アイドル部イメージビデオプロジェクト (ラギアz)
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アイドル部イメージビデオプロジェクト
「アイドル部のイメージビデオ?」
某日。とある会社の、一室にて。
アイドル部のプロデューサーであるばあちゃると、部員の夜桜たまはソファに座っていた。向かいには、今いる会社の社員が腰かけている。
既にばあちゃると社員は名刺交換などを済ませ、プレゼンに入った処だ。
内容を簡潔に纏めると、以下の通りである。
まずアイドル部一人一人に、様々なシチュエーションを演じてもらう。
それを編集し、発売したい。
一人称視点(目線カメラ)での撮影。普通の映像版と、VR版両方の発売を視野に入れている。
名付けて、『アイドル部イメージビデオプロジェクト』。
その一作目に、夜桜たまが抜擢されたのだ。
「えっと、私が演じる……? シチュエーションってなんですか?」
「はい、私たちが考えたのは『年上彼氏と年下高学歴彼女の同棲生活』です」
「……えっ、それを私がやるんですか?」
「はい。お願いしたいと思っております」
「で、でも私、演技とか上手じゃなくて。こういうのはなとちゃんとかがやった方が良いんじゃ……」
「あっ、その事なんですが……その、ばあちゃるさん」
「はいはいはい、聞いてますよーどうしたんですか?」
「すみません、少し夜桜さんと二人でお話ししたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
「あ、了解ですはいはいはい、たまたまー失礼の無い様にするんですよーばあちゃるくんは席を外すんでねー」
ばあちゃるはそう言って部屋の外に出て行った。営業マンは姿勢を正し、手元のファイルから一枚の紙を取り出す。
「それで、話と言うのは」
彼女の天秤は、やりたくない方に傾いている。演技力に自信が無いたまは、しかし――。
「彼氏役を、収録時にばあちゃるさんに頼もうと思っております」
「詳しく」
「これは年上彼氏目線で撮影が行われます。カメラマンを起用しても良いのですが、それだと彼女役の自然な演技が引き出せません。なので、彼女役の方の身近な男性の目線にカメラを付けて撮影しようという事になったんです。後で男性の声は消させていただきますが、二人には撮影中に自然な会話をしてもらいたいんです」
「つまり私が彼女で馬Pが彼氏なんですか?」
「えっと、設定上は。……夜桜さんが良くて、ばあちゃるさんが許可をくれたらですが……」
その後。
夜桜たまの巧みな誘導により、ばあちゃるは彼氏役になった。
本人が「マジンガー!? いやダメっすよこれね、完全に燃やされちゃうんでね」と言う頃には、全てが遅かった――。
――☆――☆――
俺の……ばあちゃるの目元には目線カメラ。
目前には、ドア。
アパートの一室を借りて、撮影が始まろうとしていた。『彼氏役』のセリフは後で全て消されるが、リアリティを出すために『彼女役』と会話はしなければならない。
しかもいつも通りを追及するため、今日は普通に仕事があった。たまたまも恐らく学校があっただろう。休んだ、と言う連絡は来ていない。
たまたまの服装はなんだろうか。流石に3Dアイドルモードの服では無いだろうし。
……なんて事を考えてたら、監督からGOが入った。
ここからは俺とたまたまだけの撮影になる。
長い夜になりそうだ。ため息を吐こうとして、飲み込み、ドアノブを捻った。
「あ、おかえりなさい」
「はいはいはい、帰りましたよーたまたまー!」
ドアを閉じると同時に、奥の部屋から彼女が走ってきた。
たまたまの服装は、上下白のニット。いつも複雑に編み込んでいる髪は一つ結びにして、肩から胸へ流していた。
心なしか、今日の彼女は大人びて見える。
高校生の少女ではなく、大学生の女性の様だ。普段とのギャップに少し乱されるも、俺は直ぐに持ち直す。大丈夫。メンタルは強い方だ。
「先にご飯食べます? それともお風呂入っちゃいます? どっちでも良いですよ?」
「ご……はん……?」
「え、はい。私が頑張って作りました」
「GOHAN?」
「ああ、今日は豚と緑の葉っぱとお米ですよ。いい感じに出来たんです」
「……そういえば、たまたまは御飯食べたんすか?」
「馬P待ってたので、まだ食べてないです」
「待ってたんすか」
「待ってました」
「おなかは?」
「めめめちゃんくらいには空いてます」
「じゃあ、先にご飯食べましょうかね! いやあたまたまのね、手作り御飯とかご褒美っすねこれ完全にね!」
「ふふふ、じゃあテーブル拭いてお箸を並べてください」
「はいはーい、すぐに終わらせるんでねーすぐにたまたまを手伝いますからねー」
短い廊下を抜けて、彼女は台所へ。俺はリビングへと向かった。
バッグをソファに放り投げ、スーツのポケットからスマホを取り出す。素早くLINEを開き、少し悩んでからきそきそのトークへ。
『胃薬を買っておいて欲しいでふうううう!!』
『なんでですか』
『たまたまの手料理を食べることになったでふううううう!』
『何十個買います?』
『いや一個で十分っすからね完全にね』
『よろしくでふううう!』
よし。
明日は有給取ろうかな。
スマホもソファに投げ、スーツをハンガーに掛ける。ネクタイを取り、Yシャツの第一ボタンを外した。取り敢えずのラフスタイル。
丁寧にテーブルを拭き、箸も二人分用意する。
それと同時に、たまたまがリビングに入ってきた。重たそうなお盆を引き継いで、配膳を担当。その内にふりかけやお茶を持ってきた彼女と向かい合わせに座り、俺たちは手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
見た目。大丈夫。牌もリー棒もない。
匂い。大丈夫。普通に美味しそうだ。
慎重に確認しつつちらりと前を見ると、たまたまはまだ食べずに俺を見ていた。心なしか緊張した様子で、お茶碗をゆらゆらさせている。
……ここで食わずして何が男か。
外でクラクションが鳴り響く。危険信号か、それとも決意の鐘か。俺は大口を開けて、肉をかみしめた。
「……馬P、どう?」
「……いや……これ美味しいっすよたまたまー! えー! いやめっちゃ美味い! 料理も出来るなんて凄いじゃないすか! いやーやっぱね、ばあちゃるくんの目に間違いは無かったっすよ!」
「ほんと!? やったー!」
予想外だった。
その豚肉はきちんと生姜焼きになっている。
その白米は柔らかく熱々になっている。
その葉っぱは食べやすい大きさに切られている。
その汁からは味噌の味がする。
美味い。風の噂に聞いていたパワー系料理はどこへ行ったのか、夜桜たまの作ってくれた料理はとても美味しかった。シロちゃんレベルだろうか。いや、うーむ。
「馬P、お仕事どうでしたか?」
「いやー、特に変わりないっすよ。シロちゃんの動画編集したり、アイドル部の皆のスケジュールを確認したり……これね、うれしい悲鳴っていうんすかね。アイドル部関連の仕事がどんどん増えてるんでね、いやーばあちゃるくんも嬉しいっすねこれね」
「ガリベンガーVとか、最近地上波にも出てますもんね」
「他人事みたいに言ってますけどねー、たまたまも凄いっすからね! もっと自信持ってね、楽しく活動してほしいなって思いますね」
「楽しく活動はしてますよ。アイドル部の皆もシロちゃんも居るし、馬Pも見ててくれますし」
「いやー、ばあちゃるくんは何も出来て無いっすよ。全部ね、皆自身の頑張りが実った結果ですからね!」
「そんな事無いですよ」
たまたまが、急に声を強くした。
思わず箸を止め、まじまじと彼女を見てしまう。やけに真剣な面持ちで、たまたまは口を開いた。
「馬Pが何も出来てない、なんて事は無いです。絶対に。それは視聴者の皆さんも、アイドル部の皆も、シロちゃんも思ってます。何より私がそう思ってます」
ストレートな思いをぶつけられ、俺は呆気にとられた。
彼女の赤い瞳は俺を見据えている。綺麗な輝きに吸い込まれそうになり、そっと目を逸らした。
夜の街の音が、静かな部屋で消えていく。
寂しいわけでもなく、イライラしてるでもなく。ただどうしようもない、困惑した雰囲気は、どうにも収まらない。
「……たまたま、学校はどうっすか? 授業中に麻雀ばっかしてたらダメっすよー?」
「流石にノートとプリントは取ってますよー。もう。ちょっと真面目にやらないとなとちゃんに怒られちゃうから……まあ、控えめにしてます」
「あくまで控えめなんすね……」
その雰囲気を断ち切るべく、俺の方から話を振る。たまたまの学校の話は豊富で、聞いてて飽きなかった。購買でハマってるもの、生徒会のお仕事、アイドル部でのちょっとした事件など。めめめめが色んな人の靴下を無理やり変えている……と言うのは、注意案件だろうか。
あとでごんごんに任せよう。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。いやーたまたま滅茶苦茶料理上手っすねー、じゃあばあちゃるくんが食器洗うんでね、麻雀でもしてて下さいね」
「そこまで無責任じゃないですよー。二人でやりましょ?」
「いやあ、たまたま学校で疲れてるでしょうからね、ここはばあちゃるくんに任せてほしいっすね」
「馬Pだってお仕事してきたじゃないですか。二人でやった方が楽ですよ」
たまたまは調味料を持って、台所に小走りで入った。有無を言わさぬ行動に負けた俺は、お盆に食器を載せる。このアパートの台所は狭く、二人並ぶとぎゅうぎゅうだ。Yシャツの袖を捲り、スポンジに洗剤を付ける。
俺が食器の汚れを落とし、彼女が泡を流してから乾燥棚に戻す。
段取りを決めたわけではない。が、何度もこの行為を繰り返したかのように息が合っていた。
腕が当たるたびに、照れ隠しで笑いあう。暖房は台所に無いのに、やけに暖かい。一人暮らしの俺にとってこの感覚は新鮮で、少しくすぐったい。
「……馬P、馬P」
「どうしました?」
「一発芸。ごんごん」
最後の食器で渾身のネタを披露され、思わず素で笑ってしまった。
満足げなたまたまは笑い続けている俺の背を押して、リビングへと戻る。この部屋にテレビは置いてないが、最新型のノートパソコンはあった。彼女は部屋の隅で充電されていたpcをこたつの上で開き、俺を呼び寄せた。
「馬P、パソコンの前に座って」
「え? あ、うまーじゃんみたいな事するんすか~?」
「対局中の助言はルール違反ですからしませんよ。いいから、ほら」
「はいはーい、分かりましたよたまたまー」
こたつに入ると、中はかなり暖かかった。夕食前に使っていたのだろうか。じんわりと爪先が温められていく。靴下は履いていても、やっぱり冬は冷える。
ふいー、と息を吐いた。やっぱり、こたつは癒しだ。
「じゃあ、お邪魔します」
こたつのせいで完全に気の抜けていた俺は、直後の行動をブロックすることが出来なかった。
突然、たまたまが俺の足の間に入ってきたのである。中々の素早さ。彼女はこたつ布団を整えると、背を預けてきた。
「えへへ、馬P座椅子ー!」
「ちょいちょいちょーい! いやこれ完全にね、ばあちゃるくん燃やされちゃうんでね、これちょっとダメだと思うんすけどね」
「やばーしー?」
「やばーしーっすね」
「マジンガー?」
「マジっすよはいはいはいはい」
「だめー!」
「えぐー!」
このアイドル、にっこにこである。
見たことのないくらい幸せオーラを放っている彼女を、誰が止められようか。絶対前のめりになった方がパソコンを操作しやすいのに、たまたまは決して俺から背を離さない。代わりに俺がちょっと前のめりになると、余計にたまたまを包むような感じになってしまった。
「あ、馬Pこれいい。離れないで」
行動が読まれている。姿勢を正そうとしていた身体を止め、俺は彼女の頭上からパソコンを覗き込んだ。
pcの画面には、PUBGが。
鼻歌を歌いながらマッチングを開始。振り向いた彼女は俺の額を小突き、悪戯っぽく微笑む。
「馬P、PUBG下手だから教えてあげます」
「いやー、たまたま知らないかもですけどね、男はステゴロ! っていう名言があってですね、ばあちゃるくんはそれを信条にしてるんすねはいはいはい、REALITYの配信でもね、素手で十位まで行ったんでね、これはもうPUBG上手いと言っても過言じゃないと思いますねこれ完全にね」
「へーたーでーすー。ほら、馬Pが上手になったらアイドル部の皆ともコラボ出来るじゃないですか」
「いやー、ばあちゃるくんとコラボしたい子なんて居ないっすよ」
「何で私が教えると思いますか?」
「……え?」
「あ、始まりました! えー、じゃあサンメイで良いかなあ……」
丁寧なPUBG指導。教師は夜桜たま先生。
武器の取り方やアイテムの使い方、AIMの合わせ方などを教えてもらい――さらっとたまたまはドン勝を食べ――。
幸せそうな、楽しそうなたまたま。
一緒に居るだけでなんだか嬉しくなってきて、気付けば二時間ほど経過していた。
「……あ、キリが良いですし、お風呂入って寝ましょうか」
「そうっすね。お風呂、どっちが先に入ります? いやね、たまたまがね、自分の入ったお湯にばあちゃるくんが入るのは嫌だー! とかならね、全然遠慮せずに言ってほしいっすね。ばあちゃるくん普段シャワーだけ何でね、全然問題ないっすからね」
「え、馬Pきたない」
「ちょいちょいちょーい! ちゃんと全身洗ってますよー! ただね、どうも忙しいしめんどくさくてね、お風呂とか省略したくなっちゃうんすよねー」
「もしかして夕ご飯とかコンビニですか?」
「良く分かりましたねー、いやー、やっぱ多くなっちゃいますよコンビニ弁当。楽ですからねー」
「……その、私作りに行きましょうか? えっと、ほら! 女子力上げたいですし! 練習させてくださいよ!」
「いや、それはたまたまに悪いんでね、料理は是非りこぴんとかに作ってあげてくださいね」
「馬Pは食べてくれないんですか?」
「あー、じゃあね、食べてくれ! って時は連絡してほしいっすね。ばあちゃるくんがね、会いに行くんでね」
「約束ですよー? ……お風呂、馬Pからどうぞ? 私、後で入りますね」
「はいはーい、じゃあささっと入ってきちゃいますからねー」
「ちゃんと湯船につかるんですよ! 百秒は数えてくださいね?」
「いやこれ完全にね、子供扱いされてますねばあちゃるくんね」
タオルと着替えを持って、脱衣所まで歩く。
そうだ。すっかり忘れていたが、この撮影は彼女の寝起きの挨拶で終わる予定。つまりは、今日ここでお泊りすることになる。
だが、ベッドはアパートの奥に一つだけだった。
押入れも無いし、俺はどこで寝ればいいんだろうか。後で確認しよう。
「……いやこのお風呂緑色濃いっすね」
入浴剤が入っているらしい。いい香りの中に身を沈め、凝った肩を軽くほぐす。仕事が仕事なだけに、どうも運動不足だ。体の節々も凝り固まっている。久々にサッカーでもしたいが、かつての旧友も忙しいだろう。
……ピーナッツくんは運動苦手そうだ。
アイドル部で言えば、もちにゃんが一番運動出来るだろうか。その場合はキャッチボールとかかな。
いや、サッカーがしたい。フットサルでもいい。真面目に探してみようか。
「たまたまー、お風呂あがりましたよー」
「お風呂上がりの馬Pだ。拡散しちゃえ」
リビングに戻ると、いきなりシャッターを切られた。
「ちょいちょいちょい、ばあちゃるくんのそんな写真拡散したらね、寧ろたまたまのアカウントが凍結されちゃうんでね、やめた方が良いっすね完全にね」
「なんで?」
「……ガイドライン違反?」
「馬Pも考えてないじゃんもー!」
ぱたぱたと足を揺らして笑う彼女。ひとしきり笑った後、彼女はソファから立ち上がった。
「冗談ですよ馬P。拡散はしませんよー」
「いやあ、たまたまならしかねないですからねー危険っすよー」
「あー、そういう事言ってるとやりますからね? ……じゃあ、お風呂行ってきます。覗きはぱいーんですからね」
「たまたまのお風呂を覗いたりはしないっすよー。 ゆっくり温まってくださいねー!」
何故かティッシュボックスを投げられた。
彼女がドアを閉めて、少し経ってからスマホを開く。
LINEに通知が来ているので見てみると、アイドル部の子たちから数件メッセージが届いていた。
『ばあちゃるさん大丈夫ですか!? 会長の手料理って大丈夫なんですか!?』
『うまぴーだいじょうぶ?』
『おうまさん、辛かったら明日は有給使ってくださいね?』
『ばあちゃる号、強く生きろよっ!』
『胃薬、一個と言っていましたがいろんな人に相談したところ一ダースになりました。』
『うまP、今日出勤したら時給205円にしてあげるからね。休んでも有給扱いにしてあげるからね』
たまたまはアイドル部の中でも一目置かれているらしい。
取りあえず全員に美味しかったという旨を送り、スマホを充電器に繋げる。仕事の資料を広げてチェックを終えた頃に、彼女が帰ってきた。
「お風呂出ましたー」
「はーい。いやー、たまたま結構長風呂っすね。勝手に烏の行水だと思ってたんすけど」
「……セクハラですか」
「えー!? いや違いますよたまたまー!」
「まあ……いいです。あ、ちょっと宿題やっちゃうんで、少し待っててください」
「じゃあばあちゃるくん本読んでるんでね、終わったら言ってくださいね! 質問されたら答えたり答えなかったりしますからね!」
「私の方が勉強出来ると思いますけど」
「えぐー!」
いやまあ、設定を除いてもあり得そうな事ではある。
それから三十分間くらいは、無言の時間が続いた。彼女がカリカリとペンを走らせる音と、俺がページをめくる音だけが聞こえる。これが知らない人との一時であれば落ち着くも何も無いだろう。
けど、今はとても安心出来ていた。
家族や友人と一緒に居る時とはまた違う。淡く明るい色が、雰囲気を彩る感覚。
本には集中していた。内容も、普段よりすっと頭に入ってきた。
……それよりも、俺には、彼女がよく見えていた。
三十分後。どうやら終わったらしい彼女が、ぐーっと背を伸ばす。
「馬P、終わりましたー。そろそろ寝ましょ?」
たまたまはそう言うと、勉強道具を片付け始めた。俺も読んでいた本を閉じ、時計を見上げる。時刻は夜の十一時。いつもより全然早い就寝時間だ。
あ、そういえば。
「たまたまー、ばあちゃるくんのベッドどこすかねー?」
「そこにあるじゃないですか」
彼女はソファの上にあったぬいぐるみを確保すると、奥のベッドに腰かけた。
可愛らしく、小さなあくびを一つ。赤い目に滲んだ涙をぬぐい、たまたまは目覚まし時計をいじり始める。
……なんてことの無い様に言っているが、この部屋にベッドは一つ。
いくら見回しても、敷布団すらない。というか、それをしまうスペースすら無いだろう。
「え、まさか床で寝ろってことすか!? いやたまたま、ちょっとね、ばあちゃるくんに対しての扱いが雑すぎると思うんすよねーはいはいはい」
「いや、だからここにあるじゃないですか」
ぽんぽん、とベッドが叩かれる。
「それじゃなくてですね、ほら、ばあちゃるくん用のベッドというか布団と言うか」
伝わってなかったのだろうか。もう一度声を掛けるも、彼女の動きは変わらなかった。
言葉の代わりに、背中を冷や汗が伝う。眠気なんぞ一瞬で吹き飛び、俺はぎこちない笑みを浮かべた。
「あー、えっとですね、さすがにそれはね、Pとアイドルとして不味いんじゃないかなーってね、ばあちゃるくん思いますねーはいはいはい」
「………」
彼女は返事をしてくれなかった。
目覚ましをベッドの上に。たまたまはぬいぐるみと入れ替えに枕を抱え、俺と目線を合わせた。
そして、右腕を振った。
「んぐぁっ」
唐突に飛んできた枕に顔面を打たれ、くぐもった声が出る。
「ちょ、ちょいちょいちょーい! 何するんすか急にー!」
「馬P、それ私のだから持ってきてもらっていいですか?」
俺のプロデュースしてるアイドル、清楚を目指してたのにな。
シロちゃん路線……清楚(Vチューバー)っすねこれ完全にね。
「じゃあ、投げますからねー? しっかりキャッチするんですよー」
「あ、直接持ってきてください」
「えぐー! 人使い荒すぎっすよたまたまー!」
結構がんこなたまたまは、こうなると動かない。それは良く分かっていた。
……観念して、俺は立ち上がる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
たまたまは微笑み、手を伸ばした。
その手は枕に向かい。通り、越し。
「じゃあ、一緒に寝ましょうか」
「えっ? うわっ!?」
俺の腕を掴んだたまたまは、急に引っ張った。かなり強い力。突然に体を寄せられ、体勢を崩した。
慌てて手をベッドに着く。ぎしっ! とベッドが軋んだ。二人分の体重を支えるそれの上で、彼女は俺を見つめていた。
「――顔、近いですね」
赤い瞳が、すぐそこにあった。
彼女の頬は赤い。シャンプーか何かの、良い香りが、脳を撫でた。
俺の目には、彼女しか映っていない。美しい銀の髪と、うるんだ赤の瞳と、白い肌が……夜桜たましか、映っていなかった。
「……たまちゃん、離してください」
「いやです」
「たまちゃん、あのですね――」
彼女はいつの間にか、俺の背に手を回していた。
いつの間にか、彼女に、掴まっていた。
「私たち、”同棲”してるんですよ?」
「っ」
それは設定だ、と。
ここで言える人間であったら、どれだけ良かっただろう。
彼女の赤い目は、それ以上の事を伝えてきていた。
その思いが何か、俺には分からない。
だが、その思いの強さは分かってしまった。
「……分かりました。一緒に、寝ましょうか」
「はい。……電気、消してもらっていいですか?」
「はいはいはい、ばあちゃるくんにね、任せてくださいね!」
俺はいつも通りの口調で、せめていつもと同じようにして、電気を消す。
「じゃあたまたま、明日も遅刻しない様にするんすよ」
「分かってますよ。ふふ、おやすみなさい」
「はいはいはい、おやすみたまたまー!」
小さな、ベッドの上。嫌でも感じる温もりを気にしない様に、俺は目を閉じた。
繰り返す針の音が、耳に響く。
アパートの外を走る車の音が聞こえる。
目を閉じていても、なかなか眠れない。いつもより大分寝るのが早いからか、体が起きてしまっているのだ。
……ううん。これからの方針でも考えるか。
そう、考えたとき。
――ふわり、と。良い匂いが、鼻孔をついた。
それと同時に、何かが唇に触れた。
温かく、柔らかく、甘い何か。ゆっくり押し付けられたそれが離されると同時に、俺は目を開いた。
……近くには、吐息が当たる程度に近くには、夜桜たまの顔があった。
彼女は俺の顔を、恐らく開いている目を確認した。目を見開いた彼女は布団を頭までかぶり、すすすと移動。俺から一番遠い位置で、小さいベッドのせいで割と近くだが、丸まった。
一層、静けさを増したような部屋の中。
俺は腕で目を覆い、息を吸い込んだ。
「……寝れないよ俺……」
小さく、呟きと共に息を吐く。
やけに、耳が熱かった。
……目覚ましが鳴る。目を開ける。体を起こす。
横には、綺麗な彼女の顔があった。寝ぼけ眼をこすり、俺を認識する。
「……っ!」
昨晩の事を思い出したのか、彼女は直ぐに顔を布団で隠した。……が、それも少しの間だけ。
ゆっくりと顔を出した彼女は、朝日に銀髪を煌めかせ。
「おはよう、ございます」
――太陽にも、星にも負けない、輝くような笑みを浮かべた。
――☆――☆――
「……完、と。えー! たまちゃんかわいいー! これは時給もアップだよー!」
「裏切ったなたまちゃん! 料理出来ないと思ってたのに!」
「いやあ、大変趣深いと言いますか」
「分かる。分かるよもちにゃん」
「え、これ可愛すぎないですか? 寝起きたまさん半端なくないですか?」
「とても可愛らしかったですわ! たまお姉ちゃん、お疲れ様です!」
「これは……牛巻の……生きる糧になるなあ……」
「過去最高に可愛い、と思います」
「すごーい! たまちゃん、すごいかわいいー!」
アイドル部の部室。
たまの必死の抵抗もやむなく、撮影された映像は全員に観られた。
絶賛され、照れている生徒会長。……そこへ、同じ生徒会からナイフが飛んできた。
「……これ、カメラだれ?」
「え? 自撮りみたいに撮ってるんじゃないの?」
「ふ、双葉ちゃん? 何言ってるの?」
「ごんごんお姉ちゃん、自撮りでしたらお迎えシーンは撮れないですよ?」
「そっかー! えー! 誰々? めっちゃ身長高かったよね!」
「それにたまさんの演技……? も凄く自然でしたよね」
双葉が話題を出し、いろはとピノが言及する。最後にすずがぼそっと呟き。
「わかっちゃったあ……」
「えー!? 何々!? 誰!? 教えてよみんなー!」
いろはと双葉とたま、そして風紀委員長を除く全員が声を揃えた。
「……うまぴーと一日過ごしたんだ……ふーん……」
わいわいと盛り上がるアイドル部。少し苛立つゆるふわナイフ。
そんな中、ただ一人――某風紀の芸人は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
(……私、撮影予定入ってるんですけど!? これ皆の前で公開されるんですか!?)
脳内で叫ぶ八重沢なとり。顔にも出てしまう八重沢なとり。
「はいはいはーい、ばあちゃるくんがね、お菓子持ってやってきましたよー」
丁度入ってきたばあちゃるによって、八重沢なとりの変化に気付く者は居なかった。
お菓子をテーブルに並べるばあちゃるの横で、ビデオを再生し直すめめめ。両サイドを抑え、逃げられない様にするいろはともち。
「今日はね、チョコレートを沢山持ってきたんでね! どんどん食べてください……あれ? なんでばあちゃるくん囲まれてるんすか?」
「ねーえ、うまP-?」
「はいはいはい、なんすかちえりーん」
「……このビデオー、撮影したのだあれ?」
「……」
「……」
「……いやー、ばあちゃるくんにはちょっとわかんないっすね」
「たまちゃんの唇どうだった?」
「柔らかくて……あっ」
「馬P!!」
「うまPを逃がすなよ、捕まえておけ」
「任せて!」
「へっへっへ、ちえりさんに全部話しちまえよお……?」
「ごんごんお姉ちゃんノリノリで草」
「じゃあーうまP! 全部吐いてね」
「た、助けてシロちゃーん!」
「馬Pの、馬Pのばかー!」
結論から言うと、シロはばあちゃるの声を聴いて駆けつけた。
そして勿論、尋問側に回ったのだった。
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夏の終わりに夏祭り
「えぐー!? こんな売り上げたんっすか!?」
「はい。夜桜たまさんに出演して頂いた「年上彼氏と年下高学歴彼女の同棲」の売れ行きは好調です」
「えぐー……いややばーしーっすねこれね、いやマジっすか……」
「いち、じゅう、ひゃく……すごいですね……」
『アイドル部イメージビデオプロジェクト』。
それは部員一人一人にシチュエーションを設定して撮り、映像をVRとDVDで売り出す企画である。
某日。その企画を提示した会社に、アイドル部のプロデューサーであるばあちゃるは訪れていた。挨拶もそこそこに、提示されたのは第一弾の売り上げ。
ばあちゃるの予想を軽く超えた売り上げ、発売直後から若干勢いを落としつつも未だに売れていた。
唖然とするばあちゃる。彼の隣に座るアイドル部員、風紀委員長の八重沢なとりも同様だった。
「……本日お二人にお越しいただいたのは、第二弾の制作についてです」
そして、社員の説明が始まった。
第二弾は『夏の終わりに夏祭り』。撮影場所は夏祭りであり、花火も打ちあがるところである。
演者として声が掛かったのは、和風な見た目の八重沢なとり。和服を着ているヤマトイオリ等の案も上がったらしいが、最終的には彼女に頼もうという方向性になったのだ。
「なるほど……分かりました。任せて下さい!」
「ありがとうございます。それでは、撮影者の方なのですが」
八重沢は胸を張って頷いた。基本的に真面目な彼女は、余程の事で無ければ頼みを断らない。
しかし、決して望みが無いわけではなく。
「撮影者ですか……」
「なとなとー、気軽に、この人にやってほしい! とか言ってくれて全然オッケーですからね! ばあちゃるくんが頑張ってですね、まあばあちゃるくんに出来ることならね、やったりやらなかったりするんでね!」
「えー、ほんとですかー?」
「ええっ、信じてくれないんすか!?」
「冗談です冗談です! ……ええっと、じゃあばあちゃるさん」
「何ですかなとなとー」
「撮影者、よろしくお願いしますね!」
「……いややばーしーっすねこれ完全にね」
かくして。
アイドル部八重沢なとりとばあちゃるは、夏祭りに出向く事となった。
――☆――☆――
八月某日。ひぐらしの声が、車窓越しに聞こえてくる中。
俺は、ばあちゃるは吊革に右手を掛けていた。電車の中は冷房が効いているが、なにせ人が多すぎる。気休め程度にしかなっていなかった。
今日も今日とて仕事帰り。Yシャツの第一ボタンを開け、ネクタイを外す。
家や会社から数駅。割と離れた場所が、本日の目的地だ。
そこにはかなり大きな神社があり、例年お祭りが開催されている。近くの川から打ち上げる大量の花火は、テレビに映るくらい有名だ。
条件としては申し分なし。小銭は大量に用意したし、お腹も空かせている。準備もオーケーだ。
電車内にも、浴衣姿の女性がちらほら見える。案の定、一つの駅で全員が降りた。
駅から神社まではおよそ十分程。人ごみに流されていると、大きな鳥居が見えてきた。時刻は六時頃。空は若干藍色に染まり始め、橙の提灯が屋台を照らす。長い参道の奥からは祭囃子。
テンションが上がってきた。
いや、それよりも待ち合わせ相手を探さなければ。この人の量だ。待ち合わせ場所を決めているとは言え、合流できるかどうかは怪しい――
「……いやあ、目立つんすねえ」
鳥居の前。待ち合わせに指定した場所。
探し人、八重沢なとりはそこに居た。
人々は彼女を眺めつつも、しかし近づかない。近づけない。
俺が言うのもなんだが、アイドル部はかなり魅力的な存在が集まっている。その中でも、八重沢なとりは正に正統派な美少女と言える。和風というか、なんというか。
なとなとが今着ているのは、若草色を基調とした浴衣。山吹色の帯を締め、髪を一つに纏めていた。ここまで完璧な浴衣美人がいるのだろうか。
……あそこまで行くの嫌だなあ。
なんて思いながらも、行かなければならないのが常だ。カメラは電車を降りた時から点けている。息を一つ吐き、俺は人波を掻き分けて歩み寄った。
「なとなとー! はいはいはい、ばあちゃるくんがね、到着しましたよー!」
「あっ、ばあちゃるさん! もう、遅いですよ!」
「いやー、ちょっと混んでたんすよー……。どれくらい待ちました?」
「……今来たところですよ」
「じゃあ良いっすね!」
「んなあー!? そこはこう、もっとイケメン的な事言うところじゃないですか!?」
「ええ……」
ぼふん、と巾着袋をぶつけられた。後ろからの視線を受け流し、俺はなとなとを促して歩き出す。
「あ、なとなと浴衣滅茶苦茶似合ってますよ。いやー、マジで綺麗っすね」
「ええっ! あ、ありがとうございます……」
鳥居を潜り抜ければ、無数の屋台が道の両脇を埋め尽くしていた。
焼きそばやたこ焼き、お好み焼き。定番は勿論、射的や宝釣りもある。
「すごーい! ばあちゃるさん、まずは何しますか?」
「はいはいはい、いやー、まずはご飯食べたいっすね。なとなと何か食べたい物あります?」
「私は何でも良いですよ? どれも美味しそうですし」
「高菜おにぎりなんてどうっすか?」
「もう、分かってて言ってますよね!? 遠慮します!」
結局、最初に買ったのは焼きそばだった。なとなともお腹が空いていたらしく、割り箸を開くや否やすぐに食べ始める。
「あ、美味しい」
「やっぱね、祭りと言ったら焼きそばっすよね」
満足げに笑うなとなと。人は多いが、その分屋台も多い。混んでるところはあるものの、基本的にはそんなに並ばずに物が買えそうである。
花火が打ち上げられるのは、七時半から八時まで。
まだまだ先だ。
他にもお好み焼きやからあげ、フランクフルト等を購入。ゴミ箱を見つけるたびに捨てても、手にはビニール袋やパックが常にあった。
なとなとは流石にお腹いっぱいになったのか、たこ焼きは買わなかった。
祭りといえばソース物だ。食べずして終ることなどできない。既に俺も満腹になりつつあるが、食べ始めてしまえばひょいひょい進む。箸とも楊枝とも言えない棒を使って食べていると、なとなとがジッと此方を見ていた。
「……食べます?」
「ええっ!? 大丈夫ですよ、ばあちゃるさんが食べちゃって下さい!」
「はいはいはい、素直に言ってくれて良いですからねーなとなとー」
「いやもう、本当に私お腹いっぱいなんです!」
「なとなとー、熱いから気を付けて下さいねー」
「え、あ、あーん……」
案の定、たこ焼きを近づければ彼女は口を開けた。少し赤らんだ頬を手で仰ぎつつ、小さな口を精一杯開ける。行動は子供っぽいのに、なとなとの構成要素がその認識を許さない。純粋に美少女な彼女の、行動と見た目のギャップにやられかけるも、俺は平静を装ってたこ焼きを運んだ。
「あ、プロデューサーちゃん!」
突然、声を掛けられた。ビックリして肩を震わせた拍子に飛んだたこ焼きは、なとなとがギリギリキャッチ。あまりの熱さに涙を浮かべるも、口まで運べていた。その後に更に悶えていた。
「も、もちもちじゃないすかー!」
「にゃっほー! いやー、プロデューサーちゃんがちらっと見えたからさー、挨拶しとこーかなーって!」
快活に笑う猫乃木もちもまた、アイドル部の一員だ。
見た目は今どきのギャルJK。しかし、中身はアイドル部屈指の清楚(真)である。
「いやさー、にしてもー? どっかの風紀委員長が男と歩いてるなんてねえ?」
「……何ですかもちさんその目は。別に風紀乱してる訳じゃないですし良いじゃないですか!」
「えー、あーんとかして貰っておいて? 乱してないんですかー?」
「まーせーんー! それにあれはばあちゃるさんがやってきたんですからね! 私は何もしてないですから!」
「ふーん? じゃあ二人はこのお祭りで何をしてらっしゃるのかなー?」
「……え?」
「男と二人だなんて、風紀が乱れていませんか?」
にやにやしながら、もちもちは彼女に詰め寄る。目を泳がせながら後ずさるなとなと。
俺は追い詰められたなとなとの肩に、手を回した。
「はいはいはいはい、いやーもちもちには悪いんすけどー、今ばあちゃるくん達デート中なんすね」
「デートっ!?」
「ちょっと! 何言ってるんですかばあちゃるさん!」
「まあそう言う訳なんでね、もちもちとはね、また次に会ったときに遊んだり遊ばなかったりって感じでお願いしたいんすけど大丈夫っすか?」
「勿論だよプロデューサーちゃん! 応援してるね!!」
「いやーもうもちもち良いやつっすねこれ完全にね! じゃあなとなと、次は射的でもします?」
「え、え、え? ちょっと、え、どうなってるんですかばあちゃるさん!」
もちもちから離れ、俺たちは人混みの中を進む。彼女には悪いことをしてしまった。後でクレープを奢ろうと決めつつ、俺はなとなとから手を離した。
「……あー、今って撮影中じゃないっすか。それでですねー、確かにもちもちも最高に可愛いんですけどー、今日はね、ばあちゃるくんにとっての主役はなとなとなんでね、もちもちには本当に悪いんすけど、なとなとを優先させてもらおう! って感じでさっきね、あんな風に言ったんすよ」
「私が主役?」
「この舞台にはね、ばあちゃるくんもなとなとが一番合ってると思うんでね! やっぱプロデューサーとしてね、ばあちゃるくんがなとなとの魅力を最大限引き出さないと! って感じっすね。なんでー、なるべくなとなとだけをずっと見ていたいんすね」
「……女の子をジッと見るなんてあれですよ。風紀が乱れかかってますよ」
「それもダメなんすか!? えぐー!」
なとなとはジト目で俺を睨む。
「――嘘です。ばあちゃるさん、今日だけは、私だけを見てて下さいね?」
しかし直後、彼女は俺の右手に手を重ねてきた。
夏の暑さだけじゃない、火照った体温が手から伝わってくる。驚きながら彼女を見ると、なとなとはそっとはにかんだ。
一瞬、音が消えた。
それは勿論、気のせいだ。それでも、それくらいの衝撃が俺を襲った。
鼻歌でも歌い始めそうなくらいに、彼女は楽し気である。呆気に取られている俺の手を引っ張る彼女。
その姿は、それ以外の全てが霞むくらいに、綺麗だった。
「んなあー!」
「はいはいはい、いやもうこれ完全にばあちゃるくんの勝ちっすね!!」
射的。
それは空気を使い、コルクを撃ちだす銃を用いる遊技。
一回五発五百円。上手くいけば五つの景品。積み重ねられたシガレットなどを上手く撃てば、それ以上も夢じゃない。
2人で同時にお金を払い、自然な流れで競争へと至った。現在、全てのコルクを消費した俺は三個の景品を。残り一発を残して、なとなとは一つの景品をゲットしていた。
要は俺の勝ちが確定したような物である。
「えー、私ばあちゃるさんに負けたくないんですけどー! ふつうに嫌なんですけど!!」
「いやー、そんなこと言っててもね、負けは負けなんでね。なとなとには罰ゲームを何かしてもらいますからね!」
「まだ! まだ負けてませんから!」
なとなとは強く言い放つと、最後の一発を銃に込める。
彼女が俺に景品数で勝つには、このコルクで三個の景品を落とすしかない。二個でも引き分けになる。
「ていっ!」
積まれたガムの箱。コルクはその上部を撃ち抜き、二つの箱が落ちた。
屋台のおっさんが景品をなとなとに渡し、お礼を言ってからその場を離れる。道の端っこ、少しだけ屋台の途切れた所で立ち止まった。
「どうですかばあちゃるさん! 二つ落としましたよ二つ!!」
「すごいっすねなとなとー! やっぱ風紀を正す以外は何でも出来るんすねえ」
「風紀も正してます!! ……罰ゲーム、どうします?」
「あー、無しで良いんじゃないすか?」
「そうですよね。平和に終わらせたほうが良いですもんね!」
はー、と胸をなで下ろしたなとなと。
そうだ。罰ゲームを、何も本当にやらせようなんて思っていない。結果が、引き分けであれば。
ポケットに手を突っ込んだ俺は、景品を一つ取り出す。さっきの射的で落とした、小さな髪飾りを。
「実はですねなとなと、さっきばあちゃるくんね、景品でこんな物落としたんすけど」
「え? わっ、これ凄く可愛いですね! これ、何のお花ですか?」
「ばあちゃるくんにはね、分からないんすけど」
「えー……」
「こんな綺麗な髪飾りをね、ばあちゃるくんが持ってても仕方ないんでね、はいはいはいこれねー、なとなとが受け取ってくれるとありがたいんすけどね、どうっすか?」
「え!? くれるんですか!?」
「もちのろんっすよ! この髪飾りもなとなとに付けてほしいと思うんでね、どうっすかね?」
「……じゃあ、貰っても良いですか?」
「はいはいはい、いやーなとなとやっぱ滅茶苦茶良い子っすね!」
「ふふふ、ありがとうございます。そうだ、ばあちゃるさんが付けてくれませんか?」
「良いっすよー! どこら辺っすか?」
「えーと、じゃあ、この辺にお願いします」
なとなとの指さした処に、丁寧に髪飾りを付ける。それに触れながら微笑むなとなとを眺めつつ、俺は彼女に言葉を掛けた。
「……これでですね、ばあちゃるくんの取った景品が二つになったんでね。ばあちゃるくんの負けっすね」
「え? ……ええっ!? そんな、私そんなつもりじゃ無かったんですけど!」
「だいじょーぶだいじょーぶっすよはいはいはいはい、ばあちゃるくんがね、自分からやった事なんでね! じゃあなとなと、ばあちゃるくんに何でも言って良いですからねー。焼きそば十個奢れ! とかね、まあそれくらいならやりますからね!」
「えー……」
なとなとは少し言葉を切り、悩み、それから顔を上げた。
「じゃあ、ばあちゃるさん」
「はいはいはい、なんでもね、良いっすからね!」
彼女は俺に目を合わせる。純粋な力強さに、溢れそうな意思の宿る瞳に、顔が動かせなくなった。
「今日の事を、この瞬間を、ずっと覚えてて下さい。それが罰ゲームです」
「えぐー! え、一生っすか!?」
「ずっとって言ったじゃないですか!」
「やばーしーやばーしー……いやばあちゃるくんね、とんでもなく忘れん坊将軍なんすよ」
「知ってます。シロさんが言ってましたし。だからこそですー。ばあちゃるさん、すーぐ忘れちゃうんですから」
「いやー、好きでね、忘れてるわけじゃないんすよ……」
なとなとが頬を膨らませる。心当たりが無数にある俺がたじたじになっていると、なとなとの方から表情を崩した。
彼女は手を伸ばし、さっきと同じように俺の手を取る。存在を確かめるように指を絡め、ぎゅっと握った。
「大丈夫です。ばあちゃるさんが忘れっぽくても、私が忘れないようにしますから」
「……そうっすか。じゃあ、安心っすね」
「任せてくださいよー。あ、でもばあちゃるさんも努力してくださいね! 少しは!」
「はいはいはい、もう努力しますからね完全にね!」
そして、彼女が優しく俺を引っ張る。楽しそうに笑う彼女の後を追って、歩幅を合わせて。着飾った彼女の事を、『普通に』見れるようになった頃には――
八重沢なとり以外の全てが、ぼやけた光になっていた。
それにしても。
女子の別腹とは怖いものである。シロちゃんのお菓子係として知っていた事ではあるが、小食のなとなとでさえもこんなに食べるとは。わたあめにベビーカステラ、みずあめにクレープ。今は手にりんごあめを持っている。
俺も何回か手伝わされた。甘い口の中をふりふりポテトなどで中和しても、直ぐに次が飛んでくるのだ。
それでもまあ、担当アイドルが楽しそうだから良しとしよう。
なんて感じで祭りを楽しんでいたら、花火の時間が迫ってきた。人々はぞろぞろと、よく見える場所へと移動し始める。
「ばあちゃるさん、花火を見る場所って決まってるんですか?」
「それなんすけど……なとなと、ちょっと歩いても平気っすか?」
「はい。大丈夫ですよ」
「今から行く場所なんすけど、ちょっとね、花火が見えにくいかもしれないんすよ。なんで迫力には欠けるかもしれないんすけど、周りに人がいない方が気兼ねなく楽しめるかなーって思ったんすけどね、どうっすか?」
「ばあちゃるさんが居るならどこでも良いですよ。行きましょうか?」
「えっ」
「え? ……行きましょう早く行きましょうばあちゃるさん! ほら! 時間がないですよ!」
ぼふん、という効果音が聞こえるくらいに、なとなとは顔を真っ赤にした。俺でも照れ隠しだと分かるくらいに、彼女は強引に歩き始める。未だに繋がった手と手。行き先を教えながら、なとなとと歩くこと十五分程。
「……あれ、そんなに離れてない気がするんですけど……全然人が居ないですね」
「ここはっすね、メンテちゃんにお勧めしてもらった場所なんすよ。花火は少し小さくなっちゃうんすけど、だーれも居なくてね、静かに見れるんすね」
「へー……あっ、ばあちゃるさん! 丁度始まりましたよ!!」
そして。
俺となとなと以外誰も居ない河川敷から見える、遠い夜空で、花火が打ちあがった。
赤、青、黄、緑、白、紫。
あらゆる色が、あらゆる形に散っていく。微かに聞こえる音が、消え去る瞬間の寂しさを掻き立てる。
「思ったより見えますね! 凄い、凄い綺麗じゃないですか!」
「これはとんでもない凄さっすね完全にね。人生で一番凄いっすよこの花火ー!」
なとなとが、空を見上げたまま声を上げた。
テレビに映るのも納得の素晴らしさ。絶え間なく、しかし緩急は付けて花火は打ち上げられる。
大きい一発も、小さい花火の連発も、全てが心を震わせた。
夏の夜風が肌を撫でる。半分くらいのりんごあめを手に、花火を見る彼女。
俺はじっとその姿を見つめ、やがて空に目を移した。
……そして、時間が経ち。
恐らく最後の、花火が上がる。やけに遠い青の花を、誰も居ない河川敷で見上げた。
風が草を揺らす音。水が流れる音。余韻を残す大音は、残滓と共に溶けていく。
時間的に、最後の花火が打ち出された。黄色の軌跡を残し、暗い空を駆け上がる。会場からは少し離れたここでも、ひゅううう……という音が聞こえ。
大空に、花火が散った。
最後に相応しい、とても綺麗で力強い、花だった。
「凄かったですね! お祭りにも人が沢山居たし、花火も量が多いし種類も沢山あって……!」
「はいはいはい、楽しんでね、貰えたらばあちゃるくんも嬉しいっすね」
「楽しかったです! ただもちさんにはちょっと悪いことをしてしまったので、なんか埋め合わせをしないとですね……」
「それはね、ばあちゃるくんがやっておくんでね。なとなとは気にしないで良いっすよ」
花火が終わった後。電車が混み始める直前に、俺たちは目当ての駅に帰ってくる事が出来た。
今はなとなとを家まで送っている。人通りの少ない夜道、一人で返すわけにはいくまい。
因みに後日、俺の財布は薄くなった。クレープは案外、値が張るものなのだ。
「ばあちゃるさんはどうでしたか?」
「あ、それ聞いちゃうー? 実はですねー、年甲斐もなくめっちゃ楽しんだんすよ」
「精神年齢的には合ってるんじゃないですか?」
「ちょいちょいちょーい! なとなと馬鹿にしすぎっすよばあちゃるくんのことー! ばあちゃるくんの精神年齢はね、軽く見ても1500歳はありますからねこれ完全にね」
「元カノですか? 忘れちゃいましょうそんな人たち」
「辛辣っすね……」
どこかでなとなとの反感を買ったらしい。繋いだ右手が強く締め付けられた。
今の時刻は九時十五分くらい。ギリ補導されないレベルの時間帯に、ようやくなとなとの家に着いた。
「送ってくれてありがとうございます」
「はいはいはい、当然のことっすからねこれくらいね!」
「そうなんですか?」
「そうっす」
なとなとがへー、と頷く。会話も途切れ、場所も丁度良い。俺は彼女と繋いでいた右手から力を抜き、するりと手を引き抜こうとする。
が、しかし。俺が力を抜いた分、なとなとが唐突に力を込めた。がっちり掴まれ、手が抜け出せない。
「な、なとなとー? もう遅いんでね、なとなともそろそろ家に入った方が良いんじゃないっすかねはいはいはい」
「……そうですね」
一言、彼女は呟いた。
直後。なとなとの空いた右手が俺の首をホールドし、そのまま下へと持っていかれる。
「えっ」
「――んっ」
静止は間に合わず。
彼女の唇が、しっかりと俺に触れた。
熱と感触を、二度と忘れられないくらいにしっかりと刻み込んだ。
「……ばあちゃるさん」
唇を離し、いや、唇を動かせるだけの間隔を空けて。時々触れ合うくらいの距離で、彼女は俺の目を真っすぐに見据える。
「これで、二度と忘れられなくなりましたか?」
ダメ押しの如く、もう一度キスをされる。
今まで見たことのない、艶やかな表情。唇を下で舐め、なとなとは俺に手を振った。
彼女が家に帰っていく。ドアが閉まると同時に、ただいまという声が聞こえる。
動かなければ。さっさと帰らなければ。
なのに。
「……俺、ここだけ忘れてえなあ……」
衝撃は抜けきらず。足をそこに留まらせるには、十分すぎる威力を受けていた。
――☆――☆――
「……ふう……やっぱおせんべいって美味しいっすよねえ……」
「どうしたんですかばあちゃるさん」
「あー、メンテちゃんっすか。いやあ、今日があのー、イメージビデオ発売日なんすよね」
「ああ……なるほど。今日明日は、アイドル部の部室に近寄れないですね」
「ばあちゃるくんもね、もう二度とあんなに尋問を受けたくないんでね」
「そんなに酷かったんですか?」
「……聞きたいっすか?」
「遠慮しておきます」
メンテちゃんはここ、私立ばあちゃる学園ではばあちゃるの秘書という立場にある。学園長であるばあちゃるはただでさえ他の所の仕事が多いので、メンテちゃんもカバーに入ったのだ。
今日は平日。その放課後、ばあちゃるは絶対に学園長室を出てなるものかと決意していた。
「今回の出来はどうだったんですか?」
「向こうの社員さんに教えてもらったんすけど、会議は一発突破。寧ろ映像が上がる前から量産体制を作り出してたとかっすね」
「早計過ぎませんか向こうの会社」
「それだけね、期待してもらってるって事っすよ。アイドル部の皆はもう最高に良い子たちなんでね、自信持って期待に応えられますね完全にね!」
ばあちゃるはお茶を一口含み、息をついた。今日も今日とて仕事が多かったのである。
これからも増える可能性が無きにしも非ず。せめてこの時間だけは、安寧の時を。
そう、願っていた。
ドンッ!
『馬ぴー? 開けてくれると、ちえりすっごい嬉しいなあー』
「メンテちゃん。ばあちゃるくん急用を思い出したんで逃げま出掛けますね」
「ダメですよダメですよばあちゃるさん私にどれだけの仕事を担わせるつもりですか」
『うまP!! 開けてよー!』
「ごんごんにちえりん……フィジカルで抑えに来てるんすかね」
「勝てないですよ私」
『……はあい。把握しました』
「ちょっ、きそきそまで居るんすか!? えぐー! いやこれやばーしーっすね!?」
「窓!」
『無駄、と、思いますう」
窓は開かなかった。
しかし、部屋のドアは開いた。鍵を掛けていたはずなのに、それは音を立てて開いたのだ。
「……きそきそ、何やったんすか?」
「この部屋の構造を把握し、プログラムに落として、動画編集神に改造させました。これくらいなら、まあ」
「えぐー……」
開かれたドア。後ろから、ぞろぞろと入ってくるアイドル部。
全員が入った……かと思えば、そこには一人足りていなかった。
「あれ? なとなとは?」
「あたしが今呼び出したよー」
そして、数分後。
来なければ良いのに、なとりはわざわざ来てしまった。嫌な予感は感じていたが、彼女は来てしまったのだ。
頭には白い花の髪飾り。彼女は学園長室を覗いた瞬間に踵を返したが、めめめといろはには勝てず――
「……馬P、お祭り行ったのに私のこと誘ってくれなかったんですか?」
「いやーそのー、何とか許してくれないっすかねたまたまー?」
「おうまさん、ズルいです! 私も行きたかったんですよ!」
「ああああ、ピーピーごめん、そうっすね、いつか皆で行きたいっすね!」
「八重沢ぁ……風紀委員長ってなんだっけなあ?」
「……っ」
「八重沢ぁ……風紀、乱れてるぜえ?」
「……!!」
「その辺にしときなよ! めめめ!」
「いろはさん……!」
「だって風紀=なとちゃんでしょ? 常に乱れてるに決まってるじゃん! 元からだよ!」
「違うんですううううううううう!!!!!」
ばあちゃるとなとりは、他のアイドル部から責めに責められまくった。
それはもう、コテンパンにされたのだった。
そんな中。メンテちゃんは一人、お茶を飲んでいた――。
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制服、放課後、遊園地!
私立ばあちゃる学園。その正門に、俺は立っていた。
身を包むのは、この学園の制服。……ではなく、自前のブレザーである。この学校は女子校なので、元々男子の制服は存在しない。
では何故、成人済みの男である俺が制服を着ているのか。この高校の前に居るのか。
答えは簡単なようで、複雑だった。
丁度、学園が終わったらしい。昇降口から生徒が出始めた。
そんな中、走る影が1つ――
「ごめーん、待ったー?」
「あ、ちえりーん! 全然待ってないっすよ!!」
声を掛けてきたのは、花京院ちえりと言う少女。
現在は昼前。今日は平日ながら、学園が午前で終わる日。
そして、俺……ばあちゃるが、花京院ちえりとデートをする日だ。
しかも制服で。学生時代のブレザーで。
事の発端は、2週間ほど前に遡る。
――☆――☆――
アイドル部イメージビデオプロジェクト。それは部員一人一人にシチュエーションを設定し、ビデオを撮影。それを販売するというプロジェクトだ。
そのプロジェクトの、第3弾が始動した。
次のテーマは「制服、放課後、遊園地!」。
抜擢されたのはアイドル部所属、花京院ちえり。
彼女のアイドル衣装は学校の制服っぽい。今回は放課後デートを題材としたデートなので、制服のイメージが強い彼女を起用。遊園地に対して縁があることも含め、適役と言えるだろう。
第二弾の売り上げは、第一弾に負けず劣らず。
社員から結果と企画を話された二人は、同時にお茶を飲んだ。
「いやー……それにしても凄いっすね。ばあちゃるくんここまで伸びるとは思ってなかったんすよ」
素直に呟くばあちゃる。いつも通りの青スーツを着る彼は、態度もまたいつも通りだった。
そう。外見上は。
彼の思考は現在、もしカメラ役を任されそうになった場合、どう逃げるか――その演算をしていた。これ以上アイドルとプロデューサーが関われば、炎上しかねない。プロデューサーとしてそれだけは出来ない彼は、三回目こそはと意気込んでいた。
対して。
花京院ちえりは、その事が分かっていた。ばあちゃるがそういう男だと理解している彼女は、今も彼の一挙一動に目を光らせている。なんとしてでもばあちゃるにカメラ役をやって貰う。ちえりはそんな思いを抱えていた。
「……はいはいはい、この条件ならね、ちえりんもね、とんでもなく可愛く撮れるんじゃないんすかね! やりましょうこれ!」
「ありがとうございます。……それでは此方が協力してくださる遊園地の資料です」
お礼を言いつつ、ばあちゃるは封筒を受け取った。丁寧に鞄に仕舞い、彼は社員に向き直る。
そして恒例の流れの通り、社員が口を開いた。
「次に決めたいのが、カメラマンです。目線にカメラを付け、撮影をして頂く役です。花京院ちえりさん、何かご要望はありますか?」
「……ねーえうまPー?」
「……なんすかちえりん」
「たまちゃんとかなとちゃんの時はカメラマンやってましたよね? 今回もやってくれないですかあ?」
「あの時はまだ何も分かってない状態だったんでね、ばあちゃるくんがやったんすけど、まあ今回は他の人に任せた方が良いんじゃないすかね!」
「ちえりー、どうせなら安心しながら撮影したいと思ってるんだけど……プロデューサーなら安心出来ると思わないですかー?」
「アイドル部の子はどうっすか? ふたふたとかね、頼めばきっとやってくれると思うんすけどね!」
両者譲らず。ばあちゃるは人望が厚い。アイドル部の子を撮影役にするのを回避しても、彼が頼めば撮影役をしてくれる人は居るはずだ。その時、その相手が花京院ちえりより先輩だった場合。ちえりは断れず、ばあちゃるとの撮影は泡となって消える。
正面突破は不可能。
そう判断したちえりは、そっと顔を伏せた。
「……うまP、ひどい……二人にはやったのにちえりはダメなんだあ……」
「えっ」
「ちえりもっ、うまPに……好きになって欲しかったなあ……」
ばあちゃるは硬直する。まさか泣かれるとは思ってなかった彼は、忙しなく動き始めた。
ちえりの顔は伏せられていて見えない。しかし嗚咽が聞こえるし、声は震えている。この状況でその涙を放っておけるほど、ばあちゃるは非情では無く。
「あ、ああ……分かった、分かりました! ちえりん、ばあちゃるくんが撮影するんでね! ちょっと泣き止んで……やばーしー……」
「ほんと……? うまPやってくれるの……?」
「もちろんっすよちえりん! ばあちゃるくんに任せて欲しいっすね!」
ドン! とばあちゃるは自身の胸を叩いた。強く頼もしさをアピールしつつ、ちえりを慰めようと少し近づく。安心させるように声を掛けながら、彼は彼女の手を握った。
瞬間。
「じゃあそういう事でお願いします! うまP、ちえりをかわいーく撮ってね?」
「……あれ?」
驚くばあちゃる。にっこにこの花京院ちえり。
――嵌められた。
ソファが軋む。背もたれに体重を預けた彼は、自分自身のちょろさを呪った。
――☆――☆――
とまあ、そんな訳で。
まんまと騙された俺は、再びカメラマンとなったのだ。
制服のまま来たのは、有名なファストフード店。二人掛け、向かいの席でちえりんはハンバーガーに噛り付いていた。
「これ食べたら電車に乗ってー、すぐに遊園地行っていい?」
「良いっすよ! なんか買い物とか無いっすよね?」
「うん。特にはないかなー」
きちんと飲み込んでから、彼女は口を開いた。交通手段は電車を用いるらしい。リムジンは使わないのか。その問いには、『高校生らしくない』との返答が返ってきた。
「……あのー、ばあちゃるくんのブレザー大丈夫っすか? なんか痛々しいコスプレ的な雰囲気出たりしてないっすよね?」
「あー、うん。大丈夫じゃない?」
「ちょいちょいちょーい! 適当っすぎっすよちえりーん!」
「うまP見た目若いからなんとかなるって。ちゃんと身だしなみ整えてるしさー」
「まあ我慢するしかないっすよねー……」
今更着替える物も無い。食べ終えたハンバーガーの服を丸めて、俺達は席を離れた。
下調べはしっかりとしてある。迷うことなく、目的の電車に。
ここからは八駅程度。僅かな時間だ。
「……うまP大丈夫?」
「よゆーっすよ完全にね!」
俺が、押しつぶされかけてなければ。
電車内は人が滅茶苦茶多かった。壁際に立っているちえりんが潰れないように守っている俺に、電車が揺れるたびにとんでもない重さがのしかかってくる。無論、ちえりんと俺の距離は限りなくゼロに近い。触れはしないラインは保ちつつ、彼女への負担を減らしているのだ。
彼女の頭がすぐ下にある。艶やかな栗色の髪が綺麗だ、なんて事を考え続け。
「着い、た……」
「ありがと、うまP……もう少し体重かけて良かったのに」
「そんな事したらばあちゃるくん炎上しちゃうんでね! あれくらい全然問題ないっすよ」
「その割には疲れているのではー?」
「いやまあそのー……」
ニヤニヤと笑うちえりん。言葉に詰まる俺。
疲れたのは事実だが、今日はデートという名目だ。エスコートするのが男の役目でもあるから、いつまでも疲弊しているわけにはいかない。
「……じゃあ、行きましょうかちえりん」
「はーいっ」
一息吐いてから、俺は歩き始める。彼女は直ぐに横に並ぶと、止める間もなく俺の手を取った。驚き手を離そうとするも、それは叶わず。中々に力強い握力の元……ちえりんを見ると、それはそれは可愛らしい――もしくはあざといと言うべきか。とびっきりのウィンクを決められ、黙らざるを得なかった。
……花京院ちえりと言う少女は、自分が可愛いと分かっている。
時々不安になるのか、コメントで視聴者に可愛いと言って貰う事を求める一面もあった。
が――基本的に、可愛いという自負は常だ。故に、ただ純粋にひたすらに。
ちえりんの狙って行う『可愛い』は、分かっていても来る物があるのだ。
空いた手で、俺はネクタイを緩める。yシャツ第一ボタン、それにブレザーの前も開けた。
「あー、着崩してるー! なとちゃんに言っちゃおっかなー?」
「ばあちゃるくんは私立ばあちゃる学園の生徒じゃないんでね、セーフっすよセーフ」
高校の頃の制服。高校の頃のスタイル。何年振りだろうか。正直考えたくも無い。
遊園地は目前。大きな観覧車が、ゆるりと回っていた。
チケットを買い、入園。入り口で貰ったマップを見つつ、ちえりんが俺を引っ張っていく。手は繋がれたまま、微笑みながら進む彼女。制服の相乗効果もあってか、青春特有の甘酸っぱさを密やかに感じていると。
「ちえりん。ばあちゃるくんね、順番って結構大事だと思うんすよ」
「まあー、確かに」
「いやそう思ってないっすね完全にね」
「えー、初っ端これの何が悪いのー?」
「……初手ジェットコースターは中々チャレンジャーすぎると思うんすよばあちゃるくん」
なされるがまま。彼女に逆らわず付いていったら、たどり着いたのは名物のジェットコースターだった。日本国内でも屈指の長さを誇り、高低差も激しい。生半可な気持ちで乗ると後悔する……マップにもそう書かれている。
「最初はね、メリーゴーランドとか乗ってね、ゆっくりゆっくり気持ちを高めてからの方が良いと思うんすよばあちゃるくん」
「まあまあ」
「まあまあで済ませちゃダメっすよちえりん! 嫌っす! このレベルのジェットコースター、流石のばあちゃるくんでも最初に乗りたくないんすけど!」
「まあまあ。あ、二人分お願いしまーす!」
「ちえりーん!!」
無慈悲。彼女は俺に目もくれず乗り込み、隣の席を叩く。
……コースターの行く先。レールは、高く高く上がっている。首が痛くなるくらいの高さだ。
俺は諦め、観念し、後悔しながら、一番前の席に座る。上から降りてきた黒いバーで体を固定。隣のちえりんは、満面の笑みを浮かべていた。
たった数分。されど数分。
地獄というのは、いつでも容赦ないダメージを負わせて来るものだ。
「あー! すっごい楽しかったー!」
「……やばーしー……やばーしー……いやこれマジでもう……」
「ここでちえりが無理やり引っ張っていくのと優しく気遣うの、どっちがポイント高い?」
「映像的にはどっちも欲しいっすね」
「なるほどー。つまり二回乗ろうって事ですよね?」
「優しくして欲しいっすね完全にね! いやーちえりんの優しさが欲しいなーばあちゃるくん! ちえりんの可愛さなら直ぐに復活できますねはいはいはい」
「もー! 仕方ないなー?」
元気溌剌。絶叫系で疲労するどころか、テンションが上がった様子だ。意味が分からない。未だにふらふらする俺を、彼女はベンチへと引っ張っていった。そこは周りにほぼ乗り物がない、園の端っこ。ジェットコースターの面積を取るために出来た、空きスペース。
「はい座ってー」
ちえりんに促され、俺は腰を下ろす。
「はい力抜いてー」
背もたれに体重を預ける。
「はい横に倒れてー」
……それには従わず、目元を抑えた。遊ぶ時間を確保するためにも、休む時間はなるべく少ない方がいい。まあ、たかだかジェットコースター。三分もいらないだろう。
そこまで考え、俺は目を開いた。
直後。ぐいっ! と肩を掴まれ、引っ張られ、横に倒される。腹部に衝撃が走るも、頭は柔らかい場所に着地した。少し引っかかる布が頬に触れる。心地よい温もりがじんわりと伝わって来る。
……これは、燃えるやつだ……!
俺は咄嗟に理解する。自分がどういった状況にいるかを把握し、反射的に起き上がろうとした。
そう、起き上がろうとしただけ。
「うまP、ちゃーんと休んでね?」
「ちょっ……ちえりん力強すぎないっすか!? アイドルの腕力じゃないっすよこれ!」
「そんな力強く無いですよー!」
力負け。彼女の腕に抑え込まれ、膝枕の状態から脱出出来ない。
一切緩まない力。抗う気力を削いでいく心地よさ。攻防は数十秒続き、そこで俺は諦めた。
「……二分くらい、膝枕してもらって良いっすか?」
「もー! しょーがないなあー! 別に一時間くらいでも良いよ?」
「そうするとね、アトラクションで遊ぶ時間が沢山減っちゃうんでね! 寧ろもう行っても良いんすけどね」
「折角ちえりが膝枕してあげてるんだからもっと味わえば良いのに」
「いやー、燃えちゃうんでダメっすよ」
「バレなきゃ良いじゃん」
「物騒な考え方っすねこれ完全にね。いやでも、ちえりんの膝枕気持ち良いっすねー」
「そう? ……うまPずーっと頑張ってるから、これくらいならいつでもしてあげるからね」
「そんなに頑張ってるように見えます?」
「いや毎日毎日残業しといて頑張ってないは無いでしょ」
「……あー、バレてるんすねそれ……」
「バレてたらダメなの?」
「だってほら、キャラじゃないっすよそんなん! ばあちゃるくんはー、寧ろ毎日定時で上がってへらへらしてるような奴じゃないすか? 仕事頑張ってるのは、ばあちゃるくんらしくないっすよー!」
隠しているつもりだった。ばあちゃるという存在は、いざとなればアイドル部の為に切り捨てても良い物にしなければならない。その為には何よりもまず、彼女たちの信頼を落とさなければならないのに。
そう、プロデューサーなんて立場だけでいい。俺の言葉を伝えるのはシロちゃんとかに頼んで、俺は盾にさえなれれば良いのだから。
「……ねえ、こっち見て?」
彼女に声を掛けられ、そっと体を動かす。ちえりんの綺麗な瞳と、視線が交わった。
「ちえりが膝枕してる時は、貴方を休ませてあげる」
直後、視界が隠された。さわさわと葉が揺れる音が良く聞こえる。風が服をなびかせ、汗を冷やした。
コースターの疲労なんぞ、とっくに吹き飛んでいる。でも、俺はそこから離れる事が出来なかった。
結局、ちえりんには十五分くらい膝枕して貰っていた。予定より何倍も長い休憩時間。撮影に対して焦りはあるものの、不安は一切無く。
「いやもう最高っすねちえりんの膝枕ね! 疲れなんてもうぱいーん! て感じで吹き飛びましたよ完全にね!」
「そこまで言ってくれるとやった甲斐があるなあ! ……うまPが頼んだら、いつでもやってあげるからね?」
「マジンガー!? まあもうね、頼まないと思うんすけど」
「うっそだろおい」
「いやほら……立場的に危ういんでね、なんか猫にでも癒されますよ」
「猫ー? えっそれ完璧にちえりじゃーん!」
「えー嘘! どこが!?」
「……にゃん」
「とってつけたにゃんじゃないっすか! いやーそんなん猫にカウントしないっすよ」
「めっちゃ可愛いちえりちゃんのにゃんだよ! カウントされるよ!」
「それ圧力ってやつっすよ圧力」
「あ?」
「それ! それっすよちえりん!」
言論統制。独裁だろうか。
そのまま清楚とは何か――と言う哲学に突入したところで、二つ目のアトラクションに到着。前の絶叫系とは一転、ほぼ誰でも楽しめるゴーカートだ。
「おー、一人乗りと二人乗りがあるんすね」
「そーなの! 普段ならどっちも混んでるけど、流石に今日は混んでないなあ」
「楽で良いっすね! じゃあばあちゃるくん先に行きますね!」
「んん!? うまP、そっち一人乗りだから!」
「……え? そりゃそうっすよ。ばあちゃるくんこっち選びましたもん」
「撮影があるでしょ!」
「え、二人で乗るんすか!?」
「当たり前じゃんもー!」
ちえりんはそのまま一人で受付へ。慌てて後を追い、ちえりんの相方としてカートに座る。運転席に追いやられた俺は、係員の合図と同時にアクセルを踏んだ。
「飛ばせ飛ばせー!」
「……この撮影すずすずとじゃなくて良かったっすね」
「あー……。事故りそうだなー」
「絶対ブレーキ踏まないっすからねすずすず。確実に前のカートに衝突しかけるでしょ」
「うまP免許持ってるんだっけ?」
「一応持ってますよ。そんなに遠出しないっすけど」
「ふーん。ドライブ行く時に誰か誘ってみれば?」
「ドライブにそんな行かないんすよね……まあピーナッツ君とか誘ってみますかね」
「でもうまP。可愛い女の子とドライブしてみたくない?」
「いやまあしたくないって言ったら嘘になりますよそりゃあ」
「……誘ってみない? かーわいい女の子」
「ちょいちょいちょーい! 怪しい店っぽくなってますねこれ完全にね! でもあれっすよ、ばあちゃるくんが誘って来てくれる女の子なんて居ないっすよ」
「もー! しっかたないなあー! ちえりが助手席に乗ってあげる!」
「じゃあお願いしますね」
「……え?」
視線だけ動かし横を見ると、ちえりんは呆然としていた。特徴的な目は見開かれ、小さな口も空いていた。予想以上のリアクションだ。
「冗談っすよ――
「言質取ったからねうまP」
俺が笑い飛ばそうとした瞬間。食い気味に言葉を被せてきた。
前を確認してから、横を見る。隣のちえりんは、興奮を隠しきれないとでも言うように、頬を緩ませ。
「ちえり、大体夜は暇だからー、配信が無い日ならいつでも付き合えるよ?」
「いや、だからちえりん、冗談っすよ冗談!」
「聞こえなーい! 楽しみにしてるからね、うまP!」
圧殺。
ヤンキー節ではなく、少女の純粋な喜びに負けた。俺は自分をあまり好きではないから、卑下する傾向がある。それを認める。そのことは自覚している。
……だが、ちえりんの笑みは本物。アイドル部プロデューサーとして、ずっと彼女を見続けてきたからこそ、それを否定できない。
そしてその笑みを砕く事を、俺は良しとしない。
自分のポリシーで、自分の首を絞める事になろうとは。
ゴーカートを降りると、ちえりんは突然腕を組んできた。何がとは言わないがむぎゅーっと当たる。離れようとしても離れられない。ガチ目な腕力だった。
その後、閉園時間間際まで俺たちは遊んだ。
メリーゴーランド、スカイサイクル、フリーフォール。連れて行かれるがままに、遊園地内を駆け巡ること数時間。
空はすっかり茜色に染まり、遠くの空はもう暗かった。
時間的に、次が最後のアトラクションだろう。
「そろそろ帰んなきゃなんすけどー、折角なんでね、最後に何か乗りましょうか!」
「やっぱ最後は定番の観覧車でしょー!」
と、言われ。観覧車に行くと、ここだけ列が出来ていた。最後に乗っていこうという人が集まったのだろうか。カップル、家族連れ、友人同士……様々なグループが入り混じっている。とはいえ、今日は平日。並んでるとはいえ、ほんの数分で観覧車に乗りこめた。
「どうする? うまP。隣に座る?」
「いや、向かい合った方が良いっすね」
「ん、分かった」
ここはカメラマンとして指示を出す。ちえりんはバッグを椅子に置き、自身も腰かけた。
窓からは夕陽が差し込み、彼女に美しい陰影を付ける。白い肌は空の色に。静かな音を立てて上っていく観覧車。暫く無言で景色を見ていたちえりんは、突然苦笑いを浮かべた。
「どうしたんすかちえりん」
「……あー、その、控えめに後ろ見てみて?」
控えめに。俺は横の窓から景色を見る……ふりをして、視線だけで横を伺った。
そして全てを察する。隣の箱の中で、カップルがそれはもうとんでもなくイチャイチャしていたのだ。見てるこっちが照れてしまうレベル。ちえりんの表情の意味を理解し、にやけを堪えながら顔の向きを戻す。
瞬間。
ドンッッ!! と、顔の横の窓が、割れそうなくらいに強く叩かれた。
いや、手が押し付けられた。眼前には、花京院ちえりの顔。その端正な作りを、改めて脳に刻み付けられる。
「ねえ……うまP」
彼女の左手が、俺の顎を撫で、頬を支える。口角を釣り上げた彼女は、吐息の触れる距離で口を開いた。
「ちえり達も。……あーんな風に、キスする?」
壁ドン。顎クイ。座ってる俺に対して、膝立ちで見下ろしてくる彼女。
全てが、脳の処理を、圧迫し、鼓動を、速めている。
舌で唇を濡らしたちえりんは、俺の返事を待たずに顔を近づけた。近づく瞳に言葉が詰まる。右腕で彼女の肩を抑えるも、些細な動作で振り払われ。
――覚悟を決めた。決めなければならなかった。
「ふふっ、めっちゃ構えてるじゃんうまP-!」
「……えっ?」
「もー、ちえりはたまちゃんとかなとちゃんと違ってアイドル忘れてないよー!」
「えぐー……ばあちゃるくん完全に手玉に取られてるじゃないすか……」
「んふふー、ドキドキしちゃった?」
「いやー、まだまだ甘いっすねはいはいはい! ばあちゃるくんをドキドキさせるにはですねー、やっぱ大人の魅力的なのがないとね! ちえりんにはそこが足りない感じですね完全にねはいはいはいはい!」
ちえりんから顔を反らし、俺はまくし立てる。早鐘を打つ心臓を悟られない様に。
だが。俺が、甘かった――。
「愛してる」
窓に付いた手を曲げて、彼女は俺に体ごと近づける。まるで抱き締めるような態勢のまま、ちえりんは耳元で囁き始めた。
「大好き。いつも笑ってるとこが好き。真剣な顔が好き。手袋をする時の動作が好き。頑張ってるのにそれを見せびらかさないとこが好き。頭を撫でてくれる時が好き。忙しくても時間を縫って会ってくれるところが好き」
一切、考える暇を与えない。
ダイレクトな告白に、顔が熱くなる。今まで向けられたことのないくらいにドストレートな好意。脳が沸騰しそうだった。
……観覧車は地上へ。扉が開く直前、ちえりんの熱い吐息が耳を包んだ。
「うまP、大好き」
いつもいつも、無駄にうるさいと言われた口は回らず――。
腕を組んだ彼女に連れられ、観覧車を離れる。結局、遊園地を出てもいつもの調子は戻らなかった。しかし、何故かちえりんは楽しげだった。その事に安心しつつ、電車の中で、俺は調子を整える。いつもの自分を思い出す。はいはいはい、えぐー、まじんがー、やばーしー、よし。行ける。
電車を降り、改札を出た後。夕暮れ、駅前の噴水広場まで歩き、彼女は振り向いた。
「今日はありがとね! ちえりすっごい楽しかったー!」
「はいはいはい、楽しんで貰えたなら良かったっすねこれ完全にね!」
「でもなー、うまPちょっと情けないとこもあったしなー?」
「マジンガー!? ちょいちょいちょーい! ばあちゃるくんね、これでも結構頑張ったんすよ!」
「ほんとー?」
「えぐー!!」
悪戯っ子のような笑みを浮かべ、ちえりんは首を傾げる。しかし、直ぐに笑みは優し気な物に。
綺麗な、燃えるような夕日を背景に、彼女は微笑む。
「本当に楽しかったー! ありがとー!」
そしてちえりんはウィンクをバシッと決め、大きく手を振りながら駆けていった。
俺も手を振り返す。夕焼けに向かって走る彼女は最後まで笑顔で、何よりも眩しかった。
――☆――☆――
「……ふう」
ちえりんが見えなくなったところで、俺は息を吐いた。半日遊園地で遊んだだけだが、予想以上に疲れている。ブレザーも早く脱ぎたい。今日はこのまま直帰していいとの指令が出ているので、すぐさま帰ろうと踵を返す。
「あ、もう切っていいっすよね」
それと同時に、カメラを切ろうとした瞬間。
「うまP」
「うおっ!? ち、ちえりんどーしたんすかもー! 忘れ物でもしたんすか?」
「んー、ちょっと。うまP、すこーし屈んでくれる?」
「別に良いっすけど……」
背後から声を掛けられたかと思えば、そこに居たのは帰ったハズのちえりんだった。彼女に言われるがままに屈む。すると彼女は一瞬で距離を詰め、額と額をくっ付けた。突然の接近に驚くも、何か言うより先にちえりんが口を開いた。
「……うまPがどうしてもちえりとキスしたいって言うなら……いつでもしてあげるからね……?」
それだけ言って。
たったそれだけの、短い、メッセージを残して。
彼女は最後ににたりと笑うと、ゆっくりと歩いて行った。呆然とする俺を置いて行った彼女は、
――最後の曲がり角で俺を一瞥すると、唇に人差し指を当てて、そのまま消えていった。
「……えぐー……」
カメラの切り忘れに気付いたのは、帰宅後。電池はギリギリで、若干焦ったのは別の話だ。
――☆――☆――
それはそれは穏やかな日の事。空は青く、太陽は高く、そよ風が吹いているような日。
「ばあちゃるさん! 壁生成完了しました!」
「流石メンテちゃんっすね!! いやもうやりおるウーマンっすねこれ完全にね!」
私立ばあちゃる学園学園長室。放課後、そこでは何とかして入り口を塞ごうとしている二人が。
今日はアイドル部イメージビデオプロジェクト第三弾の発売日だ。故にアイドルの襲撃を今度こそ防ごうと、彼らは画策していた。
まずは入り口を施錠。壁を硬く作り替え、いざとなれば窓から脱出出来るように梯子を設置。
そしてプログラムによる介入を防ぐために、メンテちゃんとばあちゃるが二人で部屋をプロテクトした。
準備は万全。内側から開けない限りは、絶対に開かない。
そう。
「……あれ、猫の鳴き声しません?」
「マジンガー? あ、本当っすね。てかこれあれっすね、この部屋のすぐ前じゃないっすか?」
内側から開けない限りは。
……ばあちゃるは猫の鳴き声につられ、扉を全開にした。
そして、それが間違いだった。
「……にゃーん」
「何してんすかたまたま……」
「にゃーん」
「猫の真似っすか? もー、何してんすかたまたまー」
「……ばあちゃるさん、彼女、アイドル部じゃないですっけ……」
「……」
「……にゃ」
「はいはいはい、さよならっすたまたま!」
「えいっ!」
扉を閉めようとした間際、扉の前にいた夜桜たまは足を隙間に突っ込む。まさかアイドルの足を痛めるわけにも行かず、ばあちゃるは扉を閉める手を止めてしまう。
それによって生まれる”隙”。たまは思いっきりばあちゃるに抱き着き、押し倒した。
「ウビバァ!! ちょ、ちょいちょいちょーい! 何するんすかたまたまー!」
「馬P、猫飼おうかなって言ってましたよね? 癒されるために」
「え? ……あー! イメージビデオのやつっすか!?」
「それです。と、言うことで私なんてどうですか?」
ばあちゃるは気づく。彼女の頭に、猫耳がついていることに。
ばあちゃるは気づく。彼女の名が、たまという猫っぽい名前のことに。
「……いやいや、何言ってんすかたまたま。たまたまは人間じゃないっすか」
「そーだよ!! 猫といえばあたしでしょ!?」
「ちょっと! 風紀乱れてますよ!!」
ばあちゃるの言葉に賛同したのは、駆け込んできた猫乃木もち。稲鞭を持って追いかけてきたのは、八重沢なとり。二人とも、ビデオ鑑賞の途中で駆け出したたまを追ってきたのだ。
「にゃ!」
「うわ喧嘩売られた! でもなー、あたしは尻尾まで生えてるんだよねー!」
「なーにマウント取り合ってるんですか! 二人ともれっきとした人じゃないですか!」
「狼は馬Pに飼ってもらえないからって邪魔しないで!」
「んなー!? そんな、そんな動機無いですから!」
わちゃわちゃと始まる論争。たまに馬乗りされたまんまのばあちゃる。ただでさえ収集が付きそうにない状況。
「ばあちゃるさん。……ドライブ、行くんですよね? トラックなんてどうですか?」
そこへ、追い打ちをかける様に、神楽すずがサングラスを掛けて入ってきた。
遠くから聞こえるのは、花京院ちえりの悲鳴と煽りまくっている金剛いろはの声。
騒がしくなる学園長室周辺。ばあちゃるは頭を抱えるも、彼女たちの声を、笑顔で聞いていた。
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クラスのあの子と夏プール!
アイドル部イメージビデオプロジェクト。第四弾。
企画名は、「クラスのあの子と二人プール」。
今までアイドル部の子が演じたのは、属性をつけるのならば『彼女』の立ち位置に属する。そこを、今回は一変。企画書には、『クラスの中でもカースト最上位であり、人気者のギャルJKと二人っきりでプールを楽しむ事になる』……と、記されている。
呼ばれたのは、アイドル部のプロデューサーであるばあちゃる。今日は猛暑日。いつもの青スーツは横に置き、Yシャツの袖を捲っていた。
隣にはギャルJK。金髪にピンクのメッシュ。会社が出してくれた水を、一瞬で空にした猫乃木もちが居る。
二人の向かいには社員。一通り目を通し、ばあちゃるは少しだけ表情を曇らせた。
「……あのー、コンセプト的には凄い良いと思うんすよ。もちもちはとんでもなく可愛いですし、水着になったら凄い映えそうですし。でもっすねー、だからこそプロデューサーとしてっすね、あんまりそういう目で見られるリスクを減らしたいんすよ。今回の設定的に、撮影は二人じゃないっすか。その時に撮影役の人が、もちもちに対して何か悪戯をしないかとか、周りの人がもちもちに何かしないかとか気になっちゃうんすよね」
「え? それプロデューサーちゃんが撮影してくれたら全部解決するんじゃない?」
「……はいはいはい、いやでもですねー、ばあちゃるくんもね、男なんでね! 今回は流石に遠慮しますよそりゃあ! もちもちも嫌っすよね?」
「いや、あたしはプロデューサーちゃんが撮影役でも良いよ? てかさ、プロデュサーちゃんはあたしが心配なんだよね?」
「まあ、そうっすね」
「逆に聞くけどさ、男の人がナンパしてきたときに払いのけることが出来る女の人、知り合いにいる?」
もちの言葉に、ばあちゃるはぐっと詰まる。電脳世界の女性は、基本的に魅力的だ。心当たりは一応あるものの、彼女たちが受けてくれるかは分からない。
「それにさ、プロデューサーちゃんが一番信頼して演技できると思うんだけど。親とかはなんか違うしさー?」
「……いやでもね、仮にばあちゃるくんが撮影するとしてもー、水着を見られるのって抵抗ありません?」
「アイドル衣装で配信出来てるから大丈夫!」
そっかー、とばあちゃるは天井を仰ぐ。背中は大きく開き、胸元はかなり視線を集める。肩も大きく露出している衣装が、配信時の恰好だ。中々刺激的な物となっている。
「それに、あたしはサービス精神旺盛だし? そこにプロデュサーちゃんも来てくれたら、水着でも行けるよ?」
「……水着……そうっすよね、他の子は危ういっすよね……」
ヤマトイオリ、神楽すず、金剛いろは。残った面々を振り返っても、猫乃木もちに敵う人材は居ない。
彼女はギャルと自称するだけあり、魅せ方を良く分かっている。ギャップも狙っていく一面もあり、女子らしい計算高さも持ち合わせていた。
彼女ならば、今どきの女子高生らしい――つまりは、求められている演技をする。
ばあちゃるはそう確信。改めて企画書を眺めてから、一度頷いた。
「……分かりました。社員さん、ばあちゃるくんが撮影役で、猫乃木もちがメイン。此方としては問題ないっすね」
「分かりました。ばあちゃるさん、毎回の撮影役、本当にありがとうございます」
「いやいやいや、こちらこそね、毎回企画を考えて来てくれてもう本当にありがたいっすねこれ完全にね! 目指せアニメ化! 目指せ漫画化! みたいな感じの目標を持ってるんでね、こうやって皆の魅力を広める機会をくれるのはもう本当にありがたいっすねはいはいはい」
社員とばあちゃるが握手を交わす。企画書は、そのまま受理された。数日後。
二人は、大きなプールで撮影に臨む事になった。
――☆☆――☆☆――
その日も猛暑日であった。セ氏35℃以上。40℃にも届きそうだ。夏空に浮かぶはずの入道雲は遠く遠く。日陰に入っていても尚、肌がじりじりと焼かれる感覚がある。汗はいくら拭いても止まらない。諦めた俺は、そのまま放置していた。
暑い。熱い。だがしかし、コンディションとしては最高だ。
プールでの撮影。寒くては話にならない。ここまで太陽が張り切っているのも、彼女を輝かせるためと考えれば、まあ容認出来る。プールの前には無数の人。既に列が出来ていた。日陰で待つこと三分、集合時刻の五分前。
彼女は小走りで、俺の方に駆け寄ってきた。
「にゃっほー! ごめんプロデュサーちゃん! 待たせちゃった!?」
「はいはいはい、おはよーもちもちー! 全然大丈夫っすよー! ばあちゃるくんがね、早く来すぎただけなんでね!」
ピンクのTシャツに、白の短パン。お洒落なサンダルに伸びる長い脚が美しい。キャップの位置を正した彼女は、額の汗を拭った。
「よし! じゃあ並んじゃお!」
長い列を辿り、最後尾に着く。途中、無数の視線に刺されたのは気のせいでは無いはずだ。
そう、改めて見なくとももちもちは美少女だ。華やかな、例えるならば太陽の様な。今回はクラスの中心的人物と、二人っきりでプールに来る事になったという設定。資料の時点で分かってはいた。が、予想以上に似合っている。
暑いが、脳を働かせない訳には行かない。しっかりと彼女の魅力を引き出さなければ。
数十分後。更衣室の中はギチギチで、ロッカーも端の方しか開いていなかった。貴重品だけを持ち、ブレスレット式の鍵を腕に付け、さっさと外へ出る。水着の人波に押されつつ、集合場所へと辿り着いた。
ここのプールは、種類が豊富なことで有名だ。
普通のプール、飛び込み台、流れるプール、波のプール、ウォータースライダー。どれも広く、子供から大人まで楽しめるつくりになっている。
周囲には既に沢山の人。開園直後からこの人の量ならば、恐らくもっと増えていくだろう。
決してはぐれないようにしよう。
と、決意を固めると同時。視界の奥に、きょろきょろと周囲を見回しているもちもちが見えた。
「もちもちー!」
「あ、居た!」
彼女は俺の下へ駆け寄ってくる。周囲の人々は、もちもちに釘付けだ。
「お待たせ!」
「待ってないっすよ! ……いやー、やっぱもちもちはね、最高に可愛いっすねこれ完全にね! とんでもなく似合ってますよその水着ー!」
「え!? そーお? んふふ、ありがと!」
少し赤の濃い……ピンク、のビキニ。白く、少し大き目なパーカー。こう言っては何だが、水着において女性の一部は戦力に差を付ける。もちもちのビキニは中々魅惑的である。パーカーも良い感じにギャップを付けており、破壊力を増幅させていた。
「じゃあ、最初は普通のプールから行きますか?」
「あーい! ねね、競争しない!?」
「おー、良いじゃないっすか。ばあちゃるくんもね、ここらでビシッとね、運動も出来るハイスペックなとこをね、皆に見てもらわなきゃですしね!」
「プロデューサーちゃん、無理したら体壊しちゃうよ?」
「そ、そこまで言います?」
イジリではなく、割と真面目だった。少しだけ準備運動をし、普通のプールへと入る。人は多いが、泳げないほどではない。種も仕掛けもないプール。体力がある内に、波などで遊ぶ人が多いのだろうか。
「ようし、勝っちゃうからね!」
「望むところっすよもちもちー! ばあちゃるくんはね、勝負事なら手は抜かないっすからね!」
水は冷たく感じる。塩素の匂いに若干の懐かしさを覚えつつ、俺ともちもちは同時に壁を蹴った。
「……きっつ……やばーしーやばーしー……」
「ええ……」
かなり疲れた。体にガタが来ていることをひたすらに感じる。呆れたように俺を見るもちもちは、濡れた髪を後ろへと流した。
結果から言えば俺の勝ちだが、傍から見れば完全に俺の負けに見えるだろう。
「……もちもち、体力あるんすねえ……何でばあちゃるくん勝てたんすか……?」
「……あたし、クロール遅いの」
「教えましょうか……? はいはいはい、そのくらいならね……」
「泳げるの。遅いだけなの」
「どういうことっすか? 足がね……使えてないんじゃないっすかね?」
「……」
「もちもち?」
段々と、声が小さくなる。若干俯いた彼女の顔を覗き込むと、恥ずかし気に赤くなっていた。
「……あたしさ……水の抵抗がさ……」
「あー……」
「……」
「……」
「……プロデューサーちゃんのえっち」
「えぐー!?」
「じっと見ちゃダメ!」
「み、見てないっすよ!」
慌てて弁解をするも、中々聞き入れて貰えない。見た、見てないの押し問答。猫みたいな警戒をするもちもちは、俺を許す気は無いらしい。
「えっち! 変態! ……ではないけど! 本当は見てたでしょ!?」
「仕方ないじゃないっすか!」
「えっ」
「……やばーしー」
口を滑らせた俺。目を見開き、固まる彼女。お互いに恥ずかしくなり、すす……と水に潜っていった。
そして、散々水を掛けられること数分。もちもちはやっと機嫌を直してくれたようだった。なんだかんだ結構入っていた普通のプールを出て、次に向かったのは流れるプール。道中、浮き輪を膨らますのは無論俺。あの頃の肺活量はどこへやら、かなり苦戦したのは別の話だ。
……にしても。
もちもちは些か、距離が近すぎるのではなかろうか。
移動中、彼女は手を繋いできた――なんて事はなく。それを通り越して、腕を組んでいたのだ。パーカーを着ているとはいえ、時々柔肌が当たってしまう。勿論彼女も気づいているのだろうが、しかし、もちもちは何も言わず。担当アイドルにドキドキさせられつつの移動。プロデューサーは楽じゃない。
さっきまであんなに恥ずかしがっていたのに、とは言わない。言わぬが吉である。
「わー! 凄い! めっちゃ広いじゃん!」
「凄いっすねこれー! パンフレットで見るのとはね、やっぱ迫力が違うっすね!」
プールが視界に入るや否や、俺たちは声を上げた。だが、これは大人げなくはしゃぐのも仕方ないだろう。
流れるプール。速さは良心的。だが傾斜があったり、水が左右から降ってきたりと、アトラクション的な一面もある。早速水へ入り、もちもちは浮き輪の中へ。俺は浮き輪を押す係だ。
「苦しゅうないぞープロデューサーちゃん」
「こいつ偉そうっすね完全にね」
「いやーまあ、ね? テンション上げてかないと! さっきの事引きずんのつまんないじゃん?」
彼女はそう言い、快活に笑う。正に、水も滴る良い女だった。
「そうっすね! じゃあもちもち、覚悟は良いっすか?」
「覚悟? え、なにそれ何でそんなの必要なの!?」
驚きの声を上げるもちもち。そんな彼女に笑みを返し、俺は浮き輪を全力で回した。
その地点は、丁度傾斜になっている場所だ。回転しながら、流れていく浮き輪。乗っているもちもちは急な動きに一瞬叫びかけるも、次の瞬間には目を輝かせていた。
「プロデューサーちゃん!! 今のちょっと楽しかった!」
「傾斜ね、実はそんなに無いんすよ」
「えっほんと!? 体傾いた気がしたんだけど!」
「浮き輪に乗ってると感じやすいんじゃないんすかね? いやでもこれ楽しいっすね完全にね! 他のところには無い感じのプールっすね」
「ねー! 今度アイドル部の皆とも来たいなあ……」
「良いんじゃないっすかね? みーんな良い子ですし、誘ったら一緒に行ってくれると思いますよ」
「プロデューサーちゃんもね?」
「マジンガー!? なんでっすか!?」
「保護者として、ね? 大体今日だってその為に来てくれたんじゃないの?」
「あー、まあ、そりゃそうなんすけどー……十二人も居たら何とかなるんじゃないっすか?」
「そりゃね? なんかあっても切り抜けられるとは思うけどさあ、プロデューサーちゃん居てくれたら安心だしー」
浮き輪に乗ったまま、彼女は手を伸ばす。もちもちは白い指先で、俺の濡れた前髪を掻き揚げた。
広くなった視界。瞬間、顔が、近くなる。
「あと、あたしが嬉しい」
はにかむ、と言うのだろうか。大人っぽい、相手をとろけさそうな微笑。金髪から滴る水滴が、スローで見えた。
直ぐに顔を離した彼女は、しかし俺との目線をズラさない。優しく、返事を促されているようだった。
「はいはいはい、そういうのね、ばあちゃるくんね、ズルいと思うんすよ」
「何がずるいのか分かんないなー?」
楽しそうに、彼女は口ずさむ。全部分かっているだろうに。
……こういう計算高さも、魅力の一つと言えば一つだ。しかし、手玉に取られている側からすると――
中々、心臓に悪い物だ。
その後も波のプールに流され続け、浮き輪を回し続け。
「……飽きた!」
もちもちがそう言ったのを切っ掛けに、俺達はプールを出る事を決めた。人々の間を縫い、端っこまで辿り着く。
彼女に手を貸して、上陸。日光に熱され続けた地面に苦しむ。2人して小走りになった。
「次どうする?」
「そうっすねー、まあプール梯子したんでね、そろそろウォータースライダーとか行ってみます?」
「あー、めっちゃ並びそうだし早めに行っちゃおっか! あれだよね?」
もちもちの賛同。少し視線を上げれば見える、高い高いウォータースライダー。
その方角へ歩き、スライダーの出発点のある塔の階段へ。
「えいっ」
もちもちは掛け声と共に、再び腕を組んできた。俺は何も言えず、ただ歩き続け。
塔にたどり着いた時には、既に真ん中辺りまで列が出来いた。先は長そうだ。
「3種類全部制覇するよね? それしかないよね?」
「マジンガー!? それ負荷高めじゃないっすか!?」
「折角だから!! ね!?」
「はいはいはい、まあね、もちもちが乗りたいならばあちゃるくんも勿論付き合うんでね! 分かりました。制覇しましょうね!」
1つ目のスライダーは直線。2つ目はぐねぐね。3つ目は大きなボートに乗って流れていく物。
勿論全て人気だ。今並んでいるのは1つ目、速度を意識したスライダー。
「……け、けっこー角度急じゃない?」
「えー、もちもちビビってんすかー?」
「プロデューサーちゃんだって腰引けてるよ?」
……このスライダーは全て、専用のボートがある。俺達は二人乗りを選んだが、お互いにビビっていた。
いやだが、そんなに待たせる訳にはいかない。係員さんの合図に合わせて、意を決した。
「プロデューサーちゃん? ね、ちょーっと手加減してね?」
怯えた様子のもちもち。しかし俺は遠慮なく、容赦なく、一気に、滑り始めた。
悲鳴が耳をつんざいた。
「楽しかったー! 最後のおっきいボートのやつ最高!」
3種類制覇。かなり感じる疲労。しかしこれが若さか、もちもちはエネルギーに満ち溢れていた。
対して、足下が覚束無い俺。運動をしなければと、使命感が芽生える。
「プロデューサーちゃんはいじわるだったけどね!」
ジト目で睨まれる。パーカーのポケットに手を突っ込んだ彼女の視線は、中々に冷たかった。
「ちょいちょいちょーい! あのっすねー、あれはそのー、後ろの人を待たせないようにっていうね、ばあちゃるくんの優しさっすからね!」
「それは分かるけど! 声を掛けるとかして欲しかったの!」
「ごめん、ごめんよもちもちー!」
「待ってごめん、そこまで謝られると気不味いから! あたしもごめんね、プロデューサーちゃんに甘えすぎちゃってるね」
もちもちはそう言うと、俺の髪をわしゃわしゃと弄った。
いや違う。別に、甘えすぎなんてことは無い。
寧ろもっと我儘を言ってもいい。
それを伝えようと、俺は口を開いた。
「はい、アウト」
その瞬間、もちもちが俺の唇を抑えた。押し付けられた人差し指の先、彼女は優しげに笑っていて。
「……プロデューサーちゃんが言いたいこと、まあ大体分かるんだけどさ」
もちもちはゆっくり、丁寧に、言葉を紡いだ。
「あたしはね、プロデューサーちゃんにも甘えて欲しいな?」
「……風紀的に、不味くないっすかそれ」
「あたしいっつも校則破ってるから今更じゃん? 人の目、気にしなくても良いよ。あたしは、弱ったプロデューサーちゃんも、強がってるプロデューサーちゃんも受け止めてあげる。甘えさせたげる」
そして、手と手が繋がった。プールで冷えた手を、お互いに温めあうように。言葉を止めた、止めてしまった俺に何も言わず。しかし気遣うように、彼女は緩やかに歩き始める。
太陽は高く、周囲のボルテージは上がっている。喧騒の海を進む。
その中で俺は、まるで、もちもちと二人っきりで居るような感覚を味わっていた。
「あ、クレープ」
どれくらい、歩いていただろうか。聞こえた呟きが、俺の意識を戻す。暑さと音が、再び戻ってきた。
声の主は無論もちもち。時計を見ると、現時刻は十一時半過ぎだった。お昼ご飯を食べるには、中々良い時間だろう。
……切り替えろ。アイドル部に、心配は掛けられない。
プロデューサーとして、弱った姿も強がっている姿も見せられないのだから。
「もちもち、ご飯食べちゃいますか? 本格的に混む前にね、ぱぱっと済ませちゃおうと思うんすけど」
「……うう、食い意地張ってるなーあたし……」
「いやいやいや、そりゃあ大好物を見たらね、ばあちゃるくんだって食べたくなりますよ。普通の事っすよ普通のね!」
「そーお? ……んじゃいっか! あたしまずカレーとたこ焼きと焼きそばと……悩むなー!」
「食い意地張ってますねこれ完全にね……」
「ちょっと! 言ってる事違うじゃん!」
もちもちに背中を叩かれながら、売店の列へ。一通り昼食を買った俺たちは、パラソルの刺さっている席に着いた。日陰の有り難さを噛みしめつつ、二人同時に食べ始める。
見てて気持ちいい食べっぷりの彼女。大量にあったビニールパックを、端から空にしていた。
対する俺は、あまり食べれていなかった。焼きそばは大量に残っている。紙コップの中のコーラは、一口分しか減っていない。
……切り替えると言っておきながら、情けない話だ。
「プロデューサーちゃん? 食べないの?」
彼女の問いかけ。曖昧に笑った俺は、ゆっくりと目元に手を近付け。
――カメラを、切った。
――☆☆――☆☆――
「……もちもち。少し、聞いても良いっすか」
「うん。……分かった」
一気に、雰囲気が固くなる。
彼女は箸を置いて、頷いた。ありがとう。と俺は伝えて、話し出す。
「ばあちゃるくん、そんなに疲れてるように見えますか?」
「まあ……時々、ね。凄い疲れてる顔、見ちゃったりするんだよね」
「ちえりんにも言われたんすよ。同じような事を」
言葉を切る。次の質問を投げかける勇気を捻り出す。
聞きたくない。でも、聞かなければならない。
「……嫌じゃ、ないっすか? そんないっつも疲れてるようなプロデューサーなんて。残業とかしない、優秀で、いつも元気なプロデューサーが一番良いじゃないっすか? 自分の仕事で手一杯な男なんて、頼れますか?」
「嫌じゃない。頼れるよ」
即答だった。迷いも思考も無く、まるで最初から決まっている答えを……当たり前の事を口に出した、くらいの速さ。
「そりゃ、メンドクサイやら疲れた、なんていっつも言ってるプロデューサーはちょっと嫌だなーって思うよ? でもさ、プロデューサーちゃんはそんな事言わないじゃん。疲れててもずーっと笑って、はいはいはいって言って、あたし達の話を聞いてくれるでしょ?」
それに、と彼女は続ける。
「プロデューサーちゃんがさ、あたし達の為に凄い頑張ってくれてる事、皆知ってるから」
「それで疲れてても、イライラしてても、アイドル部の皆を不安にさせない為に強がってることも」
「ストレスが溜まって、でも皆にばれない様にこっそり泣いてるのも」
「でも、あたし達のイベントとかが決まったら誰よりも喜んでくれて」
「全部の責任を負う、って言ってマイナスを全部自分に集めて」
「プロデューサーとして、アイドル部の事を考えてくれてる事を、あたし達は知ってるから」
穏やかな声音は、静かに、しっかりと、俺の耳に届いた。
芯の通った、綺麗な声。彼女の魅力の一つ。
対する俺の声は、絞り出すように、か弱いものだった。
「……不安なんです。アイドルのプロデュースなんて初めてだから、これで良いのかって。俺に出来る事は全部やってるつもりでも、視聴者さんや皆からしたら不満なんじゃないかなって。もっと良いプロデューサーを雇えとか思われてんじゃないかとか、そんな事考えちゃうんすよ」
「不安?」
「俺のプロデュースが本当に合ってるのか、分かんないんす」
せめてアイドルは不安にさせない様に。前だけを向いていられるように。楽しく活動できるように。
ひたすらに隠していたと思っていた苦労の部分。後ろを向かなければならない部分。それを背負うのは俺だけでいい。彼女たちは、存在すら知らないままで良かったのに。
滑稽だっただろうか。それを隠そうとしていた俺は、どんな風に見えていたのだろうか。
「ねえプロデューサーちゃん。アイドル部の名前、全員言える?」
「当り前、じゃないっすか」
突然の質問。俯いたまま、十二人の名前を並べる。
間違えるわけがない。彼女たちは今や、俺の宝物なのだから。
「……あたし達十二人はね、皆、絶対にプロデューサーが『ばあちゃる』で良かった、と思ってる。プロデューサーちゃんを、心から信じてる」
初めて吐露した思い。情けない、不安だらけの心の中。ばあちゃるは皆の盾にはなれるが、それだけだ。プロデュースは全くの素人だし、魂の輝きを存分に見せられていないかもしれない。あんなに素晴らしい子たちは、もっと上に行っていいはずだ。
アイドル部は、俺の手を離れたほうが、輝けるんじゃないか。
「だから見てて。あたし達はいつか、プロデューサーちゃんに、12個の星を見せる。一番近い場所で、プロデューサーちゃんは何も間違っていなかったって証明するために」
俺が思考に沈む中で、彼女は強く言い切った。
思わず顔を上げた俺の目を、もちもちは真正面から見つめている。単なる慰めでも、出まかせでもない。
その瞳は、決意の色を浮かべていた。本気だと告げていた。
「……アイドル部は、俺の手を離れたほうが、輝けるんじゃないか」
「かもしれないけど。ま、見ててよプロデューサーちゃん」
もちもちは、笑みを浮かべた。何にも例えようのない。それは、その笑顔は、ただひたすらに輝いている。
「プロデューサーちゃんがあたし達を信じてくれてるのと同じくらい、あたし達もプロデューサーちゃんの事信じてるからさ。間違いじゃなかったって証明するから。その日が来るって、信じてて」
「……信じてます。信じます。いつかもちもちが、皆がね、ばあちゃるくんに星を見せてくれるってね!」
「任せて。約束!」
アイドル部を、もっと輝かせる事が出来る人は居るだろう。
それはそうだ。
だが、俺はここで刻み込まれた。彼女の言葉で、吹っ切る事が出来た。
俺が輝かせる。もっともっと、広い世界にアイドル部を羽ばたかせる。他の誰でもない、たった一人のプロデューサーとして。
皆を信じる。やる事は、今までと変わらない。
「ありがとう、もちもち」
「あたしは代表して伝えただけだからさ! んじゃ、撮影再開しよ?」
「はいはいはい、じゃあ行きますよー! さーん、にーい!」
そして、俺はカメラを再び点けた。
彼女の魂の輝きを、あらゆる人に伝えるために。
――☆☆――☆☆――
「あ、もしかしてあたしの食べてるやつが気になってたりした?」
切り替えが速過ぎないだろうか。
もちもちはパッと明るい笑みを咲かせ、自身のスプーンでカレーを掬う。
スプーンはそのまま、俺の口元に差し出された。
「はい、あーん」
「……マジンガー?」
「マジでーす! 腕辛いから食べちゃってよ」
余りにも変わりすぎた雰囲気。俺自身、脳が付いていけてなかった。
というかこの子はどれだけ攻めてくるのだろうか。もう少し男女関係とか考えないのか。立場的に中々危ういのではないだろうか。
複雑な感情を抱いた俺は、フリーズしてしまう。放置されたもちもち。
直後、彼女は痺れを切らした様だった。少し頬を膨らませ、彼女はスプーンを強引に押し付けてくる。唇の先に当たるスプーン。
……ここまで来たら、もう何も変わるまい。
観念して、俺はそのカレーを頂いた。中々に強い辛み。熱いご飯。プール効果か、何時もより美味しく感じられた。
「美味いっすねこれー! はいはいはい、もちもちカレーあざーすあざーす」
「ふぇっ、……うん! あー、どういたしまして!」
「……も、もちもち?」
「な、なに?」
どこか上ずった彼女の返事。スプーンをちらちら見つつ、彼女は頬を赤く染めていた。きっと暑さやカレーだけではない紅潮。
「……自分でやって照れないで欲しいんすけど!」
「だ、だって……思ったよりドキドキしちゃったんだもん……」
照れを隠すため、掌を顔に押し付ける。もちもちもそっぽを向き、口を尖らせた。
……最近、アイドル部にときめきすぎじゃなかろうか。勿論アイドル部は誰よりも好きな自信がある。が、それはあくまで娘的な物だ。
と、言い切れるのは何時までだろうか。
どんどん魅力的になる彼女たちを、この企画を通じて、ひしひしと感じる。
それは、プロデューサー視点からすれば素晴らしい事だ。律せねばならぬことを除けば。
決意を固め、数十分。ぎこちない、しかし険悪ではない雰囲気の昼食が終わった。ゴミをしっかりと片付け、席を離れる。正午過ぎ、満腹の俺たちは流れるプールに入っていた。
「波のプールも行きたいけどさー、ちょっと休憩したいよねー」
「そうっすねー。流れるの良い感じっすねこれ完全にね」
もちもちは浮き輪の上に。俺はそれにしがみつき、ゆらゆらぷかぷかと流される。
男同士で来ると大体水かけ合戦や潜水競争になるが、もちもちとはならない。多分、いや、確実にごんごんとならやってた。割とガチで。
「んー、塗りなおしとっこかなあ」
「日焼け止めっすか?」
「うん。着替えるときに塗ったは塗ったんだけどね」
「なるほどー。じゃあばあちゃるくん待ってるんでね、塗ってきて良いっすよ!」
「何言ってんのプロデューサーちゃん。一緒に来てよ」
「ちょいちょいちょーい! ばあちゃるくん、流石に女子更衣室には入りませんからね!」
「違うから! あのさ、背中塗って欲しくて! 一人じゃ届かなかったんだけど、パーカーあるしいっかなって適当になってたの。でも今はプロデューサーちゃん居るし、塗ってほしいなって!」
「……いやー、ちょっとそれは不味いっすよ」
「キスまでしたじゃん!」
「間接! 間接っすから!」
「プロデューサーちゃん。観念して」
「はいはいはい、ここはまあ譲れないっすね」
「分かった。あたしアイドル衣装背中見えるけど、そこに変な日焼け残して配信するから。見ててね」
「えぐー! 分かった、分かりました!」
パーカーを脱ごうとしたもちもちを引き留め、俺たちは荷物置き場へ。貴重品は身に着けるかロッカーにあるが、他の……例えば浮き輪等は、別のバッグに入れて持ってきていた。
その中に、日焼け止めはあった。
「これ、すずすず呼んだら飛んできそうっすよね」
「おせなか」
もちもちはパーカーを脱ぎ、日焼け止めを白い肌に垂らす。腕と足等を塗り終えると、彼女は俺に日焼け止めを投げた。
「……えっと、背中全体お願い。変なとこ触っちゃダメだからね!!」
「触らないっすよ! 任せてくださいねはいはいはいはい!」
日焼け止めの塗り方なぞ知らない俺。取りあえず、さっきのもちもちの塗り方と同じ様にする。
取りあえず、液を肌に付け。若干躊躇しつつ、口を開いた。
「ぬ、塗りますからね」
「うん。……あ、ちょっと待って!」
もちもちは声を上げ、ビキニの上の止め紐を解いた。
はらりと落ちかける水着。それを抑える彼女の上に、慌ててパーカーを被せる。
「ちょいちょいちょーい! な、何やってんすかもちもち!」
「水着跡付くの嫌だったの!」
「前もって言うとかして下さいよ! マジでビビったんすけど!」
「ごめんねプロデューサーちゃん! 許して!」
「いやまあ可愛いんでね、許すんすけどね! 気を付けなきゃダメっすからね!」
パーカーで顔まで隠し、彼女は押し黙る。一応、もう一度声を掛けてから、俺はもちもちの背中に触れた。
「……んっ」
「はいはいはいはいはい、もうだめっすねこれ完全にね。ばあちゃるくんギブっす」
「ごめんごめんごめん! ほんっとにごめんプロデューサーちゃん! びっくりしちゃっただけなの!」
日焼け止めを塗るという修行。何とか、かなり精神力を削りながら塗り終える。
鼓動が早い。もちもちに聞こえていないだろうか。なんて思いながら隣を見ると、彼女とばっちり目が合ってしまった。上目遣いのまま、照れ隠しの笑みが向けられる。
これが全部計算なら、性質が悪すぎるだろう。
精神力がガリガリ削られていく。ゼロになる前にと、俺達は波のプールに向かった。
「……そう言えばさ、ナンパイベントとかって回収しないの?」
「あー、それなんすけどね。そこは案が出てたらしいんすけど、断りました。社員さんもそれには反対だったらしいんでね、スムーズだったっすね」
「何で? 結構定番じゃない?」
「もちもちは大切なアイドルですからね。万が一の危険は犯させないっすよ」
次の波は、五分後。俺達は、浅瀬でビーチボールを叩き合っていた。
彼女は流石の運動神経で、少しキツイ球も綺麗に返してくる。久々の運動に心を躍らせつつ、俺は高くボールを上げた。
「やっぱプロデューサーちゃんって垂らしだよね」
「マジンガー!? それシロちゃんにも言われたんすけどー!」
「いやー、仕方ないよこれは。本当さー、そういうとこやぞ!」
「えぐー!?」
もちにゃんの力強いスパイク。
俺はその日、ビーチボールでも顔面に当たれば痛いと言うことを知った。
そして、波のプールの波がかなり強いという事も。
「やばーしー……これめっちゃ凄い……」
「浮き輪めっちゃ揺れるんだけど! すっご!」
「あー! ちょっ、もちもち流されるのはダメっすからねはいはいはい」
流されかける浮き輪を抑え、ぐーっと引き寄せる。波に揺さぶれられながら彼女に近づくと、もちもちの方からも腕を絡めて来た。
「これで離されないでしょ?」
「……せめて手を繋ぐとかじゃダメっすかね?」
「ほら、万が一の危機を防ぐんでしょ?」
ご機嫌そうなもちもち。大きな波が来るが、俺達の距離は変わらなかった。
……決して、嫌ではない。寧ろ男として嬉しいこの状況。
折角だ、ここは楽しんでやろう。もう一度来た波を被り、俺は心の底から笑みを浮かべた。
波のプール。流れるプール。普通のプール。小休憩。飛び込み。もう一度、スライダー。
どれだけ遊んでも、まだ足りない。そう思っていても、しかし、終わりは来るものだ。夕方、水の外より中の方が温かいと感じ始める頃。
俺ともちもちは名残惜しさを感じながらも、外へ出た。
冷えた体を、暑い外気が包み込む。乾かしてない髪を掻き上げて、俺は一息吐いた。
「楽しかったー! ね! プロデューサーちゃんはどうだった?」
「勿論ばあちゃるくんもね、最高に楽しかったすよ完全にね! もちもちは良い子ですからねー、もう遊べてまじにゃんじ! って思いましたよ!」
「はいはいはいー、人のネタをパクるのはダメっすよーはいはいはいはいー」
「うわ超適当!」
「だってプロデューサーちゃんいっつも言ってるじゃんはいはいはいってさあ!」
「マジンガー!? えー! そんな言ってないっすよ!」
「もっと語彙増やさないと某風紀委員長がネタ切れしちゃうから!」
「はいはいはい、まあ何とかなりますよ! なとなとは優秀ですからね!」
そりゃそうだけどさ、と彼女は呟いた。水着の入ったバッグを持ち直したもちもちは、キャップを被りなおす。時計は、そろそろ五時になるくらい。お互いに解散の空気が流れる。
「あ、そうだ! もちもちー! あのですねー、プロデューサーとして言っておきたいんすけどー、あんなにスキンシップをとったりあーんとかしたりするのはですねー、やっぱ風紀的にもダメですしー、そういうのはね、好きな人にやるのが一番なんすよ! もちもちはね、とんでもなく可愛いんでね! 他の人にやったら勘違いされたりされなかったりされそうなんでー、控えましょうね!」
「……好きな人にやるのが一番なの?」
「もちのろんっす!」
これだけは言っておかねば。ギャルJKを謳い、その距離感の近さは無論魅力的だが、それでも限度はある。ただでさえ可愛いのだから。
だから、少しばかりの釘を刺す。そう思っての言葉に、もちもちは小首を傾げる。
「あたし、プロデューサーちゃんの事好きだよ?」
悪戯っ子の様な笑み。手を後ろで組んだまま、彼女は一歩踏み出しす。
同時に、見えない何かに押されるように後ずさるも――
「プロデューサーちゃん、」
彼女の伸ばした両腕が、俺を抱きしめて、その場に留める。
そして、体重と温もりが押し付けられた。少し顔を下げると、背伸びした彼女が至近距離に。
もちもちを離そうと、俺は口を開く。だが、先手を取られる。
空気を震わせたのは、彼女の綺麗な声だった。深い紅の瞳が、すっと細められる。
「……あたし、誰にでもこんなこと、しないよ?」
正直に言おう。この瞬間、俺の心臓は確かに強く跳ねた。
それでも、それを悟られるわけにはいかない。一瞬の間を置いて、何とかもちもちに軽いデコピンを放つ。
「あてっ」
「もー、もちもち悪い子っすねこれ完全にね」
「なんでー!? むー、ありきたりすぎたかな……」
もちもちは腕を解き、一歩下がった。ややふてくされつつも、元通りになる距離。
元通りでないのは、体に残っている感覚。どうも落ち着かない。……のは、仕方ないだろう。
「はいはいはい、じゃあね、もう解散しましょうね!」
「はーい。んじゃプロデューサーちゃん、ばいばーい!」
「待たねーもちもちー! ゆっくり休むんですよー!」
俺達はお互いに手を振り、プールを後にする。
夕日を背に笑う彼女は、とても眩しく、輝いていた。
それは、遠く遠くの星よりも、何倍も。
――☆☆――☆☆――
私立ばあちゃる学園には、中庭がある。噴水やベンチ、綺麗な花々。かなり力の入った中庭の、薔薇園の中に、一定のルートでしか行けない場所があった。そこは一部のお嬢様生徒が、良くお茶会に使用している。
少し開けた、白いテーブルと椅子がワンセットある空間。
……しかし今、そこの椅子もテーブルも使われていない。三人の内二人は正座。一人は、仁王立ちしていた。
一体何故か。
「ふーん、うまPはもちちゃんだけに相談してたんだ? ちえりも癒してあげるって言ったのに?」
「そ、それはそのー……」
「もちちゃんは個人的に頼んで、一緒にクレープとか食べながら愚痴を聞いてもらってたのに? ちえりには? なーんにも言ってくれなかったんだー?」
「ちえりん……その、怒ってます……?」
「んー? どーかなあー?」
「ちぇりたん、そろそろ足きっついんだけど! まだ正座じゃなきゃダメ?」
「もー、仕方ないなー!」
「ありがとー! きっつー!」
「はいはいはーい! ばあちゃるくんも足崩したいでーす!」
「だー、め」
「えぐー!」
正座を続けるのは、学園長のばあちゃる。足を揉んでいるのは猫乃木もち。仁王立ちしているのは花京院ちえり。
ちえりが若干イラついているのは、ばあちゃるが原因である。
以前、ちえりはばあちゃるを癒してあげると彼に伝えたのだ。もちよりも先に。が、彼はあろうことかもちだけに愚痴り始めたのである。先に伝えたのに無視されたちえり。彼女がそれを知り、ペットボトルを潰すまでは秒だった。
「で? なんでちえりには何も言ってくれなかったの?」
「そのー……一回ね、もうとんでもなく疲れてた時がありましてー、その時にもちもちが私用で残ってたんすよ。で、ちょっと愚痴っちゃったら……優しく受け止めてもらえたんすよ……」
「それから甘えてると?」
「まあ……はい……」
若干後ろめたそうに、ばあちゃるは呟いた。
そんな彼を見て、ちえりは目を瞑る。
「うまP。ちえりも、うまPの力になりたいの」
「何言ってるんすか! ちえりんが元気なだけでね、ばあちゃるくんの力はもりもり湧いてくるんでね!」
「ありがと。でもー、もーっと力になりたいの。ダメ?」
「ダメな訳ないじゃ無いっすか! でもあれっすよ、そのせいでね、ちえりんが体を壊したりするのは絶対にダメっすからねはいはいはい!」
「……断られると思ってた……」
「マジンガー!? いやね、ばあちゃるくんも変わらなくちゃなって思ったんすよ。 ……もちもちはばあちゃるくんを信じてくれてるって言ってくれたんすよ。で、気づいたんすけど、アイドル部を信じてはいたんす。元々、心の底からね。でもねーいやー……俺のプロデュースするアイドル部、ってなるとあんまり信じられてなかったんすよはいはいはい」
「魂の輝きは信じてたって事ー?」
「そう! それ! アイドル部の皆は絶対にね、もう素晴らしく輝く事が出来るんすよ!! はいはいはい、でもね、ばあちゃるくんが120パーセントその輝きを引き出せるか? って言われると……って感じだったんすね」
膝の上で、ばあちゃるは拳を握りしめる。
もちとちえりの視線を受け止め。意思を固め。ばあちゃるは真っすぐに、ちえりの目を見据えた。
「でもこれからは違います。俺は、俺のプロデュースするアイドル部を信じる。この道が、正しいと信じる。でもね、間違ってるかもしれないって疑うことも忘れない為にね、まずはもっともーっとアイドルの事を知ることから始めようと思ったんす」
ばあちゃるは、自分のプロデュースを、もう二度と疑わない。
その為に、一人一人の魂の輝きをもっと理解して、最善を選べるようにしなければならない。
避けてきた。プロデューサーとして、スキンシップをなるべく避けてきたのだ。
しかし、今回の撮影を通じて。ばあちゃるは認識を、線引きを改めた。
「だからね、ちえりんとももっと話したいって話をもちもちに相談してたんすよ」
「そうなの?」
「うん。最近はもっぱらそんな話だったなー」
「……そっか。そっか」
ちえりは二度、頷いた。噛み締めるような沈黙の後、彼女は満面の笑みでばあちゃるに尋ねる。
「どう? そろそろ足痺れてきた?」
「ちょいちょいちょーい! ばあちゃるくん結構真面目な話したんすけど! 反応ないんすか!?」
「まま、足は?」
「えぐー! 痺れてますよもう!」
「よし」
完全に悪役の笑み。ばあちゃるは慄くも、足が痺れて動けない。
焦るばあちゃる。背後を取ったちえりは、草の上に腰を下ろす。伸びた手はばあちゃるの頭へ。
デジャブ。ちえりは彼の頭を自身の太ももに落とし、いや、乗っけた。
「……良いんだよね? うまP」
「断れない奴じゃないっすか……」
「あーずるーい! あたし膝枕した事ないのにー!」
「あーんでも照れて、ラストシーンで抱き着くとこでも照れたのに出来るのー?」
「えー!? もちもちあそこでも照れてたんすか!?」
「て、照れてないし!」
「うまPは見逃してもちえりは見逃さないよ。あんなに顔真っ赤だったじゃん」
「ぐぬぬ……! いやでも大丈夫だから! 変わって!」
「んー、もうちょっとしたらね」
余談だが。
その後。アイドル部のグループラインには、赤くなって固まったもちの写真が出回ったらしい。
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金剛いろはは幼馴染である
『アイドル部の皆にお知らせがあるでフゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ٩( ᐛ )و』
『明日学校でいろはとうまPがイチャつくけど気にしないでねー!』
『は?』
『おい……』
『風紀が乱れていませんか?』
『おうまさん!?』
『ばあちゃる号、そんな宣言されても……』
『どういうこと?』
『いろは遂におかしくなったのか?』
『あ?』
『こりゃあ大問題になるんじゃ?』
『カミングアウト急すぎないですか!?』
『と、思いますう』
ばあちゃるは自宅で頭を抱えた。一人の部屋で、一人ベッドに倒れこんだ。
「えぐー……」
アイドル部イメージビデオプロジェクト、第五弾。『不器用幼馴染との一日』。
スタートダッシュは最悪だったと、彼は後に語った。
―☆―
耳元で、目覚ましが鳴っていた。
朝の五時半。いつも通りの起床時間だ。生活習慣は崩れていても、生活リズムは常に一定である。いつも通りの時間……だろう。恐らくは。に、俺は目覚ましへと手を伸ばした。
しかし、指がボタンに届くよりも先に音が消える。電池切れか? いや、都合が良すぎないか。
若干寝ぼけている頭を振り、目を開ける。天井の蛍光灯は、今は光っていない。スマホの充電はMAX。何も異常は無い――
「おはよーございます!!」
「……ごん、ごん?」
「そうです! おはよーございます!!」
異常と言っては失礼になるかもしれないが、いやまあ、異常があった。
寝ぼけた頭は、電流が走ったかのように切り替わる。枕元、俺の顔を覗き込んでいる少女。決してここには居ないはずの、金剛いろはがそこに居た。
髪は結ばれてない。服は制服。完全に、学校に行く前の格好である。
「え、どうしたんすか急に」
「嘘! 覚えてないんですか!?」
尋ねれば、大げさに叫ぶごんごん。屈託の無い笑みを浮かべ、彼女は胸を叩いた。
「幼馴染、金剛いろは! うまPを起こしに来ました!」
……ああ、そうだ。
今日が、撮影日だった。
「はい。昨日のは反省してます」
「あんなメッセージね、誤解しか招かないんでね。注意しましょうね」
「でもさー、たまちゃんとかもうまPとイチャイチャしてたじゃん! 何でいろはの時だけあんなに皆怒ってたの!?」
「撮影の事を言わなかったからっすね完全にね」
「あ」
えへへ、とごんごんは誤魔化した。
今は六時。太陽がすっかり空に見えるようになった時間帯。俺は出来上がった朝食を運び、彼女と向かいあうように座った。
「幼馴染として手伝うか迷ったんですけど、いろはやんない方が良いかなって」
「間違ってないっすね」
「そこは否定するところじゃないの!?」
「ごんごんが料理したらとんでもない事になりそうですし……」
「んぬー! 直ぐ見返してやりますから!」
「がんばれごんごーん」
「うっわ適当」
ジト目のごんごんに睨まれつつ、細やかな朝食は終了。最後の方は機嫌が良さそうだったのを見ると、どうやらご飯は美味しく作れていたらしい。普段は男の一人飯。自炊することの方が少ないが、お口に合った様で何よりだった。
準備は俺だけでやったが、片付けは自然と二人でやる事に。ごんごんには食器を運んでもらい、受け取って直ぐに洗う。十分も掛からずに食器洗いは終わり、朝は六時四十分頃。
学園長として、そろそろ家を出なければならない時間だ。
「ごんごんは登校どうするんすか? ばあちゃるくんと一緒に行きます?」
「あ、はい! そのつもりです!」
「オッケーです。そろそろ行くつもりなんすけど、準備出来てます?」
「問題ないです! あ、うまPに一個お願いがあるんですけど良いですか?」
「補修っすか?」
「違いますー! 髪結んでくれません?」
「……マジ? ばあちゃるくんあんな複雑な結び出来ないんすけど」
「ポニテでも何でも良いんです! 取り敢えずうまPに結んでほしいんです!」
彼女は有無を言わせず、赤い紐を俺に握らせた。そのままソファに座り、じーっと目を合わせる。そこはかとなく犬らしい動き。ごんざぶろうというあだ名を思い出しつつ、観念して、俺はごんごんの後ろへと回った。
「後で文句言わないで下さいね」
「勿論!」
元気よく頷くごんごん。長い金髪は重く、そこそこ苦戦しながら一つに。俺が知っていて、更に結べる髪型なんて少ない。一見簡単そうで、オーソドックスな髪型に落ち着いた。
「ポニテだ!」
「ポニテっす」
「あー、もしかしてうまP、『馬』だから『ポニー』テールにしたんですかー?」
「うーわつまんな!」
「なんでそこまで言うんですか! お茶目なギャグですよ!」
ぶんぶん振り回されるポニテの攻撃を避けて、俺は玄関へ。途中で鞄も拾っておく。
「行きますよー」
「あー、ちょっと待って! テレビ消してないじゃん! ……おっけーい!」
テレビと電気を消し、彼女は冷蔵庫の扉もチェック。二人並んで靴を履き、家を出た。
朝の住宅街はほぼ人が居らず、時々遠くに学生が見えるのみ。他愛もない話をしている内に、俺達は学園に着いた。
「えーと、ごんごんはこれからどうするんすか?」
「いろはは……うーん、やる事ないんだよなー。ゲームでもしてますよ」
「ばあちゃるくんの仕事でも手伝ってみます?」
「大失敗しても取り返し付きます?」
「やめときましょうか」
「いや信頼して下さいよ!! 少しくらい!」
「無理っすねはいはいはい」
「むきー!」
地団太を踏むごんごん。漫画の様な行動だった。
始業時間までは一時間以上あるし、普通の生徒が来るのにも相当時間がかかるだろう。一人ぼっちのごんごん。この場合、一人ぼっちのいろはの方がなんかのタイトルっぽい。
と、我ながら下らない事を考えた時だった。
「……おお? ……おお。おお!」
「どうしたんすかごんごん!? 遂に壊れたんすか!?」
「壊れてまーせーんー。 うまP、家庭科室の鍵って借りれます?」
「ダメです」
「なとなとも一緒!」
「はいはいはい、それならね、勿論オーケーです」
「何で!? いろはの時と扱いが違うんだけど! ねえ!」
「じゃあごんごん。ごんごんはたまたまを一人で家庭科室に入れても大丈夫だと思いますか?」
「炎上するでしょ。物理的に」
「でしょ? そういう事っすよ!」
「いろはも同レベルだと思われてるの!?」
「実際そうですからね完全にね。まあ、なとなとが一緒なら全然良いっすよ。でもあれですよ、なとなとに迷惑掛けたらダメですからね」
「あのー、いろはさ、一応八重沢なとりちゃんと同じ歳なんですけど。対等だと思うんですけど」
俺は何も言わずに、足早に歩き始める。後ろからかなり本気の拳を喰らった。
向かったのは学園長室ではなく、職員室。扉を開けると、半分以上の教員が出勤していた。彼らと軽く挨拶を交わし、俺は家庭科室の鍵を手に取る。
「あれ? 学園長、なんか料理でも作るんですか?」
「ばあちゃる君じゃなくてですね、ごんごん……えーと、アイドル部の金剛いろはが使うらしいっす」
瞬間、先生の一人は火災報知機の点検を。一人は消火器の準備を。一人は緊急の電話番号の確認を。一人は机の下に潜り込み。一人は神に祈り始めた。
「なとなとも一緒らしいんすけどね」
「「「「なーんだ」」」」
「ねえうまP! いろは断固抗議したいんですけど! おかしいでしょこれ! おい!!」
相手がごんごんだから、多少オーバーな反応をしているのだろう。この学校の教師はそんな人ばっかりだ。
後で少しごんごんの株を上げる事を約束すると、彼女は少し気を落ちつけた。なとなととは後で合流するとのこと。しっかり火元に注意する様に言ってから、俺達は別れた。
――それから、数時間が経った。
会議に仕事。動画編集に設備の確認。アイドルのスケジュール管理、シロちゃんのお菓子補充。中々な量の仕事を終え、俺は昼飯を食べようとしていた。
今日も今日とてカップ麺。
自分でお弁当を作る暇もないし、学園長が学食に行くのも他の生徒が食べにくいだろう。カップ麺なら引き出しの中に入れておけるし、早いし、安い。コンビニ弁当も一時期食べていたが、最近はもっぱらカップ麺だ。そろそろストックが尽きそうだな、なんて思いつつ一つ取り出す。
手慣れてきたビニール破り。爪を掛けたところで、突然学園長室のドアが開いた。
「待ってうまP!」
「うおっ!? ごんごん!?」
「いろは知ってます。幼馴染は手料理を幼馴染相手に振る舞うものであると。それが流れであり、お決まりであると……」
「え、もしかして」
「幼馴染として、作りました」
「マジで?」
「作りました」
背中を、つうっと、冷や汗が伝った。
「食べれる! 食べれますよごんごんこれー!」
「んっふっふ、そうでしょそうでしょ!? まあいろはに掛かれば料理なんて余裕のよっちゃんですよ!」
「ふっる」
「古くありませんー」
ごんごんの手料理は、壊滅的な物ではなく。
ごく普通の、一般的な料理となっている。
寧ろ、出来立ての手料理は美味しかった。彼女の料理スキルは、中々な物だ。アイドル部女子力ランキングなんてものがあれば、彼女はそこでもhooseの座を奪い取るだろう。
なとなとの尽力もあるだろうが、しかし、ごんごんの努力も見て取れた。いや、味わえた。
「いやー、料理って真面目にやると奥が深いんですね。びっくりしましたよ。知ってますかうまP、料理のさしすせそってそのままの順番で入れるとダメなんですよ!」
「マジンガー!? えっ、普通に知らなかったんすけど!」
「でしょー!? いろはも今日なとなとに教えてもらって!」
「そういえばごんごん、どうやってこんな熱々なのを昼休み入って十分くらいで準備出来たんすか?」
「なとなとが教えてくれたの! 朝のうちに準備出来て、直ぐに出来るご飯! お米は二時間目と三時間目の終わりに家庭科室開けて炊いたんだけど」
「めっちゃ頑張ってくれてるじゃないっすか。ありがとうございますね」
「でしょー?」
嬉しそうに、彼女は笑った。
……なんというか。アイドル部は、全員がとんでもなく可愛い。それは周知の事実だ。そしてその中でも、この金剛いろはという少女はどうも――そう、太陽と言う表現が似合う。一番似合う。
ただ嬉しそうに、純粋に、彼女は笑うのだ。太陽の様に。
「まあそれに熱中しすぎて、いろは昼飯食べてないんですけどね」
「いやもうほんっとにそういうところっすよごんごん」
「えっ何が!?」
目を見開いた彼女は、やや訝しむ様な表情を浮かべる。
昼休み、外からの喧騒が響く。蛍光灯を付けていない、少し薄暗い家庭科室。
ごんごんのお昼ご飯カミングアウトによって、俺の箸は止まっていた。流石にお腹が減っている生徒の前で、一人悠々とご飯を食べれはしない。
何だか不思議な硬直。そんな中、彼女が椅子をずらした。
そして、まるで雛の様に体を乗り出す。
「うまP、あーん」
「は?」
「あーん!」
口を開けて、ごんごんは固まった。
意地でも動かぬという意思か。目を固く閉じ、完全に俺に任せている。
その圧に押し負け、あと素直にお腹が空いているらしいので、そっと料理を口元に運ぶ。白い歯が並ぶ中、薄桃色の扉の向こうへ。柔らかく、ぬめった、赤い絨毯で、箸を濡らした。閉じた唇の隙間から、ぬるりと箸を取り出す。ただの食事行為。その直後の箸が、何故かとても艶めかしかった。
「……うん! えっ、いろは天才じゃない!? 料理上手過ぎないですかこれ!」
「いやもうマジで色気とかゼロっすよね」
「色気くらいあ、り、ま、す!!」
雰囲気などぶち壊し。煽りに一々、律儀に反応してくる。
「うっふーん」
「いやちょっとそれは引きます」
「いろはもちょっとやり過ぎたかなって思いました」
制服のボタンを開け、腕を頭の後ろで組むセクシーポーズ。
何故かごんごんががやると、それはテスト前に頭を抱える学生にしか見えなかった。
「そういえば、ポニテのままなんすね」
「朝うまPが結んでくれたじゃないですか」
「ああ、その後ね、なとなとに結びなおしてもらえば良かったのにと思ったんすよ」
「うまP。なとなとはそんな空気の読めない子じゃないですよ」
「……ええ?」
「ここまで女心が分からないのか!」
「はいはいはい、もうねーばあちゃるくんレベルになるとですね、相手の考えてる事なんて全部分かるんでね! 敢えてっすよ敢えて」
「じゃあ答えて見て下さいよー」
最早作業の様に、俺は半分残った昼食を彼女の口へ運ぶ。一回。二回。彼女が飲み込むまで待って、三回……。
「いやー……あー、あれっすね! もうね、尊敬するばあちゃるくんから髪を結んで貰ったんでー、解きたくないとか?」
「そうです! それ! 分かってるじゃないですか」
驚きのあまり、料理を落としてしまう。
いやいやいや、まさかそんな、ただのイキりが、当たってるだなんて。
あり得ない。ごんごんにからかわれている。そう結論付けようとしたが、どうも彼女の表情にそういった色は見えない。
しかし、信じられなかった。
たかだか俺が結んだ程度で、そこまで思い入れも生まれる訳がない。シロちゃんとかにしてもらったなら分かる。が、相手は俺だ。ばあちゃるだ。
「あ、多分うまPはめっちゃ脳内がぐるぐるしてると思うんで言っときますけど」
そしてごんごんは、目を細めた。
「うまPって、全然私たちに関わってくれないじゃないですか。なんで、うまPがこうして髪結んでくれたりしてくれるの、凄い嬉しいんですよ」
「もっと嬉しい事あるんじゃないすかねえ」
……なんて言いつつ。
内心、俺は相当嬉しかった。
このイメージビデオの撮影を通じて、俺は彼女たちとの距離を縮めようとしている。そんな願望を抱いている。だからこうして、少しでも仲良くなれているのを実感するのは、とても嬉しい事なのだ。
「じゃあごんごん。これから毎日結んであげましょうか?」
「あ、それは良いです。いろはもお洒落したいですし待ってうまPねえいろはの分も残してくださいよ何で急にかき込み始めるんですかこのっ……ご飯よこせええええ!」
カップ麺を二人で並んで食べたのは、なんだかんだ良い思い出になった。
さて、この『年下生徒の幼馴染』……今回の撮影は、平日に行われている。たまたまも平日だが、それは仕事が終わってから。なとなと、ちえりん、もちもちは休日だ。
要は、ほぼ接点が無い。ごんごんとのシーンが撮影できないのだ。
まあ何が言いたいかと言うと、夜七時。昼休みから今まで、一回も会わなかったのである。
廊下の窓から見えたりはしたものの、会話は無し。普通に仕事を終わらせ、今丁度校門を出た。
その時、タイミングよくLINEが鳴る。
ポケットからスマホを取り出す。画面を見る。
そして俺は駆けだした。スマホを握りしめたまま、本気も本気の疾走。
メッセージの内容は至って簡単だ。
『夕ご飯期待してくださいね! 今から隠し味入れます!!』
俺の胃を守るために、走れ、俺!!
「あ、お帰りなさい! 丁度ご飯出来ましたよ!」
「ただいまっす……」
「どうしたんですかそんな汗だくで? ……わかっちゃったあ……。もーうまP、そんなにいろはの作る夕食が楽しみだったんですか? 可愛いところあるじゃないですかー! 沢山作ったんですよカレー!」
間に合わなかった。靴を脱ぎ、額の汗を拭う。
蛍光灯を、空虚に見上げる。
「やっぱ幼馴染と言えばこうやって、相手の家に気軽に入ってー、料理とか掃除とか、親しくなきゃ出来ない事をやるのがメインの仕事じゃないですか。いろはも頑張りました!」
嵐の前の静けさ。ゆっくり、ゆっくりと俺は覚悟を決める。以前たまたまの撮影の時に買ってもらった胃薬が残っているはずだから、死ぬことは無いはずだ。
ならば食うのみ。
「じゃ、じゃあ早速頂きましょうかね! いやー楽しみっすね……はいはいはい……あー、はい」
「どうしたんですかうまP? ほら、今からよそいますね!」
靴を脱いで、俺はリビングへ。スーツの上を脱いで、胸元を緩める。
キッチンを見れば、彼女は鼻歌を歌いながら料理を盛っていた。楽し気な様子に、一日の疲れが抜けていく。彼女の明るさに照らされて、体の凝りが解れていくようだった。
普段は、夜遅くでも早くでも一人。ご飯もほぼコンビニ飯。
そんな生活だからこそ、こうして誰かとご飯を食べれるという状況は新鮮だ。そして、とんでもなく嬉しい物でもあった。
カレーがどんなものであれ、その食卓は楽しい物だろう。
「このカレー、なとなとに教わったんですよ!」
「……意外に美味しそうっすね」
「何ですか意外にって! これ、サラダと……麦茶です、どぞ!」
「あー、ありがとうございます。ばあちゃるくんも配膳手伝うべきでしたね、すみません」
「いーのいーの! うまP仕事で疲れてるでしょ? 幼馴染として、こんくらいやりますよー! はいじゃあいただきまーす!」
「いただきます」
俺より一足早く、ごんごんはカレーを口の中に入れた。
そして硬直。目を見開き、ポニテを一ミリも揺らさず、ぴたりと動きを止めた。
「ご、ごんごん?」
そっと声を掛けると、やっと彼女は口を動かし始める。心の底から味わうように、目を瞑りながら。
食べるに食べれず、俺はスプーンを置いた。
長い時間をかけてようやく飲み込んだごんごん。神妙な面持ちで、彼女は口を開く。
「うまP。これすっごくあれなんで、いろはが全部食べます。うまPは食べないでも大丈夫ですよ」
そう言うやいなや、彼女は皿を掴んで豪快に食べ始めた。勢いはまるでレーシングカー。つられるようにカレーを頬張った俺は、そこでごんごんの意図に気が付く。
「これ最高に美味しいじゃないっすか!」
彼女は、このカレーを独占しようとしていたのだ!
配信や普段のTwitterなどを見る限り、このレベルのカレーが出来る事は奇跡に近いだろう。店で売られているのよりも美味しい。
更に、環境も美味しさにブーストを掛けていた。
何時もは一人の食卓に、もう一人居る。しかも手作り。
さっきまでの俺に言おう。不味い料理が出てくる訳ないだろう、と。
腹が破裂するかしないか、その瀬戸際まで俺とごんごんはカレーを食べた。食べまくった。ご飯が足りなくなり、コンビニまでパックご飯を買いに走るくらいには食べたのだった。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそう様でした。いやー、ごんごんどうしたんすかこのカレー。もうね、ばあちゃるくん1500年くらい生きてるんすけどー、その中でもね、とんでもなく美味しいカレーでしたよ完全にね」
「いろはも驚いてるんですよ! いやこれ、元々いろはの作ったカレーになとなとのアドバイス通りに隠し味とか加えたやつなんですけど」
「……なとなとって料理上手いんすね」
天井を見上げて、改めて風紀委員長のスペックの高さを知る。
しかし、だ。
「それにしても、アドバイスだけでここまで変わるなんてあり得ないですからね、ごんごんの料理も段々上手くなってるって事っすね!」
「んあ、いやまあ、いろはカレーは練習してたんですよ」
ごんごんは大きく背を伸ばし、背もたれに体重を乗せる。
「幼馴染の設定で撮影するよ、って言われてからすっごい練習して! 料理下手な幼馴染も可愛いと思うんですけど、やっぱその、ギャップって言うか?」
黙って話を聞く俺の前で、彼女は笑みを浮かべた。
照れくさそうにしながらも、達成感を感じている笑みを。
「ほら、うまPにいろはもこれくらいやれるんだぞー! って見せたいじゃないですか! いっつもうまP馬鹿にしてくるし!」
「いやもうね、ごんごん最高っすよ! いえーい! ごんごん流石ー!」
「いえーい!」
「まあ学力はダメっすけどね」
「そこで落とすの!? マジか!」
恨みがましい視線を受け止めながら、俺は席を立つ。食器をまとめてお盆に載せ、手伝おうとしたごんごんを座らせておく。
準備は全てしてもらったのだから、せめてこれくらいはやらなければ。
流しに食器を置き、お盆を引き出しに付けているフックに掛ける。ふと時計を見れば、もう結構良い時間だった。
「うし、そろそろ帰る準備しましょうかごんごん」
「え!? もう?」
「いやー、ばあちゃるくんが帰って来たのがまあまあ遅かったですしね、早く感じるのかもしれないんすけど、もう結構遅めの時間帯なんすよ」
「……ねえ、うまP」
「はいはいはーい、まあ帰り道は送るんでね、その時にアイスとか買ってあげたりしなかったりするんで」
「今日いろは泊まって行っちゃダメですか?」
「え? ちょっ、ちょいちょいちょーい! なあに言ってるんすかごんごん!」
突然の問いかけ。俺はキッチンからリビングへ、小走りで移動した。
ごんごんは変わらず、食卓の椅子に腰かけている。彼女は一瞬言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「ほっ、ほら! こうして幼馴染として居るんですし、折角ですから! 積もる話もありますし、いろはずーっと二人でゲームやりたいと思ってたんですよ!」
そして、彼女はどんどんと言葉を流していく。
俺は違和感を、と言うかズレを感じていた。波の様に出てくる言葉はみな、どこか薄い。頼りない小枝で歩くような、そんな声色だった。
「幼馴染として、こう気兼ねない感じを出したいんです」
まあ。
――この程度の違和感に気付かないのであれば、プロデューサーなんてやってられないのだろう。
「ごんごん。一回ね、深呼吸しましょうね」
「えっ」
「ほら、吸ってー吐いてー」
俺は椅子を引いて、幼馴染の向かいに座り直す。
「吸ってー吸ってー吸ってー」
「……って何ベタな事やらせてるんですかもー!」
「それでも途中まではちゃんとやるんすね……」
「そりゃまあ……」
ノリの良い幼馴染だった。
この子と俺の間には、ちょくちょく煽りを入れるような雰囲気が似合うのだろう。事実、毎回毎回そんな雰囲気に自然となる。
だが、今必要なのは『面と向かって』会話する時間だ。
「ばあちゃるくんはですねー、実は今までのプロデュースに自信が無かったんですよ」
「え!? そーなんですか!?」
「そーなんすよ! ……でもですね、ばあちゃるくんはしっかりプロデュースに自信を持とう! って思ってですね、もっともーっとアイドル部の子達の事を知りたいなーって思ったんすよ」
「その子に一番あった輝き方を見つけるためですか?」
「そうっす! なんでね、ごんごん」
なるべく優しく、なるべく温かく。
「幼馴染として、とかね、そんな事気にしないで良いですからね。ごんごんはもっと素直に甘えて良いんすよ」
彼女は今日一日、幼馴染としてとずっと言っていた。それがまるで免罪符であるかのように、何か自分の行動に理由を付ける時に。
言い訳の様にも聞こえれば、それは自分の正当性をどこかで確立したいようにも聞こえた。
そして、その自覚はごんごんにもあったらしく。
「……だって、甘え方が分かんないんですもん」
「そんなもん考えなくて良いんですって! 少なくともね、ばあちゃるくんは出来る事ならなんでもしますからね! 素直にあれやりたいとか言っちゃえば良いんですよ」
金剛いろははお調子者一辺倒の様で、その実頼れるムードメーカーだ。
そこから考えるに、どうも彼女は色々考えるのだろう。考え過ぎてしまうのだろう。
他の子は、撮影時の立場を「利用」した。
ごんごんは、撮影時の立場に「縋りついた」。
「言っていいんですか?」
「もちのろん太郎っすよ!」
「それあんま面白くないですよ」
「え!? ここでそれ言う!?」
彼女は椅子の背もたれから離れ、机に拳を叩き付ける。
強い意志を秘めた、緑の瞳。金剛いろはが、俺を見ていた。
「いろは、お泊りして……うまPと一晩中ゲームしてたいです!」
「明日学校あるんですけど」
「そこはオーケーですじゃないの!? ねえ!! あんなに言っておいてそれなの!?」
「冗談、冗談っすから流石にね! 落ち着いて欲しいんすけど!」
「……むう」
「条件を二つ、守って欲しいんすよ」
「何ですか」
「授業をなるべく寝ない事。良いですか?」
「分かりました! なとなとに起こしてもらえるように頼んでおきます!」
「いやそういうんじゃ……まあ良いっすよそれで。じゃあね! 買い出しでも行きますか!」
「いよっしゃー!!」
ごんごんは今日一番の、太陽の様な笑みを浮かべ立ち上がる。俺の手を取って玄関まで向かう途中。
ふと、彼女が口を開いた。
「いやあ、それにしてもお……」
どや顔プラスにやけ顔。彼女は、ゆっくりと言葉を発する。
「うまPの近くは、ホーっとスるんですね。ホースだけに! うまだけに!!」
「……うーわ激サム……」
「何でそんな反応するんですか! もー、むかつくうー!!!」
―☆―
「あの、ばあちゃるさん」
「なんすか?」
学園にて。
アイドル部の部室に居たばあちゃるは、部室に入ってきた八重沢なとりに声を掛けられた。
殆どドアを開けると同時であった。
しかし、なとりが声を掛けるのも無理はない。
何故なら。
「部室で映画見るのはまあ前例があるんで良いんですけど……なあーんでいろはさんがばあちゃるさんの膝に座ってるんですか!!」
「ん?なとなとも座る? あ、うまPポップコーン下さい」
「座っ、座……っ!」
「ほら。うまPの右膝空いてるよ?」
「空いてるわけじゃないんすけど……」
「……座りません!!」
あの撮影から、金剛いろははかなりの甘えん坊になった。
いや、素直になったと言うべきか。アイドル部の前での姿は基本変わらないが、ばあちゃると接するときにはかなり本音を言うようになった。
……故に、こういう状況が生まれている訳である。
「ていうか、何見てるんですか?」
「適当に決めたやつ。しかもシリーズの途中みたいだから正直全然分かんない」
「中々コアな楽しみ方してますね。……ばあちゃるさん、お仕事は?」
「これの為に全力で終わらせました」
「ばあちゃるさんってこう、アイドル部の事になるとスペック凄い向上しますよね。どうしたんですか?」
「いやまあ……最近はね、すこーし落ち着いてきたんすよ。ライブも終わりましたし、新メンバーも加入しましたしね!」
「なるほど。……あ、私、風紀委員の仕事があってばあちゃるさんのとこに来たんですよ。ちょっと良いですか?」
「了解です。じゃあごんごん、ばあちゃるくん言っても良いっすか?」
「えー、じゃあ明日また見てくれますか?」
「オーケーです。……はいはいはい、じゃあ行きましょうか」
テレビを消したいろは。立ち上がるばあちゃる。
しかしそこで、なとりはどうしても欲望を払い切れなかった。彼女の心は割と素直なのだ。
「……あの、ばあちゃるさん」
「どうしました?」
「やっぱりその、私も膝の上に乗って良いですか……?」
「えっ……マジで?」
「風紀委員長!? どうしたの!?」
「わ、私だってちょっと魔がさすときがあるんですー!」
――この時、ばあちゃるは『まあいいか』と考えていた。
それが原因で、これから彼の膝上が占領されまくる事を知らずに、『まあいいか』と考えていたのだった。
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