日光。
暖かさと眩しさに開きかけた瞼を細め、未だ覚醒しきらない体で寝返り光から逃げる。
自身の体温で温まった布団は心地が良くてついつい二度寝へと移行してしまいそうだ。
しかし、そんな至福の微睡みを邪魔する騒々しい声が自室に木霊する。
「はいかぁ~!またれーむが私のこと胡散臭いってぇー!嫌いってぇー!」
「分かったから静かにしてよ。まだ眠たいんだ。それと僕はこれから二度寝にはいるから朝ごはんは要らないと藍に伝えておくれよ」
「貴女私と違って寝る必要なんてないじゃない!そんなことより私の話を聞きなさいよ!一応は貴女だって私の式でしょう!?なんで主のピンチを放っておいて自分は惰眠を貪ってるのよぉ!おかしいじゃないの!」
「うるさいなぁ。その理屈ならなら藍に慰めてもらえばいいじゃないか。それが僕である必要ないでしょ。はいこの話おしまい。おやすみ」
「起きて、起きてってばぁ!」
「ぐえっ、ゆ、揺らすな、揺らすなってちょっと」
情けない声の主が寝相で乱れた布団の上から掴み掛かって来る。そのまま目一杯前後に揺さぶるものだから、視界がやたらめったらぐわんぐわんと歪んでしまう。
というか痛い。
断ってもしつこく僕の睡眠を邪魔する女。彼女は八雲紫。一応は僕の主ということになっている。なんだって昔の僕はこんな奴を主にしたのかさっぱりだ。
一発ぶん殴ってやらなくちゃ気がすまない。
ふと、昔の記憶が頭の中を過った。
そしてその記憶を思い出して『否、あの時は僕が悪かったわけじゃないぞ』と数秒前までの自身の考えを蹴飛ばす。
ああ、確かあれは朗らかな今朝とは真逆の夜のこと――――
■■■
空虚。
なにもない廃れた廃屋で、僕は空を見ていた。
くらいくらい闇の中に星々が所狭しとひしめき合っている。あっちもこっちもチカチカと忙しない。たまには休んだりしないのだろうか。
僕なんて毎日ただぼうっとするだけの生を惰性で過ごしている。あれだけ毎日ぴかぴかと大変だろうに。別に年に数度程度休もうと誰も文句は言うまいて。
そこまで考えて、待てそれだと自分の暇つぶしがなくなってしまうと自分で思いついた星への休暇案を自己完結で却下する。
こんなくだらないことを思案する他ない自分は寂しい奴だ、と思われるかもしれないが、それは概ね事実である。
今座り込んで居る廃屋の他にも人の痕跡らしきものは幾つかあるが、それらは皆一様に朽ち果てていつ完全に倒壊するかわかったものではない。
かつて強力な土地神に収められたこの土地もあの方が去ってからは衰退するまであっという間だった。
何処か遠くへいなくなってしまわれたのはただの気まぐれか或いは何か重要な理由があったのか。
何にせよ、この面倒な能力を解除してから行ってほしかったものだ。そのせいで自分は未だに分不相応なまでの力を保持したままでいる。
ああ、本当に面倒な――。
今夜幾度目かに襲ってきた睡魔へ身を委ね、眠りに落ちようとしたその時。
眼の前に何やら紫色の裂け目が現れた。
飛び降りかけた夢の中から這い上がり、何やら胡散臭いオーラを裂け目の中から撒き散らす妖へと視線を向ける。
こちらを見てニヤリと口元を歪ませ、先程よりも大きく裂け目を開いて全身を顕にした妖。
目を引くのは流れるような金の髪に整った容姿。
そして何より強大な妖気。
これでもかと見せつけるようにダラダラと気配を垂れ流すそのさまは宛ら栓を無くした水桶のよう。
あまり褒められたものではないな、これは。
「もし、そこの貴女」
鈴を転がすような声で語りかける妖。
ご丁寧に口元を扇子で隠しながらお上品さを演出するオプションまで付いている。
結構なことだ。
でもやるならその垂れ流しの下品な妖気を引っ込めてからじゃないとどこぞの都会に憧れた田舎者がイキっているようにしか見えない。
わざとらしく左右を見回して一体誰に話しかけているんだろうコイツ、と煽ってやると、威圧的な目でこちらを見下ろしてきた。
「ちょっと。分かってやっているでしょう?」
「さぁ。なんのことだかさっぱり」
「本当にそう思っていると言うならもう少し声と表情に感情と抑揚を込めて言いなさい」
はぁ、と溜息を一つ吐きながら扇子を閉じる妖。
どうやら初めにやっていたお上品なお嬢様キャラはもうやめのようだ。飽きるの早くないか。
僕だってもう少し頑張る。
伊達にここ数年、いや数十年?青空と星空だけを見て過ごす生活を送ってはいない。
「貴女、ここ百年くらいずっとこの場所にいるでしょう?」
「そうだね」
「貴女は幾らか前までこの土地を治めていた土地神に仕えていた。違って?」
「そうだね」
「しばらく貴女の行動を観察させてもらったけれど、ここに居て特に何かをしている訳でもなし、何の為にこうしているの?」
「そうだね」
「……ちょっと」
「そうだね」
「多少痛い目を見ないと分からないかしら」
妖の背後にリボン付きの二つの亀裂が走り、紫色の閃光がこちらへと走る。
その進行ルートを遮るように自分の体前方の朽ちた床板へ向けて人差し指を向けて横に移動させる。例えるならそう、まるで空中に線を引くように。
紫色の閃光は指先で描かれた線の延長線上にある地点で何かに阻まれるように弾けた。
それを見た妖は面白いものを見たというようにニヤリと笑う。
「やはり。面白い力を持っているのね」
「別に。そう特別なものじゃないだろう」
「いいえ、そんなことはないわ。少なくとも私にとっては」
先程までの下品な妖力を引っ込めた妖はこちらに向き直って神妙な顔つきに変わる。
いきなり攻撃してきたと思えば今度は急に真面目な雰囲気になって、忙しないというか、何だかよく分からない奴だ。
そんなことを思っていると、妖が口を開く。
「これから行く宛はあるの?」
「別に。これまで通りこの場所に居るだけだよ。他にすることもしたいこともないからね」
「そう、なら丁度いいわね」
何がだ、とこちらが言う前に妖が一歩こちらに向けて踏み込んでくる。
今度は一体何だと呆れまじりに黙って見ていれば、一歩、また一歩とこちらへ近づいて来た。
そのままではぶつかってしまうので『線』を消してやるが、妖そのことに気が付いているのか気が付いていないのか変わらない速度でこっちへ向かってきている。
そしてすぐそばまで来て停止した。
そこらの童と同程度の背丈しかない自分とは違い、スタイルの良い妖が足を振るえばぶつかるような位置だ。
少しの間視線をぶつけ合い、唐突に妖がこちらへ手を差し伸べる。
「私の所に来なさい。私には貴女の力が必要なの」
必要、という言葉に少しばかり目を見開く。
伸ばされた手から妖の顔へと視線を戻すと視線が交わった。
あの日、自分に一緒に人々を守って欲しいと言ってくれたあの方の瞳と妖の瞳が一瞬だけ心の中で重なる。
ああ、まだ自分を必要だと言ってくれる者がいたのか。
ならば迷う余地はない。
例えこの妖がどんな悪であろうと、本当に心の底から自分を必要としているのなら手を貸そう。
それが僕が僕である理由なのだから。
そして伸ばされた手に向かって僕は――――
■■■
「初めて出会った頃はあんなに刺々しかったのに。今じゃこれか」
「これとは何よこれとは。いいじゃない親しみやすくて」
結局朝食の時間になっても起きてこなかった僕、そしてその背中にしがみつき続けていた紫を藍が引きずって食卓まで連行した。
ちなみに今朝は焼き魚と味噌汁、ほかほかの白米に少しのお漬物という日本人キラーなコンボを叩き込まれて大変幸せな朝食だった。
そして今は食後、茶を啜りながら縁側で紫と二人のんびりしている。
正面に見える庭では藍とその式である橙が稽古の最中だ。どうも何かの術がうまく行かなくて橙が藍に叱られているらしい。
術者というのもなかなか大変だ。年長者として助けてやりたいが、生憎と僕はそんな小難しい術なんてからっきしだから助け舟どころか泥舟すら出せない。
なので橙にはそのまま厳しい藍先生のもとで頑張ってもらおう。
橙を見守る作業を終えて再び茶を啜っていると縁側に垂れた僕の灰色にくすんだ無駄に長い髪を弄る紫が話しかけてきた。
「相変わらず長い髪よね」
「仕方ないじゃないか。切ろうとしても切れないし、あの時のままで固定されてるんだから。おかげで背も胸もちんちくりんのままだ」
「コンパクトで楽そうね」
「嫌味か肉まん」
「誰が肉まんよ」
その無駄に膨らんだ肉塊らをこっちに移植してくれたっていいんだぞ、と恨みがましい視線を向けるが、圧倒的ガン無視で茶を啜る妖怪ババア。
おい、こっちを向け。
飄々とした表情で式達の稽古を見ている紫だったが、送った念が届いたのか、ふと何かを思い出したような声を上げながら振り向く紫。
「そういえば、貴女なんだかんだまだあの娘に会ったこと無かったわよね」
「あの娘というとあれかな?あの紫がうざいほど溺愛してて本人にもうざいと言われている博麗霊夢かな」
「あ、あれはああいう愛情表現だし。だから別に嫌われていないし」
「少なくとも早朝から押しかけて喚く奴を好くような変態ではないと思うんだけど」
「うぐェッ」
少なくとも女が出してはいけない類の悲鳴を上げてのたうち回る紫。見ていて滑稽だが勢い余って湯呑を叩き落としそうで心配だ。
無論心配しているのは湯呑の方だが。
「今日は天気も良いし、たまには外に出なさいよ。だからついでに霊夢に顔見せでもして今後何か会った時に向こうが貴女のことを知らなくて協力できませんって事にならないようにしておきなさいな」
「えー……」
何時も通りの無表情のまま猛烈な抗議の声を上げる。
しかし、我らが主は部下の心の叫びに答えるような優しさは無いようで、白けた目でこちらを見ていた。
「えー、じゃないわよ。どうせ今日も一日だらだらするだけのつもりだったんでしょ」
「否定はしない」
「私としては少しは否定してほしかったところなんだけど」
こめかみに手を添えて頭の痛そうな素振りをする紫。しかし、今朝のような醜態を何度も見せておきながらいまさら主として敬えというのも無理な話だ。
それこそ僕の生活態度云々言う前にお前の今までの行動について主だと胸を晴れるのかその無駄にぶくぶく風船の如く膨らんだ肉塊に手を当てて考えてみろと言いたい。
「下手に準備してこいとか言ったらまた部屋で寝だすでしょうし、今この場で出発しなさい。大丈夫、最低限の荷物は一緒に送ってあげるわ」
「は?」
紫が軽く手を振るうと共に唐突な浮遊感に襲われる。
次いでやってきたのはおしりへの痛み。
「あいたっ」
下を見ると石段。後ろを振り返ると長い階段の先に赤い鳥居が見えた。
どうやら件の博麗霊夢の元へ送られたらしい。
ここまで問答無用な紫は久しぶりだ。何かしら思惑があると思ったほうが懸命か。
「といっても紫が考えていることを当てようなんて僕にはできないわけだけど」
自分はもっぱら実戦派である。彼女のように深く思考の海へと乗り出して、何処にあるとも知れぬ小さな小さな宝島を見つけることなどできないのだ。
そんな暇があったら港で海に向けて糸を垂らして居るほうがよっぽど有意義である。
「はいどうぞ」
「……分かったよ。はぁ」
紫が今度は真横にスキマを開いて一本の飾り気のない刀を渡してくる。
オーソドックスな黒い鞘に黒い柄。長さは短刀と言うには長く、打刀と言うには短い。
これといった装飾のない見た目故に鍔から紐でぶら下げられたデフォルメされたスキマのストラップが異様に目を引く。
これが僕の
「それからこれお昼ご飯。霊夢と一緒に仲良くお食べなさい」
渡されたのは二つの可愛らしい小さなお弁当。
片方はピンク、もう片方は水色だ。
お昼、ということは少なくとも迎えは昼過ぎまで来ないということか。一体初対面の二人に何をそこまで長時間話せというのだろう。
これから始まる気まずい時間を想像すると、早くも帰りたくなってきた。
「それじゃあ行ってらっしゃい」
そう告げて今度こそスキマが完全に閉じた。左手に刀、右手には二人分の弁当と随分なんとも言えない装いになってしまったが、どうあがこうとこの先に居る楽園の素敵な巫女に会いに行く他ないらしい。
「行く、か」
座り込んだ石段から重い重い腰を持ち上げ、青い空に映える鳥居を目指して歩き出した。
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物ぐさ巫女の遭遇
私が初めてそいつを見た時の第一印象は『薄い』だった。
薄いというのは別に肉体的な話ではない。否、肉体的にも薄いが。
気配は別にそれらを消すのが得意だったり能力だったりする類の妖怪と違ってしっかりそこに感じられたし、体が透けて向こう側が見えている訳でもない。
ただ、そいつは単純に各部位の色が薄かった。
膝裏まで届く長い髪は、くすんだ灰色をしていた。吸血鬼の館のメイド長のような光を反射する自己主張の強い銀ではなく、薄弱な灰。
瞳の色も空を映したような煌めく蒼ではなく、それに霞がかったような印象を受けた。
その上眠たそうな垂れ目をしているので意思まで薄そうに思える。
着ている服だって目が痛くなるような格好をしたのが多い幻想郷に置いて淡い桃色と白のグラデーションに添える程度な右腰回りから胸にかけて薄く白と桃それぞれのまだら模様が入っているだけと控えめな見た目をしていた。
きっと幻想郷中が皆こいつみたいな服を着るようになったらここは嘸かし視力に優しい世界になることだろう。
そいつは何処か遠くを眺めながらぼぅっと石段を登ってくる。
強く風に吹かれればそのまま飛んでいってしまうのではないかと思わせるほど華奢な体付き。
見た感じ人間で言うところの十やそこらの童子と変わらない背丈だが、妖怪という奴らは外見では中身の年齢まで判断がつかない。
何にせよ警戒してかかるに越したことはないだろう。
そうして意識の警戒度を上げて、私は縁側から起き上がった。
■■■
「止まりなさい。誰よアンタ」
無駄に長い階段を登りきって境内を少し歩いたところで誰かに声を掛けられた。
声の方向へ視線を向けると、一人の少女が腕組みをしながらこちらを見ていた。
不機嫌な顔でこちらを睨みつけている紅白両脇丸出しの少女。常々しつこいほどに紫から言い聞かされていた独特の服装と合致する彼女が、きっとこの神社の主で間違いないのだろう。
「やぁ、始めまして博麗の巫女。僕の名前は
「あのスキマ妖怪の……」
紫の名前が出た瞬間無愛想だった顔がより一層険しくなる。
おいおい、君のせいでファーストコンタクトは最悪の出だしだよ。どうしてくれるんだこの野郎。
というか何をしたらここまで嫌われられるんだ?まだ名前出しただけだぞ。
本人的には溺愛な感じだったからてっきり本人にもそういう態度で接してるのかと思ってたんだが。反応を見るにそうでもないらしい。
これは面倒くさいってより単純に嫌われてるぞ。
「君は紫と仲がいいんじゃないのかな?」
「はぁ?私とあいつが?アンタ一体主からどう言い聞かされてるわけ?何が悲しくて高頻度で何の前触れもなく神社に出没して私のお煎餅やらお茶やら勝手に腹に入れて高笑いしながら消えてくやつと仲良くしなくちゃいけないのよ」
「うわぁ……」
博麗霊夢が嘘を付いている様子は無いし、というか嘘をつくメリットもないし、きっとこの話は本当のことなんだろう。
何というだる絡み。
しかも日中だけでなく今日は早朝まで。
心底対象が自分じゃなくて良かったと思えるな、これは。
「それは、その、うちの主が失礼したね」
「失礼なんてもんじゃないわよ。今まで私が受けてきた迷惑行為そっくりそのままアンタに返して上げましょうか?」
「い、いや、遠慮しておくよ……」
青筋を立てて座った目で怒気を顕にする博麗霊夢。背後には不動明王的な何かがオーラのように浮かび上がって見える。
さすが巫女。
それにしてもそこまでひどかったとは知らなかった。普段紫が博麗神社に出かける時は基本僕はマヨイガに居て寝てるか藍や橙の相手をしていたからまさかこんな事になっているとは思いもしなかった。
普段他人を素直に受け入れることの出来ない気質故にこういったところで大きな反動と言うかしわ寄せになっているのだろうか。
かれこれ紫との付き合いは千年近くなると記憶していたが、その間紫が心を許した相手なんてそう居ない。
そうだとすると少なくともここ千年分をたった数人で処理しきらないといけないのか……。
うぅん、素直に面倒だな。
普通に面倒くさい。
さっきはちょっぴり申し訳ないとか思ってたけど巫女の仕事って本来邪悪なモノを祓うことだろうし、大妖怪カマチョスキマの退治は全て彼女に任せて僕はのんびりしていることにしよう。
そうしようそれがいい。
ともあれ、紫の矯正計画は今は置いといて、そろそろ僕は僕で今日ここに来た本来の目的を果たさねばなるまい。
「まぁ、色々あったのは分かったけど、今日僕は別に紫から何か指図を受けて来たわけじゃないんだ。だからそう邪険にしないでほしいな」
「妖怪が神社に来て邪険にするなって何の冗談よ。寝言なら布団に入ってから言いなさい」
「それができれば一番なんだけれどね。お生憎様僕も寝ているとこを叩き起こされて来た身なんだ。僕としても紫がどういう思惑でここに寄越したのか分からない以上、顔を覚えてもらえというなんとも曖昧な指示を全うすべくお茶でも飲みながらそこの縁側でお喋りでもしたい所かな」
「しっかり受けてんじゃないのよ、指図」
お弁当もあるよ、と右手に持った二人分の弁当を掲げてみせると、博麗霊夢は数秒こちらを睨みつけたまま何かを思案し、大きなため息とともに縁側へ向かうよう顎で促した。
「少しでも怪しい動きをしたら速攻ぶん殴るわよ」
「そこは巫女なんだから滅するとかの方が良いんじゃないかな」
「こっちのほうが早いでしょうが」
と右手で握りこぶしを作る博麗霊夢。
おかしいな。
紫から聞いてた話だと照れ屋で内気な可愛らしい巫女という話だったはずなんだけど。
随分実物と差異があるじゃないかと脳内で主に抗議を送りながら、先に歩き出した彼女を追って縁側へと歩みを進めた。
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月日に関守はなく
「はい、お茶」
「ん、悪いね」
「お弁当代よ。唯でさえ残り少なくなった茶葉使ってやってんだからまずかったら承知しないから」
「それはまぁ、その、今度本人に言って飲んだ分持ってこさせるよ」
「そうして頂戴。というかそうしなさい」
台所で湯呑にお茶を入れてきてくれた博麗霊夢が既に座っていた僕の隣に腰を下ろす。
辛辣な物言いでありながらちゃんとこうしてお茶をくれる辺りやはり紫の言う通り性根の優しい娘なのだろう。
きっと本人はそんな事を言ったら怒り出すんだろうけど。
特に紫の言う通りってあたりは特に否定するんだろうなぁ。
突き抜けるように晴れた空にじゃれ合いながら飛んでいく鳥達を眺めて一服。
少しだけ舌に刺激の残る熱さのお茶が口の中を満たすと、風味が鼻から抜けていく。
ごくり、と飲み下せば熱を持った息を吐き出そうと自然と溜息が出た。
ふむふむ、これはなかなか美味しいな。
まろやかで心落ち着く味だ。
「君は優しいね」
「はぁ?今までの流れでどうしてそうなるわけ?それとも主がイカれてるとその下もおかしくなるのかしら。一応奥底に残った微かな記憶じゃ狐の式はある程度まともだったと思ったけど」
「心外だな。家で頭のおかしいのは紫だけだ。僕が言いたいのは君が今まで僕が会ったことがある博麗の巫女と比べてって意味だよ」
博麗の巫女、という単語に隣で同じくお茶を啜っていた博麗霊夢がピクリと眉を震わせる。
彼女は体の向きはそのままで、視線だけこちらに寄越す。
どうやら彼女の琴線に触れる話題だったらしい。
「私以外の博麗の巫女ねぇ。アンタは母さんとかとも知り合いだったわけ」
「母さん、というと君の一つ前の代の博麗の巫女だね。先代とは特にこれと言って関係は無かったかな。紫や藍は僕と違って必ず各代の博麗の巫女と面通しをしているらしいけどね」
僕自身幻想郷設立に立ち会った身ではあるが、博麗の巫女との面識なんて初代とその次、それからその次の次の次の……いつだったかは忘れたが、合計しても三、四人ぐらいしかない。
どいつもこいつも性格、霊力、キャラ、どれをとっても強者だった。それこそ忘れたくても忘れられないくらいには記憶に残っている。
しかし先代については紫から話は聞きこそすれど、実際に会うことは最後まで無かった。
先代に限らず、実際に会ったことのない他の巫女達のことは紫の話を通してしか知らない。紫はどの巫女の話をしていても楽しそうだが。
「ふぅん。そうなんだ」
「昔話の一つや二つ聞かせてやれればよかったんだけどね」
「別に良いわよ、知らないなら知らないで。元からそこまで期待してなかったし」
「もし御母上の話が聞きたいなら紫か藍辺りに聞いて見ると良いさ。きっともうお腹いっぱいってくらい話してくれるよ。特に君にベッタリな紫はね」
「狐の方はまだしもスキマの方は嫌よ。弱みを見せたみたいでムカムカするわ」
「そこまでか……」
博麗霊夢のあまりにも酷い紫への評価に内心苦笑いしつつも、普段と変わらない無表情で再度お茶を啜る。
うん、やっぱり美味しい。
「それじゃあアンタは私や母さんよりももっと前の博麗の巫女と知り合いってことよね」
「ん、そうだね」
「てことはアンタも他の妖怪と同じで見た目よりよっぽと年寄りなのね。外見は人里にいるガキンチョ共とか妖精なんかとそう変わらないのに」
「ここにはそういう輩は吐いて捨てるほど居るじゃないか。ほら、山に住んでる鬼の萃香とか、常闇の奴も昔はでかかったけど今は僕と同じくらいじゃなかったか?」
「は?山?常闇?誰のことよ」
「いや、だから鬼の萃香と常闇の妖怪だよ。まさかもう死んでるとかじゃないだろうね。だとしたら紫が一言ぐらい言ってくると思うんだけど……」
常闇は何やら一時期大きな騒動を起こしたせいで紫が手を回してたから知らなくとも仕方ないかも知れないが、萃香の方は人里ですらそれなりに知名度が会ったはずだ。
小さな体に似つかわしくない怪力。
密と疎を操る程度の能力を司る鬼の四天王が一角。
萃まる夢、幻、そして百鬼夜行。
その名は方々まで轟渡り、他の名高い大妖怪達と肩を並べる幻想郷に置いて間違いなく素の戦闘能力で最強の一人だ。
それがどこぞで野垂れ死になんてそう考えられないが、妖怪退治の専門家である今代の博麗の巫女の博麗霊夢が知らないとなると、マジでいつの間にか天に召されていたのだろうか。
だがしかし、まだ隠居という可能性も……否、あの萃香だぞ?
出会い頭に問答無用で『灰香ァァアアア!!!!』とバーサーカーが如く殴りかかってくるあの萃香が……。あれ程隠居という言葉の似合わない奴もそう居まい。見てくれ的にも性格的にも。
いやはやこれも時の流れというやつなのだろうか。
そういえば前回マヨイガから外出したのはいつのことだっただろう。
ついこの間、と思っていたけれど、もしかしたら結構時間が経ってしまっているのかもしれない。
百年は、経ってないといいなぁ。
「ちょっと、急に遠い目になってどうしたのよ」
「なんでもないんだ。ちょっと、その、僕も歳をとったなって……」
「ガキの見た目で何言ってんのよ。紅魔館の吸血鬼みたいにこれから伸びるんじゃないの?」
「いや、僕の外見はこの状態で
「え、そうなの?」
「うん。だからずっと万年このちんちくりんのままさ」
今朝だって紫にコンパクトでいいわねって煽られてきたよ、と付け足しながら、若干冷めて温くなったお茶を自棄酒のように一気に飲み干した。
勢い余って唇の周りに付いたお茶を舌を出してぺろりと舐め取り、ごちそうさまでしたと縁側に置く。
なかなか美味しいお茶だったな。後で銘柄を聞いて帰りに人里で買って帰るのも悪くない。
――随分と久しぶりになってしまっているみたいだし。
「それって、アンタの表情がさっきから声音と連動してないのもそのせいなの?」
「こっちはただの体質。元から表情が真顔でガチガチに固まってるだけ」
「若干心配して損したわ」
「それはありがとう」
「うっさい」
照れ隠しなのか、博麗霊夢に肩を軽くこづかれた。
やっぱりこの娘は優しい娘だ。今日あったばかりの、それも得体の知れないスキマババァの式である僕に心配なんて。
もしかしたら紫が目指した人妖が手を取り合う幸せな世界というのが実現してきているのかも知れない。
昔は妖怪のよの字でも出ようものなら祓い屋が総出で出張ってきたものだけれど。
これも時代の流れと言うやつか。
本当に歳をとってしまった気分だ。幻想郷が出来て、それまで随分と忙しかったから少しのんびり過ごそうと思って、それから表のことは皆紫に任せきりにしてきた。
そりゃあ大きな異変や事件の時は戦力として手を貸してきたけれど、情勢や政なんかはまったくノータッチだ。
出動した例を挙げるとすれば月面での大戦や大地震か。
最近の一番大きなニュースは吸血鬼共が幻想郷に押しかけてきた異変だろう。
あの時だって戦いに参加した後は疲れて直ぐにマヨイガに帰ったものだから、どんな風に影響を与えたかなんて全く知らないし、そもそも僕がよく顔を出して居た頃の人里に住んでいた人間は皆寿命で死んでしまったからそう気に留めなかった。
きっと今の人里は僕が知っている頃とは随分変わっているのだろう。
人里だけじゃない。
それ以外の幻想郷のあちこち。
きっと昔とは、この地が幻想郷と呼ばれ始めた頃とは違う景色が見られるはずだ。
もしかしたら紫はこの事を伝えたくて今日ここへ僕を送り出したんだろうか。
頭の中がスッキリしたような、モヤモヤしたようなよくわからない感じ。
普段使うことのない頭を酷使する苦痛から逃れるように、こづかれた勢いに逆らわずパタリと縁側に倒れ込む。
少しだけひんやりとした木の冷たさを頬に感じる。
それと同時に顔に陽の光があたった。
ああ、やっぱり今日は太陽が気持ちいいな。日差しが暑すぎることもなく、かと言って空気が冷い訳でもない。
このまま瞼を下ろせば昼食まで良い日向ぼっこに――
「さっきの話の続きだけど、常闇とかいうのは聞いたことないけど鬼の方なら知ってるわよ」
「え、本当かい?」
沈みかけていた意識を唐突に引き上げられ、その勢いで体も元の位置まで起き上がる。
博麗霊夢はこちらを一瞥すると、小さく頷いてお茶を啜った。
そのまま残り少なかった湯呑の中身を飲み終えて、縁側に置く。
「割と最近の話よ。その鬼の萃香が異変を起こしたの」
「え、異変?どこで?」
「あの鬼性懲りもなくこの神社で異変起こしやがったのよ」
「え、は、こ、ここで!?」
博麗霊夢の言葉に驚きながらも辺りを見回すが、どこも陥没してないし地面が割れている訳でもなければ土砂が堆積した様子もない。
立ち上がって少し離れた位置から博麗神社を見るが、記憶より少し古臭くなっているくらいでどこかが破損しただとか最近建て直したような真新しい箇所も見当たらない。
さっきここに来るのに登ってきた石段や途中に会った鳥居だって別段大きく破損した痕跡は見られなかったと思うんだが、本当にあの萃香がこの場所で異変を起こしたというのだろうか。
というかそれを紫が許したのか?
もはや幻想郷の結界の起点、要石とも言えるこの神社で鬼が暴れるなんて謀反というか反逆もいいところじゃないか。
うちの主は基本的にちゃらんぽらんだがこと幻想郷に仇なす者が現れた時は誰よりも非情な判断を下す奴だと認識していたんだけれど、霊夢の口ぶりからして処刑された訳でもなさそうだ。
ついに紫も手心を加える程には寛容になったということだろうか。
それともついにボケたか、あのスキマババァめ。
「そういえば、その時萃香を止めたのは誰なんだい?一度暴れだしたあれを宥めるのは随分手がかかっただろう」
「誰も何も私がしばいたわよ」
「え?」
「ん?」
ま、待て待て。
今この娘は自分が萃香を退治したと言ったのだろうか。
否、聞き間違いという線も無きにしもあらず――
「君が」
「ええ」
「萃香を」
「ん」
「退治した」
「だからそうだって言ってんでしょうが」
何をそう疑う、とでも言いたげに眉を吊り上げてこちらを訝しむ博麗霊夢。
しつこいのは重々自覚しているが、疑うなというのが無理なのだ。
相手は鬼。それもその頂点に立つ四天王のうちの一人だ。
それに対するこちらは人間。
それもまだ比較的最近博麗の巫女になったばかりの少女だ。
こう言っちゃ何だがこの娘はたかだか十数年生きただけの小娘でしかない。それなのにその何倍も長い時を生きる大妖怪を殺さないにせよ退けるなんてのはあまりにも難易度がルナティックすぎる。
かと言って萃香が手を抜いたとも考えにくい。
ああでも僕以外と、というか人間となにかする時は昔から割と抜いていたかもしれない。
とはいえこの娘に負ける程手を抜くなんてことがあるだろうか。それはもうほぼ勝負の放棄と違いないような気がするんだが。
不意打ち、とか?
確か昔まだあいつが人間から酒呑童子と呼ばれていた頃に毒の入った酒を自分からがぶ飲みして死に目にあったとか聞いた気がするし、その手の類で攻めて行ったんだろうか。
ともすれば見かけによらずえげつない事を考える少女である。
それとも紫に魔改造されてえげつない強さになってるとか……??
ハッ!さっきの『こっちのほうが早いでしょうが』っていうのはそういう――
と、随分長いこと迷走している間に向こうのイライラゲージが天井突破したのか、勢いよく立ち上がってこちらにずんずんと歩み寄ってきた。
「そこまで疑うなら証明してやろうじゃない」
「証明だって?どうやって?」
「もちろんこれよ!」
ずいっと目の前に突き出されたのは三枚のカード。何やら綺麗なデザインの施された上質な物のようだが、最近の若い娘の間ではこういうのが流行りなのだろうか。
悲しいことに僕の持ってるアクセサリー類は刀の鍔に括り付けた藍の手作りスキマストラップだけなんだ。
僕がその行為の意味を理解できずに首をかしげて居ると、先程までとは違う意味で博麗霊夢の表情が曇っていく。
「もしかしてあんた、スペルカード知らないの?」
「は、すぺ、何だって?」
聞いたことのない単語を耳が捉え、何のことかと再度博麗霊夢に問い直そうとした時。
首筋を冷えた刃物の腹で舐られたような気色の悪い感覚が襲った。
瞬時に博麗霊夢をこちらに抱き寄せ、背後に向けて人差し指を立てた右手を一閃。
それとほぼ同時に凄まじい轟音が鳴り響く。
土煙を巻き上げ、正しく"破壊"が周囲を襲った。
「おいおい、加減ってものを知らないのか」
「ちょ、ちょっと!?いきなり何なのよ!!?」
僕と博麗霊夢の居る位置から真後ろ約一メートル以外全てが吹き飛んでいく。
文字通り全て。
地面も、草木も、石も、そして神社も。
土煙が晴れた時、今自分達が立っている位置からすぐ後ろ以外の地面が全て抉り飛ばされていた。
背後を見るも、そこには残骸すら残らず小高い丘からの景色が見えるばかり。
その日、博麗神社は幻想郷の地図から消えた。
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鬼の一口
土煙が晴れきるよりも早くソレは僕達の方へ音速に迫る速度で突っ込んできた。
動体視力ギリギリの速度で肉薄してくるソレは眼の前の
結晶体同士が衝突したような独特の甲高い音と共に
今はまだ視界不良で見えないが、きっと透明な
僕がさっき登ってきた階段も、その先にあった鳥居も。
それはもうグシャグシャのメッタメタになっているに違いない。そしてもう少し
未だ砂埃の晴れきらない向こう側に居て、唯一目視出来る相手。
胸の中に抱いた博麗霊夢は完全に本物の妖気に気圧されていた。可哀想に体が拒絶反応を起こしている。顔色は青を有に通り越して土気色だ。しかし、この状況において子鹿のように振るえながらもちゃんと最低限自分の体重を支えているというのはむしろ褒めるべきだ。
辛く、キツイ修行を経てきたとはいえいまだ子供の域を抜けきらない少女。きっと僕の知る歴代の巫女の中でも同じ歳でこの禍々しさを耐えられるのは初代くらいじゃないだろうか。
ほか二人は発狂または失神の後に失禁して最悪呼吸困難で泡を吹くまであるな。
そう考えるとこの娘は大変逸材じゃないか。その上さっきのやり取りでわかるようにとても心の優しい娘だ。紫がよく気にかけるのもわかる気がする。
では、そんな良い子を未だ怖がらせ続けている悪い大人にはそろそろ事情くらいは説明してもらおうじゃないか。
少しでも恐怖を取り除くために、博麗霊夢を抱く力を強めながら口を開く。
「久方ぶりの再会だって言うのに随分とアグレッシブな挨拶じゃないか。――萃香」
眼の前の相手に非難の視線をぶつけながら言葉を投げかけ、向こうの出方を探る。
「クカッ、クカカッ、クヒヒュッ、ックアァハハハハハハ!!!ああ、ああ、ああ、間違いない。これは間違いない。間違いようがない。久しぶりだなぁ、
三日月型に歪ませた口元から溢れることを我慢しきれなかったような歪な笑いが耳に届く。
何がどうかは分からないが、今の笑い方だけでだいぶ脳みそがイカれているというのは良く分かった。
萃香は未だ
「ずっと、ずっとずっと、ずぅっと探してたよ。あの日から、あの満月の夜から。私は一日たりともお前のことを忘ことなんてなかった」
「それは光栄だな。けれど僕は普通に忘れてたよ。ごめんね」
「クハハッ!あんまり連れないこと言うなよ。寂しくて涙が出ちゃうだろ」
フーッ、フーッと獣のように息荒く、瞳孔の開ききったは完全に理性を失っているように見える。
歯をむき出しにして獰猛な笑みを浮かべる様は正しく『鬼』。
どうしてこんなにも僕に執着心を向けているのかは全く分からないが、取り敢えずこれ以上この一帯を破壊されるのはよろしくない。
この場所は博麗大結界の要所。この場所の存在が揺らげば最悪結界の方も崩壊しかねない。
それはこの幻想郷崩壊への明確な大打撃だ。
博麗大結界が完全に崩壊した時点ではまだ大丈夫なように構築されてはいるものの、かと言ってそれは再度博麗大結界が、またはそれと同等以上の幻想郷を覆う守りを展開するまでのその場凌ぎ。言わば繋ぎの為のシステムなのだ。
現在この幻想郷を囲い、守っている力は全部で
そのうちの一つが駄目になってももう二つが一時的に出力を上げて騙し騙し時間を稼ぐ作りになっている。
その3つの力というのが、現在進行形で危機に瀕している真最中の博麗大結界。八雲紫の境界を操る程度の能力。そしてもう一つは――――
「本当にアンタは変わらないね。その飄々とした態度も、私と変わらない背丈も、膝裏まで伸びるくすみ掛かった長い髪も、その眠そうな瞳も、表情も、雰囲気も妖力も神力も空気も匂いも立ち振舞も――――そしてこの忌々しい能力も」
「キミは知ってるだろう。それが僕だ。変わらないんじゃなくて変われないんだよ。というか、そういう君だって変わらないじゃないか。僕と同じちんちくりんのままだし。
その言葉を聞いて萃香は一瞬理性ある顔つきになり、少し寂しそうに目を伏せる。
「いいやそれは違う。私は変わった。変わってしまった。お前さんとは違ってね」
「君は変わりたくなかったのかい?」
「ああ。私は変わりたくなんて無かった」
「そんなに昔の自分が好きだったのか。別に変わってしまったならもう一度戻ることもできるだろう」
「そう簡単に言わないでおくれよ。これが意外と難しいんだ」
「だからって僕に八つ当たりはしないで欲しいんだけれど」
「いや、これは八つ当たりってよりも、変わらない、あの頃と同じお前さんとあの頃と同じ事をすることで私は――――」
そこまで言って口を噤む萃香。
昔から僕と違って表現豊かな彼女からは、その表情で色々な感情を読み取れた。そして今の表情から読み取れる感情は、苦痛、妬み、罪悪感、そして少しの喜び。
これらの感情が一体何を根源として湧き出ているのか僕には理解できない。
僕は彼女が一体何を思って今日まで過ごしてきたのかを知らない。
僕がここで彼女と戦う必要性はない。きっと既に紫は動き出していて、幻想郷の実力者達に助力を願っている所だろう。
確実に萃香を無力化するにはそれぐらいの準備は必要だ。萃香を生かして捕まえるなら。
だから僕は防御に徹して博麗霊夢を守っていればいい。それが八雲紫の式として当然の判断であり、幻想郷を守護する一柱としての役割であり、この幻想郷に暮らす住人としての責任なんだろう。
けれど。
けれど、これでも萃香とは旧知の仲だ。
今その相手が目の前でこんなにも苦しんでいる。嘆いている。
ならば。
溜まりに溜まったストレスの発散くらい………付き合ってやるのが優しさってものだろう。
「博麗霊夢」
急に名前を呼ばれた博麗霊夢がビクリと体を震わせる。
そんな彼女の背を出来るだけ優しく、ゆっくりと、まるで幼子を宥めるようにさすった。
「怖い思いをさせてごめんね。あの鬼は僕の友達なんだ。そしてその友達の鬼は今とっても苦しんでいる。だからその苦しみを少しでも和らげられるように相手をして来るよ」
博麗霊夢は不安そうな顔のままだが、彼女を抱いていた左腕を解いて一歩離れた。
博麗霊夢の周囲を囲うように
先程と萃香の攻撃を止めた
これで博麗霊夢の安全は確保された。
「待たせたね」
「このぐらい今日までの数百年に比べればあっという間さ。私だって関係ないやつを巻き込みたくない」
「ここまで徹底的に地形破壊しておいてよく言う」
「それは仕方ないじゃないか。衝動が抑えられなかったんだよ。大目に見てくれ」
「駄目だね。後で紫にしこたま怒られろ」
軽口を叩き会いながら互いに戦意を高ぶらせていく。
相手の空きを伺いながら、どう攻めるべきか、どう守るべきかという思考で脳を満たしていく。
戦いの緊張が脳を、体を、空間を満たしていった。
瞬間、どちらともなく僕と萃香は勢いよく踏み込んだ。
まずはこちらから先制。突っ込んで来る萃香に向けて縦に
その正面を塞ぐように
こちらへ向かってくる勢いは殆ど落ちていない。このままだと後数秒も持たないな。
となれば少し方向性を変えてみるか。
霧状になった萃香を囲むように
しかし、これもまたかわされてしまう。
さっきからまるでこっちの動きがわかってるみたいに軽々避けられる。この所吸血鬼の引っ越し騒動で出張った以外寝て過ごしてたせいで鈍ってるのだろうか。
うーん、こっちの攻撃がろくに当たらない。
こっちが元より駄目になってるなら向こうの力を多少削ぐくらいじゃ対して効かんか。
そもそも萃香相手に紫の到着までの時間稼ぎとはいえ獲物もなしにっていうのが無茶な話だったのだ。
強度より範囲を重視した
さっきの衝撃で随分遠くまで飛ばされてしまっていた僕の
行動に移って直ぐに風を切る音と共に軽い衝撃が左手に伝わった。
良く手に馴染む慣れ親しんだ感触。それと同時に力が全身に循環していく。
柄に右手を掛け、引き抜きながら左手の親指で鍔を押してやれば何の抵抗も無く刀身を顕にした。
その刃はお世辞にも鋭いとは言えず、刀身は所々歪んでいる。
一般的に刀と言われて万人が想像するような美しい波紋は見る影もなく、全体的にどんよりとした灰色で構成されていた。
こちらがようやく抜刀したというのに、萃香は元の人形になって
今更ながら出鱈目な力だ。あれでも一応紫の本気ビームにもそこそこ耐えられる強度はあるはずなんだが。
ならば、と正面に萃香を捉えた状態で能力を行使しながら右手に持つ刀を型もなくただ上から下へ振り下ろす。
萃香は直ぐにこちらから見て左側へ避け、新たに生成された縦の上下に伸びる
しかし、その結果未だ正面の巨大な壁は健在だ。
ここから更に追い詰めていこう。
後退以外の選択肢を取れない用に左右、そして時偶フェイントとして空中に向けて横一文字に
徐々に萃香が行動できる範囲は狭まり、萃香はついに堪らず大きく後方へ跳躍した。
頭上にも
ふと、この光景に違和感を覚えた。
あの萃香が過去ここまで追い詰められた事があっただろうか。
いつだってあの馬鹿みたいな力と能力で僕の線達を掻い潜り、叩き割り、体を切り落とされようが食らいついてくるような狂気的な戦いへの執着。
はじめ見た時は昔と変わらない、と思っていたが、この違和感が萃香の言っていた変わってしまったというやつにつながるんだろうか。
というかちょっと休憩したい……。
熱を持ち始めた体から熱を排出するように深く息を吐き、刀を構えなおそうとしたその時、未だ地面に着地していなかった萃香の周囲を囲むようにスキマが開かれた。
能力を使って逃げる暇も無く、あっという間に萃香の体は全てスキマに飲み込まれていった。
どうやらタイムリミットまで持ちこたえたらしい。
「つ、疲れた……」
呻くように口から言葉を零して、そのまま地面に大の字になるように倒れ込む。
汗ばんだ体のあちこちに無駄に長い髪の毛が張り付くのが気持ち悪い。
「あら、貴女は別に怠けていたからと言って体力が落ちるわけじゃないんでしょう?」
「体力が落ちなくたって実戦から離れてれたのに急にこんな全力戦闘を不意打ちで初めたら精神的に疲れるんだよ。てか遅いよ、紫」
「ごめんなさいねぇ。思いの外善戦していたものですから。おほほほほ」
「何がおほほだ妖怪スキマババぁあいひゃいいひゃい」
「ババァなんて悪い言葉を言う口はこの口ね!?このっ、このぅ!」
ぐにぐにと頬をめちゃくちゃに揉まれ、つねられて視界がぐわんぐわんと揺れる。お返しにこちらも顔をもみクシャにしてババアらしくシワまみれな顔面にしてやろうと必死に手を伸ばすが、腕が短くて紫の顔まで届かない。
というか自称少女(中身ババァ)と神代から見た目の変わらない幼女(中身ババァ)の揉み合いなんて一体どこに需要があるんだ。
半ば冷静になった頭がこの光景の痛々しさを告げるも、抗議の声は言葉にならずにむぐぅやらむへぇと呻き声で止まってしまう。
ああ、本当に……どうしてこんなことになってしまったのか。ちょっとした散歩くらいに考えていたのに。
今日外出することとなった原因の未だに僕の頬肉で遊んでいるババアへの抵抗を諦め、ぐったりと体の力を抜いて五体を放り出した。
ああ……本当に、どうしてこうなってしまったんだろう。
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