勘違いをしたのかもしれない (おかぴ1129)
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やらかしてしまったのかもしれない①

登場人物紹介

小塚真琴:新人。渡部正嗣が指導係。渡部薫を性的に愛している。
金森千尋:期待の新人で薫の部下。渡部正嗣を性的に愛している(らしい)。

一色玲香:大口の取引先『サイトウ・テクニクス』の社員。

渡部正嗣:小塚真琴の指導社員。金森千尋の想い人。
 渡部薫:仏頂面。小塚真琴の想い人。


 ……空気が湿っている。息が熱っぽい。部屋の中が薄暗い。

 

 彼の荒い息遣いが、私の耳に妙に熱い。吐息の感触と熱が、私の素肌をくすぐっていく。

 

 私に覆いかぶさる誰かの、その胸に触れる。服の上からはさっぱり分からなかった彼のしなやかな身体は、しっとりと汗で湿っている。

 

 視界がぼやける。意識がはっきりしない。息が整わない。ついさっきまで相手によって無理矢理に声を絞り出されていたおかげで、私の体も熱く汗ばんでいる。整わない息で必死に空気を吸い込むが、それもうまくいかない。私の胸は、浅い呼吸を繰り返すことしか出来なくなっていた。

 

 赤く薄暗い室内でぼんやりと映る相手の顔は、よく見知ったはずの男性だ。彼の手が汗で湿った私の髪に触れる。さっきまであんなに私を責め立てていたはずの右手は、今は普段の彼のように優しい。彼はその手で、私の頬を愛おしそうに撫でた。

 

『小塚さん』

 

 彼は息が整わないまま、耳元で私の名を読んだ。その、熱を帯びた彼の吐息が耳に届く度、私の全身をぞくぞくとした違和感が駆け巡る。身体が波打つ慣れない感覚に耐えきれず、私は声を漏らして目を閉じ、身を強張らせた。

 

『……いくよ』

 

 彼の声が、再び私の身体をくすぐっていった。ぼんやりした意識の中、私は何も考えられず……そして目を閉じたまま、ほんの少しだけ頷いた。

 

 その瞬間、私の全身は、彼の素肌の感触に激しく包み込まれた。私は耐えられず、彼によって身体の奥から押し出された声を、ただひたすら口から漏らし続けることしか出来なかった。

 

 その口は、彼によってすぐに塞がれた。

 

………………

 

…………

 

……

 

 ゆっくりと瞼が開き始めた。ぼんやりした視界に飛び込んできたのは、なんだか見慣れない天井。点灯してない四角い照明が見える。室内がほのかにオレンジ色に見えるのは、部屋の隅にある間接照明のせいか。

 

 イマイチ意識がはっきりしないが、あの天井が、私の知らない見慣れない天井だと言うことは分かった。ではここはどこだろう。まだ完全に覚醒していない頭で、ぼんやりとしたまま、考える。

 

 そういえば、何か夢を見ていたような……妙に気になり、回転が鈍い頭でぼんやりと夢の記憶を辿る。随分と見知った相手と一緒に部屋に入り、そしてとりとめのない話をした後、互いの体に触れ、そして、相手を受け入れて……誰だったっけ……妙に生々しくて、とてもリアルな感触の夢だったけれど……

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……!?

 

「金森くん!?」

 

 頭が突然フルスロットルで動き出し、私は意識の覚醒と共に上半身を勢いよく起こした。

 

「ちょ……待って待っ……!?」

 

 額に手を当て、必死に昨晩のことを思い出すが、困ったことに思い出せない。

 

 昨日はクリスマスイブで、愛する薫お姉さまの家にパーティーをお呼ばれしたことは覚えている。その場に、金森くんがいたことも覚えている。

 

 そして、次の日……つまり今日が平日で仕事があるからということで、9時には解散になったことも覚えている。あの時間に、私と金森くんは一緒にお姉さまの家を出たことも覚えている。

 

 問題はその後だ。さっぱり思い出せない。必死に昨夜の記憶をたどりながら、自分の身体を手でさすって、自分の状況を確認する。昨晩お姉さまの家からお暇したときと同じ服装であったことに多少胸をなでおろし、それでもまだ安心は出来ないと警戒しながら、私は周囲を見回した。

 

 ……何度見返しても、私の部屋ではない。私の部屋のように狭くないし、私の部屋にあるはずのない、おしゃれな間接照明がいくつか置いてある。兄貴の嫁の小春さんが作ってくれたお気に入りのソファもないし、私の部屋のテレビはあんな大画面のテレビではないはずだ。第一、私の部屋のベッドは、こんなふかふかでオシャレなベッドではない。小さい頃から使い続けたボロボロのパイプベッドのはずだ。

 

 私は落ち着いて状況を整理しようとするけれど、今の私の混乱する頭では、それすら難しい。

 

「えっと……落ち着け……落ち着いて状況を確認しろ……」

 

 改めて周囲を見回す。大きなテレビとベッドの間には、革張りでブラウンの二人がけのソファが置いてある。

 

 そのソファから、男性の足が伸びている事に気がついた。さっきは背もたれに隠れてよく見えなかったけれど、飛び出た足の長さから考えると、相手は相当背が高い。

 

「んー……」

 

 背もたれの向こう側から、かわいい唸り声のような音が聞こえた。私はベッドから起き、背もたれの向こう側を覗き込む。この知らない部屋の中で、私が一晩過ごす羽目になったのは誰だ……もし知らない男だったらどうしよう……緊張する気持ちを押さえ、私はその男性の顔を確認した。

 

「す~……」

 

 背もたれの向こう側で、実に気持ちよさそうに寝息を立てていた男性……それは、私と同期の仕事仲間にして、あのグータラ渡部正嗣先輩を好きだと世迷い言をふりまく、我が社きっての残念なイケメン、金森千尋くんだった。

 

「よかった……金森くんなら……あ、いや待てマズい……ッ」

 

 相手が見知った男性であったことに多少は安堵したものの、すぐに頭は再沸騰した。

 

 問題はまだ解決していない。金森くんがここで眠っているということは……私が一晩共に過ごした相手は、この金森くんで間違いない。部屋の中は生活臭はけっこうあるけれど、キチンと整理整頓がされていてオシャレだ。ということは、ここはきっと金森くんの家。

 

――いくよ

 

 唐突に夢の一言を思い出し、私の顔から吹き出す湯気の量が増えた。妙にリアルなあの夢は、ひょっとして夢ではなく……

 

 さっき以上に私の頭が混乱していく。頭を抱え、ワシャワシャとかきむしった。この静かな室内で、頭をかきむしる音がいつもよりも大きく聞こえた気がした。

 

「バカな……! ひょっとして私、金森くんと……!?」

「んー……あれ。おき……た……?」

 

 そんな私の静かな大混乱は、目の前の眠れる王子様を起こしてしまうには充分過ぎたらしい。気持ちよさそうに安心しきった寝顔を見せていた金森くんが、目をこすりながらゆっくりと、その大きな上半身を起こした。

 

 その後、金森くんは眠そうに大あくびをしたあと、いつもの機敏な動きとは似ても似つかない、じつにゆっくりとした動きで右手を上げ、ニヘっと力なく微笑んだ。

 

「んー……」

「……」

「小塚さん。……おはよ」

「……」

「……?」

 

 返事ができん……金森くんの顔を直視することが出来んッ。もしあの夢が、夢ではなかったとしたら……どうしよう……聞くのも怖いけど……でも、聞かないと……

 

「あ、あのさ金森くん……」

「うん?」

 

 金森くんはかなりぼんやりとしている。気のせいか、金森くんの頭からは、くるくる線と小さなお日様が飛び出ているようにも見えた。

 

「昨日……私達……」

「昨日……?」

「えっと……」

「……?」

 

 無邪気に微笑みながら首を傾げる金森くんを前に、私の心がみるみる萎縮していく。でも顔はそれに反比例してまっかっかだ。

 

 意を決し、でも恐る恐る、私は昨日の夜のことを金森くんに問いただしたいのだけど。

 

「えっとさ……私達」

「うん……?」

「んーと……」

 

 その第一声が出てこない。もし『ゆうべはおいしくいただきました』みたいなことでも言われたら……ッ!?

 

 私が最後の一声が出せずにしどろもどろしていたら……金森くんの頭も寝起きからだいぶ覚醒してきたらしい。だんだんと顔がシャッキリしてきて、私のことを不思議そうに見る眼差しにも、力がこもってきた。

 

 その後、人差し指で自分のあごをぽりぽりとかいた金森くんは、私の顔を覗き込み、そして起き抜けの静かな空気を破らないような、とても静かな声を出した。

 

「……昨日のこと、覚えてない?」

 

 そう! その通りなんだよ金森くん!! 私は首を縦に大きくぶんぶんと振り、これみよがしに頷いた。

 

 そんな私の様子をみた金森くんはすべてを察したようで、ニヘッと微笑んだ後、昨日の夜のこと……特に、お姉さまの家を二人でお暇したあとのことを、優しい笑顔と共に私に語ってくれた。

 

 



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やらかしてしまったのかもしれない②

「では今日はありがとうございました!」

「お姉さま! また明日会社で!」

「はい。ではおやすみなさい」

「おーう。ふたりともまた明日なー」

 

 夜の九時頃、私と金森くんはお姉さまたちの愛の巣からお暇した。

 

 パーティーはとても楽しかった。最後の片付けまで楽しいパーティーなんてホントに初めてだった。渡部先輩と一緒に皿洗いをしたとき、お姉さまがなぜ先輩のようなぼんくら男を選んだのか……その謎のヒントも一つ聞き出すことが出来たし……。今回のパーティーはとても満足だった。

 

 ただ一つ。欲を言えば、お姉さまと同じ空間に、もう少し長くいたかった。明日が平日で仕事があるという理由で、比較的早い時刻に解散となってしまったことだけが不服だ。楽しいパーティーだっただけに、それだけが悔やまれる……。

 

「うう……寒いね……」

「うん。そだね」

 

 今、私の隣で身を縮め赤と紺のストライプのマフラーを首に巻いた金森くんも、きっと同じことを思っているはずだ。私がお姉さまのことを好きなように、彼も渡部先輩が好きだ。彼も、願わくばもっとあのぼんくら先輩と一緒にいたかったであろうことが、その、ほんの少しだけさみしげな眼差しを見れば分かる。

 

「ねー金森くん」

「うん?」

「もうちょっとお姉さま宅にいたかったよね」

「んー……でもまぁ、明日は仕事だしね」

 

 私の誘導尋問にも引っかからず、金森くんはそつなくそう答えた。そもそも『9時には解散』を言い出したのは渡部先輩だし、そんな渡部先輩の決断に、金森くんはケチをつけたくないんだろうなぁ。健気な男だ。

 

 バッグからスマホを取り出し、時刻を確認した。時刻はまだ九時過ぎ。確かに時刻だけを見れば夜も遅いけれど、私達からしてみれば、まだまだ遊び足りなくて物足りない時間。帰り道には商店街もある。あそこであれば、まだまだ開いてるお店もあるはずだ。

 

「ねえ金森くん」

「んー?」

 

 私の隣で静かに歩く金森くんが、私のことを見下ろした。私に比べ、金森くんは背が高い。以前に聞いたら身長は182センチだったか……いや待て84だったか……どちらにせよ、ずいぶんと背が高い。私の背など、並べば彼の肩の位置より少し高いぐらいだ。

 

「時間はまだ早いよ」

 

 私はそんな金森くんの顔を見上げ、ニヤリと笑った。

 

 金森くんも、自分の腕時計で時刻を確認した。金森くんは私と違い腕時計をつける派だが、そんな彼が愛用している二重巻き革ベルトの腕時計は、メンズというには少々小さい、レディースに近いサイズの時計だ。そんな二重巻の腕時計を、彼は手首の内側につける。いわゆる女性の腕時計の付け方だ。そのせいか、彼が時計を見る仕草は、妙に色っぽく見えることがある。

 

「……そだね。帰り道で、どこか店に寄ろうか」

「うん。そうしよ」

 

 そうして私達は、帰り道の途中の商店街で開いてる居酒屋に入り、そして、私の運命も決まってしまった……

 

………………

 

…………

 

……

 

「そ、そのあとは……?」

「んー……」

 

 そこは私も今なんとか思い出せた。お姉さま夫婦と別れ、そして金森くんと二人で商店街の居酒屋に入ったところは。

 

 問題なのは、そのあとだ。お店で金森くんが止めるのも聞かず、お姉さまのマネをして黒霧島をロックで煽ったところまではなんとか思い出せたが、そこから先がさっぱりだ。

 

 私の目の前の金森くんは苦笑いを浮かべ、先を言うか言うまいかを迷っているようだ。冷や汗を垂らしながら苦笑いを浮かべ、口をわずかに開いたかと思えば、また閉じる。その様子が、逆に私を不安にさせる。やっぱり私達は、酔いに任せて、一線を越えてしまったのか……あの、妙に生々しくリアルな夢は、夢ではなく……

 

「……えっとね」

 

 煮え切らない態度に私が頭を抱えていたら、金森くんは恥ずかしそうに鼻の頭を人差し指でぽりぽりとかきつつ、ポツリポツリと真相を語ってくれた。その間、私からは目をそらし続けていたが……

 

……

 

…………

 

………………

 

「なーんーでー!!」

「うーん……」

「ねぇなーんーでー!? なんでお姉さまは、あんな社内ニートと結婚したのー!?」

「なんでだろうねぇ……タハハ」

 

 憧れの薫お姉さまに少しでも近づきたくて煽った黒霧島ロックは、たった一杯で私をザ・酔っ払いに突き落としたそうだ。最後の一滴まで煽った私は次の瞬間、滝のような涙を流し、そう叫んでテーブルに突っ伏したそうだ。ごめん金森くん……もう二度と黒霧島飲まないから……

 

 一方の金森くんは、私が管を巻いてる最中も、王子様のような微笑みを絶やすことなく……でも私の絡みなぞどこ吹く風で、お店のメニューを眺めていた。

 

「私だって負けないのにッ! 薫お姉さまを思う気持ちは渡部先輩なんかに負けないのにッ!!』

「そだねー。大将。お冷2ついただけますか?」

「ちょっと金森くん聞いてる!?」

「聞いてる聞いてる。……あ、オレンジジュースあるならそっちもいいかも」

「ったく! 金森くんがさっさと渡部先輩を寝取ればいいのにッ!」

「がんばるよー。……あ、お冷ありがとうございまーす。あと、オレンジジュース一つ下さい」

「かーなーもーりーくーんー!?」

「そんなに大声出してたら喉乾くよ。お冷飲んだら?」

 

 私は声を張り上げて渡部先輩へのいらだちを表現した後、金森くんが頼んでくれたお冷に口をつけた。お冷はとても美味しくて、勢い余って金森くんの分までぐびぐびと煽り、飲み干してしまった。ごめん……つくづくごめん……

 

 そうして12時前までその店で飲み続けた私たちは、お店の閉店と同時に店を出た。その頃になると私はもう千鳥足でまともに歩くことも出来ず、困り果てた金森くんは私をおぶって帰り道を歩いていったそうだ。

 

 家に送ろうにも、おんぶされた私からはすでに気持ちよさそうな寝息が聞こえ、声をかけても揺さぶってもまったく起きる気配がなく……

 

 ならばと近所のホテルに私を押し込め、自分はお金だけ払って帰ろうとしたそうだけど……昨日は腐ってもクリスマス。めぼしい宿泊施設はすべて満室で、途方に暮れた彼は、自分の家に私を連れ帰ることにしたそうだ。

 

 帰宅後、金森くんは私をベッドに寝かせ、自分はソファで眠ったそうな。寝入りばなは『お姉さまぁ……らめぇ……』という私の寝言に悩まされ眠れなかったそうだが、知らず知らずのうちに自分も寝てたみたいだ、と屈託のない笑顔で金森くんは答えてくれた。

 

………………

…………

……

 

 ……なんということだ……。金森くんの説明を聞いていく中で、昨日の記憶が私の頭の中に鮮明に蘇ってきたが……そもそもこんな記憶、思い出したくなかったかもしれない。

 

「……金森くんっ」

「ん?」

「……ごめん」

 

 これは心からの謝罪。金森くん……あんた、いい人だよ……確かに残念なイケメンかもしれないけれど、その誠実さはホントだね……『金森くんとやらかしてしまったのか!?』と少しでも疑った自分が恥ずかしい……

 

「いいって。困った時はお互い様だよ」

「いい人やー……金森くん、あんた、いい人やー……」

 

 金森くんには本当に頭が下がる。思い出してみれば、私は昨日あれだけ盛大に酔っ払ったのにもかかわらず、二日酔いの症状が皆無だ。思えば、黒霧島ロックをはじめとするアルコールと同じかそれ以上、お冷やオレンジジュースを飲んでいた記憶がある。あれはきっと、気を利かせた金森くんがそそくさと注文していたものだろう。私が酒に呑まれている間、金森くんはずっと頑張っていたということか……。

 

 金森くんの健気さに感心しつつ、私は壁のアナログ時計に視線を移した。iPhoneの時計アプリのような、シンプルだけどオシャレな時計が指し示す時刻は、午前6時。

 

 ……思い出した。今日は仕事がある。今の私はシャツこそ白いが、下はゆったり目のデニムパンツ。履いてる靴もコンバースだしコートもグレイで模様の入ったニットコート。どこからどう見ても私服で、これから出勤する服装には見えない……。

 

 それにシャワーだって浴びたい。髪もボサボサだし化粧もボロボロ……身体だって汗でベタベタ……いやこれは決してやましいことが原因ではないが……やましい……あー、いやいや。

 

「えっと……金森くん」

「ん?」

「私、一回家に帰ってシャワー浴びたい」

「うちのでいいなら貸すよ?」

 

――いくよ

 

「……」

「……?」

 

 危ない……夢を思い出して顔が真っ赤になるところだった……

 

「いやいや。着替えたいし、仕事のバッグもないし」

「あそっか。んじゃ帰らなきゃいけないね」

 

 純真なのかそれとも裏で何かを企んでいるのか……あるいは私が相手ではまったくそんな気にならないのか……とにかく理由は色々とあるだろうが、金森くんは私のヒートアップに反して、とても冷静で落ち着いている。

 

「帰り道は分かる?」

「……ごめん。わかんない」

「じゃあ分かるところまで送るよ」

 

 金森くんはそう言うと立ち上がり、部屋のクローゼットから実にあたたかそうなブラウンのダッフルコートを引っ張り出した。同時にクローゼットから金森くんが出してくれたのは、私のグレイのニットコート。べつにそんなに気にしなくてもいいのに、金森くんは私のニットコートも丁寧にハンガーにかけてクローゼットに入れてくれていたようだ。

 

 立ち上がった私の背後に周り、ニットコートの袖に手を通す手伝いをしてくれた金森くん。

 

「寒くない?」

「うん。ありがと……」

 

 こういうところが、金森くんが通称『王子さま』と呼ばれている所以だ。金森くんは本当によく気が利く。人懐っこい笑顔を浮かべ、誰にでも声を掛ける。その優しさで男女問わず社内外にファンが多いとは、お姉さまの弁だ。

 

 私が袖を通すと、金森くんは肩にニットコートをかけてくれ、そして両肩をぽんと叩いてくれた。その感触が、私の肩に心地いい余韻を残した。

 

「似合ってるね」

「……」

「んじゃ、行こうか」

 

 私の前に回り込んだ金森くんは、私を見下ろし、そして人懐っこい笑顔をニヘっと浮かべた。

 



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やらかしてしまったのかもしれない③

 道がわかるところまで金森くんに送ってもらった後、私は急いで家に帰り、そして急いでシャワーを浴びて髪を乾かした。

 

 髪をドライヤーでぶおーと乾かしながら、鏡で自分の顔を見た。睡眠不足のためか、目の下のクマがちょっと目立つ……とりあえず化粧はクマを消すことを最優先にして、あとは全体にうすーくファンデーションを伸ばしてリップをひくだけにとどめておく。これはナチュラルメイクなのだと自分に言い聞かせ残念な出来には目をつむり、通勤に使うバッグを手にとって、急いで玄関に向かった。

 

「あら真琴、もう出るの?」

「うん! じゃないと遅れる!!」

 

 玄関に向かう途中、お母さんが居間からひょっこり顔を出し、私に声をかける。私は両親と同居している。おかげで色々と助かることも多いが、こういった時は親の存在が煩わしい。

 

「おっ。朝帰りしてそのまま出勤か。若いっていいなー」

「うっせ親父。帰ったら生き残ってる毛根の三割を殺す」

「おっかな〜……」

 

 玄関に着いたら着いたで、ハゲの侵攻(進行ではない)著しい親父が、ニヤニヤと笑いながら私を待ち構えていた。失礼な一言を適当に受け流し、急いで玄関を開いたあとは、通勤スタートだ。

 

 

 通勤の道すがらを急いだため、通勤路の半分に到達したところで、いつも通勤している時間に間に合った。息切れを起こした呼吸を整え、私はかつかつと歩く。急いでいたためか、身体が熱くなってきた。

 

 まっすぐに会社に向かっていると……つい今しがたも見た、見慣れた背中が私の視界に入っている事に気づいた。歩くスピードをもう少しだけ早くして、私はあの見慣れた背の高い背中に追いつき、そして横に並ぶ。

 

「ぁあ、小塚さん」

「おはよ」

 

 横に並んだ金森くんが、私をもう少し見下ろしてニコリと微笑む。さっきと比べて、顔がしゃっきりとして凛々しい。でも笑顔は人懐っこくて、さっきのような起き抜けのボーとした様子はない。

 

「間に合ったみたいでよかった」

「そのことなんだけど……金森くん」

「うん?」

「今朝のこと、秘密にしといて。誰にも言わないでね」

「……なんで?」

 

 金森くんの言葉を塞ぎ、私は朝のことを口外しないように釘を刺す。もし金森くんと朝までいっしょにいたと知られれば……金森くんはさておき、私は絶対にめんどくさいことになる……全社員からは含みを持った卑猥な眼差しを向けられ……

 

 渡部先輩からは先輩特有の『いいんだぜ俺はわかってるから。いやーもうみなまでいうな!!!』的ムカつく笑顔で全身をねぶり上げるように見つめられ……そして……

 

『あら真琴。私ではなく金森くんを選ぶというのですね……』

『違うんですお姉さま! 私は……私は!!』

『私の前から消えなさい真琴! 私はあなたのような汚れた娘など、いりませんッ!!』

『そんな! お姉さま!! お慈悲を……なにとぞッ!?』

 

 ……とこんな具合で、お姉さまからはきっと幻滅される。これだけは、たとえ何があっても避けねばならない……。

 

「……なんでも」

「ふーん……」

 

 諸々の事情がこもった私の説得が、金森くんに通じたのか疑問だ……確かにものすごくふわっとした説得であることは認めるけれど……でもここですべてを説明するわけには……

 

「……!?」

 

 金森くんの頭に、犬のような耳がぴょこっと見えた気がした。

 

「?」

「正嗣先輩……?」

 

 その幻の犬耳が、ピクリと動いて後ろを向いた。その後金森くんはものすごい勢いでぐるんと身体を翻し、そして……

 

「先輩! 正嗣先輩!!」

 

 彼は迎えに来たお母さんを見つけた五歳児の男の子のように、キラキラと眩しい笑顔を見せた。その視線の先にいるのは、彼にとっては憧れで、誰よりも大切な人。そして私にとっては、愛するお姉さまをそのありえない女子力でたぶらかした、忌むべき存在。

 

「うーす。おはよー」

 

 私の指導社員にしてお姉さまの旦那、渡部正嗣先輩だ。

 

「正嗣先輩! おはようございます!!」

 

 満面の笑顔で渡部先輩の元に駆け寄る金森くんと、そんな金森くんをありがた迷惑な眼差しであしらう渡部先輩。金森くんはペンギンのようなポーズで、渡部先輩の周囲で縦横無尽に動き回る。初めて見た時はなんてキモい動きだと思ったけれど、それも段々慣れてきた。足の膝から下だけでちょこまかと動き回るあの脚力だけは、今でも信じられないけれど。

 

 渡部先輩を見つけた時の金森くんは、ホントに子犬のようにはしゃいでる。顔だって本当に嬉しそうに笑ってるし、目だってキラキラと輝いていることが多い。時々切なげな笑顔を浮かべることもあるが、そんな時はたいてい渡部先輩とお姉さまがいちゃついてる時だ。

 

「朝から今日も元気だな金森くんは……」

「はい! だって……愛するせんぱ」

 

 赤面して何かを語ろうとする金森くんの顔を、正嗣先輩は容赦なく右手でムギュッとつまみ、それ以上金森くんが言葉を発することを遮った。

 

「……!?」

「かな……もりくん……ッ……それ以上は、言わせんッ!!」

「ぎやッ……いや、でも……ちょっと、うれしい……ッ!?」

「うれしがるな……ッ!!」

「だって、先輩の手が、僕の肌を乱暴に……!」

「誤解しか招かんその物言いをやめろッ」

 

 そんな濃密なやりとりを横で見物しながら、私はここに来ているはずの、もうひとりの姿を探す。渡部先輩がここにいるということは……

 

「私の前で金森くんといちゃつくのはやめていただきたいのですが……」

 

 きっとその時、私の頭には、金森くんのように猫耳が生えていたと思う。声がした方向が、ミリ単位で確定できた。私は振り返り、声が聞こえた方向にいる、その麗しきお姿を視界に入れた。

 

「薫お姉さま!」

 

 私の声が、2オクターブほど高くなる。我慢できず駆けより、そのお隣で佇んだ。

 

「ぁあ、小塚ちゃん。おはようございます」

「はい! おはようございます! 昨日はありがとうございました!」

「いえいえ。私達もとても楽しかったです。ありがとうございます」

「はわぁ〜……」

 

 その麗しいお声で発せられた、『ありがとうございます』。この、天上の鐘の如き至福の美声は、私の全身を幸福感で満たしてくれた。

 

 お姉さまのその麗しき御手にふれる。薫お姉さまの手はとてもすべすべで、そして真っ白で美しい。

 

「おい薫」

「はい。なんでしょうか」

「旦那の俺の前でその小娘といちゃつくのはやめろ」

 

 そんな私の幸せな気持ちで満ち足りた私を、渡部先輩の耳障りが悪い声が邪魔してきた。私は別に怒りっぽいというわけではないが、私のお姉さまをたぶらかすこの渡部先輩に対してだけは例外だ。この人に対してだけは、私の沸点はどうしても低くなる。私は薫お姉さまの手を握ったまま、渡部先輩と金森くんの方を向き直った。

 

「いいじゃないですかっ! 渡部先輩だって今、金森くんといちゃついてるんだからッ!」

「はぁ!?」

「私達は私達でいちゃつきましょうよお姉さま!」

「……だそうです」

 

 私はお姉さまの手を強くギュッと握りそしてその手をずいっと渡部先輩へと向けた。薫お姉さまはいつもの仏頂面のまま、私達がつないだ手をジッと見つめ、渡部先輩は頭のてっぺんからピー! と音を立てて湯気を吹き出している。

 

「いちゃいちゃ……出来るのですか!? 僕と正嗣さんが……!?」

 

 ただ一人……渡部先輩にほっぺたをむにっと挟まれている金森くんだけが、そのシュッとしたイケメンフェイスを笑顔で歪ませ、そしてほっぺたを赤く染めながらあえいでいる。なんか段々声の調子が変な感じになってきたような……

 

――いくよ

 

 反射的に、あの妙な夢の中の金森くんを思い出した。途端に私の顔が、ストーブにかけたやかんのようにちんちんに熱くなる。ほっぺたが真っ赤に染まり、頭のてっぺんから湯気が出始めたことを感じた。

 

「……?」

 

 そんな状態だったから、渡部先輩が私を怪訝な顔で見ていたことに、最初は気付かなかった。

 

「……」

「ひぇ、ひぇんふぁい……はげひくひゅるなら……人気のないところで……!?」

 

 つづいて渡部先輩は、自分が折檻を加えている金森くんの顔をジッと見る。金森くんもそれに気付いたようで、赤面していた顔が、さらに赤くなった。

 

「……小塚ちゃん?」

「はい?」

 

 そしてそんな渡部先輩に気を取られていたから、お姉さまがいつの間にか私のことをジッと見つめていたことにも私は気が付かなかった。なんということだ……お姉さまと見つめ合うチャンスを、こんな形で逃してしまうとは……?

 

 薫お姉さまは、私の顔をジッと見て、そして……

 

「クマが出来てますね」

「……へ?」

「昨日はあの後二人でどこかで遊んでたんですか?」

 

 頭が真っ白になった。ちゃんとクマは消してきたはずなのに、お姉さまはそんな私のクマを見破った。私のメイク技術が拙いのか、はたまた見破るお姉さまの眼力がすさまじいのか……多分前者だな。

 

 私の頭が、必死に言い訳を考える。どうしよう……あのあと二人で居酒屋にいって盛大に酔っ払って、あげく金森くんと一晩一緒にいただなんて、お姉さまに知られたくない……なんていえばごまかせる……どういえば、この状況を切り抜けられる?

 

 なんて、私が言い訳に困っていたらである。さっきまで恍惚の表情で正嗣先輩に折檻されていた金森くんが、いつの間にかその折檻から逃れ、いつもの爽やか笑顔で口を挟んだ。

 

「いや係長、お見通しでしたか」

「なんだお前ら、あのあと二人で遊んでたのか」

 

 !? このアホカナモリ!? 秘密だと言ったでしょうがッ!!

 

「いえ、遊ぶというか、あの後二人で居酒屋に行きました」

「こッの……!? か、カナモ……」

「それで閉店まで飲んだ後、解散しました」

 

 ……へ?

 

「あら。そうなんですか」

「はい。閉店と言っても12時ですけど。おかげで僕も少々眠いです」

 

 金森くん、口を滑らせたんじゃなくて、うまい具合にごまかしてくれた? さっきまでの全身の血液の逆流が収まり、代わりに私の胸には安心の脱力感が訪れた。

 

「ほーん……お前ら、そんな仲良かったのか?」

「同期ですから。それに、正嗣先輩と係長に振られた者同士ですから、僕はシンパシーを感じているんです」

「余計な言葉が混ざっていたように感じたのは、俺の気のせいか?」

「……小塚ちゃん?」

「は、はい!?」

「次の日が仕事の時は、あまり夜更かしはしない方が良いですよ?」

「はいお姉さま……」

「……?」

 

 助かった……私一人だけだと、たどたどしい私の返答を気にした薫お姉さまに言い寄られ、挙げ句金森くんとの一夜がバレてしまい、そして愛想を尽かされて二度とお姉さまのお相手をする機会を失うところだった……。

 

 しかし金森くん、私との約束をキチンと守ってくれた。この調子で行けば、渡部夫妻はもちろん、社内に禁断の一夜が知れ渡ることはないだろう。私が口をつぐみ、金森くんが絶妙な言い訳を続けてくれる限り……

 

 ホッとして金森くんを見た。彼は私の方を見ることもせず、ただうれしそうに、渡部先輩と談笑しほっぺたを紅潮させていた。その顔はいつものように、喜びに満ち、そして幼く、爽やかだ。

 

 他の人と……私と一緒の時は相手を気遣う金森くんが、渡部先輩の前ではあんなに幼くて元気いっぱいではしゃぎまわる……そんな彼の姿が、私の目には少し輝いて見えた。

 

 



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勘違いされたのかもしれない①

「うーい。飯だ飯だー」

 

 お昼休みに入る2分ほど前になると、私の隣の席の正嗣先輩は、そう言って自分のバッグからお弁当箱を2つ取り出す。正嗣先輩のその声を合図に、社員のみんなは昼休みに入ることが多い。正嗣先輩の昼飯コールは、いまや社内のお昼休みを知らせるアラームと言っても、過言ではない。

 

 薫お姉さまも、時計を見るよりは正嗣先輩の昼飯コールを聞いてお昼休みに入ることが多い。今日も薫お姉さまは、正嗣先輩の昼飯コールを聞いた途端にパソコンのキーボードを叩く手をピタリと止め、席から離れて正嗣先輩の元にやってきた。

 

「先輩、今日のお弁当のメニューは」

「お前、作ってるの横で見てたろ? 今日はクリームコロッケとネギ入りの卵焼きだ」

「卵焼きがネギ入りだとは聞いていませんが」

「嫌だったか?」

「……いえ。逆に楽しみです」

 

 そんな、いつもの微笑ましい会話が渡部夫妻の間で繰り広げられる。『横で見ていた』はずなのに、なぜ薫お姉さまは卵焼きがネギ入りだと言うことを知らなかったんだろう……という小さな疑問は、口には出さない。なぜなら、そんなちょっと抜けたところも、薫お姉さまの魅力だと私は思っているからだ。

 

 一方で……

 

「え!? 今日の正嗣先輩たちのお弁当はクリームコロッケなんですか!?」

 

 『クリームコロッケ』という単語を聞いた金森くんは、幻の犬耳をピクピクと動かし、いつものペンギンみたいな動きで渡部先輩の元へとちょこまかと向かっていた。ケツの部分に犬のようなしっぽが見えていて、そのしっぽが元気よくブンブンと左右にふりふりされてる……これって、幻だよね……?

 

「そうだが……なんだ金森くん、クリームコロッケ好きなのか」

「大好物です! フライ全般好きですけど、クリームコロッケが一番好きですね」

「んじゃ一個つまむか? 俺の弁当からでいいなら」

「よろしいんですか!?」

「ダメですっ。金森くんに一個あげると言うなら、私はその一個を強奪しますっ」

「だそうだ。残念だったな金森くん」

「仕方ない……僕はいつものお店でランチを食べますよ……」

「だからそのメランコリックな笑顔はやめろ」

 

 そんなお決まりのやりとりの後、金森くんはとぼとぼと渡部夫妻の元を離れていく。私は薫お姉さまが大好きで、渡部先輩を亡き者にしたいと思っているから、正直、金森くんが頑張ってくれるのはとてもありがたいんだけど……でも、やはり渡部先輩を守る薫お姉さまの壁は厚いみたいだなぁ……。

 

 パソコンの画面を見た。社内報の作成もキリがいい。私もお昼を食べに行こう。立ち上がり、財布とスマホが入ったバッグを手にとった。

 

「……あ」

「……お」

 

 金森くんが、私のすぐそばまで来ていた。金森くんはジッと私の顔を見て、そして……

 

「……よかったら、今日も一緒にあの店行かない?」

「別に……いいけど」

 

 私をランチに誘った金森くんは、私の返事を聞くと、ニヘラと力が入ってない笑みを浮かべ、私を誘導するように、事務所の出入り口へと向かった。

 

 

 会社から歩いて数分のところに、私と金森くんの目当ての喫茶店『喫茶・ちょもらんま』はある。名前こそなんだかふざけた感じの店だが、マスターが作るメニューの数々はとても美味しいし、その奥さんが淹れてくれるコーヒーはスッキリしてとても美味しい。……らしい。私はコーヒーが飲めなくて、ドリンクを頼む時はいつもオレンジジュースだし。

 

「んじゃ、ミックスフライ定食とオムライスだねー」

「はい」

「ドリンクはコーヒーとオレンジジュースでよかったっけ?」

「そうですね」

「はいよー。んじゃごゆっくりー」

 

 私達のオーダーを取ったウェイトレスの奥さんは右手をぴらぴらと動かしながら振り返り、店の奥へと消えていった。

 

 いつものことだけど、奥さんの髪型はすごい。髪色だってほんのりピンクと紫が入ってて派手だけどキレイだし、髪型も爆発とまではいかないけれど、ところどころツンツンととんがっていてとても個性的だ。でも、そんな個性的な佇まいがよく似合う。

 

 店内は古びたアンティーク調の木造で、真ん中には薪の暖炉が置いてある。パチパチと心地いい音が鳴って、暖炉の前の席の時は、薪が燃える様子をずっと眺めることが出来る特等席だ。

 

 残念なことに、今日私達が座るのは窓際の席。とはいっても窓そのものはあまり大きくはなく、物を置けるスペースがあるから、そこまで窓際というイメージはない。そのスペースには、奥さんたちご夫婦の昔の写真だろうか。いくつかの古い写真が入った写真立てが置かれている。

 

「今日は金森くんオムライスなの?」

「うん」

「クリームコロッケ! て大暴れしてたから、コロッケ定食頼むんじゃないかと思ってたけど」

「迷ったんだけどね。オムライス、美味しそうだったから」

 

 そんな会話を金森くんと続けながら10数分。やがて私達の元に、奥さんがオーダーの品を届けてくれた。

 

 私たちがオーダーした品は、両方ともとても美味しそうだ。私のミックスフライ定食は揚げたてでまだジジジと音が聞こえるし、金森くんのオムライスも、真ん中から卵をパカッと割るタイプのもので卵もふわふわだし、チキンライスもとても美味しそう。上にかかっているケチャップまで美味しそうに見える。

 

 ちなみにミックスフライ定食はその日によってセットのフライが異なる。今日はエビフライとアジフライと……あと、俵型をしている最後の一つは何だろう? あとはバターロールのパンが2つと野菜スープ。スープは金森くんのオムライスについているものと同じものだ。

 

「んじゃ」

「うん」

「「いただきます」」

 

 二人で声を合わせ、私はエビフライを、金森くんは卵ごとスプーン一杯、同じタイミングで口に運ぶ。サクッとした衣の奥のぶっといエビが、ぷりぷりとした食感でとても美味しい。タルタルソースの酸味も絶妙だ。

 

「んーおいしい!」

「オムライスも美味しい」

 

 金森くんが頼んだオムライスもとても美味しいらしく、口の端っこにほんの少しだけケチャップをつけたまま、無邪気に微笑んでいた。いたたまれなくなり、金森くんにケチャップ付着の事実を伝えてあげることにする。

 

「金森くん、口」

「ん?」

「ケチャップ」

「ん……どこ……」

「端っこ」

「んー……」

 

 テーブルから紙ナプキンを一枚取って、金森くんは口の端っこを拭く。だけど金森くん、ケチャップが付いてるのは右じゃなくて左だよ……なぜか目だけ上を向けたまま、金森くんは一生懸命に、ケチャップの被害に遭ってない、私から見て左側の方を必死にゴシゴシ拭いていた。

 

「違う逆」

「え……逆?」

「そう。左」

「え……でもだったら今拭いて……」

「違う逆だって。私から見て左」

「あ、そっか……」

 

 やっと気付いたようで、金森くんはケチャップを拭き取りナプキンをテーブルの上に置くと、私にニヘラと微笑んだ。こんな人が、社内外で話題持ちきりのイケメンなんだもんなぁ。薫お姉さまから『取引先に行くたびに黄色い声援が起きる』と聞いたこともあるけれど、そんなイケメンが渡部先輩狙いだなんて……一体誰が想像出来るだろう?

 

 そんなわけで、私達は暖炉によって心地よく暖められた店内で、暫くの間美味しいランチを堪能していたわけなのだが……

 

「……あら! 金森さんじゃないですか!!」

「ん?」

「……?」

 

 そんな静かなランチは、一人の女性の甲高い声によって、バッサリと打ち切られた。

 



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勘違いされたのかもしれない②

「……あら! 金森さんじゃないですか!!」

「ん?」

 

 静かな店内に、一人の女声の甲高い声が鳴り響いた。私はもちろん、金森くんと喫茶店の奥さんの注意も引いたようで、みんながお店の入口の前を見た。

 

「金森さんもここのランチをよくお食べになるんですか?」

 

 入り口では、一人の女性がドアを開いたまま立っていた。歳はおそらく、私や金森くんよりも少しだけ上か、低く見積もっても私達と同年代。化粧バッチリで、薫お姉さまのようにバリバリのキャリアウーマンの様相が見て取れる、紺色のスーツ姿の女性だ。

 

 その女性が、ストレートの長い黒髪をなびかせ、ドアを閉じて私達のテーブルまでやってきた。履いてる靴がピンヒールのためか、店内にはコツコツと良い足音が鳴り響く。

 

 そしてそれ以上に……

 

「私もね! よくここでランチを食べるんです!」

「へぇ〜。奇遇ですね一色さん」

 

 とこんな具合で、その甲高い声は非常に耳に付きやすく、心地よい足音よりもうるさく店内に響き渡っていた。この声の出し方は、女性がお目当ての男性の前で出す声に近い気がする。……てことは、この人はひょっとして金森くんのことを……

 

「ところで金森さん、コチラの方は?」

「……ああ、彼女は小塚といいます。僕の同僚です」

「へぇ〜……」

 

 考え事をしていたら、唐突に話題を振られた。慌てて立ち上がり、目の前の女性に頭を下げた。

 

「すみませんあっけにとられちゃって。いつも金森がお世話になってます。同僚の小塚です」

「はい。いつも金森さんにはお世話になってます。私はサイトウ・テクニクスの一色玲香といいます」

 

 彼女……一色さんというその美人は、私に対してニコリと微笑む。……のだが。

 

「えっと……じゃ、名刺をお渡ししますね」

「あーいやいや、結構です。今日は偶然ですし、仕事でもないですから」

「はぁ……」

 

 慌てて名刺を準備しようとする私を、一色さんは右手を上げて制止した。その表情は笑顔なのだが、なんだか目だけは、こちらの胸をグサリと突き刺してきそうなほど、鋭い。

 

「……」

「……それじゃあ私は邪魔しちゃ悪いし、あちらのテーブルで食べますね」

 

 そうですか、私の名刺はいりませんか……と腰を下ろした私を無視し、二人の会話は続いていく。金森くんに向けられる一色玲香さんの眼差しは、私を見つめるときと違って、随分と柔らかく、キラキラと輝いて見える。きっとこの人、金森くんのこと狙ってるんだろうなぁ……私達より年上に見えるのに、随分と分かりやすい人だ。

 

 ここで、普通の社会人なら『とんでもないです! 一緒に食べましょうよ!!』と相席に誘うことだろう。相手が取引先の人ならなおさらだ。きっとこの一色玲香さんも、それを期待しているはずだ。『邪魔しちゃ悪い』と口では言うが、金森くんが自分を相席に誘うという自信があるから、きっと自分からは相席を申し出なかったのだろう。

 

 そして私は、気持ちが憂鬱になっていた。正直、この一色さんとご飯を食べるのは別にイイんだけれど、彼女はどう考えても、私のことを金森くんを付け狙う敵だと認識している。

 

 自分を敵だと認識している人と一緒にランチを食べる……うー……いやだなぁ……せっかく美味しいランチなのに、そんな状況で食べると、全然美味しくなくなってしまう……とはいえ、取引先の人と一緒に食べないというのは……うーん……。

 

 ……だが、私たちの残念なイケメン金森くんは、さすがあの渡部先輩を敬愛している変わり者なだけのことはある。彼は私達の予想を裏切った。

 

「分かりました! ではまた今度ご一緒させていただきますね!!」

「は……?」

「!?」

 

 彼は、実に爽やかな笑顔で一色さんと私の予想外の言葉を発すると、再びオムライスを口に運び、実に美味しそうにニコニコと微笑み始めた。

 

「んー……!」

「……ッ!」

「……あれ? 行かないんですか?」

「……ッ!」

「あっちに空席いっぱいありますけど……?」

「し、失礼しましたッ!!」

「?」

 

 金森くんに指摘された一色玲香さんは、顔を真っ赤に紅潮させた後、カツカツと足早に私達から遠く離れた席へと移動した。彼女の背中が刺々しい……あれは絶対に怒りに打ち震えているぞ……席についた途端、こっち見て……というより私を見てギッて睨んでるし……

 

 一方の金森くんは、そんな一色玲香さんの睨みなぞどこ吹く風で、実に美味しそうにオムライスを頬張っていた。いっぺんにたくさんスプーンですくって口に入れるものだから、また口の端っこにケチャップつけてる……この神経の図太さを私にも分けてほしいよ……

 

「ねぇ金森くん」

「んーおいし……ん?」

「いいの?」

 

 程よく焼けたバターロールをちぎりながら、金森くんに当然の疑問を振ってみた。でも彼はいまいちピンと来てないようで、私の質問を聞いても、端っこにケチャップをつけた口を歪ませ、不思議そうに私を見るばかりだ。そんなことでどうする金森くん。あなたはお姉さまお気に入りの期待のホープではないのか。

 

「何が?」

「あの人」

「ああ、一色さん?」

「取引先の人なんでしょ? 一緒に食べなくていいの?」

「いいよ。今は小塚さんとランチしてるんだし」

 

 私の頭の中が、はてなマークで埋め尽くされていく。一体何を言っているんだこの人は? 取引先と同僚とのランチなら、取引先を優先するのが社会人ではないのか? バターロールをちぎる私の手に、ほんの少し力が籠もる。

 

「いやいや、金森くん」

「ん?」

「取引先でしょ? こういう時に親交を深めるのが、キミの仕事じゃないの?」

「仲良くなる機会なら、他にいくらでもあるでしょ」

「そうは言ってもさぁ……」

「……?」

 

 私の言葉を聞いても、金森くんはただただ不思議そうに私を見るばかり。イタズラをやるだけやっておいて、『ぼく、なにかわるいことした?』と飼い主に無邪気な顔を見せる子犬のような純真な瞳だ。キミは一体いくつなんだ金森くん。私はキミの社会人としての適正に疑問を抱き始めたよ。

 

 ……とはいえ、正直な所私もホッとしている部分はある。今も私たち……いや私をジッと睨みつけているあの一色玲香さんとランチを食べるのは、私も御免こうむるところだ。その意味では、彼女の無言の圧力を笑顔で突っぱねた金森くんには、感謝しかない。

 

 腑に落ちないが、ここは感謝することにしよう。今、口の端っこにケチャップをつけていたことに気づき、恥ずかしそうに再びナプキンで拭き取っている、この無邪気な子犬のような金森くんに。

 

 ちぎったバターロールを口に放り込み、私はナイフとフォークで、正体不明の俵型のフライを切り開いた。

 

「……あ」

 

 途端にフライの中から流れ出る、熱々で真っ白なホワイトソース。このフライは、クリームコロッケだ。

 

「おっ。クリームコロッケだね」

「……」

「美味しそうだねぇ。食べたら感想聞かせてよ」

 

 子犬のように無邪気な眼の前の友人は、邪気のない笑顔でそう口にする。

 

 私はクリームコロッケを大体半分ぐらいに切り分け、その、大きい方を彼の残り少ないオムライスの上に、フォークでちょこんと乗せた。

 

「へ?」

「気になるんでしょ? 私に感想聞くより食べたほうがよく分かるよ」

「いいの?」

「いいよ。それにほら、金森くんクリームコロッケ好きでしょ?」

「好きだけど……」

 

 これは、私から彼へのささやかなお礼だ。あの、今も私を歯ぎしりしながらにらみつける女性、一色玲香さんを私から遠ざけてくれた彼への。

 

「じゃあ……いただきます」

 

 しばらく戸惑った後、金森くんは私が乗せたクリームコロッケを器用にスプーンですくい上げ、そしてそれを一口で口の中に入れた。

 

「あっつ!?」

「ぶふっ……」

 

 途端に悲鳴を上げる金森くん。コロッケの切り口からは湯気が立ち込めているから、そらぁそれだけの大きさのコロッケを一気に口の中に入れれば熱かろう。

 

「あづっ……はふっ……でも、おいひい……ッ」

「ならよかった」

 

 それでも、金森くんはその味が気に入ったようだった。口の中に必死に空気を取り込みながらだが、それでも彼は、そのコロッケを美味しいと言い、急いで飲み込んだりはしなかった。

 

 そして。

 

「んーッ! ……んー。美味しかった」

「熱そうだったけと、やけどしてない?」

「大丈夫。それよりも……」

 

 苦労しながらもコロッケを丁寧に味わった金森くんは、オムライスの残りを、私の方に向けた。大好物のクリームコロッケをくれたお返しに、オムライスを少しくれるというのか。

 

「お返し。よかったら少し食べてよ」

「いいの?」

「うん。いいから食べて」

「……んじゃ」

 

 彼の好意に甘えることにする。一色玲香さんの痛い視線に睨まれながら、私は金森くんのオムライスを少しだけフォークですくい、口に運んだ。

 

「んー……」

「……」

「……美味しい」

「だよねー」

「まぁ、私はここのオムライス何度か食べてるけど」

「確かに」

 

 彼がくれたオムライスは、いつものように卵がふわふわで、ケチャップの味が甘酸っぱい、とても美味しいオムライスだった。

 

 



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あまり寂しくはないかもしれない①

『よかったら、これから初詣に行かない?』

 

 今日は大晦日。仕事も冬休みに入り、薫お姉さまと中々お会いする機会のない、とても寂しい時期。そんな大晦日の夜に金森くんから届いたのが、このLINEのメッセージだ。

 

 私は最初なぜ自分が誘われているのか、意味がさっぱりわからなかった。

 

 彼の家のベッドとは似ても似つかぬボロボロのパイプベッドの上で、兄貴の嫁の小春さんが作ってくれたクッションを抱きしめながら、なぜ金森くんが私を誘っているのか考える。だが答えが出るはずもなく、私は仕方なく彼に直接聞いてみることにした。のだが……。

 

『別にいいけど、なんで私?』

『いや、みんなで初詣に行きたいなーと思って』

『みんなって?』

『正嗣先輩と係長と、僕ら』

 

 金森くんの最後の返答を見た瞬間、私の全身の血が沸騰した。

 

『行く! 絶対に行く!!』

『りょうかーい。んじゃ、これから先輩たちも誘ってみるね』

『絶対に誘ってよ!? お姉さまを口説き落としてよ!?』

『了解。最善を尽くすよ』

 

 そんなやり取りの後、金森くんからは、サムズアップのスタンプが送信されてきた。

 

 私は私でいても立ってもいられなくなり、クッションを床に置き、その上にスマホを投げ捨て、そしてベッドにうつ伏せに飛び込んだ。

 

「やった……新年が明けるまでお姉さまとお会いできないと思ってたけど……やった!!」

 

 諦めていた、薫お姉さまとの初詣……!! それが今日、叶うかもしれない……!! ウッハァー!! どうしよう!! お姉さま、着物を着て来たりするのかな!? 正直旦那の格好はどうでもいいけれど、お姉さまがどんな衣装で私と初詣をしてくれるのか、それがとても気になるぅぅうううう!!!

 

 『お姉さまと一緒に初詣に行けるかもしれない』。その事実は、私から平常心を奪うには十分すぎるほどの衝撃だった。私の頭は異常なスピードで変な方向へと回転をはじめる。

 

 そして妙な方向へと暴走する頭は、冷静に考えられる普段なら絶対に行わないような無謀なことすら、いとも簡単に決断させてしまう。

 

 このとき、お姉さまと共に初詣に行けるかもしれないという事実を前に、私は有頂天になっていた。だからこそ、そこからさらなる高望みをしはじめた。『大好きなお姉さまに、キレイな自分を見てもらいたい』『そしてお姉さまに褒められたい』そう思ってしまった私は、次の瞬間ベッドから跳ね起き、自分の部屋から飛び出して、一階の居間で暇を持て余しているであろう両親の元へと駆け出していた。

 

 居間を仕切るドアの取手を握り、そして勢いよく開く。お母さんは……いた! 相変わらずハゲの侵攻著しい(進行ではない)親父と共にコタツに入り、のほほんとみかんを楽しんでいた!

 

「母さんっ!」

「お? どしたの真琴?」

 

 私がお母さんに頼みたいこと……それは、世の女の子ならきっと誰もが着ることを願う、あの服を着るのを手伝ってもらうことだ。

 

「母さん、着付け出来たよね!?」

「まぁ、うん」

「成人式の時の真っ赤な振り袖、あるよね!?」

「あるけど……」

「今晩初詣に行くから、それ着て行きたい!!!」

「は……?」

 

 常軌を逸した私のわがままを聞いたとき、お母さんは口に運ぼうとしていたみかんの一房をポトリと落としていた。

 

「なんだ真琴、彼氏と初詣デートか」

「うっせ親父。残り少ない毛根の四割を抜き散らして焼き塞ぐぞ」

「おほ〜怖い怖い」

 

 親父の失礼なツッコミには冷静なツッコミを返しつつ、私は居間にヅカヅカと入っていって、お母さんの両肩を掴んでグラグラと激しく揺さぶっていた。今の私をとめることなぞ、誰にも出来ない。そう。出来ないのだ。

 

 私は、座ったまま落ちたみかんを拾うお母さんの両肩をガシッとつかみ、そして前後左右に激しくガクガクと揺らした。

 

「お母さん!! 振り袖!!! 私、振り袖!!!」

「分かったから……わかったから、ちょっと落ち着いて……」

「振り袖着たいの!! お母さんわたしぃぃぃぃいいい!!!」

「いいからちょっと落ちついてぇぇぇえええええ!!!」

 

 私の振り袖は、お母さんの粋な計らいによって実に丁寧に収納されていた。私の知らないところで時々虫干しもしてくれていたようで、引き出しから取り出し、すぐに着ることも出来た。

 

 出した振り袖を、お母さんに着付けてもらう。真っ白な足袋を履き、襦袢を着て腰紐を巻いた後は、その上から伊達締めを巻いて……

 

「……ねぇ真琴?」

「うん?」

 

 お母さんが真っ赤な振り袖の着丈を探りながら、笑顔で静かに私に問いかけた。

 

「随分おめかしするんだねぇ」

「うん」

「誰かと一緒に行くの?」

「うん」

 

 お母さんは、慣れた手付きで私の胸元を整えていく。その顔はとても穏やかで、さっきまでのうろたえた感じはない。なんだかとても楽しげだ。私の目には、お母さんの頭の上には8分音符が映っている。

 

「大切な人?」

「うん」

「そっかー……」

 

 全体のシワとだぶつきを取ったお母さんは、2つ目の伊達締めを巻いてくれた。少しだけ勢いをつけてキュッと締めてくれると、その締め付けが心地良い。

 

 その後、お母さんは私の後ろに周り、私の左肩に帯を掛けた。帯を締めるシュルシュルという音が、静かな部屋の中で鳴り響いていく。後ろにいるから、お母さんがどんな風に帯を締めているのかは見えないけれど、その音はとても楽しげだ。

 

「ぷっ……」

「……?」

 

 ゴソゴソと後ろで帯を締めてくれているお母さんから、軽く吹き出した声が聞こえた。はて……何か面白いことでもあったか?

 

「どうしたの?」

「んーん……」

「?」

「昔はあんなにボーイッシュで通してたのに……やっぱり真琴も女の子なんだなぁと思って」

「なんで?」

「だって。好きな人に見て欲しくて、わざわざ振り袖着ていくんでしょ?」

「うん」

「『似合ってるよ』って言ってほしくて、『着せて!!!』てワガママ言い出したんでしょ?」

「うん……まぁ……」

 

 私の受け答えのどこかがおかしかったのか……お母さんの含み笑いは止まらない。でも、帯締めを締めるお母さんの顔は、とても穏やかで嬉しそうだ。

 

 そうして、お母さんの意味深な含み笑いをBGMに聞きながら数分後……。

 

「はい出来た!」

 

 お母さんのそんな言葉とともに、私の振袖姿は晴れて完成となった。

 

「お母さん、ありがと」

「いいえー。可愛い娘のためですから」

 

 ご満悦のお母さんに背中を押され、私は姿見の前に立つ。いつもの紺色のスーツ姿とは全然違って、とてもキレイに着飾った私が、そこに立っていた。

 

「相変わらずよくお似合いで」

「ありがと……」

「やっぱ真琴には赤が似合うね~。お母さんもいい仕事したわ」

 

 姿見に映る自分の姿を見ていると、段々と胸が高鳴ってくる。私のこの姿を見た時、薫お姉さまはどんな反応をしてくれるだろうか……そして……

 

――似合ってるね

 

「ん……」

「ん?」

「……なんでもない」

 

 ……なぜ私は、金森くんの声を思い出したんだろう?

 

 壁にかけられた年代物の時計を見た。時刻は11時前。そろそろ出発したいのだが……

 

 不意にガラガラと玄関が開く音がなり、『こんばんはー』という小春さんの優しい声が聞こえてきた。そういえば今日は、兄貴夫婦が顔を出してくる予定だったんだっけ。

 

「ぁあ小春さん! こんばんはー」

「ご無沙汰してますお母さん」

「あらキレイ~!」

 

 お母さんが玄関に顔を出し、その途端に感嘆していた。私は相変わらず姿見の前に立っているが、小春さんも和服を着てきたのだろうか。小春さん、ふんわりお嬢様でお上品だから、着物もすごく似合いそう……

 

 『今ちょうど真琴の着付けをしてて』『へぇ~』という2人の声に紛れ、とてとてと廊下を歩く足音が聞こえる。その足音はやがて、私達がいる和室の前で止まった。

 

 そうして和室に入ってきたのは、私の予想を裏切って洋服姿の小春さんだ。両手にかすみ草がグルーピングされた花束を抱えた小春さんは、私の振り袖を見た途端、ほっぺたを赤くして感嘆のため息を漏らした。

 

「こんば……うわぁ~……」

「あ、小春さん。こんばんは」

「真琴さん……すんごいキレイ……」

「あ、ありがとうございます……」

 

 ほぅ……と上気した感じで私を見つめる小春さん。そんなに見つめられると、なんだか少し照れくさい……。でも、ふんわりお嬢様な小春さんが褒めてくれたことで、私も振袖姿に自信が持てる。

 

 改めて壁掛け時計を見た。さっき見たときよりも、もう少しだけ長針が進んでいる。

 

「……じゃあ私、行ってきます」

「はいいってらっしゃい」

「……真琴さん、これから初詣ですか?」

「はい」

 

 和室のすみっこに準備しておいたバッグを手に取り、私は急いで和室を出た。途中、居間から『いってら~』というオヤジの声が聞こえる。適当に『あーい』とか『おーい』とか『うぇーい』といった類の返事をし、私は玄関までとてとてと急いだ。

 

 玄関には、すでに草履が準備されている。私はその草履を履き、玄関の扉に手をかけた。

 

「ちょっと待って!」

 

 今まさに玄関のドアを開けようとしたその時、とてとてと廊下をかける小春さんの呼び声が聞こえた。私が振り返ると、そこにはさっきのかすみ草の花束を抱えたままの小春さんが、ほっぺたを赤くして立っている。

 

「? 小春さん?」

 

 呆気にとられて小春さんを眺める私。小春さんはニコッと微笑んだ後、手に持っていた花束からかすみ草を一房手折ると、それを私の右耳にスッと刺してくれた。

 

「へ?」

「……うん。やっぱり」

 

 呆気にとられる私と、満足そうに頷く小春さん。かすみ草で私を飾ってくれた小春さんは、笑顔のままジッと私を見つめた。

 

「小春さん?」

「これで、私の妹は完璧です」

「……」

「姉からの餞別です」

「あ、ありがとう……」

 

 途端に顔が紅潮し、小春さんの顔を見てられなくなった。俯いてただただ照れるだけの私を、小春さんがどんな顔で見つめているのかは分からない。

 

 だけど、右耳に刺されたかすみ草からは、なんだかほんのりと暖かい感触を感じた。

 

 その後、小春さんから『ほら急がないと』と急かされ、私は慌てて出発した。集合場所の神社までは、結構な距離がある。私は時間に遅れないように……だけどお母さんがせっかくキレイに着付けてくれた振り袖の形を崩さないように気をつけて、寒空の下、神社までの道のりを歩いていった。

 

 ……でも、せっかく気合を入れて準備したこの初詣。私にとってはちょっと残念な結果に終わってしまうことを、この時の私はまだ知らなかった。

 



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あまり寂しくはないかもしれない②

 待ち合わせ兼目的地になっている神社の鳥居の前で、私は待ち人を待つ。……のだが、家を出たときとはうって変わって、今の私の気持ちは沈み込んでいる。

 

「……」

 

 私は一体何のために、大騒ぎして振り袖を着たのか……小春さんが耳に挿してくれたかすみ草も無駄になった……冷たい外気に冷やされた両手を息で温め、私は空を見上げた。

 

「小塚さん!」

 

 必死にかじかむ手を温めていたら、遠くから金森くんの声が聞こえてきた。振り返り、金森くんの方を向く。無駄だと分かっているのに、『ひょっとして……』と淡い期待を胸に秘め、祈る気持ちで振り返るのだが……

 

「おまたせ。振り袖、よく似合ってるね」

「うん。ありがと」

「……やっぱり、係長に?」

「うん」

「……ごめんね」

「んーん。金森くんは悪くないよ」

 

 やはり、世の中そううまくいくはずがない。えらくスッキリした服装にやや赤みがかったチェスターコートを合わせた、随分とカッコいい金森くん以外に、私が知る人物は、そこにはなかった。

 

 お姉さまと渡部先輩は、私達との初詣を辞退した。聞けば、金森くんがLINEで連絡を取ったところ、『大晦日は夫婦でゆっくりしたい』と簡潔に断られたそうだ。

 

 それでも金森くんはくじけず、必死に薫お姉さまと渡部先輩を口説き落とそうとしたそうだが……やはり最初の希望は変わらず、最終的に金森くんが折れたらしい。私への連絡が遅れたのは、二人を説得しようと奮闘していたからだそうだ。

 

 私は、この神社に向かっている途中でその話を聞いた。聞いた時は、『せっかく振袖着たし、二人で初詣しようよ』と金森くんに言ったのだが……

 

 実際に神社に到着して金森くんを待っているうちに、虚しさが私の胸に襲いかかった。私は一体何のために、家族を巻き込んでまで気合を入れて振り袖を着てきたのか……。

 

「……ごめん」

 

 そんな私の様子を気にしてか、金森くんも浮かない顔で改めて私にペコリと頭を下げた。その姿は、私の胸に罪悪感として、ほんの少しチクリと刺さる。

 

 そうだよね。金森くんは悪くない。むしろ、必死に薫お姉さまと渡部先輩を口説き落とそうと頑張ってくれたじゃないか。本人だって渡部先輩と会いたかっただろうに……会えなくて残念だろうに、私にも気を使って……

 

「まーいいじゃん!」

 

 私は努めて、大きい声を出した。これ以上、湿った気持ちを抱えるのはやめよう。お姉さまと渡部先輩を口説き落とせなかったのは仕方ない。それなら、あとは二人で初詣を楽しもう。

 

 ふてくされるのはもうやめよう。そして、この社内きってのイケメンでありながら奇特で残念な男、金森くんとの初詣という貴重な機会を楽しもう。彼のためにも、私自身のためにも。

 

「仕方ない。振られた者同士、初詣を楽しもう!」

 

 金森くんが、申し訳なさそうな顔を上げた。今日は気温が低く、風が冷たい。そのためか、彼のほっぺたはほんのり赤く染まっている。

 

「ほら行こう金森くん! もうすぐ除夜の鐘だって鳴るし、もうみんな並んでるから」

「……わかった」

 

 私は腰に手を当て、右手で参道を指し示した。所々に立てられた篝火に照らされた参道には、すでに人だかりが出来始めている。私は胸を張り、堂々と参道に歩を進めた。

 

 私の背後の金森くんも、タタタと私に駆け寄って、サッと私の左隣に並んだ。改めて思う。やっぱり金森くん、背が高い。彼が隣に立つだけで、私が彼の影に入ってしまう。

 

「小塚さん」

「ん?」

「ありがと」

「んーん。私こそありがと。がんばってくれて」

「んーん」

 

 この神社はこの街ではかなり大きな神社になる。そのため大晦日には、この街の人たちが初詣に訪れ、たくさんの人で結構な賑わいを見せる。

 

 神社や自治体もそれがよく分かっているためか、大晦日には神社の境内の一角で焚き火をし、参拝客がそこで火にあたって温まれるよう取り計らってくれている。それは今日も例外ではなく、参拝客や関係者の人たちなどが、大きな焚き火で暖を取っている様子が私から見て、金森くんのさらに奥の方で見て取れた。

 

 こっそりと、金森くんの横顔を見る。大きな焚き火に照らされる彼の横顔は、本当にキレイだ。

 

 金森くんと二人、並んで新年が明けるのを待つ。真冬の深夜となれば、気温も低い。私はかじかんだ手に息を吹きかけ、少しでも暖を取ろうと頑張っていた。

 

「小塚さん」

「ん?」

「大丈夫?」

 

 そんな私の様子に気付いたらしい金森くんが声をかけてくる。本当は大丈夫だと言いたいが……流石にこの寒さは堪える。身体は言うほど寒くないのだが、寒さでかじかむ手がキツい。さらに必死で手を温めてるのを見られているのに『大丈夫』というのは、なんだか少々わざとらしい気もする。

 

「大丈夫だけど……手がちょっと冷たいっ!」

 

 だから私はニッと笑い、金森くんの顔を見上げて素直に手が冷たいと言ってみた。これだけあっけらかんと言ってしまえば、嫌味もないし、さして心配もかけないはずだ。金森くんも私がこの態度では、特に何も出来ないだろう。

 

 だが金森くんは、そんな私の顔を、ちょっと眉間にシワを寄せた、なんだか深刻そうな、難しい顔でジッと見つめた。

 

「ん?」

「……」

 

 なんだろう……この間が妙に怖い……

 

 そんな金森くんのちょっと緊張した雰囲気に私が飲まれた、その時だ。金森くんは、ポケットに突っ込んでいた右手で私の左手首をガシッと掴んだ。ずっとポケットの中に入れていたためか、彼の右手は驚くほど温かい。

 

「ちょ……」

「……」

「なにすんの……」

 

 私の抗議も気にせず、金森くんは私の左手を、そのまま自分の右ポケットへと突っ込んだ。

 

「ふぁ……」

「あったかいでしょ」

「……うん」

 

 途端に私の左手が、まるでお風呂のお湯の中に突っ込んだかのように温まる。いつの間にかニヘラと笑っていた金森くんのポケットの中に入っていたのは、小さなカイロ。手で掴んでみると、私がよく知ってるホッカイロよりも暖かくて、そして金属のように硬いものをもこもこした生地で包んでいるような、そんな変わったものだ。

 

「なにこれ」

「ハンディウォーマー。ライターオイルで温めて使うカイロ」

「? 金森くんって、タバコ吸うの?」

「吸わないよ。でもこれ温かいから」

「ふーん……」

 

 かじかんだ手に、ハンディウォーマーの熱がとても熱く、心地よい。ついでにポケットの中に手を入れてるから、手全体がすごく温かい。

 

 これはキモチイイ。金森くん、ずっとポケットに手を入れていたけど、私が手の冷たさに耐えてるその横で、こんなキモチイイ思いをしていたとは思わなかった……。

 

 ……しかし、この状況はどうすればいいというのか。確かに金森くんのポケットの中はとてもあたたかい。左手どころか、右手もこの中に突っ込んで、ずっと暖を取っていたくなる心地よさだ。それは認める。

 

「……」

「……」

 

 しかしこの状況はマズい。なぜ私は、ここで金森くんのポケットに手を突っ込むという暴挙をしでかしているのか。これは恥ずかしい。男の人のポケットに手を突っ込むなど……まるで彼氏といちゃついているようではないか。

 

 私の顔に血が上がってくるのを感じる。焚き火の明かりに照らされて赤面しているのがバレないよう、金森くんから顔をそむけたが……左手だけは、その心地よさもあってポケットから出す気になれない……

 

――小塚さん

 

 黙れ夢の中の素っ裸の金森くんっ! あなたは私の夢の産物でしょうが!!

 

「小塚さん?」

 

 ッ!! ……あ、今度はホントの金森くんか……緊張で声が上ずらないよう、私は努めて冷静に返事をするのだが……

 

「な、なに!?」

 

 一度変な方向にブーストがかかった頭は、すぐには元に戻らない。私の声はちょっと上ずり、どう聞いても緊張している声になってしまった……

 

 そんな私の声には金森くんが気付かないように、さっきの険しい顔からいつものニヘラとした笑顔を浮かべ、そして……

 

「そのカイロ、ポケットから出して使っていいから」

 

 と、言われてみれば確かに当たり前でその通りなことを私に言ってくれた。

 

「た、確かに! このまま手を突っ込んでると、歩き辛いしね!!」

「う、うん?」

「ありがと! 金森くんッ!!」

「ん、んん? ……ど、どういたしまして……?」

 

 なんか『いちゃついてる』とか色々ぶっ飛んだことを考えていた自分が恥ずかしい……不思議そうに私を見つめる金森くんは置いておいて……

 

「別に、小塚さんがいいなら、このままでもいいけど……」

「私が良くないッ!!」

「?」

 

 改めて世迷い言を口にする金森くんにツッコみ、そしてポケットの中のカイロを掴んで取り出した。

 

「……でも、ホントにいいの?」

「いいよ。持ってきたはいいんだけど、僕は言うほど寒くはないし」

「そっか」

 

 改めて確認した私は、そのカイロを両手で包み込み、その熱さで両手を温めた。

 

「あったかいねー……」

「でしょ。だからこういう時にいいんだよね」

「確かに」

 

 実を言うと、ポケットからカイロを取って左手を出すとき……心の何処かで、もう少し手を突っ込んでいたいと思った。それはポケットの中がとても心地よかったからだ、と自分に言い訳しておいた。

 

 そうして待つこと十数分。街の何処かで鳴らされた除夜の鐘が夜空に鳴り響き、新しい一年が幕を開けた。

 

「……あ」

「明けたね」

 

 もちろんその鐘の音は、私達の耳にも届いた。遠くで鳴らされた除夜の鐘は、不思議と実際の音の大きさよりも大きく聞こえ、私の胸に、ゴーン……ゴーン……と、小さく、そして心地よい振動となって伝わった。

 

「……小塚さん。あけましておめでとう」

「うん。あけましておめでとう」

「今年もよろしく」

「私こそ、今年もお世話になります」

 

 自然と互いに見つめ合い、互いに丁寧に頭を下げる。金森くんが貸してくれたカイロは、未だとてもあたたかくて、私の両手がかじかむことはない。

 

 しばらくそうして頭を下げた後、私達は同じタイミングで顔を上げ、互いに顔を見合った。金森くんの顔は、少し赤く見えた。

 

「……ぷっ」

「くすっ……なんか、改めて言うと照れるね」

「だから小塚さん、顔真っ赤なの?」

「バッ……か、金森くんだって顔真っ赤だよ!?」

「寒いからね……」

「ズルい! その返しはズルいよ金森くん!!」

「なんで?」

「……熱いから! 金森くんが貸してくれたカイロが熱いから、顔赤いのッ!!!」

「?」

 

 そう。金森くんが貸してくれたカイロが熱いから、顔まで赤くなっているんだよ金森くん。そういうことにしておいてください。

 

 だから、そんなキョトンとした顔で、真っ赤になった私の顔を覗き込まないで下さい。

 



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あまり寂しくはないかもしれない③

 参拝も無事に終わり、賽銭箱に二人で五円玉を投げ終わった私は、今は一人で大きな焚き火の前にいる。たくさんの参拝客に紛れ、パチパチという心地よい音とぬくもりの中で、金森くんが戻ってくるのを待っている。

 

 神社の社に視線を移すと、そのそばでは幾人かの神社関係者がテントを張り、そこで熱い甘酒を参拝客に配っている。この神社では、初詣に来た参拝客には甘酒を振る舞ってくれる。この寒空の下では、身体が冷え切ってしまう。そんなとき、甘くて熱い甘酒は本当にありかたい。もっとも私は、金森くんのカイロのおかげで言うほど寒くはないけれど。

 

 そのテントで、紙コップを2つ受け取る金森くんの背中が見えた。細身のチェスターコートを着ている彼は、周囲の人と比べても頭が一つ飛び出ている。その彼が、両手に湯気が立つ紙コップを持って、笑顔で私の元にやってきた。

 

「おかえりー」

「ただいまー。はい甘酒」

「ありがと」

 

 金森くんのカイロを左手に持ち替え、右手で紙コップを受け取った。中の甘酒は本当に熱い。金森くんのカイロ以上の熱が、今まで以上に私の右手を温める。

 

 その熱い甘酒を、一口だけすする。麹の香りがプンと立つその甘酒は本当に甘く、そして熱い。気をつけないと、舌をやけどしそうなほどに。

 

「あづッ!?」

 

 一方で、金森くんは甘酒を一口すするなり、こんな風に悲鳴を上げていた。

 

「金森くんって猫舌だっけ?」

「んーん……違うけど……アヅヅ……」

 

 クリームコロッケの時も悲鳴あげてたし、これは本人が否定しているだけで、ホントに猫舌なのでは? ……という気持ちを、私はグッとこらえた。

 

 金森くんは先程のひとすすりが相当キツかったらしく、未だに口を押さえ、もごもごしている。目が涙目だ。そんなに熱かったのか……

 

 金森くんがひとしきり落ち着くまでの間、私はジッと焚き火の炎を見つめていた。パチパチと薪が爆ぜる音が周囲に静かに響いている。焚き火の明かりの中では、たくさんの参拝客が体を温め、友人同士で談笑し、恋人同士で寄り添っている。

 

 私と金森くんの間は、少しだけ間が開いている。左手を伸ばせば彼の右のポケットには届くけれど、逆に言えば、伸ばさないと届かない程度に距離が開いている。

 

「……ねー金森くん」

「んー……もごもご……なに?」

「薫お姉さまたちってさ。今頃、何やってるのかな」

「……」

 

 私は、焚き火の炎を見つめながら、心の奥の疑問をつい口にした。焚き火の向こう側では、ひと組の男女が仲良さそうに肩を寄せ合い、焚き火のぬくもりで体を温めていた。

 

「……なんかね。二人で『ゆく年くる年を見る』とは言ってた」

「そっか」

「だから今日は家にいるんだって」

「なんだそりゃ」

 

 あまりに間抜けな理由に、つい苦笑いを浮かべてしまう。お姉さまにとって私は、公共放送の正月番組より存在価値のない女ってことか。

 

「そっかー。私はゆく年くる年に負けた女かー」

「まぁ……僕もそうなるね」

「寂しいなー。お姉さまにとって私は、その程度の女かー」

「自分のルーチンってさ。意外と大切なもんなんだよ。係長と正嗣先輩は、『大晦日にはゆく年くる年を見る』ってルーチンで、毎年生きてるんじゃないかな」

「……」

「だから、それと比べて小塚さんが大切じゃないとかじゃないよ」

「そっか」

「うん」

 

 優しい人だ。お姉さまたちの選択を肯定した上で、ちゃんと私のことも気遣ってくれてる。『ゆく年くる年に負けた女』という事実は覆せないけれど、それでも、金森くんの優しさはとてもうれしい。

 

 左手を袖の中に引っ込め、金森くんのカイロを袖口に仕舞う。そのまま両手で甘酒の紙コップを包み、一口すすった。今日はとても寒い。そのためか、甘酒はさっきより少し冷めて、幾分飲みやすくなっている。

 

 金森くんも、私と同じタイミングで甘酒をすすった。冷めた甘酒は金森くんにとっても飲みやすい温度のようで、彼が舌をやけどすることはなかった。

 

 二人で並んで、焚き火を見つめる。焚き火はパチパチと音を立て、私達の顔をオレンジ色に照らしている。こっそり金森くんの横顔を見ると、表情はいつもの穏やかな顔だったが、目だけはどこかさみしげだった。

 

「金森くんも、先輩がいなくて寂しい?」

「んー……まぁ、少し」

「そうだよねー」

「でもさ。初詣に来たのはよかったと思うよ」

「なんで?」

「んー……」

 

 当然の疑問だ。互いに目当ての人には会えず終いなわけだし。私だって、今日は楽しかったけれど、薫お姉さまに会えなかったことは残念だ。それは金森くんも変わらないはずなのだが……

 

 私の尋問を受けた金森くんは、照れくさそうに苦笑いを受けた浮かべながら、左手で鼻の頭をポリポリとかいていた。焚き火の明かりに照らされてるからいまいち分かりづらいけれど、なんとなく、ほっぺたが赤くなっている気がした。

 

「んー……」

「んー?」

「えーと……」

「なになにー」

 

 ニヤニヤとほくそ笑みながら、金森くんを肘でつつく私。そんなに言いづらそうで、だけど言おうか言うまいか迷ってるような顔してたら、逆に気になるじゃないか。

 

「言ってしまえ金森くんっ!」

「わかった! わかった言うから!」

 

 観念したのか、柔らかい笑顔で金森くんは、私が右耳に添えている、かすみ草を指差し、そしてこう答えた。

 

「いつもと違う小塚さんに会えた」

「え……」

「振り袖もかすみ草もよく似合ってる。素敵だ」

「……」

「係長じゃなくてごめんね。でも、ホントに可愛くて、よく似合ってるから」

 

 私の顔が熱くなる。これは焚き火の熱じゃない。私の顔が真っ赤っ赤に紅潮し始めたからだ。

 

 大体、そんな屈託のない笑顔で、しかもほっぺたを赤くしながらの、そんな言葉は卑怯だ。薫お姉さまに振られたその直後に、そんな言葉は卑怯だ。胸がドキッとしてしまうじゃないか。勘違いしそうになるじゃないか。

 

「……」

「……あれ。どうしたの?」

 

 今ほど、この金森くんという人をズルいと思ったことはない。さっきみたいな言葉をしれっと投げかけたくせに、今はとても不思議そうに私の顔をのぞき見てくる。何の企みもないのに、あんな言葉を私に投げかけてくるのは本当にズルい。

 

 残った甘酒を飲み干したあと、その紙コップを焚き火に投げ入れた。ジュワッと音を立て、紙コップはすぐ焚き火の炎に包まれて焼けていく。

 

 私は金森くんに背を向け、そして顔を見られないようにした。かすみ草が落ちそうになったけど、それは自分でキチンとさし直す。

 

「なに言ってんの金森くんっ!」

「ん?」

「ほら! おみくじでもやりに行こう!」

「わかった」

 

 慌てて甘酒を飲み干し、私と同じ様に焚き火に投げ入れる金森くんを待つことなく、私は視界の先のおみくじ売り場に歩を進めた。袖口に右手を突っ込み、中のカイロを手に取ると、金森くんのカイロは、まだまだ温かい。

 

 

 金森くんと共におみくじを引き、中を開いた。

 

「……」

「……」

 

 私も金森くんも、おみくじの結果を見る目は真剣だ。私の結果は『吉』。良くも悪くもない一年になるということか。……しかし、私はもちろん、おそらくは金森くんも、一番気になるのは全体運ではない。

 

 結果を見た後、私の視線は『待ち人』の項目を探す。待ち人の項目には……

 

「やった!!」

「金森くん?」

 

 私が『待ち人』の結果を見たのと同時に、金森くんが元気な声を上げた。

 

「良かったの?」

「良かった! すごくいいよ!!」

 

 そう言って、無邪気な笑顔で私に自分のおみくじを見せてくれる金森くん。その目はとても喜びに満ちていて、おもちゃを母親に買ってもらった男の子のように、キラキラと輝いて見えた。

 

 金森くんのおみくじ結果は、『吉』。そして……

 

「待ち人『近くにいる』だってさ!!」

「へぇ〜……」

「やったよ!! これは絶対に正嗣先輩だ!! ついに僕と正嗣先輩が……ウハァー!!!」

「ちょっと金森くん……声でかい……」

 

 金森くんの声の大きさに、周囲の人たちの視線が集まってきた。大半の人は微笑ましく金森くんを見ていくだけだが、中には『目を合わせないように……』とあからさまに私と金森くんから顔を背けていく……

 

 その様子に、私も一瞬恥ずかしくなったのだが……なんだかこの光景も悪くない気がしてきた。呆れつつ、なんとか彼に静かにして欲しくて……でも半分あきらめつつ、彼をなだめるけれど。

 

「よしっ! これで言質は取れた……!!」

「ハハ……言質って……何なの……」

「神様からの言質だ! これで心置きなく……正嗣先輩と……ッ!!」

「ハハハ……金森くん、うれしいのはわかったから……」

「今年こそは!! 今年こそはァァァああああ!!!」

「ちょっと……ハハ……落ち着こうか……」

 

 私の制止など効果が無い様で、いくら声をかけても、金森くんの暴走は止まらない。

 

 それどころか時間が経てば経つほど喜びが倍加しているようだ。今は私にくるりと背を向け、暗闇の中に広がる公園に向かって、大声で『正嗣さん!!! 待っててくださいねぇぇええ!!! 係長! 負けませぇぇえええん!!!』と全力で叫んでいる。周囲の人がくすくす笑っていることに気付かずに。

 

 そんな彼の様子に苦笑いを浮かべつつ、私は改めて自分のおみくじを見た。

 

 私のおみくじの『待ち人』の項目には……『眼の前』と書かれている。

 

「……タハハ」

 

 思わず苦笑いが浮かび、かすみ草が耳から落ちそうになった。

 

 私の目の前には、ガッツポーズで愛する渡部先輩に向かって思いの丈をぶちまける、我が社きっての残念なイケメン金森くんの、素敵な後ろ姿があった。

 



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この人とは楽しいかもしれない①

 新年最初の出勤日から数日経った、ある日のことだった。この日も私は、お昼に金森くんとともに喫茶店ちょもらんまに向かっていた。

 

 会社から喫茶店までの短い道のりを、金森くんと並んで歩く。私は彼の右側だ。不思議と金森くんと並んで歩くと、金森くんは私の左側にスッと並ぶ。

 

「うー……寒いねー……」

「1月の上旬だからね……」

 

 二人並んで、背中を丸くして肩をすくませて歩く。周囲に高いビルがあるわけではないのに、今日は風が強く、そして冷たい。そのせいか、周囲の光景に色があまり付いてないように見える。私の視界全体に、なんとなく色の濃度を薄くするグレーのフィルターがかけられているような、そんな状況だ。何を見ても、薄いグレーのような色に見えてしまう。

 

 だが、不思議と金森くんが羽織るチェスターコートの赤みがかった黒だけは、とても色濃く、くっきりと見えた。

 

 

 今朝の話だ。出勤した私と金森くんが薫お姉さまに呼ばれ、私は渡部先輩と共にお姉さまのデスクに足を伸ばしていた。

 

「……なんで渡部先輩も一緒に来るんですか?」

「俺も薫に呼ばれてるんだよ。お前の指導係だからかなぁ?」

「ご家庭で何か聞いてないんですか?」

「よほどのことが無い限り家で仕事の話はしない」

 

 そんな会話で互いに牽制し合いながら、私と渡部先輩は愛する薫お姉さまの元に足を運ぶ。

 

 私と渡部先輩が薫お姉さまのデスクに到着したところで金森くんも合流し、私達三人は、お姉さまのデスクの前で横に一列に並んだ。

 

「……」

「……?」

「……なんでもない」

「? なに見つめ合っとるんだお前ら? 遅れてきた思春期か?」

「毛根の二割を線香で丹念に焼き塞ぎますよ」

 

 ちなみに並び方は、左から順に金森くん、私、そして渡部先輩の三人だ。

 

 デスクの前の薫お姉さまは、私達が揃ったのを確認すると、いつもの冷静で麗しいその御尊顔で、おごそかに話し始めた。

 

「金森くん」

「はい」

「あと、小塚ちゃん」

「はいお姉さま」

「あなたたちお二人に、明日東京に行ってもらいたいと思っています」

「「ふぇ?」」

「ふぁ〜ぁ……」

 

 一人で我関せずといった具合であくびをする渡部先輩はさておいて……私と金森くんは、気の抜けた声でリアクションを取ることしか出来なかった。

 

「……係長」

「はい」

「僕と……小塚さんでですか?」

「はい」

 

 金森くんがなんとか絞り出した質問に対しても、薫お姉さまは淀みなく返答を返す。その表情はいつものように冷静で美しいが、眼差しはデキる女のお姉さまらしく、とても鋭く、計算高さが感じられる。仕事中の薫お姉さまは、時々怖くなるぐらいに冷静だ。

 

「おい薫」

「はい」

「金森くんは分かるが、なぜこの小娘もだ?」

「必要だと思ったからです」

「この小娘がか」

「そうです。ダメですか?」

「ダメではないが……」

 

 続けて渡部先輩も薫お姉さまを問い詰めるが、お姉さまの返答はやはり淀みない。

 

 私は私で、なぜ私が東京に行かなければならないのか確認したいのだが、金森くんといい渡部先輩といい、私と同じ疑問をぶつけてもしっかりと答えてくれなかったところを考えると、私が聞いても、答えてくれるか疑わしい。

 

「係長。東京のどこですか?」

「行って欲しいところは色々ありますが、まずは池袋ですね」

「ああ……」

「あとは六本木、品川シーサイド、五反田、恵比寿……」

「ひょっとして、あの案件ですか」

「そうです」

 

 二人の間では、何か共通認識があったらしい。金森くんは合点がいったようだ。私は渡部先輩と互いに目配せをするが、渡部先輩も心当たりはないらしい。目が完全にそれを否定している。

 

「だったら、確かに小塚さんは必要ですね」

「はい。ですから彼女にもお願いしようかと」

「……分かりました。では明日、小塚さんと一緒に東京に向かいます」

「お願いします」

 

 当の本人の私が置いてけぼりで、話が勝手にずんずん進んでいく。私は頭が混乱するばかりで、何も考えられない。

 

「……小塚ちゃん?」

「は、はい!?」

 

 そんな私の様子に、薫お姉さまが気付いた。お姉さまは私の顔をいつもの冷静な御尊顔で覗き込んでくるのだが……

 

「行きたくないですか?」

「い、いや……」

「ではお願いしますね」

「はい……」

 

 最後はお姉さまの迫力に押されて、つい頷いてしまった。

 

 

 午前中にそんなことがあり、なし崩し的に私の明日の東京出張が決定した。結局私が金森くんと共に東京出張に選ばれた理由はまだ分からない。渡部先輩に相談しても……

 

『俺は知らん。薫か金森くんに聞いてみろ』

 

 としか言わないし……

 

 事情を知っているらしい金森くんも、ニコニコ笑顔のまま何も教えてはくれないし……

 

 二人でトコトコと歩き、喫茶店ちょもらんまに到着。お店の入口ドアを開くと、カランカランとベルが鳴り響いた。

 

「はーい。いらっしゃーい。いつもの二人だねー」

 

 いつものようにお店の奥さんに声をかけられた。そして……

 

「ぁあ!! 金森さん!!」

 

 なんか聞き覚えのある、耳につく高い声も一緒に店内に響く。私と金森くんは、一緒に声がしたほうを向いた。そこには……

 

「今日もこちらでランチなんですか?」

「ああ一色さん。偶然ですねー」

「はい! ホント、偶然ですね!!」

「この前の訪問時はお世話になりました」

「こちらこそ! 金森さんにはいつもよくしていただいて!!」

 

 いやがった……一色玲香さん……今日も来たのか……偶然だなんて嘘だろう……この前のことで味を占めて、きっとここで待ち構えていたんだろう……? けっこう長い時間待ってたんだろうね。お冷も汗をかいてるし、テーブルの上でノートパソコン開いてるしね。

 

 挨拶のためか、金森くんはまっすぐに一色さんの席へと向かう。私も連れなので、仕方なく金森くんの後ろに付き添っていった。

 

「あ、えっと……」

 

 一色さんは私の顔を見るなり顔を曇らせ、そしてどもり始めた。私の名前を忘れたんだろうなぁ……名刺だって拒否したしねぇあなた。私だっていらなかったけれど。

 

「ご無沙汰してます。小塚です」

「ああ小塚さん。そうでした。失礼しました」

「いえいえ」

 

 私にはまったく興味が無いのだろう。口だけの謝罪を一色さんは口にした後、目をキラキラと輝かせて金森くんを見つめ、いつかのリベンジを果たそうとしているようだった。

 

「金森さん、よかったら一緒にランチしませんか?」

「? ランチですか?」

「ええ。……小塚さんも、よければご一緒に」

「はぁ……」

 

 『よければご一緒に』じゃないだろう……私は邪魔者だという本音が、その眼差しから漏れ出している。そもそも本人は気を使ったつもりかもしれないが、その申し出自体が失礼なものだということに気付かないのか。

 

 ……まぁいい。私だって本音を言えばこの人から離れた席でランチ食べたいし、金森くんがもしこの人とランチを食べるというのなら、私は離れて一人で食べることにしよう。

 

 なんて思って、少々沈んだ気持ちを抱えていたらである。我らが残念なイケメン金森くんは、この一色さんに対してものすごく爽やかな笑顔で、またもや予想し得なかった返答を返した。

 

「いえ。一色さんはお仕事で忙しいようですし、邪魔しては悪いのでまた後日ご一緒します!」

「は!?」

 

 店内に響き渡る、一色さんの困惑した叫び。口をパクパクしつづける一色さんには目もくれず、金森くんは爽やかなまま上機嫌で、一色さんに背を向けてこの前のさらに奥の方のテーブルへと向かう。

 

「し、失礼しますっ」

「……ッ!!!」

 

 私も慌てて一色さんに頭を下げ、てくてく離れていく金森くんについていく。トコトコ歩いていく金森くんが今回狙いを定めたのが、この前の席よりもさらに奥の方。陰になって一色さんの死角になりそうな場所だ。

 

「……ッ!」

「……ハハ」

 

 席に着く寸前に一色さんと目が合ったが……彼女はこの前の怖い顔で私の方を睨んでいた……うう……金森くんは金森くんで、鼻歌を歌いそうなほど上機嫌な笑顔でメニューを開き、そしてランチを選び始めた。

 

 私は金森くんの向かいの席に座り、そして同じくメニューを開いてランチを選ぶんだけれど……

 

「……ねぇねぇ金森くん」

「ん?」

 

 針の上のむしろに感じた私は、両手で開くメニューで顔を隠しつつ、金森くんに声をかけた。

 

「いいの?」

「何が?」

「だって……一色さんて取引先だよ?」

「うん」

「この前も断ったでしょ? ランチしなくていいの?」

 

 私は社会人として至極当然のことを言っているわけなんだけど……どうして話が通じないのかなぁ……金森くんはこの前のときと同じ様に、きょとんと不思議な顔を浮かべ、事の重大さを理解してないようだった。

 

「? なんで?」

「だって! 取引先と仲良くするのもキミの仕事でしょ?」

「そうだけど?」

「だったら今日こそ一色さんとランチを……」

「いやぁ、だって一色さん、パソコン開いて仕事して、忙しそうだから」

「はあ?」

 

 今日も彼の論理展開が理解出来ない……気のせいだろうか、一緒に一晩過ごしたあの朝ように、彼の頭からは、くるくる線と小さな太陽がピロッと飛び出て見えていた。

 

「……」

「……?」

 

 金森くん、やめてくれ……そんな純真な瞳で私を見つめないでくれ……邪気のない子犬のような顔で、私の顔を覗き込まないでくれ……

 

「……」

「……小塚さん?」

「……なんでもないっ。何頼むか決まった?」

「カキフライ定食にしようかな」

「んじゃ私は、ハンバーグランチで」

「はーい」

 

 そうして10分後、私たちの元に届けられた、カキフライ定食とハンバーグランチ。両方とも出来立てでハンバーグはまだジュージューと美味しそうな音を立ててるし、カキフライも揚げたてでとても美味しそうだ。

 

「はーい。んじゃごゆっくりー」

 

 ウェイトレスの奥さんが、ピンクを帯びた長髪をふぁさっとなびかせ、私達の席から離れていく。彼女が歩く度、キラキラと輝く粒がその髪からこぼれ落ちているように見えるほど、とてもキレイだ。

 

「金森くんのカキフライ、美味しそうだねぇ」

「そお?」

「うん。私もちょっと迷ったんだよね」

「そっか」

「んじゃ……」

「「いただきます」」

 

 二人で声を合わせて『いただきます』と言った後、私はナイフとフォークでハンバーグを切り分ける。ハンバーグは切り口からキレイな肉汁が溢れ出て、ジューシーでとても美味しそうだ。

 

「あづッ!? ……でも美味しい」

 

 一方の金森くんのカキフライも美味しそうだ。金森くんが悲鳴を上げるということは、あのカキフライはきっとアツアツでジューシーのはず。私のハンバーグも美味しいけれど、カキフライも美味しそうだなぁ……と、つい金森くんの口をジッと見つめてしまう。

 

 そんなふうに、私が金森くんのカキフライをジッと見つめていたら、その金森くんが私のハンバーグの上に、カキフライを一つちょこんと乗せてくれた。

 

「へ……?」

 

 突然のことでうろたえ、金森くんの顔を見た。金森くんはいつもの人懐っこい笑顔を浮かべ、そして口をもごもごと動かし、ゴクリと口の中のカキフライを飲み込んでいた。

 

「気になるんでしょ? お一つどうぞ」

「いや、でもそれ……」

「そのかわり、ハンバーグ一切れちょうだい。それ、気になってたから」

 

 そう言って、金森くんはニヘラと気の抜けた笑みを浮かべた。目に少し涙を浮かべているから、よほどカキフライが熱かったのか。それとも、やっぱり私の予想通り、金森くんは猫舌なのか……

 

 金森くんのカキフライのお皿に私のハンバーグを一切れ乗せ、私はカキフライをありがたくいただくことにする。フォークをブスリと刺して、金森くんのお皿のタルタルソースを盛大につけたあと、一口でそのカキフライを食べた。

 

「タルタルつけ過ぎじゃない?」

「これぐらいつけないと美味しくないっ。ご愁傷さまー」

「タハハ……」

 

 金森くんが苦笑いを浮かべる。口の中のカキフライはアツアツでジューシー。タルタルソースの酸味と相まって、とても美味しい。

 

「んー……!」

「小塚さん、美味しい?」

「おいしい!」

「だよねー」

 

 口の中のカキフライを味わいながら、金森くんのカキフライの横に私のハンバーグを一切れ置いた。その途端、金森くんは、私のハンバーグを口に運び、とても美味しそうにもごもごと食べていた。

 

「あづぅうッ!?」

 

 もちろん、口に入れた直後は、熱さで悲鳴を上げたけれど。

 

 



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この人とは楽しいかもしれない②

※今回の話は普段に比べてけっこう長いです。


 昨日の退社前、『明日は出発前に出社してもいいですし、直行でも結構です』と薫お姉さまに言われた私達は、朝、最寄りの新幹線の駅で待ち合わせをすることにした。東京に行くのに、いちいち出社することもない……二人で相談した結果、そういう結論が出たからだ。

 

 お母さんに駅まで車で送ってもらい、私はこの駅ただ一つの改札口の前に立つ。金森くんは……まだ来てないか。会社支給の新幹線の切符は金森くんが預かってるはず。なら、私はただ金森くんを待つだけだ。

 

 ちなみに私は今日、相当に気が抜けた私服を着てきている。私はいつものスーツを着るつもりだったのだが……金森くんが昨日の別れ際に、

 

『んじゃ、明日は私服で来てね』

 

 と不意にぽんと言ってきたものだから、つい『お、おう』と了承してしまったからだ。だから今日は紺のスーツにスカートといういつもの仕事スタイルではなく、上は遠赤タイプの暖かい肌着に赤のチェックシャツ。その上にふわふわしたニットだ。下はロールアップしたデニムにいつもの赤のコンバース。上にもう一枚何かを羽織ることも考えたが……

 

「んー……今日は暑い……」

 

 離れた場所にあるこの駅の北口から、外の様子を眺めた。今日は1月にしてはえらく天気がよく、気温も若干高い。上に何も羽織ってないこの状況でまったくもって寒くなく、むしろ暑いぐらいの天気だ。だから私は、上着を羽織らずに出発することに決めた。

 

 荷物もいつものバッグではなく、今日はリュックだ。キャンバス地のこのクリーム色のリュックはとても頑丈で荷物もたくさん入る。今日は仕事用のiPadも入っているから少々重いのが難点だが……。

 

 そうして、待つこと数分。

 

「おはよ〜」

 

 いつもの気が抜けた挨拶とともに、我らが金森くんが反対側の南口から姿を現した。のだが……

 

「……あれ、小塚さん」

「ん?」

「どうしたの、その格好……」

 

 彼は開口一番、そんな言葉を口にした。

 

「え……でも、金森くんが……」

「へ……?」

 

 ちょっとうろたえた様子で言葉を続ける金森くん。そんな彼の服装は、普段の仕事着のスーツに比べると幾分くだけた感じではあるけれど……どちらかというと、私のザ・普段着の出で立ちよりもフォーマルだ。いつもの少しだけ赤みがかった黒のチェスターコートに上下のスーツ。トップスには白のセーターを着て、靴も革靴を履いている。持っているバッグも大きなブラウンの革製のもので、いつも仕事で使っているものだ。

 

 唯一、首に巻いている赤と紺のストライプのマフラーが、このフォーマル寄りな金森くんの服装に、若干のカジュアルの風を吹き込んでいる。といっても出勤時の彼がいつも身につけているものだけど。

 

 そんな金森くんの出で立ちを見て、私はなんだか不安になってきた。たとえカジュアル寄りとはいえ、そのまま出勤してもおかしくない格好でやってきた金森くんに対し、たとえ前日に『私服でいいよ』と言われたとしても、ザ・普段着を着てきてしまった私……

 

「……いやでも金森くんが私服でいいなんて言うから!」

「?」

「金森くん、そんな格好で来るならちゃんと教えてほしかった! そしたら私もちゃんと考えて服選んだのに!!」

 

 つい、声を荒げて金森くんを責めてしまう。でも本当のことだ。就活していた時、採用試験の時に『私服でお越しください』という文言に踊らされ本当に私服で行ったら、他の人達は全員リクルートスーツだったときのような、そんな気恥ずかしさだ。別にやましいことはしてないはずなのだが、妙に気恥ずかしい。

 

 金森くんは、そんな私の様子を見て、最初意味から分からないようで眉間にシワを寄せていたが……

 

「……」

「……ッ!」

「……ぷっ」

 

 やがて、私が憤っている理由がわかったのか、口を押さえておかしそうに吹き出していた。最初は私もものすごく不快に感じたけれど……

 

「なにがおかしい金森くんッ!」

「ああ、いやごめん。あのね。服装のことじゃなくてさ」

「んじゃ何なのッ!!」

「東京の方は今日は寒いよ?」

「へ……?」

 

 しまった……金森くんは私がザ・普段着な格好をしてきたのを驚いたんじゃなくて、どう見ても防寒対策が微塵も感じられない服装に驚いていたのか……

 

 よくよく考えてみれば、金森くんは結構な厚着をしているのが見て取れた。スーツの上にはいつものチェスターコートだし、マフラーだって巻いている。この服装なら、今はめちゃくちゃ暑いだろうが、たとえ東京で雪が降っていても寒いということはないだろう。

 

 対して私の服装は……インナーに暖かい肌着を着ているとはいえ、寒さに対してあまりにも無防備な格好をしている気がする……。

 

 しまった……これは失敗だ。東京に出るわけだから、ここでの気温だけで判断せず、ちゃんと東京の気温も把握しておけばよかった……

 

「しまったぁ〜……」

「まぁ……ひょっとしたら予報外れてるかもしれないし」

 

 意気消沈してがっくりと肩を落とす私に対して、金森くんが慰めの言葉をかけてくれた。いやぁ金森くん……最近の天気予報の正確さは私も知ってるよ……その天気予報を見た金森くんがそれだけ厚着して防寒対策しているというのなら、きっと東京は寒いだろうさ……

 

「うう……慰めてくれてありがとう……」

「まぁ、向こうに着いてどうしても寒かったら、上着買おうよ」

「そうする……」

「でも、よく似合ってると思うよ。その服」

「そっか……ありがと……」

「どういたしまして」

 

 そうして私は苦笑いする金森くんから新幹線の切符を受け取り、金森くんと二人で東京行きの新幹線へと飛び乗った。

 

 

 東京の一つ手前の品川駅に到着し、私たちは他のビジネスマンらしき人たちに紛れて、新幹線から降りた。のだが……

 

「さむッ!?」

「タハハ……」

 

 ホームに降りた私たちを待ち構えていたのは、東京の容赦ない寒気。車内の暖房のせいもあるのかもしれないが、私達の街と比べてものすごく寒い。大晦日のあの日の夜を思い起こさせるレベルの寒さだ。私は反射的に悲鳴を上げ、途端に身体をガクガクと震わせた。

 

「寒いね〜……ッ!! 寒いってか、顔が痛い!?」

「だから言ったのに……」

 

 ガクガクと震える私の横で、金森くんのは苦笑いを浮かべる。私は私で、この寒さに耐えるのが精一杯だ。私達の街がいかに暖かい気候なのかを、私はやっと理解した。インナーのめちゃくちゃ暖かいはずの肌着も、まるで効果がない。新幹線に乗る前はあんなに暖かかったのに、今では私は震えることしか出来ない。歯がガチガチと音を立て始めた。

 

 私は寒さをこらえるのに精一杯で、その時、金森くんが私を見つめていたことに全く気が付かなかった。彼の眼差しに気付いたのは、彼が私の首に、自分のマフラーをフワリとかけてくれたときだった。

 

「え……」

 

 むき出しの私の首筋が、ふわりと優しく暖かいマフラーの感触に包まれる。

 

「次からは、ちゃんと行き先の天気も確認するんだよ?」

「え……でも……」

 

 困惑する私の言葉など聞こえないように、金森くんは私の首に丁寧にマフラーを巻いていく。一周首に巻いたあとは、器用にクルッとマフラーを返している。よく『ニューヨーク巻き』って言われてる巻き方をしているみたいだ。

 

 その間、金森くんは、いつか見た深刻そうな難しい顔をしていた。声の調子を鑑みるに、別段怒っているというわけでもないようだけれど……

 

「はい終わり」

 

 されるがまま、私は金森くんにマフラーを巻かれてしまった。巻き終わるのと同時に、金森くんは私の肩をぽんと叩き、そしてニヘラと微笑む。

 

「……」

 

 金森くんのマフラーが大きいのか、それとも単に私が色々と小さいせいか……私の首はおろか、顔の下半分、口元までがマフラーに覆われている。多分原因は前者だな。そう思いたい。じゃないと、色々と悲しくなるから。

 

 さっきまで金森くんがつけていたせいか、マフラーはほんのりと暖かい。首筋がすべてマフラーで覆われただけで、こんなにも暖かいものなのか。私の身体は、いつの間にか寒さを感じなくなっていた。

 

「……あったかい」

「首を覆っただけでね。だいぶ違うよね」

「……あったかい! あったかいよ金森くん!!」

「何回も繰り返さなくていいんだよ?」

 

 大はしゃぎする私に対し、恥ずかしいのか苦笑いを浮かべる金森くん。鼻の頭をポリポリとかき、ほっぺたはいつもよりほんのりと赤い。

 

「……よし。じゃあ行こう。最初は池袋だ」

「どう行くの?」

「ここからなら山手線で一本だけど……覚悟はしておいてね」

「?」

「あと、リュックはちゃんと手に抱えていこう」

「? ??」

 

 言われるままに、リュックを手に抱える私。なぜ、せっかく背負って楽が出来るリュックをわざわざ手に抱えなければならないのか……その理由は、数分後に身をもって理解することになるのだった。

 

 

 数分後。私達は山手線に乗り、池袋を目指したのだが……

 

「か、金森……くんッ!?」

「ん?」

「これは……!?」

 

 私はこの時初めて、金森くんが『リュックは手に抱えていこう』と言った理由が初めてわかった。理由はこの『朝の通勤ラッシュ』というやつだ。狭い車内に、老若男女たくさんの人達がひしめき合い、さながら大阪名物の押し寿司の米粒の様相を呈している。電車がスピードを上げる度、カーブに差し掛かる度、そして停車するたびに、私の四方に密着した人たちよって身体を押され、私はしっかりと立ち続けることが難しい。

 

「こ、これが東京……ッ!?」

「あれ? 小塚さんは東京ははじめて?」

「初めてじゃないけど……ラッシュは、初めて……ッ!?」

 

 私の前に立つ金森くんは、このラッシュの中で涼しい顔で立っている。もはや身動きするのも難しい状況で、金森くんは実に安定した姿勢でどっしりと立っている。座席の上の荷物置き場にささっと自分のバッグを置いて、右手でつり革を持って微動だにしない。

 

 一方の私はどうだ。眼の前はおろか前後左右を知らない男女でみっちりとうめつくされ、手が届かないからつり革を掴むこともできず……ただひたすらバランスをとって、なんとか立っていることが精一杯だ。

 

 聞きしに勝る通勤ラッシュ! 東京に住まう企業戦士たちは、こんな状況で毎日出勤してるのか……ッ!? と私は戦慄を覚えた。これでは会社に到着する前に疲れ切ってしまうだろう。東京の人たちの体力は底なしか。

 

 おまけに、みっちみちの車内では本当に身動きが取り辛い。私の左隣の男性に、身体が密着しているのが怖い。その男性は私に背中を向けてはいるけれど、やはり知らない人と否応なしに身体が密着するのは恐ろしい。今まではあまり意識したことはなかったが、迷惑度指数700パーセントの犯罪である、痴漢の危険性を意識せざるを得ない。

 

 ほんのりと身体に力がかかり、私の身体が電車の進行方向……つまり、私にとって前の方向に力がかかったのを感じた。電車がゆっくりとスピードを下げているらしい。慣れない私はバランスが取れず……

 

「ぶっ!?」

「ぉお?」

 

 思わず金森くんの身体にポンと飛び込んでしまった。

 

「ご、ごめん!」

「いいっていいって」

 

 思わず顔を上げ、金森くんの顔を見た。彼はこの満員電車の室内にもかかわらず、ニヘラといつもの力が抜けた笑顔が見せた。

 

『上野~。上野~』

 

 車内に放送が鳴り響く。次の駅は上野駅。私は金森くんから顔を背けて、車内の路線図を見た。池袋はまだまだ先だ。このすし詰め状態のまま、まだまだ耐えなければならないのか……。

 

 窓の向こう側の光景に、駅のプラットフォームが流れてきた。どうやらここが上野駅らしい。駅のホームは恐ろしい人だかり……おそらくこの電車から降りる人もいるだろうけれど、それと同じかそれ以上の人たちがこの車内にまた入ってくるのか……恐怖しかない。

 

 電車のドアが開く。車内の人たちの幾人かが、その開いたドアに向かって動き始めた。

 

「ぅあ!?」

「小塚さん!?」

 

 その人の流れに、私の身体がぐいぐいと押されていく。慣れない人の流れの重圧に、私はただ流されていくばかりだ。

 

「ちょっとまって……ここで降りないから私……ッ!?」

 

 なんとか人の流れに逆らいたいんだけど、流れの強さはとても強い。私は必死に抵抗するけれど、ただひたすらドアに向かって流されていくばかりだ。

 

 そうして、あと少しでドアから出てしまう、そのときだ。

 

「ぅえ!?」

 

 私の左の二の腕が、誰かにガシッと掴まれた。その手はとても大きく、力強い。

 

 私を掴むその手が、グイッと私を再び車内に向けて引っ張り込んだ。人の流れにも負けない強さでその手に引っ張られた私のその先にいたのは、真剣な表情の金森くんだ。

 

「おっ?」

「……ッ」

 

 金森くんの胸元に、私はそのまま飛び込んでしまった。私の二の腕を掴んでいた彼の手は、私が彼の胸に飛び込んだその途端に私の腕を放し、そして私の背中を背後から優しく支えていた。

 

「よかった。流されちゃうから、気をつけて」

「あ、ありがと……」

 

 私の頭のすぐ上で、金森くんはニヘラと微笑む。いつもより近い距離で聞く金森くんの声が、妙に私の耳をくすぐってくる。それが妙にこそばゆい。

 

 気恥ずかしくなり、私はうつむいてマフラーに顔を埋めた。路線図を見ると、池袋までの道のりはまだまだ長い。池袋まではあと何分なんだろう。……その間、私はずっと金森くんの胸の中にいなきゃいけないのか……守られるのはうれしいが、なんだかとても恥ずかしい。

 

「……」

「……?」

 

 思い出した。そういえばこのマフラー、金森くんのマフラーだ……。

 

 

 死ぬ思いで池袋駅に到着し、駅構内でもたくさんの人の流れに流されつつ、でも金森くんに手を掴まれて引っ張られながらも、なんとか私達は目的地の高層ビルに到着した。

 

「ゼハー……ゼハー……」

「……小塚さん?」

「なに……ゼハー……」

「……大丈夫?」

 

 私のこの状況を見て、大丈夫だと思う金森くんの目は、ひょっとして節穴ではないだろうか……そう思わずにはいられない。

 

 あのものすごいラッシュにもまれた私の見た目はズタボロだ。髪もボサボサだし、ずっと金森くんに腕を引っ張られていたせいで、なんだかセーターもワイシャツもぐしゃぐしゃだ。

 

 一方の金森くんはまったく乱れていない。チェスターコートもスーツもシルエットは崩れることなくスラリとしてるし、その顔つきもいつもの通り穏やかで余裕がある。今は私を見て苦笑いを浮かべているけれど。

 

「逆に聞くけど……金森くんは……ゼハー……」

「ん?」

「疲れないの……?」

「僕は時々東京に来るからねぇ」

 

 そうだったのか……言われてみれば、時々金森くん外出してたけど、それって東京に来てたのか……割と朝早くから外出することが多かったし、ラッシュにしょっちゅう揉まれてたのか……

 

 その後、私と金森くんは眼の前の50階建てビルへと入り、エレベーターで36階へと向かう。

 

「うわ……速い……」

「こういう高層ビルのエレベーターって速いんだよ。僕らの街にはないからびっくりするよね」

 

 驚く私に対し、どう見ても驚いてない表情で『驚く』と寝言をほざく金森くん。その、私を舐め腐っているとしか思えない態度には、憤りを感じずにいられない。

 

 そもそもエレベーターに乗っているだけなのに、飛行機に乗ったときのような違和感が耳に襲いかかるとはどういうことか。私はエレベーター内で生あくびを繰り返し、なんとか耳から空気を抜こうと頑張ったが……

 

「小塚さん?」

「ふぁ〜あ」

「大丈夫?」

「ふぁ〜あ」

 

 そんな努力も虚しく、私の耳から空気が抜けることはなかった。

 

 36階に到着すると、先方の担当者の人がエレベーターの扉の前で待っていた。ブルーのパーカーにダメージジーンズという、会社員とは思えない服装だ。でもその手には分厚い手帳とノートパソコンが握られている。眼鏡の奥の眼差しが鋭くて、どこかお姉さまに似た雰囲気を漂わせていた。頬から顎にかけてヒゲが伸びているが、無精髭というよりもキレイに整えられた、オシャレなヒゲだ。

 

 私の直感が告げた。この人、お姉さまと同じぐらい仕事が出来る人だ。

 

「お待ちしてました金森さん」

「はい。ご無沙汰してます古賀さん」

 

 そんな、出来る雰囲気のその人に対し、金森くんはいつもの涼やかな笑顔を向ける。その笑顔はいつも通りな気がするのだが……目が妙に鋭いような、そんな印象を受けた。

 

 その男性に案内され、私たちはビルの会議室へと通されたのだが……

 

「ふぁ……」

 

 通された会議室の様子に、私は思わず声を上げた。

 

 会議室は壁一面が窓になっており、そこから池袋はおろか、東京の全景を見下ろすことができた。あまりに遠すぎて、もやがかかったように輪郭がはっきりと見えない距離の街まで見通すことが出来る。その光景は、私の心を圧倒した。

 

 少しだけ背伸びをして、ここから見える景色の、もう少し先の方を覗き込む。薄い青色の空の向こうにうっすらと、私達の街の山の輪郭が、うっすらと見えた気がした。

 

「ここに来たのは初めてですか?」

「はい。私、出張自体がはじめてで、圧倒されちゃって……」

 

 古賀さんに話しかけられ、私はつい本音をこぼしてしまう。クスリと微笑んだ古賀さんは、その後私と名刺交換をしてくれた。どこぞの女の人とは全然違って、笑顔が穏やかな人だなぁ……。

 

 名刺交換が終わった後は、席に座る。私の席は大きな窓のすぐ側だ。左を向けば、寒空の下の東京の全景が一望できる。

 

「ふぁ〜……」

 

 二人にはわからない程度にチラチラと窓の景色を眺めながら、その都度その高さに圧倒される。……でも、二人にはバレてないと思っていたのは私だけだったようで、私は後で、金森くんから『仕事もしっかりしようね』とお小言を言われる羽目になったのだが……この時は、そんなことは微塵も考えてなかった。

 

「では古賀さん、こちらの資料をご覧ください」

「はい」

「小塚さんも……あと、話のメモをお願い。iPad使っていいから」

「あ、ありがと……あ」

「ん?」

「これ……」

 

 私がぼんやりしてると、金森くんが私と古賀さんに資料を配ってくれる。A4の複数枚のページで構成された、今度から金森くんが任されるプランの資料だ。先週に渡部先輩から『お前、ちょっと自分で一から作ってみろ』と言われ、全部私が一人で作り上げた、はじめての資料。

 

「この仕事の打ち合わせだったの?」

「そうだよ? 言ってなかったっけ?」

「聞いてないよー……」

「ぷっ……仲がよろしいことで……」

「あ、いや……失礼しました……」

「すみません……」

「いえいえ。仲のいい仕事仲間と笑い合って仕事ができるというのは、とてもいいことですから」

 

 金森くんと言い合いになるけれど、そこを古賀さんに笑われてしまった……私と金森くんは互いに顔を見合わせる。

 

――仲のいい仕事仲間

 

 だけどなぜだろう。古賀さんのその言葉が妙に嬉しく、それでいて、どこか寂しい。

 

「……さて。じゃあ始めましょうか」

 

 ほっぺたが少し赤くなった金森くんが、私からぷいっと顔を背け、さっきまで見せていた涼やかな笑顔と鋭い眼差しに戻った。

 

 なんとなく分かった。今のこの金森くん、100パーセント仕事モードなんだ。いつもの周囲に気を配る余裕も、渡部先輩の周囲で大はしゃぎする元気も、何もかもを仕事に振り分けた、仕事に完全集中している状態なんだ。今、私の前で難しい言葉を交えながら古賀さんと話すこの人は、私の友達『金森くん』ではなくて、我が社の代表『金森千尋』なのだ。

 

 そんな、誇るべき同僚が横で頑張っている。私も出来ることを精一杯やらなければ。私はバッグからすばやくiPadを取り出し、メモアプリを開いてメモを取る。二人の会話の一言も聞き漏らすまいと、私はタッチペンで全力でメモを取り続けた。

 

「今回のキャンペーンサイトですが……」

「すでに弊社で構築を進めています。来週にはテストサイトをお見せ出来ると思います。その際にurlもお知らせいたしますので」

「構築が早いですね」

「大変腕の良いフリーのエンジニアが一人おります。弊社と良いお付き合いをさせていただいている方です」

「どなたですか?」

「資料にその方の簡単な紹介とポートフォリオのurlを記載してありますので、後ほどご確認下さい。主夫の方だそうですが、腕は弊社が保証します」

 

 私が今まで足を踏み入れたことのない空間で、今まで私が体験したことない企業同士の折衝が、私の目の前で静かに繰り広げられていく。正直、二人の話は私には難しすぎて意味がわからない時がある。だけど今はメモを取る。わからない単語はあとで調べればいい。とにかくメモれ。それが私の仕事だ。

 

「……うん」

 

 二人の声と紙をめくる音だけが響くこの会議室。古賀さんが資料のページをめくり、そして声を出して頷いた。

 

「古賀さん? どうかされました?」

「ああ、いや……見やすくて良い資料だなと思いまして」

「ありがとうございます。こちらの小塚が作りました」

「へ!?」

 

 唐突に話を振られ、思わずタッチペンを落としそうになるほどびっくりしてしまう。二人はそんな私を見て、クスクスと笑っていた。恥ずかしい……

 

「やっぱりあなたが……」

「は、はい! なんで、わ、わかったんですか!?」

「小塚さん……うろたえ過ぎだよ……?」

「いやでも金森くん!?」

 

 突然褒められたことで頭がパンク気味の私。そんな私は金森くんと言い合いを始めてしまうが……古賀さんは、そんな私達を知り目に、私が作った資料を一枚、丁寧にペラっとめくった。

 

「いや、わかりやすくまとめられてるし、とても良い資料です。説得力もある」

「あ、ありがとうございます……」

「それにね……」

 

 恐縮する私の前で、古賀さんは資料の途中のページの一枚を私に見せた。そのページはさっき話に上がってた、この企画のキャンペーンサイトを手がける渡部先輩の主夫仲間、ノムラさんの紹介のページだ。そのページの中のある場所を、古賀さんが指し示す。

 

「これ」

「ひぇえ……ッ!?」

 

 古賀さんが指し示したもの……それは、空いてしまってどうしようもないスペースについ私がふらふらと描いてしまった、猫の落書きだ。力ないへろへろのタッチで、『ノムラさんをよろしく!!』という、見ている人を煽っているとしか思えない吹き出しまでつけたやつ。それを見つけた渡部先輩が『ノムラさんも面白がってたから、それそのまま残しとけ。命令だ』と半ば強引に採用したやつだ。

 

「これがすごくカワイイし、作った人の個性も出てる。すぐにあなただと分かりました」

「す、すみません……落書きしちゃって……」

「いやいやとんでもない! 服のセンスも素敵だし、遊び心もある。素敵です」

「……」

「金森さん? 素晴らしい仲間をお持ちですね」

「はい。有能で頼りになるし、私と仲良くしてくれる……私の自慢の同僚です」

 

 なんだかすごく褒めちぎられてる……私は今まで渡部先輩の隣でただひたすら資料作ったり社内報を作ったりしてただけだから、こんな現場に出たこと無いし、ましてや人から高評価をもらったことなんかない。

 

 それが今日、褒めてもらえた。私が作ったものを『素晴らしい』と褒めてもらえ、『素敵な方だ』と私自身も褒めてくれ、金森くんからも『自慢』と褒めてもらえた。私はこの会社に就職して初めて……この仕事に就いて初めて、他の会社の人から評価された。その事実は、私の胸に心地よい暖かさとして、じんわりと広がっていった。

 

「あ、ありがとうございます……!」

「いえいえ」

「ウェヘ……ウェヘヘヘヘ……」

「小塚さん……ちょっと笑顔がキモい……」

 

 その喜びは、私の顔にキモい笑みをもたらした。渡部先輩の話によると、薫お姉さまの笑顔はそらぁもうキモいんだとか。私も喜びでキモい笑いを浮かべてしまったあたり、薫お姉さまにちょっとは近付けたのかもしれない。

 

 ただ一つ。そんな暖かい胸の中のほんのひとかけらの部分が、チクリと痛かった。その理由を探ろうにも、初めての喜びで異常回転している私の頭では、それを探ることなど、出来るはずがなかった。

 

 



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この人とは楽しいかもしれない③

 恵比寿で今日最後の会社訪問を終え、私は金森くんとともに恵比寿ガーデンプレイスタワーから、すでに日が落ちて久しい寒空の下へと踏み出した。

 

「「さむっ」」

 

 途端に私達は冷たい風にさらされる。二人一緒に肩をすくませ、一緒に『寒い』と意思表示をした。

 

「金森くん」

「ん?」

「寒いならマフラー返そうか?」

「んーん。今のは脊髄反射みたいなものだから。それは小塚さんがつけてていいよ」

 

 そう言うと金森くんはニコリと微笑み、私より先に歩いていく。私は私で、肩にかけた金森くんの赤と紺のストライプのマフラーを首に巻き、ニューヨーク巻きにする。金森くんが寒いなら返したほうが……とも思ったが、本人が大丈夫だというのなら、喜んでその好意に甘えさせてもらうことにした。だって寒いし。

 

 金森くんのマフラーは柔らかくふわふわで、なによりも暖かい。『どうしても寒かったら上着を買おう』と思っていたのに、このマフラーがあっただけで上着など買わなくて済んだ。

 

 まったく、金森くん様様だ。帰ったら何かお礼をしなければ……そう思いながら、急いで金森くんの後を追いかける。

 

 スマホで時計を見ると、もう夕方の5時。季節は冬だから、すでに空は真っ暗だ。にもかかわらず、この場所は周囲がライトアップされていて、周囲はけっこう明るい。その明るさの中、私は金森くんに追いつき、彼の右隣に並ぶ。

 

「ん……」

「ん?」

「……んーん」

 

 金森くんが私の顔を見た。彼の顔は、いつの間にか我が社の代表『金森千尋』から、私の同僚で友達の『金森くん』に戻っていた。目が優しく、ニヘラと浮かべる笑顔からは、力が抜けている。

 

 二人で並んで、恵比寿ガーデンプレイスの敷地を歩く。金森くんの歩くスピードが少し遅くなった。彼はいつもそうだ。本当ならもっと早くスタスタと歩けるはずなのに、私が隣りにいる時は、スピードを私に合わせてくれる。

 

 そうして二人で白い息を吐きながらしばらく歩き、ビルの影から出た時だ。

 

「わ……」

「……」

 

 金森くんが立ち止まり、私は感嘆の声を漏らした。

 

 恵比寿ガーデンプレイスには、周囲を建物に囲まれた中庭のような場所がある。両サイドを並木に挟まれた『坂道プロムナード』という小洒落た名前の道の先には、センター広場と呼ばれる小さな広場。ちょっとしたイベントなんかも出来そうな、けっこうな広さがある中庭だ。

 

 そんな中庭のすべてが、柔らかい金色に輝いていた。

 

「きれい……」

「うん……きれいだ……」

 

 輝く並木道の中に、二人でついフラフラと迷い込む。シャンパンゴールドと鮮やかな緑に輝く並木道の向こう側には、同じく薄く柔らかい金色に輝く大きなシャンデリアが見えた。光はとても柔らかく優しいのに、その光はとても強い。日は落ちているはずなのに、私と金森くんの周囲は、まるでお昼のように明るく輝いている。

 

 呆然と立ち尽くす私達の周囲を、沢山の人たちが行き交っている。でも私の目には、金色の光に照らされたその人たちの姿すら、美しく見えた。今私の隣をすれ違ったスーツ姿の女の人も、金森くんの後ろを歩いていくビジネスマンぽい男の人も、広場で寒そうに肩を寄せ合う恋人たちも、『寒いよ!!』とお母さんとはしゃぐ小さな男の子も……みんなが、この景色の一部のように、美しく見えた。

 

 こっそりと金森くんの横顔を見た。金森くんはほっぺたを少し赤くして、私達のはるか前、センター広場の大きなシャンデリアをただジッと見つめていた。私も改めて、大きなシャンデリアを見つめる。

 

「キレイだね、金森くん」

「うん。ホントにキレイだ……」

 

 この時、私と金森くんが心の中で思っていたこと。それは……

 

「お姉さまと一緒に見たかった」

「正嗣さんと一緒に見たかった」

 

 二人してまったく同じことを考えていたことが妙におかしく、二人一緒にプッと吹き出した。さすが、あの夫妻を愛し、そしてあの夫妻がライバルである私達だ。こんな素敵なところに来て、考えることが同じことだとは……。

 

「金森くんひどい……ぶふっ……」

「小塚さんだって……でゅふっ……」

「私は仕方ないじゃん。お姉さまを愛してるんだし」

「それなら僕も仕方ないね。正嗣先輩を愛してるんだし」

 

 二人してクスクスと笑い、必死に自分を弁護する。金森くんはいつの間にか、ここを行き交う人々と同じ様に、金色の光で照らされキレイに輝いていた。

 

「……でもさ。小塚さんが一緒で今日は良かった」

「そお?」

「うん。実はさ。今日はちょっと不安だったんだよね」

「そうなの?」

「今日が初めての自力での折衝だったから」

「そうなの!?」

「そうだよ?」

 

 そういって、金森くんは光の中で恥ずかしそうに微笑む。私はこの言葉には驚いた。

 

 彼は会社訪問を繰り返していく中で、そんな素振りはまったく見せなかった。ともすれば怖く感じるほどの、ビジネスマン『金森千尋』の横顔を私に見せ続けていた。

 

 それなのに、本人は不安だったという。あれだけ余裕そうに振る舞っていたというのに……

 

 でも、ほっぺたをほんのり赤く染め、恥ずかしそうに鼻の頭をポリポリとかく金森くんは、嘘をついているようには見えない。

 

 ということは、そんな不安をずっと抱えていたのに、彼は私のこともずっと気遣ってくれていたのか……朝のラッシュの時も、寒くて震えていた時も……

 

「おっ……」

 

 金森くんが自分の腕時計を見た。左手の手首の内側を見る彼の仕草は、輝く光に包まれているせいか、いつもより色っぽく見える。

 

「6時前だ。そろそろ行こっか」

 

 そんな色っぽい仕草のまま、金森くんは自分の時計を私にも向けてくれた。距離が少し離れているから文字盤が見辛い。彼のそばに近づき、彼の腕時計を覗き込む。

 

「う……」

「ん?」

「な、なんでもない……」

 

 金森くんが腕時計をこちらに向けるだけで、あまり私に近づけてくれなかったものだから、その腕時計を覗き込む私は、なんだか朝の通勤ラッシュのときのように、彼の胸の中に飛び込んだような、そんな感じになってしまった……これ、本人は意識してないんだよねぇ? 照れてる私の顔を不思議そうに覗き込んでくるし……。

 

 気を取り直して、改めて時計を覗き込む。光が反射して今一よくわからないが、6時近い時刻なのは確かなようだ。

 

「そろそろ帰ろう。今日は疲れた」

「そだね。帰ろう」

 

 

 キレイだった恵比寿ガーデンプレイスに別れを告げ、私達は恵比寿駅へと向かう。

 

「……」

「……」

 

 互いに無言で、並んで動く歩道の上に立っている。当然のように、私は金森くんの右側だ。動く歩道は屋内にある。だから冷たい風が吹かず、さっきのキレイだった中庭よりも、心持ち寒くない。

 

 金森くんのマフラーに顔を埋める。なぜだろう。さして寒くないのに、彼のマフラーを手放したくないのは。

 

 なぜ私は、さして寒くないのに、『寒くないからこれ返す』と金森くんに言うことができないのだろう。頬に触れるマフラーのふわふわした感触が心地よいからだろうか。

 

 駅が近づくにつれ、人の往来が増えてきた。今は午後6時過ぎ。ちょうど朝のように通勤ラッシュにぶち当たるのだろうか……ひょっとしたら、駅はたくさんの人でごった返しているのだろうか……

 

 フと金森くんの右手を見た。彼は今、自分のバッグを左手で持っているから、右手は空いている。言うほど寒くないせいか、ポケットに突っ込んでもいない。

 

 私はフラフラと、金森くんの右手に自分の左手を伸ばした。

 

「……ん?」

「……」

 

 金森くんが不思議そうに私を見た。私は金森くんを見上げられない。見上げたら……顔を上げてしまったら、きっと真っ赤っ赤になってしまっている私の顔が見られてしまうから。

 

「どうしたの?」

 

 私をジッと見たまま、金森くんが口を開く。私は、金森くんの右手の小指を、ほんの少しだけつまんでいた。

 

「えっと……」

「うん?」

「駅さ。朝みたいに、通勤ラッシュだよね」

「だと思う」

「朝みたいに、また人に流されたくないから……」

 

 我ながら、とても苦しい言い訳だとは思うが……でも半分は本当のことだ。私は朝、山手線の車内で人の流れに抗えず、金森くんに助けられてしまった前科がある。あの失敗はもう繰り返したくない。

 

 ただ、それを言い訳にするには、彼の小指をちょこっとだけつまむだなんてのは、ちょっと説得力が足りないだけで……。

 

 駅の喧騒が次第に私達に近づいてきた。駅はやっぱりたくさんの人でごった返している。改札口からはたくさんの人達がとどまることなく流れ出ていて、あの中を歩かなければならないのかと、見ているだけで憂鬱になる。そんな凄まじい込み方だ。

 

「へくしっ」

 

 金森くんは一度だけ小さなくしゃみをした。その後……

 

「……わかった」

 

 私の左手をパシリと取り、そしてギュッと強く握ってくれた。

 

「ちゃんと握っててね?」

「大丈夫。離さないから」

 

 私は顔を上げ、金森くんの顔を見た。この残念なはずのイケメンの金森くんは、いつもの力の抜けた笑顔をニヘラと浮かべる。その微笑みは気が抜けた印象なのに、不思議と心強い。

 

 それはきっと、私の手を握る彼の手がとても力強くて、そしてとても温かかったからだと思う。 

 



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私のせいかもしれない①

 初めての東京出張をこなした翌日の今日。私はいつも通りのスーツを着て、いつもと変わらず会社に出勤した。

 

 昨日は新幹線で東京に戻った後、そのまま直帰した。一度会社に戻っても良かったのだが……さすがに慣れないことの連続で、私と金森くんは疲れ切っていた。二人でくたびれ果て、新幹線が私達の駅の一つ前の駅を出発した頃、渡部先輩から……

 

――お前らも疲れてるだろうし、今日は直帰しろ

 

 そんなありがたいメッセージがスマホに届いていた。正直、この指示はありがたかった。

 

 そんなこともあって、私達はそのまま直帰。そして今日、そのままいつものように出勤している。

 

 寒空の下をいつものように出勤する。昨日と比べて今日はとても寒い。私は昨日は着なかったコートを羽織って出勤しているが、それでも寒い。特に首筋あたりが。

 

 寒さに震えながら、いつもの出勤路を歩く。会社が近づいてきた頃、私の視界に、見慣れたチェスターコートの背中がゆらゆらと歩いているのが見えた。

 

「……あ」

 

 つい声を上げた。私の足がほんの少しだけスピードを上げ、その背中の右隣へと急いでいく。右隣に並んだら、彼の顔を見上げ、そして挨拶。

 

「金森くんおはよ」

「……ぁあ小塚さん、おはよ」

 

 金森くんの笑顔は、今日もニヘラと力ない。会社に着くまでは私の友達『金森くん』のままのようだ。昨日のような鋭い眼差しは、まだ鳴りを潜めている。首には見慣れた赤と紺のストライプのマフラーが巻かれている。このマフラー、昨日私が巻いてたんだよね……

 

「昨日はありがと」

「何が?」

「ほら。そのマフラー貸してくれたし」

「ああ。そういえば今日もマフラーしてないね」

「今日はいいかなと思って。コート着たし」

「そっか」

「うん」

 

 そんな他愛ない会話がなんとなく楽しい。今までは特にそんなことなかったのに、彼と言葉を交わすことが、なぜか今日はとても楽しい。

 

 ほどなくして、金森くんの顔が妙に神妙になる。宙を見つめ、子犬のような幻の耳をぴくぴくとさせ……

 

「……先輩……正嗣先輩?」

 

 ぽそりとそう口ずさんだ。これは、あれだ……あの人達が、近くにいるんだ。金森くんのセンサーの感度はすごいなぁ……。感心しながら、私はそんな金森くんの様子を伺う。

 

 ぴくりと動いた彼は、次の瞬間勢いよく後ろを振り向いた。彼のその視線の先には……

 

「正嗣先輩!!」

「うーす。おはよー」

「おはようございます」

「係長も!!」

 

 私たちの想い人で、それでいて私たちのライバル、渡部ご夫妻がいた。相変わらず渡部先輩は朝からぬぼーとした顔をしてだらしないし、薫お姉さまの御尊顔は朝からとても美しい。

 

 金森くんは『おはようございます!!』と実に元気に満ち溢れた挨拶をしながら、今日もペンギンのようなポーズでちょこまかとご夫妻の周囲を周り始めた。彼の動きは相変わらずキモくて、それを見ていた私の顔に、つい苦笑いが浮かぶ。

 

「小塚ちゃんもおはようございます」

「はい! おはようございますお姉さま!!」

 

 私も薫お姉さまと挨拶を交わした後、ご夫妻の元へと向かう。渡部先輩は相変わらず金森くんをうっとおしそうにさばき、薫お姉さまもいつもと変わらずお美しい。

 

「昨日はどうでした?」

「はい! 行ってみて正解でした! とても楽しい出張でした!」

「よかったです。なら、小塚ちゃんにも今後はちょくちょく行ってもらいますね」

「はい!」

 

 そんなうれしいことを薫お姉さまは行ってくれる。そっか。また東京に行けるのか……胸にほんのりとした暖かさを感じながら、金森くんの様子を伺うと……

 

「アッ!? せ、先輩ッ! マフラー引っ張らないで……く、苦しッ……!?」

「だまれッ!! いつもいつも朝から俺につきまとって……!!」

「あ……でもせんぱ……そんな野性味溢れるせんぱいも……イイ……ッ!!」

「朝から喘ぐなッ!!」

 

 とこんな具合で、渡部先輩からマフラーを引っ張られ、首筋をマフラーで実にフワッと絞められていた。それでも金森くんはとても楽しそうに満面の笑顔を浮かべ、ほっぺたをほんの少し赤くしていた。

 

「……ッ」

 

 その光景を見た時、ほんの少しだけ虫の居所が悪くなった。

 

「……ッ」

「小塚ちゃん?」

 

 そんな私の様子に気づいたのか、薫お姉さまが私の顔を覗き込んできた。結構顔が近いせいか、薫お姉さまの目がとてもキラキラと輝いているように見える……だけど……

 

「……は、はい?」

「どうかしました?」

「……いえっ」

 

 言えない……あの二人が楽しそうにじゃれついているのを見て、ほんの少しイラッとしただなんて……私だってその理由がわからないんだし……

 

 その場をごまかすためなのか、それとも何かのあてつけなのか……それは自分でもよく分からないが、私は薫お姉さまの右手をパシッと握り、

 

「行きましょお姉さま!!」

「は、はぁ……?」

「ほら! 早く行かないと遅刻しちゃいますから!」

 

 そのままお姉さまと手をつないで、会社へと急ぐことにした。

 

「あ! 待て小娘! 薫を強奪するな!!」

「知りません! そこで金森くんといつまでもじゃれてればいいじゃないですか!!」

「い、一日中、正嗣先輩とこうしていいんですか!?」

「それは私が困るのですが……」

「いいんですお姉さま! 私が金森くんの代わりにがんばりますから!!」

「待てお前ら!! 先に行くな!!」

「ちょ!? マフラー引っ張らないでせんぱ……あでもちょっとこれ、イイかも……!?」

 

 朝っぱらから周囲にこだまする金森くんの喘ぎ声が、今日は妙に私の機嫌を損ねる。

 

「……ッ!!」

「小塚ちゃん?」

 

 心配そうな薫お姉さまの声は全部無視をして、私はそのまま会社に急ぐ。薫お姉さまの手を引っ張って、いちゃついてる野郎二人は、そのままそこに置いておいて。

 

 

 会社に到着した後は、本当にいつもどおりの仕事が待っている。昨日のように楽しくもない、また社内報や他の人のための資料作成の日々だ。

 

 今も私は、社内報を作っている。そしてその横では、渡部先輩が暇そうにあくびを繰り返すばかり。

 

 しかしこの人、本当に何もしない……さっきから暇そうにあくびを繰り返し、そして時々思い出したようにキーボードを一度だけ叩く。おかげで仕事の進行スピードがものすごく遅い。『午前中の3時間の仕事の成果がテキスト10文字』という恐るべきワースト記録は、私が知る限り、この人だけだ。

 

「ホントに仕事しませんね渡部先輩……」

「急ぎの仕事なんかないからな」

 

 私の嫌味にも渡部先輩は臆することなくそう答え、再びあくびを繰り返していた。

 

 渡部先輩の体たらくに呆れながらも、私は社内報を作り続ける。文面を仕上げ、書式を整えた後は……どうせ社内報だし、少しばかり遊んでもいいだろう。昨日に古賀さんからほめられた猫のイラストを入れてみることにした。

 

 私がペイントソフトを立ち上げ、マウスでへろへろの猫のイラストを描いていた、その時だ。

 

「そういや小娘」

「はい?」

 

 さっきまで眠そうにあくびを繰り返し、今しがた人差し指一本で『Y』のキーを押した渡部先輩が、いつものぬぼーとした顔で私の画面を見つめていた。何か不備でもあったのかと少しドキっとしたのだが……

 

「昨日の夜、薫から聞いたぞ」

「お姉さまから? 何をですか?」

「お前の資料、先方の受けがよかったらしいな」

「はぁ。おかげさまで」

「先方がわざわざ薫に連絡くれたらしい。『あなたの部下が作った資料はとても楽しい』てさ」

「……」

「でかした小娘」

 

 渡部先輩の言葉を聞き、私は顔がニヤけるのを必死に我慢していた。直接褒められたのもうれしいが、わざわざ連絡までしてくれるということは、本当にあの資料の出来がよかったということか……。

 

 しかし、私は渡部先輩のことがあまり好きではない。だからこのことに関しても、『これもお前にパワポのイロハを教えた俺のおかげだな小娘』と、コチラを煽ってくることしか言わないだろう、と思っていた。

 

 だから私は、この渡部先輩の前では絶対に顔をニヤニヤさせまいと、妙な意地を張っていた。

 

「せんぱいのおかげでーす。ありがとうございまーす」

 

 そんな私だから、先輩へのお礼の言葉もどこかいい加減で、心のこもってないお礼を言ってしまったのだが……

 

「いや、これは俺は関係ない。お前の実力だ」

「え……」

 

 渡部先輩の予想外の返答に、私は一瞬戸惑い、それを声に出してしまった。まさか常日頃いがみ合っている渡部先輩から、素直に褒められるとは……

 

「先輩」

「ん?」

「熱でもあります?」

「失礼だぞ小娘」

 

 思わず口から発してしまった私の失礼な言葉を聞いた先輩は、少し顔をしかめ、そして頭をボリボリと掻いた。

 

「ほんっとうちの女性社員は先輩に対して失礼だな」

「それ女性差別ですよ」

「ホントのことだよ……薫にしてもお前にしても……」

「私は渡部先輩にだけ失礼なんで大丈夫です」

「余計にタチが悪いわ小娘」

「その小娘っていい加減やめてもらっていいですか」

「お前が薫を卑猥な眼差しで見つめるのをやめたらな」

「……チイッ!」

 

 最後はいつもの通りの言い合いになってしまったけれど、この渡部先輩からの予想外の称賛は、私の心に、さらにじんわりと喜びを広げてくれた。

 

 その後は、いつものように仕事を終え、いつものように帰宅した。もう恒例になりつつある金森くんとのランチでは、やっぱり恒例になりつつある一色玲香さんとのエンカウントを躱し、そして金森くんと二人でランチを食べた。

 

 その時、ちょっと気になっていたのが、金森くんの様子だ。

 

 彼は今日一日、よくクシャミをし、鼻をすすっていた。少し心配になり、ランチの時に金森くんに話しを聞いてみたところ……

 

『なんかお昼前ぐらいからくしゃみと鼻水止まらないんだよね』

 

 と困った顔をしながらエビグラタンを食べていた。もちろん、フォークですくったグラタンを口に運ぶ度、『あづッ!?』と悲鳴を上げながら。

 

 その時は『ふーん』としか思ってなかったが……翌日、私はそのことを後悔することになる。

 

 翌日。金森くんは高熱を出して、会社を休んだ。

 

 



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私のせいかもしれない②

 朝。いつものように出勤し、いつもの通勤路を歩く。会社が近づくにつれ、少しずつ弾んでくる胸にどことない違和感を感じつつも、私の足はそれに従い、少しずつ早く、大股で歩き始める。のだが、不思議と今日は、どこまで行っても見慣れたチェスターコートの背中が私の視界に映らない。

 

「あれ……?」

 

 いつもであれば、この大通りの道に入れば、あの見慣れた背中が歩いているはず。それなのに、今日はその姿は見当たらない。

 

 しばらく足を止め、私は周囲をキョロキョロと見回すが、それでも金森くんが姿を見せる様子はない。バッグからスマホを取り出して時計を見るが、別段いつもと時間は変わらない。それなのに、彼の姿は見当たらない。

 

 さっきまであれだけ弾んでいた私の胸が、少しだけ沈んだ。『こんな日もあるよね』と自分に必死に言い聞かせるが、その言葉などどこ吹く風で、私の意識はしょぼくれていく。自分でも意味がわからない。金森くんと会えなくて、なぜここまで意気消沈するのか。

 

「うーす小娘ーおはよー」

「おはようございます小塚ちゃん」

 

 ふと背後からそんな声が聞こえた。振り向くと、そこにいたのは渡部ご夫妻。渡部先輩は相変わらず朝からぬぼーとうっとおしいし、薫お姉さまは朝からとても美しくて、私の心に光を差す。

 

 だけど。

 

「ぁあ、おはようございますお姉さま」

「はい」

「俺は無視か小娘」

「おはようございます渡部せんぱーい」

「事務的挨拶をどうもありがとう。……つーか金森くんは一緒じゃないのか」

 

 渡部先輩のこの一言が、私の胸に妙に刺さる。

 

「一緒じゃないです。いつもここで会うんですけどねー」

「珍しいですね。この時間に金森くんがここにいないって」

「ですよねぇお姉さま……」

「会社に早く着いちゃったかちょっと遅れてるかどっちかだろ。よくあることだ」

「まぁ……そうですが」

 

 そこまで言うと渡部先輩はひときわ眠そうな欠伸をしたあと、私達を置いててくてくと会社へと歩いていった。

 

「お姉さま。手を繋いでいいですか?」

「まぁ今なら先輩も背中向けてるし、いいですよ」

「やった!」

 

 私は自分の気持ちを奮い立たせたくて、薫お姉さまの御手を取る。相変わらずお姉さまの手は美しい。色白で指はしなやか。爪の形もキレイで、まるで女性のお手本のような手だ。手を握っているだけで、心がぽかぽかと温かい。

 

 だけど。

 

「……」

「なんか元気が無いですが?」

「いや! そんなことないですよお姉さま!!」

「はぁ……?」

 

 一度沈み込んだ私の気持ちは、中々急浮上してこなかった。

 

 

 会社に到着して仕事をし始める時刻になっても、金森くんは姿を見せなかった。この会社は出社時間はある程度自由になっていて、始業時刻が過ぎた頃に出社してくる社員もいる。

 

 だが、金森くんはどちらかというと時間にはルーズではない方だ。入社してからこっち、始業時刻を過ぎてから出社してきたことなどほとんどない。時には客先に直行するときもあるけれど、今日の金森くんにそんな予定はなかったはず。

 

 私は他の部署から頼まれたエクセルでのデータ整理をこなしながら、薫お姉さまの様子を探る。薫お姉さまはいつもの仕事をこなしながら、時々電話で金森くんへ連絡をしているようだが……中々繋がらないみたい。

 

「……おい小娘」

「はい」

「人の妻に見とれてる暇があるなら、早く今月の社内新聞仕上げろ」

「今日はデータ整理頼まれてるからムリです」

「んじゃ、俺の仕事になっちゃうだろ」

「たまには3時間でテキスト10文字のワースト記録を気にしたらどうですか?」

「仕事での成功と人生の充実の二択なら、俺は人生の充実を取る」

「社会人としてサイテーですね」

「なんとでも言え。これが俺の人生哲学だ」

 

 横槍を入れてくる渡部先輩は適当にさばき、引き続きデータ整理を進めることにする。半分ぐらいが終了したところで、薫お姉さまの方に動きがあったようだ。お姉さまは受話器をがしゃりと置くと、いつもの様子で私たちのシマへとやってきた。

 

「……先輩。小塚ちゃんも」

「おう? 珍しいなこっちに来るなんて」

「お姉さま! ようこそ!!」

「はい。金森くんと連絡が取れました。風邪で熱が下がらないそうです」

「……マジか」

 

 私の胸が、一拍だけドキンと強く鳴った。

 

「え……金森くん、大丈夫なんですか?」

 

 少しだけ口が震える……ただ友達の風邪の具合を聞いているだけなのに。

 

「ムリをすれば大丈夫だそうですが、季節が季節ですから。今日は休ませました」

 

 お姉さまの口調は、なんだか淡々としていて事務的だ。仕事仲間で部下の一人が風邪で倒れているというのに……そのきれいな声が、なんだかとても冷淡に聞こえた。

 

「そっか。教えてくれてありがと。気になってたから」

「はい。では私は業務に戻ります」

「ありがとうございますお姉さま……」

「いえ。小塚ちゃんも気になってたみたいですから」

 

 そう言ったあと、踵を返して自分のデスクに戻る薫お姉さまの背中が、なんだかとても冷たく見える。こんなことは初めてだ。

 

 確かに薫お姉さまはいつもとても冷静だけど、その外見に反して、お姉さまはとても仲間思いで優しく、温かい。そのことは、私自身よく分かっている。

 

 なのに、今のお姉さまはとても冷淡に見える。金森くんという仕事仲間が風邪で休んでいるのに、あの冷静な様子は……少しぐらい、心配してあげてもいいんじゃないか……私は今、大好きなはずの薫お姉さまに対して、はじめて不快感を抱いた。

 

 お姉さまへの不快感を持ったまま、私は引き続きエクセルでのデータ整理に入るのだが……なんだか気が散っているのが自分でも分かる。どうしても、金森くんと薫お姉さまのこと、そしてなぜ私自身がここまで動揺してしまっているのかを考えてしまう。

 

 私がなぜ金森くんが寝込んでいることを聞いてこんなに動揺しているのか……それはおそらく、東京出張の時に私が彼からマフラーを借りてしまったからだ。

 

「おい」

 

 彼はあの寒空の元、マフラーを巻かずにいた。途中彼は何度か『さむっ』と言っていたから、彼はその時、体を冷やしてしまったのかもしれない。私が彼のマフラーを借りてしまったせいで。

 

「おい小娘」

 

 となると、金森くんの体調不良は私のせいになる……だから私は自分の罪悪感を誤魔化したくて、薫お姉さまに不快感を抱いて八つ当たりしているのかもしれない……だとしたら、私は最低だ……

 

「小娘!」

 

 考え事をしていたせいで、ずっと渡部先輩から声をかけられていた事に気が付かなかった。渡部先輩が張り上げたひときわ大きな声は、私の気持ちを正気に戻すには充分なインパクトを私の耳に届けた。

 

「は、はい!?」

「はいじゃないだろ。画面よく見ろ。セルの位置が1マスずつズレてるだろうが」

「へ!?」

 

 慌てて画面を見る。確かに途中から、セルへの入力が1マスずつズレていた。おかげで全体のレイアウトがなんだかおかしい。何も知らない無関係な人が見ても分かるレベルのズレだ。そら渡部先輩も声を張り上げるよ……

 

「どうしたお前?」

「いや……」

「金森くんの話聞いてから上の空だぞ」

「……」

 

 渡部先輩は無視し、事務所の中の壁掛け時計を見た。お昼休みまでは、まだ1時間ほど時間がある。金森くんは大丈夫か……もし、高熱にうなされでもしているとしたら……

 

 ……ええい。気になるなら様子を見に行ってしまえ。私はお昼から金森くんの様子を見に行く決心をした。そのためには午後から半休を取らないと。

 

「渡部先輩」

「お?」

「午後から半休とって大丈夫ですか」

「突然どうした」

「金森くんが気になります。様子を見に行きたいんです」

「家は知ってるのか」

「知ってます」

「……」

 

 私は渡部先輩に素直に理由を伝えた。この人は、その無駄に有り余る女子力で薫お姉さまをたぶらかした忌むべき存在だが、意外とこういうことに関しては、素直に相談をすると力になってくれることが多い。

 

 特に有給申請に関しては、この人はどんな理由であっても100パーセントの確率でこちらの申請を通す。課長や部長が何か文句を言ってきてもお構いなしに申請を通してくれる。その点では、非常に心強い存在……それが渡部先輩だ。

 

 渡部先輩は暫くの間、顎に手をついて考え、壁の時計をチラリと見た。その後私のディスプレイをジッと睨み……

 

「お前の今日の仕事はそのデータ整理だけか」

「はい。でもこれも急ぎじゃないです」

「……わかった。んじゃ有給申請用紙だけ書け。申請は俺が通す。書いたらすぐ帰れ」

「……いいんですか先輩」

「気が散ってちゃ仕事にならんし、お前の顔に『今すぐ行きたい』て書いてあるからな。半休と今から出発のラグは俺が適当に誤魔化しとくから、さっさと書け」

 

 渡部先輩はそう言いながら、自分のパソコンをササッと操作した。途端に隅のプリンターから一枚の紙がウィーンという音とともに排出される。渡部先輩の目配せに従い、その紙を手にとって見ると、それは有給休暇申請用紙だ。

 

「……ありがとうございます」

「いいから早く書けって」

「はいっ」

 

 ありがとう渡部先輩! 今だけはその背後から後光が見えるようですっ! 私は急いで申請書類に名前と必要事項を記入し、ハンコを押した。急いで書いたから字は少々汚いけれど、それでも読めるから大丈夫のはず。一度目を通し、間違いがないことを確認して、渡部先輩に手渡す。

 

 渡部先輩は私の書類を見るなり、一言『汚い……』とつぶやいていたが、そんなことはどうでもいい。今回に限っては、文字が読めて誤りがなく、ハンコが押されていればそれでいいのだ。文字の綺麗さ、丁寧さは今回は必要ない。

 

 私の書類をひとしきり眺めた後、渡部先輩はギョロッと私の方を見た。

 

「……よし。問題ない」

「じゃあもう行っていいですか?」

「急ぐのもいいけど、車とか気をつけろよ?」

「はいっ。ありがとうございます!」

「あいよ。金森くんによろしくな」

 

 渡部先輩に深々と頭を下げた後、私は急いでパソコンの電源を切って事務所を出た。

 

 今日はスーツだから履いているのはローファーだ。もし履いているのがお気に入りのコンバースだったら、もっと速く走れるのに……そんな歯がゆい気持ちを抱えながら、私は金森くんの家への道をひたすら走る。

 

 その道の途中。大きな交差点の赤信号に捕まったときだった。バッグの中を覗くと、スマホがチカチカと輝いていて、着信が届いていたことを私に伝えていた。

 

 バッグからスマホを取り出し、ロックを解除して着信履歴を確認する。私のスマホに届いていたのは、着信ではなく薫お姉さまからのメッセージ。赤信号はまだ当分変わらない。私は薫お姉さまのメッセージを確認した

 

――金森くんをよろしくおねがいします

  小塚ちゃんも風邪を伝染されないように

 

 薫お姉さまからのそのメッセージは、私の胸にほんの少し、罪悪感のひとかけらとしてチクリと刺さった。

 

 

 あの日以来二度目の来訪となる、金森くんの部屋の入口前に立つ。このドアの向こう側の金森くんが一体どういう状況なのか、私には想像すら出来ない。

 

 ……なんだか緊張してきた。胸がバクバクする。

 

「すー……ふぃー……」

 

 一度だけ深く深呼吸をし、震える右手を伸ばして、人差し指でインターホンを鳴らす。ピンポーンという音が鳴ってほどなく、インターホンから意外なほど元気そうな……でも普段に比べて鼻声で少しだるそうな、金森くんの声が聞こえてきた。

 

『あれ……小塚さん?』

「薫お姉さまから聞いた。熱が下がらないんだって?」

『うん』

「様子見に来た。開けて金森くん」

『ち、ちょっとまって。感染ったら大変だよ?』

 

 けっこう怠そうな声をしてるくせに、私の心配をする余裕はあるのかこのアホ金森は……ッ!! イラッとした私は、インターホンに向かってそのイライラのすべてをぶつけた。

 

「うるさい! いいから開ける!!」

『は、はいっ!?』

 

 色々なことで、わたしは結構なストレスが溜まっていたらしい。思った以上に大きな声が出てしまったことで金森くんをびっくりさせてしまったようだ。インターホンの向こうの金森くんは急いでインターホンの受話器を置いたらしく、けっこう大きな『がちゃり』という音が聞こえてきた。

 

 そうしてすぐ、目の前のドアの鍵がガチャリと外れ、そしてドアが開いた。

 

「……小塚さん」

 

 ドアの向こうの金森くんは、いつものスッキリしてイケメンな姿とは似ても似つかぬ様相だ。灰色のスエット上下の上から青いちゃんちゃんこを着込み、髪はちょっと汗ばんでボサボサ。目はいつもに比べてちょっとトロンとしていてダルそうだ。おでこに冷えピタが貼られているのがなんだか痛々しい。薫お姉さまは『意外と元気な声』と言っていたが、一体これのどこが元気だと言うのか。

 

「上がるよ」

「え……」

 

 私は金森くんの返事を待たずに部屋に上がる。部屋の中はあの時のようにキレイに片付けられているが、空気は若干湿っている。熱が上がった金森くんがずっとこの部屋の中で、一人で苦しんでいたからか。

 

 二人がけソファの前にある、オシャレなテーブルを見た。ノートパソコンが一台、電源が入ったままで広げられている。りんごのマークが背面についている、ムカつくほど金森くんに似合ってるやつだ。画面を見ると、何か書類を作成しているようだ。私が普段使っているものとは違う文書作成ソフトが立ち上がっていた。

 

「……仕事してたの?」

「いや、出来れば今日中に仕上げておきたくて……」

 

 私に向かって苦笑いを浮かべる金森くん。その顔を見ていたら、なんだかむかっ腹が立ってきた。こんなに怠そうで辛そうな格好をしているのに、それでも仕事をしようとしているのかこのアホ金森は……私はマフラーを借りてしまった責任を感じて、今こうやって彼のもとに駆けつけたのに、彼自身にとってそれは、苦笑いを浮かべる程度のことだというのか……

 

 私は隣で苦笑いを浮かべるアホカナモリの右手首をガシッと掴んだ。その手は温かいなんてものじゃなく、まるで長時間熱し続けたフライパンの鉄の取っ手のように熱い。

 

「こんッの……ッ!!!」

「ふぇ!?」

 

 手首をぐいっと引っ張り身体を翻して、私は金森くんをベッドへと押し倒した。金森くんは抵抗出来ずベッドにドスンと倒れ、それが彼の不調を如実に伝えていた。

 

「ちゃんと寝なきゃダメでしょ!! じゃないと治るものも治らないって!!」

「いや、でもホントに熱が高いだけで……ッ!?」

「いいから寝ろ!! このアホ金森がぁあッ!!」

 

 言うに事欠いてまだ言い訳をするかこの男は!! 私は未だ起き上がろうとする金森くんの顔を右手でガシッと掴み、枕にグリグリと押し付けた。

 

「分かった! 分かったから離し……ムガガガガカ!?」

 

 金森くんは悲鳴を上げながら必死に抵抗するが、身体に全然力が入ってない。本人は虚勢を張っているけれど、きっと相当つらいはずだ。私に力で負けている。

 

「あーもう! 様子見に来てよかったよ金森くん! これじゃいつまで経っても治らないって!」

「う……ご、ごめん……」

 

 私の叱責を受けてしおらしくなった金森くんは、ベッドの中から上目遣いで私を見る。今はここに私がいるからしおらしいが……申し訳ないけれど、まったく信用できない。今だって、私の方を見ながらもテーブルの上のパソコンの方をチラチラ見てるし。

 

 決めた。今日は夕方ぐらいまでいたら帰るつもりだったけど、一晩中金森くんを監視してやる。

 

 私はテーブルの上のノートパソコンの元へ行くと、タッチパッドを使って操作を始めた。……でも困った。いつも使ってるパソコンと操作方法が違うから、どこをどうすれば電源が切れるのかわからない。

 

「金森くん! これ!!」

「な、なに!?」

「どうやって電源切るの!?」

「え、いやちょっと待って……まだ書類出来てな……」

「あンッ!?」

「ひ、左上のりんごのマークをクリックして、『システム終了』……です」

「ここかッ!」

「いやでも待って!!」

「何を!?」

「せめて保存!! 保存させて!!」

 

 仕方ない……電源の切り方はわかったが、ファイル保存のやり方は私にはわからない。私はそのノートパソコンを金森くんのベッドの上へと置いた。

 

「んじゃあ私、ちょっと着替えて買い物に行ってくるから! パソコンの電源落としたら、静かに寝るように!!」

「ぇえ!? でも小塚さん仕事は!?」

「そのために半休取ったの!! 私が帰ってきた時に寝てなかったら、その髪の毛おでこから後頭部方面に向かって3センチむしりちぎっていくから!! おでこの面積増やすよ!?」

「う……は、はい……」

「あと鍵!! この部屋の鍵は!?」

「げ、玄関っ!!」

 

 存分に金森くんにすごんだあと、私は怒りに任せてドスドスと足音と響かせて、玄関へと急ぐ。鍵は……これか。この、下駄箱の上にぽいと置いてある、かわいい豆柴のキーホルダーがついてるこれか。こんなとこまで渡部先輩の影響を受けているのか、あのアホ金森は。怒りに任せてそれをふんずと掴み取り、ドアを開いて外へ出た。

 

 バタンと閉じたドアに鍵を差し込み、ガチャリと鍵をかけた。

 

「……うしっ」

 

 バッグからスマホを取り出し、友人にメッセージを送る。キレイな黒髪のその友人は料理が上手で、体調を崩した恋人に鍋焼きうどんを作ってあげたという話を聞いたことがある。風邪といえば鍋焼きうどん。私はそのレシピを聞くため、彼女に連絡を取った。

 

 

 一度家に戻り私服に着替え、スーパーで必要なものを購入した私は、その後急いで金森くんの家まで戻ってきた。ドアの前で一度深呼吸をし、ポケットからこの家の鍵を取り出して、それを眺める。

 

「……」

 

 私が彼の家の鍵を持っている……その事実が、妙に私の胸をくすぐる。

 

 鍵を差し込み、静かに回した。ガチャリという音を確認し、ノブを回してドアを開く。静かに部屋に入り、音が鳴らないよう、私は静かにドアを閉じた。

 

 耳をそばだて、部屋の中の様子を伺う。音は何も聞こえない。パソコンのキーボードを叩く音も聞こえない。

 

「……ちゃんと寝たのかな?」

 

 少しだけ安堵し、豆柴の鍵を下駄箱の上に置いてコンバースの靴を脱いだ。部屋へと上がって居間に入ると、ベッドの上の布団がこんもりと持ち上がり、静かに小さく上下しているのが見て取れた。

 

「……」

 

 こっそりと覗き込んでみる。いつか見たことのある、とても穏やかな寝顔がそこにあった。額に冷えピタを張ったままの金森くんは、とても穏やかな、安心しきった赤ちゃんのような寝顔で、静かにすーすーと寝息を立てていた。

 

 その穏やかな顔を眺める。ほっぺたから顎にかけて、うっすらとヒゲが伸びていることに気づいた。親父のように濃く青い無精髭ではない。ほんの少し分かる程度だが、いままで決して見ることのなかったヒゲが、彼の顎からうっすら伸びていた。

 

「……」

 

 ついフラフラと手を伸ばし、金森くんの頬に触れた。

 

「ザラザラだ……」

 

 さっき掴んだ手首のように熱い肌の感触に混じって、ほんの少しだけ、ザラザラとした触り心地を感じる。普段なら毎朝キレイに剃っているであろう、金森くんの無精髭の感触だ。

 

「無茶して……ホントは辛いんじゃん……」

 

 そのザラザラした頬をさすり、そして髪を撫でる。金森くんの髪はすこし汗っぽく湿っているが、髪質そのものはとても素直だ。私の手櫛に素直に梳かれている。

 

「……ん。あれ」

「!?」

「ぁあ、おかえり」

 

 私が金森くんの頬や髪を触りすぎたらしい。さっきまですやすやと寝息を立てていた金森くんがうっすらと目を開け、そして力なくニヘラと微笑んだ。

 

 その笑顔で見つめられた私は、金森くんの髪を撫でたまま、身体が硬直してしまった。

 

「えっと……」

「……」

「……なに、してるの?」

 

 どう言い訳すればいいのか……と頭をフル回転させる私に、金森くんがさらに追い打ちをかけてきた。考えても考えても、言い訳を思いつくことはなく……

 

「うう……」

「うう?」

「ね、寝ろッ!!」

「わ、分かった! 分かったから!!」

 

 困り果てた私は、とりあえず勢いで誤魔化し、彼の顔を再び右手でふん捕まえて、枕にグリグリと押し付けた。ごめん金森くん……風邪で調子悪いのに……

 



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私のせいかもしれない③

 iPhoneの時計アプリのような、オシャレな壁掛け時計を見る。時刻は午後5時。

 

「ん……」

 

 あれから金森くんは、時々目を覚ましては再び眠りにつくサイクルを繰り返している。目をさますたびに体温計を口に突っ込んで体温を測っているのだが……39度から、一向に下がる気配がない。

 

 金森くんの様子も少しずつおかしくなってきた。お昼すぎまでは目を覚ますたびに一言二言ぐらい軽口を叩いていたが、夕方になるにつれ、その余裕もなくなってきたようだ。眠っている最中も、少しだがうなされ始めている。

 

 私は許可をもらって金森くんのパソコンの使い方を覚えながら、彼の様子をずっと伺っているのだが……もうけっこうな時間、彼の体温が下がらないことに、危機感を抱き始めていた。

 

 時刻が5時過ぎになったところで、私は台所へと移動し、晩ごはんの鍋焼きうどんの準備に取り掛かる。といっても、おだしの準備をし、うどんを茹でる準備をして、具材の下準備をしていくだけなのだが……

 

 そして眠っている金森くんから離れている今のうちに、薫お姉さまと渡部先輩に連絡を取る。今の金森くんの状況を伝えることはもちろん、金森くんの体温のことを相談するために。

 

 鍋の火加減を見ながら、私はスマホで薫お姉さまに連絡を取った。しばらくコール音が鳴った後、薫お姉さまは通話に出てくれた。

 

『小塚ちゃん?』

「お疲れ様ですお姉さま」

『金森くんの様子はどうですか?』

「はい。とりあえず元気は元気なんですが……」

 

 私は金森くんの熱が一向に下がる気配がないことを薫お姉さまに伝えた。その傍ら、おだしの味付けを見る。確か『相手が病人なら、思ったより薄めでいい』と友人は言っていたが……これぐらいでいいだろうか……

 

 私の話を聞いた薫お姉さまは『ふむ』としばらく考えた後、通話を渡部先輩に変わってくれた。なるほど。どちらかというと、こういうことは薫お姉さまよりも渡部先輩の方が詳しいか。

 

『おう小娘。金森くん、熱が下がらんそうだが』

「そうなんです。もう結構長い時間寝てるんですけど……」

『それでいい。つーか、もっと体温を上げさせろ』

「? なんで?」

『大方、日中に解熱剤でも飲んだんだろ。それに夜はこれからだ。まだ熱が上がりきってないはずだ』

「あ、なるほど……」

『だから今は金森くんの熱を下げようとするな。身体を冷やすのは汗でビショビショになってからでいい』

「はい」

『晩飯は何にするつもりだ?』

「鍋焼きうどんにしようかと」

『上出来だ小娘。なんなら、少しでいいから出汁にしょうがも入れろ。体があたたまる』

「チューブのやつでいいです?」

『かまわん。食わせたら間髪入れずにそのまま布団の中に押し込んで寝かせろ。うなされてても気にするな。汗をかきはじめるまでは絶対に布団から出すな』

「分かりました」

『分からんことがあればいつでも連絡しろ。夜中でも気にせずかけてきていいからな』

「……先輩」

『なんだ小娘』

「なんか……はじめて先輩のことを先輩らしく感じます」

『うっせ。張り倒すぞ小娘』

「遠慮しときます」

 

 先輩との通話を切ったあと、私は急いで冷蔵庫を開けた。中には、私が買ってきた食材とポカリ、そして元々入っていた食材の数々が並んでる。一応卵や調味料なんかはストックされているようだが、食材そのものはあまり多くない。金森くんは自分ではあまり料理はしない人のようだ。いつも男のくせに女子力おばけの渡部先輩をそばで見ているから、そんな些細なことが意外に見えてしまう……。

 

 その調味料や薬味のストックの中に、しょうがのチューブを見つけた。手にとって中身を見ると、まだ充分残っている。これなら行ける。

 

 温めているおだしの中にチューブから一捻りのしょうがを絞り出し、それを入れた。スプーンで少しかき混ぜたあと、味を見る。……うん。これぐらいほんのりならあまり気にならなさそう。しょうがの香りも立ってきた。

 

 もう一つのコンロの口で、雪平鍋を火にかける。水が沸騰するまでの間に油揚げ2枚を2等分に切り分け、沸騰した鍋の中に入れて油抜き。こうすればしっかり油抜きが出来ると友人は言っていた。自分流のアレンジはせず、今は素直に友人のレシピに従う。あとはほうれん草とネギを切っておいて、下準備は完了だ。

 

「んん……」

 

 居間の方から、金森くんの声が聞こえてきた。やっぱり、私がここに来たときよりも、だいぶ声に元気がなくなってる。私は台所から居間に向かい、金森くんが横になっているベッドのそばで腰を下ろした。

 

「……ま……小塚……さん」

「調子どお?」

「寒い……」

 

 金森くんの額に触れる。熱い……でも汗は全然かいてない。ということは、まだ上がるということか。

 

「食欲ある? 鍋焼きうどん作ったよ?」

「……作ってくれたの?」

「うん」

「朝から何も食べてないから……少し、おなかすいた」

「じゃあ食べる?」

「うん」

「分かった。すぐ出来るから」

「ありがと……小塚さ……」

 

 彼の言葉をすべて聞く前に、私は立ち上がって台所に向かった。

 

「待っててね」

「う……」

 

 その時、つい彼の頭をくしゃくしゃと撫でてしまったのは、私自身、気を抜いていたからだと思いたい……

 

 台所で見つけた一人用の土鍋をコンロにかけ、おだしを張った。冷凍庫から出した冷凍うどんをそのまま鍋に入れ、切った具材をそのまま並べて、火にかける。ぐつぐつと沸騰し始め、うどんがほぐれてきたら卵を割り入れて……

 

「出来るよー! ベッドから起きてー」

 

 居間に向かってそう叫びながら、おぼんとれんげを準備する。お盆の上に鍋敷きを敷き火からおろした土鍋を置いて、お箸とれんげも置いて……完成っ。

 

 鍋が乗ったおぼんを持って居間に行くと、金森くんはソファに座っていた。ちゃんちゃんこを着込む彼の背中は、いつもと比べて猫背になっていて、なんだかとても弱々しい。

 

「はい。どうぞ」

「ありがと……」

 

 おぼんをそのままテーブルの上に置き、蓋を開いた。途端に周囲に広がる、おだしとしょうがのよい香り。金森くんは鍋焼きうどんの香りを目を閉じて吸い込んだあと、鍋の中を覗いてニヘラと微笑んだ。

 

「いい香りだ……美味しそう」

「美味しいと思うよ。料理上手な私の友達のレシピで、渡部先輩のアレンジも入ってるから」

「んーん。そうじゃなくて……」

「うん?」

「……なんでもない。いただきます」

「はいどうぞ」

 

 金森くんがれんげでおだしをすくい、それをすすった。『熱いから気をつけて』と言おうとしたけれど、少し遅かったみたいだ。

 

「あづッ!?」

 

 金森くんはおだしをすすった直後すぐ、悲鳴を上げて口を押さえていた。この人、ホントに猫舌なんじゃないかなぁ……本人はそうは思ってないみたいだけど。

 

 ひとしきりおだしの熱さに悶絶したあと、金森くんは箸を取って少しずつ、私の鍋焼きうどんをすすっていった。テレビもついてなければ何の音楽もかかってない、静かな部屋の中で、彼が静かにうどんをすすっていく音だけが鳴り響いている。

 

「……美味しい?」

「うん。美味しい」

「よかった。おだしは渡部先輩の入れ知恵で生姜を入れたよ」

「通りでしょうがのいい香りがするんだね。油揚げも美味しい」

「おだしを含んだ油揚げって美味しいんだって。友達が言ってた」

「そっか。でも……」

「うん?」

「なんでもない」

 

 静かにゆっくりと、金森くんはうどんを平らげていく。けっこう美味しく感じてくれているようで、彼の食べるスピードが次第に上がってきた。

 

 彼が真面目な顔でうどんを平らげていく、その横顔をこっそり眺める。出張の時に見せていた顔と似ているけれど、ちょっと違う。

 

「ずずっ……」

「……」

 

 金森くんが夢中で私が作ったものを食べてくれている……その横顔を見る私の顔が、自然とほころんでくる。彼が美味しそうに食べるその姿を、こんなに近くで眺めてられることが、ほんのりとうれしい。

 

 しばらくして金森くんは、私の鍋焼きうどんの最後の一滴まで、キレイに平らげてくれた。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

「ありがと……ホントに美味しかった」

「よかったよ」

 

 食べ終わり、私に向かってニヘラと微笑む彼のほっぺたは、風邪だというのに、ほんのりと赤くなっていた。

 

「さ、食べたらまた寝て」

「もう大丈夫だけど……?」

「ダメ。渡部先輩も『食べ終わったらすぐに布団に押し込め』って言ってたし」

「でも書類作らないと……」

 

 この期に及んでまだ私に向かってワガママを言うかこのアホ金森は……私は彼の右手首をガシッと掴み、引っ張って無理やりに立たせた。

 

「ほぇ!?」

 

 やっぱり金森くん、まだ全然本調子じゃない。手首だって熱いし、私に力で全然抵抗出来てない。そのまま顔をガシッと掴むと、再びベッドに押し倒した。

 

「いいから寝ろッ! 書類なら私が作るから!!」

「でもそれWord入ってないよ?」

「大丈夫! 常日頃渡部先輩に社内報作らされてる私を舐めるなッ!!」

 

 困った顔でうだうだと文句を言い続けるアホ金森の顔に、私は掛け布団をばさっとかけた。アホ金森はまるでお母さんから怒られた5歳の男の子のように、掛け布団からひょこっと顔を出し、上目遣いで私の様子を伺い始める。

 

 私は気にせず、土鍋が乗ったお盆をキッチンへと持っていき、ざばざばと後片付けに勤しんだ。私は晩ごはんはまだいい。金森くんが寝付くまでは、彼のことを監視しないと。じゃないとあのままじゃ、また彼は起き出して書類作りをやりかねない。彼にはゆっくり体を休めてもらって、早く体調を戻してもらわないと。そのためにも、私が彼に変わって書類を作らなければ。

 

 大丈夫。さっきまでいろいろと金森くんのノートパソコンを触らせてもらって、使い方はなんとなく分かってきた。文書作成ソフトもWordとはだいぶ感触は違うけれど、さっきよりは使えるはずだ。

 

 洗い物を終わらせて私が居間に戻ってくると、金森くんはベッドの上で動かず、ジッと眠っていた。

 

 顔を覗き込んでみる。穏やかな顔で眠ってる。やっぱりだいぶ無理してるみたい。彼の頬に触れたい衝動を抑え、私は彼のノートパソコンを開いて、作りかけの書類ファイルを開いた。

 

 

 金森くんが作っていた書類ファイルは、この前の東京出張に関係することのようだ。ファイルと同じフォルダに入っていた私のメモデータも一緒に開き、私は書類の書式を整えていった。

 

「……」

 

 金森くんを起こさないように、音を立てず静かに仕上げていく。作りかけといっても、書類のアウトラインはほとんど出来上がっていた。あとは書式設定をほどこし、書類の体裁を整えるだけのようだった。

 

 金森くんが使う文書作成ソフトは、私が普段会社で使ってるWordとは全然違う見た目だったけど……そこはグータラ渡部先輩に鍛えられた私。しばらく使っているうちに操作方法にも慣れ、意外とさくさく進んでいく。

 

――Wordの使い方を覚えるんじゃなくて、文書作成の順序を覚えろ

  そうすれば、他の文書作成ソフトを使うときも混乱は少ない

 

 まったく……グータラなくせに、今日はとても頼りになる。渡部先輩には、明日お礼を言わなければ……

 

「……あ、そろそろ」

 

 もちろん金森くんの様子を見ることも忘れない。ある程度の時間ごとに金森くんの様子を見てみるけれど……彼の顔が少し赤くなってきた。髪を撫で、頬に触れると、ほんのりと湿り始めてる。やっと熱が上がりきったのかとホッと胸をなでおろした。

 

「う……ん……」

 

 金森くんが寝返りを打った。なんだか色っぽく聞こえる声を上げ、私からぷいっとそっぽを向いている。ひょっとして起きたのかとちょっとびっくりしたけれど、どうやらそうではないみたい。

 

「……すー……」

 

 それが証拠に、私から顔を背けたあと、こんなふうに穏やかな寝息を立てたから。

 

 私の視界に、金森くんの首筋が映っている。

 

「……」

 

 金森くんの首筋は、汗で少し湿っている。汗ばんだ肌が、なんだかとてもキレイだ。

 

 私の手が、フラフラと彼の首筋に触れた。指先で優しく撫でたあと、手のひらをペタリと彼の首筋に押し付ける。彼の体温は、まだまだ熱い。

 

――いくよ

 

 いつの日か見た夢の、彼の肌の感触を思い出した。でも今、目の前にいる金森くんの汗ばんだ肌の感触は、夢の中で触れた彼の肌よりも、とても鮮明で……

 

「んん……つめ……た……?」

「!?」

 

 しまった。私の手は少し冷たかったか……金森くんがうっすら目を開き、私の方を向いた。『んん……』と声を上げ、彼は汗ばんだ身体をこちらへと向けると、私の顔を見てニヘラと微笑んでいる。

 

 でも、私は手を離す気にはなれなかった。……いや、離したくなかった。

 

「えっと……ど、どう?」

「手、冷たい」

「ご、ごめん……」

「んーん。熱を見てくれてるんでしょ?」

「そ、そう!」

 

 助かった……キレイな首筋だから、ついふらふらと触ってしまったとは……この、子犬のような真っ直ぐな瞳の金森くんには、言えん……。

 

「喉乾いてない? 大丈夫?」

「うん大丈夫」

「ポカリ買ってきてあるから、喉乾いたら言ってね」

「ありがと」

 

 ジッと金森くんに見られて照れくさくなった私は、金森くんの首筋から手を離し、彼に背中を向けた。いい加減書類作成も進めないと。彼に『任せろ』と言った手前、もし仕上げられなかったら彼に悪い。

 

 一方、私の背後の金森くんは、ごそごそと動いて私の背中をジッと見ているようだった。彼の方は見てないが、彼は私の背中をジッと見つめているのは、なんとなく伝わる。

 

「……ねぇ、小塚さん?」

「うん?」

 

 時々『ふぅ』とダルそうなため息をこぼしながら、金森くんが静かに口を開いた。

 

「なんで、こんなに世話してくれるの?」

「……ほら、出張の時に私にマフラー貸してくれたでしょ?」

「うん」

「金森くん、あれで体調崩したのかなって思って」

 

 私は素直に思ったことを言ったつもりだった。キーボードを叩く手を止め、でも彼には背中を向けたまま、彼の顔を見ないで素直に答えたつもりだった。

 

 もし金森くんの体調不良があの出張の時のマフラーなのだとしたら……私は彼に悪いことをしてしまった。その責任は取らなければ。

 

 でも。

 

「……そっか」

 

 しばらくの間のあとの金森くんの返事は、いつもより元気のない、なんだかしょぼくれた声のようにも聞こえた。

 

 一瞬、『ごめんね』と言いそうになり、すぐに口をつぐんだ。なぜ今、私は彼に対し『申し訳ない』と思ったのだろう。これはマフラーについてではないのは分かる。だけど、しょぼくれた彼の返事に対し『申し訳ない』と思ったのは、なぜだろう……。

 

 気持ちを切り替えて、中断していた書類作成を再開する。書類自体はあと少しで完成する。特別サービスで目についた誤字脱字も修正しておく。日本語入力のオン・オフの切り替えに最初は戸惑ったけれど、慣れてしまえば普段使っているパソコンよりも意外と分かりやすい。今度渡部先輩に申請して、私もこのパソコンを使わせてもらおうか。そんなことを、ほんのりと思い始めていた。

 

 

 そうして書類作成も終わり、私も晩ごはんを食べ終わってしばらく経った頃。時刻はもう遅く、夜もだいぶ更けてきた。

 

「……よし。だいぶ汗をかいてきた」

 

 金森くんが盛大に汗をかきはじめた。顔色も青白かったお昼ごろに比べ、真っ赤でとても暑そうだ。

 

 渡部先輩に言われた通り、そろそろ彼の身体を冷やすことにする。冷蔵庫から友人おすすめのふにゃふにゃした氷枕を取ってきて、それをタオルでくるんで彼の首元に滑り込ませた。その途端、苦しそうな彼の表情が和らいだから、氷枕が心地良いみたいだ。

 

「ん……んん……」

「……がんばれ」

 

 金森くんの前髪を後ろに流し、むき出しになった彼のおでこに冷えピタを張った。寝ているはずの金森くんは、とたんに気持ちよさそうに表情を緩める。やはりこのタイミングで冷えピタを貼るのは間違ってなかったみたい。

 

 彼の穏やかな寝顔を眺めて、私もやっとホッと一息つけた。何のことはない。私はずっと気が張っていたみたいだ。

 

 渡部先輩も『いつでも連絡よこせ』と言っていたけど、もう大丈夫。渡部先輩に連絡を取る必要もないだろう。あとはこのまま熱が下がるのを待つばかりだ。このまま熱が下がれば、明日は無理でも明後日ぐらいには出社できるだろう。一安心だ。マフラーを借りてしまった借りも返せたみたい。よかった。

 

 彼の頭を撫でた。盛大に汗をかき始めた金森くんの髪は汗でしっとり湿っているけれど、そんな髪がなんだか手に心地よく、いつまでも触れていたい。

 

「……ん」

「気持ちよさそうに寝ちゃって……」

 

 髪が乱れない程度に、くしゃりと乱す。彼の髪は見た目通り、とても素直で柔らかい。私の手櫛が素直に通る。

 

――……そっか

 

 不意に、彼のしょぼくれた相槌を思い出した。あの時、彼がどんな気持ちでその一言を発したのかは、私にはわからない。

 

――ごめんね

 

 だけど彼のその一言に、私が申し訳無さを感じた理由は分かった。彼の髪を撫で、寝顔を見つめているこの間に、私は自分の気持ちに気付いた。

 

 だけどね。金森くん。

 

「すー……」

「タハハ……困った……」

「……」

 

 彼の髪を優しくくしゃくしゃと乱しながら、私は思う。

 

「これは〜……勘違いだなぁ〜……」

 

 そう。この気持ちは、きっと勘違いです。

 

 クリスマスのあの日の夢から始まった、私の勘違いです。

 

 そういうことに、しておいて下さい。

 

 お願いだから。

 



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大失敗だったのかもしれない①

 いつも通りに出勤し、会社の前の大通りに差し掛かった。周囲をキョロキョロと見回し、私は昨日お世話になった渡部夫妻の姿を探す。スマホの時計で確認したところ、そろそろご夫妻はここを通るはずなのだが……

 

「うーす。小娘おはよー」

「おはようございます」

 

 いた。いつも通りに渡部ご夫妻の姿が見えた。渡部先輩はいつものようにぐーたらでだらしない顔をぶら下げ、薫お姉さまは美しい御尊顔を見せてくれている。

 

「おはようございます薫お姉さま!」

 

 私は走ってご夫妻の元に駆け寄り、そして薫お姉さまの手を取った。

 

「金森くんの様子はどうでした?」

「はい。もう熱は下がりました。でも今日は大事を取って休むように言ってあります」

「分かりました。では金森くんは今日まで有給という形にしておきますね」

「はい。よろしくです」

 

 朝、私が一度家に戻る時の玄関でのやり取りを思い出す。金森くん、最後までごねてたもんな……出勤するほど体力が戻っているわけではないと思うから、今日は素直に休むと思うけれど……。

 

「おい小娘」

 

 渡部先輩が、妙に神妙な顔で私の顔を見ていた。……思い出した。昨日は渡部先輩にものすごくお世話になった。お礼を言っておかないと。私は渡部先輩にお礼を言おうと先輩に顔を向けたのだが……

 

「渡部先輩、昨日は……」

「お前、昨晩はちゃんと寝たか?」

「はい?」

「寝たのか?」

 

 えらく神妙な顔で、渡部先輩が私を問い詰める。その顔はいつになく引き締まっていて、見ている私に緊張が走った。

 

「……大丈夫です。ちゃんと寝ました」

「徹夜じゃないんだな?」

「はい。気がついたらソファで寝ちゃってて……」

「ならいい」

 

 別にウソを言ったわけではなく、昨晩は本当にソファで眠ったのだが……それを聞いた渡部先輩はホッとため息をついていた。私が徹夜すると何かマズいのか?

 

「……じゃあそろそろ行きましょ。お姉さま!」

「はい?」

「手、つなぎましょ!」

 

 私は再び薫お姉さまに向き直り、その麗しき御手を取る。お姉さまの手は今日も変わらず美しい。肌はきめ細かく、爪の形もキレイで理想的だ。

 

 とここでいつもなら、薫お姉さまのお隣あたりに佇む渡部先輩から『やめろ!』という怒号が飛び交ってくるのだが……今日の渡部先輩は、私と薫お姉さまが手を繋いでも気にする素振りを見せず、眠そうにあくびをしてとことこ先に歩いていった。

 

「ふぁ〜……」

「……あれ」

「んお? どうかしたか小娘?」

「いや……いつもだったら、ここで渡部先輩からお叱りの声が飛んでくるのになぁと身構えてました」

「昨日、お前がんばったろ? 今日ぐらいは見逃してやる」

「ホントですか!?」

「そのかわり、明日からまた禁止だけどな」

 

 やった! 渡部先輩から許可が降りた!

 

「ありがとうございます渡部先輩!」

「私はトロフィーですか……」

「いきましょ! お姉さま!!」

「……はい」

 

 私はお姉さまの御手を強く握り、そしてぐいぐいと引っ張って、会社への道を元気よく歩いた。つないだ手から伝わるお姉さまの暖かさは、金森くんに負けないぐらい、とても温かい。

 

 でもこの時、私は、ほんの少し寂しさを感じていた。

 

――大丈夫。離さないから

 

 首を振り、私は前を向いて会社までの道のりを歩く。

 

 正直なところ、この場に金森くんがいないのは、とてもありがたい。

 

 私は今、とても混乱しているから。彼から離れ、冷静になる時間が欲しかった。じゃないとこの勘違いは、すぐには冷めなそうだったから。

 

 

 会社につき、自分の席につく。隣では渡部先輩が、いつものぬぼーとした顔で席に付き、パソコンの電源を立ち上げていた。セットアップ画面が表示される最中、先輩は死んだ眼差しでマウスをぐるぐると回し、手持ち無沙汰を解消しているようだ。なんだかもうそのまま死後の世界に旅立っていきそうなほど、目に覇気がない。

 

 そういえば、金森くんから先輩に伝言があったことを思い出した。

 

「ねぇ渡部先輩」

「なんだ小娘。ぬぼー……」

「金森くんから伝言です」

「なんだ」

「えーっと……」

 

 私はここで、普段の金森くんの身振りを交え、彼の言葉を渡部先輩に伝えようとチャレンジしたのだが……肝心の渡部先輩が死んだ眼差しで私を見つめているため、少々気恥ずかしかったというのは秘密だ。

 

――うどんのしょうがアレンジ……正嗣さんの愛を感じました

 

「とのことで」

 

 私は一言一句、彼の言葉を間違いなく伝えたのだが……その途端渡部先輩は、ただでさえ覇気のない表情からさらに生気を抜いた、もはや死体としか思えない顔を私に向けた。

 

「……お前、しょうが入れるの俺の入れ知恵だって言ったのか」

「その方が彼も素直に食べてくれるかなと思いまして」

「余計なことを……ったく」

 

 渡部先輩はそう呆れながら、自分の画面を眺める。先輩のパソコンは無事に立ち上がったらしい。マウスのカチカチというダブルクリックの音が、先輩の手元から聞こえてきた。

 

「……なぁ小娘」

「はい?」

「お前の金森くんのマネ、怖いくらい似てたぞ」

「そうですか?」

「お前に金森くんの姿がダブって見えるぐらい似てたな」

「ひぇぇ……うれしくない……」

「よかったじゃないか小娘。社内一のイケメンと同類のアホだぞ」

「髪型トンスラにされたいですか」

 

 

 その後は昨日のやり残しのエクセルでのデータ整理を進める。私は雑念を払うように、目の前のデータ整理に打ち込み続けていく。

 

 今日は渡部先輩、あまり私にガミガミ言わない。そのため、時々薫お姉さまの様子をチラと伺い、そのお姿を拝見させていただいていたが……やはり金森くん不在は薫お姉さまにとってはけっこうキツいようで、お姉さまは終始忙しそうに立ち回っていた。

 

 そうして午前中は何事もなく過ぎ、時刻は12時少し前。

 

「うーい。飯だ飯だー」

 

 いつもの渡部先輩のお昼休みコールが入った。それと同時に薫お姉さまをはじめとした社内の全員が、やれランチだお昼ご飯だと動き始め、社内にお昼休みの空気が広がり始める。

 

 私も仕事を中断し、これからお昼だ。財布とスマホが入ったバッグを手に取り……

 

――今日も一緒にあの店行かない?

 

 いつものあの店に行くことにした。今日は一人で。

 

「小塚ちゃん」

「おい小娘」

「はい?」

 

 私が一人で喫茶店にランチに行くことに気付いたのだろうか。いつも二人で食べている薫お姉さまと渡部先輩が、私に対してちょいちょいと手招きをしている。

 

 二人の元に行くと、相変わらず二人のお弁当は美味しそう。とてもキレイな玉子焼きに美味しそうな春巻きが入っている。なんだか横から失敬したくなる。この見事なお弁当を作っているのが渡部先輩だという事実が腹立たしい。この女子力おばけめ。

 

「よかったら、今日は三人で食べませんか?」

「へ? でも私……」

「昼飯はコンビニで弁当か何かを買えばいいだろ? 金森くんもいないし、よかったら一緒にどうだ?」

 

 んー……とても嬉しい申し出だし、私に対して妙に優しい渡部先輩も珍しい……これがいつもなら、私も二つ返事でご夫妻との昼食を楽しむことにするんだけど……。

 

「すみません。今日はちょっと、一人で食べたいんです」

「……そっか。分かった」

「すみません薫お姉さま……」

「それは気にしないでいいですよ。また今度、一緒に食べましょ」

「はい!」

「俺は無視か小娘」

「いえ、渡部先輩もありがとうございました」

「おう。気にすんな」

 

 私は渡部ご夫妻にぺこりと頭を下げた後、バッグを持ったまま会社を出て、いつもの喫茶店ちょもらんまへと向かった。

 

 今日、私は一人で静かにランチを食べながら、一人で頭を整理したかった。寝込む金森くんの頭を撫でながら、胸に抱いてしまった勘違い。頭を冷やして、その勘違いと向き合いたかったのだ。

 

 喫茶・ちょもらんまの入り口ドアを開き、入店する。ひょっとして、あの金森くん狙いの一色玲香さんが今日も張ってるかもと思い、身構えて店内を見回すけれど……よかった。彼女は今日はいないみたい。

 

「いらっしゃ……あらめずらし。今日は一人?」

「はい。彼はちょっと風邪ひいちゃって……」

「あららお大事に。んじゃ空いてる席に勝手に座りなー」

「はい。ありがとうございます」

 

 いつものウェイトレスの奥さんにそう言われ、私は空いている席を探す。最初に目についたのは、いつか金森くんと座った、窓際の席。奥さんの昔の写真が何枚か飾られている場所だ。そのテーブルに、私は腰を下ろした。

 

 一人でメニューを開き、ランチを何にするか考える。今日パッと見で気になったのは、カキフライ定食とオムライス。どちらも以前に金森くんが食べていたもので、とても美味しかったものだ。

 

――違う逆だって 私から見て左

――あ、そっか……

 

 しばらく考えた後、カキフライ定食を注文することに決めた。オムライスも食べたいのだが、あの日の金森くんのケチャップの惨劇を思い出してしまい、オムライスを頼むのに二の足を踏んでしまったからだ。口の周りにケチャップつけたまま会社に帰りたくないし……私はウェイトレスの奥さんを呼び、カキフライ定食を注文した。

 

 程なくして、注文したカキフライ定食が私の元へと届けられた。テーブルの上に、カキフライが5個とサラダが乗ったプレートとご飯、そしてお味噌汁が奥さんの手によってテキパキと並べられた。

 

「んじゃ寂しいだろうけど、ごゆっくりー」

 

 奥さんはそう言って振り返り、右手をぴらっと上げて去っていく。相変わらず、奥さんの髪は美しく、揺れるたびにキラキラと輝く粒が落ちてるように見える。

 

「……んじゃ、いただきます」

 

 一人で両手を合わせて挨拶したあと、カキフライに箸を伸ばした。カキフライは揚げたてでまだ油のジュージュー音が聞こえている。タルタルソースをたっぷりつけて口に入れると、フライの中からはアツアツでジューシーなカキの身が飛び出してきた。

 

「おいしい。もぐ……」

 

 反射的に出てきた言葉に反して、以前に金森くんからもらった時のように、眼の前のカキフライを美味しいとは思えなかった。

 

 一人で静かに、もくもくと食べる。今日はおかずを分け合う金森くんはいない。今日は一人で胸に漂う勘違いの気持ちと向き合いたいから、一人でうれしいんだけど……だけど、やはり一人は寂しい。

 

「やっぱ一緒にごはん食べたかったかなぁ……」

 

 ぽつりと口をついて出た。一人でご飯を食べるのは寂しい。では私は誰とランチを食べたかったのだろう。さっき私を誘ってくれた薫お姉さま? それとも……。

 

――気になるんでしょ? お一つどうぞ

 

 一人で黙々とご飯を口に運ぶ最中、思い出すのは金森くんとのランチ。彼と他愛ない話で盛り上がり、美味しいランチを食べ、互いのメニューを分け合う……そんな、毎日何気なく過ごしていた、なんでもないはずの時間。

 

 お味噌汁をすすったあと、2つ目のカキフライを口に運んだ。普段であれば、そろそろ金森くんからおかずを一つ催促され、そのかわり私も一つ何かをもらう頃合いなわけだが……一人ではそんな事が起こるはずもなく、ただ静かに、一人だけの時間が過ぎていく。

 

 ご飯を口に運び、もくもくと食べる。今日、もしこの場に金森くんがいたら、彼は何を頼んだだろうか……オムライスはこの前食べていたし、カキフライ定食でもないはず……ひょっとしたら、クリームコロッケ定食か? はたまた珍しくカレーライスとか……でも客先に出る必要がある場合は、彼は匂いが強いものは食べないし……

 

 ……ダメだ。すぐに彼のことを考えてしまう。

 

 違う。これは勘違いなんだと自分に言い聞かせ、私は再び、お味噌汁のお椀を口に運んだ。

 

「いらっしゃーい。一人?」

「はい」

「席は……」

「いえ相席します」

 

 私がさして美味しく感じないお味噌汁をすすっていたら、来客を告げるドアの音とともに、やけに耳に刺さる女性の声が響いた。この声は聞き覚えがある声だ。だけど私は気にせず、そのままお味噌汁をすすり、その味を味わっていた。

 

 かつかつと硬質な足音がこちらに近づいてきた。この足音はハイヒールの音。私は足音で誰のことかを見破る特技なんて無いけれど、この特徴的な足音はなんとなく誰か分かる。その女性が、私の向かいの席にドカリと座る。私は顔を上げた。

 

「ちょっと」

「?」

 

 思ったとおりの人物だった。『座っていいよ』とは言ってないのに、向かいに座って私と相席した女性……それは、いつもランチ時に私を睨みつけてくる女性、一色玲香さんだった。

 



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大失敗だったのかもしれない②

「ちょっと」

「?」

 

 一色玲香さんの声はとても冷たく、金森くんの前で出すあの耳障りな声に比べて、2オクターブほど低音に聞こえた。顔を上げるが目は合わさず、お味噌汁のお椀をテーブルに置き、私はご飯茶碗をその手に取った。

 

「……なんすか?」

 

 お箸で取ったご飯を口に運ぶ前に、私は彼女にここに座った理由を聞いてみることにした。……まぁ、理由は大体分かるけど。

 

「……あなた、名前なんだったっけ?」

「あなたこそ、どちらさまでしたっけ?」

「なんであなたに私の名前教えなきゃなんないの」

「んじゃ私の名前も教える必要ないでしょ」

 

 んー……のっけから喧嘩腰か……これはめんどくさそうだ。売られた喧嘩は買う主義だが、よりにもよって今日だとは……

 

 奥さんがこちらにやって来て、一色さんの前にお冷のグラスを選んだのは置いた。『ごゆっくりー』といつもの通りピラッと右手を上げて去っていく。奥さんは結構度胸が据わった人らしい。この場にお冷を平然と持ってくることが出来るとは。

 

 しかし、そんな奥さんには申し訳ないが、今日この店を選んだのは失敗だった。普段行かない店に行けば、この一色さんと遭遇する可能性は低かっただろうに。ここのランチが美味しいのが悔やまれる。

 

「……あーそうだった。小塚さん、でしたっけ。金森さんの同僚の」

 

 一色さんは顎を上げ、私を見下すように見下ろした。わざわざ同僚の部分にアクセントをつけなくてもいいだろうに……分かりやすいなぁこの人。ご飯を口に運び、カキフライにタルタルソースをたっぷりつける。

 

「そうですが。何か用ですか? 金森くん担当の一色さん?」

 

 カキフライを口に運ぶが、あまり美味しく感じない……きっと目の前に一色さんがいるからだ……そのことが、私の不快感にさらに拍車をかけていく。

 

 目の前の一色さんもまた中々にイライラを溜めているらしく、左手で頬杖をつき、右手でカツカツとテーブルを叩いている。それやりたいの私なんだけど。せっかく一人で静かに考え事が出来る時間なのに、アンタのせいで台無しだよ。今しがた口に入れたカキフライだって、アンタのせいで余計に不味くなった。

 

「……あなた、金森さんの何なの?」

「何なの……とは?」

「あなた、いつも金森さんと一緒にいるよね?」

「いますね」

「……なんで一緒にいるの?」

「逆に聞くけど友達と一緒にいちゃいけない理由は何すか?」

「なんでもないなら一緒にいるのやめてよ」

「なんで」

「私が金森さんとランチ出来ない」

「なんで私がアンタに遠慮しなきゃいかんの」

「いやだって何でもないんでしょ? だったらそこは引いてよ」

「少なくともアンタに遠慮するくらいなら永遠に金森くんとランチ食べ続けるわ」

 

 一度舌戦が始まってしまえば、私は一歩も引かない。一色さんからギリギリという歯ぎしりの音が聞こえる。わざと鳴らしているのか? だったら声と同じくとても耳障りだからやめてほしいんだけど。

 

 一色さんはお冷に一口、口をつけた。テーブルに置く時の『ガシャン』という音からも、こちらに敵意むき出しなのがよく分かる。

 

 私もここで舐められる訳にはいかないから応戦はするが、お昼休みには限りがある。いい加減、この不毛なやり取りも終わりにしたいんだけど……でも一色さんは聞かないだろうなぁ……まだまだ言い足りない顔してるし。

 

「あんたさ。金森さん狙ってんの?」

 

 彼女は顎をくいっとあげて、そのきれいな顔(薫お姉さまの足元にも及ばないが)を歪ませてそうのたまうが、その瞬間『そりゃあんただろ』という言葉が喉まで出かかった。危うく今口にしている味噌汁を吹きそうになったほどだ。

 

 だけど。

 

「まぁでも、金森さんはあんたなんか選ばないだろうけど」

 

 一色さんのこのセリフ。普段の私なら聞き流せるものだったが……今日の私は聞き流せなかった。

 

「……アンタさ。自分が選ばれると思ってるかもしれないけど」

「ん?」

「アンタ知らないみたいだけどさ。彼には好きな人がいるんだよ」

「……」

「ほら。アンタ、金森くんのこと何も分かってない」

 

 一色さんの顔から、少しだけ余裕がなくなった。彼女の知らない金森くんのことを私が知っていたという事実は、彼女の余裕に少しばかりのダメージを与えたようだ。握りしめる右手に、力が籠もっている。

 

 ……でも、『彼には好きな人がいる』という一言は、私の心にも、少なからず重く鈍い衝撃をもたらしていた。理由は……今は、考えたくない……。

 

 ドアを開く音が聞こえ、カランカランとベルが鳴った。奥さんが入り口に向かい、声を掛ける。新しいお客さんが来たみたい。

 

 新しいお客さんは……

 

「おっ。いらっしゃい。風邪はいいの?」

「あれ? 僕が風邪ひいたの知ってるんですか?」

「アンタの連れから聞いた。あっちにいるよ?」

「ありがとうございます。小塚さんかな?」

 

 コツコツと足音を立て、彼がこちらにやってくる。スーツの上からいつものチェスターコート。朝、彼の家で見た時のくたびれきった姿とは似ても似つかない整った身だしなみ。でも少しだけ目がとろんとして気だるそうな、その人は……

 

「金森くん?」

「やっ。ちょっと良くなったし、午後から出勤することにしたよ」

「なんで……? だって、風邪……」

「それより……一色さん?」

「ご無沙汰してます。金森さん」

 

 今日はここに姿を見せるはずのなかった男、金森くんだった。

 

「それより……一色さん?」

「ご無沙汰してます。金森さん」

 

 少しとろんとした眼差しで、金森くんは立ったまま一色さんの方を見た。一見して金森くんはいつもと変わらないように見えるけど……私には分かる。いつもに比べて、息が浅い。やはり体力はまだあまり戻ってないようだ。

 

 一方で一色さんは、最初こそ戸惑ったものの、目当ての金森くんの出現にテンションが上ったみたいだ。ほっぺたを少し赤く染め、さっきまで私に向けていたイライラ顔をスッと消し、金森くんをキラキラ輝く眼差しで見つめていた。この人、さっきまで私にすごんでいた人と本当に同じ人なのか? そう疑ってしまうほどの変わり身だ。私も女なのだが、戦闘態勢に入った女というのは恐ろしい……。

 

 呼吸が浅い金森くんは、暫くの間私と一色さんを交互に見比べたあと、カキフライ定食が乗ったテーブルを凝視し、それを指さした。

 

「このカキフライ定食、どなたのですか?」

「は?」

 

 途端に一色さんが疑問の声を上げる。私の耳にフィルターがかかっているからかもしれないが、その声色には、ほんのりと悪意が籠もっているように聞こえた。

 

 金森くんは、そんな一色さんに顔を向けた。私からは、金森くんの表情が見えない。ただ、金森くんの顔を見た一色さんからは、笑顔が消えた。

 

「このカキフライ定食は、一色さんのものですか?」

「違いますよ? それよりもね金森さん……」

「では二人で一緒に食べていたわけではない?」

「いや、私は遅れてきたから……」

 

 金森くんの質問は要領を得ない。それは一色さんも同じようで、金森くんの質問に答える彼女の頭の上には、大きなはてなマークが見えている。

 

 金森くんが私の方を向いた。

 

 ……一色さんから笑顔が消えた理由がわかった。私を見下ろす金森くんの表情は穏やかだが、笑顔ではなかった。

 

「小塚さんが食べてるところに一色さんが来たの?」

「うん、そう」

「突然?」

「うん」

「ちょっと!」

 

 唐突に一色さんが声を上げ、私達の会話に乱入しようとするけれど、金森くんはそれを左手で制止した。そのまま顎に手を当て考える素振りをしたが、やがて一色さんにキッと向き直り、普段よりも厳しい口調で口を開いた。

 

「一色さん」

「はい?」

「申し訳ありません。僕たちは二人でランチを食べる約束をしていたんです。相席はまた後日ということで」

「はあ!? 私よりも後から来て!?」

「僕らの約束はあなたが突然ここに座るよりも早い、昨日の段階です」

「……ッ」

 

 一色さんの歯ぎしりの音が、再び私の耳に届いた。この人の噛む力はすごいなぁとのんびりと考え、顛末を見守る。金森くんはどうやら、一色さんをこの椅子から立ち去らせたいみたい。

 

 再びお冷に一口だけ口をつけた一色さん。お冷のグラスには、彼女のリップの跡が残っている。

 

「金森さん」

「なんですか」

「あなた、いつも彼女とランチしてますよね」

「それが何か」

「彼女、あなたの何なんですか?」

「……」

「付き合ってるんですか?」

 

 金森くんに向ける彼女の声色が、少しずつ怒りを帯びてきた。顔にも余裕がなくなり、少しずつ表情がゆがみ始めている。彼女は金森くんを狙っているはずなのにそんな顔をしていいのかと思えるほど、私の頭が冷静さを取り戻し始めていることに気付いた。私はそのまま、静かにお味噌汁をすする。

 

「……いえ。僕にはお付き合いしている人はいません」

「はンッ……だったら……」

「特定の人と付き合うつもりもありません」

「は?」

「僕には、想いを寄せている人がいますから」

 

 一色さんが目を見開いた。金森くんのこの返答は予想外だったのか、はたまた予想はしていたがいざ面と向かって言われてショックを受けているのか、それは私からはわからない。でも、怒りをにじませるその眼差しとは裏腹に、彼女の顔から血の気が引いたのは、一発で分かった。

 

 そして金森くんのその言葉は、予想外なところへも、ほんの少しの痛みをもたらした。……私の胸だ。

 

「誰なんですか!?」

「それをあなたに言う必要はないと思いますけど」

「私だってあなたが好きなんです! 教えてくれてもいいじゃないですか!!」

「……同じ会社の人ですが」

 

 金森くんは金森くんなりの誠意を見せたつもりなのだろう。でもその言葉を聞いて、何も知らない人の一体何人が、『同じ会社の人イコール渡部正嗣という男性』ということに気がつくだろうか。きっと、そんな人はまだまだいやしない。

 

 この一色さんもしかりだ。おそらくは金森くんの勇気ある告白を聞いた彼女は、その相手が、自分の目の前にいる私だと勘違いを起こしたようだ。彼女は突然立ち上がり、静かに座る私の右手首を左手で勢いよく掴んで、そのまま上へと引っ張り上げた。

 

「いッ……!?」

「ッ……!!!」

「いた……いッ……!!」

 

 一色さんの壮絶な握力に思わず私は悲鳴をあげたが、それが彼女の耳に届くことはない。むしろより強く私の手首を握りしめ、上へと引っ張り上げて私を無理矢理に立たせた。

 

「アンタか……ッ!!!」

「……!?」

「アンタがそうか!!!」

「ち、ちが……ッ」

「ガキのくせに……ッ!!!」

 

 私は一色さんの誤解を必死に否定するけれど、その言葉すら、彼女の耳には届かない。彼女は今、猛烈に怒っている。表情は醜く歪み、普段の薫お姉さまに匹敵するほどの、キレイな顔の面影はない。

 

 そのあまりの恐ろしさに、私は声を発することができなくなった。さっきまでなら、私は彼女の攻撃をさばく自信もあったし、舐められないためにも彼女には絶対に負けるつもりはなかった。

 

 だけど今は事情が違う。金森くんの言葉に意味がわからないダメージを受け、自分でもわからない動揺に戸惑っているところを一色さんに突かれた。おまけに彼女は、同じ人とは思えないほど顔を醜く歪ませ、ダイレクトに私に黒い怒りをぶつけて来る。私はこの時、一色さんに対し、抵抗する術を失っていた。

 

 一色さんによって、私が完全にその場に立たされてしまった、その時だ。

 

「……ッ!」

「!?」

「……」

 

 バシッという音とともに、私の手首を一色さんが離した。支えを失った私の身体は、椅子にストンと落ち、私は呆気にとられて二人を見た。

 

「なッ……」

「……」

 

 私の手首を掴んでいた一色さんの左手を、金森くんが掴んでいた。病み上がりの身体を小刻みに震わせ、猛烈な力を込めた右手で、一色さんの左手を掴んでいた。

 

 彼の顔を見た。彼の顔から、いつもの穏やかさが無くなっていた。トロンとしていた眼差しは大きく鋭く見開かれ、一色さんへの怒りをにじませていた。

 

 その時の金森くんの言葉は、私の耳に、しっかりと届いた。

 

「一色さん……ッ」

「痛い……ッ……金森さん、痛い……ッ!」

「大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!」

 



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大失敗だったのかもしれない③

「大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!」

 

 一色さんの手首を握る彼の言葉は、私の耳に、しっかりと届いた。

 

「離して……ッ。離してって……!!」

 

 一色さんは勢いよく左手を振り払い、金森くんの右手を払う。その後ストンと席に座り、乱れた息を整えていた。

 

 一方の金森くんも、今のやり取りで結構な体力を使ったらしい。肩で息をし、眼差しこそするどいが、表情は怠そうだ。

 

「あなたはずっとそうだった」

「は?」

「僕が気付いてないとでも思っていたんですか」

「……?」

「ここで会う度、彼女をジッと睨みつけていたでしょう……だから僕は、あなたとの相席をずっと避けてた。席だって、あなたから離れたところにせざるを得なかった」

「え……」

「大切な人にそんなことをされたら、誰だって不快感を抱くでしょう」

 

 呼吸の浅い金森くんが、必死に言葉を紡ぎ出す。その言葉の一つ一つが、私の耳に、静かに届いてきた。

 

 声色に感じる感情は怒り。だけどその言葉は、私の胸に、じんわりと温かい。

 

 ……彼の言葉を聞いて、私はやっと気付いた。私は気付かないうちに、ずっと彼に守られていた。私が一色さんに悪意を向けられていたことに、彼は気付いていた。そして、彼女を私から遠ざけて、ずっと守ってくれていた。いや、きっとそれだけではない。クリスマスの夜も初詣の日も、東京出張の時も。……そしてきっと、私が覚えてない、毎日の中でも。

 

――……同じ会社の人です

 

 彼が発したこの言葉。これは、真意が分かっている私の胸にブスリと突き刺さり、その痛みは、ジグジグと私の中でうずき続けていた。

 

 でも今、金森くんは言った。

 

――大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない

 

 彼が発した、『大切な人』という言葉の真意はわからない。

 

 だけど、『守られていた』という事実と共に、その言葉は私の胸を、優しく暖かく、ふんわりと包み込んでくれた。まるであの日彼から借りた、赤と紺のマフラーのように。

 

 金森くんに守られていたという事実と『大切な人』という言葉は、私の心に安堵をもたらした。ホッとしたら私の目から涙がにじみ出た。一色さんに見られないよう、私はうつむき、指でこっそりと涙を拭いた。先程彼女に握られていた手首の痛みは、いつの間にか消えていた。

 

「……彼女に謝って下さい」

 

 未だにその場に立ったままで、しかし声が少しだるそうな金森くん。彼は私への謝罪を一色さんに促すのだが……彼女もまだ、引く気はない様だ。私はうつむいているから顔は分からないけれど、その舌打ちは、私の耳にも確実に届いていた。

 

「は!? なんで私が!?」

「謝るのが大人ではないのですか」

「あんたら、やっぱり付き合ってるの?」

「……付き合ってません」

「は? ウソつかないでくださいよ。ここまで必死になって、付き合ってないわけないでしょ」

「違います」

 

 もうきっと彼女は聞く耳を持たない。これ以上何を言っても……誠実に対応しても無駄だと、私は金森くんに言いたかった。私が金森くんに声をかけようと顔を上げ、彼の顔を見た時。

 

「僕が慕っているのは……」

 

 彼は、自分なりの誠意を、彼女に見せた。

 

「……彼女の指導社員で僕の先輩。渡部正嗣さんです」

 

 でもその誠実さは、通じる人と通じない人が世の中にいることを、私は知っている。

 

 彼女は……一色玲香という人は、後者にあたる。『渡部正嗣』という男の名前は、彼女にとっては、質の悪い冗談としか聞こえなかったようだった。彼女は再び怒りで顔を歪ませ、今度は金森くんに、その矛先を向けた。

 

「意味わかんない。それ男でしょ?」

「男性です」

「嘘つくならさ。もっとマシな嘘ついてくださいよ」

「嘘では……」

「キッツいわ……アンタ……」

 

 その瞬間、私の頭が真っ赤に染まり、頭の中で血管が切れる音が聞こえた。

 

「アンタねぇ!!!」

 

 私は今度は自分の足で立ち上がった。誰かによって無理矢理にではない。自分の意志で立ち上がり、そして未だ涙が枯れない両目で彼女を睨んで、腹に力を入れ、大声を張り上げた。

 

「今!!! 金森くんがアンタごときに誠実に答えてくれたの、分かんないの!?」

「は? つーかうるさいんだけど」

「知るか! アンタがここからいなくなってくれるなら、いくらでもデカい声出すわ!!!」

「……」

「アンタ、仕事中の金森くんしか知らないでしょ!!! 好きな人の前でしか見せない姿知らないでしょ!!!」

「なにそれ」

「金森くんはね……いつもいつも周囲に気を配って微笑んでるけど、ホントに好きな人を前にしたら、めちゃくちゃはしゃぐんだよ!? ペンギンみたいにキモい動きして!! 子犬みたいにその人の周りでキャッキャいいながら、めちゃくちゃ楽しそうにはしゃぐんだよ!?」

「知らんわ」

「それはアンタがそんな金森くんを見たことないからでしょ!?」

 

 私は、喫茶店の中に響くほどの大声で、一色さんに対しまくしたてた。金森くんが、本当に好きな人の前ではどんな様子なのかを、彼女に説明するために。

 

 だけどそれは、叫んでいる私自身の胸にも、ザクザクと刺さって傷を残していく。

 

 なぜなら、私の前では、金森くんはけっしてそんな姿を見せないから。

 

 彼がそんな姿を見せるのは、渡部先輩の前でだけだから……。

 

 そのザクザクと刺さっていく痛みが、私の目に再び涙を溢れさせた。気がついた時、私はボロボロと涙をこぼしながら、一色さんに金森くんのことをまくしたてていた。

 

「カイロを貸してくれたのだって!!! マフラーをかけてくれたのだって!!! 確かにうれしかったけど!! ……でも、それは……ッ」

「……」

「それが私だから……だって、私じゃ、ないから……ッ」

 

 そして、そんな私を、金森くんは私の横で、ジッと見つめていた。相変わらず呼吸が浅くて、息苦しそうに肩で息をしながら。

 

 一方の一色さんはというと……やはりというか何というか、眉間にシワを寄せ、不快感丸出しの顔で、私の言葉を聞いていた。私から顔をそらしてめんどくさそうに、お冷に度々口をつけながら、私の言葉を聞いていた。

 

 大声に張り上げ続けた私の気持ちも次第に落ち着いてきた頃、一色さんはお冷をすべて飲み干した。テーブルにグラスを置く音がタンと耳に響き、その音は私をハッとさせた。

 

「……なんだ」

「なにが!?」

「アンタ、やっぱり好きなんじゃん」

「……?」

「アンタだって好きなんでしょ? 金森さんのこと」

「違う! 私は!!」

「私は?」

「か……ッ」

 

 その答えを、私はすぐに口に出すことが出来なかった。私は『薫お姉さま』と言いたかったが……

 

――大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!

――大切な人にそんなことをされたら、誰だって不快感を抱くでしょう

 

 その名前が出なかった。口に出そうとすると、大晦日の日に見た金森くんの横顔が……クリスマスの日に見た金森くんの力ない微笑みが……恵比寿駅で見せてくれた金森くんの頼もしい顔が、私の頭にちらついた。

 

 違う。これは勘違いだと自分に言い聞かせるが、それでも頭の中の金森くんは消えてくれない。昨日撫でた彼の髪の感触が、昨日触れた彼の汗ばんだ肌の感触が、私の指先に蘇った。

 

 ねえ金森くん。

 

 昨日の夜、鍋焼きうどんを食べる時に、私達こんなやりとりをしたよね?

 

『美味しそう』

『美味しいと思うよ。料理上手な私の友達のレシピで、渡部先輩のアレンジも入ってるから』

『んーん。そうじゃなくて……』

『うん?』

『……なんでもない。いただきます』

『はいどうぞ』

 

 あの時、キミは何を言おうとしたの?

 

 『どうしてこんなに面倒見てくれるの?』と聞かれて私が『マフラーを私が借りたせいで体調崩したと思ったから』って答えた時、『……そっか』て寂しそうに答えたよね?

 

 キミは、私に何て答えて欲しかったのかな……?

 

 私はこの気持ちを、勘違いだと思い込むことが出来なくなってしまいそうだよ。

 

 『私が好きな人は、薫お姉さまだ』と、胸を張って答えられなくなってしまうよ……。

 

 私が言葉に詰まって何も言えなくなっているのを、一色さんは侮蔑の眼差しでジッと見ていた。やがて私達の耳に届くぐらいの舌打ちをした後、

 

「チッ……バカみたいじゃん私が……」

「何が……ッ!?」

「……アンタらキモいわ」

 

 そう吐き捨て、立ち上がって店を出ていった。金森くんにわざとぶつかりそれを謝りもせず、最後まで不快な表情を変えないまま、ドアを開いて出ていった。私はうつむいているから、彼女が出ていった瞬間は見ていない。だけどドアが乱暴に開き、そして閉じられた音は、私の耳に届いていた。

 

「……金森くん」

「……ん?」

「……一色さん、行った?」

「行ったよ」

 

 一色さんが、店から出ていった。その事実は、私の身体から緊張を取り去り、立っている力を失わせた。私は再びストンと腰をおろして、カキフライ定食が並べられているテーブルの上に突っ伏した。

 

「緊張したぁ〜……!!」

 

 震える喉からやっと絞り出した第一声がそれ。さっきは気が張ってたから大丈夫だったけれど……なんのことはない。私はずっと怖かったのだ。

 

「……小塚さん」

「ん? なに?」

 

 一方の金森くんも、顔から緊張が抜けているのが分かった。病み上がりだから息が浅いと思っていたのだが、そうではなかったようだ。いつもの穏やかさを取り戻していた彼は、息が整っていた。

 

「ここ、空いてる?」

「空いてるも何も、そのつもりで来たんでしょ!?」

「う、うん……一緒に食べようと思って……」

「だったら座る! ほらさっさと!!」

「……わかった」

 

 私は今、全身から力が抜けてへろへろの状態だ。手だって震えてる。このままちゃんとカキフライ定食を食べ続けられるか怪しい。だからそれをごまかすために、金森くんに大声を張り上げ、わざと大騒ぎしてやった。

 

 金森くんはすべてを察したのか、それともこんな私が滑稽に見えたのかは分からないけど……穏やかに微笑むと、さっきまで一色さんが座っていた私の向かいの席に座ってくれた。

 

「はーい。ちょっとごめんよ〜」

 

 金森くんがメニューを開き、ランチの物色を始めるのと、ウェイトレスの奥さんが私たちのテーブルにやってきたのは、ほぼ同じタイミングだった。さっきまであれだけ大騒ぎしていたにもかかわらず、今の店内は静かだ。奥さんの声もいつもより穏やかで、その声を聞いているととても落ち着く。

 

「オーダー決まった?」

「えーと……病み上がりですから、ちょっと軽めで……」

「んじゃコーンスープにパンでもつける?」

「はい。それでお願いします」

「あと、アンタ」

「は、はい!?」

「あんた、ドリンクっていつもオレンジジュース頼んでたよね」

「え、ええ。覚えてくれたんですか?」

「まぁねー。彼氏の方も病み上がりだし、二人ともオレンジジュース……と」

 

 そう言ってオーダーに勝手にオレンジジュースを追加する奥さんを私は慌てて制止する。今日はオレンジジュースはいらない。そう伝えたのだが……

 

 奥さんはそんな私の手を指差した。私の両手は、さきほどの興奮でカタカタと震えていて、箸を持つことも出来ない有様だ。

 

「そんなんじゃ食べれないでしょ? あたしらのおごりだから、食べる前にちょっと気持ちを落ち着けな」

「え……」

「カッコよかったよ~? 必死に彼氏を守ってさ。いい彼氏じゃん。アンタのこともずっと大切にしてきてたんだし」

「いや、あの……」

「ちょぉぉおおおっと、賑やかだったけどね……タハハ……」

 

 そう言って、奥さんは苦笑いで店内を見回す。私が入店した時にはお客さんが幾人かいたはずだが、店内はいつの間にかお客さんは私達だけになってしまっていた。

 

 あとで奥さんから聞いたところによると、私達が喧々囂々と言い争いをしているうちに、面倒事を嫌った他のお客さんは、次々と退店していったそうだ。『しばらくはお客さんも減るかもしれないけど、まぁそのうち戻るでしょ』と、奥さんは私達が店を出る時に笑って許してくれた。

 

 奥さんがいつものようにピラッと右手を上げ、テーブルから離れていく。少々……いや、盛大な大騒ぎをしてしまったが、この喫茶店での金森くんとのいつものランチが、やっと今、始まった。

 

「……あの、小塚さん」

「……ん?」

「ありがと」

「私だって。ずっと金森くんに守られてた……」

「いや……そんなの……」

 

 こうして私達は、いつものようにカキフライとコーンスープを互いにシェアし、いつものように楽しいランチを堪能することが出来た。

 

 この店に入った時は、『一人で考えたい』と思っていた。そしてその答えは、一色さんが乱入してきたせいで、今も答えは出ていない。

 

 でも、まぁいい。金森くんと、いつものようにランチを食べる……そのことが、こんなにも嬉しいことだと気付いたから。彼と同じ空間にいるというとてもありふれたことが、私にはとてもうれしいことなんだと、気付いたから。

 

 

 食べ終わり、二人で店を出て、会社へと戻る。

 

「ねー金森くん」

「んー?」

「ホントに体調は大丈夫?」

「小塚さんのおかげでだいぶ。まだ本調子ではないけれど、これなら仕事は出来るから」

「お姉さまたちは知ってる?」

「知ってるよ。喫茶店に入る前に係長と正嗣さんに会った」

「へー……」

「そこで小塚さんがランチに出たって聞いて、きっとあの店だろうって思って」

「そっか……」

 

 こんな他愛ない会話を金森くんと交わせることが、こんなにも嬉しい。金森くんの顔も、いつもより少しだけ明るい。私と話が出来ることが嬉しいのか、それとも他に理由があるのかは分からないが……。

 

 私達の間の距離も、心持ち普段よりも近い気がする。歩いている間、時々私の左手と彼の右手がコツンと当たるから、これは気のせいではないのかも。

 

 そうして、心にポカポカと心地よい暖かさを感じたまま、私達は会社に戻ってきた。入り口ドアを開き、事務所に入ろうとしたのだが……

 

「……」

「あれ……薫お姉さま?」

「係長……正嗣先輩も……?」

 

 ドアの向こう側には、薫お姉さまと渡部先輩の二人が立っていた。

 

「お前ら……」

 

 渡部先輩は、私達の顔を見るなり眉をへの字に曲げて、困り果てた様子で私たちを見つめていた。

 

 一方で、薫お姉さまの顔は、いつもの無愛想な顔だったのだが……

 

「……二人とも」

「は、はい」

「係長……あの……」

「第三会議室に来なさい」

「えっと……お姉さま?」

「なんですか」

「お姉さま……今すぐ、ですか……?」

「今すぐです」

 

 腕を組んで仁王立ちしていた薫お姉さまの眼差しと全身は、私に怒りの感情を伝えていた。

 

 私たちに背を向け、第三会議室に向かう薫お姉さまの背中は、ギスギスとして、刺々しかった。

 



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言うほどでもなかったかもしれない①

 私たちがランチから会社へ戻る前の話だ。事務所に一本の電話が入ったそうだ。お茶で一服中だった渡部先輩が電話を取ったところ、相手は重要な取引先であるサイトウ・テクニクスの担当者、一色玲香さん。

 

 電話を取った渡部先輩いわく……

 

――本日を持ちまして、御社との契約を打ち切らせていただきます

 

 という旨の話を、ものすごい剣幕で一方的にまくしたてた後、受話器が乱暴に切られたそうだ。

 

 サイトウ・テクニクスといえば、うちの会社の売上のかなりを占める取引先。現在進行系の企画もいくつかあって、今この時期に契約を打ち切られるというのは、さすがに考えにくい。折返しすぐに薫お姉さまが先方に連絡を取ったところ……

 

――頭のおかしなそっちの担当者と、その連れに聞いてみたらどうですか

 

 一色さんはそう捨て台詞を吐いて、再度一方的に電話を切ったそうだ。

 

「サイトウ・テクニクスさんの担当といえば金森くんですよね」

「はい」

「そして時間帯的に“その連れ”というのは小塚ちゃんですよね」

「そうです……」

「昼食時に喫茶店でよく会っていたというのは聞いていましたが……」

「……」

「まず、何があったのかを話してください」

 

 薫お姉さまの冷たい声が、第三会議室に静かに響く。無機質な会議室の中が、さらに冷たく、硬質に感じられる。

 

 私達は今、第三会議室で薫お姉さまと渡部先輩から、事情聴取を受けている。一つの白い簡易テーブルに、私と金森くん、そして向かいに薫お姉さま。私たちのそばの壁には、渡部先輩が腕組みをしてもたれかかっていて、普段は感じることのないプレッシャーを私達に放ち続けている。

 

「……」

「……」

「……言えないことですか?」

「……」

「仲の良い私たちにも言えないようなことを、先方に働いたのですか?」

 

 一向に口を開かない私達に、薫お姉さまが追い打ちをかけてくる。こういう時のお姉さまは恐ろしい。

 

 お姉さまは普段から無愛想で冷静な顔つきだが、意外と表情豊かで優しく仲間思いなのは、私もよく分かっている。

 

 でも、本当に怒っている時の薫お姉さまは、体中から硬質で冷たいオーラを漂わせる。今日のお姉さまがまさにそうだ。普段はお姉さまの言葉の端々から優しさを感じ取ることが出来るが、今日はそれがない。一切の遠慮と配慮のない、とても冷たく、厳しい声だ。

 

 だから私は、口を開くことが出来なかった。私と金森くんのさっきの喫茶店でのことは、決して間違ってないと言い切ることは出来る。でも、薫お姉さまの無言のプレッシャーの前では、そんな自信もゼロ近くまで減退してしまう。

 

 それは金森くんも同じようだ。チラと隣を伺うと、金森くんも病み上がりの口をつぐんでいる。目はまっすぐ薫お姉さまを見てはいるけれど、その表情はこわばっているように見えた。

 

 つまり私達は萎縮しきってしまい、口を開くことが恐ろしくなってしまっていた。

 

「……なぁお前ら」

 

 渡部先輩が頭をぼりぼりとかき、眉をへの字に曲げて口を開いた。薫お姉さまに比べれば、渡部先輩の口調の方がまだ優しい。渡部先輩の様子は、『怒っている』というよりも『困っている』という感じに近い。

 

「黙っていたらわからん。何があったのか話してくれ」

「……」

「それが分からんと、俺達も判断が出来ん」

 

 冷静な薫お姉さまに比べ、幾分優しさが感じられる先輩の説得は、確かに私達の緊張を少しだけ解いた。

 

「……分かりました」

 

 意を決した金森くんが口を開いた。彼は少しだけ足を開き、両手を組んで状況を思い出しつつ、ゆっくりと正確に先程の喫茶店でのやりとりを話していった。

 

「……小塚さん。もし間違いがあったら訂正よろしく」

「うん」

「あと、僕が顔を出す前の説明もお願い」

「分かった」

 

 金森くんが、勇気を出して話すことに決めた……ならば私も、キチンと話をしなければ……膝の上に乗せた手をギュッと握りしめ、私は震える喉と口で、思い出せる限り正確に状況の説明を行った。

 

「では小塚ちゃんが一人でランチを食べていたら、先方の一色さんが突然?」

「はい。私と相席になりました。そこから喧嘩腰で話しかけられ、私もつい……」

「よくその店で会っていたそうですが、あまり仲はよくなかったんですか?」

「はい……」

「なぜ? 一色さんといえば重要な取引先の担当者ですよね?」

「……」

「金森くん?」

 

 仲が良くなかった理由……それも話さなければならないのか……できればそれには触れたくない……そう困り果てていたら……

 

「係長、その件は僕らのプライベートな問題です。関係があると分かるまで、話したくはありません」

 

 と金森くんが助け舟を出してくれた。渡部先輩も頭をぼりぼりと抱えつつ、

 

「仲が良くない理由なんてどうでもいいだろ。薫だって意味もなく嫌いなヤツの一人や二人いるはずだ。それでも仕事はキチンとやるだろうが」

「そうですが……」

「そんなことより顛末の方が大事だ。嫌いな理由なんぞどうでもええわ」

 

 と薫お姉さまに食って掛かる。この場で味方だと思っていた渡部先輩に噛みつかれ、薫お姉さまはちょっと困った顔を浮かべていた。

 

 そうして、私と金森くんの事情聴取は30分弱にも及んだ。薫お姉さまは真剣な表情で時折メモを取り、その硬質で怒り心頭の雰囲気とは裏腹に、私達の話を口を挟まずジッと聞いてくれていた。

 

 一方の渡部先輩も、腕を組んだまま壁にもたれかかり、私達の話をジッと聞いていた。静かな第三会議室には、しばらくの間、私と金森くんの声だけが響いていた。

 

「……以上です」

 

 最後に一色さんが退店をしたところまで説明したところで、金森くんは説明を終わらせた。病み上がりの彼には少々辛いのか、少し息が上がっているように見えた。

 

「ふむ……」

 

 自分が取っていたメモを眺め、薫お姉さまは顎に手を当てた。さっきまでの怒り心頭な雰囲気は、幾分影を潜めていた。

 

「どう思う?」

 

 私たちが話している間中、渡部先輩も口を挟むことはしなかったのだが……ここで先輩は頭をボリボリとかきながら、薫お姉さまにそう声をかけた。普段に比べるとだいぶ引き締まった顔をしているが、それでも先輩が何を考えているかは表情からは読み取れない。

 

「……とりあえず、明日先方にお伺いしようと思っています」

「そうか」

「では僕も……!」

 

 責任を感じているのだろうか。金森くんが椅子からガタッと立ち上がるけれど、薫お姉さまはそんな金森くんを右手を上げて制止する。

 

「いえ。金森くんは来なくて結構です」

「しかし……ッ!」

「結構です」

「でも!」

「結構だと言っています」

「……はい」

 

 お姉さまは、最後はピシャリと金森くんを切り捨てた。ご夫妻の前では普段はあれだけ元気のいい子犬のような金森くんも、今は完全に萎縮してしまっていて、まったく薫お姉さまに食いつこうとしなかった。

 

 

 その後薫お姉さまから『事務所に戻りなさい』と言われ、私と金森くんは第三会議室から出た。事務所に戻るまでの短い道を、金森くんと共にうなだれて歩く私達。

 

「……ねぇ金森くん」

「ん?」

「私達、相当まずいことしちゃったのかな……」

「どうだろう……間違ったことをしたつもりはない。けど、係長のあの様子は……」

「うん……」

 

 そう。私と金森くんは、間違ったことをしたつもりはない。私達は、ただ降り掛かってきた火の粉を払い、それを相手が逆恨みしたに過ぎない。私の認識はこうだし、きっと金森くんも同じ考えのはずだ。

 

 でも、それではだめな場合がある。自分たちは何も悪くないはずなのに、それでも頭を下げなければならない場合があることを、この短い社会生活の中で、私は何度か目の当たりにしてきた。

 

 それが、今回だと言うのだろうか……しかも、愛する薫お姉さまに迷惑を掛ける形で……。

 

 自分の席に戻ってからも、陰鬱な気分は抜けない。渡部先輩が戻ってくるまでの間にエクセルのデータ整理を済ませてしまおうかと思ってファイルを開いたが、気もそぞろでミスを連発してしまう。

 

 チラと金森くんを伺うと、私と同じ状況のようだ。りんごマークのノートパソコンを開いて仕事をしているが、中々集中が出来ないらしく、時折こちらをチラと伺っている。

 

 そうして私達二人がもんもんとした気持ちと格闘しながら待つこと十数分後。薫お姉さまと渡部先輩の二人が会議室から戻ってきた。私はすぐに二人の元に行きたかったのだが、『迷惑をかけてしまったのかもしれない』という意識が、私に二の足を踏ませる。

 

 私が躊躇っていたら、お姉さまと渡部先輩は部長の席へと向かい、そこで何か話をはじめた。ある程度距離が離れているから、二人の会話は中々に聞き取りにくい。ただ、『明日』『先方』『詳しい説明を』という言葉が聞こえてくるから、薫お姉さまが明日先方に向かうことは、確定なようだ。

 

「んじゃ、明日は頼む」

「はい」

「うーす」

 

 不思議とそこだけははっきりと聞き取れ、二人が自分の席に戻ってくることがわかった。金森くんは薫お姉さまが席に戻った途端にお姉さまに話しかけていたが、体よくあしらわれたみたい。うなだれて自分の席へと戻っていった。

 

 一方で、渡部先輩も私の隣の自分の席へと戻ってきた。

 

「うぃー。疲れた疲れたー」

「あの……先輩」

「ぁあ? なんだ小娘」

「すみません……迷惑かけて……」

「あ? お前、自分が悪いことしたとか思ってんのか」

「そうではないですけど……」

「だったら堂々としてろ。悪いことやってないのに頭下げたりするな」

「はい……」

 

 とこんな具合で、あまり私の言葉を真剣に受け取ってはくれなかった。

 

「金森くんと私、何か処分が下されたりは……」

「まだ分からん。そういうのは、明日先方の話を聞いてからだ」

「薫お姉さまが私達の代わりに先方に行くんですか?」

「そうだ。まぁ俺も行くが」

「渡部先輩も?」

「うん。まぁ……お前の指導社員だし」

 

 驚愕の事実……もうこれだけで分かる……普段は主夫仲間の野村さんのところ以外にはめったに外出しない渡部先輩が外出する……しかも、私の指導社員という理由で……ことは相当重大みたいだ……

 

「すみません渡部先輩ッ!」

 

 いてもたってもいられない。罪悪感で頭がどうにかなりそうだ。何をすればいいのか分からず、私は改めて渡部先輩に頭を下げた。でも渡部先輩はいつものように欠伸をした後……

 

「だから頭を下げるな。お前は何も悪いことはしてないんだろうが」

 

 と言いながら、私の頭のてっぺんを左にペシンとはたいた。はたいたと言っても、ほんとに髪をかするぐらいだ。だから痛くもなければ渡部先輩に触れられたという不快感もない。

 

「……あ、そうだ」

 

 私が頭を上げると、渡部先輩は急に忙しそうにわちゃわちゃと動き始めた。何かを印刷したらしく、プリンターから何枚かの紙が出てきた。

 

「やい小娘、今印刷したやつ持ってきて、それをクリップでまとめろ」

「はぁ」

 

 言われるままに、印刷された数枚を手に取る。これは私が東京出張のときに古賀さんに褒めてもらった資料だ。野村さんの紹介スライドに描いてある私のネコの落書きが、今だけはなんだか腹立たしい。

 

「まとめたらこっちよこせ」

「はい」

 

 言われるままに綴じた資料を渡部先輩にわたす。受け取った先輩はそれを一枚の封筒へと入れ、それを私に手渡した。

 

「はいこれ」

「……なんですか?」

「ノムラ事業所の野村さんちは知ってるよな?」

「知ってますけど……」

「んじゃこれ頼む。野村さんから頼まれてたヤツで、今日持ってくつもりだったんだ」

「はぁ……でもその資料、野村さんも持ってませんでしたっけ?」

「本人がほしがってるんだから、欲しいんだろうよ。あとUSBメモリも入ってるから、それもちゃんと渡せよ」

「でも先輩が持っていきたいのでは?」

「いいから持ってけって」

「はい……」

 

 『自分で持っていけばいいのに……』とは思ったが、今の私には、それを口にする勇気はなく……渡部先輩から渋々その封筒を受け取り、コートを着て外出準備に勤しんだ。

 

 事務所を出ていく寸前、金森くんと薫お姉さまの様子が視界に入った。金森くんがぺこりと頭を下げ、お姉さまが我関せずと言った感じで何かを話している様子は見て取れたが……具体的にどういうやり取りをしているのかは、ここからは聞こえなかった。

 

 野村さん宅までは電車を使う。すぐそばの駅まで歩き、そこから10分ほど電車で移動するのだ。お客さんの少ない単線で、電車の本数も1時間に2本と極端に少ない。

 

 駅に到着すると……運が良かった。電車はすでに到着しており、あとはそれに飛び乗ればすぐに目的地に到着する。私は急いで電車に飛び乗り、ガラガラの車内の空いてる席へと腰を下ろした。ほどなくして、電車はのろのろと動き始めた。

 

 のんびりと進む電車に揺られながら、私は目的地を目指す。封筒の中身が気になり、私は中を覗き込んだ。中はA4の紙の束……さっき私が綴じた資料……一部と、小さなUSBメモリだ。USBメモリの中身は何か分からない。私は封筒の中から資料を取り出した。

 

 その瞬間、私は渡部先輩がこれを託した理由が分かった。渡部先輩のトラップに、私はうまく嵌められてしまったわけだ。

 

――昨日は金森くんの看病したし、今日もあんなことがあって疲れたろ。

  野村さんにこれを渡したら、今日はもうそのまま帰れ。

  お疲れさん。今晩はゆっくり休めよ。

 

 封筒の中には、私の預かり知らない一枚の手紙が入っていた。私の目を盗んで、一体いつの間にこんなものを準備していたのだろう。……ありがとうございます渡部先輩。今日は渡部先輩に甘えさせてもらいます。

 



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言うほどでもなかったかもしれない②

「……今頃、二人は平謝りなのかな」

「かもしれないね……」

 

 いつものように、喫茶店ちょもらんまでランチを食べる私と金森くん。今日のランチのメニューは、私がハヤシライスで金森くんがチーズハンバーグ。金森くんが時々私のハヤシライスを恨めしそうにジッと見つめ、それに気付いた私が金森くんにハヤシライスをおすそ分けしつつ、チーズハンバーグをつまむ……そんなやりとりが、ずっと続く。

 

 二人でランチをすること自体はとても楽しい。楽しいんだけど……今日の私達の空気はとても重い。なぜなら今、昨日に私達が問題を起こしたサイトウ・テクニクスを、薫お姉さまと渡部先輩が訪問しているからだ。

 

 

 お昼休みに入る30分ほど前の話だ。私と渡部先輩が並んで仕事をしているシマに、薫お姉さまが訪れた。コートを羽織りバッグを持って、外出する準備が万端という出で立ちだった。

 

「……先輩」

「おう。もうそんな時間か」

「はい。そろそろ行きましょう」

「あいよ」

 

 渡部先輩も外出準備を始めた。今日はお二人はお弁当を食べないらしい。お昼休みの時間を丸々外出にあてがうそうだ。その後、二人でどこかでランチをするらしい。さっき渡部先輩がそう言っていた。

 

 渡部先輩もコートを羽織ってバッグを持ち、外出準備が整ったようだ。

 

「では行きますか」

「おう」

 

 そう言いながら、二人は事務所の出入り口へと向かう。いてもたってもいられなくなり、私は二人の元へと駆け寄った。

 

「あ、あの!」

「お?」

「……?」

 

 私が声をかけると、渡部ご夫妻の二人が振り返る。渡部先輩はいつものぬぼーとしたしまりのない顔なのだが……

 

「どうかしました?」

「……ッ」

 

 薫お姉さまが怖い……いつもの無愛想な表情が、今日はとても恐ろしく見える……。

 

「あの……お姉さま……?」

「はい?」

 

 ニコリと微笑むことをせず、薫お姉さまはその無愛想な表情を崩さない。怖い……猛烈な怒りを押し殺しているようで……

 

「えっと……すみません……」

 

 思わず頭を深々と下げた。そんな私の喉の奥から絞り出した謝罪の言葉は、周囲の喧騒に消え入りそうなぐらいに小さい声で、私自身の耳にも届くか怪しいものだった。喉だけではなく手や足、体全体が怖くて怖くて震えてくる……薫お姉さまにこんな感情を抱いたのははじめてだ。

 

 そして、それに対する薫お姉さまの返答は……

 

「……謝るようなことをしたんですか?」

「いえ……でも……」

「なら謝らなくて結構です」

「……」

「私が行くのは、これが私の仕事だからです」

 

 いつもの何倍も冷たく聞こえる声だった。

 

 この時、私は『部下の責任を取るのが上司の仕事』という意味で、お姉さまは『これが私の仕事』と言ったのだと理解した。それは同時に、私と金森くんが、薫お姉さまと渡部先輩に……ひいては会社に対して多大な迷惑をかけてしまったということと、同じ意味であるということを知っている。

 

 だから私は、下げた頭を上げることが出来ず、そのままお二人を見送ることしか出来なかった。

 

 

 その後どうしても外せない外出から戻ってきた金森くんと一緒に、いつもの喫茶店ちょもらんまへとランチを食べに来たのだが……正直、今は何を食べても味を感じない。

 

「二人が帰ってきたら、また謝らなきゃね……」

「そうだね……」

 

 互いに沈んだ顔を見合わせ、そしてまた進まない箸とスプーンを無理矢理すすめる。私のハヤシライスも金森くんのチーズハンバーグもとても美味しいはずなのに、今日はまったく味を感じない。まるで泥を食べているような、そんな不快な感覚だ。

 

 そうして、金森くんとのランチを始めて20分ほど経った時だった。その時、金森くんのハンバーグは半分ほど残り、私のハヤシライスもまだ半分以上残っていた。

 

「ねぇ……小塚さん?」

「うん?」

「こんな時に何だけど……」

「うん」

 

 金森くんがお冷に手を伸ばした。昨日はあれだけだるそうにしていたのに、今日は食欲が戻っていたことが驚いたが……今日は今日で、別の要因で食欲が無いんだろうなぁ……私も人のこと言えないけれど。

 

 お冷に口をつけた金森くんは、そのまま静かにグラスを置く。コトリという音は、今日はとても心地よい。

 

 私を見つめる彼の顔は、ときおり見せる深刻そうな難しい顔だった。

 

「……昨日、僕のことかばってくれたでしょ?」

「そうだっけ?」

「うん」

 

 ……しらばっくれた。でないと、今はまだ自分自身が勘違いだと思っている私の気持ちを、覗かれてしまう気がしたから。

 

 お願いだから、今はまだほっといて下さい。この気持ちは、きっと勘違いだろうから。

 

「私、何て言ったっけ?」

「えっとね……」

「うん」

「その……」

 

 わざと聞き返すと、金森くんは少しだけほっぺたを赤くして言葉に詰まり始めた。おそらく私の問いに対する答えは、彼の中では決まっているのだろう。でも、それを口に出すのは恥ずかしいのだろうか。私の問いに中々答えない。

 

 ついに彼は、私に答えることを諦めたようだ。一言『なんでもない』と答えた後、自分のチーズハンバーグを口に運んでいた。その顔は、どうにも消化不良なような、そんな顔だ。いつもの穏やかさや、涼やかな余裕のようなものは感じられない。

 

 そして、そんな金森くんの姿を見た時、私は彼にキチンと答えてあげなかったことを、ほんの少し後悔した。自分の気持ちが暴かれるのが嫌だからといって、彼にあんな顔をさせてしまったことが、どことなく申し訳ない。

 

 そのランチの時間、彼が同じ話題を私に振ることはなく、私たちはそのまま事務所に帰った。もちろんランチはすべて平らげたが、普段に比べて何倍も大変だった……。

 

 

 事務所に戻りお昼休みが終わっても、私と金森くんは中々落ち着くことが出来ない。私は引き続きエクセルでデータの整理を行うが、少しでも気を抜くと、何度も入力ミスをやらかしてしまう。タブキーとエンターキーの打ち間違いや日本語入力の切り替えetc、etc……とにかく、ミスを数え上げたらキリがない。

 

 一度手を止め、上に大きく背伸びをした。背伸びをするときは、痛いと思うぐらい思いっきり伸びたほうがいい、と何かのテレビで言っていた気がする。何の気休めにもならないかもしれないが、私はいつもより体中に力を入れて、上に大きく背伸びをした。

 

 思いっきり上に伸びをするそのどさくさに、金森くんの様子を伺った。……たくさんのお姉さまチームの仲間にまぎれて、四苦八苦しながらパソコンのキーボードを叩く金森くんの姿があった。中々に気が散って集中出来ないのだろうか……。

 

 ……あ、金森くんが私に気付いた。彼はニヘラと私に向かって微笑むけれど……微笑みと言うよりは、あれは苦笑いに近い。彼のその表情は、声を出さずに『困ったね……全然仕事がはかどらないよ……』と、私に対して弱音を吐いている。

 

 出来ればここで『がんばろう!』と励まし、自分自身をも激励したいのだけれど、今の私にはそれは難しい。だって私も、金森くんと同じぐらいに落ち込んでいるから。大好きな薫お姉さまに多大な迷惑をかけ……普段はぐーたらで仕事なんかにまったく興味を示さない渡部先輩すら、その騒動の沈下の為に駆り出してしまい……

 

 こうして私と金森くんが鬱屈した気持ちを抱えたまま、1時間ほど過ぎた頃だった。

 

「うーい。ただいま〜」

「……」

 

 帰ってきた……先程までサイトウ・テクニクスを訪れていた渡部ご夫妻だ。事務所の入口をガチャリと開け、外の寒い空気と一緒に、事務所に戻ってきた。

 

 様子を見るに、渡部先輩はいつものようなぐーたらでぬぼーとした表情なんだけど……薫お姉さまは……

 

「……」

 

 一見いつもの無愛想だが、お姉さまが今抱えている感情が一体何なのか、まったく読み取れない……怒りを抑えているようにも見えるし、いつも通りにも見えるし……

 

「では先輩、お疲れ様でした」

「おう。薫もお疲れ」

「私はこのまま部長に報告します」

「んじゃ俺は自分の席に戻るぞ」

「はい」

 

 ご夫婦はそんな会話を交わし、それぞれ私の隣の席と、部長のところへと移動する。自分の席……私の隣の席へと戻ってきた渡部先輩は、ぬぼーとした覇気のない表情を崩さないまま、コートを脱いで自分の席へとかけ、そしてどすんと座った。

 

「ぬぼー……」

 

 そしてこの脱力具合……いつもの通りといえばいつもの通りだが……なんだか結果を聞くのが怖い……しかし、聞かないわけにも行かない。

 

「あの……先輩」

「……ぉあ? なんだ小娘」

「サイトウ・テクニクス、行ってきたんですよね……?」

「おう」

「えっと……どうだったんですか……?」

 

 無気力な表情を崩さないまま、先輩は目を少し動かした。その目線の先にいるのは薫お姉さま。私もつられて薫お姉さまを振り返る。薫お姉さまは、まだ部長に報告を行っている最中のようだ。

 

「ちょっと待て」

「はい」

 

 その無気力な顔に似合わない、渡部先輩のえらく力が入った声。先輩のその態度が、今回の事件の重大さを物語っているようで、なんだかとても恐ろしい……

 

「……以上です」

「分かった。おつかれ」

「はい」

 

 私の親父よりもう少しだけ頭髪が寂しい部長と、薫お姉さまの会話が聞こえた。どうやらお姉さまの報告が終了したみたい。渡部先輩はぬぼーとした顔のまま、パソコンのマウスをカチカチと操作して、インターネットで近所のスーパーのチラシを開いている。……だけどその目は、薫お姉さまを追っている。お姉さまの様子をじっと伺っているようだ。

 

 薫お姉さまは軽くため息をつくと、自分の席へと戻っていった。そして何食わぬ顔で自分のパソコンの電源を入れ、そして机の上に何枚かの紙と一冊の手帳を広げた。

 

「係長」

 

 同じく薫お姉さまの様子を伺っていたらしい金森くんが動いた。彼は立ち上がり、薫お姉さまの元へ足早に向かったのだが……

 

「おい薫!」

 

 その途端、渡部先輩の声が事務所に響いた。

 

 渡部先輩の声は、事務所の中にいる社員みんなの注意をひいた。薫お姉さまは渡部先輩の方をキッと向き、他のみんなも渡部先輩の方をパッと向く。

 

 そして私と金森くんは、渡部先輩の声で一瞬身体がビクッと波打った。昨日と今日で敏感でセンシティブな状態になっていた私達の心は、渡部先輩の大声に恐怖心を煽られてしまったようだ。

 

「金森くん借りるぞ!」

 

 ボリュームを落とさないまま、渡部先輩は薫お姉さまにそう声をかけた。金森くんはハッとして渡部先輩の方を向き直り、薫お姉さまは一瞬眉をへの字に曲げた。

 

 薫お姉さまはしばらくの間の後……

 

「……手短に」

 

 と実に短い返事を返し、マウスを握って手帳を広げた。

 

「よし行くぞ小娘」

「はい?」

 

 その途端に、渡部先輩が勢いよく立ち上がる。その顔に、さっきまでの無気力感はなく、どちらかと言うと晴れ晴れとした清々しい表情だ。

 

「行くって、どこ行くんですか?」

「第三会議室だ。俺は先に行って鍵を開けとくから、お前は金森くんを連れてこい」

「分かりましたけど……」

「下の自販機で飲み物買ってきな。ちょっと長くなるから」

「はぁ……」

 

 そこまで言うと渡部先輩は、私の手のひらに千円札を一枚、ポンと置いてくれた。そしてそのまま踵を返し、第三会議室へと一人でてくてく歩いていく。その背中はいつになく生気があり、そんな姿の渡部先輩に違和感を感じてしまって仕方がない。

 

「先輩! お金多いです!」

「釣りはやるわ。ちゃんと俺の分も買ってこいよ」

「先輩は何がいいんですか!?」

「任せる」

 

 そんな無責任な言葉を置き土産に、先輩は事務所から出ていった。その後姿を眺めていると、なんだか頭から8分音符が飛び出ているように見える。機嫌がいいのか何なのかさっぱりわからない。渡部先輩の考えが読めない。

 

 困惑している私のもとに、金森くんもやってくる。彼も渡部先輩と薫お姉さまの考えは読めないようで、珍しく微笑みを消し、戸惑っているように見えた。

 

「小塚さん……」

「えっと……とりあえず、飲み物買いに行こうか」

「……そうだね」

「渡部先輩って、何がいいか分かる?」

「多分正嗣先輩は日本茶でいいと思うよ。それかミネラルウォーター」

「さすが渡部先輩一筋……」

 

 やはり渡部先輩への愛は本物だ……金森くんのその一途さには関心するなぁ……薫お姉さまの方を伺うと、お姉さまはいつものようにパソコンのキーをバシバシと景気よく叩き始めた。上機嫌のようにも見えた渡部先輩に比べて、薫お姉さまの方は恐ろしいほど普段と変わらない……ご夫婦のこの態度の差は一体何なんだろう?

 

 迷っていても仕方がない。とりあえずは自販機で日本茶とコーヒー、そしてオレンジジュースを買い、私と金森くんは、渡部先輩の待つ第三会議室へと足を運んだ。

 



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言うほどでもなかったかもしれない③

「結論から言うと、何もなかったしお咎めも無しだから安心しろ」

 

 椅子に座る私と金森くんを見下ろす渡部先輩は、一口ペットボトルのお茶に口をつけたあと、いつものぬぼーとした表情よりも幾分生気が感じる表情でそう答えた。

 

「へ……何もお咎め無しですか?」

「おう」

「でも……」

「心配する気持ちは分かるがな。ホントに何もないから大丈夫だ」

「ホントに……ですか?」

「疑り深いな小娘……」

 

 渡部先輩の言葉を、つい疑ってかかる私。だってそうだろう。薫お姉さまと渡部先輩を取引先に謝罪にいかせるような事態を作ってしまったのだ。これを気にするなという方がおかしい。

 

 金森くんだって同じ気持ちのはずだ。彼も同じく表情が優れない。渡部先輩の言葉を信用したいのだろうが、根拠がないから信じられない、という感じだろうか。彼は手に持つコーヒーの缶をせわしなくニギニギしている。

 

「でも、正嗣先輩……?」

「おん?」

「あれだけの事があっても、お咎め無しなんですか?」

「ああ」

「サイトウ・テクニクスさんとの契約も危ういんですよね?」

「いや? 今後もいい取引が続くと思うぞ?」

 

 『え!?』と思わず声を上げる私と金森くん。昨日の段階では一方的に『契約解除』と言われ、薫お姉さまと渡部先輩の二人が謝罪に向かうほどの危機的状況だったのに!?

 

「ちょ!? 渡部先輩!?」

「なんだよ……」

「特に何もなかったんですか!? ホントに何もないんですか!?」

「だからさっきからそう言ってるだろうが……」

 

 自分でも失礼だとは思うのだが、つい先輩に詰め寄って、改めてしつこく聴き直してしまう。金森くんも金森くんで、立ち上がって渡部先輩の両肩をガシリとつかみ、その全身を前後左右に盛大にシェイクし始めた。

 

「ホントなんですか正嗣さん!? 僕らはお咎め無しなんですか!?」

「ゆ、揺らすな……っ」

「どうやって先方を説得したんですか!? お二人はどんなマジックを使ったのですか!?」

「お茶……こぼれるこぼれる……」

 

 震度6以上の勢いでシェイクされた渡部先輩は、金森くんから手を離されてもしばらくふらふらとよろめいていた。平衡感覚が使い物にならなくなってしまったようで、私たちの目の前のテーブルに手を付き、ハーハーと息切れを起こしている……

 

 しかし、信じられない……あの状況から一切のお咎めもなく、しかも今まで通りにサイトウ・テクニクスさんとのお付き合いも続けていけるとは……渡部先輩と薫お姉さま……いやおそらくお姉さまだな……は一体どんなマジックを使ったというのか。金森くんではないが、それは私も気になるところだ。

 

「……要はな、全部一色とかいう女の暴走だったんだよ」

 

 机に手を付き頭を押さえる渡部先輩が、三半規管がエラーを起こしている今の状況に耐えながら、私達の疑問に答える。テーブルの上に置かれた私のオレンジジュースのペットボトルには、結露したしずくがうっすら全身に付き始めていた。

 

 事の真相はこうだ。

 

 一方的な契約の打ち切りは、サイトウ・テクニクスの担当者一色玲香さんの独断と暴走によって行われ、彼女以外の人間は誰もそのことを把握してなかったのだそうだ。

 

 先方で事態が発覚したのは今日。薫お姉さまが『これからそちらに伺う』と連絡をし、二人が先方に到着した時だ。先方ではちょうどその頃、一色玲香さんは別件で外出中。そのため別の人が薫お姉さまの対応にあたったそうだが……

 

 お姉さまこと『設楽薫』といえば、以前にサイトウ・テクニクスの担当をしていたこともあり、先方でも割と名が通っている。そんな人が突然、旦那を連れて来訪すると話があったもので、電話を受けた人は薫お姉さまと面識がある、一色さんの上司に相談。その上司がお姉さま方の応対をし、そこで事態が発覚した。

 

 結果として、一色さんの独断によって行われた契約破棄は白紙撤回。一色さんは担当から外され、新しい担当者と共に今後もよいお付き合いを続けていきましょう、ということで、先方との話は終わったそうだ。

 

「ちなみに先方の新しい担当者の方とは会ったんですか?」

「会ったぞ。『ハシダテ』とかいうヤツだ」

「ああ、橋立くん……」

「なんだ面識あるのか金森くん」

「訪問したときによく世間話をするんです。いつも一色さんに頭を悩ませてましたね彼」

「なら大丈夫だな。つーかその一色とかいう女、そんな問題児だったのか……」

「彼、年上にウケるタイプですから。ロックオンされてるって何度か相談もされました」

「あー……たしかにそんな感じの子だな……」

 

 金森くんと先輩の間で、何か共通認識があるらしい。その『橋立』という新しい担当者が気になる。年上女性に好まれる男性……そんな男性と金森くんが今後よく会うことになる……あまり余計なことは考えないようにしようか……。

 

「あの……先輩」

「なんだ小娘」

 

 幾分三半規管が落ち着いたらしい渡部先輩はテーブルから手を離し、今はペットボトルのお茶をぐびっと飲んでいる。

 

「えっと……ありがとうございました」

「礼を言うなら薫に言え。今回お前らのために頑張ったのはあいつだ。俺は横でぼーとしてただけだからな」

「ぼーって、いつも通りじゃないですか」

「張り倒すぞ小娘」

 

 渡部先輩は残り少ないお茶を飲み干しながらそう言うが……薫お姉さまにお礼は言いにくい。なんせ、お姉さまは昨日からついさっきまで、ずっと不機嫌オーラを振りまいているから。不機嫌なだけならまだいいが、迷惑をかけた私達に対し、失望しているのかもしれない。普段はそんなこと心配したことないのに、今はお姉さまの姿を見ると、どうしてもそんなことばかり考えてしまう。

 

 そんなことを渡部先輩にぼそっとこぼしてしまうと、渡部先輩は困ったように頭をぽりぽりとかき、金森くんの様子も伺った。金森くんは金森くんで、手の中のコーヒーの缶をじっと見つめてしょぼくれている。昨日のことに後悔はないし一色さんに悪いことをしたとはまったく思ってないが、薫お姉さまたちに対しては、私達は後ろめたさが大爆発だ。

 

「……おまえら」

「はい?」

「薫には言うなよ? 口止めされてるんだから」

「はぁ……」

 

 私達の様子を見かねたのか……額に冷や汗をかき、渡部先輩がぽつりぽつりと口した事実……それは、昨日と今日の薫お姉さまの様子だった。

 

 私のオレンジジュースについた結露は、だいぶ少なくなっていた。

 

……

…………

………………

 

 それは、昨日私達が第三会議室で事情聴取されたあとのことだった。

 

 私達が会議室を出ていった後、薫お姉さまと渡部先輩は、私達の話をどう扱い、先方とどうすべきかを話し合っていたそうだ。

 

 薫お姉さまは、私達から話を聞いていたときと同じ椅子に座り、同じく壁にもたれる渡部先輩の方を見ずに話しかけてきたのだとか。

 

『……先輩』

『んー?』

『どう思いますか?』

 

 その時の薫お姉さまは、長い付き合いになる渡部先輩から見て、怒りを押し殺しているように見えていたらしい。

 

『……俺にはあいつらが嘘をついているとは思えん。あいつらはアホだが、理由もなしに人につっかかっていくタイプではないぞ』

『私もそう思います』

『それに、相手が取引先の担当者だと分かってて粗相を働くような、度し難いアホでもない。てことは、そうせざるを得ない何かがあったんだろ』

『でしょうね』

『とりあえず先方には明日の昼に行くとしてだ。……どうする』

 

 薫お姉さまは、ここで一度自分のスマホからサイトウ・テクニクスに電話をかけ、一色さんと話をしたそうだ。薫お姉さまは一色さんに『理由を教えてくれ』と食い下がったそうだが、結局激昂した一色さんに話は通じず、一方的に通話を切られたのだとか。

 

 通話を切り、懐にスマホをしまった薫お姉さまの目は、今まで見たこと無いぐらいの無表情に見えたそうだ。その目は、自分が取った話のメモをジッと見ていたらしい。

 

『……先輩』

『おう』

『私は先輩のように、落ち込んでる人を優しく励ますなんてことは出来ません』

『誰がいつ落ち込んでる奴を励ましたって?』

『だから私は、私が出来るやり方で、可愛い部下を守ろうと思います』

『俺の突っ込みは無視か』

『そのことで、愛する旦那に迷惑をかけるかもしれません』

『妻の仕事とその結果に口を出す気はない。思った通り、好きにやれぃ』

『ありがとうございます』

 

 そうして今日。先方を訪問した渡部先輩と薫お姉さまは、自分の応対をした人物から一色さんが不在だと聞かされた後、応接室へと通された。

 

 渡部先輩は、そこで薫お姉さまが何をするつもりだったのか、はじめて理解したそうだ。

 

『設楽さんご無沙汰してます』

『お久しぶりですね岸田さん。今は渡部ですが、変わらず設楽で結構です』

『そうでしたね。……で、本日はどのようなご用件で……』

『まず、そちらの一色さんに大至急確認を取っていただきたく』

『何についてですか?』

『私の可愛い部下二人に、あなたは一体何をしたのか……と聞いて下さい』

『は?』

 

 その時の薫お姉さまは、隣で見ている無関係な自分からしても震えが来るぐらい恐ろしかったと、渡部先輩は身震いをしながら教えてくれた。そんなお姉さまと話をする先方の岸田さんとか言う人、さぞ怖かっただろうなぁ……

 

 薫お姉さまは顔色一つ変えず、だけど冷静というよりも冷酷な口調と声色で、岸田さんを追い詰めていったそうだ。

 

『昨日、御社の一色さんから、弊社との契約を一方的に破棄する旨が通達されました』

『へ? いや、私は何も……』

『あなたが初耳かどうかはどうでもよろしい。ここで問題になるのはその理由ですが、一色さんはそれを私達に話してくれません。それどころか『頭のおかしな担当者とその連れに聞け』と、私の部下に対する侮蔑とも取れる言葉を吐いています』

『ち、ちょっとまって……』

『そこで担当の金森と、そこに居合わせた小塚に確認を取ったところ、むしろ二人に対して失礼を働いたのは御社の一色さんであり、金森と小塚の素行に関しては何ら落ち度はないと私は判断しました』

『これは何かの誤解が……』

『そうである以上、理不尽な目に遭わされたのは御社ではなく、弊社の金森と小塚であると判断せざるを得ません。金森は私の部下であり、小塚も同様に私の部下の立場です。であれば、部下である彼らを守りケアするのが、上司である私の仕事です』

『い、いや、しかし』

『弊社との契約を打ち切るというなら結構。私の部下を理不尽な目に遭わせ過剰な負担を強いる取引先など、弊社には不要です。むしろこちらから契約を打ち切らせていただきます』

 

 そこまで言い切ったお姉さまは、いつもの通りの無愛想な顔で一言『では一色さんへの確認をよろしくおねがいします』と言い放ち、岸田さんからの返事を待ち続けたそうだ。

 

 事の重大さに気付いた先方の岸田さんは、一色さんの部下(それが橋立さんだったそうだ)を呼び、その彼に大至急一色さんと連絡を取るように指示していたという。やがて連絡が取れ、一色さんは私と金森くんへの粗相を認めたそうだが、肝心な部分は話したがらず……そして……

 

『……設楽さん、申し訳ない。部下の一色をコントロール出来なかった私の失態だ』

『……』

『なんとか契約破棄はなかったことにしていただけないだろうか。担当は先程顔を見せた橋立にやらせる。彼ならそちらの金森くんとも仲がいいのは知っているし、誠実な男だから問題を起こすこともない』

『……私は、私の部下たちに余計な負担がかからなければ、何も言うことはありません』

『よかった……設楽さん、ありがとう』

『こちらこそ、あなたのお心遣いに感謝します』

 

………………

…………

……

 

 渡部先輩の話が終わる頃、私はオレンジジュースを飲み干し、金森くんのコーヒーもだいぶぬるくなっていた。渡部先輩は自分の日本茶のペットボトルをゴミ箱へと投げ捨てる。うまい具合にゴミ箱に吸い込まれた渡部先輩のペットボトルは、ガラガラと音を立てた。

 

「とまぁこんなわけで、今回お前らを一番心配して守ろうとしてたのはアイツだ」

「……」

「だから、礼ならあいつに言え。俺はホントに何もしとらん」

 

 会議室内に響く、渡部先輩の優しい声。その声はいつも私を『小娘』と揶揄し、薫お姉さまと私を必要以上に遠ざける時の刺々しい感じはない。

 

 正直なところ、私はもう薫お姉さまに愛想を尽かされたと思っていた。昨日のお昼から今日に至るまで、私に向けられていたお姉さまの視線は、とても冷酷で、いつもの温かい感じはなかった。だから私は、もう薫お姉さまとは仲良く出来ない……そう思っていた。

 

 でも、実際は違ってたみたいだ。

 

「でも渡部先輩」

「お?」

「昨日からずっと薫お姉さま、不機嫌でものすごく怒ってるように見えてましたけど……」

「あー……確かに怒ってたな。でもそれって、その一色とかいう女に対してだ。あいつに対してはかなりカリカリしてたけど、むしろお前たちのことはずっと心配してたぞ?」

「そうなんですか?」

「それに、なんか寂しがってたな」

 

 驚愕の事実……あれだけ不機嫌オーラを振りまいていた薫お姉さまが、まさか私たちのことを心配するだけでなく、寂しがっていたとは……

 

 なんでも今日、サイトウ・テクニクスへと向かう最中、二人でてくてくと歩いている時、薫お姉さまは、寂しそうにポソリと一言つぶやいたそうだ。

 

――昨日今日と金森くんと小塚ちゃんに絡まれないから、調子が狂います

 

 思えば、昨日のあの事情聴取から、私も金森くんも、ろくに薫お姉さまに話しかけなかった。いつもなら朝から私達はご夫妻に突撃し、金森くんは渡部先輩の周りをちょこまかと駆けずり回って、私は強引に薫お姉さまと手をつなぐ……そんな毎日を送っているのに。仕事中だって私は渡部先輩とケンカしながら仕事を進めるし、金森くんだってお姉さまと密に連携を取りながら仕事に励んでいるのに。

 

 それなのに今日は、ご夫妻に突撃どころか世間話もろくにしなかった。どうしても、薫お姉さまのあの冷たい眼差しに見つめられると、いつものノリで突撃し、手をつなぐなんてことが出来なかった。

 

 それが、薫お姉さまにしてみれば寂しかったということか……。

 

「なんだか、二重の意味で悪いことしちゃったなぁ……」

 

 私の口から、ぽつりとそんな言葉が出た。これは今日一日を振り返った、素直な言葉。お姉さまの気持ちを汲み取ることが出来ず、いつものように振る舞うことが、私には出来なかった……。

 

「んなことないぞ。あいつが終始仏頂面をぶら下げてるのも悪いしな」

「そんなこと思ってないくせに……」

「本当だ。あいつ、無意識のうちに相手にプレッシャーかける天才だからな。寂しいんなら寂しそうにすればいいんだ。もうちょっと穏やかにしてれば、お前らだって薫に話しかけやすかっただろう」

「でも渡部先輩はそんなお姉さまが好きなんですよね?」

「まぁなぁ……」

「先輩はどえむですか」

「首をねじ切るぞ小娘」

 

 そんな軽口を渡部先輩と叩く余裕も出てきた。色々と驚く話もあったが、今なら、私は薫お姉さまに話しかけ、キチンと今日のことのお礼を言うことができそうだ。

 

 そう。薫お姉さまに言うべきは、謝罪ではなくお礼。『ご迷惑をおかけしてすみませんでした』ではなく、『私たちを助けてくれてありがとうございました』。この言葉を薫お姉さまには伝えるべきだ……いや、伝えたいと思った。

 

「……正嗣さん」

 

 すでに空になったコーヒーの缶を持ち、金森くんが立ち上がる。その目はいつになく真剣で、いつか見た、『会社の代表・金森千尋』の雰囲気を漂わせていた。

 

「うっせ。さん付けはするな」

 

 対する渡部先輩は、そろそろ真面目モードの限界が近づきつつあるらしい。顔から少しずつ生気が抜け始め、目が死に始めている。これはひょっとすると、先輩を『正嗣さん』と呼び放った金森くんのせいなのかもしれないな……と私は思った。

 

「係長に、お礼を言ってきます」

「おう。そうしてやれ」

「私も行ってきていいですか?」

「おう行け行け。どうせ今日はヒマだしな」

「ありがとうございます!」

 

 私と金森くんは、互いに顔を見合わせる。彼の目が私にこう言っていた。『今すぐ行こう』。無論、私に断る理由はない。渡部先輩の許可も貰ったことだし、言われるまでもなく、私も早く行きたい。私と金森くんは一緒にドアを振り返り、会議室から薫お姉さまの待つ事務所へと向かうことにした。

 

「……あ、ちょっと待て」

 

 私がドアノブに手をかけ、勢いよくひねってドアを開けた時だ。背後から渡部先輩が私達を呼び止めた。振り返ると渡部先輩は、妙にニヤニヤといやらしくてセクハラとしか思えない笑みを浮かべてる。

 

「……なんすか先輩? セクハラですよその笑顔」

「小塚さんヒドい……」

「黙れセクハラ冤罪製造機。それよりもだ」

「はい?」

「お前らに、有益な小ネタを教えてやる。イヤーホールをディグって聞けよ?」

「はぁ……?」

 

 

 渡部先輩から余計な入れ知恵を授かった私達は、そのまま会議室から事務所へと移動して、薫お姉さまが仕事する設楽チームのシマへと向かい、薫お姉さまの前に立った。

 

「……?」

「あの……係長」

「はい」

「お姉さま、あの……ちょっとお時間、よろしいでしょうか……?」

 

 薫お姉さまはパソコンで何かを入力しており、傍から見るととても忙しくてそれどころではないという感じだったが、それでも私たちのため、手を止めてくれた。

 

 しかし、この無愛想で冷たい眼差しは恐ろしい……渡部先輩から『あいつは寂しがってる』という話は聞いているが……このプレッシャーと氷のような眼差し……そして氷点下の声……

 

「……なんでしょうか」

「あの……お姉さま……」

「はい」

「えっとですね係長……」

「何か」

「「……」」

「……?」

 

 恐ろしい……私達に対して不機嫌オーラを振りまいているようにしか見えない。おそらく本人からしてみれば、いつもどおりに私たちを見つめているだけに過ぎないのだろうが……私からしてみれば、どう見てもあの眼差しは肉食獣の威嚇だし、戦闘態勢に入ってる印にしか見えないッ!?

 

 金森くんも私と同じ心持ちのようだ。『お礼を言いに行きます』とは言ったものの、本人のこの恐るべきプレッシャーを前にすると、どれだけやる気が満ち溢れていたとしても、みるみるその気持ちが小さくしぼんでくる様子が見て取れる。

 

 ちらっと顔を伺うと、顔つきは『会社の代表・金森千尋』だが、幻の犬耳は下に元気なくぺろっと下がってるし、ケツの部分に見える幻のしっぽは下に垂れ下がって、金森くんが萎縮していることを如実に表している。冷や汗だってかいてるし。

 

「んー……?」

「「……ッ」」

「お二人とも、話がないのなら私は仕事をしたいのですが……」

「「!?」」

 

 ……ええいッ! 今ここでお礼を言わなければ、この件でお礼を言うタイミングを完全に逸してしまうッ!! 負けるな小塚真琴ッ! 私は薫お姉さまにお礼を言うんだ! 言え! 真琴!!

 

「金森くん……ッ!」

「ああ……ッ!」

「……?」

「「ありがとうございましたぁあッ!!!」」

「!?」

 

 私と金森くんは声を揃え、同じタイミングで勢いよく頭を下げた。これが……これが薫お姉さまへの私たちの感謝の気持ちだ!! 伝わって下さい! 私たちのこの感謝の気持ち!!!

 

 しかしである。

 

「……」

「「……」」

「……話は終わりですか?」

「「!?」」

 

 私達のお礼を受けての薫お姉さまの返答がこれである。私達のお礼は通じなかったのか……薫お姉さまは私達と戯れることが出来ず、寂しがっていたのではないのか!?

 

 ……いや待て。私はさっき渡部先輩から、超重要な情報を入手したじゃないか。心が折れるのはまだ早い。顔を上げろ私! そして、薫お姉さまの顔を見るんだ!!

 

「「ッ!!」」

「……?」

 

 私と金森くんは、同時に顔を上げ、そして薫お姉さまの顔を凝視した。

 

「……」

「「……」」

「……」

「「……」」

「……ぷくっ」

「「!?」」

 

 見間違いではない……薫お姉さまのその麗しき鼻の穴が、私の目の前で、ぷくっと一瞬膨らんだ。本当だったんだ……渡部先輩からの情報は、間違ってなかったんだ……聞いた時は『嘘だろ!?』『まさかあのお姉さまが!?』と思ったが……

 

「ぷくっ」

「「!?」」

「ぷくぷくっ」

「「!?!?」」

 

 今、こうしてその光景を目の当たりにすると、本当のことだったのだと思わざるを得ない……その光景は美しき薫お姉さまにあるまじき滑稽さだが、これは事実だ。事実なのだ……

 

 私は、薫お姉さまのその世にも奇妙な光景を目の当たりにし絶句しながら、先程渡部先輩によって入れ知恵された、戦慄の事実を思い出していた。

 

「……なんですか」

「い、いや……なんでもないですお姉さま……」

「そうですか……ずーん……」

「いや係長、あの……」

「はい? ぷくぷくっ」

「「!?」」

 

――あいつな、本当にうれしいことや楽しいことがあるとな。

  鼻がぷくってふくらむんだよ。

  お礼言った後、あいつの顔見てみろ。

  鼻の穴がめっちゃぷくぷく膨らんでるから。

  そう考えたら、あの仏頂面に睨まれても笑えるだろ?

 



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勘違いじゃない①

 サイトウ・テクニクス絡みの騒動から数日経過した。私は相変わらず、毎朝金森くんと出会い、二人で一緒に渡部ご夫妻に突撃してじゃれつき、そして変わらない毎日を過ごしている。

 

 お昼時。今日も私達は、ランチの時間に二人で喫茶店ちょもらんまへとやってきた。店に入るなり、金森くんは写真が飾られた窓際の席へと直行し、私もそれについていく。一色さんが姿を見せなくなったから、気兼ねなしに好きな席へと座ることが出来るのが嬉しい。この席に直行したあたり、金森くんも本当はこの窓際の席が気に入っていたのかも。今まで一色さんがいたから、距離を置くために選んでなかったのかな?

 

 席についた私達に、ウェイトレスの奥さんがオーダーを取りにやってくる。いつものキラキラと輝く髪をなびかせて、奥さんは私達のオーダーを持ち帰った。程なくして出来上がったランチを持ってきてくれるのだが……

 

「はーい。んじゃクラブハウスサンドが……」

「私です」

「てことは、ミートソーススパゲティが……」

「僕です」

「フォーク、彼女の分も持ってこようか?」

「えっと……」

「はい。お願いします」

「え……」

「りょうかーい。んじゃちょっと待ってな〜……」

 

 とこんな具合で、オーダーを持ってきてくれるどころか余計な気まで回してくれるようになった。勘違いをしている……確実に……。

 

 でも、その勘違いも、なぜか悪い気はしない。

 

 金森くんと二人、声を揃えて『いただきます』。その後奥さんが持ってきてくれたフォークを使い、時々金森くんのスパゲティを横取りする。そして金森くんはそのお返しとばかりに、私のクラブハウスサンドを一切れ強奪していく……なんだか互いのメニューをシェアするのも、だいぶ自然になってしまったなぁ。互いに『もらっていい?』と口に出すこともしない。ただ『美味しい?』『うん』『よかった』と言葉をかわすだけだ。

 

 それもこれも、金森くんが悪い。最近になって奥さんは気を利かせて『彼氏の分の割り箸も持ってこようか?』とか『彼女の分のスプーンはどうする?』とか聞いてくるようになったけど、それに対していつもうろたえる私を置いておいて、『お願いします』て言っちゃうから。

 

 おかげで、最近はもうほとんど互いのメニューをはんぶんこするようになってしまった。今日にしても私のクラブハウスサンドの半分を金森くんが食べたし、彼のミートソーススパゲティだって、私が半分ぐらいは食べている。

 

 でも、そんな時間が、最近はとても楽しくて。

 

「? どうかした?」

 

 金森くんに声をかけられ、ハッとした。金森くんは今、私のお皿から強奪したサンドイッチを、今まさに口に入れようとしているところ。クラブハウスサンドはたいして熱いものではないから、金森くんも食べやすいんだろう。いつもに比べて、今日は悲鳴が少ない。

 

「ん? なにが?」

「なんか、ぽけーてしてた」

「そかな?」

「うん」

 

 金森くんに指摘され、私は窓の外を見た。今日はとてもいい天気。ブラインドが閉められているから決して眩しくはないが、外のお日様の光の暖かさは、私の身体にも伝わってくる。ぽかぽかと心地よく、気を抜けば眠ってしまいそうなほど、心地いい。

 

「……お日様があったかいから、ぽけーてしてたのかも」

「……そっか」

「うん」

 

 ……そういうことに、しておいて下さい。

 

 私は金森くんからせしめたスパゲティを口に運んだ。彼が頼んだスパゲティは、パスタの茹で具合も完璧でミートソースの味も完璧な、美味しくてどこか懐かしい、とても美味しいスパゲティだった。

 

「スパゲティ、美味しい?」

「うん」

「よかった」

 

 私の感想を聞いた金森くんは、ニコッと穏やかに微笑んだ。そんな彼の口の端っこには、相変わらずいつも通りミートソースがついていた。

 

 

 ランチが済んで事務所に戻った後は、私達は互いに別々の離れた席へと座り、仕事に勤しむ時間を過ごす。金森くんは私が愛する薫お姉さまの隣で。そして私は、ぐーたらで仕事をまったくしない渡部先輩の隣で。

 

「ぬぼー……」

 

 今日も渡部先輩は何も動こうとしない。聞けば、午前中の仕事で気力をすべて使い切ってしまったのだとか。瞳孔が開いた眼差しで天井を見つめ、時々思い出したようにディスプレイを見つめては、マウスをカチカチと鳴らす。……そしてまた瞳孔が自然と開いて、天井を再び見つめ始める。……この繰り返しだ。

 

 薫お姉さまと金森くんも以前と変わらない。互いにコミュニケーションを取り、二人で忙しそうに仕事に打ち込んでいる。

 

「金森くん、骨武者商事への見積もりを早くお願いします」

「今出来ました」

「pdfを先方に送って下さい。原本はすぐに郵送すると……」

「すでに送ってあります。係長もCCに入れておいたので確認お願いします」

「……分かりました。ではバイク便を……」

「手配しておきました。もうしばらくしたら集荷に来るはずです」

「……ありがとうございます」

 

 二人の仕事が一つ片付いたようだ。お昼休みが終わってからこっち、二人共ずっとバタバタしてたから、何か急ぎの仕事だったのかも。金森くんはいつもの仕事中の『金森千尋』のキリリとスマートな顔ではなく、とても清々しく微笑んでいた。薫お姉さまも、ひと仕事終えて気持ちよさそう。鼻だってぷくって膨らんでるし。

 

 ……そう。渡部先輩が言っていたように、サイトウ・テクニクスのあの騒動があったあとも、みんなはいつもと変わらない毎日を過ごしている。私以外の、みんなは。

 

 私は、以前と比べて、ほんの少しだけ変わった。

 

「……」

 

 以前の私は、社内報や社内壁新聞なんかを作りながら、ずっと薫お姉さまの姿を眺めていた。お姉さまが移動すればそれを目で追い、お姉さまの美しさに心を潤し、お姉さまの冷たくも美しいその眼差しに心を癒やされていた。

 

 でも、今の私の眼差しは、薫お姉さまよりも金森くんを多く捉えていた。

 

 今も私は社内節分大会のお知らせを作成しながら、その視界の片隅に金森くんと薫お姉さまを……いや、金森くんを捉えている。嬉しそうに笑顔でお姉さまと談笑する金森くんを見ていると、不思議と胸が温かい。

 

 視線を少しだけズラし、金森くんを見つめた。そんな私に気付いたのか、金森くんが私の方を見てニコリと微笑み、小さく手を挙げる。私も少しだけ微笑んで、彼の笑顔に応えた。金森くんはすぐに薫お姉さまとの仕事の話に戻った。

 

 そんな金森くんを眺めながら、思い出したことがあった。

 

――大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない

 

 あの日私は、金森くんに助けられた。薫お姉さまにはかばってくれたお礼を伝えたのだが、そういえば金森くんには、まだそのお礼をしていない。

 

 作成中の社内報に恵方巻きのイラストを挿入しながら考える。金森くんにあの時のお礼をしたいと思うのだが、彼はどんなものを喜んでくれるのだろうか……いや、彼が何を喜んでくれるのかは想像に難しくないのだけれど……

 

――金森くん……なんか、小娘に言われて晩飯を作りに来たんだけど……

――そ、そんな! 先輩が僕のために僕の家で晩ごはんを作ってくれるだなんて!?

 

 ……アホらし。即座に私は首をふる。真面目にお礼を考えているのに、こんな考えがすぐ浮かぶ辺り、私も金森くんの先輩ラブに毒されすぎだ。

 

 渡部先輩も渡部先輩だ。こんなイメージをすぐ思いついてしまうぐらい、先輩に威厳がないのがそもそも悪い。げんなりする気持ちを抱えながら、私は引き続き鬼のイラストを探すことに専念した。

 

 とはいえ、渡部先輩以外に金森くんが喜ぶものが何も思い浮かばないのも事実。なんだか金森くんには、言葉だけではない何かを渡したかった。のだが、それがまったく思いつかない。

 

 ……仕方ない。こういうことは、同じく野郎の渡部先輩に相談してみるか。先輩は今、私の隣で瞳孔が開いた眼差しで天井を見つめている。正直、生きているかどうかも疑わしいが、私が声をかければその死んだ眼差しにも光が戻るだろうか。

 

「……ねぇ渡部先輩」

「んー? なんだ小娘……」

「ちょっと相談があるんですが」

「手短に話せよ? 俺は今死んでるんだから……」

 

 自分で『死んでる』とはどういうつもりか……と声を張り上げたくなったが、よくよく考えれば、平常運転の渡部先輩だ。先輩がこんな調子ということは、社内が平和であることの証拠だと思い直し、肩の力を抜くことにする。

 

「……金森くんって、何あげたら喜んでくれるのかなぁ」

「なんだお前、金森くん狙ってるのか」

 

 私の素直な疑問に対し、渡部先輩は当然の疑問を投げかけてきた。一瞬頭に血が登ったが、渡部先輩の言い方には私をからかってやろうという思惑はなく、むしろ興味なさげな感じだ。相変わらず瞳孔が開いた眼差しで天井見上げてるし。

 

「違いますって。あの件で金森くんにまだお礼言ってなかったなって思って」

「せっかくお前が人の妻に手を出さない真人間になったと思ったのに……小娘に期待した俺が愚かだった……」

「前髪以外の毛根全部むしりちぎってキューピーにしますよ?」

「永遠に3分クッキングしか出来なくなるからやめろ」

 

 とこんな具合で渡部先輩は天井を見上げたまま軽口を叩くのだが……そこは意外と力になってくれる渡部先輩。命を失った両目で天井を凝視しながらも、何か色々と考えてくれたようだが……

 

「んー……」

「……」

「……ダメだ思いつかん」

 

 約2秒後には白旗を上げていた。まぁ、今のこの人、死んでるからなぁ……それに、本来は私自身が考えなきゃいけないことだし。

 

「そもそも金森くんなら、何だって喜んでくれるんじゃないか?」

「そんな無責任な……」

「無責任とは何だ小娘」

「だって無責任でしょ後輩の相談に対して」

「こういうのは気持ちがこもってりゃ何でもいいだろうよ」

「んじゃ先輩は、薫お姉さまから変なTシャツもらっても、喜んで着ますか?」

「家の中でならな」

「え……」

「そもそもすでにもらってる」

「ホントですか……」

「あいつの手書き文字で『モスクワ大飯店』て書いてあるやつ」

「意味分かんないです……」

「俺に聞くなよ……本人頑張って作ったんだから……」

 

 薫お姉さまの意外な一面を知ったわけだが、それは今はどうでもいい。いやどうでもいいわけではないけれど……それよりも今は、金森くんへのお礼の品だ。彼は一体、何を上げれば喜ぶんだろう……

 

 渡部先輩が天井を見上げるをやめ、幾分光が戻った目で今度はパソコンのディスプレイを見つめた。マウスを持ち、カチカチとダブルクリックを繰り返してインターネットのブラウザを開く。一瞬何かのヒントをもらえるのかと期待したが、約1秒後の画面には、周辺のスーパーの特売情報が集うサイトが表示されていた。

 

「あとはー……そうだなぁ。弁当とかどうだ?」

「お弁当?」

「お前、金森くんとしょっちゅうランチしてるだろ?」

「うん」

「だったら金森くんの好物とか、食べられないものとか大体把握してるだろ」

「まぁ、大体」

「んじゃ金森くんが喜ぶ弁当が作れるだろ。ヤツの好物をてんこ盛りにしてやればいい」

「なるほど……」

「薫も初めての俺の弁当喜んでたしな」

「へー……」

 

 死んでる渡部先輩にあるまじき、意外とちゃんとしたアドバイス……その一つ一つをありがたく頭に刻み込みながら、私は金森くんの姿をこっそりと追った。

 

 金森くんは今、りんごのマークの入ったノートパソコンをパチパチと叩いていた。その顔は『友達・金森くん』から、いつの間にか『会社の代表・金森千尋』へと変わっていた。

 

 

 仕事が終わった後、私は近所の雑貨屋さんに足を運んだ。渡部先輩のアドバイス通り、私は明日、金森くんにお弁当を作ることに決めたからだ。

 

 決めたからには、まずは彼のためのお弁当箱を準備しなければ。うちにある男性用のお弁当箱といえば、親父が使っていたタッパーみたいなものしかない。タッパーは別にいいのだが、親父がかつて使っていたお弁当箱を金森くんにあてがうのが、どうにも納得がいかない。考えた結果、私は新しく彼用のお弁当箱を買うことにした。

 

 帰り際、金森くんに『雑貨屋さんに行くなら僕も付き合う』と言われたのだが、それは断った。だって、彼に渡すお弁当箱を彼の前で買うのは、誰だって嫌なはずだ。

 

 私が断ると、彼は妙に意気消沈して、しょんぼり家路についていた。すまん金森くん……明日埋め合わせはするから。しかし、たったそれだけであんなにがっくりと肩を落とすとは……。

 

 私が来たこの雑貨屋さんは、オシャレな台所用品や掃除用具だけでなく、安価なアクセサリーや収納、おもちゃや海外のお菓子など、品揃えが幅広い。そのお店の展示品を眺めながら、私はお弁当箱が置いてある一画を探す。

 

 途中、オイルライターが並べられている売り場を見つけた。色々な種類の柄のオイルライターに混ざって、ひときわ大きくてまるっこい、銀色のものが妙に私の目を引き、それを私は手にとった。

 

「……あ、これ」

 

 それには黄色の小さな手書きのポップが貼られていた。ポップには『ハンディウォーマー』『寒い日もポカポカ! おすすめです!!』と書かれていた。

 

――ハンディウォーマー。ライターオイルで温めて使うカイロ

 

 大晦日の日のことを思い出し、少しだけ顔が熱くなった。金森くんのポケット、暖かかったなぁ……今私の手の内にあるハンディウォーマーは金森くんのそれと違ってひんやりと冷たいが、その冷たさが妙に心地よい。

 

 そうして店内をうろつくこと数分。目当てのお弁当箱売り場を見つけた。……しかし、その種類の豊富さに圧倒される。その中から、私は金森くんにぴったりなお弁当箱を見つけなければならない。

 

 最初に、真っ黒で寸胴の電気ケトルのような、保温タイプのお弁当箱を手にとった。これなら作ったお弁当を温かいまま食べることが出来るし、お味噌汁やスープだって持っていくことも出来る。機能的といえば機能的だが……なんだかゴツくてかわいくない。

 

 それに……

 

――あづぅうッ!?

 

 ……うん。なんだか金森くんには、熱いお弁当を持って行きたくない。彼は喜んで食べるだろうけど、口に入れた途端に悲鳴を上げて舌をやけどする姿が、目に浮かぶようだ。

 

 少し変化球で攻めてみるか? 次に目についたのは、木製の真四角の折箱。これがイイものなのかどうかはさっぱりわからないが、大きさも私の手の平より二回りぐらい大きくて、そんなに悪くない感じ。仕切りもたくさんついているから、配置にも色々と気を配れそう。

 

 ……だけどなー。これじゃあなんだか仕出しのお弁当みたいで、大げさというか何というか……第一、なんだかかわいくない。

 

 だったらいっその事、使い捨ての紙製のものにするか? 次に私の目についたのは、紙で出来た折りたたみのお弁当箱。使い終わったらそのまま捨てられるタイプで、これなら帰りに会社に捨てていけば荷物にならないし、色や柄も豊富だ。

 

 ……だけど、どうしても使い捨ては買う気にならない。多少値が張っても、金森くんには、くり返し使えるお弁当箱を持っていきたい。

 

 中々決まらない。どれもこれも決定打に欠ける……そう思いながら、プラスチックで出来た灰色のお弁当箱を私は手にとった。

 

 そのお弁当箱は実にオーソドックスだ。形は長方形で、大きさも私の手の平より少し大きいぐらいでちょうどいい。赤のアクセントが入った蓋には、箸を収納する箸入れもついている。中を開けてみたら箸も入っているから、これを買えば箸と箸箱を買わずに済む。

 

 そのそばには、もう一回りだけ小さいお弁当箱もあった。大きさこそ一回りほど小さいが、形も材質も、真っ赤なアクセントも何もかも同じ。私が手にとっているものをそのまま小さくしたような、そんなお弁当箱だ。

 

「……よしっ」

 

 決めた。私はこの2つを買う。大きい方を金森くん用にして、小さい方は自分用だ。本当は私と金森くんはほぼほぼ同じ量を毎日ランチで食べているから、まったく同じ大きさのものでも構わないんだけど……そこは女の子としてのプライドもある。彼より少し小さめにしておこう。まったく……私がこの体格の割によく食べるのか、それとも金森くんが男であの体格の割に少食なのか……疑問が尽きない。

 

 そのお弁当箱2つをレジに持っていき、お会計を済ませ、私は家路につく。……と言っても、私が今日帰るのは、いつも通りの自分の家ではない。自分の家から10分ほど歩いたところにあるマンションの、三階にある一室だ。

 

 右肩からは仕事用のバッグを下げ、左手にはお弁当箱が入ったビニール袋をぶら下げて、マンションの階段を登る。エレベーターを使ってもいいが、目当ての階数は三階だ。ならエレベーターを待つよりも、階段で直接向かった方が早い。階段を登り……渡り廊下を進んで……目当ての部屋の前に来た。

 

 入り口ドアを眺める。表札には『小塚』の文字が掘られている。そう。ここは愛する小春さんと去年に結婚した、兄貴の家だ。

 

 ドアを眺める。あの、思春期の私の頭を散々悩ませた、トチ狂っているとしか思えない『おっぱい教極東支部』の立て看板はない。兄貴も結婚して真人間になったということか。それとも、さすがに公にはしないものの、今でもあの変態性は持ち合わせているのか……それは、この入口からはわからない。

 

 でも今回、私が用があるのは、あの元変態兄貴ではない。私はピンポンを鳴らし、インターホンから返事がするのを待った。

 

『……はい。どなたですか?』

 

 とても穏やかで、インターホン越しに春風を感じるような、優しい声が周囲に響いた。そう。私が用があるのは、兄貴ではなく小春さんだ。

 

「小春さん? 真琴です」

「ぁあ真琴さん! ちょっと待ってくださいねー?」

 

 インターホンの向こう側の小春さんは実に嬉しそう声でそう言うと、インターホンを切った。程なくしてドアの鍵がガチャリと開き……

 

「いらっしゃい真琴さん!」

 

 その向こう側から、小春さんが満面の笑みとうるうるした瞳で出迎えてくれた。相変わらずピンク色のエプロンとふんわりとしたロングスカートがよく似合う。薫お姉さまと同じぐらい、可憐でキレイな人だ。

 

「えっと……突然ごめんなさい小春さん」

「真琴さんならいつでも大歓迎ですよ? で、どうしました?」

「あの……明日、お弁当を持っていきたくて……」

「お弁当ですか?」

「うん……それで、小春さんの力を借りたくて……」

 

 『なんでまた突然?』とでも言おうとしたのだろうか。小春さんは一瞬何かを口にしようとして、すぐに口をつぐんだ。そして私の顔をまっすぐ見てニコリと微笑んだ後、

 

「……分かりました。大好きな妹のお願いですから、お姉ちゃんはがんばります」

 

 と、とてもうれしそうに言ってくれた。華奢な両手で力こぶを作り、それを私にこれ見よがしに見せつけながら。

 

「ありがとう小春さん」

「いいえ。だって……ねぇ」

 

 お礼を言った私に対し、小春さんはくすくすと笑いながら、私の左手を指差す。ぶら下げたビニール袋が透けて、2つのおそろいのお弁当箱がうっすらと見えていた。

 



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勘違いじゃない②

 いつもより1時間早い午前六時。私のスマホのアラームがけたたましく鳴り響き、私は目を覚ました。

 

「んー……ッ!」

 

 布団から上半身だけを起こし、伸びをして周囲を見回した。ここは私の部屋ではなく、兄貴のマンションの客間。昨晩、お弁当の下準備が終わった後で普段は使ってない客間に布団を準備され、私はそこで眠ったことを思い出した。

 

 改めてスマホで時刻を確認する。午前六時。普段よりも1時間早いだけなのに、結構眠い。ここで布団の中にぼふっと飛び込んでしまえば、私はもう1時間眠ることが出来るのだが……

 

「……ふんッ!!!」

 

 意を決し、私は布団から勢いよく飛び起きた。髪に触れ、寝癖があまり酷くないことを確認したところで、部屋の外に出る。

 

「あ、おはようございます!」

 

 廊下に出た。室温は意外と暖かい。それはきっと、今挨拶をしてくれた小春さんが暖房で部屋中を暖めてくれていたからだろう。台所を覗くと、すでにピンクのエプロンをして準備万端という感じの小春さんが、いつものふんわり笑顔で私を見守ってくれていた。

 

「おはよう小春さん」

「はい」

「兄貴は?」

「今日は早く出る必要があるそうで、もう出勤しましたよ?」

「そうなの? 兄貴はやい……」

「まぁそんな日もあります」

 

 その後小春さんに促され、私は顔を洗って歯を磨き、寝癖を整えてパジャマを仕事着に着替えた。これで上にスーツを羽織れば、いつもの出勤時の服装になる。

 

 着替えが終わって台所に向かうと、テーブルの上には赤いエプロンが丁寧にたたまれて置かれていた。

 

「それ使って下さい」

「? いいんですか?」

「以前に私が自分用に買ったんですけど、赤は私よりもむしろ真琴さんだろうなぁと思い直しまして。可愛い妹へのプレゼントです」

「ありがとう小春さん!!」

 

 思いもよらぬお姉さんからのプレゼントに胸を熱くし、私は高鳴る胸を抑えながらそのエプロンを身に着けた。その赤いエプロンはたすき掛けのタイプのもので、着てみると身体にピッタリとフィットするタイプだ。これはふわふわな服を好んで着る小春さんの好みではないだろう。なら、ありがたく使わせてもらおうか。

 

 背中の腰紐をキュッとしばり、私は台所に戻ってきた。

 

「小春さんおまたせ!」

「はい。……似合ってますね。やっぱり小春さんには赤がよく似合う」

「ありがと……」

 

 まったく……姉さんはズルい。こうやって、すぐ私のことを褒めるから……。

 

 台所を見回す。大半の準備は昨日のうちに終わらせたので、今日やることは少ない。プロッコリーを茹で、卵焼きを焼き、巻いておいたアスパラベーコンを焼き、そして……

 

――大好物です! フライ全般好きですけど、クリームコロッケが一番好きですね

 

 昨日のうちに整形しパン粉をつけておいたクリームコロッケを揚げるだけた。

 

「じゃあやりましょっか。私はブロッコリーを茹でますから、真琴さんはクリームコロッケを揚げて下さい」

「私でも出来るかなぁ……」

「大丈夫。私が隣でちゃんと見張ってますから」

「お願いしますね?」

「任せて下さい。でも、真琴さんが作らなきゃダメですからね?」

 

 こうして、金森くんへのお礼を兼ねた、私と小春さんのお弁当作りが始まった。小春さん、頼りにしてます!!

 

 小春さんがブロッコリーを茹でるべく雪平鍋に湯を沸かしているうちに、私は天ぷら鍋に菜種油を注いで火を入れ、コロッケを揚げる準備に取り掛かった。

 

 油を温めている間に、冷蔵庫からクリームコロッケの種を取り出す。金属のバットの上に規則正しく並べられた10個のクリームコロッケは、昨日のうちに整形しておいたものだ。

 

「火は見ておきますから、パン粉も出しておいて下さい」

「なんで?」

「油の温度を見るんです」

「はーい」

 

 小春さんに促され、パン粉が入った筒状のガラス容器も冷蔵庫から出しておいた。小春さんの様子を見ると、沸騰したお湯にブロッコリーを投入しつつ、天ぷら鍋の火も見ている。

 

「小春さんありがとう! コロッケ出したよ」

「ありがとうございます。そしたら一度、パン粉をひとつまみ油に落としてみて下さい」

「はーい」

 

 ガラス容器の中からパン粉をひとつまみ取り、油の中へと入れてみた。パン粉は細かい泡を立て、全体に広がっていった。

 

「……そろそろですね。2つずつぐらい揚げていきましょ」

「はーい」

 

 小春さんに言われた通り、コロッケの種を見るのに2つ、鍋の油の中へと入れた。シュワシュワと心地いい音を立て、クリームコロッケが揚がっていく。本当は菜箸でひっくり返したりしたいが、小春さんが言うにはあまりいじってはいけなかったような……これも美味しいクリームコロッケのためだ。我慢、我慢……。

 

 そうやって、私がコロッケをひっくり返したい衝動と戦っていたら……である。

 

「ぷぷっ……」

「? 小春さん?」

 

 プロッコリーを茹で終わり、それをザルに開けた小春さんが、私を見てぷぷぷと笑っていた。ほくそ笑んでいると言ってもいい笑みだが、不思議と小春さんがそれをやると、どこかお茶目で可愛らしい。

 

「……今日はなんでまた、突然お弁当を作りたいと思ったんですか?」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべ、小春さんが私の顔を覗き込んできた。私はほんのり色づいてきたコロッケを菜箸でひっくり返しつつ、そんな小春さんの顔を見つめる。

 

「なんか、同僚の方に作ってあげたいって言ってましたけど」

 

 そう。本当のことを言うのがなんだか恥ずかしくて、私は昨日、小春さんに『同僚に作ってあげたい』と言って誤魔化した。でも、小春さんにはお見通しなんだろうなぁ。今開けてある2つのお弁当、確実に大きさ違うし……

 

――はい。有能で頼りになるし、私と仲良くしてくれる……私の自慢の同僚です

 

「はい……同僚、です……」

 

 なんとかもう一度、同僚であることを強調したのだが……小春さんは『ふうん』と意外とそっけない返事をし、アスパラベーコンを冷蔵庫から出すと、私の隣のガスコンロにフライパンを置いて火をつけた。私は私で、コロッケをジッと見る。焦げないように、でもきつね色にこんがり揚がるように……

 

「……」

「……」

「好きなんですか?」

「ばッ!?」

「鍋から目を離さないで」

「ご、ごめんなさい……」

「……で、好きなんですか?」

「こ、小春さ……!?」

「ほら焦げますよ?」

 

 口を押さえてぷぷぷと笑う小春さんに促され、私は慌てて油の中のクリームコロッケを取り出した。取り出す時は最後に少しだけ油に浸して、そして出す。確か昨日、そんなことを小春さんが言っていたような……でも手が震える……小春さんが突然変なことを言い出すから……

 

 でも、小春さんはなんで突然そんなことを聞いてくるんだろう……? 私は新しいクリームコロッケの種を2つ、油の中に入れた。途端にシュワァァアアアと揚がる音が鳴り響き、油の中でコロッケがぷかぷかと浮かび始めた。

 

 一方の小春さんも、フライパンが充分に熱くなったようだ。アスパラベーコンを3つ、フライパンで焼き始める。

 

「だってほら、大晦日の日に振り袖着て行ったじゃないですか」

「はい……」

 

 思い出す……薫お姉さまに、きれいになった私を見て欲しくて……でもそれが、ダメになってしまって……金森くんと二人で……。

 

「あれって、好きな人にキレイな自分を見て欲しいからだろうなーって思って」

「はい……まぁ……」

 

 間違ってはいない。間違ってはいないんだけれど……。

 

――振り袖もかすみ草もよく似合ってる。素敵だ

 

 でも、金森くんはそんな私をキレイだと言ってくれて……小春さんが挿してくれたかすみ草も、似合ってるって言ってくれて。

 

 一向に白状しない私を見て、小春さんは何かを察したようにニコリと笑う。コロッケの色が少しずつきつね色に変わり、私はコロッケを裏返す。小春さんのアスパラベーコンも、いい感じに焼き上がってきたみたいだ。

 

 アスパラベーコンの焼け具合をジッと見つめる小春さんは、とても楽しそうだ。

 

「ねぇ真琴さん?」

「はい……」

「誰に作ってるんですか?」

「えっと……だから同僚、です……」

「同僚ですか」

「はい……」

 

 そう。金森くんは同僚です。同僚のはずなんです。

 

「でも真琴さん?」

「なんですか?」

「その人に『美味しいって言って欲しいなー』て思ってます?」

「そりゃ、まぁ」

 

――んーおいし……

 

 反射的に、喫茶店ちょもらんまで美味しそうにクリームコロッケを食べる金森くんを思い出した。もし私のお弁当を食べて、あんな風に美味しいと言ってくれたら……

 

「いやありえない! 私は……!!」

 

 即座に私は首を振る。そうだ。この気持ちはきっと私自身の勘違い。あのクリスマスの日の夢から続く、私の小さな勘違いなんだ。きっとそうだ。そのはずなんだ。

 

 私は、守ってくれたお礼に作っているんだ。一色さんからずっと私を守ってくれていたから、そのお礼に今、彼が好きなクリームコロッケを揚げているんだ。

 

 でも……

 

「でも真琴さん」

「はい?」

「その人が喜ぶ顔が見たくて、お弁当作ってるんですよね?」

「はい……」

「その人、クリームコロッケが好きですか?」

「はい……」

「今もこうやって話をしてて、その人の顔、思い出します?」

 

――次からは、ちゃんと行き先の天気も確認するんだよ?

 

「うん……」

 

 畳み掛けるような小春さんの質問は、容赦がない。アスパラベーコンを焼きながらだからだろうか。こちらへの一切の配慮のない質問が、私に襲いかかってくる。そして……

 

――よかった。流されちゃうから、気をつけて

――大丈夫。離さないから

 

 そんな質問は私の頭の中に、いろんな金森くんを思い出させた。

 

「その人が他の人と仲良くしてると、妙にご機嫌ななめになったりします?」

 

――あ……でもせんぱ……そんな野性味溢れるせんぱいも……イイ……ッ!!

――いいんですお姉さま! 私が金森くんの代わりにがんばりますから!!

 

「うん」

「その人、クリームコロッケが大好きですか?」

「うん……」

「その人、頼もしいな〜って思います?

 

――よかった。流されちゃうから、気をつけて

 

「うん……頼もしいと思う……」

「その人の笑顔、見たいと思います?」

 

――小塚さん。……おはよ

 

「うん……見たい」

 

 小春さんが私に質問をポンと投げかける度、私の中で金森くんとの思い出が蘇る。その金森くんを思い出す度……思い出の中の金森くんに見つめられる度、私の胸はドキンとして心地よくて。でも、恥ずかしいから早くあっちを向いて欲しいような……でもずっと私を見ていて欲しいような……

 

 恥ずかしいから、早く頭から振り払いたいような……でも、振り払ったら振り払ったで、また思い出したくなるような……思い出の中でも、笑顔の彼と見つめ合いたいような……

 

 鍋の中に視線を落とす。ひっくり返したクリームコロッケの色はこんがりきつね色。さっきと同じように鍋から取り上げ、私は静かに2つの種を入れた。シュワシュワと音をたてるコロッケは投入したばかりだから、まだまだ色は全体的に白い。

 

 私は小春さんを見た。小春さんはいつもの春風のような爽やかな笑みを浮かべ、鍋ではなく私の顔をジッと見つめていた。

 

「真琴さん?」

「ん?」

「……それはもう、好きなのでは?」

 

 視線を落とし、コロッケをひっくり返した。ほんのりきつね色になりつつあるコロッケの周囲には、シュワシュワと小さな泡がたくさん立っている。

 

 小春さんの笑顔の前で、私は段々『違う』という言葉を発することができなくなってきた。一緒にお弁当を作っていく中で、心の中を小春さんに見透かされてしまったのかな……

 

 ねえ金森くん? どうなんだろうね?

 

 私はね? 薫お姉さまのことが好きなんだ。それは間違いない。

 

 だから私は、この気持ちは勘違いだと思ってるよ? クリスマスのあの日の夜から始まった、小さな小さな、私の勘違い。

 

 でも、その小さな勘違いを抱いた私の胸が、こんなにも心地いいのはどうしてだろう? キミの笑顔を思い出す度、胸が暖かくなるのはどうしてだろう? 仕事中のキミが頭に浮かぶ度、胸が高鳴るのはどうしてだろう? そして……

 

――……そっか

 

 キミが熱を出して私が看病をした日の、キミの寂しそうな返事を思い出す度、こんなにも胸が締め付けられるのは、どうしてだろう? キミの寂しそうな後ろ姿を思い出すたび、その背中を抱きしめたくなるのはどうしてだろう?

 

 ひょっとしたら、この気持ちは……

 

「好き……なのかな……」

 

 再び顔を上げ、小春さんを見た。小春さんは相変わらず、名前通りの暖かい微笑みを浮かべ、私をジッと見つめていた。

 

「分からないけど……多分」

「そっか……」

 

 

 最後の2つのコロッケを揚げ終わった後、小春さんから促され、私は卵焼きも自分で焼いた。私が慣れ親しんだ卵焼き。出汁と塩と醤油に、少しだけみりんを入れて甘みをつけた、私が小さい頃からずっと食べていた卵焼き。キミはこれを食べた時、なんて言ってくれるだろう。キミは美味しいと言ってくれるかな。

 

 卵焼きがふわふわに焼けたら、お弁当箱へそれらを並べる。大きい方はキミのお弁当で、小さい方は私のものだ。ご飯をよそい、クリームコロッケと卵焼き、そして小春さんが手伝ってくれたブロッコリーとアスパラベーコンを並べていく。彩りよくお弁当箱に並べていき、最後に小春さんがくれたプチトマトを入れれば、キミへのお礼のお弁当は完成だ。

 

 あとは充分に冷えるまで待つばかり。私はエプロンを外しスーツのジャケットを羽織って、いつもの出勤時間が来るまで、居間で一休みすることにした。

 

 居間をぐるっと見回す。やはり以前のような、事故物件としか思えない立て看板はない。結婚したことで多少は兄貴も落ち着いたのか……それともまさか寝室にあったりするのか……キリが無くなりそうなので、余計な詮索はその辺でやめておいた。

 

「はい。お疲れ様でした」

 

 ソファに座り、のんびりとテレビを眺めている私に、小春さんが暖かいミルクを入れてくれた。ミルクが入ったマグカップを小春さんから受け取る。カップはとても熱くて、ミルクの温度がけっこう高いことを、私の手を介して伝えてくれる。

 

――あっつ!?

 

 これだけ熱いと、キミはしばらく飲めないだろうね。だって認めないだけで、キミはきっと猫舌だから。

 

 ほら。またすぐにキミのこと考えてる。

 

 時計を見た。時刻はまだ7時前。お弁当に目をやると、2つのお弁当からはまだ湯気がたっている。もうしばらくあのまま置いておいて、冷まさなきゃいけない。

 

 小春さんを見ると、小春さんもマグカップで静かに暖かい飲み物を口にしている。さっきから紅茶のいいにおいがするから、小春さんは紅茶を飲んでいるのかな。私にミルクを準備してくれたし、ひょっとしたらミルクティーなのかも。静かにマグカップを口にする小春さんは、とても穏やかな笑顔で、マグカップを両手で抱えている。

 

 窓の外に目をやると、今日は目が醒めるほどの晴天。真っ青な空には、小さくて真っ白い雲が、いくつかぷかぷかと浮かんでいる。

 

「いい天気ですね真琴さん」

「うん」

 

 そう。今日はなんだかいい天気。仕事するのがもったいないと感じてしまうほどだ。今だけは渡部先輩の気持ちも分かる。せっかくお弁当作ったし、こんなに天気がいいのなら、仕事なんてせずにピクニックにでも行きたいけれど。

 

――話のメモをお願い。iPad使っていいから

 

 そうすると、仕事をしているキミの姿は見られないわけで……私は、仕事中のキミも見つめていたいわけで。

 

 振り返り、台所のお弁当を見た。湯気がだいぶ少なくなってきた。あともう少しすれば、お弁当の蓋も閉じることが出来る。

 

「もう少しですね」

「うん」

 

 時計を見ると、7時を少し過ぎた頃。もうそろそろ出勤する準備をはじめる時間だ。私は立ち上がりミルクがまだ残っているマグカップを手にとったまま、台所へと足を運ぶ。テーブルの上には、2つのお弁当箱。中身も形も何もかもが同じだけど、大きさだけが違う2つのお弁当箱が、静かに佇んでいた。

 

――ちゃんと握っててね?

――大丈夫。離さないから

 

 その2つのお弁当箱は、仲良く並んで佇んでいた。

 



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勘違いじゃない③

 時刻は12時少し前。いつものように渡部先輩が椅子から立ち上がり、お昼休み突入のお知らせを告げた。

 

「うーい。飯だ飯だー」

 

 それを受けて事務所のみんなが仕事を中断し、おのおのがお昼ご飯の準備に入る。ある人は外の居酒屋にランチに向かい、ある人は外の公園で食べるためにコンビニにお弁当を買いに行ったり……

 

「先輩、お昼食べましょ」

「おう」

 

 薫お姉さまと渡部先輩はいつものように、二人で仲良くお弁当を食べるべく、窓際のお日様の光がよく当たる席に移動したり……みな、思い思いにお昼休みを過ごすべく、席から移動する。

 

「お二人は今日も正嗣先輩のお弁当ですか」

「当たり前だ」

「先輩の卵焼きは毎日この時間に食べることに、意味があるのです」

「なるほど……ご夫婦の仲は健在ですね……羨ましいです……」

「むふー……」

「お前ら毎度毎度同じやりとりして、いい加減飽きないのか」

「ハッハッハッ……いつかは……やがていつかはと思っているんですよ正嗣さん……」

「さん付けするな」

 

 金森くんもいつものようにご夫妻に茶々を入れ、いつもの通りメランコリックな笑顔を浮かべていた。私の目にうつる彼の幻の犬耳もしっぽも、元気なくうなだれて見える。気を抜くと『くぅ〜ん……』と切ない声をあげるいじけた子犬のようにも見えて、カワイイやらおかしいやら……。

 

 私はチラと自分の荷物を見た。机の上に置いてある、少し小さめのキャンパス地のトートバッグの中には……

 

 渡部先輩へちょっかいを出した傷心の金森くんが、ちょっとだけ沈んだ顔で私の元へとてくてく歩いてやって来る。いつものように、私をランチへ誘うつもりなのだろう。でも金森くん。そんなに意気消沈していると、誘える人も誘えないぞ、と余計な老婆心を働かせてしまいそうになる。

 

「……小塚さん」

 

 私の目の前にきた金森くんが、力なくニヘラと笑った。

 

「いつもの喫茶店、行こっか」

「んーん。行かない」

「え……」

 

 それに対して即答で拒否を返す私。最近はもうずっと二人でランチを食べていたから、まさか断られるとは思ってなかったのだろうか。金森くんはちょっとうろたえ、目をパチクリさせていた。その目は、少しだけ寂しそうに見えた。

 

「じゃあ、他のとこにする?」

「今日はどこにも行かない」

 

 私はトートバックから2つの包みを出した。一つは真っ赤で小さな包みで、もう一つは少し大きめで青色のもの。それらをごそごそと取り出す私を、金森くんは不思議そうに見つめてる。2つの包みのうち、青いランチクロスに包まれた大きい方を、私は金森くんに差し出した。

 

「はい。一色さんからかばってくれたお礼。今日はお弁当作ってきたよ」

「え……?」

「これは金森くんの分。そのかわり、私のお弁当と同じメニューだけどいい?」

「……」

 

 戸惑ってあっけにとられる金森くんに、私は青い包みのお弁当を差し出す。顔ではできるだけ平静を装う私だが、実際、心臓はバクバクだ。差し出す手が震えてしまわないよう、私は両手でお弁当をもち、そして差し出している。

 

「……」

「……」

 

 う……なんだろうこの間は……早く受け取って欲しいんだけど……

 

「えっと、金森くん……」

「……」

「手が、辛いんだけど……」

「……んハっ。ご、ごめん」

 

 やっと気がついた金森くんは、しずしずと私のお弁当へと両手を差し出し、そして受け取った。その時、私と彼の指先が、ほんの少しだけ触れた。

 

「あの、こ、小塚さん……」

「ん?」

「えっと……ありがと……」

 

 言葉だけを聞けば、ずいぶんとそっけない返事だ。嬉しいのか迷惑なのか、声を聞いただけではわからない。何の感情も籠もってない、抑揚のない無表情なセリフだ。

 

 ……でも、私は分かる。だって彼の顔を見ると真っ赤っ赤だし、なにより……。

 

――パタパタ……

 

 私だけに見えているはずの彼の幻のしっぽが、パタパタと元気よく左右に振られているからだ。

 

「いいよ。私もたまには薫お姉さまと食べたいし、金森くんも渡部先輩と一緒に食べたいときあるでしょ?」

「う、うん……」

「だから今日は、お姉さまたちと一緒に食べよ?」

「……!」

 

 金森くんの口の端っこが、少しだけ上に上がった。本当はポーカーフェイスでいたいけど喜びが我慢できず、ついニカッと笑ってしまったような、そんな印象を私に伝えた。

 

 私は窓際の席に座る薫お姉さまと渡部先輩を振り返る。お二人はお日様がよく当たる席に座り、すでにランチョンマットを広げてお弁当箱を開けていた。ここからだとお弁当の中身までは見えないけれど、卵焼きの姿だけは確認できた。

 

「お姉さま! 今日は私たちもご一緒していいですか?」

「いいですよ?」

「おっ。弁当作ったのか小娘!」

「はい!」

「じゃあ小塚ちゃん、こちらへどうぞ」

「わーいお姉さまの隣だ!」

 

 私は金森くんを気にしないふりをして、薫お姉さまがぽんぽんと叩く隣の席へと足を運ぶ。この席もお日様の光がよくあたって、とてもあたたかそうだ。

 

「じゃあ、金森くんは俺の隣か……?」

 

 ポソリとつぶやかれた渡部先輩のこの言葉は、呆気にとられ続けていた金森くんの意識を覚醒させた。

 

「いいんですか正嗣先輩!? 僕が先輩の隣の席に座っても!!」

 

 彼にいつもの調子が戻った。100万ドルの笑顔で、突然ペンギンのようにちょこまか動き出した。膝から下だけで私達の周囲をちょこまかと動き回った後は、私達の顰蹙を気にせず、満面の笑顔で渡部先輩の隣へと座る。

 

「うーし。じゃあ食うぞー」

 

 そんな金森くんに顰蹙の眼差しを向けていた渡部先輩は、気を持ち直して自分のお弁当に箸をつけた。薫お姉さまもそれにならい、私の隣で小さく『いただきます』と口にした後、大好物らしい卵焼きに箸をつけていた。

 

「じゃあ……小塚さん」

「んー?」

「いただきますっ!!」

「はいどうぞー」

 

 一方で、私と向かいに座る金森くんも、ランチクロスを開いてお弁当箱を開ける。一瞬、同じお弁当箱を使っていることがバレるかとドキドキしたが、そこまでは気がついてないみたい。んー……ホッとしたような、ちょっと残念なような。

 

 お弁当の蓋を開けた金森くんの第一声は、作った側の私としては中々にうれしい言葉だった。

 

「うわぁ……」

「ん? どしたの?」

「すごく美味しそう……」

 

 渡部先輩も私のお弁当の中身を覗き込み、『……やるな小娘』と一言ボソッとぼやいている。

 

 私も、自分のお弁当の蓋を開けた。中にあるのは、ご飯とゆでたブロッコリー。卵焼きに小春さんのアスパラベーコン。そして……

 

「これ、クリームコロッケ?」

「うん。金森くん好きだったでしょ? だから」

「ありがとう!!」

 

 彼が大好きな、クリームコロッケだ。

 

 

 そこからのランチはとても楽しかった。私の隣でお弁当を食べ進める薫お姉さまは、時々私のお弁当を覗き込み……

 

「もっきゅもっきゅ……こふふぁふぁん」

「はい? どうしました?」

「ごぎゅっ……卵焼き、ちょっと交換しませんか?」

 

 と話しかけてきてくれた。いつもの無愛想な顔だから社交辞令で言っているのかなと最初は思ったけれど、お姉さまの鼻は少しだけプクッと膨らんでいる。私の卵焼きがホントに気になってるのかな?

 

「いいですよ? どうぞ!」

「ではいただきます」

 

 私は頷き、そして互いのお弁当の卵焼きを取り合った。渡部先輩の卵焼きは今日はだし巻きのようだ。私のものと違って、甘みは一切つけてない。そっか。これが薫お姉さまを虜にした味か……と妙に胸が熱くなった。

 

 一方の薫お姉さまはというと……

 

「もっきゅもっきゅ……」

「お姉さま? 私の卵焼き、どうですか?」

「もっきゅ……ごぎゅっ……ふぃー……」

「お姉さま?」

「先輩の卵焼きには負けますが……小塚ちゃんのも中々です」

 

 と、中々の高評価をしてれた。途端に私の顔はニタァアアとキモい笑みを浮かべ、薫お姉さまの隣りで化け物の含み笑いのような声をあげてしまった。

 

「ぐふふふふふふ……お姉さまぁ……ありがと……デュフフフフ……」

 

 一方で、渡部先輩はそれが気に入らなかったらしい。

 

「馬鹿な薫ッ!? 俺のものに小娘の卵焼きが匹敵するだと!?」

 

 そう言って箸を握りしめて立ち上がり、眉間にシワを思いっきり寄せている。そんな真剣な表情の渡部先輩を見るのははじめてだ。いつもその調子で働いてくれればいいのに。

 

「いや、実際美味しいですよ?」

 

 その隣では、金森くんがもっきゅもっきゅと卵焼きを頬張っている。いつもはそんなことしないのに、今日の金森くんは口の中いっぱいに私の料理を頬張ってるみたい。パンパンに膨らんだほっぺたをもごもごと動かし、渡部先輩にあっけらかんと答えていた。

 

 『馬鹿なッ!?』と渡部先輩は金森くんのお弁当から私の卵焼きを強奪し、口に放り込む。そして暫くの間咀嚼した後……

 

「うッ……!?」

「? 渡部先輩?」

「馬鹿な……この卵焼きを、小娘が作っただと……!?」

 

 と今まで見たこと無いような困惑の表情を浮かべ、渡部先輩は頭を抱え始めた。何だこの人。仕事中はいつも死んでるのに、お昼ご飯のときってこんなに生き生きしてるのか。だったら仕事中ももっと生き生きすればいいのに。

 

 そうやって私が渡部先輩に気を取られていたら、今度は薫お姉さまが私のお弁当にちょっかいを出す。さっきも食べたはずなのに、お姉さまは再び私の卵焼きを強奪し、口の中に放り込んでもぐもぐと味わっていた。無愛想な顔のまま口をもごもごと動かす薫お姉さまは、それだけで中々に迫力がある。ほっぺた赤いけど。鼻ぷくって膨らんでるけど。

 

「もっきゅもっきゅ……中々です。これは好きな味付けです。もっきゅもっきゅ……」

「ニヒヒヒヒヒヒぃ〜……ありがとうございます〜……!!」

「キモいぞ小娘……」

「小塚ちゃんも私のお弁当から好きなの取っていいですからね?」

「はいっ!」

 

 薫お姉さまからお許しももらえたし、私はお姉さまのお弁当のおかずの中から一つ、気になっていたきつね色の春巻きをいただくことにした。お箸で春巻きをひょいっと取って、それを自分のお弁当箱へと入れる。

 

 その時、金森くんの様子が目に入った。

 

「……」

 

 金森くんは、箸で持った私のクリームコロッケを、ジッと眺めている。

 

 私は、そんな金森くんの様子が気になった。

 

「……金森くん?」

「ん?」

「いや、なんかジーッと見てたから」

「うん」

 

 ひょっとして、何か失敗してたか? 焦げたり破裂したりはしてないはずだけど……緊張する。一番食べてほしかったクリームコロッケをジッと見つめる金森くんの眼差しは、なんだかとても真剣だ。

 

「……じゃあ小塚さん」

「うん」

「いただきますっ」

「はい。召し上がれー」

 

 改めて、私に仰々しい断りを入れ、金森くんは私のクリームコロッケを、一口ですべて口の中へと入れてしまった。

 

「んー……」

 

 暫くの間目を閉じ、じっくりとクリームコロッケを味わっていた金森くんは、次の瞬間、カッと目を見開いて、そして……

 

「美味しい……美味しい! 小塚さん! すごく美味しい!!」

 

 とほっぺたを赤く染め、満面の笑みを私に向けた。彼の頭の上に見える犬耳がピコッと立ち上がり、ケツのあたりに見える彼のしっぽが、元気よく盛大にふりふりしはじめたのが、私の目にはハッキリと映った。

 

「よかった。金森くん、コロッケをジッと見てたから緊張したよ」

「いや美味しい! ホントに美味しい!!」

 

 そう言って、私の前で無邪気に笑う金森くん。その笑顔は屈託がなくて、純粋で人懐っこい。まるで大喜びな子犬が私にかまって欲しくて、私の足元でちょこまかとはしゃいでいるようにも感じる。子犬というには、身長184センチはいささか大きすぎる気もするけれど。

 

 そんな金森くんの無邪気な笑顔は、私の胸に安堵と心地よいドキドキを届けてくれた。

 

 金森くんが、喜んでくれた。私のクリームコロッケを食べて、『美味しい』と言ってくれた……

 

「ふふっ……」

「小塚さん?」

「なんでもないよ」

 

 うれしい。渡部先輩が悔しがったときよりも、薫お姉さまから『中々です』と言われたときよりも、何よりもうれしい。彼の笑顔と『美味しい』が、こんなにうれしいとは思わなかった。

 

 作る時は『美味しいって思ってくれるといいな』って、少しだけ期待していたけれど。だけど、彼の笑顔から発せられた『美味しい』という言葉が、こんなにも胸に響く言葉だとは思わなかった。こんなにも耳に心地よい音だとは思わなかった。

 

「ふふっ……」

「小塚ちゃん、上機嫌ですね?」

「そうですか?」

「私もクリームコロッケいいですか? 代わりに先輩自慢の春巻きをも一つどうぞ」

「はい! どうぞお姉さま!!」

 

 薫お姉さまもクリームコロッケが気になったみたい。薫お姉さまは私のお弁当箱から、さっきの卵焼きと同様に、クリームコロッケを一つ、拝借していった。

 

「おい金森くん! 俺にも食わせろ!! 小娘のクリームコロッケを!!!」

 

 渡部先輩も気になったみたい。金森くんにそう詰め寄っていくんだけど……

 

「ダメです!! これは僕のクリームコロッケです!!!」

 

 と、渡部先輩ラブの金森くんにしては珍しく、渡部先輩の命令を拒否していた。これは渡部先輩も予想外だったようで、珍しくうろたえ、そして困惑している。

 

 珍しい……一方の金森くんも、まるで自分のごちそうを奪われそうになっている犬のように、珍しく敵意むき出しの顔で渡部先輩をにらみ、お弁当箱を大事そうにかばっている。顔を見ていると、なんだか『ガルルルルル』と可愛い唸り声が聞こえてきそうな、そんな感じだ。

 

「なんでだよ! 俺にもよこせよ金森くんッ!!」

「嫌だ! これは小塚さんが僕のために作ってくれたクリームコロッケなんですっ!!」

 

 二人の大騒ぎでみんな気が付かなかっただろうけど、このセリフを聞いた時、私の顔は火にかけてちんちんになったやかんのように真っ赤になっていた。

 

 そうやって私の頭が瞬間湯沸器にかかって沸騰している間も、金森くんと渡部先輩の果てしなくしょぼい争いは続く。二人は椅子から立ち上がり……しかし金森くんはお弁当箱を左手に持ったまま……お互いに相手の目を見て、二人でガルガルと唸り合っている。なんだこれ。二人とも大の大人なのに。

 

「そんなん卵焼きもそうだろ!! なんで卵焼きはOKでコロッケはダメなんだッ!?」

「絶対にダメです!! このクリームコロッケは僕が全部食べますッ!!!」

「おのれ金森……ッ! 先輩に楯突くというのか……ッ!?」

「僕のクリームコロッケを奪うというなら、いくら正嗣さんでも……ッ!!!」

 

 そして、そんなアホな野郎ども二人を眺める私と薫お姉さま。二人を見る薫お姉さまの表情はいつもの無愛想な顔だけど、鼻はピクピク動いてる。言い争う二人の様子が、楽しくて仕方がないらしい。

 

「タハハ……」

 

 私は、苦笑いを浮かべる。野郎ども二人が私のクリームコロッケを奪い合うという何ともシュールな光景を前に、私はこの表情以外を浮かべることが出来ない。

 

 でも。

 

――このクリームコロッケは僕が全部食べますッ!!!

 

 ああやって、金森くんが私のクリームコロッケを渡部先輩の魔の手から守ろうとしてくれている事自体は、とてもうれしいかな。すごくシュールな光景だけど。

 

 その後、へそを曲げた渡部先輩に薫お姉さまが『私がもらったクリームコロッケを二人で分けましょ』といい、渡部先輩もそれに素直に従っていた。食べてすぐに『うまっ』と上機嫌になっていたから、あの人は単純なのかもしれない。美味しいものを食べればすぐ上機嫌になるのか。

 

 そしてその傍らでは、金森くんがずっと笑顔でクリームコロッケを堪能していた。彼のお弁当箱にはコロッケを3つ入れたが、その2つ目はニコニコと上機嫌な笑顔で。3つ目は、これで最後だということを覚悟した、ちょっとさみしげな笑顔だった。

 

 

 こうして、私達四人の楽しいランチの時間は終わった。野郎ども二人のせいで途中はかなりの大騒ぎをしてしまったが、それでも、とても楽しいランチだった。

 

 私は食べ終わった後のお弁当箱を、今のうちに給湯室で洗っておくことにした。そうすれば、家に帰ったあとそのまま片付ける事ができる。渡部先輩は家で洗いたいらしい。給湯室よりも自宅の台所の方が勝手がわかってる分、効率がいいそうだ。

 

「金森くん」

「ん?」

「お弁当箱ちょうだい。洗うから」

「……ぁあ」

 

 まだ食べ終わったばかりの金森くんから、お弁当箱を回収するべく彼のそばに来た。彼は私に力が抜けた笑顔をニヘラと見せる。彼のお弁当箱を覗くと、中は見事に空っぽ。元から何もなかったんじゃないかと思えるほど、キレイにすっからかんだ。

 

「はい。ありがと」

 

 お礼を言いながら彼の顔を見る。口の右端にクリームコロッケのパン粉が、ほんの少しだけくっついていた。どうして彼は、いつも口元に何かをつけてしまうのか。これじゃあホントに五歳児だよ金森くん……。

 

「金森くん、パン粉ついてる」

「ん……どこ……?」

 

 私が指摘すると、金森くんは目を右上あたりに向け、親指でパン粉を拭き取ろうとするのだが……パン粉は右端についているのに、彼は必死に左端を探っている。右上を見ながら拭くから、分からないのではなかろうか……なんだか今日は、金森くんのいろんな顔を見られるなぁ。

 

「違う逆」

「んー?」

「そそ、そっち」

「あ……んー……」

 

 そうしてパン粉を吹き終わった金森くんはその親指をぺろりとなめていた。今日の金森くんは、普段よりも幼く見えて仕方ない。いつも穏やかで優しくて、私に気を使うのが金森くんなのに……なんだか今日は、私に対しても子犬みたいにはしゃいでるように見える。

 

 口元からパン粉が取れた金森くんが、私の顔を見てニパッと笑った。

 

「小塚さん。ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした。美味しかった?」

 

 そんなありきたりの会話を交わし、私は彼からお弁当箱を受け取った。蓋が閉じられたそれは、ランチ前のお弁当箱と見た目は変わらない。だけど、驚くほど軽くなったその重みは、彼が私のお弁当を『美味しい』と感じ、全て平らげてくれたことを私の両手に伝えてくれる。

 

 金森くんは私の言葉に興奮気味に答えてくれた。彼のほっぺたが赤いのは、私の気のせいではないんだろうなぁ……。

 

「美味しかった! 特にクリームコロッケ……今まで食べてきたクリームコロッケの中で、今日のやつが一番美味しかった!!」

「冷めてたから食べやすかったでしょ」

「うん。出来たてを食べるときって、アツアツだから苦労するんだよね……」

「金森くん、猫舌なんじゃないの〜?」

「そうじゃないと思うんだけどなぁ」

 

 私の『猫舌では?』という指摘には、口を尖らせ、不服そうに上を向く金森くん。いや、キミはやっぱり猫舌だよ。私が保証する。キミは猫舌だ。

 

 でも心配しなくていいよ。私が作る時は、キミにアツアツのものは作らない。熱い料理も、ほどほどの熱さで作ってあげるよ。だから心配はしないで。次も安心して任せて。

 

「ところで小塚さん」

「ん?」

 

 でもその時、金森くんも私と同じことを考えていたらしい。

 

「よかったら、また作ってくれるかな。小塚さんのお弁当、また食べたい」

 

 屈託のない笑顔でそういう金森くん。でもほっぺたがまっかっかだ。

 

 一方で、その時私は胸のドキドキが抑えられないでいた。彼とまったく同じことを考え、そして改めて彼から次をお願いされた。いけない。途端に私の顔も真っ赤っ赤になってしまう。私は後ろを振り返ってうつむき、彼に顔を見られないようにした。

 

「? 小塚さん?」

 

 やめてくれ。そんなきょとんとした声で、私の様子を伺わないでくれ。そんな声を出さないでくれ。

 

「……わかった。また薫お姉さまに食べて欲しくなったときに、ついでに作るねー」

 

 苦し紛れに出た強がり。金森くんに背を向けたまま、できるだけ背筋を伸ばして顔を前に向け、いつものようにお腹から声を出す。うつむいたままでは、金森くんの耳に私の声は届かないかもしれないから。

 

「ありがと! また小塚さんの弁当が食べられる!」

「……ッ」

「また楽しみにしてる! 僕も何かお礼を考えておくから!」

「……わかったからっ! ほら、私洗い物するから!」

 

 彼はいつもの調子で喜んだ後、てくてくと歩いて事務所に戻っていった。

 

 私は振り向けない。本当は彼の背中を見送りたかったけれど、今振り返ってしまうと、顔を見られてしまうかもしれないから。

 

 程なくして『正嗣先輩! 食後に僕と運動しに行きませんか!?』『私の前で旦那をナンパするのはやめなさい』『運動はすかんっ』と三人の声が聞こえた。三人の声の調子はいつも通りだ。薫お姉さまは冷静で淡々としてるし、渡部先輩はいつも通り呆れてる。金森くんもいつも通りはしゃいでいて、渡部先輩の前でちょこまかと動き回るペンギンのような彼の姿が、目に浮かぶようだ。

 

 そんな三人のいつも通りの声を背中に、私は私のものと金森くんのもの……2つのお弁当箱をその場で強く抱きしめていた。

 

「……ッ」

 

 少しだけうつむく。自分でも分かる。顔がさっきよりも真っ赤になってる。だってすごく顔が熱いから。胸が、痛いほどドキドキしているから。

 

 お弁当箱がきしむキシッという音が聞こえた。箱の中のお箸がカラカラと鳴り、金森くんがお箸も忘れずにしまっていることが分かった。

 

「……ハハ」

 

 口から、苦笑いに似た声が出る。胸のドキドキが収まらない。だけどポカポカと心地いい。視界が滲んでいるから、少しだけ涙がたまってるみたい。悲しいことなんて何もないのに。

 

「そっかぁ」

 

 身体が少しだけ震えた。足から少しだけ力が抜けた。それが私の胸に訪れた喜びのせいだということは、いくら私でも分かる。金森くんの口から直接言われる『また作ってくれる?』という言葉が、こんなにもうれしい言葉だとは、私自身、予想してなかった。

 

 分かった。

 

「勘違いじゃないんだ……」

 

 そう。この気持ちは、勘違いではないみたいだ。

 

 ねぇ金森くん。困ったね。私は薫お姉さまが好きだったはずなのに。

 

 キミだって、渡部先輩が好きなはずなのにね。そうだよね?

 

「困った……ハハ……」

 

 私は自分と金森くんのお弁当箱を、キュッと強く抱きしめた。次はいつ作ろうか……次は何を作ってあげようか……金森くんの笑顔を思い浮かべるだけで、私の胸に喜びが溢れ、涙目の顔は自然と笑顔になった。

 

 ……やっぱりそうだ。この気持ちは、勘違いなんかじゃない。

 

 ねぇ金森くん。

 

 私は、キミが好きだ。

 

 終わり。

 



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