ーーーー1ヶ月後ーーーー
3月31日。崩れそうな夜明け前。
かつて学校
彼らが目にしているのは何も、その炎だけでは無い。人の手から解き放たれた、草に覆われた道路。蔓に巻かれたビル。また、鼻をつくような土の臭い。
彼ら人間が作り上げた文明の脆さを示すには、十分過ぎる惨状だった。
けれど瞳に映しているものは、絶望でも諦めの色でも無い。ただただ、現実を受け入れるという決意のみを捉えていた。
ふと、そのうちの一人──
「────────────────」
──そのまま彼女は軽く微笑み、自身の身体を男性に預けた。
「……きっと、いつか」
「ふふ。ありがとう」
冷たい風が、彼らに
恒星の熱が、命を溶かす。
雨粒の音が、終焉を告げる。
そして、一筋の光が差し込み────
「絶対、離さないでね」
「わかってる」
──その瞬間、世界は時を失った。
3月1日。高校の卒業式。
誰もいない教室で一人、誰からも祝福を受けず、誰からも賞状を貰うこと無く。僕は、自身の高校生活からの卒業を迎えた。
「高校三年間。勉学に励み、仲間を尊敬し、共に切磋琢磨し合った日々でした。元々人と接することが得意では無かった自分ですが、こうして環境に恵まれ無事に卒業を迎えること、とても有難く感じております。これからも──」
──ああ、間違えた。
「──とても有難く感じております。幸せな時間に、感謝を」
謝辞を言い終え、周囲に静寂が響く。
ふと辺りを見れば、そこにはただ独りで一人言を呟く哀れな人間がいるだけだった。
人間は孤独が一番辛いと言うが、それは絶対に間違いでは無いのだろうな、と強く思い知らされる。
本来ならばここで僕の卒業を泣いて喜んでくれる両親や、仲間との別れを共に悲しんでくれる友人がいた筈だ。ふと教室を振り返れば、もう何ヶ月も手入れされていない机や椅子の傷みが目立つ。
そして、虚しさが際限なく充満していく。
──いいや。けれど
自分で自分に作った卒業証書を苦々しく見つめ、ビリビリにそれを破り捨てた。細かい紙片となったソレは、風に靡いて空へと舞う。
あんなに努力に努力を重ねた毎日。いくら人に貶されようと努力は裏切らないと信じていた日々。その結末がこんな虚に塗れたバッドエンドだと言うのだから、全く天に唾を吐きたくもなってしまう。
センチメンタルな感情に心を浸らせていた、その時。屋上の方から声が聞こえた。
「いるんでしょー!! 声聞こえたよー!!」
「……日菜!?」
それは紛れもなく、
「まだここにいたんだね」
「奇遇だな。日菜もこんなところにいるなんてさ」
氷川日菜。僕が高校三年間ずっと、恋人関係にあった彼女の名前だ。
才色兼備を絵に書いたような人物で男女共にファンを大勢抱えており、他にもいろんな才能に恵まれているようだった。勉強はもちろん、運動や楽器などでも。言わば、天に選ばれた寵児なのだろう。
対して僕は自分で言うのも違うかもしれないが、努力だけは人一倍する性格だった。何もしなくても何でも出来てしまう日菜とは、正反対の性格だ。
けれど不思議と、彼女とは気が合った。好きな食べ物だったり、趣味だったり。だいたいお互いの考えていることは何となく理解出来たし、周囲の人間も僕たちを理想のカップルだと賞賛していた。
──けれどまさか、こんな決断をするなんて。さすがに予想が付かなかったよ。
そこには大きな望遠鏡を屋上に設置し、青空に向かって好奇の目を向けている彼女の姿があった。
「昼間っから天体観測ですか」
「天文部だからね。隕石とか見えないかなって」
「……冗談キツいっての」
「──ってそんなことはどうでもいいじゃん。キミ、
「お前、そういうとこ変わんないよな……」
彼女は多少、意図せず人を傷つけてしまうところがあった。特に悪気は無いらしいが才能を持つものの宿命とでも言うべきか。
……まあ、今回ばかりはしょうがない気もするのだが。事態が事態だ。
「だってさー。
「……うん。悔いはないのかなって思うよ。気持ちはわからないでも無いけど」
二年前、とあるニュースが報道された。全世界一斉放送という未だかつて例を見ない手法で。
その後さらには、犯罪率と自殺率の増加が世界レベルで見られることになった。
──だから当然、問題となるはずだった。けれどならなかった。
そのニュースが異常過ぎたからだ。
『
報道官のこれだけの言葉で、人々は簡単にパニック状態に陥ってしまった。
理由は恒星の膨張だとかそんなものだったような気がするが、この際それはどうでも良い。『僕たちが死ぬのだ』という事実だけを、その報道官は残して行ったのだ。
そして、犯罪率と自殺率が増加した。犯罪は潜んでいたサイコが、自殺は死の恐怖に耐えられない人々が。しかし犯罪も当初は多かったが、人口の減少が犯罪の減少にもなった。まあ、結果オーライなどでは無い。
自殺率の増加原因は、世界的に有名な医師団体が『安楽死』を可能とする技術を発表したことも原因の一つ。
人々は救われたようにその医師団体に
また死ぬことで極楽に行けるのだとかいう、まるで数百年前のような宗教が流行し出したのも原因の一つだ。最早人類の衰退は免れなかった。
人口の減少は、そのまま都市の劣化に繋がる。
整備されていたはずの道は今や草木に覆われ、僕が今いる学校はもはやジャングルと化していた。一寸先は闇、とはまさにこのことなのだろう。もう、とても人が満足して住めるような場所は僕の周囲からは消えてしまった。
世界は完全に荒廃した。
──そして、惑星崩壊まで残り一ヶ月。
「けど、キミが生きててくれて良かったよ。あたし、一人は嫌いだし」
屋上に置かれていたベンチに座り、足をパタつかせながら日菜が笑った。
「なら、日菜は最後まで残るつもりなのか?」
「もちろん! まだまだ生きて、るんってするんだ」
「……怖くない?」
「…………」
足の動きが止まる。
時間さえも彼女に従属しているかのように、風すらピタリと止んでしまった。
「怖いよ」
そして息を詰まらせ、彼女が小声で呟く。
「……けどね。一緒に死んでくれる人がいるなら、安心出来るんだ」
強くあろうといくら気丈に振舞っても、その瞳から落ちようとする雫を止めることは難しい。
おそらく彼女自身もそんなことはわかっているのだろう。涙を堪えながらも強さを醸し出している、そんな矛盾をいくつも抱えている顔だった。
「僕に安楽死はさせてくれないのか?」
冗談めかして、彼女をからかってみる。けれど。
「……いいや、キミは死なないよ。三年間も一緒にいたら、それくらいわかるって」
──その言葉は、はっきりとした重みで包まれていた。
三年間の高校生活は、どうやら無駄では無かったらしい。こうして自分をここまで理解してくれる人と出会えたのだから。
学校とは人との出会いの場なのだと、既に安楽死を遂げた両親が口を酸っぱくして僕に教えてきたのを思い出す。
ああ。確かにその通りだったよ。
ふと空を見上げると、既に西は夕闇に覆われていた。オレンジの空はこの世界に虚無を告げる。そして冷たい風が強く吹き、遠くの空では雨が一つ、また、一つと。
残り一ヶ月の命だと思うと、やけに一日一日が重く、短く感じてしまう。自分の死とはこんなに軽いものなのか。
心臓の鼓動が凄まじくなっていくのがわかる。残り一ヶ月。奇跡は起きない。
ああ、足が震えてる。手もまともに握れなくなってしまった。今どんな酷い顔をしているのかなど、想像もしたくない。
クソ。考えるな。考えるな。考えるな。考えたら、安楽死をしたくなってしまうだろうが。だからやめてくれ、僕の頭から出ていってくれ……。
「日菜……」
──僕の言葉に呼応するように、その瞬間後ろから日菜は僕を抱いた。
「大丈夫、大丈夫だよ。あたしがここにいるから」
……情けないな全く。思わず涙が出てしまう。そんな感情を吐き出してしまうほどに彼女は暖かく、僕を慈愛で包み込んでくれる。
「……ありがとう、もう落ち着いたよ。日菜には助けられてばっかりだな……」
「ううん。それよりさ、キスしない?」
「……ああ」
何の情緒も無い言葉を綴り、僕と日菜は唇を重ねた。
──苦くて、甘い。
「唇、渇いてるね」
「もうリップクリームとか無いからね〜。あたしとキスするの、イヤ?」
「いいや、好きだよ」
そのまま、再び唇を重ねる。
──どうせ死ぬまで一ヶ月しか無いんだ。こんな何の雰囲気も無い乱れ方も良いじゃないか。
そんな言い訳を自分にしながら、ただ日菜の熱望を受け止めた。いや、僕自身も熱烈に日菜を求めた。一ヶ月というワードを消すために、氷川日菜という存在で上書きするために。
そのまま僕らの影は重なり、やがて地面と同化する。
「死ぬって、どういうことだと思う?」
醒めない熱情を心に装備して、勇気を持って彼女に尋ねた。
「死んだらわかることじゃない?」
「まあ、そうだよなあ……」
「でもね。あたしは死んだ後のことより、楽しめる今を生きたいんだ」
「……たしかにその方がいいのかもな」
「でしょ? だからもっと、あたしを愛してよ」
何の遠慮も無い彼女の言葉で、今自分たちがどういう体勢なのかに気付かされる。唇が近い。当然、目も鼻も。日菜の吐息が、僕の髪を揺らす。退廃的な雰囲気なのに、どうしてか酔ってしまう。
──何があっても日菜は僕の恋人だし、どうあっても僕は日菜に溺れてしまっているからだ。
ふふ、どうして悪魔で神様で地獄で天国で。終末の世ってのは酷いもんだな。
日菜もそれを感じとったのか、真剣な眼差しで僕に向き合った。
「約束して。あたしと一緒に死んでくれるって」
「……ああ。約束するよ」
──その言葉を皮切りにして、日菜と僕は一つになった。
刻は黄昏。空には恒星の淡い光。地には無機質なコンクリート。
さっきまでの恐怖心は、彼女からの情愛で消えてしまった。そして代わりに現れたものは、二人を狂わす蠱惑の毒。
どうしたって希望的になれないその行為を、いっそのこと絶望に浸れば良いと、ただただ現実を噛み締める。
死に対して、日菜に対して。一ヶ月に対して、一秒に対して。ただ、噛み締めた。噛み締めて、飲み込んだ。
……これじゃ全く、失楽園だよ。知恵のリンゴなんて食べなくても、こんなに汚れてしまって。でも、それでいい。それがいい。
「日菜……どう?」
「どうって? 決まってんじゃん!
死にたくない──けど、死ぬってわかってなきゃこんなに気持ちよくも無い! この矛盾が、ヤバ過ぎるよ……!」
「……僕も同じこと考えてたよ」
時は決まっている。これから一ヶ月後、3月31日。
僕と日菜は惑星の崩壊と共に、人生18年で死を迎える。
行為が一通り終わったところで、日菜が既に黒く沈んだ空を見つめ、僕に尋ねた。
「ねえ。残り一ヶ月、何したい?」
「ただ君の思うままに、かな。もう卒業したし、悔いはない」
「ふふ。じゃあいっぱい、るんってしようね」
「……ああ、死ぬまで」
────願わくば、暁を超えられるまで。
気長にやっていくので、これからよろしくお願いします。
良ければ感想とか評価とか是非。
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3月2日
3月2日。僕らが死ぬまで、残り29日。
「おはよ、早いね」
眠そうな目を擦りながら、日菜が目覚めた。
時刻はまだ朝の六時半だ。こんな世界に生きていると、どうにも規則正しい生活が必ず身についてしまう。全く、良いのやら悪いのやら。
「おはよう、日菜。朝御飯出来てるよ」
「お! ちゃんとしたご飯ほんとに久しぶりなんだよね、ありがと」
聞くところによると、日菜はここ数ヶ月この学校で暮らして、食べるものと言えば生えている草などだったらしい。……正直そんな生活で数ヶ月間も生きていられて、今もこうして元気に体を動かしているのだから心底恐れ入る。
衛生面など気になる要素も多くあったが、流石は天に選ばれた寵児といったところだろうか。
僕は僕で、家族が死んでから完全に行く宛を無くした後は、家の中に残っていた保存食や既に死んだ近くの家族から何かしらの加工食品を頂戴して生きてきた。
それのおかげで随分と偏った栄養を摂っていた気がするが、こんな状態ならばそのような悠長なことは言っていられないだろう。
──そういえば、両親が死んだのは一年ほど前の話だったか。
安楽死は地域ぐるみで行われ、希望制で行えるというシステムだった。単純に孤独死を防ぐためだろう。そして安楽死を選ばなかった者達は、僕のように半サバイバル生活を送るか、『
たしか、それで皆からは『異常者』と揶揄されたっけ。
もうどうせ死ぬのだから、他人の選択にああだこうだと干渉する人間はいない。ましてや、両親が死の道を選んでしまったのだ。僕の道を矯正しようとする聖人などいるはずも無かった。
"世界の終末まで、ラクをしませんか?"
──こんな、いかにも怪しいキャッチフレーズで。だから当然、そのフレーズに何らかの違和感と嫌悪感を覚えた人は僕以外にも大勢おり、当初このプロジェクトに参加しようとする人は皆無と言っても良いほどだった。
しかし、ここで国が一時体験というシステムを導入する。
内容は単純なものだ。
その公表がなされた後、一時体験を求める人々は殺到し、施設はすっかり皆の輪の中に入ってしまった。まあ、つまり実際のところ、人々は恐れながらも嫌いながらも、この"ラク"という言葉に心を惹かれていたのだろう。
何かしらの実験をされるのではと僕は不信感を抱いていたが、『国の』という言葉が付随するだけで、人々はあっさりと手のひらを返してしまった。
──そしてその後、施設の人気は急騰した。彼らに何があったのかはわからない。けれど、あんなにも大勢の人間が集まっていたにも関わらず、今日もあちらの方からは声が一切聞こえてこない。
おそらく国は、死の恐怖に耐えられず暴動を起こす人々が出てくることを懸念したのだろう。
そしてそんな人々は、このような
──あの中で何が起こっているのかは、知らないが。
「……ねえ、ねえったら。ご飯中だよ? なに考え事してんの?」
「ああ、ごめん。施設のこと考えてたんだ」
「あー……。そういえばあたしの母親も施設に行ったんだ。あれから音沙汰一切無いけど、楽しくやってんのかな」
冷めた目をして、日菜が言葉を返した。
どうやら彼女にとって、『バカな選択をする人間』は全て同一のものらしい。たとえ自分の肉親であろうと、赤の他人であろうと。
思えば彼女と付き合ってから三年間、彼女が自分の話をするのを聞いたことが無い気がする。あくまで彼女の興味の対象は僕や勉強、運動、楽器であって、彼女自身が興味を
──しかし、そんな重たい愛情でも日菜は僕の彼女だし、この世界ではもう僕は彼女無しでは生きていられない。
……だから、変なことは考えるな。
「あ、今はあたしのこと考えてるでしょ? 当たり?」
先程の冷たい顔とは打って変わって、いつもの明るい表情をした日菜が喋りかけてきた。
「うん、当たり。日菜にありがとうって言いたくて」
「……へっ?」
「君のおかげで生きていられてるからさ」
「ちょっ、ちょっと??」
「だからこんな僕だけど、日菜にはずっと側にいて欲しいんだ」
自分でも気恥ずかしいことを言ったものだと思いながら、僕らの間に少しの沈黙が流れた。
──そして、その沈黙は彼女の言葉によって破られた。
「……ダ、ダメだってばぁ……えへへ……」
口では否定しながらも、日菜は身体を僕の方に擦り寄せてくる。彼女の柔らかい身体は僕を刺激させるには十分で、昨日の情事を僕に無理やりに思い出させた。
けれど、僕ももちろん嫌じゃない。こんなことを言ってしまったんだ、彼女が楽に出来る体勢を作って、手のひらで日菜の肩を寄せた。
触れた胸から彼女の拍動が伝わってくる。ドクドクと、毒々と。
そんな僕らの目の前に広がるのは、簡単な調理をされた野菜類と缶詰めのみ。
いつ賞味期限を迎えたかわからないその物体でも、絶対に食べなければならない現状。簡単だ──生きなければ、死んでしまうのだから。そんな当たり前が必然性を帯びている世界だ。
朝だというのに恒星の光が僕らに差し込むことは無く、暗く沈んだ雲模様が僕らを襲っていた。けれど、雨が世界を打ちつけることは無い。ただただそこに、灰色の闇を存在させているだけ。
いっそのこと、打たれて撃たれて討たれて
その方が何も考えずに死を迎えられそうだからだ。
けれど。
「……ねえ。また、する?」
「……セックス?」
「うん。昨日、凄かったよね。今まであんなにダメダメ言ってたのに、結局最後までやっちゃってさ……あは、思い出してきちゃったよ。綺麗な下着残ってたっけ……ふふふふ。子供出来ちゃったかもね。名前とか決める? あたし案があるんだよ、ほんとにるんってくる名前! 君の名前から一字貰って、あと…………」
──彼女の存在が、それを許していない。
喜ぶべきか、悲しむべきか。
喜ぶべきなんだろう。
「……遠慮しとくよ。今日は少し街へ出ようと思ってるんだ」
「街?」
「そう、多分これからこの学校で生活するんだろ。だったらいろいろ調達しないとな」
「……ひとりで?」
「そのつもりだけど」
「ダーメ。あたしもついてく。良いよね?」
「……まあ、日菜が行きたいなら全然構わないよ」
調達しようと思っているものは、主に食料品だ。家庭科室を使えば簡単な調理はここでも可能だが、一ヶ月保存の効く──つまりは、生産がストップされてからもまだ食べられる物はそう多くは無い。
それに缶詰などの保存食にもさすがに限界がある。あまり消費したくはない。
「……あれ、そういえば君って、ここ数ヶ月どこに住んでたの?」
「ああ、自分の家だよ。もう食べ物は尽きてしまったけど」
「そういえばあたし、付き合ってる時も君の家行ったことないよね? ついでに行っていい?」
「……ほんとに何も無いけど、いいのか?」
「何も無いのを見てみたいの!」
「それなら良いけど」
「じゃ、決まりね」
その後手早く僕らは朝食を片付け、学校の外へと出かけた。
ーーーー
街へ行くとは言ったものの、既に街は『街』と呼べるようなものでは無い。
食料品や生活用品などの生産は当然ストップされ、完全に劣化した商品が店に無造作に置かれているだけだ。救いは、生産がストップしたのは生産者が自殺したからでも仕事を放棄したからでも無く、施設が出来てからだ、という事実があることだろうか。
つまり入荷されてから、商品を求めるための競争があまり行われていないということ。みんな死ぬか施設へ行くかの二択を迫られていたのだから。選り取り見取りというわけだ。
「何を貰いに行くんだっけ?」
「とりあえず保存食が最優先かな。あとは、服とかタオルとかがあればって思ってる」
「あたし下着欲しいんだけど」
「じゃあ二手に分かれる?」
「……いや、違うってば。選んで欲しいの」
「日菜が良いならいいけどさ……」
──たしかに、彼女はこういう子だ。例えこの世界がこんな状態でなくとも、僕を
別に反応を楽しみたいだとか、そんな小悪魔的な気持ちで誘っているわけじゃない。ただ、本心から来て欲しいと願って。
……全く、慣れない。
本当に僕らは正反対な二人なんだなと痛感する。それなのにこんなに気が合って、身体の相性も良くて、こうして長い間付き合っていると言うのだから奇跡と言っても差し支えないだろう。
その後僕らはまだ使えそうな衣服を見て周り、適当な食料品を漁って、何かと使えそうな雑貨を仕入れた。
驚いたのは、それらの品揃えの豊富さだ。全く荒らされていた形跡は無く、本当に選り取り見取りだった。本当に皆死んでしまったり、施設へ行ってしまったりでここに残っている人間は自分たちだけなんだな、と僕が思ってしまったのも無理はない程だった。
──皆が僕を『異常者』と揶揄したのはあながち間違っていなかったのかもしれないな。疎外感すら覚えてしまうよ。
「あ!」
そろそろ帰路に着こうとしていたその時、日菜が頓狂な声を上げた。
「どうしたんだ?」
「鏡だよ、鏡! 手鏡欲しかったんだよね〜。貰って良いかな?」
「良いんじゃないのか? 誰も咎める人はいないだろ」
「だよね!!」
嬉しそうに手鏡を眺める日菜。別に珍しいものでも無いだろうに。
……いや、この世界では珍しいのか?
「鏡ってさ」
少し歓喜の心を残したまま、彼女が呟いた。
「日菜?」
「……まあ、待ってよ」
──しばらくの間、沈黙が流れる。
耳には閑散とした街に広がる、生暖かい風の音だけが響いていた。
……結局今日、空が晴れることは無かったな。かといって雨が降るわけでもない、微妙な天気だった。いや──終末の世界をよく表しているのかもしれない。『死』なんて楽しいものじゃないんだと、神様が教えてくれているのだろう。
「うん」
ようやく考えがまとまったのか、日菜が頷く。
「もしあたし達が死んだら、鏡の向こうのあたし達も死んじゃうのかな?」
「うーん……。いや、鏡の世界は逆さまを映すからなあ。僕たちが死んでしまったら、鏡の僕たちは逆に生きられるんじゃないか?」
「ははっ、何それ! 君って普段は真面目なのにたまに変なこと言うよね!」
「別に冗談で言ったわけじゃないって。例えば、日菜の傍にいるのがこの世界では僕でも、鏡の向こうでは違う人かもしれない──みたいなことがあるかもしれないだろ」
「へえ、違う人? あたしは君以外考えられないけどなあ」
「んー……。例えば、僕とは真反対の女性とか?」
「……てことは、お姉ちゃんとか?」
何かを思い詰めたように、彼女は僕に問いかけた。
半分は冗談、半分は本気──別の言い方をすれば願望。そんな気持ちを込めて僕は彼女に話していたつもりだった。けれど、どうやら彼女にとっては百パーセントの本気だったらしい。
「……かもしれないってだけだからね」
「うん、わかってるよ。ありがとう」
再び、沈黙が流れた。既に刻は夜を迎えていて、特有の寒気と廃れた建物の寂しさが心に刺さる。
「もう外は危ないから、僕の家に行くのは明日にしようか」
「……うん、確かにそうだね。動物とかが出てくると死ぬかもしれないし」
「じゃあ、学校に戻ろう」
──日菜の手を取り、道を進もうとしたその時。彼女がふと僕に話しかけた。
「今日さ。もしあたしが何も言わなかったら、一人で街に行ってたの?」
あまり余裕の無さそうな声色だった。
服の裾が強く引っ張られた。
……いや、皮膚ごと抓られているのか。爪が皮膚に食いこむ。脳に痛みが響く。
「……そのつもりだったけ──」
──言葉を言い終える前に、乾いた音が周囲に響いた。頬が刺されて。電気が走った。思わず身じろぎをしてしまい、彼女の方に目を向け。
焦点の定まらない日菜の姿が見えた。
「日菜……?」
「だめ」
「……だめ。だめ、だめ、絶対だめ!! この数ヶ月、すごく辛かった! 孤独って何よりも嫌なんだなって思った! 卒業したら死のうかなとかも思った!!」
「っ…………!!」
────言葉が出ない。
「君がいなきゃあたしも生きてられないんだよ……!! ……そのくらい、わかってよ……。独りにしないで……」
その瞳には涙が溜まり、その握る手は恐怖で震えていた。
──日菜は強いと思っていた。いつも笑顔で僕と過ごしてくれる彼女に、僕はずっと助けられてきたから。だからこれからも助けてくれると、そう思い込んでしまっていた。
……とんだ大馬鹿者だ。クソ。
「……ごめん、悪かったよ」
「ごめんじゃ済まないよ……もう……。帰ったらわかってるよね?」
軽く頷き、軽く首を振り。
涙ながらに明るい表情を浮かべようとする彼女を、痛いほどに愛おしいと感じた。今すぐに抱き締めたいと思った。
──だから、今度こそ日菜の手を強く握る。彼女も今度は、暖かく握り返してくれた。
日菜が死ぬまで、残り28日。
一話であんなに評価を頂けるとは正直予想外でした。ありがとうございます。
ご期待に添えるよう頑張ります。
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3月3日
「約束! 今日は絶対君の家ね!」
朝一番。「おはよう」より早く放たれた日菜のその言葉で、今日の行動が決定した。
惑星の崩壊までは残り28日。嫌な数字だ。一日一日を中身のある生活にしなければという使命感に駆られながらも、結局死の恐怖に耐えられず焦燥感を覚えてしまう自分がいる。
結果、日菜と幾度となく交わって、日々生きるために物資を集めて。
一ヶ月という短い期間を生きるために貴重な一日を費やすというのは、夜になって冷静に考えてみれば、無駄なことをしてしまったのだろうかといつも思案してしまう。
「僕の家で何をするんだ?」
「君の小さい時の写真とか見たいな」
「……ああ、なるほどね」
日菜はなぜだか、形に残るものを好んだ。
写真が良い例だ。はるか昔に切り取ったワンシーンを、現在のものとして保存する。
だから日菜と遊ぶ時は、彼女にせがまれて何十枚、何百枚と彼女の写真を撮った。
桜に囲まれて微笑む日菜。
水着でビーチを走り抜ける日菜。
オレンジに色付いた木の葉に佇む日菜。
積もった雪と戯れる日菜。
──キスをした時。
お互いに裸になった時。
初めて最後の行為まで進んだ時。
ベッドシーツに付着した血。記念だと言って嬉しそうに写真に収めていた。
枕を共にする二人の姿。幸せそうにいつも見返していた。
使っているのは僕のスマホだけれど、撮っているのは僕と日菜だ。
まだ眠っている写真はたくさんあるのだろう。
おかげで僕のカメラロールはもう日菜一色だ。
「君の記憶にあたしを残して欲しい」
彼女は口癖のようにその言葉を呟いた。その時は決まって、あさっての方向を眺めてボソリと言うのだ。
本当に小さい声で、けれどしっかりと頭に残る声色で。僕の心に刻むように、ゆっくりと。言われる度に、心臓に釘を刺されているような心地がした。
ーーーー
「ふうん。ここが君の生まれ育った場所なんだね」
家を見て、彼女が最初に喋った言葉はこれだった。
数ヶ月ぶりに見たような気がするが、何も変わっていない。強いて言えば少し外装が崩れているくらいだろうか。植物の影響によるものだろう。
真っ白の壁。茶色の屋根。庭は子供のボール遊びが出来る程度で、決して小さくは無いが大きくもない。一人息子を持つ家庭の典型のような家だ。
「ほんとに普通だろ」
「だね」
言葉とは裏腹に、眼を輝かせて日菜が答える。そして同時に、写真を撮った。
パシャリ。
「家の写真なんて撮ってどうするんだ?」
「こうして残すことに意味があるんだよ」
「……? よくわからないな」
わかんなくてもいいよ、と日菜がこちらを見ずに呟いた。そしてまた一枚、同じ角度で写真を撮る。
家の影に隠れて、光が僕らに届くことはなかった。灰色の景色の中、寂しいと言うことも叶わずただ構えているかつての家は、目に入れるだけで痛みを感じた。
「……うん」
今度は上手く撮れたようで、彼女はさも満足したように自慢げにこちらを振り返った。
「じゃ、入ろっか!」
「……あまり期待はするなよ」
「うん、するけどね」
「はいはいわかった」
ーーーー
家族写真は、思いの外早く見つかった。
正直に告白すると、僕は両親が家族の写真を捨てている──もしくは、全く撮っていないものだと思っていた。僕を置いて死の道を選んでしまった彼らの、家族を愛する気持ちになど毛頭期待していなかったからだ。
──親に向かっての口振りだとは自分でも到底思えないが、こういった特異な環境がこんな考えを生み出してしまっているのだろうか。
父親がいつも大事そうに保管していた会社の書類のすぐそばに、例のそれは置いてあった。『家族写真』とシンプルに題されてはいたものの、アルバム自体は三人家族と思えない程に分厚い。
言うまでもなく、家族に愛があった証拠なのだろう。愛と信頼とは全く違うものだが。
ページをパラパラと捲ると、それには僕の生まれた時の写真から、だんだんと成長していくまでのものが全て収められていた。
「日菜、見つかったよ」
「え、わかってるよ?」
僕が声をかける前にもう、彼女は僕の後ろで共にアルバムを眺めていた。
──彼女の存在に気付かない程に見入ってしまったのか。
「君の写真ばっかりだね」
「僕も驚いたよ。親の性なのかな」
「……ふふ、親に捨てられて放心状態になってた人がよく言うよ」
「……今日はなんだか毒を吐くね」
まあ、彼女がたまに性格の悪いことを言うのはいつものことなのだが。そしていつもはそれに反応してやれているのだが、こんな写真を見てしまえばそういった気にはならない。
煽りに乗らない僕に呆れたのか痺れを切らしたのか、それとも飽きたのか。「別に」とつまらなさそうに日菜は呟き、その場に寝転んだ。
「親ってさー。子供が好きなんだよね」
「それこそ親の性だろうからね」
「じゃあ、子供のこともよく知ってるはずだよね」
半壊した窓ガラスから、春のまだ冷たい風が流れ込んでくる。
桜の花びらが一枚飛んできた。これもまた、半壊していた。
「親は子供のことをよく知ってるんだよね」
再び日菜が呟く。
寝転んでいた。怠そうだった。それでも、自分の本心を吐露しているように聞こえた。不意に二の腕を軽く握られ、それをだんだんと手のひらの方へ寄せられた。気付いた時には、指が
また、目線はあさっての方向を向いていた。
「君ってあたしの家来たことあるよね」
「あるよ。日菜が自分の部屋を見て欲しいって、何回も呼んだから」
「そうそう、何回も呼んだ」
「? どうしたんだ?」
「あたしの家族に会ったことある?」
「……そういえば、一回も無いな。家にいつも居なかった」
「うん、あたり。いつもいない」
「……どうして急にそんなことを?」
「ッ……」
質問に若干の詰まりを感じたのか、少し日菜は躊躇う様子を見せた。けれどそれも一瞬。すぐにいつもの顔色に戻し、ゆっくりと口を開いた。
「いーや。家族に愛されるって、なんなのかなあってさ」
諦めたような、羨ましがっているような。そんな表情だった。
「…………」
不穏な空気が流れる。
何か余計なことを口走れば、その場で殺されてしまいそうで。息をするのでさえ苦しさを感じた。
「……そろそろ出る?」
これ以上ここに居ては、日菜の過去を掘り出すことになるだろう。それに、その過去に絶対に触れない雑談をするような能力も僕には無い。
これは僕の、地雷を踏み込まないように選んだ精一杯の言葉だった。
けれど日菜は、訝しげな顔をして僕に尋ねた。
「君、あたしのこと好きだよね?」
最早答える必要も無い問なのは明白だった。
「ああ、好きだよ」
「ならこの場でキスしてよ。わかってるよね」
「……日菜が良いなら」
誘いに乗り、唇を近付けた。
──ピンク色に膨らんだ
残り数ミリの距離で、日菜に顔を掴まれた。そのまま思い切り唇を摘まれ、舌を入れられる。
日菜はディープキスが好きだ。恋人同士が行うものなら恐らくは何でも積極的に行う彼女だが、特にコレの頻度は多かった。
曰く、一番愛されてる行為だかららしいが。しかし今回は少し訳が違った。互いに互いを感じる間も無く、ただ日菜の舌が僕の中を蹂躙した。
動物のように欲望のままに、彼女の欲求を全てぶつけられたキスだった。
「……ごめん、気持ち悪いよね」
「いや、いいんだよ。日菜も辛かったんだろ」
「……帰ろ」
「そうだね」
アルバムも回収し帰路に着いている時、ふと首の周りに激しい痛みを感じた。
「……あれ?」
思えば、日菜と強く抱き合ってからずっと痛みはあった。ただ、締められた痛みが残っているものだと思い込んでしまっていたから。特に気にはしていなかった。
だんだんと力が抜けていく感覚。ああ、はっきりわかる。血が無い。
首筋を抑えていた手を眺めると、鮮やかな赤が一面に広がっていて。
「……ごめん、日菜」
足の感覚が抜けていく。だんだんと冷たくなっていく。頭に向かって。じんわりと力が抜けていく。肩が回らない。腕も動かせない。
もう、指が────
気付いた時には─────気付いていなかった。
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3月4日
──いつまで、君はあたしの傍に居てくれるのかな。
その疑問だけは、頭から離れることが無い。
幼い頃から、物事が全て思うように進んでいた。
例えば運動だったり、勉強だったりと。運動に関して言えば、身体を動かすコツをすぐに掴めたりだとかで、勉強なら問の本質を捉えることが出来る、だとかで。
けれど、これは物事だけには留まらなかった。それに加え人間でさえも、自分の思うままに動いているような気がした。
この子がこう言えば、あの子はこう言って、こんな態度を取って、二人の仲はこういう変化を遂げて──。それがまるで、自分の手のひらの上で遊んでいるように見えた。
異変を覚えたのはまだ本当に幼い頃、幼稚園にいた時のこと。母親があたしを初めて園に預けて、涙を流しながら手を振っていた光景が未だに脳裏に焼き付いている。まさにあの時だ。
──ああ、娘の自立の第一歩に感極まっているのだろう。
──なら。ここで少し寂しそうな表情を見せて、それから。
少しばかり涙を浮かべた表情をしながら一人立ちをしようとしている娘を見つめ、母親は気持ち良く泣いているように見えた。
本質を捉える、なんて何の役にも立たない。それどころか、この世で一番悲しいことだと昔から常々思っている。相手の気持ちがわかってしまうから、どのように振る舞えば良いのかもわかってしまう。だからそこに、心同士のぶつかり合いなんてものは存在しない。本質とは残酷だ。
決して自分が特別な存在なんて思っているわけじゃない。けれど、あたしとあたし以外の人間は明らかに別次元に存在していた。
年齢を重ねるにつれて、あたしの周りには人が多く集まるようになった。単純に、自分が共に過ごすことで快感を得られる存在とは一緒にいたい、なんていう動物的本能だろう。
だから自然とあたしの心は、肉親からの愛を欲するようになった。──けれど、この存在が一番あたしを疲弊させた。
親が子に抱く感情、なんてものはわかっていた。
優秀な子供を持てば、それに期待してしまうのは当然だ。それでも、手のひらで掴めるだけの愛でも良いから、等身大の氷川日菜を見て欲しかった。
──ああ、いいや、もしかしたらわかっていなかったのかもしれない。あたしと一般人は違うのだから。
親とその子供は、幼少期には毎日毎時間、毎分毎秒を共にするものだ。それだけに、子供は親のことを理解しやすい。だから親子の絆というものは、両者の心の深く、さらに深いところにまで根差す。
けれどそれでも、子供が親の管理下にあることは決して間違いでは無い。
子供が感じる親の感情など、自分が愛されている、程度のものだからだろう。
しかし、子供が優秀であればあるほど──別の言い方をすれば、歪めば歪むほど。その構図は変わっていく。
あたしは親に期待するのをやめた。
人に真から愛されるのを諦めた。
そしてあたしの周りから、人はいなくなった。
そういった見方をしている、あるいはさせてしまっている時点で、あたしは親に真の意味で愛されてはいなかったのかもしれない。
何事も成せば簡単に成せる才能。それはいつしか親のステータスとなり、氷川日菜を見る目には光が灯らなくなり。
夏の夜、毎晩のように蛍の光を眺めていた。
彼らは一週間程度で命が尽きてしまうらしい。その人間にとって一瞬とも言える時間を、ただ精一杯輝かせる。
一週間で死ぬというのに、なぜこんなにも無様に飛び回っているのか。と幾度となく疑問を感じた。どうせ生きるなら、もっと何かを爆発させればいい。自分が生きた証をこの地に刻めばいい。
あたしには、それが出来る。あたしなら。
──そう思いながらも、蛍を羨ましく感じた。
高校に入ってからも、自分のスタイル──というより、自分の在り方は変わらなかった。
中学の先生や親から薦められた、トップレベルの偏差値を持つ私立高校。そこに行けば、自分のような人間とも楽しく会話を弾ませる存在が居るかもしれないと、そんな淡い期待を持って笑顔で進んだ。
けれど、実際にそんなことは無く。
ただ一人だけ、学年二位の男の子とだけ少し仲を深めることが出来た。
特に彼に何かしらのシンパシーを感じたわけじゃない。彼が他の人とは違って特別だった、なんてことでもない。ただ人より少し頭が良くて、ただ人より少し話しやすかったというだけで。
──それと、彼以外に仲良く出来る人もしたいと思う人も──逆に、彼以外にあたしと仲良くしようと考える人もあたしの周囲には既にいなかった。
そしていつしか、恋人になった。
高校生にもなれば、浮いた話は一つや二つなんてものじゃない。ふと後ろを振り返ってみれば、一本道が逸れたところでポツリポツリと影が二つ。時に重なり、時に消え去り。
周囲が恋人だらけなことを前から眺めて、あたし達もその波に乗っかろうと思っただけだった。
けれどあくまでその波は、夜に佇む川辺のように。
世界で一番、淡々としたカップルだった。
「君の記憶にあたしを残して欲しい」
付き合ってからは、この言葉を口癖のように彼に言った。別に、特段意識していたわけじゃなく、自然と口から零れ出て。いつしか口癖となった。氷川日菜の身体がまるでそのことを望んでいたかのように。
恋人となってからは、いろんなことを経験した。
恋人らしいこと、人間らしいこと。あたしが一方的に欲をぶつけた。
彼は初めから恋人になることも、こういったことをするのにも乗り気じゃなかった。いくら誘おうと消極的で、自分を大事にしないあたしを本当に嫌っているようで。
恐らくあたしの行動が彼の目には、酷く破滅的に見えたのだろう。危険なことをいくつもした。
あれは多分、あたしが飽きてきた頃。快楽に慣れて、痛みに慣れて、人にも慣れて。だんだんと、唯一の欲を満たせる存在でさえも要らなくなったと感じ始めた時。そろそろ潮時かなと思っていた矢先に、一つのアイデアが脳裏に浮かんだ。
●
肩を曲線に沿ってなぞってみると、やはりまだくっきりと残っていた。あたしのにも、彼のにも。思い返すと、歯が痺れる。
首筋が痛い。骨が軋んでいるよう。文字通り頭が空っぽになっていくような、あの感覚。
あれをきっかけに、この人に飽きることは無いのだろうと確信した。写真を撮るのにも、背徳感が何十倍にも背中に被さってその全てが快楽へと変化していった。
──まあ、あんな死の淵に立つような経験を現実世界でも味わってしまうなんて、全く予想もつかなかったけれど。
川はいつしか、氾濫していた。
ーーーー
「君はいつまで、あたしの側にいてくれるの?」
答える人間のいない問いを、宙に向けて放り投げた。風に吹かれて、飛ばされていく。
あたしは君に罪悪感を覚えてばかりだ。
氷川日菜の──天才のオーソドックスな人生に刺激を与えるために用意された、スパイスのような。ローター。そんなものとして今まで扱ってきただろうと言われても、あたしは何一つ反論出来やしない。
けれど、腐っても相思相愛の恋人だ。そういった関係もアリだと言う人も中にはいるのかもしれない。が、君にずっと無理を強いてきたことは言葉が無くてもわかっていた。
わかっていた上で、わからない振りをした。
時に、死に至る危険もあったと言うのに。君はあたしを嫌うことはあれど、あたしから離れようとは決してしなかった。
あたしがつけた傷にヒビが入り、今再び命を失う危険に自分が晒されているこんな状況でも、君があたしに愛想を尽かすことは無いだろう。三年も常に共に過ごしていればそれくらいわかる。
空虚だとずっと思っていたあたしの人生において、それは思いの外何よりもあたしの救いになっていた。
目の前の体が、少しだけピクリと動く。少し身構えて、口から笑みが溢れそうなのを、何とか堪える。
──そして結局、何も起きない。何度繰り返しても慣れない。
あたしは何度同じように淡い希望を抱いて、何度同じように絶望に打ちひしがれるのだろう。
この世界に一人は嫌だ。絶対に生きていられない。だけど、ギリギリまで生き残っていたい。最期の日をこの目で見届けたい。だから、君が必要なんだ。
こんな思考の元であたしは、君に寄り添っていたつもりだった。
人は失ってから、失ったものの大切さに気付くと言う。
全くその通りだ。笑えてくる。天才が聞いて呆れる。
玩具なんかじゃなかった。とっくにわかっていた。あたしが生きてきたこの十八年間の人生と、いつも周りで囃し立てる道化師を言い訳にしていただけだった。
元から君は、あたしの全てだった。
ーーーー
夜になった。あれから何度泣いただろう。
枯れるまで泣き尽くそうとしても、決して枯れることの無い涙が身体を枯らしていく。
「起きて」
何度目かもわからない言葉を呟いた。喉も既にカラカラに乾いていて、今自分が何を喋っているのか耳で聴き取れない。
起きて。起きて。起きて。
目を開けてあたしを見て。
夜の空気は冷たい。
昼に溜まった熱が宇宙に逃げていくからだ。雲一つない、星が見える美しい夜でこそ、寒い。
この世界になってから、彼から貰う温もりはいつもの何倍、何十倍にもあたしを癒してくれた。こんな世界だからこそ、一回一回が重い。
「あ……」
キラキラと、ツリーチャイムのような音が空から聞こえた。
見上げてみると、そこには一面に流れ星が降っていた。あまりにも綺麗で、氷のように冷たい肌に突き刺さる。
手を合わせて願い事をした。ただ一つだけ、目を覚まして欲しいと。
そういえばまだ付き合いたての、あたしが君に欲だけをぶつけていた頃。あの時もたしか、こんな一面の流れ星を二人で見た記憶がある。特に願いも無かったから、目を輝かせる彼に抱きついていただけだったけれど。
「泣けてくるね」
「……
ふっと後ろから声がした。紛れもない、よく聞き慣れた声だった。
不思議と嬉しさも悲しさも無い。ただただ、心臓の拍動が高まる。感覚を失っていく。目の前は暗くなって、耳には何も聞こえなくなって。何も匂うことは叶わず、自分がどこに立っているのかすらわからない。
真っ暗のまま、おぼつかない足取りでフラフラと声のする方へ寄った。
──そのまま、強く抱き締めた。
「……遅かったじゃん、何してたの」
こんな状況でもこんな憎まれ口しか叩けない自分が恨めしい。だけどそれ以上に、こんなことをしても全てを受け入れてくれる君が。
心の底から、愛おしい。
「ごめん、ただいま、日菜」
もう君が名前を呼んでくれるだけで。それだけでいい。身体が潤っていく。
──涙が、涙が溢れそうで。
「お帰り、好きだよ」
意識せずその言葉は出た。欲の対象なんかじゃなく、ただ一人の人間として、彼氏として、愛を伝えた。生まれて初めて、心の底から出てきた言葉だったかもしれない。
これで良い。良かった。
何よりも、誰よりも心から愛しているから。キスしたいと思っているから。身体に触れて欲しいと思っているから。抱いて欲しいと思っているから。
首の皮一枚、繋がった。
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3月5日
世界は狭い。
Alが自動的に流す無機質なラジオと、物音一つ聞こえることのない閑散とした屋上からの景色を眺めて、そんなことをずっと考えている。
日菜に出会う前の数ヶ月間、いろんなところへ出回った。誰でも良いから人に会いたかった。会って、話して、笑って、一緒に食事でも取って。そんな時間を誰とでも良いから過ごしたかった。
そう、とにかく孤独が嫌だった。
学校生活は嫌いだったけれど、それでも僕はきっと恵まれた環境にいたのだろう。当然のように人がいるというのは、本当に幸せなことなのだから。
探し回って、探し回って、全く人の寄り付かなさそうな森林もかき分けていって、人がいないことを理解しておきながらも落胆していた。そしてそうした日々を過ごす中で、周りに行ったことのない場所がなくなった。僕が想像していたよりも、世界はずっと狭かったということだ。
そんな生活が数ヶ月続いた。僕はいつしか、独り言を喋ることが多くなっていた。
天気が晴れだったなら、いい天気だろと僕自身に言い聞かせていた。そして心の中で、その声に返答した。
──うん、とてもいい天気だね──と。
人が生死なんてものは、その人が勝手に決めれば良いものだと僕は思う。
死にたければ死ねばいいし、行きたければそれでもいい。僕の周りはそうだったし、この国、引いてはこの世界全てがそういう道を辿っていった。
けれど、死なないことが生きていることという訳でもない。事実あの数ヶ月、僕は死んでいた。身体は生きていたし生きるために食べ物を探すことはあったけれど、人として生きるには確実に何かが欠落してしまった。その何かを埋めることは、もう一生できそうになかった。
──もう後には戻れない、もう後なんてないけれど。自嘲気味に、そんなことを心の中で反芻していた。
ポケットを探る。包装袋に包まれたカプセルが二錠出てきた。
親が死ぬ前に僕にくれた、安楽死用の毒薬だ。飲むつもりなんてあの時は無かったけれど、捨てることすらも怖くて捨てられずにしまっていたものだ。
陽の光が眩しい。
「……おはよう」
「ああ、おはよう。日菜」
日菜が起きた。もう時刻は昼にさしかかろうとしているが、眠そうな目を擦っている。昨日眠れなかったのだろう。
僕からは、何も言うことは無い。
「相変わらず早起きだね。昨日眠れたの?」
「……いや、日菜がいつも以上にくっついてあんまり眠れなかったかな」
「あたしもいつも以上にくっついたから全然眠れなかったよ」
「寂しかった?」
「うん、寂しかった。……あと、今も寂しい」
そう言って、日菜は僕に身体を寄せた。目元が腫れているのがすぐにわかる。どれだけ昨日今日で泣いていたのか、最早言葉に出さなくても良い。
──不意に、彼女の身体を腕でさらに寄せた。サイズ感のある胸が身体に押し当てられているけれど、あまり気にはならなかった。
ただ彼女と触れ合っている時間が、今の僕には一番大切なものだから。
「……ねえ、あたし達ってあと何日?」
「二十五日だね。その後は絶対に死ぬ」
「そっかあ。死んじゃうんだね」
「うん。……死ぬのは、嫌だな」
ふっと笑って、空を見上げた。随分と青い。
人がいなくなって排気が完全に零になって、空気は相当に澄んだものになった。トラックが走った後の胸焼けが酷くなるあの臭いも、都会の人の多さでむせ返りそうになるあの苦しさも、もうこの世界には存在しない。植物だけが一面に広がりを見せていて、彼らに僕ら人類の文明は全て壊されてしまった。
けれど、そんな世界で見る屋上からの景色というのは、思いの外綺麗なのだ。
「今日はずっとこうしてようよ」
「僕もそうしたいな。日菜と離れたくない」
そう言って、日菜の腋に腕を伸ばした。日菜は少し驚いた顔をして、その後すぐに八重歯を見せて微笑んだ。こういうのを悪い笑顔だとでも言うのだろう。
そのまま、彼女の胸を抱き寄せた。背中を腕できつく掴んで、胸の中に日菜を置く。おそらく彼女に心臓の鼓動が聞こえているはずだ。かなり激しいものになっている。恥ずかしいけれど、聞いて欲しいとも思った。
そのまま少しの時間、僕らはただお互いに抱き締めあった。日菜の香りが鼻腔を擽る。元の生活のような満足した風呂なんて無いと言うのに、やけに頭が痺れる匂いだった。
そしてそのまま、時間が流れる。ずっとこうしていても良い。
いくら嗅いでも飽きない香りに、いくら抱いても足りない身体に、いくら愛してもやまない彼女が目の前にいる。
「キスしたい」
「今日はやけに積極的だねえ」
「二十五日しか無いんだ。毎日積極的でもいいくらいだよ」
「あはは、その通りだね」
そう言って、顔を彼女の方へと向けた。ピンク色に光る唇が艶っぽい。思えば僕は、自分から彼女を求めた事はそんなに──いや、一回も無かったかもしれない。いつも彼女にせがまれるままに、日菜のなすがままに。そんな恋愛をずっとしていたような気がする。
日菜があまりにも積極的で、僕から彼女を誘うような必要性を感じなかったのか。
──いや、僕は本当は彼女のことが嫌いだったのかもしれない。
追憶を払って、唇を日菜に預けた。
舌を口内へと押し込んで、性行為とはまた違った言葉に出せない快感が頭を襲った。脳の快感を司る部分を直接日菜の舌で舐められているような、そんな感覚。
数秒経って、息が続かなくなって口を離す。もうどちらのものかわからなくなった唾液が橋を作る。──そして、次が欲しくなって、また唇を押し付ける。
僕には日菜がいつも余裕そうに見えていた。最初こそ戸惑いの表情を見せていたものの、二回目からは完全に慣れてしまったようで、僕が毎回日菜に襲われるような形になっていた。けれど今回は違うようだ。
もう何分、何回繰り返したのかわからない。ただ次、次が欲しくなって、延々と繰り返していた。もう元あった唾液が完全に交換されて、それがさらに完全に交換されたと思えるくらいに繰り返した。
──その時ふと、彼女の表情を見ると、そこには今まで見た事のない程の蕩けきった日菜の顔があった。
「……ね、ねえっ、ちょっと……」
「…………ッ!」
蜂蜜のように甘い顔だ。短く纏められていたはずの髪は完全に乱れてしまって、一本一本が僕の手に絡みつく。
──キスだけじゃなくて。そう日菜は零して、地面へと倒れた。ブラウスとスカートの間から除く柔らかそうな肌、唇から零れ出て反射している唾液。いつも見ている筈なのに、彼女の表情一つでこんなにも見え方が変わってしまう。
「……我慢できないかも」
「えへ、しなくていいよ」
膝をついて、日菜の上に身体を置いた。
初めて自分から彼女を求めた。そうして初めて、自分に恋人がいるという事実が頭を過ぎる。日菜もそれを少し感じ取っているらしく、少し怯えた表情をしていた。彼女は初めて、主導権の取れない状況を作っていた。
──ちょっと、ちょっとだけだけど、怖いかも。
──できる限り優しくするよ。
僕らにだけ聞こえる、僕らにしか聞こえる必要のない小さな声。
日菜の服に手を添える。いつもは勝手に脱いでくれるから、こうして服を脱がせるのは初めてだ。意外と初めての経験が多い。
制服を全て取り去った後、下着だけがそこに残った。見慣れているはずの水色のセットなのに、日菜が恥ずかしそうに顔を伏せているだけで頭がクラクラと微睡むようだ。
そのまま僕らは、身体を重ねた。
○
「……一昨日、ごめんね」
あれから時間が経って、日がそろそろ暮れかけている頃。
民家から調達してきたやや大きめのベッドで肌を寄せ合いながら、溜まっていたものを吐き出すように日菜は言った。
日菜はいつも行為後に落ち込む癖があったけれど、今回のはまた一味違った悲しみが彼女を襲っているようだった。一昨日。僕が気絶したことだ。
「気にしてないから大丈──」
「嘘つかないで」
──そんなこと言わないでくれ。
日菜の言いたいことはわかっている。生死をさまよったんだ、彼女を置いてどこに旅立とうと咎める人はいないだろう。
事実、僕の身体はもう精神的にもボロボロだ。日菜と関係を続けていれば、こんな状況にならずとも一月で死んでいたかもしれない。
学校のアイドルと恋人だなんて周りからは羨ましがられたけれど、その実日菜が痛みを快感と思い始めた日から僕と日菜はしだいに衰弱の一途を辿っていた。
それでも僕は、日菜を選んだんだ。
「……なあ、日菜」
「うん」
「日菜に会う前の話、したことあったっけ」
「みんなが死んじゃってから?」
「そう、そこから数ヶ月」
「少ししか無いよ」
「じゃあもう少しだけ、聞いて欲しい」
──死ぬのは嫌だった。けれど、孤独も辛かった。
誰とも話さない生活をずっと続ける中、僕の中にもう一人の僕まで作って、何とか心が壊れないようにと努めた。それでもいつか限界が来る。
真夜中、誰もいないベッドの中で、自分はどうしようもなく孤独な人間なのだということを思い知らされていた。そういう夜は決まって睡眠薬を飲んで誤魔化した。朝になれば気分も和らいでいくと信じるしか無かった。
残りの命が決まっている中、そんな日々を消費していく生活はただただ無意味に感じて仕方の無いものだった。
何か刺激が欲しいと、常にそう思っていた。そうでなければいつか死んでしまうと。ポケットの中には麻薬のように毒がずっと潜んでいたから。衝動的に飲んでしまいそうになる瞬間を何度も経験した。
そして、その度に自傷した。
幸いなことに、傷つきやすい箇所は身体に何個も存在していた。
「…………」
「あと、もう少し。……僕は多分、本当は日菜が嫌いだったんだ」
「…………そう」
「ごめん。でも最後まで聞いて欲しい」
僕は卒業式のあの日、日菜と出会う前、本当は死ぬつもりだった。日菜の機嫌を損ねたくはなかったし、あの瞬間考えは百八十度変わってしまったけれど、僕は確かに死を待っていた。
もう一ヶ月という時間はとても区切りの良いものだと思えたし、卒業式という節目にも何かしらの運命を感じていた。
「……そして、死のうと思った直前に走馬灯が流れたんだ」
「誰が見えたの?」
「それが、日菜しか見えなかったんだ」
──傷跡の痛みが激しくて、日菜以外に思い浮かべられる人がいなかった。死んだ両親も、少なかった友人も誰も僕の脳裏には過ぎらなかった。ただ、日菜だけがそこにいた。
その時痛烈に、日菜に会いたいと願った。死を止めてくれても、一緒に死んでくれてもいい。
周りに辟易しながら生きてきた人生の中、初めて刺激を与えてくれた氷川日菜という存在。回りの誰でもなく、僕に生きていることを教えてくれた人だった。死と隣り合わせだからこそ、生の価値は映えるものだ。そんな僕の捻れた感性に合致した彼女だけが、あの時僕に必要なものだった。
日菜と話したかった。日菜の顔を見たかった。
多分僕はずっと、数ヶ月間もずっと、日菜と笑っていたかったんだ。
「……今あたしのこと、好き?」
「愛してる」
「あは。……泣いちゃうなあ、そんなの」
「謝罪だけど、僕から言うことは何もないよ。僕にはただ日菜がいてくれれば、それでいいんだ」
そのまま日菜と死ねたら、それでいいんだ。
僕らが死ぬまで、残り二十五日。
調教型ヤンデレって、あるらしいですね
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