僕達、学生にとって本当の夏の始まりは、この長期休暇だ。
たったの37日間、けれど、とても大切な40日間だ。
中学2年の夏休み、僕達はある計画をたてていた。大人が聞けば、馬鹿にされるだろう。だけど、同級生からは、英雄視されるに違いない。
中学2年生は生涯で一度しかないし、そのたった一度の夏休み初日、僕の家に集まったメンバーは、名前のわりには根暗な光君と、ひょろひょろとした体付きの剛君の二人、そして、僕だ。この語り口で分かると思うけれど、僕ら三人は地元の中学校で、それはそれは酷い目にあっている。
学校というのは、閉鎖的だからこそ、僕らのような人間を作ることは容易く、ましてや、中学校となれば尚更だ。この一年で僕が学んだことは、中学生は、人に残酷なアダ名をつける天才だということ。
あまり言いたくはないけれど、三人の内、一人のアダ名は「ヨゴレ」だ。
六畳の部屋に顔を揃えた僕らは、軽く挨拶を交わした後で、それぞれの場所に落ち着いた。僕はベッドに、光君は机に、剛君は本棚に背中を預けていた。光君に視線を移せば、途端に顔を逸らしてしまう。その気持ちは僕にも分かる。誰が口火を切るのかと警戒しているんだ。こんなとき、光君は特に口を開こうとしない。それは、僕も同じなのだけど、視線を泳がせたりはしないから、まだマシなほうだと思う。
やがて、剛君が細い顎をあげた。
「誰が最初にやる?」
短い声に、僕と光君は身体を強張らせた。剛君は、自分の役目は果たしたとばかりに、腕を組んで膝を抱えている。彼は卑怯なんだ。発言さえすれば、あとは時間がどうにかしてくれると信じている。
光君にも似たような一面があるけれど、僕ら仲間内においても、そんな機会は少ない。けれど、この場では、僕よりも早く剛君に続けば、最悪の事態は免れると考えたのだろう。一息吸い込んで光君が言った。
「豊君は......どうかな?僕なんて、きっと失敗しちゃうし......」
突然の発言と見えるだろうけど、僕にとっては、想像通りの展開だった。卑屈な態度の裏には、きっとなんらかの算段がある。それが、彼にとっての処世術なのだけど、こんなことを平然とやってのける辺りが、ズルいところだ。
僕は、小さく吐息をつくと、剛君を見た。
「僕は、言い出した剛君が一番にやるべきだと思うよ」
「俺なんか、もっと無理だろ。学校でも、どんなアダ名で呼ばれてるか知ってるだろ?」
「それでも、僕よりはまともじゃないか......」
「ヨゴレもケガレも大差ないだろ」
唐突に新作始めます
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2話
剛君の眉間に、深い皺が出来た。
ここまでで、察しの良い人は、なぜ僕らが学校で酷い目に合っているのか、分かってくれたと思う。そう、ここにいる三人は、どこかしらに卑怯な面を持っている。その上、それぞれが自覚をしていない。いや、多少なりとも気づけている僕は、二人よりは頭が抜けているはずだ。
剛君と僕の会話以降、黙然とした時間が流れ始める。答えは決まっているのに、何時間も途方にくれてしまうのが僕らだ。誰かが意を決っするものだと決めつけて待ち続けてしまう。
不思議な光景だろうけど、どうにも躊躇ってしまう。誰よりも先んじるのは、とてつもない勇気が必要なんだ。
気まずさに耐えきれず、僕はテレビを点けた。今は昼間なだけあって、やっている番組は、ニュース番組が中心で、気分転換には向いていない。チャンネルを回し、母親世代が好きそうなドラマでリモコンを置く。
それは、とてもありふれた恋愛ドラマだった。恋愛の縺れ、壮大でもない人間ドラマ、ここに僕らが目指す形がある。
僕らは中学生、それも多感な14歳、そして、イジメからの脱却を望んでいる。解放されるには、英雄になるしかないのだ。それには、多くの同学年が達成していないことをするしかない。
もう、分かっただろうか。僕らは、この夏休みで彼女を作ろうとしている。
期限は短いけれど、夏の学生はとにかく開放的になる。この時期こそが狙い時、そう昂然と胸を張っていたのは、剛君だったのだけれど、今となっては、尻込みしてドラマに釘付けになってしまっている。
いざという時に踏ん切りがつけない、それは大人も子供も変わらないだろう。
あっという間の一時間は、すぐに僕らを引き戻した。
「......良いよなぁ、ドラマの主人公ってやつは簡単に彼女が出来てさ。あーーあ、俺もカッコよくなれれば、こんなに悩むことないのにな」
「体験できるとも思わないけど、僕はこんな恋愛はごめんだよ」
剛君の感嘆に、光君が遠慮気味に返せば、短い舌打ちが聴こえた。僅かな嫌悪感を当てられる。僕と光君が畏縮してしまうには、それだけで充分だ。バツが悪くなったのか、剛君は黙ってしまう。こんなとき、決まって訪れるのは、僕らに共通した苦手な時間だ。
定まらない視線を泳がせていると、あるDVDが目に留まった。
パッケージは、有名な戦争映画だけれど、中身は全くの別物が入っている。どの中学生でも簡単にできる小さな誤魔化しが施された長方形の箱を手に取り蓋を開く。
学校で人気のセクシー女優、朝倉真美の写真がレーベルとして貼られている至極の一枚だ。僕だけじゃないと思うけど、中学生にとってセクシー女優は大きな切っ掛けになる。初恋、性の目覚め、その他諸々のね。
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第3話
初恋は実らない、なんてよく言うけれど、映像の中にいる女優は、いつも同じ顔を見せてくれる。安心して恋愛の疑似体験をさせてくれる貴重な存在と思う。ましてや、似たような話しをしていて、拗れてしまった今となっては、絶大な威力で修正してくれるかもしれない。
「剛君、光君、このまま話してても意味がないよ。だから、これでも見て気分を入れ換えない?」
剛君は爛々とした瞳で、部屋の扉を一瞥する。
「良いのかよ?おじさんとおばさん、まだいるんじゃねえの?」
「出来るだけ音量を低くすれば、大丈夫だと思う。光君はどう?」
「......ふ、二人が見るなら、僕も見るよ......」
剛君が、ニヤリと口角をあげた。
「決まりだな。よし、豊はカーテンを締めろ」
「了解」
僕らは素早く準備を始めた。光君が扉の側で聞き耳をたて、剛君は電気を消す。誰かに、セクシー映像を見ていたとバレるなんて考えたくもない。わざわざ、確認する人なんていないだろうけど、僕は念をいれて外を見回してからカーテンを締めた。
小柄な体型には、不釣り合いの胸だけど、顔に残った幼さは、まるで僕らと同い年のようだ。これで、大学生だというのだから、目を疑いたくなる。
相手をしている男性は、朝倉真美の腺を引いたように綺麗な眉と、その間に刻まれた深い皺を間近で見下ろしながら、加えて艶のある吐息を耳に洩らされて、平気なのだろうか。僕なら、きっと一分も耐えられない。
最初に、落ち着きを無くしたのは、勿論、剛君だ。次第に前のめりになっていき、お腹を股間へ近づけていく。その上、両手を使っているのだから、往生際の悪さが目立ってきた。光君は、なに食わぬ素振りを保っているけど、頬が赤い。それは、きっと僕もだろう。
男優の腰が早くなってきたところで、剛君が立ち上がった。
「なあ......今日は、もう、解散にしないか?」
その言葉に、光君は同意したような甘ったれた目を僕に向ける。僕だって一端の中学生だ、自宅に戻った二人が一体、何をするのか分かってる。記憶が鮮度を保っている内に、腰を打ち付ける男優を自分に準えるつもりだ。そして、明日は何度、行ったかの報告会になる。きっと、中学生男子には、ありきたりな光景なんだろう。
けれど、たった37日やそこらで彼女を作らなければいけないのだから、僕らにそんな時間はない。
「駄目だよ。せめて、ここで次はどんな行動を起こすのか決めておかないと、あっという間に夏休みが終わっちゃう」
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第4話
せっかく盛り上がりかけた熱が部屋から出ていき、再び、暗くて冷たい沈黙が降った。けど、ここで有耶無耶にしてしまう訳にはいかない。僕らは、夏休み前に、固く誓いあったんだ。
絶対に彼女を作り、イジメから解放されるんだ!
……今、考えると、とても馬鹿らしいことなのかもしれない。
ギイ、と椅子を軋ませた光君が深い溜め息をついた。
「やっぱり、僕らには無理なんじゃないかな……」
「どうして、そう思うの?」
「だって、顔立ちは良くないし、暗いし、スポーツだって出来ないし、頭も良くない……女の子が好きになるところが一つもないよ……」
光君が項垂れると、また椅子が重い音を鳴らす。まるで、僕らの会話みたいな音だな、なんて思っていたとき、ようやく下半身の熱が冷めてきたらしい剛君が立ち上がった。
「そんなんだから、駄目なんだよ。分かってるのか?俺達はこの夏休みに英雄にならなきゃ今までと何も変わらないんだぞ」
さっきまでズボンの奥を熱くしていた人が、そんなことを言うものだから、笑いだしそうになるのを堪えていると、光君が反撃した。
「なら、僕らは最初に何をしなきゃいけないのか、剛君が決めてよ。彼女を作るのは当然として、どうやって作るのか、その為に何をするのか……」
光君は語尾を弱々しくしながらも、顔をあげた。すると、今度は剛君の顔が下がる。公園のシーソーみたいだ。
けど、光君の言うことはもっともだと思う。ただ一言、彼女を作る、と口にしたところでなんの意味もない。なにかをするのであれば、行動をしなきゃいけない。僕らには、そこがなかったから、話しが進まなかった。けど、だとしたら、一体、どこから手を出せば良いんだろう。
点けたままにしていたテレビは、朝倉真美の扇情的なビキニ姿を映して止まっていた。おもむろにリモコンを取って画面を戻すと、バラエティー型のニュース番組が放送されていた。数人のお笑い芸人が、キャスターやアイドル、果ては政治家にいたるまで、最近、世の中で起きた事件や事故への意見を言い合い、最後にはお笑い芸人の人が笑いに変える、そんな内容だ。
そして、今、番組内でされている討論は、ズバリ、学生間のイジメについて。
僕らは、揃ってテレビに目を向けて身体を固めた。たった三文字から放たれる魔力は、ただでさえ少ない口数を奪っていく。お腹の底にある、どす黒い感情が喉を通って鼻から抜けていく。とてもじゃないけど、匂いには耐えられそうにない。だけど、この番組が切っ掛けとなって、僕らが何をしなければならないのかが決まった。
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第5話
その切っ掛けは、剛君が渋い顔でリモコンへ手を伸ばして、電源のボタンに指を置いたとき、お笑い芸人の人が口にしたコメントだ。
「最近の子供を見ていると思うんですよ。みんな自信がなさそうに俯いている子が多いなぁ、と……なにか一つでも自信を持てるものがあれば、負けない気持ちも育つと思うんですよね。そこからが大事なんじゃないですかね?」
これは、また、ネットが荒れそうだ。けれど、確かにそうかもしれない。
僕は、お笑い芸人の人の言葉に雷で撃たれたような衝撃を受けるとともに、少しだけ考えてみた。昂然と主張できる特技なんか持ってないし、自分に対する自信なんてものもない。それは、多分、剛君と光君も同じだろう。
つまり、足りていないのは、自信だ。学校の同級生達を見ていても、僕らよりも声が大きい、これも、きっと、自信の現れなんだ。
「はぁ……簡単に言ってくれるよな……自信なんてある奴がどうかしてる……」
「確かに……僕なんて……」
剛君と光君の梅雨時のような湿った会話を切ったのは、僕だ。
「ならさ、今までやったことがないことをやってみようよ!きっと、何かが見付かるよ!」
熱をもった僕の声に、光君の目はパチパチと瞬きをして、剛君は、鬱陶しいとばかりに舌打ちする。
「例えばなんだよ。なにか案があるんだろうな?」
剛君は、さっき自分が答えられなかった質問を僕にする。このままでは、堂々巡りだ。
しかし、僕は、はっきりとした解答を用意している。それは、大人だけの特権であり、中学生達にとって、憧れのような行動だ。僕は、両親にバレたら不味いからと、狭い部屋で二人だけに聞こえるように小声で言った。
「光君、剛君、それから僕の三人で……」
そこで区切って二人を見てみると、光君が唾を呑んだ音がしたあと、剛君が先を促すように眉を寄せる。
僕は、この友人二人よりも、ほんの少しの優位に立っていることを感じながら口を開いた。
「真夜中に外へ出掛けよう。勿論、バレたら大変な目に合うけど、僕らには、誰もやっていないことをやったっていう事実が必要なんだよ、きっと」
提案に難色を示した光君が一度だけ唸って僕をみた。
「もしも、警察に捕まって補導されたらどうするの?下手したら、夏休み中、家から出してもらえなくなるよ……」
「捕まらなければ良い。遠出をしなきゃ大丈夫だよ」
負けじと光君が続ける。
「けど、もし、お父さんやお母さんが遅くまで起きてたら……」
「その場合は、実行を先伸ばしにするよ。僕と光君にはLINEだってある。連絡しあえば決められる。剛君は……」
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第6話
そう話しを振ると、剛君は食いぎみに言った。
「俺は豊に賛成だ。それに、決行はいつでも良い。うちの親父は、いつも酒呑んでるから、寝るのも早いし、お前らみたいに二人親じゃない。夜中に出ていってもバレないだろうしな」
なら、決まりだ。僕と剛君は、ニヤリと笑って頷きあった。あとは、光君だけだ。僕らは揃って光君に目線を流す。
「ぼ……僕は……やっぱり……」
「光、この中で一番、危ないのは、何度も三人が揃うまで夜中に出なきゃいけない俺なんだぞ。お前と豊はやり取りできるからな。それに、集合は豊の家で、一番安全なお前が、いつまで尻込みしてんだよ」
「け……けど……」
いつまでも煮え切らない光君が、唇を尖らせれば、我慢の限界を迎えた剛君が机を掌で叩いた。
「わかったよ。なら、俺と豊だけでやるから、お前はずっと、なにもしないで、夏休みを終わらせればいいじゃん!」
光君が今にも泣き出しそうだ。
きっと、いろんなことが頭の中を駆け巡っているんだろう。お父さんやお母さんに怒られる、もしも、警察に見付かれば学校にも、家にも連絡がいく。光君は、いつも両親に怒鳴られるか、怒鳴られないか、どちらかで行動を決めているみたいな部分がある。だから、学校ではマザコン野郎と馬鹿にされてる。ケガレ、ヨゴレ、マザコン、中学生の三種の神器みたいな言葉だ。
声を震わせた光君が、剛君に言った。
「ふ……二人がやるなら……僕もやるよ……」
剛君の勢いに負けた光君が、遂に諦めた。仲間外れは嫌だ、これも僕らにとっては見えない魔の手のようなものだ。込められた魔力は、頭に浮かんでいた両親の顔すらも霞ませる。それでも、やっぱり、僕らがやるなら、の一言はズルいと思う。自分一人の決断にしないで、もしものときは、僕らを巻き込もうとしている。
それでも、ようやく意見が一致したことに僕は安堵した。この時点で、集まってから既に五時間が過ぎていて、日が傾き始めていた。貴重な夏休みの初日が無駄にならなくて本当に良かった。と、落ち着いたところで、僕は疑問を抱く。
「て、あれ?ねえ、剛君、集合場所って僕の家なの?」
剛君は、さも当たり前とばかりに返した。
「そりゃそうだろ。言い出しっぺはお前なんだからな。うーー、ワクワクしてきた!なあ、どこにいく?やっぱ、最初は近くのほうが良いよな!なあ、光!」
……もしかしたら、今回の件で、一番、危ない役割は僕なのかもしれない。
一人、テンションをあげて、苦笑する光君に絡む剛君の背中を、僕は静かに睨みつけてやった。
そして、今日、下したこの決断により、僕らはとある騒動に巻き込まれることとなる。
このときの僕らは、そんな事態を想像することもなく、ただただ、いつもの日常を過ごしていた。
次回から章を進めます。の前に、ちょっと短編をあげます
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7月23日
決行の日は、意外と早く訪れた。
あれから、二日後、ベッドで何をするでもなく寝転がっていた僕のスマートフォンが揺れたのは、昼過ぎだった。LINEのポップアップに打たれていた文字は、
「今日、親の帰りが早いみたい。それに明日は、仕事が休みみたいだから、起きるのも遅いはずだよ」こんな内容で、送信主は、もちろん、光君だ。
僕は、すぐに短く、了解と返信して寝間着から白の半袖シャツとジーンズに履き替えて剛君の家に自転車で向かった。
二日間、外に出ていなかった僕には、夏の昼間に注ぐ日射しは少しだけ厳しかったけれど、今日の深夜に、僕らは英雄への一歩を踏み出せるのだと思えば、そんなことを気にしている余裕なんてない。
短い橋を越えて坂道が現れると、自転車のギアを六速から一速にする。そして、僕らが通っていた小学校を横目に、真っ直ぐ一気にペダルを回して、見えてきた鉄塔を左に曲がれば、軒が繋がる古い木造長屋がある。そこの右から二番目が、剛君の家だ。
僕は、玄関の脇に剛君の青い色の自転車が止まっているのを確認してから、扉を遠慮ぎみに一回だけノックする。これは、僕ら三人で決めたことだ。剛君のお父さんは、強面で体格も良いけど、近所での評判は良くない。前に、何度も怒鳴られたこともある。
緊張しながら待っていると、足音が聞こえ始め、扉の手前で止まりノブが回る。少しだけ開いた扉から顔を出したのは、剛君だったけど、どこか暗い顔をしている。僕には、その理由がすぐにわかった。
「今日、おじさんがいるの?」
目を強張らせて、声も出さずに頷いた剛君は、出来るだけ音をたてないように、ゆっくりと玄関を閉じた。寝ている間に無理矢理起きると、すごく機嫌が悪いらしい。
外に出ても、剛君はヒソヒソ声だ。
「どうしたんだよ、あんまり話せないから短くな」
頻りに玄関へ目線を送る剛君の耳に口を寄せて、光君からの連絡を伝えると、喉を小さく鳴らして、徐々に表情から影が無くなっていった。
「今日の夜、十二時半くらいはどう?」
「ああ、わかった」
少しだけ弾んだ声に熱がある。
僕や光君よりも、この瞬間を待ち望んでいたのは、やっぱり剛君だった。短いやり取りを交わした僕は、剛君と別れて光君にLINEを送ると、自転車を降りて押しながら帰る。
久しぶりの晴れやかな気分を少しでも残しておきたかった。学校ではイジメを受け、家では引き込もっている僕には、懐かしい感覚だ。普段、やらないことをやりたくなるこの感じ、わかるかな?
胸がドキドキして、口から出てきそうで、でも、足だけは軽いし、頭の中はフワフワしてる。
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第2話
もしかしたら、大人になるにつれて、無くなっていく気持ちなのかもしれないけど、今日だけは忘れたくない。そんな感覚を抱きながら、自宅へと戻る坂道に入る前に、ふと、僕は足を止めて小学校の校門を見た。幅の広い石段は、小学生の足幅だと二歩が必要だったけれど、今だと一歩でいけるのかな、なんて考えた。自転車のスタンドを立て、閉まった鉄製の校門を乗り越えて、石段に降りてみると、小学生の頃とは全く違う景色に思える。あんなに広かった幅も、長く感じていた階段も、高い木の枝に隠れていた校舎も、全部が小さい。石段を登り終わり、校舎の全貌が現れる。中には入れないように玄関口は閉じていた。
僕は、一度だけ、ぐるりと外周を巡ってみる。二年前に卒業しただけなのに、これほど違うんだ。
よく遊んでいた滑り台付きの遊具の入り口の輪は、立ったままでは、くぐり抜けられそうにもない。あれだけ息を切らせていた登り棒も苦労なく頂上までいけそうだ。だけど、中庭にあった花壇、飛び越えては先生に怒られていた池、裏庭のブランコ、全部の記憶が古い写真みたいに褪せてしまっている。
それだけ、中学校での経験が濃ゆいってことなんだろうな。イジメは、記憶や思い出、そんな大切なものを僕から奪っていくものなんだ。
折角の気分が台無しになる前に、僕は小学校を出ることにした。校舎の柵に足を掛けて、勢いをのまま乗り越えると自転車のスタンドをあげて跨がり、ギアを六速にする。チェーンが切り替わったペダルと同じくらい、僕の足取りは重くなっている。
割子川に掛かる橋の欄干前に着くと、僕は川を見下ろす。小学生のときは、市民プールにいくお金もないから、この割子川に同級生と集まって、泳いで遊んでいた。近場の駄菓子屋で安いアイスクリームを食べたり、簡単な釣り道具を買って魚を捕ったり、本当にいろんなことをしてきたけど、今の僕が思い出す光景は学校のことばかりだ。
「変わらなきゃ……僕は変わらなきゃいけないんだ……」
自然と口から出たのは、心臓じゃなくて、そんな言葉で、そのときの僕は、砂漠のように茫漠とした意識の中にいるようだった。これまで、がないと、これから、もない。変わらなきゃいけないんだ。これまで、を取り戻す為にも……
真夏の太陽が傾き、夜がくるまで、あと数時間、そして、僕らが伝説の一歩を踏み出すまで残り九時間、それまでに汗を流して、出来るだけ英気を養っておかなきゃいけない。
見下ろしていた川の流れが少しだけ早くなった気がした僕は、ギアを一速に変えて走り始めた。誰かに自分を変えられるのは、もうごめんだ。
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第3話
ベッドの上で、むくり、と起き上がり、壁時計を一瞥する。今は、夜の十一時半、夜も充分に深まった。二人が来る一時間前、僕は簡単な工作に取りかかる。本をなるべく人型にして布団に敷き、掛け布団で隠す。出来るだけリアルに、そして、慎重にだ。僕の部屋と両親の寝室はそれほど離れていない。つまり、もしも、ここで覗かれてしまえば、全てが水の泡になる。約十五分を費やして作業を終えると、あとは、ひたすら息を殺して両親が寝静まるのを願うだけだ。
それから、二十分ほど空けて聞こえてきたのは、お母さんがお父さんに明日の予定を確認する声だった。ここまでくれば、あとは寝るだけだろう。更に十分ほど間を置いて、部屋の扉を開き両親の寝室を見た。明かりは漏れてきていない。
僕は心の中で小さくガッツポーズをして、ゆっくりと扉を閉める。いよいよ、決行だ。あと、十分足らずで光君と剛君がここにくる。
閉めたままにしていたカーテンを分けた先には、僕の家を囲う塀がある。そこから、二人の内、どちらかが顔を出せば、今度は僕が抜け出す番だ。
時刻は十二時二十七分になり、僕の心臓が跳ねた。
予定の三分前に、塀の奥でなにかが蠢いていたから蝉か大きな虫かと思っていたけれど、目を凝らすと鼻まで顔を出した剛君だった。僕は、すぐに窓の鍵をあげると、お腹を壁に着けたまま外に着地して中腰で塀に近付く。頭を引っ込めた剛君が右手だけを見せて、早く来るよう手招きをしてるけど、焦って走るとお父さんやお母さんに見付かってしまうかもしれない。テレビでやっていた海外の脱獄ドラマの主人公にでもなったつもりで、僕は塀に手を掛けると、全身に力を込めて塀を乗り越えた。
そこは、まるで別次元にでも落とされたような世界だった。昼間には、あれだけ見渡せていた世界が、月の光だけで照らされる鍾乳洞のように暗く思える。
心許ない街灯の明かりの下に、大きく手を振る剛君と、不安に押し潰されそうになるのを必死に耐えているのか、忙しく首を振って周囲を窺う光君がいた。
二人とも来てくれて良かった、なんて胸中で呟いた僕は、塀に手を掛けたまま、音をたてないよう、静かに降りて二人へ言った。
「集まれて良かった。剛君はともかく、光君は心配だったよ」
消え入りそうなほど震える声で光君が返す。
「あんまり、僕はいれないよ……いまも、不安で不安で怖いくらいなんだから……」
「いつまで言ってんだよ光、もう、ここまで来たんだから、引き返すなんてさせないからな」
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第4話
対して、剛君は相変わらず、声に緊張と興奮が入り交じっている。二人の様子を眺めている僕も、今にも吐きそうなほどだ。それだけはしてはいけない、と僕は口を空に向けてみた。すると、僕らが夜空に発した一声が、湿った空気に乗って、夜空に浮かぶ星に吸い込まれていってるような不思議な気持ちになった。
この場には、両親も学校も、僕らをイジメる奴等もいない。まさに、三人だけの世界、は言い過ぎかもしれないけど、そう思ってしまう。
昼間は騒がしかった蝉の鳴き声が、ほとんど聞こえてこないのも一因なのかな。そんな感慨に耽けていると、剛君が僕の肩を叩いた。
「なあ、これからどうする?とりあえず、散歩でもしてみるか?それとも、川を遡ってみる?」
もて余した気勢が両足に流れ込んでいるのか、それとも、早く大人に見付かる前に逃げようとしてるのか。けど、それは僕も同意見だった。なにより、ここは僕の自宅の裏、お父さんかお母さんにバレてしまえば水の泡だ。
熱気冷めやらぬ剛君は、ひとまず置いて、光君に尋ねた。
「どこか、行きたいところってある?」
光君は首を横に振って、いつもの常套句を口にする。
「二人が行きたいところで良いよ……僕もそこに着いていくから……」
剛君が、水を刺された気分だと言いたげに舌打ちすると、光君の肩が内側に縮まった。僕は、剛君から光君への追撃が始まる前に二人の間に入る。
「今日は散歩だけにしておこうよ。遠くへ行くのは次回にして、今回は夜道に馴れるってことでさ。ね?」
優しく同意を求められた光君が遠慮ぎみに頷いたのを見て、剛君も眉間に皺を残してはいるけど、分かったよ、と言ってくれた。
ようやく、開かれた僕らの英雄譚の一ページ目は、森に住む三人組のロビン・フット物語や、戦国時代から江戸時代の有名なお殿様達みたいにスマートなとこや荒事もなく、ただの散歩となった。だけど、僕らはなにもかもが未体験の世界に足を踏み入れた。その充実した達成感を同級生の誰よりも早く手に入れたんだ。
誰からともなく、目的地も持たずに歩き出した僕らは、いろいろな話しをしていた。どうやって家を抜け出したか、とか、昨日のアニメを見たか、少年向け週刊誌に連載されている漫画の先の予想、いつもと変わらない話題だけど、誰も学校のことには触れない。
一つ道路を挟んだ先にある国道を走っていく車の音に、囁き声を邪魔されるのが嫌になってきた剛君が、公園に行こうと提案した。僕らも賛成して、車が走っていない内に、二百号線を横切り、下り坂を駆けて割子川公園へ入る。
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第5話
公園の入口にいると見付かるかもしれないからと、光君がベンチ裏の草むらに隠れようと言って剛君が続く。少し走ったからか、ここにきてようやく、光君もテンションが上がってきたみたいだ。ぐるりと公園を囲った脛ほどの高さしかない柵を越えて、僕らはしゃがんだ。ちょうど、植木に隠れているはずだ。
この公園も、小学生のときに、よく同級生と遊んでいた場所だ、と僕が振り向いていたとき、光君が、あっ、と声をあげる。顔を戻した僕の目に映ったのは、剛君の右手と、そこに収まったタバコの箱とライターだ。
得意気な剛君の表情は、まるで武器を手にした歴戦の戦士のような精悍さを保っている訳もなく、もっと突き詰めるなら、右手は細かく揺れ動いていた。
「それ……どうしたの?」
光君の問い掛けに、剛君は間を置いて答える。
「お……親父から盗んできたんだよ。こんなときしか経験できないから」
盗んできた、それは、あの怖いおじさんに断りもなく持ってきたってことだ。よほど、勇気を振り絞ったんだろう剛君は、多分、興奮に勝る恐怖から薄ら笑いを浮かべている。引き返すなんてさせない、と光君に言っていたけれど、もしかしたら、剛君は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
僕は、昼間の自分を思いだしていた。変わらなきゃいけない、けど、本当に変わりたいと願っていたのは、剛君だったのかもしれない。だって、僕のお父さんが剛君のおじさんだって仮定すると、とてもじゃないけど真似できない。ましてや、剛君は誰よりも、おじさんを怖がっていた。
茂みの中で、剛君がタバコの封を切る。
「光、豊……お前らも一本吸えよ。ほら」
畳んだ左手の人差指で上蓋を軽く叩き、 飛び出したフィルターの数本を箱から出さずに僕らに傾ける。
「だ……駄目だよ、剛君……だって……それは……」
剛君が強い調子で被せる。
「光、今日、俺達はここで何をしてんだ?同い年の奴等がやったことのないことをやる、それを実行する為にここにいるんだろ。こんなのは、ほんの入口だ」
なあ、豊、と僕の眼前につき出されたタバコの横箱には、金色の星が数字の「7」を彩っていた。コンビニにいったとき、レジの後ろにある棚でみた柄だ。
僕は、剛君にタバコの箱を渡してもらい、パッケージを回転させて観察してみた。
未成年の喫煙は煙草への依存を強めるから吸ってはいけない、その注意書きが僕の好奇心を強烈に煽る。
「俺の近所に住んでる高校生の人なんか、毎日、私服に着替えてベランダで吸ってんだ。大人は俺達をビビらせるけど、自分でやらなきゃわからないからさ」
高校生、その一言が、更に僕の気持ちを昂らせた。
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第6話
中学生と高校生には大人になりたいか、なれるっていう決定的な差がある。初めての夜遊びで、どうして、こんなに胸が踊るのだろうか、その理由がわかった。お父さんやお母さんは、駄目だ、と言うけれど、夜の独特な空気は、僕らに少しだけ背伸びをさせてくれているんだ。
押さえ付けられない自由な空間、大人の目がある抑圧された空間、人生の節目となる受験を乗り越えた高校生とは違って、大人になれない僕ら中学生は、そんな曖昧な場所で暮らしてる。
大人への一歩を、英雄への二歩目を踏み出せるかもしれない。大人と子供にある曖昧な境界線を越えられるかもしれない。
僕は、箱から顔を出していた一本を抜きとってから、剛君に箱を返した。光君は、そんな僕を驚愕の顔つきで見ている。
「豊君、それ、どうするの?」
ほんの少しだけ残った罪悪感を拭うために僕は、光君を見ないで言った。
「一本だけだよ。興味もあるし……」
「でも、その一本を吸ったら、止められなくなるんだよ?」
剛君が被せて言う。
「そんなの迷信だろ。それに、俺達の小遣いじゃ、毎日、五百円なんか払えない、吸えなきゃ吸わなくなる」
気付けば、剛君の口元には、煙草が咥えられていた。あとは、ライターを着けて先を燃やすだけだ。
「剛君、本当に吸うの?」
「当たり前だろ。ここで吸わなかったら俺の覚悟が無駄になる。吸わないなら黙ってろよ」
語尾を強めた剛君に睨まれれば、光君はもう何も言わなくなった。僕らのことを考えてくれていた光君には申し訳ないけど、僕も正直、剛君と同じ意見だった。やっと腹を括ったのに、これ以上、余計なことを口にされてしまうと、決心が鈍ってしまう。
剛君の手元で、小さな火が灯る。いよいよ、この時がきたんだ。心なしか、剛君も動きが固い。
僕が固唾をのんで見守っていたそのとき、僕らを隠していた茂みが大きく揺れて左右に開かれた。あまりにも突然すぎる事態に、僕らは揃って声も出せずに、ただただ息をのむ。
「そこ、代わって!」
聞こえたのは、女性の鋭い声だった。
勢いに負けて、最初に飛び出た光君に続き、僕と剛君も順にベンチへ向かう。そのすれ違いの途中、女性が僕らに言った。
「誰かが来ても、ここには君達以外に居ないって言って!分かった?必ずだからね!」
ただの首振り人形と化した僕らを確認して、女性は夏場だというのに黒のロングコートを頭まで被り、茂みの奥で体を縮めた。完全に夜に溶け込んでいて、注意深く探りでもしなければ見つからないだろう。
いや、そんなことより、気にしなくてはいけないことがある。さっき、彼女は、ここには誰も居ないと言え、そう伝えてきた。
それはつまり……
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第7話
「おい!お前ら!」
「うわあああ!」
悲鳴をあげたのは、光君だった。その場にへたりこみそうですらある。まあ、それは僕らも同じだったけれど。声の方へ振り返れば、黒のTシャツとジーンズ、そして、バンダナを顔に巻いた六人組が公園の入口で手招きをしている。
ここにいるのは、僕らと、夜に同化したかのようなコートを着込んだ女性だけだ。間違いなく、呼ばれているのは、僕達三人だろう。
六人全員の髪色は実に鮮やかだった。茶色が二人に、黒も二人、金髪と赤が一人ずついる。背丈はバラバラだけど、体つきから、五人は高校生ほどだと思う。あと、体型が近い一人は、恐らく僕らと同い年くらいだ。いや、その一人には、なんだか見覚えがある。
「来いってんだろうが!さっさと来いや!」
ツンツンの黒髪が声を荒げると、僕らの足が自然と駆け出す。情けない話しだけど、恐怖っていうものは、竦んだ身体すら強制的に動かすんだ。近付くにつれ、徐々に六人組の輪郭が、はっきりしてくる。それと同時に、人生最悪の瞬間を迎えたのは、僕だけじゃないだろう。
見覚えがあるところじゃなかった。夏休みに入って見ていなかったけれど、茶髪の男は、いま、僕らがもっとも会いたくない少年の一人、新山一毅だ。学校では二年生の不良グループの中心的存在で、剛君や光君、そして、僕にとっての最大の敵だ。新山一毅も僕らに気付いたのか、口を丸く開けている。
気不味い雰囲気の中、僕らを呼んだ黒髪の前で並ぶと、黒の髪をオールバックで纏めた男が剛君、僕、光君の順で見た。
「自分等、中学生?」
短い眉毛に迫られた光君は、何度も首を縦に振った。次いで、整髪料の匂いを漂わせながら、僕に訊く。
「ここに、女が一人来なかった?」
ドキリ、と心臓が跳ね上がった。予想は外れていなかったけど、まさか、こんな不良グループに追われていたなんて、ツイてないにもほどがある。
僕が、本当のことを言うべきか逡巡していると、オールバックの男は泳いだ視線を辿って、彼女が隠れている茂みを一瞥する。
「なに?あそこに、なんかあんの?」
「えっ……あ、いや……その……」
「え?はっきり喋ってくんねえと、わかんねえんだけど?」
まるで喉に蓋でもされたみたいに言葉が出てこない。
漫画やアニメでこんな場面が流れては想像して、頭の中にカッコ良い台詞がいくらでも湧いてくるのに、いざ、この状況に直面すると、目を合わせることもままならない。僕らは英雄になるための一歩を踏み出そうとしているのにだ。このままでは、これまでと変わらない、けど、先に進むことができない。
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第8話
言い淀む僕に痺れを切らしたのか、オールバックの男が新山君に振り向いて言った。
「一毅、お前、あっこみてこい」
「はい」
二つ返事で歩きだした新山君が、僕と光君の間を抜けていくとき、小さく呟く。
「ケガレとマザコンとヨゴレがこんな時間に外に出てるなんて、何、イキってんの?」
ぞわり、と背中に冷たい汗が溢れだした。嫌悪感からくる拒絶が最高潮に達している。それでも、僕は言い返すこともできず、ただ居心地の悪さを誤魔化すように愛想の良い笑みを浮かべるだけだ。
「一毅、さっさと見てこいや!」
新山君の肩が大きく上がり、走り出す。もしかしたら、あの新山君もこのグループでは使いパシりなのかもしれない。だとすると、この五人は、新山君よりも怖くて強いんだ。
「で、お前らここでなにしてたの?」
話しを振られた剛君は、分かるくらいに奥歯を絞めている。
「お……俺らは、特に何もしてなかったよ……ここには、行く場所がなかったから来ただけで……」
どうにか、そう返した剛君だけど、男は興味もなさそうに、ふーーん、とだけ言った。
この差は、なんなんだろう。同じ人間で、年齢もそこまで離れていないのに、どうしてこんなに惨めな気持ちにさせられなければいけないのか理解できない。そうこうしていると、新山君が戻ってきた。
「おう、一毅、どうだった?」
少しだけ息を整えながら、新山君が首を振る。
「誰もいませんでした、鬼山さん」
鬼山と呼ばれたオールバックの男の目付きが鋭くなると、あまりの迫力に新山君が身を引いた。
「お前、ちゃんと探したの?」
「は……はい!ちゃんと探しました!そ、その証拠に、これ、見付けてきましたから!」
そう言って差し出したのは、剛君が持ってきていた煙草の箱だった。飛び出したときに、落としたのだろう。
鬼山は、箱を受けとってマジマジと見詰める。
「で?」
「……え?」
新山君は鳩が豆鉄砲をくらったような顔になっていた。それも当然だと思う。
新山君は、探した証拠を持ってきているのに、鬼山は満足のいかない成果に、もっとなにかを出せと、我が儘と変わらないことを言っている。
狼狽しつくした新山君の胸ぐらを掴んだ鬼山は、煙草を一本取り出すと馴れた手付きで火を点けてから、一気に引き寄せた。
「あのさぁ、一毅よぉ……俺、何度もお前に言ってるよな?一つ何かを任されたら相手に二つは返せってよ。それが男として目上の奴と接する礼儀だって、教えてるよなぁ?」
煙で目が染みているのか、涙目の新山君が苦しそうな声を出す。
「で……でも……」
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第9話
新山君の言いたいことは僕にも分かった。あの女性がいなかったこと、煙草を持ってきたこと、これで二つだ。鬼山の言い付けは守っている。
しかし、鬼山は信じられないことを口にした。
「は?なに?言い訳なんて男らしくねえことすんの?」
新山君から血の気が引いていった。鬼山は、胸ぐらから手を離して僕らに訊いた。
「なあ、コイツ、お前らの知りあい?」
僕は言葉にはせずに、一度だけ首肯する。すると、鬼山と他の四人が嫌らしく口角をあげた。
「一毅、さっきな、そっちの奴が俺にタメ口きいてたんだよ。ムカついたから、その分もプラスな」
新山君が首だけで振り返る。目頭には、とてつもない憎しみが込められているのだろうけど、脅えて口出しすらできない僕らにはどうしようもない。
その確認を終えた鬼山が続けて言った。
「良かったな。一毅が敬語も使えねえお前らの為に、制裁を引き受けてくれるそうだから、もう帰って良いぞ」
「さ……さっきはすいませんでした……」
新山君の報復を恐れての行動だろう。剛君が半歩だけ前に出て頭を下げた。けど、鬼山は薄ら笑いのまま、犬でも追い払うように右手を軽く揺らすだけだ。
早急に離れたいとばかりに、光君が僕の袖を引っ張る。僕も同じ気持ちだった。新山君の報復は怖いけど、この状況には耐えられそうにない。
剛君の背中を叩き、僕らが踵を返して公園から出た数秒後、新山君の呻き声が聞こえてきて、それがスイッチの役割を果たしたのか、光君が走り出し、僕と剛君も続いた。
僕ら三人のうち、誰かが殴られていた場合、次は自分の番になるんじゃないかと身構えてしまうけど、光君や剛君以外の人が叩かれたり、蹴られたりする音は、とても怖いものだった。人が人に固めた拳をぶつける、真剣に考えてみると、常識の外にある出来事だ。僕らは、常識の内側に戻りたくて走り出したのかもしれない。
公園に続く坂を登りきった光君が、空を仰いでいると、僕と剛君も同じ位置に並んだけれど、その順番が公園のときと変わっていないことに気付いた僕は、然り気無く光君と場所を入れ換えた。そうしないと、さっきの恐怖がより鮮明になりそうだったからだ。
信号の点滅と、月明り、街灯だけがある道路は薄暗くて、車の通りも更に減っていて、二人の胸の鼓動が聞こえてきそうだ。当然、それは高揚感ではなく、安堵からきた鼓動になる。
ともかく、これからしなきゃいけないことが確実に一つある。それは、新山君からの報復への対応だ。これだけは、話し合っておかなきゃいけない。
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第10話
僕が息を整えて、これから先どうするか、と口にする為に、鼻から吸った空気を吐き出そうとしたとき、それは起きた。
「ねえ、大丈夫だった?」
不意に背後から聞こえた高い声に、僕らは、またしても驚いて飛び上がった。もう嫌だ、今夜だけで、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないんだろう。
反射的に走り出そうとするも、腰に力が入らない。光君は金魚みたいに口を丸くして、剛君は信号機に頭をぶつけて蹲っている。
動悸や、様々な理由で上手く喋ることができない僕らに、声の主が言った。
「そんなに驚くことないでしょ……さっきも会ったんだし」
「……さっきも?」
さっき、とはいつのことだろうか。
いや、公園で遭遇した事態に記憶が飛んでいた。そうだ、僕らは、確かに新山君よりも前に誰かと会っている。ばっ、と振り返れば、夏場にそぐわない黒のコートが目に入り、腰から顔にかけて視線をあげていく。
声からして分かってはいたけど、月明りが照らし出したのは、僕らより歳上であろう女の子だった。身長は僕らより少しだけ低く、百五十前半くらい。薄く塗られた口紅とチークがなければ同級生と言われてと信じてしまいそうだ。それも、コートの立派な膨らみを見てしまうまでは、だけど。
「もしかして……さっき、僕らのとこにきた人……ですか?」
そう訊くと、女性は軽い口調で言った。
「そうだよ、さっきはごめんね。なんとなくわかってるだろうけど、アイツ等しつこくって……」
はぁ、と気のない返事をした僕は、剛君と光君に声を掛ける。ぶつけた額からの痛みの為か、頭を抑えている剛君は涙目だ。
二人が落ち着くのを待って、僕は尋ねた。
「どうして追われていたんですか?ナンパでもされて逃げた、みたいな……?」
「うーーん、なんていうか……話せば長くなるし、場所を変えない?ここから一番家が近いのって誰?」
剛君と光君が顔を見合わせていて、嫌な予感がした僕が断りを口にするよりも早く、光君が僕を指差す。
その人差し指、折ってやろうか。
「じゃあ、決まり。ねえ、今日から数日間だけ、泊めてくれない?」
「ち、ちょっと待って下さい!」
僕は転々としながらも、なぜか進んでいく会話を右手をつきだして止めた。女性が水を差されたとばかりに黙る。
「僕の家には親がいます!場所を変えるのは良いんですけど、泊めるとなるとちょっと僕の家は無理ですよ!」
「そんなの、そこの二人も同じでしょ?それに、あんな恐い人に追い掛けられてた女の子をそのままにしておくことについては、どう思うの?」
「そ……それは……」
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第11話
卑怯な言い方じゃないか、そう告げようと声を出そうとする。そこに大型トラックのヘッドライトが女性の顔をハッキリと照らす。
切れ長の睫毛に、大きくて、くりっ、としているけど垂れ目、そんなアンバランスを纏めている小顔、幼さの残る輪郭を際立たせる黒い髪は肩で揃えられていて、とても似合っている。こんなに可愛い女性と、僕はどこかで会っている気がした。いや、確実だ、確実にどこかで会っている。
逡巡する僕の肩を叩いたのは、剛君だった。
「おい……豊、この人って……」
「剛君も会ったことがあるの?」
剛君は首を横に振って言った。
「会ったことはない……けど、見たことはある」
歯切れの悪い剛君に首を傾げていると、今度は光君が僕に言った。
「豊君……本当に気付いてないの?」
「えっ?どこかで見たことあるなぁっとは思ってたけど……」
「それはそうだろうね……だってその人には、僕らみんなお世話になってるもの」
女性に対して、世話になっている、なんて僕みたいな中学生にとって、一人で、という暗喩と同じだ。僕の脳裏に戦争映画のパッケージにそぐわない、杜撰な隠蔽工作を施されたDVDのラベルが浮かんだ。
頭を鉄棒にぶつけたような強い衝撃に襲われ、立ち眩みをしそうになりながらも、僕は女性の顔を思い出す。
「も……もしかして……朝倉真美……さん?」
「あ、やっぱり知ってた?」
あっけらかんとした返事のあと、困ったように頬を掻く仕草、それだけで僕は堪らなくなった。映像の中でだけだけど、黒いコートの奥に隠されたグラマーな肉体を知っている。
下半身に熱が集ってきているのを自覚してしまった僕は、ズボンのポケットに手をいれて布の上から抑えつけた。想像力だけは逞しいのが嫌になる。
「ねえ、話しを戻しすけどさ。どうなの?泊めてくれないの?」
突然、朝倉真美に本題を引き出され、口ごもっていると、剛君が僕の代わりとばかりに手を挙げた。
「泊まってってくれよ!なんなら、俺達三人の家を回ってくれても……」
「ちょっ!剛君!?」
「なにを言ってんの?」
非難じみた声をあげた光君と僕の首に剛君の腕が回されて、強引に真美さんに背中を向けさせられると、耳元で囁く。
「お前ら、これはチャンスなんだって気づかないのか?」
「チャ……ンス?」
光君が怪訝そうに言うと、剛君は僕らだけに聞こえるように声を低くする。
「俺達は、何のためにここにいる?彼女を作る為の自信をつけるためだろ?けど、さっき新山と会った。その意味が分かるか?」
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第12話
僕と光君は眉を八の字にして答えられなかった。
新山君と僕らに共通することはなんだろうか。それに、不随するらしい意味とはなんだろう。出来の良いナゾナゾの解答を待ってる人みたいな顔をしていた剛君は、我慢が利かなくなったみたいだ。
「新山は、俺達がしていなかったことを既にしていたんだ。つまりさ、アイツには彼女がいる可能性がある。なら、俺達は次のステップに進まなきゃいけないんだよ。そして、そのチャンスは、今、そこにある」
両手の親指が、ぐっ、と外側に曲がる。そこにいるのは、朝倉真美だ。
光君が不安を強めた瞳を剛君に向けた。
「その、次のステップって……なに?」
間髪入れず、自信満々に剛君が言った。
「セックスに決まってんだろ」
僕と光君の頬が紅くなる。そして、言った本人の頬も紅潮していた。ちらり、と朝倉真美を一瞥すると、暑さの限界を迎えたのか、コートのジッパーがお臍まで下がっていて、蒸れた女の子の匂いが漂ってくる。
甘いチョコレートが少しだけ饐えた臭いって感じだ。このときから、僕は少しだけ変わった性癖を持つようになった。
「DVDに出演してるような人なら、そこまではいかないにしても、お返しには期待できるだろ?」
剛君の言葉はどうかと思うけど、期待が膨らんでいたから強く否定は出来なかった。下半身でしか語れないのか、と一蹴されるだろうけど、悪い方に流れる気がしない。性癖というものが、どれだけ精神を支配しているのか分かったけれど、大人になれば強まるのだとすれば、ちょっとだけ恐くなる。
生唾を呑む音が光君から聞こえた。
「も……もしも、何もなかったら?」
「何か起こるように努力すれば良いだけだろ。豊、そうだよな?」
急に話題を振られても困る。それに、朝倉真美を泊めるのは僕の役目になるはずだ。
気楽な提案を安易に受けるのは、中学生には気が重くて、心の中にある天秤が大きく左右に揺れている。
すると、僕の背中に、ずしり、となにかがのし掛かり、柔らかな山が二つ押し付けられた。弾むように縮んでいる。
「ねえ、結局、どうするの?泊めてくれるの?」
「はい……泊まっていってください」
自分の口を咄嗟に塞ぐも、手遅れだ。
光君は目を丸くして、剛君は握り拳になっている。
「本当?ありがとう!よろしくね!」
朝倉真美の喜色に満ちた声音が聞こえ、僕は溜め息を一つついた。
たった二つの山に理性を失ってしまいながらも、その感触を思い出してしまう。
やっぱり、大人になるのが少し恐いや……
次回より章を変えます
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7月24日
昨夜は散々だった。
歳上の不良に絡まれ、新山君の怨みを買い、挙げ句、初対面の女性を両親が寝ている時間に家に入れ、夜を過ごしている。初めての深夜徘徊が、これまでの人生で最悪の結果を招いてしまった。そして、その女性は今、僕の部屋の押し入れで寝息をたてている。
あのあと、剛君と光君にも協力してもらい、どうにか、彼女、朝倉真美を匿うことに成功したけれど、その間、僕の心臓は音楽の授業に使うメトロノームみたいな振り幅をもっていた。小さな物音一つに反応して、一睡もしていない。にもかかわらず、押し入れから聞こえてく衣擦れや寝息にまで意識を集中させているのだから、身体の気だるさは最高潮に達しようとしていた。特に、緊張したのは朝食に呼ばれたときだ。見られないよう、洗面台に行き顔を洗って食卓についたのだけど、目にできた隈を誤魔化せなかったからお父さんに訊かれてしまい、咄嗟に、眠れなかっただけだよ、と嘘をつき、足早に朝食の席から離れて部屋に戻った。それから三十分後、時刻は朝の九時、お父さんとお母さんが仕事に出掛けて、ようやく落ち着く時間が訪れたのだけど、現状は言った通りだ。
押し入れには、僕の冬用の布団があるから暑いだろうと扇風機のコンセントを延ばして、クーラーの風を送る隙間を作っているのだけど、垣間見える真美さんの整った眉毛と、うっすらと香る匂いのせいで、とてもじゃないが寝れそうにない。
モンモンとした気持ちを発散しようかとも思ったけど、DVDの映像じゃなく、手を伸ばせば届く距離に本人がいるってことに躊躇ってしまい、結局は、机に向かって宿題をやることにした。
毎年、思うけれど、夏休みの友、なんて馬鹿な名前は誰がつけたのだろう。両親から、夏休みの宿題はどれだけ終わった、なんて突かれたときの緊張感や、日曜日の晩御飯時に、宿題を題材にしたテレビアニメから流れてくる音声に肝を冷やされる人は多い筈はずだ。これじゃあ、友達なんかじゃなく、只の学校や世間、はたまた親からの嫌がらせとしか思えないよね。
そんな屁理屈を捏ねながらやる宿題が進むわけもなく、一時間で二ページ分の問題をやったところで、携帯が震えた。画面を確認すれば、光君からのLINEだ。メッセージは、大丈夫だった?、と一言だけ。
なにをどう知りたいのか理解できない。新山君のことなのか、真美さんのことなのか、それとも、僕自身のことなのか。
僕は、寝不足の苛立ちをぶつけるように、光君に長文を返した。数分後の返事は、ごめんね、だけだ。
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第2話
これも何に対しての謝罪なんだろうか。いいや、これは、光君が安心したいだけだ。誠心誠意、君に謝ったよ、という保険を作ることこそが光君には重要なんだろう。
今度は短文で、わかった、と送り返してから、僕は携帯を机に置いて吐息をついた。
「随分、嫌味な返信するんだね」
突然、耳元で聞こえた声に、僕は目を剥いて振り返った。
甘い匂いを残したまま、背中で手を組んだ中腰の態勢で真美さんが携帯の画面を覗きこんでいたようだ。僕は慌てて、スマートフォンに手を伸ばし、電源を押して画面を暗転させる。その動作を目で追っていた真美さんが欠伸を挟んで言った。
「昨夜はありがとね。お陰様で助かったよ」
「あ……まあ……はい……」
僕の口先を濁した返事を聞いた真美さんに、厚かましいついでにと、シャワーを浴びて良いか尋ねられた僕は、すぐさま了承し、風呂場へ案内して、バスタオルを手渡すや、急いで部屋に戻ってクーラーの電源を落とし、押し入れに飛び込むと、扇風機を止め、今度は、水音に耳を立てながら深呼吸をした。
昨夜嗅いだ女の子の香りが胸一杯に満たされ、それでも漏れだした熱と匂いが全身を巡っていき、下半身に集まっていく。ズボンの上から触ってみると、魚みたいに腰が跳ねた。
そこから先は、水音への注意も薄れ、これまでにない刺激への興味に、ただ夢中になった。捏ねたり、握ったり、顔を毛布へ押し付けたり、いろんな事を試す。
今にして思えば、相当に異様な光景だっただろうな。だって、戻ってきた真美さんの顔は、とてもひきつっていたのだから。
※※※ ※※※
気まずい。いや、気まずいなんてもんじゃない。できることなら、全力で走り去ってしまいたい。
あれから、三十分以上が経っているけど、僕は押し入れから出られずにいる。
「おーーい、いい加減出てきなよーー、気にしてないって言ってんだからさーー、ねーーったらーー聞いてるーー?」
真美さんは、椅子に座ったまま、間延びした声を僕に掛け続けている。
「男の子だもん、しょうがないよーー、女の子が家にいたらそうなるもんだよーー、慣れてるからさーー」
僕がこんな場面に慣れてないんだよ、なんて怒鳴れる訳もなく、体操座りの膝に顔を乗せ、押し寄せる後悔を喉の奥で呻きに変えて拳を握り、奥歯を噛み締めた。
あ、ヤバイ、泣いてしまいそうだ。
「もーー、そんなに落ち込まれたら、私だって傷ついちゃうじゃん。ねえ、そこにいつまでもいたって変わらないんだから、こっちでお話しでもしよ?ね?」
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第3話
早々と切り換えられる出来事じゃないのに、気軽に話し掛けてくる真美さんが、背凭れを鳴らす。その音に反応して上目を使ってみれば、シャワー上がりの真美さんが見えた。
ハーフパンツから延びた太股、浮き上がったパンティーのライン、昨夜の暑苦しそうなコートでも目立っていた双丘は、Tシャツ一枚になって更に強調されていた。加えて、まだ湿りが残った髪、シャンプーの香りに混じって漂う石鹸と甘い女の子の匂い、この凶悪なコンボで、冷めきっていたはずの熱が、再燃しつつある。
「あ、見てる」
上目の僕に対して、真美さんは下目になっていたみたいだ。自分でも驚くスピードで顔を伏せたけど、直前に真美さんの満面な笑みを見てしまう。きっと、今の僕は耳まで赤くなっている。
椅子が軋んだ、きっと、真美さんが立ち上がったんだろう。近づく足音に比例するように、心臓が胸を叩く。
「ねえねえ、いま、見てたよね?見てたよね?」
過敏になっているのか、旋毛に楽しそうな声音が響いて少しくすぐったかったのと、否定の意味をこめて、僕は顔をあげずに首を横に振った。すると、非難めいた口調で、えーーっ、見てたよね、絶対見てたよね、と真美さんは距離を詰めてきた。僕が、あれほど恥ずかしい行為を目撃されたのいうのに、真美さんはお構いなしだ。
段々と腹がたってきた僕が、抱えていた膝を放して、勢い任せに顔をあげれば、鼻先がつきそうな位置に、小首を傾げた真美さんの端正な顔があった。
……無理……無理だよ……
僕の首は踏板が壊れた開閉式のゴミ箱の蓋のように、ゆっくりと下がっていくも、閉まりきる寸前で真美さんの右手が僕の顎を優しく支えた。
「男の子なんだから、そんなに項垂れちゃダメだよ。恥ずかしい気持ちは分かるけど、ちゃんと、前を見ないと」
前、と言われても、瑞々しく割れた唇にしか目が向かないのですけど。それも、ささやかな吐息のオマケつきだ。朝倉真美という名前のセクシー女優なんて看板も手伝っているのか、僕の下半身が、水をかけられた熱した鋼みたいになっている。
「それにね、私は気にしてないって君に伝えたんだから、恥ずかしいかもしれないけど、ちゃんとお話しして。じゃないと、私が全部、悪いことになっちゃう」
真美さんは真剣な眼差しで言った。最初こそ意味がわからなかったけれど、間を空けて考えると、行為は僕がしたことだから、それを見た本人がもっとも辛い立場にいるってことが理解できた。
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第4話
そりゃそうだ、僕の身勝手な自慰なんて、真美さんが自分から薦んで、見たい、と口にするなんて思えない。そうなると、一人で傷ついている僕は、なんて馬鹿なんだろうか。途端に、別の恥ずかしさがこみあげてきたけど、この方向なら余裕で耐えられる。
僕は、魔法の言葉を吐きだした。
「ごめんなさい、僕が勝手にしたことなのに……」
ただ、謝罪を言うのではなく、理由をつける。最高の効果を言葉に付け加える、魔法のような話術の接続だ。こうしておけば、光君のように人から突っ込まれることもない。使い処と使い方を間違えれば諸刃の剣となるけれど、小学六年生の頃から研ぎ続けてきた僕の刃は、相手にしか鋭い鋒が向いていない。特に、大人からの説教は簡単に免れる。分かってるなら、それで良いんだよってね。
けど、真美さんから返ってきたのは、予想外なものだった。
「ふーーん、まあ、いいや」
僕に興味の欠片もないような、声でも言葉でもない、鼻から息を抜くような軽い返答だ。
狼狽える僕は、どうにか誤魔化そうとしたけれど、真美さんは顎から右手を放して椅子に座った。
「あ……あの……朝倉さん……?」
「真美で良いよ。さっきも言ったけど、昨日は助かったよ、ありがとね」
氷みたいに冷たい声が、僕の肌に刺さる。
何か気に触ることでもしてしまったのだろうかと頭を巡らせてみても、さっぱりだ。
「君、いつまでそこにいるつもりなの?」
僕は、はっ、として押し入れから出るとベッドに腰掛けて、遠慮気味に訊いた。
「じゃあ、真美さん……で、良いですか?」
真美さんは、一度だけ頷くと、足を組んで沈黙した。訪れたのは、僕ら三人が苦手とする時間だ。今は、僕しかいないし、また余計なことを言ってしまうんじゃないかと尻込みしてしまう。
しばらくの緘黙は、真美さんの空気を裂く問い掛けによって破られる。
「ねえ、君の名前は?」
そういえば、まだ名前も伝えていなかったと思い至る。こんな空気の中で言うのも気が引けるけど、僕はゆっくりと言った。
「は、羽柴豊……です」
不意打ちな質問に、澱みながら返事をすると、真美さんは口の中で、豊君ね、確認した。
「他の二人の名前は?」
「井上剛君と幸田光君……です」
「剛君と光君、あと、豊君……泊めてもらってるのに聞くことじゃないかもしれないけど、どうして夜中に外にいたの?三人とも、夜遊びなんかするタイプじゃないように見えるんだけど」
その質問に、僕はどう答えたものかと逡巡する。すると、真美さんが怪訝そうに目を細める。
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第5話
言っても良いのだろうか。
一応、今回の件は、僕達三人の秘密だということはないけれど、暗黙の了解みたいな側面はある。
真美さんの目付きは相変わらず怖いし、なによりも空気が悪い。言ってしまいそうだった。もう、喉まできている。そんな中、僕の携帯がタイミングよく震えた。
助かった、と思いつつ、真美さんに断りを入れてから画面を確認する。表示されたのは、さっきLINEでのやり取りを打ち切った光君からのメッセージだった。
打ち込まれた文章は
大変だよ、いま、僕の家に新山君と、いつもの二人がきてた!どうしよう!
僕は目眩を起こしそうになる。悪夢の再来、最悪の事態ってやつは、どこまでも僕らに食い付いてくるらしい。
光君の家はオートロックのマンションだから、マンション内に彼等が入ってくることはないだろう。それに、光君の両親は、今日は休みらしいし、多分、インターホンで応対したのは、お父さんかお母さんのどちらかだったから、新山君も諦めたんだ。となると、次に来るとしたら剛君か僕になる。
いやいや、違う。剛君のお父さんのことを忘れていた。いくら、新山君達だとしても、あのお父さんには関わりたくないはずだ。
僕は光君に、それどれくらい前?、と返しながら立ち上がると、まだ若干、眉をあげていそうな真美さんに言った。
「真美さん、ごめんなさい。いまから僕の知り合いが来るかもしれないから、家から出てもらって良い?」
「……知り合い?それって昨日の二人?」
僕は、首を横に振って早口で言う。
「夜に真美さんを追い掛けていた内の一人に、僕らの同級生がいて……そいつがかこに来るかもしれないんだよ!だから、真美さんも早く準備をして……」
そこまで伝えたところで、光君からの返信があった。僕は、反射のように携帯を持ち上げて画面を見た。そこに打っていた言葉は一つだけ。
三十分くらいまえだよ!
目が点になるって、こういうことなんだろうなぁ……
すっかり、新鮮味を失った情報を映したモニターすらが憎らしく思える。大体、光君は、何をするにしても一呼吸、二呼吸は遅れてるんだ。だけど、この時間のない現状において、愚痴っていても仕方がない。
応急措置にもならないだろうけど、カーテンを閉めていれば、新山君達も出掛けてると勘違いして僕の家から離れるかもしれない。
真美さんに一瞥も送らずに、カーテンに手を掛けると一息で閉じ、僕はベッドに潜り込んだ。
「ねえ、なにしてるの?」
真美さんの声に、布団から顔だけを出して、唇に、ぴん、とたてた人差し指を当てれば、首を傾げながらも頷いてくれた。
最近、東方熱が再燃してきた……
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第6話
そのすぐあと、数人の話し声が聴こえてきた。この声は間違いなく、新山君と、剛君が金魚のふんなんて呼んでる取り巻き二人、大場直人と白木弘人のものだ。白木君のほうは格好だけは一丁前って風体で、一番、腹が立つタイプで、大場君は新山君と幼馴染らしい。
僕は、カーテンだけでは、光の関係で人がいると分かってしまうかもしれないと、真美さんに押し入れに戻るよう視線を送る。これで完璧、外からは僕らが中にいるとは思われないだろうと、安堵の吐息をついていた最中、新山君が怒声を発した。
「豊ーー!いるんだろうが!出てこいコラァ!」
油断していた僕は、くるまっていた布団を大きく跳ね上げてしまった。けど、声だけは出していない。その後も続く怒鳴り声に、僕は両手で口元を塞いで対抗していた。
やがて、控えめな声が聴こえた。
「一毅君、あんまりデカイ声出さない方が良いんじゃね?周りに家もあるし」
かろうじて聞き取れる弱々しい様子は、白木君だろう。普段は、もっと張っている声も、新山君といるときは低くなる。
「あ?なんだよ弘人、もしかして、ビビってんの?」
「そんな訳ねえじゃん……けどさ、こんな怒鳴ってたら誰か来ちまうし」
「関係ねえよ!誰が来ても殴っちまえば、それで終わりだろうが!弘人よぉ、お前、それでも男かよ?あぁ?」
それっきり、白木君は黙ってしまったみたいで、新山君から僕の自転車があるか見てこいと言われたみたいで、足音が聞こえた。
「なあ、一毅さぁ、アイツらが夜中に公園にいたってマジか?俺、信じられないんだよなぁ」
新山君が不満そうに返す。
「は?俺を疑ってんの?」
「そうは言ってないだろ。ただ……」
「お前がそうでも、俺がそう感じたんだからそうなんだよ!」
大場君に被せた新山君の声は、また熱を帯始めている。少しだけ間を空けて聴こえたのは、大場君の溜息混じりの声だった。
「一毅、B.Gに入ってから、なんか変わったよな?なんつうか……お前と話してる気がしないんだよ。誰かにそう言わされてるみてえな……」
B.G?ビージーってなんなんだろう。
僕がそんな疑問を浮かべていると、足音が玄関へと向かっていった。白木君が戻ってきたみたいだ。
「弘人、どうだった?」
「あ、あったよ一毅君……チャリはそのままだった……」
白木君の報告を受けた新山君は、返す刀で言った。
「で、車はどうだったん?停まってたか?」
「い……いや、そっちは見てきてないけど……」
軽く、パチン、と響いた直後に、なにか重たいものが壁に当たったみたいな、そんな鈍い音がした。そして、新山君が、どこかで耳にした言葉を口にする。
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第7話
「なあ、弘人、一つ頼まれたら二つ成果を出せって言ったよな?」
この言葉は、鬼山が新山君に言っていたものだと思い出す。加えて、反論しようとした白木君に新山君が間髪入れずに言った。
「なんだよ、俺に言い訳すんの?おい、弘人よぉ!」
新山君の語尾が一気に強まると、大場君の慌てる声がする。
「おい!やめろよ一毅!やめろって言ってんだろうが!おい!」
音だけの判断だから本当のことはわからないけど、誰かが倒れて、三人に起きた事態は一応、収束したみたいだったけど、息切れに混ざって重い声が飛んだ。
「お前らがそんなんだから、俺がB.Gに入ったんだろうが!俺らが三年に目をつけられたとき、ビビってるだけだったお前らを助けてやる為によぉ!それを今更、なんだよ!俺が変わった?俺と話してる気がしない?そりゃそうだろうな。けど、俺をこうしたのは、お前らだってことも忘れてんじゃねえ!」
一気に捲し立てた新山君に、大場君と白木君は、また口をつぐんだみたいだ。
このとき、僕不思議と胸を細い針で刺されるような痛みが走った。原因を特定することが出来ない奇妙な鋭痛を抱えていると、新山君の携帯に着信が入る。凄く大きな音にしている理由は、すぐに分かった。
「鬼山からだ……くそっ、お前ら絶対に黙ってろよ」
会話の内容なんて聞こえないけど、新山君の声からして、呼び出しの連絡だったんだろう。
はい、はい、いまからですか、同級生の家の前にいます、十五分以内は厳しいです、いえ頑張ります、たどたどしい敬語で返事をしていた新山君は舌打ちを挟む。
「鬼山から呼び出されたから、今日はここで解散する。お前ら好きにしてろよ」
心なしか、いつものような覇気がないし、大場君と白木君の返事も曖昧としたものだった。
まあ、僕にとっては、幸運な事態にはなったことには違いない。遠ざかる足音に耳をそばだたせて、完全に聞こえなくなってから、僕はベッドから起き上がり、カーテンに隙間を作って外を窺い、やっと安堵の時間を得られたことに、吐息をついた。
「真美さん……もう大丈夫ですよ」
押し入れを開いて、ゆっくりと出てきた真美さんは、膨れた頬で言った。
「また汗かいちゃったじゃん」
僕が、すいません、と詫びれば、真美さんは、溜め息をつき、腕を鼻の位置まであげて自分の匂いを嗅いでいる。
その仕草に、縮んでいた僕の背筋が伸びた。たかが、数時間前に目覚めた性癖に、こんなにも踊らされてしまってるんだから、本当に男って情けないよね。だけど、堪えることが難しいのも確かなんだ。
僕は、多感だから仕方がない、なんて口当たりの良い言い訳を用意して、なんとか自分を取り繕った。
ウォーキングデッド見てたらゾンビ小説を書きたくなる……
遅くなりましたが5月くらいまで更新が遅くなります
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第8話
「すいません、せっかくシャワーを浴びたのに……」
「あ、こっちこそごめん、使わせてもらったのに嫌味っぽくなっちゃって」
真美さんは顔の前で手刀を切ると、押し入れの奥に隠していたスニーカーを指に掛ける。その行動を黙って見ていた僕の前を通り、カーテンを開くと鍵を外したので、慌てて言った。
「まだ近くにいるかもしれないから、出るなら、もう少し待っていたほうが……」
そんな忠告も聞こえていないとばかりに、真美さんは外に靴を置き、振り返らずに履いた。
「大丈夫だよ。昨日の夜いたのは、一人だけでしょ?なら、他には顔バレしてないんだし」
「でも……」
「心配しすぎだよ。そんなにいろんなことに怯えてたら、なにもかもに気をとられて何もできなくなるよ」
僕に被せる形で言い切った真美さんは、爪先を地面に数回だけ軽く当てて位置を整える。出掛ける準備は、ばっちりみたいだ。
僕が、どうしたものかと思案している間も真美さんは止まらない。
「君、その様子だと、今日はどこにも行かないんでしょ?なら、一緒に来てくれない?昨日の二人にも会いたいし」
「えっ……と……」
返事を濁した僕に向けて、真美さんは右手を伸ばした。
「そんなに悩むようなこと?それとも、さっきの男の子達に会うかもしれないって不安が強いの?」
その通りだ。
居留守を決め込んだいま、大場君と白木君に出会い頭に会ってしまったら、なにを言われるか。それに、あの喧騒は、ただ事じゃなかった。そもそも、あの三人の仲は悪くなかったし、むしろ、僕や剛君、光君みたいにいつも一緒にいたはずだ。その三人があんな言い合いをしていたのだから、よっぽどの事態が起きているんだろう。
そんな状態で、もしも、遭遇してしまったら?想像するだけでも嫌になる。
けど、けどね。あの朝倉真美だよ?中学生の憧れ朝倉真美と手を繋げるけどしれない、そんな雑念と葛藤すること、数分、僕は行動した。結果的に言うと、女性の手はすごく柔らかかったし小さくて細かった。それはもう、僕のような非力な中学生でも、力を入れれば潰せてしまえそうなほどだ。噴き出した汗は、きっと時間とともに上昇してきた気温のせたいだけじゃない。
僕は、母親以外の異性の手を初めて握ったこの日を、大人になっても忘れないだろう。大袈裟だと思われるかもしれないけど、男の子はこんなものだ。大人になりたい、なりたくない、とかいろいろとある中学生なんてという曖昧な境界に暮らす僕らなんてこんなものだ。浅い感動に、いちいち心を踊らせてしまう。
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第9話
そこで、よくお父さんやお母さんが時間が早いなんて言ってるのは、こういうことなのかと思った。知らないことが増えていくの子供の内は、時間が遅いんだ。けど、大人になるにつれて知っている事柄のほうが増えてきて新鮮味が無くなり、なんらかに興味を抱く回数が減ってしまう。深い感動にしか興味を惹かれていないのであれば、それはそれで寂しいものだな、と思った。
と、まあ、ここまで長くなってしまったけど、女性の手を繋いだだけで、ここまで考えてしまう僕は、多分だけど異端なんだろう。
もしかしたら、こんなところに原因があるのかもしれない。
錯綜する思考を断ちきるように、僕は真美さんの手を放すと玄関に靴を取りに行った。
※※※ ※※※
時刻は昼時の十一時四十分、僕と真美さんは近くの駄菓子屋で飲み物を買ったあと、光君の家に行ってしまうと大場君や白木君が道中にいるかもしれないから、なんて本音を隠しつつ、まずは、剛君の自宅に歩いた。
気温は最高に達しているみたいで、真美さんに奢ってもらったジュースが、二時間もせずに温くなりそうだし、照りつける日射しも先日より遥かに強い。やっぱり、自転車を使えば良かったかな。ただ、二人乗りに自信がない僕がペダルを漕がなきゃいけない訳で……
懊悩していた僕の隣にいる真美さんは、物珍しそうに頻りに顔を動かしていて、気にかかって声を掛ける。
「やっぱり、都会に比べると田舎って感じですか?」
真美さんは、意外そうな顔をしたあとに、うーーん、と唸って首を傾げた。
「何て言うか……私がいた頃とは、随分、変わったなぁってね」
僕は、驚いて真美さんに聞き返す。
「え?真美さんって、このあたりにいたんですか?」
「そうだよ。十八までだけどね。たった四年でこうも変わるとは思ってなかったなぁ……」
感慨深そうに目線を細めた横顔を眺めながら、僕は、記憶を探り始めた。真美さんほど、可愛らしい女性なら、多少、周囲が色目き立っていてもおかしくない。けれど、どれだけ堀っても、そんな噂話を聞いたことがない。
真美さんが、飲んでいたジュースの缶をゴミ箱に捨てて立ちあがり、背筋を伸ばすように伸びをした。強調された脹らみが僕の思考を途切れさせ、自然と見上げてしまう。
「でも、そんなものなのかもね。人も街も、時間が経てば変わっちゃう。置いていかれるのは、辛いけどね」
「えっと……どういう意味ですか?」
そう尋ねると、真美さんは微笑んだだけで先を続けてくれなかった。その表情はどこか寂しそうだと感じる。
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第10話
きっと、真美さんには、僕らには分からない大人の事情ってやつがあるんだろう。中学生には踏みいることが出来ない複雑怪奇な人間関係、小難しい理論や理屈を全面に向けた世渡りなんて、理解できるはずもない。
僕は、真美さんを倣ってジュースを呷って空き缶をゴミ箱へ入れる。冷えかけた場の空気を誤魔化すには、ちょっとだけ温くなった飲み物が丁度良かった。
「ねえ、大人になるって簡単なことなんだって思う?大人になるなんて、年齢だけ重ねていけばなれるんだーーって……」
質問の答えを待っているのか、真美さんは何も喋らない。だけど、僕を見ることもしていなかった。多分、返事に期待なんかされてないんだろう。もちろん、それなりの悔しさもあるけど、真美さんほど年齢も重ねてないし、経験もないのだから、仕方がないことだ。
「大人ってなんなのかな、とか考えたことはありますけど、具体的にとなると難しいですね」
だから、僕は、少しだけ違うことを言ってみたんだ。けど、真美さんは、特にこれといった感想もなく、鼻から空気を抜き立ち上がった。
「まあ、まだ漠然としたイメージしか湧かないからね。アタシもそうだし。さ、行こっか。ここにいるのに、時間に置いていかれちゃったら意味ないしね」
置いていかれそうなのは僕だった。慌てて真美さんの背中を目で追いかけ、立ち上がる。
蝉の鳴き声と僕の声が重なっていたのか、真美さんは振り返らなかった。今にしてみれば、もう、この時には僕らの英雄譚を綴る筆が乗り始めていたのかもしれない。これまで明確な目的意識もなく英雄になろうとしていた、僕らだけの英雄物語が出来上がる。そんな瞬間だったんだ。
僕が通っていた小学校を横切り、僕と真美さんは剛君の家に到着した。青い色の自転車を確認してからノックを一つ。
後ろで真美さんが不思議そうにしている気がしたけど、僕は扉の奥から聴こえてくる音に耳を澄ます。そして、いつものように剛君の足音がして、ほっ、と一息つく。
開かれた扉の先から剛君が顔を覗かせた剛君は、寝不足なのか強い日差しを吸血鬼のような形相で嫌がっている。
「なんだ……豊かよ……」
消え入りそうな剛君の声に、僕は低く返す。
「今日、おじさんは?」
「いない。朝から仕事に出て、俺は家の掃除をしてろってさ……けど、終わりそうになくて……」
どうして剛君の声に張りがないのか分かった。おじさんの言い付けを守れなかったときのことを思っているんだろう。
確かに、一人でやるには少しだけ広いかもしれない。
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第11話
消沈した様子で剛君が深い溜め息をつけば、なにかを観念したように扉を全開にする。
剛君の家の中から暑い空気が流れ出してきた。きっと、冷房を使わせてもらっていないんだろう。
「まあ、入れよ。暑いだろうけど、扇風機くらいならある……し……」
剛君の動きが止まったのと、扉が全開の状態で固定されたのは、ほぼ同時だった。
「やっほ、昨日はありがとう。助かったよ」
アニメみたいに逆立っていっているように見えるほど、剛君は両目を見開いていた。緊張とも、興奮ともとれない息遣いを数回繰り返すと、頭の回路が繋がったのか、真美さんから目を離さずに曇った声で言った。
「なぁ、豊……俺ん家に連れて来るなんて何を考えてんだよ……」
剛君が、分かりやすいほど動揺している理由を、僕は察することができなかった。
このときは、多分、初めて女性を連れてきたから気恥ずかしいんだろうな、程度の受け取っていたけれど、そうじゃなかったんだ。さっきの大人の話しに戻して悪いのだけれど、きっと、こんなところが大人との差ってやつなんだろう。僕らは、まだ発展途上だ。
雰囲気が悪くなったことを気にした真美さんは、僕と剛君を交互に一瞥して、あーーっ、と唸る。
「ごめんね?私が連れて行ってってお願いしたんだよ。どうしても昨夜のお礼と話しがしたくてさ」
納得した訳ではないんだろうけど、剛君は唇を尖らせて頷いた。
「そういうことなら仕方ないっすけど……ウチ、こんななんで……」
ここで伝えておきたいことがあるんだ。それは、僕ら三人のアダ名のついて。
ケガレは剛君で、理由は自宅が汚れているから、少し嫌な臭いが染み付いている。
マザコンは光君だ。理由は、母親の過干渉だ。本人は嫌がっているのだけれど、怒鳴られてしまうのを怖がっているので親には逆らえない。
最後に僕、ヨゴレの由来は、中学に入学した直後、クラスメイト達との顔合わせのときに、担任の先生に言い出せず、いろいろと漏らしてしまったからだ。それから、僕ら三人の地獄が始まり、難しくもなんともない安直な始まりは、中学生にとって格好の的となった。
遠慮気味に言った剛君に、真美さんは眉間に皺を寄せる。
「私は気にならないよ?そんな家もあるんだなって感じ。それよりさ、家の掃除をしなきゃ話しもできないなら、手伝ってあげるよ」
「いや……そこまでしてもらうなんて……」
「良いの、昨夜のお返しってことで、ね?」
そう剛君に告げた真美さんは、僕に同意を求めるように目を配る。正直、気は進まないけど、駄菓子屋での出来事を挽回するチャンスかもしれない、と思い頷いた。
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第12話
「なら、早速、取りかかろう」
渋面する剛君の脇を強引にすり抜けて玄関に入った真美さんは、お邪魔しまーーす、なんて明るく言いながら居間へと進んでいく。
影像の中では、小柄な体型も手伝って抜群にしおらしい真美さんだけど、こうも強引なところを見てしまうと、僕が抱いていた夢を否定されている気分になってしまう。
「なあ、豊……俺、あの人のイメージが崩れそうなんだけど……」
それは、剛君も同じみたいで、諦めたように息を吐いて居間へ振り返る。
真夏のお掃除大作戦、真美さんは後日、楽しそうにそんなことを言っていた。
※※※ ※※※
時刻は十五時五十五分、僕ら三人の掃除に一段落がついた。畳の居間に散らばったお酒の空き缶や、おつまみにしていたであろう食べカスを一通り剛君が集め、真美さんが雑巾で拭き掃除を終えたところから、僕が掃除機をかけていく。
まあ、真美さんには「雑巾と一緒で掃除機も木目に添って使わなきゃ」って怒られながらだったけれど、そこまで広くもない居間は、比較的早く終えられた。その後、僕がトイレ、真美さんが風呂場、剛君が寝室と分担する。そうすることで、かなり作業の効率があがった。提案したのは、真美さんだ。
風呂場から戻ってきた真美さんは、足をタオルで拭きながら居間に入ってくる。先に担当場所のトイレを終えていた僕は、またしても、ハーフパンツから伸びた真美さんの両足に目が向かってしまう。
水を弾きそうな白くて柔らかそうな肌と太股、そこに頬を挟まれたらどれだけ気持ち良いことだろうなぁ……
六畳ほどの居間の中央に置かれたテーブルには、剛君がいれてくた麦茶がある。僕は、真美さんにコップを渡す。
「剛君も、もうすぐ終わるみたいです」
座らずにコップを受け取った真美さんは、隣の部屋を仕切る襖に目線だけ向ける。
「剛君、だっけ?手伝わなくても良いの?」
「一応、僕も聞いてみたんですけど、ここは一人でやるって」
「ふーーん、まあ、寝室とか見られたくないものもあるだろうしね。男二人なら尚更か」
僕は、少しだけ驚いて訊いた。
「おじさんと二人暮らしだって言いましたかね?」
真美さんは床に座りながら返す。
「だって、お風呂場にシャンプーしかないし、櫛もなかったよ?それに、歯ブラシも二本しかなかったし、なによりさ、居間の掃除したけど、化粧品だって家の中に見当たらないでしょ?だから、いないのかなってね」
確かにそうだ。僕は、自分の家との環境の違いについて見回してみると、指摘された点が繋がった。
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第13話
「まあ、お母さんがいるとするなら、この環境はどうかと思うけど……そこまで気にするのは、剛君にも悪いし何も言わないよ。責任だってとれないしね」
お茶を一息に飲み干し、空になったコップをテーブルに置く。僕は、よく見ているなぁ、なんて感心するばかりだ。真美さんにとっては、もしかしたら、当たり前のことなんだろうけど、ここも大人と子供の違いなのかもしれない。
具体的にいうなら、広い視野っていうのかな。よく耳にする言葉ではある。だけどさ、それってどうやって広げればいいのか誰も教えてくれたことってないよね。
例えば、体育の授業とかで先生が、サカーや野球などの球技では、広い視野をもっているかどうかが重要だ、なんて言うけれど、なら、どうやって広い視野を手に入れれば良いのか、そこを口にしてくれたことはない。
聞かなかったから?いやいや、そんなのは大人の言い訳だよ。子供の質問に答えるのは、大人の役割りだと思うし、なにより、先生って教育の専門家じゃなきゃいけないんだよね。お金だってもらってるんだしさ。だけど、教えてくれないんだもん。気づけないのは、仕方がないことだよ。
「真美さんの言う通り、剛君にはお父さんしかいませんよ」
「あ、やっぱり?男手一つでやってるなんて大変だろうね。立派な人なんだろうな」
僕は、剛君が寝室から戻らないか音だけを頼りに確認してから言った。
「それが、あまり良い評判はないんですよね……夜も遅くまで遊んで帰ってきてるみたいだし……お酒も好きみたいで……」
「ねえ、君ってさあ、なんだか……」
僕に被せる形で喋り始めた真美さんの言葉を遮ったのは、剛君が寝室から居間に入ってくる音だった。
二人分の視線を一斉に向けられた剛君は、少し狼狽えているみたいだ。
「えっと……?俺、なんかマズイ場面に入ってきちゃいました?」
そんな漫画みたいな言い回しはどうかと思うけど、真美さんは軽く吹き出していた。
「大丈夫だよ、それより、そっちは終わったの?」
「あ、はい。どうもありがとうございました。お陰で助かりました」
ぺこり、と頭を下げた剛君の旋毛に真美さんが、こっちもお礼なんだから気にしないで、と伝えると、テーブルにつくように促す。その前に、剛君は冷蔵庫から新しいお茶をピッチャーごと持ってきてから座った。
「豊もありがとな。お茶、まだいるだろ?」
「うん、ありがと」
僕が差し出したコップに、茶色が満たされていく。縁の下に刻まれた線までいれてくれた剛君から受け取ると、掌に冷たい感触が広がっていく。
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第14話
汗をかいたグラスは、この暑い部屋に相性ぴったりだ。真美さんにも注いでから、自分の分のコップも満たした剛君は、喉が乾ききっていたのか、一口で呷ぐ。
そんな剛君を眺めていた真美さんは、唇を湿らせる程度にお茶で濡らしてから言った。
「突然で悪いんだけど、二人って今、夏休みの最中だよね?」
「はい、そうですけど……」
お茶を飲み干した直後で、答えられない剛君の代わりに僕が返すと、真美さんは頷いて続ける。
「なら、もう一人もだよね?」
残りは光君しかいないから頷く。
この流れから、真美さんが光君にもお礼が言いたいんだろう。今度は、剛君が十七時を指した時計を見て言った。
「けど、アイツは、この時間は塾に行ってるんすよ。終わるのも遅いみたいなんで今日は会えないかも……」
真美さんが小首を傾げる。
「そうなんだ。けど、ほら、昨日はあんな時間に外にいたから、夜に会えるかなって思ってるんだけど」
「あーー……それは、えっと……」
言い澱んだ剛君が横目で、ちらっ、と視線を送ってくる。きっと、例のお返しが頭を掠めていったんだろう。自分が口にしてしまった分、気まずさが生まれてしまっている。
仕方がなく、僕が剛君の言葉を引き継ぐ。
「昨日のは、本当に偶然なんです。僕らは、この夏休みを利用して、なにか特別なことをしてみようって」
僕は何故だか、誇らしい気分になった。この感情の名前は知らないけれど、心が、ふわっ、とする感覚だ。きっと、駄菓子屋での一件は、これで拭える。
だけど、真美さんの反応は、真逆のものだった。
「え?それでやったことが深夜に出歩くことなの?」
目を丸くして、気の抜けたような表情のままでいる真美さんは、どうにも理解し難い難問に出くわしたみたいだった。その顔付きに、少し、むっ、としたのか、剛君が眉間を狭めた。
「そうっすけど、それだけじゃ駄目ってことっすか?俺らにとっちゃ、初めてのことをするってのが、必要なことだったんすけど?」
真美さんが間髪入れずに返す。
「だって、それくらいのことなら、みんなやってることだと思うよ?小学生の頃に、興味本意で夜中に出ていくぐらいするよ」
「なにが言いたいんすか?」
剛君の口調と目元に険が現れ始める。それは、僕も同じだったかもしれない。だって、僕らは僕らなりに、頑張ったことなんだし、それを幼稚と馬鹿にされたようにしか聞こえなかった。実際、そうなのだと思う。現に、新山くんと僕らは公園で出くわしているんだから。だけど、それでも、僕らの勇気を踏み躙る発言は、聴いていて気持ちが良いものじゃない。けれど、真美さんは、叩みかけてくる。
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第15話
「そんなに、不機嫌になるなら、聞いてみたいんだけど、君達は普段とは違うことをした?」
「したに決まってるじゃないっすか!真美さんが飛び込んでこなければ……」
「つまり、してないってことだよね?」
「いや、だから……!」
「私は、したのか、していないのか、それだけを聞いてるだけだよ?それじゃ、私が来たから出来なかったのなら、結局はしてないってことだよね」
僕と剛君は、そのまま押し黙った。なにを言っても、重石みたいに真美さんの声が乗っかってくる。それも、戦争映画のワンシーンみたいにマシンガンを放ちながらだ。重たい弾丸は、僕らの肺を貫いて言葉を奪っていく。
「夜にしか特別なことがないって思ってるなら、それは間違いだよ。むしろ、少ないんだから、やるなら、昼間に遠出でもしたほうがマシ」
言い切った真美さんの目を見れなかった。
僕らが、夜に何を求めていたのかも分からなくなりそうだ。いや、実際は、求めるものなんかなかったんだろう。夜中に出歩き、英雄になる。突き詰めていけば、ただ舌触りが良いだけの口実だ。彼女を作るのであれば、昼間に、それも、どの中学校も夏休みの期間に入っているのだから、よっぽど都合がいい。
僕らが夜に歩いた理由は、ただの好奇心、それだけだと突きつけられた。消沈した僕と剛君が、胸に黒いものを抱えながら話しを訊いていた。すると、不意に真美さんが言った。
「ねえ、私がさせてあげようか?特別なことってものを」
僕と剛君は、どきり、として揃って顔をあげる。テーブルの茶色しか映っていなかった瞳に、真美さんの肌色が優しく溶け込んでくる。あとになって気付いたのだけれど、きっと、甘い誘惑ってこういうことを指していうのだろう。様々な憶測が僕の脳みそに次々と突き刺さってくる。それは、剛君も同じらしく、顔だけは動かさずに、目線が上から下へと落ちていっていた。それを目敏く発見した真美さんが呟く。
「……言っとくけど、君達が期待してるようなことじゃないからね」
「え!?いや、その……」
曇った声音を誤魔化すように、大仰な仕草で両腕を振っていた剛君は、言葉に詰まって天井を仰ぐ。残された僕は、緊張で乾いた喉に、どうにか唾を滑らせて訊いた。
「その特別なことって……なんですか?」
イタズラな笑みってこういうことなんだろう。
真美さんは、唇の両端を僅かにあげて、ナメクジみたいなヌメリをもった目で僕を視界にいれる。
「きっと、君達が目指してる場所よりも、遥かにスリルがあることだよ」
ゾンビ系書きたい気持ちが膨らんでくーーるね
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第16話
そう言った真美さんは、昨夜のことを話し始めた。
詰まるところ、昨夜の集団は、チーマーに当たる人達だということ。そして、近場にある黒崎っていう街を根城なようにして夜に活動していること。周辺の不良達をまとめあげて、黒崎のボスとして振る舞っていること、チーム名は、ブラック・ガーデンで、今のリーダーは鬼山という男とのこと。
新山君が言っていたことに納得した。ブラック・ガーデン、略してB.G、そのチームに新山君は所属している。その理由は、大場君と白木君を上級生から守る為にだ。けど、自分を犠牲にしてまで二人を庇うくらいなら、僕らへの暴力はなんなのだろう。ただの憂さ晴らしなのかな……そう考えると、すごく悲しくなった。
誰かを傷付けて、自分の中にあるものを発散する。それって、自分以外の人は、どうなっても良いってことだよね。登校拒否になろうが、たとえ、死んだとしても、なんの感情も抱かないってことだ。そんなの、人として生きる意味なんかない、ただ人の形をしているだけだ。この感情は、僕ら自身へ向けられているのか、はたまた、新山君へ向かっているのか、それとも、両方なのか。分かるのは、胸の中心が萎んでいくにつれ、僕の股間が縮まっていき、そこから昇ってくる何かが顔に集まってくる、そんな訳の分からない感覚だけだ。
唇を一文字にしていた僕の顔を窺っていた真美さんが楽しそうに続ける。
「そこでね。どうかな?そのブラック・ガーデンから、私を守ってみない?」
「……は?」
だしぬけな提案に、テーブルの小さな埃を吹くような間の抜けた声を出した剛君は、聞き間違いかもしれないとでも思ったのか、一回、首を傾けて元の位置に戻す。
「あの……いや……あれですよね?冗談で言ってるんですよね?」
「え?冗談に聞こえた?なら、ごめんね。改めて言うけど……」
「いやいやいや……いやいやいや……えっと、俺達が?」
「うん、そうだよ?君達が私を守るの」
「え?じゃあ、その……あの人達に追われてたのって、ナンパとかじゃなくて……?」
「それは、豊君がそう言っただけだよ?」
あっ、と僕が口を塞ぐのと、剛君が横目で睨みつけてきたのは同時だった。そうだ、確かに、僕は尋ねている。てっきり、認識がそのままになってしまっていた。それと、最悪な展開を迎えてしまったことに気付く。
それは、昨夜、僕らは、そのブラック・ガーデンとかいう集団に顔を見られてしまっていることだ。真美さんは、僕らにとって逃げ場のない提案、いや、これは提案じゃなく、脅しと変わらない。
すいません……ちょっと別ジャンル書いてみようと思います……
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第17話
僕らは、もう既に巻き込まれているんだ。理由はいくつかある。一つ目は、顔が割れていること、二つ目は、新山君の存在、三つ目は、真美さんと関わりをもってしまっていることだ。この三つ目の理由がもっとも厄介で、もしも、真美さんがブラック・ガーデンの連中に捕まってしまった場合……考えたくもない。
「ね?私は別に何も言ってないよ。ただ、流れでこうなっちゃっただけ……豊君は、もう気付いてるみたいだけど、正直、もう逃げられないよ」
納得がいかないとばかりに、剛君は剣幕を強めて口を開こうとしていたけど、僕がそれより早く、事情を説明する。次第に、顔が青ざめていく様子は、他人事じゃないとはいえ、気の毒に思えた。そして、それは、光君にも思うことになるんだろう。
なら、せめて、僕には確認をしておきたいことがあった。
「あの…… 真美さんは、どうしてあの人達に追いかけられてたんですか?僕らを一方的に巻き込むのなら、その理由くらいは聞かせて下さい……」
「……話せば長くなるって昨夜も言ったよね?それでも良い?それに、もう一人にも聞かせてあげたほうが良いんじゃない?」
「そうですね。なら……」
そこまで僕が言ったとき、剛君が勢い良く右手を高々と挙げた。呆然とした僕と真美さんが、互いに顔を見合わせていると、強張った表情とは不釣り合いの声を出す。
「あの……えっと……あの……あのですね……」
剛君が大きな唾を数回飲む込んだ音は、きっと、僕だけにしか聞こえていなかった。証拠に真美さんは、まだ、キョトンとしている。
やがて、閉じかけた声紋を無理矢理に広げたであろう剛君が早口で言った。
「もし!もしも!もしもっすよ!もしも!あの!もし良かったらなんですけどね!その、もしも上手くやれたら、ご褒美が欲しいんですけど、どうっすかね!?」
後半、身体を乗り出していた剛君に、僕は何を必死になっているのやらと呆れていたけど、すぐに思い至った。これまた昨夜、次のステップの話しをしている。そこまでいかないにしても、が目の前に垂れ下がってきていたんだ。だから、手綱を握られていないまま、人参を追いかける馬みたいな勢いなんだろう。
あれ……それって、届かないんじゃないのかな?
真美さんは顎に指を当てると、じっ、と僕らを見詰めながら言った。
「ご褒美って何が良いの?」
剛君の息遣いが荒くなる。多分だけど、興奮なんかじゃなく、緊張のあまりに過呼吸になりかけているんだろう。だからといって、真美さんへ「セックスさせて下さい!」なんて、とてもじゃないけど口にできない。
今日の事件……胸糞悪すぎてもうね……
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第18話
なにか、なにか良い言葉はないか。この場を切り抜けつつ、口当たりの良い言い回しはないか。これでも、僕なりに考えてはいる。
ちょめちょめさせて下さい……馬鹿!
あなたと合体したい……無い無い無い!
子供を作る儀式……お前何歳だ!
コウノトリが運んでくるものってなんですかね……?やばい、ズレ始めてきた……
「俺達を男にして下さい!」
突然、僕の耳に最適解に感じられる切り返しが飛び込んできた。ていうか、剛君はどこでそんな言葉を学んだんだろう。
「男って……そういう意味で?」
真美さんの目付きが据わった。
僕もそうだけど、一番、血の気が引いていたのは剛君だったはずだ。このときの真美さんは、とても怖かった。例えるなら、小学校低学年のときにテレビでみたナマハゲみたいだった。
伝わりにくいかもしれないけど、小さい頃に味わった恐怖って、なかなか忘れられないよね。きっと、それは、多分、大人になってもそうなんだろう。そんな感じなもんだから、剛君は明らかに雰囲気の一変した真美さんに吃りつくしていた。
振り返れば、誰だって怒ると思う。とくに、そういう人が相手なら尚更だ。簡単に……なんて思っちゃっていた当時、僕らは他人への忖度なんてものを微塵も考えていなかった。自分だけのことで頭が一杯になっている。だけど、学生の内なんてそれで良い。そうじゃないといけない。
ゆっくりとした動きで立ち上がった真美さんが、僕らを見下ろして数秒、耐えにくい沈黙を破るように軽く溜め息をつく。
「そうね……まあ、リスクは高いんだし、それなりのことじゃなきゃ釣り合わないし……分かった。けど、こっちも一つ追加させてもらうけど、それで良い?」
僕と剛君は、またお互いに顔を見合った。いま以上のリスクを負うとなると、やっぱり物怖じしてしまう。
けどね、このときの僕らは、やっぱり中学生だったんだ。眼前にいる真美さんの身体に、下から上へと視線を流していく。スラリと伸びた脚が細いからか、太股は程よい質感を秘めているように見え、DVDで男の人が掴んでいた括れた腰は、まるでピーターパンのみたいに僕らを夢へと吸い込み、膨らんだ双丘の柔らかさを想像すると堪らない。なにより、あの線を引いたような眉と艶のある吐息を間近で感じられるとなると、断る理由が次々と潰されていく。
中学生の好奇心ってものは、本当に恐ろしいね。リスクよりも先に来てしまうんだから。
「……やります!」
光君のことを考えもせず、僕と剛君は、揃ってそう口にしていた。
次回より、7月25日にはいります
UA数700突破ありがとうございます!
短編書きたくて次回まで少し期間を開けるかもしれません
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7月25日
「どうしてそんなことになってるの……?」
翌日の昼過ぎ、僕は光君に連絡をとって家に来てもらうことにした。そのときには、剛君はもう僕の部屋に居て、真美さんは押し入れの中で本を読んでいた。なんだか、国民的アニメに出てくる青いロボットみたいだ、なんて思いながら、待っているとインターホンが鳴る。
僕はすぐに光君の出迎えに向かって部屋に案内して、机の椅子に座るよう伝え、僕と剛君はベッドに座るも、二人して押し黙ってしまう。今日、来てもらったのは、昨日の一件を光君にも言う為だけど、どうしても一つのキーワードが僕らの緊張を高めてしまっているみたいだ。
その緊張感は、光君も分かっているのか、怪訝そうにしながらも、自分の膝を見ては、顔をあげるという、落ち着きのなさを如実に表してくる。
そんな無意味な時間、ソワソワしている僕らの耳に聞こえてきたのは、押し入れで横になっていた真美さんの深い溜め息だった。
「ねえ……男の子が三人も揃ってるのに、誰も話しを進めようとしないのは、どうして?それとも、私が話題を出すのを待ってるの?なら、言ってあげようか?あのね、光君、私が君達にセックスをさせてあげるから、私のお願いを聞いてもらえるかな?二人には、OKをもらってる、ていうか、最初に提案してきたのは剛君なんだけどね」
光君は、間の抜けた細い声を出して、数分の間だけ変な顔をしていた。まあ、勿論、目を丸くして僕らに冒頭の質問をした訳だけど……
僕は、昨日、光君から送られたラインの話から剛君の自宅を掃除したこと、その後の話しまで大まかに説明する。
僕の説明を妨げることもなく、黙って聞いていてくれてありがたいな、なんて思いもしたけれど、隣に座っている剛君が僕の腰を軽く小突いて気が付いた。黙って聞いていたんじゃなく、何も言えなくなっていただけだった。というよりも、今にも泣きそうに唇が震えて青くなってる。
「えっと……光君?」
僕が声を掛けると、ダムに貯められていた水が門を開かれて解放されたように、光君の口から様々な言葉が溢れだした。
「無理だよ!無理無理無理無理!絶対に無理だ!だって僕らだよ?僕ら三人が力を合わせたって、なにも出来る訳ないじゃない!特に、そのブラック・ガーデンっていう不良集団の中では、あの新山君が下っ端扱いなんでしょ!僕らが新山君に勝てる筈ないじゃないか!それに、殴られて怪我でもしたらどうするの!もしも、当たり所が悪かったら死ぬかもしれないんだよ!無理だよ!絶対に無理だ!」
短編ミスったぁーー……
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第2話
主だった不安要素を矢継早に口から出した光君の姿を僕らは初めて見たものだから、圧倒されてしまった。いつも、二人がやるなら、を口癖みたいに言うのに、このときばかりは、映画のスクリーン中に、必死な形相でマシンガンを撃ち放つアメリカのアクション俳優以上の迫力だ。よっぽど、嫌だったんだろう。
それに、例にあげられた要素は、どれも的を射ている。特に、最初に出された、僕ら三人が揃ったところで、の部分に関して、ぐうの音もない。
いつの間にか椅子から立ちあがり、肩で息を繰り返す光君に、何も返せない僕と剛君が黙っていると、押し入れから出てきた真美さんが軽く背筋を伸ばす。自然、強調された双丘に僕ら三人の目線が向く。もしかしたら、真美さんは僕らに自分を意識させる為にやっていたのかもしれない。口火を切るように言った。
「光君、君って失敗した場合の話ししか出来ないの?」
急に話しを振られ、慌てて目線を逸らした光君は、もう一度、真美さんへ顔を向ける。
「物事には、失敗も偶然もないんだよ。起きる出来事は、全部、何かを学ぶ機会を貰えたって思えば、いろんなことが楽になるよ」
小首を傾げた真美さんに、光君が返す。
「だって、どうなるか、を考えるのは当たり前のことじゃないですか……学校でも言われてまし、お父さんとお母さんだって……」
光君の黒目は揺れっぱなしだ。そもそも、真美さんの顔を見れてすらいない。僕らのなかでも一際、気弱な光君だけど、これでも勇気を振り絞っているのだろう。その証拠に、声が上擦っている。
「学校で?なら、光君は、学校の先生が言ったことを全部、全部、ぜーーんぶ、鵜呑みにしちゃうのかな?」
光君は、すぐさま、首を横に振ったけど、お構い無しに真美さんが続ける。
「なら、お父さんとお母さんのほうなのかな?でも、光君は、豊君や剛君と一緒に夜中の公園にいたよね?あれは、どうなの?夜中に出歩いちゃいけないって言われてないのかな?」
「それは、二人がやるって言ってたから……」
光君の一番卑怯な面が垣間見えた瞬間、真美さんがすっぱりと切り落とすように鋭く言った。
「じゃあ、今回はどうして駄目なの?自分が傷つかなきゃ、他人はどうなっても良いってこと?」
夜中に出歩くこと。
それ事態は、単純に親にバレさえしなければ大丈夫、そんな側面がある。けれど、今回ばかりは違うんだ。さっき、光君自身が言った内容と、先日の夜遊び、比べるまでもない。
光君の額から汗が吹き出ているのは、きっと室内の気温のせいだけじゃない。
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第3話
それっきり、何も話さなくなった光君に、真美さんが嘆息をつくと、僕の方を向いた。
「昨日の大人についての私なりの答えを教えてあげるね。大人っていうのはね、自分を犠牲にしながら、自分に上手な嘘をつける人の事だよ」
突飛な状況は、僕だけにじゃなく、剛君にも影響を与えてしまっていた。意味が分からず、逡巡する僕に、真美さんは頬笑んだ。
「もしかしたら、どれだけ自分を押し殺せるかってとこについては、学校でも同じかもね」
そう言って、また光君に視線を流す。置いてきぼりを喰らった僕に訪れたのは、漠然とした気持ちだった。この感情は、なんだろう?
怒りなのか、悲しみなのか、はたまた、困惑なのか……
多感な中学生にとって、そのときの真美さんの一言は、その後も僕の中に残り続けることになる。確かに、僕、いや、僕だけじゃなく、剛君も光君も、真美さんでさえ、自分を押し殺していたんだ。だって、それは、この世界で一番楽な処世術だからだ。ただ、それは両手の剣にもなる。自分を出せば、イジメってやつは近づいてきて、遠ざけるには、自分を上手いこと騙して心の泉に潜ませるしかない。実に極端なものの一例が「イジメ」ってやつなのかもしれない。ただし、自分を出さないことなんて、無理だけどね。真美さんには、僕らが学校でどんな目に遭っているか教えてはいないけど、なんとなく、光君の取り乱した姿で察していたのかもしれない。
「光君、自分を騙すのは、とっても難しいことだと思う。だけど、怖いってだけじゃ何も変わらないよ?それも、自分を騙す一例でもあるんだからね。怖いと思う自分を騙すこと、それが出来れば一歩だけでも前に進める。それに……」
光君の眼前に立った真美さんは、大きく両腕を広げて、次の瞬間、光君を抱き締めた。明らかな狼狽が窺えるけど、押し付けられた女の子の柔らかさに口元だけが緩んでいる。
「私がご褒美になってあげる。こんなこと、本当なら有り得ないよ?他の人は気付けたとしても、なにもないんだからさ。それとも……」
トドメとばかりに、少しだけ爪先を立たせた真美さんが光君の耳に唇を近づけた。
「私じゃ……不満かな?」
その時点で、光君の股間はズボン越しにでも、はっきりと分かるくらいに、形が浮かび上がっていた。呼吸もどことなく変で、ブンブンと首を横に何度も振っている。多分、緊張のあまり、うまく息が吸えなくなっているんだろう。僕と剛君は、正直、羨ましかったからこそ、真美さんの肩越しに見える光君の顔を潰してやろうか、と考えていたりした。
短編リベンジ……したいのぅ……
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第4話
ここで一つ面白くもない話しをするけど、実際に女性が原因で友情破裂なんてことはありえるから、注意したほうがいい。前に、映画で見たのだけれど、孤島に残された三十数人の男性達が、たった一人の女性を巡って殺し合ったなんて話しが残っている。それが、実際に起こった事件だと知ったのは、随分、後のことだし、そんなバカな話しがあるか、とも思った。
けど、目の当たりにしたら、僕らが嫌う暴力を光君に振りかざそうとしてしまっていて、あの映画の内容に納得してしまうと同時に、やっぱり僕らも動物なんだと理解した。テレビなんかで流れる映像でライオンのオスが一匹のメスを奪い合って闘っている場面を思い浮かべてくれたら、僕と同じ感想を持つはずだ。
真美さんが光君の身体から離れたところで、思い出したように、剛君が背中に声を掛ける。
「そういえば、真美さんが昨日言ってた、もう一つの条件ってなんすか?」
剛君がしたその質問を僕は忘れてしまっていた。そうだ、剛君の家の掃除を手伝ったあとからの展開で、言っていた気がする。僕は、ベッドのスプリングが軋む音すらも聞き逃さないように耳を澄ませた。水気が残った薄くて綺麗な真美さんの唇が開く。
「簡単なことだよ。私のお母さんが黒崎の年金病院に入院してて、会いに行きたいから一緒に連いてきてってだけ」
なんだ、そんなことか。難しいことじゃなくて良かった、と楽観していた僕と剛君と違って、光君の顔色がみるみると悪くなっていく。
「あれ?光?どうした?」
気付いた剛君が軽く尋ねると、顎に重りでもちけられたみたいに、光君の唇が鈍く動いた。
「いや……え?二人とも……それがどういう意味か分かってないの……?本当に……?」
試すような口調に、むっ、としたのか、剛君が少しだけ荒く言った。
「なんだよ、どういう意味だよ。俺にも分かるように丁寧に説明してくれ」
光君は怯えたように肩を上げ、小さく、ごめん、と挟んでから返す。
「新山君が入ってるブラック・ガーデンってチームは、黒崎が本拠地なんだよ?そこに僕らのほうから向かうなんて……危なくない?」
光君の弱腰に対して、剛君は深い溜め息をした。
「光、お前さぁ……」
「そ……それに!年金病院に入院してるのってお母さんなんだよね……?それなら、僕らが一緒に行く必要あるのかな……?」
このとき、ぴくっ、と真美さんのこめかみが動いたのを僕は見た。加えて、冷静に考えてみると、光君が言っていることも一理ある。仮に真美さんのお母さんの病室に着いていくにしても、僕らには、お見舞いにいく理由はなかった。
短編……
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第5話
厳しい怒気を孕んだ剛君の声が入る。
「だから、どういうことだよ!てかさ、そんなに嫌なら、お前だけやんなきゃ良いじゃん!俺と豊だけでやるからよ!」
「そんなこと言われても……僕はただ……」
光君の目頭に涙が溜まり始める中、真美さんは、二人を静かに眺めていた。なんで何も言わないのか、僕は疑問に思うと共に、光君が僕らになにを言おうとしているか気付いてしまった。
そうだ、光君の指摘が正しいのなら、どうして一緒に行く必要がある。僕らには、動機があっても理由はないような気がする。
真美さんに上手くはぐらかされているんだ。二人が言い争っている以上、ここは僕が言うしかない。
「真美さん、僕らに言っていないことが、まだあるんじゃないですか?」
真美さんは、小首を傾げて僕を見た。
「うん、あるよ。だから、昨日言ったでしょ?三人揃ってからって」
「へ?」
「え?」
僕と真美さんの間に、なんとも言えない空気が流れ始める。挙げ句、言い争っていた二人も僕の方を向いている。
僕は、澱んだ空気を払う為に早口で言った。
「なら、どうして早く言わないんですか?」
事も無げに、真美さんがゆっくりと言う。
「だって、最初は光君を説得しなきゃ意味ないでしょ?私がこうしてあげるから、あれしてくれない?って報酬を提示してあげなきゃ光君だって素直に話しに入れない」
「なら、二人の言い争いを止めるべきなんじゃないですか?」
「私が?それはまだ早いよ。この報酬を提案したの剛君なんだし、まずは光君が剛君へ納得できない部分を話さないと、先々、齟齬が出るよね?どうしてもまとまらないところには、私が口出ししなきゃだけど、何も始まってない内から口を出しても、揉める原因を作るだけで話しも何も進まないよ?」
「そ……それでも、二人を止めて真美さんが間に入って話しを進めれば……」
「話しが進んだとしても、結局は元に戻るだけだよ?豊君、人付き合いってね、どちらかが妥協するから成り立ってるんだよ。妥協案も出てない二人は当然、言い合いになる。そこに、報酬を払う私が仲介したとして、片側には納得できない痼が残っちゃう。それって意味があると思う?」
「けど!妥協って……」
「うん、簡単に言えば諦めること。だけど、納得はしてるから、痼は残らないよね」
「諦めるなら、痼は残りますよ」
「残さないようにすれば良いだけだし、もしも、口論が止まらなかったら、昨日みたいに剛君が提案してくるよ。それに私がYESかNOを伝えて仲介に入ったら、話しがすんなりまとまる。だから、私が入るのは早いよってことなんだけど、どう?」
リベンジ……
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第6話
うっ、と身を引いた僕は言葉が継げなくなる。真美さんが正しいかどうかなんて分からない、けど、僕には、もう続けるべき言葉が出てこなかったんだ。なにより、二人に対する気恥ずかしさで、この場から逃げ出したくなっていた。言い負かされた、そんな黒い塊が胸を押し潰し、その圧力から解放されたかった。僕は、両手を股の位置まで垂らし、ズボンを力一杯握る。
顔の中心に熱が集まってきて、鼻の奥に流れていく。ツン、とした小さな刺激が涙に変わるまで、それほど時間はかからないだろう。そんな僕に、真美さんは生涯を通して忘れることなどできない一言を放った。
「最初に声を掛けたときから思ってたんだけど、豊君って卑怯者だよね」
反射のように僕が真美さんを見れば、昨日を含めた、ここ数日で一番怖い……いや、冷めた目をしていた。
広くもない僕の部屋で繰り広げられていた剛君と光君の口喧嘩は、すでにピタリと止まっている上に、二人の視線も僕に集まっている。真美さんが追い討ちをかける。
「君って誰かが考えたことを、自分の考えみたいに話す癖があるよね。そして、僕がこの話し合いを解決しているんだって思い込んじゃってる上に、見栄っ張り……それって、すっごく見栄っ張りだよ」
「そ、そんなこと……!」
言い掛けてやめた。
思い返してみれば、今回の発端になった深夜徘徊だって、初めに声を出したのは剛君だった。
そのあとの、光君が言った、僕らには無理なんじゃないか、に対しても、僕は先を促しただけで、話しを進めたのは、実際、剛君だ。じゃあ、僕がやったことってなんだろう。二人は、いつも話し合いをしていた。そのときの僕は何をしてたっけ?そうだ、二人が散々、お互いに言い合ったあとで、やったことがないことをやろうって提案したんだ。
僕は愕然とした。最初の提案も、真美さんと初めて会った夜のときも、そこあとのこと、全部通して、僕は切っ掛けになれていない。いつも、二人が話しをしてからしか動き出さないで傍観して、あらかた、内容が出尽くした辺りから、ゆるりと混ざっていたんだ。真美さんとの決定的な違いは、そこにある。行き当たりばったりの僕とは違って、真美さんは、輪郭は掴めないながらも、先を見据えて言葉を落としていた。僕がやっていたこと、それは、極端に表すと手柄の横取りにしかならない。
それに、昨日、真美さんが駄菓子屋の前で聞いてきた質問に対しての返答も、僕は他の中学生とは違うところを見せてやろうって気持ちが透けてみえる気がする。
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第7話
楔のように、僕の胸に打ち込まれた卑怯者という一言は、なかなかに深く食い込んでいるみたいだ。何も言い返せない。
そうしていると、真美さんは、くるりと矛先を変えて、光君に突き刺すように言った。
「光君、君もだよ。昨日、豊君にメッセージを送ってたよね?」
光君の黒目が震えたのを知ってか知らずか、真美さんは磨いた鋒を逸らさずに続ける。
「あれ、どうして電話じゃなかったの?悠長にラインでメッセージを送る手間を考えたら、それこそ、ラインの通話機能を使うべきだよね?」
「そ……それは……その……」
口ごもる光君の代わりとばかりに、真美さんが切り込む。
「豊君が犠牲になれば、自分はもしかしたら逃げられるかもしれない、そう思ったんだよね。実際、あのあと、君達の天敵みたいな子達がすぐに怒鳴ってたし、豊君の取り乱しかた、尋常じゃなかったよ?」
さっきまで剛君と言い合っていた光君が、途端に喋らなくなる。図星だったのだろうけど、そう聞いていると、なんだが、腹が立ってきそうだ。けど、真美さんに指摘された手前、強くも言えそうにない。
「剛君もさ、一人でやれるって自信がないなら言えば良いのに、どうして強く出るの?」
まさか、といった表情の剛君が首を振った。
「真美さん、俺は違うでしょ?今回の話しを進めたのは、俺ですし」
「なら、どうして?」
「どうして?って……」
「だって、君……さっき言ったよね?俺と豊だけでやるからよってさ。それって、一人じゃ不安だから言ったんでしょ?」
「それは、俺一人でやっちゃったら、コイツらを置いていっちゃうから……」
真美さんが溜め息を吐く。
「だーーかーーらーー、二人にヤル気がない以上、それなら一人でもやるってならないんでしょ?って聞いてるのであって……私はね、君の言い訳を聞きたいわけじゃないの」
「言い訳なんかじゃない!」
ムキになった剛君が目元の剣を強めたけれど、真美さんは一蹴する。
「やってない以上、それは言い訳だよ、剛君」
剛君の頬が動いた。多分、悔しさと怒りと恥ずかしさで、どうしていいか分からず、奥歯を締めているんだろう。真美さんが放った三股の矛は僕ら三人をそれぞれ貫いたんだ。おまけに、鋒で抉るように言った。
「君達三人ってさ、それぞれがそれぞれに卑怯なんだよ。泥棒、臆病、嘘吐きって感じかな」
僕らを順番に指差しながら、真美さんが小首を傾げる。
悔しかったさ。このときばかりは、本当に言い返せない自分が悔しすぎて堪らなかった。
「ま……真美さんに……真美さんに僕らのことを好き勝手に言われたくありません……たった、数日しか一緒にいないのに、何が分かるっていうんですか……」
あーー……ゾンビねぇ……ゾンビ……
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第8話
必死になって絞り出したのは、反論でも弁明でもなく、自分をどうにか保つだけのものだった。今、思い返しただけでも情けなくなる。
「分かるよ。すごく似てるからね、私がよく知っている人に……」
そんな意味のない僕の声に、真美さんは寂しそうに目を細めて言った。
僕は、真美さんが僕らによく似た知人という人に少しだけ興味を抱いたけれど、追求する気になれず、黙って俯いてしまい、僕の部屋に重苦しい沈黙が落ちる。
胸焼けでも起こしそうな気持ちの悪さが、身体中を循環しては足先から抜けて、また頭から入ってくる、そんな感覚だった。頭の奥が痺れてしまって、立っているのか、座っているのかも分からない。これが、落ち込むってことなんだろう。
誰も動こうとしない時間が、三十分ほど過ぎたとき、真美さんが吐息をついて、僕の返答の窓から出ていこうとした。
「真美さん?どこに?」
僕は真美さんの背中を見て、思わず引き留めてしまった。
「ここにいても、なにも進まないでしょ。だから、私は私で動こうと思っただけだよ。安心して、もう、戻らないからさ」
剛君と光君が、本日、何度目かにお互いを見合った。けど、なにを言うでもなく、黙って四つの視線を僕に投げる。任せるってことなんだろう。
僕は、頷くでもなく言った。
「戻らないって、もう、僕らには関わらないってことですか?」
「そう。ごめんね、迷惑かけちゃって……」
ふっ、と振り向いた真美さんの顔は、ぎこちのない笑顔だった。小さな輪郭の中で整ったパーツの一つ一つをなんとか柔らかくして作られた精一杯の笑顔、ただし、画面のなかで見ていた真美さんの線を引いたような綺麗な眉毛は、力なく垂れている。
このままで良いのか、と僕は思った。
このまま、真美さんを見送るのは、簡単なことだ。だけど、本当にそれで良いだろうか。僕は、僕らは、変わりたいと思ったから、こうなったんじゃないのか。そうだ、そうだった筈だ。
僕は、割子川の欄干で、これまでを取り戻す為に変わるって決めたじゃないか。ここで、なにもせずに、真美さんを見送るのなら、ただイジメを享受してきた僕らと同じじゃないか。
英雄になるには、前に進まなきゃいけない。
「待ってください!」
真美さんだけでなく、剛君と光君も驚いたように目を見開いてた。
怯えるな、前だけを見て進むんだ。
「真美さんがなにをやりたいのか、まだ僕には分からないです……だけど……」
口の中にある唾が緊張で乾いていく。それでも、僕は力を込めて言った。
「ここで何もしなかったら、これまでと同じだから、僕は変わりたい!だから!僕に手伝わせて下さい!」
短編……
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第9話
「豊、お前、なに言って……」
「剛君は……!」
声を鋭く遮ると、剛君は声を呑み込むように顎を引く。その行動を終える前に、僕は言った。
「剛君は悔しくないのかよ!僕らは、同い年の誰もやったことがないことをやって、あの地獄から抜け出そうとしてた!けど!結局はこうなってしまっているんだ!僕らがやったことなんて、新山君……新山や大場や白木だって、きっと、とうの昔に体験してるんだ!なら、僕らは……」
息を切らせながら叫んでいたけれど、僕は急に悲しくなって自然と声が落ちた。
「僕らは……僕らがやってきたことって、一体なんだったんだろう……」
気づけば、僕は両手を股の位置で強く握り、涙を流さないように唇を噛んでいた。この数日間、僕らがやってきたのは、遊びの延長に他ならない。詰まるところ、僕らは大人の力がなければ何も出来ない子供だったってことだ。
真美さんに指摘された通り、自分の卑怯な面を見ないようにして、ただ流されていただけだった。その証拠に、僕ら三人が一致団結した場面は一度だってなかったじゃないか。一人一人がそれぞれの方向を向いて、ずっと、足の引っ張りあいをしていた。 こんなことで、なにが変わるっていうんだよ。大人がいなきゃ、僕らはいつまでもこのままだ。英雄になんかなれるはずもないんだ。
それを気付かせてくれたのですら、朝倉真美という大人の女性だ。
いつまでも、いつまでも、付いて回る大人の影を振り払える子供、それが子供の僕らにとっての英雄なんだろう。
途端に弱々しくなった僕を心配してか、光君がオズオズと伸ばしてきた右手を両手で包んで力を込めた。
「光君……剛君……僕の初めて夜中に出歩いたとき、僕ら以外には誰もいない世界なんだって思ってたんだ……けどね、あの世界には、もう沢山の人がいたんだよ……だったら……」
僕は二人の目を見ながら息を吸い込んだ。
「今度こそ……今度こそ!誰もやったことがないことをやろう!そして、あの地獄を抜け出そう!今回こそ、誰のせいにもできない自分達の意思で!」
一気に吐き出した僕は、知らぬ間に手を強く握りしめていたみたいで、光君の顔付きが酷く歪んでいた。慌てて謝ってから手を放すと、光君は俯いてしまう。この状態じゃ、とても話すことはできない。
そこで、僕は、剛君に声を掛けた。
「剛君はどう思う?」
眉間に皺を寄せたまま、剛君は天井を見上げる。やがて、顔を元の位置に戻すと、真剣な声音が聞こえた。
「豊はさ……俺達がいなくても一人でやる?」
短編のゾンビ書こうとして失敗したわけだ……
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第10話
僕は首を縦に動かす。今更、横になんか絶対に振らない。剛君の両目が不安を現しているみたいに泳いだけれど、僅かな間に止まる。
「俺もさ……本当のこと言うと、真美さんに言われたことが悔しくて堪らないんだよな……こんな気持ち、学校にいるときにもなったことないってくらいにさ……」
そこで一度区切った剛君は、大きく深呼吸を挟んだ。きっと、覚悟を決めていたんだろう。
「分かった、俺もお前と一緒にやるよ。これ以上、真美さんから馬鹿にされるのも嫌だし、なにより、お前に置いていかれたくないからさ」
剛君は、言いながら真美さんへ睨むような一瞥を送る。これは、俺の意思ですから、そう伝えている気がする。それに対しての返しは、真美さんの笑顔だけだったけど。
そして、残った光君は、俯いていた顔をあげている。
「ゆ……豊君は……怖くないの……?」
「怖いよ……」
「なら、なんで……」
「光君……僕はね、このままじゃいつまで経っても変われないってことが分かったんだよ……僕は変わりたいんだ。勿論、怖いし、足だって震えだしてる……けど、ここで何も出来なきゃ、これから先、同じことの繰り返しになるだけだよ」
光君は自分の両手の指を組み合わせて、モジモジしている。それだけで、今、光君がどんな気分なのか良く分かる。
「光君、無理しなくて良いよ。今回のことでなにもしなくても、僕は光君と友達をやめるつもりなんかないから……それに、うまくいったら僕が光君を助けることだって出きるようになれるかもしれない。だけど、危ない目にあう可能性は高いのは確かだから、本当に無理だけはしないで……」
光君の指先が止まり、うん、と呟く。この場で決めろなんてのは、あまりにも酷だから僕からは、これ以上続けない。
一段落がついたとみたのか、部屋の窓が閉じる音が聞こえた。
「豊君、本当に良いの?」
真美さんの問いに、僕は素面を保ったまま返す。
「決心がついたんです。僕が前に進める数少ないチャンスを逃す訳にはいきませんし、多分、剛君もそうです」
わざわざ同意を求めるような真似はしない。それは、真美さんも同じだ。
後から聞いたことだけど、改めて聞くのは、剛君に失礼だろうからって意図もあったらしい。気の遣い方が他人より下手な真美さんらしい言いぐさだと思う。
「そう……ありがとね……」
どことなく安堵した柔和な笑顔を浮かべた真美さんが、横目で光君を盗み見て言った。
「秘密にしてたって訳じゃないのは本当だけど、良いの?」
真美さんは、光君ではなく僕に確認をとる。
トイ・ストーリーを久しぶりに見たらめっちゃおもしろかったw
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第11話
その理由は、光君を巻き込むことになるかもしれないってことだろう。当の本人は、まだ自分で決めかねているみたいだ。ここで光君を外すのは、簡単なことだけど、光君が戻ってこれる場所を残しておきたくて、僕は頷いた。
ほんの少し残年そうに眉間を狭めた真美さんは、一度嘆息してからベッドに座る。
「分かった。なら、光君も聞いてね」
僕らは、ベッドとテーブルを挟んで床に座る。
そうして、数分、真美さんは僕らを眺めてから口を開いた。
「あのね、ブラック・ガーデンの鬼山って奴は、私の元カレだったの」
いきなり、とんでもないことをぶちこんできた。目を剥くなんてものじゃない、目が飛び出してしまうかと思った。
そうなると、いろんな想像ができるのだけれど、予想だけで判断する訳にもいかず、僕はなにか言い出しそうな二人の太股を、真美さんから見えないようテーブルの下で抑え、先を促す為に、唇だけを動かす。
「続けるね。昔の私は、今の君達と似たような状況で、追い詰められてたの。学校にいかなきゃ家に来られて、家にいなければ、街を探されて、本当に逃げ場のない毎日だったんだよね」
たはは、と明るく笑った。その姿と説明の内容が不自然なほど一致しない。どうして、照れたような仕草をとれるのだろう。僕なら、昔のことだから、と切り捨てられない。
「今にして思えば、よっぽどやることなかったんだろうなぁって思うし、ただの暇潰しのお遊びだったのかもしれない。それが中一の夏やすみあけから中三年まで続いててね。いやぁ、結構、辛かったよ」
神妙な顔で耳を傾けていた剛君が、突然、首を振って改めて向かい合う。
「よく耐えられたっすね……」
真美さんは、屈託のない様子で頷く。
「耐えた訳じゃないよ。誤魔化していただけ。まあ、そのお陰で自分に嘘をつくのは上手になったけどね。そんなときだったなぁ……鬼山と出逢ったのは」
目を細めてベッドに座る真美さんが、僕にはなんだか昔を懐かしんでいるように見えた。これからさき、辛いことをそんなふうに捉えることができるだろうか。テーブルの下で、自然と握り拳を作っている内は、無理だろう。
「当時から、鬼山は近所で有名な不良だったんだよね。いっつも黒崎や小倉にいて、年上の人と遊んでワルさばっかりでさ。その日も、アイツにとっては、日常だったんだろうけど、私にとってはこれまでを変える日になったんだよ」
真美さんが言うには、黒崎まで逃げていたところ、案の定、他の同級生が追い掛けてきて、三角公園で捕まった。そのとき、同じ場所に居合わせた鬼山が、同級生達にイチャモンをつけて事なきを得たとのことだった。
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第12話
それから、鬼山を味方につけた真美さんは、同級生達との立場を逆転することに成功したらしい。やられていたこと以上の仕打ちを与え、これまでとは比べ物にならない刺激を覚えた。
同時に、変わっていく自分を不安に感じたこともあった。間違ったほうに進んでいってしまっているんじゃないのか、自分は本当にこのままで良いのか、悪事に手を染め、他人を痛め付けて、両親と不仲になってまで、変わったさきにいる自分の姿は、本当に正しいのか。ハッキリと間違っていたと気付いたのは、五年前のことだったという。
父親が早くして亡くなった日も、真美さんは鬼山達と会っていた。母親から携帯に連絡が入っても、いつものように無視をした。その結果、とても大きく、かけがえのない者を失ってしまったらしい。もう二度と言葉を交わすこともできず、間際まで自分の名前を呼んでいた父親に謝ることもできなかった。イジメに気付かずに、同級生を真美さんの友達として自宅に入れてしまっていたことを責めた時期もあったけど、自身が一歩でも正しく変わっていたら、父親に相談もできていたかもしれない。母親とは、それっきり、ろくに会話もなく、高校を卒業すると貯めていたお金で家を出たこと。その頃には、ブラック・ガーデンを発足し、忙しく暴れていたことを口実に、鬼山と距離を置き始め、上京の当日に、一方的に別れを告げたこと。お金が無かったから、手っ取り早く稼げそうな仕事に就いたこと。そして、四年の月日が経過した現在、母親が入院したと病院から連絡があり、繰り返したくないと戻ってきたところ、運悪くブラック・ガーデンの古株メンバーに見つかってしまい、僕らと出会ったことまで、真美さんは教えてくれた。
話しが長くなり、終わる頃には、もう夕日が傾き始めていたけど、僕も剛君も光君も、真美さんでさえも、誰一人として、その場を立ち上がろうともしない。いや、出来なかったんだ。見えない重石が肩に乗っているかのように、苦しかったからだ。まとめてしまえば、真美さんの自業自得と言ってしまえる。だけど、少なくとも僕は、他人事だとは思えなかった。変わりたい、変われば良いことがある、そう決めつけていた僕にとって、変わっていく自分が怖いだなんて想像もしていなかった。変わるってことには、誤った道に歩み続けて大切なものを失ってしまう、そんなリスクもあるんだ。
真美さんの体験を僕に置き換えて、お父さんが死ぬ前に会えなくて、もう二度と会話ができないって考えてみる。途端に、深い暗闇が胸の中に広がっていく。
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第13話
不安っていうものを例えることができるのだとしたら、きっと心を覆うほどの黒く巨大な濁流なんだろう。
「ねえ、今ので私の話しは終わりなんだけど、どう?まだ、私に力を借してもらえるかな?正直、巻き込んじゃったことは本当にごめんなさい。情けないことなんだけど、私一人じゃなにも出来ないんだよ……だから……」
口火を切った真美さんは、ベッドのスプリングを軋ませて、頭を下げた。旋毛が寂しそうに揺らぐ。
「あの……なら、お母さんに会うだけで良いんじゃないっすか?」
「そうじゃないよ剛君……真美さんは、お母さんと仲直りする為に戻ってきたんだ。だけど、鬼山って人がいると事が運ばないってことなんだよ……」
光君の細い声に、剛君は納得したみたいだ。
確かに、追われていた理由はナンパじゃない、ナンパだったほうが何倍もマシだ。いつもより、剛君の声が小さかったのは、僕と同じ理屈に行き着いたからだろう。
「それで、どう?手伝ってくれるかな?」
改めて僕らに尋ねた真美さんへ、僕は頷いた。とても怖いし、胸の影は晴れていないけれど、間違えないよう、自分をコントロールできれば良いだけだ。いまさら、答えを変えるつもりなんかない。
続けて、剛君が首を縦に振ら。そして、残った光君は、お腹を抑えながら首を横に振った。
「ごめんなさい……みんな……僕は、やっぱり……」
「ううん、大丈夫だよ。悩ませちゃってごめんね」
否定もせずに、真美さんは笑顔だった。
本音を言えば、少しだけ残年だったけれど、こればかりは仕方がない。光君が、僕らを一瞥して立ち上がる。
「豊君、本当にごめんね……剛君も……」
僕は口角をあげることで大丈夫と伝え、剛君は顔の位置で右手を軽くパタパタと振ったあと、悲しそうに俯いた光君に言った。
「お前がそんな顔するなよ。大丈夫、俺も豊と同じ気持ちだ。けどさ、お前もここまで聞いちまったからには、しばらくお互いに会わないほうが良いんだよ」
それならそうと早く伝えてあげれば良いのに、剛君はいつだってカッコつけたがる節がある。けど、人から言われたからって、すぐに変われるものじゃない。いまは、これで良いんだ。
「じゃあ、僕はここで帰るね?二人とも、気を付けて……」
いまでも鮮明に思い出すのは、部屋を出ていく光君の丸い背中だった。本当は、僕たちを止めたいんだろうけど、何も出来ない悔しさが滲んでくる。だけど、僕らはもう止まれない。
扉を閉める音がしてから、真美さんが切っ掛けを作るように言った。
「改めて、これからよろしくね」
このとき、光君を含めた僕らは、まさか、あんなことになるなんて考えもしていなかった。
次回より、7月26日にはいります。
その前に、短編チャレンジ
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7月27日
僕は、この日、真美さんが言っていた言葉を、いまでも深く覚えている。それは、頑張ったとか、努力してるなんて自分から言うことじゃないよってことだ。
人と人には、コミュニケーションという優れたやり取りがある。五十音や様々な音には、巧みな交流の糸口が隠れていて、それを掴めるのは、物語や現実を含めて、僕ら人間だけだ。たけど、昔から繰り返された会話というもののなかで、僕ら中学生は、努力という言葉を自己満足で終わらせてしまっていた。他者に口にされて初めて意味をもつというのにだ。それは、コミュニケーションなんかじゃなく、自身の承認欲求の延長、このときを思い返すと、剛君がその傾向にあった。
七月二十七日、昨日、僕と剛君は、真美さんと作戦を考えていた。
両親が仕事に出掛けた朝の八時、その一時間後に来た剛君を迎えての会議は、昼過ぎに一応の決着を迎えることとなる。まあ、いつにもまして、タンクトップの胸元から覗く割れ目と短いパンツ姿の真美さんにいろいろと奪われていた僕らは話しがあまり入ってきていなかったけれど、内容は至ってシンプルだ。
準備するものは、ジャージと大きめな帽子、残りは晒、それらを揃えることが前提条件となる。この提案をした真美さんに、僕と剛君が頭を捻った。
「あの、真美さん……晒ってなんすか?」
剛君の質問に、僕も耳をそばだてる。
「あれ?そっか、知らないか。男の子だもんね。晒っていうのは……」
一拍置いて、真美さんは自分の胸を両手でそれぞれ、ぎゅっ、と押し付ける。深さをました谷間に剛君が生唾を呑む音が聞こえた。
「こうやって、胸を抑え込む下着のことだよ……あのさ?話し聴いてきれてる?」
慌てた様子で、さっ、と顔ごと逸らした剛君に僕は苦笑しながら、真美さんに訊いた。
「それって、男の子の振りをして近付くってことですか?」
「あのさ……剛君の反応も過剰でどうかな、と思うけど、豊君もそれはそれでどうかのかな?私これでも、女優なんだからさ……」
「どうって……?」
問われている意味が分からず、首を傾げていると、剛君が僕の肩を軽く叩く。そこでようやく理解する。
「なんていうか……昨夜にその……一日空けてるから……いろいろと……その……五回ほど……」
僕が濁した部分には、男の子特有の恥ずかしさがある。もちろん、女の子もするのだろうけど、なんていうか、イメージの違いって、こういった系列には付き物なんだろうな。昨夜は、トイレのなかで一人で盛り上がっちゃったし……
なんだろう、夏場だからって理由以外に、一気に暑くなった。
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第2話
剛君の視線が、よく真美さんがいる前で言えるよな、と言っている。やめてくれ、僕だって顔から火が出そうなんだ。
「うん……まあ、あれだよね。あんまり、そういうことは面と向かって言わないほうが良いよ……」
真美さんが唇を引きつかせている。なんだか、最近、そういった事情のガードが緩くなってしまっている気がして、引き締めなきゃいけないな。
「私から振っておいてなんだけど、話しを戻すね。豊君が言った通り、男の子の振りをしていくつもりだよ」
剛君は身を乗り出してテーブルを軋ませた。
「それで、その晒ってやつが必要だとして、どうやって手に入れれば?」
「そうだねぇ……お金は私が出すから買ってきてもらえる?」
二人の会話に僕は疑問を挟んだ。
「あの、インターネットで買うっていうのはどうですかね?そうすれば、外に出ることもないから、リスクは減らせると思うんですけど」
「豊君は、自分のお小遣いとかで注文したことある?」
僕が首を横に振ると、真美さんが頷いて言った。
「なら、駄目だよ。豊君が自分で何かを注文することがあるんなら、宅配便の人が来ても、ご両親に怪しまれないかもしれないけど、経験がないとなると、やっぱり厳しいよね。君達が出掛けてるときとかに届いちゃったりすると詰め寄られるよ?それを誤魔化すことできる?」
そう言われると、途端に不安が強まってきた。それに、勘違いをしてほしくはないけど、僕は別に外に出るのが嫌な訳じゃないんだ。ただ、安全策を提案してみるのも良いんじゃないかと思っただけで、もしも、採用されるのなら言ってみて損はしない。まあ、結果は一蹴されておしまいって感じだけどね。
「でも、それってどこに売ってるもんなんすか?」
剛君の質問には答えずに、真美さんは押し入れの中からピンク色の財布を取り出して、五千円札一枚を摘み出すと、僕に差し出す。
「黒崎の商店街に手芸屋さんがあったはずだから、そこにいってみてくれない?駅から真っ直ぐにカムズ通りを歩いてるとカラオケ屋さんがあって、その近所にあると思うから」
僕はお札を受取りながら訊いた。
「目印ってなにかあります?」
顎先に人差し指を当てて、記憶を辿っているのか、少しだけ天井を見上げていたけど、すぐに顔を戻す。
「確か、すぐ近くに……あ、いや、これ言っても分かんないかな……」
珍しく言い淀んだ真美さんに、剛君が怪訝な顔つきをする。その表情と僕の心境は同じだろう。
剛君は負けじと尋ねる。
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第3話
「大丈夫っすよ。俺達だって黒崎には遊びに行ったことありますし、なにか目立ったものがあれば行けますから……例えば、ほら、あの顔だけのライオンみたいな!」
それは僕も見たことがある。どうしてここにあるんだろうなって、毎回、不思議に感じているけれど、何故か、すごく存在感を放っているやつだ。一度でも見たら忘れられないだろう。
「うーーん、それなら言うけど、言葉は選ぶね。えっとね……」
※※※ ※※※
僕と剛君は、蝉の声が響く夏空の下、汗を拭うこともせずに必死になって自転車をこいでいた。
雲ひとつない晴天と同じ色をした自転車のペダルを回している剛君は、長い坂道に入るとサドルからお尻を浮かせる。僕も同じように、重くなったペダルを回す両足に力を込めた。
「なあ、結局、真美さんが言ってた店ってなんだったんだろうな……」
息を切らしながら後ろに着いている僕に言った。正直なところ、喋ると口に汗が入るから、あまり話したくはないけれど、僕も気になっていたことなんだ。
「さあ……けど、ハッスルっていうからには、男の人が関係してるんだろうなとは思うけど……」
真美さんは、ハッスルという単語を口にして僕らに質問の機会を与えてくれなかった。このままじゃ、あまりにもヒントが少なすぎて連言ゲームにすらならない。
国道二百号線添いの大きなパチンコ店を抜け、警察の派出所を越えた辺りから坂道の角度が増す。気温は三十度を優に越えていて、なおかつ、国道を走る車のせいもあるのか、体感温度が高まっているみたいだ。剛君が中腹で足をつく。
「駄目だ……暑いわ……ちょっと休憩ってことで、押して行こうぜ」
僕も自転車を降りてハンドルを持った。押し進めていくと、反対側の歩道に高校の校門がある。なわとなく、ぼんやり眺めていたとき、不意に剛君が言った。
「俺達も、そろそろ高校を決めろなんて言われだすのかな」
「うん、そうだろうね」
よくテレビのニュースとかで時期になると受験戦争なんて言葉が跳ねるように出てくる。僕らもあと一年後には、その渦中に飛び込まなきゃいけないんだ。そう思うと、気持ちが重くなった。
「剛君は、もう決めてる?」
鼻を鳴らした剛君は、首を振った。
「決めてる訳ないだろ。ていうか、そんなこと考えたこともない」
「そんなことって?」
「俺の家のこと考えてみろよ。高校にいけるかどうかも怪しいもんだろ。父子家庭で家は古い長屋、父親は酒を飲み歩いて帰りはいつも夜遅く。財布の中に金が入ってるか分からない。そんな生活を送ってる……高校に行くより働けって言われそうだな……」
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第4話
苦笑いを僕に向けて続ける。
「まあ、先のことなんて考えてもしょうがないよな。それよりも、俺達には今のほうが大事だ」
剛君は気持ちを切り替えたみたいだけど、僕はなんだか晴れなかった。想像してしまったんだ。もしも、僕ら三人が別々の道に進んでしまったときのことをね。そうしたら、なんだろう、すごく胸が締め付けられた気がした。
だけど、それは、確実に訪れる未来なんだろう。
僕は、可もなく不可もなく、平凡な高校に進学して、塾に通う光君は、僕よりも頭が良い高校へ通う。剛君は、どうなるか分からないけど、決まっていることがある。きっと、僕らは、いまよりも会う回数が減ってしまうということだ。
新しい環境は、新しいなにかが始まるってことなんだ。僕らに降り注いだイジメだって、信じたくはないけど、環境の変化っていうものがあるのかもしれない。大人に近付くって、もしかしたら、凄く寂しいことなのかな。
坂道を登り終えた僕らは、歩道橋を抜けた先に設置されている自販機で一本だけスポーツドリンクを買って二人で分けあった。ここから先は京良城町に入り、あとは楽な下り坂だ。
「じゃあ、行くか」
サドルに股がった剛君が、一息ついてペダルに足を置く。ぐん、と速度を増した自転車は坂道に入ると、また加速する。横目で見えている景色が次々と移り変わっていくなか、僕は、真美さんの言葉を思い出していた。
人も街も、時間が経てば変わっていく。置いていかれるのは辛いけどね。
僕は置いていかれるのだろうか。常に変化する世の中や周囲の人間関係に追い付けるんだろうか。回転数を高めたタイヤに比例してスピードが上がっていく自転車みたいに、急激な変貌を遂げていく様々なことに対して、遅れてはしまわないだろうか。
僕は、そんなイメージを振り払う為に、ハンドルを強く握った。
※※※ ※※※
黒崎には、夏休みということもあってか、いつもより人が行き交っている。駐輪場に自転車を停めた僕らは、黒崎駅の入り口を背中にして、まっすぐと歩き始めた。
白を基調にした階段を下りれば、左手の居酒屋、右手のパチンコ店に挟まれた形で黒崎商店街を突き抜ける入り口のひとつ、カムズ通りがある。僕ら地元の中学生にとって、黒崎の街は身近にある、ほんの少しだけ栄えた街ってだけだけど、僕らが産まれる前は、ゲームセンターや百貨店なんかもあって賑わっていたらしい。今となっては、昼間なのにシャッターが閉まっている上に、よくわからない落書きまでされているところのほうが多いけどね。
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第5話
カムズ通りの入り口前で立ち止まった僕は、同級生がいないかどうかのチェックをする為、長く延びる通路を慎重に眺めた。
屋根も高く、反対側まで見通せず、ときおり、十字路があるけれど、見える範囲にはいないみたいだ。
「とりあえず、カラオケ屋までいってみるか……」
頷いて一歩目を踏み出した僕にならって、剛君も進みだす。左側のシャッターには、黒いスプレーで書かれた文字が長い年月をかけて褪せていて、なんだか不気味な雰囲気を放っていた。そこに、右側のパチンコ店から人が出入りすることで漏れだした冷気が拍車をかけてくる。
僕と剛君は、早足でグングンと歩き、三個目の十字路の左側にカラオケ屋を発見する。鶏のデフォルメキャラクターがマイクを持って楽しそうに笑っている。僕らとは大違いだ。
「えっと……ここ……だよな?」
「うん、そうだと思う。この近くにあるってことだけど……」
アーケード内の中央通りには、飲食店や個人商店は多いみたいだけど、それらしいお店は見当たらない。
剛君がキョロキョロと周辺を見回している間、僕はスマートフォンで検索をかけてみることにする。ディスプレイに汗が垂れ落ちた。
「剛君、黒崎の手芸屋で検索してみたけど、何件かあるみたいだよ」
少しだけ荒い声で剛君が返事をして、画面を覗きこんだ。
「地図って出せないの?ほら、なんだっけ、空から写してるやつあんじゃん」
ストリートビューのことだろう。その手があったと、僕は画面をタップする。ここから、一番近い手芸屋までの当たりをつければ、真反対の通りにあった。
確かに近いけど、すいぶん分かりにくい。黒崎の商店街中央通りから外れて数メートル歩いた先みたいだ。
「本当、便利だよなぁ、スマホって」
「そうだね、使いこなせてなかったけど……」
剛君が言うまで、僕はスマートフォンで地図を見るってことに気づけなかった。そう考えると、この世の中にどれだけの人がどれだけの物を完璧に使えているんだろうな。物を使うというより、物に使われている気がして、少しだけゾッ、とした。
夏空の下、僕らは手芸屋さんに向いながら、ついでに晒ってものを検索してみた。以外なことに、ドラッグストアーやベビー用品を扱っているお店にもあるみたいだ。
あれ?ちょっと引っ掛かる。それなら、どうして真美さんは、わざわざ黒崎の商店街にまで足を運ばせたんだろうか。ドラッグストアーなら、黒崎駅にまで来なくても、手前にある大型質屋の向かいにあるし、距離も離れてはいない。そこにベビー用品だって置いてあるはずだ。まあ、最近、黒崎も開発ってことが進んでいるってお母さんが言ってたし、知らなかったのかもしれない。
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第6話
目的のお店に到着するまで五分も掛からなかった。
真美さんからは、場所や外見を詳しく聞いていなかったけれど、近くにはないみたいだし、多分、ここだろう。立派な出入り口は引戸になっていて、ガラス張りになっている。外から窺うだけでも、季節の為か、様々な着物や浴衣が見えた。手芸屋ってことは、見本品なのかもしれない。それにしても、入りづらいな……
剛君も同じなのか、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。不意に、右手を挙げて人差し指を伸ばす。
「なあ、豊、見てみろよ」
促されるまま、僕は剛君の指先を目で追ってみると、そこにあったのは、瓦の屋根だ。お店と自宅が一緒になっているみたいで、僕らにとっては、駄菓子屋以外で見たことがなかったから、なんとなく柔らかい気持ちになって、妙に肩が解れた。
「昔の写真とか見てると、こんな感じの店って多かったんだろうな」
「へえ、剛君って古い写真なんか見るんだね。なんか、一気に老けたみたいだよ?」
うるせえ、と悪態をついた剛君が引戸に手を掛けると、ベルではなく、カランカラン、と軽い鈴の音がした。店内を循環するエアコンの冷気と合わせて涼しく感じる。雰囲気って大切なんだな、なんて思いながら鈴を眺めていると、奥から声がした。
「あら、若い男の子二人だなんて、珍しいお客様だねぇ……ああ、そういえば、もうそんな時期かねぇ」
しゃがれた声に振り返ると、背中が少しだけ曲がったおばあちゃんがいた。白髪を短く揃えていて、僕の近所にいるおじいちゃんやおばあちゃんよりも、整った身なりをしているし、なにより、細い目と頬っぺたを柔らかくして微笑んでいてくれていることが嬉しかった。
「あ……あの、俺達……」
剛君が口を開くと、おばあちゃんは何度か小さく頷きながら近づいてくる。
「はいはい、分かってるよ。次の山笠で使う法被だろう?用意しているから、ちょっと待っててねぇ」
「いや、あの……違くて、えっと……」
何故かモゴモゴしている剛君に替わって、お店の奥に戻ろうとしているおばあちゃんに言った。
「僕達、お祭りとかじゃなくて、晒がここにあるって聞いてきたんです」
すると、おばあちゃんは照れたように顔を僅かに下げて言った。
「あらあら、それはそれは……ごめんなさいねぇ、早とちりしちゃってねえ……晒なら、ほら、そこにあるから」
おばあちゃんが首を右に向ける。そこまで広さのない店内だから、さっき検索して確認した飾り気のない白い布がすぐに目に入った。僕は、おばあちゃんにお礼を言って棚に向かう。
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第7話
僕の腰くらいの高さの棚に置かれた三枚の晒の一つを手に取った僕は、そこでようやく、剛君が後ろにいないことに気付いて振り向くと、おばあちゃんが剛君にお菓子を手渡していた。
「剛君、あったよ」
僕が伝えると、剛君は瞳を潤わせていた。そも、本人か気付いていなかったみたいで、慌てたように、目元を袖で拭うと、強引な笑みを作る。
「豊、おばちゃんがお菓子くれるっさ。ちょっと休憩してこうぜ」
僕は、涙の意味を尋ねそこない、ああ、うん、とだけ返した。どうしてか、触れちゃいけない気がしたんだ。
真美さんに預かった五千円で会計を済ませる。レジの裏は畳になっていて、おばあちゃんが座ろうとして顔をしかめれば、すぐさま剛君が、手伝うよと肩を借していた。
「ごめんねぇ、足腰が弱くなってきてるものだから」
老眼鏡をつけて、馴れた手つきでレジを操作し、算盤を使ってお釣の計算をする。お金をレジに入れると、機械が自動で計算する場面しか見たことがない僕らからすれば、指で珠を弾くというのは、新鮮な光景だった。もっとも、色褪せた計算方かもしれないから、新鮮って言葉は間違いなのだろうけど、算盤を専門的に習っている人以外にとって、珍しいことに変わりはない。
僕の視線を感じたのか、おばあちゃんが老眼鏡を鼻の頭らへんにズラして微笑んだ。
「算盤が珍しい?」
「あ、いえ……ごめんなさい」
おばあちゃんは、僕にお釣りを渡しながら言った。
「謝ることないよ、見た目の通り、古い人間だからねぇ」
僕の掌に置かれたのは、千円札が四枚と五百円が一枚だ。あれ、と思った僕は棚に振り向いて値段を見た。七百六十円、値札にはそうある。おばあちゃんが計算を間違えたのか、それともワザとなのか、判断できないでいると、おばあちゃんが笑った。
「祭りで使うんじゃなくて、晒を男の子が買うなら、なんかあるんだろうしねぇ。おまけしてあげる」
「え?本当に良いんすか?」
剛君が申し訳なさそうに眉間を寄せたけど、おばあちゃんは笑顔を崩さずに続けた。
「なら、休憩していく間、おばあちゃんと何かお話ししてくれないかい?若い子が二人も来てくれるのは、久しぶりでねぇ」
おばあちゃんを提案に断る理由もない。それに、今日の目的なら達成できたんだし、時間ならまだ余っている。駐輪場の料金だって二百円から増えないはずだ。
僕と剛君は、お互いに頷きあうと、貰ったお菓子の袋を開けて、ゆっくり口に運びながら腰を落ち着けた。
最近、書く前に寝てしまう……年かな……
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第8話
「このお店って昔からあるんですか?」
僕の質問に、おばあちゃんは指折りしながら頷いて言った。
「そうねぇ、まだ黒崎に駅ができるより前からだねぇ……おばあちゃんのお父さんのお父さん、そのまたお父さんの頃からあるみたいだから……」
「すごく永いですね……」
僕は純粋に凄いと思った。だって、僕の身近にいる誰もが、一度はこのお店を見たことがあるってことがしれないんだ。いや、きっと、黒崎近辺に住んでいた人達は、入ったことはないにしても目にしたことはあるだろう。僕達が住む令和の世の中よりも、四百年も昔からあるのなら、きっとそうだ。
歴史って本当に深くて、広くて、高いものだ。世界から見て、こんな小さなところにも歴史は存在する。僕はおばあちゃんとの会話が楽しくなってきていた。
「おばあちゃん、黒崎って昔は工業地帯だったんでしょ?」
「詳しいねぇ……そうだよ、戦争中なんか武器を作ったりもしていて、空襲にもあってるよ」
「え?黒崎でも?」
「そうだよ、大戦中にね。今じゃ八幡空襲なんて名前もついてるくらいだよ。おばあちゃんの孫は、小学校で古い写真な展示があったから知ってたみたいだけど、今もそうなのかい?」
「ううん、そんなのは無かったよ。けど、僕のおじいちゃんが言ってたんだ」
あの頃は、大変だったらしい。
夜中に僕のおばさんを背中に抱えて列車に乗っては、食べ物を買いに行って、帰ってくるのは翌日、なんてこともざらだったみたい。病気になっても病院に行けなかったから、病院が嫌いになったとも言っていた。そのときは笑っていたけど、きっと、あれは本心だったんだろう。
「そうかい。最近は、そんなことも無くなってしまったんだねぇ……ほんの二十年前くらいまでは、近所の小学校が教育の為にって話しをしてくださいって来てたけど、それもめっきり無くなってしまってねぇ、寂しくなったものだよ」
冷房の音が大きくなった気がした。もっと明るい話題にしたかったのに、僕が昔の話しをしてしまったからかもしれない。途端に、喋らなくなった僕に、おばあちゃんは、短く笑ってから店の出入り口を眺めて目を細めた。
「それでもね、今日は僕達が来てくれたし、こうして話しもしてくれた。だからねえ、おばあちゃんはすごく嬉しいんだよ。近頃じゃあ、近所付き合いも薄くなって、こんな老人の話しには誰も付き合ってくれないからねぇ」
「あの、俺達以外、来てた人っていないんすか?」
剛君が遠慮ぎみに尋ねると、おばあちゃんは少しだけ黙ったあと、ああ、と思い出したように続けた。
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第9話
「そういえば、五、六年……おや、七、八年くらい前だったかねぇ、僕達よりも、ちょっとだけ年上の女の子が遊びに来てたかねぇ……」
おばあちゃんは、首を傾げて考えている間も僕らは待ち続けた。それでも、ハッキリと思い出すことは出来なかったようだったけど、おばあちゃんは細い記憶を頼りに言った。
「最初に会ったときより、見た目が変わっていたけど、すぐにその娘だって分かって……そうそう、確か、名前が美しい海で、みか、って言ってたねぇ」
「美海さん……ですか?」
その名前は、僕も耳にしたことがあった。近所でも可愛いって有名な女の子だったけど、あるときから、ぷっつりと聞かなくなっていた。同時に、僕の中で何か引っ掛りができる。なんだろう、不意に顔を出した違和感の正体に気づけないうちに、僕らとおばあちゃんの会話は、ひとまず区切りがつく。僕らが店の出入り口を開けると、鈴の音に混じっておばあちゃんの、また来てね、って声がした。剛君が、また絶対に来ると残して扉を閉める。
暑い日射しに晒された僕らだったけど、来たときとは違って、ほんの指先程度だけど、涼しく感じる。その理由はわかっていたから、戸惑いはなかった。アーケードに向かって歩き出すと、剛君が空を仰ぐ。
「なあ、豊」
「なに?」
「また、絶対に来ような」
「うん、そうだね……あのさ、剛君」
「なんだよ」
「おばあちゃんと最初に会ったとき、泣きそうな顔になってたけど、どうして?」
僕の質問で、剛君は両手を頭の後で組んだ。
「んーー、別に理由はないよ。ただ、なんとなく……さ」
「そうなんだ」
そう言っていた剛君の頰と目が紅くなっていることに、僕は気付いていたけど、それだけを返した。それは、おばあちゃんの話しを訊いて、黒崎までの坂で考えていたことの答えが、一部だけ見つけられたからだ。
カッコつけたいい方だと笑われそうだけど、歴史はいろんな場所で繋がるんだから、僕らの繋がりも、いつかどこかで繋がる。だから、剛君がいずれ話してくれる、そう思えたからだ。今日、おばあちゃんと会えて話しが出来たことは、これから先もきっと活きてくる。そう考えていた矢先、僕らにとって最も最悪な事態が訪れた。
僕と剛君が黒崎駅の歩行者デッキに戻る為にエスカレーターで登りきったとき、中央広場に白木弘人、大場直人、僕らに対してのイジメ主犯格の二人がいた。こういうとき、正面にいたらすぐに目が離せなくなってしまうし、足が自然と止まってしまう。
二人も僕らに気付いたらしく、憂さ晴らしの相手でも発見したように、ニヤツキながら近寄ってくる。
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第10話
僕は、無意識の内に、真美さんから頼まれた晒が入った袋を背中に回してしまい、剛君が小声で、馬鹿、と言った。それもそうだ、もう見付かってしまっているのだから、そんな目立つ仕草をしてしまえば、二人が気にしないで訳がない。
「よお、こんなとこで何してんの?」
最初に僕らへ声を掛けた白木のほうだった。案の定、目線は僕の背中に合わせられている。
これ以上、僕にボロを出させない為か、剛君が答えた。
「いや……なんでもないよ……ただ、気分でも入れ換えようって散歩してただけで……」
「それなに?」
剛君の言葉を遮った白木は、僕へ目線を流す。最初から質問に答えなんか求めていなかったんだ。彼らの目的は、僕が隠している物、それだけだ。
緩んだ白木の唇を引きちぎってやりたい、こんな衝動をもつ勇気が持てずに、僕は同級生二人に苦笑いを向けた。
「これは、なんでもないよ……ちょっと買い物をしていただけで、二人が気にするものでも……」
「あ?興味があるかないか、決めるのは俺だろ?なんで、お前が俺のことを決めてる訳?」
「あっ……」
白木が僕の肩を強く押す。倒れこそしなかったけど、残った感触は学校での仕打ちを思い出させる。僕は、いまにも口から飛び出してきそうな心臓を生唾と一緒に飲み込むだけて精一杯だった。この汗は、日射しのせいだけじゃない。寄せられた顔から目を逸らし、これからくる痛みへの対応として全身に力を入れる。
「貰い!」
白木の早口と僕の背中に手が回されたのは、ろとんど同時だった。
呆気ないほど、真美さんからの頼まれものを奪われた僕が咄嗟に右手を伸ばすも、白木は僕に背中を向けて中身を確認し首を傾げた。
「なんだこれ?お前ら、こんなもんで何をするつもりだったん?」
袋から取り出した晒を訝しそうに眺めていた白木は、大場に話しを振った。
「直人君、これ、なんてやつか知ってる?」
大場は、眉を寄せて晒を見ると、少しだけ唸って言った。
「なんか……見たことはあるけど……とこでだっけ……」
思い出そうとして、自然と目玉が上にいっている。このまま、興味を無くしてくれれば、ちょっと叩かれるだけで済むけど、もしも、晒だとバレてしまえば、新山に報告されかねない。そうなれば、きっと、B.Gの鬼山にも話しが届いてしまうだろう。それだけは、なんとしても避けなければならない。
僕は、いまだに頭を悩ませている二人に、声を張った。
「それ、夏休みの宿題に使うんだよ!ナップサックにしようかなって!」
不自然な大声に、黒崎駅からエスカレーターを使って商店街に入ろうとしていた大人も数人が振り返った。
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第11話
僕が焦ってしまっただけだったけど、結果として周囲の目に晒された二人は、目に見えて狼狽え始め、急いで僕の口を塞ぎ、大人達にぎこちない笑顔を振り撒く。そして、白木が剛君の肩に腕を回して僕にも聞こえるような小声で言った。
「ちょっと、こっちこいよ」
僕には大場がついた。
仲良し四人組が中学生ならではの奇妙な結託を示しながら歩く、そんなじゃれあいにも見えるだろう。
だけど、大人達、これは全くそんなことじゃないんだ。そもそも、本当に仲良しなのだとしたら注がれる視線だって、子供はさほど気にしないのに、二人の様子をよく眺めてみてくれよ。口元や言葉だけで体裁を保っているだけじゃないか。僕らの姿勢にも気づいてくれよ。こんなに肩を落としていることもおかしいとは思わないか。テレビで地域の交流が、なんて口にしてるのは、大人なのに、どうして気付いてくれないんだ。
黒崎駅を正面に歩行者デッキを左へ進み、エスカレーターを使ってバスターミナルに降りた僕らは、まっすぐに通路を突き抜けた先にある古いトイレに連れ込まれた。
こんな場所にトイレがあるなんて、僕も知らなかった。
「ほら、入れよ」
白木が剛君の肩を押せば、それほど広くないトイレの壁に身体をぶつけて、小さく呻いていたけど、白木は構わずに僕に詰め寄る。
「なあなあ、お前さぁ、なんであんな大きい声だしたの?大袈裟なくらいのさぁ!」
途端、息苦しさと鈍痛がお腹から込み上げてきた。堪らず、膝を折りかけた僕は、ここがトイレだってことを思い返して両足に力を入れる。それが、気に障ったのか、白木は、もう一度、今度は前のめりになった僕の背中に肘を下ろした。
「うぅっ!」
こればかりは耐えきれない。
背中から腰に伝わった振動は、痛みと一緒に僕の両足から力を軽々と奪いさっていった。汚れたタイルに膝をつけば、足下で袋の音がする。
「おい、根性なしが何を耐えようとしてんの?お前みてえな奴に、一発でも耐えられたら、一毅君と直人君に何を言われるかわかんねぇだろうが!」
直後に、タイル張りの床から白木の左足が浮かび、僕のお腹に二度目の攻撃が入った。スニーカーの爪先が内蔵に悲鳴をあげさせる。
どうにか涙を見せないようにしていたけど、場所と、いまの僕の現状を考えてしまうと、我慢の限界だった。
知らない誰もが用を足す公衆トイレで膝ま付いて、お腹を抑えながら、顔を床のタイル近くまで下げた情けない恰好……だけど、こんなとき、いつも脳裏を過るのは、もっと悲惨な目にあった自分の姿だ。そのイメージへの恐怖により、僕はやり返すっていう選択肢を選べないんだ。
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第12話
真美さんに誘われたときの欲には素直なくせに、こんなにも重要な場面では、勝てる自分が想像できない。
「ん?ヨゴレさぁ、また漏らすのか?入学式のときもそうだったよな!いまでも、鼻に臭いが染みついちゃってるよ、なあ、お前もそうだろ?ああ、違うか。お前の家そのものが臭かったな」
それを聞いた大場が吹き出し、僕が剛君を盗み見るとトイレの奥で肩を震わせていた。
真美さんと出会ってからの数日、僕らは、曲がりなりにも考え方を変えられたし、その分、どうにかなるって精神も知らぬ間にあったのだと思う。ただし、それは、頭の中でだけに過ぎなかった。こうされたらこう、こうきたらこう返す、絵空事を並べるなんて誰にでも出来ることだ。
「はは、泣いてるよ!それにしても、ここで泣くなんてケガレには似合ってんなぁ!お前に用意されたトイレじゃねえの?」
頭上からの白木の声に、僕は奥歯を締めた。
どうしてこんなことを言われなきゃいけないんだ。
どうしてこんなことをされなければいけないんだ。
僕も剛君と同じように涙が溢れだす。公衆トイレの臭気や床の汚れなんて気にせずに、声を喉の奥で止めるなんてこともしないで、額を床のタイルにつけて唸った。
「うわっ、きったな!マジでヨゴレだな」
どっちが言ったのかなんて分からない。分かってもなにも言い返せない。殴り合うなんてできない。
これは、僕らにとってのせめてもの抵抗だったのだろう。それでも、暴力ってものは易々も訪れる。
「はいはい、泣いてても終わんねえからさ。それとも、涙で床を濡らして顔でも洗ってんの?なら、手伝ってやるよ」
僕の後頭部に、スニーカーの底が当たる。それを振り払うなんて発想もなく、ただただ、泣き崩れる僕らにつまらなくなったのか、白木の標的が買い物袋に移った。
「そういやさ、お前ら、これでなにを作るって言ってた?」
耳元で、ガサリ、と音をたてて持ち上げられた袋が恐くて見上げられない。これから何が起こるのか、簡単に想像できたからだ。
やっぱり、白木が楽しそうに言った。
「これ、お前らには勿体無いから捨てといてやるよ。いやぁ、俺って優しいよな?なあ、そう思わねえか、豊」
名前を呼ばれるだけで、僕の身体は一息で固まる。
「なあ、おい、なんか言えよ。ほら、早くしろよ。おい!」
まだ僕に元気が残っているか、その確認のような怒鳴り声に、バイブレーションみたいな動きで逐一、反応してしまう。
もう、条件反射みたいになっていた。それでも、口だけは嗚咽を漏らしている。身体と口が、それぞれ違う生物のように感じる。
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第13話
そうして動けずにいると、いよいよ面倒になったのか、溜め息をついたあとで、白木が新しい遊びでも見つけたみたいな声音で恐ろしいことを口にした。
「じゃあ、あと十秒以内になにも言わなきゃ、便器の水飲ませるから」
僕は、どうしてそんなことを思い付くのかと目を見開いてしまう。怖くて、情けなくて、顔を伏せているだけの僕が、考えをまとめる時間もなく、悪魔の囁きが聞こえた。
「十秒、九秒、八秒……」
わざとらしく、ゆっくりと数を増やしていく上に、心なしか語尾が弾んで、間延びもしていた。
真美さんとの会話で、すくなからず取り戻していた自信が打ち砕かれ、卑怯な自分が胸の位置から顔をだそうとしているのが分かった。
「六秒、五秒……」
これが出してしまえば、もう戻れなくなる。それは本当に嫌だ。
けど、どうすれば良い?
時間だって残されていない。なら、いっそのこと白木に殴りかかってみようか。駄目だ、やっぱり、負けた自分の影像しか浮かばない。
頭の中が、グッチャグッチャに掻き回されていく。そして、ついに、そのときがきた。
「二秒、一秒……はい、便器けってーーい」
突然、僕の髪を鷲づかみにした白木は、力任せに僕を引きずろうとする。自然と顔が上がった瞬間、僕は叫んだ。
「いやだ……いやだ!いやだぁ!」
笑った白木が言う。
「あ?返事しないお前が悪いんだろ?絶対やめねぇ」
ブチブチと髪が容易く抜けていく感触のあと、白木の右手が僕の顎に、左手が右脇に回された。引く力が強まり、僕は必死にもがいたけど、ばたつかせていた足を大場が掴み、二人の声が揃うや、僕は持ち上げられた。行き先は公衆トイレの一番奥の個室だ。乱暴に床に落とされた僕の目の前には、和式の便器があり、冷たい汗が背中に広がる。次いで、白木の両手が僕の襟を掴んだ。
「はは、ヨゴレが好きそうな臭いだな」
ろくに掃除もされていないのか、悪臭は、思わず嘔吐いてしまうほどだった。グンッ、と身体を引かれれば、鼻先に便器の縁が当たる。
「本当に嫌だ!お願いだから!やめて!」
「はあ?テメエがいつもみたいにしてれば、こんなことにならなかったんだよ!ちょっと会わなかっただけで、イキってんじゃねえよ!」
襟が伸びて首が絞まっていき、息も苦しくなってきて、どうにか力が入っている両手が痺れ始めている。このままだと、便器に顔を落とされるのも時間の問題だった。
「うわああああ!」
「この……!いい加減、諦めろや!直人君、ちょっと手伝って……直人君?」
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第14話
理由は分からないけど、ふと、白木から力が抜けた隙に、僕はすぐさま顔をあげて、便器から離れ、荒れた呼吸を戻しながら、白木を睨んだけれど、肝心の二人は揃って公衆トイレの出入り口を見続けていて、続けて剛君を探そうと視線を送れば、二人と同じ状況で呆然としていて、なにがどうなっているのか、僕が理解するよりも早く、低い声が公衆トイレ内を通っていった。
「ここ俺らの場所なんだけど、なにしてんの?」
白木と大場の肩が上がった。それもそのはずだ、僕らも一度だけしか会ったことはないけれど、忘れられない声だった。オールバックの髪型はあのときのままだけど、昼間ということもあって、前回よりもよりハッキリと姿が分かる。半袖ティーシャツから見える太い両腕には、左に天狗、右には龍の刺青が彫られている。とくに、龍のほうが長いみたいで、 右足の膝付近に尻尾があるみたいだ。いつものメンバーなのか、残りの三人も出入り口に集まっている。あのときは、高校生くらいかとも思っていたけれど、どうやら全員、成人しているようだ。そして、三人の一番後で、新山が驚いた顔をしていた。
声の主である鬼山は、右手にもった缶を手洗い場に置いてもう一度言った。
「え?なに?シカトしてんの?俺らの場所でなにしてんのって聞いてんだけど?」
白木が慌てて姿勢を正して言った。
「違います!少し驚いてしまいまして……」
今の返しのどこに癪に障る部分があったのか、鬼山は突然、声を張って新山を呼んだ。
「かーーずーーきーー!」
白い顔をした新山が他の三人から手を引かれてトイレに突き飛ばされる。よろめきながら、鬼山の胸にぶつかった途端に、髪を掴まれていた。
「なあなあ、一毅ィ、コイツらよぉ、見覚えある気がすんだけどよぉ……なぁ?おい、見覚えある気がすんだけどぉ!」
ここで気付いたのだけど、鬼山は明らかに様子がおかしかった。
まず、しゃべり方が妙に間延びしていて、呂律が回っていない。それに、なんというか、歯医者で麻酔を打たれて腫れたときみたいに、上手く唇を動かせていないようだった。加えて、さっきから、鼻につく臭いがしている。決して、トイレの悪臭ではなく、独特で癖のある臭いだ。
「そ……ソイツらは、俺の友達で……」
新山が額の汗を拭わずに、ようやくそれだけを口にした。震える歯の音がここまで聞こえてくる。
「あぁ?なんだってぇ?聞こえねぇよぉ!一毅ィ!」
言い終えるのと同時に、硬いものが衝突したみたいな音がして、新山の顔面が左に回った。
「ぶっ!」
新山の右頬が赤くなっている。
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第15話
僕は、剛君や白木、大場が驚愕の声をあげている最中にも、匂いの正体を探っていた。やがて、小学生の頃、工作の授業でペンキを使ったことを思いだし、匂いの謎が解けた。そして、僕の視線は自然と空き缶に向かっていく。
「あぁ!?一毅よぉ、見たことあるって言ってんだろがぁ!」
ガクガクと髪が揺らされる度に、痛みで新山の表情が歪んでいく。すいません、すいません、と鬼山に謝っているが、僕らには理由が分からなかった。見たことがある、それが怒りの原因だとすれば、新山自身もなにがどうなっているのか、理解できていないだろう。
単純に鬼山は、シンナーを吸い、いわゆる、ラリっているんだ。缶の中身、あれはラベルの通りじゃない。
「すいませんでした鬼山さん!僕ら、もう出ていきますから!出ていきますから勘弁して下さい!お願いします!」
大場が鬼山の腕に飛び付くも、新山ともども軽く振り払われた。トイレに転がった二人は、恐々と鬼山を仰ぐ。
「あ?本当に悪かったと思うなら、どうすれば良いか教えたよなぁ?一毅ィ……」
新山は、ピクリ、と震えた後で、白木と大場、僕達のことすらも視認して唇を噛み、膝を立てて正座する。そして、腰を曲げると頭をトイレの床につけた。
これがなんていう態勢か知っている。土下座ってやつだ。新山は鬼山達に旋毛を晒した直後、拳を握った。
「自分のツレが迷惑をかけて申し訳ありませんでした……今後は、このようなことがないようにします……」
新山の声は、どんどんと曇っていった。その悔しさを圧し殺すために、拳を握ったのだろう。
「そうそう、分かってきたじゃねえの一毅」
僕らには新山の顔が見えないけど、きっと泣いているのだと思った。
僕らだって、学校だけじゃなく、さっきだって泣きたいときは山程あった。けど、どうしてか、新山の背中に対して、ざまあみろって気持ちがもてない。
機嫌を戻したらしい鬼山が、白木と大場に目を配る。
「おう、お前ら一毅に感謝しろよ。もう行って良いぞ」
「はい……」
返事のあと、大場が新山の肩を叩いて立ち上がらせようとしたけど、二人の間に鬼山の怒号が飛んだ。
「おい!一毅まで連れていって良いなんて誰も言ってねえだろうが!殺すぞボケ!」
白木が短く悲鳴をあげる。大場はびくつきながら新山から手を離した。
「なあ……頼むから、行ってくれよ……これ以上、鬼山さんの機嫌悪くしないでくれ……お前ら、邪魔なんだよ」
新山は、また頭を鬼山に下げて言った。
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第16話
大場の新山を見る目が陰を落としていた。多分なショックを隠せないでいるみたいだ。白木は、さっきのハイテンションはどこにいってしまったのか、ここにいる誰よりも鬼山の眉間を注視している。
ほんの少し、黙然とした時間が流れていき、すっ、と新山なら離れた大場が鬼山と、トイレの出入り口を固めていた三人に一礼して言った。
「失礼しました……僕らはここから離れます。どうもすいませんでした」
鬼山が出入り口の先頭にいた男に手を振ると、壁がスライドするように動いた。大場は、去り際に白木へ振り返り、一緒に来いと促し、白木が走り出そうとしたとき、男の一人が声を出した。
「おい、そこの袋、忘れもんだろ」
男が示したのは、僕らが買った晒が入った袋だった。白木は、怯えながら急いで袋を拾い上げる。
「あっ……それ……」
僕の細い声は、白木にだけ届いていたようで、彼は火を吹く勢いで僕を睨んだ。余計なことをして場を拗れさせるなっていうメッセージだろう。剛君もなにも言わずに、ただ俯いた。
二人の去り際、白木の表情が笑顔だったのが今でも印象に残っている。顔の筋肉ってあんなにも柔らかいんだってね。
「そこの二人も、さっさどっか行けや」
剛君が僕に肩を借してくれた。その身体は、さっきまでの恐怖が重なったように震えている。
気持ちが分かるだけに、白木にやられているとき、どうして助けてくれなかったのかと、責めるつもりはないけれど、申し訳なさそうな顔をしていて、僕まで辛くなったんだ。けれど、僕は、便器に触れた右手が服に付かないようにしていたのに、剛君は僕が歩きやすいよう構わず握ってくれる。新山と鬼山の傍らを抜け、トイレから出れば、もう白木と大場の姿はなく、バスの排気音だけが構内に響いていた。
僕と剛君が、黒崎駅の歩行者デッキへのエスカレーターに乗っている最中、剛君を盗み見れば、暗い空間では気付けなかった涙のあとが頬に残っていて、改めて、僕は自分の姿を確認する。襟は伸びきってだらしなく、左手は少し臭う。髪の毛もボサボサ、それでいて、きっと両目は真っ赤になっているのだろう。
おばあちゃんとした会話が遠い昔のように感じられる。
「豊……ごめん……ごめんな……俺、恐くて、なにもできなかった……見ていることしかできなくて本当にごめんな……」
ピタリと足を止めた剛君が嗚咽をまじえながら言った。僕は、首を横に振って返す。
「僕も逆だったら、きっと、剛君と同じだったよ……だから、大丈夫……大丈夫だから……」
靴の中で、足の指が縮まる。全身に力を入れて僕は唇を締めた。
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第17話
同級生の誰もがしていないことをして英雄になる。
僕らの目的はこれだけ……
それがどうして、こんな姿になっているんだろうか。二人して涙を流して、二人して謝りあう。
これが本当に英雄になろうとしている人間のあるべき姿かな……
僕らは、一体、なにをしようとしているの?
僕らは、一体、どうしたらいいの?
こんなに傷付けられてまで、本当にやる意味があるの?
僕は、結局、口だけだったのかもしれない。変わらなきゃいけないなんて思いながら、やられたことは、やったことは今までと同じだったじゃないか。それなら、いっそのこと、初めからなにもしなければ良かった。
歩行者デッキを往き来する大人は、通りすぎながら好奇の目を向けてくる。そこに、学校の教師が重なった。ああ、またこの視線だ。なにかあったのかと察しているくせに、余計な責任をできるだけ負わないように白々と気にかけてくる素振りを両目だけで現してくる。そんな目付きが大嫌いだ。
僕らのような最下層に位置する奴等にとって、とにかく活きづらい世の中だよ。学校でも街中でも人の顔色ばかり窺っているんだから……
バスターミナルから離れたい一心で、剛君と一緒に、歩行者デッキの簡易型エレベーターに乗って、少しだけ遠回りをしつつ駐輪場に戻る。幸い、お金は取られずに済んだ。精算を終えて自転車に跨がる。
「なあ、豊……」
覇気のない剛君が、後ろを走る僕に聞こえるくらいの声量で続けた。
「真美さんになんて言ったら良いのかな」
国道を走る車の音が、やけに耳に響く。
ホテル前を抜け、交差点の信号で横に並んでから言った。
「正直に話すしかないと思う……僕らがお金を盗んでないって証拠も持っていかれてるから……それしかないよ……」
信号が青になり、僕らはペダルを漕ぎだす。炎天下に晒された身体の火照りは最高潮、なにがあっても自然だけは変わらない。容赦のない陽射しを見上げて、僕は青空とは真逆な心境をありありと痛感した。どんより雲った胸の内は、誰かに覗かれなくたって、雨曇になっていく。
辛いことや悲しいこと、負のイメージを取り除く方法なんて、僕らは持っていなかった。
英雄になんてなれるはずがなかったんだ。
※※※ ※※※
自室に戻った僕を出迎えてくれた真美さんは、開口一番、なにがあったのかを聞いてきた。それから細かくはないけど、あったことを一通り話すと、一瞬だけ深刻そうに目尻を下げ、僕と剛君にシャワーを薦めてきた。なんでも、気分を一新するには、最適なのだそうだ。
お金を真美さんに返し、僕らは部屋を出て風呂場に向かう。
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第18話
剛君は、トイレに行くからと離れていき、僕は首回りが緩くなった服を脱いでいく。途中、また顔が熱くなってきたから、急いで浴室に入るとシャワーのノズルを高い位置にかけて、頭から一杯に冷水を浴びた。
最初こそ息を呑んだが、次第に身体が慣れていくにつれ、熱が冷めていく。
黒崎での一件から、沢山の涙を流したから、頬に跡が残っていないかと鏡で確認する。
よし、残っていない。僕は、シャワーを止めて、用意していた服に着替えて剛君を呼んだ。
すぐにトイレから出てきた剛君の眼がさっきよりも赤くなっていることに気づいたけれど、僕はシャワーを勧めるだけに止どめて、緩まった服を、誰もいないリグングのゴミ箱に放ろうとして思い止まった。お父さんやお母さんに見付かったら、きっと、追及されてしまう。こんなこまで考えなきゃいけない状況を作り上げた白木と大場の顔が浮かび、僕はゴミ箱から取り上げた服を、力の限りゴミ箱の中へと叩きつけた。
まあ、そんなことをしても、情けないだけだと思われちゃうかもしれないけど……
深い溜め息を挟んで、ゴミ箱から服を拾うと部屋に戻ると、ベッドに座って本を読んでいた真美さんが、ぱっと僕を見た。
「どう?少しは気分もよくなった?」
僕は精一杯の笑顔を作った。
「ほんの少しですけど、まあ、なんとかですかね……」
「そう。なら、剛君を待ってる間に、ちょっと二人でお話しでもしよっか」
ちょいちょい、と軽い様子で手招きをされ、僕は前のめりなって椅子に座った。組んだ両手を股間の上に置いて真美さんの言葉を待ちながら、時計を見上げる。時刻は、夕方三時十五分、あと数時間でお母さんが帰ってくる。
僕一人だったら、シャワーを浴びるよりも先に、部屋にこもって泣いていただろう。そして、お母さんを不安にさせる。そうならないようにしてくれたのかと思い、真美さんにお礼を言おうとすると、僕らは同時に声を出した。ほんの僅かに流れる気まずさを感じた僕は、真美さんに右手を向けて譲った。
真美さんは、小さく頷いて口を開く。
「晒は、その彼らに持っていかれたんだったっけ?」
「はい……ごめんなさい、せっかく真美さんがお金を預けてくれたのに……」
「それは、どうして?さっきは驚いて細かく聞けなかったけど、理由は?」
僕が唇を締めると、真美さんは優しい声音で言った。
「大丈夫、責めてる訳じゃないよ。ただ、なにがあったのかを訊いてるだけだから……話したくないほど嫌なことでもあった?」
僕は首を横に振った。
「違うんです……ちょっと、なんて言うか……」
TWD見てたらゾンビ書きたくなってきた……w
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第19話
言い澱む僕に、真美さんはなにも言わない。言葉にできるよう整理がつくまで待っていてくれているのが、ちょっとだけ、嬉しかった。もしかしたら、真美さんにも似たような経験があったのかもしれない。
僕は、腰を少しだけ浮かして、椅子に深く座り直した。
「ついこの前、僕の家に来ていた三人組を覚えていますか?」
質問に、真美さんが首を縦に動かす。
「アイツラの内、二人に帰り道でバッタリ出会してしまって……黒崎駅のバスターミナルのトイレに連れていかれました」
思い当たる場所なのか、ああ、と黒目を上にする。あれだけ人も来なかったのだから、前々から鬼山達が集まって悪さをしていたのかもしれない。それが、今回は、良い方向に運んだって訳ではないけれど。
「そこで、なんていうか……白木と大場ってやつらに、その……嫌がらせをされまして……たまたまやって来た鬼山に助けられたというか……とにかく、そのときに白木に持っていかれてしまいました……ごめんなさい……」
嫌がらせの内容は伏せておきたかった。人に話しても気持ちが良いものではないし、なにより、ちっぽけなプライドかもしれないけれど、真美さんには聞かれたくなかった。
言い終えると同時に、僕は椅子に座ったまま、真美さんに頭を下げる。
「そんなに元気のない旋毛を見せられてもなぁ……それに、怒ってないから謝らなくて良いよ」
優しい言葉をかけてくれてはいるものの、僕はなかなか顔をあげられなかった。それは、きっと、僕の中で踏ん切りをつける切っ掛けを真美さんに求めてしまっていたからだ。
僕らは、英雄になんてなれない。たから、真美さんには悪いけど、今回の一件から放れさせてほしい、こんな身勝手な願いを僕は口にしようとしている。もちろん、あれだけのことを見返りに要求していながら、どれだけ勝手な言い草だと言われるであろうことは分かっているし、責められるだろう。耐えるだけの覚悟が持てくて、つくづく、自分の弱さが嫌になる。
ベッドが軋む音がして、僕は、それが合図にでもなったみたいに顔をあげた。ほとんど、反射のような動きだったから、心がまとまっていなかった。けど、目の前にいる真美さんは、柔らかな笑顔で僕の髪の毛を撫で始める。
「大丈夫、そんなに恐がらなくても良いよ。君と剛君がお金を盗んだなんて思ってもないし、持ってこれなかったからって責める訳ないじゃない。恐いことまで思い出して、本当のことを言ってくれてありがとね」
真美さんの細い指が僕の頭を滑っていく。その優しさは、その両目は、僕が知っている大人とは全く違った。
喉が痛い
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第20話
色眼鏡なしに接してくれる両親意外の大人の存在が単純に嬉しかったんだ。少なくとも、僕らにとって救いの一端にはなりえる。
僕は、真美さんを裏切ろうとしていた。ここまで信用を向けてくれる女性を、自分の都合だけで離れてしまおうと思っていたんだ。曇空の代わりに、押し寄せてきた激しい後悔の念を喉の奥へ追いやると、頭にある真美さんの手を掴んで両手で握り返す。
「ごめんなさい……僕は真美さんを……」
僕の言葉を遮った真美さんが、くすり、と笑う。
「もう充分だから、ね?それから先は言わないで」
違うんです、と首を振れば良かったのだろうけど、僕はそれっきり何も続けなかった。真美さんの手を放すと同時に、僕の部屋の扉がノックされる。シャワーを終えて入ってきた剛君は、澱んでいた表情のまま、真美さんに言った。
「あの、真美さん……俺……」
目を丸くして剛君を迎えいれた真美さんは、剛君の声に反応して、君達って似た者同士だね、と笑い出す。すると、自然と僕も笑っていた。置いてきぼりになった剛君には悪いけど、笑っていたら、あれだけの出来事も大したことじゃないように思えてくる。
そう言えば、三國志に梅干しの話しがあったはずだ。確か、喉が渇いた大勢の兵士に、この先に梅の林があるぞ、と指をさす。すると、大軍は一時の間、渇きを忘れて再び、行進を始めた。後に英雄と呼ばれるようになる将軍の逸話なのだれど、このときの真美さんは、そういう思惑があったのかもしれないと思うときがある。
人って、意外と単純なのかもしれないなぁ……
※※※ ※※※
「そうなってくると、ちょっと不都合があるかもしれないね」
僕と剛君の説明を受けた真美さんは、ベッドの上で深刻そうな顔つきをしたまま足を組んだ。
白木と大場が僕らから奪った晒をどのように扱うかっていう話しだったのだけれど、大きな問題が浮上した。
白木と大場が晒を持っていったこと。それを前提として置いておき、二人が新山に渡してしまうパターンがあった場合、鬼山にも知られてしまうかもしれない。ナップサックを作るなんて出鱈目を伝えてはいるが、普通は晒なんか使わない。一つの嘘が、大きな不都合に派生してしまうと、鬼山が新山になんらかの指示を出すだろう。
例えば、晒をなんの為に使うのか、とか……
僕らの話しを聞いた真美さんは、すぐにその可能性に気が付き、なにか対策を立て始める。備えあれば憂いなし、どんな不安要素も先に潰してしまえば押さえつけることができるらしい。真美さんからの受け売りだ。
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第21話
まあ、つまりは、自信をもてってことだ。あのお笑い芸人の人がテレビで言っていたことの延長みたいなものだ。不安があるから自信がなくなる。たから、出来るだけ考えて、備えてさえいれば、自信なんてものは、自然と出来てくる。漠然と、自信をもて、なんて言われても分からないけれど、これなら理解できる。
僕らは、ひとまず、これから先に起こるかもしれないことをあげていった。
一つ、晒に気付いてB.Gの連中から狙われてしまうパターン、これに関しては、真美さんのお母さんが入院している病院にいくまでの間だけじゃなく、常にアンテナを張っておき、怪しい人物がいたら逃げること。不良は、見ためから入る人も多いから、わかりやすいし助かる。
二つ、真美さんの姿を見られない方法。黒崎を縄張りにしているB.Gの奴等は、恐らく、黒崎の不良をメンバーにこそいれていないが、顔は売れているだろう。もしも、鬼山が通達をしていたら、非常に動きにくくなる。タクシーで病院まで行って、偶然、なんてパターンは絶対に避けるべきだ。近辺の人が多く集まる病院っていう点は、良いことばかりではないんだ。
三つ、鬼山が新山に直接、指示をだして僕らに詰問をしてくるパターン。これがもっとも可能性が高く、もっとも難題になるかもしれない。新山は、動こうと思えば、すぐに動き出せ、僕らには、新山達への恐怖が植え付けられている。
「それも、聞かれそうなことを予め準備していたほうが良いね」
ノートの一ページを破って渡すと、真美さんは挙がっていく問題点を簡易的に、さらさらと書いていく。僕と剛君は、新山に問われそうな内容を唸りながらも出し合い、答えまで記入していった。決めてさえおけば、細かい部分についても臨機応変に対応できる。この教えは、いまでも僕のなかで息づいている。
まあ、それでも、問題は多く出てくる訳だけど……
あらかた出尽くしたところで、僕らは内容に目を通していく。うん、これ以上は想像できないってほどには埋められてる。同じく、真美さんも作業を終えたみたいだった。
時刻は、夕方六時、そろそろお母さんが帰ってくる時間帯に差し掛かってくる。その前に終わって良かった。
剛君が自宅に戻り、部屋に二人だけになると、真美さんが、思い出したように言った。
「あのさ、お店のお婆ちゃんは元気そうだった?」
「ああ、はい。元気でしたよ……あれ?なんで真美さんがお婆ちゃんのこと知ってるんですか?」
真美さんは、なんでもない、と残して、庭の塀を越えると、いつものように近くのコンビニへ夜食を買いに出掛けた。
僕は、なんとなく、気になりながらも、真美さんが寝起きしている押し入れへ入り、深い一人の時間へと没入する。嫌なことがあっても、これだけは止められそうにない。
本当、中学生男子って変なところが突出してるよね。
次回より7月28日に入ります
その前に、ちょっと新しいの書いてみます
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7月28日
この日は、僕らにとってチャレンジの一日になった。それは、本当にいろんな意味を含んでいるのだけれど、詳しくは書き表せられない。
僕は、いつものようにベッドの上で目覚め、まだ開いてない押し入れの扉を見てから部屋を出た。時刻は、朝の七時半、この時間だと、そろそろお父さんが仕事にいく頃だろう。
居間から聞こえてくるのは、今朝のニュースだ。なにやら、ホテルで死体が見つかっただの、芸能人が結婚しただの、キャスターの女性が原稿に目を落としながら喋っていた。毎回、思うのだけど、こんな似た内容のニュースを飽きもせずに毎日流していて、嫌にならないのかな。
僕は、台所に立って朝御飯の用意をしているお母さんに欠伸混じりで声を掛けた。
「朝御飯なに?」
「豊、その前に、言うことがあるだろ」
テーブルに座ったまま、新聞を顔の前で広げていたお父さんの地の底から響いてきたような声に、朝から肩を固めてしまう。僕は、出来るだけお父さんに視線を合わせずに言った。
「おはよう、お母さん、お父さん」
朝から怒られるのはごめんだ。それに、なにやら、今日はお父さんの機嫌が悪いみたい。恐る恐る食卓につくと、お母さんが味噌汁とご飯、目玉焼きをテーブルに置いていく。その様子を黙って眺めていた僕に、お父さんが少し冷えた口調で言う。
「豊、お前、夏休みだからといって気を緩めすぎているんじゃないか?」
ガサリ、と新聞を畳んでテーブルの隅に寄せ、お父さんがメガネを取った。
最近、老眼っていうのがキツくなってきたと買い替えたメガネは、畳んで胸ポケットに納める。
「学校があるときは、六時半には起きてきていただろう。それに、お前、昨夜も遅くまで起きていたみたいだな」
僕は、なんだか箸を持つことが出来なくて、俯いた。昨夜どころか、僕はここ数日間で、とんでもないことに巻き込まれている。それに、真美さんとも、ちょっとだけ、話しをしたりもしていた。
まさか、それを聞かれてしまったのか、と心配した矢先、味噌汁を啜っていたお母さんが僕に柔らかく言った。
「あのね、豊、長いお休みだから、ちょっとだけ普段とは違うことがしたいって気持ちは分かるの。けどね、もしも、このまま続けてたら、学校が始まったとき大変なことになっちゃうわよ」
お父さんが手を合わせて茶碗を持ち上げた。どうやら、ここから先は、お母さんの出番みたいだ。
「大変なことって?」
お母さんは、横目でお父さんを盗み見て微笑んだ。
現在、別のサイトで感染の追記、修正を行った分をアップしています。更新頻度の低下申し訳ありません
落ち着いたら元に戻ります。
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第2話
それだけで、なんとなく察してしまう。自分でお金を稼ぐことができない僕の持ち物は、すべて両親から買い与えてもらったものだ。ゲームやスマートフォン、漫画だってそうだ。きっと、お母さんは目線だけで僕に教えてくれたんだろう。
夜中に二人が僕について話し合って、僕の夜更かしの原因になっているものはなにか、そして、それを取り上げるとしたら何が有効なのか、多分、そんな会話をしていたのだと思う。実際は、これからについて真美さんと話し合っていたのだけど、そんなことを素直に言えるはずもない僕は、心に広がった暗い影を残すことになった。後ろめたいって気持ちは、罪悪感とよく似ている。
だけど、僕にだって言いたいことは沢山あるんだ。
夜中に僕が起きてることには気付くのに、どうして、学校での出来事に気付いてくれないんだ。僕の様子がおかしいことだって、一杯、あったはずなのに、どうして、僕だけがこんな思いをしなきゃいけないんだ。昨日だって、あんなことがあったのに!
僕は、膝の上で両手を握って顎が痛むほど食い縛った歯を割った。
「ごめんなさい。ちょっと休みが続いてるからって気が抜けてたのかもしれないや……」
魔法の言葉に、反省を足す。真美さんに指摘されて以来、自然と口にするようになった。自分を鑑みて、なにがどう悪かったのかを理解すること。だけど、これは遺骸と難しいことで、だからこそ、説得力を生み出す。勿論、こんなことよりも先に言ってやりたい言葉はある。どうしても喉から出てこないけどね。
「そうだな。 まあ、お父さんも中学生のころは似たようなものだったけどな、やはり、いまになって後悔しているよ。お前には、そうなってほしくないんだ」
お父さんが茶碗を持ってから、僕はようやく箸を持った。食器と箸が当たる音とテレビから流れるニュースを読み上げる声、それ以外は静かな食事風景、よその家庭はどうなのか知らないけど、これが僕の家では日常的な朝だ。良いのか悪いのか、そんなこと僕は分からない。
僕は、さっき浮かんだ思いを、ご飯と一緒に飲み込んだ。
朝食を食べ終えたお父さんは、いつものように茶碗を鞄に持ちかえて仕事へ向かった。お母さんが食器を洗っている内に、僕は自分からすすんでお風呂場の掃除をし、ゴミ出しをしてからお母さんに宿題をするからと声を掛けて、真美さんが待つ部屋に戻った。こうしておけば、お母さんが部屋に入ってくることはないはずだ。
押し入れの扉の前で、わざとらしく欠伸と伸びをする。これが前日に真美さんと決めた合図だった。
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