はじまりのオスティナート (Planador)
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はじまりのオスティナート

 歌がうまい人は、セックスもうまい、という話を聞いたことがある。私は――経験がないからわからない。ただ、真偽の程はどうであれ、その理屈に則れば、いざそういう時に私は恐らくよく喘ぐことになるのだろう。

 そして、今扉の向こうで漏れ聞こえる声は、敢えてひどい言い方をすれば、美しくなかった。

 アルは歌が私に比べてうまくない。それは悲しいかな、自他共に認めることではあったのだけど、その真意を、こんな形で知りたくはなかった。

 今日は教室も休みで、尚且つ先生がいない日だったのは私も把握していた。だけど、私が来るかもしれないのに、他人様の教室を、鍵も閉じてそういう場として使うなんて。

 漏れ聞こえる音から、アルが惚けたようになっている図が手に取るようにわかる。クリスが、私と同じ顔をした別人に愛の言葉を囁いている。

 ――ねぇ、どうしてそれは私に向けてくれないの。どうして今そこで愛に歪んだ顔をしているのが私じゃないの。

 そして脇目も振らず、走って帰って、今は一人自室で蹲っている。クリスに、音楽学院の受験のことで話があったのに、その用なんて完全に忘れていた。

 確かに二人は恋人だ。だからこういうことをしていてもおかしくはない。思春期入りたてで、性には興味津々で、田舎町故に音楽をするか料理をするか以外に娯楽もなければ、確かにそういった流れになるのも必然ではあろう。

 だけど、その内情を知ってしまうのは別だ。音だけしか伝わってこなかったのに、それが綺麗でないということはありありとわかってしまう。

 自分のベッドに腰かけ、秘所を少しだけまさぐってみる。実際に気持ちよくなるわけじゃない、どういう声が出そうかというのを確認するだけの、あくまでフリだ。

「あ、あー、あー、あっあっ、あー」

 発声練習の体で喘ぐような声を少し出してみる。気持ちいいわけでもなく、さりとて綺麗な声を出しているわけでもない。実に滑稽な姿だ。何を私はしているのだろうか。

 けれど、彼女と双子の自分でやってみるからこそわかる。やっぱりアルの声は美しくない。幾ら特別声の強弱の調整が必要でないとはいえ、あれは耳に悪いと思ってしまう。

 そして秘所を触るのをやめた私を襲ったのは虚無感と孤独感だった。私しかいない自宅は本当に無音で、それが余計世界から孤立した感覚を味あわせる。

 アルのことは好きだし、クリスにも変わらず私は恋をしている。本来はその気持ちに両立なんて出来ないし、この状況が続くなら、私は何かを諦めなければいけない。

 二人のことを嫌いになりそうで、そしてなってしまえるならどれだけ楽だろう。なれないからこそ苦しいのはわかっている。

 だけど、三人でいる空間の中から、私一人だけが存在を消されるかのように思えることの方が怖い。二人だけが遠くに行ってしまったかのような疎外感と同時に、意識してあそこには行かないと、私と存在がいつか消えてしまいそうで。

 今は、私とクリスだけが知っている天井のシミも、アルが知って、そして今後アルの色に塗りつぶされるかのように思えることが、一番嫌だった。

 

 

 

 朝目覚めたときに、隣のベッドに寝ているのは、当たり前だがアルだ。

 双子である私たちは、別に特別な理由があるわけでもなく、かといって現状を変える必要もなく、生まれた時から今まで部屋を分けたことはなかった。

 いつもなら、パンを焼くためにアルが先に起きる事の方が多いのだけど、私が早めに目覚めたからなのか、またはアルがいつもより疲れているからなのか、珍しく今日は私の方が先に目覚めたようだ。

 私より負の方向に感情が動くことが少ない双子の姉は、それ故に息を荒げる事もないから、いつも呼吸のペースが同じ位になる。

 だけど、昨日のあれは、アルにはいつもないような呼吸をしていて――。

「あ、おはよ。今日は私が寝坊助さんだね」

 寝起きの気怠そうな表情のまま、あははと笑う私と同じ顔は、どうにも事後のピロートーク然としているように見えてしまう。

 アルが朝帰りをしたことは一度もない。それは、仮にそれをしようとしたとして、この町にそれを出来る場所がない、したら誰かに知られる位には人間関係が狭いといった理由はあるのだけど、あくまであったとして、アルがそれをクリスに窘めているからだと思っていた。

 だけど、昨日のあれは、どちらかと言えば、アルがクリスを――。

「ねぇトルタ、クリスのことなんだけど」

「うん!?」

「わっ、突然どうしたの?」

 突然の呼びかけと、呼びかけの内容とで二重に驚いてしまった。あまりにもタイミングが不意打ちすぎる。

「あ、あぁ、うん。それで、クリスがどうしたって?」

「えっとね、クリスが音楽学院のことでトルタを探していたよ。昨日の時点で話が出来ればって言っていたんだけど、でも昨日私ですらトルタに全然会わなかったから、クリスも困っちゃっていたみたい。だから、今日は早いところクリスに会ってあげてほしいな」

「――わかった」

 努めて冷静に、だけど煮え切らない想いを抱えながら返事をする。

 その私が会わない、会えない切っ掛けを作ったのは当の二人だというのに。誰が悪いわけでもないけれど、それがなければ用は済んだし、いらない思いをする必要もなかったのに。

 アルもクリスも昨日の私の行動を恐らく知らない。だから、悪気があるわけじゃないのも、十分に理解はしているのだけど。

「とにかく、一旦先にクリスのところへ行ってきちゃうから」

「あれ、朝は食べないの?」

「すぐ行ってきちゃうから帰ってから食べる」

「そう。なら、私は先に食べちゃうけど、トルタが帰ってきてからその分のパンは焼くことにするから」

 その返事だけを聞いて、曖昧に返答してから家を出た。

 用だけはすぐに済む。だけど、どうせ外に出るなら少しぐらい散歩したい。

 そんなことを考えていたからか、気付けば足が音楽教室に向いていた。先生は今日はいないし、その上で私達もいないから、建物自体が無人だ。

 ふと、昨日の情景がフラッシュバックする。あの時、二人は二人きりの世界にいた。いつも三人で過ごしていたと思っていた世界に、いつの間にか私の居場所はなくなっていて。

 アルと付き合うクリスの姿を見ることが嫌というのも否定はしない。だけど一番恐ろしかったことは、クリスの視界から私が消えてしまう事。

 そして、私の願望を置いといたとしても、クリスが私を私と認識してくれるのは、アルと付き合い始めた今、結局は一つしかなくて。

 だけど、それは。

「――それだけはいけないわよ」

 それは、ともすればクリスより大切な双子の姉を悲しませるということだ。

 学院にいる間に、アルからクリスを寝取る。なんとおぞましい考えなのだろう。少しでも、その考えが浮かんでしまったことに、私は心の底から身震いがした。

 だけど、それは私が望む光景であるのもまた事実で。それで私の虚栄心が満たせるなら安いもので。

 ともすれば、二人が三年も離れ離れになる間に、クリスの心変わりがあるかもしれない。――私を見るようになってしまうのかもしれない。

 クリスが三年の間にアルよりも私を見るようになる、というのならば、アルだって諦めがついた上で皆納得するだろう。だけど、私がそのように仕向けるとするならば、それは絶対に許されてはならないことだ。

 だけど、クリスのことを篭絡する機会が十二分にあるという事実が、関係性を知り、二人を素直に応援するとした私の決意を狂わせる。それをしたところで、恐らく修復不可能な亀裂が残るだけになるかもしれないのに。

 それでも嘘は付けない。やっぱり、私だってクリスが欲しい。他の誰でもなくクリスがいい。他に男を殆ど知らないというのはあるのかもわからないけれど、だけどクリスより私を理解してくれる人はきっと未来永劫現れない。

 ならば、それを実現したいなら、やらねばならないことは一つしかなくて。

 卒業を二人して迎えた暁には、私は歌一つで生きていけるように。クリスはフォルテール一つで困らないように。

 そしてその時は、公私共に、私の隣に、彼がいるように。

 そう、願って、しまって。

 

 

 

 ――だからなのだろう。一回でもそう思ってしまったことが、私の罪なのだ。

 その後の顛末は、正直思い出したくもない。だけど、私が覚えていなければ、誰もが真実を知りえなくなってしまう。

 だけど、どうしてアルだったのだろう。どうして私じゃなかったのだろう。そんなものたまたまだ、と言い切ってしまえればどれほどいいか。

 この町にはずっと雨が降っているとクリスは言う。それは幻影だ、と言い切るのは簡単だけど、実際にクリスの視界にはそのようにこの町が映っているというのだから、彼の言葉を否定してしまうことも出来ない。

 ピオーヴァの空は快晴で、単体で浮いている雲に雨を降らせるような力はない。太陽を隠さず、辺り一面に陰を落とすようなこともない。

 故郷の家の窓から見る空は広かった。私のおばあちゃんの家の部屋から見る空も、二階だからかそれ程でなくとも広い。

 だけど、今私がいるクリスの部屋からのそれは、建物という額縁に切り取られていて、広く見渡すことは叶わなかった。アパートが林立する街並みにあっては、空の端っこを埋め立てるには十分だ。

 都会というか、確かにそれは町らしいといえばらしい景色なのだけど、私はやはり開放感がある方が好きらしい。

「クリスはさ、私たちの町の空と、この町の空、どっちが好き? 雨は関係なくて、こう、開放感があるかどうかで」

 それは、純粋に私が気になっていたこと。街並みだとか人々だとか、目につきやすい点以外で、故郷とこの町を比較できるポイント。

「正直どっちでも。それより、トルタはこの町の方が好きそうだけど」

「あら、それはどうして?」

「だって、建物が多いから、その分音が反響するでしょ。何もなければ、音はただ辺り一面に広まって消えるだけ。歌が『響かせる楽器』であると考えた時に、そういう方が耳ざわりがいいかなって。いやトルタが野外コンサートとかで外で歌うかはわからないけどさ」

 意外な答えだった。確かにクリスの言うことは尤もで、効果的に聴衆の耳に歌を残すならば、反響に拘る方がいい。私がこうして歌をやっているからこそ、まずクリスはそっちに目を付けたんだろうなというのは容易に察する。

 とはいえ、クリスの答えには見落としている点があって。

「それは、フォルテールも一緒じゃない?」

「そこは、ほら、フォルテールってどこでも演奏しうるから」

「あら、歌だって場所を選ばないわよ?」

「どうしてか合唱のイメージが強いからかな……」

「で、クリスはどっちかと言うと?」

「いやほんとに拘りはないんだって……」

 別にクリスの保護者面するつもりはないのだけど、どうしてかこういう時は出来の悪い兄を窘める妹みたいな図になってしまう。

 それよりも、故郷の空、と即答されないことに、正直安心もしていた。即答されてしまったら、こっちでの私だけがいてアルがいない生活は悪いものだと言われるような気がしてしまうから。

 アルとのことは思い出して欲しい。アルのことを諦めて欲しい。諦めて、その上で私を見て欲しい。――だけどアルは目覚めて欲しい。

 今のやり取りだって、私とクリスと付き合っているならば、こういうようなやり取りにならないだろうことは、私が一番理解している。それを失ってでも、やっぱり私はクリスのことが欲しいと思ってしまう。

 なんと矛盾した、それでいて鬱屈した感情なのだろう。私の欲は、ともすればアルが目覚めなければ自然と私に向くかもしれないのに。だけど、それ以上にやっぱり双子の姉は何よりも大切で。

 それでも、同時に思い出すのはピオーヴァに来る直前のあの日。不意打ちで聞かされた、見ないふりをしていた私の嫉妬心を一発で理解させた声。

 歌とセックスの関係性が比例するとするならば、せめて、私は歌がうまくあるべきだ。そうすれば、あのじめりと張り付いた、情事が漏れ聞こえてきた時の記憶が、私のものではないと確信することができる。そして、いつか私のものに出来たとするならば、きっとあの時より美しく喘いで見せてあげるんだ。

 ――いつからだろう、そんな嫌らしい考えに至るようになったのは。ピオーヴァに来る前の私は、アルが目覚める事だけを願っていたのに。アルからの手紙を書いている内に、私自身気付かずにそうなっていた。

 正直、そんな想像をしてしまう私が、吐き気がするほど嫌らしくて、それこそ雨で洗い流したくなってくる。流すべきは弾かれる旋律であって、私のエゴではないはずなのだけど、それでも。

 多かれ少なかれ、誰の心にも雨は降っている。生身でそれを受け続けていると、どこか流血していても、その雨が洗い流してしまって、傍目から見て流血しているのかすらわからなくなってしまう。

 それは彼の視界のこと。そして私の心の中のこと。最後に残るのは傷口が生まれた瞬間の痛みだけ。その雨が止むとするならば、きっとその理由は私が切っ掛けではない。

「ねぇ、クリス」

 クリスにとって、この雨はオスティナートみたいなものだ。音楽的に繰り返される同じような旋律が、クリスには見えている。

「今日も、雨、止まないね」

 時には強く、時には弱く、だけど永続的にそれは石畳を叩き続けるという形で。

「クリスは、雨が止まなくて、憂鬱にはならないの?」

 いつかクリスは全てを思い出して、この幻影から抜け出す日が来るのだろうか。その時私は何をしているのだろう。クリスを諦めるか、全てを忘れるか、それとも。

 そんな私の心情も知らずに、クリスは、私と交されるべき一切のやり取りを省いて、何回も耳にするようになった台詞を口にした。

「いつものことだからね」



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