【完結】艦隊これくしょん ~北上さんなんて、大っ嫌いなんだから! ~ (T・G・ヤセンスキー)
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1 個性的すぎる捨て台詞

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……北上さんのバカああぁっ! もぉ、大っ嫌いっ!」 

「あはは、そんな怒んなくていいじゃん阿武隈(あぶくま)~」

 

 ここは、とある港湾都市に築かれた、【海軍鎮守府】。

 十数年前に海より突如現れた謎の敵性勢力、【深海棲艦】と戦う人類守護の最前線──のはずだ。

 だが、この日、広い敷地に響き渡っていたのは、厳めしい軍靴の音などではなく、およそ軍事施設には似つかわしくない二人の少女の声であった。

 きゃんきゃんと小型犬のように甲高い声で吠えたてて、もう一人の少女に掴みかかろうとしているのは、お団子金髪ツインテールを腰まで伸ばした小柄な少女。

 その手をいなすように払いのけつつ踊るようなステップで身を躱すのは、黒いおさげ髪の少女。口元にはからかうような笑みが浮かんでいる。

 それぞれタイプの違うセーラー服に身を包んでいる二人は、どちらも一見可憐な少女だったが、彼女たちはどちらも、見た目通りの平凡な女学生という訳ではない。

 異なる時代、もしくは異なる世界から喚び出されたとされる彼女たちは、通称【艦娘(かんむす)】と呼ばれ、その本質は、「少女の形をした軍艦」とでもいうべき存在である。

 いにしえの艦船の魂をその身に宿した、美しい戦乙女たち。通常兵器の通じぬ深海棲艦に対抗できる、唯一の存在。

 だが、戦闘力は別として、その精神は見かけ通りの少女のものに近いようで……

 

「……んもぉ、知らないっ! 北上さんなんか、北上さんなんかっ……! 左足の親指から小指まで、全部突き指しちゃえ~~っ!」

「あっははは、まった明日ね~、阿武隈~」

 

 言い争っていた二人のうち、金髪お団子ツインテールの艦娘が、ひとしきり地団駄を踏んだ後、半べそをかきながら走り去っていった。

 ひらひらと手を振ってその背中を見送りながら、黒髪お下げの艦娘が楽しそうな笑い声をあげている。

 

「おぉう、何と言うか……えらく個性的な捨て台詞だったな」

「もう、北上さんったら……毎日毎日、あの子にちょっかいかけすぎですよ」

 

 笑っている黒髪の艦娘――重雷装巡洋艦「北上」に対し、呆れ顔で声をかけたのは、海軍上級将校の白い軍服に身を包んだ髭面の大男と、北上と同じデザインの制服を纏った、茶髪の艦娘であった。

 大男は、この鎮守府の最高責任者であり、艦娘たちを統率する指揮官である「提督」。

 茶髪の艦娘は、北上の相棒である重雷装巡洋艦「大井」である。

 

「あははは、いや、まあ、からかい過ぎは良くないって、わかっちゃいるんだけどね~。ただ、阿武隈ってさぁ、な~んか、いじめたくなるっていうか、ちょっかいかけたくなるっていうか、そういう雰囲気してない?」

「……正直、解らんでもない」

「もう、提督まで……」

 

 北上と提督のやり取りに、複雑そうな表情を浮かべる大井。

 

「まあ、艦娘同士の個人的ないざこざにまで口をはさむ気はないが……くれぐれも、笑い話で済むくらいにしといてくれよ? 本気で仲違いして、任務にまで支障をきたすようになったら、冗談で済まんからな」

「そうですよ。必要以上に仲良くなる必要はありませんけど、つまらないことで北上さんの評判に傷が付くのは、私イヤですからね?」

 

「わーかってますって。あたしだって、提督や大井っちに迷惑かけたかないしね~」

 

 ぱたぱたと顔の前で手を振って、金髪ツインテールの走り去った方向を見やった後。

 北上はくすりと笑い、少し遠くを見るような眼差しを浮かべた。

 

「阿武隈、かぁ……」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「あー、もうっ! もうっ! ほんっと何なのよあの人! 布団干すたんびに雨に降られちゃえばいいのに! ついでに、毎回傘忘れちゃえばいいのに! ほんと嫌い、キライ、大っ嫌い!」

「機雷機雷って、うるっさいな~。な―に? ま~た北上さん?」

 

 ところ変わって、こちらは、軽巡洋艦や練習巡洋艦と呼ばれる艦種に属する艦娘たちが起居する、通称【軽巡寮】と呼ばれる建物。

 その一室、三段ベッドの下段にあぐらをかき、ぼふんぼふんと枕にパンチを食らわせているのは、金髪お団子ツインテールの艦娘――軽巡洋艦「阿武隈(あぶくま)」である。

 一人で騒いでいる彼女に、同室の姉妹艦である赤髪の艦娘、軽巡洋艦「鬼怒(きぬ)」が、声をかけてきた。

 

「そうよ! いっつもいっつも、前髪わしゃわしゃ崩してきたり、からかってきたり、イタズラしてきたり! 出撃しても早く帰りたいとかめんどくさいとか、やる気のないことばっかり言うし! そのくせ、MVPだけはちゃっかり持ってくし! 駆逐艦の子たちのこと、ウザいとか平気で言っちゃうわりに、なんか皆に懐かれてて、言うこともちゃんと聞かれてて悔しいし!」

「……ああ、羨ましいのか」

「羨ましくなんかないもん! 悔しいだけだもん!」

「……どーでもいいけど、あんた達うっさい。特に阿武隈」

 

 最上段のベッドからごそごそと不機嫌そうに顔を出してきたのは、もう一人の同室の姉、軽巡洋艦「五十鈴(いすず)」である。だるそうにもしゃもしゃと掻き回すエメラルドグリーンの長髪からは、あちこち寝癖が跳ねている。

 

「あ……ごめん、五十鈴お姉ちゃん。起こしちゃった?」

「そりゃ起きるわよ、あんだけ騒いでたらさ……あ―、今から寝直してたら、夕方からの出撃間に合わないな―……いいやもう、シャワー浴びちゃお。なんか、飲み物とか残ってたっけ?」

 

 あくびをしながら降りてくる五十鈴に対して、鬼怒が冷蔵庫を指差す。

 

「さっき見たとき、牛乳2本あったよー」

「ちょっとぉ、鬼怒ちゃん? それって、あたしのなんですけど!?」

 

 阿武隈がむくれ顔になる。

 

「いいじゃん、別にー。言っとくけど、阿武隈ちゃんさー。牛乳飲んだからって、胸部装甲はいきなりぶ厚くなったりしないんだからね?」

「……べっ、別に、そんなので飲んでる訳じゃないもん! 好きだからだもん!」

「あーはいはい、わかったわかった。ムキになんじゃないの。あと、鬼怒も余計なこと言わない。とりあえず一本もらうね」

 

 阿武隈の頭をぽんぽんとはたいて五十鈴が通り過ぎる。ついでに鬼怒の頭にはぺしっと軽くチョップを喰らわす。

 横暴だー、差別だー、えこひいきだー、などと鬼怒が騒いでいるが、五十鈴はそれには取り合わず、冷蔵庫から牛乳瓶を1本取り出した。

 キャップを外して瓶に口をつけると、腰に手を当てて胸を反らし、ぐびっ、ぐびっと飲み干していく。牛乳を嚥下していくごとに細い喉がかすかに動くのが、妙に艶かしい。

 さらに、ただでさえ豊満な五十鈴の胸部装甲が、胸を反らして牛乳を飲み干すたびに、なんというかこう、さらに強調されるように揺れている。

 

 たゆん、たゆんっ。

 

 思わず自分たちの胸に手を当てて見下ろす阿武隈と鬼怒。

 

 ……すっとーん。

 

「あたしたちも、改二になったら、ちょっとは違ってきたりするのかなぁ……」

「いやどーだろ、龍驤(りゅうじょう)さんとかの例もあるからねえ……」

「……さらっと失礼な台詞吐いてんじゃないわよ」

 

 ぶはぁ、と息をついて口のまわりの白いヒゲを拭いながら五十鈴が顔をしかめる。

 

「とりあえず阿武隈、あんまり度が過ぎるようだったら、あたしから北上に言おうか?」

「……ううん、いい」

 

 この程度のことで、いちいち姉に頼る訳にはいかない。それこそ北上に、にやにやしながら馬鹿にされるのがオチだ。

 

 いや、案外すんなりと「あっそぉ? ふーん、解ったよ。気をつけるねー」の一言とかで、以後関わってこなくなる可能性も大いにある。

 

 あるのだが。

 

 それはそれで、なんか腹が立つ。

 

 

「……けど、あたしは北上さん、結構好きだけどなー。大井さんとかに比べたらあんま怖くないし、意外とお茶目で面白いし。あと、なんと言っても強いしねー!」

 

 鬼怒の言葉がちくりと胸に刺さる。

 そうなのだ。

 元は自分たちと同じ軽巡の出でありながら、重雷装巡洋艦、それも【改二(かいに)】と呼ばれる上位改造にいちはやく成功し、今や、鎮守府の全艦娘たちの中でも最強戦力の一角。

 数々の戦役で敵の旗艦や主力を沈めたことは数知れず。

 鎮守府内でも最高の練度を誇り、提督からの信頼も厚い。

 主席および次席秘書艦にして、鎮守府内で最初かつ同時に性能の限界突破──通称【ケッコンカッコカリ】を果たした二人の重雷装艦コンビ。

 彼女たち、北上と大井については、駆逐艦娘や軽巡娘たちの中でも密かに憧れや目標にしている者が多かった。

 

(……あっ、あたしは別に、憧れてなんかいないけどっ!)

 

「……だいたい、阿武隈ちゃんって、北上さんのこと嫌い嫌いって言ってるけどさー。北上さんの方は、むしろ阿武隈ちゃんのことお気に入りだよね?」

 

 頬杖をついたまま、器用に首をかしげる鬼怒。

 

「そっ、そんなことない! ……もん!」

 

 馴れ馴れしくて、意地悪で。

 いつもへらへらしてて、適当で。

 何考えてるんだか、よく解んないとこあるし。

 

 ――そう、思えば、初対面の時からそうだったのだ。

 

 




※作者の嫁艦は北上さまと大井っちです


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2 二人の出会いと合同演習

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 着任初日。

 小さな背中に大きな荷物を背負い、提督の執務室のドアの前に立った阿武隈は、手鏡を取り出して念入りに前髪を整えては、何度も深呼吸を繰り返していた。

 

「そんな緊張しなくても大丈夫だってば。うちの提督、見た目はいかついけど、割と大らかっていうか、フレンドリーな性格だからさ」

 

 五十鈴が呆れたように阿武隈を見下ろす。

 

「だってぇ、初対面の印象でだらしない子だって思われたらやだもん! ねえ五十鈴お姉ちゃん、あたし大丈夫かなぁ? 前髪おかしくない?」

 

「だいじょぶだいじょぶ。あんたはちゃんと可愛い。……ほら、行くわよ」

 

 ノックした後、「失礼します」と五十鈴が扉を開ける。

 

「こ、こんにちはっ!! 軽巡、阿武隈です!!」

 

 ぶんっと勢いよく金髪お団子ツインテールの頭を下げた後、かぁっと頬が熱くなった。

 

 ……しまった、ここは「こんにちは」じゃなくて、「はじめまして」って言うべきだった。

 それにどうせなら、抱負とか自己アピールとか、もっと気の効いた言葉を付け加えれば良かったのに。

 ああ、ドアを入るところからもっぺんやり直したい。

 

 ……だが、いつまで経っても返事は返ってこなかった。

 

「……ちょっと北上、提督は? あたし、この時間に着任の挨拶に来るってあんたに伝えてなかったっけ?」

「あー! ごめんごめん、提督に言うの、うっかり忘れてたわ。今は大井っちと一緒に工廠(こうしょう)に行ってるけど、じきに帰ってくると思うよー」

「もう! せっかくあたしの妹が着任したってのに! あんた、一応主席秘書艦でしょ? 適当なのもいい加減にしなさいよね……っていうか阿武隈、あんたいつまで頭下げてんの」

「ふえっ!?」

 

 顔をあげると、まず正面の壁にかかった「夜戦主義」という大きな掛け軸が目に入った。

 その下には提督の席だろうか、立派な机と椅子が鎮座しており、椅子ではなく机に一人の少女が腰かけて、脚をぶらぶらさせていた。

 この人が秘書艦……なのだろうか?

 

 見たことのない、クリーム色の、丈の短いセーラー服。長い三つ編みおさげの黒髪。ほっそりとした腕にも脚にも、これでもかと言わんばかりに、魚雷発射管が装着されている。

 その艦娘は、阿武隈たちに向かってひらひらと手を振ると、よっ、と声をあげて、机から飛び降りた。

 

「あー……はじめまして、ってゆーか、久し振り、ってゆーか……やっぱ、はじめまして、かな? あたしは北上。球磨型の重雷装巡洋艦、ハイパー北上さまだよー」

 

 にへら、と緊張感に欠ける笑顔を浮かべると、弾むような足取りで近づいて来て、いきなりがしっ、と、阿武隈の頭を上から片手で掴んできた。

 そのままわしゃわしゃと、前髪をかき回してくる。

 

「なーにさ、阿武隈ー? ずいぶんとまあ、可愛らしくなっちゃってー?」

「……ちょ! ちょっと、やめてよぉ! さっき前髪直したばかりなのにぃ!」

「前髪なんか、別に気にすることないじゃーん。どーせ海に出れば、すぐに海水や潮風でばさばさになっちゃうんだしさー」

「それでもやなの!」

「おおー、新人のくせに、生意気だなー」

 

 小馬鹿にするようなへらへらとした態度に、思わずむかっときて言い返す。

 

「馬鹿にしないでよね! あたしだって、やれば出来るんだから!」

「ほっほ~う。その負けん気……いいねぇ、しびれるねぇ。……よーし、決めた。やれば出来る子だ、って言うんならさ、見せてもらおうじゃんか」

「えっ?」

「あんたの教導、あたしがやることにするから。……いいよね、五十鈴?」

「えぇっ!?」

 

 五十鈴が額に手のひらを押し当てて、処置無し、とばかりにため息をついた。

 

「まぁ、あんたが言うなら任せてもいいけどさ……北上、あんた、あたしの妹、あんまいじめないでよね?」

「ふえぇっ!? そんなぁ!? やだぁ、助けてよぉ、五十鈴お姉ちゃ~ん!」

 

 

 ──それが、艦娘・阿武隈と艦娘・北上との、初対面での会話だった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……そりゃさ、あたしだって、あの人たちが、凄い艦だってのはわかってるけど……」

 

 初対面での馴れ馴れしさや、その後のあれこれで、すっかり「変な人」とのイメージが自分の中で定着してしまった北上だが、その実力は、出撃や演習などで、嫌というほどに見せつけられている。

 うんうんと、大きく首を振って鬼怒が頷いた。

 

「凄かったよねー、特にこの前の合同演習! まじパナイって思ったもん!」

 

 

 

 ──この時代、各地にある鎮守府は基本的にそれぞれ完全に独立した運営方式をとっており、大本営直々の命令を受けた大規模合同作戦でもない限り、お互いに関わることはほとんどない。

 唯一の例外と言えるのが合同模擬戦演習で、これは大本営から指定を受けて「攻撃側」と「防御側」に割り振りされた数ヶ所の鎮守府の艦娘同士がそれぞれ艦隊を組んで模擬戦闘を行うというものである。

 

 基本的に艦娘の戦いは、深海棲艦に支配された海域を奪還するための出撃が主になるため、演習のシステムも、【防御側】より【攻撃側】の提督や艦娘たちに経験を積ませることが主眼になっている。

 例えば、攻撃側の鎮守府には、防御側の編成があらかじめ知らされているため、ある程度相手に合わせた編成や装備などの対策を練ることができる。

 実際に演習を申し込むかどうかの選択権も与えられるので、攻撃側の演習については「数百戦無敗」の鎮守府もざらにあったりする訳だ。

 

 一方、防御側を割り当てられた鎮守府には、挑まれた場合の拒否権がない。

 そのかわり、使用した弾薬や燃料は大本営に補填してもらうことができるので、デメリットもほとんどない形になっている。

 

 もちろん、編成はそれぞれの鎮守府に任されているが、一般的に、防御側が練度の高い艦娘を演習に出してくれればこの上なく実戦的な訓練になるため、攻撃側には歓迎される。

 ごくまれにではあるが、防御側・単艦編成でありながら空母の艦載機攻撃や戦艦の砲撃を全てかいくぐり、戦術的勝利をもぎ取るような剛の者もいたりして。

 そうした艦娘は、防御側のみならず攻撃側の鎮守府でもちょっとした英雄扱いされるのが常だった。

 

 ただし、防御側を受け持つ鎮守府の提督達の中には、わざと着任したてで練度の極端に低い艦娘を演習に出すような者もいたりするわけで。

 そうなると、単なる棒立ちの相手を撃つためにわざわざ貴重な弾や燃料を消費するも同然、ということになり「動かない標的相手に訓練してた方がマシだった」というレベルのろくでもない経験にしかならなかったりもする。

 

 そうした、通称「嫌がらせ編成」を、阿武隈や北上の所属しているこの鎮守府の提督は、ことのほか毛嫌いしていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……遠慮は要らん。お前たち二人で叩き潰して来い」

 

 提督の言葉を聞いたとき、阿武隈は思わず自分の耳を疑った。

 

「りょーかーい。んじゃ、ギッタギッタにしてやりましょうかね~。大井っち、行っくよ~」

「はい、北上さん!」

 

 ……まさか、さらに耳を疑うような台詞を吐いて、二人が平然と歩き出すとは。

 

「ちょっ……提督! あれ、いいんですか?」

「ん? ああ。あそこの提督は、この3ヶ月、ずっとあの編成だ。大和型の建造に成功したことをやたらと自慢するくせに、出撃にも攻め手側の演習にも参加させず、改修ゼロ、練度ゼロのまま放置してる。しかも、潜水艦隊で挑む相手に対しては臆病者呼ばわりだ。ここらでひとつ、痛い目を見せてやらないとな」

「……は?」

 

 ──何を言ってるのだこの人は。

 

「そのくせ、トラックでの大規模作戦の時は、戦力不足を言い訳に楽な丙ルートを担当しやがって……。あそこの提督が大和型をちゃんと鍛えて戦力に仕上げていれば、あの時ももう少し楽に戦えていたはずなんだ。まったく、これだから、妙な美意識とプライドばかり高いお坊っちゃま提督は……」

「……えーっと」

 

 ──どうしよう。話が通じない。

 

 今回の模擬戦演習の相手鎮守府が出してきたのは、戦艦が二隻。

 それも、ただの戦艦ではない。

 史上最強との呼び声も高い、「大和」と「武蔵」──大和型の揃い踏みだ。二隻編成とはいえ、撃沈判定まで追い込むには、こちらに戦艦や空母が複数いたとしても骨が折れる相手である。

 いくら練度が高いとはいっても、軽巡あがりの艦娘二名のみで挑ませるなど正気の沙汰とは思えなかった。

 阿武隈はぱくぱくと口を開け閉めするが言葉が出て来ない。その肩に、ぽんと五十鈴の手が置かれた。

 

「あの二人なら大丈夫。余計な心配するより、しっかり見て勉強しなさい」

「べっ……別に! 心配とかしてるわけじゃないもん! 特に北上さんの事なんか!」

 

 

 

 そうこうする間にも、演習開始のための準備は着々と進められていく。

 合同演習は一般にも公開されているため、演習水域には報道のヘリも入り、観客席のモニターからも観戦できるようになっている。

 突然、その巨大なモニターが点灯し、観客達が何事かとざわめいた。そこに映ったのは、誰あろう北上と大井である。

 モニターに映る北上たちは、演習開始までの暇つぶしにと、自分たちと大和型、それぞれからのマイクパフォーマンスを提案した。

 

 観客達がどよめく。血の気、もしくは茶目っ気の多い艦娘達の中で、合同演習でのこうした光景はこれまで全くなかったというわけではない。

 だが、そのほとんどは年少の駆逐隊の間などでのことで、軽巡以上、特に戦艦までもが混じる模擬戦演習においては異例中の異例の出来事といえた。

 

 しばしの後、大和型の二人もその申し出を受け入れたとのアナウンスが流された。

 期待に満ちた観客達が固唾を飲んで見守る中でマイクを持った北上は、

 

『あーあー、テステス』

 

と発声練習した後、いきなり

 

『元気ですかー!!!』

 

 と、有名な元プロレスラーのモノマネから入り、観客席をわぁっと沸かせた。

 

 無駄に似ている。しかもご丁寧なことに顔真似付きだ。

 

『……あー良かった、ウケなかったらどうしようかと思ったよ』

 

 観客席から笑い声が起きる。

 

『いやー、実を言うとこれがやりたかっただけ……っていうのはもちろん冗談だけどね~。せっかく有名な大和型のお二人と会えたもんだからさ。この機会に、艦娘としての心掛けとか、演習に向けての意気込みとかを聞いてみたいと思ってさ~』

 

 へらへらと笑いながら北上が相手方に発言を促す。観客席からも、期待するような拍手が沸き起こった。

 それを受けて、大和はややはにかみながら、武蔵は傲然としてマイクを受け取る。

 

『大和型戦艦一番艦、大和です。なんだか少し晴れがましいですね……。まだまだ未熟な身ですが、本日は胸を借りるつもりで頑張らせていただきます』

『大和型戦艦二番艦、武蔵! この主砲、伊達ではないぜ! 下らない茶番で開始を随分と待たせてくれるようだが……フッ、遊んで欲しいのかい?』

 

 控えめな大和に対して好戦的な武蔵。対照的なコメントに、会場から拍手が起きる。

 

『大井っち~、どーしよ? 胸を貸せとか言われてるよ~。けどさぁ、残念なことに、あたしゃ貸すほど胸あるわけじゃないんだよね~』

『北上さん、その発言はちょっと……』

 

 北上と大井がマイクを通したままで緊張感のない会話を交わし、会場が笑いに包まれる。

 

 だが。

 

『んー、けどさー、大和っちに武蔵っちー? 未熟っていったって、着任からもう三ヶ月以上も経ってんでしょ? 練度はどれくらいなのかとか、どんだけ戦果をあげたのかとか、ちょっと聞きたいなー』

 

 北上の言葉に大和と武蔵の顔がわずかにこわばった。

 

『駄目ですよ北上さん。正確な練度や戦果の数字はれっきとした機密情報ですから。……ああ、でも、少なくとも、大和さんの料理の腕は名人級だそうですよ? ……うふふ、それこそ「大和ホテル」と言われるくらいにはね』

 

 大和の眉がぴくりと動いた。

 

『へ~、凄いね~。あたしも食べたいなー。じゃあ、ひょっとしたら、武蔵っちも料理とか上手なのかなー?』

『さあ、そこまでは……どうなんでしょうね?』

『きっと上手だよ~! なんかさぁ、魚とかさ! 豪快にさばいてくれそうじゃん! さしずめ「武蔵旅館」の自慢の料理、ってとこだね!』

 

 武蔵の拳がぎりっ、と握り締められる。

 

 大井も北上も、表情はあっけらかんとしたものである。観客のほとんどは、ただのマイクパフォーマンス、もしくはフリートークとして気楽に笑いながら聞き流しているだけだった。

 

 だが、当の大和・武蔵や艦娘たちの一部は『大和ホテル』『武蔵旅館』という大井や北上の発言に平静ではいられなかった。

 二人の大和型のトラウマ……というよりコンプレックスを、強烈に刺激するそれらの単語。

 

 ちょうどその時場内アナウンスが演習開始準備が整ったことを報せ、マイクが回収された。

 画面が消える最後の瞬間、モニターカメラに向かって大井と北上が浮かべたのは……意味ありげな、にやりとした表情。

 

 ──先ほどの発言、偶然ではない。意識的な挑発。

 

 確信した大和と武蔵の頭に、かっと血が昇った。

 

 ──奴らは喧嘩を売ってきている。

 ──ならばその喧嘩……大和型の名にかけて、高値で買わずにおくものか。

 

「……潰すぞ、大和」

 

 武蔵が呟き、大和が頷いた。

 

 




※史実ネタ知らない方への基礎知識:史実における軽巡「阿武隈」は、1930年の大演習で「北上」への追突事故を起こしてます。艦これの阿武隈が、北上を苦手っぽく感じてるらしい台詞があるのはそのせいでは、というのがもっぱらの噂。
※作者は大和型も大好きです。ただし嫌がらせ編成は潰すべし、慈悲はない。
※やや挑発的なハイパーズの台詞には一応理由あり。


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3 荒ぶる大和型

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 大和と武蔵は、内心の猛りを抑え切ることができなかった。

 

『大和ホテル』に『武蔵旅館』。

 

【前の世界】での大戦末期。

 戦時窮乏の折にもかかわらず、豪華な内装、冷房の効いた艦内、軍楽隊つきの料理……そうしたものに満たされていた戦艦・大和と戦艦・武蔵は、他の艦の乗組員達からそう揶揄されていた。

 感情も意志も持たなかった軍艦時代の事とはいえ、あの頃を思い出すと忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ない。

 

 しかも大和達は、艦娘として生を受けた今回もまた、言わば飼い殺し同然の扱いを受けている。

 【提督】の身の回りの世話を主とした後方での業務のみを命じられ、他のことは己の艤装の手入れ以外、何も許されない。

 出撃はもちろん、演習にさえ出させてもらえない無為な日々。

 

 ──ああ、お前たちは美しいな。

 ──お前たちは他の艦とは違う。特別な存在なのだ。

 ──出撃?  まだ必要ないな。そのうち、今の戦力で問題が出てきたら、お前たちの力を借りることにしよう。それまでは私のために後方で尽くしていてくれれば良い。

 ──今回もまた勝利だ。お前たちが見守ってくれていたおかげだな。

 ──演習?  わざわざ他の鎮守府に出向く必要などないだろう。受け手側でならまあ、好きにするがいい。

 ──また今日も潜水艦部隊からの申し込みだけか。残りは全部辞退してきた。全く、情けない連中ばかりだな。

 ──お前たちは象徴だ。ただ存在しているだけで相手を圧倒し、味方を鼓舞してくれる。存在してくれているだけで充分に意味のある存在なのだ。

 

 大和と武蔵にとってある意味不運だったのは、彼女たちの【提督】が、彼女たちを使わずとも現状の担当海域を維持できる程度には、それなりに有能だったことだろう。

【提督】は彼女たちを軽んじていたわけでも疎んじていた訳でもない。

 だが、彼の愛情の注ぎ方は、言うなれば、

 

 綺麗に作り上げた艦船模型を池やプールに浮かべようとは絶対にせず、最初から最後までガラスケースの中で愛でるような。

 

 新車のシートにかけられたビニールを延々破こうとしなかったり、新しいスニーカーを雨の日に使うことを嫌がるような。

 

 日本刀の真剣を、護身用でも鍛練用でもなく観賞用として所有するような。

 

 ……美しさを愛でるという点だけ見れば決して間違ってはいない──しかし、だとしてもやはりどこか歪な、そういう愛し方であった。

 

 

 北上と大井がカメラの前で最後に見せたからかうような笑みを思い浮かべ、大和と武蔵は奥歯を噛み締める。

 

 

 ……お前たちに何が解る。

 

 ……戦えない身のもどかしさの何が解る。

 

 ……自分たちよりか弱い者に(いくさ)の負担を押し付けて、ただ日々を過ごすしかないその辛さの、何が解るというのだ。

 

 

 それが──【提督】の方針が、決して悪意から来る結果ではないだけに、強くは逆らえないこの苛立ちを。

 

 

 ……今の自分たちが練度において劣っているのは百も承知。

 

 だが……『大和ホテル』に『武蔵旅館』──その呼び方だけは許せない。

 

 

 その侮辱のツケ──存分に払ってもらおうか。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 東西南北に四辺を配した正方形に区切られた、演習用の指定水域。

 今回の模擬戦では、北西の隅から北上と大井が、南東の隅から大和型二隻が入場し、お互いに索敵しながら戦う形になる。

 

 演習開始のサイレンが鳴り響くと同時。

 大和と武蔵は零式水上観測機を発艦させた。

 それに少し遅れて、北上と大井は猛然と主機の回転数を上げ、二手に分かれて走り出す。

 北上は東方向、大井は南方向に。ちょうど演習水域の外周をなぞるような形だ。

 

「夜戦まで、せめてどちらか一人は生き残れるように二手に分かれた……?  けど」

 

 観戦用の巨大モニターを見ながら、阿武隈は呟く。

 相手が予期していないところへの奇襲ならばともかく、これは戦闘を前提とした演習だ。

 ましてや、大和型には、水上観測機が初期装備として支給されている。

 

「……ああっ、見つかっちゃった!」

 

 北上、大井の動きが相手の水観にそれぞれ捕捉されるまでには、開始からたいした時間はかからなかった。

 

「何考えてんの!? ただでさえ火力的にも耐久的にも分が悪いってのに、動きが相手に丸見えの状態で、わざわざ戦力を分散するなんて!? ……これじゃ、各個撃破のいい的じゃない!」

 

 イライラともどかしげな声をあげる阿武隈。

 ほう、と感心したように提督が声をあげた。

 

「戦術の基本は押さえているようだな。さすが、かつての一水戦旗艦」

 

 軍帽をかぶった巨体の男はやや垂れ気味の目を優しげに細めた。

 ぶ厚い手のひらを阿武隈の頭にぽんと載せ、わしゃわしゃと撫でようとする。

 

「わぁ! あんまり触らないでくださいよぉ! あたしの前髪崩れやすいんだから! ……提督、ちょっと北上さんみたいです」

「……おお、すまんすまん。つい癖でな」

 

 気まずそうに提督が手を引っ込める。

 手のひらの温もりが離れていく事に少し残念な気持ちも起こるが、それを振り払うかのように、阿武隈は首を振ってモニターに目を向ける。

 水観で相手の位置を捕捉した大和と武蔵は、それぞれが大井と北上の進行予測位置に向けて、西方向と北方向の二手に別れたところのようだ。

 

「火力で勝るぶん、一対一でも押し勝てると思ったか……いや、これはさっきの挑発が効いてるな」

 

 提督の呟きが耳に入る。

 

 北上たち二人が、敢えて相手を怒らせて一対一の状況に持ち込んだ、ということだろうか。

 だが、それに何の意味がある?

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 北上と大井、大和と武蔵は、演習開始以来、それぞれ演習水域の外周をなぞるように移動している。

 全員がこのまま完全に外周沿いに航行し続けたとすれば、北東の隅を先に通過した北上が東辺上で武蔵と、南西の隅を通過した大井が南辺上で大和と、それぞれ会敵することになるだろう。

 だが、北上と大井はそれぞれ北辺・西辺の半分程を移動したところでそれぞれ九〇度転進した。演習水域の中心で合流を図るつもりのようだ。

 

「一対一の戦いを挑むと見せかけて相手を分断。そこから速力を活かして相手より先に合流。分進合撃で二対一に持ちこむつもり……?」

 

 モニターを見ながら阿武隈は息を呑む。

 

 

 一方、演習水域では。

 

「……無線で連絡を取り合った様子もないのに、ほぼ同時に転進か。この連携の取れたタイミング、転進の旋回半径の小ささ……流石に見事な練度だ。だが」

 

 武蔵が獰猛な笑みを浮かべ、演習海域の中心に向かって進路を取る。

 

「その動きはこちらから全て丸見えです。それに……」

 

 大和もまた、演習海域中心を目指すように転進する。

 

 俯瞰して見れば、大井と北上はそれぞれ北と西から演習水域の中心点で合流を図り、それに遅れる形で大和が南南東から、武蔵が東南東から中心点に向かうように見えただろう。

 だが、大和と武蔵は、中心点を視界におさめる遙か手前で、足を止めた。

 二人の艤装が唸りをあげ、砲塔が旋回する。

 

「私たちの射程……お忘れではないかしら?」

 

 大和が、武蔵のものとは違う、しかし見ようによってはさらに獰猛な、婉然たる笑みを浮かべた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ──およそ軍艦に積まれた砲の中で、名実ともに最大の威力と射程を誇る、史上最強の砲。

 戦艦だろうと、空母だろうと、水平線の彼方から、成層圏の高みから、相手を一方的に粉砕するその砲の名は──46cm三連装砲。

 

 北上と大井が合流するであろう、演習水域の中心点。

 大和型二人の巨大な主砲は、水観の目を通して、ほぼ同時にその位置に狙いを定めていた。

 こちらの攻撃は届き、相手の射程からは外れる、格好のアウトレンジ十字砲火の態勢。

 相手の合流位置までの距離と速度と着弾までの時間を概算し、タイミングを計る。

 

 ──あと十秒……。

 

 ──五秒……三……二……一……

 

「敵艦補足! 全主砲、薙ぎ払え!」

「遠慮はしない、撃てぇ!」

 

 凄まじい轟音が鳴り響いた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「きゃあああっ!?」

「がっ……!?」

 

 鳴り響いた轟音と共に、膝を折ったのは。

 北上と大井ではなく、大和と武蔵の方だった。

 

「雷撃……馬鹿なっ?」

 

 衝撃と共に、大和型二人の足元から吹き上がった、巨大な水柱。それらは、色鮮やかな朱色をしていた。

 武蔵の左脚と左の主砲、大和の右半身ほとんどが、水柱に呑まれて朱色に染まる。

 と同時に、二人の大和型の駆る主機の回転が急速に勢いを失い、砲塔がギギギギ、と、きしむような音を立てた。

 

「ぐっ……!?」

 

 模擬弾自体、当たれば当然それなりの衝撃はあるが、その程度では、もちろん艦娘の艤装や身体を傷つけるには至らない。

 この動作不良は、模擬戦演習用の砲弾や魚雷に内包された、朱色の染料によるものだ。

 ただのペイント弾では、血の気の多い年少の艦娘たちや興奮した艦娘が、受けたはずの損傷を無視して砲や主機を普段通りに動かし演習を続行しようとすることも多い。

 そのため、この染料には、艦娘の艤装の作動を阻害する特殊な成分が含まれていた。これにより、演習における中破や大破の判定を、より精密に行うことが可能となっている。

 ……一説によれば、艦娘たちが反乱を起こそうとした時のために開発されたのではないかとも言われるが。

 

「くそっ、どういうことだ!?」

 

 作動不良の度合いから見て、武蔵は中破相当、大和はほぼ大破相当の被害。

 だが、大和と武蔵の頭を占めていたのは、自らの損傷具合よりも、あまりに不可解な出来事に対する疑問だった。

 

 いったい今……自分たちはどこから撃たれた?

 いや、それ以前に奴らはいつ、魚雷を撃った?

 

 奴らの姿は水観がずっと捉えていた。

 奴らは一発の魚雷も発射していない。

 

 奴らはいったい、何をした?

 自分たちは……何をされたのだ?

 

 

 




※艦これ提督経験者なら大抵分かるアレ。種明かしは次話で。


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4 その左手は力強く温かく

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 甲標的、という名の装備がある。

 

 本来の――【あちらの世界】でのそれは、魚雷発射機構を備えた小型の有人潜航艇を指す名であった。

 だが、艦娘の一部が使うその名の装備は、【あの世界】のもののように誰かが乗り込んで操縦するものでは、勿論ない。

 水上機母艦や潜水艦、重雷装巡洋艦のみが搭載できる、特殊な形状のその兵器は、通常の魚雷と同じように発射され、最初はゆるゆると直進する。

 そして、その航続距離が限界に達したその瞬間、後部の推進機構を切り離し、前部に内蔵された第二の推進機構を作動させて再加速することができるのだ。

 無理に喩えようとするならば、それはむしろ、多段式の打ち上げロケットに近い。

 

 

 大和と武蔵は知らなかった。

 実戦からも演習からも遠ざけられていたが故に、その威力を。

 

 大和と武蔵は知らなかった。

 二段階に渡る加速が生み出す、その射程を。

 

 大和と武蔵は知らなかった。

 その牙の届く距離が――自分たちの46cm主砲をも、さらに超えるものであることを。

 

 

 

「……水観の目に頼り過ぎたな」

 

 提督が呟く。

 

 北上と大井が甲標的をひそかに「発射」――というよりも「発進」させたのは、大和型の水観が彼女たちを補足するよりずっと前。

 具体的には、演習開始のサイレンが鳴った、その直後だった。

 

 本来ならば勢いよく発進するはずの甲標的の第一段階の航行速度を、航跡すらも目立たぬようにわざと落として、ゆるゆると進ませる。

 大和と武蔵がその進行方向、射線上に到着したのを見計らったかのように、二段階目の加速が発動。

 大和型二人の主砲が標的――大井と北上の姿を捉え、全ての注意がそちらに向いたまさにその瞬間、足下から大和と武蔵を襲ったのであった。

 

「自分たちの姿が水観に捕捉されることは、最初から折り込み済み……ううん、むしろ、自分たち自身を囮にして、相手の思考と進路を誘導した……?」

 

 阿武隈は呆然とする。

 理屈の上では解る。だが、考えるのと実行するのとは雲泥の差、全くの別物だ。

 

「そうね……【アウトレンジから一方的に十字砲火を加えることができる有利な位置】を鼻先にちらつかせて相手を誘い込む。……そこまではまだいいわ」

 

 五十鈴が、呆れたように口にする。

 

「……問題は、その位置とタイミングを完璧に読み切る勘と、あれだけの距離を進ませながら狙い通りの位置に甲標的を到達させるその職人技よね」

 

(……ううん、それだけじゃない)

 

 阿武隈はぞくりとした戦慄を覚える。

 

(……凄いのは「読みを的中させたこと」じゃない。その読みを全面的に信じて、全てを賭けられること)

 

 大和と武蔵が予測と全く違う動きをしていたら?

 甲標的の到達が少しでも早かったり遅かったり、進路がズレていたとしたら?

 自分たちの読みや狙いが外れることなど微塵も考えず、己の判断と技術に全てを委ねられるだけの絶対の自信。

 

「……ああ、それはただの慢心。あいつらのことだからたぶん、初撃が外れたら外れたで、相手の砲撃全部よければいいやとか考えてんのよきっと」

 

 五十鈴の言葉に提督がうんうんと頷く。

 

「そうそう、実際、それでしょっちゅう大破撤退食らって帰って来るんだよなぁ」

「えええー……」

 

 毒気を抜かれたような顔をする阿武隈に、五十鈴が視線を向ける。

 

「……それよりもあんた、大事なことを見逃してるわよ。あいつらが誘導したのは、相手の思考と進路だけじゃないわ。もっと基本的なこと……視線よ」

「視線?」

「より正確に言うなら、視界、だな」

 

 水上機を索敵や着弾観測に使うのは、確かに有効な手段だ。

 だが、水上機を「目」として使っている間、どうしても視界と意識はそこに向けて限定され、自分自身の周囲への警戒がおろそかになる。

 潜水艦をはじめとする伏兵の待ち伏せ雷撃に、大型艦が不覚を取る例の多くは、この瞬間を狙われたためだ。

 双眼鏡を使って遠くを見ている時に、こっそり近づいてきた暴漢にいきなり横面を張りとばされるようなもの、とイメージすれば解りやすいだろうか。

 

 このため、水上機を「目」として使う時は、随伴艦を周囲の警戒に当たらせるか、こまめに水上機とのリンクを切って周辺警戒も並行して行うのが鉄則である。

『訓練は実戦の如く、実戦は訓練の如く』を地で行くベテランならば、たとえ伏兵が存在しないことが明らかな演習であっても、随伴艦無しで水上機とのリンクを繋ぎっぱなしにしたりなど決してしない。

 

 だが、練度がほぼゼロの大和型二人にとっては――敵が二人と決まっていて、しかもその両方の動きが水観で把握出来ている以上――わざわざ周辺警戒のために水観とのリンクを切るよりも、そのまま水観の「目」で北上と大井を監視し続けた方が効率的に思えてしまったのだろう。

 

「練度不足がもろに出たな。水観を素直に飛ばし過ぎた。北上と大井に対空兵装が無いのを見越しての事だったんだろうが……二人からすれば逆に、あれで大和と武蔵のいる方向が丸わかりだ」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 その頃、演習水域では。

 

「こ、こんなところで……! 傾斜復元しないと……!」

「そんな攻撃、蚊に刺されたような物だ! まだだ……まだこの程度で、この武蔵は……沈まんぞ!」

 

 大和と武蔵が必死に反撃を試みる。

 バランスを崩しながらも、辛うじて無事だった副砲を大和が斉射し、武蔵が右の主砲を放つ。

 

 だが――当たらない。

 

 至近弾による水面のうねりを足場にし、主砲による水柱をかいくぐり。

 合流を果たした北上と大井は、単縦陣でジグザグに航跡を描きながら二人の大和型に襲いかかっていく。

 艦娘の航行はよく水上スケートに喩えられるが、北上と大井の動きは、まるでスキーのモーグル競技。

 荒れ狂う水面の反動を膝のクッションで吸収し、跳ね上がろうとする主機の動きを強引にねじ伏せ肉薄していく。

 それはまるで、傷ついた二頭の(くじら)に襲いかかるつがいの(しゃち)

 圧倒的だったはずの射程の差を一気に食らい尽くし、相互の距離を詰めていく。

 

「うふふ、私、砲雷撃戦て聞くと、燃えちゃいます!」

 

 大井が両手に装備した主砲を交互に放つ。

 装備しているのは20.3cm・2号連装砲。通常ならば重巡以上が使うべき装備。並の軽巡ならば、両手で扱うのも苦労する代物だ。

 それを片手に一基ずつ、両手で四門の砲口から火を吐きながら大和に向かって猛撃を浴びせる。

 

「……海の藻屑となりなさいな!」

 

 何本もの火線が大和の上半身に突き刺さり、赤い染料の花が幾つも弾ける。大和の残る無傷の半身が衝撃と共に朱に染まり、主機と砲塔が完全に動きを止めた。

 

「……大井っちー、それじゃ完全に悪役だよー。これ演習演習」

 

 北上が苦笑しながら大井と分かれて旋回し、武蔵に向かって主機を駆った。

 大きく態勢を崩しながらも、武蔵の目は戦意を失ってはいない。

 

「くっ、いいぞ、当ててこい! 私はここだ!」

 

 吠える武蔵。

 

「……上等」

 

 北上の頬に笑みが浮かぶ。

 

「けどさ、武蔵っち。こうされたら……撃てるかな?」

 

 ジグザグに航行しながらも真っ直ぐ武蔵に向かっていた北上の姿が、急激に右に流れる。

 それを狙おうと身体をひねり砲塔を旋回させようとした武蔵の眼が、大きく見開かれた。

 

 主砲の狙う北上のさらに後方。

 そこには、完全に動きの止まった僚艦、大和の姿。

 狙いを外せば――大和に当たる。

 

「くっ……!」

 

 武蔵は一瞬歯を食いしばり……観念したように目を閉じて、身体の力を抜いた。

 

「……甘いよ、武蔵っち」

 

 北上がどこか優しげな笑みを浮かべる。

 

「だけどその甘さ……嫌いじゃあないね」

 

 その両腕両脚に装着された魚雷発射管の発射口が、ガシャガシャと一斉に開く。

 

「まー、あたしはやっぱ、基本雷撃よねぇ」

 

 片舷二十門、両舷四十門の魚雷を全て発射し全力で叩き込んだのは、北上なりの礼儀だったのか。

 

 巨大な朱色の水柱が轟音と共に何本も連鎖して吹き上がり、その全てがおさまった時。

 大和型二隻の轟沈判定と演習終了を告げるサイレンが鳴り響き、模擬戦演習の終わりを告げた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 先程までの激しい戦いが嘘のように静けさを取り戻した演習水域。

 オレンジ色の太陽が、水平線をきらめかせながらゆっくりと沈もうとしている。

 

「……負けましたね」

 

 夕陽に照らされた武蔵の足元からは、水面に長い影が伸びている。その影に向かって、大和が背後から声をかけた。

 

「……ああ、負けたな」

 

 振り返らずに武蔵が応じる。

 二人の全身は、頭から足の先、主艤装から太い砲身の先までくまなく朱色の染料で染まっている。知らない者が見たら、ちょっとしたホラーな光景だ。

 

 ――挑発に乗せられ、主導権を握られ、しかも最後の最後までそれに気づくことが出来なかった。

 相手には毛筋ほどの損害も与えられず、自分たちは轟沈判定。

 夜戦までもつれ込むような事さえなければ不覚は取らぬ、圧倒的な力で圧し潰せるなどと……どの頭で考えたか。夜戦まで保たずに力で圧し潰されたのは、結局、自分たちの方だった。

 

 チームワークの差――などという生易しい話ではない。終わってみれば、北上は武蔵、大井は大和。最初から彼女たちは、一対一でしか戦っていなかった。

 その上での完膚無きまでの敗北――完全なる力負けである。

 

 武蔵の視線の先では、先程まで戦っていた二人の艦娘が、ハイタッチしたり手を取り合ってくるくる回転したりと、はしゃぎ声をあげながらじゃれあっている。

 ふと、武蔵たちの視線に気づいたように黒髪のお下げの艦娘が振り返り、

 

「お~い、武蔵っちー、大和っちー!!」

 

 手を振りながら波を蹴って近づいて来た。

 その後ろには、茶色の髪の艦娘。

 二人は大和と武蔵の目の前まで来ると、二人並んでせーの、とばかりに

 

「ごめんなさいっ!!」

 

 頭を下げた。

 

「……何の真似ですか?」

 

 呆気に取られる大和と武蔵。

 

「いや~、その、ほら……あたし達、開始前に、ひどい事言っちゃったじゃん。その……ホテルとか、旅館とか」

「お二人の冷静さを奪うためとはいえ……同じ艦娘として心苦しくて」

 

 先程までの獰猛さはどこへやら、二人の重雷装艦は、まるで悪戯を見つかった子供のようにばつの悪そうな表情を浮かべている。

 

「それは気にしておりません。兵を攻める前に心を攻めるは兵法の常道。心を乱した私たちが未熟だっただけのことです」

「わざわざそれを謝りに? ……これはまた、律儀なことだ」

 

 北上と大井は気まずそうに顔を見合わせる。

 

「いや~、あたし達も、前の世界ではいろいろあったからさ、戦いたくても戦わせてもらえない、その辛さは解るってゆーか……」

「悪く思わないで下さいね」

「……そうか、そう言えばそうだったな」

 

 艦隊決戦の切り札として構想された重雷装巡洋艦だが、前の世界の史実的にはろくに活躍の場を与えられず、輸送任務や練習艦としての軍務に従事するのがほとんどだったはずの北上と大井。

 その過去に思いを馳せて、改めて、大和と武蔵は目の前の二人の艦娘の姿を見つめた。

 よく手入れされ、磨きこまれてはいるが、その主艤装にも魚雷発射管にも至る所に細かい傷が付き、歴戦の艦歴を物語っている。

 戦艦や空母に比べれば貧弱とさえ言えるその身にこれほどの力を蓄えるために、彼女たちはどれほどの鍛錬と戦歴を重ねて来たのだろう。

 どれだけの傷を刻んできたのだろう。

 

「……謝罪は謹んで受け入れよう。そのかわり、と言ってはなんだが、ひとつ頼みがある」

 

 武蔵は、北上の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「またいつか……戦って貰えるだろうか? 今度は、我々が挑戦者として」

 

 大和もまた、大井に正面から向き合う。

 

「私からも是非お願いします。次こそは、今日のような不甲斐ない姿は見せないとお約束します。……大和型戦艦の誇りにかけて」

 

 北上は大井と目線を交わし……にかっ、と笑った。

 

「もっちろん! 何度だって付き合うよ~! ま、大井っちとあたしが組めば無敵だけどね~!」

 

 大井も大和に微笑みかける。

 

「こちらこそよろしくお願いします。……けど、負けませんからね。うふふ」

「……ならば、左手での握手だな」

 

 朱色に染まった二つの手と、それより小さな二つの手。

 二組の艦娘たちは、夕陽の中で、がっちりと握手を交わしたのだった。

 

 

 




※球磨(川禊)型雷巡とかいう化け物がいるらしい……
※甲標的による先制雷撃は、原作ゲーム「艦これ~艦隊これくしょん~」における雷巡の真骨頂その1。まともに当たれば戦艦すら開幕ワンパンで撃破する高威力。
※ちなみに真骨頂その2は夜戦連撃および夜戦魚雷カットイン。北上さまと大井っちの火力はさらに跳ね上がり、戦艦や重巡等も含めた全艦娘中、最強のボスキラーと化す。


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5 赤いおでことドロップキック・幕間その1・幕間その2

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……は~、疲れた~。早く帰りた―い」

「はい、どうぞ北上さん。そこの売店で買っておきましたよ、冷たい飲み物」

「おぉ、さっすが大井っち、気が効くね~♪」

 

 合同演習会場のモニタールーム。演習を終えた艦娘達が各鎮守府ごとに集まっている。

 そこに戻ってきた北上たちを見つけた同鎮守府の艦娘たちが、わっと歓声をあげた。

 

「お帰りなさい、凄かったのです!」

「なかなかやるじゃない! 一人前のレディーとして扱ってあげるわ!」

「……ハラショー」

「輸送任務より、やっぱ戦闘よね!」

 

 全五戦あった模擬戦演習に参加した者、見学に来た者。

 さすがに大型艦達は自重しているが、特に年少の駆逐艦たちなどは興奮して大騒ぎである。

 飛び付いてきた駆逐艦たちに、肩を叩かれたり袖を引っ張られたり。中には無理に腕を伸ばして頭を撫でようとする者などもいたりして。北上も大井も、もみくちゃにされている。

 

「……あーもー、駆逐艦うっざーい! 寄るな触るな懐くな~! ……あっ、ちょ、こらぁっ! しがみついて来んじゃないっての!」

「ちょっと! あなた達! 北上さんは疲れてるのよ! ……あいたた、誰よ髪引っ張ったの!」

 

 その中で、阿武隈は騒ぎの輪に加わらず、提督や五十鈴の傍で立ち尽くしていた。

 

「……ほら、あんたの教導の凱旋よ? 行かなくていいの?」

 

 五十鈴がちらりと横目で見るが阿武隈は動かない。

 

「……ま、好きにしなさい」

 

 五十鈴はため息をつき、意地っ張りなんだから、と声を出さずに唇の動きだけで呟いた。

 阿武隈の頭の中では、先程まで目にしていた模擬戦の光景が、早回しでぐるぐると流れている。

 

(凄い、凄かった……!)

 

 艦娘とは……鍛えれば、磨き上げれば、あそこまでの高みに辿り着けるものなのか――。

 

(……とてもかなわない、今はまだ)

 

 ぎゅっ、と服の裾を握りしめる。

 

(……けど、あたしだって……!)

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「だーっ! いいっ加減に、しろ~っ!!」

「……あ、キレた」

「予想より長く()ったな」

 

 五十鈴と提督が呟く。

 うがーっと両手をあげて群がる駆逐艦たちを振り飛ばし、ほうほうの体で北上と大井が提督の前に辿り着く。

 

「あ~も~、やれやれ、ひどい目にあったよ~。駆逐艦、まじウザい……」

「大丈夫ですか、北上さん?」

「……ご苦労だったな、見事な戦いだった」

 

 提督が声をかけると、北上と大井はぴしりと姿勢を正して敬礼した。表情に疲れの色は見えず、その瞳は誇らしげにきらきらと輝いている。

 

「雷巡北上に雷巡大井、ただ今帰投しましたよっ、と」

「相手戦艦二隻、全隻撃沈。当方の損害は北上、大井ともに皆無。完全勝利です、提督!」

「……うむ」

 

 真面目くさった表情で答礼した提督が、手を下ろすと同時に破顔し、がばっと両腕を広げる。

 

「よくやった! やっぱりお前たちは最高だ!」

「きゃっ!」

「あたた、痛い、痛いってば提督」

 

 いきなり二人を抱き寄せたかと思うと、分厚い手のひらで北上と大井の髪をわしゃわしゃとかき回す。

 

「……あれに毎回やられちゃうのよねぇ」

 

 五十鈴がやれやれといった表情になる。

 彼女たちの提督は、決して切れ者という印象の人物ではない。

 その外見は、人並み外れた巨体に、揉み上げから顎までを髭に覆われた大きな顔。短い髪はぼさぼさで、一見いかつい見た目なのだが、太い眉毛の下のやや垂れ目気味の目と丸っこい鼻が、ふと笑った顔を見たくなるような、奇妙な愛嬌を与えている。

 

 そして、実際よく笑い、そしてよく泣く。

 

 これまで艦娘の轟沈者を一人も出さずに深海棲艦の侵攻を食い止め続け、それどころか敵に支配されていた海域をじりじりと奪い返してきている男なのだ。当然無能ということは有り得ない。

 だが、完全無欠の軍人などでは全くなく、しょっちゅう書類の書き間違いはするし、作戦ミスを指摘されればその度に激しく落ち込む。

 艦娘のイタズラにムキになって反応し、鎮守府中を巻き込んだ追っかけっこにまで発展したこともある。

 下世話な冗談も口にするし、セクハラめいた言動で艦娘たちから顰蹙(ひんしゅく)を買うこともしばしばだ。

 だが、傷ついた艦娘のことを大げさなくらいに心配し、戦果をあげた艦娘を恥ずかしくなるくらいに賞賛するこの提督を、配下の艦娘たちは嫌いにはなれなかった。

 

 

「あ、あの、提督、もうそのくらいで……! みんな見てますし……!」

「もー提督、触るのやーめーてーよー! 撫でられ過ぎてハゲたらどーすんのさ~!」

 

 顔を赤らめ、眉をしかめ。

 けれども、大井と北上はその手のひらを振り払おうとはせず、笑顔でされるがままになっている。

 

(……いつもいつも、何考えてんだか解んないような、へらへらした顔ばっかしてるくせに)

 

 阿武隈はその光景をぼんやりと見つめる。

 

(……あんな顔でも笑うんだ、あの人)

 

 そう思った瞬間、ようやく提督の手のひらから解放された北上が振り返り、阿武隈と目が合った。

 なぜか阿武隈はどきりとする。

 

「ふふ~ん、これが重雷装艦の実力ってやつよ。……どーよ阿武隈~。あたしらの戦いっぷり、ちゃんと見てた~?」

「……ドヤ顔うざいです」

 

 近づいてきた北上の顔から、阿武隈はぷいっと視線をそらす。

 

「なっまいきだなー」

 

 むう、とむくれ顔になる北上。

 阿武隈は視線をそらしたまま、

 

「……ま、まあ……」

 

 ん? と眉を上げる北上。

 

「ちょっとは……凄かった……ですけど」

 

 ぼそぼそと、呟くような小声の阿武隈。

 だが、数秒たっても返事はなく、沈黙のままで。

 

(……何よぉ! ……なんで……なんで黙ってるわけ? 沈黙が痛いんですけど!)

 

 ついに耐えかねて、そろそろと視線を戻す阿武隈の目の前に。

 それはそれはもう、(わっる)い笑顔でにやつく北上の顔があった。

 

「~~~~!!!!!」

「ごっめ~ん、聞こえなかったよ~。……ねえ何て? ねえねえ今何て言ったの?」

「なっ! 何も言ってないしっ!」

「え~、言ってたじゃ~ん♪ ほらほら照れなくていいから~。え? 「す」……何だって?」

「すっごく! ムカつくんですけど!!」

「あれれ~? おかしいぞ~? 何かさっきと違うよね~?」

 

 

「……あれは……確かにイラッとくるわね」

「なんか、ほんと、すまん……うちの主席秘書艦があんなんで……」

「ちょっと! 阿武隈さん! あなた、北上さんに何て口の利き方してるのよ!」

 

 呆れ顔で言葉を交わす五十鈴と提督。その横で柳眉を逆立てる大井。

 視線の向こうでは、北上と阿武隈がぎゃいぎゃいと騒ぎ続けている。

 

 

「ん~、阿武隈ってば、ほんと可愛いよね~。ほらほら、撫でたげるよ~」

「もぉ、前髪触んないでってば! ……って、ひゃぁん!? なんか、なんか垂れて来たぁ!」

「へっ?」

「きゃ―! ち……ちちち血……!?」

「あっ……ごめん。さっき武蔵っちと握手したまま、手洗ってなかったわ」

「きゃあああ! 嘘でしょぉぉっ!?」

 

 北上から飛び離れた阿武隈が部屋の窓に駆け寄り、自分の顔を窓ガラスに映す。

 

「きゃー!! イヤあぁっ!? なんか付いてるぅぅっ!?」

 

 ぐしゃぐしゃになった阿武隈の金髪の前髪とおでこに、朱色の染料がべったりとへばりついている。

 

「……なんて事すんのよこのクズ型雷巡っ! 北上さんの意地悪! バカ、大バカ、大北上ぃっ!!」

 

 窓から駆け戻った阿武隈がそのままの勢いで北上に突進する。

 

「あ、いやごめん、これホントわざとじゃなくて」

「嘘、ウソ、大嘘つき! 信じらんないこの人! きらい、キライ、大っ嫌い!! もぉ許さないんだからっ!! こんのぉっ!!」

 

 

「……おお、ドロップキック」

「……意外とやるわねあの子も」

「言ってる場合ですか! あぁ北上さん、早く止めないと……」

 

 提督と五十鈴の傍でおろおろする大井。

 

「……ほんっと北上さんなんか、大っ嫌い! 階段昇るたびにすねぶつけちゃえばいいのに! 左手の人差し指、同時にさか剥けと深爪と突き指になっちゃえばいいのに!」

「阿武隈ちゃんおさえて! 洗面所行って顔洗って来よ? ね? ね?」

 

 周りになだめられながらも、阿武隈は北上を睨みつけ、はぁはぁと荒い息をはいている。

 

 

「……にしても、実に多彩というか独創的だな、あの悪口のセンスは」

「……言っとくけど、あたしが仕込んだ訳じゃないからね?」

 

 しみじみと呟く提督をじろりと横目で睨みながら五十鈴が釘を刺す。

 ぷるぷると涙目で震えていた阿武隈は、ふんっ、と鼻息を荒くして身を翻すと、憤然と部屋の出口に向かい、そこで振り返って、

 

「北上さんなんか……北上さんなんか…………」

 

 すうぅっ、と息を吸い込み。

 

 

「鼻毛伸びろ~~~~~~~~~~~~~っ!!!!!!!!」

 

 

 部屋中に響き渡る大声で叫び、泣きべそをかきながら扉の外に駆け出して行った。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……さすがに、『鼻毛伸びろ』ってのは、あたしも初めて聞いたわ」

「……北上のやつも呆然としてるな」

 

 マジかよ……と言いたげな表情で座り込んで、なにやら地味に凹んでいる様子の北上を、大井が必死で慰めている。

 

 何度目かのため息をついて背後から北上のもとに近づくと、提督は北上の頭にごつんと拳骨をくらわした。続いて五十鈴も、ぺしんと北上の頭をはたく。

 

「あう、ひどいよ提督~。五十鈴っちまで~」

「今のはお前が悪い」

「自業自得よ。あたしの妹いじめんなって言ったでしょ」

 

 なだめようとする大井を手を挙げて制し、提督は北上を見ながらにやりと笑った。

 

「……お前が言い出した事だ。ちゃんと責任持って、面倒見るんだろうな?」

「むー……」

 

 少しすねたような表情で提督を見上げた後、北上は、よっ、と声をあげて立ち上がった。

 

「……任せといてよ。ガンガン鍛えるからさ」

 

 提督、五十鈴、大井の顔を順々に見渡し、最後に阿武隈の駈け出して行った出口に目を向けて、にかっと笑う。

 

「どんどん強化してやってよね。……あいつ絶対、いい艦娘(ふね)になるからさ♪」

 

 そう言った北上の言葉を、想いを、阿武隈が知ることになるのは――これから随分先の話である。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

《~幕間~その1》

 

 

 

「……全く、騒がしい連中だな。美しさのかけらもない」

 

 そう呟いたのは、縁なしの眼鏡をかけた細身の軍人だった。海軍上級将校の軍服は皺ひとつなく整えられている。

 眼鏡の奥の、隙の無さ過ぎる鋭い目つきがやや険のある印象を与えるが、貴族的な顔立ちは秀麗で、道を歩けば女性たちの視線を集めるだろうことは間違いない。

 

「……ですが、私たちは完敗しました」

 

 傍らに立つ二人の大和型の艦娘が、彼女たちの【提督】に向かって意を決したように言葉を発する。

 演習で付けられた染料は全て洗い流され、その身体と艤装は、もとの傷一つない輝きを取り戻している。

 

「奴らの艤装……私たちのものに比べれば、確かに貧弱だった。傷だらけに見えた」

「ですが……私たちのものより何倍も、何十倍も美しく思えました」

 

【提督】は応えない。

 

「……提督。私たちはお前の部下ではあるが、その前に艦娘だ。戦艦だ。戦う(ふね)なのだ。負けたままで終わることはできん」

「どうか、私たちに、戦う機会を与えて下さい。傷ついた大和型戦艦の誇りを取り戻す機会を与えてください」

「……言ったはずだ。お前たちは存在するだけで充分な価値があるのだと。お前たちは負けてなどいない。何の傷をも負っていない。気にすることなど何もない」

「「……提督!!」」

 

 詰め寄ろうとする二人の艦娘には視線を向けず、彼女たちの【提督】は踵を返す。

 

「……鎮守府に戻るぞ、長居は無用だ」

「そんな……!!」

 

 絶望的な気持ちで立ち尽くす二人の大和型に、【提督】は背を向けたまま言葉を続けた。

 

「……今日のことは、お前たちの落ち度ではない。私の失態だ。傷ついたのはお前たちの誇りではない。私のプライドだ。勘違いするな」

 

 大和型の二人が息を呑む。

 

「……お客さま扱いはここまでだ。明日からは、他の者と同様に……いや、それ以上に練成と出撃に励んでもらう。いやだ苦しいなどと泣き言を吐こうが、一切容赦はしない。覚悟しておけ」

「「……はっ!」」

 

 大和型の二人は、彼女たちの【提督】に敬礼し、その背中に従って足を踏み出す。

 

 その瞳には覇気がみなぎり、その歩みには誇りが満ちている。

 

 彼女たちの活躍が近隣の海に轟き渡るのは――そう遠い日の事ではなさそうである。

 

 

 

《~幕間~その1・了》

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

《~幕間~その2》

 

 

 

 ――嗚呼。

 

 ――なんて……なんて凄い艦(ふね)なんだろう。

 ――なんて凄いことをやってのけるのだろう。

 

 ――あまりにも眩しくて。

 ――あまりにも輝かしくて。

 

 ――あんな風になりたかった。

 ――あんな風で在りたかった。

 

 ――今からでも、間に合うだろうか。

 ――これからでも、辿り着けるだろうか。

 

 ――あの高みに。あの輝きに。

 ――自分の手は――――届くのだろうか。

 

 

 

《~幕間~その2・了》

 

 

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 



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6 格別な甘い味わい・幕間その3

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……あ゛う゛ぅ……身体中がいだいよぉ……五十鈴お姉ちゃぁん、いっそ、いっそひと思いにごろじでぇ……」

「今日はまた……ずいぶんと絞られたみたいねぇ」

 

 軽巡寮の三人部屋。

 三段ベッドの下段で疲労と打撲と筋肉痛とに呻いている妹を見て、五十鈴は苦笑した。

 

「あの人絶対、あたしを合法的に殺す気なんだと思うの……」

 

 部屋に戻ってシャワーを浴びた後、いつものように髪を念入りにドライヤーする気力もなく、部屋着に着替えるなりベッドに倒れ込んだ阿武隈である。

 

「……あー、あたしも、大井さんに教導についてもらってた時、そう思ったなー。てゆーか阿武隈ちゃん、おへそ出てる」

 

 ベッドの脇から覗きこんできた鬼怒が、手をのばして阿武隈のわき腹をつんつんとつついてくる。

 

「ひゃうんっ!? ……って、あだだだだぁ」

 

 悲鳴をあげて鬼怒の手をはねのけようとする阿武隈だが、その動きさえ全身の痛みでままならず、うーうーと呻くばかりである。

 

「……やめなさいっての」

 

 丸めた雑誌で鬼怒の頭をぽかりとやり、五十鈴は阿武隈の部屋着の裾を直してやった。

 

 教導艦といっても、北上自身、秘書艦としての業務や出撃、演習等もあるため、毎日つきっきりで阿武隈の指導に当たるという訳ではない。

 座学にしろ実技にしろ、新しく着任した艦娘の訓練は数人のベテランがローテーションを組んで、得意分野ごとに持ち回りで行うのが基本である。

 ただ、週に一日程度だが北上が身体を空けられる日もあり、そうした日には朝から晩まで足腰たたなくなるまでしごかれるのが常だった。

 

「明日が休みの日で良かったわね」

「う゛~、前回の休みも前々回の休みも筋肉痛で動けなかったから、明日こそはお出かけして美容院行こうって思ってたのにぃ……。絶対あの人、あたしの休みを潰させるためにわざとやってるに決まってるぅ……」

「被害妄想だなぁ」

 

 鬼怒が呆れる。

 

「贅沢言ってんじゃないの。うちの鎮守府でも最高練度の艦娘に鍛えてもらってるのよ? ありがたいって思いなさいな」

「……だってあの人、自分からはめんどくさがってほとんど教えてくれないし……魚雷の構造とか雷撃理論に関してだけは、三時間ぶっ続けで話してたけど」

「あー……」

 

 教官役を務める艦娘の教え方にもそれぞれに個性がある。

 激しく叱咤激励する者、にこにこ笑いながら容赦なく反復練習を繰り返させる者、イラストやボードを使いながら説明する者、要所にボケを入れて笑いを取りながら講義する者……。

 

「大井さんとかも凄かったなー。あの人すんげーおっかないの。講義中ぼーっとしてたりすると、背中向けたままなのに、いきなり『はい鬼怒さん! 私、今、何について説明してたかしら?』とか質問してくるし。答えられなかったら舌打ちして、『……撃ってもいいですか?』とか笑顔で訊いてくるし」

 

 何かを思い出したのだろう、鬼怒がぶるっと身体を震わせた。

 

「あいつは元練習艦の経験もあるから、その辺特に厳しいわよね。そのぶん、教えるのも上手いけど」

 

 五十鈴が笑いながら応じる。

 対して北上の指導は対照的だ。北上は訓練中、艦娘同士のおしゃべりなどに対しては寛容で、声を荒げて注意したり怒鳴ったりすることもほとんどない。

 雷撃訓練ひとつとっても、一度手本を見せた後は「まずは自由にやってみな」とほとんど指示や説明なしにぶっつけでやらせていき、お眼鏡にかなえば終了時間前だろうと「ほい、訓練しゅーりょー。遊び行っていーよー」と解放される。

 

 ただし、気に入らないことがあれば「はいもっぺんやり直し~」である。

 どこが悪かったのか訊いても「自分で考えな」としか答えないので、下手すると一人だけ延々居残りさせられる羽目になる。

 ある意味、大井が教官の時以上に気が抜けない。

 

「……なんかあの人、あたしに対してだけ特に点が辛い気がする……今日もあたしだけ居残り食らったし」

「それだけ期待が高いんでしょ。鍛えられたおかげで練度も上がって、早々と改造も受けられたんじゃないの。提督も褒めてたわよ、普通の軽巡よりもかなりのハイペースだって。あたしも鼻が高かったわ」

「あたしもあたしもー! 阿武隈ちゃんと同じくらいのペースで改造受けたよー!!」

 

 鬼怒がはいはいと手を挙げるが、阿武隈の表情は晴れない。

 もともと阿武隈は、着任当初の成績だけを比べるならば、長良型の姉妹の中でも特に早熟で優秀だった。

「軽巡の中に紛れ込んだオーパーツ」とまで評される一番上の姉。

 阿武隈たち以上に驚異的な早さで才能を開花させ、対潜スナイパーとしては今や全艦娘の中でも突出した能力を誇る五十鈴。

 夜戦火力に定評のある三番目の姉や、バランスのとれた能力と女性らしい気配りとに優れた四番目の姉。

 その姉たちをも超える成績を修めたことが誇らしくて。

 いつか自分も艦娘としてあの姉たちに追いつくのだと、姉たちをも超える艦娘になるのだと、その目標は高く希望は熱かった。

 しかし鍛錬を重ね経験を積み、練度を上げれば上げるほど、阿武隈にとって、姉たちとの差は埋めがたく、広がる一方に思えてしまう。

 

 ――ましてや、あの人と比べると。

 

 どうしても見劣りのする自分を思わずにはいられない。

 良くも悪くも図太いというかマイペースな性格の鬼怒などは、特にそのあたりを気にすることはなかったが、その点阿武隈には、理想と現実、他者と自分を比べて落ち込むような繊細さ……悪く言えば脆さが垣間見えるところがあった。

 

(……だからこそ、あたしだとついつい甘やかしちゃいそうで、教導をあいつに任せたんだけど……)

 

 五十鈴としても、それが良かったのか悪かったのかは未だ判断をつけかねるところである。

 

「……やっぱ、あたしじゃ無理なのかなぁ……お姉ちゃんたちみたいになるのって……」

「なーに言ってんの、阿武隈ちゃん! キスカの英雄、奇跡の艦の名が泣くよ?」

 

 いつになく弱気な発言に、鬼怒がベッドの脇からぺしぺしと阿武隈の頭を叩いてくる。

 

「訓練あるのみ! ハッスルハッスル、だよ!」

「あだだっ! もぉ、鬼怒ちゃん、やめてよぉ!」

 

 今度は五十鈴も鬼怒を止めようとはせずに、阿武隈に対してからかうような声をかける。

 

「そんな弱気じゃ、北上に笑われちゃうわよ?」

「別にいいもん、あんな人!!」

 

 何かを思い出したように、いきなり阿武隈の声のトーンが跳ね上がった。

 

「大っ嫌い! 今日なんか、特にひどかったんだから!」

「どしたん? しごかれただけじゃなくて、また何かあったの?」

 

 阿武隈の剣幕にやや気圧されながら鬼怒が尋ねる。

 

「ひっどいんだから! 今日の訓練、さんざん居残りさせといて、最後にあの人、何したと思う?

『阿武隈~、今日は結構頑張ったからさ~、これで美味しいものでも食べなよ~♪』とかって、急に猫なで声で言ってきてさ!」

 

 声真似のクオリティが無駄に高い。

 

「封筒渡してくるから、とりあえず受け取ったの! それであの人が帰った後で開けてみたら……」

「開けてみたら?」

「……割り箸2本入ってた」

 

 くっ、と鬼怒と五十鈴の肩が震える。

 

「……ご丁寧に、『や~い、騙されてやんの』ってメモ付き」

 

 耐えきれずに、ぷ―っと吹き出す鬼怒と五十鈴。

 

「笑い事じゃないもん! ほんと、いっつもいっつも意地悪ばっか! 道歩くたんびに犬に吠えられちゃえばいいのに!」

 

 笑い転げる鬼怒と五十鈴に、阿武隈はますますヒートアップしている。

 

「絶対許さない! いつか絶対凄い艦娘になって北上さんをぎゃふんって言わせてやるんだから!」

 

(……とりあえず、元気は出たみたいね)

 

 笑いすぎて涙目になった目を拭いながら、ぷりぷり怒っている阿武隈を横目に五十鈴は立ち上がった。

 

「……とりあえず、ご飯は後で運んだげるから、あんたは寝てなさい、身体は冷やさないようにね。……あと、冷蔵庫に間宮さんのアイスが入ってるから欲しかったら食べなさい」

 

「ほんと!? 食べる!!」

 

 先程までの様子が嘘のようにキラキラした表情で、阿武隈がベッドから這いだしてくる。

 

 世にスイーツは数あれど、間宮のアイスは羊羹と並んで絶品中の絶品メニュー。文字通り疲れも吹き飛ばす美味しさだ。

 

「えー、なんで阿武隈ちゃんだけー? ずるいずるーい! あたしのはー?」

 

 ほくほく顔で冷蔵庫の中を漁りだす阿武隈を指差して、鬼怒がぷぅ、と口をとがらせる。

 

「ひとつしかないんだから、しょうがないじゃない。……そもそも、あれ、あたしが買った訳じゃなくて、最初っから阿武隈への贈り物だからね」

「贈り物って誰からー?」

 

 五十鈴は意味ありげな目つきで阿武隈を見ると、くすりと笑った。

 

「北上からよ。阿武隈が帰る少し前に、あいつが来て置いてったの」

 

 アイスをスプーンですくおうとしていた阿武隈の手が、ぴたりと止まる。

 

「今日は結構頑張ってたから、ご褒美に渡しといてやってくれ、ってさ」

 

 少しだけ悪い笑顔になる五十鈴。

 

「……い~い先輩もったわよねぇ、あ・ぶ・く・ま♪」

 

 

 ――くすくす笑いながら五十鈴が出て行った後も、阿武隈は固まったままだった。

 

「えーと、阿武隈ちゃん? 食べないの?」

「……」

 

 何やら心の中で葛藤があるようだ。

 

「……お~い」

「う、うるさいなぁ! ちゃんと食べるわよ! 間宮さんのアイスに罪があるわけじゃないもんね!!」

「……いやそーじゃなくてあたしにも、ちょっとひと口……」

「さっき大笑いしてた人にはあげない!」

「そんな殺生なー!!」

 

 阿武隈は、両手を合わせて拝み倒す鬼怒を無視して、スプーンを口に運んだ。

 ひんやりしたなめらかな舌触りと、とろけるような上品な甘さが口の中に広がる。身体中に沁みわたって、疲れを一気に溶かしていくようだ。

 

(……ふ、ふんだ! こんな事でごまかされたりなんか、しないもん!)

 

 親の仇に対するような勢いで、阿武隈はアイスをすくい取っては口に運んでいく。

 

「北上さんなんか……だい、だい、大っ嫌いなんだから!!」

「阿武隈ちゃぁん! お願いひと口、ひと口でいいから~~~~!!」

 

 

 ……非常に不本意で、腹立たしいことではあったが。

 

 その時食べた間宮のアイスは――今まで食べてきた中でもこれ以上ない程に美味しく、身体中にしみじみと沁みわたる、格別な味わいだった。

 

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

《~幕間~その3》

 

 

 

 ――嗚呼。

 

 ――何故……自分はこうなんだろう。

 ――何故……あんな風になれなかったのだろう。

 

 ――あの眩しさに憧れて。

 ――あの輝かしさに魅せられて。

 

 ――あんな風になりたかったのに。

 ――あんな風で在りたかったのに。

 

 ――もう間に合わない。

 ――辿り着けない。

 

 ――あの高みには。あの輝きには。

 ――どうあがいても、もう届かないこの恨めしさ。

 

 ――嗚呼…………こんな事になるのならいっそ――――。

 

 

 

 《~幕間~その3・了》

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 



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7 目指せ、ちょうちょ結び

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 (──鬼怒ちゃん、お姉ちゃんたち、ごめんなさい……あたし……今日こそ、沈んじゃうかも知れない……)

 

 脚ががくがく震えそうになるのを必死でこらえながら、阿武隈は心の中で姉たちの顔を思い浮かべていた。

 

 (北上さん……ほんとはもっと、色々ちゃんと伝えたかった……)

 

 ついさっき別れたばかりの、黒髪のお下げの艦娘の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 

 ――ああ、それにしても。

 ――目の前にいるこれはいったい何だ。

 ――どう倒すとか、どう戦うとかいうレベルではない。子供と大人どころか、兎と怪獣くらいの戦力差。

 ――目の前に立っているだけで足がすくみ、呼吸をするのも苦しくなるような圧倒的な存在感。

 

 (もしも……もしも今日を生きのびる事ができたなら……)

 

 怪獣が口を開き、割れ鐘のような声で砲哮をあげた。

 

 

 

「……お前が阿武隈か!! 北上からは、『あたしと再戦したかったらまず、一番弟子の阿武隈を倒してからにしろ』と言われたのでな!! 大和型二番艦・武蔵のこの力、存分にふるわせてもらうぞ、覚悟するがいい!!」

 

(生き延びられたら北上さん……! 絶対あの人に、今までのこと全部含めて、思いっきり文句言ってやるんだから~~~~~っっ!!!!)

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ……結論だけを端的に言うならば。阿武隈は善戦したと言えるだろう。

 

 自分の身体の何倍もあるような砲撃の水柱を半泣きになりながらくぐり抜け、武蔵に肉薄して5発の有効弾を叩き込んだのだから。

 結局、大したダメージは与えられず小破判定をもぎ取るのがやっとであり、最終的には武蔵の副砲の直撃で足が止まったところに主砲の一撃を受けて盛大に吹き飛ばされはしたものの。

 

 よく頑張ったと言えるだろう。

 

 

「……いや、流石は北上の一番弟子だ、感服したぞ!」

 

 阿武隈を三mも真上に吹き飛ばした当の本人は、やたら感じ入った様子である。

 

「たまたまいい一撃が入ったから良かったようなものの、お前の主砲がもう少し口径の大きなものだったなら、勝負はどう転んでいたか判らなかっただろう! この武蔵、まだまだ未熟ということだな! 拾った勝ちでは、北上に挑むに到底足りん! よりいっそうの研鑽を重ね、さらなる力を蓄えてからまた来よう! 阿武隈よ、お前との再戦もまた楽しみにしているぞ!!」

 

 二度と御免ですいやほんとマジで勘弁して下さいやるなら北上さんの方に直接行って下さいなんだったら喜んで手を貸します、とは流石に口にできず。

 阿武隈は全身朱色に染まった身体ごと、がくがく揺さぶられながら武蔵の左手の握手に応じることしかできなかった。

 

 いい好敵手に巡り会えた、とやたら上機嫌で武蔵が帰っていった後。

 見学していた他の艦娘たちが恐る恐る阿武隈に近付いてくる。

 

「あ、阿武隈ちゃん、大丈夫なのです……?」

「ま、まあ、大和型にあそこまで食い下がれたってだけでも、立派だったと思うわよ……?」

「と、とりあえず身体洗い流しに行った方がいいんじゃないかな……?」

「そ、それとも医務室行く? 私、ついて行ってあげようか……?」

 

「……要らない」

 

 ゆらあっ、と向き直った阿武隈の表情を前にして、駆逐艦娘たちの顔がひっ、と固まる。

 

「北上さん……どこ?」

 

 蒼白になりながら一人の駆逐艦娘が喫茶・間宮のある方向を指さす。

 

「……そう。……あっちにいるのね」

 

 うふ。

 

 うふふふふ。

 

 鬼気迫る含み笑いの声に、周りの駆逐艦娘たちが、ざっ、と道を空ける。

 

 ……洗い流す? 冗談じゃない。

 ……この朱色に染まった拳を、このままあの雷巡のにやけた顔面に叩き込んでやらなきゃ気が済まない。

 ……そんでもって、あのお下げ髪を鼻の下でちょうちょ結びにしてやる。

 

 うふ。

 

 うふふふふふふ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

(……見つけた! だけど……!)

 

 ――阿武隈が発見した時、北上は喫茶・間宮の中庭のテーブル席でのんびりとパフェをつついていた。

 

(……なんで、提督や大井さんも一緒なのよぉ!!)

 

 三人は、同じテーブルを囲んでなにやら和やかに談笑している。

 いくら頭にきたとはいえ、さすがに提督の目の前でいきなり北上に殴りかかるわけにもいかない。

 何より、北上と大井、二人が揃っている時に襲撃を仕掛けるなど、愚策を通り越してただの手の込んだ自殺にしかならないのは目に見えている。

 

(……ああ、もぉ! 早く一人になりなさいよぉ!!)

 

 建物の陰から様子を伺いながら、阿武隈は歯噛みした。

 三人の話し声が、阿武隈のところまでかすかに聞こえてくる。

 

「……あんまり酷いことしたらだめですよ、北上さん?」

「いや~、大和型戦艦がタイマンで演習に付き合ってくれるなんて、またとない貴重な経験じゃん?」

「貴重っていうか、鬼畜だろそれ……」

「人聞き悪いな~。これはあくまでも、あいつを鍛えてやりたいがための、あたしの親心だよ、お・や・ご・こ・ろ」

 

(……よーし、親心って言うなら、後でとびっきりの反抗期をくれてやるんだから! 覚悟してなさい!)

 

「……けど、実際どうなんです? わざわざ武蔵さんを煽ってけしかけるくらいだから、あの子も相当腕を上げてるんじゃないですか? 意外といい勝負するとか期待してたり……」

「あ~、無理無理」

 

 北上がぱたぱたと目の前で手を振る。

 

「さすがに相手になんないよ。いいとこ3~4発入れたところで武蔵っちのワンパンで終わりじゃない? 今のあいつじゃ、夜戦まで保たせるのはまぁ無理だろしね~」

 

(……5発当てたもん!)

 

 ほぼ正確に読まれているのが余計に腹立たしい。

 

「そこまで読めてるならなんでまた? 正直、スペック的には酷な話だろう。もっとじっくり育ててやってもいいんじゃないか?」

「あたしってばほら、叩いて伸ばすタイプだから」

 

(……あたしは褒められて伸びるタイプなんですけど!?)

 

 阿武隈は大声で主張したい気持ちをぐっとこらえる。

 

「……けど北上さん。そろそろあの子に構うの控えたらどうですか? 正直、本人も迷惑がってるみたいですし……」

 

(そうそう大井さん! もっと言ってやって!)

 

 建物の壁に隠れながら阿武隈は拳を握りしめ、こくこくと頷く。

 

「ん~、なんてゆーかさぁ……あいつがどこまで行けるのか、どんな艦娘になるのか、見てみたいんだよねぇ」

 

 頷く首の動きが止まった。

 

「なんだかんだ言ってあいつ、こっちがどんだけ厳しくしても、歯を食いしばって最後までついてくるしさぁ。根性と負けん気あるのは、大井っちだって認めるっしょ?」

「それは、まあ……でも、あの子、ちょっと失礼というか……北上さんに気安すぎやしません?」

「なーに、大井っち? ひょっとして、妬いてんの~?」

「……もう。北上さんったら、意地悪です」

 

 恨めしそうな上目づかいになる大井に、北上がけらけらと笑う。

 

「確かにあいつ、くっそ生意気だし、口は悪いよね~。……けどさぁ、大井っち。気づいてた?」

 

 背もたれに預けていた体重を戻し、北上はテーブルに身を乗り出す。

 

「どれだけこっちがキツく当たっても、どんだけ自分が腹立てても、さ。……あいつ、『死んじゃえ』とか『沈んじゃえばいいのに』とかは、ただの一度だって言ったことないんだよ? これって、凄くない?」

 

 ……そんなこと。

 ……そんなことには。

 ……自分でも、気づいていなかったのに。

 

「……なんてゆーのかな、さすがキスカ撤退作戦の英雄艦、ってゆーの?」

 

 ……なんで、そんな風にあたしを語るんだろう。

 

「……一人の敵も殺さずに、一人の味方も死なせずに、あの奇跡の作戦をやり遂げただけのことはある、ってゆーかさ……」

 

 ……なんで、そんなキラキラした顔であたしのことを話すんだろう。

 

「前にも言ったけどさぁ、あいつ絶対、いい艦になると思うんだよね~。スペックとか戦果とか、そんなの関係なく、みんなを助けて、みんなを守れる――そんな艦にさ」

 

 ――気がつけば、握りしめていたはずの拳からは、いつしかすっかり力が抜けていて。

 阿武隈は、足音をたてないようにそっと踵を返して、その場から離れていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

(……なんか、気が削がれちゃった)

 

 入渠施設の方に向かってゆっくりと歩き出す。

 

(……ふんだ。……今日のところは提督もいるし、ちょうちょ結びは勘弁してあげるわよ)

 

 道すがら、すれ違う艦娘たちが阿武隈に近付くと一様にぎょっとした顔をして、それからこわごわとした表情で次々に道を空ける。

 身体中、頭のてっぺんから足の先まで染料まみれなんだから無理もないかな、とぼんやり思う。

 しばらく歩いて入渠施設に辿り着いた。

 施設の脇には、演習用の染料や出撃後の艤装の汚れを簡単に洗い流すためのシャワーがある。そこに回ろうとした時に、ちょうど施設から出てきた鬼怒と鉢合わせした。

 

「うわっ!? あ、阿武隈ちゃん! どーしたの!?」

「……演習でちょっとね。染料かぶっただけだから、大丈夫だよ」

「あ、うん、それなら……」

 

 阿武隈の顔を見て鬼怒が言葉を止める。心配そうに、

 

「……阿武隈ちゃん、ほんとに大丈夫? 頭とか打ってない? 医務室とか行った方が良くない?」

「……大丈夫だってば。怪我したわけじゃないし。それより鬼怒ちゃん、道あけてくれない? あたし、髪とか身体とか早く洗いたくって……」

「あ、うん、ごめん……」

 

 互いに身体を斜めにしてすれ違う。

 今度大井さんに、20・3cm砲の撃ち方教えてもらおうかなぁ、などとぶつぶつ呟いている阿武隈の背中を見送って、鬼怒は首をかしげた。

 

「頭は打ってない、って言ってたけど……」

 

 心配そうに呟く。

 

 

「……だったら阿武隈ちゃん……なんであんなボロボロなのに、嬉しそうにニヤニヤ笑ってたんだろ?」

 

 

 




※史実解説:
 話中に出てきたキスカ島撤退作戦は、1943年に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のこと。正式名称はケ号作戦。
 阿武隈が旗艦をつとめる救出艦隊は、濃霧に紛れ、キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれることなく無傷で守備隊全員の撤収に成功し、これは戦史上に残る「奇跡の作戦」と呼ばれています。
 ちなみに連合軍はキスカ島に対し水も漏らさぬ包囲網を敷いていたのですが、兵員の交代のため一日だけ包囲を解いたその日が、まさに阿武隈たちが突入した日であったという、まさに奇跡の所業。
「あたしだって、やればできるんだから!」


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8 旗艦のおしごと

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ……そして、季節は巡り。

 

「阿武隈~、今日の出撃の旗艦さあ、あんたがやんなよ」

「ふぇっ!?」

 

 北上がそう言ったのは、7月の終わりのある日のことだった。

 今日の出撃は北方海域への威力偵察任務。

 キス島沖で、敵の水雷戦隊による通商破壊が激しさを増してきたため、軽空母や雷巡を基幹とする艦隊で索敵、発見次第撃滅するように、という内容である。

 

「あたしが旗艦!? い、いけるけど……って、え、嘘っ、遠征じゃなくて出撃で!? メンバーは誰なんですか?」

「あんたとあたし、あとは龍驤(りゅうじょう)に、隼鷹(じゅんよう)飛鷹(ひよう)、それとゴーヤっち」

「きゃー!!」

 

 とんでもない豪華メンバーだ。

 「龍驤」は軽空母の中でもとびきり練度が高く、既に改二も実装されているベテラン中のベテラン。

 「隼鷹」もまた、既に改二を果たしている軽空母最強勢の一角である。

 隼鷹の相棒の「飛鷹」は、改二こそ実装されていないもののその練度は隼鷹に匹敵し、特に隼鷹とコンビを組んだときの戦果はめざましいものがある。

 ゴーヤこと「伊58」も、潜水艦の中では伊168に並ぶ古参勢で、特に夜戦での雷撃力は潜水艦勢随一の呼び声が高い。

 

「なっ、何で、そのメンバーであたしが旗艦なんですか?」

 

 実のところ、これまでにも同じメンバーでキス島沖に出撃したことは何度もある。

 これまでの出撃では、毎回、旗艦は龍驤。阿武隈がそのすぐ後ろに配され、以下、北上、伊58、飛鷹、隼鷹という配置だった。旗艦の龍驤と教導の北上が阿武隈を挟み、何かあってもすぐにフォローが効く態勢をとっていた事には、随分後になってから気づいた。

 結局、それらの出撃はいわば見取り稽古のようなもので、阿武隈は一発も砲弾を発射することさえなく、ただただ先輩たちが一方的に敵艦隊を叩きのめす光景を眺めていた場合がほとんどだったのだが。

 

「……ってゆーか、むしろあたし要らないんじゃ……」

「いや~、龍驤の奴がさ~。いつもの配置だと、なんか胸の大きさ順に並べられたみたいで納得いかないから、今度は自分をしんがりに置けってうるさくってさ~」

「……んなワケあるかい、ドアホー!!」

 

 ばっしーん、と後ろから北上の頭をはたいたのは、軽空母・龍驤である。

 

「コラ北上! あんまシャレにならん冗談言うてると、しまいにゃしばくで!」

「あたた、もうしばいてるじゃん……っていうか、シャレにならないって認めちゃってる時点でもう……」

「まだゆーかー!!」

 

 騒いでいる二人の声も耳に入らずに呆然としている阿武隈の肩をぽんと叩いたのは、軽空母・隼鷹である。

 

「あっはっは! いきなりの話だし、そりゃ驚くよねぇ?」

 

 そこで急に阿武隈の耳元に顔を寄せ、小声でささやきかける。

 

「……でも、あんな事言ってるけどさぁ。今回あんたを旗艦に、って推したのは、北上のやつなんだよ?」

「……え」

「阿武隈にはもうそれだけの力はあるから任せて大丈夫、何かあれば自分がフォローするから、ってさ。愛弟子を想う師匠の親心、ってやつ? ……かーっ、泣かせる話だよねぇ!」

「…………」

「まっ、このメンバーにしてもさ、あんたの旗艦デビューが成功するよう万全の布陣を整えてくれた、ってことなんじゃない? 気楽にどーんと構えてようぜ、どーんとさ!」

「…………」

 

 阿武隈の視線の先では、北上と龍驤がいまだに騒いでいる。

 

(……何よ、らしくない事しちゃって)

 

 阿武隈は、ぎゅっと服の裾を握りしめた。

 これだけのメンバーで、相手は勝手知ったる北方第二海域。戦力的には不覚を取る要素は見当たらない。

 とは言え、阿武隈にとっては、実戦出撃における初の旗艦拝命である。

 正直、うまくやれるかどうかの保証はない。期待に応えられるかどうかの自信はない。

 

(……けど)

 

 ――それは、「あの作戦」の時も同じだったのだ。

 

(……あたしだって、やる時はやるんだから!)

 

 自分の力が必要とされているというのなら。期待されているというのなら。

 

(……奇跡だって起こしてみせる! あたしは、軽巡阿武隈――期待に応える(ふね)なんだから!)

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ……と、気合いを入れてはみたものの。

 

「さー、やっちまいましょー!」

「やっぱ、海っていーよねー!」

「いけるいける! パーッといこうぜ、パーッとな!」

「ちょっと隼鷹、あなた少しお酒臭くない?」

「さーみんな、一気に決めるで! お仕事お仕事ー!」

「…………」

 

 なんというか……毎度の事ながらノリが軽い。とゆーか、うるさい。

 

(……この人たちに、緊張感ってものはないのかなぁ?)

 

 やたらとキャラの濃い面子に囲まれて、自分の方が異常なのかと悩む阿武隈である。

 

「……大変よね、こんな人たち相手に旗艦を務めるなんて」

 

 いつの間にか隣で航行していた飛鷹が阿武隈に声をかけてきた。

 

「……正直、飛鷹さんがいてくれて良かったです」

 

 常識人枠が一人だけというのはキツ過ぎる。敵より先に味方に精神を削られそうだ。

 

「まあ、半分は素でしょうけど、半分はあなたの緊張をほぐそうとしてるのよ。許してあげて」

「……北上さんは、全部素だと思います」

「ほんと、素直じゃないわねえ」

 

 飛鷹は呆れたような、しかし好意的な笑顔でくすくす笑っている。

 阿武隈としては不本意な反応だったが、なんとなく居心地が悪くて話題を変えることにした。

 

「もうすぐ、作戦海域に入りますよね? このあたりは晴れてますけど、目標海域の天気はどうなんでしょう?」

「龍驤さんが彩雲を先行させてるけど、雲は出てないみたい。……ただこの時期は寒暖差が激しいから、少し霧が出るかもしれないわね。艦載機を飛ばすには支障ない程度だから、そこまで心配する必要は無いと思うけど。……いざという時のために、電探も積んであるしね」

 

 飛鷹が腰に装備した32号水上電探をぽんぽんと叩く。

 

「最近続けざまに開発できたからなぁ。おかげさんで、うち、大活躍や!」

 

 龍驤、隼鷹の腰にも同じものが装備されている。

 威力偵察ということで、今回の装備は特に索敵を重視した構成だ。阿武隈自身、今日は使い慣れた水偵ではなく、水観を貸与してもらっている。

 

(すっごく視界が広いし、クリアに見える! やっぱ、これ欲しいなー。……けど、さすがにこんな装備、軽巡まではなかなか回ってこないもんねー……)

 

 もっとも、阿武隈の水観は艦隊の頭上を旋回しながらの周辺警戒、特に対潜警戒が主な仕事だ。

 

「索敵は任せたよ~、あたしら、ぶっちゃけその辺は役立たずだからさ~」

「よろしくでち!」

 

 気楽そうに声を掛けてくる雷撃組の余裕が恨めしい。というか憎たらしい。特に北上。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……っし! 敵艦隊発見や! 14時の方向、距離的には会敵まで50分、ってとこやな」

 

 単縦陣で航行する敵艦隊の姿を龍驤の彩雲が捉えたのは、北方第二海域に到着してすぐのことだった。

 とりあえず足を止め、円陣を組む。もちろん、周辺警戒と索敵は怠らない。

 

 ――今回発見した敵艦隊の編成は、軽巡ホ級に雷巡チ級、駆逐ハ級とロ級が2体ずつの水雷戦隊。

 フラグシップ級、エリート級などと呼ばれる上位個体が混じってはいるものの、戦力的には今日のメンバーの敵ではない。相手が砲弾を放つ間もなく、アウトレンジからの爆撃と開幕雷撃だけで片が付く展開も充分有り得る戦力差だ。

 ……ただし、それはあくまでも、気象条件が通常の場合ならば、の話だ。

 

「ん~~、けど、思っとったより、霧が出るのが早いなぁ。湯気が立ったみたいに、海面付近の視界がうっすらぼやけ始めとった。……この分やと、会敵する頃には、もっと敵の姿がぼんやりしとるんとちゃうやろか……?」

 

 龍驤が眉を寄せる。

 

「上空は晴れとるから、艦載機の発着艦や飛行には別に問題あらへんけど……爆撃だけでしとめきれるか、いうたら、ちょっと微妙かも知れへんなあ……」

「どーするよ、阿武隈~? 今回の旗艦はあんただからね。進むも退くも作戦指揮も、みんなあんたの判断に任せるよ」

 

 北上に声をかけられ、阿武隈はぐっと唇を引き結ぶ。

 

「当然、叩きます! 戦力的には、圧倒的にこちらが有利! これくらいの条件でいちいち尻込みしてたら、静かな海を取り返すなんて夢のまた夢だもん!」

 

 力強く宣言する。爆撃や先制雷撃で片が付かずに砲雷撃戦に及ぶのなら、むしろ自分の力を発揮するいい機会だ。

 

「それにキスカの時から、あたしにとって霧はむしろ幸運の予兆、味方みたいなもんだしね! 大丈夫、みんなの力があれば!」

 

「ひゃっはー、頼もしいねぇ、新米旗艦殿!」

 

 隼鷹が阿武隈の背中をばしんと叩く。阿武隈は叩かれた勢いで前につんのめりそうになるが、ぐっと踏みとどまって、背筋を伸ばした。軽く咳払いした後、全員の注目を集める。

 

「じゃあ、あたしが旗艦として考えた今回の作戦ですけど……あの、龍驤さん、上空からなら、霧の濃いところと薄そうなところ、わかりますよね? ……でしたら、ゴーヤさんと北上さんは……」

 

 

 ――そして10分後。作戦を聞いたメンバーは、密かに感心しながら阿武隈に頷く事になる。

 

 

 



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9 深淵より出でて深淵に還る

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 もやのようにたゆたう、薄い霧の中。

 海面を滑るように進む幾つもの影がある。

 霧を透かしてよく見てみれば、その影のいずれもが、およそまともな生き物の形をしていない事が判っただろう。まるで悪夢の世界から抜け出てきたような、奇怪でおぞましい姿をした怪物たち……深海棲艦の艦隊であった。

 

 ギシギシと昆虫のような不快な鳴き声をあげながら先頭を進んでいる、機械と人間の女性が入り混じったような歪な姿をした獣は、軽巡ホ級。その身にまとう金色の妖気が、フラグシップ級と呼ばれる化け物であることを示している。

 後ろに続くのは、赤黒い妖気を全身から立ちのぼらせた、雷巡チ級エリート。人のような上半身をしているが、頭部を覆う仮面の下からは、グルグルと猛獣のような唸り声が漏れ出ている。

 さらにその後ろに続くのは、猟犬のような身体に、髑髏のような頭部。その頭部の中心にギラギラと巨大な単眼をぎらつかせた、駆逐ハ級が二体。一体はやはりエリート級だ。

 最後尾に従う駆逐ロ級二体は、まるで小型の肉食鯨。口中に何列もびっしり生えた牙を、ガチガチと金属音めいた音をたてて噛み鳴らす。

 

 不意に、先頭の軽巡ホ級が何かに気付いたように速度を上げた。

 

 ――敵ガイル。敵ガイル。獲物ガイル。獲物ガイル。

 ――近イ。何カイル。誰カイル。潜ンデイル。隠レテイル。

 

 ――何処ニイル何処ニイル――

 ――何者ダロウト関係ナイ襲イ引キ裂キ殺シテ喰ラッテ沈メテヤル――

 

 ――殺サズニハ置カヌ喰ラワズニハ済マサヌ沈メズニハ居ラヌ憎イ恨メシイ妬マシイ何処ダ何処ニイル何処ダ何処ダ殺シテヤル喰ラッテヤル沈メテヤル殺ス喰ラウ沈メル殺喰沈――――

 

 その時、遠くから聞こえてくる幽かな音に、異形の獣の頭部がぴくりと反応した。

 獣の本能か、怨念めいた別の何かの感覚か。迫り来る危険の予感に、それらがけたたましく警鐘を鳴らす。

 どこからか猛スピードで近付いて来る、笛の音のような甲高い音。

 危険な笛の音の正体は――――遥か上空より、風を切って迫り来る落下音。

 ぐるん、と、まともな生物なら骨が折れそうな勢いで首をねじ曲げて空を振り仰いだ異形の頭から、危険を報せる絶叫が発せられる。

 だが、それが同胞達に届くより一瞬早く――彼らの頭上から、灼熱の槍が降り注いだ。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 「よっしゃあっ!」

 

 艦娘たちの艦載機によるその空爆は、密度こそ高くはなかったが、非常に効果的だった。

 何本もの水柱と爆炎が連鎖して吹き上がり、周囲にたちこめていた薄い霧を吹き散らしていく。

 艦列の最後尾を固めていた鯨のような二体の深海棲艦が真上から爆弾の直撃を受け、轟音と共に炎に包まれた。

 怒りに満ちた砲哮が異形の獣たちの口から発せられ、空に向かって砲口が振りあげられるが――霧が吹き散らされて開けた視界にも関わらず、見上げた頭上には何もない。

 

 彼らを襲ったのは、対空砲火の届かない高高度、約3000m上空からの爆撃であった。爆弾が着弾した時には既に、それらを落とした艦載機は空の彼方に悠々と飛び去っている。

 

 

『まずは二匹! 後衛はしとめたで!』

『霧は散ったわ! 隼鷹、第二次攻撃隊の準備はいい?』

『ひゃっはー、全機爆装済みだぜ! 汚物は消毒だ~!』

 

 空母勢の間に景気のいい隊内無線が飛びかう。

 その中で、突然の爆撃に混乱した二体のハ級が、同時に急激な方向転換をしようとした結果、互いに衝突した。

 金属がぶつかり合ってこすれ合う耳が痛くなるような音に続いて、バキバキという破砕音が響く。

 そこへ突き進んできた二本の雷跡が突き刺さった。轟音と共に二体のハ級は炎に包まれ、まとめて爆沈する。

 

『ゴーヤの魚雷はお利口さんでち!』

『阿武隈、残り二体! 砲撃戦いくよ!』

『もぉっ、北上さん! 旗艦はあたしなんだから! 勝手に仕切らないで!』

 

 軽巡ホ級と雷巡チ級が焦りと怨嗟の声をあげた。

 深海棲艦たちは、霧の中にいれば自分たちの視界も効かないかわり、万が一艦娘の艦隊と遭遇しても空爆の恐れは大幅に減らせると油断していたのだろう。

 だが、発生したばかりの霧には薄い部分と濃い部分がある。

 阿武隈は、あらかじめ敵の前面に伊58を突出させ、水中探信儀を備えたホ級に伊58をわざと探知させたのだ。

 釣り出された敵が霧の薄い外縁部にさしかかったところで、あらかじめ索敵範囲外を迂回して敵の後背に回り込んでいた龍驤の爆戦と飛鷹の彗星一二甲が背後から強襲。敵を追い越すようにしながらの高高度爆撃を加えたのだった。

 

 この第一次の爆撃は、ダメージを与えることは無論だが、最大の目的は敵艦隊を霧の濃い部分から追い出しながら残った霧を吹き散らし、相手を丸裸にすることにこそあった。

 後ろから押し出されるように爆撃を受けた敵艦隊は霧の中に戻ることも出来ず、その身をさらけ出すことになる。そこに襲いかかったのが、伊58と北上による先制雷撃である。

 相手からしてみれば、正面の獲物に飛びかかろうとしたところでいきなり後ろから蹴りを入れられ、前につんのめったところに強烈なパンチが待っていたようなものだ。

 

「北上さんは雷巡を! 敵旗艦はあたしが相手します! ただし、無理押しはしないで!」

『りょーかーい』

 

 奇しくも残った敵は、自分と北上と同じ軽巡と雷巡。

 だが阿武隈には余裕があった。

 

 今回、阿武隈は、第一次の空爆を、敢えて龍驤と飛鷹のみで行わせていた。

 通常、爆撃機は一度爆弾を投下してしまえば母艦に戻って爆装をやり直さない限り攻撃手段を失う。

 霧の中にいる敵にいきなり全力での空爆をしかけても確実に敵を殲滅することは難しい──そう判断した阿武隈は隼鷹を後詰めに残し、敵が損害を受けて霧が晴れたそのタイミングで隼鷹を投入。本命の空爆を仕掛ける作戦を立てたのだ。

 攻撃を終えた龍驤と飛鷹の第一次攻撃隊は、そのまままっすぐ母艦に帰艦。入れ違いに、今度は隼鷹の艦載機が全機発艦する。

 

『へへーん! ここで全力で叩くのさぁ! 行っけぇ!』

 

 攻撃と攻撃の間のタイムラグを極力少なくしつつ、艦隊の守りを空にしないための策であった。

 阿武隈と北上の仕事は、残敵を味方軽空母に近づけさせず、霧の中に逃げ込ませもせずに釘付けにすること。

 だが勿論、阿武隈としても、闇雲に守りに徹する気は、さらさらなかった。

 

「……どこかの魚雷バカには、負けないんだから!!」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 軽巡ホ級は金色の妖気を燃え上がらせつつ、憎悪と怒りの砲哮をあげた。

 

 忌ま忌ましい艦娘どもの奇襲に完全にしてやられた。

 護衛の駆逐艦は全て落とされ、残るは自分と雷巡チ級のみ。

 敵の軽巡と雷巡はジグザグに航行しながらしつこく砲撃を繰り返し、こちらは進むも退くも出来ぬ状況。

 特にお下げの黒髪の雷巡は恐るべき手練れで、自分とチ級の動きを分断しつつ、確実に単装砲の砲撃でチ級の装甲を削り取っていく。

 このままチ級の動きが止まれば、とどめの雷撃が叩き込まれるのは必至。

 小柄な軽巡も、こちらの射程圏内ギリギリを出たり入ったりの繰り返しでお互いにダメージこそ与えられていないものの、こちらが不用意に離れようとすれば背後から痛撃を加えられるのは間違いない。

 さらに絶望的なことに、その後方からは、敵の軽空母が艦載機の編隊を発艦させるのが見えた。

 

 あれが上空に到達する時は間違いなく自分達の終わり。

 もはや、全滅は時間の問題だった。

 

 ――マダダ。

 ――マダ終ワラヌ、マダ終ワレヌ。

 ――タダデハ終ワラヌ。タダデハ沈マヌ。

 

 ――カクナル上ハ――

 ――セメテ一隻ダロウト道連レニセズニハオクモノカ――

 

 軽巡ホ級の金色の瞳がぬらりと光り、異形の顔に、覚悟を決めた獰猛な笑みが浮かんだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 阿武隈と一対一の同航戦状態にあった軽巡ホ級が不意に旋回し、進行方向を変えた。

 阿武隈のいる方角に向けて真っすぐ突き進んでくる。

 砲撃はおろか、回避のための之字運動すら一切しようとせずの、全開全速の直進航行。

 

「……体当たりでもするつもり!?」

 

 阿武隈の腹の底が冷たくなった。

 

(だけど……逃げたりなんてしない! あたしだって、やれば出来るんだから!)

 

 阿武隈は主機を止めて正面から軽巡ホ級に向き直った。

 

(大井さんみたいに片手で扱うってわけにはいかないけど……)

 

 向かってくるホ級に20.3cm連装砲の砲口を向け、両手で照準を合わせる。

 

(相手の射程に入る前に、確実に仕留める!)

 

『阿武隈! 何やってんの、さっさと撃ちな!』

 

 北上が隊内無線で呼び掛けてくるが、阿武隈は引き金を引かなかった。

 

 ――もう少し。もう少し近付いて来い。もう少し近付いて来れば、一撃で仕留めてやる。

 

『馬鹿! 阿武隈! 早く撃つの! 撃ちなって!』

 

 北上が焦った様子で、悲鳴にも似た大声をあげる。

 

『ああっ、もう!』

 

 北上は、単装砲の集中砲火で目の前の雷巡チ級の胸を貫くと、身体を捻って振り向きざまに魚雷を発射した。

 ろくに狙いもつけずに放たれた魚雷は当然命中することはなかったが、雷跡を避けるためにホ級の態勢が一瞬崩れ、前進が止まる。

 

(……ここっ!)

 

「がら空きなんですけどっ!!」

 

 阿武隈の構えた20.3cm砲が火を吹いた。

 狙いはあやまたず、ホ級の首元に命中。着弾に一瞬遅れて赤黒い爆炎が吹き上がった。

 ガラス窓を金属の爪で引っ掻くような耳障りな絶叫が海上に響き渡る。金切声と共に宙をかきむしり、身をよじり、のたうち回る異形の獣。

 ………だが、その断末魔も、長くは続かなかった。

 残っていた弾薬か何かに引火したのだろう。ホ級の身体がひときわ大きな爆炎に包まれ、上半身の半ば程がちぎれ飛ぶ。同時に金切声がぶつりと止んだ。

 残された身体は一瞬燃え上がる彫像のように固まった後、無念そうに片手を宙に伸ばしたままの体勢で、ゆっくりと海の底に沈んでいったのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……うぅ、せっかく気合い入れたってのに、出番なかったよ……」

 

 しょげかえる隼鷹の肩を、笑いながら飛鷹が叩いている。

 

「ぷはぁ! 海の中からたっだいまー!!」

 

 海中から、伊58のピンクの髪が飛び出して来た。

 

「お帰り~。ゴーヤっち、ケガはない? 破片とか降って来なかった?」

「大丈夫でち!」

「いやいや~、阿武隈、なかなかの名指揮官ぶりやったで、君ぃ!」

「あっ……ありがとうございます!」

 

 戦闘終了後。

 残敵の有無と戦果の確認を済ませて帰路についた艦隊メンバーは、和やかな雰囲気に包まれていた。

 霧の発生で乱戦に陥る事態も考えられたが、終わってみれば、敵深海棲艦は全隻撃沈。こちらの損害は皆無。堂々たる完全勝利であった。

 初の旗艦拝命での大戦果に、艦隊メンバーが口々に阿武隈をほめそやす。

 

「おめでとさんでち!」

「相手は霧を隠れ蓑にしようとしてたんでしょうけど、まさか逆にそれを利用して、前後から挟撃するとはねえ」

「あたしの活躍を見せられなかったのは残念だけどさぁ、こいつは、今後も使えるいい戦訓になったんじゃないかい?」

「せやなぁ。あくまでも、こちらの航空戦力が圧倒的な場合に限られるけどな」

「あ、はい。今回は隼鷹さんの出番はなかったですけど、一定以上の損害を与えて対空戦力を奪った後は、高度700メートルくらいからの精密爆撃や急降下爆撃が有効だと思います」

 

 阿武隈の表情には少し複雑な色がにじむ。

 対空砲火の届かない高高度からの爆撃で損害を与えた後の、精密波状爆撃。

 それは、「あちらの世界」で、他でもない阿武隈自身が沈められた戦法だった。

 

「自分を沈めた敵の戦法に学んだんか……見かけに似合わず、ええ根性しとるんやな、君」

 

 龍驤が神妙な顔になる。

 艦娘たちにとって、過去の世界での艦船時代の記憶は、誇りの源であると同時にトラウマの源泉でもある。

 鋼鉄の塊であった時代には純粋な兵器や道具として従容と受け入れられた最期の運命も、少女として、艦娘として生まれ変わった現在では、それが夜な夜な自らを苦しめる記憶になっている艦娘たちは数多い。

 いや、多かれ少なかれ、それは全ての艦娘が抱えている心の傷だ。

 その傷を自ら抉るような作戦を採用し、成功させた阿武隈に、龍驤は驚嘆を禁じ得なかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

(……それにしても)

 

 阿武隈はちらりと後方に目をやる。

 

(……あの人が、あんな声出すなんて……)

 

 往路とは違い、帰りの隊列は複縦陣で、先頭は阿武隈と龍驤。北上は伊58と共に艦隊後尾を固めている。

 当然のことながら、周囲には彩雲や水観を飛ばし、索敵や周辺警戒は怠らない。

 北上の気だるげな態度はいつものことだが、今日は、いつになく口数が少なく感じられた。

 先ほども他の者が口々に阿武隈をほめそやす中、一人輪から離れて遠くを眺めたりあくびをしたりで、結局阿武隈とは一度も目を合わせようとしなかった。

 

(……何よぅ。……少しくらい、誉めてくれたっていいのに)

 

 阿武隈としては少し不満である。

 

(けど……心配、してくれてたんだよね……いつもはあんな風なのに)

 

 軽巡ホ級が特攻まがいの突撃を仕掛けてきた時の北上の叫び声を思い出す。

 と同時に、旗艦に任命された時の隼鷹の言葉も。

 

(旗艦に推薦してくれたこと……信頼とか期待とかしてくれたことに、少しはあたし、応えられたのかなぁ……)

 

 と、そこで自分の思考に気づいてやや狼狽する。

 

(なっ、何よ、あたし? あの人なんて、北上さんなんて大っ嫌いなはずなのに!?)

 

(……でも)

 

(ここまで鍛えてくれたのは確かだし……ちょっとくらい、そう、ほんのちょっぴりくらいは感謝しないと駄目だよね。でないとあたし、イヤな子になっちゃうし)

 

 ――決めた。

 

 鎮守府に帰ったら、心配かけたことは謝ろう。

 少しだけ、お世話になったお礼を言おう。

 どうせついでだ、『あちらの世界』にいた時にうっかり追突しちゃったことも、この際一緒に謝っとこう。

 

 どうせ、そっけなくあしらわれるだけなんだろうけど。

 それでも――きっと、自分の中で何かは変わるはずだから。

 

「……なんや君ぃ、さっきから表情えらいコロコロ変わっとるけど、なんぞあったんか?」

「ふえっ!? ……い、いえっ! 何でもないです!」

 

 隣を進む龍驤に顔を見られないよう、阿武隈は主機の回転を上げて、鎮守府への帰路を急ぐのだった。

 

 

 




※用語解説:之字運動……いわゆるジグザグ航行のこと。
※敵の編成は艦これ旧北方海域3-2-1に準拠。(現在のゲーム環境における編成とは違ってます)
※おや、北上さまのようすが……?


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10 帰還、そして不穏な散歩

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 戦闘から2日後。

 鎮守府に帰投した阿武隈達を出迎えた提督は、大喜びだった。

 

「初の旗艦任務、ご苦労だった! 勝利ももちろんだが、全員無傷で帰還できたというのが何より素晴らしい!」

「い、いえ、あたしだけじゃなく、皆さんの力あっての事ですし……」

「うんうん、功を誇らず、勝ちに驕らずとは実に奥ゆかしい、いい心掛けだ!」

「あ、いえ、ほんとあたしの力じゃなくて……っていうか、ちょ、提督! 前髪崩れちゃうから! もぉ、あんま撫でないで下さいってばぁ!」

 

 ……やっとのことで解放されて提督の執務室を出た阿武隈は、ふう、と息をついた。

 その頬がだんだんと緩んでいき、にんまりとした笑みが浮かぶ。

 

「うふっ、うふふっ♪」

 

 ダメだ。笑顔が押さえきれない。

 初めての旗艦拝命でまさかの大戦果。提督も喜んでくれたし、みんなも褒めてくれた。ちゃんと期待に応える事ができた。

 何より、誰にも怪我ひとつ負わせず、無事に連れて帰って来ることが出来た。

 そう、あの時と同じように。

 ……これであの人が認めてくれてたら、少しでも褒めてくれてたら……今日は間違いなく、艦娘としての人生最良の日だったのに。

 阿武隈の笑みが少しだけ(かげ)る。

 

「……北上さんの、ばーか」

「誰が馬鹿だって?」

「きゃうんっ!?」

 

 比喩でも何でもなく、文字通り阿武隈は飛び上がった。振り返ると、そこには憮然とした表情を浮かべた北上が立っていた。わたわたと阿武隈は慌てる。

 

「いや、北上さん、えっと……」

「報告終わったんでしょ? なら、ちょっと顔貸しなよ。……少し話もあるしさ」

 

 返事を待たずに、北上は歩き出した。

 

(……なんだろ。今日はもう、訓練とかないはずだよね?)

 

 遠征や出撃に参加した艦隊メンバーは、帰投当日の訓練や雑役が免除されている。しかも今回は勝利のご褒美にと、出撃メンバー全員に、明日以降二日間の休日が与えられていた。

 

(……みんなで打ち上げでもするのかなぁ?)

 

 隼鷹の酒好き・宴会好きは有名だ。他のメンバーも、隼鷹ほど底なしではないものの、ビールくらいなら全員いける口である。

 

(けど、隼鷹さん入ると、だいたい朝までコースだもんねぇ……)

 

 だが、北上は建物を出ると鎮守府の裏手に向かって歩き出した。

 

「あの、北上さん、どこに行くんですか?」

「……ただの散歩みたいなもんだよ」

 

 背を向けている北上の表情は、阿武隈からは窺えない。

 今日の鎮守府の空には、今にも雨が降りそうなどんよりとした雲が立ちこめている。

 

(うう、気まずいなぁ……けど、ちゃんと言わなきゃ。そう決めたんだし)

 

 阿武隈は意を決して、後ろから話しかけた。

 

「あっ、あの! 今回はお疲れ様……っていうか、ありがとうございました!」

 

 なぜか緊張して、敬語口調になる阿武隈である。北上は、んー、と気のない声を返してくる。

 

「……あの、隼鷹さんから聞きました! 今回、北上さんが、あたしを旗艦に推薦してくれたんだって……」

 

 余計なことを、とでも言いたげに北上が軽く眉の付け根に皺を寄せ、鼻を鳴らした。

 

「その……北上さんの目から見て、今回の、旗艦としてのあたしってどうでした?」

「……あんた自身は、どう思ってんのさ?」

 

 振り返らないまま北上が問い返す。その口調が思ったよりも優しげで、阿武隈は少しだけほっとした。

 

「あっ、あたし的にはオッケーってゆーか、自分なりには良く頑張れたかなって……」

「へーえ」

「……あっ、もちろんその、なんか出来すぎって言うか、やっぱりみんなの力があってこその大勝利だったんですけど……」

「優等生的な返事だねぇ」

 

 北上は歩みを止めぬまま、振り返らずに、のんびりとした口調で呟く。

 

「……その、あたしなんかが立てた作戦にみんなが従ってくれて、頑張ってくれて、おかげで誰も傷つかずに、無事帰って来れて……」

「うんうん、それで?」

 

 北上は振り返らない。

 

「……そりゃ、ちょっとは危なっかしいとこも、あったとは思うけど……」

 

 最後の方は、ごにょごにょと小声になってしまい、阿武隈は歯がゆい気持ちになる。勢いをつけるために、わざとはしゃいだような声を出す事にした。

 

「でも、作戦自体は一生懸命考えたの! あたし、結構頑張ってたでしょ!?」

「……そっか」

 

 北上は足を止めない。

 

(……何よ、ちょっとくらい、こっち向いて喋ってくれたっていいじゃない)

 

「やっぱあれよね! キスカの時もそうだったけど、強く信じて諦めなければ、願いは叶う、っていうか」

 

(……ちょっとくらい、褒めてくれたっていいじゃない)

 

「みんなの力が合わされば、何だって出来るって改めて思ったの!」

 

(……ちょっとくらい、認めてくれたって……いいじゃない)

 

「次も、その次も、その先も、今回みたいに、みんなで頑張れたらいいなって……」

「……今回みたいに、か」

 

 北上がぽつりと呟く。

 

「それと、あの、その……」

 

 北上が足を止めた。

 鎮守府の裏手、工廠裏の、焼却炉やガラクタ置き場のあるちょっとした空き地。滅多に人が訪れる事もない場所のため、訓練や任務の辛さに耐えかねた艦娘がこっそり泣きたい時や、人知れず秘密の相談をしたい時、さらには駆逐艦同士が拳で語り合う時などによく利用されている場所だ。

 今日はこの場を訪れている者は誰もおらず、居るのは北上と阿武隈の二人きりである。

 散歩、というにはおかしな場所だが、阿武隈にとってはむしろ好都合といえた。

 

(言わなきゃ、ちゃんと伝えなきゃ……)

 

 服の裾を握りしめ、浅く何度か呼吸をする。

 すぅっと息を吸い込み、北上の背中に向かって、ありったけの勇気をこめて言葉を吐き出した。

 

「北上さん! 今回はその……ごめんなさい!」

 

 ツインテールを跳ねさせながら、ぶんっ、と頭を下げる。

 

「……あの、心配かけちゃってごめんなさい! 相手の旗艦が突っ込んできた時……あれって、やっぱり危なかったと思うし」

「……危なかったって、何がさ」

 

 小さな声で北上が尋ねる。

 

「その……あたし的には、充分引き付けてから一撃で仕留めてやろうって……でも、考えてみれば、あそこは無理せず相手に合わせて距離を取って、隼鷹さんの艦載機が来るのを待つべきだったかな、って……」

 

 北上が振り返る。

 俯いて自分の足元を見ている阿武隈には、その表情が見えていない。

 北上の顔から――感情の色が抜け落ちていく。

 

「その、北上さんが魚雷を撃ってくれてなかったら、相手の反撃食らってた場合も有り得た訳だし……そのお礼も、あたし、言え、て……なく、て……」

 

 俯いていた顔をあげた阿武隈の言葉が、止まった。

 

 ――なんだ。

 ――北上のこの表情は、なんだ。

 

「……あんた、何言ってんの?」

 

 ――こんな表情は、知らない。

 ――北上の、こんな声は知らない。

 

「何……って、その、お詫びとか、お礼……とか……」

「……あんた、やっぱり何も解ってないわ」

 

 向けられたのは――鋭く冷たい、棘のある視線。

 

 

「――あんた、旗艦失格。……あんたなんか、推薦するんじゃなかったよ」

 

 

 




※シリアスさんがアップをはじめました


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11 雨と決裂・幕間その4

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「…………え」

 

 空気が凍りついたような気がした。

 色の消え失せた世界の中で、北上の声だけが冷たく響く。

 

「……次も、その次も、その先も? ……はっ。冗談じゃない。あたしがあんたの部下だったら、あんたの下で戦うなんて真っ平ごめんだよ。たまたま今回、運良く結果が出たからって、勘違いしてんじゃない? ……今回の作戦、『あたし的にはオッケー』だって? ……笑わせるね。あたしに言わせりゃ、最低の指揮だったよ」

 

 血の温度がどんどん下がっていく気がした。

 

「なん……で……っ」

 

 手足の先が冷たい。自分の身体がかすかに震えているのがわかる。

 

「強く信じれば願いは叶う、って……何それ? 神頼み?」

 

 ――なんでそんなこと言うの。

 ――なんでそんな目であたしを見るの。

 

「……キスカがどーたらって、えらく自慢にしてるみたいだけどさぁ……いったいいつまで昔の栄光にすがってんのさ」

 

 ――やめて。それ以上言わないで。

 ――そんな言葉、あなたの口から聞きたくない。

 ――あなたが言ってくれた言葉を支えにしてたのに。

 ――それをあなたが否定しないで。

 

「……今回の指揮っぷりを見る限りじゃ、よっぽど部下に恵まれてたか、よっぽど相手が間抜けだったんだね」

 

 ――褒めてもらえると思ったのに。

 ――たとえ褒めてもらえなくても、少しは認めてもらえると思ってたのに。

 

「なん……で……なんで、そこまで言われなきゃいけないのよ……」

 

 喉から出る声が震えている。

 

 ――いつもへらへらしてて適当で。

 ――上から目線がムカついて。

 ――でも、好きにはなれなくても、目標だった。

 

「……はぁ? なんでかって? いつも言ってるじゃんか、自分で考えろって。わかんないなら、あんた、やっぱり見込みないよ」

 

 ――馴れ馴れしくって、意地悪で。

 ――構ってくるのが、鬱陶しくて。

 ――でも、腹が立つことはあっても、憧れだった。

 

「みんな……褒めてくれたもん……よく頑張ったって、言ってくれたもん……」

「なにあんた、褒められるために戦争やってんの?お子さまにも程があるでしょ」

 

 ――それなのに。

 ――こんな理不尽な責められ方をするなんて。

 ――こんな納得できない言われ方をするなんて。

 ――もっと……ちゃんと見てくれてると思ってたのに。

 

 

 感情が爆発する。

 

「……何がいけなかったって言うのよ! 何が間違ってたって言うのよ! あたし……あたし……頑張ったのに!!」

 

 抑えきれない感情が、叫びになって溢れ出す。

 

「……みんなで敵をやっつけて! みんなで無事に帰ってきて! ……無茶もしたけど、ちゃんと反省したじゃない!! ちゃんと謝ったじゃない!!」

 

 ぽつぽつと降り出した雨が、地面に幾つもの丸い染みをつける。阿武隈の頬を濡らしていく。

 

「……これ以上、何をどうすればいいってのよ!!」

 

 頬を濡らしながら血を吐くように訴える、阿武隈の叫びが聞こえているのかいないのか、北上は無言でただ阿武隈を見つめる。激しさを増す雨が二人の髪を、艤装を、身体を濡らし、視界を滲ませ歪ませる。

 

「……何か言ってよ! 答えてよ! 教えてくんなきゃ、わかんないよ!」

 

 北上の唇が、僅かに開いた。

 懇願にも似たかすかな期待をこめて、阿武隈の瞳がその唇を見つめる。

 その唇からこぼれた言葉は――

 

 

「――自分で考えな」

 

 

 ぴしりと、何かが壊れる音がした。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 阿武隈の脚から力が抜け、濡れた地面にへたり込んだ。そのすぐ横を北上が通り過ぎる。言葉もかけず、目も合わせず。

 

「……馬鹿ぁっ! 分からず屋っ! なんで何も言わないのよっ!! なんで何も答えてくれないのよっ!!」

 

 目の前の濡れた地面にばしゃりと両手をついて阿武隈が叫ぶ。早くも地面に出来はじめた水溜まりに幾つもの雫がこぼれ落ちて、波紋を作る。

 

 ――いやだ。イヤだ。

 ――このまま立ち去らせるなんて我慢できない。

 ――あたしの目標を、憧れを、こんなにも踏みにじっておいて、そのまま行ってしまうなんて許せない。

 

 ――あたしが傷ついたのと同じくらい、この人を傷つけてやりたい。

 

 

 阿武隈は立ち上がる。

 

 ……ああ、それはいけない。

 

 心のどこかで声がする。

 

 ……それは、駄目だ。()()()()は、駄目だ。

 

 振り返る。口を開く。息を吸い込む。

 

 ……()()()()は……言っちゃいけない。

 

 

 ――――阿武隈は、止まらなかった。

 

 

 

「……()()()()()!! ()()()()()!! 北上さんなんか……あんたなんか、大っ嫌い!!!!」

 

 

 

 肩がびくりと震えたが――――北上は、一度も振り返らなかった。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

《~幕間~その4》

 

 

 

 ――嗚呼。

 ――燃えている。

 

 赤い炎の舌が天を焦がし、黒煙が水上を渦巻く。

 燃えていく。崩れ落ちていく。沈んでいく。

 

 ――やめて。やめて。

 

 ――助けたいのに身体が動かない。

 ――叫びたいのに声が出ない。

 ――泣きたいのに涙が流れない。

 

 ――こんなのは違う。こんなのは間違いだ。

 ――こんな事を望んだんじゃない。

 ――こんな事を願った訳じゃない。

 

 ……いいや、と誰かの声がする。

 ――お前が望んだからだ。

 ――お前が願ったからだ。

 ――これは……お前の罪だ。お前への罰なのだ。

 

 ――やめて。やめて。

 

 ――沈むべきは……他の誰でもなく、自分だったのに。自分だけだったのに。

 

 

 

 《~幕間~その4・了》

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 




※ここからしばらくシリアスさん無双
※北上さまの態度には、幾つかの理由、もしくは原因があります
※理由の一部については、今回の深海棲艦との戦闘と、その後起こった出来事の中にヒントがあります
※真相が明らかになるまで、ちょっと考えてみるのも楽しいかも


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12 見落としの正体

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

(泣きすぎたせいかな……頭痛い)

 

 目が覚めた後も、阿武隈はベッドから起き出す気になれずに横たわったままだった。

 枕が湿っていて、気持ちが悪い。

 

(……今日がお休みで良かった)

 

 昨夜は部屋に帰った後、五十鈴や鬼怒が問いただしてくるのに対してろくな答えも返せないまま、ぼろぼろ泣きじゃくっているうちに眠ってしまったようだ。

 

(お姉ちゃんたち……今日は遠征だっけ、出撃だっけ)

 

 今日の天気はやはり雨。

 薄暗い部屋の中に他の者の気配がないことに、少しだけほっとする。

 窓の外から雨音と、遠くで響く演習の砲撃音がかすかに聞こえてくる。

 

(……今何時だろ。お腹空いたなぁ……)

 

 ごそごそと起き出し、洗面台の鏡の前に立つ。……ひどい顔だ。顔を洗い、シャワーを浴びると、ようやく少しだけましな気分になった。

 せっかくの休みだが、外に出て他の人と顔を合わせるのは避けたい気分だった。――特に、あの人とは。

 その時、前触れなしにガチャリと部屋の扉が開いた。

 

「……五十鈴お姉ちゃん」

「少しは落ち着いたみたいね。お腹空いたでしょ、おにぎり買ってきたから食べなさい。食べ終わったら、何があったのか詳しく話してもらえる?」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……どう思う? 五十鈴お姉ちゃん」

「どうもこうも……あんたの話を聞いた限りじゃ、嫌がらせじみた理不尽な難癖にしか思えないんだけど……」

 

 ちゃぶ台の上には、おにぎりの包み紙と湯呑みが2つ。

 

「うん。あたしにも、最初はそうとしか思えなかった。 だけど……あの人があそこまで言うからには、何か見落としがある気がして……」

「強いて言うなら……あんたが敵の旗艦とやり合ってた時、北上のやつがそこまで動揺した、ってのには何か違和感を感じるわね……」

 

 一晩経ってそれなりに落ち着いたせいか、阿武隈は素直に頷くことができた。

 阿武隈を鍛えあげたのは北上自身だ。多少の無茶を阿武隈がやらかしたからといって、あそこまで取り乱すとは考えにくい。……というより、北上がそこまで過保護とは思えない。

 

「……お姉ちゃん、机上演習盤持ってたよね? お願い、ちょっと出して」

 

 阿武隈はちゃぶ台の上の湯呑みや包み紙を片付けると、折りたたみ式の将棋盤のような大きなボードを広げて駒を並べる。

 

「確か最初の配置はこうで、敵の位置はここ……まずは龍驤さんと飛鷹さんの艦載機がぐるっと両翼から回り込んで……」

 

 記憶を辿りながら、あの時の配置を再現していく。

 

「空爆の後、北上さんとゴーヤさんが先制雷撃で敵駆逐艦を撃沈。残った敵は2体……。北上さんは敵雷巡を釘付けにしてて、あたしは敵旗艦と距離を保ちながら同航戦でこう移動してて……」

 

 残った敵を表す二つの黒い駒と、北上・阿武隈を示す緑と黄色の駒が目まぐるしくその位置を変えていく。

 他の駒は動かない。

 そして相手の旗艦が阿武隈に突っ込んできて……

 

(……どうして北上さんはあんなにも焦って、こいつに魚雷を撃たなきゃならなかったんだろう)

 

(……なんでこいつはただ突っ込んでくるだけで、一発も撃ってこなかったんだろう)

 

 ――何か変だ。何かとんでもない勘違いをしてる気がする。

 

(自分で考えろ、か……)

 

 思考を切り替え、敵の立場から戦況を見直そうとする。

 状況は絶望的。護衛の駆逐は全て落とされ、残る味方は自分も含めてニ隻のみ。雷巡チ級も墜ちるのは時間の問題。もはや勝つことはおろか、生きて逃亡することも出来そうにない。

 唯一出来ることは、相討ち覚悟で突っ込むだけ……

 

(……おかしい。やっぱり、何か変だ)

 

 阿武隈の表情が険しくなる。

 

 確かに軽巡ホ級にとって、敵の旗艦――この場合は阿武隈を相討ちで仕留めることが出来たならば、最期の悪あがきとしてこの上ない戦果だろう。

 だが、あの直前まで阿武隈はずっと、敵ホ級とはつかず離れずの距離を保ちながら、射程圏ギリギリでの時間稼ぎに終始していたのだ。

 あそこで心中覚悟の体当たりを狙ったとしても、阿武隈が足を止めて真正面から迎え撃つなどと、果たしてあのホ級が思っただろうか。

 ましてや隼鷹からの第二次攻撃隊が発艦するのは、ホ級からも見えていたはず。

 その状況で阿武隈に突っ込んだところで、また距離を空けられて時間稼ぎを続けられれば、相討ちにさえ持ち込めなくなるのは自明の理だったはずだ。

 

(じゃあ、なんであいつは突っ込んで来たの……?)

 

(回避のための之字運動さえしなかったのは、隼鷹さんの艦載機が到着するより早く、少しでも最短距離で移動したかったからと考えれば、まだ納得はできる)

 

(でも、砲撃さえしてこなかったのはなぜ……?)

 

(砲撃する手間さえ惜しんで……何かを狙っていた……?)

 

 ……考えろ。

 

 ……考えろ。

 

 自分ならどうする。もしも自分が敵の立場だったら……

 

 

 と、その時。

 

 開戦直後から動かしていなかった一つの駒に、ふと阿武隈の目が止まった。

 

「……あ」

 

 それまで自分とホ級の駒を交互に動かしていた阿武隈の手が止まり、表情がこわばる。

 

(もしも……ホ級の狙いがあたしでなかったとしたら……?)

 

(……そうだ。あいつからしてみれば、隼鷹さんの艦載機が到着するより早くあたしや北上さんを撃沈できるかと言えば、捨て身でかかっても勝算は低い)

 

 あの時のホ級の目から見て、相討ち覚悟で狙うのならば……阿武隈よりも、もっとふさわしい相手がいる。

 対潜装備を備えた軽巡ホ級にとって、最期に攻撃をしかけるなら、もっと勝算の高い獲物がいる。

 目に映るのは……最初に置いた場所から一歩も動かしていない駒のうちの一つ。

 

「……あいつの本当の狙いは、あたしなんかじゃなかった……」

 

 阿武隈が愕然としてつぶやく。

 

「残り時間の中、自分の装備で一撃で仕留めきれる可能性が一番高い相手……」

 

 そのピンクの駒が示すのは――

 

「……ゴーヤさんだったんだ」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 固い表情の阿武隈に、五十鈴が訝しげに問いかける。

 

「どういうこと? あんたやホ級のいるこの地点と、ゴーヤの駒があるこの位置とは、ずいぶんズレがあるわよ?」

「……確かに、あたしがゴーヤさんにお願いしたのは、この位置で相手をおびき寄せる囮になることと、その後、敵の混乱に乗じて雷撃すること、それだけだった。……でも」

 

 船足が遅く、装甲の極端に薄い潜水艦にとっては隠密性こそが命。

 経験豊富な伊58が、最初に魚雷を発射した位置からそのまま動かずにいたはずがない。

 雷撃によって初撃を加えた後は、伊58は当然新しいポイントに移動を図ったはずだ。

 

「なのにあたし……目の届かない水の中のことだからって、ゴーヤさんの位置とか動きとか、頭の中からすっぽり抜け落ちてた……」

 

 最初の位置からできるだけ航行音をたてないよう、海流を利用しながら伊58が次の雷撃に備えて移動したとすれば……あの時、伊58がいた位置はおそらく……同航戦状態で移動してきた阿武隈と敵ホ級――その二隻を結ぶ直線上の中間点。

 

 あの時――敵の旗艦、軽巡ホ級は、程なく自分達が全滅することを悟ったのだろう。

 そして、どうせ避けられぬ全滅ならばせめて道連れにと、伊58を狙うことにしたのに違いない。

 海中の潜水艦に対して、最も有効なのは爆雷攻撃。

 ホ級は、自分の回避も防御も阿武隈への砲撃もかなぐり捨てて、伊58の真上にさしかかるタイミングでの爆雷投下、ただそれだけに集中し、それまで阿武隈が撃ってこないことに賭けたのだ。

 

 いや、阿武隈に対して砲撃しなかったのは、むしろ、自分が撃てば阿武隈も撃ち返してくるだろうことを考慮して、敢えてただの無謀な特攻を装っていたのかも知れない。

 実際、あそこで北上が魚雷を発射せず、あのままホ級が伊58の真上を通過するに任せていたら……

 投下された爆雷によって伊58が甚大な被害を被るか――悪くすれば轟沈していた可能性もあったことは否めない。

 

(だから、あの時北上さんは……)

 

 

 「……お帰り~。ゴーヤっち、ケガはない? 破片とか降って来なかった?」

 「……大丈夫でち!」

 

 

(戦闘が終わった後、真っ先にゴーヤさんを気遣ってた……)

 

「なのにあたし……それに気付いて反省するどころか、そのまま距離を空けて隼鷹さんの艦載機に任せてれば良かったとか、見当はずれなことを……!」

 

 阿武隈は唇を噛みしめる。

 

(自分自身を囮にすることで、敵の思考や進路、視線や行動を誘導する――あの人からさんざん教わってきたはずだったのに……! 演習でも見せて貰ってたのに……!)

 

「北上さんの言う通りだ……何も解ってなかった……あたし、旗艦として失格だ……」

「そうね……多分、あんたが今考えたことは正しいわ。あんたは全員の命を預かる旗艦として、確かに大きなミスをしてた。北上が、結果だけ見て手放しで誉める気になれなかったのは無理ないかも知れない……けど」

 

 五十鈴が眉をひそめた。

 

「正直……北上の態度にも、問題あり過ぎな気がするのよね」

 

 湯呑みを持ち上げようとして中身が空なのに気付き、五十鈴は渋い顔になる。

 

「ゴーヤだって歴戦の艦娘よ。囮役の経験も豊富だし、今回の編成なら、初撃で敵を全滅させられなかった場合に被害担当艦をつとめる覚悟もしてたでしょう」

 

 軽巡や駆逐艦にとって、戦闘の際にまず相手の潜水艦を潰しにかかるのは、まず最初に叩き込まれる基本中の基本だ。

 これは、単に戦艦や空母が潜水艦に対して攻撃手段を持たないから、というだけではない。

 夜戦まで敵潜水艦を無傷で残した場合、撃沈はおろか発見さえ困難を極めることになり、それまでどれほど有利に戦況を進めていても、水中に潜む潜水艦からの雷撃によって、戦艦だろうと空母だろうと致命的な逆撃を受ける恐れがあるからだ。

 

 従って、対潜攻撃手段をもつ艦は、まずは最優先で相手の潜水艦を潰しにかかることになる。これは艦娘だろうと深海棲艦だろうと同じことだ。

 これを利用して、潜水艦を囮役……被害担当艦にして敵の選択肢を奪う戦術は、非情の策ではあるものの有効極まりないものとして認知されていた。

 当然、伊58自身だけでなく北上もそれは承知していたはずだ。

 

「戦う以上、今回みたいに味方に損害がゼロって結果になる方がむしろまれよ。ましてや、あんたは今回が初の旗艦拝命。大事に至らずに済んだ以上、反省すべき部分は反省するとしても評価すべきところは評価して、戦訓として次に生かすことを優先すべきでしょうに。あの馬鹿、何を焦ってんだか……」

 

 急須から湯呑みにすっかりぬるくなったお茶を注いで一気に飲み干すと、五十鈴はちゃぶ台の上に、どん、と湯呑みを置いた。

 

「まあ、あたしに言わせりゃどっちもどっちね。取りあえず、今度会った時にでもあんたから謝っときなさい。それできっと、万事解決するわよ」

 

 阿武隈の落ち込んだ雰囲気を振り払うかのように、明るい声で気楽な台詞を五十鈴は口にする。

 

「うん……」

 

 ――その時、部屋のドアをノックする音がした。

 

「誰?」

 

 五十鈴の声に応えるようにドアが開く。

 そこに立っていたのは、意外な人物だった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……突然お邪魔してごめんなさい。……入らせてもらうわよ」

「大井さん……!」

 

 北上の相棒をつとめる茶髪の艦娘は二人の返事を待たずに入室し、ちゃぶ台の上に広げられた机上演習盤をちらりと見た。

 

「……どうやら、今回の阿武隈さんのミスについては、もう察しがついていたようね」

 

 大井が呟く。

 

「……言っとくけど、あたしは何もアドバイスしてないわよ? 阿武隈はちゃんと自分一人で答にたどり着いたわ」

「……そう」

 

 大井は興味の薄い顔で五十鈴に応えると、阿武隈に向き直り、睨みつけた。

 

「……北上さんが、あなたの教導を降りると言ってきたわ。あなたいったい……北上さんに何をしたの?」

 

 ガタンと音を立てて阿武隈と五十鈴が立ち上がる。

 

「そんな……!!」

「ちょっと待ってよ! それ、どういうこと!?」

 

 阿武隈と五十鈴の表情が激変した。

 後悔と罪悪感に顔を歪める阿武隈と、怒りに激昂する五十鈴。

 

「あたしのせいだ……あたしがあんな酷いこといっちゃったから……」

「ちょっと、大井! それ本当なの!? いくらなんでも……!」

 

 大井はどちらの言葉にも取り合おうとせず、阿武隈の正面に立つ。

 

「……主張したいことや言いたいことはあるかも知れないけど……それはいったん置いといてちょうだい。まずは話して。何があったのか、あなたが何を言ったのか――脚色とか言い訳とか抜きで、一言たりとも漏らさずにね」

 

 

 




※ここまでが北上さまの不可解な態度の理由の半分
※けど核心は他のところにあります


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13 憧れを追う者

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……そう。事情は把握したわ。いつかはこういうことになるんじゃないかと思っていたけど……最悪のパターンにも程があるわね」

 

 大井は、深々と溜め息をついて立ち上がった。

 

「とにかく、こうなってしまった以上はどうしようもないわ。……五十鈴。明後日(あさって)、阿武隈さんの休みが終わってからの教導は、あなたが引き継ぐことにしてちょうだい。私は戻るわ。それじゃあね」

 

 言い捨ててそのまま立ち去ろうとする大井の手首を、五十鈴ががしりと掴んで引き止めた。

 

「ちょっと待ちなさいよ。……自分勝手な言いぐさにも程があるじゃない」

「……離しなさいな」

 

 ひどく静かな声で大井が五十鈴に向かって告げる。

 

「いいえ。あんたがちゃんと説明するまで帰さないわよ。……あんた達、あたしの妹を何だと思ってんの?」

 

 五十鈴も怯まず睨み返す。

 

「確かに自分のミスを棚に上げて暴言を吐いたのは、阿武隈が馬鹿だったかも知れない。……けどね、北上の態度にだってあたしは頭に来てんのよ。だいいち、たった一度のミスで教導降りるだなんて、そっちの方がよっぽど無責任じゃない!」

 

 ぎりっ、と大井の手首を掴む手に、五十鈴が力を込めた。

 

「……ことと次第によっちゃ、あんたを叩きのめして、北上のとこに直談判に行ったっていいんだからね?」

 

 五十鈴と大井の間に目に見えない火花が散る。

 一瞬、大井の瞳に不穏な光が宿り――

 

「……あ、あのっ!」

 

 ──張り詰めた空気を破ったのは、阿武隈の声だった。

 

「……あたしも納得できないです! 今回の件、あたしが悪かったのはよくわかったけど! 謝る機会も挽回のチャンスも貰えないままこれでおしまいだなんて、あんまりです!!」

 

 大井の目が阿武隈を見た。

 何かに迷うようなしばしの沈黙の後、大井は剣呑な気配を納め、身体の力を抜いた。

 五十鈴に掴まれていない方の手をあげて溜め息をつく。

 

「……わかったわよ。話をしたからといって、何も変わらないかも知れないけどね。……取りあえず五十鈴。その手を離して、お茶を淹れてもらえるかしら? ――多分、長い話になると思うから」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……何からどう話したものかしらね……」

 

 大井は出されたお茶にひと口だけ口をつけ、ぽつりぽつりと語り出した。

 

「……まず、最初にはっきりさせておくけど、今回の件に関して、私に阿武隈さんを責めるつもりはないわ。ミスの件を勘定に入れたとしても、阿武隈さんはよく頑張ったと思う。これは提督も同じ意見よ。誇っていいわ」

 

 そう聞いても阿武隈や五十鈴の表情は晴れない。

 

「ただ、北上さんには……それでも満足できなかったのよ」

「……それが解んないってのよ。教導として、北上は阿武隈に、随分と目をかけてくれてた。普通以上に厳しく接して、よく鍛えてくれてたと思う。むしろあたしは感謝してたくらいよ」

 

 五十鈴の声は険しい。

 

「……けど、たった一度のミスも許せないだなんて、そりゃあんまりじゃない? 新人だなんて甘えるレベルはとうに過ぎてるにしても、出撃艦隊の旗艦としては、今回が初の実戦任務。それを……」

 

 言いつのろうとする五十鈴を、大井は片手をあげて制した。

 

「……誤解しないで。北上さんが許せなかったのは、阿武隈さんのミスについてじゃないわ。……確かに厳し過ぎる物言いはしてたみたいけど、阿武隈さんが気付いて反省したのなら、それについては、きっと北上さんも許してたでしょうね」

「じゃあ何よ。死ねとか沈めとか、暴言吐いたからだって言うの? そんなもん、教導やってりゃいくらでも浴びる言葉でしょ? ……なに今さら繊細ぶってんのよ」

 

 新人を指導する教導艦は、怖れられ、嫌われ、憎まれるのが仕事のようなものだ。むしろそれくらい厳しく接しなければ、後輩艦娘を育てることなどできはしない。

 特に、血の気の多い駆逐艦などが面と向かって反抗してきたり、半ば本気で殺害予告してきたりするのは、一度でも教導艦をつとめた経験がある艦娘ならば通過儀礼とさえ言えた。

 

「それに比べりゃ、阿武隈の暴言なんて可愛いもんよ。むしろここまで、殺してやるの一言が出なかっただけでも特筆ものね。だいたい……」

「お姉ちゃん、ちょっと黙ってて」

 

 阿武隈は――小さな声で、しかしはっきりとそう言った。

 不承不承、五十鈴が矛先をおさめる。

 

「……何か理由があるんですね?」

 

 阿武隈はまっすぐ大井と視線を合わせる。

 

「教えて下さい。多分あたしは……あたしだけは、知らなくちゃいけない気がする」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……そうね。少なくとも阿武隈さん……あなたには、知る権利があると思う」

 

 大井はちらりと五十鈴の顔を見たものの、何も言わずひとつ溜め息をつき、表情を改めた。

 

「ただし――今から話すことは、私と提督しか知らないこと。……絶対に他言しないと誓ってちょうだい」

 

 阿武隈と五十鈴は視線を交わし、深く頷いた。

 

「……と言っても、説明しづらい上に、信じてもらえるかどうかも怪しい話ではあるんだけど……」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……まず、核心について話す前に、はっきりさせておかなくちゃいけないことがあるわ」

 

 大井は言葉を続ける。

 

「確かに阿武隈さんは、今回ミスをした。それについて北上さんが……相当に失望したのは確かよ」

 

 その言葉に、阿武隈が俯く。

 

「ただね……はっきり言って、これは北上さんが阿武隈さんに、無理な期待をし過ぎていたせい。これについて阿武隈さんは悪くない。むしろ……北上さんこそが責められるべきなんでしょうね」

 

 大井の表情は苦い。

 

「結局のところ、教導を降りるなんて言い出すくらいに北上さんが思いつめた決定的なきっかけは……阿武隈さんの最後の言葉」

 

 阿武隈の肩がぴくりと揺れる。

 

「わざわざ自分から招くような発言をしておいて、とさえ言えるかも知れないけれど――――北上さんは……とても傷ついたのよ、阿武隈さん。あなたが思うより……多分、自分で思ってたよりも、ずっと、ずっと深くね」

「どうしてそんな……」

「あなたは……あなただけは、何があってもそんな言葉を吐かないはずだって……北上さんはそんな風に信じきってしまっていたから」

 

 あなただけは、という言葉が胸に刺さり、阿武隈は目を伏せる。

 

「……けどね、阿武隈さん。北上さんが耐えられなかったのは、あなたが吐いた暴言そのものじゃないの。……そんな言葉をあなたに吐かせてしまったのが、他でもない自分自身なんだっていう事……それが、自分自身が、どうしても許せなかったのよ」

 

 うつむいていた顔を阿武隈が上げた。

 

「それって……。どうして、そんな……」

 

 淡々とした静かな声で、大井が告げる。

 

 

「……だって阿武隈さん。あなたは北上さんにとって――」

 

 

 痛みをこらえるような表情で、言葉を続ける。

 

 

「――憧れそのものだったんだもの」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 大井の言葉に、阿武隈は混乱した。

 

「……え?」

 

 ――どういう意味だ。

 

 ――そんなはずがない。

 

 ――目指して、追いかけて、憧れたのは、いつだって自分の方で……

 

「……ううん、正確に言うなら、北上さんが憧れたのはあなたじゃない。『あちらの世界』にいた時のあなた……軍艦だった時の【軽巡・阿武隈】なのよ」

 

 苦いものを飲み込むような苦しげな声で大井が続ける。

 

「北上さんは……『あちらの世界』にいた時に、強く、激しく、【軽巡・阿武隈】に憧れたの。そして……今も、憧れ続けているの」

 

「何、どういうことよ、それ……」

 

 理解に苦しむ表情で五十鈴が呟く。

 

「……五十鈴。私たち艦娘は、『あちらの世界』で『あの戦争』を戦った軍艦の生まれ変わりのような存在……そうよね?」

「……まあ、そうね。真実かどうかはともかく、少なくともあたし自身はそうとらえてるわ」

 

 何を今さら、という顔で五十鈴が応える。

 

「そして、物言わぬ……意志持たぬ鉄の塊だった私たちは、この世界で艦娘として生まれ変わって――そこで初めて、自我を持った生身の存在として、意志を、感情を、心を持った……そうよね?」

 

 訳もわからぬまま、阿武隈が頷く。

 

「……でもね。北上さんは違うの。そうじゃなかったの」

 

 大井の顔には、今にも泣きだしそうな子供のような表情が浮かんでいた。

 

 

「あの子は……北上さんは、艦娘として生まれ変わる前、『あちらの世界』で【軽巡・北上】として生きていた頃から、意志を、感情を――心を持っていたのよ」

 

 

 




※次話、核心。


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14 記憶は時に呪いに似る

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 

 

 

 それを何と呼ぶべきなのか――船霊(ふなだま)と捉えるべきなのか、付喪神(つくもがみ)と理解するべきなのかは、いまだに良く判らない。

 

 ただ、それを何と呼ぼうと――確かにあの頃の【軽巡・北上】には既に、意識が、感情が、心が存在していた。

 

 無論、それが、【艦娘】として生まれ変わってからの意識や心とは似て非なる……いや、おそらくは全くの別物であるだろう事は、間違いない。

 だがそれは、今の自分、【艦娘・北上】に、確かに地続きでつながっている。水底で結びついている。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ――それがいつ頃「生まれた」のかは、いまだにひどく曖昧だ。

 

 最初は夢見心地にいるような、ぼんやりとした意識だったと思う。

 鉄の塊として、道具として、船として、兵器として――ただ与えられた役割を、与えられたままに淡々とこなし受け入れる、鉱物のような心。

 

 決戦用戦力として期待され、重雷装巡洋艦として改装された時も――ああ、そうなのか、と思っただけだった。

 結局その役割を一度も果たさないまま、高速輸送艦としての任務に従事するようになった時も――ああ、そうなのか、と思っただけだった。

 

 ほんの少しだけ、残念な気持ちにはなったかも知れない。

 だが結局は全てを、あるがままをあるがままに受け入れた。……兵器として、船として、道具として、鉄の塊として――それが当然のことだ。

 

 モノクロの世界の中、灰色の意識の中、ただ淡々と、歳月が流れていく。

 

 しかしある時――世界に、色が付いた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

「北上さんは――【軽巡・北上】はね、乗組員たちが話していた、あなた達のやり遂げたキスカ撤退作戦のことを聞いて――とても、とても憧れたの」

 

 

 

 多くの敵艦を沈めた訳でも、多くの敵兵を殺した訳でもなく。

 それでもなお、奇跡と呼ばれたその作戦。

 完全に包囲され、封鎖された絶望的な状況の中から、ただの一人も死なせずに、全ての仲間を連れ帰ったその奇跡。

 

 ……しかも、その作戦の旗艦をつとめたのは、かつて自分に衝突したこともあるあの艦なのだという。

 

 なんだか少し愉快な気がして。

 鉄の塊の鈍く重い心に、温かい光が灯ったような気がした。

 白黒だった世界に、色が付いたような気がした。

 

 

 

 

 ――嗚呼。

 

 ――なんて凄い艦なんだろう。

 ――なんて凄いことをやってのけるのだろう。

 

 ――そんな風になりたかった。

 ――そんな風で在りたかった。

 

 ――いつかはなれるだろうか。

 ――いつかは辿り着けるだろうか。

 

 ――その高みに。その輝きに。

 ――自分の手は――――届くのだろうか。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 

 

 

 

「……もちろん、北上さんがどう思おうと、それで何かが変わった訳じゃないわ。鋼鉄で出来た単なる軍艦として、それまで通り、与えられた軍務につくことしかできないのは、何も変わらなかった」

 

「でも……だからこそ余計に、あなた達がキスカで示したあの奇跡は、北上さんの心を支える光として輝き続けたんだと思う」

 

「……たとえ第一線で活躍することはできなくても。輸送艦としての役割のまま艦歴を終えることになったとしても。……それが味方を救い、仲間を支えることになるのなら――その在り方は、きっとあの憧れの艦の姿につながっているはず……そう思えたのね」

 

 

「……だけどね。北上さんの――【軽巡・北上】のその想いは、最悪の形で踏みにじられることになるわ」

 

 

「……口にするのもおぞましいあの兵器」

 

 

「あの最悪の――味方殺しの兵器の搭載母艦として改装されることでね」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ──人間魚雷『回天』。

 

 かつての「あの世界」「あの戦争」の末期に行われた最大級の愚行。

 戦争の狂気が産み出した、悪夢の産物。

 全ての艦娘が、その名を口に出して呼ぶことさえ忌避する、忌まわしき戦争の闇。

 

 それについて口にする大井の声は、ひどく静かだった。

 

 

「……ねえ、阿武隈さん、五十鈴。あなた達に想像できる? その時の北上さんの気持ちが」

 

「――心を持たない、ただの鉄の塊のままだったなら――たとえどんな理不尽な命令だったとしても、従容として受け入れることが出来たでしょう。……実際、私たちは皆、『あちらの世界』で、そうやって過ごしてきた」

 

「――たとえ生まれ変わった後で、その記憶にさいなまれる事があったとしても――それは、どうしようもない過去の出来事として、なんとか前を向くことが出来たでしょう。……実際、私たちは皆、『こちらの世界』でそうやって過ごしている」

 

 

 ――確かに、『あの戦争』『あの敗戦』の記憶によって、何らかの心の傷を負っていない艦娘など、一人もいない。

 だが、それは――あくまでも遠い過去の、鋼鉄の記憶だ。艦娘として生まれ変わってからの、心や感情に裏打ちされた記憶とは訳が違う。

 例えば、阿武隈や五十鈴自身にも、もちろん過去の自分の記憶は存在する。だが、それは言わば、断片的なフラッシュバックが、色褪せたコマ落としのフィルムのような形で存在する程度。艦娘に生まれ変わってからの、生き生きとした記憶とは全くの別物だ。

 

 

「……もしも今、『アレ』を積むようにと命令されたら、私たちは断固として拒むでしょう。泣いて、暴れて、わめいて、拒絶して、逆らって……何がなんでも抗うでしょう。そんな装備を積むのは嫌だと主張して。積まれたとしても投げ捨てて」

 

「……その気にさえなれば、今の私たちには、自ら解体処分や自沈処分を選んででも、理不尽な命令から逃れることができる」

 

「……だけどもし、それさえも許されなかったらどう?」

 

「意志もある。感情もある。心もある。……なのに、異を唱えることも、自分の身体を思い通りに動かすことさえもできず、かつてと同じように兵器として、道具として、命じられた通りの行動しか取れないとしたら?」

 

「ねえ……あなた達は、それに耐えられる?」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 (たと)えるならば、声も出せず身動きも取れないまま、(はずかし)められ、汚され、陵辱(りょうじょく)され。涙を流すことさえ禁じられたのも同然だろう。

 

「そんなの……そんなの無理に決まってる。耐えられっこない……」

 

 五十鈴が瞳に恐怖の色を浮かべて、呆然とつぶやく。

 阿武隈も同感だった。

 

「……そうね。そうよね」

 

 暗い目で大井がぽつりとこぼす。

 

「北上さんも……耐えられなかった」

 

 膝の上で握る大井の拳に、ぎゅっと力が込められた。

 

「よりにもよってちょうどその頃……北上さんの改装が進む中、あなた――【軽巡・阿武隈】が、ネグロス島沖に沈んだ」

 

 阿武隈は言葉を失う。

 

「……目標としていたあなたには、もう追いつけない。……それどころか、このままいけば、遠からず『アレ』を積まされて、憧れとしていたあなたからは一番遠い存在になってしまう。……そう思った北上さんは、無駄だと知りつつ、心の中で叫び続けた」

 

「嫌だ。嫌だ。それだけは嫌だ。やめて。やめて。お願いだから。……だけど、そう叫び続けた北上さんの心の声は、結局、誰にも届かなかった」

 

「……そして、その声が誰にも届くことはないと悟った時、北上さんが望んだのは――」

 

 大井の声が震えた。

 

「自分が『アレ』を使わされることになる前に……一刻も早く、自分を沈めて欲しいということ、それだけだった」

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……あとは知っての通りよ」

 

 大井は深く溜め息をついた。

 

「ちょうどこの時期、7月の終わり頃……『アレ』を積まれたまま停泊中だった北上さんは、呉軍港を襲った大空襲に遭遇した」

 

「……北上さんはむしろ、ほっとしたそうよ。……これで自分は、ちゃんと沈むことができる。これで自分は、憧れたあの姿を汚すことなく沈むことができるんだ、って」

 

「……でも、そんな北上さんを嘲笑うかのように……敵の空爆は他の艦にばかり集中した」

 

「……大破し、動けなくなった北上さんをそのままにして、飛来した敵の爆撃機は次々と他の艦を沈めていった」

 

「榛名さん、伊勢さん、利根さん、天城さん……仲間達が次々と炎上し、着底していく姿を……北上さんはずっと見せつけられた。見せつけられ続けた」

 

 

 

 

 ――助けたくても身体が動くことはなく。

 ――叫びたくても声を出すことはできず。

 ――泣きたくても流せる涙は存在しない。

 

 ――こんなのは違う。こんなのは間違いだ。

 

 ――こんな事を望んだんじゃない。

 ――こんな事を願った訳じゃない。

 

 

 ――沈むべきは自分なのに。自分だけだったのに。

 

 

 目を逸らすことも目を閉じることも許されず、北上は――全てを見届けることになった。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……もちろん北上さんは、何も悪くない。北上さんの想いに関係なく、あの空襲は起こっていたでしょうし、結果は何も変わらなかったでしょう」

 

「でもあの時北上さんは……誰を巻き添えにしようと構わないから沈みたい、どうか自分を終わらせて下さいと、望んでしまった。願ってしまった。祈ってしまった。……それがあの子にとっての、変えようのない事実」

 

「最後まで憧れに手が届かなかった無念や後悔と、最後の最後で憧れから手を離してしまった罪悪感。……それが今でもあの子を苦しめてる」

 

「……生まれ変わって以来、北上さんはよく言ってたわ。なんで自分だけ、こんな記憶を持って生まれ変わらなきゃならなかったんだろうって。戦艦とか重巡とか、空母とか工作艦でもいい。何でも良いから、記憶なんか全部捨て去って、ぜんぜん違う別の存在に生まれ変われてれば良かったのに……って」

 

「……神様とやらがいるんなら、そいつはきっと、あたしの事が嫌いなんだねって……寂しそうに笑ってた」

 

「いつも飄々として、笑いながら日々を過ごしてるように見えるけど……あの子の傷は凄く深い。そしてその傷から……今も血を流し続けてる」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「……でもね、阿武隈さん。そんな北上さんが……あなたが着任すると知った時、すごく嬉しそうにはしゃいでた」

 

 

 

 ――ねえねえ、大井っち、聞いた? あの【阿武隈】が、うちの鎮守府に着任してくるんだって!

 ――どんな艦娘になってるんだろね? どんなやつなんだろね?

 

 ――ああ、楽しみだなあ。

 ――あたし、教導やらせてもらえるかなあ。

 ――ううん、絶対あたしがやる。提督が駄目って言おうがどうしようが、留守の間に勝手に決めちゃうから。

 

 ――ねえ大井っち。提督には内緒だよ?

 

 

 

「……正直、私は反対だった」

 

 

 大井の声は苦しげだった。

 

 

「……北上さんは【軽巡・阿武隈】に憧れを持ち過ぎてた。理想の艦娘のイメージが、北上さんの中で膨らみ過ぎてた。あなたは――ううん、あなただけじゃない。【軽巡・阿武隈】も、別に特別な艦じゃない。弱さも欠点も抱えた、ただの普通の軽巡洋艦だったはずなのに」

 

「……いつか、北上さんの中の【軽巡・阿武隈】のイメージと、艦娘としてのあなたの姿にズレが生まれた時――北上さんがひどく傷つくことは判ってた」

 

「でも、それでも……あんなにはしゃいで、あんなに嬉しそうにしてる北上さんを止めることは……私にはできなかった」

 

「……そして阿武隈さん。あなたは、北上さんの期待通りの素敵な艦だったわ」

 

「何があっても諦めない。どんな難題でもまっすぐ立ち向かっていく。そして何より、仲間を絶対に傷つけず、必ず生きて連れ帰る……そんな艦になれるんだ、って北上さんが信じてしまったくらいに」

 

「……もちろん、理想の艦娘なんてイメージとは、ほど遠かったみたいよ? 生意気だし、泣き虫だし、口は悪いし、ね」

 

 

 大井は困ったような笑みを阿武隈に向ける。

 

 

「……でも、そんなあなたの事を話す北上さんは、楽しそうだった」

 

「……私が、あなたには関わり過ぎない方がいいって、いくら言っても聞いてくれなかった」

 

「今回……あなたは確かに旗艦としては大きなミスを犯してたのかも知れない。……でも、それは誰にでも起き得ることよ。北上さんの態度は、あまりにも厳し過ぎた」

 

「……次に、あなたは最初、確かに自分のミスに気付けず、勘違いしてた。……でもこれも、(かたく)なにあなたへの説明を拒んで、自分自身で気付かせようとした北上さんに問題があったと思う」

 

「あなたの北上さんへの最後の暴言……是非は別として、心情的には理解できるわ。……さっきも言ったけど、北上さんも、あなたの暴言そのものに腹を立てて、それで教導を降りるなんて言いだした訳じゃない。あなたに暴言を吐かせるようなことをしてしまった……自分自身が許せなかったのよ」

 

「……厳しい言い方をすれば、勝手な理想をあなたに押し付けて、勝手に北上さんが傷ついただけ」

 

「……そのことはもう、多分北上さんも解ってる。だから……自分から、あなたの教導を降りるなんて言い出したんだと思う」

 

「……こんなことを言えた義理じゃないのは判ってる。だけど阿武隈さん……どうか、北上さんを許してあげて」

 

「そしていつか――北上さんが望んだような、素晴らしい艦娘になってあげて。そうすれば……北上さんの気持ちも少しは救われるんじゃないかって……そう思うから」

 

 

 

 大井は目を伏せ――長い、長い話が終わった。

 

 

 





※というわけで、赤文字の主は阿武隈の未来と思わせて実は北上さまの過去だったというギミックでした。
掲示板投稿時はちょこちょこ騙されてくれた人がいて嬉しかった思い出


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15 最後に頼りにするものは

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 大井が去り、五十鈴も部屋を出て行った後。

 阿武隈は部屋の中で片膝を抱えて座り込んでいた。

 窓の外からは、(ひさし)に当たる雨の音がかすかに届いてくる。

 

 大井から話を聞き、北上の不可解な態度の理由について、納得はできないまでも理解はできた。

 だが、それをどう受け止めればいいのか、頭の中がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。

 

 ――あたしは……どうすればいいんだろう。

 ――どうするべきなんだろう。

 ――何が出来るんだろう。

 

 ……答えは簡単だ。

 ……どうしようもない。すべきことも、できることも、何もない。

 

 北上が抱えたものは、他人が気安く触れようとするにはあまりに大き過ぎる。重すぎる。

『前世』から抱え続けた心の傷。その深さを、その重みを、その痛みを、本人以外に理解出来ようはずがない。

 

 恐らくは北上自身、ただの代償行為と自覚した上で――それでもなお、阿武隈を育て上げる事で何か答が出せるのでは、何かに決着を付ける事が出来るのではと、一縷の望みに縋ったのだろう。

 それが正しいかどうかは問題ではない。正誤で言うのなら――最初から間違っているのだから。

 

(だけど…………)

 

 だからといって、大井の言ったように、そっとしておく事が最善なのか。

 今よりましな自分に成長するまで、距離を置くのが正解なのか。

 何度も何度も自問して。

 

(……それじゃ駄目だ)

 

 阿武隈は唇をかみしめる。

 

(……だって、それじゃあ、あの人は……)

 

 

 ――それでは北上は、阿武隈と出会う前の日々に逆戻りすることになる。

 

 ――また独りで、抱えた傷から血を流しながら生きていくことになる。

 

 ……あの、へらへらした笑いを、ずっと顔に貼り付けて。

 

 

(……そんなのは駄目だ)

 

 阿武隈は首を振る。ツインテールがばさりと揺れた。

 

(……あたしは、たった一晩)

 

(……たった一晩だけでも、あんなにつらかったのに)

 

 

 だが、ならばどうする。いったい自分に何が出来る。あの人に対して、何が言える。

 

 阿武隈は、自分の膝を抱える腕にぎゅっと力を籠めた。堂々巡りを繰り返しながら、考えて、考えて、考えて考えて、考え抜いて――――。

 

 

 ――――そして阿武隈は、考えるのをやめた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……本気か?」

「はい! お願いします!」

 

 雨の中、傘も差さずに走って来たのだろう。

 提督の執務室にいきなり飛び込んできた阿武隈はずぶ濡れで、自慢の髪や制服からぽたぽたと水滴を滴らせていた。

 だがその両の瞳には、絶対に引き下がるものかという強い意志が宿っている。

 

「……阿武隈。大井から聞いたと思うが、北上はお前の教導を……」

「まだです!」

 

 提督の言葉を遮って阿武隈は言い返す。

 

「大井さんはさっき、五十鈴お姉ちゃんに言ってました! 『明後日から』教導を引き継げって! 今日と明日、北上さんはまだあたしの教導です!」

「……確かにその通りですね」

 

 視線を向けた提督に対し、神妙な顔つきで大井が答える。その口元が……ほんの少しほころんでいるように見えるのは気のせいだろうか?

 

「ふむ……。だが目的はなんだ? 個人的にけじめを付けたい、というだけか?」

「……それもあります」

 

 ふむ、と提督は、髭に覆われた顎を撫でる。

 

「……だけど、それだけじゃありません。これは……救出作戦なんです」

「……どういう意味だ?」

 

 阿武隈は、一瞬目を閉じて息を吸い込むと――目を見開いて、まっすぐ提督と視線を合わせた。

 

「……馬鹿な雷巡が一人、迷子になっています」

 

 提督の眉がぴくりと動く。

 

「……過去に閉じこめられて動けずにいるその馬鹿を、あたしは助けたい」

「…………」

 

 提督は無言のまま、阿武隈の目を見つめる。

 阿武隈がしっかりとその視線を受け止める。

 

「……成功させる自信はあるのか?」

「自信じゃありません。そんなもの持てたことは、一度だってありません。――ここにあるのは、単なる覚悟、それだけです」

 

 制服の左胸をぎゅっと握りしめて阿武隈が言い切り、部屋の中に沈黙が満ちた。

 その沈黙が続いたのは、数秒か、数十秒か、数分か――

 ――そして提督は、断を下した。

 

 

「いいだろう、軽巡・阿武隈! 作戦を許可する! ……馬鹿を救い出して、必ず連れ帰って来い!」

 

「ありがとうございます、提督! 阿武隈……ご期待に応えます!!」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 夜の工廠裏。

 

 建物の外に据え付けられた飲み物の自販機が傍らの空き地に光を投げかけている。

 一日降り続いた雨は夜になってようやく勢いを弱めていたが、今もなお空からぱらつく小雨の粒が、空き地に生い茂る雑草の葉をそれとわからぬほどに揺らしている。

 傘を持たずに来たのは失敗だったかも、と思いながら北上は人待ち顔で立ち尽くしていた。

 

「おっそいなー、大井っち……」

 

 しっとりと湿り気を帯び始めた制服のスカーフを指先で弄びながら、小雨に煙る遠くの景色にぼんやりと視線を向ける。こうして独りで待っている時間はやけに苦痛で、早く終わって欲しかった。

 

(詳しいとこまでは大井っちから聞けなかったけど……。あいつは、ちゃんと独りで正解に辿り着いたっていうのに)

 

(あたしはずっと変わらず……こうしておんなじところに立ち止まったまんまだ)

 

 ――早く大井っちに来て欲しい。早くこの時間を終わらせて欲しい。

 ――独りでいると、余計な事ばかり考えてしまう。

 ――自分のした決断は正しかったはずなのに。

 ――後悔はしないと、そう決めたはずなのに。

 

(……いや、後悔じゃないね。これは…………未練だ)

 

 と、その時。濡れた地面を踏む革靴の音が背後から耳に届いた。

 やっと来たか、と北上はほっとしたように振り返り……僅かにその表情を固くする。

 

「…………阿武隈」

「大井さんは来ません。……あたしがお願いして、北上さんをここに呼び出してもらったんです」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 自販機の光が互いの半身とまばらに降り注ぐ小雨の粒だけを照らす中、夜の空き地で2人の艦娘が対峙する。

 

「……なかなか手の込んだ真似してくれるじゃん」

 

 沈黙に耐えかねたように、視線を逸らしつつも先に口を開いたのは、北上の方だった。

 

「奇襲としては、割と効果的だったよ。……うん、偉い偉い。で……何の用さ? 聞いたと思うけど、あたしはもう……」

「大井さんから聞きました……北上さんの、記憶のこと。前世でのこと」

「っ……!」

 

 自分の声を遮って言われたその言葉に、へらへらと薄笑いを浮かべようとしていた北上の表情が一瞬こわばる。

 そのこわばりが解けていくのに従い代わりに浮かぶのは……力ない笑み。

 

「あ~……。そっか。話したんだ、大井っち。……うん。ま、しゃーないか。知らないままってのも、フェアじゃないだろし。……うん、しょうがないよね」

 

 居心地悪げに左手でスカーフを弄びながら、北上は足元の地面に視線を落とす。

 

「……まあ、何ていうかさ……悪かったよ。……あたしの、くっだらない、個人的な感傷に巻き込んじゃってさ。……あんたにしてみりゃ、たまったもんじゃないよね。自分の知らないところで勝手に期待を積み上げられて。挙げ句の果てには勝手に失望されて、責められてさ。……はは、旗艦失格だなんて……どの口で言えたんだか、って話だよね」

 

 阿武隈は応えず、ゆっくりと北上に向かって歩みを進める。

 

「……今回の件で、あたしもとことん骨身にしみたよ。反省した。あたしの方こそ、教導失格だった。……うん。だから、もうおしまい。あたしはあんたの教導を降りる。二度とあんたに関わらない。……それで、万事解決」

 

 近づいてくる阿武隈は、無言のまま。

 

「ほんっと、ごめん。悪かったよ……阿武隈」

 

 阿武隈の顔から視線を逸らすように、目の前でぱん、と両手を打ち合わせて、北上は頭を下げる。

 その北上の前に、阿武隈が立つ。

 

「……大井さんからいろいろ聞いて……あたし、考えました」

 

 北上の言葉を聞いていなかったかのように、固い口調で阿武隈が口を開く。

 

「……あたしはいったい、どうすればいいんだろうって。……何ができるんだろうって。……いっぱいいっぱい考えました」

 

 北上は、目の前で合わせていた両手を下ろし……しかし阿武隈と視線を合わせることは出来ずに、足元の水溜まりに目を向ける。

 

 ……ああ、そうだ。

 ……こいつはこういう奴だった。

 ……力が足りなくてもいつだって。

 ……他人のために、その足りない自分のありったけを尽くそうとする。

 

「考えて、考えて、考えて、考えて……何にも考えつかなかった」

 

 ――当然だ。

 ――いくら頭を絞ろうと、いくら気持ちを尽くそうと。

 ――他人がどうこうできるような問題ではない。

 

 ――だから、もう充分だ。その気持ちだけで充分だ。

 ――これは自分の問題。自分だけの問題。それを阿武隈が背負うことなんてない。出来るはずがない。許されるはずがない。

 

「……だから決めたの。するべき事も、出来る事も無いんなら、やりたい事をやってやるって」

 

 阿武隈の言葉に違和感を覚え、北上は顔を上げた。

 

「北上さん。……あそこにあるものが何か、北上さんに見える?」

 

 阿武隈は、左手の人差し指で北上の右後方を真っ直ぐ差している。

 つられて北上もそちらの方向に振り返り、じっと目を凝らすが、変わったものは何も見当たらない。自販機の光が明るく輝いているだけだ。

 

「……? 別に何も……」

 

 阿武隈の方に顔を向け直そうとした北上の懐に。

 バシャリと水溜まりを踏み散らして飛び込んでくる気配。

 

「……っ!」

 

 それまで自販機の光に目を向けていたため、明から暗への急激な光量の変化に目が追いつかず、視界が効かない。とっさに後ろに下がろうとするが、阿武隈の全力での踏み込みがそれを許さなかった。

 

「だあっ!」

「ごふっ……!?」

 

 黒くぼやけた視界の隅から阿武隈の拳が飛んできて、北上の腹に突き刺さる。

 小柄とはいえ艦娘の全力で放たれた、体重の乗った強烈な一撃。北上の肺から、かはっ、と空気が絞り出される。

 

「な……っ、あんた、なに……!」

 

 身体を曲げて脇腹を押さえ、よろよろと後ずさる北上を、阿武隈が傲然と見下ろしている。

 

「……言ったでしょ、やりたいことをやってやる、って」

 

 顔の前に垂れたツインテールの片割れをばさりと右手で跳ね上げ、左手の人差し指を北上に向かって正面から突きつける。

 

「とりあえず……ムカついたから北上さん! 今からあんたをぶっとばす! 言っとくけど! あたし、怒ってるんだから! 覚悟してかかって来なさい!」

 

 

 




※阿武隈ちゃんは実は脳筋……というか長良型は全員脳筋気質


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16 それはきっと間違いなんかじゃない

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ……もしもその場に別の誰かが居合わせていたとすれば、その目に映るのは、さぞや一方的な光景だったろう。 

 

「ぼーっと突っ立ってんじゃ、ないわよっ!」

 

 何度も殴られる。

 殴られ、胸ぐらを掴まれ、突き倒される。

 

「かかって、来なさいよっ!」

 

 倒れては引き起こされ。

 

「やり返して、来なさいよっ!」

 

 立ち上がってはまた殴られる。

 

 制服は泥と雨水ですっかりまだらに染まり、お下げの片方はとうに解けてしまっている。草の切れ端や小石混じりの土が、頬と言わず身体と言わずへばり付いて酷いありさまだ。

 

 しかし北上は、その痛みや衝撃を、どこか遠く、冷めた感覚で、淡々と受け止め続けていた。

 

 ──思えば北上は、この場に阿武隈が現れた時、心のどこかでまたしても期待……いや、依存しかけていたのだろう。

 

 ひょっとしたら、阿武隈ならば、どうにかして自分を救ってくれるのではないかと。

 そこまではいかずとも、阿武隈ならば、自分の気持ちを汲んでくれて、いつかは許してくれるのではないかと。

 いつかはまた……元のように話せる関係に戻れるのではないかと。

 

 ――そんな都合のいいこと、起こるはずがないのに。

 あまりの自分の度し難さに、吐き気よりも先に薄笑いがこみ上げてくる。

 

「……何へらへら笑ってんのよ」

 

 阿武隈の怒りはおさまらない。まだおさまっていない。

 

 ならば……立たなくては。

 

「何でやられっぱなしなのよ……! 何で殴り返して来ないのよ……!」

 

 立ち上がるのはこれで何度目だったか。工廠の壁に手をついて立ち上がり、ふらつく足に力を込める。

 

「そりゃ、だって、さあ……」

 

 手の甲で口元を拭えば、ぬるりとした鼻血の感触。

 

「――これくらい、されて当然だって思うしさ」

「ばっ……!」

 

 阿武隈の顔が青ざめた。小さな拳を握り締め、わなわなと震える。

 

「馬っ鹿に……すんなあっ!!」

 

 阿武隈の拳が頬に突き刺さり、北上は後ろに吹き飛ばされた。よろめきながら数歩ほどたたらを踏んで……結局踏みとどまれず、水溜まりにばしゃりと尻餅をつく。

 殴られ続けた痛みよりも、スカートや下着に染み込む泥水の冷たい感触が不快だった。

 前方では、拳を振り切った体勢のまま、ふーっ、ふーっと毛を逆立てた猫のような怒りの形相で、阿武隈が肩を大きく上下させている。

 

「……気が済むまで殴りなよ」

 

 自暴自棄な気分を自覚しながら北上は阿武隈を見上げる。

 

「あんたにゃその権利がある。後腐れないよう、気が晴れるまで、念入りにあたしをぶちのめして……それで終わりにしたらいい」

「……まだそんな寝ぼけたこと言ってるの?」

 

 阿武隈の顔が険しくなる。

 

「ムカついたんでしょ? 当然だよ。無理ないよ。……あたしなんかが勝手に期待して、無理やりあんたに関わったりしなきゃ、こんな嫌な思いせずに済んだんだから……」

「あああっ、もうっ!」

 

 いらだたしげな叫び声が、それ以上の北上の言葉を遮った。

 

「解ってないっ! そうじゃないっ! そんな事、言ってないっ! 全然! なんにも! 解ってないっ!!」

 

 北上の言葉と雨粒を振り払うように阿武隈が地団駄を踏む。細い腕から、頬から、雫が飛び散る。

 

「何で解んないのよ! どこまで馬鹿なのよ! 解ってよ!」

「いやだから、悪かったって……」

「謝るなああぁっ!」

 

 駆け寄る勢いそのままに両手でどんと突き飛ばされ、押し倒される。

 阿武隈は押し倒した北上に馬乗りになると、制服の襟を両手で掴んで引き起こし、顔を近づけて無理やり視線を合わせた。

 

「謝って欲しいんじゃないっ! そんな事反省して欲しいわけじゃないんだよっ! 何で、何でそれが解んないのよっ!?」

 

 燃えるような瞳に大粒の涙が浮かんでいる。

 噛みつくような声が激情に震えている。

 北上は混乱した。

 

「なに、なんだってのよあんた、意味解んない……」

「解んないのが悪いっ! 解んない北上さんが悪いっ!」

 

 無茶苦茶だ。元々血の気が多く、激昂(げっこう)しやすい(たち)ではあるが、これではまるで駄々っ子だ。

 理解の及ばぬ北上に苛立ちを抑え切れぬように、阿武隈が言葉を浴びせる。

 

「何で謝るのよ! 何を謝ってんのよ!」

 

「何を……って、そりゃ、あんたに勝手な期待を押し付けて……」

 

「それのっ!!」

 

 

 振り絞るような阿武隈の叫びが、北上の言葉を叩き斬る。

 

 

「それの、何がっ! どこが悪いってのよっ!」

 

「…………え」

 

 

 ――頭を、がつんと殴られたような気がした。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ――自分は阿武隈に、勝手な幻想を押し付けて。

 

「いっぱい、期待してくれたじゃないっ!」

 

 ――身勝手な期待のために、過剰に訓練や責任を押し付けて。

 

「ずっと、鍛えてくれたじゃないっ!」

 

 ――【軽巡・阿武隈】への身勝手な憧れを、【艦娘・阿武隈】に一方的に重ねて。押しつけようとして。

 

「あなたが、あたしじゃなくて! 【軽巡・阿武隈】しか見てなかったのには、ムカつくけど! 許せないけど! ……でも、憧れて! 目指して! 追いかけたのは、あたしだって同じなのに! 何も変わらないのに! それも全部、間違いだって言うの!? ウソにするの!?」

 

 がつん。がつんと。拳以上の衝撃で。

 阿武隈の言葉が、北上の頭を揺らす。

 

「今までなに見てたのよっ! あたしを見てよっ! 今あなたの前にいる、あたしを見てよっ!! あなたが鍛えて、あなたが育てた、今のあたしを見なさいよっ!!」

 

 言葉を叩きつけられるたびに、じわじわと胸に染み込んでくるものがある。

 

「あなたに負けたくなくて頑張ったのに! あなたに勝ちたいから強くなったのに! それをあなたが! 諦めろって、間違いだったって、終わりにしたいって、そう言うの!?」

 

 身体を揺さぶられるたびに、ぼろぼろと心の中で剥がれ落ちていくものがある。

 

「ふざけないでよっ! 馬鹿にしないでよっ! あなたの後悔? 罪悪感? そんなの、関係ないっ! 知ったこっちゃないっ! だって、それはもう、とっくの昔に! あなたのじゃなくて……あたしの夢になってるんだから!」

 

 

 ――ああ。そうか。

 

 

 北上の中にあった何かが、ようやく、すとんと腑に落ちた。

 

 ――焦がれる程に憧れて。狂おしい程に追い求めて。

 

 ――それを押しつけようとしたことは、確かに自分の我が儘(エゴ)だったとしても。

 

 ――あの日抱いた憧れが、輝きが。阿武隈(アイツ)に求めたあの姿が。阿武隈(コイツ)が求めようとするその姿が。

 

 ――間違いであるはずがない。間違いにしていい訳がない。

 

 

 北上の額に自分の額を押し付けるようにして叫び続ける阿武隈の声が、姿が、自分と重なる。かつての自分と重なり合って、錆びた心に火を点す。

 

 

「好きなだけ期待して、夢見たらいいじゃないっ! その程度っ! あなたが憧れた【阿武隈】程度っ! 目じゃないくらい凄い艦娘に、すぐにあたしがなってあげるわよっ!」

 

 

 ……勝手な憧れを押し付けて、傷つけたのだと思っていた。

 

 ……理不尽な期待や重圧を負わせたことを、責めているのだと思っていた。

 

 ……夢からは早く醒めるべきなのだと。諦めて、忘れて、無かったことにしてしまうのが一番なのだと思っていた。

 

 

 ――なのに、こいつは。

 

 ――憧れを、期待を、夢を勝手に押しつけたことではなく。

 

 

「だから、あたしがあたしに――『阿武隈』になるところを、ちゃんと見ててよっ!」

 

 

 ――それを勝手に捨て去ろうとしたことにこそ、激しい怒りを燃やしている。

 

 

「今はっ! まだ、全然だけどっ!」

 

 

 阿武隈の拳が、何度も何度も胸を打つ。

 そのたびごとににじわじわと、腹の中に熱が広がる。溢れ出して、燃え上がって、身体中を駆け回る。

 

 

「すぐに、追いついて、超えてみせるわよっ!」

 

 

 視界がクリアになり、頭が急激に冴えてくる。さっきまでまともに見れなかった阿武隈の姿が、今ならはっきりと目に映る。

 

 

「あなたが【阿武隈】に憧れたみたいに……! あたしはあなたに――北上さんに憧れたんだからっ!」

 

 

 ――ああ、そうか。

 

 ――だったら、あたしは。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「わかった……よ! 阿武隈あぁっ!!」

「きゃうんっ!」

 

 のしかかる阿武隈の襟を掴み返してバランスを崩したところに、顔面への頭突き。子犬のような悲鳴をあげて阿武隈がのけぞる。

 相手の手が緩んだところで互いの身体の間に曲げた足を差し込み、思いっきり蹴りはがして立ち上がる。

 

「あいっ……だあぁーっ……」

 

 尻餅をついた阿武隈は両手で鼻を押さえて涙目になっているが、知ったことじゃない。

 

「よーくもまぁ……好き放題やってくれちゃったよねえ」

 

 いやほんとに。頭はくらくらするし、髪はぐしゃぐしゃ。制服はずぶ濡れの泥まみれ。身体中があちこちずきずき痛むし、口の中には鉄臭い血の味。

 

 

 ……だけどこいつが。阿武隈が。自分の『阿武隈』を見せつけると言うのなら。

 

 あたしの『憧れ』なんか、すぐに超えて見せると言うのなら。

 

 あたしなんかを『憧れ』なのだと、まだ思ってくれていると言うのなら。

 

 

 ――あたしだってこれ以上、こいつにぶざまな『北上』を見せられない。

 

 

「かかって来い? やり返して来い? ……上等じゃんか」

 

 顔にこびりついた血と泥を制服の袖で拭い去り、両の足で濡れた地面を踏みしめて、血の混じった唾を吐き捨てる。

 

「……ここまではハンデでくれてやったけどさぁ。こっから先は、そうはいかないから」

「なによ。……急にそれらしくなってきたじゃない」

 

 ……ああ、身体が熱い。

 ……燃え上がる血が、熱が。こみ上げてくる激情が。全身を滾らせ、高ぶらせ、沸騰させる。

 

 

 ――ずっと。ずっと。

 

 いつか誰かに救われたいと、そう思っていた。

 

 絶対に自分は救われないんだと、そうも思っていた。

 

 でも、そうじゃなかった。救われる必要なんて初めからなかった。

 

 無念もある。後悔もある。罪悪感もある。抱えこんだ記憶と想いをこじらせて、やらかした部分も確かにあった。

 

 だが、それがどうした。

 

 それがあったからこそ、今の自分がいる。それがあったからこそ、今目の前のこいつがいてくれる。

 

 

 だから、さあ。背筋を伸ばせ。胸を張れ。不敵に笑って、拳を握れ。

 

 それができる相手がいることが。それができる自分がいることが。

 

 ――それが今、たまらなく嬉しい。

 

 

「……そんじゃあ、今から第二ラウンド、いってみよ―かぁっ! 当然付き合えるよねぇっ、阿武隈ぁっ!!」

「望むところよっ!!」

「いいねえっ、しびれるねえっ!!」

 

 

 ――だから告げよう。伝えよう。全身で、拳で。

 

 ――照れ臭いから、絶対口には出さないけれど。

 

 ――ごめんねじゃなくて、この言葉を。

 

 

 

『…………ありがとね、阿武隈』

 

 

 




※次回、最終話


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17 北上さんなんて、大っ嫌いなんだから!





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 そこからはもう、酷いものだった。

 二人してさんざんに殴り合い、蹴り合い、掴み合い、転げ回って。最後の方には、お互い髪は引っ張り合うわ爪は立て合うわ泥は投げつけ合うわ訳の分からないことを喚きながら罵り合うわで……何というかもう、完全に子供の喧嘩状態だった。

 

 今は、二人とも息も絶え絶えといった体で地面に並んで横たわり、大の字の状態で寝転んでいる。

 雨はとっくにやんでおり、雲の切れ間からは、夏の星空が久しぶりに顔を覗かせていた。

 熱を持った身体に、吹き抜ける風と冷たい濡れた地面がむしろ心地いい。

 

「くっそぉぉ、引き分けかあぁっ……! 結局、勝てなかったぁっ……!」

「まあっ……あたしが、ちょっと本気出せばっ……こんなもんよっ……」

 

 悔しそうな阿武隈に、荒い息をつきながらも北上がどうにか強がりを返す。

 

「っていうか、あんた、見た目の割に喧嘩慣れし過ぎでしょ……」

「あのお姉ちゃんたち相手に、反抗してきた……末っ子の底力、舐めないでよね……」

「あ―、なる程……」

 

 そーいやあたし、大井っちとはもちろん、球磨姉や多摩姉、木曾っちとも、まともに喧嘩したことなかったっけ……と、これまでの自分を振り返りこっそり反省する北上である。

 

「けど、まあ、あれだ……その」

 

 あちこち痛む身体を起こして地面に座り直し、改めて北上は阿武隈と向かい合う。

 

「とりあえず……あたしはあんたを、もう舐めない。だから、まあ、その、さ……また、追いかけて来なよ」

 

 不意を突かれたようにきょとんとした阿武隈が、一拍おいて、にやりと笑った。

 

「それじゃ……左手での握手だね」

 

 左手を出し合い、軽く握り合って、すぐ離す。

 仲直りではない。これは――ライバル宣言だ。

 

「……しっかし、こりゃ、明日は酷いことになりそうだよねぇ……」

「覚悟はしてる……」

 

 二人して、照れ隠しのように話題を変える。

 普通の人間に比べれば回復力も遥かに高い艦娘とはいえ、これだけやらかせば、おそらく一日やそこらは痛みに呻くことになるだろう。

 

「大っぴらにする訳にもいかないだろうし……こーなりゃ、秘書艦権限でこっそり資材置き場からバケツちょろまかして……」

 

 何やら悪だくみをはじめた北上の背後から。

 非常に聞き覚えのある声がかけられた。

 

「ほう……興味深い話だな?」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「げっ! 提督っ!? ……って、あだだだだ」

 

 大井や五十鈴ほか数名の艦娘をぞろぞろと連れ立って現れた提督の姿に、慌てて立ち上がろうとした北上が、全身の痛みに呻きながら悶絶する。

 その姿を見て吹き出しそうになった阿武隈が同じく悲鳴をあげて悶えてたりもするのだが、そんな事を気にしている場合ではない。

 

『艦娘同士ノ私ノ闘争ヲ禁ズ』

 

 ――あくまでも建前上のこととは言え、これは軍規にも明記されているルールだ。場合によっては営倉入りや外出止めの処分も有り得る。この状況は、あまりにもまずい。

 だが、必死で言い訳を考えようとしていた北上をよそに阿武隈は、

 

「あ、提督、お疲れさまですぅー」

 

 と、座り込んだまま緊張感のない様子でへろへろと手を振った。

 さらには、それに対する提督の方までもが、

 

「おう、派手にやったみたいだな。……あ、北上。立たなくていいぞ。座っとけ座っとけ」

 

 とあっけらかんとした態度で声をかける。理解が及ばないでいる北上に傍らから進み出た大井が、

 

「北上さん、夜間演習、遅くまでお疲れさまでした」

 

 と澄まし顔で濡れタオルを手渡してきた。

 

「え……なに、どゆこと」

「なにって……阿武隈から申請のあった、白兵戦技の演習だったんだろ? いや~、与えられた休暇を潰してまで自主的に訓練に励むとは、感心感心」

「ええ、さすがは北上さんです」

 

 白々しい会話と、その向こうで妙に自慢げなドヤ顔をかましている阿武隈に、そういうことか、と察して北上も苦笑する。

 

 ――どうやら、自分の知らないところで、いろいろと根回し済みだったらしい。

 

「意外と周到……っていうか、腹黒……っていうか……。うん、前言撤回するわ。……あんた、やっぱ旗艦向きかもね」

「でしょでしょ! 北上さんを遠慮なくぶん殴るためだもん! あたし、頑張った!」

「こ、こいつっ……!」

 

 ひょっとしてこいつ、本当にただ口実つけてあたしをぶん殴りたかっただけなんじゃあ……と北上が複雑な表情を見せる。

 

「……それで北上さん。北上さんが出してた教導艦の交代申請の件ですが……」

「あ~、そっちも撤回。ポイしちゃって、ポイ」

 

 北上は大井にひらひらと手を振って溜め息をつくと、空を見上げ……そして、そのまま動きを止めた。

 

「うわ……」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「何これ、すご―い!」

「流星雨? そういえばニュースで……」

「綺麗……」

 

 周りの艦娘たちも次々に空を見上げ、指差しては歓声をあげている。

 ここ何日か空を覆っていた分厚い雲が晴れ渡り、広く開けた夏の夜空。そこには無数の流星が尾を引いて流れていた。

 煌めく星々が夜空ごと天からこぼれ落ちてくるような、一大スペクタクル。

 それは夢の景色のように、ただひたすらに、美しい眺めだった。

 

 声もなく見とれる北上の隣に阿武隈が立った。

 目の前で空を見上げて両手を合わせると、すうっと大きく息を吸い込む。

 

「絶対、絶対! 北上さんが予想もできないような! 凄い艦娘になれますようにっ!」

 

 いつ聞いても変わらない、甘ったるくて甲高い……しかしどこまでも遠くに響いていくような、大きくて力強くて、迷いのない声だった。

 

 ちらりと横目で北上を見て、ど―よ? と言わんばかりに、花が開くような満面の笑みを見せる。

 それに応えて北上も苦笑し、頭を振りながら、やれやれとばかりに立ち上がった。

 阿武隈と同じく空を見上げ、両手を合わせ。やはり大きく、力強く、迷いのない声をあげる。

 

「改二になっても! 阿武隈の胸が! あたしより小さいままでありますよ―にっ!!」

 

「んなあああああっ!?」

 

 満面の笑顔を凍りつかせ。

 夜の鎮守府に阿武隈の絶叫が響き渡った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「嘘でしょおぉっ!? なんて事お願いすんのよっ! 信じらんない、この人! 馬鹿! 意地悪! 根性悪! この大北上っ!」

「へっへ―ん、もうお願いしちゃったもんね―。取り消しは効かないよ―、だ」

「北上さんなんか、大っ嫌い! 1ヶ月くらいずっと口内炎になればいいのに! みんなから『最近なんか太った?』って訊かれるようになっちゃえばいいのに!」

「あ、ちょ、こらぁっ! 地味にダメージでかい呪い、今かけてくんじゃないよ!」

「先にやったのはそっちでしょぉ!?」

 

 ぎゃいぎゃいと騒ぎ立てる二人を眺めて、提督と大井、五十鈴が溜め息をつく。

 

「なんと言うか……うん、平和だな」

「現実逃避してんじゃないわよ」

 

 五十鈴のツッコミに、提督がははは、と乾いた笑い声をあげる。五十鈴は再び溜め息をついて、傍らに立つ大井に目を向けた。

 

「……にしても、正直、あんたが阿武隈の味方してくれるとは思わなかったわ」

「……あら、何の話? 私はいつだって北上さんの味方よ?」

 

 大井の言葉に首を傾げる五十鈴。それに向かって大井が笑みを返す。

 

「……私は北上さんの味方。何があっても、それは変わらない。北上さんを傷つける者は、誰であろうと私の敵。たとえそれが――北上さん自身であったとしてもね」

「……あんたのそういうとこ、いっそ尊敬するわ」

「あら、ありがと」

 

 肩をすくめる五十鈴に、澄まし顔で微笑む大井。その視線の先には、未だに怒鳴り合っている北上と阿武隈。

 

 

「……もお怒った! 絶対許さないっ! 第3ラウンドよっ!」

「ああ、やったろうじゃん! ギッタギッタにしてあげるよっ!」

 

 

「……明日からも、賑やかな毎日が続くことになりそうね」

 

 微笑みながらそう呟いて。

 

 大井と五十鈴は提督とともに、騒がしい二人の艦娘の争いを止めるため歩き出すのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ――そして、月日は流れ。季節が巡る。

 

「いや~……お星さまへのお願いが、まさかここまで効果あるとはねえ……」

 

 北上が、感心したようにしみじみと呟く。

 

「うっさい馬鹿ぁっ! これ、絶対北上さんの呪いのせいだからねっ! 絶対に許さないからっ!」

 

 その前で顔を赤くしながら涙目できゃんきゃん吠えているのは、見事改二への改装を果たしその姿をお披露目したばかりの阿武隈である。

 短い袖のジャケットとプリーツスカート、黒スパッツから伸びた手足はすらりと長く、以前と比べてほんの少しだけ大人びた姿になっている。

 鈴を転がすような甘く高い声と、体型の一部……胸部装甲だけは、まるで変わった様子を見せていなかったが。

 

「……あんたたち、ま―たやってんの?」

「毎日飽きないよね―。装備も北上さんの真似っこで、甲標的使えるようになったみたいだしさー。ほ―んと、仲良いよね―」

「真似じゃないっ! 仲良くもないっ!」

 

 呆れたように声をかける五十鈴と鬼怒に、阿武隈がむが―っと眉を逆立てる。

 

「そんな事より、時間は大丈夫なの? 武蔵さんたちが出稽古……じゃなくて演習に来るのって、今日なんでしょ?」

「えっ? そんな話聞いてないよ?」

 

 五十鈴に対してきょとんとする阿武隈。

 

「え―。でもさあ、さっき演習場行った時、武蔵さん、か―な―り、こめかみピクピクさせてたよ―? 『ここまで私を待たせるとは、小次郎を待たせた武蔵の戦法にちなんだあてつけか……?』とかなんとか言って」

「……あっ、そ―いや今日だったっけ。ごめん、すっかり忘れてたわ」

 

 鬼怒の言葉と、めんごめんご、と両手を合わせる北上に、阿武隈の顔がさあっと青ざめる。

 

「きゃあああっ! 嘘でしょおぉっ!?」

 

 泡を食って飛び上がる阿武隈と対照的に、北上はのんびりしたものだ。

 

「ま―ま―、ここまで遅れちゃったら、少しくらい変わんないって」

 

「そういう問題じゃないっ! 北上さん急いで支度して! ほら早く制服の裾直して! ……んうぅ、も―っ! あたしの指示に、従ってくださぁ―いっ!」

 

 ばたばた騒ぐ二人を前に、鬼怒と五十鈴が顔を見合わせる。

 

「……やっぱり、仲良しだよねえ?」

「……よねえ」

「違うもんっ! 全然仲良しなんかじゃないもんっ!」

 

 ぐいぐいと北上を部屋から押し出そうとしていた阿武隈が振り返り、噛みつくようにいきり立つ。

 

「あたしはっ! あたしはねえっ! 何があろうと、絶対にっ!」

「なにやってんの阿武隈―。先行くよ―」

「ああっ! ズルいっ! 待ってよ北上さんっ!」

 

 にやにや笑う五十鈴と鬼怒を後にして。

 

 さっさと走り出した北上の後を追いながら。

 

 

 今日もまた阿武隈の叫び声が、抜けるような青空の下、鎮守府に響き渡る。

 

 

 

「……北上さんなんて、大っ嫌いなんだから!」

 

 

 

 

 

 

 ~FIN.~

 

 




※以上、完結です。
 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
※下にある「この作品の感想を書く」「この作品を評価する」ボタンをポチって感想、評価などいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
※新作開始に伴い次話に短編小ネタ追加してます。そちらもお楽しみ下さい。


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おまけ:北上さまの悪戯~ターゲットは阿武隈~

※短編扱いで独立してたものをこちらに統合しました
※小ネタです


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ――大事なのは、下準備。

 街に出て、手頃なシャンプーを捜す。

 

 ……小さめな容器で、良い香りのやつがいいんだよねぇ。格安だったらなおのこと良し。

 

 ――おっ、いいねいいねえ、ちょうどいい案配のやつ発見!

 

 ……こりゃ、何本か買って帰らなきゃ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 入渠施設の大浴場。

 何気ないふりで浴槽の方に目を向ける。

 

 ……川内と鬼怒からOKサイン。

 

 早速、阿武隈の横に腰を下ろして話しかける。

 

「あれ~、阿武隈、なにキョロキョロしてんのさ?  髪、洗わないの?」

「えっと、その、シャンプーが見当たらなくて……」

 

 ――そりゃそうだろう。……あらかじめ、こっそり隠しておいたんだから。

 

「だったらさ、これ使いなよ。あたしはもう髪洗ったからさ~」

「えっ、いいんですか?  ……なんか、親切過ぎてあやし……あっ、いえ! ありがとうございます!」

「あ、ただし……」

「ただし?」

「香りが良くて泡立ちがいいんだけど、そのぶん、めちゃくちゃ泡切れが悪いんだよねえ。しっかりすすぎなよ~」

 

 阿武隈は頷くと、渡したシャンプーを使い始めた。

 しばらくしたところでタイミングを見計らって大声を出す。

 

「あっ、こら!」

 

 頭を泡だらけにしながらビクッとなる阿武隈。

 

「ふえっ?」

「あんた!  一滴か二滴ってボトルにあるの、読まなかったの?」

「えっ? えっ?」

 

 

 ……当然、嘘だ。

 

 早寝、早食い、早風呂が習い性になってるあたし達だ。シャンプーのボトルの裏の細かい文字など読むわけがないのは折り込み済み。

 

 ……まあ、そもそも適量の部分はわざとラベルを剥がしてあるんだけど。

 

 

「かなりすすがないと、このシャンプー残るよ。あーぁ」

「えぇっ……!」

 

 阿武隈は急いですすぎ始める。

 背後に忍び寄る川内。 手には予備のシャンプー。 冷たいとすぐバレるので、あらかじめ浴槽で温度調節済みだ。

 勢いよくすすいでる阿武隈の、その頭にシャンプー液をふりかける。

 阿武隈はすすぎ終わったと思いシャワーを止める。

 あたしは阿武隈の髪をクシャクシャとして泡をたてて見せる。

 

「あーぁ、ほらっ。全然残ってんじゃん」

 

 阿武隈は髪に手をやるとギョッとして、再びすすぎ始める。

 

 今度は背後に鬼怒。 手にはやっぱりシャンプー。 3本も用意したんだから、まだまだ序の口だ。

 

 すすぐ阿武隈。 ふりかけられるシャンプー。 いくらすすいでも、クシャクシャ泡だつ頭。

 阿武隈の頭はずっとあぶくがぶっくぶく。 ……あぶくまだけにね(笑)

 

「……ふえぇん、なんでえ?  嘘でしょおぉっ!?」

 

 湯船の中では他の艦娘たちがにやにやしたり、口元を抑えて必死に笑いをこらえたりしてる。

 面白がって、かわりばんこに背後に忍び寄ってはシャンプーの液をふりかけていく者も増えていく。

 

 大浴場の使用時間ぎりぎりまで延々繰り返される、滑稽なループ映像みたいな状況。

 

 ……しっかし、こいつもいい加減、気づかないもんかねえ?

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ――その日の夜、風呂上がりの阿武隈は、一晩中、甘い薔薇の薫りに包まれていた。

 

 笑えたのは、駆逐艦のチビ達が阿武隈の周りに寄ってたかって香りを嗅ぎたがって、あいつがちょっとした人気者扱いになってたこと。

 きっと阿武隈は、この時の、自分がチビ達に囲まれてる照れくさげなニヤけ顔の写真を、今でも持ってるはずだ。

 

 

 まあ、もちろん、あいつの人気は……

 

 

 一夜限りの、バブルだったんだけどね。(ドヤア)

 

 

 

 

 

『北上さまの悪戯』

 fin.

 

 




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※完結はしておりますがいつでも感想お待ちしております♪ヽ(´▽`)/


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