こんなふぇいとはいやだ (くまー)
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ほんぺん
ぷろろーぐ


頭の中身がどうしようもなくなった時に出来たお話。
注意書きにもある通り基本的にシリアスは無し。(多分)
更新は頑張る。

こんなの書いていないのでちゃんと連載作品終わらせろ?
仰る通りでございます……


 せかいのどこかでだれかがいいました。

 

「やぁ、そこのしょうねん! このせいはいのちからで、きみのねがいをかなえてあげようじゃないか!」

 

 どこかのだれかがこたえました。

 

「あぁ? ハッ、だったら呆れるくらいバカバカしくて素敵な世界にしてみろよ」

 

 それがすべてのはじまりはじまり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛宮士郎は朝から気が狂いそうだった。

 

 

 

 まず自宅の道場で朝の筋トレをしていたら、セイバーがやってきた。

 ……それは別にいい。何の問題もなければ珍しい事でもない。剣士の名を冠する彼女は、朝は道場で精神統一をしている事が多いのだ。何なら家主である士郎よりも早くに道場に居る事だってある。

 ただ何をトチ狂ったのか。彼女は筋トレ後で汗だくの士郎を見て、開口一番にこう言い放った。

 

「シロウ――――貴方を愛している」

 

 ……この言葉を聞いて。身体を動かすことも、言葉を発する事も、思考する事すらも停止してしまった彼を誰が責められるだろうか。

 人生初の逆プロポーズである。それもまだ学生の身で。良く知る人物から。かつては文字通り命を預けて戦った人物から。

 

「あー……セイバー?」

「愛している」

 

 真っすぐに。視線が、言葉が、士郎を貫く。

 その視線には一切の冗談の色は無く、彼女が真剣であることは疑いようがない。何より士郎は、彼女が決して冗談や酔狂で言葉を弄する人物ではないと言う事を知っている。

 早まる鼓動。上昇する体温。たったの一言で顔を真っ赤にされたのは鏡を見なくても分かった。

 何か言葉を発さなければならない。だが、何を発すればいいのか分からない。堂々巡りの思考。完全なフリーズ。もしもそんな彼を見てヘタレと宣う輩がいるとすれば、それはきっとただの考えなしの馬鹿だけである。

 

「シロウ」

 

 フリーズしている間に近くまで来たセイバーが、士郎の右手をその柔らかな両手で包み込んだ。そして翡翠色の潤んだ眼で士郎を見上げる。そっと名前を呼ぶ。

 ただのそれだけ。それだけで士郎の脳みそは簡単に揺さぶられた。理性だとか感情だとか本能だとか、そんなものは簡単に消し飛んだ。士郎は人の姿を真似ただけの、肉と皮袋だけの塊と成り果てた。それはつまりは、色々と意識がオーバーフローした事による思考の放棄である。

 

「へ?」

 

 ふわり、と。フリーズしていた身体が宙に舞う。視界が流れる様にセイバーから天井へと映像を映し、一瞬遅れて破裂音がすぐ傍で響く。

 

「凛! 士郎に当たったらどうするのですか!?」

 

 そして怒号。士郎は知っている。彼女がこれほどまでに声を荒げるのは、本気で怒った証明であると。

 だが相手――遠坂凛も然るもので、身も竦むような怒号を涼やかに受け流す。

 

「性欲しか頭にないメス猿が何をほざくのかしら? いいから士郎を離しなさい、セイバー」

 

 違った。涼やかでも何でもなかった。それは溢れそうになる感情を無理矢理に抑えているだけの声だった。

 本気で怒っている、どころではない。二の打ち要らず、真っすぐ行ってぶっ飛ばす、殴っ血KILL。士郎の視線の先では、灼熱の太陽の如く真っ赤に染まった凛の右手が光って唸っている。

 

「今なら士郎に触れたその汚らわしい両腕を消し炭にするだけで許してあげる」

「嫌です。決して離しません。貴女こそ立場を弁えたらどうですか?」

「ハッ、偶然サーヴァントに選ばれただけの分際でよくそこまで言えるものね。弁えるのはどちらかしら?」

 

 何、一体どうなっているの?

 きっとそんなことは言ってはいけないのだろう。

 だって原因は何故かは分からないが士郎にあるのだから。

 でも思うだけなら自由だ。

 口にしなければ問題とはならない。

 

「皆で定めたルールを守らずに抜け駆けするなんて、人として風上にも置けないわね」

「魔術師には言われたくないです。知っているんですよ、放課後デート」

「……偶々帰りが一緒だっただけよ」

「学校を出て、ファンシーショップに行って、海浜公園に行ったり、喫茶店でお茶したり。それの何が偶々ですか。ライダーが見てましたよ」

 

 空気が凍ると言うのは、きっとこのような状況の事を言うのだ。そう士郎は思った。混乱していた頭が一周して冷静を取り戻していた。と言うか戻らざるを得ないほどに恐ろしかった。

 士郎は静かにセイバーの腕から離れ、場の中心から逃れる様に2人から退避する。普段ならば諍いを止めるべく動く士郎だが、流石に今の訳が分からない状況では下手な行動は出来なかった。

 ……離れる間際寂しそうにセイバーが声を漏らし、勝ち誇ったように凛がドヤ顔を決めていたが、状況を把握する為には致し方が無い事だ。

 

 ただ、まぁ。

 結論を言ってしまえば、それだけで把握して解決に導けるほど単純な状況ではなかったのだが。

 

 結局士郎は、言い争いをしている2人を置いてその場から静かに退避した。その判断は決して間違っていない。寧ろ誰が責めることが出来るだろうか。誰がその場を諫めることが出来ようか。と言うか止める為に声を挙げたが全く聞いてくれなかった。それよりも2人から退避する様に薦められたくらいだった。

 恐ろしいのはこの一連のやり取りが、まだ一日が始まって間もない早朝6:00から行われていた事である。

 この出来事に比べれば、出た先で三つ指をついてライダーが待っていた事や、わざわざ手を引かれて居間へ通された事や、妹分である間桐桜にライダーと同じように三つ指をついて出迎えられた事や、士郎の好物ばかりで朝食が用意されていた事や、弁当が用意済みである事や、その他登校するためのあらゆる準備が整っていた事なんて、何の問題でもない些細なことである。

 

 そして今朝のこの状況は。

 衛宮士郎が気が狂いそうになる案件の一つでしかなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「衛宮先輩、お早うございますっ!」

「あ、ああ。お早う」

 

 これで何度目だろうか、通学路を歩きながら士郎は思った。顔を赤らめた女生徒が、士郎に挨拶をして走っていく。そしてチラチラと後ろを見ながら、士郎と一定の距離を保って先を歩くのだ。

 最初は何かの罰ゲームの対象にでもなっているのかと思ったが、流石に状況が連続すればニブチンな士郎とて察しは付く。今や士郎の周りは一定の空間を開けて女生徒で囲まれている。その全員が赤ら顔でキャーキャー言いながら興奮している様子を見れば、士郎とて察せて当然だ。

 

「衛宮様、ありがとうございますっ!」

「……どういたしまして」

 

 もはや挨拶の意味も分からない。何故感謝されなければならないのか。何故自分は応えているのか。状況が不明すぎて士郎の頭は全く追い付いていない。と言うか何故様付けなのだ。

 いや、感謝なら良い方だ。興奮して鼻血を出したり倒れた子もいた。そう言った子は例外なく誰かしらに回収されて女生徒群の中に担ぎ込まれていったのだが、士郎の疑問は深まるばかりである。

 ……学校はまだだろうか。きっと学校に着けば何か分かる筈。

 一切の根拠は無い。が、その判断に縋る様に士郎は足を進めるしかない。後戻りをする選択肢はなく、誰かに助けを求める考えも無い。一番に頼りになる面々が揃いも揃っておかしくなっていた事を考えると、士郎の考えは至極当然と言えよう。

 

 だけれども。

 そんな士郎の希望は叶うなんてことは無い訳で。

 

 

「……」

 

 溜息を吐きたくなるのを堪えて士郎は眉間を優しく揉んだ。酷く頭が痛かった。

 学校に着いてからも状況は一切変わらない。

 右を見ても左を見ても。前を向いても後ろを向いても。

 そのどの方向からも熱っぽい視線を感じる。何をしていても熱っぽい視線を感じる。

 そしてその視線に反応して、ちょっとその方向へ視線を向ければ。女生徒たちが赤ら顔で慌てふためいている。

 

「……何だよ、コレ」

 

 呟いたところで答えなんて出るはずも無いのだが。

 兎にも角にも士郎は鉄の自制心で己を無理矢理に律すると、視線を無視して教室へと早足で向かった。いつまでも好奇の視線に晒されているのは精神衛生上全く良くは無いからだ。

 心は硝子。血潮は鉄。

 心は硝子。血潮は鉄。

 己にそう言い聞かせて士郎は現状を意識外に無理矢理追いやる。

 そうして自分の教室を開けて――――すぐに閉めた。自分の意識を確かめる様に頭を叩く。息をゆっくり吐き出す。胸を軽く叩いて落ち着かせる。

 それからもう一度扉を開けた。

 

「お早う、衛宮」

「……お早う、一成」

 

 柳洞一成がいる。それは別に不思議な事ではない。同じクラスなのだから当然だ。

 柳洞一成しか男がいない。それはおかしなことだ。このクラスの男女比は半々くらいだった筈だ。

 

「……一成だけ、か?」

「ああ。そうだ」

 

 女子。クラスを埋める女子。右も左も前も後ろも女子。こちらに熱っぽく視線を向ける女子。

 男は士郎と一成のみ。

 士郎は理解できずに、思わず一成の前の席に座った。そこは士郎の席ではない。ただ目に付いたから座っただけだ。

 どこからか聞こえるありがとうございます!と言う声。

 士郎の頭が再び痛みを訴え始める。

 

「……なぁ、一成。クラスって、こんなんだったか?」

「気持ちは分からなくも無いが、何も変わらないな。いつも通りだ」

「そうか……」

 

 どうやら日常は士郎が知らない間に一変していたらしい。それもずっと昔から。確かにあった筈の昨日までの日常はどこに消えたのだろうか。そもそもおかしいのは世界なのか、それとも士郎なのか。

 

「衛宮。具合が悪いなら休んだ方が良い。女狐と言い、連日の件と言い、お前は自分の身を顧みなさ過ぎだ」

「……いや、大丈夫だ。平気だ」

「その顔色で納得すると思うのなら大間違いだ。」

 

 鏡を見てみろ。そう言って一成は手鏡を渡してきた。素直に受け取り見てみれば、そこには疲労困憊の自分の顔が映っている。

 起床からここまで。約3時間。

 3時間で人はここまで疲れ果てられるのかと、変な方向に士郎は感心してしまう。

 

「悪い、一成。ありがとう」

「俺としては休むことを勧める。保健室は嫌だろうから、自宅に戻るのが最善であろう。今の衛宮の顔を見て無理強いする奴はいまい」

「いや、大丈夫だ。一成に会ったら元気出た」

「……その言葉で騙せると思うな。……或いは、帰るのが嫌なのか?」

 

 小声で。柳洞一成は衛宮士郎の身を案じる。何もかもがおかしくなった世界で、この友人は変わることなく士郎に接してくれる。その事実に不覚にも士郎は涙しそうになった。

 気づかれぬ様にそっと息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。そしてこれ以上は案じさせないように口を開いた。

 

「大丈夫だ。本当に、大丈夫だ」

「衛宮……」

「心配してくれてありがとう。確かにちょっと参っていた。だけど、もう平気だ。ちょっと混乱していただけだ」

 

 疑う様に視線を向けてくる。だがもう揺れない。確かに参っていたし、気が狂いそうだったけど。もう自分を律することが出来る。大丈夫になったのは本当だ。

 一成は暫し士郎の顔を見た後、思いっきり盛大にこれでもかと思うほどに大仰な溜息を吐き出した。士郎の変わらぬ頑固さに折れたのは明白だ。

 

「……女狐だな」

「へ?」

「待ってろ、衛宮。必ずあの女狐を退治してお前を救ってやる」

 

 違った。折れていなかった。何故かは分からないが敵愾心を燃やしているのは傍目にも分かった。

 ゴメン、遠坂。心の中で謝る。士郎の混乱に関係無くは無い――どころかまさに彼女はピンズドな原因である為に、士郎は一成に強く言えなかった。嘘が苦手なのはこの男の美徳であり悪癖でもある。

 

「あー、一成、それより、慎二は? アイツはいないのか?」

 

 無理矢理に士郎は話題を変える。これ以上凛の事について話が膨れ上がるのを避けるためではあったが、まだ見ぬ友人の一人が気にかかるのは事実だ。

 朝に桜と話した話題に出ていたので、このおかしな世界でも存在しているのは間違いない。

 だが一成は盛大に今までで一番大きな溜息を吐き出すと、忌々し気に眉間に皺を寄せた。

 

「……一成?」

「あ奴なら……大方女生徒と遊んでいるのだろう。貞操観念の緩い奴だからな」

 

 酷い言い方である。確かに慎二には女性好きの気があるが、幾ら何でも一成が言うほどに酷くはない。……酷くはない筈だ。

 友人に対してそう言い切れないのは、今朝から殆ど何一つとして全く士郎の記憶通りに正常に動きやしない世界のせいである。おかしくなったセイバーと凛、気が利きすぎる桜とライダー、何故か女性徒ばかりの学校、堅物化が増した一成。……これらの前例を考慮すると、女性好きが高じたくらいなら現状何の問題もなさそうである。

 

「……一成。葛木先生は――――」

「お兄様なら引き篭もっておられる」

 

 そうか。士郎は一成の言葉を聞き流した。彼は深く考えることを止めた。受け取ったままに言葉を飲み込む。余計な思考を止める。士郎にしては迅速にして的確且つ最善の判断だった。

 それはこの状況についていけずに、ついに思考がオーバーフローした結果とも言える。が、精神を守るための致し方ない本能的な防衛だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業自体はつつがなく終了した。一成の不機嫌度が時間を追うごとに酷くなり、慎二が結局学校を無断で欠席し、士郎の精神的疲労度が加速度的に増していったが、つつがなく終了した。

 

 

 

「士郎ぉぉおおおおおおおおっ!!! 一緒に帰りましょう!!!」

「衛宮ぁぁああああああああっ!!! 私と勝負しろ!!!」

 

 帰りのホームルームが終わる。途端に喧騒に包まれるクラス。一層の激しさを増した視線。思わずため息を零してしまったのは不可抗力と言う奴である。

 だがそんな状況を切り裂くように、大声と共にクラスの扉が開け放たれる。ものすごく聞き覚えのある声。しかめっ面になる一成。何故か周囲からため息が零れる。そして扉の外には美少女が2人。

 

「さ、晩御飯を買いに私と商店街に行きましょう!」

「私と弓道で勝負しろ、私が勝ったらデートしよう!」

「は?」

「あ”?」

 

 何故かおかしくなってしまった遠坂凛。

 やっぱりおかしくなっていた美綴綾子。

 その2人が。士郎たちの教室の前でメンチを切り合っている。2人とも普段ならば決して見る事の無いような酷い表情だった。きっとこの2人を前にしたらランサーも裸足で逃げ出すに違いない。

 

「士郎は私と帰るの。ゴリラは帰って」

「いつもの優等生の皮が剥がれてるぞ、化け猫。アンタに衛宮は相応しくない」

「勝てもしない勝負に何を賭けているのかしら。士郎の時間を不当に拘束しないでくれる?」

「アタシは一戦して負けたらそれで終わりだ。衛宮を連れまわすアンタの方がよっぽど酷いだろ」

「随分な言葉ね、一緒に帰っているだけよ」

「三時間も連れまわしといてか? 随分とお花畑な頭だな」

「はぁ?」

「あ”あ”?」

 

 またか。一成が言い争う2人を見て溜息を吐いた。どうやらこの2人の言い争いは通常営業らしい。士郎は今まで一度も見たことが無いけど。見たくも無かったけど。

 一成が耳打ちする。

 いつも通り今の内に帰るぞ。

 放って置いて良いのか?

 いつもの事だろうが。

 迷っている士郎の分まで手際良く机の上を片付けると、一成は士郎の手を引いて2人がいる方面とは逆の扉から廊下へと出た。そしてそのまま言い争いをしている2人を放って足早にその場を去る。通ろうとすると自然と誰もが道を開けてくれるので、何も困りはしなかった。

 そうやって。階段を下りて行く。

 暫しの間を置いて士郎がいなくなったことに気が付いたのだろう。上階から一際大きな声が聞こえた。

 士郎、待ってぇぇええええええええ!!!

 衛宮、待てぇぇええええええええ!!!

 

「柳洞先輩! 衛宮先輩! ここは私たちが食い止めます!」

「ここはお任せください! ご心配なさらず!」

 

 すれ違う生徒たちが士郎たちの後ろを固める。覚悟を決めた精悍な顔つき。何人たりとも後を追わせぬ様に、隙間なく通路を塞ぐ。絶対に通すな、死守しろ! イエス、マム!

 やっぱりこの世界はおかしい。最早頭が痛いなんて通常営業である。

 

「士郎ぉぉおおおおおおお!!!」

「何ィ!? 壁を走っているだとぉっ!?」

「行かせるな! 通すな! 食い止めろ!」

「ははは、捕まらぬわぁぁあああああ!!! 私と士郎の邪魔をするなぁぁあああああ、へぶっ!」

「ナイスコントロール、蒔の字!!」

「へへっ、どんなもんよ!!!」

「私は衛宮と勝負したいだけだぁぁああああああ!!!」

「ダメです! 毎回毎回しつこいんですっ!!!」

 

 ああ、騒がしい。本当に何て日だ。

 士郎は思わず立ち止まり眉間を押さえる。一成が慌てた様子で心配をするが、今はそれに満足に言葉を返す余裕が無かった。

 何でこんなことになっているのか。何が起きているのか。何が始まったのか。

 説明のつかない状況の連続に、士郎はとうとう怒りすら覚えていた。

 

「衛宮、大丈夫か? 肩を貸してやるから、とりあえず早く出よう」

「……いや、大丈夫だ一成。……ちょっと遠坂と話があるから、先に帰ってくれ」

「はぁ!? な、何を馬鹿な事を言っている!」

 

 踵を返す。来た道を戻る。

 凛は複数の女子の手によって拘束されていた。縄でグルグル巻き。不機嫌そうに唸っていたが、向かって来る士郎を見て目を輝かせた。そんな遠坂凛は士郎の記憶には無い。

 戸惑う女子に声を掛けて道を作ってもらう。そして士郎は凛の前に片膝をついた。

 

「遠坂、ちょっと話がしたい。とりあえず帰ろう」

「は、はひ、喜んで!!!」

「美綴。悪い、今日は勝負を受けられない。また後日で良いか」

「あ、ああ、大丈夫だ、いいいつでも私はオッケーだ!!!」

「悪いな、ありがとう。それと誰か、美綴の拘束を解いてやってくれないか」

「はいっ!」

 

 どよめく群衆、目を白黒させている一成、嬉し気な綾子。

 それらを置いて士郎は凛を抱き上げると、その状態で下駄箱へと向かう。どこからか王子様と言葉が零れるが今は無視。羨望と嫉妬と呪いの視線が士郎たち――と言うか凛に集中するが、当の本人はだらしなく顔を緩ませており、全く気にした素振りは見られなかった。

 

 

 




頭を空っぽにして読んでいただけなら幸いです。


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いち

頭の中身がどうしようもなくなると執筆は進みますが、だからと言って早く出来上がるわけでは無い。
でも2週間以内に更新できたからくっそ早い方だね!

※7/31追記
皆様誤字報告を頂きありがとうございます。
たくさんの方々ライダーの発言に誤字があると指摘頂きましたが、アレはワザとなのでスルーして頂けると幸いです。分かり辛くて申し訳ございません……


 世界がおかしくなってしまった。

 まずはこの事実を受け入れないと先に進めない。

 隙あらば求婚してくるセイバー、士郎が絡むと聡明さの欠片も無くなる凛、気持ち悪いくらいに気が利きすぎる桜、堅物さを増した一成にぶっ飛んだ綾子。

 と言うかそもそも日常がぶっ壊れている。男性が極端に少ないとはどういう訳なのか。情報媒体の殆どが男性の保護を謳ったり、男性が少ない事による少子化を嘆いたり、女性が男性に性的な加害を働いたり、と言ったものを取り扱っているのは何故なのか。そこに士郎の知る日常は一切無い。

 混乱と頭痛と疲労に塗れた1日の終わりから約6時間後。

 土蔵で目を覚まして、小1時間程現状を整理して。士郎はそう現状を結論付けた。この世界を受け入れる事を認めた。

 

 じゃあ、次は、何をする?

 

 受け入れる事は理解した。だがそれは解決にはならない。士郎が望むのは、確かにあった筈の日常だ。この世界で生きていく事ではない。

 だがそれが難しいのも事実だ。頼りになる面々は揃いも揃っておかしくなっている。こんな状況に対して一人で解決策を導き出せるほど、士郎は自身が聡明で無い事を理解している。

 では、どうするか。

 

「……気は進まない、なんて言っていられないよな」

 

 脳裏に浮かんだのは皮肉ばかりの白髪のアイツ。陰険で口の悪いいけ好かない気障野郎。

 迷いは一瞬。癪ではあるが、そんなに選べるほど手があるわけでは無い。それにこんな状況なら、何だかんだ言っても目指すゴールは同じの筈。

 士郎は己の頬を叩くと、気合を入れる様に短く息を吐き出した。指針は決まった。なら、いつまでもグズグズとしてるわけにはいかない。思い立ったが吉日と言う奴だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気合を入れ直して頑張ろう。

 そう思っていた時間が士郎にもありました。

 

 

 

「おにいちゃああぁぁああああああんっ!!!」

 

 誰が呼んだか白い妖精。

 今日も元気いっぱい、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 土蔵を出て1秒。気合を入れ直した士郎目がけて、真正面から真っすぐに白い弾丸と化した彼女が迫る。

 

「させません」

 

 颯爽登場、騎乗兵の英霊。

 今日も冷静沈着、ライダー。

 鎖を器用に使ってイリヤをキャッチ&リリース。その神業めいた、しかし手慣れた動きに、最早一周回って驚きはない。

 

「お嬢様!」

「イリヤ、危ない」

 

 塀を飛び越える二つの影。

 珍しくも私服姿のセラとリズ。

 投げ飛ばされたイリヤをセラが華麗に受け止め、リズが2人を庇う様にライダーの前に立ち塞がる。

 

「お嬢様、大丈夫ですか!?」

「私は平気よ。ありがとう、セラ、リズ」

「イリヤ、無事。なら、問題ない」

 

 一見すれば、身を挺して主を守ろうとする美しい主従関係がそこにはあった。まるで姉妹のように信頼し合った仲。このやり取りに至った経緯させ無視すれば、拍手喝采物の感動的なシーンである。

 

「茶番は良いので出てってください」

 

 ライダーの容赦のない一言が現実に全てを引き戻す。悪夢みたいな現実へ引き戻す。

 冷たさ以外の何も感じられない言葉。こんな口調を向けられれば傷つく自信がある。そう士郎は思った。彼の心は硝子だから致し方ない。と言うか彼女の口調ならば防弾硝子だって砕け散るだろうよ。

 

「あら、ライダー。私とシロウの仲を邪魔するつもり? 相変わらず空気が読めないのね」

「それは貴女でしょう、イリヤスフィール。士郎を守るのは当然の好意です。貴女程度の想いで破れるとは思わない事ですね」

 

 いつになく饒舌なライダー。何となくコウイのイントネーションが違う気がするが気にしたら負けだろう。士郎のスルースキルは現在進行形でレベルアップ中だ。

 

「シロウは私の物よ。私と永遠を生きるべきなの。邪魔するなら容赦はしないわ」

「御託は良いから帰ってください。そもそも士郎は誰のものでも無い。彼には彼の人生があり、それを邪魔する権利は誰にもない」

 

 泣きそうだ。士郎はそう思った。このぶっ壊れた世界でも救いはあるらしい。

 

「よく言うわよ。シロウに夜這いかけようとしてサクラに折檻されているくせに」

 

 泣きそうだ。士郎はそう思った。このぶっ壊れた世界には救いが無いらしい。

 だがライダーはやれやれとでも言いたげに首を振り溜息を吐いた。

 

「イリヤスフィール。貴女は何も分かっていない」

「はぁ?」

「いいですか、イリヤスフィール。サクラのそれは愛情です。ですから、何の問題もありません」

 

 胸を張って。高らかに、誇らしげに。

 そうライダーは宣言した。

 士郎の頭が再び痛みを訴え始める。

 

「……それって、歪んでない?」

「貴女にそんな事は言われたくありません。士郎の寝顔を満悦した後にサクラに愛情を注がれる。こんな幸せな事はありませんよ」

「お嬢様、耳をお塞ぎください。こんな戯言を聞いていたら耳が腐ります」

「イリヤ、下がって」

 

 従者の2人もライダーの言葉には怖気を覚えるらしい。明らかに引いている。と言うか突然のカミングアウトに士郎だってドン引きだ。この世界はどこまで士郎を追い詰めれば気が済むというのか。

 

「……はぁ、嘆かわしい。自分だけの世界に閉じこもっていては成長はありませんよ?」

「いや、それって成長と違う気がする……」

「何を言いますか、イリヤスフィール。全く……士郎もそう思いますよね?」

「いや、ちょっと……」

 

 思わず言い淀む。そこに意思は無い。今までに培ってきた常識から脊髄反射気味に反応しただけの言葉。それでも決定的な言葉を発しない辺りに、彼の優しさが窺える。

 だがライダーは。その言葉を聞いて崩れ落ちた。地に手を付き、息も絶え絶えと言った様子でゆっくりと士郎へと振り返る。

 

「……し、士郎、それは――――」

「い、いや、俺はってだけで、ライダーを否定するつもりは無いぞ! 人それぞれだしさ!」

 

 ぐはぁ! いきなり血反吐を吐くライダー。どうやら士郎の言葉は何のフォローにもなっていなかったらしい。

 でも仕方が無い。そこで無条件で同意するのは絶対に拙いと、そう鍛え上げられた第六感が士郎にそう囁いているのだから。

 

「ナイス、です」

 

 そしてそんな隙だらけの敵を見逃す筈も無く。

 いつのまにかに距離を詰めたリズが、そのままライダーを圧し潰す様に跳びかかった。

 ライダーの知覚は一瞬遅い。

 逃れるよりも早く、リズの腕が首に回る。

 

「捕まえた」

 

 ぐるりと。首を極めたままリズはライダーの背後に回った。そしてそのまま動けぬ様にガッチリとホールド。

 チョークスリーパー。首に回した腕で相手の喉を締め上げる技。それは一歩間違えれば窒息死させかねない危険性をもっている。加えてリズはサーヴァントであるライダーと張り合えるパワーがある。

 マウントは取った。

 ならば、もうそこに逆転する手立ては無い。

 後は意識が落ちるのを待つだけ。

 純粋な力比べならば、これでお終いだ。

 そう。力比べ、だけなら。

 

「あ」

 

 それは誰の言葉だったか。

 彼女の真名を知る士郎か。

 眼鏡が外れた事に気が付いたイリヤか。

 その眼を最初に見てしまったセラか。

 或いは、尤も近くにいたリズか。

 ……まぁ、つまり。何があったと言うと。

 

 

 

「ああ、士郎、視ないで――――ッ!!!」

 

 

 

 魔眼、発動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酷い目にあった。そう士郎は思った。随分な一日の始まりである。

 魔眼持ちのライダーは普段は魔眼殺しの眼鏡を使用して己の能力を封印している。そうでもしないと己の意志に反して魔眼が発動してしまい、無差別に被害を振りまくからだ。

 彼女の魔眼の能力は石化。能力成立の条件は視る事。ライダーの存在を認識してしまうと目を瞑っていても石化してしまう。詳細に認識すればするほど、その効果は強力になる。

 

「申し訳ございません、士郎。暫くすれば解除されますから!」

 

 そう言って逃げる様にライダーは去っていた。同じく石化したアインツベルン御一行を抱えることを忘れずに。士郎が動けるようになったのはそれから1分後だが、それでも暫くは身体が妙に固く動かし辛かった。短時間、そしてすぐに離れたにもかかわらず残る後遺症。最近は忘れかけていたが、魔眼の恐ろしさを士郎は改めて身に刻んだ。

 

 

 

「うぅ……」

 

 冷たい水で顔を洗う。何度も何度も、念入りに。朝の洗顔は1日をスタートさせるルーティンである。眠気が飛んで1日の始まりを実感する神聖な儀式のような物。

 だと言うのに何故こんなにも疲れているのだろうか。疲労に塗れているのだろうか。始まりから陰鬱な気分なのか。

 鏡に映る疲労困憊の自身にいつもの数段は重い溜息が吐き出る。幸せが逃げる? 知った事か。

 

「……ええい、とりあえず朝食だ朝食」

 

 ストレスが溜まると家事に逃げるのがこの男だ。頭の中では余っている筈の食材がリストアップされ、調理可能なレシピが構築並べられている。最早食材を使い切るつもりの勢いである。きっと朝食は豪勢だ。

 和洋折衷、あと覚えたての中華も。今日は休日。久々に豪遊しても罰は当たるまい。寧ろふんだんに食材を使ってやろう、使い切ってやろう。

 半ば現実逃避気味に士郎は居間の障子を開けた。今の彼の安息の地は台所なのだ。

 

「ああっ! サクラっ! あっ! ああっ!」

「ライダー、貴女の罪は何か言ってみなさい」

「はいっ! ああっ! 私はっ! あっ! 私はっ! 私はっ!!」

「早く言いなさい」

「はいっ! 私はっ! 士郎にッ! 魔眼でっ!」

「士郎?」

「士郎様にっ! 士郎様にっ!」

「続けて」

 

 何だこの地獄は。そう士郎は思った。目の前ではライダーが天井から吊るされていた。そして桜が鞭を振るっていた。ライダーの口からは嬌声が溢れていた。桜は感情を見せることなく、ライダーの一声毎に鞭を振るっていた。

 あれ、ここって居間じゃなかったっけ?

 

「私はっ! 寝顔っ! あっ!」

「続けて」

「あ、飽き足らずっ! んあっ! ああっ!」

「続けて」

「魔眼でっ! このっ! 眼でッ! あんっ!」

 

 よくよく見渡すと居間では無かった。どうやら桜の部屋らしい。確かに居間の襖を開けたのになぁ、何でかなぁ。おかしいなぁ。

 士郎は廊下に視線を向けた。配置されている家具。自分が通ってきた廊下。やっぱりこの部屋が居間の筈で間違いはない。筈だ。

 

「あっ! あっ!」

「ライダー」

「はいぃ、私はっ! 石化をっ! んあっ!」

「続けて」

 

 士郎は静かに襖を締めると、二度目の溜息を吐いた。さっき吐いたばかりだというのに、随分と万感の思いが込められた溜息が吐き出た。頭痛が止まらなかった。

 気のせいだよなぁ。きっとそうだよなぁ。

 もう一度襖を開ける。

 

「あっ! あっ! ああっ!」

「続けて」

 

 もう一度襖を締める。現実は変わらない。何でこうも非情なのか。

 眉間を抑えて頭を振る。思わずしゃがみこんでしまった士郎は何も悪くない。彼は只の被害者だ。紛う事無き被害者だ。

 

「……ん?」

 

 そんな士郎の視界の端に、1枚の紙が目に入る。何やら紋様が描かれた紙。魔力を感じる事から、ただの紙ではない事は間違いない。それは襖の下の方に目立たぬ様に貼り付けてあった。

 疑問に思って剥がしてみると、僅かに魔力が弾けて消えたのを感じる。つまりは効力の消失。何かしらの魔具だったのだろうか。

 

「あ、あら、士郎! お早う!」

 

 そんな士郎の頭上から声がかかる。

 見上げると、顔を赤くした遠坂凛。寝間着姿とは言え珍しくも朝早くから起きている。

 

「お早う、遠坂」

「お早う! どうしたのかしら!」

 

 何故か居間で桜とライダーがSMプレイしている――とは口が裂けても士郎は言えない。というか言いたくない。絶対に口にしたくない。

 暫し悩んだ末、士郎は手に持った紙を見せた。

 

「これ――――」

「あ、え……士郎、何でこれを?」

 

 ……どうやらこれが何であるかを凛は知っているらしい。普段の聡明さなんてどこへやら。心配になるくらいに彼女は顔色を変えてワタワタし始める。

 

「遠坂、これが分かるのか」

「ええ! こ、これはね! 空間を歪曲する魔具なの!」

「空間を歪曲する魔具?」

「そ! 限定的だけど、例えば私の部屋の入り口と士郎の――じゃなくて、お風呂を繋げたりとか、玄関を開けたら士郎の部屋に行ける様にできるの!」

 

 つまりは簡易どこでもド〇である。便利な事この上ない。

 

「じゃあ学校にも行けるのか」

「えーと、それは無理ね。効果範囲はあくまでも士郎の家だけで、指定できるのは一つだけだし、一度剥がれると効果は無くなる。まだ改良は必要よ」

 

 これで謎が解けた。試しに襖を開けると、予想通りそこには見慣れた居間が現れる。今の凛の説明から察するに、何故か居間を開けると桜の部屋に繋がる様になっていたのだろう。何故か。

 

「ああ、良かった。頭がおかしくなったと思った……」

 

 胸を撫でおろす。士郎の安息の地は奪われていない。その事実が堪らなく嬉しかった。

 ……何故そんな限定的で使い勝手の悪そうな魔具を開発したかについては、その一切の疑問を飲み込んだ。思考する道を閉ざした。

 見たくない物をわざわざ見る必要は無いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三大欲求の一つが満たされたら、別の欲求が鎌首をもたげるのは世の常だ。

 豪勢な朝食の終わり。訪れるひと時の憩い。束の間の休息。

 肉食獣染みた女性陣が揃いも揃って次の欲求へと思考をシフトし、互いに牽制し合う中で、士郎は自然にさりげなく、しかし淀みの無い洗礼された動きで居間を出た。この部屋にいる危険性を察知したからだった。そしてそのまま玄関から家を出ようとする。

 

「お兄ちゃん! デートしよう!」

 

 作戦は失敗。辿り着く前に腰にイリヤが飛びついてくる。そして何故か尻に顔を埋め左右に振り始める。

 

「イリヤスフィール、貴様ぁ!」

「手を貸すわ、セイバー」

「やるわよ、ライダー」

「ええ、勿論です」

 

 途端に背後で膨れ上がる濃密な威圧感。幾ら人外魔境の冬木市とは言え、此処まで濃密な瘴気を発せられるのはこの衛宮邸くらいだろう。サーヴァント×2、魔術師×2ならばそれもむべなるかな。

 士郎の双眸からは涙がちょちょぎれそうである。世界はどうやら士郎が嫌いらしく、彼の安息の地が一つ一つ削られていく。

 

「へへーん、声も掛けられないヘタレは爪でも噛んで眺めてなさい」

「それが遺言か、イリヤスフィール」

「お兄ちゃんのお尻、温かい」

「――――殺すッ!!!」

 

 ぐりぐりぐり。イリヤが幸せそうに士郎の尻を堪能する。男の尻なんぞに堪能する箇所があるのかは甚だ疑問でしかないが、こうも幸せそうならばきっとそうなのだろう。逆の立場なら確かに魅力的ではあるのだから。

 ……あ、これってつまりはセクハラか。セクハラをされているのか。

 

「イリヤ?」

「なぁに?」

「ちょっとくすぐったいかな」

「え、あ、ごめんね! シロウが嫌がる事をするつもりじゃないの!」

 

 パッ、と離れるイリヤ。流石に今しがたしていた行為が、褒められるものではないという自覚はあったらしい。オドオドとしている様相は、先ほどまでの威風堂々とセクハラしてきた少女と同じとは思えない。……彼女たちの中での基準が今一掴めないが、士郎に嫌われることは一番ダメな事らしく、珍しくも弱気な表情が見て取れた。

 

「あー、まぁ人前でやらなければ良いけどな」

「え、ウソ、いいの!?」

「せ、先輩! 発言が大胆過ぎます!」

 

 眼を輝かせるイリヤ。焦る桜。そしてその傍らで鼻を抑えて屈みこむその他3名。どれが正常な反応かは分からないが、とりあえず自分が失言をかましたという事だけは士郎は理解した。

 

「あー、つまりだな……俺だから良いけど、他の人にはやるなよ」

「あ、当たり前よ! シロウ以外に興味なんか無いんだから!」

「先輩、過激すぎます!」

 

 とうとう桜も前かがみになる。イリヤは興奮したのか鼻血が出てきた。他の3人は顔を上げられていない。先ほどに引き続いて失言してしまったのは明らかだ。二度の失敗を自覚はするものの、どこからが失言になるのか士郎にはまだ理解できていない。

 持っていたポケットティッシュでイリヤの鼻血を拭いながら士郎は思った。

 思っていたよりも世界はおかしな事になっているのかもしれない。

 

「うへへ、シロ”ッ」

 

 否、訂正。

 この世界は最初からおかしな事になっている。

 横から飛んできたライダーにひき逃げされて宙を舞うイリヤ。

 勢い余って壁に激突するライダー。

 それを見届けて倒れる桜。

 ……もう一度言おう。

 この世界は、やっぱりおかしい。

 

 

 




おまけ(と言う名のNG)

※分岐点は魔眼発動後

「申し訳ございません、士郎。暫くすれば解除されますから!」
 
 そう言ってライダーは慌てて外れた眼鏡をかけた。一応これで効力は収まる。とは言え発動してしまった事には変わりなく、士郎たちの動きはかなり制限されてしまう。
 ライダーは器用に鎖を扱いイリヤ達をひとまとめに抱えると、そのまま立ち去ろう――として急ブレーキをかけた。

「……え?」

 多分。士郎は永劫忘れないだろう。
 何かに葛藤するように士郎と空とを交互に見るライダーを。
 何度も何度も繰り返し見た後自身の頭を抱えたライダーを。
 そして何故か真顔で士郎に向かって踵を返したライダーを。
 ――――一瞬で黒い影に捕らわれて飲み込まれたライダーを。



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サブタイトルを「に」か「にぃ」にするかで悩みました。
大して変わらないのにね!


 よく晴れた空だ。衛宮家の玄関。Tシャツにジャージ、ジーンズの簡易外出用の服を身に着けた士郎は、遮る物の無い眩しい青空を眺めていた。傍らには誰も居ない。あの騒動の後、皆は家に引き篭もっている。ワザとらしく用件を思い出したとか言って自室へと戻っていた。何の用件を思い出したのかは知らぬが、図らずして家を出ることが出来たのは僥倖と言う奴だろう。深いところまで思考することなく自らを納得させると、士郎は衛宮家敷地外へと出た。余計な思考はしなくていい。藪蛇なんとやらだ。

 財布とスマホしか持っていないので身は軽い。向かう先は遠坂邸。アーチャーは外出ばかりで所在が知れないとは凛の言葉だが、帰ってくるとすれば遠坂邸しかあるまい。それは一縷の希望に縋るような考えだが、この際致し方ないと言えよう。

 歩きながら士郎は再び空を見上げた。雲一つない青空。降り注ぐ日光。そよぐ風。鳥の囀り声。こんな時でも空は変わらない。世界は平和だ。この場面を切り取れば、だが。

 

 

 

 自らを注視する眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼による数多の視線は意図的に無視をする。

 全くありがたくない事に、この世界になってからは士郎の精神は鍛えられてばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 坂の上のお屋敷と言えば、この冬木市で指し示すのは一軒しかない。

 冬木市の高級住宅街の中でも最上位。閑静な住宅街を抜けたその先。

 人はおろか猫一匹すら寄り付かないような、近づくもの全てを拒絶する空気を醸し出す建物。

 それが遠坂邸。

 今士郎の目前にあるお屋敷の事だ。

 

「……いないな」

 

 インターホンを押してみるが誰も出てこない。暫く待ってみるが何の変化もない。人の気配も何もない。誰も居ないのは明らかだ。

 士郎は困ったように息を吐き出した。何となく予想が出来た事なので、決してこれは落胆の息ではない。道中何度か電話をしたが誰も出なかったし、凛もアーチャーなら滅多に家には帰ってこないと言っていた。その上で本当にいないのかを確認できただけでも、決して無駄足にはなるまい。

 

 とはいえ、さてはて、どうしようか。

 

 士郎の外出の目的はアーチャーに会って、この状況の解決に向けた話し合いをする事である。彼に会わねばその目的を達成するどころかスタートラインにすら立てない。

 士郎は頭を捻らせてみるが、他にアーチャーが居そうな場所など見当がつかない。何せアーチャーが姿を見せる場所と言えば遠坂邸か衛宮邸くらいである。後は海浜公園辺りを散歩しているとかで、それ以外の場所となると――――

 

「あ」

 

 不意に。士郎の脳裏を過ったのは、港で釣りに興じるアーチャーの姿。投影したロッドを巧みに操り釣果を上げるあの姿。そして侵食されるランサーズヘヴン。

 港か、港なのか。

 遠坂邸から港までとなると、かなりの大回りだ。が、行く価値はある。もしかしたらランサーにも会えるかもしれない。彼は彼で魔術師としての心得もあるから、この状況の相談をする価値はある。

 

「なら――――」

 

 行こうか。そう思って遠坂邸の敷地外に出て――――

 

「おやおや、魔術師殿ではないですか」

 

 ……心臓が飛び出しかねないほどに士郎は驚く。

 驚きの余り声を出さなかっただけでも賞賛されるべきだろう。その代わり身体は完全に硬直してしまったが。

 錆びついた機械の如く、ゆっくりと士郎は視線を背後に向けた。

 

「どうされましたか、そんなハトが豆鉄砲を喰らったかのような顔をして」

 

 そこには髑髏があった。

 正確には髑髏の仮面をつけた顔があった。

 髪の一本もない頭部があった。

 不自然なほどに大きな右腕があった。

 筋骨隆々の体躯があった。

 真っ黒な肌。黒い胸当てと腰当て。

 そのどれもが日中に出るにはあまりにも奇怪すぎる。

 

「……アサシン」

 

 正規の暗殺者のサーヴァント。ハサン・サッバーハ。

 

「ええ。アサシンです。難しい顔をしておりましたが、何かお悩みで?」

 

 気さくな感じでアサシンは士郎に話しかけてくる。だが士郎は思った。コイツ、気配遮断して話しかけてきやがったな、と。その上で悪びれなく会話をし始める辺り、中々にイイ性格をしている。

 士郎は跳ね上がった鼓動を押さえつけると、感情を無にして口を開いた。驚きは極力見せない。こう見えて案外負けず嫌いなのだ。

 

「いや、アーチャーに用があったんだ。でもいないみたいで……アサシンはアーチャーがどこ行っているか知っているか?」

「いえ、残念ながら私も知りませぬ。ただこの近辺には長い事戻ってきてはいないですな」

 

 サーヴァントが戻ってきたら分かりますとも。そう言ってアサシンは笑った。笑ったと言っても士郎を馬鹿にするような笑い方ではない。人と会話するのが楽しい――そう言いたげな笑い方だった。

 

「そもそもこの辺りで他のサーヴァントの気配を感じる事がありませんな。あってもライダーか本当に時折セイバーくらいかと」

 

 キャスター、ランサー、バーサーカーがこっちに来る事は無いだろうし、アサシン(小次郎)は門番だ。

 この付近で他に気配を感じるとしたら、確かにライダーとセイバーくらいだろう。

 

「普段はマスターの邸宅にて引き篭もっている故、残念ながら魔術師殿が望むような情報はありません」

「そっか……いや、ありがとう。遠坂の家には長い事戻ってきていないって事が分かったのは助かった」

 

 いないのならいないで考え直さなければいけない。一縷の希望を持ったままよりも、選択肢が減るだけよっぽど意義のある情報だ。

 士郎はアサシンにお礼を言うと再び思考に埋没しようとし――ふと湧いて出た疑問を口にした。

 

「ところで何でアサシンは外にいるんだ?」

 

 アサシンは言っていた。引き篭もっていると。それはきっと正しい選択肢だ。何せ彼はこの現代において外出するには、些か奇怪な外見をしている。それはセイバーたちとは違って、服装でどうにかなるものでは無い。

 

「いや、ぼっちゃんのご学友が護衛もつけずに歩いているのだから心配に思っただけです。確かにここいらは人除けの結界が張られておりますが、それでも無謀である事には変わりません。何時襲われて身包みはがされるか分からないんですよ?」

「……そうか?」

「そうですとも。魔術師殿もいい年齢。腕に覚えはあるのでしょうが、そんな軽装では襲われても文句は言えません。何せ女性は野獣ですからなぁ」

「……アサシンから見ても女性ってそうなのか? アサシンの時代からこうだったのか?」

「そうですね。……私はこんな形ですから特に重宝されましたよ」

 

 あまり知りたくなかった情報である。どうやら世界は、士郎が生まれる遥か昔からおかしくなっているらしい。

 アサシンの乾いた笑い声を聞きながら、士郎は彼の人知れぬ苦労に涙しそうだった。何せ彼は男だ。価値観とか色々とおかしくなっている今の状況だと、もしかしたら色仕掛けとかを彼は担当していたのかもしれない。男女の仲と言えば暗殺に用いられる格好のシチュエーションの一つだ。……いや、それだけなら仕事と割り切れるだろう。なのにこんな諦観の色を浮かべているのは……きっと色々とあったに違いない。言葉には出来ない何かが、本当に、色々と。

 士郎の心の混乱などお構いなしに、アサシンは気の済むまで乾いた笑いを零すと、改めて士郎に向き直った。そして左手を差し出す。

 

「ところで魔術師殿。もしも暇ならお茶でもどうですか? 良い茶葉が手に入ったんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 間桐邸は遠坂邸へと続く道の途中にある。

 高級住宅街の中腹辺りに位置する大邸宅。

 セカンドオーナーに負けずとも劣らずと言った規模の邸宅は、それだけ間桐邸の力を示していると言っても過言ではない。始まりの御三家の名は伊達ではないのだ。……魔術師としての才能は枯れ果てた、とは凛の言葉だが、それでも蓄えてきた知識は充分に価値有るモノだろう。

 

 

 

「ささっ、茶を入れてくる故、我が家のようにお寛ぎ下さい」

 

 白い仮面から軽快な調子で言葉が飛び出る。間桐邸は薄暗いので、アサシンのように黒一色の様相だと、仮面以外の場所が見辛いのだ。傍から見ていると仮面が浮いて跳ねて動いている様にしか見えない。

 キッチンへと消えゆく仮面を見ながら、随分とアサシンは気さくになったなぁ、と士郎は思った。あまり彼と積極的な交流があるわけでは無いが、士郎の記憶ではアサシンと言えばクラス名が表す通りの寡黙な暗殺者としてのイメージが強い。無駄口を叩かず、与えられた命令を十全にこなす仕事人。いつかの夜に対峙した時も、そうやって命を狙われたことがある。

 ……或いは。今の姿こそが、ハサンの名を襲名する前の、彼の本当の姿なのかもしれない。

 

「~~~~~♪」

 

 軽やかな鼻歌がキッチンの方面から聞こえる。必殺仕事人は何処へ。士郎のアサシンに対するイメージは良い意味で崩れている。

 普段もあんな風に間桐邸で家事に従事しているのだろうか。最近は家事も介護もアサシンさんがやってくれるので楽なんです……とは桜の言葉だ。名を馳せた英霊がそんな事で良いのかとは思うが、他に家事に従事する英霊は幾らでもいる。赤いアイツとか、白髪のアイツとか、あとはどこぞの奥様とか。

 

「気にせんでも良い。あ奴はあ奴で好きでやっておる」

「そう言うものですか」

「うむ。余計な心配は無用だ」

「はぁ…………ッ!?」

 

 驚きを顔に出さなかったのは奇跡的だ。

 士郎の同意未満の相槌は空気に溶けて霧散する。代わりに吸うはずだった空気は、驚嘆の吐息を飲み込むことに挿げ替えざるを得なかった。

 士郎の真正面。向かいの席。

 そこに一人の老人がいた。

 和服を身に着けた老人がいた。

 しゃがれた声を出す老人がいた。

 そこまでなら別にいい。何ともない。

 白色の髪を頭頂部で結った――――老人がいた。

 

「……どうした。そのような顔をして」

 

 アンタのせいだよ、とは言わない。士郎は目を瞑って額を掻いた。脳内で記憶が現実とせめぎ合っている。つまりは混乱。

 アレ、おかしいなぁ。前の前に居るのって間桐臓硯だよなぁ。あんな髪あったっけ。

 士郎の記憶では、臓硯に髪の毛は無い。500年もの間に毛根が限界を迎えていたはずだ。

 

「……」

 

 いや、違う。見るべきところはそこではない。

 士郎はもう一度臓硯に視線を向けた。心を落ち着け、もう一度視線を向けた。

 ……鮮やかな紅色に彩られた唇、皺の薄い白い肌、そして微かに香る甘い匂い。

 

「……」

 

 士郎は無言で首を振った。今しがた行き着いた現実と事実を受け入れられなかったからだ。受け入れるには士郎の許容量は既にいっぱいいっぱいなのだ。

 息を吐く。震える息。早まる鼓動。落ち着かせるようにもう一度。静かに吸って、静かに吐く。

 

「悩んでいるようだのぅ……何でも相談せい」

 

 アンタのせいだよ。今度は口から出かかるが、寸でのところで飲み込む。セーフセーフ。

 アレだろうか。サーヴァントは召喚者によく似たものが召喚されると聞くが、まさに今のこれはそうなのだろうか。アサシンも臓硯も人を驚かせて反応を楽しんでいるのだろうか。

 

「おや、マスター。早いですね」

 

 アサシンが戻って来る。慣れた手つきで士郎と臓硯の前にティーカップを置く。良いタイミングで戻ってきてくれたアサシンに士郎の好感度はうなぎ上りだ。

 

「……成程。理解しました。それでは私は外におります故」

「アサシン!?」

 

 アサシンが踵を返す。慣れた様子で臓硯と意思の疎通を交わす。即座に出て行こうとするアサシンに士郎の好感度はフリーフォールだ。

 慌てて士郎はアサシンの腰元を掴む。恥も外聞もへったくれも無い。こんな状況に置いて行かれる方が困るのだ。

 

「待て待て待て、アサシン待ってくれ!」

「ま、魔術師殿、そう言われましても……」

「ちょっと質問だ! 意識のすり合わせだ! 時間をくれ、頼む!」

「いえいえ、それには及びません。お気持ちは分からなくもありませんが……誘いに乗ったという事はそういうことでしょう?」

 

 誘いに乗った? そういうことでしょう?

 士郎の脳内で際限なくクエスチョンマークが展開される。アサシンが何を言っているのかさっぱり理解できていない。そして何故もこんなにアサシンは嬉しそうなのか、清々しい笑みを浮かべているのか。

 

「500年も熟成された蠱惑の肉体デスヨ。楽しんできてください」

「――――は?」

「誘いに乗ったという事は魔術師殿は老女好きのようですし、マスターも久方ぶりの若い男にときめいているんです。お似合いデスヨ」

 

 今度こそ思考がフリーズする。連続する意味不明の単語に士郎は口の開閉しかできない。

 今、何と、言った?

 今、何を、言った?

 

「……あさ、しん。少し、状況を、整理、したい」

「?」

「臓硯は、男、だよな?」

 

 過程をすっ飛ばし、そんな馬鹿なと笑い飛ばしたくなる言葉を士郎は発した。笑って肯定してくれることを願った言葉だ。

 

「? いえ、女性ですよ」

 

 オーケー、神は死んだ。

 士郎の頭の中で湧いては分裂して際限なく増えていく疑問の山々に終止符が打たれる。

 

「……つまり、あれか。臓硯は野獣、ってことか」

「まぁ、そういうことですね」

 

 何せ女性は野獣ですからなぁ。他ならぬアサシンが言っていた言葉。そして何故か女性となった臓硯。後は簡単な足し算と引き算だ。

 何故か女性になった臓硯はこの世界では立派な野獣で。

 ノコノコとアサシンに着いてきた士郎は俎板の鯉。

 後は調理されるのを待つだけの哀れな人身御供。

 

「なぁ、アサシン。……ずっと、そうだったのか?」

「……………………………………………………………………………………………………はい」

 

 長い沈黙を経て、悲哀に塗れた声をアサシンは絞り出した。言葉を極端に省いた会話だったが、2人は何故かその意思を通じ合わせることが出来た。何がアサシンの身にあって、どんな気持ちで今日までの日々を過ごしてきたのかを理解できたのだ。

 

「そしてお前は俺を人身御供として臓硯に捧げる為に誘ったのか」

「おっしゃる通りです」

 

 即答だった。悪意を隠そうともしない、清々しさすら感じる返答だった。

 状況は理解した。意識の共有もした。認識も合致した。

 つまりは、アサシンは。これ以上臓硯と交わる事が嫌で。

 新たな得物として士郎を連れ込んだのだ。

 

「ごめん、アサシン」

「?」

「……無理」

 

 判断は迅速。言葉と共に行動。流れるような動き。最低限の動きで最短のルートを最速で導き出して走ろ――――うとしてその腰を真っ黒な手が掴んだ。

 

「お待ちください! ちょっと考え直してみては!」

「いや、無理! 本当に無理!」

「そうおっしゃらずに! 食わず嫌いなさらないで! ちょっと試すだけですから!」

「いやいやいやいや! いやいやいや! 嫌!」

「ええい、逃がしません! 絶対逃がしませんぞ! 私も仕事上そういうことはありましたが、これ以上のアレはもう無理なんで――――ヒッ!」

 

 唐突に弱まる力。これ幸いにと士郎は手を振り切ると、そのままダイニングを出て扉を閉める。

 ドアの向こうの、無理矢理ではありません合意です! 儂は何もしとらん! うふふ、先輩を私がいない家に誘い込んだ時点でアウトです、なんてひじょうにほほえましいかぞくのやり取りなんか聞こえない聞こえない何も聞こえないったら聞こえない。

 発信機って分かります? いいえ、別にあなた達は分からなくっていいんですよ。うふふ……

 アーアーアー何も聞こえないったら聞こえない!!!

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「ところで魔術師殿。もしも暇ならお茶でもどうですか? 良い茶葉が手に入ったんですよ」

 間桐邸に行く
⇒断る

「まぁまぁ、そうおっしゃらずに。いい茶葉なんですよ、本当に」

 間桐邸に行く
⇒断る

「まぁまぁ、そうおっしゃらずに。いい茶葉なんですよ、本当に」

 間桐邸に行く
⇒断る

「まぁまぁ、そうおっしゃらずに。いい茶葉なんですよ、本当に」

以下、エンドレス


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さん

ナンパをするなら、久しぶり、って声をかけるのがいいみたいですね。
挨拶程度だと無視されちゃうとか。
テレビでやっていました。


 ぼうっと。空を眺める。

 青い空、高く昇った太陽、白い雲。そして飛び交う2匹の鳥。

 士郎の視線の先では、2匹の鳥が仲良く飛んでいる。あれは友達同士だろうか、それとも恋仲だろうか。鳥の気持ちなど知る由も無いが、連れ添って飛ぶ姿からは仲睦まじさを感じる。……片方が翡翠で出来て、もう片方が銀色の髪の毛で編まれているような気がするのは気のせいだ。多分気のせいだ。

 昼の海浜公園。備えられているベンチに腰を掛け、士郎はそんな事を考えていた。命辛々間桐邸から逃げ出して1時間くらいが経過していた。

 空は平和だ。どこまでも高く、そして澄み渡った青色。遮る物のない陽光。形を変え続ける白雲。これぞ平和の象徴だろう。……朝もそんなことを考えていた気がする。

 

「――――ああ、いい天気だ」

 

 知らず独り言が口から零れる。心身共に疲れてしまったからか、この何でもない光景がいやに尊く見える。空とは、色とは、こんなにも美しかったのか。そして士郎は秘かに誓った。もう間桐邸には行かない。あとアサシンの甘言には騙されない。

 ふぅ、と。少し大きめに士郎は息を吐き出した。肺に溜まった空気を逃し、代わりに新鮮な空気を入れる。磯の香りが心音を、思考を、意識を宥める。緊張からの解放か、それとも気持ちの良さにか、意識が微睡んでいた。ここが自分の家ならば寝ていたかもしれない。

 ……勿論この状況で寝るなどサバンナで寝るよりも危険なので、絶対に寝る事は無い。絶対に、だ。

 

「……はぁ」

 

 十二分に空を、太陽を、雲を堪能したところで、漸く士郎は視界を空から下界へと移した。そして現実を噛み締める。悪夢みたいな現実を噛み締める。

 無表情を顔に張り付けて、立ち上がる。途端にどよめく周囲。その雑音を無視して、足早に立ち去ろう――――として、その右手を柔らかい何かが掴む。

 士郎は黙って、しかし掴まれた右手を少し強めに引っ張ってみた。然したる抵抗は無く、視界の端で真っ赤な布が靡いている。ふわりと浮かんで靡いている。

 

「あぁ……お待ちになってください、ご主人様」

 

 甘く、蕩けるような声。

 無表情のまま振り返ると、そこには微笑む修道女がいた。

 名を表すかのような笑顔を見せる修道女がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼間の海浜公園を歩く。

 2人分の人影。

 

「……」

 

 士郎は何も発言せずに、しかし時折後ろへと視線を向ける。彼の2歩後ろを、1人の女性が歩いている。くすんだような銀髪。錆びたような黄金色の瞳。昼間に外を闊歩するには人目を引く修道着姿。そして漂う消毒液の匂い。彼女は幸せそうに士郎の後ろを歩んでいる。

 士郎は知っている。彼女が何者であるかを。

 士郎は知らない。今のこんな彼女の姿を。

 記憶と乖離したその姿に、その様子に。士郎は表面上だけとは言え無表情を装っていた。混乱はしているが、流石に意識はこの世界の常識に追いついているのだ。

 暫く歩いて、周囲の人も疎らになったところで。

 士郎は立ち止まって、後ろを振り向いた。

 

「あー……なぁ、カレン」

「? どうされましたか、御主人様」

 

 頬を染め、幸せそうに彼女は微笑んだ。本当に幸せそうに微笑んだ。士郎に名を呼ばれたことが、嬉しいと言いたげな微笑みだった。

 カレン・オルテンシア。

 今は亡き言峰綺礼の代わりに冬木教会を治める、信仰の篤い修道女である。可愛らしく、そして儚げな外見とは裏腹に、「他人の幸福は無性に潰したくなる」と宣えるぶっ壊れた内面を持っている少女でもある。

 ……因みに士郎の記憶では、2人は決してご主人様と呼ばれるような仲では無かった。寧ろ罵られる側であった。神に仕えている筈の修道女に。悲しい事に。間違いのない事に。

 

「……あら、ふふっ、イケナイ子」

 

 パキッ、パキキッ。何かが壊れる音。振り返ってみると彼女の持つマグダラの聖骸布が、何かを捕まえ絞り上げていた。緩んだ隙間から零れる壊れた石と髪の毛のようなもの。頭上を飛び交う2匹の鳥は見えない。そうか……と士郎は考えることを止めると、改めてカレンに向き直った。

 

「……なぁ」

「何でしょうか?」

「何で御主人様?」

 

 あら、そんな事も分からないの、この駄犬。人に訊いていないで、その蜘蛛の糸が張り付いているお飾りの頭で少しは考えてみたらどうですか。

 普段ならこのくらいは言って来る。もっとヒドイかもしれない。冗談じゃなく。悲しい事にそんな予測が瞬時に出来るくらいのやり取りを普段は行っているのだ。

 だから。だから寧ろ。そう言ってくれることを願って――――

 

「そんなの……私の口からは言えません」

 

 ――――そこには桃色に染めた頬に手を合わせながら、少し恥ずかし気に微笑むカレンがいた。記憶に無い姿を見せる彼女が居た。

 ……一体己は何をしたのだろうか。何をしてこんな事になっているのだろうか。

 デレたカレンの記憶? そんなもの無い。無いと言ったら無い。いや、ウソ、違う、いや、ウソじゃないけど違う。自分じゃない自分というか覚えてないけど覚えているというか何というか。

 ……兎にも角にも。暫し黙った末、そうか、と士郎は会話を終わらせた。納得する方面に意識を割いた。今更ここで驚いていてはこの先保たないのだ。

 

「……なぁ」

「何でしょうか?」

「ここにいるってことは、教会を空けていているんだろ。いいのか?」

「バゼットが代わりにしているから問題はありません」

 

 どうやらバゼットは次の職務が決まったらしい。その名も冬木教会の代理シスター。迷える子羊よ、どんな悩みも肉体言語で解決するぞ♪ ……明らかな人選ミスだと思うが、口には出さない。藪蛇藪蛇。と言うかバゼットも何でわざわざそんな職務に就いたのか。ランサーを楯にでも取られたのだろうか。

 

「彼女ならばきっと問題なく皆を導いてくれるでしょう」

 

 嘘だ。絶対嘘だ。そしてそのチョイスには間違いなく実益度外視の趣味が入っている。

 ニヤリ――年頃の少女がそのような笑みを浮かべるのは如何なものとは思うが――と笑うその姿に、士郎はカレンの変わらぬ根底を見た。ある意味で彼女はいつも通りだ。自覚のある大変なサディスト。

 そう考えるとこの豹変ぶりももしかしたらサディズム溢れる一環なのかもしれない。普段とは違う姿を見せて楽しんでいるとか。

 勿論そうでないのは雰囲気から何となく分かるので、説立証とはならないのだが。

 

「相変わらずヒデェな、アンタ」

 

 思わず零れた言葉に、幸せそうに笑みを浮かべるカレン。何故だかは分からないが、士郎の口調がぞんざいになると、カレンは喜ぶのだ。あとバゼットも。

 

 そのまま何も無く歩く。

 

 元より士郎は多弁ではなく、カレンもその類の人間だ。

 とは言え普段なら毒舌が飛んでくるのだが、今の状況では違う。

 何を話さなくとも、何も言われない。

 暖かな日光。晴れた空。波の打ちあう音。微かな潮の香り。後ろを歩く気配。消毒液の匂い。

 歩みの遅いカレンに合わせる様に、士郎の足もペースが落ちる。

 

「……なぁ」

「何でしょうか?」

「体調、大丈夫か」

 

 

 冬木大橋を渡りながら、士郎は身を案じる言葉を発した。カレンは被虐霊媒体質という特異体質のため、常に傷が絶えない。香る消毒液が示すかのように全身に包帯が巻かれているし、右目の視力もほとんどない。味覚だって消失寸前で、激辛激甘のものしか感じられないのだ。

 カレンは驚いたように表情を硬直させた。気を遣われたのが意外だったのだろう。そして頬を赤らめて視線を切った。

 

「……お優しいのですね」

 

 意識はトばさなかった。

 が、身体は硬直した。

 普段は絶対に目にする事のない純度100%のデレ。

 全く見慣れないその様相は、士郎の頭を揺さぶるのに十分すぎる破壊力を持っていた。

 セイバーの時以来、つまりは昨日ぶり2回目の硬直である。

 こいつ揺さぶられ過ぎだろ。

 

「お気になさらないで下さい。私はご主人様と一緒にいられるだけで幸せなのです」

 

 こんなカレンを見たことあるだろうか。いや、ない。

 ノータイムでの結論。一周回って逆に頭は冷静。人の脳は許容外の出来事が連続しすぎると返って冷静になるらしい。なんて都合の良い事か。

 冷静ついでに士郎はある一つの仮説を立てた。

 もしかして、これって平行世界?

 普段ならば一笑に付したくなるような仮説だが、今の状況に当てはめるとしっくりくる。世界がおかしくなったのではなく、士郎がこの世界に来たと考える方が、よっぽど自然で辻褄が合う。

 無論士郎の素人に毛が生えた程度の魔術知識で決めつけるのは早計過ぎるが、一つの可能性として考えておくことは悪い事ではない。

 

「あら」

 

 考え事をしていた士郎の身体が、聖骸布によって優しく包み込まれる。そしてカレンへと引っ張られた。

 ずどぉん。

 何が、と疑問に思うよりも早く、背後に響く轟音。なんだなんだと振り返ってみれば、灰色の巨体が歩行用の足場に降り立っ……て、また下に落ちたところだった。

 

「みつ――――きゃぁぁぁあああああ!? なんなのぉぉおおおおお!?」

 

 どうやら先ほどの衝撃で足場が崩れ、そのまま下へと落ちたらしい。そりゃあバーサーカー程の巨体が勢いをつけて冬木大橋の歩行用道路に着地すればそうなるよな。一瞬しか見えなかったが、巨体と聞き覚えのある声から状況を推察、結論付けて士郎は納得した。落ちたイリヤは大丈夫だろう。なんたってバーサーカーがいるし。

 そんな事を考えていた士郎の耳に届く、ピシピシと罅割れる音。……どうやら先の衝撃の余波で、歩道が崩壊し始めたらしい。

 士郎はカレンを抱き上げると、元来た道をダッシュで戻った。流石に冬木大橋の高さから落ちたら無事じゃ済まない。川に着水するならまだしも、岸に落ちたら最悪死ぬ。そうでなくともこちらには病弱なカレンがいるのだ。

 

 

 

 何で此処にイリヤが来たのだとか。

 何を言いかけたのだろうかとか。

 見覚えのある鳥が後ろを追ってきているような気がするのとか。

 その鳥をカレンが器用にマグダラの聖骸布で破壊している気がするのとか。

 あとバーサーカーが白いフリルの付いた服を着ていたような気がするのは考えない事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何か面白い事が起こりそうなので、教会に戻ります。

 そう言ってカレンはタクシーを拾った。

 士郎は、そうか、とだけ言って見送った。

 彼女の見立てでは教会で何かが起こるのだろう。

 何が起きるのかは考えたくも無い。

 教会へと戻るタクシーを見送ると、士郎は思考を止めてどこか落ち着ける場所を探す事にした。

 今は余計な事に気を回せる余裕がないのだ。

 

「……外は、止めよう」

 

 休日の昼下がり。

 外を歩くのは女性ばかり。

 その誰もが士郎へ好奇の視線を向ける。

 そして幾つかには、生々しい嫌な感情が含まれているのだ。

 言ってしまえば、劣情。性的な欲望、そして好奇心。

 今までに感じた事のない感情に、単純に士郎は怖れを抱いた。

 そして同時に思う。遠坂ってすごい。だってミス穂群原でもある彼女は、きっと年中こういう視線に晒されていたのだろうから。

 

「ね、ねぇ、君。時間あるかな?」

 

 そんな事を考えていたら後ろから声をかけられる。

 思わず振り向いた士郎の前には、大学生くらいの女性の2人組がいた。

 1人はパーマのかかった明るい茶色の髪の女性。

 もう1人は髪の色は同じだがストレートの女性。

 勿論士郎からすれば初対面。一切記憶に無い人物たちである。

 

「美味しいカフェがあるんだ。行こうよ!」

 

 カフェ? 何故カフェ?

 頭に浮かぶ疑問符の数々。

 数瞬置いて士郎は漸く気が付いた。ナンパか。ナンパか、これ。

 

「あ、大丈夫だって! 全然怪しい誘いじゃないから!」

「そうそう! ちょっとお話したいなぁ、ってだけ!」

 

 黙っている士郎に焦ったのか、それもイケると踏んだのか。

 2人揃って矢継ぎ早に言葉を繋げてくる。真意は不明だが、逃がさまいと必死なのは分かった。グイグイ来過ぎて、士郎としては腰が引けてくる。

 

「あ、いや、その……」

「ちょっとだけだからさ!」

「少しで良いんだ! 行こう! ね?」

「いや、人を待っているので……」

 

 勿論待ってなどいない。待っていたって誰も来ない。

 

「じゃあ待っている間だけでもいいからさ? ね?」

「そうそう。てかこんな所で待っていたら熱中症になるって」

「そうだよ。ちょっと涼しいところで待っていた方が良いって」

 

 別に熱中症になるほど暑いわけで無ければ、涼しいところに行かねばらないほどに強烈でも無い。

 ただ。ただただ。相手は士郎の思っている以上に諦めの悪い人物たちだった。そして思う。待っているんじゃなくて、待たせているにすれば良かったと。

 だが後悔は遅い。後になって悔いるから後悔。よく言ったものである。

 

「行こう! ね?」

 

 決断を委ねているように見せて、感情は一方通行だ。

 乗り気でない士郎に業を煮やしたのか。1人が士郎の手を無理矢理に握ると、カフェの方へ誘導するように引いた。

 勿論力は士郎の方が強いが、如何せんこういう状況に彼は不慣れである。

 振り払って良いものなのかと一瞬迷ってしまったがために、その身体は女性たちの方へと流れ、

 

 

 

「悪い、待たせた。で、アンタら何の用?」

 

 

 

 士郎を守る様に誰かが立ちはだかる。

 肩にかかるくらいの長さの明るい茶髪。凛とした声。士郎よりも若干低めの身長。そして毅然とした態度。

 掴まれていた手を、士郎の手は優しく、女性の手は乱暴気に彼女は引き離した。

 

「な、何よ、いきなり」

「そりゃこっちのセリフだ。連れへの要件は私が聞く」

 

 男勝りな口調だ。そしてそれには、相手が誰であっても自身が正しければ決して引かないと言う、不退転の響きが含まれている。

 明らかな年下の、しかし毅然とした態度に、パーマの方が若干焦ったように身を引いた。

 

「っ、何、君が待っていたのって、彼女?」

「っ! そうそう! だからごめんなさい!」

 

 この状況に乗っかる。男として情けないとは思わなくも無いが、現状ではこの選択が最適だ。慎二やランサーの様に経験豊富なら違った手もあるだろうが、ないものねだりをしても仕方が無い。

 士郎の態度で諦めはしたのだろう。強硬な態度に対しての周囲の視線もある。非を理解すると、2人組はぶつぶつと文句を言いながらも離れて行った。最低限の物分かりが出来る輩であったことは僥倖と言うべきだろう。

 

「悪い、助かった、美綴」

 

 士郎は胸を撫でおろすと、自身を救ってくれた人物に礼を言った。

 美綴綾子。同じ学び舎に通う同級生で、かつては同じ部に所属していた友人。

 最初に出会った時はおかしくなっていたが、面倒見の良さと言い、曲がった事を嫌うところと言い、根本は変わらないのだろう。

 ニカッ、と。そんな擬音が似合う様な笑みを浮かべながら彼女は振り返った。

 士郎の記憶にある、あの笑顔だった。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)

「あら」
 
 考え事をしていた士郎の身体が、聖骸布によって優しく包み込まれる。そしてカレンへと引っ張られた。

 抵抗せずに任せる
⇒その場に留まる

 士郎は思わずその場で踏みとどまった。聖骸布の拘束力はそれほど強くない。カレンが加減しているのか、それとも効力が弱まっているのかは分からないが、踏みとどまるのは容易かった。

 ――――ガシッ

「!?」

 背後からの強襲。鷲掴みにされる身体。灰色の巨大な手。

「捕まえたぁぁあああ! さぁ、帰るわ、バーサーカー……って、きゃぁぁあああああ!?」

 ああ、イリヤとバーサーカーか。声でそこまでを認識する。
 そして浮遊感。落ちていく。何故? ああ、衝撃に足場が耐えられなかったからか。そりゃあバーサーカー程の巨体が勢いをつけて冬木大橋の歩行用道路に着地すればそうなるよな。
 士郎はそこまで考えると、着水までにあとどれくらいの猶予が自身に残されているかを確認するために振り返った。万が一の場合は、自身に強化の術をかける必要があるからだ。
 だが士郎の視界に映ったのは、彼が予期しているものでは無かった。全くもって予想外の物だった。

 ――――しろいふりるのついたぴっちぴっちのどれすをきたばーさーかーがそこにはいました。


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よん

5話目にして四カ月ぶりの更新。
あれ? 一年以内に終わらせられるのかな、これ?

※20/5/11 誤字脱字修正


 美綴綾子は。士郎の友人である。

 同じ穂群原学園に通う生徒であり、同級生であり、元同じ部活動所属の間柄。

 士郎が弓道部を退部した後も縁は続いており、時折部活動を手伝ったり、備品の修理をしたり、愚痴を聞いたりと、何かと関りになる機会は多い。

 

 

 

「……本当に良いのか、衛宮」

「構わないって」

「いや、でも、それはフェアじゃないと言うかなんて言うか……」

「良いって言ってるだろ」

 

 助けてもらったお礼にと、士郎は綾子に食事を奢った。

 と言っても士郎は流行りの人気店など知らないので、店選びは綾子に一任する。

 最初こそ綾子は渋っていたが、士郎の強情さに根負けする形となった。

 で、結局選んだ店は流行りのカフェ……とかではなくて、どこにでもあるファミリーレストラン。

 互いに日替わりランチを頼み、他愛もない話に興じる。

 確かに彼女は記憶と違うところが多々見受けられるが、それでもその本質に変わりは無い。

 世界が混乱していても友人は変わる事無く在る。

 その事実は士郎にとって紛れもない救いだった。

 

 

 

 そんな事を考えながら帰路に着く。

 数多の無遠慮な視線にも、もう慣れたものだ。

 お土産にと買ったいつものたい焼きを手に衛宮邸の扉に手をかけて――――士郎は思った。

 そういや何にも解決していねぇじゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 士郎は帰宅早々から頭が痛くて仕方が無かった。

 近頃の衛宮邸にて、自分以外の誰も居ない、と言うシチュエーションは稀だ。衛宮邸に住んでいるセイバーや居候のバゼット、自宅と衛宮邸を行ったり来たりしている凛と桜とイリヤとライダー、食事の際には必ずいる虎、その他etcetc……。つまりは誰かしらは必ずいる。傍から見てみれば、一種の女子寮と言っても差し支えはあるまい。

 そんなわけで。ただいまの声に返事が無いのは、かなり珍しい事なのだが……

 

『オオン!アオン!』

「……」

『イキスギィ!』

「……」

『イクイク……ンアッー!』

 

 誰もいないのかと油断して開いた居間。その扉の先。

 士郎の眼は、衛宮邸を護る2人のサーヴァントが、テレビ画面にくぎ付けになっている姿を映していた。

 テレビには、裸の男2人が絡み合っている映像が映し出されている。一際大きい嬌声が響いた辺り、ちょうどクライマックスを迎えていたのだろうか。男優たちの余韻に浸った息づかいが、士郎の耳にまで届いていた。

 そして眼。

 翡翠色と、薄紫色の、四つの眼。

 やべぇ、と。そう言いたげな困惑に塗れたその眼が士郎へと向けられている。

 士郎は黙って居間の扉を静かに閉めると、抜き足差し足でその場から離れた。幸いにして、目的の場所(土蔵)はすぐ傍だ。このままのペースで中に入り、つっかえ棒でも差せば、暫くは1人で静かに考え事が出来る。

 少し休もう。これは逃避じゃない。ただの休憩だ。

 だが世界は士郎の事が嫌いなので、思い通りになんて進ませやしない。

 

「シロォォオオオオ! 違うんです! これは、その……違うんです!」

「そうです! 士郎、違うんです! 待って下さい」

 

 ばしーん、どごっ、どだだだだ。

 背後で響く音から逃れるには、少しばかり士郎は遅かった。いや、相手が早すぎた。

 何せ最優と騎兵のサーヴァントである。そりゃあ一介の魔術師程度じゃ逃れられないだろう。

 士郎が土蔵に辿り着くまであと少しと言うところで、セイバーとライダーが先回りしてスライディング土下座をかましてきた。

 

「これは私たちの意志ではないんです!」

「ちょっと渡されて……中を確認せねばと思いまして!」

 

 サーヴァント、それも最高の信頼を置いている方々の土下座と弁解。最早英雄としての威厳など何処へやらである。

 

「怪しげなDVDを渡されて、興味本位で見てしまったんです!」

「まさかあんな映像が入っているとは思ってもいなかったんです!」

「不快だと思われたのなら叩き割ります! 捨てます!」

 

 士郎としてはそこまで気にしなくていい案件である。思春期男子だって溜まる物は溜まる。士郎だってそういう本を自室の押し入れの奥に隠しているし、潔癖な事を言うつもりは毛頭も無い。仮に逆の立場なら、士郎だってこうやって土下座をしたかもしれない。……実際いつかのどこかの記憶では。友人の18禁本をカモフラージュに使用させてもらっている。

 

「あ、いや、別にいいんだ……俺は気にしていない」

「嘘です! 顔が引き攣っています!」

「ヒキツッテナイヒキツッテナイ」

「士郎……違うんです……本当に違うんです。店長から預かってくれと言われまして」

 

 エロ本ばれた時の中学生か。ツッコミを寸でのところで飲み込み、なるたけ士郎は笑顔を作った。

 

「大丈夫。気持ちは分かるから。俺だって似たような経験はあるしね?」

「シロウもAVを?」

 

 士郎としては言葉にするのはやめてほしいものである。今までのセイバーの印象がぶち壊しだ。

 と言うか何故にホ〇ビデオか。それはつまりは、男目線で言うところのレ〇ビデオか。なら納得だ。

 混乱した頭で混乱した事を考える。やっぱり士郎は疲れている。

 

「……とりあえず、本当に俺は気にしていないから。ただちょっとアサシンのせいで疲れたから、寝る」

「アサシン?」

「桜のところのアサシン」

「……士郎。申し訳ございません。私がバイトに行っている間に、彼が何かをしたのですね」

「ああ。でも、大丈夫。じゃ、ちょっと、寝る」

 

 最期はぶつ切りになってしまったが、士郎は2人を上手く躱して土蔵の中に入った。ガチャガチャ、ガチャン。扉が開かぬ様にして、ブルーシートに寝そべる。混乱に塗れた脳を落ち着かせようと、ゆっくり深呼吸をする。

 すー、はー。すー、はー。

 天窓からの光に少しだけ目を細める。

 

「……早いところ解決しないとな」

 

 自分の為にも、と言うのもあるが、他の皆の為にも。

 今のままでは、何が切っ掛けで何が起こるか分からない。

 気分転換にそばのラジオの電源を入れ、音を垂れ流しにする。

 流行りのナンバー。

 ポップな曲調と歌詞。

 こんな曲あったっけ。あったような、無かったような。

 でも今はこれくらいの曲が心地よく頭に入って抜けてってくれる。

 ごろりと寝ころんだまま、士郎は思った。

 そう言えば俺のエロ本ってどうなったんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛宮邸の夕餉はつつがなく終了した。寝過ごした士郎に変わって、凛と桜が用意した豪勢な夕餉。幸せそうに食事を楽しむその下で、魔術師とサーヴァントから生じる濃密過ぎる妖気と、時折牽制代わりに飛ばされる敵意が、ぶつかり弾け混じり合う。正常な人間ならば一分と持たずに気を狂わすだろう。最早此処は一種の異界と分類されてもおかしくは無い。その現実に士郎は二日を待たずして対応していた。慣れとは恐ろしいものである。

 

 

 

「士郎、お風呂沸きました。先に入ってください」

 

 夜19:30。

 皆とテレビを見ていたら、ライダーがお風呂が沸いた事を教えてくれる。

 

「え、俺一番風呂?」

「はい、どうぞ」

 

 この世界になってから、基本的に料理や掃除と言った家事は女性陣が率先して行っている。と言うかさせてくれない。今日の朝食こそ士郎が用意できたが、それ以外は殆ど誰かしらが済ましてしまっているのだ。

 当然、風呂の準備とて例外ではない。

 

「え、俺最後でいいよ?」

「いえいえ。どうぞ」

「どうぞどうぞ」

「入ってきてください。魔術で防音は完璧です」

「疲れているでしょ? ゆっくり入ってきて」

「お兄ちゃん! 私と入ろう!」

「イリヤスフィール、黙れ」

 

 固辞しようとしたが、その場のほぼ全員から先に入る事を勧められる。もはや数の暴力だ。

 そんなに臭うのだろうか。そんなに臭っているつもりは無いが、自分の臭いは気付きにくいものなので、若干のショックを士郎は受ける。顔には出さず勧められるがままに居間を後にした。

 

「私が二番風呂よ!」

「リンは一昨日シロウの後に入ったでしょ! 次は私!」

「じゃんけんは如何でしょうか」

「賛成です」

「直感スキル持ちは黙りなさい。そこも宝具を用意しない。ここは早い者勝ちで良いのでは?」

「だったらライダーは……ハンデを背負わないとね?」

「ああ! サクラ! 待って下さい!」

 

 背後から聞こえるごたごたは無視して、士郎は風呂場へ急いだ。あははー、そういうことかー。慣れたつもりだったが、二日程度ではまだ慣れきってはいなかったらしい。

 士郎は逃げる様にして風呂場へと急いだ。何だか嫌な魔力の波動が生じたのは気のせいだ。ライダーの悲痛な叫び声が聞こえるのも気のせいだ。

 

「……ま、ライダーなら大丈夫だろ」

 

 何せ喜んでいたし。

 明後日の方向へ思考を飛ばして、士郎は風呂場の扉を開けた。寝間着と新品のパンツが綺麗に畳まれて置いてあるのを見るに、準備は完璧なのだろう。念のためにと扉を閉めて鍵をかける。他意はない。本当に、ただ、念のために、だ。

 上着を脱いで、下着を脱いで、裸になって。

 そうやって生まれたままの姿になったところで、鏡に映った自身と目が合う。

 やけに疲れた顔。少し曲がった背。覇気が全く見られない。

 おいおい。しっかりしろよ、衛宮士郎。

 鏡の中の自分に向けて笑顔を作る。向こうの自分もニカッと、無理矢理に笑顔を作った。

 

 ――――ガタッ!

 

「うぉっ!?」

 

 背後で生じた音に、思わず士郎は振り返った。完全に油断していたがために、変な声まで出てしまっている。気恥ずかしさを隠すための様な行動だった。……行動の筈だった。

 

「あー……」

「……」

「……アサシン」

「……お、お昼ぶりですね、魔術師殿」

 

 なんで、は一旦置いておいて。

 振り返った先にはアサシンが居た。昼に会ったばかりのアサシンが居た。

 違うところがあるとすれば、白色のお面に罅割れが入っているのと、補修のためかセロテープが張ってあること。

 そしてスマートフォン。士郎を映す様に、両手で横向きに構えられたスマートフォン。

 

「何をしている?」

 

 何となく答えは分かるが、とりあえず訊く。

 

「き、雉を撃ちに……」

「いや、ここ風呂場」

 

 アサシンのなけなしの弁解は即答で切り捨てる。スマートフォン両手によくそんな弁解を発せたものだ。寧ろ良くそんな言葉を知っていたな、と士郎は妙な方向へ感心してしまった。

 風呂場、スマートフォン、気配遮断のスキル。

 導き出せる結論は一つしかあるまい。

 

「……盗撮?」

「い、いえいえ! 滅相も無い!」

「いや、此処に来てそうやって構えているって事は、そうだろ。狙いは誰だ? セイバーか? 遠坂か?」

 

 投影、開始。

 両手に膨れ上がる魔力。

 可視化したそれが稲妻のように迸り、瞬きの後に竹刀を創り上げる。

 虎のストラップが付いた特別性。

 誰が呼んだか虎竹刀。

 

「女性なんか盗撮しませんよ! 違うんです! 命令で……」

「命令? ……詳しく話せ」

「そ、それは……」

『アサシン! 何をやっておる! 角度が悪い! 上を向けぬか!』

 

 突然響いた第三者の声。

 本日昼に聞いたばかりの声。

 アサシン、スマートフォン、間桐臓硯。

 あ、そういうことか。

 全てを士郎は察した。スマートフォンから響く、第三者こと臓硯の声で全てを察してしまった。

 

『アサシン! 何をやっておる! バレたのなら襲え! ヤるのじゃ!』

「魔術師殿……」

『今が最大の好機じゃ! ヤれ!』

「し、しかし……」

 

 言い淀むアサシン。そりゃそうだろう、と士郎は思った。何故バレている状態で盗撮を続けなければならないのか。作戦が失敗しているのは明確なのだ。アサシンとしてはさっさと逃げ出したいところだろうに。

 目の前では臓硯の命令が続いている。拘束しろだの〇せだのチ〇コをしゃぶれなど言いたい放題である。こっちにも声は聞こえているのだが、そこまでは臓硯は考えが及んでいないのだろう。何せ齢500年の耄碌ジジィ――いや、ここではババァか――だ。

 士郎にはアサシンの思考が手に取る様に分かってしまっていた。責務と現実。本心に従えずに苦悩してしまう様は、仕える者としての悲しき性か。

 

『今ならばセイバーも執行者もおらぬ。小僧1人なら容易かろう』

「ですが魔術師殿、流石に現状は――――」

『ヤれ、と言った。従えぬと言うのか?』

「そ、聡明なご判断を! 身体だけでご容赦を!」

『ほう……儂に進言をするというか。……つまりは、』

 

 

 

『主が、今宵もこの身体を慰めてくれるのか?』

 

 

 

「……うぉぉおおお! ごめんなさい!」

「うぉっ!?」

 

 アサシンが腕を解放する。自分の背丈以上の長さの腕。禍々しい黒色の魔力が噴き出る。

 だがそれは、宝具開放の為ではない。

 

「ガッ!」

 

 咄嗟に楯にした虎竹刀は容易く破壊される。伸ばされた腕に首を掴まれ、士郎の身体は壁に押さえつけられた。

 幾ら直接戦闘の能力が低いクラスあっても、彼は英霊にまで上り詰めたサーヴァントである。ただの魔術師程度なら、組み伏せることくらい難しい話ではない。

 

『いいぞ! ヤれ!』

「……申し訳ございません、魔術師殿」

「謝るくらいならやるな!」

 

 叫びつつ冷静に思考する。

 部屋は密室。加えて防音。叫んだところで助けは来ない。

 自身は裸。虎竹刀は破壊された。得物は無し。首を掴まれ壁に押さえつけられている状態。力任せには外れない。

 相手に目的は、殺す事ではない。どれだけ抵抗しようとも殺されることは無い。

 だが身体能力の差は歴然。投影魔術で対抗しようにも、得物を振るえなければ意味は無く、射出するには時間が無さすぎる。

 

「くそっ……」

 

 第三者の介入は望めない。先ほどの魔力で察する可能性はあるが、それを望むには確率が乏しい。

 そこまでを士郎は思考すると、壁に手を当て魔力を流した。

 

「強化、開始」

 

 詠唱に割く時間は最短。扱う魔術は強化。だが目的は強化ではない。

 基本骨子の解明、構成材質の解明、基本骨子の変更、構成物質の補強。

 それらをすっ飛ばして結果を得ようとする。

 

「なっ!?」

 

 ピシっ、と。壁に罅が入る。流入された魔力は容易く矛盾を生み出し、正反対の結果を出す。

 強化の失敗。すなわち、魔力の暴走による、壁の破壊。

 在り方を失った壁は崩れ去り、士郎の背後に大きな穴が開いた。

 

「――――っ!」

 

 バランスを崩したアサシンの力に逆らわず、士郎は彼の腕を引いた。アサシンは踏みとどまるも、腕の長さが災いして士郎の身体は廊下へと出る。

 咄嗟にアサシンは士郎の口を塞いだ。助けを呼ばれるのを防ぐためだった。この期に及んで彼は臓硯の命令をこなす事を第一優先として考えていた。まだ失敗が濃厚なだけで、決定的に失敗したわけではない。彼を突き動かすはサーヴァントとしての使命。或いは、それほどまでに夜の相手をするのが嫌なのか。きっと仮面の下は涙で濡れているに違いない。

 ……だが、

 

 

 

「――――ひっ」

 

 

 

 この家には、

 

 

 

「……おや、奇遇ですね」

 

 

 

 封印指定執行者が、

 

 

 

「あら、マキリのアサシンじゃない」

 

 

 

 狂戦士を手懐ける白い妖精が、

 

 

 

「……10分の9殺し、かしら」

 

 

 

 アベレージ・ワンの魔術属性持ちが、

 

 

 

「シロウから離れろ」

 

 

 

 最優のサーヴァントが、

 

 

 

「あらぁ、アサシンさん?」

 

 

 

 そして間桐家ヒエラルキーのトップが、

 

 

 

「お昼の折檻じゃ足りなかったようですね。……じゃあ、3倍にしましょうか」

 

 

 

 いる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後の事はあまり思い出したくない。

 逃げ道を塞ぐ高速の拳。針金の鳥によるレーザー光線。合間を縫う様にして飛び交う多様な宝石魔術。冴えわたる剣技。全てを飲み込まんとする漆黒の影。そして逃げ切れず吹き飛ばされる暗殺者。破壊される家。

 士郎は思った。

 あははー、新手の体験型アトラクションかな、これ?

 拳に滅多打ちにされる暗殺者。レーザー光線に弾き飛ばされる暗殺者。宝石魔術で吹き飛ぶ暗殺者。剣の面部分で打ち据えられる暗殺者。そして影に飲み込まれる暗殺者。最早ボロ雑巾と言っても差し支えはあるまい。

 いそいそと彼女たちの後ろで服を着ながら、目の前で繰り広げられる非現実の光景に、士郎の頭は軽くトリップしていた。

 

「制圧完了です」

「さ、ここからが本番ね」

「拷問は不得手ですが……まぁ、殺さなければ良いでしょう」

「あ、桜。言っておくけど、今回使用した宝石や家の修繕額は、全額間桐家請求よ」

「分かっています。てことで、お婆様。今から皆で向かいます。逃げようとしても無駄ですよ。手を煩わせないで下さいね?」

 

 幾ら暗殺者のサーヴァントとして俊敏に優れていても、狭い家屋内で彼女たちを相手取るのは無理である。

 容易く組み伏せられると、ドナドナよろしくアサシンは引き摺られていった。これから臓硯共々どんな目に遭うのか……は考えたくもない。どんな理由があるにせよ襲ってきたのは事実だ。その報いは、避けられない。

 

 

 

 士郎はくたびれた頭の疲れた思考で自室へと戻った。すでに部屋には布団が敷かれている。用意万全な事である。

 そのまま導かれるように布団にダイブし、もぞもぞと姿勢を直す。アサシンに始まりアサシンに終わった今日一日。もう何も思考したくなかった。

 今日はもう寝よう。後は明日考えよう。

 現実逃避を決め込むと士郎はそのまま瞼を閉じる。微睡みはすぐに訪れ、思考が睡魔に絡めとられた。

 

 ヴー、ヴー、

 

「……誰だ?」

 

 微睡みに割り込んできた無粋な機械音。それは暫く待っても消えやしない。

 士郎は残った気力を振り絞ってスマホに手を伸ばす。画面には電話番号のみの表示。登録外からの電話だ。

 

「もしもし?」

「……衛宮士郎、だな」

 

 低い、不機嫌そうな声。

 その声に眠気は吹き飛んだ。

 あれだけ微睡んで、疲れ果てた頭が、急速に回転を始めた。

 

「アーチャー!?」

「声がでかい。叫ばなくても聞こえる」

 

 小馬鹿にするような語調。相変わらずの様子である。向こうとしては決して望んで電話を掛けたわけでは無いらしい。厭味ったらしい言葉だった。

 ――――上等だ。

 あれだけ日中会おうと探した相手だと言うのに、相変わらずの言い方に瞬間的に頭に血が上る。イカンイカン、と慌てて深呼吸を士郎は挟んだ。どうにも未来の自分と話をする時は、頭に血が上って仕方が無い。

 

「落ち着いたか、未熟者」

「おかげさまでな」

「ならいい」

「こんな時間に何の用だ?」

 

 時刻は21:00を回っている。夜遅く、と言うには早いが、電話をかけてくるにはやや遅い時間帯だ。

 

「もしも貴様が『衛宮士郎』ならば……あの場所で待つ」

「はぁ? あの場所?」

「全ての決着がついた場所だ。今すぐ、来い」

 

 一方的な宣言。訊き返す間もなく電話を切られる。後に残ったのは無機質な機械音のみ。

 全ての決着がついた場所?

 言われた言葉を脳内で反芻する。場所は大凡の検討が付くが、その真意は何も分からない。……だが、向こうも急いでいるのは間違いない。

 

「くそっ、世話の焼ける……」

 

 ぶつくさと文句を零しつつ、士郎はすぐに土蔵から自転車1号を引っ張り出してきた。今から指定の場所へ行くのであれば、交通機関は使えない。自転車を使うのが最速だ。

 士郎はアーチャーを疑っていない。確かに性格に問題はあるが、それは自分を含む、合わない相手のみ。嫌い合っているからこそ分かる。あのガングロ白髪皮肉野郎は、決して嫌がらせの為だけに電話をかけてくるような輩では無いのだ。

 

「ライダー、ちょっと出かけてくる」

 

 居間でノビているライダーに声を掛ける……が起きる気配はない。

 仕方ないので書置きだけ残すと、士郎は衛宮邸を出た。

 

 

 

 全ての決着がついた場所。

 即ち、柳洞寺へ。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)

 現実逃避を決め込むと士郎はそのまま瞼を閉じる。微睡みはすぐに訪れ、思考が睡魔に絡めとられた。
 
 ヴー、ヴー、
 
「……誰だ?」
 
 微睡みに割り込んできた無粋な機械音。それは暫く待っても消えやしない。

 取る
⇒取らない

「……うるせぇな」

 士郎は布団を頭まで被り、強制的に振動を意識から除外した。
 多少の興奮はすぐに収まり、そのまま意識は睡魔に絡めとられる。微睡みから、深い眠りへ。今度こそ士郎の意識は、彼だけの世界へと落ちて行く……

 ヴー、ヴー
 ヴー、ヴー
 ヴー、ヴー
 ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー、ヴー



「誰だよホントにしつけぇな!?」


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一日だけですが、本作で日間ランキングで1位を取ることが出来ました。
さらに初のお気に入り2,000件越え。
本当にありがとうございます。
皆様のご期待に応えられるよう、これからも頑張ります。


 アーチャー。

 第五次聖杯戦争にて遠坂凛が召喚した、弓兵のサーヴァント。

 その名が示す通り、射る事について卓越した技量を持つ。

 だが弓兵の名を司りながらも、双剣での白兵戦や、投影魔術を用いた魔術戦もソツなくこなす。

 その正体は、世界と契約した守護者にして、衛宮士郎の未来の可能性の一つ。

 

 

 

「来たか」

「ああ」

 

 長い石造りの階段を上り切る。

 重なった雲。月明かりが遮られた空。光源の覚束ない世界。それでも、足は自然と前へ。

 歴史を感じさせる門をくぐり、解放された敷地内に足を踏み入れると、そのすぐ傍から声が掛かった。

 何度も聞いた声だ。

 時に憎らしく。

 時に頼もしく。

 時に――羨望を。

 抱いた、その声。

 

「変わらないようだな」

「お互いにな」

 

 まるで友人に呼び掛けるような気安さだった。第三者が聞いたらそう思うだろう。だが2人は決してそういう関係では無い。互いに顔を合わせれば皮肉の一つでも出てくる。仲が良いとは決して思わない。何なら殺し合った仲だ。

 それでも。

 感情でも無く、理屈でも無く。

 全てを超越した、確かな信頼が。

 2人には、ある。

 

「……ついてこい」

 

 目前にて生じる、赤光の粒子。

 赤い外套が靡き、長身の男が姿を現す。

 浅黒い肌。

 色素が抜けたような白髪。

 そして眼。感情を排した、機械を思わせる、鋼色の、眼。

 一瞬だけ士郎にその眼を向け、彼はそのまま歩き出した。士郎がついてくることを疑わない歩みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 PM9:30

 柳洞寺居住スペースの空き部屋。

 

 

「……あら、もう戻って来たの? 無事に会えた様で何より」

「ああ。少し部屋を借りる。……すまないな」

「構わないわ。……少し席を外すわ。何かあったら――――」

「分かっている。コレと、貴様の想い人は、必ず逃がす」

「……そう、話が早くて助かるわ」

 

 疲れを隠すことなくキャスターは溜息を吐いた。珍しくも彼女はローブを身に纏っている。外気に晒されているのは口元だけで、その表情を窺い知ることは叶わない。

 アーチャーと少ない言葉でやり取りを済ますと、彼女はその場から去った。空間転移の魔術。魔法級の魔術ですら、彼女の手に掛かれば再現は難しい話ではない。

 

「アーチャー。キャスターは――――」

「貴様の想像通りだ。数少ない、マトモな存在。……だが、長くは持つまい」

 

 アーチャーは重々しい息を吐き出した。明確な言葉こそ省かれているが、大方の状況はそれだけで伝わった。

 即ち。マトモなのは士郎とアーチャーと、キャスターだけ。

 但しキャスターは近い将来どうなるか分からない。

 

「どうにかできないのか?」

「戯け。出来るなら、とうの間に実行している。……今の俺たちでは、術がない」

 

 アーチャーは感情を押し殺して、そう言った。一人称が私から俺に変わってしまっている辺り、士郎に問われる前から、彼自身相当この件は苦慮しているのだろう。

 

「あ奴は魔術を駆使して、今の状況に抗っている。だが、それも時間の問題だ」

「……いずれは、皆と同じようになるのか」

「だろう。そうなれば、後は貴様と私しかいない」

「今の原因ってキャスターでも分からないのか」

「今はまだ、な。あ奴なら時間さえあれば原因は突き止められよう。……時間さえあれば、な」

 

 言外に、キャスターは頼れない、とアーチャーは言っていた。決壊寸前のダムのような物。彼女の力を当てにする事は不可だ。

 士郎は正しく意図を理解して、ため息を吐き出した。逃げる幸せがあるのなら教えて欲しいくらいだった。

 

「頼る意味の薄い議論をしても仕方あるまい。……ただ、例えおかしくなったとしてもアサシンやランサーを頼るよりかはマシだ」

「アサシンって、ハサンか?」

「違う、ここのアサシン――だった、モノだ」

「……どういうことだ?」

「私たちの知る2人は、もういない」

 

 乾き切った声だった。感情を切り捨てた声だった。アーチャーはアーチャーで言葉に出来ない何かにあったのだろう。そこをこれ以上問う事は躊躇われた。と言うか男どもが揃ってダメになっている現状とはこれ如何に。

 

「……そういえば、門にアサシンがいなかったな」

「気にするな。世界が変わると同時に存在も変わり果てている。今のアレは、解き放たれた野獣だ」

「……野獣?」

 

 嫌な言葉だ、と士郎は思った。つい昼間に似たような言葉を聞いた覚えがあった。

 ……が、

 

「……いや、本題を先に済まそうか」

 

 それ以上を考える事を本能が拒否したので、士郎は話を無理矢理に戻した。訊くのは本題が終わった後でも良い。つまりは現実逃避である。

 

「ああ、そうだな。……衛宮士郎。貴様は、この世界の異常性に気づいている筈だ」

「……まぁな」

 

 初めての同意。この狂った世界でも変わらない人物。

 それがよりにもよってこの陰険ガングロ白髪野郎であることは甚だ気に喰わないところではあるが、それでも皆が狂ってしまっているよりはマシである。

 

「セイバーも遠坂も桜も……皆おかしくなっている。そもそも世界の常識からして変わっている」

「その通りだ。歴史も認識も常識も全てが改竄されている。あり得ない事だ」

「……歴史も?」

「ああ。織田信長や……宮本武蔵が女になっている」

 

 それはまたショッキングな話である。士郎の頭が本日何度目かも分からぬ痛みを訴え始めた。

 とは言え、身近にはセイバーと言う前例がある。まぁ、そんなこともあるか、と。壊れた価値観で士郎は受け入れた。回復は存外に早い。

 

「現状への心当たりはあるか」

「無い。アーチャーは?」

「同じく、無い」

 

 つまりは原因が分からない、という事だ。

 ガシガシガシ。士郎は頭を乱暴に掻き毟ると、昼頃に抱いた疑問を口にした。

 

「ここが平行世界って可能性はないのか?」

 

 要は、世界が変わったか、自分たちが変わった世界に来たか、の違いである。

 

「……可能性はある。だが、私たちとキャスターだけという理由への回答に繋がらない」

 

 加えてキャスターは抗っている状態。つまりは士郎の案が正だとしても、平行世界に来た、或いは無理矢理に来させられた真意が不明だ。

 ならば世界が変わったと言う方が、よっぽど辻褄が合う。

 だが、

 

「何よりも目的が不明だ。このような世界にした目的の見当がつかん」

 

 アーチャーは忌々し気に言葉を吐いた。

 世界を歴史事変えてしまう程の変革。

 それは聖杯を使おうとも、容易には達成できるものではない。

 そしてそこまでして変える事の目的が2人には想像できなかった。

 

「……そもそも何で俺たちだけが無事なんだ?」

 

 この場合の無事の定義は置いておいて、前の常識を保持しているのは、キャスターを除けば士郎とアーチャーだけである。

 だが、何故自分たちだけなのか。

 その理由が分からない。

 

「客観的に考慮をするなら、怪しいのは貴様だ」

「俺?」

「そうだ。私と貴様だけが無事な時点で、原因が貴様にあると考えるのが自然だ。……だが貴様は腐ってもエミヤシロウだ」

「こんな状況を望むはずがない、ってか?」

 

 アーチャーは世界と契約している。だが他にも契約した者は多数おり、何れも彼自身よりも高次の存在だ。

 にも関わらず、無事なのは彼だけ。

 そして常識を保っている衛宮士郎。

 となれば、式を導き出すのは容易い。

 ……だが、

 

「貴様の存在自体が、無罪の証明だ。『エミヤシロウ』はこんな世界を望まない」

「解決に動く、と」

「間違っているならば正す。それがどれだけ幸福で、何も失われていない理想郷であっても……それが貴様と言う存在だ」

 

 アーチャーの言葉は事実だ。

 例えこの世界がどこまでも士郎に都合よく働き、敵も障害も何もなくとも……士郎は正すだろう。その為に動くだろう。

 泡沫の夢であっても。

 幸福な幻影であっても。

 伽藍洞な日常であっても。

 エミヤシロウは、受け入れられない。そうあることを許せない。

 

「いいか、衛宮士郎。貴様だけが正常な事には、必ず理由がある。ただの偶然ではない。……それを解き明かせ。それが可能なのは、癪な事にお前しかいない」

「俺だけ? アーチャーは動けないのか?」

「動けないわけでは無い。だが、いつこの世界に飲み込まれるか分からない」

「どういうことだ?」

「これはあくまでも推測だが……私がまだ無事なのは、私が貴様の可能性の一つだからだろう。だが起点が一緒であっても、既に私は別物。今の状態を何時まで維持できるかは分からない」

「……キャスター程じゃないが、影響は出るのか」

「恐らくは、だがな。……まだ出てはないが、だからと言って座して待てるほどの余裕はあるまい」

 

 己の掌を見つめ、感情を押し殺して。いずれ来る未来を想像したのだろう。今までで一番の重々しいため息をアーチャーは吐いた。

 

「そんなわけで、いつまで無事でいられるかは分からん。希望的観測は持つな」

「……ああ」

「どうした?」

「いや……何故、俺なんだろうかって」

 

 一方で。

 士郎が抱いたのは、純粋な疑問だった。

 何故自分なのか。

 何故自分だけが影響を受けていないのか。

 

「それが分かれば苦労はしない。ただ、現時点では貴様と私だけが影響を受けていない。それだけが事実だ」

「……そう、だな」

「私は私が出来る事に尽くす。貴様は貴様で尽くせ」

 

 話は以上という事だろう。

 アーチャーは傍の襖を開いて、顎で外を示す。早く帰れ。態度と言い仕草と言い、士郎からすれば一々が癇に障る奴である。言っている事は間違っていないのが、これまた癪である。

 

「……飲まれるなよ」

「戯け」

 

 鼻で笑う様な、気障な語調。

 だが士郎を見る眼は。侮蔑も何も無い。真剣そのもので。

 この世界の変容に、心から苦慮している面持で。

 それ以上は何も言わず、士郎は柳洞寺を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「衛宮」

 

 情報の共有は終わった。現状の推察も終わった。

 となれば後は帰るだけである。PM10:00過ぎ。夜も遅い時間帯。幾ら腕に覚えがあるとは言え、この冬木市は人知を超える存在が存在する人外魔境。士郎程度の腕では、どんな目に遭うかも分からない。

 という訳で。

 早々に帰宅しようした士郎だったが、居住スペースを出る前に声を掛けられる。

 振り向いた先には――――眼が窪み、頬がこけた、幽鬼の如き長身痩躯の男性。

 ……悲鳴を上げなかったのはこれまでの経験の賜物か。或いは、理解の方が早かったか。

 

「……葛木先生?」

 

 葛木宗一郎。穂群原学園の教師であり、キャスターのマスターである、いつかの夜に争った相手。

 その彼が、今にも倒れそうな虚ろな瞳で、士郎の背後に立っていた。

 

「ど、どうし――――」

「すまない」

 

 謝られる。真摯な響きを持った謝罪の言葉。

 だが士郎には思い当たる節が無い。

 

「えーと、何が……?」

「教師でありながら、教鞭を執れず、外出すらもままならなくなってしまった事だ」

 

 ああ、そう言う事か。

 発言のタイミングがタイミングなので、あらぬ誤解が生じそうになったが、すぐに士郎は誤解を破棄した。そもそも冷静に考えて、彼がこの世界の変容を引き起こしたと考えるのは、かなり無理がある話だ。

 己の戯けた思考を塗りつぶす様に、士郎は言葉を重ねた。

 

「仕方が無いです。それよりも、具合はいかがですか?」

 

 お兄様は引き篭もっておられる。それは一成の言葉。

 あの時は混乱故に軽く受け流していたが、引き篭もっているというのは、かなりの大事だ。

 キャスターの手によって、無数の魔の手から護られたと考えるのが自然だろうが……世界が変容してしまっただけでなく、過去すらも変わってしまった状況では、過去に彼がどんな目に合ったのかもわからない。

 

「問題は無い。……ただ、思いの外疲れて、止まった。それだけだ」

 

 虚ろな目。虚空を彷徨う視線。言葉の端々から疲労の色が見え隠れしている。士郎の想像できる最悪は、大凡経験済みという事か。

 

「衛宮。逃げる事は、間違ってはいない。……私はその意味を、漸く学んだ」

「は、はい……」

「……柳洞から話は聞いている。その先には艱難辛苦が待つかもしれない。だが進むことに疲れたら……無理はするな。足を止めて休むことは……恥ではない」

 

 果たして一成は宗一郎に何を言ったのだろうか。そう言えばああも言っていた。必ずあの女狐を退治してお前を救ってやる。一成の中での評価が士郎としては気になって仕方が無い。

 

「いずれは復職しよう。……すまないが、もう少し待ってほしい」

「いえ、お気になさらず……」

「何かあれば……来い。キャスターと共に、出来得る限りの事はする」

 

 何も言えない。世界の残酷さに、1人の尊い犠牲者に、士郎の涙はちょちょぎれそうだ。

 では、な。それだけを言って、宗一郎はフラフラと覚束ない足取りで暗闇へと消えた。

 後に残されたのは士郎1人。

 故に、暗闇で1人思う。

 

「……帰ろう」

 

 それは正しい判断だ。

 高校生が出歩くには遅い時間帯。

 葛木宗一郎ですらこう成り果てた世界で、士郎が今まで通りにいられるとは限らない。

 今更ながらに危機感を抱き――――士郎は駆けた。

 敷地を、門を、そして階段を。

 駆け抜けた。

 

 

 

 ただ残念なことに。

 結論を言ってしまえば。

 士郎の判断は、遅すぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段を駆け降りる――――否、落ちる。

 重力に従い、彼の鎖に絡めとられながら。

 勢いをつけるが如く、力を込めて。

 地に向けて、跳ぶ。

 バランスを崩せば、そのまま激しく身体を打ち据えるだろう。打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。

 だが士郎は。結果として無事に入り口まで降り立った。

 入口までは無事に降り立った。

 

 

 

「いやいや、偶には戻るのも悪くは無い、ってね」

 

 

 

 女がいた。

 士郎が止めた自転車のすぐ傍に、女がいた。

 但し、只の女ではない。

 薄桃色の髪の毛、蒼天を思わせる眼、女性らしさを隠しきれない豊満な双丘に細い腰、息を呑むような美貌。セイバーやライダーに勝るとも劣らぬ美しさと凛々しさ。

 そして太刀。腰に差すは4本の太刀。

 サーヴァント。

 咄嗟に士郎はそれだけを認識し、大きく後方に飛んだ。

 それは正しく、彼我の実力差を認識した故の行動だった。

 

「あちゃー、そんな反応されると傷つくなぁ」

 

 反応は驚くほどに迅速だった。

 判断は正しく最適解だった。

 だが嫌な予感が、想像が、士郎を捉えて離さない。

 目前の女。街灯の灯りを受けて露わになる女。

 段違い。圧倒的な力量差。

 見ただけで、それを士郎は認識する。

 

「……サーヴァント」

「え!?」

 

 何故か驚いたような、そして傷ついた顔をする目前の美人。それが士郎の発言にある事は状況的に間違いは無いが……

 

「え、ちょっと待って!? なに、え、うそ!?」

 

 それは士郎のセリフである。何故自分は知らない女性に此処まで驚かれなければならないのか。

 士郎はゆっくりと後退を始める。本当ならすぐにでも逃げ出したいが、背を見せると何をされるか分からない。生物としての、本能的な行動だった。

 

「待って待って! もしかして、私の事……忘れ、たの?」

 

 先ほどの凛々しさはどこへ。一転して涙目になり慌てる美女に、士郎は不覚にも絆されそうになる。

 ぶんぶんぶん首を横に振って煩悩は消し飛ばす。今はソレに惑わされている場合じゃない。

 

「あ、良かった! そうだよね、違うよね!」

 

 一方で。

 士郎の首振りを自身の問いかけへの否定と受け取ったのか、女性は安堵の言葉を漏らした。目元を拭ったあたり、相当ショックだったらしい。……残念ながら、士郎は事の次第をまだ分かっていない。彼女とは初対面の筈であり、名前も存在もまだ分からない。

 

 

 

「士郎!」

 

 

 

 そんな士郎を救う様に。

 2人の間に突き刺さる剣。

 士郎の背丈ほどもある剣が、コンクリートの地面を抉り、突き刺さり、2人を分断する。

 そして降り立つ、紫色の影――――ライダー。

 

「ライダー!?」

「士郎、遅くなり申し訳ございません! ……そしてすいません!」

 

 バッ! 反転したライダーが士郎に抱き着いたかと思うと、そのまま大きく跳躍した。

 鼻孔に広がる芳しい香り。

 一瞬の浮遊感。

 そして柔らかな衝撃。

 眼を開けると、そこはどこかの家屋の屋根。

 

「申し訳ございません、士郎! しかし暫しの間無礼をご承知いただきたく……ッ!

「いや、俺は大丈夫。えーと、寧ろ、ありがとう。助かった」

 

 気が付けば士郎はライダーに横抱きにされていた。つまりはお姫様抱っこである。

 とは言え男の沽券等今更の話である。抱かれた状態のまま士郎は周囲に視線を走らせた。

 剣を射出した当人――恐らくはアーチャー――の姿は見えない。

 一方で、女性は――――

 

「待ってよ、ライダー。彼を、どうするつもり?」

 

 声は、背後から聞こえた。

 ライダーと共に振り返ると、そこにはあの女性がいる。同じ屋根の上にいる。

 加えて、彼女は抜刀していた。月の光を受けた太刀が、鈍い輝いている。

 士郎もライダーも、彼女から視線を切ったのは一瞬。だがその一瞬で、彼女は状況を把握し、ここまで追いかけてきたのだ。

 

「……貴女の知るところではありません」

「……へぇ」

 

 冷徹な目だ。先ほどまでの好色が混じった眼ではない。サーヴァント同士が相対する時の、敵意を含んだ、眼。

 それがライダーに向けられている。

 

「一つ教えてあげるわ。ライダー」

 

 女性は抜刀した大太刀を、ライダーに向けて構え直した。

 

「私には嫌いなものがあるの。人の矜持を自分の楽しみの為に踏みにじるヤツ。あと、お腹減ってる時に襲い掛かってくるヤツ」

「……」

「そして……私好みの美少年を奪うヤツよ!」

 

 ドンッ!

 漫画なら、こんな擬音が彼女の後ろに描かれたに違いない。

 仁王立ちになって、己の矜持を宣言する様は、そうなるに相応しいシーンだ。

 

 だが、これは現実である。

 

 この人は何を言っているんだろうか。

 士郎は混乱した頭で、まずそれを思った。状況に、現実に、頭が追い付いていなかった。正直気分的にはドン引きである。

 

「……1つ、ではなく3つですね」

 

 そしてライダーは何処までも冷静である。ともすれば馬鹿にするような煽り口調で、女性の発言に指摘を挟む。口調こそ静かではあるが、士郎はこれが彼女がブチ切れている時の様子であることを知っている。

 

「大丈夫よ、士郎君。君は必ず救うから」

 

 女性はライダーの発言に全く反応しない。とびっきりの笑顔とウィンクを士郎に投げて寄越す。今のライダーを目の前にしてそう振る舞う辺り、相手も相当な賜物である。

 だがそれは、決してただの虚勢ではない。

 士郎の眼は聖杯戦争のマスターとして、相手サーヴァントのステータスをしっかりと映し出していた。

 

 ――――強い。

 

 士郎は真っ先に、そんな感想を抱いた。

 ステータスは軒並みBを超えている。魔力だけEだが、それはこの場においては些末事である。

 余裕綽々で得意満々のその姿は、確かな実力に裏打ちされた姿と言うことだ。

 

「士郎」

「了解した。で、何だ?」

 

 即答だった。用件を聞く前の即答だった。

 驚いたのはライダーだ。この短いふた呼吸だけの会話。強敵を前にした、無駄を省いた返事、と言うわけでは無い。破格とも言える信頼に、彼女は面食らい、思わず苦笑を零した。

 

「人が良すぎます……だから、勘違いをしてしまうのですよ」

「む?」

「いえ、此方の話です。……ああ、本当に心地の良い夜ですね」

 

 さっ。士郎を下がらせ、魔眼殺しの眼鏡を外し、彼女は自身の髪の毛をかき上げた。

 一瞬。

 まさに、瞬きの間。

 その間に彼女は自身の装いを変えていた。

 紫色の眼帯。黒色のボディコン。そして両手には釘剣。鎖の付いた、釘剣。

 

「そこより前に進めると思わない事ですね。……今この身は、彼の為だけにある」

 

 ライダーがその身を低く落とした。蜘蛛の様に低く、低く、だらりと。鎖が地面を這い、音を鳴らす。重力に従って、彼女の長髪も地面を這う。

 一方で。相手はもう一本の太刀を抜いていた。構えるは2本の刀。つまりは二刀流。但しアーチャーや士郎の様な双剣用の二刀流ではない。日本刀での二刀流。

 長い歴史を紐解いても、二刀、それも日本刀を扱う剣士は、そうはいない。

 

 狙いは必中にて必殺。

 

 求めるは一太刀。

 

 二の打ち要らずの、ただの一撃。

 

 勝負はきっと一瞬だろう。

 

 

 

 夜は、まだ、終わらない。




おまけ(と言う名のNGルート)

「……飲まれるなよ」
「戯け」

 鼻で笑う様な、気障な語調。
 だが士郎を見る眼は。侮蔑も何も無い。真剣そのもので。
 この世界の変容に、心から苦慮している面持で。
 それ以上は何も言わず、士郎は柳洞寺を――――

 後にする
⇒キャスターに挨拶だけする

「……お礼ぐらいは言わないとな」

 アーチャーの見送りは無い。振り向けば、既に霊体化して消えた後だった。
 まぁ、白髪ガングロ気障野郎の見送りなんて、最初から期待していない。それよりも、別に挨拶をしなければならない相手はいる。
 キャスター。
 いつ此方の世界に呑まれるかもわからない、仲間。

「ええと……」

 キャスターの居場所なんてのは知らないが、おそらく結界がいくつも重ねられた先だろう、との予測は立てられる。
 士郎はそこら辺の構造解析が得意だ。ましてや今のキャスターは、若干魔術の張り方が荒い。起点を探し、潜り抜けるのはそこまで苦労しない。
 そうして。
 目前には灯りのついた部屋。
 最後にもう一つ結界を越えれば、多分着く。
 挨拶だけして帰ろう。
 そう考えて、最後の一つを越え、

「んほおおぉぉおおおおおおおおおおお!!! 宗一郎様ああぁぁあああああああああああああ!!! しゅきしゅきしゅきいいぃぃいいいいいいいいいいいいいいいい!!! んあっ♡ んあっ♡ んほ、んほおおぉぉおおおおおおおおおおおお!!!」
「……」
「んんんんんんんんんんんん!!! んんんんんんんんんんん!!! んんんっ!」
「……」
「んっ♡ んっ♡ んっ……ん?」
「……」
「……」
「……」
「……ぼ う や ?」


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ろく

壊れてないキャラなんていないよ?


 閃く太刀。闇夜に煌く鋼の輝き。全てを断たんとする一閃。

 

 

 

 綺麗だ。目の前で閃いた太刀筋を見て、そう士郎は思った。

 その一閃は、上等ではあるが、決して最上と言えるものでは無い。セイバーやアサシンのような究極の一とも言える剣技には及ばず、そしてアーチャーの最適化された剣技にも満たない。人外の剣技をこの目で見続けてきた士郎だからこそ、太刀筋だけでその力量を正しく見抜いていた。

 なのに。

 ライダーの釘剣を弾いた一閃を。

 ライダーの鎖を払った一閃を。

 綺麗だ、と。そして彼女の太刀筋は、セイバーやアサシンと同じ極地に立つ、と。いずれ究極の一に到達する、と。

 ――――或いは、その先にすら、到達する、と。

 そう、士郎は感じた。

 

「っ!」

 

 もう一閃。止むことのない剣戟の嵐。踊る様に繰り出される太刀。防戦一方のライダー。その顔には苦悶の色が見て取れる。

 ……決してライダーが弱い訳ではない。単純に土俵が悪い。間合いは相手に利があり、ライダーは真っ向からの近接戦闘を得意としているわけでは無い。遮蔽物の殆ど無い広大な空間は彼女の機動力を十全に行かせるのだが、護衛対象の士郎という存在が、彼女から機動力を奪っていた。

 ……だが、

 

「フッ!」

 

 大きく後退しながら、短く呼気を込めた敵意と共に、その手から弾丸じみた初速でライダーは釘剣を放った。手首のスナップだけでも、サーヴァントが放てばそれは現代兵器を凌駕する。直撃すれば穴が空くだけでは済まされない。衝撃で顔など破裂するだろう。幾ら相手がサーヴァントとは言え、目前の相手を殺すことに、なんの躊躇も見出さない一撃だった。

 だが、それをサーヴァントが黙って喰らう筈がない。迎撃。釘剣を避ける素振りすら見せず、斬りかかろうとした左手の太刀で、あろうことかライダーに向けて打ち返した。刹那にすら満たない思考と把握と判断。そしてそのまま追撃に入るべく一歩踏み込――――もうとして、相手はその体勢のまま引いた。そして面倒くさげに、右手の太刀に絡みついた鎖を振り払った。

 ライダーとサーヴァントは、この一瞬の攻防を以って、初めての静寂を得た。離れた間合いは撤退するには狭く、仕掛けるにはやや遠い。

 士郎は弓を投影していたが、放つタイミングを見出せないでいた。ライダーも相手も、何手も先を見据えて動いている。そこに無遠慮な一撃を放つことは、決してライダーを優勢に動かすことは限らない。

 

「士郎。貴方は、必ず守ります」

「ちょっと。それ、私の台詞なんだけど」

「ですから、安心して武器を下ろしてください」

「聞けっての」

 

 ライダーはより低く、低く、さらに低く身を構えた。仕掛けるにはあまりにも特異な姿だが、それが彼女の戦闘時の構えであることを士郎は知っている。

 相手は溜息と共に、自然体のまま2刀を構えた。泰然。しかして、威圧的。この時初めて、士郎は相手の真名に思い当たった。

 呼吸を忘れるような、闘気の鬩ぎ合い。練り上げられた敵意と殺意。もしもそれを可視化することが出来たのならば、きっと気炎のように天に立ち昇る様を士郎は目にしただろう。

 

 

 

 そしてその瞬間は唐突に訪れる。

 切り取ったように、世界がコマ送りになる。

 

 

 

 雲に隠れる月明かり。

 消える両者。

 剣戟の音。

 火花。

 舞う釘剣。

 閃く太刀。

 斬りつけ、弾き、薙ぎ払い、受け流し。

 そして――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、なんで衛宮は朝からボロボロなのさ」

 

 翌日の穂群原学園。

 いつもとは違うクラス。

 いつもとは違う周囲。

 そこで士郎は、朝一のHRが始まる前から机に突っ伏し、身動きが取れないでいた。

 そんなところにかかる声。

 もぞもぞと頭だけを動かし、声の主へ目を向ける。

 

「……慎二?」

「相変わらず平和ボケしたツラだね。間抜け面にも程がある」

 

 間抜け面とは酷い言われようだ。だが、それに言い返す気力は今の士郎には無い。昨夜の内に目まぐるしいほどに重なったイベントのせいで、士郎は心身共削り取らてた状態だ。

 昨夜はハサンに襲われ、アーチャーに呼び出されて世界の状況を聞き、新手のサーヴァントに襲われた。しかもその新手のサーヴァントが実はキャスターが召喚したアサシンで、真名が宮本武蔵で、士郎が好みのタイプと公言して憚らない危険人物であるとくれば、最早士郎には笑うしかなかった。

 

 ――――必ず迎えに行くわ!

 

 昨夜。ライダーとの攻防の果てに、彼女はそう宣言した。何故佐々木小次郎が宮本武蔵になったのか、何処に小次郎は行ったのか、何故武蔵は女性なのか、そして――――何が武蔵と士郎の間にあったのか。

 ライダーに訊いても、彼女の真名と召喚の経緯以外は分からない。

 兎にも角にも。謎は謎のまま一晩が過ぎ、眠れぬ夜を過ごした士郎としては、今頃になってどっと疲れが来た状態なのだ。超お疲れモードなのだ。

 

「……ああ、慎二か。どうした?」

「どうした、じゃないよ」

 

 呆れた様子を隠すことも無く、慎二――間桐慎二――は溜息を吐き出した。端正な顔が不機嫌そうに歪められている。今の士郎の姿に失望しているのは、疲れ果てた士郎とて分かる事だ。

 これはいかん、と。気合を入れて身を起こす。

 

「悪い。色々あって疲れていた」

「見りゃ分かるよ。ったく、また面倒事に頭突っ込んでんだろ」

 

 正確には解決のために突っ込まざるを得ないのだが、そこはどうでもいいところだ。最終的な意味合いとしては同じだし。

 士郎の顔を見て、慎二は盛大に溜息を吐いた。中々に失礼な態度だが、これは慎二の持ち味。この程度に一々目くじらを立てていては話は進まない。

 

「間桐の態度は目に余るが、発言には同意だ。また女狐に悩まされているのだろう」

「衛宮は押しに弱いからな。つーか、態度って何だよ?」

「それだ。それともわざわざ言葉にしなければ分からんか?」

 

 まぁまぁまぁ。間に入る士郎。慎二と一成の仲は、世界の変貌後も変わってないらしい。

 

「衛宮。何度も言うが、困った事があれば言ってくれ。俺も、お兄様も、力になる」

「ハッ、柳洞を頼ったって尼寺住まいに変わるだけだろ。それよりも衛宮もさっさとホテル住まいに変えろよ。快適だぜ」

「誰も彼もが間桐と同じように出来ると思うな」

「柳洞こそ何言ってんのさ。男ってだけで費用は無料だぜ? 使わない手は無いだろ」

 

 どうやら慎二は間桐邸ではなく、ホテルで生活しているらしい。変貌前とは異なる、新しい情報である。

 ……まぁ、あの化け物屋敷にいるよりかは、ホテル住まいの方が確実にマシだ。慎二の判断は正しい。濃厚過ぎて吐き気すら覚える昨日の出来事を思い返して、そう士郎は思った。思い返すだけで背筋が無駄に寒くて仕方ない。

 

「逆に2人を尊敬するくらいさ。よく実家に住んだままでいられるね」

「意外と大丈夫だぞ?」

「……まぁ、藤村教諭やセイバー殿がおられるなら平気、なのかもしれぬな」

「あり得ないって。お前ら頭のネジ外れてんじゃないの? それもとも無理矢理される方が好みか?」

 

 うへぇ。眉間を顰めて舌を出して。同意しかねる、と言いた気な表情を慎二は作った。

 決しておちゃらけているわけではない。寧ろ迫真である。その裏には……間違いなく臓硯との間に何かがあったに違いない。想像するだけで士郎は吐き気がした。

 

「数少ない男同士のよしみとして言っているんだ。特に柳洞は拗らせてそうだし」

「拗らせて結構。忠告は感謝する。が、お前は貞操観念が緩すぎる。もう少し自分の身を大切にしろ」

「僕だってヤりたくない子とはしないさ。それに主導権を握らせるつもりはないし。柳洞はもう少し広い眼で見た方が良いんじゃないの?」

「戯け。お前は煩悩に塗れ過ぎだ!」

「おいおい。落ち着けって、一成」

 

 ヒートアップし始める一成。会話内容は普通に周囲に聞こえているので、周りの女生徒は赤面したり、ニヤニヤしながら士郎たちを見ている。慎二は分かっていて煽っているので、知らぬは一成ぐらいなものだ。

 

「ならん! ええい、離せ衛宮! こ奴に喝を入れねばならぬ!」

「おぉ、コワイコワイ。童貞は頭が固いねぇ」

「ほざくか!」

「ストップ! 待て待て! 慎二も煽るな!」

「煽ってなんかいないさ。……ていうか、僕としては衛宮が赤面しない方が意外だけどね」

 

 へ?

 予想だにしない言葉に士郎は言葉を失った。此処で自分に飛び火するとは思っていなかったのだ。

 

「今までの衛宮だったら、この手の話題には赤くなったと思うんだけどなぁ」

「そ、そうか?」

「ええい、お前と衛宮は違う! 一緒にするな!」

「柳洞は黙ってろよ。なぁ……お前さ、もしかして……経験済み?」

「なにぃ!?」

 

 慎二は珍しくも呆けた表情を見せた。一成は混乱した表情で士郎へ振り向く。心なしか周囲も静まり返っている。全員が士郎の返答を待っているのは間違いない。

 

「ば、馬鹿を言うな、間桐! 衛宮が簡単に純潔を散らすわけが無かろう!」

「いや、柳洞には聞いていないし。なぁ、どうなんだよ。……マジなのか?」

「え……と」

 

 この場合何を言うのが吉なのか。そういう経験……が無いわけでは無いが、ここの世界線だとどうかは知らない。無闇な発言はきっと自分を窮地に追い込むだろう。というか仮に認めれば、次の話題は誰としたかになる。いつ、どこで、まで飛び火するかもしれない。そこまでを考慮して考えれば、この場での回答として正しいのは、間違いなく否定だ。

 この間、およそ0.1秒。

 かつての運命の夜ですらここまで頭は回らなかったに違いない。そう思えるほどの高速回転フル駆動。今の士郎の思考力なら、きっといつかは『』にも到達できよう。そんな感じ。

 

「経験は無いぞ」

 

 少しぶっきらぼうだったかもしれない。士郎は言葉を発してからミスに気が付く。皆の士郎評は分からないが、今の発言の仕方が不自然なのは明らかだ。

 だがそんな士郎の内心など知りもせず。一成は満面の笑みを浮かべると、士郎を抱きしめた。

 

「だよなぁ! うむ! やはり衛宮は清くなくてはな! 良かったぞ、良かった……っ!」

「い、一成……苦しい……」

「俺を許してくれ。衛宮がそんな事をする筈がないと分かっていながら、あ奴の言葉に僅かに少しだけでも揺さぶられてしまった……っ! まだ修業が足らぬっ!」

「……」

「ええい! 間桐も衛宮を真似て、その煩悩を打ち消してこい! 今なら特別に俺と一緒に修行する事を許そう!」

「……ハッ、そんなの結構。ちぇ、つまんねーの」

 

 周囲が思い出したかのように喧騒を取り戻す。良かった。そうだよね。ちょっと興奮してきた。まだ遠坂さんに奪われてないんだ。意外。純情で純潔って最高じゃん。うへへ、かしまし三人組は良いですなぁ。はいはーい、ホームルーム始めるわよー。大部分の声を士郎は意識から除外した。というか来てたならさっさとホームルームを始めろ藤ねぇ。

 

「戻るぞ、間桐」

「はいはい。……ああ、衛宮。放課後時間あるか?」

「? あるけど」

「じゃあ、偶には遊ぼうぜ。お堅い柳洞は抜きにして、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遊ぶって言ったけどさぁ……何でバッセン?」

 

 時間は経過して放課後。冬木市内のバッティングセンター。

 慎二は呆れを隠そうともせず言葉を吐いた。

 

「普通さぁ、カラオケとかショッピングとか……もっと別のところにしないか? 何で此処?」

「む、嫌だったか?」

「誰も彼もが体力馬鹿の衛宮と一緒だと思うなよ……ま、偶には良いけどさ」

 

 なんだかんだ言いつつも慎二は士郎に付き合って、隣の部屋に入っている。アレはアレで、そう悪くないと思っている証拠だ。本当に嫌なら、もっと罵倒するか、さりげなく自分の好みの方へ上手く誘導する。

 

「というか、此処が仮に嫌だって僕が言ったら、何処で遊ぶつもりさ?」

「……えーと、港?」

「何で?」

「釣り?」

「ホント衛宮って無駄にアクティブだね」

 

 ぶんぶん。調子を確かめる様に慎二も素振りをする。慎二自身は筋肉質では無いが、弓道をやっているだけあって体幹が鍛えられているため、素振りは存外しっかりしている。

 

「ま、衛宮らしくて良いと思うよ。寧ろ変わってない様で安心した」

「そりゃどーも」

 

 士郎も2、3素振りをして感触を確かめたところで、小銭を機械に入れて構える。モニターに映し出されたピッチャーが振りかぶり、

 

「で、ぶっちゃけ衛宮って実は経験済みだろ」

「ぶっ!」

 

 突然の発言に、士郎は思いっきり初球を空振りした。

 

「うわっ、全然当たってないじゃん」

「慎二が変な事を言うからだろ!」

「ほら、前見ろって、次来るぞ」

 

 促されるままに慌てて士郎は構えた。20球で200円。無駄にしたくは無い金額だ。

 

「で、相手は誰だよ。遠坂か?」

 

 ぶん。またも腰も入っていないスイングで士郎は空振りした。見れば慎二はニヤニヤと笑っている。

 

「遠坂じゃ無けりゃ……セイバーか?」

「慎二!」

「ハハッ、怖い顔するなって。嘘が下手な衛宮が悪い」

 

 やはり慎二は士郎の嘘に気が付いていたらしい。まぁ分かるよな、としか士郎は思わない。それだけあの時の自分は不自然だった。

 深呼吸をして心音を整える。もう惑わされない。慎二に背を向け、次の球に集中する。

 

「……もしかして桜か?」

 

 スカッ。3球連続の空振り。ここまで精神をかき乱されるとは、修行の足らない証拠だ。

 

「ハハッ、衛宮にお義兄さんって呼ばれるのも遠くはないかぁ?」

「慎二!」

「冗談だよ、じょーだん」

 

 コホン。ワザとらしく咳をして、士郎は今度こそ集中する。もう惑わされない。例えイリヤやライダーやカレンやバゼットの名前を出されようとも、惑わされない。明鏡止水。さざ波すら立たぬ水面のイメージ。

 飛んできた球にのみ意識を向け、

 

「ま、ギルガメッシュ作成の特製ダッチワイフとかじゃないよなー」

 

 スカッ。4球連続空振り。でも今のは致し方が無い。

 

「え、うそ、マジ?」

「違う! と言うか、アイツなんてもの作ってんだ!?」

 

 人類最古の英雄王がそんなもの作っているなんて、イメージ大暴落の超絶スキャンダルだ。気に入らぬ相手ではあるが、この世界でのそんな新事実など知りたくも無い。

 

「え、でも有名じゃん。アイツ、女性が大嫌いで人形で自分を慰めていたって」

「嘘だろ……」

「イシュタルだっけ? 執拗に求婚してきて、しかも友人の死因になった神様。アレのせいで女嫌いになったらしいじゃん。それから女なんていなくても大丈夫なように、究極のダッチワイフ創り上げようとしているらしいぜ」

 

 頭の痛い話だ。士郎は眉間を押さえながらそう思った。が、この世界の慎二が言う事だから間違いは無いのだろう。違う世界の英雄王の知られざる苦悩に、士郎は正直涙しそうだった。

 

「ギルガメッシュは……今、どこで何をしているんだ?」

「さぁ? でもどっかでダッチワイフは造っているみたいだぜ。時々送られてくるしな」

 

 元マスターのよしみという事だろうか。意外な接点である。

 

「でも外見が全然僕の好みじゃないんだよね。いや、気持ちいいんだけどさ」

「そう、か……」

 

 もし会うことがあったら、食事でも御馳走しようか。かつての世界で殺し合った仲ではあるが、今はそんな気も起きない。士郎の脳内では、もはや傲岸不遜の英雄王ではなく、頬がこけてやつれた姿がイメージとして描かれていた。彼もまた、この世界の可哀そうな被害者の1人なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バッティングセンター、カラオケ、ウィンドウショッピング。

 約3時間。遊ぶだけ遊んだ。日も暮れた。ならば、後は帰るだけ。

 

「衛宮、今日は久しぶりに楽しかったぜ」

 

 冬木市一番の高級ホテル。冬木ハイアット。

 その玄関口で、慎二は珍しくも毒気の無い笑顔を浮かべた。

 

「僕は此処の……最上階のスイートルームに泊まっている。ま、気が向いたら呼んでやるよ」

「ああ、楽しみにしている」

「じゃあな」

 

 手を振って、背を向け。慎二は振り返る事無くホテル内に入って行った。

 冬木ハイアットホテル。士郎は入った事は無いが、冬木市一番の高級ホテルとして有名だ。屋上庭園、有名レストラン、会員制のバー、それにジムやプールを設置しており、普通の高級ホテルとは一線を画している……らしい。残念ながら、士郎には縁のない話だ。

 くるりと背を向け、士郎は帰宅の道に着こうとし、

 

「……なぁ、衛宮」

 

 背後の声に足を止める。

 振り返ると、ホテル内に入った筈の慎二が立っていた。

 

「お前……また面倒事に首突っ込んでんだろ」

 

 それは昼の時にも聞いた言葉。だけど響きは決定的に違う。

 推測では無かった。疑問でも無かった。断定の語調だった。そして呆れを隠そうともしない口調だった。

 

「ま、別にお前がどうなろうと僕の知ったこっちゃないけどさ。でも、桜を悲しませるなよ」

「慎二……」

「僕が言いたいのはそれだけだよ。あんなんでも……一応は家族だしね」

 

 じゃあな。そう言って、今度こそ慎二はホテルの中に消えて行った。

 残ったのは士郎だけ。

 まいったなぁ。思わず言葉と溜息を零す。

 

「……バレバレか」

 

 アーチャーと情報を共有したのが、つい昨日の話。それからまだ1日も経っていない。

 他に誰も相談する相手がいないと気負っていたのかもしれないが、それでも見抜かれるのが早すぎる。しかも、慎二と会話しているのは半日程度にも満たない。という事は、士郎の様子がおかしいことは、きっとセイバーたちにも気づかれているのだろう。

 イカンイカン、と。首を振って雑念を追い出す。確かに今の状況では他者を頼るのは難しいが、だからといって皆に心配をかけているようではダメだ。

 

「とりあえず……今日は帰るか」

 

 日も暮れた。もう此処は夜の街。幾ら中心街とは言え、男一人で出歩くには危なすぎる。それは昨日の夜に存分に思い知った。

 丁度良く来た深山町行きのバスに乗り込む。男性は無料。本当に男に甘い世界である。

 乗客は疎ら。士郎は乗車口近くの二人掛けの椅子に座り、今日得た情報を整理する。

 間桐家を出て生活している慎二。男性に対して甘い世界の再確認。ダッチワイフ職人となったギルガメッシュ。うん、大した情報は得ていない。というか最後の情報なんてロクでもなさすぎる。何だダッチワイフ職人って。ギルガメッシュは何処へ向かおうとしているのか。

 

「アサシンの変貌と言い……ホントに碌な世界じゃないな」

 

 疲れ切った息を吐き出しながら、士郎はバスの窓から空を眺めた。

 車内の灯りのせいか、夜空には星が一つも瞬いていないように見えた。

 

 

 

「……隣、失礼するぞ」

「? はい」

 

 

 

 ふわりと漂うどことなく高貴な匂い。

 だがその匂いに惹かれる事も無く、疲れ切った頭はこの先の事について思考する事だけに集中する。

 

 だからだろうか。

 

 わざわざ空いている車内で隣に座られた事も。

 赤い眼が、まるで品定めをするように視線を向けていた事も。

 その視線の主が格上の存在である事も。

 何故か途中から喜々として様子で舌なめずりをしている事も。

 気が付けば隣から消えていた事も。

 

 何一つ知らず、気付かず。

 

 士郎はバスを降りて帰路に着いた。

 致し方のない事だった。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「ギルガメッシュは……今、どこで何をしているんだ?」
「さぁ? でもどっかでダッチワイフは造っているみたいだぜ。時々送られてくるしな」
 
 元マスターのよしみという事だろうか。意外な接点である。
 
「でも外見が全然僕の好みじゃないんだよね。いや、気持ちいいんだけどさ」

 そう、か
⇒どんな外見?

「好みじゃないって……どんな外見なんだ?」
「外見? ……大体凹凸の少ない身体だな。で、髪は金髪のショートか緑髪のロングだね」
「……そう、か」
「1体くらい持っていくか? 今部屋に5体くらいいるぜ」
「ハァ!?」


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なな

執筆時は、これだけは絶対に描写したいって言うのを決めてから執筆しています。
そんな執筆をしているから更新が遅いんだよなぁ……申し訳ございません。

※20/5/10 誤字脱字修正


 こんな世界になって一週間が経過した。

 怒涛と言えば怒涛だった。振り返ってみて、士郎はそう思う。

 様変わりした世界観。おかしくなった皆。知らない人と、行方不明になった人。そして全力で抗っている者。

 唯一変わる事無くマトモなのはアーチャーとキャスターくらいだ。だが、柳洞寺での情報共有以降、キャスターは引き篭もり外へ出なくなった。そしてアーチャーは姿をくらましている。電話しても出ない辺り、個人で動いているのだろうか……そうであることを士郎は祈るしかない。

 

 

 

 

 

「お兄ちゃんのお尻って形が良いのよね。引き締まっているけど、固すぎず、それでいてほど良い弾力があるの」

「私はお尻より胸ですね。シロウの胸は非常に魅惑的だ」

「先輩は無防備すぎなんですよ。この前もTシャツ一枚で出歩いていましたし……」

「士郎は自分の魅力を分かっていなさすぎね。あの姿で汗だくで筋トレしているところ見るたびに、タガが外れそうになるわ」

「汗でシャツが肌にへばりついて……うなじが光って……うへへ……」

「……むしゃぶりつきたいですね」

「……吸いたい」

「舐めたい」

「触りたい」

「揉みたい」

「挿れたい」

 

 

 

「「「「……襲う?」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……夢か」

 

 悪夢で目を覚ます。いや、夢で良かった。現実も充分悪夢だが。というか悪夢と同程度の現実とはこれ如何に。

 寝起きから阿呆みたいに痛む頭を押さえつつ、士郎は目を開閉する。少しずつ意識が明瞭になり、現実に追いついていく。比例するように世界が色と喧騒を取り戻した。

 

「衛宮、大丈夫か!?」

 

 誰かの焦ったような声。大丈夫だ。そう言って身を起こそうとし――――酷い眩暈に邪魔をされる。上げかけていた身体が重力の鎖に引っ張られる。

 ぐわんぐわん。視界が揺れている。はて、何があった? この頭痛と関係があるのか? 前後の記憶がない事に士郎は焦りを感じる。

 

「衛宮、あまり無理をするな! 落ち着け! 俺が分かるか!?」

「あ、ああ……一成だろ?」

 

 なるべく落ち着いた口調で言葉を返す。返しながら、少しずつ周りの状況が見えてきた。

 運動着姿の一成。場所は体育館。士郎を見る心配そうな目の数々。そう言えば体育の授業だったな。確か外は雨だったから体育館で女子はバスケ、男子は見学だったか。トンでいた記憶のピースが少しずつ埋まっていく。

 

「……すまん、少し意識がトンだみたいだな」

「ほ、本当にそれだけか?」

「ああ。まぁ、少し頭は痛むが……」

 

 ごめんなさいいいいいいい。すぐ傍で泣き叫ぶような声。そしてゴツッと何かがぶつかるような音。視線を向けると、土下座している女子が数名。なんとなく士郎は状況を把握した。

 

「避け損ねた、のか?」

「半分正解。ま、正確には避ける素振りすら無かったけど」

 

 呆れを大きく含んだ声。慎二。彼の発言を推測するに、飛んできたボールに気づかなかったのだろう。この日常に疲労を覚えていたとはいえ、ボールに気付かずに、あまつさえ失神までするとは、士郎にとっては不覚ともいえる失態だ。

 

「ったく、今日は一段と抜けているじゃないか――――痛って!」

「口を慎め!」

「……痛いじゃないか、柳洞」

「間桐が悪い」

 

 パシン。一成が慎二を軽くではあるが叩いた。変貌前では中々見ることは無い光景。どうもこの世界線では、一成が取り乱しやすい傾向にある。

 取り急ぎ、士郎は傍で土下座しているクラスメートへ声を掛ける。

 

「顔上げて。俺は大丈夫だから」

「で、でも……」

「平気平気。大したことないって」

「だったらせめて立ち上がれよな」

 

 確かに慎二の言う通りである。彼の口調は人によっては冷たさを感じるかもしれないが、言う事は間違っていない為、多少無理してでも士郎は起き上がろうとする。土下座されているのは、精神的によろしくない。

 だが、

 

「……む」

「え、衛宮! やはり具合が悪いのか! しっかりしろ! 落ち着いて掴まるんだ!」

「柳洞の方が落ち着け。衛宮。ほれ。これ、何本に見える?」

 

 立ち眩み。視界が揺れて、思わず士郎はしゃがみこんだ。

 焦る周囲。女の子の悲痛な声。

 そして目の前に人差し指と中指を出される。

 

「2本、だな」

「まぁ、強がっているわけじゃなさそうだな」

「うむ……しかし、やはり診てもらった方が良いのではないか?」

「それには僕も同意見だね。ほら、立てるか?」

 

 差し出された手。この期に及んで意地を張る事に意味は無い。

 士郎は自身の失態を自覚すると、素直に好意を受け入れた。慎二の手を掴んで立ち上がる。

 

「思ったより疲れているみたいだ。心配かけるのも悪いし、一旦保健室に行って来る」

「そうしろ。付いて行くよ」

「その必要は無いさ。大丈夫」

「申し訳ございません!」

「いや、本当に大丈夫だから。君は何も悪くないから」

 

 此処にいると別の意味で疲れてしまう。

 どんな形であれ、邪魔をされずに大手を振って休める時間を得られたのはプラスだろう。

 そう士郎は自身に言い聞かせる。疲れているのは実際のところ事実だ。頭も体も重い。休息の地であるはずの家ですら、何だか気が休まらない。自覚している以上に疲労が溜まっているのは明白だ。

 

「うぅ……寒っ」

 

 呻き声を零しつつ、ゆっくりと歩く。大雨のせいか、外廊下は異様に寒い。だが大雨のおかげで、無遠慮な視線の数々はシャットされている。誰も見ていないので気を張る必要も無い。

 見られる。言葉にすればたかだか4文字のその行為が、積み重なればいやに負担になる事を、改めて士郎は思い知った。

 そして改めて思う。年中ああいった視線を浴びて、ストレスをおくびにも出さずに振る舞っていた遠坂って、すごかったんだなぁ、と。

 

「馬鹿言ってんな」

 

 自身を叱咤しつつ、誰もいない廊下を歩く。授業中だからか、或いは雨のせいか。校舎内は昼前だと言うのに静かなものだ。……静かすぎて、逆に不気味である。まるで異世界を思わせる。

 

「……頼むから、何も起こるなよ」

 

 まぁ、無理だろうけど。口に出した言葉を脳内で否定する。悲しいかな。素直にこの願いが聞き届けられる可能性を信じるには、士郎の心はこの世界に汚され過ぎてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言ってしまえば、士郎の予測はいい意味で裏切られた。

 保健室には誰もいなかった。本当に、誰も。特にどこかに行っているなどの書き置きも無く、無人。

 まぁいないならいいか。これ幸いにと、士郎は空いていたベッドに横になる。思いとは裏腹に身体は疲れていたのか、眠りに落ちたのはすぐだった。

 この世界で、無防備にも寝こける。

 それは腹をすかせた猛獣がいる檻の中になんの装備も無しに入るに等しい所業。

 それでも、生理的欲求には抗えない。

 ヤバいかも、と思わなくも無かったが。それよりも先に、意識が落ちた。

 ……で。起きても何も無かった。

 

「あ、16:00……」

 

 いや、何も無いと言うのは間違いだ。問題はあった。16:00。普通に今日一日の授業が終了して、もう放課後の時間帯。体育は4時間目だったので、そのまま残りの授業は全てサボタージュだ。やってしまった、と。思わず士郎は頭を抱えた。

 ……まぁ、頭を抱えても仕方が無い。

 士郎にとっては幸いと言うか、体調不良である事は皆の周知の事実だ。休んでしまった授業の分は、一成なり慎二なりにノートを見せてもらえば問題は無い。

 自らの失態にそう折り合いをつけて、士郎は溜息を吐き出した。

 

「……帰るか」

 

 カーテンを開けると、傍に士郎の持ち物が置いてあった。そして書置き。『置いておくぞ』。一成の字だ。

 親友への感謝とありがたみを噛み締めつつ、緩慢な動きで士郎は戻る支度をする。体操服を脱ぎ、制服姿へ。それにしても身体が重いなぁ、なんて。眠ったにも関わらず変わらない調子に辟易する。

 

 特にその後も、問題は起きない。

 

 別に着替え中に誰かが入って来る事は無く。

 帰りの校舎内で誰かに会うことも無く。

 ざぁざぁと降り続ける雨の中、1人ゆっくりと帰路に着く。

 雨のせいか人の外出も殆ど見えず、あれほどにストレスに感じていた視線も無い。

 至って――――平和だ。

 

「……寝ている間に、全部元に戻っているとか」

 

 なんて幼稚で身も蓋も無い願望だろうか。口に出して、すぐに士郎は否定した。そんな簡単に戻ることを期待できる状況だったらこんな苦労はしていない。

 世界の変貌。

 一個人の魔術程度では無しえないクソみたいな奇跡。

 それこそ聖杯を用いてまでしなければ決して叶うはずも無い。

 いや、例え聖杯を用いたとしても、そう易々と叶うはずが――――

 

「……いや、待てよ」

 

 足を止める。思考を戻す。

 聖杯。

 冬木市には、本物では無いが聖杯がある。

 冬木の大聖杯。聖杯戦争に用いるために用意された、人工の願望機。

 だが冬木の聖杯は汚染され、最悪の願望機と成り果てた。まともに願いが叶えられることは無い。

 だけども、例えば。その聖杯に世界の変貌を願ったら――――どうなる?

 

「最悪の形で願いが叶うなら、こうなるのか?」

 

 いや、それはどんな願いだ。世界を混沌に満たせとか、そう言う事だろうか。

 だがそれならば、士郎とておかしくなる。この世界に染まるはずだ。なら、冬木の聖杯を使った所業では無いのだろうか。……いや。否定に否定を重ねるが、士郎が無事な理由が分からなくなる。

 士郎が関わっている時点で、冬木市に何かが起きたのだ。そう考えると、汚されたとはいえ、あの聖杯も関わっていないとは言い切れないところがある。

 

「……行くか」

 

 踵を返す。

 幸いにして大雨。今なら人目に付く可能性は低い。

 目的は柳洞寺の、大聖杯。

 柳洞寺となるとあのアサシンに出会う可能性はあるが、リスクを恐れては手に入る物も無い。

 ……とは言え、

 

 ――――必ず迎えに行くわ!

 

 脳裏にアサシンのあの宣言が過り、思わず身震いする。あのアサシンは士郎に対してマイナスなイメージを持っていない。寧ろかなり好意的だ。士郎が引くくらいに、彼女は好意をぶつけてくる。

 なら、それに応えたらどうなるのだろうか。……いや、無理だ。すぐに士郎は己の考えを否定した。人の好意を利用できるほど、士郎は賢しく、或いは利己的に立ち回れない。士郎は自身が不器用な人間であることを理解している。

 かと言って、出会った瞬間に拒絶するのも問題だろう。何せ世界はこんな状況だ。逆上して何をされるか分からない。

 捕えられ、監禁され、最悪人形として……と、恐ろしい想像ばかりが膨らむ。

 

「セイバーかライダーについてきて……いや、ダメだろ」

 

 頭を振って選択肢を消す。彼女たちは願えば喜んで助けてくれるだろう。士郎の為に動いてくれるだろう。

 だが確証も無いままに連れまわし、危険な目に遭わせることを士郎は良しと出来ない。聖杯戦争中とは違うのだ。あの時はサーヴァントによる被害を出さないと言う考えで夜の冬木市を歩いたが、今回は違う。士郎が余計な動きをしなければ、特に問題は起きない……仮に問題が起きたとしても、被害は衛宮士郎に向かうだけだ。それで死ぬような目に遭う可能性は低いだろう。……多分。

 故に。彼女たちに頼るのならば、自分一人ではどうしようもないという確信を持ってから。

 そうでもないのに無暗に連れ回すことは出来ない。

 

「どうしたもん……っ!?」

 

 悪寒。

 言葉にすれば、ただのそれだけ。

 だが指向性を持ったそれは、充分な異常だ。

 何より。この観察するような、舐める様な。そんな感覚を幻視してしまう時点で、相手が友好的ではない事は確定だ。

 この世界で他者より浴びるものとは違う。決定的に異質。

 ――――喰われる。

 それは酷く端的な表現だ。イメージの一部。だがハッキリと。士郎は幻視した。捕食者と被食者。勿論……ここでの被食者とは士郎の事。

 

「ほう、気付くか」

 

 耳元での声。女性の声だ。だが振り返っても姿は見えない。しかし士郎に語り掛けているのは間違いない。

 遠方からの魔術行使。

 撃鉄を落とし、魔術回路に魔力を流す。体内に循環する魔力。しかし目視できる範囲で、目立った魔力は見つからない。士郎は誰よりも魔術的な異常に聡い。結界や姿を消す程度であれば、師である凛よりも先に察知できる。それでも分からならなければ、察知外の遠方からとなる。

 何にせよ、相手は士郎とは比にならない力量を持つ。普通に戦っても敵わないのは明白だ。

 なら、どうする?

 

「……強化、開始」

 

 脚力の向上。

 三十六計逃げるに如かず。

 戦闘行為になるか、あるいは隠れるにしても。こんな住宅街で、無暗に人を巻き込めはしない。

 何れを選ぶにせよ、せめて誰も居ないところへ行かなければならない。

 

「抗うか。その意気や佳し」

 

 またも耳元で声。士郎の狙いは完全にバレているらしい。この分なら、例え令呪を使おうとも即座に察知するだろう。効力が実を結ぶ前に潰されるのは想像に難くない。

 ぬかったか。自身の失態に悪態を吐きたくなる。こんなことなら余計な事を考えずに帰るべきだったか。……だが相手が問答無用でぶちのめしに来ないのなら、まだやりようはあろう。

 士郎は己を無理矢理に奮い立たせると。傘も鞄も全てを放り投げ、そのまま全力を以て住宅街を走り抜ける。

 

 

 

 目標は――――悪寒の先。

 即ち、敵の懐。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 別に士郎には確信があったわけでは無い。

 だが無暗に手を出してこないのなら、情報の招集が出来るかもしれない。

 それは余りにも分の悪すぎる賭けだが、逆を言えばこの世界の膠着状態を穿てるかもしれない千載一遇のチャンスでもあった。

 ベットするのが己の安全のみなら、士郎は躊躇わない。

 

 

 

 辿り着いたのは、冬木大橋。

 いや、正確には悪寒はその先だったのだろうが、相手が出向いてきていた。

 大雨のせいで誰も居ない歩道。そこで士郎は、1人の女性と対峙をした。

 士郎と同じくらいの身長。女性的な魅力と、戦士としての鍛え上げられた体躯。黒い戦装束。

 そして眼。何もかもを見通すような、深紅の眼。

 

「アンタか」

 

 疑問の体ではない。断定だ。士郎はあの悪寒の正体が彼女であると確信していた。それ故に、余計な問答挟まない。

 

「何の用だ」

 

 くくっ。何が面白いのか、相手は笑った。僅かに身体を震わせ、目に喜悦の色を宿した。それは絶対的な余裕から来るものだった。そしてそれが分からない程士郎は愚鈍ではない。

 

「中々どうして、面白い者がいる」

 

 女の手には、いつの間にかに一振りの槍が握られていた。

 深紅の魔槍。

 士郎は知っている。その槍を。正確に言えば、士郎が知っている槍よりも古いようだが、いずれにせよ同系統であろう。

 つまり。彼女は士郎が良く知る人物に、ゆかりのある人物。

 ――――アサシンやランサーを頼るよりかはマシだ。

 1週間前の柳洞寺で。アーチャーはそんな事を言っていた。

 

「ランサーか」

 

 黒と白の夫婦剣を投影する。士郎自身にとって、一番手に馴染む武器。元はアーチャーの武装だが、未来の自分が辿り着いた最適解だ。

 敵う、敵わないじゃない。

 全力で抵抗しなければ、殺される。

 殺気も敵意も無いのに。ロクに言葉を交わしていないのに。士郎はそう直感した。得体のしれない目前の相手に、全力での抵抗の意を示した。それは見ようによっては過ぎたる警戒も知れないが、

 

「力を見せるがよい、勇士よ」

 

 だがその士郎の判断は、全く以って正解だった。相手はにこやかに目尻を下げながら、しかして流れるような所作で槍を構えた。その穂先が士郎の心臓へ向けられている。ピタリと、ブレることなく、向けられている。

 それが意味する事は、即ち。

 降伏は認めない。全力で抵抗しろ。

 

 

 

「出来なければ、お前の命を貰うまで」

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


 士郎は己を無理矢理に奮い立たせると。傘も鞄も全てを放り投げ、そのまま全力を以て住宅街を走り抜ける。
 向かう先は――――

 悪寒の先
⇒柳洞寺

 士郎は当初の予定通り柳洞寺へ向かう。柳洞寺には土地に根ざした優れた結界が張ってある。加えてそれはキャスターの能力で強化済みだ。
 相手が自分よりも格上なのは間違いない。ならば、まずは迎撃が出来る様な地の利を確保する。

「し、士郎君!?」

 ……自身の名前を聞き、思わず立ち止まった彼を誰が責められようか。そこは士郎自身の人の好さが出てしまった。だが今は異常事態。名前を言われたということは顔見知りだ。俺はいいから早く家に帰れ、と。そう言おうと振り返り、

「な、なんでびしょ濡れなの! 誰かに襲われたの!? もももしかしてサービス!? 据え膳喰わぬは女の恥ね。ありがとうございます!」
「……っ!」
「に、逃げなくても大丈夫! この宮本武蔵! 天に誓って何もしないわ! ちょっと一緒に人肌で暖め合おうってだけ! 布団の中で! 平気だよ! 本当に! 何もしないから!」


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はち

他に書いている二次創作がシリアス一辺倒になりつつあるせいか、こっちにまで影響が出てきおった。
脳みそ壊れちゃう。


 深紅の魔槍。

 名を、ゲイ・ボルク。

 だが目前で振るわれるソレは、士郎の記憶にあるものとは別種だ。よく似ているが、士郎の知るものよりも古いだろうか。何れにせよ別種のものであるのは間違いない。自身の能力故か。士郎は彼女の魔槍が、士郎の知るランサーの得物とは違う事を看破していた。

 

 だが、それがどうした。

 

 7回。

 これは士郎の夫婦剣が弾き飛ばされた回数だ。

 大雨の中。決して広いとは言えない冬木大橋の歩道。相手の動きに全集中しても、どうにか傷を負わない様に立ち回るのが精いっぱい。……いや、それすらも加減された上での行為だ。

 士郎がギリギリ反応できるレベルでの戦闘――いや、お遊び。戯れ。

 彼女が本気ならば、士郎はとうの昔に地に伏せ、息絶えている。

 

「チィィィィ」

 

 8回目。

 また夫婦剣を弾かれる。力量差は勿論、敵わないのは明らかだ。だが戦意を緩めれば、殺される。

 ほら、次は首を斬るぞ。

 ほら、次は腹を突くぞ。

 ほら、次は頭を割るぞ。

 教える様に飛ばされる気配に必死に反応する。反応が刹那でも遅れれば、死が口を開けて士郎を飲み込む。

 

「クソ……ッ!」

 

 愚痴の一つも零したくなる。防戦一方。だがいつまでもはこの状況は続かない。いずれは反応が遅れ、致命的な一撃を喰らうだろう。そうなれば終わりだ。

 なら、

 

「ッ!」

 

 また気配。だが、今度はその一撃を、防ぐのではなく、流す。勢いを殺さずに、刃先の上を滑らせる。

 相手が加減していて、戯れ代わりに直前に教えてくれてるからこそできた、おそらくは一回だけの芸当。

 ――――攻勢に転じるのなら今しか無い。

 この機を逃せば永久に来まい。千載一遇のチャンス。士郎は一歩相手に向けて踏み込んだ。

 

 

 

「ほう、漸くか」

 

 

 

 士郎の判断は間違いじゃない。だが、相手の方が数段上手だった。

 また夫婦剣が弾かれる。もう手元には無い。投影をする魔力は残っているが、相手がそれを許さないだろう。

 失敗だ。チャンスと思ったのは、罠。誘い込まれただけだ。……いや、そんな考えすらも烏滸がましい。士郎がどんな手を打ったところで、相手は対処できる。それだけだ。

 スローモーションになる世界。引き延ばされた時間の中で、士郎は自身の失敗の理解と、死を覚悟した。……打つ手は、無い。もう、無い。

 ――――そんなわけがあるか!

 士郎は己を奮い立たせると、両手に魔力を集中する。諦めては死ぬだけだ。例えそれが意味を為さない行為であっても、傍から見ればみっともなくとも。だからといって抗わない理由にはならない――――っ!

 

「お、おお、おおおおおおおおっ!!!」

 

 込めろ、魔力を。振るえ、剣を。まだ折れるな。諦めるな。みっともなくとも、足掻け。

 士郎は直感に従って体勢を傾けた。寸前まで自身の頭があったところを、槍の柄が通り抜ける。2槍目。こちらも深紅の魔槍。どうやら相手は、2本の魔槍を扱うらしい。

 女性は士郎が2槍目を避けた事に、一瞬だが顔を硬直させた。初めて見る明確な隙。付け込むなら今しか無い。士郎はその体勢のまま、残りの距離を潰す。

 

「……佳いぞ」

 

 一歩。

 潰したのはたった一歩。

 潰せたのはたった一歩。

 幾つ命があっても足りない。

 その一歩を潰した時には、既に相手は体勢を整え終わっていた。

 

「――――ッ!」

 

 声を上げることも出来ない。敵わない。改めて突き付けられた現実。

 首の根。その骨を砕くでも無く、斬るのでも無く、しかし身体の自由が利かなくなる程度に叩かれる。

 ……抵抗はこれでお終い。

 

「今のは佳かった。死地でこそ本当の自分が見えるものだ。……お前は、掴み取ったのだ。ふふっ、そうでなくてはな」

 

 ふわりと。柔らかなものに包まれる。暖かく、ひどく良い匂いがした。

 一瞬飛んだ意識。その空白から明けても、身体は自由を取り戻せない。先ほどの首の根への衝撃で、一時的にマヒしているのは間違いない。情けなく、士郎は目前のものに身体を預ける。

 

「今は眠れ。鍛えれば強くもなろう。その後は……おっと、ふふっ」

 

 じゅるりと。嫌な音を士郎は聞いた。

 これで士郎の抵抗は終わり。

 自由にならない身体。

 せめても意識がトばない様に耐えることしかできない。

 

「ちょっとぉ?」

 

 ……だが、

 

「そこのおばさん。なぁに人の士郎君を抱きしめているのよ」

 

 まだ最悪は始まったばかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いったい何が起きているのか。

 抱きしめられ、視界を閉ざされている士郎に分からない。

 分からないが、とりあえず誰かが来たのは間違いない。

 ……そしてその誰かが、純粋に歓迎の出来る案件ではない事も、士郎は察した。

 

「……一応、聞いておこうか。死ぬか? 死ぬな。いや、死ね」

「はぁ? それ私の台詞なんだけど。びしょ濡れの私の士郎君を抱えてどこに行くつもり?」

「お前如きに言う必要があるか?」

「いや、アンタが何処に行くのかは別に知りたくも無いわ。私の士郎君を何処へ拉致しようとしているのよ」

「女と男。何処へ行こうと、ヤる事は一つだと思うが?」

「ふーん。そう。ふーん。……醜女が随分と舐め腐った事言ってくれるわね」

 

 士郎は恐ろしいと思った。恐ろしい以外の感想が出てこなかった。吹き出る威圧は士郎に向けられているわけでもない。にも関わらず、その余波だけで士郎は震えあがりそうなほどの恐怖を抱いた。

 そして。自分が動けぬ状態で良かったとも思った。下手に動いていたら……多分もう、死んでいる。

 

「これからコイツは私好みに鍛え上げる。お前如きには渡せん」

「はぁ? 何それ? ……え、もしかして光源氏計画でもやろうっての? 腐ってんの?」

「自分の好みの色に染め上げる。その快感が分からぬ小娘に、コイツは勿体ない」

「ババァが色めき立っているのって気持ち悪いわね。外見だけ若く取り繕ったって、張りと毛穴は隠せてないわよ」

「……ほう?」

 

 怒気とか、魔力とか、妖気とか、そう言った諸々が膨れ上がっている。その渦中にいる士郎は酷く気分が悪かった。常人ならば1秒を待たずして発狂するであろう。……これで気分が悪い程度で済んでいる辺り、士郎も充分に人外の素質があると言えよう。悪い意味で。

 

「貴様如き相手にするのも勿体ないが……少し、躾が必要なようだ」

 

 ゆっくりと、優しく。士郎は地面に下ろされた。橋の欄干に背を預ける様に、座らせられる。

 

「少し待っていろ。あのガキを躾けてくる」

「士郎君、ちょっとだけ待っててね。そこのそれ、すぐぶった斬るから」

 

 ぼぅっとする意識の中で。士郎は漸く相手を見た。

 蒼天を思わせる眼。4本の太刀。和服姿のサーヴァント。

 アサシン――――宮本武蔵だ。

 

「来い、小娘」

 

 対して槍使いの女性は、口調こそ軽いが士郎と対峙した時の様な隙は無い。武蔵を敵と見ているのは事実だ。これから起こるのは紛れも無い殺し合いになる。だがどちらが勝利したとしても……士郎は自身にとって良い方向へ進むとは思えなかった。

 逃げるか?

 脳裏を過った考えを、しかしすぐに士郎は否定した。今2人は互いを標的としている。なのにここで無暗に動いて、自身に注目を集めるのは下策だ。

 仮に逃げるとするならば、2人の意識が完全に士郎から外れてから。

 だがそれは、望みが薄いと言わざるを得ない。

 

「……っ」

 

 今の士郎は身体がマヒしている状態だ。先ほどの首への鋭い一撃で、士郎は自身の身体の自由が利かなくなっていた。鋭い衝撃故に、感覚がトンでいる。這って動くこともままならない状態で、どうやって逃げれば良いのか。2人の決着が済むまでに回復できれば別だが……それを期待するのは間違っていよう。

 士郎は魔術回路を鎮めず、励起させ続ける。何かあった時の為に、魔術だけでも使えるようにするためだ。

 2人は対峙したまま動いていない。先日のライダーとの戦闘を思えば、静かすぎる対峙。だが士郎は分かっている。動いていないだけで、互いに何手も先まで読み合っている事を。

 

 そしてその時は、唐突に訪れる。

 

 バスが通った。定期便だろう。当然、運転手は歩道に気を払う事も無くバスは通り過ぎる。通り過ぎた事で、僅かに足場が揺れた。

 先に仕掛けたのは武蔵だった。

 一瞬で距離を潰す。太刀が、彼女の細腕から不釣り合いなほどの豪速で襲い掛かる。

 しかして相手も人外。手にした魔槍で、受けるのではなく、流す。静かに、そしてしなやかに。見惚れる様な槍捌き。それは士郎が知るランサーの技とは、別種のものだった。

 だがそれすらも分かっていたかのように。武蔵は流された体勢のまま真横に斬りかかる。橋の欄干に足を当て、そこを重心としての一撃。天性のボディバランスだ。……しかしてそれも、流される。流され、さらには神速の蹴りが入る。

 

「っ」

 

 パシッ。当たる直前に、武蔵は空いている方の手を差し込んだ。差し込んで、勢いに合わせて跳ぶ。衝撃を受け流す様に、高く、高く。

 そこに追撃の槍が襲い来る。投擲。しかも2連。武蔵からすれば、重なり合って1つにしか見えないであろう絶妙な投擲。しかしそれが分かっていたかのように、両槍を最低限の動きだけで躱した。そして着地。壁に着地し、一瞬の停滞の後に弾丸めいた速度で襲い掛かる。真っすぐ行って、ぶった斬る。最短距離を一直線に。

 苛烈にして流麗。

 派手ではあるが粗野ではない。

 襲撃も迎撃も。両者の動きは、まるでこうなることが分かっていたかのような、流れるような運び具合だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……次元が違う。辛うじて目で追いながら、士郎はそう思った。あれと対峙しようと考えるなんて傲慢にも程がある、とも。

 少しばかり自由が戻った右腕で、士郎はゆっくりと後ずさる。あの戦闘に巻き込まれれば死ぬ。無論、2人は士郎を巻き込まない様に立ち回っているが、それを士郎が知る由も無い。

 

「っ!」

「フッ!」

 

 互いの刃先が擦れ合う。一瞬にも満たない刹那の擦過音。それが膠着することなく連続で鳴り続ける。

 交錯する死線。空気が斬られる。一呼吸の油断も無い。

 先の武蔵の攻め立てから一転し、互いの攻防は静かでしなやかだった。とりわけ武蔵の方が静かだ。攻め立てていないわけではないが、どちらかと言えば繰り出される魔槍を受け流している場面が多い。

 2人の闘いにおいて、時代劇の様に高く響く剣戟など望むべくもない。刃先を打ち合わせれば、不利になるのは太刀だ。耐久性を犠牲に斬れ味を追求したのが太刀。仮に打ち合わせれば、今は良くとも、いずれは太刀が折れ砕かれるだろう。

 故に先を読み、流す。双方ともに理解しているからこその静かな攻防。

 それはまるで神話の再現である。吟遊詩人によって永劫語り継がれるべき争い。

 だが士郎の眼は、この場面において一つの意外な真実を目の当たりにしていた。

 

「サーヴァントじゃ……無い?」

 

 正規の聖杯戦争のマスターであったからこそ、士郎はサーヴァントのステータスを把握できる。事実、先日は武蔵のステータスを視ている。

 ところがどうだ。今目の前で槍を華麗に操っている女性からは、ステータスを視る事が叶わない。妨害されているわけでも無く、欺いているわけでも無く、無い。英霊と争うほどの技量に、規格外の魔力を持っていながら、だ。

 

「……ランサーじゃ、ないのか?」

 

 馬鹿な。士郎は目前の光景が信じられなかった。ありえないと思った。だがすぐに、そんな自身の考えを否定する。ありえない、なんてことは無い。人が空想できる全ての出来事は、起こり得る現実である。事実、条件さえそろえばサーヴァントを相手取れる生身の人間は、いる。

 なら彼女は何だ? 脳を回転させる。動けないのなら、せめて考えろ、思考しろ、絶やすな、回し続けろ。

 ランサーと同種の槍から、彼の関係者であることは間違いない。ケルト系列。バゼットと同じく、赤枝の騎士に属する者だろうか。

 いや、待て。

 ()()()()()()()()()

 

「……まさか」

 

 酷い頭痛だ。視界が歪む。行き当たった結論に、士郎は自分が考えたことながら吐き気を催した。

 だが行き当たってみれば、ここまで辻褄の合う結論も無い。何せ前例はあるのだ。寧ろその結論は自然のものと言えよう。

 ……至った結論を通して観察すれば、裏付けするかのように、似通った箇所が見えてくる。槍の取り扱い方。脚の使い方に身体捌き。いつかの夜に対峙した時を想起させられる。

 

「……っ」

 

 一方で。

 2人は無数の攻防の果てに、束の間の空白を生んでいた。雨は一層の激しさを増していたが、火照った身体を冷ますには至らない。

 双方は互いに似た表情を浮かべていた。楽しみは無い。愉悦や喜悦といったのは欠片も無い。あるのはただ一つ。忌々しさからなる、敵意。

 武蔵は太刀を振るい、向けられた視線を斬り払う。鬱陶しかった。向けられる敵意が鬱陶しかった。彼女からは敵の奥にて座り込んでいる士郎が良く見えた。苦しそうな表情の士郎が良く見えた。それだけで武蔵は、身を焦がしそうになるほどの怒りを覚えた。

 ――――忌々しい? 鬱陶しい? ……ブチ切れたいのは、此方の方だ。

 

「……士郎君にね。苦しい表情は似合わないの」

 

 唐突な発言だった。この場においては戯言にすらならない。

 だがその凛とした声に、思わず耳は聞き入った。

 

「彼は笑っているべきよ。幸せになるべき。そう言う人間」

「……」

「だからね……士郎君に苦しそうな顔をさせるアンタがとてつもなく気に入らないのよね」

 

 すぅっと。切っ先を向ける。狙うは目前にいる障害の、心臓。

 

「てことで殺すわ」

 

 暴力的とも言える魔力の膨れ上がり方だった。宣言と同時に武蔵は太刀を構えた。土砂降りの雨の中で、彼女の周りを雨が避ける――――否、消える。大気が震え、蜃気楼が如く彼女の背景が揺らいでいた。

 

「長ったらしい御高説だな」

 

 怖気を感じる様な魔力の膨れ上がり方だった。溜息と同時に女性は魔槍を構えた。土砂降りの雨の中で、彼女の周りを不自然にも風が渦巻いた。大気が震え、魔槍の先から血の様な赤さの光が迸った。

 互いの魔力がぶつかり合い、空気中のマナが揺らぐ。連れられて、士郎の魔術回路が不自然に痙攣を始める。回路を流れていた魔力が、引っ張られるように不規則になった。

 宝具の使用。

 互いに最大の奥義を以て、一撃で決めようと言うのは明白だった。

 

「う、お、おお、おおおおおっ!?」

 

 迸る魔力は周囲にも影響を及ぼす。欄干がしなり、塗装が剥がれて飛んでいく。足場である歩道に急速に罅が入り、悲鳴のような音が隙間から漏れていた。高密度の魔力は虹色と赤の光を迸らせ、ついには物理的にも破壊を生み出していた。これで宝具を打ち合えば……その結果など、想像するまでも無い。

 チィッ! 思わず士郎は舌打ちを零すと、咄嗟に自身も魔力を練り上げた。2人に宝具の打ち合いをさせてはならない。打ち合えばこの橋は崩壊するだろう。

 思い浮かべるは楯。投擲に対して特に高い防御力を発する、6枚の花弁。

 座標位置、問題無し。卓越した空間認識能力と、鍛え上げられた戦闘勘。足りないのは時間だけ。それでも士郎は、自分が行える全てを、この瞬間に費やす。

 

 

 

 かくして。

 必然的に3人は、全くの同時に溜めた魔力を解放した。

 

 

 

「伊舎那――――」

「刺し穿ち――――」

「熾天覆う――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 如何に高い防護性能を保持しようと、その真価が発揮できなければ意味は無い。士郎の魔力で、かつ時間が無い中で展開された楯は、本来の防護性能を思えば、あまりに脆いと。そう言わざるを得なかった。

 

「ガッ――――」

 

 その瞬間は光に包まれ見えなかった。だが感覚で分かる。士郎の展開した楯は破壊された。

 2枚。練り出せた最大の魔力を持って、2人の間に広げた楯。

 だがたったの2枚の花弁では、双方の攻撃を防ぎきれるはずも無かったのだ。

 

「ぐ、ぅ……」

 

 宝具同士の打ち合いによる余波で、士郎は見事に吹き飛ばされていた。それでも橋から落ちなかったのは僥倖だろう。この高さから落ちれば、下が川とは言え無事には済まない。

 未だに痙攣する魔術回路に、吹き飛ばされた事で痛み付けられた身体。それらを鋼の意志で抑え込みながら、どうにか士郎は立ち上がった。

 ……目前には、崩壊した歩道。

 恐らくも何も無く、歩道は宝具の打ち合いに耐えきれなかったのだ。

 

「よっと」

 

 ……まぁ、歩道が破壊されようともサーヴァントには大して痛手にはならないのだが。

 軽快な掛け声とともに、片腕だけの力で女性が崩落跡から這い出て来た。サーヴァントと同等の力を持つ、生身の女性。五体満足。あの打ち合いにも関わらず、目立った怪我は負っていない。彼女は魔槍を納めると、改めて士郎に向き直った。

 

「先ほどの2枚の花弁……あれはお前のだな?」

「……ああ」

「何故邪魔をした?」

 

 真剣勝負だった。殺し合いだった。始まりの動機が何であれ、そこには純然たる敵意と殺意があった。

 そこに士郎は水を差すような真似をしたのだ。無粋な行動。本来であれば、両者の矛先が向いてもおかしくない。

 

 だが。

 

 女性は微笑みを浮かべていた。敵意も殺意も無い微笑み。そして声も。内容はともかくとして、責めるような響きは無かった。

 

「あの打ち合いを余波でも至近距離で喰らったら危険だからな、少しでも軽減をさせたかった」

「なら何故、私とアレの間に展開した? あの程度で宝具の打ち合いを防げるとでも考えたか?」

「……いや、そこまでは求めていなかった」

「矛盾しているな」

 

 深紅の眼が、士郎を見る。舐める様に。じっくりと。

 騙せると思うなよ。

 暗に、そう言っているのだ。

 

「……訊きたいことがある。だから、2人の間にアイアスを展開した」

 

 俺には交渉事は無理だな。士郎は交渉をすると言う行為を諦めた。あのどこぞの白髪の陰険皮肉野郎のように話を進めるのは、まだ士郎には早かった。イメージが出来なかった。

 諦めて、言葉を紡ぐ。

 

「あんだけの打ち合いになったら、無事じゃ済まないだろ。死なれたら困る」

「ほう……そこまでして訊きたい事とは何だ?」

「名前」

「名前?」

 

 士郎の発言に女性は眉根を寄せた。だがすぐに打ち消す。この言葉が、あくまでもこれからの会話の取っ掛かりでしかない事を察したからだった。

 

「それが訊きたい事か?」

「ああ。まぁ、返答次第によっては、追加で訊きたいことがある」

「返答次第では、か。……中々欲深いじゃないか」

 

 クックックッ。楽しそうに女は肩を震わせた。いや――楽しそうでは無く、事実として彼女は楽しかった。言葉を交わし、あまつさえ口ごたえをしようとする。意地を張る玩具は嫌いじゃない。

 

「誰だと思う? 当たりは付けているんだろう?」

 

 質問に質問で返す。士郎は既に、自身の正体をある程度絞り込めているのだろう、と察していた。交渉が苦手な目の前の少年を揶揄う様に、先に言うように仕向ける。

 

「……ランサー。いや、クー・フーリン」

「ほう? 何故に?」

「アンタのその槍、ゲイ・ボルグによく似ている。……受肉している理由は分からないけど、俺はそう思った」

 

 男が女になるのは、臓硯での前例がある。吐き気を催すが、まぁ、無い話ではないのだ。そしてアーチャーの、変わり果てた、との言葉。受肉の理由は分からないが、士郎はそう仮説を立てていた。

 一方で。自身がクー・フーリンであると言われたことに、女性は僅かに肩を震わせた。結論を言ってしまえば、士郎の仮説は間違っている。間違っているが、当たらずとも遠からずだった。彼の縁者である事は事実なのだ。

 名乗りもしていないのに、ここまでの時間だけでそこまでを看破した事。さらには絶妙なタイミングでの宝具の展開。戦況を見る眼は上質。神代ならいざ知らず、この時代にこの年齢でそれほどまでの実力を持ち合わせていることは異常である。玩具としては充分過ぎる程に合格だ。

 

「惜しい。だが、違う」

 

 指。細い、指。それが士郎の肌を撫でるように、這う。愛おし気に、そして獲物を見定める様に。深紅の眼が士郎を映していた。

 

「私の名は「士郎君!」……しつこい奴だ」

 

 不機嫌に顔を歪める。そして声の方へ振り向き、盛大に溜息を吐いた。そしてぼやく。風情と言うのが分からんのかあの猪は。呆れと怒りがない交ぜになり、分かりやすく渋面の表情を作った。

 果たして後ろに。武蔵はいた。彼女は実に分かりやすく怒りの空気を出していた。1人濁流の中に落ちた事。必死で戻ってきたら、愛しの士郎が口説かれていた事。あまつさえ彼の頬に指を這わせていた事。一つだけでも死刑案件だというのに、目の前の女は全部かましている。これはもう死刑じゃあ済まない。ただの死では生温い。身体の細胞一つとしてこの世界から消し飛ばさなくてはならない。それは決定事項だ。

 ハァ、と。目前の武蔵の怒気を全身で受けながら、それでも面倒くさげに女性は息を吐き出した。

 

「……スカサハ」

「へ?」

「スカサハ。私はな、お前が口にした馬鹿弟子の師匠だよ」

「スカサ、ハ?」

「後で迎えに行く」

「それは私の台詞だっ!」

 

 言葉と共に斬りかかる武蔵。

 余裕の表情で迎撃するスカサハ。

 両者の武器がぶつかり合い――――

 

 

 

『……助けてあげるわ。後は何とかしなさい』

 

 

 

 耳元で囁くように。

 キャスターの声が聞こえ。

 

 

 

 ピシッ

 

 

 

 橋が崩落を再開する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 士郎は知らぬことだが。冬木大橋には一ヶ所、耐久性が他と比べて脆い部分がある。

 原因はつい1週間ほど前に、イリヤとバーサーカーが暴れて壊したことによるものである。無論、壊した当人であるイリヤが魔術を用いて修理をしたが、細かい修繕までは出来ていない。日常生活を送る分で見れば崩落の危険性は低いが、この冬木市は人外が跋扈する魔境である。橋は壊れるものでは無く、壊されるものだ。

 

 

 

「うわっ、わ、わわわ――――」

 

 キャスターが何の魔術を使用したかは不明だが、この状況を引き起こしたのはキャスターだ。崩落にかこつけ、さっさと脱出しろと言う事だろう。

 だが残念ながら。士郎の反応は一歩遅れた。

 崩落する橋。既に身体は重力の鎖に捉われた。このままであれば、瓦礫と共に、雨によって増水した眼下の濁流に飲まれるだろう。打ち所が悪ければ間違いなく死ぬし、そうでなくとも濁流に飲まれて浮上できない可能性もある。士郎自身が幾ら戦闘行為に秀でていようとも、その身体は生身なのだ。

 つまるところ、落ちたら高確率で死ぬ。

 

「掴まれ!」

 

 声の方向に目を向けると、女性――スカサハが士郎に向けて手を伸ばしていた。必死の形相だった。士郎を救おうとしているのは間違いない。

 だが、距離が足りない。

 伸ばされた手を掴むよりも先に、姿が遠のいた。届かないことは明白だ。

 

「クッ、ソ、が――――ッ!」

 

 悪態を零しつつ、士郎は魔力を練り上げた。今までの経験、知っている武器。使えるもの全てを総動員して、手を模索する。何かをするには遅い。だが何もしなければ、待っているのは死だ。物理的なダメージの軽減。アイアスを展開するか? いや、時間が足りない。ならば剣を空中に固定化させて、衝撃を緩和させ――――

 

「士郎君っ!」

 

 声。自分を呼ぶ声。

 そして柔らかく、温かな何かに包まれる。芳しい香り。

 

「ごめんっ! でも、絶対助けるからっ!」

 

 武蔵だ。武蔵が士郎に抱き着いていた。いや、抱きしめていた。そして自身が衝撃からのクッション代わりになる様にと、身を下にする。

 咄嗟に士郎は、刃先を潰した張りぼての剣を落下先に投影し、固定化させた。耐久性は下げ、壊れたらすぐにマナに還元される様にと、あくまでも衝撃の緩和だけを目的とした投影。思考も仮説もすっ飛ばし、直感に従って士郎は行動していた。卓越した空間認識能力故に為せる技だった。

 ――――だが武蔵は、士郎の想像の先を行く。

 

「っらぁ!」

 

 呪文、魔力、そして背中の衝撃。武蔵は士郎の意図を看破したのだろう。自身にしか分からない、時間が永劫に引き延ばされるような感覚を掴むと、最小の動きで武蔵は次の行動を完了した。

 剣を抜き、振り下ろす。

 如何に人の身の形をしようとも、彼女はサーヴァント。その一振りは、充分な衝撃を有する。

 士郎は一瞬だが見た。振り下ろされたその剣圧で、川が爆ぜた事を。

 そして爆ぜた事で剥き出しになった瓦礫の山に着地すると、濁流に飲まれる前に再跳躍。間一髪のところで武蔵と士郎は窮地を脱出した。

 

 

 

 士郎が覚えているのはここまで。

 無茶な投影。過度の緊張。そして連日の精神的疲労からか。

 窮地を脱出した後の事は朧気だ。

 

 

 

 だから。

 

 

 

「待てええぇぇえええええええ!!!」

「誰が待つかああぁぁあああああ!!!」

 

 

 

 目を覚ましたにもかかわらず。

 武蔵に横抱きにされながら、スカサハに追われているこの状況は。

 きっと夢なのだろう。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「う、お、おお、おおおおおっ!?」
 
 迸る魔力は周囲にも影響を及ぼす。欄干がしなり、塗装が剥がれて飛んでいく。足場である歩道に急速に罅が入り、悲鳴のような音が隙間から漏れていた。高密度の魔力は虹色と赤の光を迸らせ、ついには物理的にも破壊を生み出していた。これで宝具を打ち合えば……その結果など、想像するまでも無い。

 アイアスを2人の間に投影する
⇒アイアスを自分の前に投影する

 チィッ! 思わず士郎は舌打ちを零すと、咄嗟に自身も魔力を練り上げた。この至近距離で余波とはいえ受ければひとたまりも無い。
 思い浮かべるは楯。投擲に対して特に高い防御力を発する、6枚の花弁。
 座標位置、問題無し。卓越した空間認識能力と、鍛え上げられた戦闘勘。足りないのは時間だけ。それでも士郎は、自分が行える全てを、この瞬間に費やす。

 中略

 ……目前には、崩壊した歩道。
 恐らくも何も無く、歩道は宝具の打ち合いに耐えきれなかったのだ。
 
「……ふぅ」

 疲労の濃い息を吐き出しながら土煙の中から女性が現れる。宝具の打ち合いによるせいか。先ほどまでの余裕は無く、獰猛な獣の様な荒々しい眼が士郎を捉える。

「おい」
「……なん「犯らせろ」……ハァ!?」
「いいか。お前の意見は訊いていない。癒しと魔力が必要だ。犯らせろ。今すぐだ。脱げ。いや、いい、剥ぎ取る」
「うわっ、おい、やめ――――」
「抵抗してもいいぞ。もしかして初めてか? ふふっ、安心しろ、すぐに病みつきになる」
「い、いや……」
「ハハッ、良いものを持っているじゃないか。どれどれ……」
「うっ……やめ……」



「し、士郎君になにヤッてんのよ、おばさん!!!」


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きゅう

最高時速270キロをかっ飛ばせるような車に乗ってみたいものです。
まぁそこまで速度出したら一発免停ですが。


 生きた心地がしなかった。

 スカサハからの逃亡道中を振り返り、そう士郎は思った。

 心の底からの本心だった。

 

 

 

 アイツしつこい! やっぱ殺すわ!

 ある程度走ったところで、武蔵はスカサハを迎撃をする事に決めた。士郎を抱えながらでは逃げきれない事を悟ったのだろう。士郎を降ろすと、名残惜しそうに抱きしめた。そして宣言。愛してるわ、これが終わったら契りを交わしましょう。そうして、士郎の返事など待たず、スカサハに突撃する。

 残された士郎は思った。俺、どうしよう。場所は冬木市の港湾倉庫。随分と自宅からは離れたものである。

 ……とりあえず帰るか。

 少しだけ悩んで、士郎は帰る事にした。

 それは見事な現実逃避だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛宮士郎はこの世界の基準で言えば所謂美少年に分類される。やや平均に足りない身長。鍛えている身体は過度に筋肉が付きすぎるのではなく、丁度良い塩梅で引き締まっている。そして童顔。男が極端に少ないと言う頭の悪さ全壊(誤字に非ず)の世界であることを考慮しても、その手の層には堪らない人材だ。垂涎もの垂涎もの。

 そんな彼が。今この大雨の中で、傘も差さずに歩いている。

 それを見て、「保護しなきゃ」と思うのは一般人。「これ親切心見せたらワンチャンあるんじゃね?」と思うのも一般人。「やっべ、そそる。このまま滅茶苦茶にしてヤりてぇ」と妄想に浸るのはまだギリギリで一般人。「よし。ヤろう」と実行するのはもう犯罪者である。

 犯罪者である。

 もう一度言おう、犯罪者である。

 

 

 

「……士郎君。年頃の少年がそのような格好で外を歩くのは如何なものかと思いますよ」

 

 溜息交じりに、バゼット・フラガ・マクレミッツは目の前の少年――衛宮士郎――に忠告の言葉を吐いた。彼女の傍には十二分に加減されて殴られ気絶した死屍累々が転がっている。そのいずれも、士郎に不埒な行為を及ぼうとした輩である。

 高密度の魔力のぶつかり合い。新都で新たな働き先の面接中だったバゼットは、自身の魔術回路を震わすその異常事態に嫌な予感を覚え、面接を切り上げて走ってきたのだ。

 そしたらどうだ。そこには企画ものの作品よろしくワンボックスカーに連れ込まされそうになる士郎。

 ドロップキックでワンボックスカーを吹っ飛ばし、全力で輩を威圧する。だがそれでも尚歯向かおうとするので、一撃の元に強制的に黙らせたのだ。

 

「ありがとう、バゼット助かった」

 

 お礼を言う士郎は、疲れ果てた表情を見せた。無理もない、何せ今しがた襲われたばかりだ。

 とりあえず雨を凌がなければ。傘を差そう――――として、全力で走ってきたせいでぶっ壊れてしまった事をバゼットは思い出す。仕方が無いので転がるワンボックスカーの中から傘を2本拝借した。

 

「まずは暖を取りましょう。タクシーを拾います」

 

 言うが早いがバゼットは、車道に躍り出ると丁度傍を通りかかったタクシーを無理矢理止めた。己の肉体で。運転手のお姉さんからすれば、いきなり車道に現れた女性がその肉体で強制的に車を停めさせているのだ。ホラー以外の何物でもない。加えて周囲を見れば転がる死屍累々。次の犠牲者は自分かと命を諦めるには充分すぎる。

 

「さぁ、士郎君。入って」

 

 まぁそんな考えも、びしょ濡れの美少年が入って来た事で吹っ飛んだのだが。彼女は一般人なので、「これ親切心見せたらワンチャンあるんじゃね?」から、めくるめくるLove so sweet的なストーリーが脳内で展開されていた。欲望に忠実だが理性がブレーキをかけている辺りに、小市民具合が良く分かる。

 バゼットは自宅まで帰るべきかとも思ったが、早急に暖を取った方が良いと考え、近くのホテルへと行先を指示した。というかこの状況で自宅に帰ったら、他の面々が狂うこと必至だ。実に理知的な判断。これが飢えた野獣共ならこうはスムーズに行かない。

 

(あぁ、ヤバい。ヤりたい)

 

 訂正。バゼットも野獣である。だが彼女は不屈の精神で欲望に耐えていた。小娘共や自分勝手な英霊共とは年季が違うのだよ年季が。

 ホテルに到着すると、早速受付を済ませる。一番高いので。3時間。一万円を超えたが、バゼットからすれば安いものだ。

 

「入ってください。着替えを買ってきますので、シャワーを浴びててください」

 

 士郎を無理矢理に風呂場へ押し込む。まずは暖。一も二も無く暖だ。そして部屋を出ると、結界を念のため敷いておく。これで不埒な輩は入って来れない。そしてダッシュで近くの紳士服店まで駆ける。ルーンを刻み込んだ靴はしっかりと役目を果たし、ものの数十秒で店に到着した。

 バゼットは家主である衛宮士郎の身長や首回りは勿論の事、ウェストやヒップ、足の形まで把握済みだ。その程度も出来ずして、封印指定執行者は名乗れない。記憶との整合を取りながら、なるべくこの店の中で上質と思われ、且つ士郎に合うと思われるスーツを迅速に何着か見繕う。後、靴も何足か。勿論ワイシャツやパンツ、靴下と言ったものも。支払いは現金を投げ渡した。釣りは要らん。滞在時間は10分にも満たない。そしてまた元来た道を駆け戻る。裾直し? そんなのは必要ない。仮に必要があっても、バゼット自身がやれば良い事だ。あくまでも今回のは一時的に着る服を調達しただけ。本当にいいスーツはオーダーメードでしっかりと何カ月も掛けて制作するのをプレゼントする。

 

「士郎君、お待た――――」

 

 ドアの前で、一瞬だけ息を整える。息せき切って室内に入るのを避ける為。余裕を見せる様に、淑女的に。整えてからドアを開ける。

 そしてバゼットは、扉を開けると同時に言葉を失った。言葉を失い動きを止めて息をするのも忘れた。人は理解が許容を超えると身体の時が止まるらしい、と。僅かに冷静だった脳の一部が納得したかのような結論を出した。人をそれは現実逃避と呼ぶ。

 士郎はいた。目の前だ。バゼットの視界に、士郎が映っていた。彼は服にドライヤーをかけていた。少しでも早く乾かそうと言う涙ぐましい努力である。が、別にそこにバゼットは言葉を失ったわけでは無い。

 彼は半裸だった。腰にタオルを巻いているだけの姿だった。その服装のまま、ドライヤーをかけていた。バゼットに気が付いたのか、少し驚きを浮かべて士郎は言葉を発した。ああ、おかえり。早かったな。気を許した相手にしか見せないであろう、無防備な呆けた顔。それから微笑みを浮かべた。慈しみに溢れた微笑みだった。

 

「――――はい、ただいま」

 

 バゼットも連れられて微笑んだ。微笑んで、拳を握り締める。そして全力で自身の顎にぶっ放した。呆けを通り越して驚愕に染まる士郎の顔。だが大丈夫だ。ランサー、私は我慢しましたよ。やり切った表情で、バゼットは欲望に耐え抜いた自身を褒め称えた。不埒な考えを圧し潰した自身を褒め称えた。祝福の歌が鳴り響いている気がした。彼女はやり遂げたのだ。それだけが真実なのだ。

 

 

 

「ば、バゼット!? いや、待て、止めろ、おい!」

「大丈夫です! 私は、大丈夫です……っ!」

「大丈夫なわけあるか! あああああああああ、もう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 別に半裸姿に欲情したわけじゃない。いや、欲情はしたか。ただ名誉の為にも言うなら、バゼットはもっと刺激の強い光景を見ている。全裸の士郎を見ている。それでも耐えている。だから半裸で取り乱すような女ではないのだ。年季が違うのだよ年季が。まぁあの時は、それ以上に彼に不埒な行為をしようとしている敵を潰すと言う使命感があったのだが。

 

「大丈夫か……?」

「ええ」

 

 不屈の精神で耐え抜いたバゼットに隙は無い。士郎の言葉に冷静な声で返す。この程度で惑い狼狽する様では封印指定執行者は務まらない。自分を殴り過ぎて頬が腫れ上がっているが、これは名誉の負傷だ。

 

「御心配をおかけし申し訳ございません。ですが、もう、大丈夫です」

 

 本当かよ。士郎はそう思ったが口には出さなかった。藪蛇藪蛇。そこまで深く突っ込む内容じゃない。

 フッ、と。短く気合を入れる様にバゼットは息を吐き出した。そして改めて背筋に力を入れる。直立不動。鉄の芯が入っているが如く、真っすぐに。

 それから彼女は、傍らに置いていた袋を持ち上げた。

 

「着替えを買ってきました。どうぞ」

「あ、ありがとう……って、わざわざ買ってきたのか」

「ええ。急いでいたので、スーツのみですが」

 

 事も無さげに肯定すると、バゼットは袋を開いてスーツを取り出した。そしてそれを一着ずつ備え付けのラックにかけていく。

 

「あくまでも家に帰るまでの着用です。肌触りと動きやすさを重視しているので、使い捨てと考えて下さい」

「いやいやいや……」

 

 スーツって使い捨てるものだっけ。他の面々に比べるとマトモだが、どこかズレているバゼットの価値観に、士郎は何を正せばいいか分からない。前のバゼットってどうだっけ。じゃんけん死ねぇ!のインパクトがデカすぎるが、わりかし世間の一般常識を理解している、まともな魔術師だった覚えがある。やや肉体言語が過ぎるところもあったが。

 ……興奮しないだけ、かなりマトモだよな。壊れた価値観で、士郎はそれ以上の思考を諦めた。相対的でもマトモなら別に良いか。

 

「それでは外で待っています。何かありましたらお声をお掛け下さい」

 

 そう言ってバゼットは室外に出た。何だ、あのマトモな人は。誰が言ったかダメット・ダメガ・ダメレミッツ。今の彼女にその面影は薄い。

 残された士郎は、とりあえず掛けられたスーツを手に取った。正直なところ、今自分が手に持っているスーツがどれだけの価値を持つか、なんてのは分からない。知らない。ただ漠然と、スーツって高いよな、と思うだけ。

 故に抱くは困惑。本当に着ていいのだろうか。

 だがびしょ濡れの服を着たままでは帰れないのは事実だ。そして時刻も夜になりつつある。何時迄もは悩んでいられない。ここは彼女の好意に甘えざるを得ないだろう。

 

「……ぴったりだ」

 

 大きすぎず、かと言ってキツくもない。ややワインレッド色が掛かったワイシャツは、士郎の体にフィットした。既製品でここまでフィットするとは何事だろうか。なにそれ怖い。

 その調子でスーツの上下まで身に着ける。いずれも士郎の身体にぴったりだ。あと靴。サイズは勿論の事、足の形、即ち指の向きや甲の高さまで考慮したようなジャストサイズ。試しに歩いたり跳んだりしてみるが、新品故の馴染みの無さを除けば殆ど違和感は無い。え、何で俺の身体をここまで詳細に把握してんの? 他の皆とは違うベクトルのヤバさに、少し背筋が震えた。

 

 

 

「フッ!」

 

 一方で。

 外に出たバゼットは、素面を貫き通した自身を褒めつつ、己の頬を全力で殴り抜いた。彼女は耐えたのだ。性欲と言う名のモンスターに。油断すれば火照りニヤケそうになる顔を全力で抑え込む。危なかった。実に危なかった。あの無頓着で無防備な少年は、自身の価値を分かっていない。ある意味において純粋無垢。それを自分の色に染め上げたいと思うのは、人であれば当然の考えだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 士郎のスーツ姿は、存外似合っていると言えた。

 まだ学生の身分であるが、彼は同世代に比べて筋肉質である。やや低めの背や童顔、そして経験の浅さ故の初々しさというマイナス要因があるにもかかわらず。彼は着こなすというには至らないが、服に着られているとはならなかった。流行りものよりも、落ち着いた感じの方が彼の雰囲気的にも合うのだろう。

 事実、普段以上に士郎は衆目の視線を集めていた。

 バゼットが慌てて、近くのカフェに避難をする程度には集めていた。

 

「すいません。考えなしでした」

「いや、大丈夫だから」

 

 席に着くと同時に頭をテーブルに擦り付けながら謝罪するバゼットに、士郎は苦笑いを零した。感謝こそすれども、謝られる筋合いは無いからだ。

 

「バゼットのおかげで助かったんだから、謝らないでくれ」

「士郎君……」

 

 目の前でまるで神を見るが如く目を潤ませるバゼットを見て、士郎は思った。あ、また変な事を考えているな。いい具合にこの世界に慣れてきた事もあり、この世界での相手がどんな具合の考えを抱くかが、何となく分かるようになっていた。全く嬉しくない成長である。

 頼んだ紅茶に口を付けつつ、一先ず士郎は話題を変える事にした。

 

「なぁ……ランサーって、召喚当時からあんなのなのか?」

「あんなの……まぁ、確かに……思い描いていたのとは異なっていました」

 

 深々とバゼットは息を吐き出した。彼女は赤枝の騎士の末席に名を連ねている。あのランサーの変貌具合には、思うところがあるのだろう。やべぇぞ話題変更ミスった、と士郎は思った。訊きたい事ではあるが、今急いで絶対に訊かねばならない内容でも無かったのだ。

 慌てて話題を変える。そう言えば今日就職面接だっけ、どうだった?

 バゼットは困ったように目を泳がせた。えーと……

 士郎は再び話題を変える。最近教会で仕事したらしいけど大丈夫か?

 バゼットは頭を垂れて言葉を絞り出した。はい、バゼットは大丈夫です……

 おいおい、会話が地雷原でタップダンスか(困惑)

 

「……雨、止まないな」

 

 終いに士郎は会話を何の変哲も無い天気へと変えた。生産性は皆無。今ほど自分の口下手なところが恨めしいと思った事は無い。

 予報では明日も雨らしいですよ。頭を上げ、何事も無かったかのようにバゼットは言葉を紡いだ。さっきからコロコロと態度が変わり過ぎだ。

 

「暫くはこの天気でしょうか」

「そうか……っ」

「急いで暖を取ったとはいえ、充分に身体は冷えています。もうすぐ迎えも到着する事ですし、早く帰りましょう」

 

 僅かに士郎は震えた。少しばかり悪寒がした。それが身体が冷えた事によるものなのか、それとも周囲からの視線によるものなのか。真偽は不明だが、家に早く帰るに越した事は無い。

 

「迎え? バスで帰るんじゃないのか?」

「バスでは人目に付きすぎます。イリヤスフィールが迎えに来るそうですので、連絡が来るまでは待ちましょう」

 

 バゼットはホテルを出た時点でイリヤスフィールに連絡を取っていた。冬木市に住んでいるバゼットの知人の中で、車を所有しているのはイリヤスフィールだけである。メルセデス・ベンツェ300SLクーペ。今流通しているSLクラス初代モデルであり、間違いなく時代の古い車であるが、その人気ともう生産をしていないと言う入手の難易度も加わって、超がつく高級車である。

 イリヤスフィールは士郎の名が出ただけで、二つ返事で引き受けた。まさかの事情を説明する前の快諾であった。

 

「そろそろ車を購入することも考えなくてはなりませんね」

「日本でも使える運転免許を持っているのか?」

「いえ。そこは取り直さねばなりません。まぁ、難しい話ではないですよ」

 

 仕事柄世界各地にバゼットは飛んでいる。その辺りのやり方は、正規非正規問わずよく知っている事だ。

 

「士郎君も、何れは免許を取るのでしょう?」

「まぁ、卒業したら、かな」

「間違っても合宿なんか行っちゃダメですよ」

「なん……あぁ、いや、そうか、そうだな」

「ええ。猛獣の檻に生肉を放り投げるようなものですから」

 

 信じて送り出した家主が××に……、何てことになりかねない。どこの薄い本だ。脳みそ壊れちゃう。世界はもっと脳みそに優しい素材で出来ているべきなのだ。

 

「……おや、連絡が来ましたね」

「早いな」

「ベンツェですからね。さ、行きましょう」

 

 荷物を持ち、席を立つ。持つよ、と士郎は言ったが、頑なにバゼットは渡さなかった。男性に荷物を持たせることが淑女的でないことを理解しているからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メルセデス・ベンツェ300SLクーペの乗車人数は2人までである。これは開発当時のコンセプトがプロトタイプレーシングカーによるものだからだ。要は軽量スポーツカーである。最高時速は270キロ。当然、乗車する人数は少なく見積もっている。

 バゼットは迎えに来た車の助手席に士郎を乗せた。荷物は載せない。士郎はバゼットだけを置いて行ってしまうことに困った顔をしていたが、この場で優先すべきは士郎の身の安全である。バゼットと荷物たちは、バスを使って2人より後に衛宮邸に向かう。それだけだ。

 

「ありがとう、バゼット」

「お気になさらず」

 

 バゼットは柔らかな笑みを浮かべた。普段の鉄面皮染みた表情からは、想像し難いほどに女性的な笑みだった。

 

「大分身体も冷えているでしょうから、家に着いたら早く就寝ください」

「ああ。本当に、ありがとう」

「いえいえ。それでは、イリヤスフィール。任せました」

「任されたわ!」

 

 胸を張り、自信満々にイリヤスフィールは快諾した。彼女からすれば愛しの彼が助手席に乗っているのだ。張り切らないわけが無い。何なら二人きりのドライブである。夜のドライブデートである。これは車を持っているイリヤスフィールにしかできない所業だ。どこぞの騎士王やツインテールや黒いのには出来ない、イリヤスフィールだけのオンリーワン。

 

「イリヤ、ありがとう」

「ふへへっ、気にしなくていいのよ」

 

 親指を立て、イリヤは士郎に問題無い事を伝えた。それにしても何故士郎はスーツ姿なのかしら。すごく良いじゃない! よくやったわバゼット!

 慣れた手つきでベンツェを発進させると、バゼットはあっという間に後方へと消えた。後は衛宮邸に戻るだけ。そしてここからはイリヤと士郎だけの時間帯である。誰も邪魔されない至福の時間帯である。

 どうしようかしら。走りながらイリヤは考えた。どこかに寄り道しようかしら。だが今は大雨である。これが晴天なら夜景や星空を見に行く事も出来るが生憎と大雨である。二人っきりと言う最高の状況なのに、それを生かす方法が限られてしまっていた。

 ドライブデートはまた別の日の方が良さそうね。士郎の状況はバゼットから聞いていたので、ここは素直に帰ってポイントを稼いだ方が良さそうだ、とイリヤは思った。何事も無理強いをするのは良くないのだ。……まぁ、渋滞を避けるためと嘘をついて少しばかり遠回りするくらいは別にいいだろう。これくらいの役得は有って然るべきなのだ。

 

 ――――次のニュースです。本日夕方に冬木大橋の歩道が崩壊しました。調査の為全面的に暫くの間全面的に通止めとなります。

 

 あら。イリヤは思った。嘘が本当になったわ。偶然とは怖いものである。高速道路を走って来たイリヤは、冬木大橋を通っていないので、何が起きていたかを知らなかったのだ。

 まぁいいわ。ラッキーラッキー。瞬時の脳内でルートを再探索。残念ながらカーナビなんていう現行車ならついているべき標準装備はこの車にはないので、ルートの探索は脳内に叩きこんでおくか、一昔前と同様に地図との睨めっこが必要だ。これは真面目に高速道路を使わざるを得ないわね。思わぬ僥倖に頬が緩む。

 

「ちょっと遠回りになるけど、いい?」

「ん? ああ、大丈夫だよ」

 

 言質は取った。やったぜ。これは合法的なドライブデートである。華麗なドライビングテクを見せつけるチャンスだ。

 イリヤは高速道路へとルートを変えた。この車は最高時速270キロを叩き出すレーシングカーだ。ノロノロと走る車共など、ごぼう抜きは容易い。華麗にすっ飛ばせば、士郎が惚れる事間違いなしである。

 エンジンは排気量2966cc、直列六気筒SOHCのM198エンジン。最高出力は215PS/5,800rpm。最大トルクは28.0kgm/4600rpm。4速マニュアルでかっ飛ばす。かつて世界一過酷な公道レースといわれたカレラ・パナメリカーナ・メヒコにおいて勝利した名は伊達では無いのだよ。

 

「ふふん、行くわよ」

 

 高速道路に入り、イリヤはクラッチを踏んで3速、そして即4速へと入れた。クラッチの重さなど、強化した足を前には意味がない。アクセルは全開。見る限り真正面に車は殆どいない。そして暫くは直線。シチュエーションは完璧だ。

 唸りを上げるエンジン。重低音。身体の芯から震わすような重厚な振動。一瞬の溜めを置いて、速度は文字通り爆発する――――

 

 

 

「どこに行こうと言うんだ?」

 

 

 

 この瞬間に。

 士郎とイリヤは信じられないモノを見た。

 目前の光景に理解が及ばず、2人共に呆けたように目を見開いた。

 

 

 

「迎えに行く。そう言っただろう?」

 

 

 

 ボンネットの上。女性だ。士郎は彼女を知っている。つい数時間前に会ったばかりだ。

 そうとも。知っているとも。

 その艶やかな黒髪も。

 見透かすような深紅の眼も。

 夜の闇に溶ける様な黒い戦装束も。

 そしてその手に持ち、今まさに振り下ろされようとしている深紅の魔槍も――――

 

 

 

「迎えに来たぞ」

 

 

 

 彼女は微笑んでいた。

 怖気と魅力が込められた、目を離せぬような、蠱惑的な微笑みだった。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


 ――――次のニュースです。本日夕方に冬木大橋の歩道が崩壊しました。調査の為全面的に暫くの間全面的に通止めとなります。
 
 あら。イリヤは思った。嘘が本当になったわ。偶然とは怖いものである。高速道路を走って来たイリヤは、冬木大橋を通っていないので、何が起きていたかを知らなかったのだ。
 まぃいいわ。ラッキーラッキー。瞬時の脳内でルートを再探索。残念ながらカーナビなんていう現行車の標準装備はこの車にはないので、ルートの探索は脳内に叩きこんでおくか、一昔前と同様に地図との睨めっこが必要だ。これは真面目に高速道路を使わざるを得ないわね。思わぬ僥倖に頬が緩む。
 
「ちょっと遠回りになるけど、いい?」

 ん? ああ、大丈夫だよ
⇒何ならアインツベルン城でもいいぞ

 士郎からすれば別にちょっとした冗談――と言うわけでは無かった。衛宮邸には車庫が無い。わざわざ深山町のコインパーキングにこの高級車を置いておくのも気が引ける。仮にイリヤが衛宮邸に泊まらずに帰るにしても、夜遅くを彼女一人に運転させるのも士郎としてはあまり許容したくない事だ。
 だったらアインツベルン城に行って、翌朝帰ってくればいいだけ。
 自分の為にそこまで何かをしてもらおうと考えていないからこそ、気軽に士郎は自身を蔑ろにする案を出せる。
 だが、それは、



「へぇ」



 イリヤの眼が眇められる。紅玉色の眼が士郎を捉えていた。視線が合わさった。酷く甘美で、耽美で、安らぐような、そんな何かが視線を通して流れ込むのを士郎は感じた。



「お兄ちゃんが悪いんだよ?」



 透き通るような白い肌が紅潮していた。紅玉色の眼が潤んでいた。荒い息づかい。自身の鼓動がいやにうるさかった。煩わしかった。
 自意識は絡め取られた。僅かに残った冷静な部分が、どこか懐かしさを感じていた。似たような何かを昔掛けられた覚えがあった。
 誘惑だった。本能への強制。その眼に美しさを感じ、小さな歓喜が心に灯る。



「同盟……は、もういいや」



 車は何処に止まっているのか。
 今自分たちは何処にいるのか。
 外の状況はどうなっているのか。
 そんな些細な数々の疑問が浮かんではすぐに泡末となって消えた。今の士郎にはイリヤしか見えなかった。ロクに身動きも取れないような狭い車内で、加速度的に体温が上昇するのを感じながら、士郎は目前の少女の、その紅玉色の眼しか見えなかった。
 艶やかに、彼女は微笑んだ。



「シロウ――――愛しているわ」




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じゅう

冬木市の所在地って大分らしいんですね。
ずっと兵庫だと思っていました。


 イリヤは咄嗟にハンドルを切ると、車体を横に振った。加速途中での急な旋回。ボンネットに降り立ったスカサハを振り落とす為だ。

 雨でスリップしやすい路面。そして加速途中。イリヤの行為は車体の制御が利かなくなり、下手をすれば自身らが死にかねない所業である。が、彼女が運転出来るようにと改造済みの車体は、運転手の意志を正しく理解し、限界ギリギリまで思う通りに動いた。

 流石のGにスカサハも堪え切れなかったのか、彼女はボンネットから振り下ろされた――――いや、違う。自ら離れた。そして路面に両の足で着地をすると、急激な摩擦に足元で火花が飛ぶのも構わず、魔槍を構えた。

 投擲。

 イリヤと士郎はその意図を正しく理解する。と同時に、盛大なクラクションが鳴り響き、ハイビームが視界を覆い、スカサハの姿をかき消した。

 ――――トラックだ。

 

「っ! 掴まってっ!」

 

 好機。おそらくは二度と訪れないであろうソレを嗅ぎ分けると、イリヤは躊躇い無くクラッチを踏み込んだ。旋回途中からの急加速。焦げ付くような異臭が発生した。車内とは言え掛かるGは相当なものだが、この瞬間を逃せば永遠に逃げられまい。

 改造済であるが故に、加速は実に流麗で且つ爆発的だった。瞬時にその他の車両は勿論の事、スカサハをも置いてきぼりにして、メルセデス・ベンツェ300SLクーペは冬木高速道路を爆走する。無理矢理な車線変更に、時速170kmオーバー。オービスや覆面に捉えられれば、一発免停ものである。が、それを気にしている余裕は無い。

 ……何せ、

 

「嘘だろ……追ってきている!」

「170出してんのよ! なんでブッチぎれないのよ!?」

 

 士郎とイリヤは、共に困惑の声を上げた。

 爆走するメルセデス・ベンツェ300SLクーペ。その30m後方。

 惚れ惚れする様な実に良いフォームで追って来る、戦装束の女性(スカサハ)

 100kmババァやジェットババァなる都市伝説が可愛く聞こえる程に――――それはそれは身の毛がよだつような、恐ろしい都市伝説(ナニカ)だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最高速度、及びその速度の継続と言う面で見るなら、メルセデス・ベンツェ300SLクーペの方が優れているのは眼に見えた結論だ。

 だが直線ならいざ知らず、今メルセデス・ベンツェ300SLクーペが走行しているのは冬木高速道路である。

 道路は地形に合わせ、曲線を描いたり、高低が生じていたりする。

 そして当然の話ではあるが、他の車だって走行している。

 如何にスペックが高かろうとも、満足に引き出すための条件が揃っていなければ、それはカタログ上だけの数値にしかならない。

 

 さ、て。

 は、て。

 

 条件が悪い、と引き離せない原因を決めつけるのは簡単だが、それだけでは事は解決しない。この場で真に求められているのは、どうやってあの変態から逃げおおせるかである。

 イリヤは感情的には焦りによって混乱していたが、並列して冷静に思考もしていた。無論、ハンドル捌きを誤ることも無い。

 単純に逃げるだけでも難しいのに、ここは悪条件が揃っている。地形も、天候も、障害物も。その全ては平等にイリヤ達と追手に悪条件を強いているが、とりわけ車両かつ護るべき対象がいるイリヤにとっては、強く作用していた。

 勝利条件:追って来る変態をブッチぎって、衛宮邸へ士郎を無事届ける。

 金冠条件:上記勝利条件を満たしつつ、余計な損害を出さず、士郎にカッコイイところを見せる。

 言うなればこんな感じかしら、難易度ナイトメアね。士郎にバレぬ様に、イリヤは口角を釣り上げた。イリヤとしては高すぎる基本性能で蹂躙する絶対強者慢心プレイの方が好みだが、偶にはがちがちに縛られた不利な条件からの綱渡り反撃プレイも悪くない。

 

「シロウ、行くわ」

 

 宣言。そして踏み込んだアクセル。

 イリヤの意志に呼応するかのように、エンジンがより強く唸り声を上げた。そして集中。加速と共に、最低限のハンドル捌きのみでイリヤは他の車を避け始める。単純な思考と結論である。先ほどまでの走行で、両者の速度はほぼ同じだった。ならば加速しつつ、スピードを下げざるを得ない機会を減らせば、差は広がるだけだ。

 無論、それは一瞬でもルート選択やハンドル捌きに誤りが生じれば、大事故により2人はただの肉塊と成り果てる事を意味する。加えて魔術協会が出張る事も確実だ。2人を取り巻く周囲の人間に、ただの事故以上に大きな損害を被らせる事にもなる。

 まぁ、士郎を死なすわけには行かないので、失敗すると言う選択肢も未来も最初からあり得ないのだが。

 

「……っ」

 

 一方で。士郎は本日何度目かの「生きた心地がしない」を味わっていた。否、味わうと言う言葉は不適切だろう。強制させられていた。

 他の車と接触すれすれの距離で爆走する自分たち。左右への急激なG。そして背後からの恐ろしきプレッシャー。如何に士郎が身体を鍛え上げていようとも、そう易々と適応できるはずがない。

 とは言え、少しでもスピードを緩めれば追い付かれるのは自明の理だ。イリヤの行動はベストに近いと言っていい。

 故に、士郎は何も言わない。何も言わず、悲鳴を噛み殺し続ける。

 

「っ!? こんな時にぃっ!」

 

 だが何時までもはこんな状況は続いてくれない。

 イリヤは呪詛に染まった言葉を吐き出した。視界の先では、並走して走っている車が見える。追い抜き途中だろうか。スピードを緩めなければあと数秒で衝突するだろう。だが緩めれば――――それはゲームオーバーと同義だ。

 少しずつスカサハの姿が小さくなり、ミラーでの確認も難しくなった矢先。2車線であるが故に、これは頻繁に起こり得る現象だ。寧ろ此処まで良く発生しなかったと言えよう。

 ただ……あまりにもタイミングが悪い。

 

「シロウ、掴まって!」

 

 待つのは無理。スピードを緩めるのも無理。逆走なんか以ての外。何より、考えている間に車は逃げ場のないトンネルへと突入する。

 瞬きすらも惜しむ刹那の時間の中で、イリヤはこれまでに得た知識、経験、実力から最適解を選び出して覚悟を決める。覚悟を決めて、いっそう強くアクセルを踏み込んだ。

 

「……分かった!」

 

 思う事はあった。言おうとも思った。だけど士郎は、それら全てを飲み込んだ。飲み込んで、イリヤに一任することを決めた。今この場において、イリヤに任させることがベストであると、彼は判断したのだ。

 破格の信頼。己の命すらも預ける意思表示。それはともすれば重すぎる言葉であったかもしれない。

 

「――――ええ!」

 

 吼えた。イリヤは吼えた。そしてハンドルを固く、強く、握りしめる。

 何も言わずに士郎は了承した。任せてくれた。命をベットした。イリヤの判断に異を唱え無かったのだ。詳細を訊かずに、選んでくれたのだ。その輝かしく愛しい言葉を裏切る事など有ってはならない。己の持つすべてを総動員して、この難局を乗り越えなければならなければならない。彼の明日へと繋ぐのだ。今宵今この場限りにおいて。イリヤスフィールは、アインツベルンでも無く、士郎の家族でも無く、1人の女性として、愛しい彼を守るために動くのだ――――!

 

「っらぁぁあああああああ!!!」

 

 吼える、吼える、吼える――――!!!

 もっと踏み込め、もっと上げろ。回転させろ。唸れ。回れ。回れ。加速だ。躊躇うな。飛び込め。目の前に飛び込め。超えるために飛び込め。焼き切れてもいい。それでも足りなければ――――魔術で補うまで!

 

「Es ist gros, Es ist klein――――!!!」

 

 魔術だの神秘だのの秘匿性。そんなのはクソくらえ。イリヤは重力緩和の魔術を車体にかけた。軽量化。途端に風圧で車体が浮く。その刹那を見極め、重力緩和を部分的に切った。車体が一回転し、タイヤがトンネルの壁に張り付いた。張り付いて、そのまま走り始める。トンネルの壁を走ると言う状況に、流石の士郎も眼を白黒させた。

 車、及び自身と士郎への魔術展開。当然ただ重力緩和させるだけではこの所業は実行不可能だ。継続して重力を緩和させる部位、風圧、車体の向き、制御すべき慣性、重力の方向性。それら諸々を、綿密な計算も構成されるべき理解も全てをすっ飛ばした本能で、イリヤはやってのけた。当然負担は尋常ではない、が彼女には行使するに足る人工と天性の相反するギフトがあった。

 

「私は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ!」

 

 そのままトンネルの壁を走る。非常灯やトラック等の車高の高い車両に接触しない様に。興奮か、或いは鼓舞か。イリヤは高らかに自分の名を宣言し、そのまま走り切った。

 

 

 

 もう、スカサハは見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2人が衛宮邸付近まで戻って来たのは、既に太陽が昇り始め、街が人の営みを始めようとする頃だった。

 逃げるだけ逃げた2人はそのまま高速道路に乗って広島まで走っていた。広島に到着したのは、深夜23時半。冬木市と広島市では300km以上の距離があるが、こちらは改造済みメルセデス・ベンツェ300SLクーペである。単純な加速のみならず、魔術も併用しまくった事もあり、2時間足らずでの到着だった。

 おそらくスカサハをぶっちぎった。確証の無い仮定ではあるが、あながち間違いでも無かろう。緊張から解放されたところで、2人は顔を見合わせた。顔を見合わせ、思わず笑い合った。

 それからは、自宅に電話を入れて事情を説明。そして帰路に着く。高速道路を通ると見つかる可能性があるので、下の道を通って冬木市に戻って来たのだが……下の道となれば距離は高速道路よりも長くなる。さらには地形の問題もあり、かっ飛ばす事も出来ない。また、イリヤ自身の体力の問題だってある。

 結果、休憩を挟みつつ戻って来た時には、見事に朝になっていたのだ。

 

「ありがとう、イリヤ」

「えへへ、大丈夫だよ!」

 

 大丈夫とは言いつつも、イリヤは体力の限界だった。彼女は今、士郎に背負われている。疲労困憊で動くことが億劫なのだ。……いや、まぁ、歩けるが、そこは言うだけ野暮である。

 深山町のコインパーキングから、衛宮邸まで。彼女は存分に士郎の背で彼の匂いと温もりを堪能していた。疲労故か、士郎の香りは平時よりも強くなっている。それがイリヤの脳を直撃して揺さぶっていた。強すぎる香りに意識がトびそうだった。だが断じてトばさない。そんな勿体の無い事はしない。

 

「うへへへへ……」

 

 幸せだった。とても幸せだった。イリヤは永遠にこの時間が続いてほしいと思った。思ったが、すぐに翻した。ダメよ。この状態が続くだけじゃあ、シロウと結婚できないじゃない。

 ……でも、とりあえずはいいか。結婚の為に大真面目に思考を回転させようとするが、それ以上に脳を香りが揺さぶった。疲労困憊の身体には反則的な威力だった。欲望に身を任せ、イリヤはこの状況を堪能し続ける事に決めた。頑張った自分へのご褒美なのだ。

 

「おかえりなさい、シロウ!」

 

 ま、それも長くは続かないのだが。

 満面の笑みで出迎えるセイバー。勢い余って抱き着いてきたせいで、士郎の香りが邪魔される。不純物が混じった。むぅ、と。不満を隠そうともせずにイリヤは呻き声を上げた。

 

「っと。ただいま、セイバー」

「――――はいっ!」

 

 花が咲く様な笑顔だった。恋する少女としての笑顔だった。イリヤはますます不機嫌になった。コイツ、やっぱり首を斬り落としてぶっ殺した後、ディルドを付けて死姦してやろうかしら。いや、やっぱ無し。士郎が嫌がるもの。やるのなら衝動的にでは無く計画的に。バレない様に、どこかで。

 そんな不穏な事を背後で思考されているなど知る由も無く、士郎はセイバーに導かれるがままに、24時間ぶりの帰宅を果たした。何とも酷い一日を送ったものである。

 

「私とバゼット以外の面々は、スカサハを殺し――――いえ、探しに出かけております。定期連絡ではまだ見つかっていない様です」

 

 そうか……と。何とも言えない表情で士郎は相槌を打った。もしかしたらスカサハは、あのまま高速道路を走り続けているのかもしれない。あの速度なら、今頃は大阪あたりだろうか。それとも、もう少し先に進んでいるだろうか。流石に東京までは行っていないだろうが。

 思考もそこそこに、士郎の口から欠伸が零れた。自宅に着いた安堵感からか、疲労と眠気が襲ってきていた。

 

「……セイバー。すまない、寝る」

 

 土曜日、そして特に予定も無い。スカサハのその後は、自分たちの身の安全と言う意味でも気になるが、まずは休息だ。

 セイバーは士郎の言葉を聞くと、自信満々に胸を張った。もう、用意できています!

 そして居間の隣の襖を開ける。確かに布団が敷かれている。その隣には綺麗に折り畳まれた着替えも。

 

「いつ変態が襲撃してくるかも分かりませんので、どうか此処でお休みいただきたく……」

「あ、ああ。そうだな。ありがとう、セイバー」

 

 士郎の感謝の言葉に、セイバーは分かりやすいくらいに頬を染めた。想い人の口から出る、自身に向けられた言葉。それに親しい者しか見せないような微笑み。無事に帰ってきてくれたこと、見慣れない新鮮なスーツ姿、そして1日ぶりに嗅ぐ匂い。そして頭の悪い世界観。それらが加算した結果、士郎からすれば何でもない筈の一言は、如何に最優のサーヴァントと言えども脳を揺さぶられる程度には破壊力があった。

 はいぃ……。消え入りそうな声で、そそくさとセイバーは襖を締める。これ以上この場にいると、自制が利かなくなる気がした。襲いかねなかった。

 

「ウブねー」

 

 そんなセイバーの痴態をせせら笑う様に、イリヤは言葉を発した。彼女はまだ士郎に背負われている。彼女はコインパーキング……いや、昨夜のドライブからずっと、士郎のフェロモンに耐えていた。襲おうと思えば幾らでも襲えたのを、鋼の自制心で耐えたのだ。決してヘタレたわけじゃない。

 

「イリヤ、降ろすぞ」

「あ、うん……」

 

 名残惜しいが仕方あるまい。イリヤは降りると、どうやって合法的に士郎と次のステップに進むかを考え始める。彼とは名義上は姉弟の関係になるが、血は繋がっていない。つまり問題ない。合法的なのだ。そうなれば幾らでも手はある。

 

「……っ!? シロウ!?」

 

 そんな考えに頭を働かせているとは露知らず、士郎はスーツ姿のまま布団に倒れ込んだ。体力が限界だった。元々不調だった上に、スカサハのせいで疲労は重なるばかりだったのだ。イリヤ1人に運転させるわけにもいかず、夜通しで会話もしていた。つまりは、今この瞬間は。士郎にとっては漸く訪れた、真の意味での休息なのだ。

 慌ててイリヤは士郎に駆け寄った。キッチリしている士郎が、着替えもせずに倒れ込む。それだけでも、異常と見るには充分なのだ。

 

「大丈夫。眠いだけだ……」

「着替とかシャワーは? しなくていいの?」

「とりあえず、寝るよ。イリヤも、早く……」

 

 寝た方が良いぞ。そこまで言い切る前に、士郎の意識は睡魔に絡めとられた。そのまま瞼が落ちて、意識は闇の中に溶けて霧散する。

 イリヤは士郎が疲労故に倒れた事に、一先ず安堵する。とりあえずは大丈夫そうだ。魔力も、少ないながら循環している。

 が、安堵するのも束の間。すぐに自身も士郎と同じように睡魔に襲われる。連続した魔術行使に一夜丸々を運転に費やした事。浴び続けていたプレッシャーからの解放。そして愛しの人を無事に送り届けられた事実。その全てがこれまでの反動として、一気にイリヤを襲ったのだ。

 ……私も寝ようかな。そう思い、部屋を出ようとして、

 

 ――――ゴクッ

 

 喉が鳴る。

 緊張を解す様に。

 潤いを与える様に。

 喉が、鳴る。

 

 ……ここには、士郎しかいない。

 

 それは悪魔の囁きだった。事実ベースに沿った、悪魔の囁きだった。

 イリヤは出ようと襖にかけた手を離した。離して、ゆっくりと振り向く。

 士郎が寝ている。規則正しい寝息。眠りは深そうだ。きっとちょっとやそっとの事じゃ起きないだろう。

 いつもの煩い面々は、スカサハを探しに外に出ている。ここにいるのはセイバーとバゼットのみ。そして彼女らも士郎が帰ってきたことに安堵して、今はそこまで此処に気を払っていない。未だに呼びに来ないのが証明だ。

 

 つまり。

 何をしてもバレないと言う訳で。

 

 イリヤはゆっくりと士郎の傍に忍び寄った。そして眠っている士郎の顔を眺める。起きていると色々と気苦労が重なり気難しそうな顔をする事も多い彼だが、流石に寝ている時は無防備にも、童顔故のあどけなさが残る顔を見せている。起きる気配は全くない。

 と、ぴくぴくと瞼が動き、士郎の眉間に力が入った。早速嫌な夢でも見ているのだろうか。夢の中でもわざわざ疲労を加算させるとは、相変わらずの気苦労性である。

 これはいただけないと、イリヤは士郎の頭を優しく撫でた。かつて昔、あの冬の城で母親にされたのと同じように。夢の中まで色々と背負い込む必要は無いのだ。夢の中でくらい、もっと気楽になるべきなのだ。

 

「ぁ……」

 

 小さく、それはそれは小さく、イリヤは声を零した。不意を突かれた故の声だった。

 イリヤが遠い昔の母を思い出したように。彼も遠い昔の母を思い出したのか。

 士郎の眉間から力が抜ける。皺が消え、またあどけのなさの残る寝顔に戻る。そして僅かに。彼は微笑んだ。無防備故の無垢な微笑みだった。

 ……やっばいわ、これ。

 おそらくは衛宮邸在住の人間の中でも、今この瞬間のイリヤしか見れないであろう士郎の表情。ただの寝顔ではない。これは爆弾だ。微笑みの爆弾。普段気難しそうな顔をしているからこその、きっとこの瞬間にしか垣間見れないソレは、目の前で見ていたイリヤを根幹から揺さぶった。

 

「……シロウ」

 

 もぞもぞと。イリヤは士郎の隣に入り込むと、温もりを感じながら彼の頭を優しく撫で続けた。これは特権だ。家族である事の特権。手のかかる弟をあやす様に、慈しみを込めて撫で続ける。

 せめて今この瞬間だけは安らかなひと時を。

 

 

 

 寝息が2つになるのは、それからすぐ後の事だった。

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


※広島付近に到着した辺り


「シロウ、もうすぐ広島ね。追ってきていないみたいだし、一旦降りる?」

 降りる
⇒降りない

「いや……」

 士郎は言い淀む。もうあのプレッシャーや魔力は感じていない。多分逃げ切っただろう……が、それでも嫌な思いは拭えなかった。
 イリヤは士郎の感情を敏感に察すると、返事を聞き終わる前にそのまま構わず走る事にした。イリヤとて、あのプレッシャーは感じたくない。とりあえず逃げれるところまで逃げ続ける事は悪い手じゃない。……それに、士郎とのドライブデートも継続できるのだ。

「とりあえず進みましょ。いつだって戻る事だってできるわ」
「……ありがとう」
「ふふっ、気にしなくていいのよ」

 余裕を見せる。例えそれが絞り出したようなものであっても。
 女ならば、意地や虚勢は張って何ぼなのだ。

 中略(10時間後くらい)

「……もうすぐ、横浜ね」

 あれー? イリヤは疑問に思った。何で私たち此処まで来たのかしら?
 途中までは覚えている。具体的には神戸くらいまで。だけどその後の事はよく覚えていない。覚えているのは、SAでエナジードリンクを飲みながら、「横浜の中華街行きましょ!」と口走ったことくらいだ。神戸元町中華街じゃダメなのかよ。
 隣を見れば、士郎も何だか良く分からない顔をしていた。彼も疲労と深夜とエナドリでテンションメーターがおかしくなっていた。今更漸く現実にテンションが追い付いていたのだ。と言うか凛のおかげで中華への偏見が薄れたとはいえ、よく中華街行きを了承したなコイツ。
 2人の思考と相反して、現実は着実に時を刻む。行楽シーズンになると良く特集される、海老名SAが近づいてきた。此処で休憩一旦取りましょうか。そうだな。良く分からないテンションのまま、とりあえず2人は休憩をする事に決めた。



 てことで。
 こんなふぇいとはいやだ、横浜編……はっじまーるよー!(大嘘)


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じゅういち

HF最終章公開中ですが、こんなご時世ということもあり、やや観に行くのを躊躇っております。
でも土曜日からフィルムの特典があるんですよねぇ……観に行きたいなぁ……


 スカサハはとうとう見つからなかった。

 士郎が襲撃されてから三日経過しても、彼女は冬木市に現れていない。

 彼女は士郎を追って、東京、いや関東圏を飛び出て東北、果ては北の大地にまで向かっているのだろうか。いつかそこに士郎がいないことに気づくのだろうか。それとも気付かずに探し続けるのだろうか。……別にどうでも良い事だが。

 

 兎にも角にも。

 

 凛がセカンドオーナーとしての特権を駆使しても発見できず。

 ライダーとペガサスによる空からの空中哨戒でも発見できず。

 カレンによる教会人員を総動員した人海戦術でも発見できず。

 となれば、厳戒を強いている衛宮邸にも多少の緩みは出てくるものだ。

 

「シロウ、デートしよう!」

 

 わーい、どーん、イリヤスフィール貴様ぁ!

 まぁ今現在のこの衛宮邸において、早々に緊張を解けるのはイリヤくらいなものだが。彼女にはスカサハから逃げ切ったと言う実績がある。実績は自信となり、自信は確信へとなる。いつかそれが過信に変わらなければ良いが、それを今から憂慮しても仕方が無いだろう。明日は明日の風が吹くのである。

 士郎に抱き着き、存分に彼の固めのお尻を堪能する。後ろで騎士王がキレているが気にしない。赤いのが拳を光らせているが気にしない。黒……いのは気にした方が良いかしら、うん。ちなみに士郎はこんな状況でも動じる様子なく、テレビ機器周辺の整理をしている。この状況で普通に家事をする辺りに、彼の精神的なマヒっぷりが伺い知れる。

 

「デートたって外には出られないだろ」

「そうよ、スカサハが何処にいるかも分からないんだから」

「じゃあお部屋デート、お部屋デート!」

「イリヤさん、先輩の手を煩わせちゃダメですよぉ?」

「えー、みんなはしたくないの、お部屋デート」

 

 途端に黙りこむ女性陣。欲望に素直で忠実なのは良いところだが、イリヤ程素直になれないのは、思春期ならではのプライドやらかっこつけやらが邪魔をしているからか。それにしてもお部屋デート。要は自室でゴロゴロするだけだろうに、こんなにも魅力的に響くのは何故なのか。

 

「てかシロウ、なんでそこ整理してんの?」

「ん? いらないものは捨てようかなって」

 

 テレビ機器周辺なんてのは、あまり積極的に掃除を行う場所でもない。が、外には危険がいっぱいという事で士郎も自宅に籠りっきりな状況を強いられている。おかげで普段は手に付けないようなところへも掃除の手が伸びると言うものだ。

 因みに衛宮邸では、家主の意向故か、何世代も前の機器が現役稼働中だったりする。とは言え購入した当初は最新鋭だった機器も、昨今の技術の進歩の目覚ましさには置いてけぼり。

 まぁ、そんなわけで。今士郎の目の前には、VHSが並べられている。

 昔録画した番組。ドラマやアニメ、映画たち。幼き日の思い出。箱に詰めた、切嗣や大河と一緒に見たかの思い出。

 だがそれらは名残惜しめども、何時までも残しておけるものでもない。

 

「もう、再生もできないしな」

 

 VHSなんてのは、世間一般で言えばもうロートルもいいところ。今もなお現役稼働しているところなんて、冬木市内で言えば数える程度しか無いのではないか。……この衛宮邸でも、使わなくなって久しい。

 

「……ねぇ、士郎」

 

 と、そこで。

 

「これ、本当に捨てて良いの?」

 

 何かに気づいたのか、凛が箱の中からVHSを取り出す。

 

「『士郎⑦』って書いてあるわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬木市内でVHSが現役稼働をしているところなど数える程度しかないが、その一つが実は遠坂家だったりする。由緒正しき魔術師家系は科学技術を忌避するところが多いが、遠坂家も例外ではない。凛が当主となった事で、馴染みが無いなりに多少は科学の色が入ったものの、それでも他の一般家庭と比べれば時代遅れと言うしか無かろう。

 と言う訳で、

 

「はい、ビデオデッキ」

 

 凛は自宅からビデオデッキを持ってくると、実に良い笑顔を士郎に見せた。偶には古きも佳いものである。ちなみに運んできたのはセイバーだ。そして彼女たちにコンセント云々が分かるはずもないので、紙袋に適当に詰めてきたと言う有様だったりする。

 ビデオデッキを受け取った桜は、テキパキと配線を繋ぎ始める。ちなみに同じく由緒正しき魔術家系の間桐家では、慎二の尽力と当主の我関せぬのスタンス故に、とうの昔にVHS関連は姿を消した。今は最新型が稼働中。当主の蟲媼は盗撮系でも映りが良くなって大満足だとかどうとか。

 ちなみに桜自身は、科学技術に抵抗がないどころか、士郎と一緒にガラクタいじりをしているので、寧ろそこらの工業高校の生徒並みに詳しかったりする。この魔術師の風上にも置けない裏切り者。

 

「……そんな見ても面白いもんじゃないと思うがな」

「えー、私はシロウの小さい頃気になるわ」

 

 周りの熱狂に置いてかれる家主の衛宮士郎。捨てようとしていたVHSの中には、他にも士郎の名前で①やら②やら夏まつりとある。タイトル的に、恐らくは子供の頃の士郎自身が映っていそうなものだが……今更見られるのは恥ずかしい。が、見ないでくれとも言い難い。捨てようとしていたわけだし。

 

「キリツグも映っているかな」

 

 ……加えてイリヤにそんな事を言われては、士郎が断れるはずもない。まぁ、撮ったのは十中八九切嗣だから、彼が映っている可能性は低いと言わざるを得ないが。そしてイリヤもその事は重々承知で、士郎が断り辛い方面に話を持って行っていたりするのだが。

 

「セット完了です。これで見れますね」

 

 良い笑顔を見せる桜。ここにいる面々の中では最も士郎との付き合いが長い彼女ではあるが、流石に幼少期の士郎までは知らない。士郎の幼少期のアルバムは藤村大河が厳重保管しているので見ることが叶わなかったのだ。

 つまりは今この瞬間が、最初にして最後かもしれない、士郎の幼少期を知る数少ないチャンスなのだ。絶対に見逃せない。

 

「はいっと」

 

 軽快な掛け声とともに、凛は衛宮邸の結界を強化した。単純な防衛能力のみならず、人除けの効能を最大限に。術式は複雑であれど、天賦の才はこの程度に躓かない。余計な訪問はシャットアウト。藤村大河もシャットアウト。誰にもこの至福の時間の邪魔はさせない。

 

「シロウ、飲み物を」

 

 士郎の傍に湯飲みを置くと、全くの自然にセイバーは士郎の横に陣取った。ベストプレイス。士郎のうなじがちらりと見えた。実に魅惑的だ。凛や桜があくせく働いている間の抜け駆け。労働など下々がやればいいのだよ。

 

「じゃあ……まずは何から見ます?」

 

 桜は大凡関連があるであろうものを並べた。①~⑦、夏まつり、運動会、海。士郎の記憶ではあまり撮られた記憶は無いが、今はこんな世界観だ。そう言う事もあったのかもしれない。

 

「とりあえず、①からかな」

 

 順番通りならそうなる。無難な選択肢を士郎は選んだ。

 ……それに、まぁ。もしかしたら今の状況を解明する手掛かりになるかもしれないし。

 

 

 

 スカサハの行方はどうするかって?

 今の彼女たちに士郎の幼い頃を鑑賞する以上に大切な事があるとでも?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『爺さん、撮ってないで手伝ってよ』

 

 テレビの中で、幼い士郎が頬を膨らませている。膨らませながら此方を見ている。

 幼い士郎は半そで短パン姿で庭の掃除をしているようだ。落ちた枯れ葉を一カ所に集めている。恰好は夏だが、映る景色の色合い的にシーズンは秋だろうか。子供特有の、動きやすい格好。

 そして撮影主は切嗣。位置を見るに、縁側に座っているのだろう。手伝いもせず、士郎を撮ることに集中しているらしい。なんてダメ親父だ。

 

『爺さん』

 

 不服そうに幼い士郎が呼ぶ。だが僅かに画面が揺れるだけ。手でも振っているのだろうか。

 呆れと諦めが半々の溜息を吐いて、士郎は掃除を再開する。集められた枯れ葉が小さな山を作り、踝くらいまでを埋める程度の大きさになった。

 

『これぐらいあればいいかな?』

『そうだね』

 

 切嗣の声。久しぶりに聞く、声。記憶の中の声よりも、大分落ち着いていて、そして弱々しい。

 

『じゃあ焼き芋しようか。士郎、藤村さんからもらったサツマイモ、持ってきて』

『はーい』

 

 がたがた。画面が揺れる。視点が下がった。縁側にビデオを置いたのだろうか。

 士郎はその横を駆けて画面外へと消えた。代わりに切嗣が現れると、落ち葉の山へと歩いて行く。手には新聞紙とライター。……それにしても、随分と老けている様に見える。傍から見ていると、ただのドロップアウトした中年だ。映像の士郎の大きさ的に、まだ引き取られてそう時間は経っていない筈だが……

 

「キリツグ、ちょっと若返ってる」

「あれで!?」

 

 イリヤの呟きに思わず士郎はツッコミを入れた。どうみても老けているようにしか見えない。

 

「確かに。それに解放感を感じます」

「そういえば、セイバーって爺さんにも召喚されたんだっけ」

「はい。彼は、限界まで引き絞られた弦のようでした。……映像の中の彼に、そのような様子は見られません」

 

 2人の言う事が正しいとすれば、アインツベルンにいた頃の切嗣はどんな目に遭っていたんだと言う話である。記憶の中の彼よりも老けている筈なのに、若々しいと言われている現実。この世界の歪さに、改めて士郎は頭が痛くなってくる。

 

『あー! 爺さん、ダメだよ。新聞紙は使うんだから』

『火種以外に何に使うんだい?』

『濡らしてサツマイモに巻くんだよ。で、その上からアルミホイルを巻かないと』

『そのまま焼けば良いじゃないか』

『それだと表面が焦げて、中身が生焼けになるだけだよ』

 

 ……あれ、こんなに切嗣って家事出来なかったっけ? そう言えばそうだったっけ?

 身内のポンコツっぷりを見られるのは、想像以上に恥ずかしいものがある。他の皆は微笑ましいのかニコニコとしているが、士郎としては恥ずかしさで直視し難い。

 

『うーん、そうなのかい』

『そうだよ。ほら、こうやって濡らさないと』

『なるほど、流石だね』

『へへっ』

 

 頭を撫でられて得意げに映像の中の士郎は笑みを零した。年相応の少年の笑み。そう言えば切嗣は家事全般がダメだったなぁ、と思い出す。

 

『じゃあ、あとは士郎に任せるね』

『えー、ずっりー』

『はっはっは』

 

 笑いながら画面外に引く切嗣。残された士郎はぶつくさ文句を言いながら、自分で火を点け始める。手際の良さからして、普段からのやりとりであることは疑いようがない。どんだけ切嗣はダメ人間だったのか。

 

「ふふっ、仲睦まじいですね」

「そう見えるか?」

「ええ、とても」

「……なんかずるーい」

 

 ふくれっ面を浮かべるイリヤ。彼女にとっては確かに複雑だろう。実の親が、血のつながっていない他人に笑顔を見せているのだから。

 その後も特に変わった様子は無く映像は続く。

 日常の一コマ。焼いた焼き芋を手際よく切嗣に渡す士郎。血のつながらない家族の成長記録と言うよりは、身内の介護染みていると思うのは、士郎の心が疲れているからだろうか。

 

『士郎は良いお婿さんになれるね』

『そうか? 誰だってできるでしょ』

『男の子ではいないよ。こういうのは女の子がやることだからね』

 

 そうなのか? まぁ、こんな世界観だしそうなのか。

 記録映像一つとてがこの世界の歪さを映し出す。士郎からすれば、こういうのは寧ろ男のやることだ。

 

『士郎も、いつかは結婚するのかなぁ』

『何だよ、爺さん』

『気になる子はいるのかい?』

『何だよ急に!』

『いるのかい!?』

 

 がたがたッ! 揺れる画面。どんだけ驚いているんだ。

 

『おお、士郎が……うぅ』

『いないよ! 何言ってんだよ!』

『もしやあの子かい? この前公園にいたガキ大将みたいな子』

『違うって。そもそもあの子の名前知らないし』

『てことは、気にはなっているのかな』

『なんでそうなるんだよ!』

 

 顔を真っ赤にして反論する辺り、映像の中の士郎としては確信を突かれたということだろうか。分かりやすくて、見ている士郎の方が恥ずかしくなっている。

 

「ガキダイショー? 士郎そんなの好きだったの?」

「昔の話だから覚えてないよ……」

 

 イリヤの問いかけは流す。ガキ大将……の記憶はなくも無いが、士郎はそんな想いを抱いた覚えは無い。確かに元気な女の子がいたような記憶はあるが……

 

『うーん、士郎は絶対にもてるから、変な子には引っかからないようにね』

『何だよさっきから』

『この前の女の子から告白されてたでしょ』

『何で知って、いや、あの、あの子は違うし!』

『士郎には紹介したい子がいるんだけどなぁ』

『やめろよ、もう!』

『あ、ちょ、士郎、やめ、あっ、ああ!?』

 

 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、映像の中の士郎が切嗣に襲い掛かる。画面が酷く揺れて、切嗣の情けない声と共に暗転する。ビデオ自体はまだ尺はあるはずだが、音声も切れた辺り、映っているのは此処までという事か。

 

「じゃあ、次は②ですね」

 

 余韻に浸る間もなく、桜が次のビデオを手に取って、士郎に向けて良い笑顔を見せていた。本当に、実に、輝かしいくらいの良い笑顔である。これで鼻血を流していなければ完璧だっただろう。何が完璧かは置いておくが。

 士郎は少し、本当にほんの少しだけささやかな刹那の間にも見たいない逡巡の後、桜に負けないくらいの笑顔で首を横に振った。ダメ。

 

「ちょっと御免、恥ずかしいかな」

「えー! みたーい!」

「いや、ちょっとな……」

「じゃあ、もう一本だけ! 士郎がどんな子供時代だったか気になるの! 切嗣とどんな生活しているか気になるの!」

 

 イリヤは思考をフル回転させると、今この場で考えられる限りで最強のカードを切った。切嗣の実子でありながら、死に目にすら会えていないという境遇。実の親の愛を満足に享受する前に別離すると言う悲しさ。そしてその事を少なからず士郎は気にしていると言う事実。

 この言葉を聞いて、士郎が首を横に振れるわけが無い。たかだか個人の羞恥心など無きにも等しい。

 ……結果として、士郎は首を縦に振った。個人の感情は飲み込む事にしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ②のビデオには、士郎が機械弄りをしている姿が映っていた。

 ③のビデオには、士郎が料理をしている姿が映っていた。

 ④のビデオには、士郎が縁側で腹を出して寝ている姿が延々と映っていた。

 ⑤のビデオには、士郎が学校の宿題をしている姿が映っていた。

 ⑥のビデオには、士郎が大河に着せ替え人形とされている姿が映っていた。

 ⑦のビデオには、士郎が料理本と睨めっこしている姿が映っていた。

 どれもそれほど長くはない。長いのでも30分程度。ただその全てが、士郎と切嗣のかけがえのない家族としての生活を映していた。……いずれも、士郎の記憶には無い代物だ。

 

「……もういいかな」

「えー! あと3本だけだよ!」

「少し、疲れたよ。今日はもういいだろ」

 

 むぅ、と。イリヤは頬を膨らませた。あどけない様子を演じつつ、脳みそはフル回転。あまり自分の意思を押し付けても逆効果だろう……が、彼女はまだ続きが見たいと思っていた。まだまだ幼少期の士郎が見たかった。しかもここからは、夏祭り、運動会、海と季節イベントものである。間違いなく浴衣姿に体操着姿に水着姿の士郎が拝める。このチャンス、絶対に逃せない。

 そしてそれはセイバー、凛、桜の3人も同じ思いを抱いていた。抱いていたが口には出さない。此処はイリヤに任せる。イリヤに頑張らせる。イリヤが無理を通して続きが見れるのならば良し、やりすぎで好感度を下げるならそれもまた良し。どちらに転んでも、自分たちに損はない。汚い大人? 戦略的と言ってもらおうか。

 

「また明日見れば――――」

「ダメダメダメッ! 絶対にタイガに邪魔されるもの!」

 

 藤村大河。穂群原学園の英語教諭にして、剣道五段の腕前を持つ、冬木の女傑。幼き士郎をあらゆる魔の手から守るべく、その身を粉にして駆けずり回った、文字通りの士郎の保護者である。士郎が天涯孤独の独り身となりながらも、ここまで薄い本や企画もののVの如き目に遭わずに済んでいるのは、彼女、及び藤村組が影に日向に護り続けてきたからでもある。

 士郎のこれまでの成長の軌跡――写真や映像などの成長記録は元より、小さくなった服や彼が使ってた食器など――は、藤村組の手で厳重に保管されている。それらを見ることが出来るのは、大河や雷画を始めとする本当に一握りのみ。それでも欲望に負けて手を出した組員には、死よりも重い罰が下されたとかなんとか。

 まぁ、そんなわけで、

 

「見たいっ!」

 

 イリヤは恥も外聞も捨てて欲望を口にした。清々しいまでの素直さだった。人間欲望に屈するとこうなると言う好例であった。

 こんなところで駄々をこねずに、藤村組へ催眠でもかけて見に行けばいいものだが、藤村組の面々は何故か士郎の事となると魔術を用いた催眠に掛からない。高い魔術の素養を持つイリヤが相手であってもだ。この日まで何度も士郎の幼少期を入手しようと試みていたが、何れも失敗に終わっているのだ。恐るべし藤村組。

 特に次期跡目として英才教育を受けた大河は、異常なまでの魔術への抵抗力が備わっている。催眠からは容易に逃げ、結界をものともせず踏破し、意識誘導にすら引っかからない。ライダーの魔眼にすら、なんか身体重いわねー、だけで済んでいる文字通りの化け物にして衛宮邸ラスボス。彼女たちが士郎を娶るには、この化け物を倒さねばならないのだ。

 ……やや話題は逸れたが、つまりは、この機を逃せば。士郎はビデオを厳重封印し、見る事が叶わなくなるだろう。恥ずかしいとか言って見せてくれないに違いない。と言うか最悪捨てられて、藤村組が回収する。そんな未来をイリヤには容易に想像できた。

 だからこそ、だからこそ……っ!

 

「見たいっ!」

 

 血を吐く様な慟哭だった。心の底からの懇願だった。そこには高尚な言葉も、涙を誘うような姿勢も、相手を組み伏せる理論も、士郎が納得する様なものは何も無い。ただただ、1人の少女としての真摯な願いがあった。真摯な願いと言う名目の欲望があった。それだけだった。

 

「と言ってもなぁ」

 

 士郎はどうしたものかと頬を掻いた。疲れているのは事実だ。見られて恥ずかしいのも事実だ。だが自分の目の届かないところで見られるのは嫌だと思った。何かこのままだとダビングしかねないし。

 たかが幼少期、されど幼少期。年頃の少年にとっては、あまり見てほしくはない類の物。さてはてどうしようか。だが悩めど答えなど出るはずもない。

 

 

「また今度にしないか? そろそろ昼飯作らないといけないし」

「うぅぅ」

「そうですね。そろそろお昼ごはんの時間ですし、一旦止めましょうか」

 

 士郎の言葉に、一も二も無く桜は賛成の意を示した。そしてイリヤに目配せする。一旦引きましょう。押すばかりではダメな事を彼女は知っている。食事を挟めば変わる考えがあるかもしれない。

 

「何を作るの? 手伝うわ」

 

 桜の意図を正しく理解し、凛は士郎を後押しした。ビデオから考えを逸らさせる。加えて士郎に主導権を握らせることで、より意識を昼飯に集中させる。無論、自分が手伝うことで、士郎との楽しいクッキングタイムも確保すると言う策士っぷり。諸葛凛の名は伊達では無いのだよ。

 

「さぁ、イリヤスフィール。準備をしましょう」

 

 すくっ、と。セイバーは立ち上がり、全くの自然な動きでテレビと士郎の間に立ちはだかった。これで士郎はテレビの方を見ても、セイバーの姿が見えるだけだ。だが実はその裏では、桜が空いているVHSを手にビデオデッキの操作をしていた。士郎の危惧しているダビング。それを今まさに、この瞬間に桜は行おうとしていた。

 今この機会を逃せば、良くてこのまま士郎たちと見るだけ。そしてその後は捨てられる……いや、藤村組で厳重に保管される。それが意味する事は、このVHSが日の目を見る機会は二度と訪れる事は無いだろうという事。

 つまりは、この瞬間こそが。唯一無二の、正真正銘最初で最後のダビングのチャンスであると。そう、桜の鋭敏な感覚は告げていた。

 ……いや、桜だけじゃない。セイバーも、凛も、そして遅れながらもイリヤでさえもが、同じ感覚を共有していた。

 故に、

 

「さ、作りましょ!」

 

 凛が士郎の気を引き、

 

「イリヤスフィール。テーブルを上げますので、下の方を軽く掃除願います」

「はーい」

 

 セイバーとイリヤが協力して視界を遮り、

 

「ダビングの時間は無いからラベル張り替えて……」

 

 桜はダビングが不可な事を悟り、ラベル交換と言う原始的な手法に着手する。

 今まさに。衛宮邸の女性陣は、一つの目標を達成するために、一丸となっていた。事前打ち合わせも無しの一発本番で、彼女たちはその意思を完全に共有しきっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 尚。

 今のこの時間帯はお昼ご飯時である。

 当然、衛宮邸だけでなく、他の全ての家庭が、お昼ごはんの用意をしている。

 作っていない家も、外食の準備か出前を取るであろう。

 何もおかしい事は無い、至極当然と言える時間帯。

 

 そんなわけで。

 

 衛宮邸のお隣さんから、とある女性がスキップ交じりで出てくる事も。

 その女性が鼻歌交じりで衛宮邸の門の前に立つことも。

 少し頭を傾げつつも、気にすることなく満面の笑みで扉を開ける事も。

 そして結界なんかどこ吹く風の様相で邸内に入る事も。

 何にもおかしいことはないのだ。

 

 

 

 まぁ、つまり。

 何が言いたいかと言うと。

 

 

 

 

「いやっほう! みんなー! 今日のお昼ご飯はな~にっかな~♪」

 

 

 

 藤村大河(衛宮邸ラスボス)。襲来。

 

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「そういえば、セイバーって爺さんにも召喚されたんだっけ」
「はい。彼は、限界まで引き絞られた弦のようでした。……映像の中の彼に、そのような様子は見られません」

 ……絶句する
⇒昔の切嗣の事を訊く

「なぁ、セイバー。昔の爺さんって、何でそんな風だったんだ?」
「…………正直に申し上げると、分かりません。私が召喚された時には、彼は既に緊張状態におりました。原因までは、その……」
「いや、分からないなら良いよ。爺さんとは全然話さなかったんだろ?」
「いえ、そんなことはないですよ? 切嗣とはそれなりに話をしました」
「あれ? そうなのか?」
「はい。まぁ、その、情事から逃げる為に、体よく利用されたと言う方が正しいでしょうけど」


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じゅうに

更新、半年以上ぶりになりましたね……
こんなご時世だから家に引き篭もって執筆も進むと思ったんですけど、進まない時は1週間かけても1文字も進まない。不思議。

信じられないと思いますが、昨年には完結している筈だったんですよ。マジで。


 藤村大河とは。衛宮士郎にとって大切な人である。

 恋愛感情、と言う意味ではない。

 衛宮の姓を名乗る様になってから、ずっと一緒の家族。

 世話の掛かる姉貴分であり、何かと放っておけないお隣さんであり、やや口煩い保護者であり――――そして、自身の大切な人。

 だからもしも。彼女の身に何か危険が迫ったり、その身に悪影響が及ぼすのであれば。

 士郎は絶対に見過ごすことはない。その諸悪の根源を突き止め、潰すだろう。もしもその為に自分の命が必要だと言うのなら――――差し出す事も、きっと躊躇わない。

 衛宮士郎にとって藤村大河とは、そういう存在だ。

 

 

 

 大河がリビングに入って来た瞬間、イリヤは即座に彼女に飛び掛かった。幼さを生かした甘えと言う名の突撃。妹が姉に甘えるようなもの。事情を何も知らぬ者が見れば、それはそれは愛に満ちた突撃に見えただろう。その内心に秘められた焦りや打算など知る由もない。

 セイバーはイリヤの引き離しに掛かる。無論、大河に迷惑をかけないようにするため、ではない。自分とイリヤに意識を集中させ、絶賛人力ラベル張替え中の桜に目を向けさせないようにする為だ。そこに、ついでに媚を売っとこうなんて想いは無い。無いったら無い。

 桜はあたかもテレビの周辺を片付けていました風に仕草をかえていた。慌ててはならない。いつも通りに。冷静に。不要な行為は疑惑を抱かせるだけだ。間桐桜は慌てない。これしきの事では慌てない。

 

「あらあら、急がないとね」

 

 軽口を叩くように、凛は隣で固まっていた士郎に声を掛けた。ああ、と。少し遅れて返事があるが、凛は気にせず先に準備を続ける。……表面上は。気取られぬ様に。いつも通り。

 

 例え隣で。士郎の顔が、いつになく強張っていようと。

 

 想い人にそんな顔をさせている事に、そしてそこに至るまで気が付けなかった己の能天気具合に。

 腸を煮えくり返しつつ、しかしそれを気取られる事の無い様に、いつも通りに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藤村大河が衛宮邸で過ごすのは、基本的には夜間のみ、それも食事の時間帯くらいだ。教職の身である彼女は、おいそれとは休むことが出来ないほどに多忙であり、例え大切な弟分であろうとも四六時中つきっきりで一緒にはいられない。

 とは言え、大切な弟分を獣の群れの中に置いておくのには抵抗が無い訳ではない。無い訳ではないが、その獣どもを招いたのは士郎自身の判断である。ガードの緩い弟分が、大河としては言葉に表せられないレベルで心配なのだが、そこは一先ず士郎の意志を尊重している。渋々ではあるが。致し方なくではあるが。

 それに士郎はもう高校最終学年。あまりとやかく言わないとならない年齢でも無い。心配とは言え、時には何も言わず見守ることも必要だろう。

 そんな訳で。今日のこの日も。

 大河は士郎の手料理に舌鼓を打ち、何時の間にかに増えたクソ居候共と談笑し、最後に精一杯力強く士郎を抱きしめたところで家路についた。士郎の身体の強張りから、何かまた余計な事に気を回しているのだろうと察するが、今はまだ見守る。良かれと思って手を回すことが、必ずしも当人の成長に繋がるとは限らないことを、教職の身である彼女は良く知っている。

 自主性の確立。誰の力を頼る事無く、本人が考え、結論を導き出す。

 士郎の場合は特にその傾向が強く、実際それで成長をしてきた。ならば信じることも必要な事だ。

 ま、そもそもの話。もしも何かあれば藤村組の総力を挙げれば良いだけだしね。

 

 

 

「セーフ! やったわ、セイバー! 私たち、やったわ!」

「ええ、やりました。これは勝利です! 私たちは勝利したのだ……っ」

 

 抱き合い、むせび泣き始めるイリヤとセイバー(馬鹿2人)。何と戦い、何と勝利したのか。全く理解が出来ないが、彼女たちの中では一つの戦いが終わったのだろう。そう易々と安堵するあたりに、2人の経験の乏しさが伺えるモノだが。尤も、2人とも何の根拠もなしに喜びを垂れ流しているわけでは無い。セイバーは直感のスキルで、イリヤは自身の魔術による遠望によって、藤村大河(ラスボス)が出て行ったことを確信している。全く以って能力の無駄遣いとしか言いようが無い。

 

「……」

 

 馬鹿2人は置いておいて、心から安堵……と言うには精根が尽き果て真っ白になってしまった桜。その様相はアニメのギャグ描写の如くで、なんなら口から魂のようなモノが出ている様に見えなくも無い。

 それもその筈で、藤村大河の襲来を長年の甲でいち早く察していた桜は、大河が帰るまでの間、彼女がVHSに意識を向ける事のない様にずっと尽力していた。無論、食事中も。なんなら食事中の方が精神がすり減ったと言えよう。なにせ食事の場では、藤村大河を前にしながら欲望に負けてVHSに意識を向けようとする、イリヤとセイバー(馬鹿2人)がいるのだから。

 そんな2人の尻拭いの為、要所要所で桜は大河の気を自身に引いていた。間違っても馬鹿2人には向けさせない。何故ならなし崩し的にVHSの存在がバレてしまうから。それは士郎に次いで大河との関係が長い桜だからこそできた、神業めいた所業。そりゃあ疲労困憊で魂も抜けると言うものだ。もう一度やれと言われても多分無理だろう。尤もそんな努力も空しく、大河には直感で怪しいと思われていたりするのだが、それはまた別のお話。

 

 と、三者三様に感情のままを表している傍らで。

 

 士郎はテキパキと片づけを終えると、全くの自然な足運びでリビングを出て、そのまま自室へと向かった。淀みの無い足取りに、気配を周囲に紛れさせて消し殺すという、本職のアサシンに引けを取らない高等技術(気配遮断)。彼が出て行ったことは、セイバーもイリヤも桜ですらも気が付いていない。

 財布と携帯、あと家の鍵と上着。近所に出るような軽装で、さっさと士郎は支度を終えると、その足で玄関へと向かった。……否、玄関を出た。

 スカサハの行方が分からず、いつまた襲われるかも分からないと言う状況で。

 士郎は外に出たのだ。

 

「クソっ……」

 

 そして小さく悪態。

 と言っても、周囲の状況に対してではない。

 周囲に人影はいない。

 異常もどこにも無い。

 なら悪態は何へ?

 ……決まっている。

 衛宮士郎は自分の事で怒りを露わにしない。彼が怒りを露わにするのは、何時だって他の人の為だ。

 そんな彼が誰に対してでも無く怒りを露わにするということは、つまりは、

 

『私は私が出来る事に尽くす。貴様は貴様で尽くせ』

 

「クソッ!」

 

 自身の膝に強く拳を打ち付ける。

 己への不甲斐なさ、情けなさ、考えなしの役立たず……そう言った、ありとあらゆる負の感情を拳に乗せて打ち付ける。

 数日前のアーチャーとの邂逅。確かめた現実。言われた言葉。

 忘れたわけじゃない。忘れるはずが無い。

 変わり果ててしまった世界。覚めない悪夢めいた現実。

 そしてこの世界を元に戻すことが出来るのは、恐らくは己のみ。

 

 だが今の自分はどうだ?

 

 スカサハの脅威に怯え、自宅に何もせず引き篭もったままで。何かをしたかと言えば、過去の映像を見て違和感を見出そうと仮初の努力ばかり。

 いったい今日の今まで、何をしてきたのか?

 無意味に怠惰な時間を過ごしてきただけではないのか?

 時間がどれだけ残されているかも分からないのに。

 自身の大切な家族ですら変貌しているのに、呑気にのうのうと……っ

 

「ハァ……」

 

 三度目の悪態は零れなかった。己自身への幻滅の方が大きく、代わりに溜息が零れる。

 何も成していない事への見せかけの怒りなどに意味は無い。為すべきことを成さねば。まずは、それだ。

 

 

 

「まったくもう……本っ当に士郎は自分の事を口にしなさすぎよね」

 

 

 

 振り返る。驚きに。

 身体が強張る。己の不用心さに。

 それから適切な言葉を探そうと、無意味に口を開閉させる。

 全くの無駄であると分かっているのに、言い訳を重ねようとする愚行。

 こうして気が付いた時点で、既に遅きに失しているというのにだ。

 

「ま、今の今まで気が付かなかった私も大概だけどね」

 

 一方で。そんな士郎の様子など気にも留めず。

 彼女は衛宮邸から、士郎を追うように一歩外に踏み出た。

 かき上げられた黒のツーサイドアップ。

 意志の強さを伺わせる碧眼。

 そして見惚れる様な柔和な頬笑み。

 

「それで? 私は何をすればいいかしら?」

 

 冬木市のセカンドオーナーにして、自らの魔術の師匠で、かつての運命の夜に何度も共に死線を潜った同盟相手。

 遠坂凛が、そこにはいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠坂凛が衛宮士郎を異性として意識し始めたのは、間違いなくあの第五次聖杯戦争を経てからだ。

 無論、様々な諸事情もあり、士郎の事は聖杯戦争以前から知ってはいた。知ってはいたが、あくまでもそれだけだ。異性としての意識が皆無である……とは言わないが、遠坂家の嫡子にして、セカンドオーナーである彼女には、そんな色恋沙汰にうつつを抜かす余裕は無かったのだ。

 だというのに。あの第五次聖杯戦争で彼と行動を共にし、死線を潜り抜け、数々の敵を退けて、ギリギリのところを生き延びて。気が付けば彼から目を離せなくなったし、その後を共に過ごしたいと強く思うようになった。魔術の特異性や希少性といった、魔術師的な損得勘定抜きにだ。

 無論、彼の良いところばかりに目を向けているわけではない。

 唐変木なところも、多数の好意に対して鈍感なところも、嘘のつけない不器用さも、度の外れた理想主義なところも、自身の命を省みないところも、その全てを。

 望まれれば、声高らかに遠坂凛は宣言しよう。衛宮士郎を愛している、と。

 

 だからこそ。

 

 遠坂凛は許せない。

 衛宮士郎がまた1人で抱え込み、思いつめてしまっている事に。

 そんなことを原因不明の何かがさせてしまっている事に。

 そして何よりもそのことに気が付けなかった、間抜けで阿呆な自分自身に。

 腸が煮えくり返って仕方が無いのだ。

 

 

 

 などとその柔和な笑顔の裏で思われているとは露知らず。

 士郎は凛の言葉に、何と返すかという事に全思考を費やしていた。

 凛の言葉に合わせて、悩みを口にするのは簡単だ。気が付いたら世界がおかしくなっていたから修正したい、だから手を貸してくれ。きっと凛は助けてくれるだろう。事の解決に力を存分に貸してくれるだろう。

 だが……果たしてそれは正解だろうか?

 現状、変わる前の世界の記憶を有しているのは3人。士郎とアーチャーとキャスターだけ。だがキャスターは魔術で現状に抗っている状態。それは即ち、世界が一個人へ修正を試みているという事だ。そしてアーチャーの、原因は衛宮士郎にあるという言葉。

 ……これはあくまでも士郎の推測でしか無いが。悩みを口にし、相手に認識させることで、

 

 何かしらの影響が遠坂凛に及んでしまうのではないか?

 良くないことが彼女の身に起きてしまうのではないか?

 

 その可能性は、決して否定できるものではない。寧ろ、可能性は高いとすら思える。

 ……ならば、

 

「なんでも「嘘」」

 

 ない、と。告げる前に言葉を被せられる。柔和な微笑みと相反する、一刀両断する様な鋭利な言葉。

 

「嘘、よ。士郎は何時もそう。本当に一人で抱え込んで、誰にも言わない」

 

 微笑みは崩さない。出来の悪い子を諭すように、少し困ったように下げられた目尻。だがその翡翠色の眼は、士郎にも分かるくらいに怒りで燃え盛っている。

 

「バーサーカーの時も、綺礼の時も、桜の時も、士郎はそうだったわね。……そんなに私は信用無い?」

「そんなことはない。ただ……今回は、その……」

「……ごめん。責めているわけじゃないの」

 

 ふぅ、と。凛は息を吐き出した。彼女にしては珍しい、溜息に近い息の吐き方。それから首を振って、もう一度微笑みを象る。

 

「ただね、士郎が私たちに黙って動こうとする事柄って、大体が危険度が高い事なの。イリヤに誘拐されたりとか、綺礼に襲われたりとかね」

「……」

「士郎の想いは分かっているつもりよ。多分、私にも危険が及ぶ事なんでしょう? だけど、だからと言って退き下がることは出来ないわ」

 

 宣言だった。優しくて柔らかな口調で、それでいて断固とした宣言だった。士郎を1人では行動させないと言う意思の表れだった。

 意志の強い瞳が、士郎に挑発的な輝きを向けている。何を言われようとも退かない、不退転の瞳。士郎程度の言葉では、容易く言い負かされてしまうか、言い包められてしまうか……いずれにせよ、突っぱねることは不可能だろう。

 ならば、言うか? 観念して? 何の影響が出るかも分からないのに?

 ……言えるわけが無い。

 

「遠坂」

 

 見上げた空。澄み渡るほどの青の晴天。己の内心とは相反するその光景。

 幾分かの時間を使い。鼓動を落ち着け、呼吸を整え。

 彼女の名前を、呼ぶ。

 

「……すまないが、詳細は言えない」

 

 口にした言葉は拒絶。言えるわけが無い、まだ言うわけには行かない、口にしてはならない。

 

「だけど、力を貸して欲しい」

「お安い御用よ」

 

 ノータイムで。凛は了承の意を示した。破格の信頼故の即答だった。

 彼女は勝気な笑みを浮かべていた。己の力を信じて疑わぬ、絶対的な自身がそこにはあった。

 この空も霞むほどに眩く輝かしい笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――で、協力すると言ったけど……何で此処?」

 

 衛宮邸の近くを丁度タイミングよく通りかかったタクシーを捕まえ、揺られること大体30分程度。

 閑静な住宅街から、冬木大橋を越えて、新都方面へ。裏道を通り、小高い丘へと繋がる道を行けば、目的地はもう目と鼻の先。

 目前に聳え立つその建物を見て、凛は思いっきり顔を顰めた。

 

「此処に来たって事は、用があるのはあの娘ってこと? ……え、本当に、アレに?」

「ああ。すまん。けど、知りたいことがあるんだ」

「ううん、別に良いんだけどね」

 

 ふぅ、と。気合を入れ直す様に凛は短く、そして少し強めに息を吐き出した。チリッ、と。それだけで彼女は纏う空気を、自身の在り方を切り替える。

 ぐっ、と。己に喝を入れる様に士郎は拳を強く握りしめ直した。トレース・オン。頭の中で呟いた言葉で己の意識を、自身の在り方を強固にさせる。

 血潮は鉄、心は硝子。

 覚悟を決めるのに時間は要らない。

 

「じゃあ開けるぞ」

「ええ。正面から入ってやろうじゃない」

 

 そうして、真正面から2人は扉を開けた。

 

 

 

「お待ちしておりました、御主人様」

 

 

 

 何で待っているんだよ、と士郎は思わない。思わないったら思わない。強固にし直した己の意識や思考が少なからず揺さぶられたのは気のせいだ。彼女の香りが脳みそを揺さぶるのも気のせいだ。頭の中でいつもの呪文を繰り返して平常通りに。外面だけでも平常通りに。

 士郎の目前には少女がいる。士郎の知る少女にして、今回ここを訪れた目的。

 カレン・オルテンシア。

 現在の冬木教会を治める修道女。

 ……ある意味で。尤も士郎の記憶からの乖離が激しい女の子。

 

「寄るな、雌犬。年中発情中なのかしら。生臭いのよ、アナタ」

「ふふっ、子猫がにゃんにゃんと一丁前に威嚇ですか。お可愛いこと……」

 

 凛は士郎を護る様に一歩出た。その手には士郎にもカレンにも見られぬ様に宝石が握りしめられている。何かあればぶっ放す。宝石でカレンごと教会をぶっ放す。

 カレンは柔和な微笑みで、全てを受け入れるかのように両腕を広げた。奇しくもそれは、この教会の前任者と同じような仕草。凛からすれば、嫌という程見た威圧的な仕草だ。

 凛もカレンも笑顔だ。そして口調も世間話をするような気安さ。それ故に出てくる言葉の意味に、互いが互いを蔑むような会話に。士郎は己の背筋が冷えて仕方が無い。と言うか、これが続けば間違いなく士郎自身の精神がおかしくなる。

 

「カレン、訊きたいことがある。少し時間良いか」

 

 このままだと話し合いどころじゃない。士郎は早々にそう断じると、2人の会話に割り込んだ。

 大丈夫?

 大丈夫だよ。

 凛が心配そうに士郎を見てくるのにアイコンタクトで意思を返す。流石は互いに死線を何度も潜り抜けてきただけあって、意思疎通はばっちりである。愛している、なんてべたな勘違いはしない。遠坂凛はそんな安っぽい女じゃない。

 

「勿論です、御主人様。少しと言わず、幾らでもどうぞ」

 

 嫋やかな蕩けるような笑顔。凛に見せるのとは全くの別種。間違いなく、絆される。絆され、囚われ、溶かされる。その魅力に骨抜きにされる。士郎のみに向ける、純度100%の笑顔。好意も悪意も全てを超越した何か。

 カレンの笑顔が、言葉が、仕草が、その一つ一つが士郎の理性をぶん殴って揺らしてくる。これはまるで優しい毒だ。甘くて優しい、致死の毒。

 会話を重ねれば重ねる程、より暴力的に彼女の魅力は士郎を蝕んでいくだろう。それは悲しいほどの確信だった。予感なんて生易しいものでは無かった。

 

「助かる。そしたら……早速で悪いが、ギルガメッシュと話をしたいんだが、どこに居るか分かるか?」

 

 多少早口になるのは仕方が無い。寧ろどもらず噛まずに言えただけ、士郎の精神力を賞賛すべきだろう。

 ギルガメッシュ。第五次聖杯戦争のイレギュラーサーヴァントにして人類最古の英雄王。……そしてこの世界の哀れな被害者。

 士郎が冬木教会を訪れたのは、カレンにギルガメッシュの所在を聞くためである。関係性が変貌前と同じなら、彼の所在を知り得る可能性があるのはカレンだけになるからだ。

 

「ギルガメッシュ……彼に御用があるということでしょうか?」

「ああ。アイツに会って訊きたいことがあるんだ」

 

 世界の変貌によって歴史すらも改変されているのは、アーチャーの話からも分かっている事。そして慎二からのギルガメッシュ評。彼も他に漏れず変わり果ててしまった存在ではある事は士郎とて理解している。

 だが。世界最古の英雄王ならば、この状況に対して何かしらの解決策を望めるかもしれない。或いは、この世界の真実の一端を知る事が出来るかもしれない。

 少なくとも、座して待ち続けるよりはよっぽど有意義だ。

 

「私では無く、ギルガメッシュですか……」

 

 むくれる様に。カレンは頬を少しばかり膨らませた。士郎の言葉への、決して小さくない嫉妬心。自分への要件が本筋では無いと言う、おまけ扱いへの不満。士郎は知らない。こんな年相応な表情を見せるカレンを、士郎は知らない。

 不意打ちだった。こんな顔をされるとは思っていなかった。カレンの全く新しい一面。本日二度目の揺さぶり。意識が、思考が、本能が揺さぶられる。カレンと言う甘美な毒が士郎を蝕む。

 ――――耐える。カレンの魅力に耐える。奥歯を噛み締め、拳を握り締め、己の精神を強固な一本の柱として確立させて耐える。この程度で衛宮士郎は綻びない。崩れない。絆されない。

 

「ああ。どうしてもアイツに会って訊かなきゃならないことがあってな」

 

 鉄の精神で士郎は耐え抜くと、さも致し方ないと言わんばかりに言葉を続けた。今この瞬間に躓いては、成せるものも成せない。

 カレンはじぃと士郎の眼を見つめた。士郎と似た、士郎よりも色の濃い黄金色の眼。何となく気恥ずかしくなり、少し士郎は視線を逸らした。

 

「……まだチャンスはあるようですね」

「え?」

「いえ、此方の話です」

 

 致し方ないと。そう言いたげにカレンは1人頷いた。頷いたが、顔は満足げに笑みを象っている。何かが彼女のお気に召したらしいが、士郎にはそれが分からない。後ろで凛が敵意を強くしているのにも関係があるのだろうが分からない。……多分、士郎は分からない方が幸せだ。

 

「質問への答えですが……私は彼の所在を存じてはおりません」

「分からない、か……」

「はい、申し訳ございません」

「謝らなくていいよ。こっちこそ手間をとらせてすまない」

 

 とは言ったものの、これからどうしようか。当てが外れた事へ、若干の焦りを士郎は覚えた。

 まず女性陣はギルガメッシュの所在を知らないだろう。慎二の話で言えば、かなりの女嫌いになっているらしい。ギルガメッシュ自身から誰かしらに連絡を取ることは無いと思われる。

 その慎二も、ギルガメッシュの所在は分からないと言っている。お手製のダッチワイフを宅配便で送っているのであれば追跡できなくはないが、第三者に所在がバレる可能性がある手段を取るとは思えない。一応聞いてみるが、期待は出来まい。

 男なら連絡を取るだろうか。だが士郎の知る男と言えば、もうあとはこれも所在不明のアーチャーくらいしかいない。ランサーはスカサハ、アサシンは武蔵。バーサーカー……は不明だが、そもそも意思疎通能力が無い。つまりは最早、選択肢が無いに等しい。

 

「ねぇ、カレン。ギルガメッシュとはパスが繋がるんじゃないの?」

 

 ギルガメッシュは受肉体ではあるが、現界を続けるにあたってはカレンが必要である。令呪でどうこうできる存在では無いが、パスを追えば大凡の場所は掴めよう。

 だが凛の言葉に、カレンは首を横に振った。

 

「残念ながらパスは繋がっておりません。魔力は自前で調達しているようです。私の役割は、現界の為の楔程度という事になりますね」

「追えない、って事?」

「はい。魔力を流そうとすると、途中で弾かれて霧散します」

「干渉の拒絶、って事? パスすらも……」

 

 凛は瞬きの間に思考を魔術師のソレに変えた。余程不可解な現象ではあるのだろう。士郎からすれば、アレならそれくらい宝具なりなんなりを駆使してやりかねないとは思うが。何せ人類最古の英雄王である。若返りの薬だってあるのだ。ドラ〇もんが四次元ポケ〇トから取り出す道具並みに、トンデモ性能の宝具を所持していてもおかしくない。

 

「あとは……そうですね、前々任者が日誌のようなものを持っていましたので、それを見ればアテはつくかもしれません」

「日誌?」

「はい。確かそのようなものがあった記憶が」

 

 日誌。ディーロ爺さんなら兎も角あの言峰がそんなものをつけるのか、と士郎は意外に思った。それは凛も同様だった。何せ言峰綺礼は凛の後見人でありながら、杜撰な土地管理で遠坂家の家計に決して少なくないダメージを与えた人間である。金が関係してこれである。日誌なんて、そんなマメな事をしそうには思えなかった。

 

「前々任者の私物は、全て地下の倉庫に放り……保管をしてあります。ご案内いたしましょうか?」

 

 カレンは初めて微笑んだ。

 それはこれまでに士郎に向けたものでもなく、また凛を始めとする知人に向けたものでもなく。

 修道女として、己の責務を全うする時の微笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここですね」

 

 一歩、足を踏み入れた。

 石畳の床。天窓からの光では存分に光源を確保できない地下室。少し淀んでいる空気に、僅かに感じる埃っぽさ。各々の呼吸器官が不満を訴える。

 重なった段ボール。乱雑に置かれたモノたち。豪奢そうな燭台。足の欠けた椅子。まだ使えそうなハンガーラック。布を被せ忘れられた姿見。まだ電池が入っているにも関わらず運び込まれた時計。持ち主不在に関わらず、秒針が一定の時間を今尚刻み続けている。

 

「日誌は……確かあの段ボールの山の中にあったかと」

 

 カレンが指し示したのは、部屋の一角に乱雑に積まれた段ボールのゾーンだ。と言っても、段ボールは数えられる程度ではあるが。

 恐らくはカレン自身も二度とここに入るつもりは無かったのだろう。訪れるときが遅くなればなるほど、この部屋は加速度的に忘れ去られていったに違いない。

 そこらに乱雑に転がる物品を、邪魔そうに彼女は跨いだ。凛も彼女に続く。一応士郎は迂回した。

 

「とりあえず上から一つ一つ見ていくしか無さそうね」

「日誌は日誌で纏めています。確か一箱分だけだったと」

「そう。じゃあちゃっちゃと終わらせましょ」

 

 凛が腕をまくり、率先して段ボールの移動に取りかかろうとしたので、慌てて士郎は止めに入った。こういうのは男の仕事だ。ましてや無理を言って協力をしてもらっているわけだし。

 凛は凛で士郎に余計な手間を掛けさせたくないと言う想いがあった。あったが、想い人が自身の身を案じてくれたので、大人しく引き下がる。彼女は彼女で、士郎がこうと言ったら聞かない性分であることを理解している。

 士郎が持ち上げた段ボールを、凛が受け取りカレンと一緒に検分する。

 

「これですね」

「あら、1箱目で当たり? ラッキーね」

「マジか」

 

 士郎は持ち上げかけた段ボールを元に戻した。こんなにも早くに見つかるとは全く想定していなかった。

 2人は黒表紙の、何となく高級や気品と言った言葉を感じる本を手に取っている。開いた段ボールを覗き込めば、似たような本が重なっていた。

 

「意外と数があるわね……」

「知りたいのはギルガメッシュの情報だけど、どれか分からないな」

「アレは10年前から現界しているんでしょ。ざっと10年分見なきゃいけないのは骨が折れるわね」

 

 パラパラと捲って見れば、一日一日を欠かさずに記録している。しかもそれなりの長さ。それがぱっと見で十数冊。大した量だ。

 

「とりあえず上に上がりましょう。ここは陰気臭くて嫌になります」

 

 アンタの管理下だろう。そう士郎は思ったが口にはしない。

 きっと彼女なりに、こんな場所で検分する事への身を案じてくれた故の発言だろう。

 そう士郎は思い込む事にした。

 それはもしかしたら都合が良すぎる解釈も知れない。

 だがそれでも。そう思えば世界の優しさを少しは感じられるかもしれなかった。

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


 士郎が持ち上げた段ボールを、凛が受け取りカレンと一緒に検分する。

「これですね」
「あら、1箱目で当たり? ラッキーね」
「マジか」

 段ボールを元に戻す
⇒ついでだから2箱目も開ける

 士郎は持ち上げかけた段ボールを元に戻し、開ける。日誌は1箱に纏めたと言っていたが、念のためだ。

「……アルバム?」

 へぇ、言峰って写真も保管していたのか。意外な一面に少し驚きつつ中を開き――――

「ダメです、御主人様」
「カ、カレン?」
「それはご主人様が見て良いものではありません」
「そ、そうか?」
「ええ、そうです」

 ぬるりと。音も無く真横に現れたカレン。くすんだ銀髪が片目を隠し、もう片方の眼が士郎を映している。有無を言わさぬ威圧と共に映している。

「それは、ダメです」

 耳元で。そう囁かれ。
 マグダラの聖骸布が優しく士郎の手をアルバムから手を離し。

「あらぁ、抜け駆けとは雌犬の分際で大した度胸ね」

 反対側。鏡写しの様に、ぬるりと。現れた凛が士郎の真横で囁く。艶やかな黒髪が片目を隠し、もう片方の眼が士郎を映している。有無を言わさぬ威圧と共に映している。

「近づき過ぎよ、雌犬」
「そっくり返します、雌猫」

 呼吸を忘れたかのように士郎は息が出来なかった。喉がへばりついて、からからに乾いていた。嫌な汗が頬を伝い、手元へと落ちて行った。
 2人の静かな、それでいて隠そうともしない明確な意思は、士郎を通して互いへと向けられていた。それは根源的な恐怖だった。間に挟まれているだけなのに、己の命を鷲掴みにされるに等しかった。言葉は静かだが確かな攻撃性を持っていた。相手を引き裂こうとする明確な意思があった。漆黒の殺意だった。




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じゅうさん

皆様お久しぶりです。お待ち頂いた方々、お待たせして申し訳ございません。

2/14……私はこんな日になんてもの書いてるんだ……




 故人の私物を覗き見る。

 その事に拒否感に近しい感情を覚えなかったわけじゃない。

 覚えなかったわけじゃないが、そんな個人の感情よりも優先すべき事がある。

 大切な士郎の為。彼の力になる為。

 そう凛は自身に言い聞かせ、言峰綺礼が残した日誌を開いた。

 

 

 

 ――――2月10日

 

 今日は珍しいものをみた。

 いつもの食事の帰りに。偶然、衛宮切嗣を見た。

 とうの昔に死んだと思ったが、存外生きながらえているらしい。一緒に男児もいた。調べてみたら、養子を取っていた。10代からテロリストや男娼として生きていたあ奴にマトモな教育が出来るとも思えないが。

 聖杯戦争が終わった後も尚この地に住み続けているということは、次の聖杯戦争に向けて、あの男児に何かを残そうとでも考えているのだろうか。いや、恐らくそうであろう。聖杯を自ら拒絶し、切り捨て、しかしあの哀れな男は尚も何かを考えてるらしい。度し難い思考回路だ。

 どんな歪な結果が出来上がるのか。今は楽しみに待つとしよう。

 

 

 

 ぺらっ

 

 

 

 ――――2月11日

 

 何となく気になったので、使い魔を通して遠方から生態を確認した。あれはどうやら日がな一日寝て過ごしているらしい。恐らくは聖杯戦争の後遺症か。だが養子と思わしき男児を見送った後、ずっと縁側で寝ているだけとはどういうことか。私自身も親としては不適合者であろうが、アレはアレで別ベクトルで不適合者だ。まだ齢二桁になるかなるまいかといった男児に生活を託すとは、呆れても物も言えぬ。買い出しどころか掃除の一つもしないとは、どういう了見か。まだ掃除洗濯炊事全てを行っている私の方が、アレに比べればよっぽど真人間に思えてしまう。

 この状況を伝え、嘲笑ってやろうか。アレには今は、下手に過去を穿り返すよりも、その方が効果があるに違いない。

 

 

 

 ぺらっ

 

 

 

 ――――3月3日

 

 約3週間ほど観察を続けたが、あ奴の生活パターンは何も変わらない。どうにか別種の反応が見たいと考え、あ奴の養子が通う小学校の適当な学童に、『君のお父さんいつも家で寝てるね』と言うように暗示をかけた。そんな事を言われれば、子供とはいえあ奴に文句を言うかと考えての行動だったが、効果は覿面のようだ。観察した結果あ奴は、何かショックを受けたかのように膝から崩れ落ちた。

 残念ながら、どのような会話が為され、どれだけ無様な言い訳をあ奴がしたかは分からない。遠望の魔術でしかあ奴の状況が分からないのは不便だ。何かしら良い手を考えなければならない。

 

 

 

 ぺらっ

 

 

 

 ――――6月10日

 

 流石に堪えたのか、あれから三カ月程度経過した今も、あ奴は家事に従事していた。と言っても、掃除と洗濯をするくらいだが。それでも、寝ているだけのアレを思えば、大いな進歩と言えよう。

 だが、つまらぬ。私が見たいのではそのようなものではない。半死人の進歩など、私には何の価値もない。そんなものを見たくて策を弄したわけではない。

 今後はより一層観察を強めようと思う。回復傾向にあるのなら、それを逆手に取ればいい。アレの心を抉り、這いつくばせた暁には、反動で一層沈み込むに違いない。あ奴の過去をあの男児の前で朗読する事も考えたが、それでは無用に怒りを買うだけだろう。決して求めているものでは無い。

 加えて、私の存在も明らかにしてはならない。あ奴も私が生きている事は知っているだろうが、あくまでも私は今回の件とは無関係と言う立ち位置であ奴を辱めなければならない。でなければ、あ奴は先ず私を殺しに来るだろう。あの死にぞこないを返り討ちにする事は容易いが、それが目的ではないのだ。

 繰り返し書こう。無様に地面に這いつくばったヤツを見下ろすだけでは意味が無いのだ。

 

 

 

 ぺらっ

 

 

 

 ――――8月31日

 

 巡回で偶々深山町へ向かう予定があり、偶々訪問先が衛宮邸と近く、偶々信者があ奴にも説法を説いて欲しいと言うので、嫌々ながら仕方なく職務に準じて、重い足取りで信者と一緒に訊ねてみた。

 無防備に出てきた男の顔は、みるみるうちに何とも言えない顔色へ変わり、次第にその眼が吊り上がり、敵を見る眼付きになった。

 随分と老いたものだと思う。かつて敵対して来た時を思えば、大いに弱体化したものだ。恐らくは余命も幾許も残って無いのだろう。

 ご近所の頼みで来た事を告げるが、敵意そのままにあ奴は拒絶した。いや、違うか。あ奴はもう拒絶しかすることが出来なかったのだ。言葉で、そして扉を閉める事で。ただのそれだけの拒絶。

 幾ら敵意や殺意を持とうと、実行できるだけの力も、技術も、速さも、あ奴には無いのだ。

 寂しいものだと。そう思う。かつての輝きは、とうの昔に息を潜めたという事か。

 

 

 

 仕方が無いので、あ奴の盗撮写真を送ってやる事にした。

 サキュバスの愛液に浸し、変色したり触りを悪くした写真。

 衛宮切嗣の過去は調べてある。あ奴が誰に師事し、力を得て、時にその身を恥辱に浸し、そしてこれまで生きてきたか。情報の精度に間違いは無い。

 明日以降のあ奴の反応が楽しみで仕方が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛宮士郎を突然の腹痛が襲ったのは、地下室から段ボールを運び出してすぐの事だった。

 これまでの多大なストレスのせいか、或いは気負い過ぎた事による緊張か。

 一先ずカレンに了承を得て、お手洗いを貸してもらう事約10分。

 汚い話にはなるが、出すだけ出した事で、腹の調子もマシになったらしい。

 ……そしてその10分の間に、全ては終わっていた。

 

「と、遠坂!? 何を!?」

「あら、士郎? 大丈夫よ。全部燃やして――――ううん、燃やし終わったから」

 

 教会の外。人目に付かないような、車庫の前。

 居間から段ボールごと消えた凛とカレンを探しまわり、何故か外に居た2人を漸く見つけた時には、段ボールとその中に入っていた日記帳は、全て燃え盛る炎の中で灰へと変わったあとだった。

 

「遠坂、それは――――」

「いいのよ、士郎。貴方は見なくていい、読まなくていい、目を通す必要は一切ない。こんなものは今すぐ忘れていいの。というか見ちゃダメ、今すぐ忘れて、何も無かったの、いいわね?」

「そう言う訳には行かないだろ、それだと目的が、」

「大丈夫です御主人様。アレのアタリはつけています。それにあの中にヒントとなる様なものは何もありませんでした。ただただ悍ましく忌まわしくそして途方もない悪意がすし詰めに込められているだけです」

 

 うわぁ、カレンが人を乏す以外の事で無駄に饒舌だ。悪意がすし詰めってなんだよ。

 思ったが言葉を士郎は飲み込んだ。美少女2人が必死の形相で懇願をしてきているのだ。それは軽々しく茶化すことが出来る様なものではない。それくらい馬鹿でも分かる。

 とは言え、そうは思っても引けないところもある訳で。

 

「あー、いや、その、だな……多分俺の事を心配してくれたんだろうけど、そう言う訳には行かないんだって。俺はどうしても――――」

「御主人様。この教会の前々任者は、悪辣です。性格が破綻したクソ野郎です。それはご主人様も知っておられますでしょう」

「……あぁ、まぁ」

「アレが残したのは情報などという優しいものではありません。ただの罠です。時限式の、そして狙いすましたかのような、純度100%の悪意です」

 

 それも御主人様限定の。涙を浮かべるが如く勢いで懇願するカレン。

 士郎の脳裏に浮かび上がるは、前々任者こと言峰綺礼の悪辣染みた笑顔。人の傷を切開し、見たくない真実を喜々として見せつけようとする笑顔。しかもその行動が本人には悪意の欠片も無いのだから質が悪い。いやまぁカレンの言う通り、本人がどう思おうが、傍から見る限りでは悪意としか言いようが無いのだが。

 それにしても、カレンが言うなんてどれだけの事なのだろうか。怖いもの見たさと言うか、好奇心は何とやらと言うか。そこまで言われると逆に興味が湧いてくるもの、

 

『誘いに乗ったという事は魔術師殿は老女好きのようですし』

 

 ぶるりと。士郎は以前にアサシンに嵌められたことを思い出して身を震わせた。甘い言葉で人の警戒心を解き、自分の身代わりに親玉へ生贄を捧げようと言う腐った魂胆。と言ってもあれは、ノコノコ無警戒のまま付いて行った士郎自身にも責任がある。君子危うきに何とやら。

 つまり。今好奇心に屈する事は、決して良い結果になるとは限らなくて。

 

「……」

 

 ちらりと。凛へ視線を向けると、彼女も心配そうに士郎を見ていた。あれだけカレンに敵意を向けていた彼女も反対という事は、よっぽどヤバめな代物だったのだろうか。

 無理を押し通すか、或いは彼女たちに従うか。僅かに逡巡した後、士郎は諦めて首を縦に振った。

 

「……分かった、もう気にしない」

 

 士郎の返答に、凛もカレンも分かりやすいほどに安堵の表情を浮かべた。2人して揃ってそんな反応をするとは、やっぱり相当ヤバいモノだったのだろう。

 だがこうなると、士郎としては当初の目的が達成できないことになる。

 ギルガメッシュの所在地。

 進んで会いたいヤツでは無いが、もしかしたらこの状況の打開策を知っているかもしれない相手。

 その情報を入手する手立てを失ったのは、中々に大きな損失だ。

 

「だけどそうなると、ギルガメッシュに会うための手がかりを他に探さないといけないな」

「いえ、その必要はありません。ある程度のアタリは付けておりましたので」

 

 意外な返答だ。士郎にとっては幸運。途切れたと思った道が、まだ繋がっている。

 

「本当か? それは助かる」

「ええ、勿論ですとも、御主人様。それでは、行きましょうか」

 

 そう言って。カレンは士郎に手を指し伸ばした。色素の薄い、雪の様に白い肌色。柔らかそうな手が、士郎に向かって、真っすぐと、伸ばされる。

 そして微笑み。職務も仮面も何も無い、1人の少女としての愛らしい笑顔が士郎を貫き――――

 

「ええ、行きましょう」

 

 パシッ、と。その手を凛が握る。士郎が動くよりも先に掴む。士郎に触らせない様に、士郎に触れさせない様に。カレンの手を笑顔で握って動きを阻害する。

 

「行きましょうか、雌犬」

「……チッ、雌猫が」

 

 勝ち誇ったかのような凛の笑顔と、対照的に思いっきり不機嫌に顔を歪ませるカレン。

 本当に美人の睨み合いって怖いな、と。

 この世界のせいで似たシチュエーションに慣れてきた士郎は、それ以上を考えずに2人から視線を逸らした。それは何度目になるかも分からぬ、所謂現実逃避と言う奴であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教会からタクシーで10分程度。

 降りた先。目前の巨大な建物を見上げる。

 知っている建物だ。何なら数日前にもここを訪れた。

 

「ここって――――」

「はい。冬木ハイアットホテルです」

 

 全てを言い切る前に、カレンが残りの言葉を引き継ぐ。

 冬木市一番の高級ホテル。冬木ハイアット。

 士郎の友人である、間桐慎二が宿泊している施設でもある。

 

「ここにギルガメッシュが?」

「最後の記録を辿れば、まず間違いは無いかと」

 

 意外だ、と士郎は思った。アレの性格とこの世界の常識を考えるのに、人目に付くのは避けそうだと思ったからだ。

 だがある意味では理に適っているのかもしれないとも思った。ここなら確かに生活するのには困らない。部屋の狭さは、どうせ空間を歪曲する能力を持った宝具でも使用しているのだろう。そんなのあるのか知らんけど。

 

「最上階から数えて3フロア分まで、全てを彼一人で貸し切っているはずです」

 

 宝具云々の前に金の力で解決していやがった。あまりのスケールのデカさに、何故かこめかみが痛み始める。流石は世界最古の英雄王にして金ぴか。考え方のスケールからして違う。

 

「あれ、でも、確か慎二が泊まっているって聞いているけど。最上階のスイートルーム」

「そこは……分かりません。ただ、催眠術で聞き出した内容では、確かに言っていました。『金色のイケメンが最上階から数えて3フロア分まで借り切っています』と」

 

 金色のイケメンってなんだよ、と士郎が思ったかは定かでは無い。金髪ならまだしも金色って。ただまぁ……きっとその言葉が指し示す人物なんて、古今東西世界中くまなく探し回っても、一人くらいしか該当しないだろう。

 英雄王ギルガメッシュ。

 と言うかさらりと催眠術という禁句ワードが出てきた気がしたが、士郎は黙って忘れることにした。神秘の秘匿がどーのこーのなんて、最早今更な話だ。

 

「とりあえず、入るか。此処で立っていても何も解決しないし」

 

 士郎は前向きに真面目な意味で2人を促した。そこには決して、大通りを行き交う数多の人々からの好奇の視線から逃れようなんて、そんな自分本位で勝手な意思は無い。無いと言ったら無い。

 先導するように、士郎はハイアット内に足を踏み入れた。途端に、豪奢な造りが視界に映る。当然士郎はこんな場所を利用した事なんて無いから、その明らかなザ・高級ホテルという佇まいにやや気圧される。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

 そんな士郎に向けて、コンシェルジュが恭しく一礼する。流石は高級ホテルのコンシェルジュ。数少ない男性である士郎を前にしても、他の客を相手にするのと同じような態度で接してくる。つまりは何の下心も感じない。

 

「本日はどのような御用件でしょうか」

「あー、その、人に会いたくて」

「当ホテルにご宿泊のお客様にということでよろしいでしょうか」

「はい。えーと、ギルガメッシュって名前なんですけど」

「畏まりました。ギルガメッシュ様でございますね。それでは確認をしてまいりますので、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「衛宮です。衛宮士郎」

「畏まりました。それでは少々お待ちください」

 

 訊いてから士郎は思った。ギルガメッシュって、宿泊する時本名で宿泊するのだろうか。と言うか今更だが身分証とかどうしているのだろうか。

 まぁこの冬木市は、どこぞの魔術師が奥様と化したり、暗殺者が家政婦をしたり、槍兵が魚屋でバイトをしている街だ。今更身分証がどうしたと言う話である。

 

 

 

「あ? 衛宮? どうしたんだよ」

 

 

 

 そんな明後日の方向に思考をしていた士郎を元に戻す様に、聞き覚えのある声が士郎の耳を打つ。

 はて、誰だったか。声だけで判別するよりも早く、その双眸は青色の髪の毛の、やや高そうな服をまとったイケメンを映した。

 

「……慎二?」

「あ? なんだ、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

 

 間桐慎二。士郎の友人で、桜の兄で、そしてかつては聖杯戦争で争った敵マスター。

 士郎の態度に気を悪くしたのだろう。慎二は分かりやすいほどに顔を顰めた。

 

「あ、いや、悪い。結構人目があるのに、まさか下まで降りてくるとは思わなくて」

 

 咄嗟に出た言葉にしては、この頭全壊のクソやべぇ世界を鑑みた、中々に気の利いた言い訳だろう。だが慎二は小馬鹿にするように「ハッ」と大仰な仕草と共に鼻で笑った。

 

「衛宮は僕が引き篭もっているとでもいうのかよ。僕だって人間だよ、柳洞みたいな修行僧とは違うんだ。外にだって出るさ、当然だろう」

 

 言われて見れば、そう言う慎二は中々に洒落た格好をしている。いや、そうなのだろうか? お洒落の概念が並の人よりも薄めの士郎に、そこらの機微は分からない。

 

「それよりも衛宮こそ此処に何の用さ? 僕にでも用か?」

 

 慎二はそう言って笑った。気障ったらしいが、そうであることを疑わない笑み。

 士郎はその脳内で幾つかの選択肢を浮かんだが、その中で最もこの状況に適したものを瞬時に直感で選んだ。士郎とて、伊達にこの性格に難ありの友人を何年もやってない。

 

「慎二に用と言うか、ちょっと訊きたいことがあってさ。ギルガメッシュの事」

「あ?」

 

 一瞬で不機嫌そうに顔を顰める慎二。だが士郎の背後ですんごく嫌そうな顔を見せる凛と、にこやかでそれでいて威圧的な笑みを見せるカレンを見て、慎二は大方の状況を察した。この男、一度死にかけてからは、割と命の危険に対しては従順なのである。

 慎二は士郎の首に腕を回すと、周りに声が聞こえぬ様に、しっかり声を潜めて耳打ちした。

 

「ギルガメッシュって事は……もしかして、アレか? ダッチワイフか? おいおい嘘だろ。遠坂やあのシスターには勃たなくなったのか?」

「なんでさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギルガメッシュなんて知らん。そう言って慎二はスタコラサッサとホテルを出た。士郎に振り返る事無く、一目散に、脱兎の如く、ポンチ絵の様に。

 そんな友人の突然の変貌が気にならないわけでは無いが、士郎も優先すべきことが分からないほどボケているわけではない。慎二には悪いが、この世界を正す事の方が大切だ。

 

「あの修行僧と言い羽虫と言い、何で毎回毎回私と士郎の邪魔しやがるのかしら」

 

 すんごいしかめっ面のまま凛は毒を吐いた。毎回毎回って何だよ、と思わなくも無いが士郎は華麗にスルーする事にした。藪蛇藪蛇。ここはスルーが大正解である。

 

「ふふっ、いつもいつも私とご主人様の仲を邪魔する羽虫が」

 

 柔和な笑顔のままカレンは毒を吐いた。いつもいつもって何だよ、と思わなくも無いが士郎は華麗にスルーする事にした。こんな世界なのに羽虫は共通認識なのかと、その扱いの友人に悲しくなったが。

 

「衛宮様、お待たせ致しました。ギルガメッシュ様から許可を頂きましたので、ご案内致します」

 

 そしてタイミングよくコンシェルジュが来てくれたので、その案内に従う。慎二、すまない。まぁこの世界の歪みが直るまでの辛抱である。直ればきっと色々と元通りさ、多分きっと恐らく。

 明後日の方向に思考を飛ばしつつ、士郎はコンシェルジュの後を追った。その後ろには勿論凛とカレン。エレベーターの前まで彼女は士郎たちを案内すると、最上階のボタンを押した。

 

「お部屋は1000号室になります。これ以上の案内は許可されておらず、恐れ入りますが口頭のみでの案内にて失礼をさせていただきます事、ご了承下さい」

「ああ、いえ、ありがとうございます」

「それでは」

 

 恭しく一礼。そのままエレベーターの扉が閉まるまで、彼女は頭を下げたまま。こんな世界でもマトモな人って残ってたんだなぁ、と。士郎の胸中を感動が満たしていく。言ってしまえばただ職務を全うされただけなのだが、士郎も色々と疲れているのだ。

 

「御主人様、お疲れのようですね。用件が済みましたら、リンパマッサージなんていかがでしょうか? 聖堂教会特製のオイルを使用した、効能抜群のマッサージです」

「は? 士郎に触ろうとしないで頂戴。この雌犬」

「雌猫は黙ってください。私は御主人様とお話をしているのです」

「黙れ淫乱。年中発情期の雌犬。マッサージなんて理由が嘘くさいのよ。もっとマシな言い訳にしたらどうなの。あと全身雌臭いのよ、消毒液が足りないわ」

「酷い言い草ですね。私はただ御主人様の凝り固まった身体……ではなくリンパを解してあげたいだけなのに」

 

 あーあー、聞こえない聞こえない! 聞こえるけど聞こえない!

 心は硝子、血潮は鉄。心は硝子、血潮は鉄。まるで煩悩を捨て去るかのように一心不乱に胸中で唱え続ける。悲しいかな。世界がどう変わろうと、士郎は思春期真っ只中の男の子である。幾らじじむさくても年頃の男の子である。要はカレンの一言一言に、そして室内に充満する女の子の匂いに煩悩刺激されまくりなのだ。必死に抑えているのだ。色々と。

 チン!

 そんな事を考えていた士郎の耳に、目的の階に到着した事を示す音が届く。これ幸いにと、士郎は扉が開くや否や外へ出た。

 

 

 

「……へ?」

 

 

 

 瞬間。

 士郎を迎えたのは、広大な空間。

 

「……部屋?」

 

 廊下、ではない。そこには通路も、案内板も、扉も、何も無い。

 士郎が零した言葉の通り。彼の眼前に広がるは、ただただ広大な部屋。

 何の仕切りも無く、常識をぶち破り、広々としたスペースを誇る、部屋。

 そしてその中心には。中心の豪奢なソファーには。

 ライダージャケット姿の、紅玉色の眼をした金髪の男が、にこやかな笑みを浮かべて――――

 

「おお! 来たか、セイバーのマスター!」

 

 ギルガメッシュ。人類最古の英雄王。全ての英雄の王であり、第四次聖杯戦争から存在するサーヴァントであり、第五次聖杯戦争では敵として立ちはだかった相手。

 だが彼は。士郎の記憶にあるよりも、幾分どころではないレベルで。それはそれはまぁ上機嫌であることを隠す事無く、何故かフレンドリーに言葉を発した。それも雑種でもフェイカーでも無く、セイバーのマスターと言う呼称で。

 それを聞いて士郎は「大丈夫か、コイツ?」と中々に失礼な感想を抱いた。まぁ何だかんだ言って元々の世界では敵として剣を交えた事もある仲である。士郎の反応の方が正常だ。

 だがギルガメッシュは、そんな士郎の反応など気にもせず。上機嫌なまま手招きをした。まるで久しぶりに甥っ子に会う、親戚のオジサンのような態度である。

 

「こっちへこい、小遣いをやろう」

 

 ……まるでではなく、完全に親戚のオジサンである。はたしてこの歪な世界では、士郎とギルガメッシュの間に何があったのだろうか。何があってどうしてこうなったのだろうか。士郎には全く分からないし皆目見当もつかない。

 ギルガメッシュは懐から札束を取り出すと、見せびらかす様に器用に片手で広げて見せた。扇子を象る様な形。あれ、二桁万円はあるよなぁ。眼前の大金に……と言うよりはギルガメッシュの行動に、いよいよ訳が分からず、士郎の脳はフリーズ状態に陥っていく。

 

「あと有名菓子の取り寄せもしておる。どれも似たような味だが、好きに食べると良い」

 

 くいっ。顎で指し示した先には、サイドテーブルの上に乗せられたお菓子の箱。どれも開封しているようだが、言葉の通りどれもギルガメッシュの口には合わなかったのだろう。勿体ないことである。

 尚も固まったままの士郎に、ギルガメッシュは不思議そうに眉根を寄せ――――

 

 

 

「ぴぇっ!?」

 

 

 

 ……ぴぇっ?

 

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「それよりも衛宮こそ此処に何の用さ? 僕にでも用か?」

 慎二はそう言って笑った。気障ったらしいが、そうであることを疑わない笑み。
 士郎はその脳内で幾つかの選択肢を浮かんだが、その中で最もこの状況に適したものを瞬時に直感で選んだ。士郎とて、伊達にこの性格に難ありの友人を何年もやってない。

 慎二に用と言うか、ちょっと訊きたいことがあってさ。ギルガメッシュの事。
 ああ。此処だと何だから、ちょっと場所変えてもいいか?
⇒慎二、助けてくれ。何でもする。

 ギルガメッシュに会うためには、彼と交流のある慎二の協力を取り付けた方が、事はきっと運びやすいだろう。最早四の五の言っていられる状況ではない。あの危険人物に会いに行くのに友人を巻き込むのは気が引けるが……その時は身を挺して彼を護るだけだ。
 士郎の真っすぐな眼と言葉に、慎二は先ほどまでの気障ったらしい顔を、呆けたような間抜け面へと変えて、それから忌々し気に眉根を寄せ――――

「ダメーーーー!!!!! そんなこと言っちゃダメ! 士郎! ダメよそれは!」
「御主人様、それは禁句です! 封印すべき言葉です! 私以外には言わないで下さい!」

 瞬間、衝撃。背後からの一撃。美少女2人による突撃。
 幾ら鍛えているとはいえ、不意を突かれた士郎はバランスを崩す。そのまま無様に地面に転がる――かと思われたが、その前にカレンの聖骸布で包み上げられた。それを凛は大事に抱え直す。そして士郎を護るためにすっころんだカレンの首根っこを掴んで持ち上げると、血走った眼で慎二を見やった。

「じゃあね!」

 どこにそんな力があるのか。士郎とカレンを抱えると、凛はそのままホテルを後にする。客も、従業員も、呼びに来たコンシェルジュも置き去りにして。



「……いつもそうさ。衛宮ってさ、簡単に言うよね。……何がなんでもする、だよ」

 言葉の端。隠しきれずに漏れる、憎しみすら染み出した声色。
 その言葉を士郎が耳にすることは無かった。


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とくべつへん
ほわいとでーとくべつへん ぜんぺん


3/14のホワイトデー記念に投稿。尚投稿時間は23:59で、日付が変わる直前でした。3/14投稿って言えるのか、これ?
IQレベル3くらいのお話です。頭を空っぽにしてお楽しみいただけたらと思います。
尚。前編と謳っていますが、後編は全く着手できていません。何してんのや、自分。

※3/15 誤字脱字修正
※3/24 誤字脱字修正


 世間も浮かれる3/14。

 気になるあの人を想って誰もがソワソワ。

 お菓子の売れ行きにメーカー各位もソワソワガタガタ。

 今日は楽しい楽しいホワイトデー。

 

 

 

 ――――時は戻って、3/12。

 某県、冬木市、深山町。

 

「マカロンが食べたい」

 

 思い返せば。

 衛宮邸の狂乱と動乱は、そんな欲望に塗れた一言から始まった。

 

「お兄ちゃん、作って!」

 

 その一言を口にしたのは、白い妖精ことイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 駆け引きも遠慮もない、欲望と我儘で構築された懇願。衛宮邸にいる誰もが言おうとして言えなかったその言葉を、アインツベルン家のイリヤちゃんは容易く口にした。

 

「あんな感じの!」

 

 そう言ってイリヤが指さすは、点けっぱなしのテレビから流れるCM。綺麗にラッピングされたお菓子の箱を抱えて幸せそうに微笑む女性。

 あぁ、そっか。明後日ホワイトデーか。イリヤが言わんとする事に、士郎は遅れて気が付いた。

 

「お兄ちゃんの! 手作りが!! いい!!!」

 

 だん、だん、だん!

 顔を真っ赤にして、可愛らしく足踏みしながら、イリヤは懇願した。幼い見た目を精一杯に使ったあざとすぎる行為。プライド? 羞恥心? 外聞? そんなものはそこらの狗にでも食わせとけ。

 目の前で懇願をするイリヤを、士郎は優しく撫でた。しょうがないなぁ、とでも言いたげな笑みと一緒に。

 

「えーと、マカロンだな、分かった」

 

 まさかの即答に、イリヤはぱぁっと顔を輝かせた。彼女からすればあの冬の城を出て初めてのホワイトデー。勢いに任せた口上であったとは言え、了承されるかは不安で仕方無かったのだ。思わずそのまま士郎に飛びつき、彼の鍛え上げられた身体を思う存分堪能し始めたのは、不可抗力と言えよう。

 そして――――遅れて、ざわめきを取り戻す衛宮邸。

 

「シロウ! 私も食べたいです!」

「士郎! 一緒に買い物行きましょう!」

「先輩! あのっ、私も食べたいなぁ、なんて……」

 

 実は各人とも、それぞれどうやってホワイトデーについて切り出そうかと悩んでいたのだ。

 勿論皆――だけでなく、この場にいない面々も、士郎に対してバレンタインデーには、各々手作りだったり、料理が苦手な面々は超高級チョコだったりをプレゼントしている。となれば、律儀な士郎からお返しが来るのは確定である。

 だが待ってほしい。彼女たちが欲しいのは、どこぞのメーカーの既製品では無いのだ。想い人が手作りで用意してくれる愛情の籠ったお返しが欲しいのだ。もしも既製品なんか渡されたら泣いちゃう。

 手作りをお願いしたい。言葉にすれば簡単な望み。だけど口にしてもしも断られたりしたら嫌だ。と言うか催促するみたいでなんか嫌だ。微妙な顔をされたりなんかしても嫌だ。要は恋する乙女は複雑なのである。

 だがイリヤが道を切り開いてくれた。ならばこのビッグウェーブ、乗るしかない。

 

「お、おう。みんな同じのでいいか?」

 

 勢いに押されながら、士郎は了承の言葉を返した。だが彼の脳内では疑問が浮かんでいる。なんで皆そんなにマカロンに必死なのか。そりゃマカロンなんて中々衛宮邸の食卓に並ぶようなお菓子では無いが。

 少し頭を悩ませて、それからテレビから流れる音を耳が拾って。

 天啓の如く、答えが降って来る。

 

 

 

 あ、そうか。この世界って今ぶっ壊れてんだ。男女逆転状態だったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ほわいとでーとくべつへん ぜんぺん■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホワイトデーという日は、恋する乙女にとっては重要度が高いどころか死活問題の行事であったりする。

 何せこの世界。バレンタインデーに女性から男性へと贈り物をするのは当たり前の事。チョコを始めとするお菓子や、その人の嗜好に合わせたコーヒー豆やワイン、ハンカチやネクタイのような小物、etcetc……要はそうやってプレゼントをしたその行為に、どんな形であろうとも返ってくるかどうかが重要なのだ。

 安い飴玉で良い。なんならマシュマロ一つでも良い。

 お返しの代物がどんなものでも構わない。どれだけ優先度が低くてもいい。

 ただただ気になるあの人に、僅かでも良いから関心を持ってほしい。恋する乙女が贈り物に込めたのはそんな切なる想い。

 まぁ3/14がそんな重要なイベントになっているなんて、士郎は露程も知らない訳なのだけど。

 

 

 

「うーん……いつものメーカーのやつでいいかなぁ」

「イイと思います!」

 

 チキチキ衛宮士郎との休日買い物デート争奪戦! を制した衛宮さんちの騎士王は、もう天にも昇る様な気持であった。

 士郎との買い物デートは久しぶりであった。普段は、凛や桜、イリヤ、ライダーとの取り合いである。いや、嘘。それにアインツベルン家のホムンクルスどもや、部屋を間借りしている分際の封印指定執行者や毒舌シスターも加わる。つまりは単純な数値だけでも倍率9倍。想い人と一緒に出歩く事すら難しいのだ。

 本当に久方ぶりの2人っきりのデートに、セイバーはもう上機嫌で仕方が無かった。頭の先。ぶんぶんぶんとぴょこんと飛び出た髪の毛が動くくらいには上機嫌であった。

 

「うーん、生クリーム部分の方は種類が多い方がいいかなぁ。ただの生クリームだけよりも、チョコとか挟んだ方が喜ばれるよな」

「そうですね!」

 

 セイバーはぴっとりと士郎に付いていた。一見すれば仲睦まじいカップル。視点を変えればいちゃつきやがってこのクソ外人。だがそんな周囲からの羨望と嫉妬と恨みつらみの視線なんか気にもならない。ふははははは、羨ましかろう。セイバーには胸中で秘かにほくそ笑む余裕すらあった。

 士郎は幾つか板チョコを手に取ると、それを籠の中に入れた。どこのスーパーでも売っている、安い板チョコ。ミルク感たっぷりだったり、カカオ多めだったり、或いはホワイトだったりイチゴ味だったりと、割と種類に富んでいる。

 

「せっかくだから複数作ろうかな」

 

 そう言って士郎ははにかんだ。その笑顔に胸を打ち抜かれるセイバー。ん゛ん゛ぅっ! その笑顔は反則だ。

 

「生クリームは買った。混ぜる用のチョコレートも買った。あとはパウダー系……と」

「さが……すまでもないですね」

「ああ、目の前だったな」

 

 流石はホワイトデーを近日中に迎えるだけある。スーパーも売り上げを伸ばすために、お菓子作り関係はひとまとめにしてコーナーを作っていた。きっと冬木市に住む数少ない男性たちは、お返しにとここでお菓子を買っていた事であろう。

 ひょいひょいひょい。手慣れた様子で士郎は籠に材料を入れていく。その手際は素人のそれではない。イケメンで筋肉質で料理も出来るとか優良物件にも程がある。殺意を込められた視線が、遠慮なくセイバーへと注がれた。

 

「とりあえずこんなものかな。セイバー、遠坂、桜、イリヤ、ライダー……」

 

 指折り、士郎は配る人数を数えた。それを傍らで聞くセイバー。知らない名前も多く、想い人の交友関係の広さに妬ましさを覚える。私だけ見てくれれば良いのに。もやりと胸中を黒いものが渦巻く。

 と言っても、実は士郎が名を上げた皆さん――つまりは配る相手の大半は、藤村組の皆さんだったりする。諸々お世話になっているからね。ちなみに学友の皆さんは凛と一成の並々ならぬ尽力によって士郎にチョコレートを渡せていない為、殆どカウントされていない。哀れなり。

 

「……もう少し買うか」

 

 失敗しても良い様に。マカロンなんてお洒落なモノ、作るのは初めてである。調べた限り作り方はそれほど難しく無さそうだが、最初の1回や2回は上手く出来上がらないことを考えておくべきだろう。まぁ失敗したら失敗したで、なんか上手い事トッピングとかに再利用すれば無駄にもなるまい。要は余分に買って困ることは無い。

 作り過ぎたら? 大丈夫、衛宮家には虎がいる。作り過ぎという言葉も概念も無い。

 

「……ケーキか。ケーキも良いな」

 

 ふと。ホワイトデーコーナーに併設されているミニテレビ。それに映し出されたケーキの作り方を見て。士郎は思わず脳内メニューにカップケーキをプラスした。節制上手の士郎にしては珍しい、衝動的な思考であった。

 

「ケーキ……イイですね!」

 

 そして完全士郎肯定botとなっているセイバーが、士郎の判断にストップをかけるわけが無い。寧ろカップケーキを追加で作ってくれることに、とんでもなく眼を輝かせている。糖分が殆ど無い様な動乱の時代を生き抜いた英雄にとって、甘いものとは文字通り逆らい難い甘美な誘惑なのだ。別にセイバーが意地汚いわけじゃない。

 

「そうだな……作るか」

「はい!」

 

 もう小躍りしたくなるくらいにセイバーは幸せであった。想い人との幸せデートタイム。しかも帰れば初めてのホワイトデー。今日と言う日が、いやこんな瞬間が何時までも続けばいいと思った。何時までもこうして2人でいたいと思った。

 尚。この幸せいっぱいの甘い空気を喰らい、何人かが糖分過多で吐きそうになっていたりするのだが、そんなのは些細な弊害というやつである。王は民の気持ちなど分からないのだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」

「お帰りなさい!」

 

 あ、なんか、今の自分、若妻っぽい。そう桜は思った。

 彼女はエプロン姿で士郎を出迎えていた。ちょうど昼食の時間帯。今日の当番は自分という事もあり、結構張り切って用意していたのだ。

 それでもって、用意を終えた瞬間に、未来の旦那の帰宅。何てナイスタイミング。最早運命的と言うしかないタイミング。これもう結婚するしかない。

 

「ただいま戻りました」

 

 余計なのが後ろからぴょこりと出てくるが、桜は気にも留めない。とりあえず買い物袋を受け取ろう――とするが、士郎は渡そうとしなかった。いいよ、重いから。微笑みと共にそう言って玄関を上がる。これはつまりは未来の若妻を気遣ってくれたという事だろうか。これもう結婚するしかない。

 

「あれ、もう昼ご飯を作り終わったのか。あちゃー、遅かったか」

「ちょうど良いタイミングです。遅くは無いですよ?」

「いや、手伝おうと思ったんだけどなぁ」

 

 それは2人で台所に立ち、2人で仲睦まじく料理をする事を望んでいるという事だろうか。一緒にこれから衛宮家を盛り上げて行こうという事なのだろうか。つまりは簡易プロポーズ。俺と一緒にいてくれ。はわわわと桜は震えた。とんでもねぇ思考回路である。これもう結婚するしかない。

 

「お帰り、士郎。ナイスタイミングね」

 

 因みに今日の料理当番は昼が桜、夜が凛である。士郎にはマカロンの制作という大役があるので、それ以外に余計な手は煩わせまいという、純然たる欲望と下心からなる気遣いであった。

 桜は士郎がいつも座る場所に、いつもの座布団を、寸分も位置を違う事無くセットした。自然に、しかし精密機械的な所作。士郎の事を見続けてきたのだ。この程度出来ぬはずが無い。当人である士郎すら、まさか専用の座布団が出来ているなどと思いもしてないと言うのに。これもう結婚するしかない。

 

「あ、そうそう藤村先生来るみたいです。来るのを待ってから食事にしましょうか」

 

 未来の義姉へのポイント稼ぎも忘れない。そして程なくして襲来する虎。すぱーん、どーん。荒々しく、それでいて流れ込むような流麗さをもって藤村さんちの大河ちゃんが席に着く。勿論彼女専用の座布団を出す事も忘れない。未来の義姉への気遣い一つできなくて、何が妻か。当然の行為である。これもう結婚するしかない。

 

「んー、しろー! もうすぐホワイトデーね! 楽しみにしているからね!」

「あー、うん、勿論。用意するよ」

「さっすが! 大好き! 愛してる!」

「はいはい」

「ちょっとぉ! おざなりじゃない!?」

 

 そう言って士郎に突撃する大河。うりうりうりうり。士郎の腹部に頭をねじ込む。2×歳の女性が、年下の男子高校生に襲い掛かるとか、一歩間違えなくてもセクハラ案件だが、関係性が関係性なのでスルー案件である。羨ましくなんかない。あんな風に襲い掛かりたいとか思わない。襲い掛かって滅茶苦茶に甘えたいなんて思ってない。そのまま優しく頭を撫でてもらいながら愛の言葉を囁いてほしいとか思っていない。未来の妻はこんなことで狼狽えないのだ。

 尚これがイリヤだったら、桜は容赦なく引き剥がしにかかる。何と言うか、イリヤはダメだ。あの子は甘えてる振りして士郎にセクハラしまくりなのだ。この前だって士郎に襲い掛かり、彼の腹部に顔を埋めて、スハスハと匂いを堪能していた。そんなエロガキを引き剥がしてジャイアントスイングした桜の行動は間違っていない。これもう結婚するしかない。

 

「手作りだよ! 既製品は嫌だからね!」

「はいはい、分かってる分かってる」

「さっすがぁ! Foooooooo↑↑」

 

 充分に士郎成分を堪能したのか、彼から離れると、上品な所作で大河は食事を始めた。さっきまでの子供染みた人間性は何処へ行ったのかと思うくらいに、その変わり様はドン引きするレベルだが、最早慣れた光景なので桜は気にしない。

 それよりも士郎の行動の方が重要だ。何か不満点は無いだろうか、何か別に欲しているものは無いだろうか。例えば醤油が欲しいとか、薬味が欲しいとか。士郎の視線や、僅かな動作から、そう言った事を予測して行動する。士郎の手を煩わせない様に行動する。やり過ぎ? ハッ、この程度出来なくて、何が未来の若妻か。そんな輩は、士郎と一緒に歩くどころか、隣に立つ資格するないのだ。これもう結婚するしかない。

 

 

 

 まさか士郎が。そんな気持ち悪いくらいに気が利きすぎる桜に、若干とは言え実は引いてたりするなんて。

 そんな事実は、桜は知らなくていい事なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マカロンの作り方は存外シンプルである。

 ①卵白を泡立ててメレンゲを作る。

 ②①に砂糖やアーモンドプードルなどを加えて混ぜて、生地を作る

 ③生地をオーブンで焼き上げる

 ④間に挟む生クリームを作る

 ⑤焼き上がり冷ました生地に④の生クリームを挟む

 以上だ。

 生地や生クリームにチョコレートやパウダー系などを混ぜれば、種類も変わって見た目も味も華やかになる。

 

 てなわけで。

 

 思っていた以上に早々に用意を終えると、士郎は手持ち無沙汰になってしまった。コツを掴めば、思ったよりも簡単に準備は終わってしまうのだ。練習も兼ねて早々に着手したはいいが、これなら前日に作れば充分に事足りた。

 とりあえず味見でもしてもらおうか。そう思ったが、それではただのお菓子作りだ。作るものを皆知っているとはいえ、事前に食べてもらっては、ホワイトデーの意味がない。

 仕方がない、カップケーキの練習でもしてみるか。材料は充分に余裕があるし。

 そんな事を考えていたら、玄関口から何やら言い争いのような喧騒が聞こえた。

 

「なんだ、いったい?」

 

 押し売りだろうか。だけどそれなら桜が上手い事いなして終わりだ。戦利品と共に清々しい笑顔で戻って来るだろう。だが今回のは、そう言う類のとは、どうも様子が違うように思える。

 ひょっこり。何事かと居間から覗いてみれば――――

 

「だから私は愛しの士郎君に会いに来ただけなんだって! せっかくのほわいとでー?なんだし!」

「黙れ猪。何がホワイトデーだ。あ奴はこれから私の下で鍛え上げる。お前は邪魔だ」

「あ? まだ光源氏計画を思い描いてんの? ババァは黙ってよ」

「死ね」

 

 士郎は巻き戻すかのようにゆっくりと襖を戻した。なんで武蔵とスカサハがいるのかわからないし、もっと言えば完全武装のセイバーがエクスカリバーを解放直前だったり、遠坂さんちの凛ちゃんの右手が光って唸っていたり、間桐さんちの桜ちゃんが真っ黒になっていたりと、何をどこからツッコミを入れるべきか分からなかった。

 士郎は定位置の台所へと戻ると、再びカップケーキ作りに戻った。料理はいい。すごくいい。すさんだ心が洗われる気がした。あぁこれが心の洗濯というやつか、と。現実逃避をした先で士郎は真理を垣間見た。爆発音や叫び声なんて何も聞こえない。

 

「ごめん下さい、御主人様」

 

 ……今日はやたらと来客が多いなぁ、と。そう士郎は思った。視線を向ければカレン・オルテンシア。冬木教会の現在の主。昔は誰彼構わぬ毒舌シスター、今は士郎だけには激甘のシスターである。

 何で彼女は此処にいるんだろうなぁ。日中は教会で迷える子羊の相手をしているはずじゃなかったかなぁ。どうやって入って来たんだろうなぁ。ケーキの生地を混ぜ合わせながら、士郎はそう思った。

 

「あら。今日はご主人様お1人なのですね。ふふっ」

 

 花の咲くような笑顔。純度100%のデレ。士郎を絆し、解かし、そして抗えなくするような笑み。

 カレンはそっと士郎の下へ寄ると、そのままボールを抑えている手に、指を沿わせた。

 

「ケーキですか?」

「ん? あぁ」

「ホワイトデーですか」

「まぁな」

 

 短い言葉打ち切っているのは、これ以上カレンの魅力に意識を流されない為である。だがそれに構わず、カレンは士郎に密着した。途端に漂う、ケーキやチョコレートとは別種の、本能に訴える様なめっちゃ甘い匂い。士郎の鼻孔にダイレクトアタック。効果は抜群。鋼の精神力で耐えるけど。

 

「それはマカロンですか」

「ん、あぁ」

「ふふっ、美味しそうですね」

「……食べるか?」

「え!?」

「味覚、トんでるだろ。どの程度の甘さなら感じられるか、知っておきたい」

 

 驚いて士郎を見上げるカレンと、カレンに目を合わさずにボウルの中をかき混ぜる士郎。

 士郎は知っている。カレンがその体質もあり、味覚が殆ど消え失せている事を。極度に偏った味しか感じ取れないことを。

 だからこそカレンの分は、皆とは違い、別に用意が必要であることを。

 士郎は知っているのだ。

 

「チョコレート、貰っているしな」

 

 ぶっきら棒に士郎は言葉を紡いだ。それはあんまりな言葉選びではあったが、その語調には隠しきれない感情が含まれている。

 つまりはそれは、所謂気恥ずかしさからなる照れ隠しの言葉であり、それでいて間違いなくカレンを心配する声色が含まれていたのだ。……あの純朴で素直で頑固で唐変木な士郎にしては珍しい、正統派のツンデレとも言える。どうしたお前。

 

「私……もう、死んでもいいです」

 

 脳内を蹂躙する感情。めくるめく走馬燈の様な記憶。溢れ出る想い。

 これまでの人生を7回程繰り返すかのような、そんな幸福ゆえの走馬燈を垣間見て。

 万感の想いを込めてカレンは言葉を零した。心の底からの、真なる想いだった。

 

 

 

「私に仕事を押し付けて、何をしているかと思えば……」

 

 

 

 ガシッ。首根っこを掴まれて強制的に士郎から離されるカレン。そのまま荷物を扱うが如く担ぎ上げられ、身動きがとれぬ様にしっかりと人間を超越した力で固定される。

 あら、バゼット。職務放棄とは感心しないわね。カレンは蔑みを隠さずに言った。

 ええ、カレン。その言葉、そっくりそのまま返します。バゼットは皮肉を隠さずに返した。

 片や担いで、片や担がれて。そんな至近距離で、2人はにこやかに頬笑み合っていた。或いは作って張り付けたような表情。早い話が、互いに感情のままに言葉を口にするのを我慢しているのである。何でかって? そりゃ士郎がすぐ傍にいるからだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局カレンはバゼットに連れてかれた。

 まぁどんな形であっても、彼女は冬木教会の現在の主である。

 教会に信仰を捧げる人も多いこの土地で、主が長々と不在にするのは、やはりよろしくは無いだろう。

 玄関口から出て行った2人を士郎は見送った。手を振ると名残惜しそうにカレンは士郎を精一杯の声で呼んだ。何時如何なる時もお慕い申し上げます、御主人様。まるで永遠の別れを予期する様な一言。でもきっと夕ご飯の時間には彼女はしれっと衛宮邸にいるだろう。そして暖かい時間を過ごすのだ。……それよりも士郎としては、近所の皆さまに、今の発言が聞かれていないかで戦々恐々である。

 

「……衛宮」

「うわっ! ……驚いた、先生ですか」

 

 スッ、と。一切の気配を見せずに士郎の背後に立つ長身痩躯の男性。別の事(カレンとバゼット)に気を向けていた事もあり、士郎は心底驚いた。だが振り返った先の相手が見知った人物だったので、安堵の息を吐く。

 葛木宗一郎。穂群原学園の教師であり、キャスターのマスターであり、絶賛休職中の哀れなこの世界の被害者である。

 

「どうしたんですか、いったい」

「いや、なに……もうすぐホワイトデーというやつであろう。キャスターに感謝の意も込めて贈り物をしようと思ってな」

 

 ははぁ、成程、士郎は頷いた。そう言う事であれば、外出もするだろう。

 だがそうすると、何故ここに? 士郎は新たな疑問を抱いた。只の買い物であれば、新都に行った方がいい。ましてや柳洞寺の立地なら尚更だ。

 そんな士郎の疑問に答える様に、宗一郎は口を開いた。

 

「思い立ったは良いが、衛宮は知っての通り、私は感謝をしたくとも、アレに適うものを知らない」

「はぁ……」

「そこで柳洞に聞いたところ、手作りのお菓子を贈るのが良いのではないかと言う話になり、作るのであれば衛宮を参考にするのが良いと」

「はぁ、なるほど」

 

 言わんとする事は分かった。要はお菓子作りを習いに来た、というところらしい。珍しいこともあるものだが、この世界ならば然もありなんという言う奴だろうか。

 とは言え、タイミング的には申し分は無い。

 

「じゃあ、作ってみますか? 丁度俺も作っていたところですし」

 

 士郎の言葉に、僅かに宗一郎は眼を見開いた。いいのか、という彼なりの驚愕の表情であった。

 

「手作りだからそう何日もは保たないですけど、ホワイトデー当日くらいまでなら大丈夫でしょうし」

 

 トントン拍子に進む内容に、宗一郎は悪いと思ったのだろう。悩む様に目を伏せ、逡巡の後に口を開いた。本当に良いのか?

 

「構いませんよ」

 

 幸い?にして今の衛宮邸には、士郎以外の面々はいない。セイバー、凛、桜の3人は武蔵とスカサハを追い回している。カレンとバゼットは教会へ戻った。ライダーはバイト。イリヤ達は郊外の城に一旦帰っている。宗一郎を招いたところで問題にはなるまい。

 

 

 

「ほう、これがマカロンと言うやつか」

「はい。綺麗に焼けましたね」

「なるほど。あとは熱を取って、生クリームを挟むだけか。敷居が高いと思ったが、意外と手軽いものなのだな」

 

 宗一郎は自らの手で焼き上げたマカロンの生地を見て、感嘆に声を上げた。普段から無感情の彼にしては珍しくも、そこには確かな感情があった。

 

「アレも喜んでくれるだろうか」

 

 キャスターなら何渡しても喜ぶと思いますよ。士郎はそう思ったが、適当な言葉で相槌を打った。せっかくの手作りに水を差すような言い方をするほど、士郎は空気が読めない人間じゃない。

 

「せっかくなので、ラッピングもしましょう。これ、使ってください」

「いいのか? すまないな。全て借りっぱなしだ」

「いえいえ、気にしないで下さい」

 

 ラッピングの袋なんて、余ってもどうしようもないものだ。こんなイベントでも無ければ使わない。

 何やら恐縮しきりに宗一郎であるが、半ば押し付ける様に士郎は渡した。というか言わなければ、マカロンを袋に入れずに裸のままで持っていきそうな気がしたのだ。流石にそこまで疲れ果てているとは思いたくないが。

 

「じゃあ後は……ん?」

 

 完成が間近になったところで、士郎は何か違和感を覚えた。……気のせいだろうか。何かが自分のテリトリーに入って来たかのような、奇妙な感覚。空間認識、及び構造解析に優れているからこそ、第六感に訴えかける様な言葉にし難い何かを感じる。

 セイバーたちが帰って来たのだろうか。玄関を確認しようと、襖に手をかけ、

 

 

 

「うおおおおおおおおおおおおお!!! 魔術師殿おおおおおおおおおおおおおお!!!」

「うわあああああああああああああっ!!?」

 

 

 

 襖を開けた瞬間飛び込んでくる黒い物体。ぶつかる身体。押し倒される身体。そして胸元で泣きじゃくる聞き覚えのある声と見覚えのある誰か。

 えーと……ああ、あれだ。間桐さんちのアサシンだ。

 闇夜に溶ける様な真っ黒な肌。素顔を見せぬ為の白い仮面。割れ目とセロテープが哀愁を誘う仮面。

 以前に衛宮邸でぼっこぼこにされて以来の登場である。

 

「魔術師殿おおおおおおおおおおおおおお!!! もう嫌だあああああああああああああああ!!!」

 

 恥も外聞もなく彼は士郎に抱き着き慟哭を迸らせた。喉が避けんばかりに発せられる声には、悲哀とか後悔とかそう言う諸々の後ろ向きな感情が含まれている。

 どうどうどう。幼子をあやす様に士郎は彼の背を叩いた。なんだかんだで士郎もかなりこの世界に順応してきている。

 

「落ち着け落ち着け、どうしたんだいったい」

「ひぎぃ……もう嫌なんです……ひぐっ」

「臓硯か」

「ひえっ」

 

 言葉のチョイス、ミスったな。そう士郎は思ったが遅い。まさかの一言目での大正解を引き当ててしまったようだ。

 アサシンは一転して身体を硬直させると、次の瞬間には辺りを警戒するように視線を飛ばした。その行動の99%は恐れによるものだろう。可哀そうに。

 

「……食うか? マカロン」

 

 落ち着かせる意味も込めて、士郎はアサシンに声をかけた。その指の先は、つい先ほど作った試作品のマカロンが並んでいる。

 こくこくこく。一瞬の迷いもなくアサシンはその首を上下に激しく動かした。装いがボロマントや黒色の包帯ということもあり、なんだかみすぼらしさが酷い。まぁ暗殺者なのだから仕方ないのかもしれないけど。河原にいる浮浪者みたいだなと、かなり失礼な感想を士郎は抱いた。

 

「うぅ……温かい……温かい……」

 

 一方で。アサシンは、士郎が作ったマカロンを口にすると、仮面の隙間から涙を流した。そしてしきりに温かいと零す。きっとその温かいとは、マカロンの温度の事でないだろう。別の要因にあるのは間違いない。本当に可哀そう。

 

「で、何があったんだ?」

 

 臓硯絡みであることは間違いないとして、士郎はアサシンに疑問をぶつけた。わざわざ間桐邸から離れたこの場所に来たのだ。それも日中にも関わらず、しかもボコボコにされる可能性が高いのに。余程の理由があるのは間違いない。

 士郎の言葉に、アサシンは痙攣をして見せた。それから迷うかのように、「あー、うー」と零して、忙しなく天井と床を見る。

 だがそれも長くは続かなかった。

 

「……御乱心です」

 

 ぽつり。アサシンが呟いたその言葉は、いやに大きく、そして嫌な予感を伴って士郎の耳に届いた。

 

「主が……綺麗なものを汚したいと……そう、御乱心されました」

 

 そりゃ吐き気がするな。士郎はそう思った。この場合の綺麗なものが何を示すかは分からないが、絶対のよろしくない流れであることは分かった。

 

「気高く美しいモノ、清純で清らかなモノ、純白で汚れの無いモノ……そういったモノを、思い思いに汚して、貶めて、歪めて、乏して、堕としたいと」

「うわっ……」

「そして手始めに私を……おえっ」

「分かった、もういい。喋るな」

 

 士郎は涙がちょちょ切れそうだった。なんで彼がこんな目に遭うのか分からなかったし、何故臓硯がこんなにも乱心するのかも分からなかった。ただただ漠然と、この世界はアサシンの事が嫌いなんだなと思った。

 

「あと魔術師殿もターゲットみたいです」

「先にそれを言ってくれ」

 

 どうやら世界は士郎の事も嫌いらしい。まさかの事態に士郎は頭痛が3割増しになった。最悪の気分だった。

 

 ――――カランカランカラン……

 

「っ!?」

 

 ほぼ同時に、警報音。だがこの警報音が鳴るのは、実に久しい事であった。何せこの音が鳴る場合は、敵意を持った何かが来ている事に他ならない。そして衛宮邸に出入りする面々で、士郎に敵意を抱く人物は全くと言ってもいいほどいなかったのだ。

 士郎は瞬時に己の両手に短刀を投影した。干将莫邪。二刀一対の中華刀。恐らく最もこの手に馴染む剣。

 

「どうした、衛宮。……敵か」

 

 瞬間的に。宗一郎は大凡を察すると無手のまま構えた。いつかの運命の夜に対峙した時と同じ構え。暗殺拳・「蛇」。

 概要は分からないが、命を危機を脅かす何かが、いる。

 

「あ、ああ、あああっ」

 

 アサシンはガタガタと震えると、そのままローブに包まる様にしてその場に蹲った。心が恐怖心で支配されている故の行動だった。完全に彼は折れていた。今の彼に戦いを強要するのは酷と言うものだろう。

 ぶぅん、と。庭に一匹の蟲が飛んだ。

 

 

 

「ほう? 我がペットを探しに来てみれば……呵呵呵呵ッ、思わぬ拾い物よのう」

 

 

 

 顕現するは1人の老婆。

 杖を付き、腰は曲がり、しかし見た目通りと侮るには薄気味の悪い雰囲気を漂わせ。

 そしてしゃがれた声で彼女は嗤った。

 

 

 

「何がホワイトデーじゃ、何が純白の贈り物じゃ、何が汚れを知らぬ小童じゃ……全部全部、全部全部全部全部全部全部全部、汚して、貶めて、歪めて、乏して――――犯し尽くしてくれるわ」

 

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)

 こ ん か い の お は な し じ た い が え ぬ じ い る ー と で す 。


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ほわいとでーとくべつへん ちゅうへん

まさかの前編後編にまとめきれず、1万文字を越えてしまったので中編で一区切りをする事にしました。ホワイトデー、もう一週間過ぎているのに。
次で最後の予定です。……多分。



 時は遡って。

 間桐邸当主の意向で、アサシンが衛宮士郎の盗撮を行い、その行為がバレた後の事。

 

 死ぬかと思った。

 

 冗談も嘘も抜きにして。ただただ、ただただただただただただただただアサシンはそう思った。衛宮邸の面々の恐ろしさを――そして、間桐家ヒエラルキートップの恐ろしさを、これでもかというほど身に刻まされた。

 ……念のために断っておくが、アサシンが皆にボコられた時の話ではない。

 その後の事である。

 

「まぁ、お婆様ったら……私、言いましたよね? 『逃げようとしても無駄ですよ』って」

 

 逃げられぬ様に縛り上げられ、余計な事を言わぬ様に猿轡を噛ませられ。

 そんな様相で、部屋の隅に転がされた状態で。

 アサシンは見た。

 間桐家ヒエラルキートップ(絶対君主)の恐ろしさを、見た。

 

「もう一度言いますね、お婆様。『手を煩わせないで下さいね?』」

 

 ……何があったのか、何が行われたのか、そして何を彼が見たのかは、口にするのも憚れるので割愛する。

 但し。アサシンは恐怖のあまりに失神しそうだった。猿轡を噛ませられていなければ、恐怖で舌を噛み切っていたかもしれなかった。

 遠き日に。暗殺者の頂点になるべくして積んだ修練は、大いなる恐怖の前には何の役にも立たなかったのだ。

 

「それではアサシンさん。後の事は宜しくお願いしますね?」

 

 その瞳の奥。何も映さない漆黒の闇。映し出されている筈のアサシンすら飲み込む様な、黒よりも黒い闇。

 アサシンは無我夢中で首を縦に振った。断れば死ぬのは間違いなかった。或いは死ぬ方がマシと思うような目にあうかもしれなかった。目前で今しがた目にした光景を思うと、アサシンが受けた痛みや仕打ちなんてものは、存分に加減をされ、慈悲を加えられた代物だったのだ。

 そう、と。アサシンの様子を見て、桜は満足そうに微笑んだ。だがそれは先ほどまでの無表情よりも恐ろしかった。この少女に内に秘めた激情を垣間見た今、感情を向けられることを、何よりも恐ろしいと思った。

 

「それではよろしくお願いします」

 

 にっこりとか、ふんわりとか。可憐で女性らしくて、それでいてこの場には絶対にそぐわない笑顔を最後に残した彼女を見て。

 アサシンは固く決意をした。

 間桐桜には絶対に逆らわない。

 

 

 

 

 

 それからは。臓硯は呆然自失と言った状態で一日を過ごすことが多くなった。

 元々聖杯戦争の後遺症で、痴呆気味ではあったが、桜の折檻で加速したらしい。

 ぶつぶつと虚空に向かって何かを呟いたり、何もいないところで見えない誰かと楽しそうに話す姿も多くなった。飼っている蟲と他愛もない話をしている様子もあった。

 一見すれば狂人の所業ではある。が、そもそもの話からして、臓硯は狂人であったのでアサシンは気にもしなかった。

 そんな臓硯を、アサシンは桜の言いつけ通りに世話を行っていた。と言っても、行っている事は普段とほとんど変わりはない。何なら痴呆気味だったのが加速したおかげで、今まで当然の様にあった性的な介護と言うか奉仕が無くなった分、寧ろ精神的には楽だった。

 流石はお嬢様だ。アサシンはそう思った。何があったとしても、相対的に結果が楽ならそれでいいじゃん。喉元過ぎれば何とやらだった。

 

「……何がホワイトデーよ」

 

 だから。

 ある日突然、その眼を憤怒の色に染めて部屋から出てきた臓硯のその一言に。

 思考がフリーズしたアサシンは決して悪く無いし責めちゃいけない。

 

「何が素敵なホワイトデー、何が忘れられない大切な日にしよう、何が純白の贈り物……数少ない男を取り合うだけの欲望に塗れた浅ましき一日に、よくもここまで理想と希望と願望を詰め込めるものよ」

 

 カツ、カツ、カツ。臓硯は怒りを隠そうともせずに杖で床を叩いた。

 

「此方と――――? ……ああ、いや、全く、反吐が出る……反吐が出るっ!」

 

 カツンッ!

 一層強く床を杖で打ち付け、怒りをこれでもかと表現する。だがアサシンにはいったい何がそこまで臓硯を怒りに駆り立てているのか分からないし、なんなら分かりたくも無かった。

 

「桜も桜よ……儂がこれまでどれだけあ奴を思ってやってきたのだと思うか。魔術師としてその才を伸ばしたのは誰だと思うとる、マキリに相応しいふるまいを教育したの誰だと思うとる、衛宮の子倅の家に通う事を許したのは誰だと思うとる……それを、それを、恩を仇で返すような真似を――――」

 

 逃げたいと。アサシンはそう思った。気配遮断A+を惜しみなく使い、部屋の隅で息どころか心音すら潜めて、彼は時間が過ぎるのを待った。

 

「あぁ、反吐が出る、反吐が出る、反吐が出るッ! 何故儂があんな小娘共に脅されなければならないのだッ! 何故儂が迫害を受けねばらぬのだッ! 何故儂がこんな目に合っているのに世界は喧しいのだッ!」

 

 カサカサカサッ。

 臓硯の怒気に呼応するように、彼の足元から湧き出る大量の蟲たち。苦手な人が見れば、それだけ失神するくらいに気持ちの悪い光景である。

 

「おぉ、お前らも同じ想いか……そうよなぁ、何故に儂らだけこんな世界の隅で生きる様な目に遭わなければならないのだ。口だけ開けて雨と埃だけ食って生きてろとでも言うのか」

 

 カサカサカサッ、キシッ、キシャッ

 意志を持つかのように、蟲は喚いた。それはまるで相槌を打つかのようだった。

 

「うむ、うむ。やはりそうよなぁ……何が清純よ、何が純白よ。人は誰しも汚さずにはおれぬもの。自分の色に染め上げたいと思うものよ。だからこそ、染まってないものに価値をつけるのだ」

 

 ロクな事にならないな。まだ思惑は分からないが、そうアサシンは結論付けた。何せ聞いている事だけを要約すると、ただの逆恨みとモテないやつの僻みである。

 

「気高く美しいモノ、清純で清らかなモノ、純白で汚れの無いモノ……そういったモノを、思い思いに汚して、貶めて、歪めて、乏して、堕とす。その楽しみが分からぬ小娘共が、愛がどうのこうの、知った気になって口にする事が愚かしいわ」

 

 随分と長い口上だなぁ、早く終わらないかなぁ、どうせお嬢様に10分の9殺しされるのがオチでしょうに。早々に見えた結果を前に、アサシンは今日の夕ご飯の献立を考える余裕すらあった。

 ……この時までは。

 

 

 

「手始めに衛宮の子倅を汚そうか」

 

 

 

 ぐふっ、ぐふっ。感情を隠すかのように背を丸め、くぐもった笑い声を零す臓硯。嫌な予感がアサシンの背筋を這い上り、冷たい汗が落ちて行く。

 

「あの気の強さ、折れぬ意思、穢れを知らぬ眼……それを一つ一つ溶かし、へし折り、這いつくばらせて、堕とす。そしてその暁には……ぐふふっ」

 

 主殿はとうとう気が触れて、御乱心されたのかな? アサシンはそう思った。何故によりにもよってお嬢様の想い人である衛宮士郎かという話である。あんな目に遭ったと言うのによく口に出来るものだ。次は10分の9殺しじゃ済まなくなるぞ。

 

「近頃耳にする『男騎士』とやらにお誂え向きなシチュエーションよ。ぐふふっ」

 

 じゅるり。垂れた涎を臓硯は乱暴に拭きとった。男騎士たる言葉が意味するものは分からないが、妄想上では大分危ないところまで進んでいるらしい。

 これはお嬢様にお伝えした方が良いだろうか。だがそれは主である臓硯を裏切る行為でもある。

 うんうんと迷っていた――と言っても殆ど裏切る方で決まりかけていた――アサシンだったが、次の臓硯の一言で、完全に迷いを捨て去った。

 

 

 

「……先ずはこの火照りを慰めておこうか。のぉ、アサシン?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ほわいとでーとくべつへん ちゅうへん ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この後にどんな目に遭わされたかは言いたくないし考えたくもないし思い出したくもなかった。

 ただアサシンは、絞るだけ絞りつくされたことは記しておく。どんな手法かは割愛するが。

 ともかく。アサシンは逃げ出した。一昼夜の責め苦の後。臓硯の一瞬のスキを付き、まだ日の出ている時間帯にも関わらず、彼は間桐邸を命辛々脱出した。そしてそのまま、何処へともなく走った。

 そう、走った。アサシンは走ったのだ。悍ましいそれから逃げるべく。全力を振り絞って。道だろうが道じゃなかろうが、ただ只管に、直感に任せて。

 そんな彼が結果的に衛宮邸に辿り着いたのは、何の因果か、或いは運命か……いや、こんな汚い運命嫌だな。うん。

 

 まぁそんなアサシンの実情や、間桐邸で何が起こったのかとかなんてのは、この場にいる士郎からすればどうでも良い話である。

 

 士郎は手に持った干将莫邪を器用に扱い、向かって来る蟲を切り落とした。縦に一閃、横に一閃。哀れにも蟲は4つの塊に切り分けられて、士郎の柔肌に触れる前に地に落ちた。

 4つに切り分けたのは、真っ二つ程度あれば、蟲は動くことができるからだ。脅威を確実に払うのであれば、もう少し細かくしたいところだが、そこまでの余裕は士郎にない。

 都合7匹が、いずれも斬り刻まれて地に落ちる。

 

「……ふぅぅ」

 

 葛木宗一郎は、向かって来た蟲を何れもその拳で砕いた。彼の手には、常時キャスターによって強化の魔術が掛けられている。神代の魔女の魔術を前には、幾ら丹精を込めて育てられた蟲であろうと為す術はない。加えて彼の独特な軌道の拳は、細かな機動を誇る蟲を、全く誤たずに捉えていた。

 都合3匹を砕き潰し、宗一郎は呼吸を整えるべく深く息を吐き出した。

 

「呵呵呵呵ッ! やるではないか!」

 

 臓硯は嘲るように嗤った。余裕たっぷりの笑み。それもその筈で、彼女の背後にはまだ大量の蟲が浮いている。たかだか10匹程度が戦闘不能になろうとも、何も慌てることは無い。

 ほれ、次だ。そう言って、臓硯は次の蟲を向かわせる。数は――――恐らく、先ほどの倍。

 

「チィィッ!」

 

 士郎は歯を固く食い縛り、呼吸を止めた。そしてそのまま一歩を踏み出て迎撃に入った。

 士郎の持つ干将莫邪は、投影魔術によって創り出された模倣品である。つまりは本物の宝具ではない。だが本物に迫った代物ではある。ならば当然、幾ら外骨格が強化されていようと、蟲程度を斬り刻むのは訳はない。

 眼にも止まらぬ速さで、彼は双剣を振るった。小手先だけの力ではない。踏みしめた地面を通して生じた力を、上へ上へと流す。足から膝へ、膝から腰へ、腰から肩へ、肩から肘へ、肘から手首へ、手首から指先へ。そうして握りしめた干将莫邪に、十全の力を乗せて振るった。

 

「フッ!」

 

 宗一郎は短く息を吐き出し、向かって来る蟲を叩き落とした。士郎が斬り漏らした蟲、或いは士郎を無視して襲ってくる蟲を、彼は一匹残らずに屠った。只の人であればまず不可能な術ではあるが、彼にはそれを可能にする為の技量にして術がある。

 暗殺拳・「蛇」。

 道具として育てられた空虚な自分を象徴するかの様な、彼が持ち得る唯一にして最大の武器。独特にして特異な軌道を描き、確実に人体の急所を打ち抜く拳。初見であればまず見切られることは無く、戦の時代に生きたサーヴァントすら屠れる、文字通りの暗殺拳である。

 

「ほうほう、20でも足りぬか……では、40と行こう」

 

 だが2人の奮戦も空しく、既に臓硯は次の行動を終えていた。倍々ゲームのように、彼女の背後には数えるのも嫌になるほどの蟲が浮いている。……流石にここまでの数になると、2人で捌くのは不可能な数だ。

 

「……臓硯。アンタ、何が目的だ」

 

 時間稼ぎの意を込めて、士郎は問いかけを口に出した。士郎からすれば目的も理由も分からぬままに襲われている状況である。納得のいく理由が欲しいと思っていた。勿論、聞きつつも脳内ではこの状況で効果を見込めそうな武器の設計図を検索する事を忘れやしない。

 呵呵呵呵ッ、と。一方で臓硯は嗤った。士郎の問いかけに対して、楽しくて仕方がないと言わんばかりの態度であった。

 

「儂の目的か。……そんなのは先に言ったであろう?」

「あのふざけた口上を本気にしろと」

「ふざけた? ……ふぅむ、分かっておらぬ用だのぅ。これはますます調教のしがいがありそうじゃ」

 

 ぞわり。背筋を駆け上がる悪寒。久々に感じる生々しい意志。

 

「小僧よ。ちぃと世間知らずにも程があるのではないか? まぁ蝶や花を愛でるが如く、崇め奉られていればそうもなるということか」

「……何が言いたいんだよ」

「む? なぁに。キャベツ畑とコウノトリの話を信じているような、何も知らぬ純粋無垢な子供に、どんなポルノを見せつけようか……そんな下卑た気分なだけよ」

 

 回りくどい言い分だが、なんとなく大凡の事は察した。つまりは前回の間桐邸での一幕と同じである。

 士郎はロックオンされている。野獣に。性的に。

 相も変わらず全く嬉しくない話だ。

 

「……アンタの慰みモノになるつもりはねぇよ」

「おほぉ!? 良い眼をするではないか。ぐふふっ」

 

 会話になりゃしない。士郎はそう思った。いや、元より会話なんて望めない。最初から無駄なのだ。

 歪みに歪んだ500年の妄執。彼女を救う手立てはきっとこの世に存在しないのだろう。

 士郎は干将莫邪を破棄すると、一本の斧剣を投影した。それはあまりに大きく、士郎たちを臓硯から隠すかのようにして、地面に突き刺さった。一目見て、人間が振るうには規格外だと分かる代物であった。

 バーサーカーの、斧剣。

 その取っ手を、掴む。

 

「ほう? アインツベルンのサーヴァントの武具か。……その腕で、振るえるのか?」

「振るうさ」

 

 士郎は生身である。当然このままではこの巨大な斧剣を扱う事は出来ない。

 士郎は半人前である。当然この巨大な斧剣を扱えるほどの強化を自分には掛けられない。

 だが士郎は男である。当然このままむざむざと慰みモノになるつもりはなかった。

 

「無抵抗の趣味は無いんだよ」

 

 真っすぐに。士郎は視線を向けた。その気高い意志に、一切の陰りを見せる事無く。琥珀色の瞳に、力を込めて。

 

「……それでは貴様の気高き意思に敬意を表し。一つ一つ、丁寧に折っていこうかのぅ」

 

 獲物の抵抗に、臓硯は堪え切れずに笑みを零した。可愛いものである。既に勝負は決しているのと同じなのに、尚もみっともなく足掻こうとする精神性。穢れへの拒否。大好物だ。

 あぁ、もうすぐ……そう、もうすぐこの坊主が手に入る。気高く純白で無垢な坊主が手に入る。手に入れたらどんな風に調教しようか、どうやってマキリの色に染め上げようか。考えるだけも心が高鳴って仕方がない。

 しかも衛宮士郎には性的な利用以外にも大きな価値がある。彼を楯に取れば、孫娘でもある桜を筆頭に、サーヴァント共に、遠坂やアインツベルンの他の御三家、封印指定執行者に聖堂教会の者と、一癖も二癖もある面々を言い聞かせる事は容易くなる。戦力的な旨味の面でも、士郎は逸材である。今から臓硯は笑いが止まらない。

 

「さぁさぁ、それでは……精々抵抗をしてもらおうかのう。貴様も、そこの男も、アサシンも……ぐふっ、ふふふふふふっ」

 

 さぁもうすぐだ。成果を考えれば、抵抗など安いもの。精々みっともなく足掻くがいい。余裕を見せる様に臓硯は両腕を広げた。迎え入れる準備は万端であった。

 

 

 

「「あらぁ?」」

 

 

 

「士郎君に」

「宗一郎様に」

「いったい」

「何を」

「しているの」

「かしら」

 

 

 

「「ねぇ?」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全くの余談であるが。葛木宗一郎には、キャスターの手によって、防護の魔術が付与されている。その種類は多岐にわたり、一つ一つの解説は面倒なので割愛するが、要は自動展開の防犯ブザーであったり障壁だったりする。ちなみに作動する条件は、キャスター以外の女性に話しかけられる事である。

 当然衛宮邸に宗一郎が赴くにあたって、この防護魔術は絶え間なく作動した。だって長身痩躯の影のあるイケメンとか、女性が放っておくわけが無いじゃん。尤も声をかけた面々は、キャスターお手製の防護魔術により、自動で記憶消去や暗示をかけられてしまう羽目になるのだが、それは自業自得と言う奴である。人の男に手を出す奴は、獅子に噛み殺されても文句は言えまい。

 

 閑話休題。

 

「「ぶち殺すわ」」

 

 サーヴァントはマスターと似た者が召喚されると聞くが、成程その通りだなと士郎は思った。

 目の前。雲一つない空でありながら、鳴り響く万雷。そして貫かれるご老体。逃げ場を失い炭となる蟲。逃げても細切れにされる蟲。

 全くの無表情で、感情を失くした声で。士郎の目前で2人の女性がその卓越した腕を振るっていた。

 キャスターのサーヴァント、メディア。

 アサシンのサーヴァント、宮本武蔵。

 

「よくも宗一郎様に手を出したわね……万死に値するわ」

「よくも士郎君に手を出したわね……一片の肉片も残さないわ」

 

 キャスターは悔いていた。宗一郎がホワイトデーの事で士郎に相談をした際に、その本心を聞いて、幸せの余りにイってしまった事を。そしてそのせいで、宗一郎の危機に気が付くのが遅れてしまった事を。

 何故かセイバーたちと追いかけっこをしている武蔵を令呪で衛宮邸に飛ばし、自身も空間転移で飛んだことで何とか間に合ったが……もしものことを思うと、言葉に出来ない怒りで気が狂いそうだった。

 

「――――」

「あらあら、何を言っているのか分からないわ」

「謝るのなら慈悲をくれやろうと思ったけど」

「そのつもりもないのなら、相応の罰を与えないと」

「ねぇ?」

「「蟲めが」」

 

 彼女たちの怒りを表すかのように、殺戮は留まる事を知らない。

 いつのまに結界を張ったのだろう。雷から、そして剣技から。自身の命を刈り取らんとする凶器から逃げようと飛ぶ蟲たちだったが、そのいずれもが然程も飛べぬうちに何かにぶつかったかのように後退する。中に入れない結界ではなく、外に出さない結界。さらにこれは、そこらの魔術師ではなく、神代の魔術師による結界である。蟲程度がどうにかできるなんて、考えるのも烏滸がましい。

 そして、当然。そんな無様に晒された隙を見逃してもらえるなんて、そんな夢物語などあるはずもなく。

 

「あらあら、これで最後ね」

「全く、余計な手間をかけてくれるわ」

 

 そうして残ったのは、這いつくばる一匹の蟲。斬り刻まれ、炭と化した残骸とは別に、あきらかに意志を以って見逃された存在。

 但し。先ほどのような、甲虫ではない。

 アレを想起させる、気色の悪い芋虫の様な、蟲。

 それを絶対零度の眼で見下ろし、2人は口を開いた。

 

「まぁどうせ、これも本体じゃないでしょ」

「でしょうね。そんな見上げた根性をコレは持っていないもの」

「でもこれを通して見てはいるんでしょ?」

「それは間違いないわ。……遠隔魔術で、目を離せないようにもしたし」

「流石ね。それじゃあ、伝言よ」

「アナタの孫娘からよ」

「「『待っているわ、お婆様』」」

 

 

 

 

 

「宗一郎様~♡ あっ、あっ、あはぁぁぁぁぁぁ……」

「助かった、キャスター。感謝する。いつもすまない」

「そんな……私には、勿体ない御言葉です」

 

 俺はいったい何を見せられているのだろうか。士郎はそう思ったし何なら吐きそうだった。目の前で繰り広げられる甘い甘いもうクッソ甘い光景に、砂糖が口から出てきそうだった。

 キャスターは宗一郎の膝元で声を震わしながら、彼に甘えていた。人の家で。衛宮邸で。なんなら居間で。士郎とハサンと武蔵(アサシン共)がいるにも関わらず。そして撫でられて身を震わす彼女の様相は、口にするのも憚れる光景であった。

 

「いやはや、メディアと言えば悪名高き魔女として名が残ってはおりますが、その本性はただの恋する女性であったという事でしょうか」

「まぁ逸話からしてそうでしょ。国を混乱に陥れたり、弟を切り捨てたりと、ちょーっと盲目的過ぎなところはあるけどね」

「盲目的なところは同意ですな。英雄譚には所謂盛られた部分もあると聞きますが……あの様相を見るに、決して誇張された話では無かったのでしょう」

「なんか……このままだと赤ちゃんプレイに移行しそうね。……雇い主の性癖を見せられるのは勘弁なんだけど」

「殺すわよ」

 

 ハサンと武蔵はキャスターの醜態を見ながら溜息を吐いた。間髪入れずに剣呑な殺意が2人に飛ぶがどこ吹く風。武蔵に至っては、舌を出して辟易と言った表情を零す余裕すらあった。

 

「キャスター、口を」

「あ、宗一郎様♡」

「これはマカロンと言うものらしい。甘さの加減はどうだ? 少し甘すぎたか? 生憎と器用ではなく、中の具を変える程度しか私にはできていないのだが」

「そんなことはございません。いえ、寧ろ勿体ない御言葉です。頂けるだけでも、私には過ぎた幸せだと言うのに」

「お前こそ何を言うか。どれだけお前に助けられてきたか……それに、これでも私はお前の夫なのだ。私の方こそ、お前に報いる働きをしなければならない」

「そんな……」

「感謝をしている。私なんかの為に、いつもすまない」

 

 うへぇ。武蔵は思いっきり顔を顰めた。知った仲のラブロマンスなんか、見ていて反吐が出る。周囲の状況を考えずに自分たちの世界に浸る様を見せつけられるとか、一体全体何の罰ゲームだこれ。

 放っておいたら乳繰り合いそうな空気である。渋めのお茶が欲しいと思った。空になった容器を見て思う。甘いものはもう要らん。

 

「お茶、お代わりいるか?」

「えっ!? あ、いや、その、士郎君の手を煩わせるほどじゃないわ! 自分で入れるから!」

「いや、俺立ってるしさ。てか場所とか分かんないだろ」

 

 あとこれ、お茶請け。そう言って士郎は常備している煎餅などを2人の前に出した。そしてそれに目を奪われた武蔵の隙をつき、その手に握った湯呑を受け取る。

 

「冷たい方がいいとかあるか?」

「ア、イエ、ダイジョウブ、デス……ハイ」

「? じゃあ、さっきと同じで良いか?」

「ハイ、ハイッ!」

 

 さっきまでしかめっ面を隠そうともしてなかったのに、士郎の登場で急にしおらしくなる武蔵。目を合わせる事も出来ず、顔を赤らめてマカロンと湯呑に忙しなく視線を送り、もじもじと身体を震わす様相は、所謂いじらしいとでもいうのだろうか。ハサンには全く分からないが。

 恋する女性は大変ですなぁ。ハサンはお茶を飲みながらそう思った。彼はもう女性と言う存在はこりごりだった。

 

「は、はわわわ……これ……もしかしてだけど、所謂逆求婚ってやつ?」

 

 ……頑張ってくだされ、魔術師殿。ハサンは何も言わずにお茶を啜った。そして恩人の行く末に心の中で祈りを飛ばした。お人好しの彼に幸福な未来がありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは私たちは帰るわ。坊やも戸締りを忘れず、外敵には気を付けるのよ」

「衛宮、世話になった。この恩は必ず返す。何かあれば言いに来ると良い」

「じゃあね。あ、あとアサシン。いえ、そっちじゃなくて私の方のよ。今日、邪魔したら(・・・・・)、殺すから」

 

 にっこり。キャスターは惚れ惚れする様な笑みに反して、トンデモなく物騒な言葉を口にした。そして士郎の耳では聞き取れない何かを呟く。

 途端にキャスターと宗一郎は、3人の視界から消えていなくなる。空間転移の魔術。魔法級の術を、彼女は惜しみなく使って退散をした。普通の魔術師が今この場にいたら、この奇跡の大安売りを前に卒倒するに違いない。

 

 

 

「あ、しまった。……お礼忘れてた」

 

 士郎は消えた2人の跡、つまりは光の粒子が完全になくなるまでの時間が経過してから、自身が忘れ物をしたことを思い出した。

 窮地を救ってくれた事への感謝。例えキャスターにとっては宗一郎のついでであろうとも、だ。

 あの後のキャスターと宗一郎のゲロ甘な空気とかで、すっかり伝え損ねていたのだ。

 

「相変わらず魔術師殿はお人好しですなぁ」

 

 別に士郎がお礼を言う必要はないだろうに。ハサンはそう思っていた。何せ彼は士郎と違って、この世界に染まり切っている。つまりは女性の恐ろしさを知っているのだ。

 無闇に愛嬌を振りまいたところで返って来るものは重すぎる愛情。まぁキャスターには想い人がいるから問題ないかもしれないが、これが他の面々であればどうなるか分からない。例えば武蔵とか。

 

「武蔵もありがとうな。助かった」

 

 そんなハサンの前で、簡単に士郎はハサンの危惧を踏み抜いた。武蔵に笑顔でお礼の言葉と、ゲロ甘空気に耐えながら作っていたカップケーキを渡す。しかもしっかり丁寧にラッピングされている奴だ。

 ひえっ。ハサンは自分の喉から引き攣る様な音が鳴ったのを自覚した。何故この魔術師殿は、簡単に地雷を踏み抜けるのだろうか。今の士郎の発言及び行為は、武蔵に喰われても仕方がないものである。

 

「来てくれなかったら……ははっ、どうなっていただろうな」

 

 今が既にどうなるか分からない状況である。ハサンの背を冷汗が伝っている。このままだと据え膳云々で士郎が喰われるのは確定事項である。そしてその場面を阻止出来なかったという事で、ハサンが桜にボコられるのも確定事項。

 ハサンは脳内で、自分が助かる為のシミュレートの算出を開始した。ちきちきちき、ちーん。全シミュレート、一振りで破壊。慈悲は無し、諦めろ。

 

「本当に、ありがとう」

 

 最後の一押しだろう。微笑みと共に発せられた一言で、ハサンは全てが終わった事を察した。もう桜による10分の9殺しは確定である。

 せめて士郎を護るべく行動しよう。ハサンは僅かに腰を浮かした。武蔵が飛び掛かったら邪魔をするためである。どうせ折檻は確定しているのだ。何もせず桜に10分の9殺しにされるか、武蔵の邪魔をしてボコられるか。そんなの考えるまでもない。

 だがハサンの危惧とは裏腹に、武蔵は動こうともしなかった。ピクリとも。身動ぎ一つもない。

 士郎も士郎で彼女の異変に気が付いたのだろう。怪訝な表情を浮かべ――――すぐに、驚いたように目を見開いた。

 

「へ、鼻血? ……っ、危ない!」

 

 ぐらり。傾く武蔵の身体。支えるべく手を伸ばす士郎。ギリギリで間に合い、何とか倒れるのだけは阻止をした。流石は男の子である。

 ひょっこりと。ハサンは後ろから武蔵の顔を見て。ははぁ、なるほど、と納得する。

 どうやら士郎の真っすぐな言葉と頬笑みは、精神的処女には刺激が強すぎたらしい。

 

「疲れたのでしょうかね? とりあえず寝かせとけばよろしいのではないでしょうか」

 

 顔を真っ赤にし、眼を回している武蔵。これは暫く立ち上がれまい。

 士郎に一先ず何てことの無い言葉をハサンは投げた。そして心の中でほくそ笑む。いやぁ、ラッキーラッキー。武蔵の気絶により、士郎の貞操は護られた。つまりは完全童貞のままだ。臓硯にも武蔵にも奪われなかったのだ。これで10分の9殺しは免れたと言っても過言ではない。棚から牡丹餅? ふん、結果が全てであるのだよ。

 

 

 

「ただい――――あらぁ? これはどういうことかしら?」

 

 

 

 まあ、そんなわけないんだけどね。うん。

 背後から聞こえた、死刑執行者の面々の声を聞いて。

 ハサンは心の中でさめざめと涙を流しながら覚悟を決めた。

 そもそもの話。幸運Eの2人が、身に過ぎた幸運を享受しようと言う、そんな姿勢自体が烏滸がましいとは思わないかねと言う話であるのだ。うん。

 

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)

 え ぬ じ い る ー と け い ぞ く ち ゅ う に つ き あ り ま せ ん 。


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ほわいとでーとくべつへん こうへん

特別編、これにて完結です。息抜きの筈がまさかの3部構成になってしまいました……
長々とNGルートにお付き合いをいただきありがとうございました。次回からは本編更新予定です。

後今更ですが、本特別編におけるキャスターは完全に堕ちた後です。
解決に時間が経っているからね。仕方がないね。

※22/4/3 誤字脱字修正


「あらぁ? アサシンさぁん? 何故此処にいるのでしょうか?」

「い、いや、その、お嬢様、ええと……」

「おかえり、桜。助けてもらったんだよ。臓硯関係で色々と」

「あぁ、成程。……では、そっちの方がいるのは?」

 

 ハサンに助け舟を出したり。

 

「――――てことだよ」

「あぁ、そういう……キャスターさんから話が来た時には、どういう事かと思いましたが、合点がいきました」

「いやぁ、マスターに住む場所追い出されちゃって……あ! そうだ! そういう事で、泊めて下さい、お願いしますっ!」

「あぁ、まぁ、それは――――」

「ダメに決まっているでしょ!!!!!!!!」

 

 武蔵が泊まろうとしたり。

 

「お兄ちゃん、あんな知らないサーヴァントがいるのって困るよね? お兄ちゃんのテリトリーに不審者いるのって嫌だよね? そうだよね?」

「えーと、イリヤ?」

「てことで、お兄ちゃんを私のお城に招待するね! ちゃんとお兄ちゃんと私の部屋を用意してあるからね! 一緒に寝ようね!」

「イリヤスフィール、戯言はそこまでにすることだ」

 

 イリヤの目論見に皆が殺意を飛ばしたり。

 

「ちぇー。じゃあ3/14はどう? ホワイトデー!」

「戯け、殺す」

「私のお城じゃなくてもいいよ? 新都方面にあるお城でもいいよ?」

「殺すっ!!!」

 

 エロガキへの制裁が検討されたり。

 

 

 

 

 

 ――――そんなこんなで、ホワイトデー当日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ こんなふぇいとはいやだ ほわいとでーとくべつへん こうへん ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の穂群原学園の3年生クラスは、誰かが死んだのかと言わんばかりに、早朝から殆どの面々が消沈をしていた。

 天井を生気の無い眼で見上げている者、突っ伏して身動ぎ一つしない者、二次元や妄想の世界に逃避する者、教室の隅の方から響く「オオンッ、アオンッ」の音。まるで地獄の一丁目である。

 

「ふひひ……ホワイトデーなんて滅んでしまえ……」

 

 誰かが生気のない声で零す。随分と物騒な言葉。だが周囲の面々は、示し合わせたかのように頷いたり溜息を吐いた。

 ……何でこんなことになっているかって?

 そりゃあほとんどの穂群原学園3年生徒は、ホワイトデーに同校の男子からお返しを貰えない事が確定しているからだ。

 例えば間桐慎二。「いらないよ。お返し面倒なんだよね」で門前払い。

 例えば柳洞一成。「精進の足らぬ身である故、遠慮をさせてもらいたい」で門前払い。

 例えば衛宮士郎。ミス穂群原、もしくは一成の尽力により阻止。

 ……穂群原学園3年生は泣いていい。

 

 まぁ、そんなわけで。

 

 上記のかしまし3人組からのお返しを期待するどころか、そもそも手渡す事すら絶望的な以上、学外の別の人に渡すくらいしか、彼女たちにはバラ色のホワイトデーを過ごす手立てはない。だがこの男性が極端に少ない世界で、そんな簡単に男性が見つかるとでも? しかも彼ら以上のイケメンが、だ。

 そんなわけで。学外に彼ぴっぴのいる超ラッキーガールを除く殆どの3年女子は、華の高校生活最終学年にも関わらず、色気のないラストイベントを過ごすことが確定したも同然であった。そりゃ絶望に消沈もするというものである。

 ちなみに全くの余談だが。休職中の葛木宗一郎にチョコを渡しに柳洞寺へ行こうとした場合、何故か辿り着けなくなるバグが発生するらしい。決して迷う道でもないのに。何それ怖い。

 

 

 

 

 

「美綴、お早う。バレンタイン、ありがとうな。これ、お返し」

「!!!!!!!????????!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

 

 前述の通り、穂群原学園の生徒の殆どが、かしまし3人組に贈り物が出来ていないのは周知の事実である。が、奇跡的な確率でその狭き門を潜り抜けられた人物の一人が、美綴綾子である。

 朝早くの3年生クラス。負け確で意気消沈して死にかけの面々。そんな彼女たちの目の前で繰り広げられる、夢にまでみた憧れの光景。意中の人からのお返し。しかもマカロン。わざわざ綺麗にラッピング。という事は既製品ではない。は?

 

「手作りなんで、そんなに長くは保たないと思う。早めに食べてくれたら嬉しい」

 

 完全フリーズ状態の綾子を他所に、士郎は少しばかり早口で口上を述べた。この世界に慣れたとは言え、やはり衆人環視の状況で手渡しは恥ずかしいものだ。が、そうも言ってはいられない。何せ彼にはまだ渡さないとならない相手がいる。

 一方で綾子は一か月前の事を回想していた。2/14。凛と帰ろうとしている士郎を無理矢理に呼び止め、一方的に渡したチョコレート。嬉しそうに微笑んでくれた士郎。その隣で悪鬼羅刹もかくやと言わんばかりのトンデモナイ顔をした凛。けどそんなの怖くない。お返しだっていらない。受け取ってくれたという、この思い出だけで生きていける。そう思っていたのに、今日まさかのお返し。しかもマカロン。手作り。手作り。手作りっ!

 

「――――ッ、衛宮ッ!!! ……あれ?」

 

 フリーズ状態から回復した時には、既に士郎は居なくなっていた。どこにもいない。目の前はおろかクラス内にもいない。いや、そりゃそうだ。彼はC組だからA組にいるはずが無い。

 という事は、今しがた見たのは幻だったのだろうか。夢だったのだろうか。妄想が天元突破したのだろうか。いや、違う。幻でも夢でも妄想でもない。胸に大切に抱えている手作りマカロンは間違いなく現実である。彼が此処にいた事実であり真実である。

 

「衛宮ぁ……」

 

 抱き抱えながら崩れ落ちた女傑を見て。

 衛宮君なら多分すぐそこの廊下にいるよ、とは誰も声を掛けなかった。

 それは1人バラ色の3/14を迎えられた裏切り者への、醜い嫉妬であり嫉みであり妬みであり僻みであった。

 

 

 

 

 

「蒔寺、お早う。これ、バレンタインデーのお返し。ありがとうな」

 

 蒔寺楓は戦慄した。今しがた士郎から、ホワイトデーのお返しを渡されたという事実に戦慄した。A組目前の廊下での出来事だった。

 彼女も士郎に贈り物を渡す事が出来た数少ない人物の一人である。陸上競技部の備品を直してくれるブラウニーに、日ごろの感謝の意と下心を込めて高級和菓子を手渡した2/14。お返しを期待しつつも、遠坂がいるから無理かないやでももしかしたらいやでもいやでもいやでもでもでもでもな一か月。そして今日、お返し。渡されたマカロン……マカロンってなに? まぁいいや。お返し、そうお返しである。やったぜ。

 

「氷室と三枝もありがとうな。これ、お返し」

「え、い、いいの!?」

「頂けるのあればありがたく頂くが……本当に構わないのか?」

 

 氷室鐘と三枝由紀香も、直接手渡しこそできていないものの、結果的に士郎に贈り物が出来た面々である。先の楓が渡した高級和菓子は、3人がお金を出し合って購入したものである。名目は、陸上部品を修理してくれている事への感謝。下心が無いとは言わないけど、楓よりも薄い。由紀香に至ってはほぼほぼゼロだ。

 ちなみに渡す際には、対遠坂凛は由紀香、柳洞一成は鐘が受け負い、士郎から保護者面共を引き剥がして、楓が贈り物を渡している。適材適所、チームプレイの勝利である。

 

「わぁ、マカロン!」

「既製品ではないな。……もしかして手作りか」

「ああ、その通りだ。……あ、すまん、手作りは嫌だったか?」

 

 周囲の女性陣が皆一様に手作りを求めた事もあり、そのついでで彼女たちの分も用意したのだが、よくよく考えれば全員が全員手作りが良いというわけではないだろう。配慮欠いた己の浅慮さに、士郎は恥じ入る気持ちを覚えた。そりゃこのご時世、手作りより既製品の方がいいよな、うん。

 何やら1人納得しかけていた士郎だったが、納得しきる前に楓が鐘の腹部にボディーブローを見舞った事で、思考が中断される。

 

「いや、違う! 手作り万歳! ありがとな!」

「うん、そうだよ! ありがとう、衛宮君! 大切にします!」

「お、おう……」

 

 何とも言えない気迫に気圧されて、士郎は二の句を告げられずに頷いた。常時騒がしい楓単体ならまだしも、大人しい筈の由紀香からも気迫をぶつけられると何も言えない。

 まぁいいか。喜んでくれたなら。士郎はそれ以上を考えるのを止めた。有事以外の事での思考の放棄は、彼がこの世界で学んだことの一つであった。

 

 

 

 

 

「わざわざお返しとか馬鹿だろ、衛宮」

 

 間桐慎二は何やら疲れた顔でC組に帰って来た士郎を見て、思いっきり溜息を吐きつけた。

 

「優しさのつもりか知らないけどさ、無駄な期待をさせるだけだって」

 

 どーせホワイトデー案件だろ。何で士郎が疲れた顔でC組に戻って来たのか。その理由が分からないほど慎二は愚鈍じゃない。

 

「いや、貰い物にはやっぱりちゃんと返すべきじゃないか? 今日はそう言う日だろ?」

「はぁぁぁぁぁぁぁ、この平和ボケ。頭天国かよ。そりゃ遠坂や柳洞が保護者面もするわな」

 

 無菌室で育てられたのかと思う程に絶滅危惧種な純粋無垢。呆れて物も言えない。

 ぶっちゃけた話をすれば。士郎にバレンタインデーの贈り物が出来れば、お返しが来るのは間違いない事である。古風過ぎる義理堅さ。実際、1年時はそれを危惧した藤村大河によってバレンタインデーの贈り物は全面禁止にされているのだ。ブラコン恐るべし。ちなみに、流石に2年目は反対意見が多すぎて、大河1人では如何とも出来なかったのだが、丁度校内でガス漏れ事故が発生(実際には聖杯戦争の隠蔽)したことで有耶無耶になっていたり。

 

「どーせ下心ありきなんだから、わざわざ財布痛める必要ないだろ」

「いや、手作りだからそこまで費用はかかってないぞ」

「そういう事を言ってんじゃないんだよ、この天然ボケ」

 

 コイツ、その内変な女に騙されないだろうか。あらぬ方向で慎二は心配をしたが、すぐに「桜や遠坂がいるから平気か」と納得をした。そしてもうすでにトップクラスに面倒な面々に囲われている友人に、心の中でそっと十字を切る。まぁ上手くやれよ。

 そんな慎二は置いておき、士郎はクラスに入って来た女子生徒の1人に声をかけた。そして渡す。「バレンタインデー、ありがとう。これ、お返し」

 

「え、え、えええええええええええええええええっ!!!!!???????!?!?!?!?!?!?!?」

「は、衛宮!? はぁ!?!?!?!?」

 

 混乱の極地に至り、泡を吹いて卒倒しかける女子生徒。そして目の前の光景の意味が分からず、素で大声を出す慎二。さっき忠告したばかりなのに何してんだコイツ。

 

「手作りだからそんなに長くは保たないんだ。早めに食べてもらえるとありがたい」

「しかも手作りかよ……あぁ、いや、さっきそう言っていたな……」

 

 このご時世に手作りでお返し、しかもマカロン。最早意味を超越をして「俺を食べて♡」である。絶対士郎(この馬鹿)はそこまで考えてないだろうけど。

 ちなみに。この女子生徒が士郎に贈り物をしたのは、以前に士郎にボールをぶつけて気絶させてしまった事があったからだ。つまりは謝罪やお詫びの意味。下心なんて恐れ多くて込められやしない。

 なのに……なのにっ! 今彼女の手にはマカロンがある。しかも手作り。前世でどれだけ徳を積めば、このような結果に落ち着けるのか。クラス中の敵意と殺意が惜しみなく注がれるが、彼女は全く気にもならなかった。今が彼女の人生における絶頂期なのだ。

 

「慎二にも、はい」

「はぁ!?!?!?!?!?!?!!?!?」

 

 慎二は渡されたマカロンを見て、その思考を停止した。そして思い出す。確かに彼には、バレンタインに士郎にチョコレートを渡した記憶がある。だがそれは、適当な奴だ。別に意味なんか込めちゃいない。どれだけ友好的に捉えようとも、所謂友チョコが限界的なそれ。「お前、どーせ遠坂たちにもらうんだろ、大変だな」的な労いを込めたチョコ一粒。

 

「早めに食べてくれ。乳製品だしさ」

 

 士郎は朗らかな微笑みを浮かべた。友人へ見せる、気さくな表情。そこらの女どもに見せるのとは少し違う、多分自分しか見られないであろう、その笑み。

 

「……ま、仕方ないね。貰ってやるよ」

 

 慎二は小馬鹿にする態度を崩さずに、士郎からマカロンを受け取った。……いや、態度崩さずにいられたかないられたっけきっといられたよ多分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カレン・オルテンシアは、朝から不機嫌であった。

 何故ならば。彼女は3/14というこの大いなる記念日に、衛宮邸に行けないことが前々から確定していたからだ。

 詳細は省くが、早い話が己の欲を信仰で昇華させようと言う、不純極まりない理由で懺悔に訪れる信徒の対応をしなければならない。そんな聖職者としての職務のせいである。

 そんなわけで。彼女は早朝から信徒の対応で忙殺されていた。自身が神に祈りを捧げる暇もないほどだった。

 因みにだが、1人だと対応は絶対できないので、いつものお手伝い(バゼット)にもお願いをして(令呪を楯に)手伝ってもらっている。やはり持つべきは優秀な部下である。

 

「誰が部下ですか」

 

 脳内へのツッコミは野暮だから止めてほしいと思ったが、そんな余裕も今のカレンには無い。漸く信徒の対応に一区切りがつき、疲労を存分に乗せた息を吐き出すのでいっぱいいっぱいだった。

 

「食べないと保ちませんよ」

 

 ガツガツガツ。色気もへったくれも無くコンビニ弁当をかき込むお手伝い。手元の袋にはサンドイッチやおにぎりが適当に突っ込まれているだろう。あと栄養ドリンクとかも。

 そんなんだからサーヴァントに愛想を尽かされるんですよ。思ったが口にはしない。以前に口にしてぶん殴られた事があるからだ。

 

「はぁ……もうPM4:00ですか……いつもだったら御主人様の元へ馳せ参じられる時間帯なのに……」

「言っても仕方がないでしょう。ほら、早くしないと敬虔な信徒が痺れを切らしますよ」

 

 30分の時間も待てない程度の信徒なんて願い下げだ。なんてカレンは言わない。祈りの優劣を決めつける程、カレンは自身が出来た存在で無い事を自認している。

 

「……サンドイッチ一つで充分です」

 

 もそり。小さな口でも咀嚼し、水と一緒に無理矢理にでも胃の中に落とす。味覚が死んでいるので味なんてどうでもいい。とりあえずエネルギーに変わればいいのだよ、うん。本人は気が付いていないが、それはバゼットと別ベクトルでありながら同程度の考え方である。士郎が聞いたらきっと泣く。

 

「あ、そうだ。士郎君来るそうですよ」

「!?!?!?!?!?!?!?!?!?は!?」

 

 先に言えやこのボケカス性別不詳の暴力クソ女。浮かぶはいつもの皮肉のキレなんかどこにもない、ただの暴言の羅列。つまりはそれほどまでの強烈な混乱。無いと思っていた幸福に、一瞬で上がるテンション。彼女も結局は人の子なのだ。

 

「入るわよー」

「遠坂……せめて呼び鈴くらい鳴らさないか?」

「別にいいでしょ。あんな雌犬に気遣いなんか必要は無いわ」

「そこは私も姉さんと同意見です」

 

 そして計ったかのようなタイミングで裏口から声。気に入らないメスネコと、その妹と、そして聞き間違えることなんて絶っっっっっっっっ対にあり得ない我が主の声。

 カレンは怒涛の幸運に身を硬直させた。まさか……まさかまさかまさかまさかまさか――――御主人様が私に会いに来てくれた!?

 

「ようこそ。指定通りの時間ですね」

「お疲れ、バゼット。悪いな、仕事中に」

 

 おいこら待てボケ、なんで貴女が出ているんですか。と、カレンは言葉には出来ない罵詈雑言を脳内にて流した。脳内なのは、早朝から働きづくめで疲労満杯の身体と、降って沸いた幸運を前にし、身が完全に硬直して動く事が出来ないでいたからだ。

 

「カレンは?」

「先ほどまで一緒に食事をしていましたが……カレン?」

 

 裏口から声が聞こえる。愛しの御主人様とアルバイター。だがカレンは動けなかった。動かなければならないのに、脳からの電気信号を上手く身体に送ることが出来ていなかった。完全硬直状態であった。え、なんで?

 

「……おかしいですね。もしかしたら職務に従事しているのかもしれません」

 

 そんなわけないでしょう、この筋肉ダルマ。と、カレンが思ったかは定かでは無い。定かでは無いが、カレンは少しでも硬直しきった自身の筋肉を動かそうと試みた。そしてその間にも裏口から聞こえる楽しそうな声。役割を放って御主人様と談笑するなんてイケない子ね。

 

「忙しいのかな。じゃあ、渡しといてくれるか。出来れば手渡ししたかったんだけど、時間取るのも悪いし」

「ホワイトデーのお返しですね。成程、承知しました。伝えておきます」

「ああ、よろしく。あと夕ご飯は……」

「前日から伝えている通り、今日は仕事で手いっぱいですね。カレンと私の分は必要ありません」

 

 何故そんな簡単に断るのか。シレっと結論付けるのか。そして人を巻き込むのか。

 聞こえる声。御主人様の足音。そしてパタンと閉じるドアの音。

 カレンは絶望という言葉の、その真なる意味を初めて知った。頭の中は真っ白だった。

 

 

 

 

 

 遠坂凛は上機嫌だった。あの雌犬を出し抜いた事に上機嫌だった。

 いつかの日に。士郎の寝顔を堪能しようと用意していた、空間歪曲の魔具。それの改良版。

 秘かにそれを使い、カレンの足止めの魔術をかけて、士郎と会話が出来ないようにした。そもそもの話、雌犬如きが士郎からお返しを貰おうという事自体が烏滸がましいのだ。

 空間歪曲なんて現代技術ではまだ実用化できない、ある種では立派な魔法である。勿論事前準備が必要で、且つ限定的にしかその効果を発揮しないが、それがどうであれ天才遠坂凛に不可能は無いのだよ。

 待たせていたタクシーに乗り込むと、士郎は行先を告げた。柳洞寺。

 

「へ? 柳洞寺? なんで?」

「キャスターと武蔵の分があるからな。2人に渡せば最後だよ」

「え゛? キャスターさんはともかく、アレにも渡すんですか?」

「貰い物はしてないけど、助けられたからな。一昨日」

 

 桜は天を仰いだ。それを引き合いに出されてしまうと自分は何も言えない。身内(クソババァ)の乱心のせいで、桜というか間桐関係者の衛宮邸での発言力はかなり弱くなっているのだ。

 

「渡さなくていいんじゃない? 一宿一飯で恩義は返したようなものでしょ」

 

 凛はさり気なく、士郎の考えを変えさせようとした。士郎は優しすぎるのだ。あの性欲な権化みたいなのを甘やかさないでほしいと思っているのだ。

 何せ前日、及び前々日。あれだけ釘を刺されたにもかかわらず、武蔵は士郎に夜這いを掛けようとしていた。当然警戒に当たっていた衛宮邸面々が見逃すはずもなく、ボッコボコにして追い払って叩き出した訳なのだが。流石の宮本武蔵と言えども、サーヴァント×2と魔術師×4と教会関係者×1には適う筈もなかった。

 

「まぁ前日のはな。でもそれ以前にスカサハ関係でも助けられているし、用意もしちゃったから」

 

 苦笑いに爽やかさが同居するのは士郎くらいのものである。その眩しさに凛は眼を眇めた。護らねば、この笑顔。

 士郎を挟んだ隣では、桜がトンデモナイ顔をしていた。やっぱり殺さなきゃ、あのクソババァ2号。そっちから凛は視線を外した。血のつながった妹ながら、随分と雰囲気が怖くなったものである。ああ恐ろしや恐ろしや。

 

 

 

 

 

 柳洞寺には何の問題もなく到着した。それでもって、何の問題も無く門を通り抜け、何の問題も無く居住スペースまで到着してしまった。警戒は拍子抜け。武蔵は何処にもいない。

 

「アレならどーせ、そこら辺をほっつき歩いているわよ」

 

 出迎えたキャスターは、頭痛を堪えるかのように言葉を吐き出した。

 

「アレの位置なら分からないわ。どういう了見か分からないけど、勝手に別の依代を用いて好き放題しちゃうくらい破天荒なんだから」

 

 武蔵には日頃キャスターも悩まされているらしい。ははぁ、と。3人は頷いた。そりゃそうだわな。

 

「じゃあ、これ。色々と世話になっているから」

「ふぅん、ホワイトデーってことかしら」

「まぁな」

「義理堅い子ね。……宗一郎様の件があるから、どちらかと言えば私が渡さなくちゃいけないのに」

「いや、葛木先生のは、捲き込んじゃったようなもんだから」

 

 桜は顔色を変えず、しかしその心の内には少なくないダメージを負った。士郎だけでなく、理想の主婦像として参考にしているキャスターにまでも、アレの件で迷惑をかけてしまっている事実についてだった。帰ったらあのクソババァにもう一度折檻をせねばなるまい。

 

「ありがとう。アレにも渡しておくわ。……渡した後の事については、まぁ、困ったら言いに来なさい」

 

 キャスターは近い未来に訪れるゴタゴタを思って、秘かに胸中で溜息を吐き出した。どうにもこの坊やには面倒事が付いて回るのだ。純粋無垢って罪ね。まぁ今回の恩もあるし、一回くらいは助けてやっても構わない。

 

「それじゃあ帰りましょう。遅くなったら色々とウルサイのいるし」

 

 用事は済んだと判断すると、凛は士郎の腕を軽く引っ張った。いつアレこと武蔵が帰って来るかも分からないのだ。長居は無用である。

 あ、ちょっと待ちなさい。キャスターは3人を呼び止めると、その手に杖を握った。そして振る。

 シャランと。なにやら鈴が鳴る様な綺麗な音と共に、3人の視界が回り、

 

「へ? あれ?」

「先輩の……お家?」

 

 桜の言葉の通り、次の瞬間には3人は衛宮邸にいた。正しくはその庭。縁側ではイリヤがポカンとした表情で3人を見ている。

 

「……ああ、なるほど。何てデタラメ」

 

 凛は1人、その意味を察した。早い話が空間転移である。柳洞寺内ならともかく、衛宮邸は自分の陣地でも無いのに。流石は神代の魔術師と言うところか。魔法級の所業である。

 だがその真価を理解出来るのは、この場には凛しかいなかった。士郎も桜も「それじゃあ夕ご飯を用意しようか」なんて笑っている。まぁ2人は正規の魔術師というには色々足りてないし、理解をしろと言う方が酷だろう、うん。

 

「……これ、空間転移でしょ? こんな事出来るの、キャスターくらいだと思うんだけど。柳洞寺行ったの? 何で?」

 

 唯一凛以外でのその真価を理解出来るイリヤは、凛に事の次第を詰め寄った。いつもは只のエロガキの癖に、魔術が関わると一転して聡明な魔術師になるのだ。流石はアインツベルン。無駄に勘のいいエロガキである事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛宮邸の面々にホワイトデーのお返しが渡されたのは、夕ご飯の後だった。勿論個別に渡すとそのまま何をされるか分からないので、皆がいる前で。他の面々は勿論個別に渡してほしかったと考えているが、士郎とて馬鹿ではない。嫉妬や妬みやその他諸々で、衛宮邸をこれ以上の地獄にするのは嫌なのだ。

 まぁ夕ご飯は士郎の手作りだし、その後のケーキも手作りだし、勿論マカロンも渡したしで、今日士郎から渡された他の面々に比べると、彼女たちは随分と豪奢なお返しを味わえている状態である。それで充分と己の幸運に感謝しなきゃね、うん。

 

 

 

「今日、シロウの事、もらうから」

 

 

 

 まぁそんな簡単に安全に平和に3/14が終わるわけがない。

 酔いつぶれた我らのタイガーを士郎が藤村邸に送りに行った、その時間を使って。

 イリヤは宣言をした。真っすぐ行ってぶっ飛ばすと言わんばかりの、剛直な宣言だった。

 

「殺すわよ、クソガキ」

 

 凛は笑顔で、それでいて混じり気のない純粋な殺意をイリヤにぶつけた。彼女の思考は瞬間的に沸騰していた。言葉に表せないほどの怒りで、彼女の全ては満ちていた。お家芸の様に、その右手が光って唸っている。

 

「ふふっ……」

 

 桜は瞬間的に真っ黒になった。いつもだったら顔くらいは残っているのに、頭の先から足元まで真っ黒になっていた。あのタコさんウィンナーみたいな形であった。足元は真っ黒な闇に侵食されていた。つまりはヤバいレベルである。

 

「イリヤスフィール、それを私たちが許すとでも?」

 

 ライダーは出来の悪い子を諭すかのように、穏やかな口調で言葉を紡いだ。だがその右手は眼鏡の蔓に添えられており、いつでも魔眼外しは可能であった。彼女が本気を出せば、たかだかアインツベルンのホムンクルス程度、簡単に石化出来る。

 

「あら、許可なんて求めないんだけど。先に言っておかなきゃ、ってだけよ。士郎は私たちのものって事をね」

 

 イリヤスフィールは余裕綽々の表情で、3人に言葉を返した。ウィンクを返す余裕すらあった。クソガキにしてはあるまじき態度であった。

 はて、なんでコイツはこんなに余裕を見せられるのだろうか。

 僅かに残っている冷静な部分が3人に疑問を浮かばせ――――一つの形となる。あれ、そう言えばセイバーは?

 

「――――っ、まさかっ!」

「あら、早いわね。そのまさかよ」

 

 3人が思い当たるのと、イリヤがその口角を釣り上げたのはほぼ同時だった。彼女はニヤリと、実にあくどい笑みを浮かべると、その指をならした。パチン。

 

「私たちアインツベルンは……セイバーと同盟を結んだわ」

 

 すとっ。まるで忍者の如く突如としてイリヤの背後に現れるセラとリズ。そして端の方で優雅にお茶を飲んでいたセイバーは、何も言わずに、しかし意味アリ気に3人に視線を向けた。その口角は、僅かばかり上がっている。

 

「いつまでも仲良しこよしではいられないわ。時間は有限。それは皆も分かっているでしょう?」

「だからアインツベルンで囲おうと?」

「ええ、そうよ。もうすぐお兄ちゃんは卒業してしまう。それで、卒業したらイギリスに留学に行くつもりなんでしょ。だったら、タイミングとしては今日が最後にして一番じゃない?」

「戯けた事を言わないでくれますか、イリヤさん?」

「えー、そんなこと言ったって、他の皆じゃお兄ちゃんを幸せに出来ないじゃん」

「……あら、イリヤさんったら。少しばかり口上が過ぎているではないでしょうか?」

「そうかしら? まぁ確かにサクラは良い子だもんね。そう思うかも」

「随分と物分かりが――――」

「でも、マキリじゃダメでしょ。ゾォルケン(盗撮蟲姦レイプ魔)がいるじゃない」

 

 ぐはっ。黒いタコさんウィンナーのまま、桜はその口から黒い液体を吐き出した。身内が恥を重ねたばかりで、それは実にタイムリーにしてクリティカルな一撃である。禁止カード禁止カード。反論の言葉が見つからない。

 

「で、リンの場合は……シロウが一緒にイギリスに行ったら、絶対他の魔術師共が狙うでしょ」

「あら、私が有象無象に負けるとでも?」

「リンはなんでもソツなくこなすくせに、ここ一番で失敗するじゃない。なんか他の第三者に搔っ攫われそう」

 

 言うじゃない。凛はにこやかな笑みのまま硬直した。イリヤの言葉はイメージ先行の言いがかりである、と言うには諸々思い当たる節が多すぎた。雌犬の件とか、武蔵の件とか。勿論認めないけど。

 

「あとライダーはほら……変態だから」

「あぁ……」

「言いがかりにも程がありますし、皆の態度が心外でならないのですが」

 

 ライダーは溜息を吐き出した。何でこんな時に皆同じような態度なのか。言葉の通り心外である、が、彼女が士郎に夜這いを掛けようとバレバレのムーヴをし、桜に捕まって折檻を受けるまでが、彼女の楽しみの1セットであることを、この場にいる皆は知っている。救いの手はない。

 

「だったらもう私たちアインツベルンとセイバーで、士郎をしっかり保護すべきじゃない? お兄ちゃんの夢も、アインツベルンが全面サポートすればいいしねー」

「「「戯けるなクソガキ」」」

 

 全くの同時に3人は言葉を発した。その結論だけは認められなかった。確かに3人ともに至らぬ点はあるかもしれないが、それでもこのエロガキの手の者に囲われるよりは問題無いと思っていた。五十歩百歩、目くそ鼻くそ的な考えだった。

 

「そもそもの話、時代は兄ロリよ。誰もが皆心の内に、そして潜在的に、ロリとなって兄という存在に甘やかされて絆されて蕩けたいと考えるの。――――もう甘える事が難しい年齢だからって、八つ当たりは止めてもらいたいわ」

 

 勝利宣言と言わんばかりに、イリヤは鼻で笑って言葉を発した。自分の優位性を疑わぬ態度に口上。単純な年齢だったらアンタの方が士郎より上な癖に。瞬間的に3人の感情が沸騰し、目前の敵を殺さんと、その意思を折らんと目が眇められる。

 

「……?」

 

 そんな。殺意と敵意が綯交ぜになって膨らむ衛宮邸居間。

 唯一冷静だったセイバーは、ふと疑問を覚えた。

 シロウ、まだ帰ってこないのでしょうか?

 

 

 

 

 

「しーろー、えへへへへ」

「飲み過ぎだろ、藤ねえ」

「いーんですー、うへへー」

 

 士郎は自身の膝元で、だらしない様相を見せる姉代わりに、深々と溜息を吐き出した。

 藤村大河。士郎の保護者兼姉代わりにして、穂群原学園に勤務する英語教諭、そして剣道五段の腕前を持つ女傑である。

 生徒からの人望も篤い彼女ではあるが、今は蕩けた笑顔で寝転んで弟分の名前を連呼するなど、しっかり者としての面影はどこにも無い。

 

「えへへー、ことしもー、しろーからのー、あいのぷれぜんとー♡」

 

 大河は士郎からもらったマカロンを大切に掲げると、それに口づけを落とした。余程嬉しいのだろう。その顔は明らかにお酒以外の要因で朱に染まっている。

 士郎は溜息を吐きつつ、そんな姉代わりの頭を撫でた。知らない人が見たら驚くだろうが、このトラは気心の知れた仲だと途端にだらしなくなるし、酒が入れば尚一層と言う奴だ。つまりは士郎からすれば今までに幾度となく見てきた様相である。

 

「明日も仕事だろ? もう飲むなよ」

「らーいじょーぶ、らーいじょーぶ」

 

 何も大丈夫じゃない。顔は真っ赤だし呂律も回って無いしで、このままだと明日の仕事に差し支えが出るのは間違いない。絶対頭を痛めながらの授業になるだろう。

 士郎は大河からお猪口を取り上げると、彼女の代わりに口にした。これ以上飲ませない為である。未成年飲酒? 大丈夫、バレなきゃ問題ない。

 

「あー、しろー、のんだー」

「はいはい、これでお終いな」

「えへへー、かんせつきすだー」

 

 馬鹿言うな。言葉にする代わりに士郎は溜息を吐いた。この姉代わり、酔えば酔う程質が悪くなる。

 衛宮邸でのホワイトデーパーティー。イリヤが持ってきたワインを、彼女は1人で5本は空けただろうか。そんでもって藤村邸で日本酒を追加。酔っぱらいを自宅へ送るだけの筈が、無理矢理同席させられてそのまま2人だけの二次会に突入。士郎は完全な被害者だ。

 でもまぁいいか。だらしない姉代わりの髪を撫でる。さらさらとした手触り。にへら。さらにだらしない笑みを見せる大河。この世界では、いつもなんだかんだで忙しい身だ。偶にはハメを外してもいいのかもしれない。

 くいっ。お猪口に残っていた残りの日本酒を士郎は口に含んだ。寝転がっている大河からすると見上げる形。開け放たれたジャージ。見える喉元。アルコールが多少なりとも回っているのだろう。肌が少しだけ朱に染まっている。コクリとお酒が通って動く喉。うわっ、えっっっっっっろ。

 

「……なんだよ、もう飲ませないからな」

 

 視線に気が付いたのだろう。ジト目で士郎は大河に視線を向けた。なんだか子供っぽい口調。幼い頃の彼を思い返すようで微笑ましい。

 

「ふふっ、しろーのことは、わたしがずーっと、ずーーーーーっと、まもってあげるからねー」

「はいはい」

 

 呆れを隠さない溜息。でもその顔は仕方がないなぁとでも言いたげに緩んでいて。

 ただただ、幸せだと。大河は思った。

 士郎と一緒にいられること、その事に言葉に言い表せられないほどの幸福を感じていた。

 

「あ、しろー、てれびつけてー。どらまー」

「はいはい」

 

 士郎は抵抗一つせず、大河の言う通りに動いた。世界が変われど、酔った虎の相手程面倒な事は無い。それを彼は知っている。

 テレビをつけると、すでにチャンネルは件の放映局にセットされていたらしく、タイガーお目当てのドラマが今まさに始まろうとしていた。

 

「いまいいところなのよねー」

「はいはい」

 

 士郎は興味ないので詳しくは知らないが、それなりに話題になっている事は知っている。桜が食い入るように見ているのを何度か目撃した事があった。何でもどこかのお屋敷に住まうお嬢様の元に、生き別れの兄が戻ってくるお話だとかなんとか。でも単純なラブストーリーではなく、伝奇ホラーラブストーリーらしい。なんじゃそりゃ。

 点けたテレビの先では、髪を真っ赤にして恐ろしい形相を浮かべる女の子が映し出されたところだった。なんでもこの子が件のお嬢様らしい。

 

「ん?」

 

 ドラマに集中する前に、画面の上部に文字が映し出される。緊急速報。

 

「へー、あのはいゆうさんけっこんするんだー」

 

 緊急速報の内容は、とある俳優の結婚報道だった。わざわざ結婚くらいで緊急速報? と士郎は思ったが、そもそもこの世界は男が少なく、加えてわざわざ衆目を集める芸能人になりたがる人物は一握りもいない。つまりは超希少。そりゃ緊急速報テロップも流れると言う奴である。今頃は件の俳優にお熱を入れていた方々は、皆死屍累々と言った有様でいることだろう。

 そんな事を考えながらテレビを見ていたら、CMに入るタイミングでニュースが入った。どうやら番組を差し替えて、テロップだけでなく大々的にアナウンスするらしい。芸能人も大変である。……心なしかすすり泣く様な声がテレビから聞こえてくるのは気のせいだろうか気のせいだよね気のせいであってほしいなぁ。

 

「そくっ、速報を゛っ! お伝え゛します……」

 

 アナウンサーがもうダメだった。どうやらかなりお熱を入れていた方らしい。

 そのまま嗚咽を堪えながら読み上げられるニュース。バックに映るのは切り抜かれた件の俳優さんたちの写真。そして結婚報告のファックス。各放映局に連絡がされたのだろう。結婚一つが国内に知れ渡る事を考えると、この世界の俳優さんは大変だ。

 

「たいへんだねー」

「そうだな」

「でもしろーはもっとたいへんかなー」

「そうかな?」

「でもだいじょーぶ、わたしがまもってあげるからー」

 

 はいはい。士郎は軽く流しながら、大河の頭を撫でた。さらりさらり。柔らかな髪質。

 

「てことでー、まもってあげるからー、あしたはひさしぶりにしろーのあさごはんがたべたーい」

 

 可愛らしい交換条件である。別にそんなこと言われなくても作るのに。

 そう思いながら士郎は口を開いた。いいよ、オッケー。

 

「まずたまごやきだよねー、あまいやつ」

「いいよ、オッケー」

「おみそしるのぐは……なめことおとうふでー」

「いいよ、オッケー」

「それからー、おてせいのおつけものー。きゅうりとかぶのやつ」

「いいよ、オッケー」

「それからそれからー、えーと、あ! にくじゃが!」

「いいよ、オッケー」

 

 打てば響く様な会話に、なんだか大河は楽しくなってきた。最近は朝は桜が台所を譲らないので、士郎のお手製朝食を食べる機会は減っているのである。桜のご飯も好きだが、大河としてはやはり切嗣存命の頃から食べ続けている、士郎のご飯の方がいい。

 その調子で大河は希望を重ねて行く。手作りふりかけ、季節の魚の照り焼き、野菜の味噌炒め物、切り干し大根の和え物、etcetc.

 士郎も士郎で調子よく答えて行く。勿論全部調理可能だから答えているのだけど。なんだかんだ言っても姉には甘いのである。殺伐とした衛宮邸とは異なり、何とも優しくて柔らかな空間なことだ。もしも士郎が今の衛宮邸の惨状を知ったら多分泣く。

 ふと。何の気なしに大河は口を開いた。

 

「あさごはんのきぼうなんて、しんこんさんみたいだねー」

 

 彼女の友人が聞けば「そこまでにしておけよ藤村」とでも言うだろうか。いや、その前に取っ組み合いの喧嘩になるだろう。現役DKで家事上手で気立てのイイ婿とか、多分彼女は認めない。と言うか世界が認めない。

 はいはい。士郎は適当な相槌で流した。酔っぱらいの相手はこれくらい適当でいいのだ。

 

「えへへー♡」

 

 何度も言うが、大河は幸せだった。ほど良く回ったお酒。ふわふわした頭。士郎の膝枕。優しく撫でてくれる手。邪魔者はどこにもいない。2人だけの世界。

 彼はいつか自分の元を離れて行くだろう。だって男の子だから。優しい子だから。そしてその時彼の隣にいるのは、あの子たちの内の誰かに違いない。

 でも。その時が来るまでは。

 護り続けても、罰は当たらないだろう。

 

「しろー、あいしてるよー♡」

「はいはい」

 

 その時が来たら、笑って見送ろう。誰の手を取っても、あの子たちの内の誰かであれば、祝福をしよう。

 だから、今だけは、

 

「……私のだもん」

「ん?」

「なんでもなーいよー」

 

 アルコールで少しずつ遠くなっていく意識。夢の世界はもうすぐそこ。あぁ、今日は何て良い一日――――

 

 

 

 ホワイトデー勝者:藤村大河

 

 

 




おまけ(と言う名のNGルート)


「あさごはんのきぼうなんて、しんこんさんみたいだねー」

⇒他に希望は無いか訊く
 適当に流す

 彼女の友人が聞けば「そこまでにしておけよ藤村」とでも言うだろうか。いや、その前に取っ組み合いの喧嘩になるだろう。現役DKで家事上手で気立てのイイ婿とか、多分彼女は認めない。と言うか世界が認めない。
 他に希望はないか。士郎は撫で続けながら訊いた。昨今では教職の大変さがニュースを騒がせることも少なくない。いつも笑顔を絶やさぬ彼女とて、気苦労を抱え込んでいないとは言い切れない。ならせめて、朝ごはんくらい好きなものを作ってあげようと言うものである。

「じゃあね、もうはるだしー、たきこみごはんもたべたいなー。たけのこのやつ」
「いいよ、オッケー」
「あとはー、たけのこをつかって、なにかおいしいのおねがーい」
「いいよ、オッケー」

 テレビでは相変わらず俳優の事を伝えている。時間が経って悲しみの感情が増幅したのか、すすり泣きは大きくなり、画面が微妙にブレている。テレビスタッフの方々も心にクリティカルダメージを負っているらしい。
 結婚の報道。ホワイトデー。愛情の詰まったお返し。少々飲み過ぎたアルコール。弟分との幸せな会話。幸せな空間。
 いい具合に頭がほわほわとしてきたこともあり、大河は眠気を覚えて来た。もう少しこの幸せな状況を楽しみたいところだが、この眠気には如何とも抗いがたい。

「うーん、あ、」

 だから、きっと。
 これはどっかの誰かの癖が移った。

「あとね、あとねー、」

 そんな『うっかり』。



「しろー、およめにもらってくれるー?」
「いいよー、オッケー」



 さらりさらり。変わらず撫で続ける手。暖かな感触。ああ、ほんとうにいいきもち……じゃなくて、あれ、いまわたし、なんていった? それでしろーはなんていった?
 ぐるり。大河は膝枕堪能中のその頭部を、士郎の顔を見上げる形に戻した。いきなりの行動に、撫でていた士郎の手が驚いて止まる。

「……………………………………………え?」

 たっぷり三点リーダ17個分の空白を経て。
 大河の口から飛び出たのは、そんな気の抜けるような疑問の音だった。

「いま、なんて」
「だから、オッケーって」
「……えーと、あさごはんのおはなしじゃなくて、ね?」
「……」
「その、さっきの、えーと……」
「……何度も言わすなよ」

 大仰に士郎は溜息を吐いた。彼にしては珍しい息の吐き方である。そしてアルコールとは別に朱の色に染まっている頬。でもきっと自分も顔赤い。そう大河は思った。全く以って正しい理解だった。

「大切な人を、そこらのやつには任せられないからな」

 ぶっきら棒な言い方だった。回りくどい言い方だった。思春期という事を差し引いても、分かり辛い言い方だった。
 でもそれは。感情表現を得意としない彼にしては、精一杯とも言える言葉で――――

「――――士郎」
「……何だよ」
「ふ、不束者ではありますが……今後とも、どうぞ、よろしくお願い致します」

 3/14の夜。
 世間が俳優の結婚報道で悲しみの慟哭を迸らせ。
 衛宮邸では意味のない争いを馬鹿共が繰り広げる中。
 こうして。衛宮士郎と藤村大河の婚約が決まったのだった。



 藤ねえルート、完!


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