MYON –最後の料理人– (私にいい考えがある)
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MYON –最後の料理人–

 魂魄妖夢は白玉楼の剣術指南役である。

 とはいえ主人である幽々子に剣術を指南したことは一度もなく、己が未熟も相まって庭師の合間に鍛錬を続ける日々である。

 妖夢は剣術指南役であるが、兼業で庭師もやっている。白玉楼の広大な庭の手入れは、それだけで妖夢が受け持つ業務の半分以上を占めているのだ。幽霊が漂う白玉楼の庭園では幽霊が勝手なことをしていないのか見張るのも庭師の御役目、草木を刈り入れながら周囲に気を配るのは必須技術である。

 その合間を縫って、本業の剣術を嗜むのは些か困難を極める。

 更に云えば幽々子の食事を振る舞うのも妖夢の御役目だ。過去、武家の教養には料理が加えられたこともあり、其の者を包丁侍として称えられた武家が実在している。故に武家の血筋である魂魄家の教養にも料理があることに可笑しな点はなく、祖父・妖忌が居なくなってからは白玉楼の台所は妖夢に一任されている。

 幽々子は大食いであり、十人前はペロリと平らげるポテンシャルの持ち主だ。それでいて美食家でもあるため、お腹が膨れるだけの料理では満足して下さらない。毎朝、人里の市に足を運んでは精神統一を経て得られる絶対的な指先の感性により、良質な食材を仕入れて白玉楼へと戻る。二振りの刀の代わりに包丁を握り、昼の仕込みを全て終わらせるのだ。

 料理とは仕込みで全てが決まると云っても良い。分かりやすいのは煮込み魚であり、ただ煮込むだけでは生臭さが取れずに味すらも損なうが、煮込む前に湯通しをして霜降りにすれば、臭みが取れて身が柔らかくなって劇的に美味しくなる。このように料理とは仕込みで九割が決まるといっても過言ではなく、仕込みのために時間を費やすことは必要経費と割り切る他ない。それが十食分、単純に量を十倍にすれば良い訳ではない。十人分の食事を別々に作らなくてはならないのだ。庭師として働いている他の時間は台所戦争に興じていると云っても過言ではない。

 それでも本業を疎かにしないため、日々合間を縫って鍛錬に勤しんでいるのである。今は居らぬ先代妖忌のためにも僅かな時間を使って魂魄流を極めなくてはならないのだ。

 と覚悟を改めたところで、ふと思ってしまったことを口にする。

 

「……私の本業って、剣術ですよね?」

 

 いや、待て待て、その疑問は可笑しい。

 魂魄家と云えば剣術で名を馳せた武家であり、その腕前が見込まれて西行寺家の剣術指南役としての御役目を勝ち取ったのである。故に魂魄家の御役目を継いだ妖夢もまた、剣術指南役としての在り方が本業であると云える。しかし、今やっていることを考えてみると――剣術に打ち込んでいる時間よりも庭園の手入れをしている時間の方が多い。ついでに云えば、刀を振るっている時間よりも包丁を振るっている時間の方が遥かに多かった。

 ――私は本当に、剣術を本業としているのだろうか?

 その疑問はに妖夢にとってのアイデンティティの崩壊、迷いを断つ白楼剣を片手に呆然と立ち尽くす。

 

「私は……剣術家ではなかった?」

 

 思考が飛躍してしまうのは御愛嬌である。

 いや、しかし、妖夢は剣術に関しては未熟だと認めているが、料理の腕に関しては誰にも負ける気がしないのだ。少なくとも和風料理に関しては幻想郷でも屈指の実力であると自負している。それもそのはずで美食家である幽々子を相手に毎食十人分、気まぐれな主人の舌を満足させるために食材被りを極力避けて、ありとあらゆる調理法を以て楽しませてきたのだ。最早、至高の領域である。何よりも主人を楽しませてきた、と云う絶対的な自信が妖夢の中に築かれている。

 つまり、それは――剣術家としてよりも包丁侍としての方が優れていると云う証左ではないだろうか?

 現状、妖夢は西行寺家の剣術指南役としては役立たず、しかし料理に関しての貢献度は群を抜いていると云える。白玉楼の食事事情は最早、妖夢が居なくては成り立たない。他の誰もが担えない絶対的な立ち位置を妖夢は確立していた。しかし剣術指南役としての功績は皆無である。

 手から刀が零れ落ちる、無情な現実を前に妖夢は足元が揺らぐ感覚を得た。

 

「私は一体、何者なのでしょうか?」

 

 妖夢は確立してきた自意識が揺らぐのを感じながら、幽々子様の料理を作らなきゃ、とふらつく足取りで台所へと向かうのであった。

 包丁侍として職務を全うする妖夢は俎板に河豚を乗せると「この通販で手に入れた万能包丁に捌けぬ物などあんまりない」と切り刻み、まだ朦朧とする頭の中でも肉体は淀みなく動き続けて、河豚刺しを白い華が咲き誇るように大皿へと盛り付ける。

 気付いた時には出来ていた食卓を見て、妖夢は極めて客観的に己の腕前を解釈するに至る。

 

「やばい……私、天才なのかもしれない……」

 

 これはもう和食一筋で生きるべきではないだろうか。

 見て楽しめて、味でも楽しめる。正に現世に現存する極楽浄土こそ白玉楼の料理に相応しいと断言できる。私は幻想郷における和食界の麒麟児だ、間違いない。この才能を開花させることこそが幻想郷の食卓を豊かにすることに繋がる。

 そうだ、魂魄妖夢は幻想郷の和食界を背負っている。それだけの逸材に違いないのだ。

 

 食卓に並ぶ十人前の料理の数々、何時ものように上品な仕草で次々と胃に収める幽々子の顔は何時も以上の笑顔が咲き乱れていた。

 嗚呼、この時のために自分は生きて来たのだと妖夢は確信する。

 何時、如何なる時でも腰から外さなかった二振りの刀。今までありがとう、と感謝の気持ちを込めて畳の上に置いた。

 

「……妖夢?」

 

 幽々子が不可解そうに首を傾げる、反して妖夢は清々しい顔で主人を見つめ返す。

 

「私は今、この場を以て剣術指南役を降りたいと思います。代わりに幽々子様専属の料理人として改めて雇っては頂けませんでしょうか」

 

 その心は実に晴れやかであった。

 

「妖夢? ちょっと待って、えっ? よ、妖夢よね? 頭は大丈夫なの?」

 

 対して幽々子の心は困惑の極みに達している。

 

 翌日、文々。新聞の号外が幻想郷中にばら撒かれた。

 また何時ものことだと幻想郷中の人妖は号外が撒かれたことに驚きはしなかったが、その内容には妖怪の賢者として名高い八雲紫ですらも動揺を禁じ得なかった。号外の写真を飾るは万能包丁を片手に握り締めた魂魄妖夢の姿であり、でかでかとした見出しには「刀は捨てた! 包丁侍魂魄妖夢が往く」と書かれていたのだ。幻想郷中が騒然とした、特に三日置き百鬼夜行異変に参加した者達は「あの辻斬りが!?」と別の場所に居ながら声を揃えて叫んだと云う。

 そんな一躍時の人となった妖夢は悠々自適に人里を散策していた。何時でも料理人である心構えを忘れぬようにと万能包丁を腰に携えて、見知らぬ食材や料理を見れば舌鼓を打ち、鈴奈庵の中では外の世界の料理本に目を通して研究に余念がない。

 そもそもだ、妖夢は生真面目な性格だ。剣術家が本業であればこそ激務の合間、休憩と睡眠の時間を削って鍛錬を怠らずに続けて来たのである。それが料理に変わっただけの話、否、剣術よりも時間を使える分だけ妖夢は料理にのめり込んだ。そして剣術とは違って実戦にも困らないことが更に生来の妖夢が持つ闘争心を漲らせる。毎日、食合わせを願うのは美食家として名高い西行寺幽々子、幻想郷美食界の首魁とも呼べる人物と実戦を重ねているのだ。

 料理人とは生きるか死ぬかの戦いではない、食材を活かすか殺すかの戦いである。食材を粗雑に扱うは食道不覚悟の決意、道を違えるは死ぬ心構えで自決用に万能包丁を腰に携えている*1。その死と隣り合わせとする極限の境地にまで達した集中力は指先一つで食材の出来を把握するにまで至る。その店にある中で最も優れた食材を選び取る能力、畏怖と敬意を称して「神の人差し指」と巷で呼ばれる。

 包丁侍、魂魄妖夢の噂は流言飛語も含めて、瞬く間に幻想郷中へと広がって行くのであった。

 田舎特有の文化を持つ幻想郷において、野次馬根性を持つ噂好きが白玉楼に集まるのは自明の理であったと云えよう。

 

「……え~と、妖夢~? 今日って宴会でも開く予定があったかしら? なんだか凄い人だかりになっているのだけど……」

「いえ、予定にはなかった筈です」

 

 云いながら妖夢はぐるりと庭園に集まった人妖を見渡すと、ふむっと真剣な面持ちで頷いてみせる。

 

「皆さんは食材や酒を持参されているようですね、此処は幽々子様の専属料理人として腕を奮いましょう」

 

 人妖が集まれば宴会をするのが幻想郷の摂理、しかし何の準備も心構えもしていなかった幽々子は視線を宙に漂わせながら状況の理解を務めようと心がける。

 

「あ~、ん~……うん、任せるわ~」

 

 そして考えるのが面倒になった幽々子は可愛い専属料理人に全てを委ねるのであった。

 妖夢は通販製の万能包丁を片手に持ち、目にも止まらぬ手際良さで次々と仕込みを終えていった。やはり仕込みとは料理の基本であると同時に神髄なのだと妖夢は考える。味噌汁だって出汁を取るのと取らないのとでは味が天国と地獄ほどの差が現れるのだ、むしろ出汁さえ取れれば味噌がなくても美味しいまである。それは単なるお澄ましではないだろうか、そうだ、お澄ましは美味しいのである。

 お昼時、庭園に集まっていた人妖の空腹はピークへと達していた。妖夢が台所から漂わせる美味しそうな匂いに脳が刺激され、早く食べたいと空腹を訴えているのだ。早く食わせろ、と蠢く民衆の姿は正に亡者の如し、B級ゾンビ映画も真っ青な醜態を晒している。

 そしてゾンビと云えば、この妖怪。吸血鬼レミリア・スカーレットである。

 とはいえ関係があるのは屍食鬼であり、ゾンビとは違うのであるが細かいことは気にしてはいけない。永遠に幼き紅い月は機嫌を損ねると面倒くさいのだ、実害はないが途轍もなく面倒くさい。だから永遠に紅き幼い月と接する時には寛容なる大人の心を以て温かい目で見守ることが肝要である。紅いが先だとか幼いが先だとかは、卵が先か鶏が先かという話と同じくらいどうでも良い話なのだ。

 レミリアは料理を作っている妖夢の前まで歩み寄り、妖夢が全員に行き渡るようにと選んだ料理、ごった煮を見下して鼻で笑ってみせる。

 

「幻想郷の食事情を背負っているだと? ふんっ、笑わせてくれる。そこまで云うならば私の咲夜と勝負して貰おうではないか」

 

 云い終えるや否や、レミリアは指を大きく鳴らした。

 その直後に音もなく現れるのは体前面を覆うエプロンドレスを着込んだ吸血鬼の従者、十六夜咲夜が横長の切れ目で睨み付ける。

 主に咲夜自身の主人を、咎めるような視線で見つめていた。

 

「……今や時の人である魂魄妖夢。その渾身の一品を食べたいからと私を当て馬にするのは止めてくださりませんか、御嬢様?」

「い、いや、そんなことはないわよ! 咲夜の料理が一番だって私、信じてるわ! だから咲夜も私を信じなさい!」

「信じなさいと命令されるのであれば、御随意のままに、とお答えいたしましょう」

 

 云うと咲夜は深々と頭を下げる。

 その表面だけ取り繕った太々しい仕草にレミリアは不満に思いながらも言葉を噤んだ。

 咲夜の言っていることはかねがね当たっている。レミリアは和食家である。幻想郷に来てから和食というものに触れ、その美味しさに感銘を受けた。今では朝食の時、週に三度は納豆に御飯を掛けて食べており、その臭いを受け付けないフランドールからは不評を受ける日々を送っている。納豆と云えば葱に醤油が定番であるが砂糖を掛けても美味しいのだ。最初こそは口周りにこびり付く粘り気に嫌気が差したものであるが、今となっては気にならない。むしろ、あのネバネバこそが納豆の美味しさを引き立てるのだと信仰しているのである。「腐った豆を食べるなんて、まるで黒死病が元ネタになったノスフェラトゥのように醜悪ね。御姉様」とペストマスクを被り、その嘴の先で香を焚くフランドールもまた卵掛け御飯*2を好んでいる。

 そんな和食フリークな吸血鬼姉妹であるが、そのことを窺い知らぬ妖夢は素直に挑戦状として受け止めた。

 

「咲夜の料理が美味しいのは存じています。しかし貴方は料理が専門ではなかったはずでは?」

 

 曲げることを知らぬ職人気質の妖夢は真っ直ぐに咲夜を見つめて問うた。打算無く、ただ純粋な疑問として。

 

「いいえ、違いますわ。妖夢」

 

 十六夜咲夜は妖艶に微笑んでみせる。

 

「私は完全に瀟洒なメイドであるが故に、御嬢様が必要とされるものは全て収めております」

 

 その眼は明らかに妖夢のことを敵視していた。

 凛と輝かせた紅い瞳、狂気と見紛う双眸を以て懐中時計を構えた――次の瞬間には即席の台所と調理道具の数々が急に出現していた。ピリピリと空気が張り詰めるのを肌に感じる。悪魔の従者が隠しもしない決闘の雰囲気に、主人であるレミリアはちょっと涙目になりながら脅えていた。「怒ってる? 怒っているの?」と狼狽えながら問いかける主人の言葉を従者は一瞥もせずに「怒っていませんよ」と淡々とした声色で返す。

 完全に瀟洒であるが故に、主人に怒りを向けることなどあろうはずがないのだ。八つ当たりは御愛嬌である。

 そんな一触即発の雰囲気の中で庭園に集まった亡者達に、ごった煮を配っている幽々子はぼんやりと思うのだ――まるで炊き出しをしてる気分だわ、と。

 

 戦国武将が感じていた古き良き日本庭園を表現した白玉楼の庭園*3

 冥界と云うことも相まって人類の衰退と繁栄を象徴し、そこはかとない浪漫を内包している場所で突如、開かれた料理大会。

 幻想郷が誇る二人の鉄人が公開料理を行うとなって、ごった煮によって理性を回復した民衆がぞろぞろと興味に惹かれて集った。

 勝負の審査役として席に座るのは参加者二人の主人である西行寺幽々子とレミリア・スカーレット、加えて宗教問題にさえ触れなければ公正な人物として定評のある豊聡耳神子と聖白蓮が、ぞろぞろと門下を引き連れて庭園までやって来ていたところを引き立てられて名を連ねている。残念ながら何事も黒と白に分けなければ気が済まない四季映姫は審査役として抜粋されなかった。理由として明確に語れるものはないが参加者と観衆の共通認識として、飲み会に会社の上司が足を運ぶか否かというと心境に似ている。

 さて幻想郷の誇る二大巨匠、魂魄妖夢と十六夜咲夜の勝負はまた別の側面を持っている。紅魔館と云えば、ぞろぞろと妖精を従えて幻想郷に西洋文化を持ち込んだ存在であると人妖問わずに認識されており、上白沢慧音による近代史の講義でも幻想郷に西洋文化を浸透させて根付かせた紅魔館は正しく西洋文化の権化であると語っている。その筆頭メイドである十六夜咲夜が奮う料理もまた洋食なのは云うまでもない。度々、紅魔館で開かれる催しに参加される方々も立食パーティーでぞろぞろと並べられる豪華絢爛な西洋料理が目的だと云っても過言ではない。対して妖夢も今や幻想郷の和食界における立役者。つまりこれは和食と洋食のどちらが優れているのか、と云うことに他ならない。観客席から聡明なる四季映姫が「ならば私の出番でしょう!? そもそもなんで割り切れる数で審査をするのですか!?」と御尤もな事を叫んでいるが参加者の全員が無視を決め込んでいる。世の中には白黒を決めなくても良いことがある、どちらも美味しいで良いじゃないか、という両者優勝の結末を観衆の全員が予測している。

 再度、語ろう。幻想郷は田舎文化なのだ。更に云えば精鋭田舎民なのだ。面白いか楽しいかすらどうでもいい、例え催しがつまらなくても全力で楽しんでやると云う心構えを持つことこそが鍛えられた幻想郷民である証である。

 どんと来い、どんな結末であっても砕月を流す用意が我らにはある。期待を三身に受けるプリズムリバー三姉妹は手に汗を握り締める。

 今、正にに繰り広げられようとする二大巨頭の勝負を観衆の皆が、なんかこうぞろぞろっとした感じで固唾を飲んで見守っている*4

 

「咲夜、貴方が最も得意な料理で度肝を抜いてやりなさい」

 

 レミリアがドヤ顔で審査席から命令を下すと完全に瀟洒なメイドは何かを思いついた仕草を見せた後、子供のように悪戯っぽい笑顔で頷いてみた。

 その違和感にレミリアは首を傾げるも、全幅の信頼を預ける優秀な従者に間違いはない、と小さな体に似付かぬ威風堂々とした姿でパイプ椅子に腰を下ろしてみせる。

 遊惰な暮らしはスキマから、貴方の心の隙間にお邪魔します。幻想郷から幻想入りしてしまいそうな二次創作ネタのスキマ産業を営む八雲紫は此度、食材調達係として抜粋されている。また勝負の公平性よりもサプライズ要素を重視した結果、出来上がるまで何を作っているか料理は明かさないことになっており、食材はメモに書いて八雲紫に手渡すことで合意を得た。

 咲夜は瀟洒に文字を書き連ねると紫に手渡した。それを見て、僅かに紫は眼を見開くと確認を取るように咲夜を見る。咲夜は目を細めて小さく頷き返す。

 

「そうね、貴方に落ち度はなかったわね」

「ええ、私は完全に瀟洒ですから」

 

 互いに微笑み返す姿は胡散臭いながらも和やかなものである。

 その様子を横目に見る妖夢は、何か良からぬことを悟りながらも腰の万能包丁を抜いて、両手で握り締めて祈るように大きく深呼吸をする。何時如何なる時でも作る料理は変わらない、魂魄妖夢は和食の神髄を極める求道者である。

 故に至高の料理を作るための食材をメモに書き記して、紫に手渡す。

 

「……ん~?」

 

 受け取った紫はつまらなそうに眉を顰めてみせる。

 何かいけないところでもあったのだろうか。否、迷うことは無い己の積み上げて来た研鑽を信じるのだ。

 両者からメモを受け取った紫はスキマの中に潜り込み、それから三十分後に両手にスーパー*5の袋を握り締めて現れる。今日の彼女は紫色のワンピースドレス、食材をいっぱいに詰め込んだ袋を両手で持ち上げる姿は何処ぞの中年おばちゃんを彷彿とさせる*6。だが決して誰も口には出さない、何故ならば観衆は経験上知っているのだ。あの辺りの年代の女性に対して年齢のことは口にしてはいけない、ということを観衆は知っていたがために誰も口には出さなかった。

 受け取った袋から半額シールが貼ってあるパックを取り出す咲夜、遠目から見ても似たシールが何枚も重ねてあるのが分かる。その時、ひらりとレシートが舞い落ちるのを観衆の皆は見逃さなかった。

 しかし咲夜は気にする様子もなく、瀟洒に頭を下げると食材の下準備を始めるのである。

 十六夜咲夜の矜持は従者である。主人であるレミリア・スカーレットが真に望むのであれば、どのような窮地に置かれたとしても勝利を約束する。条件が示されなければ如何なる手段を用いてでも任務を達成してのける。だから料理勝負で勝てと言われれば当然のように勝ってみせるし、度肝を抜けと云われれば抜いてみせよう。十六夜咲夜は悪魔の従者、その気質は限りなく悪魔に近かった。

 頑固一徹、振るう刃は万能包丁一振りの妖夢とは違って、咲夜は多種多様の料理器具を周囲に展開する。

 咲夜の本質は料理人ではない、故に拘りはない。あるのはただ一つ、主人を命令を忠実に守り、満足をさせることだ。

 華麗なナイフ捌きで食材をミンチになるまで切り刻む姿、時折見せる超絶技巧のジャグリング。観衆を魅了しながらも咲夜が視界の端に捉え続けるは我が主の姿、幼き主が満足げに腕を組んでいるのを見つめて、咲夜もまた口角が弛むのを感じて調子を上げる。

 その頃、観衆に紛れて紅魔館の門番こと紅美鈴は何時も以上に楽しそうな姿を見せる嘗ての教え子を微笑ましく眺めていた。

 そして食材の下拵えを終えたところで咲夜はパチンと指を鳴らした。

 

「それではこちらに御用意させて頂いたのが完成品となります」

 

 俎板の上の食材はそのまま*7、瞬く前に銀盆が咲夜の片手に乗せられていた。

 それによく料理番組で使われる釣り鐘形の蓋を料理に被せると、十六夜咲夜は完全に瀟洒な所作を以て審査席まで料理を運ぶ。

 紅美鈴は文屋の取材を受けながら気恥ずかしげに過去を語る。幻想郷に来る前、スカーレット家は一度、没落している。故郷のルーマニアを追われた後、イギリスへと渡るも魔女狩りから逃げるようにフランスへと移転、そこで東方見聞録でアジアの存在を知ったレミリア一行は海のシルクロードを渡り、インドにて占い屋を営んでいたパチュリー・ノーレッジと合流、それから更に東を目指して香港を経由して上海に出る。そこで聞いたのが幻想郷の噂であり、最後の海渡りを経て幻想郷へとやって来た。

 聞くも涙、語るも涙の旅路であり、紅美鈴が涙を流す横で射命丸文は無表情で淡々と文花帖にメモに書き残す。

 十六夜咲夜がレミリア一行に合流したのは幻想郷に来てからの話になる。給仕の何も出来なかった咲夜を教育したのが美鈴であり、年齢と共にみるみる内に成長した咲夜が自立するのは妖怪の時間間隔で云えば、あっという間だ。もう己の能力を上回っていると確信した美鈴はメイド長の座を咲夜へと譲り、元が本職であった武闘家としての修行を励む日々を送っている。

 そのような紅魔館の黎明期を知る者は少ない、その苦労を知る者は実際に経験した者達だけである。

 幼い頃、まだ幻想郷では肩身の狭い紅魔館を知る咲夜は、心労でやつれる主人達に癒しを振る撒いてきた。あざとい、と云われるようなことを数多く行ってきた。その全てが背伸びしたようなものであり、その心遣いがまた紅魔館の活力になったのだ。

 そんな咲夜が料理を振る舞う、という行為をしていないはずがない。そして料理を教えたのは当時、教育係であった紅美鈴である。

 咲夜が審査席の前で蓋を開ける――先ず少し開いた隙間から溢れたのは白い湯気、そして大きな丸皿に盛り付けされたのは両手でも収まり切らない程に大きな肉饅頭であった。

 日本では中華まんとして親しまれている、あの肉饅頭である。

 わぁっと両手を合わせて嬉しそうな笑顔を見せるは西行寺幽々子、ぞろぞろ*8させるためだけに呼ばれた神子と聖は予想外の料理を前に、ほおうっと息を零した。

 そして肝心の幼き主であるレミリアは驚きに目を見開き、言葉を発せずにいた。

 

「貴方の従者は完全に瀟洒でございます」

「……私は度肝を抜く料理、と云ったはずだけども?」

「ええ、ですから度肝を抜きに来ました。御嬢様の」

 

 にっこりと満面の笑みを浮かべながら咲夜は自らの主に試食を促した。

 十六夜咲夜は完全にて瀟洒だ。最初からと云う訳ではないが、その片鱗は幼い頃から見せていた。常に完全を喫するために咲夜が料理で選んだ手段はレシピを残すことだ。それは始まりからメイド長に至るまで咲夜が作り続けて来た料理の全てが咲夜秘蔵の料理本にて記されている。一頁目に記された拙い文字、無駄の多い工程、今見れば目を覆いたくなるほどの代物であったが、それは咲夜にとって初めての料理である。

 咲夜にとって初めて自らの意思で行った奉仕、不満顔を浮かべながら雑に肉饅頭を頬張る主人の姿は今も昔も変わらない。

 変化があるとすれば、その後である。何度か咀嚼した後、レミリアの華麗なドレスに染みが付いた。一滴、二滴、と透明の雫が零れ落ちる。

 

「……咲夜、調味料の分量を間違えているわよ。これはちょっとしょっぱすぎるわ」

「申し訳ありません、御嬢様」

「そうね、貴方も完全じゃない時もある。仕方ないわ」

 

 レミリアが顔を伏せる。

 その俯かせた姿から呻き声が零れることを指摘する者は、この場には存在しない。十六夜咲夜は凛然とした姿勢を維持しているが、その内心、物凄く動揺してしまっていた。

 いやだってまさか此処までの反応を見せてくれるとは思わなかったのだ。ちょっとやりすぎた感がして仕方ない、このような観衆の多い場にて主人の泣き姿を晒すという醜態は完全であっても瀟洒ではない。辛うじて笑顔を取り繕うことは出来ていたが、内心、心臓がバクバク言っていて思考が完全に停止してしまっていた。

 幼き主人が咲夜に向けて手を伸ばす。そのことに思わず咲夜は身を強張らせてしまったが、もう片方の手で目元を拭いながら上目遣いに覗かせる顔を見て、咲夜の思考は真っ白に染め上げられた。

 レミリアは薄っすらと朱を差した頬、潤んだ瞳に赤くした目元、気恥ずかしそうに笑みを浮かべながら咲夜に告げる。

 

「どうしてくれるのよ、無様な姿を晒してしまったわ」

「……申し訳ありません、御嬢様」

「まあ、いいわよ。言葉足らずは悪魔側の私が指摘すべきではないわね」

 

 云いながらレミリアの手が咲夜の胸元を目指して伸ばされ、相手を招き入れるように掌を上に向ける。

 

「改めて告げるわよ、咲夜。貴方の時間は私のためだけに使いなさい」

「仰せのままに、我が主」

 

 咲夜が膝をついて、恭しく頭を下げる。

 その瞬間、此処で流すしかないと決断したプリズムリバー三姉妹が砕月を奏で始めた。

 さあここぞという時、どうぞという時、そのまま一気に終局まっしぐら。プリズムリバー楽団の美しい音色を受けて、「ブラボー!」と観衆の中から誰かが声を上げて拍手する。最初は一人だけだったそれも、ポツリポツリと庭園の各地で拍手が起こるようになり、最終的には庭園全体を巻き込む大喝采となった。おめでとう、おめでとう、と二人の主従に対して祝福が贈られる。幼き主人が照れるように指先で頬を掻く姿がとても愛らしく、それはとても尊い時間であったと後に文屋の取材で咲夜が語る。

 料理大会の盛り上がりは絶頂、正に感動のフィナーレに相応しい。良かった、此処には酷使される砕月さんなんて居なかったんや。

 

 大会を締め括る上でこれ以上のタイミングはない。

 最早、これ以上は蛇足である、と会場中の誰もが思った。観衆に料理が振る舞われない料理大会であれども、二人の主従愛を見せつけられた観衆の気持ちは「御馳走様でした」と感謝の気持ちで満ちている。

 そんなお開きムードの漂う会場の中で孤独に料理を作るのがもう一人の鉄人、魂魄妖夢である。

 

 妖夢の心境はかなり重い。

 お腹の上辺りが締め付けられるように苦しくて、油断をすると胃液が込み上げて来そうになる。会場全体が敵に回るのであれば、気概を奮い立たせて料理に没頭することも可能だろう。しかし今、この場においては観衆の誰もが妖夢の存在を忘れていた。

 自分は何をしているのだろうか、足元が覚束ない。拍手喝采が続く中で妖夢は自分の立ち位置というものが分からなくなってしまった。地面がぐるんぐるんと回る不快な感覚がある。それでも長年続けて体に染みついた経験だけは妖夢を裏切らず、淀みのない動作で食材を切り分けることが出来ている。だが、それもある程度だ。何時もと違う感覚、五感が正常に機能していない状況においては手元が狂うのも仕方ない。

 いや、手元が狂っていても、ある程度の料理を作れる程の腕前が妖夢にはあるのだ。それでも常に手元は狂っている。

 

「痛……ッ!」

 

 万能包丁の刃で指を切る等と云う初歩的な失敗をしたのは何時ぶりだろうか、食材の胡瓜を俎板の上に落してしまった。

 ドスン、と思っていた以上に大きな音を立ててしまった。しまった、と思いながら胡瓜を手に取り直す。そこで気付いた、そのことが原因だったのか分からない。いつの間にか拍手が鳴りやんでおり、しんと会場が静まり返っていた。そういえば、まだ居たんだった、と全員が妖夢の存在を思い出してしまったのだ。重苦しい雰囲気、全員の注目が妖夢一点に注がれる。

 無意識の内に注がれる重圧に妖夢は唾を飲み込んだ。期待でもない、不安でもない、言語化できない気まずい視線を浴びて、妖夢は自分が何をしているのか分からなくなった。決して悪意のある視線ではない、ただ余所余所しいのだ。晒し者にされているような錯覚、それでも料理を作らなければ、と胡瓜に包丁の刃を当てる。歯を食い縛る、目元が熱くなるのを堪える。背中にじわりとした気持ちの悪い感覚、額から汗が零れ落ちる。手汗が酷い、食材が駄目になる。生温く柔らかくなった胡瓜を飾り切る。

 最早、苦行でしかない。雑念を振り払うように料理に没頭する、意識は完全に胡瓜のみに向けられる。なのに視界がぼやける、視界が揺れる。

 手が震えていることにも気付けない程に妖夢は追い詰められていた。狂った感覚でも辛うじて動かすことができた手も、今はもう緊張で動かなくなってしまった。

 手元から胡瓜が滑り落ちる。嗚呼、もう、心を折りたくなる、もう全てを投げ出したい。観衆の心配する視線が心に刺さる、膝を折ってしまいたい。それでも心に残るものがある、妖夢は動けなくなりながらも両足で立っている。まだ立っている両足で逃げ出すことも出来ずにいた。何故か、分からない。しかし、この場から逃げることを妖夢の心は良しとしなかった。

 自棄になりそうな心を抑え込んで、大きく深呼吸をしようと顔を上げる。

 

「やっほー。妖夢、大丈夫かしら?」

 

 そして妖夢の目と鼻の先に居たのは何時でも掴みどころのない主人。幽々子は食べかけの肉饅頭をもっきゅもっきゅと頬張りながら妖夢の顔を覗き込んだ。

「何をしているのですか!?」と、そのあまりの距離の近さに妖夢がたじろぐと、幽々子は俎板の上に落とした胡瓜を拾い上げて、ポキリと齧る。「ちょっとしょっぱいわ」と口元を舐めとる姿は実にお茶目で「妖夢の味がする」と告げる姿は実に艶やかであった。

 妖夢は顔を真っ赤にさせながら、パクパクと口を開閉させる。その姿を見て、幽々子は可笑しそうに笑った。

 

「美味しいわよ、この肉饅頭」と幸せそうな顔を見せつけるように肉饅頭を齧り、「でも私には物足りないわね」と幽々子は挑発的に自らの従者を見据える。

 

 その瞬間、妖夢は心が少し軽くなったような気がした。

 今まで道を見失っていたような気がする。いや、道は確かにあったのだ。だからこそ妖夢は和食を極めて来れたのだ。道はここにある、心の中に置いてある。料理に費やして来た日々は紛れもなく、道が妖夢を正しく導いて来てくれたおかげだ。

 だから妖夢は道を踏み外すことはしなかった。妖夢にとって道を踏み外す事、それは敬愛する主人から笑顔を奪ってしまうことだ。

 

「……物足りないとは量のことではないのですか?」

「酷いわね。私のことを想って料理を作ってくれる人が居るから、私は食べるのが好きなのよ?」

 

 主人は満開の桜のような笑顔を見せると、身を翻して審査席の方へと戻っていった。

 調理台に残された妖夢は想う――背中が軽いな、と。腰も少し心許ない。身の丈以上の大太刀が今はとても恋しい、迷いを断ち切る脇差が手元に欲しい。ごめんなさい、私は掛け替えのないものを置いてきてしまったようだ。

 妖夢は自嘲気味に微笑む、そして今、手元にある相棒を正眼に構えて、目を伏せる。

 

 スゥゥー――――…………、ハァァァァァァー―――――――――…………っ。

 

 穏やかに瞼を開ける。視界が広い、観衆の一人一人が心配そうに自分のことを見つめて来るのが分かった。

 もう大丈夫です、と微笑んだ後、妖夢の集中力は今までにない領域まで高められる。

 

 魂魄流剣術は基本的に攻めの型だ、縮地を用いた抜刀術こそが魂魄流の本懐である。霊力を限界まで漲らせてから放つ上段振り落としもまた、魂魄流の基本理念である「真実は斬って知るもの」を体現した技であると云える。

 しかし妖夢の心の内側にあるのは何時も守りであった。

 何故、剣術を始めたのだろうか。物心が付いた時から刀を握り締めていた。では何故、剣術を志そうと決めたのか。それを今、確かに思い出した。ヒントはあった、レミリアと咲夜の主従である。あの素晴らしい主従愛を見て、妖夢は思い出すことができた。魂魄妖夢は西行寺幽々子の笑顔を見続けたいから剣術を始めたのだ。

 それは魂魄妖夢だけが持つ道、誰の理解も得られない自分だけが心に抱くことのできる尊い道なのだ。

 

 私は貴方の笑顔を見たくて剣術を続けてきました。

 剣術を続ける私のことを静かに見守り、新しいことが出来るようになると喜んでくれる。だから剣術を続けて来た、それだけだった。そこに少しの欲望を足して、貴方の笑顔を守りたい、と願うようになり、やはり貴方の笑顔を作る側でもありたいと願った。

 別に剣術家でなくっても良い、庭師でも良い、料理人でも構わない。自分が何者かなんて、幽々子様を想う心だけで充分だと漸く気付けた。

 魂魄妖夢は西行寺幽々子をお慕いしています。

 

「出来ましたッ!!」

 

 そう宣言する妖夢の顔は実に晴れやかで、対戦相手の咲夜が思わず見惚れ、嫉妬する程に満面の笑顔だった。

 

「確かに魂魄妖夢は誰かにとっては一番の従者に違いないのだろうな」

 

 珍しく動揺している愛すべき従者にレミリアが語る。

 

「でも私にとっての一番の従者は咲夜、お前だよ」

「はい、御嬢様」

 

 素っ気なく告げられる言葉に込められた極上の想いを咲夜は噛み締める。

 西行寺幽々子は確かに素晴らしい主人なのだろう、しかし我が主はただ一人。レミリア・スカーレットに仕えられたことを心より幸福に想っている。

 私にとっては誰よりも素晴らしい御主人様、その想いはきっと比較する方が無粋なのだろう。

 

 妖夢の料理は特に趣向を凝らした訳でもない、何の変哲もない和食料理であった。

 奇抜な発想はない、ただ丁寧に気持ちを込めて作られた一品だ。我が主人に喜んで欲しい、それだけを願った逸品である。

 審査役の豊聡耳神子は料理を口に付けて、「難しいな」と涼やかな顔で答える。その隣に座る聖白蓮が「ええ、本当に」と柔和な笑みを浮かべてみせる。

 幽々子は相変わらず、何時ものように幸せそうで――レミリアは楽しげに料理に口を運んでいる。

 レミリアから一口、あーん、と分けて貰った咲夜は静かに目を伏せた。

 その顔は実に清々しい。

 

「審査をしよう、それが大会の主旨だからね」

 

 その神子の言葉で、それぞれの料理に関する総評がなされて――――――――

 そうして大会は締め括られる。

 ええわー、と。

 

 

 

 

 料理大会から二週間後。

 白玉楼の庭園で妖夢は職務の合間を使って、剣術の鍛錬に勤しむべく両手に楼観剣を握り締めている。

 背中に背負うは楼観剣の鞘、腰に携えるのは白桜剣――そして、万能包丁だ。あの日、あの時に預けられた二振りの刀は大会の翌日に返しており、今はまた剣術指南役兼庭師兼料理人として白玉楼の生活を支えてくれている。というよりも幽々子的には家事全般さえしてくれるのであれば、肩書きなんてどうでも良いのだ。そもそも幽々子が妖夢に肩書きを与えたことは一度もない、妖夢が勝手に自称しているだけであり、ひっそりと料理人と付け加えられていたとしても気にしない。

 幽々子が妖夢に望むのは一つだけ、幸せになって欲しい。欲を云うならば、彼女が握る刀のように折れず曲がらず真っ直ぐに育って欲しいと願っている。

 彼女の祖父、妖忌から託された使命を抱えているとはいえ、幽々子が妖夢を縛り付けたいと願ったことは一度もない。それでも彼女が彼女の意思で此処に残ってくれるのであれば、それはとてもとても尊くて幸せなことなのだと思う。だから今日も今日とて遠目から妖夢のことを見守っている。極力、手は出さない。必要な時だけ、そっと手助けする。きっとこれから先、女のしての幸せを見つけた時も笑顔で快く送り出す覚悟は決めてある。毎日、毎日、自戒するようにささやかに決意する。たぶんきっとその時が来てしまえば、決意は緩んでしまうに違いない。それでも覚悟していれば耐えられると思うのだ。

 今はただ一緒に居てくれることを感謝し、日常を噛み締めて、妖夢との思い出作りに勤しむ日々を送っている。

 

「料理大会で頑張った可愛い従者への御褒美はあげたのかしら?」

 

 不意に何処からともなく隙間から、上半身だけ姿を現す妖怪の賢者が耳打ちする。

 友人の突然な登場にも慣れた幽々子は、考え中、と口元を扇子で隠しながら短く返した。結局のところ、料理大会は審査役の満場一致で妖夢の勝利と云う、これには四季映姫もにっこりな結果を以て終えた。あの自分のことを誰よりも理解して、愛してくれた料理は暫く忘れることはないだろう。暫くと云うのは常日頃から妖夢から愛情たっぷり詰め込まれた料理を食べているからで、料理大会で口にしたものは何時もよりも気合が入っている以上に特別なものではないためだ。

 いや、いつも特別な料理を食べさせてもらっている。と云った方が正しいのかもしれない。どちらにしても幸せなことには変わりない。

 

「外から何か欲しいものがあるなら都合を付けてあげるわよ?」

「……それじゃあ、どら焼きが食べたいわね。あの虎のお店のやつ」

「貴方が食べたいだけじゃない」

 

 旧来の親友は呆れたように肩を竦めてみせる。

 

「幽々子様はどら焼きが食べたいのですかッ!?」

 

 結構な距離があったはずなのに――縮地を使わずに軽やかな足取りで愛しい従者が駆け寄ってくる。

 運動したせいか、少し上気している頬がまた可愛らしかった。これでもうちょっと彼女が幼ければ、抱き寄せて頬をつんつんしているところだ。

 流石にそこまで子供扱いをしては彼女も機嫌を損ねてしまうだろう、と極めて平静を装いながら妖夢を見つめる。

 

「ええ、食べたいわね。あと紫が大会の御褒美に外の世界から調達してくれるみたいよ? 欲しいものはある?」

「えっ? 自腹なんて聞いて――――」

「じゃあ薄力粉と卵をお願いします! それから蜂蜜を混ぜてみるのも――他は小豆にえっと……」

 

 どうやら、うちの従者は驚くことに最初から作る腹積もりのようだ。

 思わず、紫の方を見つめると彼女も幽々子と同じことを思ったのか、似たような感じで幽々子のことを見つめるのであった。そして数秒の間を置いて、クスリと二人して笑ってしまった。

 当の本人は「どうかいたしましたか?」と持ち前の鈍感さを発揮して首を傾げる。

 

「なんでもありません」

 

 にやついてしまう口元を隠さないままに告げると、妖夢は何処か腑に落ちない様子であったが直ぐに笑顔を返してくれた。

 

「虎のどら焼きはどうするの?」

「キャンセルに決まってるじゃない。またスーパーで材料を買ってこないでよ、こちらでお金は用意するから最高級の物を仕入れて頂戴」

 

 幽々子が不機嫌そうに云うと「はいはい、西行寺御嬢様の気のままに」と紫は楽しそうな表情を浮かべて妖夢と食材の品質や性質について話し始める。

 取り残された幽々子はふと空を見上げる。ゆっくりと雲が流れていく様子を見て、思うのだ。

 わたがしも食べたいな、と。

*1
お腹にサラシで固定するとなお良い。妖夢

*2
白身を抜いた贅沢盛り。フランドール

*3
栄枯浪漫

*4
頑張れば三分以内で読める範囲。阿求

*5
〇大

*6
軽やかな足取り、それも手慣れた様子でスーパー内を回っていました。藍

*7
あとでスタッフが美味しく頂こうと努力はしました。小傘

*8
ここまで三分は流石に難しい。阿求




幻想郷の従者は皆、完璧に幸福です。幸福であることは義務です。
by.鈴仙・優曇華院・イナバ


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