冬樹イヴへの遺言 (屍野郎)
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冬樹イヴへの遺言

「くそっ、ちゃんとクエスト管理ぐらいしろよなあ……!」

 

 この理不尽な状況に対して怒気を込めて。もしかしたらこの声が誰かに届くかもしれないという一抹の希望は、一寸先も視界の届かない洞窟へと消え行った。

 全身で硬くごつごつした石の感触を受け止め、空虚な闇は服の繊維の隙間から身体に直接触れて見る見るうちに体温を奪っていく。

 足の感触はまるで氷に漬け込んだかのように無かった。動かす事なんて出来っこない。

 

 それでも俺は、手で岩の突起を掴んで身体を引きずり動き続けた。

 暗闇の中独り静かに。

 恐らく俺の後には、ヘンゼルとグレーテルのパンの切れ端の様に

 ──血が延々と続いている事だろう。

 

 

 

 

 

 俺は今日、いつも学園で仲良くしていた人達と一緒に魔物の討伐へと来ていた。

 場所はとある森の中で内容は突然発生した魔物群の退治。普通のクエスト──のはずだった。

 

 順調に魔物の頭数を減らした俺達の前に突如立ち塞がったのは、タイコンデロガ級の魔物数十体。

 普通、タイコンデロガ級の魔物一体につき討伐には相応の軍力が必要となる。それが数十体も集まっていた。

 これだけでもかなりの異常事態だし、本来なら今すぐ学園へ帰還し生徒会へこの事を伝えるべきなのだろう。

 

 しかし、如何せん俺達の人数が少なすぎた。三人だ。もう魔物に見つかってしまった以上、全力で逃げても瞬く間に追いつかれる。

 誰か二人を殿として、一人を情報通達係として逃がす選択肢もあるが……それが如何に理想論にすぎないかは火を見るより明らかだ。

 

 俺達は震える手で各々の武器を手に取った。

 勝てるかどうかは分からないが。あの侵攻を共に乗り越えた仲間だ、きっとどうにかなるだろう。

 

 

 

 

 

 ──そんな、過去の栄光に縋りついた結果がこのざまだ。

 結局クエストは失敗した。途中までは上手くいっていたが、仲間の内の一人が負傷し役割分担が崩れた。

 一人が先陣を切って斬りかかり、ある程度弱体化させた魔物を俺達二人がかりで討伐し、時間が経てばローテーションで役割を交代する。

 

『おい、大丈夫か!?』

 

『俺はいい……お前らは戦いに集中しろ!』

 

 負傷した仲間がそう言うが、そんなのは無茶だ。

 彼は軍にも認められた類稀な力のある才能を持った実力者だ。

 対して俺達はただ学園のトップ5に入る程度の青臭い学生にすぎない。

 そんな雑魚にこの状況を打破できる方法は無かった。

 

 『死』というたった一文字が頭の中に浮かぶ中、俺はひたすらに愛刀『燕子花』を振るう。

 乱暴に光の弧を描く剣先は、魔物の喉笛を切り裂いた。

 

『一体討伐! そっちは!!』

 

『ダメ、多すぎてキリがない! あいつらどこから沸いて来てるの!?』

 

 仲間を庇いながら戦う彼女は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 思考がかなり乱れているようだ。動きに単調さが増してきた気がする。

 

 だが逆に、彼女の言葉で俺は頭の中が冴え切った。

 沸いてきている……この一言に、最悪の状況を挽回する秘策が込められている。

 

 だが……それを実行するという事は、つまり──

 

『お前、そいつを連れて早く逃げろ! 殿は俺が務める!』

 

『はあ!? あんた自分が何言ってるか分かってるの!?』

 

『分かってる。俺は女好きで喫煙愛好家のロクでなしだが、馬鹿じゃない』

 

『だったら尚更──』

 

『だからこそ、俺の意見に従ってくれよ。なに、俺も後からすぐに追いつく。なまじ魔法使いをしてるわけじゃないからな』

 

 言い切った俺の顔を見る彼女は表情を曇らせた。

 だが俺も今回ばかりは譲る気はない。生きて帰る事が何より重要な事だとは思うが、それよりもこの場から魔物共を逃してしまう方が圧倒的にマズい。

 

『……分かった。約束だからね!』

 

『……ああ! 約束だ!』

 

 なんて。心にも思ってない事を如何にもそれらしく言い放ち、俺は魔物の大群に独り斬り込みに行った。

 仲間を背負って全力疾走で山を下っていく彼女を後目に、最期に俺は誰にも聞こえない声で。

 

『ありがとな』

 

 そんなシュールストレミングもびっくりな臭い言の葉を落とした。

 

 ──端からあの意見を提案した時点で、俺は生きて帰るつもりはなかった。

 こんな無謀な戦い、生還出来るわけがないのだ。つまるところ無理ゲー、詰み(・・)である。

 

 死体すら残らなくて当たり前。

 身体の断片が残れば運が良い。

 死体が見つかれば奇跡。

 倒し切る事が出来れば──英雄かな。

 

 勿論俺は英雄になる気は無かったし、なれる可能性も無かった。

 だから俺が出来た事。つまり思いついた作戦は、人里から出来るだけ離れたところに魔物をおびき寄せることだった。

 

 おびき寄せた先は洞窟。どこまでも無限に続いているように錯覚させる道を進み、時たま魔物の攻撃を受けて傷付きながらも、どうにか最奥部らしき場所までやってくることが出来た。

 ここまでくれば、まず人の目に触れることは無いだろう。

 

 そして、俺が助かる事も。

 

 完全に体力切れだった俺はその場に倒れ込んだ。

 後ろを見る。どうやら魔物はもう追ってきてはいなかった。分かれ道で俺を見失ったか、途中の大穴に落ちて出られなくなったか。

 今はもうどっちでもいい。とにかく、どこか安らぐ場所を。

 

 そうして、辺りを見回した俺が見つけたのは、暗さに慣れてようやく見れるようになった巨大な鍾乳石だった。

 

 

 

 

 

「うっ……ふぅっ、よっこら……せっと」

 

 痛む身体を無理矢理に起き上がらせて、巨大な鍾乳石に背中を預ける。

 ヒヤリとした感覚が背中を伝った。

 

「ふう………」

 

 溜め息を吐き、コートのポケットから大きなバツ印の入った煙草ケースとライターを取り出す。

 ケースを振ってみると、中からはコトコトと何とも空虚な音が聞こえてくる。残り一本らしく、最期だというのになんか心もとない。

 

 ライターで火を点ける。

 チッ、チッ、チッ、と三回目でようやく火が灯り、神様は俺の最期を見越してオイルの量を調節していたのかもしれないと頭のおかしなことを思い浮かべながら、煙草の先に命の灯を吹き込む。

 

「……ふぅーっ」

 

 やはり、煙草の味はやめられない。

 依存性とかそういうのは全くの抜きにしても、俺は煙草が大好きだ。

 その日嫌な事があって気が晴れないでも。俺のことを誰も理解してくれなくて、一人寂しく泣いていた時も。

 こいつだけは、俺の相棒でありつづけていてくれた。親友であり続けていてくれた。

 

 …………親友?

 ああ、そうか。俺にはまだ一人、愛して止まない大切な存在がいた。

 いっつもツンツンしてるし妙に大人びた奴だと思っていたら、女の子としての可愛らしい一面も持ち合わせていたあの子。

 最初はただの先輩後輩の関係ではあったが、話を進めるうちに俺は彼女の事を一人の女として愛すようになった。あいつは俺の事をどう思っているかは知らないが……。

 

 …そうだ。死ぬまでに彼女へ話すべきことがあった。

 俺はポケットの中に大切にしまってあった携帯端末を取り出し、電話を起動した。

 

 膨大な数のユーザー名が縦に並べられる。この中から一人を探すのはなかなかの至難の業だが、それでも指の動きには迷いが無かった。

 ある人物のプロフ画像が見えた瞬間動きを止め、

 丁度画面中央に現れた、『冬樹イヴ』と表示されたユーザーをタップし電話を掛けた。

 

ーーー

 

「……よお、久しぶりだな」

 

 電話が繋がる。

 俺とこの画面の向こうにいる彼女とは、実に一か月ぶりの会話となる。

 

『なんですか、私は勉強をしていたのですが。用件があるなら手短にお願いします』

 

 出会ったばかりの頃だったらすぐに通話を切られていただろうから、話を聞いてくれる姿勢を示してくれただけで成長したんだなあ、とちょっと感動してしまった。だがやっぱり愛想が無い。

 冬樹の相変わらずな無愛想さに思わず苦笑いを零し、苦しい心臓を慰めるように深く空気を吸う。

 

「まあ、用件つってもそんな大層な物ではないんだが」

 

『…私は貴方の暇つぶしの為に生きている訳ではありません。

 今後は大した用も無しに電話してこないでください。それでは』

 

「まっ、待て! ──うぐっ」

 

『貴方もなかなかしつこいで……どうしましたか? 妙な声が聞こえましたが』

 

「…いや、なんでもない」

 

『そうですか…』

 

 危うく気付かれかけたので、慌ててフォローを入れて事なきを得る。

 俺は冬樹に今の現状を明かすつもりはない。

 そんな、戦死した奴の最期の話相手が自分だったとか、どんな酷いトラウマだよって話だし。

 これはただの自己満足だ。死ぬ前に冬樹と会話をしておきたかった…ただそれだけ。

 まだ若干腑に落ちてなさそうな冬樹は放っておいて。

 

「今まで、俺は全力でお前をサポートしてきたつもりだ。

 勉強で全然理解できないような所は教えてやったし、たまに委員長がぶち込んできた風紀委員の仕事も付き添いで手伝ってやったこともある」

 

『急に真面目な話を始めたかと思えば、なんだか恩着せがましいですね。

 …まあ、正直なところ恩は受け取っているのですが』

 

「だがな、冬樹。俺はまだ、お前に重要な仕事の説明をしていないことに気付いた。

 今から話すのはそのことについてだ。必ずメモを取るようにしろ、分かったな」

 

 後半になるにつれて語気が荒くなる。

 だが、今更そんなことを気にしている余裕はない。俺には風紀委員として遺さなければならない情報(もの)がある。

 俺が命に代えてでも守り抜いてきた、霧の守り手──共生派に関する情報だ。

 

 

 俺は風紀委員では、学園へたまに攻撃してくるテロリスト対策を中心に職務を行っていた。

 主要な反魔法師団体をリストアップ、その人員を出来るだけ調べ尽くし、そこから芋づる式で彼等の人間関係や秘密裏にバックに付く企業などを把握。

 やがて団体の思惑や作戦などの情報を入手し、最後は政府へ提出しテロリスト根絶へ向けたアプローチを進めてもらう。

 

 明らかに学生身分でここまではしなくていいのだが、だからと言ってテロリスト問題を全て政府に丸投げして良いのかと言うとそうではない。

 特に、俺には霧の守り手に対する恨みや憎悪が人一倍あった。

 それが俺の活動エネルギーとなり、それらは年月を掛けて数多の共生派に関する情報群と化したのだ。

 

「霧の守り手の情報は、俺の部屋にあるパソコンに全部入ってる。

 この事を知ってるのは、現時点では俺とお前だけだ。他言無用だぞ」

 

『なぜ生徒会や上層機関に提出しないのですか? わざわざ溜めておく必要も無いでしょう』

 

「俺が情報を発信しているとバレたらマズいからな。

 必ずしも政府の人間全員が人類側に立っているとは限らない」

 

『でも、もし今の状態でバレてしまったとして、貴方の集めた情報を奪い返されてしまえばそれこそ大変ですよ。どこまで情報が割れてるのかが相手に把握されてしまいます』

 

「大丈夫、俺のパソコンは双美さんか俺でない限りログインできない」

 

 実際にこの間、俺が知り得る中で一番プログラミングに長けていた人にノーヒントでログインさせてみようとしたが、一週間かけても不可能だった。

 対して双美は僅か6時間で全制覇、作成に1年を掛けた俺の努力は涙となって枕の中へ染み込んでいった。

 

『なら尚更私に話しても無意味でしょう。私はあくまで風紀委員に籍を置いているだけです。

 テロ対策などには全く興味がありません』

 

「ああ、分かってる。だから冬樹、俺の集めた情報がどうしても必要になった時は、双美に頼んで全部引き出して欲しい。

 双美に、お前のことについては話を付けてあるから余計な手間はかからない」

 

『お断りします。そもそもどうして私が貴方の代わりにそんなことをしなければならないのですか? 貴方がすれば良いことでしょう』

 

「頼む、冬樹。俺はお前を信用している。お前にしか、できないことなんだ」

 

 お願いだから、こんなところで冷静さを醸し出さないでくれ。

 

『……』

 

「礼なら、なんでもする。だから──」

 

『一つ、聞いても良いですか』

 

「なんだ」

 

『貴方は今、どこにいるんですか』

 

 そう言う彼女の声は、いつにも増して緊張が混じっているように感じた。

 気づかれたかもしれない。そう思ったが、俺は精一杯の強がりでハッと笑う。

 

「どこって、そりゃお前、街にいるんだよ」

 

『まったく人の声が聞こえないのですが』

 

「だって、今は図書館にいるからな」

 

『貴方は図書館で電話をするほど非常識でない事は知っています』

 

「さあな、そんな日も、あるんじゃないか」

 

『ふざけないでください。嘘を吐かないでください』

 

「ふざけてないし、嘘も、吐いてない」

 

『貴方の声がさっきから震えています。息遣いが苦しそうです。これでもまだ嘘を吐くつもりですか』

 

 冬樹の言葉に迷いはない。それどころか、現に俺が死にかけているのを今目撃しているかのような、妙な確信めいた雰囲気がスピーカー越しにも伝わった。

 

 ふと、思い出したことがある。

 

 ある年の12月。クリスマスの日にも関わらず街に現れた魔物の討伐依頼を風紀委員で受ける事となった。

 委員会の面々は急遽の仕事乱入に嘆き呻いていたが、俺にとっては毎日がテロ対策という仕事のため大した苦にはならなかったのを覚えている。

 

 その時に俺と冬樹は同じチームとして割り振られた。

 「さっさと終わらせてクリスマス楽しもうな」と、その気も無い事を俺が。

 「クリスマスなんて関係ありません」と、視線も合わせずに冬樹が。

 「俺が先導するから、冬樹は付いて来て」と、先輩らしい姿を見せようと俺が。

 「必要ありません。私は一人でやります」と、振り向きもせずに奥へと歩む冬樹。

 

 魔法使いにとって、単独行動は自殺も同然だ。

 先輩として冬樹の行動は咎めなければならないのだろうが、彼女は言って聞くような人では無いだろうと諦めた。その後に、彼女の身に被害が及ぼうとしていたのに。

 

『あがっ!!』

 

 ──危機一髪だった。

 あと少しでも俺の反応が遅れて──冬樹を突き飛ばしていなければ──今頃彼女は地に伏してもがいていただろう。想像するだけでも恐ろしい、後輩が苦しむ姿は見たくなかった。

 俺は先輩として最悪な判断を下し、結果冬樹を庇い自分が重傷を負うという失態を犯した。

 それについて冬樹は後日、わざわざ保健室まで来て俺に頭を下げた。

 

 私の身勝手な判断だった、と。責任は俺にあるというのに。

 

 俺は自分にこそ責任があると思っていた。彼女も同様にそう思っていた。

 頑固者は意見を変えない。お互いがそれを知っていたからこそ、この問題の解決は簡単に済んだ。

 

 彼女曰く、私は貴方を信じます、と。

 それに対して、俺は冬樹を信じる、と──。

 

 冬樹は本当に俺を信用していたらしい。

 だからこそ、彼女は嘘を即座に見抜けるほどの信頼関係を築き上げることに成功し、俺の異常に気付くことが出来た。

 冬樹は優しい女の子だ。純粋で、無垢で、真っ直ぐで。そして何より──愛おしくて。

 ならば俺は、彼女の信頼に応えるべきなのではないだろうか。

 

 重く冷えた空気を肺一杯に吸い、全身を震わせながら吐き出す。

 口を開く──

 

「……冬、樹」

 

『ようやく本当の事を言う気になりましたか? 最初から嘘なんて──』

 

「もう、ダメだ」

 

『………え?』

 

「さっきから、出血が酷い。もう、俺は死ぬ、だろう」

 

『ちょ、ちょっと待ってください。死ぬって……一体どういう──』

 

 冬樹がそこまでで言い淀む。

 通話越しではあるが、俺は初めて冬樹が焦っているのを感じた。

 もうすぐ死にそうだといのに、この期に及んでも俺はその冬樹さえ愛しいと思える。

 

「クエスト中に、タイコンデロガの…大群に、襲われた。執行部の、管理責任」

 

『執行部の……あの、今何処にいるんですか』

 

「分からん」

 

『少しでも良いので目に見える情報を教えてください。辛いのは分かりますが…』

 

「本当に、分からねえよ。一匹も、山の外に出さないと、思って……洞窟の、中に」

 

『洞窟の中のどこなんですか!』

 

「だから、分からんって。帰り道も、確認せずに、闇雲に走った。今見えるのは、暗闇だけ」

 

『そんな……』

 

 すまねえな、冬樹。

 俺はもうどうやっても助からねえんだ。

 

「そのうち、俺のペアが、生徒会に増援を、要請しにいく」

 

『そう、ですか。……だったら私が』

 

「お前は、来んな」

 

『なんでですか!? 貴方、自分の状況が分かってるんですか!?』

 

 ああ分かってるさ。身体の芯まで冷え切って、もう痛みも感じなくなってきた。

 死は近い。

 

「お前を、こんな危険な所に…来させるわけには、いかん」

 

『後輩だからって甘く見ないでください! 私も一人の魔法使いです!!』

 

「だがな、冬樹」

 

『私はもうあの時の様な失敗はしません! あの頃の私とは違うんです!』

 

「冬樹──」

 

『だから先輩、お願いします! 私を頼ってください! なんでも一人で背負わないでください!!

 私は貴方に救われました……だから今度は私が救いたいんです!!』

 

「冬樹ぃ!! げほっ……」

 

 俺の怒声に冬樹は黙り込んだ。

 私を頼れ、か。……はは、俺はどうしても良い後輩を持ってしまったなあ。

 嗚呼、死ぬのが惜しい。

 

「俺だって、生きたい。いつもみたいに、授業を受け、本を読み、魔物を倒し、そして……お前と……冬樹と、他愛もない話を、していたかった…!」

 

『先輩……』

 

「だがッ、もう、ダメなんだッ……! ……ここは危険すぎる。精鋭部隊でも、攻略は困難を極める」

 

『だからって……ああ、分かりません。分かりませんよ、どうしてそこまで貴方は私を守ってくれるのか! 私は貴方を突き放すようなことを何度も言いました! 嫌われるようなことも、憎まれるようなことも!!』

 

「…………」

 

『だというのにどうして貴方は──』

 

 冬樹の声に涙が混じってきているのが分かった。

 この様子だと、今頃彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっているだろう。

 

 ──男ってのは単純なもんだ。

 なにかやると心に決めた物があれば、それに向かって一直線に突き進む。

 例えその先にどんな困難が待っていようとも、そんなものは物ともとせずに。

 

 俺はその心に決めた物が、『冬樹を守る』という単純で明確なものだっただけだ。

 

「……前に言ったよな。時間が来たら、お前に伝えたいことが、あるって…………」

 

『…………』

 

「──俺は、冬樹が好きだ。世界で一番、愛している」

 

『あい、してる……?』

 

「そうだ。……なんか、恥ずかしいな。告白って、こんな緊張、するんだな」

 

 俺は人生で一度も女性に対して自分の愛を曝け出したことは無かった。

 この学園に来る前、クラスメイトが校舎裏で女子に告白しようとしたところで、ヘタって逃げ出してしまった事を猛批判したことがあるが…あれは俺が全面的に悪かったようだ。

 

 ……ああ、幸せだな。

 最期の最期で、俺は最愛の人に愛を伝える事が出来た。

 これがもし両想いではなく、俺のただ一方的で独善的な愛だったとしても別に構わない。

 冬樹に告白が出来た。これだけでも十分満足だ。

 

『……私も』

 

「ん」

 

『私も、貴方の事が……す、好きです。だから、死ぬなんて……そんなこと、言わないでっ。お願いだから……』

 

 そう言って。

 冬樹の泣き声に誘われて、俺の頬に一筋の温かい涙が流れた。

 すまんな冬樹。そして、こんなロクでなしの俺を好きになってくれてありがとな。

 

『お願い、生きて……! これからも、私の隣で笑って! ──ずっと私の傍にいてください!』

 

「冬、樹」

 

 俺は最期の力を振り絞って、その名前を呼んだ。

 気難しい性格で人を寄せ付けず、学園ではかなり浮いている変わり者。

 俺が生涯で一番愛した女性の名前──。もし死後の世界があるというのなら、俺は冬樹イヴの名を片時も忘れることは無いだろう。

 

 俺は今、幸せだ。だから冬樹も、ぜひ幸福な人生を送ってくれよ。

 

「ありが、と──」

 

 身体から力が抜けて、無意識に瞼を閉じる。

 耳をすませば、随分衰弱してしまった心臓の鼓動がゆっくり、ゆっくりと、次第に間隔を開けながら聞こえてくる。

 

 今まで俺を育ててくれた人達、ありがとう。お陰で立派な最期を迎えられたと思います。

 どうか皆さんにも、幸多からんこ、と…を……──



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遺志を紡ぐ

遅くなりました。
いい感じに時間が出来たので続きます。


『ありが、と──』

 

 電話越しに聞こえた彼の言葉。

 人との付き合いを拒絶する私に寄り添って、ずっと傍で語り掛けてくれていた彼の声は、遂にその温かさを失い冬の冷たい空気と同化してしまった。

 

「はあ、貴方って人は……」

 

 彼は結局一人で旅立つことを選んだ。

 最後に、私への愛を呟いて。

 貴方を愛し、貴方に愛された私を差し置いて。

 

 ただ、いつかこんなことになるのではないかと前から思っていて。

 だから今回の事も彼らしいと言えばそうなのかもしれない。

 

 私は電話を切り、部屋を出て憂鬱になるような曇天を見上げた。

 

「貴方って……本当に、バカですねっ……」

 

 誰もいない中央広場のベンチで、私は一人泣く。

 

 まだ生きているかもしれない──そんな考えも浮かんだけど、私にはどうすることも出来ない。

 彼の言う通り、私の手には負えない問題。

 私が行けばすぐ彼に合う事が出きる。でも、そんなことをすれば絶対に怒られてしまう。

 

 涙で景色が滲む中、私の隣を数十名の生徒が忙しそうに走り去っていった。

 

 

 

 

 

 

 その、数日後。

 生徒会の人達から、私宛に一枚の封筒と──血が付着した彼の愛刀が届いた。

 

ーーー

 

 雪が降る風飛市は、子供達の楽しそうな声で溢れかえっている。

 そんな街の一角で彼の葬式は執り行われた。

 

 参列者は生徒会長と副会長、風紀委員のメンバー、彼の親友2人と先鋭部隊の面々に政府の人達だけで、親と見られる人はどこにもいなかった。

 部屋は小さく、それにしても物寂しく思うほどの少ない人数。

 とてもこの学園を支えていた人の最期とは思えない、ひっそりとした葬式。

 

「……冬樹、だいじょーぶですか」

 

 彼の生前から私の特別な感情に気付いていたと思われる委員長は、心配そうに声を掛けてきた。

 

「大丈夫です。なので私の心配は結構です」

 

 そう、私は大丈夫。

 だからいつもみたいに人を突き放すような言葉も平気で言える。

 

「そーですか。……無理すんじゃねーですよ」

 

 『無理』なんて、私には縁のない言葉だ。

 私には常にエリートであり続けることが求められる。

 それは彼がいなくなってしまっても、同じことだ。

 いや、むしろよりエリートになる事が求められる。

 

 彼と言う優秀な魔法使いがいなくなった以上、今の学園の戦力は驚くほど下落しただろう。

 そんな状態で、再び侵攻が起こってしまえば一体この地域はどうなってしまうだろうか。

 壊滅である。恐らく一週間も持たない……というのは、さすがに贔屓だった。

 学園生もそこまで強くないわけでは無い。

 

 ……だけど、そう直感的に思わせてしまう程に彼は強かった。

 とても強くて逞しくて、頭が良くて社交性もあって。でも、たまに委員会の当番を忘れて委員長にこっぴどく叱られたりと、ちょっと抜けたところもあって。

 天才故の解釈かと思えば、ただの思い違いだったり。

 

 思い出せば思い出すほど、彼の抜けた点は溢れ出てくる。

 

 それでも私は誰よりも彼を信頼していたし。

 生まれて初めて私が人の魅力に魅せられたのも、彼だった。

 

『俺は、冬樹が好きだ。世界で一番、愛している』

 

 突然フラッシュバックしたその場面に、私は思わず目頭が熱くなるのを感じた。

 

 ──ああ、どうして彼との記憶は私を泣かせるのだろう。

 泣いちゃダメだって。今までは彼が頑張っていたんだから、今度は私が頑張る番だって。

 彼との最期の通話で、ちゃんと心に決めたはずなのに──。

 

「……なん、で。貴方はっ、誰よりも……強くてっ……優しいのにっ……!」

 

 涙が止まらない。身体全体の力が抜けて私はその場にへたり込んだ。

 遺体は無く、彼の遺影だけが飾られた祭壇に向かって。私は静かに泣く。

 

 隣では、歩み寄って来た水無月委員長が肩を優しく包んでくれた。

 目の前が滲んでよく見えないが、他の風紀委員たちもあの様子だときっと泣いているのだろう。

 

 彼は本当に素晴らしい人だ。

 生徒会長でも無く、世界のヒーローというわけでもないのに。

 大勢ではないにしろ、こんなにも凄い人達がお葬式に来てくれるんだから。

 

「だいじょーぶですよ、冬樹。だいじょーぶです……」

「……は、いっ。もう、大丈夫です……」

 

 それがただの強がりであることは私も分かっていた。

 だけど、そうした方が少しは楽になると思った。

 いつもの私へ。彼から託された使命に押し潰されないように、今だけで良いから、いつもの慣れ親しんだ『冬樹イヴ』へと……。

 

 さて。

 ひとしきり泣いたので、私はそろそろこの場から離れようと思う。

 彼は死んでしまった。これが事実。なら私には、やり切らなくてはならないことがある。

 

 また、どこかで会いましょう。

 私の初恋の人。最愛の人。

 

 

 

 

 

 彼の葬儀を終えて、私達風紀委員はいつもの委員室に集まっていた。

 委員長曰く会議があるとのこと。主に風紀委員の役割分担の再構築と、これからについて。

 部屋の空気は窒息しそうなほどの沈黙で溢れている。

 

「……えー、私はいつも通り学園内の見回りを……」

 

 最初に沈黙を破ったのは、なんだか気まずそうな表情をしている氷川だった。

 突然暗闇に差した光に、会話の切り込み口を探していた委員長が食いつく。

 

「そーですね。でも氷川の取締は厳しすぎるって、毎日くじょーが来てるんですが」

「なっ、一体誰の仕業ですか! 誰がそんな根も葉もないことを!」

「いや、ふつーに考えて氷川の取締を受けた生徒でしょ」

「そんなはずはありません! 私はただ風紀を乱す人には数十分厳重注意をしているだけで──あっ」

「普通は数十分もしねーですよ。もしかして、リア充爆発しろみたいな感じでやってるんですかね」

「そそ、そんなわけないですよ!? 委員長もあまり適当な事は言わないでください!」

 

 委員長に揶揄われた氷川は、その名前にそぐわないほど顔を赤面させて必死に抗議した。

 その騒がしい様子に釣られて、さっきまで暗い表情で俯いていた人達も顔を見上げてうっすらと笑みを零している。

 その中で、一瞬。

 私以外の誰にも分からないと思う程さりげなく、服部がバレないように私の方をちらと横目で見る。

 

 それで私はなるほどと納得した。

 

「……ふふっ」

 

 なんだか今の状況がおかしく思えてしまって、思わず笑みが零れた。

 彼女達は多分、金輪際私の笑顔を見ることは無いだろうと思っていたのだと思う。

 その証拠に、私が笑った時風紀委員の彼女達の表情はどよめいた。

 こいつ、ストッパーがいなくなって遂に狂ったかとでも思われているかもしれない。

 

 でも、残念。

 私の気が狂うなんてことは、天と地がひっくり返っても有り得ない。

 だって、私には彼の遺した死んでもやらなければならない事が沢山あるから。

 

「私はそろそろ、失礼させていただきます」

「冬樹──!」

「はい?」

「……いや、なんでもねー、です」

「……大丈夫ですよ、私はいなくなったりしませんから」

 

 本当に、私がこんないい仲間に巡り合えたのも彼のお陰だ。

 そんな彼の情報をみすみす誰かに横取りされる訳にはいかないので、私は合鍵を握って彼の部屋へ足早で向かった。

 

 勿論途中で指示通り双美も連れて行く。

 遂にこの日が来たか、と肩を落とす彼女が切り開いたプログラムの壁の先にあった情報群は。

 

「こんな……」

「以前、彼が私にログインさせた時よりも数倍になっています。

 短期間でここまでの情報を集めるとなると、最早国家レベルじゃないでしょうか」

 

 双美の指摘通り、そこにはとても一人だけではどうすることも出来ないような莫大な量の情報があった。

『共生派の企業一覧』、『幹部候補一覧及び彼等の人間関係』、『学園襲撃犯一覧及び目的』、『所有兵器』、挙句の果てには直接ハッキングしたとしか思えないような、『活動計画書』や『予想総資産額』までもすっぱ抜いていた。

 

 中でも『学園襲撃犯一覧及び目的』に関しては特に凄まじく、実行犯を拷問にかけ目的を洗いざらい引き出すまでの描写が事細かく記述されている。

 その上目を疑ったのは、全ての資料に彼の名前が拷問官として載っていること。

 そしてコメントの欄には、いずれも精神的苦痛を想起させるものが書かれている。

 

 彼はこんな辛いことも自分一人で引き受けていたらしい。

 それに気づいてあげられなかった過去の私を思い切り殴り付けてやりたい。

 

「双美さん、ありがとうございました。後は自分だけでやるので大丈夫です」

「分かりました。何か困った事があれば遠慮なく言ってくださいね……無理だけはしないように」

 

 そう言い残して、双美さんは部屋を後にした。

 皆同じことを私に言う。無理をするなと。

 ……確か、いつかの彼も私に同じことを言っていた気がする。

 そうだ、あれは確か夏の夜のことだったような──

 

ーーー

 

 今日は七夕の日。

 学園では毎年この日に七夕祭りを開催し、生徒達にはこの日に限り夜の行動を認めるという特例が与えられている。

 

 その結果風紀委員が動く時間が増える。祭りの活気が上がれば上がるほど、取締の人手不足は免れない。

 私は図書室で勉強をしていたのだが、そんな人手として忌々しい彼に駆り出されたのだ。

 断ろうと思っても、もう彼には返し切れないほどの恩が溜まってしまっている。

 だから拒絶するのもおかしな話だろう。

 

「おい」

 

 人だかりから外れた寂れたベンチ。

 そこで気配を消して勉強をしてたにも関わらず、この状況の元凶は何ともない様に話しかけてきた。

 

「どうしてここが分かったんですか」

「そりゃお前、ずっと監視してたからな。お前が仕事サボるのは目に見えてた」

「そんな人聞きの悪い事は言わないでください」

「言うまでも無くお前が悪なんだが」

 

 彼は一体何を言っているのだろうか。

 無駄な時間を有意義に使うのは人として生きる者全てに与えられた義務だ。

 私はそれに則った行動をしただけで、悪だなんだととやかく言われる筋合いはない。

 

「私は時間の有効活用をしているだけです。私をずっと見ていたストーカーさん?」

「ストーカーじゃねえ、そもそもお前に対して劣情を抱いてねえ。……お前が消えてから大変だったぞ、そこら中で見境なくいちゃつく生徒が沢山いるし、しらみつぶしに注意しようが止める気配も無い」

「それはご苦労様です。ですが、そのようでしたら放っておいた方がいいんじゃないですか? 注意するだけ無駄と言う事は、その分貴方は無駄な時間を消費しているという事です」

「お前……」

「貴方も私の様に、少しでも身になるような事をしてみてはどうですか? 今なら出血大サービスでおすすめの魔導書を教えますが」

 

 付け加えるようにそう言うと、彼は腕を組んでうーんと唸るように悩み始めた。

 彼は学園内でも学年の壁を越えてトップクラスの学力を持つ秀才だ。

 魔法使いとしての実力も高く、人柄も良く、社交性のある彼はまさしく天才と呼ぶに等しい存在だと私でさえ思わされている。

 

 そんな彼が私の提案に悩んでくれている。

 それだけで意図せずに私の胸は高鳴り、仄かに身体の体温が高くなるのを感じる。

 最近彼と会話する時はほとんどこうなってしまう。

 他の生徒と変わらず結局背景でしか無い彼が、一体どうしてなのだろうか。

 未だに答えのような影すら掴めていない。

 

「えーと、じゃあそうだなあ……」

 

 ひとしきり悩んだ後、やっと彼は口を開いた。

 一応、彼が興味を示しそうな魔導書は事前にリサーチしておいたし、図書館でその本が置かれている場所も完全に把握している。

 どこにも落ち度はなく、彼が誘いに乗れば全て順調に行くのだけど。

 

「一緒に屋台でも廻っていくか」

 

 ──そういう時に限って、彼はいつも予想の斜め上を行くのだ。

 

「はい? どうやら私の耳が腐ってしまったのかもしれませんね」

 

 今、この人はなんと言ったの?

 

「いや、だから一緒に屋台を廻ろうと」

「どうやら腐っていたのは貴方の口だったようですね」

「なんでそうなる」

「今は仕事中です。それに図書室から私を引っ張り出してきた貴方がそれを言える立場ですか」

 

 彼を拒絶するための御託を並べる度に、心臓が麻縄で締め付けられるような苦しさが襲う。

 どうして、私には分からない。

 彼の熱を帯びた視線が私の視線と交差する度、私の身体は狂ったように脈打つ。

 

「そんなお堅いから他の人に避けられんだよ」

「貴方には関係ありません。それに私は別にお堅いわけじゃありません。ただ、早く勉強を再開したいだけです」

「この氷川め」

「最大の侮辱表現と捉えました。謝罪を要求します」

「じゃあ屋台廻りで何か奢るから、それで謝罪ってのはどう?」

「貴方は今まで何を聞いていたんですか?」

 

 つかみどころがない会話は、常に彼が先導している。

 作戦なのか、それとも天然なのか。

 学園に入学してから結構な時間を図らずも一緒に過ごした私からすれば、迷うことなく十中八九後者だろう。

 

 この天然に私はいつも負けてしまう。

 

「なあ、頼むよ。俺はこんな味気無い仕事で七夕を過ごしたくないんだよ。女の子と一緒に遊びたいの」

「今私と一緒にお話ししてるじゃないですか」

「いや、うーん。こんな感じじゃないんだよ。なんかこう、若者らしい事というか」

「別に若者らしいことなんて何時だって出来ますよ。それに七夕は、1年間の内のたった1日に過ぎないのですから」

「うーん、いや、でもなあ……」

 

 ……そろそろ流石に鬱陶しくなってきた。

 

「あの、ちょっといいですか」

「ん、なに?」

「どうして今日はいつにも増して私を誘おうとするのですか? 私も貴方もまだ卒業しないんですから、まだ来年も再来年もあるでしょう」

 

 これで、私の納得できない回答が返ってきたら帰宅する。

 そんな意思を込めて放った質問だが、どうやらうまく伝わったらしい。

 彼はさっきまでの緩やかな態度を改めて、真剣な顔をして話し始めた。

 

「だって、もしかしたらこれが──最期になるかもしれないからな」

「──」

 

 最期。

 なんの感慨もなく発せられたその言葉。

 それが耳に入ると、さっきまで周囲を満たしていた生徒達の喧騒と、鈴虫の細かい鈴音がふっと薄れて消えた。

 音を聞く余裕など無かった。

 頭の中ではもう勉強のことではなく、『最期』という二文字だけがいくつも蠢いている。

 なぜならそれは、私を含めた学園生のほとんどが忘れているであろう言葉だったから。 

 

「それにいつまでも今と同じメンバーで生活できる訳じゃないからな。

 卒業する奴もいるし。もしかしたら戦死するやつもいるかもしれないし」

 

 ……そうだ、私達はただの子供ではない、魔法使いなんだ。

 過去には魔物との交戦で何人もの魔法使いが亡くなったらしい。

 今は通信システムの充実、クエスト管理や安全性の重視などがされてそんな事はめっきり無くなってしまったけれども、それでも大規模侵攻の時は多くの被害が出る。

 そしてその被害が降りかかるのは、今度は学園生──いや、私かもしれない。

 

 来年も再来年もあるなんて、一体誰が保証できる?

 

「……良いですよ。一緒に廻りましょうか」

「ん、じゃあ付いて来て。あ、あと──」

 

 彼はくるっと私に背中を向けた。

 

「勉強も確かに大事だけど……無理すんなよ」

 

 その時の彼の背中は、なんだかいつもより大きく見えたような気がした。

 

ーーー

 

 

 

 

 

 真っ暗闇の中、俺はただ闇雲に刀を振り続けていた。

 着用していたコートはもうボロボロになり、よく意識してみれば左腕はぶら下がっただけで既に機能していないのだと分かる。

 しかし不思議と苦しさは無かった。

 だが生きているのか、それとも死んでいるのかは分からなかった。

 

「遅い」

 

 見えない敵を斬り刻み続けてどれだけの時間が経過したか。

 この空間で無限にも思える時間をこの刀と過ごした今では、今までの自分がどれだけ無駄な動作をしていたかが分かる。

 それだけではない。

 無駄を極限まで切り詰めるだけでなく、俺は純粋に刀を振る速度を上げることに成功していた。

 

『……て……ぃ……』

 

 恐らく、今の俺の刀捌きを常人が肉眼で捉えることは難しいだろう。

 誰も到達していないだろう極限まで高めた技術──だからこそ、俺はもう普通の思考が出来なくなっていた。

 

 ──身体が邪魔だ。

 

『……きて……さい……!』

 

 俺の技術に極限を設けてしまっているのはこの軟弱な身体だ。

 これが融通が利かなすぎるせいで、これ以上技術を損なうことなく速度を上げる事が不可能になっている。

 どうにか出来ないものだろうか。

 

『きてく……さい……いきて……!』

 

 そうだ、あの魔法を使えば良いじゃないか。

 アイラから教えて貰った、非常事態の時以外使うなと言われてたアレ。

 強力な魔法だから肉体への損傷が激しいと聞いたけど、そんなのはもうどうだっていい。

 

『いそい……はやく…てあてを…!』

 

 まだ戦いたい。

 人類を救いたい。

 霧の魔物を一匹残らず殲滅してやりたい。

 それに魔法使いってのは、色んな人達の希望を背負って生きてんだ。

 

 だから。

 

 

 

 

『生存者がいます! 左腕の傷が酷い…救護班は早く彼を救護テントに!!』

 

 ──死ぬ訳にはいかねえんだよ。なあ、冬樹。




急に投稿したので誤字とか多いかもしれないです。


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表舞台と舞台裏

 つい先日、洞窟内を捜索していた最中に通話で入った一つの報せ。

 

 まだ生死は分からないにも関わらず、執行部はあいつが戦死したとみて生徒会へ死亡判定を突き付けたらしい。

 それに怒る者はたくさんいたが、しかし抗議しようとした人は誰一人としていなかった。

 

 勝手に人の生き死にを決定する行為は許せなかった。

 だが、聞いた話ではタイコンデロガ級の魔物数十体を一人で相手取っていたらしいではないか。

 そんな状態で生きているだろうなんて、きっと誰も思わなかったに違いない。

 

 結局捜索は打ち切られ。

(絶望的な確率だが)生死は有耶無耶な状態で、この事件は数日後にあいつの葬式が行われることとなり終わったのだった。

 

 しかし……あの日は確か酷い雨だった。

 

「捜索隊1班から報告、彼は見つかりませんでした」

「りょーかいです。このエリアはなしですか」

 

 件の洞窟のすぐ外で構えられた緊急捜索本部。

 人気のない森の中に並んだテントの数々は、今回の事件の物々しさを自ずと物語っている。

 洞窟内を捜し回り、結局はなんの成果も得る事が出来ずに帰って来る彼女等の顔もどこか気鬱さが混じっていた。

 

 ──彼女達は、そんな逆境の中でも同志(あいつ)を思い、是が非でも捜索を続行したいと生徒会へ進言した人達の一部だ。

 来年卒業する様な年長者もいれば、最近入学してきた年少者もいる。中には転校生の姿も見た気がするが。

 

 生存は絶望的──それならせめて死体だけでも回収するべきだろうというのが、言い方は違えど彼等彼女等の確固たる総意である。

 

「んー、ここまで構造が複雑だと見つけるのは流石にむずかしーですね。あ、捜索どうもごくろーさんです。アンタさんらはもう休憩に入ってもいーですよ」

「了解しました」

 

 雨でずぶ濡れになった生徒達が本部テントを出ていく。

 今の時期、とても雨で身体を濡らして平気でいられるような気温ではない。

 事実さっきの生徒達の肌は見るからに血色が悪く、僅かに震えているのが分かった。

 みんな辛い思いをして行方知らずのあいつを必死に捜しているのだ。

 それなのに私は……。

 

「……別に気に病むことはねーですよ。アンタさんには記録を取るという大事な役割がありますから」

「……」

 

 どうやら水無月には私の考えている事はまるわかりらしい。

 まあ、子供の頃からよく感情が顔に出やすいと指摘されたことは何度もあったが。

 それに今回の様な酷いショックを受けたのは多分初めてだから、余計に分かり易かっただろう。

 

「……私があの時一人でもあいつの元へ戻って一緒に戦っていれば……」

「それはねーです。アンタさんの決断は正しかった。もしあの時戦い続けてたらまちげーなく全滅して、おーまかな捜索場所も特定できませんでした」

「でも」

「いーですか、アンタさんはあの時一人だけだとしても人の命を救ってるんです。確かにもう一人を見捨てましたが、そうするべきだった、いや、そうするしかなかったんです」

 

 そうするしかなかった──

 私があいつの言い分を呑み込んで山を下りている途中に、何度も自分を正当化しようと言い訳していた言葉だ。

 そうするしかなかったなら、私の力ではどうしようもない。

 だからあいつを見捨てて戦場を離れていく事は仕方のない事だ、と。

 でも、それって。

 

「そんな、あいつが絶対あの場で死ななきゃいけなかったみたいな……絶対におかしいよ」

「……」

 

 ギチギチ。耳をさらうような雨音を紛らわすために拳を強く握りしめる。

 

「……あいつは、私の知る中で一番みんなの為に頑張ってた。誰かが困ってたら自分の事を後回しにしてでも助け出して……でも誰にもそのやさしさが気付かれなくて」

「……」

「それでもあいつは黙って仕事するんだ。おかしいでしょ、良い事をすれば褒められるのが普通なのに。それなのに、こんな……こんな結末じゃあいつは──!」

「そこまでじゃ」

 

 込み上げてくる怒りが爆発しそうになった直前、それは鬱陶しい程雨音が渦巻くテント内に響いた幼気の残る声によって遮られた。

 声のした方向に視線を向けてみれば、そこには同じく雨で戦闘服を濡らした銀髪の少女、東雲アイラが一人で佇んでいた。

 

「おや、おかしーですね。東雲には今回のクエストに含まれてなかったみてーですが」

「確かに受けてはおらんよ。此処におるのは妾の完全な独断じゃ」

「なかなか思い切った事をしやがりますね……悪い事はいーません、帰ってくだせー」

「そういう訳にもいかんのじゃよ。ほら、妾ってばあやつの盟友じゃし?」

「それとこれとは全く関係ねーじゃねーですか……まったく」

 

 東雲アイラの言う盟友。

 話の流れからしてその盟友とは間違いなくあいつのことだろうが、正直言って驚いた。

 まさかあいつと東雲の間にそんな関係があったなんて。

 そもそも私は、彼女、東雲アイラの事を全く知らない。

 

「どうかされたんですか?

 今は任務中なので、出来ればあまり邪魔をしないで頂きたいのですが」

「テントの中からお前さんの怒る声が聞こえてきたんで、ちょいと気になってな。なに、ちょっとした好奇心とやらかの?」

「……」

「……お前さんの思いはしかと伝わったわい。その上で、どうか妾の話を聞いて欲しい」

 

 そう言って歩み寄って来る東雲に水無月は怪訝そうな表情をしていた。

 どうしてそんな顔をするのか私にはわからなかったが、多分東雲は普段はこういう事を言うような人ではないのかもしれない。

 だとすると、かなり重要な話をする可能性がある。

 私はデータを書き写す準備をした。

 

「風子よ、今回の捜索範囲を記した地図は何処にある」

「これですが……一体どーゆーつもりです?」

「どうも腑に落ちんでな。洞窟内を一通り歩いてみたんじゃが……なかなか痕跡が見つからないんじゃ」

「痕跡?」

 

 聞き慣れない単語を聞いて、私は思わず聞き返した。

 

「随分前に妾は特殊な魔法を施してな、あやつの魔力痕を妾だけが見れるようにしたんじゃ。それが、この洞窟内ではほとんど見つかっておらん」

「それはじゅーだいな校則違反の上にストーカー行為なんですが」

「黙って聞けい」

 

 痕跡が捜索範囲でほとんど見つからない?

 それってどういうことだろう。

 あいつは少しこの洞窟内に入って魔物を全匹誘き寄せた後は、すぐに外へ出て行ったって事?

 でもそれだと、どうして未だにあいつの行方が分かっていないのかということになる。

 全く分からない……この失踪の裏には何が潜んでいる?

 

「More@の位置情報の場所に魔力痕はあったんですか?」

「ちょっとだけな、デカい鍾乳石の近くで見つかったわい」

「ならどーしてそこに身体が──」

「……あの洞窟内には数えきれない程のタイコンデロガ級の魔物が次々と入って来おった。つまり霧の濃度もどんどん高くなっていたはずじゃなかろうか?」

「……あ」

「高濃度の霧は空間を歪めるほどの力を持つのじゃ。通信環境を狂わせたとしても何らおかしくはない」

「だったらどうしてあいつは冬樹と電話を──」

 

 衝動的に発現した疑問を言いかけて、頭がハッとした。

 これまでずっと気が付かなかったこと。

 この謎のキーとなるのは、最終位置情報をこっちが受け取った時間と、冬樹があいつと通話をした時間の違いだ。

 

「どうして霧により通信環境の制限されたこの洞窟内で、あやつは電話をすることが出来たのか。理由は簡単じゃ。通話をしている時はまだ、通信に影響を及ぼす程の霧はばら撒かれておらなんだのじゃ」

「……分かりました。そーゆーことですか」

 

 合点がいったように、水無月はゆっくりと頷いた。

 

「これは妾の優秀な眷属(・・・・・)による情報なのじゃが、最終位置情報を生徒会が回収したのはあやつが冬樹と通話をした約20分後らしい。つまり、通話をしている時点ではまだ大丈夫じゃったが、その20分後には霧が通信を遮断するほど濃度を増し、そこが最終位置情報として生徒会側とあやつの通信は途切れたのじゃ」

「なるほど。しかし、流血に関してはどう説明するんですか? 冬樹の話によると出血が酷かったようですが、血溜まりは一切見つかりませんでしたよ」

「それについては今から説明するわい。その前提としてまず話しておかなきゃいかん事がある」

「……話さなきゃいけないこと、ですか?」

 

 東雲の言葉の雰囲気からして、あまり良い話でないだろうことは大体想像がつく。

 あいつはもうこの世にはいないのか、それとももう身体を見つける事すら叶わないのか。

 最悪の場合は霧を大量に吸い込み魔物化してしまっていて──これ以上の事は考えたくはない。

 

「まずここまで穴が開くほど捜しまわっても見つからんのじゃ。ここは素直に別の可能性を考えるべきじゃろう」

「かのーせいですか」

「密閉された空間と高濃度の霧、そしてあやつの持つ特性(・・)。それらを鑑みるに──」

 

 それは、私が真っ先に思いついたが有り得ないだろうと思考の片隅に追いやっていた可能性だ。

 生きていようが死んでいようが、そんな事は全く関係なく。

 呑み込まれたモノは、次の瞬間にはさっきとは違う光景を見ている事だろう。

 

 それは、とても小さな、しかし確かな理論の上に成り立つ小さな希望──。

 

 

 

 

「恐らくあやつは今、裏世界におる」

 

 東雲の澄んだ声が私の心を優しく包み込んだ。

 彼は──生きているかもしれない。

 

ーーー

 

 

 

 響く轟音、淀んだ空気、灰色の空。

 灼けた硝煙の臭い、倒壊したビル群、闊歩する魔物達。

 そして──悲鳴。

 

 俺の視界には今、世界の全ての負が集まっている。

 魔物に敗北し後退を続け、あろうことか同じ人類にさえも裏切られた哀れな無辜の人々。

 かつて多くの人々の未来が詰まっていた街を魔物達が手当たり次第に破壊し続けているこの光景は、きっと共生派の馬鹿共が思い描いていた迎えるべき世界に違いない。

 

 こんなのは思想とは呼べないだろう。

 彼等はただの忌むべき破壊的カルト集団と何ら変わりはない。

 

 この世界の俺は、一体どこで道を踏み誤った?

 

「こんな所にいましたか。怪我人は大人しくベッドで横になっててくだせー」

「一人に対してそこまで手厚くする余裕はあるのか? ──水無月」

「こっちは心配してるのに生意気なやろーですね、その点ではこっちのアンタさんの方が素直でしたよ」

「いいや、心の底では俺みたいなこと考えてたに決まってる」

 

 背後から掛けられた聞き慣れている声に、俺は誰だか迷うことなく応えた。

 なんだか今は振り返る気分にはなれなかった。もう眼球がおかしくなって視界がぼやけているとしても、この光景から少しでも目を離す事は許されないと思ったからだ。

 罪悪感、なんだと思う。

 共生派の扱い方を間違えたこっちの俺を、きっと心の中では許せていないのだ。

 

「ったく、……情報を全部抜き取られた責任感から自殺とか、ほんとに……馬鹿だろ」

 

 吐き捨てるように呟いた言葉は、奴等の破壊音で全て打ち消される前に、俺の心の中へ染み込んでゆく。

 

 ──この俺とあの俺ははっきり別人だと言い切れる。

 だって俺はあいつではないから。外見こそ全く同じだが、それでも話に聞く限りあいつの性格は俺よりもずっと悲観的で小枝のように軟弱だ。

 

 しかし曲がりなりにもあいつは裏世界の俺であることに変わりはなく、自殺してしまったあいつの心境を少しでも察することが出来る自分がとても恨めしい。

  魔法使いでありながら、自らに課せられた世界平和の責任を投げ出すとは本当に愚かな事だというのに。

 

「……それはちげーます。情報管理を全部押し付けてたウチらこそ、馬鹿でした」

「それも違うな。少なくともこっちの俺はそんなミスを犯してはいない。つまり水無月らの協力があろうとなかろうと、いつかあいつは情報を取り返されてた」

「……そんな」

 

 未だに食い下がろうとするのか。

 しかし現生徒会長という立場上、そう言わざるを得ないのも仕方がない事か。

 ……いや、そもそも水無月は、裏でも表でも優しい人だから。

 自分の中にある責任を気にして止まないのだろう。

 

「いいか、それは水無月の責任じゃない。あいつ自身の責任だ」

「……」

「………急に黙ってどうし──……なんだその顔は」

 

 なにか無神経なことを言ってしまったのではないかと不安になり振り返ると、そこには、戦姫が如き純白の戦闘服で水無月が口元を緩めて立っていた。

 

「いえ……アンタさんはやっぱり、どの世界に居てもやさしーんだなと」

「どういうことだ」

「それを聞くのは、さすがに無神経なんじゃねーですか?」

 

 そう言って、水無月はふふっと儚げに微笑んでくるりと俺に背中を向ける。

 その背中は何だか酷く小さく感じられて、今にも潰れてしまいそうなほどに脆そうだった。

 

 

 ──生徒会長の優しい少女と、次々と作戦で命を落としていく学園生達。

 

 組織の長に就く者にはある程度の冷酷さが求められる。

 組織全体の利益のため、不要なものは早急に切り捨てて利用価値のあるものは最大限効率よく活用する能がいる。

 たとえそれらが人であったとしても、だ。

 しかし、水無月には致命的にその冷酷な能が無かった。

 

 表世界では死者こそ出なかったが、この世界では既に『グリモア壊滅』と言うに等しい程に屍の山で敗北を築き上げてしまった。

 指導者は全体を見通す必要があるため一人一人の死に向き合っている暇はない。

 しかし、水無月にはそれを無視することが出来なかった。

 

 死者の報告が入る度に絶望と罪意識は重さを増していく。

 この小さな背中はそんな、若くして散っていった同胞達への責任を一身に背負っているのだろう。

 

 ──水無月の荒れた髪の毛を後ろに流していた小風が、不自然に逆向きへ変わった。

 これは……。

 

「ここも直に魔物達がやってきます。だから……早くこの場を離れましょー」

「そうか。じゃあ、一緒に帰るぞ」

 

 水無月の言う通り若干数こっちに魔物が進んできているのを横目で確認すると、俺は彼女の手を掴んで基地のある方向へと歩き始める。

 あまり時間は無い。少し急がなければならない。

 

 早歩きで一緒に逃げる水無月の顔をちらと見ると、何とも言えない複雑な顔をしている。

 ここで迫り来る魔物を撃退するのが現状の最適解なのだろうが、それをもうどうすることも出来ずに犠牲を生み続けるしかないという絶望と、その気持ちを誰にも打ち明けることの出来ない嘆き。

 

 この生き地獄を味わうには、彼女、水無月風子はあまりにも若すぎたのだ。

 

「お前は」

「……なんです?」

「……いや、なんでもない」

 

 これから一体どうするつもりなんだ、と聞こうと思って。

 すんでのところで、それが水無月にとってどれほど酷な質問であるかを思い知り。

 

「途中でやめねーで、最後まで言い切ってくだせー」

「いや、でも」

「言ってくだせー」

「……」

「……ウチが良い事を教えてやります。……郷に入っては郷に従え、です。この世界ではもう、次なんて存在しねーんですよ。この場では言いにくいからまたの機会にしよう。

 ……でもその人は、またの機会の時にはすでに死んでるんです」

 

 その言葉に──。

 水無月の手を引きながら歩いていた俺は、ふと足を止めた。

 ここに立ち止まっている時間などない。

 しかし、水無月のその言葉が、今にも死にそうなか細い声が。俺の心をがっちり掴んで離さない。

 

「明日も明後日も、来週も再来週も。普段使ってた言葉は、もう無意味なんです。だってウチらはいつ死んだっておかしくないですから。……ウチらに残されたのは、生きている『今』と、待ち受ける『死』だけです」

 

 安息を享受することは出来ず、それを妨害する害悪に抵抗することもできない。

 この世界の住人が出来るのは、ただ魔物達が一方的無差別的に人類の抜け殻を破壊し、同胞を踏み躙り、生命の故郷(ふるさと)たる地球で蹂躙の限りを尽くしている光景を見ることだけだ。

 

「どうしても言いたくないことなら別にいーです。でも、これだけは覚えておいてくだせー。……選択を間違い続けば、アンタさんも必ず罰を受けることになります。

 あの時ちゃんと言っていれば……なんて後悔、しないように」

 

 そう言って水無月は不器用に笑って見せて、今度は彼女が俺の手を引いて先を歩き始めた。

 俺はその姿を見て──……ある考えが、心に浮かぶのを感じた。

 

 免れようの無い大勢の死と、避けることの出来ない人類の敗北と絶滅──裏世界の人達ではもうこの運命に逆らうことは出来ないだろう。

 

 しかし──俺は表世界の人間である。

 こっちよりも明らかに優れた技術をたくさん知っているし、なにより情報を持っている。

 

 ……本当に、もうこの世界を救うことは出来ないのだろうか?

 

 黙々と歩き続ける水無月の背中を見て、俺はふと空を見上げる。

 まるで人類に希望はもう残されていないことを暗示しているかのように、暗くて厚い雲が天空を覆い隠していた。




裏世界? なんだそれと思った方に解説。

裏世界とは主人公たちがもといた世界(表世界と言います)とは違う、またもう一つの世界です。
つまり簡単に言ってしまうとパラレルワールドです。
この2つの世界は地形こそ同じですが、それぞれで起こった出来事にはかなり違う点が多数存在しています。

例えば表世界では魔物の大規模な侵攻(第七次侵攻)を無事防ぐことが出来ましたが、裏世界では多くの犠牲を払ってしまいました。
もちろんその犠牲の中には学園生も含まれています。

また、裏世界に行くには2つの方法があります。

①世界にいくつかある『ゲート』と呼ばれるものを通る。

②『霧の嵐』と呼ばれる、偶発的に出現する局地的な空間の切れ目に入る。

なお、移動先の裏世界はゲートごとに時間が異なるので、過去や未来に飛ばされたりすることがあります。
(私もグリモアには長期間のブランクがあるため、多少間違った情報を載せている可能性があります……)

本小説では一定の量の霧が集まり濃度が高くなった時点で、一時的にゲートが出現するという解釈ですすめています。
こちらは恐らく原作にはない設定ですので、『そういうものなのか』という解釈で大丈夫です。


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信用の天才

忘れた頃に投稿します。


 遥か遠き記憶の夢。

 遠くの山々が霞み、やけに周囲が白くぼやけた学園の屋上で。

 

 昨夜には安らかに眠ることさえ出来ないほどに激しく雨が降っていたが、今の空はそんなことなどとうに忘れてしまったかのように青く晴れ渡っている。

 その燦々と降り注ぐ灼熱の太陽光の中に、私の探し人はいた。

 

「……朝から何やってるんですか、貴方は」

 

 フェンスに寄り掛かっている白いワイシャツを着た彼は、後ろ姿でもはっきり分かるぐらいに遠くを見つめていた。

 こんな暑い屋上で、だくだくと汗を垂れ流しながら、──白の細長い棒を持って。

 

「別に。ちょっと涼みに来ただけだよ」

「涼めるほどの風なんか吹いてませんが。あと、未成年の喫煙は禁止されています」

「ああ、これか? よく間違われるが、ココアシガレットなんだよなこれ」

「臭いし、先から煙が出ていますが」

「……」

 

 それで本気で私を騙せられると思ったのかどうかは分からないが、その時の彼は明らかに戸惑っているように感じられた。

 

 ほんとにこの人は何を考えているのだか。

 彼は先週からグリモワール学園の使者として海外の魔法学園へ赴いていたそうで、つい数時間前にここへ帰って来ることが出来たそうだ。

 服装が学園指定の制服でないのはきっとそのためだ。

 

 とても疲れているだろう、生徒会へ報告しなければならない事もたくさんあるだろう。

 そんな彼がどうしてこんな所で煙草なんかをふかしているのか。

 ……まあ、どうせ彼の事だから──

 

「なにか、嫌な事でもありましたか?」

「……どうしてお前はそこまで鋭いのかねえ」

 

 彼は一度ピクッと肩を跳ねさせた後、やれやれと観念するように振り返った。

 目の下に大きな隈が出来ている。

 その表情はどこかいつも以上に気怠そうで、憂鬱気で……生気がとても感じられない。

 もしかしたらこんな彼を見たのは初めてかもしれないと思うぐらいには、おかしな状態だった。

 

「こんな所で、ウジウジしててもどうしようもないことぐらい分かるんだがな……」

「そんなに酷いことなんですか」

「さあ、どうだろうな。酷いと言えばそうかもしれないが、俺の実力不足とも言える」

 

 ……珍しい。

 いつもは過剰なほどの確かな事実を好む彼であったが、今日はなんだか曖昧な物言いだ。

 いや、そもそも朝からこんな所で煙草をふかしている時点で、珍しいと言えば珍しかったのだ。

 

 普段見る限りは規則正しい生活を送っている彼にここまでさせる出来事──想像することもできないが、きっと日常で経験するようなちょっとやそっとの事でないのは分かった。

 

「私で良ければ、相談に乗りますが」

「……え?」

 

 自然と口を突いて出た言葉。

 

 しかしそれは、後で恥ずかしくなって枕に顔を埋めるような、そんな失言ではない。

 普段はこんなことを一切言わないから彼は驚いているのだろうが、私とて人間である。

 人の喜び、悲しみ、怒り、楽しみ、そして悩みを解する心は持ち合わせている。

 

 それに彼は同じ委員会のメンバーで、曲りなりにも一応仕事仲間なのだ。

 いつまでもこんな調子でいられるのでは、私の方も気が滅入ってしまう。

 

 ……でも、なんだかそれ以上に。

 今まで以上に悩みに暮れている彼を放っておくことは、私の心が許さなかった。

 

「貴方がそこまで落ち込むのは、きっとよっぽどの事があったんでしょう。

 ちょっとでも良いですから、私に話してみたらどうですか?」

「でも、お前は無関係だし──」

「都合の悪い時に貴方はよく『無関係』という言葉を使います。

 ……頼れる人は全員頼れって教えてくれたのは、他でもない貴方じゃないですか」

「……いや、これは俺だけの問題でだな」

 

 まだ引き下がらないのか。

 そんな曖昧な受け答えしかしないで、しかもそれで人の好意を無下にしているのだから、なんだかこれで私の方が折れるというのも癪だ。

 

 それに、一度くらい。

 彼が私にやってみせたように、彼の心にかかった靄を私が払って見せたい。

 

「お願いですから、一人で悩みを背負い込まないでください。

 ……もっと私を頼ってくださいよ」

 

 そう、これは本心からの言葉。

 だから私は深く、曇りない目を彼に向ける事が出来る。

 そしてこの状態なら、最近教えて貰った必殺技(?)を使うことが出来る。

 

 ……ええと、確か若干顔を俯き加減にして、視線だけを上に向けるのだったか。

 

『あの人ならイヴ先輩の上目遣いでイチコロッス! ……え? 上目遣いのやり方知らないんスか。

 じゃあ、今から完璧に伝授するッス!』

 

 確か同じ風紀委員の服部梓がそう言っていた。

 彼女に教えられた事が本当だったなら、彼はどんな表情をするだろうか。

 気になった私は、彼相手にこんな色恋染みたことをする羞恥心と好奇心の葛藤に苛まされながら。

 ゆっくりと、鉄の様に重く感じる瞳をゆっくりと上へ向ける──

 

「……」

「……な、なんか言ってくださいよ」

「いや、なにが?」

「──っ! もういいです!」

「あっ、ちょ、冬樹!?」

 

 羞恥心が大勝利し、顔が夏の暑さに負けないぐらい熱くなったところで私はその場から駆け出した。

 後ろから彼の呼び止める声が聞こえてくるけど、正直今はそれどころではない。

 なんとしても逃げ出さなくては……これ以上あの場にいれば心臓が張り裂けてしまいそうだった。

 私は部屋に戻って落ち着きを取り戻す為に、全速力で階段を下りていく。

 

 ……と、そういえば忘れていた。

 

 彼は煙草を吸っていたのだった。

 身体をくるりと反転させて、進むことを躊躇する足を無理矢理動かしてまた来た道を戻っていく。

 

「……あ、あれ。どうした冬樹──」

 

 なんだか元気のない表情をしていた彼は、私が戻ってきたことに驚き目を剥いた。

 そんな油断だらけの彼の胸ポケットから私は素早く黄緑色の煙草ケースを抜き取る。

 ポケットに入っていた小さな筆箱からペンを取り出し、表紙に大きなバツ印を書いた。

 

「なにやってんの!?」

「これ以上もう吸わないでってことです。つまり禁煙してください」

「そんないきなりは無茶だよ!」

「……風紀委員の貴方なら、素行不良の生徒が一体どこに送られるかぐらい、分かるでしょう」

 

 ──素行不良な生徒が行き着く場所。

 

 魔法使いは見た目こそ普通の人達と同じ姿かたちをしているが、その本質は生まれながらにして特別な力を持つ異常な存在であると言っても過言ではない。

 魔法と言う強大な力に耐える為に身体はかなり丈夫だし、その分素手で振るう力は一般人のそれよりもかなり強い。

 

 そのような存在が正当な道を踏み外し、不良になったまま学園を卒業してしまったらどうなるか。

 そんな、火を見るより明らかなことが起こるのを防ぐために。

 彼の様な、未成年喫煙をするような人たちは例外なく矯正施設へと送られている。

 

 矯正施設……いや、あれはもう刑務所と呼んだ方が正しいのかもしれない。

 

「私は、貴方がそんなところに行くのは嫌です。

 今からでも遅くは無いはずです。絶対にそれで最後ですからね」

「……別に新しく買って、それにバツ印を付ければ良いだけなんだが」

「……私は信じてますから」

「──っ!」

 

 彼が息を呑むのが聞こえた途端、私は今度こそこの場の空気に耐えられなくなって脱兎のごとく階段へ逃げ出した。

 ……私は、勢いに任せてとんでもないことを言ってしまったようだ。

 嘘……ではない。本心なのだけれど、彼には絶対直接伝えないように心していた言葉の一つ。

 これを伝えてしまえば多分……次の日から顔を合わせずらくなるのは目に見えて分かっていたから。

 

「バカ……」

 

 結局相談に乗ってあげられず、挙句逃げ出してしまった私に対して呟いた一言。

 それは誰に聞かれるまでも無く、鬱陶しく建物内に反響する蝉の鳴き声に掻き回されて消えていった。

 

ーーー

 

 瞼越しに伝わる眩しい太陽光。

 いつの間にかそれに気が付いた私は、ゆっくりと重い目を開けてぐっと背伸びをする。

 目の前の机には空のマグカップとチョコレートの袋、そして起動しっぱなしのノートパソコンが置いてあった。

 

「……寝落ち、しちゃった」

 

 壁に掛けてある時計を見ると、今の時刻は朝の10時ちょっと。

 今日は休日で偶然委員会の仕事も無かったから良かったものの、平日だったなら大遅刻だ。

 

 ……遅刻

 そう言えば、私って今までに遅刻なんてしたこと無かったな。遅刻って、どんな感じなんだ──

 

「……違う」

 

 頬をぺちん、と叩いて変なことを考えている寝ぼけた頭を叩き起こす。

 そんなことを考えている暇はないのだ、私には。

 

 目をごしごしと擦って、傍らに置いてあった書類を手に取って目を通す。

 内容は先日学園内への侵入を試みていた共生派から得た情報である。

 ちなみに、彼のような大したことはしていないけれど、尋問官は私が担当した。

 

 尋問官、である。拷問官ではないのでここはしっかり区別しておかなくてはならない。

 

「でも、目立つ情報はあまりなかったなぁ……」

 

 得られた情報は、学園へ侵入しようとした目的、他の末端構成員数名の名前と本人の家族構成だけだ。

 構成員が少しでも分かれば、そこから芋づる式で無理矢理聞き出していけばいいと思うかもしれない。

 確かに、そう考えると私の抜き出した情報は結構大切だろう。

 だけど……私の目の前にあるパソコンが、それを知らないとでも言うだろうか。

 

「知らないわけ、ないよなぁ……」

 

 カタカタと名前を打ち込んで検索をかける。

 すると、案の定それに関連したファイルが当然のようにいくつも出てくる。

 どうやら彼は、私が抜き出した以上に彼等の情報を持っているらしかった。

 

「……はあ」

 

 なんだかひとりでにいたたまれない気分になって、思わず溜め息を吐いた。

 

 私は無気力なままに、ポスンと後ろのクッションへ倒れ込む。

 程よく使い慣らされた柔らかい感触。

 そして、クッションから放たれた彼の少し苦い臭いが私を優しく包み込む。

 良い匂いでは勿論ない。ないのだけれど……嫌、というわけでもなかった。

 

「また、このまま寝ちゃおうかな……」

 

 不思議と安心感が沸いてきたのだった。

 それがこのクッションからする臭いのせいであるという事に気付くのは簡単なことで、その事実だけで少しでも顔が熱くなった自分の浅ましさに呆れさえ感じる。

 身体の奥底で深く脈打つ鼓動とそれを阻止しようとする理性の狭間で、私は腕を投げ出してゆっくりと瞼を閉じる。

 

 私は想像以上に無力だったらしい。

 

 彼が消えてから数日経った今、私は彼から引き継いだ仕事と勉強の両立で日々を過ごしている。

 学業面に関してはこれまで通りの学習方法を続けていけば取り敢えずは大丈夫だろう。

 しかし問題は共生派に関する仕事だ。

 

 主な仕事内容は共生派の情報をかき集め、偶に学園へ侵入してくるテロリストから情報を吐き出させること、そしてそれらを厳重なロックを施したデータへ書き留めることだ。

 たったそれだけのこと。

 しかし私にとってはこれがとても厄介で、意図的に隠された情報をノーヒントでピンポイントに発掘することはとても難しかった。

 たとえば私が彼や双美さんのようにコンピューターに明るかったなら、この問題は簡単に解決できたのかもしれないけれど、現実はそうではない。

 

 結局のところ、私はこの仕事を受け持ってから何一つ新しい情報を迎える事が出来ていない。

 見つけられたとしても、それは既にデータに記録されたことのある既存の情報に過ぎなくて、それは私がこの件で何の力にもなれていないという事を思い知るには十分すぎるほどの冷たい事実だった。

 

「ほんと、嫌になっちゃうなぁ……」

 

 この仕事はあまりにも重すぎる。

 

 彼は私の事を信じてると言ってくれたけれど、それだけで任せていいような仕事では無かったのかもしれない。

 もっと個人の能力を見るべきだった。

 ただ信頼に値するというだけで私を選んだのは間違いだったのだ……。

 

 ……なんだか喉が渇いた。

 ずっと狭い部屋に籠っていても気分が窮屈になるだけだから、今日は少しお出掛けでもしてみよう。

 

ーーー

 

 今にも落ちてきそうな雲空の下、私の足は普段なら考えもしないような場所に向かっていた。

 

 考えもしないこと──つまりそれは、私とは直接的な関係が一切ないもので、こうしてわざわざそこへ行こうとしているのは、時間の無駄遣いが一番嫌いな私にしてはかなり異例な事だと思う。

 そうなのだろうけど、今の状態ではきっと真面に勉強することも出来ないだろうし、昼寝をしようにも先の無力感が尾を引いて眠らせてはくれないだろう。

 かといって休憩時間をずっと無気力に過ごすのは言語道断、私が許さない。

 

『気分が落ち着かない時は……』

 

 かつて彼が言った言葉を思い出した時、私の足はある部屋の前で止まった。

 中世ヨーロッパのようなスタイルの校舎が建っているこの魔法学園では、一際異色を放っているたった一つの部屋──作法室。

 

 気分が落ちぶれている時、また戦闘で血の滾りが収まらない時は茶の湯で冷ますに限る。

 私にはその感覚が分からないけれど、彼はクエストが終了する度にこの作法室へと足繁く通っていたらしい。

 なんの前触れもなく突然、ある日を境にしてそうなったそうだ。

 

 入り口は二層構造になってあって、格子の入った引き分け戸の先に松が描かれた襖が閉じている。

 格子の隙間から中を覗いてみると、既に靴が一足だけ置かれていた。

 私は吸い込まれるように戸を引き靴を脱いで襖の前に立つと、私は少し躊躇いがちに襖を開く。

 

 その先には、畳の上で凛とした表情で正座をしている白藤(しらふじ)香ノ葉(このは)がいた。

 その姿の遜色ない美しさに、私は思わず目を奪われて息を忘れてしまう。

 悠遠を偲ばせる数秒の後、先に口を開いたのは白藤の方だった。

 

「……やっぱり。来はると思うとったよ」

「何故、私が来ると」

「曇天やと良い気にはなれんからね。それにほら、今の時期イヴちゃんは余計に」

「……」

「まっ、細かい事は気にせんで。早うそこに座りんさい」

 

 まったく、彼と同じような会話に少し鬱陶しさを感じながら言われた通りに炉の脇へ腰を下ろす。

 穏やかに明るい部屋で、庭の池に弾かれた光が真っ白な障子にゆらぎ、桜木の影がまるで私達を呑み込もうとしているかのように映っている。

 視線を下ろすと、炉に丸い釜が置かれてあり、こつこつと心地よい音を立てながら湯を沸かしている。

 

 白藤が一礼し、点前は始まった。

 仕覆から茶入れを取り出し、茶入れと茶杓を帛紗で清める。

 釜の蓋を取ると控え目な湯気がふっくらと立ち上がった。

 柄杓で湯を抄い、茶碗に注いで茶筅を通す。

 湯を建水に戻して茶巾で茶碗を拭い、茶入れの茶を茶杓で抄い入れる。

 

 湯を注いで茶筅を振って濃茶を丁度良く練り上げた。

 満足したように少し口元を綻ばせた白藤は、炉の脇に正座していた私の前に茶碗を差し出してにこりと微笑む。

 本当に、この人の考えている事は掴み辛い。

 

 掴み辛いからこそ、掴んでみせたいと楽しくなれるのだが。

 

 両手に収まりきるほどの黒い茶碗を取り、中を覗くと新葉のように美しい緑色の茶が完成されていた。

 私はそれをゆっくりと口へ含む。

 

「……おいしい」

「おおきに。ウチも茶道始めて結構経つからね」

 

 茶の味にうっとりしていた私は、白藤の声で現実に引き戻されたかのような錯覚に陥った。

 見上げると、彼女はふわりと笑っている。

 

「それで。わざわざここまで来やはったって事は、何や話したいことがあるんやろ?」

「……はい。彼のことで、少し」

 

 まるで全てを見通しているかのような白藤を前に、私は頷く事しか出来なかった。

 それに、不覚にも彼女になら悩みを相談してしまってもいいかもしれないと思ってしまった。

 だから私は、他言無用を言い渡されていた事以外を包み隠さず話した。

 彼がいなくなってからあまり眠れなくなったこと。

 そして、彼から任されたとある仕事がなかなかうまくいかないこと。

 

「なるほどね……。でも、あの人はずっとイヴちゃんの傍におったんやろ? やったら、イヴちゃんに出来んような仕事を任せるやろうか?」

「……あの人は私の事を高く見過ぎてたんです。背後に浮かぶ大きな虚像を見て、それを私だと錯覚しているだけなんです」

「ウチはそう思えんけどなあ」

 

 余裕そうな笑顔でそう言う白藤の目を見て、思わず苛立った。

 この人が、一体彼の何を知っているというのだろう──。

 

「……そないに睨みつけへんで。ウチかておんなじ学園生やし、あの人とはちびっとだけ交流があるんよ」

「……すみません」

「気にせんで。それに、どうせこれはただの勘やから」

 

 どうやら気持ちが外に出てしまっていたらしかった。

 いけない……彼のことになると、いつもは出来ていたことが途端にできなくなってしまう。

 相変わらずの依存具合に、複雑な気分ではあるけれど思わず苦笑いしてしまう。

 

 ──そういえば、とやけに冴えた思考が一つの情報をはじき出した。

 彼は確か頻繁に作法室へ通っていたのだ。

 だったら彼とこの白藤香ノ葉と仲がよくても、何もおかしくはないではないか。

 まったく、私としたことが不覚だった。

 こんな簡単なことにもっと早く気付いてさえいれば、人を睨みつけるなんてことはしなかったのに。

 

 ……どうして気付けなかったかは、言うまでもない。

 

「彼がいなくなってから、私は想像以上に彼の事を好きだったんだと気付きました。だからその分依存してしまっていた……」

「……」

「どうして彼なんでしょう。どうして彼が、犠牲にならなくてはいけなかったんでしょう。もっと世界は広いのに、標的はたくさんいるのに……どうして寄りにも依って彼が──」

 

 そこまで言いかけて。

 私は咄嗟に口を閉じて、その生まれかけた恐ろしい思考を外に漏らさないよう努めた。

 

 ──彼は世界を救う魔法使いになることを夢見ていた。

 過去の私からすればそれが如何に子供らしく、実現するにはどれだけ大変かを考えるといつも馬鹿らしかったが、今考えればそれはとても愚かだった。

 彼は、自らの命を犠牲にして世界を救おうとしていたのだから。

 命を投げ捨てる事をも厭わない私ではないから、彼の夢をどうこう言う資格は微塵も無いのだ。

 だから私は、彼に文句を言うのではなく限りなく近い理解者であろうと決意した。

 

 そんな私が、彼ではなく他の人が犠牲になれば良かった──そんな事を言うのは彼の夢、つまり人生を否定する最悪な裏切り行為に他ならない。

 だから私は全力で吐きかけた呪詛を腹の底へ押し込んだ。

 

「イヴちゃん……」

「わ、私は……私は……」

「ううん、なんも言わんでいい。イヴちゃんはもうなんも気にせんでいい。

 ──だからこれから話すのは、ただのウチの独り言」

 

 そう前置きして。

 白藤が改めて背筋を伸ばし、蕩けた笑顔を整える。

 

「……あの人からは言うなて厳重注意されとったんやけど、実はある秘密を持っとんよ。

 ウチには分からんけど……でも、知っとる人は分かる」

 

 そう、これは独り言。

 だから私は、こうして目の前で彼との約束を破ろうとしている人がいても注意することは出来ないし、仕方がない。

 彼から厳重注意される程の秘密──それを間接的にだが暴露してもらおうとする罪悪感をひしひしと感じる中、私は期待の織り交じった視線を白藤へ送る。

 

「その人の名前は──」

 

 訪れる静寂、緊張、そして恐怖。

 全ての時が止まったような空間に私と白藤のただ二人。

 存在を共有しているような感覚の中、白藤は重そうに口を開く。

 

「……アイラ。東雲アイラ。彼女なら、あの人の秘密を知っとる」

 

 予想通り──しかし、そうであってほしくなかった人の名前が挙がった。

 東雲アイラ……彼女が握る秘密に、碌なことは無いと決まっているからだ。

 

 私は悩みを打ち明けて心が透き通るような感覚を覚えながらも、同時に新たな問題に頭を悩ませながら作法室を後にした。



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真実

 作法室が設置されてある文化棟を出ると、雲間から陽光が地上に降り注いでいた。

 美しく、幻想的な光景ではあるけれど、今の私にはそれにうっとりしているほどの余裕は無かった。

 

 ──彼の秘密を東雲アイラが知っている。

 それだけのことならいつものように図書館で魔導書を開いていただろう。

 けれど、それを教えてくれた白藤の口振りからして、どうやらそれが恥ずかしい黒歴史とか、以前好きだった人の名前だとか、そんなちょっとやそっとのものでない事は明白だった。

 その上に、どこを探しても彼の身柄が見つからないという奇妙さと併せると、それらに何らかの関係があると考えるのは自明の理だろう。

 

 学園内を速足で進み、私の足は学生寮へと向かっている。

 何が目的なのかは言うまでもない──無論、東雲アイラに事の顛末を確かめるためだ。

 これは、この学園へ転入してきてから今に至るまでの数年間で培った経験則なのだけれど……重大な事に限って、東雲アイラが絡んでくると間違いなく裏にとんでもない『悪魔』が潜んでいる。

 その『悪魔』が大規模侵攻に関する内容だったなら、それは生徒会や執行部に任せて私は指示を仰いだだろうけれど、彼の事となるとそういう訳にもいかない。

 

「東雲さん、いますか」

 

 私はノックと同時に部屋の中へ声を掛けた。

 どうやら自分で認識している以上に、私は無意識的に焦燥しているようだった。

 その証拠に、生徒寮内の廊下を行き交う生徒達の足音がまるでスロー再生をしているようにゆっくりと聞こえる。

 生徒が持ち歩いていた本の上に乗っていた可愛らしい葉っぱの栞がするりと抜け落ちた。

 それはくるくると空中で何度も回転しながら、やがて静かに床に舞い落ちる。

 

 ──それと目の前の扉が開かれたのは同時だった。

 

「昼時に態々人が訪ねてくるのも珍しいの。……うん? 今日は特に珍しい来訪者じゃな」

 

 中から出てきた白髪の幼児体型をした少女、東雲アイラはまだ寝間着姿のままだ。

 この時間帯に人が来るのがそんなに不思議な事なのかと疑問に思うけれど、彼女のまるで真意を探るような敏い眼光に晒されては、よっぽどの事なんだなと思う。

 

「今日は東雲さんに聞きたいことがあって来ました」

「聞きたいこと、とな」

「はい。貴方が知っている彼に関する情報、いや……秘密を」

「……ほう」

 

 私の言葉を聞いた東雲は一瞬大きく目を見開いて驚いたような表情をしたけれど、それでもすぐにいつものような無邪気そうな笑顔を顔に浮かばせた。

 しかしその表情はどこまでも深く、深く、深く──紅に輝く底なし沼のような瞳は、まるで彼女の意思表示の様にも思えた。

 

 でも、今更ここで引き下がれない。

 というか、自分で言うのも難だけれど私は彼の特別なのだから、当然私にも秘密を知る権利はあるだろう。

 ……もし、あくまで東雲は彼の秘密を守り通すというのなら、私にも対抗し得る手段が──

 

「別に構わん」

 

 ……まさかここまであっさり承諾されるとは。

 まあ、これなら余計な手間が省けて好都合。

 私とて、人を貶めるのになんの感慨も抱かない程無慈悲な人間ではない。

 

「ではどこか誰もいない、静かな場所で話しましょう。行く当てなら、私が事前に調べておきました」

「いや、その必要はない。丁度妾も、お主を交えて生徒会役員全員にあやつの事について話すつもりじゃったからの。場所は生徒会室で十分じゃ」

「……あの人たちにも話す必要はあるんですか」

「勿論じゃ。──今やあやつの失踪事件はこの学園内だけの問題ではない。一助の生徒だけの力じゃどうにもならんわい」

 

 学園内だけの問題ではない──。

 それはつまり、いつものように生活して、クエストを請けて完遂して……そんな日常を送っている私達では手に余る問題ということ。

 

「どうする? 一応妾はあやつと一番親密じゃったお主の意見を尊重しようと思うのじゃが……」

 

 まるで気遣っていますと言わんばかりの発言だが、今の私にとってそれはただの死体蹴りと形容すべき煽りでしかなかった。

 私は彼の秘密を知りたい──多分これは普通の感情だと思う。

 そして、出来るだけ彼の秘密を多くの人に秘密のままにしておきたいと思う感情も、またそう。

 だからこの提案は願っても無いこと──だけど、もし彼の失踪になにかの介入があったとしたら?

 その時は私だけでどうにかなる問題なのか──否、出来ないに決まっている。

 

「……生徒会の人達も同席させてください」

「……うむ、分かった。理解してくれてありがたい」

 

 そう言って彼女はふっと小さな笑みを作った。

 普段はまったく気にしない子供らしい笑顔だなと思っていたけれど、今日に限ってはまるで親の仇ともいえるような憎らしい気もした。

 この女は一体なにを企んでいるのだろうか。まったく、この学園にはおかしな人が多すぎる。

 尤も、他の生徒にそのことを聞けば、『いやお前もだよ』と言われる事間違いなしだが。

 

「さて、じゃあ行くかの。生徒会室へ」

「い、今からですか? 生徒会の方達に勿論話は──」

「しておらん。なあに心配するでない。妾が声を掛けんでも、重要な人はあっちが勝手に集めてくれるわい」

「いやそういう問題では……」

 

 友達と会う訳じゃないんだから、事前にアポイントメントは必要だろう。

 それも重要な会議に成り得ることなら尚更。

 だけど東雲はそんなことを一切気にする様子も無く、私に行くぞ、と一声かけて寮から出ていった。

 

ーーー

 

「アイラの言う通り生徒会のメンバーは全員集めたが……」

 

 執行部との間で設けられた緊急会議が終了し、生徒会長の武田(たけだ)虎千代(とらちよ)は疲れからかこめかみを押さえながら腰を下ろした。

 大変な事件が起きた時は大概顔を出してくる東雲が今回は珍しく引っ込んでいると不思議に思った矢先、彼女がなんの断りもなく生徒会室にいるのだからその分疲れも倍増する。

 

 しかしそれよりも本当に驚いたのは、こういったことにはきちっとするイメージであった冬樹イヴも一緒になってこの場にいることだ。

 

「急な要望、本当に申し訳ありません。私からは先に連絡を入れるよう言ったのですが……」

「なんじゃなんじゃ、責任逃れするつもりかえ?」

「そーゆーの別にいらねーですから」

 

 先に注意したのは、東雲のふざけた態度に苛立ちを隠せずにいた生徒会副会長の水瀬(みなせ)薫子(かおるこ)ではなく、水無月であった。

 今この場には、いつもの生徒会メンバー以外に風紀委員長の水無月風子、東雲アイラと冬樹イヴ、──そしてどう考えても場違いな双美(ふたみ)(こころ)だけだった。

 そのことに冬樹は酷く疑心感を抱いていた。本当に何を企んでいるのか、と。

 

「私達生徒会へ緊急で招集をかけた。それが一体どういうことか分かっているのですか?」

「勿論。お主が一体どんな情報を欲しておるかは知った事ではないが、少なくとも今日話しに来たのは到底一般生徒では太刀打ちできぬ代物よ」

 

 水瀬は東雲をまるで獲物を見定める鷹のような鋭い目つきで睨めつけたが、彼女はそれにとことん純粋な笑顔を返し、水瀬は呆れた様に目を瞑って溜め息を吐いた。

 

 緊張で張り詰めていた部屋内の雰囲気は、ひとまずの緩和を迎えた。

 しかし肝心の本題にはまだ一歩も踏み入れていない。

 

「それで、本題は」

 

 水瀬は急かすように、また探りを入れるような声色で訊ねた。

 

 ──水瀬薫子はとても聡明な女である。

 そもそも彼女は生徒会長である虎千代に絶大な信頼を寄せ、それはもはや信者と呼ぶに等しいほどであり、故に彼女は会議で疲れていた虎千代へ事もあろうか出会ってすぐに会議を取り付けた東雲を憎んですらいた。

 話によっては、四の五の言わさずに彼女達を生徒会室から追い出そう──水瀬はそう考えていた。

 だが。

 

「現在失踪中のあやつについて……生徒会すらも欺き隠し通していたある秘密。それと──どうしてあやつの痕跡がここまでほとんど見つからないのか」

「っ! それは……!」

 

 東雲のその言葉に虎千代は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。

 今まで誰にも知られることの無かった彼の秘密──それが、今回の事件を解く重要な鍵となる。

 大した根拠は無かったが、この生徒会室にいた誰もがそう思った。

 生徒会室は、先程とはまた違った緊張感で支配された。

 

「まず先に言っておくが、今から話す事はもう風子には言ってあるぞ。絶望の淵で抗う姿は見るに堪えんかったんでな」

「水無月さん、捜索で入手した情報は全て生徒会へ報告するようになっていたはずですが」

「まあそう責めるでない薫子。風子には妾から口止めをしておったのじゃ。なにせこの話、知識が半端な者が語るにはあまりに黒すぎるからの」

「黒、すぎる……?」

 

 東雲の『黒すぎる話』というやけに含みをもたせすぎているような言い方には、この場にいる生徒達全員が疑問符を浮かべた。そして彼女達は思った。

 その言い方ではまるで、彼が何かいけない事に関わっているみたいではないか。

 彼の失踪には魔物だけが原因では無くて、他にも何かが原因に──それも、当時の環境状態とか、突発的な異変による事故ではなく、もっと必然的ななにか。

 そんな様々な思いを他所に、東雲は不意にポケットから一個の小さい結晶を取り出した。

 

「なんだそれは」

「これは妾があやつとの友好の証に作った位置センサーじゃ。予め決めておいた対象から魔力が微量でも流れ込んでくると、この結晶は赤く脈動する」

 

 この魔法仕掛けのセンサーは、東雲が古来より好んで用いていたものの一つだ。

 機械を使っている訳でも無い為電池の問題を心配する必要も無く、相手の位置を探るのに必要な魔力も極微量で済むのでコスパが非常に良い。

 今は近くに彼がいないので、勿論結晶は透明のままだ。

 

「なるほど、それは便利だな。しかし東雲……まさか無許可では」

「あやつが眠りこけているうちに細工させてもろうたわい」

「は?」

「落ち着いてくだせー冬樹」

 

 一瞬にして目からハイライトが消え失せ東雲に殴りかかろうとした冬樹を、水無月がどうどうと引き留める。

 

「どれだけ頼んでも許可してくれんでの。よく任務で仲間から頼られておったから、心配しておっただけなのじゃが」

「あいつは変な所で意固地になるからな。まあ、あれだけ共生派のことで他の魔法学園との提携を押し付けていたのではそうなるのも仕方ない」

「お主が少しでも仕事を肩代わりしてやったらよかったじゃろうに」

 

 その言葉に対して、虎千代は申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「できるものならやっていたのだがな……」

「……まっ、今更どうこう言うても仕方が無い事よ。して、妾が皆を呼んだのはこんな事の為ではない」

 

 東雲は手に持っていた結晶をポケットへ仕舞って小さく腕を組んだ。

 

 しかし冷静に考えてみれば、ストーカー紛いとはいえ彼女がそこまでやるのもなかなか珍しいと言えるだろう。

 学園でトップクラス級に強力な魔法使いで人望も厚いが、大した魔術特性や家柄も持たず、ただ腕っぷしがあるだけのなろうと本気で思えば誰でもなれるような彼は、良くも悪くもあくまで普通の学園生である──これが学院内での彼に対する共通見解であった。

 彼が消えて数日経った今──魔力を他人に譲渡する力という世界初の特性を持った転入生に比べれば、大した人物ではない。

 

 しかし。

 東雲が注目していたのは、決して彼の強さではなかった。

 

「あやつは初陣の頃から魔物討伐に長けておってな。妾が数体を相手取っている内にばっさばっさと魔物の群れに単独で斬り込んで行きよったわい」

「その話は私も把握しております。当時は報道部の新聞に毎回出ていましたね。魔物殺しの神が舞い降りた、と随分持て囃されていました」

 

 そう呟いた水瀬に、東雲は難しそうな表情をする。

 

「うむ……まあ、よくよく考えてみればその喩えには些か間違いがあるのじゃがな」

「間違い、ですか?」

 

 確かに東雲が言った通り、彼は入学当初から学園トップクラスの魔法使いとしての片鱗を覗かせていた。

 それは彼の戦いぶりを見れば学園内外問わず誰にでも強いと思わせる程で、事実例の喩えに関して不自然に思っている者は少なくともこの場に一人もいない。

 

「あやつのおかしさに気付いたのは、共にクエストへ行くようになって数ヶ月経った頃じゃ。その頃はもう白兵戦のイロハは完全に会得しおって戦いやすいのなんの。じゃが…」

「……私も不自然さは薄々と感じていた。確かに彼は強い、それは理解している。だが……たった一人で、それも入学したての人間があれほどの魔物を撃破するのは流石に有り得ない」

 

 そう話した虎千代に、東雲は首を縦に振る。

 

「その通りじゃ虎千代よ。そこで妾は、あやつの戦いぶりを暫く観察することに決めたんじゃ。あやつの無尽蔵の強さの正体を暴こうとな」

「それで……」

「すぐに分かった、一目で分かったわい。あやつは自身の力だけで、そこまでの戦果を挙げていた訳では無かった」

「……よく意味が分からないんですが。なら彼はどうやって──」

 

 

 

 

 

「霧に親和しておったんじゃ、あやつは」

 

 

「……え?」

「どういうことだ、東雲」

「普通、妾やお主のような人類にとって霧は毒でしかない。つまり霧とは対なる存在じゃ。しかしあやつは、その立ち位置からかなり霧の方へ寄っておる」

「……」

「霧と親和しておる──言い換えれば、あやつはそこらの魔法使いよりも霧の本質について本能的に理解しているということじゃ。じゃからあやつは霧の効率的な払い方を知っておるし、その技術を意識せず扱う事が出来る……」

 

 開いた口が塞がらなかった。耳を疑った。さらに正気さえ疑った。

 この無表情で立っている東雲アイラは、今なんといった?

 

「じゃが、あやつが霧の魔物なのかと問われればそうではない。人より霧を耐えることは出来るがそれも完全ではないはずじゃ。一定量を超えれば毒として身体を蝕むじゃろう」

「そ、そんな……本気で言ってるんですか東雲さん……!?」

「まあ、その反応も無理ないわい。じゃが妾は少なくともこれまでに同じやつを何人か見たぞ」

「人でありながら、霧と親和性を持つ人間を……?」

「そうじゃ。……信じられんじゃろうがな」

 

 何でも無さそうに話を続ける東雲だが、一方虎千代は気が気ではなかった。

 霧と部分的ながらも共生が可能な生物などこれまで前例が無かったからだ。

 

 大前提として、魔物の根源たる霧は人類にとっては生命に影響を及ぼす病原体となんら変わりはない。

 例えば霧の濃度が高い場所へ行けば、体内に霧が侵入することがある。

 霧は霧を呼ぶ性質を持つ。そしてその結果、身体を完全に霧に侵されてしまった生物は霧の魔物と化す。

 

 言ってしまえばこれは一般常識の様な物である。

 蛇口を捻れば水が出るのと同じように、ごくごく当たり前な現象として世に決定づけられている。

 だからこそ、今しがた発覚した彼の異常性は興味よりも先に恐怖を感じさせた。

 

「じゃが、昔から霧と見事に共生できる生物が存在する可能性は少なくとも考えられておった。周りからは異端者を見るような目で蔑まれながらその研究をする者がな。妾も昔はその一人じゃった」

 

 東雲は懐かしそうに、しかし時折悲痛そうな雰囲気を漂わせながら、今は遠き過去に思いを馳せる。

 

「霧と親和性を持つ。それは妾にとってとても興味深いものじゃった。もしかしたらその力は、明確な対抗策の無い人類へ魔物の一時的な撃退ではなく、永遠の絶滅という救いを齎すと考えておった」

「……」

「そんな節、妾の目の前に現れたのがあやつじゃ。そしてあやつの特質を知った時に考えた。もしかしたらあやつは、妾が随分前に発見した命令式──魔法に耐えられる人材かもしれん、とな」

「……東雲さん、貴女まさか──!」

 

 命令式、という言葉に冬樹が突然声をあげる。

 嫌な予感が、した。

 

「……意図的に霧を呼び寄せ、身体に取り込み、一時的な身体強化を得る魔法じゃ」

「な──」

「霧との相性が良いという事はある程度までの霧の恩恵を受ける事が出来る。妾はそう確信して、あやつにその魔法を教えたんじゃ」

 

 ──気味が悪いくらいに物音一つしない生徒会室。

 沈黙が辺りを支配する。アイラが深く息を吐いて、吸って──。

 

「……その確信は、正しかったわい。筋力の増加、五感の急激な発達、それに伴う生命活動の増大。どれをとってもその魔法はあやつと相性がピッタリじゃった」

「ふざけないでください! そんな実験紛いの事に彼を利用して……人の命を一体何だと思っているんですか!?」

「ふ、冬樹! 落ち着け!」

 

 不安と怒りと、そして日に日に容赦なく増していく絶望。

 ここ数日で積もりに積もったそんな負の感情が、東雲の過去の告白により爆発した。

 冬樹は大人しい生徒だ。しかし彼女でも心の底から爆発的に湧き上がって来た激情を抑えることは出来ず、とうとう東雲に掴み掛かろうとしたところを、水無月が彼女の手を掴んで引き留めた。

 

「離してください! あいつは……あいつだけは、絶対に許せません!」

「気持ちは分かりますがね、これは暴力に訴えてどーにかなる問題じゃねーんですよ」

「ですが……!」

「まずは東雲の話を聞いてやりましょ。話はそれからです」

 

 水無月に諭されて落ち着いたか、冬樹は真っ赤な顔で悔しそうに唇を噛みながら、怒りでかたかたと身体を震わせながらキッと東雲を睨みつけた。

 

「……続きを話せ、東雲」

「……確かに相性はピッタリじゃったが、まだその魔法には未知の部分が多かった分伴う危険度も未知数じゃった。じゃから妾は、それを非常時以外使うなと託してその魔法を伝授することとしたんじゃ」

「それで、その話と今回の失踪事件ではなんの関係があるのかしら?」

 

 薫子は苛立った口調でそう訊ねる。

 虎千代以外には全く素っ気ない態度をとる彼女だが、先程の東雲自ら語った話には流石に癪に障ったらしい。

 それに、本筋の見えない話をたらたらと続けているのも、彼女の怒りの燃料には十分だった。

 

「虎千代よ、あやつの血痕はほとんど見つかっておらんのじゃろう?」

「あ、ああ。あいつの刀が落ちていた地底湖はおろか、洞窟内のどこを探し回ってもほとんど見つからなかった。それがどうかしたのか」

「あやつは治療をしたんじゃ」

「……は?」

 

 唐突で、予想だにしなかった一言に素っ頓狂な声が漏れる。

 そんな虎千代の反応を見て、アイラは先程の結晶をまた取り出す。

 

「先も言った通り、あやつは霧と親和する特質を持っておる。それは、霧と同化することが出来るとも言えるのではないかえ?」

「っ!……そうか、当時あの場には莫大な量の霧が立ち込めていた。あいつはそれを利用して、体外に出てしまった血を霧と同化させ、それを無理矢理魔法で吸収した……そういうことか?」

「なかなか頭がキレるの。その通りじゃ」

 

 理屈では考えられない、想像する事さえ難しい技術だ。

 しかしもし。東雲や虎千代の言う予想が的中し、彼は出血した大量の血を体内に戻すことが出来ているとしたら──。

 

「い、生きてるのか!? ならあいつは今どこにいるんだ!」

「まあ待て。この結晶はな、相手の魔力を確実に入手する為に改造したタイプなんじゃ。どこにいるとしても僅かに脈動するほどにな」

 

 東雲は結晶を吊るしてある赤い紐を人差し指で摘まむと、目の前に持って来てぷらぷらと揺らす。

 結晶は相変わらず透明なままで、生徒会室の電灯を照り返している表面がまるで太陽の下で波打つ海の様に輝いている。

 

「それを踏まえて、結晶の脈動が無いとなると考えられる可能性は2つじゃ。体内の魔力が枯渇しておるか、もしくはこの結晶が想定するより遠くに逃げておるか。あやつの魔力量の豊富さを考えるに、間違いなく後者じゃろうな」

「この数日間でそんな遠くへ逃げる事が出来るのか……? いや、だが再び捜索を──」

「無駄じゃ」

 

 きっぱりと否定する東雲。

 

 結晶の想定外の場所に逃げている。それはつまり彼が生きている可能性が高いということだ。

 彼が死んでしまったならそれこそ捜索隊を結成したところで死体を見つけるだけに終わってしまう。

 しかしそうでないのなら、今すぐ捜索隊に参加したい生徒を募集し、有り得ないと踏んで一度も踏み入れなかった洞窟の更に奥へ、また洞窟外の広範囲に捜索の目を向けるべきだろう。

 

「……なぜだ」

「説明が悪かったの。普通この結晶は、あやつが例え地球の裏側におったとしても魔力を吸い出すじゃろう。どんなに離れていても、じゃ。つまり妾が言っておるのは、距離という物理的な遠さじゃのうて、時間、もしくは空間的な意味での遠さじゃ」

 

 ここで薫子は、ようやく東雲が言おうとしている事に気が付いた。

 彼には霧と親和する能力があり、それを利用した全く新しい魔法を東雲から受け取った。

 その魔法は周囲に散らばる霧を集める事が出来る。

 そして霧という不確定なものが秘める強大な力──高濃度になると、空間さえも歪ませる。

 

「自分で霧を一か所に集めて濃度を高め、空間を歪ませたのじゃろう」

「それってつまり──」

 

 

 

「ああ。あやつは裏世界におる可能性が高い」



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狂刻

急いだので誤字が多いかもしれません。


 遅かれ早かれ、この世界は全てが終わる。

 

 目の前の惨状を目の当たりにすると、『形あるものは必ずいつかは壊れてしまう』と誰かが言っていたのを思い出したが、本当にその通りだなと他人事ながら思ってしまった。

 この世界の皆はそれを理解している。そして大規模侵攻に敗れたあの日、彼等は来る終焉へ覚悟を決めた。

 

 ただこんな、誰も救われることの無い終わりを望んでいる者が果たしているのか。

 よっぽどの気狂いならまだしも、誰一人としてそんな奴はいないはずだ。

 

 そして俺は魔法使いである。

 人々の望む未来を率先して切り開いて行き、道標となる義務がある。

 

 だからこそ。

 もう無意味なことだと知っていても、俺達魔法使いはこの世界で魔物に抗い続ける。

 

「魔物が2体そっちに行きました!」

「任せろ」

 

 喉が潰れ、嗄れ声は迫り来る魔物達の轟音に捻り潰される。

 包帯を巻いた頭が痛い。視界がぼやける。喉が焼けるように熱い。

 身体は既に悲鳴を上げている。……だが、一体それがどうしたというのか。

 

 命のやり取りをする場で、そんな事に頭を使っている暇はない。

 ただ単純に、どうすれば魔物を効率良く殺す事が出来るか──ただそれだけに思考を費やす。

 

 腰に携えた使い込まれていない刀に手を重ね、ゆっくりと瞼を閉じて意識の海へ沈む。

 ふっと耳を塞がれたかのように外界の一切合切の音が消え、ただ残ったのは己の存在証明たる鼓動と冴え渡る思考のみ。

 

 焦ることは無い。

 この世界で一睡もせずに戦いへ身を投じ続け数日。

 たかがタイコンデロガの2体程度、取るに足らない。

 

 ──瞼越しにでも伝わる、猛烈な速さで迫り来る魔物共の気配。

 まだ、まだだ。まだ刀を振るうに絶好ではない。少し待ち、そして──

 

「──うらああぁぁぁぁっ……!!」

 

 俺は瞼を開けて鞘から刀を引き抜き、思い切り横薙ぎに振り払った。

 

 ──それはかつて、盟友であった少女が雷光の一閃と評した剣技。

 刀に這わせた魔力は振り払った際の衝撃波を増幅させて青白く発光し、稲妻のように光線を描く美しい色彩でありながら、それは例外なく魔物の命を刈り取っていく。

 その一撃を受けた魔物達は悉く霧散した。いや、この表現は間違いか。

 

 散ってはいない、消えた。

 身体の維持が不可能になった魔物達は、霧へ戻ること無く空間の彼方へと消え去る。

 

 俺は、魔物の殺し方(・・・)を知っていた。

 ただその方法を誰かに伝える事はついぞ叶わず。

 結局はこうして、一人でちまちまと一体ずつ魔物を殺していくほかに霧を消す方法はない。

 

「グガアァアアァァ──ッッ!!」

 

 後ろからの咆哮が鼓膜を突き破らんと暴れまわる。

 見なくても分かる。距離は約2メートル。猛スピードで俺に突進してきているのだろうか。

 並の人間ならこの時点でどうしようもない現実を前に死を覚悟する。

 これに対処できるのはせいぜい戦いに身を投じ続けた戦闘狂ぐらいだろう。俺は戦闘狂でこそ無かったが、同時に魔物の殺し方を知るために生憎人間でも無かった。

 

「遅い」

 

 刀の切っ先を真後ろへ向ける。

 身体をぎしぎしと軋ませる重圧と衝撃が刀を伝って手首に流れた瞬間、背負い投げの要領で刀に刺さったままの魔物を俺の目の前に叩きつけた。そうして狼狽している内にショルダー内のナイフを握って首を掻き切り止めを刺す。

 

 これは作業であり、ただの一方的虐殺に過ぎない。

 本来魔物討伐はこうあるべきだ。魔物という畜生を殺す為にわざわざ人様の命を要求するのもおかしな話だろう。……でも、この考えこそが俺がどう頑張っても人たらないことの表れであり。

 

 何度破壊しても、溶かしても、焼き尽くしても。

 しばらくすればまた心の中に舞い戻って来るこれは、まさしく呪いに他ならなかった。

 

 ──前方の遥か彼方。

 大きな魔物群が俺の方へ向かって駆けている。

 

 瞼を閉じた。視えるのは、慌ただしく走る魔物の黒い影。

 目測、約560メートル。規模は数十体程度。全て、タイコンデロガ級。

 奴らが来る事は、既に予測していた。

 

 俺は、右手で持っていた刀の柄を両手で強く握り直す。

 刀が震えている。どうしたのかと視線を腕に落とすと、ああ、なるほどとすぐに納得した。

 ボロボロの袖の中から赤く粘着性のある鮮血が滴り落ちている。まるで、あの時のように。

 多分、どこかのタイミングで魔物から受けた攻撃を掠り傷と判断して放置していたからだと思う──ぼたぼたという音が聞こえるくらいの出血量は、明らかに戦闘が続行できるそれを超えていた。

 

 さて、どうしたものか。

 目の前には本能のままに俺を殺そうと向かってきている強力な魔物達。

 後ろには何も無いし、逃げようと思えば逃げられるが、そうなった場合どこかで逃げ延びた誰かに甚大な被害を及ぼすことになるかもしれない。

 なら、戦うしかない。魔法使いの本懐は人類の希望だ。

 

 ──俺は。

 刀を下げて、一度深く深呼吸をする。

 左手を落ちてきそうな暗雲立ち込める虚空へ向け、大地を風のように砂埃が駆けた。

 なんてことはない。これも、ただ魔法使いとして魔物を殺すことに他ならない。

 

「《霧よ》……」

 

 ──瞬間。

 俺の周りから、一切の動きが遮断される。

 音、風、臭い、振動、そして果てには時間さえも。

 全ての動きを止められた魔物達は、まるで置物のようにその場で立ち尽くしている。

 

「《集えよ集え・虚無より帰還し終焉の鐘を鳴らせ》」

 

 その詩は魂の叫びであり、そして神への冒涜でもあった。

 突き出した左腕を中心に鼠色をした靄がかかる。それは辺りに散漫していた霧を磁石のように寄せ付け、比例して身体がどんどん軽くなってゆく。

 出血も既に止まっていた。左腕に纏わりついていた霧も全て消えている。

 

 いや、これは消えたんじゃない。

 まるで血管を湧水が通っているかのような感覚が、それを証明づけている。

 詠唱を終えたその時、ここに全ての英霊達への叛逆は完成する。

 

「《永遠(とわ)なる輪廻の果てに》……っぐ、ああぁっ!?」

 

 刹那。

 身体中を巡る血が。大気から吸い込む酸素が。涙が。まるで熱く煮え滾る溶岩のように身体の内側から殴りつけてくる。

 熱い。痛い。神経が焼き切れてしまいそうな耐え難い苦痛。

 同時に足の指先から頭の旋毛に至るまで全ての感覚が精細に澄み渡り、自分の鼓動がいつもよりも近く聞こえる。

 これまで経験した中で二度と味わうことは無いと思っていた生き地獄にいながら、身体は天使の羽に包まれたかのように軽やかで、そしてどうしようもなく湧き上がる剛力は──まさしく俺が人足りえない何よりもの証だった。

 

「あ、ぁ……だから、これは嫌なんだよ……っ!」

 

 ドンッ! 後方から突如砂嵐が巻き起こり、足元の瓦礫が炸裂した爆音と共に黒雲へと吸い込まれて行く。

 視界を様々な遺物が凄まじい速度で駆け抜けていく。一つ地面を蹴っただけで、身体はまるで弾かれたように魔物達へと豪速で発射した。

 ──空中で刀を振りかぶる俺と、先頭を進んでいた魔物の目が合ったのは一瞬の後だった。

 

 一つ。目の前の魔物の頸へ切先を突き立て、一切の猶予無しに切り裂く。

    この衝撃波で、後ろにいた二体が千切れながら後方へ吹き飛ぶ。

 

 二つ。切り裂いた魔物の身体を蹴り付け跳躍し、一体へ兜割りを喰らわし体を縦に両断する。

    刀を左右に薙ぎ視界を晴らすと、奥から更に大軍勢が押し寄せているのが見えた。

 

 あいつらとの距離はまだ十分にある。──なら、あれでいいだろう。

 腰を落とし、空気の流れに身体を任せて肩の力を抜く。

 目標はただ一点、地平線の遥か彼方へ向けて。

 右足で地面がめり込むほど強く踏み込み、腰を捻らせて全身の骨を軋ませながら刀を思い切り横薙ぎに斬った。

 

 ──その刃風は、後方から前方へと駆け抜ける一吹きの烈風だった。

 先程のものとは比べ物にはならない絶技。一人としてこの技を見た人がいないから客観的な私見は得られないが、少なくともこれを喰らって真面に生きていける人間がいるとは思わない。

 ましてや、魔物など──。

 

 迫る異変に気付いた時には、既に彼等はそれの中に身を呑み込まれていた。

 彼等を中心にして、同心円状に広がる球体の絶風。

 辺り一帯の地面を抉り、遥か上空へ舞い上がった石は降り注ぐ弾丸のように固い地面へめり込んでいく。

 当然その渦中にいる魔物共が無事であるはずが無い。

 一定範囲内で様々なベクトルを秘めた幾つもの風が、まるで意思を持ったように白い光線をなぞりながら飛び交い、そうして気まぐれに魔物の身体へ体当たりをすると、その細い線に合わない程の巨大な範囲を抉り取り、通り過ぎた後、その部位からは気味の悪い霧が立ち上るばかりで何も残ってはいなかった。

 

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!!────」

 

 最早絶叫に近いそれは、遠くにいる俺の鼓膜を槍のように何度も突き刺す。

 だがそれも、やがてこの位置からも土を吸い上げていた暴風は鳴りを潜めて絶風の層が一際大きく縮小し爆発すると同時に、暗雲立ち込める空へと消えていった。

 

 辺りを見回す。

 何もない。ただ、倒壊したビル群がやけに大きく視界に入った。

 それだけだ。まるで先程までの乱戦が一夜の夢であったかのように、常に吹き続ける埃っぽい悪風が肌を撫でるばかりだ。

 

「終わりましたか」

「……ああ。全滅だ」

「ウチも殲滅かんりょーです」

 

 声のした方向へ振り返ると、まるで土を頭から被ったように土塗れの水無月が無傷で立っていた。いくら相手取った数が少なかったとはいえ、あれは見ただけでもタイコンデロガ級に近い、もしくはそれに匹敵するほどの強さを有していたことに間違いはない。

 その上で彼女が今、肩で息をしている程度で大した疲労も見せず、負傷を負わずに撃退してみせたのは流石と言わざるをえないだろう。

 裏世界と表世界では、事情が違うのだから。

 

「アンタさんは、つえーですね」

「それは……能力を使ったからだ」

「ちげーます。能力を使っていなくても、です」

「それは知らん。適当に刀振ってたら学園4位になってた」

「アンタさん以上が残り3人もいるんですか……」

 

 水無月は苦そうな表情をして頬を掻いた。それは、入学したての新入生へ案内役の俺が同じ事実を突きつけた時の表情ととても似ていた。

 己惚れるつもりはないが、確かに俺以上の実力者が3人もいる、そして世界規模で見ればもっといるとなると、流石に魔物側でも嫌気が差すだろう。

 

「新入生、ですか」

「ああ。学園上位者で一番取っ付きやすい俺によく魔導書の質問をしてきてたやつだ」

「そんなにべんきょーが好きな人なんですか?」

「あいつは勉強が好きというよりかは、何よりも負けず嫌いなんだ」

 

 確かにあいつは覚えも良いし何より努力家だが、その分自己分析へかける時間が極端に少ないのも事実だった。

 最初は『家族に負担をかけさせない』為に優等生として生活していたが、いつの間にかそれが『他の人に負けない』為に優等生として生活するという、目的が全く違う物へとすり替わっていたのだった。

 一番初めにそれに気づいたのが俺で彼女にそれを指摘したが、当の本人はそれをきっぱり否定し挙句の果てには俺を奇人扱いしてきた。

 

「あいつは、自分が負けず嫌いだっていう自覚が無いんだ。可愛いだろ?」

「可愛いってことは、女の子です?」

「ああ。どこに出しても恥ずかしくない、自慢の後輩だ──」

 

 俺はその後、数十分間に渡ってその後輩との出来事を水無月へ語った。

 学園を揺るがした大功績を収めた話に始まり、ある初夏に起きた制服の悲劇『チョコアイスの乱』、図らずも読書好きのみが同じ時間に図書館へ集ってしまった『魔導書討論会』、何が原因なのか未だに判明していない『歯ブラシ取り違え事件』、『黄リンジュース事件』等、全て挙げようと思えば何度日が暮れるかも分からないそれらを、出来る限り美味しい所を摘みとって話す。

 それを水無月は、頷き、時折相槌を打ちながら笑顔で聞いていた。

 

 全てを話し終わった頃には、南向きに吹いていた風が北向きに振り返っていた。

 

「……すまん。つい話し込んでしまった」

「いや、いーんです。どうせこの後もすることは特にありませんし」

 

 そうは言うが、思い返してみれば話している最中にどこか上の空で、なにか思考の海に仰向けで漂っているように虚ろな目をすることが一度だけあった。

 力なく空を見上げていたその瞳は、しかし蓋を開けてみると膨大な情報と、それらを統合しようとする大渦が渦巻いているのかもしれなかった。

 

「それに……」

「……?」

「久しぶりに楽しー話が聞けて、ウチもうれしーですから」

 

 そうして水無月は、顎を撫でられる猫のように目を細めてふわりと微笑んだ。

 俺と彼女の間に風が吹く。それはこの世界では珍しく精神を犯すような鬱屈とする淀みが感じられず、一体今まで世界のどこを巡っていたのか不思議に思うくらいに清純で、爽やかな涼風。

 思わず風の後を目で追った。風は、まるで俺達の居場所もただの通過点に過ぎないと主張するように、どこに向かうかも知らないが振り向きもせずに颯爽と駆け抜けていった。

 

「……すげーですね。この世界にも、まだあんなに綺麗なモノが残ってたなんて」

「ああ。案外この世界もまだ生きているのかもしれないな」

 

 水無月は、ふっと感情の消えた表情で空を見上げた。

 

「霧はじゅーぶん足りてますか」

「ああ、問題ない。これだけあれば、どこにだって行ける」

 

 眼下には、若干黒がかった白い霧が車一台ぐらいは入る巨大な円の中で蠢いている。

 その濃さは外から円の中の地面を見透かすことが出来ないほどで、少なくとも水無月のような人間があの中に入れば霧に侵されてしまう事は必然だ。

 だが、俺は今その毒を欲している。

 絶えず増幅し、そして収縮する霧を睨む。

 

「協力、助かった」

「れーには及びません。困った時はお互いさまです」

 

 水無月がそう言ったのを確り聞いてから、俺は円の中へと足を踏み入れる。

 中心に立つと、足元で蠢く霧が歓迎の宴を披露しているように見えた。

 靴の隙間から入り込み、靴下の繊維の間を潜り抜けて地肌に纏わり付いてくる。

 水無月は俺を少し離れた位置から眺めていた。

 霧の加護を得ていない今では、表情を見ることさえ叶わないが。

 

「水無月」

「はい……っと」

 

 ポケットから取り出した物を円の外へ放り投げると、丁度水無月の掌に着地した。

 水無月は数度掌の物と俺の方を交互に見た後口を開いた。

 

「これ、いーんですか?」

「ああ。俺からのちょっとした贈り物だ」

 

 霧に少し意識を割いて念ずると、周囲の霧はもくもくと波を形成しながら中心へと集まって来る。

 

「魔法使いは、決して人を見捨てない。それは同胞であっても違わない」

 

 やがて霧は更に濃度を増し、内部で何かが紫色にパチパチと雷のごとく縦横無尽に駆けている。

 

「すぐに向こうの世界で事を終わらせてこっちに戻る。困った時はお互いさまだ」

「あ……」

「希望を捨てるな。いいか、お前は……お前等は絶対に俺が救い出す。

 いなくなるのはほんの少しの時間だ。だから、待っててくれないか」

 

 これが、俺が裏世界で出した答え。

 この世界が、生命が過ごせるような大地であったことは未だ人々の記憶に強く刻まれているが、それは今や果てしなく遠いものとなってしまった。

 地上を我が物顔で闊歩する憎しき魔物達、大都市を一瞬にして木端微塵にしてみせた超大型の魔物、そうしてそれらに抵抗する術もなく、ただ強大な力の嵐に晒されるだけの日々。

 

 そんな、絶望という概念が姿を変えたような世界であっても俺は──

 

「……待ってますね」

 

 刹那、視界が何も見えない真っ白な空間へとシフトした。

 去り際に聞いた水無月の声は、今まで聞いた中で一番穏やかで安らぎのあるものだった。

 

ーーー

 

 ある日の夜半、生徒達は全員寮へと帰り各々の生活に戻っており、校舎内を歩くには窓から射す月明りのみが頼りだった。

 そんな中、学園内でただ一室。

 生徒会室のみが、カーテン越しに窓から外の石畳を明るく照らしていた。

 

 蛍光灯の下、たった二人が椅子に座って机越しに向かい合っている。

 片や学園最強にして生徒の長たる武田虎千代、そしてもう一人はこの学園と魔法の最先端を征く『魔法科学研究所』とパイプを持つ天才少女、宍戸(ししど)結希(ゆき)だ。

 二人の間には、まるで深海の冷たい水の入った暗い色の大水槽があるようだった。

 この状況を外から見れたなら、たとえ誰であっても今の生徒会室に入りたいとは思わないだろう。

 

「……最近、魔物達に異常な動きがあった事を考慮すると十分に考えられるな」

 

 重々しく口を開いた虎千代が話した以上とは、ここ最近魔物が市内、それもほぼ中心地に近い辺りに出没し始めていたことだ。

 それだけでなく、出没頻度が増えた上に普通個体よりも強力な魔物──タイコンデロガ級が顔を見せていたことが、日々魔物に対抗する為の知識を身に付けている魔法使いたちのフィルターにかかった。

 それらを総合的に分析しデータを統合した結果──。

 

「状況は、この結論に至った判断材料のどれをとっても以前発生した第六次侵攻の直前と酷似しているわ」

「それでは……」

 

 

 

「ええ。第七次侵攻が始まるわ」



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思推

待たせたな!
だけど文字数は最低です。本当にすみません。なんでもします。


 うっすらと映るのは、瞼を流れる真っ赤な血。

 鼻孔を擽るのは、慣れ親しんだ湿った土の香り。

 小鳥の囀りと木々の騒めきが俺の耳をさらりと撫でた。

 

「ここは……」

 

 背中から伝わる地面の冷たい感触を受け止めながら、俺は手探りで辺りを調べる。

 程なくして、右手の指先に固い何かがぶつかった。

 それは刀だった。両手で形状を把握していると、鞘の部分に燕子花の紋が刻まれているのが分かった。

 つまりこの刀は俺の物だ。

 

 暗闇に慣れた目を日光に慣れさせると、ゆっくりと恐る恐る瞼を開ける。

 視界に入ったのは、風に靡く木々の葉、そしてその隙間から覗く澄み渡った青空と太陽だった。

 空気が純粋で太陽から降り注ぐ光はこれまでにないほど澄んでいるように感じる。

 今全身で感じている環境は全て……あの世界では二度と味わうことの出来ない代物だった。

 

「転移、できたのか」

 

 状況を鑑みるに、俺は裏世界から表世界へと転移することが出来た様だ。

 突発的に空間の裂け目が出現し、そこから溢れ出た霧に巻き込まれて別世界へと転移した際は、お互いの時間軸が同じであるとは限らない。

 今回俺が転移した裏世界は、俺が自殺し魔物の侵攻を食い止める事が出来なかった、言わば表世界の未来に値する時間軸であったことがその最たる例だろう。

 

「……さて。行くか」

 

 立ち上がり、コートに付いた土を払って緩んでいた左腕の包帯を巻き直す。

 刀を腰に差してステップを踏むように木の枝を飛び回り、木の頂点に立った。

 目を凝らして辺りを見回すと、気が遠くなるような遠さの所に一際目立つ大都市が形成されてるのが見えた。

 どうやら霧は俺の味方をしてくれたようで、その特徴的な外観のビル群は風飛市に他ならなかった。

 

 破裂しそうなほどに激しく脈打つ心臓を抑えながら木を降りる。

 あの時俺が身代わりとなった友人達は無事だろうか、あのタイコンデロガ級の大群は街へ向かっていないだろうか……そんな心配よりも、俺の脳裏に浮かぶのはただ一人の少女だ。

 誰もいない図書館、沈黙が鎮座し見上げる程に高い本棚が荘厳な雰囲気を醸す中、それらの中心に君臨し過去の偉人たちの智慧と意志の込められた一騎当千の本達を一斉に従える図書室の女王。

 

 ──冬樹イヴ。

 あいつは、イヴは。突然遺言を残していなくなった俺の事をどう思っているだろうか。

 今すぐにでもイヴに会いたい。沢山話して、沢山謝って、そして沢山笑って泣きたい。

 

「……」

 

 だが、まだその時ではない。

 俺はイヴを愛している。そしてイヴも俺を愛していると言ってくれた。

 だがイヴに会う前に、俺はやらなければならないことがある。

 ──第七次侵攻。

 恐らく、今回の大規模侵攻は歴代の中でも指折りのレベルで危険なものとなるだろう。

 それが意味することは、つまり戦死者が出やすくなるということに他ならない。

 それは俺かもしれないし、そうでないかもしれない。

 だからこそ俺はイヴに会う事が出来ないし、何よりそれは俺が許さない。

 

 絶体絶命の窮地から生き残った愛する者が、自分の手の届く所で死ぬことほど絶望的で厭世的になることはないからだ。

 

 

 

 

 山を下りて街を抜けるのにそう苦労はなかった。

 ただ服装があまりに乱れていたから、多少人目をひいてしまった自覚はある。

 しかし次の大規模侵攻まで俺の身が割れなければ良いだけの話。気にするだけ無駄だろう。

 

 

 

 

 端末で確認した日程と時間帯を照らし合わせ、現時点で風紀委員による見回りの行われていない裏山を通って学園内へと侵入する。一応学園生ではあるから侵入というのもおかしいが。

 道中、闘技場の横を通り過ぎる際に多数の生徒による大声が聞こえてきた。恐らくなにかのイベントでもやっているのだろうか、それなら俺としては好都合だ。目的地に行くまでに目撃される可能性が減る。

 とはいっても完全に気を緩めるわけにはいかない。時折数人の見回りが巡回している姿を見かけた。

 その中に水無月委員長の姿もあり、しかし学園入学時に精鋭部隊に仕込まれた隠密行動の前に鬼の風紀委員長という異名を持つ彼女も無力であった。

 

 俺は通り過ぎていく見回りを横目に見ながら、そうして目の前の巨大な建造物へ目を向けた。

 なんてことはないただの授業棟である。しかしその屋上──大空にて無限に光を生成し続ける太陽を背景に佇む少女を俺は確りと認めた。

 霧の恩恵を受けた眼は、遠く離れた少女の髪が風に揺らぐのさえも僅かな隙も無く視えた。

 真銀を梳いたような美しい銀髪は人々を悉く魅了し、ぱきっと折れてしまいそうな華奢な身体は、彼女の身体の何倍もの大きさの象をも踏み潰してしまえる様な圧倒的存在感を秘めている。

 血渦の瞳が映すは、諸人の知られざる悲愴の真実。

 

 少女──東雲アイラは、俺の瞳を覗き返すと可愛らしく微笑んだ。

 

ーーー

 

 屋上の扉を勢いよく開けると、壁にもたれ掛ったアイラと目が合った。彼女と俺の間を骨に染みる冷たい風が横切った。

 

「長い裏世界旅行はどうじゃったかえ?」

「人類の敗北は御伽噺であったとしても最悪だ。ましてそれを目の当たりにするのはいつになっても慣れない」

「そうか……辛かったじゃろう、あとで妾の部屋に来い。温かい紅茶を淹れてやろう」

 

 そう言って東雲は俺から視線を外し、そそくさと扉へ向かって歩き始めた。

 太陽は俺達を暖かく照らしているが、それにしてはこの場が寒すぎる気がした。

 あの微笑みは、瞳は。ただ俺が帰って来たのを祝福してくれているだけでは無かった。

 隠されたもう一つの感情は、怒り。

 

「待て」

 

 呼び止める。アイラは足を止める。

 鉛のように冷たく重い沈黙、風に流れていく生徒達の遠い歓声。

 

「……何回使ったんじゃ」

「……」

「お主は何度、あの魔法を使ったんじゃ」

「……何度も。数える事すら馬鹿らしかった」

 

 アイラは深く溜め息を吐いて、ゆっくりと俺に振り返る。

 ──深紅の瞳を僅かに潤わせて。

 

「言ったであろう? あれは……連続で使う事を想定していない。それによる危険性も重々説明したはずじゃ。忘れている訳ではあるまい?」

「ああ。忘れるはずが無い」

「じゃったら何故……」

「見捨てる事が出来なかった。住んでいる世界が違うとはいえ、来るかも分からない明日の為に必死に抗う同胞を見殺しにするぐらいなら、死んだ方がマシに思えた」

 

 あの時の水無月の笑顔は、きっと俺なんかでは真似する事なんて叶わない。

 きっとこの思いは、入学当初の俺なんかでは手に入れる事はできなかっただろう。

 絶望に打ちひしがれながらもひたすらに使命をこなし続ける事の苦しさを、真から理解できる人間なんてそうはいないのだから。

 花畑に咲く花は綺麗だが、荒野に咲く一輪の花は溜め息が出るほどに強く美しい。

 

「魔法使いの使命は、人類を魔物から救い出すこと。だが魔法使いだって同じ人間だ。だから助けた。俺の身がどうなろうとも、彼女だけは救い出してみせようと、そう思った」

「お主は己を軽視しすぎなんじゃ……この馬鹿……っ」

 

 拳を強く握りしめて下を向くアイラに俺は近付き、そっと抱きしめた。そうしてアイラは俺の胸の内でひそひそと必死に声を堪えながら静かに泣いた。

 俺はそんなアイラに、ただただ謝罪を壊れたラジオのように繰り返す事しか出来なかった。

 

 しばらくしてひと段落着いた後、俺達はアイラの部屋に移動してゆっくりと紅茶で五臓六腑を温める。時計の針はチクタクと規則正しく鳴いている。

 泣き疲れたのか、アイラの小さな寝息が耳の間近で囁く。

 

「馬鹿、か」

 

 あの時に言われた言葉を脳の中で反芻する。いつもなら気にも留めない言葉が、今では痛く心に刺さってそれでいて未だに抜けないでいる。

 俺は魔法使いだ。強大な力を持っているし、魔物と真面に渡り合える人類の希望に含まれる一人だ。

 魔法使いの大義は人類を導く事だ。救う事だ。だが俺はその本質を見誤っていた。

 彼等には、俺が彼等と同じ人間に見えている。それは俺の身体の異常性を知っているアイラも例外では無かった。

 他でもない自分自身も、この大義の対象に含まれていた。

 他人を救い導いたとしても己を疎かにするようでは、真の魔法使いとは到底言えないだろう。

 

「ありがとうな、アイラ」

 

 こたつに突っ伏すアイラの頭を撫でる。

 少しだけ、アイラの頬が緩んだ気がした。

 

ーーー

 

 昼に行われた競技祭の余熱が残るその日の夜。

 今日は久しぶりに早いうちに布団に潜ってしまおうと思っていた私を呼び止めたのは、驚くべきことに武田会長本人だった。彼女に連れられて生徒会室へ入ると、そこには精鋭部隊の面々と宍戸結希、そして水無月風紀委員長が既に集まっていた。

 

「これでひとまずは揃ったな」

 

 会長は部屋を見渡して私達の顔を確認すると、まるで大いなる決断を迫られたように深く目を瞑り、そして開眼する。

 

「始まるぞ……──第七次侵攻が」

「っ!」

 

 第七次侵攻。

 かつて地球を6度襲った大規模侵攻は、例外なくどれもが人類へ多大な損害を与え、霧はそうして人類の生存圏をじわじわとゆっくり、しかし着実に覆って行った。

 前回の第六次侵攻では北海道が魔物によって占領され、今では北海道は人の立ち入ることの出来ない魔物にとっての桃源郷と化している。

 そんな侵攻が再びやってくる。命の保証は、無い。

 

「正確な場所と日時は」

「まだ分からないわ。ただ、発生状況からして人里では発生しにくいと考えられるわ。日時は……今すぐにではないけれど、あまり猶予は残されていないわ」

「そうか、情報提供感謝する。それで、私達の配置は」

「精鋭部隊の皆には前線近くで戦ってもらう。基本は国軍の討ち漏らした魔物を掃討してもらうことになるが……」

「今回の侵攻は今までと比べて更に大規模になると見てるから、事実上国軍と一緒に戦ってもらうことになると思うわ」

 

 一般生徒が大規模侵攻の中心で戦闘に参加すれば、あまりに強くそして多い魔物の群れに圧倒されて、あっという間に跡形もなく消されてしまうだろう。精鋭部隊は、そんな生徒達とは一線を画す戦闘力をその身に秘めたエリート集団。

 彼女達はさも当然といったように返事をすると、武田会長は今度は私達に視線を向けてきた。

 

「それで、私等はどーすればいーんですかね」

「風紀委員は学園内に残り、万が一に備えて常に戦闘態勢を整えて貰いたい。魔物が発生するのは何も侵攻の中心地だけだいうわけではないだろう」

「つまり会長は、学園内に魔物が発生する可能性もあると?」

「そうだ。これまでにない規模の侵攻……なにが起きてもおかしくはない」

 

 会長は棚に入れてあったファイルから学園の構内地図を取り出して机に広げる。

 

「これが私達で考えた当日の人員配置位置だ。何か不都合があれば変えてもいいが、その際は生徒会に報告するようにしてくれ」

「わかりました。風紀委員にはそれだけですか?」

「いや……冬樹」

 

 地図に目を配って私の配置位置を確認していたところ、急に名前を呼ばれて強く胸を殴られたような思いがした。咄嗟に視線を上げて会長の目を見た。

 ──強い目。まるで周囲の明かりにさえ一緒になるのを拒むような、そんな際立ち。

 この人は、一体何を言おうとしているんだろう。そんな物々しい雰囲気で、私をどうしようというのだろうか。

 

「……はい」

「お前には……──水無月と共に()の捜索を行って欲しい」

「……え? 今、なんて──」

「今回の侵攻、ただ自然の成り行きでそこまで大規模になるとは考えられないの。東雲アイラから聞いた話だと、あの魔法を使って霧を濃縮し、空間を歪ませて裏世界に行く際に多量の霧がその歪みを通過する、とのことよ」

「つ、つまり彼は──」

「もう既に帰って来ているかもしれない。もしこれが事実だとしたら、彼が必ず姿を現す場所は……貴女なら分かるでしょう?」

 

 ──私は、彼が自分の問題に他人を巻き込んだことを一度たりとも見た事が無かった。

 

 それを初めて目の当たりにしたのはあの遺言だけれど、でもそれは、魔物との共生という夢物語の為に犠牲になった罪無き人々への鎮魂とも言える数多の情報群が過去の遺物となる事は望んでも、歴史の外へ連れて行かれることは許さないという彼なりの抵抗だったのだと思う。

 その愚かなまでに研ぎ澄まされた天をも貫く信念を、私は迷惑だとは思わない。

 

 彼は、自分の蒔いた種は自分で刈り取る。

 これまでもそうだったし、生きているとするならきっとこれからもその姿勢は変わらない。

 私は少しぐらい頼ってくれてもいいと思うけれど、私がどれだけ言ったところで彼は永遠にそれを拒み続けるだろう。

 でも。私はそれでも、彼の傍を二度と離れはしない。

 喩え身を引き千切るような辛いことがあっても、地面に沈んでいくように苦しいことがあっても……。

 すぐに……彼を慰められるように。

 

「当日の風紀委員の指示は生徒会に任せてくれ。水無月には捜索に専念してもらいたい」

「……本当にいーんですか?」

「構わない。お前がどれだけあいつの捜索に心を燃やしていたかは私が知っている」

「……分かりました。ありがとーございます」

 

 水無月委員長に倣って私も武田会長へ頭を下げた。その後暫く当日の動きについて話し合った後、私達は漸く生徒会室から解放されることになった。

 肌を突き刺すような寒風が枯葉を巻き上げ、竜巻のように渦を描くそれらは月の輝く夜空へと打ちあげられる。

 月を背景に空を舞う枯葉は、まるで私と月を隔てたガラスが音を立てて割れ散ったような錯覚に陥った。

 今なら月にさえも手が届くかもしれない──なんて。

 

 私は誰もいない中央広場で、闇夜に浮かぶ月へと手を伸ばした。

 月を握る事は出来ない。けれど、その月光は確りと右手の平に閉じ込められたような気がした。



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生世の尽

あけましておめでとうございます。
そして遅くなりましたがお気に入り登録者数400人突破、恐悦至極。
もう暫しの間この小説にお付き合い頂ければ幸いです。


 いつもと変わらない、窓から覗く暗闇に影のみが映る大きな山の姿。

 月明りが山の木々を照らし、風がどこまでも月光を運んでいく空気の澄んだ夜。

 異様なまでに静かな部屋は、時計の鼓動と風が枯葉を巻き上げる音だけが聞こえている。

 昨日、生徒会から正式に近いうちに第七次侵攻の起こる可能性が非常に高い旨の報せがあった。それはすぐさま学園中に知れ渡り、血気盛んな者は即座に戦闘の支度を始め、理知的な者は犠牲を最小限に減らす戦略に思考を巡らせ、臆病な者はその唐突の報せにただ怯えた。

 臆病者に対して怒りを露わにする者もいたけれど、その反応は少しも間違ってはいない。なにせ今回の侵攻は今までにない更に大規模なものになると発表されたからだ。

 もしかすると今回の侵攻で命を落とす人が多く出るかもしれない。それが顔も知らない全くの他人なのか、それとも昨日まで時間を共有していた竹馬の友であるかは分からない。

 つい最近に彼が戦死した(一般学生にはそう認識されている)という前例がある以上、必至の戦争に恐怖を抱くのは、人間として尤もな反応に違いない。

 

 ──違う。彼は死んでいない。

 

 時計は深夜の1時50分を指している。私は自室の中心で、戦闘服に着替えて正座をしてその時を待っていた。

 間違いなく今日に起こる。確かな根拠は無いけれど、これまでに無くざわつく胸の奥がそう告げているような気がしてならない。

 

 ──もし、本当に彼と合う事が出来たら……。

 

 そこまで考えて、私はその加速しかけた愚かな思考を頭を左右に振り回して引き留めた。

 もし彼が生きていたら? 馬鹿を言わないで。彼は生きている。世界中の誰もが否定しようとも、絶対に。

 私は瞼を閉じて荒れ狂う不安の波を抑え、キリキリと痛む胸に手を当てる。

 暫くして落ち着いてくると、私は視界の端にシェルフに飾られたあるモノを捉えた。

 近くに寄って手に取る。ソレは彼の最も長い間共に戦い続けた戦友ともいえる、燕子花の紋が彫られた刀だった。燕子花の花に巻き付く様にして天へと昇って行く龍の彫刻は、見る者を悉く魅了するだろう。

 

 私は刀を鞘に納め、腰に携えて再び時計を見た。午前2時丁度。一度ココアを飲んで気を落ち着かせようと立ち上がったその時。

 静かな夜にはあまりに似つかない、鼓膜を破壊するような警報音がけたましく鳴り響いた。

 これは火事とか地震とか、そういった類の警報ではない……まさか──。

 

『全学園生へ告ぐ、緊急事態だ。始まったぞ……──第七次侵攻が』

 

 警報に続いて武田会長の声が、その報せを告げた。ある人には待ち侘びた、またある人には耳にすら入れたくなかった最悪の不協和音。

 

『戦闘準備を整えろ。今から5分以内に全員運動場へ集合しろ。生徒会からは以上だ』

 

 私は、静かに鞘から刀を抜き取る。金属の擦れる涼し気な音が耳を擽り、私の顔を映す鋼の刃は底知れぬ美しさを惜しげもなく見せびらかしている。

 ぎらりと一閃、刃が月光を艶めかしく反射した。窓の外を覗き込むと、真っ黒なキャンバスにくっきりと輪郭を浮かび上がらせた満月が一層輝きを増している気がした。

 

 

 

 

 

「リリィクラス、全員の集合を確認しました」

「よし、これで全員揃ったな。君は自分のクラスの列へ戻れ」

 

 生徒達の騒めきは止まない。夜間用のライトに照らされる彼女等の表情には期待、焦燥、恐怖──数えきれない程の感情が浮かんでいた。私は身体が火照っていくのを感じ取る。

 一般生徒がクラス順に並んでいるのに対して、私達風紀委員は生徒会枠として壇上に立つ武田会長の傍らで横一列に整列していた。

 右には氷川さんが、左には水無月委員長が並んでいる。氷川さんはこれから始まる死闘に身体を震わせている。委員長は相変わらず無表情のままだった。

 

 暫くして騒めきは消滅し、グラウンドには酷く穏やかな風が吹いた。

 それはまるで、最強と称される一人の天才に恐れをなしている様だ。

 

「生徒諸君! 生徒会長の武田虎千代だ」

 

 静寂を切り裂く様に、武田会長の声は帳の降りた空気をピリピリと震わせる。

 

「先程のアナウンスの通り、この学園から北西にある小鯛山で大規模な魔物の発生が確認された! 規模は通常の82倍、間違いなく過去最大級の大規模侵攻だ!」

 

 82倍。これがどれほどの規模を表す数値であるかは想像にも及ばない。

 ──大きすぎて、私の思考領域ではシミュレーションするには狭すぎる。

 私の他にもそのことに気付いた生徒がいて、少しずつ、水の中に黒いインクを垂らしたように騒めきがどんどん拡大していく。

 『話が違う』、『まだ死にたくない』……そんな声が聞こえてくる。

 そんなことを言っても、もう仕方ないでしょうに。

 

 今回の大規模侵攻はあまりにも大きすぎる。かつての時代にも、人類の為、家族の為に魔物と戦い命を落とした尊い魔法使いたちがいるのだから、私達も今生きている人達の為に命を惜しむべきではないだろう──

 

「だが、我々もかつての侵攻から9年間多大なる歩みを進めてきた! 今や現在の人類は9年前とは比較にならない力を有している!!」

 

 その声に再び生徒達の声が静まり返る。

 武田会長の激しい息遣いが耳元で聞こえた。

 

「私は宣言する! 今回の大規模侵攻では誰も──誰一人として死なせない!! そして風飛の街には一歩たりとも魔物に侵させない!! ここで魔物を退け、人類反撃の新たな原点として今日を刻むぞ!!」

 

 ──その後も続く、武田会長による士気向上のための大演説。

 今や来る大規模侵攻に対して尻尾を巻いて逃げ出そうと考える生徒は存在しない。武田会長の演説に耳を傾ける彼女等の瞳に燻っていた火種が轟々と音を立てて燃え上がるのを、確かに私は見た。

 

「風飛市の北に防衛線を敷く! 各自割り振りに従い10人規模のパーティーを結成し出発しろ!!

 これほどの規模の作戦は初めてだろうが、怖じることは無い! 指示に従い、持てる力を十分に発揮すれば心配することは一つもない!!」

 

 私は委員長に視線を送り、彼女がそれを受け取ったのを確認すると、生徒達よりも一足先に私達はグラウンドを背に北西の方向へと向かう。

 小鯛山。私は暗闇にぼやけるその影を睨みつける──。

 

「不測の事態が発生した場合は速やかに生徒会へ連絡しろ! それでは生徒諸君、健闘を祈る!!」

 

 直後、背後から後頭部を殴り付けるような生徒達の咆哮が駆け抜けた。

 

ーーー

 

 宵闇に紛れて、誰にも悟られぬよう木々を跳ねて移動する紅い眼があった。

 4つ。それは四つ目の妖怪ではなく、紅い眼を妖しく光らせた人間が二人いる事の証明。

 唐突に、木々の開けた場所で彼と彼女は立ち止まる。見上げると、壮麗な満月。

 

 彼は眺める。彼女は微笑む。

 少女は川の潺のような月光の流れを真銀の髪に流すと、彼の右手を小さな両手で包み込む。

 彼は大海の嵐のように荒れ狂う月の魔力に祈ると、彼女の両手に大きな左手を重ねる。

 その何重にも重ねられた手の内で、僅かに翠の妖光が指の間を抜けた。

 

 彼は欲した。

 永遠(とわ)は願った。月は認めた。

 

ーーー

 

 そもそも山の中では足取りがとても悪く、戦闘面、また撤退する際にも軽やかな足捌きが重要視される対魔物戦では不向きである事この上ない。

 それだけに留まらず、かつてない超大規模侵攻のせいで国軍が壊滅する可能性も否めない現状、夜間の山がどれだけ危険かを考慮しても魔法を会得している学園生の出動は免れなかった。

 私と委員長は事前に様々なシチュエーションにおける交戦にも対応できるよう、定期的な特殊環境下での訓練を彼から受けていた為に今の状況は昼の山中とさして変わらない。

 魔物一体を倒すのにいつもより少々時間がかかる点を除けば、だけれど。

 

 ──腕一本でしぶとく起き上がろうとしていた魔物を魔法で吹き飛ばす。

 

「冬樹! そっちはだいじょーぶですか?」

「ええ、今さっき片付いたところです」

 

 振り返ると、真白な戦闘服が土塗れになった委員長が額に汗を溜めて立っていた。私も自分の服に視線を落とすと、いつの間にか委員長と同じくらい汚れていた。

 

「通常のクエストの時よりも魔物がしぶとくなるとは聞いていましたが……」

「まさかここまでとは思わねーでした。……本当に他の生徒はだいじょーぶなんですかね?」

「武田会長のことです。無策というわけではないでしょう」

 

 私達の前方──大勢の叫び声と魔法が発動する音の荒れ狂う山頂付近から振り返り、遥か後方に広がる山の麓へ目を向けた。まるで灯篭流しの様に一つ一つの明かりが絶え間なく流れている。

 学園生達は既に防衛線にまで到達していた。

 峻厳な冷風が唐突に吹き荒び思わず地面に倒れ込みそうになるが、委員長に後ろ手を引かれて阻止される。

 

「冬樹、先を急ぎましょー。ずっと立ち止まっていると寒さでやられてしまいます」

 

 そう言って、委員長は私の返事を待たずに再び暗闇を白色のライトで切り開きながら進んでいく。

 風が足元の枯葉を巻き上げて何処かへと運んでいく。私はその風の一吹きさえも掴み損ねないような繊細な態度で、索敵と同時に彼の影を探す──。

 

 ……どれほどの時間が経過したのだろう。途中に出現する魔物を倒しながら彼の姿を探すうち、ある変化に対する違和感を心の中に抱き始めた。

 

「委員長、風向が……」

「気付きましたか。ええ、北風がいつの間にか南風に変わってやがります。少しけーかいした方がいーかもしれません……と、噂をすれば影が差す、ですか」

 

 委員長が溜め息を吐きながら指差す方向へ視線を向けると、確かに真黒のキャンバスに奇妙な黄眼が幾つも浮かび上がっていた。それらはまるで一つの生命体に見える。そうでなかったとしても、恐らく5体程度──。

 

 

 

 ……5体、?

 あんなに一つ一つの眼が、自由に動き回っているのに?

 

 ──委員長が、恐る恐るソレへライトを向ける。足元から照らされる。

 悍ましい色をした、幾つもの人型の足、様々なモノが露出した腹部、肋骨のようなものが胸部から広がるようにして生えている。ソレらは──単眼。

 

「い、委員ちょ」

「逃げますよ、冬樹!!」

 

 委員長が私の手を取る。落としたライトが岩に引っ掛かって魔物を照らす。

 離れていく魔物達。その先頭の一体が、露出させた牙を舌なめずりした。

 ポタリ。魔物の牙の先から雫が落ちる。紅く、黒い。

 月光に当てられて、どこまでも──鮮やかな。

 

「あ、あの魔物は、人を──」

「魔物にも様々な攻撃手段が存在します! あの魔物の場合、それが牙だっただけですっ!」

 

 風が私達の背中を押す。途中木の根に足を引掛けようとも、転びそうになっても、そんなのはお構いなしに走り続ける。魔物は追っては来なかった。後ろを振り返って姿が見えなくなってから数十分経った頃、漸く私達はゆっくりとその場に立ち止まる。

 荒ぶる呼吸を抑えようと、肩を上下させながら肺一杯に空気を取り込む。

 

 ──委員長の携帯端末の着信音が、森の冷え切った空気を震わせる。

 

 委員長は舌打ちをついて鬱陶しそうに携帯端末を耳にあてがう。

 

「なんですか、こんな時に。こっちは今大変な目に遭ってんですよ」

 

 携帯端末から僅かに聞こえる声の特徴の持ち主は、どう捉えても武田会長以外に存在する筈が無かった。

 

「緊急事態、ですか……ええ、はい………え?」

 

 遥か上空で膨大な風が荒れ狂う轟音が鳴り響く。耳を覆いたくなるような、不快で恐ろしい音。

 刹那、地上を薙ぎ殺す突風が、委員長の背後にある背の高い茂みを揺らす。

 茂みの奥で何かが光る。それは凄まじい勢いで委員長に向かって──っ!?

 

「……分かりました。それじゃー私等は一旦」

「危ないっ──!!」

 

 委員長を腕の中に押さえて一緒に横に倒れ込む。衝撃で思わず手放した携帯端末は宙を舞い、重力に従って地面に落ちる──その前に、金属の擦れるような不協和音と共に四散した。

 目を回して未だに状況が呑めない委員長。

 さっきの茂みを睨みつけると、紅い妖光が闇に揺らぐ。

 

「あ、あれはさっきの」

「まさかここまで追って来やがったんですか!? それに今の攻撃──」

「……腕はどうやら触手の形状になっているようです。腕の先に、あれは……針?」

「お、おーきいです……あんなのを喰らえば、いくら魔法使いと言っても大変なことになります」

 

 脈動する触手の先に付いた鉄パイプの様に太くて長い金属の針を、魔物は得意気に舌なめずりをする。

 牙が紅い、辺りを見回しても他に魔物が見当たらない。幸運なことに追ってきたのは先頭にいた魔物だけで、ここにはアレ以外魔物は存在しないようだ。

 委員長は戦闘服に付いた土を払いながらゆっくりと立ち上がる。

 

「先程生徒会から連絡がありました。どうやら国軍の形成していた防衛線が一部突破されたよーです」

「そんな……それではまさか、あの魔物は」

「ええ、虎から渡された魔物の特徴を考えても、アレは間違いなく国軍の取り逃がした魔物です。それに、運が悪いことに……タイコンデロガ級です」

「……そんな」

 

 タイコンデロガ級は、彼を窮地に追い詰めた魔物もそう呼称された程に力強く、そして他の魔物とは隔絶された圧倒的生命力を以て熟練の魔法使いでさえも蹂躙し尽くす。

 話を聞くと、その中でもコレは近距離のも遠距離にも攻撃を対応させられる厄介者らしい。

 私は背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 

 ──冬樹。戦闘において最も重要なのは引き際を見極める事だ。

 

 いつか彼に言われたことを思い出す。

 魔物を視界に入れたまま警戒を怠らずに、私は背後へと振り返って逃げ道を確認する。

 目の前に広がるのは崖下に広がる木々の海。その隙間から明かりが所々に漏れている。

 ……無理だ、逃げられない。

 

「くっ……一体どーすれば……」

 

 ──人間誰しも限界がある。

 

 私は、右手を開いて凝視する。土に汚れた小さな手。

 記憶の中の彼の手を重ね合わせて、更に私のその手の小ささを痛感する。

 小さい手に細い腕。凡そ運動をする為ではなく、勉強の為だけに産まれてきたかのような儚い身体。

 

 ──もし、お前よりも格上の相手と撤退不可能の場所で戦う事になった時。

 ──その時は、命を賭して戦え。

 

 私は。

 私は拳を握って、改めて目の前の不細工な魔物へと目を向ける。

 できるのだろうか、私に。

 私はもう逃げられない。私が敗れればこの魔物はきっと崖を降りて他の生徒を襲いに行く。

 ……それは、そんな事は絶対にあってはいけない。

 何としても、ここで魔物を食い止めるか、誰かが来るまで時間稼ぎをするしかない。

 

「委員長」

「なんでしょーか」

「一旦戦線から離脱して、委員長は強い人を呼んできてください」

「……なに、言ってんですか?」

「私がここで時間を稼ぐので、その間に委員長は生徒会に増援を送るよう要請してきてください。委員長の携帯端末は壊れてしまいましたから」

「そ、それなら冬樹ので──」

「私の携帯端末も、先程魔物から逃げる際にどこかに落としてしまったようです」

「……そんな」

 

 私は委員長を庇う様にして魔物へと対面する。

 瞬き一つせず、一瞬たりとも私から視線を外さない気味の悪い魔物。

 宙を自由に蠢いていた二対の触手が、魔物の頭上でやがて規則的な動きを示すようになった。

 

「ダメです。いくらなんでも冬樹一人じゃ……」

「でも、委員長一人が加勢したところで状況は変わりません。精々生存時間が少し伸びるだけです。それでしたら、委員長一人でも戦線から離脱して増援を呼ぶ方が、生存率が高いのは火を見るより明らかでしょう」

「で、ですが──」

「委員長!」

 

 魔物が頭上で触手を構える。針の先は私を向いていた。どんな攻撃が来ても避けられるように、姿勢を低くして視線を外さない。

 

 瞬間、魔物が私の視界から消える。とても魔物が出せるような速度では無かった。

 直後に長らく感じてこなかった程の最大級の警鐘が私の本能によって鳴らされる。

 私は身体を芯から怯えさせるその音に従って、委員長と一緒に後ろへ避ける。

 

 空気の裂ける音。目の前には、血濡れの針先。あと少し遅ければ──

 

「委員長」

「……分かりました。ですが、これだけは約束してくだせー」

「……」

「絶対に、死なねーでくだせー。冬樹がいなくなれば、彼もひどく悲しみます」

「……分かってます」

 

 私がそう返すと、委員長は少しだけ微笑んでから木の陰へと姿を消した。

 凩が吹く。もう一度体勢を立て直す為に地面を力強く踏み直す。そこで、気付く。

 足が震えている。足どころか、手も、身体さえも震えている。

 

 怖い。

 普通に考えて、私一人が国軍でも梃子摺るタイコンデロガ級を相手に圧倒することはおろか、生き残る事さえ出来ないのは明白だった。死体が見つかるだけでも幸運と言って過言ではない。

 けれどこのまま逃げ出せば、いつのまにか崖の下にまで来ていた他の学園生達に危害が及ぶかもしれない。

 深く息を吸う。張り裂けそうな空気が私の肺を酷く痛める。

 

 魔物は空振りに終わった自らの触手を引っ込めて、無感情な瞳で私を見つめる。

 相変わらず気味の悪い色と形をしている。何を考えているのか分からない。いや、魔物にはそもそも思考するという概念が存在しないか。

 どちらにせよ、このまま空白の時間が続けば、私の精神が恐怖に呑まれるのは時間の問題だろう。

 

「来るならさっさと来なさい、化け物」

 

 右手を正面へ向けて魔法を放とうとした直後、それまでじっとしたまま動かなかった魔物が地面を足で割らんばかりに蹴り飛ばし、急加速で私に突進してくる。

 

(っ!)

 

 反射的に魔物の進行方向へ分厚い氷の壁を二重にして作り出し、加えて拳ほどの氷塊を弾丸の様な速度で、空気の爆ぜる音と共に発射させる。けれど、魔物はそれらを意にも介さず氷の壁を粉砕する。

 タイコンデロガ級ともなる魔物の攻撃を私の作った氷如きで防げるとは微塵も思っていなかった。けれど、氷粒が一切効かないというのは流石に想定外だ。

 少しぐらいは怯むと思っていた。少しぐらいは、隙を作れると思っていた。

 

 魔物が大口を開けて食らいつこうとしていたのを間一髪で避け、すぐに体勢を整える。

 無防備になった背中を、空気中の水蒸気をかき集めて氷槍を作り振り返る隙も与えずに貫く──

 

「……ゥ、グァ」

 

 それに返ってきたのは、なんとも気の抜けて眠そうな、まるで危機感の感じられない魔物の声だった。

 マズい──っ! 咄嗟の判断。しかしそう思った時にはもう遅く、右足首に激痛が走る。針が私の右足首を裂いていた。

 思わず後ろに倒れ込む。再び立ち上がろうとしても、うまく足に力が入らない。

 

「あ……うっ…」

 

 傷口から鮮血がとめどなく溢れ出す。このまま放っておけばどうなるかぐらい火を見るよりも明らかだ。

 不覚──。視線を横に向けると、悠々と佇む魔物が現れる。

 

「ゥギィ……ィギアャァアァ!!」

「うっ……あああああッッ!!」

 

 視界が明滅する。

 痛覚だけを頼りに、今度は左足を針が貫いたのだと自覚する。地面から離れる浮遊感、左足を中心に伝播する想像を絶する激痛、灼熱。

 辛うじて世界を映す視界に入るのは、大口を開けて鋭利な牙を覗かせる魔物。

 

 眼前に迫る、死──死────死。

 

「あ、あっ……死に……たく……な……」

 

 私を突き動かしていた心の底からの勇気も、力も完全に泥沼の底へと失われた。収縮した喉で絞り出した声は誰の耳に届くことも叶わず。脱力した両手が生暖かい感覚に包まれる。

 

 

 

 

 

 ──私は、彼を信じていた。彼も、私を信じていた。

 私は彼の絶対。彼も私の絶対。

 私は愛した。彼も愛した。

 だけれど、自然の理を外れた邪悪で強大な力の前ではそれを守り切る事なんて出来なかった。

 世界は許さなかった。私達の愛を。なんて残酷で理不尽で、自分勝手。

 

 それでも私は、私と一緒に貴方が泣いてくれるのなら構わない。

 私と一緒に笑ってくれるのなら、世界に否定されようと構わない。

 

 だって、そうでしょう? 貴方は私の世界なのだから。

 貴方のいない世界なんて、私のいるべき世界じゃない。

 

 でも──貴方の周りには沢山の友達がいる。戦友がいる。そこにはきっと、私一人の愛で満たすことは叶わないぐらいに大きな愛が満ちているに違いない。

 貴方は私の世界だけれど、貴方の世界は貴方。

 

 私がいなくなっても、貴方の世界は終わらせないで。

 

 

 

 

 

 ──結局、私は時間稼ぎにもなれなかった。

 頭を振り絞った。力を振り絞った。勇気を振り絞った。

 それでも敵わない。私の限界はここだった。

 約束は守れそうにない。──私は、帰れない。

 

「ごめん、なさ──」

 

 彼へ許しを請い、両手首に鋭い痛みが走った直後。

 ──眼を焼き尽くす雷斬が地を駆けた。



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約束の理

 もう、全てが終わる。

 

 彼を血眼になって探していたあの時間が終わる。

 彼を心の底から愛していた私自身が終わる。

 私の物語は、ここで閉幕。

 この時ほど自分の無力を呪ったことは無かった。

 それでも一切合切は後の祭り。

 

 強く目を瞑って、目の前にぶちまけられた死を視界に入れないようにした。

 どれだけ覚悟をしても。仕方のない事だと理解していても。

 やっぱり死ぬのは怖いし、冷たい。

 

 腕に歯が突き立てられる。鋭い痛み。ああ……──酷い。

 意識が朦朧としてきた。

 私はこのまま跡形もなく殺されてしまう。せめて何か残せるものがあれば……。

 しかし、その刹那。

 

 ──視界を豪速で掠める雷斬。

 少しの衝撃の後、足からずるりと何かが抜け落ちる感覚。身体は宙を舞い、肌を突き刺す冷気の存在に気付いた瞬間私は背中から地面に強く叩きつけられた。

 チカチカと明滅する視界の中に私が捉えたのは、呆気なく宙を舞う魔物の両触手だった。

 苦しみ悶える魔物の背後に佇むは、一人の剣士。

 

 ──どれだけ視界が利かなくても。

 喩え月が沈み常闇のヴェールが視界を覆っても。

 喩え、五感の全てを失って世界に捨てられても。

 

 ──彼は。

 満身創痍で戦場を駆け抜ける彼は。

 紫紺の妖光が月光に揺らめく刀を構える彼は。

 

 誰よりも強く、優しくて。

 頭が良くて、人付き合いも良くて。

 その癖どこかドジで馬鹿で、鈍感で。

 困った人を見れば自分の事を後回しにする。

 そうして出来た皺寄せを私に持ち掛ける、どうしようもない男。

 それでも私が生涯で唯一人だけ心を開き、愛の種を植え付けた張本人。

 

 ──彼は、そこにいる。

 幻想などではない。確かに、今度は触れ合える距離に愛する人がいる。

 

「ふんっ」

 

 彼は刀を軽く横に薙いだ。

 軽く。しかしそれによる斬撃はどこまでも荒々しく研ぎ澄まされている。

 木々は軋み、斬撃の延長線上に立つ魔物は反撃を与える猶予すら齎されない。身体の先端が触れた瞬間、まるで予め爆弾を食わせていたかのように魔物の身体は跡形もなく──爆散した。

 

「あ……貴方……」

「よく頑張った。よく生きていたな。本当に、良かった」

 

 彼は刀を鞘に納めて私の元へ駆け寄り左足に触れた。

 叫び出したくなる激痛が走るけれど、止血の為ならどうしようもない。

 

「……」

「……」

 

 彼が包帯を巻いている間、私達はお互いに無口だった。勿論再開が好ましくなかった訳では無い。

 むしろ可能な事なら今すぐにでも彼をこの腕で抱きしめて存在をこの身で確認したいほどだった。

 けれども今この場を支配するのはそんな甘ったるい空気ではなく、戦場独特の緊張。

 要するに私は再開に際してどんな言葉を掛ければ良いのかさっぱり分からなかった。

 

「よし、包帯は巻けた。あとはお前を安全な場所に──」

「ねえ」

 

 割り込む形で私は声を被せた。

 彼の表情に若干焦りが浮かんだように感じた。

 

「なんだ」

「……その」

「……」

「ええっと、その……」

「……」

「…………おかえりなさい」

「……ああ、ただいま」

 

 私の言葉を聞けば、表情を一気に緩めていつものように優しく微笑んだ。

 木に靠れて座り込んでいる私の身体をそっと覆う硬い身体。人生で嗅いだことの無い臭いの代わりに、煙草の臭いは消え失せていた。

 それでも私はその奇妙な臭いの中から彼自身の臭い──匂いを見つける事が出来た。

 力の入らない手をゆっくりと彼の背中へと回す。

 

「死んじゃったかと思いました」

「うん」

「もう二度と会えないんじゃないかって」

「うん」

「……心配、したんですよ」

「……うん」

「本当に、本当に……生きてて、良かった」

 

 気づけば彼の顔が目の前にあった。しかしなかなかに焦点が合わない。

 目に指を持っていくと、なるほど私は涙を流しているようだ。

 水面の向こうの彼は困ったように微笑む。私の気も知らないで、よく笑う。

 

 彼の顔は傷だらけだった。いつもならここまでの傷を負ったことは無かった。それほど私と再開するまでに辛く厳しい道を辿ったのだろうと、勝手に推測する。

 しかしそんな傷よりも一際目を惹くのは、彼の瞳──出会った頃は綺麗な群青色だったのが、今は狩人(ハンター)のような紅に染めている。

 

 まるで返り血を浴び続けた代償のようなその瞳に、私はあの日生徒会室で東雲アイラが打ち明けた一つの真実を思い出した。

 きっとこれは彼にとって痛いに違いない。

 それを理解して尚、私は自分で口を閉じる事が出来なかった。

 

「霧を、吸ったんですか」

 

 風が山の木々を鳴らす。さわさわ、さわさわ。彼のコートが揺れる。ぱたぱた、ぱたぱた。

 二人だけの沈黙。そうして風に乗って聞こえてきた梟の声。

 彼がひゅっと息を呑む音。暫く後、諦めたように溜め息を吐く音。

 

「吸った」

「どれくらいですか」

「たくさん」

「たくさん吸えば、どうなるんですか」

 

 そこまで疑問を露わにして漸くはっと口を閉じた。

 分かっていたけれど、これは彼に対してあまりにも残酷な質問ではないか。

 それでも彼は一切嫌な顔を見せない。

 

「分からん。でも、頑張るよ」

「なにをですか」

「死なないように。お前といつまでもいられるように」

「あ……」

 

 ──いつまでも、彼と共に。

 

「あの、言い忘れてたことがありました」

「ん、言ってみろ」

 

 どんな言葉を彼に掛けるべきなのか。

 そんなことは、彼が私へ言葉を残したあの時から決まっていた。

 それは誓いであって、彼を縛り付けるある種の呪いでもある。

 だから今までは心の檻に閉じ込めて、何重にも鍵を掛けて封印していた魔法の言葉(・・・・・)

 

「……好きです。愛しています。ずっとずっと前から──貴方を愛しています」

「冬樹」

「あ、貴方はどうなんですかっ。まだ心変わりはしてませんよね?」

「冬樹、顔赤いぞ」

「っ!」

 

 咄嗟に顔を手で覆う。既に彼に心の内を曝け出してしまったのだから今更顔を赤くしたところでなんともないのだけれど、それを彼に指摘されるのが酷く私の羞恥心を煽った。

 今、彼の顔を直視できない。それでも私の告白を受けてどんな表情をしているのかが気になるから、指の隙間からちらちらと彼を伺う。

 ──それはまるで熟れたトマトのように。

 

「俺も冬樹のことを愛してる……この気持ちは未来永劫、死んでも変わらない」

「……ふふっ」

「なにがおかしいんだよ……!」

「いえ、別に……ふふ」

「なんなんだよ……」

 

 彼は頬をポリポリと指で掻いた。ああ、心が満たされる。

 この仕草は困った時によくする。私の知る彼を見つける度に心が跳ね上がる。

 

 ──いつのまにか頬をとめどなく流れていた涙の川は枯れていた。

 今ははっきりと見える、彼の男らしい顔。右手をそっと彼の頬に添える。

 

「もう、どこにも行かないでくださいね」

「……魔法使いはいつだって命がけだ。その約束はできない」

「それなら、私も一緒に連れて行ってください。

 私の知らない場所へ貴方が一人で行くのは嫌です」

 

 ピクリと、頬が一瞬痙攣する。

 

「……分かった、約束する。冬樹を置いてはどこにも行かない」

「はい……」

「霧の体質もどうにかする。死ぬかもしれないし、最悪魔物化するかもしれない。

 だけど俺はそんなことは絶対に許さない。冬樹をずっと先まで愛すつもりだからな」

 

 どうして、そんな恥ずかしいことを本人に向かって言えるのだろう。

 ……いや、こんな状況だからこそ。大規模侵攻が終わって、学園で再び顔を合わせた時の彼の羞恥に満ちた表情が目に浮かぶようだ。

 

 先程まで私達を明るく照らしていた月光が黒雲によって遮られる。森を闇が包み込む。

 その直後、聞いた事も無いほどの女性の金切声が山を木霊した。

 

「──マズいな」

 

 彼は私からさっと離れて木に登り辺りを見回した。暫くして私の元へ帰って来た彼の顔には、さっきまでの綻びが消え失せた代わりに真剣な表情が浮かんでいる。

 

「救難信号が出てる。とにかく、急いでお前を拠点まで連れて行かなくちゃな」

「ま、待ってください。その必要はありません」

「必要あるに決まってるだろ。包帯はただの応急処置だぞ。すぐに手当てしないと──」

「水無月委員長が増援を呼んでくれたんですっ。ですから、もうすぐで生徒会の人達が来ます」

「だが……」

「大丈夫です、ここに置いて行かれても直に生徒会が私を回収してくれます。ですから貴方は、救難信号を出した人の元へ急いであげてください」

 

 そこまで言って漸く腹を括ったのか、彼は瞼を閉じて深呼吸をした後にすっと私へ顔を寄せる。

 ──彼の瞳が間近に見える。顔が近い。

 ……指を唇に添える。こんな状況なのに、私の頬は意図せずに緩む。

 

「必ず帰る。だから……──生きてくれ」

 

 彼の背中は大きい。再びの別れ……でも、今の私はそれを怖いとは思わない。

 大きな背中を見てしまえば、そんな気持ちなどどこかに吹き飛んでしまった。

 

「貴方こそ。どうか無事に帰ってきてください」

 

 そうして今度こそ、彼は森の影へと姿を消した。

 暫くしてから複数人の足音が聞こえ、視線を音のした方へ映すと案の定委員長が生徒会のメンバーを数人引き連れて来ていた。

 

「冬樹、よく頑張った。もう大丈夫だからな」

 

 虎田生徒会長はそう言って頭を乱暴に撫でた後、私を簡単に担いで山を下り始めた。あまり会長が学園から離れる事は好ましくない。あの場は委員長と他の生徒会メンバーが引き継いでくれるようだった。

 道中で会話が生まれることは無い。

 私は意を決した。

 

「見つけました、彼を」

 

 独り言のような囁き。もしかするとそれは会長の足音で掻き消えてしまったかもしれない。

 それほど小さな声だった。

 

「侵攻が終わったら、皆で生還祝いだな」

 

 それが彼に対してのものなのか、私には判断がつかない。

 それでも会長の背中は、小さな癖して彼と同じくらいに頼りがいのあるものだった。

 

ーーー

 

 霧は身体を蝕む。

 生物を構成する細胞一つ一つへ入念に入り込み、それら全てをゆっくりと時間を掛けながら細胞ではない何かへと変化させる。自分の細胞が全て消滅したとき、それが人から魔物へと堕ちる瞬間だ。

 

 俺は霧との相性が良かった。

 霧の秘める摩訶不思議な恩恵を好みに宿すことが出来て、

 そしてそれによる悪影響もかなり少ない。

 だが特筆すべきはそれだけだ。

 どれだけ霧に親和していようとも、魔物化の過程を辿らないわけではない。

 

 果たして俺の身体はどの段階まで細胞の置換が終了しているのか──それは神のみぞ知る。

 残された時間も、力も、今や限られているかもしれない。

 

「爆ぜろ」

 

 たった一言。

 その言葉に続いて指を鳴らすと、目前まで襲い掛かってきていた狼の様な魔物は俺の身体に牙を立てる前に爆散し霧散する。まるで月に吸い寄せられるように夜空へと昇っていく。

 しかし油断してはならない。

 ここは防衛線が破れ魔物の侵攻を許してしまった危険地帯なのだから。

 

「まだだ……」

 

 振り向きざまに抜刀し腕が引き千切れるくらい勢いよく横薙ぎに振るう。

 背後に音も無く近づいてきていた気配の頭が傷口から霧を勢いよく噴出させながら吹き飛ぶ。

 首を斬られても尚俺を殺そうと腕を伸ばした魔物を袈裟斬りにして重く蹴り飛ばした。

 普通、今の低度の攻撃では再び魔物は起き上がるだろう。

 しかし、俺は魔物の急所を心得ていた。

 故にたったの軽い二撃を喰らっただけでも呆気なく消滅する。

 

 辺りに魔物が一体も存在しない事を確認すると、改めて救難信号のあった方角へと木々の間を縫うように駆け抜ける。それほど時間は経っていないから、惨事にはなっていないはずだ。

 数分間地面の枯葉の音を聞きながら走っていると、前方に光が見えてきた。

 目を凝らすと、女子生徒が一人と光の中に蠢く巨体が二つ。まずは左側から。

 

「──おらッ!」

 

 女子生徒にとって突然茂みの中から男が出てきたことには酷く驚くことだろう。だから出来るだけ動揺させないために速やかに魔物を兜割りにして身体を縦に両断する。

 勢い余った刀を山中に凄まじい轟音と衝撃波を走らせて地面がしっかりと受け取った。

 

「大丈夫か、怪我は?」

「……えっ、あ、私は大丈夫です。でも、南が……」

 

 彼女の視線を追うと、目立った傷は少ないものの虚ろな目をして木に靠れ掛かっている茶髪の少女が目に入った。近くに駆け寄り声を掛けると反応してくれたから、とりあえず安心して良いだろう。

 救難信号を出した少女の方へ向き直り、出来るだけ柔らかい養生を作るよう努める。

 

「君、名前は」

岸田夏美(きしだ なつみ)です」

「そっか。じゃあ岸田ちゃんはその負傷した子を連れて拠点に戻って。ここは俺に任せて」

「え、でもそれじゃあんたが」

携帯端末(デバイス)でもう聞いたと思うけど、さっき軍が敷いていた防衛線が一部破られた。これからこの辺りは魔物で溢れ返ることになるよ」

「…………」

 

 肩を落として地面を見つめる岸田。

 表情を伺うことは出来ないが、漂う雰囲気から大体の事情を察した。

 まあ、若い年頃だったら誰にでも現れるもので、成人するまでの一種の通過儀礼のようなものだ。

 俺もこんな時期が昔にはあったな、と心からの笑みが少し零れる。

 

「人の命を救う事は、並の魔法使いには出来ない事だぞ」

「え……?」

「岸田ちゃんは魔法使いの事について何か勘違いしてるよ。魔法使いはいつも魔物に勇敢に立ち向かわなくてはならない──けどそれは、人類の為に死ねって意味じゃない」

 

 岸田は顔を上げた。

 瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「その子を救ってあげて。

 魔法使いは魔物を退治することが本質じゃない……無辜な命を救う事が大儀だと、

 俺はそう信じてる」

「……わかりました」

 

 岸田は負傷した少女の肩を持って下山するその前に、俺の方へ振り返る。

 

「この侵攻が終わったら、絶対にお礼します」

「……分かった」

 

 流石にその申し出を断るにはあまりに忍びなかった。

 彼女達の背中を見送る。遠ざかる光の残滓──闇夜に巻く光の尻尾が木の裏に消えたのを確認すると、俺は静かに刀を抜いて正面に構えた。

 

 ──何かが、来る。

 これまでにない激しい警鐘が脳を爆発させてしまうと錯覚するほどに鳴り響いている。

 魔物は人類の物差しを軽々と超えていく超常的存在である──その事実を差し引いても、この肌をピリピリと電気が流れるような濃厚な死を振り撒くのはそれさえも超越するモノ──大いなる存在に他ならない。

 

 耳には絶えず魔法の発動する音と地面の抉れる音が混ざり合い、凡そ常人の精神を破壊するには十分な不快音が流れ込んでくる。気を研ぎ澄ませる、空気と同化するように心を安らかに。

 俺は風だ、木だ、そうして無だ。この場に俺は存在しない。

 だから大いなる存在よ、気兼ねなく俺の前にその姿を現せ──。

 

 ……何分が過ぎ去っただろうか。

 時間間隔が狂い始めた頃、俺の弱り切った耳は雑音の中に何かが地面を力強く踏みしめながら近づいてくる音を確かに拾った。かっと目を見開いた。辺りを見回すが、それらしき姿は未だ──

 

 

 

 

 

 ──しゃがめ!

 

「っ!?」

 

 突然心を満たした本能の声に従い、自身の可能な限りの速さで前に倒れ込んだ。

 ひゅっと、一瞬の風を切る音。

 ドゴッ。

 続いて聞こえたのは、大きな何かがハンマーによって破壊されているような重苦しい音だった。

 

 恐る恐る顔を上げて音のした方向へ目を向ける。

 ──刀だ。大太刀と形容できる刃渡りの刀が地面に突き刺さっている。

 途中で木に直撃したのだろうか、大太刀の軌道にあるはずの太幹の木は大部分が抉れてしまい、最早それはかつての形を留めてはいなかった。

 恐るべき力、恐るべき能力。俺は大太刀が飛来してきた方向へ目を向ける。

 ゆらり、ゆらりと草陰から現れた大男──否、魔物。

 人の身体を保ちながら、顔面に縦に裂けた大口を絶えず開閉する一匹の剣士。

 弾かれたように大太刀へ振り返り。

 ──赫く脈動する燕子花の紋に視線が吸い込まれる。

 

「自殺したって聞いたんだがな」

 

 斯くして俺は、あったかもしれない未来の、もう一人の俺と出会った。

 



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最後の戦

戦闘描写が難しすぎる(絶望)


 魔物は、特に動くことも無く俺を見据えている。

 しかし、果たしてそれは本当に俺を見ているのだろうか? 端から見るとそれは一目瞭然だろうが、自分からしてみればそれはやや違和感の拭えない見当だった。

 当然ながら魔物に目はない。しかし視ている、何かを。

 

 すり足でじりじりと魔物との距離を推し量る。少し近付いては離れ、離れすぎては立ち止まり、そうしてもう一度慎重に距離を詰めていく。

 ぎこちない動きであることは誰が見ても明らかだった。

 その理由は自明だ。ずばり俺は対人戦の経験が一つもなかった。

 研ぎ澄まされてきたのは魔物を殺す為だけに特化した剣技。つまるところ人──この場においては人型の魔物──を殺す為の技術、間合の詰め方を俺は持ち合わせていない。

 対してこの魔物の大太刀は元の色を推測することが困難な程に血に塗れている。

 どちらに風が吹いているかは、背中に流れる一筋の冷や汗が物語っている。

 

 霧との同化がここまでの力を及ぼすとは。

 親和力というのもなかなか馬鹿には出来な──

 

「っ──!」

 

 意識するよりも早くその場を飛び退くと、次の瞬間には巨大な金槌が叩きつけられていた。

 いや、金槌ではない。これは拳だ。()の身体の内から湧き出る純粋な力。

 

 彼は地面を抉り取るような衝撃をそのままに後方へ避けた俺へ接近する。

 身体にはそこまで筋肉がついている様には見えないが、それでも単純な戦闘力でも軍配はあちらに上がる。確かに彼は人型で力も強く、人斬りの経験のない俺からすれば厄介な難敵であることに違いはない。

 だがやつはどれだけ取り繕おうと、霧に身を委ねてしまった愚人(まもの)だ。

 魔法使いの俺には彼の命を葬り去る義務がある。

 

 ──彼の大きな掌が俺に掴み掛かろうとしたところで身体を捻って左に避ける。

 反射で動いたために傷は一つも負っていないが、体勢を立て直した時に視界に入ったのは、木を穿った大太刀を引き抜く彼の姿だった。

 

 してやられた。どうやら本当の目的はこれだったらしい。

 

「──せいっ!!」

 

 無防備な背中に向けて斬撃を10回放つ。空気を裂きながら縦横無尽に駆け廻り、しかしそれらは一点集中に突き進んでいく。

 数多の銀閃が背中を切り裂く──彼の頸が180度回ってこちらを向いた。

 

 ──豪。

 月に揺らめく赫の刀身が、刀にしてはあまりに乱暴で野性的な轟音を唸らせながら迫り来る銀閃を一つずつ弾く。それは瞬間的な絶技だったが、敢無く真二つに割られた銀閃は行き所を失い、虚しく月明りの元へと昇華していく。

 最後の斬撃を斬り捨てると同時、今度は彼は満月を背後に空高く跳躍する。

 刀身に這うは緑黄の雷撃。

 バキバキという骨の音を幻聴するくらい大袈裟に振り抜かれた雷斬から漂うは濃厚な死の気配。

 

 全身を捻り、攻撃範囲を離脱する。

 雷斬が地面を抉る。肌がビリビリと帯電する気配と、朦々と立ち上る土煙が辺り一帯を覆う。

 彼の姿は見えない。

 しかし無慈悲にも四方八方から土煙を裂きながら月光は俺の頸を狙って接近する。

 俺は刹那に迫り来る幾つものそれらを斬り捨てながら、合間を縫って気配のする方向へ真空波を放つ。数十秒に及ぶ斬撃の応酬の末、受け流し損ねたたった一つの銀閃が頬を掠める。

 

「そこだ!」

 

 尋常でない痛みに柄を握る力を強めながら、背後から這い寄る濃厚な死の気配に振り向きざまに刀を斜めに振り下ろす。

 ──ッギィン!!

 咄嗟の判断は正しかったと、衝撃で麻痺する腕に力を入れ直しながら思う。

 耳を劈く不快な金属音。パリッと最悪な音が聞こえたような気がした。

 

 強敵に対する万感の敬意と殺意を力へ変換して、彼の顔を睨みつけながら刀身を押し付ける。

 鍔迫り合いには出来るだけ転じたくなかった。

 しかしこうなってしまった以上、下手に離脱するのも危うい。

 

「おらっ────!」

 

 まるで全速力のトラックを正面から受け止めようとしているかのような圧力に、地面を割れんばかりに踏みしめて対抗する。

 ずり、ずり……靴と土の擦れる音が金属音に紛れて聞こえてくる。そして徐々に近づいてくる大太刀の刃。

 ぎし、ぎし……どこか分からない骨が悲鳴を上げる。

 

 絶体絶命の状況。

 だというのに俺は、何故か心の底から湧き上がってくる気分の高揚を無視することは出来ない。

 滴る汗、激しく脈打つ心臓、そして極度の緊張感。それは全て人間である証だ。

 そう思うたびに、所在不明な力が身体の底から湧き上がってくる。

 

「っ──」

 

 力の合間を縫って僅かな無力の隙間に全力を注ぐ。

 その時、酷く圧されていた状況が僅かに均衡化した。

 震える刀身を一睨して歯を食いしばる。全身の血が沸騰しているように熱い。

 地面に足を埋めるかの如く全体重を込めて踏みしめ、ゆっくりと、しかし着実に前へと進む。

 

 形勢が逆転し、今度は彼が徐々に後ろへと下がって行く。

 俺の太刀が上から大太刀ごと斬り伏せんとする。勝てるかもしれない──。

 そんな一握りの希望を見出した。瞬間

 

 彼の身体が瞬時に横にブレた。

 

「ああっ!?」

 

 全力に針が刺さったような幻覚を覚え、思わず地面を蹴って後方へ飛び退く。

 呼吸を整える暇もなく彼は低い姿勢のまま雷の様にジグザグに接近してくる。

 

「うっ……らあっ──!」

 

 まるで嵐の様な袈裟斬りに居合切りの要領で大太刀を弾き返し、しかしその勢いを活かしたまま斬り付ける。

 身体を捻って回避するが、鮮烈な激痛が左肩を襲った。視界に噴き出る血潮が映り込む。

 失いそうになる意識を叱咤しながら彼の間合から抜ける。

 

 しつこく追い回してくる姿に舌打ちしながら、乱暴に何度も太刀を縦横無尽に振るう。

 彼もそれに合わせて同じ技を放った。

 彼と俺の間に幾つもの斬撃が飛び交う──。

 

「うがああああ──っ!!」

 

 打ち消し合う互いの銀閃から逃れて向かってくるのを受け流していく。それだというのに、一つ一つの衝撃が身体の深くまで重く蓄積されていく。

 骨だけでなく、今度は内臓までもが痛んできた。

 

 受け止めきれない斬撃が身体中を掠めながらも、飛び交う死と死の合間を銀閃の軌道を読み取ることでトリッキーに避けながら未だに俺の放った技に対応し続ける彼へ──全力で突きを放つ。

 魔力を纏った剣先はいとも容易く真空を作り出し、それは弾丸が如き豪速で暗闇を駆け抜ける。

 

 それが計20余り。あまりの早さに真空弾は摩擦で焔を纏う。彼は当然それらを羽虫の如く悉く打ち消すが、俺はその鋭い衝撃に刀身に僅かな罅が入ったのを見逃さなかった。

 

 体勢を立て直す暇も与えない。

 俺は幾つか銀閃を放ってから全力で跳躍し、空中で刀を振りかぶる。

 下では直前に放った銀閃を律儀に切り捨てている彼がいる。

 俺の方に意識を向ける方が得策だが、それでは再び俺と鍔迫り合いになる前に銀閃が確実に彼の命を刈り取るだろう。

 勝機は見えた。高鳴る鼓動を抑えて、背骨をバキバキと軋ませながら刀を振り下ろす──

 

「……はっ?」

 

 腕に込めた力は申し分無い筈だった。斬り込む角度も考慮した。

 そうして最後まで油断せずに、隙を狙った筈だった。

 ……ああ、いや訂正しよう。俺は油断した。考え得る可能性の中の一つを見逃していた。

 

 ──全力で振り下ろした太刀を無骨に握る姿を、想像することが出来なかっただけだ。

 刀身から彼の腕を振り解こうと暴れたが、彼は俺ごと刀を振り回してふっと手放した。

 

「あがっ──」

 

 木に背中から打ち付けられ、ずるずると身体が沈んでいく。

 耳鳴りが酷く、鉄の味が口腔内を支配し続けている。視界が歪み彼の姿が何重にも重なったところで、俺の意識はぷつりと途切れてしまった──。

 

ーーー

 

 美麗な月が二つ浮かんでいる。

 

 一つは宇宙を映す夜空で、もう一つは眼前に広がる無限の海。波に揺らめく月光は、しかし海面に遥か彼方へと続く厳静なる道を作り出している。

 あまりにも綺麗なその光景にある種の神秘を見出し、考えるまでも無く両足は自然と波打ち際へと向かって砂浜を踏んでいく。

 さざ波の音が耳を撫で、心地のよい涼しい海風が髪を揺らす。

 

 どれだけ歩いただろうか。覚束無い思考ではそれを推測する事さえ叶わない。

 すると突然、俺は視界に一人の少女が裸足で砂浜に佇んでいるのを認めた。

 風に流れる錦糸のような金髪と、エメラルドをそのまま嵌め込んだような揺らめく瞳、そして見紛う事無き可愛らしい相貌。

 

「水無月」

 

 俺は思わずその名前を呼んだ。水無月はわざとらしく微笑む。

 服装こそ純白のワンピースを着てはいるが、間違いない。そして右の肩口から手首に掛けて稲妻が駆けるように貫かれた痛々しい傷跡が俺の心を揺さぶる。

 

「座りましょ」

「え?」

「そんなとこに突っ立ってねーで、ここに来て一緒に月でも見ましょ」

 

 俺の困惑など意にも介さず座り込み隣を指差す水無月に、渋々彼女の隣に腰を下ろす。

 風が吹く。柑橘のような匂いがした。

 

「なあ」

「なんです?」

「あの道はどこに続いていると思う?」

 

 それは唐突にふっと沸いて出た疑問だった。

 特別な意味など含まない、他愛のない会話にも満たない素朴すぎる質問。

 声に出してみて、改めてどうしてこんなことを思ったのだろうと思考を振り返るが、なんだか底の無い湖を覗き込んでいるような気がしてやめた。

 

「それは、アンタが一番分かってんじゃねーですか?」

「どういうことだ」

「どうしても分からないってんなら、近くまで見に行ったらどーですか?」

 

 水無月の優しい声に促されるままに俺は月光の道へ歩みを進める。

 数分歩いた所で波打ち際にやって来た。道への入り口が足先にある。

 俺はその光の海を見下ろし覗き込むと──思わず後ずさりした。

 

 波面に揺られながら、最愛の人──冬樹イヴは俺を見ながら微笑んでいた。

 

「裏と表は相容れませんが、ここはその境界が曖昧なんです」

 

 いつの間にかか背後に移動していた水無月の声に俺は振り返る。

 水無月は波面の冬樹イヴを眺めながら言う。

 

「ここまで来て、アンタはこれをどう思いました?」

「なあ、さっきからお前は何を言ってんだ?」

「いーから答えてくだせー」

「……まあ、やっぱり綺麗だよ。いつまでも見ていたいね」

 

 正直な心の内を言った。

 その時、心なしか冬樹の表情に一瞬だけ陰りが差したような気がした。

 

「……渡りたいですか?」

「……」

「もし渡りたいと思ったのなら、私は止めることをお薦めしますよ」

「なにが言いたい」

「私からは言えませんね。ただまあ、最大の分岐点とでも言っておきましょーか」

「分岐点」

 

 いまいち要領の得ない喩えではあるが、それだけで俺は水無月の言わんとしている事が理解できた気がした。

 脳裏に浮かぶのは、暗い森の中で魔物のようではなく恣意的な殺意を以て現れた可能性の一つ。

 そうだ、俺は確かその可能性に磨り潰されてしまいそうになった所で失神したんだったか。

 今頃俺の身体はどうなっているのだろうか。ここが精神世界だというのなら、まだ生きているということの証明に他ならないのだが。

 

 ここが一体どこで、どうして俺が此処に居るのかも大体理解できた。

 だからこの質問は単なる俺自身の個人的疑問に過ぎない。

 

「これを渡ったらどうなるんだ?」

「一度でも水の中に爪先一本でも入れてしまえば、後戻りはできねーです」

「え、怖……」

 

 思わず波打ち際から逃げるように早歩きで離れる。

 ある程度離れた所でもう一度振り返ってみると、なるほど道理で神秘的な光景の訳だ。

 俺は今まででこんなにも喉から手が出る程に欲しい光景を見たことは無い。

 無論、あっち側にはこんなのは存在しないのだが。

 

「さて、どーします? 一旦離れましたが、別に渡ったらいけねーわけじゃねーんです。

 海原へ旅に出てーならそれでもいーし、元の場所に戻るのだって。

 さあ、アンタはどうしますか?」

「そんなの……決まってるだろ」

 

 俺は水無月から視線を外して、空に悠々と浮かぶ大きな月を仰ぐ。

 あまりにも綺麗で、気を抜くと吸い込まれてしまいそうだった。

 肺一杯に息を取り込み、そして腹から空気を吐き出す。

 

「俺にはまだ守るべき存在があるんだ。あそこを渡るのは、それを守り切ってからにする」

「……ふっ、そーですか」

 

 水無月は嬉しそうににやけながら背中を向けた。

 直後、視界を青白い鱗粉が空へ向かって通り過ぎていく。

 はっとして視線を自分の身体に落とすと、その鱗粉はどうやら俺の身体から生じていたらしい。

 次から次へと、まるで剥がれ落ちるように鱗粉が夜空へ巻き上げられていく。

 

「暫くお別れですね……」

「いや、そうでもないかもしれん。俺はすぐ近いうちに再開する気がするがな」

「そんな縁起でもねー……ああ、アンタ、霧を操れるんでしたね。だったら……」

 

 視線を上げると、水無月と目が合った。

 今まで暗闇鹿映していなかったような瞳に、僅かに光が射した気がした。

 

「私をここから、連れ出してくだせー」

「ああ、約束する。絶対に……──」

 

 そこからの事はあまり覚えていない。

 もしも俺の意識が覚醒した時に咄嗟にこの記憶を掘り返して保管していたならば或いは違ったかもしれないが、直後全身を襲い始めたすさまじい激痛の前では些細な事だった。

 

ーーー

 

 瞼を開けた時に目に入ったのは、視界一杯に広がる月明りだった。

 どこかで見た覚えのあるその柔い月光は、しかし恐るべき死への誘いだ。

 

「っ!」

 

 熱湯を掛けられたような暑さが伴う痛みに目もくれず、俺は身体を回転させて眼前に迫っていた血濡れの刃を寸前で避ける。そのまま地面に手をついて立ち上がる。

 

「……ふぅ」

 

 身体に溜まった悪い空気を吐き出すように、いつでも斬り合いに転じれるよう構えを崩さずに身体の筋肉を僅かに弛緩させる。痛みは引かない。むしろ悪化しているまである。

 そうだというのに、心の中の焦りの炎は既に鎮火しているようだった。

 

 ──瞼を閉じる。

 瞳に映るのは、真暗闇の中に佇む一体の死の具象のみ。

 風は周囲の臭いを悉く掻っ攫っていくが、それでも喩え海の底に居ようとも漂ってきそうな濃厚な血の臭いは逃すはずも無い。

 

 刀を構える。息を整える。──間合は十分。

 次だ。次で終わらせる。

 

「──……行くぞ」

 

 一言呟く──瞬間、空気が爆ぜる。

 天空を貫く雷の様な速さで縦横無尽に駆け抜ける。一瞬でも動きを止めれば、それは死を意味する。

 斬撃を悉く避けながらして、すぐに彼の元へたどり着く。

 

「はあっ!」

 

 勢いを殺さずに、そのまま兜割りにしてやるつもりで振り下ろす。

 彼はそれを後ろへ避けずに刀で受け止め、そのまま鍔迫り合いへ持ち込もうとする。

 俺はそれを許さず、一瞬の隙をついて刀をスライドさせて横に薙いだ。

 

 一筋の霧が吹き出る。

 彼はすぐさまステップで後ろへ撤退するが、そんなものはとっくに予測がついていた。

 ステップから足が地面に付く前に全速力で距離を詰めて、結果的にこれまでにない程に肉薄する。

 彼はステップを踏んだせいで未だに姿勢を崩している。

 そのまま上から刀を振り下ろし、肩口から袈裟斬りにする。

 

 スプレーの様に傷口に合わせて霧が溢れ出る。決して少なくない量だ。

 ……だがまだ、絶対に油断してはいけない。

 

 彼は今の立ち位置のまま大太刀を身体を軸にして回転させて俺へ刃を振るう。

 俺はそれの下をくぐるようにステップで回避し、無防備な足を全力で蹴り付けてバランスを崩させる。

 バキッ、と嫌な音が身体を駆け抜け、同時に彼は地面に手をついて倒れ込む。

 

 眼前には青白い色をした項。

 急いでその場から飛び退こうとする彼と俺の視線が交差すると、彼は静かに閉目した。

 

「──さらば」

 

 少しくすんだ色の雪が、月光に照らされながら夜空へと昇華した。



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桜の木の下で

 第七次侵攻からどれだけの冬が過ぎ去っただろう。

 

 当初、かつてない規模の侵攻となると予測されたこの戦いを乗り越えられると確信していた人はきっといないはずだ。後の軍の記者会見曰く、北海道侵攻の時なんて比ではない大規模なものだったらしい。

 

 最初は風飛とその周辺に全戦力の一部を裂いて配置した。

 私達魔法使いの力に頼り切った政府の姿勢には、国内から批判がとんだ。

 

 途中から魔物と戦う皆が異変に気付き始めた。

 これだけじゃ足らない。もっと人がいる、もっと戦力がいる。

 

 政府は一部を除いた全戦力を風飛に向かわせ、戦力を足すことにした。

 闇夜の中で列を成す眩いライトの数々は山を照らし、空を照らし、もう昼なのか夜なのかもあの時は正直理解していなかった。

 

 ――とにかく生き残る事に必死だった。

 あの日、図らずも最前線に身を置いた私は見た。

 目の前を流れる死の川を。あっちとこっちを隔てる境界線を。

 

 その川は月の光を放っていて美しかった。

 美しいが故に、足を踏み入れればもう二度と戻って来れない――そんな気がした。

 

「――……つまり、ここはこの公式を利用して――」

 

 でも、私は今生きている。

 頑張って行き伸びて、頑張って勉強をして……そして今度は私が勉強を教える番。

 まさか私が人と接するような仕事を引き受けることになるとは思いもしなかったけれど、教師を初めて数年経った今ではその違和感もとうに忘れてしまった。

 

 未だに人と話す事は好きでは無いけど、それでもどういうわけか、子供達の笑顔を見るとそんな気持ちも自然と薄れてしまう。

 どうしてだろう……子供の笑顔が、記憶の底を擽ってくる。

 

「――……今日の授業はここまでです。お疲れさまでした」

 

 授業を終えた私はそのまま教室を後にする。

 通り過ぎる生徒達が挨拶をしてくるが、私はそれらを悉く無視しながら職員室――を通り過ぎて教職員の寮へと向かった。書類作業は粗方済ませているから、態々人混みの中に戻る必要もない。

 

 扉を開けて部屋の中に入る。

 ベッドと本棚と机と椅子、そして日常生活に必須な家具など本当に必要最低限のものだけを揃えた部屋の中は、さっぱりした感覚を通り越して最早ある種の虚しさを感じる。

 むしろ学生時代の私の方が、もっと女の子らしい部屋を作っていたと思う。

 

「……あ」

 

 チカッと視界を刺すような光に驚く。

 視線を動かせば、そこには部屋を隅々まで映す鏡のように綺麗な鋼――でも、少し汚れている。

 最後に手入れをしたのは確か2ヶ月前だったか。まあ、それほど期間を開ければ埃も被る。

 私は箪笥からタオルを取り出して埃を拭き取る。

 そうして柄を握って色んな角度から汚れが無いかを確認して、また元の位置に戻す。

 

 やっぱり、いつ見てもこれには人の心を惹き付ける不思議な力があるように思う。

 私の身には余る長さの――太刀。

 

「……私に渡されても困るんですがね」

 

 私は何度も拒否した。それを持つべきは私じゃないと。

 それでも……彼は最後まで言う事を聞かなかった。どうしても私に持っていて欲しいと。

 

 

 

 

 

 ――大規模侵攻が終了して数日が経てば、既に学園内の復興は終了して今まで通りの生活が戻って来た。中庭で追いかけっこをする人、調理室で訳の分からない暗黒物質を生成する人、薔薇園で例の転校生と茶会を開く人――それでも唯一戻らないのは、カーテンで遮られた保健室の角の窓際だけだった。

 

『失礼します……こんにちは』

『……あぁ、イヴ……』

 

 絶えず漏れる機械の音に紛れて聞こえる彼の声は今までに聞いた事が無いくらい弱弱しかった。

 身体中にチューブを繋げられ、朝から晩まで休みなく血液を抜き取り霧を除染し、そしてまた血液を身体に戻す――彼は霧の病を患っていた。

 

 どれだけ身体が霧に親和していようとも、彼は彼であり一人の人間に過ぎなかった。

 元々東雲アイラからも、霧を取り込み過ぎれば普通の人と同じように霧の病に掛かってしまうと釘を刺されていたらしい。

 それを知ってなお、あの日彼は自分の身を捨てて魔物と戦い続けたのだ。

 

『今日は空が晴れていますから、桜がとても綺麗ですよ』

『そっか……俺も、少しぐらい歩けたらなあ』

『そう言うと思って、ちゃんと写真撮ってきました』

 

 ポケットから携帯端末を取り出して、保健室に来る前に撮影してきた数枚の写真を見せる。

 何本も立ち並んだ桜や、木の下にたくさんの生徒達が集まっている桜や、山際にポツンと一本佇む寂し気な桜。中でも彼は三枚目の写真を長い間見つめていた。

 

『来年は……』

『うん?』

『……来年は、この桜の下でお花見しましょうか――って、え?』

 

 ふと視線を落とすと、彼の顔は熟れたトマトのように真赤に染まっていた。

 最初見た時は緊急事態かもしれないと焦ったけれど、次第に思考が落ち着いて、単に彼が恥ずかしがっているだけなのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。

 最近までの私は脳の回転に少し陰りがさしていたのに、彼とまた会う事が出来たおかげで精神的にも余裕が出来てきて、今では以前通りのスペックの冬樹イヴに戻りつつある。

 

『まさか、イヴから言ってくれるとは……』

『私だって人を誘ったりしますよ。嘗めないでください』

『別に嘗めては、ないが……そうか、来年か』

 

 彼は感慨深そうにそう呟くと、窓の外に視線を向ける。

 私からは遠くで子供達が鬼ごっこをしているのが見えるが、彼から見れば恐らく空が見えるばかりだろう。天と地をひっくり返して、海が空に落ちたみたいに澄み渡った青空に、白波のような雲がゆったりと流れている。

 

 彼の瞳は空だ。

 

『来年度で、俺は卒業だよ』

『……はい』

『花見、しような』

『……約束ですよ』

 

 震える手を受け取って、私の小指と彼の小指を絡めて指切りをする。

 ――指切りげんまん。嘘吐いたら、針千本飲ます。

 

『改めて考えると、指切りげんまんほど気軽で恐ろしい契はありませんね』

『はは、まったくだ』

 

 これを考案した人は本当に嘘をついたら針を千本飲んでいたのだろうか。

 現代では考えられない事だが、大昔なら或いは……いや、考えるのはやめておこう。

 

 ――その後も彼と小一時間話したところで、保健委員の椎名さんが面会終了を告げに来た。

 もう少し一緒に居たかったけれど、あまり負担をかけたくもないので仕方ない。

 また明日来ます、とだけ告げて私はカーテンの外に出た。

 

『うん、またな』

 

 そう言う彼の声色はとても明るく安らかで、落ち着いていたと思う。

 

 

 

 

 

 ――その夜。

 

『……嘘つき』

 

 容態が急変して、彼は軍病院に搬送されることとなった。

 

 

 

 

 

「……ん」

 

 太刀を眺めながらぼうっとしていると、突然携帯端末がメロディを奏で始める。

 元の場所に戻して机の上の携帯を手に取って相手の名前を見ると、やはりというべきか、水無月さんからの電話だった。

 

「もしもし、冬樹です。突然どうされましたか」

『冬樹、今暇ですか?』

「たった今仕事が終わったところです。貴女こそ、忙しくはないんですか?」

『必死に頭下げてきょーだけ休暇をもらいました』

 

 水無月さんは学院卒業後、軍に入って人類の最前線で魔物と戦っている。

 他の風紀委員達も大概は同じで、私だけは戦場から一歩離れた場所で生活している。そのことがなんだか歯痒くて、コミュニケーション能力が低い事も相まって中々連絡を取らずにいたのだ。

 

「それで、一体何の用ですか?」

『何の用って……約束したじゃねーですか』

「……約束?」

『花見ですよ、花見』

「っ」

 

 ……どうして水無月さんがそのことを知っているのだろう。

 この会話をした時は私と彼しか部屋にいなかった。

 ましてやそれを他の人に言いふらしたりも勿論していない。

 

「なんで、知ってるんですか」

『は?』

「……あの日の約束を」

『……いやいや、だいじょーぶですか? 冬樹』

「え?」

『知ってるも何も、ついこの間グループで皆と約束したじゃねーですか。

 元風紀委員の全員で花見をしようって』

「――」

 

 黙って立ち上がり、バッグの中からスケジュール手帳を取り出してカレンダーを見る。

 そこには、はっきりと私の字で『花見予定日』と書いてある。……うっかりしていた。

 

 ……本当にただのうっかりなんだろうか?

 そう片付けてしまいたい気持ちと、それを立ち止まらせる重い岩があるように感じる。

 

「すみません、今のは聞かなかったことにしてください」

『はあ。それで、どーなんですか? この後予定とか入れてませんよね?』

「それについては大丈夫です」

『分かりました。じゃあ……そうですね、集合場所は――山際に一本立っている桜の下で』

 

 ……本当はあの日の会話を盗み聞きでもしていたのではないだろうか。

 何やら作為的なものを感じるけれど、でもまあ、態々私を花見に誘ってくれているんだから、贅沢は言わないようにしないと。

 

 それにしても、花見。

 学園を卒業して教師になってからは一度もしていないし、誰かとの会話に上がったことも無かった。つまり、ここ数年で私と桜は一度も同じ時の流れにいなかった。

 それぞれの流れを辿って行くと、最終的に巡り会う場所はあの日を境に無くなっている。

 

 ――ああ、懐かしい。

 濁った目にはあの日々は些か輝かしすぎる。

 

 彼とはその日以降会っていない。手紙も交わしていない。

 もう数年が経ってしまうけれど、その間にお互いの存在を確認し合うような行為は一度たりとも無かった。

 搬送された場所は軍病院だから、情報統制は厳しいし何と言っても科研と距離が近すぎる。

 私がどれだけ頑張って交流をしようと思っても、私と彼の間には厚くて固い大きな壁があった。

 最早、私には彼が生きているのかもよく分からない。

 

 ……結局、私には何もできなかったな。

 

「……よしっ」

 

 頬を叩いて気分を入れ替える。

 これからかつての仲間たちと再会するのだから、暗い顔をして行くのはあまりに失礼だ。

 バッグに必要最低限の物を入れて、姿鏡の前で着替えをして、ハイヒールを履いて部屋を出た。

 

 寮の扉を開けた瞬間に青い香りのする春風が私の髪を靡かせながら走り去っていく。

 空を見上げた。雲一つない晴天、日差しは暖かい。

 きっとこれ以上に花見の似合う日なんて無いだろう。

 

 途中で学園生とすれ違いながら目的地へ向かう。

 中央広場を抜けて、プール横通って、コロシアムを横目に歩く。

 

 ――昔と変わらない風景。

 魔物との戦いは終わらない。それでも私達は確かに生きている。

 子供達は友達と語り合い、幸せを享受している。私達は太陽の下に生きている。

 

「あった」

 

 でも、私の後に影は出来ない。

 彼の存在は大きすぎた。私はもう、生きる屍と何も変わらない。

 生きる意味を失い、けれど表面上は普通の人を偽って生き続ける。

 

 未だ過去に囚われている事を悟られないよう。

 過去の輝きを手放すことの出来ない、私の弱き心がため。

 

「まだ誰も来てない……いや、誰かいる」

 

 結局時を経て変わったのは外側だけだった。

 時間は本質を癒してはくれない。それもそうだろう、あくまで本質は本人自身なのだから。

 だからこそ、外側もいずれ傷んでくる。

 私が今の私の形を保っていられるのも、時間の問題。

 

「よいしょ……っと」

 

 桜の木を隔てて、先客の向こう側の坂に座り込む。

 座ってすぐに、レジャーシートを敷いておけば良かったと後悔する。でも、芝生だから良いか。

 

 ……まったく、人がこんな気分になっているというのに太陽は相変わらずだ。

 太陽も太陽なりに慰めようとしているのだろうけど、私にそれは逆効果。

 同情されれば同情される程、反って深みに嵌ってしまうのが私の性格だから。

 

 二度と、彼と会うことは出来ないのだから。

 

「…………」

 

 ――突然視界が暗くなる。

 身体の不調とか、超常現象とかそういうのではないことはすぐに分かった。

 私の両目を覆う掌の感覚が分かったから。

 

「…………」

 

 叫ぶ、べきなのだろうか?

 助けを呼ぶべきなのだろうか。でも、視界を封じられただけで?

 ここは学園内だし、そもそもテロリストがこんな大胆な行為に出るはずが――

 

「だーれだ」

「……え?」

 

 男性の低い声。

 街を歩けば、いくらでも声のそっくりさんを見つけ出せそうな、そんな平凡な。

 でも、その質と抑揚、そして何よりこの行為にこそ、私の心は温かくなる。

 

 私はその手を強引に取って後ろを振り返る。

 頭に包帯を巻き、左目に白い眼帯をした黒髪の若い男性。

 その瞳は――

 

「……あー、えっと」

 

 あたふたと視線を泳がせて慌てる様子に……私は自然と笑みが零れた。

 突然笑い出した私に困惑した表情を見せ、やがて子供のように綺麗な笑顔を浮かべた彼に、私は顔を寄せる。

 

「……遅いですよ」

 

 ――風が吹く。

 散った桜花を巻き上げて空に浮かべ、それは常闇の星々のように青空に舞った。

 

ーーー

 

「では、事情聴取に入りましょうか」

「えっ」

「とりあえず軍病院に入ってからの様子を聞きましょう。謝罪はその後です」

 

 隣に座るイヴはいつもの事務的な声でそう言うが、しかしその裏で僅かに隠しきれていない喜びに気付かないほど俺も鈍感ではない。

 ……と、いつもならちょっかいを掛けていたのだが、今回ばかりは真面目に説明しよう。

 それが、数年間連絡を取らずに恋人を悲しませ続けた男の償いとなるのなら。

 

 

 

 

 

『先生、意識を取り戻しました!!』

 

 痛む身体に無理矢理意識を覚醒させられて、初めて聞いたのは慌ただしそうな看護師のそんな叫び声だった。ゆっくりと瞼を開けて周囲を見渡すと、数人の白衣を纏った人達。

 そして機械、機械、機械――。

 身体に繋がるチューブの量が明らかに増えていた。

 

 そしてそれが意味することを、俺は知っている。

 

『貴方の命も、そう長くは続かないでしょう』

 

 後から聞かされた話の内容は、概ね俺が想像した通りに進んだ。

 霧の病の進行が急激に進んで、保健室にいた時に繋いでいた機械だけでは除染するペースが追いつかなくなってしまった。軍病院では最新鋭の設備で出来るだけの除染を行うが、それでも最早延命措置とすら言えないくらい身体はボロボロになってきていると。

 

『ここは軍の施設である以上、冬樹さんを連れてくるわけにはいきません。

 それに、これらの機械を伴って外出することは厳密に禁止されています。

 申し訳ありませんが、お二方が顔を会わせる事はもう……』

 

 そう言って頭を下げる医者に、俺は気にしないでと言う体力すらも残されていなかった。

 

 それから何日経っただろうか、突然部屋に来訪者が現れた。

 目だけで入口に視線を向けると、そこには盟友こと東雲アイラが立っていた。

 沈鬱な表情をして佇むその姿は今でも忘れられない。

 

『……すまん、妾が無責任だったばかりにお主をこんな……』

 

 そんな本気の謝罪を彼女から聞くのはあれが最初で最後だろうな。

 何も悪くない東雲が罪悪感を感じているという事に俺の方こそ罪悪感を感じていたが、しかしそれを裏腹に心の底では少しワクワクしていた。

 ……アイラは優しい人だ。

 だからこそ、謝る為だけに顔を見せに来たのではない事は分かっていた。

 

 ――俺の思い通り、しかし東雲が提案してきたのは俺の想像を超えるものだった。

 

 機械を使って限界まで霧の除染をした後に、体内に残った霧をどこか一か所に集めて手術で切り落とす、というものだった。

 最初聞いた時は、何言ってんだこいつ……と思ったりもしたが、なるほど説得力はある。

 俺の霧と親和した体質を利用した霧を操る魔法を使う――妙案だったが、リスクもある。

 

 この方法には手術――つまり軍病院の協力が必須であり、それ即ち科研にも俺の正体が露見してしまうということだ。霧と親和のある体質など、人類史に二つとない貴重な存在であり、それを逃すことなど知識欲の悪魔と化した研究者共に限って有り得ない。

 この方法でないと霧の病を完治できないのは重々理解しているが、だからと言ってホルマリン漬けを是とするわけにもいかない。

 

 そんな心配を予想していた東雲は、生徒会長の武田虎千代や学園長と協力して、持てるパイプをふんだんに使ってでも俺がホルマリン漬けになるのを阻止すると断言してくれた。

 それはもう、赤子も黙らせるような凄まじい断言だった。

 

 結局俺はその説得に折れて、翌日の定期健診で東雲と共に事情を説明して、彼女の考えた治療法と、笑顔たっぷりの『お願い(脅し)』をもって看護師の顔を蒼白にさせた。

 これで全てうまくいくと思った。だが、彼等の執念は俺達の一歩先を行っていた。

 

『身体の提供は別にいい、だが……片腕だけならどうだろうか!?』

 

 ……まさか翌日、俺の目の前で白衣を着た恰幅の良い爺が土下座をすることになろうとは。

 結局強大な権力を前にしても、研究者達はその知識欲を堪える事が出来なかった。

 一夜の理性と欲望の葛藤を経て、彼等は譲歩して俺の腕を欲しがったのだろう。

 俺からすれば一体何が譲歩なのか理解できないし、別にしたくもないが。

 

 でも、ホルマリン漬けになってイヴと二度と会えなくなるぐらいなら、腕の一本や二本を差し出した方がよっぽどお得だ。俺は床に平伏す爺に、親指を立てて応えたのだった。

 

 その後の展開は……まあ、一年かけて霧を除染して残った霧を左腕に集めて、ばさっと切ってもらった。

 その後ずっとリハビリやって……リハビリに明け暮れて。

 それだけだ。

 

 

 

 

 

「でも、それならどうして長い間なんの音沙汰も無かったんですか?

 手紙くらいは寄越してくれても良かったと思うんですが」

「あーっと、それはなぁ……」

 

 一番聞かれたくない事を聞かれてしまったな。

 どうしよう、言うべきか。だけど別に言う程のことでも――

 

「大方、ずっと放置してた私になんて言えば良いのか分からず、そのまま時間が過ぎたってところですか」

「えっ! なんで分かったんだ!?」

「貴方の考えなんてお見通しです。ええ、考える時間もいりません」

 

 ……なんだか釈然としないが。

 でも、そう言うイヴの横顔はとても自信に満ちていた。初めて会った時のような影が表情から一掃されて、その無表情は子供の純粋な笑顔にも勝るほど美しかった。

 ああ、やっぱり俺はイヴが好きで、愛してるんだな……。

 

「……本当に貴方は馬鹿でマヌケで、変な所で鈍感でドジで」

 

 あれ? なんかおかしくない?

 ここってそんなに罵倒する様な場面じゃないと思うんだが……。

 

「自己評価が極端に低くて、私の気も知らないで……ですが」

 

 イヴが顔を俺に向けた。

 微笑んでいる。目尻に金剛を輝かせながら。

 

「私は、そんな貴方が好きです。愛しています……」

「イヴ……俺も、愛してるよ」

「……」

「……」

 

 辺りに沈黙が降りる。

 熱を帯びた視線が混ざり合い、それは行く当てもなく互いの身体に纏わりついてくる。

 俺はイヴの肩を右腕で掴んで向かい合う。イヴは目をゆっくりと瞑った。

 脈打つ心臓、脳内回路を膨大な熱が行き交う中、俺はイヴの唇にそっと――

 

「あっ、冬樹ー! お待たせしてすいま……って、えぇぇえぇえ!?」

「もー、どうしたんすか水無月先――ああぁあぁああ!?」

「せ、先輩!? 生きてたんですね!!」

「生きてるわ馬鹿!!」

 

 突然の大集合と思いきや、いつもの無自覚氷川砲が炸裂する。

 まったく、あいつは後で教育だな。

 風紀委員時代に新入委員の教育係をしていた俺にはお手の物だ。

 

「……なんだか騒がしくなっちゃいましたね」

「だな。……どうする?」

「どうもこうも。とりあえず、水無月さんと氷川の説教は覚悟してくださいね」

「うっ、だよなあ……」

 

 まあ仕方ないか。

 俺はイヴの頭をくしゃくしゃと撫でてから立ち上がる。

 かつての懐かしい面々が、全力でこっちに走ってきているのが見えた。

 

「もう、遠くに行ったりしないでくださいね」

 

 差し伸ばした俺の手を取って立ち上がった。

 イヴは笑った。その綺麗な翡翠の瞳はどこまでも透き通り、美しく。

 

「ああ。死ぬまで一緒だ」

 

 

 

 

 




皆様大変長らくお待たせしました。
これにて『冬樹イヴへの遺言』完結です。たった11話の短いお話でしたが、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。

最初期から読んで頂いていた方ならご存知でしょうが、元々今作は短編小説でした。
冬樹イヴが大好きな私が、如何にしてオリ主と彼女の恋模様を書くか。でもあまり長く小説は書けそうもない……せや、短編ならええやんか! でも短編は経験無いし、話の展開のペースも分からんし……とか色々考えた結果が、死の間際に互いの本心を暴露し合って愛が結ばれ、最後は主人公がそれに幸せを噛み締めながら息を引き取る、そういった小説でした。

でもなんやかんやあって続編を書くことになって、その合間の情報収集でグリモアをやっていく途中(主にイヴ関連のストーリー)で、私はこう思いました。

『イヴは幸せにさせなあかん!! バッドエンドだけはダメや!!』

思い立ったが吉日、私はすぐ路線をハッピーエンドに切り替えてプロットを組み直し始めました。
そうです、続編を書いている途中まで私はバッドエンドを計画していました(鬼)
だからこそ、突然の路線変更が祟って執筆はグダり、更新期間がどんどん空いて……暴露しますと、最終話を書き始めたのも昨日です。

その他にも色々な二次創作を読み耽っては文体に影響されて、最初期と比べて言葉の選択が変わっていく……いやほんとうにすみま(ry

ですが、こうして一つの小説を完結させるのには不思議な感覚がします。
事実、先程最終話の最後の4文を書き終えるまでに30分ほど時間が掛かりました。結局こんな締め方にしたのは、思いついたどれもがそれ以下だったというだけです。
私は小説を書き始めて早4年程度経つわけですが、これまで書いた小説で無事完結にこぎつけたものは一つだってありません。
どれも途中でエタったり、放置したり、黙って後に削除したり……とんでもないクズ野郎だったわけです。私の心弱きが故に……(冬並感)

いや、改めて考えると、『完結した駄作と未完の良作は、前者の方が良い』という意味がようやく分かった気がします。この事に気付かせてくれたこの作品に、ありがとう。
冬樹イヴよ、永遠なれ。グリモアに栄光あれ。

最後になりましたが、こんな小説に11話も付き合ってくださった皆さんに重ね重ね感謝申し上げます。皆さんがきちんと見てくれたお陰で、心弱き私でも小説を完結させる事が出来ました。
読者の皆さん、ありがとう。またどこかで会いましょう!


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