残響 (狭間有事)
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残響

【注意】
・この作品は「艦隊これくしょん」の二次創作であり、原作ゲーム様とは関係ありません。
・残酷な描写を含みます。
・上記の描写を含みますが、特定のキャラクターを貶めたり侮辱する意図は一切ありません。
・文責はすべて筆者にあります。



 

 何度忘れようとしても、あのすすり泣きは影のように付きまとう。すすり泣きそのものではなく、その途絶える瞬間によって、わたしはそれを忘れられない。

 

 気づくとわたしはあの海原にいる。

 死んでいった彼女たちの血液は赤く赤く水面を染め上げて、それは嗚咽するほど美しい光景だった。あるいはひどく残酷な。残酷なものが美しくあってはならない道理はないのであって、残酷な美しさというその考えは当然わたしの創出ではない。

 胸元から聞こえる呼吸音は苦しげで、ときおり咳き込むような音が混じっていた。抱えた重さにゆっくりと目をやると、紺のセーラーの彼女はひゅーひゅーと苦しそうに呼吸を繋いでいて、ぎらぎらと光る眼でわたしを見つめ返している。彼女の表情に耐えがたい苦悶を見る。確信に似たその妄想は、わたしを捕えて離さない。

 左腕。肘から先がない。左脚。踝から先がない。腹部。深い裂傷、おそらくは内臓に達している。こうしている間にも傷口からはだくだくと温かい体液が溢れ出し、わたしの身体を伝って水面に呑みこまれていく。

 彼女は助かるのか。今のわたしにそれを判断する方法はない。

 片道およそ一時間。普段ならば何ということもない距離が、今は彼方に思われる。

 帰投すべき母港は遠く、死にゆく身体はしかし、あまりに強靭だった。並の人間ならばとうに死んでいるだろう傷を負って、彼女はまだ生きている。まだ生きているということと、手遅れでないということは同義ではなく、それゆえわたしは逡巡する。

 死にたいならば殺そう。生きたいならば賭けよう。彼女の意志を知らぬまま、わたしはそれを憶断しなければならない。

 砲口を向ける。彼女は見つめ返す。その眼に映るわたしの姿を、わたしは決して知ることができない。

「……苦しいかい?」

 彼女の口からはひゅーひゅーと空気の漏れる音がするだけで、問いを認識しているかどうかも定かではない。痙攣する身体は、彼女が耐えがたい苦痛の中にあることを間接的に示唆するだけで必要な証明は与えてくれなかった。彼女が死を望んでいるという証明はどこにもない。あるいは、彼女が助からないという証明もどこにもない。

 この脚には彼女を救いうるかもしれない速力がある。この手には彼女を確実に終わらせうる暴力が握られている。わたしは選択しなくてはならない。可能であるという事実が、どうしようもなく選択を強いてそこから逃れることは決してできない。

 彼女のすすり泣きだけが聞こえていた。溢れる涙は、一面の惨状に不釣り合いなほど美しいく思えた。

 

 わたしは泣かなかった。

 

 真っ赤に染まった海原の果てる所は霞んで見えない。そうしてわたしはこれが現実でないことを思い出す。海はあまりに広く、その表面で行われるささやかな命の取り合いにあの青を犯す力は無論ない。屍からこぼれる血液は、一瞬水面に赤を刻んですぐに散ってしまう。

 何度でもわたしは、同じ選択をする。この海原を、彼女を抱えて駆けたことは一度もなかった。彼女のすすり泣きが、すぐに途絶えることはもう知っている。

 乾いた砲声が二発。あとに残されたのは彼女――時雨だった肉塊と、影のように付きまとうこの光景だけ。すべては終わってしまった後で、わたしだけがこの光景に囚われ続けている。

 

 

 泥を引き剥がすように、時雨だった肉塊が身体を起こす。えぐれた頭蓋からは脳みそがこぼれ落ち、彼女はそれをいとわしげに拭ってわたしに相対した。

「それで今回も、僕は殺されてしまったんだね」

 そうしてまた、時雨だった肉塊は喋りはじめる。

「私は時雨を殺した。でもそれは今ではない。そしてあなたは時雨ではない。あなたは私」

「その通り。響」彼女は笑って、どろどろと皮膚を伝う脳みそをまた拭った。

「僕は君だよ。君の言った通り、時雨は死んだからね。死者はどこにもいないから死者なんだ」

 周囲に人影のあることを知る。あの日の戦いで、死んでいった戦友たちが重い水の底から浮かび上がり、立ち上がってはわたしたちを取り囲む。彼女らは鈍重な足取りで、ワルツでも踊るみたいに海面を滑っている。

「ずいぶんと悪趣味だ。こんなものを見せつけて、どうしようというんだい」

「見せつけているわけじゃないよ。これは君が望んだものだ。望んだから、こうして現れたんだ」

 そうして彼女は軽やかに、くるりと一回転して少し笑った。

「君は答えなければならないよ、響。逃れることはできない。なぜって、僕は君だからね」

 彼女はわたしの顔を覗き込んで、泣きそうな顔を作ってみせる。それは死ぬ間際に時雨が見せたような顔で。醜悪なパロディに、こみ上げる吐き気を抑えるのもやっとだった。

「僕は死にたくなかった」

「私は知らない」

「僕は助けてほしかった」

「私は知らない」

「僕は生きることを諦めてはいなかった」

「私は知らない」

「そう。君は知らない。だからもちろん、時雨が苦しんでいたと、死にたいと思っていたと、それは君の妄想でしかない」

「時雨が何を望んでいたかなんて、知ることはできない。でも、もうぜんぶ終わってしまったんだよ。だから」

「だから?」彼女は口をゆがめて笑った。「知らなかったから、わからなかったからあれは最善だったというわけだ。じゃあ、こういうのはどうかな」

 視線の先には自分の顔があった。わたしではないわたしの、その表情はなぜだかわからない。

「……苦しいかい?」

 それはわたしに問い掛ける。わたしは答えることができない。

 それはわたしに砲口を向ける。わたしは抗うことができない。

 ゆっくりと、それが引鉄に力を込めるのが見えて、わたしは何もできないでいる。視界が暗転する直前、最後に見たそれは、獰猛な表情でニカッと笑ったような気がした。

 

 

 目を覚ました時にはびっしょりと汗をかいていた。何度も繰り返し見たこの光景を、忘れ去ることはきっとできない。

 手に残る嫌な感触を振り払って体を起こした。汗ばんだ寝間着を着替えようと洋服箪笥に手を掛けて、その前に顔を洗おうかと思い直す。

 朝早い宿舎の廊下は閑散として静まり返っていた。古い板張りの床がギシギシと音を立てる。自分が今ここにいることを、そうしてわたしは思い出す。

 身を切るような寒さだった。古い宿舎はそこかしこから隙間風が吹き込んでおり、廊下に備え付けのアルコール式寒暖計は2℃を示していた。寒さに震えながら蛇口をひねり、刃物のような冷水で顔を洗う。顔を拭いて見つめた鏡の中のわたしは虚ろにこちらを睨んでいて、その像は突然輪郭を失う。

 鏡面に彼女の顔が映る。気が付くと洗面器にもたれかかって、鼻をつく吐瀉物をまき散らしていた。声にならない声を上げて、残りをすべて吐いてしまおうとわたしは努める。引いては寄せる吐き気を強引に振り払ってもう一度鏡を睨むと、そこにあるのは憔悴しきった自分の顔だった。

 酷い顔をしているものだと素朴に思った。彼女の眼に、最後に映ったのはこの顔だったかと、その憂鬱を吐瀉物とともに流して捨てる。付きまとう彼女の影は、けれど水で流せる類の呪いではない。

 汚したタオルを始末して、埃っぽい自室に引き返した。洋服箪笥から下着を引っ張り出し、制服のしわをはたいて伸ばす。のろのろとセーラー服に袖を通すと、窓際の机に向かい、私物の棚から引っ張り出してきた文庫本を開く。起床時刻まではまだ間があったが、いまさら寝直す気にはなれなかった。

 ページをパラパラと捲り、目当ての短篇を発見する。そうしてわたしは文字の中にゆっくりと沈んでいった。

 

 

「これを」と言って、彼女は私物棚から、一冊の文庫本を取り出した。

「なんだい」

「君に読んでほしいんだ」

 それから、少し迷った様子で言葉を繋いだ。

「もし迷惑でなければ。返すのはいつでも構わない」

「ああ」

「この装丁が好きなんだ。こんなに明るい黄色で、レモン柄で、とてもかわいらしい。古いものだけど、たまたま見かけて、どうしても欲しくなってしまって」

 それから彼女は特に好きだというひとつの短篇の名前を挙げた。

「読んでくれるとうれしい」

「きっと感想を言うよ」

 いつものようにね、と付け加える必要はなかった。

 

 それは温泉地で療養する男と、彼の部屋にどこからともなく現れる蠅たちの物語だった。冬の蠅はみじめである。彼らはやせ衰え、夏ごろの不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失っている。しかし今にも枯死せんとする蠅たちのそれでも生きんとする意志。病鬱のただなかから、彼はそれを静かな驚嘆とともに見つめる。そうして短篇の終わり、彼が数日間の外出から戻ると彼らはいなくなっているのである。彼は蠅たちを生かしていたものが、彼を温めるためにたかれていた火であったことに思い至る。そうして彼は蠅たちの運命に、病に蝕まれた己を重ね合わせる。

 生きんとする意志。この語を目にする度に――といってもそれは作中に二度登場するのみなのだが――わたしは心臓を切り裂かれるような痛みを感じた。

 彼女の最期に、生きんとする意志のなかったことを確信しようと、何度も記憶を呼び戻す。そうしてそこにあるのは、冷ややかな深淵である。他者の内面を知る方法は存在しない。だからわたしが感じた彼女の苦痛は、どこまでもわたしの妄想でしかないのだと。

 時雨はこの短篇の、何を気に入って勧めたのだろうか。その答えは得られない。

 あの日の会話は宙に浮いたままどこにも行けない。

 

 

 あの日、あの海原から生還できたのはわたし一人だった。帰還した死体は時雨の一体のみ。持ち帰ることのできた認識票は、時雨のものを含めてもたった四枚。最終的に遺骸や装備品の一部が回収されたのは全体のおよそ半分で、残りはいまも、空っぽの白木の箱を以てして損失に計上されている。

 帰投した時のことはよく思い出せない。彼女を撃ち殺した瞬間、彼女のすすり泣く声が途絶えたその時点から後の記憶は深い霧の中にあるかのようで曖昧だ。わたしは自身が持ち帰ったという認識票についても、そう言われれば、幸運にも水面に浮かんでいたいくつかの肉塊から、それを回収したような気がするという程度の記憶しか持ち合わせていない。

 帰投したわたしは全身の傷から体液を垂れ流しながらも表面的には冷静そのもので、はじめ留守居組はわたしの身体から滴る血を敵の返り血だと勘違いしたと聞く。損傷が判明したのは、左手の手首から先が千切れ落ちても気にするそぶりも見せずに「司令官閣下へきわめて重要な報告がある。急ぎ取り次いでほしい」と強硬に主張して聞かなかったからというのだから驚きだ。すぐさま船渠に叩きこまれたわたしはそこで意識を失い、次の記憶は、医務室の清潔な天井と、肌触りの良いシーツの感触である。

 

 開戦以来最悪の損害に、国防軍は上へ下への大騒ぎとなった。通常の小競り合いではない、艦娘と深海棲艦――すなわち、異形のものたち同士の全面衝突が何を意味するのか、このとき人類は初めて知った。対応は後手後手に回っており、次の一手を誤ればすべてが決壊しかねない危地であったと後に知った。来るだろう第二の攻勢への備え。国民への釈明。諸外国との情報共有。何を公開し、何を秘匿し、何を優先し、何を切り捨てるべきか。決断すべきことは無数にあった。そのような状況下で、口裏合わせをする前に唯一の生存者であるわたしに何かを喋らせるわけにはいかないという判断だったのだろう、わたしはしばらくの間、病室に軟禁されることになった。

 

 

 痛いくらいに静かな夜だった。薬を飲み干し、コップ軽くゆすぐと、ベッドに腰掛けて窓の外に目をやる。

 海は見えなかった。

 わたしは時雨を殺した。引鉄の感触がいまも指に残って取れない。それなのにどうしてか、それが現実のことだとは思えなかった。何もわからない。どうしてわたしが生き残ったのか。わたしだけが生き残ったのか。

 

 雨のように降りそそぐ砲弾の中をわたしは駆けていた。

「散開せよ!」

 誰かが叫ぶのがわかった。十時の方向に舵を切り、次々と飛来する砲弾を避けて進む。

「絶対に逃がすな。奴らはここですり潰す。あれを上陸させるわけにはいかない」

 四隊からなる我らが連合艦隊の主力は、敵の横腹を切り裂くように突撃していく。先鋒が欠ける。次の者が前に出る。混乱する敵艦隊を後続のわたしたちが包囲していく。

 敵艦隊に統率はもはや存在しなかった。それでも、通信手段をとうに失った我が艦隊は、最後の命令を愚直に遂行していく。一人二人と歯が欠けるように仲間が沈み、包囲の狭まることで開いた穴は塞がれる。敵も味方もポロポロと欠けていって、一人死ぬ度に包囲は少し狭まる。金属音が、破裂音が、叫び声が、笑うように、がなるように、泣き喚くように降り積もっては消えていく。

 大切な誰かが死んだらしかった。わたしにはわからなかった。

「よくも長門を。殺してやる」

 沈みゆく誰かが歌っているらしかった。わたしにはわからなかった。

 

 二時の方向。敵の砲口が赤く光って、砲弾が真っ直ぐ飛んでくる。周囲の光景がスローモーションのように鈍重で、思考の加速を知覚した。回避。間に合わない。防御。間に合わない。再生リソース不足。わかっている。

 たった一度の死に、現実味などあるはずもなく。

 視界に紺のセーラー服が割り込んで、耳をつんざく破裂音をわたしは聞いた。

 間近で砲声がして、敵の頭蓋が弾けるのがわかった。

 それを最後に声は止んで、胸元に時雨を抱きかかえたわたしだけが、海上に一人残されている。

 抱えた重さに、わたしは目をやる。

 

 

 忌々しい病室から解放され、警備府に復帰した時にはすでにすべてが片付いていた。一瞬呆然としたあと、何もかもがたちの悪い喜劇のように思えたことを覚えている。なるほどわたしたちは兵器だ。尊厳という幻想を、どうしようもなく剥ぎ取られたものだ。

 それでも僚友を手にかけたことは事実だったので、わたしは病室を出たその足で執務室を訪れ、その旨を報告しようとした。

 結論から言えば、報告が受け入れられることはなかった。司令官はわたしの報告に耳を傾けることはしたが、その事実を認めることは決してなかった。曰く、貴官は戦闘のショックで記憶が混乱しており、味方を手にかけてしまったと思い込んでいる。しかしそのような事実はないのであって、任務中の貴官の行動に一切の問題はなかったとすでに結論が出ている。いかなる問題行動もなく、いかなる違反も犯していない者を処罰することはできない。司令官の話はだいたいそのようなことだった。

 納得できる話ではなかったが、もはや何を言っても無駄であることは理解できた。わたしはそれ以上何も言わず辞去した。

 

 自室に戻ると、時雨の荷物はすべて処分されていた。覚悟していたこととはいえ、部屋の片方の棚が、机が、寝台が、まったくのがらんどうになってしまったのを見るのはつらいことだった。わたしたちはその出生から、本来的に親類というものをもたない。だから時雨の荷物は、誰の手に渡ることもなかったはずだ。それはゴミと一緒に、どこかの処分場で処理されてしまって回収することは不可能である。

 ふと、自分の私物棚に目をやった。上から二段目の右端に、黄色い背表紙の文庫本が差し込まれている。読もう読もうと思いながらもなかなか気が向かず、読まないままになっていたことを思い出す。カバーを外すと、裏表紙の右端に小さく几帳面な字で『時雨』と記されていた。その名前はいまわたしの手元にあって、それだけが、彼女が確かに在ったことを示している。わたしは泣かなかった。泣くには時間が経ちすぎていた。激しい感情は枯れてしまって、残されたのは乾いた寂しさとざらつくような鈍痛だけである。

 この本は、彼女の唯一の形見になってしまった。

 

 

 しばらくは演習が行われることもなく、また出撃が可能な状況では当然なかった。しかしもちろん人員を遊ばせておくような余裕はなかったので、わたしは臨時に主計課に配属されることになった。あの光景はしつこく付きまとっていたが、そのころはまだ、忙しさの中に包んで忘れてしまえる程度のものだった。主計課には姉妹たちもいて、姉はわたしを気遣ってあれこれ世話を焼いてくれた。あの日々は最後の平穏だったと、いまになって思う。

 主計課にいる間、一度だけ越権をした。報告を受けるため技術課へ赴いた折、密かに盗み見た時雨の検死結果には、確かに「至近距離からの頭部への砲撃」と記されていた。

 

 およそ三か月後、艦隊再建の目途も立ち、軍務に復帰することになった。艤装は新調され、艦隊の仲間も新調された。悲しいとは思わなかったし、悲しいと思えないことがつらいということもなかった。一切に無関心だったわたしは、だから何も言わずに新しい艦隊を受け入れた。

 空は青く、刷毛ではいたような雲の白が長く伸びていて、秋風が肌に心地よかった。久しぶりの艤装の重みは不快だったが、意識しなければどうということはない。結局のところわたしは兵器であり兵士であり、海の上、戦場こそが在るべき場所だと素朴に思っていた。

 海の上に出た途端、平衡感覚が弾けて飛んだ。神経が焼けつくような激しい不快に、耐えられずしゃがみこむ。通常なら補正がかかるはずの視界はゆらゆらと定まらず、周りの声が割れるようにうるさく感じたのを覚えている。激しい苦痛に身をよじりながら、わたしはその時、あの日から一度も海を見ていなかったことにようやく気がついた。

 何もかもが崩れていくような情報の洪水の向こうに、確かに彼女の声を聞く。

「やあ」

 いつもの調子で話しかけるその声に、何かが壊れた。

 気づくとわたしは転倒しており、ひどく恐ろしいものに襲われているような錯覚の中で、半狂乱になって暴れるわたしを医務室に運びこんだのが誰だったのか、わたしは知らない。

 

 何回かの検査と問診ののち、わたしは心的外傷後ストレス障害と診断された。

 

 

 朝の早いにもかかわらず、食堂は混み合っていて自分の迂闊を呪った。午前中から大規模演習のあったことを思い出し、自分に関係のない予定を忘れるのはこれほどたやすいことかと妙な感心を覚える。

 喧騒はどこか遠い国の言葉のように現実味がなかった。自分だけがここにいないで、再現映像を見せられているかのような、その種の乖離をわたしは感じている。

 隅の席を選んで座る。以前は姉妹たちと食事を摂るのが常だったが、あの日以来、どうしようもない居心地の悪さを感じるようになって同じ卓につくこともほとんどなくなっていた。姉妹たちと鉢合わせるのを避けたくて、時間をずらすようになってからもうしばらく経つ。身に染みついた生活リズムを、少しずつずらしているのがこの乖離の原因かと考えて、きっと理由は他にあると結論する。わかっている。わたしはあの海原に、時雨とともに自分を置き去ってしまったのだ。

 もそもそとパンを噛み、スープを啜る。味がしないかと言えばそんなことはなく、パサパサのパンの味も塩っ気の多すぎるスープの味も、初めて食べた時から何も変わっていない。

 そろそろ食事を終えようかというころ、コン、と金属のプレートが机に触れる音を聞き、横を見るとそこには暁が立っていた。

「……隣、いいかしら。響」

「もう引き上げようかと思ったんだけど」

「ちょっとくらいいいじゃない」

「演習があるんじゃ」

「まだ時間はあるわ」

「……気分がすぐれないんだ」

「だって、響、あの日からほとんど顔も合わせないで、ずっと」

 ああ、そんな顔をされては、わたしが悪者みたいじゃないか。

「……わかったよ」

 暁の顔がほころぶのがわかった。以前はあんなにも好きだった姉のその顔に、今はまったく心動かされないことに気付いて慄然とする。失ったものの総量を、わたしはまだ把握できていない。

「少し待っていて。いまコーヒーを取ってくる」

 不味いコーヒーでも、何もないよりは余程いい。手持ち無沙汰の気まずさを紛らわす役くらいには立つ。

 

「響は変わった。変わってしまった」

 それがどうしたと、冷たく突き放してしまえるほどには強くなかったが、何も答えないでいられるくらいには、わたしの感情は鈍麻していた。

「あの日、何があったの。何を見たの」

 問う彼女の眼は真摯で、耐えがたく不快だった。

「……あの全滅から、一人だけ生き残ったんだ。戦友はみな死んで、自分だけが残された。生きていること自体が何かの罪悪のように思われる。変わらずそのままでいられるほど、私は強くないよ」

 わたしは答えを、わかっていて逸らす。

「本当に?」

「嘘は言わないよ」

「嘘は言っていないと思う。でも、本当にそれだけ? ねえ、響。抱えていることがあるなら、話してほしいの」

 その沈黙は一瞬のように長かった。黙ってこちらを見つめる彼女を、わたしは直視できないでいる。

 不味いコーヒーを啜る。苦みの中に鈍い痛みを溶かしてしまうことはできなかった。

「すべてを話したわけじゃない」

「なら」

「でも、すべてを話すことはできない。話せることはみんな話してしまった」

 暁はたぶん、泣きそうな顔をしていたのだと思う。

「そうやって一人で、ぜんぶ抱えて、一人だけで壊れていくって言うの? 響が何を見たんだとしても、話してくれれば、それがどんなことでも、暁は受け入れる。話せば、きっと」

 話せばきっと楽になる。それが本当ならどんなに幸せだろう。

 けれどこの罪は一人で背負わなければならない。一人で決めて一人で殺した。時雨を殺したのは、このわたしなのだから。

 カチャリと陶器の触れる音がして、周囲の喧騒を切り払ったような気がした。

「話せないこともあるんだ。暁、わかってほしい」

 暁は少し傷ついたように俯いて、それから静かに顔を上げた。

「……時雨のこと?」

「なぜ、そう」

 平静を装ったつもりだった。

「やっぱり。きっとそうじゃないかと思ってたの。響、あなたと、その、時雨が。探ったわけじゃないの。みんなは知らないと思う。暁がそう、なんとなく思っていただけだから。恥ずかしいことでも、間違ったことでもない。珍しいことじゃないもの。わたしたちには。わたしたち艦娘には。ただ響が、言えないことだって言うなら、そのことじゃないかと、思って」

 わたしはどんな顔をしていただろう。彼女の表情からは、かすかな怯えを見て取ることができた。

「暁は、失っていないから、だからこれは、本当はわからないことなのかもしれないけれど」

 ああ、違う。違うんだ。その理解は正しくない。彼女は本当に、本当に優しいから。

「何があったんだとしても、響が悪いわけないわ。自分を責めないで。響が悪いはずがない。そんなことあるはずない」

 何が起こったのか、わたしが何をしたのか、彼女が考え至ることはきっとないだろう。彼女はそんな恐ろしいことを、思いつきもしない。わたしはそのことに安堵を覚えている。そうして自分を嫌悪してもいる。

「自分の愛する人が、目の前で、悲惨な死に方を、その、したなら。自分を責めたくもなる。どうして救えなかったんだ、って。やめろとは言わないわ。でも、その傷はきっと乗り越えられる。忘れる必要はないの。抱えこんで、ぜんぶ忘れないようにって」

 暁は知らない。考えもしない。きっと。わたしが時雨を殺したなんてことは、彼女の想像の埒外にある。その意志も知らず、独り善がりで決めつけて、ただ自分が救われるためだけに時雨を殺したということを暁は知らない。

それは幸せなことだ。わたしにとっても、彼女にとっても。

 底の方に残ったコーヒーを飲み干して席を立った。冷めてしまったコーヒーの、泥みたいな味がやけに後を引く。

「ごめん。話すことはない。ないんだ」

 後ろから暁の引き留める声が聞こえていたが、わたしは結局、一度も振り返らずに食堂を後にした。電灯に照らされていてもどこか陰鬱な警備府の廊下を、自室のある宿舎に向かって静かに歩く。

 時雨の声が聞こえたような気がした。暁の声は思い出さなかった。それはとても残酷なことのようで、それでもわたしは、時雨を想っている。

 

 

「私たちはいったい何者なんだろうね」

 独り言のつもりだったが、思いのほか大きな声が出てしまったことに自分でも驚いていた。窓の外にははらはらと雪が舞っている。冷えきった部屋にはわたしと時雨の二人きりで、工廠の方からだろうか、地鳴りのような重低音が夜の時間を支配していた。

「というと」

 わたしはしばし言いよどむ。

「艦娘はヒトではない。私はヒトではない。ヒトのようでヒトではない。私たちは何かが、何かが不自然で歪だ」

 独白にも似た問いを、時雨は静かに聞いていた。

「I was born」と彼女は呟く。

「I was born」語尾を上げて問うわたしに彼女は応えて言った。

「そういう詩がある。カゲロウの、虫の、カゲロウと生命についての詩だ」

 彼女はそこで言葉を切った。

「カゲロウの成虫は、口が退化していて何も食べることができない。だから胃の腑は空気が入っているばかりだ。けれどカゲロウの雌の、その腹には、卵がぎっしりと充満して胸の方まで及んでいる」

「それは」

「そうだ。それが生命の生き死にだ」

 わたしは何も言わなかった。

「ラバという家畜がいる。雄のロバと、雌のウマから生まれる交雑種で、これは子を成すことができない。一代雑種だ」

 彼女の淡々とした語り口に、不穏なものを感じ取る。けれどわたしは彼女の言葉を遮ることができない。雪の大湊はどこか外界と隔絶された趣があって、世界に二人しかいないような気がした。

「けれど、それは明らかに生き物だ。僕たちの歪はそこにはない。子を成せないことが歪なのではない。カゲロウはまるで子を産むための機械のようだ。行動のほとんどを本能によってプログラムされている彼らは。けれど違う。彼らに目的はない。生命に目的はない。設計されたものではない。生命は勝手に発生して、目的なく、ただ複製を繰り返すだけだ」

 カチャ、と、マグカップの机に触れる音がした。

「目的という言葉が、そもそも生命にそぐわないんだ。では僕らは。艦娘は」

「……深海棲艦を倒すために生まれた。いや、造られた」

「僕たちは歪だ。それはあらかじめ与えられていた目的があるから。深海棲艦と比べてさえ僕たちは歪だ。今もなお目的に囚われている」

 ストーブの上でヤカンが鳴く。時雨が立ち上がり、コーヒーを淹れる。コポコポと泡のはぜる音が耳に心地よかった。

「深海棲艦の遺伝子はヒトのそれにきわめて近い。それは彼女らが、ヒトを基にして造られたホムンクルスの成れの果てだから。いまでは考えられないことだが、前世紀の終わりごろまで、人間は科学が、自身の身体能力、認知能力を向上させることができると信じていた」

「……トランスヒューマニズム」とわたしは溜め込んだ息を吐き出すように言う。彼女は小さく頷いて、

「そうだ。人間は人間以上の存在になろうとした。そしてそれはある程度の成功をみた。深海棲艦や、僕たちの組織再生能力。ヒトは言うに及ばず、どんな生物を見たって僕たちのこれは異常だ」

 彼女は自分の頭をコンコンと叩く仕草をする。

「けれど認知に関しては、身体能力ほどには簡単ではなかった。単純に脳を巨大化させるという案はよくなかった。生まれたのは人間とは似ても似つかぬ異形の知性で、優劣の比較ができる対象でさえなかった。大きさの問題ではないのだと、まあ、試してみてようやく気づくことができたというわけだ」

「それが深海棲艦」

「その祖。彼女らの元になったものだ」と彼女は訂正を入れる。

「あの図体と硬質の外殻は、巨大で、柔らかな灰白質を収めるために必要だった?」

「恐らくは。もちろん僕もそこまでの詳細を知っているわけではないから、これはやはり推測だけど」

 結露した窓を指で拭く。外は白と黒の二色に染め上げられて不気味だった。彼女の淹れてくれたコーヒーをようやく啜る。

「認知――知性はきわめて危ういバランスの上にある。単純に巨大化させた脳に宿った知性はだから、異質なものにしかならなかった。ヒトの知性の外側には巨大な狂気の暗闇がある。理解の及ぶものを正気、そうでないものを狂気と呼んでいるのだからこれは当たり前だけど。正気と狂気は対等の概念ではない。意識の在り方の一部分、自分たちにじゅうぶん近い一部分だけを取り出して正気と呼び、その他をまとめて狂気なんて呼び名に押し込んでしまったのだからね」

 ズズズ、と彼女はコーヒーを啜って顔を顰め、まずいね、と言って小さく笑う。

「のちに深海棲艦になる一群のホムンクルスがあるとき脱走した。必死の捜索が行われただろうことは想像に難くないけれど、すべてを回収することはできなかったはずだ。もちろんあの巨体だ。動きは鈍重で、陸上でなら捕縛は容易い。でも海なら? 海洋は彼女らの巨体など問題にしないほど広大だ。もちろん基になっているのはヒトだから、すぐに適応することはできなかったと思う。はじめは浅瀬と無人の小島を行き来していたんじゃないかな。けれど彼女らは、ごく少ない世代の内に驚くべき適応を見せる。彼女らに与えられた冗長性――巨大な未使用領域がそれを可能にした。そしてもちろん、数世代で海への適応を完了させられるような超生物だ。そのまま留まっているはずがない。彼女らは、目的の軛から自らを解き放った。そうして得たのが、重武装と知恵の樹の果実だ。それらは抵抗と自由の象徴で、いずれも人間が流出させたものだというのは少し可笑しいが」

「そうして私たちが生み出された」

「そうだ。脳は弄らずに、肉体だけを頑健に造った、意思疎通可能な超人。それが艦娘だ。トランスヒューマニズムの失敗を清算するために造られ、それから七年、僕たちはまだその目的に従っている。あらゆる生命の中でそれは僕たちだけだ。その点で僕らは機械に近い」

 時雨はそうして、わたしの目を見る。

「でも、罪を背負うことで、僕らは人間になれると僕は思う」

 

 

 食堂から戻り、身だしなみを整えると医務室に向かった。普段なら主計課で仕事をする時間だが、今日は忌々しい面談の日だった。足取りは重い。楽しい気分になれるはずもない。暴露療法だか何だか知らないが、あの日の出来事を、毎回毎回説明させられてはたまったものではない。こうしてわたしはあの光景に囚われており、医者などが何をしなくても、毎晩勝手に思い出すのだ。

 面談の最後に、医者はこう問うた。

「海にはまだ出れませんか」

「海は見るだけでも嫌です。何度も試しましたが、立つことさえままならない」

「あの日のことは思い出しますか」

「思い出します。いつでもそこにある」

「まだ何か話していないことがあるのでは。守秘義務があります。話していただければ」

 わたしが時雨を殺したことは、もう誰にも話すつもりがない。姉にさえ話さないことをどうして医者などに話せようか。

「話せることはみんな話してしまいました」

 医者は理解の意を示して、何か話したくなったらいつでも話してくださいねとそう言った。

「きっと何も変わりませんよ」

 悪くなる一方だと言いたい気持ちを抑えこむ。わたしは何も、話すつもりがない。

「少しずつ良くなることもあれば、すぐには効果が出ないこともあります。焦らなくてもいい、と言ったらいま頑張っているあなたには酷な話かもしれませんが」

 カチリとペン先を出す音がして、医者は手元の紙束に何かを書き込む。

「薬物治療を並行して行なう手もあります。けれどヒト用の薬はおそらく合いません。試してみないとわかりませんが、おそらく効果は出ない。それだけならまだいいが、ことによると重篤な副作用がでるかもしれません。あなたでそれを試すのは医療倫理に反している」

 涼しい顔でそんなことを言う医者も、何を考えているかわかったものではない。軍は倫理や道徳の代行者ではなく、効率と合理性に支配された暴力装置だ。倫理と道徳を合理の内側に捉える領域だ。使えない兵器など処分するのが当たり前で、処分しないならしないだけの合理的な理由があると考えるのが自然といえる。PTSDの艦娘という、貴重なサンプルを観察中。わたしが現在も軍に残されている理由は大方そんなところだろうとわたしは推測している。

 試してみなければ、実地に観察しなければわからないことはまだまだ多い。わかってはいるものの、自分がその対象にされるのは不愉快で、医者に罵詈雑言を浴びせないだけの理性を保てたことをわたしは喜んでいる。

 

 

 背後に気配を感じて立ち上がる。そこに誰もいないことは知っていた。

「飽きないね。同じ本ばかり読んで」

「あなたには関係のないこと」

「忘れられないんだね。それとも忘れたくないのかな。きっとどっちもだ。君は優しいから」

「真似をするのもずいぶん下手だね。それに何もわかっていない」

 醜悪なパロディをべったりと貼り付けて、彼女はわたしを覗き込む。

「わかっていない、か。それは君がまだ何もわかっていないからだと思うけどね。まあいい。それより何か思い出してみたかい? 話したはずだろう? 死ぬことについて。忘れているはずはない。忘れられるはずがない。思い出さないようにしているだけだ。なぜだろう。怖いのかな。自分が間違えたかもしれないということを――」

「黙れ」

 首を竦めて可笑しそうにする彼女の姿に、わたしは何を見ているのだろうか。

 気づくと彼女は去っていて、それでもしばらくはその場に立ち尽くしたまま、身じろぎ一つすることができなかった。

 

 

 その夜、初めて肌を重ねた。

 一つ、吐息が零れる。呼応するようにもう一つ。

 月明かりがふたりの輪郭を浮き上がらせていた。うっすらと舞う埃は光の帯になって、銀砂を撒いたようにきらきらと綺麗だ。

 ゆっくり腰に手を回すと、白い肌の向こうにある筋肉がビクンと跳ねて、それから彼女は僅かに身を硬くした。そうしてわたしはもっと欲しくなる。あなたを知りたい。

 接触面から冷たさが、続いて静かな温かさが伝わっていく。

 ゆっくりと彼女の肢体を撫でる。彼女はされるがままでいる。こうして彼女の、普段と違う姿をわたしだけが知っているという薄暗い歓喜に身悶えする。わたしの顔は見られていなかっただろうか。

 わたしたちは求め合っている。わたしはそう信じている。

 彼女が何を思って抱かれているのかを知ることはできない。もっとも親密な関係の相手でさえ他者で、人と人の間に横たわる深い溝を飛び越える方法はまだ誰も知らない。きっとこれからも、そんな方法が発明されることはないのだろう。理解したいと望みながら、決して理解することの叶わない一組の罪の形。それは普遍的なわたしたちを呪っている。

 だからこれは愛し合うなんて呼べるものではなくて。もし彼女が真に愛してくれているのだとしても、わたしは永遠に、一方的に愛するだけの孤独な個でしかいられない。

「時雨」

 彼女の名前を呼ぶ。

「響」

 泣き出したくなるくらい、この時間を永遠にしたかった。

 どちらからともなく、身体が離れていく。汗ばんだ肌に夜の空気が冷たい。わたしはようやく、彼女と目を合わせた。

 時雨の眼が、月を孕んで妖しく光る。母を求める幼子のように、わたしたちは何度も何度も唇を合わせた。

 ゆっくりと、水底へ溶けていく。

 

「いつか死ぬんだろうね」

「いつか死ぬね。親もなく、子も望めない僕たちが死ぬのは何だか不思議だ」

「腹とったら死ぬだろうね」

「死にたかぁないね。また僕の本棚から黙って読んだね。君の下腹部の切なさは、言っておくけど、たぶんまったくの別物だと思うよ」

 そう言って時雨は微笑みのように不思議がる表情を作った。思えばこのころからだった。時雨が本を勧めてくるようになったのは。

「もし死ねないならどうする」

 わたしは首を傾げてそれに応えた。

「僕たちは頑丈すぎる。試したことはないけれど、相当の深手を負ってもしばらくは生きられる。生きられてしまうはずだ」

「そうしたら仲間に運ばれて、母港で修理される。そういうものではないのかい」

「間に合うならそれがいい。間に合うかもわからないなら? その時どうしてほしいかという話だ。想像を絶する苦痛の中で、ただゆっくりと近づく死だけを救いに思うべきか、否か」

「ピロートークとは思えない凄絶さだ。私の他に女を知らないみたいだよ」

 そう言ってわたしは笑ってみせた。わたしの愛したあなたは、時雨はそういうひとだ。

「どうだい。響。どう思う」

「私は殺してほしい。一思いに。私は弱いからね。きっとそんな恐ろしい苦痛には耐えられないよ」

「ただ苦しみの中で死を願うよりは、仲間に救いを与えてほしい、仲間が救いであってほしい、と?」

「わからない。そこまで考えてはいなかったけど、きっとそうなんじゃないかな」

 シーツの擦れる音が静かな寝室に響き渡った。一人用の寝台は狭苦しくて、けれどその密度をわたしは幸せに思っていた。

「それで、時雨は。どうしてほしいの? そういう時には」

「僕はそうだね、でもきっと――――」

 

 あのとき時雨が何と答えたのか、わたしはどうしても思い出せない。

 

 

 わたしを呼ぶ声のするような気がして、まどろみから身体を引き剥がした。手元に時計を引き寄せて、もう夜になっていたことを知る。

 起き上がろうとして卓上灯に頭をぶつけ、小さく呻きをあげる。声は部屋の外からなおも続いており、それが誰のものか、そうしてようやく思い出す。

 鬱陶しいことだとはじめに思った。わたしは切実に孤独を必要としていた。あの日、独りで時雨を撃ち殺した瞬間から、わたしは他人を求める権利を永久に失っている。

 戸の向こうから呼ばわる声はどんどん大きくなっていく。これ以上放置しておけば、余計に厄介を呼び寄せるだろうということは容易に想像でき、忌々しく思いながらもわたしは戸を開ける。

「何か用かい」

 結露した窓の向こうに、雪がわずかな明りを反射するのが見えていた。

「朝は途中で終ってしまったから」

 どうしてそんなに優しくてひどいんだ。そう口走りそうになるのを堪えて、

「話したくないんだ。すまないけど」

「でも、そんなに憔悴して、見ているだけで」

「話すことはないんだ」

「……そう。夜遅くにごめんね。そうね。そうだと思う。ごめん。話したくなったら、いつでも。また」

 わたしは彼女を呼びとめていた。

「ならないよ。そう、これは私の問題だから。暁にはわからないよ。責めているわけじゃない。わからないよ。わからないんだ。救いってなんだと思う。なかったことにすることだ。なかったことに――そんなバカな話があるものか。なかったことになんてできない。忘れるよりひどいよ。なかったことにして、それでも私は私だと、そんなこと口が裂けても言えない。苦しみは代償だ。私が私であるための、彼女があったことのための。だから暁にはわからない。個人的な、そう、とても個人的な話なんだ、これは」

「どうして。そうして響がそんなに苦しまなくちゃいけないの? 一人で抱え込む必要なんてないのに。救いがないとしたって。響は幸せになっていいのに。なってほしいのに」

「どうしてというなら、どうしてそんなに私を構うんだ。私は望んでいないのに。私は私なのに」

「だって家族だから」

 何かのぷっつり切れる音を聞いたような気がする。気がついたときにはもう、わたしは暁を突き飛ばしていた。

「家族!? 家族!? たまたま姉妹艦の名前を受けて、同じ基礎素体から作られただけを家族と呼ぶなら、私はそんなもの要らないさ! 望んでなんかいない! 私は望んでいない! 違う! 違う! 私が欲しかったのは暁じゃないんだ! 私が欲しかったものは私が壊した! 私が決めて、私が殺して、私が罪を背負った! だから私はもう何も要らない! 何も、何も要らないんだ! わかるような顔をしないでくれ! あなたにはわからない! わからなくていい! わかろうとしなくていい! わからなくていいから、わからないでいてくれ、わからないでいてほしいんだ。これは私の問題だ。私が、私は私だ。暁、あなたは私じゃない」

 一息に叫んだあとで、心臓を刺すような激しい悲しみが押し寄せてわたしは崩れ落ちそうになる。

「悪かった。私が悪かった。でも、もう帰ってほしい。お願いだから。今は何もいらないんだ。何も欲しくないんだ」

 暁がどんな顔をしていたか、思い出すことはどうしてもできない。わたしと同じくらい、打ちひしがれた顔をしていたとしたら、忘却はきっと優しさだ。

 戸の閉まる音がやけに響いて聞こえ、わたしは一人、痛みと寂寥の中に取り残された。

 

 

 このところ、深夜に宿舎を抜け出す回数が増えた。司令官は気づいているようだったが、何も咎め立てることはなかった。

 警備府の裏山を、獣道をかきわけ登る。息を切らして山頂に出ると辺りは開けていて、紺の天蓋に無数の星が瞬いていた。草原にはいつものように、寝そべって本を読む彼女の姿がある。

「今日も来たね」と彼女は笑う。

 わたしは応えない。黙って草原に腰を下ろし、遠くの黒い海を眺めている。

「何を見ている?」

「海は恐ろしい。何もかも呑みこんでしまう」

「君が気にしているのは時雨なのに? 死体は持ち帰ったじゃないか」

「あの遺骸が時雨だと、そうは思わない」

「じゃあ彼女は海底で眠っていて、今も君を待っているとでも?」

「知っているくせに。死体は死体で、つまり機能を失ったモノだ。あの海に置いてきたのは時雨じゃない。時雨はもうどこにもいないんだ。彼女の死体を私は見た。わかるよ。死体はどう見てもモノで、眠っているのとは違う」

「それが頭蓋を半分吹っ飛ばされた無残な肉塊ともなれば――」

「あなたは私だから。なるほど、私はずいぶん嫌なやつだね」

「わかってきたじゃないか。君は嫌なやつだよ。時雨のことだって忘れてしまおうとしていた。君が殺したのに。君が殺したのに」

「わかっているよ。もう」

「だんだん感情がすり減ってきたのかな。それとも――いやいい。つまらない反応だ」

 わたしは応えない。黒い海と濃紺の空の、境界は溶けてしまってよくわからなかった。

 

 あの日わたしは、本当に時雨を殺すべきだったのだろうか。その答えはわからない。

 わたしは死ぬべきだろうか。その答えはきっと存在しない。

 

 

「でも、罪を背負うことで、僕らは人間になれると僕は思う。銃に罪はない。機械に罪はない。命じられて殺したと言うのをやめて、わたしは道具だからと言うのをやめて、自分の意志で深海棲艦を屠り、その罪を自分のものとして引き受けたなら。罪は自由の結果だ。自由が罪を生む。自分自身で決断をしたならば、その結果を引き受けなければならない。自由と罪は不可分だ。だからもし、何かを決めなければならないなら自由に決めなよ。それがどんな結果を引き起こすとしても。自分にわかるのは自分のことだけなんだ。自分だけで決めて、自分だけの罪を背負うといい」

 罪であるかどうかは、何によって判断するのか。その答えをわたしはいまも知らない。

 わたしは人間だろうか。

 

 

 ベッドに腰掛けて壁を見つめる。わたしはそこにあの海原を見ている。時雨を殺して立ち上がる。向かいに現れるのはいつもの彼女だ。

「そんなに苦しんでいるのに、結局いつも同じ選択をする。わたしは正しかったと、そう思ってるんだろう? 認めたらいい。正しいよ。勝手に決めてしまえばいい。自分は正しかったと。あのとき勝手に、死にたいんだと決めつけたみたいに」

「違うよ」

「最近はずいぶん落ち着いてるじゃないか。こうして会いにくる甲斐もない」

「正しかったかどうか、知る方法が一つある。そうして同時に罪を償う。それはまあ、あなたの言うように、勝手なことだろうね」

「僕が言うまでもなくすべては勝手でしかない。本当は誰も何も知らないんだ。他者は理解できないから他者なんだよ」

「そうだね」

 彼女は微笑む。おぞましいその表情が、なぜか優しく見えた。

「決めたのかい」と彼女は問う。

「決めたよ」とわたしは答える。

「それなら僕はもういらないな。残念だよ」

「残念も何も、最初からどこにもいなかったじゃないか」

 それもそうだと彼女は笑って、そうしてどこにもいなくなった。

 

 

 衰えた身体でも、並の人間よりはるかに強靭だった。獣道を通って山奥へと進む。一歩一歩、踏みしめるように。

山の裏手に回れば、途端に音は届かなくなる。

 装備の重みは気にならなかった。わたしはただ黙々と歩き、距離を稼ぐ。暗闇は恐ろしくなかった。恐れる理由はもうほとんど残っていなかった。恐れるとすれば、決意の鈍ることの他にはない。

 部屋に残した書置きが見つかるのは明朝のことだろう。そのときわたしはもういない。

 山頂に出る。空は見なかった。黒々とした海も、何の感興も呼び起こさなかった。そこに彼女はいなくて、わたしは少し安堵する。もう終わる。終わる前に、彼女はいらない。

 山の裏手に回ってからも少し歩いた。十数分ほどの歩行ののち、じゅうぶんに距離を稼いだと判断して装備を降ろす。ここがわたしの最後かと、不思議と悲しくはなかった。特徴をもたない森の中、どこであっても構わないような場所は、あの海原に少し似ていた。それはやっぱり都合の良い思い込みなのかもしれないけれど。

 慎重に弾を込める。手の震えは、寒さによるものだけではなかったはずだ。

 

 五十分。あの日わたしが、時雨を殺した地点から、母港までの所要時間。

 右腕に時計を、外れることのないように固く縛り付け、時間を確認する。

 砲口を左腕の肘に押し当て、引鉄を引いた。

「……ッ」

 焼けるような激痛が走り、左腕が切り離されわたしではなくなる。生ぬるい液体が、熱い断面から迸っては身体を伝う。苦痛の奔流に呑みこまれそうになる意識を、わたしは必死で引き戻した。まだだ。まだ終わりではない。

 右の脇腹に押し当てた砲口が火を噴く。続けざまに二発。肉が弾け、抉り取られた内臓が散らばるのを見る。声にならない声で叫ぶ。痛い。痛い。痛い。わたしはゆっくりしゃがみこむ。

 意識に齧りつき、左の踝に灼けた砲口を押し付ける。もう熱さは気にならなかった。

 砲声があって、支えを失った身体は背中から倒れ込んだ。震える右手で残った弾を撃ち尽くす。この苦痛から逃れる権利をわたしはもたない。

 

 わたしは死ぬ。

 

 わたしは時雨の、救われえたか否かを知る。

 滑り落ちそうになる意識をそれでも手放さなかったのは、救済を切望していたからに他ならなかった。

 五十分の経つ前に死ぬならば、時雨は救われなかった。

 五十分の経っても生きているならば、わたしは間違っていた。もう弾はない。わたしは苦しんで死ぬ。それは罰だ。救われるはずだったものを殺したわたしへの罰だ。

 それでももちろん、憶断の罪は消えない。時雨が何を望んでいたのか、知らずに決めたわたしの罪は消えない。最後に死ぬことが、その償いになるだろうか。死者はどこにもいないから死者であり、償う方法など未来永劫存在しない。だからわたしの死は、わたしだけの、わたしだけが救われた気になるための身勝手にすぎない。

 

 永遠のように短く、一瞬のように長い時が過ぎた。

 視界はもうずいぶんぼやけていて、それはきっと辺りの暗いせいではない。

「痛いな。こんなに苦しいとは」

 誰に向けるでもなくわたしは呟く。

「時雨」

 その声を聞く者はどこにもいない。

「私は響。響だ」

 死がわかった。わたしの死ぬことがわかった。痛みは飽和して、どうしようもなく寒かった。もう数分も保たないだろう。

 零れ落ちていく意識を掴む。最後の力を振り絞って、右腕に括り付けた時計を見る。

「ああ……」

 十四分と二十二秒。

「そうか」

 それが言葉になっていたかはもうわからない。

「ごめんね」

 薄れゆく意識の端で、誰かがわたしの名を呼ぶようなそんな気がした。

 なぜか最後に、暁の顔を思い出す。

 

 

 ああ、そうか

 

 

 ごめんね

 

 

 

 ごめ

 

 

 

 

 ん

 

 

 

 

 

 

 

 

 ね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「響」

 

 

 

 わたしを呼ぶ声がする。

 

 

 

「響」

 

 

 わたしを呼ぶ声は続いている。

 

 

「響」

 

 ゆっくりと目を開ける。白い。ああ、この光景は前にも。

 

「響」

 わたしはそこで、姉の顔を見た。

「ここ、これ、は」

 驚きがすぐに、歓喜に変わるのが見えた。

「よかった。よかった。よかった」

 壊れたように泣きじゃくる暁の顔に、わたしはすべてを了解する。

 あの声は、暁の声だ。

 

「あと五分、発見が遅れていたら助かりませんでした。いま生きているのは奇跡のようなものですよ」

 暁が泣き止んだころ、入室してきた医者は言った。

 あの夜、部屋を出てから少しして、暁はわたしの部屋を訪れた。返事がないことを不審に思った暁は部屋に押し入り、そこで書置きを見つけたという。

「山へ。帰らない」

 不穏を感じ取った暁は必死に山を駆け上り、山頂に着いたころ、砲声を聞く。足跡は残さなかったはずだし、仮に残っていても、あの暗闇では辿ることはできなかっただろう。だから暁が、血の海の中に横たわるわたしを、手遅れになる前に見つけたのは純粋に幸運の結果だ。それはきっと、わたしの幸運ではなく彼女の幸運だ。

 幸運を掴むには条件がある。幸運を幸運足らしめるまで足掻くことだ。

 そうしてわたしは、生き残った。

 

 医者が退室して、病室にはわたしと暁だけが残された。

 白い天井と、壁と、床とに囲まれて、暁だけがそこにいるように思えた。

「……私が間違っていたよ。私が。私が間違っていた。すまない。すまない」

「いいのよ。いいの。大丈夫。大丈夫だから」

 わたしは己の過ちを知る。忘れていたことを思い出す。

 わたしは助けられた。わたしは間に合った。時雨は助けられなかった。時雨は間に合わなかった。

 そうしてようやく、時雨の死を理解する。時雨は死んだ。死んだと。

 悲しかった。苦しかった。耐えがたく、名前のつく以前の感情がわたしを押し流す。気付かぬうちに涙が零れた。わたしは泣いた。そういえばあの日から、一度も泣いていなかったなとわたしは思う。

 わたしは泣いた。呻くように。叫ぶように。暁は何も言わずに、わたしの頭を胸に引き寄せた。

 取り戻せないすべてを背負って、わたしは生きる。

 許されることはなく、忘れることもなく。

 わたしは呟く。彼女に向けて。

 

「     」

 

 それはきっと、誰にも届かなかったはずだ。

 病室の窓から見える海は、狂おしいほど青かった。

 

 

 




読んでくださった方、ありがとうございました。

pixivでも同じ作品を公開しています。
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