でも,言い切った。

「ヒカル以外の人を愛するなんて,考えられないから」

「ありがとう」

ヒカルはボクを見て優しく微笑む。だけど,その微笑みに少しずつ寂しさが混じっていくようだった。なぜ? なぜ,ヒカルはここでそんな寂しそうな顔をするの? 心の中のつぶやきを思い切って言葉にしようと思った時,ヒカルは

「この話はここまでにしよう」

と言って国家試験の勉強を再開した。

 

 ヒカルの国家試験が終わった。自己採点によれば間違いなく合格している。

「マークシートのミスさえなければ,来月から晴れてお医者様になるわけね。まだ実感が湧かないけど」

ヒカルはそれだけ言って黙っている。しばらく,二人とも黙っていた。そして,ボクの方から話を切り出した。

「・・・・それで,ヒカルはこれからどうするの?」

「どうするって?」

「・・・・つまり,ヒカルは大学病院で研修するつもりはないんでしょう? ヒカルがいつか話してくれたような医者を目指しているのなら・・・・どこか,それにふさわしい研修先とか仕事場を見つけているの?」

ヒカルはボクを静かに見つめる。そしてフーッと息を吐いた。

「実家で研修するの」

「実家?」

「そう,わたしの指向に一番あってるでしょう」

「でも,それなら実家でなくても,ふつうの開業医のところなら」

「ぽっと出の,臨床研修も終えていないタケノコ医者を雇ってくれるクリニックがあると思う? 実家で修行するのが一番簡単じゃないの」

「ヒカルは,あの街で暮らせるの? ボクは無理だよ。あんな窮屈な街。ボクは戻りたくないよ」

「ロミーは戻らなくていいのよ。誰も,ロミーに実家に戻れなんて,そんなこと言ってないわ」

その言葉は,ボクにとってショックだった。

「ボクは,ヒカルと一緒にいたいんだよ。ヒカルと一緒に暮らして,一緒に仕事したいんだよ。ボクが何のために医者を目指したか,分かっているでしょう? ずっとヒカルと一緒にいたいからなんだよ」

ボクはヒカルを見つめる。ヒカルもボクを見つめる。ヒカルは大きく息を吐いた。

「わたしはね・・・・わたしは,ロミーから離れたいのよ」

「どうして?」

ボクは,思わず声が大きくなった。ヒカルは寂しそうな笑みを浮かべ,そして両手でボクの頬を挟んでくれた。

「ロミーが優秀すぎるから」

「どういうこと?」

ヒカルはボクの頬を挟んだままじっと見つめる。ちょっと寂しそうな,悲しそうな表情で。

「ロミーは,これまで5年間,わたしと同じ学部で,1年違いで,同じ科目を学び,同じ実習をこなしてきた。同じ先生たちのもとで。ロミーはきっとわたしと比較されたでしょう。わたしも比較されたわ。ロミーの講義を担当している教授が1年上のわたしの実習を指導することもあるし,ロミーに臨床科目を講義している教授が1年上でわたしの臨床実習を指導することもある。そうでなくても,狭い学部なんだから教授たちとはしょっちゅう顔を合わせる。そしていつも言われたの『君もなかなか優秀だけど,弟はそれに輪をかけて優秀だね』って。言ってる本人は,悪気はないのよね。わたしだって,弟が褒められればうれしいわ。ほんとうに,自慢の弟よ。どこに出しても恥ずかしくない。でもね,1度や2度じゃない,5年間そう言われ続けたわたしの気持ちは,それだけでは済まないの。子供の頃から信じていたロミーの天才が思っていたとおりに,思っていた以上に花開き,高く評価されるのを見るのはうれしいわ。でもそんな天才と比較され続けるただの秀才の気持ちは・・・・」

 ボクは,呆然とヒカルの顔を見ている。まさか,そんなこと・・・・ヒカルがそんなことを思っていたなんて・・・・ヒカルがそんな思いを秘めてボクと一緒に暮らしていたなんて・・・・。いや,意外じゃない。ボクも薄々気づいていた。気づいていて,見ないようにしていた。お互い,この話題は避けるようにしていた・・・・。

「心が狭い,と思う?」

ボクは首を振った。ヒカルは微笑みを見せた。

「ほんとうに,ロミーは優しい子ね・・・・でも,そうであっても,今は一緒にいたくないの。今は離れたいの」

「ヒカル・・・・」

ボクは未練がましく反論した。

「学生の時と医者になってからでは,違うよ。医者になったら,ヒカルの方が優秀と思われるかも・・・・」

ヒカルは寂しい笑みを浮かべたまま首を振る。

「医者になってこそ,ロミーは輝きを増すよ。誰が見てもロミーの方が優れているよ。知識の量も,推論・思考能力も,手技さえも・・・・ロミー,自分の能力をちゃんと認識しなさい。ロミーはもうわたしの羽の下に守られる小鳥じゃないの。自分の翼で空を飛ぶ白鳥に成長したのよ。あなたの翼は自分で思っているよりずっと大きいの」

 ボクはうなだれた。涙が落ちそうになった。それをヒカルはタオルで拭いてくれた。拭いても拭いても溢れてくるボクの涙を,ヒカルはいつまでも拭いてくれた。どれくらい,そうしていたのだろう。やっと涙も止まった。

「ヒカル,いつか研修が終わったら,ヒカルが『もう研修は十分にやった』と思えるようになったら,また戻ってきてくれる? 一緒に仕事をしなくてもいい。仕事は別々でもいい。そうすれば,比較されることもないんだから。それで,また一緒に暮らしてくれる?」

 ヒカルはうつむいたボクの顎に手を当て,顔を引き上げ,ボクを見つめる。

「そうね。いつの日か,また一緒に暮らせるようになるといいね。ロミーが嫌いなわけじゃない,憎いわけじゃないんだから・・・・ほかの誰より好きな,最愛の弟・・・・」

 

 ヒカルが医学部に入学した時と同じように,服を二人で分けた。ボクはあのキュロット・半袖ジャケットのスーツをヒカルの荷物に入れた。

「夏,実家に帰省するよ。その時,夜一緒に出歩く機会があれば,着たいから」

ボクはうつむき加減で話した。ヒカルはボクの髪を優しくなでてくれる。

「じゃあ,待ってるわ。夏なんて,あとほんの3ヶ月くらい先のことね」

それから1週間後,ヒカルは実家に戻った。

 二段ベッドに一人で寝る。ヒカルがいる時はボクは上段に寝ていた。一人になって,下段に寝るようにした。その方が重心が下になって力学的に安定するということよりも,ヒカルが寝ていたベッドで寝るのが,ボクの気持ちを落ち着けたから。

 



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7話

 6年目が始まった。その日か次の日か,神経内科の教授に呼び止められた。

「藤原君のお姉さんは実家で研修するそうだね。君もそのつもりかい?」

「いえ,わたしは・・・・まだ決めてません」

「じゃあ,大学に残るつもりなのかな。まだ決めていないのなら,神経内科に来ないかね?」

「あっ,いや,わたしは・・・・」

「まあ,この場で答えなくてもいいよ。その気があれば,いつでも医局に来たまえ」

 ボクは気が重くなった。これから,いろんな教授たちからこんなスカウトをされるようになるのかな。1年目の時,Early exposureした病理学の教授から誘われた時と違って,もう「鬼が気絶する」どころか「鬼が笑う」こともない,真剣なスカウト。どうやってかわせばいいんだろう。「大学に残るつもりはありません」と答えれば,「どこの市中病院で研修するつもりだ?」と聞き返されるだろうし,そもそも研修を受けるつもりがないと言えば,もっと面倒なことになりそう。結局,「まだ決めてません」と受け流すのが一番いいのかな・・・・。

 こんなことがあっても,毎日のベッドサイド実習はおもしろかった。ほぼ1ヶ月ずつ各科を回る。科によって,外来中心のこともあれば,病棟で特定の入院患者さんを「受持ち」として担当することもある。患者さんを受持つ時は,毎日1回は病室を訪れるようにしていた。すると患者さんも親しんでくれて,教授や主治医より学生の方が気楽に話しやすいのか,いろんなことを質問された。自分の状態に関することも,それとは直接関係のない一般的な質問も。中には気が抜けるほど基本的な質問もある。たとえば

「『予後』って,どういう意味ですか?」

とか,渡された検査結果報告書にある「ヘマトクリット」や“MCV”という言葉の意味など。

〔患者さんはこんなことを分からないままでいることもあるんだ。でも医者に遠慮して訊けないでないでいるんだ〕と思いながら,ボクはできるだけていねいに分かりやすく説明する。もちろん,もっと具体的で専門的で,ボクもすぐその場で答えられないような質問もある。そんな時は,

「わたしもすぐに答えられません。次回までに調べてお答えします」

と返事する。それはそれで,ボクにとって貴重な勉強の機会。

 1ヶ月の実習期間が終わってボクが別の科に移ってからも,時おり病室を訪れるくらい親しくなった患者さんもいる。もっとも,そんなふうに何ヶ月も入院しているというのは,医学的には決して順調な経過をたどってはいないということなのだけど。

 

 ヒカルには頻繁に手紙を書いた。この頃,もうEメールが普及し始めていたけど,ボクは,ほかの人にはともかく,ヒカルには手紙を書き送った。もっとも,手書きではない。子供の頃から家にあったワープロ(まだPCのワープロソフトではなくワープロ専用機だった)を使い慣れていたから,ある程度長い文章を書く時はワープロを使う。でも,印刷した紙面の上の余白に手書きで

Ma chère soeur,Dear my sister,ヒカル

と書き添え,末尾にやはり手書きで

Romy,ロミー

と書き添え,手書きで宛名を書いた封筒に入れ,このために選んで買っておいたきれいな切手を貼って,封をしてポストに入れるという手間をかけるのが,好きだった。

 ヒカルは忙しいはずだから,最初に送った手紙に「ボクはこれからしょっちゅう手紙を書くと思うけど,ヒカルは毎回返事をしなくていいよ。気が向いたら返事をください」と書き添えていた。それでもヒカルは,ごく短くてもほぼ毎回返事をくれた。時には,手紙でアドバイスもしてくれた。たとえば,神経内科の教授にスカウトされたことを書いた手紙の返事には,

- そういう時は『プライマリーケアを目指してます』と答えておけばいいよ。大学病院には残らないという意志が伝わるから。もっとも,『じゃあ,実家に戻るんだな』と突っ込まれるかもしれないけど,その時は『はい』と答えておけばいい。まさか,実家に問い合わせはしないし,万が一問い合わせてきたら,ちゃんと口裏あわせてあげるから。万が一『君みたいな優秀な学生が町医者になるとは』なんてことを言われたら,堂々と論戦してもいいよ。ロミーならどんな教授が相手でも負けない -

と書いてくれた。

 ヒカルに余計な負担をかけないよう,手紙にはあまり深刻なことは書かないようにしていたけど,それでもたまには,深刻なことも書いてしまう。書きたくなることもあった。

 

- Ma chère soeur,Dear my sister,ヒカル

 5年生の冬頃,地元の病院でさじを投げられて千葉大病院を頼って入院した肺がんの患者さん,60代の女性を呼吸器内科の実習で担当していること,話したよね。結局,治癒は望めないんだけど,それを説明して自宅なり地元の病院なりに戻すのは,あからさまに死の宣告をするようなので,そのまま千葉大病院に入院し続けている。あの患者さんは藤の花が好きで,だから実習を担当する学生の名前が藤原だと知って喜んでくれた。それだけが理由じゃないけど,ボクに親しんでくれて,呼吸器内科の実習が終わった後も時々病室を訪れていたんだ。

 図書館の向こうに小さな藤棚があるのは知ってるよね。その話をしたことがある。先月のことだけど,「藤棚の花がもうじき咲きます。歩いて見に行くのが無理なら,ボクが車いすを押しますよ」って話したら,「それまで生きてられるかしらねえ」と穏やかな表情で返事された。予後をはっきりとは伝えていないけど,本人も分かっているんだね。ボクの方が,なんと返していいか戸惑ったよ。でも,それからも,外見的にはそれなりに元気だった。

 昨日,藤棚の藤のつぼみが膨らみかけているから,うれしくなって病室に行ったんだ。そしたら,意識が落とされた状態だった。ガン末期の痛みがひどくなって,深鎮静せざるを得なくなったんだね。ベッド脇に夫らしい人が座っていた。ボクはこれまで2~3度顔を合わせているけど,「藤原先生にはよくしていただいたと,申しておりました」とあいさつしてくれたよ。この時も,なんと返していいか戸惑ったよ。・・・・

Romy,ロミー -

 

ヒカルはきちんと返事を書いてくれた。

― ・・・・そういう時は,何も答えなくていい,何も言わなくていい,何も言わない方がいいの。何を言っても,言葉の軽さを痛感するだけだから。ただ,その場にいればいいの,その場にいて相手の言葉を受け止めればいいのよ。・・・・

それに続けて,こんなことも書かれていた

- お父さんはわたしに研修医としての給料を払ってくれるんだって。でも,実家で暮らすのにそんなにお金は要らないから,少しずつ仕送りしてあげるよ。それで,自分の服を買いなさい。わたしが実家に帰る時,たくさん服を持ってきてしまったから,ロミーのところにはあまり残っていないでしょう。 -

姉としての優しい心遣いなのだろうけど,ボクには「これから一人で生きていく覚悟を決めなさい」と言われているようにも響いた。

 

 梅雨の終わり頃。雨が上がった夕方,油断して傘を持たずに歩いていたら,急な雨に降られた。目の前を,傘を差した女の人が歩いている。ボクは思わず「ヒカル」と思った。印象が似ていた。ここにヒカルがいるはずはないという理性が働く前に,ボクはその人の傘に飛び込んだ。その人は驚いてボクを見る。その瞬間,ボクは〔この人がヒカルなはずはないじゃないか〕という判断を意識した。あわてて

「申し訳ありません,人違いでした」

と言って立ち去ろうとするボクに,その人は

「かまわないわ。雨に降られて困ってるんでしょう」

と答えてくれた。

「大きめの傘ですから,二人でも濡れないでしょう」

ボクは肩と肩が触れないようちょっと間を空けて歩く。

「それじゃあ,そっちの肩が濡れるでしょう。もっと寄っていいよ」

と声を掛けてくれた。まるで,ほんとうにヒカルみたいに。

 このエピソードは,ヒカルへの手紙に書き込んだ。軽い筆致で,人違いの笑い話として書いたつもりだったけど,ヒカルはボクの寂しさを読み取った。

- ・・・・ロミー,寂しい? きっと寂しいよね。これまでずっと一緒だったからね。わたしも時々,ロミーに話しかけたくなる,ロミーの声を聞きたくなる。でも,今は離れて暮らすのが正解なの。離れているから,今のわたしはロミーにこんなに優しい気持ちになれる。子供の頃のようなロミーを慈しむ気持ちがよみがえっている。5年生,6年生の頃は,見失いかけていたけど・・・・ -

 

 夏休み,ボクは実家に帰省した。この時季,九州の方が千葉より蒸し暑いけど,ヒカルと一緒に過ごす魅力の方が強かった。だからといって,ヒカルには医者としての仕事があるから,朝から晩まで一緒にいれるわけではないけど,それでも朝と晩だけでも,ヒカルと顔を合わせ,声を聞き,話しかけることができるだけで,うれしかった。父はボクの卒後のことについて何も語らない。きっと,ヒカルがそのことは話題にしないよう,あらかじめ父に話していたんだろう。

 着いた日の夜,ヒカルは自分の近況を話してくれた。

「予想どおりというか,期待通りというか,命に係わらないいろんな病気の患者さんを診てるよ」

と気楽な口調で話してから,ちょっとまじめな口調で,

「メンタル系の仕事がわたしに振られる」

と語った。

「メンタル系?」

「うん。こんな街にも,心を病む人というか,『病む』と言わないまでも心の不調を訴える人は珍しくない。でも,精神科クリニックは少ないし,あっても,人目をはばかって受診したがらない。あるいは本人がメンタルの問題だと思わず,体の不調だと思っていることも多いの。だからふだんの掛かりつけの医者に相談するわけ。相談されても,父もちょっと持て余すから,『卒業したての方が精神科のこともよく覚えているだろう』ってことで,わたしに回される」

「大丈夫?」

まじめに心配するボクに,ヒカルは苦笑いして答える。

「まあ,なんとか切り抜けている。あとで中井久夫や西丸四方の本を読み返したりしてるけど,今のところ致命的なミスはしてないみたい」

「それはよかった」

ボクがまじめな顔で安心するのを見て,ヒカルはちょっと笑った。そしてボクに尋ねた。

「ロミーは精神科には興味ないの?」

「ボク?・・・・ボクには精神科は無理だよ。人の心が分かんないんだもん。自分とは違う感受性を持ち合わせているんだろうと思うけど,一体どんな感受性なのか,さっぱり見当も付かないから・・・・」

「それを分かっているなら,相手の心に土足で踏み込むようなことはしないでしょう。そうやって相手を傷つけるようなことはないでしょう。患者に害をなさない,治せないならせめて害をなさない。医者の仕事の基本ね」

と話して,ヒカルはしばらく何か考えている。そしてボクに問いかけた。

「ロミーは基礎系に進もうとは思っていないよね,臨床を考えているよね?」

「うん。基礎系は基礎系で,研究室の中の人間関係がたいへんそうだから」

「わたしも,ロミーは臨床の仕事をする方がいいと思う。基礎系の研究者でもやっていく能力は十分持ち合わせていると思うけど,ロミーのキャラクター,ロミーのエレガンスを必要とする患者はきっといるよ。千人に一人くらいかもしれないけど,それでも東京近辺2~3千万くらいの人口があるなら,万の桁になる。1万人に一人としても,千の桁になるから。そんな人たちにとって,ロミーはOnly oneの臨床医になれると思う」

ヒカルはボクを真剣な眼差しで見つめる。それから,フッと息をついて笑みを浮かべた。

「採血は,すごく血管が見やすくて,ど素人でも失敗しないような患者さんを選んでやらせてくれている。患者さんの方から『若先生の練習台になってもいいよ』って声をかけてくれることもあるけどね。お父さんが『大切な患者さんに,無駄に痛い思いをさせるわけにはいきません』と断っている」

二人して笑った。いかにもきまじめな父らしい。

「でも,お父さん自身は練習台になってくれて,これまで何度か採血したよ。せっかく採ったんだからって,肝機能とか血糖とか脂質とかを検査している。こないだ,ちょっと変わった項目を測ろうということで,AFPとPIVKAとECAとPSAを測ったけど,異常なかった」

「異常があったら,大ごとだね」

もう一度,二人して笑った。

「そうだ,ボクが練習台になってあげるよ。明日,ボクを採血したら?」

「いいの?」

「いいよ」

ヒカルはボクの腕を手にとって血管を探す。

「お父さんより血管が細いね。難しそう」

「練習台にはもってこいじゃない?」

「でも,痛い思いをさせるかも」

「かまわないよ」

 

 翌日,ヒカルは診察室でボクを採血した。失敗せず,1回ですっと針が入り,痛い思いもしなかった。

「せっかく血を採ったんだから,何か調べよう」

「じゃあ・・・・女性ホルモンと男性ホルモンを調べない? 一度知りたかったんだ」

「ああ,それはおもしろそう」

ヒカルは検査依頼書にチェックを入れていた。

 その2日後,検査結果が戻ってきた。

「おもしろい結果が出ているよ」

と言って,ヒカルは結果報告書を見せてくれる。女性ホルモン,男性ホルモン,それぞれいくつかのホルモンがあるけど,その代表と言うべきエストラジオールとテストステロンの検査を依頼していた。

「エストラジオールは,男性の正常範囲の上限を越えて女性の正常範囲に入り込んでいる。女性としてはかなり低い方だけど。テストステロンは,男性の正常範囲の下限と女性の正常範囲の上限の中間くらいだね。まさに中性的な結果。ホルモン的にはロミーは中性なのかも。・・・・ある意味,想定の範囲内というか,納得の結果なんだけど,ロミーの体はどうなっているんだろうね? まさか卵巣がどっかに隠れているわけじゃないと思うけど。副腎あたりでエストラジオールがたくさん作られているのかな?・・・・」

ボクも,この結果は興味深かった。

「・・・・エストラジオールはテストステロンから1段階の反応で作られるんだよね。テストステロンにアロマターゼが働いてエストラジオールになる。ひょっとして,ボクの体には正常より多いアロマターゼが存在しているのかも,あるいはアロマターゼの活性が正常よりずっと高いのかも」

「ああ,その可能性もある」

 ボクの体のことなのに,なんだか興味深い症例について語り合っているような気になった。話がいったん途切れ,ヒカルは何か考えているようだった。そして,話し始めた。

「ロミーがここに帰ってくるちょっと前なんだけど,ロミーの高校時代の同級生がわたしを尋ねて受診したの。本人によれば,MTF,Male to Femaleつまり生物学的には男に生まれながら性自認は女という性同一性障害」

ここで,ヒカルはちょっと間を置いた。

「わたしがロミーの姉だと知って受診したの。その人,彼と言うべきか彼女と言うべきか迷うけど,はロミーも性同一性障害と思っているのね。そして,そんな弟を持っているわたしは性同一性障害に理解があるんじゃないかと期待して受診したらしいの」

「ボクに関しては誤解だけどね」

「うん,まあそうなんだけど,頭ごなしに否定するのも良くないから,とりあえずその点は何もコメントせずに話を聞いたの。本人によれば,心の性は女性で,女性的なもの女らしいものを心から憧れて,自分もそうなりたいと願っている。だから恋愛の対象も女性なの。『わたしのような指向を持っていて男を愛するということはあり得ません』と語るのね。ただ,別の精神科を受診してそれを話したら,『女が好きなら,心の性は男に決まってるだろう。性同一性障害なんてありえない』とけんもほろろに否定されたらしいの」

「その精神科医も変だよね。生物学的に女で,心の性も女で,女を愛する人だっているんだから,生物学的に男で,心の性は女で,女を愛するケースだってあり得るじゃない。なんでこんな単純なことを理解できないんだろう」

「まあ,頭の堅い人間はどの世界にもいる。ともかく,その人はその精神科医に見切りを付けて,『藤原ヒロミさんのお姉さんなら分かってくれる』と期待してわたしを受診したの。だから,その期待を無下に否定はしないで話を聞いた。でも,誤解を誤解のまま放置しておくわけにもいかないから,ロミーのことを説明したの。ロミーはそもそも性自認について悩んでいない。自分が男か女かなんてことで悩んでいないから,性同一性障害とは言えないだろうということ。そしたらすごく驚いてた。『男か女かで悩まない』でいられることを想像できないのね。その人にとっては人生で最大の悩みだから」

「それで,結局,ヒカルはどうしたの? その患者さんを引き受けたの?」

「引き受けた。ただし,きちんと説明した。わたしはその人の悩みを自分のことのように切実に感じることはできない。だけど医者として,そのような悩みが存在することは理解できるし,その悩みを軽くするのを手伝うことはできる。こういうスタンスでいいかって尋ねたら,『それでいい』ということだったから」

 

翌週,何年ぶりかで祇園山笠の夜祭りに出かけた。ボクはあのキュロット・半袖ジャケットのスーツを着た。ヒカルは初めて夜祭りに二人で出かけたときのと同じ薄手のジャケット。

「ヒカル,覚えてたんだ」

「もちろん,覚えているよ」

ボクは指折り数えた。

「もう,9年前のことだね」

その時以上に,ボクたちは人目を引いた。ただ,何人かから

「あら,藤原の若先生・・・・それにお坊ちゃんも」

と声を掛けられるのは,ちょっと困った。〔ほんとうに,狭い小さな街なんだ・・・・〕

 

 お盆が過ぎ,8月も下旬になり,九州の夏も日が暮れれば少しは涼しさの気配を感じるようになる頃,ボクは千葉に戻った。

 

9月,学期が始まると,卒後の進路のことがクラスでも話題になり始める。

「脳外科に誘われている」

とか

「血液内科か腎臓内科かで迷っている」

とか

「市中病院に出るのも選択肢だな」

といった会話が聞こえてくる。ボクもいくつかの診療科から声をかけられた。そのたびに

「プライマリーケアを目指しています」

と答える。すると,かなりの確率で,ヒカルの予想どおり

「じゃあ,実家に帰るのか?」

と尋ねるから

「はい」

と答える。さすがに「町医者なんか」と公言する人はいないけど,落胆の色を浮かべる人はいる。ただ,これもヒカルが話していたことだけど,「ぽっと出の,臨床研修も終えていないタケノコ医者を雇ってくれるクリニック」があるかどうか? 千人に一人,1万人に一人にとってOnly oneの臨床医になれるとしても,そうなるためにどこでどうやって修行すればいいのか,どこで仕事すればそのような患者に出会えるのか,そのような場所があるとして,そこに卒業したてのヒヨコが雇ってもらえるのか・・・・。

 このことについても,ボクはヒカルに相談した。ほかに相談できる相手はいないし,仮にいても,やっぱりボクは,こういうことはヒカルに相談するだろう。そしてヒカルはきちんと答えてくれた。

- ・・・・わたしも卒業してから知ったんだけど,いくつかの医学雑誌には医師の求人広告が掲載されているよ。一番多いのは『日本医事新報』だけどね。ほかのたとえば『日経メディカル』とか『メディカル・トリビューン』などにも載っている。その中には,新卒者,来年度医師免許取得見込み者も応募できる求人もあるよ。それと,医療関係に特化した人材派遣,人材紹介会社に登録しておけば,臨床研修を必要としない仕事を紹介してもらえるかも。まあ,この点に関しては,わたしも実体験がないから,推測の話になるけど・・・・ -

 医学の知識や技能については,ボクはヒカルを追い越したのかもしれないけど,こういう世間との付き合いについては,やっぱりヒカルが頼りだなあ・・・・ヒカルが書き送ってくれた手紙を読みながら,ボクはつくづくそう思う。

 

 各科目の卒業試験は年内に終わり,年が明けてから,ボクは図書館でその種の雑誌の広告に目を通す。求人広告もあるし,人材派遣・紹介会社の広告もある。

 求人には,医師不足が伝えられる地方の病院の求人に混じって,東京都内やその近辺の求人もかなりある。わりと目に付くのが職場健診や学校健診の仕事。自分の小学生,中学生時代の学校健診の情景を思い出した。〔ああ,あのお医者さんね〕と納得し,いくつかの求人元に問い合わせた。病院の一部門としてやっているところもあるけど,たいていは健診専門の会社のようだった。卒業したててでも構わないとのこと。もちろん国家試験に合格して医師免許を取るのが前提だけど。採血もやらせてもらえるかと尋ねたら,それは専門の看護師か検査技師の仕事で医師が採血することはないと,どこの健診会社も判を押したように答えた。

「問診と聴診ですよ。問診と言っても,『何か気になることとか相談したいことはありますか?』と質問して,何か相談されたら,それについて答えられる範囲で答えてください。たいていの受診者は『何もありません』とパスしますけど」

 なるほど。でも,何人かの受診者は質問をしてくる,そしてたぶん,何科を問わずおよそ医学に係わるものであればどんな質問でもあり得るということ。それは,ボクとしては楽しみだった。ただ,おそらくそれっきりで,その後は係わることはない。一期一会と言えばかっこいいけど・・・・そして,採血もエコー検査もやらせてもらえないのは不満が残った。

 



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8話

 国家試験も間近に迫った頃,おもしろい求人を見つけた。「池袋駅そばに6月開業予定の性病検査クリニック」に勤務する医師の募集。週1~2日だけの勤務も可とのこと。性病と言ってもいろいろあるけど,HIVと梅毒は抗体を調べるから採血する。淋菌とクラミジアは,昔と違って今はたぶん遺伝子検査,男性なら尿,女性なら子宮ガン検診のように子宮頸管から採取するのだろう。電話で問い合わせ,面接に出かけたのは国家試験が終わった翌日だった。

 面接してくれたのは女の人だった。面接場所に指定された池袋駅前の喫茶店の個室で,彼女はテーブルを挟んで座り,

「笠原ともうします」

と言って名刺を差し出し,相手を品定めするような,だけどちょっと怪訝そうにも見える表情で,ボクを正面からじっと見つめ,それから話を始めた。

「初めに,仕事の内容を率直にお伝えします。今度できるクリニックの主なターゲットは風俗業で働く女の子たちです。その子たちは自発的に検査を受けることもあるし,お店から指示されて毎月検査を受けに来ることもある。その子たちが主な受診者になるはずです。もちろん,風俗業とは無関係の男性や女性も来れば拒みはしませんけど。そこで,ぜひお願いしておきたいことがあります。そういう仕事をしている子たちを人間として扱ってください。ふつうの病院でふつうの受診者に対するように,マナーをわきまえて対応してください」

ボクは,そんなことをわざわざ言われるのが意外だった。

「それは,当たり前だと思いますけど」

「そのはずなんだけど,医者の中には,まあ医者に限らないけど,世間には,彼女たちを人間扱いしない人たちも多いから」

と言って,彼女はまたボクを見つめる。

「藤原先生は,まさか風俗の経験はないと思うけど,学生時代に水商売のアルバイトとか,経験ありますか?」

「いえ」

「ああ,そう・・・・」

「そんなふうに見えますか?」

「まあ,その美貌だから・・・・失礼でした?」

「いえ,そんなことはありませんよ」

「わたしは,風俗嬢をやってました」

彼女はさらりと言った。

「風俗嬢がどういう扱いを受けるものか,よく分かっています。仕事柄,性病検査は必ず受けないといけないんだけど,病院って愉快な場所ではないですね。誰にとってもそうかも知れないけど,とりわけこういう仕事をしている人間にとっては・・・・風俗嬢が不愉快な思いをしないで検査を受けられる場所を作りたいと思って,このクリニックを立ち上げているんです。もちろん,わたし一人ではありません。それほどの力量はありませんから。ちゃんと,協力してくれる人がいます。バックはしっかりしているからご安心ください」

彼女はちょっと笑った。

「さて,具体的な仕事の内容なんですけど。実は,医者の仕事はあまりありません」

「えっ?」

「つまり,採血は検査技師や看護師がやります。膣分泌物の採取は,基本的には本人採取を予定してます」

「本人採取?」

「まあ,はっきり言えば,女の子が自分で膣に綿棒を入れるということ」

「それで,かまわないんですか?」

「そんなに危険なことではありませんよ。わたしも何度もやったことがあるけど」

「いや,そういう意味ではなくて,それできちんと良好な検体が採取できるかということです。文献には,淋菌やクラミジアの遺伝子検査のための検体は子宮頸管から採取するように書いてありますけど」

「それについては,わたしは何ともお答えできませんけど,これまでわたしが受診者として経験した範囲では,たいていの病院でこんなふうにしてますよ」

「そうなんですか」

「ただ,自分で綿棒を入れるのを怖がる子もいます。そういう時は先生にお願いします。あと,店舗によっては,本人採取ではなくて医師が採取するように指定するところもあります」

「なるほど」

「ただ・・・・」

 ここで彼女はもう一度ボクを品定めするように見つめ,ちょっと間を置いて,言葉を継いだ。

「その程度の仕事のために高い給料を払って医者を雇うなんて,ずいぶん愚かなことと思われるかもしれません。ありていに言えば,医者を雇うのは法律上の規則を守るためです。医療機関には責任者として必ず1人は医者がいないといけないので,募集しています。医者のいない検査所をヤミで運営するのはリスクが大きすぎますから。それがありていの話なのですが・・・・」

ここで彼女はもう一度言葉を切り,ボクを見つめる。

「つい先ほどお会いしたばかりですが,わたしの第一印象とういか第六感というか,藤原先生は誠実でまじめな方だとお見受けしました」

彼女は相変わらずボクをしっかり見つめて話を続ける。

「なので,ぜひお願いしたいことがあります。ここに検査に来る子たちのいろんな相談に乗ってほしいんです」

「相談?」

「はい。こういう仕事をしていると,健康について,体について,いろんな心配があります。その心配に真面目に答えてほしいんです。もちろんできる範囲でかまいません。『そんなこと,医者の守備範囲じゃないよ』というような相談も受けるかもしれません。その時は,そのように答えてくださってかまいません。ただ,真面目に誠実に対応してほしいんです」

「それは医者として当然のことだと思います」

「そう言っていただけると心強いです。ただ,これもわたしの体験から言えることなんですけど,病院で自分が風俗の仕事をしていることを言うのはかなり勇気が要ります。そう話した時の相手の対応が想像できるから。でも,ほんとうは健康についての相談をする時には,どんな仕事をしているか,話す方がいいですよね?」

「もちろん,そうです」

「だから,風俗の仕事をしていることを知った上で,真面目に相談に乗ってくれる医者がいてほしいんですよ。こういうクリニックなら,初めから仕事が分かっているから,相談しやすいと思います。もちろん,女の子たちもバカじゃないから,そういう相談にまじめに対応してくれる医者かどうか見極めてからのことになるとは思いますが,たぶん1ヶ月もしたら,先生をそう見極めて,いろんな相談をしてくると思います」

「それは,わたしにとってむしろありがたいことです。いい勉強になります」

と答えたのは,お世辞でもゴマすりでもない,ボクの本心だった。

「ただ・・・・」

ぼくはちょっとためらったけど,正直に話しておくべきだと思った。

「わたしは人の心が分からないです。空気を読めないんです」

「そんなふうには見えませんけど」

「いえ,ほんとうに,そうなんです。だから,これから実際に仕事を始めて,自分ではそんなつもりでなくても,相手を傷つけるようなことを言ってしまったり,場違いな対応をした時は,きちんと注意してください。そのようにスタッフに伝えておいてください。医療の現場で,スタッフが医者に意見するのは勇気が要ると思いますが,この点は,ほんとうにお願いします」

彼女はうなずいてくれた。

「分かりました」

 ここでいったん話が途切れた。

「ところで・・・・」

彼女は言いかけて,ちょっと言葉を中断し,また話し始めた。

「ここまで面接を進めておいて,今さらこんなことをお尋ねするのも変なんですけど,藤原先生は女医さん? それとも・・・・」

「女医ではありません」

「あっ・・・・失礼しました。顔を合わせた最初に訊こうかと思ったんですけど,何となくためらって・・・・」

「いいんです。慣れてますから。ただ,そういう人たちを相手にするなら,女医の方が都合が良いのでしたら,女医ということにしてくださっても,かまいませんよ。医師免許にも性別は記載されませんし・・・・」

「うーん・・・・」

彼女は考え込んだ。

「それは難しい選択ね・・・・確かに,いやらしい男の目つきで見られるのは,まっぴらごめんだけど,女医さんは女医さんで・・・・同じ女として引け目を感じてしまうのよね。わたしたちが勝手に感じているだけかもしれないけど・・・・でも,わたしたちを心から軽蔑するような目つきで見る女医さんもいるから。そういう時,男の医者からそうされるよりも,もっと傷つくのよね。分かるかしら?」

「女どうし,分かってくれるかもと期待していたから,その期待が裏切られた時は落胆が大きいということですか?」

「まあ,そういうこと・・・・藤原先生はどうしたい? 女医さんでいる方がいいなら,そうしますけど」

「わたしは,ウソはつきたくありません。受診者がわたしを女医と思っているのなら,敢えて訂正はしないけど,『女医さんですか』と聞かれたら『違います』と答えたいです」

「ああ,それでいい。それがいいですね。そうしましょう」

 ここでちょっと間が空いた。ボクは,ぜひ聞きたかったことを質問した。

「さっき,採血は検査技師か看護師がやるとご説明なさいましたが,たまにわたしにやらせてもらえないでしょうか。スキルを磨きたいので」

彼女は一瞬あっけにとられたような顔をした。

「まあ,そういうことなら,そのように現場のスタッフに申し伝えます・・・・それにしても,採血をやりたいというお医者さんは初めてお目にかかりました」

「まあ,卒業してこれからスキルを磨いていく立場なので」

「なるほど・・・・でも,その方がいいかも。医者の世界に浸かり込んでいない,『お医者様』の雰囲気を身につけていない人の方がこの仕事には向いているかも・・・・藤原先生,週何日勤務していただけますか?」

「週1日でもいいと広告に書いてありましたが・・・・」

 ボクは迷った。ここで聞いた話から推測すると,卒業したての医者が修行するのに適した仕事場と思えるし,ボクにとっても仕事しやすい場所と思える。そして,相手もボクに期待してくれている。それに応えたいという気持ちはある。だけど,卒業してすぐこの仕事だけに自分を限定するのも不安だった。

「週2日くらいなら・・・・」

「週3日は難しい?」

「・・・・じゃあ,週3日。できれば,飛び飛びじゃなくて,木金土とか月火水とかにしてほしいのですが」

「分かりました。こちらで調整してお答えします。クリニックの診療時間は10時から18時までの予定です。13時から14時半までは昼休み。ただし,13時に昼休み前の受け付けを終了しても検査が終わるのは13時半くらいになるかもしれません。18時に受付を終えても最後の受診者の検査が終わるのは18時半くらいになるかもしれません」

「もちろん,かまいません」

 それから,開院準備を進めているクリニックの場所に案内してもらった。池袋駅の地下通路の出口を出て路地に入ってすぐのビルの地下1階。ほとんど日を浴びずに駅からクリニックに入れるのが,ボクにはありがたい。しかも地下なら診察室にぜったい日は当たらない。

「地下街に直結していない地下室は賃料が安いので。それと,外からぜったい見えないというのも,この種のクリニックにはむしろプラスかと」

と笠原さんが言い訳のように説明する。

「わたしにとっては,日が当たらないのがありがたいです」

笠原さんはおもしろそうにボクを見る。

「日当たりが悪いのに文句を言う人は多いですが,日が当たらなくてよかったという人は初めてです」

「アルビノ症なんです。日光を浴びると火傷したように肌が赤く腫上がって,長期的にはガンのリスクが高まるんです」

「それはたいへん!」

「なので,日が当たらないのはありがたいんです」

「なるほど」

笠原さんは納得してくれた。

 クリニックの中を一通り案内してもらった後,ボクたちはビルを出て池袋の地下道を歩いた。

「藤原先生,センスが良さそうですが,クリニックの名前,思いつきませんか?」

「クリニックの名前?」

「ええ,まだ決まっていないんです。いくつか候補はあるんですが・・・・」

ボクはちょっと考えて,Ange(アンジュ)という言葉を思いついた。

「フランス語で『天使』という意味です」

「・・・・女の子たちの守護天使,それ,いいわ。アンジュ・クリニックね」

「・・・・クリニック・アンジュClinique Angeの方がフランス語の語順としては自然だと思いますが・・・・」

「そう?・・・・」

 

 4~5日後,笠原さんから電話があった。「木金土の週3日勤務をお願いしたい」ということと「開業準備が予定より早めに進行しているので,5月下旬に開業できる。その頃から勤務を始めてほしい」という内容。そして,最後に「名前は『クリニック・アンジュ』にしました」とのこと。

 

 池袋で週3日仕事することが決まって,ボクは引っ越すことにした。ヒカルと一緒に5年を過ごした部屋だけど,千葉から池袋に通うのはやはり遠すぎるから。ただ,二段ベッドはそのまま使う。いつかヒカルが戻ってくる時のために。

 インターネットで探していて,おもしろい物件を見つけた。場所は駒込。駅から徒歩3分。3階建ての小さな家の2~3階部分。2階,3階とも約11平方メートル,あわせて22平方メートル。2階にミニキッチン,洗濯機置き場,ユニットバス・トイレ,3階はクローゼットを作り付けたベッドルーム。家賃は管理費,共益費などはなしで6万円。今住んでいる千葉の部屋と同じくらいの広さで,家賃はちょっと高いけど,山手線の駅から徒歩3分にしては格安と思えた。ボクはさっそく管理している不動産会社を訪れた。今風の大手のチェーン店ではなく,昔ながらの駅前の不動産屋という感じのところだった。

 さっそく案内してもらう道すがら,ボクは気になっていることを尋ねた。安さの理由。

「それは,築年数が浅くてワンフロアで22平米あれば,あの立地なら7万かひょっとしたら8万くらいの家賃を付けられるんですが,古い物件だし,2階と3階に11平米ずつだと使い勝手が悪いんです。実際,ご覧になれば分かりますよ」

そう話しているうちに,物件の前に着いた。古い木造3階建ての一軒家。

「築40年くらいですね」

間口の右端と左端にドアがある。その左側のドアを開けるとすぐ急な階段がある。

「この上ですよ」

階段の幅は70センチくらい。太った人ならつかえるかもしれない。しかも各段の踏み板が左右半分ずつ,35センチずつの幅になっていて,その代わり長さというか奥行きが倍になっている。

「急階段を昇りやすくする工夫です」

と不動産屋さんは説明してくれた。2階の部屋は予想していたよりは広い感じがした。

「11平米というとおよそ7畳くらいなんですが,キッチン,バストイレを除いた広さが4畳くらいでしょう。小さなテーブルと椅子1~2脚くらいなら置けます」

3階に昇る。奥の間口いっぱいにクローゼットが作り付けてある。ベッドを置いて,机も置けそう。

 一通り室内を見終わって,ボクたちは階段を降りて外に出た。

「1階は誰か住んでるんですか?」

「バーです」

「バー?」

「そう。隠れ家的なバーですよ・・・・ああ,それも家賃を安くしている理由の1つです。まあ,客層のいいバーだから,酔っ払いが騒ぐようなことはないんですけどね」

ボクは興味を覚えた。不動産屋さんは話を続けている。

「この建物はそのママさんのものなんです。1階をバーにして,2階,3階を自分が住む用に設計して作らせたんですね」

〔なるほど。それなら,確かに合理的にできた建物だ〕

「昔は客が外に溢れるほどはやっていたんですよ。今もまあそこそこに客は入ってます。日曜と月曜がお休みで,火曜から土曜まで週5日,7時から12時くらいまでですかね。昔はもっと遅くまでやってたみたいですけど」

「それで,ママさんは今どこにお住まいなのですか?」

「すぐ近くのアパートです。『年を取って階段の上り下りがたいへんになった』と言って,今年の初めに近くのアパートの1階に越して行かれました。確かに,この階段はお年寄りにはきついですね。毎日のことだから」

「そんなお年なんですか?」

「まあ,70歳前後とお答えしましょうか。30歳くらいまで銀座の一流クラブのホステスをやっていて,それからここにこの建物を建てて店を出したらしいです。それだけの蓄えを築いて,銀座のクラブのお客をここまで呼べたんですから,かなり売れっ子だったんでしょうね」

どんな人なんだろう・・・・ボクは心惹かれた。ともあれ,いったん不動産屋の店舗に戻って契約する。連帯保証人を求められた。

「姉でもいいですか?」

「藤原さんとは別の家計を持ってる人ですか?」

「もちろんです。父のところで医者をやってます」

「それなら大丈夫です。ただ,本人に了解を得ておいてください」

 契約が終わって,不動産屋さんが

「引っ越したら,バーにあいさつに行ってください。貸す側はどんな人が借りるのか,気になるものなんです。企業として運営しているのなら,そんなこともないんですが,個人の家主の場合は,やはり気になるんですよ。あなたなら,カヨコさんも安心なさるでしょう・・・・ああ,カヨコというのが家主さん,つまりバーのママの名前です」

 

 引っ越したその日,7時ちょっと前くらいに1階にあいさつに行った。ドアを開けると,椅子が5脚並んだ小さなカウンター。その中にママさんがいる。70歳前後にしても,それなりに美しい。若い頃はどれほどだったのだろうという思いが心をよぎった。そんなボクにママさんはちょっと怪訝そうな顔で

「いらっしゃいませ。どなたかのご紹介?」

「あっ,いえ,お客じゃないんです。今度2階と3階を借りることになった藤原ともうします。今日,越してきました」

ママさんの表情が和らいだ。

「ああ,あなたですか。不動産屋さんから聞いてましたけど,ほんとうにおきれいね。お医者様だそうだけど・・・・」

「まだ確定はしていません。国家試験の合格発表がまだだから」

「それなら,もし不合格だったら,銀座でホステスやりなさい。へたしたら,医者をやるより稼げるかも」

ボクが何と返事をしてよいか戸惑っていると,

「冗談よ。まあ,へたな女よりずっときれいだとは思うけど」

と笑ってくれた。

「まあ,立ち話もなんでしょう。座ってちょうだい」

「でも,お客様がいらっしゃるでしょう」

「まだ来ないわ。7時半か8時くらいからよ」

そう言われてカウンター席に座ったけど,何を話していいか分からない。お客として来たわけではないのだし。賃借人のあいさつとしては・・・・

「一人で住むにはちょうどいいコンパクトな部屋ですね。使い勝手が良さそうです」

「若い人にとってはね。年を取ると,階段の上り下りがたいへんになる。建てる時はそんなこと思いつかなかった。若い時は,自分が年を取ったらどうなるか,実感として思い浮かばないのよね・・・・あっ,ごめんなさい。こんな年寄りの愚痴,聞きたくないよね」

「いえ,そんな・・・・」

「不動産屋さんから聞いてると思うけど,夜の12時くらいまでバーに人の出入りがあるの。そんなにたくさんじゃないし,お客もわたしと一緒に年を取って,もう酔って騒ぐような元気はなくなったけど,それでも何かとうるさいことはあるかもしれない。それは,大目に見てね」

「ええ,もちろん。それは承知しています」

ここで,カヨコさんはボクをしみじみと見つめ,

「たまに気が向いたら,顔を出して。あなたみたいな若くてきれいな人がいると,場が華やぐから」

と語り,ボクに微笑みかけた。その微笑みは,銀座ホステスという言葉から連想されるような営業スマイルではなく,もっと素直で素朴で,その人の心根の優しさを感じさせるようなもの・・・・〔でも,だからこそ,この年になってもこの仕事を続けられて,お客を呼べるんだろうなあ〕ボクは素直に感心しておじぎをした。

「はい。たまにお邪魔します」

と言って,帰ろうと思って椅子から立ちドアの方に姿勢を変えると,壁に掛けてある写真が目に入った。ママに向き合っている時は背後になっていたから気がつかなかった。文庫本かそれよりちょっと大きいくらいの寸法。美しい人が美しいドレスを着て立っている写真。美しい人はもちろん若い頃のママ。今も面影が見分けられる。ドレスは,左肩だけ覆われ右肩は露わなワンショルダードレス。その左肩あたりは白。そこから斜め右下に向かってグラデーションをなして紫の色が現れてくる。バストあたりではっきり色が分かるようになり,ウエストからヒップにかけて薄紫。裾は濃い紫。広がった裾は水平でなく斜めに裁たれている。右足はくるぶしが隠れるくらいだけど,左は膝下あたり。ボクは見とれてしまった。

「ここを開店した頃の写真よ」

と声がした。ボクは振り向いた。

「ふだんは,こんな素敵なドレスを着てらっしゃるんですね」

というボクの言葉にカヨコさんは笑った。

「まさか。ここでは普段着で仕事してるのよ。銀ホスやってた時に着てたの・・・・あの頃の衣装はほとんど捨ててしまったけど,それだけはまだ捨てきれないで持ってる」

そしてちょっと間を置いて言葉を続ける。

「着るなら,あげるわ」

「えっ?」

「着るのが条件よ。クローゼットの肥やしにするんじゃ,あげない」

「着ます」

ボクは反射的に答えた。

「じゃあ,今度もって来ておくわ。もう,わたしが着ることはないから。ドレスにしても,あなたみたいな美人に着てもらえてうれしいでしょう」

 

 国家試験の合格発表を待つ間,ボクはヒカルに手紙を書いた。池袋のクリニックでの仕事の話,駒込の家と家主のカヨコさんの話。そして,ドレスのことも。すぐにヒカルから返事が来た。

― いくら万が一にもすべるはずはないと確信していても,結果を待つのは気が揉めるよね。・・・・池袋のクリニックの話,おもしろい。東京にはそんな仕事もあるのね。知識,能力はもちろんだけど,ロミーのエレガンスがその子たちを癒やすかも。ひょっとしたら彼女たちこそ,ロミーのようなキャラクターを必要とする人たちかも・・・・隠れ家的なバーの上とは,おもしろい住まいを見つけたね。カヨコさん,機会があれば一度会いたいわ。それと,ロミーの銀ホスドレス姿はぜったい見たい。写真を撮ってもらって送りなさい。・・・・ ―

 

 4月下旬に国家試験の合格発表。合格を確信していても,実際に発表を見ると,やはり安心する。さっそく笠原さんに連絡し,いくつかの健診会社の担当者にも連絡し,それからヒカルに,今回だけは手紙じゃなくて,電話した。診療が終わった頃を見計らって。

「おめでとう。確信していたけどね。でも,やっぱりうれしいよ。ロミーもついに自分の翼で飛び,自分の声で歌うようになるのね」

ヒカルの期待を込めた心からの励ましの言葉。うれしかった。ほかの誰よりも,ヒカルから褒められるのはうれしい。ただそんな気持ちの片隅で,1年前の辛い場面もよみがえった。「ロミーはもうわたしの羽の下に守られる小鳥じゃないの。自分の翼で空を飛ぶ白鳥に成長したのよ。あなたの翼は自分で思っているよりずっと大きいの」

自分の翼で飛ぶからといって,ヒカルと離ればなれになる,わけじゃないよね?

 

ロミー第1部:藤原Sisters 終わり   FIN

 




「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがありますが,わたしはこの『ロミー』で二兎を追いました。ヒカルとの愛の物語だけでなく,ロミーの知性が育ち,花開くプロセスも描きたかったのです。抽象的に「ロミーは美しいだけでなく頭も良かった」と語るのではなく,具体的にどのようなことに興味を持ち,どのようにその興味を発展させ,知性を開花させたのか,そのプロセスを描きたかった。たとえば,中学の化学部など。そして,医学部でも。そしてまた,誠実な学生として医者の仕事について悩み考える姿もきちんと描きたかった。わたしにとっては,そういう部分も含めてロミーという人間が存在するからです。どれほど姉を愛していても,その愛だけで人は生きているわけではないから。
第2部は医者になったロミーを描きます。二兎を追い続けるつもりです。
3月に連載できればいいなと思っています。


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