流浪の民 (オラウータン)
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プロローグ
0.「悪い子じゃないもの。」
学校なんてろくなもんじゃない。
十一歳になる年の、夏の前にあたしはようやく、そのことに気づいた。
誰もいない家に帰ってくることにはとっくの昔に慣れてしまっていて、あたしは玄関を無造作に開けてまた鍵をしめて、靴を脱ぎ散らかしては自分の部屋まで一直線に歩く。ドンドンドン、と感情に任せて床を踏み鳴らすけどそれを咎めるひとは誰もいない。
いらだちは募るばかりだった。部屋の扉を蹴破るように開けて、床にランドセルを叩きつける。衝撃で中のものが出てきて、その様にまたいらいらが募った。舌打ちしたり、うーうーと唸ったり、地団駄を踏んだり色々やって、それから虚しくなってベッドに倒れこむ。枕に顔を押し付けたら、不思議と涙がこぼれてきた。
目をつぶるといろんなことを思い出してしまう。
たとえば女子たちの視線。くろぐろとして澱んだ半目。悪意とも無関心とも取れる醜い色。あいつらはあたしを悪者にしたかったのだ。わかってる。あいつら、いつか殺してやる! 女子ってこわいよな、とかコソコソ話してた男子たちも、最初っからあたしが悪いって決めてかかってたクソ教師も!!
ああ……もうなにもかもいやになってしまう。
学校があたしにとって、いいところであった記憶なんて一度もない。あたしは他の子と同じようにができなくて、周囲に馴染むことができなくて、友達がいたこともなくて、ひとりでぽつんと、教室の隅にいるような子供だった。だけどあたしは、それが自分のせいだなんて思ったことはなかった。あたしが馴染めないのは、他の子たちがあまりに子供っぽすぎるからなのだとずっと思っていた。ばっかみたいにキャアキャアぎゃあぎゃあ騒いで、そんな低能な連中と、どうやったって折り合いはつかないと思っていたのだ。
だから、ほんとうは今日、ああやってさらし者にされて、それでもあたしは、あいつらを返り討ちにできると思っていた。口で言い負かせて、それだけの知能があたしにはあると信じて疑っていなかった。
だけど実際、あのときあたしは脂汗をにじませて、口はぱくぱくと水槽の中の金魚のように、空気を吐き出すばかりで言葉が紡げずにいた。頭がまっしろだった。みんなの視線があたしを射抜く。冷たい瞳たち。しんどい、と思った。心が底から冷えていって、涙が出そうになった。
なにも……なにも言えなかったのよ。それだけ、自分を信じていたけども、どうにもならなかった。あたしはあたしが自分よりも劣っていると思っていたにんげんたちに負けたのだ。
目からこぼれてくる涙は、悔し涙なのだと思う。友達がいないことなんて、全然どうだって思ってない。みんなから嫌われてることも、あたしのほうがあいつらのことを嫌ってるんだから、ぜんぜん今更。それよりも、あたしはあんなめに合わされて、それで負けてしまった自分自身の不甲斐なさに、あたしはひどいショックを受けたのだ。
ずんずん沈んでいく心に比例して、あたしは枕に頭を押し付けるように、涙をそれで拭う。疲れきった思考のなかで、明日からどんな顔をして学校に行けばいいのだろうと、ぼんやり考えた。
* *
意識が浮上したとき、灰色がかった風景を目にした。あたしは視界と同じくぼんやりとした意識の中、なんとなくこれが夢だなと感じた。森のように、やせ細った木が建物の周囲を覆うように生えている。夢の中だから、感覚はないはずだ。だけどあたしは不思議とここを、寒い場所だと思った。
これが夢だと感じたのは、不明瞭な視界や、不思議な雰囲気を感じ取っただけではない。あたしはあたしという意識がぼんやりあるのに、体はあたしの自由には動いていなからだ。意識の向こう側で勝手に体が動いている、という感覚。夢を見るとき、度々ある現象だった。
夢の中であたしはどうやら、きゅうくつでかしこまった服を着ているみたいだった。スーツだ、灰色の。ネクタイらしいものはしていない。ワイシャツは一番上のボタンを開けている。パンツスタイルではなくスカートで、肌色のストッキングに少しだけ高いヒールの靴は、この寂れた空間にあっていないように思えた。
(ここはどこなんだろう……)
考えるあたしをおいて、あたしの体は目の前の寂れた建物に足を運んでいた。かつかつかつ、と真っ直ぐに。石造りの大きな、それでも学校かと思うと小さい建物は日本の建物とは違う雰囲気を醸し出していた。
からんからん、とあたしの体が建物のベルを鳴らす。建物の奥からとんとんとん、という足音がして扉が開かれた。
「こんにちは、連絡していたフジワラと申しますが」
「ああ! ああ、はい、どうも。わたしはコールと申します。ここの院長をやっております」
とにかく上がってくださいな、とコールという女性はあたしを建物の中に招き入れた。入ったとたん、それまで寂しい風景だったのが嘘のように、子供たちの声が耳に入る。でもあたしの体はそんなの気にもとめないみたいに、コールさんのあとをついていく。
事務室だという場所に通されて、あたしはコールさんが出したお茶を飲みながら、コールさんと話をした。
「里親希望ということでしたが……」
コールさんはあたしが出した書類を見せて、なにやら訝しげに目を細めた。里親、というぐらいだからここは孤児院なのだろうか。あたしはまだ年齢のうちでは小学生で、養われる立場なのにここの子供を引き取るなんて、おかしな夢だと思った。怪しまれて当然だと思ったのに、視界がぼんやり揺らいだのち、コールさんはあたしを連れて事務室から出ていった。夢だからそんなものなのだろう。
コールさんが連れていった先は食堂だった。あたしは扉の窓ごしに中を見る。ちょうどごはんどきらしい。銀の盆に乗せられた、けして裕福ではないが、それでも粗末というほどでもないまずまずの料理をみやって、確かにここは日本ではないのだな、と今更なことを考えた。
ふと。そのとき。
あたしはなにかを見つけたみたいだった。
ごはんを前に、ぎゃあぎゃあわいわい騒ぐ男の子や、ぺちゃくちゃおしゃべりに興じる女の子たち、そのテーブルの、少し中央から外れて、端っこのほうで、静かにスプーンを口へ運ぶ少年。
あたしは「あ、」と声を出していた。それがあたしが出している声なのか、それとも体を動かしているあたしが上げている声なのかはわからなかった。
ただ、心の底から、頭の奥から、「見つけた」という感情が、もくもくと湧いてきたのは確かだった。
「あの子……」
「はあ? ええと……」
コールさんはあたしの指す少年を見て眉を顰める。「トムですか?」
トム、と呼ばれた少年を、あたしは注視した。美しい少年だった。白い肌は青みがかって、どこか病的な色に見える。大きな瞳も、それを縁取るまつげも、少年特有の中性的な美しさを醸し出していた。薄い色の唇から除く赤い舌がきれいなコントラストで映えていて、教室のどこにだって、こんなに美しい存在はいないだろうと思えた。
「あれはトム、トム・リドルというんですが……確かに他の子に比べりゃあ、見目もいいし大人しいけど、それだけ厄介な子なんですよ」
「ええ、ええ。」
あたしはコールさんの言葉が耳に入っているのかいないのか、わからないほど力強くなんども頷いた。
「大丈夫、悪い子じゃないもの。大丈夫よ」
それからまた視界が歪んだ。萎んでいく景色のなかで、あたしは俯瞰的にあたしの体を見た。大人の女性がそこにいたが、それよりもあたしがどこか悲しげに、懐かしげに、扉の窓ごしに少年を見つめる、不思議な瞳の色を、あたしは見つめていた。
「はじめまして、トム。今日からあなたの親代わりになることになった、トオルよ。トオル・フジワラ。よろしくね」
あたしの目の前には、あのときの少年がいた。前にみたよりも、きれいな服を着せて貰えて、でもしかめつらというのか、無表情は変わらなかった。光の角度で赤く見える不思議な瞳は、あたしのことを訝しげに見上げていた。
「親代わり?」
「そう。所詮はホンモノにはなれないもの」
突き放したことを言うのだな、と他人事のように考える。だが少年はそうは思わなかったらしい。どこか含んだ笑みを浮かべて、「へえ」と言った。
「あなたはぼくを引き取って、なにをするの。親代わりなんて言って」
「なにを? 普通のことよ。いっしょに食事をして、いっしょに本を読んで、いっしょに時間を過ごす。買い物に出かけてもいいし、あなたが行きたい場所へ出かけてもいい」
「……そんなの、あの孤児院でも他人といっぱいやったさ」
冷たい目だ、とあたしは思った。だけど『あたし』はにっこり笑って、「それがね、そうでもないのよ」と言う。少年もあたしも、同じように首を傾げた(いや、あたしはできなかったけど)。
それから視界がゆがんで、場面が移り変わる頻度が多くなった。都市郊外のアパートの一室で、あたしと少年は一緒に暮らした。朝はあたしが作る、卵料理が一品とトーストが二枚、それにスープ(ちなみにインスタント)。午前中はそれから、部屋の掃除をしたり家事をしたり、少年はリビングのソファで本を読んでいた。お昼は少年が作ることになっていて、あたしはそれを背後から見て、手伝ったりもした。午後は買い物にいったり、少年の読みたいという本を買い与えたりもした。猫を飼い始めてからは昼下がりに、リビングの陽のあたる場所で日向ぼっこをすることも多かった。夜はあたしが作る日本食だった。
「トオル、このコメびちゃびちゃ! 食わせるんだったらちゃんとつくって!!」
「炊飯器の水量のとこが掠れてわかんないんだよ~ごめんて」
「信じらんないなぁもう! そんなんでよく里親になれたな!」
ハシが慣れないのだろうスプーンでお米を食べる少年の姿が、大人びている普段のよりもずっと自然体に見えて、あたしは笑う。これはほんとうに、あたしも、それからあたしの体を動かしているあたしも、はじめて行動が一致したことで、なんだかすっかりこの夢に慣れてしまったなあと思った。
また視界が歪む。
怒り狂った女性と、その女性に手を握られて、無愛想な顔をしている男の子がいた。男の子のほおには引っかき傷や叩かれたようなあとが残っていた。女性は男の子の母親だろう、彼女は怒鳴り散らして、それから帰っていった。
あたしもなんとなくどういうことなのかわかって、女性に向かって頭を下げ続けていたあたしは女性の姿が見えなくなると、そっと踵を返して部屋の中に戻る。
「トム」
少年の名を呼ぶ。電気のついていない部屋からは、少年の気配がしない。「トム、」
あたしは慌てた様子でもなく、寝室へ向かう。飼い猫がクローゼットの前で座っているのを見つけて、ああ、と思った。あたしは「あはは」と笑って、猫を抱き抱える。
「見つけた」
クローゼットを開けると、そこにはトムがいた。三角座りで、身を縮めて、顔を膝に埋めている。だけどきっと、泣いてはいないのだろうなとあたしは思った。この子は強い子だから。
「……怒らないの?」
少年が、顔を膝に埋めたままあたしに問いかける。かすれたような小さな声だった。あたしは言った。
「確かにね、きみが悪い。だけど怒らないよ。ともだちを叩いて、あなたを怒るのはあなたの親の役目だから」
「あんなのともだちじゃない」
少年は鋭い声をあげる。「それに、ぼくに親はいない」
「そうだね」
「そうだよ、だからあんたがいるんだろう。トオル」
そのとき少年が顔をあげた。赤い瞳がらんらんと輝いて、あたしをじっと見つめていた。なにかに縋るような目だった。はじめてそのとき少年は、迷子になったような、そんな子供独特の弱さをあたしの前に見せたのだ。
彼はもしかして、あたしに叱って欲しかったのかもしれない。他人に暴力をふるった自分を、親代わりであるあたしに。そうすることで、どこにでもいるような普通の親子になりたかったのだろう。
あたしはそうするべきだと思った。彼が心底哀れだったからだ。だけど『あたし』はそれをしなかった。ただ少年のことを、そっと抱きしめた。
「親代わりには、きみを叱れないよ。トム」
「……なんで」
「しょせんはきみの親じゃないからさ。最初にいっただろう」
「じゃあなんで抱きしめるんだよ」
やめてくれ、と少年は細い腕であたしを突き飛ばそうとした。だけどあたしも一応大人だから、そんなのびくともしない。それよりもずっと、少年を抱きしめる腕の力を強くして、少年に言うのだ。
「わたしがそうしたいからだよ」
そのとき、少年がはじめて涙を零した。どうして泣いてるの、とあたしが尋ねると、少年はわかんない、と返す。こんなのはじめてだ、とも言った。あたしは少年を抱きしめる力を少し緩めて、彼の顔を見た。赤い瞳が少しだけ黒に戻り、そこからぼろぼろと涙がこぼれ落ちている。呆然としたような少年の顔を眺めて、あたしは言った。
「きっとね、ようやく気づいたんだよ。わたしに叱ってほしいと思ったことが、きみがわたしにきみの母親であって欲しいと感じているってことに。そして、きみと同じ年頃のこどもはみんな、こうして親に叱られて、それから抱きしめられて、そんな当たり前の光景を、もう何回も繰り返してるんだって、そんな違いにはじめて気づいたんだ。そして思ったんだよ、「寂しい」って……。そういう感情を……人間らしい感情を、きみは、トムははじめて……」
「……」
「トム、それを悔しいって思ったなら、不幸に身を置いちゃだめだよ。幸せになりなさい。いい人になりなさい、」
「いいひと……」
「いいひと。そう、だってそうなったあなたはずっと、ずっと楽しそうだったから」
また視界が歪んだ。
あたしはあたしの姿を、再び俯瞰的に見つめていた。
あたしは道路に倒れていた。少しへこんだシルバーの車の前で。あたしの体を中心に、血だまりが広がっていく。
痛みはなかった。そもそも、あたし自身があそこにいなかった。
あたしの胸の中で、小さな毛玉が覗く。飼っていた猫の姿だった。彼を庇って轢かれたのだろうか。黒い毛玉のそれも、あたしと同じように動かなかった。死んでいたのだ。あたしは彼を救えなかった。
あたしはふとあたりを見た。
そしてそこで、立ち尽くして動かない少年の姿を見つけた。
―――ああ!!
あたしは思わず少年のほうに近寄る。だけど少年はあたしのことをわかっていないようで、あたしが血を流して死んでいるのを、呆然と見つめていた。
「どうして! どうしてトオル! あんたがここで死んだら少年は、トムは! トムはどうするのよ! あのこかわいそうだよ!! ねえ!!! ねえったら!!!!」
雑踏が、少年も、あたしもおいて、死んだあたしの死体を囲んだ。ざわざわといろんなひとの声がする。うるさい! やめて、トムの声が聞こえない! かわいそうな少年の、あの子が!
「やめてえぇええ!!!!!!」
ぐい、と意識が引っ張られる。あたしはもうわんわん泣きじゃくりながら、少年のほうへ、手を伸ばした。空を切ると知っていても、彼に触れて、彼を抱きしめずにはいられなかった。
「――――トム!!!」
最後に少年が―――あたしのほうを見た。目を見開いている。あの赤い目があたしを見ている!
あたしは叫んだ。声の限り。でももう声がうまく出せない。かすれそうなって、潰れたような声で、それでもあたしは叫ぶ。彼に伝えなくては。彼を置いてはいけない。だから―――、だから!
「トム、あたし、あたしきっと、あなたを幸せにするから!! もう一回戻ってくるわ!! トム、だからそれまでどうか、」
―――ぷつん、と意識が途絶えた。
* *
壮大な夢を見ていたような気がした。目が覚めれば朝の四時で、風呂にも入らず夕飯も食べず、あのまま眠っていたことに気づく。べっとりとかいた汗に顔をしかめて、あたしは身を起こした。
「……どんな夢だったっけ」
不思議とそれが思い出せない。けれどあたしはなんだか、誰かをどこかへ置いてきてしまったような、そんななんとも言えない、焦燥感にも似た気持ちを味わったのだった。
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二年生
1.「やっと見つけた」
中学生になって、四月もすぎてあっという間に五月になり、それももう終わろうとしていた。あたしは相変わらず周囲からは浮いていて、友達もいなかった。それを気にすることはないけれど、今でもたまに、小学五年生の夏の前のことを思い出しては憂鬱になる。
けれど同時に、あの憂鬱げだった日に、不思議な、とても長い夢を見ていたという記憶もあるのだ。
その記憶に思いを馳せるたび、どこかに誰かを、おいてきてはいけない誰かをおいていってしまったような気がする。それを思い出すたびに、心臓が早鐘を打つ。焦燥感があたしを襲う。はやくどこかへ帰らなくてはいけないような、不思議な感覚。でもいったいどこへ帰れと言うのだろう……。
……帰る場所なんてどこにもないというのに。
誰もいない家に辿りつく。黒色の、指定のスクールカバンから鍵を取り出して玄関の扉を開けた。電気の点かない廊下をじっと見つめて、ため息を零す。
あたしに母親はいなくて、ずっと父親と二人暮らしだった。その父親も、仕事で忙しくて、家には中々居着かない。あたしが寝る頃に帰ってきて、あたしが起きたころにはもう家にいない。あたしを養うためだってわかってるけれど、ときどきやり切れなくなる。もうずっと父とまともに顔を合わせていないのだ。
それ以上にやり切れなくなるのは、あたしがこんな性格なのは、周囲と馴染めないのは、みんなと同じができないのは、……母親がいないからだと、そう思われることだ。担任の顔にも、よく書いてあった。片親だから。そうして説教をやめて、大きくため息をつくのだ。お父さんに連絡しておくから、いつなら大丈夫なの、と聞かれて、仕事だからずっと家にはいないといえばまたため息をつく。
―――あたしがダメな理由を、他人に押し付けんじゃねえよ!
自室の部屋の扉を開ける。もう癇癪で物を投げつけるような年でもない。カーペットの敷いてある床にスクールカバンを置いて、制服を脱ぐ。動きやすい部屋着に着替えてからベッドに倒れ込んだ。いやなことがあるとすぐ寝っ転がるのは昔から変わってない癖だった。
リビングに行けば、夕飯代が置いてあるだろう。あたしが小学校を卒業したとたんに、父は夕食を作ることをやめた。もうあたしが外でひとりでごはんを買ってこれる年齢になったからだ。あたしもそれが合理的だと思う。食べない日もあるし、作るだけ無駄なのだ……。
カバンの中に入れっぱなしの課題のプリントの存在を思い出して、あたしは「あ」と声を出す。それを片付けてしまおうと思ったけれど、一度ふとんに寝かせた体は重くて、天井を見つめているといつのまにか瞼が落ちていた。
* *
「あれっ」
ぱちり、と目を覚ます。視界にうつったのは、やけに広くて、それから高い天井……?
それからあたしはすぐに目が覚めてしまった。だって、ここ、あたしの部屋じゃない。ぜんぜん知らない場所なんだもの。
起き上がって周囲を見渡した。あたしのベッドのスプリングはこんなに固くないし、清潔感のある白いシーツでもない。夏前だからブランケット一枚だけだ。服は寝る前と同じだった。部屋着にしてるスウェットにTシャツ。でもベッドの四方はまるで、学校の保健室のように白いカーテンで覆われていた。
学校の保健室?
あたしはベッドから降りる。あたしのものなのかわからない革靴がベッドの脇にそっと置いてあった。やけにホコリがかぶってたような気がするけど、いいや気にしない。そっとカーテンの隙間から外を覗いた。
やっぱりここは保健室のようだった。けれどあたしの学校のではない。あそこはもっと全体的に白いし、やっぱりこじんまりとしてる。でもここは、壁は石造りだし、空間も広い。学校の保健室にベッドは三台ぐらいが限度だと思うけど、ここにはその倍以上は置いてある。
ひとの声に視線を移す。「―――ジニー・ウィーズリーが見つかったとは本当ですか! ベッドを開けなくては……」女の人が……エプロンドレスを着た外国人の女の人が、また女の人と話している。片方の女の人はエメラルド色のドレスを着ていた。時代錯誤もいいところだな、とあたしはぼんやり思った。
女の人たちがどこかへ消えたのを見計らって、あたしもベッドから出る。ここはどこなのか、考えなくてはと思ったのだ。でもそれ以上に、もしかしたらいつもの夢かもしれないとも思っていた。だから不思議と取り乱すこともなく、あたしはこっそり室内から出る。
外はもっとおかしなところだった。石造りの壁は長く、ずっと続いている。大きくて高い天井に、照明は壁にかかったロウソクや、天井から吊り下げられたシャンデリラ。壁にはたくさんの絵画が並んでいて、まるで西洋のお城みたいだとぼんやり考えた。
『生徒がこんなところでなにをしている? 今はみな寮で待機してろと先生に言われただろう?』
「わっ!」
絵画が喋った!
あたしの真横にあった、シワの深いおじいさんの絵が動き、喋ったのだ。あたしは声をあげておののき、一歩二歩と後ずさる。
『なあに? 騒がしい声』
『おや、生徒がいるぞ』
『フィルチが飛んでくる前に逃げたほうがいい』
呼応するように、次々と壁にかかった絵画たちがしゃべりだす。その、圧倒的な質量! いろんな絵画たちがあたしを見つめる。異常、異常、異常! なにこれ! 夢にしてももっとあるでしょう!
あたしは走り出した。その場から逃げたかったのだ。でもどこへ行っても絵画たちはいる。あたしが走れば走るほど、彼らはあたしを見ては口々に囁く。『生徒は寮へ戻りなさい! いまやホグワーツはどこにいっても危険なのだから』
ホグワーツ? どこかで聞いたような名前……。でもどこだっけ? いや、そんなのはどうでもいい。こいつらがいないところに逃げないと!
なにかに導かれるようにあたしは走った。石畳の廊下はごつごつとしてて走りにくい。床の材質が大理石に変わるあたりで、あたしは随分と遠くまで走ったことに気づいた。左足の小指が、履き慣れない革靴に靴ズレを起こしている。皮がむけて、血が出ているだろうか。鈍く痛む小指に顔をしかめる。
どこまで走ってきたのだろうと周囲をみる。ふと目の前に、『女子トイレ』と札がかかった扉を見つけた。ほんとうに学校みたいな施設だなと思う。別に用もないので、はやくここから立ち去って、夢から覚めようと思ったそのとき。あたしはその扉の前に、ぽつんと捨て置かれた革張りの手帳を見つけた。
「なにこれ、ボロボロ……」
拾い上げてあたしはその手帳がぐっちょり濡れていることに気づく。それに、表紙になにか刺したようなあともあった。
どうしてこんなことを、とあたしは思う。いじめだろうか。じゃなきゃこんなふうにはならないだろう。どういう意図があったにせよ、これは人的被害だ。
ここが学校なら、教師らしいひとに届けたほうがいいだろうかと、あたしは夢の中なのに真面目くさって思う。なんとなくこういうのは見過ごせなかった。自分がよく標的にされやすいからだろうか。他人事とは思えないのだ。
はやく誰かひとを探そうと思って顔をあげたそのとき。いつのまにか目の前にひとりの少年が立っていた。あたしよりも背が高くて、黒髪でとってもかっこいいひと。灰色のセーターに黒いローブ、スラックスを履いた、一見普通の学生のようで、どこかおかしな服装の……。首元の緑地に銀のラインが入ったネクタイがいやに目につく。少年はあたしをじっと見下ろしていた。
「あの、」
あたしはかれがこの手帳の持ち主だろうかと思った。それにしては、イメージと違ったのだけれど。整った顔立ちはあんまりいじめられるようなタイプには思えないし、いじめの対象になりやすい靴なんかは傷ひとつないきれいなものだった。どっちかといえば、みんなに囲まれて、いじめを扇動する側……。
「やっと見つけた」
少年は無表情のまま呟く。やはりこの手帳の持ち主で間違いないのだろう。あたしは彼に手帳をそっと差し出した。だけど彼はそれに目もくれず、なんといきなりあたしの肩を両手で強く掴んだ。
「トオル! やっと、やっと見つけた!」
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2.「責任を負わなくちゃいけない」
少年に掴まれた肩がきしきしと痛む。このときあたしは、なんで夢の中なのに痛みを感じるんだろうとぼんやり考えていた。そういえば、靴ズレをした左足の小指……。ああ、もう、どうなっているの?
腕を振り払って、逃げればよかったんだと思う。だけど不思議とあたしは少年の前から立ち去ろうという気になれなかった。異性に名前で呼ばれたの、はじめてだったんだ。それなのに、不思議と懐かしい感じがした。ずっと自分のことを、そう呼んでいた男の子をあたしは、知っていた気がしたのだ。
「思い出せないのか? お前! 自分から戻ってくるとか言っといて口だけなんだな」
「戻って……」
―――トム、あたし、あたしきっと、あなたを幸せにするから!! もう一回戻ってくるわ!! トム、だからそれまでどうか、
ぼんやり頭に浮かぶ風景。あたしを見ている赤い瞳の少年。ひとりぼっちで立ち尽くす……、
「まさか、あんた……トム?」
あたしの中で、なにかが弾ける。少年が不安げな顔を一転して、それからほっと笑った。そしてあたしの頬を両手で思い切り抓ったのだ。
* *
君の中では夢だったけど、とトムは前置きをそうした。今でも夢だと思ってるよというあたしの発言は無視である。あたしは未だヒリヒリする頬に顔を顰めながらトムに向き直る。
トムは、あたしが夢の中で引き取ったあの九歳の姿からだいぶ成長したらしい。大人びた視線も仕草も、表情も、なにもかもがあの頃と違った。でもトムは、トムだという。
「あのあとぼくは元いた孤児院に連れ戻された。きみとの生活に希望を見出していたぼくには、とてつもない苦行だった。鳴りを潜めていた盗み癖も再発したぐらいだし……。そしてホグワーツからダンブルドアがやってきた」
「ホグワーツ?」
あたしの言葉に、トムが「それはあとで説明するよ」と制す。あたしは仕方なく引き下がるけれど……でもホグワーツって、物語の中の学校のことでしょう?
ハリーポッターというシリーズの中に出てくる魔法学校。それがホグワーツ、そのはずだ。あたしは五巻まで読んだだけだけど、それにしてもその名前はあまりにも有名すぎだ。
「きみがいない時間、ぼくには苦痛すぎた」
「……寂しかったの?」
「バッカじゃないの、そんなわけないだろ。愛だのなんだのを恋しがる年でもなかった。そうじゃない、きみが最期に余計なことを言ってくれたおかげでだな」
「トム口悪くない?」
あたしの言葉を無視してトムは続ける。最期に残した言葉とか言われても、とくにピンとはこない。トムのことを思い出したというのも断片的で、そういやそんな夢見たな~ぐらいのものだ。そんな昔の夢の続きをまた見るなんて器用だなとか思ってるぐらいだし。
「『いいひとになって』」
「……そんなこと言ったっけ」
「言ったとも。ぼくはその言葉にずっと苦しめられてきたんだから」
ぼくは生まれつき自己顕示欲が強かった。トムはそう語りだす。それが彼をずっと苦しめてきたのだという。
トムはホグワーツに通うことになった。ホグワーツでは四つの寮に別れる。そう、確かそういう設定だった。本の中と寸分違わない設定にあたしは眉をしかめたけど、トムはそんなの気にもとめずに話を続ける。トムが入ったのはスリザリンだった。生まれによる選民思想が渦巻く魔法界の縮図。トムはそこで生き残るために『いいひと』をやめた。
「そうすればそうするほど、ぼくの心は壊れていくようだった。きみと暮らしたあのあたたかい日々を、思い出すらも消えてしまうようだった。それは裏切りに等しかったんだ。だってぼくは心のそことでは信じていたんだ……『いいひと』でいればきみが迎えに来てくれるって……」
でもそれではダメだった。
だからトムは日記を作った。そしてそこに、あたしとの生活を、その思い出をすべて書き記した。彼の良心を、『いいひと』になりたいという気持ちをすべてそこに残して、彼は心を閉ざしたのだという。
「ぼくは、トム・リドルの良心だ。日記に託された、きみとの思い出」
「思い出……」
「でもそれじゃあいけなかった! ぼくは日記についてちゃいけなかったんだよ!」
トムが「あ~~~~~~! きみが余計なことをしてくれたおかげで~~~~~~~~~~!!!!!」と叫んだ。その声の大きさにあたしはびっくりして、手に持っていた日記を落とす。衝撃でページが開けた。一ページ目の中表紙に記されていた文字。『T・M・リドル』……。トム・M・リドル……? ここがホグワーツで、トムがスリザリン生で、孤児ってことは……。
「あああああああああ!!!! あんたって!!!!!」
あたしはトムから一歩後ずさった。人差し指をつきつけて彼を凝視する。心臓が早鐘を打った。頭に浮かぶひとりの名前が、あたしに恐怖のサインを送り続ける。やばい、やばい、やばい! 思えばそういう要素はあった。孤児院暮らしで、黒い髪に深い瞳の色、でもたまに光の角度で赤く光る瞳。どこかすれた感性に、大人びた仕草。美しい顔立ち、そしてこの日記!
「よぉ~~~~~~やく! 気づいたのかこのスカポンタン! お前があの『トオル』とほんとうに同一人物なのか怪しいところだよ!」
確かにあっちのトオルも結構抜けてたところがあったけどさ、とトムはフンと笑う。その蔑むような目線! やめて~~夢の中のちっちゃなトムを壊さないで~~~……可愛げのあるあの子に戻って……。
「日記に良心のぼくを閉じ込めたトムは、順調に闇の道に進んでいった。そして彼はなってしまったんだ。……ヴォルデモートに」
トムがその名前を―――確信をついたそのとき、廊下の向こうからひとの足音が聞こえた。それにはっとしたようにトムは「はやく日記を隠せ!」という。あたしは混乱しながらも、ポケットの中に日記を隠した。「生徒はまだ外出禁止と言ったはずです!」
廊下の向こうからその声が聞こえた。そう、目覚めたとき保健室で聞いた声だ。振り返るとそこにいたのは、エメラルド色のドレスローブを着た女の人だった。いかにも厳格そうな顔立ちの年老いた女性である。そうだ、あたしは気づいたらここにいただけの部外者で、あたしの後ろにいるトムなんて今世紀最悪の闇の帝王! さぁーっと青くなる顔にあたしは今更、夢の中のはずなのに痛みを感じたことを思い出した。
これが夢じゃなかったら? そんなありえない『もしも』を思い描いて、一歩後ずさる。だれかたすけてくれ、と祈るように目をつぶったとき、目の前の女性からありえない言葉を聞いた。
「おや―――あなたはミスフジワラではありませんか! ようやく目が覚めたのですね」
「―――え?」
女性はあたしに駆け寄ると、いたわるようにあたしの肩を抱き、あたしに視線を合わせるように少し膝を屈んだ。
「入学式のあと、突然倒れてずっと眠っていたのですよ―――。原因不明の昏睡状態に、聖マンゴも匙を投げたほどで……。ダンブルドア校長があなたがいつ目覚めてもいいように、保健室のベッドでいることを許可してくださったのですよ」
「入学式? ええっと……その……あたし……記憶が……」
ホグワーツの入学式といえば―――あのオンボロ帽子をかぶって行う、組み分け帽子のことだろう。そしてダンブルドアという名前が出てきて思い出した、もしかしてこのひとはマクゴナガル先生だろうか。きっちり結われた白髪の髪型も、清潔なエメラルドカラーのドレスも、丸めがねも言われてみれば彼女の特徴を捉えている。
あたしはトムを振り返った。彼はあたしの耳元で囁く。「ふつうのひとには見えないだろう。ぼくにはもう、それだけの魔力は残っていないから」
ではなぜあたしにはトムを見れるのだろうか。その疑問を問いかけるよりも前に、マクゴナガル先生があたしの手を引いて、「目が覚めたならなぜマダムを呼ばないのですか! 彼女も突然ベッドがあいて心配してることでしょう」と言う。保健室に連れ戻されるのだろう。あたしはそれにおとなしく従うしかなかった。
思いがけずにこの世界にあたしの居場所があることがわかったけれど、トムの言っていたことに不安しかない。それにトムの正体……。まさか、あたしが夢の中で引き取った哀れな孤児の少年が、かの闇の帝王、ヴォルデモートの幼いときだったなんて、だれが想像できるっていうの? そんな安い脚本の小説、探せばいくらでもあるだろうに。
そしてトムは言っていた。『きみが余計なことをしてくれたおかげで……』と。つまりあたしがやったことで、またなにか、この世界に変化が訪れたのだろう。若い日のヴォルデモートが、この日記に良心の彼をひっつけたように。
あたしがしたことは、そんなに悪いことだったのだろうか。めぐり合わせが悪かっただけで、トムはあんなに苦しんで、記憶を閉じ込めるしかなかったのだろうか。もっと他に、彼の幸せのために可能性は開かれていなかったのだろうか……。
あの夢の中、確かに記憶はおぼろげだけど、あたしは確かにトムの幸せを想っていたんだ。だってすごくかわいそうだったから。あのまま放っておけば、彼はどんどん不幸になっていくようだったから。まだまだあたしたちの生活は、これからだと思ったから……。
首だけ振り返って、トムの顔を見た。でもきっと、かれが求めているのは、大人の姿で、彼と一緒にすごしたあたしなのだ。あの夢の中、あたしは一度だってあたしの意思で行動することはなかった。あたしがしたことは、別れ際に彼に言葉をかけただけ。
「それがぼくを苦しめたんだよ、よく覚えておくんだ、トオル」
あたしの思考を見透かすように、トムがあたしに声をかける。あたしはその冷たい声色に心臓が底からぞっとするような感覚を覚えた。
「きみはきみの行動に責任を負わなきゃいけない。ヴォルデモートを生んだのはきみではないけれど、生んだ一因となったのはきみなんだから」
トムの言葉に、あたしはふ、と足を止めた。自分の行動に責任が生じることに気づくには、あたしはまだ幼かった。瞳からぽつりと涙が溢れる。―――トムはそれを冷たい目でじっと見つめていた。
マクゴナガル先生が、足を止めたあたしに振り返って、あたしの名前を呼んだ。あたしはTシャツの首もとの襟で涙を拭って、震える声で返事をする。足を一歩踏み出せば、靴ズレを起こしたところがじくりと傷んだ。
ああ―――ここは夢の中じゃない。いまさらそんなことに気づく。どうしようもない現実の世界で、あたしはあたしが起こしたことの責任を負わなきゃいけないのだ。
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3.そんなの嘘だ。
保健室に連れ戻されたあたしは、マダム・ポンフリーと呼ばれた養護教員にさんざんお小言をもらって、「あと今晩だけ入院しなさい」と言われた。二年近く眠っていたのだから、なにか支障があるだろうと言うのだ。濁った色の苦い薬を飲まされて、あたしはベッドを囲うカーテンを閉めた。ずっと眠っていたわりには、体は普通に動くし、胃も正常に作動して、空腹を訴えている。
マダムはあたしが薬を飲んだのを見届けたら、「石から目覚めた生徒たちの面倒も見なければ!」とあたしを置いてドタバタと忙しそうに歩き回り始めた。
「石……」
「バジリスクのことだ。知ってるだろ」
トムの言葉に、あたしは小声で頷く。たしか、トムが原作で操っていた蛇のことだ。秘密の部屋。ハリーポッター第二巻。映画は見ていないので、そのビジュアルはわからないけれど、知識のうえではぼんやりと覚えている。そういえば、目が覚めたときにマダムが話していた『ジニー・ウィーズリー』にも、心当たりがあった。主要人物の家族で、秘密の部屋ではトムに操られた被害者でもあったはずだ。
「あなたが、やったの?」
あたしは震える声で尋ねた。そうだ、トム。彼は日記に閉じ込められたトムなのだ。まさしく、ジニーを操って、この事件を巻き起こした張本人。
だけどトムは静かに首を横に振った。思わぬ否定のサインにあたしは顔を顰める。
「違う。分霊箱として切り離された『トム』と、きみと過ごした時期の記憶を切り離してつくられた『良心のトム』は別物だ」
「分霊箱、」
「魂を切り分ける魔法のこと。……ぼくが作られたのは四年生のときだった。十五歳のとき。それまでぼくは日記の中で意識もなく、ただ『そこ』にあった。だけど、五年生のとき……」
トムは一瞬、口を閉ざす。それからあたしを見た。伺うような、不安そうな色が瞳に映っていた。どうしてそんな目をするのだろうとあたしが腑に落ちない顔をすれば、トムははっとなにか気づいたような、それから失望したような顔をした。
あ、と思った。
見た覚えがあったのだ、あの顔に。そう、あれは、夢の中で、あたしに叱られるんじゃないかって、クローゼットの中に隠れていた、あのときのトムの一緒の顔。そして彼は、思い知ったんだ。あのときトムに、あの言葉をかけてくれたのが、あたしだけどあたしじゃないってことに……。
それからトムは表情を無くして、言葉を続けた。
「ぼくは人を殺した」
「……」
「ぼく、というか……トムだね。きみとの記憶を切り離したぼく。『原作』通りに彼は殺人を起こした。そして……魂を切り分けたんだ」
嘆きのマートルのことだ、とあたしは思い出した。あの女子トイレ、そう、トムの日記を拾ったあの場所。あそこは、女子トイレという札がかかっていた。あそこで日記を拾ったということは、まさしくあそこがマートルが死んだ場所なのだ。
「……原作?」
ふと、トムの言葉に違和感を感じて、あたしは呟く。原作? こいつ、今原作って言った?
「一番重要なのはそこだな。今説明するよ。……日記に分霊箱として本体の魂が宿ったとき、ぼくはようやく意識を持った。だけど二分されたんだ。分霊箱として別れた、五年生のときのトム。そして四年生のときにきみとの記憶だけを切り取ってつくられた良心としてのトム、つまりぼく。日記に二人はいられなかった。ぼくはもうひとりのぼくに追い出された」
「追い出された……」
「仕方ないさ。あっちは分霊箱だからね。……追い出されたぼくは、なんとかしてきみを探そうとした。もはやきみが『戻ってくる』なんて信じられなかったしね。少女のきみを探せば、トム・リドルは元に戻ると思ったんだ」
だけど実際にはそうはならなかった。原作では、少なくともそうだったはずだ。
「本体がヴォルデモートとして魔法界を混乱に陥れていたそのとき、ぼくはずっときみを探していた。それしかないと思っていたんだ。きみに流れる時間の流れが、ぼくのそれと違うことには気づいていた。だから探しても探しても見つからないんだと思っていた。……でも違ったんだ。そもそもきみとは、住む世界が違った」
「どうして、それに気づいたの」
「気づけたのはつい最近だ。ほんの数年前。気づいたらきみを見つけていた。無理やり結びつかれたって感じだったかな……、確かにそれは、きみのほうからぼくにサインを送ってくれた、という感じだった」
数年前、という言葉にあたしは「あの夢、」と声をあげる。二年前の夏の前に、小学五年生のときに見た夢。まさしく、トムを引き取って、養育する夢! すべての元凶となる夢を見たのも、たしかその頃だったはずだ。
「そうか、夢を通じてきみはこの世界に来てたのか……。ぼくはそれから、きみを通じてきみの世界を見た。原作っていったのも、そういうことだよ。ぼくはきみを通じて、この世界がきみの世界では『ハリー・ポッター』という物語であることを知ったんだ」
あたしはごくん、と生唾を飲み込んだ。じゃあ、彼は知ってる、正しい歴史を。進むべき道を。この世界はどうなったのだろう。どうなって壊れたのだろう。あたしは知るのが怖くなった。あたしのせいでそうなったって言われたら、誰だってそう思うだろう。シーツを頭までかぶって、耳をふさぐ。トムは静かな声で「トオル」とあたしの名前を呼んだ。
「逃げたって何も変わりゃしない。ぼくはね、トムの中に戻りたいんだ。なによりも彼が、きみと過ごした記憶を無くしたまま、このまま生を終えるなんて哀れで仕方ないんだ。きみも、そう思うだろう」
「……」
沈黙のまま、あたしはトムの言葉を静かに聞いた。耳をふさいでも、彼の声は不思議とあたしの耳に届いてくるのだ。そうか、これが、繋がってるってことなのか。あたしがトムとの夢を見て、それを契機にあたしとトムは不思議につながったのだ。だからトムは、あたしを通してあたしの世界を知った……。
「眠れば、家にかえれるかな」
ぽつりと呟く。トムは呆れたような声で、「ぼくがきみをつなぎ止めてるから、無理だろうね。帰ってもらっちゃ、困るんだ。きみには責任をとってもらわないと」と言う。
「それって、そんなのって、あたし、しらない……だって、こんなことになるなんて、知らなかったんだから」
「そうやって逃げるのか! お前、無責任な言葉くれやがって、そのせいで人生狂ったやつがいるんだぞ!」
「しらない! しらない、あたし、しらない!!」
シーツごしにくぐもるあたしの声に、マダムが「静かになさい! 消灯時間は過ぎているのですよ!」と声をあげた。ああたしはぎゅうと強く目を閉じて、枕に顔を押し付ける。トムがあたしを叱りつける声だけがいやに耳に届く。なにもかもいやになって、あたしはとにかく意識を手放してしまおうとした。
「ぼくはな、ぼくっていう良心はな、ほんとうはハリーポッターくっつくはずだったんだ! ヴォルデモートが期せずして作り上げた分霊箱のハリーにくっついた彼の魂のかけらに、良心があったんだよ!」
*
あたしはグリフィンドールに組み分けされていたらしい。トムと夢を通じて繋がったことで、何度かこの世界に来ていたらしくて、そのときにホグワーツに入学して、組み分けも行ったそうなのだ。だけど結局あたしにとってそれは夢のことで、夢から覚めればこちらの世界のあたしはいなくなる。けれどトムはなんとかしてあたしを繋ぎ留めたくて、結局身体だけこちらに置き去りに、意識は元の世界に戻るといった形になっていたらしい。おかげであたしは二年近くも寝過ごしていたことになっているのだけれど。
トムは、あたしが眠る前に言っていたことを、蒸し返すことはしなかった。まくし立てた、という自覚があったらしい。その話はあとで、ゆっくりしようと言っただけだった。あたしとしては、もう二度としないで欲しいと思うし、さっさと元の世界に戻して欲しいとも思う。けれどいつか向き合わなきゃいけないときが来るのだろう。その日を思って憂鬱げに、あたしはため息をついた。
二年も眠っていたわりには体に異常もないということで、マダムはさっさとあたしを保健室から追い出してしまった。苛烈なひとだと思う。石にされていた生徒の看病もあるのだから仕方ないとは思う。あたしは全く知らないホグワーツ城内を、真新しい制服を身にまとって歩いた。行き交う生徒が、あたしの顔をみてこそこそとおしゃべりする。ずっと眠りこけていたということは、学校の生徒中が知っていることのようだった。
「ほっといてくれればいいのに」
「無理もないさ。とは言え今はタイミングもいいんじゃないか? なんせホグワーツの怪物が退治されたあとだからね」
そちらのほうにみんな意識が向くだろうとトムは言いたいのだ。確かにそうかもしれない。生き残った男の子、ハリーポッターがまたやったのだと、みんな口々に噂するのだろう。
主人公の名声の高さに感謝しながら、あたしはトムの道案内で大広間にたどり着く。昨日からなにも食べていなくて、お腹がペコペコなのだ。バジリスク騒動で授業はないし、まずは朝食をとって、あたしはマクゴナガル先生とこれからについて話し合うということになった。一番の問題は、三年生に進級できるかどうかということらしいけれど、そうなる前に家に帰りたいというのが本心だった。
グリフィンドールの寮の席の、端っこのほうにあたしは腰掛けた。突然現れたあたしの姿に、誰も気づいていないようで、あたしは小さくため息をつく。オレンジジュースが注がれたグラスだけを手に取る。他にも、カリカリのベーコンだったり、みずみずしいサラダだったり、色々な料理が並んでいたけど、なんだか食欲が湧かなかったのだ。料理たちは、あたしが来る前からここにあったけど、いま作ったばかりと言われても納得してしまうほど出来立てのようで、これが魔法かとあたしはなんだかいまさらながらに納得した。
「朝、あんまり食べないのは、この頃から変わってないんだね」
「……」
トムが静かに呟く。自分に言い聞かせるような声色に、あたしはなにも言えなかった。かれは、あたしの中に、未来のあたしを探してる。それで贖罪になるなら、いくらでもそうしてくれればいいと思った。責任なんて、どう取ればいいのかわからないのだから。
ふと、大広間の喧騒が一瞬病んだ。コソコソというささやき声が、さきほどよりずっと強くなる。みんなの視線を辿って見ると、大広間の扉の入口のところに、ひとりの男の子が立っていた。くしゃくしゃの髪に、丸いメガネが特徴的な、逆に言えばそれ以外には特徴がない男の子。みんなの視線に、一瞬戸惑ったような顔をして、それからなんでもないような顔を取り繕って、奥の席へ向かっていく。
ハリーだ、とあたしは思った。直感的に、きっとかれがハリーなのだと。トムを見れば、あたしの考えを読んだように、「ハリーポッターだよ」と言った。
「ハリーポッター!」
ハリーはこちらに来るのだろうかと食事を再開したそのとき、赤毛の男の子があたしの横を走り去って、ハリーに近づいていった。その声の大きさにびっくりして、フォークを皿の上に落とす。いまや大広間中の注目はハリーと、あの赤毛の男の子に向けられていた。
きっとあれはロンだ、ロン・ウィーズリー。ひょろっと背が高くて、鼻のうえにそばかすがちょんちょんとあって、赤い髪の毛の男の子。でもそれならどうして、他人行儀にハリーを呼ぶのだろう。彼らは親友のはずなのに。
なぜだかいやな予感がした。トムはしずかに彼らを見ていた。あたしは断罪されている気分だった。
「いもうとを、ジニーを! たすけてくれてありがとう、」
ロンの言葉に、ハリーは困ったような顔をした。あたしはそのとき、見たのだ。ハリーの首元を飾る、エメラルドと銀色のネクタイを!
「トム、」
声が震える。トムはなにも言わなかった。ただ視線で彼らを指し示した。見ていろ、と言いたいのだ。あたしは視線を彼らに戻す。ロンは、顔を彼の髪と同じくらい真っ赤に染めて、ハリーに向かっていた。
「きみは、スリザリンだけど、お礼は、言わなきゃ。どういうわけがあったにせよ、きみのおかげでジニーは助かったんだから」
「……礼を言われるほどじゃないよ」
そう言って、ハリーはロンから離れようと背を向けた。「待てよ!」ロンが声を張り上げる。ハリーは足を止めた。
「ぼくら、友達になれると思う。昨日もそう言ったよな、」
「……」
「その言葉に嘘はないって、今も言えるぜ」
「ちがう、」あたしはようやく言葉を発した。ハリーはそれからスリザリンのテーブルに行って、席についてしまった。即座にプラチナブロンドの髪色の男の子がハリーに近づいて、彼に気安く話しかけている。ロンは呆然と立ち尽くして、それからしずかにテーブルに戻ってきた。
ちがう、ちがう、ちがう! こんなの、あたし知らない
トムはあたしを見た。「こういうことだよ」と言う。その声色はあくまで落ち着いていた。だけどあたしの心は焦るばかりだった。これがあたしが起こした責任だって言うの? ハリーがグリフィンドールに入らずにスリザリンに入って、ロンやハーマイオニーと親友になれない世界!
「ぼくという良心が本来ならば、ハリーにくっつくはずだったって、きのう言ったね」
トムが動揺するあたしに向かって言う。
「その良心は、確かにあってないようなものだったけれど、でもそれはハリーの暗い幼少期を救う光でもあったんだ。叔父と叔母からの虐待、甥っ子との格差、いじめ、理不尽な仕打ち……。どうしようもない暗闇の中で、唯一かれが『彼』であれるための支えだったんだ。どんなに惨めでも、前を向こうっていう、強い心……」
「いまの、いまの彼は? どうしてああなってしまったの?」
「代わりの支えを彼は自分で作ったんだ。復讐心という形に変えて。そしてそれは、両親の死の真実を知って更に大きく育った。……かれがスリザリンに入ったのは、ヴォルデモート亡き後、彼の配下だった死喰い人たちに復讐するための手段に過ぎない」
トムの言葉に、あたしははっとなってスリザリンのテーブルに座ったハリーを見た。……ドラコ・マルフォイだ! 四巻で、父親がヴォルデモートの配下だったことがわかった、彼だ。彼に関する暗い噂は、作中でもいくらでも出てきた。すこし調べれば、ハリーにだってわかることだろう。スリザリンはヴォルデモートの出身寮で、数多くの闇の魔法使いたちを輩出している。
ハリーはドラコと笑い合っていた。だけど、その笑顔は本物だろうか? ……わからない。わかることは、彼はあたしの知ってるハリー・ポッターではないということだ。復讐心に囚われて、それだけが彼の生きがいになっている、生きるしるべになっている……あたしが! あたしが彼をそんなふうにした!
「あたし、あたし、なんてことを……」
思わずあたしは大広間から出て行ってしまった。耐え切れなかったのだ。ハリーと共にいないロンの姿を見るのも、ドラコの隣に座って彼に笑いかけるハリーの姿を見るのも。だってあんなふうにしたのはあたしなんだから。全部、あたしのせいなんだ!
耐え切れなくて、廊下に座り込むあたしの横に、トムはそっと寄り添った。あるはずのない温もりを感じて、あたしはまた涙を流す。今度は心底後悔しながら、あたしは泣いたのだ。訳も分からずにこぼれた涙じゃない。
どうにかしなければいけない、とぼんやり思った。でもどうやって? なにも知らなかったことにして元の世界に帰れれば、どんなに良いことだろう。
けれどそれは許されないのだ。許されてはいけないのだ。だってここでは、ハリーは生きている。トムがそうだったように、ハリーは……。
「救うんだ、トオル」
トムがぽつりと言う。
「きみがハリーを救うんだ。無責任な言葉でも、ぼくはずっと救われた。それだけはきっと確かだ。それだけしかなかったんだ。……大丈夫、きみとハリーはよく似ているよ」
寂しそうな声色だった。トムはきっと泣きそうなのだとあたしはぼんやり考えた。だったら彼の顔を見てはいけない気がした。トムの泣き顔を見るのは、あたしじゃないトオルの特権だと思ったのだ。
あたしは一生それにはなれないのだ。彼は救いと言ったけど、あたしは彼を救えなかった。
「ぼくときみが似ているのと同じ、」
そんなの嘘だ。あたしは冷たい廊下の上で、心底そう思った。
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三年生
4.「フクロウ?」
喧しい音で目が覚めた。カーテンで覆っていた窓を、カーテンをすこし捲って外を見る。薄汚れた窓から見える外にはガタガタと鉄道の通る音が響いていた。部屋にランクがあるとしたらきっとここは最低の部屋だ。とはいえ文句は言えない。漏れ鍋に泊まるのだってタダじゃないしそれに安くはない。息を吐いてまたベッドに寝転んだ。ギシギシ軋むスプリングに顔を歪めて。自分の家のベッドが恋しく思えた。
学校が―――ホグワーツのほうだ―――終業式を迎えた日、あたしはひとりぼっちの汽車のコンパートメントの中で、自分が覚えている限りのことを書き出した。つまり、ハリー・ポッターの世界についてのことだ。もう終わった一巻と二巻のことはいいとして、これからのことを中心に。
三巻、三巻は、よく覚えている。なんせ、一番よく読み返した巻なのだ。シリウス・ブラックがでてくる巻……。思いつく限りのことを書き出していたが、とくに目立った事件は起こらない。そういう年だったはずだ。
だけど問題は、いまが原作通りにことが進んでいるとはいちがいに言えないということだ。あたしは重くため息をついた。後ろから視線を感じる。誰の視線かなんて、確認しなくてもわかっている。
「トオル、おはよう。起きたなら、さっさと顔を洗って仕度をしなさい。下に降りて朝ごはんにしよう。それが済んだら、勉強をしなくては」
真っ黒というには色素の薄い、灰色の瞳をすこしだけ細めて、トム・リドルはそう言った。
ぐちゃぐちゃのスクランブルエッグをスプーンですくいながら、あたしはぼんやり考える。トムは部屋にこもっている。なにをしているかは知らない。
原作通りにことが進んでいないかもしれない、その第一の証拠というか、そういったものがトムだった。ヴォルデモートが本来持っていた良心。ハリーにくっつくはずだった善の心。それが切り離されて、日記にくっついたらしい。原作通りにいかなかったのは、つまりそこなのだ。幼いハリーを救うはずだった良心がくっつかなかったおかげで、ハリーはおじおばたちからの虐待や待遇を負の感情で乗り越えようとした。そして良心の死の真相を知ってから、その感情は復讐心に変わったのだ。
かつん。スプーンが鈍色の皿の底に当たって音を出す。先割れスプーンでプチトマトを転がしてため息をつく。バーテンのトムが食欲がないのかと尋ねてくるので、曖昧に返事をした。
あたしはホグワーツに入学して、二年ほど眠っていたから、当然授業を全然受けていない。マクゴナガル先生は、とりあえずと課題をたくさん出して、課題の習熟度を見て対応してくれるとおっしゃっていた。一年生に混ざって授業を受けるのが一番いいと思うのだけど、トムはなるべくあたしにハリーたちと同じ授業を受けてほしいみたいだった。だからトムはこうして、一日の半分を課題に取り組む時間としてあてている。授業のように簡潔に教えてくれるからわかりやすくてありがたいけど、ふとした瞬間、あたしはなんでこんなことをしているのだろう、と思ってしまう。
新学期がはじまったら、あたしはどうすればいいのだろう。トムは、あたしに責任をとれと言った。でも、ハリーの人生を変えてしまった責任なんて、途方もなさすぎてどうすればいいのかわからない。ハリーとロンの仲を取り持てばいいのだろうか? 原作通りの関係の三人に、わたしがすればいいのだろうか? それをしたって、ハリーが苦しんだ十数年間は消えない。
「だけど、このままいけばハリーは愛を知らないまま、ヴォルデモートと対峙することになる。それだけは避けなければいけない」
「愛……」
愛だって。ばかばかしい。
そう突っぱねたらトムはどんな顔をするだろう。未来のあたしに、中途半端に愛を教えられて、それから放り棄てられたトム。養い親と壁があって、学校にも友達がいないあたし。そして、愛情を知らないまま、憎しみを救いに生きてきたハリー・ポッター。どうしてあたしたちが、ハリーを救えるんだろうか。
コンコン、なにかが窓枠を叩く。ノートをまとめていたシャーペンを置いて、あたしは窓に視線を移した。茶色の羽のフクロウが窓の外にいた。あたしは立ち上がって、窓をあけてフクロウを部屋にいれる。彼は手紙を渡すと、そのまま出て行ってしまった。なにかエサだとか水をやったほうがよかったのかもしれないと思ったけど、そもそもフクロウを飼っていないあたしがそんなものを用意できるはずもない。
手紙を見やると、ホグワーツの紋章の印璽がされた封蝋で封印されていた。トムが「学用品のリストだろう」と言う。
「午後になったら買い出しに行こう。息抜きも必要だしね」
ダイアゴン横丁の騒がしさは、何度来ても慣れない。マグルの世界で言うところのショッピングモールみたいなものだろうか。息抜きで訪れるアイスクリーム・パーラーの店主は、この騒々しさは夏休みの間だけだと言っていたが。
届いた手紙は学用品のリストだけでなく、マクゴナガル教授からの今後の授業についての手紙も入っていた。というのも、先日出されていた課題を彼女に送り、学習進度を見てもらっていたのだ。課題のできは相当よかったらしい。実技の様子を見つつ、三年生の授業に混ざってもいいという許しが出た。とはいえ補習は必要になるとのことだった。学用品のリストには三年生用の教科書のタイトルが連なっている。トムはそれを見て、当然だといわんばかりにほほ笑んだ。
「変身術のレポート課題もまあいい評価をもらってる。理論がわかれば実技はそう難しくはないだろう」
フローリシュ・アンド・ブロッツ書店で、リストにあった本を注文している最中に、リドルがそう囁いた。店主が『怪物的な怪物の本』がリストにあるのを見て顔を青ざめている。ハグリッドの授業で使う教科書だ。あたしはぼんやりとした頭でそのことを思い出す。あたしの所属寮はグリフィンドールだから、ハグリッドの最初の授業で扱うヒッポグリフをお目にかかれる、そのはずだ。店主が分厚い皮のグローブをはめて店の奥に行くのを見送ってから、リドルに声をかける。
「ほんとうに? あたし、この世界にきて一回も魔法なんて使ってないよ。ほんとうに大丈夫?」
奥から店主の叫び声が聞こえる。
「さあ。ぼくだってきみが魔法を使っているところなんて見たことない。でもきみは現にホグワーツに入学できているんだし、組み分け帽子をかぶってグリフィンドールに選ばれた。誰が魔法が使えないなんて思うんだ?」
ほんとうにそうだろうか。あたしはトムの言葉になにも返さないまま、ぼんやりと考える。あの悪夢のような日から、時間は一日一日、無慈悲に流れていった。夢のなかのような曖昧さや、視界が歪んで場面が飛ぶようなことはなかった。あたしはトムと一対一で、勉強を教えてもらったり、これからのことを話し合ったりした。全部、あたしの意思、あたしの体、あたしの意識が体験したことだ。あの夢、トムを孤児院から引き取った夢とは違う。これは現実だ。どうしようもない現実の世界の出来事なんだ。
夢だったら、いきなりあたしが魔法を使えたっておかしくない。でも、実際あたしは一度だって魔法を使ったことはないのだ。
店主がロープでグルグルに縛った本を小脇に抱えて戻ってくる。本はロープで頑丈に縛られていてもなお、抵抗し続けていた。あれは確か、背表紙を撫でればおとなしくなるんだっけ。店主にそれを教えてあげようと思った瞬間、トムがそれを手で制した。
「原作では」
あたしの眼前に向けられた手のひらが、トムの言葉とともに視界から消える。
「フローリッシュ・アンド・ブロッツの店主は、怪物的な怪物の本がどうやったらおとなしくなるのか知らなかった。些細なことだけど、これ以上原作をゆがめるのはあまりいいことではないだろう」
「お嬢さん? どうしたんだい。この本なら、縄で縛ったから問題ないだろう……。そんな危険極まりないものを、ホグワーツでは一体なにに使うんだか、甚だ疑問ではあるが―――」
原作を歪める。
そんなの、もうとっくに歪んでるじゃないか。トムが言うには、あたしのせいで。
息をのみこんで、ぎゅっと握ったこぶしを離す。店主が本を受け取って、あたしはその他三年生で必要になる教科書と、マクゴナガル教授から追加で補習で使うという本を数冊催促する。怪物本と打って変わって、店主はアクシオ呪文で素早く本を呼び寄せる。すべての本の代金を支払い、重い本を抱えて外に出た。まだ買うものはたくさんあったが、こんな大荷物では歩くのもままならない。とにかく一度漏れ鍋に戻ろうということになった。
買い物中、トムはことあるごとに、あたしが三年生でどうやってハリーやロン、ハーマイオニーなどの主要人物とかかわっていくべきか、彼の考えを述べた。彼はあたしが、ハリーの凍った心を溶かすことを期待しているようだった。自分がそうだったように? でもあたしは、あの夢のなかのトオルにはなれない。
「今晩だ。ハリーがマグルのおばを膨らませて、漏れ鍋にやってくる」
魔法動物ペットショップのなかで、あたしはクルックシャンクスと思しき猫を見かけた。あたしも猫が飼いたかった。もといた世界でもそう。でもあたしの養い親は、あたしがペットを飼うのを許してはくれなかった。トムも同じだ。学校の奨学金では、ペットをじゅうぶんに養うことは難しいとトムは言う。あたしを諭すような言い方が、へんな話だけど養い親に似ている、と思った。
「きみはハリーと仲良くならないといけないんだ。わかるだろう?」
漏れ鍋に戻って、部屋に荷物を置いたあと、一日のはじまりと同じように、食堂で夕飯を食べた。バーテンのトムは、長く使っていなかった魔法道具を貸してくれた。あたしが大きな荷物を抱えて歩いていたのがかわいそうに見えたらしい。魔法道具はショルダーバッグで、見た目以上に容量があって、重さも一定に保たれるというものらしかった。とはいえ、もう今日みたいな買い物はとうぶんしないだろう。ホグワーツで使うと告げると、トムは嬉しそうに笑った。
バーテンではないほうのトムは、どうやらバーテンのトムが苦手らしく、あたしが彼と話すようなときは部屋にいるか、もしくはじっと黙っているかのどちらかだった。食堂にはめったに下りてこないし、もしあっちのトムから逃げるときは食堂でバーテンダーのトムのそばにいよう、と思った。
ゆっくり夕飯を食べたあと、部屋に戻る。買った荷物を整理しながら、トムと二三言会話をする。そんなことをしている間に、夜が更けた。そろそろ寝よう、と思った瞬間、隣の部屋から物音がした。
「少し前に従業員が隣の部屋の窓を開けていたみたいだから、多分フクロウが来たんだろう」
「フクロウ?」
誰の、と言いかけた瞬間。階下が少し騒がしくなった。
トムはなにも言わなかったけど、あたしは原作で書かれていたひとつのことを思い出していた。ヘドウィグはハリーが着くよりもはやく漏れ鍋に到着していたという記述を。
「ハリーが来たんだ」
あたしは思わずつぶやく。でもトムはやっぱりなにも言わないまま、物音がした隣の部屋をじっと見つめた。
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5.震えててどうするの
慣れないベッドで眠り続けるのは確かに苦痛以外の何物でもない。お世辞にも眠り心地がいいとは言えないマットレスは少しかび臭い。寝つきが悪かったりするといつも悪夢を見る。今夜もそうだった。隣の部屋の物音に過敏に反応してしまい、なかなか眠れなかった。ハリー・ポッターがいる。あたしの泊ってる部屋の隣に。そう意識すると、なんだかへんな気分になってしまうのだ。この世界に来てから、ずっとトムと一緒にいた。ハリーだって、ホグワーツにいた短い期間の中でも、姿を見かけたのは二回や三回じゃなかった。『ハリー・ポッター』の作品のキャラクターの近くにいて、その存在を感じるのは、いまがはじめてでもなんでもない。なのに、あたしは隣の部屋で寝ているであろうハリーのことを意識してしまった。
トムのせいだ。トムが一日中、まるで呪いかのように、あたしにハリーを意識させるようなことを言うから……。
だから悪夢を見たのだ。あたしは夢の中で幼い姿になっていた。テレビにうつるかわいらしい動物たちを見て目を輝かせていた。
養い親はどうしてもペットを飼うことを了承してはくれなかった。あたしはあのころ猫がどうしても飼いたくて、子猫譲りますという張り紙が貼ってある家を見かけるたびに、そわそわして心臓がどきどきと高鳴った。あの家のインターホンを鳴らして、子猫をくださいと言えたらどんなにうれしいだろうか。迷っている間にも、自分以外の人間に子猫を奪われてしまうだろう。そんな気持ちがぐるぐる体のなかをめぐって、胃のしたのあたりがなんだか重く、気持ち悪く感じたのだ。
「ねえ、お願い。ちゃんとお世話するよ。勉強もするし、家事も手伝うもん。ねえ、お願い」
「だめだ。生き物はいつか死んでしまうんだよ。トオルが死ぬよりずっとはやく。わたしはもう、自分より先に大事な存在が死んでしまうのは見たくないんだよ」
養い親はそういって、あたしが子猫を飼いたいというのを突っぱねた。次の日になって学校にいくと、子猫をあげますという張り紙は無くなっていた。誰かに先を越されたのだ。あたしは養い親の理屈は、自分勝手で、自分本位なものに感じた。
あの頃は。そうだ、あのころは……、今よりもずっと養い親と会話をしていた。彼のことをパパとすら呼んでいたのだ。彼のことを、自分のほんとうの父親だと思っていたから。
夢の場面が切り替わる。ヘッドライトがいびつに割れているシルバーの車の前で、横たわる女の人の姿を見とめる。
「トオル、」
あたしがつぶやくと、トオルの姿は黒猫にかわった。でも彼も死んでいる。
また喧しい音で目が覚める。線路を走る鉄道の音。この騒音で、ハリーも目覚めたのだろうか。時計をみやると、十時を過ぎていた。寝過ごした。朝食の席で、ハリーと接触できると思っていたのに。こんな時間では、ハリーももう食堂にはいないだろう。トムも起こしてくれればよかったのに。あたしは大きなため息をついた。
「トム?」
ベッドから体を起こして、部屋を見渡す。そして、異変に気付いた。トムがいない。
トムはたいていあたしのそばにいるけど、必ずそうしなきゃいけないわけじゃない。幽霊みたいに半透明の体で、あたしから離れて好きな場所にいける。かと思ったら、姿を完全に消してしまうことだってできる。あたしが寝てるときなんかは、たいてい姿を消しているみたい。でも朝になったらいつも姿をあらわすし、あたしが寝過ごすようだったら起こしてくれるのに、今日はそうじゃなかったから、あたしは少し不安になった。
「トム、」
靴を履いてベッドから降りる。胸がいやにざわめく。トムがあたしのそばにいないだけで、どうしてこんなに心細くて、世界に取り残された気分になるのだろう。バスルームや、クローゼットの中を見る。別にトムのことが大好きっていうわけじゃない。それどころか、いっときはあたしをめちゃくちゃな世界に連れてきた張本人で、元凶だったから、憎んでいたときもあったくらいなのに。
トム、と呼びかけながら、部屋の扉のドアノブに手をかける。頭にぼんやり浮かんだのは、けさ見た夢。黒猫が死んでいる姿。いやな夢だ。
ドアノブをひねる。金属がこすれあう音がいやに耳につく。扉から顔を出して廊下を覗いたけど、トムの姿はない。どこへいってしまったのだろう。
「なにしてるの?」
投げかけられた声に、一瞬動きが止まる。不審な姿を見られてしまったと思い、少し恥ずかしいような気持ちで声のほうに振り返った。すいません、人を探していて。そんなふうに弁解しようと思った声が、喉元でつっかえて、止まる。あたしは言葉を失った。そしてそれが悪手だったと思い知った。
そこにいたのはハリー・ポッターだった。正真正銘、くせ毛で眼鏡をかけた少年。額に傷がある。本物の彼だった。
まさかハリー・ポッターが漏れ鍋にいるなんて思いもよらなかった。なんていえばたぶん、彼は気分を害してすぐにこの場から立ち去るだろう。原作のハリーならしない行動だが、おそらくこのハリーならするはずだ。なんせ彼はもう二年間もスリザリンの生徒たちに囲まれて暮らしているのだ。スリザリンの生徒の多くは、純血を重んじるような名家の出が多い。イギリス魔法界の純血主義一族におおく見られる傾向として、誇り高いということがあげられる。トムはそういっていた。誇りしかないのだ、彼らには。長い間純血を保ちそれを継承していくことだけを目的として生きてきた人種だ。純血の誇り、一族の誇り、名家としての誇り、魔法界貴族としての誇り。それが彼らを形どるすべてなのだという。
このハリーは原作のハリーではない。そうなるには欠けているものがあった。それがトム・リドルの良心なのだ。足りないものは補わなければいけない。その要素はなんだろうか。トムは両親を殺し自分を不遇の目に陥らせることになった闇の魔法使いたちへの復讐心だと言った。それはハリー自身の誇りともいえるのではないのだろうか。
ハリーを食堂に誘うのは、案外簡単なことだった。ホグワーツ生徒という共通点で世間話をしていると、寝過ごして朝ごはんを食べていないという話をハリーがした。きわめて幸運だったと言わざるを得ないが、おかげであたしは気軽にハリーを食堂に誘うことができた。
だけど、彼との会話はあたしにとっては難関だった。会話のひとつひとつが彼との関係を構築するにあたって、重要な要素となるのだ。下手なことを言って、彼に嫌われでもしたら、トムの計画はすべて破綻する。だけど、そうやってしどろもどろに言葉を選んでいれば、ハリーも不信感を抱いていく。正直言って、トムがそばにおらず、あたしに助言をくれないこの状況は、あたしにとって愛悪の状況というよりほかになかった。
食欲がわかず、オレンジジュースとサラダだけが眼前に並ぶ。ハリーは信じられないような目であたしのサラダを見つめた。彼は成長期の男の子らしく、トーストだとかカリカリのベーコンだとか、おいしそうな朝ごはんを注文していた。
「女の子って、ほんとに食べないよね。それだけで足りるの?」
「もうお昼も近いし……、それに、あまり朝は食べないほうなの」
わたしが答えると、ハリーは思い出したように笑う。
「スリザリンの女子なんか、小さい口でちまちま食べるんだ。いったいなにが美味しいんだろうなって思うけど、ドラコもテーブルマナーくらいは知っておくべきだ、なんて小言を朝から言うんだ。まいっちゃうよ」
ドレッシングのかかったサラダを混ぜるフォークを握る手が止まる。スリザリン、ドラコ……。ハリーの口から飛び出るそれらの言葉が、そんな優しい声音でつむがれるとは思わなかった。口もとが不自然に震える。針の筵、まるで晒されている気分だ。原作から乖離しているのはあたしのせいだって、頭のなかでトムがあたしを詰る。
「……きみはグリフィンドールだった、よね」
ハリーの言葉に、下がっていた頭が上がった。出会ってから、あたしはハリーに所属寮を告げていなかった。なのになぜ、彼はあたしの寮を知っているんだろう。
「有名だもん。一時期はぼくより有名だった。グリフィンドールの眠り姫、ってね。王子様のキスで目覚めるもんだって、みんな噂してたよ」
「キス? そんなばかな、」
「ばかばかしいよね。誰も実践したひとはいなかったと思うよ。マダムがそんなうわさが流れ始めてから、医務室にくる元気そうな生徒たちへの警戒心が跳ね上がってたから」
ハリーの話に相槌を打ちながら、あたしの心臓はバクバクと高鳴っていた。うるさいくらい。だって、まさか、ハリー、ねえあなた、なんでそんなあたしのこと知ってるの? 医務室で寝こけてただけのあたしを。
フォークの先でプチトマトを転がす。弾力のある実だけど、ふいに力をいれてしまって、フォークの先がトマトに刺さった。透明な赤い汁が少しだけこぼれ、フォークの先を汚す。
「どうして、あたしのこと、そんなに知ってるの」
ばかばかしい、問だった気もする。ホグワーツでうわさが流れたら、それを知らないで過ごすことのほうが難しいだろう。あたしはそんな噂のひとつで、ハリーもだから知ってた。それだけだ。あたしはもうハリーを見ていられなくなって、うつむいた。ハリーの答えを聞きたくなかった。
だけどこれは現実で、耳をふさぎたいようなことからも、全部逃げられない。ハリーは困ったような声音で、なんでもないように言った。
「ぼく、よくケガをしたんだよ。それで医務室に何度か入院してたんだ。きみが眠るベッドからは遠かったけど、きみがいることは知ってたんだ。だから、」
だから、だから? その次はなんだろう。続きを待ってたけど、彼は結局答えなかった。
遅い朝食の時間は三十分たらずで終わり、あのあとあたしとハリーの間にろくな会話は生まれなかった。ハリーは比較的あたしにたいして好意的な態度をとっていた、と思う。典型的なスリザリン生のように、グリフィンドール生のあたしを目の敵にするような発言もなかった。学校で彼がその態度を維持してくれるとは、あまり思えないけれど。
あたしとハリーの部屋は隣同士だから、部屋の前まで一緒に行こうと誘ってくれた。ついでに、このあとダイアゴン横丁でも一緒にまわらない? なんて誘えれば、トムは大喜びしたことだろう。だけどあたしはハリーにそんなこと言えなかったし、ハリーもあたしにそんな誘いはしなかった。たぶん、ハリーは、スリザリンの生徒に、あたしと一緒にいるところを見られることを怖がっている。それがハリーの、スリザリンで生きていくための処世術なんだろう。少し前のあたしだったら、なんて失礼なやつだって思ったかもしれない。都合のいいやつだって怒っていただろう。でもいまは、そんな気持ちにすらなれない。
部屋の前にたどりついて、ハリーが自分の部屋のドアの前に立って、あたしに笑いかける。じゃあね、また。そんな言葉とともに、彼は数秒後には自分の部屋に入ってしまう。そうしたら、彼と話す機会は、もうないかもしれない。
でもなにをすればいいんだろう? わからないのよ。だってあたし、トムと出会うまで、クラスの男子とだってまともに話したことなかったのに。
「ねえ、ハリー」
声が震える。なにを言えばいいのかわからなかった。だけど不思議と、ある言葉が頭のなかに浮かんでた。トムの言葉。あたしとハリーが似てるって、
「あたしも、あなたと同じなの」
「……なにが?」
ドアノブに手をかけたハリーが、訝しむようにあたしを見る。指先が震える。ぎゅうと手を握り締めてごまかす。震えててどうするの。なんにもならないわ。
「あたしも、両親がいないの」
ハリーはなにも言わなかった。ただあたしをじっと見つめた。やってしまった。だけどもう戻れない。あたしの口は止まらなかった。あの日、クラスメイトの前でさらし者にされたときは、貝みたく閉じて動かなかったのに。
「だから、ハリーと話してみたかった。だって、だって……みんなにはわかんないでしょ。ほんとの親がいるみんなには。誕生日にお祝いをくれて、あたしたちの成長を祝ってくれて、なんでも甘やかしてくれて、転んだら困ったように笑って、傷の手当をしてくれる、あったかくておおきな大人の手。あたしたちは知らないでしょう」
「トオル」
トオル。ハリーがあたしの名前を呼んだ。あたしの名前を。心臓がぞくぞく震えた。二の腕に鳥肌が立つ。ハリーはあたしを見ている。あたしもハリーを見た。
「あたし、あなたの孤独がわかるわ。あなたもあたしの孤独がわかると思う」
それだけ言って、あたしは息を吐いた。大きく。あたしを見たまま固まっているハリーを後目に、部屋に入る。とたんに体から力が抜けていって、膝から床に座り込んでしまった。ああ、なんてこといったの、あたし。
ふと顔をあげる。ドアから直線上の位置に、朝から姿が見えなかったトムがいた。
トムがあたしを見ていた。赤色の瞳があたしを見ていた。
「そう、そういうことだよ、トオル」
よくやったと言いたげな声色に、あたしは小さく息を吐いた。
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