ジャガーノート (厄災猫@)
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1.ホムンクルス殺人事件
あらゆる生あるものの目指すところは死である。
ジークムント・フロイト
Sigmund・Freud(1856 – 1939)
『所詮、数の暴力の前では個人の武など無意味。——俺が憎いか?【⁇⁇】よ』
「……………」
『成る程、成る程。殺したいほど憎いか。身体は焼け、手脚は捥げ、肉は千切れ、全身穴だらけになり、芋蟲のように地を這い蹲っても尚、闘志を失わぬその眼は素直に称賛しよう。——だが、駄目だ』
「・・・・」
『死者に次は無い』
「・・・・」
『死して尚?——馬鹿馬鹿しい。死ねばそこに在るのは「無」だ。未来永劫続く「無」の世界。それ以外に何も無い空虚な空間。当然、お前の激情はそこに入り込む余地もない。この俺が幾ら憎けれど、その感情に最早意味など無い。何故ならお前は数分経たずに「無」に還るからだ』
「・・・・」
『それでも尚、理解した上でその眼をやめないか』
『——もしかしたら貴様、自分は死なないとでも思ってるんじゃないか?』
男が口角を吊り上げ、右手の引き金を引いた瞬間。
世界は暗転した。
◆◆◆
ナザリック大墳墓で働くメイド達は総勢41名。
これはプレアデスと呼ばれる戦闘メイドを除いた人造人間(ホムンクルス)の一般メイドの総数であり、ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』の至高の41人と同じ数である。
彼女たちは総じてレベル1という弱者であり、主にナザリック内部での清掃や一般雑務をこなす。
メイド長としてペストーニャ・S・ワンコがその指揮を執り、日夜ナザリック大墳墓の為に働いているのだ。
その一般メイドのうちの一人、シクススと名付けられたメイドは、普段通り恙無く自身に割り当てられた業務を遂行していた。
「えーと、今日の当番は・・・」
シクススは一般メイド達共用の控え室にある巨大なホワイトボードを確認する。今日の主な業務は粗方終え、残すところは一般メイド達に与えられた最も光栄な任務である至高の方々のお部屋のベッドメイクである。
至高の存在の自室に入室する以上決して失敗することは出来ず、常に完璧を求められる非常に重要な作業である。
それと同時に自分達の存在意義を改めて実感できる大事な仕事であるのだ。
「あれ?シクスス。今日のおしごとは終わったの?」
「ん。今から至高の方々のお部屋のベッドメイクが残っているわ。一番大切な務めよ」
後ろから声を掛けてきたのはシクススの同僚であるフォアイル。
肩口辺りまで切り揃えられた髪と、他の皆と比べ少しだけ裾の短いメイド服は活発な印象を与える。
シクススとフォアイルそしてここには居ないがリュミエールの三人は同じ創造主から造られた故に特に仲が良く、いつも一緒にご飯を食べるほどである。
「ふーん。いいなぁ。私は一番最初に終わらせちゃった」
「楽しみごとはとっておくタイプなの」
至高の存在の自室のベッドメイクは毎日行われるが、担当する部屋は日によって違う。メイド長であるペストーニャ・S・ワンコが割り当てを決めているのだ。
そして日課のうちでその作業を行う時間は特に決まっておらず、基本的に好きなタイミングで行えるが、制限時間は決まっている。
何故なら無制限にしてしまうと彼女ら一般メイド達はいつまでも、至高の存在の部屋でベッドメイクをし続けてしまうからだ。
「それでシクススはどの至高のお方の部屋なの?」
「それを見にきたのよ」
まるで自分の事のように目を輝かせるフォアイルにシクススは苦笑しながら今一度ホワイトボードを見た。
「『ジャガーノート』様」
シクススはその貴い名前を確認すると思わず生唾を飲み込んだ。
何度その名前を見ても慣れない。しかし今更不敬であるとも思わなかった。
隣のフォアイルも普段の元気な成りを顰め、真剣な表情で目を僅かに細めていた。
至高の41人が一人、『ジャガーノート』とは彼女達にとって特別な意味を持つ。
いや、同じ至高の存在の方々でも特別な意味を持つ名前であった。
その名の持ち主は至高の存在の中で唯一、崩御なされたと公言された存在であった。
まだナザリック大墳墓に至高の方々が頻繁にお見えになられた頃、ギルドマスターでありナザリック大墳墓の主であるモモンガよりその事実は公表され、そしてその言の通りその後一度たりともお戻りになられることは無かった。
至高の方々も嘆き哀しみ、ナザリック大墳墓で執り行われた葬儀の日にはナザリック外からも様々な異形種の存在が集い喪に服した。
その異形種達は、ジャガーノート様のご生前のフレンドだと言っていた。
そして至高の存在が41人全員が一堂に会したのはそれより先、今に至るまで無い。
ジャガーノートの墓はモモンガの手によって地下8階層の荒野の片隅にひっそりと建てられ、特別な日に限りナザリックに住む者達はその墓を参拝している。
ナザリックに於いて力の象徴であり、ワールドチャンピオンであったたっちみーと凌ぎを削る程の実力者であった彼の魂は、今も静かに皆を見守っているのである。
◆◆◆
神と同意義である至高の存在の中でも更に神格化されたジャガーノートの部屋の前にシクススは立っていた。
今や文字通り聖域と化した部屋の前で緊張しながらも決められた手順通りに挨拶をする。
「ジャガーノート様。一般メイドのシクススです。お部屋のお掃除に参りました」
そして返事が無くとも三分間その場で待機するのがルールである。勿論緊急時を除く、という注釈がつくがそもそも緊張対応が必要な仕事など一般メイドである自分達に回ってくる事はまず無い。良くてプレアデスの姉妹までだ。従って部屋の中に誰も居ないと判っていてもじっと待つのが彼女達の仕事であった。
三分経ったのち、ノックして今一度確認をする。
「ジャガーノート様。失礼致します」
と。
そこでようやく自らドアノブに手を掛け入室が許されるのだ。
確実に存在していない人物に対し敬意を祓い、返って来ない返事に未だ伺い立てる事をシクススは馬鹿馬鹿しいとは思わない。
寧ろそんなことを考える存在はナザリックには皆無だろう。
「あれ?・・・うそ」
シクススが異変を感じ取ったのは部屋に入って直ぐだった。
腥い血の匂い。しかしその中にどこか懐かしい匂いが混ざる。間違いなくこの部屋の奥に生き物の気配がある。至高の存在の部屋の中に勝手に侵入した愚かな存在か、或いは。
本能的に、シクススは前者では無いと確信していた。
だが、同時にかの至高の御方が
だからこそ判断が鈍ったのかも知れない。
その願望を現実に変えるために。
気付いたその時にはナザリックに務めるメイドとして有るまじき行動をとっていた。
「ジャガーノート様っ!!」
小走りで部屋の奥へと進む。近付くにつれて溢れ出す饐えた鉄の匂い。怪我をしているのかも知れない。そう考えれば一層動悸が激しくなった。急いで手当てしなければ。ペストーニャ様を呼ばねば。
「ああっ!ジャガーノート様!」
悲痛な声が漏れる。
新雪の様な純白の羽毛布団を染上げる真っ赤な染み。
キングサイズのベッドの袖から滴り落ちる夥しい血液が、総檜で仕上げられた床に落下する度に跳ねていた。
彼女ら、戦闘能力を有さない一般メイドのシクススでさえ判るほどの危機的状況。
即ち、『致命傷』である。
シクススは無言ですぐ様ベッドの脇に駆け寄り布団に手を掛けた。
「——え?」
だが、その手首は逆に掴まれ、そしてそのまま身体ごと布団の中へ引き込まれていった。
◆◆◆
人間には三大欲求と呼ばれるものがある。
身体機能を十分に活かす方法である生きる糧を得る為の『食欲』。
脳の機能や思考を明確明瞭にし、生きる為の智慧や知識を蓄える『睡眠欲』。
全ての生物に備わる、その種を遺すための『性欲』。
そのいずれも生存に欠かせないものであり、並大抵の事では抗えぬモノ。
それは勿論人間に比較的近い身体的特徴を持つ亜人種にも適応される。
その三大欲求のうちの一つ。
中でも『性欲』に関しては、死の際に瀕した時に尤も発揮されると言うのが通説だ。
己という種を残そうと本能的に思考ではなく、身体が働き掛けるのである。
自殺、他殺、事故死。それぞれ死亡した成人男子の約6割が死の瀬戸際に無意識に射精をしているという統計は、それを裏付けるには十分に過ぎる情報であろう。
そして今。
『ジャガーノート』は混乱の最中に居た。
2mを超える鍛え上げられた巨躯を血で染めた彼は、ベッドで横たわる裸の少女を見下ろしていた。
(死んでいる・・・目立った外傷は無いが状況的に俺がやったのは間違いない。だが、現状が全く分からん)
痛みで目覚めたら自分が覆いかぶさる形でこの少女の上になっていた。すぐさま飛び退いたものの時すでに遅し。
少女の呼吸は止まり、心臓も動いていなかった。
恐ろしく造詣が整ったこの少女との面識は記憶を辿る限りない。
少女は雪の様に淡い純白の肌を血で真赤に染めているがこれはジャガーノートの血である。
今も彼の全身からは止め処なく血が流れ続けていた。
今自分が置かれている状況を今一度整理してみるが理解が追いつかない。
(俺は間違い無く死んだ筈・・・しかし生きている。・・・生きてはいるが、身体全身が痛え。骨だけじゃなく内臓も逝ってる。だが耐えられないほどでは無い)
しかし常人より遥かに痛みに強く身体が丈夫な彼でさえ、今の状態はマズイと感じていた。
(もたもたしてると失血死する方が早いか。……すまない。名も知らぬ少女よ。責任は出来る限り取ろう)
横たわる少女に乱雑に破かれたメイド服のような布切れと布団を被せ、この部屋を出ようと踵を返す。
一歩歩いた所で彼は立ち止まり、脇腹からはみ出していた腸を無理矢理腹の中に戻す。そして足首が折れていたので引き摺るように扉を出て行った。
部屋には死んでいるとは思えないほど穏やかな顔をした少女の遺体だけが残されていった。
——この時既にジャガーノートの思考は元であった人間のソレとはかけ離れていたが、彼もそれに違和感を覚える事は無かった。
◆◆◆
カチ、カチ、と機械式の掛時計が針を刻む。
「おそいね。シクスス」
「そうね……時間目一杯までベッドメイキングに費やすのは当たり前。だけどもう十分も定刻を過ぎてる」
「報告を忘れてるとか?」
フォアイルが心配そうに言った。
「あの子に限って・・・いえ、
リュミエールは一つの可能性を否定し頭を振った。
至高の存在に仕えるメイド達はその様な下手は打たない。当然有ってはならない事であり、その様な事例も過去には無い。
「階層守護者様に何か頼まれごとをされたとか?」
アインズに次ぐナザリックでの上位存在である階層守護者達の命令ならば、一般メイド及びそれ以下の存在は従わなければならない。
その可能性は充分にある。何か急用事やアインズ様に関わる重要な任務を与えられたかも知れない。
だがリュミエールはそれが理由だとは思えなかった。
「……そうかも知れない。だけどなんだか胸騒ぎがするわ」
「んー言われてみれば確かに嫌な感じはするね。とりあえずペストーニャ様に報告してみる?何か問題が発生したらすぐに連絡してっておっしゃってたし」
少し前にアインズが階層守護者達に報連相の重要性を説いた話は末端まで隈無く伝わっていた。
リュミエールは机の上にある魔道具でペストーニャを
アインズ様がその慈悲深さから休憩所に設置してくださった魔道具である。
電子音が受話器から一度だけ鳴り、直ぐにペストーニャの声が聞こえてきた。
「……何かありましたか?」
「ペストーニャ様、リュミエールです。あの、シクススが『ジャガーノート』様のお部屋のベッドメイキングに行ったまま帰って来ません」
「わかりました。念の為セバス様に報告し、捜索しましょう。何かトラブルがあったのかも知れません。貴方達は一旦業務を中止して、待機しなさい。……わん」
「分かりました」
ペストーニャは言うや否や直ぐにセバスへと連絡を取る。一般メイド達のまとめ役である彼女も今回の件は、何か良くない事が起きたのではないかと感じていた。
ナザリック大墳墓の上位者達に何か急用を頼まれたにしてもメイド長である自分に連絡が来るはずである。
それが無いと言うことはシクスス自体に問題が起きたという事他ならない。
セバスとメッセージを繋いだペストーニャはジャガーノートの部屋に向かいながら言った。
「セバス様。シクススに何か問題が起きたようで、ジャガーノート様のお部屋に行った後帰ってこないとの事です。何か聞いていませんか……わん」
「いえ、私は何も聞いていませんよ。探したのですか?」
「今向かっているところです。一応メイド達は一旦業務を停止しし待機させています」
セバスは悩んだ。直ぐに統括であるアルベドに報告するか自分達でとりあえず対処するかを。
報連相の重要性はセバスもペストーニャも重々承知している。
だが、ナザリック大墳墓が転移後で忙しい時期に、こんな些細な報告も一々あげて良いのかと。
守護者統括であるアルベドの仕事量は既に途轍もないものである。これ以上負担を増やしては申し訳ないと考えていた。
「……分かりました。もし見つからなければアルベド様に連絡しましょう」
故に、この場はペストーニャに任せそれでも問題があれば報告しよう、そう決めた。
——だが、それは直ぐに改めさせられる事となった。
「かしこまりまし——ッ!?」
「どうしました。ペストーニャ。……ペストーニャ?」
メッセージを取り合っていたペストーニャから言葉が消えた。
「ッ!血痕があります!廊下に続いて……ジャガーノート様の、部屋から夥しい血の跡が!!」
「何だと!?」
ペストーニャが見たのは赤絨毯の上にでも分かる程の夥しい血痕。それは何か引きずった跡のようにその先の曲がり角まで一直線に続いていた。
その血痕は目的地であった至高の41人が一人ジャガーノートの部屋の扉から続いていた。
流石のセバスも異常自体であると判断する。
「直ぐにアインズ様に連絡を取ります。直ちに階層からメイド達を退避させ、アルベド様に報告しなさい」
しかしペストーニャは既に血を見た瞬間には走り出していた。
彼女の職業とカルマ値を考えればそれは当然であった。誰かが怪我をしている。或いはシクススが大怪我をしているのかも知れない、と。
そして彼女は衝撃的な光景を見てしまった。
「シクスス!」
血塗れでベッドに横たわる愛すべき部下の姿を。あられもない姿で無雑作に寝かされた彼女の遺体を。
そして普段のペストーニャからは考えられぬか細い声で、セバスに告げた。
「せ、セバス様、シクススが、死んで、いま、す」
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